剣豪

宮本武蔵 / 武蔵1武蔵2武蔵3武蔵4壮年期武蔵5哲人武蔵6武蔵7武蔵の名言五輪書1五輪書2五輪書3技の解説五輪書4兵法思想五輪書5五輪書6二天一流青木城右衛門石川左京竹村与右衛門武蔵諸話1武蔵諸話2・・・
佐々木小次郎 / 小次郎1小次郎2小次郎3人物像小次郎4生誕小次郎5生誕小次郎6小次郎7実在の人?小次郎諸話1小次郎諸話2・・・
塚原卜伝 / 卜伝1卜伝2卜伝3卜伝4卜伝5卜伝6卜伝7諸話1諸話2・・・
上泉信綱 / 信綱1信綱2信綱3信綱4信綱5「言継卿記」信綱6信綱7新陰流信綱諸話1信綱諸話2・・・
伊藤一刀斎 / 一刀斎1一刀斎2一刀斎3長遠山常楽寺一刀斎4一刀斎5一刀斎6一刀斎先生剣法書一刀斎諸話・・・
柳生石舟斎宗厳 / 柳生1柳生2柳生3柳生氏柳生新陰流新陰柳生流勢法柳生諸話1柳生諸話2・・・
剣豪 / 東郷重位胤栄林崎甚助丸目長恵1丸目長恵2丸目長恵諸話長谷川宗喜寺尾孫之允寺尾求馬助夢想権之助中条兵庫頭長秀富田勢源中条流系譜鐘捲自斎と戸田一刀斎柳生新陰流源流考山崎左近将監剣道観疋田景兼支配層と剣術小野忠明上田攻め松林蝙也斎荒木又右衛門柳生十兵衞針ヶ谷夕雲山内甚五兵衛愛洲伊香斎柳生宗矩剣豪伝諸岡一羽斎藤伝鬼房冨田重政木村友重・・・
剣豪諸話 / 新渡戸稲造の「武士道」卜伝の生きた戦国時代堺の戦い物語宝蔵院流槍術1宝蔵院流槍術2剣の四君子柳生石舟斎林崎甚助高橋泥舟小野忠明
 

雑学の世界・補考

 
   1450  1500  1550  1600  1650  
愛洲伊香斎                                                     
塚原卜伝                                                    
上泉信綱                                                    
胤栄                                                     
富田勢源                                                     
柳生宗厳                                                     
諸岡一羽                                                     
疋田景兼                                                     
丸目長恵                                                     
林崎甚助                                                     
斎藤伝鬼坊                                                     
伊藤一刀斎                                                     
佐々木小次郎                                                     
東郷重位                                                     
富田重政                                                     
小野忠明                                                     
柳生宗矩                                                     
鐘捲自斎通家                                                     
宮本武蔵                                                     
木村助九郎                                                     
松林左馬之助                                                     
荒木又右衛門                                                     
柳生十兵衛                                                     
針ヶ谷夕雲                                                     
山内甚五兵衛                                                     
寺尾孫之允                                                     
寺尾求馬助                                                    
小田切一雲                                                     
深尾角馬                                                     
伊庭秀明                                                     

宮本武蔵

   1584 - 1643 / 1582 - 1645
宮本武蔵 1

 

江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載がある。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。
本姓は藤原氏、名字は宮本、または新免。幼名は辨助(べんのすけ)、通称(百官名)は武蔵、諱は玄信(はるのぶ)である。号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守・藤原玄信と名乗っている。
熊本市弓削の墓碑は「新免武蔵居士」、養子・宮本伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654年)に建てた『新免武蔵玄信二天居士碑』(以下、小倉碑文)には「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士」とある。
武蔵死後71年目の『本朝武芸小伝』(1716年)で政名なる名が紹介された。これを引用した系図や伝記、武蔵供養塔が広く紹介されたことから諱を「政名」とする武蔵の小説や紹介書が多数あるが、二天一流門弟や小倉宮本家の史料にこの「政名」は用いられていない。逆に史的信頼性が完全に否定された武蔵系図等で積極的に用いられている。
出生
生年
『五輪書』の冒頭にある記述「歳つもりて六十」に従えば、寛永20年(1643年)に数え年60歳となり、生年は天正12年(1584年)となる。江戸後期にまとめられた『小倉宮本家系図』、並びに武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く『宮本氏正統記』には天正10年(1582年)に生まれ、正保2年(1645年)享年64で没したと記されている。
出生地
『五輪書』に「生国播磨」の記載があり、養子・伊織が建立した『小倉碑文』、江戸中期の地誌『播磨鑑』や「泊神社棟札」(兵庫県加古川市木村)等の記載による播磨生誕説(兵庫県高砂市米田町)と、江戸時代後期の地誌『東作誌』の美作国宮本村で生まれたという記載による美作生誕説がある。美作生誕説は、吉川英治の小説『宮本武蔵』などに採用されたため広く知られ、岡山県および美作市(旧大原町)などは宮本武蔵生誕地として観光開発を行っている。
出自
父は赤松氏の支流・新免氏の一族・新免無二とされているが異説もある。『小倉宮本系図』には武蔵の養子・伊織の祖父で別所氏の家臣・田原家貞を実父とし、武蔵はその次男であるとされているが、伊織自身による『泊神社棟札』や『小倉碑文』にはそのことは記されていない。また、武蔵や伊織に関する多くの記事を載せている江戸中期に平野庸脩が作成した地誌『播磨鑑』にも武蔵が田原家の出であるとはまったく触れられていない。
生涯
『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。
『五輪書』には21歳の頃に、京都で天下の兵法者(吉岡一門と考えられる) と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述がある。この内容は吉川英治『宮本武蔵』をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。
武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。
大坂の陣では水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。
その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行ったことが伝えられている。
元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。
寛永元年(1624年)、尾張国に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。
寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる。
寛永期、吉原遊廓開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。
島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。
寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。
正保2年5月19日(1645年6月13日)、千葉城の屋敷で亡くなる。享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。
決闘伝説に関する諸説
吉岡家との戦い
通説
『五輪書』には「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記述される。この「天下の兵法者」は、『小倉碑文』に記された「扶桑第一之兵術吉岡」すなわち吉岡家と考えられる。
決闘の経緯は『小倉碑文』の記録を要約すると以下の通りとなる。
「武蔵は京に上り「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。吉岡家は代々足利将軍家の師範で、「扶桑第一兵術者」の号であった。足利義昭の時に新免無二を召して吉岡と兵術の試合をさせた。三度の約束で、吉岡が一度、新免が二度勝利した。それにより、新免無二は「日下無双兵法術者」の号を賜った。このこともあって、武蔵は京で吉岡と戦ったのである。最初に吉岡家の当主である吉岡清十郎と洛外蓮台野で戦った。武蔵は木刀の一撃で清十郎を破った。予め一撃で勝負を決する約束だったので命を奪わなかった。清十郎の弟子は彼を板にのせて帰り、治療の後、清十郎は回復したが、兵術をやめ出家した。その後、吉岡伝七郎と洛外で戦った。伝七郎の五尺の木刀を、その場で武蔵が奪いそれで撃ち倒した。伝七郎は死亡した。そこで、吉岡の門弟は秘かに図り、兵術では武蔵に勝てないので、吉岡亦七郎と洛外下松で勝負をするということにして、門下生数百人に弓矢などを持たせ、武蔵を殺害しようとした。武蔵はそのことを知ったが、弟子に傍らから見ているように命じた後、一人で打ち破った。この一連の戦いにより、吉岡家は滅び絶えた。」
宮本伊織が武蔵の菩提を弔うために承応3年(1654年)に豊前国小倉藩(現北九州市小倉北区)手向山山頂に建立した顕彰碑文。
『小倉碑文』などの記録は、他の史料と比べて事実誤認や武蔵顕彰の為の脚色も多く見られる。吉岡家の記述に限定すれば、武蔵に完敗し引退した清十郎、死亡した伝七郎、洛外下松の事件の記録は他の史料になく、創作の可能性がある。また、兵仗弓箭(刀・槍・薙刀などの武具と弓矢)で武装した数百人の武人を相手に一人で勝利するなどの記述は現実離れしている。同様に新免無二と吉岡家との足利義昭御前試合に関する逸話も他の史料になく、因縁を足利将軍家と絡めて描くことで物語性を高めるための創作の可能性がある。
福岡藩の二天一流師範、立花峯均が享保12年(1727年)に著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』にも、吉岡家との伝承が記されている。これを要約すると以下の通り。
「清十郎との試合当日、武蔵は病になったと断りを入れたが、幾度も試合の要求が来た。竹輿に乗って試合場に到着した武蔵を出迎え、病気の具合を聞く為に覗き込んだ清十郎を武蔵は木刀で倒した。清十郎は後に回復したが、兵術を捨てて出家した。伝七郎は洛外で五尺の木刀を用いて武蔵に立ち向かったが、木刀を奪われ撲殺された。又七郎は、洛外下り松のあたりに鎗・薙刀・弓矢で武装した門人数百人を集めて出向いた武蔵側にも十数人門人がおり、若武者の一人が武蔵の前に立つが弓矢で負傷した。これを見た武蔵は門人達を先に退却させ、自らが殿となって、数百人の敵を打払いつつ退却した。武蔵は寺に逃げ込み、寺伝いに退却し、行方をくらませた。与力同心がその場に駆けつけ、その場を収めた。この事がきっかけで吉岡家は断絶した。」
この文書には『小倉碑文』の全文が転記されており、碑文の内容を基に伝承を追記し、内容を発展させたものであると考えられる。
細川家筆頭家老・松井氏の家臣で二天一流師範、豊田正脩が宝暦5年(1755年)に完成させた『武公伝』には、正脩の父・豊田正剛が集めた武蔵の弟子達が語った生前の武蔵に関する伝聞が記載されている。これには、道家角左衛門が生前の武蔵から度々聞いた話として、洛外下松での詳しい戦いの模様が記されている。これによると、
「武蔵に従いたいという弟子に対して、集団同士の戦闘は公儀が禁ずるところであると断った。清十郎・伝七郎のときは、遅れたことで勝利したので、今回は逆のことをやることにした。下松に行く途中に八幡社の前を通ったとき、普段はやらない勝利祈願をしようとしたが止めた。まだ夜のうちに下松に来て松陰に隠れていた。清十郎の子である又七郎が門弟数十人を連れてやってきた。「武蔵待得タリ」と叫びながら現れ、又七郎を斬り殺した。門弟が斬り付け、また、半弓で射られ矢が武蔵の袖に刺さったが、進んで追崩したため門弟は狼狽し縦横に走散し、勝利を得た。」
この説話は、武蔵が度々語ったものとして当時の細川藩の二天一流の門弟間に伝えられていた伝聞を記録したものである。『武公伝』の内容は正脩の子・豊田景英によって『二天記』に再編集され、明治42年(1909年)に熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』(通称「顕彰会本」)で『二天記』が原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』で顕彰会本の内容を用いたことから現代にも広く知られるようになった。
異説
福住道祐が貞永元年(1684年)に著した『吉岡伝』に武蔵と吉岡家の対決の異説が記されている。この文書には吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重という二人の吉岡側の人物と、松平忠直の家臣で無敵流を号し二刀の名手で北陸奥羽で有名であるとの肩書きの宮本武蔵が登場する。洛外下松のくだりは記されていない。また試合内容が碑文と全く異なるため、直綱が清十郎で直重が伝七郎であると単純に対応づけすることはできない。要約すると以下の通り。
「源左衛門直綱との試合の結果、武蔵が額から大出血し、直綱勝利と引分けの2つの意見が出た。直綱は再試合を望んだが武蔵はこれを拒否し、又市直重戦を希望した。しかし直重戦では武蔵が逃亡し直重の不戦勝となった。」
これは宮本武蔵と吉岡家が試合をし引き分けたという内容の最初の史料である。ただし、『吉岡伝』は朝山三徳・鹿島林斎という原史料不明の武芸者と同列に宮本武蔵が語られ、前述のようにその肩書きは二刀を使うことを除き現実から乖離しており、創作の可能性がある。この史料は昭和になり司馬遼太郎が小説『真説宮本武蔵』の題材にしたことから、武蔵側の記録に対する吉岡側の記録として紹介される機会が多い。
また巷間には、武蔵吉岡戦を引き分けとする逸話が伝承されている。
○日夏繁高が享保元年(1716年)に著した『本朝武芸小伝』には、巷間に伝わる武芸者の逸話が収録されているが、ここに武蔵と吉岡が引き分けた二つの話が記されている。
○柏崎永以が1740年代に編纂した『古老茶話』も巷間の伝承を記録したものであるが、宮本武蔵と吉岡兼房の対戦が記されており、結果はやはり引き分けと記されている。
また『武公伝』には道家角左衛門の説話として、御謡初の夜の席での雑談で、志水伯耆から武蔵が先に清十郎から打たれたという話があるが本当か、と武蔵が訊ねられ武蔵が否定する話が記述されている。『武公伝』の話に従えば、晩年の武蔵は弟子等に盛んに吉岡に勝利したことを語っていたが、武蔵の生前に巷間に「吉岡が勝利した」という異説があったと考えることができる。
その後の吉岡家
『小倉碑文』や『兵法大祖武州玄信公伝来』『武公伝』には武蔵との戦いで吉岡家が絶えたとあるが、吉岡家がその後も存続したことは『駿河故事録』等、いくつかの史料からも推測できる。それらの史料によると、慶長19年(1614年)に禁裏での一般にも開放された猿楽興行で、吉岡清次郎重賢(建法)なる者が警護の者と諍いをおこし切り殺されるという事件がおこり、これにより兵術吉岡家は滅んだとあり、武蔵戦以降も吉岡家は存続している。
『本朝武芸小伝』にも猿楽興行の異説があり、事件を起こしたのは吉岡又三郎兼房であり、京都所司代・板倉勝重は事件の現場に吉岡一族の者が多く居たが、騒ぎたてず加勢しなかったため吉岡一族を不問にしたとある。この説を取るならば武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。
『吉岡伝』にも同様の記録があり、吉岡清次郎重堅が事件を起こし、徳川家康の命により兵術指南は禁止されたが吉岡一族の断絶は免れたとある。更に翌年の大坂の陣で吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重の兄弟が豊臣側につき大坂城に篭城、落城とともに京都の西洞院へ戻り染物を家業とする事になったとあり、この説でも武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。
巖流島
武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巖流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に当時豊前小倉藩領であった舟島で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。
試合の行われた時期については諸説あり、定かではない。
○享保12年(1727年)に丹治峯均によって記された、黒田藩の二天一流に伝わる伝記『丹治峯均筆記』では「辨之助十九歳」と記述しており、ここから計算すると慶長7年(1602年)となる。
○天明2年(1782年)に丹羽信英によって記された、同じく二天一流に伝わる伝記『兵法先師伝記』では「慶長六年、先師十八歳」と記述しており、慶長6年(1601年)となる。
これらの説では武蔵が京に上り吉岡道場と試合をする前の十代の頃に巖流島の試合が行われたこととなる。
一方、熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『武公伝』では試合は慶長17年(1612年)とされる。同様に熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『二天記』では慶長17年(1612年)4月とされる。これらの説では武蔵が京に上った後、巖流島の試合が行われたことになる。また『二天記』内に試合前日に記された武蔵の書状とされる文章に4月12日と記されており、ここから一般に認知され記念日ともなっている慶長17年4月13日説となったが、他説に比して信頼性が高いという根拠はない。
この試合を記した最も古い史料である『小倉碑文』の内容を要約すると、
「岩流と名乗る兵術の達人が武蔵に真剣勝負を申し込んだ。武蔵は、貴方は真剣を使用して構わないが自分は木刀を使用すると言い、堅く勝負の約束を交わした。長門と豊前の国境の海上に舟嶋という島があり、両者が対峙した。岩流は三尺の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、武蔵は電光より早い木刀の一撃で相手を殺した。以降俗に舟嶋を岩流嶋と称するようになった。」とある。
『小倉碑文』の次に古い記録は試合当時に門司城代であった沼田延元(寛永元年(1624年)没)の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、近年再発見された『沼田家記』がある。内容を現代語で要約すると以下の通り。
「宮本武蔵玄信が豊前国に来て二刀兵法の師になった。この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。門人同士の諍いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。試合の結果、小次郎が敗れた。小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、武蔵の弟子は島に来ていて隠れていた。勝負に敗れ気絶した後、蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。延元は武蔵を門司城に保護し、その後鉄砲隊により警護し豊後国に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。」
武蔵が送り届けられたのが豊後国のどこであったのかには以下の説が挙げられる。
○豊後国杵築は細川家の領地で慶長年間は杵築城代に松井康之・松井興長が任じられていた。宮本無二助藤原一真(原文は宮本无二助藤原一真)が慶長12年(1607年)、細川家家臣・友岡勘十郎に授けた当理流の免許状が現存する。これを沼田家記の「武蔵親無二と申者」とするならば、武蔵は杵築に住む無二の許へ送られたことになる。
○当時、日出藩主であり、細川忠興の義弟であった木下延俊の慶長18年(1613年)の日記に延俊に仕えていた無二なる人物のことが記されている。これを沼田家記の「武蔵親無二と申者」とするならば、試合当時も豊後日出に在住していた無二の下へ武蔵は送られたことになる。
様々な武芸者の逸話を収集した『本朝武芸小伝』(1716年)にも巖流島決闘の伝説が記されており、松平忠栄の家臣・中村守和(十郎右衛門)曰くと称して、『沼田家記』の記述と同様、単独渡島の巖流に対し武蔵側が多くの仲間と共に舟島に渡っている様子が語られている。
『武将感状記』(1716年、熊沢淡庵著)では、武蔵は細川忠利に仕え京から小倉へ赴く途中、佐々木岸流から挑戦を受けたので、舟島での試合を約し、武蔵は櫂を削った二尺五寸と一尺八寸の二本の木刀で、岸流は三尺余りの太刀で戦って武蔵が勝ったとしている。
江戸時代の地理学者・古川古松軒が『二天記』とほぼ同時代の天明3年(1783年)に『西遊雑記』という九州の紀行文を記した。ここに当時の下関で聞いたという巖流島決闘に関する民間伝承が記録されている。あくまでも試合から100年以上経った時代の民間伝承の記録であり、史料としての信頼性は低いが、近年再発見された『沼田家記』の記述に類似している。内容を現代語訳すると以下の通りである。
「岩龍島は昔舟島と呼ばれていたが、宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍が武芸論争をし、この島で刀術の試合をし、岩龍は宮本に打ち殺された。縁のある者が、岩龍の墓を作り、地元の人間が岩龍島と呼ぶようになったという。赤間ヶ関(下関)で地元の伝承を聞いたが、多くの書物の記述とは違った内容であった。岩龍が武蔵と約束をし、伊崎より舟島へ渡ろうとしたところ、浦の者が「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、多勢に無勢、一人ではとても敵いません、お帰りください」と岩龍を止めた。しかし岩龍は「武士に二言はない、堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥、もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」と言って強引に舟島に渡った。浦人の言った通り、武蔵の弟子四人が加勢をして、ついに岩龍は討たれた。しかし岩龍を止めた浦人たちが岩龍の義心に感じ入り墓を築いて、今のように岩龍島と呼ぶようになった。真偽の程はわからないが、地元の伝承をそのまま記し、後世の参考とする。ある者は宮本の子孫が今も小倉の家中にあり、武蔵の墓は岩龍島の方向を向いているという。」
『武公伝』には、巖流島での勝負が詳述されている。これによると
「巖流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巖流と号した。その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。
慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。武蔵は下関の問屋・小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。」
この話は、武蔵の養子・伊織の出自が泥鰌捕りの童であったという話と共に、戦いの時に武蔵が島に渡るときの船の漕ぎ手であったとする小倉商人の村屋勘八郎なる人物が、正徳2年(1712年)に語ったものと記されている。『武公伝』で慶長17年(1612年)に行なわれたとされる巌流との戦いで漕ぎ手だった者が100年後に正脩の祖父の豊田正剛に語った話とされている。仮に、この勝負の内容が、事実であれば、細川家でこれだけの事件が起こったにもかかわらず、それについての記述が『武公伝』の編集当時に、細川家中や正剛・正脩の仕える松井家中になく、藩外の怪しげな人物からの伝聞しかなかったことになる。また、前述の『沼田家記』の内容とも大きく異なっている。
『武公伝』では武蔵の弟子たちが語ったとされる晩年の武蔵の逸話が多く記載されているが、岩流との勝負については、村屋勘八郎の話以外、弟子からの逸話はなく、松井家家臣の田中左太夫が幼少の頃の記憶として、松井興長に小次郎との試合を願い出た武蔵が、御家老中寄合での決定を知らず下関に渡り、勝負の後に興長に書を奉ったという短い話のみ記載されているのみである。これは、晩年の武蔵が度々吉岡との勝負を語っていたという逸話と対照的であり、『五輪書』に岩流との勝負についての記述が全くない事実を考えると晩年の武蔵は舟島での岩流との勝負について自ら語ることが殆どなかったと推測することができる。
『本朝武芸小伝』(1716年)、『兵法大祖武州玄信公伝来』(1727年)、『武公伝』(1755年に完成)等によって成長していった岩流の出自や試合の内容は、『武公伝』を再編集した『二天記』(1776年)によって、岩流の詳しい出自や氏名を佐々木小次郎としたこと、武蔵の手紙、慶長17年4月13日に試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多くの史的価値が疑わしい内容によって詳述された。『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』で原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』でその内容を用いたことから広く知られるようになった。
また、様々な文書で岩流を指し佐々木と呼称するようになるのは、元文2年(1737年)巖流島決闘伝説をベースとした藤川文三郎作の歌舞伎『敵討巖流島』が大阪で上演されて以降である。この作品ではそれぞれに「月本武蔵之助」「佐々木巖流」という役名がつけられ、親を殺された武蔵之助が巖流に復讐するという筋立てがつけられている。
人物
民間伝承
武蔵にゆかりのある土地、武道の場などで語られる事があるが、明確な根拠や史実を記したとされる史料に基づくものではない。
○人並み外れた剛力の持ち主で片手で刀剣を使いこなすことができた。これが後に二刀流の技術を生み出すに至った。
○祭りで太鼓が二本の撥を用いて叩かれているのを見て、これを剣術に用いるという天啓を得、二刀流を発案した。
○自身の剣術が極致に達していた頃、修練のために真剣の代わりに竹刀を振ってみると、一度振っただけで竹刀が壊れてしまった。そのため木剣を使い始めたという。
○立会いを繰り返すうちに次第に木剣を使用するようになり、他の武芸者と勝負しなくなる29歳直前の頃には、もっぱら巖流島の闘いで用いた櫂の木刀を自分で復元し剣術に用いていた。
○二本差しや木刀を用いるようになったのは、日本刀の刀身が構造上壊れやすくなっているので、勝負の最中に刀が折れるのを嫌ったため。
○吉岡家の断絶は、武蔵が当時における、武者修行の礼儀を無視した形で勝負を挑んだため、さながら小規模な合戦にまで勝負の規模が拡大し、吉岡がそれに敗れてしまったためである。
芸術家としての武蔵
武蔵没後21年後の寛文6年(1666年)に書かれた『海上物語』に武蔵が絵を描く話が既に記されている。また『武公伝』には、「武公平居閑静して(中略)連歌或は書画小細工等を仕て日月を過了す、故に武公作の鞍楊弓木刀連歌書画数多あり」と書かれている。
現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、熊本での作品は、細川家家老で八代城主であった松井家や晩年の武蔵の世話をした寺尾求馬助信行の寺尾家を中心に残されたものが所有者を変えながら現在まで伝えられている。
水墨画については二天の号を用いたものが多い。筆致、画風や画印、署名等で真贋に対する研究もなされているが明確な結論は出されていない。
主要な画として、「鵜図」「正面達磨図」「面壁達磨図」「捫腹布袋図」「芦雁図」(以上永青文庫蔵)「芦葉達磨図」「野馬図」(以上松井文庫蔵)「枯木鳴鵙図」(和泉市久保惣記念美術館蔵)「周茂叔図」「遊鴨図」「布袋図」(以上岡山県立美術館蔵)「布袋観闘鶏図」(福岡市美術館蔵)などがある。
書としては、「長岡興長宛書状」(八代市立博物館蔵)「有馬直純宛書状」(吉川英治記念館蔵)「独行道」(熊本県立美術館蔵)「戦気」(松井文庫蔵)が真作と認められている。
伝来が確かな武蔵作の工芸品としては、黒漆塗の「鞍」、舟島での戦いに用いた木刀を模したとされる「木刀」一振。二天一流稽古用の大小一組の「木刀」が松井家に残されている。また、武蔵作とされる海鼠透鐔が島田美術館等にいくつか残されているが、武蔵の佩刀伯耆安綱に付けられていたとされる、寺尾家に伝来していた素銅製の「海鼠透鐔」(個人蔵)が熊本県文化財に指定されている。
諸話
身の丈
『兵法大祖武州玄信公伝来』は、武蔵の身の丈を6尺(換算:曲尺で約182センチメートル相当)であったと記している。当時の日本人の平均身長からしてみれば、稀に見る大男であったらしい。
風体など
武将・渡辺幸庵の対話集『渡辺幸庵対話』の宝永6年9月10日(グレゴリオ暦換算:1709年10月12日)の対話によると、武蔵とは以下のような者であったという。
「竹村武藏といふ者あり。自己に劔術けんじゆつを練磨れんまして名人めいじん也なり。但馬たんばにくらへ候さふらひてハは、碁にて云ハいふは井目せいもくも武藏強つよし。」「然しかるに第一の疵きずあり。洗足せんそく行水ぎやうずいを嫌ひて、一生いつしやう沐浴もくよくする事なし。外へはたしにて出、よこれ候さふらへは是これを拭のごせ置おく也なり。夫故それゆゑ衣類よこれ申まをす故ゆゑ、其その色目いろめを隠す爲ために天鵡織てんむおり兩面りやうめんの衣服を着、夫故それゆゑ歴々に疎うとして不近付ちかづけず。」 — 『渡辺幸庵対話』宝永六年九月十日条
これによれば、囲碁の腕前は手合割を物ともしない相当なものであったらしい。体には一つの大きな疵があって印象に残った様子である。足を洗ったり行水をすることは嫌いで、ましてや沐浴をすることなどあり得ない。裸足で外を出歩き、体などの汚れは布や何かで拭って済ませている。汚れを隠すために天鵡織で両面仕立ての衣服を着ているが、隠しおおせるわけもなく、それゆえに偉い方々とお近付きになれない、という。武蔵が生涯風呂に入らなかったといわれているのは、この史料に基づいた話である。もっとも、『渡辺幸庵対話』の記述には他の多くの史料によって知られている当時の世相と相容れない矛盾点も多く、係る武蔵の人となりに関しても、実際に幸庵が語ったものかどうか、疑問視する研究者もある(※詳細は別項『渡辺幸庵』を参照のこと)。
試合の真偽
『二天記』は、大和国(現・奈良県)人で宝蔵院流槍術の使い手である奥蔵院日栄、伊賀国(現・三重県西部)人で鎖鎌の使い手である宍戸某、江戸の人で柳生新陰流の大瀬戸隼人と辻風左馬助らとの試合を記しているが、『二天記』の原史料である『武公伝』に記載が無く、また、他にそれを裏付ける史料が無いことから、史実ではないと考えられている。
木刀
細川家家老で後に八代城主になった松井寄之の依頼により、巌流島の試合で使用した木刀を模したと伝えられる武蔵自作の木刀が現在も残っている。1984年(昭和59年)には、熊本県がNHK総合テレビの時代劇『宮本武蔵』の放送を記念してこの木刀の複製を販売した。
円明流時代の高弟
青木条右衛門
石川左京
竹村与右衛門
「宮本武蔵」 映画史
宮本武蔵地の巻    嵐寛壽郎             1936
宮本武蔵       片岡千恵蔵            1929
宮本武蔵地の巻    片岡千恵蔵            1937
宮本武蔵風の巻    黒川弥太郎            1937
宮本武蔵草分の人々  片岡千恵蔵 月形龍之介(小次郎)  1940
宮本武蔵栄達の門   片岡千恵蔵 月形龍之介(小次郎)  1940
宮本武蔵剣心一路   片岡千恵蔵 月形龍之介(小次郎)  1940
宮本武蔵一乗寺決闘  片岡千恵蔵            1942
決戦般若坂      近衛十四郎            1942
二刀流開眼      片岡千恵蔵            1943
決闘般若坂      片岡千恵蔵            1943
宮本武蔵       河原崎長十郎 中村翫右衛門(小次郎)1944
武蔵と小次郎     辰巳柳太郎 島田正吾(小次郎)   1952
宮本武蔵       三船敏郎             1954
続宮本武蔵一乗寺決闘 三船敏郎             1955
決闘巌流島      三船敏郎 鶴田浩二(小次郎)    1956
剣豪二刀流      片岡千恵蔵 東千代之介(小次郎)  1956
佐々木小次郎前編   東千代之介 片岡千恵蔵(武蔵)    1957
佐々木小次郎后編   東千代之介 片岡千恵蔵(武蔵)    1957
巌流島前夜      森美樹 北上弥太朗(小次郎)    1959
宮本武蔵       中村錦之助            1961
宮本武蔵般若坂の決斗 中村錦之助            1962
宮本武蔵二刀流開眼  中村錦之助            1963
宮本武蔵一乗寺の決斗 中村錦之助            1964
宮本武蔵巌流島の決斗 中村錦之助 高倉健(小次郎)    1965
真剣勝負       中村錦之助            1971
宮本武蔵       高橋英樹 田宮二郎(小次郎)    1973
巌流島        本木雅弘 西村雅彦(小次郎)    2003
宮本武蔵双剣に馳せる夢 (アニメドキュメンタリー)    2009
武蔵−むさし−    細田善彦 松平健(小次郎)     2019


後年、千恵蔵は“吉川英治−宮本武蔵”に関して、次のように書いている。
吉川英治先生と云えば、立派な作品が数多くありますが、やはり「宮本武蔵」はその代表作品の一つであると思います。私の多くの主演映画の中でも「宮本武蔵」は代表作の一つです。その「宮本武蔵」のタケゾウ時代を最初に主演させてもらったとき、偶々吉川先生が京都ホテルに来られたので、早速お伺いしていろいろお話をしておりましたところ、「千恵さん、これからの俳優は、どんな役が来てもいいように、人間的修養が大切だね」といわれましたが、当時若い私には、そのお言葉の意味がよく理解できなかったのです。つまり、俳優は、演技なり、立廻りがうまければよいのではないか、など生意気なことを思っていました。続いて。「剣心一路の巻」を撮影し終り、その試写を見ますと、私自身でも、役の「武蔵」になりきっていない、何か「なま」のままなのがよくわかりました。当時の新聞の映画評にも、「千恵蔵はまだ武蔵をやる役者ではない」などと酷評されましたが、残念乍ら、私も認めざるを得ないもっともな批評でした。その後、最後の「巌流島の決闘」を撮るまでの時間を、もう一度「宮本武蔵」を、心して読み直しました。心の底に、先生が云われたお言葉が残っていたこともあったのでしょうが、前に読んだ時は只、ストーリーの面白さで「武蔵」の動きだけを頭に描いていたのが、こんどは「武蔵」の心、悩み、がよく理解出来て、修養ということの意味の大切さをしみじみと感じました。「巌流島の決闘」を撮る時、私の人間的、精神的に、少々オーバーですが、十年位は成長したのではないかと思いました。以来、私の俳優としての「悟」を開く大きな転機になったと、京都ホテルでの吉川先生のお言葉を感謝と共に思い出しています。  [片岡千恵蔵「武蔵で得た人間修養」(1968年9月)]  
 
宮本武蔵 2

 

熊本と武蔵の縁
小次郎との巌流島の戦いなど数々の武芸者との勝負を重ねて諸国を修行し、大阪夏の陣や島原の乱へも出陣した武蔵は、寛永17(1640)年8月、57歳の時に熊本入りした。肥後藩の初代藩主細川忠利(ほそかわ ただとし)からの招きがあったからだ。16歳の頃から諸国を行脚(あんぎゃ)した武蔵が、自己と向き合う終焉の地となったのが熊本だった。武蔵と熊本の縁が繋がったのは、彼の養子宮本伊織(みやもと いおり)が明石藩主小笠原忠真(おがさわら ただざね)に仕えていたことにあろう。忠真は幕府の命による国替えによって小倉藩へと移り、伊織もそれに伴い小倉藩の筆頭家老となる。その小倉の前藩主が細川忠利であり、忠利の妻は小笠原忠真の妹・千代姫であった。この縁から武蔵の話が忠利へと伝わり、武芸にも通じていた忠利は、兵法家として知名度が高い武蔵を相談役として招いたのである。
武蔵熊本入り
熊本での武蔵の待遇は、士官でもなく役職もない客人扱い。熊本城内の千葉城の一角にある屋敷を与えられた。そこからは熊本城の天守閣が見える。現在は、この場所にNHK熊本情報センターが建っており屋敷の面影はないが、敷地内には武蔵が使ったという井戸跡がある。武蔵が熊本入りして間もない10月23日付の奉書(ほうしょ)が永青文庫(えいせいぶんこ)に残っている。その内容は、「道鑑(どうかん)様と宮本武蔵を呼び寄せるので、人馬味噌塩すみ薪に至るまで念を入れて接待するよう、藩主忠利から申し付けられた」という内容。湯治のために、熊本城下の北部、山鹿湯町(やまがゆまち)の新築の御茶屋(別荘)にいた忠利が、彼らを呼び寄せたのである。山鹿は豊前街道の宿場として栄えた温泉地で、現代においても泉質が良く「美人」の湯として県外からの湯治客が多い温泉郷。一説によると、武蔵は風呂嫌いとされているが、忠利から招かれた際に11月初め頃まで滞在したようなので、山鹿の湯につかって穏やかなときを過ごしたのかもしれない。
武蔵が遺した「二天一流兵法」
武蔵は、今までの剣豪人生の集大成ともいえる「二天一流兵法」を確立し、彼の元に入門した多くの熊本藩士やその子弟にそれを伝えた。肥後藩主忠利、家老となる長岡(松井)式部寄之、沢村宇右衛門友好、「二天一流」の正当な継承者となる寺尾孫之丞勝信と寺尾求馬助信行の兄弟はじめ、多くの藩士が門弟となり、その数が一説には千人以上ともいわれた。二天一流兵法とは、テレビや映画にも出てくる有名な二刀流のこと。左右の手に一本ずつ剣を持って構えるその姿はとても勇ましい。
寛永20(1643)年10月上旬、武蔵は、熊本の西にある岩戸山に登って天を拝み、観音様に拝礼し、二天一流の「考え方」「真髄」を書き表すことを決意する。その書とは、かの有名な『五輪書(ごりんのしょ)』である。五輪書には、武蔵の自伝、武術にあたる際の心構え、兵法技術、戦術、他の流派など多岐に渡って記載されている。五輪とは、密教の用語で万物を構成する『地水火風空(ちすいかふうくう)』を表し、それらを1つの輪にたとえて欠けるところがないという意味。『地の巻』の中で、武蔵は兵法の道を大工に例えている。
〜大工の心得は、よく切れる道具を持ち、暇ひまには研ぐことが肝要である。その道具を使って、御厨子(みずし)、書棚、文机(ふづくえ)、卓、または行灯(あんどん)、まな板、鍋のふたまでも上手に作り上げること、大工の最も大事な仕事である。〜
そして、人を統率する道を大工の棟梁に例えている。
〜棟梁(とうりょう)が大工を使うには、その技術の上中下の程度を知り、あるいは床廻り(床の間)、あるいは戸・障子…(中略)…といったようによく人を見分けて使えば、仕事も捗り、手際がよいものである。(中略)使いどころを知ること、やる気の程度を知ること、励ますこと、限界を知ること。これらの事どもは棟梁の心得である。〜 (五輪書)
この内容は、兵法だけでなく、現代社会においても共通する心得であろう。武蔵は、13歳の頃に初めて播磨で勝負を行ってから28から29歳まで60余の勝負を行い、30歳を超えた頃にそれまでの道を振り返ったという。そこからは、自らを極める鍛錬を続け、50歳のころに兵法の真髄を会得した、と五輪書に記されている。もしかしたら武蔵は熊本に移る前から何らかの証を遺したかったのかもしれない。この五輪書には武蔵の遺志がちりばめられている。
霊場 霊巌洞の気迫
「五輪書」が書かれた場所は、金峰山近くにある曹洞宗雲巌禅寺(そうどうしゅううんがんぜんじ)の裏手にある霊巌洞(れいがんどう)と言われているが確かではない。実際にこの場所を訪れてみた。霊巌洞へと向かう道は岩山を削った細い道。武蔵が訪れたときは、人がすれ違うのもやっとの狭さであっただろう。道を進んで行くと五百羅漢(ごひゃくらかん)が並ぶ神秘的な岩場が出現する。そこを通り過ぎると、洞窟「霊巌洞」がある。高さ3m、幅3.5m、奥行6mの空間。この凛とした空間に佇んでいると、静けさの中にある凄みと腹の底にずっしりとした力強さを感じた。武蔵が五輪書を書き記すことを決意したとき、これまでの数々の真剣勝負の刃の音が洞窟内に響き渡ったような気がする。
ところで、この「五輪書」。現代に残っているのはすべて写本である。また、地水火風空の五巻も途中からは弟子達が書いているという説もある。原本が発見されていないのは残念ではあるが、武蔵の遺志が弟子達を通じ現代に伝わっているのは確かである。
秘密の御前試合
武蔵が熊本入りしてまもなく、忠利の命により雲林院(うじい)弥四郎光成と秘密の御前試合が行われたという記述が武蔵の伝記「二天記(にてんき)」にある。光成は、柳生新陰流免許皆伝の達人で剣術指南役を担っていた人物。伊勢の出身で光成の父は新当流免許皆伝の剣豪、雲林院弥四郎光秀である。御前試合は、側近をも遠ざけ、太刀持ち一人を置いて木刀による立ち会いであった。双方とも、剣術の達人である。緊迫した試合が繰り広げられた。指南役の威信をかけて武蔵に挑んだ光成だったが、なかなか打ち込めない。光成の打ち込む気を感じた武蔵が二刀流特有の構えを自在に変え、打ち込む隙を与えないからだ。光成は三度打ち込もうとするがついに一度も打ち込めなかった。そこで、柳生新陰流の達人でもある忠利自らが武蔵と立ち会うが、やはり勝てなかった。忠利は驚き感心し、細川藩は藩をあげて武蔵の二天一流の門下となった。光成との秘密の御前試合については、熊本市横手・禅定寺(ぜんじょうじ)にある雲林院氏奕世(うじいしえきせい)之墓と刻まれた墓碑文の中にも刻まれている。その中には、「宮本武蔵と君前に於いて校技(こうぎ)を興(おこ)す。公すなわち之を賞し佩刀(はいとう)を賜(たま)う」とあるが、御前試合の結果についてはここには記されていない。とはいえ、墓碑に武蔵との御前試合について刻まれているということは、光成にとっても一門にとっても、この勝負は大きな出来事だったのであろう。
武蔵が眠る武蔵塚公園
「死後も藩主を見守りたい」という遺言から、大津(おおづ)街道沿いに葬られたという武蔵の墓碑が熊本市龍田町にある。葬儀が終った武蔵の亡骸(なきがら)は甲冑(かっちゅう)を着けた立ち姿で埋葬されたとの話も伝わっている。この場所は、藩主の参勤交代の行列を見送る場所であったそうだ。自らの人生のまとめともいえる五年間をこの地で過ごさせてくれた細川家への武蔵の感謝の気持ちを死後も伝えるためだったのだろうか。独行道にある「身をあさく思、世をふかく思ふ(自分中心の心を捨て、世の中のことを深く考える)」という思いと通じるようにも思う。この地は、現在、武蔵塚公園として整備され、宮本武蔵像や日本庭園などがある市民の憩いの場で、桜の季節には花を楽しむ家族連れも訪れる。なお、武蔵の墓といわれる場所は、熊本市内には他に四カ所ある。熊本の人々に武蔵が愛され親しまれているという証であろう。
武蔵が遺した芸術作品
武芸の達人武蔵は、兵法の心に通じる芸事や芸術にも造詣(ぞうけい)が深く、多くの芸術作品を遺している。武蔵の墨絵の題材は、花鳥画や達磨(だるま)などの人物画が多く「鵜図(うず)」(国指定重要文化財)や「正面達磨図」(国指定重要文化財)を目にした方も多いだろう。また、今回、永世文庫展示室に展示される「達磨・浮鴨図(うきかもず)」の達磨の目をじっと見ていると、まるでこちら側が見られているような緊張感がじわっと溢れてくる。剣気みなぎる達磨の眼に光が宿っているようだ。  
 
宮本武蔵の旅 3

 

兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、初めて書物に顕さんと思ひ時に寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもって六十。
我、若年の昔より兵法の道に心をかけ十三にして初めて勝負をす。其のあいて、新当流有間喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝つ、二十一歳にして都に上り、天下の兵法者にあひ数度の勝負をけっすすといへども、勝利を得ざるといふ事なし。其後国々所々に至り、諸流の兵法者に行合ひ六十余度迄勝負をなすといへども、一度も其利をうしなはず、其程年十三より二十八、九迄の事也。
我、三十を越へて跡をおもひみるに、兵法至極にしてかつにはあらず。をのづから道の器用有りて、天理をはなれざる故か。又は他法の兵法、不足なる所にや。其後なをもふかき道理を得んと、朝鍛夕錬してみれば、をのづからを兵法の道にあふ事、我五十歳の頃也。夫より以来は尋ね入るべき道なくして、光陰を送る。兵法の利にまかせて、諸芸・諸能の道となせば、万事におゐて我に師匠なし。 〜「五輪書」より
生誕の地・宮本 / 岡山県大原町、兵庫県佐用町
青年時代・修行の旅 / 龍野、姫路、豊前、京都、奈良、柳生
決闘の地・巌流島 / 下関、北九州小倉
伊織と暮らした小倉 / 北九州小倉、福岡県金田
終焉の地・熊本 / 熊本
天正12(1584) 1歳 
  平田無二斎の次男として美作国吉野郡宮本村に生まれる。
慶長1 (1596)13歳 
  播磨国平福で新当流有馬喜兵衛とはじめて試合して勝つ。
慶長4 (1599)16歳 
  但馬国秋山某という兵法者に勝つ。
慶長5 (1600)17歳 
  伏見城攻防、岐阜城攻め、関ケ原の合戦に参戦。
慶長9 (1604)21歳 
  京都の蓮台野・一乗寺下り松・三十三間堂にて吉岡一門に勝つ。
  奈良で槍の奥蔵院道栄に勝つ。伊賀の鎖鎌の使い手・宍戸梅軒に勝つ。
慶長10 (1605)22歳 
  江戸にて柳生新陰流大瀬戸隼人・辻風典馬に勝つ。
慶長13 (1608)25歳 
  明石にて、神道流夢想権之助を破る。
慶長17 (1612)29歳 
  舟島(巌流島)にて中条流佐々木小次郎に勝つ。
慶長19 (1614)31歳 
  大坂冬の陣・夏の陣に参戦。
元和4 (1618)35歳 
  東軍流三宅軍兵衛に勝つ。
元和5 (1619)36歳 
  造酒之助を養子として、姫路城下に住む。
寛永1 (1624)41歳 
  伊織を養子にする。
寛永3 (1626)43歳 
  造酒之助、主君本多忠刻の墓前で殉死。
  伊織、明石にて小笠原忠真に仕える。
寛永7 (1630)47歳 
  名古屋にて、徳川義直家臣を破る。
寛永9 (1632)49歳 
  伊織、小笠原忠真に従って小倉に移る。
寛永11 (1634)51歳 
  尾張国で宝蔵院流高田又兵衛を倒す。
寛永15 (1638)55歳 
  松江にて、出雲松江藩主・松平出雲守直政を破る。
  伊織とともに小笠原忠真の指揮監として島原の乱に出陣。
寛永17 (1640)57歳 
  細川忠利より客分として熊本に迎えられる。
  細川忠利家臣・柳生新陰流氏井椰四郎を破る。
  細川忠利家臣・塩田浜之助を破る。
寛永18 (1641)58歳 
  細川忠利の命により兵法三十五箇条を書く。
寛永20 (1643)60歳 
  岩戸山霊厳洞にこもり五輪書を書きはじめる。
正保2 (1645)62歳 
  五輪書を書き終えるが病気が重くなり、
  独行道十九条を書いて5月19日永眠。  
 
宮本武蔵 4 壮年期

 

宮本武蔵は二人いる―――「達人」・武蔵と、「哲人」・武蔵と。
今回と次回は、2回にわたって、この「二人の武蔵」について書いていく。
武蔵の生誕については諸説ある。まず誕生年だが、天正10年(1582)説と、その2年後だとする説。前の説だとすると、織田信長が本能寺で命を落とした、あの年にあたる。生誕地も美作(岡山)と播磨(兵庫)の二説ある。まあ、このように、生い立ちはミステリアスだが、逝去の時は、その年も場所もはっきりしている。命日は、正保2年(1645)5月19日。場所は熊本城下であった。
武蔵は、生涯、恋人を持たず、妻を娶らず、従って、子もなさなかった。
彼は16、7の時に「関ヶ原」体験がある。西軍に属した。その関係もあり(のちに詳説)、「関ヶ原後」は諸国を遍歴。各地で自分の剣の技の具合を試す。その数は、剣術の名門「吉岡一門」との死闘や、宝蔵院流の槍や二刀神影流鎖鎌の異種対決も含めると、全部で60を超える。その60を超える仕合で武蔵は一敗もしていない。60数戦無敗。強い男だった。「剣の達人・武蔵」たる所以である。
その「達人」武蔵を語る上で特筆さるべきは、巌流島での佐々木小次郎との対決だろう。これについてはのちほど触れる。
しかし、そんな、「滅法強い武蔵」にも死ぬときはやって来る。既述の正保2年、彼は細川家の領地内の山中(の洞窟)で本を執筆中だった。日々衰弱していく彼を見かねた細川家の家老の必死の説得を受け武蔵は洞窟を出て熊本城下に居を移し、そこで息を引き取る。死の直前まで書いていたその本の名は、「五輪書」という。寛永20年(1643)起稿。兵法の極意を地・水・火・風・空の5巻に説いた書。
例えば、「剣術のみを鍛錬してもまことの剣の道を知ることは出来ない」とか、「大きなところから小さなところを知り、浅きところから深きところを知るがごとく、おのれの目指す道とは全く異なる方向から本質がつかみとれることもある」といった文言がちりばめてある。これは、その4年ほど前に、細川忠利の依頼で執筆し完成させた「兵法三十五箇条」に代表される単なる剣術の解説書、指南書の類ではない。人の生き方について触れた哲学書である。日本人だけではなく、海外でも多くの人に読み継がれた。「哲人・武蔵」と呼ぶ所以である。「武蔵が二人」―――しかし、いうまでもなく、前半生の剣豪・不敗の武蔵と、後半生の求道者・哲人武蔵は、いずれも、紛う方なき「彼自身」。となると、彼に何が起こって、あるいは、彼が何を感じて、「そうなった」のか。
彼の人生は「凡そ60年」だった。巌流島での決闘が慶長17年(1612)でおよそ30歳の頃だったから、この巌流島で、彼の人生を二つに分けてみようと思う。巌流島以前とそれ以後と。まずは、彼の前半生である。
武蔵の自著「五輪書」の序文の自分の半生を振り返った個所には、彼が剣技試しに諸国の諸流の兵法者と勝負をしたのは、13歳から29歳くらいまでで、30歳を超えて、「跡をおもひみるに至った」と記されている。そして、「その後、なおも深き道理を得んと朝鍛夕錬」して、兵法の神髄を会得したのは「我、50歳の頃也」とある。つまり、30歳までの「前半生」は、ただただ決闘に明け暮れ、「勝利に拘る日々」であった。
北九州市小倉に、武蔵の死後、養子の伊織によって建てられた石碑がある。「小倉碑文」というが、そこに初の決闘記事が刻まれている。それによれば、決闘初体験の相手は「新当流」という剣術の使い手で、名を有馬喜兵衛といった。武蔵、13歳。この時、13の武蔵は相手と堂々と組みうち、相手を投げ飛ばし、手にした棒で有馬を滅多打ちにして、勝つ。ここから、およそ17年間、60数回戦って負けなしという「決闘不敗記録」がスタートした。
さて。この初決闘から4年後、武蔵16、7の時、天下分け目の「関ヶ原」がある。この時、武蔵は父の関係から宇喜多秀家の手のもの、として参戦した説が有力である。宇喜多、ということは三成側で、非家康側である。武術に自信を持っていた武蔵にとってこの戦乱は願ってもないチャンスだった。
合戦で手柄を立てて、武将に取り立てられれば、やがては一国一城のあるじになる事も夢ではない―――父は一介の「十手の武芸者」という家に生まれた武蔵は、「一国一城の主に」という立身出世の夢を追い続けていた。
この関ヶ原で武功を挙げればその夢は一歩近づいたかもしれないが、勝ったのは家康側だった。結果、彼は落武者として追われることになる。吉川英治の小説などでは、この時期に「恋人・お通」や沢庵和尚に出会ったりするのだが、これらは、みな、フィクションである。
彼の自著「五輪書」によれば、実際は、関ヶ原の4年後には、「都へ出て、天下の兵法者と勝負」した、とある。武蔵は「合戦の手柄によって出世する望みが断たれた上は、全国一流の武芸者との決闘によって、名を挙げよう」と思った。この中で有名なのが武芸の名門「吉岡一門」との3度にわたる決闘である。まずは門主・清十郎。ついで、兄の仇、と立ち上がった弟の伝七郎。二人とも、武蔵の一撃に、斃れた。そして対吉岡一門3連戦の最後の相手は清十郎の子供、又七郎であった。名門・吉岡一門にとっては3度も続けて同じ相手に負けられない。だから、背水の陣を敷き、数十人とも数百人とも言われる一門の門弟を、又七郎の助っ人に配置した。場所は京都郊外、一乗寺下り松。
早めに現場に着いていた武蔵は木陰に身を潜めて、ただ一人、幼な子・又七郎を待つ。やがてその子が到着すると、他の門弟には目もくれず、ただただその幼子の命だけを狙って武蔵は全力で躍りかかり、そして、殺す。卑怯も糞もない。決闘は勝たねばならぬのだ、と武蔵は思う。武蔵はこのころから、自分の名前の上に「天下一」と署名するようになる。しかし、それなのに。武蔵は、なおも放浪の旅を続けねばならなかった。どの大名からも「仕官」の声がかからなかったからである。
関ヶ原に勝った家康は、その後、幕府を開き、世情は安定し、戦乱はなくなっていった。世間には職を求める武士、武芸者で溢れていた。武蔵の伝記「二天記」によれば、その頃、ひょっとして武蔵より強いのではないかと噂される人物が人々の口に上るようになる。佐々木小次郎である。この小次郎は小倉の大名・細川家の剣術指南役を務めていた。細川家は、「関ヶ原」での功績を家康から認められ、それまでの18万石から40万石に加増されていた。家中には新たに多勢の武士が召し抱えられ、その武士たちのための剣術指南役をおく余裕もできていた。だから武蔵は、小次郎を倒せば自分が小次郎に代って、その指南役になれると思った。
伝承によれば、小次郎は「巌流」という流派を起こし、燕返しと呼ばれる必殺の技を身につけていたという。前出の「小倉碑文」によれば、その長刀の長さは90センチ。それを自在に扱う小次郎は、並の腕力、体力ではない。武蔵はまさに、武者震いをしながら、小次郎との腕比べを細川家の家老に願い出た、と「二天記」には記されている。
やがて、「両者の対決は、藩主の許しを得た正式の仕合」という「許し」が細川家から出るのだが、「ただし、決闘の場所は無人島」という条件が付けられていた。それには関ヶ原以後の政治情勢が色濃く影を落としていた。家康が、たまたまこの両者対決の前年に、各地の大名に差し出させた誓紙には、「謀叛人や殺人者を召し抱えませぬ」という一節がある。謀叛人とは、かつて関ヶ原の合戦で、家康に敵対した西軍の武士たちを指す。
突然現れた武蔵に対して、細川家は当然、警戒心を抱く。細川家の城下で大々的に決戦挙行をぶち上げた時の、幕府側のリアクションを考える時、この「無人島決戦」は、細川家としては必要な「保険」だったかもしれない。ところで、武蔵は、そんな政治的思惑など全く分からない。決戦の場所がどこであろうが、要は自分が勝てばいいのだ、としか考えていない。武蔵はこの一戦に全てを賭けていた。小次郎もそうだった。直前に、小次郎からは「真剣を以て雌雄を決せん」という申し入れがあったが、これに武蔵は「自分は木刀で」と答えた(小倉碑文)という。
そして、さあ、いよいよ決戦当日。慶長17年(1612)4月13日の朝9時過ぎのこと、である。でも、、、予定の刻限に2時間近くも遅れて武蔵は小舟で到着したこと、大幅な遅刻に、小次郎が怒りの余り、鞘を投げ捨て武蔵に躙りよったこと、その刹那、武蔵は大音声で「小次郎破れたり」と叫んだこと、対決そのものは、小次郎の長刀よりさらに30センチも長い武蔵の樫の木の刀が小次郎の眉間を一撃し、小次郎はその場に倒れたこと、、、なんてことは皆さんよくご存じの事である。
ただ一つだけ、付け加えるなら、最強と言われた小次郎に勝っても、武蔵には、細川家から小次郎に代わる剣術指南を、という声がなかったことである。だから武蔵は、やむなく、また放浪の旅に出る。―――この時、武蔵の胸に去来したものは何だったか。何のために自分は勝ったのか。「勝つため」の、自分の半生は何だったのか、、、。 
 
宮本武蔵 5 哲人武蔵

 

武蔵の父(無二)に関しての資料はあまり多くはないが、彼は武芸、とりわけ「十手」の使い手だったという。武蔵の幼少期にこの父は武蔵に連日武芸の特訓を施したが、一介の、十手を扱う『武芸者』の父の下では、武蔵の幼少年時代は、そう豊かな日々とはいえなかった。
だから、少年・武蔵は、「よりよい生活」を希求した。しかし、自分にはその夢を実現するためのこれといった手段がない。恃むは、父から受ける連日の武芸の特訓のみ。彼は必然的に「剣技競い」の生活を選択する。敵を求めて全国を歩き、そこで剣技を競い勝利を重ねることで、その名声がその土地土地の藩主に届くことを希った。
目指すは安定した収入が得られる「藩への仕官」であった。その、武蔵の初の「剣技競い」は13歳の時だったと「小倉碑文」(後述)には刻まれている。そして最終決闘は、あの巌流島対決で、これは武蔵30歳の頃といわれている。武蔵の全決闘戦績は、60戦以上戦って、不敗。
しかし武蔵は、その「『剣技競い』生活」を、この巌流島以後はやめる。「剣の道」の追求はやめないが、「勝負に拘る」人生は30年でやめて、以後の、それまでとほぼ等量の30年を、今度は「五輪書」に代表される、物書きと思索の「哲人武蔵」に生きるのである。
「勝負に拘った」時代、武蔵には決闘に勝っても勝っても、仕官の道はこなかった。それは、あるいは、武蔵自身の問題、例えば、勝利のため、仕官のために「勝負に異様に拘る武蔵の、あまりの考え方の偏屈さ」に周囲が「引く」場面があった所為かもしれない。然しそうした風評は、本人にとっては、そのことに気を配ることさえ気が付かない程度の些末な問題だった。
私は、武蔵の「就活失敗」最大の原因は、やはり、当時のトレンド、時流にあったのではないかと思う。武蔵の初決闘が13歳の時だったと先刻、書いたが、それは1595年前後の、秀吉が小田原の北条氏を降伏させて事実上の日本一になってから5年ほど経った時期、92年には京都に絢爛豪華な伏見城が完成している。日本は秀吉のもと、泰平の日々が続いていた。13歳の少年が初決闘で勝利したと聞いても、周囲は「ほう、元気のいい坊やだな」くらいの反応しかない世間の風向きだった。
その後の、4年から5年の間の武蔵の連戦連勝も、感覚としては、まさに、その延長線上だった。何せ、天下は泰平なのである。全国から血眼で剣豪を捜し出し自陣営に引き入れて、少なくとも武芸の面だけでも他の後塵を拝することがないような算段をするという風向きでは、世間全体がなかったのである。剣豪が必要のない時代、剣豪同士が果し合いをして勝ったところで、それが大した意味を持たない時代になってしまっていた。
そして、時は流れて1600年の関ヶ原。ここでの武蔵の選択が、「剣の達人・勝負師・武蔵」の運命を決めた。武蔵はこの関ヶ原では、父の関係もあって宇喜多秀家系に与した。要するに武蔵は西軍についたのである。この戦で宇喜多軍は福島正則軍と激突する(この戦いが関ヶ原では最も激戦だったと言われている)が、この戦で宇喜多軍の一人としてそれなりの活躍をした武蔵は、家康や東軍の有力武将から、当然、目をつけられてしまう。家康にしてみれば、関ヶ原で西軍についた者は「謀反人」であり「殺人者」だった。家康が「関ヶ原」のあと、各地の大名に差し出させた誓紙には「謀反人や殺人者を、新たに召し抱えない」という一節があった。だから、武蔵は「関ヶ原」以後、とりあえずは身を隠さねばならなかったのである。
武芸者というより、逃亡者だった。そんなある日、武蔵は佐々木小次郎の風評を聞く。「現代最強ではないか」という世間の噂は、剣技一筋でここまで来た武蔵にとって看過できない事態である。
小次郎は当時、細川家に剣術指南として仕官していた。細川と家康の両者の関係は良好で、関ヶ原での功績で細川家はそれまでの18万石から40万石に加増されている。細川家は十分に新しい武士を召し抱えられる財力が出来たし、その大勢の武士たちの剣術指南役をおくことも、家康公認で出来た。しかも両者のテリトリーは豊前と江戸と、遠く離れているから日常の些末事は、お互いにその都度ツーカーといく距離ではない。これまで武芸・武技一辺倒の生活で、「世間を読めない」武蔵は、「ひょっとしたら…」の思いがあったかもしれぬ。武蔵は、小次郎に勝ったら、ひょっとしたら細川家は自分を小次郎の後任として雇ってくれるのではないか―――もちろん武芸者としてのプライドが第一だったが、武蔵はそんなこともあって、小次郎との対戦を熱望し、実現し、そして勝った。
小次郎の、あの有名な90cmの物干し棹(長刀)は、武蔵の頭に巻いた鉢巻きをかすめて空を斬った。その長刀よりさらに30センチも長い樫の櫂(木刀)は、一撃で小次郎の眉間を割った。武蔵の完勝だった。しかし、現実は、この決闘勝利にも拘らず、決着のあと、細川家だけでなく、どこからも「剣術指南役」や「仕官の話」はなかったのである。「なぜ?」の思いで、武蔵はまたもや放浪の旅に出る。時代が武蔵を見放した、と思うほかはない。もはや「毎日が戦争」の戦国の世ではなかったことに、武蔵だけは気が付いていなかった。いつ起こるかもしれぬ戦の場で、明日死ぬかもしれぬという恐怖感が人の行動を左右する日々ではなくなっていた。一定のルールと組織で世の中が動く、一種の管理社会になりつつあった。
つまり、武蔵のような人間にとって、最も不得手とする時代が来てしまった。すべては運命だった。そして、そのことを誰よりも深く感得したのは武蔵だった。「自分は今まで、何のために戦ってきたのか、何のために勝ってきたのか」。武蔵が死の直前まで筆を執っていた「五輪書」の序文に、彼の半生を振り返って、『30を越えてあとを思ひ見るに至った』と記した箇所がある。剣豪「剣の達人・武蔵」から、思想家「剣の哲人・武蔵」誕生の瞬間であった。
武蔵が40歳になった頃、生涯独身だった彼は養子をとった。伊織という名のこの養子に、武蔵は自分とは全く違う人生を歩ませた。武蔵は父から、日々、剣士としての厳しい鍛錬を受けていたが、結局、それが何だったのかと激しく自問する「その後の人生」だった。だから伊織には「武芸・武技」ではなく「学問」を身に着けさせようと思った。伊織はその父の期待に応えた。15歳で武蔵の手を離れた伊織は、九州の大名・小笠原家の家臣となり、その後も順調に出世を続け、19歳で藩の重役の執政に栄進、やがて家老にまで取り立てられる。武蔵が死んだ9年後、伊織が、その任地・小倉に、父・武蔵の事蹟を記した碑を建立する。それが武蔵研究には欠かせない前出の「小倉碑文」なのだが、自分とは全く違う生き方を生き、成功している養子を、生前、武蔵は自分の半生と比較しつつ、陰ながら目を細めてみていたことだろう。
息つく暇もなく生きてきたこれまでの自分の半生を思うとき、それは、武蔵に訪れた人生初の「安らぎ」だったかもしれない。そして、伊織が武蔵の下を離れて10年ちょっと経った寛永14年(1837)、伊織の仕官先の小笠原家から思いがけない連絡が武蔵に届く。「いま、島原で幕府に対する反乱が起きているので参陣してほしい。息子も一緒。」というのである。いまや小笠原家の執政になっている伊織と一緒に戦える―――自分の「決闘人生」はやめたけれども、武芸・武技についての熱が冷めたわけではない。再び、自分の腕を生かすことが出来る、しかも、息子と一緒に!
武蔵は勇躍、その島原の地に向かった。武蔵個人は戦場で足を負傷して不本意な結果に終わった戦いだったが、乱は鎮定された。そんなこともあって、その後、九州に落ち着いた武蔵は、ある日、熊本の細川家から招請を受ける。無論、武蔵に断る論理はない。以後、武蔵は藩主・忠利の剣術指南の傍ら、書画に打ち込んだ。画の代表作は、墨画・枯木鳴鵙図。書物で有名なのが「五輪書」である。「五輪書」は細川家に仕官して間もないころ、主君・忠利から、「これまで会得した剣の極意を書物としてまとめよ」との要請で書いた「兵法35箇条」の完成4年後の、寛永20年(1643)に起稿、脱稿は、亡くなる一週間前であった。
それまで細川領内の山中の洞窟で、鬼神が乗り移ったような形相で執筆していた武蔵が、細川家家老の嘆願を受け入れ、ようやく市内に居を移した直後の死だった。この本は「剣の技術書」ではない。人の生き方の極意を、地・水・火・風・空の5巻に分けて説いた「哲学書」である。昭和49年(1974)、この本はアメリカでベストセラーとなる。
日本の「達人武蔵」は、世界の「哲人武蔵」となった。 
 
宮本武蔵 6

 

第一話 巌流島の決闘
世にも有名な名勝負
古来、宮本武蔵といえば、何はなくとも巌流島の決闘が取り上げられる。
武蔵の死後百年ほどして書かれた『二天記』という武蔵伝の中でも、この決闘が大きく取り上げられており、古くから人々の注目を集めていたことがわかる。
『二天記』ではないが、こんな逸話が残されている。晩年の武蔵が熊本細川藩の食客となっていたころのことだ。ある席で清水伯耆という武士が武蔵に向かってこんなことをいった。
「有名な巌流島の戦いでは、小次郎の太刀が先に武蔵さんを打ったという噂があるが、本当ですか?」
これを聞いた武蔵の反応が面白い。武蔵はかっとして相手の目の前に頭を突き出し、総髪をかき分け、
「もしそうだとすれば、小次郎の刀の跡がわたしの頭に残っているはず。どこにそんなものがありますか」
と、詰め寄ったという。
事実かどうかはわからない。が、『二天記』を見れば、武蔵が怒るのも無理はないと思える。この決闘で完全な勝利を得るために、武蔵がいかに必死であったか、そこに詳しく語られているからだ。
用意周到だった武蔵の作戦
『二天記』によれば、巌流島の決闘は武蔵が29才だった慶長17年(1612年)4月13日午前7時に行われる予定だった。場所は小倉と下関の間にある船島という小島である。決闘相手は当時小倉を領していた細川藩の剣術師範・佐々木小次郎。したがって、この決闘は細川藩公認のもので、普通なら遅参するなど考えられないことである。
だが、武蔵は違った。
戦いの前夜、下関の回船問屋に宿泊した武蔵は、当日の午前七時頃になってやっと起き出し、飯を食い、それから櫂を削って大きな木刀を作り始める。この木刀のが、一説によると長さ4尺6寸(約140cm)もあるものだった。
この間に、小倉から二度も飛脚が来て、早く小島に渡るようにと催促したが、武蔵は落ち着いたものである。武蔵はゆっくりと回船問屋の小舟に乗り込むと、船中でこよりをつくって襷に懸け、綿入れをかぶって横になった。
このすべてが武蔵の作戦だった。武蔵の行動にはとても決戦の直前とは思えない静けさがあるが、その背後で、武蔵はすでに戦っていたのである。
西国一の剣豪・佐々木小次郎
武蔵がここまでしたのは、決闘相手の佐々木小次郎を剣豪として高く評価していたからともいえる。
『二天記』によれば、小次郎は幼少の頃から中条流の剣豪・富田勢源の弟子となり、勢源の打太刀をつとめたほどの腕前だった。
勢源といえば小太刀の名手だった。その打太刀は自然と長い刀を使うことになり、小次郎は刃渡り3尺を超える長大刀の扱いに精通したのだという。
その後、小次郎は自らの流派を巌流と呼び、諸国をめぐって高名の武芸者と対戦するが、ついに一度も負けなかった。この実力を小倉藩主・細川忠興に認められ、その地で武芸を教えることになったのである。年齢は18才とされているが、これには異説が多い。剣術師範をつとめる以上はそれ相当の年齢であるはずだから、やはり武蔵と同じくらいではなかっただろうか。
いずれにしても、武蔵は小次郎についてかなり詳しく知っていたに違いない。そうでなければ、小次郎の刀よりも長い木刀を用意するなどできるはずもないからだ。
長大刀が繰り出す秘剣・燕返し
そんな武蔵に対して、小次郎の方は真正直でありすぎたかもしれない。
「遅れるとは何事か」3時間も遅れて武蔵がやって来たとき、小次郎は叫んだ。武蔵の方は落ち着いたもので、小次郎が進み出て大刀を抜き、鞘を投げ捨てるのを見るや、「小次郎敗れたり。勝つ者がなぜ鞘を捨てるのか」といった。
この言葉に小次郎はさらにいきり立ってしまうのだ。
とはいえ、それは剣豪同士の決闘にふさわしいものだった。
一般に小次郎は「燕返し」という秘剣を使ったといわれている。本来は「一心一刀」または「虎切」と呼ばれるもので、「敵の眼前で大太刀を平地まで打ち下ろし、同時にかがみ込み、大太刀をかつぎ上げるようにして敵を斬る」という技である。
この大技を小次郎は武蔵に対して使っているように見えるのだ。残念なのは、このとき武蔵が飛び上がっていたことだ。このため、小次郎の剣は武蔵の鉢巻きと袷の裾を斬っただけに終わり、武蔵の木刀が小次郎の頭を打ち砕いたのである。
剣に生きた宮本武蔵の魅力
こうして、巌流島の決闘は一瞬にして武蔵の勝利に終わった。だが、これを一瞬の勝利と呼ぶべきかどうか。
例えば、武蔵は小次郎に勝つために4尺6寸の木刀を用意したうえ、3時間も遅れて決闘の場所に臨んでいる。これを見ただけでも、2人の勝負が一瞬だったとは思えないのだ。
武蔵自身が晩年に書いた『五輪書』によれば、武蔵は29才頃までに60回以上の勝負をし、そのすべてに勝ったとされている。つまり、武蔵が29才のときの巌流島の戦いは、戦い続けた武蔵の総決算でもある。
小次郎にとっても同じだったろう。
とすれば、勝負にかける意志において、剣にかける厳しさにおいて、武蔵は小次郎に勝ったのではないだろうか?
もちろん、意志や厳しさを実際に量ってみることはできない。が、武蔵のことを知れば知るほど、そうなのではないかと思えてくる。そう思わせるところに宮本武蔵の魅力があるといってもいいのである。
第二話 宮本武蔵の誕生
自然に恵まれた武蔵の故郷
武蔵が晩年に著した『五輪書』を見ると、剣豪としての宮本武蔵の戦いがすでに少年時代に始まっていたことがわかる。武蔵は29才までに60回を超す試合をしているが、その最初の戦いがなされたのは武蔵がまだ13才のときなのである。
いったい宮本武蔵はどんな少年だったのだろう?
通説によれば、武蔵は天正12年(1584)、美作国吉野郡讃甘(さぬも)村宮本(岡山県英田(あいだ)郡大原町宮本)に生まれたとされている。宮本姓の由来もここにある。
有名な小説『宮本武蔵』の著者・吉川英治氏は、この宮本村について随筆の中で次のように書いている。「山を縫い、山を繞(めぐ)り、やっと宮本村に着く。……その宮本村付近は、何っ方を向いても山で、平面の耕地は甚だ少い。然し山は峻険でなくそう高くなく、線の和らかい所に、北陸や信州あたりの山国とはちがう平和な明るさがある。」
武蔵が持っているいかにも自然児らしい雰囲気は、まさにこのような環境によって育てられたといえるかもしれない。
父祖三代にわたる武門の家系
剣豪・武蔵について考える場合、もうひとつ忘れてならないのは、武蔵が父祖三代にわたる武門の家に生まれたということだ。
武蔵の祖父・平田将監は美作国小房城主・新免則重の家老職をつとめ、十手、刀術に秀でた人物だった。父・武仁も新免家の家老職をつとめ、祖父から十手、刀術の技を受け継いでいた。しかも武仁は将軍・足利義昭に招かれて京に上り、武芸の名門・吉岡兼法との試合に勝ち、「日下無双」の号を賜ったほどの腕前だったといわれる。
また、将監も武仁も新免家の娘を妻にしており、武蔵は新免家の血も引いている。この新免家は平安時代の大貴族・藤原氏と戦国武将・赤松氏の血を引く名門である。武蔵が武の道を志す条件は十分にそろっていたといえるだろう。
しかし、武の道にもいろいろある。武蔵は祖父や父と同じように、新免家に仕えてもよかったはずだ。それなのになぜ、武蔵は故郷を捨て、たった一人で剣の道を突き進むことになったのだろうか?
父・武仁と対立した武蔵
それについて、『丹治峰均筆記』(1727年)という本に面白い逸話がある。
少年時代の武蔵は父の十手術に大いに不満を持ち、しばしば批判がましい意見を述べたという。多分、武蔵は武門の家の者として、父から武芸の指導を受けていたのだろう。が、やがて日本一の剣豪になるほどの天才武蔵はそんな父の武芸の欠点を見抜いたのではないだろうか。
あるとき、武蔵が文句を言い始めると、武仁はかっとして手にしていた小刀を投げつけた。この小刀を武蔵は見事にかわした。これを見た武仁はさらに腹を立て、今度は手裏剣を投げつけたが、武蔵はこれもかわしてしまった。
何ともすさまじい親子関係ではないか。子供の分際で親に逆らう武蔵を生意気だともいえるが、それ以上に父・武仁の異様な性格を物語っているように思える。
もちろん、こんな親子関係が長続きするはずはないので、武蔵はその直後に家出し、二度と故郷の土を踏まなかったという。事実かどうかはわからない。だが、家を捨てて剣の道を選んだ武蔵の中に、父への敵愾心があったとしても、少しも不自然ではないはずだ。
母を慕った意外な一面
武蔵が父を嫌った背景には、母・率子(よしこ)の存在もあったようだ。
武蔵の実母については、新免家から武仁に嫁いだ於政(おまさ)だという説もある。が、於政の死後に武仁の妻になった率子こそ武蔵の母だともいわれる。
率子は宮本村に近い播州佐用郡平福村の城主・別所林治(しげはる)の娘で、武蔵を産んだ後に武仁と別れ、平福村の田住家の後妻になったという。少年時代の武蔵はこの母のことを慕い、しばしば平福村まで遊びに出かけたというのだ。
豪快な武蔵の生き様から見ると意外な一面と見えるかもしれない。しかし、率子が家を出た理由が、もしも武仁の異様な性格にあるとすれば、少年だった武蔵が必要以上に父と対立した理由もうなづけるのである。
武蔵はこの母を慕う気持ちが強かったようで、家出後には田住家に身を寄せたこともあったようだ。
が、そのうちにもっといい場所を見つけた。平福村にある正蓮院という寺院である。そこに道林坊という住職がおり、武蔵に剣術や絵画の手ほどきをしてくれたのだという。
有馬喜兵衛との最初の決闘
そうやって、武蔵がどれくらいの年月を過ごしたか、はっきりしたことはわからない。が、13才になったころには武蔵は並外れた体格と膂力の持ち主になっており、かなりの自信も持っていたようだ。それが、武蔵の最初の決闘へとつながるのである。
あるとき、平福村に有馬喜兵衛という兵法者がやってきて、浜辺に仮設の試合場を設け、望む者があれば誰でも相手をするという高札を立てた。と、武蔵はすぐにも「宮本弁之助(武蔵の幼名)、明日相手をいたすべし」と高札に書き込んだのだ。武蔵の面倒を見ていた道林坊は驚き、翌朝武蔵を連れて試合場に出向き、「とにかく、こどものやったことだから」と有馬に向かって頭を下げた。決闘なんてとんでもないというわけだ。
しかし、武蔵は違った。道林坊の横から飛び出すや「いざ、勝負!」と叫び、持ってきた2mほどの棒で有馬に打ちかかった。有馬も応戦した。と、武蔵が棒を投げ捨てて有馬に組み付き、高々と担ぎ上げると地面に叩きつけた。それから武蔵は棒を取り、十四、五回も殴りつけて有馬を殺してしまうのだ。
これが武蔵の最初の勝利だった。乱暴で力任せの、とても剣豪とはいえないような勝利かもしれない。が、このときから、武蔵の新たな旅が始まるのである。
第三話 吉岡一門との決闘
失意の関ヶ原で固めた決意
晩年に武蔵自身が著した『五輪書』などを見ると、武蔵の一生はまさに剣一筋だったという印象がある。
しかし、剣一筋とは並大抵ではない。武蔵はいつ、どこで、そのような人生を選び取ったのだろう?
13才にして播磨国(兵庫県)で有馬喜兵衛を倒したときだろうか? だが、その後武者修行に出たとされている武蔵は、なおしばらく故郷の近くにいたことがわかっている。武者修行に出たといっても、このころの武蔵は故郷を断ち切ることができなかったのである。
こんな武蔵にとって人生の転機となったのが、17才で参戦した関ヶ原の戦いだといわれている。
合戦に参加したのは、もちろん手柄を立ててどこかの大名に認められるためである。そうなれば、武士として仕官(就職)の道も開けてくるからだ。
だが、どこの誰ともわからない浪人身分の武蔵が一介の兵士としてできることには限りがある。そのことを、関ヶ原の合戦で武蔵は思い知らされたのだという。そして、武蔵は思った。
「こうなった以上は、もはや剣によって名を上げるしかない」と。
武蔵が関ヶ原の合戦に参戦したという記録は、武蔵の死後100年以上たってまとめられた武蔵伝『二天記』にあるくらいで、確実な証拠はどこにもない。だが、こう考えと、武蔵の次の行動も十分に納得できるのである。
打倒! 京の名門・吉岡流
関ヶ原の戦いから数年、21才になった武蔵は、突然これまでとは格の違う相手に戦いを挑むことになる。
そのころ、京都に吉岡家という剣法の一門があり、京都西洞院に兵法所を構えていた。家祖・吉岡直元が足利12代将軍義晴に仕えて軍功をあげ、以来その弟・直光、直光の息子・直賢が足利将軍家の兵法師範をつとめたほどの名門である。
当時、吉岡流を継承していた直賢の息子・清十郎(直綱)には、こんな話も伝わっている。清十郎は密教の行法で心胆を鍛えていたが、その気合いはすさまじいものだった。深夜に森の梢に向かって精神を統一すると、それだけで森の小鳥たちが一斉に飛び立ったというのだ。
21才になった武蔵が次の相手に選んだのが、この吉岡清十郎だった。
何がなんでも名を上げたい、そんな気持ちを武蔵は押さえることができなかったのだろう。
だが、相手は名門である。この戦いは、単に武蔵対清十郎の戦いではなく、武蔵対吉岡一門の戦いへと発展することになった。
清十郎、伝七郎との決闘
武蔵と吉岡清十郎との戦いは、『二天記』によれば、武蔵が21才の慶長9年(1604年)春、京都北郊外の蓮台野(京都市北区船岡山の西)で争われたとされている。
この戦いはあっけなかった。木刀を持った武蔵が、真剣を持った清十郎を一撃で打ち倒したのである。
幸い、清十郎は死ななかった。2人の対戦を見ていた清十郎の弟子たちがすぐにも板に乗せて連れ帰り、手を尽くして看病したからだ。しかし、回復した清十郎は、この敗北を恥じ、兵法を捨てて出家したといわれている。
この結果に我慢できなかったのが、清十郎の弟・伝七郎(直重)だった。伝七郎は兄以上の膂力の持ち主と伝えられているから、自分ならという気持ちもあったかもしれない。
伝七郎はすぐにも兄の仇を討つべく、武蔵に挑戦状をたたきつけた。
場所は京都洛外、伝七郎は5尺の大木刀を携え、武蔵に打ちかかった。だが、結果はまたしても武蔵の勝利だった。伝七郎は大木刀を武蔵に奪い取られ、その大木刀で打ちのめされ、その場に絶命してしまうのである。
一乗寺下り松の決闘
清十郎、伝七郎の兄弟を倒したことで、吉岡家との戦いは、完全に武蔵の勝利に終わったといっていい。おそらく、武蔵はそう思っただろう。
だが、吉岡一門の弟子たちはそうは思わなかった。
当時、清十郎に10才になるかならないかの又七郎という嗣子があった。この又七郎を名目人にして、吉岡一門の者たちが武蔵に試合を申し込んだのである。
場所は京都洛外一条寺薮の郷下り松(京都市左京区詩仙堂の西)である。
もちろん、10才の又七郎が武蔵と戦えるはずはない。吉岡側によからぬ企みがあるのは明らかだった。
そこで、武蔵もこれまでとは違う作戦に出たようだ。『二天記』によれば、この戦いで武蔵は約束の刻限よりも早い夜明け前に試合場所に行き、松陰で敵を待ち伏せしたのである。
するとしばらくして、吉岡一門の者たちがやってきた。このとき、吉岡一門は数十人おり、槍や弓矢まで用意して又七郎を取り囲んでいたが、まさか武蔵が待ち伏せしているとは予想していなかった。そこに武蔵が飛び出し、吉岡勢のただなかまで突き進み、一刀のもとに又七郎を切り捨てたのだ。さらに、武蔵はたった1人で数十人の敵をけちらした。又七郎を失った吉岡勢はすっかり狼狽し、もはや武蔵の敵ではなかったのである。
これが武蔵と京の名門・吉岡流との戦いのすべてだった。
武蔵は生涯に数多くの試合をしているが、吉岡一門ほど有名な相手はほかにいない。また、多人数を相手に戦ったこともこのほかにはない。その意味で、吉岡一門との戦いは、佐々木小次郎との決闘に匹敵する、重要な戦いになったといっていいだろう。
第四話 二刀流開眼
『五輪書』に見る二刀流の思想
宮本武蔵の流儀が二刀流であることはよく知られている。
武蔵自身が晩年に書いた『五輪書』を見ても、二刀流が武蔵の剣技を貫いた重要な思想だったことがわかる。
『五輪書』の”地の巻”に、「この一流、二刀と名づくること」と題して、武蔵は次のようなことを書いている。
「自分が二刀流を主張するのは、武士は将卒ともに、腰に二刀を付けているものだからだ。それが武士の道なので、この二つの利をしらしめんために、二刀一流というのである」
また、武蔵はこれに続けて、刀というのは本来片手で使うべきものだという。馬に乗るとき、人ごみで戦うとき、左手に道具を持っているときなど、刀を両手で持つわけにはいかないからだ。自分が二刀流を主張するのも、基本的には刀を片手で使えるようにするためだというのだ。そして、武蔵は次のようにいう。
「もし片手にても打ちころしがたき時は、両手にても打ちとむべし」と。
このように、二刀流を流儀の中心にしたのは武蔵が最初といっていい。それゆえ、武蔵は二刀流の祖といわれるのだ。
とすれば、武蔵がいつどこで二刀流に開眼したか、大いに気になるところだ。
若くして二刀流の流派を興す
武蔵の二刀流開眼について、ただ一つはっきりしているのは、それが武蔵が23才より以前のことだったということだ。
慶長11年、まだ23才の武蔵が、紀州藩士・落合忠右衛門に円明流の印可状を与えたことが確認されているからだ。
円明流は武蔵が興した二刀流の最初の名で、晩年になって二天一流、二刀一流などと称することになったのである。
23才という年齢は確かに若いようにも思える。だが、武蔵は21才で早くも京都の武芸の名門である吉岡一門を打ち破っている。この戦いで剣豪としての名をあげた武蔵のもとに、多くの弟子が集まってきたとしても少しも不思議はない。
また、武蔵が生きた戦国末から江戸にかけての時代は、日本を代表する流派が生まれ、育とうとする時代だった。剣に生きる武蔵が一流一派を興すのはまったく自然なことといっていいのである。
鎖鎌に二刀流の原理を見る
では、23才以前のいつどこで、武蔵は二刀流に開眼したのだろう。これについては、鎖鎌の名手・宍戸某と戦ったときとする説がよく知られている。
これは武蔵の伝記的書物『二天記』を根拠にしてる。それによれば、宍戸が鎖鎌を振り出したとき、武蔵は大刀を構えたまま、とっさに小刀を抜いて投げつけ、宍戸の胸を貫いたのだという。
武蔵は二刀流の祖といわれるが、記録に残る勝負で実際に二刀を使った例は少ない。宍戸との対戦はその少ない例のひとつであり、しかも武蔵が二刀を使った最初なのである。
二刀流開眼が23才以前という事実にも合う。宍戸との対戦は、『二天記』によれば武蔵が21才の慶長9年、伊賀国(三重県)でのこととされている。この年、武蔵は吉岡一門を倒しているが、それから間もなく、宍戸と対戦したわけだ。
吉川英治氏の小説『宮本武蔵』でも、宍戸との対戦が二刀流開眼の重要な要素になっている。鎖鎌は鎌と分銅を鎖でつないだ武器で、基本的には分銅の方を振り回すようにして使う。敵の得物にこの鎖を巻き付け、引きつけた上で、鎌を使って敵の首を切るのである。その鎌と分銅の動きに、武蔵が二刀流の原理を見出すというのが、小説『宮本武蔵』の二刀流開眼なのである。
多人数との戦いから会得する
杉浦国友著『武蔵伝』には、まったく違った二刀流開眼のエピソードが紹介されている。
武蔵が備後(広島県)鞆ノ津にいたときのこと。海辺近くの農民たちが水田に引く水をめぐって村同士の喧嘩を起こした。このとき、武蔵は逗留先の庄屋に頼まれ、木刀を持って警戒に出た。そこに多数の農民たちが武器を持って押し寄せてきた。やむなく武蔵は戦ったが、気がつくと浜辺に落ちていた櫂を拾い、左手に持っていた。そして、左手の櫂で敵の武器を受けとめ、右手の木刀で打つということを繰り返し、ついに大勢の農民を追い払ったのである。
こうして武蔵は左手に持った櫂がいかに有効かを知り、さらに研究を続け、二刀流を創始したというのだ。
残念なことに、この事件がいつのことなのかはわからない。だが、二刀流開眼のきっかけとして、かなり説得力があるといっていいだろう。
大流派に発展しなかった二刀流
このほかにも、武蔵の二刀流開眼についてはいろいろなことが語られているが、どれも確実な証拠があるわけではない。
確かなことは、それが23才以前の若い頃だったということだけだ。
二刀流を興した武蔵がそれ以降、二刀流を広めようとしたことはわかっている。
しかし、武蔵の二刀流は一刀流や新陰流のような大流派とはならなかった。
二刀を自由に使いこなすのは、一刀を使いこなすよりもはるかに大変なことだからといわれることが多い。武蔵自身は身長180センチを超す立派な体格をしており、膂力もあった。そんな武蔵にしてはじめて可能な流儀だったのだろう。
武蔵と同時代を生きた柳生新陰流の達人・柳生兵庫助利厳は、「武蔵の剣は武蔵ならではのもので、余人が学べるものではない」といっている。
二刀流が大流派とならなかったのは確かに残念なことだ。だが、こういうところに日本一の剣豪・宮本武蔵の凄みと独自性があるといえるのではないだろうか。
第五話 巌流島以降の武蔵
戦いから離れた後半生
宮本武蔵の人生は驚くほど対照的な前半生と後半生に2分することができる。
慶長17年(1612年)、29才の武蔵が巌流島で戦った佐々木小次郎との決闘がその区切りになる。
それまで、武蔵はただひたすら戦っていた。武蔵自身が晩年に書いた『五輪書』では、武蔵は29才までに60回以上の勝負をしたとされている。もちろん、その多くが命がけの勝負である。
そんな武蔵が、巌流島の決闘以降は命がけの勝負をやめてしまうのだ。
戦わない武蔵に興味はないという人もいるかもしれない。しかし、武蔵は29才で小次郎と戦ってから、62才まで生き続けている。
これほど長い後半生を無視して、武蔵を理解したとはいえないだろう。
人生の転機となった大坂の陣
武蔵の後半生を考える場合、慶長19年(1614)と翌元和元年に起こった大坂冬の陣及び夏の陣への参戦を見逃すことはできない。
この戦いに武蔵は東軍の一員として参戦し、かなり大物の武将たちと知り合いになったと思われるからだ。
武蔵が参戦したのは、もちろん仕官(就職)の口を見つけるためである。
どこかの有力大名に認められ、その配下として仕官するというのは、武蔵にとって少年時代からの夢だったといっていい。武蔵がその前半生において数多くの勝負に命をかけたのも、結局はその夢を叶えるためだった。
だが、佐々木小次郎に勝って剣豪の地位を不動にしても、武蔵はその夢を叶えることはできなかった。
そんなとき、豊臣方と徳川方の最終決戦となる大坂の陣が勃発したのだ。今度こそという思いを込めて、武蔵が参戦したとしても少しも不思議はない。
残念ながら、武蔵は大坂の陣でも大した戦功は立てられず、仕官することもできなかった。
その代わりというのも奇妙だが、数人の武将と知り合いになり、それ以降、まるで友人のようなつき合いをすることになるのである。
武蔵が昵懇(じっこん)となった大名たち
大坂の陣で武蔵が知り合った武将が誰なのか、確実なことがいえるわけではない。だが、それ以降の関係から考えて、小笠原忠真、本多忠政・忠刻親子らがいたと想像できる。
武蔵は大坂の陣に参戦するにあたって、徳川家康の生母・於大の方の実家にあたる福山藩主・水野勝成の麾下に属したという記録がある。この水野氏の紹介で、多くの武将と知り合えたのだろう。
剣豪としての武蔵はすでに立派な有名人だったから、多くの武将たちが武蔵と知り合いになるのを喜んだのである。
このつき合いが、大坂の陣後も長く続くことになる。
大坂の陣後の元和3年(1617年)、小笠原氏、本多氏は格上げされ、それぞれ播州明石10万石、姫路15万石に移封される。このころ、武蔵は小笠原家の客分として、一時期明石に滞在しているが、それというのも小笠原氏と昵懇の関係にあったからに他ならない。
武蔵の後半生には不明な部分が多いが、多少なりとも記録が残っているのは、こうした大名たちとのつき合いがあったからといっていい。
家老にまで出世した養子・伊織
武蔵は生涯に2人の少年を養子にしているが、これらの養子も、本多家、小笠原家と関係を持つことになる。
最初の養子は造酒之助(みきのすけ)といい、やがて本多家に出仕し、700石を賜るまでに出世している。しかし、寛永3年(1626)、本多忠刻が31才で死去したとき、その後を追って殉死してしまう。
次の養子は伊織といい、寛永3年15才で明石城主・小笠原忠真の近習として出仕し、驚くほどのスピードで出世した。
小笠原家は寛永9年には豊前国小倉15万石に転封されるが、このとき伊織は2500石を賜るのである。
武蔵のような剣豪が養子を迎えるとはいかにも奇妙だが、小笠原家の伊織が出世したことは、その後の武蔵の生涯にも影響を与えた。
明石を離れて後の武蔵の足跡はそのほとんどが謎に包まれている。そんな武蔵がやがて51才になったとき、伊織のいる小倉の小笠原家に寄寓し、そこで7年間を過ごすことになるからだ。
この期間、武蔵は小笠原家で格別の扱いを受けたようだ。藩主・忠真と昵懇の間柄である上に、養子の伊織が重臣となっていたのだから、それも当然だった。伊織は後に家老職にまで進み、4500石を得るまでになるのである。
意外性に満ちた武蔵の人生
このように武蔵の後半生を簡単に振り返っただけで、ただたんに強いだけの剣豪とは違う武蔵の姿が浮かんでくる。
武蔵が2人の養子を得たとか、多くの大名と昵懇だったとか、意外に感じる人が多いだろう。
剣豪・武蔵について語ろうとすると、どうしても強さばかりが強調されてしまう。だが、武蔵は決して単に強いというだけでは語り尽くせない剣豪なのだ。
武蔵が多くの武将たちとつき合えたのも、武蔵が剣豪だっただけでなく、相当な教養人として振る舞うことができたからだった。
「一芸は万能に通ず」と武蔵自身がいっているように、武蔵は絵画や書、木彫などの諸芸にも通じていた。
武蔵の実像に迫るには、こうした意外とも思える事実をひとつひとつ追っていく必要があるのだ。
第六話 宮本武蔵の謎
謎の多い武蔵の生涯
日本一人気の高い剣豪だけに、古くから膨大な量の文章が宮本武蔵について書かれてきた。もはや武蔵についてわからないことは何もないのではないかと思えるほどだ。
しかし、事実はそうではない。
宮本武蔵の生涯にはいまなお解き明かされていない謎が多いのだ。
確かに、武蔵について書かれた文章は膨大である。だが、その中にはけっして両立しないような記述もあり、何が真実なのかわからない場合も多いからだ。
有名な小説『宮本武蔵』の著者・吉川英治氏も『随筆宮本武蔵』の中で次のようにいっている。
「――私は、前にも、幾度か云っている。史実として、正確に信じてよい範囲の「宮本武蔵なる人の正伝」といったら、それはごく微量な文字しか遺っていないということを――である。それは、むかしの漢文体にでもしたら、僅々百行にも足りないもので尽きるであろう」と。
このことは、現在でも変わりがない。
では、宮本武蔵のどんな部分がいまなお謎とされているのだろう。
出生地は美作国か播磨国か?
武蔵の謎の中でも最も有名といえるのは、その出生地が美作国と播磨国という2つの土地にあることだ。
通説では、武蔵は美作国吉野郡讃甘村宮本(岡山県英田郡大原町宮本)の生まれとされている。
武蔵自身は『五輪書』の中で、「生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信」と書いている。にもかかわらず、美作説が通説となっているのはなぜだろう。
大きな理由は、讃甘村宮本は武蔵の父・武仁の住んでいた場所で、この土地に武蔵や武仁にまつわる伝承が数多く残されていることだ。
また、この地は播磨国に近く、武仁の支配地も美作国と播磨国にまたがるように存在していた。このため、自分の出生地が美作国か播磨国かということに、武蔵自身がこだわっていなかったろうと考えられるからだ。
とはいえ、武蔵自身が「生国播磨」といっている以上、播磨説にも根強い支持があるのは当然だ。
ただし、播磨説といっても一つではなく、播磨国印南郡河南庄米田村(兵庫県高砂市米田町)、播磨国佐用(兵庫県佐用郡佐用町平福)など諸説あり、それぞれに理由がある。米田村説の場合、武蔵の養子・伊織の家系に伝わる「宮本家由緒書」などを根拠とし、平福説では武蔵の実母の生家に残された「田住家系譜」などを根拠にしている。
こんなわけで、たとえ美作説が通説だとしても、播磨説を無視するわけにはいかないのである。
宮本武蔵玄信と宮本武蔵政名
出生地が複数あるのと同じように、宮本武蔵は複数いたのではないかという説もある。
しばしば取り上げられるのは、武道史研究家・綿谷雪氏の「二人武蔵」説だ。
それによると、現在は1人と考えられている武蔵は実は2人の人物が混同されたものだという。武蔵玄信と武蔵政名の2人である。
本来の武蔵は玄信の方で、播磨国の田原家に生まれた。田原家は新免家と同じく戦国時代の名家・赤松氏の流れを汲んでおり、この縁で武蔵は幼いときに美作国の新免家の養子となったのだという。
これに対し、政名は玄信の叔父・岡本満貞の孫にあたる。当初、小四郎政名を名乗り、後に宮本武蔵義貞を名乗った。この政名は玄信から円明流を学び、玄信と同様に各地を旅し、円明流を広める働きをした。また、政名自身にも玄信と混同されるような言動があっただろうと綿谷氏は推測している。
こんなわけで、古い時代から武蔵玄信と武蔵政名が混同され、同一人物として語られたというのだ。
しかし、これでは武蔵の謎がさらに深まってしまうような気がするが、どうだろうか。
遊女・雲井とのラブロマンス
武蔵の謎の中にはそのイメージとはまったく似つかわしくないものもある。
武蔵が一時期吉原の局女郎・雲井という女のもとに通っていたというのだ。
『異本洞房語園』(享保5年/1720年刊)という本に、およそ次のようなことが書かれている。
寛永14年(1637年)に島原の乱が起こったときも武蔵は雲井のもとにおり、その遊女屋から出陣した。このとき、武蔵は浅黄の緞子の裁付袴、雲井が整えてくれた紅鹿子の小袖を裏に付けた黒繻子の陣羽織という恰好だった。まわりには武蔵の出立を見物しようという遊女らが集まっていたが、武蔵はそのそれぞれに餞別の言葉を与え、馬に乗って出陣したという。
確かに、簡単に信じられる話ではない。
通説では武蔵は生涯女人を近づけなかったとされている。また、当時武蔵は54才で、養子・伊織が重臣となっていた小笠原藩に寄寓していたはずだからだ。
しかし、武蔵にもこんなラブロマンスがあったと考えるのは、武蔵のファンにとっても楽しいことなのに違いない。
正反対に分かれる武蔵の評価
武蔵に関する謎はこのほかにも数が多い。ここで、困るのはあまりに謎が多いため、武蔵に対する評価も分かれてしまうということだ。
一般的には、武蔵は日本一の剣豪であり、生涯をかけて剣の道を極めた求道者と理解されている。
だが、このような考えに反対する意見もある。ずいぶんと昔のことだが、昭和7年、直木賞にその名を残す直木三十五氏が菊池寛との論争の中で、武蔵を散々にけなしたことがある。
「武蔵は生涯に60回以上の勝負をして一度も負けなかったというが、それは当時江戸にいた超一流の剣豪と戦わなかったからだ。また、自分から生涯の勝負で一度も負けなかったなどと自慢するのは、品性が劣っているからだ」というのが直木氏の武蔵批判の核心である。
もちろん、日本人の多くにとって、武蔵は今後も日本一の剣豪であり続けるだろう。だが、そうであればなおさら、このような批判があることを記憶しておいてもいいだろう。
第七話 諸芸に通じた武蔵
高い評価を受ける武蔵の絵画
「大衆小説や講談の世界で、思いがけないほど華やかな英雄にまつりあげられたおかげで、二刀流などとは比較にもならない画人二天(武蔵)を知る人が少ないのは、一種の不幸というべきだ。今日の評価では寧ろ画人二天が先行して、剣士武蔵が追随すべきなのである」
これは、直木賞作家の今東光氏が「画人宮本武蔵」というエッセーの中で語っている言葉である。
剣豪としての武蔵しか知らない人にとって、あまりにも意外な評価といっていいはずだ。
だが、武蔵の画業を高く評価するのは、今東光氏だけではない。
日本初の体系的な美術史である『近代絵画史』(藤岡作太郎著、明治36年刊)にも、武蔵の時代の日本画壇に関して、次のような記述を見ることができる。
「……中にも殊に勝れたるは狩野山楽、海北友松なり。……そのほか、京に沼津乗昌あり、肥前に狩野宗俊、渡辺了慶あり、肥後に宮本二天(武蔵)あり、いづれも狩野もしくは海北に学んで名を成せるものなり。」
剣豪武蔵がいかに優れた画人であったか、これ以上語る必要はないだろう。
武蔵の画業を支えた教養の厚み
実をいえば、武蔵が残した芸術作品は画だけにとどまらない。
だが、ここではもう少し、武蔵の画業に注目して話を続けたい。現存するおよそ30〜40点の武蔵の画は、すべて水墨画だが、水墨画には画人の教養が現れるといわれているからだ。
一例として、武蔵の描いた達磨図を取り上げてみよう。
達磨は禅宗の始祖とされる6世紀の僧である。インドから中国にわたり、梁の武帝と対面したが意見が合わず、すぐに北魏に向かった。このとき達磨は一枚の蘆の葉に乗って揚子江を渡ったといわれている。北魏では達磨は嵩山少林寺という寺に入り、9年間も壁に向かって座禅をし続けたという。
武蔵はこの達磨を画題として好み、『正面達磨図』『面壁達磨図』『蘆葉達磨図』など4点を残している。
これだけ達磨図を描いた武蔵が、達磨のことを知っていたのは当然といえる。
こうして、武蔵の画から、剣豪武蔵が持っていた、意外ともいえる教養の厚みをうかがうこともできるのである。
達磨図に見る武蔵の精神世界
達磨図を描くことで、武蔵が仏教の根本原理である「空」を求めていた、といわれることもある。
禅僧が壁に向かって座禅をするのもこの原理を体得するためだからだ。
「空」を定義するのは難しいが、幸いにも武蔵自身が『五輪書』の「空の巻」で次のようにいっている。
「武士は兵法の道を確かに覚え、その他武芸をよくつとめ、武士の行う道、少しもくらからず、心のまよう所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよいの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべきなり」
武蔵は若き日に生死をかけた数多くの試合を体験した。その後も剣の道を極めるための努力を怠らなかった。
そんな武蔵が最終的に到達したのが、このような思想だったといっていいのではないだろうか。
晩年に数多くの芸術作品を残す
画業の他に、武蔵は歌、書、彫刻などにも優れた才能を発揮し、それぞれ高い評価を受けている。ここでは細かく取り上げないが、画業についての評価からも、武蔵が諸芸に通じていたことは容易に想像できるだろう。
ところで、これらの作品の多くは、武蔵が晩年になってから制作されたもののようだ。
武蔵は寛永17年(1640年)、57才のときに客分として、熊本細川藩に迎えられる。それから、62才で『五輪書』を書いて死去するまでの期間、武蔵は多彩な才能を十分に発揮したのだ。
武蔵の死後100年ほどたって書かれた伝記的書物『二天記』に、細川藩時代の武蔵について次のような記述がある。
「武蔵平居閑静にして、或は連歌、茶、書画、細工物等にて日月を過了す。」
細川藩時代は武蔵の生涯で最も平和で安定した時代だった。
こうした時代が持てたことは、武蔵にとっても幸せだったのではないだろうか。
兵法を以て描きし故に適意の作なり
不思議なのは武蔵がいつ、誰から、画、書、彫刻などを学んだかということだ。
若き日の武蔵は剣術一筋で、師について学ぶ余裕などなかったはずだからだ。
だが、これについては武蔵自身が『五輪書』の序文で次のように書いている。
「兵法の利にまかせて諸芸・諸能の道となせば、万事において、我に師匠なし」
また、次のような逸話もある。
細川藩時代のこと。あるとき、武蔵は主君の命によって、主君の面前で達磨図を画こうとし、うまくいかなかった。夜になって寝床の中であれこれと考え、ふと起き上がって画いたところ、思うようなものができあがった。そこで武蔵は門人にいった。
「わたしの画はいまだ刀術に及ばない。今日は主君の命で達磨を描こうとしたが、うまく描こうという思いがあったためにうまくいかなかった。いまは自分の兵法を応用して描いたので、思うようなものができたのだ」
やはり、剣の道を極めた武蔵だからこそ、諸芸に通じることもできたというべきなのだろう。
詩歌
『鉋屑集』(万治2年)
鑓梅のさきとをれかな春三月
あみだ笠やあのくたら〜〜春の雨
『到来集』(延宝4年)
明徳の比聖護院宮消息詞にて
兄弟のなど不快なるらん
梅と菊時分相違のはなざかり
月の明暮軍をぞする
楊貴妃の遊びはことも夥し
第八話 五輪書/地の巻
『五輪書』に見る剣豪人生の集大成
日本一の剣豪・宮本武蔵を語る以上、武蔵が晩年になって完成した『五輪書(ごりんのしょ)』を無視するわけにはいかない。
『五輪書』は、宮本武蔵自身による、宮本武蔵の兵法の集大成といえる書物だからだ。書物と書いたが、形態としては巻物であり、5巻に分かれている。
その第1巻にあたる、「地の巻」の冒頭に武蔵は次のように書いている。
「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、初めて書物にあらわさんと思う。時に寛永二十年(1643年)十月上旬のころ、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前に向かい、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもって六十。(中略)今この書を作るといえども、仏法・儒道の古語をもからず、軍記・軍法の古きことをももちいず、この一流の見たて、実の心をあらわす事、天道と観世音を鏡として、十月十日の夜寅の一てん(午前4時30分)に、筆をとって書初むるものなり」
これを読んだだけで、武蔵が相当な決意のもとに『五輪書』を書き始めたことがわかる。また、武蔵が死去するのは、それから19ヶ月後の正保2年(1645年)5月19日である。このことから、武蔵が最後の力を振り絞って『五輪書』に取り組んだことも想像できるはずだ。
よき理解者だった細川忠利の死
『五輪書』を書くにあたり、武蔵がこれほどまでの決意を固めたことについては、細川忠利の死が直接の原因になったといわれることが多い。
武蔵は、57才だった寛永17年(1640年)7月から、熊本に滞在するようになった。それまで、小倉小笠原藩にいた武蔵を、熊本藩主・細川忠利が招いたのである。
忠利と武蔵の関係がいつ始まったか、正確なところはわからない。だが、熊本に来てからの武蔵が、忠利と昵懇の関係だったことははっきりしている。
忠利は諸芸に通じた武蔵の聡明さを重んじ、しばしば政道に関することまで相談したと伝えられている。また、忠利は徳川将軍家の武芸師範・柳生宗矩に新陰流を学んだほどの武芸好きだった。
武蔵にしても、はじめて自分を理解してくれる主君に巡り会ったという思いがあったのだろう。寛永18年(1941年)2月には、武蔵は忠利の要請を受けて、『兵法三十五箇条』という二天一流の兵法書を書き上げている。
ところが、その翌月の3月、この忠利が56才で死去してしまうのである。
『五輪書』と『兵法三十五箇条』
自分よりも2才若い忠利の死は、武蔵を大いに落胆させると同時に、武蔵自身の人生が終わりに近いことも、意識させたのではないだろうか。
そんな武蔵が、生涯をかけて磨き上げた二天一流の集大成を思いついたとしても、少しも不思議はない。
幸いにも、武蔵はすでに忠利のために『兵法三十五箇条』を書き上げている。
これは、二天一流の兵法理論を35項目に分けて簡潔に解説した兵法書で、見事な技術指導書といえるものだ。
おそらく、武蔵はこの『兵法三十五箇条』をさらに発展させ、より充実した兵法書を書こうと考えたのだろう。『兵法三十五箇条』が『五輪書』の抜粋のように見えることからも、それはわかる。
そして、武蔵は決意した。熊本城下から10キロほど離れた金峰山麓に岩戸観音が安置された霊巌洞という洞窟がある。60才となった武蔵は、その洞窟にこもり、『五輪書』を書き始めたのである。
『五輪書』地・水・火・風・空の概略
こうして完成した『五輪書』は、テーマごとに、地・水・火・風・空の5巻に分けられている。
それぞれのテーマについては、「地の巻」の中で簡潔に説明されている。だいたい、次のような内容である。
地の巻―兵法の原論。二天一流の兵法観。
水の巻―1人で戦うための具体的剣技。
火の巻―1対1の勝負の駆け引き。集団で戦う合戦への応用。
風の巻―他流兵法の批判。二天一流の優位性の証明。
空の巻―結論として、空の境地の重要性。
ところで、第1巻目の「地の巻」の中に、全体の構成が簡潔に示されていることからもわかるように、武蔵の書き方は非常に懇切丁寧である。また、その内容は徹底して、勝つために必要な具体的な方法論の記述になっている。
武蔵はしばしば合理主義者だといわれるが、それはこのためといっていい。
「地の巻」が語る二天一流の原論
最後になったが、ここで改めて『五輪書』第1巻の「地の巻」を取り上げよう。
全体の序文や各巻の概略があるのでもわかるように、この巻は『五輪書』全体の導入部にあたる。そのテーマは兵法の原論及び二天一流の兵法観だが、これも『五輪書』全体の前提となるものである。
例えば「兵法に武具の利を知るという事」という項では、脇差し、太刀、長刀、槍など、各種の武器の利点と欠点を説明した後に次のように記されている。
「道具などは、一つだけを特別に好きになってはいけない。過ぎたるは及ばざるがごとしである。人まねをせず、自分の能力を考え、使わなければいけない」
こうしたことは、具体的な剣技以前に誰もが心しておかなければならない、兵法の前提といっていいだろう。
さらに、「地の巻」の最後には、二天一流を学ぶための心得として、「実直な、正しいことを思うこと」「道を鍛錬すること」など9ヶ条が上げられている。
こうして、前提となる事柄を十分に説明した後で、武蔵は「地の巻」を終え、「水の巻」へと筆を進めるのである。
『兵法三十五箇条』(抜粋)
一、此道二刀と名付事
此道二刀として太刀を二ツ持儀、左の手にさして心なし。
太刀を片手にて取ならはせん為なり。
片手にて持つ得、軍陣、馬上、川沿、細道、石原、人ごみ、かけはしり。
もし左に武道具持たる時、不如意に候へば、片手に取なり。
太刀を取候事、初はおもく覚れ共、後は自由に成候也。
たとへば、弓を射ならひては其力つよく、馬に乗得ては其力有。
凡下のわざ、水主はろかひを取て其力有、土民はすきくはを取て其力強し。
太刀も取習へば、力出来る物也。但強弱、人々の身に応じたる太刀を持べき物也。
第九話 『五輪書』「水の巻」
『五輪書』「水の巻」が語る武蔵の剣技
日本一の剣豪・宮本武蔵がその晩年に完成した二天一流の兵法書『五輪書』。この書はテーマごとに地・水・火・風・空と題された全5巻から成り、そのどれもが武蔵を知る上で不可欠のものとなっている。
とはいえ、『五輪書』の圧巻はどれかと問われたら、第2巻にあたる「水の巻」がそのひとつに数えられることは間違いない。
「水の巻」において、二天一流の基本的な心構え、姿勢、構え、太刀の動かし方など、剣術の戦いに勝つための技術的な事柄が、実践的、具体的に説明されているからだ。
武蔵は29歳にして、巌流島で佐々木小次郎に打ち勝つまでに、60回以上の試合をして一度も負けなかったという。だが、そのころの武蔵が実際にどのような剣技の使い手だったか、正確なことはわかっていない。
結局のところ、武蔵が最晩年に完成した『五輪書』の「水の巻」から推測するほかないのである。
では、武蔵は「水の巻」の中でどのような剣技を語っているのか。
習うのではなく自ら見出せという教え
「水の巻」をひもとくと、他の巻と同様、冒頭に前書きにあたる短い文章が置かれている。
前書きなどどうでもいいように思えるが、『五輪書』の場合、この前書きにこそ、武蔵の思想の中心があるのではないかと思えるほど、重要な事柄が語られている。
「水の巻」の前書きでは、武蔵は次のようなことをいっている。
「この巻に書かれたことを、ただ見るのではなく、ただ習うのではなく、自分自身が発見した事柄として、常にその身になって考え、工夫しなければいけない」
「水の巻」の内容は、二天一流の剣技を学ぶ上で確かに重要なものだが、それ以上に武蔵はこのことをいいたかったのではないかと思える。
というのも、武蔵自身がそのようにして剣技を身に付けたはずだからだ。誰かから学んだのではない。戦いと修行を通じ、自ら発見した。それが武蔵の剣技なのだ。
武蔵の剣技を学ぼうとする者たちもそうでなければならないと武蔵は考えたのだろう。そう断った後で、武蔵は「水の巻」を始めるのである。
戦いの場における平常心の重要性
そこで、「水の巻」の本文を見ると、戦いに臨む武蔵が何よりも重要視したのが、具体的な剣技というよりも心の問題であったことがわかる。
「水の巻」では本文の第一に、「兵法心持のこと」という表題がかかげられ、次のように語られている。
「兵法の道において、心の持ち方は平常と変わってはならない。平常のときも戦いのときも少しも変わらず、心を広く素直にし、緊張することもたるむこともなく、何かにこだわって心が偏らないようにし、しかも心が自由自在に働くように静かにゆるがせておかなければならない。」
命がけの戦いの場に臨んで、武蔵自身が実際にこんな心境になれたかどうか。だが、武蔵が仮にそのような心境に到達していたのだとすれば、武蔵はやはりものすごい剣豪だったのだと納得できる言葉といえる。
また、平常心とはどんな場合にも必要とされる重要なものだ。このような言葉が随所にちりばめられているところに、現在でも『五輪書』が愛読される理由があるに違いない。
五方の構えと有構無構の教え
武蔵が興した二天一流は二刀流の流派だが、武蔵自身は実際の戦いで二刀を用いたことはほとんどない。「水の巻」には、そんな武蔵らしさをほうふつとさせる教えもある。
「水の巻」では、五方の構えとして、上段、中段、下段、右脇構え、左脇構えの5種類が解説されている。これが、二天一流の基本的な構えというわけだ。ところが、これらの構えについて説明した後、武蔵は「有構無構の教えのこと」という項目を立て、次のようにいうのである。
「有構無構(構えがあって、構えがない)というのは、太刀を型にはまって構えるということはあってはならないということだ。五方の構えは、確かに構えということもできよう。大事なのは、太刀は敵の出方、場所、状況によって、敵を斬りよいように持つことなのだ。上段も少し下げれば中段になり、中段も少し下げれば下段になる。こんなわけで、構えはあって、構えなしというのである」
実際の勝負の中で、常に敵に勝つことを最優先した、現実主義者らしい教えといえよう。
千日の稽古を鍛、万日の稽古を錬という
「水の巻」は徹底して剣技を取り扱った巻であり、「有構無構の教えのこと」の後にも、二天一流の剣技の数々が解説されている。
とはいえ、どんな技能でもそれを本当に自分のものにするのは大変なことだ。それがどれほど大変なことか、おそらく、武蔵自身が一番よく知っていたのだろう。
「水の巻」の最後にあるまとめの段で、武蔵は次のようにいっている。
「千里の道も一歩ずつ進むのである。ゆっくりと時間をかけ、この道を修行することが武士の本分と考え、今日は昨日の自分に勝ち、明日は下手に勝ち、次は上手に勝つと思い、この書のとおりに実行し、少しもわき道にそれないように考えることである。」また、武蔵は「千日の稽古を鍛といい、万日の稽古を錬というのである」ともいっている。
生涯を剣一筋に貫いた剣豪・武蔵の姿が目に見えるような言葉ではないだろうか。
第十話 『五輪書』「火の巻」
不敗の武蔵を支えた「火の巻」の思想
地・水・火・風・空と題された全五巻からなる宮本武蔵の『五輪書』。
この『五輪書』の中で、前回取り上げた「水の巻」とともに圧巻のひとつに数えられる一巻に「火の巻」がある。
「水の巻」は、日本一の剣豪・宮本武蔵が二天一流の剣技を解説した一巻であり、そのことだけでも重要視されるのは当然だ。
しかし、「水の巻」の剣技だけで、武蔵は不敗神話を築くことができただろうか? 優れた剣技のほかにも、武蔵は勝つために必要な何かを持っていたのではないだろうか。
それは何か? それこそ、「火の巻」のテーマといっていいものだ。
いい方を変えれば、「水の巻」の背後にあって、それを支えるもの。それが、「火の巻」なのである。
「火の巻」で語られる剣豪・武蔵の真髄
では、武蔵は「火の巻」の中で何を語っているのか。
「火の巻」をひもとくと、前書きに続く最初の項目として、「場の次第ということ」という表題が掲げられ、次のようなことが書かれている。
「場所の良否を見分けることが大事である。位置を占めるのには太陽を背にし、もしそうできないときは太陽が右にくるようにすべきである。」
また、「戦いとなり、敵を追い回すときには、敵を自分の左のほうへ追い回す気持ちで、難所が敵の後ろへくるように、どうしても難所のほうへと追いかけることが大事である。」
この内容を見ただけで、「火の巻」において武蔵が何を語ろうとしたか、すぐにも理解できるだろう。
「火の巻」では、剣豪・武蔵の真髄ともいえる“戦略”が語られているのである。
名場面を思い出させる教えの数々
剣豪・武蔵の真髄が戦略にあったということは、「火の巻」を読み進めることで、さらにはっきりする。
たとえば、「むかつかせるということ」という項目がある。敵を動揺させることの重要性を説いたものだが、これを読んで巌流島の戦いを思い起こす人は多いはずだ。
29歳の武蔵が関門海峡に浮かぶ船島(巌流島)で佐々木小次郎と対戦したときのことだ。武蔵は約束の刻限に3時間も遅れて決闘の場に臨んでいる。さらに、勝負をはやる小次郎が鞘を投げ捨てるのを見るや、武蔵は叫ぶ。「小次郎、敗れたり。勝つ者がなぜ、鞘を捨てるのか」。
まさに、「むかつかせるということ」を実践し、剣を交える以前に勝負に勝ったといっていいのではないだろうか。
京都郊外の一乗寺下り松における、吉岡一門の者たちとの決闘を思い出させる「枕をおさえるということ」という教えもある。
このとき、吉岡一門の者たちは数十人で、決闘の名目人である吉岡又七郎を守っていた。
これに対し、21歳の武蔵は約束の刻限よりも早くからその場所で待ち伏せした。そして、敵が現れるや、吉岡勢の真っただ中に飛び込み、名目人・又七郎を切り捨てた。このため、吉岡勢は慌てふためき、まともに戦うことができなかったのだ。
「枕をおさえる」とは、先手を打って敵の動きを抑えることだが、このときの戦いにぴたりと当てはまるといえよう。
それだけに、「火の巻」の中にこそ、武蔵の真髄があると思えるのである。
何事にも動じない「いわおの身」とは?
「火の巻」には、一見すると戦略とは思えない、「いわお(巌)の身ということ」という教えもある。
この教えは、『五輪書』よりも早く完成された『兵法三十五箇条』にもあり、武蔵にとって非常に重要な思想だったといわれている。
どういう意味なのか? 次のような逸話が残っている。
細川忠利の後を継いで熊本藩主となった光尚(みつひさ)が、「いわおの身」とはどういう意味か武蔵に尋ねたときのことだ。
武蔵はすぐにも弟子の寺尾求馬之助(くめのすけ)を呼び、「君命により、切腹を申し付ける」といいわたした。これを聞いた求馬之助は顔色一つ変えず、「かしこまりました」と応え、切腹の準備に取り掛かった。
もちろん、光尚は大いに驚いて制止した。が、武蔵は平然として、「これがいわおの身でございます」と答えたという。
確かに、「火の巻」には数多くの戦略が語られている。だが、どんな戦略を立てようと、何事にも動じない「いわおの身」がなければ成就することはできまい。武蔵はそれをいいたかったのではないだろうか。
一対一の兵法を集団戦に応用する
ところで、「火の巻」で語られる戦略は、けっして一対一の戦いだけを前提としているのではない。
「二刀一流の兵法、戦のことを、火と見立て、戦勝負のことを火の巻として、この巻に書き表す。」また、「一人にして五人十人と戦い、確実に勝つ方法を知ることがわが兵法である。そうであれば、一人で十人に勝つことと、千人で万人に勝つことの間に、何の違いがあろうか」
「火の巻」冒頭の前書きで、武蔵ははっきりとこう断っている。
このことから、武蔵が「火の巻」の戦略を、集団戦でも応用できると考えていたことがわかる。
ここで、思い出されるのは、若き日の武蔵がいつかは武将になりたいと願っていたらしいことだ。
武蔵は十七歳で関が原の合戦に参戦し、次から次と命がけの戦いを繰り返した。名を上げることで有力大名に召抱えられ、武将となる道が開けるからだ。
とすれば、「火の巻」にはたんに武蔵の戦略が語られているだけではない。果たせなかった武蔵の夢までが語られている、といっていいのではないだろうか。
第十一話 『五輪書』「風の巻」「空の巻」
「風の巻」が語る他流批判の意味
武蔵が最晩年に完成した畢生の名作『五輪書』。
この『五輪書』の第四巻にあたる「風の巻」は、第三巻までの諸巻とは幾分違った趣を持っている。
すでに、本稿では『五輪書』の最初の三巻、「地の巻」「水の巻」「火の巻」を取り上げた。
これらの諸巻はまさしく兵法書といった内容だった。そこには、自らが興した二刀流(二天一流)の剣技や戦略について、具体的かつ懇切丁寧に語る武蔵の姿があった。
その武蔵が「風の巻」では、その多くの部分を他流の批判に割いているのだ。「風の巻」を読む読者の多くが、おやっ、と感じたとしても少しも不思議はないと思える。
だが、ここで注意したいのは、「風の巻」で語られる他流批判は、決して批判のための批判ではないということだ。
では、武蔵は「風の巻」で何を語ろうとしたのだろう。
剣術の本道を忘れた他流派への批判
「風の巻」を見ると、すぐにも、武蔵が他流派に対して徹底的に否定的な立場に立っていることがわかる。
「他の流派は、武芸によって生計を立てようとし、花やかでけばけばしい技巧をこらして売り物にしているので、兵法の正しい道ではない」
このように、すでに前書きの中で、武蔵は他流派を批判している。
本文に入っても、他流批判の調子に変わりはない。
まず、「他流に大きな太刀を持つこと」という項目がある。
これについて、武蔵は「わが流派から見れば、これは弱い流派だと判断する」と決め付ける。
「他流に太刀かずの多いこと」という項目もある。
ここでは、「数多くの太刀の使い方を人に教えるのは、兵法を売り物にしようという気持ちがあって、太刀の使い方を数多く知っているといって初心者を感心させるためだろう。兵法の嫌うところである」という。
このような言葉から、武蔵が他流派の剣技を苦々しい思いで見ていたことがわかる。
だが、武蔵が生きた時代は、数多くの剣術流派が生まれ、形式を整えていく時代と重なっている。
その意味で、武蔵の批判が時代に逆行するものであることも確かだ。
それでもなお、武蔵にはいわねばならないことがあったのだろうか。
批判を通して兵法の本質に迫る
「風の巻」を丁寧に読んでみると、ここで武蔵が語ろうとしたのは、批判を通してしか語れない、二天一流の本質なのではないかと思える。
一例として、「他流に大きな太刀を持つこと」という項目をさらに読み続けてみよう。
武蔵は、それを弱い流派だと決め付けたが、その後でこういっている。
「その理由は、この流派では太刀の長さを有利として、遠いところから敵に勝ちたいと思い、長い太刀を好むからである。」また、「兵法の道理を心得ないで、長い太刀に頼って遠くから勝とうとするのは心の弱い証拠であり、それだから弱い兵法というのである」と。
このようにいわれれば、誰でもそのとおりだと納得できるだろう。
そして、武蔵はさらに核心的なことを語る。
「昔から“大は小を兼ねる”という言葉もあるので、いたずらに長い太刀を嫌うのではない。長い太刀でなければと偏った心を嫌うのである」
ここまでくれば、武蔵の他流批判が、兵法の本質に関わることは明らかなのではないだろうか。
巻を追うごとに高まる『五輪書』の思想
もちろん、「風の巻」の他流批判がただの批判でないことは、武蔵自身もその前書きの中で断っている。
「他流の道を知らなくては、二天一流の道を確かにつかむことはできない」と。
しかし、その内容が他流批判であるために、「風の巻」に対する一般の評価は、「水の巻」や「火の巻」より劣るのではないかと思える。ここでは、あえてその見方を変えてみたい。
二天一流の剣技が語られた「水の巻」、戦略が語られた「火の巻」が重要なのはいうまでもない。だが、それはあくまでも二天一流の有形の部分といっていい。
二天一流の無形の部分、より本質的な部分について語ろうとしたとき、武蔵は他流派の批判を通して語るしかなかったのではないだろうか。
このように考えれば、地・水・火・風という、これまでに見てきた『五輪書』の四巻の流れも、ごく自然なものとして受け取れるはずだ。
武蔵は地・水・火・風と語りながら、その思想を高めてきたのである。
とすれば、『五輪書』の最後に置かれた「空の巻」が、武蔵が到達した最高の境地とされるのも、実に当然のことといえよう。
武蔵の到達点を示す「空の巻」の境地
『五輪書』の最後にある「空の巻」は、文字数が五百字ほどの短い文章である。文章の量だけで判断すれば、『五輪書』全体のあとがきといってもいいほどである。
だが、ここで語られた境地は、古くから武蔵の到達点として多くの人に認められている。
その境地とは、まさに「空」である。
武蔵は次のようにいっている。
「武士は、兵法の道を確実に覚え、そのほかの武芸にも励み、武士としての道を熟知し、心に迷いがなく、日々刻々に怠らず、心と意の二つの心を磨き、観と見の二つの目を磨き、少しも曇りなく、迷いの雲が晴れた状態を真実の空というのだと知らなければいけない」
これが、生涯に60回以上の勝負をし、死ぬまで剣の道に生きた男が、最後にたどり着いた境地である。
不思議なのは、剣聖剣豪といわれる人々の多くが、しばしば武蔵のいう「空」と類似した境地について語っているということだ。
この境地を、現代人が理解することは難しいかもしれない。
だが、優れた剣豪たちはみな、たとえどんなに孤立した人生を生きようと、どこかでつながっているといえるのかもしれない。  
 
宮本武蔵 7

 

1584年〜1645年
我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進
宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
家系
宮本武蔵の来歴は不詳で、父親は土豪武芸者の平田武仁ともその主君である新免無二ともいわれ、出生地は美作吉野郡讃甘村宮本(美作市今岡)とされ初の人名駅「宮本武蔵駅(智頭急行)」が建てられたが異説もある。新免無二は関ヶ原合戦の前に黒田官兵衛に仕官し九州戦争に参陣、16歳の武蔵も従軍した可能性がある。宮本武蔵は生涯妻帯せず子も生さなかったようで、二人の弟子を養子に取り仕官の道具とした。宮本三木之助は播磨明石藩10万石の世子本多忠刻(忠勝の嫡孫で千姫の婿)に近侍させたが忠刻の病死に伴い殉死、小笠原忠真(播磨明石藩10万石→豊前小倉藩15万石)に出仕させた宮本伊織は島原の乱の軍功などで4千石の筆頭家老に累進し子孫は幕末まで小倉藩士筆頭の地位を保った。伊織が手向山山頂に建立した武蔵の彰徳碑には「小倉碑文」が記され『武州伝来記』『二天記』など武蔵伝記物語の材料となった。
年譜
1584年 (詳細不明)土豪武芸者の平田武仁(または新免無二)の子として宮本武蔵が美作吉野郡讃甘村宮本にて出生、10歳のころ父と大喧嘩して家出し播磨佐用郡平福村の田住家(別所家臣)に再嫁した生母の率子を頼るが正蓮院へ預けられる
1596年 播磨を訪れた新当流の有馬喜兵衛が立合い相手を求める高札を掲げると13歳の宮本武蔵が応戦、武蔵は正蓮院住職に連れられ謝罪に赴くが居丈高な態度に激昂し喜兵衛を持上げて叩き付け棒で撲殺、白眼視された武蔵は平福村を去って流浪し已む無く兵法者の道を踏出す
1599年 流浪の宮本武蔵が但馬で兵法者の秋山某を斬殺
1600年 新免無二(宮本武蔵の父または主君)が黒田官兵衛に従い九州戦争に参陣(16歳の武蔵が従軍したとも)
1604年 (詳細不詳)剣術で立身を期す宮本武蔵が上洛し吉岡道場(鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流の一流)を挑発、洛北蓮台野で当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)に勝利し挑み来た弟の吉岡伝三郎を斬殺、吉岡一門100余名が5歳の吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を担ぎ報復に出るが武蔵は又七郎を殺し包囲を破って遁走(生き残った清十郎は道場を畳み家業の染物屋に専念したとも)、武蔵は剣豪を求めて諸国を巡歴し手段を選ばない流儀で勝利を重ね江戸に滞在したのち上方へ戻る(神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試す。奈良興福寺の宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの仕合は史実に無い。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否したいう)
1610年 富田勢源(中条流)仕込みの長大剣「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に剣名を馳せた佐々木小次郎が30余年続けた廻国修行を打切り豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招聘に応じて小倉城下に「巌流」兵法道場を開設、老いて名の高い小次郎は宮本武蔵に目を付けられ安穏な余生を妨げられる
1612年 [巖流島の決闘]豊前小倉藩の剣術師範で西国一円に剣名を馳せる佐々木小次郎(富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれた中条流随一の強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始)に宮本武蔵が挑戦し藩主細川忠興の許可を得て小倉沖舟島(巖流島)で対決、武蔵は二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(享年は60歳前か。手段を選ばぬ武蔵は約を違えて弟子を同行し倒した小次郎を共に打殺したとも)、巌流と佐々木小次郎の盛名は忽ち消えうせ(1776年に武蔵の伝記物語『二天記』が世に出て復活)後に細川家の後釜には武蔵が座る / 「巖流島の決闘」で佐々木小次郎を斃し13歳から29歳まで60余の真剣勝負に全勝を収めた宮本武蔵が血闘に終止符を打ち円明流の普及と仕官探しに専念し水野勝成(忠勝の嫡子)ら徳川譜代大名に接近を図る
1615年 宮本武蔵が先鋒大将水野勝成の客将として大坂陣に参戦、武蔵は徳川方諸大名と交流して円明流を普及させ本多忠刻(伊勢桑名藩10万石→播磨明石藩15万石の本多忠政の嫡子)に仕え養子の宮本三木之助を近侍させる
1617年 徳川幕府が悪所集約管理のため吉原遊廓を開設し(元吉原・日本橋人形町→後に浅草千束へ移転)盗賊「三甚内」の一人庄司甚内に吉原惣名主を世襲させる(吉原名主の並木源左衛門・山田三之丞が江戸滞在中の宮本武蔵に入門)
1624年 宮本武蔵が尾張藩に招かれ兵法指導、家老寺尾直政の要請で留まった弟子の竹村与右衛門が尾張藩・美濃高須藩に円明流を普及させる
1626年 播磨姫路藩15万石の本多忠政(忠勝の嫡子)の嫡子本多忠刻が早世し次弟の本多政朝が世子となる、忠刻に仕えた宮本三木之助(武蔵の養子)は殉死し宮本武蔵は養子の宮本伊織を播磨明石藩10万石の小笠原忠真へ出仕させる
1632年 播磨明石藩10万石の小笠原忠真が豊前小倉藩15万石へ加転封、2年後に宮本武蔵は本多家を辞して小笠原家の食客となる(養子の宮本伊織は小笠原家臣で知行2500石)
1637年 宮本武蔵が豊前小倉藩主小笠原忠真の軍監として島原の乱に出陣、軍功を挙げた養子の宮本伊織は2500石から4000石へ加増され筆頭家老となる(子孫は小倉藩家老を世襲)
1638年 宮本武蔵が豊前小倉藩を辞して肥後熊本藩54万石の細川忠利(忠興の後嗣・小笠原忠真の義兄弟)の食客となり翌年『兵法三十五箇条』を奉呈、熊本金峰山「霊巌洞」に籠り集大成の『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著す(養子の宮本伊織は小倉藩筆頭家老に留まり子孫は幕末まで繁栄)
1645年 我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した宮本武蔵が肥後熊本にて死去(享年61)、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保つ
交友
新免無二 / 主君または父
宮本三木之助 / 本多忠刻に従い殉死した武蔵養子
宮本伊織 / 小倉藩家老となった武蔵養子
竹村与右衛門 / 尾張藩に円明流を広めた門人
寺尾孫之允 / 熊本藩に円明流を広めた門人
寺尾求馬助 / 孫之允弟・熊本藩に円明流を広めた門人
並木源左衛門 / 門人・吉原名主
山田三之丞 / 門人・吉原名主
庄司甚内 / 吉原惣名主
夢想権之助 / 神道流杖術の開祖 
 
宮本武蔵の名言

 

名言 1 
空を道とし、道を空とみる。
(ここでいう「道」とは、武士としての道を意味すると思われ、「空」とは、「迷いのない心」「とらわれない心」の事。つまり「無欲、無心が事をなす」となります。)
神仏を敬い、神仏に頼らず。
(神仏に頼るのではなく、神仏の意にかなう心構え、生活姿勢が大切ということ。)
千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす。
武士といえば、常に死ができている者と自惚れているようだが、そんなものは出家、女、百姓とて同様だ。武士が他と異なるのは、兵法の心得があるという一点においてだけだ。
構えあって構えなし。
打ち込む態勢をつくるのが先、剣はそれに従うものだ。
勝負とは、敵を先手、先手と打ち負かしていくことであり、構えるということは、敵の先手を待つ心にほかならない。「構える」などという後手は邪道なのである。
一生の間、欲心を思わず。
平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること。
われ事において後悔せず。
あれになろう、これになろうと焦るより、
富士のように黙って、自分を動かないものに作り上げろ。世間に媚びずに世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる。 
名言 2 
「世々の道をそむく事なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の1。
「身にたのしみをたくまず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の2。
「よろずに依枯の心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の3。
「身をあさく思、世をふかく思ふ」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の4。
「一生の間よくしん(欲心)思わず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の5。
「我事において後悔をせず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の6。
「善悪に他をねたむ心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の7。
「いずれの道にもわかれをかなしまず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の8。
「自他共にうらみかこつ心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の9。
「れんぼ(恋慕)の道思いよる心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の10。
「物毎にすきこのむ事なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の11。
「私宅においてのぞむ心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の12。
「身ひとつに美食をこのまず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の13。
「末々代物なる古き道具を所持せず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の14。
「わが身にいたり物いみする事なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の15。
「兵具は格別、よの道具たしなまず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の16。
「道においては死をいとわず思う」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の17。
「老身に財宝所領もちゆる心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の18。
「仏神は貴し仏神をたのまず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の19。
「身を捨てても名利は捨てず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の20。
「常に兵法の道をはなれず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の21。
「観の目強く、見の目弱く、遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也」『五輪書 水之巻』より。
「一理に達すれば万法に通ず」「平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること」『五輪書』より。
「構えあって構えなし」『五輪書』より。
「勝負とは、敵を先手、先手と打ち負かしていくことであり、構えるということは、敵の先手を待つ心にほかならない。「構える」などという後手は邪道なのである」『五輪書』より。
「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす」『五輪書』より。
「空を道とし、道を空とみる」『五輪書 空之巻』より。
「武士といえば、常に死ができている者と自惚れているようだが、そんなものは出家、女、百姓とて同様だ。武士が他と異なるのは、兵法の心得があるという一点においてだけだ」『五輪書』より。
「体の大きい者も小さい者も、 心をまっすぐにして、 自分自身の条件にとらわれないようにすることが大切である」『五輪書』より。  
 
五輪書 1

 

五輪書 勝負を決めるのは「平常身」 
「水の巻」より「兵法身なりの事」
○兵法の身なりの事
身のかゝり、顔をうつむかず、あふのかず、かたむかず、ひずまず、目をみださず、ひたひにしわをよせず、まゆあひにしわをよせて、目の玉うごかざるやうにして、またゝきをせぬやうにおもひて、目をすこしすくめるやうにして、うらやかに見ゆるかほ、鼻すぢ直にして、少しおとがひを出す心なり。
くびはうしろのすぢを直に、うなじに力をいれて、肩より惣身(そうみ)はひとしく覚え、両のかたをさげ、脊(せ)すぢをろくに、尻を出さず、ひざより足先まで力を入れて、腰のかゞまざるやうに腹をはり、くさびをしむるといひて、脇差(わきざし)のさやに腹をもたせて、帯のくつろがるやうに、くさびをしむるといふをしへあり。惣而(そうじて)兵法の身において、常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要也。能々(よくよく)吟味すべし。

体の姿勢は、顔はうつむかず、あおむかず、かたむかず、曲げず、目を動かさず、額にしわをよせず、眉の間にしわをよせ、目の玉を動かさないようにして、またたきをしないような気持で、目をやや細めるようにする。
おだやかに見える顔つきで、鼻すじはまっすぐにして、やや、おとがいを出す気持で、くびはうしろの筋をまっすぐにして、うなじに力を入れて、肩から全身は同じものと考える。
両肩を下げ、背すじをまっすぐにして、尻を出さず、ひざから足先まで力を入れて、腰がかがまぬように腹を出す。くさびをしめるといって、脇差のさやに腹をもたせて、帯がゆるまぬように、くさびをしめる教えがある。
すべて兵法にあっては、平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすることが大切である。よくよく研究しなければならぬ。
参考
○身のかゝりの事
身のなり、顔はうつむかず、余りあふのかず、肩はさゝず、ひづまず、胸を出さずして、腹を出し、こしをかゞめず、ひざをかためず、身を真向にして、はたばり広く見する物也。常住(じょうじゅう)兵法の身、兵法常の身と云事、能々吟味在るべし。
○目付の事
目を付ると云所、昔は色々在ることなれ共、今伝る処の目付は、大体顔に付るなり。目のおさめ様は、常の目よりもすこし細き様にして、うらやかに見る也。目の玉を不動、敵合近く共、いか程も、遠く見る目也。其目にて見れば、敵のわざは不及申、左右両脇迄も見ゆる也。観見(かんげん)二ツの見様、観の目つよく、見の目よわく見るべし。若(もし)又敵に知らすると云ふ目在り。意は目に付、心は不付物也。能々吟味有べし。
柳生宗矩が説く「平常心」
どんな武芸でも平常心ということが大切なのである。柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は『活人剣』下の中で、「常の心」をつぎのように説く。
常の心と云は、胸に何事をも残さず置かず、あとははらりはらりとすてて、胸が空虚になれば、常の心なり。
胸に何事ものこさず、跡を少しものこさないこと、それが常の心であると説く。常の心こそ、無心なのである。人の前で揮毫をたのまれたような場合、常の心がなく緊張すれば手が震えてくることや、大勢の人の前で話をすれば声が震えることがあるように、常の心を失うならば、どんなことでもできなくなるものである。禅では「平常心是道」というが、平素の心を失わないことが肝要である。
この平常心をもって一切のことをする人を、柳生宗矩は「名人」と呼んでいる。どんなことをしても、しようとする心を外にあらわすことなく、何事かをよくしようと思う心もないのが平常心なのである。修行が未熟なうちは、よい技をしよう、うまく動こうと思うからかえってできなくなる。
稽古をかさねてゆけば、よくしよう、うまくやろう、というような心は遠のいて、どんなことをしても、思わずして無心に、無思に、これを行なうことができるようになる。心に意識したり、執着したりすることがなく、自然に身体も手も足も動いてゆくとき、その名人の心は無心であり、平常心というのである。
兵法において技がきまるのは、無心のときでなければならない。無心というと、一切、心がないのではない。平常心を保つことが無心なのである。
兵法の勝負をするのでも弓を射るのでも、常の心でする必要がある。心がたかぶったり、邪心が起こったり、一ヵ所にとどまったりしたならばこれを行なうことができない。常の心で弓を射ること、常の心で兵法を行なうこと、この常の心を無心というのである。
動転した心、怒った心、勝負を争う心でやれば、兵法は失敗する。常の心、無心の心でやってこそ、真の技を無限に発揮することができるのである。
道者の心を鏡のように保つことが無心になることである。鏡はきれいな花を映しても、鏡自体の価値が増すものではなく不動であり、きたない犬の糞を映しても、鏡自体の価値が減ずるものでもない。どんなものを映しても、鏡はそれを映しながらも自らをかえることはない。鏡こそ真の不動智であり、無心である。
宮本武蔵の「平常身」
無心というと心がないのではない。あっても動揺しないことなのである。鏡のような心が無心であり、それはそのまま平常心なのである。
合気道の技を行なう場合も、この無心の境地が大切である。どこまでも動揺することなく、一つに固まることなく、流れるように動いて動かぬ心を持たなければならない。それはまた柳生新陰流の剣法の極意とも通ずるものなのである。
無心とは身体全体にひろがりわたった気であるが、無心を体得した人を道者という。道者とは胸に何ごともない人である。胸に何ごともなく無心になりきっているけれども、どんなことも成すことができる人のことである。無心の境地とは鏡が常に澄みわたって、何の形も映さず、しかも鏡の前に向ったものの形はどんな物でも明らかに映すことができるようなものである。道者の胸の内こそまさしく鏡の如きものでなければならない。この無心の相(すがた)を別の言葉で平常心ともいう。
柳生宗矩は沢庵(たくあん)から禅の指導を受けていたため、平常心というものを禅の立場から説いたが、武蔵の『五輪書』の平常心は平常心ではなくて、平常身であることに注意しなければならない。
平常心が観念的であるのに対し、平常身は具体的である。「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする」ことが一番大切であると武蔵はいうのである。戦いの場において常の身を保つには、朝鍛夕錬の修行によって身を鍛えあげておかなければならないのである。身が感じ、身が思うようにならなければ武蔵のいうことは分からぬ。 
五輪書 「勝つ」とはどのようなことか 
「地の巻」より「夫れ兵法といふ事、武家の法なり」
兵法というものは武家のおきてである。将たるものはとくにこの兵法をおこない、兵卒もまたこの兵法の道を知る必要がある。今の世の中で兵法の道を確実に体験しているという武士はほとんどない。
まず道があらわれているのは、仏法では人を救う道があり、また儒道には文の道を正すものがあり、医者には諸病をなおす道がある。あるいは歌人は和歌の道を教え、あるいは茶人や弓道者、そのほかのさまざまな芸能者などがあり、それぞれ思い思いに稽古し、心にまかせてたしなんでいる。ところが、兵法の道をたしなむ人は稀にしかいないのである。
まず武士は文武二道といって、文と武の二つの道をたしなむことが大切である。たといこの道に才能がなくとも、武士たるものは自分の能力に応じて兵法を修行することに努めるべきである。
だいたい武士の信念を考えてみると、武士は平常からいかに立派に死ぬかというふうに思われている。死を覚悟することにおいては武士ばかりではなく、出家であっても、女であっても、百姓以下に至るまで、義理を知り、恥を思い、死ぬところを決心することは少しもかわりがないのである。
武士が兵法をおこなう道はどんなことにおいても人に勝つということが根本であり、あるいは一人の敵との斬合いに勝ち、あるいは数人との集団の戦に勝ち、主君のため、わが身のため名をあげ、身を立てようと思うことである。これは兵法の功徳なのである。
また世の中にたとい兵法の道を習っても、実戦には役にたたないという考えもあるであろう。その点については何時でも実際に役にたつように稽古を重ね、あらゆることについても役にたつように教えること、これこそが兵法の真の道である。
宇宙の気と個の気がひとつになる境地
人に勝つ死を覚悟することは武士だけではない。僧も百姓も女性ですら死を覚悟することはできる。武士たるものが他の一般の人々と異なるのは、一体何であるのか。
武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐる、所を本とし、云云
と武蔵が言うように、武士が武芸をたしなむのはどんなこと、どんな場合においても人に勝おっことを根本とするからである。武士の兵法においては敗けることは許されない。敗けることはそのまま死に直結する。死と生か紙一皮において対しているのが武士の闘いである。
だからこそどんな場合においても絶対に勝たなければならない。理由の如何を問わず勝たなければならないのである。
武蔵はそれを具体的に、
或は一身の切合に勝ち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ。是、兵法の徳をもつてなり。
と言う。兵法者が勝つことにはさまざまな場合がある。一人対一人の斬合いの場合もある。あるいは数人との戦闘の場合もある。一人が数人に勝ることは武蔵が自らの死闘を通じて得た教訓なのであった。それは個が衆に勝つということなのである。
個の力は無限に延ばすことができる。個の力を錬磨することによって個は個ではなくなる。個は無限の力を備えた個となってゆく。このような個は天地一杯に充満する個となる。
哲学者が個即全とか、一即多などというのは頭で考えたざれごとにすぎない。個は身心の錬磨によって宇宙に遍満する個となる。それは宇宙の気と個の気が一つになるからである。この点をとらえて『五輪書』は「数人の戦に勝ち」というのである。
見えざる敵に対する
主君のため、我が身のために名声をあげ、身を立てるのが兵法の功徳であるというのは、武蔵が世間一般の武芸者に対して言うのである。この『五輪書』はわが兵法を世に伝える目的で書かれているために、世間一般の武芸者に共感を得る必要もあろう。
武蔵自身もこのほとんどの人生が兵法によって名をあげ、禄を得ること、すなわち仕官して立身出世することに己れの全存在をかけたのである。この自分の情念をかくすことなく、ここに淡々と記したまでのことなのである。
しかし晩年になると名声をあげ立身するという願いはまったくなかった。名声をあげる必要なしと悟った武蔵はおそらく武芸者からの真剣勝負を避けたこともあったにちがいない。勝負を避ける時、世間の人々は武蔵は臆病風に吹かれているというであろう。
しかし武蔵の晩年は世評をまったく無視した。無視したということもなかった。どんなに悪口を言われてもまったく自らの心を動かすことはなかった。万理一空の自由無礙なる境地に達した武蔵にとっては悪口とか評判とかの世界をまったく超脱していた。
しかし世間一般の通念からここでは名をあげ身を立てることができるのも兵法の功徳である、と言ったにすぎなかった。人に勝つことは己れに勝つことである。それに勝つことは己れの欲心を無にすることである。真に勝つことを極めるのは人生の至極の道理に挑戦することなのである。
これに挑戦することを志した者は、まず一日の初めに端坐正念し、今日一日を勝ち抜くための精神の構えをしっかりと確立する必要がある。見えざる敵に対してはっしと打つ気魄をまず朝の精神の構えとする必要がある。  
五輪書 極意は「枕をおさえる」!? 
「火の巻」より「敵のさせないようにする」こと
「枕をおさえる」とは、「頭を上げさせない」ということである。兵法、勝負の道においては、相手に自分をひきまわされ、後手にまわることはよくない。何としても敵を思いのままにひきまわしたいものである。
したがって相手もそのように思い、自分もその気があるわけであるが、相手の出方を察知することができなくては、先手をとることはできない。
兵法において、敵が打つのを止め、突くのをおさえ、組み付いてくるところをもぐようにひきはなしなどすることである。
枕をおさえるというのは、自分が兵法の要諦を心得て敵に向いあうとき、敵がどんなことでも思う意図を、事前に見破って、敵が打とうとするならば、「うつ」の「う」という字の最初でくいとめ出鼻をくじき、その後をさせないという意味であり、それが「枕をおさめる」ということである。
たとえば敵がかかろうとすれば、「か」の字でくいとめ、とぼうとすれば「と」の字でくいとめ、きろうとすれば「き」の字の最初でおさえていくことで、皆な同じことである。
敵が自分にわざをしかけてきたとき、之役に立たないことは敵のなすままにまかせ、肝腎のことをおさえて、敵にさせないようにするのが、兵法においてとくに重要である。
これも、敵のすることを、おさえよう、おさえようと思うのは後手である。まず、こちらはどんなことでも兵法の道にまかせて技を行いながら、敵もわざをなそうとする、その出鼻をおさえ、敵のどんな企図も一切役にたたないようにし、敵を自由に引き廻すことこそ、真の兵法の達人であるということができる。
これはただ鍛錬の結果なのである。枕をおさえるということを、よくよく調べなければならぬ。
とにかく、先手に廻れ!
何ごとも先手を打つということが大切である。後手に廻ったならばおくれをとることは人生の勝負においてもしばしば見られることである。「機先を制す」という言葉があるが、兵法だけでなくどんな仕事をする場合にも先手に廻ることは必要なのである。
禅宗の問答などにもこれと似たような例はいくつもある。たとえば『臨済録』には、つぎのようなやりとりがある。
「上堂。云く、赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんじん)有り。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に、僧有り、出でて問ふ、如何なるか是れ無位の真人。師、禅牀(ぜんじょう)を下つて把住(はじゅう)して云く、道へ道へ。其の僧擬議す。師托開して云く、無位の真人是れ什麼(なん)の乾屎橛(かんしけつ)ぞ、といつて便ち方丈に帰る。」
この内容はどういうことかというと、上堂して臨済が言った。「この赤肉団上に一無位の真人がいて、常にお前たちの面門を出たり入ったりしている。まだこの真人を見届けていない者は、さあ看よ!さあ看よ!」と。
その時、ひとりの僧が進み出て問うた。「その無位の真人とは、いったい何者ですか」と。臨済はいきなり席を下りて、僧の胸倉をつかまえ、「さあ言え!さあ言え!」とやった。その僧は擬議した。
臨済は僧を突き放して「これでは無位の真人もかわいた糞同然ではないか」と言って、そのまま居間に帰ってしまった。このやりとりには一瞬の停滞なく、臨済はまさしく先手、先手をとったのである。  
 
五輪書 2

 

武蔵の武士道 
兵法の道、二天一流と号し数年鍛錬の事、初而はじめて書物に顕さんと思ひ、時に寛永二十年十月上旬の比ころ、九州肥後の地岩戸山に上り天を拝し観音を礼し仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもって六十。
我若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初而勝負をす。其のあひて、新当流有間喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝つ。廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者に会ひ数度の勝負をけつすといへども勝利を得ざるといふ事なし。其後国々所々に至り、諸流の兵法者に行合ひ六十余度迄勝負をなすといへども、一度も其利をうしなはず。其程歳十三より廿八、九までの事也。
我三十を越えて跡をおもひみるに、兵法至極してかつにはあらず。おのづから道の器用有りて天理をはなれざる故か、又は他法の兵法不足なる所にや。其後なおもふかき道理を得んと朝鍛夕錬してみれば、おのずから兵法の道にあふ事、我五十歳の比也。其より以来は尋ね入るべき道なくして光陰を送る。兵法の利にまかせて諸芸諸能の道を学べば万事において我に師匠なし。今此書を作るといへども、仏法儒道の古語をもからず、軍記軍法の古きことをももちひず、此一流の見たて実まことの心を顕す事、天道と観世音を鏡として十月十日の夜寅の一てんに筆をとって書初むるもの也。

私の兵法の道を「二天一流」と号し、数年鍛錬してきたことを初めて書物に著そうと思い、寛永20年(1643年)10月上旬の頃、九州肥後は岩戸山に登り、天を拝んで観音に礼拝し仏前に向かって、生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、歳はつもって60。
私は若い頃から兵法の道を歩み、13歳のときに初めて勝負をした。その相手は新当流の有間喜兵衛という武芸者に勝ち、16歳の時に但馬の国の秋山という力の強い者に打ち勝った。21歳の時に都に上り、天下の武芸者に会い数度の勝負をしたが、勝利を得なかったということはなかった。その後、諸国を回り様々な流儀の武芸者に会って60余回も勝負を行ったが、一度も不覚をとらなかった。それは13歳から29歳の間のことである。
30を越えて自分の足跡を振り返ってみると、兵法を極めていたから勝ったのではない。生まれつき兵法に才能があって天の理にかなっていたためか、それとも他の兵法が不十分なのか。その後さらに深い道理を掴もうとして朝鍛夕錬してみたところ、自然と兵法の道を体得したのは50歳の頃だった。それ以来、極める芸もないまま時を過ごした。兵法で諸芸諸能の道を学んだので、あらゆることにおいて私に師匠はいない。今、この書を書くといっても、仏法・儒教・道教の言葉は借りず、軍記軍法の故事も使わず、この二天一流の考え方とその本当の意味を、天道と観世音を鏡として10月10日の夜、寅の一てん(午前4時30分)に筆を執って書き始めたのである。
地の巻の冒頭では、やや自慢げな自己紹介・五輪書執筆に至った経緯が記されている。生涯60余の決闘を行い、一度たりとも敗れなかったというエピソードもこの部分に記されている。このページの目的は武蔵の足跡を探ることではないので、このあたりは簡単に紹介するにとどめる。ちなみに、一時期話題になった「武蔵の生誕地はどこか?」については、「生国播磨の武士」と記されている。しかし、播磨のどこなのかまでは書いていない。冒頭部分だけを読むと、自惚れたお爺さんが、疑わしい自慢話を書き始めるのかと思う人もいるかもしれないが、ついでにその先も読んでほしい。冒頭部分があながち伊達ではないことが、きっと理解できるだろう。

夫それ兵法といふ事、武家の法なり。将たる者はとりわき此法をおこなひ、卒たるものも此道を知るべき事也。今世の中に兵法の道慥たしかにわきまへたるといふ武士なし。先まづ道を顕はして有るは仏法として人をたすくる道、又儒道として文の道を糺し、医者といひて諸病を治する道、或は歌道者とて和歌の道ををしへ、或は数寄者弓法者、其外諸芸諸能までも、思いゝゝに稽古し、心々に好くもの也。兵法の道にはすく人まれ也。武士は文武二道といひて二つの道を嗜む事、是道也。縦たとひ此道ぶきようなりとも武士たるものはおのれおのれが分際程は兵の法をば、つとむべき事なり。大形おおかた武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也。死する道においては武士斗ばかりに限らず、出家にても、女にても、百姓已下に至る迄、義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひきる事は、其差別なきもの也。武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐるゝ所を本もととし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ、是れ兵法の徳をもつてなり。又世の中に兵法の道を習ひても実の時の役にはたつまじきとおもふ心あるべし。其儀においては、何時にても役にたつやうに稽古し、万事に至り役にたつやうにをしゆる事、是兵法の実の道也 。

兵法とは武家のおきてである。大将たる者は特にこの法を実践し、兵卒もこの法を知るべきである。今の世の中に、兵法の道を確実にわきまえているという武士はいない。まず、その道をあらわしてあるのは、仏法では人を助ける道があり、儒道(儒者)には学問の道を正す道があり、医者にはあらゆる病を治す道があり、あるいは歌人は和歌を教える道、あるいは数寄物(茶人)・弓道家その他様々な芸能者までも思い思いに稽古し、心に任せてたしなんでいる人はいる。が、兵法の道をたしなむ人はまれである。まず、武士は『文武二道(文武両道と同義)』といって、二つの道をたしなむこと、これが武士の道である。(文武両道の)道に不器用であるとしても、武士たる者は己の分際(ぶんざい:能力)に相応するぐらいには、兵法を鍛錬するべきである。だいたい武士の信念を考えてみると、武士は普段からいかに立派に死ぬかというように思われているようだ。が、死ぬという道は武士に限ったものではない。出家(僧?)、女、百姓にいたるまで、義理を知り、恥を思い、死場所を決めることに差はないのである。武士が歩む兵法の道とは、何事においても人より優れることが本(根本)であり、一対一の斬りあいに勝ち、数人との戦いに勝ち、主君のため、自分のため名をあげようと思うことである。これが兵法の功徳である。また、世の中には兵法を習っても実際の役には立たないとう考えもあるだろう。それについては、何時でも役に立つように稽古して、何事にも役立つように教えること。これこそ兵法の真の道なのである。
五輪書の第一巻「地の巻」の最初の方で、武士が心がけなければならないことを説いている。武蔵というと「無敵の二刀流剣豪」というイメージが強いが、その一方で彼は優れた水墨画も残しており、その分野の文化人としてもかなりの業績を残しているらしい。現代で言うならば、武士は「武道(スポーツなど運動も含む)」を鍛錬するだけではダメ、勉強もしなければならない、といったところだろうか。
そうはいっても、文武両道の道を実践するのは難しい事で、一部の人間にしかできないものだ、と思う人もいるだろう。しかし、不器用であったとしても、自分の能力にふさわしい力をつけるように、鍛錬するべきである、と書いている。武士は、才能を言い訳にして鍛錬を怠ってはならないのである。一生懸命に努力することを、武蔵は最初の心構えとして記述した。この基本的な精神は現代でも十分通用するものだと思われる。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な言葉がある。これは江戸時代の武士が書いた「葉隠」という書物に出てくる言葉である。ここはこの言葉に込められた真意を考えるページではないので、紹介するだけにとどめるが、「潔く死ぬことこそ武士の道である」というのは、昔も現代でも一般的に認識されていたようである。しかし、武蔵はこのことについては否定的な見方をしている。「死ぬという道は武士に限ったものではない」のである。この文の続きでは「出家(お坊さんのこと?)、女、百姓に至るまで、義理を知り、恥を思い、死場所を決めるのに差はないものだ」と書いている。つまり「死」は武士の専売特許ではないのである。武士道とは死ぬことではない、というなら武士道とは何なのか。武蔵は「どんなことでも、人より優れていることが根本である」と書いている。また、この続きには「平和な時代に武術など習っても意味がないし、出世の役には立たないと思うこともあるが、いつでも役立つような稽古をして、いろいろなことに際して役立つように教えることこそ、兵法の実の道である」と書いている。兵法はただの鍛錬ではなく、実際に役に立つような稽古をして実践することなのだ、というのである。武蔵の言う武士道とは、戦いに限らず何事においても、主君のため、自分のために勝つことが第一であり、勝利を得るために役立つ手段が、武蔵の言う兵法なのだろう。この実践主義的な教えを第一としている武道は、他にはあまりないのではないだろうか。
興味深いことに、武蔵は自分が説く武士道を大工に例えて説明している。
兵法の道、大工にたとへたる事
大将は大工の統領として天下のかねをわきまへ、其国のかねを糺し、其家のかねを知る事、統領の道也。大工の統領は堂塔伽藍のすみがねを覚え宮殿楼閣のさしづを知り、人々をつかひ家を取立つる事、大工の統領も武家の統領も同じ事也。家を立つるに木くばりをする事、直にして節もなく見つきのよきをおもての柱とし、少しふしありとも直にしてつよきをうらの柱とし、たとひ少しよわくともふしなき木のみざまよきをば、敷居、鴨居、戸障子とそれぞれにつかひ、ふしありともゆがみたりともつよき木をば、其家のつよみつよみを見わけてよく吟味してつかふにおいては、其家久敷ひさしくくづれがたし。又材木のうちにしても、ふしおおくゆがみてよわきをば、あししろともなし、後には薪ともなすべき也。統領において大工をつかふ事、其上中下を知り、或はとこまはり、或は戸障子、或は敷居、鴨居、天井已下、それゞゝにつかひて、あしきにはねだをはらせ、猶悪しきにはくさびをけづらせ、人をみわけてつかへば、其はか行て、手際よきもの也。果敢はかの行き、手ぎはよきといふ所、物毎をゆるさざる事、たいゆう知る事、気の上中下を知る事、いさみを付るといふ事、むたいを知るといふ事、かようの事ども、統領の心持に有る事也。兵法の利かくのごとし。

大将は大工の頭領として、天下の尺度をわきまえて、国家の尺度を正し、我が家の尺度を知ることが、統領たる者の道である。大工の統領は堂塔伽藍の尺度を覚えて宮殿楼閣の図面を読み取り、人々を使って家を建てることでは、大工の統領も武家の統領も同じである。家を建てるときに木材の割り振りをするとき、真っ直ぐで節が無く見目のいいものを表の柱にし、少し節があっても真っ直ぐで強いものを裏の柱とし、少し弱くても節が無く見た目がよいものは敷居、鴨居、障子と、それぞれに使い、少し節があって歪んでいても強い木をその家の強度を見分けてよく吟味して使えば、家はなかなか崩れないものである。また、節が多くて歪んでいて弱い木材でも足場として使い、後で薪にでもするとよい。統領が大工を使うことは、その腕前の上中下をわきまえ、床廻り、戸障子、敷居、鴨居、天井などそれぞれに応じて使い、下手な者には根太(床板)をはらせ、もっと下手な者には楔を削らせるなど、人を見分けて使えば仕事は手際よくすすむものである。仕事の能率がよいこと、手際がよいこと、物事に手を抜かないこと、大切なところを知ること、士気の上中下を知ること、励まし勇気を与えること、無理なことを知ること、これらのことは統領の心得にあるものである。兵法の理も、このようなものである。
兵法の道
士卒たるものは大工にして、手づから其道具をとぎ、色々のせめ道具をこしらへ、大工の箱に入れて持ち、統領云付くる所をうけ、柱がようりょうをもてうのにてけづり、とこ、たなをもかんなにてけづり、すかし物、ほり物をもして、よくかねを糺し、すみゝゝめんどう迄も手ぎはよくしたつる所、大工の法也。大工のわざ、手にかけて能くしおぼえ、すみがねをよくしれば、後は頭領となる物也。大工のたしなみ、よくきるる道具を持ち、透々にとぐ事肝要也。其道具をとつて、みづし、書棚、机卓、又はあんどん、まないた、鍋のふた迄も達者にする所、大工の専也。士卒たるもの、このごとく也。能々よくよく吟味有るべし。(後略)

士卒は大工である。自分で自分の道具をとぎ、様々な金具のたがを作って大工箱に入れて持ち、頭領の言いつけに従って柱、梁を手斧で削り、床棚を鉋で削り、透かし物、彫り物も寸法をただして、手のかかる隅々まで手際よく仕上げることが、大工のやり方である。仕事を自分の手で行って覚え、尺度をわきまえれば、後に頭領になる者である。大工の心得は、よく切れる道具を持ち、ひまをみてはよく磨くことが肝要である。その道具で厨子、書棚、机、行灯、まな板、鍋のふたまでも立派に仕上げるのは大工だからこそである。士卒たるものもまた、このようなものである。よく吟味すべきである。
「兵法の道」とは何かを記した後は、より具体的に「大工の道」に例えて解説している。大将は大工の頭領のようなもので、全体を把握して人を使うことを、兵卒は頭領の指示に従い、自分の道具を常によく磨いて小物までも立派にしあげることを、責務としている。「おのれおのれが分際程は兵の法をば、つとむべき事なり」と前述したのと同様に、大工は自分の仕事道具を常に使える状態にしておくのと同じように、武士も常に研鑽して、自分の仕事(たとえ小さな仕事でも)を立派に果たすことが大切だというのである。
ちなみに、五輪書が書かれてから200年以上後に、海外で同じような例えが使われている有名な小説が書かれた。イギリスの名探偵「シャーロック・ホームズ」である。シャーロック・ホームズシリーズの第一作は「緋色の研究」という長編で、助手として有名なワトソンとホームズが出会い、二人で挑んだ最初の事件の話である。この話の中で、ホームズはワトソンにこういう内容のことを言っている。
「人間の頭脳というものは、元来空っぽの屋根裏部屋みたいなもので、好きな道具だけしまっておくようにできている。平凡な人は役に立たないガラクタも詰め込んでしまって、役に立つ知識は押し出されてしまうか、他のものとごちゃまぜになってどこにあるのかわからなくなってしまう。しかし、熟練した職人は頭脳の屋根裏部屋に何を詰め込むかに細心の注意を払う。自分の仕事に役立つ道具しか入れず、大きな仕分けをつけて、もっとも完全な形に整備しておくのである。」
筆者のコナン・ドイルが五輪書を読んでいたかどうかはわからないが、実によく似た例えであり、優れた仕事をこなす人間の特徴を的確にとらえていると思う。
兵法に武具の利を知ると云ふ事
戦武具の利をわきまゆるに、いづれの道具にてもをりにふれ時にしたがひ、出合ふもの也。・・(中略)・・道具以下にも、かたわけてすく事あるべからず。あまりたる事はたらぬと同じ事也。人まねをせず共、我身に随ひ、武道具は手にあふやうに有るべし。将卒共に物にすき、物をきらふ事悪しし。工夫肝要也。

武具の利点を考えてみると、どの武器でも折にふれ状況にしたがって利用するものである。・・(中略)・・道具についても、偏って好むことがあってはならない。必要以上に持ちすぎることは、足りないことと同じである。人まねをしなくても、自分の身にしたがって、武具は手に合うようにするべきである。大将・士卒ともに、好き嫌いがあってはならない。工夫が肝要である。
刀に限らず、様々な武器をよく知れと教える武蔵は、まさに勝負のプロといえるだろう。戦いに「勝つ」ことを目的とするならば、そのために必要な武器を選り好みしてはならないのである。その場に応じて、最も有利な武器を使うことが、勝利を得るための基本なのだろう。刀は、侍が常に持っている武器である。そのため、刀は武士の象徴ともなった。自然と、常に携帯している刀で戦うことを考えるものだが、武蔵は刀と言う武器にこだわりがない。その理由はやはり、「勝つ」ことが一番の目標だからではないだろうか。
巻末
右一流の兵法の道、朝なゝゝ夕なゝゝ勤めおこなふによりて、おのづら広き心になつて、多分一分の兵法として世に伝ふる所、初而書顕はす事、地水火風空、是五巻也。我兵法を学ばんと思ふ人は道をおこなふ法あり。
第一によこしまになき事をおもふ所
第二に道の鍛錬する所
第三に諸芸にさはる所
第四に諸職の道を知る事
第五に物事の損徳をわきまゆる事
第六に諸事目利を仕覚ゆる事
第七に目に見えぬ所をさとつてしる事
第八にわづかなる事にも気を付くる事
第九に役にたたぬ事をせざる事
大形如此おおかたかくのごとき理を心にかけて兵法の道鍛錬すべき也。此道に限りて、直なる所を広く見たてざれば、兵法の達者とは成りがたし。此法を学び得ては一身にして二十三十の敵にもまくべき道にあらず。先づ気に兵法をたえさず、直なる道を勤めては、手にても打勝ち、目に見る事も人にかち、又鍛錬をもつて惣体自由そうたいやわらかなれば、身にても人に勝ち、又此道に慣れたる心なれば、心をもつても人に勝ち、此所に至りてはいかにとして人にまくる道あらんや。又大きなる兵法にしては、善人を持事にかち、人数をつかふ事にかち、身をただしくおこなふ道にかち、国を治むる事にかち、民をやしなふ事にかち、世の例法 をおこなひかち、いづれの道においても人にまけざる所をしりて、身をたすけ名をたすくる所、是兵法の道也。
正保二年五月十二日   新免武蔵
寛文七年二月五日    寺尾夢世勝延
   山本源介殿

右の一流の兵法の道を朝に夕に鍛錬することで、自然と広い心になって、多人数対多人数、一対一の兵法として後世に伝えることを初めて書き表したのが、地水火風空の五巻である。兵法を学ぼうと思う人には、兵法を学ぶ掟がある。
第一 実直な正しい道を思うこと
第二 鍛錬すること
第三 様々な芸にふれること
第四 様々な職能を知ること
第五 物事の損得を知ること
第六 様々な事を見分ける力を養うこと
第七 目に見えないところを悟ること
第八 ちょっとしたことにも気をつけること
第九 役に立たないことはしないこと
だいたいこのようなことを心がけて、兵法の道を鍛錬すべきである。この道に限っては、広い視野に立って真実を見極めなければ兵法の達人にはなりがたい。これを会得すれば、一人でも20、30の敵にも負けないのである。まず、気持ちに兵法を忘れず、正しく一生懸命鍛錬すれば、まず手でも人に勝ち、見る目においても人に勝つことができる。鍛錬の結果、体が自由自在になれば体でも人に勝ち、この道に心が慣れれば心でも人に勝つことができるのである。兵法を学んでこの境地にたどりついた時は、すべてにおいて人に負けることはありえない。また、集団の兵法では、有能な人を仲間に持つことで勝り、多くの人数を使うことに勝り、わが身を正すことで勝ち、国を治めることでも勝ち、民を養うことでも勝ち、世の秩序を保つことができる。何事においても人に負けないことを知って、身を助け名誉を守ることこそ、兵法の道である。
地の巻の最後には、兵法を学ぶ上での掟を説明している。第一については、よく聞く基本的なことである。第二も鍛錬するのは当然の心構えだろう。第三、四、六については、前述されているように武士は文武両道であるべきなので、重要なことである。第五の「物事の損得を知ること」についてはよくわからないが、第九「役に立たないことはしないこと」とほぼ同義なのだろうか?様々なことに、ふれて見て知って・・ということは大切だが、何もかもをめくら滅法にやるのではなく、得なこと、言い換えれば、役に立つこと、をやれと言っているように思われる。
第七、八は鋭い意見だが、これを心がけるのはかなり難しいと思われる。目に見えないことを信じること、その存在を知るということは、簡単ではない。目に見えないということは、そのものの存在をはっきりと確認できないということであり、はっきりと確認できないものを信じるのは危険なことである。しかし、目に見えるものだけが真実ではない。目に見えないことを悟るというのは、大切なことだろう。「ちょっとしたことにも気をつける」というが、ちょっとしたことには気付きにくいし、気付いたとしても見過ごしてしまうのが大半だろう。しかし、こういう「ちょっとしたこと」が重要なことの一端を表しているということは、よくあることである。この辺の武蔵の指摘は鋭い。
そして、最後は兵法の道を会得することができれば、あらゆる面で人に勝つことができる、と武蔵はおおげさではないかと思うぐらいに力説している。
以上、地の巻の概要を記してきたが、ここからわかることは、武蔵の兵法とは「勝つ」ことが最終目標なのである。忠誠や孝行という内容の言葉はほとんど出てこない。意外だと思うかもしれないが、武蔵が歩んできた人生を考えれば、そんなに不思議なものでもないと思われる。武蔵の前半生は、戦国時代が終わりを告げ、江戸時代という安定期に入る頃に流行した武者修行の人生だった。武者修行というといい響きがするが、実際には商人や富裕農民の用心棒などの仕事を請け負い、武術の腕をみがきながら仕官先を求める浪人者がほとんどだったと言われている。こういう浪人者が仕官のくちにありつくためには、実力はもちろん、自分の強さを誇る宣伝が必要だった。有名無名、数多くの決闘も行われたようだが、これの一番の目的は勝利で得られる名声である。しかし、この武者修行は死と背中合わせの道であった。決闘で敗れるということは、死を意味していた。死までいたらなくても、重傷を負ったことで武芸をあきらめねばならない体になることもあっただろう。武蔵が歩んだ前半生は、そういう世界であった。目的のためには、何よりも勝たなければならなかったのである。実際、五輪書にの冒頭には、上記のように60余度の決闘で一度も不覚をとらなかったことを誇らしく書いているのである。
このように考えると、武蔵が説く兵法は武芸者としての道であり、一般に思われている武士道とはちょっと違うもののようにも思えるが、そんなことはない。そもそも、侍・武士の本分は「戦うこと」であった。平安時代から、武蔵が生きた戦国時代の終わりまで、侍は戦うことを職業とする「戦士」としての役割が大きかったのである。戦士として戦に出る以上、目標は当然「勝つこと」である。戦で勝つことが、侍の仕事であった。これと同様に、武蔵が行ってきた数々の決闘のほとんどは、命を賭けた真剣勝負だったと思われる。負けることは、己の死を意味するのである。そういう修羅場を潜り抜け、戦うことに徹してきた武蔵にとって、勝つことに力点が置かれるのは自然なことであり、それと同時に武蔵の人生は強い侍の姿の一面そのものであったと思われる。勝つことだけが侍の全てではないと思うが、武蔵の武士道は、侍の戦士としての心構えを的確に捉え、現代でも通用する理を見出しているのではないだろうか。
これだけ勝つことにこだわると、勝つためなら卑怯なことでも何をしてもよい、と思うかもしれない。しかし、それはちと早とちりではないだろうか。勝つこと以外に強調されていることに「自分自身を守ること」「主君のために勝つこと」が記されていた。つまり、どんなに忠誠心を抱き、世のため人のため、と励んでいたとしても、負けてしまっては意味が無い。だからこそ、勝たねばならない、と言っているのではないだろうか。命のやりとりを何度も交わしてきた武蔵らしい人生訓だと思う。
以下、水・火・風・空と勝利を掴むための武蔵の教えは続くが、武士道についての話は、この地の巻にほぼ集約されている。
「侍心得」として扱う内容は以上であるが、勝利のための武蔵の教えを、いくつか紹介していく。この中には、侍の心得として重要なこともいくつか含まれていることもあり、その内容は実に興味深い。  
地の巻 
此兵法の書、五巻に仕立つる事
五つの道をわかち、一まき々々にして其利を知らしめんが為に、地水火風空として五巻に書顕はすなり。
地の巻においては、兵法の道の大躰だいたい、我が一流の見立、剣術一通りにしてはまことの道を得がたし。大きなる所よりちひさき所を知り、浅きより深きに至る。直なる道の地形を引きならすによつて、初を地の巻と名付くる也。
第二、水の巻。水を本として、心を水になる也。水は方円のうつはものに随ひ、一てきとなりさうかいとなる。水に碧潭へきたんの色あり、きよき所をもちひて、一流のことを此巻に書顕はす也。剣術一通の理、さだかに見わけ、一人の敵に自由に勝つ時は世界の人に皆勝つ所也。人に勝つといふ心は千万の敵にも同意なり。将たるものゝ兵法、ちひさきを大になす事、尺のかたをもつて大仏をたつるに同じ。か様の義、こまやかには書分けがたし。一をもつて万と知ること、兵法の利也。一流の事、此水の巻に書きしるす也。
第三、火の巻。此まきに戦ひの事を書記す也。火は大小となり、けやけき心なるによつて、合戦の事を書く也。合戦の道、一人と一人との戦ひも万と万とのたたかひも同じ道なり。心を大きくなる事になし、心をちひさくなして、よく吟味して見るべし。大きなる所は見えやすし、ちひさき所は見えがたし。其仔細、大人数の事は即坐にもとをりがたし。一人の事は心一つにてかはる事はやきによつて、ちひさき所しる事得がたし。能く吟味有るべし。此火の巻の事、はやき間の事なるによつて、日々に手馴れ、常のごとくおもひ、心のかはらぬ所、兵法の肝要也。然るによつて、戦勝負の所を火の巻に書顕はす也。
第四、風の巻。此巻を風の巻としるす事、我一流の事にはあらず、世中の兵法、其流々の事を書きのする所也。風といふにおいては、むかしの風、今の風、その家々の風などとあれば、世間の兵法、其流々のしわざをさだかに書顕はす、是風也。他の事をよく知らずしては、自らのわきまへ成りがたし。道々事々をおこなふに、外道といふ心あり。日々に其道を勤むるといふとも、心のそむけば、其身はよき道とおもふとも、直ぐなる所より見れば、実の道にはあらず。実の道を極めざれば、少しの心のゆがみに付けて後には大きにゆがむもの也。吟味すべし。他の兵法、剣術ばかりと世に思ふ事、尤もっとも也。我兵法の利わざにおいても、各別の義也。世間の兵法をしらしめんために、風の巻として他流の事を書顕はす也。
第五、空の巻。此巻空を書顕はす事、空と云出すよりしては、何をか奥といひ、何をか口といはん。道理を得ては道理をはなれ、兵法の道におのれと自由ありて、おのれと奇特を得、時にあひてはひやうしを知り、おのづから打ち、おのづからあたる、是みな空の道也。おのれと実の道に入る事を、空の巻にして書とゞむるもの也。

五つの道を分類して一巻一巻にして、その利を知らしめるために「地水火風空」の五巻として著したのである。
第一 地の巻
兵法の道の概要、二天一流の考え方を説いている。剣術だけでは真の剣の道を会得することは難しい。大きいところから小さいところを知り、浅いところから深いところに至る。真っ直ぐな道を地面に描くという意味で、最初を「地の巻」と名づけた。
第二 水の巻
水を手本として心を水にするのである。水は角・円という器の形に従って形を変え、一滴にもなり、大海ともなる。水には青々とすんだ色がある。その清らかなところを使って、我が一流のことをこの巻に書き表したのである。剣術一般の理を確かに見分け、一人の敵に自在に勝つときは、世界中の人に勝つことができる。一人に勝つという心構えは、千万の敵に対しても同じである。大将たるもの兵法は、小さいものを大きいものにすることは、一尺の型によって大仏を建てることと同じである。このようなことは細かく書き分けるのは難しい。一を知って万を知ることが兵法の道理である。我が一流のことは、この水の巻に書き記す。
第三 火の巻
この巻に戦いのことを書き記す。火は大きくも小さくもなる、きわだった勢いを持っているので、合戦の事を書く。合戦の道は、一対一の戦いも万人と万人の戦も同じである。心を大きくしたり注意をはらったりしてよく吟味して読むべきである。大きいところは見えやすいが、小さいところは見えにくい。というのは多人数の時にはすぐには通用しない。一人のことは、自分の心一つで変わるのが早いので、小さいところはかえってわかりにくい。よくよく吟味すべきである。この火の巻の内容は一瞬のことなので、毎日習熟して、いつものことと思って、心が変わらないようにすることが、兵法では肝要である。そういうわけで、戦い勝負のことを「火の巻」に書き表す。
第四 風の巻
この巻を風の巻としたのは、我が一流のことではなく、世間の兵法のことを書いたものである。風というのは、昔風、今風、家風などのように世間の兵法の技を確かに書き表す、これが風の巻である。他の事をよく知らなければ、自分のことをわきまえるのは難しい。何事をするにも外道ということがある。日々、この道に励むといっても、心が背いていては、自分ではよいと思っていても、正しいところから見れば真の道ではない。真の道をわきまえないと最初は少しの歪みでも後になると格別のものになってしまう。よく吟味すべきである。世間の兵法は剣術のことばかりだと思われているが、もっともなことである。世間の兵法を知らしめるために、風の巻として他流のことを書き表す。
第五 空の巻
この巻を空ということは、何が奥義とで、何が初歩でもない。道理を会得しては離れ、兵法の道に自然と自由があって、自然と人並みすぐれた技量を持ち、時が来れば拍子を知り、自然と敵を打ち、自然と相対する。これが空の道である。自然と真実の道に入ることを空の巻として、書きとどめる。
ここでは、五輪書の構成とその内容を紹介している。地・水・火・風・空と、自然現象で自分の流儀を表現しているのが興味深い。
兵法の拍子の事
物毎につけ拍子は有るものなれども、とりわき兵法の拍子、鍛錬なくては及びがたき所也。世の中の拍子あらはれて有る事、乱舞の道、れい人管弦の拍子など、是みなよくあふ所のろくなる拍子なり。武芸の道にわたつて、弓を射、鉄炮を放ち、馬に乗る事迄も、拍子調子はあり。
・・(中略)・・道々につけて拍子の相違有る事也。物毎のさかゆる拍子、おとろふる拍子、能々分別すべし。兵法の拍子において様々有る事也。先づ合ふ拍子をしつてちがふ拍子をわきまへ、大小遅速の拍子の中にもあたる拍子をしり、間の拍子をしり、背く拍子をしる事、兵法の専也。此そむく拍子わきまへ得ずしては、兵法たしかならざる事也。兵法の戦に、其敵々の拍子をしり、敵のおもひよらざる拍子をもつて、空の拍子を知恵の拍子より発して勝つ所也。いづれの巻にも、拍子の事を専ら書記す也。其書付の吟味をして能々鍛錬有るべきもの也。

どんなものでも拍子はあるものであるが、特に兵法の拍子は鍛錬しなければ身につかない。世の中の拍子で、人の目で見ることができるのは、「乱舞(舞か?)」の道である。伶人(れいじん:楽器の演奏者。特に、雅楽の演奏者を指す。)の管弦の拍子など、これらはみな拍子が合うことで、正しくなる拍子である。武芸の道では、弓を射ること、鉄砲を撃つこと、馬に乗ることにまで拍子がある。・・(中略)・・
あらゆる道において、拍子の相違はあるものである。栄える拍子、衰える拍子など、よくよく分別すべきである。兵法の拍子でも様々ある。まず、合う拍子を知って違う拍子が何なのかをわきまえ、大小遅速の拍子の中にも、合った拍子があることを知り、間の拍子を知り、背く拍子をわきまえるのが、兵法の第一とすべきことである。特に、背く拍子をわきまえなければ、兵法は確固としたものにはならないのである。戦では敵の拍子を知り、敵の想像もつかない拍子をもって、空の拍子を知恵の拍子から出して勝つのである。どの巻にも、もっぱら拍子のことを書き記す。その書付を吟味して鍛錬すべきである。
武蔵が言うには、世の中には色々な事に「拍子」がある。特に、目で見えるのが舞であり、楽器演奏だと言うのである。つまり、「拍子」とは、現代語で言うと「リズム・調子」のようなものだろうか。武蔵の武士道の第一「勝つ事」には、この「拍子」をわきまえ、自在に操れることが目指すところの一つになっている。具体的な例は後に個々に表現されている。  
水の巻 
兵法二天一流の心、水を本として、利方の法をおこなふによつて水の巻として、一流の太刀筋、此書に書顕はすもの也。此道いづれもこまやかに心の儘にはかきわけがたし。縦ひことばはつづかざるといふとも、利はおのづからきこゆべし。此書にかきつけたる所、一ことゝゝ、一字々々にして思案すべし。大形におもひては、道のちがふ事多かるべし。兵法の利において、一人と一人との勝負のやうに書付けたるなりとも、万人と万人との合戦の利に心得、大きに見たつる所肝要也。此道にかぎつて、少しなり共、道を見ちがへ、道のまよひありては悪道へ落つるもの也。此書付ばかりを見て、兵法の道には及ぬ事にあらず。此書にかき付たるを我身にとつて書付くを、見るとおもはずならふとおもはず、にせ物にせずして、則ち我心より見出したる利にして、常に其身になつて能々工夫すべし。

兵法二天一流の心は、水を手本として利益のある方法を実践するので、これを水の巻として太刀筋をこの書に書き表すものである。この道すべてを細かく心のままに書くのは難しいが、たとえ言葉が続かなくても、その利は自然と理解できるだろう。この書に書いたこと、一言一言、一字一字、深く考えなければならない。いい加減に思っていては、道を間違えることが多いだろう。一対一のように書いたことも、万人と万人の合戦のように見立てて大きく見ることが肝要である。この道では、少しでも道を見誤り、迷うところがあると道をはずしてしまうのである。この書付を見てばかりいては、兵法の真髄には及ばない。この書に書き付けたことを自分にとっての書付と考え、「見る」と思わず「習う」と思わず、真似しないで、自分が見出した利であるように、常に自分の身になって工夫すべきである。
武蔵の二天一流の技は水が手本だと書いている。水は千変万化。容器によって形が変わるし、自然界の川や海もその形は一定ではない。つまり、不定形なのである。そのためか、書物で完全に書き表すことはできないと、ことわっているのである。この本を読んで兵法を身につけようとしている読者にとっては、何とも頼りない台詞。言葉足らずのところは自然と理解できるだろう、と読者に任せてしまっている。ここだけ読むと「完璧には書けないから、あとは自分でなんとかしてね。」と、放任している無責任な書物のように見えるが、これこそが二天一流が「水」を手本とする理由だと思われる。
つまり、二天一流にはある一定の決まった形、というものを持たないので、この技を書物に完全に表現することはできないのだろう。書き表すことができない部分(変化する部分)は、自分で見つけていくしかない。「教えてもらった」ものではなく、自分自身で発見したものでなければ、役立たせることはできない。だからこそ、書いてあることを一字一句考えなければならない、と教えているのではないだろうか。
兵法の心持のこと
兵法の道において心の持やうは、常の心に替る事なかれ。常にも兵法の時にも、少しもかはらずして心を広く直にして、きつくひつぱらず少しもたるまず、心のかたよらぬやうに心をまん中におきて心を静かにゆるがせて、其ゆるぎの刹那もゆるぎやまぬやうに能々吟味すべし。・・・ (中略)
心を直にして、我身のひいきをせざるやうに心をもつ事肝要也。心の内にごらず、広くしてひろき所へ智恵を置くべき也。智恵も心もひたとみがく事専也。智恵をとぎ天下の利非をわきまへ、物毎の善悪をしり、よろづの芸能、其道其道をわたり、世間の人にすこしもだまされざるやうにして後、兵法の智恵となる心也。・・・ (後略)

兵法の道において、心の持ち方は「平常心」以外であってはならない。普段も戦いの時も少しも変化しないで心を広くまっすぐにし、緊張しずぎず、少しもゆるまず、偏りがないように心を真ん中に置いて静かにゆるがせて、ゆるぎの刹那(ほんの一瞬)でもゆるぎが止まらないように、よくよく吟味すべきである。・・・(中略)
心を真っ直ぐにして自分自身をひいきに見ないようにするのが肝要である。心の中は濁らないで広くして、物事を考えねばならない。智恵も心も熱心に磨くことが大切である。智恵をみがき、天下の正・不正をわきまえて、物事の善悪を知り、様々な芸能それぞれの道を体験し、世間の人に少しもだまされないようになってから、兵法の智恵が成り立つのである。
大舞台に立つ時、多くの人は緊張するものである。緊張しすぎて、普段通りの実力が発揮できずに失敗してしまったという経験は誰にでもあることだろう。そういう時こそ「平常心」が大切であると、武蔵も書いている。ただし、武蔵が言う「平常心」とは、日常生活の時の心ではなく、まさに「水」のように変化に富み、一定の形をとらずに動き続ける「水」の心なのである。この巻の冒頭では、二天一流の技は水を手本としている、と書かれているが、「技」だけでなく「心」も水を手本としているのである。水の心をもって勉学に励み、智恵を磨いて初めて、兵法の智恵、言い換えれるならば、勝利のための智恵、を身につけることができるのである。
兵法の眼付と云う事
目の付けやうは大きに広く付くる也。観見の二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。敵の太刀をしり、聊いささかも敵の太刀を見ずといふ事、兵法の大事也。工夫有るべし。此眼付、ちひさき兵法にも、大なる兵法にも同じ事也。目の玉うごかずして両わきを見ること肝要也。かやうの事、いそがしき時、俄にはわきまへがたし。此書付を覚え、常住此目付になりて、何事にも目付のかはらざる所、能々吟味あるべきもの也。

目の配り方は、大きく広く見るようにする。「観」「見」の二つがあり、「観」の目は強く、「見」の目は弱く、遠い所をはっきりと見て、身近な所をはなして見ることが、兵法の上で最も大切である。敵の太刀筋を知るが、太刀筋にとらわれないということが、大事である。工夫しなければならない。これらの目付けは、個人の戦いにも、大人数の合戦でも同様である。目の玉を動かさずに両脇を見ることが肝要である。このことは、せわしいときに突然できるものではない。この書付を覚えて、常にこの目付になって、何事においても眼付が変わらないようにすること。よくよく吟味すべきものである。
「木を見て森を見ず」という言葉がある。森を構成する要素の一つである木にこだわりすぎるあまり、森という全体の姿が見えなくなることをいう。武蔵が言う「観」の目と「見」の目も似たような意味のようだ。ある特定のものを見るのではなく、それとなく全体を見る。「目の玉動かずして両脇を見ること肝要なり」とあるが、確かにこれは難しい。日ごろから練習することが大事だと、武蔵は書いている。
太刀の持様の事
・・(前略)・・惣而そうじて、太刀にても手にても、ゐつくといふ事をきらふ。ゐつくはしぬる手也。ゐつかざるはいきる手也。能々心得べきもの也。

全体的に、太刀でも手でも「居着く(固着する)」という事を嫌うものである。「居着く」は死の手である。「居着かざる」は生の手である。よく心に刻んでおくべきものである。
前半部分は太刀の持ち方についての説明が書かれている。現代剣道と同じように、親指人差し指は軽く、小指薬指でしっかり締めるように持つ、と記されている。一般的な「水」の教えについて再度記されているのがこの後半部分だ。武蔵は、何かにとらわれすぎるということを「死の手」、とらわれ過ぎないことを「生の手」と表現し、ここでも不定形の姿を強調している。何かにとらわれすぎると固くなる。固くなると柔軟性を欠き、状況の変化に対応できなくなる。これは、戦の場に限ったことではないだろう。
有構無構のをしへの事
有構無構といふは、元来太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。され共、五方に置く事あればかまへともなるべし。太刀は敵の縁により、所により、けいきにしたがひ、何れの方に置きたりとも、其敵きりよきやうに持つ心也。上段も時に随ひ、少しさがる心なれば中段となり、中段を利により少しあぐれば上段となる。下段もをりにふれ、少しあぐれば中段となる。両脇の構もくらゐにより少し中へ出せば中段下段共なる心也。然るによつて構はありて構はなきといふ利也。先づ太刀をとつては、いづれにしてなりとも敵をきるといふ心也。若し敵のきる太刀を受くる、はる、あたる、ねばる、さはるなどいふ事あれども、みな敵をきる縁なりと心得べし。うくると思ひ、はると思ひ、あたるとおもひ、ねばるとおもひ、さはるとおもふによつて、きる事不足なるべし。何事もきる縁と思ふ事肝要也。能々吟味すべし。兵法大きにして、人数だてといふも構也。みな合戦に勝つ縁なり。ゐつくといふ事悪しし。能々工夫すべし。

有構無構とは、太刀を形にはまって構えてはあってはならない、ということである。しかし、刀を五種類にむけることは「構え」ということもできるだろう。太刀は敵の出方をきっかけとして、場所、戦況に応じて、どう構えてあっても敵を切り易いように構えるのである。上段も、少し下げれば中段になり、中段を少し上げれば上段になる。下段も状況によって少し上げれば中段になる。両脇の構えも、位置によって少し中へずらせば中段・下段になるのである。こういうわけで、構えとはあってないものである、という理になる。まず、太刀をとることはどのようにしてでも敵を斬ることが重要である。敵の斬撃を受ける、張る、当る、ねばる、さわるということがあっても、これらはすべて敵を切るきっかけと心得るべきである。受けよう、張ろう、当ろう、ねばろう、さわろうと思っていると、斬ることができなくなる。何事も斬るきっかけと思うことが肝要である。よく吟味すべきである。合戦では、兵の配置と陣形が構に当る。すべて合戦に勝つきっかけである。きまった形にとらわれるということが悪いのである。よくよく吟味せよ。
ここでいっていることは、手段が目的へと形骸化してしまうことへの戒め、である。そもそも、刀を使うことの目的は、敵を斬り勝利することにある。構えとは勝つための手段であって、構えること自体が目的ではない。この前の章で、武蔵は基本の5種類の構え(上段・中段・下段・左脇・右脇)を挙げているが、これらはすべて勝つための手段である。「構えること」が重要なのでなはい。極端に言えば、敵を斬りやすい構えなら何でもいいのである。その時々の戦況に合わせて、構えも変化させる(やはり、水を手本としている)ことが重要なのである。本来の目的は何なのか?そしてそのための手段は何なのか?そのあたりをよくわきまえなければならないのである。
たけくらべといふ事
たけくらべといふは、いづれにても敵へ入込む時、我身のちぢまざるやうにして、足をものべ、こしをものべ、くびをものべてつよく入り、敵のかほとかほとならべ、身のたけをくらぶるに、くらべかつと思ふほどたけ高くなつて、強く入る所、肝心也。能々工夫有るべし。

たけくらべとはどんな場合でも敵に身をよせる時、自分の体が萎縮してしまわないように、足も伸ばし、腰ものばし、首ものばして強く入るのである。敵の顔と自分の顔を並べ、背丈を比べて、自分が勝っていると思うぐらい、丈を高くして強く入ることが肝要である。よくよく工夫すべきである。
戦いの場では自分も相手も、迫り来る死の恐怖を少なからず感じるものである。ましてや、二人の間合いが詰まって刃物がすぐそばにある状態では、恐れのあまり腰がひけて体が萎縮してしまうのも自然なことだろう。しかし、それではいけない、というのがこの「たけくらべ」ということである。相手の懐に入るときは、自分が萎縮してしまわないように、自分の方が勝っているという気持ちで飛び込んで行かねばならないのである。「地の巻」で強調されていた自分の「拍子」を、自分で乱してしまわないようにすることが大切なのである。
身のあたりといふ事
身のあたりは、敵のきはへ入こみて、身にて敵にあたる心也。少し我顔をそばめ我左の肩を出し、敵のむねにあたる也。我身をいかほどもつよくなりあたる事、いきあふ拍子にて、はずむ心に入るべし。此入る事、入りならひ得ては敵二間も三間もはげのくほどつよきもの也。敵死入るほどもあたる也。能々鍛錬あるべし 。

身のあたり(体当たり)とは、敵のすぐそばへ入り込んで体で敵にあたることである。少し自分の顔をそむけて、左肩を出して敵の胸に当るのである。自分の身をとにかく強く当てるのである。勢いをつけはずむような気持ちで入りこまねばならない。これを習得すれば、敵を2間も3間もはねとばすほど強いものである。敵が死ぬほど当ることもできる。よくよく鍛錬すべきである。
様々な打撃を記す中で、ひとつ変わった技がこの「体当たり」である。実践的な兵法を教える武蔵は、剣術のみならず体術もその技に加えているのである。体当たりを教えるところを見ると、実戦慣れしている武蔵の横顔が見えるような気がする。
心むねをさすといふ事
心をさすといふは、戦のうちに、うへつまりわきつまりたる所などにて、きる事いづれもなりがたき時、敵をつく事、敵のうつ太刀をはづす心は、我太刀のむねを直に敵に見せて、太刀さきゆがまざるやうに引とりて敵のむねをつく事也。若し我くたびれたる時か、亦は刀のきれざる時などに、此儀もつぱらもちゆる心なり。能々分別すべし。

「心(心臓)をさす」というのは戦いにおいて、上が狭く脇も狭くなっている所などで斬ることも懐に入ることもできない時に、敵を突く事である。敵の太刀を外す心得は、太刀のみねを真っ直ぐに敵に見せて、太刀先がゆがまないように引いておいて敵の胸を突くのである。自分がくたびれた時、刀が斬れない時などに、もっぱらこの技を用いるのである。よくよくわきまえねばならない。
刀というのは「斬る」ことを主眼に置いているが、刺突もできるように作られている。刀が本来の機能を果たせない時でも使えるのが突き技もなのである。「斬る」だけでなく「突く」こともわきまえておかねばならない。
多敵のくらゐの事
多敵のくらゐといふは、一身にして大勢とたゝかふ時の事也。我が刀わきざしをぬきて左右へひろく太刀を横にすててかまゆる也。敵は四方よりかゝるとも一方へおひまはす心也。敵かゝるくらゐ、前後を見わけて先へすすむものに、はやくゆきあひ、大きに目をつけて敵打出すくらゐを得て、右の太刀も左の太刀も一度にふりちがへて、待つ事悪しし。はやく両脇のくらゐにかまへ、敵の出でたる所をつよくきりこみ、おつくづして、其儘又敵の出でたる方へかかり、ふりくづす心也。いかにもして敵をひとへにうをつなぎにおひなす心にしかけて、敵のかさなると見えば、其儘間をすかさず、強くはらひこむべし。敵あひこむ所、ひたとおひまはしぬれば、はかのゆきがたし。又敵の出するかたかたと思へば、待つ心ありて、はかゆきがたし。敵の敵の拍子をうけて、くづるゝ所をしり、勝つ事也。折々あひ手を余多よせ、おひこみつけて其心を得れば、一人の敵も十二十の敵も心安き事也。能く稽古して吟味有るべき也。

多敵のくらいというのは、一人で大勢の敵と戦う時のことである。自分の刀・脇差をぬいて左右へ広く脇に下げて構えるのである。敵は四方からかかってきても、一方へ追い回す気持ちで戦うのである。敵がかかってくる位置を見分けて先に来る者と戦い、全体に目をつけて敵が攻めてくる位置を知って、右の太刀も左の太刀も一度に振りちがえて斬るのである。そのまま待っているのは悪い。早く両脇に構えて敵がかかってきたところに強く切り込んで、押し崩し、そのまま敵出てきた方向にかかってふり崩していくのである。なんとしても間髪を入れずに強く払い込まなければならない。そのまま敵が出てきた方へかかっていくのである。なんとかして、敵を魚つなぎに追うようにして、敵が重なるのを見たらそのまますかさず強く払い込むべきである。敵がかたまっている所をひたおしにするのははかがいかない。また、敵が出てきたところを打とうとすれば、待つ心になってはかゆきがたい。敵の拍子を受けて、崩れるところを知って勝つのである。折に触れて相手をたくさん引き寄せて追い込み、その核心を得れば一人の敵も十人二十人の敵でも冷静に対処できるのである。よく稽古して吟味すべきである。
一人で大勢の敵と戦うことについて記されているのが、この「多敵のくらい」である。時代劇などで、一騎当千の主人公が大勢の敵を次々と打ち倒すシーンは実に爽快である。武蔵は、戦況をよく見て、敵を一方に追い込み「魚つなぎ」にして敵が重なったところ(つまり一列になったところ)で、強く斬り込めと書いている。現実生活でこういう状況にでくわすむ事はあまりないと思うが、数多くの困難な問題に直面することはあるだろう。そういう時でも、問題の優先順位をつけて一つずつ処理していけば状況を打開できるのかもしれない。
巻末
右書付くる所、一流の剣術、大形此巻に記し置く事也。兵法太刀を取りて人に勝つ所を覚ゆるは、先づ五つのおもてを以て五法の構をしり、太刀の道を覚えて惣躰自由そうたいやわらかになり、心のきゝ出でて道の拍子をしり、おのれと太刀も手さへて身も足も心の儘にほどけたる時に随ひ、一人にかち二人にかち、兵法の善悪をしる程になり、此一書の内を一ケ条一ケ条と稽古して敵とたたかひ、次第々々に道の利を得て、不断たえず心に懸け、いそぐ心なくして、折々手にふれては徳を覚え、いづれの人とも打合ひ、其心をしつて、千里の道もひと足宛ずつはこぶなり。緩々と思ひ、此法をおこなふ事、武士のやくなりと心得て、けふはきのふの我にかち、あすは下手にかち、後は上手に勝つとおもひ、此書物のごとくにして、少しもわきの道へ心のゆかざるやうに思うべし。縦ひ何程の敵に打かちても、ならひにそむくことにおいては、実の道にあるべからず。此利心にうかべては、一身を以て数十人にも勝つ心のわきまへあるべし。然る上は、剣術の智力にて大分一分の兵法をも得道すべし。千日の稽古を鍛とし万日の稽古を錬とす。能々吟味有るべきもの也。

右に書き付けたことは、二天一流の剣術をおおかた記したものである。兵法において、太刀を取って人に勝つことを会得するには、まず五つの基本型で五方の構えを知り、太刀の使い方を覚えて体全体が柔軟になり、心のはたらきが機敏となり、兵法の拍子を理解し、自然と太刀も手さばきも体も足も心のままに思いのままに動くようになる。それにともなって一人に勝ち二人に勝ち、兵法の善悪を知るほどになって、この書の一カ条一カ条を稽古して敵と戦い次第次第に兵法の利を会得して、常に心がけ、焦ることなく折にふれて戦ってはこつを覚えて、誰とでも打ち合い、相手の心を知るのである。千里の道も一歩ずつ進むのである。ゆっくりと考え、兵法を鍛錬することを武士の務めと心得、今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分より下手なものに勝ち、後は自分より上手に勝つと思って、この書物のようにして少しもわき道へ心がそれないようにすべきである。たとえどれほどの敵に打ち勝っても、習ったことに背いていては本当の兵法の道ではない。この理を心に浮かべたなら、一身で数十人相手でも勝つ心がわかるはずである。そうなれば、剣術の知力で、多人数、1対1の兵法をも会得できるだろう。千日の稽古を「鍛」とし、万日の稽古を「錬」とする。よくよく吟味すべきである。
地の巻でも述べられていたように、人よりも優れた者になるには、普段の稽古が大切であり、そしてそれこそが武士の務めなのである。武蔵が言う武士道は、鍛錬の連続なのである。  
火の巻 
くづれを知るといふ事
崩といふ事は物毎ある物也。其家のくづるる、身のくづるる、敵のくづるる事も、時のあたりて、拍子ちがひになりてくづるる所也。大分の兵法にしても、敵のくづるる拍子を得て其間をぬかさぬやうに追ひたつる事肝要也。くづるる所のいきをぬかしては、たてかへす所有るべし。又一分の兵法にも、戦ふ内に敵の拍子ちがひてくづれめのつくもの也。其ほどを油断すれば、又たちかへり、新敷あたらしくなりてはかゆかざる所也。其くづれめにつき、敵のかほたてなほさざるやうに、たしかに追ひかくる所肝要也。追懸くるは直につよき心也。敵たてかへさざるように打ちはなすもの也。打ちはなすといふ事、能々分別有るべし。はなれざればしだるき心有り。工夫すべきもの也。

崩れということは、何事にもあるものである。家が崩れる、身が崩れる、敵が崩れるのも、その時にあたって拍子が狂って崩れるのである。多人数の戦においても、敵が崩れる拍子をつかんでその時をはずさないように追い立てることが肝要である。崩れた時を逃すと、敵が盛り返すこともあるだろう。また、一対一の兵法においても、戦っているうちに敵の拍子の崩れが目に見えるものである。そこで油断すると、また立ち直って新たな拍子になってどうにもならなくなるのである。敵の崩れが目についた時、立て直されないように追い討ちをかけるのが肝要である。追いかけるのは一気に強くうつことである。敵が立ち直れないように打ちはなすのである。打ちはなすという事はよく理解しなければならない。打ちはなさなければ、ぐずぐずしがちになる。工夫すべきことである。
敵が隙を見せたら、その隙が消えないうちに攻撃を加える、ということは勝負の世界ではごく普通のことである。戦の時はなおさらであろう。敵が拍子を崩した時こそが、攻撃を加えるべき時であるので、敵の拍子が崩れる時を的確に掴むようにしなければならないのである。攻撃の機会を見逃して次を待つ、というのは二流三流のやり方である、という台詞を聞いたことがあるが、確かにその通りではないだろうか?
敵になるといふ事
敵になるといふは、我身を敵になり替へて思ふべきといふ所也。世中をみるに、ぬすみなどして家の内へ取籠るやうなるものをも、敵をつよく思ひなすもの也。敵になりておもへば、世中の人を皆相手とし、にげこみてせんかたなき心なり。取籠るものは雉子也、打果しに入る人は鷹也。能々工夫あるべし。大きなる兵法にしても、敵をいへばつよく思ひて、大事にかくるもの也。よき人数を持ち、兵法の道理を能く知り、敵に勝つといふ所をよくうけては、気遣いすべき道にあらず。一分の兵法も、敵になりておもふべし。兵法よく心得て、道理つよく、其道達者なるものにあひては、必ずまくると思ふ所也。能々吟味すべし。

敵になる、ということは、自分が敵の身になって考えることである。世の中を見ると、たとえば盗賊などが家に立てこもっているのを、非常に強い敵のように考えてしまうものである。敵の身になって考えれば、世の中の人を皆敵に回し、逃げ込んでどうにもならない、進退窮まった気持ちである。立てこもっている人は雉であり、討ち取りに入り込む人は鷹である。よく考えなければならない。大人数の戦においても、敵は強いものと考えて大事をとってかかるものである。しかし、十分な人数を持ち、兵法の道理をよく知っており、敵に勝つところをよく心得ているのなら、心配すべきことではない。一対一の戦いも、敵になって考えるべきである。兵法をよく心得て、剣理に明るく、武道に優れているものに遭っては、必ず負けると思うものである。よくよく工夫すべきである。
「相手の身になって考えてみなさい」という言葉は、子供のいじめや悪戯を注意する親や教師がよくいう台詞だが、兵法においても実に大切なことである。敵の身になることができれば、敵の拍子がわかるだろう。敵の拍子がつかむことができれば、有利に戦いを進めて勝利することができるだろう。勝負の世界に限らず、よくある対人関係問題も、「敵になる」ことで道が開けるかもしれない。
さんかいのかはりといふ事
山海の心といふは、敵我たたかひのうちに、同じ事を度々する事悪しき所也。同じ事二度は是非に及ばず、三度するにあらず。敵にわざをしかくるに、一度にてもちひずば、今一つもせきかけて、其利に及ばず、各別替りたる事をほつとしかけ、それにもはかゆかずば、亦各別の事をしかくべし。然るによつて、敵山と思はば海としかけ、海と思はば山としかくる心、兵法の道也。能々吟味有るべき事也。

山海の心というものは、敵との戦いの中で同じ事を何度も繰り返すことは悪い、ということである。同じ事を二度するのは仕方ないが、三度してはならない。敵に技を仕掛ける時に、一度で成功しないときはもう一度仕掛けても効果はない。まったく違ったやり方をしかけそれでもうまくいかなければ、さらにまた別の方法をしかけるのである。このように、もし敵が山と思うなら海、もし海と思うなら山と、意表をつくことが兵法の道である。よくよく吟味すべきことである。
効果のないことを繰り返すな、という教えはよく胸に刻んでおかねばならないだろう。効果が上がらないことを何度も繰り返すことは地の巻巻末の9つの教えの最後「役にたたぬ事をせざる事」にかかるものである。例え以前にその方法で成功したとしても、今回も同じやり方でうまくいくとは限らない。その時に応じて変えていかねばならない、という教えは他の書物でもたびたび見かけるものである。
そとうごしゆといふ事
鼠頭午首そとうごしゅといふは、敵と戦のうちに、互にこまかなる所を思ひ合はせて、もつるる心になる時、兵法の道をつねに鼠頭午首そとうごしゆとおもひて、いかにもこまかなるうちに、俄に大きなる心にして大小にかはる事、兵法一つの心だて也。平生へいぜい人の心も、そとうごしゆと思ふべき所、武士の肝心也。兵法大分小分にしても、此心をはなるべからず。此事能々可有吟味者也このことよくよくぎんみあるべきものなり。

鼠頭午首というのは、敵との戦いの最中にお互いに細かいところばかり気をとられてもつれ合う状況になった時、兵法の道を常に鼠頭午首鼠頭午首と思って、細かな心からたちまち大きな心になって、大きく小さく変わる事が、兵法の一つの心がけである。平生から、鼠頭午首を心がけることが、武士にとって肝心なことである。合戦にしても、一対一の戦いにしても、この心から離れてはならない。よくよく吟味すべきである。
戦いの最中でも、相手のわずかな変化を見逃さないように細心の注意を払うことは大事なことであるが、気にしすぎると細かいところばかりにとらわれてしまう。細心さと同時に大胆さも持ち合わせなければならないのである。武蔵も書いているが、この事は戦という状況に限ったものではなく、普段から心がけておくべきことだろう。  
空の巻 
二刀一流の兵法の道、空の巻として書顕はす事、空といふ心は、物毎のなき所、しれざる事を空と見たつる也。勿論空はなきなり。ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也。世の中においてあしく見れば、物をわきまへざる所を空と見る所、実の空にはあらず、皆まよふ心なり。此兵法の道においても、武士として道をおこなふに、士の法をしらざる所、空にはあらずして色々まよひありて、せんかたなき所を空といふなれども、是実の空にはあらざる也。武士は兵法の道をたしかに覚え、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらかず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなくまよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也。実の道をしらざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれはたしかなる道とおもひ、よき事とおもへども、心の直道じきどうよりして、世の大かねにあはせて見る時は、其身其身の心のひいき、其目其目のひづみによって、実の道にはそむく物也。其心をしつて直なる所を本とし、実の心を道として兵法を広くおこなひ、ただしく明らかに大きなる所をおもひとつて空を道とし、道を空と見る所也。
空は有善無悪、智は有也、利は有也、道は有也、心は空也。

二刀一流の兵法の道を、空の巻として書き表した。空という心は、物事がない所、知ることができない事を空と見るのである。もちろん、空とは何もないことである。ものがあることを知って、ないこと知る、これが空である。世間一般の軽薄な見方では、物事の道理をわきまえないこと空としているが、真の空ではなく、すべて迷いの心である。この兵法の道においても、武士として道を歩んでいくのに、武士の掟を知らず、空になれずにいろいろ迷いがあってどうしようもないことを空と言うけれども、これは正しい空ではない。武士は兵法をしっかりと身につけ、その他の武芸もよく練習し、武士が進む道は少しも暗くなく、心が迷うこともなく、常に怠らず、心と意の二つを磨いて、観と見の二つの眼をとぎすまして、少しも曇りのない迷いの雲が晴れたところこそ、正しい空だと考えるべきである。正しいことを知らない間は、仏法に頼ることなく、世間一般に頼ることもなく、個人個人では正しい道と思って、よいことだと思っても、正しい道から世の中の大きな物差し(規準)に照らし合わせると、自身の気持ちのひいき、自身の目のひづみのために、正しい道にそむいているものである。この道理をわきまえてまっすぐな所を根本とし、正しい心を道として兵法を幅広く鍛錬し、正しく明らかで大きな所をつかんで、空を道とし、道を空とみるのである。
空には善のみがあり悪はない。兵法の智、兵法の利、兵法の道を備えることで、その心は空の域に達するのである。
武蔵が言う「空」とは、悟りを開いた境地とも言い換えることができるだろうか。真に優れた剣士は、頭で考えずとも体が自然に動くという。武蔵はその人生の後半になって、その境地にたどり着くことができたのだろう。
拙者なども、人生を悟ったかのような感覚を覚えるが、独りよがりに過ぎないことに気付いたことはいくつかある。武蔵が言うことは、言葉として、理論として理解することはできても、それを体感することはまだできないし、体感できる時が来るかどうかもわからない。ただ一つ言えることは、鍛錬しなければ絶対にわからない、ということである。武蔵が言う「空の心」は、頭の中で組み立てられた理論だけで成り立っているものではないのである。武蔵がこれまで語ってきた兵法は全て、いかにして現実に役立てるか、ということである。実際に体を動かして探りえたものなのである。空の心は、頭よりも体の方がわかりやすいものなのかもしれない。 
 
「五輪書」 3 技の解説

 

宮本武蔵の兵法の集大成である五輪書も、ビジネス戦略や精神修養の意味では読まれていますが、真の古武道の書としては現在、理解出来る人は少ないと思われます。その理由は、ここに書かれている身体の使い方が、西洋式の体操に慣れた現代人には分からなくなっているからです。著者は、書に書かれている技を分かりやすく解説しようと試みます。武蔵の簡単に書かれた文章からその身体法、敵への対処法を再構成するために、ヒントとなったのが、現在に多くの古い技を残している尾張柳生新陰流の研究でした。と言っても日本人はまだ古い記憶を持っています。お盆で踊る踊りにも、古武道の基本である「ナンバ」の身体法が残っているのです。
はじめに
今までの一般的な訳から脱却して、古武道としての教え、考え方を武蔵に傾倒することなく、客観的に解説していきたいと考えています。
また、身体勢法として多くの技を現在に残している、尾張柳生新陰流と対比させながら、分析も行います。二天一流と新陰流の剣理は、双子の様に似ている事が分かります。これは元々古武道というものが底流にて同じものであったのか、それぞれの創出者が同じ境地に至ったためか、今となっては不明です。
五輪書は、地・水・火・風・空 の五巻で構成されています。奥付によると正保二年(1645)五月十二日、一番弟子の寺尾孫之丞信正に与えた口伝書です。武蔵はその一週間後、五月十九日に六十二歳に没します。
地之巻 兵法者の平生の心構え
水之巻 二天一流の技の基礎
火之巻 兵法の駆け引き、利を得ること
風之巻 他流派の癖、弱点を知る事
空之巻 二天一流の境地
本著では、二天一流の斬り合いの方法を記述した『水之巻』を徹底的に解説しようと試みています。
まず(原文)、(現代語訳)の順序に各節を説明します。必要に応じて(解説)を記しました。 
水之巻 

兵法二天一流の心、水を本として、利方の法を行ふにより水の巻として、一流の太刀筋、此書に書顕すものなり。此道何れも細やかに心の侭には書分がたし。たとひことばは続かざると云ふとも、利は自から聞ゆべし。此書に書つけたる処、一ことゝゝ、一字々々にて思案すべし。大方におもひては、道のちがふことおおかるべし。兵法の利におゐて、一人一人との勝負のやうに書付たる所なり共、万人と万人との合戦の理に心得、大きに見立るところ肝要なり。此道に限って、少しなりとも、道を見違へ、道の迷ひありては、悪道におつるものなり。此書付ばかりを見て、兵法の道には及ぶ事にあらず。此書に書付たるを、我身に取つての書付と心得、見ると思はず習ふと思はず、贋物にせずして、即ち我心より見出したる利にして、常に其身になつて、能々工夫すべし。

兵法二天一流の心、水の様に変幻自在を本意として、兵法の理法を追求することにより『水の巻』を編む。
当流(二天一流)の太刀筋を、この書に書き表す。ただしあらゆることを細やかには書く事は出来ない。例え私の言葉は完全ではないと言えども、修行のうちに当流の理法は自ずと体得出来るだろう。
この書に書き付けた事は、一言一言、一字一字思案して欲しい。適当に考えては勘違いをすることが多い。
兵法の理法において一対一の勝負の様に書いたところもあるが、万と万の戦いにも通じると心得て、大勢を見誤らないことが重要である。
兵法は、少しの見誤りも道を違えることとなり、さらに迷ってしまえば完全に誤った方向に向かってしまうだろう。
この書を見ても兵法を会得することにはならない。書いてある事を自分のための書き付けと思い、完全に自分のものにして、自身が見いだした理法として、私と同じ境地に立って、よくよく工夫をして欲しい。  
第一節 
兵法心持の事
兵法の道において、心の持様は、常の心にかはる事なかれ。常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にし、きつくひっぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心を直中に置て、心を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那も、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。静かなるときも心は静かならず、如何に疾き時も心は少もはやからず、心は体につれず、体は心につれず、心に用心して、身には用心をせず、心の足らぬことなくして、心を少しも余らせず、上の心はよわくとも、底の心をつよく、心を人に見分けられざるやうにして、小身なるものは心に大き成事を残らず知り、大身なるものは心に小きことをよく知りて、大身も小身も、心を直にして、我身の贔弱をせざる様に心持ち肝要なり。心のうち濁らず、広くして、ひろき処へ智恵を置べきなり。智恵も心もひたと研くこと専らなり。智恵を磨ぎ天下の理非をわきまへ、物事の善悪を知り、万の芸能、其の道々をわたり、世間の人に少しもだまされざる様にして後、兵法の智恵と成る心なり。兵法の智恵に於て、取分けちがふ事ある物なり。戦の場万事せわしき時なりとも、兵法の道理を極め動きなき心、能々吟味すべし。

兵法の道において、心の持ち方は常に平常心である。平時も戦う時も少しも変わることなく、心を広く素直に持ち、緊張せず弛ませず、執着しないように心を落ち着かせ、静かに働かせ、その働きの一瞬も止まることがないよう、よくよく心得よ。
まわりが静かであっても、それに釣られてはならない。せわしない時は動じてはならない。心は身体に惑わされてはならない。身体も心に影響されてはならない。心に用心をし、身体には用心をしない。
心の働きに不足、余りが無いようにし、外見の心は弱く見せても内心は強く、人に心を見透かされないようにして、身体が小さい人は心を大きく持ち、身体が大きい人は細やかな心持ちを忘れず、身体の条件に関わらず心を素直にして、楽な方に流れないように心掛けることが肝要だ。
心を濁らせず広く持ち、自在に知恵を出す。知恵も心も一心に磨くことを心掛けよ。知恵を磨き、物事の善悪を知り、色々な芸能、技術を知り、世間の嘘を見破れるようになって後、ようやく兵法の知恵が得られる。兵法の知恵はそれらの知恵を凌駕しているものだ。いくさの場で戦況がせわしくなった時でも、兵法の道理を極めて動じない心を持つ事。よくよく考えて欲しい。  
第二節
兵法の身なりの事
身のかかり、顔はうつむかず、仰のかず、かたむかず、ひずまず、目をみださず、額にしわをよせず、眉あいに皺をよせて目の玉動かざるやうにして、瞬きをせぬやうにおもひて、目を少しすくめるやうにして、うらやかに見るるかを、鼻すじ直にして、少しおとがいを出す心なり。首は後ろの筋を直に、うなじに力を入て、肩より惣身はひとしく覚え、両の肩をさげ、脊筋をろくに、尻をいださず、膝より足の先まで力を入て、腰の屈まざる様に腹をはり、楔をしむると云て、脇差の鞘に腹をもたせ、帯のくつろがざるやうに、くさびをしむると云ふ教へあり。総て兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり。よくゝゝ吟味すべし。

敵と向かう時、顔は俯かせず、上げ過ぎず、斜めにせず、歪ませず、目をきょろきょろさせず、顔を顰めず、眉に力を入れて目玉を動かさず、瞬またたきを抑えて、遠くを見るような目で、落ち着いて眺め、鼻筋を通す様に真っ直ぐ立ち、少し顎あごを出す感じにする。
首筋を伸ばし、うなじに力を入れ、肩から全身に気を回し、両肩は自然に垂らし、背筋をぴんとし、尻を突き出さずに、膝から下に力を充実させ、腰が屈まないように腹に力を入れ、楔くさびを絞めると言われるところの脇差しの鞘に腹を押しつける感じで、帯が緩まないようにするという古来の教えに従え。
全てに於いて、兵法をやるからにはこの身勢を常に保つことが大事だ。よく考えて工夫すべし。
(解説)
これは敵と相対した時の『身体のありかた』を教えていることはすぐ分かりますが、現代人にとってこの姿勢を取れる人は希ではないでしょうか?
居合をやっている人や礼法を習っている人の身のこなしに似ているとは思いますが、首の後ろを張って『少しおとがい(顎)を出し』ている人は少ないと思います。
顎を出すのは新陰流でいわれる『位を取る』姿に通じると思われ、相手と戦う前から見下ろし、心の中では既に勝っている状態になることを示します。新陰流ではこれを『先々の先』の位と言います。
首の後ろに力を入れ、両肩を自然に下げ、背筋を伸ばすが尻を出さず、というのは今の私たちでは非常に難しい格好です。現代のアスリートなら胸を張り胸筋に力を入れ、尻を突き出しますよね。これが西欧流の正しい『直立』ですが、日本の古武道では違うのです。
ここで教えられた通りに立つと、肩はどちらかというと前方に垂れます。手に何も持っていないと、胸をあまり張らず普通に立つ格好ですが、刀を両手で前に下げた時は胸を張ると窮屈になります。そこで胸はあまり張らずに自然に肩が前に垂れます(垂らします)。そして肩の関節を肩胛骨から独立させて伸ばせるようになると、刀を振る時の円が大きくなり、遠い間合いから打ち込むことが可能になるわけです。
『くさびをしむる』というのは、脇差しを『楔』に例えて、腹を張って腰を落ち着かせるということの様に思えます。臍下丹田に力を入れろということは昔から言われてますが、どういうことでしょうか?
私の解釈では、背骨の最下部の『仙骨』の下(尾てい骨側)を前方に丸める様に力を入れることと考えます。そうすると、尻は突き出ずに却って引っ込みます。
これは相撲を取る時に、相手を押し倒す腰の入れ方と同じです。腰を反らしていると、押される力に上体が対抗出来ません。刀を持って、片足を大きく踏み込んで斬り込む瞬間もこの腰を保てと武蔵は教えています。ここでは詳しく書きませんが、この習いの通り、踏み込む時、後ろの脚は真っ直ぐに踏ん張らなくてはなりません。刀と刀で押し合いをする時に、後ろ足の膝が曲がったままだと、この姿勢を貫くことが難しくなります。
仙骨を張ったまま動くことの重要さは、斬り合いの基本となります。この巻の他の部分にも出てきますが、斬り込む時に『腰から動く』ことが肝要なので、このように教えるのです。
腕だけで刀を振ることと身体が前のめりになることを禁習とするための、一つの身体矯正法と言えるでしょう。仙骨に力が入ってないと『へっぴり腰』になります。
腕だけで刀を振ったり、へっぴり腰になったりすると、相手を刀のもの打ち(刀の切っ先から9センチぐらい手前のところ)で打った時、最大の破壊力は生まれません。どこかしら不十分な攻撃になります。不十分な攻撃ということは、自分を危険に晒すことと同じです。
不十分な動作は自由度が大きく、その分、正しい姿勢が崩れやすくなります。崩れると、次の瞬間に身体が『居着く』(両脚の体重移動が自由に出来なくなる、など)可能性が高くなります。つまり、相手の反撃に晒された時、動けず斬られる危険性が高くなります。
またこの節で驚くのは、この背を伸ばして立つことは、戦国時代の腰を十分落として構える『沈なる構え』ではないということです。
歴史上、現代剣道の様に真っ直ぐ立った姿勢で構えることは、柳生新陰流第三世の、柳生兵庫助(天正7年(1579年)〜 慶安3年(1650年))が始めたと言われています。彼が仕えた尾張徳川家で、それまでの構えを変革した体勢なのです。武蔵が『五輪書』を書き始めたのが寛永二十年(1643)と言われるので、この二人が生きた時代は丁度同じ頃です。吉川英治が、武蔵が兵庫助と邂逅するエピソードを書いていますが、あながち架空とは言えなくなりました。ひょっとすると、お互いに研鑽し合い、似た様な結論に至ったのかも知れません・・・
このように人間の身体を正しく使うことを伝えるために、文章を以てしても難しいということは、古今の真理であります。どの流派の伝書を見ても、一文にて全てを述べる事はしておらず好習(良い習い)・禁習(悪い習い)の『一言』が横串を刺すように色々な箇所で述べられます。確かに私も一つの技の解説を試みる時に、付随する全てを述べるとポイントがぶれてしまうというジレンマに陥ります。五輪書も、各論を通してその『横串』が有機的に刺さっているために、全文を総じて見ないと駄目な分けです。
武蔵も『この書のみに従え修行せよ。出ないと間違った方向にいくぞ』ということを強調しており、『五輪書』の全体を一貫して身につけないと、彼が『到達』した技は伝えられないと考えていたに違いありません。  
第三節
兵法の眼付と云ふ事
眼の付け様は、大きに広く付るなり。観見の二つあり、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり。敵の太刀を知り、聊いささかも敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事なり。工夫あるべし。此眼付、小さき兵法にも、大なる兵法にも同じ事なり。目の玉動かずして、両脇を見ること肝要なり。か様のこと、急がしき時、俄にわきまへがたし。此書付を覚え、常住此眼付になりて、何事にも眼付のかはらざる処、能々吟味有べきものなり。

兵法には、敵に対して目付めつけということがある。それは、視野を大きく広く見ることである。
目付には、観かんと見けんの二つの目付がある。観は心で見て、見は眼まなこで見る事である。
兵法では、心で察知するということを重要視して、実際に目で見ることはその次ぎにし、近いところも遠いところも同様に感じなくてはならない。
敵の太刀の振られようを察知し、それをいちいち見なくとも良いようにすることが重要だ。工夫せよ。
この目付の重要さは一対一でも多数同志(あるいは一対多数)の戦いでも同様だ。目玉を動かさないで両脇を見るようにせよ。これは戦況がせわしくなると出来なくなる。よってこの書き付けを覚えておいて、常にこの目付を取り、どんな状況でもそれを忘れてはならない。よくよく吟味せよ。
(解説)
目付とは流派により色々な教えがあります。武蔵自身も『風之巻』にて他流派の目付を述べていますが、二天一流に於いては、
(1)目を動かさず、全体を見る
(2)全体の観察から相手の刀を見なくとも、その動きを察知する
と教えています。
新陰流では、第二世柳生石舟斎と第三世柳生兵庫助とでは少し教え方が変わりますが、武蔵が言う全く同じ言葉『観見の目付』を教えています。新陰流の目の付けようとしては、拳、目、顔などになります。しかし敵に勝つ方法に流派による違いがあるはずは無く、『観見の目付』で敵の心の動きを察知し、先を取る、と言うのが、両流派の考えの本質です。
武蔵も水之巻の序文で、自分の言葉では言い尽くせないことがある、と書いており、実は我々もこれを肝に銘じて読む事が肝要であります。
この節の原文をその通りに実行しても、本当に敵の心が読めるとは思えません。相手の心を読むためにはその表情、力のいれどころ、目線の先、刀の構え方、足の位置など、一所懸命に目で情報を得なければなりません。
ここでは、そういう作業を一見で終了して、相手の次の動作を察知し、先を取れと言っているのです。私はさらに、それを一瞬で終わらせ、すぐさま敵の隙を打てと解釈します。原文ではよく分からないですが、時間的な余裕はない筈です。相手の刀を見なくとも済むようにせよ、とはこれらのもろもろを一言で集約した教条と思われます。
また『遠き所を近きに見て云々』という文がありますが、私は簡単に『近いところも遠いところも同様に感じ』と訳しました。しかし遠くの風景を近くと同じように感じるということでは勿論ないでしょう。再び新陰流にヒントを求めると、相手の打ってくる動作に、刀の切っ先を前にした状態から打ってくる場合と、切っ先を後ろにした状態から打ってくる場合の対処が口伝書にあります。つまり我にその刀が当たるまでの時間と刃筋が異なります。新陰流ではそれを自分と敵の『拍子』として考え対処するのでありますが、多分、武蔵の言いたい事もそんなところかなと思います。勿論、遠近は同じでは無いはずですが、『拍子』を取る事、あるいは『先』を取る事に関しては同じ心持ちであると言ったところでしょうか。訳不能の箇所であります。
さらに武蔵は全く言葉を残していない本質があります。何でしょう?
読者が敵を前にして、この節の教えを実行しようとしています。想像して下さい。
真剣を持って殺し合いをする時に、相手の刀を見ないで済むほどに心静かになれるものでしょうか?刀をぶら下げていた時代は現代と違って斬断された身体を見る事が多かったと思いますが、あなたが次にはそれが自分か敵に起こるのだということを想像出来なかったら、それは空想力の欠如というものです。
この武道書を読み切るには、武士としての『勇』を持っていなければ意味がないのです。
武蔵やその弟子達のレベルは、私たちが図り知る事が出来ないほどの戦闘意欲の高みにあったでしょう。
『敵の振り下ろす白刃の前にずいと踏み込んで行くほどの勇気と度胸がなければ、この書を読むほどの意味はない』とは言い過ぎでしょうか?  
第四節
太刀の持様の事
太刀のとりやうは大ゆび人指ひとさしを浮ける心にもち、丈高指(中指)はしめずゆるまず、くすし指小指をしむる心にして持つ也。手の内にはくつろぎの有る事あ(悪)しし。敵をきるものなりとおもひて、太刀をとるべし。敵を切時も手のうちに変りなく、手のすくまざるやうに持べし。若し敵の太刀をはる事、受る事、あたる事、おさゆる事ありとも、大ゆび人さし指ばかりを少し替わる心にして、兎にも角にも、きると思ひて太刀を取るべし。ためしものなどきる時の手の内も、兵法にしてきる時の手の内も、人を切るといふ手の内に替わる事なし、総じて、太刀にても、手にても、いつくと云事を嫌ふ。いつくはしぬる手なり。いつかざるはいきる手也。能く心得べきもの也。

刀を持つ時は、親指と人差し指を浮かす気持ちで持ち、中指は絞めすぎたり緩めすぎたりしないようにして、薬指と小指で絞めるように持つ。
手の内(この持ち方)には隙間があってはならない。敵を必ず殺すんだという気持ちで刀を持て。敵を斬り殺す時もこの手の内をそのまま保ち、手の一所に力が入りすぎるなどあってはならない。
もし敵の刀を『張る』時、受ける時、当てる時、抑える時でも、親指人差し指に少し力を入れる事があるが、とにかく、そのまま斬るんだと決めて刀を持て。
試し切りをする時でもこの兵法で斬る時でも、人を斬るというこの手の内は同じなのだ。
基本的に、刀にも、手にも、『居着く』ということが無いようにせよ。居着くと攻撃をさばけず死に至り、居着かず自由に刀を振れれば死地に生を見いだせる。良く心得よ。
(解説)
原文で出てくる『てのうち』という言葉は、柳生新陰流でも同じ言葉を使い、刀の持ち方のこと、ということをお知らせしておきます。訳して驚きましたが、全く同じことを教えているようです。
この節では、2つのことを教えています。
(1) 『手の内うち』と呼ばれる刀の持ち方。
(2) 斬る時の心の持ち方と、『居着く』という禁習やってはいけないこと。
まず(1)から。
刀の握り方は親指と人差し指を浮かせ、中指は軽く押さえ、薬指・小指でしっかりと刀の柄を巻くように押さえる。
剣道か居合をやっておられる読者で、真剣か居合刀を持っていらっしゃる方は、刀を抜いて中段に構えて見て下さい。両手ともこのように握っておられる方はどれほどいるでしょうか?
ゴルフをやっておられる方は、クラブの持ち方に似ている、と思われるかも知れません。
また、武蔵も全てを言い表しているわけではありませんので、武蔵が『常識』と考えていることは実はここには書いてないのです。武蔵と雖も、人間です、完全ではありません。ここは他の古武道に伝わっている『常識』を加味して説明します。
私はここで記述されている『手の内』の形は、ゴルフの握り方を両手の間隔を空けて、刀の柄つかを持った形に非常に近い、と考えてます。
上から見ると、親指と人差し指は丸くなって柄から少し浮き、酒のお猪口を持つような形になってます。落語家が酒を飲む振りをする、あの指の形です。
ゴルフの初心者用の教本によると、その親指と人差し指の付け根は鋭い角度でえぐれて、その『口』の筋は右手なら左の肩の方を指すようになっています。これはゴルフクラブのグリップが丸く細いので手首を絞り込むためですが、刀を握る場合は、そこまで搾ると振りにくくなります。両手首がほんの少し反るぐらいで自然に刀を握ります。
手首がほんの少し外側に反ることで、斬った瞬間、肘を伸ばして、肘・手首から体重を乗せることが出来ます。
(2)ではその手の内をそのまま、敵を斬り殺す時に使えと教えています。
試し切りをするときも、戦う時も、手の内は変えてはならないということです。
次ぎに『居着く』とはどんなことでしょうか。
よく巻き藁を切って稽古している場面を見ますが、敵を斬るために練習しているとは思えないことがあります。切る前に弾みを付けたり、手首を使ったり(古武道では『くねり打ち』と呼ばれている脇道の一つ)、力を妙に抜いたりです。
うまく切った後、『残心ざんしん』という心身の状況に入りますが、もしも、相手が死にきれず、再び挑み掛かられたらどうでしょう?簡単に斬り殺されてしまっては稽古する意味はありません。
相手の反撃にたちまち対処出来ない状況に身体があれば、戦闘で生き抜くことは難しく、これを武蔵は『居着く』と言っているのです。攻撃する時は一心に攻撃を行わなければなりませんが、一旦動作を停止した時に勝負の分かれ道が訪れます。
『居着く』とは、身体のどこかに力み・たるみがあって、次の瞬間に攻撃された時、すぐに正しい動作が出来ない状況を意味しています。これは足腰の状態も関係しますが、この節では、武蔵は手の内に関して言っています。
居着かないためには、相手を真っ二つにし、刀をさらにめり込ましている時でさえ、武蔵は手の内を握った時と同じにしておけと教えています。常人では出来そうも無いですが。
ここで大切なのは、全編に一貫して教えている『平常心』という観念です。
平常心を以て、『兵法の身なりの事』で出てきた姿勢、そしてこの節で教えた『手の内』を常に保つこと。
よくよく読者の御工夫の成果を祈ります。でも辻斬りはしないでくださいね。
よってくだんの如くなり。  
第五節
足づかいの事
足のはこびやうの事、爪先を少しうけてきびすを強くふむべし。足づかいは、ことによりて大小遅速はありとも常にあゆむが如し。足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて、是三つ、嫌ふ足なり。此道の大事にいはく、陰陽の足と云ふことあり。是れ肝要なり。陰陽の足とは、片足ばかり動かさぬ物なり。きる時、引時、受る時までも、陰陽とて右左ゝゝとふむ足なり。返すゞゝ、片足ふむことあるべからず。能々吟味すべきものなり。

足の運びかたは、爪先を少し浮かせて踵を強く踏むこと。足使いは時に応じて大きく・小さく・遅く・早くするが、常に普通に歩く様にする。
飛ぶ、足を浮かせる、腰を落として踏みつける、の三つはやってはいけない。
兵法の大切なことに『陰陽の足』という教えがある。これは当流(二天一流のこと)にとっても重要なことだ。
陰陽の足使いとは、片足だけを動かしてはならないということだ。
斬る時、引く時、刀を受ける時でも、陰陽の両極を交互に渡る様に、右左右左と踏んでいく。何度も言うようだが、どちらかの片足だけ中心にして、スキップを踏むような足運びをしてはならない。良く吟味して欲しい。
(解説)
これを読んで、現代剣道とは大分違うなと思われた読者は多いと思います。
現代剣道の足運びは、主に右足を前に出して踏み込み、引き、防ぎます。後ろ足はつま先立ってます。踏み換えて稽古することはまずありません。却って滑稽に見えるかも知れません。
現代剣道で、武蔵が教えるような足の使い方が有効なのか私には分かりません。剣道家で『五輪書』を読まれた方のご意見を聞いてみたいと思います。それとも『足を踏み換えていたらスピードが落ちて打ち込まれるさ。これは昔の教えだよ』、と言うことかも知れません。
一般の人が読むと、身体の動かし方としては意味が分からず、ここは飛ばしてしまう方が多いのではないでしょうか。
古武道と現代剣道の決定的な違いがこの節で明らかになりました。
要約した次の三点は全く現代剣道の動きと違います。
(1)決して飛び跳ねたりせず、普通に歩む様にする。
(2)爪先だってはいけない。両足とも指を上げるようにして、足の裏(踵)で床を踏んでいなければならない。
(3)斬る時、引く時などは、足を交互に踏み換えてつかう。
大正・昭和期の柳生新陰流の第二十世宗家、柳生厳長先生が『剣道八講』という著書で、現代剣道を批判している部分がありますが、その理由の一つがまさにこの違いであります。
それに講談や映画によると、武蔵は巌流島で飛び上がって佐々木小次郎の頭を撃ったんじゃないか!
これを読むと嘘っぱちの様ですね。大体、砂浜で飛び上がるなど出来ないと思いますが・・・
どうして古武道は、この様な『どん亀』の様な動きを重視するのか?
理由は、真剣の『重さ』と『刃の向き』にあると私は考えています。そして、何を『勝ち』とするかという、勝負の本質の違いでもあると。
真剣の重さと刃の向きに関して、私の経験を例にお話ししましょう。
私も剣道をやっていましたが、いつも小説やテレビに出てくる剣豪に憧れていました。
ある日、真剣と同じ重さ・長さを持つ居合刀(模造刀)を手に入れて、素振りをしました。竹刀と違って、刀は重く、重心の重さが手先に掛かります。自己流でも正しく振れれば、ひょうと空気を切る音がすると考えました。
慎重に刀の切る方向に刃先を合わせようとますが、有効な切り方をするには慣れが必要です。失敗する方が多かった。
身体を鍛えればいつか、映画の剣豪のように、真剣も竹刀のようにびゅんびゅんと振れる様になる、と思ってました。
ところが、練習を続けていくうちに腕の筋肉が痛み出し、手首も壊してしまいました。
何がいけなかったのか?
私は悩みましたが、古武道の研究をし始めてから大分時間が経って、その原因が分かってきました。
真剣を剣道でやるように、手首を使って振ろうとしていたのです。
重い真剣を宙に飛んでひゅうと振り、相手を倒す。こんな幻想を持って刀を振ったのが間違いでした。
いくら練習しても、うまく当たればご覧じろ。手首を使った振り方は、刀がどこで止まるか分からず、刃が斬るものに正しく垂直に当たっているかも時の運です。
自分が格好良く切り抜いても、相手がすばやく、避けられていたら、・・・次の瞬間、私の首は飛んでいるでしょう。なにせ、刀の重さで手首は曲がり、身体が泳いで、へっぴり腰になっているはずですから。
たとえ話が長くなりましたが、真剣を以てその『斬るという使命』を成就させるには、武蔵は前述の三点を守れないと、駄目だと言っているのです。
『足を踏み換える』なんて、想像出来ないぞ、とおおかたの人は考えると思いますが、それを積極的に実践している古武道の流派が一つだけ現在に残ってます。
この著作の最初から引き合いに出している柳生新陰流です。
実は、『五輪書』を読んでいて思ったのですが、武蔵が書いている要点は、新陰流の伝書にあることと殆ど同じなのです。まるで交流があったようにです。
これは一道を突き詰めていけば、真理は同じなのだということなのかも知れません。
あるいは、仮説ですが、元来、古武道は基本的な身勢法は同じだったのかも知れません。
『足を踏み換える』を文章で説明するのは至難の技ですが、挑戦してみましょう。
(1)刀を真っ直ぐに振る時は、どちらの足を先にして踏み換えても良いでしょう。
(2)刀を左右に振る時に始めて踏み替えの習いが需要になります。
(3)刀を右上から左下に振る時は『右足』を踏み込みます。
左上から右下に振る場合は『左足』を踏み込みます。
これは『ナンバ』と呼ばれる日本特有の身のこなし方です。
(4)よって連続して打ち込む時は、右上から打ち込む時は右足で踏み込み、刀を引き上げて今度は左足を踏み込んで、左上から斬り込みます。
『ナンバ』を剣の振り方の基本と考えると、『足を踏み換える』のは当然の刀の操り方となります。驚くことに、武蔵はこれをわざわざ『五輪書』に書いているのです。姿勢、刀の持ち方という『基本』も書いている。これは一体、何を意味するか、重く受けとめなくてはなりません。
先ほど、巌流島での小次郎との戦いを笑い話の様に書いてしまいましたが、特に砂浜で現代剣道の様に右足だけ軸足を置く事は危険のように感じます。爪先立った後ろ足で、砂を蹴れるとは思いません。前に打突した後、伸びきった前後の足では攻撃は止まります。逆に、足の指を上に反らせて足の裏で砂を踏めば、腰を安定させて戦う事が出来ます。
武蔵は他の節で、戦う時は路面がどういう風になっているか分からない。だから、飛んだりせず、安定した踏み方を行え、とも教えています。
この様に、古武道の伝書というものは要点があちこちに散らばっているのが普通で、全体をじっくりと学ばないと見落としがあるのです。
これを書いている時、武蔵の頭には、あの巌流島の砂浜での戦いの思い出が浮かんでいたのかも知れませんね。
思うに、ここで述べられていることは、本来ならば口伝されるべき『極意』の一部です。
武蔵が始めてそれを弟子のために文書化してくれたので、新陰流という実践的古武道との共通性も分かりました。歴史的文書です。
付つけたり
(古文書で使う追加の意味)
まだ、ナンバと斬り合いの本質の関係が分かっていない読者がいらっしゃると思います。
簡単に説明してみます。
刀を右肩上から左下に切り下ろす『袈裟切り』をするとしましょう。ナンバの要領では切り下ろす時、右足を踏み込みます。この時、左足を踏み込んで見るとどうでしょう?
身体を捻らなければ左下に切り下ろす事は出来ません。就中なかんずく、左足を切りそうではないでしょうか?
少し新陰流の説明にかたぶいてしまいますが、右袈裟切りを行う時は、新陰流では肩、腰、足を同じ方向に回して踏み込みます。これが斬り合いを行う時、身体の回転をフルに使って刀の重さと性能を十分に引き出す唯一の方法だからです。
二天一流は両刀使いなので、大刀は右片手で切り下ろさねばなりません。この時、このナンバを積極的に行わなければ、効果的な斬撃は決して生まれないでしょう。  
 
『五輪書』に見る兵法思想 4

 

宮本武蔵は、『五輪書』(ごりんのしょ)や吉川英治の小説『宮本武蔵』が多くの言語に翻訳されており、海外でも有名である。しかし小説や映画、漫画などで描かれる真剣勝負に生きた浪人・剣豪のイメージは、武蔵没後130年に書かれた伝記(※1)によるフィクションである。それに対して学問的な研究で明らかになった武蔵の実像をまず紹介する。そして武蔵の思想を『五輪書』の5巻の内容に即して論じる。
宮本武蔵は、若い時に剣術論を著し、それを2度作り変えて最晩年に『五輪書』を著した。大名に宛てた自筆の書状2通と、彼が描いたことが確かな十数点の水墨画、自作の木刀や刀の鍔(つば)などが遺(のこ)っている。養子や弟子が記した資料や彼が関係した諸藩の史料もあるので、それらを総合した研究によって、武蔵の生涯はほぼ明らかになっている。
武蔵は1582年に生まれ、1645年に没した。日本各地で合戦が続いた後、全国統一される時代に生まれ、江戸幕府が確立する時代に没した。その人生は4つの時期に分けられる。それは、日本社会の急激な変動とも連動しているので、時代と合わせて示すと以下のようになる。
T.20歳までの修練期。日本社会が統一されて近世的な秩序が形成される時代。
U.21歳で上京後、29歳までの武者修行期。関が原合戦後、徳川幕府が誕生したが、前政権の勢力との間で不穏な時代。
V.30歳から59歳まで、大名の客分で兵法の道理を追求した時期。この時期に養子の伊織は藩の家老になる。大坂の陣で合戦が終結して、幕藩体制が確立する時代。
W.60歳以後、最晩年に人生を総括し『五輪書』を書いた。合戦を知らない若い将軍や大名に世代交代した時代。
武蔵は自らを「生国播磨の武士」と『五輪書』で名乗る。養子の伊織が残した資料によると、姫路城近くの播磨の武士の家に生まれたが、統一過程で敗れた家だったので、少年期に岡山の武士・宮本無二斎の養子となった。「天下無双」の名を室町将軍から賜った武芸者の無二斎の下で、少年期から剣術を鍛錬し、13歳で初めて勝負して名のある武芸者に勝った。
1600年の関が原合戦の後、21歳で都に上って天下の兵法者と勝負して勝ったという。調べてみると、武蔵は24歳の時に28カ条の剣術書『兵道鏡』を著し、「天下一」を称して円明流を樹立していた。その後武蔵は全国に武者修行して、29歳までに行った60度以上の命がけの勝負に全て勝ったという。最後の勝負が有名な小次郎との勝負だが、約束の時間に遅れたというのは作り話で、無人島で同時に会して、三尺余の長い刀を遣(つか)う小次郎を、それを上回る長さの大木刀で打ち倒したようだ。
武蔵は30歳を超えてから「なおも深き道理」を追求して、50歳の頃に道に達したと『五輪書』に書く。この間のことを調べてみると、34歳となる1615年、大坂夏の陣に徳川方の大名の下で参陣した記録がある。2年後、姫路城に入った姫路藩の客分となる。家臣ではなく、客分としての自由を持ち、藩主の嫡男などに剣術を指導していた。この時期から剣術の理論を追求し、水墨画も描き始めた。
宮本武蔵の描いた水墨画「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」(和泉市久保惣記念美術館蔵)。『五輪書』の中で、武蔵は書画などの諸芸に関わることも兵法を鍛錬する手段であると述べている
宮本武蔵の描いた水墨画「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」。重要文化財(和泉市久保惣記念美術館蔵)。『五輪書』の中で、武蔵は書画などの諸芸に関わることも兵法を鍛錬する手段であると述べている
9年後、藩主の嫡男が病死したので、かつて城下町を建設するのに協力した隣の明石藩に養子の伊織を仕えさせ、武蔵もこの藩の客分となった。伊織は5年後に20歳で藩の家老になるが、養父の武蔵の功績も合わせての出世と思われる。翌年、明石藩が九州の小倉へ領地替えとなり、武蔵たちも移住した。5年後、九州島原で起こった大規模な反乱に九州の諸藩が鎮圧に動員されたが、伊織は小倉藩の軍勢の司令官として活躍し、後に藩の筆頭家老となる。
1640年、武蔵は59歳で九州の熊本藩の客分となる。翌年藩主に35カ条の剣術書を呈上したが、翌月藩主は没した。2年後、武蔵は若い藩主や家老などのために『五輪書』を書き始め、1年半後、死の1週間前に完成させた。『五輪書』は、武蔵が生涯をかけて摑(つか)んだ、剣術鍛錬を核とした武士の生き方を説いた書である。
『五輪書』では、兵法の道を地・水・火・風・空の5巻(五輪)に分けて体系的に論じている。
「地の巻」は、武士の道の大枠を示す。
武士には個々の武士と万人を統率する大将がいる。剣術の鍛練で戦い方を知り、合戦にも通じるように考えよ。いかなるところでも役立つように稽古せよ。武士は常時二刀を差しており、合戦で戦うことも考えて、二刀を持って稽古すればよい。剣だけでなく、鑓(やり)・長刀(なぎなた)、弓、鉄砲の特性を知って有効に戦え。大将は部下の力量を判断して適材適所に配置せよ。武士の道を行うには、邪(よこしま)なことを思わず、鍛錬することが根本。諸芸にふれて視野を広げ、諸職の道を知って社会のあり様を知るが、諸事の損得を弁(わきま)え、主体的に判断せよ。目に見えぬ所を考え、わずかなことにも気をつけよ。役に立たぬことはせず、自分の道の鍛練に専念せよ。これらは、全ての道の追求に通じる教えであろう。
「水の巻」は、核となる剣術の理論を述べる。
まず術の基礎として、心の持ち方、身構え、目付きを論じるが、隙なく即座に動けるよう日常生活から鍛練せよ。太刀は上・中・下段、左脇、右脇の五方の構えがあるが、敵を切りやすいように構えよ。太刀は構えから最も振りやすく切ることができる「太刀の道」を追求せよ。その感覚を磨くために五方の構えからの形を稽古せよ。決められたやり方の稽古ではなく、その都度敵を最も切りやすく構え、より良い太刀の道の感覚を研ぎ澄ませよ。「今日は昨日の我に勝ち、明日は下手に勝ち、後は上手に勝つ」と思い、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とすべし」。より良い技を目指して日々稽古し、それを何十年と積み重ねていくことが鍛錬なのである。
「火の巻」は、戦い方の理論を書く。
まず戦う場の光線の方向や足場、障害物などを見て取り、それらの条件を自分には有利に、敵には不利になるようにして戦う。敵を知って、強い所を発揮させず、弱い所を攻める。敵の技を抑えるが、敵が打とうとするところを見抜いて敵が打てば打ち返せる構えをして、敵に打ち出させない。敵を動かし逆を取って崩していく。心理的にも敵をいらいらさせ、惑わせ、動揺させて、敵に崩れが見えた一瞬に攻めて勝つ。大勢と戦う時も自分から動いて主導権を握り、敵が重なるところを切る。2度通用しなければ3度目は攻めを変える。細心にして大胆に攻め、最後まで油断せず勝ち切れ。
「風の巻」は、他流の誤りを批判し、正しい道理を確認する。
いつでも通用する理を追求せよ。構えや稽古の外形にとらわれず、その都度の敵に対して最も有効な構えをし、太刀の道に即して遣う。秘伝を否定し、決まった教え方にとらわれず、学ぶ者が理解し体得しやすいように教えよ。学ぶ者の理解力を考えて、正しい道を教えて、その者の癖や思い込みを捨てさせ、その者自身がおのずと武士の真の生き方となり、疑いない心にするのが自分の教え方である。
「空の巻」は、道の修練の仕方と究極のあり様を示す。
さまざまな誤りも、思い込みによるので、「空」を思い取って常に己を見つめ直すことが大事である。常により良い技を求めて、技とともに身も心も鍛練を続けていけば、やがて少しの曇りもなく迷いの晴れたる所に達する。それこそ「実(まこと)の空」である。
武蔵は、若い時期に命懸けの実戦勝負に勝ち抜いたが、より普遍的な道理を追求して、全てのことに対し無駄なく、合理的なあり様を絶えず追求していた。道を極めた果てに後世に遺した『五輪書』は、具体的な稽古の心得に基づきつつ、武士としての真の生き方を示し、400年近くたった今日でも普遍的な武道の真髄を伝えている。  
 
五輪書 5

 

万里一空である。「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬る」という心を題に、「乾坤をそのまま庭に見る時は、我は天地の外にこそ住め」と綴った。天地の外に住むというのが武蔵らしいところで、修行者としてどこか他所に目を向ける気概がある。空じているといえばたしかにそうであるが、その空を目の端に捉える余裕がある。
よく武蔵の兵法を「命がけの実利主義」ということがある。小林秀雄などもそういう感想を書いていた。けれども『五輪書』を読むかぎりは、そういう逼迫したものは感じない。むしろ武蔵は、武芸者はどちらかといえば大工に似たもので、達者でいるにはたとえば大工のように「留あはする事」をよく吟味するのだと綴った。これは留め打ちに通じる。またしきりに「ひやうし」という。拍子である。拍子に背くのが一番まずいことで、そのために拍子をこそ鍛練しなさいという。「さかゆる拍子」「おとろふる拍子」、さらに「あたる拍子」「間の拍子」「背く拍子」があるのだから、それによっておのずから打ち、おのずから当たる。それに尽きるというのだ。
こういう武蔵の言いっぷりは奥義を極めた者が秘伝を語るときの自信に満ちていて、坂口安吾のような者には我慢がならない訳知りに映るらしい。たしかにたいしてうまくない芸人の芸談にそういうことを感じることも少なくないが、『五輪書』に関しては、読めばそんな気持ちはめったにおこらない。安吾にしておそらくは吉川英治の作品武蔵から派生した感想か、『五輪書』を読んでいないかであろう。
武蔵が『五輪書』を綴りはじめたのは60歳のときで、それから2年後に筆をおき、すべてを了解したようにその2ヵ月後に死んだ。熊本雲巌寺近くの霊巌洞でのことである。60歳で綴っている武人の文章に訳知りは当たらない。
武蔵は慶長17年(1612)、29歳のころに豊前の船島で巌流佐々木小次郎と対決したのち、いったんは小倉藩にいたのだが、その後は杳としてその姿を消した。一説には、明石藩主の小笠原忠真に招かれて客分となり、明石の町割を進言したとも、そのころ養子として伊織を迎えて円明流を編み出したとも、小倉に赴いたのはその伊織だったともいわれる。また一説には、武蔵は尾張の柳生家に厄介になったとも、いっとき江戸に下って小河久太夫や遊女雲井と交わったのち、寛永14年には島原の乱の帷幕に参じたともいう。ともかくも細川忠利五十四万石の熊本の地に現れたのは、寛永17年(1640)の8月のこと、巌流島の決闘から28年もたってからのことである。そのあいだ、何をしていたかは実はまったくわからない。それからはまるで禅僧めいて、宮本二天として絵筆をもつ日々のほうが多い。《闘鶏図》《蘆雁図》など、さすがに気韻生動の呼吸をもっている。
五輪の書とは、地水火風空の“五輪五大”にあてはめて武芸兵法の心得を綴ったもので、地の巻から順々に空の巻に進んでいく。最後に「独行道」を書いたのが死の数日前だった。それが万里一空の心境である。これを三十五ヵ条の覚書にまとめて、忠利に奉呈した。
武芸書だから剣法の実技について書いてあるかというと、これがあまりない。むしろ心得ばかりであり、ときに禅書と見まちがう。それでは武芸に関係のないことばかりかというとそうではなくて、ほとんどの文章が武芸の構えや用意や気分にふれている。この、就いて離れ、放して突き、離れて着くところそこが武蔵なのである。
少しわかりやすく紹介してみる。
水の巻でいえば、まず太刀の持ちかたがある。これはぼくが九段高校で湯野正憲師に剣道を習っていたころ(九段では剣道は正課に入っていた)、「宮本武蔵はこんなふうに剣を持った」と説明され、試してみたがまったくできなかった。どういう持ちかたかというと、親指と人差し指を浮かすように持ち、中指は締めず、薬指と小指を締める。これをやってみると、薬指と小指を締めるのはちょっと稽古をすればできるのだが、そうすると親指にも力が入る。親指と人差し指がなかなか柔らかく浮いてはくれない。武蔵はそれでは「しぬる手」になると戒めた。おまけに中指の使いかたがわからない。
足づかいでは、爪先を少し浮かせて、踵を強く踏むのがよく、どんなばあいも「あゆむがごとし」を重視する。飛足・浮足・踏足は絶対に避けなさいとも書いた。これも容易ではない。立ち会いの試合をしてみればすぐわかってくるのだが、どうしても打ち込みの気分に入ったとたんに飛足が出る。だいたい爪先を少し浮かせたままでは打ち込めない。また、少し間合いがとれない対峙が続くと、踏足になる。
それでもなんとかこういうことができたとして、太刀を振るにあたっては「太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかひて振りがたし」と言うのだが、これがまったくできない。太刀をはやく振るなと言われても、相手に斬りこむときにどうしてもはやくなる。が、それはいけないというのが、会得できない。「振りよいように静かに振りなさい」というけれど、その意味はわかっても手につかない。やってみると、そういうことが伝わってくるのだ。
それでも、ぼくには武蔵の真似すらできないにもかかわらず、うっかりするとそのような気分が少しだけ擦過するときがある。そのときの感想をいうと、ふいに胸が大きく開いていることが実感できるのである。爪先を浮かし、親指が少し離れ、ああこのときかとおもって振り下ろすと、それまで知らなかった胸がちょっと開くのだ。
が、ここまでは準備である。ぼくはまったくお手上げだが、武芸者によっては素振りで練習できなくもない。けれども、剣法には相手がいる。太刀をうまく持てたとしても、相手が何をするかがわからなければ何もできない。しかも武蔵の時代は日本刀の真剣だ。そうとうな恐怖だったろう。
ところが武蔵は、相手のことを知るにはその先端だけを知れと言う。真剣の先端である。そこに「先」という言葉が出てくる。
火の巻にいう「三つの先」は、まず「懸の先」がある。これはこちらから懸かるときのことで、懸かる直前の思いきりを重視する。思いきりは「思いを切る」ことである。「待の先」は相手が懸かってきたときに引いてのちに打つ。相手の拍子を外すのだが、その外した瞬間にむこうの拍子がなくなる前にこれを引き取っている。そこがすさまじい。
最後の「躰々の先」はこれらが互いに交じる。組み合わさる。組み合わさるのだが、そこに「枕をおさゆる」ということがある。これはすこぶる興味深く、武蔵の独得の言いかたでは「うつの“うの字”のかしらをおさへ、かかるの“かの字”をおさへ、きるといふ“きの字”をおさゆる」というふうになる。「う」と「か」と「き」のドアタマを衝くわけだ。相手が飛ぼうとすれば、その「と」の字のところで決着をつけるわけで、これがいわゆる「気ざし」ということになる。このとき喝と突いて、咄と打つ。武蔵はそれを「喝咄といふ事」といった。喝咄とはいかにも武蔵らしい。
ともかくわれわれ凡人にはとうていできそうもないようなことばかりだが、そういうふうに自信がないときは、「角にさわる」「まぶるる」「かげを動かす」ということをしなさいとも勧める。そういう用意周到がある。
角にさわるのは相手の動きや技の角を確かめることである。まぶるるのはそのためいささか相手と押し合ってみることだ。かげを動かすのは相手の心が読めないので、あえてこちらの強引を見せることにあたっている。とくに相手の「角」を感じなさいというのがなかなかだ。たしかに人の心の動きというものには角がある。
こんなぐあいに『五輪書』は絶妙の間合いの話が次々にあらわれて目を奪うのであるが、とりわけ「縁のあたり」「場の次第」「けいきを知る」「渡をこす」が絶妙である。
(一)「縁のあたり」とは、簡単にいえばどこでも打ちやすいところを打ってよいという心得で、それだけなら何のこともなさそうなのだが、それが相手と自分の「縁」で決まるというところ、それもその縁が感じられれば、その縁の「あたり」を打てというのが恐ろしい。
(二)「場の次第」は場を背負ってしまえということで、実際の果たし合いではその時刻の日光を背負うことも入ってくる。さかんに時代劇の剣士たちがやってみせることだが、背負うのは太陽だけではなく、本当は場そのものの大きさと小ささなのだ。
(三)「けいき」は景気である。その場、その人の景気の盛んなさま、景気の衰えのさまによって兵法が変わっていくことをいう。ぼくも景気については『花鳥風月の科学』に「景気の誕生」という副題をつけたように、景気というものは日々の感覚の先端が感じとるべきもので、なにも経済企画庁や「日経新聞」のデータや噂に頼ることではないと思ってきた。景気は近くに落ちている。武芸においてもその景気をつねに見て、手足の先に感じていることが大事だというのだ。剣は景気なり、なのである。
しかしおそらく、『五輪書』で最も絶妙なのは「渡をこす」である。たとえば海を渡るには“瀬戸”を越えたかどうかという一線があり、四十里五十里の道にも度を越せたかどうかということがある。
これは長きも短きも同じことで、その「渡」を越したかどうかを体や心でわかるべきなのである。武蔵は人生にも「渡」があって、その「渡」が近いことを全力で知るべきだと言っている。それがまた短い試合の中にも外にもあって、その僅かな瞬間にやってくる「渡」にむかって全力の技が集まっていく。そう、言うのである。
なるほどわれわれにもつねに“瀬戸際”というものがある。ところがその瀬戸が近づいてくるところがわからない。たいていは急に瀬戸際がくる。武芸にはその瀬戸をはやくから知る方法がある。『五輪書』というもの、一言でいうなら、この瀬戸際をこそ問うていた。  
 
五輪書 6

 

宮本武蔵の著した兵法書。武蔵の代表的な著作であり、剣術の奥義をまとめたといわれる。寛永20年(1643年)から死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本県熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆されたとされる。自筆本である原本は焼失したと伝えられる。写本は細川家本を始め、楠家旧蔵本・九州大学本・丸岡家本・狩野文庫本、底本不明の『劍道祕要』収録などがある。自筆本が現存せず写本間での相違も多いことや、武蔵の時代よりも後の価値観に基づく記述が多いこと、さらに同時代の文献に武蔵が五輪書を書いたと傍証できるものがないことなどから、武蔵の死後に弟子が創作したという説もある。
書名の由来は密教の五輪(五大)からで、それになぞらえて「地・水・火・風・空」の五巻に分かれる。
○ 地の巻 / 自らの流を二天一流と名付けたこと、これまでの生涯、兵法のあらましが書かれている。「まっすぐな道を地面に書く」ということになぞらえて、「地の巻」とされている。
○ 水の巻 / 二天一流での心の持ち方、太刀の持ち方や構えなど、実際の剣術に関することが書かれている。「二天一流の水を手本とする」剣さばき、体さばきを例えて、「水の巻」とされている。
○ 火の巻 / 戦いのことについて書かれている。個人対個人、集団対集団の戦いも同じであるとし、戦いにおいての心構えなどが書かれている。戦いのことを火の勢いに見立て、「火の巻」とされている。
○ 風の巻 / 他の流派について書かれている。「風」というのは、昔風、今風、それぞれの家風などのこととされている。
○ 空の巻 / 兵法の本質としての「空」について書かれている。
「風の巻」における他流派批判
○ 長太刀を用いる流派に対しては、接近戦に不向きであり、狭い場所では不利となり、何より長い得物に頼ろうとする心がよくないと記す。
○ 短太刀を用いる流派に対しては、常に後手となり、先手を取れず、相手が多数の場合、通用せず、敵に振り回されると記す。
○ 太刀を強く振る(剛の剣の)流派に対しては、相手の太刀を強く打てば、こちらの体勢も崩れる上、太刀が折れてしまうことがあると指摘する。
○ 妙な足使い(変わった足捌き)をする流派に対しては、飛び跳ねたりしていたら、出足が遅れ、先手を取られる上、場所によっては動きが制限されると指摘する。
○ 構え方に固執する流派に対しては、構えは基本的には守りであり、後手となる。敵を混乱させるためにも構えは柔軟であるべきと記す。
○ 奥義や秘伝書を有する流派に対しては、真剣の斬り合いにおいて、初歩と奥義の技を使い分けたりはしないとし、当人の技量に応じて指導すべきと記す。
これらの他流派批判をすることにより、二天一流の有用性を説いている。  
 
二天一流

 

二天一流 1
近世剣術の一流派。流祖は宮本武蔵玄信(むさしげんしん)(1584―1645)。武蔵は初め流名を円明(えんめい)流と称し、晩年は二刀一流を号したが、その没後20年を経た1666年(寛文6)ころ、道統を継いだ寺尾求馬助信行(てらおくめのすけのぶゆき)(1621―88)によって、師の法号二天道楽居士(にてんどうらくこじ)にちなみ、二天一流と改めた。この流が技法上、大小二刀を基本とする意義について、『兵法三十五箇条』の冒頭に「左の手にさして心なし、太刀(たち)を片手にて取ならはせん為(ため)なり」と述べ、『五輪書(ごりんのしょ)』には、「二刀と云(いい)出す所、武士は将卒ともにぢきに二刀を付(つく)る役なり、……此(この)二つの利を知らしめんため二刀一流と云なり」と述べている。武蔵はあまり門人をとらなかったが、慶長(けいちょう)年間(1596〜1615)円明流と称したころの門人としては、尾張(おわり)(名古屋)円明流の祖で讃岐(さぬき)の人、竹村与右衛門頼角(たけむらよえもんよりすみ)、鉄人実手(てつじんじって)流を始めた姫路の人、青木城右衛門金家(じょうえもんかねいえ)、江戸滞留中の門人、石川主税清宣(ちからきよのぶ)らがある。また武蔵終焉(しゅうえん)の地である肥後熊本における二天一流の正式相伝者は、同藩士寺尾孫之丞信正(まごのじょうのぶまさ)(のち夢世勝信(ゆめよかつのぶ))とその弟求馬助信行、古橋惣左衛門良政(ふるはしそうざえもんよしまさ)の3人であったが、孫之丞は家職の御鉄砲頭(1050石)に専心し、古橋は江戸へ出たため、求馬助が道統を継いだ。求馬助のち藤兵衛には6人の男子があり、なかでも四男信盛(のぶもり)は名手で、新免辨助(しんめんべんすけ)を称したが、1701年(元禄14)45歳で惜しくも死去した。寺尾の門流はその後、熊本藩を中心に、福岡、佐賀など北九州諸藩に広がりをみせた。
二天一流 2
流祖・新免玄信(宮本武蔵) が、晩年に熊本市に位置する霊巌洞(れいがんどう)で完成させた兵法である。その理念は著書『五輪書』に著されている。二天流、武蔵流などとも呼ばれた。
宮本武蔵の父・新免無二(當理流関係の文献には宮本無二之助藤原一真・宮本無二斎藤原一真)は、實手・二刀流などを含む當理流の使い手だったが、武蔵はそれを発展させ流名を円明流に改めたという。晩年、伝えていた一刀、二刀、實手など多くの形を捨て、右手に大太刀、左手に小太刀の二刀を用いる五つのおもて「五方」の五本にまとめ上げ、その兵法理念を『五輪書』に書き表した。『五輪書』では流名は二刀一流・二天一流の二つが用いられているが最終的には二天一流になったと考えられる。後世には、二天流・武蔵流の名も用いられている。
武蔵晩年の弟子には細川家家老である松井寄之などがいるが、武蔵死後、二天一流は、『五輪書』を相伝された寺尾孫之允勝信と、その弟で病床の武蔵の世話をしていた寺尾求馬助信行を中心に伝えられた。
『武公伝』(細川家家老で八代城主松井家の二天一流師範が著した武蔵伝記。宝暦5年(1755年)豊田正脩編)には、「士水云、武公肥後にての門弟、太守初め、長岡式部寄之、澤村右衛門友好、其の外御家中御側外様及び陪臣軽士に至り、千余人なり」と書かれている。
寺尾孫之允の弟子には『五輪書』を相伝した浦上十兵衛(慶安4年・1651年)、柴任三左衛門(承応2年・1653年)、山本源介(寛文7年・1667年)、槙島甚介(寛文8年・1668年)がおり、『武公伝』は他に相伝の弟子として井上角兵衛、中山平右衛門、提沢兵衛永衛、この他弟子余多ありとしている。重臣の松井直之、山名十左衛門も高弟としている。
寺尾求馬助の四男である信盛は武蔵の再来と噂されるほどの技量で、父・求馬助から武蔵の後継者とされ、新免姓を継承し新免弁助信盛を名乗り今日まで伝わる二天一流の稽古体系を完成させ、求馬助の三男である寺尾藤次玄高と藤次の子・志方半兵衛之経の系、さらに信森から相伝を受けていた村上平内正雄の系に分派する。
村上平内正雄の系は正雄の子である村上平内正勝・八郎右衛門正之兄弟にそれぞれ伝えられ、寺尾孫之允の弟子筋も門下に加わり発展していく。また、寺尾藤次の子、志方半兵衛之経は『二天一流相伝記』を著し弁助信盛から半兵衛之経へと相伝した。また村上正勝・正之から相伝を受けた野田一渓種信は、寺尾藤次の弟子筋からも学び、志方・村上両師範家の教えを統合した。
なお、寺尾孫之允の弟子筋の中には細川家の外に二天一流を伝えた者もいる。中でも柴任三左衛門は福岡藩黒田家家臣の吉田太郎右衛門に伝え、実連の弟子である立花峯均が武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』を著すなど福岡でも二天一流は盛んに行われた。
熊本における二天一流は、志方系と村上正勝系・正之系、村上家から別れた野田系の四つの新免信盛の流れを伝える師範家に加え、寺尾求馬助の六男の寺尾郷右衛門勝行からの系を伝えているとする楊心流柔術師範家の山東家を加えた五師範家が藩に公認され、幕末まで伝えられた。
また、福岡藩の二天一流は江戸後期に越後に伝播し、各地で相伝されたが、明治時代頃に絶えたと思われる。 現在、野田家と山東家の流れと称するものが各地に伝えられている。
流儀歌
乾坤(けんこん)を其侭(そのまま)庭に見る時は、我は天地の外にこそ住め
二天一流 3
二天一流(にてんいちりゅう)は流祖・新免武蔵藤原玄信(宮本武蔵) が、晩年に熊本で完成させた兵法である。その理念は著書『五輪書』に著されている。
宮本武蔵の父・新免無二(當理流関係の文献には宮本無二之助藤原一真・宮本無二斎藤原一真)は、實手・二刀流などを含む當理流の使い手だったが、武蔵はそれを発展させ流名を円明流に改めたという。晩年、伝えていた一刀、二刀、實手など多くの形を捨て、右手に大太刀、左手に小太刀の二刀を用いる五つのおもて「五方」の五本にまとめ上げ、その兵法理念を『五輪書』に書き表した。『五輪書』では流名は二刀一流・二天一流の二つが用いられているが最終的には二天一流になったと考えられる。後世には、二天流・武蔵流の名も用いられている。
武蔵晩年の弟子には細川家家老である松井寄之などがいるが、武蔵死後、二天一流は、『五輪書』を相伝された寺尾孫之允勝信と、その弟で病床の武蔵の世話をしていた寺尾求馬助信行を中心に伝えられた。
『武公伝』(細川家家老で八代城主松井家の二天一流師範が著した武蔵伝記。宝暦5年(1755年)豊田正脩編)には、「士水云、武公肥後にての門弟、太守初め、長岡式部寄之、澤村右衛門友好、其の外御家中御側外様及び陪臣軽士に至り、千余人なり」と書かれている。
寺尾孫之允の弟子には『五輪書』を相伝した浦上十兵衛(慶安4年・1651年)、柴任三左衛門(承応2年・1653年)、山本源介(寛文7年・ 1667年)、槙島甚介(寛文8年・1668年)がおり、『武公伝』は他に相伝の弟子として井上角兵衛、中山平右衛門、提沢兵衛永衛、この他弟子余多ありとしている。重臣の松井直之、山名十左衛門も高弟としている。
寺尾求馬助の四男である信盛は武蔵の再来と噂されるほどの技量で、父・求馬助から武蔵の後継者とされ、新免姓を継承し新免弁助信盛を名乗り今日まで伝わる二天一流の稽古体系を完成させた。だが、信盛が後継者を指名せずに若くして急死したため、求馬助の三男である寺尾藤次玄高と藤次の子・志方半兵衛之経の系と、信森から相伝を受けていた村上平内正雄の系に分裂する。
村上平内正雄の系は正雄の子である村上平内正勝・八郎右衛門正之兄弟にそれぞれ伝えられ、寺尾孫之允の弟子筋も門下に加わり発展していく。それに対し、寺尾藤次の子、志方半兵衛之経は『二天一流相伝記』を著し弁助信盛から半兵衛之経へと続く相伝のみの正当性を主張した。また村上正勝・正之から相伝を受けた野田一渓種信は、寺尾藤次の弟子筋からも学び、技に違いが生じていた志方・村上両師範家の教えから武蔵本来の二天一流を研究し新たな師範家を創設した。
なお、寺尾孫之允の弟子筋の中には細川家の外に二天一流を伝えた者もいる。中でも柴任三左衛門は福岡藩黒田家臣の吉田太郎右衛門に伝え、実連の弟子である立花峯均が武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』を著すなど福岡でも二天一流は盛んに行われた。(福岡藩では二天流と呼ばれた)
熊本における二天一流は、志方系と村上正勝系・正之系、村上家から別れた野田系の四つの新免信盛の流れを伝える師範家に加え、寺尾求馬助の六男の寺尾郷右衛門勝行からの系を伝えているとする楊心流柔術師範家の山東家を加えた五師範家が藩に公認され、幕末まで伝えられた。 現在、野田家と山東家の流れと称するものが各地に伝えられている。  
 
円明流時代の高弟 1 青木城右衛門

 

青木城右衛門
(あおき じょうえもん、生没年不詳) 江戸時代前期の剣術家。別名、青木金家ともいわれ、号は鉄人斎。通称は常右衛門。
河内国に生まれ、剣豪宮本武蔵の門人となり、二刀流を学んだ。 江戸に出て一派を開き、青木流、のちに鉄人流と称した。 江戸において8900余人もの弟子を抱えていたと云われる。  
真の実力
駆け引き上手で腕力にものをいわせた剣で相手を打ち倒す。我々が武蔵という人を思い浮かべる時、どうしてもこのイメージがつきまとう。
このコーナーで何度となくアンチ武蔵派としてご登場願っている直木三十五もこの点を執拗に批判しているが、次の逸話はまた武蔵の別の一面を覗かせるものだ。
養子で小倉藩の家老であった伊織の口利きで小笠原家の客分として仕えていた頃だから、五十代の前半であろう。ある時武蔵の元に、藩内屈指の兵法者・青木条右衛門なる者が自分の技を見てほしいと申し出た。一通り青木の立ち居振る舞いを見た武蔵は、
「貴殿ほどの腕前であれば、どこへ行っても指南できるであろう」
と珍しくベタ褒めした。滅多に他人を賞賛しない武蔵に褒められたのだから、青木もさぞかし気分が良かったであろう。心躍る中帰ろうとした際、その木刀は何かと尋ねられた。見ればそれには、紅の腕貫(木刀を落とさないための、腕に通す紐)がついている。更に褒められるであろうと思ったのかもしれない。青木は、これは諸国を巡って試合を臨まれた時に使うものですと得意気に語った。
次の瞬間、顔色を変えた武蔵はたわけたことを申すなと一喝した。
「わしがどこでも指南できると申したのは、あくまでも子供相手であればという意味じゃ!それを何を勘違いして、試合だなどとたわけたことを!」
ちょうど小笠原家の家臣の家で饗応を受けていた時なので、そばにいたそこの家の小姓を呼び寄せて前髪に飯粒をのせるや太刀を一閃させた。そして指ですくい取った飯粒をよく見よと示した。真っ二つに見事に切られていた。
「わしはこれほどの腕前を持ちながらも、滅多なことでは試合などはせん。ましてや、貴様のような未熟者が命を賭けた試合をしようなどと片腹痛い!」
と更に大喝した。それも二度も三度も実演してみせて言い放ったというのだから、大人げないといえば大人げない。しかし同時にこれは、武蔵が到達した剣の真理というものを実に明快に示した話といえる。
武蔵自身が述懐しているように、その生涯における試合の大半が巌流島の決闘を行った二十八歳までに集約されている。初陣が十三歳の時だから、実に濃密な十五年間を過ごしたことになる。
中には一乗寺下り松の決闘のように己の命を完全に担保にした一種無謀な試合さえも経験している。そのような血煙にまみれた青春期を過ごした身なればこそ、勝つことの難しさをしばしば痛感したであろう。
己が実際に身を置いて何度となく死を覚悟した世界である。それを軽い気持ちで、試合を臨まれたら立ち合うつもりなどと言われたのでは、ふざけるなと激怒もしたかっただろう。
三十歳以降の武蔵が、数えるほどしか試合をしてないのは(少なくとも以前のような殺し合いそのものを行っていない)年齢による腕の衰えだと指摘するむきもある。確かに技術は別にして、若い頃の怖いもの知らずのモチベーションを維持できたかとなるといささか疑問だ。
しかし、命を張った試合はこれ以上は無益だという心境に到達したとするなら、武蔵のこの逸話は納得できる。
無論、武蔵が塚原卜伝、上泉伊勢守信綱、伊藤一刀斎、そして生涯ライバル視したと思われる柳生但馬守宗矩のような悟りの心境にまで達したかとなればこれもまた疑問だ。
実際彼には、その晩年期においても悟りとは無縁と思える人間臭い逸話がいくつもある。もっとも、逆に言えば武蔵が他の剣豪、剣聖と呼ばれた人たちよりも遥かに知名度の高さを保っていったのはどこまでも人間臭かった一面においてではあるまいか。
ただ少なくとも、剣における武蔵はどこまでもストイックで名人と呼ばれるだけの境地に達していたと見てよかろう。  
武蔵伝説 前髪に乗せた飯粒を切る
小笠原家の家臣の島村十左衛門の邸で、武藏は饗応を受けていた。そこに弟子の青木条右衛門が訪ねてきたので、どれくらい上達したか見てやろう、ということになった。その技を見た武藏は「これなら、どこへ行っても指南ができる」と上機嫌だった。青木条右衛門は大いに悦び、その場を退こうとしたところ、武藏が条右衛門の木剣に付いていた赤い袋を見つけて「それは何か」と問うた。条右衛門は「これは、仕合のときのお守りです」と答えた。すると、それまで上機嫌だった武藏は急に怒り出し、条右衛門を怒鳴りつけた。
「先刻、どこへ行っても指南できると申したのは、幼年の者に教えるには良し、と言ったまでのこと。仕合を望む者があれば、早々に立ち去るがよい。そのような未熟な腕では仕合なんぞすべきではない。」
そして、武藏は、島村十左衛門から小姓と飯粒を所望し、その飯粒を小姓の前髪の結び目につけ、小姓に「あれに立っておられよ」と命じた。武藏は太刀を抜くと上段から打ち込み飯粒を真っ二つにした。武藏は三度まで同じことをやってみせ、条右衛門に「どうじゃ、これくらいの腕でも、敵には勝ちがたいものである。汝らが仕合とは以っての他である。」と言った。
人の家で何すんねん。島村十左衛門にしてみれば迷惑な話しである。未熟者に対して、この諭し方は効果はないだろう。これを見て「わぁ、すごい。」と思うだけだ。真似されたら危険である。  
 
円明流時代の高弟 2 石川左京

 

播磨姫路藩道場の稽古
――元和3年(1617)、豊臣と徳川で争った天下を定める最後の戦、大坂夏の陣から2年の歳月がたった。
前年御罷みまかった徳川家康はこの年、東照大権現の神号をうけ、日光に東照宮ができ徳川の天下を脅かす勢力はもはや無くなった。
――播磨・姫路藩剣術道場。
藩主、本多忠政と、客人の仮面の男が見守るなか、日に焼けたざんばら髪の中年の6尺(180cm)はあろうかという大男が、五人の木刀を持った剣士たちに囲まれている。
日に焼けた男は、虎のような眼光を放ち竹刀を構える。
長太刀の青木粂右衛門が、日に焼けた男に対峙する。
「師匠、参りますぞ! 」
師匠と呼ばれた日に焼けた男は静かに頷いた。
転瞬、粂右衛門は、腰に構えた木刀を抜刀し、真横に切り払う。
「甘い! 」
日に焼けた男は、粂右衛門の木刀をかわして、ぐっ、ぐっと間合いを詰めて「えいっ!」と面をたたく。
「粂よ、長太刀は接近戦に不向き、こちらから一歩、間合いを詰めてしまえばこちらのものよ。次、左京参れ! 」
短太刀の石川左京が、木刀を不動の構え。
「待ちの剣か、ならば、こちらから行くまでよ! 」
日に焼けた男は、石川左京へ竹刀を烈火のごとく打ち込む。
じりっ、じりっと、道場の壁際へ追い詰められる右京。
「どうした、左京! 剣を放たぬのか? ならば……」
「参りました! 」日に焼けた男が、石川左京の面打ちを放つと同時に負けを悟った。
「左京の短太刀は、粂右衛門の長太刀とは逆に常に後手を踏む。先手をこちらがとってしまえば他愛もない。その剣は、多勢には通ぜず! 次、与右衛門!」
構えた槍の頭を布で被った竹村与右衛門。弟子の中では、日に焼けた男より年長である。
「ヤーッ! 」
鋭い突きが日に焼けた男に打ち込まれる。
「武蔵殿、刀ではなく槍の攻撃ならばどうさばかれるかな? 」
「まだまだ! 槍の切っ先を、竹刀でさばいた武蔵。力を込めた剛の剣では一打放てば体勢が崩れる。ようは、崩れた腹を狙うまでよ!」
と、武蔵は竹村与右衛門の槍を払って腹をたたく。
「次、伊織! 」
まだ顔に幼さを残す青年剣士、伊織は、左右にステップを踏み武蔵を撹乱する戦法に出た。
「ほう、宍戸梅軒の戦法か、面白い。だが……」
武蔵、伊織へ見せの面うちを放つ。それを防いだ伊織へ抜き胴を放つ。
武蔵の足元へ崩れる伊織。
「妙な足使いは、確かに一度目には相手の意表をついて有効だ。だが、左右、前後へ動くのに体勢を整えねばならず、出足が遅れて先手がとられてしまう。場所の制限がある道場では不自由だ。次、三木之助参れ! 」
武蔵と全く瓜二つの構えの三木之助。
「さすがワシが見込んだ宮本三木之助だ一分の隙もないわ」
宮本三木之助が、じりっ、じりっと武蔵を追い込む。武蔵、ニヤリと、突然、先程の伊織よろしくトトンと真横へ跳ぶ。
キリッと構えを合わせる三木之助。
武蔵、接近し、はたまた離れて、一撃、また、一撃と三木之助へくれる。
見事に受けきる三木之助。
武蔵、じわじわと連続攻撃が早くなる。防ぐのがやっとの三木之助の構えが崩れる。間髪入れず一撃を放つ。
「構えに固執すれば、それを崩して突くまで、我が円明流に死角なし! 」
武蔵が竹刀を下ろしつた刹那。
背面から仮面の剣士が真剣を武蔵へ振り下ろす。
武蔵、背面のままひらりかわして、仮面へ面の一撃!
「奥義、秘伝の必殺の一撃も、当人の剣技が未熟なれば、秘剣に値せず! 」
武蔵、仮面の男へ止めを刺そうとにじり寄る。
「待たれよ!宮本武蔵殿、座興にござる」
主座で、稽古を見守っていた本多忠政が、武蔵へ待ったをかける。
武蔵、
「たとえ座興とはいえ、真剣でこの宮本武蔵へ向かった者はタダではおきませぬ!えい!」
と、竹刀で仮面を割ると若い青年武士が現れた。
直ぐ様、若い武士ひれ伏すように、身をただした。
「感服致しました、宮本武蔵殿。力量を試すためとはいえ、真剣での一太刀失礼致しました。それがし、明石藩主、小笠原忠真にござる」
「して明石藩主の小笠原殿が、宮本武蔵になんのご用か」
上座で見守っていた姫路藩主、本多忠政が、
「武蔵! 若い我家の婿殿が萎縮しておるではないか、それぐらいにしておいてはくれまいか、居並ぶ面前で忠真も恥をかくと腹を召さねばならまいてな」
武蔵、小笠原忠真へ向き直って、
「失礼いたした小笠原殿。この武蔵が未熟で御座った許されよ」
平伏せんばかりの小笠原忠真、
「宮本武蔵殿、いや、武蔵師匠と呼ばせて下され。是非ともそれがしの明石領内にて国造りの一助にお知恵を拝借いたしたい」
「小笠原殿、この武蔵に家来になれと? 」
「忠真、武蔵殿の剣風に惚れ申した。是非とも我藩の剣術指南へお迎えいたしたい」
「ありがたきお言葉なれど、武蔵、いまだ剣術の極みを目指す流浪の身お断り致す」
主座の本多忠政が助け船を出す。
「そう申すな武蔵よ、大名が浪人へ頭を下げる忠真の心を汲んでくれ。なにもお主の剣術の邪魔をいたそうと言うのではない。稽古の合間に忠真へ知恵を貸して欲しいのだ。どうだ、武蔵。明石へ行ってくれんか?」
天下に聞こえた徳川四天王、徳川家康の陣中にこの人ありと謡われた本多平八郎忠勝の血を受け継ぐ徳川きっての譜代大名、本多忠政が武蔵へ頭を下げた。
二人の大名が一介の浪人、武蔵に頭をたれた。
「この武蔵にいかほどの価値があるかは知れぬれど、小笠原殿、本多殿の誠意にこの武蔵の力を存分につこうて下され。武蔵、存分に命をかけましょうぞ」  
宮本武蔵 仕官活動
「我、三十を超えて思いみるに、兵法至極して勝つにはあらず。自ずから道の器用ありて天理を離れざるゆえか、または他流の兵法不足なるところにや。その後、なおも深き道理を得んと、朝夕鍛錬してみれば、自ずから兵法の道にあうこと、我、五十歳の頃なり」
これは『五輪書』の序文の一節ですが、史上に名高い「巌流島の決闘」を終えてからのち、武蔵は、自分の強さについて、深い疑問を抱きはじめたようです。
「確かに、俺はこれまで多くの相手に勝利してきた。しかし、それが本当に”強い”ということなのだろうか。単に、相手が弱かっただけのことではないのか。では、”武”の究極とは、一体どのようなものなのか」
武蔵は、幾度となくそんな自問自答を繰り返したに違いありません。人間的に成長し、絵画や彫刻に打ち込むようになったのも、おそらくこの頃からでしょう。
『二天記』によれば、「巌流島の決闘」の2年後、武蔵は「大坂冬夏の陣」に参戦。浪人であった武蔵は西軍に加わったものと思われますが、敗走したためか、その内容を含め、その後の足跡についてもプツリと途絶えてしまいます。しかし、この頃になると武蔵の剣名も全国に鳴り響いていたようで、第三者的史料に武蔵の名がちらほらと登場するようになります。
それによれば、「大坂の陣」後、武蔵は元和二年(1616)あたりから、姫路十五万石城主・本多美濃守忠政の客分となって、藩士らに剣術を教えていたようです。やがて、忠政の娘婿・小笠原忠真が、明石に移封されて築城することになったため、忠政がこれを援助。武者修行中、築城技術を身につけていた武蔵は、忠政の家臣・石川左京とともに、明石に派遣されることになるのでした。明石に到着した武蔵は、城下町の掘割や町割り、丹堀などの縄張りを手伝い、さらには明石城・三の丸の曲輪を、泉水や築山、樹木、花園、茶亭などで囲み、外から曲輪内部が見えないような工夫を凝らしました。これを見た藩主・小笠原忠真は大いに喜び、「さすがは当主一代の兵法者」と、武蔵を褒め称えたといいます。
その後も、武蔵は十年あまり西国を中心に活動し、おもに流派の拡大と門弟の育成につとめていましたが、寛永二年(1625)、四十二歳になった武蔵は、急遽、江戸城へ招かれます。
姫路城主・本多忠政を通じて知り合った、朱子学者・林羅山の勧めにより、将軍・徳川家光の御前で兵法を試みさせようと、上覧の機会が与えられたのでした。
当然、この機会をうまく運べば、将軍家兵法指南役の地位を得ることができます。
既に徳川家には、柳生新陰流の柳生但馬守宗矩と、小野派一刀流の小野次郎右衛門忠明とが指南役になっていましたが、優れた指南役は何人いても構わないのです。
武蔵にしてみれば、まさに願ってもない好機だったわけですが、いざ江戸城を訪れたものの、武蔵は家光との対面はおろか、上覧の機会も与えられず帰されてしまうのでした。
一体、何があったというのでしょうか
『丹治峰均筆記』(1727)によれば、対面にのぞんで家光は、傍らの柳生宗矩に「武蔵という人物をどう思うか?」と尋ねたといいます。
このとき宗矩は、「はい、兵法は上手でございますが、髪は伸ばし放題、異相の剣客でありまして、将軍家の指南たるべき者ではありません」と答え、この一言により、武蔵が直参になる道は閉ざされてしまうのでした。しかし、わざわざ江戸城に招いておいて、そのまま帰すわけにもいかない。
そこで、老中一同が相談の結果、「武蔵は絵の心得があるというから、一筆描かせてみよう」ということになり、一室をもうけて二曲一双の屏風を差し出すと、武蔵はこれに「日の出に鶴」の絵を描いて立ち去った、というのです。
後に老中が宗矩に、「なぜ宮本殿のお取立てを妨害したのか」と問うと、宗矩は、「武蔵は大坂の陣で、城の浪人軍に加わり、徳川に敵対したものですぞ!」と、答えたともいいます。
『丹治峰均筆記』は、”二天一流”伝承者の話を丹治峰均がまとめたものですが、これは武蔵の死後、80年あまりも時を経てから記されたものなので、真偽のほどはわかりません。しかし、将軍家の指南役ともなれば、やはりそれ相応の身なりや経歴が問われるのは当然のことでしょう。
有名な武蔵の肖像画を見ても、その異様な風貌は、ある程度窺い知ることができます。
目はいわゆる猫眼ともいえるもので、細くつり上がり、瞳は琥珀色。眉間にシワを寄せ、高く隆起した頬骨は、表情にいっそうの険しさと厳めしさを加えています。また、面立ちもさることながら、、平生風呂にも入らず、髪は櫛けずらず、髷も結わぬ総髪で着衣も汚れたまま。そこで汚れが目立たぬよう、普段はビロード両面仕立ての衣服を着ていた。それだけに、身分ある人は彼に近寄らなかった、と『渡辺幸庵対話』にもあります。やはり、人から嫌遠されるだけの要素が武蔵にはあったのでしょう。
失望した武蔵は江戸をあとにすると、今度は江戸で知り合った尾張藩士・大道寺玄蕃を頼って、徳川御三家の一つである、尾張藩に向かいました。寛永四年(1627)、武蔵四十四歳のときのことです。  
 
円明流時代の高弟 3 竹村与右衛門 (竹村頼角)

 

竹村与右衛門 1
1614〜1615年に、徳川家(江戸幕府)と豊臣家との間で行われた合戦「大阪の陣」で、武蔵は徳川側の水野勝成の客将として活躍した。
その後、明石で神道夢想流開祖・夢想権之助と試合を行う。
1624年、尾張藩家老・寺尾直政が円明流(武蔵が興した二刀流の最初の名)の指導を要請すると、武蔵は弟子の竹村与右衛門を推薦し、これがもとで尾張藩に円明流が伝えられ、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆することになる。
竹村与右衛門 2
宮本武蔵の三番目の養子として、竹村与右衛門という者がいました。与右衛門の素性については、さまざまな説があり、晩年の養子で、尾張の徳川家に武蔵に代わって出向いたらしいが、熊本の細川家の家臣だったとか、讃岐(香川県)の生まれだとか、実は武蔵の義兄(?)であるとか、養父同様謎だらけの人物です。
ところで、この与右衛門、武蔵の養子なのに、なぜ宮本姓でないのか? 実は「渡辺幸庵対話」という本によると、武蔵自身が竹村と名乗っていたとある。渡辺幸庵とは、武蔵と同じ天正10年(1582)生まれで、─天正10年誕生説は、宮本家の系図によるが─しかし、武蔵の寿命の倍以上、実に130歳まで生きた超後期高齢者。死の2年前、加賀百万石の前田侯が、家来の杉木三之丞を派遣して、幸庵老人に自分史を語らせたのが、「渡辺幸庵対話」です。「史籍集覧」の16巻(だったかな?)に載っていて、市立図書館レベルなら、置いてあるはずですから、お読みになってください。
「対話」の中で、幸庵老人は、武蔵を「竹村武蔵」と呼んでいますが、これが新免や宮本とは別の、武蔵の使用した苗字なのか?それとも、幸庵の記憶違いかが問題です。たぶん後者だと思うのは、「対話」には武蔵のエピソードのほかに、与右衛門本人に関する記事もあります。たとえば、彼は手裏剣の名人でもあり、川を流れる桃に手裏剣を投げ、種を貫通したという、中に桃太郎がいたら即死という腕前ですが、幸庵はこの与右衛門をよく知っていたのではないか? 人間が130年も生きられるはずはないという常識論を無視するとしても、老人の履歴で怪しいのは、鎖国を無視して、大陸に渡ること40年以上という点です。この年月を差し引いたのが、幸庵の本当の年齢だとすれば、彼は武蔵を知らず、与右衛門の養父という認識しか持っていなかった。それなら、竹村与右衛門の養父だから、竹村姓と思うのは当然でしょう。武蔵の養子といえば、伊織のほかに、三木之助(造酒之助)がいましたが、彼も宮本を名乗っていました。しかし、与右衛門はあくまで竹村姓らしい。養子=義理の親子関係といっても、苗字が同じとは限らない。つまり、家を相続させるための養子ではなかったのでしょう。
以上の話から、確実なことがひとつあります。それは幸庵を訪ねてきた杉木三之丞は宮本武蔵を知らなかった。もし知っていたら、「ご老体、ただいまの竹村武蔵とは、有名な宮本武蔵殿のことではござらぬか?」と尋ねたに決まっているからです。武蔵死後すでに60年以上、しかも武蔵は九州では名士だが、全国的な知名度はいまひとつで、知らないのも無理はないと言うべきか? 杉木三之丞の無知ぶりを笑うべきか? 恐らく前者でありましょう。  
円明流
宮本武蔵玄信が二天一流創始以前に開いた武術流派。二天一流と異なり投剣(脇差や短刀を投げる手裏剣術)などの剣術以外の武術も多岐に含んでいた。幕末まで、尾張藩、岡崎藩、龍野藩などで伝えられた。 鳥取藩で伝承された武蔵円明流と、本項の円明流とは技法や形が大きく異なっていたことが、伝書等の比較で判明している。
尾張藩に伝承された系統
尾張藩での円明流は、武蔵の弟子の青木金家(鉄人)が伝えた系統と、武蔵が寛永元年(1624年)に尾張に立ち寄った際に教え、武蔵が尾張を去った後、養子の竹村頼角(竹村与右衛門)によって伝えられた系統がある。
竹村頼角の系統は、武蔵が尾張を去った後、尾張藩士の寺尾直正が教えを請うたので、武蔵は養子の竹村頼角を尾張藩に推薦したことにより伝わったものである。 林資龍(武蔵にも学んだ)や八田智義が竹村より印可を受けた。また、青木の弟子の山田盛次に学んだ彦坂忠重も竹村に弟子入りした。
八田智義は柳生新陰流で使われている袋竹刀を使って指導したという。これ以降、尾張系の円明流は稽古に袋竹刀を使うようになった。八田より印可を受けた左右田邦俊は門弟千人に及び、尾張藩では円明流が藩の主要な剣術流派の一つになるほど盛んとなった。
左右田邦俊が、武蔵の百回忌の1744年(延享元年)に建立した「新免武蔵守玄信之碑」が、現在も愛知県名古屋市南区の笠覆寺に残っている。
尾張藩の支藩の高須藩には、竹村頼角の弟子の久野角兵衛と左右田邦俊の弟子の菅谷興政の2系統で伝わった。
左右田家は尾張藩の円明流師範家となったが、邦俊の4代後の左右田邦淑が追放となり左右田家は断絶したので、邦淑の弟子の市川長之が円明流を継承し、市川家が円明流師範家となった。市川家は貫流槍術師範家でもあったため、これ以降、市川家では貫流槍術と円明流剣術が併伝されるようになった。
現在、貫流槍術に伝えられている剣術「とのもの太刀」に円明流の技が残っているほか、尾張柳生の一部の道場で市川家の系統の円明流も伝承されている。
これとは別に、宮本武蔵が尾張滞在中に伝えたとされる正統尾張円明流を復元する団体もある。
龍野藩に伝承された系統
龍野藩での円明流は、武蔵が龍野城下の円光寺に滞在した際に教えたことに始まる。この際、円光寺住職の弟の多田頼祐や龍野藩家老の脇坂玄蕃が武蔵より円明流の教えを受け、龍野藩では幕末まで円明流が盛んとなった。
多田頼祐の養子の多田祐久は、頼祐の弟子の三浦延貞より円明流と水野流居合を学んだ後、武蔵の弟子の柴任重矩より二天一流も学び、これを採り入れた多田円明流を開いた。その後、祐久は広島藩に仕官した。祐久が広島藩に仕官したことにより、多田家は広島藩の剣術師範家のひとつとなった。  
高須藩の武芸 −圓明流剣術−   
圓明流剣術とは
圓明流剣術は、剣聖宮本武蔵が起こした二刀流剣術の流派の一つとされている。熊本藩、尾張藩などに伝来し、高須藩には、尾張藩に客分として讃岐から来た竹村与右衛門頼角に学んだ久野角兵衛の系統と竹村与右衛門頼角の孫弟子の左右田邦俊武助邦俊の二系統があった。
高須藩の師範
久野角兵衛
尾張藩円明流居合術師範竹村与右衛門頼角の弟子。尾張藩士角田半平次に円明流の奥義を伝える。天和二年二月廿八日他所より馬廻に召出される。元禄十三年九月久野角兵衛の若党と中間が喧嘩したため近所に迷惑を懸けたとして立退いたが、立退は主の奉公を軽んじた行為として改易された。翌年許され再び前の宛行(三十石)で馬廻に帰番となった。元禄十五年九月廿九日江戸に於いて没す。
左右田武助邦俊
尾張藩士。『武芸旧話』に「円明流左右田武助藤原邦俊は、はじめ九平易重と号し、後武助邦俊と改む。元和元年酉の年、十八歳にて八田九郎右衛門知義に従いて、武蔵流の兵法を学び、貞享年間鈴木主殿組の騎馬同心へ入て、知行高百五十石を賜り、元禄八年三十二歳にて知義より目録をうけ、宝永元年十一月四十一にて印可を請、同七月寅年師範をはじめ、貞享十四年己酉年五月十二日六十六才にて卒す。水哉院直道円入と号。」とある。
高須藩とのかかわりとしては、笠寺にある『新免武蔵玄信碑』に、
「(前略)左右田邦俊少小有志干刀法従知義学之頗臻其妙諸州弟子日満其門忝授其術於高須羽林家往来濃州蒙其眷遇有矣天下以刀法自負者一見其手段無不嘆息敬服實中興之達者也 其子孫門人等傳業不懈是歳延享紀元甲子當新免先生百忌以故門人等相議冩其遺像且建一石以記其事傳之不朽(後略)」 とあって高須に来て藩士に教授したことが知れる。蓬左文庫に左右田易重の著作「兵法忘備譜」がある。
菅谷九右衛門興政
左右田武助邦俊の系統のうち、高須藩士菅谷九右衛門興政が、免許皆伝となっている。菅谷九右衛門は諱興政、通称を初め伝九郎のち九右衛門と言った。宝永五年六月廿日徒に召出され、御勝手目付、徒目付、賄頭、台所頭を歴任する。
『武芸師家旧話』に載る逸話に
「菅谷九右衛門と云は、高須衆也。猪谷流剣術切合を学び、許可を得たり。或時、其叔父左右田邦俊武助邦俊の方へ行て、門弟の稽古を見て、菅谷九右衛門云様、「扨々和らか成り御流なか」と云。武助何共取合ず。九右衛門又云けるは、猪谷流にてもみ付けば、其躰には参るまじと云、武助曰、「和らかにさへあれば、強き敵にはいつにても勝事安し」と云。九右衛門又申様「私も猪谷流の印可を請候者ゆへ、立合見申さん」と云ければ、武助さらば参るべしとて、女竹の短きを二本持て出たり。九右衛門は大木刀にて立合しに、武助円曲つけながら、九右衛門を座敷の縁の下へ追込しかば、九右衛門あやまりながら、今一本と望む。武助又円曲にてゆきしが、九右衛門いかん共仕方なき内に、胸先を蹴られ倒れしかば、其時武助笑て、強き太刀筋かなと云ながら座敷へ上りしに、九右衛門恐れ入て、猪谷流を絶門し、武助の弟子と成、後に免許を請し也。此事、九右衛門が石碑にも書載せ有とぞ」というのがある。なお、この石碑は、高須の昌運寺に現存している。寛保三年二月二日没する。
野村健之進
実名琢、通称健之進。野村逸平治の子。御旗之者台所人定仕埋として召出される。嘉永三年四月二十五日制剛流柔術、圓明流居合術の印可之巻相伝、流儀奥義皆伝のため特に五斗の加増をうけている。同心等に圓明流居合術を指南する。また、第十四代藩主義生の柔術師範を勤めた。明治三年文武館(旧日新堂)において柔術師範を勤める。明治六年西駒野村鴻漸南校の校長を勤める。  
明石城の桜
翌日――。
「養父上ちちうえ、戻りましたぞ」
武蔵と別れた数日で、見違えるほど精悍な若武者になった三木之助が、魔封じの刀、了解りょうかいをたずさえて帰って来た。
「三木之助、姫路では一歩、剣の境地へ踏み込めたようだの? 」
「この三木之助、命のやり取りを潜って、剣禅一如の目が開きもうした」
ウムと眉間へシワをよせ思案顔で頷く武蔵が、
「帰った所を早速だが……」
武蔵は三木之助へ傍へ手招きして密談でもするように額をつき合わせた。
「実はな昨夜、キリシタンのカタリナお純と申す者から訴えがあっての親兄きょうだい裏切りの密告をうけたのだ」
「魔道の者たちはやはりキリシタンでございましたか」
「突然だが、これから4日後の満月の夜、ワシは明石湊沖合いの明石ジョアン全澄てるずみが篭こもる弁財船へ打ち込みをかける。一方で、三木之助! お主は明石城へ夜討ちをかける明石内記から城を衛る大将として小笠原忠真殿と謀はかって城中の精鋭と門弟を引き連れキリシタンの反乱を討伐とうばつするのだ」
麗らかな青年剣士であった三木之助が、姫路へ参って半月で精悍な男になって帰って来たのだ。武蔵は、宮本家の跡継ぎ、果ては姫路藩15万石の世継よつぎ、本多忠刻ほんだただときの付き小性として責任ある家老になる日も来るやも知れぬと考えると、三木之助は、若くはあるが、一軍を率いる大将の目覚ましい器量の成長を遂げる三木之助をおいて他にないと思えた。
「三木之助、此度こたびの大将を任せてもよいな」
武蔵は愛刀、和泉守藤原兼重2尺7寸を了解りょうかいと交換で三木之助へ託した。
「今宵は桜も綺麗だ養親子おやこ、門弟一同に築城中の明石城へ繰り出して戦の前の宴を開こうではないか」
――明石城。
武蔵一党は、言葉へ出さずに、まるで城攻めでもするように侵入経路に成りうる、桜並木の内掘り、表門を潜り城郭を辿って行く。武蔵は三木之助にも伊織にも別段物を言わず静かに辿って行く。
城郭を廻って後背に面した剛の池を埋め尽くす千本桜――。
「武蔵、やって居るか、わたしも宴へ混ぜてくれまいか? 」
と、二人の供連れの網笠の侍が武蔵の宴へ声を掛けた。
武蔵が振り返ると、さっと網笠のつばをあげ顔を見せる。
「これは!? 小笠原の殿では御座らぬか」
「お忍びじゃ、無礼講で席へ混ぜてくれ」
徳川の天下太平の世になって降って湧いたような4日後の戦を前に男たちは気持ちが高ぶっている。
三木之助、伊織、この間の道場破りの傷も癒えた円明流3羽烏さんばからす始め30人に及ぶ一門が桜の大木の下宴をひらく。
青木粂衛門が隣の石川左京へ盃を交わす。
諸肌脱いだ竹村与右衛門は、酔っぱらい、大盃と槍を振るって黒田節だ。
「酒は呑め飲め 呑むならば 日本一ひのもといちのこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の明石節」
竹村与右衛門の黒田節を明石節へ当て変えた心意気に、青年城主の小笠原忠真も酒も呑めないのに呑み干し顔を赤らめて武蔵へ訊ねた。
「武蔵よ、ワシは命のやり取りは真っ平じゃ。たとえ御禁制のキリシタンの反乱だとて、言って聞かせて刀を納めるならば、命は救ってやりたいと思っておる……甘いか? 」
「たとえ心の主が違ったとて人は人、同じ飯も食えば、同じ言葉を話、同じ赤い血を流します。救える命ならば救いましょう」
武蔵の言葉に曇った表情を快晴する小笠原忠真。
「ならば! ……」
小笠原忠真がキリシタン救済の手立てを紡ごうと顔をほころばせた時、武蔵は眉間へシワをよせ首を振る。
「だが、キリシタンの救済はなりませぬ。心の主が違えば、それだけで彼らは、日本ひのもとの教えである聖徳太子の和の精神すら捨て去り、主デウス以外の教えを悪としてすべて捨て去り争います。これは戦国の一向一揆の本願寺の信徒と同じ狂信者です」
「ではワシはどうすればよいのだ? 」
「徳川の太平の世の不安の種、逆らうキリシタンは皆殺ししか御座りますまい」
「それしかないのか? 」
「恐らく団結したキリシタンの多くの者は、信仰を捨て去り、神君徳川家康を拝みますまい。命を掛けて歯向かうのみ」
小笠原忠真は瞑目して、来る日のキリシタンの哀れをしばし祈ってやる。活眼した忠真は、意を決して、
「天下太平のため、我らは鬼になろうぞ! 皆、力を貸してくれるな?」
と、並々と注がれた大盃の酒をグッグと飲み干す。フラッと倒れそうになる忠真の脇を抱え支えたのは、武蔵でも三木之助でもなく、すべてを飲み込んで傍らで見ていた、まだ幼さを残す伊織であった。
後年の話だが、この宮本伊織は、小笠原忠真へ近習として仕官し、弱冠20歳にして藩政を取り仕切る執政となる。だが、それはまた別の話。  
 
宮本武蔵・諸話 1

 

宮本武蔵って強かった? 
剣術の話でなはく、個人の感想ですので、ああ、こういう見方もあるのだなぁ、と、そういう視点でお読みください。講座というよりも、エッセイということになります。
すこし前に直木賞の話をしました。直木賞、正式には直木三十五賞です。
この直木三十五、最初の筆名は直木三十一だったそうです。で、翌年には直木三十二になり、更に翌年直木三十三になり、結局三十五で止まりました。ちょっとシニカルでひねくれたところがあります。
この人の代表作は何なんでしょうか? 有名なものは、無いのではないでしょうか?
強いて言うなら、小説ではないのですが、彼の作品で一番有名なのは、ことによると、「宮本武蔵非名人説」かもしれません。
直木三十五は、宮本武蔵のことを、「あんなやつは、名人でもなんでもない」と痛烈に批判しました。
試合の刻限にわざと遅れてきて、相手をイラつかせ勝ちを取る卑怯な男。自らの売名のためには、幼い子供の命も平気で奪う残忍な男。全く風呂に入らず、それを自慢げに吹聴する不潔な男。さらに自分一度も実戦で二刀を抜いたことないのに、二刀流だなどと自称する男。60回以上も試合をしたと自慢している割には、当時の本当に強い剣豪とは一切戦っていない臆病者。
と、まあ、直木三十五が主張していない項目もあるかもしれませんが、上記のような言い分です。
これに対して菊池寛が反論。そこへ吉川英治も加わって大論争を繰り広げます。
「幕末に、あれほど多くの剣士たちが真剣で斬り合ったにも拘わらず、一人として二刀流の遣い手はいなかったではないか」
「いやいや、それほど武蔵の技術が卓越していたのだ」
と、武術を齧ったことのあるひとなら、失笑してしまうような不毛な論争が続きました。
こんなことで論争するのなら、いっそ菊池寛が二天一流を修行し、直木三十五が『剣聖』とあがめる上泉信綱の「新陰流」を稽古して、ガチで戦えば良かったのですが、この武蔵論争では、そういう方向ではなく、「剣豪とはどういうものか」という論点に準拠しての大論争でした。
やがて、この論争は菊池寛が終局宣言をし、結論の出ぬまま幕を閉じます。
こののち、吉川英治がひとつの答えとして、新聞紙上に『宮本武蔵』の連載を開始し、菊池寛は直木三十五の没後、彼を記念して『直木三十五賞』を提案します。
論争自体は不毛でしたが、名作『宮本武蔵』と日本最大の文学賞『直木賞』を生み出したのだから、意味はあったのかも知れません。
さて、で、宮本武蔵ですが、彼、本当に強かったのでしょうか?
もうひとつ。彼が強くなかったとして、では一体誰が強かったのでしょうか?
よく語られる「昔の剣豪で一番強かったのは誰だ?」という、答えの出ない論争。ここにも関わってきます。
むかし私の職場にいた、格闘技大好きな男子は、『武蔵』と『示現流』を別格に扱っていました。実戦的なイメージがあるのかも知れません。
マンガやアニメ、ゲームでは北辰一刀流が登場することが多いですね。
あと、剣道・剣術系の方たちにとっては、小野派一刀流は一流ブランドです。これを読んでいる人のほとんどが、「は? 小野派一刀流ってなに?」って印象だと思いますが、実は日本を代表する剣術の流派です。
剣豪で最強だったのは誰か?という論争は、結局は現存する流派やその技をみて語ることになります。
しかし、宮本武蔵の強さについて、世間一般の論拠は、かなりいい加減な物になります。
宮本武蔵といえば、日本ではもとより、海外でも最強の剣豪というイメージのある武士です。
二刀流を使い、『五輪書ごりんのしょ』を書き、巌流島で佐々木小次郎と対決して勝った男です。
が、上記三件。歴史的に証明されているものが、ひとつだけだと聞いたら、あなたは驚きますか?
まず、武蔵が実戦で二刀を使ったという記録はひとつもありません。
『五輪書』は確かに書きました。
そして、巌流島での佐々木小次郎との決闘。史実としては、極めて怪しいのです。最大の謎は、佐々木小次郎という人物が実在したかどうか? ここから、宮本武蔵という人間が、「何人かいたのではないか?」という仮説すら生まれてしまいました。
まあ、この辺りのお話は剣術講座から外れてしまいますので、ご紹介だけとしておきます。が、これ以降、宮本武蔵と書かれていたら、『五輪書』の作者ということにしておいてください。それが果たして、どの武蔵なのか?とか、佐々木小次郎と決闘した人なのか?ということは、置いておきます。
宮本武蔵は、謎が多いです。理由はそれだけ研究されているからだと言えるでしょう。シェークスピアと状況は似ています。
そしてそれを極めてややこしくしているのは、芝居や小説の、「虚構の武蔵」です。
宮本武蔵は、生涯に六十余度の試合をしたと自称しています。そして、一度も遅れを取らず、とも語っています。
彼が剣豪というイメージは、江戸時代に芝居の演目となっていたことから、当時から民衆の間にあったものだと言えます。ただし、当時の芝居の武蔵は紅顔の美少年で、親の仇である老人・佐々木小次郎を倒すという仇討ち物でした。
そして、昭和になると、今度は吉川英治の『宮本武蔵』の影響が強くなります。近年なら、それを原作としたコミックの『バガボンド』でしょうか。
いずれも、創作であり、フィクションです。
よって、そこに語られるエピソードは虚構であり、本位田又八もお通さんも架空の人物です、ことによると佐々木小次郎ですら。
ところが逆に、柳生石舟斎、夢想権之介、鐘巻自斎、伊藤一刀斎は実在の人物です。
剣豪というものが、とかくフィクションの影響を受けやすい存在だとしても、武蔵はその傾向が特に強いです。というより、実際の武蔵とフィクションの武蔵が混同され、どちらかというとフィクションの武蔵の方が有名です。
これが、土方歳三ならば、『燃えよ、剣』の土方歳三と史実の土方歳三は別であると、みなさん大人の対応をしてくれるところですが、宮本武蔵に関しては、なぜかそれがない。
ということで、以下に、比較的史実に近い様な気がする武蔵のエビソードを紹介しようかと思います。

武蔵が小倉にいたとき、青木条右衛門という男が尋ねてきて、兵法を見せた。
武蔵は機嫌よく「どこで指南しても恥ずかしくない」と褒めた。
が、ふと見ると、青木がもつ袋の中にある木刀に、赤い腕貫がついている。
「それはなんだ?」と武蔵が問うと、
「これは試合を申し込まれたときに、つかう木刀です」と青木は答えた。
とたんに武蔵は不機嫌になり、
「このたわけ者が。さきほど褒めたのは、子供の指南ならどこに出しても恥ずかしくないと言っただけだ。おまえなんぞは、試合をするべきではない」
そして、児小姓を呼び、その前髪に飯粒をひとつつけ、刀を抜いて上段から斬り下ろし、飯粒のみを両断して、髪は一本も斬らなかったという。
「これくらい出来ても、試合で勝つのは難しい。お前ごときが試合なんぞとは、もっての他である」
と青木を追い返したそうである。

これが宮本武蔵のエピソードとして伝えられている物語です。吉川英治の創作ではないお話なんですが、たぶんほとんどの人が「ん?」と思うことでしょう。
まず木刀の腕貫、いわゆるストラップですね、をつけていてなんで問題があるのか? そして、最初はべた褒めしておいて、急に子供へ指南する程度の腕前と、けちょんけちょんに貶けなすのか?
また、後半の、飯粒だけ斬って、髪の毛は一本も切らないというのは、本当なのか?
疑問ばかりがのこるエピソードです。
木刀の腕貫は、武術をやっている人なら、なんとなく悪い印象を抱く行為であるとは感じると思いますが、果たしてその感覚が江戸時代初期でも通用するのか?
そして、それに対しての武蔵の過剰な反応。
少なくとも、宮本武蔵、人格者ではありません。上泉信綱のような、現代人が話を聞いても感服してしまう高尚な話はできません。
また、武人としての態度も、塚原卜伝のような、現代人すら納得させる明確さがありません。
天才は人格が破綻しているものだと言うのなら、その破綻っぷりは小野忠明に遠く及びません。
中途半端で、嫌味です。
また著書の中では、「自分は風呂に入ったことが無い」とか「女性の色香に惑わされたことが無い」とか、変な自慢ばかりしています。そのうえで「生涯に60回以上の勝負をして、一度も後れを取らず」とか言われても、信じ難いです。
有名な「五輪書ごりんのしょ」では、火の巻で「岩尾の心」というものを説いています。何事にも動じない心です。
でも、もし、女性の色香に惑わされたことのない人間なら、わざわざ岩尾の心なんて記述する必要はないですね。生まれた時から、出来ているはずですから。
「五輪書」に関しては、他の武芸書とはずいぶん記されている内容が違います。
現代人にも明確で、分かりやすく、応用範囲が広いです。これは名著といえます。が、もしかしてここで説かれている技術論は、当時の武芸者は当たり前に分かっていた「常識」だったのではないでしょうか?
宮本武蔵は、なぜそんな、初心者向けともとれる武芸書を残したのでしょう。そして本文中には何度も何度も「よくよく鍛錬すべし」との記述があります。
これは一体誰宛てに記した書物なのでしょうか?
そして、技。
飯粒だけを両断して、髪の毛は一本も切らない。これ本当の話でしょうか?
これについては、私見ですが、本当だと思います。
信じがたいですが、修練を積んだ人間の技術は、ときとして信じがたいレベルまで達するものです。
時代は戦国時代。リアルな侍や野盗が跋扈する時代です。
ファミコン世代の少年たちのゲーム能力が今の視点で見れば驚異的であったのと同じで、当時の少年たちの剣戟の能力は、現代人の想像を超えたものだったでしょう。
畢竟、武蔵の強さは、現代人の想像の埒外であろうと思います。おそらく、私たちの感覚として、「信じられないくらい強かった」のではないかと思います。
ただし、当時の武芸者としては、中の上くらいだったのではないでしょうか? そんなに強くなかったのではないかなー、と勝手に考えています。
つまり、それくらい、当時の武術家たちの技は高レベルで、それはもう私たちの常識からは逸脱した、信じられないくらいの強さだった。そして武蔵は、その中では普通か、すこし上だった。
と、推測するのです。まあ、これは、完全に、私の想像なんですが。  
宮本武蔵に勝った男 
武蔵、敗れたり!
宮本武蔵は、著書「五輪書」(ごりんのしょ)の中で、生涯60数試合に及ぶ真剣勝負で負けたことがないと述べていることでも知られています。
そんな稀代の剣豪に土を付けたと言われているのは、長さ4尺(約120cm)ほどの棒を自在に操る「杖術」(じょうじゅつ)という聞きなれない武術の使い手でした。それが夢想権之助。
のちに日本最大の杖術の流派となる「神道夢想流杖術」(しんとうむそうりゅうじょうじゅつ)を創設した人物です。
杖術の伝書には、このような言葉が記されています。
「突けば槍(やり) 払えば薙刀(なぎなた) 持たば太刀(たち) 杖はかくにも外れざりけり」
すなわち、樫の木でできた棒は、あるときは槍に、またあるときは薙刀に、さらには太刀の役目も果たすなど、使い手の意思によって、様々な武器へと変化するのです。そのため、相手は槍、薙刀、太刀の使い手と勝負をしている感覚に陥るでしょう。
武蔵は2振の日本刀(刀剣)を自在に使いこなす「二刀流」の使い手でしたが、権之助の杖術は、1本の杖をまるで3種類の武器を持っているかのように扱う「三刀流」とも言うべきもの。武蔵の二刀流よりも、さらに上を行っていたのかもしれません。
この戦いについては、引き分けだったという言い伝えもあります。
しかし、武蔵が勝ったという伝承は見当たりません。このことから考えても、権之助と武蔵の試合は、武蔵にとって非常に厳しいものであったということは確かでしょう。
打倒・武蔵への道
権之助にとって、打倒・武蔵は宿願でもありました。
出発点は剣術の試合において、武蔵の前に一敗地にまみれたこと。両者が最初に相まみえたのは、播州・明石。
当時「神道流」を極め、「一の太刀」(いちのたち)の奥義を修得したほどの腕前を誇っていた権之助は、開始当初から積極的に攻め手を繰り出すなど、稀代の剣豪と対峙しても臆するところはありません。
しかし、「二天一流」(にてんいちりゅう:武蔵が完成させた兵法)の防御技「十字留」(じゅうじどめ)の前に、前へ進むことも後ろに退くこともできなくなり、最後は眉間を打たれて敗北するという完敗でした。
「天下一の無法者」これが権之助に対する武蔵の評価でした。
仏教の修行を行なうなど、剣術だけでなく自らの心も鍛えたことで、日本屈指の兵法者となった武蔵。その目に映る権之助には、若く勢いがあり、剣術の技量にも見るべきものはあるものの、心の部分にある弱さが見て取れたのかもしれません。
天下の剣豪に自信を打ち砕かれた若き剣士は、強さを求めて武者修行の旅に出ます。目的はただひとつ、打倒・武蔵。諸国を巡って修行を重ねる権之助の旅は、数年間に及び、ついに「運命の地」へとたどり着きました。
それが「筑前国」(ちくぜんのくに:現在の福岡県)の「宝満山」(ほうまんざん)にある「竈門神社」(かまどじんじゃ)です。
丸木をもって水月を知れ
宝満山で参籠(さんろう:祈願のため、寺社などに一定期間籠ること)して1ヵ月余。
ついに、「そのとき」が訪れます。ある夜、就寝した権之助の夢の中に童子が現れ、こう言ったのです。
「丸木をもって水月を知れ」
この言葉は、丸木(丸い木の棒)で「水月」(すいげつ:みぞおちの周辺)と呼ばれている急所を狙いなさいという啓示でした。
これを受けた権之助は、長さ4尺2寸1分(約128cm)、直径8分(約2.4cm)の直杖を手に、武蔵の十字留を打ち破るべく試行錯誤を繰り返します。そうしてたどり着いた結論が、直杖を槍、薙刀、太刀として変幻自在に操ること。権之助が「武芸百般」(ぶげいひゃっぱん:あらゆる武芸のこと)に通じていたことから、これらの動きを組み合わせて新たな武術を創り出したのです。
杖術のターゲットは剣術ただひとつ。
剣術を含めたあらゆる武術の技術を組み合わせて相手の剣を封じる、まさに剣術殺しの武術でした。その象徴が杖で相手の日本刀(刀剣)の「棟」を滑らせるようにして攻撃を加えたり、日本刀(刀剣)を握る相手の手を打ち付けたりする技術です。
剣術家にとって、このような攻撃を受けることはまさに想定外の事態。権之助自身が剣術の達人でもあり、剣術を使う相手が、どのようなことをされたら嫌なのかを知り尽くしていたからこそ浮かんだ発想だと言えるでしょう。
裏を返せば、このような「裏技」的な物を繰り出してでも武蔵に勝ちたいという、権之助の執念の表れでもあったのです。
杖術の本質
武蔵と「佐々木小次郎」の「巌流島の戦い」(がんりゅうじまのたたかい)においては、武蔵が小次郎を撲殺したと言われていますが、権之助と武蔵の再戦では、両者が負傷するという事態にはならなかったと言われています。
実は、ここにこそ杖術の本質があったのかもしれません。
「痕(きず)付けず人をこらしていましむる、教えは杖の外(ほか)にやはある」
杖術の伝書に記されている言葉にもそれが表れています。
すなわち杖術において目指すところは、真剣勝負であっても相手を殺傷することなく制圧すること。積極的に攻撃を仕掛けるのではなく、相手の出方に自在に対応して技を繰り出す「後の先」(ごのせん)こそが極意なのです。
それは稽古にも表れています。杖術においては、攻撃と防御を組み合わせた形(かた)を反復して習得すること。相手を打ちのめすのではなく、相手の攻撃を防御して対応するための技を磨く点で、杖術は「形武道」(かたぶどう)に分類することができます。変幻自在、多種多様な技を繰り出すという技術面と、人を決して傷付けないという精神面の融合こそが杖術の本質。
そして形稽古は、創始者の夢想権之助以来、受け継がれてきた技を再現するための大切な手段。これを反復継続して身に付けたとき、技術だけでなく相手を傷付けずに勝つという杖術の精神性も継承することができるのです。
現代に受け継がれる杖術
打倒・武蔵という大願を成就した権之助は、そののち、「筑前国」の「黒田藩」(福岡藩)に迎えられ、門外不出の武術として藩士たちに伝承されました。
なかでも重宝された技術が日本刀(刀剣)を手にして暴れている相手を取り押さえる「捕手」(とりて)。相手を傷付けることなく制圧するという杖術の極意はこのような場面でこそ、存在感を発揮していたのです。
このエッセンスはその後、警察官必須の体術である「逮捕術」にも取り入れられ、現代にも脈々と受け継がれています。
現在、杖術はその一部の技術について、「剣道」と融合した「杖道」(じょうどう)に形を変え、「全日本剣道連盟」の傘下で、老若男女を問わず広く普及しています。
他方、権之助を開祖とする神道夢想流杖術についても、「古武道」(こぶどう:明治維新以前から行なわれていた伝統的な武術)として存続。演武などを通して往時の姿を垣間見ることができます。武蔵に勝った男の技と精神は、時代を超え、現代に受け継がれているのです。  
巌流島の真実 宮本武蔵 
「巌流島」は誰でも知っていますが、それが関門海峡にあるとは知らない人も多いでしょう。ましてや、なぜ「巌流島」という名か?その由来などぜんぜん知らない・・・のが一般的でしょうね。
「巌流島」という名前は、武蔵の時代への想像旅行の鍵かもしれないと思うようになりました。今回は、そんなお話を。
私は歴史学者ではなくコンテンツメーカーなので、史料追求は他にお任せして、状況証拠からその時の様子をできるだけ想像してみることにしました。すると、その時の宮本武蔵の辛く悔しい気持ちがありありと感じられたのです。
地元は決闘後、完全に小次郎びいきだった
「巌流」とは小次郎の流派名「岩流」から来ていることは、宮本武蔵に興味のある人ならご存知でしょう。つまり小次郎の名を冠した俗称が「巌流島」で、正式な地名は昔も今も「舟島」なのです。
この決闘、地元は完全に小次郎びいきでした。そうでないと負けた「岩流」の名で島を呼ばないでしょう。例えば、全米オープンテニスで大阪ナオミが勝った会場が、翌日から世間では「セリーナコート」と呼ばれているようなもの!?ですから…
関門海峡は小次郎の地元であり、武蔵にとってはアウェーだったのです。
そして、恐らく地元では「武蔵は卑怯な勝ち方をした」と評判だったと考えられます。
「宮本武蔵は卑怯」の噂が地元で広がっていた
関門時間旅行の取材で、舟島に最も近い下関の彦島地区で古老に聴いた話では、武蔵はズルいという「昔話」が脈々と彦島に伝わっているんだとか。
その話とは、小次郎は約束通り一人で行ったのに、武蔵は弟子を連れ大勢で小次郎をなぶり殺した…という話です。
また、1984年原田夢果史さんの本で知られるようになった「沼田家記」という書物にも、武蔵が弟子を連れて…の話とその後日談が出てきます。大勢の弟子に小次郎を討たせた武蔵を小次郎の弟子が怒って追いかけてきた、それを当時細川藩の支城だった門司城城代(細川藩家老)の沼田延元が保護して大分にいた武蔵の養父の元に鉄砲隊付で護送したという話です。
「沼田家記」の記述は本当か?武蔵は残念な剣豪なのか?
「沼田家記」はその名の通り、沼田家の子孫が先祖を称えた記録で、宮本武蔵のことは客観的に書いてあるのでは…という見方から、この説は注目されるようになります。昨一般の人のブログや研究者でさえ、これを根拠に武蔵は残念な剣豪だったのかも〜などと書いているものが見られます。
でも、果たしてそうでしょうか?
そう書く人は、武蔵の書いた五輪書や独行道などをよく読んだのか、武蔵の描いた絵をちゃんと見たことがあるのか、お聞きしてみたい。
武蔵の性質・信条・癖などを考えれば、小次郎との決闘を大勢の弟子との団体戦で戦うとはとても考えられません。
「沼田家記」は、巌流島の決闘から60年も後に、沼田の子孫が熊本で書いたものです。
門司城に逃れてきた武蔵を保護して・・・は沼田本人の話で沼田家に伝わったかもしれませんが、なぜ逃れてきたかについては、おそらく「当時地元に広がっていた噂話(昔話)」を元に書いたのではないでしょうか。私はそう考えています。
決闘の島が「岩流」の名で呼ばれ、自分が卑怯者扱いなのを武蔵は知っていた
宮本武蔵の息子(養子)の宮本伊織が、武蔵の死後9年目(承応3年|1654年)に小倉の手向山(たむけやま)に建てた巨大石碑には、父宮本武蔵の生涯が記されています。こちらは、武蔵や小次郎が生きていた時代を直接知る人がたくさんいる、しかも地元小倉に建ったもの。
ここに書いてある内容を元に、その後100年以上経って熊本の弟子によって書かれたのが「武公伝」や「二天記」で、さらにそれを元に創作されたのが吉川英治の小説「宮本武蔵」です。つまり小倉碑文はすべての物語の大元なのです。
ここに、巌流島の決闘のことが出てきます。
「岩流という兵法者と勝負して武蔵が勝ち、以降舟島を俗に岩流嶋と呼ぶ」
と、島の呼び名が変わったことがわざわざ書いてあるのです。
考えてみてください。小倉碑文は浮世絵にも観光名所として書かれたほど公共の場所の碑ですから、島の俗名など不要なら書かぬでしょう。つまり、建てられた当時から「岩流島」といったほうが一般の人に分かりやすかったということです。「え、舟島?どこ?あー!巌流島のことね〜」と。
しかもさらに、「両雄同時に相会し」 つまり二人は同時に舟島に来た、ともわざわざ書いてある。
いくら巨大とはいっても限られた石碑のスペースを使ってわざわざ書くんですから、当時広まっていた武蔵は遅れてきたという噂を、息子の伊織がハッキリと否定するために書いたと考えられるのではないでしょうか。
ところでなぜ小倉の山の上にこんな武蔵の顕彰碑が建っているのか?それは、武蔵の息子の宮本伊織が、細川家の次に小倉藩に入った小笠原家の筆頭家老を務めていたからです。そして親の武蔵も伊織について50歳の頃に小倉にやってきます。
なぜ宮本武蔵の息子の伊織が小笠原藩の筆頭家老なのか…長くなるので詳しくは割愛しますが、武蔵が巌流島で勝ったからでは全くありません。伊織を小笠原家に仕官させたのはもちろん武蔵ですが、伊織自身が極めて優秀だったからこそ出世をし、そして幕命によってたまたま小笠原家が小倉に移ることになったのです。
とにかく、あの小次郎との決闘からおよそ20年経って、武蔵は偶然に偶然が重なって再び関門海峡を越えて小倉にやって来ることになった。そこで、あの島が「岩流」の名で呼ばれ、嫌な噂が広がっていることを知ったはずです。
小倉や門司の民、海峡対岸 下関の民は、少し昔に岩流先生を卑怯な方法で倒したあの武蔵が小倉に入った…、どんなひどい奴かとうわさしたのではないでしょうか。宮本武蔵のアウェー感は半端なかったことでしょう。いったいどんな気持ちだったのでしょうか?
悪い噂に折れず、ぶれず、相手にもせず、武蔵が示した最高の回答とは?
宮本武蔵の強さは、自分を信じ抜くメンタルの強さにあります。武蔵の心は折れません。ブレもしません。ただじっと耐え、鍛錬が続く日々。
そこに、江戸時代最後の大きな戦「島原の乱」が起きます。制圧に九州各藩があたり、50歳を越えていた老兵武蔵も小笠原家の前線で活躍したことが知られています。家老・宮本伊織は小笠原軍の侍大将として活躍し、戦後その活躍から20代の筆頭家老へと大出世します。
そして武蔵はその後すぐ、伊織をはじめ家族・友人がたくさんいる小倉を一人離れ、熊本へ細川藩の客分として出向くんですね。そこで二天一流の弟子を育て、最後に五輪書や独行道といった優れた著作を残して亡くなります。
「五輪書」の冒頭は、武蔵が自分の半生を語るところから始まります。そこにいくつか具体的な決闘の記述が見られるものの、「巌流島」のことは一言もありません。伊織の小倉碑文ではあれだけ印象的に書かれた兵法者 岩流との戦いを、武蔵が忘れていたり軽く考えているとは思えず、嫌な思い出なので敢えて書いていないのでしょう。
関門海峡の舟島を「巌流島」と呼び、卑怯なヤツだの残念な剣豪だのといわれる噂を無視しながら、宮本武蔵が残した最高の回答が「五輪書」であり「独行道」なのではないでしょうか。そして「仰天実相円満兵法逝去不絶」という最後の言葉です。
誰がなんと言おうと、大した肩書きが無くとも、大した俸禄でなくとも、自分の人生に対する自信と満足感に溢れています。
そして特筆すべきは、そんなある意味「自分勝手」「空気読まず」「アウトロー」な宮本武蔵が、家族にも弟子にも大いに愛されたこと。宮本武蔵の生涯、知れば知るほど心揺さぶられる人でありました。  
宮本武蔵の巌流島の決闘、最後は集団リンチに終わった? 
剣豪同士の決闘として名高い「巌流島の決闘」といえば、宮本武蔵と佐々木小次郎が一対一で相対している場面を思い浮かべることだろう。ところが実際には、勝利した宮本武蔵側が、卑怯な手段で佐々木小次郎を絶命させていたという。『ざんねんな日本史』(小学館新書)を上梓した歴史作家の島崎晋氏が、その知られざる顔を紹介する。
巌流島は、関門海峡に浮かぶ小さな無人島でありながら、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行なった場所として知られている。
宮本武蔵は生涯に六〇余度の立ち合いをしながら、一度も負けたことのない天才武芸者。対する佐々木小次郎は豊前国小倉で兵法と剣術を教えていた人物で、長い大太刀を愛用した。
一般に流布する話では、武蔵は小次郎から平常心を奪おうと約束の時間よりかなり遅れて登場し、武器には舟の櫓を削った、小次郎の大太刀より長い木刀を用い、わずか一撃で小次郎を絶命させた、という。
だが、これには後世の創作がかなり入っており、武蔵の養子となった宮本伊織が残した文書には、武蔵は遅刻などしておらず、巌流島には小次郎と同時刻に到着したと記されている。
さらに注目すべきは、小倉藩の家老で門司城代(城主の代理)でもあった沼田延元の家人が著わした『沼田家記』という記録である。
これによれば、小次郎は一対一の勝負という約定を守り、単身で来ていたが、武蔵の側では数人の弟子がひそかに島に渡り、物陰から決闘の様子を注視していた。武蔵は小次郎の命まで奪いはしなかったが、武蔵の弟子たちは蘇生した小次郎にわっと襲いかかり、とどめを刺した。それを知った小次郎の弟子たちが仇を討とうと大挙して島へ渡ったところ、武蔵は門司城に逃げ込み、沼田延元に身柄の保護を求めて助かったという。
剣豪同士の決闘が、最後は集団リンチに終わってしまったというのだが、果たして真相や如何に。  
宮本武蔵の庭 本松寺庭園 
日蓮宗本松寺 兵庫県明石市
庭園様式 枯池式枯山水庭園
作庭時代 江戸時代前期(伝宮本武蔵作庭)
人丸山の西坂を登っていくと右手に日蓮宗「法栄山本松寺」、続いて鎮守「妙見宮」がある。本松寺は又の名を「谷の妙見」「萩の寺」とも呼ばれ正面に古びた石階段、巨石の御首題碑、山門と続く。本道を正面に番神堂、納骨堂(もと鐘楼堂)、庫裏が並ぶ。
本松寺は慶長元年(1596)に豊臣秀吉の家臣藤井与次兵衛(新右衛門)勝介が林崎の船上城下に建立した。当初は「本正寺」といい、審理院日甫聖人である。慶安四年(1651)の松平忠国(明石藩主)の国印状には、「本正寺」に八石六斗と畑一反二畝を贈ったとあり、貞享三年(1686)には松平直明が「本松寺」に同高を贈った記録もあり、この頃寺名が変わったようである。
元和三年(1617)小笠原忠政が信州松本から明石に移封され、現明石城の築城、それに伴い、町の中心も明石川以東へ移った。当山も有力な檀徒の尽力により、元禄四年(1691)に現在の地に移転した。この地はかつて全久山東長寺跡で、その後三乗寺、更に清水寺が入り、移転当時は空き寺になっていた。古文書に「大蔵谷の分、空寺・・・・・」とあり、今も東の谷を東長寺谷といわれるのはその名残である。
庭園は本堂を背に庫裏書院に面した枯池式枯山水庭園である。もと離れ座敷が西方にあり、庭は書院や離れ座敷を視点にした作庭である。
浅い枯池を穿ち、軽い築山を東西二箇所に築いている。そして谷を渓谷にして枯流れとし、切石橋が架かる。また二つの築山には、それぞれ大小の二つの枯滝を大滝・小滝として組み、大滝には水分石を池中に据えている。池泉は瓢箪型で、降雨の時のみ水が溜まるという枯池である。手前に出島があるが、亀出島である。護岸は池が浅いために一段の護岸石組を組んでいる。石橋は自然石が架かるがもとは櫟の橋であった。 全体的に見て、石組は小振りであるが、平面構成を重視し、視点による変化をもたせたまとまりの良い作庭といえる。
作者は、宮本武蔵と伝えられている。他に武蔵作庭と伝わるのは、旧明石藩下にある福聚院、円珠院、雲晴寺・明石公園で、そのうち福聚院・円珠院には、本庭と池泉の形、大小二滝からなることなど共通する所が多く、同じ作者の可能性が高い。 雲晴寺は平成十六年の本堂再建築の再に、庭園跡が出土し、移築中である。また、明石公園は位置は変わったが平成十五年復元された。
武蔵は、元和四年築城の始まった明石に来て小笠原家の客分となる。この時に、明石城下の町割りとともに樹木屋敷の作庭をしたことは文献上間違いなく、同時に寺院の作庭にも当った可能性は高く、そうした面からも貴重な一庭と考えられる。  
 
宮本武蔵・諸話 2

 

1
佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
2
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
3
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
4
古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
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塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
6
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
7
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
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柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
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柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
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丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
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本多氏は、藤原氏北家兼通流を称する三河の土豪で徳川(松平)最古参の「安祥七譜代」(酒井・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村)に数えられる。江戸時代には大名13家・旗本45家を輩出し葵紋の使用を唯一許される譜代屈指の大族となった。6系統のうち本多正信・正純(弥八郎家)が初期幕政を牛耳ったが宇都宮城釣天井事件で没落、家康に遠ざけられた本多忠勝の子孫(平八郎家)が最も繁栄し本多宗家と目された。松平清康・広忠に仕えた本多忠高は、嫡子忠勝出生の翌年織田信秀との合戦で戦死し(今川軍は三河安祥城を攻略し織田信広を確保、人質交換で織田から家康を奪回)、忠勝は叔父の本多忠真に養育された(忠真は三方ヶ原の戦いで戦死)。少年期より家康に仕えた本多忠勝は、12歳の初陣以来武功を重ね武田信玄・豊臣秀吉も羨む勇将となり、関ヶ原勝利に伴い徳川家臣では井伊直政(家康の養女婿)の近江佐和山藩18万石に次ぐ伊勢桑名藩10万石および上総大多喜藩5万石を獲得、本多宗家の家督と桑名藩は嫡子忠政に・大多喜藩は次男忠朝に継がせた。長女小松姫を嫁がせた真田信之は、関ヶ原の戦いで真田昌幸・幸村(父・弟)と喧嘩別れして徳川に与し昌幸領に3万石を加増され信濃上田藩9万5千石を立藩(後に松代藩13万石へ移封)、舅の本多忠勝は昌幸・幸村の助命嘆願を周旋した。次女は武田勝頼の猛攻から長篠城を守った奥平信昌の嫡子家昌に嫁がせている。本多忠政は嫡子忠刻が千姫(徳川秀忠の娘)を娶り逆玉の輿で播磨姫路藩15万石へ栄転、忠刻早世のため次男政朝が本家を継ぎ、分家した三男忠義は陸奥白河藩12万石に封じられた。本多忠勝の子孫は忠政・忠朝の両系統から6大名家を輩出したが零細化し幕末には本家の三河岡崎藩5万石と播磨山崎藩1万石のみとなった。
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細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。 
 
 
 
■佐々木小次郎

 

    ? - 1612
佐々木小次郎 1

 

( ? - 慶長17年(1612)) 安土桃山時代から江戸時代初期の剣客。剣号として岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)を名乗ったと言われる。ただし、名前については不明な点が多い。宮本武蔵との巌流島での決闘で知られる。
伝承における生涯
出身については、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説がある他、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)と記されており、秘剣「燕返し」は福井にある一乗滝で身につけたとされている。生年は天正もしくは永禄年間とされる。
中条流富田勢源、あるいは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。初め、安芸国の毛利氏に仕える。武者修業のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、「岩流」と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。
1612年(慶長17年)、宮本武蔵と九州小倉の「舟島」で決闘に敗れ死んだ。当時の年齢は、武蔵は29歳。小次郎は出生年が不明のため定かではないが、武蔵よりも40歳程年上だったといわれている。
「巖流島の決闘」
武蔵と決闘した「舟島」は「巖流島」と名を変えられ、この勝負はのちに「巖流島の決闘」と呼ばれるようになった。吉川英治の小説『宮本武蔵』では、「武蔵が決闘にわざと遅れた」となっているが、これは『武公伝』に材を採った吉川の創作である。
武蔵の養子である宮本伊織が、武蔵の死後9年目に建立した小倉の顕彰碑「小倉碑文」(1654年)によると、「岩流」は「三尺の白刃」を手にして決闘に挑み、武蔵は「木刃の一撃」でこれを倒したとある。このときの武蔵の必殺の一撃は「電光猶ほ遅きが如し」と表現されている。また碑文には「両雄同時に相会し」とあり、武蔵は遅刻していない。
ただし、豊前国の細川家小倉藩家老、門司城代の沼田延元の家人が記した沼田延元の生誕から死去までを記した一代記である『沼田家記』(1672年完成)によると、武蔵は「小次郎」なる岩流の使い手との決闘の際、一対一の約束に反して弟子四人を引き連れ巌流島に渡り、決闘では武蔵は小次郎を仕留めることができず、小次郎はしばらく後に息を吹き返し、その後武蔵の弟子らに撲殺されたとある。小次郎の弟子らは決闘の真相を知り、反感を抱いて武蔵を襲撃するが、武蔵は門司城に逃げ込み、城代沼田の助けにより武蔵は無事落ち延びたとあり、武蔵をかくまったという沼田延元の美談の一つとして武蔵のエピソードが紹介されている。決闘に至った理由も、弟子らが互いの師の優劣で揉めたことが発端と記されており、門人らの争いが一連の騒動を引き起こしたとされている。
関係者がすべて死去した後に書かれた武蔵の伝記『二天記』(1776年)の本文では「岩流小次郎」、注釈では「佐々木小次郎」という名になっており、この決闘で刃長3尺余(約1メートル)の野太刀「備前長光(びぜんながみつ)」を使用、武蔵は滞在先の問屋で貰った艫を削った大きめの木刀を使い、これを破ったとある。
熊沢淡庵の『武将感状記』では、武蔵は細川忠利に仕えて京から小倉に赴く途中で「岸流」もしくは「岩流」(併記)から挑戦を受け、下関での決闘を約したとなっている。こちらでは、武蔵は乗っていた船の棹師からもらった櫂を二つに割り、手許を削って二尺五寸の長い木刀と、一尺八寸の短い木刀を拵えたとある。
古川古松軒の『西遊雑記』(1783年)では、一対一の約束を「宮本武蔵の介」が破って門人数人を連れて舟島に渡ったのを見た浦人たちが「佐々木岩龍」もしくは「岸龍」をとどめたが、「武士が約束を破るは恥辱」とこれに一人で挑む。しかし武蔵には4人の門人が加勢していて、ついに岩龍は討たれてしまう。浦人たちは岩龍の義心に感じてこの舟島に墓を作り冥福を祈り、それ以来ここを「岩龍島」と呼ぶようになった、とある。
なお、決闘で使用した剣は、『江海風帆草』(1704年)では「青江」、『本朝武芸小伝』(1714年)では「物干ざほ(ざお)」(自ら名付けたものと書かれる)とされ、大抵は「三尺」「三尺余」と説明される。
姓名について
「小倉碑文」には、小次郎の名は「岩流(巖流)」としか書かれておらず、前述の『沼田家記』には「小次郎」(初出)とのみ書かれるなど、文献によって姓名にばらつきがある。「佐々木小次郎」が揃うのは、武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』の注釈(本文では「岩流小次郎」で、名乗りなのか剣号なのか不明)である。より古い史料には佐々木姓は見られず、『二天記』が準拠した『武公伝』(1755年)では「巌流小次良」「巌流小次郎」となっている。
魚住孝至は『宮本武蔵』で、佐々木姓は『二天記』の40年前、1737年に上演された狂言の『敵討巖流島』に登場する「佐々木巖流」から名を採ったものであろうと推察している。なお、1746年上演の浄瑠璃『花筏巌流島』には「佐々木巌流」、1774年の浄瑠璃『花襷会稽褐布染』には「佐崎巌流」が登場するなど、『二天記』が書かれる頃には「ささき」姓が広まっていた。
姓は佐々木の他に『丹治峯均筆記』(1727年)では「津田」と記され、黒田藩の重臣である小河家の文書には「渡辺」と記されている。また、『江海風帆草』の「上田宗入」、『岩流剣術秘書』の「多田市郎」など、「佐々木」でも「小次郎」でもない姓名も知られている。
没年齢について
死没日を慶長17年4月13日とする通説は、『二天記』における決闘の日付に基づいている。『二天記』には巖流島での決闘時の年齢は18歳であったと記されているが、このような記述は『二天記』の元になった『武公伝』にはなく、巖流が18歳で流派を立てたという記述を書き改めたものらしい。また生前の勢源と出会うには、決闘時に最低でも50歳以上、直弟子であれば相当の老人と考えられ、「七」の誤記ではないかとも言われている。鐘捲自斎の弟子であったとすればそれほどの老齢ではないにせよ、宮本武蔵よりは年長であった可能性が高い。70歳をすでに越えていたという説もある。
小次郎にまつわる名所
九州小倉の浜辺には、1950年に村上元三の『佐々木小次郎』が完成した記念に「小次郎の碑」が建てられている。
吉川英治の小説『宮本武蔵』では、現山口県の「錦帯橋」を、小次郎が「燕返し」を編み出した場所としている。実際にはこの橋は「巖流島の決闘」の60年後に作られたもので、その「燕返し」は「虎切」と呼ばれる剣法の型であり、すべて吉川の創作である。
1956年の東宝映画『宮本武蔵完結編 決闘巖流島』では、稲垣浩監督は静岡県南伊豆の今井浜にコンクリートの岩を仮設して「巖流島の決闘」を撮った。この人造岩は観光課の要望でそのまま残され、その後観光地となっていた。
山口県岩国市の「吉香公園」や、福井県の「一乗滝」には小次郎の銅像、山口県阿武町大字福田には小次郎のものと伝承される墓がある。  
 
佐々木小次郎 2

 

安土桃山時代から江戸時代に実在したんじゃないかな?と思われている剣豪である。生没年不明(生没年不詳)であり、講談では巌流島の決闘で敗北し落命したことが有名であるがそもそも宮本武蔵の生涯そのものが講談の影響もあって色々と演出されており、真相は不明である。
一般的な講談、小説での佐々木小次郎
中条流の遣い手で、若年ながら天才的な美剣士。のちに自らの流派を「巌流」と命名した。空を飛ぶ燕を三尺の刀身の大太刀(長刀)で斬り落とす業を得意として「燕返し」と命名。江戸時代に細川家立会いの元、後の大剣豪宮本武蔵と天下一の座を賭けた決闘を舟島で行う。
ところが武蔵さんは時間にルーズであり約束の時刻になっても現れない。ずーっと待って待ってイライラしてしまった為に平常心を無くした小次郎さんは、武蔵が現れるやいなや背負った大太刀を抜いてその鞘を投げ捨てる。その様子を見た武蔵は「小次郎敗れたり!」と叫ぶ。武蔵の屁理屈としては勝つ積りならば帰る時に太刀を納める鞘が必要。それを捨てたのは勝つ積りが無いからだ。ということであった。
常識的に考えてあとで拾うに決まってるのだが、短気な小次郎はカッカしてしまい本来の技量が出せなくなった。 SNKのゲームでいうならば挑発で気力ゲージが減少して秘剣燕返しの威力が減少した状態である。
此れに対し、武蔵は「やっぱり剣はリーチだよねー!♪」とばかりに、船の櫂をけずってトンでもなく長い木刀を持参。ジリジリとお互いに間合いを計って勝負は一閃。
太陽を背にして武蔵は跳びあがり小次郎の目を眩ませる。対して小次郎は海に足を踏み入れ袴を濡らし、機動力を失った状態で此れを迎え討つ。
小次郎は燕返しで武蔵の鉢巻を切り落すも致命傷を与えることは出来ずに、武蔵の櫂の長木刀を眉間に受けて倒れる。暫く倒れたままの小次郎であったが、半身を起こしライフゲージ1ドットで最後の超必殺技の真燕返し?逆袈裟斬りを繰り出すも一寸の見切りで武蔵は此れを避わし、小次郎に非情のダウン攻撃。
巌流 佐々木小次郎は落命する。周辺住民は小次郎を哀れみ、以後、舟島を巌流島と呼ぶこととなった。また、武蔵はこれに懲りたのか、以後、命を賭けた真剣勝負を辞める(でも出世したいから合戦には出陣している)。
歴史学上の佐々木小次郎とは?
明確な情報はなにも無いのが実情である。
伝承の一つによれば小次郎は身長175cm程の巨漢であり、別段、美青年ではなかったともいう。
剣の腕前についても不明。小次郎が修行したのは中条流、ないし漫画喧嘩商売で有名な富田流であるという。師匠は鐘捲自斎(鐘巻自斎)という弟子の伊藤一刀斎に負けたある意味悲劇の剣豪説と(漫画バガボンドはこの説を採用)富田流開祖の富田勢源の二説が主流である。ちなみに富田勢源は室町時代〜戦国時代の剣豪であり、もし小次郎が彼の弟子であるならば、巌流島の時点で若くても60歳前後ということとなる。
陸軍戸山学校で軍刀剣術師範をしその後、抜刀道という武道で実際に日本刀で物を斬ることに拘った剣士、中村泰三郎は著書の中で「武蔵が長い木刀を櫂を削って作ったことは不自然」と指摘しつつ、「巌流島での決闘時 小次郎の年齢は70歳と言い切っている」が、こっちは本当に何の根拠もない。戦時中に朝鮮人捕虜を43人斬首したという鬼のような剣士だったというのでご神託でもあったのかもしれない・・。
どうでもいいが、ビートたけしは昔、巌流島の決闘の詳細が不明なことをネタに「夜中に小次郎達が穴掘っていたら、何かにぶつかって見たら隣りで武蔵も弟子と一緒に穴掘っていたりしてなぁ〜」と罠(落とし穴)の仕掛け合いを笑い話にしていた。実際、兵法家というのはそういうものである。
何故 大太刀(長刀)の遣い手なのか?
どの話においても、小次郎は一貫して大太刀の遣い手だったと語り継がれている。
上記の勢源が師匠だった説の付属として、当時戦闘の主流であった槍や薙刀、大太刀などのロングリーチの武器を制する目的で、勢源が修練する小太刀術の稽古相手に高弟の小次郎が選ばれ、勢源と組太刀をしている内に大太刀術が得意となった…というものがある。が、まともに戦ったばあい長物相手に小太刀で勝つのはほぼ不可能であり、勢源がその程度の事を知らなかったはずはないので、相当に無理がある。
まあ中条流は小太刀術のみの流派ではないので(当然だが小太刀しか使えない武芸者など使い物にならない)、小次郎が勢源門下であろうがなかろうが、大太刀の遣い手だった可能性はあるだろう。
後に、武家諸法度が江戸幕府によって制定され、武士が帯刀する刀は二尺三寸五分までとなり、小次郎のような大太刀を持ち歩くのは違法となった。といっても農民所有の槍や長刀が大量に現存しているため、抜け道はかなりあったようだ。
現在の人気作品での佐々木小次郎
漫画『バガボンド』の佐々木小次郎は聾唖という斬新な設定が採用され「あ〜」「うー」「あうあ〜」といった『サザエさん』のイクラちゃん並みの台詞しか喋れないが、天才美青年剣士という従来のお約束は守られている。どうでもいいが、作者の井上雄彦は小次郎が武蔵に負けたら本作を終わりにすると明言している。何か勘違いしていないか?
Fateシリーズではよりお約束の天才美青年剣士でキザという性格で登場する。しかし実際は「佐々木小次郎ってこんな人でしょ?」みたいな人々の精神が引き寄せた、江戸時代の無名の剣士である。他の英霊と違って魔力も何もない日本刀しか持っていないのだが、剣技はセイバーよりも上であり、修行によって魔法の域まで高められた「次元空間を無視した三つの太刀筋を同時に繰り出す秘剣燕返しを宝具として操る最強のKYとして存在していた。おまけにアニメ版以降では、中の人が大方の予想と期待と微かな恐れ通りに、ロケット団になる。MAD制作はほどほどにね。
戦国無双シリーズでは、2作目に武蔵が登場したのを受け、シナリオに絡むNPCとして参戦を果たした。NPCながら、武蔵のシナリオの専用ムービーでの活躍と出番はかなりのもので、多分、武蔵よりインパクトが強かった。っていうか、巌流島の決闘がムービー処理だ! その後、エンパイアーズではゲームシステムの都合もあって操作可能に。しかし、この時点ではモーションは他のキャラクターのものを流用してつぎはぎしたもので済まされてしまった。ガニマタそして日本刀らしくない剣の振り と、ここまでインパクトの割りに微妙な扱いだった小次郎だったが、2の拡張ソフト猛将伝で遂に固有のモーションを引っ提げてPC化を果たす。それまでの鬱憤を晴らすかのように、長めのリーチ、早めの攻撃速度、そこそこの攻撃力、使い勝手のいい固有技、近距離から中距離まで敵をハメられる無双奥義、と突出こそしてはいないものの、高水準で纏まったキャラクター性能を発揮。ぶっちゃけ、武蔵より使い勝手はいいと思う。……だが、3では武蔵共々リストラ。出番なしとなったのであった。やはり、天下獲りに剣豪風情が入り込む余地はないのか!? 巫女さんとか魔法少女はいるけどね。  
 
佐々木小次郎の人物像 3

 

宮本武蔵と佐々木小次郎。恐らく、この二人の名を知らないという方はそれほど多くないでしょう。江戸時代初期の伝説的な剣豪として名を馳せた二人は巌流島で果たし合い、宮本武蔵の勝利で戦いの幕は閉じたと伝わっています。
上記の伝説から、一般的には「グッドルーザー」として名を残している小次郎ですが、その生涯についてはとにかく謎が多いことでも知られています。さらに、生涯に謎が多いどころか、小次郎の実在に関しても確たる証拠は残されていないのです。そこで、この記事では小次郎の生涯を検証するとともに「実在の人物か否か」という点に関しても考えていきたいと思います。
出身地や家系も諸説あり定かではない
まず、小次郎の出自に関してはハッキリしたことが分かっておらず、様々な説が乱立する状態となっています。
豊前国(現在の福岡県)の豪族佐々木氏の生まれであるため佐々木姓を名乗っているという説。
越前国(現在の福井県)に生まれて一乗谷のほど近くで「燕返し」の修行を行なったという説。
周防国(現在の山口県)岩国に生まれたという説などが存在します。
残念ながらこれらの説を決定づける証拠が見つかっていないので出自を確定させることはできませんが、どの説にも共通しているのは「剣豪として諸国を歴遊した」という点です。幼少より剣を好んだという小次郎は、中条流という流派の富田勢源という人物、もしくは勢源の弟子鐘捲自斎(かねまきじさい)に剣を習ったとされ、そこで得た剣術をベースに諸国を回る中で秘剣・燕返しを会得したというのが通説になっています。ただ、宮本武蔵と出会うまでの生涯はほとんどが謎に包まれているため、小次郎の実在が疑われるのも納得といったところです。
毛利家や細川家に仕えて剣術を指南した?
秘剣を大成させた小次郎は、「三本の矢」でよく知られる毛利家に仕えていたと伝わっています。しかし、戦国が終わるころには何らかの事情で毛利家を離れ、再び諸国歴遊の旅に出たということです。
その後、小倉藩の細川忠興に見出されたことで剣術指南役として過ごすことになります。しかし、毛利家や細川家に伝わる信ぴょう性の高い史料上には小次郎の名が登場せず、ここでも小次郎の実在を証明することはできません。史実かどうかはともかく小次郎が小倉藩で剣術指南をしていると、当時60代の彼に挑戦を申し出る若者が現れます。若者の名は宮本武蔵であり、生涯において無敗を誇る若き剣豪として知られていました。
巌流島で宮本武蔵に敗れ、命を落とす
巌流島の戦いが勃発したのは慶長17年(1612年)とされ、言い伝えによれば実に30歳近く歳の離れた剣豪二人が果たしあったということになります。なお、巌流島の様子を伝える石碑に記載されている内容から「宮本武蔵が遅刻して小次郎の精神を乱した」というのは後世の後付けと考えられています。小次郎は長尺の剣を使いこなす個性派として知られており、その丈は実に3尺(90p前後)と伝わっています。一方、宮本武蔵は木刀を使用したと記録されており、剣術家としてもタイプの異なる二人が相対したことになります。
戦いそのものは、宮本武蔵による「雷光すらも遅く見えるような」一撃によって早々に決着がついたとされており、小次郎は即死したというのが言い伝えです。こうして小次郎を打倒した宮本武蔵は剣豪として名を轟かせ、剣術の指南や剣術書の執筆で活躍していきました。また、剣術だけでなく芸術面でも才覚を発揮し、いくつかの水彩画が現代まで伝わっています。
結局、佐々木小次郎の名前はどうして広まったのか
ここまでの生涯を整理していくと小次郎の生涯はほとんど全てが謎に包まれており、現代に残されている史料からは実在を証明することさえできません。しかし、そういった現状にもかかわらず小次郎の名は日本人に深く浸透しており、宮本武蔵ほどではないにせよ一定の人気を得ています。
この理由としては、まず第一に「宮本武蔵とその弟子による宣伝」が大きく影響していると考えられます。宮本武蔵に関しては実在が確認できるので、彼が自身の功績を世に広めるために「佐々木小次郎」という架空の剣豪を作り出したという見方もできます。実際、宮本武蔵やその弟子たちは巌流島の出来事を様々な書物や石碑に書き残しており、剣豪宮本武蔵にとって一種の「セルフプロデュース」であった可能性は決して低くありません。この仮説が真実かどうかは分かりませんが、宮本武蔵の名とともに広まっていった小次郎という存在は、しだいに創作物の中で存在感を発揮していきます。
ちなみに、現代で小次郎が著名になる大きなキッカケとして考えられているのが、大人気歴史小説家の吉川英治が昭和初期に執筆した『宮本武蔵』という小説です。この小説は戦前・戦後を通じて人気を博し、我々がよく知る宮本武蔵や佐々木小次郎のイメージを確立させたと考えられています。 
 
佐々木小次郎の生誕 豊前添田説 4

 

宮本武蔵との「巌流島の決闘」で知られる佐々木小次郎。近年、あの小次郎が実はここ豊前添田の出身であった! という説がクローズアップされています。佐々木小次郎という歴史的剣豪の足跡を辿りながら、添田町の知られざる歴史の真実に迫ります。 ( 福岡県田川郡添田町大字添田 )
時は慶長年間。細川藩小倉時代に、小次郎が「剣術師範」として重用されていた?!
剣豪・佐々木小次郎といえば、歴史ファンや“レキジョ”ならずとも、老若男女にあまねく知られた存在。宮本武蔵との巌流島の決闘(1612年)は特に有名で、映画やテレビの時代劇にもしばしば登場しています。「越前出身だ」「いや長州岩国だ」と、諸説飛び交う小次郎の出身地論争に大きな一石を投じたのも、実はこうしたテレビドラマの1本。平成15年のNHK大河ドラマ「宮本武蔵」において、佐々木小次郎豊前添田出身説が放映されたのです。このドラマに大きな衝撃を受けたのが、添田町文化財専門委員長を務める梶谷敏明さん。「長年、添田町の郷土史を勉強してきた私にとっても、この説は驚くべき発見でした。放映後、私は各地の史料にあたり、小次郎が細川藩小倉時代に剣術師範として重用されていたことをはじめ、豊前・豊後・筑前で活躍していたという多くの記述を発見。“小次郎は添田出身である”と自信をもって主張できるようになりました」。梶谷さんはこうした検証結果を「彦山・岩石城と佐々木小次郎」と題した書籍にまとめ、講演活動も精力的に行っています。さて、小次郎添田出身を匂わせる膨大な史料の中でも、梶谷さんが特に注目したのが「沼田家記」。細川藩家老で門司城代であった沼田延元が残した記録を、子孫が寛文12年(1672年)にまとめたものです。そこには、あの巌流島の決闘にまつわる驚くべき記述がありました。
小次郎の命を奪ったのは、宮本武蔵ではなかった?!
「小次郎、敗れたり!」というセリフの後、武蔵に斬られた小次郎が波打ち際で絶命…巌流島の決闘といえば、時代劇でおなじみのあのシーンを思い出す人も多いでしょう。ところが驚くなかれ、小次郎を死に至らしめたのは、実は武蔵以外の人物だった!と、「沼田家記」に記されているのです。梶谷さんの解説を聞きましょう。「沼田家記によれば、試合前の取り決めで双方共に弟子は一人も連れてこないことになっていたのに、約束どおり弟子は一人もこなかった小次郎側に対して、武蔵の弟子たちは来て隠れていた。そして試合後、小次郎は蘇生したが、武蔵の弟子達が集まって撲殺してしまった… まさに驚くべき記述です」注目すべきは、試合後に沼田延元が武蔵を、鉄砲隊の護衛までつけて豊後まで送ったという記述です。武蔵は当時、義父である宮本無二之助が逗留していた豊前に来て、延元が城代を務めていた門司で二刀兵法の師範となっていました。一方、小次郎は小倉藩の剣術師範という要職にありました。その小次郎が非業の死を遂げた!報せを聞いた佐々木門下生たちが武蔵討伐に動き出した矢先、延元がいち早く武蔵を逃がした、というわけです。「この延元の武蔵に対する取扱いは明らかに不自然。当時の細川藩に何らかの事情があったのでしょう」と梶谷さん。実はこの“何らかの事情”こそ、小次郎添田出身説の根幹にほかなりません。
JR添田駅付近からも見える岩石山と、小次郎を結ぶ数奇な歴史の糸。
英彦山が添田のシンボルなら、気軽に登れる身近な山として町民に親しまれているのが、岩石(がんじゃく)山。標高454メートルの山頂に立つと、眼下に添田町の全景が広がります。この山頂の直下にあるのが、岩石城址。古くから伝わる修験道の聖地です。天正15年(1587年)、宇都宮鎮房が起こした豊前国一揆では、呼応した武将のひとり、佐々木雅樂頭種次が一族七百余人とともに、この岩石城に立てこもりました。この佐々木一族こそ、小次郎を生んだ家系であるというのが、佐々木小次郎添田出身説の根拠です。「もともと佐々木一族は、副田庄(添田)の土豪であり、鎮圧されたとは言え、細川藩も、簡単に支配できる状況ではなかったと考えられます」と梶谷さんは背景を説明します。隠然たる力を持つ佐々木一族を懐柔するための策として、細川藩も初めは小次郎を容認。しかし藩の支配体制を磐石にするためには、剣術の試合にかこつけてでも、小次郎を排除する必要があった――というのです。厳流島の決闘において延元が護衛をつけてまで武蔵を保護したのは、武蔵の勝利を確定させ、佐々木一族への支配強化を図ることが目的であった。そう考えれば、武蔵が後年、巌流島の決闘について多くを語らなかった理由も説明できます。なお武蔵の名誉のために付け加えると、武蔵は試合に隠された陰の狙いを一切知らずに決闘に臨んだといわれています。「小次郎は彦山の山伏から兵法を学び、自分の一族が支配していた岩石城にちなんで、自らの兵法を“岩流”と命名したと言われています。このことは天明2年(1782年)の佐々木巌流兵法伝書(英彦山高田家文書)などで伺い知ることができます」と梶谷さん。武蔵に敗れはしたものの、彦山・岩石城で修行した優れた剣の求道者・小次郎への眼差しは、深い畏敬、尊敬に加えて、郷土の誇りにつながる親しみの念に満ちています。こんど岩石山に登ったときには、ぜひ「この絶景を小次郎も見ていたのか…」と、思いを馳せてみてください。自分とは何の関係もないと思っていた歴史的剣豪の名が、ぐっと身近に感じられることでしょう。  
 
佐々木小次郎 豊前添田説 5

 

佐々木小次郎の出身については諸説ありますが、熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』の記述による越前国(福井県)出身説、吉川英治の小説「宮本武蔵」の岩国出身説が一般的です。しかし、平成15年のNHK大河ドラマ「宮本武蔵」において、佐々木小次郎豊前添田説が放映されました。
私は添田町の郷土史を勉強していた者として恥ずかしいことに、この説について全く知りませんでした。放映後に、私は各地の色々な史料にあたり、佐々木小次郎が細川藩小倉時代に、豊前・豊後・筑前で、活躍していたという多くの記述を見つけることができました。
これらの史料により、私は佐々木小次郎が添田出身であると自信をもって主張できるようになりました。 
特に、細川藩家老で門司城代であった沼田延元が残した記録を子孫がまとめた「沼田家記」での、巌流島の決闘は剣豪としての戦いではなく、武蔵側が策略を行ったという記述により、この説の論拠を深めることができました。
「沼田家記」は、細川藩家老の沼田延元の事歴を主に、子孫が寛文12年(1672年)にまとめたものですが、ここで延元が門司城代でのときの記述を読んでみます。
「沼田家記」
読み下し文
一 延元様門司に御座成され候時或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越二刀兵法之師を仕候 其比小次郎と申者岩流の兵法を仕是も師を仕候 双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究 豊前と長門之間ひく島後に巌流島と云ふに出合 双方共に弟子一人も不参筈に相定 試合を仕候処 小次郎被打殺候
小次郎は如兼弟子一人も不参候 武蔵弟子共参り隠れ居申候
其後に小次郎蘇生致候得共 彼弟子共参合 後にて打殺申候
此段小倉へ相聞へ 小次郎弟子ども致一味 是非とも武蔵を打果と大勢彼島へ参申候 依之武蔵難遁門司に遁来 延元様を偏に奉願候に付御請合被成 則城中へ被召置候に付 武蔵無恙運を開申候 其後武蔵を豊後へ被送遣候 石井三之丞と申馬乗に 鉄砲之共ども御附被成 道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候
要約
延元様が門司におられる時、ある年、宮本武蔵玄信が豊前へ来て、二刀兵法の師範となった。その頃、小次郎と申す者が岩流の兵法をつかい、これも師範をしていた。双方の弟子達が兵法の優劣を申し立て、武蔵小次郎が兵法の試合することに決まり、豊前と長門の間のひく島 後に巌流島と言う で出合った。双方共に弟子は一人も連れてこないことに決まり、試合をしたところ、小次郎は打ち殺されてしまった。
小次郎は約束どおり、弟子は一人もこなかったが、武蔵の弟子達は来て隠れていた。 その後、小次郎は蘇生したが、武蔵の弟子達が集まって後で打ち殺してしまった。
このことが小倉へ伝えられ、小次郎の弟子達は一団となって、是非とも武蔵を討ち果たそうと大勢で島へ押し渡った。このため、武蔵は難を逃れるため門司へ逃げて来て、延元様にひたすらお願いするので、引き受け、城中へ召しかかえ置いたので武蔵は無事に運を開くことができた。
その後、武蔵を豊後へ送りつかわし、石井三之丞と申す馬乗りに鉄砲の者どもを付けて道を警護し無事に豊後へ送り届け、武蔵を無二斎というものに渡したということであった。

このように、沼田家記では、小次郎は武蔵との決闘で絶命したのではなく、蘇生した後に、武蔵の弟子達によって殺されたという驚くべき内容が書かれています。
そしてもう一つ問題となるのは、延元が武蔵に鉄砲の護衛までつけて豊後まで送ったという記述です。延元の武蔵に対する取扱いは、明らかに不自然で、当時の細川藩に何らかの事情があったのではないかと推測することができます。
ここで、当時の細川藩の状況を考えてみますと、藩主の細川忠興は、関ケ原の戦いで、家康側につき、その功績により、豊前国の所領を与えられました。
しかし、忠興が慶長7年(1602年)に小倉城へ入る前、天正15年(1587年)に豊前国一揆が起こっています。これは、豊前の宇都宮鎮房が首謀となって起こしたものですが、この一揆に呼応した者の中に、添田の岩石城に一族七百余人とともに立てこもった佐々木雅樂頭種次がいました。
この一揆は、すぐに鎮圧されましたが、元々、佐々木一族は、副田庄(添田)の土豪であり、鎮圧されたとは言え、細川藩も、簡単に支配できる状況ではなかったと考えられます。
私は、沼田家記での小次郎が藩内で剣術の師をしていたとの記述は、細川藩が佐々木一族を懐柔するための策として、初めは小次郎を容認していましたが、藩の支配体制を磐石にするためには、小次郎を排除する必要があり、厳流島の決闘において延元が護衛をつけてまで武蔵を保護したのは、武蔵の勝利を確定させ、佐々木一族への支配強化を図ることが目的であったのではないかと考えています。
また、小次郎の「岩流」については、佐々木一族は、元々、彦山と深い関わりがあり、小次郎は彦山の山伏から兵法を学び、自分の一族が支配していた岩石城から「岩流」と命名したと言われており、天明2年(1782年)の佐々木巌流兵法伝書(英彦山高田家文書)などで伺い知ることができます
こうした史料から、私は、小次郎が、豊前添田の佐々木一族の出身であり、巌流島の決闘において武蔵に敗れはしましたが、彦山・岩石城で修行した優れた剣の求道者であったと考えています。  
 
佐々木小次郎 6

 

佐々木小次郎(ささきこじろう)は安土桃山時代に誕生し江戸時代前期までを生きた剣術家です。
誕生時期:1558〜1592年
死亡時期:1612年4月13日
佐々木小次郎の誕生日などは不明
佐々木小次郎の誕生日などは不明で天正もしくは永禄年間(1558〜1592年)に誕生したと推測されています。
佐々木小次郎の生誕場所については2つ説があります。
一つの説は豊前国田川郡副田庄(現・福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説です。
また熊本藩の豊田景英が編纂した「二天記」では、誕生した地は越前国宇坂庄浄教寺村(現・福井県福井市浄教寺町)で秘剣”燕返し”は福井県にある一乗滝で身に着けたと記されています。
「燕返し」を創案
中条流富田勢源(とだせいげん)もしくは富田勢源門下の鐘捲流(かねまきりゅう)の鐘捲自斎の弟子だったとされています。戦国時代が終わったころには、安芸(現・広島)の毛利氏に仕えます。
武者修行のために諸国をめぐり歩いたのち「燕返し」の剣法を創案します。燕返しとは、ある方向に打ち込んだ刀の刃先をすぐに反転させて斬る技です。ツバメのように素早く身を、 反転させることからきているとされています。
佐々木小次郎、巌流と称する
のちに佐々木小次郎は岩流(巌流)と呼ばれる流派を創始します。流名が巌流であることから、佐々木小次郎は巌流とも呼ばれています。
さらに豊前小倉藩藩主の細川忠興に仕えて、小倉藩の剣術師範となります。
佐々木小次郎と宮本武蔵
1612年、佐々木小次郎は当時29歳の剣豪・宮本武蔵に挑戦します。
このときの佐々木小次郎の年齢は60歳近くだったそうです。
佐々木小次郎と宮本武蔵は山口県下関市の「舟島」で決闘します。
小倉碑文には、二人の決闘が次のように書かれています。
佐々木小次郎は「三尺の白刃」を手にして決闘を挑み、宮本武蔵は「木刀の一撃」でこれを倒した
また、この時の宮本武蔵の一撃は「電光猶ほ遅きが如し」と記されています。これは電光が遅く思えるほどの速さと表現。
また、宮本武蔵が戦略で決闘に遅刻したという話も有名ですが これも碑文に「両雄同時に相会し」とありおそらく後の時代の創作と考えられます。
佐々木小次郎と宮本武蔵が決闘をした「舟島」は「巌流島」と名を改められます。
この勝負はのちに「巌流島の決闘」と呼ばれ、有名になりました。
佐々木小次郎の最期
1612年4月13日巌流島とも呼ばれる船島で宮本武蔵との決闘で敗れて佐々木小次郎は亡くなりました。
即死だったと言われています。
「佐々木」という姓も謎
実は、佐々木小次郎の謎は多くて”佐々木”という姓も確かではないのです。宮本武蔵の養子である宮本伊織が記した小倉碑文においては、佐々木小次郎のことを「岩流(巌流)」としか書いていないのです。
”佐々木”という記録が残っているのは宮本武蔵の死後100年以上後の1776年に作成された「二天記」が初めてです。他の史料でも”小次郎”という記載のみで”佐々木”という姓についても謎が残ったままというわけです。  
 
佐々木小次郎 7  
1555年〜1612年
中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅
佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
年譜
1555年 (詳細不明)佐々木小次郎が越前宇坂庄浄教寺村にて出生
1560年 眼病で視力が低下し隠居した富田勢源(中条流当主は弟の富田景政・越前朝倉氏家臣)が神道流兵法者(梅津某)の挑戦を断り切れず斎藤義龍の招きに応じて美濃稲葉山城下で立合い、勢源は小太刀の名手だが40cm足らずの薪を手に「眠り猫」の態で対すると瞬時に相手の二の腕と頭を叩き割る神業で圧勝、「無刀」を追求する勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせ更に研鑽を積む
1573年 長大剣で富田勢源の相手を務め奇形剣士となった18歳の佐々木小次郎が新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流と家督を承継)に秘剣「燕返し」でまさかの勝利、師と門弟の恨みを買った小次郎は越前一条谷を出奔し1m近い愛刀備前長光(「物干し竿」と称される)を背に諸国を巡歴し次々と兵法者を薙倒して西国一円に剣名を馳せる
1610年 富田勢源(中条流)仕込みの長大剣「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に剣名を馳せた佐々木小次郎が30余年続けた廻国修行を打切り豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招聘に応じて小倉城下に「巌流」兵法道場を開設、老いて名の高い小次郎は宮本武蔵に目を付けられ安穏な余生を妨げられる
1612年 [巖流島の決闘]豊前小倉藩の剣術師範で西国一円に剣名を馳せる佐々木小次郎(富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれた中条流随一の強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始)に宮本武蔵が挑戦し藩主細川忠興の許可を得て小倉沖舟島(巖流島)で対決、武蔵は二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(享年は60歳前か。手段を選ばぬ武蔵は約を違えて弟子を同行し倒した小次郎を共に打殺したとも)、巌流と佐々木小次郎の盛名は忽ち消えうせ(1776年に武蔵の伝記物語『二天記』が世に出て復活)後に細川家の後釜には武蔵が座る
交友
中条兵庫頭長秀 / 中条流創始者
富田勢源 / 中条流継承者(富田流)
富田景政 / 中条流と富田家を継いだ勢源弟
富田重政 / 名人越後・加賀前田利家で1万3千石の知行を得た景政養嗣子
戸田一刀斎 / 景政高弟で伊東一刀斎・柳生宗厳の師
山崎左近将監 / 富田一族・山崎流開祖
長谷川宗喜 / 景政高弟・長谷川開祖
富田一放 / 伊東一刀斎が初仕合で斃した富田重政高弟
小野忠明(神子上典膳) / 徳川秀忠の兵法指南役に採用された一刀流継承者
小野忠常 / (小野派)一刀流を継いだ忠明後嗣  
 
佐々木小次郎は実在したのか

 

室町から江戸時代初期に活躍した二人の剣豪は、巌流島でその決着をつけた。この決闘で宮本武蔵が勝ったことは有名だが、敗れた佐々木小次郎についてはあまりに資料が少ない。「燕返し」を会得して、この戦いに臨んだ佐々木小次郎とはどのような人物だったのだろうか?その資料の少なさから実在したのかも疑問視されている。
出生の謎
まず、この男については不明な部分が多い。多すぎる。
出身については、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説がある他、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)と記されており、秘剣「燕返し」は福井にある一乗滝で身につけたとされている。生年は天正もしくは永禄年間とされる。
名前についても、号(別名)は岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)となっているが、詳細は不明な点も多い。
また、「小倉碑文」には、小次郎の名は「岩流(巖流)」としか書かれていない。小倉碑文(こくらひぶん)は、宮本武蔵の養子・宮本伊織が武蔵の菩提を弔うために、承応3年(1654年)に豊前国小倉藩手向山山頂に建立した、自然石に刻まれた碑文のことである。
文書に「佐々木」の姓が登場するのは、武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』が初めてで、それまでに佐々木の姓は記録になく、『二天記』が準拠した『武公伝』には「小次郎」とあるのみである。そもそも『二天記』が宮本武蔵の伝記であるため、佐々木小次郎も武蔵の物語の登場人物として書かれているだけだ。
燕返し
小次郎の剣術は、中条流(ちゅうじょうりゅう)、あるいは鐘捲流(かねまきりゅう)と言われ、初め、安芸国の毛利氏に仕えた。
その後は武者修業のため諸国を遍歴。越前国(福井県)に立ち寄った際に、一条滝で会得した技が秘剣「燕返し」だといわれている。また、先の『二天記』では、小次郎の出身は越前国となっており、そのためここで技を磨いたという説もある。
燕返しがどのような技であったか、その詳細がわかる資料はないが、有力なのは「虎切り」という剣術がモチーフになったのではないかといわれている。大太刀という刀身の長さが三尺(約90cm)以上の太刀を用い、相手の間合いの外で振り下ろす。そこで相手は間合いに入ってくるので、振り下ろした刀を瞬時に返して切り上げるというものだ。当時の防具は「上からの打撃・斬撃」には十分に考慮された形だったが、下からの攻撃には無防備だった。
この技は、ただでさえ長くて重い太刀を、瞬時に切り上げるだけの腕力が必要であり、そのことから小次郎がいかに腕利きの剣客だったかがわかる。なお、技の名前についてはその動きが燕が地面を掠め飛ぶ様を連想させるから付けられたものと思われる。
後に「岩流」と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。
巌流島の戦い
1612年(慶長17年)、この「岩流」は剣豪宮本武蔵に挑戦。
武蔵と九州小倉の「舟島」で決闘したことは有名である。前出の「小倉碑文」によれば、「岩流」は「三尺の白刃」を手にして決闘に挑み、武蔵は「木刀の一撃」でこれを倒したとある。
このときの武蔵の必殺の一撃は「電光猶ほ遅きが如し(電光が遅く思えるほどの速さ)」と表現されている。また碑文には「両雄同時に相会し」とあり、武蔵は遅刻していない。
また武蔵の伝記である『二天記』では、「岩流」は「佐々木小次郎」という名になっており、この決闘で刃長3尺余(約1メートル)の野太刀「備前長船長光(びぜんおさふねながみつ)」、通称「物干し竿」を使用、武蔵は櫂を削った2尺5寸と1尺8寸の木刀2本を使い、これを破ったとある。
一説には武蔵は事前に小次郎の剣術を知っていたともいわれ、相手の大太刀が振り下ろされた瞬間を狙って木刀を振り落とした。小次郎の燕返しは刀を返してこそ完成するので、それすらさせなかった武蔵の剣術を讃えている。
武蔵と決闘した「舟島」は「巖流島」と名を変えられ、この勝負はのちに「巖流島の決闘」と呼ばれるようになった。
創作においての小次郎
小次郎の名は、没後になって大きく広まった。
武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』を始めとして、歌舞伎の『敵討巖流島』に登場する「佐々木巖流」、さらにその名を日本中に広く知らしめたのは吉川英治の小説『宮本武蔵』である。この小説は1935年から1939年まで朝日新聞に連載されたものだが、今の我々が知るエピソードのほとんどがこの作品に描かれていた。
吉川英治原作の小説「宮本武蔵」では、小次郎は、元服前の少年のような前髪立を残した美青年として描かれているが、この決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で佐々木小次郎が60歳近くだったといわれている。また、燕返しという秘剣そのものもこの小説以外では見受けられず、これも実は吉川の創作だった。
実は、吉川英治原作の「宮本武蔵」が世に出るまで、小次郎は歌舞伎に登場する荒唐無稽な冒険を行った架空の人物という評価もあり、さらには歌舞伎の題材も武蔵の敵討ちの相手が小次郎とされた。
この演目が流行った江戸中期は、敵討を題材にした歌舞伎の演目や小説などに人気があった。そのため、内容も創作で敵討ちの決闘にされたのである。なお、この時期は、歌舞伎で演じられる忠臣蔵が人気だった時期と重なる。
佐々木小次郎は実在したのか?
『二天記』には巖流島での決闘時の年齢は18歳であったと記されているが、このような記述は『二天記』の元になった『武公伝』にはなく、巖流が18歳で流派を立てたという記述を書き改めたものである。そのため、没年齢も不明である。
その名前すら、歌舞伎などの「佐々木」姓と、『二天記』の「小次郎」という名から佐々木小次郎という名になったようで、統一性もない。
わかったのは、小次郎にまつわる話のほとんどが吉川英治の小説に書かれたものだということである。小説「宮本武蔵」を執筆するにあたり、吉川英治は、武蔵に関する多くの資料を集めて執筆した。
しかし、小次郎に関する資料は漢文数行分しか資料がないといっている。
ヒーローにはライバルが必要だ。そのライバルとして創られたのが佐々木小次郎であり、そのヒントは『二天記』や歌舞伎の演目などが用いられた。佐々木小次郎という人物はフィクションのなかの人物だったようだ。
最後に
当時、佐々木小次郎のモデルとなった人物が存在していた可能性はある。
歴史の中には実在の人物をモチーフにして、後世の歴史家や小説家が「話を盛って」広めたケースは多い。
その意味では、佐々木小次郎というライバルは、宮本武蔵の引き立て役として成功を収めたということだろう。  
 
佐々木小次郎・諸話 1

 

武蔵と小次郎
宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したのは慶長17年(1612年)4月13日のこと。約束の時から遅れること2時間、武蔵は櫂の木刀をひっさげ素足で船から降り立った。小次郎は待ち疲れていた。小次郎はいらだち、刀を抜き放ち、鞘を海中に投げ捨てた。武蔵が近づくとともに、刀を真っ向に振り立て、眉間めがけて打ちおろした。同時に武蔵も櫂の木刀を打った。その木刀が小次郎の額にあたり、たちどころに倒れた。小次郎の打った刀は、その切先が武蔵の鉢巻の結び目に触れ、鉢巻は二つになって落ちた。武蔵は倒れた小次郎を見つめ、また木刀を振り上げて打とうとする瞬間、小次郎が刀を横にはらった。武蔵の袴の裾を三寸ばかり切り裂いた。が、武蔵の打ちおろした木刀は、小次郎の脇腹、横骨を打ち折った。小次郎は気絶し、口鼻から血を流した。武蔵は手を小次郎の口鼻にあてがい、死活をうかがい、一礼して立ち去った。
小次郎の唇に、微かな笑みが浮かんだ。そして、まだ見開いたままの小次郎の両目から、急に、生きている光が失せていった。激しい声を上げて、新之丞が泣き出した。ギラギラと光る海を、武蔵の小舟は、東へ向かって流れを変えた潮に乗り、下関のほうへ、ひた走るように影を小さくしていった。
この巌流島での決闘、実は武蔵の自著には一行の記述もありません。吉岡一門を倒して京を去ったあと、武蔵の消息は熊本での晩年まで途絶え、史実にも欠けます。小説などに書かれた決闘の場面は武蔵の養子、伊織が刻ませた小倉碑文や豊田景英が著した二天記などからたどったものです。
巌流島
元々は小倉藩の領土で小倉側では向島、下関側では舟島と呼ばれていました。現在は下関市に属しており、正式名称を船島といいます。小次郎の流派「巌流」から名を取り巌流島と呼ばれるようになりました。
現在、巌流島は無人島ですが昭和48年までは島民が住んでおり、コミュニティを形成していました。ピーク時の昭和30年には50軒近い家屋が軒を連ね生活をしていました。今は公園整備化され武蔵、小次郎のモニュメントや巌流島文学碑・決闘の地木碑などがあり、観光客が訪れる場所となっています。

巌流島の決闘は、江戸時代にかかれた文書「二天記」によると慶長17年(1612年)とされています。しかし、諸説あって実際にいつ行われたは解っていません。また、巌流島で宮本武蔵と戦った人物についても名前も様々で、しかもその記録も後世に書かれたものばかりです。そのため、佐々木小次郎という人物が実在したかどうかも疑われています。  
佐々木小次郎の墓
山口県の北部にある阿武町には、佐々木小次郎の墓とされるお墓があります。
巌流島の決闘に敗れた後、妻が遺髪を持ってこの地を訪れ、正法寺で尼となって佐々木小次郎の冥福を祈るための建てたものとされています。
なお、今、この墓があるのは、阿武町の太用寺です。
佐々木小次郎が実在した証拠になるか解りませんが、歴史ファンが訪れる場所の1つだそうです。
太用寺 / 山口県阿武郡阿武町福田上 
燕返し
今から四百年もむかし、越前の国(えちぜんのくに→福井県)の一乗谷(いちじょうだに)に城をかまえる、朝倉義景(あさくらよしかげ)という殿さまの家臣に、富田勢源(とみたせいげん)という、飛び抜けた剣術を持つ侍がいました。
勢源(せいげん)は、『中条流(なかじょうりゅう)』という剣法をあみ出して、その強さは北陸中(ほくりくじゅう)に知れ渡っていました。
その勢源が最も得意としていたのは、『小太刀』という短い剣を使う剣法です。
ある日の事、勢源の元に、小次郎と名乗る子どもが弟子入りにやってきました。
「強くなりたいです。弟子にしてください」
一見すると小次郎はひ弱そうな子どもだったので、勢源は弟子入りを断りました。
ですが、「お願いです。強くなりたいのです。弟子にしてください」と、断っても断っても弟子入りをお願いするので、ついに根負けした勢源は、小次郎を道場の小間使いとして使うことにしました。
小間使いとして働くようになった小次郎は、少しでも時間を見つけると、とても熱心に修業をして、十六才になる頃には道場一の剣術使いになっていたのです。
それからは名も佐々木小次郎と改め、勢源がいない時は、勢源の代わりとして道場を任されるようにもなりました。こうして願い通りに強くなった小次郎ですが、師匠の勢源には、まだまだ勝つ事が出来ません。
「一体どうすれば、師匠を抜く事が出来るのだ?」
悩んだ小次郎は、ふと、洗濯物を干す物干し竿を見て思いつきました。
「師匠には小太刀を教えてもらったが、同じ小太刀では師匠に一日の長があるため、抜く事は出来ない。しかし、刀を長くすれば」
こうして小次郎は小太刀を捨てて、長い刀を持つようになったのですが、簡単に使いこなせる物ではありません。
師匠の勢源からも、「剣でもっとも重要な物は早さだ。その様に長い刀では、早く振る事は出来まい」と、言われましたが、小次郎はあきらめません。
毎日毎日、長い刀で練習を重ね、ついには腰に差せないほどの長い刀を使いこなせるようになったのです。ですが、まだ師匠には勝てません。
ある時、小次郎は近くの一乗滝で流れる水を見ていました。
するとそこへツバメが飛んできて、空を切って一回転すると空へと舞い上がりました。
「飛んでいるツバメは、どんな剣の達人でも斬る事が出来ないと言うが、もしツバメを斬る事が出来れば、わたしは師匠を抜く事が出来るかもしれん」
こうして小次郎は、毎日滝へ出かけては、ツバメにいどみ続け、ついにツバメを斬りおとすと技をあみ出したのです。
そして、その技で師匠に勝つ事が出来た小次郎は、長い剣を使う剣法を『厳流(がんりゅう)』、ツバメを斬りおとした奥義を『ツバメ返し』と名付け、さらに剣術を磨く為に、諸国へ武者修業に出かけたのです。
これは、宮本武蔵と戦う数年前の事です。  
 
佐々木小次郎・諸話 2

 

1
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して西国一円に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
2
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
3
宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
4
古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
5
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
6
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
7
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
8
柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
9
柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
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丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
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朝倉氏は、平安時代から武士団を形成して栄えた日下部氏の一流で、本貫地の但馬国養父郡朝倉から名字を採り、越前朝倉氏は南北朝時代に越前へ移住し守護斯波氏に仕えた朝倉広景に始まる。斯波氏は足利将軍家に次ぐ三管領(他は細川・畠山)の名門で、越前・尾張・遠江などの守護を世襲した。斯波氏の重臣に朝倉・織田・甲斐の三家があり、朝倉は越前・織田は尾張の守護代を世襲するうち次第に斯波氏を圧迫して実権を掌握した。応仁の乱が起ると、朝倉孝景(英林)は守護代甲斐常治と共に斯波義敏を追い落とし、甲斐氏も追放して越前守護の座を掴み一乗谷城に拠って戦国大名となった。孝景(英林)の家督は嫡流の氏景・貞景・孝景(宗淳)へ受け継がれたが、いずれも幼少の後嗣を残して早世したため、孝景(英林)の八男で武勇の誉れ高い朝倉宗滴が死ぬまで事実上の当主として君臨した。朝倉宗滴は、越前内戦や応仁の乱で武功を挙げ兄孝景(英林)の政権奪取を支えた敦賀郡司朝倉景冬の娘を妻に迎え、その与党となったが、景冬の嫡子景豊が当主貞景に謀反を起すと寝返って討伐軍に加わり、武功により敦賀郡司職を得た。朝倉宗滴には一児があったが、廃嫡して僧籍に入れ(京都大徳寺住職となった蒲庵古渓といわれる)、貞景の四男景紀を養嗣子とした。豊臣秀吉も織田信長の四男秀勝を養子に迎えて忠誠を顕示しているが、賢明な宗滴は実力者故にお家騒動回避を優先したのかも知れない。朝倉氏は目立って一族の反乱が多い家で、孝景(英林)の五男元景は上述の景豊に加担し、孝景(宗淳)の弟景高も謀反の末に逃亡している。朝倉宗滴没後、孝景(宗淳)の嫡子義景が名実共に朝倉家当主となったが、一族や家臣の内紛が噴出して屋台骨が傾き、陪臣(尾張守護代織田氏の家臣)と見下し続けた織田信長に敗れて根絶やしにされた。徳川幕府の旗本に朝倉氏があるが、家祖の在重は景高の子であるという。
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浅井氏は、藤原北家閑院流を称する近江の土豪(小谷城主)で北近江守護京極氏に仕えたが、京極騒乱で台頭した浅井亮政が浅見氏らを切従え京極高延を傀儡化して北近江を掌握、南近江守護の六角定頼に圧迫されたが越前の朝倉宗滴に助けられ領国支配を固めた。嫡子の浅井久政は軟弱で、家督相続に逆らう田屋明政(亮政の婿養子)が京極高延を担ぎ反乱、久政は六角義賢(定頼の嫡子)に臣従し越前朝倉氏に助勢を乞うて保身を図った。父の弱腰を見兼ねた嫡子の浅井長政と家臣団はクーデターで家督を奪い六角氏に手切れを通告、攻め寄せた六角軍を撃退し(野良田の戦い)、畿内へ浸出した織田信長と同盟を結び「近国無双の美人」と賞された市を娶って茶々・初・江の三姉妹を生し(信長は少年期に同母妹の市を犯したため「たわけ」と呼ばれたとも)、三好三人衆に通じて敵対する六角義賢を信長と共に滅ぼした。信長が朝倉義景を攻めると浅井長政・久政は反旗を翻したが、金ヶ崎の退き口で挟撃の好機を逃し姉川の戦いで大敗、信長包囲網を結成し抵抗するも近江領を守る豊臣秀吉・竹中半兵衛を攻め破れず、頼みの武田信玄が急死すると直ちに小谷城を攻められ越前一乗谷城の朝倉氏諸共に滅ぼされた。浅井の男系は絶たれ市は再嫁した柴田勝家に殉じたが、女児は数奇な運命を辿った。茶々(淀殿)は、柴田勝家・市を滅ぼし伯父織田信長の天下を奪った豊臣秀吉の側室となり嫡子豊臣秀頼を産んで事実上の当主となったが、無謀にも徳川家康に挑戦し秀頼と豊臣家を破滅へ導いた。初は信長・秀吉に拾われた京極高次に嫁ぎ、江は徳川秀忠(家康の後嗣)に入輿して3代将軍家光を産み、庶女のくすは松の丸殿の侍女・刑部卿局は千姫の乳母で淀殿の側近となった。なお京極高次は、高延の弟高吉の子で人質として信長に仕え、秀吉側室の松の丸殿(妹)・淀殿(従妹)の七光りで出世した「蛍大名」の分際で関ヶ原で東軍に属し若狭小浜藩9万2千石に大出世、嫡子京極忠高は初姫(秀忠の四女)を娶り松江藩26万4千石へ躍進したが無嗣没により讃岐丸亀藩6万石へ減転封となった。淀殿は生家浅井氏の旧主である京極氏出身の松の丸殿を敵視し側室筆頭を争った。
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細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。
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毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長36万石に大減封された。  
 
 
 
塚原卜伝

 

   1489−1571
塚原卜伝 1

 

   生誕 延徳元年(1489年)
   死没 元亀2年2月11日(1571年3月6日)
   改名 朝孝(幼名)→高幹→卜伝(号)
   別名 新右衛門、土佐守、土佐入道(通称)
   戒名 宝剣高珍居士
   墓所 茨城県鹿嶋市須賀の梅香寺
日本の戦国時代の剣士、兵法家。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。
鹿島神宮の神官で大掾氏の一族・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢、よしかわあきかた)の次男として常陸国鹿島(現・鹿嶋市宮中)に生まれる。幼名は朝孝(ともたか)。時期は不明だが後に、覚賢の剣友塚原安幹(塚原新右衛門安幹、しんえもんやすもと)の養子となる。同時に諱を高幹(たかもと)とし、新右衛門高幹と改めた。塚原氏の本姓は平氏で、鹿島氏の分家である。のちに、土佐守(とさのかみ)、または土佐入道とも称した。卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部(うらべ)を由来とする。
実父・覚賢からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を、義父・安幹からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ。『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」も養父の安幹から伝授されたという(松本から直接学んだという説、卜伝自身が編み出したとする説もある)。やがて武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけた。卜伝の弟子である加藤信俊の孫の手による『卜伝遺訓抄』の後書によると、その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられている。よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。卜伝は、諸国を武者修行したが、その行列は80人あまりの門人を引き連れ、大鷹3羽を据えさせて、乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであったと伝えられる。
弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽や真壁氏幹(道無)、斎藤伝鬼房(勝秀)ら一派を編み出した剣豪がいる。また、将軍にもなった足利義輝、足利義昭や伊勢国司北畠具教、武田家軍師山本勘助にも剣術を指南したという。また、足利義輝、北畠具教の両者には奥義である「一之太刀」を伝授したとされている。
上記の通り「幾度も真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」などの伝説により後世に剣聖と謳われ、好んで講談の題材とされ、広く知られた。著名な逸話のひとつで勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出されるものに、『甲陽軍鑑』に伝わる「無手勝流」がある。この中で、卜伝は琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知ったその剣士が決闘を挑んでくる。彼はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、ますます調子に乗って彼を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、剣士と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せるのだが、水深が足の立つ程になるやいなや、剣士は船を飛び降り島へ急ごうとする。しかし卜伝はそのままなにくわぬ調子で、櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまったという。
若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが(月岡芳年の錦絵などで知られる)、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は全くの作り話である。
晩年は郷里で過ごし、『鹿島史』によれば卜伝は元亀2年(1571年)2月11日に死去したとされる。83歳没。『天真正伝新当流兵法伝脉』では鹿島沼尾郷田野(現鹿嶋市沼尾)の松岡則方の家で死去としている。墓は豊郷村須賀塚原(須賀村、現・鹿嶋市須賀)の梅香寺にあったされるが同寺は焼失し、墓のみが現存している。法号を宝険高珍居士(ほうけんこうちんこじ)。位牌は墓地近くの真言宗長吉寺にある。
門下
雲林院松軒・諸岡一羽・真壁氏幹・成田長泰・斎藤伝鬼房・松岡則方(兵庫助)・足利義輝・北畠具教・細川幽斎・今川氏真・林崎甚助・上泉信綱・山本勘助  
 
塚原卜伝 2

 

「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり」という平和思想を貫いた剣豪が戦国時代におりました。(活人剣)
その名を「塚原卜伝」といいます。下剋上、裏切り、謀反、暗殺、と生き残るためには手段を選ばない時代、戦国時代に人を殺す剣ではなく、人を活かす剣を貫いた剣豪が塚原卜伝でした。塚原卜伝のもとには、多くの著名な弟子がおりました。特に、後の室町幕府の13代将軍、足利義輝や、武田信玄の軍師、山本勘助や、戦国大名、北畠具教などがおりました。そして、一子相伝の奥義、「一之太刀」を編み出し、鹿島新当流を創始した、戦国時代きっての剣聖、塚原卜伝。
塚原卜伝の強さの源(鹿島古流と香取神道流)
生まれが「鹿島の太刀」を受け継ぐ、関東茨城、鹿島神宮の神官、卜部氏吉川覚賢の次男として1489年生を受けます。
当時は吉川朝孝(塚原卜伝)という名前でした。
そこで鹿島古流といわれる剣を学び、その後養子に行った先の塚原家で香取神道流を学びます。
塚原家で元服し塚原高幹と名前を変えます。
鹿島古流と香取神道流の2つの神の剣が混じり合い、新たな剣が高幹の中に育ったのでしょう!
まさにハイブリット効果です!これが塚原卜伝の強さの源でしょう!
強さに磨きをかけ!(初の武者修行)
その後、17歳で武者修行に出かけます!
京都清水寺ではじめての真剣勝負を行ったのを皮切りにガンガン修行を続けるのです。
この時は主に京都周辺を修行して回りました。
室町幕府の力が弱まり、京都付近も混乱していた頃です。戦場も37回経験しました。
この修業で更に強さに磨きがかかることになりますが、、それは苦悩の修行でもありました。
その苦悩が塚原卜伝の最強の奥義を生み出すきっかけになったとも言えますが、次に、その奥義である一之太刀がどのように生まれたかを見て見ましょう。
塚原卜伝の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」
奥義一之太刀の誕生
若き日の塚原高幹(卜伝)は、17歳から10年以上行った武者修行で多くの闘いを経験し、無敗を誇る戦績をあげてきました。
その時の戦績は?
真剣勝負は19回行い、37度の戦の場に立ち合い、いずれも一度のしくじりもなし。
木刀での立ち合いは数百度に渡り無傷。
傷を負ったのは矢で負った6箇所のみ。
1対1の勝負は212戦無敗。
と、堂々たる結果です。恐ろしく強いです。
病んだ塚原高幹(卜伝)鹿島に帰る
しかし、それは返せば多くの人を殺めたことと同意義でした。
また、戦場で多くの死者を目の前で見る事が多かったは、心をすり減らしていきました。
そんな命のやり取りを10年以上続け、経験した塚原高幹(卜伝)は、精神的に相当病んでいました。
そう、この頃は、「活人剣」ではなく、ただの「殺人剣」でした。
もう、修行を続けることも出来ず、病んだ心のまま、鹿島に帰るのでした。
ただ人を殺めるだけの剣にうんざりしたのでしょう。
武神タケミカヅチへの祈りの修行の末に
強すぎるがゆえか、剣の活かし方の方向性を見失い、病んだ心で修行から帰ってきた塚原高幹(卜伝)を見かねた父親達が、
鹿島城の家老で剣の使い手の松本政信に塚原高幹(卜伝)を託すことにしたのです。
すると、松本は高幹(卜伝)に神社に籠もって修行をすることを勧めたのです。
その修業とは、鹿島の神、武神タケミカヅチに祈りながら、剣修行を行うことで、なんと、1000日にもおよぶ過酷な修行となったのです。
武神タケミカヅチは、最強でありながらその力に頼らず、話し合いで問題を解決するタイプの神でした。要するに、殺意を持っている相手から、殺意を奪う、ということをやってのける神だったのです。これは難しいですねえ。
その過酷な修行を高幹(卜伝)は耐え抜き、ある日霊夢を介して武神タケミカヅチから「一之太刀」を授かるに至ります。
この一之太刀こそ、人を殺めず、人を活かす剣。国に平和をもたらす剣。人から殺意を奪う剣。だったのです!
鹿島新当流の誕生そして卜伝へ
そして、奥義を授かるのと同じく、お告げを受けたのでした。それは、「気持ちを改めて、新たに再出発せよ」というお告げです。
奥義を得た塚原高幹(卜伝)は、そのお告げにより、「鹿島新当流」を創始し、
さらに、自らの名前を塚原卜伝(卜部の剣を伝えるという意味)に改名します。
ここに、ただの殺人剣の強さではない、「活人剣」の最強剣豪、塚原卜伝が誕生するのです!
活人剣を活かして2回目の武者修行へ
塚原卜伝となった後の武者修行は、西日本から九州へと足を踏み入れました。
ただ剣の強さだけではない。人の心を読めるようにならなければってところです。
人を活かす剣の追求を行ったのでしょう。
2回目武者修行の逸話
その勝ち方には変化が生じていました。事前に切る部位を告げてから斬ることが出来る長刀の名人、梶原長門との戦いでは咄嗟に小刀に持ち替え、脇腹を一刀に斬り伏せたり、片手切りの名手に対して、片手切りを卜伝が恐れていると思わせ、相手を油断させて、斬ったりと内容が熟練してきています。心理戦、駆け引きなどに磨きをかけていく修行の旅でした。
一方、卜伝と戦いたくて仕方ない相手に対して、さらーと島に置き去りにして、戦わずして勝ったケーズもあります。これを「 無勝手流」と名付けてました。若かりし日には考えられなかった対応です!
しかし10年程修行している間に実父が亡くなってしまい、また鹿島に帰ることとなります。
塚原城主として妻を娶る
帰ると、塚原城の城主となり、妻を娶り、弟子たちを育てるといった地に足をつけた生活をおくるようになります。実に45歳ではじめての結婚です。晩婚!しかも奥さんの妙さんは20歳!二回りも違う、超歳の差結婚でした 。
三度目の修行
しかし10年後の55歳頃、まだ30歳の妻に先立たれてしまいます。相当悲しまれたことでしょう。その後、卜伝は一生独身で過ごします。
思うところがあり、塚原城主の座を養子に譲り、出家し、三度目の修行にでます。三度目の修業は、著名な方に剣術や奥義を伝えていく修行でした。自ら武神のお告げにより授けられた新当流そして奥義一之太刀を広めていきたいという気持ちが最大の修行にでた理由だったと思います。
それでは次に三度目の修行で塚原卜伝が剣術を伝えた弟子達について触れてみたいと思います。
塚原卜伝の弟子達
足利義輝
剣豪将軍として知られた足利13代将軍です。有名な逸話に、松永久秀や三好三人衆やに二条城にて攻められた時、義輝は、様々な名刀を畳に突き刺し、その刀達を駆使して最後まで奮闘したと言われています。塚原卜伝の技術がなければ、もっと早く亡くなっていたでしょう。なんと言っても一ノ太刀を伝授されている実力派折り紙付き!そして、義輝の辞世の句、「五月雨や 露か涙か 不如帰 わが名を上げよ 天のうえまで」も違ったものになっていたのかなと思います。二番目に伊勢の国司、北畠具教に2年ほど教えます。
北畠具教
伊勢を治める国司の北畠具教に、塚原卜伝2年間、みっちり、マンツーマンで教えていたのでしょうね。そして奥義一之太刀を伝授したのです。北畠も相当の力量の持ち主だったのでしょう。人を殺めずに勝てれば最高!北畠具教は、剣豪たちとの交流も多く、塚原卜伝以外にも、柳生宗厳や上泉信綱などの一流の剣豪たちとも接点があったのですが、織田家の刺客により命を落とします。その織田家の刺客に刺される前、敵兵を19人切り倒し、100人に手傷を負わせたという伝説が残っています。これも、塚原卜伝の教えが良いのでしょう!
山本勘助
そして塚原卜伝は、当時勢い盛んな武田信玄が治める甲斐の国(山梨)に到着します。戦国最強に成長していく武田家なら新当流が広まるだろう!という考えがあったのでしょうか?当主の武田信玄に剣を披露し、軍師山本勘助に剣術指南をしたのです。キツツキ戦法で知られる勘助は、しっかりと技を会得ししたかな?
雲林院松軒
著名ではないですが、塚原卜伝の一番弟子で、卜伝より皆伝書を受けています。天下に5人いない卜伝流儀の兵法者です。織田信長の三男の兵法指南役などをしていた実績も持ちます。

他にも著名なところで行くと、今川義元の子今川氏真、細川忠興の父細川幽斎、塚原卜伝と同じく剣豪上泉信綱、居合の祖林崎甚助などそうそうたるメンバーがいます。
塚原卜伝の逸話
先を予想する事が大事
ある時塚原卜伝の弟子が馬の後ろを歩いていました。すると急に馬がはねて弟子が蹴られそうになります。咄嗟に反応し、馬に蹴られることを避けると周りの民衆は、その対応を称賛しました。
しかし、師匠の卜伝は違った評価を下します。「なんで、最初から、馬から離れて歩かなかったんだ!」と。「先を読んで、危ないことを避けることこそ大事だ」と。「リスクを全く考えていないじゃないか!」となるほど、先を読んでリスクを防ぐ行動こそ大事であって、これが戦わずして勝つことにつながると考えていたのです。
トラップを見破れるか?
塚原卜伝には3人の養子がいました。そして家督を3人のうち誰に継がすか、テストをしてみようとなりました。襖を開けると木枕が落ちてくるトラップを仕掛けてその反応をしてみることにしたのです。一番目三男は、落ちてくる木枕を真っ二つに切って入ってきました。自分の身は自分の剣にて守る!といった感じですね。二番目次男は、落ちてくる木枕から身を引き、木枕であることを確認してから部屋に入りました。どんなトラップがあるかわからない戦国時代、有事に慎重た対応することは大事なことです!三番目長男は、3人の中でも一味違いました。すでに部屋に入る前からこのトラップを見破っていたのです。木枕を外して難なく部屋に入ってきたのでした。落ち着いていますね!すべてお見通しって感じです。
塚原卜伝は三人のうち、トラップをはじめに見破った長男に家督を譲ることを決めたのでした。
卜伝の剣の真髄は、先を読んで無用な戦いを避けるところにあったんじゃないでしょうか?故に、生涯無敗の実績を残すことができたんだと思います!現在でも学ぶところが大いにありますね!

生涯無敗を誇った剣聖塚原卜伝の生涯と逸話、弟子たちや奥義について見てきました。実のところ、奥義「一之太刀」とは、先を読んで無用な戦いを避けながら、常に先手で対応していくことでした。これは、今も取り入れられる教訓ですよね。そして、弟子たちも本当に著名でした。戦国時代に多大な影響を与えたことを考えると、その存在は大きすぎます。今でも鹿島新当流は鹿島の地で引き継がれているとのことです。  
 
塚原卜伝 3

 

塚原卜伝(新当流)
延徳元年(1489)−元亀2年(1571)
塚原卜伝は、伝説によれば、17歳のときに京の清水寺ではじめて真剣勝負をして以来、真剣での試合が19度、戦場に出たことが37度あり、木刀を使っての試合にいたっては百度におよぶといわれ、その間に矢傷を6ケ所受けたほかは無傷であり、討ち取った敵は212人にも及ぶと伝えられる。室町時代に名を馳せた日本武道史上屈指の剣豪である。
武の聖地・鹿島が生んだ天才
卜伝は、鹿島神宮を中心とした特異な剣の文化が生み出した天才である。鹿島神宮は、皇紀元年に創建された武神タケミカヅチを祀る社であり、現在まで変わることなく武の聖地として信仰を集めている。仁徳天皇の頃(5世紀前半)に国摩真人(くになづのまひと)という人が鹿島神宮のご神域に祭壇を築いて日夜祈祷した結果、神妙剣という極意を授かった。以後この技術を、吉川家を中心とした鹿島神宮の神官たちが伝えてきた。これを鹿島の太刀といい、時代が下がるにつれ鹿島上古流、鹿島中古流とその名称を変えてきた。
卜伝は、延徳元年(1489)、鹿島の太刀を代々継承してきた吉川の家に次男として生まれる。幼名を朝孝(ともたか)といい、父である覚賢(あきかた)から家伝の鹿島中古流を仕込まれる。吉川家は、武術を伝える家柄であると同時に鹿島神宮の卜部職であった。卜部とは、卜占(占い)を専門とする神職のことである。毎年正月14日の歳山祭(としやまさい)で亀卜(亀の甲羅を焼き、できた裂け目で吉凶を占う)により得られた結果は、「鹿島の事触(ことぶ)れ」として全国に伝えられた。つまり卜伝は、血筋が呪術的であるといってよい。後に実家の卜部の字をとって、卜伝と称した。10歳の頃、乞われて塚原城主であった塚原土佐守安幹(やすもと)のもとに養子に行き、元服後に塚原新右衛門高幹(たかもと)と名を改めている。養父である塚原土佐守は香取神宮に縁の深い天真正伝香取神道流の流祖である飯篠長威斎家直の高弟であり、卜伝に香取神道流を伝授した。卜伝は、幼少より実父と養父から鹿島の太刀と香取の太刀の2つの流儀を教え込まれ、若くから抜群の剣技をもって頭角をあらわすことになる。
卜伝の修行と秘剣「一(ひとつ)の太刀」
卜伝は、生涯で10年以上にもわたる廻国修行を3回も行っている。彼の戦場での武勇伝のほとんどが、1回目の廻国修行(永正2年(1505)−永正15年(1518)頃)のことであったと言われている。卜伝は、1回目の廻国修行から帰郷するや、参籠修行に入る。これは鹿島神宮のご神域に籠りきって武神タケミカヅチに祈りながら剣の修行をするもので、一千日にもおよぶ過酷な修行であった。多くの命のやり取りを経験し、精神的に大きな痛手を負って帰郷した卜伝をみかね、師である松本備前守政信がこの参籠修行をすすめたと伝えられている。卜伝はこの参籠修行により、霊夢を介して武神タケミカヅチから「一の太刀」の極意を授かる。以後、卜伝の剣技を伝える流派を新当流と称している。
「一の太刀」は唯授一人(ゆいじゅいちにん)(他流派でいう一子相伝)の奥儀であり、一説によると伊勢の国司であった北畠具教(とものり)に伝えたと言われている。卜伝には彦四郎幹重(みきしげ)という養子があったが、「一の太刀」は既に北畠に伝授しており、唯授一人のため直接教えるわけにはいかないので、北畠から伝授してもらうように申し渡したとも伝えられるが、諸説あり史実はわからない。他にも、将軍足利義輝や徳川家康の師であった鹿島の松岡兵庫助則方に「一の太刀」を伝えたという説もあるがこれも定かでない。いずれにせよ現在には伝えられておらず、早くに失伝したものと思われる。
卜伝の逸話
卜伝には逸話が多い。これが史実であるかどうかは疑わしいものが多いが、いくつか紹介しておきたい。有名なものとして、狭い部屋の中でいきなり斬りつけられた際3尺の大刀では用に立たないことを瞬時に判断して、とっさに腰の小刀を抜いて相手のわき腹を刺して倒した話がある。さらに、飛燕や雉、鴨などを自在に薙ぎ斬り、事前に斬る部位を告げてから人を斬ることもできるという長刀の名人、梶原長門(ながと)との試合で、刃渡り1尺4寸の小長刀の柄を切り落とし、間髪を入れずに踏み込んで一刀で斬り伏せた話がある。他にも片手斬りの名人との試合に際し、事前に「片手斬りは卑怯であるから止めるように」との使いを再三出し、卜伝が恐れていると思わせて相手の慢心をさそい、その心理作戦によって相手を斬った話などがある。以上の3つの話は、2回目の廻国修行(大永2年(1522)−天文2年(1533)頃)の時の話であるという。他には、琵琶湖を渡す船の中で試合することになった相手を離れ小島に誘い、先に島に降りた相手を置き去りにして戦わずして勝った「無手勝流(むてかつりゅう)」の話なども有名である。3回目の廻国修行(弘治2年(1556)−永禄9年(1566)頃)では、大鷹3羽に乗り換えの馬3匹をひかせ、大勢の門人を引き連れて諸国を廻るという派手な演出もしたようである。
卜伝の後半生
若い頃には華々しい武勇伝を持つ卜伝であるが、歳を重ねるにつれ徐々に命のやり取りをするような試合を控えていったようである。2回目の廻国修行から帰国後に塚原城主となった卜伝は、45歳で妻を娶るが10年ほどで死別する。弘治2年(1556)頃であったと思われるが、卜伝は塚原城主の地位を養子である彦四郎に譲り、禅に帰依して剃髪し入道となる。鹿島神宮の神職の家に生まれた卜伝が晩年入道になるという、当時の神仏習合の様子がよく見てとれる。
卜伝は、元亀2年(1571)、83歳の長寿をまっとうし、弟子である松岡兵庫助の家で亡くなっている。 
 
塚原卜伝 4

 

略歴
塚原卜伝(1489−1571)は戦国時代の剣豪、兵法家。剣聖と呼ばれる。
応仁・文明の乱(1467〜1477)から22年、延徳元年(1489)2月に常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)に生まれる。
元亀2年(1571)2月11日死去。83歳。なお、生没年については諸説ある。
鹿島新当流(新当流、卜伝流、墳原(つかはら)卜伝流など)の始祖。卜伝の伝記は巷説が多く、生没年に諸説あることからも明らかでない。
同時代に生きた剣聖・上泉伊勢守信綱とは接点があるが、具体的にどのような接点だったかが錯綜している。
説によっては上泉信綱が卜伝の弟子であったり、卜伝が上泉信綱の弟子であったりする。
不思議なことに、二人の剣聖の直接の接点に関する記述や、試合の様子などがない。
家柄
鹿島神宮祠官・卜部 (うらべ) 覚賢(吉川左京覚賢(よしかわさきょうあきかた)ともいう)の次男。塚原安幹の養子。初め朝孝、のち高幹(たかもと)。通称、新右衛門。
父・覚賢から家伝の鹿島中古流、養父・塚原安幹(やすもと)から飯篠長威斎(いいざさちょういさい)の天真正伝香取神道流を学ぶ。
鹿島神宮に参じて「一の太刀(ひとつのたち、いちのたち)」を考案し、鹿島新当流(新当流、卜伝流、墳原(つかはら)卜伝流など)を開いた。
『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、「一の太刀」は当時の鹿島を代表する剣士で鹿島城の家老でもある松本備前守政信(まつもとびぜんのかみまさのぶ)の奥義とされ、養父・安幹から伝授されたという。松本備前守政信から直接学んだという説もある。
実家の卜部氏は鹿島神宮に仕える家柄であり、「鹿島の太刀(たち)」という古くからの剣法を継承する家柄であった。
また、常陸大掾氏・鹿島家の四宿老の一つで、鹿島城の家老もつとめる家柄でもあった。
第1回目の廻国修行
卜伝は、初名を朝孝(ともたか)といい、時期は不明だが、塚原城の塚原土佐守安幹(とさのかみやすもと)(塚原新右衛門安幹、しんうえもんやすもと)の家に養子に行った。塚原氏の本姓は平氏で、鹿島氏の分家である。元服して塚原新右衛門高幹(しんうえもんたかもと)(新左衛門尉(しんざえもんのじょう)という説もあり)と名乗った。
永正2年(1505)に16歳で第1回目の廻国修行に出て行く。
卜伝の弟子である加藤信俊による『卜伝遺訓抄』の後書によると、17歳のときに京都の清水寺付近で最初の真剣勝負をして相手を打ち負かした。以来、五畿七道、つまりは全国を廻って修行をしたようだ。
第1回目の廻国修行は15年に及び「真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず。木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」とされる。有名な真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。
鹿島に戻る
永正15年(1518)頃、鹿島へと戻り、松本備前守政信に師事したようだ。
松本備前守政信は高幹に千日間の鹿島神宮への参籠をすすめ、修行に励んで鹿島の大神より「心を新しくして事に当れ」との神示を頂き悟りを開いた。
こののち、ト部の伝統の剣を伝えるという意味で卜伝(ぼくでん)を号したと考えられる。卜伝斎(ぼくでんさい)ともいい、土佐入道と称した。
永正9年(1512)ころから鹿島一族の内訌が激化し、大永3年(1523)高天原の合戦となり、卜伝も奮戦して高名の首21ほかの戦功をあげた。
第2回目の廻国修行
ト伝は松本備前守政信のすすめで同年・大永3年(1523)に第2回目の廻国修行に出る。
2回目の際には、西日本から九州の大宰府や、山陰地方へも訪れたのではないかと思われるが、道程が不明である。
再び鹿島に戻る
修業中に実父の死が伝えられ、10年程で修業を終え、天文元年(1532)頃に鹿島に戻る。
塚原城の城主となり、天文2年頃、妻・妙(たえ)を娶り、10年ほどは、治政と弟子の育成に力を注いだ。
第3回目の廻国修行
天文13年(1544)に妻が病で亡くなると、ト伝は養子・彦四郎幹重(みきしげ)(彦四郎幹秀(ひこしろうもとひで)とも)に城主の地位を譲り、弘治3年(1557)第3回の廻国修業に出る。
70歳近いト伝は、自分が完成した「一の太刀」を伝えるべく、足利13代将軍・足利義輝(よしてる)や15代将軍・足利義昭、北畠具教(とものり)、細川藤孝(ふじたか)らに剣を教えたといわれる。
足利義輝と北畠具教には「一の太刀」を伝授したとされる。「一の太刀」は現在の鹿嶋には伝わっていない。
北畠具教はト伝を敬愛し、屋敷跡、塚原という広大な土地、塚原公園、塚原橋、塚原観音など、ト伝の名を伝えるものが現在でも残っている。
伊勢を離れたト伝は甲斐国で武田信玄に剣技を披露し、信玄を始め武将たちに指導したらしい。山本勘助、原美濃守、海野能登守などが弟子となっている。
この時の逸話として、『甲陽軍鑑』には、行列は80人の門人を引き連れたもので、大鷹3羽を据えさせ、馬三頭を引かせて豪壮なものであったと伝えられる。
甲斐を辞したト伝は下野の唐沢城主・佐野修理太夫昌綱(しゅりだゆうまさつな)の館に滞在し、5人の子のうち上3人に剣を教えた。二男・天徳寺了伯、三男・祐願寺は武芸者として世に知られるようになる。
鹿島へ戻る途中、ト伝は江戸崎の弟子・諸岡一羽(もろおかいっぱ)の家にも立ち寄った。諸岡一羽の他の弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)、真壁氏幹(道無)、斎藤伝鬼房(勝秀)らがいる。
こうして第3回目の廻国修行が永禄9年(1566)頃に終わる。
晩年
それから5年程、『鹿島史』によれば元亀2年(1571)2月11日に83歳で生涯を終えた。
『天真正伝新当流兵法伝脉』によれば、高弟・松岡兵庫助則方(まつおかひょうごのすけのりかた)の屋敷でだったという。
法号は宝剣高珍居士(ほうけんこうちんこじ)。墓は旧塚原城に近い梅香寺(ばいこうじ)跡にある。位牌は墓地近くの真言宗長吉寺にある。
松岡兵庫助は、慶長8年(1603)ころ、徳川家康の招きで江戸に出府し、秘伝の一の太刀を伝授して感賞を受けた。そして、新当流の正統を保持すべきの黒印状を与えられた。
松岡兵庫助の高弟として、甲頭刑部少輔(かぶとぎょうぶしょうゆう)と多田右馬助(うまのすけ)が有名。
お墓の場所
茨城県鹿嶋市須賀。
無手勝流
有名な逸話に「無手勝流」がある。『甲陽軍鑑』に書かれているもので、卜伝が琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知った剣士が決闘を挑んでくるときの話。
卜伝はのらりくらりとかわそうとするが、若い剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、調子に乗って罵倒した。
周囲への迷惑を気にした卜伝は、若い剣士に船を降りて決闘を受けることを告げ、二人で小舟に乗り移った。
小舟が小島に近づくと、若い剣士は船を飛び降りて、島ヘ上がってしまう。だが、それを見た卜伝はなにくわぬ様子で、櫂を漕いで島から離れてしまった。
若い剣士は取り残されたことに気づき、わめくが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言ったという。勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出される。
宮本武蔵
若い頃の宮本武蔵が、食事中の卜伝に勝負を挑んで斬り込んだ。
卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話がある。
これは、フィクションである。二人は同時代人ではない。  
 
塚原卜伝 5

 

1489年〜1571年
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。 
家系
塚原卜伝の生家である卜部吉川氏は卜占を以って鹿島神宮に仕えた社人で、常陸を支配した大掾氏(鹿島城3万石)の庶流鹿島氏(鹿島神宮の神官)に仕えた。卜部呼常は東国七流(鹿島七流)の名剣士で、嫡子の卜部覚賢は大掾景幹の家老を勤めるかたわら屋敷内に吉川道場を開き多くの門弟を育成した。覚賢には双子の二児があり長子の常賢が卜部家を継ぎ次男の朝孝(塚原卜伝)は鹿島分家で塚原城主(所領は3〜4千石)の塚原安幹に入嗣した。塚原安幹も天真正伝香取神道流の飯篠長威斎家直から組太刀と槍術を学んだ兵法者で、卜伝は実家の吉川道場で学びつつ養父の薫陶を受けた(15歳で元服し塚原高幹を名乗る)。武者修行に出て室町将軍に仕えた塚原卜伝は、44歳で漸く安幹の娘を娶ったが新妻は間もなく病死し塚原一族から幹重を養子に迎え後を継がせた。 
年譜
1489年 常陸鹿島神宮の神官で鹿島城3万石の大掾景幹の家老を勤める卜部(吉川)覚賢の次男に朝孝(塚原卜伝)が出生、双児の兄常賢が跡継ぎとなり朝孝は塚原城主塚原安幹(所領は3〜4千石)の養嗣子(娘の許婚)に出される
1505年 実父の卜部覚賢・養父の塚原安幹から天真正伝香取神道流を学んだ16歳の塚原卜伝(高幹)が常陸から京都へ武者修行に出立、落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立ち合いで名を挙げ11代将軍足利義澄に出仕、義澄の下で大内義興・細川高国、12代将軍足利義晴(義澄の嫡子)の下で細川晴元・三好元長と戦った卜伝は生涯37度の合戦・19度の真剣勝負で無敗を通し大将首12と端武者首16・合計212人の首級を挙げながら一度も刀傷を負わず
1518年 足利義晴(11代将軍足利義澄の嫡子)家臣の塚原高幹が京都政局に見切りをつけ常陸鹿島へ帰国、松本尚勝の世話で鹿島神宮に千日参籠し秘剣「一つの太刀」の境地に達し名を塚原卜伝に改める(生家の卜部氏に因む)
1523年 秘剣「一つの太刀」の真髄に達した塚原卜伝が再び廻国修行に出立、武蔵川越城下で小薙刀の名人梶原長門と立ち合い一瞬の差で斬殺、京都で12代将軍足利義晴に帰参し小太刀を教える
1533年 伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始
1533年 塚原卜伝が常陸鹿島へ帰国、44歳で漸く塚原安幹の娘を娶り家督を継ぐが新妻が病死したため塚原一族から幹重を養子に迎え嗣子とする
1556年 67歳の塚原卜伝が養子の幹重に家督を譲って剃髪出家し13代将軍足利義輝を援けるため三たび上洛、近江で亡命生活を送る義輝に小太刀を指南し2年後の京都帰還に際して新当流の印可と秘剣「一つの太刀」を授与、卜伝は退いて大徳寺に参禅したあと京都を去って諸国を旅し伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を歴訪、義輝が三好三人衆に襲われ斬死すると京都相国寺の牌所を詣で10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国
1565年 [永禄の変]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が三好長慶の死を機に自立を図る二条御所の将軍足利義輝を襲撃(松永久秀は消極的あるいは不関与説もあり)、塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪将軍義輝は刀を換えつつ奮戦するが斬死(享年30)、義輝の生母慶寿院は殉死し弟の鹿苑寺周ロは殺されるが一乗院覚慶(足利義昭)は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、三好長慶の養嗣子義継を擁する三好三人衆が専横を強める松永久秀と断交し争乱に発展
1566年 塚原卜伝が10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国、家政は養子の塚原幹重に任せ吉川道場で兵法を教えながら歌を詠む悠々自適の余生を過ごす(和歌集『卜伝百首』が現存) / 箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される)
1569年 織田信長の滝川一益軍団が伊勢に侵攻、三男信孝を神戸氏・弟信包を長野氏の当主に据え、伊勢国司(飛騨姉小路・土佐一条と並ぶ三国司)北畠具教の大河内城を攻囲・恭順させて次男信雄を養嗣子に据え名門北畠家と伊勢国を奪取(北畠具教は塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪であったが、1576年三瀬の変で一族と共に殺戮された)〜信長近侍の蒲生氏郷が初陣し介添役無しで首級を挙げる活躍、信長は自ら烏帽子親となって岐阜城で氏郷を元服させ、娘の冬姫を妻に与え近江日野城への帰還を許す
1571年 秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37度・真剣勝負19度に無敗で212人を斃し上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝えた塚原卜伝が故郷の常陸鹿島にて死去(享年82)、創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれる  
交友
卜部呼常 / 鹿島七流を伝えた常陸大掾重臣
卜部覚賢 / 実父・呼常嫡子
卜部常賢 / 覚賢嫡子
塚原安幹 / 養父・常陸大掾重臣で神道流師範
塚原幹重 / 養嗣子
大掾景幹 / 主君
大掾清幹 / 佐竹・北条に滅ぼされた大掾当主
飯篠長威斎家直 / 天真正伝香取神道流・道術兵法の創始者
根岸兎角之助 / 塚原卜伝高弟(微塵流)
斎藤伝鬼坊 / 塚原卜伝高弟(天道流)  
 
塚原卜伝 6

 

塚原卜伝とは
塚原卜伝は戦国時代の剣士。京都で起きた大動乱・応仁の乱が終わったころ、鹿島神宮の神官・吉川家の次男として生まれました。(西暦1489年)
幼いころは、父から与えられた朝孝ともたかという名前。吉川家は鹿島の太刀を受け継ぐ家系で朝孝の父は大人しい兄よりも朝孝に剣を継がせたいと考えていたようです。
しかし、父は生まれてすぐに剣友で塚原城の殿様塚原安幹と朝孝を養子に出す約束をしました。長男への期待と次男の将来を考えてのことだったのでしょう。
それにより朝孝は6歳で塚原家の養子となりました。

卜伝が養子となった塚原氏の本姓は平氏。卜伝の家系(吉川家)が家老を務める鹿島氏の分家です。
幼少期
卜伝の強さは才能ではなく経歴にもあります。
生まれ育った吉川家は鹿島の太刀(鹿島古流)を受け継ぐ家系。幼いころから剣術の達人である父に鍛えられてきました。そして養子先の塚原家は香取の太刀(天真正伝香取神道流)を受け継ぐ家系。やはり、達人の義父から猛烈な訓練で鍛えられたといいます。
武者修行
卜伝は17歳の元服(成人)のあと、名前を高幹たかもとと改め、武者修行のため鹿嶋を離れます。(いわゆる鹿嶋立ち)
卜伝が初めて真剣勝負をしたのは、鹿島立ちから1年後。京都の清水でした。卜伝百首によれば、それから生涯39度の合戦、19回の真剣勝負を行いましたが、一度も負傷しませんでした。
その後の足取りははっきりしませんが、諸国を巡って修業を続け、30歳の頃(25〜26歳とも)に区切りをつけて鹿嶋へ帰還。そして、自らの殺人剣を見直し、人を活かすために使えないかと考え出すのです。
戦国時代なので剣の封印はできませんでしたが、卜伝は望めば殿様になれます。生活のために剣をとる必要はなかったので、そうした考えに至ったのだと思います。また、卜伝にはもともと神道や仏教への信仰があるので殺生を望まなかったのでしょう。
活人剣への目覚めは鹿島神宮の神官の家に生まれたことも関係あると思います。鹿島神宮のご祭神はタケミカヅチ。最強の神でありながら、力に頼らずに話し合いで解決してきました。それを知っている卜伝は剣よりも和によって戦いを無くそうとしたのではないでしょうか。
奥義の会得
鹿島に戻ったあと、卜伝は自分の剣を見つめ直すため鹿島神宮に1000日こもりました。そこで悟りを開き、進むべき剣の道を決めたといいます。
修業を重ねて奥義を会得し、流派・新当流しんとうりゅうを開きます。卜伝という名前は、この後に名乗り始めました。元服のあとは塚原高幹たかもとですが、それとは別に剣名を卜伝としたのです。
新当流とは「心を新しくして、事にあたれ!」修行の末に聞いた神の声が由来とされています。
物語はもっとありますが、とてもご紹介しきれません。これより詳しくは小説やテレビドラマをご覧ください。卜伝が船の上で興奮する武士を退けたり、教え子たちに争いを避ける道を説くエピソードなど、知れば知るほど好きになりますよ。
剣を伝えた者たち
卜伝は生涯3回の旅に出ています。そして最後の旅では、自分の剣を積極的に伝えています。卜伝が剣を伝えた中には、将軍足利義輝あしかが よしてる!後に将軍となった足利義昭よしあき、伊勢の国司だった北畠具教きたばたけ とものり。
他にも今川氏真や武田信玄の家臣たちにも教えたと云われます。
卜伝の名乗り
塚原卜伝。変わった名前ですよね。実は卜伝の名前はいろいろと面白い想像ができます。
幼いころの『朝孝』は吉川家の父から与えられました。元服したあとは塚原 新右衛門しんえもん 高幹たかもとに改めるのですが、幹という字は塚原家の父・安幹やすもとから受け継いでいます。『ともたか』から『たかもと』は吉川の父からもらった名前も意識していますよね。
その後は卜伝と名乗ります。卜は『うら』とも読みます。これは吉川家の本姓が『卜部うらべ』であることに由来。卜部家の剣を伝える。だから卜伝。

新右衛門は安幹の実の子どもで早くに亡くなった新右衛門 安義やすよしの名乗りと同じ。もし、安義が生きていたら卜伝は後継ぎとして塚原家に来なかったはずですが。。。
塚原卜伝の墓
卜伝のゆかりはあまり残っていないのですが、鹿嶋市内にお墓があります。墓石と略歴の紹介がある簡素なものですが、大切にしたい場所です。
2つ並んだお墓は卜伝と妙たえ夫人。卜伝は45歳のときに25歳年下の夫人と結婚。結婚生活は11年ほど。夫人は早くに亡くなってしまいました。その後、卜伝は再婚せず生涯独身でした。
卜伝は享年83歳。最後の旅から帰ってきたあとは塚原城のそばに小さな家を立てて慎ましく隠居。菩提寺は梅香寺でしたが、焼失してしまったのでお墓だけ残っています。
卜伝の墓から歩いて5分ほどの長吉寺。こちらには卜伝夫婦の位牌が安置されています。もともとお墓のある梅香寺にあったと思いますが、なんらかに理由で移されたのでしょう。  
 
塚原卜伝 7

 

天真正伝香取神道流
日本武道の源流「天真正伝香取神道流」は飯篠長威斎家直を流祖として、下総の国香取の地に伝承する武道である。家直公は六十余歳にして香取大神に壱千日の大願をたて斉戒沐浴、兵法に励み百錬千鍛を重ね粉骨の修行の後、香取大神より神書一巻を授けられたと伝えられ、その後、連綿と続き、現在宗家二十代目飯篠快貞に至っている。
その間、有名な門流には上泉伊勢守、塚原土佐守及び卜傳、松本備前守、諸岡一羽斎、秀吉の軍師竹中半兵衛、奥州仙台家老片倉小十郎(白石城主)、幕府旗本には中台信太郎、松本直一郎、伊庭軍兵衛ら、また諸藩の代々指南家等々枚挙にいとまがない。
剣術、居合、柔術、棒術、槍術、薙刀術、手裏剣術等に加えて、築城、風水、忍術等も伝承されている総合武術である。
卜伝流(新当流)
塚原卜伝が開祖。天真正伝香取神道流を修め、鹿島新当流(卜伝流)を開きました。
その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられている。
若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、彼はとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが(月岡芳年の錦絵などで知られる)、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は史実ではない。
逸話
卜伝の弟子の一人が、馬の後ろを歩いていた時、急に馬が跳ねて蹴られそうになりました。弟子はとっさに身をかわして避けると民衆は、卜伝の弟子を褒め称えます。しかし卜伝の評価は違っていました。馬ははねるものということを忘れ、うかつにもそのそばを通った弟子が悪い。はじめから馬を大きく避けて通ってこそ、わが弟子である。
卜伝には三人の養子がいました。家督を譲るために三人の息子の心がけを試します。鴨居の上に木枕を置き、襖を開けると木枕が落ちるような仕掛けをしました。三男は落ちてきた木枕を真二つに切って、入ってきた。次男は木枕が落ちてくるとさっと退き、刀の柄に手をかけ、落ちてきた物が木枕であることを確認して入ってきた。長男・彦四郎は仕掛けを見破ると、木枕を取り除いて部屋に入ってきました。これを見た卜伝は長男・彦四郎に家督を譲ることに決めたといいます。いくら強いからといって、真剣勝負では何が起きるかわかりません。偶然でも負けることがあります。
卜伝は琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知ったその剣士が決闘を挑んでくる。彼はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、ますます調子に乗って彼を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、剣士と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せるのだが、水深が足の立つ程になるやいなや、剣士は船を飛び降り島へ急ごうとする。しかし卜伝はそのままなにくわぬ調子で、櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまったという。
一の太刀
塚原卜伝は鹿島神宮に千日参詣し、最後の日に神託を得て一太刀の妙理を悟った。この神託に新當の字義があったので流派の名前が新當流になった。
卜伝は、一ツの太刀、一ツの位、一太刀の3段を極意とした。
卜伝は諸国修行の後、将軍の足利義輝と足利義昭に一太刀を伝え、北畠具教と武田信玄に秘術を説いた。
足利義輝は、室町幕府第13代将軍。室町幕府の第13代将軍であり、上泉 信綱・塚原卜伝から剣を学んだ剣豪将軍として知られる。 
 
塚原卜伝・諸話 1

 

伝説
弟子・孫弟子たちが次々に流派を広げていった
卜伝は延徳元年(1489年)、現在の茨城県鹿島市で代々剣術の先生をやっていた家に生まれました。
父は卜部覚賢。後に塚原土佐守安幹の養子となります。
卜伝は才能と良い環境に恵まれ、十代後半の頃には既に剣豪として知られていたようで。その中で戦に参加したこともあれば、行く先々で教えを請われたこともあり、当時にしてはかなり広い範囲で逸話を残しています。
おそらく一つの家に仕えるのではなく、あくまで剣豪として生きていたからこそバリエーションに富んだエピソードが生まれたのでしょうね。
新選組の天然理心流も卜伝の一派になる!?
弟子たちは大きく二つのグループに分かれます。といっても弟子同士の面識があったのはごく一部でしょう。
まず一つは、後に自らもまた剣術の流派を興した人々です。例えば、諸岡一羽(いっぱ)が一羽流を興し、さらにその弟子がまた新たな流派を創設していったりしています。
卜伝が「剣聖」と呼ばれるのは、後世に語り伝えられた実力や人格などに加えて、「師匠の師匠の師匠(ry)なんだからエライ人に決まってんだろ!」といった遠い存在に対する尊崇の念からというのもあるんでしょうね。
ちなみに、新撰組局長・近藤勇が会得したと言われている”天然理心流”も卜伝の流派・鹿島神道流や一羽流の流れを組むとされることがあります。
卜伝の孫弟子の孫弟子みたいな見方ができるかもしれません。ややこしいな。
将軍様や名門武家など名だたる武将たち
そして弟子グループのもう一つは、戦国武将たちです。
「剣豪将軍」こと足利義輝、ミスターチートこと細川幽斎(藤孝)、家が滅びても妻LOVEで生き残った今川氏真、はたまた北畠具教など、錚々たるメンバーが名を連ねています。
武家の名門ばかりですね。どちらもはっきりした記録がなく「ホントに弟子?」という人もいるのですが、まあそれだけ尊敬されていたということですね。
個人的には、義輝がああいう死に方をしているので、これを聞いたお師匠様の卜伝が何を思ったかとかものすごく興味があります。小説とかでありそうですね。
また、剣の道を極めた人にはままあることですが、卜伝は「戦わずして勝つ」ことも重視していました。
「被害を最小限にして勝つ」ともいえますかね。これを示す有名なエピソードとして、象徴的なものがあります。
これが無手勝流だ!
あるとき卜伝が琵琶湖を渡る船に乗り、相客と話していたところ勝負を持ちかけられました。
卜伝は面倒だったのか早く目的地に行きたかったのか、なかなか受けようとはしません。しかし相手がしつこいので彼も折れ、「そこまで言うなら一本だけ」ということで別の船に移って近くの小島に向かいました。
相手はあの塚原卜伝と勝負ができるということでwktkdkdk 足がつくところまで来たと見るや否や、さっそく降り立ちました。
と、卜伝はここで予想だにしない行動に出ます。
なんと、相手を一人残してそのまま船を再び漕ぎ出していったのです。呆然とする相手を尻目に、彼は「これが無手勝流だ! ハーッハッハッハッハ!!」(意訳)と呵呵大笑して去っていったとか。確かにその通りだけど……。
相手はその後誰かに助けてもらえたんですかね。助からなかったらその場で怨霊になっててもおかしくないですけど、琵琶湖にそういう話はあるんでしょうか。
怪談はいくつかあるらしいですが、この件が関係あるのかどうかまで確かめる度胸がありませんでしたスイマセン。ご存知の方はこっそり教えてくださいませ。
鍋蓋対決:武蔵は卜伝の死後に生まれてます
また、卜伝と勝負というと宮本武蔵との逸話も有名ですね。
「武蔵が卜伝の食事中に乱入して切りかかったが、卜伝は鍋の蓋で防御して応じた」
というものです。アンタはド○クエの主人公かとかいろいろツッコミたくなりますが、そもそもこの話には重大なミスがあります。
上記の通り、卜伝は信長の時代に亡くなっています。が、武蔵は天正十二年(1584年)頃、つまり本能寺の変の後に生まれたといわれているので、会えるはずがないのです。
まぁこの話自体が江戸時代あたりに出てきたものらしいので、当時の剣術ファンが「卜伝と武蔵だったらこういうことできんじゃね!?」「なにそれかっこいい!!」「さすが剣聖!俺達にできないことを(ry」みたいな感じで盛り上がって大ウケした結果、現代まで知られるようになったんでしょうねえ。
……まとめると、日本人の遺伝子は400年前から着々と受け継がれているということになるのでしょうか。なるほどわからん。
剣豪ということで、当たり前といえば当たり前に物騒な話が多いのですが、死に方もそうかと思いきやそうでもありません。
親族の家で穏やかに息を引き取ったそうです。
これが武将であれば不本意と感じたかもしれませんけども、彼はあくまで剣豪です。畳の上で死ねて良かったと思っていたかもしれません。  
逸話
塚原卜伝は常陸の国(現在の茨城県)の鹿島で生まれた剣豪です。父の名は吉川左京覚賢(よしかわさきょうあきたか)で、卜部氏でありました。この卜部氏というのは、鹿島神宮に使えていた神官でした。そしてこの卜部氏は、古くから鹿島の土地に伝わる『鹿島の太刀』という剣法を受け継いでいる家柄だったのです。
そしてさらには、鹿島城の家老も務めていた上に、正等寺という寺で座主家(ざすけ・僧侶等を束ねていた家)としても繋がりがありました。
卜伝は吉川家の次男として生まれ、幼名を朝孝といいました。六歳ごろに塚原土佐守安幹(つかはらとさのかみやすもと)のところへと養子に出されます。一六歳になると、朝孝は初めての剣術修行の旅に出ました。朝孝は元服を済ませた後に、名を『塚原新右衛門高幹(つかはらしんうえもんたかもと)』と改めます。
その後十五年に渡って、高幹は沢山の勝負を経験して実力を付けていきます。その修行の際には、真剣で試合をしたのが十九回。三十七回戦いの場で戦っています。一度としてしくじる事もなく、傷ができたのも矢で負った六か所のみ。一対一で戦い二百十二人を負かしたと言われています。
様々な地域を回っての修行は京都近辺で行っており、戦場において人の死について触れることが多かったので、心的に辛くなり修行を打ち止めにして、故郷である鹿島に帰ったのでした。
高幹はあまりにも荒んでしまいました。父親たちは心配して鹿島きっての剣の使い手であり、鹿島城の家老も担っていた松本政信に高幹を託す事にしたのです。
高幹は鹿島神宮に千日間参籠(祈願のために籠ること)をすることになりました。この参籠によって、高幹は気持ちを落ち着け、自身の剣とも、鍛錬をしながら向き合う事ができたのです。その後に『気持ちを改めて新たに再出発をせよ』という鹿島の大神からのお告げを受けた高幹は、自分の号を“卜部の剣を伝える”という意味で『卜伝』としたのでした。
その後は西日本から九州の辺りまでを剣の修行で回ったと言います。この間に実の父が亡くなりますが、その事をきっかけに十年ほどの修行を切り上げて鹿島に戻りました。
それからは塚原城の城主となります。妙という女性と結婚して、城を守り弟子たちを育てることに尽力しました。
その十年後に妻・妙が亡くなると、卜伝は養子である彦四郎幹重(みきしげ)に塚原城・城主という立場を譲り、七十歳近くの年齢にして、再び修行の旅に出ます。
“国に平和を与えてくれる剣”と言われる、自らが作りあげた『一の太刀』を広めようと、当時の将軍足利義輝などに剣の手ほどきをしています。その後、伊勢国司であった北畠具教に二年ほど教え、『一の太刀』を与えました。卜伝はまた旅を続けますが、美濃の国や信濃の国を通り、甲斐の国に辿りつきます。甲斐では、剣を武田信玄に見せ、信玄らにも指導をしたのでした。山本勘助らも指導を受けたといいます。
甲斐の地を後にした卜伝は、下野の国(栃木)の唐沢城・城主の下で子どもらに剣術を教えました。その中でも、次男や三男は後に武芸者として知られました。卜伝は常陸の鹿島に帰りますが、八十三歳で亡くなりました。
様々な地域を旅しながら剣の腕を磨き、人にも伝えていった卜伝。その剣は人々の和を願ってのものでした。そして後に『剣聖』と言われるようになったのです。

卜伝の弟子の一人が、馬の後ろを歩いていた時、急に馬が跳ねて蹴られそうになりました。弟子はとっさに身をかわして避けると民衆は、卜伝の弟子を褒め称えます。
しかし卜伝の評価は違っていました。馬ははねるものということを忘れ、うかつにもそのそばを通った弟子が悪い。はじめから馬を大きく避けて通ってこそ、わが弟子である。卜伝の重んずることは「戦わずして勝つ」ことです。無用のリスクは背負ないことが名人の条件であると考えていたようです。
卜伝には三人の養子がいました。家督を譲るために三人の息子の心がけを試します。鴨居の上に木枕を置き、襖を開けると木枕が落ちるような仕掛けをしました。
三男は落ちてきた木枕を真二つに切って、入ってきた。
次男は木枕が落ちてくるとさっと退き、刀の柄に手をかけ、落ちてきた物が木枕であることを確認して入ってきた。
長男・彦四郎は仕掛けを見破ると、木枕を取り除いて部屋に入ってきました。
これを見た卜伝は長男・彦四郎に家督を譲ることに決めたといいます。
いくら強いからといって、真剣勝負では何が起きるかわかりません。偶然でも負けることがあります。
卜伝の無敗の秘訣は先を見越して、しなくてもいい無益な戦いをしなかったからではないでしょうか?  
 
塚原卜伝・諸話 2

 

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古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
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上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
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柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
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柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
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柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
6
丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
7
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
8
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
9
佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
10
宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
11
佐竹氏は、清和源氏を興した源頼義の三男新羅三郎義光(嫡流八幡太郎義家の弟)の子孫で、義光の孫昌義が住地の常陸久慈郡佐竹郷から名字を採った。甲斐源氏とは同族で佐竹義重は武田信玄と義光嫡流論争をしたという。平安末期の佐竹氏は常陸北部七郡を支配し常陸平氏大掾氏と並ぶ大族であったが、鎌倉時代は執権北条氏や国人衆に所領を奪われ逼塞、室町時代に入ると早々に足利尊氏に帰服し常陸守護職と鎌倉公方の重鎮「関東八屋形」(佐竹・宇都宮・小田・小山・那須・結城・千葉・長沼)の格式を得た。11代佐竹義盛で嫡流が途絶え関東管領上杉氏から婿養子を迎えたことから同族間抗争が起り(山入の乱)国人勢力との鍔迫り合いが続いたが、15代佐竹義舜が山入氏を滅ぼして常陸北部を掌握し、孫の17代佐竹義昭は武力に婚姻政策も駆使して諸豪を圧伏した(次男資家に那須氏を継がせ、娘は宇都宮広綱・岩城親隆に入輿)。義昭の死に伴い小田・結城・白河結城・那須氏が北条氏康の旗下に属して反攻に出たが嫡子の佐竹義重は上杉謙信の力添えで撃退し継室の実家大掾氏も従えて常陸を制圧、南奥羽へ手を伸ばした。佐竹義重は、伊達晴宗の娘を娶って五児を生し、次男義広は会津黒川城主蘆名氏の当主に押込んだが伊達政宗に敗退、三男貞隆は岩城氏・四男宣隆は多賀谷氏の当主に据えた。嫡子の佐竹義宣は、義重の反対に背いて石田三成・上杉景勝に内応し関ヶ原合戦後に常陸水戸藩54万石から秋田久保田藩20万石へ減転封された。義宣は那須・多賀谷・蘆名氏の娘などを娶り二児を生したがいずれも夭逝、末弟の義直を嗣子とするも江戸城饗応で居眠りしたため廃嫡勘当し、亀田藩主岩城吉隆改め佐竹義隆(貞隆の嫡子)を2代藩主に据えた(岩城家は宣隆が承継)。佐竹家は幕末まで封土を保ち明治維新後は佐竹四家(東西南北家)と共に華族に列し今日でも有力者を輩出する東北屈指の名門である。
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佐竹義重は、上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封された。佐竹氏は「関東八屋形」の名門だが、北関東は国人が割拠し北条方・上杉方に分かれ鍔迫り合いを繰広げ、奥羽では陸奥守護伊達稙宗が嫡子晴宗との抗争に陥り蘆名・最上・相馬・大崎・葛西らが台頭した(天文の乱)。常陸太田城主佐竹義昭は、宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らを従え上杉と同盟して小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤と対峙、1564年謙信の「神速」の来援で小田城を攻落としたが(山王堂の戦い)常陸統一を目前に病没、北条方が盛返し再び乱麻の情勢となった。後継の佐竹義重は、謙信との連携強化で挽回を図り、1574年抵抗を続ける小田氏治を破って常陸統一をほぼ達成した。1582年本能寺事変後の天正壬午の乱を経て北条氏が上野を制圧、佐竹義重は下野に侵攻するが逆に長沼城を奪われ敗退(沼尻の合戦)、豊臣秀吉に帰服し援軍を懇請した。北方では会津黒川城主蘆名盛氏が没し伊達政宗が台頭、佐竹勢は二本松城を攻めた政宗を撃退するが決定機を逃した(人取橋の戦い)。佐竹義重は、伊達政道(政宗の弟)を退けて次男義広を蘆名氏の家督に据え、1588年大崎合戦の政宗敗北に乗じて伊達領へ攻入るが敗退(郡山合戦)、翌年最上義光と和睦し南転した政宗に黒川城を攻落とされ蘆名領を奪われた(摺上原の戦い)。佐竹義重は伊達・北条の挟撃に晒されたが、秀吉の小田原征伐で窮地を脱し宇都宮仕置で常陸太田城54万石を安堵され、江戸重通・大掾清幹を滅ぼし「南方三十三館」を謀殺して常陸支配を確立、新築の水戸城へ移った嫡子義宣に家政を譲り隠居した。佐竹義宣は、配下の宇都宮国綱・芳賀高武の改易騒動で取成しの恩を受けた石田三成に接近し、1600年関ヶ原の戦いが起ると東軍加盟を説く義重を抑え人質上洛命令を拒否して水戸城へ無断撤収、戦後徳川家康への釈明に奔走したが秋田への国替えを命じられた。佐竹義重は1612年まで生きたが狩猟中の落馬事故で死去した。
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足利氏は清和源氏の一流で、八幡太郎義家の四男義国の次男義康を家祖とし本貫の下野足利荘から名字を採った。源頼朝は義家の嫡子悪源太義親、新田氏は義国の長男義重の裔である。頼朝の鎌倉将軍家は3代で滅びたが、足利氏は執権北条氏と密接な血縁を結んで源氏筆頭の家勢を保ち、元寇以来不満を募らせる武士団に押された足利尊氏が建武の新政を成功に導き、武士社会の現実を無視した後醍醐天皇を追放して室町幕府を開いた。尊氏が気前良く大封を配ったため支配基盤は脆弱で、南北朝合一を果し相国寺から天皇位を狙った3代将軍足利義満をピークに将軍権力は弱体化、復権を図った6代足利義教は赤松満祐に弑殺され(嘉吉の乱)、無気力な8代足利義政は悪妻日野富子の尻に敷かれ後継争いから応仁の大乱が勃発、9代足利義尚は古河公方足利成氏や南近江守護六角高頼の反逆を掣肘できず、群雄割拠する戦国時代に突入した。「半将軍」と称された管領細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立するが(明応の政変)養子3人の家督争いで暗殺され(永正の錯乱)、周防の大内義興が挙兵上洛し将軍義澄と細川澄元・三好之長の阿波勢を追放して義稙を将軍に復位させた。義興は船岡山合戦に勝利したが領国を尼子経久に侵され帰国、細川高国は六角定頼と同盟して三好之長を討ち寝返った将軍義稙を追放して足利義晴を12代将軍に擁立し(等持院の戦い)播磨の浦上村宗を誘って阿波勢を迎撃するが逆に討取られた(大物崩れ)。細川晴元は反逆した将軍義晴を追放し(嫡子足利義輝が近江で13代将軍を承継)一向一揆を扇動して権臣の三好元長を滅ぼすが、嫡子の三好長慶が報復を果し三好政権を樹立した。隠忍帰順した将軍義輝は諸侯に通じて三好政権打倒を図るが三好三人衆・松永久秀に襲われ斬死(永禄の変)、14代将軍足利義栄は入京叶わず病没し、尾張・美濃を征した織田信長が流浪の足利義昭を15代将軍に奉じ「天下布武」に乗出した。将軍義昭は信長を裏切って包囲網に加担するが武田信玄の急逝で夢破れ室町幕府は235年の幕を閉じた。足利将軍家は断絶したが、鎌倉公方系の足利国朝が下野喜連川藩を立藩し幕末まで存続した。
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足利義輝は、抗争の末に三好長慶に屈服するも諸侯に通じて三好政権打倒を画策、三好三人衆・松永久秀の謀反に斃れたが塚原卜伝直伝「一つの太刀」で奮闘し最後の意地を示した剣豪将軍、弟の足利義昭が織田信長を裏切り室町幕府は滅亡する。12代室町将軍足利義晴の嫡子で、1546年10歳のとき亡命先の近江坂本で将軍位を譲られたが、敵対する管領細川晴元に追われては近江の六角定頼に匿われる無頼生活が続いた。1549年江口の戦いで主君晴元を破った三好長慶が幕政を握ると、足利義晴・義輝は細川晴元に担がれ長慶に抵抗したが、六角定頼の死で勢力を削がれ近江朽木へ退避、1558年京都奪回を試みるも阿波勢の来援で撃破され降伏して5年ぶりに京都へ戻った(北白川の戦い)。傀儡将軍も確保し幕政を牛耳った三好長慶は摂津・阿波を拠点に畿内・四国10ヵ国を制圧したが、剛毅な将軍足利義輝は抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達稙宗・最上義光・武田信玄・上杉謙信・織田信長・斉藤義龍・北条氏政・毛利元就・尼子晴久・大友宗麟・島津貴久らと関係を築き三好政権打倒を目論んだ。宿敵三好長慶の運命は弟の十河一存の病死で一気に暗転、1562年河内の畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢を誘って蜂起すると、和睦工作で窮地を凌ぐも弟の三好実休が戦死し三好家中では戦功著しい松永久秀が台頭(久米田の戦い)、翌年嫡子三好義興に続き細川晴元・細川氏綱も死んで大義名分の管領を喪い、謀反の嫌疑で弟の安宅冬康を誅殺した直後に長慶自身も病没した。足利義輝には好機が到来したが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に先手を打たれ二条御所を急襲されて討死(永禄の変)、三好氏を倒しても誰かに担がれるほか無かったが見事な死様で武門の棟梁の矜持を示した。足利義輝には嗣子が無く、三弟の周ロは殺されたが次弟の足利義昭は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、幕臣の細川藤孝・明智光秀の斡旋工作が実り3年後に織田信長に担がれ最後の室町将軍となる。信長の上洛軍に三好三人衆も六角義賢も蹴散らされ、松永久秀は帰順するも後に謀反して滅ぼされた。
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足利義昭は、横死した剣豪将軍足利義輝の弟で、「天下布武」を目指す織田信長に担がれるも裏切って自滅した室町幕府最後の将軍、旧臣明智光秀が信長を討ったが天下は豊臣秀吉が奪いその庇護下で天寿を全うした。12代将軍足利義晴の次男で興福寺一乗院門跡となり28歳まで僧侶覚慶であった。1565年兄義輝を弑殺した三好三人衆・松永久秀に捕えられたが三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は足利将軍家の家督を宣言し還俗して足利義昭を名乗り、南近江守護六角義賢が献上した矢島御所に拠って上杉謙信ら諸侯に上洛を促すが、三好氏に圧迫されて逃亡し若狭武田氏を経て越前朝倉氏に身を寄せた。1568年朝倉義景に失望した足利義昭が新参の明智光秀の手引きで尾張の織田信長へ鞍替えすると、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ六角・三好を一掃し入洛して義昭を15代室町将軍に擁立した。義昭は帰順した仇敵松永久秀の処刑を望んだが謝辞された。翌年三好勢が本圀寺に仮寓する義昭を襲うが岐阜城から戻った信長が一蹴、信長は豪壮な二条御所を造営し将軍の権威付けに努めるが、「幕府再興」に有頂天の足利義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが逆に『殿中御掟』を突きつけられ傀儡将軍の増長を掣肘された。1571年石山合戦勃発で信長包囲網が結成されると、将軍足利義昭はあっさり恩人を裏切り「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・六角・延暦寺に内通し仇敵の松永・三好へも決起を呼掛け武田信玄・上杉謙信・毛利輝元には上洛を懇請した。翌年戦国最強の武田軍が三方ヶ原合戦で徳川家康を撃破し京都に迫ると、松永久秀の呼応に逸る足利義昭は勇み足で挙兵したが信玄急死で目論みが崩れ宇治槇島城を攻囲され降伏、明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣にも見限られ、1573年京都を追放され室町幕府は滅亡した。前将軍足利義昭は、毛利輝元に匿われ備後鞆から打倒信長・幕府再興を訴えたが相手にされず、1588年天下人豊臣秀吉に召出され正式に将軍職辞任を表明、没落大名の文芸サロン御伽衆に加えられ9年後に大坂で病没した。
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細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。
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細川藤孝は、没落した和泉上守護家の当主で常に勝者に属し肥後熊本藩54万石の開祖となった政界浮遊の達人である。将軍足利義晴・細川晴元に従い三好長慶に所領を奪われた細川元常の死後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に将軍家を支え、足利義輝弑逆後は弟の足利義昭を救出して若狭武田氏・越前朝倉氏を頼り、1568年新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し幕府再興に働いた。が、1571年将軍義昭が恩人を裏切り信長包囲網に加担、1573年武田信玄上洛の尻馬に乗って挙兵に及ぶと細川藤孝は明智光秀・荒木村重と共に義昭を見限って信長に臣従し、京都長岡と勝竜寺城を与えられ岩成友通討伐に参陣した。遅れて降伏した三淵藤英・秋豪父子は信長に誅殺された。細川藤孝は、上司明智光秀の娘ガラシャを嫡子忠興の妻に迎え、光秀の旗下で畿内平定戦から丹波攻略、松永久秀討伐と東奔西走、1579年波多野秀治・赤井直正を滅ぼし丹波平定が成ると光秀は近江坂本に丹波を加増され、若狭計略を担当した藤孝は若狭守護一色義道を討ち丹後南半11万石を与えられ宮津城に入った。1582年本能寺の変が勃発、光秀に出陣を促された細川藤孝は剃髪隠居して家督を忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)ガラシャを幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は豊臣秀吉に敗れ滅亡(山崎の戦い)、藤孝は早速秀吉に帰順し娘婿の一色義定を討って丹後を平定し清洲会議で加増を受けた。耄碌した秀吉が千利休・豊臣秀次を殺すと両人に近い細川忠興は切腹も取沙汰されたが徳川家康に救われ、秀吉没後直ちに家康に帰服し丹後12万石に豊後杵築6万石を加増された。1600年関ヶ原の戦いが起ると、大坂屋敷のガラシャは石田三成に襲われ自害、忠興は弔い合戦で武功を挙げ豊前中津39万9千石へ加転封となった。丹後田辺城の細川藤孝は西軍に囲まれ討死を覚悟したが、歌道「古今伝授」伝承者の死を惜しむ弟子達が奔走し後陽成天皇の勅命により降伏、戦後救出され京都で悠々自適の余生を送った。細川家は忠興の後嗣忠利の代に肥後熊本54万石へ加転封となり現代の細川護熙まで繁栄を続ける。
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三好氏は、鎌倉時代に阿波守護となった阿波小笠原氏(信濃源氏)の末裔で、鎌倉時代初期に阿波三好郡に土着した小笠原長経より三好を名乗り、室町時代に四国探題格で四国全部の守護に就いた細川家に随従し阿波守護代を世襲した。智勇兼備と謳われた三好之長は、管領細川政元暗殺後のお家騒動(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)で主君細川澄元を擁して畿内に進出したが、大内義興・細川高国・六角定頼に敗れ嫡子長秀と共に自害に追込まれた。長秀の嫡子三好元長は、細川高国を討って復讐を果したが、澄元の嫡子細川晴元と対立、晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ切腹、内臓を天井に投げつける壮絶死を遂げた。之長敗死の翌年に生れた元長の嫡子三好長慶は、仇敵細川晴元に帰参して実力を養い、木沢長政・三好政長を討って晴元と将軍足利義輝を追放し室町幕府の実権を掌握した(三好政権)。三好長慶の覇業を支えたのは、弟の三好実休・安宅冬康・十河一存らの一門衆であったが、一存の病死に続いて実休が戦死し、嫡子三好義興も22歳で早世、冬康は謀反を疑い誅殺してしまった。長慶が男児無く死ぬと、一存の嫡子三好義継が後を継いだが、一門の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀(長慶の家宰で娘婿)の勢力争いにより三好政権は内部崩壊、織田信長の畿内侵攻で三好三人衆は容易く掃討され、義継と松永久秀は信長に降伏するも後に謀反し滅ぼされた。三好の嫡流は途絶えたが、元長の末弟三好善行の子為三と一門の三好政勝の子孫が徳川幕臣として家名を残した。三好実休の子で十河一存の養子に入った十河存保は、長宗我部元親に敗れるも秀吉に仕え讃岐十河3万石の大名に復活したが、秀吉の九州征伐に従い島津家久に敗れ討死(戸次川の戦い)、遺児十河存英は三好政康ら三好残党と共に大坂夏の陣で戦死した。
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三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。
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六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。
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大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。  
 

 

 
 
 
上泉信綱

 

  1508? - 1577
上泉信綱 1

 

永正5年〈1508〉? - 天正5年〈1577) 戦国時代の日本の兵法家で武将。一時期の武家官位名を添えた「上泉 伊勢守( − いせのかみ)」の名でもよく知られる(武家官位としての伊勢守)。上泉氏の本貫地の出身で、出生地は上野国勢多郡桂萱郷上泉村(現・群馬県前橋市上泉町内)あるいはその近傍とされる。生年は推測、没年は天正10年(1582年)など諸説ある。
剣聖と讃えられる剣豪の一人で、新陰流の祖。
同時代史料上の上泉信綱
『言継卿記』の大胡武蔵守
上泉信綱は、戦国時代の史料上には、山科言継の日記『言継卿記』に、永禄12年(1569年)1月15日 - 元亀2年(1571年)7月21日まで32回みえている。「大胡武蔵守」として多く現れ、「上泉武蔵守(信綱)」などとある。伊勢守とはみえない。
『言継卿記』によると、永禄12年1月15日、卜部兼興の子・長松丸の訴状に「叔母舅」の大胡武蔵守としてみられる。以後、武蔵守は言継を訪問するようになる。ただし5月16日から元亀元年(1570年)5月22日までは年始の挨拶1回のみである。元亀元年5月23日には言継は軍配を上泉武蔵守信綱から伝授された。6月28日信綱は従四位下に叙せられたことを言継に語っている。また武蔵守が兵法を披露するのは元亀元年8月10日の梨本宮門跡と19日の太秦真珠院での2回のみである。 元亀2年3月には武蔵守は近日在国するとあり、7月2日に武蔵守が大和国から上京している。7月21日、信綱は京を去り故郷へ向かうことを言継に伝え、言継から下野国結城氏への紹介状を得ている。
その他の古文書
○長野氏の軍制を記した「上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録(永禄元戊午年正月廿九日改軍評定到着帳)」(『箕輪町誌』収録)には、勢多郡上泉の住人の「上泉伊勢守時則」が下柴砦の主としてみえる。これを『桂萱村誌』(桂萱地区自治会連合会桂萱村誌刊行委員会、2006年)は諱が違うものの信綱が長野氏に仕えたのは間違いないとする。
○上泉伊勢守が門弟・丸目蔵人佐とともに将軍・足利義輝に兵法を披露し、それに対する義輝からの感状が、熊本県の丸目家に所蔵される。永禄7年(1564年)のものと言われるが、年次の記載は無く実際のところは不詳。少なくとも永禄8年5月19日(1565年)の義輝討死以前と推測される。ただし、感状自体の真偽について考証を要すると指摘されている。
○永禄8年(1565年)4月、柳生宗厳に与えた印可状(現・柳生延春所蔵)が存在している。
○永禄8年8月付で、宝蔵院胤栄への印可状(現・柳生宗久所蔵)が伝来する
○丸目蔵人佐に対し、永禄10年(1567年)2月に与えた目録と、同年5月に与えた印可状が残る。
これらの印可状・目録の中で信綱は「上泉伊勢守藤原信綱」と記されている。尾張柳生の『兵法由来覚』には、「上泉伊勢守後、武蔵守と改申候」と記されている(『前橋市史 第一巻』 p.981.比較的信用できる資料としている)。
伝承や後世史料にみえる上泉伊勢守
上野国は赤城山麓の川原浜(上野国勢多郡川原浜。現在の群馬県前橋市河原浜町、明治22年の勢多郡大胡村河原浜、明治初期の南勢多郡河原浜村)に所在した大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられ、大胡城の西南2里に位置した桂萱郷上泉村(現・前橋市上泉町内)に住んだ上泉氏の出身。上泉城主であるとともに、兵法家として陰流・神道流・念流などの諸流派を学び、その奥源を究め、特に陰流から「奇妙を抽出して」新陰流を大成した。
信綱は箕輪城の長野氏に仕えた。長野氏滅亡後、長野氏旧臣を取り立てた武田信玄には仕えず、落城後、新陰流を普及させるため神後宗治、疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出たと伝わる。
嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続したと伝える。
剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わる(『桂萱村誌』)。多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わる。 一方子孫と伝える上泉氏も独自の家伝を持っている(後述)。
信綱の誕生と出自
名字は「大胡(おおご)」。通称の姓は「上泉」で、読みは「かみいずみ(歴史的仮名遣:かみいづみ)」もしくは「こういずみ(歴史的仮名遣:こういづみ)」。居城のあった現在の前橋市上泉町の「上泉」の読みは「かみいずみ(歴史的仮名遣:かみいづみ)」。
名は、『言継卿記』では大胡武蔵守または上泉武蔵守信綱。『武芸流派大事典』によると、自弁当流(神影正兵法備具兵神宜武士道居合)の伝書に秀長とあり(綿谷によれば初名)、次に秀綱、永禄8 - 9年から信綱だとする。『関八州古戦録』では金刺秀綱。伊勢守、のち武蔵守を名乗った。
上野国は赤城山麓の上泉(現在の群馬県前橋市上泉町)で生まれたと伝えられるが、異伝は上泉城を生誕地とする。生年は史料が無く、不明。尾張柳生家の柳生厳長は『正伝新陰流』(1957年)で永正5年(1508年)としている。
父は、『武芸流派大事典』や『国史大辞典』など通説によると大胡武蔵守秀継とされる。ただし異説もあり、『撃剣叢談』(三上元龍、1790年)では憲綱、上泉家伝来の系譜では上泉武蔵守義綱とある。
なお通説では大胡氏の一族とされるが、子孫という上泉家の家伝では一色氏の一族が大胡氏の名跡を継ぎ上泉氏の祖となったと伝える。
剣の師について
陰流、神道流、念流を学んだという信綱であるが、その師については諸説ある。
陰流
愛洲移香斎(久忠)を師とする説と、移香斎の子・元香斎小七郎(猿飛陰流)を師とする2説がある。
愛洲小七郎説 / 下川潮は『剣道の発達』(大日本武徳会、1925年)で小七郎説をとる。また、久忠の子孫・平沢氏の記録「平澤家傳」(「平澤家伝記」)には信綱に陰流を伝承した記述はない。疋田豊五郎が発行した伝書は全て、愛洲移香ー>愛洲小七郎ー>上泉武蔵守ー>疋田豊五郎となっている。
愛洲移香斎(久忠)説 / 尾張柳生家の柳生厳長は『正伝新陰流』にて移香斎説をとる。今村嘉雄は『図説日本剣豪史』で『正伝新陰流』の見解に賛同する。
神道流
松本備前守を師とする説とこれ以外を挙げる説がある。
松本備前守説 / 「武術流祖録」(天保14年)では、松本備前守政元に師事したという。天真正伝香取神道流宗家・飯篠家では代々飯篠家直の高弟である松本備前守に信綱が師事したと伝承する。太田亮は『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会、1934年)で松本尚勝に師事したとする。ただし太田は愛洲氏について指摘しない。武術史研究家・綿谷雪や直心影流15代山田次朗吉によると、直心影流などの伝書にみえる「杉本備前守」は「杉本」が「松本」の誤字であって「松本備前守」を意味するとされている。
杉本備前守政元説 / 直心影流18代石垣安造は著書『直心影流極意伝開』(新樹社、1992年)で、武術流祖録の内容は直心影流の兵法伝記からの写しであり、姓だけを勝手に杉本から松本にすり替えて改変したもので、「杉本」が「松本」の誤字ではなく、元禄の初めから現在まで直心影流は「松本備前守」ではなく「杉本備前守政元」が流祖であると主張している。
師の名を不記載 / 今村嘉雄は『図説日本剣豪史』では、信綱は念阿弥慈恩を流祖とする念流の流伝を学び、さらに飯篠長威斎の流伝になる神道流を修めたとし、師の名は挙げない。『正伝新陰流』では、備前守の信憑は飯篠宗家の記録が唯一だとし、ただ長威より50 - 60年代後代の人とあるだけでは、極めてあいまいだと論考している。
箕輪長野氏家臣時代
『撃剣叢談』によると、1555年(天文24年)北条氏康の大胡城攻撃に会い開城したという。その後、長野業正とその子長野業盛に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、長野の16人の槍と称えられ、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらったという。長野家滅亡時、武田信玄の仕官要請を断り、それを惜しんだ信玄(諱は晴信)の偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話が『甲陽軍鑑』にある。
諸国流浪と剣術指南
江戸時代の『箕輪軍記』・『関八州古戦録』・『甲陽軍鑑』などによると、箕輪落城後、新陰流を普及させるため門弟と共に諸国流浪の旅に出るという。同行の門弟について、『本朝武芸小伝』は神後伊豆守・疋田文五郎など、『柳生家文書』では疋田分五郎と鈴木意伯が従ったとされる。
諸国流浪の年代は、『本朝武芸小伝』によると永禄6年(1563年)上洛という。『甲陽軍鑑』には古河公方・足利義氏に招かれたと書かれるが、真偽は不明。『武功雑記』には、信綱は上洛の帰途に山本勘助に会い、同行していた弟子・疋田が勘助と対戦してこれを破ったとある。ただし疋田の動向・勘助の没年などからフィクションらしいとされる。
「兵法由来覚」では、信綱一行は本国を出たのち伊勢神宮へ向かい、そこで柳生のことを聞き大和へ赴いたとする。年次の記載は無い。一方『正伝新陰流』では、京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いてそこへ向かい、胤栄と柳生宗厳と出会いこれを下したとする。永禄6年のことという。
永禄8年には柳生宗厳・胤栄に印可状を与え、永禄10年には目録を丸目蔵人佐に与えた。「兵法由来覚」では疋田景兼・香坂要も免状を受けたとする。
なお、確かな同時代史料である山科言継の日記『言継卿記』にある上洛期間は永禄12年1月15日 - 元亀2年7月21日までである。元亀2年7月21日に京を去り故郷へ向かったとある。
箕輪城落城年の問題
長野氏の本拠箕輪城落城の年次は落城に関する古文書が無く、後代の戦記物『箕輪軍記』『箕輪記』『上州治乱記』『関八州古戦録』『甲陽軍鑑』などに記載された永禄6年落城説が通説であった。しかし、近年の研究により、同時代史料である『長年寺古文書』(高崎市榛名町)にある永禄9年(1566年)に落城した説が有力となった。このため、永禄6年から信綱が諸国を往来していたという伝承や印可状・目録が問題となっている。永禄7年・永禄8年は武田氏侵攻により、長野氏側の諸城(倉賀野城、松井田城、安中城など)が防衛戦、落城していった年であり、この時期に長野家臣と伝来する信綱が主君の元を離れるのは不自然のためである。『新修高崎市史』では永禄9年の落城後に諸国流浪をしたのではとしている。
没年
その最期についても諸説ある。『関八州古戦録』、『上野国志』によれば天正5年に大和の柳生谷で亡くなり墓があるとする。ただし柳生には墓でなく芳徳寺に供養塔「柳眼塔」がある。
『武芸流派大事典』では、『橋林寺古文書』及び『西林寺過去帳』によって天正5年と書くが、疑う点も多いとする。まず『西林寺過去帳』には論争があり、没年を天正5年1月16日(1577年)とする『西林寺過去帳』だが、これは寺にある天正5年の開基墓が信綱の墓碑とする説に基づいている。しかし開基墓の解釈には異論があり、嫡男である上泉秀胤の供養碑という説(天正5年1月22日(1577年または天正4年(1576年))に信綱が西林寺を開基し信綱の十三回忌法要を行なったという『武芸流派大事典』所収の口伝に基づく)もある。『定本大和柳生一族』(今村嘉雄、1994年)では、天正5年に信綱が西林寺を開基し秀胤の十三回忌法要を行ったとして、没年を天正5年以後とする。
また気楽流伝書には天正5年4月18日とある。
子孫の上泉家による異伝
信綱の子孫と伝える上泉氏は、上泉文書といわれる古文書などを所蔵し、新陰流などが伝える伝承とは異なる独自の伝承を伝える。前橋市上泉町の「上泉伊勢守顕彰・生誕500年祭実行委員会」はこの上泉家伝承を採用しており、上泉家伝承に基づく内容の「剣聖 上泉伊勢守生誕五百年記念碑」を上泉町で2008年に建設したり、シンポジウム・講演会を行うなど活動している。前橋市役所も広報でこの伝承を紹介する。ただし「上泉文書」は一部を除き書籍に採録されておらず、その真偽などについても考証されていない。
諸田政治は、この上泉家の伝承から、松本備前守より天真正伝香取神道流(神道流)を、愛洲久忠(上泉氏伝承では「三好日向」表記)より陰流を修めたとする。なお信綱曽祖父義秀は中条流・念流・京流の達人であり、祖父・時秀はそれに加えて香取神道流を飯篠長威斎に師事、父義綱も松本から天真正伝香取神道流(神道流)を、愛洲久忠から陰流を学んだとし、先祖代々から諸流を修めていたともしている。
加来耕三も同様に上泉文書を閲覧し、諸田説と同じ主張を述べている。また『新陰流軍学『訓閲集』:上泉信綱伝』も、上記の上泉家伝承に基づいて解説する。
信綱没年についても異なる伝承が伝わる。上泉家の口伝書や上杉家の記録によると、天正10年小田原にて没したという。『西林寺過去帳』に関しては諸田が嫡子供養墓説をとっている。
その他
前橋市上泉町の諏訪神社で行われる上泉獅子舞(承和年間の創始と伝)には、上泉信綱も奉納したと伝わっている。
門下
免状を信綱から与えられたのは、疋田景兼・柳生石舟斎・丸目蔵人佐・香坂要だという。また信綱の息子(名前不詳)も大形を伝えられたという。
疋田景兼・鈴木意伯(神後宗治)・柳生石舟斎・丸目蔵人佐・上泉孫四郎(「兵法由来覚」によると信綱の孫、父も弟子だが名は不詳という)・駒川国吉・奥山休賀斎・野中新蔵成常・宝蔵院胤栄  
 
上泉信綱 2

 

上州の小領主上泉氏
ここでは剣聖上泉信綱の誕生から、山内上杉家の重鎮・上野箕輪城主長野業正に属した一国人衆としての彼に少し触れてみることにします。
剣聖誕生
彼は永正五(1508)年に武蔵守義綱(憲綱とも)の二男として、上野大胡城の出城のひとつである同国桂萱郷上泉城に生まれた。この上泉城は現在の群馬県前橋市にある。元服までは源五郎を名乗り、のち秀綱・信綱と称するようになるが、当面秀綱の名で書き進めていくことにする。この永正五年という年の各国の情勢を見てみると、近畿では流浪していた前将軍義稙が細川高国・畠山尚順らに迎えられて泉州堺に入り、ほどなく前将軍義澄を近江に追い出した上、七月一日付で将軍位に還補され、義澄は将軍職を解かれるという事が起きている。また甲斐では武田信虎が叔父の大井信恵父子らと甲斐守護職に絡む同族争いを起こしている。同年生まれの武将としては足利晴氏・小山高朝・蒲生賢秀らがおり、大内義隆・里見義堯(1507年生)らも秀綱と同世代の武将である。
さて上泉家と剣術との関わりであるが、彼の祖父時秀は天真正伝香取神道流の飯篠長威斎家直や陰流の祖愛洲移香斎久忠に、父義綱は長威斎門下で鹿島新当流の祖松本備前守また愛洲移香斎について修行をしたという記録がある。そして秀綱も、父と同じ松本備前守に入門して修行に励み、十七歳の若さで天真正伝神道流の奥義を授けられた。
享禄三(1530)年、秀綱23歳の時のこと、祖父時秀が永眠する直前に愛洲移香斎が上泉城を訪れた。おそらくこの時移香斎は秀綱と立ち会い、その非凡な才能を見て取り、我が陰流を継ぐに足りる人物と思い極めたに違いない。この後どういう稽古があったかは定かではないが、翌年移香斎は秀綱に陰流の伝書・秘巻・太刀一腰など全てを伝え、飄然と歴史から姿を消した。このあたり、後に武州小金原で一刀流の祖・伊東一刀斎が、兄弟子善鬼との決闘に勝った御子神典膳(後の小野忠明)に全てを伝えたのち姿を消したのとよく似ている。余談だが、この享禄三年1月には、後に秀綱とも関わってくる人物が越後春日山城に生まれている。幼名を虎千代といい、父は長尾為景、母は古志長尾顕吉の娘・虎御前。後に合戦の神とまで言われた戦国の巨星・上杉謙信である。
ともあれ、ここに秀綱は陰流正統を愛洲移香斎久忠から受け継いだ。享禄四(1531)年のことである。
秀綱と小田原北条氏
さてそのころ関東の情勢は動きつつあった。もともと大胡城つまり秀綱の本家筋は扇谷上杉家の傘下にあったらしいが、扇谷上杉朝興が北条氏綱に江戸城を奪取されて以来、ついに奪回を果たせず天文六(1537)年四月に死去した際に扇谷上杉家(13歳の朝定が家督を嗣いだ)を見限って江戸へ移り、北条氏の傘下に入ったという。ただ大胡城は一族の者が守り、依然として扇谷上杉氏に属していたというので、上泉義綱・秀綱がその指揮を執り家中の統制を行っていたのかもしれない。
そして天文14(1545)年9月、山内上杉憲政は扇谷上杉朝定とともに東国勢六万五千を率いて北条方の勇将北条綱成の守る武蔵河越城を包囲する。程なく古河公方足利晴氏も一万五千の軍を率いてこれに合流、計8万の大軍で河越城を囲み北条氏康に宣戦布告するという事件が起きる。これに対して翌年4月、北条氏康は河越城救援に向け小田原を発し、武蔵三ツ木に布陣した。軍勢はわずか八千。しかし4月20日、信じられないことが起こった。氏康が上杉憲政・朝定・足利晴氏連合軍を謀略により油断させておいて突如夜襲をかけ撃破、扇谷上杉朝定は戦死(享年22歳)、憲政は上野平井城に、晴氏は古河に奔るという結末を迎えたのである。これを世に「河越夜戦」と呼び、戦国三大奇襲戦の一つとして後世に語り継がれてゆくことになる。
秀綱は享禄元(1528)年に妻を娶っているが、その妻というのが大森式部少輔泰頼の娘という。この泰頼はかつて小田原城主であり、明応四(1495)年に北条早雲の謀略により城を奪われたという大森実頼・藤頼親子の子孫である。そしてこの妻は秀胤を生んだものの早世したため、秀綱は後妻を持つことになるのだが、その後妻というのがなんと先述の勇将北条綱成の娘なのである。
上州の小領主上泉氏
この河越夜戦以来、山内上杉家の声望は地に墜ち、関東は本格的な北条氏康の侵攻にさらされることになる。小領主たちは争って氏康の傘下に馳せ参じ、上杉家はもはや風前の灯火であった。しかし、この情勢の中でも一貫して斜陽の上杉憲政を支え続けた名将がいた。箕輪城主・長野業正である。秀綱はこの長野業正に属して活躍した。長野家の勇将藤井豊後守友忠や白川満勝らと並び「長野十六槍」の一人に挙げられ、さらに「上野一本槍」の栄えある称号を得ていることからも、上杉憲政の麾下として活躍したことは事実であろう。では、その敵である小田原北条氏との関係はどうなったのであろうか。
ここに戦国の小領主としてのどうにもならない哀しさがある。秀綱個人の思惑はともかく、家臣や領民を戦乱から守るため他の国人衆とも歩調を合わせ、「今日は上杉、明日は北条」といった、悪く言えば「恥も外聞もない日和見的進退」をせざるを得なかったであろうことは想像に難くない。事実、関東の国人衆はのちに上杉謙信と北条氏康・氏政の間で離合を繰り返すのである。そしてこういうことを繰り返すうち、秀綱は強い厭世観を持ったのではないかと思われる。箕輪落城・長野家滅亡を機に、秀綱が地位も領土も棄てて一武芸者として生きる道を選んだ最大の要因は、戦国の世そのものだったような気がしてならない。
初の上洛と箕輪落城
ここでは山内上杉家の名将長野業正の没後、遺児業盛を助けてきた上泉信綱が、箕輪城落城・業盛自刃を機に郷里を出て廻国修行に出たいきさつをご紹介します。
初の上洛と憲政の出国
天文年間に秀綱が上洛したとする記録がある。詳しい日時は明らかでないが、その目的は新陰流の伝播弘流の為ではなく、曾祖父一色義直と一族の追善供養のためであったという。そして彼は途中小田原に立ち寄り北条氏康に新陰流の妙技を披露、感じ入った氏康や北条綱成が入門したのみならず、ここで綱成の娘を後妻として娶るのである。さらに嫡子秀胤が北条家に仕えることになり、秀綱はしばらく小田原に留まったという(「上泉家文書」による)。しかし、これは後の秀綱の行動を思えば、やや腑に落ちないところがある。ただ、秀胤はその後北条氏に従い、国府台合戦で戦死していることを思えば、なるほどとも思えるのだが。ともあれすでにその剣の実力は関東一円に広く知れ渡っていた秀綱だけに、氏康の人柄を自身の目で確かめたかったのかも知れない。そして、氏康はたとえそれがわかっていても、秀綱を純然たる「武芸者」として歓待するくらいの腹芸は出来る武将である。
京に到着した秀綱は、当時の超一級知識人と初の対面をすることになる。『言継卿記』で名高い高位の公家・権大納言山科言継である。言継は秀綱と気が合ったらしく、以来たびたび彼の日記に秀綱の名が見られるようになる。また、この道中で後に神影流を創始する奥山孫次郎公重(休賀斎)や、真新陰流の祖となった小笠原源信斎長治らが秀綱の門下となったという。
時は流れて天文二十(1551)年。まず甲斐では2月12日に武田晴信が除髪して信玄を名乗り、尾張では3月3日に織田信秀が末森城で病歿(享年42歳)、信長が家督を嗣いだ。そして3月10日、北条氏康が動いた。上野平井城の上杉憲政攻撃に向け三万騎を率いて小田原を出陣したのである。上杉憲政は長野業正・太田資正を率いて神流川で迎え撃ったが、所詮は多勢に無勢、敗走して平井城に逃げ込んだ。諸方に救援の命を飛ばすが、誰一人加勢には現れず、ついに平井城と11歳の嫡子の竜若丸をも棄てて、越後の長尾景虎を頼って落ちていった。後にこの竜若丸は、北条氏康の手により小田原で斬首されたという。
長野業正の死と箕輪落城
越後に落ちていった憲政を快く迎えた長尾景虎は、その要請を受けてこれ以後何度も関東に出陣することになる。大胡城はまさにその渦中にあり、北条方に落ちたかと思うとまた景虎が取り戻す、といった具合であった。そしてこの上州動乱につけ込んで、侵略の意を露わにした武将がいた。甲斐の武田信玄である。しかし、その前に頑として立ちはだかったのが、箕輪城に一万余の精兵を持つ名将長野業正であった。業正は長尾景虎と連絡を取りつつ、信玄の東進を阻止し続けた。そして「上州の黄班」(黄班は虎の意)と呼ばれるにふさわしく、その死に至るまでついに信玄の侵入を許さなかった。このとき秀綱は業正のもとで活躍、「長野十六槍」の筆頭と讃えられる働きをするのである。
しかし永禄四(1561)年11月22日、業正は病没した。この直前の9月には、戦国史上に名高い第四次川中島合戦が武田信玄と上杉謙信の間で行われている。長野家ではこれを隠し続けてきたが、やがて周囲の知るところとなり、満を持して信玄は出陣してきた。二万の兵で箕輪城を包囲し、信玄は総攻撃をかけた。秀綱はこの時箕輪城にあって最後まで奮戦したが、余りにも兵力が違いすぎた。やがて勇将藤井友忠も戦死、最期を悟った業正の子業盛は城門を開き、果敢に討って出た。馬場信房の陣になだれ込み、敵18騎を斬って落とした上で引き返し、辞世の句をしたためて自刃したという。享年19歳であった。
さて秀綱はどうしたか。これには二説あり、一つは神後伊豆守・疋田文五郎らを従えて正に武田陣に突入しようとしたところ、信玄の本陣より特使穴山信君が馬を飛ばしてきたというもの。もう一つは桐生城の桐生直綱を頼って箕輪城を退去し、そこへ秀綱の居所をキャッチした信玄のもとから特使穴山信君が駆けつけてきたというものである。この稿ではそれはどちらでもよい。要は秀綱がこれを受けて武田信玄のもとへ伺候したという事実が重要なのである。
廻国修行へ
秀綱は要請を受け信玄のもとへ伺候した。信玄は、箕輪城主長野業正の指揮下にあって数年来武田軍に煮え湯を飲ませてきた秀綱にもかかわらず、破格の厚遇をしたという。しかし彼はもはや信玄に仕官をする気はなかった。たとえ相手が北条氏康や上杉謙信であったとしても、秀綱は仕官しなかったであろう。彼は信玄に、仕官する気はないこと、廻国修行の旅に出て我が剣術流派を広めたいことを告げた。信玄は初め渋っていたが、秀綱の決意が固いことを知ると「他家に仕官しない」という条件と引き替えにこれを許し、秀綱はそれを約束して厚く礼を述べた。そして信玄は彼に、自分の名の一字「信」を与えて「信綱」と名乗らせたという。これは見方によると「旅立ちへの餞け」とも取れるし、「他家への楔(くさび)」とも取れるのだが、ここは名将信玄のこと、前者であると解したい。ここに秀綱は広く知られている「上泉伊勢守信綱」と改名し、晴れて自由の身となって神後伊豆守宗治・疋田文五郎景兼を供に従え、念願の廻国修行へと旅立つ。そして彼は信玄との約束を終生守り、二度と他家に仕官することはなかった。したがって、今後は彼を「信綱」の名で書くことにする。
エピソード
ここでは自由の身となった信綱が、伊勢の北畠具教のもとに向かう途中に遭遇したと思われる有名なエピソードをご紹介します。
一路、伊勢へ
廻国修行に出た信綱一行が京に至るまでにとった道筋にも二説ある。中山道を経由したというものと、東海道を経由したとするものである。ここでは先に述べた小田原北条氏との関わりからも、東海道を経由したものとして話を進めていくことにする。小田原に立ち寄った信綱は、氏康や綱成らと再開したであろう。永禄六(1563)年のことだったという。小田原を出た信綱一行は、当然の事ながら、今川・松平領を通過することになるが、この年は桶狭間の戦いで今川家から独立し、前年織田信長と同盟を結んだ松平元康が、長男信康と信長の娘徳姫との婚約も済ませて家康と改名、三河平定に向け始動した年である。こういう中、信綱らは一路伊勢へと向かった。京へ上る前にどうしても会っておきたい人物がいたのである。その人の名を北畠具教という。
具教は代々伊勢国司を務めた名族北畠晴具の子で、伊勢国司北畠家最後の当主となる。この年の7月(9月とも)には父晴具が享年61歳で歿しており、ちょうど家督を嗣いだ頃である。また彼は塚原卜伝門下の剣豪大名として名高く、卜伝から「唯授一人」とされる新当流秘伝の太刀「一の太刀」の奥義を伝授されている。しかもト伝が死に際して、嫡男彦四郎に「北畠卿より伝授を受けよ」と遺言したとも伝えられているので、剣技はもとより人格も相当立派な大名であったと思われる。また、彼は「剣豪将軍」と呼ばれた十三代将軍足利義輝とも交わりがあったと伝えられており、享禄元(1528)年生まれの彼はこの時36歳、ちょうど「武芸者」としても脂の乗っている時期であった。
味わい深いエピソード
さて、伊勢へ向かう前に信綱に一つの非常に有名な味わい深いエピソードがある。もともと信綱にはエピソードが少なく、こういった類のものはこれ一つかもしれない。ご存じの方も多いと思うが、紹介しておくことにする。
尾張あたりのとある村にさしかかったとき、その村では大騒ぎをしていた。疋田文五郎が村人に事情を尋ねたところ、悪事を働いた浪人者を村人が捕らえようとした途端に、村の幼い子供を人質に取って小屋に立て籠もってしまい、近づこうとすると子供を刺し殺そうとする。子供を人質に取られた両親は狂ったように泣き叫ぶばかり、さてどうしたものかと困り果てているという。これを聞いた信綱は一瞬表情を曇らせたが、「よしよし、私が取り戻してあげよう」と、たまたま居合わせた僧に袈裟を借り受け、念の入ったことに頭髪まで綺麗に剃ってしまった。文五郎や神後伊豆も、お師匠は一体何をするのかと思いきや、信綱は村人に握り飯を二つこしらえさせ、それを持って浪人者の籠もる小屋へと向かった。この後のやりとりは次のような感じではなかったろうか。

浪人者は破れかぶれになっていた。信綱が小屋に近づくと、
「来るな!そこから一歩でも近づくと子供の命はないぞ」
と叫び、子供の喉元に白刃を突きつけて威嚇する。
「なにを怯えておる、わしは見てのごとく通りすがりの僧じゃ。ほれ、握り飯を持って参った」
「うるさい!何だかんだと言っても俺を捕らえに来たのであろうが」
「そうではない。ただ、その子に罪はない。握り飯を食わせてやってはもらえぬか」
昨日来、飯を一粒も食っていなかった浪人者はさすがに空腹を思い出したのであろう、信綱にこう言った。ただし、子供の喉には白刃を突きつけたままであるが。
「よし、ならばその握り飯を抛り投げろ。それ以上近づいたら子供の命はないぞ」
「わかったわかった。二つ進ぜるほどに、必ず子供に一つは食わせてくだされや」
あまりの空腹と信綱の人柄から、やや態度を軟化させた浪人者は、子供を相変わらず抱きかかえたまま戸口に姿を見せた。
「では抛りますぞ、ちゃんと受けなされや」
信綱は一つの握り飯を浪人者に向かって抛り投げた。そして間、髪を入れず二個目の握り飯をも抛り投げた。浪人者は子供を左手に抱え、右手でその喉元に白刃を突きつけていたのだが、一個目の握り飯は子供を抱えた左手を使って器用に受けた。しかし、続いて投げられた二個目を受け取る際、思わず右手の刀を投げ捨ててこれを受けたのだが、これこそ信綱の思うつぼであった。
浪人者が刀を手放した一瞬の隙を突いた信綱は、あっという間に飛びかかって彼を組み伏せてしまった。

村人達の喜びは非常なものであった。信綱に袈裟を貸し与えた僧もこれにはいたく感じ入り、そのまま袈裟を信綱に贈ったという。なお、この浪人者がその後どうなったかは知らない。
北畠具教との出会い
伊勢に入った信綱一行は、早速「太ノ御所」と呼ばれる北畠具教の居館に向かった。ここではじめて両者は会話を交わすのだが、具教は天文二十三(1554)年にすでに従三位権中納言に叙せられており、本来なら国を棄てた信綱程度の身分ではとうてい不可能だったであろう。しかし「剣術」という武芸が、身分の差を超えて両者の出会いの場を作らしめた。
二人は剣術談義に花を咲かせたであろう。そして、その時の信綱の顔はきっと輝いていたに違いない。信綱は20歳年下の具教に余すところなく自分の剣技を披露した。具教も相当な遣い手である。信綱の技が尋常でないことを即座に見抜き、感心するとともに「ぜひ会ってみられよ」と、大和にいる二人の人物を紹介した。宝蔵院胤栄と柳生宗厳である。宝蔵院胤栄は奈良興福寺の塔頭(たっちゅう)宝蔵院に籍を置く覚禅坊と呼ばれる荒法師で槍術に優れ、後に宝蔵院流槍術の祖となる人物である。一方、柳生宗厳は中条流・新当流の遣い手で、当時「畿内随一」と評判の剣豪武将であった。この柳生宗厳との出会いが後に新陰流を大きく飛翔させることになるのだが、この時点では信綱にはそんなことは知るよしもない。
柳生宗厳との出会い
ここでは大和へやってきた信綱一行が宝蔵院胤栄・柳生宗厳と出会い、やがて宗厳の人品を認めた信綱が新陰流の道統を継がせるに至ったいきさつをご紹介します。
宝蔵院胤栄との出会い
伊勢を後にした信綱一行は、まず宝蔵院胤栄を訪ねるべく大和にやって来た。胤栄は丁重に彼をもてなし、やがて立ち会い、ということになった。胤栄は槍を手に、信綱は袋韜(ふくろしない)を手に向き合った。この信綱の持つ「袋韜」なるものは彼の発案によるもので、竹をいくつかに裂いたものを数本束ね合わせ、なめし革で固めたものという。当時は立ち会いにおいては木刀を使用するのが一般的で、ややもすれば相手を不具の身にしたり、最悪の場合死に至らしめることも多かった。そこで信綱は門人達が打ち合って落命したりせぬよう、またそれを気にせず思い切って打ち合いが出来るよう、これを発明したと伝えられている。つまり、信綱は現代の剣道における竹刀の発明者ということになる。
勝負はあっけなくついた。後に宝蔵院流の祖といわれ、独自に十文字鎌槍を発明したと伝えられる荒法師胤栄ほどの遣い手が、ほとんど何もできないままに信綱の袋韜に詰められたという。胤栄は聞きしにまさる上手と感服して即座に信綱に入門を請い、さらに使いの者を剣友柳生宗厳のもとへ書状を持たせて呼びに走らせた。胤栄からの書を受け取った柳生宗厳は、「運命の立ち会い」となる宝蔵院道場へと向かう。
柳生宗厳との出会い
さて、宝蔵院道場に到着した宗厳は、早速丁寧な口調で立ち会いを所望した。しかし、返ってきた答えは宗厳をまさかと疑わせるものであった。「ではまずこの疋田文五郎と立ち会いなされ」。一瞬宗厳は耳を疑ったに違いない。「畿内随一」とその実力を評価されている自分に対して、弟子を立ち会わせるとは・・・。内心面白いはずはなかったろうが、それを怺えて宗厳は承知した。しかし・・・ 勝負はこれまたあっけなかった。宗厳と向かい合った疋田文五郎が「それは悪しゅうござる」と言うたびに一本ずつ取られ、三本中三本とも彼の完敗であったという。弟子に敗れた者がその師匠に挑むなど、当時では考えられないことであったらしいが、宗厳は信綱に立ち会いを求め、信綱も快く許したという。
宝蔵院胤栄ひとりを傍らに、信綱と宗厳の間で三日三晩の試合が行われたという。そして試合を終えた宗厳は信綱に入門を請い、一行を柳生の郷へ招待した。信綱は請われるままに柳生の郷へ向かい、その美しい郷の佇まいが非常に気に入ったようだ。加えて柳生家は宗厳の父家厳をはじめ一族総出で歓待に尽くしたという。
柳生の郷が気に入って居着いた信綱は、惜しげもなくその技を柳生一族に伝授した。特に宗厳には厳しく教導し、そのまま柳生の郷で永禄七(1564)年の正月を迎える。しかし戦国の世は非常であった。信綱のもとにひとつの悲報が舞い込んできた。それは正月七日、北条氏康が下総国府台で里見義弘・太田資正連合軍を撃破した際、信綱の子秀胤が戦死したことを知らせるものであった。信綱は柳生一族にこのことを悟られたくなかったのか、宗厳に宿題を残して柳生の地を去る。その宿題とは「無刀取り」、つまり身に寸鉄も帯びずに敵を圧倒して勝利を収める方法を考えよという難題である。宗厳はかしこまってこれを受け、信綱は疋田文五郎を柳生に留め、神後伊豆をつれて旅立っていった。
軍法軍配天下一
信綱は関東方面へは戻らず、京へと上っていった。おそらくまずは山科言継を訪問したのではないか。そして京に滞在中に、その存在を耳にした将軍足利義輝からの招待状が届く。彼は正に天にも昇る気持ちではなかったろうか。悪く言えば、評判の実力とはいえ、片田舎の一剣豪の武芸が、将軍家の目に留まるのである。弘流を目指す彼にはこの上ない栄誉であった。おそらくこの蔭には北畠具教や山科言継らの後押しもあったことだろうが、それはともあれ、永禄七(1564)年6月18日、彼は晴舞台である京都二条御所へと参上した。
この時の上覧演武の際、信綱の打太刀を務めたのは神後伊豆ではなく、25歳の青年剣士であった。名を丸目蔵人佐長恵という。彼は肥後相良家の家臣で、当時九州一の兵法者と言われた天草伊豆守に剣を学び、その技量は師を凌ぐと言われたほどの麒麟児である。彼は上洛時に信綱の世評を聞きつけ、立ち会いを所望したのだが、結果は宗厳らと同じであった。いとも簡単にあしらわれ、その場で入門を請うたという。信綱もこの青年のひたむきさを可愛がったようで、だからこそ神後伊豆を差し置いて上覧演武の相手に選んだのであろう。結果は大成功であった。感服した義輝から「兵法新陰、軍法軍配天下一」の栄えある称号を賜ったのである。そして信綱の推挙により、打太刀には選ばれなかった神後伊豆もまた、将軍義輝の兵法師範として取り立てられたのだ。この時期が信綱の人生の中でも、最も充実した時期であったろうと思われる。
剣聖上泉信綱の終焉
見事「無刀取り」の難題を解決した柳生宗厳に流派の印可状を与え、二人の弟子たちとも別れ、万感の想いを胸に故郷へと向かった剣聖信綱の晩年をご紹介します。
「無刀取り」の完成
永禄八(1565)年4月、信綱は鈴木意伯と名乗る供一人を従えて大和柳生の郷に戻って来た。また別の門人かと思うと、そうではない。この鈴木意伯こそ、神後伊豆守宗治その人なのである。鈴木というのは彼の母方の姓という。しかしこの稿では今まで通り神後伊豆の名をもって書くことにする。宗厳と久々に対面した信綱は、請われるままに二人きりで道場に籠もり、彼が格段の進歩を遂げたことを悟った。信綱の感激は大きかった。「もはや我らの及ぶところではない」とまで称賛し、直ちに新陰流の印可状を与えたという。
しかし翌五月、またもや悲報がもたらされた。将軍義輝が松永久秀らによって暗殺されたのである。信綱はどんな想いをしたであろう。程なく彼は京に戻り、しばらく記録が途絶えているが、京のどこかにいたようだ。そして元亀元(1570)年6月27日、今度は彼は神後伊豆を打太刀に、正親町天皇の御前で武術としては初めての天覧演武の栄に浴し、さらに従四位下武蔵守に叙せられたのである。
剣聖上泉信綱の終焉
元亀二(1571)年七月、信綱は京を去り故郷上州へと旅立つ。時に信綱64歳のことであった。そこからの足取りは不明だが、天正五(1577)年上泉の地に戻り、下総国府台合戦にて戦死した息子秀胤の13回忌の法要を行ったという記録があるという。その後彼は後妻(北条綱成の娘)との間にもうけた二人の子有綱・行綱が兵法師範をもって仕えている小田原北条家へと向かったようだ。そして天正十(1582)年。ついに不世出の剣聖・新陰流祖上泉武蔵守信綱は、相模小田原でその前半生は波乱に明け暮れた上州の一小領主として、後半生は高名な武芸者としての生涯を閉じた。享年75歳であった(一説に天正五年正月十六日、70歳で死去ともいう)。
彼は地上から消えたが、その流派新陰流は実に多士済々の剣豪を輩出、数多の派生流派を誕生させ、その道統は現在に至るまでなお生き続けている。
弟子たちのその後
ところで、神後伊豆や疋田文五郎はその後どういう生涯を送ったのであろうか。簡単に付記しておくことにする。
神後伊豆守宗治
彼の没年時ははっきりしていない。一時関白豊臣秀次の兵法師範を務めたのは確かであるが、その後尾張徳川家に仕えたとも、出羽秋田佐竹家に仕えたともいう。
疋田文五郎景兼
彼は信綱と別れた後、丹後宮津の細川幽斎、次いで幽斎の子で豊前中津に転封された忠興に仕えた。その後肥前唐津の寺沢広高を経て、豊臣秀頼の大坂城で彼は終焉を迎える。慶長十(1605)年9月30日歿。享年79歳という。  
 
上泉信綱 3

 

「人は天地の塵ぞ。塵なればこそのいのちを思いきわめ、塵なればこその重さを知れ。 塵となりつくして天地に呼吸せよ。」 池波正太郎「剣の天地」より
上泉信綱は上野国に、大胡城主・秀継の次男として生を受けたとされています。幼名を秀長と言い、その後秀綱と改めました。そして、長男が夭折したため、信綱が家督を継ぐこととなりました。
箕輪城主である長野家の家老であり、新陰流を創った人物で、剣豪としてはとても有名で『剣聖』とも言われています。武蔵野の武士としてのしきたりとして『念流』を教わり、その後常陸の鹿島に行き、十代にして天真正伝香取神道流を収めました。愛洲久忠が創始した『陰流』を収め、二十歳を過ぎて、久忠の子である宗通より『陰流』の秘術を与えられたと言われています。
信綱の『陰流』においての師匠というのは、愛洲久忠であるか、久忠の子・宗通なのかという二つの説があります。その年には、伊勢守を名乗り上泉にとっての主な城である大胡城の主になりました。上泉家は関東管領であった上杉家に仕えています。しかし、上杉家も上杉憲政の代には勢いもなくなっていたため、上杉家に隣接している武田家や北条家の勢いが増してきました。
上杉憲政が北条氏康に攻められたのが1551年でした。上野平井城を翌年には出ていくことになり、越後にいた、後の上杉謙信に関東管領の職と上杉という姓を譲渡し、守ってもらったのでした。
上杉謙信は、攻められた領地を取り返すために関東へと兵を出しました。上杉氏と北条氏の戦に、さらに武田家も加わったので、混乱を極めます。信綱の上野国の辺りも戦争の渦の中に入っていきました。
憲政がいなくなってからも、上杉家の家来たちは、上杉家再興のために北条・武田の軍と戦い続けました。その真ん中に立ったのが、上野の箕輪城城主・長野業正だったのです。
その戦では、信綱も長野家や上杉家の軍勢として北条や武田と戦って戦功をあげました。このことで、『長野家一六本の槍』や『上野国一本槍』といった感状を受けています。
業正が亡くなって息子が継いだ後は、信綱も懸命に戦うも、ついに箕輪城は落ちました。城を去ったのち、信綱は武田信玄と会います。その際に、信玄は信綱を良い条件で雇い入れるという話しをしたのですが、「修行の旅をしながら新陰流を広めたい」という事をいって、信綱は断ります。さらに、この時には信玄の“信”の字をいただいて、『信綱』という名に改めたのでした。
旅先の伊勢では、北畠具教と知り合い、宝蔵院胤栄や柳生宗厳に引き合わせてくれたのでした。彼らと立ち会うと、信綱には及びませんでした。信綱の没年に関しても定かではありませんが、1577年に柳生の地で亡くなったとされています。
上泉信綱の弟子たち
疋田景兼、神後宗治、奥山公重、丸目長恵、柳生宗厳、松田清栄、野中成常、駒川国吉など、多くの弟子たちから様々な流派が生まれ、400年経った今でも受け継がれています。  

上泉伊勢守信綱 4

 

新陰流 上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)
日本の戦国時代の多くの著名の流派(柳生新陰流・宝蔵院・タイ捨流など)の元となった剣豪です。
関東上野の国(群馬県)に生まれた戦国時代の武将であり、兵法者だった上泉信綱は「無刀取り」の考えを編み出したり、「袋竹刀」を発明したり、剣の神様と言われる「剣聖」の称号をほしいままにした男でした。
「新陰流」上泉信綱は柳生新陰流の師匠
江戸時代、徳川将軍家の剣術指南役を仰せつかったのは柳生新陰流でした。そして柳生新陰流の創始者、柳生石舟斎の師匠はなんと上泉信綱なのです!そのエピソードをご紹介しましょう。
柳生石舟斎との出会い
当時33歳の血気にはやる剣豪だった柳生石舟斎は、奈良の宝蔵院で、55歳の上泉信綱に試合を申し込みます。「俺が倒してやるぜ!」と意気込む石舟斎でしたが、信綱どころか、弟子の疋田にも勝てず、3日間を費やしますが勝てず、己の未熟さを痛感します。「つ、強い!」そして上泉信綱の弟子に入門することになるのです。
「無刀取り」
その後、師匠の上泉信綱は弟子の柳生石舟斎に「無刀取り」の極意を授け、石舟斎は見事「無刀取り」を完成させます。この「無刀取り」は石舟斎が徳川家康の前で披露して、それがきっかけで将軍家剣術指南役になっていくのでした。
無刀取りとは刀を使わず(持っていないときでも)に刀を持っている相手に勝つという剣術のことです。
二つの意味があり、一つ目は文字通り刀を持つ相手に素手でも刀を奪う技術のこと(柔術に近い)。真剣白刃取りはこの分類。二つ目は相手を油断させて相手の懐に潜り込み刀を奪うといった心理戦に近い技。上泉信綱は、剣豪将軍足利義輝から、会話の流れの中から将軍の刀を奪うことに成功しています。
新陰流の真の極意とは?
これまで見たように、戦いの勝ち方としては、相手をめった切りにして、完全制圧するやり方ではなく、あくまで、最小限の労力で出来れば、命を落とさずに、血を流さずに勝ち切る!といえるでしょう!新当流の塚原卜伝に似ていますが、「活人剣」(人を活かす剣)です!人を活かす極意があったからこそ、コ川300年、その後、明治大正昭和平成と受け継がれる事ができたんだと思います!
足利義輝から「兵法者天下一」と!
上泉信綱は、足利義輝将軍(剣豪将軍)の前で剣術を披露し、「兵法者天下一」の感状を受けたことがあります。この披露の際、打太刀(倒れる役)を勤めたのが、弟子で後タイ捨流を創始する丸目長恵です。将軍家になにか縁があるのでしょう。新陰流とは、帝王に必要な要素を持ち合わせていた「剣」だと言えますね!
ちなみにコ川家剣術指南役はもう一つの流派も存在しました。小野派一刀流です。創始者は伊藤一刀斎。幕末に坂本龍馬も学び、千葉周作が開いた北辰一刀流につながる流派です。
小野派一刀流は、将軍家に柳生新陰流ほど、重用されませんでした。剣の強さだけを見れば小野派一刀流は相当の強さを誇るのですが、相手を倒すこと専門の剣。そして稽古用の剣は真剣。剣の哲学なども総合的に見ると、平和な江戸時代では、柳生新陰流に軍配が上がるのでしょう。
新陰流誕生まで
上泉信綱は1508年、上州(群馬県)の上泉城に生まれます。隣の国鹿島に生まれたもうひとりの「剣聖」塚原卜伝の19年後ですね。
そして、兵法三大源流と呼ばれる「念流、神道流、陰流」を学び、特に陰流から奇妙を抽出し「新陰流」を創始します。
師匠は神道流は松本備前守(塚原卜伝と同じ師匠)に学び、陰流は始祖愛州移香斎に学び、生まれ持った才能も活かしながらかなり厳しい修行を行い新陰流を編み出します。
塚原卜伝のように、お告げがあったわけではなさそうですが、相当な鍛錬をされていたと見受けられます。
武将としての上泉信綱
上州の国の上泉城でその領地を治めていた信綱(当時は秀綱)は、若かりし頃は、むしろ武将として活躍をしていました。西上野国を治めていた、箕輪城主である名将、長野業政のもと「上野国一本槍」と言われるほど活躍をしていましたが、業正の死後、武田信玄の猛攻に破れ、主君の長野家は滅亡します。
「剣を持ってしても勝てぬか!」
秀綱から信綱へ
長野氏との戦いを通じて、上泉の活躍を知った武田信玄は、どうにかして上泉を部下にしようと三顧の礼を施しましたが、上泉は「自ら編み出した剣「新陰流」を全国に広めたい!」と断り、剣術を広めるたびに出るのです。その時武田信玄の「信」の字をもらい、「上泉信綱」と改名しています。
諸国へ剣術指南
この楽しい旅の途中に様々な人々と出会っていきます。上泉信綱50代の頃です。まず、後の武田信玄の軍師となる山本勘助と会い弟子の疋田が勘助を退けます!(時代的に無理がありますので、(すでに勘助が死んでいる年?)創作と言われていますが、対面があったらワクワクします!
その後、もうひとりの「剣聖」塚原卜伝から奥義「一之太刀」を授けられた伊勢の国司、北畠具教の「太の御所」に立ち寄ります。その御所には当時たくさんの武辺者が集まっていて、そこで、柳生石舟斎を上泉信綱は知ることになるのです!
場所を法相宗の大本山、宝蔵院に移し柳生石舟斎と対決をします。結果は前述の通り、上泉信綱の圧勝。さらに宝蔵院の武辺僧侶で槍の使い手の宝蔵院胤栄も破ります。此のことで、二人の当時すでに有名だった名手を破り、弟子にしたことで、上泉信綱の名が知れ渡ります。
天皇の前で天覧演舞
さらに上泉信綱は天皇の御前で演舞を行い、感嘆された天皇から御前机を拝領します。そして足利将軍からは「天下一」の感状を貰うなど、確実に自分の剣の名を売りまくっていますね!
晩年
最終的に旅の成果として、柳生石舟斎、宝蔵院胤栄、丸目長恵、香坂要、疋田昌兼に免状を渡したとされています!その後、関東の結城家(秀忠の次男結城秀康が婿に行った家。)への紹介状が当時一級の文化人「山科言継」から出され、京都を去り、関東へ向かいます。足跡はそこで途絶えます。
上泉信綱の逸話
袋竹刀
剣術の稽古と言えば、木刀が主流でした。しかし、木刀では、気をつけても死傷者が出てしまいます。そこで、竹を割ってそれを束ねて作った「袋竹刀」というものを開発します。これにより、稽古による怪我や事故がなくなりました。今の剣道で使用する「竹刀」の原型です。
七人の侍のモデル
映画「七人の侍」に出てくるエピソードのモデルになったお話です。そのお話はこうです。
ある村に荒くれ者がいて、村の子供を人質に小屋に立てこもりました。そんな状況に信綱は遭遇します。
さあ、見て見ぬふりはできないと、一策を講じます。
これはかつて武田信玄と戦った戦を思い出すなあって思ったかどうかはわかりませんが、とにかく、「無刀取り」の精神でなんとか解決しようと立ち上がります。
身なりを僧侶の出で立ちの袈裟に着替え、食料(おにぎり)を持って荒くれ者に話しかけます。「子供もお前さんもお腹空いてきているんじゃないか?まずはおにぎりを持ってきたから食べな!」って感じで促してみました。
すると、荒くれ者は素直に食料を受け取りに出てきました。そこを信綱、きっちりと抑えて、誰一人として怪我や死人出さずに子供を助け、荒くれ者を捕まえることができたのです。

多くの剣豪、流派を世に送り出し、「無刀取り」という奥義を編み出し、袋竹刀を開発し、日本の剣術の発展に多大な影響を与えた人だったことがよーく分かりました。映画のモデルになったことも影響力の大きさを表しています。「剣聖」そして伝説へ!  
 
『言継卿記』に見える上泉信綱 5

 

戦国期の兵法者の伝記があいまいなのは、史料不足による。多くは後世に作られた伝説を書き留めたような代物しかない。その中で、上泉信綱だけは、同時代人である山科言継の日記の中に三十回以上登場するという、きわめて恵まれた存在である。しかしながら、これまで必ずしも十分にこれを読み解いてはいないように思われる。私もまた完全にそれを出来るような能力がある訳ではないが、信綱の伝記研究のためのノートを作成してみようと思う。
『言継卿記』に上泉信綱が(多くは大胡武蔵守の名で)登場する三十二日分は『前橋市史』が網羅している(第1巻九七六〜八頁)が、以下その箇所を刊本(国書刊行会版第四巻)と照合し、以後の引用のための記号を付けておく(例えば永禄十二年正月十五日条はA1のようである)。
「 永禄十二年(A) 1正月十五日(三〇二頁) 2十六日(三〇三頁) 3二月二日(三〇七頁) 4四月二十八日(三二九頁) 5二十九日(同) 6五月七日(三三一頁)7十一日(三三二頁) 8十五日(同)
永禄十三年=元亀元年(B) 1正月五日(三七四頁) 2五月二十三日(四一七頁)3二十六日(四一八頁) 4六月二十六日(四二五頁) 5二十八日(四二六頁) 6七月七日(四二八頁) 7九日(四二九頁) 8十五日(四三一頁) 9十七日(同) 10十九日(四三二頁) 11八月十日(四三七頁) 12十八日(四三八頁) 13十九日(四三九頁) 14二十日(同) 15二十一日(同) 16十月十七日(四五二頁) 17二十二日(四五三頁) 18十一月三日(四五六頁) 19二十四日(四五九頁)
元亀二年(C)1正月二日(四六八頁) 2三月三日(四八二頁) 3九日(四八三頁)4七月三日(五〇八頁) 5二十一日(五一四頁) 」
この三十二回の内には単に「来談」したとか「礼者」の一人として挙げられているような箇所もある(A7・8、B1・4・6・7・8・9・15・16・19、C1)が、そうした箇所も信綱の動向を知る上で重要な手掛かりになるであろう。
1 出会い
言継の日記にはじめて「大胡武蔵守」の名が登場するのは、永禄十二年正月十五日である。但し、この時には本人は姿を見せない。耆婆宮内大輔が持込んできた平野神社の騒動、神主卜部兼興を子の長松丸が訴えた事件で、長松丸の訴状に添え状を認めたのが「叔母舅」である大胡武蔵守だった。平野神社の騒動の内容はあまりよくわからない。長松丸の訴状では「父卜兼興犯気時之儀、社頭如無之間、可有改易」との趣旨だった(A1)。「犯」は「狂」の誤りかとも考えられるが(刊本の校訂者)、兼興も後に復権しているようだから(元亀二年十一月二日条)それほど重い意味でなく、「気に入らないと社務を放棄する」程度、気に入らないことがあって髪を剃ってしまった(剃髪の事実は二十一日の項にある)ことを言っているのかも知れない。ともかくも父は不適格なので交代させてほしいという子の言い分である。言継は翌日に大典侍局に訴状・添え状の披露を依頼し(A2)、二十一日には回答を得ている。それによれば「兼興曲事之段、非一事之条、可改易」と訴えの趣旨は認められたが、長松丸についても「父髪そる之間、神職に如何」と思われるので「尚以御思案可被仰出」ということだったので、言継は先例もあろうから吉田(兼右)にお尋ねになるように、と申し入れている。
そんな経緯でこの騒動が無事おさまり、二月二日には長松丸が耆婆宮内大輔・大胡武蔵守とともに挨拶に来て、言継は三人と同道して吉田兼右を訪ねている(A3)。どうやら信綱と言継はこれが初対面であるらしい。もちろん、これ以前の日記に名が見えないというだけでそう考えている訳ではない。四月になってまた吉田方へ同道してほしいと考えた信綱は、耆婆宮内大輔を通じて内々願っている(A4)。身分の違いはともかくも、親しく付き合ってからなら、直接頼むであろう。そうしなかった点から、この時点では両者はさほど親しくなかったことを推測するのである。幸か不幸か、四月二十八日に兼右は不在(A4)、翌日も同道するが不在(A5)、五月七日に出かけた時もいなかった(A6)が、こうして何度も供をしているうちに親しみがわいてきたものと思われる。五月七日には兼右不在を知ったあと、上乗院から知恩院へと連れまわるまでになっている。
「来談」の記事が見られるのはその後(A7・8)。もちろん対等な友人関係ではないが、大して用事がなくてもやって来るだけの親しさが生じたのであろう。
2 軍敗伝授と四品勅許
永禄十二年五月十六日から翌元亀元年五月二十二日までの一年間、『言継卿記』に信綱の記事は、年頭のあいさつに来たというだけの一箇所しかない(B1)。この間信綱が何をしていたかは不明である。そして五月二十三日、いきなり重要な記事になる(B2)。
「 上泉武蔵守信綱来。軍敗取向総捲等、令相伝之。勧一盞。中御門・雲松軒相伴了。一巻写之。又調子占一巻写之。各将棋双六等有之。 」
これによれば、山科言継は軍敗(軍配)を上泉信綱から伝授されている。軍配とは戦陣における占呪の術で、のちの兵学の母体になるものである(小和田哲男『軍師・参謀』など参照)。岡本半助宣就が信綱の子秀胤(または孫の義郷)から受け継いでその系統が後世に伝えられたと言うが、信綱以降の話の真偽はこの際措いておこう。当面重要なのはそのような占呪の術を信綱が言継に伝えたということである。五月二十六日にも言継と息子の言経(『言継卿記』には倉部と書かれている)が伝授を受けている(B3)。  そして、一月ほどの空白を経て六月二十六日に来談した(B4)信綱は、翌々日には「四品勅許忝」いと言継に語っている。この間六月二十七日に従四位下に叙せられたということで、信綱伝の中でも最も重要な出来事である。しかしながら、これを正親町天皇に剣技を披露して云々というのは、どうも信用できない。というのは、後述する言継から結城晴朝にあてた紹介状(C5)には「公方以下悉兵法軍敗被相伝」とはあるが、天覧のことには触れられていない。もし事実があれば、きっと書いたと思うのである。もちろんなかったのだと断定はできないが、怪しいと思っていたほうがよかろう。
また、この叙位を山科言継の尽力によるとするのも如何か。事実としてそういうことがあれば、やはり日記の中から伺えそうに思われるが、そういう記事はない。もちろん大納言である言継がなんら関係しなかったとも思われないが、特別な関与はなく、なればこそ信綱も特別に謝礼の品々など持参せず(平野神社一件では錫を持って礼に来たことが書かれている…A3)、会話の中で触れたにとどまったのであろう。むしろ上の紹介状に見えるように、在京中の信綱の業績の最大のものが「公方以下」に「兵法軍敗」を伝授したことだとすれば、足利義昭あたりから話は出たと考えた方が自然であろう。室町幕府の先例として、弓馬の師範を勤めた小笠原氏が将軍の近臣だったこと(二木謙一『中世武家儀礼の研究』一九六頁)を思えば、義昭が信綱を側近として待遇しようとしても不思議はない。それに大館氏の所伝では(必ずしも事実といえないとしても)近習の中でも申次衆には四品になっているものがあり(大館尚氏「長享二年以来申次記」)、信綱の叙位がその例に倣ったものと考えられる。
仮定の上に仮定を重ねるようだが、可能性の指摘という意味で付言しておく。信綱の叙位があったとされる六月二十七日は、姉川合戦の当日である。まさに当日になったのは偶然としても、その時期を狙っているのには意味がないだろうか。すでに信長と義昭の間には不協和音が聞こえている。義昭が自分の直属家臣団の強化を目指し、信長が多忙で細かいことを気にしていられない時に行動を起こしたと考えるのは如何…。あくまでも可能性の問題ではある。
3 兵法披露
四位になった信綱は、七月中には五回も来談している(B6〜10)。特に最後の七月十九日には二人の公家に調子占まで教えている。意外なことに、ここまで剣術に関する記事は一度もない。『言継卿記』中、信綱が「兵法」=剣術をしたという記録はこの年の八月に二回あるだけである。しかも、いずれも京の町中ではなかった。
ともかくも、その二回を見てみよう。元亀元年八月五日、明後日勅使とともに比叡山に登るように、と烏丸光宣の使者が伝えて来た。老齢といい、供の不足といい、一度は断るものの、重ねての使者に登山を決意する。七日に登山して、十日に下山することになるのだが、その最終日、言継は梨本宮門跡へ暇乞いに訪れた。そこへ、千秋刑部少輔と大胡武蔵守が参り「へいはう被御覧了」(B11)というのである。千秋は幕府奉公衆の家柄らしく、一説には塚原卜伝の門人(諸田政治『剣聖上泉信綱詳伝』)という。この二人がなぜここに現われたかは分らないが、後述の真珠院のケースから考えれば言継が連れていった可能性もありそうではある。
二回目は、太秦の真珠院でのことになる。八月十六日、月見の宴のために太秦真珠院にでかけた言継は二晩泊った。十八日には大勢客がやってきて、その中には千秋刑部少輔・大胡武蔵守・鈴木(これは信綱門人の神後伊豆守の変名鈴木意伯だという…諸田前掲書)らがいた(B12)。大勢を引き連れて葉室へでかけた言継、その晩は葉室に泊り、翌日帰京するがその途中でもう一度真珠院に立ち寄った。そこで「千秋、大胡、鈴木等兵法有之、各見物了」(B13)というのである。
もちろんこの二回以外に剣術の実演をしなかったとは言えない。たまたま言継が記録をしたのがここだけだったというだけの事かも知れない。しかし、上述の義昭と信長の不協和を考えると、姉川合戦後の比叡山にキナ臭いものを感じないでもない。いずれにしても、結論を出すには材料が不足している。
4 信綱の身辺と帰郷
その後元亀元年中の記事からはあまり知れるところがない。十月二十二日には山城の一揆に際して奉公衆や木下秀吉が出陣したことを語っている(B17)。両者に直接関係ない談話の内容が知られるのはここだけであるが、政治問題にも話題が及ぶような交際であったことは確認できる。十一月三日には信綱が転宿したことが告げられているが(B18)、具体的な宿所はわからない(諸田前掲書は西福寺としている)。
年改まって、元亀二年になると信綱の身辺も少し慌ただしくなってきたようである。正月二日には年始に来たようだが(C1)、三月には二度にわたって薬を貰っている(C23)。その時の話で「近日在国」する予定だ(C2)ということだったが、七月二日には大和から再上洛している(C4)ところから見れば、その「国」とは大和であったらしい。この時点で信綱が拠点としているのは柳生但馬守宗厳(石舟斎)の所である。しかし、その大和が不穏なのだ。大和を支配していたのは松永弾正久秀であるが、この時期に武田信玄に通じた久秀は信長を裏切って、宿敵・三好三人衆と協同した。義昭はまだ態度を鮮明にしてはいないが、実質的には反信長の盟主であろう。松永と三好一族、そして筒井氏と柳生宗厳の関係があまりはっきりしないが、ともかくも複雑な様相になっていったことは間違いない。信綱が七月二十一日に関東にもどるために言継に別れを告げに来る(C5)のは、そのような状況下でのことである。政治的なごたごたに巻き込まれるのを避けたと見るべきであろう。
言継は別れに臨んで親王筆の短冊二枚を与えている。さらに、信綱の乞いに応じて「下野国結城方」への書状を渡した。これは引用しておこう。
「 雖未申通候、幸便之間令啓候。仍上泉武蔵守被上洛、公方以下悉兵法軍敗被相伝、無比類発名之事候。又貴殿拙者同流一家之儀候間、無御等閑候者可満足候。尚委曲武州可有演説候也。恐々謹言。
七月二十二日                    言継裏判
結城殿 」
手紙の相手の結城晴朝はいうまでもなく関東下総の名族である。京都における信綱の活躍はこの手紙に詳しい。が、重要なことはそれだけではない。関東は信綱の出身地である。言継よりもはるかに豊富な人脈があってもよさそうなのに、信綱はこの紹介状をねだっているのだ。つまり、この当時信綱は関東に戻っても身のおきどころのない状態だったのであり、それにも拘らず京都を去らねばならぬほどの情勢だったのだ。
その後の信綱の消息は知られていない。
 
『言継卿記』 (ときつぐきょうき)
戦国期の公家、山科言継の日記。1527年(大永7年)から1576年(天正4年)の50年に渡って書かれているが、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能、戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料。一年分をまとめて冊子にして、表紙の扉の表には甲子・土用入など注意を要する日付を列記し、扉の裏には天皇の年齢と「御哀日」、自身の家族の年齢と「衰日」を列記している。なお山科言継は上泉信綱と親しく来訪の記録がある。また、言継は医療にも精通しており、彼自身が治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も残されており、現存する日本で最古のまとまった診療録であるとも言われている。
山科言継 (やましなときつぐ)
戦国時代の公卿。権大納言・山科言綱の子。官位は正二位・権大納言、贈従一位。現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
山科家は藤原北家四条家の分家であり、羽林家の家格であったが戦国期には他の公家と同様不振の時代を迎えていた。天文17年(1548年)には室町幕府によって代々の家領であった山科荘が事実上横領される(天文17年5月25日)という事態に遭遇している。そのような時代の中で言継は家業である有職故実や笙、製薬のみならず、和歌(三条西公条の門下)、蹴鞠から漢方医学や酒宴、双六などの多彩な才能の持ち主であった。だが、彼の持った最大の特技は「人脈作り」であった。
言継は山科言綱の子であると言っても正室(中御門宣胤の子)ではなく、女嬬(宮中に仕える身分の低い女性)の生んだ子が唯一の男子と言うことで後継ぎに立てられた経緯の持ち主で、阿末(下級女房)の世界を知って育ってきたことが、彼の人物形成(幅広い人脈形成や朝廷の庶務への関心)につながった可能性がある。
朝廷の財政の最高責任者である内蔵頭として、後奈良・正親町両天皇下で逼迫した財政の建て直しを図ることになる。当時の朝廷財政の収入の中で最大のものは諸大名からの献金であった。言継はその献金獲得のために各地を奔走することになった。
既に天文2年(1533年)に歌舞音曲を扱う楽奉行として、尾張国の織田信秀を訪問して、信秀や平手政秀以下の家臣団に和歌や蹴鞠の伝授を行って人脈を深め、後に天皇の即位式に対する信秀からの献金獲得の基盤作りを行った。弘治2年(1556年)には義理の叔母にあたる寿桂尼・今川義元親子を訪ねて駿河国を訪問し、献金の確約を得た。永禄9年(1566年)には結城氏重臣の水谷正村に働きかけて禁裏御料所回復に成功し、その謝礼に正村の従五位下・伊勢守への任官を推挙している。
天文17年(1548年)、室町幕府13代将軍・足利義輝が言継の家領である山科郷を押領する事件が発生し、言継は当時義輝の伯父として近江坂本にて後見にあたっていた前関白・近衛稙家に善処を求め、稙家の計らいで命令が取り消され、言継は坂本を訪れて稙家夫妻及び慶寿院(稙家妹・義輝生母)に薬を献上し、2年後には朝廷から幕府に対して山科家領の年貢納入の阻止を禁じる女房奉書が発給されている(『言継卿記』天文21年10月3日条)。
医業を内職としており、近隣の庶民から依頼を受けると診療を行い、内服薬や火傷の塗薬を調合して与えている。室町の小山という薬種屋から麝香・竜脳・蜜などを購入し、二条の茜屋からは茜の根を買いいれている。言継邸には中国人の薬売りも訪れていた。 このように医療に携わっていたが、天文22年(1553年)9月に言継の四人の子どものうち、阿子という子どもが食中毒にかかった時に、自らはなんの手当てもせずに、専門の医師に頼っていることから、言継の医師としての知識はそんなに専門的ではなかったといえる。
永禄の変後には、室町幕府14代将軍・足利義栄の将軍宣下の使者となるが、その当日に義栄の対抗馬である足利義昭からも正式な元服の実施と官位昇進要請の使者が来るという事件があったが、言継はこの事態に困惑しつつも臆せずこの要請を受ける返事をした後に仕度をして義栄のいる摂津国に向かっている(なお、昇進要請はその後却下され、元服の方も義昭が独自に行っている)。後に義昭が織田信長に擁されて上洛した際に、義昭は前将軍義栄就任の責任者の処分を朝廷に要求した。言継は使者を務めた自分がその一番の責任者に挙げられると考えて自宅に謹慎していたものの、義昭からは先の仲介を理由に不問とされ、代わりに将軍宣下の儀の手伝いを要請され、信長の家臣・村井貞勝らに装束に関する指導を行っている。
晩年には山科家では初めて権大納言(1569年)に昇進し、織田信長との交渉役としても活躍した。信長もこの年に二条城築城視察の帰りに山科邸を訪問している。
著書としては自撰歌集『言継卿集』(『拾翠愚草抄』(1527年 - 1541年)と『権大納言言継卿集』(1562年 - 1574年)から成り立つ)と日記『言継卿記』がある。特に後者は大永7年(1527年)から天正4年(1576年)にかけての50年の長期にわたって記されており、当時の公家や戦国大名たちや上泉信綱などの動向が詳細に記されているだけでなく、彼自身が治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も残されており、現存する日本で最古のまとまった診療録であるとも言われている。
死後300年以上経た大正4年(1915年)11月に、朝廷の財政と対外交渉にあたって朝廷の存続に尽くした功績をもって従一位という破格の贈位が行われた。  
 
上泉伊勢守信綱 6

 

「剣聖」と呼ばれる新陰流を興した関東(上野国)の武人
現代につながる流派の祖
上泉伊勢守信綱(かみいずみ・いせのかみ・のぶつな)は黒澤明監督の「七人の侍」の島田勘兵衛のモデルとして知られる。有名な逸話が映画で使われている。
諸国遍歴の旅の途中。立ち寄った尾張の村で、浪人が子供を人質に民家に立て籠もった。それを見た上泉伊勢守信綱は、頭を剃り、袈裟を借り、僧侶の格好をした。そして、相手を油断させて、一瞬の隙を見て子供を助け出した。(尾張一の宮の妙興寺の門前だったという説もあるようだ。)
この逸話だけでは「剣聖」と呼ばれた理由が分からないが、とにかく弟子がすごい。錚々たる剣豪が上泉伊勢守信綱を師と仰いでいる。そして、上泉伊勢守信綱を祖とする「新陰流」は現代につながる流派として、受け継がれていく。
略歴
生誕
生没年は不詳である。戦国時代の武人。永正5年(1508年)頃 – 天正5年(1577年)頃。(没年は天正元年(1573年)や天正10年(1582年)などの説もある)
読みは「かみいずみ」または「こういずみ」。居城のあった前橋市上泉町は「かみいずみ」。「言継卿記」には大胡武蔵守または上泉武蔵守信綱で出ている。伊勢守は通称で、正親町天皇(おおぎまちてんのう)からの受領名は武蔵守。
永正5年(1508年)頃。上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の上泉もしくは上泉城で生まれたとされる。
通説では父は大胡城主・大胡武蔵守秀継。大胡氏の出で、上泉は通称ということになる。
大胡氏は藤原秀郷を祖とする家柄。藤原秀郷は平将門を討伐した武将として知られ、秀郷の子孫は部門の家柄として栄えた。秀郷流の家柄は、清和源氏、桓武平氏の流れと同じく武門の名門に連なることになる。
ただし、上泉家伝来の系譜では父は上泉武蔵守義綱とされ、一色氏の一族が大胡氏の名跡を継ぎ、上泉氏の祖となったと伝えられる。祖父は時秀。祖父、父共に武芸を好んでいた。父の代に、陰流の愛洲移香斎が上泉城に立ち寄ったと伝わっている。また、父は常陸の鹿島で松本備前守政信の指導を受けたらしい。
名は秀長⇒秀綱⇒信綱(永禄8年または9年から)。また、伊勢守⇒武蔵守と変わっていったようだ。
幼少のころのことは分かっていないらしい。
剣術修行
十代の前半から半ばころに兵法修のため、鹿島(現在の茨城県)に行っている。永正17年(1520年)13歳の時という。修行は鹿島と、その近くの香取(現在の千葉県)で行った。
現在の群馬県の前橋から、茨城県の鹿島、千葉県の香取は遠い。
どのような旅をしたのかわからないが、旧道を通ったのだとしたら、栃木県の南部までは東山道で行き、そこから茨城へ抜ける道を歩いていったのだろうか。
また、鹿島と香取は地図上では近いが、間には利根川があり、ちょうど川幅が広くなっているところのため、簡単な往来ができるところでもない。
実際に見に行ってみると、上泉信綱がいかに大変な修行をしたのかが分かる気がする。
さて、これ以前から鹿島及び近くの香取は兵法が盛んだったようだ。鹿島には塚原卜伝が、香取には飯篠長威斉家直がいる。
流派
上泉信綱は陰流、神道流、念流を学んだとされる。
修行の地の一つである香取といえば、天真正伝香取神道流(通称:神道流)が有名である。飯篠長威斎家直が興した流派で、上泉信綱の時代は飯篠長威斎家直の高弟・松本備前守政信が存命だった。この松本備前守に師事したとされている。他の説としては松本尚勝に師事したというのもあるようだ。
松本備前守政信から「鹿島の太刀」を学び、4年後に、松本備前守政信が鹿島家の内紛で戦死する前に、天真正伝香取神道流の奥義を授かった。
塚原卜伝に教わった可能性もあるが、不明。また、他に念流を学んだとされるが、誰に学んだのかが分かっていない。念流は念阿弥慈恩を流祖とする。念阿弥慈恩は福島出身とされ、東国(=関東)に良い弟子がいたようなので、その流れで学んだのだろうか。
陰流は愛洲移香斎(久忠)から学んだという。鹿島から日向(宮崎)の鵜戸神宮に愛洲移香斎を訪ねて弟子入りしたという。晩年、愛洲移香斎は鵜戸神宮の神職を務めていたといわれている。愛洲移香斎は伊勢(現在の三重)出身とされ、西国方面での足跡がある。本当に九州まで行ったのかは不明である。
一説には、移香斎の子・愛洲元香斎小七郎(猿飛陰流)に学んだという。いずれにしても陰流の直系から学んだようだ。ちなみに、上泉信綱の弟子・疋田豊五郎によると、愛洲元香斎から学んだことになっている。
のちに、上泉信綱が興した流派が新陰流と呼ばれるようになるので、陰流の影響が大きいのは間違いない。24歳の時に奥義を授かっている。愛洲移香斎に教えを受けたとしたら、80歳を超える老齢だったと思われる。
こうした兵法修行がどれくらい続いたのか、連続だったのか、断続的だったのかすらわからないが、一定の区切りをつけて戻っている。
「中古、念流、新当流またまた陰流あり、その他は計るに耐えず。予は諸流の奥義を究め、陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す」
武将として
時代が飛ぶ。故郷に戻ったあと、大胡城主となり、長野業正に使えている。
天文24年(1555年)。上泉信綱は40代になっている。この年に北条氏康の大胡城攻撃に会い開城したとされる。その後、上泉の地に蟄居したという。
また、弘治3年(1557)武田軍が長野氏の箕輪城を攻めた際は、長野氏側の将として「上泉伊勢守」の名がある。前述との期間がさほどないが、蟄居が解けたのだろうか。
上泉信綱は長野業正と子・長野業盛に仕えた。当時、西には武田信玄、南には北条氏康がいるという、ある意味最悪の状況だったが、長野業正は奮戦した。
上泉信綱は長野の16人の槍と称えられ、安中城主の安中広盛を一騎打ちで討ち取り、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらっている。
だが、長野業正死後の永禄9年(1566)に武田信玄の猛攻にあい、箕輪が落城。長野家はついに滅ぶ。
滅ぶ際に、武田信玄は上泉信綱を臣下に加えようとしたが、上泉信綱は仕官を断った。
これまでに修行してきた剣術に磨きをかけ、「新陰流」を打ち立てていたので、これを機に兵法修行をしたいと言って、諸国遍歴の旅に出ることになった。
惜しんだ武田信玄は、諱(信玄の諱は晴信)の一部を与えて、この時に信綱になったという逸話がある。
もしくは、他家へ仕官しないことを条件に諸国遍歴をゆるし、諱を与えたともいう。名に晴信の「信」があれば、他家では遠慮するだろう、ということである。
ただ、上記の武田信玄との逸話は少々怪しいらしい。
というのも、上泉信綱は永禄7年(1564)には上洛したと考えられ、箕輪落城の永禄9年(1566)には西国に赴いている。
上泉信綱はこの時点では当主の座を息子に譲っていたのかもしれない。年齢的に何の不思議もない。嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続した。
剣術家として
仕官を断った上泉信綱は、諸国遍歴の旅に出る。出立は永禄6年(1563年)、60歳のころである。
おそらく、この時点で「新陰流」は出来上がっていたようだ。というのも、諸国遍歴には当初から弟子を連れているからである。
のちに、剣聖と謳われるようになるが、諸国遍歴の旅に出てからは逸話が多い。
多くの流派の祖とされ、後世の剣術界に多大な影響を与えた。様々な伝承も各流派に伝わっている。そうしたことの一つに、袋竹刀の発明が上泉信綱によるものというものだ。
諸国遍歴の旅には、神後伊豆守宗治(=鈴木意伯)、疋田文五郎景兼(虎伯)らの弟子と出立したようだ。
のちに、弟子となるのが、丸目蔵人佐長恵(タイ捨流)、奥山休賀斎公重(奥山新影流)で、上記2人と合わせて四天王と呼ばれているようだ。
他の有名な弟子(いやむしろこちらのほうが有名だと思うが)として、柳生宗厳、宝蔵院胤栄がいる。
旅の道程は分かっていない。逸話の類から外れないが、面白い逸話が多い。そして、最期の様子も分かっていない。謎に包まれた人生であった。
諸国遍歴の中で、剣豪大名として名高い北畠具教を訪ねている。北畠具教は塚原卜伝から「一の太刀」を許されている。ここでは、疋田文五郎景兼が北畠家の家臣と立ち合い、いずれも圧勝した。
その後、北畠具教の紹介で奈良の宝蔵院に向かった。ここで宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)が弟子になっている。宝蔵院胤栄は、興福寺の宝蔵院の主で、宝蔵院流槍術を創設した。十文字鎌槍を用いる流派だ。
宝蔵院胤栄が柳生宗厳を呼び寄せ、疋田文五郎景兼が相手したが、あっさり疋田文五郎景兼に負けたという。それでも柳生宗厳はめげずに、上泉伊勢守信綱との試合を臨み、3日間に3度試合が行われ、ことごとく負けたという。
この後、請われて柳生の里に向かったようで、柳生で3年間滞在したという。疋田文五郎景兼が柳生家に留まり、上泉信綱は諸国遍歴の旅を続けたとされる。
一説には、永禄7年(1564年)嫡子の秀胤が戦死したとの悲報を受け、柳生の里を離れたというが、これも時間軸が合わない。この辺りは不明だとしか言いようがない。
上洛もしている。旅の道程が分からないので、上洛は何回しているのかが分からない。早い時期の上洛時に丸目蔵人佐長恵を弟子としたようだ。
この丸目蔵人佐長恵とともに、永禄7年(1564)剣豪将軍・足利義輝に謁見し、感状をもらっている。嫡子・秀胤の戦死の悲報を受け、公卿の山科言継を頼ったあとの話とされる。
永禄8年(1565)には柳生の里に戻っている。この年に、柳生宗厳と宝蔵院胤栄に印可状を与えている。
この時の逸話になると思われるが、上泉信綱が再び柳生の里を訪れた時、柳生宗厳の兵法が上泉信綱を凌駕していたので、上泉信綱が柳生宗厳を師と呼んだという逸話があるが、柳生新陰流への権威づけのための作り話だろう。
元亀元年(1570)、正親町天皇の御前で剣術を披見している。正親町天皇から天下随一と称され、従四位下に叙任され「武蔵守」を賜っている。この時、足利義輝の時と同様に、丸目蔵人佐長恵と剣術披露を行った。
この後、山科言継に暇乞いし、故郷への上泉への帰国を決意したという。
晩年はわかっていない。
後北条氏に招かれ、天正10年小田原にて没したともいい、それよりも前の天正5年に大和の柳生谷で亡くなったともされる。
史料
永禄8年(1565年)4月。柳生宗厳に印可状(現・柳生延春所蔵)。同年8月付で、宝蔵院胤栄に印可状(現・柳生宗久所蔵)。
永禄10年(1567年)2月。丸目蔵人佐に目録と、同年5月に印可状。「上泉伊勢守藤原信綱」と記されている。
永禄12年1月15日 – 元亀2年7月21日。上洛期間。山科言継の日記「言継卿記」。
元亀2年7月21日。京を去り故郷へ向かった。
諸国遍歴時の逸話
諸国遍歴時の逸話として、疋田文五郎景兼(虎伯)とともに三河牛久保(愛知県豊川市)に訪れた際に、山本勘助と立ち合った。
立ち会ったのは疋田文五郎景兼で、最初は疋田文五郎景兼が勝ち、次に山本勘助が勝ったが、最初の敗戦だけを喧伝されたため、勘助は面目を失って牛久保の地を離れたという。
山本勘助は永禄四年(1561)に死亡しているとされ、時期が合わない。そもそも、山本勘助については、いわゆる軍師「山本勘助」の実在が怪しい。  
 
上泉信綱 (伊勢守) 7

 

1508年〜1577年
愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極める
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
家系
上泉氏は、赤城山麓大胡城の大胡氏(信濃下諏訪神社の社家金刺氏の分家、俵藤太秀郷とも)の一門で上野桂萱郷上泉を領し関東管領山内上杉氏に仕えた。室町幕府四職家(丹後・伊勢・志摩の守護)の一色義直が孫の義秀を遣わして親族の大胡家を再興したうえ、大胡城の西の備えに上泉城を築き義秀を留めて上泉姓を名乗らせたとも伝える。上泉義秀は中条流・念流・京八流を修めた剣豪で(応仁の乱で戦死)、嫡子の上泉時秀は常陸の飯篠長威斎家直に天真正伝香取神道流を習得、嫡子の上泉義綱は長威斎の高弟松本備前守のもとで剣技を磨いた。3代続いた上泉城の道場は飯篠道場と並ぶ東国兵法のメッカとなり、祖父時秀から伊勢守を襲名した4代目の上泉信綱は東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが、伊勢より来訪した愛洲移香斎久忠に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言して工夫研鑽を重ね新陰流へ発展させた。主君の長野業正が没すると上泉信綱は嫡子の秀胤に家督を譲り、長野業盛(業正の後嗣)を滅ぼした武田信玄に一旦出仕するが新陰流普及を志し出奔した。上泉秀胤は北条氏康に属して保身を図ったが国府台合戦で戦死、嫡子の上泉泰綱は豊臣秀吉の小田原征伐・北条氏滅亡で浪人し関ヶ原の戦い直前に上杉景勝に拾われ直江兼続に属したが慶長出羽合戦の長谷堂城の戦いで戦死、娘婿の上泉秀富(実父は上杉家重臣の志駄義秀)が家督を継ぎ剣豪上泉家は米沢藩士として命脈を保った。
交友
上泉時秀 / 上野上泉城主
上泉秀継 / 父・時秀嫡子
上泉秀胤 / 嫡子
上泉泰綱 / 上杉景勝に仕えた秀胤嫡子
愛洲移香斎久忠 / 陰流創始者
愛洲小七郎宗通 / 猿飛陰流を興した久忠嫡子
疋田景兼 / 上泉伊勢守門人で疋田流の祖
神後伊豆守宗治 / 上泉伊勢守門人で神後流の祖
丸目蔵人長恵 / 上泉伊勢守門人でタイ捨流の祖
奥山休賀斎公重 / 上泉伊勢守門人で神影流(真新陰流)の祖・徳川家康の師 
 
新陰流

 

1
今回は、剣術史において実質的に三大源流の一つとなる、新陰流しんかげりゅうが創始される話です。
剣術史上で新陰流がなぜ重要なのか。それは現在の剣道で使われている竹刀の原型となる、シナイ(現代では一般的に袋竹刀ふくろしないと言われる)を使うようになった最初の流派ということです。新陰流と創始者上泉信綱かみいずみのぶつな(この項では秀綱ひでつなと表記します)がいなければ、剣道も存在していないわけです。実際は、念流ねんりゅうも新當流しんとうりゅうも、どの流派も存在しないと剣道には至りませんけども、まぁ、おおざっぱに言えばそれくらい重要な流派ということです。
新陰流の創始者、上泉伊勢守秀綱かみいずみいせのかみひでつな(こういずみとも)、のちに武蔵守信綱むさしのかみのぶつなは、上野国の大胡おおご氏一族で上泉城主でした。(この項では秀綱と名乗っていた時代の記載が主ですので、以下秀綱と表記します。)
生年は不明のようですが、一般的に「正傳新陰流」にある、著者柳生厳長が推定した永正えいしょう5年(1508)とされる事が多いようです。秀綱は若年より兵法・軍学を学びました。江戸時代の記録では新当流を松本備前守に学んだとも塚原卜伝に学んだともされています※1。
新陰流伝書の一つ、燕飛えんぴの巻の序文に、
「上古流じょうこりゅう、中古念流ちゅうこのねんりゅう、新當流、またまたま陰流かげのりゅうあり」
とあるため、念流も学んだとされている事が多いようです。
これらの流派を修めたのち、陰流と出会い、陰流から「奇妙※2」を見出して新陰流を創始したとされています。また、学問や紙漉や薬学※3などにも堪能だったようです。新陰流の技の段階の一つ、三学さんがくは禅語より命名されているため、(当時のそれなりの位の武士としては珍しくないでしょうが)文学的素養もあったようです。
ちなみに、燕飛の巻の文章(上古流中古念流云々や懸待表裏など)は新當流の伝書の文章と酷似しているため、上泉秀綱が新當流を学んだというのは事実だと思われます。
では陰流を誰から学んだのでしょうか。
「正伝新陰流」では、14、5歳でまず新當流と念流を学び、その後鹿島住の陰流の開祖、愛洲移香あいすいこう(1452-1538)から陰流を学んだび、22歳で全て学び終えた、としています。秀綱が15歳頃から学んだとして移香は70歳ほどの頃でしょうか。ただ、秀綱の弟子で、甥とも言われている疋田豊五郎ひきたぶんごろうが残した伝書では、秀綱の師は移香の子、愛洲小七郎あいすこしちろうとなっています。
愛洲小七郎※4は愛洲移香の晩年、永正16年(1519)に生まれました。秀綱の生年を通説の永正5年(1508)年とすると、秀綱より10歳以上年下です。常識的に考えれば、剣聖と言われる上泉秀綱の師としては、やはり老齢の達人である愛洲移香の方がふさわしいと考えられるのでしょう。近年放送された上泉信綱のドラマでも、若い秀綱が老齢の愛洲移香より学んでいました。有名な「剣聖上泉信綱詳伝」や「正伝新陰流」などでは、小七郎の名が疋田系でしか見られない事から、傍流の伝承で事実ではなく、愛洲移香が師であるとしています。
では小七郎から学んだ場合はどうでしょうか。愛洲家子孫の平沢家に伝わった平沢家伝記によると、小七郎は兵法修行で関東に至り、弘治こうじ初年(1555年頃、36歳)に常州(茨城県)に住んだ。とあります。平沢家伝記によれば愛洲移香は関東へ移動した形跡が無いことから、小七郎は父移香が死んだ後に回国修行に出たのでしょう。小七郎が常州に住んだ頃、上泉秀綱は居城の上泉城が落城し、この後箕輪みのわ城の長野氏に仕える事になります。とすると、学んだ時期は2パターン考えられます。
1.関東回国修行中の小七郎に学んだ(小七郎20代、秀綱30代)
2.上泉城落城から箕輪城に仕えるまでの間(小七郎が常州に住居を定めた30歳頃。秀綱40歳頃。愛洲氏の研究家、中世古詳道なかせこしょうどう先生は上泉城落城後ではないかとしています。)
1と2、どちらにしろ秀綱は30代〜40代で、おそらく新當流と念流を学び、すでに一流の兵法家だったと思います。時代は数十年後になりますが、示現流じげんりゅう開祖東郷重位とうごうちゅういと善吉和尚ぜんきちおしょうとの話を思い出します。東郷重位は27歳、すでにタイ捨流しゃりゅうの使い手です。それに対して善吉和尚は23歳程でした。善吉和尚の剣技に感銘を受けた重位は、年齢差にも関わらず善吉和尚の弟子となりっています。現代でも一流の師範が他流に入門して、年下の師匠につく事はあります。その話のような雰囲気だったのではないでしょうか。
師匠が愛洲移香、小七郎のどちらだったのか、また、全く別の人物から学んだのか、実際のところはわかりません。あくまで私個人としての考えですけども、愛洲小七郎だったのではないか?という気がしています。
さきほど例にあげた燕飛えんぴの巻に次のようにあります。
「上古流じょうこのりゅう、中古念流ちゅうこのねんりゅう、新當流しんとうりゅう、またまた陰流かげのりゅうあり。その他は計るにたえず。予は諸流の奥源を究め、陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す」
つまり、諸流の奥源を究めたが、陰流から別の奇妙(優れたもの)を抽出したと言っています。10代の時に2、3年で諸流を学び、10代後半から20代前半に陰流の老達人に学んだ人物が書いた文章というより、既に成人した一流の兵法者が、陰流に出会ってそれまで学んだ流派に無かった奇妙を見出した、という話の方が通りが良いように感じます。(まぁあくまで印象論に過ぎません)
なんにしろ、陰流を学んだ上泉秀綱は、修行工夫を重ねて新陰流しんかげりゅうを創始することになります。上泉秀綱と新陰流が剣術・剣道の歴史でひときわ大きく名を遺した理由、それはシナイを作り出した事です。
シナイは撓・品柄・革刀などなど色々な字であらわされますが、よく撓しなる事からシナイと呼ばれるようになったそうです。竹の先を数〜十数片に途中まで割り、元は割らずにしておき、革や布の袋に入れて制作します。竹の割り方、袋の作り方など流派によって工夫されていて、柔らかくてよく撓るものから、分厚い竹を少し四つに割っただけの固いものまで、様々です。また、割った竹片を数本から十数本を袋に詰めて作るようなものもありました。このシナイの一種が現在剣道で使用されている竹刀です。剣道の竹刀が一般化したため、昔のシナイを現在では袋竹刀ふくろしないと呼ぶようになりました。
上泉秀綱がシナイを考案するまで、兵法(剣術)の稽古は木刀でおこなわれるのが普通でした。木刀は真剣や刃引はびきの刀で稽古するより安全とはいえ、固い木ですので、実際に打てば良くて打撲、悪くて骨折やそれ以上の怪我のおそれもあります。必然的に当てないか、軽く当てる稽古になりますし、怪我をせず本気で打ちあう事は出来ませんでした。永禄えいろくより以前の話となりますが、冨田流小太刀とだりゅうこだちの名人、冨田勢源とだせいげんの逸話に、試合の際に棒に袋をかぶせている例があるので、怪我させない工夫はさらに昔からあったと思われます。ですが、割竹に革袋をかぶせ、本気で打っても大怪我をせずに打てるシナイの登場は剣術における革命だったと思われます。シナイは江戸時代初期には全国的に使われるようになっていたようですが、タイ捨流を創始した丸目蔵人佐まるめくらんどのすけ(1540-1629)は、晩年弟子に
「上泉師に出会うまでシナイを見たことがなかった」
と語っているところを見ると、やはり上泉秀綱が考案した可能性が高いのだと思われます。
シナイの発明によって木刀に比べてはるかに安全に、実際に力を込めて打ち込む事や、互いに打ちあう試合的な稽古を安全におこなえるようになりました。おそらく木刀でのみ稽古していた流派に比べて、圧倒的に多く経験を積めるようになったと思われます。
上泉信綱が上洛した際、弟子となった柳生新左衛門やぎゅうしんざえもん(のちの石舟斎せきしゅうさい)や丸目蔵人佐まるめくらんどのすけのどちらも、信綱もしくは弟子の疋田豊五郎と試合をして圧倒されています。柳生も丸目も当時一般的な流派を修めていた、一流の兵法者でした。ですが上泉信綱や高弟たちにはかなわなかったようです。(このあたりの話は疋田豊五郎が主役となっている、岩明均の漫画、「剣の舞」で描かれています。)
話を戻します。
上泉秀綱は新陰流を創始したのち、箕輪みのわ城主長野業政ながのなりまさに仕え、武将として活躍します。また、その時期に甥の疋田豊五郎や長野配下の神後伊豆守じんごいずのかみ(鈴木意伯すずきいはくとも)などの弟子を育てていたようです。ちょうどその頃、鹿島の新當流の達人、塚原卜伝つかはらぼくでんが上洛し、足利将軍や北畠俱教きたばたけとものり、雲林院弥四郎うじいやしろうなど、機内の武士たちに新當流を広め、関東に戻ってきました。おそらく上泉秀綱も塚原卜伝の上洛や、その活躍についての噂を耳にしていたのではないでしょうか。この後言及する上泉信綱の上洛ですが、そのルートは塚原卜伝をなぞっているという説もあります。
さて、上泉信綱の上洛です。
一般的には箕輪城落城後、武田信玄からの仕官の誘いを断り、兵法弘流のために上洛したとされています。信玄はその時、他の武将に仕えない事と信の字を与え信綱のぶつなと名乗る事を命じたと言われています。ですが、箕輪城落城は永禄えいろく9年(1566)であり、すでに信綱(秀綱)が上洛した後の話になりますので、武田信玄との逸話も含めて、おそらく後世に想像された話なのではないでしょうか。実際は長野が没し、長野氏が劣勢になりつつあった永禄6年(1563)頃、上泉信綱は上洛を決意し、高弟とともに旅立ったのだと思われます。大胡一族は京都に親戚がいたため、上洛しても何とかなるとの算段もあったようです。
長野家が劣勢になるのを見て、自分の残りの人生は兵法弘流のために生きると考えたとすると、なんだか主君を見限っているようで、ちょっと剣聖のイメージとはズレてしまいますけども、戦国時代の武士としては普通だったのかもしれません。

※1 塚原卜伝が上泉信綱(秀綱)の弟子だ、とされているものまであります。
※2 この奇妙は陰流の一手猿廻えんかいから見出したとも、この奇妙が尾張柳生家でいう転まろばしだとも言われています。
※3 日記では兵法(剣術)や軍配(いわゆる兵法・軍楽)以外に、愛洲薬方や紙漉きを伝授している。
※4 のちに愛洲元香斎宗通あいすげんこうさいむねみちと名乗ります。永禄7年(1564)に常陸の佐竹義重に仕えることになり、後に愛洲家は所領の平澤の名前を名乗るようになります。佐竹家が秋田へ転封になる際に秋田に移住、今も子孫は秋田にいらっしゃるようです。
2
前回書いたように、上泉信綱かみいずみのぶつな(今回以降は信綱表記とします)は高弟を伴い上洛しました。記録に残っているのは疋田豊五郎ひきたぶんごろうと鈴木意伯すずきいはくの二名です。
疋田豊五郎は天文てんぶん6年(1537)に信綱の甥(姉の子)として産まれたとされています。おそらく少年時代より信綱に師事して兵法を学んでいたのだと思われます。永禄6年に上洛したとすると、その時26歳です。豊五郎の活躍は、戦国末期から江戸初期になるので、今回は簡単な紹介に留めておきます。永禄3年(1560)の「関東幕注文」に大胡おおご氏と並んで引田伊勢守ひきたいせのかみの名前があるため、この一族なのではないか?と思われます。
鈴木意伯、神後伊豆守じんごいずのかみとも吉田小伯よしだこはくともあり、同一人物かどうか不明なところもあります。江戸時代から詳細は不明だったようですが、安倍立剣道あべりゅうけんどうの伝書「鎬言集こうげんしゅう」によると、信綱門下で次回話題にします丸目蔵人佐まるめくらんどのすけと並ぶ実力があり、京で指南していたが早くに亡くなった、そうです。
上泉信綱の門下では、柳生・丸目・疋田・神後(鈴木、吉田とも)の四名が傑出していたとされ、現在でも新陰流の四天王などと言われる事があります。
1、上洛途中で柳生やぎゅうと宝蔵院ほうぞういんを弟子にすること。
信綱は上洛途中、今の奈良県で柳生宗厳やぎゅうむねとし(※1)・宝蔵院胤栄ほうぞういんいんえい・松田織部之助まつだきおりべのすけなどの地域の有力者を弟子としました。この時、柳生宗厳は上泉信綱に三度挑み、三度破れたとも、最後には無刀の技で信綱に太刀を取り上げられたとも言われています。(また、信綱は勝負を辞退し、変わりに弟子の豊五郎と勝負させた、という話もあります。これは岩明均「剣の舞」のラストシーンに採用されていました)ともかく、こっぴどく破れ、実力差を痛感した宗厳は信綱に入門します。これが永禄6年(1563)頃とされています。その後、京に向かうため弟子の疋田豊五郎を柳生に留め置き、指導にあたらせたという話があります。この時、柳生宗厳は36歳、宝蔵院胤栄は40歳です。(ちなみに上泉信綱は55歳、疋田豊五郎は26歳、神後伊豆守は年齢不明) 柳生宗厳と宝蔵院胤栄はその2年後、印可を得ています。
信綱についての確かな一次史料として、言継卿記ときつぐきょうきや国賢卿記くにたかきょうき(※2)などの永禄12年(1569)〜元亀げんき2年(1572)の記述があります。それには信綱は鈴木とともに登場し、疋田の名はありません。また、後述しますが、疋田は永禄9年(1566)に伊勢雲林院いせうじいの雲林院弥四郎うじいやしろうに入門しています。ですので、疋田が信綱に同行せず、柳生で指導にあたっていた、というのは可能性が高そうな話です。
柳生一族は、江戸初期の剣術を語る上では省く事が出来ない存在ですが、この時点ではまだ地方の豪族、新陰流の一高弟にすぎません。活躍するのは関ヶ原以降になってからです。
2、柳生と疋田、それから雲林院の関係
先ほど書いたように、疋田豊五郎は塚原卜伝つかはらぼくでんの弟子、雲林院弥四郎うじいやしろう(別名を工藤弥四郎)に永禄9年に誓紙せいし(※3)を出して新当流兵法しんとうりゅうひょうほうに入門しています。雲林院弥四郎は伊勢の雲林院城主(現在の三重県津市雲林院)の一族だそうで、塚原卜伝が上洛途中、北畠具教きたばたけとものりなどに教えていた時期に入門し、免許を得ています。
雲林院は槍の達人として有名で、江戸時代幕臣たちが稽古した真當流槍兵法しんとうりゅうやりへいほうという流派の開祖となっています。疋田豊五郎はおそらく鹿島新當流の槍や薙刀を学ぼうと思ったのではないかと思います。疋田豊五郎は後に新陰之流槍しんかげのりゅうやりという名前で、鹿島新當流そっくりの内容の槍術を教えていたりします。この槍術、のちに疋田豊五郎の弟子、猪多伊折佐いのだいおりのすけが改良し疋田流槍術ひきたりゅうそうじゅつとして大成します。この槍術は日本各地に広まりました。
また、雲林院弥四郎の息子(この人も弥四郎と名乗っています)は柳生家の門弟となっていますから、雲林院・柳生・疋田の三者にはつながりがあったのだと思います。
柳生と疋田の関係ですが、柳生宗厳の嫡男新次郎(宗矩むねのりの兄)は疋田豊五郎から免状を貰っています。他に村山作右衛門むらやまさくえもんなど柳生宗厳と疋田豊五郎の両名から学んでいる人物もいました。後世の記録になりますが、有名な柳生十兵衛やぎゅうじゅうべえがその著書「月之抄つきのしょう」で疋田豊五郎の技として、扇団せんだんの打や紅葉観念こうようかんねんについて語っている部分があります。これらの記録から想像するに、疋田豊五郎が他の兄弟弟子たちと比べても柳生宗厳と付き合いが深かったのは間違いないと思われます。
3、神後伊豆守と無刀
上泉信綱の上洛中の逸話については、様々な逸話が語られています。有名なのは近江坂本おうみさかもとで子供を人質に籠もった犯罪者を捕えた話です。信綱は旅の僧から袈裟を借りて僧の格好をし、握り飯を渡す様に見せかけ、油断した相手を素手で捕えた、というものです。これは有名な無刀むとうとも絡めてよく知られている話です。映画七人の侍でこの逸話がほぼそのまま使われています。
この時僧から借りた袈裟は、感心した僧から信綱に授けられたそうです。上記の話は武芸小傳ぶげいしょうでん(※4)に書かれているもので、藝州の浅野綱長に仕えた三谷正直(※5)が語ったものとあります。この袈裟は後に高弟の神後伊豆守(鈴木意伯)に授けられたとされています。この逸話が事実かどうかわかりませんが、神後伊豆守系の流派では事実とされていたようです。
また、尾張柳生に伝わる話としては、また別の話があります。尾州明光寺に信綱が滞在している時に、背後から切り掛かってきた乱心者の太刀のムネを両手で捕り、引き倒して踏み抑えた、という話です。この話を信綱は柳生宗厳に語り、無刀を完成を依頼して別れたとされています。
無刀、一般的に真剣白刃捕しんけんしらはどりや無刀取むとうどりの名前で知られ、創作作品や一部空手の演武では刃を両手で挟むような技で知られています。まぁ、刀を両手で挟む技は単なる一発芸みたいなものですから置いておくとして、実際の無刀はそういった荒唐無稽なものではありませんでした。
また、柳生石舟斎によって完成した、という説が一般的です。
ですが、実際のところ、上泉信綱と鈴木が無刀を稽古している記録(※6)があり、中條流ちゅうじょうりゅうにも既に無刀の技(※7)がありました。第5話 室町時代で書いたところでもありますが、襲われた際に敵の太刀を奪い取って撃退した細川勝元ほそかわかつもとの例などもあり、それほど特殊な技術というわけではありません。また、この頃には捕手とりて・腰廻こしのまわり・小具足こぐそくなどと言われている、刀を鞘に納めた状態、帯刀たいとうでの武術や、短刀や小脇差を使った組討くみうちの武術の流派が発生し始めています。(この種類の武術は非常に重要なので、また別に話します) 柳生と無刀の話は、剣術的な意味で、さらに高度なレベルで無刀を完成させた、と認識するのが良いのではないかと思われます。

※1 なお、柳生と新陰流については「やる夫で学ぶ柳生一族」という名作がWEB上にあります。柳生一族や新陰流の歴史に興味がある方は読まれる事をお勧めします。
※2 言継卿記、公家の山科言継が戦国時代50年近くにわたって書かれた日記。国賢卿記、同じく公家の船橋国賢の日記。(こちらはなんらかの論文に引用されていたのですが、コピーしか持っていないため、出所が不明、いま確認中です)
※3 誓紙は武芸では入門や免許などの時に師へ提出するもので、最後まで稽古を続けること、師の指示に従うこと、他人と争わないこと、などを誓い、違反した場合は全国の神々の神罰が下るという形式で書かれます。
※4 武芸小伝 天道流の日夏繁高が正徳4年(1714)に出版した、全国の武芸流派について記載した書です。武芸小伝の影響はこの後に出版される武芸関係の書籍、武術の伝書における記述に大きな影響を与えました。現代の諸流派の記述もこの書籍の記述を元にしているものがまだまだあります。ただし、日夏個人が知りえた情報を元にしているため、九州や四国、中部、東北などの流派の記述はあまりありません。(日夏は関西、江戸、あとは一部東北に関係があるとか)
※5 新陰流から一旦流剣術を編み出した剣術の達人だそうです。神後伊豆守とその弟子について詳しく語っているので、神後伊豆守の新陰流の使い手だったのかもしれませんが、広島の古文書類は原爆で失われたものが多いため、不詳です。
※6 三術みじゅつという名称で、身を低くして敵の大太刀おおだちに向かって駆け、敵の腕を取り背後に回り込む。または敵の腕を担ぐ、もしくは面を打つ、というような、敵の身際に寄って組討になるシンプルな技だったようです。
※7 国賢卿記 元亀二年七月十一日に上武・鈴木来、兵法格位真砂(妙?)無刀迄遣了との記述があります。上武が上泉武蔵守(信綱)、鈴木は鈴木意伯(神後伊豆守)、信綱と鈴木が来て自分(國賢)と稽古をした、真妙剣しんみょうけんと無刀まで稽古が終わった、ではないかと思います。
3
前回、言及した言継卿記ときつぐきょうきや国賢卿記くにたかきょうきを見ると、上洛した上泉信綱かみいずみのぶつなは色々な公家や武家の自宅を訪れ、兵法ひょうほうや軍配ぐんばい、さらには紙漉かみすきなどを教えたり(※1)、披露していたようです。本当に多才な人物ですね。
個人的にはどうやって生計を立てていたのだろう?という点が不思議ですが、なんだかんだと色々な収入があったのかもしれません。印可いんかを与える事で謝礼などを貰っていたのでしょうか。
それはともかく、入門側の記録が残っています。まぁ、かなり後に記録されたものなので、どこまで信頼性があるのかわかりませんが、貴重な記録です。
4、丸目蔵人佐まるめくらんどのすけの入門
信綱が上洛した後、上泉信綱の高名を聞いた武士、丸目蔵人佐長恵まるめくらんどのすけながよしが上京し信綱に入門します。この時の話が安倍立剣道あべりゅうけんどう(※2)の伝書でんしょ「鎬言集こうげんしゅう」に書かれています。その前に丸目蔵人佐についてですが、丸目は天文9年(1540)、肥後国の八代やつしろに生まれ、16歳で初陣、その後天草あまくさの天草伊豆守に寄寓、兵法修業したとされています(ちなみに丸目は若い頃はキリシタンだったとか)。この時、有馬流ありまりゅう、門井流かどいりゅう、松本流、岡野流、新當流しんとうりゅう(※3)を学んだようです。有馬流、門井流、松本流の三つは共に新當流の一派ですし、岡野流も小神野流おかのりゅうだとするとこれも新當流の一派ですので、丸目が新陰流以前に学んだ流派は新当流だったと考えて良さそうです。
「鎬言集」によると、信綱に兵法を学んだ将軍義輝よしてる公は、諸国に信綱と勝負できるものはいないか?とお触れを出したとあります(信じられませんけど)。丸目はそれを聞いてでは勝負しよう、と思い上洛します。ちなみに海上を行くと海賊に襲われるので陸路を僧の恰好をし存覚と名乗って旅をしました。この時の年月日は不明ですが、永禄7年に足利将軍の前で丸目と信綱が兵法上覧しているところを見ると、永禄えいろく6年か7年、丸目が二十代前半の事だと思われます。(※4)
上洛した丸目はさっそく信綱の自宅に押しかけ、
「九州より丸目蔵人佐というもの弟子の望みありて来る!」
と言ったところ、信綱も九州の丸目という上手がいる事を知っていたため、
「(あなたは高名なので)弟子になるには及ばない」
「もしどうしてもというなら先ず仕合しあいをしましょう」
と言ってシナイを取り出した、とあります。(当然、前回説明した撓、今でいう袋竹刀です)
この時、丸目蔵人佐ははじめてシナイを見たそうです。シナイを見た丸目が試しにシナイを振ってみたところ、木刀ぼくとうと違いよくしなります。
丸目は
「これでは勝負がわからない」
と言います。信綱は
「いやいや、互いに怪我をしないのが一番です。ですが、やってみればかならず一方が負けるのはわかります」
と答えます。
丸目も納得し、二人で縁側に出てさっそく仕合をはじめました。
まず丸目がするすると進み出て、ぱっと真向を打ちました。ですが信綱はさっとそれを外して逆に丸目の頭上をびしっと打ちました。
丸目は「今一度」というと、信綱は「何度でもどうぞ」と答えます。
丸目は次はぱっと素早く飛びかかって打ちかかりましたが、信綱は先ほどと同じように外してまた同じ所を打ちました。打たれたその時、丸目は焦って「今一度」とも言わずに続けて打ちかかります。突然のことだったので、信綱もとっさに足を上げ蹴飛ばし、丸目を縁側から庭に突き落としました。
転げ落ちた丸目もこの即座の対応に驚き、
「先生こそ天下の名人である」
その場で平伏し弟子になった、という話です。
この話自体は、丸目蔵人佐の直弟子じきのでし二名から学んだ、安倍立剣道あべりゅうけんどうの開祖安倍頼任あべよりとうが語った事を、弟子が書きとめた「鎬言集こうげんしゅう」という書物に書かれています。ただし、書かれたのは丸目蔵人の没後、かなり時間もたっているので創作や推測も入ってはいそうです。
それでも、シナイに対する評価や、信綱と丸目の仕合の様子など、戦国時代の雰囲気が感じられます。
入門ののち、足利義輝あしかがよしてるへ上泉信綱かみいずみのぶつなが兵法上覧ひょうほうじょうらんした際、丸目は打太刀うちたち(※5)をし、将軍より感状を得、その感状が現在でも丸目家に残っています。(ただし、真筆であるかどうか、要研究である、というのが研究者の意見だとか)
丸目蔵人は一度帰郷し、再度上洛した永禄10年、信綱より印可を得ます。この時、丸目は弟子を何人か連れて上洛しており、彼らも信綱より指導を受けたという話があります。
この後、丸目蔵人佐と弟子たちが九州に新影流しんかげりゅう(九州の古い史料は影の字になっています)を、タイ捨流を創始してからはタイ捨流を広めていきます。その中には薩摩の秘剣・剛剣として知られている示現流じげんりゅうの開祖、東郷重位とうごうちゅういもいました。
5、信綱の帰郷
信綱は永禄6年(1563)頃から元亀げんき2年(1572)までの10年近くを機内で過ごしました。関わった人物、柳生・松田・宝蔵院ほうぞういんは地方の有力者で、京都で関連のあった山科言継やましなときつぐ・船橋国賢ふなばしくうにたかなどは貴族です。丸目蔵人佐も地方ではそれなりの立場の武士でした。この期間の京都は永禄8年(1565)足利義輝が殺害される永禄の変、永禄12年(1569)に織田信長の上洛などもあり、方々で合戦があり安定している時代ではありません。ですが、最初に述べたように色々な相手に兵法(剣術や軍配ぐんばい)を含む様々な芸能を教授や披露していた形跡が見られます。塚原卜伝つかはらぼくでんの弟子を見てもわかりますが、戦国時代、当時の兵法を学ぶ階層は、やはり乱世でもそれなりに余裕のある地位の人間だったようです。
これは個人的な意見ですが、すくなくとも戦国時代の兵法・剣術というのは、学問や芸能の一種であり、合戦のための兵卒の技や、低い身分のものが自衛や戦闘のために学ぶものではなかったのだと思います。(ただし、後世と違い、暴力・闘争が身分を問わず非常に身近だった時代ですから、単なる趣味・習い事としてだけではなく、実用性が求められていたのは間違いないと思います)
元亀げんき2年(1572)に信綱は山科言継から下野国しもつけのくに結城方ゆうきがたへの書状(信綱から公方等みな軍配を学んだ、という紹介状)を受け取り、関東へ帰って行きます。この後の足取りは不明ですが、天正てんしょう5年(1577)亡くなったというのが通説です。ですが、信綱と親交のあった山科言継が編集に参加した「歴名土代」には天正てんしょう元年(1573)卒とあるので、おそらく関東に戻ってほどなく亡くなったのだと思われます。
上泉が帰郷した2年後、元亀げんき4年(1574)に織田信長が将軍、足利義昭あしかがよしあきを追放、室町幕府はここで滅亡した形になります。この後は織田・豊臣秀吉・徳川家康の政権が登場する安土あづち・桃山時代ももやまじだいとなります。
この安土桃山時代に名を残す人々は、外他流とだりゅう(一刀流いっとうりゅう)の外他とだ一刀斎いっとうさい(伊藤一刀斎)とその弟子、小野次郎右衛門おのじろうえもん(御子神典膳みこがみてんぜん)・古藤田勘解由ことうだかげゆ。冨田流小太刀とだりゅうこだちの冨田越後守とだえちごのかみ・長谷川宗喜はせがわそうき。天流てんりゅうの斎藤傳輝坊さいとうでんきぼう。新当流しんとうりゅうの師岡一羽もろおかいっぱ・穴澤浄見あなざわじょうけん。そして、今回名前を挙げた上泉信綱の弟子たち(柳生石舟斎やぎゅうせきしゅうさい・タイ捨流の丸目蔵人佐・疋田豊五郎ひきたぶんごろう・宝蔵院胤栄ほうぞういんいんえい)などになります。
時代小説等に興味がある人には見覚えのある、またはお馴染みの有名剣豪たちだと思います。

※1 軍配ぐんばいは今でいう軍隊に関連した兵法ひょうほう、軍学ぐんがくです。ただ、現代イメージする兵法と違い、多分に呪術的な内容を含みます。
※2 安倍頼任あべよりとう(一鎬士、1624-1693)が丸目蔵人佐のタイ捨流しゃりゅうから創始した流派。日本の武道史上最初に剣道を名乗った流派とされています。江戸時代には福岡黒田藩ふくおかくろだはんの主流剣術の一つで、維新後も道場が残っていました。剣道十段の斎村五郎さいむらごろうも少年時代にこの流儀の道場で剣を学んでいます。話によると昭和末か平成頃まで経験者がいたとか。
※3 有馬流は第8話で言及した松本備前守まつもとびぜんのかみの弟子、有馬大和守ありまやまとのかみの流派。門井流は新當流開祖飯篠長威斎の弟子、門井主悦かどいもんどの流派、松本流は松本備前守の流派です。岡野流はおそらく松本備前守の弟子の小神野おかの氏の流派だと思われます。有馬流の極意は無一剣むいちけん、門井流の極意は三段仕合さんだんのしあい、松本流の極意は一足詰いっそくのつめだと安倍立あべりゅうやタイ捨流しゃりゅうの伝書に書かれています。また、丸目はこれらの技の返し技も教えています。一足詰は現代のタイ捨流の形名にもありますね。
※4 日本武道全集で「相良文書」の丸目が19歳頃、永禄えいろく元年に上洛し信綱に入門したとあるのは、信綱上洛の永禄6年との食い違いがあると指摘されています。
※5 打太刀(うちたち、うちだち)は剣術や剣道で一般的に使われる用語で、兵法の技を演じる際(稽古する際)の敵役の側のこと。  
 
上泉信綱・諸話 1

 

塚原卜傳「一の太刀」伝承に就いて
塚原卜傳「一の太刀」に就いて「勢州軍記」に次の如く説明しています。(本朝武芸小伝の記述は勢州軍記引きです。)『夫れ兵法の剣術、近来常陸国住人飯篠入道長威、天真の伝を受け初めて一流を立つ。彼の卜伝は長威の「四伝」を継ぐ。最も秘術を兼ね新に復其の術を立てて名を世間に得たる者なり。
然るに、卜傳諸国修行して常州に帰り、最後の時其の家督を立てんと欲し、三子の心を察せんが為に木枕をもって「のれん」の上に置き、先ず嫡子を召す。嫡子見越しの術を以って之を見付け木枕を取って座に入る。又、前の如くに次男を召す。二男「のれん」を開きし時、木枕落つ。飛び去って手を刀に掛け慎みて座に入る。又、前の如くにして三男を召す。三男「のれん」を開きし時木枕落つ。忽ちに刀を抜き之を宙に斬りて座に入る。
卜傳怒りて曰く「汝ら木枕を見て驚くことなんぞや」と。嫡子彦四郎予て之を知りて心を動かざるに感じて家督を譲りて曰く「但し、一の太刀は唯一人に授くるのみなり。我、之を伊勢の国司に伝う。汝住きて之を習え。」と遂に死し畢んぬ。其の後塚原彦四郎勢州に上り国司に問いて曰く、「我父相伝の一の太刀、その相違を見んと欲す。と、具教卿謀りなるを知らずして之を見せ給うと云々。」と有り』卜傳の唯一人授免許皆伝は伊勢国国司北畠具教卿に授けたので卜傳の継子塚原彦四郎と云えども父子相伝を授かる事が出来なかった。
その為、常陸国鹿島から延々数百里の道のりを賭して伊勢国司多芸の御所に出向いたとあります。
具教卿対して塚原彦四郎は一計を謀って、遂に「一の太刀」の奥義を得たとしています。現代の武道史でも大略この逸話を紹介しています。しかし今回の「雲林院うじい弥四郎光秀宛塚原卜傳免許皆伝書」が 発見され、どうやら「一の太刀」授かったのは伊勢国司の北畠具教卿ではなく同じ伊勢国でも隣の安 濃郡に蟠踞した雲林院うじい城城主雲林院弥四郎光秀である事が解ったのです。
塚原卜傳が来勢する経緯は「上洛の途中」等との考察が北畠 具教卿の逸話から出て来そうです。しかし、塚原卜傳の雲林院うじい弥四郎光秀への允許状の日付は天文二十三年二月 吉日となっています。永正の中頃雲林院うじい氏の惣領・長野氏が代官職を務めていた奄芸郡の禁裏御料所「栗真荘」 を巡って、北畠氏守護代愛洲氏と激しい戦闘が永正十年九月から永正の終わり迄断続的に続きました。特に永正十年九月の戦 闘では長野氏・雲林院氏側は三百人から四百人は討ち死にしたと記録されています。(守光公記・ お湯殿の上の日記)
大打撃を被った兵力の建て直しに、従来、村から徴発された物を運んだりする夫丸や中間、あらしこ等と呼ばれていた非戦闘用員を塚原卜傳を招いて教練させたのではないかと思われます。
此等夫丸・中間・あらしこを戦闘に初めて用いたのが後北条 氏(北条早雲・氏綱・氏康)でした。
関東ではよそ者であった伊勢新九郎長氏・氏綱は関八州の武士団との死闘を休む間もなく繰り広げました。
激しい戦闘で消耗する兵力の補充が勝負を決します。武士団以外から兵力の補充を計ったのが後北条氏の勝因の一つでした。 塚原卜傳の逸話には北畠具教卿の他には将軍義輝・義昭に兵法を指南したとの伝承があります。しかし将軍義輝は在京日数より 避難先での執務が長かった程で別名「流浪将軍」とも呼ばれています。将軍義輝に兵法を講じたと云う上泉信綱の場合、信綱は一色義春の裔であり将軍の近臣に一族の一色氏が仕えていましたから将軍に就いての情報を知る恩恵に浴する事が出来ました。
無位無官の塚原卜傳が将軍義輝の居所を知って上覧を仰ぐ事は不可能です。義昭に至っては将軍宣下の日付が永禄十一年二月です ので卜傳が没する直前でもあり常陸の鹿島から京迄百里以上の道のりは流石の卜傳にも不可能であったに違いありません。此れ等、 無茶な作り話は、後世の卜傳の弟子達が宮本武蔵との「鍋蓋なべぶた対決話」と同様に創り出されたのでしょう。 (塚原卜傳「一の太刀」が「雲林院うじい弥四郎宛免許皆伝書」に含まれたか否かの考証は新當流允可状の章にあり。) 『塚原卜傳が将軍義輝に「一の太刀」を伝授したのではないか』と云う伝説が起った理由の一つとして、永禄八年五月十九日三好・松永氏の義輝弑逆事件があります。 三好・松永の一万を超える軍勢が、将軍御所へ乱入したのが午前八時で、義輝の自害が午前十一時と伝えられていますので、一万 の大軍を相手に将軍の奉公衆等親衛隊は数百人を以って3時間余り持ちこたえたことになります。奉公衆・親衛隊の中に一色淡路守や御末衆疋田弥四郎の名が見えます。
三好・松永の一万を超える大軍に怯まず、すさまじい奮戦であった 事から将軍義輝は「一の太刀」の使い手ではとの俗説が生まれたようです。しかし万を超える大軍を相手に 如何に使い手であろうとも宮本武蔵が天草・島原の乱で 「石にあたり、すねたちかねる」重傷を負った例を 持ち出すまでもなく衆寡敵せずでこの事件での真の功労者は奉公衆や御末衆の多くが 「ある流儀を伝授されていた手練の者達」で、将軍義輝を警護していたと見るのが妥当ではないかと思われます。ある流儀とは?云う までもなく愛洲移香斎久忠の「影流」です。
何故か?次に述べる理由に依って明らかになります。室町幕府が永亨五年に明朝と締結した 条約に依りますと、遣明貿易は「十年一貢・船三隻・乗員二百名・貿易品の中の刀剣は三千把以下。」との取り決めでしたが宝徳三年の 発遣だけでも日本刀は九千五百振りが輸出されています。天文十六年迄、公式の記録だけでも約二十万振り以上が輸出されていた事が判 っています。時の明朝の皇帝は「日本刀」の「刀法」の指導者、即ち「刀法の師範」の発遣を要請してきており文明十六年度の遣明船で 紫禁城に赴いたのが伊勢愛洲氏の愛洲移香斎久忠です。皇帝成化帝の御前で披露演武されたのが「影流」です。成化帝の近衛兵「静旗隊」「粛旗隊」の正式刀法に採用された事は中華人民共和国北京故宮博物館の史料で明らかです。
当然明朝に採用された「影流」が室町幕府内の奉公衆達に伝授された事は当然でしょう。
遣明貿易は朝貢貿易であり、足利将軍が明朝に派遣した「刀法指南」に就いて日本国 内では「採用していない」等と云う事態はあり得ないからです。将軍義輝の奉公衆の中には、伊勢愛洲氏と係わりの深い伊勢・疋田氏や関氏が務めて居り、将軍の警護をしていた事も有力な証の一つでしょう。
上泉信綱の「武蔵守」「四品」の経緯
「武蔵守」及び「四品」の勅許以前の上泉信綱の官途及び官位は亨禄二年(1529)家督を継いだ折、従五位下伊勢守に叙任されたとする説が有力のようです。戦国大名の多くが勅許された「修理大夫」(三好長慶・上杉朝興・相良義陽・大友義鑑・島津忠兼等)や「左京大夫」(武田信虎・北条氏綱・大内義長・三好義継・徳川家康等)と云う官途は、本来の業務の観点からは「虚飾の官」と云われ、業務の実態が伴っていないのに対し、国司系の官途である周防介・筑前守・伊予介や幕府政所執事伊勢氏が踏襲した伊勢守等は、形式的な名誉称号ではない事に注目すべきです。戦国大名が家臣達に官途や受領の斡旋は主従間の絆を強める為に重要な務めでした。関東幕注文が成立した永禄三年前後箕輪城主の長野業政よりも、仕えている上泉信綱(秀綱)の方が官位官途が上位であったと云う主客転倒あり得ない矛盾を今迄一度として検証されて来ませんでした。
永禄十一年の官途、永禄十三年六月廿七日従四位下の勅許は従来「正親町天皇剣を好まさせたまひ信綱の剣名が叡聞に達し、召されてその技を禁庭に於いて天覧あらせられ四品を勅許せられた。」として官途官位の勅許の理由とされて来ました。しかし、これら武道史家の論考は間違っています。叙位官途はあくまで先例に倣います。それでは、上泉信綱(大胡武蔵守)は如何なる先例に倣って「武蔵守」の官途や「四品」を勅許されたのでしょうか?当時、「武蔵守」の官途は将軍拝賀や判始等将軍宣下の際「幕府の特別な儀礼に対して奏聞される。」が慣例です。
第十二代足利義晴は将軍任官時、管領家・細川高国に「武蔵守」の官途を直接奏聞されて実現しました。
永禄十一年五月の足利義昭の将軍宣下の際に上泉信綱が「武蔵守」を賜ったのはこの先例に倣って新将軍義昭の直接天皇への奏聞で実現されたと思われます。義昭の将軍宣下までの経緯は永禄八年五月実兄の足利義輝が松永久秀等に依って弑された事から始まります。松永久秀の手に依って幽閉されていた覚慶(義昭)は、永禄八年七月幽所を脱出、永禄九年二月還俗して義秋と名乗り、永禄十一年四月朝倉義景の拠城越前一乗谷で元服し名を義昭と改めます。朝倉氏の力を以ってでは上洛は叶わず織田信長を頼ることになります。永禄十一年(1568)信長は岐阜の立正寺に義昭を迎え、九月七日上洛を開始します。
途中近江箕作城の六角氏を滅ぼし、洛中の三好三人衆を蹴散らし、十月十八日には義昭は征夷大将軍に任じられます。新将軍義昭は後日織田信長への感状で信長を「御父」と最高の呼称を使っています。
本来であれば十月十八日の将軍宣下の際「武蔵守」の官途は織田信長へ勅許されるのが論功行賞から妥当と考えられますが信長は平氏を名乗って居り、義昭の下風に立つ事を拒否し「弾正忠」のままでした。それ故、「大胡藤原」信綱が「源」信綱に改姓し源武蔵守信綱として勅許されたのです。勅許される理由には上泉信綱は前将軍義輝の近臣一色藤長等の血脈に依り義昭の将軍宣下にも深く係わって居り、上泉信綱が松永久秀麾下の柳生宗厳を永禄八年四月に訪れる前に既に都に上って居り、幕府の中枢内で活動していた事がうかがえます。従来の上泉信綱等主従一行が浪々の身で「武蔵守」や「四品」の勅許があったような奇想天外な伝承は全くの仮想の作り話である事が解ります。上泉信綱の上洛の経緯について「甲陽軍艦」「関八州古戦録」等は長野業盛の箕輪城が武田信玄の侵攻に依って落城した永禄六年の頃と伝えられてきました。
その折、武田信玄が「上泉信綱に仕官を要請した。」とされ、上泉信綱は固辞し、武田信玄の偏諱「信」だけを頂戴し「上泉秀綱」から「上泉信綱」に改めて諸国遍歴に赴くとしています。しかし、近年の正史の研究では、第一に、武田信玄の箕輪城侵攻で箕輪城が陥落するのは永禄九年九月二十九日である事が明らかになりました。(浦野文書長年寺古書筆録)また、上泉秀綱を「上泉信綱」に改名した年代は柳生の荘で永禄八年氏四月に続き柳生宗厳へ影目録を授与した永禄九年五月の署名からで箕輪城落城の砌の伝承とは全く関係ないことも判明します。第二に、従来の上泉信綱主従一行が浪々の身になって東海道から伊勢の北畠具教卿の紹介を取って近畿諸国を武者修行したと云う伝承は上泉信綱の官位・官途の考察でも全くの奇想天外な作り話である事が解ります。関東幕注文では白井衆の上泉大炊助、厩橋衆の長野藤九郎・同彦七良・引田伊勢守・大胡とあり上泉信綱の名は全く記載されていません。上泉信綱の「伊勢守」「従五位」の官位官途から考えられる事は、文明十一年から文明十六年頃まで伊勢国守護職であった先祖一色義春の縁を辿って永禄の初め、将軍義輝の近臣幕府中枢で活躍しない限り「伊勢守」の官途「従五位」の任官はあり得ないからです。
上泉信綱上洛の経緯
上泉信綱(大胡武蔵守)は永正の始め、上野国箕輪城城主長野業政麾下(関東幕注文では上泉大炊助は白井衆に大胡氏は厩橋衆に名が見える)大胡城主大胡秀継の二男として生まれ(上泉系図)、生没年月は大和柳生家文書が永正五年とし歴名土代では天正元年で諸説粉々です。上泉信綱の上洛の経緯について「甲陽軍艦」「関八州古戦録」「箕輪軍記」等は長野業盛の箕輪城が武田信玄の侵攻に依って落城した永禄六年と伝え、其の際、 武田信玄は上泉信綱に仕官を要請しましたが上泉信綱はこれを固辞し武田信玄の偏諱「信」を頂戴し、それまでの「上泉秀綱」を「上泉信綱」に改めたとする説が現代に至るまで武道史上伝えられてきました。
しかし、近年の正史の研究で武田信玄の箕輪城侵攻に依って城が陥落するのは永禄九年九月二十九日である事が「浦野文書」や「長年寺古書筆録」で明らかにされ、上泉信綱が箕輪城陥落前に上野国を離れた事は 確実となりました。柳生宗厳が永禄八年新陰流印可状を上泉信綱から伝授された経緯を柳生厳長翁は柳生記録や「甲陽軍艦」「関八州古戦録」「勢州軍記」等を参考にして次の如く論述されています。
『永禄六年夏秋の頃か上泉伊勢守は道を東海道を過ぎて伊勢路にとり、伊勢の国司、当時俗に「太の御所」と呼ばれたる北畠氏の第を訪れた。国司北畠具教は後年天正四年塚原卜傳の弟子となり終にその「一の太刀」を伝えて天下に喧伝されし仁であって当時其の麾下には武芸者雲の如しと云われていた。伊勢守はこれに立ち寄って兵法者を要めるに、一人として対応するものなく、茲に大和国神戸(かんべ)の庄小柳生城主柳生但馬守宗厳の名を示され、この柳生を置いて他になかろうという。伊勢守はそこで紹介を得て南都(奈良)の宝蔵坊に伺う。宝蔵院流槍術の宗師である胤栄は急使を以て柳生谷へその旨を伝える。但馬守時に三十七歳、この年正月松永久秀の麾下に入り、多武峯の戦いに武功を立て、壮心勃々たる折柄であり、報を得て直ちに奈良に立越えて伊勢守を礼を以って出迎えられたとある。此処に於いて但馬守、伊勢守と試合するに第一日一度戦って敗れ、二たび戦ってまた敗れる。更に三日三度敗るるに及んだ。
遂に節を屈して伊勢守に帰依し、慇懃、その教えを乞うた。廻国の途中なる師を柳生の居城に懇請し、爾後半年の間その教えを受けて二六時中新陰流の工夫に精進した。当時、伊勢守の随伴として氏の甥とも一説に伝えられる弟子疋田豊五郎景勝がいた。また老弟鈴木意伯(虎伯)があったが、茲に伊勢守は一時暇を遣わし、廻国修行の上、別に一流を立てん事を訓した。云々、斯して再来を約して柳生谷を発足して中国、西国の遊に就いた。永禄八年四月再び伊勢守が柳生谷を訪れるに及び終に一国一人に限られる印可状を柳生但馬守宗厳に与えられ新陰流の正統を相承した。永禄九年五月には影目録四巻を贈呈されているが、この目録の署名は「上泉秀綱」から「上泉信綱」に改名している。』以上が柳生厳長翁が「剣道八講」等で説かれ、大略現代の武道史の記述も翁の論考に沿っています。当小論では翻って永禄八年前後の大和国柳生の郷の情勢に就いて垣間見る事から始めます。柳生の郷は永禄当時「小揚生郷」と呼ばれていましたが、その小揚生郷で柳生氏が春日社の荘官として名を見出せるのは有名な「柳生徳政記念碑」の正長年間では未だ見出せなくて、芳徳寺の柳生家墓地の五輪塔の没年を示す文明三年頃かと思われます。
天文十年(1541)十一月「多聞院日記」に「笠置山城の木沢長政を襲ったのは簧河と小柳生らしい。」と記録され小柳生が柳生美作守家厳(宗厳の父)を指していると云われています。「柳生系図」等に依ると、柳生家厳は三好長慶に従って度々戦功を挙げたと記録され、筒井順昭と三好長慶の和解後柳生家厳は筒井順慶にも協力しています。しかし永禄二年(1559)三好長慶の家臣松永久秀が入国するといち早く松永 久秀を迎え筒井順慶から離れています。松永久秀は奈良多聞山に築城して大和国を席巻し、他に山城堺を制圧しています。柳生氏が松永久秀麾下であった事は松永久秀の柳生宗厳宛て蚕卯紙の礼状などで明らかです。永禄六年松永久秀は白土(大和郡山市)と上笠間(室生村)の替地として添下郡秋篠(奈良市)を柳生新介(新次朗から新介へ、更に新左衛門尉と改称)に与えています。
上泉信綱が疋田豊五郎等数人の弟子を引き連れて柳生の館を再度訪れたのは、三好義継・松永久秀等が将軍義輝弑逆の一か月前の永禄八年四月と云う、只ならぬ不穏な空気が漂う真最中の頃でした。
翌年永禄九年五月上泉信綱が柳生宗厳に与えた「影目録」の署名は「上泉秀綱」から「上泉信綱」に改名しています。上野国を出立する以前「武田信玄からの任官を強要されましたが固辞し、信玄の偏諱をその時賜った。」との説が現在まで定説として伝わって来ましたが今回の論考で誤りである事が明らかになりました。
永禄十一年織田信長が上洛の折、松永久秀の麾下で、細川藤孝、和田惟政、佐久間信盛等の嚮導を為したとありますが織田信長上洛後、柳生宗厳は柳生街道高畠で重傷を負っています(一説には落馬)。
しかも織田信長は松永久秀を陪臣としてしか扱わなかった為、柳生宗厳はその陪臣として扱われます。
この様 な状況下で文禄三年五月徳川家康に取り立てられる迄、東山中に雌伏していました。柳生家伝承で「疋田豊五郎は永禄六年上泉信綱師より暇をつかわされた。」とありますが、実は柳生宗厳自身が重傷を負い小柳生を離れて、東山中に雌伏していた時期でもあったのです。
柳生氏の再生の契機は柳生家伝承で係わりを極端に否定いるその疋田豊五郎が兵法指南している豊臣秀次から100石を給せられたのに始まります。  
柳生家が疋田豊五郎との係わりを忌避する最大の理由は柳生家が神君家康公の大名として取り立てられて、豊臣家の兵法御指南であった疋田豊五郎との関係はどうしても消し去る必要があった為だと思われます。  
 
上泉信綱・諸話 2

 

1
古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
2
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
3
柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
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柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
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丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
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塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
7
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
8
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
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佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
10
宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
11
長野業正は、上野守護代長尾氏を滅ぼして西上野を掌握し、山内上杉氏を承継した上杉謙信に属して北条氏康・武田信玄の猛攻を防ぎ切った箕輪城の勇将、自らの死で謙信の関東侵出は頓挫し後嗣の長野憲業は信玄の猛攻に晒され滅亡した。関東公方足利氏と山内・扇谷の両上杉家が長期内紛で衰退するなか、長享の乱・永正の乱を制した越後長尾氏が台頭し長尾為景は越後守護上杉房能を弑殺し攻め寄せた関東管領山内上杉顕定(房能の実兄)も討殺、関東では今川・北条が扇谷上杉領を侵食し群雄割拠する戦国下克上に突入した。山内上杉家に仕える長野業正は、長享の乱で降した扇谷上杉朝良の娘を娶り12人もの女児を次々土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を扶植、1527年長尾為景に靡いた惣社長尾顕景・白井長尾景誠を降し両守護代家に傀儡当主を据えて西上野を掌握した。1546年関東管領上杉憲政が上杉朝定・古河公方足利晴氏と同盟し圧倒的大軍で北条氏康を攻めるが「地黄八幡」北条綱成の「日本三大奇襲」に遭い致命的敗北、古河公方は北条の傀儡に堕し朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡、憲政は命からがら上野平井城へ落延びるも山内上杉家は没落した(河越夜戦)。長野業正は、嫡子吉業を河越夜戦で喪いながら国人の結束を固めて西上野を堅持し、憲政を保護し山内上杉氏の家督を譲られた上杉謙信(為景の後嗣)に臣従、1552年「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止めた。1557年川中島の戦いで対峙する謙信の後方撹乱を期す武田信玄が西上野侵攻を開始、長野業正は上野国人を糾合して迎え撃ち、足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍を務めて鮮やかな退却戦を演じ、箕輪城に籠ると夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し謙信の来援を得て防衛に成功、信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と慨嘆させた。長野業正は老骨に鞭打って西上野を守り抜いたが寿命には勝てず1561年70歳で病没、信玄は「これで上野を手に入れたも同然」と直ちに猛攻を仕掛け柱石を喪った上杉勢は瓦解、後嗣の長野業盛は謙信の助勢を得て奮闘したが1566年箕輪城陥落と共に上野長野氏は滅亡した。
12
長野氏は、平城皇孫で『伊勢物語』主人公の在原業平の後裔を称した古豪で領地の上野群馬郡長野郷から名字を採ったとされる。上野を領有した関東管領山内上杉氏と守護代長尾氏(白井長尾家・総社長尾家)に仕えて西上野の土豪「箕輪衆」を束ね、長尾景春の乱で長野為兼・立河原の戦いで長野房兼が戦死し衰退したが、山内上杉顕定の執事で箕輪城に拠った長野業尚と嫡子の憲業が関東公方足利氏・山内と扇谷の両上杉家・越後と上野の長尾家の内紛(享徳の乱・長享の乱・永正の乱)に乗じて盛返した。憲業の嫡子長野業正は、扇谷上杉朝良の娘を娶り12人の娘を土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を伸ばし、惣社長尾顕景・白井長尾景誠(嫡子吉業の舅)を滅ぼして西上野を掌握し河越夜戦で吉業を喪いつつも支配を堅持、山内上杉憲政を保護した上杉謙信に臣従し老骨に鞭打って死ぬまで武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ切った。が、自らの死が上杉方諸豪の動揺を招き「これで上野を手に入れたも同然」と勇んだ信玄は直ちに2万の大軍を率い上野へ侵攻、後を継いだ次男の長野業盛は謙信の来援を得て撃退するが次第に追詰められた。鷹留城主長野業氏(業正の庶兄か)が戦死し、厩橋城主長野方業(業正の叔父)も滅ぼされ、遂に箕輪城陥落となり業盛は自害し上野長野氏は滅亡した。業正庶子の長野伝蔵(業実)が生母の縁故を頼って井伊直政に仕え知行4千石の重臣となり、井伊直弼の謀臣長野主膳はその子孫とする説があるが信憑性は乏しい。
13
長尾氏は、坂東八平氏の一流を称する鎌倉時代以来の古豪で、関東管領山内上杉氏に属して繁栄し、上野・武蔵守護代の長尾景仲は主家を宰領したが子の長尾景春が反乱を起し没落した。越後守護代の長尾氏は三条・上田・古志の三家に別れ、扇谷上杉朝良を降し長享の乱を制した三条長尾能景が越後の実権を掌握したが、越中般若野の戦いで一向一揆に討たれた。嫡子の長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の実兄)の二君を討って越後を牛耳り、傀儡守護の上杉定実に妹を嫁がせ、高梨政盛の娘を娶って四児をもうけた。後を継いだ嫡子の長尾晴景は弱腰を侮られ守護上杉定実を担ぐ国人衆が蜂起、弟の景康・景房が反乱の渦中に落命した。側室(青岩院)腹の末弟長尾景虎(上杉謙信)は、13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破し、家臣・国人衆に推されて兄晴景から家督を奪い、上田長尾政景と揚北衆を降して(後に謀殺)越後平定を果し、北条氏康に追われた上杉憲政から関東管領・山内上杉氏の名跡を継いだ。毘沙門天と飯縄権現を崇拝した上杉謙信は生涯女犯戒を貫いて子を生さず(童貞説あり)後継を定めず急逝、4人の養子のうち上杉景虎(北条氏康の実子)と上杉景勝(謙信の姉仙桃院と長尾政景の子)の壮絶な家督争いが起り(御館の乱)、武田勝頼に臣従し妹菊姫(信玄の娘)を妻に迎えた景勝が勝利したが最強上杉軍は弱体化した。上杉景勝は、謙信遺臣(三条長尾系)を排斥し直江兼続ら上田衆を極端に優遇したため新発田重家の乱を招来、織田信長の猛攻に晒され封前の灯火となったが本能寺の変に救われ、養子の義真を人質に出して豊臣秀吉に臣従し会津120万石・五大老に栄進したが、石田三成と通謀した直江兼続が関ヶ原合戦の戦端を開き(会津征伐)、改易は免れるも出羽米沢藩30万石に大減封された。景勝没後は一子上杉定勝が米沢藩を継いだが、その一子上杉綱勝に後嗣が無く上杉氏は断絶、吉良上野介義央(忠臣蔵の敵役)の幼児綱憲を末期養子に迎え家を保った。15万石に減封された米沢藩は日本屈指の貧乏藩と揶揄されたが名君上杉鷹山の藩政改革で汚名を返上した。
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長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。
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上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。
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太田道灌は、江戸城を拠点に東奔西走し古河公方足利成氏を降して関東管領上杉氏に勝利をもたらしたが(享徳の乱)、下克上を恐れる主君に謀殺された戦国初期関東の最高実力者である。中国古典を渉猟して兵法に精通し、30余度の合戦で獅子奮迅の活躍、「山内上杉家が武蔵・上野両国を支配できるのは、私の功である」との自認に値する大功を立てたが、「狡兎死して走狗煮らる」の諺を地で行ってしまった。下克上の時勢が熟す数十年後に登場していれば、主家上杉氏を追落として関東に覇を唱え、同年生の北条早雲を退けたかも知れない。関東管領上杉氏は、山内・扇谷・犬懸・宅間の四家に分れたが、山内家が関東管領を独占し他の三家は分家的存在となった。1416年上杉禅秀の乱を機に上杉氏と鎌倉公方足利氏の対立抗争が激化、1438年将軍足利義教を味方に付けた上杉憲実が足利持氏を討ち鎌倉公方は一旦滅亡するも(永享の乱)、上杉氏が持氏の末子成氏を擁立して鎌倉公方を再興した。が、1454年傀儡の立場を潔しとしない足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺、将軍足利義政の支持を得た上杉氏は成氏勢を下総古河へ押しやり(古河公方)、関東諸豪は真二つに割れ利根川を挟んで対峙し30年に及ぶ大乱へ発展(享徳の乱)、将軍義政は成氏への対抗馬に弟足利政知を送り込むも鎌倉入りを阻まれて伊豆堀越に留まった(堀越公方)。父太田資清から扇谷上杉家家宰を継いだ太田道灌は、武蔵国に河越城・江戸城・岩槻城・五十子陣を築いて防衛体制を敷き、関東管領山内上杉房顕に主君扇谷上杉政真まで合戦で喪いながらも死闘を征し、長尾景春の反乱を討ち平げて、1483年上杉氏勝利で関東大乱を終息させた(都鄙合体)。が、太田道灌の活躍で主家扇谷家の権勢が関東管領山内家を凌駕し両上杉家の対立抗争が勃発、そして3年後太田道灌は権勢を妬む主君扇谷上杉定正に謀殺された。柱石を失った関東諸豪は再び動揺し山内・扇谷の両陣営に別れ再び争乱に突入(長享の乱)、両上杉家は共倒れの途を辿り道灌末期の「当家滅亡」の叫びどおり60年を経て漁夫の利をさらった後北条氏に滅ぼされた。
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佐竹義重は、上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封された。佐竹氏は「関東八屋形」の名門だが、北関東は国人が割拠し北条方・上杉方に分かれ鍔迫り合いを繰広げ、奥羽では陸奥守護伊達稙宗が嫡子晴宗との抗争に陥り蘆名・最上・相馬・大崎・葛西らが台頭した(天文の乱)。常陸太田城主佐竹義昭は、宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らを従え上杉と同盟して小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤と対峙、1564年謙信の「神速」の来援で小田城を攻落としたが(山王堂の戦い)常陸統一を目前に病没、北条方が盛返し再び乱麻の情勢となった。後継の佐竹義重は、謙信との連携強化で挽回を図り、1574年抵抗を続ける小田氏治を破って常陸統一をほぼ達成した。1582年本能寺事変後の天正壬午の乱を経て北条氏が上野を制圧、佐竹義重は下野に侵攻するが逆に長沼城を奪われ敗退(沼尻の合戦)、豊臣秀吉に帰服し援軍を懇請した。北方では会津黒川城主蘆名盛氏が没し伊達政宗が台頭、佐竹勢は二本松城を攻めた政宗を撃退するが決定機を逃した(人取橋の戦い)。佐竹義重は、伊達政道(政宗の弟)を退けて次男義広を蘆名氏の家督に据え、1588年大崎合戦の政宗敗北に乗じて伊達領へ攻入るが敗退(郡山合戦)、翌年最上義光と和睦し南転した政宗に黒川城を攻落とされ蘆名領を奪われた(摺上原の戦い)。佐竹義重は伊達・北条の挟撃に晒されたが、秀吉の小田原征伐で窮地を脱し宇都宮仕置で常陸太田城54万石を安堵され、江戸重通・大掾清幹を滅ぼし「南方三十三館」を謀殺して常陸支配を確立、新築の水戸城へ移った嫡子義宣に家政を譲り隠居した。佐竹義宣は、配下の宇都宮国綱・芳賀高武の改易騒動で取成しの恩を受けた石田三成に接近し、1600年関ヶ原の戦いが起ると東軍加盟を説く義重を抑え人質上洛命令を拒否して水戸城へ無断撤収、戦後徳川家康への釈明に奔走したが秋田への国替えを命じられた。佐竹義重は1612年まで生きたが狩猟中の落馬事故で死去した。
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武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。
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武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。
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「武田二十四将」は今なお有名だ。山本勘助は、諸国巡礼の末に52歳で武田信玄に仕官し足軽大将に抜擢された。容貌醜悪で片足が不自由だが、諸国情勢や兵法・築城術に通じ、信玄に恨みを含む諏訪御料人の側室採用、北信濃攻略などに大功があったが、第4次川中島の戦いで上杉謙信に啄木鳥戦法を見破られ戦死した。江戸時代に甲州流軍学を広めた小幡勘兵衛の『甲陽軍鑑』で一躍有名軍師となったが、その雛形は勘助の子が作ったもので、実際は軽格と見る向きが強い。ただ、二十四将中で門外漢は山本勘助のみであり、浪々の身から破格の昇進を遂げた事実は動かない。同じ謀略系では真田幸隆がいる。信玄に属して合戦で奪われた所領を回復、戸石城攻略で大功を挙げ、巧みなゲリラ戦術は子の真田昌幸・孫の真田信繁(真田幸村)へ受継がれた。猛者揃いの武田軍でも「武田四天王」馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信・山県昌景は別格だが、最強は山県昌景だろう。140センチ足らずの小兵で口蓋裂の醜貌ながら、常に先陣を疾駆し「赤備え」と恐れられた。「赤備え」の元祖は昌景の兄飯富虎昌、信虎追放劇に加担した宿老だが、武田義信の傅役故に謀反疑惑に連座し処刑された。長篠の戦いで山県昌景が戦死した後、「赤備え」は井伊直政と真田幸村が踏襲した。高坂昌信も強いが、少年期は信玄の寵童であったという。板垣信方は、信虎追放以来の腹心で、享楽に耽る武田信玄を諌め、北信濃方面軍司令官の大役を担ったが、上田原の戦いで緒戦の勝利に油断し前線で首実験中に村上義清に襲撃され落命した。長篠の戦い後、武田勝頼の求心力は衰え、最期は譜代重臣にも見捨てられた。小山田信茂は、信玄の従弟で家中屈指の大族だったが、織田信長の甲州征伐で逃亡する武田勝頼の保護を拒み滅亡に追いやった。戦後信長に降伏するが、余りの不忠を咎められ処刑。穴山信君は、武田一族の名門だが、従兄弟の勝頼と対立し長篠の戦いで戦線離脱、甲州征伐では織田方に内通し本領安堵のうえ武田宗家を継承した。が、徳川家康と堺見物中に本能寺の変が勃発、木津川河畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命した。
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北条早雲(伊勢新九郎長氏・伊勢盛時)は、衰亡する室町将軍を見限り40歳過ぎで関東に下向、甥今川氏親の駿河守護擁立で今川家の重臣となり、関東公方足利家・関東管領上杉家の内紛に乗じて伊豆・相模二国と小田原を奪取、関東の覇者後北条氏の礎を築いた戦国下克上の先駆者である。続く北条氏綱・氏康が関東全域を切り従えたが、北条氏政・氏直が豊臣秀吉の小田原征伐に屈し後北条氏は5代で滅亡した。北条早雲は、室町将軍家の重臣伊勢氏の出自で将軍足利義政や義視・義尚に近侍したとされるが、前半生に目立つ事跡はない。40歳を過ぎた頃、妹北川殿が嫁いだ駿河守護今川義忠が戦死し家督争いが発生、調停に乗り込んだ早雲は扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退け甥龍王丸(今川氏親)の擁立に成功、戦功により興国寺城を与えられ60歳にして一国一城の主となり、後嗣無く死去した伊豆韮山城主の養子に入って鎌倉幕府執権北条氏の名跡を継いだ。1491年、室町将軍家・両上杉家と古河公方の和解で宙に浮いた堀越公方の足利政知が亡くなると、北条早雲は戦乱で守衛が手薄となった堀越御所を急襲し後継者足利茶々丸を追放し、寛容な帰服受入れと減税で土豪と領民を靡かせて伊豆支配を確立、東国戦国時代の端緒といわれる快挙を成遂げた。1494年、明応の政変で兄茶々丸を憎悪する足利義澄が将軍に就任すると、北条早雲は三浦氏の内紛に乗じて新井城に籠る茶々丸を攻め滅ぼし、翌年には東方に鞍を返して扇谷上杉方の大森藤頼を騙し討ちして小田原城を奪取、関東制覇の拠点を打ち立てた。その後の北条早雲は、今川家・扇谷上杉家の被官として各地に転戦しつつ、伊豆・相模の戦国大名として独立を果し領国経営に勤しんだ。機略縦横で連戦連勝だったが、今川軍の総大将を務めた三河攻めでは徳川家康の曽祖父松平長親に唯一といえる黒星を喫している。茶々丸征伐の盟友で相模三浦氏の旧領を継いだ三浦義同を族滅して後顧の憂いを絶ち、優秀な嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城で88歳の大往生を遂げた。早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれた。
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戦国時代の先駆け北条早雲には多くの伝説がある。一説によると、応仁の乱に嫌気がさした足利義視は一時伊勢に隠退したが、随従した北条早雲は義視の帰京後も伊勢に留まり、同地で意気投合した仲間6人(御由緒六家;荒木兵庫・多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・大道寺太郎・在竹兵衛)と盟約し関八州制覇を志して共に駿河今川家に乗り込み、早雲が城持ちになると盟友達は家老として一軍を率い後北条氏の覇業を支えたという。伊豆征服直後の正月二日「一匹の子鼠が杉の大木二本をかじり倒すと、鼠は虎に化した」初夢をみた北条早雲が「子年の早雲が両上杉を倒して関東を征する瑞夢」と喜んだ話も伝わる。所領と兵力を持たない今川家の謀臣が伊豆・相模二国を征するまでに謀略を駆使したのは事実だろう。一説には、伊豆を征服し関東に野心を研ぐ北条早雲は小田原城を望んだが、城主で扇谷上杉家重臣の大森氏頼は一筋縄ではいかない人物で、油断を誘おうと手厚い贈物を遣わして懇親を申し込むも逆に警戒され撥ね付けられた。北条早雲は冒険を避けて堀越公方足利茶々丸追討に専念したが、茶々丸を滅ぼした頃に運よく大森氏頼が病没し子の大森藤頼が立った。それでも早雲はすぐには攻めず、再びせっせと贈物をして若い藤頼を篭絡し攻守同盟まで結ぶに至り、扇谷上杉氏当主定正の落馬死の機に満を持して腰を上げた。使者を小田原に遣って「狩りのため勢子を箱根山に入れたい」と申入れると、油断しきった大森藤頼は機嫌よく了承、勢子に化けた軍勢をまんまと越境させ、日没を待って千頭の牛の角に松明を結びつけ小田原城を急襲、周章狼狽した大森藤頼は命からがら逃げ落ちた。小田原を得た早雲は再び猫被りに戻り、しおらしくも扇谷上杉氏への帰順を願い出て報復をかわし、以後は伊豆・相模の領国経営に専念して上杉氏打倒と関東制覇の夢は子孫に託した。領国からの盲人追放に擬して他国にスパイを送り込んだという話も伝わる。一方、富国強兵の現実的要請からであろうが、占領地の豪族や領民には大いに仁政を施し歓迎をもって迎えられたという。
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北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。
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北条氏康の政治力は祖父早雲譲りで戦国時代随一といわれる。領国拡大よりも統治に重きを置き、無理な外征を控えて戦費を抑え他国より低い税負担を実現した。北条領を引き継いだ徳川家康は税率引上げに苦労し、忍者の風魔小太郎(江戸幕府創設直後に処刑)や鳶沢甚内(幕府に帰順し目明し兼古着商支配役を世襲)など北条家遺臣が成した盗賊団の跳梁にも手を焼いた。義戦の名の下に実益乏しい外征に明け暮れ重い戦費負担を強いた上杉謙信とは好対照で、局地戦では敵わなかったものの、家臣と領民の支持が長期持久戦を可能にし広い領土を保つことができた。豊臣政権の太閤検地に先駆けで領内の検地を徹底し度量衡も統一、検地即ち隠田摘発は農民の反発を買うものだが、徴税体制強化の代わりに減税の恩恵を施した。中間搾取排除で領民の負担を減らしつつ一極支配体制を固め、目安箱を設置し、凶作や飢饉の際には柔軟に税の減免を施して酷いときには徳政令を施行、それでも領主層=家臣団や豪商を手懐け得たのは政治力の成せる業であった。北条氏康は、城下町小田原の都市開発にも鮮やかな手腕を見せた。街区や上水道(小田原早川上水)を整備し、全国から商人・職人を呼び寄せて商工業を振興、文化人・芸人を招聘して活気も演出し、清掃にも気を配り、西の山口と並び称される東国最大の都市を築き上げた。戦国期の城郭は、松永久秀の信貴山城や斎藤道三の稲葉山城に代表される山城から経済活動に有利な平城へ移り、末期には堀と防塁で城下を囲い込む巨大要塞(総構え)へ発展したが、小田原城はその画期を為す傑作であり、攻低守高の時代にあって難攻不落を誇った。海外貿易と重商主義を成功させ兵農分離まで到達した織田信長ほど派手ではないが、北条氏康の政治手腕は封建領主としては抜群で領民にとっては最も有難い名君であった。  
 

 

 
 
 
伊藤一刀斎 (伊藤一刀斎景久)

 

   1550/1560? - 1628/1632/1653?
伊東一刀斎 1

 

(生没年不詳) 戦国時代から江戸初期にかけての剣客。名字は伊藤とも。江戸時代に隆盛した一刀流剣術の祖であるが、自身が「一刀流」を称したことはなかったという。諱は景久、前名、前原弥五郎。弟子に小野善鬼、古藤田俊直、神子上吉明ら。
一刀斎の経歴は異説が多く、どれが正しいか拠り所がない。生没年は、1550年(天文19年)生年説、1560年(永禄3年)生年し1628年(寛永5年)没説、また1632年(寛永9年)に90余歳で没説、1560年(永禄3年)8月5日 (旧暦)に生まれ1653年(承応2年)6月20日 (旧暦)に94歳で没説がある。出身地は、一般には伊豆国伊東の人であり、出身地から伊東姓を名乗ったといわれている。(ただし、伊東には伊東一刀斎についての伝承、伝説等は一切伝わっていない)しかし、「瓶割刀」の逸話によれば、一刀斎は伊豆大島の出身で、14歳のときに格子一枚にすがって三島に泳ぎ着き、三島神社で富田一放と試合して勝ち、神主から宝刀を与えられた。この刀で盗賊7人を斬り殺し、最後の1人が大瓶に隠れたところを瓶ごと二つに斬ったという。ほかに、『一刀流傳書』によれば西国生まれとし、山田次朗吉によれば古藤田一刀流の伝書に近江堅田生まれの記述があるという。『絵本英雄美談』によれば加賀金沢か、越前敦賀生まれで、敦賀城主大谷吉継の剣の師だったが、大谷が関ヶ原の戦いで戦死したために浪人し、下総小金原(現在の松戸市小金付近か)に隠棲して死去したともいう。また、終焉地についても丹波篠山説もある。
一刀斎の師と剣術の極意
『一刀流極意』(笹森順造)によると「高上金剛刀を極意とし英名を走せていた中条流の達人鐘捲自斎通宗を江戸に訪ね、就いて自斎から中条流の小太刀や自斎の工夫になる中太刀を学んだ。弥五郎(一刀斎)は日夜一心不乱に鍛錬の功を積んだので(中略)自斎は深く感心して自流の極意、奥秘の刀たる妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の五点を悉く弥五郎に授けた」という。ほかにも、自ら編み出した極意として、愛人に欺かれて刺客に寝込みを襲われ、逆襲したときに生まれたという秘太刀「払捨刀」、他に刃引・相小太刀・越身、鶴岡八幡宮に参籠して無意識のうちに敵を斬り、悟りを得たという「夢想剣」などがある(溝口派一刀流伝書、他流伝書)。「景久師、回國他流戰三十三なりと、没日は七日なりと。年號つまびらかならず」(『一刀流歴代略』)とあるようにその後一刀斎は諸国を遍歴し、勝負すること33度、ただの一度も敗れなかったという。
現存する伝真田信繁写本『源家訓閲集』に収録の「夢想剣心法書」には、1595年(文禄4年)7月のもので署名が「外田一刀斎他二名」とある。外田一刀斎とは鐘捲自斎の別名でもあり、自斎も経歴のよくわからない人物である。したがって、出身地など両者の事績が重なっている可能性もあると考えられる。一方、柳生氏の記録『玉栄拾遺』の注記には、一刀斎の師は「山崎盛玄」とされている。「名人越後」と称された富田重政(富田流)の弟(兄とも)に山崎左近将監景成があり、剣名が高かった。あるいはこの山崎景成が「山崎盛玄」である可能性もある。
唐人との試合
天正年間、相模三浦三崎に戸田一刀斎が諸国武者修行の途次に立ち寄り、多くの入門者があったとされる。このとき、北条氏の家臣、古藤田俊直(古藤田一刀流、または外他一刀流、唯心一刀流の祖)を高弟としていることから、この戸田一刀斎は伊東一刀斎に間違いなさそうである。1578年(天正6年)、三浦三崎に唐人が来航したときに十官という中国刀術の名人がいて、一刀斎は扇一本で木刀を持った十官と試合し、勝ったといわれる。
一刀流の相伝
『一刀流口傳書』、『撃剣叢談』によれば、一刀斎は弟子の善鬼(姓不詳。なお一刀斎との出会いを描いた『耳袋』写本では船頭とあり名は記述されていない。小野姓とするのは俗説)と神子上典膳に下総国小金原(現千葉県松戸市小金原付近。なお『雜話筆記』では濃州桔梗ガ原(乗鞍岳北)とする)で勝負させ、勝った典膳に一刀流秘伝を相伝した。典膳は後に一刀斎に徳川家康へ推薦され1593年(文禄2年)に徳川秀忠に200石で仕えた小野忠明(小野次郎右衛門)である。一刀流は、小野忠明の後、子の小野忠常の小野派一刀流、忠明の弟(次子とも)の伊藤典膳忠也(『剣術系図』彰考館本の注に修行時代兄の前の名前神子神典膳と名乗ったとされる)の伊藤派一刀流(忠也派とも)に分かれ、以後も多くの道統が生まれた。  
 
伊藤一刀斎 2

 

今回は一刀流の始祖、伊藤一刀斎です。伊藤一刀斎景久(いとういっとうさいかげひさ※伊東とも )1550年〜1653年※生没は諸説あります。この一刀斎も出生などに謎が多い人物です。
一刀斎は伊藤弥左衛門友家の子として、天文19年(1550年)伊豆大島で生まれたとされています。幼名は前原弥五郎と称していたそうです。生まれつき身体能力が高く骨格逞しく、力も人より優れて強かったといわれています。伊豆大島という土地柄の為8歳の頃より漁をし育ったそうです。
本当なのかはわかりませんが14歳の時に伊豆大島から格子にすがって三島(現静岡県三島市)まで泳いでわたったといわれています。そして三島神社の床下で起居していたそうです。そんな一刀斎の様子を地元の人々は天狗が島から舞い降りてきたと噂していたそうです。
そんな折、一刀斎は三島に富田流の富田越後守重政の門人の富田一放という剣術者がいるという事を聞きつけ勝負を所望しました。派手やかないでたちの富田一放と全身ボロをまとった一刀斎が対決し14歳の一刀斎が富田一放に勝利しました
これを見ていた三島神社の祠官、織部が感心し神社に伝わる瓶割刀を一刀斎に授けました。この瓶割刀にも色々と逸話があり、抜身を縄でつるしておいた所縄が切れ下にあった酒瓶を真っ二つにしたという話や盗賊7人を斬り殺し最後の1人が大瓶に隠れたところを瓶ごと二つに斬ったという話などがあります。
この瓶割刀は代々一刀流宗家に伝えられていたといわれています。その後、一刀斎は武道高名の師を求め、江戸に出て中条流の達人として知られていた鐘捲自斎の門弟となります。鐘捲自斎の門弟となった一刀斎はその素質を発揮したようで、小太刀、中太刀の秘術を学び入門して数年で誰もかなうものがいなくなったいわれています。そして全てを学んだと悟った一刀斎は鐘捲自斎の下を離れて旅立とうとしました。
しかし師の鐘捲自斎はそれ咎めましたが、一刀斎と木刀で立ち会った鐘捲自斎は一本も打ち込む事ができませんでした。鐘捲自斎が不思議に思っていると一刀斎は「我を打たんとする師の心が我が心にうつるのみ」と答えたそうです。
そんな中で剣心一如(剣は人なり、剣は心なりといわれるように剣は心によって動くものであり、剣と心は源が一つで繋がっている。したがって正しい剣の修行をすれば正しい心を磨く結果になる。という教えです)の妙を悟ったといわれています。
これを一心刀と称して自らの流派を一刀流とし、号を一刀斎としました。生涯居住をかまえず、旅籠に泊まっては「天下一剣術之名人伊藤一刀斎」札を掲げ、生涯で真剣勝負33回、凶敵を倒すこと57人、木刀で打ち伏せること62人という超人的な記録をもった人物でした。
逸話ですが一刀斎が編み出した技に「秘太刀 払捨刀」という技があるそうですがその技が完成したのは愛人に欺かれて(他に好きな男ができたが一刀斎が別れを拒み別れてくれなかったからだとも)刺客に寝込みを襲われた際とっさに生まれた技だとい事です…色々な意味で只者ではないです。
その後、一刀斎は弟子のは善鬼と神子上典膳(みこがみてんぜん)の二人に下総国で真剣勝負をさせ「勝った者に一刀流を相伝する」としました。その勝負に勝ち残った神子上典膳に一刀流を継承させ、一刀斎の瓶割刀を与えたといわれています。
後に神子上典膳は小野忠明(小野次郎右衛門)と名を改め、柳生宗矩と共に徳川将軍家剣術指南役として召し抱えらる様になります。一刀流は小野忠明の後に忠明の弟(実子ともいわれています)である伊藤忠也の伊藤派一刀流と、忠明の三男の小野忠常の系統とに分かれました。
それを区別するために小野家の系統を継いだ忠常の流派が小野派一刀流と呼ばれるようになりました。その後も小野派一刀流には多くの有能な門弟たちが現れ分派していきます。有名な分派では中西派一刀流や北辰一刀流などがあります。
この有名な流派の源流となった一刀流ですが、やはり一番の功績は一刀斎の剣心一如の悟りが大きかったのではないかと思います。自分自身でも幾度となく真剣勝負の立会いをした一刀斎ですが戦いの中に身をおきながらも、剣は心によって動くものであり、剣と心は源が一つで繋がっている。
だからこそ正しい剣の修行をすれば正しい心を磨く結果になるという考えに至ったことが後の剣術界を牽引していく一派を作る源になったのだと考えます。この剣心一如は現在の剣道でも剣の修練は人間形成の道であるという教えにもあるように数百年経っても変わらず教えられています。人間の想いや教えというものが繋がることで歴史は紡がれていくのだという事を改めて実感しました。 
 
伊藤一刀斎 3 長遠山常楽寺

 

実戦派将軍家兵法指南役・小野忠明
2代将軍徳川秀忠、3代家光の兵法指南役を務めた柳生宗矩には、ライバルがいました。
一刀流の小野次郎右衛門忠明<ただあき>です。文禄2(1593)年、29歳の時に江戸へ出て、徳川家康に召し抱えられました。200石をたまわり、家康の子秀忠の兵法指南役となります。元の名を神子上(御子神)典膳<みこがみてんぜん>といいました。なにか、こちらの方がチャンバラ小説の主人公みたいでカッコいいのですが、確かに将軍に剣術を教える師匠にしては、重みに欠けるような気もします・・・。
忠明は、合戦の現場でも活躍しています。慶長5(1600)年に秀忠が真田昌幸・信繁(幸村)父子の籠る信州上田城を攻めた時も、奮戦目覚ましく中山照守・辻久吉・鎮目惟明・戸田光正・斎藤信吉・朝倉宣正とともに上田七本槍の1人に数えられています。ただし関ヶ原の前哨戦であるこの戦いは、まんまと真田の謀略にはまった秀忠軍が足止めを食らい、関ヶ原に遅参する原因となってしまいました。忠明も軍令違反の罪で、一時真田信之にお預けの身となります。信之は真田昌幸の嫡男ですが、父や弟と袂を分かって徳川方についていました。
軍令違反とは言っても、主君に忠義を尽くした結果であることには違いなく、復帰した後は加増を重ね、600石を領するまでになりました。しかし性格が直情径行で、妥協や要領良く振る舞うことを嫌った忠明は、対人関係で衝突を起こすことが少なくありませんでした。将軍相手の稽古でも手加減せずに立ち合ったので、次第に疎んじられるようになったといいます。そしてついに、元和元(1615)年の大坂夏の陣で、同僚の旗本たちとの間に諍いを起こし、閉門を命じられることになります。
のちに許されましたが、もう人間関係のゴタゴタにはうんざりしてしまったのか、家督を子の忠常<ただつね>に譲り、知行地の下総<しもうさ>国埴生<はぶ>郡寺台村(千葉県成田市)に隠棲してしまいました。そこで晩年を過ごし、寛永5(1628)年11月7日に64歳で亡くなります。遺体は同地の永興寺に葬られましたが、小野家は幕臣なので、歴代の職場は当然江戸、すなわち今の東京です。柳生家の墓が所領地である奈良・柳生の芳徳寺以外に練馬の広徳寺にもあるように、忠明や忠常の墓も、新宿の長遠山常楽寺にあります。
常楽寺は都営大江戸線の牛込柳町駅西口を出てすぐ右で、大きなマンションと入口を接しています。立札一つなく、他の墓塔たちに紛れるように立つ墓碑の正面には、中央に忠明の師である一刀流流祖伊藤一刀斎、その右側に忠明、左側に忠常の戒名と俗名が刻まれています。そしてこの墓碑の右隣には、忠明の子孫で11代将軍徳川家斉<いえなり>に仕え、家伝の剣技をことごとく台覧するという栄誉に預かった小野忠喜<ただよし>の墓が立っています。つまり、忠喜が流祖と祖先を供養するために造ったのが、忠明ら3者連名の墓なのでしょう。
ちなみに一刀流には古藤田一刀流・水戸一刀流・溝口一刀流など諸派があり、小野家に代々伝わるものを小野派一刀流といいます。ところが資料によって、小野派一刀流の祖を忠明とするものと忠常とするものがあります。これは、忠明を一刀流の正統者とし、忠常以降を小野派とする考え方があるためです。
忠明が一刀斎から道統を受け継ぐに当たっては、血なまぐさいエピソードが残っています。
一刀斎には忠明(当時は神子上典膳)のほかに、もう1人小野善鬼<ぜんき>という高弟がいました。一刀斎はあろうことか典膳と善鬼に真剣勝負をさせ、勝った方に一刀流を継がせると言い出したのです。
善鬼はもと船頭でした。足場の不安定な船の上で櫓を漕ぐ生活が、善鬼の腕や足腰を鍛え上げたのでしょう、腕力に物を言わせた太刀筋は凄まじいものがありました。気性も荒く、言動は粗暴だったそうです。
さて、2人の果し合いですが、伎倆は互角、相手の手の内を知り尽くした者同士です。どちらも容易に仕掛けることができません。長い睨み合いの末、一刀斎は一端、勝負を中断させました。
その場にピーンと張り詰めていた空気が緩んだ直後、信じ難いことが起こります。なんと善鬼が、流派の後継者に与えられる秘伝書を掴み取り、逃走してしまったのです。後を追った典膳は、荒屋の庭先に置かれていた瓶の中に隠れた善鬼を見つけて瓶ごと叩き斬り、即死させてしまいました。
卑怯な振る舞いをしたとはいえ、善鬼とて一刀斎にとっては手塩にかけて育てた愛弟子です。一刀斎は善鬼の妄執を弔うべく小野姓を名乗るよう、典膳に求めたといいます。ただしこれは作り話のようで、幕府が編集した武家系図集である『寛政重修諸家譜』には、家康の命で母方の姓を名乗ったのだと記されています。
小説なのですが、ひろむしがおもしろいと思ったのは、峰隆一郎氏が『剣鬼、疾走す』などで書いた説(?)です。それによると、実は小野忠明は神子上典膳ではなく小野善鬼で、一介の船頭だった善鬼が、氏素性のはっきりした武士である典膳になりすまして、徳川に仕えたというものです。突拍子もない話ではありますが、忠明がのちに見せる狷介な性格が、言い伝えられる善鬼の言動と相通じるものがあるような気がして、妙に納得してしまいました。
いずれにせよ、ほとんど人を斬ったことのない柳生宗矩と違って、小野忠明が戦いの場数を踏んだ実力派ファイターであったことは確かでしょう。それだけに、彼には真偽はともかく、剣豪らしいエピソードが豊富です。徳川家に仕えるきっかけについても、宗矩がらみの面白いものがあります。
小野忠明vs柳生宗矩
2人の将軍家兵法指南役、小野忠明と柳生宗矩は、ほぼ同じ時期に徳川家に仕官しています。先に仕えたのは忠明で、文禄2(1593)年のことです。宗矩はその翌年で、忠明の方が1年先輩になります。
忠明の就職経緯については、いくつかのエピソードが伝わっています。
たとえば、師の伊藤一刀斎景久<かげひさ>が徳川秀忠の剣術師範にスカウトされた時、諸国武者修行を続けることを望んで、代わりに忠明を推薦したというものです。これは、宗矩が父石舟斎の代わりに徳川家に仕えたのとよく似ていて、いかにもありそうな話です。ただ、これに激怒した兄弟子の小野善鬼と命をかけて決闘するという、前回の日記で書いた尋常でない話が付いてくることになるのですが・・・。
また、こんなのもあります。江戸近郊の村で、剣術使いが人を殺して民家に立て籠りました。家康は、甲州流兵学者の小幡勘兵衛景憲<おばたかんべえかげのり>を検使として派遣し、忠明に賊を倒すことを命じます。忠明は勝負が始まるやたちまち相手の両腕を斬り落として勝ちを収めました。勘兵衛の報告を聞いた家康は、忠明の働きを賞し、旗本に取り立てたというのです。ちなみに小幡景憲は、後に忠明から免許を授かり、神子上一刀流を創始しています。
極めつけの話としては、宗矩と忠明の直接対決のエピソードがあります!
江戸に出た忠明は、宗矩に勝負を挑むために、柳生邸に乗り込みました。大小を取り上げられた忠明に対して、宗矩は真剣を抜き放ち、「わが道場は、並みの道場ではない。将軍家指南役である。それを知って試合を挑んでくる者は、手討ちにすることになっている」と言いました。周囲を見回した忠明は、一寸八尺ばかり(約55センチ)の薪の燃えさしが落ちているのを見つけ、それを取り上げて立ち合いました。
宗矩は汗を流しつつ忠明に斬りかかりますが、その刃先は忠明の衣服に触れることさえできません。それどころか顔から衣服にかけて、燃えさしの炭をさんざんなすり付けられてしまいました。宗矩が偉かったのは、そこで弟子たちを使ってよってたかって忠明を斬り殺すというような卑劣なマネをしなかったことです。忠明の腕に心から感服した宗矩は、彼をその場で待たせたまま登城します。そして大久保彦左衛門に会って、忠明を将軍家で召し抱えるよう推挙したといいます。
最初に書いたように、徳川家に仕えたのは忠明の方が先なので、このエピソードは当然、真っ赤な嘘です。そうは言っても、忠明自身にも柳生には負けぬという自負があったのでしょう、宗矩の子どもたちの剣術修行法について、上から目線のアドバイスをしたと伝えられています。
どのようなアドバイスかというと、忠明は宗矩に対して次のように言いました。
「ご子息たちが上達するよい方法がある。罪人のうちから腕の立つ者をもらい受けて真剣を持たせ、これを相手にして斬り捨てさせることだ」
乱暴ではありますが、実戦派の忠明らしい言い分です。それに対して宗矩は、「いかにも、いかにも」と頷きはしたものの、当然のことながら実行には移しませんでした。将軍家指南役の子どもに、そのような人斬り稽古をさせられるはずもありません。それでも、その場では忠明を立てて否定しないあたり、世知に長けた宗矩らしい、大人の対応といえましょう。
立身出世という面では、大名にまでなった宗矩に遠く及ばなかった忠明ですが、剣術としての一刀流は、なかなかの隆盛を誇ることになります。息子の忠常が受け継いだ小野派一刀流、忠明の弟伊藤典膳忠也<てんぜんただなり>を祖とする忠也派一刀流などに分派して諸国に広まり、江戸時代の終わりには、その流れを汲む北辰一刀流が風雲急を告げる歴史の舞台で活躍、あるいは暗躍したキーパーソンを多く輩出しています。
新撰組の隊士でしたが、それぞれの事情から隊を離れて悲劇の最期を遂げた山南敬介・伊東甲子太郎・藤堂平助、新撰組の母体となった浪士組の募集に応じて京に上るも、近藤勇らと対立して袂を分ち、江戸に戻った後、幕府見廻組に暗殺された尊王攘夷の志士清河八郎、桜田門外の変で大老井伊直弼の首級をあげた有村次左衛門、変を起こした水戸浪士たちに精神的な影響を与えた海保帆平<かいほはんぺい>、西郷隆盛に直談判して勝海舟との会談を実現、江戸無血開城への道を開いた山岡鉄舟、もはや説明不要の幕末一番人気のヒーロー坂本龍馬など、その人材たるやまさに綺羅星の如くです。
それに引きかえ、幕末維新史において柳生新陰流の名を、少なくともひろむしは聞いたことがありません。
忠明は徳川家康に一刀流の極意を尋ねられた時、それは相手を一刀のもとに斃すことにあり、他流派のような定まった型などない、と答えています。いつ命の危険にさらされるかわからない動乱の中では、剣禅一如を目指し、心法に重きを置く柳生新陰流よりも、実戦至上主義の一刀流の方が、時代のニーズに合っていたのでしょう。結果的に、広く世に広まった一刀流は、現代剣道のルーツと言われています。
では、そもそも一刀流の創始者伊藤一刀斎とはどのような人物だったのでしょうか?
剣鬼・伊藤一刀斎
現代剣道のルーツといわれる一刀流ですが、その流祖伊藤一刀斎景久<いとういっとうさいかげひさ>の生涯は、謎に包まれています。
まず、その生国がはっきりとしません。伊豆大島(東京都)をはじめ、伊豆国伊東(静岡県)、近江国堅田(滋賀県)、加賀国金沢(石川県)、越前国敦賀(福井県)などいくつもの説があります。生年も天文19(1550)年とも永禄3(1560)年ともいわれます。さらに名字も、伊藤ではなく伊東とするものもあります。もともとの名は、前原弥五郎といいました。
生来たくましい肉体を持ち、腕力があるばかりでなく敏捷性にも優れていたそうですから、もともと剣の天分に恵まれた人だったのでしょう。14歳の時に大島を出たといいますが、その手段が凄い。なんと板1枚を抱えて海に飛び込み、それにすがり、泳いで三島(静岡県)に渡ったと伝えられています。三島大社の床下に起居していた一刀斎は、富田一放<とだいっぽう>という刀術者と試合をしました。一撃で一放を倒した一刀斎に、立会人を務めた同社の神官織部<おりべ>が瓶割刀<かめわりとう>を授けました。この刀は同社に奉納されていたもので、抜身のまま天井の梁に括りつけてあったのが、縄が切れて落ちた時、下にあった酒瓶をまっ二つに割ったといいます。一刀流の宝刀とされ、代々宗家に受け継がれました。
その後江戸へ出て、中条流から鐘捲<かねまき>流を創始した鐘捲自斎<じさい>の門人となります。5年もたたずに、門弟の中で一刀斎に敵う者は1人もいなくなってしまいました。「私は御流儀の妙所を会得しましたので、お暇をいただきます」そう自斎に言いましたが、そんな短期間で妙境に達することができるはずがないと認めなかったので、ならば証明するまでと、直に木刀を取って立ち合うこととなりました。
結果、3度立ち合い、3度とも一刀斎の勝利に終わります。自斎が理由を尋ねると一刀斎は、「先生が私を打とうとすると、それが私の心に映るのです。私は、ただそれに応じただけです」と答えました。鐘捲自斎も達人といわれた剣客です。それを相手に、「あんたの打つ手は、すべて見え見えですよ」と言っているのですから、驚くべき天才ぶりです。感心した自斎は、自流の極意をことごとく一刀斎に授け、快く彼を送り出しました。円満退社というわけです。この時授けられた5つの極意─妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣<こんじちょうおうけん>・独妙剣はそのまま一刀流の極意となり、全ての一刀流の技はここから発生したといわれています。
一刀斎はさらに外他<とだ>道宗から判官流を学びましたが、ここでもすぐに奥秘を悟り、道宗のもとを去っています。それからは諸国を遍歴して、数多の武芸者と勝負を重ねていきます。その戦歴たるや、凄まじいものがあります。真剣勝負33回、殺した相手57人、木刀で打ち倒した者62人と伝えられています。敗れて門人となった者に、唯心一刀流の祖古藤田勘解由左衛門俊直<ことうだかげゆざえもんとしなお>、そして小野善鬼、小野次郎右衛門忠明らがいます。
剣名高い一刀斎は、織田信長や徳川家康にスカウトされたこともありました。しかし、旅から旅への自由な生活を愛し、誰にも仕えることなく流浪の生活を続けました。老齢に至り、兄弟子小野善鬼に勝って一刀流継承者となった忠明に伝書と瓶割刀を授けると、飄然といずこかへ立ち去りました。以後、忠明は2度と一刀斎と会うことはありませんでした。その晩年は不明です。一説では94歳まで生きたといいますが、彼ほどの天才が、その後エピソードらしいエピソードを何も残していないのは奇異な感じがします。
7月1日の日記で紹介した、小野忠明=小野善鬼説を取る峰隆一郎氏の小説では、神子上典膳<みこがみてんぜん>と組んで善鬼を亡き者にしようとした一刀斎は、善鬼の返り討ちにあって決闘地である下総国(千葉県)小金ヶ原<こがねがはら>で命を落としたのだとしています。
これは峰氏の創作ですが、それなりに説得力があります。従来の説でも、一刀斎は立会人とは名ばかりで、典膳の助太刀同様の働きをして、2人がかりで善鬼を討ち果たしたというものがあります。さらに、典膳が一刀斎を殺したという伝承まであるのです。
一刀斎は望みどおり、お気に入りの典膳を後継者にすることに成功したものの、この時の死闘が老いの身にこたえ、それからほどなくして亡くなったのではないでしょうか。戦いで深手を負ったのかもしれませんし、優秀な弟子の1人を騙まし討ちにしたことに対する良心の呵責も、一刀斎の老いた肉体を蝕んだのかもしれません。あるいは秘密を守るために、典膳が唯一の証人である師をも葬り去ったと考えるのは、うがち過ぎでしょうか?
流派の未来を典膳に託し、思い残すことのなくなった一刀斎は、剣の道を志して以来駆け抜けてきた修羅の道からようやく抜け出し、穏やかな安らぎの中で最後の日々を送ったというのが、本当のところだったのかもしれません。
亡くなった場所も定かでない一刀斎が、どこに葬られたのかはわかりません。常楽寺にある墓は小野派一刀流の継承者が、後世になって流祖の遺徳を偲ぶために建立したものです。今度また訪れることがあったら、稀代の剣豪がその人生の終着点においてどのような境地に達したのか、その魂に問いかけてみたいと思います。  
 
伊藤一刀斎 4

 

日本の古流剣術を語る上で、この人を語らずして誰を語るのか。
一刀流の流祖、伊藤一刀斎景久である。最強の剣術家では必ず名前が挙がる、日本剣道史の中でも大物中の大物である。仕合数 三十三回、そのうち真剣勝負 七回 全てに勝っている。
個人的に感じていることだが、剣術で古流と言うと 新陰流 のイメージが強い。全国的な活動状況を見ている限り新陰流 は各地に支部などがあり、現代で最も認知度の高い古流剣術流派であると感じている。
しかし現代剣道の視点から見ると、その辺りの事情はガラリと変わってくる。現代剣道にもっとも色濃く影響を与えた流派と言うことであれば、他の流派の追随を許さず ぶっちぎり感 があるのがこの一刀流である。半身の姿勢が少なく、基本形は向身で型が構成されていて、刀を両手で握り、自分の真正面の相手を斬る。一刀を操ると言った観点からは最も日本剣術らしい流派と言える。
一刀流は江戸時代を通じて、将軍家の剣術指南役であり、もう一つの指南役で実力的には衰えていった柳生新陰流(江戸柳生)とは異なり、幕末まで実力を保持した。その実力の武術談も多い。
しかし、これ程、実力、知名度ともに抜群の流派でありながら 伊藤刀斎景久 と言う人の出生で確かなものない。一般的には伊豆大島の人で 弥五郎(幼名 左五郎) と言うのが通説であろうか。しかし他にも、近江堅田の人であるとか、西国の人であるとか、筑紫の人であるなど、諸説あるようである。14歳の時、大島から戸板につかまって泳いで三島に泳ぎ着いたと有る。14歳で冨田一放と言うものと仕合をして勝っている。
まず訪れたのが、三嶋大社、伊豆国一の宮である。
小説などによると、景久が下働きをしていたなどと言う話を読んだことがありますが定かではりません。しかし、三嶋大社、小田原と言った一円には縁が深い土地であったと思われます。
一刀流と言えば瓶割刀である。諸説の中に以下のような逸話がある。
景久は三嶋大社の神官、織部から宝蔵にあった刀を授けられた。その夜、織部の宅に強盗7人が押し入りますが、その7人を景久がことごとく斬り倒した。その中の一人が瓶の中に隠れたが、瓶ごと一刀両断にした。
瓶割刀が瓶割刀といわれる由縁の一つです。
三嶋大社を去った後は本格的な修業時代に入ったと思われます。
景久は中条流系の鐘巻自斎の弟子であるとされます。
一刀流はそもそも5本の型しかないと言った話を友人から聞いたことがあります。五点の事だと思われます。その後の、小野派、唯心などを見ても単純に五本だけだったとは言いがたいですが、大基本はこの五本のようです。
この五点を鐘巻自斎から習得したようです。このときの逸話が面白い、少し砕けた感じで書くと
景久:師匠、おいら剣術分かっちゃったよ。
自斎:おめーなにいってやがる、少しだけ修業しただけで、剣術極めただと
景久:だって分かっちゃったもんは、しかたないでしょ
自斎:お前性根を叩きなおしてやるから、ちょっと来い、稽古つけてやる
しかし、自斎は全く持って景久にはかないませんでした。
自斎:おめー大したやつだな、一体何がどうして、そんなんになった。
景久:だって師匠、脚が痒い時に、頭掻くバカはいないでしょ、剣術だって同じでしょ
自斎:おめーはやっぱり、大したやつだ、おめーには全部教えてやるよ、全部
逸話によると、こんな感じだと思います。
しかし、景久にも以外に人間臭い話があります。酒をしこたま飲んで、妾と蚊帳の中で寝ていたところ、妾に手引きされ、蚊帳を落とされ斬られかけた事があるらしいです。酒を飲んで愛人と寝ているなんて、隙だらけです。蚊帳を落とされた中にいてはひとたまりもありませんが、運よく敵の刀をもぎ取りました。刀さえ手にすれば怖いものなしです。この窮地を何とか切り抜けたらしいです。そんな時に習得した業が捨仏刀と呼ばれるものです。
このような、面目ないことがあったこともあり、非常に反省したそうです。
景久の逸話で好きなものに以下の話があります。当時、北条家は中国と貿易をしており、三浦三崎には中国からの貿易船が来ていたらしいです。その中に、十官と言う中国剣術の大名人が同船していたようです。十官の腕たるや凄まじいもので、誰も敵うもの無し。しかし、景久だけは そんな大したことないんでないの となり、勝負となります。十官は長木刀、景久は何故か扇子。しかし、激しさ、派手さたるや、この世の物とは思えなかった十官も景久の扇子に押し込まれます。景久は最後には扇子さえも捨てて勝ったようです。
さて史跡めぐりに戻ります。
場所は変わり、鶴岡八幡宮である。
雨が降った後でもあり、多少霞が掛かり何とも厳かである。
鶴岡八幡宮と言えば、景久が夢想剣を編み出した場所でもある。剣道五百年史によると 祈願を籠むること七日、夢に奇術を得たので夢想剣と名ずけ とある。wikiによると 鶴岡八幡宮に参籠して無意識のうちに敵を斬り、悟りを得たという「夢想剣」などがある(溝口派一刀流伝書、他流伝書)とされている。坂東武者の心の拠り所でもある、一度は参拝したいものである。
鶴岡八幡宮は昔は、神仏習合で両方が祀られた場所でした。(鶴岡八幡宮寺)一般的には神宮寺と呼ばれます。明治の廃仏稀釈にて神社となりました。その破壊は凄まじいものだったらしいです。いまや八幡宮の八の字は平和の使者、ハトで形取られています。剣術もそうですが、人をあやめるだけの業ではなく、心を収める業として、自分を律するということも大切にしていきたいものです。
景久の墓は都内にあります。
一つ目は、新宿区原町の常楽寺である。
もう一つも同じ都内ですが少し離れます。京急、新馬場から歩いても10分ほどの場所にある、天妙国寺です。この墓石が伊藤一刀斎景久の墓とされています。しかし日本武芸小伝によるとこの墓は三世、伊藤典膳忠也の墓であるとあります。
景久は、承応二年六月二十日に94歳でなくなったとあります。晩年、丹波笹山で僧になったとか、下総小金ケ原で没したなどの説があるが定かではない。
常楽寺 (新宿区原町)
顕本法華宗の寺院。長遠山常楽寺は慶長法難に依り耳鼻そぎの惨刑にあわれた常楽院日経上人が、江戸の布教の根本道場として日本橋小伝馬町に大伽藍を建立されたが、徳川幕府に破却。
元和元年(1615年)、浅草に常楽寺を復興し、歴代先師が法灯を継承、江戸三カ寺としての威容を誇っていましたが、市区改正に伴い大正9年に現在の新宿、牛込の地に移転しました。
天妙国寺 (品川区南品川)
顕本法華宗・鳳凰山天妙国寺は、弘安8年(1285年)、日蓮大聖人の直弟子である天目上人により創建されました。各時代、地域の有力者に保護され、15世紀半ばには品川湊の豪商だった鈴木道胤親子が17年の歳月をかけて七堂伽藍を建設。天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入る際に宿泊し、翌年10石の寺領を受けました。寺所蔵の『御三代成之覚』には、初代徳川家康が1回、二代徳川秀忠が2回、三代徳川家光が44回、将軍家の宿泊が記録されています。
寺社参詣図『紙本着色妙国寺絵図』(東京都指定文化財)、品川の歴史を記した『妙国寺文書』(東京都有形文化財古文書)、『日什筆曼荼羅』(品川区指定文化財)など、貴重な絵画、古文書が寺宝として伝わっています。境内には、浪花節中興の祖 桃中軒雲右衛門(1873〜1916)、剣の達人 伊藤一刀斎(?一説に1560〜1628) 等のお墓があります。
毎年10月中旬の「御会式」では、19時頃から品川宿の入口・八ツ山踏切付近より品川中から集められた万灯が東海道を賑やかに練り歩き、天妙国寺本堂にてお題目を唱え参拝を行います。一般参拝客も鐘をつくことができる大晦日の「除夜の鐘」には、毎年多くの参拝客が訪れます。  
 
伊藤一刀斎 5

 

伊東一刀斎は、戦国時代から江戸時代に活躍した剣の使い手です。
一刀斎に関しては、生年月日などについて様々言われていますが、定かではありません。
生没年については、1550年から1628年(もしくは1632年没)や、1560年から1653年とも言われています。いずれにしても、長生きしたことがわかります。
伊豆の伊東出身であり、名前はこの伊東の地から取ったといいます。とは言え、伊東の地には、伊東一刀斎に関係する事柄が残っておらず、伝わっていません。
さらに、一刀斎は、伊豆大島の生まれで、彼が愛用していたという瓶割刀の伝説が残っています。
格子ひとつのみで泳ぎ三島に辿り着き、三島の地で彼は富田一放という人物と戦い勝利を収めたので、神主から由緒ある刀を授けられたといいます。その刀を手に、盗賊を成敗していて、残る一人が大きな瓶の陰に潜んだところを、その刀で瓶もろとも斬り伏せたのでした。
また、西の地方の出であり、一刀斎の門人である古藤田勘解由左衛門唯心(ことうだかげゆざえもんゆいしん)が起こした『唯心一刀流』に伝えられているところによると、近江は堅田の出身だともされています。
他にも、北陸の金沢や敦賀の出身であるとしている記述もあります。敦賀城の城主であった大谷吉継に剣術を教えていたけれど、関ヶ原の戦いで吉継が亡くなると浪人となり、下総(現在の千葉県)で余生を過ごし、亡くなったという説があります。
鐘捲流剣術の創始者である鐘捲自斎(かねまきじざい)通宗を訪ね、その下で小太刀や中太刀などを学びました。一刀斎がとても良く学び稽古に励むので、舌を巻いた自斎は、一刀斎に自らの流儀の秘訣を教え、『妙剣』や『絶妙剣』などの5つの秘伝の刀を授けたのでした。
それ以外にも、『払捨剣』や鶴岡八幡宮に参った際に、無意識のうちに人を斬り、それがきっかけで生まれたという『夢想剣』などの剣術などを一刀斎に与えています。
その後の一刀斎は、様々な地域を廻って歩きますが、33回戦ったうちで、敗れたことはなかったのです。
ちなみに、『夢想剣心法書』というのがあります。その中で書かれている名前が『外田一刀斎』とありますが、この名は自斎のまたの名でもあるのです。そういったことから、自斎という人もその経歴などが定かではないので、一刀斎と生まれた土地などが混同している可能性もあります。
柳生氏の記録である『玉栄拾遺』によれば、一刀斎の師匠というのは『山崎盛玄』であるとしています。『山崎左近将監景成』という、「名人越後」と呼ばれた剣の達人がいました。彼が『山崎盛玄』なのだとも考えられます。
一刀斎の作りあげた『一刀流』という剣術は、江戸時代において栄えて広まりました。それでも、自分でその剣術を『一刀流』とは呼ばなかったのです。  
 
伊藤一刀斎 (景久) 6

 

1560年〜1628年
14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
年譜
1560年 前原弥五郎(伊東一刀斎景久)が伊豆伊東にて出生(他に近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で少年期に泳いで脱出し手石島を経て三島へ辿り着いたという伝説もある)
1574年 14歳の前原弥五郎(伊東一刀斎景久)が三島神社で富田一放(富田重政の高弟)に挑み勝利し神主から宝刀「瓶割刀」を授かる、江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(鐘捲自斎。柳生宗厳にも教授した富田景政高弟)に入門
1578年 自ら「体用の間」を体得した伊東一刀斎景久が師匠の戸田一刀斎(鐘捲自斎)に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「妙剣」「絶妙剣」「真剣」「金翅鳥王剣」「独妙剣」を授受、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達す(一刀流創始)
1589年 安房の里見義康が北条氏政へ転じた土岐為頼の上総万喜城を攻撃するが敗退、土岐家を辞した神子上典膳(小野忠明)は伊東一刀斎景久と立合い薪一本であしらわれ入門
1593年 [小金ヶ原の決闘]伊東一刀斎景久に命じられた小野善鬼と神子上典膳が流儀相伝を賭け真剣勝負し勝った典膳が一刀流を相伝(唯授一人)、徳川家康に招聘された一刀斎は忽然と消息を絶ち代わりに推挙した典膳が200石で召抱えられ徳川秀忠の兵法指南役に就任(典膳は小野忠明へ改名)、武芸一筋の忠明は将軍秀忠に嫌われるが一刀流は幕末まで柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇る(明治維新後の剣道主査会の5人のうち2人は北辰一刀流・1人は小野派一刀流の系統、小野派と中西派を継いだと称する山岡鉄舟は一刀正伝無刀流を興す)
1600年 小野忠明(伊東一刀斎景久の一刀流相伝者)が徳川秀忠に従い真田昌幸の籠る信濃上田城攻めで奮闘し「上田の七本槍」に数えられるも軍令違反により蟄居処分、1年後に召し返され200石から600石へ加増される
1616年 大坂陣に諸道具奉行として従軍した小野忠明(伊東一刀斎景久の一刀流相伝者)が同僚を誹謗したことを将軍徳川秀忠に咎められ閉門に処される(のち赦免されるが直情径行の忠明は秀忠に遠ざけられ生涯600石に留まる)
1628年 14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った伊東一刀斎景久が死去(享年68)
交友
中条兵庫頭長秀 / 中条流創始者
富田勢源 / 中条流継承者(富田流)
富田景政 / 中条流と富田家を継いだ勢源弟
富田重政 / 名人越後・加賀前田利家で1万3千石の知行を得た景政養嗣子
戸田一刀斎 / 景政高弟で伊東一刀斎・柳生宗厳の師
山崎左近将監 / 富田一族・山崎流開祖
長谷川宗喜 / 景政高弟・長谷川開祖
富田一放 / 伊東一刀斎が初仕合で斃した富田重政高弟
佐々木小次郎 / 勢源門人で巌流を興すが宮本武蔵に敗北
小野忠明(神子上典膳) / 徳川秀忠の兵法指南役に採用された一刀流継承者 
 
一刀斎先生剣法書

 

要旨
剣道の技術に関する名辞は、非常に難解であり、円滑な技術指導の障害となることも考えられる。しかし、それは、剣道のもつ身体観や技術観などの文化的特性のあらわれととらえることができる。そこで、剣道技術指導書の先行形態である近世の武芸伝書を取り上げ、技術に関する名辞を考察することによって、剣道の文化的特性を明らかにすることを目的とした。
本稿では、一刀流の伝書である『一刀斎先生剣法書』取り上げたが、それは、一刀流が現代剣道の源流の一つに数えられるためである。ただ、流祖伊藤一刀斎みずからが書いた伝書というものは現在伝わらず、一刀流を理解するためには、その門人達の伝書によるしかないのである。そこで、一刀斎の門人古藤田俊直を祖とする唯心一刀流の伝書『一刀斎先生剣法書』を現代語訳し、技術に関する名辞をスポーツ教育の視点から考察することにした。その結果、従来から使用されている「事理」、「水月」、「残心」、「威勢」の意味内容が明らかになった。なお、今回の考察は、全16章のうち5章までである。
はじめに
伊藤一刀斎景久を開祖とする一刀流が、近代剣道の成立に甚大な影響を及ぼすことは周知の事実である。しかし、一刀流の剣法理論の検討は、一刀斎の生の言葉≠伝えた口伝の書などが現存しないためか、それほど活発に行われているとはいえない。したがって近代剣道における一刀流の影響の研究は、一刀流の剣法理論の確認という本質的かつ基礎的な作業を欠くゆえに、いったい一刀流剣法理論の何が近代剣道に伝わり、何が伝わらなかったのか、その点の検証に着手するための第一段階にも至っていないというのが現状であろう。この現状を打開するためには、一刀流の剣法理論を伝書によって的確に把握すること−それも一刀斎の在世時により近い時期に執筆された伝書によって把握すること−が必要不可欠の作業となろう。そこで本稿では、一刀斎の門人古藤田勘解由左衛門俊直を祖とする古藤田家の伝書で、寛文四年(1664)に成立した『一刀斎先生剣法書』を取り上げ、これを現代語訳し随時これに補説を加えることにする。この作業は、前述の通り、一刀流の剣法理論を把握するための第一歩という意味を有する。
作業を進めるについては、凡例に記した通り、役割の分担を行った。すなわち『一刀斎先生剣法書』は古典籍であり、これを古典作品として厳密に解釈することを長尾が中心となって行い、その作業を踏まえてスポーツ教育に有用とされるマイネル(Kurt Meinel)のスポーツ運動学の視点から、技術に関する伝書中の名辞の意味内容を検討し、補説を施すことを竹田が中心となって行った。長尾の作業は現在の古典学の成果を活用して、この伝書を正しく読み解かんとするものであり、竹田の作業はスポーツ運動学の視点から江戸時代の伝書に説かれた技術に関する名辞の意味内容を解釈するものであり、ともに一つの試みとして、ここに提示するものである。
凡例
◎ 訳注の底本には、今村嘉雄『日本武道大系』第二巻・剣術(2)(同朋舎、1982)に収録された、京都鈴鹿家所蔵本『一刀斎先生剣法書』を用いた。但し、句読点は適宜に改めた箇所がある。また、参考資料として杉浦正森『唯心一刀流太刀之巻』を用いたが、これも『日本武道大系』第二巻所収のテキストに拠る。ちなみに『一刀斎先生剣法書』は寛文四年(1664)に、『唯心一刀流太刀之巻』は天明三年(1783)に稿成ったものである。
◎ 本書は16章から成るが、これを適宜に段落に分かち、そこに語注、現代語訳、そして必要に応じて補説を加えた。
◎ 語注は長尾が担当し、補説は竹田が担当した。現代語訳は両者で検討、吟味した上、ここに掲出した。なお、抄訳ではあるが、本書の現代語訳を試みたものに、吉田豊『武道秘伝書』(徳間書店、1968)があり、適宜に参照した。
第1章
(1)
夫れ当流剣術の要は事(わざ)1)也。事を行ふは、理2)也。故に先づ事の修行を本として、強弱・軽重・進退の所作を能く我が心躰に是を得て、而る後其事敵に因て転化3)する所の理を能く明らめ知るべし。たとへ事に功ありと云ども、理を明に知らずんば勝利を得がたし。又理を明に知たりと云ども、事に習熟の功なきもの、何を以てか勝つ事を得んや。事と理とは、車の両輪・鳥の両翅のごとし。
【語注】
1)事…底本は「わざ」と訓む。一般に「技術」と解されることが多いが、本稿ではスポーツ運動学における用語「技術」との混同を避けるため、敢えて「技」と訳しておく。
2)理…「事」に対比するならば「ことわり」と訓むべきであろう。ものごとを行うための道理、正しい理論。真理。「事」と「理」とが不即不離の関係にあることを説くのは、仏教の影響であろう。例えば、中村元・福永光司等編『岩波仏教辞典』(岩波書店、1989)では「事」を「個別的具体的な事象・現象」、「理」を「普遍的な絶対・平等の真理・理法」と定義し、「華厳宗では、〈事〉と〈理〉とは融通無礙の関係であると説き……普遍的な〈理〉と個別的な〈事〉とが一体不可分であることを強調し、〈事理〉もしくは〈理事〉の語は中国華厳宗の教理を代表する言葉の一つとなった」(p455)と解説する。仏教にいう事理と、本書にいう事理とはその意味するところは異なるが、事と理とが不即不離の関係にあるという発想は一致する。加えて、北宋の程願(1033〜1107)がこうした華厳宗の思想に影響され、“事理一致”を説いたことも筆者の念頭にあったかもしれない。ただし、本書が直接的に典拠としたのは、沢庵宗彭『不動智神妙録』であろう。『不動智神妙録』は寛永15年(1638)頃に執筆され、柳生宗矩に与えられたものであるが、写本の形で世に流布し、本書の筆者もその一本を披見したものと考えられる。この『不動智神妙録』(日本武道学大系第九巻)の中で沢庵は「理を知りても事の自由に働かねばならず候。身に持つ太刀の取まはし能く候ても、理の極り候所の闇く候ては相成まじく候。事理の二つは車の輪の如くなるべく候」(p64)という。文辞が似通うことから見て、本書の筆者がこの沢庵の言に影響を受けたことが明らかに看取されよう。
3)転化…うつりかわる。変化しつつ推移する。ここでは敵の動きに応じて変化することと解した。この発想は、古くは中国兵家の書『三略』などに見えるもので、おそらく「天地神明にして、物と推移し、変動常無し。敵に因て転化し、事の先と為らず、動かば輒ち随ふ」(『三略』上略)などとあることを念頭に置こう。
【現代語訳】
そもそも当流派の肝心な点は技にある。技をつかう(ために必要である)のは正しい道理である。そのため先ず第一に技の修得を基本として、強弱・軽重・進退などの動作を十分に自己の身体に会得して、そこではじめてその会得した技が敵に応じて変化するという道理を明確に理解すべきである。たとえ技に習熟するという長所があったとしても、道理を明確に理解していなければ勝利を手に入れることは難しい。また道理を明確に理解していたとしても、技に習熟していないものは、どうして勝つことができようか(到底できはしない)。技と道理とは、車の二つの車輪や鳥の二つの羽のような(不即不離の)ものである。
【補説】
「事」は、「技術」ととらえられがちであるが、「技術」の概念規定は混乱し、統一が待たれるとの指摘もある1)。そこで、本論では、マイネルの理論に従い、スポーツ技術2)を合目的的で経済的な運動課題解決の仕方であり、個人によって伝播され、公共性をもつものであるととらえる。この視点から解釈すると、ここで示される「事」は、習熟の位相3)をもち、練習対象としての目標運動であり、「技術」ではなく、課題解決のために遂行された運動経過や運動形態、あるいは「技」と理解できよう。また、「理」は、「技」の道理と考えることができるが、この「技」は、最高に習熟した運動経過や運動形態としての「技」であり、これを構成する理論と理解できる。
1)技術の概念規定については、以下のように述べられている。
「これらの技術の内容をベネットは、次のようにまとめている。
1個人的な運動習熟としての技術
2指導内容として、一定領域の技能法則の総和としての技術
・・・(中略)・・・クーローも述べているように、概念規定に関してはかなり厳密な考察がなされているドイツ語圏においてさえ、技術という用語に対して多様な見解が示されており、その統一が待たれるところである。」(金子明友、朝岡正雄編著(1990):運動学講義、大修館書店、p68)
2)スポーツ技術は、マイネルの理論によれば以下のように解釈されている。
「スポーツ技術は、ある一定のスポーツ課題をもっともよく解決していくために、実践の中で発生し、検証された仕方であると解される。その解決の仕方は、合理的でなければならない。つまり、それは、現行の競技規則の枠内で、合目的な、できるだけ経済的な仕方によって高いスポーツの達成を獲得するものでなければならない。」(クルト・マイネル著、金子明友訳(1981):マイネル・スポーツ運動学、大修館書店、p261)
「用具、施設、ルール、戦術選手の能力といった、スポーツの達成を規定しているあらゆる要因を考慮して、特定の課題解決に現在のところ最も合目的的だと判断された、ある具体的な運動の仕方。・・・(中略)・・・さらに、ある個人によって、実際に行われた運動経過それ自体は運動習熟といわれる。ある運動経過がある個人によってどれほど合目的的、経済的に行われようとも、それ自体は他人に伝播されない限り、その人とともに消え去ってしまう運命にある。個人的に実現されたあるすばらしい運動習熟が他の人に伝播され、そこに個人的特殊条件によって左右されない、一定の公共性をもった運動形態が認められたときに、はじめて運動技術が問題になる。この意味の運動技術は、「図式技術」といわれ、それは客観的に定義された行為目標、理想型としてのモデルという機能をもった運動形態と解されて、運動学習においてその習得がめざされる。」(運動学講義、p257)
3)習熟の位相は、マイネルの理論によれば以下のように解釈されている。
「位相は、できるようになるのにかならず通り抜けなければならない運動学習の道程や発展段階を一般的に特徴づけているのである。・・・(中略)・・・新しい運動の習得は、一般的に、3つの特徴的な位相、あるいは発展段階を通過するものであり、それらは位相の主な内容に従って、次のように表される。
位相A:粗形態における基礎経過の獲得:運動の粗協調
位相B:修正、洗練、分化:運動の精協調
位相C:定着と変化条件への適応:運動の安定化」(マイネル・スポーツ運動学、pp.374−75)
(2)
事は外にして、是形也。理は内にして、是心也。事理習熟の功を得るものは、是を心に得、是を手に応ずる1)也。其至に及んでは2)、事理一物にして内外の差別なし。事は即ち理也、理は即ち事也。事の外に理もなく、理を離れて事もなし。然れば術を学ぶ者、事一片に止りて理の正邪を知らず、或は著3)して事の得失を知らざること、是れ偏4)也。事理偏著する則は、敵に因て転化する事能はざる者也と。
【語注】
1)手に応ずる…手の動きにしたがう。手の動くままに技を出す。通常、技が熟練することを比喩する。
2)其至るに及んでは…その極みに達する。この場合、「事理習熟」の究極に達すること。なお、この表現は四書の一、『中庸』第十二章の「其の至るに及んでは、聖人と雖も亦た知らざる所有り」を踏まえるか。
3)著…「着」に同じ。物事に執着する意であるが、ここでは道理にばかり執着すること。仏教用語では、心が物事にとらわれて離れないことをいい、愛著・著心などのように用いる。
4)偏…一方に傾くこと。仏教では、一方に固執した偏った見解を「偏執見」「偏見」という。『唯心一刀流太刀之巻』には「事理、中和を要す」とあり、「偏せず倚せず是を中と云。時に中するを和と云」(p271)と説明する。また、『不動智神妙録』においても「心を一所に置けば、偏に落ると云ふなり。偏とは一方に片付きたる事を云ふなり」(同前、p68)とあり、「偏」を戒める。
【現代語訳】
技は外面的なものであって、これは形である。道理は内面的なものであって、これは心である。技と道理とに習熟することができた者は、これ(=道理)を心に修得して、これ(=技)を手に応用して(技に熟練して)いるのである。その(技と道理とに習熟する)極みに達した場合には、技と道理とは一つのものであって内面、外面の区別はなくなる。(この場合)技は、とりもなおさず道理であり、道理は、とりもなおさず技である。技以外のところに道理もなく、道理から離れたところに技もない。そうであるので剣術を学ぶ者が、技だけにとどまって道理の善し悪しを理解しなかったり、あるいは心にだけ執着して技の可否を理解しない場合、これは偏りということになる。技や道理に偏ったり、あるいは執着したりすれば、敵に応じて変化することができない者となってしまうと(先師一刀斎はいわれた)。
(3)
故に当伝の剣術は、先師一刀斎より以来、事理不偏1)を主要として、剣心不異2)に至る所の伝授を秘所とす。予3)、当流の末葉として此術を学ぶと云へども、愚才不功にして其妙所を知らず。雖然弟子の執心黙止がたきに因て、伝来事理の大方を改て一紙に是を記す。実に管を以て天を窺ふ4)が如く、後見の嘲を求るに似たり。
【語注】
1)事理不偏…技術、道理のいずれにも偏らないこと。前節において「事理偏著」することを戒めることに通ずる。前述の通り、『唯心一刀流太刀之巻』においては「事理要中和」(p271)と説明する。
2)剣心不異…「剣」を剣を操作するための技術、「心」を道理と考え、技術と道理とを一致させることと解する。前節にいう「事理一物」の境地がこれに当たるか。後出、第2章(3)の「構心に不異之位」項をあわせ参照されたい。
3)予…謙譲の意を含む一人称。この書を記した古藤田弥兵衛俊定を指す。本書の識語には伊藤一刀斎景久、古藤田勘解由左衛門俊直、古藤田仁右衛門俊重、古藤田弥兵衛俊定とあり、これは一刀流の極意が一刀斎から古藤田家へ、俊直−俊重−俊定と引き継がれたことを示す。この古藤田家に継承された一刀流(唯心一刀流)は、神子上典膳忠明(のちに小野氏を称す)から伊藤典膳忠也(忠也派)、小野次郎右衛門忠常(小野派)へと展開する一刀流とは別系統である。ちなみに『唯心一刀流太刀之巻』の筆者である杉浦正森の父正備と叔父正景は、俊定の愛弟子であった。
4)管を以て天を窺ふ…管の小さな穴から天空をのぞき見るという意から、自己の見聞の狭いことをいう。管見。
【現代語訳】
したがって当流派の剣術は、先師一刀斎以来、事理不偏ということを要点として、剣心不異に到達するための伝授を秘伝としている。私は、当流派に連なる者としてこの剣術を学んでいるが、愚かで何の長所もなく、まだその妙所も理解していない。そのような状態ではあるが弟子たちが熱心に教えを求める気持ちを捨て置くこともできず、よって伝来の事理のあらましを改めてここに書き記したのである。まことに、細い管の穴から天空を見るかのような狭い見解であり、後世これを見る人の嘲笑を進んで求めているようなものである。
【補説】
「事理一物」、「事理不偏」、「剣心不異」は、課題遂行の運動経過(事=形=外)と最高習熟の運動経過や運動形態を構成する理論(理=心=内)が一致することを示している。これは、心と体の一体、あるいは心身一如を意味するものであり、ここに一刀斎の技の習練や技の捉え方の理念がうかがえる。
また、「理」を意識しながら習熟した運動形態を習得しようとすることが運動学習であると捉えると、「事理一物」は、運動学習の最終の習熟段階である運動の自動化1)がなされた段階を意味しているといえる。
1)運動の自動化は、マイネルの理論では、「ある運動を行なうとき、特別な注意をその運動遂行のために払わなくてもできるようになることを自動化と呼ぶ。」(マイネル・スポーツ運動学、p.470)とし、具体的には、「それらの動きは大きなスピード、安定さ、精確さで特徴づけられ、流れるようで、滑らかであり、まさに軽々と、何の苦もなく、あたりまえのように見えるものである。運動をするときにかならず費やされるはずのたいへんな労力や努力はその動きにはみとめられない。運動が行われていくうちの空間・時間関係の一種の定常性や規則性はそれほど機械的な精確さではないのに、しばしば機械的精確さの印象をよび起こすのである。運動する者の注意はもう運動経過や手足の操作の個々に対しては向けられずに、今度は他の目標に、たとえば、運動の結果や球技ならその戦術に、競技する相手などに集中されるようになる。その注意は新しい課題に対して自由に開かれているのである。」と示されている。(マイネル・スポーツ運動学、pp.401−402)
第2章
(1)
構は、天・中・地・陰・陽の五形1)也。各其一に五の変有り。古伝2)に、構を陰陽の二つに定而、躰中の剣、剣中の躰と云ふは是也。陰の構に陽の変あり、陽の構に陰の変あり。故に其構に得失無し。何れにても手に得、心に応ずる構を以て是を用ふべし。
【語注】
1)五形…現在いうところの天・地・人・陰・陽の構えであろう。よって、天は「火」の構えで上段、地は「土」の構えで下段、人は「水」の構えで中段、陰は「木」の構えで八相、陽は「金」の構えで脇構え、ということになる。中国の五行説に則るため「五行」の構えともいう。なお、『唯心一刀流太刀之巻』においては、これを「五形之位」とし、「陰」「車」「青巌」「下段」「八相」の五つの構えであるとする。このうち「車」は、柳生宗矩『兵法家伝書』にも「初手を車輪と云。是は太刀の構也。まはるを以て、車と名付たり。脇構也」(渡辺一郎校注:日本思想大系61 近世藝道論、岩波書店、1972、p303。以下、引用は同書に拠る)とある通り、脇構えである。わかりづらいのは「陰」であり、「構て立たる所の形は陽の姿なれども、上にあるものは下りて陰の理也」(pp277)と解説があるので、上段の構えを指すと解するべきか。
2)古伝…不詳。ここにいう「躰中の剣、剣中の躰」とは、躰中の剣を陰、剣中の躰を陽と解釈し、身体と剣とが一体化する状態、つまり陰と陽とが二つながらに備わる状態をいうものと考えられる。したがって、ここでの陰陽は五形のそれとは異なり、八相、脇構えを指すものではない。
【現代語訳】
構えには、天・中・地・陰・陽の五種の形がある。そのそれぞれに(天・中・地・陰・陽の)五種の変化がある。古伝において、構えを陰陽の二つに定めて、それを体中の剣、剣中の体というのがこれである。陰の構えに陽の変化があり、陽の構えに陰の変化がある。したがってその構え自体に善し悪しはないのである。どの構えでも修得しておき、(折々の)心にかなった構えを用いるべきである。
【補説】
剣道における「構え」は、対人運動における複雑な攻撃・防御の運動が即座にできるための姿勢であり、また、潜勢運動1)が行われる運動の局面である。
1)潜勢運動は、マイネルの理論では以下のように解釈されている。
「運動想像力を通して、心的生起のなかで体験される運動経過。運動はあたかも自分でやっているかのように体験される。実際に運動を遂行しなくとも、それを実際にやっているときと同じ状態でとらえた運動が潜勢運動である。」(運動学講義、pp.275−276)
(2)
伝に専ら用ふと云ふ構なし。其用捨は己にあり。構を以て利せんと欲する者は、外実にして内必ず虚す。是を以、構に心取らるゝと云ふなり。内外虚実1)の差別なきを、当流に無形の構2)と云ふ。誤て心を構にとらるゝ者は、合ふ時は即勝つと云へども、不合時は忽ち負く。必勝は構にあらず、事理の正しきに在り。
【語注】
1)虚実…「虚」は空虚なさま。「実」はその逆。ここでは前者を充実するさま、後者をからっぽなさまと解釈してもよかろう。『孫子』に虚実篇がある通り、兵法において重要視される概念の一。次項、「無形の構」とともに『孫子』の影響を強く受ける。
2)無形の構…『孫子』虚実篇に、「兵を形するの極みは無形に至る。無形なれば則ち深あたはかかたど
間も窺ふこと能はず、智者も謀ること能はず。……夫れ兵の形は水に象る。水の形は高きを避けて下きに趨き、兵の形は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に兵に常勢無く、水に常形無く、能く敵に因りて変化し、勝を取る者、之を神と謂ふ」とあり、孫子は兵には決まった陣形(常形)はなく、水が土地の形によって流れてゆくように敵に応じて変幻自在であるべきをいう。この孫子の思想が「無形の構」に反映されることは明らかであろう。なお、『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝には、「以構合敵之事(構えを以て敵に合する事)」として以下のように説明する。「構を以て敵の所作に合向ふ事利也。……構を以て敵に合すると云ども、其構に着する事なかれ。然ども合して合せざる心持と見るも亦非也。合して合する心なければ、其合する所の術空虚に落着すべし。合すれば合し、離るれば離れたるまでにて、敢て其合離の所作に心を止むべからずと云義なり」。(p287)構えに執着することを戒め、敵に応じて変化すべきことを説く点において趣旨は同様である。
【現代語訳】
秘伝として、そればかりを用いるという構えはない。その取捨選択は自分にあるのだ。構えで勝利を得たいと思う者は、外面的には充実していても内面的には必ずやからっぽとなる。そこでこれを、構えに心を取られているというのである。内面と外面、虚と実の区別がない心境(の構え)を、当流派においては無形の構えという。間違って心を構えにとられてしまった者は、(その構えがその場に)合った時には勝つのだけれども、合わない時には忽ち負けてしまう。必勝(を期す)は構えにはなく、事理の(理解の)正しさにあるのだ。
【補説】
「構え」に心をとられているということは、構える者の意識が、「構え」における手足の操作の個々に対して向けられ、それによって、運動の結果や対戦する相手などに集中されない情況である。「無形の構え」は、このような注意が、心身両面に向けられ充実した状態を指すものであり、運動の自動化がなされている状態を示すものといえる。
(3)
雖然、構は千変万化1)の本2)、強弱軽重の体3)なり。故に無形の構を能く鍛錬すべし。陰の構にあらず、陽の構にあらず、其形ありと云ども、心其構に止らざるを無形の構と云也。構心に不異之位4)と云ふは、無形之全体也。千変万化の事は、物に応じて形を現ず。是れ其全体無形なるが故也。
【語注】
1)千変万化…変化極まりないこと。
2)本…本体。みなもと。次項の「体」に対応し、「千変万化の本」「強弱軽重の体」の二句が対を成している。
3)体…前項「本」に同じ。本書では、からだの意の場合は「躰」字を用いることが多い。
4)構心に不異之位…『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝の「構心不異之事」では、「かまへ、心、一致して、異形のあやつり無くして疑はざる処也。畢竟、構は我心よりなす所也。構心一物と成て転ぜられざる処なり」(pp287−288)と解説する。また別の箇所では「剣躰心三の物の虚と実とを正し、勝つ所と負る所の得失を明らむる」(「単刀直入の事」p292)ことを主張しており、これは現在いうところの気剣体の一致に通ずる。なお『不動智神妙録』においても心が何かにとらわれることを戒めており、「心を何処に置かうぞ。敵の身の働に心を置けば敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思ふ所に心を置けば敵を切らんと思ふ所に心を取らるるなり。我太刀に心を置けば我太刀に心を取らるるなり。我切られじと思ふ所に心を置けば切られじと思ふ所に心を取らるるなり。人の構に心を置けば人の構に心を取らるるなり。兎角心の置所はないと言ふ」(同前、p67)と説明する。
【現代語訳】
そうはいっても、構は千変万化のみなもとであり、(そして)強弱・軽重のみなもとである。したがって無形の構えをよくよく鍛錬すべきである。陰の構えでもなく、陽の構えでもなく、その形はあっても、心をその構えにとどめない状態を無形の構えというのである。構えと心とが一致する位というのが、無形の構の完全な状態である。(構えが)千変万化するのは、物に応じて(構えの)形が現れてくるからである。こうしたこと(=千変万化)が起こるのは(構え自体が)まったく無形であるためである。
【補説】
「無形の構え」は、「千変万化」に対応できるという。このことは自動化された運動の特徴1)である。
1)運動の自動化の特徴は、マイネルの理論では以下のように述べられている。
「・・・(中略)・・・その運動が高度の自動化に達してくると、スキーヤーやスキージャンパーはゲレンデを常に“目のなか”に入れ、ボクサーは相手を、ボールプレイヤーは情況の全体を、ピアニストや速記タイピストは鍵盤全体を目に入れるのである。」(マイネル・スポーツ運動学、p402)
「第一には、空間的、時間的、力動的経過形態の定常性の増大であり、第二には、思考過程による障害を含めた外的内的環境からの妨害作用に対する安定さである」(マイネル・スポーツ運動学、pp400−401)
「このことと密接な関係をもつのは、運動操作の視覚上のコントロールが運動覚によるコントロールへと部分的に移動してくることである。適切かつ正当に世間でいわれているような表現“血となり肉となる”ように、運動は移り変わっていくのである。」(マイネル・スポーツ運動学、p401)
第3章
(1)
術は、負る所と勝ざる所1)を知るべし。負る所と云ふは、先づ勝つ所なり。勝ざる所と云ふは、敵の能く守る所也。其負る所は我に有、勝たざる所敵に有。妄りに勝たんと欲する者は、其負る所を知らず。負ける所を勝たんと欲する者は、敵の勝つ所を知らざるが故也。
【語注】
1)負る所と勝ざる所…自分に要因があって相手に負けている点と相手がすぐれるために自分が勝てない点。
【現代語訳】
剣術においては、負ける所と勝てない所というのを理解すべきである。負ける所というのは、まず勝てる(と思う)所にある。勝てない所というのは、敵が十分に守りをなしている所にある。その負ける理由は自己にあり、勝てない理由は敵側にある。むやみに勝ちたいと願う者は、自分が負ける理由を理解していない。負けている所がありながら勝ちたいと願う者がいるのは、(その者が)敵の勝っている所を理解していないからである。
【補説】
他者観察1)と自己観察2)の重要性を示している。観察においては、敵と運動共感3)しながら自己と他者の両者の運動習熟の程度や戦術4)を理解するのである。
1)他者観察は、マイネルの理論では以下のように解釈されている。
「外容器、とりわけ視覚によって他者の運動経過を外から観察する方法は、スポーツにおいてよく用いられる。一般に、これは他者観察と呼ばれる。」(運動学講義、pp158−159)
また、他者観察は、スポーツ指導場面に重要な印象分析の前提となる分析法であり、「印象分析は他者観察の不可欠な前提となる分析法で、運動現象のなかに現れている諸徴表をとらえ、さらに精密な分析研究のための前提を導き出す重要な手段であり、それは即座の印象分析(たとえば運動中の)と後での(たとえばフィルムやビデオから)に区別される。」(運動学講義、pp158−159)と示されている。
2)自己観察はマイネルの理論では以下のように解釈される。
「とくに運動分析器は、その受容器が筋肉、腱、関節内にあり、内からの運動感覚に関する直接の体験情報を得ることを可能にしている。このように、運動分析器は運動に関する内からの情報(運動覚情報)を得るうえで大切な役割を果たしている。この内からの運動観察が自己観察と呼ばれる。」(運動学講義、pp159−160)
3)運動共感は、マイネルの理論では以下のように解釈されている。
「他人の運動を見ていてそれに共感することである。いわば、他者観察の結果の自己観察化である。すなわち、自分の運動を運動分析器によって対象化することはできるが、他人の行う運動を見ていて、その運動映像のなかに自分を投入させ、自己観察としてその運動覚を自分のものとして感じ取ることが運動共感である。」(マイネル・スポーツ運動学、pp453−454)
4)戦術あるいは戦術力は、マイネルの理論では以下のように解釈されている。
「スポーツにおける戦術は、行動の結果を考慮して、最も合目的的に目的を達成する方法を意味する。・・・(中略)・・・戦術能力は、スポーツの競技力を規定する構成要因のひとつであり、その成否は、プレイヤーの心的・身体的能力、運動習熟、そのときどきの心理的状態によって大きく左右される。」(運動学講義、p275)
「Taktisches Denken の訳語。試合前に戦術上の行動の仕方を計画していく能力、ならびに、たえず変化する複雑な試合条件のもとで自分の戦術の構想を実現していく能力をTaktisches Denken、つまり戦術力という。このTaktisches Denken の基礎になっているのは、幅広い技能と情況を適切に判断することによって、正確かつ弾力的に戦術図式を適応していくことである。」(マイネル・スポーツ運動学、p463)
(2)
我勝たざれば不負、我負ざれば不勝。故に十分の勝に十分の負あり、十分の負に十分の勝あり。勝て負る処を知り、負て勝つ所を知るは、術の達者なり。我が事理を正し1)、彼が事理を察し、敵に因て転化すべし。孫子2)曰、知彼知己、百戦不殆。不知彼而知己者、一勝一負。不知彼不知己者、毎戦必敗。
【語注】
1)事理を正し…『唯心一刀流太刀之巻』では「蓋事者随流、変動無常、因敵転化、不為事先、動而輒随、故事理正則為全勝(蓋し事は流れに随ひ、変動して常無く、敵に因りて転化し、事を先に為さず、動けば輒ち随ふ。故に事理正なれば則ち全勝を為す)」(p272)と説明する。
2)孫子…『孫子』謀攻篇に典拠するが、通行するテキストは最後の句を「毎戦必殆」に作る。
【現代語訳】
勝つことがなければ負けることもない、負けることがなければ勝つこともない。したがって十分の勝利(の背後)に十分の敗北(の要因が)あり、十分の敗北(の背後)に十分の勝利(の要因が)ある。勝って(自分が敵に)負けている所を理解し、負けて(自分が敵に)勝っている所を理解する者は、剣術の達人である。自己の事理を正しく修得し、敵の事理を推察し、敵に応じて変化すべきである。孫子もこういっている。「相手のことを理解し自分のことも理解していれば、百回戦っても危ういことはない。相手のことを理解しておらず自分のことのみ理解するものは、勝ったり負けたりする。相手のことも理解せず自分のことも理解しないものは、戦うごとに必ず敗れる」と。
【補説】
このような記述は、運動学における、技術や戦術や戦略1)とはいえないが、これらが形成されるための戦術・戦略の哲学、あるいは戦術・戦略の精神、さらには戦う上での心構えと位置づけられる。
1)戦略については、以下のように解釈される。
スポーツにおける戦略は、行為の結果を考慮して、最も合目的的に目標を達成する仕方を意味している。戦略は、相対的に長時間にわたる、あるいは長期間にわたる行為の計画にかかわるという点で戦術から区別される。計画が問題になる行為の抽象化のレベルにしたがって、「国家の戦略」、「チームの戦略」、「シーズンの戦略」、「トーナメントの戦略」、「ゲームの戦略」などが区別される。(運動学講義、p276)
第4章
(1)
威1)は節2)に臨んで変ぜず。其備正明にして、事理3)に転ぜられざる全体4)を威と云。動ぜずして敵を制するは、威也。是を不転の位5)と云。すでに動じて敵を制するは勢6)なり。是を転化の位7)と云。威は静にして千変を具し、勢は動じて万化に応ず。故に威を以て敵に合し、勢を以て敵に勝者也。
【語注】
1)威…『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「剣躰備勢之事」では、「威は内に備はる所」と解説し、先師(古藤田俊定)の作と伝えられる歌「威と云は峨々たる山の岨づたひ恐をなして過りわづらふ」を引用する(p289)。俊定は「威」を、高く聳え立った山の難路を行くことに喩え、「威」は難路が人を通行させる前から怖じ気づかせるような、自然な威圧感であるという。
2)節…時、折。ここでは敵に相対した時、折の意。
3)事理に転ぜられざる…事理へと転化することができないもの、事理とは別個のものの意に解した。
4)全体…ここでの文脈上、「体」と同義と解し、本体・本質の意と考えた。後出、「無為の全体」も同様。
5)不転の位…敵に応じて変化しない位。敵に左右されない位。
6)勢…同じく『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「剣躰備勢之事」では、「勢は外に発する所なり」と解説し、やはり俊定の伝歌「勢は唯水の上なる浮瓢さし引く手にぞ随ぞする」を引用する(p289)。「勢」を水に浮かんだ瓢箪に喩え、「勢」は瓢箪が人の差し招く手にしたがって水面を動くような順応性であるという。
7)転化の位…敵に応じて変化する位。
【現代語訳】
威というものは、敵に相対した時に臨んでも変化しない。その備えが正しく明確であって、事理に転化することができないという本質(を有するもの)を威という。動くことなく敵を制するものは、威(の作用)である。こういう状態を不転の位という。すでに動いて敵を制するものは、勢(の作用)である。こういう状態を転化の位という。威は静であって千変をそなえており、勢は動であって万化に対応する。したがって威で敵に向かい、勢で敵に勝つのである。
(2)
威と勢とは二にして一なり、一にして二つなり。威に勢あり、勢に威あり。不転は無為の全体1)、其威十方2)に通貫して恐るゝに敵もなく、疑ふに我もなし。不求とも威は自ら我に備り、勢は自ら其威に有り。
【語注】
1)無為の全体…「無為」は、何もしないこと。人為を加えないこと。ここでは、道家の主張する「無為自然」に通ずるものと考えた。例えば、『老子』第48章に「無為にして為さざる無し」とあるように、道家では人為を加えない無為の状態に達することが、逆になし得ないことがないほどの無限の可能性を有することを説く。また、しばしば剣道家の理想の境地として説かれる「木鶏」(『荘子』達生篇)の故事にも通ずるであろう。
2)十方…東・西・南・北の四方に、乾(北西)・坤(南西)・艮(北東)・巽(南東)の四隅と上・下を合わせた総称。自己を取り巻く全ての方向。転じて自己を取り巻く世界、宇宙をいう。
【現代語訳】
威と勢とは二つでありながら一つのものであり、一でありながら二つのものである。威(の中)に勢があり、勢(の中)に威がある。敵に応じて変化しないとは、無為自然であることを本体としており、その(作用として発せられる)威が十方にゆきわたっている状態であって、恐るべき敵もなく、疑うべき自己もない(状態である)。自分から求めることもなく威は自然と自分にそなわっており、勢は自然とその威(の中)にある(という状態である)。
【補説】
「威勢」は対人技能に関わる記述である。「威」とは、相手に与える自然な威圧感である。しかし、「威」は「事理」の習練によって習得されると説明されるものではない。一方、「勢」は敵のどんな動きに対しても対応できる、自動化された運動経過であり、「事理」の習練によって習得された運動経過、敵の運動に即座に対応できる技である。この「勢」の働きによって「威」が生ずると理解される。つまり、「威」とは、「勢」の習練の結果としてにじみでた人間性、あるいは風格、気位といったものであろう。したがって、この「威」と「勢」はそれぞれ別個に存在するものではないといえる。
第5章
(1)
移(左より右へうつる意也。1))とは、月の水に移るがごとし。是を捧心捧心とは、心の物に付くの意也。敵と我と立会に、過不足なく程よくすゝむ意なり。の位2)と云。着くの事也。写3)とは、水の月を写すが如し。是を残心4)の位と云。離るの事也。理を以て是を示す時は、水月の伝授5)と云事にて、是を伝ふる時は、移写と云也。
【語注】
1)移…移動する。ここでは、月が水面に移動する。
2)捧心の位…本文の注にある通り、心を物に向けること。「捧」は本来、ささげもつ意を表すが、ここでは「心にささげもつ」意から転じて、心を物に向け注視する意で用いるものであろう。月が自己の姿を水面に移動させるように、相手の心に自己の心を移動させ、密着させた状態である(文中の「移」の状態)。よって、「捧心」は、「着くの事」と説明される。なお、この捧心、残心、水月については柳生新陰流においても伝授があり、特に「捧心」に関しては『兵法家伝書』下巻「捧心の心持の事」に、「捧心と云は、心を捧るとよむ字也。敵の心は、太刀をにぎつたる手にさゝげてゐるなり。敵のにぎつたる拳の、いまだうごかざる所をそのまゝうつ也。……手に心をさゝげて、いまだうごかぬ所をはやうてとなり」(同前、pp332−333)とある。つまり、柳生新陰流では、相手の未発のところを見極める心持を「捧心」と説くのであり、これは本書が「着く」という言葉で説明しようとする内容とほぼ同様と思われる。
3)写…水面が月を写している状態。相手に左右されず無心に相手を写す状態であるので、無心に修得した技術で相手を攻撃することに通ずる。
4)残心…心にのこっている状態。水面が無心に月の姿を写しているような状態であり(文中の「写」の状態)、これは無心に写すがゆえに相手(=月)の存在にこだわらず離れた状態(文中の「離るの事」)となる。してみると、「残心」の語は近代剣道で用いられる意とはやや異なることが理解される。一方、小野派一刀流の伝書『一刀流兵法仮字書』(今村嘉雄『日本武道大系』第二巻所収)「残心之事」では、「心を残と云は、唯きをひ過たる処なく、勝べき所にて左右なく勝事也。雖然(然りと雖も)一発不留と云時、勝所に及ては、一足も不留心(心を留めず)、不残(残さず)万心すてて一心不乱也。残心と教しは、只稽古の内、兵法たかぶり、りきみ出来、 競過るに依て、残心と仕えり。其知を得て勝べき所には、必残心不可有(有るべからず)」(p137)と説明する。よって、小野派の解釈では、残心とは攻撃すべき所を一心不乱に心を残さず攻めることとなり、本書の説く「残心」とは内容がやや異なる。しかしながら、攻撃の際の心得として「残心」の語が用いられる点は軌を一にする。ちなみに『兵法家伝書』上巻「残心の事」では、「口伝すべし」と記し、これが師匠からの口伝でなければ理解できないことをいう。ただし柳生十兵衛三厳『月之抄』では「残心」を、「勝たりとも打はづしたりとも、とりたりとも、ひくにも掛るにも、身にても、少も目付に油断なく心を残し置事、第一也」(『日本武道大系』第一巻所収。166)と説明しており、近代剣道にいう「残心」はこの柳生新陰流の解釈に従い、一刀流の解釈とは異なることがわかる。
5)水月の伝授…本書の解釈とは異なるが、小野派の伝書『一刀流兵法仮字書』は「水月の事」として、「敵をただ打と思ふな身をまもれしぜんにもるはしづがやの月」という和歌を引いて以下のように解説する。「或は賤といへども、己が菴漏ると思はねども、事不足してふく(=葺く)故に、月は一天にあれども、自然に影もる也。其如く、敵を討たんと思はねども、己が一身をよくまもりぬれば、悪き処を知ずして己と勝理也。手前の守る事を忘、敵を討たんと思ひ、心躰少々さはぎぬる時は負大ひなるべし」(p137)。これを笹森順造氏は、「手前が不如意であるから、随分努力して屋根を葺いても、事が不充分で葺くから月が寝屋にもさし込む。身を充分に守っていると隙間もないが、ただ相手を打とう打とうと思うて自然に己れの守りが不足し隙が出ると、そこを打たれる。月が清く静かで心が明鏡止水のようであると、相手の姿やそのたくらみは、月の光の中の斑点も悉く見えるように手に取るように写るものである。わが心に写ると手に写り手から刀に写り、相手の隙を一刀のもとに制することができる。心が濁つて波立ち騒ぐと写つても歪んで正体を捉え難い。心に雲がかかると、どんなに破れた屋根のように相手に隙があつても、月影がささないように、敵状がわからず打込み得ない。却つて自ら大敗を喫することになる。
清く静かな心を養うと相手に少しでも隙があると、それが心の明鏡に写つて打てるようになる。これが水月の教である」(『一刀流極意』、体育とスポーツ出版社、1986年重版。pp450−451)と説明する。一方、柳生新陰流においても「水月」の譬喩は用いられ、例えば『兵法家伝書』下巻「水月付其影の事」では、「敵と我との間に、凡何尺あれば、敵の太刀我身にあたらぬと云つもりありて、その尺をへだてゝ兵法をつかふ。此尺のうちへ踏入、ぬすみこみ、敵に近付を、月の水に影をさすにたとへて、水月と云也。心に水月の場を、立あはぬ以前におもひまふけて立あふべし」(p325)と解説する。よって、柳生新陰流にいう「水月」は、水面が月を写すように敵の姿を自己に投影し、敵との間合いを見切って攻めるということになる。敵との間合いを説くに「水月」の譬喩を用いることは共通するが、唯心一刀流は敵をありのままに捉えることを、水がありのままに月を写す喩えで表現するが、柳生新陰流の方は敵の姿を主体的に自らに投影して間合いを見切ることを、水月の譬喩で表現しており、両者の「水月」の意味するところの相違が看て取れよう。また柳生新陰流は心の持ち様を譬喩して「心は水の中の月に似たり」(『兵法家伝書』下巻。p329)というが、これは神妙剣の座を水に喩え、自己の心を月に喩え、月が水に姿をうつすように自己の心を神妙剣へとうつしてゆくべきを説くものである。
【現代語訳】
移とは(左から右へ移動するという意味であるが)、これは月が水面に(その姿を)移動させるようなものである。これを捧心(捧心とは心が物につく意であり、敵との立ち合いにおいて過不足なく進む意である)の位という。(これは相手の心に)着いた状態である。写とは、水面が月を写すようなものである。これを残心の位という。(これは相手から)離れた状態である。道理でこれを示す際には、水月の伝授という比喩があり、(技術で)これを伝える際には、移・写というのである。
(2)
眼を以て見る所を目付1)と云、理を以て守る所を移と云、事を以て攻るを写と云なり。水月に遠近の差別なし2)。若し遠近を攻んと欲する者は、却而移を失す。是を移に心を取らるゝと云ふ也。心は水月之不変に至り、事は敵に因て捧残の宜しきを用ふる時は、不勝と云事なし。月無心にして水に移り、水無心にして月を写す。内に邪念をなさずば、事能く外に正し。○語に曰、「一月一切之現水、一切之水摂一月3)」。
【語注】
1)目付、移…『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「移目付之事」では、「眼を以て見るを目付、心を以て見るを移と云」(p288)と定義する。これに従えば、「移」は心の働きによるものであり、敵に対して未発のところを衝くための心構えと解することができる。そのことを『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「移無遠近之事」では、「いまだ一剣を提ざる以前、構・形あらはれざる先に移りたる所也」(p288)と解説する。
2)水月に遠近の差別なし…水面と月との間合いには、遠いとか近いとかの区別はないこと。つまり、両者の間合いが近いから月が水面にうつり、遠いから水面にはうつらないというような距離の遠近に、水面と月との関係は左右されないことをいう。これは剣でいえば、敵との距離の遠近に左右されず、その間合いに応じて移動すべきことを説くものであり、『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「移無遠近之事」においても、「遠きは遠きに随ひ、近きは近きに随て移る事」(p288)を主張する。
3)一月一切之現水、一切之水摂一月…唐、永嘉玄覚禅師『證道歌』に、「一性円通一切性、一法偏含一切法。一月普現一切水、一切水月一月摂(一性は円く一切の性に通じ、一法は偏く一切の法を含む。一月は普く一切の水に現し、一切の水月は一月を摂す)」とあるを踏まえる。この『證道歌』では、一つの性情があらゆる性情に通じ、一つの法があらゆる法を内に含むこと、つまり一事が万事がに通ずることを比喩して水月のたとえを用いる。
『證道歌』は禅の悟りを歌唱のスタイルにしたもので、日本の禅林においても愛好された。なお本章で示された事理、水月の譬喩の関係を略記すれば次のようになろう。

      移(月が水面に移動するように敵の心に自己の心を移動させる)
事――守る 着くの事(敵の心に自己の心を密着させた状態。心で相手を見る)
      捧心の位(道理で守備する)

      写(水面が月を写すように自己のうちに敵の姿をありのままに写す)
事――攻る 離るの事(敵の存在を自己に投影しつつも敵から離れた、無心の状態)
      残心の位(技術で攻撃する)

理――水月の伝授、水月之不変(月が水にうつり、水が月をうつすような相関関係を理解し、
   「移」「写」を敵に応じて用いること)

【現代語訳】
目を用いて見ることを目付といい、道理を用いて守ることを移といい、技術を用いて攻めることを写というのである。水と月との間合いに遠い、近いの区別はない。もし(間合いの)遠近によって相手を攻めようとする者は、逆に移ということを失ってしまう。このことを移に心を取られてしまった状態というのである。心は、水と月とが不変の関係にある、その境地に至り、技は敵に応じて捧心・残心、いずれか良い方を用いる時には、勝てないということはない。月は無心に(その姿を)水面に移動させ、水面は無心に月の姿を写し出す。内面において邪念をなすことがなければ、技は外面において正しいものとなり得る。○(『證道歌』の)言葉に次のようにいう、「一つの月は全ての水面に現われ、全ての水は一つの月を内にとりこむ」と。
【補説】
ここでは、「移」、「写」、「棒心」、「残心」、「水月」という対人技能に関わる理論が示される。
「移」は、心を物につけるという意味で、「棒心」といい、敵の状態を観察することであり、防御の際の心境である。具体的には、現代剣道の応じ技の発現につながるものである。「写」は、無心に相手の姿を自己の中に写すという意味であり、「残心」といい、相手を攻撃することであり、攻撃の際の心境である。具体的には現代剣道の仕掛け技の発現につながるものである。
「水月」とは、技術指導上の用語である「移」と「写」についての寓話的な解説であり、これらの「理」を示す用語である。
「残心」は、現代の剣道の世界でもよく使用される言葉であるが、この「残心」は、「棒心」と対になる言葉で、水面が月を写すように、自己の心の中に相手の姿を残すという意味である。この使用法は、現代剣道で使用される意味と異なるといえる。この点については、今後の課題としたい。 
第6章
(1)
理は事よりも先に立、躰1)は剣2)よりも先んずる、是れ術の病気也。他に向て其事理を求むるが故也。臨機応変の事は、思量を以て転化するには非ず。自然の理を以て、不思とも変じ、不量とも応ずる者也。故に我に応ずる彼一理3)を敬して、思慮分別を不発、一心不乱に勝利を不疑、能く本分の正位4)に認得すべし。此法を学ぶ者、一心の修行如此なり。
【語注】
1)躰…ここでは、身体、もしくは身体能力の意と解する。後出(3)節の割注では、「体は気に依て動き、気は心の向所にしたがふ。故に心変ずれば気変じ、気変ずれば体へんず」と説明する。なお、唯心一刀流では「剣前体後」「剣体和合」を重視する。『唯心一刀流太刀之巻』「剣前体後之事」では、「体あれば剣あり、剣あれば術あり。或はそれ剣を専にして体を忘れ、或は体を専にして剣を忘るるあり。夫体は、剣より先立ときは、剣何を以てか人を害せんや。大将軍、諸勢より以前に出て討死する如し。将なきときは士卒、何を以て利すべきや。故に剣前体後の利を弁へ知るべし」(p288)という。体を大将軍に、剣をその軍勢に喩え、体が剣に優先することを大将軍が軍勢より前に出て討ち死にしてしまうようなものであると説き、剣が体に優先することを主張する。また「剣躰和合」については、同じく『唯心一刀流太刀之巻』に「よき所作は、剣と体と思ひ合たる様に外よりも見ゆる者也。剣躰和合して肉身の如にして、血脉運動する如きの心持也。又足の指より太刀先まで血気行はれたる如く成ほどに、剣体、釣合、心持面白し」(p291)とある。剣と体とが自己の肉体の内で和合し、その和合による心機の充実が血流にのって足の指から太刀までゆきわたるような状態は、第1章で説かれた「剣心不異」の状態を解説するものといえよう。
2)剣…ここでは、剣を操作するための技術、もしくはその働きの意と解する。前項、『唯心一刀流太刀之巻』「剣前体後之事」において、「体あれば剣あり、剣あれば術あり」(同前)といい、身体能力と剣、剣と術とが密接な関係にあることを説く。これは身体能力なくして剣は成り立たぬこと、術なくして剣は成り立たぬことを説くものとも解することができよう。ちなみに、吉田豊『武道秘伝書』では「剣」を、「剣の働き」と解している(p121)。
3)彼一理…吉田豊『武道秘伝書』に用いるテクストは、「我に応ずる所の理」に作り(p120)、吉田は「自分自身のうちに備わるこの働き」と解釈する。
4)本分の正位…「本分」は、自己が本来あるべきところ。「正位」は、正当な位置。よって、ここでは自己が本来あるべき正しい位置と解する。
【現代語訳】
道理を技よりも優先させ、身体能力を剣の操作術よりも優先させること、これは剣術における病気のようなものである。(ここで道理を技よりも優先させ、身体能力を剣の操作術よりも優先させることを病気というのは)他の点(=剣術の本質から離れた点)において技や道理を追求するようになるからである。(相手に向かって)臨機応変に技をくりだすことは、思慮や予想でもって(相手に対して)変化しているわけではない。自然の道理でもって、考えずとも変化し、予想せずとも応戦するものである。だから自己に応戦してくる相手の道理をも尊重しつつ、思慮分別を起こさず、一心不乱に勝利を疑わず、(こうした心境を)充分に自己が本来あるべき正しい位置として認識すべきである。この唯心一刀流を学ばんとする者の、心の修行はこのようなものである。
【補説】
1この部分の解釈であるが、湯浅晃は『武道伝書を読む』(日本武道館、2001)の中で、「理即ち心がわざ(事)より、また体が剣より先に発現すること、これは剣術にとっては病気であるといっています。なぜならそれは、勝つための手段を相手にもとめるからだといいます。「相手に勝ちたい」、「こうして勝ちたい」という意識が作為的に働き、そしてその意識が表面に現れることを戒めています。」(p115)としている。しかし、ここでは「理」を「心」と解釈せず、道理ととるべきである。そして、「他に向かひて」は、相手に向かうのではなく、剣術の本質以外の他のものに向かうと解釈されるべきであろう。
2金子明友が、『わざの伝承』(明和出版、2002)の中で、「伝承するに値するようなわざが初めて成立するときには、才能に恵まれた人がたえざる工夫とたゆまざる修練を経て、私の運動感覚能力を動員して、カンをとらえ、コツをつかみ、ついにわざとして結晶化させているのだ。そこに、いわば個人的な私の所産として、私の運動のかたちが立ち現れる。」(p40)と示すように、わざは、運動の実践によって、個人的な所産として形成されるものであり、道理を優先させて形成されるものではない。
3道理をわざより優先させてはならないという指摘は、マイネルの『スポーツ運動学』(金子明友訳、大修館書店、1981)の中にも見られる。「たしかに現在使われている走り高跳び技術のなかには、力学の立場からもっと合目的的な技術が存在するであろうし、他のすべての諸要因をまったく考えに入れなければ、その技術で最高の記録が得られるかもしれない。しかし、力学的にもっとも目的的な解決の仕方がただちにその個人にもっとも目的的な解決の仕方になるものではない!選手の個人的な能力、とくに必要な筋力やスピードをきわめて適切なやり方ですべての動きに協調させる能力が、同時に力学的にもっとも目的的な解決の仕方と一致するなら、その選手は高い記録を出すことができるであろう。」(p264)
4身体能力を剣の操作より優先することについて、マイネルは、『スポーツ運動学』の中で、「スポーツ技術はスポーツの大きな達成をねらって、合理的な、すなわち合目的的な、経済的な仕方と解される。実践の場で発達し、検証され、現在のところ周知のスポーツ技術は、一般的拘束性も個人条件としての特性も内包しているから、一般的拘束性だけをもつとはいえない。技術の個人的変形は模倣されてはいけない。」(p268)と示している。個人の体格や運動能力が尊重されてわざを形成するものではないということである。
(2)
高上に至ては、一心不乱と云沙汰もなく、一理敬する差別もなく、内外打成一片1)にして、善もなく悪もなし。千刀万剣を唯一つ心に具足2)し、十方に通貫して転変自在なり。是一心の修行を以て伝授を離れ、別伝の位に至る所也。
【語注】
1)打成一片…一つにする。『碧巌録』第6則に「長短好悪を打成一片にす」とある。
2)具足…欠くことなく充分に備えていること。具備満足に同じ。
【現代語訳】
高い位に至ると、一心不乱ということもなく、(相手の)道理を尊重するという(自他の)区別もなく、自他が一体となって、善もなく悪もない(状態である)。千刀万剣(あらゆる剣)を唯一つの自己の心にそなえ持ち、あらゆる方面に通じて変幻自在である。この状態は心の修行であっても伝授からは離れたものであり、別伝の位ともいうべきものである。
(3)
事にて理を先立てざる習と云は、水月1)を守りて能く邪気を不生(生ぜざれば)、千変は其一より転ず。一は無形の全体2)なり。譬ば水の如し。水に常の形なし、故に能く方円の器に随ふ3)。而して躰を先立ざる習は、剣前体後の伝授也。此術は、其刃を以て利を成すの法也。故に剣あれば事あり、事あれば理あり。心は事の本也、体は剣の元也体は気に依て動き、気は心の向所にしたがふ。故に心変ずれば気変じ、気変ずれば体へんず。。
【語注】
1)水月…第5章を参照のこと。
2)無形の全体…「無形」とは、千変万化して一つに固定しない状態をいう。こうした状態ゆえに決まった形がない、いわゆる「無形」の状態となる。「全体」は、全体を構成する本質と解釈する。
3)方円の器に随ふ…定まった形がないゆえに、水は四角い容器に入れれば四角くなり、丸い容器に入れれば丸くなるという意。ここでは相手や場合に応じて、臨機応変に対応すべきことの比喩に用いる。もともとは社会が為政者に左右されることの比喩であり、例えば『韓非子』外儲説・左上には「孔子曰く、人君為る者は猶ほ盂のごときなり。民は猶ほ水のごときなり。盂方ならば水方に、盂圜ならば水圜なりと」と用いられている。
【現代語訳】
技より道理を優先させないことを習うには、水月の伝授を守り充分に邪気を起こさぬようにすれば、様々の変化はその一点より起こるものである。その一点は無形であることを全体の本質とする。喩えれば水のようなものである。水には決まった形というものがない、だから四角や丸の容器の形に応じ(て形を変え)ることができるのである。そして身体能力を(剣の操作術よりも)優先させないことを学習するには、剣前体後の伝授がある。(そもそも)この剣術というものは、刃でもって勝利を得ようとする法である。よって剣があれば技があり、技があれば道理がある。心は技のおおもとであり、身体能力は剣の操作術のおおもとである。(身体は内なる気に応じて動き、気は心の向かう所に応ずる。だから心が変化すれば気も変化し、気が変化すれば身体も変化する。)
【補説】
ここでは、一貫して、剣前体後の重要性を説いている。前述のとおり、身体能力を重視し、剣の操作を軽視することは、道理に則した技を遂行することはできないということである。この点については、マイネルが、『スポーツ運動学』の中で、「どんなスポーツ技術においても、遂行上の二次的な特徴(変形)が現れる。その特徴は選手の身長、筋力、体質や四肢のプロポーション、体重によって、また、神経系の類型(気質)によって、協調の能力や反応スピードなどによって、個人的に条件づけられている。これらの個人に条件づけられた運動遂行上の特徴は、決して一般妥当性を要求できるものでもなく、したがって一般的に拘束する力をもつものではない。」(p263)と示していることからも窺える。
(4)
其本裏に有て末表に有るを実と云ふは、是順1)也。末裏に有て本表にあるを虚と云、是逆也。実は必勝の位、虚は位不定の勝也。利2)、事より先んずる時、事何を以てか変に応ぜん。体、剣よりも先んずる時、剣何としてか人を害せん。故に能く其本を正して、而して其末を治むべきものなり。剣体本末を正に至る3)事は、事理修行の功にあり。
【語注】
1)順…本と末が本来あるべき通りの状態であること。「本末相順(本末相順ふ)」ともいい、「本末転倒」の逆の状態。「本」と「末」の解釈については、『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝中の「応有本末之事(応に本末有るべきの事)」(p289)が参考となる。本は内也。心也。理也。末は外也。形也。事也。或は細に云ふ時は、事の上にても手もとの所作、手さきの所作等の品々あり。本を以て来るときは、本を制し、末を以て来るときは、末を制す。是応ずる事、本末によりて時の宜きに随ふ也。然りと云ども本を以て来るに末を以て制し、末を以て来るとき本を以て制する事もあるべし。是又時に応じ、節に制する事理なり。以上から考えるに、「本」は身体の内側にある心の働き、あるいは道理と解釈すべきであり、「末」は外側にあらわれた形、あるいは技、所作と解釈すべきであろう。
2)利…これを文脈上、「理」の意と解した。
3)剣体本末を正に至る…これも文脈上、「剣体本末の正に至る」の意と解した。吉田豊『武道秘伝書』に用いるテクストは「剣体本来の正きに至る」とする(p121)。
【現代語訳】
本(=心、道理)が裏にあって末(=形、技)が表にある状態を実というが、これは順(の状態)である。末が裏にあって本が表にある状態を虚といい、これは逆(の状態)である。実(の状態)は必ず勝利をおさめる位であり、虚(の状態)は位が定まっていない(偶然の)勝利である。道理を技よりも優先する時、技で、どうやって(相手の)変化に応ずることができよう。身体能力を剣の操作術よりも優先する時、剣で、どうやって人を殺すことができよう。よって充分に本を正して、そして末を修得すべきものである。剣体(の先後)本末(の表裏)の正しい理念を知るまでに至ることは、技と道理の修行の効果いかんにかかっている。
第7章
事の外にあらはるゝ者は、外に応じて1)其内を利し、事を内にもつ者は、内に随て2)其外を内外結果位
理で守る事で攻める勝利残
理で攻める事で守る勝利残
理で攻める事で攻める敗北は表面化する不残
理で守る事で守る敗北は内面化する不残
勝べし。内外の縁に因て、其好む所に応じ、其悪む所に随ふ。其虚実を能く見て、本を攻めて末を勝、或は末を攻めて本を勝ち、或は本末3)ともに攻て本末ともに勝つ。故に事を以て是を攻る時は、利4)是を守り、利を以て是を攻る時は、事是を守る。内外専ら攻る時は、 過表に有。内外全く守る時は、過裏にあり。攻る時は是れ守る所あるが故也。守るも亦攻る利有るが故也。故に攻るも攻るにあらず。攻ざれば勝利を得ず。守るも守るにあらず。守らざれば勝利なし。是を残不残の伝授5)と云。皆事之雖為行(皆な事の行たりと雖も)、本を能く正さずんば、末何ぞよろしからん。本末ともに能く正しき者は、千変自由にして万化心に不求(求めず)とも、節に当て自ら変化宜し。
【語注】
1)応じて…適応する。
2)随て…随順する意と解し、1の「応じて」と同意と解釈する。
3)本末…第6章(4)の【語注】の1で触れた通り、「本」は自己の内側にある心、あるいは心の働きと解し、「末」は自己の外側にあらわれた形、技と解する。
4)利…文脈上、この一文の「利」は全て「理」の意と解した。「理」は道理というよりは、ここでは、心の働き、もしくは心と解釈した。
5)残不残の伝授…内外、事理、攻守との関係は下表のようになろう。
【現代語訳】
技が外部にあらわれている者は、その外部(の技)に適応してその内側にうまく作用させ、技を内部にもつ者は、その内部(の技)に適応してその外部にうまく作用させるべきである。内外の関係によって、その得意な所に適応し、その不得意な所に適応する。その虚実を充分に見極めて、(相手の)本(=心)を攻めて末(=技)において勝ち、あるいは(相手の)末を攻めて本において勝ち、あるいは本末ともに攻て本末どちらにおいても勝つ。よって技で相手を攻める時は、道理(=心)で自己を守り、道理で相手を攻める時は、技で自己を守るのである。内外どちらにおいても攻める時、失敗は表面に生ずる。内外どちらも守る時、失敗は内面に生ずる。攻る時(ということが生ずるの)は、守る所があるからなのだ。守る(ということが生ずるの)もまた攻める道理(=心)があるからなのだ。よって攻めることも、ただ攻めるのではない。(守る所があって必然的に)攻めるのでなければ勝利を得ることはないのである。守ることも、ただ守るのではない。(攻める所があって必然的に)守るのでなければ勝利はないのである。これを残不残の伝授というのである。こうしたこと全ては技における修行ではあるが、本(=心)を充分に正さなければ、末(=技)がどうしてよいことがあろうか。本末どちらも充分に正しい者は、どんな変化に対しても自由であり、あらゆる変化(に対応すること)を心の中で求めなくても、それぞれの場合に応じて自然と変化がうまくゆくのである。
【補説】
「本を能く正さずんば、末何ぞよろしからん。」と述べる一方で「利、事より先んずる時、事何を以てか変に応ぜん。」と述べている。「理」と「事」の両方重要であるが、とくに事(技)であるということなのであろうが、このような難渋な表現がこの伝書の特徴であり、解釈を困難なものとしている。
第8章
(1)
事に利1)を持を先を守ると云。利に事を持を後を守ると云。先に止まる時は後に利なく、後に止る時は先に利なし。事理先後に不止( 止らざる)を術の要害2)とす。故に先後は敵にあり、我是を守るにあらず。先後一事の伝授3)と云者、全く先に不有(有らず)、後にあらず。先なる時は後も是に兼ぬ。又後なる時は先是に備る。強弱軽重、 諸の所作、何れも同じ。
【語注】
1)利…前章と同じく、「理」の意と解する。
2)要害…本来、人体の急所をいうが、ここでは!大切なポイント"の意。
3)先後一事の伝授…「先」と「後」とが一つ事であるという教え。『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝中の「先後不止之事」が同様のことをいう(p287)。先にも後にも止らざる也。先後は敵にあり。我是を求るに非ず。全先にあらず、後にあらず。先なるときは後にも是に兼、後なるときは先是に具る。一にして而も二也。二にして而も一也。「先後」に関しては、後出の第9、10章に詳しい。それぞれの意味はとりあえず、現在の剣道において用いられる意味と同様に、「先」は、相手の先手を取る意、「後」は後手に回って受けてたつ意と解釈した。
【現代語訳】
技に道理が備わる状態を「先」を守るという。道理に技が備わる状態を「後」を守るという。「先」ばかりに止まっている時は「後」にうまく働かず、「後」にばかり止っている時は「先」にうまく働かない。事理、先後(の、どちらか一方)に止らない状態を、剣術では要点とする。だから先手を取るか、後手に回って受けてたつかは敵側(の問題)であって、自分からこのどちらかを選ぶものではない。先後一事の伝授というは、ひたすら先手を取るというのでもなく、ひたすら後手に回って受けてたつというのでもない。先手を取った時には後手に回って受けてたつことも内に兼ね、また後手に回って受けてたつ時は先手を取ることも内に備えているのである。強弱や軽重など、他のいろいろな動作に関しても、どれも同じことがいえる。
【補説】
現在の剣道指導書では、技を仕掛け技と応じ技と大きく分類している。仕掛け技が「先」であり、応じ技が「後」ととらえられる。さらに、「先後一事の伝授」は、現代剣道でいわれる「懸待一致」、「攻防一致」と同意である。「先」(懸、攻)の中にもいつ相手が打ってきても対応できる「後」(待、防)の備えが必要であるし、「後」(待、防)であっても、常に「先」(懸、攻)の気持ちで相手を圧倒し、相手に自由に技をださせないようにしなければ、技は成就しないのである。
(2)
其事一にして二也、二つにして又一つなり。天にあるかと見れば、忽ち地に発し、地に発するかと見れば、端的天に在り。静なる事山の如く、動き至ては電光石火も及びがたし1)。是一心先後に不止(止らざる)が故に、一理万事に通じ応ずるもの也。雖然(然りと雖も)、事は自己の心身に能く得たる所ある者也。故に先の事を得たる者は専ら先を守て利を得、後の事を得たる者は専ら後を用て利を得る者也。強弱軽重の所作、何れも然也。
【語注】
1)静なる事山の如く…武田信玄が軍旗に書いたことで有名な『孫子』軍争篇の「風林火山」の一節に因む。『孫子』の文章には、「動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆(いなずま)の如し」とある。なお「電光石火」は、いなずまの光と石を打って出る火花とをいい、動作・行動の迅速なことを喩える。
【現代語訳】
(先手、後手という)事は一つであって二つであり、二つであってまた一つである。天にあるかと見れば、たちまちのうちに地から発し、地に発するかと見れば、まさしく天にある。静かであることは山のようであり、動く段になると電光石火も追いつかぬほど素早いのである。これは心が「先」「後」に止らないために、万事に道理が通じていて(敵に)応ずることができるからである。そうはいっても、技は自己の心身に深く修得した得意な所があるものである。だから「先」の技を得意とする者はひたすら「先」を守って利点を得、「後」の技を得意とする者はひたすら「後」によって利点を得るのである。強弱や軽重の動作については、どれも同じことがいえる。
【補説】
「先」と「後」のどちらかに偏ってはならずといいながら、「先」の得意な者は、「先」を尊重し、「後」の得意な者は、「後」を尊重するようにと説いている。この伝書の特徴をここに読み取ることができる。それは、理想的な剣術の技は、「先」あるいは「後」と固定されるものではないという主張である。また、「先」か「後」いずれかの得意を伸ばせば、見かけ上偏っているとは思えても、そこから「理」を得ることができるということであろう。この点について、マイネルの『スポーツ運動学』では、「レスター・ステーアスあるいはユーリー・イリヤソフのような比較的上背のない選手は振り上げ脚を必要なスピードでさばくことができるので、かなり伸ばして振り上げているのである。これに対して、2"04の上背をもつワルター・ダビス(記録2"12)にとっては、約20〜25!も長いその脚の振り上げは、膝を少し曲げたほうが必要なスピードを得られるのである。」(p263)と示されており、この場合「先」「後」に関わる記述ではないが、人それぞれの適性にあわせた技術を使うべきだと指摘している。
(3)
理を以て観之(之を観れ)ば、偏たりと云ども、其事能く身心に得る者は、外に求める利1)なし。他に向て是を不求(求めざれ)ば、一心、其所作に転ぜず。是則ち先後不止の道理に叶ふ者也。能く術に達する者は、先に止りても先に奪はれず、後を守ても後にとられず、事を守りても心其事に染らず、理に著しても事利に取れず、形有かと欲すれば全く形無く、形なきかと見れば正に形あり。是を邪正一如の位2)と云也。
【語注】
1)利…ここも前章と同様に、「理」の意と解する。
2)邪正一如の位…正しくないこと(=邪)と正しいこと(=正)が一つになること。本節の内容からすれば、「先に止り」「後を守て」「事を守り」「理に著して」というような状態は「偏」であって、正しくない状態といえる。しかし術の達者ともなると、「先」に止っても「先」に(心を)奪われることはなく、「後」を守っても「後」に(心を)とらわれることもない。技をしっかり守ってはいても心はその技に染らず、道理に執着してはいても事理にとらわれることはない。これが邪正一如の位ということになる。
【現代語訳】
(事理という)道理でもって考えるならば、偏りといえるが、技を充分に心身に修得する者は、外に道理を求める必要はない。外にこれ(=道理)を求めないのであれば、心をその動作に転化する必要もない。この場合は先後不止の道理にかなっているのである。充分に剣術に達した者は、「先」に止っても「先」に(心を)奪われることはなく、「後」を守っても「後」に(心を)とらわれることもない。技をしっかり守ってはいても心はその技に染らず、道理に執着してはいても事理にとらわれることはない。形が有るかと思えば全く形は無く、形が無いかと見れば正に形がある。これを邪正一如の位というのである。
(4)
理を離れて勝つを、術の達者と云也。蓋し究竟窮極、不存軌則1)と云。是を心に得、是を手に応ずるものは、心は心、事は事、我は我、敵は敵、何に向て何をか求め何をか捨ん。一事の秘伝2)と云も、一事の位に至るべき道なり。至ては、誰か其道を守らん。若し守て是を学ぶ者は、未至(未だ至らざる)が故也。雖然未至(然りと雖も未だ至らざる)者は、不学(学ばざれ)ば不能至事(事に至る能はず)。故に一事の秘伝を以て、先後不止の道理を示す者なり。
【語注】
1)究竟窮極、不存軌則…「究竟窮極」は、仏教にいう、究極の境地の意。ちなみに究極の悟りを「究竟覚」、その悟りに達した位を「究竟位」という。なお、この一句は禅宗において尊重される書、三祖僧!『信心銘』を出典とする。
2)一事の秘伝…「先」と「後」とが二つであって一つであるというように、二つの要素が二つでありながらも一つであるという教え。
【現代語訳】
道理から離れて勝つ者を、術の達人というのである。おそらく、(『信心銘』が)究極の境地は規則にあるのではないという(のが、これであろう)。こうしたことを心に理解し、こうしたことを術に応用するものは、心は心と、技は技と、自己は自己と、敵は敵と(認識しているので)、何に向かって何を求め、何を捨るというのか(いや何も求めず、捨てもしない)。一事の秘伝というものがあるが、これは一事の位に至るための道である。(一事の位に)到達すれば、誰が(到達するための)道を守るであろうか(いや守りはしない)。もし(到達するための道を)守り学ぶ者がいたとすれば、(その者は)まだ(一事の位に)到達していないためである。そうはいいながらも一事の位に到達しない者は、学ぼうとしないので一事の位に到達することができないのである。だから一事の秘伝でもって、先後不止の道理を示すのである。
第9章
先に体・用1)の二つ有り業に発するを体といひ、心に用ふるを用といふ。。其備不変にして無事を以て攻むるを体の先と云、既に其位変じて処に随て形を現ずるを用の先と云。伝に曰、体の先は体を以て攻め用を以て守る。是敵の利2)を奪て其備を破り、合するを以て攻む。其利を表とし其事を裏とする也。用の先は、用を以て攻め体を以て守る。是敵の備を破て其事を奪ひ、離するを以て攻む。其事を表とし其利を裏とする也。若し体用攻守の事理を知らず、妄りに乗じて勝たんと欲する者は、首を延て討れ、手を出して斬らるゝに同じ。能く鍛錬すべし。
【語注】
1)体・用…割注にある通り、技にあらわすことを「体」、心をめぐらすことを「用」と理解する。ただし、一般に用いられる「体」は本体・実体の意であり、「用」は作用・働きの意とする。禅林では「用」を!ゆう"と読みならわし、!大機大用(並はずれた作用)"なる成語も知られる。こうした禅林の体・用の概念を持ち込んだ柳生新影流は、その伝書『兵法家伝書』(渡辺一郎注:日本思想体系61 近世藝道論、岩波書店、1972、p337)活人剣下において、以下のように説明する。大機大用。用を用とよむべし。物の躰用の時、用とよむべし。物ごとに躰用と云事あり。躰があれば、用がある物也。たとへば、弓は躰也、ひくぞ、いるぞ、あたるぞと云は弓の用也。燈は躰也、ひかりは用也。水は躰也、うるほひは水の用也。梅は躰也、香ぞ、色ぞと云は用也。刀は躰也、きる、つくは用也。この説明に明らかな通り、新影流の体用論は禅の影響下に形成され、なおかつ一般的な体用の解釈である、本体と作用という理解を示すことが見て取れる。しかし、本書の体用論はこれとは大きく異なる。
2)利…「事」と対応させていることから考えて、ここも前章と同様に「理」の意と解し得る。本章では!心≠ニ訳しておく。
【現代語訳】
先手をとるには「体」と「用」の二つがある(割注:技にあらわすことを体といい、心をめぐらすことを用という)。自分の備えはそのまま変えず、作為なく攻めることを「体」の先といい、自分の位置を変えつつ状況によって形として現すことを「用」の先という。伝書にいう、「体」の先は「体」で攻め、「用」で守る。これは敵の心を奪って(こちらに利用し)、その守備を破り、相手と向き合う状態で攻めるのである。(この場合は、敵の)心を表とし(て攻め)、(自己の)技は裏とするのである。「用」の先は、「用」で攻め、「体」で守る。これは敵の守備を破り、その技を奪って(こちらに利用し)、相手と離れた状態で攻めるのである。(この場合は、敵の)技を表とし(て攻め)、(自己の)心は裏とするのである。もし体用、攻守の技と道理とを知らないで、むやみに攻めて勝ちたいと思う者は、自分から首を伸ばして討たれ、手を出して斬られるのと同じである。よく鍛錬すべきである。
第10章
(1)
後は、敵の体と用とを利する二つ也利は自然の勢を云。敵、体を以て利せんと欲せば、其志す所に随て其用を可殺(殺す可し)。用を以て勝んと欲せば、其現ずる所に応じて其体を破るべし1)。来て残る者を末2)に応じ、不残者(残らざる者)を本に随ひ、本動じて末静なる者を其本を利し、本正しくして末乱るゝ者を残して是に応じ、本末倶に動ずる者は其過を殺し、本末共に静なる者は其誤り3)を利すべし。雖然(然りと雖も)其形4)に随て其色を追へば、奪るゝに利あり。事理、其先に奪るゝ時は後に利なし。
【語注】
1)敵、体を以て…吉田豊『武道秘伝書』に用いるテキストは、この一文が大きく異なる。すなわち、「敵、体を以て利せんと欲せば、其現ずる所に応じて其体を破るべし」(p125)となっており、本稿の底本にある「其志す所に随て其用を可殺。用を以て勝んと欲せば」という文章を欠いている。
2)末…後出の「本」と対になる概念である。第6章(4)の【語注】の1を参照。
3)誤り…失敗、誤謬の意であるが、ここでは、本心、技ともに動揺しない完全な状態が何かのミスで、ほころんでしまうことをいうものと解した。
4)形…後出の「色」と同義として用いられることが多いが、本書では区別して用いる。「形」は形あるもの、形態の意で、ここでは攻撃する形態、守備する形態などの意味を表し、「色」は形に現れる形相、表情の意で、ここでは攻撃の形態が示す動作、守備の形態が示す動作などの意を表すと解した。
【現代語訳】
後手に回って受けてたつには、相手の「体」と「用」とを自然の勢いとして利用する二つ方法がある(割注:利とは自然の勢いをいう)。相手が、「体」で優位に立とうとしていれば、その思う所に応じて(心の動きである、その相手の)「用」を殺すべきである。(相手が)「用」で勝とうとしていれば、その外に現れた所に応じて(目に見える技である、その相手の)「体」を破るべきである。仕掛かって来て(余力を)残す者に対しては技で応じ、残さぬ者に対しては心で応じ、本心が動じていながら技が動じない者に対しては、その本心(の動揺)を利用し、本心が正しくありながら技が乱れる者に対しては、余力を残してこれ(=技の乱れ)に応じ、本心、技のどちらも動揺する者はその欠点を殺し、本心、技のどちらも動揺せず静かな者に対しては、そのほころびが生じて来るのを待って利用するほかない。そうはいっても、相手が掛かって来る、その形態に応じ相手の動作ばかりを追いかけていれば、(相手に「先」を)奪われるという(相手の)有利となる。事理ともに、相手の「先」によって奪われる状況では「後」に有利な点はない。
(2)
故に我が伝の後は、其形に向て其色を殺す者也。向・殺の二つは、一体一用の事也。向を以て殺し、殺を以て向ふ者也。剣刀の発当の強弱、剣勢1)本末2)の備、剣躰前後の口伝3)、其得失は皆事の修行より剣心不異4)の全体に至て、臨機応変の事自在也。此理微妙にして伝て是に示しがたく、学んで是に至りがたし。実に以心伝心5)の妙理也。其寒温を自知する者6)は、先師一刀斎の骨髄に符節を合するが如し7)。
【語注】
1)剣勢…第4章の威勢、及び『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「剣躰備勢之事」(p288−289)を参照のこと。
2)本末…第6章の、特に(4)の「剣体本末」を参照のこと。
3)剣躰前後の口伝…第6章、参照のこと。
4)剣心不異…第1章の(3)、及び第2章(3)の「構心に不異之位」を参照のこと。
5)以心伝心…禅において重要視される概念で、言葉や経典などによらず、師匠の心からと弟子の心へと真理を伝えるという意。
6)寒温を自知する…寒い季節から暑い季節へと移り変わる、その自然の理を自得する者と解した。
7)符節を合するが如し…割り符を合わせるかのように、二つのものがぴったりと合うこと。『孟子』離婁・下に「志を得て中国に行ふは、符節を合するが若し」とある。
【現代語訳】
だから我が流派の伝としての「後」は、相手の(攻撃の)形態に対してその動作を封じるというものである。相手に対する!向"、相手の動作を封ずる!殺"の二つは、前者が(技術関連の)「体」の技、後者が(精神的な面の)「用」の技なのである。相手に対して相手の動作を封じ、相手の動作を封じて相手に対するのである。太刀の抜きつけの強弱、斬りつけの強弱、剣勢・本末の備え、剣躰前後の口伝、それらの成功・失敗はすべて技の修行によるものであり、それが太刀の操作法と心とが一体となる剣心不異の教えという全きところに到達することで、臨機応変の技が自由自在に出るようになるのである。この道理は微妙なもので伝えてここに示すこともできず、学んでここに至ることもできない。実に以心伝心の妙理である。季節の寒温の道理を自得する者は、先師一刀斎の真髄にぴったりかなうものである。
【補説】
現代剣道では、「先々の先」、「先」、「後の先」の三つの先がいわれる。本書の内容を、それに照らし合わせると、「体の先」は、「先々の先」、「用の先」は、「後の先」にあたる。また、「先」は伝書における「後」にあたると考えられる。 
第11章
(1)
勝負の要は、間なり。我利せんと欲するは、渠1)も利せんと欲す。我往んとすれば、渠又来る。勝負の肝要、此間にあり。故に我伝の間積りと云ふは、位、拍子2)に乗ずるを以て間3)と云也。敵に向て、其間に一毛を不容(容れず)、其危亡を不顧(顧みず)、速に其利に乗じて殺活の当的能奪4)の本位に可至(至るべき)者也。若し一心の間に止る則は変を失す。我心、間に拘ざる時は、間は明白にして其位に在り。故に心に間を止めず、間に心を止めず、能く水月の位5)に至るべき者也。無理無事の一位を水月の本心と云也。故に求れば、是水月にあらず。一心清静にして曇りなき則は、万方6)皆水月なり。不至(至らず)と云所なし。
【語注】
1)渠…三人称の代名詞。「彼」に同じ。
2)拍子…杉浦正森『唯心一刀流太刀之巻』中の「剣、体、色、勢、拍子之事」の条では、「拍子には品々あり。諸家に沙汰する如く、拍子、無拍子と云。又無拍子の拍子と云。或は不合の拍子などと云。亦離るる拍子と云。是皆自他ともに巧者の上の説なり。諸説のあしきに非ず。されども当流に近く説ときは、畢竟自然の威勢、天然の拍子なり」(p290)と説明する。よって、拍子は剣や体の修練によって得られる自然な威勢、あるいはそのような威勢によって生ずる、その人独自の自然な調子・リズムと解釈できよう。
3)間…本書にいう「間」は、現在いうところの相手との距離、つまり間合い≠フ意だけではなく、俗に間がよい、わるいというような、いわゆる調子∞タイミング≠フ意をも含むようである。そのため「間」を説明するに際して、拍子(リズム)という言葉が用いられるのであろう。しかし本書では「間積り(間のとり方)」に拍子が必要な要素であることをいいはしても、それよりも位が大切であることを主張する。なお吉田豊『武道秘伝書』では、この箇所を「わが流儀における間とは、互いの力関係、戦いのリズム、テンポを有利に変えてゆくことをその内容としている」(p128)とし、本稿の解釈とは異なる立場を採る。ただし、「間」を単純に間合い≠フ意としない点は本稿と軌を一にし、吉田が〔解説〕で「ここにいう間とは、単なる距離間隔のことではない。敵とわれとの空間的、時間的関係すべてが含まれている」(同前)と述べることは参考となる。
4)当的能奪…「当的」は、「的に当たる」と訓読し、相手を的として、それに向かう意。『唯心一刀流太刀之巻』中の「先後当的之事」(p289)によれば、自己を敵の的とし、敵を自己の的とするという、相手と縁を切らぬ敵対関係にある状態をいう。加えて、「而も的をはなれて自由をなす。爰をさして殺活の一的とも云べし」とも述べており、以上から考えるに本書のいう「殺活の当的」は、的に向かいながらも、その状態から離れた自由な境地と解される。「能奪」は、やや解し難い。文脈からすれば「与奪」の意と考えられる。
5)水月の位…本書第五章に詳しい。また第六章にも若干の言及がある。
6)万方…万国、万民、あらゆる道・方法など、いくつかの意味があるが、ここでは全てにおいて≠フ意と解した。
【現代語訳】
勝負のポイントは、間にある。自分が利を得ようとすれば、相手もまた利を得ようとする。自分が(打って)ゆこうとすれば、相手もまた(打って)来る。勝負の大切なポイントは、この間というものにある。よってわが流派の間というものは、位が拍子にまさった状態をもって間というのである。敵に向かって、その間に一毛をも入れず、その危険をも顧みず、すぐさま利点に乗じ、相手に応じて生かすも殺すも自由な位に至るのである。もしも心が間にとらわれる時は変化はできない。自らの心が間にこだわらない時は、間は明白なものとして、その(あるべき正当な)位にあるのである。よって心に間をとどめず、間に心をとどめず、水月の位に至ることができるようにすべきである。道理もなく技もないという位を水月の本心というのである。だから(そこに到達したいと)求めるのであれば、それは水月(の位)ではない。心が清らかに静かに、曇り一つない時は、すべてがみな水月である。(そうなると)たどりつけない所はないのである。
【補説】
ここでは、剣道の技において重要な概念である「間」1)、「拍子」2)、「位」3)について述べられている。いずれも多くの伝書に登場する語句であるが、今後一層の概念の明確化が望まれるものである。
1)「間」は多くの武芸伝書で指摘される重要な概念である。財団法人全日本剣道連盟編『剣道和英辞典』(2001)では、「間」を「物と物のあいだ、事と事のあいだ、時間と時間のあいだなどのこと。時間や空間を意識させる重要かつ特殊な概念およびそれを表現することば。剣道において「間」といった場合は、どちらかといえば時間意識でとらえ、「間合い」といった場合は、空間・距離意識でとらえているというように一応区別している。さらに、それらの時間的・空間的な間を適切にはかったり、つくったりすることを「間積もり」という。」(同前、p59)とし、「間合い」を「相手との空間的距離。相手とのへだたり。間合いのとり方は相手との関係により微妙であり、かつ大事なものである。」(同前)としている。「間」と「間合い」は区別されていることがわかるが、ここで使用される「間」は、時間的意識と空間・距離意識を内包するものであるといえる。
2)「拍子」は、「竹刀や体さばきなどの動きの流れやリズム。また、相手と呼吸を合わせたり外したりするなど、相手と自分の気持ちのかけあいをいう場合もある。」(同前、p35)と示される。スポーツ運動学では類似概念として運動リズムという概念がある。運動リズムは、「運動リズムとはある運動の力動的構造であり、すなわち、ひとつの運動の根底に横たわっている緊張と解緊の周期的交替と理解する。……投げることや跳ぶことにも緊張と解緊の特徴的交替が示されるのである。運動リズムはしばしば視覚的に、聴覚的にきわめてはっきりととらえられる現象として出現するものである。」(クルト・マイネル著、金子明友訳(1981):マイネル・スポーツ運動学、大修館書店、p168)と示されるものである。呼吸なども身体における緊張と解緊の周期的交替ととらえれば、運動リズムと拍子は非常に近い概念といえる。
3)「位」は、「ものの等級や優劣。人格と実力を兼ね備えた度合い。相手と対峙したときに生ずる精神面や技術面の格差。この位は稽古を積むことによって得られた自信から自然に高められていくものである。」(同前、p57)と示されている。「間積もり」においては、「拍子」よりも「位」が優先するということは、「拍子」が技術的な習熟を意味するのに対し、「位」は技術的・精神的習熟の等級を意味するものであり、修練による相手に動じない心の持ちようとか、技への自信などの精神的充実が関与することに因るものといえる。
(2)
古語曰、遠不慮則必在近憂1)(遠きを慮らざれば則ち必ず近き憂ひ在り)と。故に間に遠近の差別なく、其間を不守、其変を不待、人に致されずして疾く其位を取るは、当伝の一的2)也。若それ血気に乗じて無二落着する3)者は、我が刃を以て独り身を害するが如し。
【語注】
1)遠不慮則必在近憂…『論語』衛霊公篇の「無遠慮、必有近憂(遠き慮り無ければ、必ず近き憂ひ有り)」にちなむ。先々までの配慮がなければ、必ずや身近で心配事が起こるという意味。ここでは備えあれば憂えなし≠フ意で用いる。
2)的…ここでは、目的あるいは目指すところの意と解した。
3)無二落着する…吉田豊『武道秘伝書』の用いるテクストは、この箇所を「無に落差する」と記し(p127)、吉田は「この心得を忘れる」と解釈する。本稿では京都鈴鹿家所蔵本の記す通り「無二落着」として理解し、ひたすらに解決しようとする≠フ意と解釈する。
【現代語訳】
古語にいう、「先々までの配慮がなければ、必ずや身近で心配事が起こる」と。よって間に遠近の区別はなく、相手との間こだわるのでなく、相手の変化を待つのでなく、人に仕掛けられる前に素早く(あるべき正当な)位に立つことは、当流派の一つの目指すところである。もしも血気にはやることで、ひたすらに解決しようとする者は、自分の刃で自分の身を傷つけるようなものである。
第12章
敵の事を以て我事とし、敵の理を以て我利1)とす。是鸚鵡の位2)と云なり。強を強く、 弱を弱く、撃つ者を撃ち3)、突く者を突く。千変の利、何れも如此(此の如し)。是を敵の事に向ふと云也。強を弱く、 弱を強、打つ者を請け、請る者をばはづす。万化の利、何れも如此(此の如し)。是を敵の理に随ふと云也。実を以て来る者には実を以て向ひ、虚を以て来る者には虚を以て随ひ、敵能して能せざる事を示す時は、我も又能して不能(能せざる)事を示す者也。
【語注】
1)利…ここでは「理」の意と解する。吉田豊『武道秘伝書』の用いるテクストは、「敵の利を以て我利とす」に作る。
2)鸚鵡の位…いわゆる鸚鵡返し≠フ位である。本書では、この鸚鵡返しにも二つがあるといい、一つは敵の技に同じ技で向き合う、いわゆる相の技≠ナあり、もう一つは敵の道理にしたがってその裏をかく、いわゆる応じ技≠ナある。
3)撃つ者を撃ち…吉田豊『武道秘伝書』の用いるテクストは、これ以降、文辞が大きく異なるので、参照されたい(p129)。
【現代語訳】
敵の(用いる)技を自分の技として用い、敵の(用いる)道理を自分の道理として用いる。これを鸚鵡の位というのである。(敵が)強く来る際には強く、弱く来る際には弱く、撃ちかかって来る者には撃ちこみ、突いて来る者には突く。千変の利とは、すべてこのようなものである。これを敵の技に向き合う(鸚鵡の位)というのである。(敵が)強く来る際には弱く、弱く来る際には強く、打ちかかって来る者を受け、受けようとする者の裏をかく。万化の利とは、すべてこのようなものである。これを敵の道理にしたがう(鸚鵡の位)というのである。実を以てかかって来る者には実で以て向い、虚を以てかかって来る者には虚で以て応じ、敵が十分に力がありながらも力がないように見せかける時は、自分もまた力があっても力がないように見せかけるのである。
【補説】
敵に対する対応の運動様相を論じたものである。対応には千変の利と万化の利の二通りがあり、千変の利とは、敵と同じ対応であり、万化の利とは敵と反する対応であると示している。このような対応の運動を鸚鵡とたとえることは指導言語として非常にわかりやすく、運動の円滑な遂行につながるのではないか。
第13章
(1)
術は、実1)を備て虚に変じ、虚を示して実に転ず。敵に向ふ時、愚にして先づ負るは謀の利也。誠に兵者詭道也と孫子2)も云り。故に一偏に是を心得る者は、敵に因て転化する事能はざる者なり。一剣一理を主とする3)則は、一心不変の位に備る。是を思無邪4)と云。前に書するが如く5)、術の至極也。是を単刀と云なり。単刀は敵の無形無色を討ち、事理未発已然6)を全く勝つ、事の高上也。されば、太公7)の曰、兵勝術、密察敵人機、速乗其利亦疾打其不意(兵勝の術、密に敵人の機を察し、速かに其の利に乗じ亦た疾かに其の不意を打つ)と。
【語注】
1)実…「実」と「虚」については、第6章の第4節などで定義がなされる。参照されたい。
2)孫子…『孫子』始計篇の言葉。
3)一剣一理を主とする…我が剣・理を恃んで、一心不乱にかかることをいう。『唯心一刀流太刀之巻』中の「主一剣一理之事」(p291)は、「我に応ずる所の一術を主とし、余念なく思慮分別を起さず、一心不乱にして勝を疑はざるを主一無適と云ふ也」と説明する。
4)思無邪…『論語』為政篇の言葉。
5)前に書するが如く…第2章の第3節にいう「無形の構」あたりを指すか。
6)已然…「以前」の意と解す。
7)太公…祖父、あるいは父をいう。祖父であれば古藤田勘解由左衛門俊直を指し、父であれば古藤田仁右衛門俊重を指す。
【現代語訳】
術は、実の状態にありながら虚の状態に変化し、虚の状態を示しておいて実の状態に変化する。敵に向かった時に、愚かにふるまって先ず負けることが、計略においては利を生じさせることもある。たしかに「兵法は人をあざむくことである」と孫子が述べた通りである。よって一つに偏ったものとして是(=兵法)を心得る者は、敵に応じて変化することができない者である。一つの剣、一つの理を主とする際には、一心不変の位が身に備わる。これを「心に邪な気持ちがない」状態という。前に書いた通り、(この状態が)術の最高到達点である。これを単刀というのである。単刀とは、敵が形も色もなさぬ状態を討ち、事理も未だ発せざる以前を(攻めて)完全な勝利を得るという、技の最高のものである。そうであるので、太公はいわれた、「兵法として勝つための術は、密かに敵の動きの機を察し、すばやく有利に乗じ、また敵の不意を打つことである」と。
【補説】
剣道の世界では、古来に使用されながら現代では使用されなくなったり、意味が違って使用されたりする語句がある。単刀もそのような語句であろう。敵の未発を打つという意味の単刀は、「相手と相対し勝敗を争うとき、相手の起こりをいちはやく機微の間に認めて、直ちに打ち込み、機先を制することをいう。」(財団法人全日本剣道連盟編(2001):剣道和英辞典、p63)と示される現代剣道における「先々の先」を意味するものといえる。
(2)
当流の剣法を学ぶ者は、此理を能く観じ、其法を学び修行する則は、術の高下によらず自己相応の道理を得る者也。たとへ事に功ありといえども、心実1)の理なきものは勝利を得がたし。事不功たりといへども、心実を以て是を学ぶものは、勝利を得る事、何の疑かあらん。誠に此術は、士の一芸、勇者の具足2)なり。故に我其実を撰で之を伝ふ。学ぶ者、謹んで是を秘するは、士の実なり。目前の事を山のあなたと示すは、術の掟なり。
【語注】
1)心実…心に真心を有する。あるいは、真心。
2)具足…甲冑。
【現代語訳】
当流の剣法を学ぶ者は、この理屈をよく考え、その技法を学んで修行すれば、術の高い低いに関係なく自己相応の道理を手に入れることができる。たとえ技においてすぐれていても、真心という道理を持たぬものは勝利を手に入れることはできない。技がすぐれていなくとも、真心で是(=剣法)を学ぶ者が、勝利を手に入れることに、何の疑いがあろうか。ほんとうにこの(当流の)術は、武士の一芸、勇者の具足のようなものである。よって私は真心のある者を選んで、これ(=当流の術)を伝えている。学ぶ者が、これ(=当流の術)をつつしみ隠すのは、武士としての真心である。目前の事であっても山のむこうだと人に示す(ように秘して表に出さぬ)のは、術を学ぶ際の掟である。
【補説】
真心は剣術を学ぶための心構えとしての精神性であり、剣術の稽古を通して得られる精神性ではなく、技術学習において望まれるべき精神性といえる。
第14章
事の利と云は、我一を以て敵の二に応ずる所也。譬ば打ちて請け1)、外して切る、是れ一を以て二に応ずる事也。請けて打ち、外して切るは、一は一、二は二に応ずる事也。一を以て二に応ずる時は必勝つ。一を一、二を二に応ずる時は或は勝ち或は負く。一を二と行く時は忽ち負る者なり。強弱・軽重・順逆・遅速・進退、何れも千刀万剣の事、其得失邪正は茲にあり。能是を考へ修行すべし。
【語注】
1)請け…受ける意。ここでは相手の技を受ける動作をいう。本書では、この受ける動作と外す動作とを合わせて応ずる≠ニ表現する。
【現代語訳】
技における優位性というのは、自分の一手で相手の二手に応ずるところにある。たとえば打ちつつ受け、外しつつ切ること、これは一手で相手の二手に応ずることである。受けてから打ち、外してから切るのでは、一手に一手で、二手に二手に応ずることである。一手で二手に応ずる時には、必ず勝つものである。一手に一手で、二手に二手に応ずる時には、勝ったり負けたりする。(相手の)一手に対して(自分が)二手で攻めて行く時には、すぐさま負けてしまうものである。(技の)強弱・軽重・順逆・遅速・進退など、どれも千刀万剣の(修練の後に身につく)事であり、その成功・不成功、是非はこの点(=技における優位性をしること)にある。十分にこの点を考えつつ修行すべきである。
【補説】
相手の二手に対して、一手という記述は、二つの運動が局面融合1)され一つの運動として認識されるものであり、運動の先取り2)がなされた運動と理解される。また、ここでいう相手の二手を一手で応ずる代表的なわざが、相手が打撃してくるわざを打ち落としながら打撃する「打ち落とし」のわざであろう。
1)局面融合は以下のとおり示されている。「局面融合ということは、異なった種類の運動をスムーズに結合するのに、すなわち組合せ運動系にとって、基本的意義をもつものである。……一般に、2つの独立した運動技能をスムーズに結合させることは、終末局面と準備局面が中間局面に融合していくことに基づいているのを認めるものである。」(クルト・マイネル著、金子明友訳(1981):マイネル・スポーツ運動学、大修館書店、p164)
2)運動の先取りは以下のとおり示されている。「先取りというのは、次につづく運動課題をめざして先行する運動局面あるいは運動経過全体がモルフォロギー的に同調を示すことである。その変容は運動の全体構造のなかにはっきりと現われるものであり、それらは客観的に明らかに確認できるものである。」(同前、p230)
第15章
(1)
剣刀に長短の分ち是有り。我長なる時は、体を以て利を写し1)、我短なる時は、体を以て利に移る2)。長短、 等則は、移写其機に因て変化すべし。雖然、渠と我と事理平等にして其得失を考ふるに、長は短を利するに過ぎず、其短は長を打に過ぎざれば不及。是其形に一得備るが故也。事は形を以て本とする利あり。故に其形に一得を備る者は、事の変化行ひ易し。変化行ひ易き時は、其利も亦自ら正し。雖然、長短は自己の手に応じ心に得るを以て是を用て可也。故に我伝に、剣刀の長短寸尺に定法なし。長は雖為利、我に応ぜざれば是を用ても全く利なし。短は不及の利たりと云ども、我是を得る時は却て利あり。故に長にして短を不欺、短にして長に不奪を、長短一味の伝授3)と云也。
【語注】
1)写し…ここでは「敵の姿をありのままに写して攻める」の意と解する。第5章の「写」の項を参照されたい。なお現代語訳では煩瑣となるので、攻める≠ニだけ訳した。
2)移る…「敵の心に自己の心を移動させるようにして守る」の意と解する。同じく第5章の「移」の項を参照のこと。これも現代語訳では守る≠ニだけ訳した。
3)長短一味の伝授…ここと同じく、『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「長短一味之事」においても、「長にして短を欺かず、短にして長に奪はれざるを、長短一味の事理を知ると云」(p291)と説明する。
【現代語訳】
(勝負に用いる)刀剣には長短の区別がある。わが刀剣が(敵より)長い時は、体でもって有利に攻め、わが刀剣が(敵より)短い時は、体でもって有利な守りにまわる。長短が(敵と)等しい時には、攻守は臨機応変に行うべきである。そうはいっても、敵と自分とが技も道理も等しく同じと(仮定)して互いの損得を考えるに、長い刀剣は短い刀剣を制する利があるに過ぎず、短い刀剣は長い刀剣に打ちかかるしかないとすれば(距離的に)届かない。これは、刀剣の形態にそれぞれ取り得が備わるからである。技は刀剣の形態を根本とするという道理がある。よって形態に取り得が備わるものは、(その形態を利用して)技の変化を行い易い。変化を行い易い時には、その(技の)道理もまた自然と正しいのである。しかしながら、刀剣の長短は自分自身の腕にふさわしく心にかなうことで、はじめてこれを用て自分に適しているといえる。だからわが流派においては、刀剣の長短の寸法に定まった法はない。長い刀剣は利があるとはいっても、自分自身にふさわしくなければ、これを用いても全く利点はない。短い刀剣は(敵に)届かないのが道理だとしても、自分自身がこれを心得ている時には逆に利点がある。したがって長い刀剣でも短い刀剣をしのぐことができず、短い刀剣でも長い刀剣にやられないという境地を、長短一味の伝授というのである。
(2)
然るを剣刀の長短に拘り、或は其刀を撰む心、其器に拘る時は術の本心を失ふ。我心に吹毛の利剣1)を帯する者、何で刀剣に拘らんや。たとゑ利剣を提ても、肉をきらざれば是鈍刀也。鈍刀を提ても、骨を砕くときは、是則利剣也。一心清静の刃を能く磨く時は、提る処の刀剣は即吹毛の剣也。是本来具足の一刀2)は、刹那も心身を離るゝ事無く、時に順つて殺活自在也。夫れ長は勝ち、短は負く。長短等くば一度は勝ち、一度は負く。不足には勝ち、不及に負け、相対には或は勝ち、或は負く。是理の順也。
【語注】
1)吹毛の利剣…吹きかけた毛髪すら両断するほどの切れ味の剣。名刀。『碧巖録』第百則に見える語句。
2)本来具足の一刀…自然と、心中に具わった一刀≠フ意と解した。具足は、ここでは充分に具わった状態の意。
【現代語訳】
そうであるのに刀剣の長短にこだわり、あるいは刀剣(の善し悪し)を選ぼうとする気持ちで、道具にこだわる時には剣術の本心を失ってしまう。自分の心の中に切れ味のよい名刀を帯びている者は、どうして刀剣にこだわる必要があろう。たとえ名刀を持っていても、それで肉を切らないのであれば、これは鈍刀と同じである。鈍刀を持っていても、それで骨を砕くときには、これは名刀と同じである。心中に清浄の刃を充分に磨くならば、持っている刀剣は、すぐさま吹毛の名刀ともなる。この自然と、心中に具わった一刀は、一瞬たりとも心身から離れることはなく、時に応じて殺活自在(に用いることができるの)である。(しかしながら)そもそも長い刀剣では勝つ(ことが多く)、短い刀剣では負ける(ことが多い)。(互いに刀剣の)長短が同じであれば勝ったり負けたりする。(相手の力が自分よりも)足りない場合には勝ち、(自分の力が相手に)及ばぬ場合には負け、(互いの力が)等しい場合には勝ったり負けたりする。これは順当な道理である。
(3)
然るを己が分限を知らず、我堅固にして他を害せんと欲せば、是非道なり。勝負の根元は自然の理にして、是非全く計り難し。不思(思はざる)に勝、不量(量らざる)に負く。勝つべきに却て負、負くべきに全く勝ち、或は倶に死し或は倶に生ず。善にて亦不善、悪は悪にして亦悪にあらず。何に向て勝事を楽み、何れに向て負くる所を悲まんや。人間無常の習、其得失は唯天道自然の妙理也。故に敵に向ふの時、勝負の是非を念はず、一心生と死を放れて、命は天運に任せ、義を守て臆せざる時は、十万1)に敵なし。敵なき時は何を以てか負けん。千刀一刀、万剣一剣の秘密2)也。能く是を知るは智也。能く是を行ふは勇也。智と勇と術と相兼る者を、当流剣法の明達と是を云なり。
【語注】
1)十万…ここでは文意から、これを「十方」の誤りと解した。
2)千刀一刀、万剣一剣の秘密…千刀万剣の修練によって体得された一撃の極意と解する。つまり敵に対しつつも勝負の勝敗を思わず、ひたすら生と死から離れ、命運は天に任せたような心境は、千刀万剣の修練によって培われるという極意。
【現代語訳】
それなのに自分の限度を理解せず、かたくなに敵を殺したいと願うならば、これは非道である。勝負の根元は自然の理であって、(勝負の)勝敗は全く計り難い。思いもせず勝つこともあり、予想もせず負けることもある。勝つはずなのに、かえって負けることもあり、負けるはずなのに完全に勝つこともあり、あるいはどちらとも死に、あるいはどちらとも生きのこることもある。善であっても善ではないこともあり、悪は悪でありつつも悪ではないこともある。何に対して勝つことを喜び、何に対して負けることを悲しむというのか。人間無常のしきたり、その損得はただ天道の自然な妙理である。だから敵に向う時には、勝負の勝敗を思わず、ひたすら生と死から離れ、命は天運に任せて、正義を守て臆病にならない時には、どこにも敵はない。敵がいない時に、どうして負けることがあろうか。これは千刀一刀、万剣一剣の秘密である。充分にこれを知るのは智である。充分にこれを行ふのは勇である。智と勇と術とを兼ね備える者を、当流剣法の明達というのである。
【補説】
刀は長短どちらが有利かという問題から、道理を心得る「長短一味の伝授」が説かれ、また順当な道理(長い方が有利)に対し、それを超えた天道に即した「千刀一刀万剣一剣の秘密」や「剣法の明達」が説かれている。このように現実的な運動の課題解決について、人間の内面の営みである精神性まで論が深化されるところにこの流派の特徴が看取される。
第16章
渠と我と分て、不思(思はざる)に来り、不量(量らざる)に去り、待つ処に不来(来らず)、行く処はふせぐ。我、如此なれば渠も亦同じ。其不思所を打ち、其不量所に応ず。其変無窮にして、其化常なし。自然の妙理を得て万機に応ず。是を事の勝負と云也。渠と我と一心一躰にして、我思ふ所を渠も思ひ、我量る処を渠も量り、動寂又唯一物にして、鏡に向て影をうつすが如し。茲に至りて、勝べき事もなく知るべきこともなし。若し勝んと欲せば即負け、不勝ば又負る所なし。自然の理と云も、当然の事と云も不然。事理の有無を滅却せずんば、誰か是に勝たん。不勝は是術の本心にあらず。故に術を放捨して別伝の高上に至らば、何ぞ対する敵あらんや。若茲に来て向はんとせば自ら殺し、向て不来者は自滅すべし。是殺人刀、活人剣1)。
【語注】
1)殺人刀、活人剣…もともと『碧巖録』等に見える禅語であり、「宗師家が学人に接する場合に、奪って許さない手段が殺人刀、与えて容れる手段が活人剣である」(『禅学大辞典』)などと説明される。禅語であった、この概念を剣法上の重要なキーワードとしたのは柳生新陰流であろう。周知の通り、柳生新陰流の伝書『兵法家伝書』の上巻は「殺人刀」、下巻は「活人剣」と名付けられている。その由来について、『兵法家伝書』は「此巻上下を、殺人刀、活人剣と名付けたる心は、人をころす刀、却而人をいかすつるぎと也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治めむ為に、殺人刀を用ゐて、已に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや。こゝを以て名付くる所也」(p119)と説明する。
【現代語訳】
相手と自分とを分けて(考えて)も、考えもしないところで懸かって来たり、予想もしないところで引いたり、待ちうけているところに懸かって来なかったり、攻め懸かって行くところはふせごうとする。自分がこうであれば、相手もまた同様なのである。相手の考えもしないところを打ち、予想もしないところに反応する。その変化は尽きることなく、またその変化には定った法則もない。自然の妙理を体得してあらゆる機会に反応すべきである。これを技における勝負というのである。相手と自分とが一心一体となり、自分の考えるところを相手も考え、自分が予想するところを相手も予想し、動も静もただ一つの物ととらえ、鏡に向て姿をうつすかのように(相手をうつすように)する。この境地に至ると、勝たねばならぬことも考えねばならぬこともない。(それでも)もし勝とうと願えば、すぐさま負け、勝とうとせねば負けることもない。(こうした境地を)自然の道理ということも、当然の技術(の結果)ということも当たっていない。事とか理とかの存在を滅却するのでなければ、誰が勝てるであろうか(いや、誰もが負ける)。(しかしながら)負けることは剣術の本意とすることではない。だから剣術(の技術的な面)を捨てて別伝の高上(の境地)に至ったならば、どうしてかなう敵があろうか(いや、誰もかないはしない)。もしこの境地に至った者に立ち向かって攻め懸かろうとすれば、これは自らを殺すことになり、立ち向かって攻め懸かってこない者でも自滅するであろう。これを殺人刀、活人剣というのである。
まとめ
現代の剣道指導書の先行形態と考えられる「一刀斎先生剣法書」を現代訳し、その技術に関する名辞の意味・内容をマイネルのスポーツ運動学の視点から考察し、以下のことが明らかになった。
1.事」は、狭義には、技術ではなく、課題遂行の運動経過や運動形態を示すものである。
2.理」は、最高の習熟を示す運動経過や運動形態を構成する理論である。そして、「水月」のように、剣道の世界に限定されない一般的な比喩で寓話的に示されるものである。
3.事理不偏」とは、運動の自動化を意味するものである。
4.残心」は、敵の姿を自己に映すという意味であり、現代の意味と異なるものである。
5.威勢」は、「威」の中に「勢」があり、「勢」の中に「威」があるという関係である。また、「威勢」は道家の説く無為自然≠フ思想を伏在させている。
6.「理(道理)」を「事(技)」よりも優先させてはならず、「体(身体能力)」を「剣(剣の操作術)」よりも優先させてはならない。つまり理論、身体能力を極めて偏重することは剣法上、敗北につながるのである。
7.「事」で攻め「理」で守る時と「事」で守り「理」で攻める時とは勝利し、この状態を「残」という。「事」「理」ともに攻める時と「事」「理」ともに守る時とは敗北し、この状態を「不残」という。つまり攻守のバランスが取れた状態を「残」といい、取れない状態を「不残」という。
8.「先」と「後」とは二つでありながら一つである。また「先」「後」は臨機応変なものであり、どちらか一方にとらわれてはいけない。また、「先」「後」いづれを取るかは、相手の動きによって臨機応変に決めるものである。
9.「先」「後」に、それぞれ「体」「用」の区別がある。
10.勝負におけるポイントは間≠ノある。この間には距離という意味とタイミングという意味との二つがこめられているが、勝負の際にこの間にばかりこだわっていると、かえって負けることとなる。
11.鸚鵡の位という技には、相手の技に同じ技で向き合う技――例えば、面には面、小手には小手など――と、相手の技の裏をかく技――例えば面には抜き胴、小手には抜き面など――との二種がある。
12.邪心なく、自分にふさわしい一つの剣技、一つの道理を修めることで一心不変の位に到達することができる。
13.刀剣の長短にこだわるべきではなく、特に定まった寸法もない。心中に鋭い刀を秘めている者は、どんな刀でも相手を斬ることができる。  
 
伊藤一刀斎・諸話

 

1
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
2
佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
3
古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
4
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
5
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。  
6
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
7
柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
8
柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
9
丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
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宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
 

 

 
 
 
柳生宗厳・柳生石舟斎宗厳 (やぎゅうせきしゅうさいむねよし)

 

   1527−1606
柳生宗厳 1

 

   生誕 / 大永7年(1527年)
   死没 / 慶長11年4月19日(1606年5月25日)
   別名 / 石舟斎(新介、新次郎、新左衛門、右衛門)
   戒名 / 芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士
   墓所 / 芳徳寺
   主君 / 筒井順慶、松永久秀
   氏族 / 柳生氏
   父母 / 父:柳生家厳
   兄弟 / 松吟庵
   妻 / 奥原助豊娘・鍋(春桃御前)
   子 / 厳勝、久斎、徳斎、宗章、宗矩
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。新陰流の兵法家。柳生家厳の子。百官名は但馬守。諱は宗厳。通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。入道してからは石舟斎と号した。子に柳生厳勝(柳生利厳の父)、柳生宗矩、柳生宗章ほか。
生涯
出生から筒井氏臣従
代々柳生庄(奈良市柳生町)を領する柳生氏当主・柳生家厳の嫡男として生まれる。生年について、柳生家累代の家譜『玉栄拾遺』で 大永7年(1527年)とあり、『寛政重修諸家譜』もそれに準ずる。一方で宗厳自身の記述として、慶長11年(1606年)2月に発行した目録で「生年七拾八歳」と記しており、そこから逆算して享禄2年(1529年)を生年とする説もある。
宗厳が生まれた当時、大和は争乱が続き、柳生家は木沢長政に味方して筒井氏や二木氏らと戦った。しかし長政が河内太平寺の戦いで敗死すると、筒井順昭によって長政の残党は次々と攻略されていき、天文13年(1544年)宗厳17歳の時に、柳生家の本拠地である柳生城も順昭の攻撃を受けた。同時代の日記『多聞院日記』によると、この時の筒井側は総勢一万にものぼったといい、3日に渡る攻撃の末に柳生城は落城した。
父・家厳は筒井氏に臣従して家名存続を図り、 年次不詳ながら筒井順慶の家老向井専千代達から所領を安堵されている。宗厳も筒井氏の家臣として父と共に戦場で働き、吐山(奈良市)で行われた合戦では「比類無き働きを果たして負傷した」として順慶から感状を得た。  
三好政権下
永禄2年(1559年)宗厳32歳の時、畿内を支配する三好長慶の重臣・松永久秀が大和に侵攻し、筒井氏の本拠筒井城を攻めて筒井順慶を敗走させ、大和を支配下におく。 柳生家は久秀侵攻直前の永禄2年7月には筒井氏より引き留め工作として、白土(奈良県郡山市)を与えられているが、久秀侵攻を機に筒井氏に離反して松永氏に与する。
永禄5年(1563年)3月には当主・長慶の弟三好実休の戦死を機に、久秀の仕える三好氏は一時苦境に陥っているが、その間久秀からは宗厳が離反しないよう、軍事情勢を続けざまに伝えるなど励ましの書状を受けている。
柳生家には宗厳宛て以外にも、久秀が家臣に宛てた指示書や、長慶の重臣に宛てて大和の戦況を報告した書状が残ることから、この時期の宗厳は久秀の側近となり、取次ぎとして久秀の書状を三好家中枢へ伝える使者を務めていたと見られる。永禄6年(1564年)に長慶の嫡男・ 三好義興が病床に臥した際には、三好家次期当主の危篤という機密情報の取次も任され、書面にも記されていない主君の考えも伝えるなど、久秀にとって最も気を許せる家臣として扱われている。
永禄6年(1563年)正月二十七日、多武峰の戦いに参戦する。この戦いは久秀方の敗北で終わるが、宗厳は「鎗を働かれ数輩」の首級を挙げたとして、戦後久秀から「後口比類無き御働き、いよいよ戦功をぬきんでらるべき事」と称賛されている。 このとき宗厳は、敵の箕輪与一に拳を射られて窮地に陥っているが、家臣の松田源次郎・鳥居相模某が与一を倒して危機を脱した。源次郎はこの戦いで討ち死しにしたが、宗厳は生涯その恩を忘れず、後に源次郎の長子(同源次郎)に新陰流の印可状を与えた際には、父源次郎の武功を「比類なき働き」「討ち死にの段更に忘れ置かず候」と讃えている。
同年6月には久秀からの直状で、筒井氏より得た白土の替地として秋篠分(奈良市)を与えられ、主従関係を強化されている。
新陰流入門
永禄6年(1563年)宗厳36歳の時、新陰流流祖として名高い兵法家・上泉信綱とその門弟の一行が、上洛の途上に奈良を訪れたことを知り、面会して試合を申し込む。
柳生家では宗厳はこの時すでに一角の兵法家であったと伝えられ、江戸柳生家の家譜『玉栄拾遺』では戸田一刀斎に 富田流を学んで奥義「獅子の洞入」を修めたとあり、尾張柳生三代・柳生厳延が書いた『柳生新陰流縁起』では神取新十郎に新当流を学んで五畿内外で名を知られていたとある。
宗厳の曾孫・柳生利方はこの試合の様子を『新陰流兵法由来』に残しており、宗厳は信綱との試合を望んだものの、信綱は先に弟子の鈴木意伯と立ち合うようにいい、宗厳は「さらば」と何度か試合したが、自分より二寸短い竹刀を操る意伯に惨敗したとしている。ただし、この試合の内容には異説もあり、江戸時代中期に著された『武功雑記』では同じく信綱の弟子の疋田豊五郎と立ち合って三度敗れたとし、利方の子孫である柳生厳長は『正伝新陰流』で宗厳の相手を務めたのは信綱本人であるとしている。
いずれにしろ宗厳は信綱が編み出した新陰流に完敗したことで、己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、信綱を柳生庄に招いてその剣を学んだ。
翌永禄7年(1564年)、信綱は「無刀取り」の公案を宗厳に託して柳生庄を離れ、当初の目的だった京にのぼる。永禄8年4月に再び信綱が意伯と共に柳生庄を訪れると、宗厳は信綱に自ら工夫した無刀取りを披露して信綱より『一国一人印可』を授かり、さらに翌永禄9年(1565年)には三度柳生庄を訪れた信綱より『新影流目録』を与えられたという。
三好氏内乱
永禄7年(1564年)三好家当主・長慶が死去して若き三好義継が跡を継ぐと、宗厳が仕える松永久秀と三好家の重臣・三好三人衆等との間に対立が生じ、やがて三好家中を二分した争いになる。当主・義継を擁立した三人衆は、大和の国人に多数派工作を仕掛け、宗厳の元主家である筒井順慶等も三人衆と結ぶなど久秀は孤立するが、宗厳は久秀方に留まった。
久秀と三人衆の戦いは久秀の劣勢で推移するが、永禄10年(1567年)2月、三好家当主・三好義継が三人衆への不満から出奔し、久秀に味方したことで久秀は復活を遂げる。
膠着する戦況を打開するため、久秀が当時急速に台頭してきた織田信長の上洛を画策すると、宗厳もこれに協力し、同年の8月21日には信長からの書状で、自身の通路安全のために三木の女房を早く返すため奔走するように指示され、続く28日には信長の重臣佐久間信盛から、信長の上洛が延引していることについて弁明を受けとっている。
この頃の宗厳は松永氏の弱体化によって、与力として半ば独立する状態となっていたと見られ、信長から直接書状を受け取るだけでなく、久秀の嫡男・松永久通を取次として久秀の主君である三好義継から直接感状を受けている。
同年12月、信長より「自分(信長)は間もなく 足利義昭に従い上洛する。自分は必ず久秀親子を見放さないので、久秀親子と連携するように」と命じる書状を受ける。この書状は同じ内容のものが興福寺在陣衆、岡因播守、多田四郎、瓶原七人衆中、椿井一郎にも送られており、このうち興福寺在陣衆宛ては柳生家に保管されている。このことから、この頃の宗厳は久秀の軍事的基盤の一人として、興福寺に陣取る軍勢を率いていたと見られる。
信長上洛から久秀滅亡
信長が上洛し、松永久秀が信長より送られた援軍と協力して大和の平定を進めると、宗厳も嫡男・柳生厳勝と共に織田家の宿将・柴田勝家に見え、大和の国人・十市氏と協力するよう命じられるなど織田家と連携している。
元亀二年(1572年)8月4日、松永久秀の指揮の下、筒井順慶が守る辰市城を攻める。この戦いで久秀方は「大和国始まって以来」(『多聞院日記』)と言われるほどの大敗を喫し、久秀の一族や多くの重臣が討ち死にした。 『多聞院日記』によるとこの合戦で手負いを負った者の中には宗厳の嫡男・厳勝(「柳生息」)もおり、その傷が原因となって厳勝は生涯柳生庄に引きこもっていたとされる。
同年10月、久秀が山城南部を攻めて奈良を留守にすると、宗厳は久通の命を受けて東国へ使僧を遣わし、伊賀衆への調略や大阪本願寺と伊勢長島一向一揆との交渉にあたった。
元亀2年(1573年)4月、主君・松永久秀と三好義継は織田信長との対決姿勢を示し、信長は筒井順慶と結んで久秀と対決した。信長に反抗する勢力には足利義昭等も加わり(信長包囲網)一時は信長を圧倒するも、やがて劣勢となり元亀3年に義継は居城を攻められて自害し、久秀は降伏して信長に臣従した。
この間の宗厳の動向は明らかではないものの、天正2年頃には 本願寺の下妻頼興から、当時信長に攻められて籠城していた伊勢の長島(長島一向一揆)と大阪の本願寺との取次ぎを依頼されており、松永久秀の配下にあって、信長と対立する本願寺と通じていた形跡もある。
天正5年(1577年)宗厳50歳の時、久秀は信貴山城に立て籠もって再び信長との対決姿勢を示し、同年10月に織田軍の攻撃を受けて天守に火をかけ自害した。
豊臣政権下での没落
久秀の没後、代わって大和の支配者となった筒井氏には従わず、柳生庄に逼塞して新陰流の研鑽に励んだとされる。
天正7年頃には、京の貴族・近衛前久へ「表裏疎意無く」奉公することを希望して誓紙を提出したことが前久の書状で明らかになっている。前久は正月22日付の上野信孝に宛てた書状で、この宗厳の申し出について「感悦の至り」と感想を記しているが、前久は信長が死去した天正10年(1582年)以降京を離れていた期間があり、臣従がいつ頃まで続いたかは定かではない。
天正13年 (1585年)、天下を統一した豊臣秀吉の命で国替えが行われ、大和の支配者が筒井氏から秀吉の実弟 豊臣秀長に代わる。『藩翰譜』には年次不詳ながら、秀長の統治下において「柳生の庄隠田の科に処せられて、累代の所領没収」されたとあり、本領を失った柳生家は大いに困窮したとされる。一方で天正13年11月9日に、近江愛智群百石を与える内容の差出人不明の知行文目録を授かっており、『玉栄拾遺』の編者は、この頃の宗厳が当時近江周辺を領有していた関白・豊臣秀次に仕えていたものと推測する。
文禄2年(1592年)宗厳66歳の時、剃髪・入道して石舟斎と名乗る。
家康入門
文禄3年(1594年)5月、豊前国の大名・黒田長政の取成しで京都鷹が峰、御小屋で徳川家康に招かれ、家康本人を相手に無刀取りの術技を示す。家康はその場で宗厳に入門の誓詞を提出し、二百石の俸禄を給した。家康は宗厳に自らの側で出仕するように求めたともいうが、宗厳は固辞し、同行していた五男の柳生宗矩を推挙した。
この頃宗厳は、後に関ケ原の戦いで西軍の大将として家康と争う毛利輝元にも兵法を教授しており、文禄4年(1595年)以降に複数の目録を与えている。 兵法を通じて徳川家と毛利家から援助を受けるようになっても柳生家は困窮していたと見られ、文禄4年7月には旅先から妻に宛てて、自分が死んだら茶道具を売り払っての葬式代に当てるようにと遺言状を送っている。
徳川家に宗矩を仕えさせつつ輝元にも兵法を指南する状況は慶長3年の豊臣秀吉没後もしばらく続き、 慶長4年2月には輝元に対し、皆伝印可として起誓文を提出している。起誓文ではこれまでの数年間に渡る輝元からの「扶助」について礼を述べ「兵法之極意傳を少しも残らず相伝したこと」を記すと共に、「兵法」だけに限らず「表裏別心のない」ことを自ら誓っており、関ケ原の戦い前年のこの時点での宗厳はむしろ毛利寄りという意見もある。
関ケ原の戦いから死没
慶長5年(1596年)7月、上杉景勝討伐の途上で石田三成の挙兵の報を受けた家康は、宗厳宛ての書状を宗矩に託して柳生庄にかえし、筒井順斎と協力して大和の豪族を集めて石田方を牽制するように命じた。 宗厳は宗矩と協力して家康の命を果たしたと見られ、同年9月13日に家康の元に戻った宗矩は、家康に無事工作を終えたことを報告している(『徳川実紀』)。 宗矩は関ケ原の戦いの本戦に家康の本陣で参戦し、徳川方が勝利すると、これらの功績を認められて、没収されていた柳生庄の本領二千石を与えられた。
慶長8年(1603年)、熊本藩主・加藤清正の要請に応えて、戦傷を負って隠居していた長子・厳勝の子の柳生利厳を加藤家に仕官させる。宗厳は旅立つ利厳に『新陰流兵法目録事』を与えると共に、利厳の気性を案じ、利厳が死罪に相当する罪を犯しても3度までは許すように清正に願い出たという。 しかし利厳は、出仕後1年足らずで同僚と争った末にこれを斬り、加藤家を致仕して廻国修行の旅に出た。
翌年の慶長9年(1604年)、旅先の利厳に皆伝印可状を送り、利厳が柳生庄に帰還した際には、自筆の目録『没慈味手段口伝書』に大太刀一振りと上泉信綱から与えられた印可状・目録の一切を併せて授与した。
慶長11年(1606年)4月19日に柳生庄にて死去。享年80。法名は「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士」。奈良市の中宮寺に葬られるが、後に宗矩が柳生家の菩提寺として芳徳寺を開基したため、芳徳寺に墓所がある。
没後
宗厳の死後、家督を継いだ宗矩は二代将軍・秀忠および三代将軍家光に新陰流を伝授し、その門弟も剣術指南役として諸藩に採用されて、宗厳の流れをくむ新陰流は「天下一の柳生」と称されるほどの隆盛を誇った。宗矩は大目付も務めるなど幕政にも関与して加増を重ね、総石高一万二千石に達して柳生藩を立藩するに至る。
一方宗厳の孫・利厳は御三家尾張徳川家初代当主・徳川義直に仕えて兵法を伝授し、尾張徳川家御流儀としての新陰流の地位を確立した。その後も尾張藩では代々新陰流は特別の格式を以て遇され、現代にいたるまで連綿と新陰流を伝えている。
人物・逸話
医師の曲直瀬道三と親交があり、道三が宗厳と梅窓の両人を相手に健康管理のあり方を問答形式で語った『養生物語』がある。
宗厳の門下
印可状・目録・入門の誓紙が現存する門下
当主自身が門下に入門している家、及び当主
   徳川将軍家  : 徳川家康(文禄3年入門)
   長州藩毛利家 : 毛利輝元(慶長4年印可)
   浅尾藩蒔田家: 蒔田権佐(慶長7年印可)
大名家に仕えた門弟
   徳川将軍家 : 三好新右衛門尉(文禄4年印可)、金春七郎(慶長11年印可)…金春流63世宗家
   熊本藩加藤家→尾張藩尾張家:柳生利厳(慶長9年印可)
その他の門下
   三好左衛門尉(天正9年印可)
   松田源次郎(慶長9年印可)…柳生家家臣
   柳生厳勝(慶長11年印可)
印可状・目録が現存していない門下
大名家に仕えた門弟
   徳川将軍家 : 柳生宗矩(柳生藩初代藩主)
   岡山藩小早川家→ 米子藩中村家 : 柳生宗章
   紀州藩紀州家: 村田与三
   長州藩毛利家→ 黒田家福岡藩: 柳生(大野)松衛門…有地新影流流祖
   土佐藩山内家 : 小栗正信…小栗流流祖
その他の門下
   柳生新次郎厳秀
   村上清右衛門…戸田三太刀流開祖
   福野七郎右衛門正勝…良移心当流流祖
   伊岐遠江守直利…伊岐流槍術流祖
   伊藤善斎…香取流流祖
   佐々木茂左衛門
   大石佐左衛門正縄
   高野善右衛門重綱  
 
柳生宗厳 2

 

柳生宗厳は戦国時代の新陰流の剣法を継いだ兵法家です。
父は柳生家厳で大和の国は添上郡柳生郷の豪族でした。宗厳は新介という幼名で、新左衛門と呼ばれていました。
宗厳は香取新十郎に新当流の剣術を学び、宝蔵院胤栄には槍術をそれぞれに学びます。
多武峰(とうのみね・現在の奈良にある、とある山やその付近にある寺の事)にいた僧侶らとの戦に、宗厳は父と共に松永久秀の勢に加わり、名を上げました。その年には、上泉信綱という新陰流の兵法家と会ったことにより、信綱やその弟子とも試合をしますが、負けてしまいます。
宗厳は信綱の門下となり、1565年になると新陰流の免許皆伝となりました。さらに次の年には、奥義というものを授けられました。その後には、「無刀取り(自らは刀を持たずにして相手に勝つという戦法)」を編み出し、大名たちが教えを受けたと言います。筒井 順慶に仕えていましたが、後に織田信長に仕えました。
柳生村に帰る途中の道で、馬から落ちてしまい大けがをしてしまうという、惨事もありました。更に1571年には、宗厳の嫡男である厳勝が辰市合戦において、鉄砲の弾に当たってしまった事で重症を負い、剣が扱えない状態になってしまいました。
1573年以降になると、病気になったという理由で職を辞し、柳生村にて隠居生活を送りました。石舟斎と名乗り出家したのが1593年です。
松永久秀が信長に対して謀反を企てた折には、その影響を受けないために筒井 順慶にも属しませんでした。反対に、順慶と争っていた十市遠長の側に付くなど、独立の立場を取っていたと『多聞院日記』には記されています。
翌年に京都に徳川家康によって呼ばれ、五男である宗矩と共に無刀取りを披露しました。それを見た家康から、宗厳は剣術を教えるために勤めるように言われますが、既に高齢だったために断りました。その代わりに、宗厳の息子である宗矩が五百石で雇われたのでした。
家康に新陰流を教え、それからというもの、柳生家は徳川家に兵法を教えるという役割を担っていくのです。そして、剣において大きく有名な家系となりました。
1600に起きた関ヶ原の戦いでは、宗厳は家康に命じられて畿内の動向を調査し、家康に報告しました。
1606年には、柳生村の地において、八十年の人生に幕を下ろしたのです。宗矩はというと、段々と出世していき、将軍師範役兼大目付にまでなり、一万二千五百石を頂戴したのでした。
柳生宗厳の名言
○ うつすとも水は思はず、うつるとも月は思はず、さる沢の池。
誰が見ていようと 見ていまいと、映る月も 映す水も、何ら変わりなく 何らの意志も動いておらず、しかも、その あるがままな自然こそ、即、われわれの日常でなければいけない。
○ 一文は無文の師、他流に勝つべきにあらず。きのふの我に今日は勝つべし
自分の心と向き合い、昨日の自分に勝てるように日々向上する大切さを説いています。 
 
柳生宗厳 (石舟斎) 3

 

1527年〜1606年
大和柳生の庄2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田発覚で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
家系
柳生氏は、菅原道真の末裔を称する大和添上郡柳生郷の土豪で、元は春日大社の社人であったが大和を支配した興福寺の傘下に入り、山城・伊賀と隣接する隠れ里に在したことから諜報力と武芸が発達し小領主ながら独特の存在感を現した。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)に反抗するが長政が三好長慶に討たれ降伏、順昭没後は松永久秀(三好権臣)に転じ大和攻略の先棒を担いだ。長慶の死で孤立した久秀は三好勢・筒井順慶(順昭の嫡子)に攻囲されたが織田信長に臣従して局面を打開、久秀を支え柳生の庄2千石を保った家厳は順慶の織田家帰順を機に家督を嫡子宗厳に譲り隠遁した。柳生七郎左衛門(家厳の弟)は、京八流・中条流・神道流を学び柳生家に兵法を興した剣客で松永久秀とも懇意であった(実は名物「平蜘蛛」を譲受けたとも)。七郎左衛門に「当家の宝」と賞された柳生宗厳は、不惑に至って上泉伊勢守信綱に師事し並居る高弟を差置いて一国一人の印可を授かり新陰流正統を受継いだ。豊臣秀長の太閤検地で隠田を摘発され柳生家は全所領を失い一家は離散したが、柳生宗厳が徳川家康に「無刀取り」を披露したことで運が拓け居合わせた五男の柳生宗矩が200石で召抱えられた。長子の柳生厳勝は合戦で不具となったが、宗厳は厳勝次男の利厳の素質を愛し手元に置いて新陰流を授けた。宗厳四男の柳生宗章は小早川秀秋に仕官、小早川家改易に伴い伯耆米子藩に転じるがお家騒動に捲込まれ討死した。大和で西軍大名の諜報蒐集に任じ関ヶ原合戦でも活躍した柳生但馬守宗矩は大和柳生2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に栄進、柳生新陰流は将軍家お家流とされ、大坂陣では秀忠を襲った敵兵7人を瞬時に斬殺、3代将軍徳川家光にも重用され大和柳生藩1万石(のち1万2500石)の大名となった(江戸柳生)。嫡子の柳生十兵衞三厳は剣名を馳せたが早世、三男の柳生宗冬が後を継ぎ柳生藩は幕末まで続いた。柳生兵庫守利厳は(妻は島左近の娘)、加藤清正に仕官するが同僚を斬殺し逐電、流浪10余年を経て尾張藩主徳川義直に仕官し子孫は兵法指南役を世襲した(尾張柳生)。
年譜
1527年 筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)の被官で大和柳生城主(所領は2千石ほど)の柳生家厳の嫡子に柳生宗厳が出生
1536年 河内守護畠山氏の被官で飯盛山城城主の木沢長政が信貴山城を築き大和攻略を開始、大和国侍は筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)率いる対抗派と柳生家厳・宗厳父子ら帰順派に分れ抗争を繰広げる
1550年 筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)が太平寺の戦いで三好長慶に討たれた木沢長政の残党を次々攻略し柳生家厳・宗厳父子ら国侍衆を降して大和を平定するが病を苦に比叡山へ出奔し死去、2歳の嫡子筒井順慶が後を継ぐが大和は再び国侍衆が割拠する情勢となり三好政権・松永久秀に支配圏を脅かされる(「元の木阿弥」の故事成句あり)
1559年 三好長慶が河内の内紛に介入し畠山高政を守護に復位させ叛逆した守護代安見宗房を大和へ追放、長慶から大和侵攻を託された松永久秀は河内国境に信貴山城(日本初の天守閣城郭)を築き柳生家厳・宗厳父子ら国侍を引入れて筒井氏勢力(当主は12歳の順慶)を攻略
1566年 箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される)
1567年 [東大寺大仏殿の戦い]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に三好康長・安宅信康・篠原長房・池田勝正ら三好家重臣と大和の筒井順慶が加勢し将軍足利義栄からも討伐令を出された松永久秀が大和多聞山城に孤立(柳生家厳・宗厳父子は久秀方で参戦)、畠山高政・安見宗房・根来衆と同盟し挽回を図るも堺を落とされ逃亡するが、三好家当主義継の寝返りを誘って盛り返し三人衆が陣取る東大寺を夜襲で撃退(東大寺大仏殿は失火で全焼し大仏は首が焼落、奇しくも10年後の同日10月10日に松永久秀は自爆死)、順慶とゲリラ戦術に手を焼いた久秀は局面打開のため織田信長に名物茶器「九十九髪茄子」を献じて帰服、信長は久秀に大和一国・義継に河内半国の切取り次第を許す
1571年 上泉伊勢守信綱が京都を退去し上野上泉へ帰国、柳生宗厳に一国一人の印可を授けて新陰流正統を託し併せて「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」を公案として課す / 松永久秀から大和筒井城を奪還した筒井順慶が明智光秀(妻の義兄)・佐久間信盛の斡旋により織田信長に臣従し久秀と小競り合いを繰返しつつ光秀の与力として信長の天下統一戦に従う、久秀方で活躍し柳生の庄(所領は2千石ほど)を保った柳生家厳は嫡子の柳生宗厳に家督を譲り隠遁
1574年 14歳の前原弥五郎(伊東一刀斎景久)が三島神社で富田一放(富田重政の高弟)に挑み勝利し神主から宝刀「瓶割刀」を授かる、江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(鐘捲自斎。柳生宗厳にも教授した富田景政高弟)に入門
1577年 愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀も導入して「剣術諸流の原始」「剣聖」と謳われた上泉伊勢守信綱が死去(享年69)、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され新陰流は将軍家お家流となり隆盛を極める(信綱嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝に拾われ子孫は米沢藩士として命脈を保つ) / 松永久秀滅亡により筒井順慶が大和の支配者となるが柳生宗厳は十市遠長ら国侍と結んで半独立体制を保つ
1585年 柳生石舟斎宗厳の父柳生家厳が死去 / 大和郡山城100万石に入封した羽柴(豊臣)秀長が太閤検地を実施、柳生の庄を治める柳生宗厳は隠田摘発により全所領(2千石ほど)を没収され石舟斎(浮かばぬ船)と号す(柳生を去り京都で近衛前久に寄食したとも)、子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求めて出奔し宗厳は資質の優れた利厳(厳勝の次男)を手元に留め新陰流を授ける
1587年 肥後人吉城主相良頼房が島津氏を見限り豊臣秀吉に帰順して本領安堵(投降に働いた執政の深水長智は秀吉の信任を得て豊臣直臣にスカウトされるが固辞)、薩摩大口城敗戦の罪で致仕された丸目蔵人長恵は17年ぶりに帰参を赦され兵法指南役(117石)に就任し長恵のタイ捨流は相良家のみならず東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及(上泉信綱の新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる)
1594年 兵法大名の徳川家康が浪人中の柳生石舟斎宗厳を洛北鷹ヶ峯の居宅に招き試技、67歳の宗厳は素手で家康の木剣をもぎとって「無刀取り」の奥義を披露し(師の上泉伊勢守信綱から与えられた公案)感服した家康は宗厳の代わりに随行していた末子の柳生宗矩を200石で召抱える、宗矩は関ヶ原合戦後に旧領柳生の庄2千石を回復し将軍徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万石を立藩(江戸柳生)、宗厳嫡孫の柳生利厳も尾張徳川家の兵法指南役となり(尾張柳生)、柳生新陰流は将軍家お家流として隆盛を極める)
1601年 大和で西軍大名の諜報蒐集に任じ関ヶ原合戦でも活躍した柳生宗矩(宗厳の末子)が旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に就任、同役の小野忠明(小野派一刀流)は当時最強の剣豪ながら無骨で強弱に固執する余り秀忠に嫌われ退けられる / [天下二分の誓約](年次不祥)上泉伊勢守信綱の門下筆頭を自負する丸目蔵人長恵(肥後相良藩士)が新陰流正嫡を称し将軍家兵法指南役に就いた柳生宗矩(宗厳の末子)に張合い決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と謝辞し徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い鉄砲で射殺したとも伝えられる)、長恵は娘婿の八左衛門にタイ捨流と家督を譲って隠居し球磨郡切原野(錦町)で開墾に勤しむ
1603年 小早川秀秋に仕えた柳生宗章(宗厳の四男)が主家改易に伴い出奔、伯耆米子藩の執政家老横田村詮に招かれ客将となるが権勢を妬む藩主中村一忠が村詮を誅殺、宗章は横田一族に加勢し藩兵18名を斬るが力尽きて壮絶死を遂げる / 柳生利厳(宗厳の長子厳勝の次男)が肥後熊本藩主の加藤清正に仕官するが間もなく同僚を斬殺し逐電、大和柳生の庄に帰省した際に柳生石舟斎宗厳より新陰流の印可を授かる
1604年 (詳細不詳)剣術で立身を期す宮本武蔵が上洛し吉岡道場(鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流の一流)を挑発、洛北蓮台野で当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)に勝利し挑み来た弟の吉岡伝三郎を斬殺、吉岡一門100余名が5歳の吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を担ぎ報復に出るが武蔵は又七郎を殺し包囲を破って遁走(生き残った清十郎は道場を畳み家業の染物屋に専念したとも)、武蔵は剣豪を求めて諸国を巡歴し手段を選ばない流儀で勝利を重ね江戸に滞在したのち上方へ戻る(神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試す。奈良興福寺の宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの仕合は史実に無い。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否したいう)
1606年 大和柳生の庄2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を承継し、隠田発覚で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」開祖の柳生石舟斎宗厳が死去(享年79)
交友
柳生家厳 / 大和柳生の庄領主
柳生七郎左衛門 / 家厳弟・剣術の師
柳生厳勝 / 合戦で不具となった宗厳長子
柳生兵庫守利厳 / 厳勝次男・尾張徳川家の兵法指南役に採用された尾張柳生の祖
柳生宗章 / 宗厳四男・伯耆米子藩主中村一忠に仕官するがお家騒動で壮絶死
柳生但馬守宗矩 / 将軍徳川家光の兵法指南役に採用され柳生藩主となった宗厳末子・江戸柳生の祖
柳生十兵衞三厳 / 天衣無縫の宗矩長子
柳生宗冬 / 大名に復帰した宗矩三男
筒井順昭 / 大和を掌握した興福寺衆徒
筒井順慶 / 順昭嫡子  
 
柳生氏 4

 

柳生氏といえば、石舟斎宗巌、但馬守宗矩など剣豪を輩出した剣の一族として知られる。そもそも柳生氏が名字とした柳生は大和国添上郡の一郷で、四方を山に囲まれた南北に細長い大和国最北端に位置する山里である。「柳生」は、楊生、夜岐布、夜支布、養父などとも書かれ、いずれも「やぎう」と読む。
柳生氏の登場
古代の柳生郷のことは明らかではないが、柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によれば、仁和元年(885)に大柳生庄・坂原庄・邑地庄・小柳生庄の神戸四箇郷が関白藤原基経の所領となったとある。以後、藤原氏の荘園となっていたが、長暦二年(1038)、宇治関白頼道が四箇郷を藤原氏の氏神である春日神社に社領として寄進した。そして、大柳生庄は右京利平、坂原庄は左京基経、邑地庄は修理包平、小柳生庄は大膳永家をそれぞれ荘官に任じて神領を奉行させた。このなかの小柳生がのちの柳生で、永家の末がこの地を領し、庄名をとって柳生と名乗ったという。ちなみに、大膳永家の本姓は菅原氏であったと伝えられる。
やがて、神戸四箇郷は管理者である荘官に押領され、荘官たちはそれぞれ武士化していったようだ。しかし、大膳永家以後の柳生氏代々の動向はようとして知れない。柳生氏が歴史の表舞台に登場するのは、大膳永家より数代を経た播磨守永珍(ながよし)のときであった。
元弘三年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうと計画をめぐらしたが発覚、京都から笠置山に潜行して幕府打倒の檄を発した。いわゆる元弘の乱で、この乱に際して播磨守永珍と弟の笠置寺衆徒中坊源専は、天皇の檄に応じて笠置山に馳せ参じた。中坊源専は笠置山の南一の木戸の将として幕府軍を迎え撃ち、播磨守永珍は柳生に拠って奈良方面から押し寄せる幕府軍に備えた。
戦いは柳生兄弟の奮戦もむなしく、天皇方の敗北となり、笠置山は灰燼に帰し、捕えられた天皇は隠岐に流された。柳生一族は柳生の地を没収され、没落の運命となった。それから三年、隠岐から脱出した後醍醐天皇により幕府は倒れ、建武の新政が開始された。ここに、柳生の地は笠置山の戦功によって中坊源専が賜り、源専はこれを兄永珍に譲った。かくして、柳生氏はふたたび柳生を領して、戦国時代には興ケ原の興ケ原氏、丹生の丹生氏、邑地の吉岡氏らとともに北和の豪族に成長した。とはいえ、その間における柳生氏の歴史は必ずしも明確ではない。
大和の戦乱
大和国の中心をなす奈良盆地は国中(くになか)と呼ばれ、中世を通じて守護は置かれず、代わって興福寺が守護的な立場にあって一大勢力をなしていた。そのため、国中地方では、興福寺の寺僧である衆徒(しゅと)と、春日大社の神人(じにん)である国民が武士として成長していった。衆徒の代表としては筒井氏・古市氏らが知られ、神人では越智氏・十市氏らが代表格であった。
南北朝の争乱期、興福寺の両門跡である一乗院と大乗院が南北に分裂して勢力を弱め、それが衆徒・国民の勢力を強めることになった。そして、越智氏が南朝方武士の中心勢力に位置し、筒井氏が北朝方武士の中心勢力として、大和国の南北朝の抗争は推移したのである。やがて、南北朝の争乱が終熄して、室町幕府体制が確立されたのちも、越智氏と筒井氏を軸に大和の争乱は続いた。永享元年(1429)、「大和永享の乱」が勃発し、戦乱のなかで越智氏が没落。さらに筒井氏に内部抗争が起り、それに幕府、河内守護の畠山氏らの介入があって、大和の武士たちは離合集散を繰り返しながら抗争を続けた。
そのような大和争乱のなかで、山城と大和の境に位置する柳生を所領とする柳生氏も安閑とはしていられなかったと思われる。系図によれば、柳生新六郎光家が細川高国に属したとあるが、年代的に疑問が残るものである。とはいえ、応仁の乱後の戦乱のなかで、柳生氏も幕府内の権力闘争と無縁ではなかったことをうかがわせている。
十六世紀になると、下剋上の横行もあって将軍の権威は凋落し室町幕府体制は大きく動揺していた。柳生氏の動向が明確にあらわれてくるのは、そのような政情下におけるなかで、光家の孫にあたる美作守家巌の代であった。天文五年(1536)、河内半国・山城下五郡守護代を兼ねる木沢左京亮長政が、大和乱入を目論み信貴山に城を構えた。このとき柳生家巌は木沢左京亮に属して、伊賀の仁木氏、大和の筒井氏らと戦った。
やがて木沢左京亮は、管領細川晴元、三好長慶らと対立するようになり、天文十一年、河内大平寺の戦いに敗れて滅亡した。その後、三好氏の与党であった筒井順昭が大和の木沢残党を攻略しはじめた。天文十二年、須川の簀川氏を滅ぼした順昭は、翌年、一万余の軍勢をもって柳生に攻め寄せた。戦いは小柳生合戦と呼ばれ、家巌・宗巌父子の奮戦で攻防は三日間に及んだが、衆寡敵せず小柳生城は落ち柳生家巌は筒井氏に降った。
戦乱に翻弄される
柳生氏が筒井氏に従属していたころ、幕府体制は有名無実化し、三好長慶が畿内を押えて幕政を牛耳っていた。永禄二年(1559)、長慶から大和方面の軍事を委任された松永久秀が大和に進攻、信貴山城を修築してこれに拠り、筒井氏ら大和の国衆を攻撃した。この情勢の変化に対して、柳生家巌と宗巌の父子は筒井氏から離れて松永氏に与した。大和の支配に乗り出した久秀は、井戸・万歳・沢の諸氏を破り、永禄六年には多武峰を攻略し、大和国衆を圧倒した。
その間、多武峰合戦に出陣した柳生宗巌は、傷を負いながらも奮戦、敵味方も舌を巻く活躍を示し久秀から感状を受けている。この戦いにおける勇猛ぶりによって、柳生宗巌の武名は畿内に鳴り響いた。ちょうど、そのようなおり宗巌は、新陰流祖の上泉伊勢守秀綱と出会うことになるのである。すでに宗巌は新当流の名手として知られた存在であったが、秀綱の弟子疋田文五郎と立ち会い完璧に敗北した。以後、秀綱に弟子の礼をとり新陰流の教えを受け、永禄八年、「一国一人の印可状」を授けられるまでに精進した。
一方、宗巌が新陰流兵法の研鑽につとめていた頃、三好長慶が河内飯盛山城で没し、柳生氏を取巻く情勢も大きな変化をみせていた。長慶の死後、甥で養子の義継が三好氏を継ぐと、松永久秀が家宰として義継を支え、宗巌も三好義継に仕えた。永禄八年、久秀は三好三人衆と結んで将軍足利義輝を殺害、同十年には反久秀勢力である筒井順慶、袂を分かった三好三人衆らと戦い東大寺大仏殿を焼き払った。翌十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀は信長に臣属し、興福寺、筒井氏らの勢力駆逐に奔走した。
この間、宗巌は久秀に属し、細川藤孝、柴田勝家らが率いる織田軍の大和進攻に際しては、久秀の推挙を受けた宗巌がその先導をつとめている。その後、宗巌は信長に招かれて京都に上り将軍義昭に仕え、但馬守に任じられた。しかし、松永久秀との関係も保持し、元亀二年(1571)久秀が大和辰市において筒井順慶と戦ったとき、宗巌は久秀に味方して奮戦した。戦いは久秀方の敗北となり、『多聞院日記』から宗巌の嫡男新次郎巌勝が負傷したことが知られる。辰市合戦後、筒井順慶は明智光秀を通じて織田信長に降り、大和の戦乱も一応の終熄をみせた。
天正元年(1573)、将軍足利義昭が信長打倒の兵を挙げたが、あっけなく敗れて降伏、義昭は追放されて室町幕府は滅亡した。ほどなく、世の無常を感じたのか、あるいは期するところがあったのか、宗巌は柳生の地に帰り、以後二十年間にわたって柳生に隠棲して世に出ることはなかった。一説に、宗巌は信長に接近しようとしたが、信長は柳生一族を顧みることが少なかったため失望した宗巌は柳生に隠遁したのだという。
柳生氏、近世へ
天正十年、本能寺の変によって織田信長が死去し、信長の部将であった豊臣秀吉が天下人として大きく台頭した。秀吉も信長と同様に柳生氏を取り立てることはなかった。信長・秀吉たちは戦略気質の人物であり、剣術のような個人的技術を用いることはなかった。そこに、柳生氏における不幸があったのであろう。
そして、天正十三年の太閤検地によって宗巌は隠田を摘発され、所領没収の憂き目となった。もっとも、豊臣秀次から百石の扶持を受け、一家離散にまで落ちることはなかったようだ。柳生氏系図によれば、宗巌には嫡男新次郎巌勝をはじめとして五男六女があった。嫡男巌勝は辰市合戦の負傷がもとで不具となり、二男久斎、三男徳斎は出家し、四男の五郎右衛門は小早川氏に仕えてのちに戦死、五男が近世柳生氏の祖となる又右衛門宗矩である。
文禄三年(1594)、石舟斎宗厳は家康の召しに応じて、自得の剣法を示して賞せられた。家康は宗巌に誓詞を差し出し、兵法師範として直ちに仕えるようにいった。しかし、宗巌は老齢の故をもって辞退し、従えていった又右衛門宗矩を出仕させるとみずからは柳生に帰った。これが、柳生氏が剣をもって世に出るきっかけとなった。
慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に際して、柳生に帰った宗矩は三成方の情報を探って東軍へ送るなど、石田方の後方牽制に活躍した。戦後、それらの功によって柳生旧領二千石を回復、翌年には千石を加増されて三千石を領する徳川旗本となった。さらに徳川秀忠の兵法師範となり、柳生新陰流は徳川家の御流として天下の剣となったのである。
かくして、宗矩は但馬守に任じられ、二代将軍となった秀忠に新陰流を伝授し、大坂の陣にも軍功があり、剣法のみならず、行政的手腕を発揮して寛永九年(1632)惣目付(大目付)の職についた。その後も累進を重ねて、ついに小さいながらも一万二千五百石の大名柳生家の基礎を築いた。宗矩のあとは嫡男の十兵衛が継ぎ、ついで二男の宗冬、三男の友矩が継いで子孫は明治維新に至った。ところで、宗矩の嫡男十兵衛は諸国武者修業に出て情報収集につとめたとか、隻眼であったとかいわれるが多分に後世の創作であるようだ。
江戸時代、柳生氏は江戸と尾張の二流に分かれた。幕府に仕えた宗矩の流れを江戸柳生といい、宗矩の兄新次郎の 二男で尾張徳川家に仕えた利厳の流れを尾張柳生氏と称された。祖父石舟斎宗巌の薫陶を受けた利厳は新陰流三世の 印可を与えられ、その技倆は宗矩を凌ぐものがあったといわれている。利厳ははじめ加藤清正に仕えたが、 のち尾張義直の招きに応じて尾張柳生氏の祖となったものである。利厳の子厳包も剣の天才で、晩年に名乗った 連也斎の名で知られる。

柳生氏が名字とした柳生は大和国添上郡の一郷で、四方を山に囲まれた南北に細長い大和国最北端に位置する 山里である。柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によれば、仁和元年(885)に大柳生庄・坂原庄・邑地庄・小柳生庄の 神戸四箇郷が関白藤原基経の所領となった。長暦二年(1038)、宇治関白頼道が四箇郷を藤原氏の氏神である 春日神社に社領として寄進した。そして、大柳生庄は右京利平、坂原庄は左京基経、邑地庄は修理包平、 小柳生庄は大膳永家をそれぞれ荘官に任じて神領を奉行させたとある。このなかの小柳生がのちの柳生で、永家の末が この地を領し、庄名をとって柳生と名乗ったという。ちなみに、大膳永家の本姓は菅原氏であったと伝えられる。
柳生氏が歴史の表舞台に登場するのは、大膳永家より数代を経た播磨守永珍(ながよし)のときであった。 元弘三年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうと計画をめぐらしたが発覚、京都から笠置山に潜行して幕府打倒の 檄を発した。播磨守永珍と弟の笠置寺衆徒中坊源専は、天皇の檄に応じて笠置山に馳せ参じた。建武の新政が開始される と、柳生の地は中坊源専が賜り、源専はこれを兄永珍に譲った。戦国時代には興ケ原の興ケ原氏、丹生の丹生氏、 邑地の吉岡氏らとともに北和の豪族に成長した。とはいえ、その間における柳生氏の歴史は必ずしも明確ではない。
柳生氏の家紋はといえば、「地楡(吾亦紅=われもこう)に雀」と「二階笠」、副紋に「雪持ち笹」を用いた。 いずれも珍しい家紋で、とくに「地楡に雀」は数ある日本の家紋のなかでも柳生家ただ一氏のみが使用しているもので ある。地楡はバラ科の植物で、「ちゆ」とも呼ばれ、吾亦紅、吾木香とも書かれる。秋に暗紅色の可憐な花をつけ、 「われもこうありたい」というはかない思いをこめて名づけられたという。根は生薬でタンニンを含み、 止血剤として用いられ漢方薬の原料ともなっている。何故、柳生家が地楡に雀を用い出したのかは不明であるが、 地楡のもつ止血剤としての効果が有り難がられた結果かも知れない。一方、二階笠の方は津和野の大名坂崎出羽守直盛から譲られた ものだという。

坂崎出羽守は、元和元年(1615)の大坂夏の陣で、炎に包まれ落城寸前の大坂城から徳川家康の孫娘千姫を救出した 人物として知られる。俗説では、家康は千姫を救出したものには千姫を与えると約束していたが、直盛に対してそれを 履行しなかった。  この家康の虚言に怒った直盛は千姫の輿入れ行列を襲おうとしたというのが、「千姫事件」というがもとより信じられ ない。一説にいうところの、直盛が千姫と京都の公家との縁談をまとめたのに対して、幕府は本多忠刻との話を 進めたので、怒った直盛が千姫の行列を襲おうとしたとする方が話としては頷ける。いずれにしても、坂崎直盛は幕府に 対して武士の一分を通そうとしたものであろうが、幕府に対する謀叛とされたのも仕方がなかった。
この千姫事件に際して、幕府は直盛のもとに柳生宗矩を遣わして、その説得にあたらせた。宗矩の武士らしい説得に 感じた直盛は、その説得を受け入れると自刃して果てた(異説もある)。このとき、直盛は宗矩の労に謝して 「二枚笠」の紋を贈ったのだという。以後、柳生家は二枚笠を紋として用いるようになったと伝えている。
ところで、柳生氏の場合、本姓菅原氏といいながら梅鉢紋を用いた形跡はない。中世における「家」と「紋」の関係を 考えたとき、柳生氏の出自は果たして菅原氏なのか?という疑問が生じてくる。しかし、菅原氏から分かれたという 中坊氏は梅紋を用いており、柳生氏も梅紋をもちいた時代があったのかも知れない。  
 
柳生新陰流

 

歴史
1 創始からの新陰流
およそ五百年前の戦国時代、上州(群馬県)に生まれた上泉伊勢守藤原秀綱(のち信綱)は、若くして刀、槍などの諸流の武術に通じていました。中でも愛洲移香斎から陰流を学び、その後新たに「転」(まろばし)という考え方に目覚め工夫を重ねて新陰流を拓きました。
当時、大和にいた柳生石舟斎宗厳は新当流の遣手で五畿内随一といわれた兵法者でありました。伊勢守は京に上る途上、伊勢国司北畠具教卿の紹介で興福寺の子院である宝蔵院において、宝蔵院胤栄を立会人として石舟斎と会いました。石舟斎は上泉伊勢守と立合いましたが足下にも及ばず、直ちに流祖の弟子となり新陰流を究めます。その後無刀の位について開眼した石舟斎は、伊勢守から正統第二世の印可を授けられました。
石舟斎は五男・宗矩と共に徳川家康公に新陰流を上覧に供しました。その縁で、宗矩は家康公に仕えることになり二代将軍秀忠公、三代将軍家光公の兵法師範となりました。このことによって新陰流の名は天下に知られることとなりました。宗矩は「江戸柳生」の開祖となりましたが、宗矩の曾孫・俊方以降は他家からの養子が家督を継ぎ、石舟斎以降の柳生家の血筋は惜しくも絶えてしまいました。
一方、利厳は石舟斎の長男である厳勝の次男として生まれました。利厳の兄久三郎は朝鮮で討死し、利厳は嫡孫となりました。彼は幼いころから、資質、兵法ともに祖父石舟斎に瓜二つと言われ、児孫の中で最も石舟斎に愛されたと伝えられています。祖父の膝下で兵法を修練し、正統第三世の相伝を授けられました。後に、利厳は尾張初代藩主徳川義直公の兵法師範となり、居を尾張に移し、「尾張柳生」の礎を築きました。元和偃武(げんなえんぶ)の時代に適応した「直立(つったつ)たる身の位」を考案した利厳は、その子連也厳包とともに新陰流の術理を発展させました。
利厳は義直公に道統を譲りその後を継いだ厳包から尾張徳川家二代藩主光友公へと、その後も三代藩主綱誠公が宗家を継承したように明治維新を迎えるまで腕の立つ7人の藩主(うち1人は世子)と11人の尾張柳生家当主により新陰流は受け継がれてきました。
2 近代以降の柳生新陰流
明治九年廃刀令とともに斯業は頽廃しましたが、第十九世柳生厳周は家伝新陰流の純粋相伝を念として、一門孤立の道業に力をあわせ、家人子弟を養成して明治年間を通じて道業を続けました。
大正二年、厳周は師範補助厳長と共に宮内省済寧館へ出仕しました。これは明治天皇による新陰流の永遠保存の御旨によるものでした。残念ながら大正十年十二月に至り主管皇宮警察規綱の改革によって、御保存の道業は廃絶しました。
第二十世厳長は、東京を拠点にして、在京の一族、柳生房義・一義父子によって建てられた道場「碧榕館」やその閉館後に尾張柳生家によって建てられた「金剛館」にて、新陰流の普及に努め、近衛供奉将校団師範、武徳会全国各府県中央講習会講師などを歴任しました。
「碧榕館」は神奈川県鎌倉市の円覚寺に寄付され、現在「居士林」(こじりん)と呼称を改め在家信者のための坐禅道場となっています。
戦災によって兵庫助利厳以来の名古屋の屋敷と道場は焼失し、その活動すら危ぶまれた時期もありました。昭和三十年、最高裁長官石田和外氏はじめ諸氏の支援のもとに東京柳生会が発足し、厳長は活動を再開しました。さらに厳長は新陰流の歴史や理論を後世に残すべく『正傳・新陰流』(講談社・島津書房復刻)を著しました。
昭和四十一年、第二十一世の延春厳道が柳生会を継承し、昭和四十四年、柳生会東京月例会にて厳長の後を受け継ぎ第一講道を再開しました。そして、東京、名古屋、大阪などを中心に柳生会の教場をひろげました。
柳生家に伝わった新陰流という意味を明確にするため、昭和六十三年四月より「新陰流」ではなく「柳生新陰流」という呼称を使い始めました。
平成一九年五月に延春厳道が逝去し、第二十二世耕一厳信が尾張柳生家第十六代当主となりました。
特徴
第五世連也厳包による図案の柳生鍔に「天地人転」とあります。これは当流の神髄を示す言葉である、「性自然」、「転」、「真実の人」の3つを意味しています。
「性自然」とは、自然の活(はたら)きに従うことで、私心なく身体全体でのびのびと刀を使うことです。心身一如、刀身一致とも表現されます。その本(もと)の考え方は、性の自然に循(したが)えば、物事に適切に対応できるということで、「本来の自己」で刀を使うことによって、どのような状況下であっても適切に対応できるという「神妙剣」に通じる考え方です。
「転」を表す言葉が、流祖の遺した『燕飛の巻』に記載されています。「懸・待・表・裏は一隅を守らず、敵に随って転変して、一重の手段を施すこと、恰も風を見て帆を使い、兎を見て鷹を放つが如し」です。斬合いにおいては、懸かる、待つ、表から攻める、裏から攻めるの四通りの対応があります。これはどの方法にも固執せずにその状況に応じて柔軟に最適な手段を用いるという考え方を意味しています。「転」を使うには、心身ともに先入観を持たない「無形の位」を本体とし、千変万化する相手を明らかに観ることが必要とされます。敵をすくませて力尽くで敵を倒す「殺人刀」ではなく、敵を働かせその働きに随って無理なく勝つという「活人剣」に通じます。
「真実の人」は、流祖が石舟斎に授けた一国一人印可状に記載された言葉です。それは私心のない、誠の人であることを意味します。印可状には「其の上の儀は真実之人に寄るべき候」とあります。これは斬合いの極意は「真実の人」にのみ伝えることができることを示しているのです。流祖の命を踏まえ、石舟斎は「兵法に五常(仁義礼智信)の心無き人に斬合極意伝えゆるすな」と『兵法百歌』の中に遺し、当流を学ぶ者に対して厳しい指針を与えています。
また石舟斎は、柳生家憲の中で「一文は無文の師、他流勝つべきにあらず、昨日の我に今日は勝つべし」と述べて、当流を学ぶ者に対しての行為の指針を与えました。自分の知らない事は知っている人から謙虚に学び、他流と勝負を争わず、ひたすらに自分自身の向上に日々努めよ、と言っています。
柳生新陰流道統
嫡流
柳生石舟斎に始まる”剣の柳生”の流れは、「江戸柳生家」と「尾張柳生家」の二つに分かれます。
「江戸柳生家」の開祖は、石舟斎の五男である柳生但馬守宗矩で、徳川家三代の将軍につかえ、後には柳生藩の大名となりました。ドラマや小説で有名な柳生十兵衛は、宗矩の嫡男となります。
もう一方の「尾張柳生家」の開祖は柳生兵庫助利厳です。兵庫助利厳は新陰流道統を継いだ後、尾張藩国家老で犬山城主であった成瀬隼人正正成公の推挙によって徳川家康公より尾張徳川家初代藩主である義直公の兵法師範に命じられました。
新陰流道統は柳生石舟斎の嫡流である「尾張柳生家」に継承され今日に至っています。
「世」と「代」
現在、柳生新陰流の正統なる道統は第二十二世で、柳生石舟斎から数えて第十六代尾張柳生家当主の柳生耕一厳信が継承しています。
「世」とは印可の相伝を他姓の人物が受け継いだ者を含めて数えたものです。「代」とは嫡流(血統)の一子相伝をいいます。
文献
『新陰流截相口伝書事』
『新陰流截相口伝書事』は、流祖上泉伊勢守信綱の口伝を整理して体系化し、孫の柳生兵助長厳(後の兵庫助利厳)へ慶長八年(1603年)に伝授した目録であります。上泉流祖の兵法の考え方及び刀法を具体的に示したものです。
石舟斎宗厳は永禄八年(1565)四月に印可を許され、翌九年五月には、『影目録』  燕飛(一巻) 参学(一巻) 九箇(一巻) 七太刀(一巻)、の計四巻を相伝し、新陰流正統第二世を継承しました。
『没滋味手段口伝書』
慶長九年(1604年)八月、宗厳は後継者を利厳と認め、自己一代の工夫公案である『没滋味手段口伝書』(没滋味とは何の味わいも無い、即ち争闘私意の無い心の意)を記しました。
この後さらに一年間秘蔵の後、極意三箇条を追記した上、『新陰流兵法目録事』、『新陰流截合口伝書事』とともにこれらを兵庫助利厳へと相伝しました。
兵助長厳が正統第三世を継承したのは、宗厳七十七歳、兵助二十八歳を迎えた慶長十年(1605年)六月のことです。
『始終不捨書』
元和六年(1620年)九月、尾張権大納言義利公(徳川義利、後の義直。尾張徳川家初代藩主)は新陰流正統第四世を継承しました。その際、第三世柳生兵庫助利厳は、他の目録、口伝書と共に自己一代の工夫公案の書として『始終不捨書』を進上しました。
この書は、流祖上泉伊勢守信綱、第二世柳生石舟斎の時代の刀法である介者剣術(甲冑をつけての剣術)を明らかにしました。更に、甲冑をつけない素肌剣術が求められた「元和偃武(げんなえんぶ)」という新たな時代に即した新しい兵法術理の極意を確立した、一大改革の書です。
「沈なる身の兵法」から平常服のままのより自由な剣法である「直立(つったつ)たる身の兵法」への移行は必然とも言えますが、日本の全剣術史における一大改革であったことに間違いはなく、第三世兵庫助利厳の偉業であります。
『新陰流兵法目録』(連也口伝書)
新陰流正統第五世となった、柳生連也厳包が12、3歳の頃に書いたものとされる口伝書です。
流祖から石舟斎までの昔の教えを「本云」「本曰」とし、師父利厳が解説した新時代に即した今の教えを「厳曰」と記し、簡潔に伝述しています。新陰流兵法目録全四巻の各条目の全てに、初めて全口伝書を付記しました。不世出の天才兵法家と云われた連也は、こういった分野でも才能の一端をあらわしていました。
連也はこの口伝書を作成しても生涯他人に開示することはなく、そのまま封印をして第八世を継ぐ甥の厳延に渡しました。「この厳封を開くものは、摩利支尊天の神罰を蒙りて、瞑目となる可し」と表書きされた密書は、厳延より三世後、正統第十一世柳生厳春までついにあかされることはありませんでした。
厳春はそのとき非常な信念をもって厳封を解いたと伝えられています。しかし、その事により得た一大光明が今日まで活かされています。
柳生制剛流抜刀
歴史
室町時代末期に、流祖水早長左衛門信正が僧の制剛からその抜刀を学んだとされています。流祖は柔術、居合術の達人で、その高弟である梶原源左衛門直景はこの技を尾張藩に伝えました。さらに新陰流兵法補佐として活躍した長岡房英は、制剛流抜刀術の奥義を究めました。次代房成がその術理を大成しました。
制剛流抜刀は柳生厳周、厳長によって練り直され、柳生制剛流抜刀として、延春厳道、耕一厳信へと相伝され、今日に至っています。
廃刀令以降武士道の象徴であった、いわゆる腰間の一刀の存在が日常の生活から姿を消して140年余りとなります。兵法の稽古で使用する、当流独特の「ふくろ竹刀」の本(もと)となる日本刀の扱いを通して、兵法において大事な「位-心の充実が身体に現れた心身の有り様-」を練るために兵法と共に抜刀を稽古しています。
所縁の地
芳徳寺(奈良県柳生の里)
・石舟斎の館のあとに柳生宗矩が先祖を弔うために臨済宗大徳寺派の芳徳寺を建立しました。
・永禄八年四月(1565年)、柳生石舟斎宗厳(むねとし)は流祖上泉伊勢守信綱より無刀の工夫を認められ一国一人の印可状を授けられました。平成二十七年六月、印可状相伝四百五十年祭として、柳生会の全体合宿を柳生の里にて行いました。流祖の兄弟弟子でもあった宝蔵院胤栄を流祖とする宝蔵院流槍術の方々にもご参加いただいて、芳徳寺での法要の後、正木坂剣禅道場にて奉納演武を行いました。
白林寺(愛知県名古屋市)
・元和元年、犬山城城主、成瀬正成公の推挙により徳川家康公から任じられ、家康公の九男で初代尾張藩主徳川義直公の兵法師範となりました。正成公の菩提寺であった臨済宗妙心寺派白林寺が尾張に居を定めて以降、尾張柳生家の菩提所となりました。
麟祥院(京都府右京区)
・慶安元年(1648年)、第三世柳生利厳は臨済宗妙心寺派総本山妙心寺の塔頭である麟祥院内の柳庵へ隠居しました。霊峰禅師のもとで参禅し余生を過ごし当院で亡くなりました。院内に葬られています。
・第五世を継いだ柳生連也厳包は、兄柳生利方の立会のもと同院にて道統を父より継承しました。厳包は遺言により墓を作ることを禁じましたが、その事績を刻した大きな位牌が当院に納められ祭られています。
妙興寺(愛知県一宮市)
・永禄六年頃、流祖が京都に向かう途上、臨済宗妙心寺派の妙興寺付近の村で、賊が子供を人質に取って小屋に籠もり村民が困っている場面に遭遇しました。流祖が、風体を僧に改め無刀にて賊を押さえ子供を解放したという逸話が残っています。黒澤明監督の七人の侍に出てくるシーンの元となった話です。
・同寺には尾張柳生家開祖利厳が寄進し表装し直した絹本着色十六羅漢図と道仏二教諸尊図があり、また当流第六世宗家である尾張藩第二代藩主光友公が寄進した鐘楼があるなど、当流と大変ご縁の深い名刹です。
清浄寺(愛知県名古屋市)
・名古屋市内矢場町にある第五世連也厳包旧宅跡に当流第六世尾張第二代藩主の徳川光友公が徳川家累代の祈願所として浄土宗の清浄寺を創建されました。
・連也は、広大な敷地内に庭園のある屋敷を建て生涯独身を通して兵法に研鑽しました。また、農州関伝の刀匠、伊藤肥後守秦光代に刀を鍛造させ、刀装としての「柳生拵え」「柳生鍔」を工夫公案したり、屋敷内に窯を築き茶碗や茶入れを焼かせるなど風雅の道を嗜みました。
西林寺(群馬県前橋市)
・流祖上泉伊勢守の居所があった上泉町の上泉家菩提所である曹洞宗の寺院です。流祖または子息秀胤のものであると言われているお墓があります。
・地元の人々により平成二十八年から剣聖上泉伊勢守を顕彰する流祖祭が開催され、同寺にて法要、武者行列の後、流祖銅像と流祖生誕の地と記した石碑の前で碑前祭が行われています。
三條かの記念館・米沢恒武館(山形県米沢市)
・流祖の子息である上泉秀胤は北条方について里見氏と戦い千葉の国府台にて戦死しました。残された流祖の孫の泰綱と一族郎等は上杉家に仕え米沢に移り住みました。関ヶ原の役では、西軍の上杉家は東軍の最上家と戦い、上泉一統は長谷堂の戦いで壮絶な最後を遂げました。
春日大社(奈良県奈良市)
・春日大社は約1250年前、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、比売神(ヒメガミ)の四柱を御祭神として建立されました。本殿前の林檎の庭には林檎の木に向かい合って樹齢千年以上の大杉がそびえ立ち、前に立つ者にその歴史を語りかけています。
・柳生家の歴代の記録をまとめた『玉栄拾遺』に次のような内容の記述があります。天岩戸が分かれて一つが和州に飛来し、その地を神戸岩と呼ぶようになった。その辺りには大柳生庄・塚原庄・戸馳庄・小柳生庄の四箇庄が有り、およそ千年前に藤原頼通がそれらを春日社の神料の地として寄付しました。時は下って大和国士六党は春日大明神を主として奉仕しました。天文七年(1538年)十一月二十七日に若宮祭礼執行願主人頭役之事として、六党の内の散在党に属した柳生の名前があります。
北畠神社(三重県津市)
・北畠神社は、北畠顕能公、北畠親房公、北畠顕家公を御祭神とします。境内の留魂社は北畠具教卿他を御祭神とします。流祖は上京の途上、伊勢国司北畠具教卿を訪ね、新当流の遣手でその腕前が近郷に知られていた柳生石舟斎を紹介されました。
・奈良の興福寺の子院である宝蔵院において宝蔵院胤栄立会いのもと石舟斎は流祖と立合いましたが、流祖の使う兵法の足下にも及ばす直ちに入門しました。胤栄もまた流祖に入門し、石舟斎と兄弟弟子となりました。その後、石舟斎は新陰流を継承し、宝蔵院胤栄は宝蔵院流槍術を創始しました。新陰流は尾張藩の御流儀となり、宝蔵院流槍術は広く各藩において学ばれました。
尾陽神社(愛知県名古屋市)
・尾陽神社は、尾張藩初代藩主徳川義直公と最後の藩主第十七代徳川慶勝公を御祭神として、明治四十三年に建立されました。
・江戸期には尾張柳生家の当主と共に7人の藩主(尾張藩主世子1人を含む)が当流の宗家を継承しました。義直公は新陰流第四世を慶勝公は第十八世宗家を務められました。
・第三世柳生利厳が元和元年に義直公の兵法師範となり尾張の地に居を定め、四百年目にあたる平成二十七年に奉納演武を行いました。
足助神社(愛知県豊田市)
・元弘の戦い(1331年)で、後醍醐天皇が笠置山に身を移された時、柳生石舟斎宗厳(むねとし)より六代前の柳生播磨守永珍(ながよし)は一族郎党270名を引き連れて笠置山に馳せ参じ、足助次郎重範公を総大将として幕府方と戦いました。重範公が御祭神として足助神社に祭られています。
・重範公は笠置山陥落後斬首されましたが、重範公の娘が二条家に仕え生まれた子息が、犬山城の成瀬氏の祖と言われています。尾張柳生の開祖となる柳生利厳は、成瀬正成公による徳川家康公への推挙によって尾張初代藩主徳川義直公の兵法師範となったという繋がりがあります。
・足助神社例祭・重範祭では、足助神社宮司と笠置山の笠置寺住職により敵味方将兵を弔っています。当流は、ご縁により御祭神である重範公へ平成二十七年から奉納演武を行っています。  
 
新陰柳生流形成期に見られる勢法

 

1 はじめに
武道や芸道においては、その流派の流儀が「かた」(注1)として表わされることで、門弟はその「かた」を通しその流派の流儀性を知ることができる。つまり、「かた」は流派とそれに携わる人とを繋ぐ橋渡的な働きをしているということがいえる。
ところで、こうした「かた」は歴史の経過のなかで自然に培われてきたものと、ある特定の人物によって創造されたものとがあろう。いずれにしろ、その「かた」が客体化されなければ次世に受け継がれることはないため、ここに伝授者は、「かた」を「型」として伝承する必要性がでてくるのである。
しかし、「型」がそのままで被伝授者に継承されるかというとそうではなく、そこには「型」から発現された「形」が「型」にフィードバックされる際逆に「型」が影響を受けたり、あるいは「型」自身が何らかの要因で変容するなど現実ではなかなかスムースに継承されないことが予想できる。
筆者はこの様な見地から、近世における剣術の「かた」について関心を持ち研究を進めてきている。そのなかでも、特に尾張藩の新陰柳生流に注目して、その「勢法(かた)」(注2)の変容を考察しているが、これは近世の多くの武術諸流派が、時代と共に付加的に発展、展開してきたのに対し、尾張柳生家という家を中心に発展を遂げた、芸道でいう家元的展開を示す特異な流派として位置付けられているためである(注3)。
新陰柳生流はその系譜を時代の推移と共に、介者剣術期、素肌剣術期、中興期の三期に分類できる1)も今回、そのうち、新陰柳生流の形成期にもあたる介者剣術期(上泉秀綱、柳生宗厳)を取り挙げ、この時期の勢法について考察しようとしたところ、流祖である上泉秀綱の勢法と柳生宗厳の勢法とでは、目録上差異を認めることができた。本来ならば、流祖上泉の新陰流を、被伝授者の宗厳はそのままの形で継承することが要求されたはずである。しかし、差異が生じた背景を察すると、宗厳は継承後、上泉秀綱の新陰流に柳生としての独自性を付加させたものと考えられるのである。
そこで、本研究ではこの介者剣術期において、上泉秀綱から柳生宗厳に継承される際の勢法の変容について考察し、柳生の独自性について明らかにすることにする。また、それを基に「かた」の継承形態の問題についても触れることにする。
2 介者剣術期の勢法
ここでは、上泉秀綱、柳生宗厳の勢法を取り挙げ、新陰柳生流の基点とも言うべきこの時期の勢法を明らかにする。なお、上泉の新陰流は近世流派の三源流と称される陰流、新当流、念流を基にして創設されたものであるが(注4)、それらの影響に関しては、主題から離れるため特に取り挙げて考察はしない。また史料に関しては、基本的に当時著された伝書類を用いることにするが、場合によってはそれらを補完するため、近世中・後期、あるいはそれ以降のものも援用することにする。
(1) 上泉秀綱の勢法
上泉秀綱は上州の出身で、永正五年(1508)義綱の次男として出生した。天正十年(1582)享年75歳で没するまで剣一筋に生き、その間、北条家兵法師範、古河公方兵法師範などの役職にもついている2`そういった剣豪としての上泉の名声が広まった背景には、彼が開流した新陰流の存在があると思われる。その開流時期に関しては天文三年(1534)説と天文十一年(1542)説とがあるが3)、いずれにしろ戦国時代の混乱の最中に、己の生きる術を託して開眼したのであろう。
さて、この上泉の新陰流の勢法に関して調査を進めると、その勢法が記されている書物が限られてくることがわかる。柳生延春氏も、
現在上泉信綱(秀綱のこと)の真筆と認められる古目録はこの『影目録』四巻と永禄十年二月丸目蔵人佐あての目録一巻ではないかと思う。4) ()内筆者
と述べており、現時点では、直筆の目録はこの二点のみということがいえよう。
なお、『影目録』は、永禄九年(1566)に上泉が柳生宗厳に授けたものであり、その構成は第一が「燕飛」の巻、第二が「七太刀」の巻、第三が「参学」の巻、第四が「九箇」の巻で、その内容は、書伝と太刀姿が画かれてある絵目録とが合わさったものである5)。
この『影目録』には、上泉が考案した太刀がそれぞれの巻に記されている。
一燕飛一
燕飛 猿廻 山影 月陰 浦波 浮舟 獅子奮迅 山霞
一七太刀一
鋸地獅子 天関 容髪 籠手 地軸明月之風 燕礪
一参学一
一刀両段 斬釘戴鉄 半開半向 右旋左転 左旋右転 長短一味
一九ケ之太刀一
必勝 逆風 十太刀 花木 腱眼 大詰 小詰 八重垣 村雲'
上泉の新陰流には、以上のような太刀が存在していたが、宗厳に授けてから二年後の永禄十年(1567)、上泉が丸目蔵人に与えた目録には次のようなことが記されている。
殺人刀太刀、活人剣太刀、此の両剣は我家の至要也。何を優と為し何を劣りとなすか。双剣と謂うべし。空に碕って飛ぶ。学者軽々しくこれを用うること莫れ6)。
ここに「殺人刀」「活人剣」という名称が見られるが、これは太刀名なのか、否かという問題がある。それは、一般的には禅語を比喩的に用いたもので、新陰柳生流の理念を象徴的に示したものと解釈されている。しかし、永禄八年(1565)に上泉から胤栄に宛て送られた印可状を見ると、
向後に於て惣べて之を望む方々御座候はば誓詞を以て九箇迄御指南尤に候。殺人刀活人剣の事は真実の仁に寄る可く候7)。
と記され、「九箇」の勢法(つまり『影目録』に記されている勢法)までは一般の人に教授することが許され、「殺人刀」「活人剣」の二太刀は、技術的にも人間的にも優れた人にしか指南が許されなかったことがわかる。っまり、この印可状や先の目録から、上泉の時期には『影目録』の四つの勢法の他に、「殺人刀」「活人剣」の二太刀が技法としても存在していたと考えられるのである。
なお、近世中期頃に新陰柳生流の兵法師範役を務めた長岡房成(1763〜1838)が著わした『刀金録・勢法篇』には、その「古来相伝之転勢上中下三段」の項に、
此上泉子所撰也8)
と記されている。このことから、当時上泉は、自ら著してはいないが「転(まろばし)」という勢法(太刀数は九本)をも考案していたと推則できる。
(2) 柳生宗厳の勢法
柳生宗厳は、永禄八年(1565)に上泉秀綱から印可を受け、新陰流を継承した。その後、宗厳はいくつかの戦に出陣し、その技量を発揮してはいるが、戦乱の世の醜悪さ、あるいは戦闘方式の転換などを目の当たりにし、武将への道を捨て、師匠である上泉が歩んできた兵法家としての道を選び、その道で精進しようと心に決めている9)。
そのような背景のもと、宗厳の勢法は、彼が歩んだ時代と共に、二つに区分することができる。一つは兵法家としての道を歩み始めた頃の天正九年(1581)以前のもの、もう一つは徳川家康との謁見を境にさらに心技の工夫が成され、新陰流に宗厳の独自性が加わってきた慶長元年(1596)以降のものである。
まず天正九年以前のものであるが、ここに見られる勢法は未分化のもので、体系化されていない。それは、宗厳が上泉から印可を受けた後、独自のものに消化していく一過程の勢法として捉えられる。この時期の目録には天正七年並びに八年に、宗厳から三好左衛門慰に送られたものがある。その七年の目録には、次のような太刀が記されている10)。
円太刀 向上 極意 人取手 居合分
また八年の目録には、『切合廿七ケ条之事』として、太刀名と共に次のような事が記されている11)。
 序
一右旋 左転 臥切事
一すり巻入事 小詰 村雲
一く、り切事 こし切事付調子切事
 披
一とうぼう
一折甲
一切合太刀
 急
一陰陽向上上構
一伺我か身をはなされる太刀上・中・下先三寸
 十文字一調子の事
一懸 待 表裏三ッ
なお、宗厳が天正九年に再度印可を更新した際の目録を見ると、ここに初めて「極意無刀」という名称を標榜していることがわかる12)。
つぎに、後者の慶長元年以降の目録に記されている勢法であるが、ここには元年の宗厳の署名のみのもの、六年の宗厳から武田家に送られたもの(書伝と絵目録)、八年の宗厳から長厳(後の柳生利厳、1579-1650)に与えられたものとがある13)。これら三つの目録に共通している勢法をまとめると次のようになる。
 三学円太刀
一刀両段 斬釘裁鉄 半開半向 右旋左転 長短一味
 九箇
必勝 逆風 十太刀 和卜 腱径 小詰 大詰 八重垣 村雲
 天狗抄太刀数八ッ
 (奥義太刀)
添戴乱裁 無二剣 活人剣 向上 極意 神妙剣 八箇必勝
 二十七ケ条戴相
序 上段三 中段三 下段三
破 折甲二 刀捧三 打合四
急 上段三 中段三 下段三
「奥義太刀」は太刀名のみが記されている。また『刀金録・勢法篇』によれば、「天狗抄」は愛洲移香が選出した太刀と記されている。なお、個々に若干異なる個所をまとめると、次のようになる。
・慶長元年の目録には「奥義太刀」の最後の太刀である「八箇必勝」が記されていない14)。
・同目録の「二十七箇条裁相」における「破」の太刀内容が「折甲二打合四刀捧三」となっている15)。
・慶長六年の絵目録には、「天狗抄」の個々の太刀名が「風眼房」等の陰語が使われている16)。また、宗厳自身目録に著してはいないが、『刀金録・勢法篇』によれば、彼が考案した勢法として「奪刀法(無刀取のこと)」が記されている17もこの勢法は新陰柳生流の極意とされているため、書伝しなかったものと考えられる。
3 介者剣術期の勢法の展開
(1) 勢法の変容。
柳生宗厳が上泉秀綱から新陰流の相伝を受けたのが永禄八年(ユ565)、その宗厳が孫の利厳に印可を授けたのが慶長八年(1603)である。したがって、尾張新陰柳生流の基盤はこの38年の間に形成されたことになる。
そこで、上泉の新陰流を継承した宗厳が新陰柳生流として大成していく過程で、どのような勢法の展開があったのかを考察してみたい。それにあたって、ここでは宗厳の時期に1 継承された勢法、2 付加された勢法、3 削除された勢法、の三っの視点から考察を進めていくことにする。
1 継承された勢法.
上泉と宗厳の勢法を比較した場合、彼らの目録の書面上から、継承されたと判断できるものは「参学」「九箇」である。また宗厳より後の被伝授者が著した伝書から、宗厳も継承していたと推察できるものに、「燕飛」「天狗抄」「転」がある。
「参学」の場合、宗厳は一旦「円太刀」という名称を用いているが、その後「参」を「三」に変え、さらに先の「円太刀」と合成させ「三学円太刀」としている。つまり、「参学」→ 「円太刀」→ 「三学円太刀」と移り変わっていることがわかる。しかし、その個々の太刀名はそのまま継承している(注5)。
「九箇」の場合、その太刀の名称が一部変更されている。上泉は五番目の太刀名を「腱眼」としているのに対し、宗厳は「腱径」と「眼」を「径」に換えている。この太刀は後に「捷径」とも書かれるが、他の太刀がそのまま受け継がれてきたのに対して、この太刀のみが名称変更しているのは興味深いところである(注6)。
「燕飛」は上泉秀綱が著した『影目録」の最初に記されている勢法であるが、何故か宗厳はこの勢法を書伝することをしなかった。この形式はその後も続き、代々の後継者もそれに従っていたが、長岡房成がその『刀金録・勢法篇』や『新陰流兵法口伝書外伝』に再び記載している18もその内容を見ると、房成の時期は第五世の柳生厳包(1625一1694)の使い方を用いていることがわかるが(注7)、このことは裏を返すと、上泉が考案した「燕飛」の勢法が口伝によって代々受け継がれていったことを証明することになろう。なお、上泉の『影目録』に記されている「燕飛」の太刀と「刀金録・勢法篇』にある太刀を比較すると、若干の差異を認めることができるが、それに関してはここでは詳しく触れないことにする(注8)。
「天狗抄」は、宗厳の目録で初めてその名称が記されるが、『刀金録・勢法篇』によれば、この勢法は愛洲移香が創作したものであることがわかる(注9)。したがって、当然上泉の時期にも存在していたはずであるが、書物からはそれを確証することは今のところできない。しかし、上泉の門弟である西一頓の流派の目録を見ると、同じく「天狗抄」の名称と陰語の太刀名、太刀画が見られることから、やはり上泉の時期に存在していた勢法ということがいえよう(注10)。
最後の「転」は、上泉の時期はもとより代々の後継者もこれを書伝していない。初めて書伝したのは、中興の祖の一人である第十一世柳生厳春(1741-1808)で、その『陰流書』にその名称が見られる。また『刀金録・勢法篇』で、この勢法が上泉によって考案されたものであることが記されている。このように、中興期の柳生厳春の頃まで「転」が書伝されなかった背景には、それが新陰柳生流の極意の太刀の一っに位置付けられているからであり(注11)、相伝が許された者のみに口伝という形式で伝授されていったためと考えられる。
2 付加された勢法
ここに属す勢法には、「奥義太刀」「二十七個条戴相」並びに「奪刀法」がある。
「奥義太刀」という名称は、『刀金録・勢法篇』で初めて書面に記されるようになったもので、それまでは宗厳のスタイルである、「天狗抄」の名称の後に「奥義太刀」の個々の太刀名のみを記載するといった形式が用いられていた。これは、この勢法の性質上、部上者に秘するためと思われる。柳生厳長『正伝新陰流』にも
石舟斎はこうして、題名や太刀名を秘して書き載せない範例を示し19)
と記述されており、代々の後継者はこの形式を堅守していったものと考えられる。
「二十七箇条戴相」の勢法であるが、厳春が著した『陰流書』には、先の「奥義太刀」の太刀の一つである「八箇必勝」と共に次のように記されている。
二十七ケ条戴相・八ケ必勝ハ宗厳ヨリ不レ用レ之20)
つまり、宗厳の目録に見られる「二十七箇条戴相」は、宗厳一代限りの勢法ということが言え、後の者はこれを継承しなかったと考えられる。
「奪刀法」に関しては、慶長元年以降の目録にその存在を示唆するような記述は見られないが、天正七年の目録に、「人取手」という名称を見ることができる。『刀金録・勢法篇』の「奪刀法」の項には、
此上泉子老後使宗厳作者也21)
と記され、宗厳は永禄八年上泉から新陰流の印可を受けた後「無刀取」の修行を重ね、一旦は「人取手」という段階に達したが、さらに研究を重ね、勢法としての「奪刀法」に至ったものと考えられる。なお、同じく天正七年の目録には「居合分」という名称も見られる。当時宗厳は新当流の居合にも秀でており、その居合を基にした太刀とも考えられる。「居合分」は『剣道・抜刀術一流の歴史』に、
一流抜刀術には新当流居合の極意をも含み、一中略一無刀の道には、居合に就ての玄妙が具備されている22)
と記載されていることからも、先の「人取手」と合わせて「奪刀法」に至る一過程の太刀として見ることもできる。しかし、現在その太刀がいかなるものであったかを明らかにする資料がないため、そのいずれとも判断しかねるのが現状である。
3 削除された勢法
上泉の新陰流には存在するが、宗厳の新陰柳生流には存在しない勢法として「七太刀」「殺人刀」「活人剣」がある。
「七太刀」は、新陰流の源流の一っである新当流の「七太刀」の影響を受けて考案された勢法と思われるが、多分に陰語的色彩が濃いため、新当流のそれと直接的な比較ができない(注12)。上泉の「七太刀」は「影目録』のうちの一巻をなし、絵目録にもなっているものであるが、宗厳の目録や、タイ捨流の目録などを見ても、これを示唆するような名称は見られない。なお、柳生延春氏によればこの「七太刀」は尾張柳生家に代々継承されており、その勢法は今日でも現存しているとのことである、この「七太刀」の一部を資料として掲載しておくので、参照されたい。
「殺人刀」「活人剣」も同様に継承されている形跡はない。なお、「殺人刀」「活人剣」は上泉の新陰流では極意の太刀であったことと、「刀金録・勢法篇」の「古来相伝之奥義太刀」の項に、
此平宗厳増補干上泉子所秘23)
とあり、その太刀名のなかに「活人剣」といった名称も見られることから、あるいは宗厳自身が「奥義太刀」を構築する際に、「殺人刀」「活人剣」をそのなかに取り入れた可能性も考えられる。
(2) 「無刀取」について 
日で明らかにしたように、上泉の新陰流から宗厳の新陰柳生流に移行するに際し、その勢法は付加、削除されるなど変容をきたしていることがわかった。ここでは、そのなかの特に宗厳が考案したとされる「無刀取」にっいて考察することにする。
宗厳が相伝を受けた年は、足利十三代将軍義輝が三好義継、松永久秀等によって謀殺された年でもあり、世は下剋上の風潮に伴う治安の乱れた状況にあった。宗厳自身も、印可を受けた翌年の永禄九年(1566)、松永軍に加担して戦場に赴いており、まさに戦国乱世の渦中にいたのである。
このような戦乱の治まらない世の中において、宗厳の兵法というものは当然実戦色の濃いものであり、それに伴う勢法も実戦を想定した使い方をしていた。宗厳の時期の「三学円太刀」は、現在では「古式の勢法」として受け継がれているが、これは介者剣術期特有の「沈なる身」構えで使われている(注13も後年、第三世柳生利厳の時期になると勢法も改変され、甲冑の装着を想定した使い方から「直立たる身」構えという素肌剣術期特有のものに変わっていくが、宗厳の時期は社会的な影響もあり、勢法も全般的に介者期的な使い方が主流であったものと考えられる。
しかし、このような実戦的な勢法が用いられていた一方で、宗厳は真の兵法とは何かということを考え、技術に伴う「心の道」の確立を成し遂げようとしている。それは、上泉の新陰流の根底に流れる「活人剣」思想に通ずるものであるが、この理念は上泉から印可を受けると同時に、宗厳に伝えられている。永禄九年の宗厳宛の目録の前書きを見ると、そこには、
随敵転変施一重手段恰如見風使帆見兎放鷹以懸為懸以待為待者常事也懸非懸待非待懸者意在待待者意在懸牡丹花下睡猫児学者透得此句可識若又向上人来則更施不伝妙24)
と記されており、ここには技法を支える部分で単なる殺活のレベルを超えようとする、高尚な理念を窺うことができるのである。
そのような理念を受け継いだ宗厳は、それを単に理念に留めず、真の兵法を追求するために具現化させようと試みた。その結果として実現したのが「無刀取」なのである。この「無刀取」は上泉が宗厳に与えた課題であり、従来はこの完成を受けて、上泉が永禄八年(1565)に「一国一人」の印可を与えたとされていたが、渡辺氏は、天正九年(1581)に三好左衛門尉に対する再度の印可更新の際、初めて「極意無刀」を標榜していることを挙げ、永禄八年の「無刀取」完成説の訂正を指摘している25)。つまり、永禄八年から天正九年までの期間が、「無刀取」を完成させるために費やされた期間、いいかえれば、上泉の果たせなかった心的物分の克服に費やされた修行期間であったといえよう。そして、この期間中に上泉の新陰流に宗厳の独自性が加味され、柳生としての新陰流が確立されていったといえよう。
この「極意無刀」は、後に勢法が集大成されるなかで、「印可の太刀」として技法としての勢法の一つに位置付けられ、「奪刀法」という名称に変わる。この「奪刀法」は三っから成り立ち、それぞれ「無刀勢」「手刀勢」「無手勢」と名付けられるが、もちろん宗厳はこれらを目録に載せることはせず、『刀金録・勢法篇』で初めて名称と使い方が記されるようになる。その『刀金録・勢法篇』によれば、この「奪刀法」は「転」の極意と記されている26もこの「転」は上泉が考案した勢法の一つであるが、これは一尺三寸の副刀(小太刀)を用いたもので、計九本から成り立っている。したがって「無刀取」が完成する過程には、上泉の「転」をステップとした「太刀→ 小太刀→無刀」という図式が成り立ち、さらに勢法という観点からすれば、「奥義太刀」の「八箇必勝」が二尺の太刀を用いて「転」と同様の使い方をすることからも、「(「奥義太刀」の)八箇必勝→転→奪刀法」といった順序で作られていったことがわかる27)。
4 介者剣術期の「かた」の継承形態(おわりにかえて)
上泉秀綱の新陰流を継承した柳生宗厳は、「無刀取」の考案を中心に心法的な部分を展開させ、勢法に関しても柳生の新陰流として体系化させている。ここでは、拙稿『尾張藩新陰柳生流の展開とその変容』28)で筆者が提示した「かた」の継承に関する三っのスタイルを基に、介者剣術期の勢法の変容を解説してみたい。
まず三っのスタイルであるが、それぞれ下記のような構造を呈している29)。
なお、図のそれぞれの左側は鋳型としての「かた」を表し、右側はそこから発現された、現象としての「かた」を表している。若干の補足をするならば、図Aの場合、その関係が諸々の要因によって影響を受けることがなく、時系列的にもこの状態が維持されている。図Bの場合、「型」から発現された「形」が何らかの影響を受けて変容をきたしたもので、この場合は特に社会的な影響が問題とされる。図Cの場合、「型」自身が影響を受けて変容するもので、この場合は被伝授者の内的な影響が問題とされる。
介者剣術期の新陰柳生流は、上泉から宗厳へと時代が推移するにつれ、その勢法は付加、削除などされ、目録上からの変容は窺えるが、継承された勢法に関してはそのまま受け継がれている・したがって、継承された勢法に関しては図Aのような継承形態が見られ、新陰流全体からすれば、「無刀取」など宗厳の独自性が加味され、柳生としての新陰流が確立されていることからも、図Cのような形態が窺える。
このことは、宗厳が上泉の新陰流の「かた」をそのまま継承していないことを示すが、「無刀取」を考案した宗厳の兵法に対する考え方などからすると、そこには単に上泉の勢法を憧憬、追求しているのではなく、上泉が希求した理念を追求している感が窺える。したがって、現象としての「形」が時代と共に変化し、それに伴って基の「型」が変容しても、その進む方向は上泉が希求した理念に向かっているものと考えられる。
なお、この時期の勢法を知るための資料は、現在のところその数も少なく、まだまだ未知のところが多い。全体像をより明らかにすることを今後の課題とすると共に、「かた」の変容をもたらした要因について、更に詳細に考察を進めていきたいと考えている。

(注1)武道においては「形」「型」などの言葉が使われるが、これらを総称して示す場合に、「かた」と表現することにする。なお、「型」の場合は鋳型としての基になるもの、「形」はその「型」から現象として発現されたもの、として捉えている。
(注2)新陰柳生流においては、「勢法」と書き表し「かた」と読ませている。また、「太刀」と書いても「かた」と読ませている。
(注3)西山松之助『家元の研究』(吉川弘文館、1982年、277頁)によれば、武術諸流では家において連続せず、非連続の連続という形式をとるが、柳生家は例外としている。
(注4)渡辺一郎「兵法伝書形成についての一試論」(『近世芸道論」、岩波書店、1972年、647頁)には、近世諸流派の三源流として念流、新当流、陰流が挙げられている。
(注5)上泉秀綱の『影目録』には、「右旋左転」の項に「左旋右転」とも記されている。
(注6)「捷」の文字は、長岡房成の『刀金録・勢法篇』から用いられ、それ以前は「腱」の文字が用いられていた。
(注7)渡辺忠成編『新陰流兵法古式勢法之研究・続』(新陰流兵法転会出版部、46頁)に、「当今ノ使ヒ方ハ連也翁使ヒ方ナリ」とある。
(注8)『影目録』の「燕飛」の巻には、「獅子奮迅」と「山霞」の二太刀が「浮舟」の後に記されており、計八つの太刀から成り立っているが、『刀金録・勢法篇』には、「浮舟」までの六つの太刀のみ記されている。
(注9)『刀金録・勢法篇』の「古来相伝之天狗抄」の項には、「此亦愛洲子所撰乎」と記されている。
(注10)西一頓に伝えられた新陰流の「天狗抄」目録にも、やはり太刀名は陰語で記されている・したがって、「花車」「明身」等の名称で記されるようになったのは、宗厳以降とも考えられる・
(注11)柳生厳長「正伝新陰流』(大日本雄弁会講談社、1974年、284頁)に、「流祖が極意とした古来相伝の太刀」と記されている。
(注12)新当流の「七太刀」には、「晴眼払・巻返・巻所・高霞・風躰・磯波」がある。
(注13)『史料柳生新陰流』上巻(新人物往来社、1967年、179頁)の「位五大事」によれば、介者剣術期の構えの特徴として「一、敵拳二吾肩可.成.同事二、吾肩成_気一重身_事三、こふしに身つれ、拳をさける事四、身のか、り先なるひさに身をもたせさけさる事五、我か左のひちをか、む事不。可。有之事」と記されている。
引用文献
1)拙稿「柳生新陰流の勢法に関する研究」、武道学研究第19巻第2号、1986年、6頁.
2)諸田政治『剣聖上泉信綱詳伝』、換乎堂、1974年、59頁参照.
3)「同上』、116頁.
4)柳生延春「新陰流兵法』第191講道、柳生会、1975年、14頁.
5)『同上』参照二
6)「同上』18頁.
7)今村嘉雄『柳生一族』、新人物往来社、1971年、83頁.
8)拙稿「尾張藩新陰柳生流の勢法について」、『日本武道学研究』、島津書房、1988年、213頁.
9)渡辺一郎「兵法伝書形成についての一試論」、「近世芸道論』、岩波書店、1972年、649頁参照、
10)「同上』650頁.
11)今村嘉雄『史料柳生新陰流』上巻、新人物往来社、1967年、180頁.
12)『前掲書』(9)、651頁.
13)『前掲書』(11)、182〜219頁、
14)『同上』、182頁.
15)『同上』、182頁.
16)「同上』、203〜210頁.
17)『前掲書』(8)、216〜218頁.
18)渡辺忠成編『新陰流兵法古式勢法之研究・続』、新陰流兵法転会出版部、46〜63頁.
19)柳生厳長『正伝新陰流』、大日本雄弁会講談社、1947年、283頁.
20)『前掲書』(8)、215頁.
21)『前掲書』(8)、217頁.
22)金剛館編『剣道・抜刀術一流の歴史』、金剛館柳生会蔵版、1921年、18頁、
23)「前掲書』(8)、215頁.
24)「前掲書』(19)、252〜253頁.
25)「前掲書』(9)、651頁.
26)『前掲書』(8)、217頁.
27)『同上』、226頁参照.
28)拙稿『尾張藩新陰柳生流の展開とその変容』、筑波大学大学院体育研究科修士論文、1988年.
29)「同上』267〜268頁.  
 
柳生宗厳・諸話 1

 

柳生宗厳・物語
慶長十一年(1606年)4月19日、柳生新陰流の開祖として知られる柳生宗厳が80歳でこの世を去りました。柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)・・・柳生宗矩(むねのり)のお父さんです。
柳生美作守家厳(みまさかのかみいえよし)の嫡男として生まれた宗厳・・・通称を新介または新左衛門と言い、晩年に石舟斎と号します。
嫡男として順調に一家の主となった宗厳ですが、この頃の柳生家は、かなりの弱小豪族・・・そのために、戦国の世では、その時々で、次々と主君を変え、生き抜いていかねばなりませんでした。
しかも、なかなか良い主君にも恵まれず、長い時間不遇の日々を味わうのですが、そんな中でも剣術の修行にはげみ、その腕だけは磨き続けます。
新当流や戸田(冨田)流などの極意を次々と身につけ、やがて剣豪として、その名は知られていく事になるのですが、やはり、武将として活躍する場はありませんでした。
そして宗厳:35歳・・・永禄六年(1563年)夏、奈良に済む宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)なる人物から、「今、ウチの宝蔵院に、上泉信綱(かみいずみのぶつな)っちゅーカリスマ剣豪が滞在中やよって、ちょいと指導してもろたらどうや?」との知らせが届きます。上泉信綱とは、あの天下の武田信玄に落とされた上野(こうずけ・群馬県)箕輪城を、主君・長野業盛(なりもり)を補佐して、最後まで抵抗した人物・・・
その後、信玄からの「家臣にならないか?」の誘いを断って武者修行の旅に出、途中途中で念流・蔭流・神道流などの流派を習得し、それらを統合した独自の流派=新陰流を起し、いまや剣聖の名をほしいままにする有名人だったのです。
早速、宝蔵院へと向かう宗厳・・・しかし、「相手をしてほしい」と願い出る宗厳を、信綱は、まったく取り合ってくれません。
何度も食い下がるうち、「ならば、疋田がお相手をする」と・・・
この疋田とは、疋田景兼(ひきたかげかね)(9月30日参照>>)と言って、彼もまた箕輪城で信玄と戦った仲間・・・やはり、落城後に信綱とともに武者修行に出て、現在はその高弟という立場だったのです。
「俺かて、近畿一の腕前やねんゾ!ナメやがって」と、少々おかんむりの宗厳・・・
信綱の態度に腹わたが煮え繰り返りながらも、木刀の剣先に意識を集中し、景兼を真正面に見据えて構えます。
「柳生君!その構えで、ええんか?」景兼がポツリ・・・
宗厳、静かにうなづいて、立会いは始まりました。
・・・と言うが早いか、アッと言う間に1本取られ、ナニクソと向かっていって、あっさり2本目・・・ものの見事にヤラれてしまいます。
しかし、宗厳にも、自称・近畿一のプライドがあります。
トップの信綱との立ち合いなしに、おめおめと帰れません。
さらに、何度も何度も、信綱との立ち合いを懇願する宗厳・・・「ならば、ひと勝負するか〜」と、信綱が重い腰をあげ、やっと相手をしてくれる事に・・・
ところが、なんと、今度は素手で、なんなく木刀を奪い取られ、あっさりと目の前に突きつけられてしまいました。
新陰流・秘剣=無刀取りでした。
このワザに感動した宗厳・・・その場で、信綱に弟子入り、彼らを柳生の里に招いて、本格的に新陰流を学びはじめたのです。
それは、もう、休む事なく毎日・・・
やがて、新陰流のすべてを伝授された宗厳は、信綱から印可状(いんかじょう)を授与され、「今後は、おのれ独自の無刀取りを編み出すように」との課題を与えられ、それを最後に信綱らは、柳生を去りました。
その後、大和(奈良)国内を二分しての戦いとなった松永久秀VS筒井順慶との合戦では久秀の配下として奮戦しますが、40歳の時には馬から落ちて宗厳自身が重傷を負ったり、さらに、その五年後には、長男とともに出陣した合戦で、息子が銃弾に倒れ、以後、不自由な暮らしを強いられるほどの重傷を負ってしまうという不幸続きの日々・・・さらに、主君としていた久秀は織田信長に滅ぼされてしまいます。
久秀亡き後、大和の国は、その敵対の相手であった順慶のものとなりますが、それまでの経緯もあり、宗厳は、順慶の配下となる事はありませんでした。
そんなこんなの文禄三年(1594年)4月・・・宗厳は、やっと世に出る幸運に恵まれます。
誰かの家臣となって、合戦で武功を挙げる事はなくとも、さすがに数々の流派を身に着けて、その剣豪としての名声は高まっていましたから、「一度、その腕前を見たい」と、京都に滞在中の徳川家康からのお声がかかったのです。
長男は、上記の通り、もはや剣術は不可能・・・次男・三男は出家し、四男は浪々中であった宗厳は、手元にいた五男の又右衛門宗矩(またえもんむねのり)を従えて、家康に謁見します。
「自ら相手をする!」と、張り切る家康・・・
『玉栄拾遺(ぎょくえいしゅうい)』によれば、「神君(家康)・・・木刀を持ちたまい 宗厳これを執るべしと上意あり すなわち公(宗厳) 無刀にて執ちたまう そのとき神君 うしろへ倒れたまわんとし 上手なり 向後 師たるべしとの上意・・・」
あの日、宗厳自身が信綱にしてやられた無刀取り・・・それを見事にアレンジして、新たな無刀取りを完成させ、あの時の信綱同様、家康の刀を、あっという間に素手で取り上げ、家康をスッテンコロリンさせたわけです。
大喜びの家康は、すぐに宗厳と師弟の誓約書を交わします。
そして、当然、剣術指南役を命じるのですが、宗厳は、この時、すでに68歳・・・高齢を理由に指南役を辞退し、代わりに、ともに連れていた息子・宗矩を推薦したのです。
こうして、柳生一族は大きな一歩を踏み出したのでした。  
 
柳生宗厳・諸話 2

 

1
柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
2
柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
3
古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
4
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
5
丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
6
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
7
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
8
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
9
佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
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宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
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松永久秀は、三好長慶の下で勢力を伸ばすが長慶没後三好一門衆と対立して孤立、織田信長に帰順して大和支配を回復するも信長包囲網に加担、二度目の謀反に敗れて名器「平蜘蛛」諸共自爆死した下剋上の代名詞である。狡猾な辣腕家、主家簒奪・将軍弑逆・大仏焼討ちの「三悪事」で戦国三大梟雄に挙げられるが、斎藤道三・宇喜多直家のように恩人殺害や追放の証拠は無い。20歳過ぎで仕えた三好長慶は、微賤の出ながら有能な松永久秀を重用し、木沢長政・三好政長を討ち細川晴元・将軍足利義輝を追放して三好政権を樹立すると、40歳で京都所司代に就いた久秀は朝廷・幕府・寺社との折衝で頭角を現し、茶道・連歌に通じて一流の文化人となり、堺代官も兼ねて貿易で巨富を積み三好家中第一の勢力家となった。三好長慶が義輝・晴元を降し四国・畿内10カ国に君臨して全盛期を迎えるなか、大和侵攻を託された久秀は戦国城郭の範となる信貴山城(天守閣)・多聞山城(多聞造り)を築いて国人勢を討平した。が、主君長慶の運命は突如暗転、十河一存・三好実休・安宅冬康と柱石の実弟と嫡子三好義興まで相次いで喪い(久秀の陰謀説あり)、1564年自らも病没した。松永久秀は、近江六角・河内畠山の挟撃を退け、黒幕の将軍足利義輝暗殺により政権を保ったが(永禄の変)、権勢を妬む三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)ら一門衆との内部抗争が勃発、弟松永長頼の敗死で支配地の丹波を失い、三好義継を寝返らせ東大寺夜襲で三人衆を撃退するも挽回ならず(東大寺大仏殿の戦い)、1568年織田信長に帰服し加勢を得て大和を回復した。が、宿敵筒井順慶・興福寺の反撃で十市城を奪われ、信長に背いて近江戦線を離脱し順慶に決戦を挑むも大敗(辰市城の戦い)、孤立した久秀は信長包囲網に活路を託し謀反を起すが武田信玄急死で挫折、多聞山城と夥しい献上物を差し出して赦免され、佐久間信盛旗下で石山合戦に従軍した。そして1577年、信長包囲網再結成に呼応して再び謀反するが、頼みの上杉謙信が急死、大軍に信貴山城を攻囲されるなか信長所望の名物茶器「平蜘蛛」と共に自爆死、嫡子久通と妾腹の二児も処刑され松永氏は滅亡した。
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松永久秀は、寝返りが茶飯事で謀略渦巻く畿内政局をリードして三好政権を支え、主君長慶没後は三好一門衆の総スカンを食って孤立しつつも逸早く織田信長に帰服して勢力を保ち、猜疑心の強い信長から使い捨てにされる未来を予見して謀反の先鋒役を果した智謀の士である。「寝返り癖」は細川政元暗殺後の乱脈極まる畿内政局にあっては別段目立つことではなく、恩人の長慶には終生忠節を貫き、信長への最初の謀反は大和救援を拒まれたため止むを得ない面があり、実際に信長も赦免している。猜疑心強烈で裏切りを許さない信長の性格を知れば、上杉謙信と石山本願寺の強勢をみて捨て身の勝負に出たのも頷ける。戦国大名としては、畿内勢共通の弱兵故に戦闘には強くなかったが、京都・堺・奈良をおさえて抜群の経済力を備え、防衛強固な信貴山城・多聞山城で戦国城郭建築の先駆者となり、茶道や連歌に通じて朝廷・幕府の権威を巧みに利用、いずれも信長が踏襲したことを考えると天下獲りの先導役だったともいえよう。ただ、三好三人衆ら同僚の悉くに憎悪され三好政権衰亡の元凶となったのは不徳の致す所で、苛酷な施政に苦しめられた領民は久秀が滅ぶと農具を売って酒に換え大いに祝ったという。三好家簒奪・将軍足利義輝暗殺・東大寺大仏殿焼討ちは久秀の「三悪事」とされるが、義輝弑逆の主犯は三好義継と三人衆で久秀は不関与あるいは消極的だったとする説もあり、大仏焼討ちの非は東大寺に陣取った三人衆側にあるだろう。久秀自害の日が奇しくも大仏焼討ちから10年後の同日10月10日であったことは事実のようだが、後世の軍記物は久秀を異常な好色漢に仕立て、いつも美女数人を引き連れて行軍し興じると紙帳を張って用を足した云々と伝えるが、信憑性は乏しい。また、年貢滞納の百姓に蓑を着せて火を放ちもがき死ぬ様を「蓑虫おどり」と称して楽しんだとか(斎藤道三にも類話あり)、大ケチながら貯めこんだ名物珍品を気前良く信長に献上して命を繋いだ云々の悪評も、伝説の域を出ない。恩人を次々に葬り去って成り上がった斎藤道三・宇喜多直家と並べて戦国三大梟雄と呼ぶのは久秀には酷であろう。
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三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。
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三好氏は、鎌倉時代に阿波守護となった阿波小笠原氏(信濃源氏)の末裔で、鎌倉時代初期に阿波三好郡に土着した小笠原長経より三好を名乗り、室町時代に四国探題格で四国全部の守護に就いた細川家に随従し阿波守護代を世襲した。智勇兼備と謳われた三好之長は、管領細川政元暗殺後のお家騒動(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)で主君細川澄元を擁して畿内に進出したが、大内義興・細川高国・六角定頼に敗れ嫡子長秀と共に自害に追込まれた。長秀の嫡子三好元長は、細川高国を討って復讐を果したが、澄元の嫡子細川晴元と対立、晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ切腹、内臓を天井に投げつける壮絶死を遂げた。之長敗死の翌年に生れた元長の嫡子三好長慶は、仇敵細川晴元に帰参して実力を養い、木沢長政・三好政長を討って晴元と将軍足利義輝を追放し室町幕府の実権を掌握した(三好政権)。三好長慶の覇業を支えたのは、弟の三好実休・安宅冬康・十河一存らの一門衆であったが、一存の病死に続いて実休が戦死し、嫡子三好義興も22歳で早世、冬康は謀反を疑い誅殺してしまった。長慶が男児無く死ぬと、一存の嫡子三好義継が後を継いだが、一門の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀(長慶の家宰で娘婿)の勢力争いにより三好政権は内部崩壊、織田信長の畿内侵攻で三好三人衆は容易く掃討され、義継と松永久秀は信長に降伏するも後に謀反し滅ぼされた。三好の嫡流は途絶えたが、元長の末弟三好善行の子為三と一門の三好政勝の子孫が徳川幕臣として家名を残した。三好実休の子で十河一存の養子に入った十河存保は、長宗我部元親に敗れるも秀吉に仕え讃岐十河3万石の大名に復活したが、秀吉の九州征伐に従い島津家久に敗れ討死(戸次川の戦い)、遺児十河存英は三好政康ら三好残党と共に大坂夏の陣で戦死した。
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服部半蔵正成は、徳川家康に仕えた伊賀「上忍三家」当主で「神君伊賀越え」で露払い役を果し知行8千石・伊賀甲賀衆支配役に任じられた忍者の出世頭、江戸城「半蔵門」の由来となった嫡子の服部半蔵正就は部下の総反発で改易されたが子孫は桑名藩家老として存続した。服部氏は伊賀北部を支配した「伊賀忍」領袖だが、服部保長(初代半蔵)が出稼ぎで室町将軍足利義晴に出仕し三河岡崎城主松平清康へ転じたが、清康は突如家臣に暗殺され嫡子の松平広忠は早世、幼君家康を人質にとられた三河武士は今川義元に隷属した。家康と同年に三河で生れた服部正成は、岡崎城帰還を果した家康に出仕し父の保長から二代目服部半蔵を襲名したとみられる。非忍者説があるが、そもそも支配層の上忍で、所領は依然として伊賀にあり家来は概ね忍者だろうから間諜・撹乱などの特殊技能をもって家康に仕えたと考えられる。1560年桶狭間の戦いで今川義元が討たれると徳川家康は織田信長と清洲同盟を締結し今川方諸城を攻め落として三河を制圧、服部正成は鵜殿長照(義元の甥)の蒲郡宇土城攻略で武功を顕し、今川氏真を滅ぼした遠江掛川城攻略、浅井・朝倉氏を破った姉川の戦い、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い、武田勝頼を滅ぼした甲州征伐と武功を重ねた。正室築山殿の謀反で家康は信長の命により嫡子信康を切腹させたが、介錯役の服部正成は涙に咽んで役目を果たせず、むしろ家康の信任を増した。1582年安土で信長の饗応を受けた家康が堺見物に赴いた矢先に本能寺事変が勃発、供廻34人の家康は窮地に陥り追い腹を覚悟したが本多忠勝の制止で思止まり茶屋四郎次郎・服部正成の手引きで伊賀越えに成功し三河岡崎城へ生還した。協力した忍者の多くは徳川家に召抱えられ伊賀同心・甲賀同心として服部正成の支配下に置かれ、正成は家康の関東移封に伴い知行8千石を与えられた。「上忍三家」の百地丹波・藤林長門守ら有力国人は天正伊賀の乱で信長に滅ぼされていた。服部正就の改易に伴い忍者衆の多くは伊賀へ戻され帰農したが、藤堂藩の行政下で半士(忍)半農の「無足人」とされ天草の乱など全国の一揆鎮圧に派遣された。 
 

 

 
 
剣豪

 

 
東郷重位

 

東郷重位 1 
[とうごう ちゅうい / しげかた 永禄4年-寛永20年(1561-1643)] 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・剣豪。島津氏(薩摩藩)の家臣。示現流剣術の流祖。幼名は弥十郎、通称は藤兵衛、のち長門守、和泉守、越前守、肥前守を名乗った。諱の重位は、示現流では口伝では「ちゅうい」とする。
永禄4年(1561年)、瀬戸口重為の三男として誕生した。瀬戸口氏は北薩の土豪・東郷氏の遠戚にあたり、同時代の史料には瀬戸口藤兵衛または瀬戸口肥前守の名で記されることがある。天正年間に兄の重治とともに東郷氏嫡家17代目東郷重虎の許可をもらい、東郷氏に復した。なお、外孫で古示現流開祖の種子島時貞の系図『種子島氏支族美座対馬守時里二男国上氏系図』(「伊地知季安著作集三」の『諸家系図文書四』の史料)では「東郷肥前重信」と表記されている。
若い頃はタイ捨流を学んだ。薩摩国の大名・島津氏に仕え、天正6年(1578年)11月の大友氏との戦いである高城合戦が初陣で薬丸兼成を親分として、首級をあげる。天正15年(1587年)、島津氏が豊臣秀吉の前に敗北し、重位は島津義久に従って上洛する。目的は内職のため金細工の修行をするためといわれるが、天寧寺の僧・善吉に出会い、彼の剣術(天真正自顕流)に開眼、修行後に薩摩へ帰国する。天正17年(1589年)、国分郷の鳥越に帰り、天真正自顕流にタイ捨流の技術を組み合わせて独自の創意工夫を加えていった。
庄内の乱の勃発した慶長4年(1599年)頃には島津家中内に既に大勢の門人をかかえていた。やがてその名声が島津忠恒に聞こえるところとなり、慶長9年(1604年)、忠恒の御前試合でタイ捨流の剣術師範を破り、島津家兵法師範となる。なお、このとき逆上した忠恒に斬りかかられたが、丸腰の重位はとっさに腰に差していた扇子で忠恒の手を打ち据えて刀をかわしたという逸話も伝わる。その後、南浦文之により「示現流」という流派名を命名される。
「慶長15年9月22日 九満崎御宮作ニ付すすめ日記」に「同(真米)壱升 東郷長門守殿」とある。
きわめて礼儀正しく、物事を荒立てない人格者であったといわれ、薩摩藩家老から島津家内部の密事に関わる相談事を受けることも多々あった。後に薩摩藩密貿易の拠点ともいわれた坊泊郷(現在の南さつま市坊津町)の地頭となったところからみても、剣術だけの人物でなかったことは確かである。また、「坊郷地頭職就任時に鹿児島城下に宅地2反3畦17部半を賜る」と「平姓東郷氏支族系図」にあり、地頭就任時に国分を去ったと推測される。また、重位の石高は400石。島津忠恒ははじめ1000石を授けようとしたが、重位は思うところあって600石を返還している。隠居後、100石を与えられた。
寛永20年(1643年)死去。享年83。墓所は曹洞宗松原山南林寺。法名は能学俊芸庵主。
家族・親族
兄弟 / 瀬戸口弥左衛門、東郷重治
妻 / 松本(あるいは松元)伊予の娘
子 / 1男3女 (北郷久利の妻、和田正貞の妻、東郷重方、堀興延の妻) 
示現流の祖・東郷重位 2  
一の太刀を疑わず、二の太刀要らず
寛永20年6月27日(1643年8月11日)、東郷重位(ちゅうい/しげかた)が没しました。戦国から江戸にかけての剣豪で、薩摩島津家の示現流の開祖として知られます。示現流は「一の太刀を疑わず」「二の太刀要らず」といわれ、凄まじい斬撃で知られる薩摩独特の剣術ですが、いかにして生まれたのでしょうか。
重位は永禄4年(1561)、瀬戸口重為(東郷重為)の2男(3男とも)に生まれました。 瀬戸口氏は島津家家臣・東郷氏の縁戚で、後に東郷に姓を復したといわれます。重位の通称は弥十郎、または藤兵衛。 重位ははじめ、島津家の剣術師範より、丸目蔵人(まるめくらんど)の興したタイ捨流(新陰流の一派)を学んでいました。天正6年(1578)にはタイ捨流の免許皆伝を得ています。 また同年、18歳で初陣した高城川の戦い(耳川の戦い)で、武功を立てたと伝わります。
天正15年(1587)、27歳の重位は金工・蒔絵の技法を習得するために京都にのぼります。 天正15年といえば、秀吉による九州征伐で島津家が降伏した年でした。重位の上洛は、降伏後、島津義久に従ってのことであったのでしょう。 滞在していた宿の隣は、天寧寺という寺でした。重位は旅先でも日々の剣術の稽古を怠りませんでしたが、ある日、天寧寺の小僧が宿に来て、天寧寺の善吉和尚が語っていたという言葉を重位に伝えます。
「隣のお客人は剣術に心がけてまことに奇特な御仁ではあるが、まだまだ素人のようだ。立木を打つ音を聞いていれば、それがわかる」
重位は早速、天寧寺を訪れて善吉和尚と話をしてみると、極めて剣に対する造詣の深い人物でしたが、肝心なところは「自分の流儀と違う」と言って、重位に語りません。
その後も重位はしばしば寺を訪れて、善吉の教えを乞いますが、口を閉ざしたままでした。 そして、これが最後の日と決めて訪ね、やはり何も得られずに辞去する際、障子に映る月影を見て、「にごりえにうつらぬ月の光かな」と一句を詠んで、帰りました。この句を見た善吉は、重位の剣にかける志の深さを知り、重位をすぐに呼び戻して、その夜から、自顕流の極意を伝授したといいます。
善吉は出家前の名を赤坂弥九郎といい、天真正自顕流を金子新九郎盛貞に学んで、17歳で皆伝を得ていました。 天真正自顕流は、金子の師・十瀬長宗が天真正伝香取神道流を学んだ後、鹿島神宮に参籠して開眼、新たな流派を興したものといわれます。 重位が善吉和尚から免許皆伝を得たのは、翌天正16年(1588)6月15日のことでした。
授けられた伝書は「尊形」「聞書」「察見」の3巻で、技の数はおよそ40あったとされます。 重位は善吉和尚から授かった天真正自顕流をそのまま継承するのではなく、さらに自らの工夫を加えました。 一説にすでに学んでいたタイ捨流と融合させたともいわれますが、そうしたこともあったのかもしれません。
薩摩に帰った重位の剣名はたちまち知れわたり、他流試合を望む者が次々と現われますが、46度勝負して、ただの一度も敗れませんでした。 慶長9年(1604)には島津家久の命で、タイ捨流師範・東新之丞と立ち合ってこれを破り、重位は家久の師範役となります。また坊泊の地頭職に任じられました。 家久は重位の剣を薩摩の剣として重んじ、他国に伝えることを禁じた「御留流」にするとともに、親交のあった臨済宗大龍寺の僧・南浦文之(なんぽぶんし)に新たな流派名を選ばせます。南浦文之は観音教の「示現神通力」から示現の文字を選びますが、もちろん自顕を意識してのことでしょう。
なお、重位は自らを律することは厳格でしたが、他人を敬い、極めて礼儀正しく、門弟たちが稽古を終えて帰る時には、いつもわざわざ玄関まで見送りに出たといいます。 寛永20年6月27日没。享年83。
示現流の極意について、重位はこう語っています。
「自分が大切にしている刀をよく研ぎ、よく刃を付けておき、針金で鞘止めをして、人に無礼を言わず、人に無礼をせず、礼儀正しくキッとして、一生、刀を抜かぬものである」
これは「刀は抜くべからざるもの」という大前提のもと、礼儀正しく、無用の諍いは避けること第一にせよ、ということですが、同時に、どうしても刀を抜かなくてはならぬ時は、一切迷わず、無念無想で敵を両断する。それだけの備えを常に怠るな、という意味でもあるのでしょう。 
東郷藤兵衛重位 3 
永禄4年〜寛永20年(1561〜1643)
(とうごうとうびょうえしげただ) 通称、弥十郎、藤兵衛。肥前守と称す。流儀では重位をチュウイと訓む。
薩摩藩門外不出の剣法・示現流を興した剣豪である。示現流はもともと戦場で勝つことを目標としたもので、最初の一刀に全生命をかけ、その一刀で敵を両断するか、さもなくば倒されるという気迫の剣法である。平和な江戸時代に多くの剣術流派が古い形を失ったが、門外不出の示現流は変化を免れ、内乱が繰り返された幕末から明治維新の時代にはひときわ注目されることになった。
一刀のもとに斬り倒す玉砕主義的剣法
東郷藤兵衛重位は薩摩藩門外不出の兵法だった示現流を興した剣豪である。
示現流の特徴は「一太刀の打ち」といわれ、一太刀の激しい攻撃がそのまま防御を兼ね、先を制するとするものである。
つまり、最初の一刀に全生命をかけ、その一刀で敵を両断するか、さもなくば倒されるというのが示現流なのである。
練習方法も変わっている。示現流では稽古といっても、防具をつけた2人が竹刀で勝負を競ったりはしない。示現流の基本は「立木打(たてぎうち)」にある。これは、椎または栗などの堅牢な木を直径3〜5寸、長さ9尺ほどに切り、その3尺ばかりを地中に埋めて立て、なら、くぬぎなどの棒を持ち、4、5間の距離から走りかかり、右から左から打ちつけるというものである。
その構えは蜻蛉(とんぼ)と呼ばれる。右頭上に木刀を構えた型である。この姿勢から、甲高いかけ声とともに、繰り返し繰り返し立木を打ち続けるのである。立木を数本立て、その間を駆けめぐりながら打つ「打ちまくり」という稽古もある。
東郷重位の時代からこの基本は変わらず、明治維新まで受け継がれた。
善吉和尚から天真正示顕流を学ぶ
示現流の起源は、飯篠長威斎の天真正伝神道流である。
永禄ころ、天真正伝神道流の流れを汲む常陸の郷士・十瀬与三左衛門長宗が鹿島神宮に参篭し、やがて空を舞う燕を斬る術を得て天真正自顕流を開いた。
十瀬の門人に金子新九郎盛貞がおり、その門人に赤坂新九郎政雅がいた。政雅は父の仇を討つために13才で金子に入門し、17才で免許皆伝、19才の時に父の仇を討った。そののち僧となって会津天寧寺の曇吉和尚に入門し、善吉と号した。会津の天寧寺が戦火で焼けると曇吉も善吉も京に上り、寺町鞍馬口に万松山天寧寺を建立した。
ここに重位がやって来て、善吉和尚から示現流を伝授されたのである。
示現流を大成し薩摩藩の剣術師範になる
善吉和尚から自顕流の皆伝を受けたといっても重位の剣法はまだ確立されたわけではなかったようだ。薩摩に帰った重位はさらに思索と鍛練を重ねた。
そうするうちに彼の剣名も高まり、四方から挑戦者がやってきたが、重位はこれらの者たち四十余名をことごとく退けたという。
やがて重位の剣の腕前は藩主・津島家久の耳にも届いた。
慶長9年(1604)、家久は当時の薩摩藩剣術師範で、彼自身も師事していたタイ捨流の東新之丞に重位との勝負を命じた。試合は木刀で行われ、重位が勝った。
驚いた家久は奥座敷に重位を呼び、彼に木刀を与え、自分は真剣を持って勝負しようとした。が、重位は真剣に向かっても自若として顔色一つ変えない。家久は大いに感心し、重位の剣技を褒め、自分の持っていた副刀を彼に下賜した。
このときから重位は薩摩藩の剣術師範となり、四百石の禄を得るようになったが、それからというもの薩摩藩の武士たちはほとんどが自顕流を学ぶようになった。
自顕流の文字を示現流と改めたのもこのころのことらしい。
自顕という字には、自らあらわれるという意味があるが、武士の中で頭のいい者はその意味を考え、それなら自分の中に自顕流はあるだろうと思い、自分勝手に流派を立て、本来の自顕流を学ばなくなるかも知れない。
そこで、観音経の中にある示現神通力という言葉から示現の2文字を選び、それを流派名としたのである。 
『示現流』の開祖・東郷重位の強さと薩軍の戦い 4 
明治の廃藩置県に至るまで、島津家が長らく支配した『薩摩藩(現鹿児島県)』は、戦闘(剣術)に強い剛毅な武辺者(薩摩隼人)の集団として恐れられた。島津斉彬・西郷隆盛の軍備近代化と命知らずの薩軍の切り込み部隊(暗殺集団)によって、幕末の薩摩藩は長州藩・土佐藩・肥前藩と結んで『倒幕』の中心勢力となって時代を変革した。
1877年(明治10年)には薩軍は西郷翁を担いで無謀な反政府の『西南戦争』を戦って散ったが、刀剣でぶつかり合って戦う白兵戦では薩軍は官軍(政府軍)を圧倒し、局地戦では薩軍の狂気的な切り込みと血煙にひるんだ官軍の雑兵がぶつからずに逃亡することもあった。薩軍の精鋭兵の大半は、薩摩藩のお家流儀の剣術である『示現流(じげんりゅう)』の使い手であったが、示現流は幕末の京都でも他流派の免許皆伝をすれ違い様に一撃で斬り殺すなど、殺人剣として知られた剣術であった。
ゲリラ的な薩軍の切り込み部隊の決死の突撃によって、近代装備で武装した官軍の兵士は蹴散らされてかなりの死者を出したが、逆説的に薩軍は『銃砲の近代装備が不十分で兵員が少なくても、百姓兵など剣で蹴散らして簡単に勝てる(大半はびびって逃げ出す)とのうぬぼれ・農民軽視の身分意識』から大敗を喫したともいわれる。
西南戦争は客観的に見れば、熊本城などの守備堅固な要衝が西郷隆盛・陸軍大将の権威によって無条件降伏を続けない限り、兵員数の違いによって薩軍に勝目はなかった(結果として明治政府から官職・任務を賜った谷干城中将をはじめとする将軍は西郷大将の恩顧・権威よりも公式の政府命令に従って装備の弱い薩軍を賊軍として打破した)。
薩軍の有力将校である桐野利秋(きりのとしあき)などは竹竿を振って、『このひと振りで熊本城など簡単に落とせる』と現実無視のむなしい大言壮語をしたともいわれるが、この桐野も伝説的な示現流の達人とされる。幕末に『人斬り半次郎(旧名・中村半次郎)』として佐幕派の要人を何人も斬殺した履歴を持っている。中村半次郎はターゲットを定めた場合に、暗殺を失敗することがなかったとされる瞬発力がものをいう抜き打ちの名人で、すれ違いの歩調を変えずに鋭い抜き打ちを複数回放つことができたという。
薩摩の示現流は、敵の太刀捌きを読んで冷静に動くようなテクニカルな剣術ではなく、太刀行きの迅速さと正確さ、決死の覚悟(チェストに代表される絶叫的な気勢)を徹底的に磨いて、先手必勝とばかりに凄まじい一撃で相手を袈裟に切り下げて葬る剣術である。
薩摩に広まった示現流という素朴な剣術の起源は、意外なことに西日本ではなく東日本(関東)にあり、元々は武神を祀る鹿島神宮・香取神宮の神人(じにん)の兵法研究から生まれたもので、神人の飯篠長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお)が示現流の原型を考案したとされる。飯篠長威斎家直の子孫から鹿島神宮の神人の十瀬与三左衛門長宗(ととせよざえもんながむね)に伝えられ、長宗が創意工夫して示現流の前段階の剣術である『天真正自顕流(てんしんしょうじげんりゅう)』を創設したという。
天真正自顕流は、常陸国(現茨城県)の金子新九郎威貞(かねこしんくろうたけさだ)に伝えられ、更に同国の赤坂弥九郎(あかさかやくろう)に伝えられた。鹿島神宮の神人の家系である赤坂弥九郎は、13歳から天真正自顕流の門下生となり、19歳頃に免許皆伝となったが、19歳である事情から人を斬り殺し、常陸国にいられなくなって陸奥国に逃れた。
そして、曹洞宗で出家して京都天寧寺の住職・善吉(ぜんきち)になったという異例の経歴の持ち主で、この善吉が蒔絵・金細工を学びに上京していた薩摩藩の武士・東郷藤兵衛重位(とうごうとうべえしげかた)に天真正自顕流を伝授したのである。
薩摩における実質的な『示現流』の開祖は、この東郷重位(とうごうしげかた)だが、東郷が天真正自顕流の免許皆伝となって薩摩に持ち帰り、示現流以前の薩摩の剣術の主流であった『体捨流(たいしゃりゅう)』を駆逐してしまったのである。体捨流というのは肥後人吉の丸目蔵人(まるめくらんど)が開祖の剣術で、前後左右に縦横に飛び回って細かく切り立てていくというもので、一撃必殺の様相の強い示現流とは対極的なものであった。
織田信長が本能寺の変で倒れて、豊臣秀吉が島津征伐をして天下統一に向かっていた頃に東郷重位は天真正自顕流を学び、秀吉が朝鮮出兵に失敗して死ぬ頃に剣術家としての名声を大いに高めた。
島津家久の時代に体捨流の名人だった重臣の頴娃主水(えいもんど)・仁礼佐渡守忠頼(にれいさどのかみただより)に、東郷重位は試合であっさりと打ち勝ち(頴娃が門下になったと知って情けないと激怒した仁礼は東郷不在で高弟が相手をしたが歯が立たず自らの剣術の未熟を知ったという)、二人は余りの実力差に身分がかなり下の東郷に師弟の礼を示して門下生となった。
東郷重位は藩主・島津家久の師範役だった東新之丞(ひがししんのじょう)とも御前試合の立ち合いをして、東は東郷の巌のような重圧に手も足も出ずに負けを認めて、家久は東郷を師範役にして400石を与えたという。家久のお気に入りとなった東郷は江戸への参勤交代にも同行して、幕府の剣術指南役・柳生家の高弟(将軍秀忠の剣術相手)である福町七郎右衛門・寺田少助とも試合をすることになり、主君の家久が将軍家に遠慮することなく倒して良いと言ったので、東郷はあっさりと二人を打ち負かし、二人は門下になりたいと願い出た。
東郷重位という示現流の創始者は、試合において一度も敗北したことのない兵法家(=剣術家)で、上泉伊勢守信綱・塚原卜伝・伊藤一刀斎・柳生十兵衛・宮本武蔵などと並ぶ伝説的な戦国時代末期(織豊政権期)の剣客であるが、当時一流の剣客との真剣勝負はなく(それは他の伝説的剣客も同様だが)、同時代の兵法家で誰が天下無双かというのは(宮本武蔵の自称はあれど)分からないというのが実情だろう。
兵法家が自らの才覚を売り込む生命線は『天下で最も強い剣術・兵法』ということだから、名声や権威が高まるほど一流の剣術家は真剣勝負や他流試合からは遠のいていく。当時は真剣を用いた試合も多く、他流試合をする時には、最悪『自分自身が死ぬか障害者になるか』と『自分の積み上げてきた流派の名声・評価が一回の敗北で帳消しになるか』という大きなリスクを背負うことになったため、著名な兵法家(剣術家)ほど門下生にむやみな他流試合をしないよう誓書を書かせていたという。
いざやると決める時には『必ず勝てる相手・状況・条件が揃ったと確信できる時』であって、塚原卜伝や宮本武蔵にも必ず勝てる条件を確実にするための心理戦のエピソードが残されている。
同じ不敗を誇る示現流の東郷重位も『気迫・威圧・構えによる勝利』が多く、老境にあっては強烈な一撃を叩き込むべき示現流の本質を『馬が道草を食うているようなもの』と語るような達観に達していたとされる。この本質の指摘は、甥で示現流の達人だった東郷与助が『牧出の春駒が気を得て、千仭の断崖に片脚を踏みかけて、空に向かって嘶える(いばえる)がごときもの』と示現流を語ったことに対するもので、長年月にわたって立木で鍛えた全身全霊の一撃という示現流の奥義は表層(陰陽の陽の一面)に過ぎないとした。
示現流創始者の東郷重位の兵法家としての名声は、江戸時代初期に絶頂に達したが、二代・東郷重方までは他流派を圧倒するだけの父親譲りの剣客としての才覚があったので江戸に行っても将軍・大名の求めに応じて試合を受けていた。だが三代・東郷重利になると兵法家としての技量と迫力が十分に備わらず、『薩摩の東郷という姓』を聞くとみんなから『ぜひ東郷の示現流を』と自信のないお手前披露を求められるので、藩主から『早川の別姓』を賜わったとされる。 
示現流 
示現流の精神
示現流とは如何なるものか、と人に尋ねられた時、重位は次のように答えたそうです。
示現流とは、自分が大切にしている刀をよく研ぎ、よく刃を付けておき、針金で鞘止めをして、人に無礼を言わず、人に無礼をせず、礼儀正しくキッとして、一生、刀を抜かぬものである。 この話を裏付けるかのように、重位自作の「木瓜」の鍔には、鞘止めの小孔が二つ穿ってあり、後に門弟のひとりが、敵が眼前に迫ってきた時この教えを疑うことなく刀に手をかけず、まさに敵に頭を割られたと思った瞬間、気がつくと自分は刀を抜きはなっていて、敵は二つになって倒れていたということです。
この逸話は、「刀は抜くべからざるもの」の教えが無益な殺生を戒めていると同時に、危急の際迷わず無念無想に打つ、という剣の極意を表しています。
稽古の内容
示現流の稽古では、一旦木刀を握れば、敵に対するのと同じ心境になることを求められるため、互いに礼をかわすことはありませんし、観衆に対しても同様です。当流の基本である、右手で自然に振り上げた形に左手を添えた構えを「蜻蛉」と言い、そこから打ち下ろした形の構えを「置き蜻蛉」と言います。これらの構えが示している姿勢や太刀筋は、以後修得する技法の基礎を成すもので、構えがしっかりしていないと、技の全てに狂いが生じてくるものです。 稽古には、主に「立木打」と「型」があります。 立木打は、樫や椎、栗などの堅い木を二尺ほど土中に埋めておき、五間ほど離れたところから走り寄り「えい」の掛け声と共に右、左に打ち込むもので、間合い、手の内のしまり、腰の据わり、迅速な進退等を身につける稽古です。かつての修行者は、自宅の庭で人に隠れて稽古に励み、「朝に三千、夕に八千」打ったと伝えられています。
示現流の由来
示現流は、もと天真正自顕流と称し、十瀬与三左衛門尉長宗が飯篠若狭守盛信に天真正伝神道流を学んだ後、さらなる妙理を求めて香取神宮に参籠し、鋭意工夫の末、極意十二打の神授を賜りて号したものです。十瀬長宗の弟子に金子新九郎威貞、その弟子に赤坂弥九郎政雅がおり、赤坂弥九郎は父の仇討ちを成した後、出家して善吉と号して曹洞宗万松山天寧寺の四世住持となりました。この善吉和尚に師事したのが、示現流の流祖東郷重位です。
天正十五年(1587)七月、島津義久公に従い上洛した重位は、天寧寺において善吉和尚と出会い、弟子入りして半年余、独り研鑽を積み、薩摩に並ぶ者無き剣の達人となったのです。そして、慶長九年(1604)には、第十八代島津家久公の命により、タイ捨流師範東新之丞と立ち会い、これを打ち破って家久公に認めらるところとなりました。家久公は重位を厚遇し、重位の兵法が薩摩の地に末永く栄えんことを欲して、他国へ漏らさぬよう、流儀を絶やさぬよう常々語られたと言われています。また家久公は、重位と親交の有った臨済宗大竜寺の名僧、南浦文之に命じて、新しい流儀の名を考案させ、『観世音菩薩普門品』の経文にある「示現神通力」の句に因んで、天真正自顕流を「示現流」と改称、ここに薩摩独自の兵法が誕生することになりました。示現流は、その後も代々の藩主に重く用いられ、殊に第二十七代島津斉興公により「御流儀示現流兵法」と称することを命じられ、示現流は、薩摩の士風形成に大きな役割を果たしました。
流祖・東郷重位の人となり
東郷重位は、永禄四年(1561)父重為の三男として鹿児島で生まれました。はじめ瀬戸口藤兵衛と言い、薩摩藩における初期の金工師で、天正十五年(1587)の上洛も京都後藤家の門人となって蒔絵や金細工の技術を学ぶためでした。しかし善吉和尚との出会いにより、兵法の道に精進することになったのです。重位は、背丈鴨居に余る立派な体格で、十三歳の時には狼藉者を短刀で一突きにするほどの剛勇の持ち主であり、天正六年(1578)の日向の国耳川の合戦では、豊後の大友氏の軍勢と戦い、初陣ながら軍功を挙げています。またこの年重位はタイ捨流の免許皆伝を受け、善吉と出会う以前にタイ捨流の修行を積んでいました。
重位は、その生涯に四十余度の立ち会いを経験し、十余人を上意により討ち取りましたが、一度も破れることはなく、元和八年(1622)、江戸において柳生流の剣士福町七郎左衛門、寺田勝助を破り、両人はすぐさま重位の門に入りました。また、藩主の命で橋口小藤太を上意打ちにした時は、すでに六十歳を過ぎていました。重位は芸事にも多才で、自作の鍔や蒔絵の椀を残したりしており、阿蘇玄与に師事して和歌を習いました。また、重位は多くの門人を育てましたが、人を敬う性格で決して礼を失することなく、稽古を終えると幼少の弟子であっても必ず玄関まで見送ったといわれています。亡くなったのは、寛永二十年(1643)六月二十七日、八十三歳という稀にみる長寿を全うしました。
示現流・東郷重位と他流派の師範の時代関係
明治維新と維新後の廃刀令はそれまでの武士を中心とする世の中を変え、さらに明治十年の西南の役により鹿児島の士族社会は苦難の時代を迎えることになりました。一方、近代剣道の隆盛とは裏腹に多くの剣術流儀が滅びていきました。しかし、示現流は、第九代東郷重矯、第十代重毅とその門人達の努力によって受け継がれてきました。かつて示現流は門外不出の兵法であり、一般人の入門、見学は勿論、東郷家の婦女子すら見ることはできず、門を閉じ、裏口には鈴を付けて稽古をしていました。ところが、昭和に入って日本中が国粋主義に傾いてくると、再び示現流の実践的威力に期待が集まるようになりました。武士道精神を鼓吹し、心身の鍛練と実戦に活用するため、示現流を公開して普及すべしとの論議が高まってきたのです。示現流も当時の時代背景から門戸を開放しましたが、結局昭和二十年の敗戦を迎えることになりました。
終戦の時、東郷家も罹災しました。また門弟の多くが戦死し、さらに占領軍による武道禁止令の追い打ちを受けて昭和二十六年までは稽古の時掛け声もかけられぬ有様でした。戦死を免れた第十一代東郷重政と残された門人達は、戦後の混乱にあって示現流の精神を継承し同好の士を集めて無償で育成しました。
さらに平成六年、逝去した重政から第十二代重徳へ示現流宗家が引き継がれました。重徳は、東郷家古文書(鹿児島県指定文化財)の公開と青少年などの育成などを目的とした公益財団法人、示現流東郷財団を設立しました。 平成二十六年、重徳から第十三代東郷重賢に宗家襲名され、現在に受け継がれています。 
世阿弥の身体論 
平安末期から室町時代にかけて能楽と武芸と鎌倉仏教が完成した。それらは日本列島でその時期に起きたパラダイムシフトの相異なる三つ相であるという仮説を私にはしばらく前から取り憑かれている。そういうときには「同じ話」をあちこちで角度を変え、切り口を変えながら繰り返すことになる。今回は能楽の専門誌から「世阿弥の身体論」というお題を頂いたことを奇貨として、「同じ話」を能楽に引き寄せて論じてみたい。
武道と能楽と鎌倉仏教を同列に論ずる人が私の他にいるかどうか知らない。たぶんいないと思う。私の鎌倉仏教についての理解はほとんどが鈴木大拙の『日本的霊性』からの請け売りだが、武道と能楽については自分の身体実感に基づいている。身体は脳よりも自由である。だから、ふつうはあまり結びつけられないものについても、「これって『あれ』じゃない?」という気づき方をすることがある。武道と能楽と鎌倉仏教が「同一のパラダイムシフトの三つの相」だという直感も、頭で考えたものではなくて、身体が勝手に気づいたことである。居合の稽古中に、門人に剣の操作について説明しているときに、能楽の「すり足」の術理に思い至り、それが鈴木大拙の『日本的霊性』の中の鎌倉仏教についての説明につながって、「ああ、そういうことなのか」と腑に落ちたのである。などという説明ではどなたにも意味がわからないはずなので、順を追って話すことにする。
薩摩示現流の流祖に東郷重位(しげかた)という人がいた。城下に野犬が出て人々が困っているという話を聞きつけて、重位の息子が友人と野犬を斬りに行った。何十匹か斬り殺してから家に戻り、刀の手入れをしながら、「あれだけ野犬を斬ったが、一度も切先が地面に触れなかった」と剣をたくみに制御できたおのれの腕前を友に誇った。隣室で息子たちの会話を聞いていた東郷重位はそれを聞き咎めて、「切先が地面に触れなかったことなど誇ってはならない」と言って、「斬るとはこういうことだ」と脇差で目の前にあった碁盤を両断し、畳を両断し、根太まで切り下ろしてみせた。
私の合気道の師である多田宏先生は稽古で剣を使うときには必ずまずこの話をされる。剣技の本質をまっすぐに衝いた逸話だからである。重位が息子に教えたのは剣技とは「自分の持つ力を発揮する」技術ではなく、むしろ「外部から到来する、制御できない力に自分の身体を捧げる」技術だということである。
剣というのは、扱ってみるとわかるが、手の延長として便利に使える刃物のことではない。そうではなくて、剣を手にすると自分の身体が整うのである。私が剣を扱うのではなく、剣が私を「あるべきかたち」へ導くのである。
「身体が整う」「身体がまとまる」というのが剣を擬したときの体感である。ひとりではできないことが剣を手にしたことでできるようになる。構えが決まると足裏から大きな力が身体の中に流れ込んで来て、それが刀身を通って、剣尖からほとばしり出るような感じがすることがある。そのとき人間は剣を制御する「主体」ではもはやなく、ある野生の力の通り道になっている。
東郷重位は「斬るとはこういうことだ」と言って、地面に深々と斬り込むほどの剣勢を示してみせたが、人間の筋力を以てしては木製の碁盤を斬ることはできない。むろん鉄製の甲冑を斬ることもできない。できないはずである。でも、それができる人がいる。それらの剣聖たちの逸話が教えるのは、彼らは「人間の力」を使っていなかったということである。
解剖学的にも生理学的にも人間には出せるはずのない力を発動する技術がある。良導体となって野生の力を人間の世界に発現する技術がある。それが武芸である。今のところ私はそのように理解している。
それが能楽とどう繋がるのか。
古代に「海部(あまべ)」「飼部(うまかひべ)」という職能民がいた。「海部」は操船の技術、飼部は騎乗の技術を以て天皇に仕えた。それぞれ「風と水の力」「野生獣の力」という自然エネルギーを人間にとって有用なものに変換する技術に熟達していた人々である。この二つの職能民がヘゲモニーを争って、最終的に「騎馬武者」が「海民」に勝利したのが源平合戦である。
この戦いで、騎馬武者たちは馬の野生の力をただ高速移動のために利用しただけでなく、「人馬一体」となることで人間単独では引くことのできぬほどの強弓を引き、人間単独では操作することのできないほど重く長い槍を振り回してみせた。
那須与一が屋島の戦いで船に掲げられた扇を射抜いた話は広く知られているが、与一はこのとき騎射をしている。的は揺れる船の上にある。砂浜に立って静止して射る方が精度が高いのではないかと私は思っていたが、たぶんそうではないのだ。騎射するとき、乗り手は馬の筋肉をおのれのそれと連結させて、人間単体にはできないことをし遂げる。だから騎射の方が強度も精度も高いのである。そのような技術の到達点を那須与一は示したのである。
他にも、源氏の側の軍功にはその卓越した「野生獣の制御技術」にかかわるものが多い(義経は難所鵯越(ひよどりごえ)を騎馬で下り、木曾義仲は倶利伽羅(くりから)峠の戦いで数百頭の牛を平家の陣に放った)。
それも源平の戦いが、海民と騎手が「自然力の制御技術」の強さと巧みさを競ったのだと考えると筋が通る。戦いは「野生獣のエネルギーを御する一族」が「風と水のエネルギーを御する一族」を滅ぼして終わった。けれども、能楽にはにこのとき敗れ去った海民の文化を惜しむ心情がゆたかに伏流している。
古代に演芸を伝えた職能民たちは「獣の力」よりもむしろ「風と水の力」に親しみを感じる海民の系譜に連なっていたのではあるまいか。海幸彦・山幸彦の神話でも、戦いに敗れ、おのれの敗北のさまを繰り返し演じてみせる「俳優(わざおぎ)」の祖となったのは漁(すなど)りを業とする海幸彦の方である。
今さら言うまでもなく、能楽には『敦盛』『清経』『船弁慶』をはじめ『平家物語』の平家方に取材した曲の方が多い。そればかりか龍神・水神が水しぶきを上げて舞い(『竹生島』『岩船』)、船が海を勇壮に進む情景を叙し(『高砂』)、海浜の風景や松籟の音を好む(『松風』『弱法師』)。ここにかつて「風と水のエネルギー」を御して列島に覇を唱えた一族への挽歌を読むのはそれほど無稽な想像ではないのではないか。
「飼部」が体系化した「弓馬の道」はわれわれの修業している武芸のおおもとのかたちである。それは野生の力と親しみ、身を整えてその力を受け入れ、わが身をいわば「供物」として捧げることでその強大な力を発動させる技法である。能楽に通じた人なら、この定義がシテに求められている資質ときわめて近いことに気づくはずである。
能楽は起源においては呪術的な儀礼であった。その断片は今日でも『翁』や『三番叟』に残っている。シャーマンがトランス状態に入って、神霊・死霊を呼び寄せ、彼らにその恨みや悲しみや口惜しさを語らせ、その物語を観衆たちともども歌い、舞い、集団的なカタルシスとして経験することで「災いをなすもの、祟りをなすもの」を鎮める。おそらくはそのようなものであったはずである。起源的に言えば、シテは巫覡(ふげき)であり、祭司である。おのれの「自我」を一時的に停止させ、その身を神霊に委ねる。ただ、その巨大なエネルギーは能舞台という定型化された空間に封じ込められ、美的表象として限定的に発露することしか許されない。それが舞台からはみ出して、人間の世界に入り込まないように、人間の世界と神霊の世界を切り分ける境界線については、いくつもの約束事が能楽には定められている。
例えば、シテは舞い納めて橋懸かりから鏡の間に入るとき、自分で足を止めてはならない。後見に止められるまで歩き続ける。それはあたかもシテに取り憑いた神霊が、後見が身体を止めた瞬間に、そのまま惰性で身体から抜け出すのを支援するかのような動作である。あるいは演能中にシテが意識を失ったり、急な発作で倒れたりした場合も舞台は止めてはならない。後見はシテを切り戸口から引き出した後、シテに代わって最後まで舞い納めて、舞台におろした霊をふたたび「上げる」責任がある。
私がなにより能楽のきわだった特徴だとみなすのは「すり足」である。「すり足」の起源については諸説あるが、温帯モンスーン地帯で泥濘の中を歩むという自然条件が要求したごく合理的な歩行法であるという武智鉄二説には十分な説得力がある。膝をゆるめ、股関節の可動域をひろく取り、足裏全体に荷重を散し、そっと滑るように泥濘の上を歩む。たしかにヨーロッパ人が石畳を踵から打ち下ろすような仕方で泥濘を歩めば、脚を泥にとられ、身動きならなくなるだろう。しかし、「すり足」を要求したのは、そのような物理的理由だけにはとどまらない。
温帯モンスーンの湿潤な気候と生い茂る照葉樹林という豊穣で、宥和的な生態学的環境は、そこに住む人々にある種の身体運用の「傾向」を作り出しはしなかったであろうか。「すり足」は言い方を換えれば、足裏の感度を最大化して、地面とのゆるやかな、親しみ深い交流を享受する歩行法である。そうやって触れる大地は、そこに種を撒くと、収穫の時には豊かな収穫をもたらす「贈与者」である。列島における私たちの祖先たちは、その泥濘の上を一歩進むごとに、「おのれを養うもの」と触れ合っていた。贈与者との直接的な触れ合いを足裏から伝わる湿気や粘り気から感じ取っていたはずである。おのれを養う、贈与者たる大地との一歩ごとの接触という宗教的な感覚が身体運用に影響しないはずがない。
能楽には「拍子を踏む」という動作がある。強く踏みならす場合もあるし、かたちだけで音を立てない場合もあるが、いずれにせよ「地の神霊への挨拶」であることに違いはない。土地の神を安んじ鎮めるために盃にたたえた酒を地面に振り注ぐ儀礼は古代中国では「興」と呼ばれたと白川静は書いているが、それは「地鎮」の儀礼として現代日本にも残っている。酒を注ぐと地霊は目覚める。そして、儀礼を行った人間の思いに応えて、祝福をなす。この信憑は稲作文化圏には広くゆきわたっているものであろう。
足拍子もまた、神社の拝殿で鈴を鳴らすのと同じく、地霊を呼び起こすための合図であったのだと思う。それは逆から言えば、足拍子を踏むとき以外、人間は地霊が目覚めぬように、静かに、音を立てず、振動を起こさぬように、滑るように地面を歩まねばならぬという身体運用上の「しばり」をも意味している。「すり足」とはこの地霊・地祇の住まいする大地との慎み深い交流を、かたちとして示したものではあるまいか。一歩進むごとに大地との親しみを味わい、自然の恵みへの感謝を告げ、ときには大地からの祝福を促すような歩き方を、日本列島の住民たちはその自然との固有なかかわり方の中で選択したのではあるまいか。
私が「すり足」に特にこだわるのは、この「すり足」的メンタリティから鎌倉仏教が生まれたというのが鈴木大拙の「日本的霊性」仮説の核心的な命題だからである。
大拙はその『日本的霊性論』において、古代においても、平安時代においても、日本人にはまだ宗教を自前で作り出すほどの霊的成熟には達していなかったと書いている。日本において本格的に宗教が成立するのは鎌倉時代、親鸞を以て嚆矢(こうし)とする。というのが大拙の説である。その親鸞も京都で教理を学問として学んでいたときには宗教の本質にいまだ触れ得ていない。親鸞が日本的霊性の覚醒を経験するのは大地との触れ合いを通じてである。
「人間は大地において自然と人間との交錯を経験する。人間はその力を大地に加えて農産物の収穫に努める。大地は人間の力に応じてこれを助ける。人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。誠が深ければ深いだけ大地はこれを助ける。(・・・)大地は詐らぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。」(鈴木大拙、『日本的霊性』、岩波文庫、1972年、44頁、強調は鈴木)
「それゆえ宗教は、親しく大地の上に起臥する人間−即ち農民の中から出るときに、最も真実性をもつ。」(45頁)
大宮人たちの都会文化は洗練されてはいたが、「自然との交錯」がなかった。『方丈記』に記すように、「京のならひなに事につけても、みなもとは田舎をこそたのめる」のが都会文化の実相である。都会には「なまもの」がない。加工され、人為の手垢のついた商品しかない。そして、大拙によれば、自然との交流のないところに宗教は生まれない。
「大地を通さねばならぬ。大地を通すというのは、大地と人間の感応道交の在るところを通すとの義である。」(45頁)
だから、都市貴族は没落し、農村を拠点とする武士が勃興する必然性があったと大拙は説く。
「平安文化はどうしても大地からの文化に置き換えられねばならなかった。その大地を代表したものは、地方に地盤をもつ、直接農民と交渉していた武士である。それゆえ大宮人は、どうしても武家の門前に屈伏すべきであった。武家に武力という物理的・勢力的なものがあったがためでない。彼らの脚跟(きゃっこん)が、深く地中に食い込んでいたからである。歴史家は、これを経済力と物質力(または腕力)と言うかも知れぬ。しかし自分は、大地の霊と言う。」(49頁)
流刑以後、関東でひとりの田夫として生きた親鸞は「大地の霊」との出会いを通じて一種の回心を経験した。「深く地中に食い込む脚跟」の、その素足の足裏から、大地から送られる巨大な野生の力、無尽蔵の生成と贈与の力が流れ込んでくるのを経験した。そのような力動的・生成的なしかた超越者が切迫してくるのを感知したとき、日本的霊性は誕生した。大拙はそう仮説している。
そして、「大地の霊」との霊的交流は、能楽の誕生、武芸の体系化とほぼ同時期の出来事であった。この三つの出来事の間には深いつながりがある。列島住民が経験したある地殻変動的な文化的土壌の変化がこの三つの領域ではっきりしたかたちを取った。他にもこのパラダイムシフトが別のかたちで露頭した文化現象があるのかも知れないが、私の思弁がたどりついたのは、はとりあえずここまでである。
世阿弥の能楽は海民文化をどのように受け継いでいるのか、世阿弥の技術論において「大地の霊」との交錯はどのように表象されているのか、興味深い論件はまだいくつ手つかずのまま残されている。いずれそれらについても語る機会があるだろう。 
 
胤栄

 

胤栄 1 
[いんえい、大永元年-慶長12年 (1521-1607)] 安土桃山時代の興福寺の僧衆(僧兵)・武術家。覚禅坊。興福寺子院の宝蔵院(寶藏院)の院主。宝蔵院覚禅房胤栄(ほうぞういんかくぜんぼういんえい)。
それまでの素槍中心の槍術に対し、十文字槍を使用した宝蔵院流槍術を始めた。柳生宗厳の薦めでともに上泉信綱の弟子となり新陰流剣術を学び、槍術を大膳大夫盛忠に学ぶなど、多くの師に付いたと伝えられるが、中でも天真正伝香取神道流大西木春見の影響が強く表れている。素槍に比べ槍としての攻防を多様にする十文字鎌槍の創始は当時の槍術には画期的なものであった。
晩年は僧侶が殺生を教える矛盾を悟り槍術から離れ、全ての武具は高弟の中村尚政に与え、僧としての活動を主にした。二代目を胤舜が継いだ。他の門弟には下石三正、礒野信元がいる。1607年死去。享年87。  
胤栄 2 
宝蔵院覚禅房法印胤栄(ほうぞういん かくぜんぼう ほういん いんえい) / 宝蔵院流槍術の流祖・胤栄は、大永元年(1521)、興福寺の衆徒(しゅと)、中御門(なかみかど)但馬胤栄の次子として生まれました。中御門氏は天武天皇の第四皇子舎人親王の後裔で、坂口氏と称していました。その祖坂口武蔵宣胤は、大剛勇猛、常に武術を好み、世人は荒武蔵とよんで恐れられていました。元弘元年(1331)元弘の変に後醍醐天皇に味方して、笠置城で抜群の功をあげ、天皇より御剣一振と中御門の家号を賜りました。以来、六代胤定は、木津の鹿背山(かせやま)城に居住し、城洲岡田郡加茂庄山上城主満田(みつだ)左衛門尉英幸の女を娶(めと)りました。ここに後日、宝蔵院流継承に重要な役割を担う満田家との密接な関係が生じたのです。その子が七代胤永。胤永は南都草小路に屋敷を持ち、次子胤栄を宝蔵院に送りこんでその作外(いえもと・家元)となったのです。
胤栄は幼少の頃から僧兵以来の伝統的武術である長刀(薙刀)・長巻など長道具の繰法に習熟したと考えられます。そこへある日、回国修行の兵法者・成田大膳太夫忠盛が現れました。春日大明神所務の清僧、大西木春見(おおにしきしゅんけん)ともいわれる神道(しんとう・新当)流の達人です。神道流は剣法・長刀・槍法など総合的兵法でありましたが、忠盛は長刀・槍を得意とし、これが胤栄の眼を開かせ、十文字槍に奇妙のあることを思い出し創始させたのでした。胤栄33歳、天文22年(1553)正月12日の払暁、摩利支天の化身である成田大膳太夫忠盛から二箇の奥儀を授けられたと伝えております。さらに永禄六年(1563)、新陰流上泉伊勢守信綱の一行を奈良に向かえ、知友柳生宗厳とともに弟子入りし、永禄八年の春、再び柳生を訪れた信綱を引き留めて教授を受け、宗厳は一国一人の印可を、胤栄は九箇までの指南を許されました。
宝蔵院流槍術には神道流と新陰流を下地として構成されていると考えております。こうして大成された宝蔵院流槍術でありましたが、天正13年(1585)、羽柴秀長が郡山城に入り、国中の寺社・国衆に対し、差出を命じ、同時に比叡山末寺の多武峰に対しては、一切の武器の提出を命じました。これらは寺門に対する圧力ともなり、武術稽古を差し控えねばならない世となったのです。
慶長元年(1596)、胤栄75歳は法印に叙せられました。ここへ金春太夫安照から子息七郎氏勝に伝授願いたいとの申し出を受けます。家康にも影響力のあった能・金春家からの熱望に、75歳の胤栄は再び手練の槍を執り、槍術稽古が始まりました。このころから胤栄のもとには門人も増え、「その法を伝える者、群を作し、隊を作し」であったと伝えられています。慶長11年(1606)4月19日、柳生石舟斉はこの世を去り、翌12年(1607)8月26日、胤栄87歳にて遷化しました。日本を代表する剣と槍の巨星が相次いで奈良からこの世を去ってしまいました。胤栄とその一門の墓は奈良市白毫寺町にあり、今なお大切にお祀りいたしております。  
宝蔵院胤栄 3 
1
1521−1607 戦国-織豊時代の槍術(そうじゅつ)家。大永(たいえい)元年生まれ。奈良興福寺の子院宝蔵院の院主。柳生宗厳(むねよし)らと上泉伊勢守(こういずみ-いせのかみ)に剣術をまなぶ。また香取新当流の槍術をとりいれて,十文字槍をつかう宝蔵院流槍術をひらいた。武事は仏門のなすべき業でないと,寺に兵器をおかなかったという。慶長12年8月26日死去。87歳。通称は覚禅坊法印。
2
生年:大永1(1521) / 没年:慶長12(1607)。安土桃山時代の宝蔵院槍術の祖。興福寺宝蔵院主覚禅房法印胤栄。興福寺の衆徒中御門胤永の次男で若年のころ宝蔵院に入る。生来武芸を好み,上泉信綱に剣を,大膳大夫盛忠に槍を,また香取飯篠系の新当流を大西木春見に学び,十文字鎌槍を工夫創始した。槍は全長9尺〜1丈(約2.7〜3m),穂は両刃で6〜7寸(約18〜21cm),鎌も両刃で4〜5寸(約12〜15cm),長くとがった石突を用いた。この流は十文字鎌の利を追求した操法で攻防に極めて多様性があり,当時としては画期的工夫であったであろう。門下に逸材が多く輩出し,江戸後期には槍術最大の流派となった。
3
1521‐1607(大永1‐慶長12)。十文字槍で有名な宝蔵院流槍術の流祖。覚禅房法印と称した。興福寺の衆徒中御門但馬胤永の次子として生まれ,興福寺の子院宝蔵院の院主となった。幼少より刀槍を好み,大西木春見から香取系統の新当流を学んだといわれ,長道具に優れた新当流の影響のもとに十文字槍が生まれたと思われる。さらに上泉秀綱から新陰流剣術も学んだ。胤栄は非常に謙虚な人柄で,後に武事は仏門のなすべき業でないと修行を禁じたともいわれる。しかし門人は胤栄の教えを継続し,槍術の代表的流派として栄えた。
4
…諸国遍歴した秀綱は,京,大和に逗留(とうりゆう)し,将軍足利義輝に兵法学を講じたり,新陰流兵法を上覧に供したりして,70年(元亀1)に従四位下に叙せられた。また宝蔵院胤栄(いんえい),柳生宗厳(やぎゆうむねよし)(石舟斎)らも上泉の門下となり,宗厳には1565年(永禄8)新陰流の皆伝印可を与えた。そのほか疋田豊五郎(ひきたぶんごろう),丸目蔵人佐(まるめくらんどのすけ)など優秀な弟子が多く,上泉の道統は近世おおいに隆盛した。…
宝蔵院流
近世槍術(そうじゅつ)の主要流派の一つ。十文字鎌槍(かまやり)を本旨としたので、正しくは鎌(かま)宝蔵院槍術という。流祖は奈良・興福寺の塔頭(たっちゅう)宝蔵院の院主、覚禅房法印胤栄(かくぜんぼうほういんいんえい)(1521―1607)。胤栄は、興福寺の衆徒、中御門但馬(なかみかどたじま)胤永の次子で、若徒衆(わかかちしゅう)とよばれた青年僧のころから刀槍の術を好み、南都にその人ありと知られ、1563年(永禄6)上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな)の来遊を受け、柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)とともに新陰(しんかげ)流兵法を伝授され、また香取神道(かとりしんとう)流系の槍術を大西木春軒(おおにしきしゅんけん)から相伝し、また親交のあった柳生宗厳や穴沢浄見らの協力を得て、十文字鎌槍の操法に独自のくふうを加え、ついに表15か条の形を完成したという。鎌槍は4〜5寸(約12〜15センチメートル)の鎌を身の盾とし、相手の繰り出す槍先を抑え、あるいは冠(かぶ)り止(ど)め、払い捨て巻落しなど、素槍や管槍(くだやり)に比べて技法上変化に富み、多彩かつ有利な槍として広く用いられるようになった。胤栄は末年、仏門にあって武事をもてあそぶことを本意にあらずとして、後住と決めた19歳の胤舜(いんしゅん)に院中において武芸を習うことを禁じ、すべての武具を高弟の中村市右衛門尚政(なおまさ)に与えたという。尚政はのち越前(えちぜん)の松平忠昌(ただまさ)に仕え、その名技を将軍家光(いえみつ)の台覧すること三度に及んだ(中村派の祖)。尚政の弟子高田又兵衛吉次(またべえよしつぐ)もまた名人の名をほしいままにし、巴(ともえ)の術15か条を発明した(高田派の祖)。一方、2世の禅栄房(ぜんえいぼう)胤舜も師父の禁を冒して、胤栄の遺弟奥蔵院(おうぞういん)の老僧に請うて槍術の修行に専念し、自己のくふうを加えて裏11か条の形を定め、伝授の体系を確立した。胤舜の門弟としては、奥州白河の松平直矩(なおのり)に仕えた下石平右衛門三正(おろしへいえもんみつまさ)(下石派の祖)と、肥後国熊本の細川家に仕えた礒野主馬信元(いそのしゅめのぶもと)(主馬派の祖)が有名であった。以後、3世覚舜房(かくしゅんぼう)胤清、4世覚山房胤風(かくさんぼういんぷう)、5世乗織房胤憲(じょうしょくぼういんけん)ら歴代の院主は道統の発展に努めた結果、その末流は全国に広がった。胤清の弟子で江戸で門戸を張った長尾一入資政(ながおいちにゅうすけまさ)の長尾派、4代胤風の弟子竹村(たけむら)八郎兵衛の高弟伊能宗右衛門由常(いのうそうえもんよしつね)の伊能派、旅川弥右衛門政羽(たびかわやえもんまさつぐ)の旅川流、姉川忠右衛門安知(あねがわちゅうえもんやすとも)の姉川流などがこれである。 
宝蔵院胤栄の名言 
おい・・・お若いの・・・何という殺気か この老いぼれを斬ろうとでもいうのか?
恰好悪いのうおぬし その不細工な殺気がじゃ
それこそがお前の殺気 わし始め他人はそれを映す鏡にすぎぬ 今まで何人打ち殺してきたか・・・さぞかし多くの敵に囲まれ生きてきたことじゃろうな だが それはお前自身が仕立てあげた敵にすぎぬ お前自身の殺気が出会う者すべてを敵にする あと何人斬り殺す?そういうのは強いとはいわん 不細工じゃ
本当に強い者とは どういうものかがわかるのは・・・ 本当に強い者になったときじゃ 狭ーい世界に生きとる今はわかりゃせん 海を泳いでる最中には 海の広さはわからんよ
うるしゃい 真理とはいつも 一見あたり前のよーなものなんじゃ!!
それで・・・お前がいつかは本当の強さがわかるとしてじゃ… その頃まで生きてられるかの?
心技体 胤舜の技・体に刺客はほとんどない 天才 だが それゆえに心を磨くぬく試練に事欠く
あらゆる状況を  時に己の命を業火にさらすような状況を 乗り越えてこそ 「心」は充実を見る 胤舜もそれを分かっているが天才ゆえに相手の命のやりとりにしかならん
どんな剛の者でも真剣勝負は怖い わしでもじゃ じゃがその恐怖から目をそらさずに受け止め それを傍らにのけておくことができる それが本当に強い者じゃ
日が経ち 体の傷は癒えても 心に刻まれた恐怖はなかなか…
目的のない稽古に 人は耐えられん
お前の何をどうすれば勝てる?あの胤舜に・・・ わかりゃせん 負けを一度見つめ直さぬうちはの
不安 弱さ 煩悩 恐れ 古よりそんな邪念をふり払うため人は滝にうたれてきた そして水から上がる頃悟るのじゃ あまり意味ないと
敗北と孤独を受け止めきれず 逃げ出したとしても 責めはせん それが人間というものじゃ にゃむ
派手な打ち合いでなければ戦いではないか? せめぎあっておるよ 二人の気が 魂が 先を取り合っておる
天地自然に四季のあるように 人間の修行などもまた 繰り返す四季の如し 辛く苦しい冬を乗り越えれば 新たな生命の芽吹き 力みなぎる春は来る
わしゃ もうじき死ぬ 阿厳に問う? わしは、この宝蔵院覚禅房胤栄は、一体何のためにこの世に生まれ落ちたか? 技においてわしが編み出し工夫して皆に伝えたものも幾らかあろう じゃがの じじいになり体もよう動かんようになってきてふと気付いた わしは肝腎なものを二代目に伝えとらん 師から受け継いだはずの肝腎なものを ここにまだためとる それを胤舜に伝えるまでわしゃ死ねん 死ねん!
技の研鑽素晴らしい だが心の中は”我”それのみであると 師は言われた
あいつの人生を前に進めてやらねば わしが本当に伝えるべきことは伝わらぬ
親の恩、人の恩、神仏の恩。お前が今までに受けた恩を全て返そうと思えば、残りの人生全てをかけても足りるのかのう?
無刀 この世の あらゆる事象の中で 言葉で言い尽くせるものが 一体どれほどあろうか 理屈じゃない 感じるものだったんじゃ 晴れ晴れじゃ
あの眼だっ あの眼で見据えられると何も隠せん 取り繕っても全て見透かされる気がする 不思議なじじいだっ!!
本当に強い者になった時本当の強さがわかる・・・にゃむっ 当たり前だそんなんーーー!!当たり前のことをえらそーにゆーなそんな!!
我が剣は天地とひとつ 故に剣はなくともよいのです
何が見えておられるのか 今の俺ではその境地を窺い知ることもできない 俺にできることはただ 俺が師匠のこの世の思い残しとならぬよう 自らの脚で立ち 自らの脚で歩くことくらいか  
 
林崎甚助・林崎甚助重信 (はやしざきじんすけしげのぶ)

 

林崎甚助 1 
[はやしざき じんすけ、天文11年-元和3年(1542-1621年)] 戦国時代から江戸時代前期にかけての剣客、武芸者。居合(抜刀術)の始祖とされる。旧名、浅野民治丸。名字は林崎、通称は甚助、本姓は源、諱は重信。生年は天文17年(1548年)とも。
林崎甚助が開いた流派は、神夢想林崎流、林崎流、林崎夢想流などと呼ばれるが、甚助自身が生前にこの流派名を名乗ったわけではない。この他に神夢想林崎流から分かれた多くの流派(無双直伝英信流、民弥流、水鴎流など)の系譜では初代となっており、江戸期以降、林崎甚助に教受された弟子たちの業を見聞きした武芸者や修行者が独自に居合を創作する例もあるなど非常に強い影響力を及ぼしている。現代においても古流の業を語る上では林崎甚助が引き合いに出されるほど、未だその存在は計り知れない。
生涯
生年は不明だが参考文献では1544年とされる。出羽国楯山林崎(現・山形県村山市林崎)で生まれた。父は浅野数馬、幼名民治丸。1547年、父が坂一雲斎に恨まれ、夜更けに碁打ちの帰宅中を闇討ちされ、仇討ちのため楯岡城の武芸師範東根刑部太夫について武術に精進した。林崎夢想流第十七代宗家奥山勧禅によると、「1559年、林の明神に百か日参籠し、仇敵坂上主膳を打ち、父親の無念を晴らさんと請願し、家伝の大刀三尺二寸三分を腰に帯、抜刀を日夜練磨した。満願の暁、夢中に林の明神が示現し、抜刀の秘術卍抜を授けられ」たとしている。その後1561年、齢19にして仇討ちを果たした(本懐を遂げたのは1560年とも言われる。これは古来、年齢は数え年で数えられていたため)。その後、諸国を廻国修行する傍ら幾多の弟子を育てていて、その途中で加藤清正に招かれ加藤家の家臣を指南したとも伝えられる。
林崎夢想流の奥山勧禅によると、林崎甚助は塚原卜伝より「鹿島新当流最高秘伝天下第一之剣」、卜伝一之太刀を授かり、晩年は山形に住み慶長年間に故郷で没したとしている。伝書にも卜伝流剣術の目録が存在している。また、鞍馬流剣術の伝書においても林崎甚助が第2代として系譜されている。
武術太白成伝によると、林崎甚助、名は氏賢、相模の産としており、文禄四年より慶長三年まで武州一ノ宮の社地に居住し、54歳で諸州を暦遊、元和2年に武州川越の甥高松勘兵衛の許に滞在、翌元和3年(1617年)、70代にして諸国へ再度廻国修行に出て、その後の行方は知れないという。
林崎甚助の弟子には、田宮重正、長野無楽斎、関口氏心、片山久安などがいるとされている。
甚助が神託を得た林崎明神は、仇討ちの帰途、信国の太刀を奉納されたと伝わる。現在では林崎甚助も祀られて林崎居合神社と呼ばれている。  
居合の開祖 天才 林崎甚助重信 2 
居合(抜刀術)の流派をさかのぼっていくとほとんどが林崎甚助に行き当たります。今までご紹介させていただいた流派にも居合(抜刀術)の技はありますが基本的には抜刀した状態の技が圧倒的に多いのが事実です。しかし林崎甚助は居合(抜刀術)という納刀し状態からの技にに特化しました。
そして、その技を体系化させ後に有名な門弟が育ち後の居合(抜刀術)という独立した剣術を誕生させる事となりました。現在の居合道は、抜刀から納刀、および諸作法(立ち方や座り方、歩み方等々)を通し技能の修練のみならず、人格のなども含めた自己修練の道であるとされます。
特に座った状態で鞘から刀剣を抜き放ちさらに納刀に至るまでを含めた技術を一つの独立した技の体系としています。間近に座した相手が小太刀や短刀で突いてくるといった事を想定した技が多く伝えられています。先ずは居合と剣術の違いをお話させていただきます。
※私が剣道経験者ですので剣術(剣道)からみた居合という形になってしまいますが、現在も「剣道と居合は車の両輪」と言われたりします。刀を扱う技術、理念、思想は殆ど変わりません。両者とも最終的には抜かずに勝つという「活人剣」の考え方にもたどり着きます。
全日本剣道連盟居合においても1969年に剣道人のための居合道入門用の形として、居合道の各流派の基本的な業や動作を総合した物を制定した居合道形が作られました。制定居合とも呼ばます。これに対して各流派の形は古流の形とよばれます。
現在剣道の段位を取得する為には剣道理念の筆記試験と剣道実技、そしてこの制定居合の実技を合わせて合否判定が行われています。居合(居合道)と剣術(剣道)は切り離せない物であるにも関わらず、わざわざ全日本剣道連盟も制定居合を設け各流派の形は古流の形と呼んでいます。
その訳は同じ刀を用いた剣術でありながら+極と−極の様に異なる性質があるからだと考えられています。圧倒的に違うのは抜刀状態か納刀状態かとい事と、相手との距離間(間合い)だと思います。
剣術(剣道)の場合、一般的には抜刀した状態の戦闘態勢であり、尚且つある一定の距離、相手から離れて始められます。
相手が近いと刀が抜けません。また両者とも抜刀状態ですので、おのずと無闇に先に動くと不利な状況が起こるので「後の先(ごのせん)」と呼ばれる、先に相手を動かし、その相手の動きに応じて的確な技を出す必要があります。(暴れん坊将軍の殺陣がわかりやすいです。雑魚が動くに合わせ反撃しています。あれも「後の先」です。多分…)
居合(居合道)の場合は納刀した状態の非戦闘態勢で行われ、相手の距離も千差万別です。特に座っている状態からの技が多い事が特徴です。納刀した状態ですので相手に勝つ為にはどうしても刀を抜く動作が必要となります。そこで相手より先に攻撃する必要性が生まれます。
ここで必然的に「先の先(せんのせん)」という、相手の動きを読み相手より先に攻撃する考え方や技が多くなります。(座頭市がそうです。ドラマでも相手に対してジリジリとしてなかなか刀を抜きません。抜くと相手は既に斬られています。)一撃必殺的な要素が剣術よりも多いと考えます。
ただし、「後の先」も「先の先」も考え方としては行き着く先は同じです。「後の先」は「先の先」につがり、その逆もです。結果、最終的に両者は抜かずに勝つという活人剣の思想にたどりつきます。どちらが優れているという事はないと私は考えます。同じ刀で戦闘態勢と非戦闘態勢は表裏一対です
ですが、剣術と居合は異なる道を歩んでいきました。それは、後の柳生新陰流の広まりによる影響があると考えます。
柳生は時代を経るにつれて、剣術と居合(抜刀術)を異なる物として扱いました。技においても居合には重点を置いていなかったとされています。居合(抜刀術)に暗殺剣的な要素を感じていたからだとも言われます。
また、抜刀してしまうと居合も剣術も変わらなくなります。むしろ納刀する必要性が生じる居合の方が不利な場合もあります。そこで「はじめから抜いしまえ」的な考え方が広まったとする説もある様です。
抜刀と納刀の違い。想定している相手の状況の違いから両者は水と油的な要素も併せ持つ事になりました。
これには、林崎甚助と上泉や卜伝との剣に対する環境や目的達成の考え方の違いから生まれたと私は考えます。上泉や卜伝は戦の中で戦闘態勢を意識した状態で技を編み出したと考えます。戦闘状態の中から生き残る必要性がありました。
一方の林崎甚助は少年の身で敵討ちをしなければなりませんでした。敵討ちも生き残る必要性はあります。
しかし、少年が大人を倒すには相手の虚をつく必要があり、殺意を殺意として気が付かれてはいけなかった。
この状態こそが、まさに「先の先」の状態へと繋がっていったのだと考えます。
長くなりましたが居合と剣術は一緒なのに違うという事が言いたかったのです。「同じ大豆なのに味は醤油と味噌の様に違う」と言われた居合の先生がいました。
根幹は同じなんです。目的も理念にもほとんど違いはないのです。ただやっぱり大きく違う部分もあるのです。
同じ刀を用いながら居合と剣術に分かれていった原因を林崎甚助を通して考察します。
林崎甚助重信(はやしざきじんすけしげのぶ)1542年(天文11年)〜1621年(元和7年)※生年は1548年(天文17年)との説もあります。出羽国楯岡山林崎(現山形県村山市楯岡辺り)で生まれました。
本来の姓は浅野、幼名を民治丸といったそうです。父は浅野数馬。1547年、父の浅野数馬は坂一雲斎という人物に恨みをもたれ、林崎明神の祠守と碁を囲み、夜更けに帰える所を闇討ちされました。
この時、甚助は6歳と伝わっており、物心ついた時には敵討ちをしなければならない状況にありました。
その後、甚助は楯岡城の武術師範であった東根刑部太夫について武術修行に励みました。1556年、林崎明神に参籠し祈念した所、神より抜刀(居合)の極意を伝授されたそうです。甚助は若干15歳、その資質をうかがうことができます。
この後も修行をひたすらに続け、さらに抜刀の妙を悟ったといわれていますので、敵討ちと抜刀への並々ならぬ執念(信念)があったのだと思われます。1561年、長年の修行の甲斐があって仇討ちは成功し本懐を遂げる事ができました。
ただ、その敵討ちの詳細はわかっていないようで、場所も京の坂一雲斎の自宅であったとか、清水寺付近等々さまざまな説がありますが、どうやら京で本懐を遂げた様です。その後、神託を得た林崎明神に立ち寄り信国の太刀を奉納されたと伝わっています。後、甚助も祀られ林崎居合神社と呼ばれています。
その後は諸国を廻国修行し、幾多の弟子を育てたそうです。その途中では、加藤清正に招かれ加藤家の家臣を指南したとも伝えられています。
史実はわかりませんが、林崎新夢想流に伝わる伝承では、林崎甚助は塚原卜伝より鹿島新当流も学んだと伝えられています。
また、伝書に「天真正」とある事から飯篠長威斉の天真正伝香取神道流も伝授されていると考えられています。1617年に70代にして諸国へ再度廻国修行に出てその後の行方はわからないそうです。甚助の弟子は田宮重正(田宮流開祖)関口氏心(関口流開祖)片山久安(片山伯耆流開祖)などがいます。
林崎甚助が開いた流派は神夢想林崎流、林崎流、林崎夢想流などと呼ばれていますが、甚助自身が生前にこの流派名を名乗ったわけではない様です。
この他に神夢想林崎流から分かれた流派(無双直伝英信流など)の系譜で、初代とされている事なども含め、居合の開祖と呼ばれている理由だと考えられます。
甚助に関する資料も大変少ないのですが、幼少の頃より敵討ちの為に身を捧げ、本懐を遂げる為に日々苦悩していたのだと考えます。そして15歳で奥義の神託を受けたという事からもわかる様に、卓越した技量も持っていた人物です。
甚助の評価は様々あると思いますが、多くの剣豪たちの中でも上位に名前があがるほど強い人物であるという評価が多いようです。その理由には卓越した技量と道理にかなった技法があったものだと考えます。ただ、敵討ちの他には主だった逸話も無いようです。しかも、敵の坂一雲斎は父親を遺恨により闇討ちする様な人物ですから技量も怪しいのではと余計な勘ぐりをしてしまいます。
しかし、6歳の甚助は敵討ちという現在の私たちには、共感し難い非常事態におかれました。多感な時期に日々敵討ちの事ばかり考えていた6歳の子どもには、敵の坂一雲斎は途方もなく大きくて強大な敵となり心の中にいたと考えます。そんな状況の修行の日々は苦悩の日々であった事は想像に難くないと思います。
本懐は果たすまでの14、5年間、甚助は常に非常事態でした。非常時に非常の才を発揮したとも言われています。だからこそ15歳の若さにして神伝を授かったのではないでしょうか。卜伝が神伝を授かったのは68歳といわれています。この事からもわかる様に、天賦の才があり尚且つ非常事態の中で剣の修行をしていたのでしょう。
そんな甚助が開祖となった居合ですが、後に「抜かば斬れ 抜かずば斬るなこの刀 ただ斬ることに大事こそあれ」という言葉が残る様に、人を斬る事が目的にはなりませんでした。
この辺りに敵討ちを遂げなければならなかったにも関わらず、極力抜刀しない居合を選んだ甚助の人間の心の妙がある気がしてなりません。
私の勝手な想像ですが、敵の坂一雲斎を倒した時に本懐を遂げた歓喜よりも、「あれ?こんなものか?」と思ったのではないかと思います。
今まで必死にやってきた結果、目的を達成しましたが「こんなものか?斬らなくてもよかったのかな?」といった心境になったのではと。
だからこそ、本懐を遂げた後は門弟を育てる事に注力し、育てた門弟たちも達人たちが多く現れ、居合道としての道を進んで行く事になったのだと考えます。私も今回、甚助を勉強し、さらに居合道をもっと勉強しなければならないと感じました。  
居合 
居合とは、本来立合に対する言葉である。
そんなことを言われてもなにやらよく分からないし、現在ではその辺りの区別はどうでもいいとされているのだが、とにかく敵の不意の攻撃に対し、納刀した状態から間髪入れずに応じて勝つ剣技だと覚えておけば良い。遡れば平安時代あたりからこの種の剣技は存在していたと思われるが、一般的には戦国時代の頃に研究され発達したと考えられている。
軍事的な言い方をすると「即応性」を高める技術であり、帯刀状態から一動作で攻撃に入れるメリットは現代人が思うよりも遥かに大きく、朝鮮出兵時には(背中に剣を背負っていた)現地兵が抜刀するより先に斬り付けることができたとも言われている。
有名な居合人
居合で名を残した人物、もしくは居合を嗜んだ有名人を列記する。
林崎甚助重信
現在居合の祖とされているのが、天文十一年(1542年)に奥州出羽の国、林崎村(現在の山形県村山市楯岡町)に生まれた甚助さんである。父親の仇討ちの為に剣術を研鑽し、林崎明神に参篭して神授を受け、見事仇討ちを果たしたといわれている。
「五寸の短刀で突いてくるのを三尺三寸の太刀を抜いて勝つ」技法を研究し、ついに完成させたというエピソードはあまりにも有名であり、彼の遺した居合の形は現在でも伝承されている。曰く、「居合の生命は電瞬にあり」
彼が神託を受けた林崎明神は現在甚助も祀られ、林崎居合神社となっている。
林崎甚助の居合研究について
一説によると、彼が居合を研究したのは、「相討ち」を克服しようとしたからだと言われている。一度刀が抜かれてしまえば相討ちは避けられない。ならば刀が鞘の内にある間に勝負を決したらどうだろう。この発想から居合、抜刀術の研究へと目を向けたのだ、と。
この話が真実だとすると、初期の居合は護身の剣ではなく、先手必勝の必殺剣だということになる。そもそも甚助が仇討ちのために剣術を研究していたことを考えると、あながち嘘とも思えない。さらに言うと、居合を最も有効に遣ったのは、幕末の暗殺者達である。
長谷川主税助英信
江戸中期、享保年間の人である。林崎流の七代を継いだ長谷川英信は、刀を佩いた古伝の居合を刀を差した形に改め、長谷川英信流を編み出し、これを土佐で広めた。この流儀は現代まで伝わって夢想神伝流の原型となった。
大森六郎左衛門
新陰流の達人で、剣の形と小笠原流礼法を元に正座による居合を創始した人物である。彼の弟子である林六太夫守政が彼の考案した居合を英信流に加え、これを大森流と称した。現在では夢想神伝流の初伝として有名である。
中山博道
昭和の剣聖。現代居合道の祖とも言われる人物である。細川義昌に長谷川英信流下村派を、森本免久身に長谷川英信流谷村派を学ぶ。彼の伝えた居合は後に夢想神伝流と称され、現代居合における一大流派となった。
田宮平兵衛重正
田宮流の流祖。林崎甚助の高弟の一人で「美の田宮」と称された。尚、田宮流を名乗ったのは二代目の田宮長勝からである。
中村半次郎(桐野利秋)
幕末四大人斬りの一人。野太刀自顕流の使い手で、雨だれが地面に落ちるまでに三度刀を抜き、納めることが出来たと伝えられる。
河上彦斎
幕末四大人斬りの一人。
常江主水
幕末期の林崎流の達人。別段有名人というわけではないが、面白いエピソードが残っている人である。
ある時彼は娘を連れて湯治に出かけた。その道中、山で六人の山賊に囲まれてしまう。下手に逆らうわけにもいかず、震えながら財布を出して金を見せる。それを見た山賊達が油断して近づいてきた所を抜き打ち一閃、斬り捨てて窮地を脱したという。居合の腕は勿論だが、機転と演技力の有効性を示す逸話である。
福沢諭吉
「学問のススメ」で有名な慶応義塾創設者。立身新流の免許皆伝であり、晩年まで鍛錬を怠らなかったと伝えられる。
居合の流儀
現在有名な居合の流派を上げるなら、
夢想神伝流、無双直伝英信流、神夢想林崎流、田宮流、新田宮流、伯耆流、鐘捲流、関口流、水鴎流、無外流、信抜流、貫心流、天真正自顕流、立身流、民弥流
辺りだろうか。他にも香取神道流や柳生心眼流などでも、居合の技術は伝承されている。
道歌
居合とは人に斬られず人斬らず なすことなきを勝と知るべし
居合とは人に斬られず人斬らず 斬りて勝つとはおくれなりけり
居合とは人に斬られず人斬らず 己を責めて平らかの道
居合とはへちまの皮のだん袋 身はすっかりとしてどっちやら
抜かば斬れ抜かずば斬るなこの刀 ただ斬ることに大事こそあれ
極意の秘歌
「居合登ハ人尓幾ら連須人幾ら春 多ゝう希とめて堂ひら可尓かつ」
「居合とは人にきられず 人きらず たゝうけとめてたいらかにかつ」
「居合とは人に斬られず 人斬らず 只受けとめて平らかに勝」 
居合とは人に斬られることも無く、人を斬る事もない、只あるがままに受け止めて何も無かったようにして勝ものだ。
「ただ受け止めて平らかに勝」の句を「己を責めて平らかの道」に替えて己の心の未熟を戒める歌もあります。
「居合とは 人に斬られず 人切らず 己をせめて平らかの道」
修業半ばの自己主張ばかり先に立って何もわからない頃には、己を責めるのもいいかも知れませんが、「只受け止めて平らかにかつ」そんな心境に至りたいものです。そんな大人になりたいものです。
しかし、極意に達してもいないのに、「理」が先になった似非者、そんな化け物は近くに居ればいやですね・・・・。
無外流の百足伝にも己の心を磨けとあります。
「心こそ敵と思いてすり磨け心の外に敵はあらじな」
居合の理念である「鞘の内」に通じていく心でしょう。
相手を圧する心意気を以て鞘離れの瞬時に相手を制する事、これ即ち居合の生命にして鞘の内と云う。(全居連)
刀を抜かずに勝つ、すなわち抜刀前に気力で敵を圧倒し、鞘放れの一刀で勝ちを制するのが居合の至極である。だから、居合は「鞘の内」に勝があるという。(壇崎先生)
河野百錬宗家の無双直伝英信流居合道初心集の結語
居合の極意とするところは、常に鞘の中に勝を含み刀を抜かずして天地万物と和するところにあり。
換言すれば武徳の修養であるが、形より心に入り業に依って心を養うとの古人の教えの如く、・・終生不退の錬磨に依り神武の位を得ることに務め、而して日夜それぞれ与えられた自己の天職に尽くす事は、即ち武徳を発揮する所以にして、実に居合の神髄と信ずるものである。  
居合神社 
日本一社林崎居合神社 / 山形県村山市大字林崎
村山市林崎の林崎居合神社は居合の祖、林崎甚助源重信公を祀る神社である。林崎甚助の父、浅野数馬源重治は楯岡氏六代目の楯岡満英に仕えていた。天文十一年(1542年)林崎甚助は浅野数馬の子として誕生し、幼名は民治丸といった。ところが天文十六年(1547年)熊野明神での囲碁の帰途、数馬は坂上主膳の闇討ちに遭い暗殺された。民治丸は父の仇討を志し、天文二十三年(1554年)民治丸十三歳にして仇討のための剣法上達を祈願して楯岡城武芸師範東根刑部太夫のもと修行に励み、二年後に「神妙秘術の純粋抜刀」の典旨を神授されたという。永禄二年(1559年)民治丸は十八歳にして遂に「純粋抜刀」を開眼した。元服して村名を姓として「林崎甚助源重信」と名乗り、仇討の旅に出た。永禄四年(1561年)林崎甚助は京都で仇の坂上主膳を討ち果たし、本懐を遂げた。甚助は帰郷して熊野明神に刀を奉納し、これより純粋抜刀を林崎流と称したという。永禄五年(1562年)残された母も病で亡くなり、林崎甚助は故郷を去り、旅に出て武者修行をしながら、門弟の育成に励み、抜刀を広め、居合道の基礎を確立した。
一、由緒・沿革
本社略縁起に依れば、大同二年(八〇七年)林崎地区の東方石城嶽の大明神沢の岩窟に熊野権現が祀られ、後旧荒宿村に降神、熊野堂として石祠に祀られた。
熊野権現は永承年中(一〇四六年)から正安二年(一三〇〇年)の間に当地に遷座され、歴史変遷と共に尊号を「熊野明神」と改め、地元民に祖神として崇敬信仰された(祖神・熊野神社の草創)
天文年間に抜刀(居合道)の祖・林崎甚助源重信公が祖神「熊野明神」に祈願参籠し修行に励み、祖神「熊野明神」より「神妙秘術の純粋抜刀」の奥旨を神授され、京にて見事父の仇を討ち本懐を遂げた。
後世、その英霊を思慕し、崇めて重信公を神格化「居合明神」として祖神「熊野明神」の境内の一角に祀った(居合神社の草創)
明治の神仏判然令に伴い、祖神「熊野神社」に「居合神社」を合祀し、明治十年(一八七七年)明治政府に公認され「熊野・居合両神社」の正式神社名となり今日に至る(神社庁登記神社名)
二、林崎甚助源重信公略伝
天文七年(一五三八年)浅野数馬源重治(浅野刑部太夫源重成・重康)楯岡城・六代城主「最上因幡守満英」に士官したと伝えられている。
浅野数馬源重治は、京で尉北面の衛士であった(朝廷に仕える近衛の武士)
天文十一年(一五四二年)抜刀(居合道)の祖・林崎甚助源重信は父、浅野数馬源重治と母、菅野(志我井)との間に生まれ、幼名を「民治丸」と言った。
天文十六年(一五四七年)父、浅野数馬源重治は、祖神・熊野明神の祠官の許へ碁を囲みに行き、夜更けて帰る処を如何なる理由で恨みをかったのか、坂上主膳(坂一雲斎)に闇討ちにて暗殺された。爾来、浅野数馬源重治の一子、浅野民治丸と母、菅野の仇討ちの苦難の道が始まった。
天文二十三年(一五五四年)浅野民治丸十三歳の時、仇討ちのため剣法の上達を祖神「熊野明神」に祈願参籠し修行に励む。
弘治二年(一五五六年)浅野民治丸、祖神「熊野明神」より「神妙秘術の純粋抜刀」の奥旨を神授される。
永禄二年(一五五九年)浅野民治丸十八歳、更に研鑽を積み「純粋抜刀」の至妙を悟り開眼。元服して村名の林崎を姓とし「林崎甚助源重信」と改め仇討ちの旅に出る。
永禄四年(一五六一年)重信二十歳、京で宿敵、坂上主膳(坂一雲斎)を討ち果たし見事本懐を遂げた。直ちに帰郷、祖神「熊野明神」に礼参報告し信國の刀を奉納す。爾来、重信は純粋抜刀を「林崎流」と号した。
永禄五年(一五六二年)重信、母、菅野に孝養を尽くせども、母病にて死す。重信、飄然、孤剣を抱いて二首の歌を残し旅に赴く。
廻国修行に伴い、各地で門弟を育成し「純粋抜刀」を拡め、抜刀(居合道)の基礎を確立した。
尚、重信の最晩年の足跡、没年、没地については、諸説はあれど史実に即した資料はなく、解明調査の限りを尽くせども未だ判明せず。
三、石仏
林崎から約五百メートル南の西大旦に、苔むし、風化のため刻字も定かでなくなった一基の墓石があった。土地の住民達からは、古くから重信の母の墓といわれ、石仏として崇められ、お詣りされていた。恐らくは永禄五年(一五六二年)重信が両親の供養のため建てた墓石であろう。
明治二十八年(一八九四年)現・山形県立村山農業高等学校の前身である簡易農学校が創立。翌年、西大旦の墓所も校地の一部となり、明治三十年(一八九六年)新校舎建築の際、三百三十四年を経た石仏も、由来を知らぬ石工達によって、校舎の巡り石の一部に使用されたという。
昭和五年(一九三〇年)校舎の再建に当たり、石仏の墓石を探し旧墓跡に埋めその上に新たに石仏を再建して供養した。
明治二十九年(一八九五年)までは、重信の母の墓石は昔のままの姿で実在していたのである。この史実は重信が林崎の地に生を受けた証である。
昭和三十七年(一九六二年)畜産科の新設にあたり、石仏は玄関通路入り口西の花壇のそばに移された。 
 
丸目長恵 1

 

丸目長恵 1
[天文9年-寛永6年 (1540-1629)] 戦国時代の相良氏の家臣で、江戸時代初期の兵法家。上泉秀綱(後に信綱)の弟子として、四天王の1人とも数えられ、タイ捨流兵法の流祖。通称は蔵人佐(くらんどのすけ)、または石見守であるが、講談等で用いられた丸目蔵人(まるめくらんど)の名で広く知られる。本姓は藤原を称し、号は徹斎。晩年は剃髪して石見入道徹斎を名乗った。
生涯
天文9年(1540年)に、当時は相良氏の領国内であった肥後国八代郡八代(熊本県八代市)で誕生した。父は丸目与三右衛門尉、母は赤池伊豆の女と伝えられる。弘治元年(1555年)、薩摩兵が大畑(熊本県人吉市大畑町)に攻めてきたとき、父と共に戦い、初陣で武功を挙げ父と共に「丸目」の名字(元は山本姓と言う)を与えられた。
弘治2年(1556年)、肥後天草郡の領主の本渡城主・天草伊豆守の元で、2年間、兵法の修行を行った。
永禄元年(1558年)に上洛。新陰流を創始した上泉信綱(伊勢守)に師事し兵法の修行に励んだ。3年の修業の後、伊勢守門下四天王に数えられるまでになった。
その後、室町幕府将軍の足利義輝の前で上泉が兵法を上覧したとき、師の上泉の相手として打太刀を務め、義輝より師と共に感状を与えられている。正親町天皇を前に剣技を見せた際にも同様のことを行ったため、『本朝武芸小伝』では長恵を「禁廷北面の士」とされているが、宮仕した事実は確認されていない。
帰郷した長恵は、新陰流の指南を相良家で行った。
永禄9年(1566年)に弟子の丸目寿斎、丸目吉兵衛、木野九郎右衛門を伴い再び上洛したが、上泉は上野に帰国中であった。そこで長恵は愛宕山、誓願寺、清水寺で「兵法天下一」の高札を掲げて、諸国の武芸者や通行人に真剣勝負を挑んだが、誰も名乗り出ず、勝負することなく帰国した。永禄10年(1567年)、「兵法天下一」の高札の件を知った上泉は、上泉伊勢守信綱の名で「殺人刀太刀」「活人剣太刀」の印可状(免許皆伝)を書いて与えた。
再び帰郷した際に、相良家に仕官したが、永禄12年(1569年)に薩摩平出水の守将の島津家久が大口城を策を用いて攻めたとき、策にのせられた長恵の主張に従ったために相良側は敗戦。多くの将兵を失って大口城も落城した。敗戦後、相良義陽は長恵にその責を負わせて逼塞というかなり重い処罰を下し、事実上、武将として立身する夢は絶たれた。
その後、長恵は兵法修行に専心。九州一円の他流の兵法を打ち破り、そのことを知った上泉より、西国での新陰流の教授を任されている。上泉が新たに工夫した太刀を学ぶために、弟子を伴い再び上洛するも上泉はすでに死去しており、落胆し帰国した長恵は、昼夜鍛錬し数年の後、「タイ捨流」を開流したといわれている。
すでに島津氏の軍門に下っていた相良氏は、肥後球磨郡の一郡を領するだけとなり、さらに豊臣秀吉に服属した。天正15年(1587年)に長恵は勘気を解かれ、再び相良氏に仕えることとなり、タイ捨流の剣術指南として、新知117石を与えられた。
タイ捨流は九州一円に広まり、相良家中だけでなく、他家にも弟子や門人が多数おり、武将の蒲池鑑広や立花宗茂、鍋島直茂らも門人の1人で、蒲池には秘伝を授けている。
晩年には徹斎と号し、切原野(熊本県球磨郡錦町)の開墾に従事しながら隠居生活を送ったという。剣術以外槍術、薙刀術、馬術、忍術、手裏剣も精通。また、書、和歌、仕舞、笛などにも優れた才を示した教養人であったという。
寛永6年(1629年)に死去。享年89。法名は雲山春龍居士。墓は熊本県球磨郡錦町切原野堂山にある。
丸目蔵人佐長恵 2
流祖「丸目蔵人佐長恵」は、天文9年(1540年)に相良氏の領国内であった肥後国八代郡八代(熊本県八代市)で誕生しました。
弘治2年(1556年)、肥後天草郡の領主の本渡城主・天草伊豆守のもとで2年間兵法の修行に励んだ後、永禄2年(1559年)19歳のときに京に上り、新陰流の創始者であり「剣聖」と仰がれた上泉伊勢守信綱の門人となり、新陰流の修行を積みました。当時、上泉は関東一の槍の名手と言われていました。
その後、流祖長恵は天性の技量と修練により、めきめきと腕を上げ、若くして新陰流伊勢守門下の四天王の一人と呼ばれるようになりました。
   <四天王>
   丸目蔵人佐長恵 / タイ捨流兵法の流祖
   疋田文五郎 / 疋田陰流剣術・新陰疋田流槍術の祖
   柳生宗厳 / 剣術の新陰流継承者
   神後伊豆 / 新陰流の奥義をきわめ、将軍足利義輝、関白豊臣秀次の剣術師範となる
永禄7年(1564年)、流祖は第14代将軍足利義輝公の御前上覧演武にて、師である上泉の打太刀を務めました。その見事さに、上泉の兵法は「天下一」、丸目の打太刀は「天下の重宝」との感状を義輝公より賜りました。
帰郷した後、新陰流を九州全域に広め、「新影タイ捨流」として柳川藩主立花宗茂公や豊後の大友宗麟公に秘伝を伝授し、多くの門弟を育成して「東の柳生、西の丸目」と言われるようになりました。
永禄9年(1566年)、弟子を伴い再び上洛し、愛宕山、誓願寺、清水寺で「兵法天下一」の高札を掲げ、永禄10年(1567年)には、上泉伊勢守信綱の名で「殺人刀太刀」「活人剣太刀」の印可状(免許皆伝)を受けました。
再び帰郷した後には、上泉より西国での新陰流の教授を任され、兵法修行にさらに専心しました。そして、柳生新陰流が徳川幕府天下の剣術となったのを機に、「新陰」を除き「タイ捨流」とし独自の道を歩みはじめたのです。「タイ捨流」の技の名称は新陰流と同じですが、業は新陰流を打ち負かす技となっています。「タイ捨流」は、九州全域に広まり、特に肥後人吉藩、肥前一体では流祖自らが訪問したこともあり「タイ捨流」が盛んとなりました。また、中国地方や東北地方にまでも広がり様々な流派が派生していきました。
流祖は、隠居後は徹斎と号し、多くの門人たちを育成しながら、70歳より私財を投じて農民のため水路を掘削し、田畑の開墾事業を行いました。武術は剣、槍、薙刀、手裏剣、馬術や忍術など20以上の奥義に達した剣豪であり、書は門跡寺院青蓮院宮の御免筆にて、歌道においては源氏物語や古今和歌集など伝授し、当時流行した乱舞を嗜み、笛などにも優れた才を示した文化人でもありました。
なお、イエズス会ポルトガル宣教師によって名を「パウロ・マルモ」(原語ではメとモは同音表記)とし、本部イエズス会総長へ「医者、文化人、剣豪」として報告されています。当時、宣教師であり西洋外科医であったアルメイダ神父より西洋医学を学んだと思われ、健康長寿を願う「保寿剣」を考案実践し、寛永6年(1629年)90歳にて天寿を全うしました。
また、流祖の右腕となった中国人武術家伝林坊来慶は、山伏として活動しながら相良忍者集団を統率したとされています。「タイ捨流剣術」の中に中国武術が混在し、忍法は「裏太刀」として手裏剣と共に伝えられています。
丸目蔵人佐長恵 3
タイ捨流
丸目蔵人佐長恵(まるめ・くらんどのすけ・ながよし)はタイ捨(たいしゃ)流の創始者として知られる。
通称は蔵人佐(くらんどのすけ)、または石見守。丸目蔵人(まるめ・くらんど)の名で広く知られる。
本姓は藤原。号は徹斎。晩年は剃髪して石見入道徹斎を名乗った。
タイ捨流の「タイ」には、「体・待・対・太」などの漢字が当てはまるが、あえてカタカタにしているのは、漢字で「体」とすれば体を捨てるという意味に限定され、「待」とすれば待つを捨てるという意味に限定され、「対」とすれば対峙を捨てるという意味に限定され、「太」とすれば自性、つまりは本性を捨てるという意味に限定される、といったそれぞれの意味が含まれるからだそうだ。
「タイ捨」とは、これらのすべての言葉にとらわれないことを意味している。
さて、丸目蔵人佐長恵は上泉伊勢守信綱の弟子として知られる。上泉伊勢守信綱は「新陰流」の創始者で、他の弟子で有名なのは、柳生宗厳などである。
つまり「タイ捨流」は新陰流の流れを汲む流派である。タイ捨は甲冑を着た武将を倒す刀術として実戦向きだったが、これにさらに磨きをかけ、示現流を生み出したのが東郷藤兵衛肥前守重位である。
略歴
戦国時代の武人。天文9年(1540)に九州の肥後国八代郡八代(熊本県八代市)に生まれた。当時、八代は相良氏の領国。
父は丸目与三右衛門尉(元は山本姓)、母は赤池伊豆の娘とされる。
初陣で武功を挙げ、父と共に「丸目」の名字を与えられた。
弘治2年(1556年)。肥後天草郡の領主の本渡城主・天草伊豆守の元で兵法の修行を行った。
永禄元年(1558年)に上洛。上泉伊勢守信綱に新陰流を学び、四天王(疋田景兼、神後宗治、奥山公重、丸目長恵)の一人となった。
永禄7年(1564)。足利13代将軍義輝の前で上泉が兵法を上覧したとき、師の上泉の相手として打太刀を務め、「丸目の打ち太刀、天下の重宝」と褒めたたえられ、感状を受けている。
正親町天皇の前でも同様に兵法を上覧している。
この時期を前後して、禁廷北面の士とされているが、宮仕した事実は確認されていない。
丸目蔵人佐長恵はいったん、帰郷し、相良家で新陰流の指南を行った。
永禄9年(1566年)。弟子の丸目寿斎、丸目喜兵衛、木野九郎右衛門を伴い再び上洛。
師の上泉伊勢守信綱は京にいなかった。
丸目蔵人佐長恵は愛宕山、誓願寺、清水寺で「兵法天下一」の高札を掲げて、諸国の武芸者や通行人に真剣勝負を挑んだ。
しかし、誰も名乗り出ず、勝負することなく帰国した。
永禄10年(1567年)。「兵法天下一」の高札の件を知った上泉は、上泉伊勢守信綱の名で印可状(免許皆伝)を与えた。一説には永禄12年(1569)に目録を授けられたという。
この時期、相良家に仕官している。
永禄12年(1569年)。薩摩の島津家久が大口城を攻めてきた際に、相良家は丸目蔵人佐長恵の策に従って大口城が落城してしまう。
そのため、丸目蔵人佐長恵は相良義陽から逼塞の処罰を受け、武将として出世することはなかった。。
丸目蔵人佐長恵は兵法修行に専心し、師の上泉伊勢守信綱より、西国での新陰流の教授を任された。
その後、弟子の一人が上泉伊勢守信綱の元で修行を行い、ある太刀筋を伝授される。上泉伊勢守信綱は、その太刀筋を丸目蔵人佐長恵に伝えて欲しいと託したが、弟子から教わるのを良しとしなかった丸目蔵人佐長恵は、上泉伊勢守信綱に直接の指導を仰ごうとしたらしいが、すでに亡くなっており、指導はあおげなかった。
自らの鍛錬により、数年後に「タイ捨流」を開流したといわれている。
天正15年(1587年)。再び相良氏に仕えた。タイ捨流の剣術指南として、117石を与えられた。
タイ捨流は九州一円に広まり、筑後山下の城主・蒲池鑑廣や柳川城主・立花宗茂に教えている。授けた免状は今も保存されている。
また、薩摩は示現流を採用する前はタイ捨流だった。
晩年には徹斎と号した。
切原野(熊本県球磨郡錦町)に隠棲して、村人とともに開墾に従事しながら隠居生活を送った。田畑や水路や植林地は残って今に活用される。
元和4年(1618)、京都からローマに送ったイエズス会宣教師の報告書に、丸目蔵人佐の風貌が描かれている。
寛永6年(1629)没。89歳。法名は雲山春龍居士。墓は熊本県球磨郡錦町切原野堂山。
逸話
徳川幕府の指南役柳生但馬守宗矩に試合を挑み「竜虎相搏つは非、天下を二分せん」と説得された。
巌流島決闘のあとで訪れた宮本武蔵に、タイ捨流二刀の型を伝授した。
丸目長恵 4
タイ捨流の祖
丸目長恵(まるめながよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた剣豪です。「剣聖」とも称された上泉信綱に師事し、その四天王の一人と目される高弟となった人物です。
長恵は信綱が創始した「新陰流」とは別となる流派・「タイ捨流」(タイシャリュウ)を起こして広く九州に門弟を持つに至りました。
その門弟の中には武勇に秀でた武将・大名の立花宗茂や鍋島直正らの名もあり、長恵自身が仕えた相良家中に留まらず多くの大名家で学ばれる剣術となりました。
剣術「タイ捨流」の祖としては成功を収めたと言える長恵でしたが、武士としては大きな武功を挙げられず、むしろ失敗して、長い不遇の期間を過ごした人物でした。
新陰流の修得
長恵は天文9年(1540年)に、その時代には相良氏の領国であった肥後国八代郡に生まれたとされています。
父と共に弘治元年(1555年)の薩摩との戦に初陣を飾り、その時の武功から「丸目」の姓を賜ったとされています。
その後、長恵は永禄元年(1558年)に上洛し、新陰流創始者の上泉信綱に師事して剣を学びました。
ここで3年の修業の後に、その門下の四天王に数えられるまでの技量を身に着けました。
この頃、師である信綱が室町将軍・足利義輝に引見され、その御前で剣技を披露したとされています。このとき長恵は相手役を務め、更に正親町天皇へも同様の天覧を行ったと伝えられています。この後一旦肥後国八代へと戻った長恵は相良家において新陰流を指南したとされています。
永禄10年(1567年)に長恵は信綱から「殺人刀太刀」・「活人剣太刀」の印可状を与えられたと伝えられています。
戦での失策
その後、長恵は永禄12年(1569年)に相良義陽に帰参し、薩摩大口城の守備にあたりました。
ここで長恵は敵将・島津家久の計略に嵌められてしまい、結果大口城を陥落させられてしまいます。このことで義陽の勘気に触れた長恵は「逼塞」という重い処分を科され、以後17年に渡って赦されなかったと伝えられています。
しかしこの間に長恵は、九州内で他流派を打ち負かし、信綱から西国における「新陰流」の教授を任されました。信綱の没後は、修練の末に自ら「タイ捨流」を創始しました。
この後、天正15年(1587年)にようやく勘気を解かれた長恵は相良氏に再び出仕し、「タイ捨流」剣術の指南役として117石を領したとされています。
家康の裁定
長恵が「新陰流」を名乗らず「タイ捨流」を創始したのは、一説には「新陰流」を継承した柳生宗厳を憚ったためとも、甲冑を纏った武者に対する新しい流儀として確立したためとも言われています。
関ヶ原の戦いにおいて、長恵の主君・相良頼房は東軍に与して本領を安堵され、肥後人吉藩2万石を立藩しました。
一方、柳生家では柳生宗矩(宗厳の五男)が徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され、更に初代大目付となって大和柳生藩の大名へと列せられていました。
これに比して、相良藩のわずか117石の碌に留まっていた長恵はその境遇の払拭を意図してか、江戸へ上って宗矩に勝負を申込んだと言われています。
しかし大名ともなった宗矩は当然そのような誘いに応じなかったこともあり、この状況を憂えた徳川家康が「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」との裁定を伝えたとも言われています。
才人としての 丸目長恵
長恵は、隠居後は徹斎を号し、70歳以後には私財をも投じて水路を整備し、田畑の開墾に勤しんだとされています。
武は剣術だけでなく槍、薙刀、手裏剣など複数を極めた達人であり、文は書を門跡寺院青蓮院宮の御免筆にて、歌道でも源氏物語、古今和歌集を伝授するなど、多彩を極めた才人でした。
尚、当時のイエズス会宣教師には「パウロ・マルモ」と呼ばれて、本部のイエズス会総長に「医者、文化人、剣豪」として紹介されています。
これは長恵が、宣教師兼外科医であったアルメイダ神父から医学を学んだためと考えられており、健康長寿を目指した「保寿剣」を提唱して、自らも寛永6年(1629年)90歳という長寿を全うしました。  
 
丸目長恵(蔵人) まるめながよし(くらんど) 2

 

1540年〜1629年
丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。  
家系 
相良氏は、遠江相良荘に住した工藤周頼(藤原南家)に始まり、相良頼景は源頼朝に従わず肥後へ追放されるが帰順して肥後多良木荘(球磨)の地頭に任官、相良長続が肥後守護菊池氏に属して球磨・八代・葦北の領有を認められた。相良義滋・晴広の代に同族の上村・犬童・深水・丸目氏らを束ね肥後人吉城に拠って戦国大名化し、菊池義武(大友宗麟の叔父)を隈本城に迎え豊後大友氏からの独立を図るが立花道雪に阻まれた。晴広嫡子の相良義陽は、西原氏から薩摩大口城を奪取し島津貴久に対抗するが、重臣の上村頼孝・菱刈重任を誅殺したため相良家は弱体化、丸目長恵の勇み足で島津家久に大口城を奪回され、日向の伊東義祐(親戚)・大隅肝付氏が島津領へ侵攻すると援軍を出すが奇計に嵌って逃げ帰り友軍は島津義弘に惨敗(九州の桶狭間・木崎原の戦い)、1581年耳川の戦いで大友宗麟を撃破した島津義久に攻められ次男頼房を人質に差出し降伏、阿蘇氏攻伐を命じられた相良義陽は宇城響野原で親友の甲斐宗運と戦い討死した(響野原の戦い)。犬童頼安・深水長智は次男の相良頼房を当主に担ぎ島津氏の九州平定戦に従うが1587年豊臣秀吉の九州征伐に降参、肥後国人一揆で佐々成政に呼応し島津軍と抗戦するが処罰を免れた。相良頼房は、加藤清正旗下で朝鮮役に出征するが国許で抗争が起り犬童頼安・頼兄を帰国させ竹下監物と深水一党73名を誅殺、深水頼蔵は清正を通じて秀吉に惣無事令違反を訴えるが石田三成が犬童を庇いお咎め無し、頼房は蔚山城合戦の武功を賞され豊臣姓を賜った。関ヶ原の戦いで相良頼房は西軍に属し美濃大垣城に詰めるが井伊直政に調略され秋月種長・高橋元種兄弟と共に東軍へ寝返り守将の福原長堯らを謀殺、徳川家康に本領を安堵され肥後人吉藩2万石を立藩し幕末まで存続した(秋月は高鍋藩3万石・高橋は日向延岡藩5万石)。相良氏庶流の丸目蔵人長恵は、大口城敗戦の罪で致仕となったが17年後に赦され兵法指南役(117石)で帰参、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に広がった。長恵には権内・半十郎の二児があったが共に早世し(謀殺説あり)娘婿の八左衛門が丸目家を継いだ。  
年譜 
1540年 肥後人吉城主相良晴広の家臣丸目与三右衛門の嫡子丸目長恵が肥後八代郡八代にて出生 / 龍造寺家兼・馬場頼周ら旧家臣団が少弐冬尚を当主に担ぎ名目上少弐家を再興
1541年 [吉田郡山城の戦い]毛利元就に安芸・備後の領地を切取られた尼子晴久が武田光和の遺児武田信実を担ぎ反攻、大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略(12歳の次男吉川元春が家臣の制止を振り切って初陣)と大内家陶隆房(晴賢)の援軍により撃退され尼子久幸(経久の弟)も戦死、武田信実は出雲に逃亡し安芸守護武田氏滅亡、元就は反抗勢力を皆殺にして安芸を制圧 / 流浪の身から最盛期には山陰・山陽11ヶ国に君臨した尼子経久が月山富田城にて病没(享年82)
1552年 南近江守護六角定頼が死去(子の義賢が後継)し庇護者を失った細川晴元派は弱体化、近江朽木に籠る将軍足利義輝は三好長慶に帰順し京都へ帰還するが翌年晴元と共に反乱を起し再び近江朽木へ逃亡 / 肥前の領袖で南蛮貿易を始めた有馬晴純が嫡子有馬義貞に家督を譲り隠居、キリスト教への関心が高い義貞は晴純と対立(1550年義貞は次男純忠を養嗣子に押付けて三城城主大村家を乗取り、1563年大村純忠は日本初のキリシタン大名となる)
1553年 薩州家当主島津実久が隠居地の薩摩出水にて死去、後嗣島津義虎は島津貴久に臣従
1554年 [甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)]武田晴信(信玄)・北条氏康・今川義元が相互に婚姻を結び同盟、三強連携体制で武田は信濃・北条は関東・今川は尾張の攻略に専念 / 島津貴久に降った大隅加治木城主肝付兼盛を蒲生範清・祁答院良重・入来院重朝ら大隅国人が攻撃するが、島津の援軍が岩剣城の決戦で大隅連合軍を撃滅、貴久の嫡子義久と次男義弘が初陣を果たす / 二階崩れの変に乗じて相良晴広ら反大友の肥後国人衆が決起、菊池義武(大友宗麟の叔父)は隈本城に迎えられ菊池家再興を図るが戸次鑑連(立花道雪)率いる大友軍に敗れ自害(名門菊池氏は名実共に滅亡。なお西郷隆盛の家は菊池氏の子孫と称した)、鑑連は反抗勢力を討ち従えて肥後を制圧
1555年 朝倉宗滴が越後の長尾景虎(上杉謙信)に呼応して加賀一向一揆討伐に出陣、1日で南郷・津葉・千足の3城を落とし大聖寺を攻囲するが、陣中で病に倒れ一乗谷で死去(享年79)、柱石を喪った朝倉氏は凡庸な義景の下で一族や家臣の内紛が頻発し弱体化、一向一揆の反攻に晒され、18年後宗滴が大器を見抜いた織田信長に滅ぼされる / [厳島の戦い(日本三大奇襲)]乾坤一擲の劣勢挽回を図る毛利元就が反間の計で大内軍を狭い厳島に誘い込み、小早川隆景の調略で村上武吉・村上通康の村上水軍を味方に付け海上封鎖したうえで闇夜に渡海上陸し山上から急襲、大内軍潰走のなか逃げ遅れた陶晴賢は厳島青海苔浦で自害、一気に視界が開けた元就は直ちに大内家乗取りに奔走 / 能島村上水軍の村上武吉・来島村上水軍の村上通康が小早川隆景からの「1日だけの味方」要請に勝利を予見し毛利元就の厳島合戦に参戦、村上水軍の手引きで闇夜に紛れて厳島へ渡り退路を封じた毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅、村上水軍は毛利による大内家乗取り(防長経略)に協力して勢力を伸ばし塩飽諸島や備後小早川氏の水軍衆と提携して瀬戸内海を掌握 / 天文の乱を制し家督を継いだ伊達晴宗(政宗の祖父)が弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し男児を岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児を二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力回復に努め、後援する将軍足利義輝をしてより奥州探題に補される / 北条氏康が上野大胡城を攻略するが箕輪城主長野業正が奪回、主君の大胡氏と共に長野家臣団に編入された上泉伊勢守信綱(上泉城主)は武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦して武名を轟かせ同時に新陰流兵法も発展を遂げる / 島津貴久との大畑合戦で丸目与三右衛門・長恵父子が武功を挙げ主君の相良晴広から丸目姓を与えられる、翌年16歳の丸目長恵は兵法家を志して出郷し肥後本渡城主天草伊豆守のもとで修行したのち上洛して上泉伊勢守信綱に入門
1564年 陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」三好長慶が死去(享年43)、三好長慶・三好実休・安宅冬康・十河一存の四兄弟を一挙に喪った三好政権は内部分裂で瓦解し京都・堺・奈良の三大都市を握る松永久秀が台頭、織田信長の畿内侵攻に遭って三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は掃討され、久秀と長慶の養嗣子三好義継は信長に降るが最後は謀反し滅ぼされる / 伊東義祐の侵攻により日向真幸院領主北原氏が滅亡、島津貴久は次男義弘を飯野城主に据え伊東氏と対峙
1565年 [永禄の変]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が三好長慶の死を機に自立を図る二条御所の将軍足利義輝を襲撃(松永久秀は消極的あるいは不関与説もあり)、塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪将軍義輝は刀を換えつつ奮戦するが斬死(享年30)、義輝の生母慶寿院は殉死し弟の鹿苑寺周ロは殺されるが一乗院覚慶(足利義昭)は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、三好長慶の養嗣子義継を擁する三好三人衆が専横を強める松永久秀と断交し争乱に発展 / 興福寺に幽閉された将軍足利義輝の弟一乗院覚慶(足利義昭)が三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は近江甲賀の和田惟政邸で足利将軍家の家督を宣言し南近江守護六角義賢が献上した野洲郡の矢島御所に移り還俗して足利義秋(義昭へ改名)を名乗り、関東管領上杉輝虎(謙信)・河内守護畠山高政・能登守護畠山義綱らに三好三人衆・松永久秀打倒を要請するが三好長逸に矢島御所を襲撃され六角義治(義賢の嫡子)に内通疑惑が生じたため若狭守護武田義統を頼り亡命、力不足の武田家を去り越前朝倉氏を頼るが朝倉義景は重い腰を上げず
1566年 [箕輪城落城]局地戦では無敵ながら関東に安定基盤を築けない上杉輝虎(謙信)の権威が低下し守将の北条高広まで離反、最後の拠点上野箕輪城を武田信玄に落とされ長野業盛(業正の後嗣)は自刃し上野長野氏は滅亡、輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総を転戦するが挽回できず関東制覇を断念、代わりに北条氏康が関東諸豪を切崩し勢力を回復 / 箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される) / [第二次月山富田城の戦い]毛利元就・吉川元春が5年に及んだ月山富田城攻囲戦を征し尼子義久が降伏開城(尼子義久・倫久・秀久兄弟は助命され子孫は毛利家臣として存続、後に尼子再興軍を旗揚げする山中鹿介は上京へ逃れ諸国巡歴)、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇 / 松平家康が改姓し徳川家康を名乗る(松平氏は三河賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、家祖徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河一国の太守に相応しい源姓・名字徳川に改めたと考えられる) / 島津貴久が隠居し嫡子島津義久が16代島津宗家を承継、義久・義弘・歳久・家久の島津4兄弟による九州統一への挑戦が始まる / 伊東義祐が飯野城攻略のため三ツ山城(小林城)を築城、島津義久は兵2万を動員して攻撃するが激戦の末に島津義弘も重傷を負い撤退
1567年 毛利元就に通謀した秋月種実(文種の次男)が筑前で挙兵し呼応した筑前宝満城・岩屋城主の高橋鑑種と筑後の筑紫惟門が大友宗麟に反旗を掲げ筑前の宗像氏貞・原田隆種と肥前の龍造寺隆信も呼応、征伐軍を率いる戸次鑑連(立花道雪)は戸次一族と譜代重臣の多くを喪う激戦の末に立花山城を攻略し(城主の立花鑑載は自害)筑前・筑後の反抗勢力を鎮圧 / 織田信長が美濃国を制圧、中国周王朝の発祥地に因んで稲葉山城を岐阜城へと改名し本拠を移動、国境を接した武田信玄を贈物攻勢と婚姻政策で宥めつつ「天下布武」を掲げて京都を窺う / 丸目蔵人長恵が愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ世人に真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず、師の上泉伊勢守信綱は長恵に新陰流の印可を授与(「殺人刀」教授は認めるが「活人剣」は秘匿すべしとの制限付)、長恵は肥後人吉へ戻り相良晴広の命により薩摩大口城守将の東伊勢守の旗下に入る
1568年 将軍足利義輝を殺害した松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が阿波に居た足利義栄(11代将軍義澄の孫で13代義輝の従弟)を担ぎ出して14代室町将軍の宣下を受けるが、専横を強める松永久秀と三好一門衆の抗争が勃発し将軍義栄は入京できぬまま半年後に病死 / 足利義昭(三好三人衆・松永久秀が弑殺した将軍足利義輝の弟)が上洛要請に応じない朝倉義景に失望し幕臣の細川藤孝・新参の明智光秀の手引きで越前を脱走し尾張の織田信長へ鞍替え、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ南近江の六角義賢と畿内の三好三人衆を一掃し(松永久秀・三好義継は逸早く投降)、入洛して義昭を15代室町将軍に擁立、織田信長は関所撤廃と楽市楽座により寺社特権を剥奪し松永久秀が敷いたキリスト教宣教師追放令も撤廃 / [観音寺城の戦い]上洛に向かう織田信長が通路確保のため南近江の六角義賢に従軍を要請するが拒絶(領地明渡しや臣従の強要ではなかったが、義賢は近江で争う浅井長政と同盟した信長を警戒、将軍足利義栄を担ぐ三好三人衆に与して信長に抵抗)、支城の箕作城を一夜で落とされた義賢は観音寺城を放棄して逃亡し鎌倉幕府創立から続く佐々木氏嫡流の六角氏は滅亡、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は嫡子蒲生氏郷を人質に出して降伏、蒲生氏の義理堅さに感じた信長は氏郷を近侍させ厚遇する / 織田信長軍団の高級将校木下藤吉郎(豊臣秀吉)が六角義賢討伐・観音寺城の戦いで主戦場となった支城の箕作城攻めで活躍(信頼できる資料に初登場)、翌年京都警備役(師団長格)に大抜擢され1万石の所領を得る / 長宗我部元親が瓜生野城攻囲中に宿敵本山茂辰が死去し嫡子本山親茂を降伏させて土佐中部を平定、翌年の八流の戦いで安芸国虎を攻め滅ぼし土佐東部も制圧した元親は土佐統一を臨み毛利氏の伊予出兵に敗れ衰亡へ向かう伊予国司一条兼定を標的に据える / 島津氏中興の祖島津忠良(日新斎)が死去 / 島津義久が日向国主伊東義祐の猛攻に晒された飫肥城を放棄、城主島津忠親は庄内(都城)へ撤退し間もなく病没、「九州の小京都」佐土原に拠り日向国内に四十八支城を構えた伊東氏は全盛期を迎える / [毛利氏の伊予出兵]大友宗麟と通じる大洲城主宇都宮豊綱・土佐中村城主一条兼定が湯築城主河野通宣を攻撃、河野重臣の村上通康(渦中に病死し嫡子の来島通総が家督と来島村上水軍を承継)から援軍要請を受けた毛利元就は小早川隆景・乃美宗勝を派遣し宇和島の西園寺公広と同盟して大洲城を攻略、元就は元寇の勇将河野通有以来伊予を支配した河野氏と村上通康ら水軍衆を支配下に置くも九州大友氏との二方面戦争を余儀なくされ敗戦で没落した一条家では被官の長宗我部元親が台頭する
1569年 [本圀寺の変]織田信長の岐阜城帰還を衝いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が将軍足利義昭が仮寓する京都本圀寺を襲撃、引き返して反乱を一蹴した信長は豪壮な二条御所(烏丸中御門第)を造営して将軍の権威を示し衰微した皇室の経営再建にも尽力、「幕府再興」に有頂天の将軍義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが信長は逆に『殿中御掟』を突きつけて傀儡将軍の増長を掣肘、義昭から貿易都市堺支配のお墨付き得た信長は町衆を脅して自治権を剥奪し外国貿易と鉄砲・煙硝の供給ルートを掌握(信長は堺商人で侘茶名人の千利休を茶頭に召抱える) / [掛川城攻略]武田信玄と今川領の東西分割を約した徳川家康が遠江へ侵攻、掛川城落城により駿河守護今川家滅亡(今川氏真は妻早川殿の実家後北条氏に亡命後、徳川家康の庇護下に入り家名存続)、遠江一国を制圧した徳川家康は三河岡崎城から遠江浜松城に居城を移し大井川を隔てて武田信玄と対峙 / 戦国大名屈指の名門で駿河・遠江・三河を領有した今川氏が滅亡、今川氏真は流転の末に徳川幕府に庇護され77歳の長寿を全うし子孫は高家旗本として存続 / 織田信長の木下藤吉郎(豊臣秀吉)軍団が但馬に侵攻、山名祐豊を降し生野銀山(秀吉の強力な経済基盤となる)などを制圧 / [三増峠の戦い]武田信玄が上杉輝虎(謙信)と和睦し安房里見・常陸佐竹と同盟したうえで駿河侵攻を阻む北条氏康の小田原城を攻囲、北条軍を相模国境三増峠で撃破し駿河一国の制圧に成功、常陸の北条方小田氏治が佐竹氏に大敗降伏し北条氏康の関東制覇の野望が費える / 筑前・筑後を制圧した戸次鑑連(立花道雪)が龍造寺隆信討伐のため肥前へ転戦すると、龍造寺と通謀する毛利元就が豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景が拠点の立花山城を攻略、鑑連は龍造寺と和睦して馳せ戻り最前線で奮戦するも戦線は膠着、大友宗麟が軍師吉岡長増の後方撹乱策を容れて山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)を誘発すると毛利軍は撤退、宗麟は戸次鑑連(立花道雪)・高橋鎮種(紹運)を守将に据え筑前・筑後支配を確立 / [尼子再興(第一回)]山中鹿介幸盛ら尼子残党が京都東福寺にいた尼子勝久(新宮党国久の孫)を還俗させて主君に担ぎ大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、隠岐から本土に渡って兵を募り、北九州攻めで手薄な毛利勢の虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻し月山富田城に迫るが、大友宗麟と和睦した毛利元就が次男吉川元春に大軍を預け派遣、間もなく元就が病没するが元春は弔い合戦と称して踏み留まり児玉就英の毛利水軍が制海権を奪い最後の拠点新山城も攻略、鹿介は捕捉されるが偽りの投降で助命され監視の目を逃れて伯耆尾高城から脱走 / [大内輝弘の乱]大友宗麟の軍師吉岡長増の後方撹乱計略により大内一族の輝弘が豊後から周防に入り挙兵、北九州攻めで手薄な高嶺城を攻囲するが、毛利元就が大友宗麟と和睦し吉川元春・小早川隆景の精鋭が駆け戻ると反乱は瓦解し輝弘は自害
1570年 織田信長が朝倉義景討伐で越前に攻め込むが浅井長政離反により撤退、殿軍の木下藤吉郎(豊臣秀吉)の決死の奮戦で挟撃の窮地を脱出(金ヶ崎の退き口)、逃避行に随従した松永久秀は近江朽木谷城主の朽木元綱の協力を取り付ける活躍 / 出羽米沢城主伊達輝宗(政宗の父)が権臣中野宗時・牧野久仲父子を追放し父伊達晴宗を隠居に追込んで家中を掌握、鬼庭左月斎・遠藤基信を側近に登用して外交活動を展開、蘆名氏との同盟を保ちつつ南奥羽諸豪の紛争を調停し織田信長・柴田勝家・北条氏政らと友好関係を構築 / [姉川の戦い]織田信長・徳川家康連合軍が近江姉川河原(長浜市)で浅井長政・朝倉義景連合軍と激突、浅井軍の猛攻で織田陣は13段のうち11段まで突破され信長の本陣も危うかったが朝倉軍を破った徳川勢の奮闘で辛勝(本多忠勝は単騎駆けで戦端を開き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍)、合戦後も戦力を残した浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、信長は比叡山焼き討ちや磯野員昌ら浅井・朝倉家臣の離間工作で応戦 / 美濃岩手城主竹中半兵衛重治が舅の安藤守就の勧めで朋輩の牧村利貞・丸毛兼利と共に織田信長に帰服、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力に加えられた軍師半兵衛は旧知の堀家家老を口説いて長亭軒城を寝返らせ浅井長政が固めた美濃・近江の陸上封鎖を打破、姉川の戦いにも従軍し弟の竹中重矩が浅井家の豪傑遠藤直経を討取る活躍、合戦後最前線の近江横山城に留め置かれた藤吉郎は小谷城の浅井長政と対峙し半兵衛の軍略により均衡を保つ / [石山合戦・信長包囲網(第一次)]織田信長の石山本願寺明け渡し要求を拒んだ顕如が挙兵し石山合戦が勃発(下間頼廉・鈴木重秀の指揮のもと11年も織田軍団の猛攻を凌ぎ切る)、呼応して起った伊勢一向一揆で信長の弟織田信興が戦死、浅井・朝倉・本願寺・延暦寺の攻囲に晒された織田信長は将軍足利義昭の仲介で正親町天皇の勅命を得て和睦に漕ぎ着け窮地を脱出、和睦を成功に導いた明智光秀(このときは義昭・信長への両属)は近江坂本城10万石を与えられ44歳で一城の主となり、春日井堤の合戦で単騎踏み留まり味方の潰走を食止めた前田利家は信長から「日本無双の槍」と激賞され1万石余の加増を受けて織田家大名衆に加わる / 本願寺顕如の要請を受けた雑賀衆の鈴木重意が根来衆と協力し鉄砲隊600余を率いて三好三人衆に加勢し織田信長軍団と交戦(佐々成政を負傷させる)、石山合戦が起ると鈴木重秀(重意の次男)が石山本願寺に入り下間頼廉と共に一向一揆軍団の軍事指揮を担う(大坂左右大将) / [今山の戦い]毛利元就を撃退して豊前・筑前の支配を固めた大友宗麟が傘下で台頭する龍造寺隆信を討つため6万の大軍を率いて肥前へ侵攻、佐賀城に追詰められた隆信は鍋島直茂の提言を容れて敵本陣への夜襲を敢行、敵将大友親貞(宗麟の従弟)をはじめ2千人を討取る大戦果を挙げて宗麟と和睦、大友氏の干渉を脱した隆信は肥前諸豪を切り従え大友・島津に対抗する第三極へ躍進 / 島津家久の軍勢が相良氏に奪われた薩摩大口城を攻囲、肥後人吉城主相良義陽は援軍を派遣するが丸目蔵人長恵(柳生宗厳と双璧を為す上泉信綱の高弟でタイ捨流兵法の創始者)の勇み足により大敗(義陽は激怒し長恵を逼塞に処す)、菱刈氏の降伏開城で大口城を奪回した島津義久は東郷氏・入来院氏も降伏させて薩摩統一を達成 
1586年 関白羽柴秀吉(豊臣秀吉)が年頭の参内で正親町天皇に「黄金の茶室」を披露、茶頭千利休は秀吉の成金趣味に眉をひそめつつ妙喜庵待庵に代表される草庵風茶室(下地窓・連子窓や躙口をあけた二畳の茶室)を完成させ楽茶碗や竹の花入・茶柄杓・茶杓などの道具に工夫を凝らし侘茶の境地を開く / 石田三成・直江兼続の策動により越後の上杉景勝が上洛し養子義真を人質に出して羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従、越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第を認められた景勝は新発田重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、1589年信濃川中島四郡(武田勝頼遺領)と出羽庄内三郡(最上義光から奪回)の支配が確定し合計90万石の太守となる / [岩屋城の戦い]島津義久が派した5万の大軍が筑前・筑後に侵攻、秋月種実・龍造寺政家・原田隆種・城井鎮房ら国人衆は挙って島津氏へ靡き総勢10万余で風前の灯火の大友方三城を猛攻、岩屋城の高橋紹運は徹底抗戦の末に城兵763人全員が玉砕して果て、宝満山城の高橋統増(紹運の次男。後の立花直次)は降伏開城して島津氏の捕虜となるが、立花山城の立花宗茂(紹運長男で道雪養嗣子)は詐降の計で油断を誘い大友宗麟の豊後攻めに転じた島津軍を追撃して数百を討取り、奇襲で原田・秋月の軍勢を痛撃、星野鎮胤・鎮元兄弟の高鳥居城を皆殺しにして攻取り岩屋城・宝満山城を奪回、九州征伐後宗茂は秀吉から「忠義・剛勇鎮西一」と激賞され直臣大名として筑後柳川城13万2千石を与えられる / 天下統一を急ぐ羽柴秀吉(豊臣秀吉)がライバル徳川家康との宥和路線に切替え、秀吉の妹あさひ(朝日姫)の輿入れに続いて母なか(大政所)を人質に差し出された家康は臥薪嘗胆で臣従、秀吉は早速九州征伐に乗り出し、豊臣政権運営では家康牽制のため旧知の前田利家を対抗馬に擁立 / [戸次川の戦い]肥後から島津義弘・日向から島津家久の軍勢4万が豊後大友領に殺到、大友宗麟の哀訴に応じた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は長宗我部元親率いる先発隊2万を派遣、戸次川を挟んで家久軍1万3千と対峙するが功を焦った軍監仙石秀久が無謀な冬季渡川を敢行し島津の「釣り野伏せ」戦法に嵌って副将の十河存保と長宗我部信親までが戦死する惨敗(溺愛する嫡子信親を喪った元親は悲嘆のあまり人が替わったような暴君となり長宗我部氏は破滅へ向かう。一方、味方を見捨てて一目散に領国讃岐へ逃げ帰った秀久は所領没収のうえ高野山へ追放されるが、小田原征伐の「仙石原合戦」で奮戦し信濃小諸5万石の大名に返り咲く)、家久は府内城を落として(城主大友義統は敵前逃亡)宗麟の臼杵城を包囲、島津義久は筑前立花城・岩屋城・宝満城で抗戦を続ける立花宗茂を残し九州制覇を達成 / 羽柴秀吉が関白位を養子(甥)の羽柴秀次に譲り太政大臣に就任、朝廷から豊臣姓を賜り以後豊臣秀吉を名乗る / 豊臣秀吉からの出陣要請を固辞してきた吉川元春が小早川隆景・黒田官兵衛の説得に応じ病を押して九州征伐に参陣するが豊前小倉城で陣没(享年57)、半年後に嫡子吉川元長も日向都於郡の陣中で病没(次弟の広家が家督相続) / 備前岡山城主宇喜多秀家(直家の嫡子)が前田利家の娘で豊臣秀吉の養女豪姫を妻に迎え豊臣一門衆に列す
1587年 会津黒川城主蘆名亀王丸が夭逝、蘆名家中は養子の人選を巡り伊達政道(政宗の弟)と白河義広(白河義親の養子に入っていた佐竹義重の次男)を推す両派が対立するが金上盛備の佐竹派が勝利し義広が蘆名盛隆の養女に入婿して家督を承継、佐竹氏は広大な蘆名領を不戦で併呑 / [九州征伐・根白坂の戦い]徳川家康を服属させた豊臣秀吉が島津征伐を号令、豊臣秀長(秀吉の弟)率いる毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家・黒田官兵衛らの10万余が豊後へ侵攻すると北部九州の諸豪は悉く帰順、劣勢の島津義弘・家久は豊後府内城を放棄して日向へ撤退し、秀吉の本体10万余が手薄な肥後へ入り隈本・宇土を攻略、日向高城で本国危うしの報を得た島津義久・義弘は打って出て秀長の攻囲軍に決戦を挑むが衆寡敵せず大敗、薩摩内城に戻った義久は義弘らの徹底抗戦論を抑え剃髪入道のうえ降伏謝罪、秀吉は義久に薩摩一国・義弘に新恩として大隅一国など島津本領をほぼ安堵し豊臣姓を与えた義弘が17代島津宗家当主を承継(義弘は太閤検地を通じて石田三成と親密になる)、渦中に家久が日向佐土原城で急病死〜黒田官兵衛・石田三成の両参謀が博多の町割りをはじめとする戦後復興任務を遂行 / 肥後人吉城主相良頼房が島津氏を見限り豊臣秀吉に帰順して本領安堵(投降に働いた執政の深水長智は秀吉の信任を得て豊臣直臣にスカウトされるが固辞)、薩摩大口城敗戦の罪で致仕された丸目蔵人長恵は17年ぶりに帰参を赦され兵法指南役(117石)に就任し長恵のタイ捨流は相良家のみならず東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及(上泉信綱の新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる) / 肥後人吉城主相良頼房が島津氏を見限り豊臣秀吉に帰順して本領安堵(投降に働いた執政の深水長智は秀吉の信任を得て豊臣直臣にスカウトされるが固辞)、薩摩大口城敗戦の罪で致仕された丸目蔵人長恵は17年ぶりに帰参を赦され兵法指南役(117石)に就任し長恵のタイ捨流は相良家のみならず東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及(上泉信綱の新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる) / 北部九州の島津方で唯一豊臣秀吉への帰順を拒む秋月種実が筑前秋月城に籠城、支城の豊前岩石城の抑えに配された蒲生氏郷は決死の嘆願で秀吉から攻城を許可され前田利長(利家嫡子)・羽柴秀勝(信長実子で秀吉養子)・石川数正(秀吉が引き抜いた元徳川家康家臣)の加勢を得て攻略に成功 / 豊臣秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟が島津義久の降伏直前に豊後津久見で陣没(享年58。戸次川の戦いで敵前逃亡の醜態を晒しながらも家督を継いだ嫡子大友義統は、朝鮮役碧蹄館の戦いで再び敵前逃亡し激怒した秀吉に改易され九州一の名門大友氏は滅亡、関ヶ原の戦いで西軍総大将毛利輝元の援助を得て九州で大友再興軍を起すが黒田官兵衛に一蹴される) / [バテレン追放令]大村純忠がイエズス会に長崎港を寄進した事実に驚愕し、宣教師ガスパール・コエリョがスペイン艦隊の武威を笠に傲慢な態度を示したことに立腹した豊臣秀吉が宣教師追放を発令(この時点では実利優先で南蛮貿易は容認され布教活動も事実上黙認) / 耳川・沖田畷・戸次川の戦いで歴史的勝利を収めた天才野戦指揮官島津家久が死去(享年41) / 九州征伐後の領土再編で黒田官兵衛が播磨篠の丸城5万石から豊前6郡12万石に増転封され中津城の築城を開始(12万石は功績に比して過小であり嫡子黒田長政と幕僚は政敵石田三成への憎悪を募らせる)、小早川隆景は筑前・筑後・肥前1郡の37万1300石に封じられて毛利家から独立した大大名の扱いとなる / 豊臣秀吉が京都に政庁兼邸宅の聚楽第を建設(作事奉行は石田三成、演出は茶頭の千利休、障壁画は狩野派の狩野永徳が担当)、後陽成天皇の行幸を迎え諸大名列席の祝賀式では秀吉に懇願された徳川家康が臣下の礼をとり権威付けに協力 / [惣無事令(関東・奥羽)]西日本を九州まで平定した豊臣秀吉が関東・奥羽諸大名に私戦禁止を発令、伊達政宗は無視して領土拡張戦争を継続 / [肥後国人一揆]小牧・長久手の戦いで改易された佐々成政が九州征伐の武功で肥後一国の太守に返り咲くが、豊臣秀吉の指示に反して検地を断行し反発する国人が一斉蜂起、成政は筑後柳川城主立花宗茂の援軍を得てようやく鎮圧するも切腹に処され、秀吉は肥後54万石のうち北半分(熊本城25万石)を加藤清正・南半分(宇土城24万石万石)を小西行長に与える / 黒田官兵衛が肥後国人一揆討伐に出征した隙を衝いて領国の豊前で野中鎮兼ら国人衆が蜂起し、伊予への転封を拒否し3万石を改易された城井鎮房が呼応し旧居城井谷城を占拠、強圧に出た留守役の黒田長政は失敗するが、帰還した官兵衛が兵站を断つ持久戦に切替え無事鎮圧、鎮房を謀殺して反抗勢力を一掃し支配を固める / 肥後国人一揆で肥後人吉城主相良頼房が佐々成政に呼応し島津義弘・伊集院忠棟と抗戦するが深水長智の釈明により処罰を免れる
1588年 豊臣秀吉が南蛮貿易拠点の肥前長崎を直轄領とする / [刀狩令・海賊停止令]豊臣秀吉政権による領民統治政策、来島通総(来島村上水軍)は進んで秀吉に帰服し伊予風早郡1万4千石の陸大名へ転身を遂げたが、独立保持に固執し抵抗を続けた村上武吉の能島村上水軍は解体され(武吉は備後竹原から筑前へ移され小早川隆景の庇護下で余生を繋ぐ)政権秩序への加入を拒んだ配下の海賊衆は芸予諸島の隅へ逃れ蔑視の対象とされる(第二次大戦前後に姿を消した船上生活者「家船」のルーツとも)
1589年 [寺内成敗]聚楽第落書犯の逃走を幇助し斯波義銀ら政治犯を匿ったとして豊臣秀吉(執行役は石田三成)が天満本願寺寺内町を徹底捜索、顕如は譴責処分で留まるが孫の願得寺顕悟および町人63名が処刑され本願寺町奉行に任じられた下間頼廉が事態を収拾 / 黒田官兵衛が家督を嫡子長政に譲り隠居(秀吉が自身没後の天下は官兵衛が獲ると語った由を伝え聞いた官兵衛が粛清を予見して即時引退を決意したという)、官兵衛は軍師留任を命じられて畿内に留まり豊前中津の領地経営は長政に託される / [摺上原の戦い]出羽米沢城主伊達政宗が兵2万を率いて蘆名義広(佐竹義重の次男)襲封で揺れる蘆名領へ侵攻し猪苗代盛国の寝返りを誘って猪苗代城を占拠、近郊の摺上原で決戦を挑むと反佐竹派の富田氏実の戦線離脱で蘆名勢は瓦解し5千余の戦死者を出す惨敗、義広は佐竹領へ奔り戦国大名蘆名氏は滅亡、蘆名領を併呑し会津黒川城に入った政宗は結城義親・石川昭光・岩城常隆ら佐竹方諸豪を降伏させ反抗した叔母阿南の方の二階堂氏を滅ぼして会津四郡・仙道七郡を平定し北方の大崎・葛西氏も掌握、南奥羽を征し150万石の太守となった政宗は父祖譲りの巧みな外交を展開し豊臣秀吉・豊臣秀次・前田利家・浅野長政・徳川家康らの機嫌を取結びつつ秀吉の惣無事令を無視して周辺所豪族を片端から攻め潰し北条氏政にも通じて佐竹義重挟撃に策動、一方の佐竹義重は伊達・北条からの南北挟撃の危機に晒され豊臣秀吉に助けを求める(嫡子佐竹義宣に家督を譲るが実権は保持) / 豊臣秀吉の側室茶々(浅井長政・市の長女)が嫡子鶴松を出産、茶々は褒美に山城淀城を与えられ「淀殿(淀の方)」と称される / [太閤検地]豊臣秀吉政権が全国各地の検地を開始(石田三成が主導) / [名胡桃城事件]北条氏直の上洛を促す豊臣秀吉が懸案の沼田問題を裁定し真田昌幸に上杉への引渡しを命じるが、昌幸の懇願を容れて利根川西域と名胡桃城を真田に残したことが禍根となり、北条家臣の沼田城代猪俣邦憲が真田家臣の名胡桃城代鈴木重則を騙して城を奪取、鈴木は自害し昌幸は秀吉に強訴、激怒した秀吉は北条の言逃れを許さず小田原征伐を号令 / [天草一揆]小西行長から宇土城普請の手伝いを命じられた志岐城主志岐林専・本土城主天草伊豆守ら天草国人が反旗、攻めあぐねた行長が講和を講じるなか兵1万を率いて熊本城から乗込んだ加藤清正は一騎打ちで敵将木山弾正を斃して一揆を鎮圧、無骨な清正と商人出身で要領の良い行長との反目が始まる
1600年 蘭船リーフデ号が豊後佐志生に漂着、乗組員のヤン・ヨーステン(八重洲の由来)とウィリアム・アダムス(三浦按針)を徳川家康が家臣にする / [庄内の乱]豊臣秀吉の手先となって都城8万石を与えられた伊集院忠棟に島津家中の不満が高まり島津義久・義弘の意を汲んだ島津忠恒(義弘の後嗣)が忠棟を斬殺、忠恒は高雄山神護寺で謹慎するが徳川家康に赦免され、追詰められた嫡子伊集院忠真が肥後の加藤清正・日向佐土原の伊東祐兵に内通して謀反、忠恒は大軍で都城を囲むが攻めあぐね家康の仲裁で和睦、忠真は頴娃1万石へ減転封・都城へは旧主北郷氏が復帰して1年に及んだ島津家内乱は終結(2年後に忠恒は忠真を暗殺し伊集院氏を滅ぼす) / 井伊直政の策動により黒田長政が蜂須賀小六の娘糸姫を離縁して徳川家康の養女栄姫(実父は信濃高遠城主保科正直)と結婚・旗幟を鮮明にした長政は小早川秀秋ら豊臣恩顧大名や吉川広家ら毛利家重臣を東軍へ勧誘、直政は京極高次(淀殿の妹初の婿)・加藤貞泰・稲葉貞通(一鉄の嫡子)・関一政・相良頼房ら豊臣賜姓大名の調略も成功させる / [会津征伐]石田三成と直江兼続の密謀により会津120万石の上杉景勝が徳川家康の上洛命令を拒否し兼続は「直江状」で家康を挑発、家康は三成を誘うため敢えて計略に嵌り豊臣秀頼の命を得て諸将を従え上杉征伐に乗出す / 石田三成が毛利輝元を総大将に担ぎ徳川家康征伐を宣言、在京阪の諸大名の妻子を人質とするが細川忠興の正室ガラシャの自害などで撤回、伏見城の守将鳥居元忠を血祭りにあげ(島津義弘は伏見城に馳せ参じるが警戒する元忠に拒否され已む無く西軍に加盟、小早川秀秋の長兄木下勝俊は元忠を見捨てて敵前逃亡)、輝元は豊臣秀頼を守って大阪城に陣取り(毛利勢は毛利秀元・吉川広家・小早川秀秋・安国寺恵瓊が率いて出陣)三成率いる西軍主力は東軍迎撃の拠点美濃大垣城に入り織田秀信(信長の嫡孫三法師)の岐阜城を調略 / [小山評定]石田三成挙兵の報を受けた徳川家康が上総小山陣の評定で西軍打倒を宣言、黒田長政の根回しにより福島正則をはじめ豊臣恩顧大名が挙って賛同(加藤清正は熊本に在国。山内一豊は真先に掛川城提供を申し出ただけの功で関ヶ原合戦後に土佐20万石へ3倍加増)、会津征伐軍はそのまま東軍となり上杉・佐竹の抑えに宇都宮城に結城秀康の軍勢を残して大阪城の豊臣秀頼救出へ転進、岐阜城落城の報を受けた家康は江戸城を出陣し3万3千を率いて東海道を・秀忠率いる3万8千は中山道をとって前線拠点の名古屋城へ進軍、会津の直江兼続は追撃を説くが上杉景勝の拒絶で家康打倒の好機を逃し兵3万を率いて北の最上義光を攻める / [第二次上田合戦]会津征伐途上の天明宿(佐野)で石田三成の書状を受取った真田昌幸が甲斐・信濃二国進呈の餌に釣られて次男真田信繁(幸村、大谷吉継の娘婿)と共に西軍に加盟、兵2千5百で信濃上田城に籠城し徳川秀忠軍3万8千を足止めして関ヶ原合戦に遅参させる大功を挙げるが西軍大敗で目論みは瓦解(功に逸る秀忠は榊原康政・本多正信の諫止を聞かず大事の前の小事に固執、激怒・失望した家康は秀忠の廃嫡を考える)、東軍に属した嫡子真田信之(妻は本多忠勝の娘で家康養女の小松姫。昌幸領に3万石を加増され上田藩9万5千石を得る)の必死の嘆願で昌幸・信繁は辛くも助命され高野山へ追放される / [関ヶ原の戦い]石田三成の西軍が美濃大垣城から野戦に誘い出され関ヶ原で徳川家康率いる東軍を迎撃、西軍は兵数と布陣で有利な状況ながら吉川広家に抑えられた毛利勢の不戦と小早川秀秋の寝返りで大敗、大谷吉継(享年42)は戦死、石田三成(41)・小西行長(同43)・安国寺恵瓊(同62)は京都六条河原にて斬首、西軍主力の宇喜多秀家は改易のうえ八丈島に流罪、西軍総大将毛利輝元は偽りの領国安堵に釣られ鉄壁の大阪城を明け渡すが120万石から防長36万石へ大減封、上杉景勝は陸奥会津120万石から出羽米沢30万石へ減転封、佐竹義宣は常陸54万石から出羽久保田20万石へ減転封、島津義弘は家康の平定優先政策により辛くも免責、逆に最大加増者は毛利・小早川調略を担った黒田長政で豊前中津12万石から筑前福岡52万石へ加転封、漁夫の利で天下獲りを狙った黒田官兵衛は封土恩賞を辞退し筑前で悠々自適に余生を送る / 井伊直政と娘婿の松平忠吉(家康の四男)が先鋒の福島正則を出抜き関ヶ原の戦いが開戦すると直政・黒田長政に篭絡された小早川秀秋・吉川広家の寝返りで東軍が完勝、直政は「島津の退き口」で負った鉄砲傷を悪化させながら戦後処理に奔走・周章狼狽する毛利輝元を本領安堵の偽約で大阪城から追出し、長宗我部盛親の改易処理と山内一豊の土佐入封支援、島津義弘との和平交渉、真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子の助命工作を主導、更に徳川家康の世子問題で娘婿の忠吉を後援する
 / 越前北ノ庄15万石への減転封で石田三成を憎み筑前名島30万7千石への復帰で徳川家康に感謝する小早川秀秋(豊臣秀吉の正室高台院の甥で小早川隆景の養嗣子)が黒田長政を通じて東軍へ内応、関ヶ原南西の松尾山に陣取り戦闘を傍観するが家康の威嚇射撃で腰を上げ大谷吉継の陣を横撃(先鋒の松野重元は不義に怒って戦線離脱)、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の寝返りを誘発して大谷隊を撃滅し吉継は秀秋に「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と叫んで自害、南宮山の毛利勢は吉川広家の寝返りで参戦せず、家康は本隊投入で総攻撃を掛け宇喜多秀家・石田三成を破り西軍は潰走、小早川秀秋は宇喜多旧領の備前岡山藩55万石に栄転するが祟りに怯えて発狂・寝返りを主導した重臣の稲葉正成(妻の春日局が徳川家光の乳母となり譜代大名稲葉家と堀田家の祖となる)・平岡頼勝は出奔し諫言した杉原重政を誅殺 / 関ヶ原合戦で西軍最大兵力を率いて石田三成・大谷吉継と共に奮戦した宇喜多秀家が小早川秀秋と刺違えようとするが明石全登(後に大坂陣で戦没)に制止され已む無く逃走、伊吹山中で落ち武者狩りに情をかけられ変装して海路西向し薩摩藩主島津義弘に匿われる、秀家の備前岡山城57万4千石は改易され秀秋が入封 / [島津の退き口]西軍に属しつつも関ヶ原合戦を傍観した島津義弘が手勢(300人とも1500人とも)を率いて敵陣中央への強行突破を敢行、福島正則・小早川秀秋の陣を抜いて徳川家康の本陣前で転進すると追撃に出た井伊直政・本多忠勝・松平忠吉を「捨て奸」戦法で撃退(直政は鉄砲弾を受けて落馬し2年後に死去)、80名に減じながらも戦線を離脱した義弘一行は大和三輪山平等寺でほとぼりを冷まし難波津から海路薩摩へ帰還西軍に属して近江大津城を落とし守将に就いていた立花宗茂が撤退、大阪城に入って総大将の毛利輝元と増田長盛らに籠城抗戦を説くが容れられず憤慨して筑後柳川へ帰還(薩摩へ戻る島津義弘と同船)、武備恭順策を採った島津義久・義弘は和平工作に励む一方で軍備増強を図り徳川家の明貿易船2隻を撃沈、内乱終息を優先する徳川家康は「西軍参陣は義弘の私闘」と断じて島津氏はお咎めなし、島津忠恒(義弘の次男)が薩摩藩56万石の初代藩主に就任 / 西軍に属して近江大津城を落とし守将に就いていた立花宗茂が撤退、大阪城に入って総大将の毛利輝元と増田長盛らに籠城抗戦を説くが容れられず憤慨して筑後柳川へ帰還(薩摩へ戻る島津義弘の船団と豊後まで同航)、逸早く投降し徳川家康から立花征伐を命じられた鍋島直茂軍を撃退するも黒田官兵衛・加藤清正の大軍が来襲し君臣全員の助命を条件に降伏、宗茂は清正から肥後玉名郡高瀬に住居を与えられ1万石を支給される(ァ千代一派も肥後に引取られたが同郡腹赤村に別居) / 小早川秀秋(隆景の養嗣子)が突如西軍に襲い掛かり吉川広家(元春の後嗣)が毛利秀元(輝元の養子)の参戦を遮ったため西軍は関ヶ原合戦で完敗、西軍総大将の毛利輝元は豊臣秀頼を擁し鉄壁の大阪城に陣取りながら周章狼狽し立花宗茂や毛利秀元の主戦論を退けて降伏開城、広家は開戦前に黒田長政・福島正則を通じて本多忠勝・井伊直政から本領安堵の起請文を得ており大阪城開城に際しても念押しの書状を受領したが反故にされ徳川家康は毛利家の取潰しと広家への周防・長門付与を通告するが最終的に輝元嫡子の毛利秀就に防長36万石の領有を承認(輝元は隠居するが実権は保持)、功労者の広家には岩国城3万石を立てさせるが毛利家では幕末まで支藩扱いされず、小早川秀秋は筑前名島30万7千石から宇喜多秀家旧領の岡山藩55万石へ増転封されるが祟りに怯え2年後に発狂死し無嗣改易 / 関ヶ原の戦いで石田三成に加担しながら豊臣秀頼の出陣や墨付きなどは許さず傍観の態を装った淀殿が感謝をもって徳川家康を大阪城へ迎え入れるが豊臣家は蔵入地を没収され大坂城65万石の一大名に没落、太閤秀吉の遺命にしがみつく淀殿は秀頼の上洛・臣従要求を「そんなことをするなら秀頼を殺して自害する」と感情的に拒絶し破滅へと突き進む / 井伊直政に内応しつつ美濃大垣城に詰めた相良頼房・犬童頼安が秋月種長・高橋元種兄弟と共に東軍へ寝返り守将の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直・木村由信らを謀殺、相良は肥後人吉藩2万石・秋月は高鍋藩3万石・高橋は日向延岡藩5万石を安堵される(相良藩・秋月藩は幕末まで存続) / 関ヶ原合戦の漁夫の利を狙う黒田官兵衛が豊前中津で雑兵1万を掻き集めて挙兵、毛利輝元が派遣した大友義統(朝鮮出兵の敵前逃亡で改易された宗麟嫡子)の軍勢を別府石垣原の戦いで破り、怒涛の進撃で九州北半を制圧、立花宗茂・鍋島直茂・加藤清正を加えた4万の大軍で島津征伐に乗り込むが、予期せぬ西軍惨敗と毛利輝元の大阪城退去で早々に徳川家康の天下が固まり、家康と島津義久の和議成って肥後水俣で停戦命令を受け天下争覇の夢破れる
 / [慶長出羽合戦]会津征伐軍の上方転戦により最前線で孤立した最上義光領に上杉景勝・小野寺義道が侵攻、直江兼続率いる圧倒的軍勢を相手に江口光清の畑谷城は玉砕陥落するが長谷堂城の志村光安と鮭延秀綱・上山城の里見民部・湯沢城の楯岡満茂らは猛攻を凌ぎ、東軍勝利の報を得た伊達政宗・南部利直の助勢を得て上杉軍を撃退、義光は兜に被弾しつつも先頭切って上杉軍を追撃し十五里ヶ原の戦いで上杉に奪われた庄内を奪還(兼続は前田慶次郎らの奮闘で鮮やか撤退戦を演じ家康・義光からも賞賛される)、義光は徳川家康から孤軍奮闘の功を賞され出羽山形城主24万石に庄内等を併せ57万石へ大加増、義光は山形城・城下町の整備と商業奨励、酒田港へ通じる街道・水運の整備、治水工事と開墾等の産業振興に尽力 / 前田慶次郎利益(前田利家の義甥)が上杉景勝に1千石で出仕し(三本の大根を持参し「この大根のように見かけはむさ苦しいが、噛みば噛むほど滋味の出る拙者でござる」と述べたという伝説あり)慶長出羽合戦・長谷堂城の戦いで武功を立てる(慶次郎は図々しくも「だいぶへんもの(大武辺者)」の旗指物で出陣し反発した上杉家臣を「大分変者」と煙に巻くが合戦では単騎最上勢に乗入れを睨み帰したという伝説あり)、慶次郎は陸奥会津120万石から出羽米沢藩30万石へ大減封された上杉景勝に従って米沢藩士となり郊外の堂森(慶次清水)に隠棲し古典研究や和歌・連歌に遊ぶ自適の余生を送る / 伊達政宗が徳川家康から得た「百万石のお墨付」を既成事実化するため西軍諸大名を攻撃、直江兼続率いる上杉軍が最上義光領へ侵攻すると援軍を送って刈田郡湯原城を攻略し北方の南部利直領内で一揆を扇動、上杉軍が撤退すると自ら出陣し南進するが本庄繁長の福島城を落とせず家康の叱責により渋々矛を収め撤収、戦後若干の加増を受けて62万石の封地が確定し岩出山城南方13里の千代に新本拠の造営を開始(仙台へ改名) / 東軍に属して九州で戦い宿敵小西行長の宇土城・八代城を攻落とした加藤清正(肥後熊本城25万石)が小西領を併せて肥後一国54万石に加増され熊本城の大改築に着工(6年後に完成し隈本から熊本へ改名)、朝鮮式築城術に範を取ったよじ登れない「はねだし」の石垣が注目され築城名人と賞される(明治維新後の西南戦争で鎮台の置かれた熊本城は西郷隆盛軍の猛攻に遭うが崩されず) / 豊臣恩顧大名のなかで真先に徳川家康に帰服して武断派大名の懐柔に奔走し関ヶ原合戦では脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保らの寝返工作を担った伊予宇和島城主の藤堂高虎が伊予今治12万石を加増され(合計20万石)外様ながら譜代大名格の厚遇を受ける、高虎は4年後に今治城を築き居城を移転 
1601年 上杉景勝・直江兼続が上洛して徳川家康に陳謝し改易は免れるも陸奥会津120万石から出羽米沢藩30万石(置賜・信夫・伊達3郡)へ減転封、「不識庵」上杉謙信以来の格調を保つため家臣団圧縮を控えた米沢藩の財政は逼迫し兼続は治水・開墾・殖産興業に注力(日本屈指の貧乏藩と揶揄され続けるが名君上杉鷹山の藩政改革で汚名返上) / 徳川家康が全国規模の幕藩体制を見据え譜代大名の領地を再編、関ヶ原で戦功を挙げた井伊直政(家康の娘婿)は上野高崎城12万石から近江佐和山城18万石(のち彦根城へ移動)・本多忠勝は上総大多喜10万石から伊勢桑名10万石(次男の本多忠朝が大多喜5万石を承継)へ移封、関ヶ原遅参の徳川秀忠隊に属した榊原康政は上野館林城10万石・本多正信は相模玉縄1万石に据置き、秀忠側近の大久保忠隣は上野高崎13万石を固辞し相模小田原6万5千石に留任 / 大和で西軍大名の諜報蒐集に任じ関ヶ原合戦でも活躍した柳生宗矩(宗厳の末子)が旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に就任、同役の小野忠明(小野派一刀流)は当時最強の剣豪ながら無骨で強弱に固執する余り秀忠に嫌われ退けられる / [天下二分の誓約](年次不祥)上泉伊勢守信綱の門下筆頭を自負する丸目蔵人長恵(肥後相良藩士)が新陰流正嫡を称し将軍家兵法指南役に就いた柳生宗矩(宗厳の末子)に張合い決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と謝辞し徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い鉄砲で射殺したとも伝えられる)、長恵は娘婿の八左衛門にタイ捨流と家督を譲って隠居し球磨郡切原野(錦町)で開墾に勤しむ / 関ヶ原合戦で毛利輝元家臣の村上元吉・景親(武吉の子)が毛利水軍を率いて蜂須賀家政の阿波猪山城を攻落とし加藤嘉明の伊予松前城を攻めるが佃十成の夜襲で元吉が落命し(三津浜夜襲)景親は細川忠興や池田輝政の招聘を断って毛利家に残留するが長州藩船手組組頭の微役で生涯を終える(元吉・景親の能島村上氏は因島村上氏と共に同職を世襲)、西軍に属した来島長親(来島通総の嫡子)は伊予風早郡1万4千石を没収されるが福島正則の取成しで赦され山間の豊後森藩1万4千石を与えられ大名に復帰(来島村上水軍は解体されるが子孫は久留島へ改姓し幕末まで森藩を保つ)
1602年 徳川家康に属しガラシャ夫人を殺されつつも関ヶ原合戦で奮闘した細川忠興が丹後宮津12万石から豊前中津33万9千石へ加転封され(豊後杵築6万石と併せ39万9千石)黒田官兵衛が築いた中津城から新築の小倉城へ藩庁を移動、忠興は家康に忠誠を示すため嫡子忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため勘当・廃嫡、父の細川藤孝は京都吉田の隠居所で悠悠自適の文芸生活に入る / 西軍加盟を疑われ釈明に奔走する佐竹義宣が大阪城で豊臣秀頼と伏見城で徳川家康に謁見するが常陸水戸54万石から出羽秋田20万石への国替え命令、仕置に反抗し水戸城奪還を企てた車斯忠を処刑し秋田土崎湊城へ入った義宣は角館城・横手城・大館城を整備し(3年後に本城を新築の久保田城へ移動)渋江政光・梅津政景ら能吏を登用して開墾を推進(義宣は浪人あがりの渋江の家老就任に反抗した川井忠遠ら旧臣を誅殺) / 武田遺臣の精鋭と「赤備え」を継いで武功を重ね武田の精鋭と「赤備え」を率いた「徳川四天王」の出世頭にして家康の外交を担い関ヶ原の戦いで寝返り工作を決めた井伊直政が「島津の退き口」で受けた鉄砲傷が元で死去(享年41)、近江佐和山藩18万石を継いだ次男井伊直孝は将軍徳川秀忠・家光の信任を得て大政参与に補され譜代筆頭彦根藩30万石(35万石格)を確立 / 豊臣家の強大な財力削減を目論む徳川家康の勧めに乗せられた淀殿・豊臣秀頼が秀吉の追善供養のため畿内の寺社修築に散財、再建途中の方広寺大仏・大仏殿が失火により焼失 / 立花宗茂が共回り19人を従えて肥後を出奔(小野和泉以下の家臣は肥後に留まり加藤清正の家臣となる。間もなく別居の妻ァ千代は病没)、乞食・虚無僧や人夫働きで家臣に養われつつも加賀藩主前田利長(利家後嗣)からの10万石での招聘を「腰抜けの分際で生意気申すな」と撥ね付けたが、京都から江戸高田宝祥寺へ移動すると尺八吹きで托鉢をしていた十時摂津が狼藉者3人を斬捨てた事件が将軍徳川家忠の耳に届き1604年5千石の相伴衆に取立てられ、2年後に奥州棚倉藩1万石で大名に復活し大坂陣で活躍、1620年10万9千石で筑後柳川藩主に返咲く(宗茂に従って武功を挙げた実弟の立花直次は筑後三池藩1万石を立藩) / 徳川家康が本多正信(かつて三河一向一揆を主導し徳川家を出奔)の献策により一向一揆の復活を阻むべく京都烏丸六条に顕如の嫡子教如を法主とする東本願寺を創建、三弟准如を擁する京都堀川六条の西本願寺との間に現在まで続く泥仕合が始まる(下間頼廉の刑部卿家は西本願寺に仕えるが孫の下間頼良は東本願寺支持に廻る) / 関ヶ原合戦の寝返りで備前岡山藩55万石に栄転するも祟りに怯えて発狂し家臣団に見放された小早川秀秋が突然死(享年21)、毛利元就の三男隆景が興し五大老の格式を誇った小早川家は徳川政権初の無嗣改易となり関白豊臣秀次・秀勝・秀保兄弟(秀吉の姉日秀の子)に続く秀秋(高台院の甥)の滅亡で豊臣一門大名は宗家秀頼を除いて消滅(高台院の実家木下家と養家浅野家は大名として存続、秀秋を見限り出奔した稲葉正成は前妻の春日局が徳川家光の乳母となり実子の堀田正盛と共に譜代大名に引き立てられる)、岡山藩には姫路藩主池田輝政(徳川家康の娘婿)の次男忠継が28万石で入封
1626年 本願寺顕如に軍権を託され11年に及ぶ石山合戦を凌ぎ切り散々に織田信長を苦しめたが降伏後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った下間頼廉が死去(享年89)、子孫の刑部卿家は西本願寺坊官を世襲し繁栄 / 柳生十兵衞三厳(宗矩の嫡子)が将軍徳川家光の勘気を蒙り蟄居を命じられ(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、隠密任務の隠蔽とも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が小姓出仕、大和柳生に戻った十兵衞は上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿って新陰流研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成(柳生利厳に倣い武者修行に出て山賊退治や剣豪との仕合に励んだともいうが真偽不明)
1627年 伊予松山藩20万石の加藤嘉明が会津藩40万石へ栄進、娘婿で下野烏山藩2万800石の松下重綱(柳生十兵衞の伯父)は加藤家与力として陸奥二本松藩5万石へ増転封となるが間もなく病没し後嗣の松下長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移される
1629年 勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した丸目蔵人長恵が死去(享年89)  
交友 
丸目与三右衛門 / 父
丸目寿斎 / 弟・門弟
丸目頼蔵 / 弟
丸目吉兵衛 / 弟・門弟
丸目権内 / 早世した嫡子
丸目半十郎 / 暗殺した次男
丸目(山本)八左衛門 / 家督を継がせた娘婿
木野九郎右衛門 / 門弟
有瀬外記 / 門弟
紙瀬軍助 / 門弟
相良晴広 / 肥後人吉城主・主君
相良義陽 / 島津に降った晴広嫡子
相良忠房 / 早世した義陽嫡子
相良頼房 / 生延びて人吉藩主となった義陽次男
相良頼寛 / 頼房嫡子
相良長誠 / 義陽三男
東伊勢守 / 薩摩大口城守将
菱刈重任 / 謀反死した義陽重臣
上村頼孝 / 謀反死した義陽重臣
犬童頼安 / 相良家重臣
犬童頼兄 / 頼安嫡子
深水長智 / 相良家重臣
深水頼蔵 / 長智養嗣子
竹下監物 / 深水一族・犬童頼兄との政争に敗れ切腹
天草伊豆守 / 肥後本渡城主・兵法の師
愛洲移香斎久忠 / 陰流創始者
上泉伊勢守信綱 / 移香斎門人で新陰流を興した剣聖・塚原卜伝にも学ぶ
疋田景兼 / 上泉伊勢守門人で疋田流の祖
神後伊豆守宗治 / 上泉伊勢守門人で神後流の祖
奥山休賀斎公重 / 上泉伊勢守門人で神影流(真新陰流)の祖・徳川家康の師
穴沢浄賢 / 上泉伊勢守門人で穴沢流の祖
宝蔵院胤栄 / 上泉伊勢守門人で宝蔵院流槍術の祖
柳生石舟斎宗厳 / 上泉伊勢守門人で柳生新陰流の祖
柳生但馬守宗矩 / 将軍徳川家光の兵法指南役に採用され柳生藩主となった宗厳末子・江戸柳生の祖
柳生十兵衞三厳 / 天衣無縫の宗矩長子
柳生宗冬 / 大名に復帰した宗矩三男
柳生兵庫守利厳 / 宗厳長子厳勝の次男・尾張徳川家の兵法指南役に採用された尾張柳生の祖
阿蘇惟将 / 肥後阿蘇領主
阿蘇惟種 / 惟将弟
阿蘇惟光 / 島津に滅ぼされた惟種遺児
甲斐宗運 / 阿蘇家領袖
島津忠良 / 島津中興の祖
島津貴久 / 忠良嫡子
島津義久 / 貴久嫡子
島津義弘 / 貴久次男
島津歳久 / 貴久三男
島津家久 / 貴久四男
島津忠恒 / 島津本家を継いだ義弘次男
島津実久 / 薩州家当主
島津義虎 / 実久嫡子
伊集院忠棟 / 秀吉派島津重臣
伊東義祐 / 島津に滅ぼされた日向国主
伊東祐兵 / 初代飫肥藩主に返り咲いた義祐嫡子
大友宗麟 / 島津に追詰められた名門大名
大友義統 / 自滅した宗麟愚息
立花道雪 / 大友家の柱石
立花宗茂 / 大友家の勇将・紹運実子で道雪養子・タイ捨流門人
高橋紹運 / 見事玉砕した大友重臣
蒲池鑑広 / タイ捨流門人
龍造寺隆信 / 島津に滅ぼされた肥前の熊
龍造寺家政 / 島津に降った隆信嫡子
龍造寺高房 / 直茂に乗取られた家政嫡子
鍋島直茂 / 龍造寺家を簒奪した智将
大村純忠 / 長崎のキリシタン大名
有馬晴信 / 天草領主
志岐林専 / 天草国人
織田信長 / 最初の天下人
豊臣秀吉 / 織田家簒奪者
佐々成政 / 肥後国人一揆で切腹
加藤清正 / 秀吉又従兄弟の肥後熊本城主
小西行長 / 秀吉子飼いの肥後宇土城主
飯篠長威斎家直 / 天真正伝香取神道流・道術兵法の創始者
塚原卜伝 / 神道流継承者で新当流創始者
根岸兎角之助 / 塚原卜伝高弟(微塵流)
斎藤伝鬼坊 / 塚原卜伝高弟(天道流)
師岡一羽 / 塚原卜伝高弟
神取新十郎 / 塚原卜伝高弟で柳生宗厳の師
足利義輝 / 塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」を授かった剣豪将軍
細川藤孝 / 旧室町幕臣・塚原卜伝門人でもある茶人大名
北畠具教 / 塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」を授かった伊勢国司
竹中半兵衛 / 飯篠門人の豊臣秀吉軍師
真壁氏幹 / 飯篠・塚原門人の佐竹義重重臣「鬼真壁」
東郷重位 / 神道流から薩摩示現流を創始
中条兵庫頭長秀 / 中条流創始者
富田勢源 / 中条流継承者(富田流)
富田景政 / 中条流と富田家を継いだ勢源弟
富田重政 / 名人越後・加賀前田利家で1万3千石の知行を得た景政養嗣子
戸田一刀斎 / 景政高弟で伊東一刀斎・柳生宗厳の師
山崎左近将監 / 富田一族・山崎流開祖
長谷川宗喜 / 景政高弟・長谷川開祖
佐々木小次郎 / 勢源門人で巌流を興すが宮本武蔵に敗北
伊東一刀斎景久 / 中条流から一刀流を創始した天才剣士
小野忠明(神子上典膳) / 徳川秀忠の兵法指南役に採用された一刀流継承者
小野忠常 / (小野派)一刀流を継いだ忠明後嗣
伊藤忠也 / 伊藤派一刀流を分派した小野忠明弟
古藤田俊直 / 北条氏遺臣・唯心一刀流を興した伊東一刀斎高弟
宮本武蔵 / 円明流(二天一流)を興した野獣剣士
徳川家康 / 神影流・新当流・一刀流を修めた剣豪将軍
徳川秀忠 / 小野忠明・柳生宗矩を兵法指南役に任じた2代将軍
徳川家光 / 柳生但馬守宗矩を重用した3代将軍  
 
丸目長恵諸話

 

1
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
2
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
3
柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
4
柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
5
古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。 
6
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
7
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
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伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
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佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
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宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
10
島津義弘は、薩摩・大隅を切り従え日向の伊東義祐・肥後の相良義陽・肥前の龍造寺隆信を滅ぼし大友宗麟を追詰めた島津四兄弟の次男坊、九州制覇の野望は豊臣秀吉に破られたが、朝鮮役泗川の戦い・関ヶ原「島津の退き口」で勇名を馳せた西国最強武将である。島津勝久から島津宗家と薩摩・大隅守護職を奪った島津貴久の次男で、兄義久が家督を継ぐと日向方面を受け持ち伊東義祐の猛攻を凌いだ。1572年貴久の死に乗じて伊東の精兵3千が飯野城を急襲、雑兵300で迎え撃った島津義弘は「釣り野伏せ」戦法で「九州の桶狭間」に快勝(木崎原の戦い)、南九州に武威を轟かせると、翌年長年争った肝付氏らが降伏して島津氏は薩摩・大隅を平定した。1577年伊東義祐を追出して三州統一を達成(伊東崩れ)、翌年大友宗麟の大軍が日向に来襲したが島津義久・家久が撃退(耳川の戦い)、多くの武将を討取られた名門大友氏は骨抜きとなった。矛先を九州西辺に転じた島津軍は、1581年肥後人吉城主の相良義陽を降伏させ、1584年大友氏から独立した龍造寺隆信を攻撃、島原城主有馬晴信の救援に兵3千で乗込んだ島津家久は2万5千の龍造寺軍を湿地帯に誘い入れて殲滅(沖田畷の戦い)、隆信以下重臣悉くを討取る大勝利で肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前を奪取、義弘が阿蘇氏を降して肥後も掌中にした。1586年島津氏は総仕上げの大友征伐を開始、筑前・筑後の義久軍は立花宗茂に苦戦したが、肥後から義弘・日向から家久が本拠の豊後へ侵攻、豊臣秀吉の援軍2万を敵失と「釣り野伏せ」で撃退し府内城を落として宗麟を臼杵城に追詰めた(戸次川の戦い)。しかし翌年、徳川家康を従えた豊臣秀吉が九州征伐を号令、20万余の大軍を前に諸豪は悉く秀吉に靡き、島津軍は日向へ退いて決戦を挑むも敗北(根白坂の戦い)、義弘は徹底抗戦を主張したが当主義久は降伏を選び、島津氏は薩摩・大隅などの本領を安堵された。義久から当主を継いだ島津義弘は、梅北一揆・庄内の乱で家臣を引締め朝鮮出兵で大活躍、西軍に参陣した関ヶ原合戦では敵陣強行突破で武名を上げ、戦後の難局を武備恭順策で乗切り薩摩藩56万石を子の島津忠恒に譲り渡した。 
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島津家久は、「釣り野伏せ」を駆使して耳川・沖田畷・戸次川の戦いで芸術的快勝を収め龍造寺隆信はじめ名立たる武将を討取った戦国随一の野戦指揮官である。島津貴久の四男だが妾腹のため嫡出の兄義久・義弘・歳久とは別扱いで育ち、発奮して武芸軍略を磨き15歳の初陣で敵将工藤隠岐守を鑓合せで討取る活躍、祖父島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と嘱目された。1570年肥後人吉城主相良義陽から大口城を奪回して薩摩平定へ導き、1578年北部九州の支配者大友宗麟が日向に押寄せると、田原親賢率いる3万余の大軍を迎え撃ち田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛を含む3千名を討取る完勝、島津氏は南九州の覇権を確立した(耳川の戦い)。敗走を装って囮部隊を退却させ追走する敵を伏兵の鉄砲攻撃で包囲殲滅する「釣り野伏せ」は家久のお家芸となった。深手を負った大友氏が衰退すると、被官の肥前国主龍造寺隆信が台頭し盛んに大友領を侵食したが、過酷な国人統治に離反が相次ぎ島原城主有馬晴信が島津氏へ寝返り、決戦を決意した隆信は大軍(2万5千とも6万とも)を率いて島原へ侵攻した。肥後・日向戦線で手一杯の島津義久は取り急ぎ島津家久の先発隊(3千とも)を派遣、圧倒的劣勢ながら撃滅を企図する家久は敵を湿地帯に誘い込んで鉄砲隊で急襲、大混乱に陥った龍造寺軍を撫で斬りにし龍造寺隆信・康房兄弟に成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直を討取る奇跡的勝利を収め(沖田畷の戦い)、後継の龍造寺政家を降伏させて肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前を奪取した。1586年島津氏が総力挙げて大友討伐に乗出すと、宗麟の哀訴に応じた豊臣秀吉は長宗我部元親率いる先発隊2万を派遣し、日向から豊後へ向かう島津家久軍1万3千は戸次川で対峙、軍監仙石秀久が無謀な冬季渡川で戦端を開くと家久は鮮やかに「釣り野伏せ」を決め、壊走する敵を殲滅して長宗我部信親・十河存保を討取った。が、20万余に膨れ上がった秀吉軍には成す術無く、日向佐土原城に退いて逸早く降伏、九州征伐の顛末を見ることなく病没した。
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大友宗麟(義鎮)は、父を謀殺して家督を奪い、宿敵大内氏の滅亡に乗じ立花道雪の活躍で豊後・筑後・肥後・豊前・筑前・肥前の6ヶ国を支配したが、享楽と宗教に溺れ耳川の惨敗で運命が暗転、龍造寺隆信に領土を侵食され島津義久に追詰められて滅亡寸前、豊臣秀吉に救われ豊後一国を保つも愚息義統が自滅・改易された九州一の名門大名である。豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に生れ、21歳のとき廃嫡を企てた父を弟諸共に謀殺して家督を奪取(二階崩れの変)、翌1551年に陶晴賢の謀反で大内義隆が滅ぼされると(大寧寺の変)、弟の義長(義隆の甥)を大内家の傀儡当主に差出して陶と同盟し筑前・豊前を獲得、龍造寺隆信・菊池義武(叔父)ら反抗勢力を討平して肥前・肥後も制圧し、小原鑑元・秋月文種らを討って毛利元就の侵入を防いだ。絶頂の大友宗麟は見境無い女漁り(人妻強奪も)と享楽生活に耽って家臣の離反を招き、1562年門司城奪還戦で小早川隆景に大敗、1567年筑前の秋月種実・高橋鑑種・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種が反旗を掲げた。1569年山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱策と立花道雪の奮闘で毛利軍を九州から追出し、離反した龍造寺隆信を大軍で攻めるも大敗して肥前を奪われ(今山の戦い)、1578年伊東義祐の哀願に応じて日向を攻めるも島津義久・家久の「釣り野伏せ」にかかって壊滅的敗北を喫し田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を失い(耳川の戦い)、龍造寺に漁夫の利をさらわれて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで侵食された。耳川合戦直前に改宗した大友宗麟はキリスト教国建設を掲げて行軍中に寺社を破壊、祟りに怯える大友軍の戦意は乏しかった。1584年沖田畷の戦いで龍造寺を斃した島津の大軍が大友領に殺到、大黒柱の立花道雪を病で喪い、岩屋城の高橋紹運は玉砕、立花宗茂の孤軍奮闘で辛うじて筑前を防衛したが、大友宗麟は天下人豊臣秀吉に泣きつくほかなかった。1586年長宗我部元親の先発隊は島津家久に撃退されたが(戸次川の戦い)、秀吉が兵20万余を率いて来援すると島津軍は撤退、秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟は栄枯盛衰の生涯を閉じた。
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立花道雪(戸次鑑連)は、百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱である。大友一族の戸次氏の嫡流で、13歳の初陣以来連戦連勝、1550年二階崩れの変で大友宗麟の家督相続を差配し、翌年陶晴賢の謀反で大内氏が滅亡すると筑前・筑後・肥前・肥後の反抗勢力を一掃した。45歳の道雪は落雷に斬りつけて感電し後遺症で歩行困難となったが、戦場では輿に乗って最前線で指揮を執り「雷神」と称された。1555年陶晴賢を滅ぼし防長経略を果した毛利元就が北九州に侵入、道雪は秋月文種を討って反乱を抑えたが、1562年門司城の戦いに大敗した宗麟が道雪の猛反対を抑えて和睦恭順し反大友陣営を勢いづかせた。「道の雪がその場で消えるように武士も死ぬまで一主君に忠節を尽くすべし」との決意で道雪と号し、享楽と宗教に耽る宗麟を諌め続けた。1567年毛利に通じた秋月種実・高橋鑑種らが挙兵、道雪は一族・重臣を喪う激戦の末に立花山城を攻め落とし筑前・筑後を制圧、肥前の龍造寺隆信討伐に向かうが、来援した毛利軍に立花山城を奪回され、引返した道雪が防戦するうち山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱で毛利軍を退けた。筑前・筑後の軍司令官に就いた立花道雪は、筑前守護職に補され立花氏の名跡と立花山城を承継し、高橋紹運・立花宗茂らを統率して大友領を死守した。1578年大友宗麟が道雪の制止を振り切って島津討伐に乗出すが(宗麟は道雪を従軍させず)耳川合戦で壊滅的大敗、龍造寺隆信の台頭を許し、1584年その龍造寺を斃した島津軍が大友領へ殺到、立花道雪は豊後へ長駆して宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家の援軍が撤退するなか高良山に布陣して3倍の敵軍を撃破するが、柳川攻城中に力尽き「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言して陣没した。大黒柱を喪った大友氏は滅亡寸前に追込まれたが、豊臣秀吉の九州征伐で辛うじて豊後一国を保った。
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立花宗茂(高橋統虎)は、養父立花道雪亡き後孤軍奮闘で島津氏の猛攻を凌ぎ豊臣秀吉から「西国無双」と激賞され、碧蹄館の戦いで朝鮮役屈指の武勲を挙げたが関ヶ原合戦で西軍に属し改易、放浪生活の末に筑後柳川藩主に返咲いた幸運な勇将である。大友宗麟の耳川惨敗で主家が衰亡へ向かうなか、1581年立花道雪の婿養子に迎えられて家督を継ぎ14歳で初陣、岩戸の戦いで早良城・許斐山城・龍コ城を攻め落し島津勢を追って筑後奪還の一翼を担うが、1585年大黒柱道雪の死で寝返りが相次ぎ筑前へ撤退した。翌年島津氏と国人衆の連合軍10万余が来襲、実父の高橋紹運は岩屋城で城兵763人と共に玉砕して果て、実弟高橋統増の宝満山城も降伏開城したが、立花山城の立花宗茂は詐降の計で油断を誘い豊後攻めに転じた島津軍を痛撃、原田・秋月勢を追払い星野鎮胤の高鳥居城を落として岩屋城・宝満山城も奪回、秀吉の九州征伐まで凌ぎ切って筑後柳川城13万2千石を与えられた。秀吉直臣となった立花宗茂は、肥後国人一揆を討平し朝鮮出兵に従軍、1593年李如松率いる明の大軍の侵攻で日本軍が漢城に追詰められると弱腰の宇喜多秀家・石田三成を叱咤して自ら迎撃戦の先鋒を務め小早川隆景と協力して撃退に成功(碧蹄館の戦い)、蔚山城の戦いでは加藤清正を救援して勝利に貢献した。1600年関ヶ原の戦いで西軍の近江大津城攻めに参陣し、敗戦後は大阪城の毛利輝元に籠城抗戦を説くも容れられず憤慨して柳川へ帰還、黒田官兵衛・加藤清正・鍋島直茂の大軍に攻囲されて降伏し清正に庇護された。1602年立花宗茂は共回り19人と共に肥後を出奔、乞食同然の放浪の身ながら加賀藩主前田利長からの10万石での招聘を「腰抜けの分際で生意気申すな」と撥ね付け、将軍家への仕官を求めて京都から江戸高田宝祥寺に移動、1604年虚無僧姿の十時摂津が狼藉者3人を斬捨てた事件が将軍徳川家忠の耳に届き5千石の相伴衆に取立てられ、2年後に奥州棚倉藩1万石で大名に復活し大坂陣で活躍、1620年10万9千石で筑後柳川藩主に返咲いて悠々自適の大名生活を過ごし、養嗣子忠茂に家督を譲って74歳まで長寿を保った。
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龍造寺隆信は、一族虐殺を生延びて曽祖父から家督を継ぎ大友宗麟の力添えで東肥前支配を確立、耳川合戦の漁夫の利をさらって肥前統一を果し大友領の筑前・筑後・肥後北部・東豊前を侵食するが、疑心暗鬼の国人統治で離反が相次ぎ沖田畷の戦いで島津家久に討取られた九州下剋上の第一人者である。馬場頼周の反乱で父と祖父を殺されたが曽祖父の龍造寺家兼に伴われて筑後柳川城主蒲池鑑盛に身を寄せ、家兼が復讐を果した直後に病死したため17歳で家督を相続した。周防の大内義隆に臣従して主家の少弐冬尚を追放し傀儡の本家から家督を奪ったが、1551年陶晴賢の謀反で後ろ盾の義隆を失い立花道雪の猛攻を受けて敗走、再び蒲池鑑盛に救われて2年後に肥前に帰還すると、1559年大友宗麟に帰服して旧主の少弐冬尚・千葉胤頼を攻め滅ぼし東肥前支配を確立した。1563年肥前の領袖有馬義貞・大村純忠兄弟を撃退し(丹坂峠の戦い)、1567年高橋鑑種・秋月種実の反乱に呼応して大友氏に反旗、筑前・筑後を鎮圧した立花道雪の討伐軍が来襲するも毛利軍の九州侵攻で難を逃れ、1570年宗麟率いる6万の大軍を夜襲で破り干渉を排除した(今山の戦い)。1578年宗麟が耳川の戦いで惨敗すると道雪が堅持した防衛ラインが決壊、龍造寺隆信は島原半島の大村純忠・有馬晴信を降して肥前を平定し、一気に筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏を広げ九州三強の一角に躍り出た。が、冷酷で猜疑心が強く「肥前の熊」と称された龍造寺隆信は酷薄な恐怖政治に陥り、蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の後嗣で娘婿)を族滅して柳川城を奪った暴挙を機に離反者が続出、武威を示すべく北上する島津氏に決戦を挑み有馬晴信の島原城へ攻込んだが、寡兵の島津家久に戦国史上最悪の惨敗を喫し隆信自身と龍造寺四天王全員(成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直)が討取られた(沖田畷の戦い)。嫡子の龍造寺政家は、島津氏を降した豊臣秀吉に肥前佐賀城32万石を安堵されたが、秀吉に取り入った鍋島直茂に家を乗取られ、嫡子高房が抗議の自殺を遂げた直後に死去し龍造寺の嫡流は断絶した。 
 
長谷川宗喜

 

長谷川宗喜 (はせがわむねのぶ)
生死不明? 織豊時代の剣術家。富田九郎左衛門に学び、富田流をきわめる。のち長谷川流をおこし、関白豊臣秀次(1568-95)におしえた。一説に富田景政の門下とする。別名に親員。
長谷川流 / 剣術の流派の一。天正(1573〜1592)ごろ長谷川宗喜が創始。 
『三州奇談』「怪石生雲」
・・・ 富田越後入道日源(重政)は、山崎氏にして、江州佐々木承禎の氏族である。訳あって当国の祖君利家公に仕え、山崎六左衛門と名乗って、末森城の戦いの時分も手柄を顕し、それからは毎度功を上げ、その後富田治部左衛門(景政)の婿になって、姓名を改め、次第に登用され越後守となり、一万三千五百石を拝領し、七手の旗頭のうちに入り、さらに中条流の奥義を極め。その名は夜に轟き、剣術は万人より秀で、天下無双と呼ばれて、将軍家光公のお目にかかったという。
またその門人に山崎左近・長谷川宗喜・印牧月斎という、世にも優れた妙手がいた。これを富田の三家と言う。関白秀次公の時、宗喜と疋田文五郎に兵法の勝負があり、世に名高い人である。
この山崎左近には三人の子供がいた。小右衛門・内匠・次郎兵衛という。次郎兵衛は慶長五年大聖寺の戦いの際に、一騎当千の勇ましさを顕した。
そもそも中条流の起源は、昔相州山田地智福寺に僧の慈恩という者がおり、摩利支天に夜通し祈願して得たことを、檀家中条兵庫助(長秀)に伝えて、甲斐豊前守(広景)に伝え、大橋勘解由左衛門(高能、惟房)より、富田九郎右衛門(長家)・治部左衛門(景家)に至る。
景家には二人の子がいた。兄五郎左衛門は眼病にかかり、江州一乗寺村に閑居して、薙髪し、勢源と名乗り、諸国武者修行して、世に名高い人である。 
その弟治部左衛門(景政)が家督を継いで、非常に妙手である。秀吉公の師範となる。その人には女子が二人いたが男子はいなかった。そこで門弟であった山崎六右衛門を嫡女と結婚させ、家を継がせた。これが越後守のことである。 ・・・  
 
寺尾孫之允

 

寺尾孫之允
[てらお まごのじょう、慶長16年-寛文12年(1611-1672)] 江戸時代前期の人物。剣豪宮本武蔵の肥後熊本における兵法の高弟で、武蔵が死去する正保2年(1645年)5月19日の7日前、5月12日に『独行道』とともに二天一流兵法書『五輪書』を伝授された。二天一流兵法第二代師範として孫之允が『五輪書』を相伝した弟子に、浦上十兵衛、柴任三左衛門、山本源介、槙島甚介がいる。それぞれの系統の写本が今に伝来し、武蔵の兵法の詳細を伝えている。
通称は孫之允、諱は勝信、号は夢世。通称については、子孫の系図「寺尾家系」及び『武州伝来記』『五輪書』九州大学本は「孫之允」、『独行道』『五輪書』細川家本など山本源介宛には「孫之丞」、ほかにも「孫之亟」「孫亟」とする文書もある。諱についても墓碑及び『二天記』は「勝信」であるが、『武州伝来記』『五輪書』九大本など柴任三左衛門系は「信正」、細川家本など山本源介宛写本は「勝延」、徳富家本など浦上十兵衛系は「勝政」となっている。号は「夢世(むせい)」で、諸書同じである。
『武州伝来記』
その「追加」の部に、次のように記されている。
一、二天流兵法二祖寺尾孫之允信正は、細川家の家臣たりといへども、その身は一生仕官せず、熊本の城下近邑に引篭り耕して生涯を送り、福力あつて米銭に乏しからずと云り。武州公数百人の門人より一人撰び出し伝授ありし人なり。法名夢世と号す。小兵ながら力量ありしといへり。寺尾の本家、今尚細川の家臣たり。五尺杖の仕道、信正鍛錬なり。武州公は片手にて自由せられしゆへ別段にわざはなし、信正に至り、片手にては振りがたきゆへ、仕道を付けられしと也。隅に蟠(わだかま)りたる敵、又は取篭り者等に別して利あり。これ皆中段すみのかねより事発れり。
これは寺尾孫之允に7年随仕して二天流の相伝を受けた柴任三左衛門の伝えた話である(同書)。この人物については細川家にさえ伝承がほとんどなく、その風貌と力量、生活の様子を知る唯一ともいえる貴重な史料である。誇張粉飾の様子もなく、その伝承経路から信憑性は極めて高いものと考えられ、寺尾孫之允論の基本史料となるものである。
隠棲地
《一生仕官せず、熊本の城下近邑に引篭り耕して生涯を送った》という所は、平成5年(1993年)の夏、熊本の作家長井魁一郎によって発見された墓のあった宇土市松山の五色山山麓の村と考えられる。

《表面》 寛文十二壬子年 南無阿弥陀仏 釋夢世滅度位 九月十九日
《裏面》 辭世歌 露とをきつ由ときえにしわか身かな 何盤乃事は夢の又由免 寺尾氏源勝信六十歳薨
「夢世」は孫之允の号であり、『五輪書』を弟子の山本源介等に相伝の奥書に、「寺尾夢世勝延(花押)」と著名している。  墓の発見により孫之允は寛文12年(1672年)に60歳まで生きたということがわかった。武蔵死後27年後である。逆算すると生まれたのは慶長18年(1613年)である。武蔵が晩年に肥後に来た寛永17年(1640年)は28歳。それから正保2年(1645年)、33歳まで5年間、武蔵について兵法を学んだということになる。
風貌
《小兵ながら力量ありしといへり》これも孫之允の風貌を想像させるおそらく唯一の史料である。孫之允は小柄な体躯であったらしい。武蔵の身の丈6尺の巨体と相反する者が一流を継承したということになる。
出自と家族
《寺尾の本家、今尚細川の家臣たり》 子孫に伝わる『寺尾家系』によれば、先祖は新田氏であり、寺尾の本家は父左助勝正が慶長7年豊前小倉で細川忠興に召抱えられ、忠利代1050石、鉄砲50挺頭の重臣である。本家は兄九郎左衛門(喜内)が継ぎ、孫之允は二男。野田一溪の『先師道統次第系図』(1782年)によれば「耳ノタリ少シカゲタルユへ不具トシテ浪人セリ」とあり、耳が少し不自由だったので、藩には出仕せず浪人(牢人)だったとしている。孫之允が浪人であったことは「寺尾家系」にも書かれている。細川家譜『綿考輯録』には兄喜内、弟求馬とともに島原の乱に出陣した記録がある。肥後における武蔵伝記『武公伝』では「夢世ハ一代ニテ兵術子孫に不傳」とある。兵法を自分の子孫には伝えなかったが、「寺尾家系」(山田紘靖蔵)によれば一男一女あり。女子は横井某へ嫁し、男子は早世す、松岡玄寿の二男を養子と為すが、牢人断絶。となっている。 弟の寺尾求馬助信行は当時200石(後300石)、武蔵から『兵方三十五箇条』の伝授を受け兵法を相伝したとされ、その子の新免弁介、郷右衛門などの流派に分かれ熊本藩で幕末まで栄えた。
「五尺杖の仕道(技)」
注目するのは、武蔵の技の中には一の弟子寺尾といえども真似の出来ないものがあり、独自の工夫が必要であったということである。それが「五尺杖の仕道(技)」であり、この技は武蔵ではなく、寺尾孫之允が開き、柴任らに伝えた。武蔵は力があって5尺杖を片手で自由に振っていたので、別に技の工夫をする必要もなかったが、寺尾に至って片手では振れないので工夫して会得したというのである。武蔵の力量を述べた具体的事実事例として重要である。
孫之允の弟子
『五輪書』を伝授したことの明らかな弟子に浦上十兵衛、柴任三左衛門、山本源介、槙嶋甚助、他にも『武公伝』では孫之丞の高弟として筑後殿(肥後熊本藩筆頭家老八代城主・松井直之、長岡筑後を称す)重臣の山名十左衛門ほか、井上角兵衛正紹、中山平右衛門正勝、提次兵衛永衛の名前を挙げている。これだけでも孫之丞系の流儀の盛んな様子がわかる。その内、柴任三左衛門は細川家を辞し、筑前福岡藩に召抱えられ、福岡藩に武蔵の二天一流を広げ、その元祖となった。後に武蔵の伝記『武州伝来記』を残した丹治峯均や『兵法先師伝記』を顕した丹羽信英はこの流系である。
宇土松山の寺尾一族11基の墓は孫之允直系なのか不明である。中に「享保十年(1725年)五月初六日、釋夢世居士之塔」という碑が一つあったが。流派の系図には出ていない。『武公伝』では「夢世ハ一代ニテ兵術子孫に不傳」とある。
『武公伝』の編者豊田(橋津)正脩は父正剛以来、武蔵流兵法師範役である。正剛は、武蔵から幼年時にじかに手ほどきを受け孫之允から『五輪書』を相伝したとされる八代(やつしろ)城主松井直之に習い、正脩は同書の中で「此五方、堤又兵衛より予相傳ス。八水卜傳」と書いている。堤又兵衛は前出夢世の弟子に名をあげた堤次兵衛一水(改名)のことである。すなわち、『武公伝』もまた孫之丞の流系ということになる。  一方、弟の寺尾求馬助(もとめのすけ)系が隆盛するのは、孫之允没後、時代がずっと下がった求馬助の子供たちの代のようである。豊田家の先祖附によれば、八代に求馬助系の二天一流(村上派)が入るのは、『二天記』を編纂した孫の景英の時代であった。  
『独行道』
『独行道』は、宮本武蔵が、寺尾孫之允(丞)に兵法書『五輪書』と共に1645年に与えたとされています。『五輪書』については、原文は発見されず、写本のみが多く各地に伝えられています。しかし、この『独行道』については、上の墨蹟が武蔵の書として残されていると言う事です。
武蔵の「自誓書」として、亡くなる一週間前に書かれたものとされています。『自誓書』と言うと、自分に誓うための書、と言う事ですから、色々な意味に捉える事が出来ると思います。
一つは自分を律するために書く。一つは自分の生き方を反省する為に、あるいは、希望の生き方、目標として書く事もあるでしょう。そして、寺尾孫之允(丞)に与えていて、且つ、死の一週間前に書かれてあるので、遺言とも取れます。 どんな思いで、武蔵はこの『自誓書』を書いたのでしょうか。
『独行道(全文)』
獨行道
一 世々の道をそむく事なし
一 身尓たのしみをたくま須
一 よろ爪尓依怙の心奈し
一 身をあさく思世越ふかく思ふ
一 一生の間よく志ん思王須
一 我事尓於ゐて後悔を勢寸
一 善惡尓他を祢多無心奈し
一 いつ連の道尓も王可れを可奈しま寸
一 自他共尓うら三をか古川心奈し
一 連ん本の道思ひ与る古ヽろ奈し
一 物毎尓春起古の無事奈し
一 私宅尓おゐてのそむ心奈し
一 身ひとつ尓美食をこのま須
一 末々代物奈留古き道具所持せ寸
一 王か身尓いたり物い三春る事奈し
一 兵具八各別よの道具多し奈ま寸
一 道尓於ゐて八死をいと王寸思う
一 老身尓財寳所領もちゆる心奈し
一 佛神八貴し佛神越太のま須
一 身越捨ても名利はすて須
一 常尓兵法の道を者奈礼寸
正保弐年 五月十二日 新免武藏
   玄信(花押)「二天」(朱文額印)
寺尾孫之丞殿
【身尓たのしみをたくま須】は、『身にたのしみをたくまず』と読みます。これを、私は、『身に楽しみを企まない』と読む事にしました。
では、もう少し、詳しく、この言葉を見ていきましょう。「身に」と言う言葉は、「自分の生き方」としても良いかと思います。「楽しみを企まない」は、「楽しみをたくらまない」と読みます。「企まない」と言うのは、軽く考えると、「考えない」。もう少し悪く考えると、「画策しない」でしょうか。
武蔵は、求道者ですから、私から考えると当然の事だと思います。ただ、誤解される部分もあるかと思いますので、なぜ、楽しみを考えないのかを考えて見ましょう。
私も、昔から求道者は「赤貧洗う」ような生活が当たり前と、思っていました。簡単に言えば極貧とでも言えば良いのでしょう。
しかし、何故かを考えた事もありませんでした。それが人格者の生きる道とでも、思っていたのでしょう。
「名もなく貧しく美しく」と言う映画がありました。1961年1月15日公開とありますので、56年も前になります。その頃から、経済的な幸せに対して、なんとなく違和感を覚えていたのでしょう。
しかし、求道者が『身にたのしみをたくまず』と言うのは、少し意味が違います。「紺屋の白袴」や「医者の不養生」は、人の為に一生懸命で、自分に構っていられない、と言う事です。求道者は、人の為では無いにしても、一途に求める道を歩むために、他の事に目を奪われている暇がないと思います。  
柴任三左衛門
[しばとう さんざえもん、寛永3年-宝永7年(1626-1710)] 江戸時代前期の武士、剣豪、兵法家。剣豪宮本武蔵の二天一流兵法第3代師範で、武蔵の兵法と『五輪書』を肥後国を出て江戸、筑前国、播磨国などへ伝えた。柴任が福岡黒田藩に伝えた武蔵の逸話は、後に最古の武蔵伝記『武州伝来記』として著されることとなった。
本姓本庄、改姓して柴任三左衛門、後に助右衛門、諱は重斎、秀正、美矩、最後は重矩、号は固学道随、また一鑑道随。
名前については近年熊本で発見された新史料『本庄家系譜』および『武州伝来記』の柴任記事、柴任が発行した『五輪書』(九州大学本)奥書による。
出自
寛永3年(1626年)、肥後熊本藩士本庄喜助の二男として誕生した。当初の名は熊介(くまのすけ)。
寛永18年(1641年)に父が藩主の細川忠利に殉死すると、兄・本庄角兵衛は新知150石(後200石)で召抱えられ別家を立てていたため、熊介が父の跡式15石5人扶持を継いだ(熊本藩史料「追腹仕衆妻子並兄弟付」寛永18年6月17日付)。
渡り奉公
寛永17年(1642年)に肥後入りした宮本武蔵に入門して二天一流兵法を学び、武蔵が死去すると、2代寺尾孫之允勝信に7年随仕して修行に勤め、承応2年(1653年)に寺尾から『五輪書』を相伝され兵法3代となる。のち訳あって肥後国を離国、兄嫁の親戚で武蔵所縁の小倉藩重臣・島村十左衛門を頼り、江戸で旗本家の兵法指南役となる。また十左衛門の紹介にて福岡藩家老黒田(立花)平左衛門重種(丹治峯均の実父)が寄り親となり、万治3年(1660年)に300石で3代藩主黒田光之の御小姓組に召抱えられ、藩士に兵法を指導、福岡藩二天一流の開祖となる。
柴任は寛文年間に黒田家も致仕して、大和郡山藩本多政勝に400石で招聘され、ここで重臣・大原勘右衛門の女を娶る。しかし、政勝の死後、藩主相続をめぐって九六騒動がおこり、15万石の本多家の領地のうち、嫡流本多政長に9万石と政勝実子・本多政利に6万石に分割されると、柴任は政利に従った。
延宝6年(1678年)に政利の播州明石に移封に従い、同8年(1680年)福岡藩の吉田太郎右衛門實貫に『五輪書』を相伝し、二天一流兵法4代目とした。その後、外甥(妻の甥)大原惣右衛門の早世に伴う大原家の家督相続において意見が入れられなかったことを不満に思い致仕。江戸や近江大津にて浪人するが、貞享4年(1687年)64歳の時に、姫路藩本多政武に500石で招聘され藩主側近の相伴衆となる。なおこれは、合戦のなくなった島原の乱以後、兵法や武芸が軽視される中、兵法に優れた者であれば大藩雄藩の上級家臣として召抱えられ、渡り奉公が可能な時期が江戸時代中期まで続いていたという事例として注目される。
兵法普及
隠居後は妻とともに明石へ戻り、養女(妻大原氏の姪)婿で明石藩松平直常家臣・橋本七郎兵衛(200石)宅に同居し、明石領中ノ庄に居住した。『本庄家系譜』によれば主君の松平直常も度々重矩宅へ立ちよるほど、敬意を払われていた。
また、筑前二天流第5代目福岡藩の立花峯均は病床の4代目吉田実連の意を受けて元禄14年(1701年)、16年(1703年)の2度、明石にいる柴任を訪ね兵法を伝授され、同じ頃に龍野藩で古い武蔵の流儀「多田圓明流」兵法師範であった多田源左衛門祐久も柴任より二天一流の伝授を受け、新旧流儀の合流がなされている。なお、多田家に代々伝わる享保6年(1721年)作成の『圓明流系図』は柴任の口伝を伺わせる内容で、祐久が当時認識していた武蔵の流儀系統が知られる貴重な史料となっている(龍野市立歴史文化資料館蔵)。
没年
『本庄家系譜』は柴任が死去したのは宝永7年(1710年)閏8月20日としている。一方『武州伝来記』の柴任死亡日は宝永3年(1706年)丙戌閏8月20日である。双方4年もの隔たりがある。いずれも「閏8月20日」は合致している。当時の暦は太陰太陽暦で、2、3年ごとに閏月を置いた。閏月がある年は1年13箇月で同じ月が二度あり、後のほうを閏何月といった。それだけに生没年の考証には印象の強い月になる。宝永年間の閏月のある年は2年、5年、7年である。その内閏月が8月の年は宝永7年だけである。これにより『本庄家系譜』の宝永7年が正しく、『武州伝来記』の宝永3年は丹治峯均の記憶違いと判断される。柴任三左衛門重矩、号固学道随、享年85。
墓発見
平成20年(2008年)12月、地元の郷土史家の調査で偶然、兵庫県明石市人丸町の曹洞宗雲晴寺の無縁墓の中に妻岩の墓と共に発見された。
柴任墓は表面に「固学道随居士」裏面に「柴任氏道随重矩 墓 産干肥州熊本城下卒於播州明石城下」右側面に「寳永七庚寅年閏(以下剥離欠損)」左側面に「柴任右傳士重正 大原清三郎正矩 建之」とあり、表面の上部に柴任氏の家紋に並べて本姓本庄氏の家紋が彫られていた。
妻岩の墓は表面に「清窻貞殿大姉 霊位 元禄十五壬午歳 十月十八日」、裏面に「柴任氏重矩妻大原氏岩 墓 産干和州郡山城下卒於播州明石城下」左側面「孝子 大原氏清三郎 建之」とあり、表面上部に大原氏の家紋が彫られている。
この墓の碑文は『武州伝来記』及び『本庄家系譜』記事内容を裏付けるとともに、両史料に不一致であった柴任の没年を決定づける重要な発見となった。雲晴寺は宮本武蔵作庭伝承があり、その庭も近年発掘されていることから、柴任は先師宮本武蔵にゆかりの深い雲晴寺を自身の菩提寺にしたものであろう。  
 
寺尾求馬助

 

[てらお もとめのすけ、元和7年-貞享5年(1621-1688)] 宮本武蔵の晩年肥後熊本における兵法の高弟である。武蔵が『五輪書』執筆に篭った金峰山麓の岩戸で病に倒れ、寛永21年(1644年)11月16日に千葉城の屋敷へ戻って養生するにあたり、肥後太守細川光尚の命により看護に付けられ、正保2年(1645年)5月19日に死去するまで傍に付いて看病した。『二天記』によれば、武蔵より死去前5月12日に『兵法三十五箇条』を相伝したとされている。同日『五輪書』を相伝した兄寺尾孫之允とともに、兵法二天一流第2代を称し、孫之允没後は求馬助の系統が肥後の二天一流を連綿と継承し繁栄した。名字は寺尾、通称は求馬助、また求馬、のち藤兵衛、諱は信行。
出自と家族
出自は兄の寺尾孫之允に同じ。熊本藩『先祖附』によれば、「寛永10年(1633年)13歳にて細川忠利公に召し出され、16歳まで御側に召仕われ、寛永13年(1636年)に元服し御知行二百石拝領」とあるから、求馬助の生年は元和7年(1621年)ということになる。一千五十石の父左助勝正とは別に二百石の別家を立て、寛永15年(1638年)の有馬陣(島原の乱)にも出陣し戦功をあげ黄金と時服を拝領している。3代細川綱利代に百石加増、鉄砲30挺頭となり、貞享5年(1688年)68歳で没している。『寺尾家系』によれば、求馬助には6人の男子があり、この内二男(三男とも)藤次玄高と五男弁助信盛、六男郷右衛門勝行の三人が藩の兵法師範役を仰せつかっている。特に四男信盛は武蔵の再来といわれ、新免姓を継承して新免弁助を名乗り、兵法二天一流第二代を称した。武蔵から『五輪書』の相伝を受けた寺尾孫之允が寛文11年(1671年)に死去したあとは、求馬助の系統が肥後の二天一流を隆盛させ、明治以降現代にまでその道統を継承している。
『兵法三十五箇条』相伝のこと
『兵法三十五箇条』が細川忠利公の命により書かれ献上されたものであることは、その文面にも明らかであり、弟子に相伝するためのものではない。寛永21年(1644年)11月、病のため家老の長岡佐渡・寄之親子らに説得されて、武蔵が霊巌洞から千葉城の屋敷に戻された(長岡寄之より宮本伊織宛書状)時、藩主細川光尚から看病のため差付けられたのが求馬助であった。この事は武蔵葬儀後に熊本藩家老長岡監物へ宛てた宮本伊織書状に明瞭に書かれている史実であり、求馬助は藩の公務として亡くなるまでの半年間の献身的な看病をした。寺尾家にはこのため武蔵自筆の水墨画が明治維新後まで複数伝来したが、なぜか『兵法三十五箇条』の自筆本は伝わっていない。おそらく献上本の写しを入手したものか、藩主へ献上の文言をそのまま弟子へ相伝物とするわけにいかず、5条加えて1条減らし、『兵法三十九ヶ条』として相伝の証としたと考えられる。
求馬助の弟子
史料に確認できる者で、求馬助が相伝した弟子には寛文6年(1666年)の安東正俊と同7年(1667年)に道家平蔵がいる。寛文6年は武蔵が亡くなってから21年後のことである。求馬助系が隆盛するのはこの後、新免弁助ら求馬助の子供たちの代からと考えられる。  
 
夢想権之助

 

夢想権之助
江戸時代初期の剣客である。生没年は不明。また、杖術として有名な神道夢想流杖術の流祖である。同流の口伝では名字は山本、諱は勝吉である。『武芸流派大事典』によれば本姓は平野、通称は権兵衛。
『武芸流派大事典』によれば、霞流の桜井大隅守(諱は吉勝)が師、弟子は小首孫右衛門(諱は吉重)。また、松林蝙也斎も権之助の弟子であるといわれる。
夢想権之助は宮本武蔵に敗れたとされている。時期は『海上物語』(惠中(堤六左衛門 諱は坂行)、寛文6年(丙年)弥生(1666年3月))では武蔵が明石滞在時、『二天記』(安永5年(1776年)。なお元となった『武公伝』に記載はない)では、江戸滞在時である。
当流の口伝では、後日に権之助が宝満山の竈門神社で祈願し杖術の研究を重ね、再び武蔵と立会い、ついに破った後に開いたと伝える。
『武稽百人一首』では「武道をば神の夢想ぞ権之助自らゆるす天下一かな」とよまれている。
武蔵を破った男!夢想権之助勝吉が「杖術」を編み出す!
はじめに
「宮本武蔵」といえば剣豪の代名詞ともされる、史上最も有名な剣術者の一人です。真剣を用いての勝負でただの一度も不覚を取ったことがなく、したがって天寿を全うしてその流派も現在にまで伝承されています。しかし、そんな武蔵の最強伝説に唯一黒星をつけた、と伝えられる武人が存在するのをご存知でしょうか。その名は夢想権之助勝吉。今に伝わる「神道夢想流杖術(じょうじゅつ)」の開祖として知られる人物です。
ここでは、武蔵を破った「杖術」にスポットライトを当ててみましょう。「杖術(じょうじゅつ)」とはどんな技か?「杖」と名が付いていますが、これは必ずしもステッキを使うというわけではありません。日本の武術には「棒術」というものがあり、概ね六尺(約180cm)という長さがひとつの基準となっています。「杖(じょう)」とは六尺より短い棒を指して言う専門用語であり、五尺・四尺・三尺などの規格が流派ごとに存在します。夢想権之助の神道夢想流では「四尺二寸一分(約128cm)」の長さの杖を武器として用いています。この杖術の最大の特徴は、徹底して「対剣術用」に技が組み立てられており、いわば「剣術キラー」として歴史上恐れられてきた武術でもあるのです。シンプルな一本の棒ですが、それだけに応用の範囲が自由自在で、剣術・棒術・槍術・薙刀術といったあらゆる武器術の技を繰り出すことが可能となっています。なおかつ剣術の弱点を熟知した戦法が工夫されているため、武蔵にとっても難敵となったことが想像されます。
夢想権之助は、武蔵を破るために「杖」を選んだ
冒頭で述べたように、夢想夢想権之助は武蔵に勝ったという伝承がある武人ですが、最初は剣術者として試合を行いました。当時の権之助も達人と呼ぶに相応しい剣の腕前をもっていたと考えられていますが武蔵には及ばず・・・、敗退してしまいます。そこから、彼の打倒・武蔵のための修行が始まります。やがて激しい訓練の末、ある種の天啓を受けて自身の武器を剣から杖に持ち替えることを決意します。
権之助は剣だけではなく、槍術や薙刀術等の武芸百般に長じていたと伝えられ、それらの技を巧みに組み合わせて一本の棒で展開することのできる「杖術」を開発するに至りました。そうして杖術を身に付けた権之助は武蔵と再戦し、流派の伝承では「武蔵を破った」とあり、武蔵側の伝承では「引き分けた」とされています。ただの一本の棒を使う流派が最強の剣豪に負けず、しかも互いに命を落とすことなくそれぞれの力を認め合ったのです。
現代に伝わる「杖道」
権之助の神道夢想流杖術は、福岡・黒田に藩外不出の武術として伝えられました。この術技には「相手の命を奪うことなく制圧する」という大きな特徴があり、したがって刀を持って暴れる相手を取り押さえる「捕手(とりて)」というジャンルの武術として重宝されてきたのです。その優れた技は現代の警察が習得する「逮捕術」の一環として採用され、現役で使われ続けています。また、神道夢想流杖術の技はもちろん、それをベースにした現代武道「杖道(じょうどう)」として多くの愛好者を得ており、権之助の魂を今に受け継いでいます。
神道夢想流杖術
神道夢想流杖術は、樫でできた四尺二寸一分(約128cm)、直径八分(2.6cm)の杖を使い、敵は太刀を想定した武術です。神道夢想流杖術の特徴は、「突けば槍 払えば薙刀 持たば太刀 杖はかくにも 外れざりけり」と伝書にあるように、杖は突き、払い、打ちなど千変万化の技を繰り出すことができる武術です。夢想権之助神道夢想流杖道道は、三大古流のひとつで飯篠長威斎家直を流祖とする「天真正伝香取神道流」の道統の七代 夢想権之助勝吉により創始されました。夢想権之助が筑前黒田藩(福岡)に召抱えられ、藩士の指導にあたり十数人の師範家を起こして盛大に指南せしめた。それ以来、この神道夢想流杖術は黒田藩で藩外不出の御留武術として大政奉還まで継承されました。
夢想権之助
流祖 夢想権之助は、初め天真正伝香取神道流の奥義を究め、その免許を受け更に鹿島神流の流祖、松本備前守について鹿島神流の奥義を究め「一の太刀」の極意を授かったと伝えられている。
慶長の頃、夢想権之助は、江戸に出て、有名な剣客と数多く試合をし、一度も敗れたことがなかった。ある日、播州明石において剣豪宮本武蔵と試合をし、武蔵の二天一流の極意である十字留にかかり、押すことも退くことも出来ず敗れてしまった。
それ以来、権之助は艱難辛苦、武者修業をして諸国を遍歴し、武蔵の二天一流十字留打破に工夫専念した。数年後、筑前の国(福岡県筑紫郡)に至り、太宰府天満宮神域に連なる、霊峰宝満山に登り玉衣姫命を祀る竈門神社に、祈願参籠すること37日、至誠通神、満願の夜、夢の中に童子が現れ、「丸木をもって水月を知れ」との御神託を授けられた。
権之助は、丸い木と水月の御神託を体して、種々創意工夫し、三尺二寸の太刀より一尺長くして四尺二寸一分、直径八分の樫の丸木を作りこれを武器とし、槍、薙刀、太刀の三つの武術を総合した杖術を編み出し、遂に宮本武蔵を破ったと伝えられている。
その後、権之助は黒田藩(福岡)に召しかかえられ、権之助を師範と仰ぎ十数人の師範家を起こし盛大に指南せしめ、特に藩外不出の御留武術として伝えられてきたものである。
夢想権之助伝説の武人から実在の剣豪、兵法家などの武芸者を紹介した『武稽百人一首』で夢想権之助が取り上げられており、「武道をば神の夢想ぞ権之助自らゆるす天下一の名」と詠まれている。
杖術と夢想権之助
杖術が扱う武器は、その名の通り、杖。木の棒です。それが「突けば槍 払えば薙刀 持たば太刀」と言われる、千変万化の威力を持つのです。
杖術の創始者、夢想権之助(むそう ごんのすけ)は、百戦錬磨といわれたあの宮本武蔵に勝ったとの伝説があります。権之助は武蔵と、二度も戦っているのです。
夢想権之助はもともと、相当な破天荒だったようです。屈強な身体に派手な衣服を纏う、自信過剰の無法者…。
剣術の腕前は素晴らしく、香取神道流・鹿島神流、それぞれの奥義を極めています。実際、江戸に出てきて有名な剣客と戦っても、一度も破れることがなかったといいます。
ところが…出会うのです。最強と謳われる剣豪、宮本武蔵に。
権之助と武蔵、最初の対決。破れたのは…権之助。
それからの権之助は剣を捨て、心新たに、鍛錬を積む日々。
窟に籠っての修行の末…ついに天啓を受けます。「丸木を以って水月を知れ」
“杖術” が、権之助を通して生み出されたのです。
そして挑んだ、武蔵との二度目の勝負では、権之助が勝利したと伝えられています。
一度負けた相手に、修行の末もう一度挑む執念。権之助と武蔵、同じ時代に生きた二人の因縁。“杖術”というまったく新たな武道を生み出し、ついに勝利したとの伝説。
歴史ですから勿論、諸説はありますが、こんなにドラマティックな物語があるでしょうか。
また、特筆すべきは杖術の理念です。「きずつけず 人をこらして 戒むる」人を殺さず、自分も殺されない。的確に相手を捕らえ、制する、誰も殺めずして圧倒的な強さを持つ杖術。
かつて無法者と言われた権之助が最後にたどり着いた境地です。
権之助は「夢想流秘伝」の中で、このように記しているそうです。
「我が国においては剣術のみが武術であるとの考えが主流になっている。しかし、人を殺さぬことを真理とする杖こそが武術の大本となるべきである。その昔、天地開闢(かいびゃく)のときイザナギ、イザナミの尊が 「天の矛」をもって大海原をかきまぜこの大八卅(おおやしま)(日本国)を創られた。この「天の矛」こそが棒(杖)であり神国日本の武を代表するものである。日の神である天照大神も三剣を帯し、武をたいへん尊ばれた。五常(仁、義、礼、智、信)の道徳を守ることのみでは国を治めることは出来ない。武も必要であり 武をもって国を治めるには、術が必要である。よって、ここに一本の棒を用いた術を創立し、志を持つ人々にこの武術を伝えるものである。剣をもって人を殺すことが武の本来の道ではない。棒を持つ者は、人を殺さず任を果たし、万事を得ることが出来る様にすべきである。この書をもってこの様な考えを代々に伝える。」
今この時代だからこそ、深く考えさせられるものがあります。
杖術は現代も脈々と受け継がれているばかりか、日本の警察においては「警杖術」として正式に採用されています。
これほどの存在ながら夢想権之助という人物も、杖術という武道も、日本人の中ですら、それほど知られてはいません。
宮本武蔵は、海外でも有名ですが…夢想権之助という人物。今までスポットが当たっていなかっただけで、実は日本を代表するヒーローです。今だからこそ、あらためて見直されるべき人物ではないでしょうか。
今の世にも通ずる、大切な叡智は、ほかでもなく、わたしたちの日本が培ってきた精神・歴史の中に、たしかにあるのかもしれません。
杖道
神道夢想流杖術の始まり
時は江戸時代時代初期…下総国香取(現千葉県香取郡多古町)に生まれた剣聖、夢想権之助勝吉は、何度も有名な剣客たちと戦い、一度も敗れたことがなかったそうです。ある例外を除いて。
その例外とは、かの有名な剣客、宮本武蔵。権之助は、慶長10年(1606)頃の6月のある日、播州(現兵庫県南部)明石にて宮本武蔵と試合をし、押すことも退くこともできず敗れてしまいます。以来、権之助は、諸国を遍歴し武者修行をし、つらい修行の末、数年後筑前国(現福岡県筑紫郡)にいたりました。
権之助は太宰府天満宮神域に連なる霊峰、宝満山に登り竈門かまど神社に37日祈願しました。すると、誠意が神様に届いたのでしょうか、37日目の満願の夜、夢の中に童子が現れ、「丸木をもって水月を知れ」と神託を授かります。
その神託を胸に、権之助は太刀よりも1尺ほど長い、長さ4尺2寸1分(約128cm)、直径8分(約2.4cm)の樫の丸木を作り、これを武器として自らが剣で得た真理のみならず、槍・薙刀・体術等の特長を総合的に取り入れた武術を編み出しました。これが、神道夢想流杖術の始まりです。
杖術の発展
杖術を編み出した後、権之助は黒田藩(福岡藩)に召抱えられ、杖術は藩外不出の捕手術として継承されていきましたが、明治時代、廃藩置県が行われると、杖術の藩外不出も必然的に解除され、全国的に広まっていきました。特に、昭和の始めごろ、福岡で杖術の師範を務めていた清水隆次師範が上京し、主に警察などに逮捕術として広まっていきました。
現在の杖道
昭和30年に、多くの愛好家の手により日本杖道連盟が結成され、翌年、全日本剣道連盟に神道夢想流杖術の加盟が認められました。現在の杖道は、神道夢想流杖術を基盤に全日本剣道連盟制定杖道として選定されたものです。全日本剣道連盟は、剣道・居合道・杖道の三道の普及を目指しており、近年体術の一環として、杖道の普及率が高まりつつあります。
杖道の特徴
杖道は、杖じょうと太刀と呼ばれる木刀による形武道です。剣道のように自由に技を掛け合うのではなく、決められた形に沿って技をかけていきます。
杖道においての特徴は、やはり杖にあるといえます。杖はただの丸木ですので、刀のように刃もなければ鍔もない、柄もありません。そのため、杖のすべての部分を存分に使うことで、槍のように突くことも、薙刀のように払うことも、太刀のように切る(打つ)こともできます。形が単純であるゆえに、自在に変化する動きができるということです。また、左右両方の腕を同じように使うことができるため、相手の動きに柔軟に応じることができるということも特徴です。
神道夢想流杖道
神道夢想流杖術は、今から約400年前夢想権之助勝吉によって創始されたものです。流祖夢想権之助は、初め天真正伝香取神道流の奥義を究め、その免許を受け更に鹿島神流の流祖、松本備前守について鹿島神流の奥義を究め「一の太刀」の極意を授かったと伝えられています。
慶長の頃、夢想権之助は、江戸に出て、有名な剣客と数多く試合をし、一度も敗れたことがありませんでしたが、ある日、剣豪宮本武蔵と試合をし、武蔵の二天一流の極意である十字留にかかり、押すことも退くことも出来ず敗れてしまいました。
それ以来、権之助は艱難辛苦、武者修業をして諸国を遍歴し、武蔵の二天一流十字留打破に工夫専念しました。
数年後、筑前の国(福岡県筑紫郡)に至り、太宰府天満宮神域に連なる、霊峰宝満山に登り玉衣姫命を祀る竈門神社に、祈願参籠すること37日、至誠通神、満願の夜、夢の中に童子が現れ、「丸木をもって水月を知れ」との御神託を授けられました。
権之助は、丸い木と水月の御神託を体して、種々創意工夫し、三尺二寸の太刀より一尺長くして四尺二寸一分、直径八分の樫の丸木を作りこれを武器とし、槍、薙刀、太刀の三つの武術を総合した杖術を編み出し、遂に宮本武蔵の十字留を破ったと伝えられています。
その後、権之助は黒田藩(福岡)に召しかかえられ、藩外不出の御留武術として伝えられてきましたが、明治維新の政変により、明治四年杖術も必然的に解禁され初めて一般に紹介されることになりました。  
 
中条兵庫頭長秀

 

中条長秀
? 〜 弘和4年 (1384)
南北朝時代の人。挙母城主。剣術流派・中条流の創始者であり室町幕府の評定衆。足利義満の剣術指南役を務めた剣豪としても知られる。
足利尊氏に従って鎌倉幕府を滅ぼし、武功を立てた中条景長の次男。念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人となる。 その後、家伝の武術を体系化して中条流平法を創始したと伝えられている。
「平法とは平の字たひらか又はひとしと読んで夢想剣に通ずる也。此の心何といふなれば平らかに一生事なきを以って第一とする也。戦を好むは道にあらず。止事(やむこと)を得ず時の太刀の手たるべき也。この教えを知らずして此手(このて)にほこらば命を捨る本たるべし」(中条流平法口決) として、兵法と言わずに平法と呼ぶ。
中条流流祖として知られているが、室町幕府の評定衆などをつとめ、また歌人として生涯を過ごし、武芸者らしい逸話は伝わっていない。
中条兵庫頭長秀「中条流平法」
足利義満の剣術指南役
中条兵庫頭長秀(ちゅうじょう・ひょうごのかみ・ながひで)。生年不詳、元中元年(1384)頃没。兵庫助ともいう。近世剣術諸流の三大源流の一つ念流に連なる、中条流平法(へいほう)の祖である。中条家は、鎌倉幕府執権・北条氏の御家人となり、宿老や評定衆を務めた家柄であった。父・景長(かげなが)は三河挙母(ころも)(現在の豊田市)の地頭職となり、36郷を支配した。延慶元年(1308)金谷城を築城した。長秀は二男だが、長男の時長(ときなが)が奥州に移住したため、建武元年(1334)家督を継いでいる。足利幕府になり、寺社造営奉行、評定衆、守護職などを歴任した。鎌倉にも住んだといわれている。中条家には刺撃という刀術があり、3代将軍・足利義満の剣術師範を務めていた。また、歌人としても名を残した。歌の師は僧の頓阿(とんな)(=二階堂貞宗)。
念流との出会い
通説では、長秀が鎌倉に住んでいるときに、鎌倉の寿福寺に立ち寄っていた念阿弥慈音(じおん)(念流の祖、俗名相馬四郎義元(そうましろうよしもと)に学んだとされる。念阿弥慈音は念流の祖と言われ、近世剣術諸流の三大源流の一つとされている。長秀は「慈恩十四哲」の一人に数えられる。長秀は、慈恩の数多い刀術を整理し、三十三とした。これに、家伝の刀術を合わせ、編んだので中条流というのだとされる。だが、近年の研究では、中条流と念流は無関係とされる。「中条流伝書」は長秀の法名を誤認し、別人の源秀を長秀としてしまったのだという。
平法とは
中条流は兵法とはせずに、平法と称した。戦いをよしとはせず、剣はやむを得ない時のものとし、刀術の研鑽は平和を守ることであり、兵法は平法であらねばならないとした。「平法とは、平の字、たいらかひとしと読み、無想剣に通じる。この心、何と云うなれば、平らかに一生事なきをもって第一とする。戦いを好むは道にあらず。止事を得ず時の太刀の手たるべき。武を練る国へは隣国も働かず。」(中条流平法口決)
中条流
中条流は6代将軍・足利義教の時に不興を買い、所領を没収されている。越前(福井県)の守護・斯波氏の老臣・甲斐豊前守広景(かいぶぜんのかみひろかげ)に伝え、さらに大橋勘解由左衛門高能(かげゆざえもんたかよし)を経て、朝倉氏の臣富田九郎左衛門長家(ながいえ)に伝え、富田流と呼ばれたという。中条流の流れとしては、富田勢源、富田一放(一放流祖)、長谷川宗喜(長谷川流祖)、鐘捲自斎通家(鐘捲流、外他(とだ)流祖)、伊藤一刀斎景久(一刀流祖)などが連なる。  
 
富田勢源・富田五郎左衛門勢源

 

中条流の正統として富田流を広めた剣豪 富田五郎左衛門勢源(とだごろうざえもんせいげん)1523年〜没年不詳です。
勢源たちが広めた富田流ですが、元々は以前に少しだけ名前を出した中条兵庫頭長秀(ちゅうじょうひょうごのかみながひで)によって創始された中条流です。その中条流を大橋勘解由左衛門高能(おおはしかげゆざえもんたかのり)から学んだ越前朝倉家(越前一乗谷が有名です)の家臣、富田九郎左衛門長家が越前に持ち帰り家伝にした事から始まりました。なので富田流は中条流の正統であるとされています。ですから富田家でも中条流を名乗っていたそうなので、他の流派でも富田流の流れを汲んでいても中条流と名乗っている場合が多いそうです。
富田五郎左衛門勢源、富田越後守重政らによって広められた辺りから富田流と呼ばれる様になったと考えられ本格的に広めた人物として勢源や富田重政の名を上げる様です。
この富田流は小太刀術が非常に有名な流派といわれているのですが、有名なのに技等に関する資料があまりなく(私が見つけられないだけかもしれませんが)小太刀術に関してはもう少し調べたいと思います。
現在、日本剣道連盟が制定する日本剣道型にも3本小太刀を使う型があります。また短剣道が剣道とは別にあり、全日本銃剣道連盟が紹介しています。
富田五郎左衛門勢源は富田九郎左衛門長家の長男として生まれました。弟の冨田治部左衛門景政(とだじぶざえもんかげまさ)と共に富田流を学びました。父と同じく朝倉氏に仕えましたが眼病を患ったため家督を弟の冨田治部左衛門景政に譲り剃髪して勢源と号し隠居しそうです。
隠居した後の勢厳は修行の為各地を巡ったとされていますが、その足跡に関しては詳しくわかっていないようです。そんな中で美濃で仕合を行った話が伝わっています。
美濃の大名斎藤義竜(斎藤道三の息子 長良川の戦いにおいて道三を倒した人物)が自らの抱えている剣士で神道流の梅津某と仕合をするように言いました。しかし、勢厳はこれを「富田流は軽々しく仕合を行わない」といい一度は断りましたが、斎藤義竜の厳命により仕合をする事となります。
三尺四寸あまりの刀を手にする巨漢の梅津に対して、勢源は一尺二寸の割木に皮を巻いた薪棒をを用いました。しかも、眼病を患った勢厳と巨漢の梅津を見比べるとその優劣は誰がみても梅津にあったそうです。それを見て梅津が勢厳にも真剣で立ち会うようにと催促します。
しかし勢厳は「貴殿は白刃でどうぞ。勢厳はこの薪棒でよろしゅうござる」といって相手にしませんでした。それを聞いた梅津は木刀に対して真剣では勝負が穢れるとして自身も長い木刀に持ち替えました。
この時の梅津はソラ色の小袖、木綿袴で長木刀を右脇に構へました。その氣色、龍が雲を惹き虎が風に向うが如く眼は電光に似ていたそうです。一方の勢源は柳色の小袖、半袴を着て立ち、薪木刀を提げて悠然として立つ風情は牡丹の花の下の眠り猫とも見えたと言われています。
いざ仕合が始まると梅津はあっさりと小鬢から二の腕まで打たれ、頭を打たれ体中が血に染まってしまいました。それでも梅津は木刀を振り上げて打つと勢源は動じず梅津の右腕を打ちました。梅津倒れそうになりながらも、なんとか勢源の足下に一撃を放ちますが、勢厳はその木刀を踏み折ってしまいました
なおも梅津は懐中の脇差を抜いて突いてきましたが、勢厳は頭上に一撃を放ち倒してしまいました。一方的な仕合で勢厳の勝ちとなってしまいました。この話を聞いた斎藤義竜は勢厳に対して褒美を与え自らの元に留め置こうとしました。
しかし勢厳は「中條流は勝負差止めでござるけれども。国主の命背き難きことでござるによって敢てこれをなした儀。故に御賞美とあって下さるものは受納なり難し」と言い斎藤義竜の再三の申し出を一切断わるとさっさと越前に帰ってしまったそうです。
越前に帰国した勢厳は富田重政と門弟たちの指導に尽力したそうです。その後富田流の門下からは鐘巻自斎(鐘巻流)や川崎鑰之助(東軍流)など多くの名人が輩出されました。  
冨田勢源とその兄弟
冨田九郎左衛門とだくろうざえもん長家ながいえには前回紹介した印牧助右衛門かねまきすけえもんの他に、師で兄弟子でもある山崎昌厳やまざきまさとしの子、山崎景公やまざきかげきみと山崎景隆やまざきかげたかの兄弟、青木藤兵衛あおきとうべえ、そして長家の子、与五郎景家よごろうかげいえでした。長家より中條流の正統な印可である「家ノ書いえのしょ」を授かったのは山崎景公でした。冨田景家は長家が亡くなった1509年まだ18歳だったため、景家の印可には兄弟子である山崎景公と景隆の二人による裏書がされていた、と加賀藩山崎家の文書には記載されているそうです。
冨田景家とだかげいえは後に治部左衛門じぶざえもんと名乗り、朝倉家の武士として活躍したようです。
景家には成人した息子が四人いました。長男は祖父と同じ九郎左衛門くろうざえもんを名乗った郷家さといえ、次男は五郎右衛門ごろうえもん隆家たかいえ、三男は与五郎景政よごろうかげまさと言いました。三人とも平法に達した兄弟でした。また、四男は与左衛門源長よざえもんよしながといい、系図には越後に住したとのみあり、平法の印可を得ていたかについては不明です。
長男の九郎左衛門くろうざえもん郷家さといえは長谷川宗右衛門はせがわそうえもん(宗喜)や印牧一右衛門かねまきいちえもん、阿波賀あわか某など後に一家を建てる弟子を育てました。越前朝倉家に仕えていたようですが、父治部左衛門より早くに亡くなったため、中条流関係の資料にもほとんど名前が出てきません。また、戸田流(冨田流)関係の末流では祖父である九郎左衛門長家くろうざえもんと混同されている例もあります。
次男の五郎右衛門隆家ごろうえもんたかいえは眼を患い(一説には耳が不自由だった)、仕官はかなわず一生を牢人ろうにんとして暮らしたようです。また、特に平法は上手ではなかったと記録されています。後に剃髪ていはつし入道勢源にゅうどうせいげんと名乗ります。この次男の隆家が有名な冨田勢源とだせいげんです。
三男の与五郎景政よごろうかげまさ、(与六衛門とも、後に治部左衛門となのります。)は天文21年(1552)、父治部左衛門から印可を得ます。長兄郷家が亡くなり、次兄隆家も目(耳)が不自由であったため、景政が富田家を継ぎました。前田利家に仕え、後に豊臣秀次に平法を指南することになります。彼の娘婿が名人越後として有名な冨田重政とだしげまさです。彼の活躍時期はおもに安土桃山時代になります。
富田勢源
冨田勢源、戸田清眼や戸田清玄とも書かれ、冨田流小太刀の名人として有名です。各地にあったトダ流を名乗る流派の流祖とされていることがあります。
中条流加賀藩師範、山崎家の記録では、勢源は平法が上手ではなくとも仕合には強かったと書かれています。神道流しんとうりゅう梅津うめづ某との仕合が特に知られています。
この逸話は加賀藩の中條流や弘前藩の當田流とうだりゅうに「仕合之巻しあいのまき」として同一内容の伝書が伝わっています。加賀藩の中條流と弘前藩の當田流は冨田勢源の代ですでに別れているので、勢源が自分で書いた伝書でなければ(自分で書くとは思えませんし)、どちらかが取り入れた、もしくはどちらも別の所から取り入れたものだと思います。
正徳しょうとく4年(1714)に書かれた日本各地の武芸流派を紹介した「武芸小伝ぶげいしょうでん」に既にこの逸話が載っているため、古くから出回っていた話なのだと思われます。(武芸小伝の内容と仕合之巻はやや表現などに違いがあります)
以下に仕合の巻を意訳したものを抜粋します。
冨田勢源と梅津の仕合(仕合之巻より意訳抜粋)
勢源せいげん、姓は富田とだ氏、名は五郎右衛門尉ごろうえもんのじょう。剃髪して勢源と名乗った。越前の人である。
かつて永禄3年(1560)の夏、五郎衛門は旅の途中、濃尾の国、井口郷の朝倉成就の館に宿を借りていた。井口郷は一色治部太輔義龍いっしきじぶのたゆうよしたつの城下である。
偶然同じころ、常陸の国鹿島香取かしまかとりの人、梅津という人が来て、井口郷の大原氏に仕えて新當家しんとうりゅうの剣術を人に教えていた。
梅津は勢源が井口郷に来たことを聞き、弟子に
「ぜひ勢源に会い、中條家ちゅうじょうりゅうの小太刀を見てみたいものだ」と語った。
弟子は喜び勇んで勢源の宿へ行き勢源にそのむね語った。
勢源は「私は目を病んでいます。どうして家法ちゅうじょうりゅうを知っていましょうか。もし家法を見たいとお望みなら、越前へ向かい富田氏の者に尋ねてください。そして我が家の遺戒には、争うなかれ、勝負を決するものではない、とあります。富田氏は勝負は受けられません。」
梅津はこれを聞き「勢源は私にかなわない。私は関東で剣術を会得し、その名は童でも知らぬものはいない。汝ら《門弟》はみな知っているだろうが、この地において使い手と知られていた、吹原や三橋貴傳といった者どもも私の敵ではなかった。勢源も伏首して去るだろう。たとえ太守義龍といえども、いまの私は恐れ憚ることのなく勝負を決めることができる。いわんや勢源などはそもそも私の敵ではなかったのだ!」
義龍はこれを伝え聞き激怒し、武藤淡路守むとうあわじのかみと吉原伊豆守よしはらいずのかみに命じて勢源に使いを出した。武藤と吉原は朝倉屋敷の勢源に会い、義龍の言葉を伝えた。
「梅津の言は甚だ憎く許してはおけない。願わくはあなたの力で彼を打ち破ってはくれないか。」と。
勢源はこれに対して「中条の家法は固く仕合を禁じています。これに加え梅津は剣術で生きています。私がその切先を折り、彼を困窮させたくありません。ことわざに曰く「正法に奇特なし」。私の法へいほうはただ教えを守って外に出しません」と返答し、二人は太守にこれを報告した。
義龍はこれを聞き「大勇は無勇に似ているという。勢源の言葉は喜ばしい。梅津を見過ごすのは国の恥、世の笑いものとなる。勢源は聖賢であろう。何度でも願いに行くべきである。」 
義龍の言葉を請け、二人は再び勢源の宿へ向かった。
勢源は「太守の御命も本来受け入れられないものではありますが、もし強く断れば世の人は私が家法へいほうを知らないのだ、と言うでしょう。争わず、という中條家の遺命は恐れ憚るものではありますが、今のこの状況はやむをえません。」と命に従うと答えた。
使いの二人が義龍に伝えたところ、義龍は大いに喜び、即座に七月二十三日辰の刻に武藤淡路守の屋敷と場所を決めた。
仕合の日時を聞いて、勢源は使者の二人に伝えた。
「太刀撃しあいは二度はしません。今回だけですよ。」
人々は勢源が勝つ、いや梅津だ、と語り合った。
仕合までの日々を両人は次のように過ごした。
梅津は「己の太刀に神助あるべきなり」と沐浴斎戒もくよくさいかいし仕合にそなえた。
勢源は「心が誠道にいたれば、神に祈らずといえども守護されるものだ。なぜ沐浴斎戒の必要があるのか」と言い、井口郷を見て回り、老若男女と語りあい過ごした。
七月二十三日の明け方、武藤の館は仕合を前に暗く静まりかえっていた。そして朝日が昇る頃、勢源が数人の供を連れてやってきた。勢源は武藤の館の舟木籠たきぎの中から一本を取り出し、革で包み、これを木刀とした。その長さはわずか一尺四寸か五寸ほどであった。(およそ42p〜45p)
丁度その時、梅津の主、大原某が数十人の供とともにやってきた。その持ち込んだ木刀は三尺四寸か五寸(102p〜105p)、八角に削り出してあり、錦の袋に入れてあった。
そして背が高く骨太であり、大髭の色黒の男が前へ出て勢源へ会釈した。梅津であった。
梅津の下人が言った「どこを打って勝負を決するとするつもりか?目か?指か?」
「白刃を以て勝負を決するがよかろう」と勢源は言った。
「梅津殿が白刃を使うとしても、私はこの木刀を使おう」と手に持った革で包んだ薪を見せた。
梅津は「白刃を使うには及ばない。」といい、持ち来た長柄の木太刀を諸手に握り、頭の廻りを三振りして右脇構えを取った。その様子はあたかも龍が雲に乗り、虎が風に向かって吠えるようであった。
それに対して勢源はまさに年寄りのように立ち、ゆるやかに梅津に向って進みながら「打つぞ」と声を掛けた。
梅津はこれを聞き、木太刀を鋭く回旋させ打ちかかり、勢源を近寄らせまいとした。
勢源はその意を察し、掛け声とともに梅津に打ち懸かった。
はたして梅津の木太刀は当たらず、勢源の木刀は梅津の左側頭と両腕をしたたかに打ち据えた。梅津は頭より流血し、怒りに任せて木太刀を振り打ちかかったが、勢源は先ほどと同じように梅津の右腕をしたたかに打ち、梅津はそのまま勢源の足元へ突っ伏し、木太刀を取落した。勢源はこれを見てすぐに飛び上がり、木太刀を踏みつけ、へし折ってしまった。
梅津は益々怒り狂い、懐に手を入れ小脇差を抜き、勢源に突き掛かった。勢源は再び飛び上がり梅津の腕を踏み落とした。
全く通じず茫然とした梅津を勢源はさらに足を上げ、留めをさそうとした。まさに丁度そのとき、武藤と吉原が二人の間に飛び込み、梅津と勢源を左右へ引き分けた。
武藤の館にいた者は皆この勝負に驚愕した。
憐れ敗れた梅津は血にまみれ傷だらけであったため、武藤の館で休養を取っていた。しかし梅津の主、大原氏はすっかり恥じ入って先に帰っていったため、武藤と吉原はあきれ返ってしまった。
勢源の使った木刀と梅津の折れた木太刀は太守義龍のものとなった。
義龍は「勢源は本当にこの世の人であろうか。摩利支天の化身ではないか。今回の仕合を後世に伝えるために、この木刀を大事にしよう」と言い、勢源へ使を送り、銅十と衣服を贈ろうとした。
ところが勢源は「このような褒美を受け取ることは中条の家風にはありません。褒美を受け取るために仕合をしたのではないのですから」と言って、再三の使者にも関わらず固辞した。
これを聞いて義龍は「まさに勢源は真の太夫である。中条家の中興である。ぜひ直接会いたい」と言い、勢源を招くために使いを送った。しかし、勢源はこれを固辞し、「仕合を恨んだ梅津の門人によって何が起こってもおかしくない」と言って翌朝早く越前へ帰ったという。

勢源の弟子は多く、間違いなく勢源の弟子だったと思われる人物は中堀與左衛門、北村きたむら(喜多村)主計かずえ、冨田内記とだないき、関久右衛門せきひさえもん保重やすしげなどが知られています。勢源の跡は娘婿であった関保重せきやすしげが継いだようで、彼の息子関善右衛門せきぜんえもんは前田利家に仕え、関家は加賀藩平法師範として幕末に至ります。また、喜多村主計の弟子は富山藩に仕え、これまた明治維新まで富山藩の流儀として栄えます。  
 
中条流系譜

 

中条流(ちゅうじょうりゅう)
中条兵庫頭入道長秀<ちゅうじょうひょうごのかみ ながひで>(1348? 年〜1384年)
名前/ 中条長秀
流派/ 中条流(中条流平法・開祖)
門人/ 鐘巻自斎
従五位下中条出羽守景長の次男として生まれる / 兄・出羽守時長が奥州に領土を得た為に、父の後を継ぎ三河挙母城主となった / 念流・相馬慈恩に学んだとされる(慈恩の師・寿福寺神僧栄裕から学んだ可能性も) / 又1356年〜79年にかけて、歌人の名としても知られている / 兵法としては小太刀を主に争わず敵を制する事に重点を置いている
富田流(とだりゅう)
富田九郎右衛門長家 <とだくろうえもん ながいえ>(生歿年不詳)
名前/ 富田九郎右衛門(正しくは九郎左衛門)
流派/ 富田流(開祖)
中条流を大橋勘解由左衛門から学び、そのまま継承 / しかし富田家が関与した為にか流名も富田流に変わる / 三代目・富田治部左衛門景政が前田利家に仕た後には富田流は前田家の御家流となる
富田越後守重政<とだえちごのかみ しげまさ>(1564 年〜1625年)
名前/ 富田越後守
流派/ 富田流
門人/ 富田一放(一放流) 
山崎流山崎左近将監景成の弟・富田景政に認められて富田家入りを果たし、富田流を継いだ / 以前は朝倉家に仕えていたが、のち前田利家に仕えた / 天正18年八王子城攻め、慶長5年栗津、慶長8年大聖寺城攻め等で5つの戦功を挙げ、遂には将軍家兵法指南役・柳生宗矩の一万石を凌ぐ / 一万三千六百七十石もの禄高を得ている / 彼は摩利支天の崇拝者でもあり、馬上でのその姿はまるで摩利支天その者であったと云う
戸田流(とだりゅう)
富田五郎左衛門勢源<とだごろうざえもん せいげん>(1519 年〜?年)
名前/ 富田勢源、戸田清玄吉方(同一人物!?)
流派/ 戸田流(開祖)
門人/ 鐘巻自斎、川崎鑰之助(東軍流)、長谷川宗喜(中条流)、山崎左近将監(中条流)
様々な諸説があり真相は未だ謎である / 越前朝倉家の臣・富田治郎左衛門景家の子として生まれる / また弟・景政の養子となったのが、名人越後と謳われた重政である / 主に中条流を学び、眼病を患ったので家督を弟・景政に譲り隠居生活にはいる / 国主・斎藤義龍の剣術指南役で神道流の使い手梅津某に試合を挑まれる、隠居の身の為断るが、執拗な兆戦の為やむを得ず承諾する。場所は武藤淡路守屋敷。勝負は一撃、瞬く間に勢源が勝利を納めた
心極流(しんきょくりゅう)
長谷川六左衛門宗喜<はせがわろくざえもん そうき>(生歿年不詳)
名前/ 長谷川宗喜
流派/ 心極流(開祖)
中条流の富田治郎左衛門景政の高弟で富田三家と称される / 小太刀を得意とし、長谷川流そして豊臣秀次の兵法指南役を勤めた、後に豊臣家を退き流名も心極流に改める
東軍流(とうぐんりゅう)
川崎鑰之助時盛<かわさきかぎのすけ ときもり>(生歿年不詳)
名前/ 川崎鑰之助
流派/ 東軍流(東流とも・開祖)
越前朝倉家御用人・川崎新九郎時定の子として誕生 / 剣術は鞍馬八流の使い手であった父・時定から学ぶ / その他、剣術を富田勢源に槍術を富田午生に学び様々な流派を取得 / 朝倉家滅亡後に際して鑰之助は比叡山の東軍権僧正に刀術を学び、これに習って東軍流とした
鐘巻流(かねまきりゅう)
特色 / 小太刀、中太刀からの攻撃を得意とする
鐘巻自斎通家<かねまき じさい みちいえ>(生歿年不詳)
流派/ 鐘巻流(外他流、中条流・流祖)
門人/ 伊藤一刀斎、佐々木小次郎 
遠州秋葉の生まれ / 山崎左近将監・長谷川宗喜らと共に富田三家と謳われた人物 / 剣術は越前で富田治郎左衛門景政に学んだ(逸話に愛宕山の勝軍地蔵を参拝して剣の妙理を悟ったと云う) / 門弟には一刀流開祖・伊藤一刀斎や巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎らが名を連ねている
一刀流(いっとうりゅう)
特色 / 受けるとともに打つ一の太刀「切落し」が特徴 / 秘伝として敵の殺意や殺気に対し無意識的に抜き打ちにする「無想剣」、敵の打ちこみに対しその懐に入り身を屈め廻りながら払うように刀を使う「払捨刀」等がある
伊藤一刀斎景久<いとういっとうさい かげひさ>(1550? 年〜1653?年)
名前/ 前原弥五郎友景、伊藤弥五郎、戸田一刀斉、伊藤一刀斉
流派/ 一刀流(一刀斎流・開祖)
所持刀/ 瓶割
秘伝/ 切落し、夢想剣、払捨刀 
門人/ 小野忠明、小野善鬼、古藤田俊直、伊藤忠一、梶正直(梶派)、間宮久也(間宮派)
塚原ト伝・上泉信綱と共に剣聖とうたわれる人物の一人 / 現代剣道に最も影響を及ぼしたと云われる流派こそ、彼の創始した一刀流である / 一刀流自体の流名は広く知られているが、伊藤一刀斎自身について知るものは少ない / 理由としては彼の経歴を裏付ける史料が極少数のためだ / 出生は近江の堅田と伊豆国大島の説が主流とされ、他にも加賀・越前等の説がある / 幼名:前原弥五郎と称していた彼は板子一枚で郷里を出奔する / 半島に住む人々が「島鬼が来た」と騒いだ為、彼は「鬼夜叉」を自称する / 伊豆の三島神社の床下を居住とし、自作であろう木剣を携えて剣術の稽古に励んでいた所、彼に興味を覚えた神官:矢田織部に富田一放(一放流を開いた剣豪)との立会いを薦められ、試合を挑み一放を一撃のもとに打ち倒している(弥五郎:当時13歳〜14歳) / 後年、鎌倉鶴岡八幡宮お告げを求め参籠するが全く効果が無い為に、立ち去ろうとした直後、背後に忍び寄る者の殺気のみを感じ取り、思慮分別無く振り返りざまに人影を一刀の元に切り捨て、無想剣を編み出した
小野次郎右衛門忠明<おのじろうえもん ただあき>(1565 年〜1628年)
名前/ 神子上典膳(みこがみてんぜん)、小野忠明
流派/ 小野派一刀流(一刀流ニ代目)
所持刀/ 瓶割(後継)
安房国朝夷郡丸村御子神の父・御子神重と母・小野氏の子として生まれる / 幼い頃から関東兵法・新当流を、神子上典善の時には三神流・山本嘉助勝之に学ぶ / 後に典善は「関東には並ぶ者無し」と自負し、伊藤一刀斎に勝負を挑みその弟子である小野善鬼と立会い見事完敗 / そのまま一刀斎に師事し、師と共に諸国を廻り修行に励む / 上総の小金ヶ原では一刀流後継と徳川家仕官の座を賭け、兄弟子・小野善鬼との真剣勝負に勝利して一刀流を継承した / その後、徳川家に仕え二代将軍秀忠(当時15歳)の個人師範兼身辺警護役を勤める / 慶長5年関ヶ原合戦前夜の信州上田城攻での軍功で、「上田の七本槍」の1人に数えられる。が、軍紀に触れお預けとなり大阪の陣に際しても旗本間でのいざこざを起こし閉門となってしまう / だが秀忠の側を離れたとして軍律違反に咎められてしまう / 剣術指南でも手心を加えぬ粗野な教授に、次第に一方の師範・柳生流の方が人気となる / 柳生宗矩が一万石以上の大名の取立てに対し、忠明が六百石であったのはその為である / しかし剣術に置いては恐ろしく強く、ある時柳生方へ出向いた際に、高弟・木村助九郎、村田与三、出淵平八の三人を1度にかからせ難なくあしらったと云う
小野善鬼<おの ぜんき>(? 年〜1592年)
流派/ 一刀流(2代目候補)
前身は淀川で船頭を営んでいた / ある時、伊藤一刀斎に出会いその実力に感服して弟子入りする(一番弟子) / 以後一刀斎に伴い諸国を廻り、立ち合いを求められた場合は善鬼が全て相手をして、その全ての試合に勝利したと云う / 確かに力量では典膳を上回っていたが素行の悪さのため、一刀斎は気性の激しい善鬼は後継者としては相応しくないと踏んだのであろう... / 1592年(1588年説も)秘伝と瓶割を典膳に授け、上総の小金ヶ原で後継者を賭けた真剣勝負にて善鬼は敗死
小野次郎右衛門忠常<おのじろうえもん ただつね>慶応十三〜寛文五年(1608 年〜1665年)
名前/ 小野忠常
流派/ 小野派一刀流(小野派二代目)
小野忠明の実子 / 剣術を父・忠明に学び、小野家正統が代々継ぐ「次郎右衛門」の名を継承 / 父・忠明が大成した一刀流組太刀の指南法、稽古法に出刃・入刃・寄刃・開刃の4本を追加(六百石で将軍徳川家光に仕えたが心象は良くない)、然し、小野派一刀流の型を完成させたのは忠常の子の忠於
古籐田勘解由左衛門俊直<ことうだかげゆざえもん としなお>(生歿年不詳)
名前/ 古籐田俊直、唯心
流派/ 古籐田一刀流(唯心一刀流/古籐田流)
相模小田原北条家に仕え、新当流を修めた / 天正十二年に小田原を訪れていた伊藤一刀斎に試合を挑み敗れる、後入門、以来修行に励み高弟の1人になり一刀流奥義に辿り、古籐田一刀流を創始した
逸見若狭守義年<へんみわかさのかみ よしとし>(1747 年〜1828年)
名前/ 逸見義年、逸見太四郎義年
流派/ 甲源一刀流
道場/ 耀武館
甲斐源氏の祖である新羅三郎義光の末裔 / 秩父郡小沢口(秩父郡両神村小沢口)、孫四郎義満の長男として誕生 / 「甲源」とは甲斐源氏からとったもの / 剣は桜井五郎長政から一刀流を学び、後に試行錯誤を繰り返し自流・甲源一刀流を創始 / 道場「耀武館」を建てて門人の育成に励んだ
寺田五右衛門宗有<てらだごえもん むねあり>(1745 年〜1825年)
名前/ 寺田宗有
流派/ 天真一刀流
白井亨、高柳又四郎と共に中西道場三羽烏の一人 / 中西道場にて子定に師事し、二代目子武の方針に異論を唱え離脱、その後12年平常無敵流の池田成美につき修行する / 子武が代を降りると再度中西道場に戻り、四代目子正にも一刀流を教える / 組太刀稽古を得意としており、打ち込む隙を与えなかったそうである
白井亨義謙<しらいとおる よしのり>(1783 年〜1843年)
名前/ 白井亨
流派/ 天真白井流
備前岡山藩士 / 寺田宗有、高柳又四郎と共に中西道場三羽烏の一人 / 8歳頃から依田新八郎秀復に機迅流を学び、7年の修行でも印可を与えられなかった為、寛政九年一月に中西派一刀流・中西子定の門人となり同門・寺田宗有にも教えを乞うた / 師・中西子定の死を機会に武者修業の旅に出て、終了後岡山に道場を建てる / 他に藩の軍法師範・滝川万五郎俊章に兵学、白隠禅師に内観法を学ぶ / その後寺田宗有から天真流の印可を受け天真一刀流二代目となる / 更に寺田の命に従い念仏道場に入り大悟して「明道論」「神妙録」「天真録」「兵法未知志留辺」等を執筆する / やがて、白井は天真一刀流を津田明馨に継がせて自流・天真伝兵法ならぬ、天真白井流を興じる
高柳又四郎<たかやなぎ またしろう> (1807 年〜? 年)
流派/ 中西派一刀流
寺田宗有、白井亨と共に中西道場三羽烏の一人 / 相手と自分の竹刀を触れさせる事無く相手を倒す事が出来、その為竹刀鳴る音が聞こえないので「音無しの剣」と呼ばれていた / 因みに「大菩薩峠」(著:中里介山)での机龍之介が使う「音無しの構え」のモデル
山岡鉄太郎高歩 <やまおかてつたろう たかゆき>(1836 年〜1888年)
名前/ 山岡鉄舟(てっしゅう)、山岡鉄太郎
流派/ 一刀正傳無刀流(開祖)
所持刀/ 瓶割(後継)
道場/ 赤坂離宮に春風館
江戸生まれ、旗本小野朝右衛門の五男 / あらゆる面で優れており剣術の他に書道や絵画などを残す / 谷中の全生庵墓地に埋葬されている
巌流(がんりゅう)
特色 / 剣速に重を置く技術至上主義の剣術
佐々木小次郎巌流<ささきこじろう がんりゅう>(1595? 年〜1612年)
名前/ 佐々木小次郎
流派/ 巌流(開祖)
所持刀/ 物干し竿
越前宇阪の庄、一乗谷浄教寺村の生まれ / 富田勢源の家人となって幼少より兵法の稽古に励み、遂には勢源の打太刀まで務めた、又中条流の鐘巻自斎にも師事したと云われている / 彼は更に勝つ為の方法を研究し、やがて高弟達でさえ彼には及ばなくなった、その為、勢源門を出て自流を巌流と称し諸国修行に励んだ / 豊前小倉では細川忠興に抱えられ兵法指南を務めるようになった、その後同国に宮本武蔵が現れ、巌流島にて決闘をし敗死した / 小次郎が燕返しを編み出したのは有名だが、実際は巌流の一心一刀、虎切りなる剣技を駆使したのだと思われる
天心独名流(てんしんどくめいりゅう)
根来八九郎重明<ねごろはちくろう しげあき>(生歿年不詳)
名前/ 根来重明
流派/ 天心独名流(新流)
一刀流・伊藤典膳の高弟 / 二本松藩に仕えた後に、江戸にて同藩師範となり天心独名流を開く  
 
鐘捲自斎と戸田一刀斎

 

鐘捲自斎 = 戸田一刀斎 1
(かねまき じざい) 戦国時代の剣豪。鐘捲流剣術の開祖。一刀流剣術の伊東一刀斎の師とされる。出身地は不明だが、越前(福井県)の名家印牧(かねまき)氏の出身ではないかとされる。生没年は不詳。
鐘捲自斎通家は外他(とだ)姓を持ち、越前朝倉氏の剣術指南で、富田流の名人富田治部左衛門(富田景政)の門に入り、山崎左近将監、長谷川宗喜とともに「富田の三剣」と呼ばれた。この頃、外田(戸田)一刀斎と名乗ったこともあるという。
自斎の弟子には、前原弥五郎がおり「一刀斎」の名跡を譲り受け、以後、伊東一刀斎と名乗り「一刀流剣術」を興したとされる。自斎は伊東一刀斎に奥義「高上極意五点」を伝えた。また伊東は、外田一刀斎を名乗っており、両者は同一人とする説もある。これは、伊東一刀斎の高弟といわれる古藤田勘解由左衛門(古藤田俊直)が、自流を外他一刀流と名乗っていることと、自斎も一時自流を鐘捲外他流と名乗ったことが根拠とされる。他の弟子に、佐々木小次郎がいるとされる(『歴史読本』昭和55年3月号所収光瀬龍「漂泊の剣客」参考)。
道統は米沢の中村氏家が継承し、仙台藩の藩主護衛の役を負った。
鐘捲自斎通家 = 戸田一刀斎 2
鐘捲流(別名 外他流)の祖であり後の一刀流に強く影響を残した鐘捲自斎通家(かねまきじざいみちいえ)。
現在の鐘捲流は鐘捲流抜刀術が継承されています。(仔細はわかりませんが、第二次大戦中に継承者が全てを伝えられないまま戦死された為に本来あった組太刀が失伝してしまい抜刀術のみが残った形だという事です)
鐘捲自斎通家(1576年〜1615年)は遠州秋葉(現静岡県浜松市辺り)の人といわれ、越前朝倉で富田流(中条流)の門に入りました。(富田勢厳の門下とも富田景政の門下ともいわれていますが、富田流は2人で1セットの様な部分がありますので、どちらでもかまわないのかもしれません)
修行の末、山崎左近将監、長谷川宗喜とともに「富田の三剣」と呼ばれる程となりました。自斎は外他(とだ 外田とも)の姓をもっていたそうで、この頃には外他一刀斎と名乗ったこともあるそうですが、これが後に伊東一刀斎も一時期、外他一刀斎と名乗っていた痕跡があり、資料をややこしくさせてくれています
そして江戸に出て道場を開き多くの門弟を育てました。なかでも有名なのが先述の伊東一刀斎、そして佐々木小次郎も弟子とされています。自斎の学んだ富田流は小太刀を得意としていましたが、自斎は小太刀の技から入り、中太刀に有利な技を編み出したとされています。
自斎は伊東一刀斎に鐘捲流の奥義「高上極意五点(こうじょうごくいごてん)」の技を伝えたそうで、これがそのまま一刀流の奥太刀として伝わったそうです。これは相手の刀を切り落としつつ、間合いを詰めて勝つ技だそうで、小太刀から工夫されたものと考えられています。
その後の鐘捲流は道統を継承した中村家が仙台藩の伊達政宗に迎えられ藩の剣術指南と代々歴代藩主を護衛する役目を負いました。また徳川泰平の世に多くの流派が時代の推移と共に変貌を続けた中にあって、鐘捲流は殆ど当初の教えが変わることがなく、少数の門弟に極秘に伝授されていったそうです。
そして技名を口外しただけで同門の手により暗殺されたほどの厳しい掟を守りながら幕末にまで続いたそうです。一概には言えませんが、江戸よりも地方で広まった流派の方が厳しい教えをそのまま伝えている流派が多い印象を受けます。鐘捲流もそのひとつだといえると思います。
江戸ではあまり厳しい教えの流派は流行らなかった事は事実です。鐘捲自斎から伊東一刀斎へと続いた鐘捲流は一刀流へと変化していくことで後の剣術へ大きな影響を与えた一流派だといえると思います。
伊東一刀斎 = 戸田一刀斎 3
天正年間、戸田一刀斎(北条氏の家臣、古藤田俊直【古藤田一刀流、または外他一刀流、唯心一刀流の祖】を高弟としていることから、この戸田一刀斎は伊東一刀斎に間違いなさそうであるとされています。)が諸国武者修行の途中、相模三浦三崎に立ち寄り、そこで多くの入門者を取ったとされています。このときのエピソードとして、天正6年(1578年)に三浦三崎に唐人が来航したときに十官という中国刀術の名人がいて、一刀斎は扇一本で木刀を持った十官と試合し、勝ったといわれています。
晩年、一刀斎は弟子の善鬼(姓不詳)と神子上典膳に下総小金原で、仕官と秘伝書を賭けて勝負させ、典膳がこれを打ち破って一刀斎の愛刀「瓶割り」と秘伝書を受け継いだそうです。善鬼は技にかけては師の一刀斎を上回る剛剣の使い手でしたが、平常心を失って破れたと言います。典膳はこれを機に名を小野次郎右衛門忠明と改め、江戸に出て仕官し、柳生家より先に徳川将軍家御指南役に選ばれました。その後一刀流は、小野忠明の後、子の小野忠常の小野派一刀流、次子の伊藤典膳忠也の伊藤派一刀流に分かれ、以後も多くの道統が生まれました。
戸田一刀流
戸田一刀流(とだいっとうりゅう)は、剣術の流派の一つ。流祖は戸田一刀斎家通。富田勢源、鐘捲自斎、伊藤一刀斎などとの関係は不明(しかし中条流、一刀流系統と同名の型が多数見られる)。越前国朝倉氏の士で、古くは外田と書き、文禄4年(1595年)7月22日愛宕の勝軍地蔵に祈って秘法を得たという。また諸国を巡り修行中鹿島山に参籠して巻物十二巻を授かり、一派を立てたという。秋田藩に伝えられていた。
型名
戸田一刀流太刀之事 / 一心二刀 / 明剱、真劔、絶命剱、今時定剱、獨明剱、下拂、本覚、精眼崩、比津身之位、宝持剱、鐡火之小太刀、稲妻、太刀剱、一文字、無一剱
戸田流太刀之事 / 柄詰、柄砕之小太刀、相車、左車、手離剱
戸田一刀流太刀極位之事 / 一心二刀 / 野中之幕、戸入、鹿之洞入、獅子之洞入、其具足、拾節、有無、切陰、無相剱、一ツ之太刀、乳之道、細道、廻車、二人詰、三人詰、長刀之大事、無之位、九寸五分之大事、御家之太刀、鑓留之大事、四條之位、五條之位
戸田一刀流切合之内鑓之事 / 虎走、糸走、水月、雲法
流儀歌
筑波山葉山繁山しけけれとおもひ入にはさわらさりけり
不思議や名な堀りたる池に水もなしなきかと見ればさゝ波ぞたつ
夢相剱と云なれはことそ無の字にて誠のうとや違ふことなし
戸田清玄
戸田清玄は富田勢源と同一人物と思われているが別人である。清玄と勢源は読み方が同じだから同一人とする人が多い、勢源は京都将軍(足利氏)の末、清玄は豊臣太閤の頃の人である。清玄は諸国を巡遊して門人が多いが、国々によって幾らか教え方が違うらしい(諸国の流末の剣法内容に差異がある)。現在、備前・備中・備後におこなわれる戸田流もその一つで、清玄門人の杉原無外という者が居合・棒を工夫して弘く伝えたのであるが、一説にはこの流の居合も棒も元は清玄がはじめたのだともいう。
戸田清玄は疑問の多い人物で、堀正平氏が清玄は俗名平五郎で富田勢源の門弟としておられるのに対して、山田次郎吉氏は別説で、初代戸田清玄が富田勢源その人であり、家を弟景政にゆずって以後、戸田清玄と書換え、流名も富田流から戸田流に改めたといい、さらに戸田新八郎(越後守、綱義、一利とも)が二代目戸田清玄であって、この人は越後国頸城郡戸田の産とも芸州の人弥左衛門星眼の子ともいわれ、文禄のころ疋田栖雲斎(文五郎)に新陰流を学び、加賀前田家につかえて五〇〇石、寛永十五年(1638)金沢に死す。七十五歳。『翁物語』に上泉門の四天王という疋田・柳生・戸田・小笠原の内の戸田清玄は、二代目戸田清玄の新八郎にちがいない、云々。
松原唯心の『武芸談』(寛永)に、「……一刀流の元祖戸田清玄というものは、武州八王寺の者にて、北条氏政につかえし者なり……」という一条がある。これは戸田清玄の出身地に関しては、私の見た限りでは唯一のぶんけんである。著者の松原唯心の経歴は不明であるが、私だけの推測では古藤田勘解由左衛門(伊藤一刀斎の門人で号を唯心という)の前名ではないかと思う。薙刀の武甲流伝書を見るに、流祖を戸田清玄とし、「戸田清玄ー北条氏邦ー強矢弾正ー大福御前…」以下の承伝が残されているのを併せ考えるのに、前記のごとく戸田清玄が北条氏の遺臣だったことは正当とおもわれる(綿谷雪著『日本武芸小傳』)。
佐々木小次郎については、中条流の富田勢源の弟子と『二天記』に記されているけれど、信憑性が曖昧で、勢源の弟子なら、恐らく六〇歳を超えるし、勢源の弟子の鐘捲自斎か戸田清玄の弟子では無いかという説がある。
戸田清玄の八王寺の出身地については、神後伊豆ほど明確に特定できない。八王子は北条氏照が由井の深沢山に八王子城を築いた後に(天正六年頃か)広く使われた地名である。
中条流
中条流(ちゅうじょうりゅう)
中条兵庫頭(兵庫助)長秀を祖とする剣の流派。
中条流は兵庫助から越前斯波家の臣甲斐豊前守に伝えられ、大橋勘解由左衛門を経て越前新庄城主山崎右京亮昌巌に伝わり、その頃牢人して山崎家に寄食していた冨田九郎左衛門長家に伝わる。さらに昌巌の三人の子景公、景隆、安房守、そして冨田治部左衛門景家、青木藤兵衛、印牧助右衛門吉広(弥次郎)に伝授されるが、中条流宗家の「家ノ書」は山崎河内守景隆が伝承。以後、中条流は山崎一族が、代々、伝書と道統を継承する。また中条流では兵法と書かず、平法と書き、その「家ノ書」の「平法口決」にあるように「平かに一生事なきを以第一とする」とあって、本質的に守りの剣法とされている。
また「中条流」は、南北朝期に興り、剣法の二大ルーツの一つといわれている。もう一つは同じ頃、念阿弥慈恩の興した「念流」だが、人によりこの「念流」を源流としないこともある。この「中条流」から「冨田流」が興り、「一刀流」へと発展した。佐々木小次郎の「巌流」もこの流れの剣である。この平法中条流は、仕太刀が二尺八寸、打太刀四尺三寸の木刀を使う。中条流は小太刀が喧伝されているが、実は長剣を用いていて、この流れを組む鐘巻流を学んだ佐々木小次郎が長い剣を用いても不思議ではない。
なお、「中条流」を興した兵庫頭長秀の師は念阿弥慈恩と同じ寿福寺禅僧栄祐で、「念流」と「中条流」は兄弟流派だと、隆氏は『死ぬことと見つけたり』(下12p)の中で述べている。 
富田流(とだりゅう)
中条流を越前新庄城主山崎右京亮昌巌から伝えられた越前朝倉家の臣冨田九郎左衛門長家(景恒)を祖とする剣の流派。冨田流の道統は長家から子の景家に伝えられ、景家の次男景政、その養子重政へと伝えられた。鐘捲自斎の師事した冨田勢源は景政の兄。この流派から「鐘捲流」、「一刀流」が生まれている。また、「外田流」、「戸田流」、あるいは「外田一刀流」「戸田一刀流」と称する流派も同じ一統とされる。また冨田治部左衛門景政は小太刀を得意とし、その道統が「鐘捲流」の小太刀に伝えられた。治部左衛門景政の子冨田五郎左衛門勢源は「冨田流」小太刀の達人として知られる。さらに治部左衛門景政の養子となった冨田越後守重政は「名人越後」として知られている。
鐘巻流(かねまきりゅう)
小太刀を得意とする剣の流派。鐘捲流とも書く。鐘捲自斎通家を祖とする剣の流派。「富田流」の富田治部左衛門俊直に師事し、自流を興す。自斎の門弟に「一刀流」を興した伊藤(伊東)一刀斎、佐々木小次郎などがいる。
『かぶいて候』では、「鐘巻流」は一名「外他流(とだりゅう)」とも云い、『名人越後』と呼ばれた富田勢源(とだせいげん)を流祖とするとも云われているとある。しかし、『名人越後』と呼ばれていたのは富田越後守重政で、勢源の弟景政の女婿である。  
 
柳生新陰流源流考

 

1 はじめに
石舟斎柳生宗厳が、はじめて上泉伊勢守秀綱に出合ったのは、永禄6年(1563)のことである。この時、35才の宗厳は、五畿内きっての剣豪とうたわれていたが、秀綱の剣技に、はるかに及ぼないことを自覚し、師弟の礼をとって教えを乞い、やがて一国一人の印可を許されるに至った。
では、それ以前の宗厳は、何流の兵法を学んだのであろうか。
尾州柳生家に伝わる『柳生新陰流縁起』によれば、上泉秀綱が廻国弘流の途次、伊勢の国司北畠具教を訪ねた。その時具教は、
「大和之國柳生谷二柳生といふ者在之候。此者神取(香取)新十郎が弟子二而新当流之兵法を相極、五畿内ハ勿論、外之國迄も人人存候遣手二而候。」
と秀綱に紹介したことが誌されている。即ち、宗厳は神道流(新当)を学んだというのが、尾州柳生家の記録である。
次に、江戸柳生家の『玉栄拾遺』をみると、
「公(宗厳)兵術ヲ好ミ諸流ヲ学ブ。就中戸田一刀斎ノ刀術ヲ信ジ、奥儀ノ獅子ノ洞入迄鍛練シ玉ヒ云々。」
とあって、宗厳従来の剣は、戸田(富田)流が中心であったとされている。
そこで、これら関係流派の目録等の比較から、その影響するところを考察したのが本論で・ある。先ず、新陰流の源流である陰流を尋ねてみることとしたい。(第一表参照)
   ○柳生新陰流と陰流神道流の関係譜(第一表)
2 陰流から新陰流へ
新陰流の源流とされている陰流は、紀州の豪族愛洲移香斎久忠(1452〜1538)の創始である。
この頃、すでに関東では鹿島香取の神道流が隆盛を極め、又三河の豪族中条家には、概ね100年前から中条流が伝承され、更に、鎌倉には禅僧慈音によって創始された念流が数十年前から行われていた。
この外、大館持房(1401〜71)が、正門流の達人であったことが『大館持房行状記』に記されている。持房は移香斎より50才年長であるから、移香斎の修行時代には、体系ずけられた流儀が少くとも数流存在したものと推測される。
従って、移香斎も陰流創始以前は、それらいずれかの流儀iを修行したとおもわれるが、それを立証する文献は存しておらず、陰流の創始にっいても、移香斎36才の時、目向の鵜戸神宮に兵法開眼の祈願をこめて参籠し、満願の日、蜘蛛の化身である老翁から秘伝を授かった、とのみ伝えているにすぎない。
(『平沢家伝記』)
陰流の道統は、その子小七郎宗道が継承して、当時常陸の大身であった佐竹義重に仕え、小七郎は義重から那珂郡平沢村の地を賜わったので、姓を「平沢」と改め、主家が出羽の秋田に移封されるに及んで、一族とともに同行して秋田に移住した。
『平沢家伝記』は、これらの経緯を伝えているが、剣の道統は7代平沢主水通有で終止したようである。
一方、陰流の道統は、小七郎宗道から上泉伊勢守秀綱に伝えられた。そして秀綱は陰流に新意を加えて新陰流と称し、新陰流は柳生宗厳によって継承され、所謂柳生新陰流となって江戸時代剣術界の大動脈をなすに至ったのである。
3 秀綱の鹿島修行
例えば、塚原卜伝の如く、当時鹿島香取の武芸者は、廻國修行に旅立っているから、柳生宗厳が廻國中の神道流の兵法者香取新十郎に師事したとしても、決して不自然ではない。
この頃、香取の飯篠長威斎はすでに世を去り、鹿島香取武術の総帥は松本備前守であった。当時鹿島の地は、城主排立問題に端を発し、一族の内訂は鼎の湧くが如く、ために松本備前守は、大永元年(1523)高天原の合戦において壮烈な討ち死をとげた。時に秀綱は16才であったから、備前守から直接指導をうけたの
は、15・6才の少年期であり、しかも極めて僅かな期間であったと推測される。
備前守の後継者は塚原卜伝である。この時、卜伝は鹿島神宮一千日の参籠を了え、心技ともに円熟した35才の壮年であったが、備前守戦死の前年、即ち、大永2年に第2回目の廻國修行に旅立って留守であった。帰國したのが天文のはじめで、11ケ年を費しているから、秀綱との面識は、ほんの僅かであったか、或は出会いは全くなかったとも考えられる。
秀綱にとっては、あこがれの鹿島修行ではあったが、松本備前守と塚原卜伝という目標を失っては、最早この地に未練はなかった。そこで、鹿島を去って、すでに老境の愛洲移香斎にっいて陰流を学ぶこととなったものと推測するのである。
新陰流の系譜をみると、
愛洲移香斎久忠小七郎宗通一上泉伊勢守秀綱… …
としているが、秀綱が学んだのは小七郎からではなく、移香斎から直接指導をうけたものと思う。
移香斎が87才を以て寂した時、秀綱は31才、そして小七郎は20才であったから、秀綱が20才で陰流を学んだとすれば、小七郎はその時10才の少年であった。年令によって師弟関係は論断出来ないが、秀綱が小七郎に師事したということは不自然である。
系譜上の疑義は、小七郎が陰流宗家の嫡子であり、且つ又、後日、大身佐竹家の師範となった社会的地位に対する尊敬的な秀綱の配慮と解すれば納得出来ることであろう。やがて、秀綱が愛洲陰流に新意を加えて新陰流と称するようになるが、それは秀綱35才以降のことであろうと『正伝新陰流』は推測している。
以上が秀綱の神道流から陰流に転向した経緯であり、秀綱の鹿島在住は僅かな期間ではあったが、秀綱少年の脳裡には、剣聖松本備前守指導の鹿島の剣が強烈に焼きっいたことであろう。
4 神道流の影響
上述のように、神道の流儀は、上泉秀綱が鹿島において学んでいるから、秀綱創始の新陰流に、すでに神道流が加味されていたことは確かである。従って、柳生宗厳がうけた神道流の影響の殆んどは、秀綱からであったろうし、それ以前に学んだという香取新十郎の影響と、特に区別することは資料的に不可能であるが、『柳生新陰流縁起』に、
「諸流之内而六ケ敷太刀、共、取わけ新当流之内二而六ケ敷太刀共を大形打太刀二致し候。」
とあるように、その導入は動かないところである。
今日、鹿島香取の武術は、二っの系統に大別される。
一つは、飯篠家に存続されている「天真正伝香取神道流」であり、柳生宗厳が師事した神取(香取)新十郎は、この系統の出身であろうが、文献上には全く、その名を見ない。
もう一・つは、塚原卜伝の生家吉川家に継承されている「新当流」であるが、管見するところ両流と新陰流との間には、目録上の類似点はみることが出来ない。
ただ、鹿島系の代表的流儀である直心影流の「法定」と、新陰流の「三学円之太刀」とに同一技名が
今日なお存していることは、神道流の影響として刮目すべきことであろう。
同一の技名とは、
 一刀両段(断)
 右転左旋(転)
 長短一味
であり、趣旨内容は、ほぼ同一と解するが、用字に若干の相違がみられるのは、門外不出の秘術の中に育って、代々の嫡伝が、時代即応の新解釈を加えっっ、今日に至った結果であろう。(第二表参照)
   ○ 柳生新陰流と直心影流の技名比較(第二表)
   新陰流(三学円之太刀)             
 ○一刀両段 / 一刀にて彼我ともに載断した位。
 ○ 右転左旋 / 我が勝は敵方にあって、我が方にない。敵の変化によって勝ちを取る位。
 ○ 長短一味 / 長短同じ味、という位。
 ○転(まろばし)
   直心影流(法定)
 ○ 一刀両断 / 一刀にて敵を二つに断ち割り、二の太刀なき教也。
 ○右転左転旋とも云 / 是は変化の太刀を主として教ゆ。
 ○ 長短一味 / 太刀の長短にて得失なし、得失は必ずわが進退にあることを教ゆ
 ○丸橋(まろばし)
次に、直心影流に「丸橋」、新陰流に「転」という秘術にっいて検討してみたい。
「直心影流伝解」は「丸橋」について、「元来、不立文字(道は心に悟るべきものであるから、文字には表現しない、という教法)に属する立禅の真体にして、動静一致の修道である。故に、無窮の道力を以て、至精至大の神位を掴養する」と、むずかしい解説をしている。
太刀数は五本あり、一本も打ち合うことなく、すべて気合で相手を制し、太刀を抑える形である。
一方、新陰流の「縛」について『柳生流新秘抄』(正徳6年一1716)は、
「たとえば、川に丸木橋をかけ、是を渉らば少も片寄ることもならず、真中を単身にて直ぐに往より外はなし。方ならざれば、足を止べきやうもなし。身体八腋ともに止る心なく、唯一筋に行く心持を文橋と云なり。」
と説いているが、元来「丸橋」と「転」は、同音異字と解されるし、『剣と禅』は「いまという時、ここという処に、全生命を打込んで、即時即処に円球を盤上に転ずるように円転無凝に真実を行ってゆくことである」と解説しているように、秘術の趣旨は、これ又同一と解してよかろう。
柳生十兵衛は「三の数」の勝理に達したという。「三の数」とは、敵が打ち込んでくる、受ける、応じ返す勝理であって、「先の太刀」の勝よりは、「後の先」の勝を旨とした技法である。それは即時即処、円転無凝の「転」の勝理であり、直心影流の「丸橋」の境地であると考える。
更に流名についても関連性があると思考されるので、次にのべることとしたい。
5 新陰流流名考
直心影流の伝書によると、松本備前守は、神より授かった秘術秘技であるから神のお陰によるものである、として流名を神陰流と称したという。
上泉伊勢守は、松本備前守の神陰流と、愛洲移香斎の陰流とを折衷し、更に自己の新意を加えて新陰流と名ずけたとするのは当を得た推測であるが、ただ、それだけの単純な意味であろうか。
「先ず、陰とは何を意味したか。柳生十兵衛三厳の『月之抄』をみると、新陰流の剣は、陽の太刀ではなく陰の太刀、構を用ひず、構なきを構とする。敵のはたらきに随てなす所新陰流のタテハ(役目、領分の意)也。切らず取らず勝たず負けざる流。」
とあり、打突の勝負を超越した心の太刀を意味している。即ち、陰とは心をさしている。
宮本武蔵ば『五輪書』において、「かげをうこかすと云事」「かげをおさゆると云事」を説いている。前者は、敵の心を見抜くこと、後者は敵の意図を事前に押えることであり、いずれも陰は心を意味していることに変りはない。してみると、当時、武道用語としての陰は心を意味していたと解せられるのである。
後世、陰はいろいろな意味に推測解釈されているが、直心影流系では、「陰とは内に蔵してみだりに発せぬ心、即ち、心術の意味である」とし、『剣道の発達』では「勝に進む所の一心を指して陰と云ひ、剣を振ふ身体四肢の動作を陽とす」として、共に陰を心としているのは、当を得た解釈と云えよう。
では、新とは、単にアタラシイという意味であろうか。
「『漢和大字典』によると、新。辛と木と斤の合字。木を伐採すること。故に斤(をの)と木を書く。辛(シン)は音符。」
とあって、その語源は「斧で木を断ち切る」意味である。即ち、新陰流とは「心の邪心を斬る剣法」ということであり、同流の兵法書においても、そうした修身治国の哲理は一貫して読みとれる精神である。
以上の私説は、決してコヂ付けでない。その裏付けとして、塚原卜伝の新当流々名のよってきたる所を簡単に説明しておきたい。
卜伝より150年後世、卜伝より数えて六世の嫡伝である吉川常明は、歴代中特に学問に秀れ、延享2年(1745)、かねてから心にかけて諦んだ新当流太刀模様に関する和歌をまとめ、その序文を東郷貞に依頼した。郷貞は常明とともに鹿島神宮に奉仕する由緒ある家柄であったから、常明のもとめに心よく応じた。即ち、
「『新当流和歌』序文である。曰く、
新当の二字、他流は太刀の号を以て此に名ずけ、或は始祖の号を以て此に名ずく。吾が新当流は能く敵に向うを以て新と日い、能く敵を塵にするを以て当という。故に随機応変を詳にするなり、と。」
これは東郷貞の創意とも考えられないし、文政の頃、鹿島において修行した大月関平も『新当流流名辮』に、同様の意義を註しているから、江戸時代を通じて、上述のような解釈がなされていたことは確かである。即ち、新当流は神道流の替字であるとともに、父祖伝来の鹿島の太刀に新意を加えた意、更に「心を新らたにして事に当れ」という御神記の意、などすべての意にかけて、広く大きな意味をもって呼称されていたのである。
鹿島神道流を学んだ上泉伊勢守が、陰流から新陰流と改称するにあたって、両流を折衷し、更に自己の新意を加えて薪陰としたことは、充分理解出来るが、その上、新当流命名の例と関連して、新陰とは心の剣を悲願として名ずけられた発想であることを併せて理解すべきであろう。
6 富田流の影響
移香斎が創始した陰流の内容の手がかりは、今日となっては、中國の『武備志』以外にないようである。
『武備志』は、明の茅元儀の著述で、それによると、明の嘉靖40年(永禄4年、1561)、河北省の叔継光という官吏が、陰流目録を陣中において入手したというのである。この目録は、従来、移香斎の陰流目録とされているが、私は、その子小七郎宗通の猿飛陰流とみている。
この年は、移香斎殿して24年後であり、嫡子小七郎はすでに44才の充実した壮年期であった。当時、兵法家は30才頃には一家を成して、目録、印可を与える立場にあったから、『武備志』所載の陰流目録は、小七郎の印可したものである、と考えても無理はない筈である。加えて、最も大きな理由とするところは、猿の刀操図である。
前述したように、日向の鵜戸神宮の霊窟において移香斎に秘伝を授けたのは蜘蛛の化身となった老翁である。小七郎の陰流は、常州久慈郡真弓山で、前勝坊と称する異人が、老猿と刀法の秘技を小七郎に示したことから開眼した猿飛陰流であるからである。
それはさておき、『武備志』所載の陰流目録と、柳生新陰流、それに富田流系のそれと比較してみると、極めて類似点が多いことに気付く。富田流とは云うものの、当時、富田一族に名人達人が輩出したので、いつしか人呼んで富田流と称したのであって、実は、その内容は中条流であることは云うまでもない。(第三表参照)
以上の事実は、愛洲移香斎が陰流創始以前に中条流を学んだか、或は逆に、中条流が陰流の影響をうけたかのいずれかであるが、歴史的にみるならば前者を正しいとしなければならなv'。
宗厳の青年時代、越前の富田家では富田景家を頂点として、勢源、景政兄弟が25才前後の血気で、最も充実した時代であったから、柳生宗厳が秀綱と出会う以前は、あこがれの富田流を学んだということは、一番妥当な推測である。
技法を比較してみても、柳生新陰流「燕飛之太刀」の目録名称八技の内、阿波賀流のそれと同一技法が五技あり、関流と比較すれば六技あることによっても、影響の深さが理解出来よう。
因みに、阿波賀流の流祖は阿波賀小三郎釣竿、富田九郎右衛門長家(景家の父)の門から分派したものであり、又、関流は富田勢源の養子となった関久右衛門保重の流儀で、一名、機流と称し、管槍を得意とした。(第四表参照)
   ○ 中条流(富田流)系譜
7 むすび
『玉栄拾遺』に、柳生宗厳は戸田一刀斎について戸田流(富田)を学び、奥儀とする「獅子ノ洞入」まで達しことが記されている。
「然し、「獅子ノ洞入」の技名は、中条流、富田流系には見当らず、むしろ神道流系に「獅子」を冠する技名が散見される。即ち、
獅子食詰(『新当流兵法書』)
獅子奮迅(『新当流松岡派仮名書』)
獅子洞出(『新当流兵法仮名書』)」
などであり、「獅子ノ洞入」は神道流系の技法であるとも考えられる。
更に、念流の『念流正法未来記目録』をみると、「獅子入窟」或は「身懸獅子向巌」の技名があり、「入窟」と「洞入」を同義と解すれば「獅子ノ洞入」は神道流系より、むしろ念流導入の色彩が濃厚である。
念流流祖相馬四郎義元(慈音)は、青年期に洛外鞍馬山において兵法を学び、京には六人の名だたる門弟があったから、畿内には念流を指南する兵法家があった筈であり、宗厳にとっては、神道流、富田流を学ぶことより、手短かな方法であった。
『柳生新陰縁起』に
「陰之流を根元二仕、諸流之奥儀之位心持を、其身之工夫を以加、新陰と相改申候」
と云い、『玉栄拾遺』には、
「公(宗厳)兵術ヲ好ミ諸流ヲ学ブ」
とあるように、宗厳の兵法執心は、固定した一流儀にとどまらず、当時の諸流を学び、寝食を忘れて只管、剣の研究に没頭したのであった。
武術流儀発展途上にあって、長短取捨は当然の現象であり、柳生新陰流も大成する過程において、宗厳は神道流、富田流、念流その他の流儀を学んだが、終局として上泉秀綱という良師にめぐり合い、その指導のもとに柳生新陰流が大成したということである。  
 
山崎左近将監

 

山崎左近将監 (やまさき-さこんしょうげん)
織豊時代の剣術家。富田(とだ)重政(1564-1625)の兄(一説に弟)。父山崎景邦に中条流をまなび、富田流三家の一つ山崎流(中条山崎流)の祖となる。朝倉氏、のち前田利家につかえた。名は景成。通称はのち五郎右衛門。

伊東 一刀斎(生没年不詳)は戦国時代から江戸初期にかけての剣客。姓は伊藤とも。江戸時代に隆盛した一刀流剣術の祖であるが、自身が「一刀流」を称したことはなかったという。名は景久、前名、前原弥五郎。 ・・・現存する伝真田幸村写本『源家訓閲集』に収録の「夢想剣心法書」には、文禄4年(1595年)7月のもので署名が「外田一刀斎他二名」とある。外田一刀斎とは鐘捲自斎の別名でもあり、自斎も経歴のよくわからない人物である。したがって、出身地など両者の事績が重なっている可能性もあると考えられる。一方、柳生氏の記録『玉栄拾遺』の注記には、一刀斎の師は「山崎盛玄」とされている。「名人越後」と称された富田重政(富田流)の弟(兄とも)に山崎左近将監景成があり、剣名が高かった。あるいはこの山崎景成が「山崎盛玄」である可能性もある。 ・・・晩年、一刀斎は弟子の善鬼(姓不詳。小野姓とするのは俗説)と神子上典膳に下総小金原で勝負させ、勝った典膳に一刀流秘伝を相伝した。典膳は後の小野忠明(小野次郎右衛門)である。一刀流は、小野忠明の後、子の小野忠常の小野派一刀流、次子(忠明の弟とも)の伊藤典膳忠也の伊藤派一刀流(忠也派、伊東派とも)に分かれ、以後も多くの道統が生まれた。  
 
剣道観

 


剣道は、本能的な格斗の手段として発生し、吉野・室町時代を経て、戦国の乱世には自守自衛の為の武術として急速な進歩をとげ、江戸時代に至り、世が一応治まると武士の嗜みとしての剣道となり、武術としてよりも心身の鍛錬を目的とする剣道へと発達し、特に精神修養の方法として重視されてきた。
剣道の名称について見ると、上古の時代には、「撃剣(たちがき)」と呼ばれ、奈良時代には、「撃剣」「刀剣」という文字を佼い、「たちうち」と呼ばれた。この「たちうち」が「太刀打」という文字となり、平安時代・鎌倉時代を経て室町中期頃まで一般に用いられていたようてある。その後、江戸時代の初期にかけて、「兵法」という言葉が使われ、ついで、元禄前後から明治維新の頃まで一般に、 「剣術」という言葉が用いられ、明治・大正にかけて、広く「撃剣」とか、「剣術」とかいう名称が使われたが、大正十五年五月二十七日の学校体操教援要目の改正の時から、従来の「撃剣」を「剣道」と改めて法規上正式に使用し、その後は「剣道」という名称が一般に用いられて現在に至っている。
古代から戦斗形式と武器、及びその使用法は相即不離の関係に於て発達してきた。「十握剣」の伝説を初めとして、屈刀・頭槌刀・高麗刀などがあり、剣法も大陸の影響を受けて支那式の片手使いが用いられた。
数百年に渉る実地使用の結果は、直刀の元切りよりも反刀による先切りの方が有効である事が立証され、刀剣も直刀平造から反刀鏑造に変って来たのである。更に刀の使用法も片手使いよりも双手使いの方が合理的であり、有効である事が判り、その為に刀の柄を長くして、ここに日本独特の双手使いの刀法が創案された。
鎌倉時代になり武士社会の発生と共に武士道の発達をみ、更に当時隆盛であった禅宗と渾然一体となって大乗的な武士腫を育成した。
剣術も組織的な体系が形づくられ、師弟の関係ができて、流派が生じて来た。
このように剣術は、素肌で武技を練り剣理を研究した流派剣術と、刀剣の技術の巧拙を競うよりも、むしろ、強力をもって、刀剣を振り廻して敵に向うことに終始した戦場剣術との二方面の研究が盛んに行われた。
この時代には、念流(僧慈恩…一(相馬四郎義元))、天真正伝神道流(飯篠山城守家直)、陰流(愛洲移香)、中条流(中条兵庫助長秀)などの剣法の源流ともいわれる流派を生じ、この各流から更にト伝流、一羽流、微塵流、新陰流、富田流、鐘巻流、柳生新陰流、一刀流などの諸流を生じ、これらの流派は更に又流派を生んで、江戸時代にかけて二百余流の多数になり流派剣道の全盛侍代をみるに至った。
江戸時代には階級制度が確立した結果、剣術は武士階級の独占する所となり、武士は表芸として、これをたしなみ、技術の練磨とともに精神約方面をも重視し、儒教・仏教、ことに禅宗の影響によって道徳的要素が強く加えられ、武士の実践腫徳としての武士道として、剣の理論的、精神的内容を与え、武士としての人格陶治に大きな価疸を認めて、これを重要視し、江戸中期以後は、武術としてよりもむしろ、心身の鍛錬をねらいとする剣の道へと発展した行ったのである。                             
宝暦、明和の頃、防具や竹刀が考案されて、竹刀打ちの剣術が創案され、これによって従来の素面、素小手の形による練習から、防具を使川して、打突部位やその他の約束による竹刀打ちの練習や試合に変り、この頃からスポーツ的な傾向が見られるのである。
この事は剣道の進歩発達に非常な影響を及ほしたのである。
大正元年には、根岸信五郎、高野佐三郎、内藤高治、門奈正、辻真平等が主査となって従来の各流派の形を綜合続一して、当時の剣道の指針ともなる「日本剣道形」を制走して現代剣道の基礎を作り今Elの発展をみるに至ったのである。
以上の如く剣道の発達過程を概観する時、歴史的、社会的基盤に立って原始約剣術は、攻撃防禦の手段としてのみ発達し、発展せる剣道は人間修養の手段として、心法の研究実践と相俊つて、修身、斉家より進んで治国、平天下の道を求めて来たのである。
古来より武術の流祖と仰がれる人達は、各々その流派に己の理想とする内容をもった名称を名づけて、人格と剣技の陶治鍛錬に努力して来たのである。
即ち活動無限の精神とその修養方面を以ってしては、無眼流、克己流、貫心流、心形刀流、無刀流等があり、或は広大無辺の天の心を表わしたものに、天道流、二天流、北辰一刀流等があり、或は全知全能の神を以ってしたものに、神道流、神陰流、神道無念流等があり、その技術の上達すると共に次第に己の理想を高め、心身を鍛錬して安心立命の境地に達しようと努めているのである。
沢庵禅師によって教示された、柳生但馬守宗矩の剣禅一致の論は禅をもって剣を引き上げんとしたものであり、宗矩の剣法の奥儀「兵法家伝書」の第一義である「無刀の巻」は宗矩の剣道の真価を示すものである。
宮本武蔵は兵法修業によって自ら禅境に悟入したといわれる。
更に針谷夕雲の「相ぬけ」論は、斗争の極致は無勝負の境地にあると説き、自らこれを実践している。
古来幾多の剣道家達が刻苦修業し、生死の厳頭に立って到達した剣技と剣理、及びその思想を彼等の著作、及び伝書、並びに彼等に多大の影響を及ぽした禅僧の著作等を参考にして究明する時、現代剣道を含めたあらゆるスポーツに、その情神は活かされ、更になお現代社会生活にも必要な精神杓要素をもっていると信ずるものである。
1 剣道修練の態度
原始約な剣術は、攻撃防禦という斗争本能から発達したものである。従って工夫或は技巧をする:事が少なく、相対力の強い者が大体に於て勝を制したのであるが、剣の使用法、相手に対する動作等も、だんだん研究されて、単に太刀を振り廻す事から発達して、理に従い、道を踏み、法に則って敵に勝つという事が考えられて来たのである。
しかし、それはまだ単に、自己に直面する敵に打ち勝つという事以上に発展していない。所謂外形的な剣術である。このような剣術が行われたのは戦国侍代頃までと推祭される。
徳川氏により天下統一がなされてより、その初期は別として、実際戦場に於て太刀を用うべき機会が殆ど無くなり、その結果としてこれまで外部の敵にのみ対して考えられていたものが、次第に内部に向けられ、自己の反省、自己を処置す可き規範を体験するの方法に転換して来たのである。即ち術から道へと発展してきたと考えられるのである。
徳川時代の宗教及び文芸の勃興と共に、剣道の体験を是等と結合して考えるようになり始めは宗教、文学等により剣道の理を説明せんとしていたものが、その内容が豊富になるに従って、反対に剣道を通じて、大自然の真埋にまでも徹せんとするようになった。
宮本武蔵が其の五輪の書に
「兵法の理に任せて諸芸、諸能の;亘となせば、万事に於て我に師道なし」と言っているのはこの間の消息を語るものである。
かくして、殺人剣に対して、活人剣なる語まで用いられて来たが、それは剣道の意昧がだんだん深遠に考えられて来た事を示すものである。遂には太刀を抜かずして勝つが剣道の至極なりとさえも考えられるに至った。
武士は腰に両刀を帯ぶるも、それは人を斬るにあらず、己の邪心を断つなりというに至った。このような考え方は、剣道の成立原因からみると全く反対の考え方であって、それだけ剣道は倫理化し、内面化したものというべく、真の意味に於て発展したものと言って良いのである。
以上述べ・て来た事は、古来からの剣道家達の言動から容易に推察する事が出来る。彼等は単に剣技の達成のみでなく、精神の修養と人格の完成を目指して努力し・又弟子達に剣を学ぶ態度を指導して来た事が判る。
即ち中条流の一派、山崎派の山崎左近将監は、其の秘伝聞書に
「平法とは、我が一心を治め、国、天下おも平治する意にて、中条流に於て、誠に第一の心得にて、一通りの兵法にてはなく、平法にて人を治むるわけ故・人を害し・人をなやます剣術はあらざるなり。」といっている。兵は平である。武は交を止める意である。干黄を動かさないで平を致すのが剣の要義である事を説いている。
また中条流の源流である、念流の創始者である僧慈音は、応仁時代の者で俗名を、相馬四郎義元とよぶ奥州の人であり、鵜戸山大権現に祈って・剣道の秘奥を悟り・後に鎌倉地福寺に入り僧になったといわれる。
僧慈音は仏教の方面より、剣道を単なる武技に留めずして人間修業の大道たらしめんとしている。 「念流兵法聞書心得」に
一、夫れ当流は、天下の道に叶い、万事に通ずるように修業致したきものなり。(後略)
一、当流は各灯、各自、日々の家業に用ゆること肝要なり。 (後略)
一、武術は勿論、神.儒、仏の教と少しも違う、ことなし。若し違いば邪教なり。
一、剣術の教も、命を知るをもって要とす。剣術の高を得るを以て極とす。故に剣の命という。剣道を学びて命を知らざれば、無着実者なり。
一、兵法は五方というあり。是は天に在る時、元、亨、利、貞。人に在る時は、仁、義、礼、智、信の五常にして、兵法にある時は、柔、弱、強、剛、謀の五法なり。(後略)
一、剣術の理と、天地間の理と同一なり。此の理、形無くして空なり。空なるが故に目に見えざるなり。然りと錐も、亦形ありて、剣法を悟る人に見えるなり。(後略)
この心得書は、慈音の筆授ではないが、慈音以来、伝統の精神を述べたものと認める事が出来る。
兵法中興の祖と仰がれる上泉伊勢守信綱(足利、豊臣時代)は・陰流と神道流を修業し二流を基礎として、神陰流(又は新影流)の流祖となり、心法の研究を加えて、斯道に一生面を開き、天下を指導したのであるが、
その兵法に対する態度は、
「兵法は人のたすけに遺にあらず、進退妥に究りて、一生一・度の用に立るなれば、さのみ世間に能く見られたき事にあらず。たとひ仕なしは、やはらかに、上手と人には見らるるとも、毛頭も心の奥に正しからざる所あらば、心のとはば如河答えん。仕なしは見苔しくて、初心の様に見ゆるとも、火災の内に飛入、磐石の下に敷かれても、滅せぬ心こそ心と頼むあるじなれ。…(中略)…身を離れたる工夫は、初心の内は用に立ぬものなり。縦ひ理は合黙しても、所作ととのはぬ故、勝口正しからず、先づ所作と心との和含するようにつかう心もちよし」と教えている所をみても、剣道を単に刺撃の具にしなかった信綱の心底を、窺う事が出来るのである。
五輪書の「地の巻」には
「……武士の兵法を行う道は、何事に於ても人にすぐるる所を本とし、或は一身の切り合にかち、或よ数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身を立てんと思う。是兵法の徳を以ってなり。又世の中に兵法の道を、ならいても実のときの役には、たつまじきと思う心あるべし。其の儀に於ては、何時にても役に立つよう稽占し、万事に至り役に立つ様に教うる事是兵法の実の道也」と述べて剣の修業によって万道に通ぜん事を理想としている。更に「(前略)とりわけ此兵法の道に色をかざり、花をさかせて、術をてらい、或は一首場、或ぱ二道場などいひて、此道を教え、此道を習・・て利を得んと思う事、誰かいう、生兵法大疵のもと、まことなるぺし」と剣道修業の心得と注意を強く述べている。
大導寺友山(享保十五羊没)は、その著「武道初心集」に於て、兵法修行の態度を詳細に述ぺている。軍法戦法の項に
・・・「然れば武士は必ず兵学を仕るべき事に候。然りといへ共、兵法の修行を悪く仕り損ひ候へば、功者づき候程、我が智に高ぶり、寄潭る人を見こなし、実理仁もあらぬ高上なる理屈だてを申して、若輩の耳を誤らせ、気立を傷、・、口には正義IE法に似たる分外の言葉を吐候へ共、心浪ま大に貧り、立にも居るにも利害を謀り、次第に人柄悪くなり、武士の意地合までも取失う者之有候。
是れ兵学修行の中半なるに付ての過失に候。とても兵を学ぶとならば、此半途に足を止めず、如何にもして奥旨に至り、やがて元の愚に立帰り、安住致すまでに修行仕度事に候。
然れ共我人兵学の半途に日を送り、奥義に至る事叶はず候ゆへ、元の愚に立帰るぺき方角を取失い、狼狽罷在候よ、心外の至りに候。
爰に愚に帰ると申すは、いまだ兵の道を学ばざる以前の心の如くにと申す事に候。
総じて味噌の昧喉くさきと、兵法者の兵法くさきとに出会候ては、鼻向もならざる物のよし、古来より申し候。初心の武士心得のため傍如件」
武道初心者に対して、兵法修業の注意を述ぺて余り無しと云うぺさである。
世が平和になるにつれ、剣道は当初の目的である実戦主義からはなれて主として武士の表芸として人間練成の手段となったが、徳川中期以後は、平賀源内が「刀は姻管よりも細し」と評したように、武士の気風は軟弱になり、竹刀打ちの技術は益々巧妙を極めるようになり、武道の稽古が、いつれも「華法」に流れる傾向にあった。
この時にあたり多いに実践的武道を鼓吹した平山行蔵が現れ、主として実用的武術を鍛錬し、武芸十八般を制定し、その道場、兵原草盧に於て弟子三千人を指導したといわれる。文化三年六刀に、武芸十八般略説という書を著わして、日本武術の集大成を行い、剣法に於ては、忠孝真貫流の流祖となり、徹底的な実践訓練を行った。
其の著、鈴林厄言に「当流の剣術、短刀を用る事は、格別に気勢を引立んとの仕懸けなり。短刀を取りて、ためらう事あれば、忽ちに敗をとる事、踵をめぐらすぺからず。因って敵の撃刺をかまわず、この五体を以って敵の心胸を突て背後に抜け通る心にて踏込まざれば、敵の体にとどかざるなるなり。・(中略)…流義の本意、戦場に向い潔く打死をする精神を取立る演習故、打ちつ打たれつして、柳の当り外れを吟味する比較とは、其相違せること天地なり。・(中略)…只大音声を上げて刀を打込み、敵軍にかかるの勇気を引興すまでなりと云しとなり。接ずるに意味甚だ面白し。武芸の地磐と云うはここなり。ここが出来ざれば、如何ほど手づま調練が出来ても、魂が無き故、芝居狂言の如し。事に臨んで狼狽せん事必定なり。是を武芸の習発れと云う」
更に「剣説」の開巻勢頭に「夫剣術は敵を殺伐すること也、其殺伐の念慮を・蕎直端的に敵心へ透徹するを以て最要とする事ぞ」と述べている。
行蔵が武道を説く文章は、端的に卒直に要領を道破して徹底的であるところ、躍如として吾人に迫り来るを覚え、その風格を偲ぶ事が出来る。文化四年露艦エトロフ事件起るや幕府に上書し、身を以て事に当らんとし、更に文化十三年に「海防問答」を著わし、その知識と識見は単なる武術家ではなく実に後世武聖と尊称される以所である。
山岡鉄舟は幼にして剣を学び、一刀流の奥妙を極めると共に五人の鐸師に参じて研讃し剣禅一如の境地に達し、明治十三年三月三十日遂に無敵の境に到達し、無刀流と称したがその言に「…(前略)…余の剣法を学ぶは、偏に心膿錬麿の術を積み、心を明めて以て、己れ亦天地と同根一体の理、果して釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ。世人或は余を見ること、猛虎の如しと。然れども余未だ且って殺生を試みたる事なきのみならず、一点他人に加害したる事もあらざるなり。
否猶終身斯道に違わざるを誓う。是れ余が剣法修行の自覚となす」と述べている。
幕末から明治初期の混乱変動の時期に於てよく剣の深奥を体現した名人と云う事が出来る。
この剣繹一如の境地に達してこそ、明治維新当時、幕府の使者として、駿府に西郷隆盛を訪ねて江戸百万の人命を救う事が出来たのである。
更に鉄舟と共に明治の三舟として有名な勝海舟は、天保弘化の頃、島田虎之助見山の門に入り、修行すると共に、広徳寺に於て坐禅を行い、その効果を述べて日く「剣道と坐禅とが余の土台となって入聞精神上の作用を悟了し、何時も先づ勝負の念を度外に置き、虚心坦懐、能く事変に処した。小にしては多くの刺客乱暴人の厄を免かれ、大にしては幕府瓦解前後の難局に処し緯々として余裕あり、万死の境に出入して遂に一生を全うしたのは是畢尭剣道と 禅学の二道から得来った賜である」と述懐している。
剣道修練の態度心得を学校剣道の方面より見ると、大正二年一月二十八日文部省訓令第一号学校体操教授要目中の剣柔道について「撃剣及柔術は、其の主眼とする所身心の鍛錬に在りと錐も、特に精神的訓練に重きを置くぺし。技術の末に奔り勝負を争うを目的とするが如き弊を避くるを要す」とあり能く剣道指導のねらいを言い表している。
更に高野佐三郎先生の撰ばれた剣道教習綱領によってみると、剣道学習の方針が示されている。
第一条 忠君愛国の大義は武道の本領なり。武道を講習する者は、平素心身を鍛錬し、義勇奉公の修養を怠るぺからず。
第二条 礼儀を重んじ、決して驕漫卑劣の行あるぺからず。
第三条 名与と廉恥は武士の生命なり。斯道に志す者は、筍も表裏背信の行為あるべからず。
第四条 恭敬慈愛を重んじ、決して長を凌ぎ少を侮り、剣を知らざる人を蔑にし、名を争い誉を尭うべからず。
第五条 平和を旨として、務めて争心を去り、口論私斗の行あるぺからず。
第六条 質素は剛健の源にして、浮華は儒弱の本なり。務めて軽挑淫靡の行を戒むべし。
第七条 兵は凶器なり。之を義に用うれば武の徳となり、之を不義に用うれば武の暴となる。
第八条 師長に対しては、尤も当に敬意を尽すべし6其の教を奉じ其の命に従い、以て規律節制の習を養うべし。
第九条 忠孝は皇国の精華にして、治に居て乱を忘れざるは古人の訓なり。剣道を講究する者は右の条々を遵奉し、以て国華を発揮すぺし。
之は実に戦前に於ける剣道学習者の規範となり、更に剣道界の倫理として長い間実践されて来たのである。
第二次世界大戦に突入した昭和十六年頃より、極端な国家主義・軍国主義思想が拾頭し剣道界も戦時体制化され、剣道も戦技的性格が強調され・そのねらいや内容も大きな変化がなされたのである。
昭和二十年十一月文部省は「超国家主義及び軍国主義の鼓吹に利用され、軍事訓練の一部として重んぜられた」との理由によって、剣道は一一時禁止されたのである。
しかし剣道は戦時中の国家主義的思想を払拭し、民主工1勺スポーツの立場に於て、昭和二十入年に新しい撃剣が生まれたのである。
このように、現代の剣道は、日本民族の長い歴史と共に・その尊い体験を通じて発達し、新しい時代の要求に即応して進歩発展した格技に属するスポーツであるという事が出来る。
現代の剣道愛好者は、剣道そのものの活動を好むが故に行い、活動そのものに楽しみを見出すと共に、より高い技術を追求し、その為に肉体杓、精神約苦痛も耐えて行くのである。更に剣道は、スポーツとして存在する為に一定のルールを持たなければならない。即ち打突部位を規定し、試合時間、試合場の大きさ等を一定にし、審判員も三人の合議制にして公平な審判を行い、相互肯定的(協力)な立場に立って、人間性を尊重し合っての、「ルールのある」格斗技として行われるようになった。
2 剣道と禅
禅の簡素直載なる宗風は、当時の鎌倉武士の求道の清神に合し、執権北条氏以下の部将士卒の帰依を得る事が出来た。彼等は戦易馳駆の間に処するに必要な死生観の確立を禅によって求めたのである。
禅の教義は一切を捨て切ることで、そこに死生観の確立があり、それによって恐怖を自ら粉砕し離脱し切る所に宗教的悟入がある。坐禅によって自力を以て直裁に生死の疑雲を払拭せんとする所に禅機があり、武士達の、渇仰帰依をうけた所以もここにある。
戦国武士にとって、彼等は直ちに戦場という生死の場に直面せねばならず、彼等と禅家は、この一点に於て同じ問題に対するわけである。武士が、死生の解決を禅に求めんとするのは当然であって、特に日本禅が武士と結びついた点は、印度、中国禅に全く見られない特異な事というべきである。
武士達は文字による生死の理論を求めるのでなく、直接、禅の究極の死生観を求め、これに安住しようと期したのである。
死生観とは、結局死の恐怖心を脱却して生を明らかにする事である。一度死の恐怖を脱却すれば、人は誰でも悠々として、天地に自在の働きをなし得る。その為の修禅であった。
武家政治と禅の結びつきは、そのまま武術修業者と繹の結びつきにもなる。
徳川時代の剣に関する著述記録は、多くは事(わさ)即ち業(わさ)と共に、理(心法)を説くことが普通であり、理に於ては禅を論ずるものが多く、更に儒教思想も剣技の心法に介入し来た跡も少なからずみられるのである。
現存する当時の武芸書を挙げてみると
本朝武芸小伝
著者目夏弥助繁高は、天道流の達人で酒井氏の家臣である。武芸一般にわたる列伝の書としては、これより古いものはなく、記事も正確である。正徳四年に成った。
日本中興武術系譜略
彦藩の志賀義言件敬の編集によるもので、原版は明和四年の版行であるが更に寛政二年に改版したようである。武芸小伝を本として其れ以後、明和時代までの剣客の列伝である。
武術流祖録
江戸の羽島耀清、池田豊直、青山敬直の三人の編集したもので、各流祖の事蹟と系譜が述べられてある。天保十四年版行されている。
撃剣叢談
著者源徳修は岡山藩士で、剣術師範役の家に生まれた。本書は十数年間に見聞した全国各流の大要を記述したもので、非常に内容が豊富である。天保十四年版行されている。
不動智一巻
世に「不動智神妙録」または「剣術湛語」と名づけられているものである。
本書は、釈沢庵が禅学上の見地から、剣道を論じて柳生宗矩に与えたものといわれ、剣法と心法との接触を論じて、非常に詳密を極めている。後の剣禅一致を説く者は、多くはこの書を祖としている。剣術が進んで道となり、術法が心法となったのは、実に本書の力であるといわれる。
太阿記一巻
この書も沢庵の書いたものといわれる。
兵法三十五箇条
本書は、寛永十八年二月、宮本武蔵が熊本藩主細川忠利の命により、書いた兵法覚書である。三十五項目に亙り、兵法の心得と奥義を記述したもので・後に著した「五輪の書」は本書を説明したものである。
五輪の書
本書は「五輪の巻」ともいわれ、地、水、火、風空の五巻に分け、兵法の極意を記述したもので、宮本武蔵が寛永二十年十月十日・六十才ρ時より書き始め・正保二年五月十二日に完成したものである。
地の巻は、将師用法の大道を説き、水の巻は、撃剣稽古のありさま、火の巻は、合戦の様子を述べ、風の巻は、他流の評論、空の巻は、万理一空の場を説いたもので、此の書は後に、二天一流の秘伝となり、免許を得た者でなければ伝える事が許されなかった。
本書も心剣一致を説いたものであるが、沢庵のは剣禅、四分六分であるが、武蔵のは、剣禅六分四分である点は興味がある。
円明流剣法書
円明流とは、宮本武蔵の二天一流の別名で後世に名づけられたものである。
本書は「五輪の書」の抜書であると思われる。
剣法夕雲先生相伝
著者は針谷夕雲の弟子、一雲であるといわれる。徳川初期の頃の人で、当時の剣道界の状況を述べ、特に理義を退けて実習の工夫を説き、柳生剣法を批判し、相ぬけ論を唱えた点など非常に高い見識と悟道を窮うことが出来る。
一刀斎先生剣法書
一刀流の古藤田俊定(大垣戸田候の臣)の剣法論である。理義を説明するのに余り禅理に傾かず、しかも同時代の柳生宗冬(宗矩の子)及びその一派の剣法論とやや趣を異にしている点は注目すべきである。寛文四年の著作である。
柳生流新秘抄
本書は、柳生宗在(宗冬の子)の門弟、佐野嘉内勝旧によって書かれたもので、新陰流の形の目録の註釈書である。全く禅理を離れた技術上の説明書である。正徳六年の著である。
天狗芸術論
本書は、理兵法に偏し過ぎるほどに、剣法即心法を説いたもので、著者侠斎樗山子は如何なる人物であるかは不明である。享保十四年の版である。
本識三問答附運簿流剣術要領一巻
本書は柳生流の剣法を説明したもので、著者は柳生宗頼の高弟である。
剣術要領一巻は、木村久甫の著である。
剣術不識篇一巻
明和元年、木村久甫の著作であるが、理論に傾いて剣の真理を離れているといわれる。
剣 説
本書は学剣の目的を論じてその心得を示したものである。著者は平山潜。子竜、兵原、練武堂、運簿真人と号す。行蔵はその通称である。文政十年十二月病残した。慷慨激烈、天正武士の面影があった。
常静子剣談
著者常静子は、平戸藩主松浦静山といわれ心形刀流の達人であり、その識見も高く、本書は明確に学剣の真随を説いたものである。文化十七年の著作である。
剣 致
本吾も常静子の著で、心形刀流の目録の説明詩であるが、達恨、博識の人であるから、所論正確にして詳細を極めている。
剣法略記
本書は春夏秋冬の四巻に分け、居合を基として剣法を説き、武士道を説き、更に故実も述ぺている。著者窪田清音は、居合の達人で天保十年の著である。
剣法撃刺論
著者森景鎮は千葉周作の門人であり、飯野藩士である。主として、心気力の一致、練気養心の心法を説いたもので、文久二年の著作である。
以上の諸本は、各自の体験を通じて得た所の剣道の奥義、即ち剣の使い方や、心の持ちようなどを述べたものや、剣禅一・致の在り方を論述したものが多いのである。
然らば、剣桿一致とは如何なる境地をいうのであろうか。
剣に坐してみれば、禅はもとより、天地の大法、宇宙の万法、一・として剣道ならざるはないのであり、鐸に坐してみれば、剣も禅なり、天地万物、悉く禅海中の一波瀾ならざるものはないのである。更に突込んでいうならば、剣もなく禅もなく、しかも一一法として剣ならざるなく、禅ならざるなき境界をいうのである。
一捧一刀は、理由なくして打つのでなくて、その一捧一刀毎に、打たるるものの心魂を陶治し、本来の面目を発揮せしめんがためのものであって、師より云えば、弟子を思う一念慈愛の打捧であり、弟子より云えば、人格修錬の一路向上の打捧なのである。
このようにみる時、特定のもののみを捉えて、これが禅であるとか、剣であるとか言えなくなるのであって、然も悉くが繹であり、剣であると云うことになる。
真の剣、禅の究極は、生死を超越した平常心にある。
3 剣道の本義
普通一般の常識より考えると、剣道とは、彼我相争い、勝負を決する術のように考えられるが、沢庵は「大阿記」の冒頭に「蓋し兵法は勝負を争わず、強弱に拘らず、一歩も出でず、一歩も退かず」と述べて、一足も踏み出さず、一足も退かず、座ながら勝事也と註している。要するに、戦わずして勝つ事が、兵法至極の道であるといっている。
一般に、原始的、素朴的剣術に於ては、自然力、相対力の強い者が勝を制したのである。即ち、夕雲流剣術書によれば
「己に劣るには勝ち、勝るには負け、同様なるには相討の外なく、一切、坪のあかぬ所」と云う事になって、勝負は常に不安定になり、懐疑内な世界に陥るのである。
然らば、果して如何なる工夫をもって、不戦而勝の絶対の境地に達する事が出来るのであらうか。沢庵iはその事について
「敵我を見ず、我敵を見ず、天地未だ分れず、陰陽到らざる処に徹すれば、直に功を得べし」と述べている。
ここでいう我とは、真我の我であり、人我の我ではない。人我の我は、他人はよく知見する事が出来るが、真我の我は、他人の知見出来るものではない。
真我の我とは、沢庵によれば
「天地未分以外父穏未生巳前」の我である。即ち、自己にも、他人にも、鳥類、畜類、草木一切の物に備わった影もなく、形もなく、生も死もない我であり、即ち仏性であると述ぺている。人我の我とは、吾々の常識的に考えている自己そのものである。我儘な個人我である。他の個人我と対立的に存在している個我である。即ち自と他との間の障壁を限り無く高く築いて、個我に立てこもっている人である。
真我の人は、他の上に自己を発見してゆく人、換詳すれば、如何なる個我をも有していない、仏教一般に謂う所の無我の人である。
沢庵の言う、人我の剣と真我の剣は、針谷夕雲の言う所の、畜宝心の剣法と自性本然の剣法とも言う事が出来よう。
人我、個我の剣は、敵、我を見、我、敵を見、彼我相対立して、喰うか喰われるかの畜生道、修羅道に堕すのである。
剣の真面目は、人我、個我を碑破して、如何なる個我をも退治し、駆逐する所の真我を発見するにあるのである。
「山中の賊は破り易く、心中の賊は破り難し」と言われるが、剣に於ける敵は、外にあるのでなく、実に自己の心の内にあるのである。
心中の敵、即ち人我、個我を辞破する事が出来るならば、心外の敵は、自らその姿を没するのである。即ち真我の顕現である。
この真我の顕現について沢庵は
「学道の人、十年二十年、十二時中ちっともおこたらず、大信力をおこして、善知識に参じて辛労苦労を顧ず、子を失いたる親の、なお尋ねる如く、志を退かず、深く思い尋ねて終に仏見法見つきはてて、自然に是を見る事を得る也」とのぺて、人我個我の妾想を反省し辛労昔労して、生死巌頭よく三尺の剣を磨くより他はないのである。
かくして二十年三十年不断の精進を続ける所に、遂に諮然として・敵と我と一体不二の妙諦に悟入する事が出来るのであると教えている。
剣を磨く事は、自己を磨く事であり、人格の陶治に努力する事である。
大人格の前には、如何なるものも自然に、その威徳にうたれるのである。
勝わずして勝つとは、徳をもって人を帰せしむる事の謂である。これを真妙の剣と云うのである。
4 活人剣
真妙の剣を会得した人は、戦わずして能く勝つ殺活自在の力用を得る事が出来るのである。それを沢庵は、「大阿記」に於て
「夫れ通達の人は、刀を用ひて人を殺さず、刀を用いて人を活かす。杖さんと要せば即ち殺し、活さんと要せば即ち活す、殺殺三昧、活活三昧なり」と述べている。
剣は人を殺す法ではなく、人を活かす法であるというのが、兵法に通達せる人の剣境である。人我、個我に執わ江ている人の剣は、人を活さんとしても活かし得ない、ただ人を殺す器と化してしまうのである。
要は剣にあるのでなくて、之を用うる人にあるのである。
人我、個我の剣は、自が若し他を殺さなければ、他が自を殺す、畜主心の剣である。一方が活きる為には、必ず他を殺さなければならぬ世界、即ち相互否定の世界では、剣は結局人を殺す道具と化してしまうのである。
現代のスポーツも、社会栢もこの態度をもってすれば、尽くる事のない醜・・斗争の泥沼に陥んでしまうであろう。
仏教では、仏道を修する喜を一大事因縁という。即ち人我、功利の世間を超越して、利他真実の境地に自己を没する事である。換言するならば、利己功利の世間に処して・公益優先を先づ自ら行じて後に、他をして行ぜしむる事であり、そこに人間生活の最大の意味があるというのである。
この一大事因縁を行ずることを、剣の上で言えば、活人剣という事になる。果して然らば、何が故に殺活の一途、自由自在なるものであろうか。
この事について沢庵は、「刀を用て人を殺さずとは、刀を用て人を切る事を守らねども人皆此の理に逢ては、すくんで己と死漢となって其の人を打つ処なし」とのぺ「刀を用て人を活すとは、「刀を用て人をあひしらうて、敵のはたらくに任て、切らずして見物せんとまま也」と言っている。
達人、名人の剣は、別に手を下して人を殺さずとも、相手の方から、その人格力に威圧せられて、自ら死漢となってしまうのである。即ち自己本然、天与の本性たる真我の力が我儘な個我、人我の我執を対治するのである。
達人、真我の剣に向った時、権謀術数の人我の剣は、自らそのために力用を失うに至るのである。
しかし死漠となるのは、凡庸の人我であって、凡庸の中に伏在している凡庸本具の真我ではないのである。
凡庸の中に伏在している凡庸本具の真我は、達人、真我の剣に接して、自らの人我を死漢となす事によつて次第に磨かれてくるのである。
即ち権諜術数の人我の剣を死物、死漢となす殺人剣は、そのまま正直な人格の剣をはげみ、真我の剣を磨く活人剣なのであって、殺人剣即ち活人剣なのである。
殺人剣は、邪悪を殺し破る為に、之を破邪といい、活人剣は、人間天与の正しき本性を磨き顕わすものであるから之を顕正という事が出来る。破邪即顕正であり、顕正即破邪であり、活殺自在であるのである。
何事に於ても、修養の積んだ者は謙虚である。生兵法は大怪我のもとといわれるが、未黙者ほど威張ってみたくなるようである。
稽古の折、打たれた時など、達している人は、はっきりと「参った」というが、相当打たれているのに「まだまだ」などと言って、頑張っているのは、その技術如何というよりは、人間として零であり、それ自身、肚の出来ていない事を証明しているのである。これは、人我の骨頂であり、逆に負を心地よく「参った」と認める事こそ「まだまだ」と頑張り度い人我の心を打破っているのであって、そこには深刻な自己反省即ち真我が働いているのである。あたかも蝉や蛇が、その殻を破る事によって自己を発育させる如く、人間も私心、人我の殻を限りなく破る事によって、正しき真我へと発展する事が出来るのである。
5 不動智
今まで述べた如く、剣道至極の所に達せんとするには、剣を如何に観じて行ずるか、そして生死の巌頭に立った場合の心の持ち方如何にかかって来るのである。沢庵の書いた不動智一巻も、種々の 禅語を用いて、心の持ち方について詳細に述べている。
即ち第一に「留る心」をあげて注意している。物事にこだわり、執着し、捉われる心である。この「こだわり」の心から離脱せんとする事は、非常に困難事である。若し我々が「こだわり」から離れようとすると、我々はその「こだわり」から離れる事にこだわるのである。
しかし一面からみると「こだわり」と言う事は人間の姿であり、人生の実相であるという事が出来る。宮本武蔵が自戒の書といわれる独行道の第五に、「我事に於て後悔せず」と述べているが、彼が如何に物事に後悔し、こだわり、執着を断ち切らうとして努力した人間的苦悩がうかがえるのである。
金銭、名与にも心を留めず、生命にも執着しない人間こそ「こだわり」のない人間という事が出来る。
「こだわり」という心の働きは、それ以前に「おのれ」或は「われ」というものを前提としている。人間には、この我の感情がある為に種々の「こだわり」を生ずるのである。即ち人間は、他よりも自己を愛し、自己の優越を得んとして行動するのである。この「こだわり」の心を迷ひといっている。
沢庵は、剣道とは人間から、この「こだわり」の心を取り去る修業法であるといっている。柳生宗矩に与えたといわれる「不動智」一巻は実に、この「こだわり」の心を如何に無くする事が出来るかを教えているのである。
剣の勝負は、常に現在の一・刹那に於て決せられる。したがって、心にも、動作にも、一寸の淀滞も許されない。敵に合さんと思った時には、敵の太刀は既に自分を打っているのである。自分の意識に反省、自覚が生じた時には、その物事は、すでに過去のものであって現在のものではない。吾々を過去に取残すものが、留る心である。
しからば、留る心なき剣とは如何なるものであろうか。既述に従って云うならば、「敵我を見ず、我敵を見ざる」境地に達する事である。
或いは、柳生流の伝書である「本識三問答」の中に「西江水の心に至れば、真実の無刀也、当流を無刀流とも云うべき儀也」と述ぺている。
即ち・大刀構え、問合の遠近、懸待、表裏一切が皆、無刀の心より出なければならぬ。
剣の極意は・形の上に捉われるべきでなく、その形を自由に使い得る心の鍛錬の問題に帰着せねばならぬという事が理解される。
沢庵よりいうと、無刀という事は、敵に心を留め、我に心を留め、太刀に心を留め、柏子に心を留める等、一切の留る心即ち、迷いからの脱脚であり、結局無刀とは、こだわる心を退治する心法となるのである。
この「こだわり」の心即ち無明住地煩悩の迷いの1青れた所が、不動智の悟りである。「不動とは、動かずと申す文字にて候、智は智恵の智にて候、動かずと申して、石か木かのやうに無性なる義理にてはなく、向へも、左へも、右へも十方八方へ心を、動き度き様に動きなから、卒度も智ぬ心を不動智と申候」と称している。
凡夫の世界では、動と不動とは反対の現象であるが、悟りの世界では動即不動なのである。
不動とは、心を正しく持って如何なる誘惑、変野にも心を動かさず、物に心が奪われる事なく、随所に主となる事である。
日本の兵法では、古来より防禦よ認められていない。−1寺内には、防禦1勺な態度を取る事もあるが、それは攻撃に出る為の臨幾応変の処置であって、防禦を目的としたものではない。剣道では、受け流すという事はあるが、受け止めるという事はない。流すという事は次に必ず攻撃の要素を含んでいる。
試合は常に攻撃を主とし、作戦の主動1勺地位を確保し、随所に主となる事が不動智の心であると詳っている。
又、一人の対象に捉われて、心を動す時は、自己は従となり、死物となってしまう、多数の敵にも心を引かれず、動かされず、留らず自由自在に活動する状態を沢庵は、不動明ま三と千手観音を以って説明している。
千手観音は、千手千眼自在といい、若し一手に心を留めれば、他の九百九十九本の手は活動を停IEし「不動智が開け候えば、身に手が干有りても皆用に立つぞと云う事を人に示さん為に作りたる姿にて候」といっている。
更に不動智が、実際には、如何にあるぺきかを説明して、「間に髪を容れずと申事に候と述ぺ更に「石火の機と申事の候、是翻庁の心持にて候、石をはたと打と否や、ぴかりと出候火の如く、うつとそのまま出る火なれば、間も隙間もなき事にて候、是も心の留まるべき間のなき事を申候」と述ぺ、更に説明して、如何是仏法の極意と問はば、其の声いまだ止まざるに一枝梅花なりとも、庭前の柏樹子となりとも言うぺし。云事のよしあしを云うにてはなし。留まらぬ心を尊ぶべし」といっている。
間に髪を入れず。或は、電光石火と称すると、我々は如何にも、すばやき事の意味であると考えるが、「速くせんと思い設けて速くせば、思い設くる心に心を又奪はれ候」と戒めているのであるが誠に至言というべきである。実際には、遅速よろしきに従い得るのは即ちこれ留る心なきに於てのみ、なし得るのである。
又、沢庵は、「事、理の二つは車の両輪との如くたるべく候」と述べ如何に理即ち肚のおき所、心法を知っても、剣の実際面が自由に働く事が出来なければ、それは単なる抽象に堕して、威力とならず、逆に技術的に優れていても、若し理に暗ければ逐に道となる事は不可能で、剣の魂を得る事が出来ない事を戒めている。
沢庵は更に「心の置き所」「有心の心、無心の心」「本心と妄心」「水ヒに胡藍子を打つ」 「応無所住而生其心」 「鎌倉の無学祖元禅師のこと」 「放心を覚む」 「急水の上に毱子を打つ」「念々停留せざること」「前後際断のこと」「敬の一字」等に関して述べている。
沢庵は、留る事なき動即不動の根本理念に立脚して、剣を学ぶ者の、注意を与えている。剣道は策を用いて敵を撃突するのでなく、去れども猶、尽きない妄執有分別心を擢破する事であると述べている。
宮本武蔵が晩年述懐して「三十歳以後に及んで、その跡を思ひ返して、兵法至極にして勝つにあらず、おのつから道の器用ありて、天理を離れざる故か、又は他流の兵法不足なる所にや」と反省し、更に「其後猶も深き道理を得んと朝夕鍛錬して見れば、おのつから兵法道にあふ事五十歳の比なり」と称し、晩年大悟の後は刀を帯びず丸腰でいたという。
近代の剣客山岡鉄舟は、心外無刀と称して無刀流を開いたが、柳生宗矩も既に心外無刀を称したのであって、実に剣の名人の心境が察せられるのである。
武蔵が到達した「万理一空」の心境も実にこの不動智と同じ意味である。
最後に沢庵は、「心こそ心迷わす心なれ、心に心心ゆるすな」の古歌を掲げて・不動智を終っているが、剣を学んで、剣より出る事の出来ないのは、未だ剣に心を貿めている為である。剣を習う事は内に身を修め、心を養い、外は天下を和らげる事に通ずべきであるを強調している。
6 相ぬけ
兵法は、元来、相対立する者の斗争であるが、その斗争を極限まで押し進めてゆけば道理の究まる所は、斗争の自らの解消となり、「相ぬけ」とならざるを得ない事を針谷夕雲は実証している。
小出切一雲は、その著「剣法夕雲先生相伝」に於て、師夕雲の剣法と悟道について次のように述ぺている。
「余が先師、夕雲は十三四才より兵法品々を習ひ、後に小笠原玄信が弟子になりて、神陰を伝へ、八寸の延がねの秘伝まで残らず請け継いで、 (中略)然るに先師弾学を嗜て諸禅師に示諭を受けらる。就中、東福寺の隠居に虎白和尚と云う知識あり、此禅師にひしと帰依して、 (中略)禅学の意味より兵法を窺うときは、元祖上泉をはじめ、外の戸田ト伝も、自己の師玄信が心入も八寸の延がねも、みなことごとく忘想虚事の類にて、人生天理当然の性の受用にあらず、多くは只畜生心にて、己に劣れるには勝ち、勝るには負け、同様なるには相討の外はなく、一切塒のあかぬ所の有そと云う事を心付きて、それより此方時々刻々工夫修業して、畜生心をはなれ、所作を捨て、自性本然の受用の中より勝理の備はる事を自得せんと研修せらるるに、一旦諮然として大悟し、兵法を離れて勝理明かに人生天理の自然に安座して一切の所作を破り、八面玲聴物外独立の真妙を得られたり。
(中略) 幸に先師の玄信いまだ在世なる故に自己の所得を談じ聞せ其上に立向て試るに玄信が秘々の八寸のかね迄打破て見るに、烈火の竹を破るに似たり、 (中略)若し名付けば無住心剣術と云はんかとは虎白の仰せらるる名なり。夕雲すでに六十余才、古き弟子一千四五百人もあり・予が二十八才の時初て謁し口授を請て、三十四才の時夕雲と真実のしあひを三度付けて、三度ながら相ぬけをして、真面目と云ふ印可の巻物を請取る。相ぬけの日は夕雲いかが存ぜられけるか、懐中より念珠を取出して、予に向て香を焚て予を拝せらる。其年夕雲逝去せらる。 (中略) 当流修業の人は、芸者の心を捨て、何とぞして兵法を芸になさぬ工夫、兵法の所作に妙不思議の生ぜぬように慎む事肝要なり。(後略)」
夕雲と一雲の印可の、真剣をもっての試合の}寺は、夕雲すでに七十歳の老境にあったが血気旺んな三十四歳の一雲は三度とも斬り込む事が出来なかったのである。
夕雲の剣法が如何に、力、技に堕していないかという事、又それが可能である事を証明している。このように技に偏重していない所があってこそ、はじめて、その技が道と言えるのであって技にのみ頼ればそれは結局、畜生心剣術たらざるを得ないのであり、心法の修練とその完成から、このような結果を、実際家の体験によって実証し得た事は重要な事である。
此方は向うを斬れぬ・相手もこちらを斬れぬ、そしてお互に斗争心が無くなってくる。この状態は人類的な真理であり、これが斗争の極致である。これが夕雲の達した剣の極意であったのである。
そしてそれは、無敵不敗の極意であり、この事は、人間現象の斗争の極致が、相ぬけ、即ち完全な無斗争・無勝負になるという事を単なる哲学的思索からではなく、斗争の手段たる剣法の専門家として・長年月の間の経験の結果、実証している事に非常に意義があると考えられるのである。
「相ぬけ」なる表現は・もはや剣道と、・う一分野に局限されるものでなく、これを人間社会の極意にまで及ぼさなければならぬ。相ぬけ論は、人間の斗争に対する一つの結論を与えている意味で、真の大きな文化史的意義を持つものと考えられる。
7 万理一空
宮本武蔵は、兵法の究尭の極意を「万理一空」と称した。万理とは、千変万化の道理という事であり、心を大将とし、手足胴体を、歩卒士民、部下として自由自在に駆使する事である。
空とは、仏教で云う無我の事である。無我とは、我欲私利の心をなくした悟りの境地である。即ち万理一空と云う事は、心を総大将として、手足胴体を家来郎党として、千変万化と何の淀みもなく、何の失敗もなく、立派に戦う事の出来るのは実に、私利私欲の心を滅した悟りを得たものでなければ出来ないという事を示しているのである。
更に宮本武蔵は、五輪の書の序文に「兵法の理にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事師道なし」と述べている。
即ち無我の兵法の心をもって、諸芸諸能の道としたならば、師匠を必要としないと云っているのである。
武蔵は更に、国を治め身を治むる根本義も要するに兵法の根本義である無我の心に徹する事でなければならぬと称して、「国を治め身を修める事、大小共に兵法の道に伺じ」と述ぺている。沢庵もその嘉について、太阿記の最後に「一剣天下を平げん」と説・ている。
万理一空と云う事は、換言すれば、その根本精神さえ把握する事が出来るならば、一事が万事に通ずるという事である。
吾々は、特殊な兵法という一・事が、修身、治国、平天下の道となり諸芸諸能の道ともなって万事に通じ、普遍的意味を有するに至る事を考えてみたい。仏教では、”法“という意味を「自性を任持し軌として物解を生ずる」と云っている。
即ち法と称せられるものは、自己に対して自己の特殊性、個性を保持し、他に対しては自己の特殊性、個性を認識せしめる根拠となるものという意味である。
かくみる時、政治、経済、法律、倫理、剣法、槍法、スポーツー切が法たるばかりでなく、心も物も、天地間のすべてが法たらざるものはないのである。前述の如く、それが法たる以上は必ず、法独自の特殊性即ち自性をもっている。
しかしその特殊性なるものは、永遠なるもの、或はそれ自身独立的に存在する絶対的なものであろうか。それとも条件によって変化してゆくもの、或は他との相関関係によって成立している相対的なものであろうか。
吾々は、各々の特殊性を後者の如く把握する事によつて、却ってその特殊性の前者の意味に体達するジが出来ると考えられる。
即ち、法律、経済等の構成を、或は剣法、槍法等を、条件の変化によって如何様にも変るもの、或は他との相関関係の上に成立している相対的なものであると把握する事によって吾々は、それ等の各々が、永遠的なもの、絶対的なものであるという悟りにまで達し得るのである。
逆に各自が、その構成を不可変な、永遠的なもの、絶対的なものと考えた場合、両者はそれが永遠的なもの、絶対的なものである為に却って、そこに相対的な対立を生ずる事になる。即ち吾々の構成の特殊性なるものが、その絶対性を主張する郵は、人ま自ら相対の世界へ陥込んでゆく申:になるのである。
特殊性を相対的なものとして把握すると云った意未よ武蔵が「兵法の理に任せて、諸芸諸能の道となせば万事師道なし」と称した意味の相対である。兵法の哩と諸芸諸能の道とが一員して相逼ずるという事は、いわば兵法の理と諸芸諸能の道とが溶融杓なもので、互いに相通ずるものであって、決して永遠に対立するものではないのである。即ちそれ等が自己を没し、無我の姿に帰るからである。
それは決して、その存在性を没するという事ではなく事実はむしろ逆である。
即ち自我を主張する当:によって、一定の小我の制限内に限定されていたものが、その制限を破って無限に自己を拡張すること、即ち大我となる事によって、一が即ち一切・一切が即ち一なる絶対の自覚を得る事になるのである。
兵法の理と諸芸、諸能の道とが貫通するという事は、両者の相似性、共通性を云々しているのでなくして、兵法の一理が即ち諸芸諸能の一切道となり、渚芸諸流の一切道が即ち兵法の一理となる「即」の関係にあるのである。一は万に通ずという事は、特殊な各々が特殊的存在でありながら、しかも各々の小我を没して、無我の大我に立帰る串二によって遂行される事が出未るのである。
球技の例を「こると、監督は、メンバーの個人的特性を考慮してその特性を充分発揮せしめる事が出来るような位置、任務を与え、メンバーはその役割を個性を活かして遂行を期すのである。メンバーが、その特殊性を発運するという事は、決して個人の自我を出す事ではなく、チーム全体の目的のままに行動する事でなければならぬ。即ち全般的立場より見る時、一切が必要不可決な要素となっているのである。土中に埋もれている些礎i二」秘高層建築のためには必要不可決のものである。
かくて悉くが互に、その枢要性を自覚した場合、そこに真の緊張が生まれるのであり、個々の特殊性は、その特殊自身を活用させながら、しかも自己を没して無我の姿に立帰るのである。その場合、個々の特殊性を一貫する全体的な力を感得するのであって、それが一が万に通ずるとも、或は又、万物一体とも言われるのである。
8 愛の剣道
今までは、主として伝書によって過去の人達の剣道観について述べてきたが、嘗っての東京高師教授、佐藤卯吉範士の剣道観について考察したい。佐藤範士は剣道(昭和三年著)なる著書に次のように述ぺている。
佐藤範士は、有即無限、一即多の立場に於て剣道を把握しようとする立場をとっている。
剣道を行わんとする者は、動的無限なる純粋活動としての主観を肯定し、之を会得するよう努力する事が必要であるとし、主観に対立する客観たる敵に心を囚われて、己に対立する敵としてのみ考えている間は、永久に剣道至極の所に達する事は出来ないと云っている。そして剣道の極意、奥義とは「大悟一番太刀を振り冠り、我に打ち向う敵は要するに自己が自己の中に打ち立てたる敵、即ち自己と同一体のものである事を悟る時、既に我も無ければ敵もなく、悠々自適、ゆくとして可ならざるなき無敵の境地に達する事が出来るのである」と述べ、更に我々は常に一時的現象に囚われ、特殊有限の方面のみを見て、その奥底に横たわる普遍の理法の認識を逸し勝ちなものであって、これは剣道達成の上に最も妨げとなるものである。
所謂主観と客観とを対立せしめるものは即ち、純粋活動としての主観の働さに他ならない。その働きにこそ道もあるべし、理もあるのである。
此の立場に悟入する時、我が剣道は、壮厳無比、敵も無ければ我もなし、撃たん事を思わず、突かるる事を恐れず自然に勝利は得らる可き筈である。彼我は同一実在の現象である事を観じ尽くして、太刀を取り相“卜)ならば、彼の思う所、行わんとする所が直ちに我に感応しないでいるという筈がないのである。
一転して思えば、我に打ち向う彼は、純粋活動としての主観を表現するの一契機であるから、敵を憎む心算、毛頭起らず心裕かに剣道を修業し得るのである。
佐藤範士は、この立場に立って愛の剣道を説いたのである。我に立ち向う敵は畢寛、主観の中に包含せらるぺきもの、活動しつつある心以外の何ものでものでもない事を悟る時真の愛は生ずるのである。
又敵を愛する事は、敵を知る事であり、敵を真に知る事は、剣道に於ける必須条件である。即ち真に白我を知るという亨は、又同侍に敵を知る事である。かくすれば百戦百勝は疑いなしである。即ち愛する事によって剣道の真諦に達するのである。
先哲の言葉に「仁者に敵なし」とあるが、意味する所は同じである。
古来剣道には、「敵を知れ」という教えがあるが、特殊即普通の立場に立ってのみ言い得るのである。剣道初心者は、普通を忘れた特殊にのみ囚われて、純粋自我を内省する事なく、外に敵を見て、その敵に引かれて、自我の内部に敵を見ない。如何にも早く撃たん突かんとして力を労するのである。
やや進歩すれば、太刀をもって突撃する以前に既に早くも無形の精神、気分、気合の争いで、敵を圧伏して而る後、有形の太刀を、敵に加うるというにすぎない。この境地に達するには非常な努力を要するものであるが、猶至極という事は出来ない。
しからば剣道至極の所とは、無形の精神の争いに於て敵を打ち破るは勿論、敵に加える我が一撃一突は、技術という問題を超越して、その事を機縁として、敵をして純粋活動としての自我、普遍の本質たる自我に目覚めさせ、高尚なる精神生活を営み得るように導き得てこそ、最善の剣道、理想の剣道、至極の剣道という事が出事るのである。
而して理想の剣道を行わんとするならば、有限即無限、特殊即普遍の意義を会得し、純粋活動としての主観を確実に把握すると共に、雑多の中にそれの対象を定立して、其の雑多及び客観性を主観としての、其れ自身の統一の中に融合帰一せしめるものでなければならぬ。と強調し、更に佐藤範士は、過去の原始的剣道に対するに発展的剣道という名称をつけている。
剣道は、唯太刀を振り廻すという事に止まらずして、理に従い、道を踏み法に則って、敵に勝つという事が考えられて来たのである。しかしそれはなお、単に自己に直面する敵に打ち勝つという事以上に出ていない、所謂外形的な剣道たるに過ぎないのである。
之に対し発展的剣道は、技巧よりも精神的なものに重点をおかねばならない。佐藤範士は発展的剣道の結論として、剣をとって相対すれば、宇宙万物の存在さえなき禅家の「無」の状態に達する事が出来る。それは即ち、西田博士の「純粋経験」の状態であって、何等思惟を挿む能わざる「未発の中」の状態、ベルグソンの「純粋持続」とも言うべき、本来の自己を発揮するの状態である。
故に極限すれば、剣道の技術は擢劣であっても前述の精神を会得せる人は、既に剣道至極の所に達したものであると云つても良いと思う。発展せる剣道の終局はこの点になければならない。又我が一撃、一突を機縁として敵をして純粋自我を把握せしめ、全人格の反省と向上発展を促すが如き太刀を使い得てこそ、所謂、発展的剣道、或は愛の剣道の極意に達したというべきであると論述している。
9 名人の心境
名人の剣が活殺自在の剣であり、破邪顕正の利剣である事は上述したが、名人同志が互に相向って剣を交うる時は如何になるであろうか。その光影について沢庵禅師は、「上手と上手と鋒艶相交えて勝負を決せざるものは、世尊拮華し、迦葉微笑の如し」(大阿記)と言っている。実に甚深の幽意が潜んでいる事を玩味すべきである。
仏教の第一義である悟りの内容は、即ち不立文字、教外別伝のものであって、名人同志の相交る境地は名人同志のみ以心伝心をもって之を知る事が出来るが、凡庸の窺い知る所にあらず、その境地は又筆紙言語に尽くし得ないものである事を、偶したものであると考えられる。
しかし我々は名人、達人の心境を、今までの各章に於て推考してきたのであるが、宮本武蔵は自ら二天道楽と号している。
道楽とは・名人としての自己の心境を表現しているものと考えられる。
道に遊ぶ境地、楽しむ境地は、仏教では法楽、或は遊戯三昧の境地と称している。
名人の至芸は、単なる努力、或は勤めるものではなくして、自らなる楽しみの境地であると考えられる。
名人同志の剣を交えるのは、斗争ではなく対立した張合った剣ではなく、自他共に相互に一体の世界に溶融互入しているのであって、自他不二、一如平等の二人なのである。
両者はただ、一体の両用として、古今不変の宇宙の大真理が遊戯三昧に住して、自らの法楽の境界を開顕している妙相そのままの世界である。
このように、真理が具体的に表現して、自己を楽しんでいる姿が名人の境地であると考えられる。
我々としても、諸芸諸能を修業する場合、名人の境地に至らずとも、この「遊於道」「道楽」 「法楽」 「遊戯三昧」の味いを常に心がけておくべきである。勿論我々は、一方には精進、努力の精神をもって道を修める事が必要であるが、道に対して、常に楽しみを抱けるように心がけるべきである。
楽しみは、自動的、自発的であり、その事をやらなければ、いられないからやるのであるというようになれば、大成を期する事が出来る。
如何に苦しい道であっても・それが自分の身について来ると単なる努力、勤めではなくなり、楽しみが附随して来るものであり、我々もこの道を楽しみ、遂には、道に遊ぶに至る名人の境地にまで参じたいものである。
あとがき
現在、剣道が体育として、スポーツとして盛んに実施されている時、剣道観の史的考察をする事は意義ある事と信じ、主として下記の文献によって、古来剣の名人、達人といわれる人達iの思想、行動と、それに多大の影響を及ぼした繹家の著述を参考として論述したのであるが、浅学非才と史料の研究不足の為、剣道の真の姿を述ぺるに誤りある事をおそれるものである。更に紙数不足の為、各人の言動を詳細に記述出来なかった事は残念であるが、この小論で剣道の一端を窺い知る事が出来るならば幸甚である。益々、真の剣道の姿を追求すると共に、伝書による技術論が現在のスポーツに如何に応用されるかを今後の研究課題としたい。  
 
疋田景兼

 

疋田景兼 1 
[ひきた かげとも、天文6年- 慶長10年(1537-1605)] 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、兵法家。姓については、侏田・引田・挽田とも表記される。上泉信綱(上泉伊勢守)の直弟子で新陰流の兵法家。後世、疋田陰流剣術や新陰疋田流槍術の祖とされた。信綱の甥とも伝えられる。通称は豊五郎(ぶんごろう、文五郎、分五郎とも書く)。号は小伯(虎伯とも書く)。晩年には栖雲斎(せいうんさい)と号した。
加賀国石川郡に、上泉信綱の姉を母に生まれたと伝えられている。信綱に剣術を学ぶ傍ら、赤城山で剣術の修行に打ち込む信綱の生活の世話をしたと伝えられる。信綱に従って長野氏に属し、武田氏や北条氏との戦で活躍する。長野業盛が自害して長野氏が滅亡すると、武者修行に出た信綱に同行し、永禄6年(1563年)には、当時畿内随一との評判が高かった柳生宗厳と信綱の代わりに立ち会い3度とも全て勝ったと伝えられているが、これが記されているのは江戸時代の文献であり、尾張柳生家の伝承では信綱自身が立ち会ったとされ、また、鈴木意伯(神後伊豆守)が立ち会ったと記す文献もある。いずれにせよ、この敗北で宗厳は己の未熟さを悟り即座に信綱に弟子入りしたという。
柳生の里で信綱と別れ、単身諸国を巡り修行を続け、その間、織田信忠、豊臣秀次、黒田長政などに兵法を指南した。景兼は立会いの際「その構えは悪しうござる」と声をかけてから打ち込んでいた逸話を遺す。また徳川家康の前でも演武したが、家康はその剣技を「匹夫の剣」と評して入門せず、柳生宗厳に入門したという逸話もあるが、これは柳生家を持ち上げるために後世創作されたものとも言われている。なぜならば徳川家康は奥山休賀斎(奥平久賀斎とも)に新陰流の流れをくむ神影流を師事していたことがあるため、新陰四天王に数えられる景兼を酷評する必要はなく、景兼が織田信忠や豊臣秀次へ指南していたことから遠ざけられたことを含めて柳生流を持ち上げたものとおもわれる。
上泉信綱以外の兵法家にも師事したことが知られ、新当流雲林院松軒宛ての起請文が残っているほか、景兼が発行したと伝わる伝書によると、念流を学んでいたことがわかる。
のち、丹後の細川氏に仕えたが、文禄4年(1595年)に禄を返上し剃髪、栖雲斎と号して再び6年間の廻国修行を行った。その際、柳生家を訪れ、柳生宗厳の嫡男、新次郎厳勝あてに口伝を遺していることから、晩年に至るも柳生家との関係は深いものであったことが伺える。
廻国の後は小倉で細川氏に再び仕え、その後は肥前国唐津藩に一時仕官したとも言われ、最期は大坂城で客死したとも伝えられるが、史実は不明である。慶長10年(1605年)に亡くなったとも言われているが、坂井半介などの弟子に同年以降に免状を出しているので、それ以降に亡くなった可能性もある。
弟子
景兼の孫弟子(もしくは弟子とも)の山田勝興(山田浮月斎)は「疋田陰流」を称した。
細川家で上野景用に伝えられた系統は、細川家が熊本に移封したことにより、熊本藩で伝えられた。肥後藩の伝承では嫡子が無かったため上野景用が継承したとされる。 池田忠継、池田忠雄に仕えた猪多重能は疋田流(または新陰疋田流)と名乗り、景兼が教えた槍術、薙刀を発展させた。この流儀は全国に広まった。
これ以外の弟子に、坂井半助、香取新左衛門、中江新八(長谷川宗喜と景兼に学び、柳川藩に電撃抜討流を開いた)らがいる。  
疋田景兼 2 
慶長十年(1605年)9月30日、剣術・新陰流の開祖・上泉信綱の高弟で疋田陰流の祖でもある疋田文五郎景兼が大坂城内にて69歳の生涯を閉じました。
三剣聖の一人・上泉信綱(かみいずみのぶつな)の弟子であり、その甥(信綱の姉の子)ともいわれる疋田文五郎景兼(ひきたぶんごろうかげかね)さん・・・
景兼が大坂城内で息ををひきとる39年前・・・日づけも同じ9月30日、彼の人生を大きく変える出来事が起こります。それは、上野(群馬県)箕輪(みのわ)城の落城・・・
この日、景兼は、若き当主・長野業盛(ながもり)を補佐し、甲斐(山梨県)の武田信玄率いる大軍勢を相手に籠城作戦を展開していました。
しかし、信玄は、すでに上杉謙信との5度の川中島決戦を経験している大大名・・・その軍勢の数もハンパじゃありません。
関東一の智将とうたわれた亡き長野業正(なりまさ)の息子として、その後を継いだ業盛は、父に負けず劣らずの勇将ではありましたが、未だ19歳・・・覚悟を決めた業盛は、大軍に囲まれた城内で自刃しました。
この時、籠城作戦の中心となっていたのが、景兼の叔父である上泉信綱でした。
父の代からの重臣だった信綱と景兼は、若き当主が自刃した後、最期の戦いに挑んで華々しく果てるつもりでいましたが、武田方に説得され、箕輪城を開城・・・ここで、長野氏の家臣=戦国武将として生きてきた二人の人生が急展開するのです。
その腕を見込まれ「武田の家臣にならないか?」という信玄の誘いを断って、全国行脚の武者修行の旅に出るという信綱・・・この信綱は、若い頃の修行の旅で、日向(宮崎県)の愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)という人物の手ほどきを受け、剣術三大源流の一つ・陰流(かげりゅう)をマスターしており、そこにアレンジを加えて自らが起こした新陰流(しんかげりゅう)を、全国に広めたいという夢があったのです。
もちろん、その弟子でもあった景兼も、叔父のお供をして、ともに旅に出る決意をしました。
まずは、伊勢(三重県)の国司・北畠具教(とものり)を訪ね、その後、具教に紹介された奈良の宝蔵院(ほうぞういん)というお寺へと向かいます。
・・・で、この宝蔵院に滞在中の彼らに、「手合わせ願いたい」と挑戦してきたのが、かの柳生宗厳(やぎゅうむねよし)です。
ところが、近畿一を自負する宗厳が、あっさりとヤラれてしまい、即座に弟子入り・・・彼らを柳生の里へと招き入れたのです。
この柳生の里で、しばらくの間、宗厳らに剣術を指南する生活を送る彼らでしたが、約1年後に、信綱は他の弟子とともに再び修業の旅へ・・・しかし、景兼は、その後も宗厳らの指導に当たるため一人残り、宗厳に新陰流のすべてを伝授してから柳生の里を去ります。
そう、ここで、師匠である叔父・信綱と別れ、景兼は一人、別の道を歩む事になりました。
その後は、丹後(京都府北部)宮津城主・細川忠興(ただおき)に仕え、さらに、当時関白であった豊臣秀次にも、刀槍指南役として召しかかえられたりしますが、あまり長く一つの所に落ち着く事はなく、基本、放浪の武者修業という姿勢を崩す事はありませんでした。
ところで、その秀次の指南役をしていた時、同時に指南役として召し抱えられていた長谷川宗喜(そうき)という人物がいました。
彼もまた、中条流(冨田流)の達人・冨田景政(とだかげまさ)の弟子で、後に冨田流長谷川派という独自の一派を起こす事になる剣豪なのですが、剣術に強い関心を持つ秀次が、「二人の試合を見たい!」と言いだしたのです。
この話を聞いた宗喜は、即座に「OK!」しますが、一方の景兼は、かたくなに断ります。
秀次の希望をたずさえた側衆(そばしゅう)が、何度説得にあたっても、ガンとして首を縦にふりません。
そうなると、当然、変な噂が立ちます・・・「長谷川の強さに、疋田はおじけずいたのだ」とか「口先ばかりの弱虫め!」とか・・・とにかく、景兼をあざ笑うような悪口ばかり・・・
しかし、それでも景兼は試合を拒み、その理由についても多くは語りませんでした。
後日、あまりの噂に心配して、彼のもとに訪れた、ごく親しい友人にだけポツリと語ったと言います。
「長谷川君は、太刀筋もええし、かなりの達人やと思う。けど、俺も新陰流の印可皆伝をもろてる身・・・二人が勝負したら、どっちかが命を落とす事になるかも知れん。
自分の命は惜しみはせんけど、そんな結果になって損をするのは、オモシロ半分で試合をさせた関白様やないやろか?試合は遊びやないねや」と・・・
しかし、ご存じのように、まもなく秀次は、豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられ、高野山で自害・・・一族もろとも処刑されます。
自分の名誉より守りたかった秀次の名誉・・・景兼がどんな思いで秀次の死を聞いたかを思うと胸が熱くなります。
慶長十年(1605年)9月30日、疋田景兼は69歳で病にかかり、大坂城内にて、その生涯を閉じますが、ここも、客人として招かれていた、一時的な場所でした。
そんな景兼の剣術を目の当たりにしながらも、彼に負けたはずの宗厳の弟子となった徳川家康は、景兼の剣術を「一騎討ちの剣」と称しています。
大量の兵士を動員して、大規模な合戦を念頭に置いていた家康にとっては、景兼の一騎打ちの強さは必要なかったのかも知れません。
・・・が、景兼の剣術は、その死後も息子・景吉に継承れ、さらに景兼の弟子の一人だった山田勝興に受け継がれ、その名を疋田陰流(ひきたかげりゅう)と称して、今なお受け継がれながら多くの猛者を輩出しています。 
疋田陰流の祖 疋田豊五郎景兼 3 
疋田豊五郎景兼(ひきたぶんごろうかげとも※かげかねとも)は上泉信綱の高弟で疋田陰流の祖である。1527年(大永7年)〜1605年(慶長10年)上泉信綱の甥と伝えられる。通称は豊五郎、晩年には栖雲斎(せいうんさい)と号した。
加賀国石川郡(現石川県石川郡辺り)の疋田主膳景範入道道伯(ひきたかげのりにゅうどうどうはく)の次男として生まれる。母が上泉信綱の姉で上泉の甥と伝えられる。出自については不明な点が多いが上泉門下の高弟であり修行中の上泉の生活の世話をしたと伝えられる。
長野家滅亡後、武者修行に出た上泉に同行する。旅先で仕合を請われると真っ先に立ち会うのが豊五郎であったとされる。柳生宗厳との仕合をし三度勝ったのは上泉ではなく豊五郎であったとする話も残る。その後、柳生宗厳は上泉の門弟となっている。
上泉は柳生宗厳に印可状を渡し旅立つ際に豊五郎に単身諸国を巡り修行を続け自らの兵法を打ちたてる様に諭した。以後、豊五郎は単身で諸国を巡り豊五郎自身の新陰流を広めていく。その間、織田信忠、関白豊臣秀次(秀吉の甥)に兵法を指南しました。
豊五郎はそうとう強かったらしく。立会いの際に相手の構えを注意したり様々に声をかけてから仕合をしたという逸話を残しています。そんな事された相手はあまりいい気持ちはしなかったと思いますが…
豊五郎が関白豊臣秀次の剣術指南をしていた時、富田流・長谷川宗喜(はせがわむねよし 後に長谷川流を興した富田流の達人。山崎将監、鐘捲自斎とともに富田流三家と呼ばれた人物)との他流仕合を命じられました。
しかし、豊五郎はそれを拒否し仕合に一切応じませんでした。それを見た側近たちは「疋田は臆したのではないか」と噂しました。
これを聞いた豊五郎は「卑怯というならそれでも良い。竜虎相打つときは、必ずどちらかが傷つくもの。剣術は遊戯ではないので、軽々しく命を賭けて、試合するわけには参らない」と、一切気にかけることは無かったというそうです。
その後も諸国を修行して回り、豊前小倉の細川家にも仕え自身の修行の様子を「廻国記」という書物を著して細川幽斎に上程したそうです。その後、肥前唐津寺沢家に仕官しました。しかし修行の旅(放浪癖?)は、止まらず最期は1605年に大坂城で客死したとも中国地方で亡くなったとも伝えられています。
豊五郎の新陰流は子の疋田景吉が継承しました。豊五郎自身は新陰流を名乗っており、多くの弟子も単に新陰流と名乗っていましたが、景吉から継承した山田勝興が疋田陰流を名乗ったといわれています。
細川家仕官時代の豊五郎の弟子であった上野景用から伝えられた系統が細川家が熊本に移封したことにより熊本藩で伝えられ江戸中期に上野家から和田家へ藩の師範役が譲られました。また上野家から学び独立した横田家、速水家等も含め5家に別れ伝承され、和田家の流れが現在に伝えられていようです。
戦国時代において「命を尊ぶ」師の上泉の教えを守り貫いた人物であった様です。また本当に剣術の腕は強かった様です。
ただ、同じ高弟の柳生宗厳の柳生新陰流に対して、織田信忠、豊臣秀次に仕えた影響なのか、豊五郎の存在や流儀が若干歴史の彼方に追いやられているのではと感じました。
これは、柳生宗厳が豊五郎に負けた事などを含めて将軍家指南役になった柳生新陰流の影響が少なからずあると思います。後の柳生一族の陰謀かもしれません…
人物的には、逸話をみると良い人で、本人は剣の為と思っているのでしょうが、けっこう固いというか、真面目過ぎるというか…現在にいたら、稽古をつけてもらうのは遠慮したい人の様な気がしました。  
 

 

 
徳川幕府成立期 / 支配層と剣術

 

兵法の伝承者たちは主に地位のある武士であり、竹内久盛たけうちひさもり、上泉信綱かみいずみのぶつな、松本備前守まつもとびぜんのかみ、塚原卜伝つかはらぼくでんや彼らの弟子たちを見ても、地方の領主出身と言える身分の人々がみられます。この傾向は安土桃山時代にも見られますが、この後の時代、特に江戸時代に入ってから登場する武芸者には、武芸の教授で身を立てたと思われる人物が見られます。おそらくその先鞭と言えるのが塚原卜伝と上泉信綱ではないか?と思えます。
さて、安土桃山時代ですが、武術流派を語る場合は元和げんな元年頃(1615)が一区切りになりますので、そのあたりまでとします。
安土桃山時代は信長、秀吉、家康と権力者が変わっていく時代です。この時代に武士が両刀(刀と脇差)を腰に差すことが一般化したと言われています。この時代までは庶民も一般的に帯刀していました。
細かい流儀や人物の話をする前に、この当時の支配者層と兵法流派の関係についてみていきます。
まず、織田信長ですが、信長自身についてはあまり武芸についての記録は無いようですが、相撲を好んでいた事は記録にあるようです。また信長公記によると信長は弓を市川大助に、鉄砲を橋本一巴に、兵法を平田三位について稽古をしたとあります。
それに対して、信長の子、信忠と信孝については兵法の起請文(兵法について神々に誓う証文)が残っています。
信忠は疋田豊五郎ひきたぶんごろうに天正5年(1577、20歳頃)誓紙を出して新陰流しんかげりゅうを、三男の信孝が雲林院弥四郎うじいやしろうに天正6年(1578)誓紙を出して新當流しんとうりゅうを学んだ記録があります。
天正10年(1582)に本能寺の変があり、織田政権から豊臣政権へと変わっていきます。秀吉自身と武芸に関しては何か記録があるか存じていません(ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください)。ですが、甥で養子となった秀次は武芸好きで知られていました。
秀次は天正17年(1589)に疋田豊五郎にも入門し、新陰流の刀槍を学んでいます。また、天正19年(1591)には戸田治部左衛門とだじぶざえもん宛てに証文を出しています。
その内容は
「小刀(小太刀)の秘法を一つ残らず伝授終わり非常に喜んでいる、今後も稽古を怠らず、後日小法師こほうし(冨田治部左衛門の幼い孫)に返伝する」と誓っているものです。
一つ残らず伝授されていたという事と、師の孫に返伝すると書いているところをみると、おそらく秀次は中条流のすべてを相伝されていたのだと思われます。
また、長谷川宗喜はせがわそうき(※1)からも戸田流(中条流)を学んでいたようです。そのほか、伝承では片山伯耆守久安かたやまほうきのかみひさやすから居合を学び、また神後伊豆守じんごいずのかみに師事もしていたとされています。
秀次に仕えていたとされる武芸者に、長谷川宗喜と疋田豊五郎から剣術を学んだ武芸全般の達人中江新八なかえしんぱち、家伝の香取流槍術の達人でこれまた疋田豊五郎の弟子の香取兵左衛門かとりへいざえもんなどがいました。
長谷川宗喜や片山伯耆への師事や中江新八や香取兵左衛門が仕えた事についてははっきりした史料がありませんが、冨田治部左衛門や疋田豊五郎への秀次の起請文や証文が存在しているので、武芸好きだったのは間違いないと思われます。
文禄4年に秀次は処刑され、秀次に仕えていた武芸者たちはちりぢりになっています。当時疋田豊五郎は丹後の細川家に仕えていたと言われていますが、秀次が亡くなった年に剃髪し栖雲斎せいうんさいと名乗り、数年に渡る廻国をはじめます。長谷川宗喜も牢人になり、その子孫は松平家(福井藩)に仕える事になります。中江新八は唐津の寺沢広高に仕え、その後は立花宗茂に仕えています。(冨田治部左衛門は秀次に仕えていたわけではありませんが、秀次より前に亡くなっています。)
次の徳川家康ですが、時期は不明ですが、有馬大和守ありまやまとのかみの弟子で養子となった有馬大炊頭ありまおおいのかみより新當流を学んでいます。
有馬家は後に紀州徳川家の家臣となっており、紀州藩の流儀の一つとして伝承されていました。家康は生涯通して水練等武芸で鍛錬していたようで、武芸に価値を見出していたものと思われます。また、直心影流じきしんかげりゅう※2の資料では上泉信綱の弟子とされる奥山に誓紙を出し、神影流を学んでいたとされています。(※3)
家康の子で二代将軍となる秀忠が天正20年頃(1591、20歳頃)に疋田豊五郎に誓紙を提出して新陰流を学んでいます。
疋田豊五郎の兵法を見た家康が「匹夫の技であり、自分の求めるものではない」とした逸話がよく知られていますが、秀忠が豊五郎に入門しているところや、後述の小野次郎右衛門おのじろうえもんを秀忠の師範としているところを見ると事実ではないのかもしれません。
家康は文禄2年(1593)、江戸近郊で人を殺して立て籠っていた武士を切り倒した小野次郎右衛門忠明ただあき(一刀流いっとうりゅう)を召し抱えます。小野次郎衛門は秀忠の剣術師範となったと言われています。
家康は翌文禄3年(1594)に黒田長政の紹介で柳生石舟斎やぎゅうせきしゅうさいの無刀取を演武を見ています。この時に柳生石舟斎に誓紙を提出、師弟となっています。
この出会いによって、石舟斎の子、柳生宗矩やぎゅうむねのりが徳川家に仕える事となり、将軍家の御流儀ごりゅうぎ新陰流の誕生へ繋がります。なお、宗矩が秀忠の指南役になるのは慶長6年(1601、秀忠30歳頃)という事ですので、それまで秀忠の剣術は一刀流と疋田豊五郎の新陰流だったのかもしれません。
また、家康は慶長4年(1599)、前田家中となっていた冨田越後守重政とだえちごのかみしげまさやその甥の山崎内匠やまざきたくみ、山崎次郎兵衛やまざきじろうひょうえの三人に中條流平法ちゅうじょうりゅうへいほうを上覧させた記録もあります。新當流の免許を持っていて、新陰流に入門、さらには小野次郎右衛門を召し抱えていますし、かなり兵法が好きだったのでしょうか。
さて、ここまで書いてきましたが、以上の話は支配者層が兵法を学ぶ、もしくは兵法を上覧する、というものです。諸大名と兵法(剣術等)との係わりも、上記で上げた例と似たりよったりです。
兵法の使い手を召し抱えて一門に流儀を指南させるという話はほとんどありません。武士は近代的な兵士ではなく、個人の武勇で戦う戦士でした。
武士は弓馬の道、文武を習練するべき、というような話はこの時代の逸話にもありますが、この時代でもまだまだ鎌倉時代などと同じく、特定の流派を学ぶのではなく、刀や槍長刀などの扱いを覚える(≠武芸・兵法・剣術を学ぶ)、だったのではないでしょうか。兵法を学ぶ学ばないは個人の自由だったようです。(この後言及している林田左門はやしださもんのいつわのように、主君が「習った方が良い」と個人的に勧める例は見られます)
後世に書かれた逸話ですが、黒田藩に仕えた戸田流の林田左門(冨田勢源とだせいげんの孫と言われています)に力自慢の若い武士が挑戦する話があります。
その若い武士は「兵法など知らなくとも、一心あれば戦場で活躍できる」を左門を挑発するのですが、これに対して左門はこれを一応肯定しています。(そのうえで兵法が出来ればなお良いと反論していますが)
この逸話では、若い武士は当然勝てず、主君の薦めもあって左門に入門、上達し高弟となったそうです。
また、これも黒田藩での話ですが、黒田二十四騎の一人で、戦場で多くの武功をたてた野口一成のぐちかずなりの逸話も当時の兵法についての考え方が現れています。江戸時代以降の話ですが、野口が兵法家が試合した時、野口が兵法家に比べて技が単調で見劣りし、左手で兵法家の木刀を受け止め「そんな事ができるか」と批判される話があります。この時野口は、批判した武士たちに戦場で使った小手や太刀を見せ「戦場では筋金入りの籠手をしているから受け止められるのである」と答えたそうです。
この二つの逸話には、戦乱の時代を生きた武士たちにとって、戦場で活躍するために必要な事と兵法を学ぶ事がイコールではないという考えがあった事が現れています。(ただし、兵法家と戦で活躍した野口を試合させよう、という発想があるので、戦場での強さ=兵法での強さ、という考えがあったのもわかります)  
 
小野忠明

 

小野忠明 1
[おの ただあき、永禄8年(1565)〜永禄12年(1569) - 寛永5年(1628)] 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、剣豪、旗本。徳川将軍家指南役。前名は『寛政呈譜』では神子上 典膳(みこがみ てんぜん、『寛永系図』では御子神)で、後に母方の小野姓を名乗った。子に忠常。吉明ともいう。
小野氏は、清和源氏義光流。先祖は大和の豪族・十市氏の後裔で、安房国朝夷郡丸山郷神子上の郷士で里見氏の家来。曽祖父の神子上大藏は里見十人衆頭600石。祖父の神子上庄藏は100石で天文3年(1535年)の犬掛合戦で木曽新吾と相打ちで死亡(『房総里見軍記』『里見九代記』)。父は神子上重(神子上土佐)。母は小野氏。
安房国(現千葉県南房総市)に生まれる。はじめ里見義康に仕え天正17年(1589年)11月、里見家の家来として万喜城攻撃に参加。正木時堯(正木大膳)と一騎討ちをしたが決しなかったと『里見代々記』にある。その後剣豪伊藤一刀斎が上総を訪れたおりに試合を申し込むが敗れて弟子入りする。その翌年再び上総を訪れた一刀斎より誘いを受けて,里見家を出奔して諸国修行の旅に随行する。
一刀斎の元には既に 善鬼(姓不詳。小野姓とするのは俗説)という兄弟子がいたが、やがて一刀斎の命で後継者の座をかけた決闘を行い、総州の相馬郡小金原でこれを倒した。決闘の後、一刀斎は自身の差料瓶割刀を授けて姿を消し、以後の消息は不明という。その後は一度故郷に戻ったのちに江戸に移り、駿河台あるいは本郷に居住したという(『武芸小伝』)。文禄2年(1593年)江戸近郊の膝折村で人を殺して民家に立てこもった剣術者を倒したことで徳川家康に認められ、200石の禄高を給されて旗本となる。徳川家では徳川秀忠付となって剣術を指南した。このとき姓を神子上から改め、母方の旧姓である小野とした。またのちに秀忠が二代将軍に就任したことで、一刀流は柳生新陰流と並ぶ将軍家指南役として大いに栄えた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従って上田城攻防戦で活躍し、上田七本槍と称されたが、この時軍令違反で処罰され、身は真田信之預かりとなり、上野国吾妻で蟄居を命じられている。その後、結城秀康の周旋で罪を許され、下総国埴生郡の本領に加え、上総国内に加増を受け、都合600石となった。その後一刀流の秘事を秀忠に伝授した褒美として、備前勝光の脇差、御料の羽織、黄金等を恩寵され、さらに秀忠から一字を賜り忠明と改名した(『寛政重修諸家譜』)。
慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣には御使い番として、翌慶長20年(1615年)の夏の陣には道具奉行として参戦する。終戦後の元和2年(1616年)、御家人の集まりの場にて、夏の陣で同じ道具奉行を勤めていた旗本の石川市左衛門、山角又兵衛、中山勘解由、伊東弘祐等について、戦場で見苦しい振る舞いがあったと誹謗したために争いとなり、石川等4名が秀忠に直訴する騒ぎとなった。『徳川実紀』によると、当初秀忠は取り合わない姿勢を見せていたものの、4名が諸大名の前で訴状を提出するに至って無視できなくなり、関係者の意見を聞いたうえで、忠明ならびに訴えでた4名は閉門、うち山角はのちに改易に処したとある。
寛永5年(1628年)11月7日、60歳で死去。下総国埴生郡寺臺村、永興寺に葬られた。現在の千葉県成田市、成田高校の裏山に墓がある。忠明の跡は嫡男の忠常が継ぎ、200石の加増を受けて800石となった(『寛政重修諸家譜』)。小野家は旗本として明治維新まで代々続いた。
小野派一刀流開祖
小野派一刀流の開祖とされることが多いが、忠明自身はこれを称しておらず、忠明の子・忠常が小野派一刀流を称し、弟といわれ一刀斎の伊藤姓を継いだ伊藤忠也の流れの忠也派一刀流を含め、小野家の流れは小野派一刀流と呼ばれるようになった。後に小野派一刀流、忠也派一刀流と呼ばれた系統の開祖は共に伊東一刀斎であるが、一刀流自体の嫡流に関しては諸説がある。
小野忠明 2
1
[1565〜1628] 江戸初期の剣客。安房(あわ)の人。通称、次郎右衛門。前名、神子上典膳(みこがみてんぜん)。小野派一刀流の祖。伊藤一刀斎に剣術を学び、秘伝を伝授され、徳川秀忠に仕えた。
2
近世初期の武芸者。二(次)郎右衛門と称す。もと神子上典膳(みこがみてんぜん)といい,伊藤一刀斎について一刀流をきわめた。兄弟子小野善鬼とたたかったという伝説は名高い。のち徳川家康に仕え,秀忠の剣術の師となる。その子忠常〔1608-1665〕も剣にすぐれて小野派一刀流の祖となり家光に仕え,以後代々幕臣であった。
3
1565−1628 織豊-江戸時代前期の剣術家。永禄(えいろく)8年生まれ。安房(あわ)(千葉県)里見家につかえたのち伊藤一刀斎の門人となり,一刀流の極意をきわめ,小野派一刀流を創始した。文禄(ぶんろく)2年徳川秀忠につかえ,のちに将軍家指南役となった。上田七本槍のひとり。寛永5年11月7日死去。64歳。前名は神子上(みこがみ)典膳。通称は次郎右衛門。【格言など】座上の兵法は,所詮,畠の水練と同じものでござる(将軍秀忠が兵法について一説をとなえたときの諫言)
4
生年:生年不詳〜没年:寛永5.11.7(1628.12.2)  江戸前期の剣術家。将軍徳川秀忠の剣術師範。上総国(千葉県)の郷士神子上重の子で,初名は典膳。下総国小金原(千葉県松戸市)の決闘で,兄弟子小野善鬼を倒し,一刀流の道統を継ぐ。文禄2(1592)年,徳川家康に召し抱えられ,柳生宗矩と共に秀忠の剣術師範となり,母方の姓を継いで小野次郎右衛門忠明と改めた。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では信州上田城攻めに戦功があり,上田の七本槍と称されたが,軍律を犯して真田信幸に預けられ,翌6年に召し還された。将軍家の剣術師範としては宗矩が1万2500石の大名になったのに対し,忠明は600石にすぎなかった。剣技では忠明が上との評価もあったが,政治性とは無縁な性格が災いしたともいえよう。嫡男忠也に一刀流の道統を継がせ,次男忠常に小野の家名と将軍師範職を譲り,小野派一刀流として存続させた。
5
?‐1628(寛永5)。一刀流剣術の大成者で将軍徳川秀忠の剣術師範。通称次郎右衛門。旧名神子上(みこがみ)典膳。上総国(千葉県)出身。24〜25歳のころ伊藤一刀斎の弟子となり一刀流の道統を継いだ。1593年(文禄2),見込まれて徳川家康の家人となり,柳生宗矩(むねのり)とともに秀忠の師範となって小野姓に改めた。直情径行,妥協や要領のよさをきらった忠明は,いわば処世術に欠け,対人関係で衝突を起こすことが少なくなかった。大坂夏の陣では旗本たちとの間で争いを起こし閉門させられたり,将軍相手の剣術稽古でも手かげんを加えずきびしく立ち合ったので,しだいに疎んぜられるようになったという。
6
(?〜1628) 剣術家。上総の人。旧名御子神みこがみ典膳。伊藤一刀斎の弟子。一刀流を大成。柳生家とともに将軍家剣術師範。
7
(1565―1628) 江戸初期の剣術家、小野派一刀流の祖。通称次郎右衛門、前名神子上(御子神)典膳(みこがみてんぜん)。生国安房(あわ)(千葉県)。大和(やまと)(奈良県)の豪族十市(といち)氏の末裔(まつえい)と伝え、父重(しげ)(土佐)のとき里見安房守(あわのかみ)義弘に仕えたという。幼少のころから剣を好み、遊歴中の伊藤一刀斎景久(かげひさ)に師事して諸国を修行し、ついにその奥秘瓶割刀(かめわりとう)を伝授され、1593年(文禄2)29歳のとき江戸に出て徳川家康に謁し、200石をもって召し抱えられ、嗣子(しし)秀忠(ひでただ)の剣術の師となった。このとき母方の姓を継いで、小野次郎右衛門忠明と改名し、1600年(慶長5)秀忠に従って信州上田攻めに軍功があり、やがて累進して御使番(おつかいばん)、御目付兼役となり、800石を領した。しかし性剛直で、大坂夏の陣のとき同僚と争って閉門を命ぜられ、のち許されたが、家を子の忠常に継がせて知行地(ちぎょうち)の下総(しもうさ)国埴生(はぶ)郡寺台村(千葉県成田市内)に隠棲(いんせい)した。
8
江戸初期の剣術家。通称次郎右衛門。安房の人。前名は神子上典膳(みこがみてんぜん)。伊藤一刀斎に学んで秘伝を伝授され、小野派一刀流を開く。江戸に出て、のちに二代将軍となる徳川秀忠の剣術師範を務めた。永祿八〜寛永五年(一五六五‐一六二八)。
9
安房の人(1569〜1628) 徳川将軍家の指南役も務めた剣豪。初名の御子上典膳(みこがみ・てんぜん)でも著名。(姓は神子上とも書かれる) はじめ安房の大名・里見家に仕えたが、出奔し戦国最強の呼び声も高い剣豪・伊藤一刀斎(いとう・いっとうさい)に師事した。兄弟子の善鬼(ぜんき)を破り一刀流の奥義を継承したと伝わる。1593年、一刀斎の推薦で徳川家康に仕えた。徳川秀忠のもとに付けられ、柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)の新陰流とともに徳川家の剣術指南役となり、この頃に御子上典膳から小野忠明に改名した。なお小野は母方の姓で、忠明は秀忠から一字もらい受けたともいう。忠明は小野一刀流の開祖とされることが多々あるが、本人はそれを称しておらず、子の小野忠常(ただつね)が小野派一刀流を、弟の伊藤忠也(ただなり)が忠也派一刀流をそれぞれ称したものである。1600年、関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、上田城を攻め「上田七本槍」と呼ばれる活躍を見せたものの、同時に軍令違反を犯したため真田信之のもとで蟄居を命じられたが、後に秀忠の兄・結城秀康(ゆうき・ひでやす)の仲介により帰参を許された。1614年の大坂の陣にも参戦したが、忠明は生来の傲岸不遜な性格で常に諍いを起こしており、一説には他藩の家臣と手合わせした際、相手の両腕を再起不能になるまで打ち砕いたため、秀忠の怒りを買い閉門処分を受けたという。1628年、60歳で没した。小野派、忠也派それぞれの一刀流は分派を興しながら現代にまで受け継がれている。中でも小野派から生まれた山岡鉄舟の「一刀正伝無刀流」、後に千葉周作がさらにアレンジし「北辰一刀流」を生んだ「中西派一刀流」が著名である。
小野次郎右衛門忠明 3
永禄8年〜寛永5年(1565〜1628) 伊藤一刀斎から一刀流の正統を受け継いだ剣豪。家康に認められて旗本となり、2代将軍秀忠の剣術師範になった。以来、一刀流は柳生流とともに徳川将軍家の御流儀兵法となった。柳生流が「治国平天下の剣」といい、精神性にこだわったのに対し、あくまでも人を斬るための実戦剣法にこだわった。実際、強さではその当時最強だったといわれる。
人を斬る実戦剣法にこだわった剣豪
伊藤一刀斎から一刀流の正統を受け継いだ剣豪である。初め、神子上典膳吉明と名乗り、関ヶ原後に名を改めた。
伊藤一刀斎とともに回国修行の旅をした弟子に忠明と善鬼という者がおり、善鬼が生来粗暴傲慢なのに比べ、忠明は人格的にもすぐれていたので一刀流の正統を受け継ぐことができたといわれている。
だが、これ以外には忠明が人間的に立派だったという話はほとんどない。
一刀流といえば柳生流と並んで徳川将軍家の御流儀兵法である。
ところが、御流儀兵法といえば第一に柳生流の名が上がり、一刀流が第二のものとされてしまう。こんなところにも忠明の人格の影響が現れているのである。
というのも、忠明は剣法によって人格を高めることなどには関心を持たなかった。忠明にとっては、剣とはあくまでも人を斬るためのものだったのだ。
忠明はあるとき家康から一刀流とはどのような流儀かと問われたことがあったが、その答えは「隼が小鳥を捕るように、つかんだ瞬間に喰ってしまうような流儀であって、まったく田舎風な卑しい流儀といえましょう」というものだった。
2代将軍秀忠があれこれと自分の兵法に対する考えを語った後、忠明に批判を求めたときには彼は、「兵法というのは実際に腰の刀を抜き、生死をかけた修羅場で行うものです。口先の兵法などは畳の上の水練と同じで何の役にも立ちません」と答えている。
これを、「治国平天下の剣」を説いた柳生流の考えと比べてみれば、忠明の考えが実戦的にすぐれていることは確かだとしても、いかにも野蛮だということがわかる。このため一刀流は、天下国家の平和を最優先する徳川将軍家の御流儀兵法としては、どうしても柳生流の後塵を拝するしかなかったのである。
膝折村の功名で家康に取り立てられる
忠明が徳川家康に仕えるようになったのは、ある事件がきっかけだった。
あるとき江戸本郷で家を借りた忠明はその家の表に「天下一流一刀根元 神子上典膳 懇望之衆中者被尋」と看板を出した。
これがきっかけで、忠明は家康の旗本・小幡勘兵衛尉景憲と知り合った。
景憲は忠明の家からそう遠くないところに屋敷を構えており、最初は忠明の看板に腹を立てた。そして、その高慢の鼻をへし折ってやろうと試合を申し込んだが、いとも簡単に忠明にやられてしまった。景憲は大いに感服し、それからは忠明こそが天下一流であると吹聴して回ったという。
おりもおり、江戸近郊の膝折村の村長が江戸へやってきて役人に訴えた。
「刀術者が人を殺して民家に立てこもりました。江戸には神子上典膳という強い剣術使いがいると聞いていますが、その人でなければ斬ることはできないでしょう」
この訴えを知った家康はすぐに小幡勘兵衛尉景憲を検使として、忠明に賊の討伐を命じた。忠明は膝折村に来るとその民家の前でいった。「神子上典膳だ。勝負しろ」
これを聞いて刀術者は、「おう、有名な神子上典膳か。出ていって勝負するぞ」と叫んで駆け出してきて大太刀を抜いた。典膳も2尺ばかりの太刀を抜くとアッという間に相手の両腕を切り落とし、「首をはねますか?」と景憲に問うた。
景憲がうなずくと間髪入れず、すぱっ、と賊の首を切り落とした。
この活躍が景憲から家康に伝えられ、文禄2年(1593)、忠明は二百石(のちに六百石になる)で旗本に取り立てられ、のちの2代将軍秀忠の剣術師範をつとめるようになったのである。 
 
上田攻め

 

秀忠公の遅刻は、忠明先生も原因か
上田戦において、徳川側で活躍した7人が、のちに「上田七本槍」と呼ばれている。活躍したというか、活躍できてなくて負け戦だったんだけど。その7人のうちのひとりが、神子上典膳こと、のちの小野忠明先生!ところが、伝えられている話が、あまりにも、あっちこっちヘンなので、特記する。
『慶長記』における描写
『関原軍記大成』や『翁草』にも詳しい記述があるらしいが、綿谷先生は『慶長記』の「上田御発向の条」を、『もっとも正確とおもわれる』と評価なさっているので、まず、それを御覧いただく。
『九月六日辰刻に、眞田家臣根津長右衛門持口より、依田兵部、山本清右衛門物見に出で虎口より二町計向に堤あり是に居て物見する所に、亦歩行武者齋藤左助山伏出立にて右兩人居たる堤より先へ出で、槍玉を取て名乗ける所へ牧野右馬允備より神子上典膳、辻太郎助一文字に駈来るを見て齋藤は引取ける、辻、神子上は彼を追捨て、依田、山本が居たる所へ馳来る、依田、山本立上て堤の上と下にて槍を組神子上辻堤の内へ飛入り戰ける所に、又朝倉藤十郎、戸田半平、中山勘解由、鎮目市左衛門、太田善太夫五人の者馳来る、太田は槍脇の弓也、山本が長柄の槍も折四箇所疵を蒙り不叶して引取所に、依田深手負て虎口際にて倒れける所を神子上刀を拔て依田が面を一太刀切る辻も續て一太刀切る、山本走り寄、兩人を切拂、兵部が死骸を虎口へ引入る、牧野右馬允是を見て、辻神子上討すな續や者共と下知せられければ、承り候とて追々に百騎計来る、城方の者共門の内へ引取かたく見ぇつるを、根津長右衛門是を見て凱歌を擧させ門を開き鐵砲をつるべ打に打ければ、味方是を突て出ると思ひけるか虎口を少し引き退く其間へ何も城中へ取入ければ則門を閉たりける、眞田の七本槍と云は是也。其後依田が面を切ることを神子上より辻初太刀なりと云、神子上が云、依田は朱冑を着し頬當は仕不申、初太刀某也と云辻は朱頬を掛たり初太刀我なりと云、右馬允聞給て、何れも證據無之に依て家人二三人馬買に仕立て彼場所の様子聞届申す可くとて信州へ遣けるに彼者才覺し、山本清右衛門に出合、彼時の様子を尋ねければ、山本が云く、依田は頬當は不仕朱頬を掛たると被申仁、定めて二の太刀にて可有先太刀に血走り可申なれば閙敷節朱頬と披見けるもことはり也と語りける此儀を右馬允聞給、此儀最成と批判せられしと云々。』
小野派一刀流の公式見解
『一刀流極意』では、このようになっている。
『第七節 下田(原文ママ。引用者注、以下同)の七本鑓・一刀流の突
(略) 秀忠は家康の命を受け、関ヶ原の外廓戦の一方を承わり、慶長五年八月二十四日に手兵三万八千人を率い宇都宮を発して信濃に進んだ。秀忠は小諸から上田城に向かい、これを守つて西軍に加担する真田昌幸、真田幸村を攻めたが、真田軍が城の守り堅固で容易に落ちない。秀忠の軍が苦戦し荏苒日を過ごして九月七日に及んだ。
この日秀忠先手の軍勢が苅田に出で、村々に控えていたが、上田の城中から見計らい、頃はよしとばかり屈強な軍兵多勢でどつと門を開いて馳懸かり、秀忠の勢を追い立てた。この時に徳川旗本の勇士神子上典膳、戸田半兵、辻太郎助、朝倉藏十郎(原文ママ)、中山助六郎、齋藤久右衛門、太田甚四郎等と相ともに比類なく立ち働いて見事な戦功をたてた。これを関東で上田の七本鑓または苅田の七本鑓とも名付けている。この戦で上田の城兵依田兵部、山本清右衛門、 齋藤左太夫等は身を捨てて奮戦したが、 徳川勢の神子上典膳は依田兵部の面に一太刀を浴びせた。続いて辻太郎助も兵部に切り付けた。
山本清右衛門これを見て、深手を負うた兵部を肩に懸けて退いた。典膳は獅子■■(番に飛。曜の走にょう)の活躍をなし目に触れる前後左右の敵の猛将勇士の腹を突き刺し貫き斃すこと数限りがなかつた。翌日勲功調査について依田兵部を斬つた典膳と太郎助との前後について不明の点があつた。典膳は彼の敵は朱盔の頬楯がなかつたので面を切つたというのに対して、太郎助は朱盔に朱の頬楯を懸けておつたのを自分は切つたと主張する。そこで牧野広成は家来二三人を馬買に扮して上田に遣わし、城兵山本清右衛門に行き逢つて、件の趣をいわせて尋ねた。清右衛門のいうのには『依田兵部は朱盔を被つて頬楯を懸けていなかつた。面に切り付けられ、血に染んだので後で見た者は朱の頬楯と思つたのだろう。頬楯がなかつたと言つた人は初太刀を切り付けたに相違ない』と。そこで典膳の初太刀が明らかとなつた。
典膳は敵の首を取つてこなかつたので、どうしたのかと尋ねられて彼は答えるには『公に奉ずるために戦い、自分の功を貪る考えはないから首級を一つも持ち帰らなかつた。しかし自分は敵の強剛な者を多数腹を突き刺し貫き斃してあるから不審があるならば戦場の屍を検べて見るがよい』と。検視役が戦場に行つてつぶさに調べて見ると全くその通りであり、また典膳が突き殺して置いた屍の立派な兜の死首を斬つて功を盗んだ犬士がいたこともわかつた。これによつて典膳の無欲と一刀流の臍突の恐ろしさが評判となり、衆皆畏服し、秀忠はこれを聞きその高潔な精神と豪強な武技とを嘉して益々重用した。秀忠が小諸から江戸に帰るまで典膳は終始この軍旅に従つたのである。』
当時の小野家と幕府の公式見解
『寛政重修諸家譜』では、またちょっと言ってることが違う。
『慶長五年八月眞田昌幸が籠れる信濃國上田城を攻たまふのとき、酒井宮内大輔家次、奥平美作守信昌、牧野右馬允康成が手に属し、刈田の事を奉行し、城にちかづくのとき昌幸城中より馬を出し蜀黍畑近く至る。忠明及び中山勘解由照守、辻左次右衛門久吉、鎮目半次郎惟明、戸田半平光正、齋藤久右衛門信吉、朝倉藤十郎宣正等七人すゝみ戰ひ、忠明、敵兵望月兵部某山本清右衛門某と鑓を合す。時に辻久吉馳加はりて挑み戰ふ。兵部某忠明等がために重手を負て虎口際に倒る。忠明その鑓を奪ひ、其首を得んとす。敵數多馳加はり、鑓合はげしくしてこれを得る事あたはずと雖も、太田甚四郎吉正鑓脇を射て敵を射倒すがゆへに忠明、久吉、照守等其勢に乗じて土橋をこえ、城門ちかく奮戰す。これによりて敵つゐに城中に引入、是を世に上田の七本鑓と稱す。しかれども軍令を犯せし事を咎められ、眞田伊豆守信幸にめし預られ、上野國吾妻に蟄居す。六年九月めしかへされ、下總國埴生郡の本領二百石を賜ひ、上總國武射郡のうちにをいて二百石の地をくはへられ、のちまた加恩ありて舊地をあらため、上總國山邊武射兩郡の内にをいて都て六百石を知行す。その後劒術の秘事を言上せしにより、御諱字を賜ひ、又備前勝光の御脇指(原文ママ)、御料の羽織、黄金等を恩賜あり。』
真田家側の見解
松代藩真田家の家記、『上田軍記』では、ずいぶんと話が違う。これは真田家側に都合いいように書いてあるということは予想できるのだが。
『或時用事有ニヨリ城中ヨリ百姓共ニ足輕少々相副テ城下ヱ出ス處ニ秀忠公ノ御旗本ヨリ朝倉藤十郎・辻忠兵衛・小野治郎右衛門・中山助六・戸田半平・齋藤久右衛門・太田善太夫七騎ニテ抜駈シ右ノ足輕・百姓トモト迫合ケル、百姓風情ノ者ノコト成トモ日頃勝軍ニ馴タル者トモ故ニ七騎ノ侍ヲ追拂難ナク城中ヱ引取ケル、彼七騎ノ侍ヲ眞田ノ七本鎗ト號シテ眞田家人何某ト鎗ヲ合タリ抔ト(言へんに勹)ル士モ有ト世ニ沙汰スルトイヱトモ當家ノ侍ニ右ノ七人ト鎗ヲ合タル者ヲ聞ス、右七人ト迫合シハ當家ノ足輕并ニ百姓共也、』
『或記ニ云ク』、『或記云』として、異説がいくつも添えてある。
『酒井宮内大輔・牧野右馬允・大久保治右衛門等カ手ヨリ人夫ヲ出シテ城下ノ作毛ヲ苅セケル、是ハ城兵ヲ引出スヘキ計畧也トソ聞ヱケル、城中ヨリ是ヲ見テ足輕二百人討テ出彼者共ヲ追拂ハント戰ケリ、是ヲ見テ本多美濃守カ手ヨリ大勢助ケ來リテ外構ノ木戸迄押込テ相戰フ、時ニ本多カ郎從ニ淺井小右衛門・永田角右衛門ト云者先蒐ニ進テ戰ケル、係ル處ニ城中ヨリ木戸ヲ開テ突出ル、寄手ノ先陣突立ラレケル處ニ城中ヨリ左衛門佐大勢ヲ從ヘテ秀忠公ノ御旗本ヘ一文字ニ突テ蒐ルニ、如何シタリケン秀忠公ノ御前備色メキ立ケルヲ左衛門佐勝ニ乗テ突崩シケル、秀忠公瞋リ玉ヒ僅ノ勢ニ對シ逃ルト云コトヤ有、返合テ戰ヘト牙ヲ噛テ下知シ玉ヘハ御旗本ノ軍兵ノ中ヨリモ中山助六・太田善太夫・朝倉藤十郎・小野典膳・辻小兵衛・戸田半平・齋藤久右衛門此七人踏止リ鎗ヲ合テ戰ヒケリ、鎮目市左衛門モ取テ返シテ彼輩ト同ク戰ヒケル
一説云、此時御旗本ヨリ淺見藤兵衛・小栗治右衛門・小野治右衛門・中山勘解由・戸田半平・朝倉藤十郎・辻太郎助七人取テ返シ北ノ門迄城兵ヲ追込シト云々
右ノ七人ヲ上田七本鎗ト號シテ人々稱美シケり、時ニ牧野右馬允・大久保相模守カ勢共粉骨ヲ盡シテ戰ケレハ、左衛門佐突立ラレテ城中ヘ入ントスル處ヲ寄手ノ兵共追番テ城ヘ入ント爭ヒ進ム、安房守城中ヨリ是ヲ見テ左衛門佐救ン迚門ヲ開テ突出タリ、寄手モ爰ヲ先途ト戰ヒ追込ハ追出シ追出ハ攻入三四度揉合シカ寄手ノ兵追立ラレ危ク見ヘケレハ、本多美濃守・大久保相模守兩人馬ヲ乗廻シ軍兵ヲ下知シテ操引ニ引ケルニ、安房守モ人數ヲ下知シテ城中ニ引入ケル、其後ハ遠巻ニシテ暫ク軍ハナカリケルト云々』
小野忠明先生の考え
忠明先生はそんなにヘタクソなのか?
依田殿は、すでに深手を負っており、そこへ忠明先生が斬りつけたものの、依田殿はまだ平気だった。それを、辻殿が続けて斬りつけたことにより、依田殿は死亡したらしい。忠明先生の攻撃では依田殿はびくともせず、次に斬りかかった辻殿は自分が最初に斬りつけたと勘違いしてしまったくらい、依田殿はピンピンしていて、まだまだ動けた。負傷した相手すら討ち取れないほど、忠明先生の打ち込みは不十分?そんなバカな話があるか?そこへ、これまた負傷して疲れている山本殿が駆けつけてきて、なんと、忠明先生(と、辻殿)を追い散らしただけでなく、依田殿の御遺体をかついで離脱に成功している。負傷者が、しかも遺体を運んで逃げるのを、二人がかりでも討ちもらしたって? 中途半端に手負いの者は死にもの狂いで強いから無理に攻めないとか、戦場では混乱してるから誰かが足手まといになったか、救急活動には攻撃しないという美学か、いろんなことがあるのかもしれないけれども。『一刀流口伝』、『一刀流三祖伝』によると、忠明先生は柳生家へ道場破りに乗り込んで、圧倒的に完勝したことになっている(それが史実かどうかはともかく、そういう逸話が出回るくらい強い人だということになっていた)。柳生家との優劣はどうでもいいが、将軍家に採用されるほどの剣豪が、しかも味方がいて2対1の時に、そんじょそこらの平凡な武将(すみません)しかも負傷している者に、追い散らされたとは。すぐ後に、牧野康成侯が、「辻と神子上を討たせるな、彼らに続け、ものども」などと命じているうえに、『寛政重修諸家譜』では敵が大勢だったように書いてあるので、おそらく山本殿はある程度の人数を率いていて、忠明先生の手にも余ったのではなかろうか。
忠明先生は、敵の首を捕りたかったのか?
忠明先生は、敵を殺しても首は捕らずに捨て置き、目ぼしい強敵を次々に殺した。自分の手柄なんて度外視して、ただただ主君のため役立つことを優先なさって、強い敵ばかりを引き受けてらっしゃった。…というのが笹森先生の御見解。『寛政重修諸家譜』では、忠明先生は敵の首を捕ろうとしたが、捕ることができなかった、大勢の敵が加勢に駆け付けたため、と述べている。どっちなんだ?
忠明先生は、騒動を起してまで、手柄を自慢したがる人か?
忠明先生と辻殿は、最初に依田殿に斬りつけたのは自分だと主張して、争いになっている。いいよ、たぶんおまえが先に斬ったんだろうよ、と譲ってあげずに、自分の手柄である!とムキになって言い張るのである。自分の功を貪る考えはない、と言った口で、初太刀それがし也、こんな発言をなさるだろうか?あるいは、初太刀それがし也とは言ったが、自分の功を貪る考えはないとは言ってないとか?有名人の発言というのは、言ってもいないことがカギ括弧でくくられることが多いので、どうも信じがたい。 現代人が確実にしゃべっている映像ですら、デタラメなテロップが付けられるのだから、400年も前の伝聞は、よくよく注意しなければならない。戦場でのことは、武の神に誓って真実しか言わないとか、なんかしきたりでもあるのだろうか。それとも、これが戦国時代の一般的な気風で、剣豪かどうかは関係ないのだろうか。
誰が最初に斬りつけたのかを、わざわざ調査している
忠明先生と辻殿の証言が食い違うので、真実を確かめるために、牧野康成侯は敵のもとへ話を聞きに行かせている。なおかつ、合戦が決着してもいないうちから、死体の見分もずいぶんと念入りにおこなっている様子。武士の名誉において、よっぽど重要なことだったのかもしれないが。これじゃあ、関ヶ原に間に合うわけがないよ。ただし、『慶長記』では『信州へ遣ける』という言い方をしている。笹森先生は『翌日』のことであるとおっしゃるが、いったん信濃を離れてから、後日確認したことなのではあるまいか?
7人の内訳
上田七本槍、真田七本槍、真田表七本槍、苅田の七本鑓とも言うらしい。苅田の七本鑓とは、痛い名前だ…。
神子上典膳 / 小野次郎右衛門忠明先生。後述。『上田軍記』では治右衛門、小野典膳とも。
辻太郎助久吉 / 久正とも。『寛政重修諸家譜』では左次右衛門。『上田軍記』では忠兵衛、小兵衛とも。
朝倉藤十郎宣正 / 藏十郎は誤植か。宜正ともあるが誤植か。宣政とも。徳川忠長公の付家老。正室は忠長公の乳母。
戸田半平重利 / 半兵とも光政とも。『寛政重修諸家譜』では光正。
中山勘解由照守 / 初名は家守。助六郎とも。『上田軍記』では助六。北条家の旧臣。徳川将軍家の馬術指南役。高麗八条流。
この5人は、だいたい確定しているのだが、あと2人は誰なのか?笹森先生も7人のリストを明確には書いてらっしゃらない。
齋藤久右衛門信吉 / 織田、上杉、徳川と渡り歩いた人。太田甚四郎を入れずに、この人を7人に含めるのが、現在では一般的らしいが、根拠不明。『上田軍記』では、どちらかといえば、この人を含める方向。
太田甚四郎吉正 / 『上田軍記』では善太夫。援護射撃、「槍脇の弓」であり、7本槍には含まれないともいうが、ものの本によって違う。
鎮目市左衛門惟明 / 『寛政重修諸家譜』では半次郎。甲斐武田家の旧臣。『上田軍記』では7人のひとりには数えていないが、7人と同様に戦ったとする。
浅見藤兵衛・小栗治右衛門 / 『上田軍記』では、『一説云』として、この2人を7人に含め、齋藤・太田・鎮目を含めないという異説を紹介している。『武辺咄聞書』によれば、この2人は銃撃され、小栗は死亡、浅見は戦線離脱、そのあと七本鎗が活躍したとする。
本当に称讃されたのかどうか
『比類なく立ち働いて見事な戦功をたてた』もなにも、この戦闘は命令にそむいた軽挙妄動『抜駈』であり、真田家の得意な挑発にまんまとひっかかっており、しかも負け戰になった。この7人は、軍法違反の罪で、戦後に処罰されている。上野国吾妻で禁固刑、つまり真田信幸改め信之侯へ、お預け。それが、翌年には許され、その後はそれぞれ加増されて、そこそこに出世しているのである。称讃されたとすれば、戦後だいぶたってからではないだろうか。少なくとも、秀忠公の代になってからとか。『寛政重修諸家譜』の口ぶりでは、忠明先生は最初に200石で採用され、上田でヘマをやって領地没収(?)され、その後、許されて、改めて200石をもらいなおしたような感じ。
忠明先生は、いったん逃げたのか
上田城にこもる兵をおびき出すため、徳川軍は人夫たちを出して刈田を始めたので、人夫(武士ではあるまい。戦闘員というより雑用係程度)が相手だから、真田軍からは足軽200人を出して追い払おうとした。すると徳川軍からは本多忠政侯の正規の武士の大軍が攻めかかって、城の外構えの木戸まで追い詰めた。じつはそれが、裏の裏をかく真田家の策略で、おびき寄せておいていきなり城が開いて攻撃してきて、徳川軍の先陣が崩れた。さらに幸繁侯が手勢を率いて出てきて、秀忠公の護衛隊へ一直線に襲いかかった。秀忠公の前面の備えが崩れ、幸繁侯はさらに突き進む。大ピンチにさらされた秀忠公は「わずかな敵に対して逃げるなんてことがあるか、引き返して戦え」、と、歯ぎしりして激怒。そしたら、七人が踏み止まって戦った。ということは、恐かったのに踏み止まったことは勇気で偉いが、その前にいったんは逃げ出して、秀忠公に叱られているわけだ。文字どおり五十歩百歩ではないか。この場合は、おびき出されて各個撃破されているうえに、手薄になった本陣をまんまと突かれて、わが主君が危なくなっているのだから、逃げて引き返したほうが正しかったとも言えるし、旗本というのは大将の周囲を固めることこそ本来の最優先の業務なのであって、踏み止まって戦ったことが愚かだったのかもしれないし、愚かでも秀忠公がそうしろと言ってるんだから指示に応えるのが忠義だったかもしれないし、踏み止まって敵を食い止めて主君に近寄らせないというほうが手柄だったのかもしれないし、危ないところを守ってくれたというのは秀忠公から見れば手柄でも、家康公から見ればあんまり手柄じゃないのかもしれない。要するに、この7人は両方の行為をやったために、戦後の査定でも賛否両論だったのではあるまいか。
忠明先生はあんまり重用されていない
『高潔な精神と豪強な武技とを嘉して益々重用した』というのは、小野派一刀流の宗家がお書きになった本だから、そうおっしゃるのは当然なんだけれども、重用されてないという説もあることはある。徳川将軍家の剣術指南役は、柳生家が大名にまで出世しているのに対して、小野家は旗本どまり。忠明先生は剣の道に厳格であらせられ、相手が何様であろうと稽古は稽古として手加減しないので、将軍家から嫌われたとかなんとか。柳生家は政治家や官僚や哲学者としても優れていたので、柳生家の石高は剣術指南だけの評価額ではなかったとかなんとか。忠明先生は、鋭い気迫をお持ちの武闘派で、どうしても周囲とトラブルになってしまうことが多く、誤解されやすかったという説もある。
『後に小野次郎右衛門忠明が大坂夏の陣で、同僚の旗本某々が卑怯なるふるまいをしたと中傷して関係者から逆に訴願され、大騒ぎになった一条は『武功雑記』に詳しい。彼はこの件のために将軍に叱られて、閉門を食ったが、やがてまた赦免された。こんな厄介なトラブルを再々おこしている点などから見て、小野次郎右衛門には人間的に、円満さ、寛容心に欠けた一面があったように思われ、その軽躁さが、柳生但馬守宗矩の重厚さや政治的遊泳術に到底およばなかったところに、生涯、彼が柳生宗矩ほどに出世できなかった素因があったのかもしれない。』 (綿谷雪先生『考証武芸者列伝』)
稽古が厳しかったのは、むしろ忠常先生がそうだったらしく、忠明先生以降の話もごっちゃになってるのではあるまいか。
『猷廟(家光公のこと。引用者注)劒術を深く好せ玉ひ、柳生小野兩流を習ひしに、但馬守宗矩は御意に叶ふ様にあしらひまゐらせらる、忠常は天性氣がさなる人にて、何條劒術學び玉はんになど憚る事の有べきとて、思ふまヽに打参らす、此故にや恩遇柳生に及ばず、一生格別なる御加恩もなかりしといふ、』(『撃劒叢談』巻之三)
ただし、誤解してもらっては困るけれども、「これだから一刀流は攻撃的な猪突猛進の流派で、新陰流は横綱相撲のように気品と貫禄のある流派だあ」などという解釈は、短絡的かつ一面的すぎる。実際に演武を拝見すればすぐわかるが、一刀流にだって変化や斜めはあるし、新陰流だって激しく攻撃する時はする。江戸柳生の場合、将軍みずから刀を振り回して人を斬り殺すなんて状況は、もはや家臣は全滅か、道徳が足りないキチガ○か、どっちにしても、実際にそんなことでは幕府は滅亡なのだから、そんな状況にならないようにすることのほうが大事という教えなのであるから、武道としても軍事的にも正論だと言える。尾張柳生の場合、手加減すると藩主も若様も激怒するので、稽古は厳しく、体を傷めすぎて、尾張徳川家は数日寝込んだこともあったと伝えられている。
上田戦の時は、すでに「小野」だったが、「忠明」ではなかった?
『寛政重修諸家譜』では、『文禄二年めされて東照宮に拝謁し、仰によりて台徳院殿に附属せられ、釆地二百石をたまひ、劒術の御相手となり、後東照宮の仰により御子神を改めて外家の稱小野を稱す。』とある。文禄2年(1593年)、家康公に召し出されて、家康公の命令で秀忠公付に任じられ、200石もらうことになり、剣術指南役になった、ここまでは文禄2年のようだが、それから、しばらくたってから、小野に改名したようなニュアンス。小野は、外家(母方)の苗字。そのあと、慶長5年(1600年)上田戦があり、蟄居になる。慶長6年(1601年)許され、200石もらいなおす。それから400石になり、600石になる。というようなことを経てから、そのあとに、剣術の奥義を秀忠公に伝授したという理由で、「忠」の文字を賜った。ということは、「忠明」に改名した時期は、かなり後ということになる。 『寛政重修諸家譜』の話の順番が時系列だったと仮定すればの話だけれども。世間一般的には、「家康公に200石で召し抱えられ、秀忠公付きになった時点で、忠明に改名している」という説もあるようだが、根拠がわからない。少なくとも『寛政重修諸家譜』を読む限りでは、そうではなさそう。改名していたとしても、戦友たちや、歴史を書く人にとっては、言い慣れた旧名で呼ぶのかもしれないけれども。
忠明先生は、牧野家よりも先走った?
軽挙妄動の牧野家でさえ、忠明先生よりも後から手を出している。これも奇妙な話。忠明先生の主君は、秀忠公。忠明先生は、秀忠公の旗本として、秀忠公の身辺を護衛する親衛隊として参戦しているはず。ここぞという急所に投入されることはあるかもしれないが。味方が混乱した時こそ大将のそばを離れず、本陣を守るべき人が、なぜか最前線に立って、攻撃の主力として合戦をリードなさっている。これは一体どういう状況?しかも、戦功査定では、なぜか牧野家が忠明先生を仕切っている。この命令系統はどうなっていたのか、全然わからない。『寛政重修諸家譜』によれば、酒井家次侯・奥平信昌侯・牧野康成侯が、3人とも、同時に、忠明先生の上官だったようだけれども、それもまた不思議。
刈田狼藉を指揮したのは、忠明先生だった!?
『寛政重修諸家譜』によれば、酒井・奥平・牧野侯の指揮下で、忠明先生は『刈田の事を奉行し』とある。じゃあ、贄掃部殿じゃなくて、忠明先生が切腹させられるべきではないか。もしかすると、酒井・奥平・牧野侯が共同で指揮する部隊のうち、牧野侯の下に贄掃部殿がいて、贄掃部殿の下に忠明先生がいて、刈田狼藉をやらかしたのは、贄掃部殿から下の命令系統だったということ?贄掃部殿の一存でやらかしたのなら、牧野侯は監督不行届きで蟄居、贄掃部殿は切腹、忠明先生はおとがめなし、という図式になるのかもしれないけれども。
忠明先生は、百姓に負けて追い払われた?
『上田軍記』もまた、忠明先生らが圧倒されて追い散らされたと述べているが、忠明先生ら七人をやっつけた人々というのは、お百姓さんであり、少し足軽が混ざっていた程度だという。これは、ヘンではない。信長公や秀吉公の軍隊とは違って、信濃では兵農分離してないだろうから(特に東信地区では江戸時代に入っても武士がなかなか農業から離れなかったという)、百姓といえども歴戦のプロである。秀吉公や家康公が、刀狩りや士農工商をさかんにやったのは、「普段は百姓で有時には戦闘員」という中途半端な連中を武士から切り離したわけだが、切り離したって世代交代するまではみんな経験者だ。もっと基本的なことを言えば、百姓と農民はイコールではないし、農民も武術をやる。きこりとか、猟師とか、足腰が鍛えられていて剣鉈や鉄砲なんか使っちゃう筋肉ムキムキの人たちも、百姓なのである。それよりも問題なことは、真田家の侍は忠明先生らと戦ってないということ!徳川軍は、まるで真田家の大物武将を相手にしたかのようなことを吹聴するが、真田軍は、そんな事実はないと言っている。やはり、伝えられている話よりも、小規模な戦闘だったというのが真相のような印象を受ける。理由はわからないが(おそらくは秀忠公のメンツだろうとは思うが)、徳川家としては、激しい戦闘がおこなわれたということにしておきたいらしい。
上田で諌言した者はいなかったのか
本当に攻めるつもりだったのか?
この時、秀忠公は21歳くらい。21歳で方面軍司令官なんて、ただの飾り物なのだから、周囲が悪い。戦後、家康公が詰問したという。ベテランの重臣たちがついていながら、どうして誰も止めなかったのか、と。まるで、合戦しちゃいけなかったかのような。そもそも、この時の徳川軍は、上田城を攻め落とす気があったのかどうか。『上田軍記』によると、上田城を攻めようと小諸城に着陣した秀忠公が、真田信幸侯(原文では信之となっているが、この時は信幸)を呼びつけて言うには、『我此處迄馬ヲ寄スルトイヘトモ聊思慮有ナレハ安房守カ方ヱ和睦ノ爲ニ遠山九郎兵衛ヲ指遣也』、ここまで出馬してきたものの思うところあって和平交渉の使者を派遣する、なんてことになっている。攻め落とすも、調略するも、秀忠公の判断にまかされていたような話になっているが…。要するに『内府ちがひの条々』が出回ったため、徳川軍は西へ行けなくなってしまった。東軍のうち、豊臣恩顧の大名たちが、どう動くやら。上杉家や佐竹家が攻めてくるかどうかも、読みにくい。徳川軍としては、いずれは西へ向かうが、まだ行かない、もしかすると北陸へ転戦することも、関東へ引き返すことも視野に入れつつ上田に行って、話し合いで解決できればそれはそれで上出来、もし合戦になったとしても、今のところすぐに西へ行くわけでもなし、それどころか、すぐに西へ行かない口実にもなるという、とりあえずという感じで上田へ向かったのではあるまいか。だからこそ、命令もしていないうちに牧野家が血気にはやって開戦してしまったのは、困るという。現存する秀忠公の書簡では、『信州真田表、仕置申付けべきため、』、『真田表仕置申し付け』とある。真田家に対して、なんらかの処置をしなきゃいけないというだけであって、必ずしも合戦するとは限らなかったのかも。
正信侯は?
軍目付の本多正信侯は、戦闘に消極的だったように伝えられている。しかし、まだ攻撃命令が出ていないうちに牧野家が軽々しく開戦したこと、に対して怒っていたのであり、戦わなくていいとは思っていなかったのかも。『藩史大事典』では、牧野康成侯が、『慶長五年(十六〇〇)の関ヶ原の役には秀忠に従って信濃国上田城(長野県上田市)攻撃で城兵を追い、指揮者本多正信の制止に反したと処罰を求められた。』とあり、正信侯は止めたが康成侯が言うことをきかなかったという感じ。俺は未見だが、『三河物語』では、この時の正信侯は戦いを制止しなかったように書いてあるというが、この書物は大久保彦左衛門殿が自慢話を内々に書いたもの。本多一族と大久保一族は幕府成立直後に政権争いをやって、本多側が勝っているので、大久保家が書いたものに本多家の悪口が書いてあるのを全部うのみにもできないし、失礼ながら、うるさ型の年寄りの昔話というのは、記憶違いと誇張が(そんなつもりはなくても)入るとも思う。『上田軍記』に『或記云、』として添えてある異説によれば、『爾ル處ニ大久保相模守・本多佐渡守秀忠公ヘ申上ルハ僅ノ小城ニ御人數ヲ費サレンモ如何成ハ、先軍勢ヲ引入ラレ上方ヘ御急キ御尤ノ由ヲ申ニ依テ秀忠公御馬ヲ小室ニ入玉フ、』というような具合であり、やっぱり正信侯が戦闘を中止させているのだが、しかも、上方へ急ごうとも言っていて、なおかつ、一緒に諌言してるのが主戦論者のはずの大久保忠隣侯(彦左衛門殿の甥)というのは、どういうことやら。結局、関ヶ原のあと少したってから書いたものは、すでに結果を知ってて書いているから、少なからず観念的になってるのかもしれない。
康政侯は?
榊原康政侯は、実質的最高指揮官であるにもかかわらず、この戦いに参加していない可能性もある。四天王のひとりとして、この大事な時に主戦場にいないのはまずい、遅れをとってなるものかと思って、とても焦っていて、上田なんかほっといて、自分たちだけ、さっさと大垣へ向けて出発してしまったというのである。『(略) 榊原康政を先任部隊長、本多正信を家康から特派された参謀長とするライン・スタッフ組織であったが、不運が重なって、この両者が仲違いをし、しかも秀忠にこれを統率する能力がなかったため、』『関ヶ原合戦後、本多正信が家康に対し、上田の戦いにおいて榊原康政は、秀忠公の「小諸まで引っ返せ」という命令をきかず、自分の軍勢だけを率いて上諏訪まで進んで宿営してしまい、ついに引っ返さなかったため、秀忠公は「わたしが若いと思って恥をかかせた」とご不快の様子でしたと訴えると、』『挑発に乗って失敗した愚将の例は、小牧・長久手合戦の池田勝入の拙戦があり、戦後の反省会で、家康から懇々とその非なることを訓えられた徳川軍の幹部はよくそれを憶えていた。そのため榊原康政は委細かまわず軍を進め、参謀長から「軍資金を渡すから小諸に引き返せ」という秀忠の命令を伝えてきても、一顧もしなかった。』ところが、昌幸侯が80騎を率いてみずから出てきて、大奮戦した後、鼓を打って『高砂』(普通、結婚式にやる能)を歌って挑発してみせたので、康政侯が激怒して2000の手勢で追いかけたが逃げられた、という俗説もある。どっちなんだ?『上田軍記』に『或記云、』として添えてある異説によれば、『牧野右馬允・榊原式部大輔カ兵等進戰フ、』とは書いてある。もっとも、康政侯の部下たちが、全部が全部、つねに康政侯と一緒にひとかたまりでいるわけじゃないのかもしれないけれども。俗説ばかりで信用ならないが男の生きざまとしては勉強になるので、つい座右にしてしまう『名将言行録』には、家康公が康政侯に水戸25万石を与えようとしたところ、関ヶ原のとき何も功績が無かったからと辞退した、などと書いてあるので、ここはかなり気にしていたのかもしれない。
秀久侯は?
小諸城主の仙石秀久侯は、止めたとする説がある。ここは引き受ける、自分が人質になる、真田家に殺されても本望だ、これで収拾つけて御一同は西へ急いでくれ、と申し出たが、あなたも豊臣恩顧だから昌幸侯は承知しないだろう、と秀忠公に却下されたとかなんとか。戦略的な大局はどうでも、小諸城主としては、自分の戦力だけでやってみせます、この地域のことはまかせてくれ、御曹子みずから出るほどのことではない、と申し出るということはあるとは思う。秀久侯は実力はあるのだし、ここで手柄を立てれば戦後に家が隆盛するから。小諸藩のページに書いたとおり、秀久侯は豊臣軍の最古参という徹底的な外様でありながら、戦後ものすごく優遇されており、別格の扱いを受けている。秀忠公のために尽した働きが、なにかしらあったのは間違いないようだが、この時だったのかどうか。
一西侯は?
上田を無視して西へ急ごう、と諌言したのは戸田一西侯だけだった、だから戦後に家康公から誉められた、身分が低くて意見が通らなかったのではないかと家康公から采を下賜されて感涙にむせび泣いた、とかなんとか根拠不明の珍説もある。西へ急ごうとしていたのは康政侯もそうだし、一説には正信侯も忠隣侯もそうだったらしいから、一西侯だけを美化するような話は怪しい。絶対に上田城を攻め落とさなければならない!と、最も言い張ったのが一西侯だった、一時はその意見が通って決議されかけたが、正信侯が強く反対したため、押さえの兵を残して西へ急ぐことに決まった、という、まったく逆の説もあるが、これも明らかにおかしい。一西侯が処罰されたという話を聞かない。上田攻略を続けるかどうしようかと選択できるものではなく、9日に家康公の指令が届いたら、西へ向かうしかなかったのだから。とにかく、一西侯の息子さんが戸田氏鉄侯、大垣藩主。のちに古藤田先生が仕える家。上田の戦いで、牧野家も戸田家も、一刀流のすばらしさを見聞きする機会があった、ということになる。それで一刀流を習うにあたって、戸田家はどうして小野派ではなく唯心一刀流だったのか、なにかほかの縁か理由があったのかどうか。
停戦協定が結ばれていた?
小諸に伝わる話によると、小諸城内の五軒町というところに海応院という曹洞宗の寺があり(現在は荒町というところに移転している。青山宗俊侯の時に移したという)、ここの住職が、第二次上田合戦の『和睦の仲立ち』をしたという。この功績により徳川家から、高麗茶碗や、金色の三葉葵紋ちらしの団扇を下賜されたのが、現存している。なんでも、徳川軍が小諸に滞在した時、秀忠公はこの寺を宿舎にしていたところ、昌幸侯のほうから和睦を求めて、日置五右衛門を派遣してきたとかなんとか。日置五右衛門は、へきではなく、ひおきらしい。三河出身、元は武田家の家臣で、主家滅亡後は真田家に身を寄せ、子孫は沼田藩に仕えた。第一次上田合戦の時は、敗走する徳川軍にまぎれ込んで、大久保彦左衛門殿に槍で突かれそうになったりしている。大久保忠世侯の首を取るためわざと潜入しただとか、川中島衆に加勢しようと合流したつもりが間違えて徳川軍に迷い込んでしまったとか、真田側と大久保側で言ってることが違う。以来、この寺は「秀忠公お立ち寄りの寺」ということで格式が高くなり、秀忠公滞在時に使った「下馬」という立札を賜り(これも現存している)、何様であろうと乗り物に乗ったまま境内に入って来てはならぬということになったという。和睦してから上方へ出かけたんですか? これも不思議な話だ。和睦したんだったら、追撃を恐れて和田峠を避ける必要は無かったことになる。あるいは、秀忠公の遅刻が不可抗力だったかのように、言い訳が多いほうが良かったのかもしれないが。それとも、和睦したのはずっとあとになってから?

門前の説明文。『海慶應院と徳川秀忠 1600年、のちの二代将軍 徳川秀忠は、関ヶ原へ向う道を真田昌幸にはばまれて小諸に足どめされ困っていました。海慶應院の住職が間に入って和睦を成立することができたので、そのお礼として秀忠から下馬札と将軍家の印の入った品うちわと高価なお茶碗を賜わりました。これがあったために、江戸時代の北国街道を通る参勤交代の大名は、海慶應院の前では駕篭や馬から降りて通行していました。』  
 
松林蝙也斎・松林左馬之助

 

[まつばやしへんやさい、文禄2年-寛文7年(1593-1667)] 安土桃山時代から江戸時代初期の剣術家。諱は永吉(ながよし)。夢想願流の創始者。別名は左馬助、無雲、蝙也斎、主君は伊達忠宗→綱宗→綱村、藩は仙台藩である。
文禄2年(1593年)、上杉氏家臣・松林永常の子として信濃国海津(現:長野県長野市松代)に生まれる。のちに上杉家を出奔、諸国行脚の旅に出て剣術・槍術・薙刀術を修行し、夢想権之助にも師事したという。後に夢想願流を編み出した。
その後、永吉は無雲と号し、親類の関東郡代・伊奈忠治の食客となり、武蔵国足立郡赤山村(現:埼玉県川口市赤山)に住み、剣術を教授していたが、 寛永20年(1643年)に仙台藩主伊達忠宗から知行300石で世子・光宗の剣術指南役として招かれて江戸に移った。光宗はその二年後に19歳の若さで急逝したが、永吉はその後も仙台藩に残り、仙台城下の片平丁に拝領した屋敷に道場を開いて藩士に剣技を教授した。この道場は大いに繁盛し、松林家の屋敷に面した通りは道場小路と呼ばれるようになった(現:仙台市青葉区片平二丁目。現在は道場小路共々東北大学片平キャンパスの一部となっている)。
慶安4年(1651年)3月、伊奈忠治の奔走により、江戸城において将軍・徳川家光に夢想願流の剣技を披露する機会が設けられた。この時、永吉は門人・阿部道是を相手に組太刀20番を立合ったほか、相手の太刀の棟に飛び乗り宙を舞うなどの奥義を披露し(夢想願流の極意には、「足譚」(そくたん)という相手の太刀を足で踏み落とす術があるとされる)、家光は「身の軽きこと蝙蝠の如し」とその技量を讃えたという。これを誉れとした永吉は以後は蝙也斎と号した。
明暦元年(1655年)4月、婿養子の実俊に家督を譲り隠居したが、実俊が譲られたのは松林家の家督のみであり、夢想願流の奥義は門弟の佐藤嘉兵衛が授けられた。これは世襲によって夢想願流が形骸化するのを懸念したためであるという。なお、実俊は出入司・勘定奉行など財政関連の要職を歴任し、松林家は召出二番坐の家格を与えられて幕末に至るまで存続した。永吉は最晩年に至るまで片平の道場で毎月刀を千回素振りしながら、門人に稽古を付けていたという。
寛文7年(1667年)閏2月死去。享年75。明治時代に夢想願流の技術は失伝したが、仙台市在住の子孫の元に流祖直筆の伝書類などが残されているほか、八戸市立図書館にも『願立剣術物語』などの関連文書が保管されている。  
 
荒木又右衛門

 

[あらき またえもん、慶長4年-寛永15年(1599-1638)] 江戸時代初期の武士、剣客。名は保知(やすとも)、保和とも。鍵屋の辻の決闘での活躍で名高い。新陰流の剣豪。大和郡山藩の剣術師範を務める。
仇討ち事件までの経歴
慶長4年(3年説もある)、服部平左衛門の次男として伊賀服部郷荒木村で誕生。幼名を丑之助、あるいは巳之助ともいうが、これらは俗伝であり、正しい幼名は不明。
父・平左衛門は、藤堂高虎に仕えたが、淡路で浪人した後、備前岡山藩の池田忠雄に召し抱えられた。平左衛門には渡辺数馬(内蔵助)という同僚がいた。この内蔵助の子に、みの(女)、数馬(二代目)、源太夫があり、のちに又右衛門はみのを嫁に迎え、二代目数馬らとは義兄弟の縁となる。
又右衛門は、兄・弥五助が池田家に仕えたこともあり、12歳のときに本多政朝の家臣・服部平兵衛の養子となった。しかし、元和8年(1622年)、本多家が姫路城主となったあと、28歳ごろに養家を離れて浪人し、生まれ故郷の伊賀に帰っている。故郷でははじめ菊山姓、のちに荒木姓を名乗った。また、剣術を学び、父からは中条流、叔父の山田幸兵衛から神道流を学んだといわれている。一方、15歳のころ柳生宗矩や柳生三厳の門人となり柳生新陰流を学んだとする説が『柳荒美談』などにあるが『日本十大仇討録』の考察などにも見られる様に、既に何か一流を極めた後に柳生の門に入り新陰流を学んだとする説もある。その後、大和郡山藩松平忠明に召し抱えられ、剣術指南役(剣術師範)250石に取り立てられた。
鍵屋の辻の決闘
寛永7年(1630年)、岡山藩主・池田忠雄の寵臣で美男子として知られた渡辺内蔵助の息子・源太夫が、同僚の河合又五郎から懸想されてこれを拒んだために殺された。又五郎は江戸に逃げて旗本安藤家にかくまわれ、藩主・忠雄は又五郎の身柄引き渡しを求めたが拒まれたため、両者の間で緊張状態となった。江戸幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定する。
その間に忠雄が急死し、跡を継いだ池田光仲は鳥取藩へ移封されたが、忠雄は又五郎を討つよう遺言していた。当時の慣習として兄が弟の(尊属が卑属の)仇を討つことは異例であったが、源太夫の兄・数馬は上意討ちの内意を含み、鳥取への国替えには加わらず脱藩し仇討ちの旅に出たという。剣術が未熟であった数馬は、寛永10年(1633年)ごろに義兄の又右衛門に助太刀を要請し、又右衛門は快諾して郡山藩を退身した。
寛永11年(1634年)11月7日、数馬と又右衛門は伊賀上野鍵屋の辻で河合又五郎を討ち、仇討ちの本懐を遂げた。数馬側は4人のうち1人死亡、3人負傷、河合又五郎側は11人のうち4人死亡、2人負傷、5人無傷(逃亡)だった。このときの又右衛門は「36人斬り」などともいわれるが、これは講談などによる誇張で、実際に斬ったのは同じ大和郡山藩の上席剣術師範・河合甚左衛門(又五郎の叔父)と尼崎藩槍術師範・桜井半兵衛の2人である。
又右衛門はまず、馬上の河合甚左衛門の足を薙ぎ、返す刀で斬って即死させた。桜井半兵衛には小者2人をかからせて得意の槍を渡さないようにさせ、刀の勝負で半兵衛に深手を負わせた(半兵衛は2日後に死亡)。渡辺数馬は河合又五郎一人に専心し、数時間に及ぶ死闘の末、ついに又五郎を討ち果たした。この斬り合いの最中、城下から駆けつけた伊賀藤堂家の竹本六太夫が「何事だっ」と声をかけると、半兵衛と対峙していた又右衛門は余裕綽々「おう、仇敵でござる」などと返事したという。その際に六太夫自身が動転していて、又右衛門の言葉を正確に把握していなかったそうだが、その度胸を激賞したという。
しかし、又右衛門が半兵衛を倒したとき、逆上した又五郎側の小者が又右衛門の背後から木刀で打ちかかってきた。又右衛門は腰に一撃を受けたともいわれ、さらに撃ちかかるところを振り向いて刀で受けたが、刀身が折れてしまった(この刀は伊賀守金道とも和泉守金道ともいわれる。どちらも慶長以降の作刀である新刀である)。このことに対し藤堂家の家臣で、新陰流を修めた後、戸波流を興した戸波親清は「大切な場合に折れやすい新刀を用いるとは、不心得である」と批評したという。これを聞いた又右衛門は不覚を悟り、寛永12年(1635年)10月24日、数馬を伴って戸波親清に入門した。なお、この時に書いた起請文が現存し、三重県伊賀市の伊賀越資料館に展示されている。
急死
数馬と又右衛門は藤堂家に客分として保護されたが、鳥取藩主・池田光仲の請いにより、寛永15年(1638年)8月12日に鳥取に移った。2人はそれぞれ妻子を呼び寄せたが、又右衛門の妻子が9月に鳥取に到着したころには、又右衛門は8月28日に頓死したということになっていた。死因については毒殺など諸説ある。墓は鳥取市内の玄忠寺にある。
一方で、寛永20年(1643年)9月24日に又右衛門は死去し、この間に数馬とともに鳥取城内にかくまわれていたとする説がある。これによれば、急死と発表された理由は、河合党による暗殺を恐れて病死をよそおった、あるいは、鳥取藩への移籍話がまとまらないため死んだということにして交渉を打ち切ったものと考えられている。  
 
柳生十兵衞・柳生三厳

 

[やぎゅう みつよし、慶長12年-慶安3年(1607-1650)] 江戸時代前期の武士、剣豪、旗本。初名は七郎、諱は三厳、通称は十兵衞(じゅうべえ)。大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪・柳生宗矩の子。はじめ徳川家光に小姓として仕えたが、主君の勘気に触れて出仕停止となり、後に許されて書院番を務める。父の跡を継ぎ、家業の兵法(新陰流)についてその発展に努めるが、家督を継いで程なく急死した。江戸初期の著名な剣豪として知られ、三厳を題材とした講談や小説が多く作られた。著書に『月之抄』、『武蔵野』など。
生涯
誕生から蟄居まで
慶長12年(1607年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)にて誕生。父は徳川秀忠の兵法指南を務めて後に柳生藩初代藩主となる 柳生宗矩 。母は豊臣秀吉が若年時に仕えていたことで知られる松下之綱の娘・おりん。同母弟に柳生宗冬(飛騨守)、異母弟に柳生友矩(刑部・左門)、列堂義仙がいる。
元和2年(1616年)、10歳の時に父に連れられ初めて秀忠に謁見し、元和5年(1619年)、13歳で徳川家光の小姓となる。元和7年(1621年)に宗矩が家光の兵法指南役に就任してからは、父に従って家光の稽古に相伴してその寵隅も甚だ厚かったと伝わるが、寛永3年(1626年)20歳の時に、何らかの理由で家光の勘気を被って蟄居を命じられ、小田原に一時お預けの身となる。
蟄居の原因となった家光の勘気自体は、早くて1年後には解けていた形跡もあるものの再出仕は許されず、その後11年にわたって江戸を離れる。その間の動向について、三厳自身は著作の中で、故郷の柳生庄に引き籠り、亡き祖父・宗厳や父が当地に残した口伝、目録について研究し、時に祖父の門人を訪ねるなどして、兵法の研鑽に明け暮れていた、と書き残している。一方でこの間、武者修行などで諸国を遍歴していたとする伝説があり、後に多くの講談や創作物の材料となった(後述)。
再出仕まで
寛永14年(1637年)5月初旬の夏稽古が始まる頃、致仕して以来11年ぶりに江戸に帰還し、柳生の藩邸に滞在しながら、改めて父・宗矩の下で相伝を受ける。同年秋の終わりごろ、それらの至極をまとめて伝書を著し 父に提出して講評を仰ぐ。しかし宗矩より全て焼き捨てるよう(「一炬焼却去」)、命じられたため、驚愕して当時屋敷に同居していた父の友人の禅僧・沢庵宗彭に相談したところ、沢庵から宗矩の真意を説かれた上で、焼却を命じられた伝書に加筆と校正を施される。沢庵の教示を受けた三厳が「父の以心伝心の秘術、事理一体、本分の慈味を了解し、胸中の疑念が晴れ」たとして、再度伝書を父に提出すると、宗矩も更なる精進を促すためとしながらもこれを認め、三厳に印可を授けた。
翌寛永15年(1638年)、家光に重用されていた次弟友矩が病により役目を辞すのに前後して、再び家光に出仕することを許され、江戸城御書院番に任じられた。
再出仕後
寛永16年(1639年)2月14日、家光の御前にて、父の高弟木村友重(助九郎)と弟の宗冬と共に兵法を披露する。寛永19年(1642年)2月から同年3月にかけて、謹慎していた12年間で収集した資料やそれまでに記した草稿を元に、流祖上泉信綱以来の新陰流の術理をまとめ上げ、後に代表作と評される『月之抄』を著す。
正保3年(1646年)に父宗矩が死去すると、遺領は宗矩の遺志に基づき、一旦幕府に返上された上で家光の裁量により兄弟の間で分知され、三厳は8300石を相続して家督を継ぐ。この時、三厳の石高が1万石を下回ったため、宗矩が柳生藩を立藩してから11年目にして、柳生家は大名から旗本の地位に戻った。宗矩生前の三厳は「強勇絶倫」で皆畏れて従う風があったが、家督を継いで以後は寛容になり、政事にも励み、質実剛健な家風を守り、奴婢にも憐みをかけて処罰することもなかったという。その後間もなく役目を辞して柳生庄に引き篭もったとも言われるが、詳細は不明。
最期
慶安3年(1650年)、鷹狩りのため出かけた先の弓淵(現・京都府相楽郡南山城村。早世した弟友矩の旧領)で急死した。奈良奉行・中坊長兵衛が検死を行い、村人たちも尋問を受けたが、死因は明らかにならないまま、柳生の中宮寺に埋葬された。享年44。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺および奈良県奈良市柳生町の芳徳寺にある。
三厳には嗣子がなかったものの、亡き父・宗矩の勤功を理由に取り潰しは避けられ、弟の宗冬が自身の領地を返上した上で三厳の跡を継ぐことを許された。三厳の遺児である2人の娘(長女・松、次女・竹)は、家光の命により宗冬が養育することとなり、後にそれぞれ旗本に嫁いでいる。その母である三厳の妻(大和の豪族・秋篠和泉守の娘)は貞享4年(1687年)まで生き、死後は麻布の天真寺に葬られたという。
三厳の跡を継いだ宗冬はその後順調に加増を重ね、寛文9年(1669年)には総石高1万石となって再度大名としての地位を回復させた。そのため、三厳自身は大名に列したことはないものの、便宜上柳生藩第2代藩主とされている。
容姿の特徴
若い頃に失明したという伝説があり、片目に眼帯をした「隻眼の剣豪」のイメージが広く知られている。これは幼い頃「燕飛」の稽古でその第四「月影」の打太刀を習った時に父・宗矩の木剣が目に当たった(『正傳新陰流』)、あるいは宗矩が十兵衛の技量を見極めるために礫を投げつけて目に当たったため(『柳荒美談』)などといわれる。しかし、肖像画とされる人物は両目が描かれており、当時の資料・記録の中に十兵衛が隻眼であったという記述はない。
謹慎期間中の動向について
家光の勘気を受けて致仕してから再び出仕するまでの12年間について、三厳自身は著作の中で故郷である柳生庄にこもって剣術の修行に専念していたと記している。一方でこの間、諸国を廻りながら武者修行や山賊征伐をしていたという説もある。三厳の自著での記述と相反しているとはいえ、宝暦3年(1753年)に成立した柳生家の記録である『玉栄拾遺』でも取り上げていることから、三厳の死の100年後には既に広く知られていたものと思われる。後にこの伝承が下敷きとなって下記のような様々な逸話が派生し、今日に至るまで創作作品の素材ともなっている。
三厳の著作における記述
『昔飛衛という者あり』(再出仕する前年の寛永14年の作)
「愚夫故ありて東公を退て、素生の国に引籠ぬれは、君の左右をはなれたてまつりて、世を心のまゝに逍遥すへきは、礼儀もかけ天道もいかゝと存すれは、めくるとし十二年は古郷を出す。何の道にか心をいさゝかもなくさめそなれは、家とするみちなれは、明くれ兵法の事を案し、同名の飛衛被官の者とも、是等にうち太刀させ所作をして見るに、身不自由にしておもふまゝならぬ事のみなり。」
【現代語訳=とある事情で家光公の元を退いて、故郷(柳生庄)に引き籠った。主君の側を離れておいて、世を自由に出歩くのは、礼儀に欠け、天道にも背くと思ったので、12年間は故郷を出なかった。他にするべき事もなかったので、一日中家業の兵法の事を考えて過ごし、同名の飛衛被官の者を相手に組み太刀を試みてみたものの、身は不自由にして思うようにならない事ばかりであった。】
『月之抄』(再出仕後の寛永19年の作)
「先祖の跡をたつね、兵法の道を学といへとも、習之心持やすからす、殊更此比は自得一味ヲあけて、名を付、習とせしかたはら多かりけれは、根本之習をもぬしぬしが得たる方に聞請テ、門弟たりといへとも、二人の覚は二理と成て理さたまらす。さるにより、秀綱公より宗厳公、今宗矩公の目録ヲ取あつめ、ながれをうる其人々にとへは、かれは知り、かれは知不、かれ知たるハ、則これに寄シ、かれ知不ハ又知たる方ニテ是をたつねて書シ、聞つくし見つくし、大形習の心持ならん事ヲよせて書附ハ、詞にハいひものへやせむ、身に得事やすからす。」
【現代語訳=先祖の跡をたずね、兵法の道を学んでみたものの満足できず、宗厳公の門弟達を訪ねてみたが、各人が独自に解釈したものを教えと称しており、定まった理を得ることが出来なかった。そこで、上泉秀綱公から宗厳公に与えた目録、宗厳公から宗矩公に与えた目録をとりまとめ、新陰流を学んだ人々を訪ねて、各人が知っていることを、聞きもし、見もし、およその要領を書きつけ、文章にしてみたもののそれらを容易に体得することはできなかった】
柳生十兵衛廻国説
『玉栄拾遺』の記述(宝暦3年編)
「寛永年中父君の領地武蔵国八幡山の辺、山賊あって旅客の萩をなす。公(三厳)彼土に到、微服独歩し賊徒を懲らしめ玉ふ。亦山城国梅谷の賊を逐玉ふも同時の談也。其他諸方里巷の説ありといへども、未だその証を見ず」
【現代語訳=寛永年中に父君(宗矩)の領地である武蔵国八幡山において山賊が出没し、旅人に恐れられていた。三厳公は単身密かにこの地に来て、山賊達を懲らしめた。また山城国梅谷の賊を追い払ったのもこの時期の話である。この他に諸国を巡っていたとする話もあるが、これまで証拠を見たことはない】
その他の逸話
○ 京都粟田口にて数十人の盗賊を相手にし、12人を切り捨て、追い散らした(『撃剣叢談』)
○ 奥州から始めて各地の道場を片端から訪れては仕合を申し込みつつ、諸国を巡った(『柳荒美談』)
○ 家光の勘気を蒙って致仕したというのは、実は公儀隠密として働くための偽装であり、宗矩の指示を受けて様々に活動した(柳生村・村史『柳生の里』)。またこの説の延長として、薩摩藩に潜入した際、偽装の為に嫁を取って2年間暮し、遂には子まで設けたという話まである(出典不明)
剣術上の評価・影響
○ 三巌の流れをくむ西脇流の伝書『新陰流由緒』には、新陰流はもともと先を取って勝つことを第一にしていたが、三厳より「敵の動きを待って、その弱身へ先を取り勝つことを修練し、古流と違いのびのびと和やかに敵の攻撃を受けて勝つ心持」になったとある。下川潮は『剣道の発達』で、この三巌の興した変化によって新陰流は受け身主体となり、和らかに、華やかになり、袋撓の上の形試合では進歩したが、真剣勝負の上から見ると退歩したと評している。一方でこの変化については重心を落とした構えを中心とした戦場(甲冑)剣法から、のびのびと「後の先の勝ち」を教えた平時の素肌剣法への転換であるとする意見もある。
○ 長州藩には三巌の祖父・宗厳の高弟である柳生松右衛門が伝えた新陰流が広まっていた。その松右衛門の高弟である内藤元幸の子・就幸は父から伝授された新陰流を家中に指南していたところ、江戸で三巌が当流(現代風)に改めた新陰流を教えているという噂を聞いて江戸に出て弟子入りし、寛文7年(1667年) 命によって改めて毛利家に仕官した。以後、内藤家では松右衛門以来の「古流」の新陰流に対し、三巌により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々これを伝え、後に藩校・明倫館にも採用されて桂小五郎、高杉晋作等も学んだ。 
○ 新陰流の刀法を応用した杖術と、それに用いるための特殊な杖の製法を考案した。この杖術は新陰流(江戸柳生)でも、代々ごく限られた者のみに伝えられる秘伝として扱われ、その事もあって明治維新後に一度失伝したとも言われるが、大正4年頃に、尾張柳生十一代当主・柳生厳長とその父・厳周によって伝書を元に復伝された。現代でも、尾張柳生を伝えるいくつかの団体では復伝されたその技を伝えている。
○ 三厳の流れを組む流派のうち、三厳の門人・狭川新左衛門助永に始まる「西脇流」は紀州藩で栄え、後に八代将軍徳川吉宗の次男・宗武やその子松平定信が修めた他、十五代将軍徳川慶喜も一橋藩主時代に学んでいる。
逸話
史実上の逸話
○ 酒好きの上に酔いが回ると言動が荒くなったといい、沢庵宗彭にも再出仕の際に忠告されている。しかし、その後も酒好きはあまり収まらず、朝から東海寺に酒を持って現れ、僧たちに振る舞いつつ、からかうなどの言動があった(『沢庵和尚書簡集』)。またこれが致仕の原因ではないかともいわれている。
○ 沢庵を慕い、最初の著書である『昔飛衛という者あり』を父・宗矩に酷評された時には、沢庵を頼って相談し、その後、沢庵の取り成しもあって、印可を認められた。(『昔飛衛という者あり』)
○ 父宗矩の高弟の木村友重(助九郎)と交流があり、共に伊香保温泉に出かけて兵法について問答を交わしている他、友重の門弟にも教示を与えている様子が友重によって記録されている(『木村助九郎兵法聞書』)。
真偽が定かではない逸話
○ 柳生庄にて道場を開き、全国で1万3500人にも及ぶ門弟を育てたという(柳生村・村史『柳生の里』)。
○ 荒木又右衛門の師匠として扱われることがある(『武術流祖録』)。
○ ある大名のところに出入りしている浪人と試合をした際、一見相討ちに見えたものの、十兵衛は己の勝ちであり、これがわからないようでは仕方ない、と言った。これに怒った浪人の望みにより、真剣での試合をしたところ、浪人は斬られて倒れ、十兵衛は着物が斬られたのみで傷一つなかった。これを以て「剣術とはこの通り一寸の間にあるものである」と述べたという(『撃剣叢談』)
○ 十兵衛は刀の鍔に柔らかい赤銅を用いていたので、これでは危険であり兵法者として心得不足ではないかと咎められたところ、自分は鍔に頼った剣など使ったことはない、と答えた(『異説まちまち』)
○ ある時、無頼漢に斬りかかられた際、その男の手の中へ入って左右の髭を捕まえ、顔に唾を吐いたという(『異説まちまち』)。
○ 沢庵に、人数を倍々にしながら、この人数を倒せるかと問われて次々と答え、最終的に300人に達したところで「斬り死にするまで戦うのみ」と返したところ、そのような剣は匹夫の剣に過ぎないと喝破され、これをきっかけに沢庵に弟子入りしたという(『柳荒美談』)。また、別の話では、一時、狂気に陥ったことがあり、これを沢庵に治療されたことで、帰依したというものもある。
○ 再出仕する際、柳生庄に杉を一本植えたといい、この時の杉だとされるものが「十兵衛杉」と呼ばれ、奈良県柳生町に現存している。
○ ある大名に頼まれ、数十人の家臣を相手にして勝った後、別に出てきた剣士(鳥井伝右衛門)の腕前を一目で見抜いたという(『日本武術神妙記』)。
○ 腕前においては、「父(宗矩)にも劣らぬ名人」と称された(『撃剣叢談』)。
○ 「新陰流(柳生新陰流)」とは別に「柳生流」の開祖として扱われることもある(武術流祖録)。
○ 自身の領地である南大河原村で川漁していた際、村の者が網を踏んだために口論となり、十兵衛の屋敷へ村民が押し掛ける騒ぎとなった(『積翠雑話』)
○ 作家・武術研究家の綿谷雪は著書で、十兵衛が急死した地が、早世した異母弟友矩の旧領地である事から、友矩の死因は三厳による暗殺であり、その家臣の報讐を受けて三厳は死んだという説を唱えた。
○ ある大名のところに、三厳の弟子を自称する浪人が仕官を求めた際、「ちょうど同じく十兵衛殿の門弟を名乗る男が他にも仕官を求めているので、仕合して勝った方を召し抱える」と告げられたため、夜になって逃げ出したところ、そのもう一人の浪人も「十兵衛の弟子と仕合などかなわぬ」と言って逃げ出していたので、両者は鉢合わせたという話がある。
○ 手裏剣術の名人・毛利玄達を相手にした際、37本の手裏剣を全て扇で払い落としたという。
○ 隻眼になった際、とっさに無事な方の目を覆って、構えを崩さなかったという逸話がある。
○ 家光の勘気を蒙った理由として、稽古の際、将軍相手にも遠慮せず打ち据えたためだというものがある。
○ 差料のうち大刀は三池典太光世と言われている。
他流派の伝承上の逸話
○ 鍋島家に伝わる『御流兵法之由諸』では、三厳は不行跡により父宗矩から勘当されたため、一子相伝の秘事は宗矩から鍋島直能に相伝されたとされる。
○ 尾張柳生家に伝わる伝承には謹慎中の三厳が従兄の利厳を頼り、その教えを受けて「ぬけ勝ち」「相裁り」「相架け」の三法を完成させて柳生流の基礎を固め、後に三厳も利厳の息子達を指導したとするものがある(神戸金七『月の抄と尾張柳生』)。また 一刀流の伝書『一刀流三祖伝記』にも、小野忠明と立ち合うも戦わずして負けを悟った三厳が、後日密かに忠明を訪ね教示を受けたとする逸話がある。ただし現存している三厳の著作には尾張柳生および一刀流について言及は無い。
著作
『昔飛衛という者あり』
寛永14年(1637年)の作品。巻頭と巻末に中国の古典『列子』の「名人論」を引用して、道を極めた者同士が立ち会った場合の理想的な境地について解説している。新陰流の剣理を「第一段 見(目の付け所)」・「第二段 機(かけひき)」・「第三段 射(心法)」の三点に絞り込んで体系化し、独自の兵法論に構築している。初稿は宗矩より焼き捨てるように命じられた後、沢庵宗彭の加筆を得て完成した。印可論文として書かれ、奥付には宗矩直筆の印可状が添えられている。
『月之抄』
書院番として再出仕していた寛永19年(1642年)に完成した作品。三厳の代表作として知られる。当時口伝によって伝えられていくうちに、混同や誤解が生じていた上泉信綱以来の新陰流の技法について、流祖信綱・祖父石舟斎・父宗矩三代の目録と口伝にある技法と哲理を総合的に比較し検証する事で学誌的にまとめ上げている。全232項目から成り、格項目は「老父(宗矩)云う」、「沢庵和尚かたり給ふ」のように文中に引用箇所を明記しつつ、三厳による解説が加えられている。三厳自身の手による工夫もいくつかある他、沢庵宗彭の仏教語による注解や、宗矩の高弟である細川忠利、木村友重等の工夫も含まれている。また宗矩の言として、疋田流や吉岡流などの他流派について触れた項目もある。
『武藏野』
兵法の師であった宗矩と沢庵が死去した後の慶安2年(1649年)に書かれた作品。題名には「武蔵野に咲く花々のように自分も兵法について書き記したい」という意味が込められている。前半部は『月之抄』同様の口伝・目録の解説書だが、後半部は難解な禅問答のようになっている。 
 
針ヶ谷夕雲

 

[はりがや せきうん、生年不詳 -寛文9年(1669年)] 日本の江戸時代初期の兵法家、剣客。無住心剣流剣術の開祖。名は正成。通称、五郎右衛門。
上野国針ヶ谷(旧埼玉県大里郡本郷村、現深谷市)に生まれる。真新陰流の小笠原長治(源信斎)が中国から帰国して後の門人といわれる。生涯52度の試合で不敗だった。夕雲は40歳ごろまでは師の刀法を守っていたが無学文盲で、本郷駒込の龍光寺、虎白和尚のもとで参禅するようになり、相抜けの境地の前ではそれまでの刀法、八寸の延金のことごとくは虚構に過ぎないとして流儀を捨て、本然受用の一法を案出したとされる。いわく、「兵法を離れて勝理は明らかに人性天理の自然に安坐するところに存する」というもので、刀の勝負より心の勝負を説いたものとされる。その剣を「金剛般若経」から取り「無住心剣」と虎白は命名した。
夕雲は主取りすることなく浪人のまま過ごしたが、紀州藩から内証扶持をもらっていたとされる。晩年は江戸八丁堀に住み、寛文9年(1669年)に60余歳で没した。墓は渋谷、東福寺にある。
共に小笠原長治の弟子であった神谷直光(伝心斎)も晩年は儒教や禅に感化され流儀を離れ、独自の剣の道を切り開いた。
相抜け
「相抜け」とは夕雲が用いた剣術用語で、「無住心剣」による立ち合いの理想を説いたものとされる。双方が傷を負う相打ちとは異なり、相抜けは互いに空を打たせて、無傷の分かれとなる。むしろ高い境地に至った者同士であれば、互いに剣を交える前に相手の力量を感じ取り、戦わずして剣を納める、というものである。
無住心剣流の道統
夕雲の門人、小田切一雲は夕雲の思想をさらに徹底し、怒りを忘れ、私利私欲を離れた柔和・無拍子の哲理とした。小田切一雲の門人、高田能種(源左衛門)は「神之信影流」を起こし、高田の門人、山森俊勝(喜兵衛)以降は山森氏によって代々加賀藩で継承された。同じく、真里谷義旭(円四郎)も一雲の門人として傑出した一人で、俗に「真里谷流」と呼ばれた。
また、井鳥為信(巨雲、のちに道島調心)は、樋口元雲に弘流を学ぶとともに、一雲の無住心剣を参照して雲弘流を起こしたとされる。  
 
山内甚五兵衛

 

山内甚五兵衛
慶長16年(1611)、備前岡山に生まれる。 新陰流ほか諸流を学んだのち、多賀伯庵聚律の門に入り、富田流を伝授される。熊沢了介、僧白巌らと交遊を重ねたのち、京にのぼって修行に励む。そして研鑽のすえ、剣名品目を富田流の規定に従い、簡約して6ヵ條とし、平常無敵流と称す。一時、板倉重矩の徒士となるが、小田原に去って妙福寺の住職となる。延宝元年8月15日、62歳で歿す。

1671年 寛文十一年 山内甚五兵衛一直「平法心玉巻」成る ( 原田甲斐の斬死 徳川頼宣歿す(七十歳) )

剣術の手 / 北辰一刀流の千葉周作は相撲を参考に剣術の手を面業20手、突業18手、籠手業12手、胴業7手、続業10手、組み打ち1手の計68手と分析している。本来の剣術は「いかにして相手に勝つか」という戦闘術で合理的なものだったが、多くの流派の業や秘伝の太刀と呼ばれるものには複雑で力学的に実用的でないものが多く、平常無敵流の山内甚五兵衛は多くの流派が勝つことに執着し、相手の先を取ろうとし、奇を狙った業が多いと指摘している。

平常無敵流小太刀
流祖は山内甚五兵衛直一。新陰流他、いくつかの流儀を学んだが、多賀伯庵聚津に学んだ富田流の小太刀をもっとも得意とした。その富田流の色を最も濃く残して新たに平常無敵流兵法を興した。平常無敵流兵法の蜻蛉絵目録は、駿州吉田藩に伝承した系統のものである。
目録の蜻蛉絵には一つずつ和歌が添えられている。
山彦剣 五輪砕 右行剣 左行剣 粘附剣 獅子洞入
天狗羽返 請流 無名剣 微塵剣 真妙剣
この十一ヶ条には元々形が無かったが、紛らわしいので図解で示す、と伝授巻の奥書きにある。この伝授巻は文政十二年に安田三太夫勝光、安田俊八郎勝英、原田源太夫為忠の三者連名で柳本誠之助に与えられた。
平常無敵流
日本の江戸時代前期に山内一真が開いた剣術流派。
流名にある無敵とは「最強」という意味ではなく、天下に自分を害する者がいない(平常から敵が無い)状態を理想としたことによる。
つまり、平常無敵流の「平常」とは平和を将来するために剣を用いる趣旨であり、「無敵」とは絶対の我を認得すれば、相対的な敵は存在しないという見地を示すものとされる。したがって、試合などで無益な殺生をすることは厳重に戒められた。また、平常無敵流は、一切の形を教習せず、「心法」の会得によって万事に対応することを極意としてめざしたとする。
歴史
山内一真(号、蓮真)は備前岡山の生まれで、新陰流ほか諸流を学んだ後、多賀伯庵より富田流を学んだ。その後、京に出て、槍の名人といわれた木下利当(淡路守)の元に寄寓し、熊沢蕃山より儒学を学んだ。この間、山内は京都所司代の板倉重矩の知遇を得て武名をうたわれるようになった。その後、江戸に出て僧・白厳の下で禅を修行して心法を練った。
山内一真は、剣術は富田流など8流を学んだが、いずれの流派にも満足できなかった。ある時、悟るところがあり、それまでに修めた流派を捨て、新たに流派を開き「平常無敵剣道」と称した。
しかし、平常無敵流は一切の形を教習せず「心法」の会得によって万事に対応することを極意として目指したため、開祖の山内一真も教え方に困り、富田流の形を6本のみ教えることにしたという。
山内一真は晩年、相模小田原で剃髪し、妙福寺の第28世住職となった。
流儀は関野信歳(清太夫)が的伝正統を伝え、関野より池田成祥(八左衛門)が道統を継いだ。
第2代の関野信歳は、山内一真の教えた内容をそのまま墨守したが、第3代の池田成祥は、富田流の形6本を教えている状態は流派本来の内容ではないとして、富田流の形を全て除いた。
さらに池田は「谷神伝」(こくしんでん)という極意を編み出した。これは『老子』第6章の「谷神不死 是謂玄牝 玄牝之門 是謂天地之根 緜緜若存 用之不動」(谷神死せず、これを玄牝という。玄牝の門、これを天地の根という。緜緜として存する如く、之を用いて動ぜず)から編み出したものという。このほか、「比至岐」(ひしぎ)、「左至」(さし)、「能利」(のり)という3事の別伝も加えた。
江戸時代後期に至り、高崎藩士・寺田宗有が池田成春より当流を学び、「谷神伝」を授けられ皆伝を得た。しかし、一刀流以外の流派の剣術師範を認めない藩からの命令により、以前に修行していた中西派一刀流の再修行をすることになった。
江戸時代には三河吉田藩などで伝えられた。  
 
愛洲久忠・愛洲伊香斎

 

[あいす ひさただ、享徳元年-天文7年(1452-1538)] 室町・戦国時代の兵法家。陰流の始祖。伊勢国(現在の三重県)出身。号は移香斎(いこうさい)。惟孝、勝秀と書かれる場合もある。剣聖・上泉信綱は弟子と伝えるが、久忠の子・小七郎の弟子とする説もある。
子孫である秋田県の平澤家に伝わる文書・『平澤家伝記』(久忠の9世孫・平澤通有の著)によると、本名は愛洲太郎久忠、また左衛門尉や日向守と称したという。移香斎は法名である。幼少より剣術の才能があったため、武者修行をもって生業とし、諸国を巡ったり上洛したりしたと伝わる。
『剣道の発達』(下川潮、1925年)では、『足利季世記 五』の「伊賀国に日置弾正忠豊秀と云者出来て、當流を射初め、故流の射形異形なりとて日本弓修行して江洲(滋賀県)に来り、佐々木高頼・同定頼二代に仕え弓の師と成り、入道して瑠璃光坊と号す。以徳遍く日本を廻り弓の弟子を尋ぬる、云々」とあるのが彼の武者修業の初見としており、また修業地域も近畿地方に限定されている。
平澤家が伝えていた「平沢氏家伝文書」によると、久忠は若い頃に九州や関東、明まで渡航したという。36歳のとき日向国鵜戸の岩屋(現・宮崎県日南市鵜戸村)に参籠して霊験により開眼し、陰流を開いた。晩年は日向守と称し日向に住み、天文7年(1538年)、87歳で死去した。家は子の小七郎宗通(元香斎)が継いだ。
一方で日向国鵜戸の修行について、秋田市の武道史家・青柳武明は「日本剣法の古流陰流と愛洲移香」(『歴史公論』1935年10月号収録)のなかで新陰流外の伝えであって信用に足りないとし、尾張柳生流の柳生厳長は『剣道八講』(島津書房、1998年)で、正統伝書にないとしてこれを否定している。
小七郎宗通は永禄7年(1564年)に常陸の佐竹義重に仕え、天正3年(1575年)に猿飛陰流と流派を改名したともいわれる。ただし、平澤家の文書では陰流となっているようである。
一説には久忠は若いときに各地へ渡航し、明にまで行ったとされる。このことに対し、『武芸流派大事典』(綿谷雪編、1978年)では、海外での貿易・略奪にかかわるものではないかとしている。また、久忠の出身とみられる伊勢愛洲氏がこれに従事したと考えられるため久忠も関係があったとされている。また晩年の日向に住んだことについて、綿谷雪は『武芸小伝』(1971年)で鵜戸明神神職になったことを意味するのではとしている。  
愛洲一族が三重(伊勢・伊賀・志摩・紀伊)で活躍した頃は南北朝時代・太平記の頃であり、この時代から移香斎が誕生し活躍した時代こそが南北朝(太平記)・応仁の乱・戦国時代・信長、秀吉の日本統一そして徳川開府へと続く日本史の中で最も波乱万丈の時代でもある。
移香斎は法名で名前は久忠といい、幼名を太郎という、小さい頃から剣術の才能があったようで、更なる向上を願い若い頃から諸国を巡り武者修行をしていたようある。
彼が剣の道で望んだのは相手の心機を未然に察知し、相手が行動に出る前、或いは出た後、素早く対応しこれを制する技が究極の兵法ではないかと言う考え方であった。
若い頃から九州・関東・中国の明まで渡航したことがあり、上洛して京都で住吉流の剣術家と試合をして負けたのを機にさらに修行を重ね、長享2年1488年、36歳のとき日向の国、鵜戸山鵜戸権現の岩屋の神殿に篭り剣の奥義を極めたのです。

新陰流の祖、上泉伊勢守は永正5年(1508)、上泉城主・武蔵守義綱の二男として生まれた。幼名を源五郎、後に伊勢守秀綱、さらに武蔵守信綱と改名する。祖先は大胡氏の親戚にあたる京都の一色家、衰亡していた名門大胡家を再興した一色五郎義秀は大胡城を地元の大胡氏に譲り、康正元年(1455)、自ら約5キロ西の上泉に城を造り移り住んだ。これが上泉城であり義秀はその後、上泉姓を名乗った。上泉家初代であり伊勢守の曾祖父になる。伊勢守は13歳で鹿島に赴き、松本備前守に入門。4年後に『鹿嶋神(傳)流』を伝授され第二世となった。『中古、念流、新当流またまた院流あり、その外は計るに耐えず、予は諸流の奥源を究め陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す』と自ら書いている。伊勢守が生み出した新陰流は、載りあいを理論付け体系化したもので、当時としては画期的なものであった。陰流を誰に学んだかについては何もふれていないが、愛洲伊香斎に学んだとみられており、新陰流の源流は愛洲陰流とされる。 
 
柳生宗矩 (やぎゅう むねのり)

 

江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。
生誕 元亀2年-正保3年(1571-1646)
別名 新左衛門、又右衛門(通称)
戒名 西江院殿前但州太守大通宗活大居士
官位 従五位下、従四位下、但馬守
幕府 江戸幕府将軍家剣術指南役・大目付
主君 徳川家康→秀忠→家光
藩 大和柳生藩主
父 柳生宗厳(石舟斎)
母 奥原助豊の娘・奥原鍋(春桃御前)
兄弟 厳勝、久斎、徳斎、宗章、宗矩
妻 正室:松下之綱の娘・おりん
側室 おふじ、おゆり
子 4男2女:三厳(長男)、友矩(次男)、宗冬(三男)、列堂義仙(四男)、娘(武藤安信室)ほか
生涯
誕生から徳川家仕官
元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)に生まれる。父は柳生庄の領主で上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳(石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。
若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉の小田原征伐で陣借りをしていたとする話が伝わっている。文禄3年(1594年)5月、京都郊外の紫竹村において、父・宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる。
柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣
豊臣秀吉の死後、家康と石田三成達の対立が深まる中、慶長5年(1600年)に家康が上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する(会津征伐)。その道中、下野国小山に至って三成ら西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、筒井氏や大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行う。同年9月13日、無事工作を終えて家康の元に戻り、続く関ヶ原の本戦では本陣で参加した。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2,000石を取り戻すことに成功する。翌慶長6年(1601年)には後の2代将軍・徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、同年9月11日に1,000石加増、合わせて3,000石の大身旗本となった
慶長20年(1615年)の大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を瞬く間に倒したという。 なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。
坂崎事件
大坂の陣の翌年、元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に直盛を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋「地楡(われもこう)に雀」に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて使い続けている。これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。またこの際、坂崎の嫡子・平四郎を引き取って200石を与えて大和に住まわせ、2人の家臣を引き取り、その内1人には200石を与えている。
家光の下での躍進から大名へ
元和7年(1621年)3月21日、後の3代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、新陰流を伝授する。その後、将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)3月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。さらに寛永9年(1632年)10月3日には、3,000石を加増された後、同年12月27日、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)8月14日の4,000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩。さらに晩年に至って寛永17年(1640年)9月13日、500石の加増。続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分2,000石の加増もあり、所領は1万2,500石に達した。一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である。また、友人の沢庵宗彭を家光に推挙したのも、この頃のことである。
晩年
晩年は故郷である柳生庄に戻ることもあり、その際、陣屋に家臣や近隣の住人らを招き、申楽・闘鶏に興じるなどしていたという。正保3年(1646年)江戸麻布日が窪にある自邸で病む。同年3月20日、病が重い事を聞いた家光が見舞いに訪れ、病床の宗矩に新陰の奥義を尋ね、望みがあれば申し出るよう命じた。3月26日、死没。享年76。
遺言によって武州端芝で火葬の上、豊島郡下練馬の圓満山廣徳寺に葬られた。その他、友人の沢庵宗彭を招いて開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺にも墓所があり、京都府南山城村田山の華将寺跡に墓碑がある。また、鍋島元茂・鍋島直能により、現在の佐賀県小城市にある岡山神社内の玉成社に祀られてもいる。同年4月、その死を惜しんだ家光の推挙により従四位下を贈位された。1万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かったことを示すものと言える。
子には隻眼の剣士として知られる長男の三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4男と他2女がいる。
評価
○ 剣士としては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。将軍家兵法指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古今無双の達人」「刀術者之鳳(おおとり)」「父(石舟斎)にも勝れる上手」「剣術古今独歩」「剣術無双」など様々に賞賛されている。また、新井白石や勝海舟なども自著にて賞賛している。
○ 一剣士としてだけに留まらず、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの概念を包括した新しい兵法思想を確立し、後世の武術・武道に大きな影響を与えた。その功績を讃え、平成15年(2003年)には宮本武蔵と並んで全日本剣道連盟の剣道殿堂(別格顕彰)に列せられている。この宗矩の思想をまとめた『兵法家伝書』は、『五輪書』と共に近世武道書の二大巨峰と評され、『葉隠』や新渡戸稲造著『武士道』など武道以外の分野の書物にも影響を与えている。
○ 流派当主としては、新陰流(柳生新陰流)を将軍家御流儀として確立し、当時最大の流派に育て上げた。これにより、当時多くの大名家が宗矩の門弟を指南役として召抱え、柳生新陰流は「天下一の柳生」と呼ばれるほどの隆盛を誇った。
○ 幕臣としては有能な官吏・為政者として辣腕を振るい、多くの大名家に恐れられ、また頼られた。伊達氏(伊達政宗)、鍋島氏(鍋島勝茂、鍋島元茂)、細川氏(細川忠興、細川忠利)、毛利氏(毛利秀就)などと親交があった。幕府初代惣目付として勤めていた際、細川忠興はその手紙で「(老中たちですら)大横目におじおそれ候」と記している。また惣目付としての働きの他、寛永11年(1634年)の家光上洛に際しては、事前の宿場検分役や帰りの道中修造奉行、寛永13年(1636年)の江戸城普請の際の普請奉行などもこなしている。
○ 将軍・家光には若い頃からの指南役として深い信頼を寄せられ、松平信綱、春日局と共に将軍を支える「鼎の脚」の一人として数えられた。肩書きは兵法指南役であったが剣を通じて禅や政治を説いたことで「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価された。家光が長じた後も、沢庵と共に私的な相談を度々受けて、最後まで信頼され続け、見舞いの床においても兵法諮問に答えている。また、家光も生涯、宗矩以外の兵法指南役を持たなかった。
○ 父親としては、子息4人のうち、長男・三厳(十兵衛)はその不行状から家光の不興を買い謹慎、三男・宗冬は成人まで剣の修行を厭うなど、子の教育について沢庵より忠告を受けている。「政治家・宗矩」と「剣士・十兵衛」の不仲・対立を描いた創作物がある一方で、三厳は著書で「祖父・石舟斎は流祖・信綱より新陰流を受け継ぎ信綱にまさり、父・宗矩は祖父の後を継いで祖父にまさる」としてその出藍の誉れをたたえている。
思想
宗矩の思想(兵法思想)は、その代表的著作である「兵法家伝書」にて詳しく述べられている。 実戦でどのようにあるべきかという兵法本来の思想だけでなく、兵法は如何にあるべきかという社会的な面からの思想も述べられているのが特徴である。
社会的な面での思想
兵法(剣術)の理想として「活人剣」を提唱した。これは「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」というもので、戦乱の時代が終わりを迎えた際、「太平の世における剣術」の存在意義を新たに定義したものである。また、沢庵の教示による「剣禅一致(剣禅一如)」等の概念を取り込み、「修身」の手段としての剣術も提唱したことで、それまで戦場での一技法に過ぎなかった武術としての剣術を、人間としての高みを目指す武道に昇華させる端緒となった。これらは大きく広まり、剣術のみならず、柔術や槍術など、江戸時代の武道各派に影響を与え、その理念は現代の剣道にも受け継がれた。
実戦的な面での思想
直接的な技法だけではなく、「心法」にも注目し、この重要性を説いたここでいう心法は観念的なものではなく、現代で言うメンタルトレーニング的な面が強く、相手の動きや心理の洞察、それを踏まえた様々な駆け引き、またいかなる状況においても自身の実力を完全に発揮し得る心理状態への到達・維持など、実戦における心理的な要素を極めることで、より高みに達することを目指したものであった。(その心の鍛錬のための手段として、禅の修行が有効であるとしている)これについて、技法を軽んじ、心法に偏重したと批判する意見もあるが、宗矩自身は『兵法家伝書』において、あくまで技法を完全に修めた上で、これを自在に扱うために必要なものとして心法を説いている。
宗矩の言葉
兵法家伝書
「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人を生かすつるぎなるべきにや」
「刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其得失僅か也。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也」
「治まれる時乱を忘れざる、是兵法也」
「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也」
「平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云ふ也」
「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」
「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」
葉隠
「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」
その他
「刀剣短くば一歩を進めて長くすべし」
「小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を活かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす」
宗矩の門下
将軍家指南役にして、柳生新陰流(江戸柳生)の当主であった宗矩には多数の弟子がいた。それらの弟子達には、大名家へ指南役として仕えた者や、後に一流の流祖となった者も多かった。また、将軍家である秀忠、家光をはじめ、当主自ら入門している家も存在した。
当主自身が門下に入門している家、及び当主
徳川将軍家:徳川秀忠、徳川家光 / 紀州藩紀州家:徳川頼宣 / 熊本藩細川家:細川忠利、細川光尚 / 佐賀藩鍋島家:鍋島勝茂、鍋島元茂、鍋島直能、鍋島直朝 / 福岡藩黒田家:黒田長政 / 三池藩立花家:高橋直次…新陰治源流流祖 / 薩摩藩島津家:島津光久 / 松本藩堀田家:堀田正盛 / 朽木藩朽木家:朽木稙綱 / 関宿藩久世家:久世広之
大名家に仕えた門弟
御三家・一門・親藩
紀州藩 紀州徳川家:木村助九郎、小夫浅右衛門、村田与三 / 水戸藩 水戸徳川家:小滝与右衛門…鏡見流流祖 / 高田藩 越後松平家:荘田嘉左衛門…荘田心流流祖 / 福井藩 越前松平家:出淵平兵衛 / 会津藩 保科家:小瀬源内 / 伊予松山藩 久松家:松下源太夫、松下八郎右衛門、松下小源太
譜代
下総古河藩 土井家:萩原猶左衛門 / 上野厩橋藩 酒井家:辻茂右衛門 / 大和高取藩 植村家:西江織部 / 山城淀藩石川家:野殿貞右衛門 / 岸和田藩岡部家:多羅尾又兵衛
外様
熊本藩細川家:雲林院弥四郎、梅原九兵衛、田中甚兵衛 / 津藩藤堂家:柳生源太夫、津田武太夫、戸波又兵衛 / 柳川藩立花家 :戸塚治太夫 / 萩藩毛利家:馬木家六 / 仙台藩伊達家:狭川新三郎…狭川新陰流流祖 / 徳島藩蜂須賀家:佐々木藤左衛門 / 加賀藩前田家:笠間九兵衛 / 久留米藩有馬家:山形八郎右衛門 / 土佐藩山内家:小栗仁右衛門…小栗流流祖
その他の門弟
柳生内蔵助 / 汀佐五右衛門 / 時沢弥平…天心流流祖 / 久米平内兵衛長守 / 岡本仁兵衛…当流神影流流祖 / 竹永直人…柳生心眼流流祖 / 平井八郎兵衛…鹿島神道流流祖 / 茨木俊房…起倒流流祖。石舟斎や三厳の門弟という説もあるが、宗矩から俊房に与えられた新陰流目録や、宗矩の署名がある起倒流目録が現存する / 福野正勝…良移心当流流祖。また茨木俊房と共に起倒流を起こしたとされる。 / 武藤安信(理兵衛)…宗矩の女婿 / 石川政春(蔵人)…真之真石川流流祖 / 松平信定 (大河内松平家)…松平信綱の四男。宗矩晩年の弟子で、後に「新陰流兵法目録事」を著す。
門弟とする説もある人物
荒木又右衛門…鍵屋の辻の決闘で知られる人物。ただし、史実を踏まえると直接の門弟である可能性は低い。 / 酒井忠勝 / 松平定綱 / 渡辺幸庵(茂)…偽証の可能性あり
逸話
武芸者/為政者の両方に於いて高名を為したため、宗矩の逸話には、史実上のものと、真偽が不明なものがそれぞれ多数存在する。
史実上の逸話
家光との逸話
○ 島原の乱の際、大将として遣わされた板倉重昌の敗死を予見し、派遣を撤回するよう家光に諌言した(『徳川実紀』『藩翰譜』)。またその際、落城までの流れを正確に予見したため、家光はじめ周囲は驚いたという。
○ 元和8年(1622年)、新陰流を全て相伝してほしいと家光に強く要求されたため、伝書二巻を与えたが、伝書の末尾に「技法はこれで全てですが印可は別物です」という旨を記して、家光を諌めたという。(『玉成集』『新陰流兵法円太刀目録外物』)
○ 寛永15年(1638年)、家光に兵法の事でかなり強い意見をした後、臍を曲げて1ヶ月ほど自宅に引き篭もったことがある。その際、沢庵が話を聞いたところ、「自分はなんとも思っておらず、全ては上様次第である。やましいことなど何もない、まっすぐなものだ」と答え、大笑いしたという。結局、その後、家光が宗矩の機嫌を取ったことで再び仲の良い状態に戻ったという。
○ 寛永19年(1642年)、宗矩が湯治に出ていた間、沢庵和尚が家光の御前に出る度に、宗矩の話が出ないことはなく、ある時は「宗矩から和尚に手紙はないか」と十度も尋ねたという。
○ 亡くなる前、見舞いに来た家光が「何か望みはないか」と尋ねた時、「息子達(三厳、宗冬)をどのようにされるかは御心次第で構いません。ただ、柳生庄に寺を建て、父宗厳を弔うため、末子六丸(義仙)を住職にさせて頂きたくお願い致します」と答え、自分の死後、所領1万2,500石と家財全てを将軍家に返上した。これを受けて家光は宗矩の遺志通りに差配し、所領と家財を三厳・宗冬・列堂に分配している。
○ 宗矩の死後、家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという(『徳川実紀』)。
○ 家光は宗矩の死後何かあると「宗矩生きて世に在らば、此の事をば尋ね問ふべきものを」と言ったという(『藩翰譜』)。
沢庵との逸話
○ 紫衣事件により、沢庵宗彭が罪に問われた際、天海や堀直寄と共にその赦免の為に奔走している。これに対し、沢庵は後に手紙にて「大徳寺難儀に及び申し候時は、柳生殿と堀丹州両人の外に、さまで笑止とも申す人はこれ無し候。我身を大事に皆々存じて、其の時分はのがれぬ人達も、よそに見ており申し候」と記している。
○ 家光に「何故自分の剣の腕が上がらないのか」と問われた際、「これ以上は剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要です」。と答え、その禅の師として配流中の沢庵を推挙し、後に家光が沢庵に帰依するきっかけを作った(『徳川実紀』正保3年5月28日条)。
○ 寛永12年(1635年)、家光の命によって沢庵が江戸に上府することになった際、麻布の柳生家下屋敷(現在の目黒雅叙園の辺り)の長屋の一室を所望されたので、これを供した。沢庵はこの長屋の一室を「検束庵」と呼び、後に東海寺の住職となるまで、家光から屋敷を与えると言われても断り、ここに住み続けた(『東海和尚紀年録』)
○ 東海寺造営の際、家光に頼まれて宗矩が沢庵を説得したことで、沢庵は東海寺住持となる事を決めたという。
大名衆との逸話
○ 島原の乱の鎮圧後、抜け駆けを咎められた鍋島家のために家光へ赦免嘆願を取り成し、減刑に成功したという(『元茂公御年譜』)。
○ 亡くなる際、鍋島元茂に与える伝書(『兵法家伝書』)への花押を最後の力で印した。この時、宗矩は半ば意識が朦朧とし、元茂の家臣・村上伝右衛門の力を借りて印したため、花押は大きく乱れたという(乱れ花押)。なお、この村上伝右衛門は、葉隠の口述者・山本常朝の伯父である。
○ 正保2年(1646年)、鍋島直能が宗矩との兵法修行の際、国許の狩りで、向かってくる猪にわざと股の下をくぐらせ、後ろざまに抜き打ちで切り捨てた話をしたところ、「まだまだ修行が足りません。猪が股をくぐる前に仕留めなければ危ないでしょう」と諌めた。直能はこれに深く感じ入ったという。
○ 細川忠利の病が重くなった際、江戸にいた嫡子・細川光尚の帰国のため、老中・酒井忠勝と共に様々に取り計らったという。
○ 伊達政宗とは、かなり早くから交際があったという。慶長13年(1608年)、まだ3,000石の身であった宗矩の屋敷に政宗が遊びに来た際、振舞われた酒の美味さに惚れ込み、この酒を作れる杜氏を自家に欲しいと申し出たので、宗矩は大和榧森の又五郎を紹介したという逸話がある。なお、その後、又五郎は伊達家の「御城内定詰御酒御用」として召し抱えられ、切米十両と十人扶持、また「榧森」姓を与えられ、子孫代々御用酒を供し、仙台の酒造りに大いに貢献したという。
○ 寛永4年(1627年)11月、宗矩は胃潰瘍で倒れており、寛永6年(1629年)2月頃になって、ようやく快復したという(宗矩から細川忠利宛の手紙)。この時、宗矩のために、伊達政宗が老中・酒井忠世に「宗矩は今後も役立つ者であるから暇を与え、湯治にでも行かせてやってはいかがか」と促している。
○ 寛永11年(1634年)、家光上洛時の朱印状発行の際、本家からの独立を狙った毛利秀元、毛利就隆の動きに対し、毛利秀就からの頼みに応じて、これを防いだという。
○ 大坂の陣の後、詮議を担当した元毛利家家臣・内藤元盛(佐野道可)、及びその子息が主家の命によって自刃した一件(佐野道可事件)を嘆き、縁者に宛てて書状を送ったという。
その他の逸話
○ 甥(長兄・厳勝の次男)の兵庫助(柳生利厳)が家祖となる「尾張柳生家」とは、利厳の妹を外国人(柳生主馬)に嫁がせた件をきっかけに、不和になったという。
○ 能や踊りを好み、自らもよく能を舞っている。秘曲とされる関寺小町を舞ったり、時には立ちくらみを起こすまで舞ったことがあったという。また、能役者とも交流があり、立ち合い能の人選をおこなったこともあった。ただし、好きが過ぎて大名家に押しかけて舞ったりすることもあったといい、沢庵より忠告を受けている(『不動智神妙録』)。
○ 沢庵より挨拶の良い大名を取り成ししているという噂があるので注意せよと忠告を受けている。
○ かなりの喫煙者であり、沢庵より「かく(胸の病)」になるので煙草を吸うのはやめるよう忠告を受けている。
真偽が定かではない逸話
家光との逸話
○ 家光が宗矩の不意をついて一撃を加えようとした時、これに気づき、「上様の御稽古である。皆、見るでない」と大喝し、家光の悪戯を防いだという。
○ 家光が宗矩が平伏しているところに「但馬、参る」と一撃を加えようとした時、敷物を引っ張って防いだという。
○ 家光から大和高取藩5万石への加増転封を問われた際、これを断り、友人の植村家政を推挙した。その際、代わりとして「山姥の槍」を所望した。
○ 家光に「檻に入って中の虎を撫でよ」と命じられた際、扇子のみを携えて檻に入り、気迫で虎の動きを封じて撫で、無事に檻を出たという(『東海和尚紀年禄』)
○ 家光が辻斬りをしていると聞き、変装して先回りし、斬りかかってきた家光の剣を無刀取りで止め、これを諌めたという。
沢庵との逸話
○ 沢庵和尚の流罪について、宝蔵院流の名人と呼ばれた中村市右衛門尚政と試合して勝てば赦免する条件で仕合し、これに勝ったので、和尚の赦免が成ったという話がある(水上勉『沢庵』)
○ 喫煙を沢庵に咎められた際、「では煙を遠ざければよろしかろう」と言い、部屋の外まで出る特製の長いキセルを作って煙草を吸い、「これで煙を遠ざけ申した」と答えたという。
○ 愛宕山の石段を馬で登ろうとして失敗したが、沢庵に啓示を受け、以来、石段であっても平地の如くに馬を操れるようになったという(『沢庵珍話集』)
一族との逸話
○ 嫡子・三厳(十兵衛)が隻眼になったのは、宗矩が月影の太刀伝授中に誤って傷つけたためとも(『正伝新陰流』)、鍛錬の為、飛ばした礫が誤って目に当たったためとも(『柳荒美談』)いわれている。ただし三厳のものと伝わる肖像画のは両目が描かれており、自著を含む三厳生前の記録にも隻眼であったことを示すものはない。
○ 『柳生藩旧記』に、次男・友矩が家光の寵愛を受けて自分を超えて出世するのが気に入らなかったという記述がある。また家光から友矩を大名に取り立てるという話が出た際にはこれを固辞し、ほどなく友矩が職を辞して柳生庄に戻り、病死した際、その遺品から「3万石(または4万石)を与える」という家光から友矩へのお墨付きを発見し、ひそかに家光に返上したという。
○ 三男・宗冬と仕合した際、「太刀が長ければ勝てるのに」などと言った不覚悟を咎め、戒めのため、気絶するほどの一撃を与えたことがあるという。
○ 柳生庄に戻った際、洗濯をしている娘に「その桶の中の波はいくつある」と戯れに尋ねたところ、「ではその馬の蹄の跡はいくつありますか?」と即答したため、これを気に入り、側室として迎えたという。この娘が後に列堂義仙の母となったお藤とされる。なお、このことを歌った俗謡に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬の嫁になる」というものがある。
武芸者としての逸話
○ 宗矩が江戸城で敷居を枕にして寝ていた際、若い武士達がこれを驚かそうと障子を閉めたが、宗矩があらかじめ敷居の溝に扇を置いていたので、障子は閉まらなかったという。
○ 能の名人観世大夫の隙を見抜き、これに感づいた名人に感嘆の声を上げさせた。これを聞いた家光は「名人は名人を知るとはこのことか」と讃えた(『甲子夜話』)。
○ 乗馬の達人諏訪部文九郎と馬上試合を行い、先に馬を叩くことで相手の動きを止めて勝利した。家光はこれを「まさに名人の所作である」と讃えた。
○ 『葉隠』内の逸話に、常住死身の境地に達した者を一目で見抜き、即日印可を授けたというものがある(『葉隠』)。
○ 年老いた後にも、背後の小姓の殺気を察知するなど、老いてもなお衰えなかったという。
○ 飼っていた猿が見よう見まねで剣を使えるようになり、ある時、これを牢人と立ち合わせたという話がある。
○ ある日、宮本武蔵に仕合を挑まれた際、「そなたの剣の境地は?」と問うたところ、「電光石火の如く」と武蔵の返事に「まだまだ修行不足」と挑戦を退けた。そこで逆に武蔵に問い返された時、自分の境地を「春風の如く」と返したという(『鵜之真似』)。
○ 塚原卜伝に天下一を巡っても仕合を挑まれた際、「そなたは確かに強いが、今、わしを倒しても、家臣たちがそなたを逃がさぬであろう。それに気づかず挑むところが、そなたの未熟である」と諭したという話がある。
○ 大阪の陣で振るった刀は「大天狗正家」(最上大業物十四工の一人、三原正家の作とされる。父・宗厳から受け継いだもので、宗厳はこの刀で天狗と立ち合い、後に一刀石と呼ばれる巨岩を切ったともいう)という説がある。ただし、三原正家の公式サイトでも講談(創作)の一種とされ具体的な史料は示されず、福永酔剣『日本刀大百科事典』「正家」や佐藤寒山『新・日本名刀100選』などにも記載がないことから、21世紀に入って作られた創作と考えられる。
その他の逸話
○ 父・宗厳が筒井氏に仕えていた縁で、石田三成の腹心である島清興(左近)とも交流があったという。そのため、関ヶ原の前には家康に命ぜられ、偵察も兼ねて挨拶に出向いたという。(『常山紀談』)
○ 関ヶ原の後、石田三成の庶子を1年匿ったという(白川亨『石田三成の子孫』)
○ 寛永御前試合にて審判を務めたという(『陸軍歴史』)
他流派の伝承上における宗矩の逸話
宗矩の逸話のうち、真偽が不明なものの中には、他流派の伝承が出典となっているものも存在する。これらの逸話の中には、史実と相反するものが多く、注意が必要である。
二天一流(宮本武蔵)
○ 宮本武蔵の逸話の中には、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害した、というものがある。この逸話は武蔵の死後、100年以上後に書かれた武蔵の伝記『ニ天記』が初出である。
○ また、武蔵を宗矩の師匠とし、無刀取りを試そうとした宗矩を「師にむかひて、表裏別心ありや」と叱り付け、謝らせたという話がある。なお、同時代の史料の中に、武蔵が宗矩の面識を得ていたことを示す記述は確認できない。
小野派一刀流(小野忠明(小野次郎右衛門),小野忠常)
○ 一刀流の逸話の中には、秀忠の指南役として宗矩と相役であった一刀流二世・小野忠明が、宗矩に勝った事で、指南役としての地位を手に入れたという逸話がある。一方、史実において忠明は宗矩より先(文禄2年(1593年))に仕官している。なお、この逸話の出典は一刀流内部の伝記『一刀流三祖伝記』である。
○ また、同じく『三祖伝記』には、宗矩から忠明の剣を見たいと頼まれて柳生家に出向いたところ、宗矩本人が仕合せず、息子の十兵衛や高弟達が出てきたので、これをまとめて相手にしたという逸話がある。なお、この後、十兵衛が木刀を置き、「忠明殿の剣は水月の如し。到底拙者では敵い申さぬ」と平伏し、村田与三と共に忠明に入門したという顛末になっているが、十兵衛本人の著作や関連する書状に、忠明との関係を伺わせる記述はない。
○ 同じく一刀流の逸話の中には、忠明が宗矩に対し、「剣の修行のためには人を斬らせるのが一番である。罪人を貰い受け、ご子息に斬らせてはいかがであろうか」と述べたところ、宗矩は「いかにも、いかにも」と答えたものの、実際にはそのようなことをしなかったというものがある(「日本剣道史」)
○ この他、忠明、またはその後を継いだ小野忠常が(宗矩と違い)将軍相手にも手加減をしなかったことで不興を買ったために加増されず、宗矩と差がついたと記されている。ただし、史実においては、相役となって以降の忠明、及び忠常には特に旗本としての功績もなく、また忠明については同僚との諍いが元で閉門を受けたことなどに鑑みると、上がらないことに不思議はなく、多分に自己正当化の側面が強いと言える。
伊藤派一刀流(根来重明)
○ 『刀術流系』では、伊藤派一刀流の根来重明が徳川家宣に召し抱えられるところを、その前の仕合で重明に負けた「柳生但馬守」がこれを讒言したので沙汰止みとなった、という逸話がある。なお、家宣の生誕前に既に宗矩は亡くなっており、また家宣の統治期間中に「但馬守」を名乗った柳生家当主は存在しない。
富田流(富田重政)
○ 富田流の宗家富田重政と宗矩の立ち合いを家光が望んだ際、重政が「これは但馬守も承知の上か」と不審に思い、「本当によろしいか」と確認した後、直前で沙汰止みとなったという。
タイ捨流(丸目長恵(丸目蔵人))
○ タイ捨流の流祖丸目長恵が、新陰流の正統をかけて宗矩に直談判し、東国では柳生が、西国では丸目が天下一を名乗ることを認めさせたという逸話がある。ただし、その西国(九州)の大藩である熊本藩細川家、佐賀藩鍋島家において当主自ら柳生新陰流に入門し、大いに隆盛したこと、およびその両藩(特に丸目の住地である人吉藩に隣接する熊本藩)で上記逸話を証する史料は存在しない。一方で、上泉信綱より丸目宛に「西国の御指南は貴殿に任せおき候」と記された書状がある。
示現流(東郷重位)
○ 示現流の伝承には、流祖である東郷重位が、元和の頃、宗矩の高弟で将軍に指南をしていたという旗本の福町七郎右衛門、寺田小助を破り、試合後、両人から入門の誓紙を受けたとするものがある。ただし、この出来事、及び、この両旗本の名は『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』では確認できない。
無住心剣流(針ヶ谷夕雲)
○ 無住心剣流の逸話には、宗矩が無住心剣流流祖・針ヶ谷夕雲に対して「其の方の只今兵法の理に立向て勝ちを得べき覚えなし」と賛嘆し、試合を避けたというものがある。
二階堂兵法(松山主水)
○ 二階堂平法の松山主水が細川忠利に技を教授したところ、忠利が宗矩に対して、ときに勝ちを取れるようになり、急に腕が上がったのを宗矩が不思議がったという話がある。
尾張柳生(柳生利厳(柳生兵庫助))
○ 尾張柳生家の主張では、柳生宗家(本家)を継いでいるのは嫡流の自家であり、傍流の江戸柳生家は分家であるとしている。しかし、戦国時代においては、嫡男は必ずしも長男の事を指すとは限らず、当主の決定によって変えられることが多々あり、関が原の後、所領を取り戻した宗厳が所領全てを宗矩一人に継がせていることから見て、血筋だけを以って宗家を主張するのは無理があると言える。また『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』、及び『本朝武芸小伝』『撃剣叢談』などの江戸時代に書かれた記述において、石舟斎の嗣子(嫡男)とされているのは一貫して宗矩であり、尾張柳生家を柳生宗家と認めている記述は無い(利厳の父、新次郎厳勝は廃嫡されている)。
○ 同じく尾張柳生家では、石舟斎が自らの正統と認め自身の技法をあますことなく伝えたのは、新陰流正統の証である「一国一人の印可」と「新影流目録」を継承した利厳のみであり(柳生厳長『正傳新陰流』)、宗矩や他の上泉の門弟が伝える系統は傍流であるとしている。これに対し今村嘉雄は、「一国一人」とは日本に一人という意味では無く甚だ稀なという修辞の意味であり、「新影流目録」に類する目録も疋田景兼や丸目長恵といった石舟斎以外の信綱の門弟にも与えられていることから、これらに新陰流正統の証の意味合いがあったとは考えづらいと主張している。また石舟斎の道統についても、尾張柳生家に伝えられた目録等は全て江戸の柳生家にも伝わっており、宗矩と利厳等に皆伝されていると考えるのが妥当であるとしている(『定本大和柳生一族』)。なお『本朝武芸小伝』、『撃剣叢談』などにおいて、尾張柳生家の新陰流を新陰流正統と認めている記述は無く、どちらも宗厳の新陰流の後継は宗矩としている。
著作
○ 『切合極意見之心持之事』- 直弟子である小城藩藩主・鍋島元茂に与えられた伝書。
○ 『新陰流兵法心持』- 徳川家光に与えられた伝書。なお、家光への伝書は、これを披露する老中・酒井忠勝宛になっている。
○ 『外の物の事』- 家光に与えられた伝書。「外の物」とは太刀以外の物の意であり、槍、長太刀、小脇差、馬術等の術に加え、日常での心がけなども記されている。
○ 『兵法家伝書』- 宗矩の代表的著作にして『五輪書』と並ぶ近代武道書の二大巨峰。『進履橋』『殺人刀』『活人剣(「無刀之巻」含む)』の3部構成となっており、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などを説いた宗矩の兵法思想の集大成の書。柳生家の家伝書となった他、鍋島勝茂、鍋島元茂、細川忠利にも与えられている。岩波文庫にて渡辺一郎校注で刊行されている。
○ 『玉成集』- 鍋島直能に与えられた伝書。 
 
剣豪伝

 

愛洲伊香(あいすいこう)
伊勢国渡会郡南島あたりで生まれた。『念流伝書』によると、念阿彌慈恩(相馬四郎義元)から秘奥を授かったうちの一人、猿神前の末孫が愛洲伊香となっている。長享2年(1488)、鵜戸の岩屋に籠り、陰流を開眼した。殺戮剣から活人剣への求道であった。36歳のときである。後年、新陰流の祖となった上泉信綱は、伊香の高弟である。天文7年(1538)、87歳の高齢で歿している。
塚原卜伝(つかはらぼくでん)
常州塚原の人で、延徳2年(1490)の生まれ。飯篠長威斎の天真正伝神道流を、父の塚原新左衛門高安から伝授され、研鑽のすえ、鹿島七流の第一人者となるが、28歳のとき御笠山に籠って、万剣も帰すれば只ひとつの太刀なり・・・・・・の理を悟り、いわゆる新当流を編み出す。門弟は数多いが、北畠具教と松岡兵庫助が代表にあげられる。元亀2年(1571)、81歳の高齢で歿している。
上泉信綱(かみいずみのぶつな)
永正5年(1508)、上州大胡の城主・上泉憲綱の嫡子として生まれる。武将としても勝れていたが、伊勢守となった22歳のとき、愛洲伊香より陰流の極意を伝授され、己れの剣を見出す。称して新陰流。秘伝は、飛燕、山陰、月影、松風など。この体系は現在の剣道の基盤となっている。高弟は数多いが、中でも柳生新陰流の祖となった柳生宗厳が有名。天正5年(1577)に歿している。
覚禅房法印胤栄(かくぜんぼうほういんいんえい)
中御門の出で、代々、興福寺の衆徒(宗徒?)の家柄である。柳生宗厳と共に、上泉信綱について刀術を学び、槍法を大膳大夫盛忠から伝授される。そして柳生宗厳、穴沢盛秀、五坪兵庫らの助力を受けて、宝蔵院流槍術表9本、真位6本、あわせて15本の式目を制定する。のちに由比正雪の乱に加わった丸橋忠弥は、宝蔵院流の一玄流を極めていた。慶長12年8月26日、87歳で歿している。
富田勢源(とみたせいげん)
越前国宇坂庄一乗淨教寺村に生まれ、中條流の道統を継いで短剣術を極める。長大な剣と撃ち合い、それにうち勝つこそ、真の武芸者なり・・・・・・これが勢源の信條である。永禄3年(1560)、美濃国において、神道流の梅津某との試合で三尺五寸の大太刀を、一尺二寸の小太刀でうちまかした。佐々木小次郎は孫弟子に当たるが、道統に反して大太刀で巌流を興したのは、皮肉といえよう。
柳生宗厳(やぎゅうむねよし)
大永7年(1527)、大和柳生村に生まれる。はじめ、中條流と新当流を極めていたが、永禄6年(1563)、上泉信綱に新陰流を学び、一国唯授一人の奥伝を得る。文禄3年(1594)、徳川家康に招聘され、師範役に命じられるが、子息の又右衛門宗矩にその任を譲る。活人剣から更に研鑽し、無刀取りの術を編み出した功績は大きい。号は石舟斎。慶長11年(1606)、80歳の高齢で歿している。
諸岡一羽斎(もろおかいちは/いっぱさい)
天文元年(1532)、常陸は江戸崎に生まれる。姓の諸岡は師岡が正しい。もと美濃の土岐家四天王のひとつであった師岡氏の末である。早くから剣術に長じ、塚原卜伝とめぐりあって新当流を会得する。そして研鑽のすえ、一羽流を開創する。高弟に岩間小熊之助、根岸兎角之助、土子泥之助らがいる。土岐家が没落後、信夫郡に隠棲するが、文禄2年9月8日、癩に犯されて歿す。享年61歳。
疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)
天文5年(1536)、加賀は石川郡に生まれる。母は上泉信綱の姉というから、信綱の甥にあたる。神後伊豆守宗治と共に信綱の側にあって、修行に励み、新陰流を会得する。研鑽のすえ、疋田陰流を開創するが、32歳のとき織田信忠に、53歳のとき豊臣関白秀次に、それぞれ剣術を指南する。のちに田辺城主の細川幽斎に仕えるが、慶長10年(1605)、69歳で歿す。筆録に『回国記』がある。
丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)
天文9年(1540)、肥後は八代郡人吉に生まれる。幼時から剣を修行し、19歳のとき、上泉信綱の門に入る。永禄10年(1567)、信綱より殺人刀太刀、活人剣太刀の免許を下付される。これを機に相良家に仕えるが、間もなく諸国遊歴の旅に出る。帰郷後、主家に帰参して117石を得るが、信綱の死去と同時に、新陰流をタイ捨流に改め、21流の奥義を極める。寛永6年5月7日、90歳で歿す。
林崎甚助
斎藤伝鬼坊(さいとうでんきぼう)
天文19年(1550)、常陸井手村に生まれる。幼年より塚原卜伝の側にあって、頭角をあらわすが、卜伝に疎んじられ、己れの剣を求めて旅に出る。研鑽のすえ、開創したのが電撃必殺の天流。天正12年の春、紫宸殿の庭前で妙剣を天覧に供し、左衛門尉に任じられる。それを機に薙髪し、故郷に帰って道場を開くが、天正15年(1587)、真壁闇夜軒道無によって暗殺される。38歳であった。
伊藤一刀斎(いとういっとうさい)
永禄3年(1560)、伊豆大島に生まれる。14歳の時、島を出奔して伊豆の山に籠る。3年間、刺戟の術を独学自習したのち、江戸へ出て鐘捲自斎に富田流を学ぶ。24歳の時、極意を悟り、一刀流を開創する。生涯の試合は33回。いずれも勝をおさめている。のちに開眼した夢想剣は、不世出の聖剣を物語る。高弟には小野次郎右衛門忠明がいる。承応2年(1653)、94歳の高齢で歿している。
佐々木小次郎(ささきこじろう)
文禄元年(1594)、越前は一乗谷淨教寺村に生まれる。ここには富田勢源の道統が敷衍されており、いつしか中條流を学ぶようになる。しかし小太刀の兵法に疑問を抱き、故郷を出奔して諸国を遊歴する。研鑽のすえ、開創したのが、虎切刀の巌流である。飛燕を斬る・・・・・・つまり太刀ゆきの速さが、その極意となっている。慶長17年4月13日、船島で宮本武蔵との試合に敗れて死す。享年18歳。
東郷重位
富田重政(とみたしげまさ)
永禄7年(1564)、山崎影邦の子として生まれる。12歳のとき、前田利家の近侍となるが、間もなく富田左衛門景政の養子となる。景政の祖、富田長家は、中條流から富田流を開創した人である。従って重政も養父よりその極意を伝授されるが、合戦の中にのみ剣技を生かす。名人越後の剣聖としてその名も高いが、どちらかといえば名将の方が適している。寛永2年(1625)、62歳で歿す。
小野次郎右衛門(おのじろうえもん)
前名を神子上典膳という。永禄9年(1566)、上総は夷隅郡神子上村に生まれる。11歳のとき、伊藤一刀斎について諸国を遍歴する。18歳のとき、兄弟子の小野善鬼と相伝試合をして勝ち、一刀流の後嗣者となる。文禄2年(1593)、一刀斎の推挙で徳川家康に仕え、柳生但馬守宗矩と共に、嗣子秀忠の師範となる。これを機に小野次郎右衛門忠明と改名する。寛永5年11月7日、62歳で歿す。
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)
元亀2年(1571)、柳生石舟斎の五男として生まれる。24歳のとき、徳川家康の側近に仕え、小野次郎右衛門と共に、嗣子秀忠の師範となる。その後、政治的手腕を発揮して、小野次郎右衛門を圧倒し、将軍師範役の座を独占する。剣で一万石の大名になったのは、この人ぐらいであろう。柳生十兵衛は嫡子であるが、弟の宗冬が宗矩のあとを継いでいる。正保3年3月26日、76歳で歿す。
鐘捲自斎通家 
宮本武蔵(みやもとむさし)
天正12年(1584)、美作は讃甘郡宮本村に生まれる。父の平田無二斎に兵法を学び、13歳のとき、新当流の有馬喜兵衛を倒して、天稟の片鱗を見せる。他流試合は66度に及ぶが、船島で佐々木小次郎を倒したのは29歳のとき。以後、他流試合を慎しみ、剣法の理論に打ち込む。そして二刀流による見切りの術を極め、二天一流と命名する。正保2年(1645)、62歳で歿す。著作に「五輪書」がある。
木村助九郎(きむらすけくろう)
天正12年(1580)、大和国は邑地村に生まれる。柳生但馬守宗矩に柳生流を学び、天稟のほどを示す。はじめ、駿河大納言忠長に仕えるが、間もなく600石をもって紀州徳川頼宣に召し抱えられる。小太刀をよくし、紀州藩に仕えるに際して、柳生流を名乗るのを憚り、匿名(かくしな)の運籌(うんちゅう)流を称す。のちに同門の出淵平兵衛盛次に運籌流二代を託し、慶安3年4月8日、70歳をもって病死する。
松林左馬之助(まつばやしさまのすけ)
文禄2年(1593)、信州は松代に生まれる。夢想権之助に夢想願流を学ぶが、やがて諸国修行の旅に出る。そして研鑽のすえ、自得して願立流をうちたてる。間もなく伊奈家の臣となり、大いに剣名をあげるが、51歳のとき、仙台候伊達忠宗に招かれて采地30貫文を賜る。慶安4年3月25日、将軍家光に実技兵法20ヵ條を台覧に供し、寛文7年2月1日、75歳で歿している。号は蝙也斎(へんやさい)。
荒木又右衛門保知(あらきまたえもんやすとも)
慶長3年(1598)、伊賀は服部郷の荒木村に生まれる。幼名を丑之助という。服部平左衛門から中條流、山田幸兵衛から神道流を教えられる。21歳のとき、柳生谷に足を踏み入れ、柳生十兵衛三厳の門人となる。そして12年間に亘って柳生流を学び、研鑽のすえ、荒木流を開創する。のちに大和郡山藩の松平下総守に仕え、剣術師範として250石を得るが、寛永15年8月28日、41歳で歿す。
柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゅうべえみつよし)
慶長12年(1607)、柳生但馬守宗矩の嫡子として生まれる。13歳のとき、徳川家光の小姓となるが、21歳のとき、非行を咎められて柳生谷の故郷に帰る。寛永15年(1638)、再び御書院番として出仕するが、政治的手腕を必要とする将軍家師範役に嫌悪を覚え、やがて知行地の柳生谷に引退する。慶安3年3月21日、鷹狩りの最中に急死する。享年44歳。著作に『新陰流月見の秘伝』がある。
針ヶ谷夕雲(はりがやせきうん)
上野国針ヶ谷の出身といわれているが、上州には針ヶ谷の地名が見当たらない。慶長14年(1609)の生まれ。奥山休賀斎の門人で、40歳ごろまでは、師から習った新陰流の伝を守っていたが、虚白和尚に参禅してからは、師伝の流儀を捨て、本然受用の一法、つまり無住心剣流を開創する。勝理は人性天理に安坐する……これが極意となっている。寛文9年(1669)、60歳で歿している。
山内甚五兵衛(やまうちじんごべえ)
慶長16年(1611)、備前岡山に生まれる。新陰流ほか諸流を学んだのち、多賀伯庵聚律の門に入り、富田流を伝授される。熊沢了介、僧白巌らと交遊を重ねたのち、京にのぼって修行に励む。そして研鑽のすえ、剣名品目を富田流の規定に従い、簡約して6ヵ條とし、平常無敵流と称す。一時、板倉重矩の徒士となるが、小田原に去って妙福寺の住職となる。延宝元年8月15日、62歳で歿す。
寺尾孫之允 
寺尾求馬助
小田切一雲(おだぎりいちうん)
寛永6年(1629)の生まれ。はじめ長谷川恕庵といって、半井驢庵塾の学頭であったが、28歳のとき、針ヶ谷夕雲に師事し、無住心剣流を極める。この流では、相抜けをもって皆伝とする。つまり、術が極限に達して、師と互角に対峙でき得れば、印可を授与されるというもの。一雲がこの印可を得たのは34歳のとき。宝永3年4月26日、77歳で歿す。学者出の剣客として注目を浴びた。
深尾角馬重義(ふかおかくましげよし)
寛永7年(1630)の生まれ。前名を河田喜六というが、家督相続後、深尾姓を名乗る。父の河田理右衛門に丹石流を学ぶが、間もなく諸派を学んで、戦場剣術の丹石流を素肌剣術に改める。これを雖井蛙(せいあ)流と称す。天和2年10月27日、娘のことから百姓3人を殺害して、大目付の役宅で切腹する。52歳であった。別に化顕流、安心流の居合二流を発明し、また出雲流骨法の祖でもあった。
伊庭秀明・伊庭是水軒秀明(いばぜすいけんひであき)
慶安元年(1648)の生まれ、はじめ柳生流を極めていたが、のちに志賀十郎兵衛如見斎に本心流を学び、皆伝の後、心形刀流を編み出す。天和2年(1682)、34歳のときであった。この流では、本心を練るのを第一とする。つまり、心は理、技は形であって、形は心が使役するものだから、術より遠くにある心法(本心)を、見きわめるのが肝要というもの。正徳3年(1713)、65歳で歿している。 / 1649−1713 江戸時代前期-中期の剣術家。慶安2年生まれ。信濃(しなの)(長野県)の生まれという。本心刀流の志賀如見斎(常理子)に師事,天和(てんな)元年許状をうけた。翌年心形(しんぎょう)刀流をおこし,江戸下谷で道場をひらき,おおくの門人をあつめた。正徳(しょうとく)3年閏(うるう)5月11日死去。65歳。本姓は深尾。名は秀明。通称は惣左衛門。剣号は常吟子。 / 江戸中期の剣術家。心形刀流の開祖。侠客がっぽう八兵衛の子として江戸に生まれる。通称は総左衛門,是水軒は号。幼少より剣術を好み,諸国を遍歴してはじめ柳生流,のち本心流の志賀如見斎に学び,37歳で心形刀流を創始した。流名は『心形刀流目録弁解』の中に「心,躬の形,用うる刀」と記され,心技体の三位一体の真諦を表している。伊庭家では実子ではなく,門人中もっとも秀れた者が相続するのが家憲であった。志摩鳥羽藩主稲垣氏をはじめ門人は多く,幕末期には江戸4大道場のひとつに数えられるほどの隆盛をみた。 
 
諸岡一羽

 

諸岡一羽 1
[もろおか いちは/いっぱ、天文2年-文禄2年(1533-1593)という説と、更に100年ほど遡るとする説がある] 戦国時代の剣豪。諱は常成(つねなり)、または景久(かげひさ)。通称は平五郎。姓は師岡、名は一端、一巴とも表記する。
出自は美濃国の土岐氏一族の家系とされる。師岡常良の子として誕生。
香取神道流の創始者飯篠家直の弟子の一人(塚原卜伝の弟子の一人との説もある)とされ、「一羽流」の開祖。
常陸国信太庄江戸崎城の土岐原氏に仕えたが、土岐原治綱が後北条氏に属したため、豊臣秀吉の小田原征伐で常陸国の大名佐竹義重に攻められ敗れる。蘆名盛重が仕官をすすめるが、それを固辞して兵法家として道場を開いた。晩年に癩風を病み、死去した。墓は茨城県稲敷郡江戸崎町の大念寺にある。
諸岡一羽の弟子達は一羽流以外に、一波流、卜傳流、微塵流、鹿島神道流などの流名を名乗っている。新撰組の近藤勇が会得したことで知られる天然理心流も一羽流の系統といわれる。
一羽流の開祖 諸岡一羽斎常成 2
天真正伝香取神道流を学び「飯篠長威斎の再来」と呼ばれ、塚原卜伝の鹿島新当流においても高弟とよばれた、一羽流の開祖である諸岡一羽斎常成(もろおかいっぱさいつねなり)です。
諸岡一羽斎常成 1533年(天文2年)〜1593年10月2日(文禄2年9月8日)通称は平五郎。本来の姓は師岡、一羽斎は一巴斎、一波とも書かれているそうです。常陸国江戸崎(現茨城県稲敷市江戸崎辺り)の出身とされています。
一羽斎は美濃土岐氏四天王の師岡氏の出自であったといわれています。師岡氏は土岐氏にしたがって常陸国に移り住んだ一族とされています。(土岐氏は清和源氏頼光の流れをくみ南北朝時代や室町時代の文献には頻繁に名前が出てくる名家です。家紋は桔梗紋です。明智光秀もこの桔梗紋です。)
一羽斎は最初に師岡左京(一羽斎の父であるとする説もありますが詳細は不明です。)をはじめ、一族の師岡氏の人たちから※新道流を学だとされています。(※飯篠長威斉の天真正伝香取神道流の高弟の中に一羽斎の名前もありますので天真正伝香取神道流の師から師事されたのではと私は考えています。)
その後、塚原卜伝に鹿島新当流を学びました。一羽斎は香取神道流と鹿島新当流を学び、自らの工夫を加えて一羽流を創始し門人達を育てました。
有名な門人に、根岸兎角(ねぎしとかく)岩間小熊(いわまおぐま)土子土呂助(つちこどろすけ)がいます…(この駄洒落の様な名前の面々、怪しいと言えば怪しいです…)
しかし、一羽斎もまた戦国時代の波には逆らえず主家の土岐氏が北条氏に属していた為、小田原征伐(1590年)で常陸国大名佐竹義重に攻められ敗れます。その後、蘆名盛重が仕官をすすめましたが、それを固辞して兵法家として道場を開いたという話もあれば陸奥国信夫郡(現福島県の北部と福島盆地地域の西半分)に隠れ住んだという話もあります。
晩年は病んでいて(ハンセン病とも)弟子に面倒をみてもらっていたという話が伝わっています。この時に一羽斎を見限った弟子の根岸兎角が逐電し、それを追った岩間小熊との江戸常磐橋の決闘は有名な話です。
1593年10月2日(文禄2年9月8日)に61歳で没し、墓は茨城県稲敷市江戸崎町の大念寺にあるそうです。 
「決闘の辻-新剣客伝」子弟剣 諸岡一羽斎と弟子たち 
諸岡一羽斎は香取の天真正伝神道流と鹿島剣法を継ぐ塚原卜伝が興した新当流を極めた上で、別に精妙、不可思議は剣を編み出し、一羽(イッパ)流と名付けて広めた。
一羽斎は常陸国江戸崎(現在の茨木県稲敷市)城主・土岐治綱に仕え、自分の屋敷で土岐家の家臣、近郷の郷士達、志のある百姓などに一羽流剣術を教えていた。
ところが天正十八年(1590年)北条方に組していた土岐家は、秀吉の小田原攻めに参軍した佐竹義宣の攻撃を受けて落城し、城主は戦死してしてしまった。土岐家は滅亡し、新たに佐竹家が入って来た。
古くからの郷士で豪農であった諸岡家の暮らしも当然ながら一変した。広大な田畑は取り上げられ、古い家屋敷とわずかな屋敷畑が残されただけだった。主家を失った家臣や領民は剣術修行どころではない。門弟たちは去り、奉公人は四散し、家人は窮乏生活を逃れて親戚縁者に身を寄せ、家を出た。
結局諸岡家には一羽斎と「おまんさま」と呼ばれていた一羽斎の養女が残り、そして三人の高弟が師と離れないで留まった。
それは根岸兎角、岩間小熊、土子泥之介の三人だった。
悪いことに一羽斎は病気がちだった。働き手は養女のおまんさましかいない。おまんさまは二十歳になっていて婚期をを逸していたが、それどころではなかった。家事、養父一羽斎の身の周りの世話、屋敷畑仕事と養父の扶養を一身に引き受けた。
残った弟子の内、根岸兎角は北下総から来た男だった。郷士の倅と自称したがそれが本当なのかは不明だった。土地者ではなかったゆえ、三人の内、唯ひとり食客として諸岡家に住み込み、奉公人とともに畑仕事を手伝いながら長い間一羽流を習って来たのである。以前の諸岡家では何人かの食客を養うこと位、何の問題もなかったのである。ところが諸岡家が没落すると兎角は自分の口を自分で養わなければならなくなっただけでなく、師の一羽斎とおまんさまの暮しに眼を配ざるを得なかった。そこでさる富農から仕事を得、兎角はその家で喰べ、米や栗で支払われる報酬を一羽斎の家に運び、おまんさまを手伝って畑にもおりるという生活をすることになった。
他の二人が何もしなかったわけではない。岩間小熊は百姓から出て土岐家の家臣に下男として仕えていたし、土子泥之介は土岐家の家士(=家個人雇いの侍)の倅で、二人とも根っからの土地者であり、主家の滅亡で何もかも失った人間であった。が今は二人とも何かあればすぐ駆けつけることが出来る、一羽斎の家からさほど遠くない百姓家に、住み込みで働き、貰う衣食の手当に少しでも余りが出れば、おまんさまに届けて師を養っていた。そしてそれは当然のことと思っていた。
泥之介は人並み外れた丈も幅もある兎角の背に何か鬱屈(ウックツ)したものが宿っている、と感じていた。今の生活への不満だろうか。兎角は諸岡家に家人と同様の待遇を受け、自分たちよりもずっと前から長く師の教えを受けてきた。だから師の世話をするのは当たり前と理解していた。だがそれでも不満なら、兎角よ、おぬしはいずれこの土地から出て行く人間だ、我慢してこの土地にいることは無い。後は、おまんさまがなんとかするだろうし、おれと小熊も助けるし、と泥之介は思った。
だがある時兎角から、師の病気が癩病であること、すでに顔や手に病気が出ていること、家人が親戚に移ったのはそのことに気づいたからだ、と聞いて、泥之介は兎角の近頃の落ち着かない様子の正体に気付いた。兎角は、師匠に寝付かれれば看病に縛られるし先の展望も開けないないから、今の内に逐電(逃げ出す)しようと考えているのだ、思った。
泥之介は強い調子でと兎角に言った。
「師が病気と聞いて考えが変わった。病人を見捨てたらただでは済まさぬ」
ところが兎角は出奔したのである。なんと、おまんさまを道連れにして、である。
泥之介と小熊は、あのおまんさままでが父を見捨てたのはなぜか、それが理解出来ないまま、もかくも二人を追い捕り押さえようとした。だが一羽斎は、「追うな、おまんはそのうちに戻ってくる」と言ってそれを止めた。二人が兎角を追うのを諦めたのは、師の説得のせいばかりではなかった。まず旅に必要な路銀が無いこと、おまんさまが居なくなった今、師の面倒をみることが二人の肩にかかって来たからだった。
それから二年程たって、おまんさんが一人で戻って来たのである。そして何も言わず、何事も無かったように家に入り家の中の掃除を始めた。
泥之介はその様子を見て小熊が働いている百姓家に走った。小熊は「師匠もこれで、安心じゃ」と眼をしばたいた。そしておまんさまは、捨てられたのだと予測して「兎角め、許せん」と吐き捨てるように言った。
すべての生活が巻き戻って始まった。
思いがけなく、兎角の消息が旅の商人からもたらされた。兎角は江戸に出て、自らを天下無双の名人と触れて道場を開き、沢山の門弟を抱えて隆盛の中にあり、教える刀術を一羽流ではなく微塵(ミジン)流と呼んでいる、というのであった。
「先には死病の師を捨て、今度は流派の名を偽る。許しがたい」と二人の怒りは高まるばかりであった。
その翌年の文禄二年(1593年)、諸岡一羽斎は没した。江戸崎城にそのひとあり言われた一羽斎の葬儀は、隠れるようにして顔を出した僅かな旧家臣たちの参列でとり行われた。一方それは、泥之介と小熊の、師の扶養からの解放であった。二人に兎角への怨みをはらす時が来たのである。
兎角、小熊、泥之介は師の元で剣の技量はほぼ互角であった。
「江戸に行く者は一羽流の名を背負っていくのだ。互角一人を始末するのに、一羽流が二人で来たと言われては、世間の聞こえが悪かんべい」 と先ずどちらか一人が江戸に向かうことになった。
二人はくじを引き、岩間小熊がくじを引き当てた。
小熊は江戸に向かった。泥之助は不安と後悔に襲われた。小熊は兎角と一羽流の剣技としては互角であるが、小熊は小柄小太りである。稽古ではなく命のやり取りの勝負であれば、兎角に比して小熊の圧倒的に恵まれない身体が不利に働く。小熊を説得して自分が先に行くべきだった、と悔やんだ。
泥之介は鹿島神宮に参詣した。
…小熊を勝たせ給え。長く必死に祈った…… 
 
斎藤伝鬼房

 

斎藤伝鬼房 1
[さいとう でんきぼう、天文19年-天正15年(1550-1587)] 戦国時代から安土桃山時代にかけての剣豪、武術家。天流剣術の創始者。俗名、斎藤勝秀。名は忠秀とも。幼名、金平。のちに主馬之助。入道して伝鬼房、または伝輝坊、伝記入道と称した。
天文19年(1550年)、常陸国真壁郡新井手村(現茨城県筑西市明野)において誕生。また、父が北条氏康に仕え小番衆(近習)であったことから、相模国の出身とされることもある。
幼年より刀槍の術を好み、塚原卜伝に弟子入りして新当流を学んだ。一説には、卜伝の養父・塚原安幹(土佐守)の実子で早世した塚原安義(新右衛門)の門人であったが、破門されたともいう。
通説では、天正9年(1581年)11月、鎌倉の鶴岡八幡宮で参籠中に修験者と出会い、ともに術について語り合い、実際に試合して吟味などするうちに一夜が明けた。伝鬼が修験者の刀術、流名を尋ねると、修験者は黙って太陽を指さして立ち去った。このことから、覚えた秘剣に「天流」と名付けたという。
諸国を修行しながら京に上ると、伝鬼の刀術が評判となり、朝廷から参内を命じられて紫宸殿において三礼の太刀を披露、判官の叙任を受けた。こののち入道して井手判官入道伝鬼房と称した。伝鬼房は羽毛で織った衣服を好んで着用し、その姿は天狗のようであったという。真壁に帰ると、下妻城主・多賀谷重経に教授したのをはじめとして、大名諸士の入門者が多かった。
このころ、神道流の達人として知られ霞流を称した桜井霞之助の挑戦を受けて立ち合い、死闘の末に霞之助の惨死で決着した。ところが天正15年(1587年)、恨みに思った霞流の門人たちによって暗殺された。享年38。それによると、伝鬼房が弟子ひとりを連れた道中で霞流の門人数十人の待ち伏せにあった。囲まれたと悟った伝鬼房は、師匠を一人おいて去ることを拒む弟子を無理に逃がし、路傍の不動堂に隠れた。堂の四方から矢を射かけられ、伝鬼房は堂を飛び出して手にした鎌槍で矢を払ったが、防ぎきれず全身に矢が突き刺さった。余力を奮い起こして戦ったものの、衆寡敵せず死亡したという。
のち、この地に伝鬼房の怒気が残って奇怪事が起こったとされ、土地の人々が小社を建てて伝鬼房の霊を祀り、「判官の社」と呼ばれた。場所は真壁町(現桜川市)白井とされるが、社は現存しない。
天流の道統
伝鬼房の死後、実子の斎藤法玄が天流を継承した。法玄の後、天流は斎藤牛之助、日夏重能、日夏能忠と継承され、日夏能忠の門人の下河原恭長により「天道流」と改称されて伝統した。このほか、伝鬼房の門人から伊地知重明(無山天流)、小山田貞重(真天流)、川瀬兵蔵(一覚流)、法玄の門人から人見宗次(人見流)、下って加古正真(加古流)などの流派が生まれた。
現代のなぎなたの祖 天狗と呼ばれた斎藤伝鬼房 2
後に天道流につながる天流の開祖にして天狗と呼ばれた斎藤伝鬼房(さいとうでんきぼう)です。
伝鬼房の開祖した天流は当時の剣術(武術)流派と同じで薙刀術、槍術、鎖鎌術、棒術、手裏剣術、取手・小具足(柔術)を含む総合武術です。また天道流は後に天流を学んだ下河原恭長が天道流と改名してた流派なので、伝鬼房が創始したのは天流となるそうです。
天流の流れを組む天道流の薙刀術は現在の「なぎなた」に系譜されています。日本なぎなた連盟の形などにも多く天道流の要素が盛りこまれているそうです。また、天道流薙刀術は会津地方で広く普及されていたとの事です。
余談ですが伝鬼房を祖とする天道流十五代宗家の美田村千先生(1884年〜1966年 全日本なぎなた連盟最高顧問)の仰った言葉に「薙刀を握った以上は男子にも負けない、否男子以上の強い心を持って専心、心身の修行に精励せよ。」という言葉があるそうです……
斎藤伝鬼房1550年(天文19年)〜1587年(天正15年)名は勝秀(忠秀とも)入道して伝鬼房(伝輝坊や伝記入道とも)常州真壁郡新井手村(現茨城県筑西市明野辺り)にて北条氏康の小番衆(近習)の家に生まれたとされます。幼年より刀槍の術を好んだと伝えられ塚原卜伝より新当流を学びました。
後に卜伝門下の中でも出色といわれる技量になりますが自らの修行の至らざるを感じ鎌倉鶴岡八幡宮に百日参詣して武芸上達を祈願しました。1581年(天正9年)伝鬼房31歳の時、参籠中に修験者と出会い共に刀槍術について語り合う様になりました。
時には実際に仕合をし術の可否を吟味などしているうちに自然と剣の妙術を悟っていきました。やがて満願の日、夜が明け修験者は去ろうとしました。伝鬼が修験者の刀術、流名を尋ねると修験者は黙って太陽を指さして立ち去ったそうです。このことから自らの剣術に天流と名付けました。
自らの剣術に「天流」と名付けた伝鬼房は諸国を廻国修行しながら京に上って朝廷から参内を命じられます。この事からも伝鬼房は剣術者として相当名前が知れ渡っていた様です。紫宸殿において「一刀三礼」の秘剣を天覧しました。
これにより判官左衛門尉の叙任を受けました。(余談ですが源義経や楠木正成なども左衛門尉です。真田幸村は左衛門佐なので少し官位が上です。遠山の金さんこと遠山景元も左衛門尉ですが江戸時代中期には朝廷とは別に幕府が旗本、御家人に与える官位になっていたそうです)
これより入道して号を井手判官入道伝鬼房と称しそうです。五畿(山城、摂津、河内、和泉、大和)、中国地方を廻国した伝鬼房は武芸者としての名声を上げ故郷の真壁に帰郷します。この時の伝鬼房のいで立ちは「羽毛を以て衣服と為す。其体殆ど天狗の如し」と記録されています。
羽毛で織った衣服を好んで着用し天狗のような格好をしていた様です。伝鬼房の名前に「房」(坊)を付けるのは、室町時代に天狗の名前に「房」(坊)を付けるのが習慣になったからだとも言われているそうです。
故郷の真壁に帰ると下妻城(現茨城県下妻市辺り)城主、多賀谷修理大夫重経(結城氏のち佐竹氏の家臣)をはじめ大名諸士の入門者が多かった様です。しかしこの地はもともと神道流が盛んであり、かつ同門の先達が道場を既に構えていました。これらの中には伝鬼房を心よく思わない者たちもいました。
そんな中、卜伝の弟子であり伝鬼房の兄弟子にあたる霞神道流(霞流)の真壁暗夜軒氏幹(佐竹氏家臣で常陸国真壁城主、長さ2メートルもの樫木棒を振り回して戦場を駆け抜けたその武勇より「鬼真壁」と称された人物で霞流棒術を創始した人物ともいわれています)の門人、桜井霞之助と仕合を行います。
仕合は死闘となり霞之助の惨死で決着しましたが、これにより伝鬼房は霞神道流(霞流)の門人たちより恨みを買うことになります。因みに桜井霞之助の兄に桜井実吉がいます。「鍵屋の辻の決闘」で荒木又右衛門に斬られた桜井半兵衛は実吉の孫だそうです。
1585年(天正15年)弟子の小松一卜斎といる所を霞党数十人の待ち伏せにあいます。伝鬼房を一人で戦わせる事を拒む弟子の小松一卜斎を不動堂に匿い、手にした鎌槍で無数の矢を切り落とし獅子奮迅の戦いをしますが最後は全身に矢が突き刺さり力尽きたといわれています。享年38歳。
この時に伝鬼房が振るった矢切の技が生き残った小松一卜斎によって伝鬼房の実子である斎藤法玄に伝えられ今日でも「一文字の乱」として天道流に伝承されているそうです。時代は流れ天道流は幕末に14代となった三田村顕教(みたむらあきのり1850年〜1931年)先生に引き継がれます。
14代三田村顕教先生が明治後期から京都の大日本武徳会(戦前の日本で武術武道の振興教育を目的とし設立された財団法人。1895年4月17日〜1946年10月31日GHQにより解散)で、天道流薙刀術を指導した事で京都を中心に天道流薙刀術が広まりました。先述した15代美田村千代先生は養女です。
現在の私たちがイメージする「なぎなた」は女薙刀で明治時代末期から戦前にかけて女性の武道として発展しました。私は昌泉院(福島正則の継室)の様な女性を話を思い浮かべてしまいす。昌泉院が天道流を習っていたかはわかりませんが、伝鬼房が命を賭した「一文字の乱」は薙刀術を中心に今も残っているそうです。
因みに兵庫の「山は富士 酒は白雪」で有名な小西酒造に全日本なぎなた連盟の本部も所在し、なぎなたと深く関わりがあります。天道流薙刀術も、ここの修武館(三大私設道場のひとつで1786年(天明6年)に創設され200年以上たちます)でも教えているそうです。 
 
冨田重政

 

冨田重政 1
[とだ しげまさ、永禄7年-寛永2年(1564-1625)] 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣。父は越前の戦国大名朝倉氏の家臣で、富田流の門人だった山崎景邦。富田景政の婿養子。子は冨田重家、冨田重康、冨田宗高。官位は越後守。
通称は与六郎、六左衛門、治部左衛門、大炊。前田利家の家臣として仕え、1583年の能登国末森城の戦いでは一番槍の武功を挙げたことから利家の賞賛を受け、富田景政の娘を妻とした。
小田原征伐や関ヶ原の戦いにおいても、前田軍の武将として従軍している。これらの戦功から、1万3670石の所領を与えられた。その後老齢のため、前田利長が隠居して前田利常が家督を継いだ頃に隠居している。しかし利常に従って1614年からの大坂の陣にも参戦し、19人の敵兵の首級を挙げるという武功を立てた。1625年に死去。享年62。
戦国時代における中条流の剣豪の一人であり、越後守の官位から「名人越後」と称されて恐れられた。
加賀藩 富田重政と主計町茶屋街の由来 2
富田重政は中条流の兵法の達人で「名人越後」と称された人物です。父は山崎弥三兵衛景邦。富田重政も元々は山崎与六郎(のち六左衛門)という名前でした。
富田重政の人生
富田重政(このときは山崎与六郎)は前田利家が府中三人衆となった天正3(1575)年、11歳のときに前田利家に100石で仕えました。その後、天正12(1584)年に同門だった中条流剣術中興の祖といわれる富田景政の婿養子となります。 富田景政は七尾城の守将となったり、豊臣秀吉(秀次という史料もある)の剣術の師範でもあったほどの人でしたが、子の与五郎が近江柳ケ瀬の合戦で討死。ほかは娘2人だけで男子がなかったため、門弟だった山崎与六郎(のちの六左衛門)を婿に迎えたのです。
その後、重政は末森城の戦いや小田原の北条攻めに従軍。文禄(1593〜96年)の頃、義父の富田景政が没した際に遺領の3,400石を継ぎました。
慶長5(1600)年には、北陸の関ヶ原と呼ばれる大聖寺城攻めや小松の浅井畷の戦いでも戦功をあげ、13,670石を与えられた重政は晴れて人持組の一員となります。金沢城の新丸に屋敷が与えられ、その場所は後々まで越後屋敷と呼ばれて使用され続けます。
重政は慶長18(1613)年に隠居して、3,000石(2,000石という記録もあります)を隠居料としてうけるようになりますが、その後も大坂の陣に2回とも従軍するなど活躍は止まりません。冬の陣では夜中に鉄砲をつるべ撃ちされるも、手元にろうそくを持って馬に乗り、片手で手綱を持って下知するなど摩利支天のようだと評されました。また家臣たちも勇猛で、重政の軍だけで19の首級をあげたと言われています。
その後、前田利長の下知で今の東茶屋街の裏の卯辰山に摩利支天堂を建立。今も宝泉寺として残っています。
また三代将軍家光の前で柳生但馬守宗矩と展覧試合をするよう申し付けられる(結局中止)など、その剣術は加賀藩を超えて評価を受けました。
剣術の達人としてのエピソード
あるとき、三代前田利常が茶室で無理難題を重政に言います。
「なんじの家に『無刀取りの術』があるという。ではこれを取ってみよ」そう言って利常は突然真剣を抜きだしました。
しかし重政は慌てず謹んで承り、「無刀取りの術は家の秘密です。後ろの戸の隙間から人が覗いていますので、これを制してくだされば従いましょう」と答えました。
利常はいった誰が覗いているのか?
と後ろを振り向いたところ、重政はすっと利常のそばに寄り、利常の拳を捕まえて「我が家の『無刀取』というのはこういうものです」と答えたのだそうです。
重政没後の富田一族
富田重政は寛永2(1625)年4月19日に没します。ときに62歳でした。
長男の重家は、宇喜多秀家と豪姫の娘(前田利家の娘。豊臣秀吉の養女となる)を妻とし、大坂の陣でも戦功をあげましたが、父より早く24歳で亡くなります。
そのため弟の重康が跡を継ぎ、同じく越後屋敷に居住しました。
重康も中条流剣法の達人でしたが、のちに中風となったことで「中風越後」と呼ばれたといいます。お父さんと違って、かなり可哀想なあだ名ですね。
しかしこの重康も42歳と若くして亡くなり、子の重次は幼少だったため富田家は5,000石となります。重次は前田利常に従って小松城下にいましたが、あろうことか重次までも16歳で亡くなります。11歳で重政の外曾孫の重持が急遽跡を継ぐことになり、富田家はとうとう3,000石にまで減少することになるのです。
幕末の文久年間の「加賀藩組分侍帳」では2,500石(富田治部左衛門)
重持は万治2(1659)年に小松から金沢へ戻り、今の金沢近江町郵便局の位置に屋敷が与えられました。
主計町茶屋街の名前の由来
ちなみに、金沢の主計町茶屋街の「主計町(かずえまち)」の地名の由来は、富田主計の屋敷があったからというのは金沢では有名な話ですが、この富田主計は富田重政の3男。父重政の隠居領だった3,000石を継ぎ、主計町のあたりに屋敷を構えました。しかし子がいないまま寛永13年に没。家は断絶となり今では地名にのみ、その名を残すことになるのです。  
 
木村友重

 

木村友重 1
[きむら ともしげ、天正13年-承応3年(1585-1654)] 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての紀州藩の武士、剣豪。運籌流、柳生流(柳生新陰流)。 諱は友重、号は矩泰。幼名・通称の木村助九郎で知られる。柳生宗矩の門弟筆頭とされ、後世では柳生四天王に数えられた。
天正13年(1585年)、 大和国邑地(現在の奈良県邑地町)に誕生。父は邑地の浪人・木村伊助。邑地の隣には剣豪・柳生宗厳(石舟斎)が治める柳生庄があり、友重は浪人したのちに柳生家の家臣となった。やがて江戸の徳川将軍家に仕える宗厳の子・宗矩の下で剣を学んで頭角を表し、元和7年(1621年)に宗矩が後の三代将軍・家光(当時竹千代)の兵法指南役に就任してからは、家光の稽古相手に抜擢されて、宗矩が家光を指南する際は度々受太刀を務めた。
40歳を過ぎたころ、家光の弟徳川忠長に推挙されて駿河に移る。『木村家家譜』では、駿河に出仕してからも将軍となった家光の命で出府することがあったとされ、ある時は一年程江戸に滞在し、宗矩の登城に同行して度々家光の稽古の相手を務め、駿河に帰国する際には白銀を拝命したとある。また別のある時には急な召状を受けて出府したところ、他流を使う者との試合を命じられ、これに勝利を収めて白銀を拝命したという。
寛永11年(1634年)には主君・忠長が幕命により改易の上切腹して果てたが、友重はその年のうちに 紀州徳川家の徳川頼宣に600石で仕官することができ、和歌山に移住した。
寛永16年(1639年)2月14日54歳の時、大病にかかった家光が諸藩の武芸者を集めて兵法上覧を行った際には江戸に召集され、師・宗矩の子息である柳生三厳(十兵衛)、柳生宗冬等と共に武芸を披露した。『木村家家譜』よると、友重は久保式部省輔と3試合、阿部式部小輔と3試合、鵜殿惣十郎と4試合を戦い、すべての試合で小太刀を以て勝利を収めたという。家光は「(友重のことは)幼少の頃からよく知っていたものの、高齢なこともあり、これほどの強さを見せるとは思わなかった」と大いに喜び、白銀10枚と時服を与えた。
慶安元年(1648年)63歳の時、頼宣の継嗣・徳川光貞に従って江戸詰めとなる。江戸に居を移してからは、家光が師・宗矩の下屋敷を訪れた際に召されて剣術を演じることがしばしばあり、このことを知った頼宣から宗矩の下屋敷を自由に行き来することを許されたという。
慶安4年(1651年)3月6日、死の床にあった家光を慰めるために兵法上覧が開かれ紀州藩士の田宮平兵衛長家が武芸を演じることになると、家光の稽古相手を務めてきた豊富な経験を買われ、頼宣の命を受けて田宮と共に試技を披露した。
承応2年(1653年)に国詰めとなって和歌山に戻り、その翌年の承応3年(1654年)4月8日に病死。享年70。光貞からは香典として白銀五枚が授与された。友重の死後は嫡子木村助九郎友安が跡をつぎ、子孫は代々剣術指南役をつとめた。  
一族
木村家の系譜は明らかではないものの、『木村家家譜』によると父の伊助は大和の豪族・古市氏に仕えていたが、古市氏が大和の支配を巡った筒井氏との争いに敗れて没落したために邑地で浪人になったとされる。その後大和を支配した豊臣秀長の家臣・長野五郎衛門が邑地を訪れ、田中玄斎という者を成敗しようとしたとき、伊助は逃走した玄斎を捕らえて単身で討ち果たす手柄を立てたが、その際に受けた傷が元で左手に障害が残ったために仕官は叶わなかった。後に友重が駿河徳川家へ仕官することになった折に、柳生宗矩の働きかけで伊助も召し抱えられる運びとなったものの、駿河に出仕する前に伊助は死去したという。
子孫
友重の所領600石は嫡子・友安が残らず相続したが、友安が死去した際にその子・兵九郎友則が幼少であった事から三十人扶持に減らされた。友安が成長してからは40石を給せられて、以降子孫は代々40石で仕えた。 江戸時代最後の当主木村金吾友重(木村金吾友重)は家業の剣術指南役を務めたが、明治維新以降は士族となり、廃藩置県で紀州藩の保護を失った漆器職人を束ねて紀州漆器の生産をはじめる。妻・セ乃の実家である豪商だった南家の支援を得て、貿易のために南家所有の船で欧州などへ漆器の海外輸出に着手する。商売の都合上、身分階級は士族のまま一時的に配偶者の南姓を名乗ることとなり、木村友重から南友重となる。以降、その長男・南若松、孫・南國一と紀州漆器の生産に携わり、苗字も木村姓に戻さず、木村友重の子孫は、今日まで南姓を名乗る。
流儀
はじめ師の流名をはばかって自らの流儀を運籌流と称していたが寛永11年(1635年)に柳生流を公称することを許され、運籌流は二代目として同門の出淵平兵衛(越前松平家)に譲られた。後に平兵衛も柳生流を称することを認められたため、運籌流は柳生家に返上された。
木村助九郎 2
数日後の昼過ぎ、柳生家の門前に一人の小柄な老人が姿を見せた。老人は、大きな冠木門を見上げ、顔の半分を歪めると、門番に断わりもなく中に入ろうとした。
「これ、どこに行く」
柳生家にとって禍急の最中である。門番の二人は手に持った棒で老人の行く手を遮ろうとした。だが、その棒はそのまま地面に落ち、遅れて二人目の門番も地べたに板が倒れるように横たわった。老人は何事もなかったように、中に入っていく。門の中にも一人の番がいたが、その男も同様に一瞬のちには地べたに体を横たえていた。老人は竹刀の音を耳にし、道場に足を向けた。道場の中では、十数名の門弟が激しい稽古に励んでいる。老人は、その様子を一瞥すると、下駄を脱いで道場に上がりこんだ。師範代の木村助九郎が、いち早く老人に目を留める。筒袖に軽衫という軽装ではあるが、老人の静かなその挙措には威厳と品格が感じられた。
「これ、何用だ。勝手に上がりこんではいかん」
助九郎が右手を上げて窘めた。門弟が稽古の手を止め、老人に目をやる。老人は静かに足を運び、道場の中央まで進み出た。この時点で助九郎は、老人が尋常でない遣い手であることを見抜いている。
「一手、お手合わせを所望する」
そばにいた門弟が、老人の肩を掴む。
「何を申す、この爺。どこから入ってきたのだ」
「よせ」
助九郎が声をかける間もなく、老人の肩を掴んだ門弟が、道場の床に投げ落とされている。その様子を見て、さらに三人の門弟が老人を取り囲んだ。
「待てぃっ」
助九郎が三人を止めて、老人に顔を向ける。
「ご老人、刀を腰にしたまま他流の道場に入り込むとは無礼であろう」
老人が鼻から短く息を吐き、唇の片方を吊り上げて腰から刀を抜き取った。柳生の門弟が、素早くその刀を取り上げる。老人は両手を天井に向けて広げひらひらと振った。
「これで、いかがか」
老人の態度は泰然として乱れがない。だが、その様子を見て柳生の門弟は、逆に激昂した。
「おのれ」
三人の門弟が撃ちかかると、老人は扇子を抜き取ってひらりと舞うように一回転した。柳生の門弟が三人とも昏倒して床に大の字に伸びている。この三人は決して未熟な者たちではなく、現在の柳生道場で十指に入る高弟であった。この時の老人の扇子は、十兵衛が持つような鉄扇ではなく、ごく普通の木と紙でできた扇子である。
「よせ、よさぬか」
助九郎はとっさに頭に血が上った他の門人たちを制止した。しかし、高弟三人が無腰の年寄りに撃ちかかり、扇子一本で打ち倒された。もはや、柳生の名にかけて、この老人をこの場から帰すわけにはいかなかった。助九郎が木剣を手に道場の中央まで進み出る。
「木村助九郎がお相手いたす」
無腰の相手に木剣をもって試合うことを、卑怯となじるわけにはいかない。明らかな道場破りの態度であれば、五体満足に帰せば、柳生の名、引いては将軍家の何も傷がつくことになるのだ。老人は満足げに頷くと、扇子を腰に戻し、懐から懐紙を取り出して、一本の紙縒りを縒った。
「しからば、これでお相手いたす」
助九郎の顔面に、さっと朱が刷けた。平静を失ったこの瞬間に、勝敗はすでに決している。その時音を立てて道場の戸が開き、野太い声が道場内に響いた。
「それまで」
開いた戸の向こうには、十兵衛と友矩が立っている。十兵衛の手には刀があった。
「それまでである、木村」
十兵衛は道場の中心まで進み出ると、助九郎の手首を押さえて木剣を下ろさせた。助九郎が十兵衛の顔を見る。
(わかっておるのか)
十兵衛が唇だけで尋ねると、助九郎は青白い顔をして無言で小さく頷いた。表情を変えず、十兵衛は割れるほど強く奥歯を噛み締めている。十兵衛が老人に向き直った。
「ご老人、よほどの修練を積んだと見える。見事な手練である」
十兵衛は、壁にかけてある木剣を二本手に取ると、そのうちの一本を老人に放った。老人が左手で木剣を受け取る。
「この、柳生十兵衛が一手ご指南仕る。存分に撃ちかかって参れ」
友矩が十兵衛に駆け寄った。
「兄上」
十兵衛が噴火寸前の火山のような凄まじい殺気を体内に押さえ込んでいることを、友矩は近くによって始めて感じ取った。
「友矩、もしおれが敗れるようなことがあらば」
十兵衛が、友矩の手に刀を渡す。
「この刀で、間髪いれずに助九郎を斬り捨てよ」
十兵衛は、友矩の返事も聞かず、木剣を手に道場の中央まで進み出た。
「いざ」
「いざ」
二人が木剣を手に相対する。互いに正眼。友矩は左手に刀を持ち、二人を審判する位置に立った助九郎の右後ろで勝負の行方を追った。 
 

 

 
 
 
剣豪諸話

 

 
新渡戸稲造が伝えた「武士道」

 

新渡戸稲造と「武士道」
まずは著者である新渡戸稲造について簡単に。
「文久2年(1862年)、南部藩士、新渡戸十次郎の三男として誕生。幼少期は武士の家の子の教育を受けてきた。札幌農学校(北海道大学の前身)で学び、アメリカ・ドイツに渡って農政学等を研究。帰国後、東京帝大教授、東京女子大学長などを務めて、青年の教育に情熱を注いだ。」
そんな彼が、「武士道」を著すきっかけとなった事件が、その冒頭にこのように記されております。
『1889年頃、ベルギーの法学者・ラヴレー氏の家で歓待を受けている時に宗教の話題になった。ラヴレー氏に「あなたがたの学校には宗教教育というものがないのですか?」と尋ねられ、ないと答えると「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と繰り返された。私はその質問に愕然とし、即答できなかった。』
その後、彼は現代日本(現在から見れば「近代日本」だろうか)の道徳観念は封建制と武士道が根幹を成していることに気付き、整理したものを書物という形にして世に出すことになったそうです。
原著は1898年、アメリカ滞在中に英文で書かれたもの。1900年にフィラデルフィア(アメリカの最初の首都)の出版社から刊行され、1905年には増訂版が出されたそうです。日本でも、フィラデルフィア版と時を同じくして英文版が出版されました。この版はほとんど残っていない模様ですが、国会図書館に2,3冊所蔵されているそうです。
その後、日本語訳されたものがいくつか出版されましたが、一番有名な版は、昭和13年(1938年)に岩波文庫版として刊行された矢内原忠雄訳の「武士道」とのことです。新渡戸自身が日本語で著した版は存在しないようです。元々、諸外国に日本独自の道徳概念を紹介することが目的であったようなので、日本語では著さなかったのかもしれません。そういう目的であったため、本文中には外国の歴史上の人物・故事を例に出して説明したり、キリスト教と比較するなど、日本人にはわかりにくい例えが目立つのも事実です。
1.武士道とは何か
「武士道」を一言で表現するならば、「騎士道の規律」であり、「高貴な身分に付随する義務」と言える。武士が守るべきものであり、道徳の作法である。「武士道」は成文化された法律ではない。その多くは、有名な武士の手による格言で示されていたり、長い歴史を経て口伝で伝えられてきた。それだけに、「武士道」は実際の武士の行動に大きな拘束力を持ち、人々の心に深く大きく刻まれ、やがて一つの「道徳」を作り出していった。ある有能な武士が一人で考え出したものではなく、ある卓抜した武士の生涯を投影したものでもない。長い時を経て、武士達が作り出してきた産物なのである。
武士道がいつ確立されたのか、時と場所を明確に指定することはできないが、武士道が自覚されたのは封建制の時代であった。つまり、封建制の始まりと武士道の始まりは一致すると考えられる。日本で封建制が確立されたのは、源頼朝が武家政権を開いた時期であるが、封建的な社会的要素はそれ以前から存在していた。よって、武士道の要素も同様に、それ以前から存在していたと考えられる。武士道の源流を生み出した階級「侍」は、戦闘によってその特権的な地位を得た。長い戦いの歴史の中で、弱い者は淘汰され、強い者が生き残った。彼らが地位と名誉を獲得し、それに伴う義務を帯びるようになると、彼らに共通した行動規律が必要になってきた。その原点は、戦闘における「フェア・プレイ」である。子供じみた幼稚な考えであると、大人は笑うかもしれないが、これこそ壮大な倫理体系の「かなめの石」であろう。
戦闘は野蛮で残虐な行為を含んでいるが、「臆病者」「卑怯者」という言葉は、少年のように健全で単純な性質の人間にとっては、この上ない侮辱であった。少年達はこの観念をよりどころとして、人生を歩み始めるのである。武士道も同様であった。しかし、時代が変化するに従って彼らの行動は、より高次の権威と、より道理にかなった判断に基づいたものを求められるようになった。そのため、武士道の源流は戦闘のみならず、いくつかの拠り所を持っていたのである。
2.武士道の源
武士道の拠り所の一つは仏教である。仏教は、運命に対する信頼、不可避なものへの静かな服従、禁欲的な平静さ、生への侮蔑と死に対する親近感を与えた。
もう一つは神道である。神道は、主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心などをもたらした。
道徳的な教義に関しては、儒教が豊かな源泉となった。孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとってふさわしいものであり、不可欠なものであった。
次いで、孟子の思想も大きな影響を及ぼした。その人民主権的な理論は、思いやりのある武士たちに特に好まれた。孟子の理論は既存の社会秩序の破壊を招くものであるとして、その書物は長い間禁書とされてきたが、この言葉と思想は武士の心の中に永遠に住みつくようになった。
「論語読みの論語知らず」という言葉がある。孔子の言葉を振り回すだけの人を嘲っているものである。武士道では、知性とは道徳的感情に従うものであると考えられていた。つまり、知識とは、人生における知識適用行為と同一のものなのである。知識とは、本来は知恵を得るための手段なのである。どんなに豊富な知識を持っていようとも、それが彼の行動に結びつかなければ、何の意味もないものであった。この思想は、中国の思想家・王陽明が何度も説いた「知行合一」の精神に詳しく解説されている。
このように、武士道の源泉となったものはいくつか存在するが、武士道が吸収したものはわりと少なく、単純なものであった。武士の先祖達は、健全ではあっても洗練されているとは言いがたい気質の持ち主であったが、彼らは上記の思想や断片的な教訓を糧として彼らの精神に取り込み、それぞれの時代に要請された刺激に応じて、独得の「男らしさ」の型を作りあげていったのである。
3.義
「義」とは、サムライの中でも最も厳しい規律である。裏取引や不正行為は、武士道が最も忌み嫌うものである。幕末の尊攘派の武士・真木和泉守(まき いずみのかみ:筑後久留米水天宮の祠官であったが、尊王攘夷論の影響を受け、脱藩して尊攘活動の指導者となる。蛤御門の変に敗れて自刃)は、義について以下のように語っている。
「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば、人の体に骨ある如し。(中略)されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり。」
また、孟子は「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」と言った。つまり「義」とは、人が歩むべき正しい、真っ直ぐな、狭い道なのである。封建制の末期、長く続いた泰平の世が武士に余暇をもたらし、悪辣な陰謀とまっかな嘘がまかり通っていた時代に、主君の仇を報じた47人の侍がいた。私たちが受けた大衆教育では、彼らは義士であり、その素直で正直で男らしい徳行は最も光輝く宝の珠であった。
しかし、「義」はしばしば歪曲されて大衆に受け入れられた。それは「義理」という。「義理」とは「正義の道理」なのであるが、それは人間社会が作り上げた産物といえるだろう。人間が作り上げた慣習の前に、自然な情愛が引っ込まなければならない社会で生まれるものが、義理だと思うのである。この人為性のために、「義理」は時代と共にあれこれと物事を説明し、ある行為を是認するために用いられた。人間の自然な感情に反する行為でも、それを社会が求めているのならば、その行為を正当化する道具として「義理」があらゆる場所で用いられたのである。もし「武士道」が、鋭敏で正当な勇気と、果敢と忍耐の感性を持っていなかったとすれば、「義理」は臆病の温床に成り下がっていただろう。
4.勇
孔子は論語の中で「義を見てせざるは勇なきなり」と言っている。肯定的に言い換えると「勇気とは正しいことをすることである」となる。つまり、「勇」は「義」によって発動されるものである。水戸光圀(黄門)は、こう述べている。
「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を退いて忠節に成る事もあり。其場所にて討死して忠節に成る事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり。」
つまり、あらゆる危険を冒して死地に飛び込むだけでは「匹夫の勇」であり、武士に求められる「大義の勇」とは別物なのである。
勇とは、心の穏やかな平静さによって表現される。勇猛果敢な行為が動的表現であるとすれば、落ち着きが静的表現となる。真に勇気のある人は、常に落ち着いており、何事によっても心の平静さを失うことはない。危険や死を目前にしても平静さを保つ人、詩を吟じる人は尊敬される。その心の広さ(余裕という)が、その人の器の大きさなのである。優れた武将として名高い太田道灌(おおた どうかん:室町時代の関東の武将。主家である扇ヶ谷上杉家を支えて武威を奮った。)は、讒言によって暗殺された時も、槍を突き刺した刺客が投げかけた上の句を受けて、息も絶え絶えの状態で下の句を続けたという挿話がよく知られている。
同様の例は他にもある。戦国時代、武田信玄と上杉謙信という二人の戦国大名が激しく争っていた。ある時、他国が信玄の領地に塩が入らないように経済封鎖を行い、信玄が窮地に陥った。この信玄を救ったのが、宿敵であるはずの謙信であった。彼は「貴殿と争うのは弓矢であって、米塩ではない。今後は我が国から塩を取り給え。」と手紙を寄せ、自国で取れた塩を商人の手によって、信玄の領地にもたらしたのである。
「勇」がこの段階まで高まると、価値ある人物のみを平時に友とし、そのような人物を戦時の敵として求めるのである。「勇」には、相手と競い合うようスポーツのような要素を含んでいる。そのため、合戦とは単なる凄惨な殺し合いではなく、命を懸けた競争のような要素を含んでおり、戦の最中に歌合戦を始めたり、当意即妙な応対を讃えるなど、凡人には理解しがたい知的な勝負でもあった。
5.仁
「仁」とは、思いやりの心、憐憫の心である。それは「愛」「寛容」「同情」という言葉でも置き換えられるものである。「仁」は人間の徳の中でも至高のものである。孟子は「不仁にして国を得る者は之有り。不仁にして天下を得る者は未だ之有らざるなり」と言い、「仁」が王者の徳として必要不可欠なものであることを説いた。
「仁」は優しい母のような徳である。だから、人は情に流されやすい。しかし、侍にとって「仁」があり過ぎることは歓迎できないことだった。伊達政宗は「義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる」と言い、慈愛の感情に流されすぎることを戒めている。「武士の情け」とは、盲目的な衝動ではなく、ある心の状態を表現しているものでもない。生殺与奪の力を背景に持ち、正義に対する適切な配慮を含んでいるものであった。一の谷の戦いで、熊谷直実が自分の子と同年代の若き武者平敦盛を泣く泣く斬る場面は、その代表例である。歴史家は、この話は作り話めいていると言うが、か弱いもの、敗れた者への仁は侍にふさわしいものとして奨励され、血なまぐさい武勇伝を彩る特質であった。
武士には詩歌音曲をたしなむことが奨励された。合戦におもむく武士が歌を詠んだり、討死した武者の鎧や衣服から辞世の歌を記した書付が見つかることは珍しいことではない。日本では、音楽や書に対する親しみが、「仁」の心、すなわち他人に対する思いやりの気持ちを育てた。
6.礼
「礼」とは
長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利益を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない
ということである。「礼」には、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現することが求められた。それは、社会的な地位を当然のこととして尊重することを含んでいる。言い換えれば、「礼」は社交上必要不可欠なものとして考えられていた。品性の良さを失いたくない、という思いから発せられたならば、それは貧弱な徳であると言えるだろう。ただし、「礼」も度が過ぎることは歓迎されないことであった。伊達政宗は「度を越えた礼は、もはやまやかしである。」と言い、仰々しいだけで心のこもっていない「礼」を軽視した。「礼」は細分化され、挨拶や座り方なども細かく決められており、特殊な場合は礼の専門家によって指導されることもあった。西洋人の一部は、これらの決められた行儀作法を、自由な発想を奪うもの、として批判している。確かにそのような面があることは私も認めざるを得ない。しかし、「礼」を厳しく遵守する背景には道徳的な訓練が存在しているのである。
代表的な例は茶道である。茶道は喫茶の行儀作法以上のものである。それは芸術であり、詩であり、リズムを作っている理路整然とした動作である。そして、精神修養の実践方式なのである。礼とは動作に優雅さを添えるものであるが、礼に乗っ取った動作は礼儀のほんの一部分に過ぎない。かつて孔子は「音が音楽の一要素であるのと同様に、見せかけ上の作法は、本当の礼儀作法の一部に過ぎない。」と言った。動作も重要なものであるが、それだけでは「礼」ではない。「礼」に必要な条件とは、泣いている人と共に泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。「礼」とは慈愛と謙遜から生じ、他人に対する優しい気持ちによってものごとを行われるので、いつも優美な感受性として表れる。その感受性は、日常生活の些細な動作の中に顔を出すのである。
7.誠
「誠」とは「言」と「成」という表意文字の組み合わせである。武士にとって、嘘をつくことやごまかしなどは、臆病なものと蔑視されるべきものであった。商人や農民よりも社会的身分が高い武士には、より高い水準の「誠」が求められていると考えていた。「武士に二言はない」という有名な言葉があるが、ドイツでも同様の意味の言葉がある。「Ritterwort(リッターヴォルト):騎士の言葉」(Ritterとは騎士。wortは言葉)である。この言葉には、嘘偽りがない言葉、という意味も持っている。断言した武士の言葉は、真実であるということを十分に保障するものであった。「二言」のために、壮絶な最期を遂げた武士の話は、いくつも存在している。
そのため、武士同士の約束はたいてい証文などはとらなかった。言葉に嘘がない以上、改めて証文をとる必要がないからである。むしろ、証文を書かされることは武士の体面に関わることである、と考えられた。「誓うことなかれ」というキリストの教えを、多くのキリスト教徒日常茶飯事に破り続ける一方で、真のサムライは「誠」に対して並々ならない敬意を払っていたのである。
しかし、武士が「誓いを立てる」という行為を一切行わなかったわけではない。八百万の神々に誓いを立てることもあれば、誓いを補強するために血判を押すこともあった。ただし、彼らの誓いは決してふざけた形式、大げさな祈りなどには堕落しなかった。
キリスト教世界と異なるところはもう一点ある。武士にとって嘘をつくことは、罪悪というよりも「弱さ」の表れであると考えられたことである。そして、「弱い」ということは武士にとってたいへん不名誉なことであった。言い換えるなら、「誠」がない武士は不名誉な武士であり、「誠」がある武士こそが名誉ある武士、と言えるのである。
8.名誉
「名誉」は、幼児の頃から教え込まれるであり、侍の特色の一つである。武士の子供は「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」という言葉で、その振る舞いを矯正されてきた。「名誉」という言葉自体はあまり使われなかったが、その意味は「名」「面目」「外聞」などの言葉で表現されてきた。新井白石は
「不名誉は樹の切り傷の如く、時はこれを消さず、かえってそれを大ならしむるのみ」
と言った。名誉は、誠と同様に、武士階級の特権を支える精神的な支柱の一つであった。
しかし、武士の名誉の名の下に、些細な事件や侮辱されたという妄想から、悲惨な刃傷事件が発生することも多かった。その多くは、武士という階級に重きを置くための創作であったが、武士の「名誉」に端を発する事件は数多く起きていた。そうなると、名誉はかえって武士を残忍にさせるものに成りかねなかったが、それは「寛容」と「忍耐」で補足されていった。些細なことで腹を立てたりすることは「短気」という言葉で嘲笑される素となったのである。寛容、忍耐の境地に達した人は稀であるが、その一人の西郷隆盛は
「道は天地自然の物にして、人はこれを行なふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
と、教訓を残している。
9.忠義
忠義の観念は、個人主義思想の西洋と武士道が育った日本では幾分異なっている。西洋の場合、父と子、夫と妻という家族関係の間柄にも、それぞれ個別の利害関係があることを認めていた。この思想の下では、人が他に対して負っている義務は著しく軽減されている。個々に権利が認められると同時に、責任が負わされるためである。武士道の場合、一族の利害と一族を形成する個々の利害は一体のものであった。この、侍の一族による忠義が、武士の忠誠心に最も重みを帯びさせているのである。ある個人に対する忠誠心は、侍に限ったものではなく、あらゆる種類の人々に存在するものである。武士道では、個人よりもまず国が存在する。つまり、個人は国を担う構成成分として生まれてくる、と考えているのである。同様の考え方は、古代ギリシャの高名な哲学者・アリストテレスや現代の社会学者の一部にも見られるものである。換言すれば、個人は国家のために生き、そして死なねばならないのである。同じく、古代ギリシャにおいて先駆の哲学者であったソクラテスは、国家あるいは法律に次のように言わしめた。
「汝は我(国家・法律)が下に生まれ、養われ、かつ教育されたのであるのに、汝と汝の祖先も我々の子および召使でない、ということを汝はあえて言うか」
武士道が抱えていた思想は、西洋においてもそれほど突飛な思想とは言えない。ただ、武士道の場合、国家や法律に相当するものは主君という人間の人格であった。
グリフィスは「中国では、儒教の倫理は父母への従順を人間の第一の責務としたが、日本では忠義が優先された」と言ったが、正しい表現であろう。「忠」と「孝」の板ばさみに合った時、多くの侍は「忠」を選んだ。また、侍の妻女たちは、忠義のためには自分の息子を諦める覚悟ができていたのである。また、そのような逸話は数多く日本に存在しているのである。
真の忠義とは何であろうか?武士道は主君のために生き、そして死なねばならない。しかし、主君の気まぐれや突発的な思いつきなどの犠牲になることについては、武士道は厳しい評価を下した。無節操に主君に媚を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣」と評された。また、奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣」と評された。家臣がとるべき忠節とは、主君が進むべき正しい道を説き聞かせることにある。
10.武士とお金
武士の教育にあたって、まず第一に重要とされたことは、その子の品性を高めることであった。武士の教育科目には、剣術、弓術、柔術(やわら)、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、儒学、歴史などで構成されていたが、これらを学ぶことによって身についた知識などは第二義的なものとして考えられていた。本来、侍とは行動の人である。学問は、侍がその職業上必要な範囲に限って利用された。それ以上の学問は、侍ではなく学者の仕事であった。特に儒学は、その子の品性を高めるための実践的な補助手段として利用されたものであり、決して儒学者を養成するためではない。
宗教や神学においても、それを究めるのは僧侶や神官の仕事であり、侍は勇気を鼓舞するためにこれらを利用した。ある英国の詩人は「人間を救うのは教義ではない。教義を正当化するものは人間である」と言ったが、多くの武士はこれに賛同するであろう。
武士の教育科目の中で、軍事上必要不可欠であると考えているものが欠けている。それは「算術」であった。出陣、合戦、恩賞、知行など、侍の生活の中にも数の知識は必要なものであったのにも関わらずである。その理由は、封建時代の戦闘には、必ずしも科学的な正確さは必要ではなかった、ということもあるが、最たる理由は、武士の教育上、数の概念を育てることは甚だ都合が悪いことであったから、である。
武士道では、損得勘定で物事を考えない。金銭そのものさえ忌み嫌い、むしろ足りないことを誇りに感じていた。お金を貯めることもせず、理財に長けることなどは嫌うべきものであった。そのような手段は不正利得と考えられていた。もちろん、武士の生活にも組織にも金銭は必要なものであった。そのため、金銭計算などは身分の低い武士の仕事とされた。江戸時代の多くの藩でも、藩財政は小身の武士か僧侶に任されていた。有能な武士は、金銭の重要性を認めてはいたが、金銭の価値を「徳」の境地にまで引き上げることはなかったのである。江戸時代の藩では、こぞって質素倹約が奨励されたが、それは理財のためではなく、節制の訓練のためである。豪奢な生活は、人格の形成に大きな影響を及ぼす最大の脅威であると考えられていた。そのため、武士には厳格で質素な生活が要求されたのである。
現代では、頭脳訓練は主に数学の勉強で行っているが、当時は文学の解釈や道義的な議論がその役割を担っていた。しかし、上記の通り、教育の目的はあくまで品性を高めることにあったため、教師という職業はできた人格を求められ、ある意味では聖職者的な色を帯びてきた。そのため、教師は武士の見本として尊敬されてきたのである。武士の本性は、算術では計算できない名誉を重んじることに特質がある。品性を育むという精神的な価値に関わる仕事の報酬は、金銭で酬いられるべきことではなかった。無価値だからではない。尊すぎて、価値がはかれないからである。武士は、無償・無報酬の仕事を実践していたのであった。ただし、弟子たちが師匠にある程度の金銭や品物を持参するという慣習は認められていた。清貧な教師たちは貧乏であったので、この贈り物を喜んで受け取った。彼らは自ら働くには威厳があり過ぎ、物乞いをするには自尊心が高すぎた。貧しい生活にも高貴な精神で耐え抜く彼らの姿は、鍛錬を重ねる自制心を持った生きた手本であり、その自制心は侍に必要とされたものであった。
11.武士の感情
武士にとって、自分の感情を顔に表すことは、男らしくないことだと考えられた。武士が鍛錬してきた勇気、礼の教えは、自分の苦しみ・辛さを表情に出すことによって、他人の平穏をかき乱すことがないように、という他人への配慮のためであった。感情を表情に出さないことは「喜怒を色に表さず」という言葉で賞賛の対象となったのである。
ある青年が「アメリカ人の夫は人前で妻に口づけをし、私室で打つ。日本人の夫は人前で妻を打ち、私室では口づけをする」と言ったが、この言葉には真実が含まれているだろう。
12.切腹
切腹は、武士階級のみに通じる一つの法制度であり、死の儀式であった。それは、自分の罪を償って過去を謝罪するためであったり、友や一族を救うためであったり、武士が忌み嫌う不名誉の烙印を押されることから免れるためであったり、自分の誠実さを証明するためであったりと、目的は様々であった。なぜ「腹」を切るのかというと、古い解剖学では、霊魂と愛情は腹に宿ると考えられていたためである。その考えは日本に限らったものではない。古代ギリシャでも同様であり、現代フランス語でも「entraile(腹部)」という言葉が、「思いやり」「愛情」という意味でも使われているのである。
切腹は武士にとって、栄光ある死であった。そのため、「名誉」を得ることが計算されたうえで、多くの若い侍が死を急ぐように切腹して果てた事実は否めない。しかし、真の侍は、いたずらに死に急ぐことは卑怯なことと同じだと考えていた。戦国時代の中国地方に山中鹿之助幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)という武将がいた。彼の主家は戦に敗れて滅んだが、彼は主家の再興を志してたいへんな苦境を戦い抜いてきた。その彼は、下記の歌を詠んだという。
憂き事の なほこの上に 積れかし 限りある身の 力ためさん
ありとあらゆる困難と苦境に、忍耐と高潔な心を以って立ち向かうことを武士道は教えている。そうすることで初めて真の名誉を得ることができるのである。真の名誉は、天から自分に与えられた使命をまっとうすることである。そのために死すことは不名誉なことではないが、天が与えようとするものから逃げようとすることは卑怯なことであった。17世紀、ある高名な僧侶は以下のように言っている。
「平生何程口巧者に言うとも、死にたることのなき侍は、まさかの時に逃げ隠れするものなり」
「一たび心の中にて死したる者には、真田の槍も為朝の矢も透らず」
次に、切腹の姉妹関係といってもいい制度「仇討ち」について考えてみよう。「仇討ち」は「復讐」と言い換えることができる。現代のように刑事裁判所がない時代においては、殺人は罪ではなかった。殺人を防ぎ、社会秩序を保っていたのは、被害者の縁者による復讐だけであっただろう。日本の場合、「親の仇」と「主君の仇」が、仇討ちの中でも最も上位に位置していた。
復讐には、復讐者の正義感を満足させる「もの」がある。それは、死すべき理由のない者の命を奪った行為を悪とみなし、被害者の血肉を受け継いだ一族が殺人者に制裁を加えるという、自分の行為を正当化できるわりと単純な論理が動機となるからである。そういう意味では、この動機は人間の中に存在する普通の感覚、言うなれば人間の常識といえるだろう。この人間の常識が、武士道に仇討ちという制度を作らせたのである。普通の「定め」に従っていては裁きができないような事件でも、「仇討ち」という手段に訴えることができた。
「忠臣蔵」の物語で知られる、江戸時代中期の47名の赤穂浪士の仇討ちの話は、現代の日本でも多くの人々の感動を呼んでいる。47士の主君・浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)が切腹を申し付けられた時、控訴できる上級法廷は存在せず、十分な取調べを受けることもできずに、その命を散らした。そのため、忠義あふれる彼の家臣たちは、唯一の最高法廷とでも言うべき「仇討ち」に訴え出ることしか道は残されていなかった。仇討ちを果たした後、47士は一般の定めによって有罪とされ、切腹を命じられた。(管理人注:実際に切腹を命じられたのは46名。詳細はこちら)しかし、一般大衆は彼らに対して別の判断を下した。彼らが重んじた武士の名誉、主君への忠義の心は、民衆をして彼らに「義士」の称号を与えたのである。
13.武士の魂「刀」
「刀は武士の魂である」という言葉はあまりにも有名である。刀は、武士道の力と武勇の象徴として扱われた。刀を作るのは刀匠と呼ばれる鍛冶屋であるが、刀匠は単なる鍛冶屋ではない。彼らは、仕事を始める前に必ず神に祈りを捧げ、身を清めていた。その作業場は神聖な領域といっても過言ではないだろう。彼らが刀を鍛える作業は、ただの物理的な行為に留まらなかったのである。そのように作られた刀は、持ち主に深く愛され、さらには尊崇の対象にも成り得た。そのため、刀に対する侮辱は持ち主に対する侮辱とみなされ、他人の刀を跨いだりすることは、持ち主に対する大きな侮辱にもなったのである。
このように、武器以上の意味を持った刀に対して、武士道は適切に扱うことを強調している。不当な使用を激しく非難し、やたらと刀を振り回して威を見せる者は、卑怯者、虚勢をはる者として蔑まれた。心が洗練されている武士は、自分の刀を使うべき時をしっかりと心得ていた。また、その時はめったに訪れない稀な場合であることを知っていた。幕末の混乱期に活躍した傑物に勝海舟(かつ かいしゅう)という人物がいた。彼は身分の低い武士であったがその実力を認められ、幕府の要職を歴任した。そのため、多くの暗殺者に命を狙われたが、後に彼はこの頃の様子を回顧録にこう記している。
「私は一人も斬ったことがない。腕の立つ河上彦斎は何人も斬ってきたが、最後は人に斬られて殺された。私が殺されなかったのは、一人の刺客も殺さなかったからだ。」
「負けるが勝ち」「血を流さない勝利こそ最善の勝利」という格言がいくつかある。幾人もの人を斬り続ける道は、真の勝利にはたどり着かないことを意味している。つまり、武士道が求めた究極の理想とは「平和」だったのである。しかし残念なことに、武士は武芸に励むことばかりが優先され、究極の理想について追求することはほとんどなかった。そういう仕事は、僧や道徳家が担っていた。
14.武士道が求めた女性の理想像
武士道は男性のために作られたものである。その武士道が求めた女性の理想像は、家庭的であると同時に、男性よりも勇敢で決して負けないという、英雄的なものであった。そのため武家の若い娘は、感情を抑制し、神経を鍛え、薙刀を操って自分を守るために武芸の鍛錬を積んだ。この鍛錬の目的は戦場で戦うためではなく、個人の防衛と家の防衛のためであった。武家の少女達は成年に達すると「懐剣」と呼ばれる短刀を与えられた。その短刀は、彼女達を襲う者に突き刺さるか、あるいは彼女達自身の胸に突き刺さるものであった。多くの場合、懐剣は後者のために用いられた。女性といえども、自害の方法を知らないことは恥とされていたのである。さらに、死の苦しみがどんなに耐え難く苦しいものであっても、亡骸に乱れを見せないために両膝を帯紐でしっかりと結ぶことを知らなければならなかった。
武家の女性には、家を治めることが求められた。彼女達には、音曲・歌舞・読書・文学などの教育が施されたのも、その目的は、普段の生活に彩と優雅さを添えるためであった。父や夫が家庭で憂さを晴らすことができればそれで十分だった。娘としては父のため、妻としては夫のため、母としては息子のために尽くすことが女性の役割であった。男性が忠義を心に、主君と国のために身を捨てることと同様に、女性は夫、家、家族のために自らを犠牲にすることが、たいへん名誉なことであるとされた。自己否定があってこそ、夫を引き立てる「内助の功」が認められたのである。ただし、武士階級の女性の地位が低かったわけではない。女性が男性の奴隷でなかったことは、男性が封建君主の奴隷ではなかったことと同様である。対等に扱われなかったのは事実であるが、それは男女の間に差異が存在するためであり、不平等ではなかった。例えば戦場など、社会的、政治的な存在としては、女性はまったく重んじられることはなかったが、妻として、母としての家庭での存在は完全であった。父や夫が出陣して家を留守にしがちな時は、家の中のことはすべて女性がやりくりしていた。子女の教育もその仕事の一つである。時には、家の防備を取り仕切ることもあった。
日本の結婚観は、キリスト教の結婚観よりもはるかに進んでいると思われる。アングロ・サクソン系の個人主義のもとでは、夫と妻は別の二人の人間である、という考え方から抜けることができない。そのため、二人がいがみ合う時は、それぞれに「権利」が認められることになる。日本の場合、夫と妻は独りでは「半身」の状態であり、夫妻がそろうことで一個の形になると考えている。言わば、お互いがお互いの一部になっているようなものである。社交上、夫が自分の妻を「愚妻」と表現することがあるのは、妻に対して蔑みの言葉を投げているのではなく、自分の半身を謙遜しているからなのである。
このような武士道独特の徳目は、武士階級だけに限られたものではなかった。時と共に、それ以外の階級の日本人たちも武士道に感化されていき、日本の国民性というものが形成されていったのである。
15.大和魂
武士は一般庶民を超えた高い階級に置かれていた。かつてどの国でもそうであったように、日本にも厳然とした身分社会が存在していた。その中で、武士は最上位に位置づけられていたのである。江戸時代、日本人の総人口における武士階級の割合は決して多くはなかったが、武士道が生み出した道徳は、その他の階級に属する人間にも大きな影響を与えたのである。農村であれ都会であれ、子供たちは源義経とその忠実な部下である武蔵坊弁慶の物語に傾聴し、勇敢な曾我兄弟の物語に感動し、戦国時代を駆け抜けた織田信長や豊臣秀吉の話に熱中した。幼い女の子であっても、桃太郎の鬼が島征伐のおとぎ話などは夢中で聞いていた。このように、大衆向けの娯楽や教育に登場した題材の多くは武士の物語であったのである。武士は自ら道徳の規範を定め、自らそれを守って模範を示すことで民衆を導いていったのである。「花は桜木、人は武士」という言葉が産まれ、侍は日本民族全体の「美しい理想」となった。「大和魂」は、武士道がもたらしたもの、そのものであった。
日本民族固有の美的感覚に訴えるものの代表に「桜」がある。桜は、古来から日本人が好んで来た花であった。桜を愛でる心は、西洋人がバラの花を愛でる心と通い合えるところはほとんどない。まず、バラには桜が持つ純真さが欠けている。さらに、甘美さの裏にトゲを隠している。桜はその裏にトゲを隠し持っているようなことはない。そして、バラは散ることなく茎についたまま枯れ果てる。それはあたかも生に執着し、死を恐れるかのようである。しかし、桜の花は散る。自然のおもむくままに、散る準備ができている。その淡い色合は華美とは言えないが、そのほのかな香りには飽きることがない。このように美しく、はかなげで、風で散ってしまう桜が育った土地で、武士道が育まれたのもごく自然なことであろう。
16.最後に 武士道は甦るか
上記のように、武士道は「武士」と呼ばれた階級に属した人々により形成され、その心は日本人全体に受け継がれていった。しかし、明治維新によって「武士」階級は姿を消し、武士道が育まれた土壌は消え去ってしまった。では、武士道はこのまま消えてしまうのか?答えは「否」である。欧米諸国から「小さなジャップ」と侮られた日本人は、この数十年間で様変わりした。「小さなジャップ」が弱くか細い存在でないことは、先の日清戦争の勝利で証明されている。日清戦争の勝利は、近代軍備の力とか近代教育の効果とか言われているが、それらは事実の半分にも到達していない。武器だけで戦争に勝てるだろうか。学問だけで勝てるだろうか。何より大切なものは、民族の精神であろう。維新を進め、新たな近代国家「日本」を作り上げた原動力となった人々は、紛れもない「侍」たちであった。
武士道は、一個の独立した道徳として復活することはないかもしれない。はっきりとした教義を持たないからである。しかし、武士道が残してきた徳目の数々は、決して消え去ることはないだろう。西洋諸国の文化の中にも、武士道と同じ徳目が息づいているからだ。
時代が流れ、武士道は城郭・武具と共に崩壊した。既に、その役目を終えたかのようでもある。しかし、不死鳥は自らの灰からのみ甦ることができるのだ。武士道の栄誉は再び息を吹き返し、散った桜の花のように風に運ばれ、その香りは人々を祝福し続けるだろう。  
 
卜伝の生きた戦国時代

 

1489年
常陸鹿島神宮の神官で鹿島城3万石の大掾景幹の家老を勤める卜部(吉川)覚賢の次男に朝孝(塚原卜伝)が出生、双児の兄常賢が跡継ぎとなり朝孝は塚原城主塚原安幹(所領は3〜4千石)の養嗣子(娘の許婚)に出される

将軍足利義尚が六角高頼征伐に乗り込んだ近江で陣没、翌年足利義視の子足利義材(義稙)が10代室町将軍に就任、高頼は赦免され近江守護に復帰するが六角氏と足利幕府の争乱は続く
六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。 

 

1491年
[延徳の乱]将軍足利義材(義稙)が再び南近江の六角高頼討伐を号令し周防山口の大内政弘・義興父子らが参陣、旧主斯波義寛の差配に不服の朝倉宗滴は参軍を拒否するが朝倉氏の武力を恐れる室町幕府は処分に踏み込めず
1493年
堀越公方足利政知が死去(虐待した嫡子茶々丸に妻子とともに殺害されたとの説あり)、扇谷・山内上杉家の上野合戦で守衛が手薄となった堀越御所を今川家被官北条早雲が急襲し政知の後継者足利茶々丸を追放、善政を敷き伊豆全域を平定(東国戦国時代・下克上の起り)
北条早雲(伊勢新九郎長氏・伊勢盛時)は、衰亡する室町将軍を見限り40歳過ぎで関東に下向、甥今川氏親の駿河守護擁立で今川家の重臣となり、関東公方足利家・関東管領上杉家の内紛に乗じて伊豆・相模二国と小田原を奪取、関東の覇者後北条氏の礎を築いた戦国下克上の先駆者である。続く北条氏綱・氏康が関東全域を切り従えたが、北条氏政・氏直が豊臣秀吉の小田原征伐に屈し後北条氏は5代で滅亡した。北条早雲は、室町将軍家の重臣伊勢氏の出自で将軍足利義政や義視・義尚に近侍したとされるが、前半生に目立つ事跡はない。40歳を過ぎた頃、妹北川殿が嫁いだ駿河守護今川義忠が戦死し家督争いが発生、調停に乗り込んだ早雲は扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退け甥龍王丸(今川氏親)の擁立に成功、戦功により興国寺城を与えられ60歳にして一国一城の主となり、後嗣無く死去した伊豆韮山城主の養子に入って鎌倉幕府執権北条氏の名跡を継いだ。1491年、室町将軍家・両上杉家と古河公方の和解で宙に浮いた堀越公方の足利政知が亡くなると、北条早雲は戦乱で守衛が手薄となった堀越御所を急襲し後継者足利茶々丸を追放し、寛容な帰服受入れと減税で土豪と領民を靡かせて伊豆支配を確立、東国戦国時代の端緒といわれる快挙を成遂げた。1494年、明応の政変で兄茶々丸を憎悪する足利義澄が将軍に就任すると、北条早雲は三浦氏の内紛に乗じて新井城に籠る茶々丸を攻め滅ぼし、翌年には東方に鞍を返して扇谷上杉方の大森藤頼を騙し討ちして小田原城を奪取、関東制覇の拠点を打ち立てた。その後の北条早雲は、今川家・扇谷上杉家の被官として各地に転戦しつつ、伊豆・相模の戦国大名として独立を果し領国経営に勤しんだ。機略縦横で連戦連勝だったが、今川軍の総大将を務めた三河攻めでは徳川家康の曽祖父松平長親に唯一といえる黒星を喫している。茶々丸征伐の盟友で相模三浦氏の旧領を継いだ三浦義同を族滅して後顧の憂いを絶ち、優秀な嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城で88歳の大往生を遂げた。早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれた。
1494年
[明応の政変]管領細川政元が足利義材(義稙)を追放し足利義澄を11代室町将軍に擁立、義稙は越前朝倉軍に捕えられ幽閉されるが、脱出して越中に逃れ将軍在任を宣言し上洛軍を挙兵(越中公方)、義稙についた朝倉氏が一向一揆などの反抗勢力を掃討
足利氏は清和源氏の一流で、八幡太郎義家の四男義国の次男義康を家祖とし本貫の下野足利荘から名字を採った。源頼朝は義家の嫡子悪源太義親、新田氏は義国の長男義重の裔である。頼朝の鎌倉将軍家は3代で滅びたが、足利氏は執権北条氏と密接な血縁を結んで源氏筆頭の家勢を保ち、元寇以来不満を募らせる武士団に押された足利尊氏が建武の新政を成功に導き、武士社会の現実を無視した後醍醐天皇を追放して室町幕府を開いた。尊氏が気前良く大封を配ったため支配基盤は脆弱で、南北朝合一を果し相国寺から天皇位を狙った3代将軍足利義満をピークに将軍権力は弱体化、復権を図った6代足利義教は赤松満祐に弑殺され(嘉吉の乱)、無気力な8代足利義政は悪妻日野富子の尻に敷かれ後継争いから応仁の大乱が勃発、9代足利義尚は古河公方足利成氏や南近江守護六角高頼の反逆を掣肘できず、群雄割拠する戦国時代に突入した。「半将軍」と称された管領細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立するが(明応の政変)養子3人の家督争いで暗殺され(永正の錯乱)、周防の大内義興が挙兵上洛し将軍義澄と細川澄元・三好之長の阿波勢を追放して義稙を将軍に復位させた。義興は船岡山合戦に勝利したが領国を尼子経久に侵され帰国、細川高国は六角定頼と同盟して三好之長を討ち寝返った将軍義稙を追放して足利義晴を12代将軍に擁立し(等持院の戦い)播磨の浦上村宗を誘って阿波勢を迎撃するが逆に討取られた(大物崩れ)。細川晴元は反逆した将軍義晴を追放し(嫡子足利義輝が近江で13代将軍を承継)一向一揆を扇動して権臣の三好元長を滅ぼすが、嫡子の三好長慶が報復を果し三好政権を樹立した。隠忍帰順した将軍義輝は諸侯に通じて三好政権打倒を図るが三好三人衆・松永久秀に襲われ斬死(永禄の変)、14代将軍足利義栄は入京叶わず病没し、尾張・美濃を征した織田信長が流浪の足利義昭を15代将軍に奉じ「天下布武」に乗出した。将軍義昭は信長を裏切って包囲網に加担するが武田信玄の急逝で夢破れ室町幕府は235年の幕を閉じた。足利将軍家は断絶したが、鎌倉公方系の足利国朝が下野喜連川藩を立藩し幕末まで存続した。
1495年
周防・長門・豊前・筑前の守護で安芸・石見も支配圏に収め日明貿易・朝鮮貿易で巨富を積んだ大内政弘が分国法『大内家壁書』を遺して死去、嫡子大内義興が家督相続
大内氏は、6世紀に渡来した朝鮮王族(百済聖明王の子琳聖太子とも任那爾利久牟王とも)の末裔で、上陸地の周防多々良浜に因んで多々良姓を称し、住地の周防吉敷郡大内村(山口近郊)から名字を採り、平安末期には周防の支配者となった。9代目の大内弘世は南朝から足利尊氏・北朝に帰順して防府・周防の守護職を獲得し本拠を山口へ移転、次の大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して南北朝合一に貢献し日明・朝鮮貿易の元締となって富強を飛躍的に増大させ周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国を領する守護大名となった。室町期の大内氏は幕府の干渉で家督争いが頻発し北九州を巡る大友氏・少弐氏との抗争で衰えたが、14代目の大内政弘(妻は山名宗全の養女)は応仁の乱で西軍主力として活躍し周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配圏に収め、大内教幸の反乱を討平し権臣の陶弘護を謀殺して家中を掌握した。政弘の嫡子大内義興は、挙兵上洛して足利義稙を将軍に復位させ管領代・山城守護を兼ねたが、尼子経久に領国を脅かされて山口へ帰還、尼子軍を破って安芸・備後を制圧した後に病没した。義興は冤罪で誅殺した内藤弘矩の娘を娶り、嫡子義隆をもうけた。娘は重臣の吉見隆頼(のち弟の正頼へ再嫁)、細川持隆(阿波守護)、足利義維(堺公方)などに嫁がせ、大友義鑑に嫁いだ娘は宗麟・義長を産んだ。大内義隆は、京都を凌ぐ文化都市に発展した山口で大内氏の全盛期を謳歌したが、重臣(元男色相手)の陶晴賢の謀反で嫡子義尊と共に殺害され戦国大名大内氏はあっけなく滅亡、陶は大内義長を傀儡当主に担ぎ大内家を簒奪したが主従共に毛利元就に滅ぼされた。宗麟の後方撹乱策に利用され毛利氏に討たれた大内輝弘は政弘の次男高弘の子(義興の甥)である。大内政弘・義興・義隆の嫡流は断絶したが、10代義弘の次男大内持盛の子孫が生残り、故地に因んで山口に改姓した重政が名家を惜しむ徳川家康に拾われて常陸国牛久1万5千石の藩主となり幕末まで存続した。
1496年
大友政親と対立した嫡子義右が急逝(毒殺説が濃厚)、同盟者の妹婿を殺された大内義興は政親討伐を宣言、政親は迎撃のため海路立花山城へ向かうが赤間関に漂着し捕えられて自害、義興は大友親実の擁立を図るが大内派を粛清した大友親治(政親の弟で宗麟の祖父)が大友氏を相続
大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。

蓮如が摂津大坂に石山御坊を築き転居(後の石山本願寺、顕如退去後の跡地に豊臣秀吉が大阪城を築く)、以後大坂は寺内町として発展
本願寺蓮如は、家祖親鸞が起した浄土真宗を再興し平易な『御文』と辻説法で強大な一向教団を築いた布教の天才にして27人も子を生した精力家、曾孫顕如の代に摂津・加賀の「戦国大名」へ発展するが織田信長に降伏して武力を放棄、子孫は今日まで東西本願寺の門首を世襲し準皇族の権勢を保持する。親鸞没後150年余、浄土真宗は衰退し一派の本願寺は天台宗青蓮院傘下の荒れ寺に没落していた。親鸞の子孫本願寺7世存如の庶長子に生れた蓮如は、16歳で得度し興福寺大乗院門跡の経覚のもとで修行を積み、1457年32歳のとき存如の死に伴い住持職を継いだ。京畿に土一揆が頻発する物騒な世相のなか、1465年天台宗の総本山比叡山延暦寺は独立姿勢を強める蓮如を仏敵とし拠点の京都東山大谷本願寺を破壊、蓮如は近江を彷徨い浄土真宗高田派の専修寺真慧から絶交されるが(寛正の法難)2年後に延暦寺に帰順し大谷本願寺を再建、和解条件の蓮如の隠居と順如(長男)の廃嫡はうやむやにした。応仁の乱で京都が荒廃するなか蓮如は精力的に教線を延ばし、大津に顕証寺・越前に吉崎御坊を建立、吉崎には北陸から奥羽の門徒が参集し繁華な寺内町を形成した。1474年蓮如は加賀守護富樫成春の後継争いに介入し富樫政親に加担して弟の富樫幸千代を追放するが宗徒が暴徒化して一向一揆へ発展、政親に弾圧された一揆衆は越中瑞泉寺に退避し蓮如は吉崎御坊から逃れ流浪の末に京都山科本願寺に落ち着いた。1481年浄土真宗佛光寺派の跡取り息子経豪が末寺の大半を従えて蓮如に帰順、蓮乗(次男)率いる越中一向一揆は福光城主石黒光義を返討ちにして砺波郡を支配下に収め、勢いを得た蓮如は紀伊へ教線を伸張(鷺森別院へ発展し紀州雑賀衆の根拠地となる)、1488年蓮綱(三男)・蓮誓(四男)・蓮悟(七男)率いる加賀一向一揆は国人衆と共に守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧、以後90年続く「百姓の持ちたる国」を現出させた。蓮如は翌年実如(五男)に法首を譲るが最期まで布教に励み、摂津大坂に石山御坊(後の石山本願寺、顕如退去後の跡地に豊臣秀吉が大阪城を築く)を築いた3年後に85歳で大往生を遂げた。
1497年
周防の大内義興が宿敵少弐政資・高経父子を攻め滅ぼし九州北部は大内氏・大友氏の二強争覇に突入、次男の少弐資元は追手を逃れるが肥前の一勢力に没落
大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。

関東管領上杉氏と敵対し30年に及ぶ享徳の乱を戦い抜いた古河公方足利成氏が鎌倉に戻れぬまま死去、嫡子足利政氏が2代古河公方を襲名
1499年
家祖親鸞が起した浄土真宗を再興し平易な『御文』と辻説法で強大な一向教団を築いた蓮如が死去(享年85)、五男実如が承継した一向教団は孫の顕如の代に摂津・加賀を支配する「戦国大名」へ発展し各地に一向一揆を起して諸大名を苦しめるが織田信長に降伏して武力を放棄、子孫は今日まで東西本願寺の門首を世襲し皇族に準ずる権勢を保持する
親鸞没後浄土真宗は衰亡、事実上の開祖は15世紀後半に登場した布教の天才蓮如である。母は賤民ながら父存如を継いで本願寺第8世となり、平易な『御文』と辻説法で瞬く間に教線を拡大、越前吉崎御坊、山科本願寺、大阪石山別院(石山本願寺)を創建した。蓮如は不戦を説いたが、強大化した一向教団は各地の土豪と結びついて武力蜂起を展開、特に加賀一向一揆は1488年に守護富樫政親を討って加賀一国を制圧し90余年に渡り「百姓の持ちたる国」を堅持した。蓮如は親鸞譲りの精力家で、5人の妻との間に27もの子をもうけた。蓮如の死から55年後に本願寺第11世を継いだのが、相婿の武田信玄や浅井・朝倉・毛利氏と提携し織田信長を最も苦しめた「戦国大名」顕如である。父の証如は、細川晴元・六角定頼と結んだ日蓮宗教団の迫害に遭い、山科本願寺を焼討ちされて大坂に逃れ石山本願寺を新本拠地とした。天文法華の乱で京都から日蓮宗勢力が駆逐されると、細川晴元と和睦して養女(三条公頼の三女如春尼、次女は武田信玄正室)を顕如の妻に迎え、豊富な財力で室町幕府や皇室を支援して関係修復に努め本願寺教団を中央政界に押し出した。顕如は、全国の一向宗ネットワークを総動員して宗教特権を認めない織田信長に抵抗したが、信長包囲網の瓦解により降伏し石山本願寺を退去、日本の宗教勢力は武力を永久に奪われたが、豊臣秀吉に取り入って宗教的には復権を果し、京都堀川六条の現在地に本願寺(西本願寺)を創建した。顕如の死後、長男教如が本願寺法主を継承したが、武闘派のため豊臣秀吉に廃され穏健派の三男准如が法主に据えられた。が、豊臣家から天下を奪った徳川家康は、一向宗復活阻止のため離間策を採り、教如を法主とする新本願寺を創建(東本願寺)、現在まで続く東西本願寺の醜い泥仕合が始まった。聖職者の妻帯禁止は世界的常識だが、親鸞・蓮如・顕如の嫡流大谷家は今日に至るまで代々東西本願寺門首を世襲し、準皇族面で皇室に閨閥を張り巡らし、葬式仏教界の法王として庶民に君臨し続けている。第二次大戦前、壮大な大谷探検隊や文化事業・別荘建築で散財した末に破産した大谷光瑞は西本願寺第22世である。

越前朝倉氏の参軍を得られぬまま足利義材(義稙)が挙兵上洛を強行、比叡山延暦寺・根来寺・高野山金剛峰寺と連携して近江へ進軍するが六角高頼に敗北、逃れた河内で管領細川政元に敗れ大内義興を頼り周防山口へ亡命、政元・将軍足利義澄は綸旨も得て西国28大名に義興討伐を号令し大友親治(宗麟の祖父)・大内高弘(義興の弟で大友氏に亡命中)・少弐資元らの反大内勢力が勢い付くが、義興は大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握して勢力均衡を保つ
六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。 

 

1500年
追放された前出雲守護代尼子清定の嫡子尼子経久が山中勝重(鹿介の先祖)・鉢屋(賤視された遊芸民)を従え元旦の千秋万歳と偽り潜入する奇計を用いて月山冨田城を攻略、塩冶掃部介を討取って出雲守護代職を奪還し出雲国を制圧、石見・伯耆・安芸・備後へ侵出し西の大内義興・東の山名氏と対峙
尼子氏は、近江源氏佐々木氏の末流で、佐々木道誉の孫高久が所領の近江犬上郡尼子から名字を採った。出雲は鎌倉時代初期から佐々木氏の管国で、一時山名氏に奪われたが、応仁の乱後に佐々木(京極)氏が奪回し、高久の次男持久を出雲守護代に任じ月山富田城に拠らしめた。軍記物によると・・・持久を継いだ嫡子の尼子清定は、領民に対して暴悪であったばかりでなく、主家京極氏に叛逆して税収を全部横領、大軍に攻められて敗走し行方知れずのまま世を去った。清定には経久・久幸の二男があり、山深い生母の実家へ落ち延びたが、厄介者に居場所は無く、成長すると養家を出て諸国を流浪、乞食坊主に身をやつして餓死を免れつつ、復讐心と尼子家再興の意志を研ぎ澄ましたという。出雲を回復した尼子経久は、吉川経基の娘を妻に迎え、政久・国久・興久の三男をもうけた。嫡子尼子政久は、智勇に優れた頼もしい跡取りであったが、出雲磨石城攻城戦で運悪く落命、激怒した経久は次男国久に猛攻を命じ城兵悉くを誅殺し、政久の死を惜しみ遺児晴久を後継者とした。尼子国久は、月山富田城東北の新宮谷に拠って戦闘集団新宮党を率い、経久没後は尼子の柱石と頼られたが、権勢を妬む晴久が毛利元就の離間策に嵌り一族諸共殺害した。墓穴を掘った尼子晴久は完全にジリ貧となり、山陽道を制圧し山陰攻めに転じた毛利元就に追い詰められ、悲憤のうちに月山富田城で陣没した。その5年後、後継の嫡子義久が毛利氏に降伏し、(同時ではないが)山陽・山陰11ヶ国に支配を及ぼした戦国大名尼子氏は滅亡した。毛利元就は、尼子氏族滅を主張する吉川元春・小早川隆景らの強硬論を退け、尼子義久・倫久・秀久の三兄弟を助命、義久は関ヶ原合戦後1292石の大禄を与えられて毛利家重臣に列した。義久には男児が無く、倫久の子元知が養嗣子となり、元知の子就易の代に本姓の佐々木に改めて幕末まで存続した。毛利家家臣の福永氏も尼子氏の末裔といわれる。山中鹿介が尼子再興軍の旗印に担ぎ出した尼子勝久は、国久と共に誅殺された嫡子誠久の五男である。
1504年
[立河原の戦い・長享の乱終結]関東管領山内上杉顕定が古河公方足利政氏(成氏の嫡子)を味方に付け扇谷上杉朝良(定正の後嗣)を圧迫、今川氏親・北条早雲と同盟した朝良は武蔵立河原(立川)の決戦で圧勝し顕定を北武蔵の鉢形城に追詰めるが、来援した越後守護代長尾能景(為景の父)が椚田城(八王子)・実田城(平塚)を攻落として扇谷上杉領と今川・北条領を遮断し河越城に孤立した朝良を降伏させて18年続いた長享の乱は山内方の勝利で終結、関東公方足利諸家に続いて疲弊した両上杉氏も没落し北条・今川・長尾・長野ら国人勢力に関東争覇の主導権が移る(西上野の領袖長野房兼は戦死するが後継の長野業尚・憲業・業正が台頭)
長尾氏は、坂東八平氏の一流を称する鎌倉時代以来の古豪で、関東管領山内上杉氏に属して繁栄し、上野・武蔵守護代の長尾景仲は主家を宰領したが子の長尾景春が反乱を起し没落した。越後守護代の長尾氏は三条・上田・古志の三家に別れ、扇谷上杉朝良を降し長享の乱を制した三条長尾能景が越後の実権を掌握したが、越中般若野の戦いで一向一揆に討たれた。嫡子の長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の実兄)の二君を討って越後を牛耳り、傀儡守護の上杉定実に妹を嫁がせ、高梨政盛の娘を娶って四児をもうけた。後を継いだ嫡子の長尾晴景は弱腰を侮られ守護上杉定実を担ぐ国人衆が蜂起、弟の景康・景房が反乱の渦中に落命した。側室(青岩院)腹の末弟長尾景虎(上杉謙信)は、13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破し、家臣・国人衆に推されて兄晴景から家督を奪い、上田長尾政景と揚北衆を降して(後に謀殺)越後平定を果し、北条氏康に追われた上杉憲政から関東管領・山内上杉氏の名跡を継いだ。毘沙門天と飯縄権現を崇拝した上杉謙信は生涯女犯戒を貫いて子を生さず(童貞説あり)後継を定めず急逝、4人の養子のうち上杉景虎(北条氏康の実子)と上杉景勝(謙信の姉仙桃院と長尾政景の子)の壮絶な家督争いが起り(御館の乱)、武田勝頼に臣従し妹菊姫(信玄の娘)を妻に迎えた景勝が勝利したが最強上杉軍は弱体化した。上杉景勝は、謙信遺臣(三条長尾系)を排斥し直江兼続ら上田衆を極端に優遇したため新発田重家の乱を招来、織田信長の猛攻に晒され封前の灯火となったが本能寺の変に救われ、養子の義真を人質に出して豊臣秀吉に臣従し会津120万石・五大老に栄進したが、石田三成と通謀した直江兼続が関ヶ原合戦の戦端を開き(会津征伐)、改易は免れるも出羽米沢藩30万石に大減封された。景勝没後は一子上杉定勝が米沢藩を継いだが、その一子上杉綱勝に後嗣が無く上杉氏は断絶、吉良上野介義央(忠臣蔵の敵役)の幼児綱憲を末期養子に迎え家を保った。15万石に減封された米沢藩は日本屈指の貧乏藩と揶揄されたが名君上杉鷹山の藩政改革で汚名を返上した。
1505年
実父の卜部覚賢・養父の塚原安幹から天真正伝香取神道流を学んだ16歳の塚原卜伝(高幹)が常陸から京都へ武者修行に出立、落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立ち合いで名を挙げ11代将軍足利義澄に出仕、義澄の下で大内義興・細川高国、12代将軍足利義晴(義澄の嫡子)の下で細川晴元・三好元長と戦った卜伝は生涯37度の合戦・19度の真剣勝負で無敗を通し大将首12と端武者首16・合計212人の首級を挙げながら一度も刀傷を負わず
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
1506年
北条早雲を総大将とする1万余の今川氏親軍が三河に侵攻、安祥城主松平長親(徳川家康の先祖)が500の寡兵で撃退
松平氏の祖親氏は、もと徳阿弥と名乗る時宗の遊行僧(賤民とも)で、西三河に漂着し松平郷の庄屋家に入婿し、兵力を蓄えて近隣を侵略し相当な土豪となった。この前に徳阿弥が坂井郷の庄屋の娘に産ませた子が酒井氏の祖という。5代目の松平長親は、三河に侵攻した今川氏親軍を撃退し総大将の北条早雲に黒星をつけた傑物で、安祥城に拠って頭角を現した。孫の松平清康も優秀で数年で西三河の大部分を切り従え尾張へ侵出したが、突如家臣に暗殺された。10歳の嫡子広忠は、織田信秀に圧迫され伊勢へ逃亡したが、今川義元に臣従し領地を回復して岡崎城に入った。広忠は三河苅屋城主水野忠政の娘お大を娶り、嫡子竹千代(徳川家康)をもうけたが、水野氏が織田方に属したためお大は離縁され、後に尾張知多郡阿古屋の久松定俊に再嫁した(伊予松山藩祖)。徳川家康は、今川一族の関口親永の娘(10歳上・築山殿)を妻に迎えたが、放置が祟って武田氏に内通し謀反、織田信長の命で嫡子信康と共に殺害した。松平氏は賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河平定を機に徳川(源姓)に改めようだ。この後は朝日姫(豊臣秀吉の妹)以外に正室を置かなかったが、秀吉と違って多くの子宝に恵まれ、優秀な男児は無いものの、婚姻政策は天下獲りの武器となった。実娘を池田輝政(岡山藩・鳥取藩)・浅野長晟(広島藩)、養女を黒田長政(福岡藩)・蜂須賀至鎮(徳島藩)・井伊直政(彦根藩)・鍋島勝茂(佐賀藩)・加藤清正・福島正則らに入輿させ皆大封を与えている。次男松平秀康は、秀吉・結城晴朝の養子を経て越前藩をもらったが、浮気性だった生母のせいか家康に嫌われ、後嗣忠直は逆恨みで狂人となり慰みに家中の男女を虐殺した。2代将軍となった三男徳川秀忠は、関ヶ原合戦で本隊を率いながら真田昌幸の挑発に乗って足止めを食う大失態を犯し、嫉妬深い妻江(信長の姪で淀殿の妹)を恐れ生涯妻妾を置けなかった。家康の男児は皆大藩の主に据えられたが、最年少の義直・頼宣・頼房が尾張・紀州・水戸の徳川御三家の祖となった。

[九頭竜川の戦い・般若野の戦い]室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、越前では朝倉宗滴が圧倒的寡勢で九頭竜川の決戦に勝利し吉崎御坊を破却(1万対30万とも)、能登守護畠山慶致も防衛に成功すると一向一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた越後の長尾能景が来援するが砺波郡般若野の合戦で神保慶宗の裏切に遭い罠に嵌って討死(越後守護上杉房能は傍観)、長尾勢は越後へ敗走し嫡子長尾為景は復讐を誓う
朝倉宗滴は、若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前王国を築いた猛将である。『朝倉孝景条々』で有名な越前守護朝倉孝景(英林)の八男に生れ、朝倉景豊の謀反討伐の功で敦賀郡司に任じられると、1506年19歳のとき九頭竜川の戦いで見事な勝利を収め朝倉軍の指導者となった。本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は一揆勢30万に対し1万ともいわれる圧倒的寡勢で撃退し、吉崎御坊を破却して一揆勢を加賀へ押し返した。甥の幼君朝倉孝景(宗淳)を補佐し事実上の当主として東奔西走、若狭守護武田元光を助けて守護代の反乱を鎮圧し、土岐政頼を擁して美濃守護家の家督争いに介入、1527年には将軍足利義晴の要請で率兵上洛し三好勢を掃討して京都を実効支配(管領細川高国の叛心により翌年撤兵)、本願寺の内紛に乗じて加賀一向一揆を攻撃した。守護土岐氏を滅ぼして美濃国獲りを果した斎藤道三に対しては、尾張の織田信秀・近江の六角定頼と提携して掣肘を加えるも、1547年加納口の敗戦により美濃侵出の夢は絶たれた。越中・加賀方面では、一向一揆を追い詰めるも壊滅には至らず、1555年自ら出征して決戦に臨んだが陣中で病に倒れ死の床についた。朝倉宗滴は、生涯現役の宣言どおり最期まで戦い続けたが、領土拡大の成果は乏しく、将軍を擁して天下に覇を唱えることもできなかった。しかし、隣国に武威を示して磐石の越前王国を築き、畿内の戦乱を逃れた公家や文化人を招き入れて一乗谷に京風文化を華開かせ、一方で武芸を奨励し中条流から富田勢源・富田重政・佐々木小次郎らの剣豪を輩出した。京都に近い地勢を占め室町幕府や朝廷に勢力を扶植した朝倉家は天下に最も近いといわれたが、宗滴没後、当主義景をはじめ凡庸な人材揃いで一族や家臣の内紛が起り、一向一揆の反攻を喰って和睦に追込まれ、ようやく越前を保つ有様となった。朝倉宗滴は臨終の際に「あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と語ったというが、その信長の手で18年後に朝倉家は滅ぼされた。

中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した雪舟が石見益田にて死去(享年86。雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)、雪舟は江戸時代に日本画壇を支配した狩野派に崇敬され芸術神となる
雪舟は、中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した日本画壇の巨星、江戸時代に狩野派に崇敬され芸術神となった。作品の多くは山水画だが肖像画や花鳥画も描き、雪舟が造園を手掛けたという「雪舟庭」も山口・島根・福岡などに現存する。備中赤浜の武家小田氏に生れ幼少期に総社井尻野の臨済宗寺院宝福寺に入門、絵に熱中する余り禅修行に身が入らない雪舟(拙宗等揚)は柱に縛られるが足先を使い零した涙で実物と見紛う鼠を描き禅師を感嘆させたと伝わる。なお「達磨絵」や「頂相(師の肖像画)」に象徴されるように水墨画は禅宗のなかで発展した宗教芸術であり、屋敷を飾るための彩色画や工芸品の職人芸とは一線を画すものであった。さて雪舟は、10歳のころ京都相国寺に移り春林周藤から禅を学びつつ画僧として著名な天章周文・如拙から水墨画を学び『山水図』の制作を開始、24歳で卒業すると大内教弘の招きで周防山口に移住し「雲谷庵」で創作に専心する生活に入った。応仁の乱勃発の翌年、48歳の雪舟は本場中国で水墨画を学ぶため勘合貿易船に乗込み明へ渡海、夏珪・李唐など宋・元代の水墨画に感化されて模写に励み揚子江流域など中国各地を写生旅行し「風景こそ最大の師」という孤高の境地に到達、天童山景徳禅寺で「四明天童山第一座」の尊称を贈られ首都北京でも画名を博した。2年弱の滞在を終え帰国した雪舟は、周防山口を拠点に豊後や石見へも足を伸ばし美濃や天橋立への創作旅行も敢行、86歳まで長寿を保ち石見益田で病没した(雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)。雪舟様式の特徴は安定感のある構図や力強い筆致に顕著で、大胆で構築的な空間構成,強調された輪郭線と細い線による簡略化された皴法,墨の濃淡を操る妙技は今も国際的に高い評価を得る。安土桃山時代になると武士の派手好みに応じて邦画の主流は岩絵具を用いる彩色画(いわゆる日本画)へ移ったが、江戸時代に画壇を支配した狩野派が雪舟を師と仰ぎ諸大名も追従、「雪舟作」を騙る作品が多く出回ることとなった。
1507年
[永正の錯乱〜両細川の乱]室町幕府の実権を握る細川宗家(京兆家)で政元の養子3人(澄之・澄元・高国)の家督争奪戦が勃発、「半将軍」管領細川政元が重用する細川澄元が三好之長ら阿波勢を率いて入京し優位に立つと、細川澄之・香西元長が政元を暗殺して京兆家を簒奪(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)、澄元・之長は近江へ逃れるが、高国・政賢ら細川一族と丹後守護一色義有が澄之・元長を征伐、帰京した澄元が京兆家当主に納まる
細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。

越後守護上杉房能が権臣長尾為景(上杉謙信の父)誅殺を企てるが先手を打って襲撃され自害、為景は傀儡の越後守護に上杉定実を擁立
長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。
1508年
周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前を支配する大内義興の軍勢が京都を制圧、義興は将軍足利義澄を追放して足利義尹(義稙)を将軍に復位させ管領代・山城守護に就いて幕政を掌握、義興へ寝返った細川高国が細川宗家の家督を奪い細川澄元・三好之長は足利義澄を伴って近江へ逃亡するが京都奪還を窺い、義興不在に乗じた尼子経久が石見・伯耆・安芸・備後へ勢力を伸張
大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。
1509年
[如意ヶ嶽の戦い・岡山城の戦い]近江甲賀で体制を立直した細川澄元・三好之長が京都奪還を目指して粟田口に侵入するが大内義興・細川高国の大軍に迎撃され本拠の阿波へ逃亡、義興・高国軍は近江岡山城に逃れた前将軍を追撃するが六角高頼に敗れ京都へ撤退
大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。 

 

1510年
[長森原の戦い]長尾為景に弟の上杉房能(越後守護)を殺された関東管領上杉顕定(房能の実兄)が大軍を率いて越後に来襲、為景は傀儡守護の上杉定実を伴い佐渡へ逃れるが佐渡国人や信濃の高梨政盛を加えて猛攻を掛け顕定を討取る快勝を収め定実に妹を娶わせ越後国人の反抗を抑圧、顕定に従った上野の高津長尾定明が戦死し嫡子の長尾顕景が家督相続
長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。
1511年
[船岡山合戦]前将軍足利義澄を擁する細川澄元・政賢と三好之長ら阿波勢が京都を奪還するが、近江の六角高頼が寝返り義澄が病死、洛北船岡山に陣取って大内義興・細川高国に決戦を挑むが総大将政賢まで討取られ壊滅、澄元・之長は本拠地の阿波へ逃れ抵抗を続ける
大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。
1512年
尼子経久が山名氏領に侵攻し備後を支配圏に収める
尼子経久は、流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、死の25年後曾孫の代に元配下の毛利元就に滅ぼされた。京極家家臣で出雲守護代の尼子清定の嫡子に生れ、前半生は不詳だが、税収横領の罪で征伐され流浪生活を送り、1500年42歳のとき月山冨田城を攻め落とし守護塩冶掃部介を討取って出雲を制圧、家督争いに敗れた主家の京極政経を保護したが後継者の吉童子丸を排除した(おそらく謀殺)。一説には、窮乏の流浪生活を経て出雲に舞い戻り、旧臣山中勝重(鹿介の先祖)と鉢屋(賤視された遊芸民)を従え、元旦の千秋万歳と偽って城内に潜入する奇計を用いたという。山陽の盟主大内義興の上洛不在に乗じて近隣諸国へ侵出、石見西部・備後・備中・備前まで勢力を伸ばした尼子経久は、1523年毛利元就の活躍で安芸を勢力圏に収め(鏡山城の戦い)、翌年伯耆も制圧したが、大内・山名の提携成って挟撃の危機に立たされ、1527年陶晴賢率いる大内軍に敗れて安芸・備後の支配権を失い(細沢山の戦い)、西出雲を治める三男塩冶興久の謀反が起って家勢は衰えた。西国統治の特徴で、配下の国人衆は直接の家臣団ではなく、支配力は脆弱であった。大内氏と和睦した尼子経久は、浦上攻めに転じて美作を攻略するが、安芸の盟主に成長し山内方へ寝返った毛利元就の蠢動に悩まされ、1537年嫡孫晴久に家督を譲り隠居した。尼子晴久は、播磨に出征するも背後を脅かされて撤退し、1541年武田信実を担いで大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略と大内家陶晴賢の援軍によりまさかの大敗(吉田郡山城の戦い)、その渦中に尼子経久は月山冨田城で病没した。2年後、勢い付いた大内義隆は大軍を率いて出雲に攻め返すが指揮能力欠如により壊滅的大敗(月山富田城の戦い)、尼子勢は息を吹き返し石見銀山も奪回したが、尼子晴久が病死し、陶晴賢を滅ぼして大内領を征した毛利元就が怒涛の進撃、5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し戦国大名尼子氏は3代で滅亡した。(第二次月山富田城の戦い)。
1515年
尼子経久が大内氏領に侵攻し石見西半を支配権に収め安芸にも勢力拡大
尼子経久は、流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、死の25年後曾孫の代に元配下の毛利元就に滅ぼされた。京極家家臣で出雲守護代の尼子清定の嫡子に生れ、前半生は不詳だが、税収横領の罪で征伐され流浪生活を送り、1500年42歳のとき月山冨田城を攻め落とし守護塩冶掃部介を討取って出雲を制圧、家督争いに敗れた主家の京極政経を保護したが後継者の吉童子丸を排除した(おそらく謀殺)。一説には、窮乏の流浪生活を経て出雲に舞い戻り、旧臣山中勝重(鹿介の先祖)と鉢屋(賤視された遊芸民)を従え、元旦の千秋万歳と偽って城内に潜入する奇計を用いたという。山陽の盟主大内義興の上洛不在に乗じて近隣諸国へ侵出、石見西部・備後・備中・備前まで勢力を伸ばした尼子経久は、1523年毛利元就の活躍で安芸を勢力圏に収め(鏡山城の戦い)、翌年伯耆も制圧したが、大内・山名の提携成って挟撃の危機に立たされ、1527年陶晴賢率いる大内軍に敗れて安芸・備後の支配権を失い(細沢山の戦い)、西出雲を治める三男塩冶興久の謀反が起って家勢は衰えた。西国統治の特徴で、配下の国人衆は直接の家臣団ではなく、支配力は脆弱であった。大内氏と和睦した尼子経久は、浦上攻めに転じて美作を攻略するが、安芸の盟主に成長し山内方へ寝返った毛利元就の蠢動に悩まされ、1537年嫡孫晴久に家督を譲り隠居した。尼子晴久は、播磨に出征するも背後を脅かされて撤退し、1541年武田信実を担いで大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略と大内家陶晴賢の援軍によりまさかの大敗(吉田郡山城の戦い)、その渦中に尼子経久は月山冨田城で病没した。2年後、勢い付いた大内義隆は大軍を率いて出雲に攻め返すが指揮能力欠如により壊滅的大敗(月山富田城の戦い)、尼子勢は息を吹き返し石見銀山も奪回したが、尼子晴久が病死し、陶晴賢を滅ぼして大内領を征した毛利元就が怒涛の進撃、5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し戦国大名尼子氏は3代で滅亡した。(第二次月山富田城の戦い)。
1516年
北条早雲が反旗を掲げた三浦義同征伐、扇谷上杉朝興の救援軍を撃退し、新井城の兵糧攻めで勝利、義同以下の相模三浦一族を滅ぼし相模全域を平定
北条早雲(伊勢新九郎長氏・伊勢盛時)は、衰亡する室町将軍を見限り40歳過ぎで関東に下向、甥今川氏親の駿河守護擁立で今川家の重臣となり、関東公方足利家・関東管領上杉家の内紛に乗じて伊豆・相模二国と小田原を奪取、関東の覇者後北条氏の礎を築いた戦国下克上の先駆者である。続く北条氏綱・氏康が関東全域を切り従えたが、北条氏政・氏直が豊臣秀吉の小田原征伐に屈し後北条氏は5代で滅亡した。北条早雲は、室町将軍家の重臣伊勢氏の出自で将軍足利義政や義視・義尚に近侍したとされるが、前半生に目立つ事跡はない。40歳を過ぎた頃、妹北川殿が嫁いだ駿河守護今川義忠が戦死し家督争いが発生、調停に乗り込んだ早雲は扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退け甥龍王丸(今川氏親)の擁立に成功、戦功により興国寺城を与えられ60歳にして一国一城の主となり、後嗣無く死去した伊豆韮山城主の養子に入って鎌倉幕府執権北条氏の名跡を継いだ。1491年、室町将軍家・両上杉家と古河公方の和解で宙に浮いた堀越公方の足利政知が亡くなると、北条早雲は戦乱で守衛が手薄となった堀越御所を急襲し後継者足利茶々丸を追放し、寛容な帰服受入れと減税で土豪と領民を靡かせて伊豆支配を確立、東国戦国時代の端緒といわれる快挙を成遂げた。1494年、明応の政変で兄茶々丸を憎悪する足利義澄が将軍に就任すると、北条早雲は三浦氏の内紛に乗じて新井城に籠る茶々丸を攻め滅ぼし、翌年には東方に鞍を返して扇谷上杉方の大森藤頼を騙し討ちして小田原城を奪取、関東制覇の拠点を打ち立てた。その後の北条早雲は、今川家・扇谷上杉家の被官として各地に転戦しつつ、伊豆・相模の戦国大名として独立を果し領国経営に勤しんだ。機略縦横で連戦連勝だったが、今川軍の総大将を務めた三河攻めでは徳川家康の曽祖父松平長親に唯一といえる黒星を喫している。茶々丸征伐の盟友で相模三浦氏の旧領を継いだ三浦義同を族滅して後顧の憂いを絶ち、優秀な嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城で88歳の大往生を遂げた。早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれた。

[西の桶狭間・有田中井手の戦い]安芸吉田の国人(小領主)で郡山城主の毛利興元が急死し幼少の幸松丸が家督相続、安芸守護の武田元繁が「室町将軍の上意」を口実に毛利氏・吉川氏の領地に侵攻、興元の弟毛利元就が寡兵で撃退し武田元繁は討死
毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。

大内義興が室町幕府から日明貿易の恒久的管掌権限を獲得、横槍を入れた細川高国と不仲になり寧波の乱へ発展
大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。
1518年
尼子経久に領国を荒らされた大内義興軍が10年に及んだ京都滞在を終えて山口へ帰国、後ろ楯を失った将軍足利義稙・細川高国の政権基盤が揺らぎ、阿波で抵抗を続ける細川澄元・三好之長の陣営が盛り返す
大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。

足利義晴(11代将軍足利義澄の嫡子)家臣の塚原高幹が京都政局に見切りをつけ常陸鹿島へ帰国、松本尚勝の世話で鹿島神宮に千日参籠し秘剣「一つの太刀」の境地に達し名を塚原卜伝に改める(生家の卜部氏に因む)
1519年
戦国大名の先駆け北条早雲が嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城にて死去(享年88)、早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれる
北条早雲は、小説などで素浪人から成り上がった戦国下克上の嚆矢とされてきたが、室町将軍家の重臣で伊勢平氏を継ぐ名門の出自とするのが通説となっている。通説によると、伊勢氏当主で母方の祖父貞国は政所執事を勤め、同職を継いだ伯父の貞親は8代将軍足利義政の傅役で「おやじどの」と呼ばれ信任が厚かった。父の盛定も伊勢氏の出で、将軍義政の申次衆にして備中荏原荘の領主であった。とはいえ衰亡する足利将軍家の郎党程度では象徴的権威しかなかったであろう、40歳を過ぎた北条早雲は妹北川殿が嫁いだ駿河守護今川家の被官となり、甥龍王丸(今川氏親)の当主擁立に働いて出世の糸口を掴んだ。北条早雲は、室町幕府奉公衆小笠原政清の娘で正室に迎えた南陽院殿に嫡子氏綱を産ませたほか、多くの男児に恵まれた。伊豆韮山城主北条氏の名跡を継ぐ際に未亡人の婿に納まったとする説もある。早雲の家督を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を公称して武蔵国に勢力を伸ばし、その嫡子北条氏康の代に関東全域に覇を唱えたが、次代の北条氏政・氏直父子が豊臣秀吉の小田原征伐で滅ぼされた。北条早雲は「三代目の頃には両上杉家は亡んで関東一円は北条家のものになるに相違ない。金銀の蓄財は三代目まででよく、大国主となれば金銀を使わずとも国主の徳望を以て人心を掌握できる」と語ったというが、上方勢の圧倒的な物量戦術と天下統一の時流には歯が立たなかった。氏直病没により後北条氏の嫡流は絶えたが、家督を継いだ叔父の氏規が河内狭山藩を立藩して大名の末席に連なり幕末まで存続した。なお、氏直の落胤が伊達政宗の仙台藩士となり桑島に改姓して存続したとする異聞があり、幕末の勤皇志士桑島孟を経て子孫は今日に続いているという。

美濃守護土岐政房の死に伴い家督争いが激化、嫡子土岐政頼を擁する越前守護朝倉孝景は弟の朝倉景高を総大将に軍勢を派遣、土岐頼芸(政頼の弟)・長井長弘の敵対勢力を掃討し政頼に家督を継がせる
朝倉宗滴は、若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前王国を築いた猛将である。『朝倉孝景条々』で有名な越前守護朝倉孝景(英林)の八男に生れ、朝倉景豊の謀反討伐の功で敦賀郡司に任じられると、1506年19歳のとき九頭竜川の戦いで見事な勝利を収め朝倉軍の指導者となった。本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は一揆勢30万に対し1万ともいわれる圧倒的寡勢で撃退し、吉崎御坊を破却して一揆勢を加賀へ押し返した。甥の幼君朝倉孝景(宗淳)を補佐し事実上の当主として東奔西走、若狭守護武田元光を助けて守護代の反乱を鎮圧し、土岐政頼を擁して美濃守護家の家督争いに介入、1527年には将軍足利義晴の要請で率兵上洛し三好勢を掃討して京都を実効支配(管領細川高国の叛心により翌年撤兵)、本願寺の内紛に乗じて加賀一向一揆を攻撃した。守護土岐氏を滅ぼして美濃国獲りを果した斎藤道三に対しては、尾張の織田信秀・近江の六角定頼と提携して掣肘を加えるも、1547年加納口の敗戦により美濃侵出の夢は絶たれた。越中・加賀方面では、一向一揆を追い詰めるも壊滅には至らず、1555年自ら出征して決戦に臨んだが陣中で病に倒れ死の床についた。朝倉宗滴は、生涯現役の宣言どおり最期まで戦い続けたが、領土拡大の成果は乏しく、将軍を擁して天下に覇を唱えることもできなかった。しかし、隣国に武威を示して磐石の越前王国を築き、畿内の戦乱を逃れた公家や文化人を招き入れて一乗谷に京風文化を華開かせ、一方で武芸を奨励し中条流から富田勢源・富田重政・佐々木小次郎らの剣豪を輩出した。京都に近い地勢を占め室町幕府や朝廷に勢力を扶植した朝倉家は天下に最も近いといわれたが、宗滴没後、当主義景をはじめ凡庸な人材揃いで一族や家臣の内紛が起り、一向一揆の反攻を喰って和睦に追込まれ、ようやく越前を保つ有様となった。朝倉宗滴は臨終の際に「あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と語ったというが、その信長の手で18年後に朝倉家は滅ぼされた。  

 

1520年
中央政局を掻き回した南近江守護の六角高頼が死去、次男定頼が家督相続
六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。

播磨・備前・美作守護の赤松義村が実権を奪った守護代浦上村宗(宗景の父)の備前三石城を攻撃するが宇喜多能家(直家の祖父)らの奮戦で撃退、幽閉された義村は翌年暗殺され赤松氏は没落し(村宗と敵対する浦上村国が8歳の嫡子赤松晴政を赤松氏当主に擁立)浦上氏の勢威が高まる
宇喜多氏は、備前児島半島の屯倉(みやけ。古代の皇室領)の管理を職掌とした三宅氏の一流で備前宇喜多郷に住して名字を採った。三宅氏の先祖は吉備氏とも新羅王子天日槍ともいわれる。赤松氏の守護代として備前を支配する浦上則宗・村宗父子に仕えた宇喜多能家は、松田氏と赤松氏を攻め破り浦上氏を戦国大名へと導いたが、浦上村宗が大物崩れで戦死すると後継の政宗に嫌われ政敵の島村盛実に砥石城を攻められ自害した。嫡子の宇喜多興家は逃亡して生延びたが生来愚鈍なため浮浪して乞食同然に転落、備前邑久郡福岡に漂着して富家の召使となり下女をあてがわれて忠家・春家をもうけたという。嫡子の宇喜多直家は元服後に弟と能家遺臣を従えて天神山城主の浦上宗景(政宗の弟)に仕え(美貌の直家は男色をもって宗景に寵愛されたとも)、祖父の仇島村盛実を含む有力者を次々に謀殺して身代を奪い最後は浦上氏も滅ぼして備前の太守となった。謀略に身内を駆使した直家は婚姻で油断を誘って舅の中山信正と娘婿の松田元賢・浦上宗辰・後藤勝基を次々に殺害し、伊賀久隆には妹を与えて松田氏を寝返らせた。盟友赤松政秀の嫡子政広と重臣の明石全登も娘婿である。娘は多いが成人した男子は秀家のみ、直家は豊臣秀吉に遺児を託して病没したが、歓心を買うため継室の円融院(秀家生母)を秀吉側室に献上したともいわれる。義理堅い秀吉は宇喜多秀家を厚遇し五大老や朝鮮役の総大将に大抜擢したが、秀家は達安・岡利勝ら重臣の反逆で家勢を削がれ(宇喜多騒動)、関ヶ原合戦で西軍主力として奮戦するも敗退し所領没収のうえ八丈島へ流された。秀家は前婦豪姫の実家前田氏の仕送りで養われ83歳の長寿を保ったが流罪人のまま同地で病没、子孫は徳川時代を八丈島で逼塞した。宇喜多忠家(直家の弟)の後嗣詮家(坂崎直盛)は、宇喜多騒動に加担して徳川家康預りとなったが、関ヶ原・大阪陣の戦功で石見津和野藩4万3千石に封じられた。大阪城落城の際に千姫(徳川秀忠の娘)救出の功を立てたが、家康が「救出者に与える」との約を違えて本多忠刻に嫁がせたことに憤り反逆、切腹に処され戦国大名宇喜多氏は命脈を絶たれた。
1521年
[等持院の戦い]大内義興軍が去った京都を細川澄元・三好之長が奪回、細川高国は近江へ逃れるが六角定頼の加勢を得て反撃、追い詰められた之長は京都百万遍で自害し(嫡子元長が後継)、阿波へ敗走した澄元も病没(嫡子晴元が後継)、高国は寝返った将軍足利義稙を追放し前将軍義澄の子足利義晴を12代将軍に擁立
三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。

尼子経久が浦上氏領に侵攻し備中と備前西半まで支配圏に収める
尼子経久は、流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、死の25年後曾孫の代に元配下の毛利元就に滅ぼされた。京極家家臣で出雲守護代の尼子清定の嫡子に生れ、前半生は不詳だが、税収横領の罪で征伐され流浪生活を送り、1500年42歳のとき月山冨田城を攻め落とし守護塩冶掃部介を討取って出雲を制圧、家督争いに敗れた主家の京極政経を保護したが後継者の吉童子丸を排除した(おそらく謀殺)。一説には、窮乏の流浪生活を経て出雲に舞い戻り、旧臣山中勝重(鹿介の先祖)と鉢屋(賤視された遊芸民)を従え、元旦の千秋万歳と偽って城内に潜入する奇計を用いたという。山陽の盟主大内義興の上洛不在に乗じて近隣諸国へ侵出、石見西部・備後・備中・備前まで勢力を伸ばした尼子経久は、1523年毛利元就の活躍で安芸を勢力圏に収め(鏡山城の戦い)、翌年伯耆も制圧したが、大内・山名の提携成って挟撃の危機に立たされ、1527年陶晴賢率いる大内軍に敗れて安芸・備後の支配権を失い(細沢山の戦い)、西出雲を治める三男塩冶興久の謀反が起って家勢は衰えた。西国統治の特徴で、配下の国人衆は直接の家臣団ではなく、支配力は脆弱であった。大内氏と和睦した尼子経久は、浦上攻めに転じて美作を攻略するが、安芸の盟主に成長し山内方へ寝返った毛利元就の蠢動に悩まされ、1537年嫡孫晴久に家督を譲り隠居した。尼子晴久は、播磨に出征するも背後を脅かされて撤退し、1541年武田信実を担いで大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略と大内家陶晴賢の援軍によりまさかの大敗(吉田郡山城の戦い)、その渦中に尼子経久は月山冨田城で病没した。2年後、勢い付いた大内義隆は大軍を率いて出雲に攻め返すが指揮能力欠如により壊滅的大敗(月山富田城の戦い)、尼子勢は息を吹き返し石見銀山も奪回したが、尼子晴久が病死し、陶晴賢を滅ぼして大内領を征した毛利元就が怒涛の進撃、5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し戦国大名尼子氏は3代で滅亡した。(第二次月山富田城の戦い)。
1523年
毛利家当主幸松丸が急死(謀殺説あり)、叔父の毛利元就が尼子経久の介入を退け弟の就勝(元綱説あり)一派を殺害して毛利家の家督と吉田郡山城を承継、嫡子毛利隆元誕生
天下を獲った織田信長軍団以外で、一代で最大版図を築いた毛利元就の下克上ストーリーはスケール壮大で最も面白い。殊に神業ともいうべき権謀術数は痛快で逸話も多いが、温厚で律儀な一面のせいか卑劣さは感じられない。毛利元就の人生は、疑えば疑えることだらけだ。先ず、父毛利弘元に続き兄で当主の興元も「酒毒」で若死にしている。興元存命なら元就の出世はなかっただろう。続く幸松丸は9歳で亡くなったが、先立って外祖父高橋興光を滅ぼしていることや、既に実権を握る元就の襲封に反発する家臣が多かったことを考えると、謀殺の可能性大とすべきだろう。このとき弟の就勝(元綱とする説もあり)と与党を殺害したともいう。安芸に勢力を伸ばし国人の盟主となった毛利元就にとって、安芸守護の名目を保つ武田氏は最も目障りだった。直接手は下していないが、自派の熊谷信直が武田光和に叛逆し退陣中に光和が急死、毛利派優位の武田家臣団は混乱し後嗣を立てられずに雲散霧消した。吉田郡山城の戦いでは反抗勢力を皆殺しにし、権臣井上元兼一族30人の誅殺も断行している。小早川家と吉川家との養子縁組は各家臣と組んだ露骨な謀略で事後に反対派を粛清しているが、吉川家簒奪は妻妙玖の死の直後という点が心憎い。毛利元就最大の転機は陶晴賢謀反・大内義隆滅亡だが、予て陶叛逆の噂は高く、事変後は即座に陶に属し働いている。尼子と陶の提携・挟撃を恐れる元就は、両家の要である尼子新宮党と江良房栄を除くことを企て、尼子晴久に新宮党を、陶に江良を討たせる計略を成功させている。勝負を賭けた陶晴賢との決戦では、圧倒的な兵数の劣勢を挽回するため狭い厳島におびき寄せる策を立て見事に成就させた。敵方スパイの逆利用や、偽の密書を懐に忍ばせた使者を敵陣で殺して発覚させるといった計略を用いたともいう。「三本の矢」は後世の作為だが、筆まめで律儀な毛利元就は一族郎党に手厚い訓戒を残している。そのなかで「毛利氏が大になったから家臣は面従しているに過ぎない、毛利一族は固く団結して決して心を許すな」という遺訓は謀略王ならではであろう。

[寧波の乱]明の貿易港寧波で細川高国と大内義興の使者が争う
大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。

備前三石城の浦上村宗が播磨へ出兵し赤松晴政(村宗が暗殺した義村の遺児)を播磨・備前・美作守護に擁立した浦上村国・御着城主小寺則職を攻撃、浦上軍指揮官の宇喜多能家は次男四郎の戦死に逆上し敵陣に突撃奮戦して決定的勝利を挙げ、晴政を確保し播磨・備前・美作を掌握した浦上氏は戦国大名へ発展
宇喜多氏は、備前児島半島の屯倉(みやけ。古代の皇室領)の管理を職掌とした三宅氏の一流で備前宇喜多郷に住して名字を採った。三宅氏の先祖は吉備氏とも新羅王子天日槍ともいわれる。赤松氏の守護代として備前を支配する浦上則宗・村宗父子に仕えた宇喜多能家は、松田氏と赤松氏を攻め破り浦上氏を戦国大名へと導いたが、浦上村宗が大物崩れで戦死すると後継の政宗に嫌われ政敵の島村盛実に砥石城を攻められ自害した。嫡子の宇喜多興家は逃亡して生延びたが生来愚鈍なため浮浪して乞食同然に転落、備前邑久郡福岡に漂着して富家の召使となり下女をあてがわれて忠家・春家をもうけたという。嫡子の宇喜多直家は元服後に弟と能家遺臣を従えて天神山城主の浦上宗景(政宗の弟)に仕え(美貌の直家は男色をもって宗景に寵愛されたとも)、祖父の仇島村盛実を含む有力者を次々に謀殺して身代を奪い最後は浦上氏も滅ぼして備前の太守となった。謀略に身内を駆使した直家は婚姻で油断を誘って舅の中山信正と娘婿の松田元賢・浦上宗辰・後藤勝基を次々に殺害し、伊賀久隆には妹を与えて松田氏を寝返らせた。盟友赤松政秀の嫡子政広と重臣の明石全登も娘婿である。娘は多いが成人した男子は秀家のみ、直家は豊臣秀吉に遺児を託して病没したが、歓心を買うため継室の円融院(秀家生母)を秀吉側室に献上したともいわれる。義理堅い秀吉は宇喜多秀家を厚遇し五大老や朝鮮役の総大将に大抜擢したが、秀家は達安・岡利勝ら重臣の反逆で家勢を削がれ(宇喜多騒動)、関ヶ原合戦で西軍主力として奮戦するも敗退し所領没収のうえ八丈島へ流された。秀家は前婦豪姫の実家前田氏の仕送りで養われ83歳の長寿を保ったが流罪人のまま同地で病没、子孫は徳川時代を八丈島で逼塞した。宇喜多忠家(直家の弟)の後嗣詮家(坂崎直盛)は、宇喜多騒動に加担して徳川家康預りとなったが、関ヶ原・大阪陣の戦功で石見津和野藩4万3千石に封じられた。大阪城落城の際に千姫(徳川秀忠の娘)救出の功を立てたが、家康が「救出者に与える」との約を違えて本多忠刻に嫁がせたことに憤り反逆、切腹に処され戦国大名宇喜多氏は命脈を絶たれた。

秘剣「一つの太刀」の真髄に達した塚原卜伝が再び廻国修行に出立、武蔵川越城下で小薙刀の名人梶原長門と立ち合い一瞬の差で斬殺、京都で12代将軍足利義晴に帰参し小太刀を教える
1524年
北条氏綱が扇谷上杉朝興軍を高輪原で破り江戸城を奪取、後北条氏が武蔵国に勢力を伸ばす
北条早雲は、小説などで素浪人から成り上がった戦国下克上の嚆矢とされてきたが、室町将軍家の重臣で伊勢平氏を継ぐ名門の出自とするのが通説となっている。通説によると、伊勢氏当主で母方の祖父貞国は政所執事を勤め、同職を継いだ伯父の貞親は8代将軍足利義政の傅役で「おやじどの」と呼ばれ信任が厚かった。父の盛定も伊勢氏の出で、将軍義政の申次衆にして備中荏原荘の領主であった。とはいえ衰亡する足利将軍家の郎党程度では象徴的権威しかなかったであろう、40歳を過ぎた北条早雲は妹北川殿が嫁いだ駿河守護今川家の被官となり、甥龍王丸(今川氏親)の当主擁立に働いて出世の糸口を掴んだ。北条早雲は、室町幕府奉公衆小笠原政清の娘で正室に迎えた南陽院殿に嫡子氏綱を産ませたほか、多くの男児に恵まれた。伊豆韮山城主北条氏の名跡を継ぐ際に未亡人の婿に納まったとする説もある。早雲の家督を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を公称して武蔵国に勢力を伸ばし、その嫡子北条氏康の代に関東全域に覇を唱えたが、次代の北条氏政・氏直父子が豊臣秀吉の小田原征伐で滅ぼされた。北条早雲は「三代目の頃には両上杉家は亡んで関東一円は北条家のものになるに相違ない。金銀の蓄財は三代目まででよく、大国主となれば金銀を使わずとも国主の徳望を以て人心を掌握できる」と語ったというが、上方勢の圧倒的な物量戦術と天下統一の時流には歯が立たなかった。氏直病没により後北条氏の嫡流は絶えたが、家督を継いだ叔父の氏規が河内狭山藩を立藩して大名の末席に連なり幕末まで存続した。なお、氏直の落胤が伊達政宗の仙台藩士となり桑島に改姓して存続したとする異聞があり、幕末の勤皇志士桑島孟を経て子孫は今日に続いているという。

[大永の五月崩れ]尼子経久が南条宗勝ら反抗勢力と守護山名澄之を追放し尼子晴久を守護に就けて伯耆を支配権に収める
尼子経久は、流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、死の25年後曾孫の代に元配下の毛利元就に滅ぼされた。京極家家臣で出雲守護代の尼子清定の嫡子に生れ、前半生は不詳だが、税収横領の罪で征伐され流浪生活を送り、1500年42歳のとき月山冨田城を攻め落とし守護塩冶掃部介を討取って出雲を制圧、家督争いに敗れた主家の京極政経を保護したが後継者の吉童子丸を排除した(おそらく謀殺)。一説には、窮乏の流浪生活を経て出雲に舞い戻り、旧臣山中勝重(鹿介の先祖)と鉢屋(賤視された遊芸民)を従え、元旦の千秋万歳と偽って城内に潜入する奇計を用いたという。山陽の盟主大内義興の上洛不在に乗じて近隣諸国へ侵出、石見西部・備後・備中・備前まで勢力を伸ばした尼子経久は、1523年毛利元就の活躍で安芸を勢力圏に収め(鏡山城の戦い)、翌年伯耆も制圧したが、大内・山名の提携成って挟撃の危機に立たされ、1527年陶晴賢率いる大内軍に敗れて安芸・備後の支配権を失い(細沢山の戦い)、西出雲を治める三男塩冶興久の謀反が起って家勢は衰えた。西国統治の特徴で、配下の国人衆は直接の家臣団ではなく、支配力は脆弱であった。大内氏と和睦した尼子経久は、浦上攻めに転じて美作を攻略するが、安芸の盟主に成長し山内方へ寝返った毛利元就の蠢動に悩まされ、1537年嫡孫晴久に家督を譲り隠居した。尼子晴久は、播磨に出征するも背後を脅かされて撤退し、1541年武田信実を担いで大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略と大内家陶晴賢の援軍によりまさかの大敗(吉田郡山城の戦い)、その渦中に尼子経久は月山冨田城で病没した。2年後、勢い付いた大内義隆は大軍を率いて出雲に攻め返すが指揮能力欠如により壊滅的大敗(月山富田城の戦い)、尼子勢は息を吹き返し石見銀山も奪回したが、尼子晴久が病死し、陶晴賢を滅ぼして大内領を征した毛利元就が怒涛の進撃、5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し戦国大名尼子氏は3代で滅亡した。(第二次月山富田城の戦い)。
1525年
美濃内乱に介入した浅井亮政を牽制するため朝倉宗滴が近江小谷城に出征、金吾嶽を築いて在陣し六角定頼との関係修復に奔走、感謝した浅井氏は朝倉氏に忠誠を誓う、同時に朝倉景職軍を美濃稲葉山城へ派遣し土岐政頼を支援
朝倉宗滴は、若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前王国を築いた猛将である。『朝倉孝景条々』で有名な越前守護朝倉孝景(英林)の八男に生れ、朝倉景豊の謀反討伐の功で敦賀郡司に任じられると、1506年19歳のとき九頭竜川の戦いで見事な勝利を収め朝倉軍の指導者となった。本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は一揆勢30万に対し1万ともいわれる圧倒的寡勢で撃退し、吉崎御坊を破却して一揆勢を加賀へ押し返した。甥の幼君朝倉孝景(宗淳)を補佐し事実上の当主として東奔西走、若狭守護武田元光を助けて守護代の反乱を鎮圧し、土岐政頼を擁して美濃守護家の家督争いに介入、1527年には将軍足利義晴の要請で率兵上洛し三好勢を掃討して京都を実効支配(管領細川高国の叛心により翌年撤兵)、本願寺の内紛に乗じて加賀一向一揆を攻撃した。守護土岐氏を滅ぼして美濃国獲りを果した斎藤道三に対しては、尾張の織田信秀・近江の六角定頼と提携して掣肘を加えるも、1547年加納口の敗戦により美濃侵出の夢は絶たれた。越中・加賀方面では、一向一揆を追い詰めるも壊滅には至らず、1555年自ら出征して決戦に臨んだが陣中で病に倒れ死の床についた。朝倉宗滴は、生涯現役の宣言どおり最期まで戦い続けたが、領土拡大の成果は乏しく、将軍を擁して天下に覇を唱えることもできなかった。しかし、隣国に武威を示して磐石の越前王国を築き、畿内の戦乱を逃れた公家や文化人を招き入れて一乗谷に京風文化を華開かせ、一方で武芸を奨励し中条流から富田勢源・富田重政・佐々木小次郎らの剣豪を輩出した。京都に近い地勢を占め室町幕府や朝廷に勢力を扶植した朝倉家は天下に最も近いといわれたが、宗滴没後、当主義景をはじめ凡庸な人材揃いで一族や家臣の内紛が起り、一向一揆の反攻を喰って和睦に追込まれ、ようやく越前を保つ有様となった。朝倉宗滴は臨終の際に「あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と語ったというが、その信長の手で18年後に朝倉家は滅ぼされた。

独立を期す毛利元就が束縛の強い尼子経久を離反して統制の緩い大内義興に鞍替え(正式な手切れ通告は1534年の安芸守護武田氏滅亡後)
毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。
1526年
駿河・遠江を征し三河・甲斐へも勢力を伸ばした今川氏親が死去(享年53)、幼い嫡子今川氏輝のために分国法『今川仮名目録』を遺す
今川氏は、北条早雲を先鋒に駿河・遠江・三河を制圧し海道一の弓取りと称されたが、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れ、武田信玄・徳川家康に滅ぼされた名門戦国大名である。1476年駿河守護今川義忠が戦死、扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退けて妹の産んだ氏親を今川家当主に擁立した北条早雲は、論功行賞によって60歳で一城の主となり、今川軍を率いて東奔西走、守護斯波氏を追い払って遠江を今川領に組み込み、自身は伊豆・相模を奪って独立を果した。駿河・遠江の反抗勢力を討平し両国守護に就いた今川氏親は、甲斐・三河へ勢力を伸張、検地や金山開発で経済基盤を固め、分国法『今川仮名目録』を遺し病没した。1536年氏親の嫡子氏輝が後嗣無く死去、次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す国人衆が反乱挙兵するが、北条氏綱の援軍を得た義元が家督争いに勝利した(花倉の乱)。今川義元は三河侵攻に集中すべく武田信虎の娘を妻に迎え和睦するが(甲駿同盟)、怒った北条氏綱は氏親・早雲以来の駿相同盟を解消し東駿河へ侵攻、尾張の織田信秀も三河に攻め寄せた。今川義元は東西挟撃の窮地に立ったが、武田信虎追放、北条氏綱死去、斎藤道三の美濃国獲りに伴う濃尾戦線の加熱と幸運が続き、関東管領上杉氏と結ぶ遠交近攻策で北条氏康を追い詰め東駿河と駿相同盟を回復、1548年三河で織田信秀軍を撃退し(第2次小豆坂の戦い)、岡崎城主松平広忠の死と後嗣(徳川家康)の身柄確保で松平家を属国化した。織田信秀急死と嫡子信長の家督相続で尾張が内乱に陥ると、今川義元は、上杉謙信との対戦で忙しい武田・北条と甲相駿三国同盟を結んで尾張侵攻を開始、松平軍を先鋒に三河の織田勢を掃討し、1560年自ら4万の大軍を率いて攻め込んだが、田楽狭間で織田信長の急襲に遭い討取られた(桶狭間の戦い)。怯懦で享楽に溺れるばかりの嫡子今川氏真は隣国の好餌となり、織田へ寝返った徳川家康に三河を攻め取られ、1569年家康・信玄に遠江・駿河を分捕りにされ滅ぼされた。

薩摩・大隅守護の島津勝久が薩州家島津実久の専横に圧迫され伊作家島津忠良(日新斎)の嫡子島津貴久に15代当主を譲って救助を求めるが、実久の反抗と勝久の寝返り遭って貴久は鹿児島清水城と守護職を奪われ、13年に及ぶ長期内戦に発展、日新斎・貴久は長期戦の構えをとり自領の防備を固めて土豪勢力の取込みを進める
島津氏は近衛氏の荘官として平安時代から南九州を支配する古豪で、初代島津忠久が源頼朝により薩摩・大隅・日向3国の守護に任じられ、元寇以来の九州領主の土着推進政策に従って島津一族も移住を進め、同族間で凌ぎを削りながら勢力を拡大した。島津氏では忠久の頼朝落胤説を伝えるが権威付けのための仮冒とみられ(豊後大友氏も頼朝落胤説を伝える)、秦氏の子孫惟宗氏の裔とする説が有力である。戦国大名の島津氏は、島津一族伊作家の忠良に始まる。応仁の乱後、内輪もめと土豪の台頭で薩摩・大隅守護の島津宗家は衰亡し、薩州家島津実久の専横に圧迫された14代当主島津勝久は有力者島津忠良の嫡子貴久に15代当主を譲って救助を求めるが、実久の抗戦と勝久の寝返りで貴久は鹿児島清水城と守護職を奪われ、内戦は13年に及んだ。凡愚な勝久が国人衆に見放され再び実久と抗争を始めると、忠良(日新斎)・貴久は反攻を開始、加世田別府城・市来鶴丸城の戦いに勝利して実久を降伏させ、鹿児島内城に入って島津宗家の家督と守護職を奪回、火種の勝久も追放した。島津貴久は、有力国人入来院重聡の娘を娶り、忠良が「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と嘱目した「島津四兄弟」をもうけた。16代当主を継いだ嫡子島津義久は、最初の妻に叔母(忠良の娘)・継室に種子島時尭の娘を迎えたが男児に恵まれなかった。豊臣秀吉に剃髪降伏した義久に代わって第17代当主となった島津義弘は、次男忠恒に家督を継がせ(嫡子久保は朝鮮役で病死)、この系統が幕末の島津斉彬・忠義まで薩摩藩主を継承した。久保・忠恒は義久の娘亀寿の入婿となっている。島津歳久は秀吉の怒りに触れて誅殺されたが、養子忠隣が島津日置家を伝えた。庶子の島津家久は耳川・沖田畷・戸次川戦勝の立役者で義弘と双璧を成したが九州征伐の渦中に病死、嫡子豊久は関ヶ原で壮絶死したが養子忠栄が永吉家を伝えた(次男忠仍は相続を遠慮)。なお、島津製作所の島津家は、播磨の飛び領管理の功で義弘から島津姓と丸十字紋を許された井上惣兵衛の裔という。
1527年
[桂川原の戦い]管領細川高国に弟の香西元盛を殺された波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波で反旗を掲げ征伐軍を撃退して京都へ進軍、阿波の細川晴元・三好元長は三好勝長・政長軍を派遣し京都桂川原で両軍激突、波多野・三好連合軍が勝利し細川高国と将軍足利義晴は近江へ敗走
三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。

将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛し波多野・三好連合軍を掃討して京都を制圧するが、宗滴は高国との対立により翌年撤兵し細川晴元・三好元長が再び京都を奪回
朝倉宗滴は、若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前王国を築いた猛将である。『朝倉孝景条々』で有名な越前守護朝倉孝景(英林)の八男に生れ、朝倉景豊の謀反討伐の功で敦賀郡司に任じられると、1506年19歳のとき九頭竜川の戦いで見事な勝利を収め朝倉軍の指導者となった。本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は一揆勢30万に対し1万ともいわれる圧倒的寡勢で撃退し、吉崎御坊を破却して一揆勢を加賀へ押し返した。甥の幼君朝倉孝景(宗淳)を補佐し事実上の当主として東奔西走、若狭守護武田元光を助けて守護代の反乱を鎮圧し、土岐政頼を擁して美濃守護家の家督争いに介入、1527年には将軍足利義晴の要請で率兵上洛し三好勢を掃討して京都を実効支配(管領細川高国の叛心により翌年撤兵)、本願寺の内紛に乗じて加賀一向一揆を攻撃した。守護土岐氏を滅ぼして美濃国獲りを果した斎藤道三に対しては、尾張の織田信秀・近江の六角定頼と提携して掣肘を加えるも、1547年加納口の敗戦により美濃侵出の夢は絶たれた。越中・加賀方面では、一向一揆を追い詰めるも壊滅には至らず、1555年自ら出征して決戦に臨んだが陣中で病に倒れ死の床についた。朝倉宗滴は、生涯現役の宣言どおり最期まで戦い続けたが、領土拡大の成果は乏しく、将軍を擁して天下に覇を唱えることもできなかった。しかし、隣国に武威を示して磐石の越前王国を築き、畿内の戦乱を逃れた公家や文化人を招き入れて一乗谷に京風文化を華開かせ、一方で武芸を奨励し中条流から富田勢源・富田重政・佐々木小次郎らの剣豪を輩出した。京都に近い地勢を占め室町幕府や朝廷に勢力を扶植した朝倉家は天下に最も近いといわれたが、宗滴没後、当主義景をはじめ凡庸な人材揃いで一族や家臣の内紛が起り、一向一揆の反攻を喰って和睦に追込まれ、ようやく越前を保つ有様となった。朝倉宗滴は臨終の際に「あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と語ったというが、その信長の手で18年後に朝倉家は滅ぼされた。

西村勘九郎(斎藤道三)が革手城を急襲、美濃守護土岐政頼を再び越前朝倉家に敗走させ弟の土岐頼芸を擁立、勘九郎は家老職と本巣郡祐向山城を与えられ美濃国の実力者となる
斎藤道三は、恩人を殺して家名と稲葉山城を乗っ取り、傀儡守護の土岐頼芸まで追放して美濃国盗りを達成したが、最期は嫡子斎藤義龍に誅殺された悪逆無道・戦国随一の梟雄である。「美濃の蝮」の下克上物語は親子二代の事績とする説も有力である(以下は従来説)。父の松波基宗は、代々の禁裏北面の武士ながら朝廷の衰微により帰農して京都西ノ岡に土着、生来利発な息子(道三)の才を惜しみ立身の夢を託して京都妙覚寺に預けた。頭脳明晰で弁舌も爽やかな法蓮房(道三)は将来を嘱望されたが、弟分南陽房の下山を機に還俗して松波庄五郎と名乗り灯油商人となった。禿オヤジのイメージが強いが実は大変な美男子で諸芸に通じていたといい、永楽銭の穴から油を注込む名人芸で評判をとり行商で大繁盛したが、故郷の美濃で常在寺住職となった南陽房(日運)との縁が出世の糸口となった。南陽房の親戚長井長弘の推薦で美濃守護の次男土岐頼芸に仕官すると忽ち信任を獲得、知行地と長井家家老西村家の名跡を与えられて西村勘九郎を名乗り、愛妾深芳野まで下賜された。深芳野は半年後に豊太丸を出産するが、周囲は土岐頼芸の落胤と信じ、これが成人して斎藤義龍となる。翌1527年クーデターを起して土岐政頼を追放し弟の土岐頼芸を美濃守護に擁立、3年後には目の上の瘤長井長弘を謀殺して稲葉山城と家名を押領、東美濃の有力者明智氏から正妻を迎え、美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜と名を改め、美濃一国の実権を掌握した。1541年堪忍袋の緒が切れた土岐一族が挙兵、引責剃髪して斎藤道三と号し頼芸の庇護下で難を逃れたが、翌年には反撃に出て謀主の土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、さすがに怒った土岐頼芸も追放して名実共に美濃国守となり、打倒道三で和解した土岐政頼・頼芸兄弟を担ぐ越前朝倉孝景・尾張織田信秀の連合軍を撃退して反抗勢力を一掃した。1554年家督を斎藤義龍に譲って隠居するも廃嫡を企て、内戦に敗れて63年の生涯を閉じた。救援に駆けつけた娘婿織田信長に美濃の国譲り状を贈ったというが、義龍の子龍興の代に斎藤家は信長に滅ぼされる。

[細沢山の戦い]大内と山名が反尼子で提携、尼子経久は備後に出陣するも陶興房(晴賢)率いる大内軍に敗北、国人衆は尼子から離脱し大内義興が安芸・備後を支配圏に収める
大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。

山内上杉氏の領国上野で惣社長尾顕景・白井長尾景誠が越後の長尾為景に内通するが箕輪城主長野業正に攻められ降伏、西上野を掌握した業正は顕景を隠居させて嫡子景孝に惣社長尾氏を継がせ翌年景誠を暗殺し顕景次男の憲景を白井長尾氏当主に擁立
長野業正は、上野守護代長尾氏を滅ぼして西上野を掌握し、山内上杉氏を承継した上杉謙信に属して北条氏康・武田信玄の猛攻を防ぎ切った箕輪城の勇将、自らの死で謙信の関東侵出は頓挫し後嗣の長野憲業は信玄の猛攻に晒され滅亡した。関東公方足利氏と山内・扇谷の両上杉家が長期内紛で衰退するなか、長享の乱・永正の乱を制した越後長尾氏が台頭し長尾為景は越後守護上杉房能を弑殺し攻め寄せた関東管領山内上杉顕定(房能の実兄)も討殺、関東では今川・北条が扇谷上杉領を侵食し群雄割拠する戦国下克上に突入した。山内上杉家に仕える長野業正は、長享の乱で降した扇谷上杉朝良の娘を娶り12人もの女児を次々土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を扶植、1527年長尾為景に靡いた惣社長尾顕景・白井長尾景誠を降し両守護代家に傀儡当主を据えて西上野を掌握した。1546年関東管領上杉憲政が上杉朝定・古河公方足利晴氏と同盟し圧倒的大軍で北条氏康を攻めるが「地黄八幡」北条綱成の「日本三大奇襲」に遭い致命的敗北、古河公方は北条の傀儡に堕し朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡、憲政は命からがら上野平井城へ落延びるも山内上杉家は没落した(河越夜戦)。長野業正は、嫡子吉業を河越夜戦で喪いながら国人の結束を固めて西上野を堅持し、憲政を保護し山内上杉氏の家督を譲られた上杉謙信(為景の後嗣)に臣従、1552年「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止めた。1557年川中島の戦いで対峙する謙信の後方撹乱を期す武田信玄が西上野侵攻を開始、長野業正は上野国人を糾合して迎え撃ち、足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍を務めて鮮やかな退却戦を演じ、箕輪城に籠ると夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し謙信の来援を得て防衛に成功、信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と慨嘆させた。長野業正は老骨に鞭打って西上野を守り抜いたが寿命には勝てず1561年70歳で病没、信玄は「これで上野を手に入れたも同然」と直ちに猛攻を仕掛け柱石を喪った上杉勢は瓦解、後嗣の長野業盛は謙信の助勢を得て奮闘したが1566年箕輪城陥落と共に上野長野氏は滅亡した。
1529年
日明・朝鮮貿易を牛耳り周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前に君臨した大内氏絶頂期の当主大内義興が死去(享年52)、嫡子の大内義隆が家督を継ぐが京都を凌ぐ文化都市となった周防山口で遊芸に溺れ家運は傾く
大内氏は、6世紀に渡来した朝鮮王族(百済聖明王の子琳聖太子とも任那爾利久牟王とも)の末裔で、上陸地の周防多々良浜に因んで多々良姓を称し、住地の周防吉敷郡大内村(山口近郊)から名字を採り、平安末期には周防の支配者となった。9代目の大内弘世は南朝から足利尊氏・北朝に帰順して防府・周防の守護職を獲得し本拠を山口へ移転、次の大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して南北朝合一に貢献し日明・朝鮮貿易の元締となって富強を飛躍的に増大させ周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国を領する守護大名となった。室町期の大内氏は幕府の干渉で家督争いが頻発し北九州を巡る大友氏・少弐氏との抗争で衰えたが、14代目の大内政弘(妻は山名宗全の養女)は応仁の乱で西軍主力として活躍し周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配圏に収め、大内教幸の反乱を討平し権臣の陶弘護を謀殺して家中を掌握した。政弘の嫡子大内義興は、挙兵上洛して足利義稙を将軍に復位させ管領代・山城守護を兼ねたが、尼子経久に領国を脅かされて山口へ帰還、尼子軍を破って安芸・備後を制圧した後に病没した。義興は冤罪で誅殺した内藤弘矩の娘を娶り、嫡子義隆をもうけた。娘は重臣の吉見隆頼(のち弟の正頼へ再嫁)、細川持隆(阿波守護)、足利義維(堺公方)などに嫁がせ、大友義鑑に嫁いだ娘は宗麟・義長を産んだ。大内義隆は、京都を凌ぐ文化都市に発展した山口で大内氏の全盛期を謳歌したが、重臣(元男色相手)の陶晴賢の謀反で嫡子義尊と共に殺害され戦国大名大内氏はあっけなく滅亡、陶は大内義長を傀儡当主に担ぎ大内家を簒奪したが主従共に毛利元就に滅ぼされた。宗麟の後方撹乱策に利用され毛利氏に討たれた大内輝弘は政弘の次男高弘の子(義興の甥)である。大内政弘・義興・義隆の嫡流は断絶したが、10代義弘の次男大内持盛の子孫が生残り、故地に因んで山口に改姓した重政が名家を惜しむ徳川家康に拾われて常陸国牛久1万5千石の藩主となり幕末まで存続した。 

 

1530年
西村勘九郎(斎藤道三)が仕官の恩人長井長弘夫婦を謀殺、美濃稲葉山城と家名を押領し長井新九郎利政(後に秀竜)へ改名、近江守護佐々木義秀の後援も得て土岐頼芸を担いで美濃一国の実権を掌握
斎藤道三は、恩人を殺して家名と稲葉山城を乗っ取り、傀儡守護の土岐頼芸まで追放して美濃国盗りを達成したが、最期は嫡子斎藤義龍に誅殺された悪逆無道・戦国随一の梟雄である。「美濃の蝮」の下克上物語は親子二代の事績とする説も有力である(以下は従来説)。父の松波基宗は、代々の禁裏北面の武士ながら朝廷の衰微により帰農して京都西ノ岡に土着、生来利発な息子(道三)の才を惜しみ立身の夢を託して京都妙覚寺に預けた。頭脳明晰で弁舌も爽やかな法蓮房(道三)は将来を嘱望されたが、弟分南陽房の下山を機に還俗して松波庄五郎と名乗り灯油商人となった。禿オヤジのイメージが強いが実は大変な美男子で諸芸に通じていたといい、永楽銭の穴から油を注込む名人芸で評判をとり行商で大繁盛したが、故郷の美濃で常在寺住職となった南陽房(日運)との縁が出世の糸口となった。南陽房の親戚長井長弘の推薦で美濃守護の次男土岐頼芸に仕官すると忽ち信任を獲得、知行地と長井家家老西村家の名跡を与えられて西村勘九郎を名乗り、愛妾深芳野まで下賜された。深芳野は半年後に豊太丸を出産するが、周囲は土岐頼芸の落胤と信じ、これが成人して斎藤義龍となる。翌1527年クーデターを起して土岐政頼を追放し弟の土岐頼芸を美濃守護に擁立、3年後には目の上の瘤長井長弘を謀殺して稲葉山城と家名を押領、東美濃の有力者明智氏から正妻を迎え、美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜と名を改め、美濃一国の実権を掌握した。1541年堪忍袋の緒が切れた土岐一族が挙兵、引責剃髪して斎藤道三と号し頼芸の庇護下で難を逃れたが、翌年には反撃に出て謀主の土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、さすがに怒った土岐頼芸も追放して名実共に美濃国守となり、打倒道三で和解した土岐政頼・頼芸兄弟を担ぐ越前朝倉孝景・尾張織田信秀の連合軍を撃退して反抗勢力を一掃した。1554年家督を斎藤義龍に譲って隠居するも廃嫡を企て、内戦に敗れて63年の生涯を閉じた。救援に駆けつけた娘婿織田信長に美濃の国譲り状を贈ったというが、義龍の子龍興の代に斎藤家は信長に滅ぼされる。

[田手畷の戦い]少弐政資を滅ぼした周防の大内義隆(義興の嫡子)が止めを刺すべく杉興連に軍勢1万を預けて肥前勢福寺城の少弐資元(政資の後嗣)を攻めるが龍造寺家兼が撃退、少弐氏から実権を奪った家兼は大内義隆(義興の嫡子)に通じて独立を図る
龍造寺氏は、平安末期に肥前小津郡龍造寺の地頭となった高木季家を祖とし、室町後期に主家の九州千葉氏と共に肥前守護少弐氏の被官となったが、少弐政資・高経父子が宿敵大内義興に攻め滅ぼされ次男資元は生延びるも少弐氏は肥前の一勢力に没落した。龍造寺家兼は、大内義隆(義興の嫡子)が派遣した杉興連の大軍を撃退して武名を挙げ(田手畷の戦い)、大内義隆(義興の嫡子)と通謀して主君資元を滅ぼし東肥前の戦国大名へ台頭したが、肥前の領袖有馬晴純の助勢を得た少弐一門の馬場頼周の反撃に遭って龍造寺家純・家門の二児と孫4人を殺害された。筑後へ逃れた家兼は柳川城主蒲池鑑盛の力添えで肥前へ攻め戻り頼周・政員父子を討って仇討ちを果したが間もなく病没、虐殺を逃れた曾孫の龍造寺隆信が還俗して家督を継いだ。龍造寺隆信は、後嗣無く死去した龍造寺胤栄の未亡人を娶って龍造寺本家を横領し、政家・家種(江上氏養子)・家信(後藤氏養子)の三児をもうけた。娘は蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の嫡子)に嫁がせたが、隆信は肥後柳川上を奪うため鎮漣を謀殺した。沖田畷の戦いで隆信が斃れた後、嫡子の龍造寺政家は島津義久に降伏し九州征伐を終えた豊臣秀吉から肥前佐賀城32万石を安堵されたが、沖田畷合戦を辛くも生延びた鍋島直茂(隆信の従弟で筆頭重臣)が凡庸な政家に代わって家政を握り関ヶ原合戦では西軍に加担するも巧みな善後策でお咎め無し、龍造寺信周・長信(隆信の弟)を懐柔して政家と嫡子高房に禅譲を迫り佐賀藩簒奪を完遂した(直茂は龍造寺遺臣を慮って藩主には就かず嫡子鍋島勝茂を初代藩主に据えた)。龍造寺高房は江戸桜田藩邸で妻(直茂の養女)を刺殺して自殺を図るも果たせず、佐賀に戻って自殺を遂げ、僅か1ヵ月後に政家も死去した。こうして龍造寺隆信の嫡流は滅ぼされたが、鍋島氏の宥和政策により信周・長信の子孫は龍造寺四家として鍋島一門に準じる優遇を受けた。

将軍足利義政により室町幕府御用絵師に抜擢され漢画の手法で慈照寺銀閣の障壁画や『周茂叔愛蓮図』『山水図』を描いた狩野正信が死去、幕府御用絵師を次いだ嫡子の狩野元信は職業画家集団「狩野派」を興し宮廷絵所預の大和絵土佐派(創始者の土佐光信は元信の舅とも)と日本画壇を二分する勢力へ躍進する
狩野氏は、藤原武智麻呂(南家)の四男乙麿の子孫を称し、平将門の乱の武功により駿河守に任じられた藤原為憲の孫維景が伊豆狩野郷日向堀内に移って狩野を名乗り、4代後の狩野茂光が伊豆大島で蜂起した源為朝征伐に働き伊豆屈指の勢力となった。木崎原の戦いで島津義弘に敗れ没落した(伊東崩れ)伊東義祐の日向伊東氏は茂光の兄の子孫である。狩野茂光は源頼朝の挙兵に参じたが緒戦の石橋山合戦で討死にし嫡子の親光は奥州藤原氏攻めで戦死、子の親成が狩野城を再建したが子孫は執権北条氏や三浦氏に圧迫され小領主に没落した(現存する狩野城跡は「狩野派発祥の地」の看板でPR中)。戦国時代、堀越公方の足利政知・茶々丸に属した狩野氏は北条早雲に滅ぼされたが、その60年前に将軍足利義教に画才を見込まれた一族の狩野正信が幕府御用絵師に採用され(妻は宮廷絵所預で大和絵土佐派を興した土佐光信の娘千代とも)、子の狩野元信は一族男児を悉く画家に仕立て多くの門人を擁して職業画家集団「狩野派」を形成した。元信の後は三男の狩野松栄が継ぎ、その嫡子狩野永徳が織田信長・豊臣秀吉の寵遇を得て狩野派400年の隆盛をもたらした。永徳の後は嫡流の光信・貞信が早世したため次男の狩野孝信が狩野派を承継、嫡子の狩野探幽は京都を去って江戸幕府の御用絵師となり江戸城・大坂城・名古屋城・二条城の障壁画事業を次々成功させて世襲家の地位を磐石にした。『牡丹図』『紅白梅図』の作者で江戸時代も京都に留まり「京狩野」を興した狩野山楽は永徳の養子、『南蛮屏風』の狩野内膳は弟子である。探幽後の狩野派は旗本格の「奥絵師」4家(探幽の鍛冶橋家・弟尚信の木挽町家および分家した浜町家・狩野宗家を継いだ弟安信の中橋家)を頂点に「表絵師」(約15家)、一般町人の需要に応える「町狩野」と階層構造を日本全国に張巡らし幕末まで日本画壇を支配したが、大量均質生産のため技量の習得に重きが置かれ次第に芸術的創造性を失った。明治初期に狩野芳崖と橋本雅邦が日本画壇の重鎮となったが幕府の消滅により狩野派は存立基盤を失い西洋画に主役の座を奪われた。
1531年
[大物崩れ]将軍足利義晴・管領細川高国の挙兵要請に応じた播磨・備前・美作の領袖浦上村宗が京都を奪回、摂津尼崎大物で細川晴元・三好元長軍と対峙し優位に戦局を進めるが村宗を恨む赤松晴政勢の寝返り奇襲により壊滅し村宗は討取られ(嫡子政宗が家督を継ぐが浦上氏は播磨・備前・美作の支配力を失い尼子経久の侵攻で西播磨に追詰められる)高国は尼崎の路傍の民家で自害、永正の錯乱から24年続いた細川政元の養子3人(澄之・澄元・高国)による家督争奪戦が決着するが(晴元は事実上の管領となったが何故か正式襲名せず)、細川晴元と三好元長の権力争いへ移行
細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。
1532年
町衆を中心とする日蓮宗門徒が京都の自治権を掌握し山科本願寺焼打ちなどで他宗派を排斥

本願寺蓮如の子の勢力争いに起因して加賀一向一揆で内紛が発生(享禄の錯乱)、機に乗じた朝倉宗滴は能登畠山氏と提携して出征、手取川付近まで侵攻するが畠山勢壊滅により本願寺と停戦和睦
朝倉宗滴は、若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前王国を築いた猛将である。『朝倉孝景条々』で有名な越前守護朝倉孝景(英林)の八男に生れ、朝倉景豊の謀反討伐の功で敦賀郡司に任じられると、1506年19歳のとき九頭竜川の戦いで見事な勝利を収め朝倉軍の指導者となった。本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は一揆勢30万に対し1万ともいわれる圧倒的寡勢で撃退し、吉崎御坊を破却して一揆勢を加賀へ押し返した。甥の幼君朝倉孝景(宗淳)を補佐し事実上の当主として東奔西走、若狭守護武田元光を助けて守護代の反乱を鎮圧し、土岐政頼を擁して美濃守護家の家督争いに介入、1527年には将軍足利義晴の要請で率兵上洛し三好勢を掃討して京都を実効支配(管領細川高国の叛心により翌年撤兵)、本願寺の内紛に乗じて加賀一向一揆を攻撃した。守護土岐氏を滅ぼして美濃国獲りを果した斎藤道三に対しては、尾張の織田信秀・近江の六角定頼と提携して掣肘を加えるも、1547年加納口の敗戦により美濃侵出の夢は絶たれた。越中・加賀方面では、一向一揆を追い詰めるも壊滅には至らず、1555年自ら出征して決戦に臨んだが陣中で病に倒れ死の床についた。朝倉宗滴は、生涯現役の宣言どおり最期まで戦い続けたが、領土拡大の成果は乏しく、将軍を擁して天下に覇を唱えることもできなかった。しかし、隣国に武威を示して磐石の越前王国を築き、畿内の戦乱を逃れた公家や文化人を招き入れて一乗谷に京風文化を華開かせ、一方で武芸を奨励し中条流から富田勢源・富田重政・佐々木小次郎らの剣豪を輩出した。京都に近い地勢を占め室町幕府や朝廷に勢力を扶植した朝倉家は天下に最も近いといわれたが、宗滴没後、当主義景をはじめ凡庸な人材揃いで一族や家臣の内紛が起り、一向一揆の反攻を喰って和睦に追込まれ、ようやく越前を保つ有様となった。朝倉宗滴は臨終の際に「あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と語ったというが、その信長の手で18年後に朝倉家は滅ぼされた。

[飯盛城の戦い〜天文の錯乱・山科本願寺焼討]細川晴元の側近で播磨守護代の木沢長政が播磨守護畠山義堯に叛逆、三好元長・一秀が畠山に加勢し木沢を飯盛城に追い詰めるが、晴元の誘いに乗った山科本願寺証如・蓮淳が10万もの一向一揆勢を派遣、三好・畠山軍は撃滅され元長・一秀・義堯も討取られるが(切腹した元長は腸を天井に投げつけて壮絶死)、暴徒化した一向一揆勢は奈良を劫掠して京都へ侵入、本願寺と決別した晴元は近江守護六角定頼と法華一揆を動員して一向一揆を撃退、山科本願寺を焼かれた証如は摂津石山御坊(石山本願寺)へ逃避
三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。
1533年
伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。

尼子経久が大物崩れで戦死した浦上村宗の遺領に攻込み備前・美作を奪取、播磨は細川晴元が制圧し村宗の嫡子浦上政宗は西播磨に追詰められる
尼子経久は、流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、死の25年後曾孫の代に元配下の毛利元就に滅ぼされた。京極家家臣で出雲守護代の尼子清定の嫡子に生れ、前半生は不詳だが、税収横領の罪で征伐され流浪生活を送り、1500年42歳のとき月山冨田城を攻め落とし守護塩冶掃部介を討取って出雲を制圧、家督争いに敗れた主家の京極政経を保護したが後継者の吉童子丸を排除した(おそらく謀殺)。一説には、窮乏の流浪生活を経て出雲に舞い戻り、旧臣山中勝重(鹿介の先祖)と鉢屋(賤視された遊芸民)を従え、元旦の千秋万歳と偽って城内に潜入する奇計を用いたという。山陽の盟主大内義興の上洛不在に乗じて近隣諸国へ侵出、石見西部・備後・備中・備前まで勢力を伸ばした尼子経久は、1523年毛利元就の活躍で安芸を勢力圏に収め(鏡山城の戦い)、翌年伯耆も制圧したが、大内・山名の提携成って挟撃の危機に立たされ、1527年陶晴賢率いる大内軍に敗れて安芸・備後の支配権を失い(細沢山の戦い)、西出雲を治める三男塩冶興久の謀反が起って家勢は衰えた。西国統治の特徴で、配下の国人衆は直接の家臣団ではなく、支配力は脆弱であった。大内氏と和睦した尼子経久は、浦上攻めに転じて美作を攻略するが、安芸の盟主に成長し山内方へ寝返った毛利元就の蠢動に悩まされ、1537年嫡孫晴久に家督を譲り隠居した。尼子晴久は、播磨に出征するも背後を脅かされて撤退し、1541年武田信実を担いで大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略と大内家陶晴賢の援軍によりまさかの大敗(吉田郡山城の戦い)、その渦中に尼子経久は月山冨田城で病没した。2年後、勢い付いた大内義隆は大軍を率いて出雲に攻め返すが指揮能力欠如により壊滅的大敗(月山富田城の戦い)、尼子勢は息を吹き返し石見銀山も奪回したが、尼子晴久が病死し、陶晴賢を滅ぼして大内領を征した毛利元就が怒涛の進撃、5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し戦国大名尼子氏は3代で滅亡した。(第二次月山富田城の戦い)。

塚原卜伝が常陸鹿島へ帰国、44歳で漸く塚原安幹の娘を娶り家督を継ぐが新妻が病死したため塚原一族から幹重を養子に迎え嗣子とする
1534年
尾張那古野城主の織田信秀の嫡子に織田信長が出生
織田氏は室町幕府三管領の斯波家(他は細川・畠山)の尾張守護代を世襲した名家だが、信長の家はその末流に過ぎない。尾張守護代の織田家には二流あって、一家は尾張の上四郡を治めて岩倉城に居城し、一家は下四郡を治め斯波氏の当主を守護して清洲に居城した。下織田家(織田大和守家)に織田姓を名乗る3奉行があり、信長の家はその一家に過ぎなかったが、武勇に優れた織田信秀が台頭し尾張の旗頭的地位に成り上がった。信秀は盛んに美濃を攻めたが、斎藤道三に撃退され和睦して娘の帰蝶を信長の妻に迎えた。信秀の死後嫡子織田信長が家督を継いだが、うつけと呼ばれた不良児で家臣は承服せず、守護代織田家も反逆して尾張は内戦状態となった。傅役平手政秀の諌死を乗越え、織田信長は剛腕と粘りを発揮し、主筋の下織田家信友を滅ぼし、再三謀反した弟の織田信行を殺し、上織田家信賢と守護斯波義銀を破って尾張国を平定、続く天下統一戦では兄弟の信広・信興・秀成を含む多くの織田一族を喪った。そして本能寺の変、嫡子信忠が共に討たれ、凡庸な次男信雄と三男信孝に豊臣秀吉の織田家簒奪を防ぐ力はなく、信孝は柴田勝家について滅ぼされ、清洲会議で秀吉に担がれ織田家を継いだ信忠の嫡子秀信(三法師)は関ヶ原合戦で西軍に属し改易された。織田信雄は、徳川家康と組んで秀吉に逆らうも早々に軍門に下り(小牧・長久手の戦い)尾張国を保ったが、小田原征伐後家康旧領への転封命令を愚かにも拒絶し改易された。剃髪入道したが家康の斡旋で赦免され、秀吉の御伽衆に加えられ、豊臣氏滅亡後徳川家への忠節が認められ大和・上野に5万石を与えられた。信雄の裔は出羽天童藩と丹波柏原藩の小大名二家として残った。他の信長の子では、七男信高と九男信貞が高家旗本に列している。信長の弟では、織田信包が秀吉の御伽衆を経て初代柏原藩主となるが、孫の代に後嗣が絶え信雄流に承継された。茶人で名高い織田長益(有楽斎)は、徳川幕府から大和・摂津に3万石を与えられ、裔は芝村藩と柳本藩の小大名二家となり幕末まで存続した。

銀山城主武田光和が重臣熊谷信直との対陣中に急死し安芸守護武田氏は空中分解で断絶、熊谷・宍戸・山内・天野氏等を従え安芸国人の盟主となった毛利元就が正式に尼子経久に手切れを通告し大内義隆へ鞍替え(事実上の転籍は1525年頃)、大内家からの独立も企図する元就は尼子領の備後を襲って領土拡張に励む
天下を獲った織田信長軍団以外で、一代で最大版図を築いた毛利元就の下克上ストーリーはスケール壮大で最も面白い。殊に神業ともいうべき権謀術数は痛快で逸話も多いが、温厚で律儀な一面のせいか卑劣さは感じられない。毛利元就の人生は、疑えば疑えることだらけだ。先ず、父毛利弘元に続き兄で当主の興元も「酒毒」で若死にしている。興元存命なら元就の出世はなかっただろう。続く幸松丸は9歳で亡くなったが、先立って外祖父高橋興光を滅ぼしていることや、既に実権を握る元就の襲封に反発する家臣が多かったことを考えると、謀殺の可能性大とすべきだろう。このとき弟の就勝(元綱とする説もあり)と与党を殺害したともいう。安芸に勢力を伸ばし国人の盟主となった毛利元就にとって、安芸守護の名目を保つ武田氏は最も目障りだった。直接手は下していないが、自派の熊谷信直が武田光和に叛逆し退陣中に光和が急死、毛利派優位の武田家臣団は混乱し後嗣を立てられずに雲散霧消した。吉田郡山城の戦いでは反抗勢力を皆殺しにし、権臣井上元兼一族30人の誅殺も断行している。小早川家と吉川家との養子縁組は各家臣と組んだ露骨な謀略で事後に反対派を粛清しているが、吉川家簒奪は妻妙玖の死の直後という点が心憎い。毛利元就最大の転機は陶晴賢謀反・大内義隆滅亡だが、予て陶叛逆の噂は高く、事変後は即座に陶に属し働いている。尼子と陶の提携・挟撃を恐れる元就は、両家の要である尼子新宮党と江良房栄を除くことを企て、尼子晴久に新宮党を、陶に江良を討たせる計略を成功させている。勝負を賭けた陶晴賢との決戦では、圧倒的な兵数の劣勢を挽回するため狭い厳島におびき寄せる策を立て見事に成就させた。敵方スパイの逆利用や、偽の密書を懐に忍ばせた使者を敵陣で殺して発覚させるといった計略を用いたともいう。「三本の矢」は後世の作為だが、筆まめで律儀な毛利元就は一族郎党に手厚い訓戒を残している。そのなかで「毛利氏が大になったから家臣は面従しているに過ぎない、毛利一族は固く団結して決して心を許すな」という遺訓は謀略王ならではであろう。
1536年
陸奥国の戦国大名伊達稙宗が分国法「塵芥集」を制定
伊達氏は、藤原北家山蔭流の常陸豪族で、源頼朝の奥州藤原氏征伐に従った常陸入道念西が陸奥伊達郡を与えられ所名を冠した。室町幕府に接近し陸奥守護職を得た伊達稙宗は、分国法「塵芥集」など統治体制を整備し、主筋の奥州探題大崎義直(斯波氏)を降して次男義宣を入嗣させ、葛西氏には七男晴清を送込み、羽州探題最上義守(斯波氏)・相馬・蘆名氏も臣従させて南奥羽11郡余に君臨した。勢い盛んな伊達稙宗は娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、自重を説く嫡子晴宗に幽閉されるも脱出し奥羽諸豪を巻込んで6年に及ぶ天文の乱に発展、将軍足利義輝の仲裁により晴宗の家督相続で決着するが伊達氏は求心力を失い、晴宗勝利の立役者蘆名盛氏が台頭した。西山城から出羽米沢城に移った伊達晴宗は、弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し、岩城重隆の娘を娶って六男五女を生し男児は岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児は二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力を回復、将軍義輝より奥州探題に補されたが、相馬盛胤(顕胤の嫡子)の反抗に手を焼いた。後嗣の伊達輝宗は、権臣中野宗時を追放して晴宗を隠居に追込み、蘆名氏と協調しつつ勢力を拡大、織田信長・柴田勝家・北条氏政と提携し新発田重家を支援して上杉景勝を圧迫し、田村清顕の娘愛姫を嫡子政宗の正室に迎え宿敵相馬氏から伊具郡を奪い還して稙宗旧領を回復、蘆名盛隆の横死後幼君亀王丸を後見した。輝宗は最上義守の娘義姫を娶って三児をなし、長男政宗を嫌い次男政道擁立を図る義姫を抑えて18歳の政宗に家督を譲った。伊達政宗は、拉致された輝宗を畠山義継諸共に銃殺し融和路線を放棄、弟の政道を亀王丸の後釜に据える企ては佐竹義重に敗れたが(次男義広が蘆名氏を承継)、義広を攻め滅ぼし諸豪を靡かせて150万石の太守となり、最上義光(義守嫡子)に通じる母義姫を追出し火種の政道を盛毒嫌疑で暗殺した。伊達政宗は十男四女をもうけ、次男忠宗に仙台藩62万石を継がせ、庶長子の秀宗(豊臣秀吉の人質)は宇和島藩10万石を立藩、他の男児は分家の当主に据え、長女は松平忠輝(家康の六男)に嫁がせた。

[花倉の乱]駿河・遠江守護今川氏輝(氏親嫡子)が後嗣無く死去、氏親次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す福島越前守ら国人衆が遠江各地で挙兵するが、北条氏綱の援軍で優勢となった義元方が花倉城を落とし恵探を自害させる
今川氏は、北条早雲を先鋒に駿河・遠江・三河を制圧し海道一の弓取りと称されたが、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れ、武田信玄・徳川家康に滅ぼされた名門戦国大名である。1476年駿河守護今川義忠が戦死、扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退けて妹の産んだ氏親を今川家当主に擁立した北条早雲は、論功行賞によって60歳で一城の主となり、今川軍を率いて東奔西走、守護斯波氏を追い払って遠江を今川領に組み込み、自身は伊豆・相模を奪って独立を果した。駿河・遠江の反抗勢力を討平し両国守護に就いた今川氏親は、甲斐・三河へ勢力を伸張、検地や金山開発で経済基盤を固め、分国法『今川仮名目録』を遺し病没した。1536年氏親の嫡子氏輝が後嗣無く死去、次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す国人衆が反乱挙兵するが、北条氏綱の援軍を得た義元が家督争いに勝利した(花倉の乱)。今川義元は三河侵攻に集中すべく武田信虎の娘を妻に迎え和睦するが(甲駿同盟)、怒った北条氏綱は氏親・早雲以来の駿相同盟を解消し東駿河へ侵攻、尾張の織田信秀も三河に攻め寄せた。今川義元は東西挟撃の窮地に立ったが、武田信虎追放、北条氏綱死去、斎藤道三の美濃国獲りに伴う濃尾戦線の加熱と幸運が続き、関東管領上杉氏と結ぶ遠交近攻策で北条氏康を追い詰め東駿河と駿相同盟を回復、1548年三河で織田信秀軍を撃退し(第2次小豆坂の戦い)、岡崎城主松平広忠の死と後嗣(徳川家康)の身柄確保で松平家を属国化した。織田信秀急死と嫡子信長の家督相続で尾張が内乱に陥ると、今川義元は、上杉謙信との対戦で忙しい武田・北条と甲相駿三国同盟を結んで尾張侵攻を開始、松平軍を先鋒に三河の織田勢を掃討し、1560年自ら4万の大軍を率いて攻め込んだが、田楽狭間で織田信長の急襲に遭い討取られた(桶狭間の戦い)。怯懦で享楽に溺れるばかりの嫡子今川氏真は隣国の好餌となり、織田へ寝返った徳川家康に三河を攻め取られ、1569年家康・信玄に遠江・駿河を分捕りにされ滅ぼされた。

周防の大内義隆(義興の嫡子)に攻められた肥前勢福寺城の少弐資元が降伏開城するが、和睦条件を反故にされ大宰大弐の官職と所領を奪われたうえ攻められて梶峰城で自害(嫡子冬尚は助命される)、義隆に通謀し主君を見捨てた龍造寺家兼は東肥前の戦国大名へ台頭
龍造寺氏は、平安末期に肥前小津郡龍造寺の地頭となった高木季家を祖とし、室町後期に主家の九州千葉氏と共に肥前守護少弐氏の被官となったが、少弐政資・高経父子が宿敵大内義興に攻め滅ぼされ次男資元は生延びるも少弐氏は肥前の一勢力に没落した。龍造寺家兼は、大内義隆(義興の嫡子)が派遣した杉興連の大軍を撃退して武名を挙げ(田手畷の戦い)、大内義隆(義興の嫡子)と通謀して主君資元を滅ぼし東肥前の戦国大名へ台頭したが、肥前の領袖有馬晴純の助勢を得た少弐一門の馬場頼周の反撃に遭って龍造寺家純・家門の二児と孫4人を殺害された。筑後へ逃れた家兼は柳川城主蒲池鑑盛の力添えで肥前へ攻め戻り頼周・政員父子を討って仇討ちを果したが間もなく病没、虐殺を逃れた曾孫の龍造寺隆信が還俗して家督を継いだ。龍造寺隆信は、後嗣無く死去した龍造寺胤栄の未亡人を娶って龍造寺本家を横領し、政家・家種(江上氏養子)・家信(後藤氏養子)の三児をもうけた。娘は蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の嫡子)に嫁がせたが、隆信は肥後柳川上を奪うため鎮漣を謀殺した。沖田畷の戦いで隆信が斃れた後、嫡子の龍造寺政家は島津義久に降伏し九州征伐を終えた豊臣秀吉から肥前佐賀城32万石を安堵されたが、沖田畷合戦を辛くも生延びた鍋島直茂(隆信の従弟で筆頭重臣)が凡庸な政家に代わって家政を握り関ヶ原合戦では西軍に加担するも巧みな善後策でお咎め無し、龍造寺信周・長信(隆信の弟)を懐柔して政家と嫡子高房に禅譲を迫り佐賀藩簒奪を完遂した(直茂は龍造寺遺臣を慮って藩主には就かず嫡子鍋島勝茂を初代藩主に据えた)。龍造寺高房は江戸桜田藩邸で妻(直茂の養女)を刺殺して自殺を図るも果たせず、佐賀に戻って自殺を遂げ、僅か1ヵ月後に政家も死去した。こうして龍造寺隆信の嫡流は滅ぼされたが、鍋島氏の宥和政策により信周・長信の子孫は龍造寺四家として鍋島一門に準じる優遇を受けた。

[天文法華の乱]延暦寺の僧兵約6万人が京都に押し寄せ日蓮宗寺院二十一本山を焼払い門徒を虐殺
1537年
[甲駿同盟・駿相同盟破綻)駿河・遠江守護今川義元が抗争状態にあった甲斐守護武田信虎の娘定恵院を正室に迎え甲駿同盟成立、怒った北条氏綱は今川氏親・北条早雲以来の駿相同盟を解消して東駿河に攻め込み河東地域を奪取
今川氏は、北条早雲を先鋒に駿河・遠江・三河を制圧し海道一の弓取りと称されたが、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れ、武田信玄・徳川家康に滅ぼされた名門戦国大名である。1476年駿河守護今川義忠が戦死、扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退けて妹の産んだ氏親を今川家当主に擁立した北条早雲は、論功行賞によって60歳で一城の主となり、今川軍を率いて東奔西走、守護斯波氏を追い払って遠江を今川領に組み込み、自身は伊豆・相模を奪って独立を果した。駿河・遠江の反抗勢力を討平し両国守護に就いた今川氏親は、甲斐・三河へ勢力を伸張、検地や金山開発で経済基盤を固め、分国法『今川仮名目録』を遺し病没した。1536年氏親の嫡子氏輝が後嗣無く死去、次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す国人衆が反乱挙兵するが、北条氏綱の援軍を得た義元が家督争いに勝利した(花倉の乱)。今川義元は三河侵攻に集中すべく武田信虎の娘を妻に迎え和睦するが(甲駿同盟)、怒った北条氏綱は氏親・早雲以来の駿相同盟を解消し東駿河へ侵攻、尾張の織田信秀も三河に攻め寄せた。今川義元は東西挟撃の窮地に立ったが、武田信虎追放、北条氏綱死去、斎藤道三の美濃国獲りに伴う濃尾戦線の加熱と幸運が続き、関東管領上杉氏と結ぶ遠交近攻策で北条氏康を追い詰め東駿河と駿相同盟を回復、1548年三河で織田信秀軍を撃退し(第2次小豆坂の戦い)、岡崎城主松平広忠の死と後嗣(徳川家康)の身柄確保で松平家を属国化した。織田信秀急死と嫡子信長の家督相続で尾張が内乱に陥ると、今川義元は、上杉謙信との対戦で忙しい武田・北条と甲相駿三国同盟を結んで尾張侵攻を開始、松平軍を先鋒に三河の織田勢を掃討し、1560年自ら4万の大軍を率いて攻め込んだが、田楽狭間で織田信長の急襲に遭い討取られた(桶狭間の戦い)。怯懦で享楽に溺れるばかりの嫡子今川氏真は隣国の好餌となり、織田へ寝返った徳川家康に三河を攻め取られ、1569年家康・信玄に遠江・駿河を分捕りにされ滅ぼされた。

尼子経久と大内氏との石見銀山争奪戦開始、尼子経久は家督を孫の尼子晴久に譲り隠居

豊臣秀吉が尾張国中村の下層民(焙烙売り・賤民とも)の家に出生(父は織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門とも伝わるが不詳、母なかは徳川家康の人質に出した大政所、弟秀長は優秀な副将、姉日秀の子は豊臣秀次、妹あさひは徳川家康に入輿)、20歳前後で織田信長に仕えるまでの事跡は不明(家出して悲惨な放浪生活を送り、武家奉公の最初は今川家臣松下之綱だったとされる)
織田信長に仕える前の豊臣秀吉の事跡は不明だが、本人も語れないほど悲惨な少年期であったと考えられ、少なくとも百姓の子に日吉丸の名はありえない。尾張国中村の出自で、当時賤視された焙烙売り一家の出とも、織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門の子ともいうが、木下は妻ねねの実家の姓であり、秀吉は入婿して木下藤吉郎を名乗ったとする方が信憑性が高い。口減らしのために家を出て放浪生活を送り、行商や盗賊働きもしたであろうが、今川家臣の松下之綱に最初の武家奉公をした話は後に家臣に迎え大名にしたことから事実と考えられる。秀吉の弟豊臣秀長は良き副将だっがた惜しくも早世、徳川家康懐柔のため生母なか(大政所)は人質に送り、中年の妹あさひ(朝日姫)は前夫と引離して入輿させた。「糟糠の妻」の代名詞ねね(北政所)は、加藤清正・福島正則・黒田長政らに敬慕されて反淀殿・石田三成陣営の精神的支柱となり、秀吉没後は徳川家康に誼を通じて実兄の木下家定(足守藩及び日出藩)と養家の浅野長政(広島藩)の三大名家を残した。木下家定の五男小早川秀秋は、秀吉の養子から小早川隆景の養嗣子となり、関ヶ原合戦の寝返りで徳川を勝利に導いて宇喜多秀家旧領の備前岡山55万石に加転封されたが、僅か2年後に狂死し無嗣断絶で改易された。女好きの豊臣秀吉は手当たり次第に励むも体質のせいか後嗣に恵まれず、やっと出来た男児2人は夭逝した。が、浅井長政・市(信長の妹)の長女茶々(淀殿)が鶴松を産み、これも夭逝したが続けて秀頼を出産、57歳にして待望の跡取りを授かった(父親は別人の疑いが濃厚、厳重警護下の不倫は困難であり秀吉が仕組んだ可能性が高い)。耄碌した秀吉は、文禄の役で養子の秀勝(徳川秀忠の正室江の前夫)を戦死させ、家督と関白を譲った秀次を眷属諸共無残に殺害(ともに姉日秀の子)、愛児秀頼の後見を家臣団に哀願して世を去った。豊臣秀頼は、徳川家康の娘千姫を妻に迎え立派に成人したが、大坂夏の陣で嫡子国松と共に滅ぼされた。助命された娘は縁切り寺で有名な天秀尼となり、ほかに求厭上人が秀頼遺児を自称したが、いずれも仏門で秀吉の血脈は途絶えた。
1538年
[第一次国府台合戦]鎌倉から武蔵江戸城まで制圧した北条氏綱に対し、小弓公方足利義明が里見義堯・真里谷信応を誘って下総国府台城で挙兵、家柄と武勇を過信し江戸川渡河中の攻撃策を捨てた義明が嫡子義純・弟基頼もろとも討死、戦線離脱し兵力を温存した安房里見氏が漁夫の利を得て久留里城・大多喜城を落とし房総半島の大半を掌握
北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。

尼子晴久が播磨に侵攻、守護赤松晴政と浦上政宗を敗走させるが三木城主別所就治の抵抗に遭い、安芸戦線を毛利元就に脅かされたため出雲へ撤退
尼子経久は、流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、死の25年後曾孫の代に元配下の毛利元就に滅ぼされた。京極家家臣で出雲守護代の尼子清定の嫡子に生れ、前半生は不詳だが、税収横領の罪で征伐され流浪生活を送り、1500年42歳のとき月山冨田城を攻め落とし守護塩冶掃部介を討取って出雲を制圧、家督争いに敗れた主家の京極政経を保護したが後継者の吉童子丸を排除した(おそらく謀殺)。一説には、窮乏の流浪生活を経て出雲に舞い戻り、旧臣山中勝重(鹿介の先祖)と鉢屋(賤視された遊芸民)を従え、元旦の千秋万歳と偽って城内に潜入する奇計を用いたという。山陽の盟主大内義興の上洛不在に乗じて近隣諸国へ侵出、石見西部・備後・備中・備前まで勢力を伸ばした尼子経久は、1523年毛利元就の活躍で安芸を勢力圏に収め(鏡山城の戦い)、翌年伯耆も制圧したが、大内・山名の提携成って挟撃の危機に立たされ、1527年陶晴賢率いる大内軍に敗れて安芸・備後の支配権を失い(細沢山の戦い)、西出雲を治める三男塩冶興久の謀反が起って家勢は衰えた。西国統治の特徴で、配下の国人衆は直接の家臣団ではなく、支配力は脆弱であった。大内氏と和睦した尼子経久は、浦上攻めに転じて美作を攻略するが、安芸の盟主に成長し山内方へ寝返った毛利元就の蠢動に悩まされ、1537年嫡孫晴久に家督を譲り隠居した。尼子晴久は、播磨に出征するも背後を脅かされて撤退し、1541年武田信実を担いで大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略と大内家陶晴賢の援軍によりまさかの大敗(吉田郡山城の戦い)、その渦中に尼子経久は月山冨田城で病没した。2年後、勢い付いた大内義隆は大軍を率いて出雲に攻め返すが指揮能力欠如により壊滅的大敗(月山富田城の戦い)、尼子勢は息を吹き返し石見銀山も奪回したが、尼子晴久が病死し、陶晴賢を滅ぼして大内領を征した毛利元就が怒涛の進撃、5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し戦国大名尼子氏は3代で滅亡した。(第二次月山富田城の戦い)。
1539年
凡愚な島津勝久が国人衆に見放され再び島津実久と抗争を始めると、島津忠良(日新斎)・貴久父子は反攻を開始、加世田別府城・市来鶴丸城の戦いで実久を降伏させて鹿児島内城に入り、反抗した実久も追放(最後は大友氏を頼り豊後で客死)して島津宗家の家督と薩摩・大隅守護職を奪回、領国に割拠する土豪征伐に乗出す
島津氏は近衛氏の荘官として平安時代から南九州を支配する古豪で、初代島津忠久が源頼朝により薩摩・大隅・日向3国の守護に任じられ、元寇以来の九州領主の土着推進政策に従って島津一族も移住を進め、同族間で凌ぎを削りながら勢力を拡大した。島津氏では忠久の頼朝落胤説を伝えるが権威付けのための仮冒とみられ(豊後大友氏も頼朝落胤説を伝える)、秦氏の子孫惟宗氏の裔とする説が有力である。戦国大名の島津氏は、島津一族伊作家の忠良に始まる。応仁の乱後、内輪もめと土豪の台頭で薩摩・大隅守護の島津宗家は衰亡し、薩州家島津実久の専横に圧迫された14代当主島津勝久は有力者島津忠良の嫡子貴久に15代当主を譲って救助を求めるが、実久の抗戦と勝久の寝返りで貴久は鹿児島清水城と守護職を奪われ、内戦は13年に及んだ。凡愚な勝久が国人衆に見放され再び実久と抗争を始めると、忠良(日新斎)・貴久は反攻を開始、加世田別府城・市来鶴丸城の戦いに勝利して実久を降伏させ、鹿児島内城に入って島津宗家の家督と守護職を奪回、火種の勝久も追放した。島津貴久は、有力国人入来院重聡の娘を娶り、忠良が「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と嘱目した「島津四兄弟」をもうけた。16代当主を継いだ嫡子島津義久は、最初の妻に叔母(忠良の娘)・継室に種子島時尭の娘を迎えたが男児に恵まれなかった。豊臣秀吉に剃髪降伏した義久に代わって第17代当主となった島津義弘は、次男忠恒に家督を継がせ(嫡子久保は朝鮮役で病死)、この系統が幕末の島津斉彬・忠義まで薩摩藩主を継承した。久保・忠恒は義久の娘亀寿の入婿となっている。島津歳久は秀吉の怒りに触れて誅殺されたが、養子忠隣が島津日置家を伝えた。庶子の島津家久は耳川・沖田畷・戸次川戦勝の立役者で義弘と双璧を成したが九州征伐の渦中に病死、嫡子豊久は関ヶ原で壮絶死したが養子忠栄が永吉家を伝えた(次男忠仍は相続を遠慮)。なお、島津製作所の島津家は、播磨の飛び領管理の功で義弘から島津姓と丸十字紋を許された井上惣兵衛の裔という。  
 

 

1541年
[吉田郡山城の戦い]毛利元就に安芸・備後の領地を切取られた尼子晴久が武田光和の遺児武田信実を担ぎ反攻、大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略(12歳の次男吉川元春が家臣の制止を振り切って初陣)と大内家陶隆房(晴賢)の援軍により撃退され尼子久幸(経久の弟)も戦死、武田信実は出雲に逃亡し安芸守護武田氏滅亡、元就は反抗勢力を皆殺にして安芸を制圧
毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。

武田晴信(信玄)が重臣の板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌及び姉婿今川義元と共謀して父武田信虎を駿河へ追放し家督と甲斐守護職を承継、領民は暴虐な信虎の追放を歓迎
甲斐武田氏は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光が甲斐守在任中に生した次男義清を祖とする。清和源氏の名門だが、逸見・甘利・板垣・小笠原・南部・秋山・平賀など甲斐の土豪は概ね同族で、飛び抜けた存在ではなかった。猛将武田信虎は、武力で諸豪を切従え甲斐守護職を獲得、伊沢(石和)から甲府躑躅ヶ崎に居館を移して東信濃に侵出し、遠江守護今川義元に娘を嫁がせ甲駿同盟を結んだ。暴虐な性質で、胎児の発育過程を見るため10人の妊婦の腹を割いたという。嫡子の武田信玄は、信虎が同母弟の信繁を偏愛したため少年期は阿呆な素振りで警戒をかわし、重臣と姉婿今川義元を味方につけて信虎を駿河へ追放し家督を奪った。武田信玄は、継室三条の方(本願寺顕如の妻如春尼の姉)との間に三児を生し、滅ぼした諏訪頼重の娘で「かくれなき美人」諏訪御料人を強引に側室にして四男勝頼を産ませた。嫡子の武田義信は優秀だったが今川氏真(正室の兄)を庇い駿河侵攻を狙う信玄と対立、謀反の嫌疑で廃嫡・自害させられた。次男信親は盲人で三男信之は夭逝したため、信玄は四男勝頼(公式には勝頼の嫡子信勝・生母は織田信長の姪で養女)を家督に据えた。長篠の戦いに敗れた武田勝頼は、北条氏政の妹を継室に迎え甲相同盟を固めたが、御館の乱で上杉景勝に乗換え(妹菊姫が入輿)実弟の上杉景虎を殺された氏政は甲相同盟を破棄して織徳同盟へ加盟、織田・徳川・今川が三方から甲斐へ攻込み孤立した勝頼は信勝・郎党90人と共に自害した。信玄娘婿の木曾義昌・穴山信君が寝返り信玄弟の武田信廉を筆頭に諸将悉くが降参するなか、仁科盛信(同五男)・武田信豊(同甥)は意地を貫き死花を咲かせた。勝頼が遺した一女は旗本宮原氏に嫁いで嗣子晴克を産み、信親(信玄次男)の孫信興は柳沢吉保の引立てで武田氏再興を許され表高家に列し、信清(同七男)は上杉景勝に仕え、信俊(同甥)の家も大身の旗本として残った。武田の精強を恐れる信長は根絶やし作戦を展開したが、生延びた遺臣の多くは徳川家康に召抱えられ、選に漏れた者は武蔵多摩に集住し「八王子同心」として武士の面目を許された。近藤勇ら新撰組の多くは八王子同心の家柄である。

美濃国を専断する斎藤秀竜(斎藤道三)に対し土岐頼満(頼芸の弟)・頼次(頼芸の嫡子)らが挙兵、秀竜支持の土岐頼芸は尾張の織田信秀・近江の六角定頼・越前の朝倉孝景に仲裁を依頼し内乱収束、秀竜は引責剃髪し斎藤道三と号す
斎藤道三は、恩人を殺して家名と稲葉山城を乗っ取り、傀儡守護の土岐頼芸まで追放して美濃国盗りを達成したが、最期は嫡子斎藤義龍に誅殺された悪逆無道・戦国随一の梟雄である。「美濃の蝮」の下克上物語は親子二代の事績とする説も有力である(以下は従来説)。父の松波基宗は、代々の禁裏北面の武士ながら朝廷の衰微により帰農して京都西ノ岡に土着、生来利発な息子(道三)の才を惜しみ立身の夢を託して京都妙覚寺に預けた。頭脳明晰で弁舌も爽やかな法蓮房(道三)は将来を嘱望されたが、弟分南陽房の下山を機に還俗して松波庄五郎と名乗り灯油商人となった。禿オヤジのイメージが強いが実は大変な美男子で諸芸に通じていたといい、永楽銭の穴から油を注込む名人芸で評判をとり行商で大繁盛したが、故郷の美濃で常在寺住職となった南陽房(日運)との縁が出世の糸口となった。南陽房の親戚長井長弘の推薦で美濃守護の次男土岐頼芸に仕官すると忽ち信任を獲得、知行地と長井家家老西村家の名跡を与えられて西村勘九郎を名乗り、愛妾深芳野まで下賜された。深芳野は半年後に豊太丸を出産するが、周囲は土岐頼芸の落胤と信じ、これが成人して斎藤義龍となる。翌1527年クーデターを起して土岐政頼を追放し弟の土岐頼芸を美濃守護に擁立、3年後には目の上の瘤長井長弘を謀殺して稲葉山城と家名を押領、東美濃の有力者明智氏から正妻を迎え、美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜と名を改め、美濃一国の実権を掌握した。1541年堪忍袋の緒が切れた土岐一族が挙兵、引責剃髪して斎藤道三と号し頼芸の庇護下で難を逃れたが、翌年には反撃に出て謀主の土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、さすがに怒った土岐頼芸も追放して名実共に美濃国守となり、打倒道三で和解した土岐政頼・頼芸兄弟を担ぐ越前朝倉孝景・尾張織田信秀の連合軍を撃退して反抗勢力を一掃した。1554年家督を斎藤義龍に譲って隠居するも廃嫡を企て、内戦に敗れて63年の生涯を閉じた。救援に駆けつけた娘婿織田信長に美濃の国譲り状を贈ったというが、義龍の子龍興の代に斎藤家は信長に滅ぼされる。

父北条早雲が征した伊豆・相模を固め武蔵・駿河に勢力を伸ばした北条氏綱が死去、嫡子北条氏康が打倒上杉氏・関東制覇の遺志を継ぐ
北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。

流浪の身から最盛期には山陰・山陽11ヶ国に君臨した尼子経久が月山富田城にて病没(享年82)
尼子氏は、近江源氏佐々木氏の末流で、佐々木道誉の孫高久が所領の近江犬上郡尼子から名字を採った。出雲は鎌倉時代初期から佐々木氏の管国で、一時山名氏に奪われたが、応仁の乱後に佐々木(京極)氏が奪回し、高久の次男持久を出雲守護代に任じ月山富田城に拠らしめた。軍記物によると・・・持久を継いだ嫡子の尼子清定は、領民に対して暴悪であったばかりでなく、主家京極氏に叛逆して税収を全部横領、大軍に攻められて敗走し行方知れずのまま世を去った。清定には経久・久幸の二男があり、山深い生母の実家へ落ち延びたが、厄介者に居場所は無く、成長すると養家を出て諸国を流浪、乞食坊主に身をやつして餓死を免れつつ、復讐心と尼子家再興の意志を研ぎ澄ましたという。出雲を回復した尼子経久は、吉川経基の娘を妻に迎え、政久・国久・興久の三男をもうけた。嫡子尼子政久は、智勇に優れた頼もしい跡取りであったが、出雲磨石城攻城戦で運悪く落命、激怒した経久は次男国久に猛攻を命じ城兵悉くを誅殺し、政久の死を惜しみ遺児晴久を後継者とした。尼子国久は、月山富田城東北の新宮谷に拠って戦闘集団新宮党を率い、経久没後は尼子の柱石と頼られたが、権勢を妬む晴久が毛利元就の離間策に嵌り一族諸共殺害した。墓穴を掘った尼子晴久は完全にジリ貧となり、山陽道を制圧し山陰攻めに転じた毛利元就に追い詰められ、悲憤のうちに月山富田城で陣没した。その5年後、後継の嫡子義久が毛利氏に降伏し、(同時ではないが)山陽・山陰11ヶ国に支配を及ぼした戦国大名尼子氏は滅亡した。毛利元就は、尼子氏族滅を主張する吉川元春・小早川隆景らの強硬論を退け、尼子義久・倫久・秀久の三兄弟を助命、義久は関ヶ原合戦後1292石の大禄を与えられて毛利家重臣に列した。義久には男児が無く、倫久の子元知が養嗣子となり、元知の子就易の代に本姓の佐々木に改めて幕末まで存続した。毛利家家臣の福永氏も尼子氏の末裔といわれる。山中鹿介が尼子再興軍の旗印に担ぎ出した尼子勝久は、国久と共に誅殺された嫡子誠久の五男である。
1542年
斎藤道三が反抗勢力の首領土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、これにより対立した傀儡の美濃守護土岐頼芸の大桑城を急襲、土岐頼芸・頼次父子は織田信秀を頼って尾張に亡命し斎藤道三が名実ともに美濃一国を平定、土岐頼芸の落胤と考えられていた嫡子斎藤義龍を後継指名して反抗を鎮める
斎藤道三は、恩人を殺して家名と稲葉山城を乗っ取り、傀儡守護の土岐頼芸まで追放して美濃国盗りを達成したが、最期は嫡子斎藤義龍に誅殺された悪逆無道・戦国随一の梟雄である。「美濃の蝮」の下克上物語は親子二代の事績とする説も有力である(以下は従来説)。父の松波基宗は、代々の禁裏北面の武士ながら朝廷の衰微により帰農して京都西ノ岡に土着、生来利発な息子(道三)の才を惜しみ立身の夢を託して京都妙覚寺に預けた。頭脳明晰で弁舌も爽やかな法蓮房(道三)は将来を嘱望されたが、弟分南陽房の下山を機に還俗して松波庄五郎と名乗り灯油商人となった。禿オヤジのイメージが強いが実は大変な美男子で諸芸に通じていたといい、永楽銭の穴から油を注込む名人芸で評判をとり行商で大繁盛したが、故郷の美濃で常在寺住職となった南陽房(日運)との縁が出世の糸口となった。南陽房の親戚長井長弘の推薦で美濃守護の次男土岐頼芸に仕官すると忽ち信任を獲得、知行地と長井家家老西村家の名跡を与えられて西村勘九郎を名乗り、愛妾深芳野まで下賜された。深芳野は半年後に豊太丸を出産するが、周囲は土岐頼芸の落胤と信じ、これが成人して斎藤義龍となる。翌1527年クーデターを起して土岐政頼を追放し弟の土岐頼芸を美濃守護に擁立、3年後には目の上の瘤長井長弘を謀殺して稲葉山城と家名を押領、東美濃の有力者明智氏から正妻を迎え、美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜と名を改め、美濃一国の実権を掌握した。1541年堪忍袋の緒が切れた土岐一族が挙兵、引責剃髪して斎藤道三と号し頼芸の庇護下で難を逃れたが、翌年には反撃に出て謀主の土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、さすがに怒った土岐頼芸も追放して名実共に美濃国守となり、打倒道三で和解した土岐政頼・頼芸兄弟を担ぐ越前朝倉孝景・尾張織田信秀の連合軍を撃退して反抗勢力を一掃した。1554年家督を斎藤義龍に譲って隠居するも廃嫡を企て、内戦に敗れて63年の生涯を閉じた。救援に駆けつけた娘婿織田信長に美濃の国譲り状を贈ったというが、義龍の子龍興の代に斎藤家は信長に滅ぼされる。

武田信虎の諏訪氏懐柔路線を放棄した武田晴信(信玄)が諏訪氏の家督を狙う高遠頼継と提携し妹婿の諏訪頼重を討滅、領土分割案に不満で反旗を挙げた高遠頼継も一蹴、頼重の嫡子寅王丸を擁して諏訪領を掌握したうえ頼重の娘「かくれなき美人」諏訪御料人(武田勝頼生母)を側室とする
武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。

徳川家康(竹千代)が西三河の土豪松平広忠の嫡子として出生(家祖の松平親氏は三河松平郷の庄屋家に婿入りした遊芸僧の徳阿弥、家康の祖父松平清康の代に西三河を制圧したが、清康急死で零落し織田信秀に圧迫された広忠は今川義元に臣従)
松平氏の祖親氏は、もと徳阿弥と名乗る時宗の遊行僧(賤民とも)で、西三河に漂着し松平郷の庄屋家に入婿し、兵力を蓄えて近隣を侵略し相当な土豪となった。この前に徳阿弥が坂井郷の庄屋の娘に産ませた子が酒井氏の祖という。5代目の松平長親は、三河に侵攻した今川氏親軍を撃退し総大将の北条早雲に黒星をつけた傑物で、安祥城に拠って頭角を現した。孫の松平清康も優秀で数年で西三河の大部分を切り従え尾張へ侵出したが、突如家臣に暗殺された。10歳の嫡子広忠は、織田信秀に圧迫され伊勢へ逃亡したが、今川義元に臣従し領地を回復して岡崎城に入った。広忠は三河苅屋城主水野忠政の娘お大を娶り、嫡子竹千代(徳川家康)をもうけたが、水野氏が織田方に属したためお大は離縁され、後に尾張知多郡阿古屋の久松定俊に再嫁した(伊予松山藩祖)。徳川家康は、今川一族の関口親永の娘(10歳上・築山殿)を妻に迎えたが、放置が祟って武田氏に内通し謀反、織田信長の命で嫡子信康と共に殺害した。松平氏は賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河平定を機に徳川(源姓)に改めようだ。この後は朝日姫(豊臣秀吉の妹)以外に正室を置かなかったが、秀吉と違って多くの子宝に恵まれ、優秀な男児は無いものの、婚姻政策は天下獲りの武器となった。実娘を池田輝政(岡山藩・鳥取藩)・浅野長晟(広島藩)、養女を黒田長政(福岡藩)・蜂須賀至鎮(徳島藩)・井伊直政(彦根藩)・鍋島勝茂(佐賀藩)・加藤清正・福島正則らに入輿させ皆大封を与えている。次男松平秀康は、秀吉・結城晴朝の養子を経て越前藩をもらったが、浮気性だった生母のせいか家康に嫌われ、後嗣忠直は逆恨みで狂人となり慰みに家中の男女を虐殺した。2代将軍となった三男徳川秀忠は、関ヶ原合戦で本隊を率いながら真田昌幸の挑発に乗って足止めを食う大失態を犯し、嫉妬深い妻江(信長の姪で淀殿の妹)を恐れ生涯妻妾を置けなかった。家康の男児は皆大藩の主に据えられたが、最年少の義直・頼宣・頼房が尾張・紀州・水戸の徳川御三家の祖となった。
1543年
越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の実兄)の二君を討ち越後を掌握した長尾為景が死去(享年54)、嫡子の長尾晴景が越後守護代を継ぐが弱腰を侮られ国人衆が傀儡守護上杉定実を担いで蜂起、13歳で元服した為景四男の長尾景虎(上杉謙信)は栃尾城の戦いで初陣を飾り連戦連勝で反乱軍を撃破
長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。

[月山富田城の戦い]大内義隆率いる大軍(毛利元就も従軍)が出雲に反攻し尼子晴久の月山富田城に攻込むが吉川興経らの寝返りと補給難により退陣、兵力十分ながら下手な退却戦指揮により被害甚大(備後竹原高山城主小早川正平も戦死)、尼子方が勢いを盛返し大内方から石見銀山も奪還
毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。

[鉄砲伝来]倭寇の頭目王直(五峯)の明船がポルトガル人を乗せて種子島に来航、領主の種子島恵時・時尭父子は火縄銃2挺を購入し刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製に成功、貿易商人を通じて忽ち畿内へ伝播し早くも同年中に和泉堺・紀州根来寺・近江国友などで鉄砲製造がスタート、鉄砲と硝石の調達・鉄砲鍛冶の獲得・鉄砲隊の調練は戦国大名の軍事戦略の要諦となる
鈴木重秀(雑賀孫一)は、鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いて本願寺顕如を援け石山合戦を指揮したが時流を悟り織田信長・豊臣秀吉に帰順、雑賀衆は滅亡したが後継者の鈴木重朝の子孫が水戸藩重臣として存続した。藤白鈴木氏は記紀に登場する穂積氏の嫡流で熊野神社の禰宜を世襲した名門だが、国人割拠の紀伊で戦国大名は育たず、鷺森別院を拠点に紀伊を支配する一向一揆の盟主的立場に留まった。1543年の鉄砲伝来から間もなく紀伊根来寺の津田算長が種子島から火縄銃一挺を持ち帰ると刀鍛冶の多い紀伊や堺で鉄砲製造業が興隆、新兵器を駆使する雑賀衆・根来衆は引張り蛸となったが、1569年堺の自治権を奪った織田信長に硝煙(火薬の主原料で当時は国内で産出せず)の調達を妨害された。雑賀衆首領の鈴木重意は、三好三人衆の要請に応じ根来衆と共に600余の鉄砲隊を率いて織田軍と戦い、1570年石山合戦が始まると次男の鈴木重秀を派遣、用兵にも優れた鈴木重秀は下間頼廉と共に「大坂左右大将」と称された。各地で勃興する一向一揆に手を焼いた織田信長は、本丸の顕如を猛撃するが難攻不落の石山本願寺を落とせず、1577年雑賀衆を排除すべく根来衆を寝返らせ大軍で紀州を制圧すると鈴木重秀は進んで帰順、上杉謙信の急死で信長包囲網が瓦解し顕如も11年に及んだ抗戦を断念した。鉄砲の威力を思い知らされた織田信長は、他の戦国大名に先賭けて鉄砲装備を強化し長篠の戦いで武田騎馬隊を撃滅したが、「三段撃ち」や装填・銃撃分業制は雑賀衆に倣ったものだという。君主権に逆らう宗教勢力や傭兵集団は天下統一の宿敵であり、忍者は天正伊賀の乱で信長に、三島村上水軍・鉄砲集団は海賊停止令・紀州征伐で豊臣秀吉に滅ぼされた。統一政権での生残りを図る鈴木重秀は、1582年土橋守重を謀殺して反対意見を封じるが本能寺の変で主導権を奪われ逃亡、1585年豊臣秀吉は藤堂高虎に命じて鈴木重意を暗殺し大軍を派して雑賀衆・根来衆を殲滅した。鈴木重秀は子の孫一郎を人質に出して秀吉に帰順、没後に家督を継いだ弟の鈴木重朝は1万石で秀吉に仕え徳川家康に転じて鈴木家を保った。
1544年
土岐政頼と土岐頼芸が打倒斎藤道三で和解・連携し越前朝倉孝景・尾張織田信秀の加勢を得て南北から美濃国に侵攻、斎藤道三は防衛に成功し政頼を革手城に・頼芸を揖斐北方城に迎え入れる条件で停戦合意
斎藤道三は、恩人を殺して家名と稲葉山城を乗っ取り、傀儡守護の土岐頼芸まで追放して美濃国盗りを達成したが、最期は嫡子斎藤義龍に誅殺された悪逆無道・戦国随一の梟雄である。「美濃の蝮」の下克上物語は親子二代の事績とする説も有力である(以下は従来説)。父の松波基宗は、代々の禁裏北面の武士ながら朝廷の衰微により帰農して京都西ノ岡に土着、生来利発な息子(道三)の才を惜しみ立身の夢を託して京都妙覚寺に預けた。頭脳明晰で弁舌も爽やかな法蓮房(道三)は将来を嘱望されたが、弟分南陽房の下山を機に還俗して松波庄五郎と名乗り灯油商人となった。禿オヤジのイメージが強いが実は大変な美男子で諸芸に通じていたといい、永楽銭の穴から油を注込む名人芸で評判をとり行商で大繁盛したが、故郷の美濃で常在寺住職となった南陽房(日運)との縁が出世の糸口となった。南陽房の親戚長井長弘の推薦で美濃守護の次男土岐頼芸に仕官すると忽ち信任を獲得、知行地と長井家家老西村家の名跡を与えられて西村勘九郎を名乗り、愛妾深芳野まで下賜された。深芳野は半年後に豊太丸を出産するが、周囲は土岐頼芸の落胤と信じ、これが成人して斎藤義龍となる。翌1527年クーデターを起して土岐政頼を追放し弟の土岐頼芸を美濃守護に擁立、3年後には目の上の瘤長井長弘を謀殺して稲葉山城と家名を押領、東美濃の有力者明智氏から正妻を迎え、美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜と名を改め、美濃一国の実権を掌握した。1541年堪忍袋の緒が切れた土岐一族が挙兵、引責剃髪して斎藤道三と号し頼芸の庇護下で難を逃れたが、翌年には反撃に出て謀主の土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、さすがに怒った土岐頼芸も追放して名実共に美濃国守となり、打倒道三で和解した土岐政頼・頼芸兄弟を担ぐ越前朝倉孝景・尾張織田信秀の連合軍を撃退して反抗勢力を一掃した。1554年家督を斎藤義龍に譲って隠居するも廃嫡を企て、内戦に敗れて63年の生涯を閉じた。救援に駆けつけた娘婿織田信長に美濃の国譲り状を贈ったというが、義龍の子龍興の代に斎藤家は信長に滅ぼされる。

尼子晴久勢が月山富田城の戦いで戦死した小早川正平の備後竹原高山城に侵攻するが毛利元就出陣により撤退、正平の嫡子又鶴丸が盲目のため毛利元就が三男又四郎を婿養子に送り込む(元服後に又鶴丸一派を粛清して家督を継ぎ小早川隆景を名乗る)
毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長36万石に大減封された。
1545年
[河東一乱]駿河・遠江守護今川義元が関東管領山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興後嗣)と連携し富士川を越えて東駿河へ侵攻、北条綱成の武蔵河越城も攻囲され北条氏康は挟撃の危地に陥るが、武田晴信(信玄)の斡旋で河東地域割譲を条件に今川と和睦し河越城救援に向かう
北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。
1546年
[河越夜戦(日本三大奇襲)]北条氏康と関東管領上杉憲政・上杉朝定・古河公方足利晴氏(氏康の妹婿)の連合軍が武蔵河越で決戦、圧倒的寡勢の北条軍は「地黄八幡」北条綱成の奇襲で完勝し、朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡・上野平井城に落延びた憲政の山内上杉家も没落・晴氏は幽閉され氏康が立てた傀儡の次男義氏(氏康娘婿)に古河公方職を奪われ、祖父早雲以来の悲願である打倒上杉氏を果した北条氏康は関東制覇を睨み越後長尾(上杉謙信)・常陸佐竹・安房里見と対峙
北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。

河越夜戦で関東管領山内上杉憲政に従った上野箕輪城主長野業正が北条氏康に敗れ嫡子吉業を喪うが「箕輪衆」を結束させ西上野の支配圏を堅持(上杉家臣の大胡氏・上泉伊勢守信綱らも長野氏に臣従)、業正は憲政を保護した越後の長尾景虎(上杉謙信)に臣従し北条氏康・武田晴信(信玄)と対峙
長野業正は、上野守護代長尾氏を滅ぼして西上野を掌握し、山内上杉氏を承継した上杉謙信に属して北条氏康・武田信玄の猛攻を防ぎ切った箕輪城の勇将、自らの死で謙信の関東侵出は頓挫し後嗣の長野憲業は信玄の猛攻に晒され滅亡した。関東公方足利氏と山内・扇谷の両上杉家が長期内紛で衰退するなか、長享の乱・永正の乱を制した越後長尾氏が台頭し長尾為景は越後守護上杉房能を弑殺し攻め寄せた関東管領山内上杉顕定(房能の実兄)も討殺、関東では今川・北条が扇谷上杉領を侵食し群雄割拠する戦国下克上に突入した。山内上杉家に仕える長野業正は、長享の乱で降した扇谷上杉朝良の娘を娶り12人もの女児を次々土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を扶植、1527年長尾為景に靡いた惣社長尾顕景・白井長尾景誠を降し両守護代家に傀儡当主を据えて西上野を掌握した。1546年関東管領上杉憲政が上杉朝定・古河公方足利晴氏と同盟し圧倒的大軍で北条氏康を攻めるが「地黄八幡」北条綱成の「日本三大奇襲」に遭い致命的敗北、古河公方は北条の傀儡に堕し朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡、憲政は命からがら上野平井城へ落延びるも山内上杉家は没落した(河越夜戦)。長野業正は、嫡子吉業を河越夜戦で喪いながら国人の結束を固めて西上野を堅持し、憲政を保護し山内上杉氏の家督を譲られた上杉謙信(為景の後嗣)に臣従、1552年「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止めた。1557年川中島の戦いで対峙する謙信の後方撹乱を期す武田信玄が西上野侵攻を開始、長野業正は上野国人を糾合して迎え撃ち、足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍を務めて鮮やかな退却戦を演じ、箕輪城に籠ると夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し謙信の来援を得て防衛に成功、信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と慨嘆させた。長野業正は老骨に鞭打って西上野を守り抜いたが寿命には勝てず1561年70歳で病没、信玄は「これで上野を手に入れたも同然」と直ちに猛攻を仕掛け柱石を喪った上杉勢は瓦解、後嗣の長野業盛は謙信の助勢を得て奮闘したが1566年箕輪城陥落と共に上野長野氏は滅亡した。

[舎利寺の戦い]細川晴元に反逆した将軍足利義晴・細川氏綱・細川政国・遊佐長教の反乱を三好長慶の阿波勢と六角定頼の近江勢が制圧、義晴は逃亡先の近江坂本で隠居し10歳の嫡子足利義輝に13代室町将軍を継がせる(2年後に義晴は晴元と和解して京都に戻り晴元は義輝の将軍就任を承諾する)
足利義輝は、抗争の末に三好長慶に屈服するも諸侯に通じて三好政権打倒を画策、三好三人衆・松永久秀の謀反に斃れたが塚原卜伝直伝「一つの太刀」で奮闘し最後の意地を示した剣豪将軍、弟の足利義昭が織田信長を裏切り室町幕府は滅亡する。12代室町将軍足利義晴の嫡子で、1546年10歳のとき亡命先の近江坂本で将軍位を譲られたが、敵対する管領細川晴元に追われては近江の六角定頼に匿われる無頼生活が続いた。1549年江口の戦いで主君晴元を破った三好長慶が幕政を握ると、足利義晴・義輝は細川晴元に担がれ長慶に抵抗したが、六角定頼の死で勢力を削がれ近江朽木へ退避、1558年京都奪回を試みるも阿波勢の来援で撃破され降伏して5年ぶりに京都へ戻った(北白川の戦い)。傀儡将軍も確保し幕政を牛耳った三好長慶は摂津・阿波を拠点に畿内・四国10ヵ国を制圧したが、剛毅な将軍足利義輝は抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達稙宗・最上義光・武田信玄・上杉謙信・織田信長・斉藤義龍・北条氏政・毛利元就・尼子晴久・大友宗麟・島津貴久らと関係を築き三好政権打倒を目論んだ。宿敵三好長慶の運命は弟の十河一存の病死で一気に暗転、1562年河内の畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢を誘って蜂起すると、和睦工作で窮地を凌ぐも弟の三好実休が戦死し三好家中では戦功著しい松永久秀が台頭(久米田の戦い)、翌年嫡子三好義興に続き細川晴元・細川氏綱も死んで大義名分の管領を喪い、謀反の嫌疑で弟の安宅冬康を誅殺した直後に長慶自身も病没した。足利義輝には好機が到来したが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に先手を打たれ二条御所を急襲されて討死(永禄の変)、三好氏を倒しても誰かに担がれるほか無かったが見事な死様で武門の棟梁の矜持を示した。足利義輝には嗣子が無く、三弟の周ロは殺されたが次弟の足利義昭は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、幕臣の細川藤孝・明智光秀の斡旋工作が実り3年後に織田信長に担がれ最後の室町将軍となる。信長の上洛軍に三好三人衆も六角義賢も蹴散らされ、松永久秀は帰順するも後に謀反して滅ぼされた。

肥前の領袖有馬晴純を後ろ盾に付けた少弐一門の馬場頼周が大内氏への通謀を名分に肥前水ヶ江城の龍造寺家兼を急襲、龍造寺家純・家門の二児と孫4人を殺害されるも家兼は逃亡、筑後柳川城主蒲池鑑盛の力添えで肥前へ攻め戻り鍋島清房・千葉胤連を従えて頼周・政員父子を討滅、間もなく家兼は病没し宝琳寺に預けられていた曾孫の龍造寺隆信が還俗して家督を継ぎ水ヶ江城主となる
龍造寺氏は、平安末期に肥前小津郡龍造寺の地頭となった高木季家を祖とし、室町後期に主家の九州千葉氏と共に肥前守護少弐氏の被官となったが、少弐政資・高経父子が宿敵大内義興に攻め滅ぼされ次男資元は生延びるも少弐氏は肥前の一勢力に没落した。龍造寺家兼は、大内義隆(義興の嫡子)が派遣した杉興連の大軍を撃退して武名を挙げ(田手畷の戦い)、大内義隆(義興の嫡子)と通謀して主君資元を滅ぼし東肥前の戦国大名へ台頭したが、肥前の領袖有馬晴純の助勢を得た少弐一門の馬場頼周の反撃に遭って龍造寺家純・家門の二児と孫4人を殺害された。筑後へ逃れた家兼は柳川城主蒲池鑑盛の力添えで肥前へ攻め戻り頼周・政員父子を討って仇討ちを果したが間もなく病没、虐殺を逃れた曾孫の龍造寺隆信が還俗して家督を継いだ。龍造寺隆信は、後嗣無く死去した龍造寺胤栄の未亡人を娶って龍造寺本家を横領し、政家・家種(江上氏養子)・家信(後藤氏養子)の三児をもうけた。娘は蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の嫡子)に嫁がせたが、隆信は肥後柳川上を奪うため鎮漣を謀殺した。沖田畷の戦いで隆信が斃れた後、嫡子の龍造寺政家は島津義久に降伏し九州征伐を終えた豊臣秀吉から肥前佐賀城32万石を安堵されたが、沖田畷合戦を辛くも生延びた鍋島直茂(隆信の従弟で筆頭重臣)が凡庸な政家に代わって家政を握り関ヶ原合戦では西軍に加担するも巧みな善後策でお咎め無し、龍造寺信周・長信(隆信の弟)を懐柔して政家と嫡子高房に禅譲を迫り佐賀藩簒奪を完遂した(直茂は龍造寺遺臣を慮って藩主には就かず嫡子鍋島勝茂を初代藩主に据えた)。龍造寺高房は江戸桜田藩邸で妻(直茂の養女)を刺殺して自殺を図るも果たせず、佐賀に戻って自殺を遂げ、僅か1ヵ月後に政家も死去した。こうして龍造寺隆信の嫡流は滅ぼされたが、鍋島氏の宥和政策により信周・長信の子孫は龍造寺四家として鍋島一門に準じる優遇を受けた。
1547年
三河岡崎城主松平広忠が6歳の嫡子竹千代(徳川家康)を今川義元へ人質に送るが、駿府へ護送中に家臣戸田康光が裏切り織田信秀に売却、信秀は臣従を強要するが広忠は拒絶、竹千代は危うくも生かされ2年間を尾張で過ごす(織田信長と会った可能性が高い)
徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。

[加納口の戦い]斎藤道三が尾張織田信秀の侵攻軍を撃破し美濃一国を完全平定、土岐政頼自害・土岐頼芸の越前朝倉家亡命で美濃守護土岐氏は滅亡
斎藤道三は、恩人を殺して家名と稲葉山城を乗っ取り、傀儡守護の土岐頼芸まで追放して美濃国盗りを達成したが、最期は嫡子斎藤義龍に誅殺された悪逆無道・戦国随一の梟雄である。「美濃の蝮」の下克上物語は親子二代の事績とする説も有力である(以下は従来説)。父の松波基宗は、代々の禁裏北面の武士ながら朝廷の衰微により帰農して京都西ノ岡に土着、生来利発な息子(道三)の才を惜しみ立身の夢を託して京都妙覚寺に預けた。頭脳明晰で弁舌も爽やかな法蓮房(道三)は将来を嘱望されたが、弟分南陽房の下山を機に還俗して松波庄五郎と名乗り灯油商人となった。禿オヤジのイメージが強いが実は大変な美男子で諸芸に通じていたといい、永楽銭の穴から油を注込む名人芸で評判をとり行商で大繁盛したが、故郷の美濃で常在寺住職となった南陽房(日運)との縁が出世の糸口となった。南陽房の親戚長井長弘の推薦で美濃守護の次男土岐頼芸に仕官すると忽ち信任を獲得、知行地と長井家家老西村家の名跡を与えられて西村勘九郎を名乗り、愛妾深芳野まで下賜された。深芳野は半年後に豊太丸を出産するが、周囲は土岐頼芸の落胤と信じ、これが成人して斎藤義龍となる。翌1527年クーデターを起して土岐政頼を追放し弟の土岐頼芸を美濃守護に擁立、3年後には目の上の瘤長井長弘を謀殺して稲葉山城と家名を押領、東美濃の有力者明智氏から正妻を迎え、美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜と名を改め、美濃一国の実権を掌握した。1541年堪忍袋の緒が切れた土岐一族が挙兵、引責剃髪して斎藤道三と号し頼芸の庇護下で難を逃れたが、翌年には反撃に出て謀主の土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、さすがに怒った土岐頼芸も追放して名実共に美濃国守となり、打倒道三で和解した土岐政頼・頼芸兄弟を担ぐ越前朝倉孝景・尾張織田信秀の連合軍を撃退して反抗勢力を一掃した。1554年家督を斎藤義龍に譲って隠居するも廃嫡を企て、内戦に敗れて63年の生涯を閉じた。救援に駆けつけた娘婿織田信長に美濃の国譲り状を贈ったというが、義龍の子龍興の代に斎藤家は信長に滅ぼされる。

寝返りの常習者吉川興経が毛利元就の仲介で大内義隆に帰順するが家臣団の反抗で強制隠居、毛利元就は次男を養嗣子に入れ新当主吉川元春を擁立(3年後に興経と一族を殺害)、毛利氏は養子戦略(毛利の両川体制)により安芸一国を制圧
毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長36万石に大減封された。
1548年
[上田原の戦い・塩尻峠の戦い]信濃の覇権を賭けて武田晴信(信玄)が葛尾城の村上義清に決戦を挑むが宿老板垣信方・甘利虎泰の戦死を含む大損害を出し侵攻停止、村上義清に呼応した小笠原長時が諏訪に攻め寄せるが再起不能の大敗を喫し深志(松本)林城に逃げ戻る
武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。

連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成
上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。

[第2次小豆坂の戦い]駿遠の今川義元と尾張の織田信秀が三河を巡り決戦、太原雪斎の軍略により勝利した今川氏が三河を支配圏に治め駿河・遠江・三河の太守となる
今川氏は、北条早雲を先鋒に駿河・遠江・三河を制圧し海道一の弓取りと称されたが、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れ、武田信玄・徳川家康に滅ぼされた名門戦国大名である。1476年駿河守護今川義忠が戦死、扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退けて妹の産んだ氏親を今川家当主に擁立した北条早雲は、論功行賞によって60歳で一城の主となり、今川軍を率いて東奔西走、守護斯波氏を追い払って遠江を今川領に組み込み、自身は伊豆・相模を奪って独立を果した。駿河・遠江の反抗勢力を討平し両国守護に就いた今川氏親は、甲斐・三河へ勢力を伸張、検地や金山開発で経済基盤を固め、分国法『今川仮名目録』を遺し病没した。1536年氏親の嫡子氏輝が後嗣無く死去、次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す国人衆が反乱挙兵するが、北条氏綱の援軍を得た義元が家督争いに勝利した(花倉の乱)。今川義元は三河侵攻に集中すべく武田信虎の娘を妻に迎え和睦するが(甲駿同盟)、怒った北条氏綱は氏親・早雲以来の駿相同盟を解消し東駿河へ侵攻、尾張の織田信秀も三河に攻め寄せた。今川義元は東西挟撃の窮地に立ったが、武田信虎追放、北条氏綱死去、斎藤道三の美濃国獲りに伴う濃尾戦線の加熱と幸運が続き、関東管領上杉氏と結ぶ遠交近攻策で北条氏康を追い詰め東駿河と駿相同盟を回復、1548年三河で織田信秀軍を撃退し(第2次小豆坂の戦い)、岡崎城主松平広忠の死と後嗣(徳川家康)の身柄確保で松平家を属国化した。織田信秀急死と嫡子信長の家督相続で尾張が内乱に陥ると、今川義元は、上杉謙信との対戦で忙しい武田・北条と甲相駿三国同盟を結んで尾張侵攻を開始、松平軍を先鋒に三河の織田勢を掃討し、1560年自ら4万の大軍を率いて攻め込んだが、田楽狭間で織田信長の急襲に遭い討取られた(桶狭間の戦い)。怯懦で享楽に溺れるばかりの嫡子今川氏真は隣国の好餌となり、織田へ寝返った徳川家康に三河を攻め取られ、1569年家康・信玄に遠江・駿河を分捕りにされ滅ぼされた。

[天文の乱]奥州探題大崎義直・羽州探題最上義守をはじめ葛西・相馬・蘆名ら南奥羽諸豪を従属させた陸奥守護伊達稙宗(政宗の曽祖父)が娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、猛反発した嫡子伊達晴宗が稙宗を幽閉するが脱出し諸豪を巻込んで6年に及ぶ大乱に発展、室町将軍足利義輝の仲裁により稙宗隠居・晴宗への家督禅譲で決着するが伊達氏は求心力を喪失、稙宗を寝返り晴宗勝利に導いた蘆名盛氏は伊達氏と肩を並べるまでに成長し伊達家中では中野宗時が台頭
伊達氏は、藤原北家山蔭流の常陸豪族で、源頼朝の奥州藤原氏征伐に従った常陸入道念西が陸奥伊達郡を与えられ所名を冠した。室町幕府に接近し陸奥守護職を得た伊達稙宗は、分国法「塵芥集」など統治体制を整備し、主筋の奥州探題大崎義直(斯波氏)を降して次男義宣を入嗣させ、葛西氏には七男晴清を送込み、羽州探題最上義守(斯波氏)・相馬・蘆名氏も臣従させて南奥羽11郡余に君臨した。勢い盛んな伊達稙宗は娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、自重を説く嫡子晴宗に幽閉されるも脱出し奥羽諸豪を巻込んで6年に及ぶ天文の乱に発展、将軍足利義輝の仲裁により晴宗の家督相続で決着するが伊達氏は求心力を失い、晴宗勝利の立役者蘆名盛氏が台頭した。西山城から出羽米沢城に移った伊達晴宗は、弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し、岩城重隆の娘を娶って六男五女を生し男児は岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児は二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力を回復、将軍義輝より奥州探題に補されたが、相馬盛胤(顕胤の嫡子)の反抗に手を焼いた。後嗣の伊達輝宗は、権臣中野宗時を追放して晴宗を隠居に追込み、蘆名氏と協調しつつ勢力を拡大、織田信長・柴田勝家・北条氏政と提携し新発田重家を支援して上杉景勝を圧迫し、田村清顕の娘愛姫を嫡子政宗の正室に迎え宿敵相馬氏から伊具郡を奪い還して稙宗旧領を回復、蘆名盛隆の横死後幼君亀王丸を後見した。輝宗は最上義守の娘義姫を娶って三児をなし、長男政宗を嫌い次男政道擁立を図る義姫を抑えて18歳の政宗に家督を譲った。伊達政宗は、拉致された輝宗を畠山義継諸共に銃殺し融和路線を放棄、弟の政道を亀王丸の後釜に据える企ては佐竹義重に敗れたが(次男義広が蘆名氏を承継)、義広を攻め滅ぼし諸豪を靡かせて150万石の太守となり、最上義光(義守嫡子)に通じる母義姫を追出し火種の政道を盛毒嫌疑で暗殺した。伊達政宗は十男四女をもうけ、次男忠宗に仙台藩62万石を継がせ、庶長子の秀宗(豊臣秀吉の人質)は宇和島藩10万石を立藩、他の男児は分家の当主に据え、長女は松平忠輝(家康の六男)に嫁がせた。
1549年
斎藤道三が織田信秀と和睦し娘の帰蝶を嫡子織田信長に嫁がせる
斎藤道三の実家とされる松波家は、北面の武士として代々朝廷に仕えた家柄だったが、父松波基宗の代に帰農して京都西ノ岡に土着した。当時朝廷の衰微は著しく、公家侍では暮らしが立ち行かなくなったのだろう。斎藤道三は、土岐頼芸に仕官後、長井家家老西村家の遺跡を継いで西村勘九郎を名乗り、次いで恩人長井長弘夫妻殺害で稲葉山城と家名を乗っ取り長井新九郎に改め、最期は美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜となった。道三の号は、土岐氏と美濃国侍の反抗挙兵に遭い剃髪入道した際に称したものである。父松波基宗は左近将監の官職もり実力は無いが家格は田舎の豪族より高かったはずであり、道三が敢えて西村や長井を名乗ったのは松波氏ではなく微賎の出自だったためとする説も説得力がある。斎藤道三は油売り時代に灯油商奈良屋又兵衛の娘を妻としたが、仕官後に離縁したようだ。土岐頼芸から下された深芳野は嫡子斎藤義龍のほかに三男をもうけたが、身分は妾のままであった。正妻は東美濃随一の豪族明智家から迎えた小見の方であり、明智光秀の叔母であるという。斎藤道三は多くの妾と子をなし、家督を争った斎藤義龍・竜重・竜定の兄弟のほか、娘は織田信長(帰蝶)・斎藤利三・稲葉貞通などに嫁がせている。土岐頼芸の落胤と考えられた斎藤義龍は、地侍の慰撫に重宝されたが、頼芸を追い落とした道三を憎み、廃嫡の企てを知ると弟の竜重・竜定を斬殺し道三の居城を急襲、徳望薄い道三は孤立し難なく討ち取った。一見愚鈍な外貌が道三に嫌われたというが、実は蝮の子に恥じない猛将でライバル織田信長にも引けをとらなかったが、道三の祟りか僅か5年後に病死した。家臣に鼻を削がれた道三と同じく顔面が爛れ落ちて死んだという。斎藤家を継いだ嫡子斎藤龍興は凡庸で、竹中半兵衛に稲葉山城を乗取られても発奮せず、織田信長に滅ぼされた。斎藤家は滅亡したが、傍流の井上家や松波家が徳川幕府旗本として存続した。なお、将軍徳川家光の養母として大奥に君臨し稲葉・堀田の幕閣世襲家を樹立した春日局は、道三の娘が嫁いだ斎藤利三の娘だが、生母は継室(稲葉一鉄の娘)で道三の血は引いていない。

[キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)

今川義元と織田信秀の合戦で松平家・岡崎衆は今川方先鋒として三河安祥城を攻略し城主の織田信広(信長の庶兄)を確保(本多忠勝の父本多忠高が戦死)、太原雪斎の献策により竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換が成立・竹千代は駿府に移され当主を人質にとられた松平家は今川の属国となり家臣は虐待され合戦ごとに最前線の危地に送られる
徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。

[江口の戦い〜細川政権崩壊と三好政権発足]三好長慶が細川氏綱・遊佐長教と提携し一門のライバルで細川晴元側近の三好政長を襲撃し政長以下800人を討取る大勝、晴元と将軍足利義輝は六角定頼を頼って近江坂本へ逃亡、三好長慶は細川氏綱を管領に擁立して室町幕府の実権を掌握するが、以後9年も晴元・義輝との抗争は継続、三好家家宰の松永久秀は京都所司代の重職を与えられ40歳で歴史舞台に登場(摂津滝山城主・堺代官も兼務して富を築き三好家中第一の勢力家へ台頭)
三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。 

 

1550年
[中尾城の戦い]江口の戦いで三好長慶に敗れ近江坂本へ逃れた足利義晴が京都へ舞い戻り東山慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城を築くが間もなく陣没、中尾城の将軍足利義輝は細川晴元・六角定頼と共に京都奪還を窺うが三好長逸・十河一存率いる阿波勢が来襲し近江朽木へ追詰められる

[二階崩れの変]豊後・肥後・筑後守護の大友義鑑が長子義鎮の廃嫡を企て反対派の重臣を誅殺するが反撃に遭って擁立を企てた三男到明と共に討取られ(義鎮の陰謀疑惑が濃厚)、大友義鎮(宗麟)が戸次鑑連(立花道雪)の後見を得て家督相続、義鑑に加担した入田親誠は岳父の阿蘇惟豊を頼って肥後に逃れるが鑑連に攻められて自害に追込まれる
大友氏は、鎌倉時代初期から九州北部を支配した名門で、初代能直は母方の波多野氏が所領する相模大友荘から名字を採り、源頼朝に仕えて豊後・筑後守護と鎮西奉行に任じられ島津氏・小弐氏と並ぶ九州御家人の束ね役となった(能直には頼朝落胤説があるが島津忠久と同じく権威付けの仮冒とみられる)。元寇以来の九州領主の土着推進政策に従って大友一族も移住を進め、南北朝時代に北朝に属した大友親世が苦戦の末に南朝勢力の盟主菊池武朝を撃破、九州平定が成ると豊前・肥前・肥後・筑前を併せて6ヶ国の太守となり今川了俊から九州探題職を奪った。戦国時代になると周防の大内義興が九州への介入を強め、小弐氏は敗亡の道を辿ったが、19代大友義長は将軍足利義澄の権威を利用して豊後・筑後を保ち、20代義鑑の代に戦国大名へ脱皮した。大友義鑑は武勇に加え南蛮貿易を推進した経世家であったが、長子義鎮(宗麟)を廃嫡して末子到明を立てようと企て反対派重臣を誅殺、反撃に遭って到明と後妻諸共殺害された(二階崩れの変)。首謀者疑惑が濃厚ながら立花道雪らの後見で家督を継いだ大友宗麟は、宿敵大内氏の滅亡に乗じて6ヶ国の太守に返咲くも、耳川の惨敗で屋台骨が崩れ島津氏に滅亡寸前まで追詰められたが、九州征伐後に嫡子義統が豊後一国37万石を安堵された。身内に非情な大友宗麟は、大友氏から離脱した叔父の菊池義武を謀殺し、大内氏の傀儡当主に提供した弟の義長を捨殺しにしている。大友義統は、戸次川合戦と朝鮮役碧蹄館合戦で敵前逃亡を繰返し豊臣秀吉に「臆病者」の落胤を押されて改易(守護大名大友氏滅亡)、関ヶ原の戦いで西軍総大将毛利輝元の援助を得て九州で大友再興軍を起すが黒田官兵衛に一蹴され(母里多兵衛は妹婿)、流刑地の常陸宍戸で病没した。嫡子大友義乗は徳川家康に拾われたが次の義親の代で無嗣断絶となった。義統の次女は東福門院和子に仕えて佐古の局となり、その嘆願で義統の三男松野正照の子義孝が大友氏の再興を許され子孫は高家旗本として幕末まで命脈を保った。

ポルトガル商船が肥前平戸へ来航し南蛮貿易がスタート、平戸領主松浦隆信と肥前の領袖有馬晴純(大村純忠の実父で有馬晴信の祖父)は貿易の利で勢力を伸ばすがキリスト教は禁断

毛利元就が大内義隆の協力を得て盲人の小早川又鶴丸(戦死した正平の嫡子)を出家に追込み田坂全慶ら反対派を大粛清して婿養子の三男小早川隆景が家督を承継(高山城主に納まった隆景は沼田川対岸に新高山城を築き転居)、竹原・沼田の両小早川家を乗取り安芸・備後沿岸部の支配を確立した元就は大内家からの独立を果たす
毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長36万石に大減封された。

筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)が太平寺の戦いで三好長慶に討たれた木沢長政の残党を次々攻略し柳生家厳・宗厳父子ら国侍衆を降して大和を平定するが病を苦に比叡山へ出奔し死去、2歳の嫡子筒井順慶が後を継ぐが大和は再び国侍衆が割拠する情勢となり三好政権・松永久秀に支配圏を脅かされる(「元の木阿弥」の故事成句あり)
柳生氏は、菅原道真の末裔を称する大和添上郡柳生郷の土豪で、元は春日大社の社人であったが大和を支配した興福寺の傘下に入り、山城・伊賀と隣接する隠れ里に在したことから諜報力と武芸が発達し小領主ながら独特の存在感を現した。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)に反抗するが長政が三好長慶に討たれ降伏、順昭没後は松永久秀(三好権臣)に転じ大和攻略の先棒を担いだ。長慶の死で孤立した久秀は三好勢・筒井順慶(順昭の嫡子)に攻囲されたが織田信長に臣従して局面を打開、久秀を支え柳生の庄2千石を保った家厳は順慶の織田家帰順を機に家督を嫡子宗厳に譲り隠遁した。柳生七郎左衛門(家厳の弟)は、京八流・中条流・神道流を学び柳生家に兵法を興した剣客で松永久秀とも懇意であった(実は名物「平蜘蛛」を譲受けたとも)。七郎左衛門に「当家の宝」と賞された柳生宗厳は、不惑に至って上泉伊勢守信綱に師事し並居る高弟を差置いて一国一人の印可を授かり新陰流正統を受継いだ。豊臣秀長の太閤検地で隠田を摘発され柳生家は全所領を失い一家は離散したが、柳生宗厳が徳川家康に「無刀取り」を披露したことで運が拓け居合わせた五男の柳生宗矩が200石で召抱えられた。長子の柳生厳勝は合戦で不具となったが、宗厳は厳勝次男の利厳の素質を愛し手元に置いて新陰流を授けた。宗厳四男の柳生宗章は小早川秀秋に仕官、小早川家改易に伴い伯耆米子藩に転じるがお家騒動に捲込まれ討死した。大和で西軍大名の諜報蒐集に任じ関ヶ原合戦でも活躍した柳生但馬守宗矩は大和柳生2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に栄進、柳生新陰流は将軍家お家流とされ、大坂陣では秀忠を襲った敵兵7人を瞬時に斬殺、3代将軍徳川家光にも重用され大和柳生藩1万石(のち1万2500石)の大名となった(江戸柳生)。嫡子の柳生十兵衞三厳は剣名を馳せたが早世、三男の柳生宗冬が後を継ぎ柳生藩は幕末まで続いた。柳生兵庫守利厳は(妻は島左近の娘)、加藤清正に仕官するが同僚を斬殺し逐電、流浪10余年を経て尾張藩主徳川義直に仕官し子孫は兵法指南役を世襲した(尾張柳生)。
1551年
一代で尾張国の旗頭に成り上がった織田信秀が死去、うつけの悪評が高い嫡子織田信長が家督相続、主筋の清洲城主織田信友が反逆し柴田勝家・林秀貞ら宿老も織田信行(信長の同母弟)擁立を企て尾張は内戦状態となる
織田氏は室町幕府三管領の斯波家(他は細川・畠山)の尾張守護代を世襲した名家だが、信長の家はその末流に過ぎない。尾張守護代の織田家には二流あって、一家は尾張の上四郡を治めて岩倉城に居城し、一家は下四郡を治め斯波氏の当主を守護して清洲に居城した。下織田家(織田大和守家)に織田姓を名乗る3奉行があり、信長の家はその一家に過ぎなかったが、武勇に優れた織田信秀が台頭し尾張の旗頭的地位に成り上がった。信秀は盛んに美濃を攻めたが、斎藤道三に撃退され和睦して娘の帰蝶を信長の妻に迎えた。信秀の死後嫡子織田信長が家督を継いだが、うつけと呼ばれた不良児で家臣は承服せず、守護代織田家も反逆して尾張は内戦状態となった。傅役平手政秀の諌死を乗越え、織田信長は剛腕と粘りを発揮し、主筋の下織田家信友を滅ぼし、再三謀反した弟の織田信行を殺し、上織田家信賢と守護斯波義銀を破って尾張国を平定、続く天下統一戦では兄弟の信広・信興・秀成を含む多くの織田一族を喪った。そして本能寺の変、嫡子信忠が共に討たれ、凡庸な次男信雄と三男信孝に豊臣秀吉の織田家簒奪を防ぐ力はなく、信孝は柴田勝家について滅ぼされ、清洲会議で秀吉に担がれ織田家を継いだ信忠の嫡子秀信(三法師)は関ヶ原合戦で西軍に属し改易された。織田信雄は、徳川家康と組んで秀吉に逆らうも早々に軍門に下り(小牧・長久手の戦い)尾張国を保ったが、小田原征伐後家康旧領への転封命令を愚かにも拒絶し改易された。剃髪入道したが家康の斡旋で赦免され、秀吉の御伽衆に加えられ、豊臣氏滅亡後徳川家への忠節が認められ大和・上野に5万石を与えられた。信雄の裔は出羽天童藩と丹波柏原藩の小大名二家として残った。他の信長の子では、七男信高と九男信貞が高家旗本に列している。信長の弟では、織田信包が秀吉の御伽衆を経て初代柏原藩主となるが、孫の代に後嗣が絶え信雄流に承継された。茶人で名高い織田長益(有楽斎)は、徳川幕府から大和・摂津に3万石を与えられ、裔は芝村藩と柳本藩の小大名二家となり幕末まで存続した。

信濃中部まで制圧した武田晴信(信玄)が北信濃に再侵攻、大苦戦に陥るも真田幸隆が謀略で戸石城を攻略、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)に亡命、武田氏は甲斐・信濃二国を制圧
武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。

[大寧寺の変]周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前守護の大内義隆が権臣(元寵童)陶隆房(晴賢)の謀反により自害(嫡子義尊も討たれ戦国大名大内氏は事実上滅亡)、陶は大友義長(宗麟の弟で大内義隆の甥)を義隆の養子に迎えて名目上の当主に担ぎ大内家を簒奪、毛利元就は陶に属して安芸・備後を転戦、陶と同盟した大友義鎮(宗麟)は貿易都市博多を確保し戸次鑑連(立花道雪)が土豪を切従えて大内領の筑前・豊前の実権を掌握し龍造寺隆信ら肥前の大内勢力も一掃
大内氏は、6世紀に渡来した朝鮮王族(百済聖明王の子琳聖太子とも任那爾利久牟王とも)の末裔で、上陸地の周防多々良浜に因んで多々良姓を称し、住地の周防吉敷郡大内村(山口近郊)から名字を採り、平安末期には周防の支配者となった。9代目の大内弘世は南朝から足利尊氏・北朝に帰順して防府・周防の守護職を獲得し本拠を山口へ移転、次の大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して南北朝合一に貢献し日明・朝鮮貿易の元締となって富強を飛躍的に増大させ周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国を領する守護大名となった。室町期の大内氏は幕府の干渉で家督争いが頻発し北九州を巡る大友氏・少弐氏との抗争で衰えたが、14代目の大内政弘(妻は山名宗全の養女)は応仁の乱で西軍主力として活躍し周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配圏に収め、大内教幸の反乱を討平し権臣の陶弘護を謀殺して家中を掌握した。政弘の嫡子大内義興は、挙兵上洛して足利義稙を将軍に復位させ管領代・山城守護を兼ねたが、尼子経久に領国を脅かされて山口へ帰還、尼子軍を破って安芸・備後を制圧した後に病没した。義興は冤罪で誅殺した内藤弘矩の娘を娶り、嫡子義隆をもうけた。娘は重臣の吉見隆頼(のち弟の正頼へ再嫁)、細川持隆(阿波守護)、足利義維(堺公方)などに嫁がせ、大友義鑑に嫁いだ娘は宗麟・義長を産んだ。大内義隆は、京都を凌ぐ文化都市に発展した山口で大内氏の全盛期を謳歌したが、重臣(元男色相手)の陶晴賢の謀反で嫡子義尊と共に殺害され戦国大名大内氏はあっけなく滅亡、陶は大内義長を傀儡当主に担ぎ大内家を簒奪したが主従共に毛利元就に滅ぼされた。宗麟の後方撹乱策に利用され毛利氏に討たれた大内輝弘は政弘の次男高弘の子(義興の甥)である。大内政弘・義興・義隆の嫡流は断絶したが、10代義弘の次男大内持盛の子孫が生残り、故地に因んで山口に改姓した重政が名家を惜しむ徳川家康に拾われて常陸国牛久1万5千石の藩主となり幕末まで存続した。

大友義鎮(宗麟)がフランシスコ=ザビエルを豊後府内に招聘、ザビエルは数千の信者を獲得し2か月滞在後にインドへ去るが(義鎮自身のキリスト教入信は30年後)、キリスト教は大友領内で繁栄し南蛮船・中国船の来航が数倍となって府内は殷賑を極め大友氏は貿易の利を占める
大友宗麟(義鎮)は、父を謀殺して家督を奪い、宿敵大内氏の滅亡に乗じ立花道雪の活躍で豊後・筑後・肥後・豊前・筑前・肥前の6ヶ国を支配したが、享楽と宗教に溺れ耳川の惨敗で運命が暗転、龍造寺隆信に領土を侵食され島津義久に追詰められて滅亡寸前、豊臣秀吉に救われ豊後一国を保つも愚息義統が自滅・改易された九州一の名門大名である。豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に生れ、21歳のとき廃嫡を企てた父を弟諸共に謀殺して家督を奪取(二階崩れの変)、翌1551年に陶晴賢の謀反で大内義隆が滅ぼされると(大寧寺の変)、弟の義長(義隆の甥)を大内家の傀儡当主に差出して陶と同盟し筑前・豊前を獲得、龍造寺隆信・菊池義武(叔父)ら反抗勢力を討平して肥前・肥後も制圧し、小原鑑元・秋月文種らを討って毛利元就の侵入を防いだ。絶頂の大友宗麟は見境無い女漁り(人妻強奪も)と享楽生活に耽って家臣の離反を招き、1562年門司城奪還戦で小早川隆景に大敗、1567年筑前の秋月種実・高橋鑑種・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種が反旗を掲げた。1569年山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱策と立花道雪の奮闘で毛利軍を九州から追出し、離反した龍造寺隆信を大軍で攻めるも大敗して肥前を奪われ(今山の戦い)、1578年伊東義祐の哀願に応じて日向を攻めるも島津義久・家久の「釣り野伏せ」にかかって壊滅的敗北を喫し田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を失い(耳川の戦い)、龍造寺に漁夫の利をさらわれて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで侵食された。耳川合戦直前に改宗した大友宗麟はキリスト教国建設を掲げて行軍中に寺社を破壊、祟りに怯える大友軍の戦意は乏しかった。1584年沖田畷の戦いで龍造寺を斃した島津の大軍が大友領に殺到、大黒柱の立花道雪を病で喪い、岩屋城の高橋紹運は玉砕、立花宗茂の孤軍奮闘で辛うじて筑前を防衛したが、大友宗麟は天下人豊臣秀吉に泣きつくほかなかった。1586年長宗我部元親の先発隊は島津家久に撃退されたが(戸次川の戦い)、秀吉が兵20万余を率いて来援すると島津軍は撤退、秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟は栄枯盛衰の生涯を閉じた。
1552年
南近江守護六角定頼が死去(子の義賢が後継)し庇護者を失った細川晴元派は弱体化、近江朽木に籠る将軍足利義輝は三好長慶に帰順し京都へ帰還するが翌年晴元と共に反乱を起し再び近江朽木へ逃亡
六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。

北条氏康に追い詰められた関東管領上杉憲政が上野平井城を棄て長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に亡命、箕輪城主長野業正は「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止め、業正の援軍要請に応じた景虎は関東に派兵して平井城を奪還するが北条氏を敵に回したうえ北信濃・上野の両戦線で武田晴信(信玄)と対峙する苦境に陥る
上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。

[萱津の戦い]織田信長の家督相続の混乱に乗じて尾張土豪が蜂起、織田信友の下で清洲織田家の実権を握る坂井大膳は信長方の松葉城を攻略するが、反撃に出た織田信長・信光に大敗し清洲城へ撤退〜柴田勝家は敵方の家老を討取り、前田利家は首級を挙げて初陣を飾る
柴田勝家は、織田信長の畿内制圧で台頭し北陸方面軍を託されたが、明智光秀討伐の先を越された豊臣秀吉に主導権を奪われ賤ヶ岳の戦いで滅ぼされた織田家筆頭重臣である。尾張の土豪に生れ、織田信秀に出仕して重鎮となり、嫡子信長の家督相続に次男信行を擁して反抗したが、稲生の戦いに敗れて剃髪謝罪し、信長に帰順して信行暗殺に加担した。上洛戦から重用され、南近江長光寺城の籠城戦では六角義賢を撃退して「瓶割り柴田」の渾名を授かり、各地を転戦して信長包囲網を凌ぎ切った。1573年武田信玄の急死で視界が開けた織田信長は、浅井・朝倉氏を屠り、長篠の戦いで武田氏を殲滅したが、1575年越前で朝倉遺臣の反乱に続き一向一揆が蜂起、総動員で一揆を鎮圧した信長は柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据えて北陸軍団を編成、加賀一向一揆・越後上杉謙信と対峙する構えをとった。この間、足利義昭の将軍擁立や本願寺顕如との和睦に働いた明智光秀、浅井・朝倉攻めの殊勲者豊臣秀吉、伊勢攻略と長島一向一揆平定の滝川一益ら、素性不詳の門外漢が台頭し、勝家・丹羽長秀ら譜代家臣との軋轢が深まった。甲斐征伐を終えた信長は上杉謙信との対決を決意、1577年柴田勝家の大軍を派遣するも加賀南部手取川で迎撃され惨敗、しかし翌年謙信が急死し後継争いで上杉家は弱体化(御館の乱)、秀吉の中国攻めと光秀の丹波攻略を横目に見つつ柴田勝家は攻勢を強め、1580年本願寺顕如の降服で加賀一向一揆が解体されると一気に加賀・能登を制圧、上杉景勝領の越中に殺到した。そして1582年、魚津城を騙し討ちで落とした直後に本能寺事変が勃発、激怒する上杉勢の抵抗に遭った勝家軍は身動きがとれず、神速の中国大返しで駆け戻った秀吉が信長の仇討を果した。直後の清洲会議で秀吉は織田家当主に三法師を擁立し丹波・山城・河内の光秀旧領を獲得、焦る勝家は滝川一益・織田信孝と結び長宗我部元親・紀伊雑賀衆も動かして反抗したが、頼みの丹羽長秀・前田利家に養子の柴田勝豊まで篭絡され、佐久間盛政の軍令違反で大敗、北ノ庄城まで攻め込まれ討ち滅ぼされた(賤ヶ岳の戦い)。
1553年
織田信長の傅役平手政秀が諌死、斎藤道三と娘婿の織田信長が尾張・美濃国境の富田正徳寺で会見・「うつけ者」の悪評が高い信長の異能を感じ取った道三は子孫の臣従を予言
斎藤道三の実家とされる松波家は、北面の武士として代々朝廷に仕えた家柄だったが、父松波基宗の代に帰農して京都西ノ岡に土着した。当時朝廷の衰微は著しく、公家侍では暮らしが立ち行かなくなったのだろう。斎藤道三は、土岐頼芸に仕官後、長井家家老西村家の遺跡を継いで西村勘九郎を名乗り、次いで恩人長井長弘夫妻殺害で稲葉山城と家名を乗っ取り長井新九郎に改め、最期は美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜となった。道三の号は、土岐氏と美濃国侍の反抗挙兵に遭い剃髪入道した際に称したものである。父松波基宗は左近将監の官職もり実力は無いが家格は田舎の豪族より高かったはずであり、道三が敢えて西村や長井を名乗ったのは松波氏ではなく微賎の出自だったためとする説も説得力がある。斎藤道三は油売り時代に灯油商奈良屋又兵衛の娘を妻としたが、仕官後に離縁したようだ。土岐頼芸から下された深芳野は嫡子斎藤義龍のほかに三男をもうけたが、身分は妾のままであった。正妻は東美濃随一の豪族明智家から迎えた小見の方であり、明智光秀の叔母であるという。斎藤道三は多くの妾と子をなし、家督を争った斎藤義龍・竜重・竜定の兄弟のほか、娘は織田信長(帰蝶)・斎藤利三・稲葉貞通などに嫁がせている。土岐頼芸の落胤と考えられた斎藤義龍は、地侍の慰撫に重宝されたが、頼芸を追い落とした道三を憎み、廃嫡の企てを知ると弟の竜重・竜定を斬殺し道三の居城を急襲、徳望薄い道三は孤立し難なく討ち取った。一見愚鈍な外貌が道三に嫌われたというが、実は蝮の子に恥じない猛将でライバル織田信長にも引けをとらなかったが、道三の祟りか僅か5年後に病死した。家臣に鼻を削がれた道三と同じく顔面が爛れ落ちて死んだという。斎藤家を継いだ嫡子斎藤龍興は凡庸で、竹中半兵衛に稲葉山城を乗取られても発奮せず、織田信長に滅ぼされた。斎藤家は滅亡したが、傍流の井上家や松波家が徳川幕府旗本として存続した。なお、将軍徳川家光の養母として大奥に君臨し稲葉・堀田の幕閣世襲家を樹立した春日局は、道三の娘が嫁いだ斎藤利三の娘だが、生母は継室(稲葉一鉄の娘)で道三の血は引いていない。

[第1次川中島の戦い]長尾景虎(上杉謙信)が村上義清・小笠原長時・高梨政頼らの領地返還を求め北信濃に進軍、武田晴信(信玄)軍と対峙し戦闘5回・11年に渡る川中島の戦いが勃発
武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。
1554年
[甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)]武田晴信(信玄)・北条氏康・今川義元が相互に婚姻を結び同盟、三強連携体制で武田は信濃・北条は関東・今川は尾張の攻略に専念

島津貴久に降った大隅加治木城主肝付兼盛を蒲生範清・祁答院良重・入来院重朝ら大隅国人が攻撃するが、島津の援軍が岩剣城の決戦で大隅連合軍を撃滅、貴久の嫡子義久と次男義弘が初陣を果たす
島津義弘は、薩摩・大隅を切り従え日向の伊東義祐・肥後の相良義陽・肥前の龍造寺隆信を滅ぼし大友宗麟を追詰めた島津四兄弟の次男坊、九州制覇の野望は豊臣秀吉に破られたが、朝鮮役泗川の戦い・関ヶ原「島津の退き口」で勇名を馳せた西国最強武将である。島津勝久から島津宗家と薩摩・大隅守護職を奪った島津貴久の次男で、兄義久が家督を継ぐと日向方面を受け持ち伊東義祐の猛攻を凌いだ。1572年貴久の死に乗じて伊東の精兵3千が飯野城を急襲、雑兵300で迎え撃った島津義弘は「釣り野伏せ」戦法で「九州の桶狭間」に快勝(木崎原の戦い)、南九州に武威を轟かせると、翌年長年争った肝付氏らが降伏して島津氏は薩摩・大隅を平定した。1577年伊東義祐を追出して三州統一を達成(伊東崩れ)、翌年大友宗麟の大軍が日向に来襲したが島津義久・家久が撃退(耳川の戦い)、多くの武将を討取られた名門大友氏は骨抜きとなった。矛先を九州西辺に転じた島津軍は、1581年肥後人吉城主の相良義陽を降伏させ、1584年大友氏から独立した龍造寺隆信を攻撃、島原城主有馬晴信の救援に兵3千で乗込んだ島津家久は2万5千の龍造寺軍を湿地帯に誘い入れて殲滅(沖田畷の戦い)、隆信以下重臣悉くを討取る大勝利で肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前を奪取、義弘が阿蘇氏を降して肥後も掌中にした。1586年島津氏は総仕上げの大友征伐を開始、筑前・筑後の義久軍は立花宗茂に苦戦したが、肥後から義弘・日向から家久が本拠の豊後へ侵攻、豊臣秀吉の援軍2万を敵失と「釣り野伏せ」で撃退し府内城を落として宗麟を臼杵城に追詰めた(戸次川の戦い)。しかし翌年、徳川家康を従えた豊臣秀吉が九州征伐を号令、20万余の大軍を前に諸豪は悉く秀吉に靡き、島津軍は日向へ退いて決戦を挑むも敗北(根白坂の戦い)、義弘は徹底抗戦を主張したが当主義久は降伏を選び、島津氏は薩摩・大隅などの本領を安堵された。義久から当主を継いだ島津義弘は、梅北一揆・庄内の乱で家臣を引締め朝鮮出兵で大活躍、西軍に参陣した関ヶ原合戦では敵陣強行突破で武名を上げ、戦後の難局を武備恭順策で乗切り薩摩藩56万石を子の島津忠恒に譲り渡した。

二階崩れの変に乗じて相良晴広ら反大友の肥後国人衆が決起、菊池義武(大友宗麟の叔父)は隈本城に迎えられ菊池家再興を図るが戸次鑑連(立花道雪)率いる大友軍に敗れ自害(名門菊池氏は名実共に滅亡。なお西郷隆盛の家は菊池氏の子孫と称した)、鑑連は反抗勢力を討ち従えて肥後を制圧
立花道雪(戸次鑑連)は、百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱である。大友一族の戸次氏の嫡流で、13歳の初陣以来連戦連勝、1550年二階崩れの変で大友宗麟の家督相続を差配し、翌年陶晴賢の謀反で大内氏が滅亡すると筑前・筑後・肥前・肥後の反抗勢力を一掃した。45歳の道雪は落雷に斬りつけて感電し後遺症で歩行困難となったが、戦場では輿に乗って最前線で指揮を執り「雷神」と称された。1555年陶晴賢を滅ぼし防長経略を果した毛利元就が北九州に侵入、道雪は秋月文種を討って反乱を抑えたが、1562年門司城の戦いに大敗した宗麟が道雪の猛反対を抑えて和睦恭順し反大友陣営を勢いづかせた。「道の雪がその場で消えるように武士も死ぬまで一主君に忠節を尽くすべし」との決意で道雪と号し、享楽と宗教に耽る宗麟を諌め続けた。1567年毛利に通じた秋月種実・高橋鑑種らが挙兵、道雪は一族・重臣を喪う激戦の末に立花山城を攻め落とし筑前・筑後を制圧、肥前の龍造寺隆信討伐に向かうが、来援した毛利軍に立花山城を奪回され、引返した道雪が防戦するうち山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱で毛利軍を退けた。筑前・筑後の軍司令官に就いた立花道雪は、筑前守護職に補され立花氏の名跡と立花山城を承継し、高橋紹運・立花宗茂らを統率して大友領を死守した。1578年大友宗麟が道雪の制止を振り切って島津討伐に乗出すが(宗麟は道雪を従軍させず)耳川合戦で壊滅的大敗、龍造寺隆信の台頭を許し、1584年その龍造寺を斃した島津軍が大友領へ殺到、立花道雪は豊後へ長駆して宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家の援軍が撤退するなか高良山に布陣して3倍の敵軍を撃破するが、柳川攻城中に力尽き「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言して陣没した。大黒柱を喪った大友氏は滅亡寸前に追込まれたが、豊臣秀吉の九州征伐で辛うじて豊後一国を保った。
1555年
織田信長に内通した尾張守護斯波義統を清洲城主織田信友が殺害、嫡子斯波義銀を保護した信長は叔父の守山城主織田信光と協力して主筋の信友を討ち(織田大和守家滅亡)清洲城と守護所を奪取
織田氏は室町幕府三管領の斯波家(他は細川・畠山)の尾張守護代を世襲した名家だが、信長の家はその末流に過ぎない。尾張守護代の織田家には二流あって、一家は尾張の上四郡を治めて岩倉城に居城し、一家は下四郡を治め斯波氏の当主を守護して清洲に居城した。下織田家(織田大和守家)に織田姓を名乗る3奉行があり、信長の家はその一家に過ぎなかったが、武勇に優れた織田信秀が台頭し尾張の旗頭的地位に成り上がった。信秀は盛んに美濃を攻めたが、斎藤道三に撃退され和睦して娘の帰蝶を信長の妻に迎えた。信秀の死後嫡子織田信長が家督を継いだが、うつけと呼ばれた不良児で家臣は承服せず、守護代織田家も反逆して尾張は内戦状態となった。傅役平手政秀の諌死を乗越え、織田信長は剛腕と粘りを発揮し、主筋の下織田家信友を滅ぼし、再三謀反した弟の織田信行を殺し、上織田家信賢と守護斯波義銀を破って尾張国を平定、続く天下統一戦では兄弟の信広・信興・秀成を含む多くの織田一族を喪った。そして本能寺の変、嫡子信忠が共に討たれ、凡庸な次男信雄と三男信孝に豊臣秀吉の織田家簒奪を防ぐ力はなく、信孝は柴田勝家について滅ぼされ、清洲会議で秀吉に担がれ織田家を継いだ信忠の嫡子秀信(三法師)は関ヶ原合戦で西軍に属し改易された。織田信雄は、徳川家康と組んで秀吉に逆らうも早々に軍門に下り(小牧・長久手の戦い)尾張国を保ったが、小田原征伐後家康旧領への転封命令を愚かにも拒絶し改易された。剃髪入道したが家康の斡旋で赦免され、秀吉の御伽衆に加えられ、豊臣氏滅亡後徳川家への忠節が認められ大和・上野に5万石を与えられた。信雄の裔は出羽天童藩と丹波柏原藩の小大名二家として残った。他の信長の子では、七男信高と九男信貞が高家旗本に列している。信長の弟では、織田信包が秀吉の御伽衆を経て初代柏原藩主となるが、孫の代に後嗣が絶え信雄流に承継された。茶人で名高い織田長益(有楽斎)は、徳川幕府から大和・摂津に3万石を与えられ、裔は芝村藩と柳本藩の小大名二家となり幕末まで存続した。

第2次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。

朝倉宗滴が越後の長尾景虎(上杉謙信)に呼応して加賀一向一揆討伐に出陣、1日で南郷・津葉・千足の3城を落とし大聖寺を攻囲するが、陣中で病に倒れ一乗谷で死去(享年79)、柱石を喪った朝倉氏は凡庸な義景の下で一族や家臣の内紛が頻発し弱体化、一向一揆の反攻に晒され、18年後宗滴が大器を見抜いた織田信長に滅ぼされる
朝倉宗滴は、若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前王国を築いた猛将である。『朝倉孝景条々』で有名な越前守護朝倉孝景(英林)の八男に生れ、朝倉景豊の謀反討伐の功で敦賀郡司に任じられると、1506年19歳のとき九頭竜川の戦いで見事な勝利を収め朝倉軍の指導者となった。本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は一揆勢30万に対し1万ともいわれる圧倒的寡勢で撃退し、吉崎御坊を破却して一揆勢を加賀へ押し返した。甥の幼君朝倉孝景(宗淳)を補佐し事実上の当主として東奔西走、若狭守護武田元光を助けて守護代の反乱を鎮圧し、土岐政頼を擁して美濃守護家の家督争いに介入、1527年には将軍足利義晴の要請で率兵上洛し三好勢を掃討して京都を実効支配(管領細川高国の叛心により翌年撤兵)、本願寺の内紛に乗じて加賀一向一揆を攻撃した。守護土岐氏を滅ぼして美濃国獲りを果した斎藤道三に対しては、尾張の織田信秀・近江の六角定頼と提携して掣肘を加えるも、1547年加納口の敗戦により美濃侵出の夢は絶たれた。越中・加賀方面では、一向一揆を追い詰めるも壊滅には至らず、1555年自ら出征して決戦に臨んだが陣中で病に倒れ死の床についた。朝倉宗滴は、生涯現役の宣言どおり最期まで戦い続けたが、領土拡大の成果は乏しく、将軍を擁して天下に覇を唱えることもできなかった。しかし、隣国に武威を示して磐石の越前王国を築き、畿内の戦乱を逃れた公家や文化人を招き入れて一乗谷に京風文化を華開かせ、一方で武芸を奨励し中条流から富田勢源・富田重政・佐々木小次郎らの剣豪を輩出した。京都に近い地勢を占め室町幕府や朝廷に勢力を扶植した朝倉家は天下に最も近いといわれたが、宗滴没後、当主義景をはじめ凡庸な人材揃いで一族や家臣の内紛が起り、一向一揆の反攻を喰って和睦に追込まれ、ようやく越前を保つ有様となった。朝倉宗滴は臨終の際に「あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と語ったというが、その信長の手で18年後に朝倉家は滅ぼされた。

[厳島の戦い(日本三大奇襲)]乾坤一擲の劣勢挽回を図る毛利元就が反間の計で大内軍を狭い厳島に誘い込み、小早川隆景の調略で村上武吉・村上通康の村上水軍を味方に付け海上封鎖したうえで闇夜に渡海上陸し山上から急襲、大内軍潰走のなか逃げ遅れた陶晴賢は厳島青海苔浦で自害、一気に視界が開けた元就は直ちに大内家乗取りに奔走
毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。

能島村上水軍の村上武吉・来島村上水軍の村上通康が小早川隆景からの「1日だけの味方」要請に勝利を予見し毛利元就の厳島合戦に参戦、村上水軍の手引きで闇夜に紛れて厳島へ渡り退路を封じた毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅、村上水軍は毛利による大内家乗取り(防長経略)に協力して勢力を伸ばし塩飽諸島や備後小早川氏の水軍衆と提携して瀬戸内海を掌握
村上武吉は、毛利元就の厳島合戦に貢献し小早川隆景に属して瀬戸内海を牛耳るが豊臣秀吉に逆らい海賊停止令で命脈を絶たれた村上水軍の頭領、子孫は長州藩士に没落したが秀吉に帰服した同族の来島通総は豊後森藩1万4千石を立藩した。瀬戸内海では藤原純友のころ既に海賊が横行し、南北朝時代に襲撃免除の「帆別銭」(通行料)を確立した村上義弘は「海賊大将」と称された。多島海の芸予諸島では海難事故が頻発し水先案内人の実需も存在した。三家に分かれた村上氏は能島・来島・因島を要塞化して監視・略奪体制を整え「三島村上水軍」と恐れられたが同族間抗争で嫡流能島の村上隆勝が暗殺死、孫の武吉は大内義隆の後援を得て従兄との家督争いを制した。1555年「1日だけの味方」要請に応じた村上武吉は厳島合戦で毛利元就に加勢、村上水軍の手引きで闇夜厳島へ渡った毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅し、村上水軍は防長経略で勢力を伸ばし瀬戸内海を掌握した。1568年村上武吉は毛利氏の伊予出兵に従うが、毛利が九州侵攻に失敗すると大友宗麟に接近、1571年毛利と交戦中の宇喜多直家・浦上宗景に加勢したが小早川隆景に拠点の備前児島本太城を攻落とされ来島・因島水軍も毛利に帰順、能島に孤立した武吉は降参した。顕如の籠る石山本願寺への海上輸送に任じた毛利・村上水軍は九鬼嘉隆の織田水軍を撃退するが、織田信長が大筒・大鉄砲を装備し焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を投入、1578年村上武吉は自ら水軍を率いて決戦を挑むが惨敗した(木津川口の戦い)。1582年信長の毛利攻めに際し来島通総が豊臣秀吉へ寝返り、武吉は来島水軍の拠点を攻落とすが毛利を降した秀吉に返還を迫られ拒絶、四国伊予攻めに率先働いた通総は伊予風早郡1万4千石の大名に栄達したが従軍を拒否した武吉は能島を奪われ小早川家へお預け、1588年海賊停止令で抵抗虚しく村上水軍は解体され、帰順を拒んだ海賊衆は芸予諸島の隅へ逃れ蔑視の対象とされた(家船のルーツとも)。村上武吉は小早川隆景の隠居に伴い子の村上元吉・景親と共に毛利へ帰参、元吉は関ヶ原合戦で戦死し嫡子元武と景親は長州藩の船手組組頭の微職に留まった。

天文の乱を制し家督を継いだ伊達晴宗(政宗の祖父)が弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し男児を岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児を二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力回復に努め、後援する将軍足利義輝をしてより奥州探題に補される
伊達氏は、藤原北家山蔭流の常陸豪族で、源頼朝の奥州藤原氏征伐に従った常陸入道念西が陸奥伊達郡を与えられ所名を冠した。室町幕府に接近し陸奥守護職を得た伊達稙宗は、分国法「塵芥集」など統治体制を整備し、主筋の奥州探題大崎義直(斯波氏)を降して次男義宣を入嗣させ、葛西氏には七男晴清を送込み、羽州探題最上義守(斯波氏)・相馬・蘆名氏も臣従させて南奥羽11郡余に君臨した。勢い盛んな伊達稙宗は娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、自重を説く嫡子晴宗に幽閉されるも脱出し奥羽諸豪を巻込んで6年に及ぶ天文の乱に発展、将軍足利義輝の仲裁により晴宗の家督相続で決着するが伊達氏は求心力を失い、晴宗勝利の立役者蘆名盛氏が台頭した。西山城から出羽米沢城に移った伊達晴宗は、弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し、岩城重隆の娘を娶って六男五女を生し男児は岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児は二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力を回復、将軍義輝より奥州探題に補されたが、相馬盛胤(顕胤の嫡子)の反抗に手を焼いた。後嗣の伊達輝宗は、権臣中野宗時を追放して晴宗を隠居に追込み、蘆名氏と協調しつつ勢力を拡大、織田信長・柴田勝家・北条氏政と提携し新発田重家を支援して上杉景勝を圧迫し、田村清顕の娘愛姫を嫡子政宗の正室に迎え宿敵相馬氏から伊具郡を奪い還して稙宗旧領を回復、蘆名盛隆の横死後幼君亀王丸を後見した。輝宗は最上義守の娘義姫を娶って三児をなし、長男政宗を嫌い次男政道擁立を図る義姫を抑えて18歳の政宗に家督を譲った。伊達政宗は、拉致された輝宗を畠山義継諸共に銃殺し融和路線を放棄、弟の政道を亀王丸の後釜に据える企ては佐竹義重に敗れたが(次男義広が蘆名氏を承継)、義広を攻め滅ぼし諸豪を靡かせて150万石の太守となり、最上義光(義守嫡子)に通じる母義姫を追出し火種の政道を盛毒嫌疑で暗殺した。伊達政宗は十男四女をもうけ、次男忠宗に仙台藩62万石を継がせ、庶長子の秀宗(豊臣秀吉の人質)は宇和島藩10万石を立藩、他の男児は分家の当主に据え、長女は松平忠輝(家康の六男)に嫁がせた。

北条氏康が上野大胡城を攻略するが箕輪城主長野業正が奪回、主君の大胡氏と共に長野家臣団に編入された上泉伊勢守信綱(上泉城主)は武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦して武名を轟かせ同時に新陰流兵法も発展を遂げる
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
1556年
[長良川の戦い]廃嫡の陰謀に気付いた斎藤義龍(実は土岐頼芸の落胤とされる)が弟の竜重・竜定を斬殺したうえ父斎藤道三を討って(享年63)美濃国主を承継(道三方の明智城主明智光安・光久兄弟は討死し逃亡した甥の明智光秀は諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官)、道三から美濃の国譲り状を得た娘婿織田信長は救援軍を出すが間に合わず
斎藤道三の実家とされる松波家は、北面の武士として代々朝廷に仕えた家柄だったが、父松波基宗の代に帰農して京都西ノ岡に土着した。当時朝廷の衰微は著しく、公家侍では暮らしが立ち行かなくなったのだろう。斎藤道三は、土岐頼芸に仕官後、長井家家老西村家の遺跡を継いで西村勘九郎を名乗り、次いで恩人長井長弘夫妻殺害で稲葉山城と家名を乗っ取り長井新九郎に改め、最期は美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜となった。道三の号は、土岐氏と美濃国侍の反抗挙兵に遭い剃髪入道した際に称したものである。父松波基宗は左近将監の官職もり実力は無いが家格は田舎の豪族より高かったはずであり、道三が敢えて西村や長井を名乗ったのは松波氏ではなく微賎の出自だったためとする説も説得力がある。斎藤道三は油売り時代に灯油商奈良屋又兵衛の娘を妻としたが、仕官後に離縁したようだ。土岐頼芸から下された深芳野は嫡子斎藤義龍のほかに三男をもうけたが、身分は妾のままであった。正妻は東美濃随一の豪族明智家から迎えた小見の方であり、明智光秀の叔母であるという。斎藤道三は多くの妾と子をなし、家督を争った斎藤義龍・竜重・竜定の兄弟のほか、娘は織田信長(帰蝶)・斎藤利三・稲葉貞通などに嫁がせている。土岐頼芸の落胤と考えられた斎藤義龍は、地侍の慰撫に重宝されたが、頼芸を追い落とした道三を憎み、廃嫡の企てを知ると弟の竜重・竜定を斬殺し道三の居城を急襲、徳望薄い道三は孤立し難なく討ち取った。一見愚鈍な外貌が道三に嫌われたというが、実は蝮の子に恥じない猛将でライバル織田信長にも引けをとらなかったが、道三の祟りか僅か5年後に病死した。家臣に鼻を削がれた道三と同じく顔面が爛れ落ちて死んだという。斎藤家を継いだ嫡子斎藤龍興は凡庸で、竹中半兵衛に稲葉山城を乗取られても発奮せず、織田信長に滅ぼされた。斎藤家は滅亡したが、傍流の井上家や松波家が徳川幕府旗本として存続した。なお、将軍徳川家光の養母として大奥に君臨し稲葉・堀田の幕閣世襲家を樹立した春日局は、道三の娘が嫁いだ斎藤利三の娘だが、生母は継室(稲葉一鉄の娘)で道三の血は引いていない。

[稲生の戦い]斎藤道三の敗死を好機とみた織田信行(信長の同母弟)と柴田勝家・林秀貞らが挙兵、織田信長は佐久間信盛・森可成らを味方につけて勝利するが信行を偏愛する生母土田御前の仲介により赦免、斎藤義龍と結んだ織田信広(信長の庶兄)も謀反し清洲城奪取を企てるが未遂に終わり降伏・赦免

67歳の塚原卜伝が養子の幹重に家督を譲って剃髪出家し13代将軍足利義輝を援けるため三たび上洛、近江で亡命生活を送る義輝に小太刀を指南し2年後の京都帰還に際して新当流の印可と秘剣「一つの太刀」を授与、卜伝は退いて大徳寺に参禅したあと京都を去って諸国を旅し伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を歴訪、義輝が三好三人衆に襲われ斬死すると京都相国寺の牌所を詣で10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
1557年
[防長経略]毛利元就が陶晴賢の勢力を駆逐して大内家を乗取り周防・長州を奪取、陶の傀儡大内義長(義隆の甥)は実兄の大友義鎮(宗麟)に見捨てられ自害(毛利氏は義長の助命を申送ったが身内への猜疑心が強い義鎮はむしろ処刑を要求したとも)、元就は北九州へ食指を伸ばすが義鎮は筑前古処山城主の秋月文種を自害させるなど毛利方勢力を掃討して豊前・筑前を制圧(実行役は立花道雪)
毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。

第3次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。

織田信長に帰順した柴田勝家が織田信行の再謀反を密告、信長は病と称して弟の信行を清洲城に誘い込み殺害、信行の遺児(津田信澄)は助命され勝家に託される
織田氏は室町幕府三管領の斯波家(他は細川・畠山)の尾張守護代を世襲した名家だが、信長の家はその末流に過ぎない。尾張守護代の織田家には二流あって、一家は尾張の上四郡を治めて岩倉城に居城し、一家は下四郡を治め斯波氏の当主を守護して清洲に居城した。下織田家(織田大和守家)に織田姓を名乗る3奉行があり、信長の家はその一家に過ぎなかったが、武勇に優れた織田信秀が台頭し尾張の旗頭的地位に成り上がった。信秀は盛んに美濃を攻めたが、斎藤道三に撃退され和睦して娘の帰蝶を信長の妻に迎えた。信秀の死後嫡子織田信長が家督を継いだが、うつけと呼ばれた不良児で家臣は承服せず、守護代織田家も反逆して尾張は内戦状態となった。傅役平手政秀の諌死を乗越え、織田信長は剛腕と粘りを発揮し、主筋の下織田家信友を滅ぼし、再三謀反した弟の織田信行を殺し、上織田家信賢と守護斯波義銀を破って尾張国を平定、続く天下統一戦では兄弟の信広・信興・秀成を含む多くの織田一族を喪った。そして本能寺の変、嫡子信忠が共に討たれ、凡庸な次男信雄と三男信孝に豊臣秀吉の織田家簒奪を防ぐ力はなく、信孝は柴田勝家について滅ぼされ、清洲会議で秀吉に担がれ織田家を継いだ信忠の嫡子秀信(三法師)は関ヶ原合戦で西軍に属し改易された。織田信雄は、徳川家康と組んで秀吉に逆らうも早々に軍門に下り(小牧・長久手の戦い)尾張国を保ったが、小田原征伐後家康旧領への転封命令を愚かにも拒絶し改易された。剃髪入道したが家康の斡旋で赦免され、秀吉の御伽衆に加えられ、豊臣氏滅亡後徳川家への忠節が認められ大和・上野に5万石を与えられた。信雄の裔は出羽天童藩と丹波柏原藩の小大名二家として残った。他の信長の子では、七男信高と九男信貞が高家旗本に列している。信長の弟では、織田信包が秀吉の御伽衆を経て初代柏原藩主となるが、孫の代に後嗣が絶え信雄流に承継された。茶人で名高い織田長益(有楽斎)は、徳川幕府から大和・摂津に3万石を与えられ、裔は芝村藩と柳本藩の小大名二家となり幕末まで存続した。

武田晴信(信玄)が川中島の戦いで対峙する長尾景虎(上杉謙信)の後方撹乱を図り西上野侵攻を開始、長野業正は配下の「箕輪衆」と上野国人を糾合し抗戦・上野勢は足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍の業正は鮮やかな退却戦を演じて箕輪城に籠城し夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し景虎の来援を得て防衛に成功、信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆く
長野業正は、上野守護代長尾氏を滅ぼして西上野を掌握し、山内上杉氏を承継した上杉謙信に属して北条氏康・武田信玄の猛攻を防ぎ切った箕輪城の勇将、自らの死で謙信の関東侵出は頓挫し後嗣の長野憲業は信玄の猛攻に晒され滅亡した。関東公方足利氏と山内・扇谷の両上杉家が長期内紛で衰退するなか、長享の乱・永正の乱を制した越後長尾氏が台頭し長尾為景は越後守護上杉房能を弑殺し攻め寄せた関東管領山内上杉顕定(房能の実兄)も討殺、関東では今川・北条が扇谷上杉領を侵食し群雄割拠する戦国下克上に突入した。山内上杉家に仕える長野業正は、長享の乱で降した扇谷上杉朝良の娘を娶り12人もの女児を次々土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を扶植、1527年長尾為景に靡いた惣社長尾顕景・白井長尾景誠を降し両守護代家に傀儡当主を据えて西上野を掌握した。1546年関東管領上杉憲政が上杉朝定・古河公方足利晴氏と同盟し圧倒的大軍で北条氏康を攻めるが「地黄八幡」北条綱成の「日本三大奇襲」に遭い致命的敗北、古河公方は北条の傀儡に堕し朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡、憲政は命からがら上野平井城へ落延びるも山内上杉家は没落した(河越夜戦)。長野業正は、嫡子吉業を河越夜戦で喪いながら国人の結束を固めて西上野を堅持し、憲政を保護し山内上杉氏の家督を譲られた上杉謙信(為景の後嗣)に臣従、1552年「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止めた。1557年川中島の戦いで対峙する謙信の後方撹乱を期す武田信玄が西上野侵攻を開始、長野業正は上野国人を糾合して迎え撃ち、足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍を務めて鮮やかな退却戦を演じ、箕輪城に籠ると夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し謙信の来援を得て防衛に成功、信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と慨嘆させた。長野業正は老骨に鞭打って西上野を守り抜いたが寿命には勝てず1561年70歳で病没、信玄は「これで上野を手に入れたも同然」と直ちに猛攻を仕掛け柱石を喪った上杉勢は瓦解、後嗣の長野業盛は謙信の助勢を得て奮闘したが1566年箕輪城陥落と共に上野長野氏は滅亡した。
1558年
[北白川の戦い]将軍足利義輝・細川晴元が挙兵し京都奪回を図るが、三好康長・三好実休・安宅冬康・十河一存ら阿波勢の来援を得た三好長慶が勝利、晴元派の庇護者六角義賢も和睦に動き義輝・晴元は降伏し5年ぶりに京都へ帰還、室町幕府を牛耳った三好政権は摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路を掌握し最後は河内・大和まで10カ国を勢力圏に収めて全盛期を迎える
三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。

浦上政宗に与する赤松義祐が浦上宗景派の父赤松晴政から家督を奪い播磨置塩城から追放、晴政を庇護した龍野城主赤松政秀が第三勢力へ台頭し小寺政職など国人衆を巻き込んで備前・播磨情勢は混迷を深める
1559年
[浮野の戦い]織田信長が犬山城主織田信清と同盟し織田一門の宗家で岩倉城主の織田信賢を撃破、守護斯波義銀も追放し尾張一国を平定〜武功を挙げた前田利家は「槍の又左」(利家の字は又左衞門)の異名をとり母衣衆(信長親衛隊)に抜擢されて妻まつ(芳春院)を迎えるが、笄を盗んだ同朋衆(給仕役)拾阿弥(信長の異母弟説あり)を斬殺し信長の勘気を蒙って織田家を追放される
織田氏は室町幕府三管領の斯波家(他は細川・畠山)の尾張守護代を世襲した名家だが、信長の家はその末流に過ぎない。尾張守護代の織田家には二流あって、一家は尾張の上四郡を治めて岩倉城に居城し、一家は下四郡を治め斯波氏の当主を守護して清洲に居城した。下織田家(織田大和守家)に織田姓を名乗る3奉行があり、信長の家はその一家に過ぎなかったが、武勇に優れた織田信秀が台頭し尾張の旗頭的地位に成り上がった。信秀は盛んに美濃を攻めたが、斎藤道三に撃退され和睦して娘の帰蝶を信長の妻に迎えた。信秀の死後嫡子織田信長が家督を継いだが、うつけと呼ばれた不良児で家臣は承服せず、守護代織田家も反逆して尾張は内戦状態となった。傅役平手政秀の諌死を乗越え、織田信長は剛腕と粘りを発揮し、主筋の下織田家信友を滅ぼし、再三謀反した弟の織田信行を殺し、上織田家信賢と守護斯波義銀を破って尾張国を平定、続く天下統一戦では兄弟の信広・信興・秀成を含む多くの織田一族を喪った。そして本能寺の変、嫡子信忠が共に討たれ、凡庸な次男信雄と三男信孝に豊臣秀吉の織田家簒奪を防ぐ力はなく、信孝は柴田勝家について滅ぼされ、清洲会議で秀吉に担がれ織田家を継いだ信忠の嫡子秀信(三法師)は関ヶ原合戦で西軍に属し改易された。織田信雄は、徳川家康と組んで秀吉に逆らうも早々に軍門に下り(小牧・長久手の戦い)尾張国を保ったが、小田原征伐後家康旧領への転封命令を愚かにも拒絶し改易された。剃髪入道したが家康の斡旋で赦免され、秀吉の御伽衆に加えられ、豊臣氏滅亡後徳川家への忠節が認められ大和・上野に5万石を与えられた。信雄の裔は出羽天童藩と丹波柏原藩の小大名二家として残った。他の信長の子では、七男信高と九男信貞が高家旗本に列している。信長の弟では、織田信包が秀吉の御伽衆を経て初代柏原藩主となるが、孫の代に後嗣が絶え信雄流に承継された。茶人で名高い織田長益(有楽斎)は、徳川幕府から大和・摂津に3万石を与えられ、裔は芝村藩と柳本藩の小大名二家となり幕末まで存続した。

三好長慶・松永久秀の傀儡将軍からの脱却を期す足利義輝が抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達晴宗・織田信長・斉藤義龍・武田晴信(信玄)・長尾景虎(上杉謙信)・北条氏政・最上義光・毛利元就・尼子晴久・大友義鎮(宗麟)・島津貴久らと誼を通じ三好政権打倒を画策、信長と景虎は上洛して義輝に拝謁し義鎮は鉄砲を献上
足利義輝は、抗争の末に三好長慶に屈服するも諸侯に通じて三好政権打倒を画策、三好三人衆・松永久秀の謀反に斃れたが塚原卜伝直伝「一つの太刀」で奮闘し最後の意地を示した剣豪将軍、弟の足利義昭が織田信長を裏切り室町幕府は滅亡する。12代室町将軍足利義晴の嫡子で、1546年10歳のとき亡命先の近江坂本で将軍位を譲られたが、敵対する管領細川晴元に追われては近江の六角定頼に匿われる無頼生活が続いた。1549年江口の戦いで主君晴元を破った三好長慶が幕政を握ると、足利義晴・義輝は細川晴元に担がれ長慶に抵抗したが、六角定頼の死で勢力を削がれ近江朽木へ退避、1558年京都奪回を試みるも阿波勢の来援で撃破され降伏して5年ぶりに京都へ戻った(北白川の戦い)。傀儡将軍も確保し幕政を牛耳った三好長慶は摂津・阿波を拠点に畿内・四国10ヵ国を制圧したが、剛毅な将軍足利義輝は抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達稙宗・最上義光・武田信玄・上杉謙信・織田信長・斉藤義龍・北条氏政・毛利元就・尼子晴久・大友宗麟・島津貴久らと関係を築き三好政権打倒を目論んだ。宿敵三好長慶の運命は弟の十河一存の病死で一気に暗転、1562年河内の畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢を誘って蜂起すると、和睦工作で窮地を凌ぐも弟の三好実休が戦死し三好家中では戦功著しい松永久秀が台頭(久米田の戦い)、翌年嫡子三好義興に続き細川晴元・細川氏綱も死んで大義名分の管領を喪い、謀反の嫌疑で弟の安宅冬康を誅殺した直後に長慶自身も病没した。足利義輝には好機が到来したが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に先手を打たれ二条御所を急襲されて討死(永禄の変)、三好氏を倒しても誰かに担がれるほか無かったが見事な死様で武門の棟梁の矜持を示した。足利義輝には嗣子が無く、三弟の周ロは殺されたが次弟の足利義昭は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、幕臣の細川藤孝・明智光秀の斡旋工作が実り3年後に織田信長に担がれ最後の室町将軍となる。信長の上洛軍に三好三人衆も六角義賢も蹴散らされ、松永久秀は帰順するも後に謀反して滅ぼされた。

毛利元就と対峙する大友義鎮(宗麟)が室町将軍足利義輝に多額の献金をして豊前・筑前守護と九州探題の官職を獲得、義鎮は本領の豊後・筑後に豊前・筑前・肥後・肥前を併せ6カ国に君臨する大友家の最大版図を実現するが、義鎮の享楽生活と見境無い女漁りが家臣の離反を招き元就に離間工作の隙を与え、戸次鑑連(立花道雪)が孤軍奮闘で大友家の屋台骨を支える状況となる

北条氏康が永禄飢饉救済のため徳政令を施行、領主層を納得させるため建前上引責隠居し次男北条氏政(長男は夭逝)に家督を譲る
北条氏康の政治力は祖父早雲譲りで戦国時代随一といわれる。領国拡大よりも統治に重きを置き、無理な外征を控えて戦費を抑え他国より低い税負担を実現した。北条領を引き継いだ徳川家康は税率引上げに苦労し、忍者の風魔小太郎(江戸幕府創設直後に処刑)や鳶沢甚内(幕府に帰順し目明し兼古着商支配役を世襲)など北条家遺臣が成した盗賊団の跳梁にも手を焼いた。義戦の名の下に実益乏しい外征に明け暮れ重い戦費負担を強いた上杉謙信とは好対照で、局地戦では敵わなかったものの、家臣と領民の支持が長期持久戦を可能にし広い領土を保つことができた。豊臣政権の太閤検地に先駆けで領内の検地を徹底し度量衡も統一、検地即ち隠田摘発は農民の反発を買うものだが、徴税体制強化の代わりに減税の恩恵を施した。中間搾取排除で領民の負担を減らしつつ一極支配体制を固め、目安箱を設置し、凶作や飢饉の際には柔軟に税の減免を施して酷いときには徳政令を施行、それでも領主層=家臣団や豪商を手懐け得たのは政治力の成せる業であった。北条氏康は、城下町小田原の都市開発にも鮮やかな手腕を見せた。街区や上水道(小田原早川上水)を整備し、全国から商人・職人を呼び寄せて商工業を振興、文化人・芸人を招聘して活気も演出し、清掃にも気を配り、西の山口と並び称される東国最大の都市を築き上げた。戦国期の城郭は、松永久秀の信貴山城や斎藤道三の稲葉山城に代表される山城から経済活動に有利な平城へ移り、末期には堀と防塁で城下を囲い込む巨大要塞(総構え)へ発展したが、小田原城はその画期を為す傑作であり、攻低守高の時代にあって難攻不落を誇った。海外貿易と重商主義を成功させ兵農分離まで到達した織田信長ほど派手ではないが、北条氏康の政治手腕は封建領主としては抜群で領民にとっては最も有難い名君であった。

龍造寺隆信が恩人の筑後柳川城主蒲池鑑盛を通じて大友義鎮(宗麟)に臣従し援軍を得て巻返し、旧主の少弐冬尚・千葉胤頼を攻め滅ぼし東肥前の支配権を確立
龍造寺氏は、平安末期に肥前小津郡龍造寺の地頭となった高木季家を祖とし、室町後期に主家の九州千葉氏と共に肥前守護少弐氏の被官となったが、少弐政資・高経父子が宿敵大内義興に攻め滅ぼされ次男資元は生延びるも少弐氏は肥前の一勢力に没落した。龍造寺家兼は、大内義隆(義興の嫡子)が派遣した杉興連の大軍を撃退して武名を挙げ(田手畷の戦い)、大内義隆(義興の嫡子)と通謀して主君資元を滅ぼし東肥前の戦国大名へ台頭したが、肥前の領袖有馬晴純の助勢を得た少弐一門の馬場頼周の反撃に遭って龍造寺家純・家門の二児と孫4人を殺害された。筑後へ逃れた家兼は柳川城主蒲池鑑盛の力添えで肥前へ攻め戻り頼周・政員父子を討って仇討ちを果したが間もなく病没、虐殺を逃れた曾孫の龍造寺隆信が還俗して家督を継いだ。龍造寺隆信は、後嗣無く死去した龍造寺胤栄の未亡人を娶って龍造寺本家を横領し、政家・家種(江上氏養子)・家信(後藤氏養子)の三児をもうけた。娘は蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の嫡子)に嫁がせたが、隆信は肥後柳川上を奪うため鎮漣を謀殺した。沖田畷の戦いで隆信が斃れた後、嫡子の龍造寺政家は島津義久に降伏し九州征伐を終えた豊臣秀吉から肥前佐賀城32万石を安堵されたが、沖田畷合戦を辛くも生延びた鍋島直茂(隆信の従弟で筆頭重臣)が凡庸な政家に代わって家政を握り関ヶ原合戦では西軍に加担するも巧みな善後策でお咎め無し、龍造寺信周・長信(隆信の弟)を懐柔して政家と嫡子高房に禅譲を迫り佐賀藩簒奪を完遂した(直茂は龍造寺遺臣を慮って藩主には就かず嫡子鍋島勝茂を初代藩主に据えた)。龍造寺高房は江戸桜田藩邸で妻(直茂の養女)を刺殺して自殺を図るも果たせず、佐賀に戻って自殺を遂げ、僅か1ヵ月後に政家も死去した。こうして龍造寺隆信の嫡流は滅ぼされたが、鍋島氏の宥和政策により信周・長信の子孫は龍造寺四家として鍋島一門に準じる優遇を受けた。

和漢融合様式を確立して職業画家集団「狩野派」を興し分業制作体制により大徳寺大仙院方丈・妙心寺霊雲院・石山本願寺など多くの障壁画を描いた狩野元信が死去、孫の狩野永徳(三男松栄の嫡子)が武家好みの豪快な画風で織田信長・豊臣秀吉に寵遇され狩野派400年の繁栄をもたらす
狩野氏は、藤原武智麻呂(南家)の四男乙麿の子孫を称し、平将門の乱の武功により駿河守に任じられた藤原為憲の孫維景が伊豆狩野郷日向堀内に移って狩野を名乗り、4代後の狩野茂光が伊豆大島で蜂起した源為朝征伐に働き伊豆屈指の勢力となった。木崎原の戦いで島津義弘に敗れ没落した(伊東崩れ)伊東義祐の日向伊東氏は茂光の兄の子孫である。狩野茂光は源頼朝の挙兵に参じたが緒戦の石橋山合戦で討死にし嫡子の親光は奥州藤原氏攻めで戦死、子の親成が狩野城を再建したが子孫は執権北条氏や三浦氏に圧迫され小領主に没落した(現存する狩野城跡は「狩野派発祥の地」の看板でPR中)。戦国時代、堀越公方の足利政知・茶々丸に属した狩野氏は北条早雲に滅ぼされたが、その60年前に将軍足利義教に画才を見込まれた一族の狩野正信が幕府御用絵師に採用され(妻は宮廷絵所預で大和絵土佐派を興した土佐光信の娘千代とも)、子の狩野元信は一族男児を悉く画家に仕立て多くの門人を擁して職業画家集団「狩野派」を形成した。元信の後は三男の狩野松栄が継ぎ、その嫡子狩野永徳が織田信長・豊臣秀吉の寵遇を得て狩野派400年の隆盛をもたらした。永徳の後は嫡流の光信・貞信が早世したため次男の狩野孝信が狩野派を承継、嫡子の狩野探幽は京都を去って江戸幕府の御用絵師となり江戸城・大坂城・名古屋城・二条城の障壁画事業を次々成功させて世襲家の地位を磐石にした。『牡丹図』『紅白梅図』の作者で江戸時代も京都に留まり「京狩野」を興した狩野山楽は永徳の養子、『南蛮屏風』の狩野内膳は弟子である。探幽後の狩野派は旗本格の「奥絵師」4家(探幽の鍛冶橋家・弟尚信の木挽町家および分家した浜町家・狩野宗家を継いだ弟安信の中橋家)を頂点に「表絵師」(約15家)、一般町人の需要に応える「町狩野」と階層構造を日本全国に張巡らし幕末まで日本画壇を支配したが、大量均質生産のため技量の習得に重きが置かれ次第に芸術的創造性を失った。明治初期に狩野芳崖と橋本雅邦が日本画壇の重鎮となったが幕府の消滅により狩野派は存立基盤を失い西洋画に主役の座を奪われた。 

 

1560年
[桶狭間の戦い(日本三大奇襲)]松平元康(徳川家康)の三河を属国とし武田・今川との同盟で背後を固めた駿河・遠江守護今川義元(足利将軍の一族で百万石の太守)が4万の軍勢で尾張に侵攻、20万石・兵力3千人の織田信長は籠城策を捨てて奇襲を敢行し田楽狭間で休息中の今川義元を殺害(享年42)、織田信長は天下に志を抱き、無能な嫡子今川氏真が承継した駿河国は武田・徳川・北条の好餌となる
織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。

桶狭間敗戦を受け松平元康(徳川家康)が尾張の前線から岡崎に帰還、岡崎城と三河領を常駐管理していた今川家臣が逃げ帰り祖父松平清康以来悲願の完全独立を達成、織田方諸城を攻め潰して三河国を制圧し尾張へ侵攻、今川家に打倒織田信長を促すも煮え切らない新当主今川氏真(義元の嫡子)に愛想を尽かし、義元の元を捨てて家康に改名
徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。

[長浜の戦い・潮江堤合戦]土佐岡豊城主の長宗我部国親が宿敵本山茂辰(国親の父長宗我部兼序を討った本山茂宗の嫡子)を攻撃、大工の手引きで長浜城を夜討ちして攻め獲り浦戸城も落として朝倉城に追詰めるが渦中に国親が陣没、嫡子長宗我部元親は茂辰に攻め返されるも自ら槍を振るって撃退、「姫若子」と侮っていた家臣を忽ち心服させた元親は一領具足を動員し土佐国司一条兼定と提携して本山派諸豪を降し茂辰を追詰める
長宗我部氏は、秦始皇帝の血を引く秦氏の末裔で聖徳太子を支えた秦河勝の直系と称した。秦氏は密接な関係にあった蘇我氏の所領へ広がり「ハタ」と付く地名は全国各地に残るが、土佐の「蘇我部」の首長は長岡郡の長宗我部氏と香美郡の香宗我部氏に分れた。応仁の乱後、長岡郡岡豊城主の長宗我部兼序は、管領・四国探題の細川政元の信任を得て土佐国司一条房家のもと土佐七雄(長宗我部・本山・吉良・安芸・津野・香宗我部・大平)の旗頭的地位へ台頭したが、永正の錯乱で後ろ盾の政元を喪い本山茂宗率いる国人連合軍に攻め滅ぼされた。土佐一条氏は応仁の乱を逃れて土佐に疎開した五摂家・関白一条教房の子孫で、飛騨姉小路・伊勢北畠と共に中央公家並みの出世が認められた「三国司」の公家大名であった。一条房家は中村御所に兼序の遺児を匿い、7年後に長宗我部氏の本領3千貫を取り返して与え国親と名乗らせた。岡豊城に戻った長宗我部国親は、周囲悉く父の仇という苦境のなか妹婿の吉田孝頼を参謀に据えて富国強兵を図り、一条氏の権威を利用しつつ土豪を切従え、三男親泰を養嗣子に押付けて香宗我部氏を乗取り、反一条勢力の盟主本山茂辰を追詰めたが合戦中に陣没した。嫡子の長宗我部元親は、本山氏・安芸氏を滅ぼし一条兼定を追放して土佐統一を達成(嫡子一条内政に娘を娶わせ傀儡当主に据えるが後に毒殺)、弟の親貞に吉良氏を継がせ織田信長と同盟して四国平定に乗出した。元親は明智光秀の重臣斎藤利三の異父妹を妻に迎えて四児をもうけ、次男親和を讃岐香川氏・三男親忠を津野氏の当主に据えた。嫡男の長宗我部信親は兵法・早業に優れた勇士だったが戸次川合戦で痛恨の討死、元親は四男盛親を擁立し三男親忠を推す功臣の吉良親実(娘婿)・久武親直・比江山親興を容赦なく誅殺した。長宗我部盛親は、兄親忠を暗殺して反抗を封じ、関ヶ原合戦で西軍につくも不戦のまま敗れて戦国大名長宗我部氏は滅亡、再起を賭けた大坂陣にも敗れ子女6人と共に斬首された。由井正雪の乱で処刑された丸橋忠弥は盛親側室の子という。長宗我部元親の血脈は譜代大名酒井氏に仕えた末子康豊の子孫が僅かに伝えた。

[野良田の戦い]六角義賢に従属した弱腰の浅井久政に対し嫡子浅井長政と家臣団がクーデター、久政から家督を奪った長政(このとき賢政から改名)は六角氏と手切れして諸豪を調略、愛知郡肥田城主高野備前守の寝返りに激怒し攻め寄せた六角義賢軍を撃退し浅井氏は北近江の支配権を確立、敗れた六角氏は南近江支配も脅かされ衰亡へ向かう
浅井氏は、藤原北家閑院流を称する近江の土豪(小谷城主)で北近江守護京極氏に仕えたが、京極騒乱で台頭した浅井亮政が浅見氏らを切従え京極高延を傀儡化して北近江を掌握、南近江守護の六角定頼に圧迫されたが越前の朝倉宗滴に助けられ領国支配を固めた。嫡子の浅井久政は軟弱で、家督相続に逆らう田屋明政(亮政の婿養子)が京極高延を担ぎ反乱、久政は六角義賢(定頼の嫡子)に臣従し越前朝倉氏に助勢を乞うて保身を図った。父の弱腰を見兼ねた嫡子の浅井長政と家臣団はクーデターで家督を奪い六角氏に手切れを通告、攻め寄せた六角軍を撃退し(野良田の戦い)、畿内へ浸出した織田信長と同盟を結び「近国無双の美人」と賞された市を娶って茶々・初・江の三姉妹を生し(信長は少年期に同母妹の市を犯したため「たわけ」と呼ばれたとも)、三好三人衆に通じて敵対する六角義賢を信長と共に滅ぼした。信長が朝倉義景を攻めると浅井長政・久政は反旗を翻したが、金ヶ崎の退き口で挟撃の好機を逃し姉川の戦いで大敗、信長包囲網を結成し抵抗するも近江領を守る豊臣秀吉・竹中半兵衛を攻め破れず、頼みの武田信玄が急死すると直ちに小谷城を攻められ越前一乗谷城の朝倉氏諸共に滅ぼされた。浅井の男系は絶たれ市は再嫁した柴田勝家に殉じたが、女児は数奇な運命を辿った。茶々(淀殿)は、柴田勝家・市を滅ぼし伯父織田信長の天下を奪った豊臣秀吉の側室となり嫡子豊臣秀頼を産んで事実上の当主となったが、無謀にも徳川家康に挑戦し秀頼と豊臣家を破滅へ導いた。初は信長・秀吉に拾われた京極高次に嫁ぎ、江は徳川秀忠(家康の後嗣)に入輿して3代将軍家光を産み、庶女のくすは松の丸殿の侍女・刑部卿局は千姫の乳母で淀殿の側近となった。なお京極高次は、高延の弟高吉の子で人質として信長に仕え、秀吉側室の松の丸殿(妹)・淀殿(従妹)の七光りで出世した「蛍大名」の分際で関ヶ原で東軍に属し若狭小浜藩9万2千石に大出世、嫡子京極忠高は初姫(秀忠の四女)を娶り松江藩26万4千石へ躍進したが無嗣没により讃岐丸亀藩6万石へ減転封となった。淀殿は生家浅井氏の旧主である京極氏出身の松の丸殿を敵視し側室筆頭を争った。

眼病で視力が低下し隠居した富田勢源(中条流当主は弟の富田景政・越前朝倉氏家臣)が神道流兵法者(梅津某)の挑戦を断り切れず斎藤義龍の招きに応じて美濃稲葉山城下で立合い、勢源は小太刀の名手だが40cm足らずの薪を手に「眠り猫」の態で対すると瞬時に相手の二の腕と頭を叩き割る神業で圧勝、「無刀」を追求する勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせ更に研鑽を積む
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
1561年
[小田原城の戦い]今川義元討死で甲相駿三国同盟が弱った隙を衝き長尾政虎(上杉謙信)が北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と武田晴信(信玄)の後方撹乱により上野国に守将を残して撤退、鎌倉鶴岡八幡宮にて上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を継ぎ上杉政虎を名乗る
上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。

斎藤道三を殺害して美濃国を奪った斎藤義龍が病死(ハンセン病ともいわれる)、嫡子斎藤龍興が家督相続
斎藤道三の実家とされる松波家は、北面の武士として代々朝廷に仕えた家柄だったが、父松波基宗の代に帰農して京都西ノ岡に土着した。当時朝廷の衰微は著しく、公家侍では暮らしが立ち行かなくなったのだろう。斎藤道三は、土岐頼芸に仕官後、長井家家老西村家の遺跡を継いで西村勘九郎を名乗り、次いで恩人長井長弘夫妻殺害で稲葉山城と家名を乗っ取り長井新九郎に改め、最期は美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜となった。道三の号は、土岐氏と美濃国侍の反抗挙兵に遭い剃髪入道した際に称したものである。父松波基宗は左近将監の官職もり実力は無いが家格は田舎の豪族より高かったはずであり、道三が敢えて西村や長井を名乗ったのは松波氏ではなく微賎の出自だったためとする説も説得力がある。斎藤道三は油売り時代に灯油商奈良屋又兵衛の娘を妻としたが、仕官後に離縁したようだ。土岐頼芸から下された深芳野は嫡子斎藤義龍のほかに三男をもうけたが、身分は妾のままであった。正妻は東美濃随一の豪族明智家から迎えた小見の方であり、明智光秀の叔母であるという。斎藤道三は多くの妾と子をなし、家督を争った斎藤義龍・竜重・竜定の兄弟のほか、娘は織田信長(帰蝶)・斎藤利三・稲葉貞通などに嫁がせている。土岐頼芸の落胤と考えられた斎藤義龍は、地侍の慰撫に重宝されたが、頼芸を追い落とした道三を憎み、廃嫡の企てを知ると弟の竜重・竜定を斬殺し道三の居城を急襲、徳望薄い道三は孤立し難なく討ち取った。一見愚鈍な外貌が道三に嫌われたというが、実は蝮の子に恥じない猛将でライバル織田信長にも引けをとらなかったが、道三の祟りか僅か5年後に病死した。家臣に鼻を削がれた道三と同じく顔面が爛れ落ちて死んだという。斎藤家を継いだ嫡子斎藤龍興は凡庸で、竹中半兵衛に稲葉山城を乗取られても発奮せず、織田信長に滅ぼされた。斎藤家は滅亡したが、傍流の井上家や松波家が徳川幕府旗本として存続した。なお、将軍徳川家光の養母として大奥に君臨し稲葉・堀田の幕閣世襲家を樹立した春日局は、道三の娘が嫁いだ斎藤利三の娘だが、生母は継室(稲葉一鉄の娘)で道三の血は引いていない。

織田信長家臣の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家中の浅野長勝(姉の子浅野長政が家督相続)の養女で杉原定利(嫡子木下家定、その五男が小早川秀秋)の実娘ねね(北政所)と結婚(ねねの母方木下家への婿入り説が有力)
織田信長に仕える前の豊臣秀吉の事跡は不明だが、本人も語れないほど悲惨な少年期であったと考えられ、少なくとも百姓の子に日吉丸の名はありえない。尾張国中村の出自で、当時賤視された焙烙売り一家の出とも、織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門の子ともいうが、木下は妻ねねの実家の姓であり、秀吉は入婿して木下藤吉郎を名乗ったとする方が信憑性が高い。口減らしのために家を出て放浪生活を送り、行商や盗賊働きもしたであろうが、今川家臣の松下之綱に最初の武家奉公をした話は後に家臣に迎え大名にしたことから事実と考えられる。秀吉の弟豊臣秀長は良き副将だっがた惜しくも早世、徳川家康懐柔のため生母なか(大政所)は人質に送り、中年の妹あさひ(朝日姫)は前夫と引離して入輿させた。「糟糠の妻」の代名詞ねね(北政所)は、加藤清正・福島正則・黒田長政らに敬慕されて反淀殿・石田三成陣営の精神的支柱となり、秀吉没後は徳川家康に誼を通じて実兄の木下家定(足守藩及び日出藩)と養家の浅野長政(広島藩)の三大名家を残した。木下家定の五男小早川秀秋は、秀吉の養子から小早川隆景の養嗣子となり、関ヶ原合戦の寝返りで徳川を勝利に導いて宇喜多秀家旧領の備前岡山55万石に加転封されたが、僅か2年後に狂死し無嗣断絶で改易された。女好きの豊臣秀吉は手当たり次第に励むも体質のせいか後嗣に恵まれず、やっと出来た男児2人は夭逝した。が、浅井長政・市(信長の妹)の長女茶々(淀殿)が鶴松を産み、これも夭逝したが続けて秀頼を出産、57歳にして待望の跡取りを授かった(父親は別人の疑いが濃厚、厳重警護下の不倫は困難であり秀吉が仕組んだ可能性が高い)。耄碌した秀吉は、文禄の役で養子の秀勝(徳川秀忠の正室江の前夫)を戦死させ、家督と関白を譲った秀次を眷属諸共無残に殺害(ともに姉日秀の子)、愛児秀頼の後見を家臣団に哀願して世を去った。豊臣秀頼は、徳川家康の娘千姫を妻に迎え立派に成人したが、大坂夏の陣で嫡子国松と共に滅ぼされた。助命された娘は縁切り寺で有名な天秀尼となり、ほかに求厭上人が秀頼遺児を自称したが、いずれも仏門で秀吉の血脈は途絶えた。

[第4次川中島の戦い]啄木鳥戦法を見破った上杉謙信が敵本陣に斬り込み武田信玄に一太刀浴びせるが武田軍が防戦に成功、武田軍の被害も甚大で信玄の弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死
武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。

武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、「これで上野を手に入れたも同然」と勇んだ信玄は直ちに2万の大軍を率いて上野を攻めるが輝虎の来援で撤退、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る
長野業正は、上野守護代長尾氏を滅ぼして西上野を掌握し、山内上杉氏を承継した上杉謙信に属して北条氏康・武田信玄の猛攻を防ぎ切った箕輪城の勇将、自らの死で謙信の関東侵出は頓挫し後嗣の長野憲業は信玄の猛攻に晒され滅亡した。関東公方足利氏と山内・扇谷の両上杉家が長期内紛で衰退するなか、長享の乱・永正の乱を制した越後長尾氏が台頭し長尾為景は越後守護上杉房能を弑殺し攻め寄せた関東管領山内上杉顕定(房能の実兄)も討殺、関東では今川・北条が扇谷上杉領を侵食し群雄割拠する戦国下克上に突入した。山内上杉家に仕える長野業正は、長享の乱で降した扇谷上杉朝良の娘を娶り12人もの女児を次々土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を扶植、1527年長尾為景に靡いた惣社長尾顕景・白井長尾景誠を降し両守護代家に傀儡当主を据えて西上野を掌握した。1546年関東管領上杉憲政が上杉朝定・古河公方足利晴氏と同盟し圧倒的大軍で北条氏康を攻めるが「地黄八幡」北条綱成の「日本三大奇襲」に遭い致命的敗北、古河公方は北条の傀儡に堕し朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡、憲政は命からがら上野平井城へ落延びるも山内上杉家は没落した(河越夜戦)。長野業正は、嫡子吉業を河越夜戦で喪いながら国人の結束を固めて西上野を堅持し、憲政を保護し山内上杉氏の家督を譲られた上杉謙信(為景の後嗣)に臣従、1552年「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止めた。1557年川中島の戦いで対峙する謙信の後方撹乱を期す武田信玄が西上野侵攻を開始、長野業正は上野国人を糾合して迎え撃ち、足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍を務めて鮮やかな退却戦を演じ、箕輪城に籠ると夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し謙信の来援を得て防衛に成功、信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と慨嘆させた。長野業正は老骨に鞭打って西上野を守り抜いたが寿命には勝てず1561年70歳で病没、信玄は「これで上野を手に入れたも同然」と直ちに猛攻を仕掛け柱石を喪った上杉勢は瓦解、後嗣の長野業盛は謙信の助勢を得て奮闘したが1566年箕輪城陥落と共に上野長野氏は滅亡した。

ポルトガル人殺傷事件が発生し肥前平戸への来航停止、肥前三城主大村純忠は自領の横瀬浦へポルトガル船を誘致し平戸領主松浦隆信から南蛮貿易の利を奪取、2年後に改宗し日本初のキリシタン大名となる
1562年
[門司城の戦い]豊前門司城を守る毛利元就軍が小早川隆景の奮闘により大友義鎮(宗麟)の大軍を撃退、義鎮は引責剃髪して宗麟と号し室町将軍足利義輝の調停により和睦成立 、戸次鑑連は毛利氏との和睦に断固反対するが容れられず剃髪入道し道雪と号す(道に落ちた雪は消えるまで場所を変えないように武士も一度主君を得たならば死ぬまで忠節を尽くすのが本懐である・・・との決意を表明)
毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。

[清洲同盟]三河岡崎城主の松平家康(徳川家康)が今川氏真を見限り織田信長の誘いに応じて攻守同盟締結、元康は三河の今川方諸城を攻め取り、東方の安全を確保した信長は清洲から小牧山に本城を移し美濃攻略に専念
織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。

[久米田の戦い・教興寺の戦い]和泉岸和田城主十河一存(三好長慶の弟)の急死に乗じた畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢と連携し細川晴之(晴元の次男)を担いで挙兵、三好長慶は三好義興(嫡子)・安宅冬康(弟)・松永久秀の奮闘で挟撃の危機を凌ぐが(高政を再追放して河内を回復し六角と和睦して京都を奪回)、一存と共に兄長慶を支えた三好実休が敗死、両翼を喪って弱体化した三好政権は反三好勢・将軍足利義輝の反抗に手を焼き家中では松永久秀の勢力が伸張
三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。

大友宗麟の被官で筑前岩屋城・宝満山城主の高橋鑑種(一萬田鑑相の実弟)が毛利氏へ寝返り宗像氏貞・秋月種実・筑紫惟門・龍造寺隆信らと反大友連合を結成(女漁りに見境の無い宗麟が一萬田家の嫁に横恋慕し強奪したため鑑種は憤慨し謀反したという)、戸次鑑連(立花道雪)の強諌にも関らず宗麟は享楽生活を改めず夫人に呪詛された挙句に失踪事件を起したかと思えば臨済禅に凝って家臣を辟易させる
大友宗麟(義鎮)は、父を謀殺して家督を奪い、宿敵大内氏の滅亡に乗じ立花道雪の活躍で豊後・筑後・肥後・豊前・筑前・肥前の6ヶ国を支配したが、享楽と宗教に溺れ耳川の惨敗で運命が暗転、龍造寺隆信に領土を侵食され島津義久に追詰められて滅亡寸前、豊臣秀吉に救われ豊後一国を保つも愚息義統が自滅・改易された九州一の名門大名である。豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に生れ、21歳のとき廃嫡を企てた父を弟諸共に謀殺して家督を奪取(二階崩れの変)、翌1551年に陶晴賢の謀反で大内義隆が滅ぼされると(大寧寺の変)、弟の義長(義隆の甥)を大内家の傀儡当主に差出して陶と同盟し筑前・豊前を獲得、龍造寺隆信・菊池義武(叔父)ら反抗勢力を討平して肥前・肥後も制圧し、小原鑑元・秋月文種らを討って毛利元就の侵入を防いだ。絶頂の大友宗麟は見境無い女漁り(人妻強奪も)と享楽生活に耽って家臣の離反を招き、1562年門司城奪還戦で小早川隆景に大敗、1567年筑前の秋月種実・高橋鑑種・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種が反旗を掲げた。1569年山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱策と立花道雪の奮闘で毛利軍を九州から追出し、離反した龍造寺隆信を大軍で攻めるも大敗して肥前を奪われ(今山の戦い)、1578年伊東義祐の哀願に応じて日向を攻めるも島津義久・家久の「釣り野伏せ」にかかって壊滅的敗北を喫し田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を失い(耳川の戦い)、龍造寺に漁夫の利をさらわれて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで侵食された。耳川合戦直前に改宗した大友宗麟はキリスト教国建設を掲げて行軍中に寺社を破壊、祟りに怯える大友軍の戦意は乏しかった。1584年沖田畷の戦いで龍造寺を斃した島津の大軍が大友領に殺到、大黒柱の立花道雪を病で喪い、岩屋城の高橋紹運は玉砕、立花宗茂の孤軍奮闘で辛うじて筑前を防衛したが、大友宗麟は天下人豊臣秀吉に泣きつくほかなかった。1586年長宗我部元親の先発隊は島津家久に撃退されたが(戸次川の戦い)、秀吉が兵20万余を率いて来援すると島津軍は撤退、秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟は栄枯盛衰の生涯を閉じた。

門司城の戦いで大友宗麟を撃退し大内方諸豪を滅ぼして山陽道を征した毛利元就が山陰の尼子攻めに注力、吉川元春率いる毛利軍は山吹城を攻落として守将の本城常光を族滅し富の源泉石見銀山を奪回、石見全域を制圧し尼子義久の籠る出雲月山富田城を攻囲
吉川元春は、12歳の初陣から64戦無敗を誇り父毛利元就の山陰経略を担って出雲尼子氏を滅ぼし三度の尼子再興軍を粉砕した中国地方最強武将である。弟の小早川隆景と共に元就・輝元を支える「毛利両川」と称された。1541年吉田郡山城の戦いで12歳にして初陣を飾り、母の実家吉川氏の養嗣子となり吉川興経・千法師父子を殺害して家中を掌握、安芸新庄に日野山城を築いて本拠とし、1555年厳島の戦いで義兄弟の陶晴賢を討った。石見攻略を託された吉川元春は大内方諸豪を平らげて石見銀山で尼子晴久と対峙、1562年大友宗麟を撃退した毛利軍が山陰へ押寄せると守将の本城常光を族滅して石見を制圧し、1566年出雲月山富田城に籠る尼子義久を降伏させ一気に山陰道を蹂躙、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中の10ヵ国制覇を達成した。1569年龍造寺隆信と通謀した毛利元就は豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景は拠点の立花山城を攻略するも立花道雪の奮戦で戦線膠着、大友宗麟の後方撹乱策で山中鹿介の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)が起り九州戦線を放棄した。反乱討伐に戻った吉川元春は、元就病没の大不運に見舞われるなか弔い合戦と称して山陰戦線に踏み留まり尼子再興軍を撃滅して出雲・石見・伯耆を回復、逃亡した山中鹿介が因幡鳥取城を奪うが城主の山名豊国を寝返らせ鹿介を敗走させた。1577年黒田官兵衛の要請に応じた織田信長が毛利攻めを開始し豊臣秀吉軍団が播磨へ来襲、吉川元春・小早川隆景は三木城主別所長治を寝返らせ上月城を落として山中鹿介と尼子再興軍を討果すが、元春の危惧通り備前の宇喜多直家が寝返り三木城陥落で播磨を断念、山陰に転じた秀吉軍団に鳥取城を攻め破られたが元春は決死の覚悟で伯耆国境を防衛した。1582年備中高松城が水攻めで落城寸前に陥るなか突如秀吉が和睦を提案、元春は涙を呑んで清水宗治切腹を了承したが間もなく信長討死が発覚、追撃を主張するも隆景に退けられた。天下人秀吉に臣従した毛利家で吉川元春は隠居して従軍を拒絶したが、最期に膝を屈して九州征伐に赴き豊前小倉城で陣没した。
1563年
[観音寺騒動]六角義賢の嫡子義治が筆頭重臣後藤賢豊の権勢を恐れ暗殺、家臣団の離反により義賢・義治は近江観音寺城を追われるが、蒲生定秀・賢秀(賢豊の娘婿)父子の奔走で和睦し帰城(義治は廃嫡され次男義定が家督相続)、蒲生定秀は家老に出世するが名門六角家は風前の灯
六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。
1564年
[第二次国府台合戦]北条氏康が江戸川を越えて里見義堯・義弘率いる上杉派房総連合軍を攻撃、緒戦は家臣の勇み足で落としたが北条綱成の奇襲反撃により敵将正木信茂を討取る快勝、上総国を制圧し里見氏を安房に追い詰めるが上杉輝虎(謙信)対策に手間取り戦線膠着
北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。

[山王堂の戦い]北関東で上杉輝虎(謙信)方の佐竹義昭・宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹と北条氏康方の小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤の抗争が激化、上野平井で出馬要請を受けた輝虎は8千余騎を従え「神速」で常陸真壁郡山王堂に駆け付け小田勢を討滅(余りの速さに関東勢は遅参)、輝虎は征服した常陸小田城を義昭に預け武田信玄に対するため越後へ撤退、義昭は氏治を藤沢城に追込み継室の実家大掾氏も傘下に収めて常陸平定をほぼ達成
佐竹氏は、清和源氏を興した源頼義の三男新羅三郎義光(嫡流八幡太郎義家の弟)の子孫で、義光の孫昌義が住地の常陸久慈郡佐竹郷から名字を採った。甲斐源氏とは同族で佐竹義重は武田信玄と義光嫡流論争をしたという。平安末期の佐竹氏は常陸北部七郡を支配し常陸平氏大掾氏と並ぶ大族であったが、鎌倉時代は執権北条氏や国人衆に所領を奪われ逼塞、室町時代に入ると早々に足利尊氏に帰服し常陸守護職と鎌倉公方の重鎮「関東八屋形」(佐竹・宇都宮・小田・小山・那須・結城・千葉・長沼)の格式を得た。11代佐竹義盛で嫡流が途絶え関東管領上杉氏から婿養子を迎えたことから同族間抗争が起り(山入の乱)国人勢力との鍔迫り合いが続いたが、15代佐竹義舜が山入氏を滅ぼして常陸北部を掌握し、孫の17代佐竹義昭は武力に婚姻政策も駆使して諸豪を圧伏した(次男資家に那須氏を継がせ、娘は宇都宮広綱・岩城親隆に入輿)。義昭の死に伴い小田・結城・白河結城・那須氏が北条氏康の旗下に属して反攻に出たが嫡子の佐竹義重は上杉謙信の力添えで撃退し継室の実家大掾氏も従えて常陸を制圧、南奥羽へ手を伸ばした。佐竹義重は、伊達晴宗の娘を娶って五児を生し、次男義広は会津黒川城主蘆名氏の当主に押込んだが伊達政宗に敗退、三男貞隆は岩城氏・四男宣隆は多賀谷氏の当主に据えた。嫡子の佐竹義宣は、義重の反対に背いて石田三成・上杉景勝に内応し関ヶ原合戦後に常陸水戸藩54万石から秋田久保田藩20万石へ減転封された。義宣は那須・多賀谷・蘆名氏の娘などを娶り二児を生したがいずれも夭逝、末弟の義直を嗣子とするも江戸城饗応で居眠りしたため廃嫡勘当し、亀田藩主岩城吉隆改め佐竹義隆(貞隆の嫡子)を2代藩主に据えた(岩城家は宣隆が承継)。佐竹家は幕末まで封土を保ち明治維新後は佐竹四家(東西南北家)と共に華族に列し今日でも有力者を輩出する東北屈指の名門である。

[三河一向一揆]岡崎上宮寺での米穀徴発に端を発し一向一揆が発生、松平家康(徳川家康)の弾圧策が火に油を注ぎ旧三河守護の吉良氏ら土豪にくわえ松平家臣の多くが武装蜂起、窮地の家康は屈辱的条件で和睦するが約を違えて一向宗寺院を悉く破却(首謀者の一人本多正信は松永久秀に寄寓したのち加賀一向一揆に加わり、流浪の末に帰参を赦され家康の軍師となる)、反撃の好機を座視した今川氏真は逆に東三河の拠点吉田城を奪われ、松平家康が三河一国を制圧
徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。

陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」三好長慶が死去(享年43)、三好長慶・三好実休・安宅冬康・十河一存の四兄弟を一挙に喪った三好政権は内部分裂で瓦解し京都・堺・奈良の三大都市を握る松永久秀が台頭、織田信長の畿内侵攻に遭って三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は掃討され、久秀と長慶の養嗣子三好義継は信長に降るが最後は謀反し滅ぼされる
三好氏は、鎌倉時代に阿波守護となった阿波小笠原氏(信濃源氏)の末裔で、鎌倉時代初期に阿波三好郡に土着した小笠原長経より三好を名乗り、室町時代に四国探題格で四国全部の守護に就いた細川家に随従し阿波守護代を世襲した。智勇兼備と謳われた三好之長は、管領細川政元暗殺後のお家騒動(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)で主君細川澄元を擁して畿内に進出したが、大内義興・細川高国・六角定頼に敗れ嫡子長秀と共に自害に追込まれた。長秀の嫡子三好元長は、細川高国を討って復讐を果したが、澄元の嫡子細川晴元と対立、晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ切腹、内臓を天井に投げつける壮絶死を遂げた。之長敗死の翌年に生れた元長の嫡子三好長慶は、仇敵細川晴元に帰参して実力を養い、木沢長政・三好政長を討って晴元と将軍足利義輝を追放し室町幕府の実権を掌握した(三好政権)。三好長慶の覇業を支えたのは、弟の三好実休・安宅冬康・十河一存らの一門衆であったが、一存の病死に続いて実休が戦死し、嫡子三好義興も22歳で早世、冬康は謀反を疑い誅殺してしまった。長慶が男児無く死ぬと、一存の嫡子三好義継が後を継いだが、一門の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀(長慶の家宰で娘婿)の勢力争いにより三好政権は内部崩壊、織田信長の畿内侵攻で三好三人衆は容易く掃討され、義継と松永久秀は信長に降伏するも後に謀反し滅ぼされた。三好の嫡流は途絶えたが、元長の末弟三好善行の子為三と一門の三好政勝の子孫が徳川幕臣として家名を残した。三好実休の子で十河一存の養子に入った十河存保は、長宗我部元親に敗れるも秀吉に仕え讃岐十河3万石の大名に復活したが、秀吉の九州征伐に従い島津家久に敗れ討死(戸次川の戦い)、遺児十河存英は三好政康ら三好残党と共に大坂夏の陣で戦死した。

第5次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。

主君斎藤龍興と側近からの侮辱に怒った竹中半兵衛重治が手勢14人で稲葉山城を急襲し占領、舅の安藤守就も駆けつけて龍興は逃亡、織田信長から美濃半国を条件に城を明渡すよう誘われたが断って龍興に返還し、北近江に移って浅井長政の客将となるが1年で禄を辞して美濃岩手に戻り隠棲
竹中半兵衛重治は、僅かな手勢で美濃稲葉山城を強奪して主君斎藤龍興からの侮辱を雪ぎ、織田信長に転じて豊臣秀吉の与力となり浅井・朝倉攻めや毛利攻めに活躍、婦人の如き相貌に静かな勇気を秘めた天才軍師である。美濃岩手を所領する竹中重元の嫡子に生れ、父に従って道三亡き斎藤家の被官となったが、柔和な容貌から龍興主従の苛めに遭い、報復を決意した20歳の半兵衛は手勢14人で稲葉山城を急襲し占領してしまった。織田信長から美濃半国を条件に城の明渡しを誘われたが断って龍興に返還し、北近江の浅井長政に身を寄せた後、美濃岩手に戻り隠棲した。2年後の1566年、清洲同盟で東方を固めた織田信長が美濃に侵攻、竹中半兵衛は舅の安藤守就に従って信長に帰順し斎藤氏滅亡を傍観、1570年遁世欲を封印して豊臣秀吉の与力・軍師になると、長亭軒城を調略して美濃・近江の陸上封鎖を打破し、姉川合戦を戦った。徳川勢の奮闘で辛勝したものの信長包囲網が結成され、最前線の近江横山城に残された秀吉は苦境に置かれたが、軍師半兵衛の指揮で3年間浅井氏の反撃を凌ぎ、1573年武田信玄急死・信長包囲網瓦解と同時に一気に浅井・朝倉氏を討滅、殊勲者の秀吉は浅井遺領20数万石を与えられ長浜城に拠って織田家中屈指の将領に躍進した。1577年黒田官兵衛の要請を受けた織田信長が秀吉に軍団を預けて中国侵攻に着手すると、半兵衛・官兵衛「両兵衛」の軍略で秀吉軍団は播磨地方を席巻、別所長治の裏切りで山中鹿介の守る上月城を落とされ(上月城の戦い)、荒木村重謀反で使者に立った官兵衛が捕捉されたが、毛利方の備前国主宇喜多直家を寝返らせ、別所氏を三木城に追い詰めた。官兵衛反意を疑う信長は人質の嫡子黒田長政の殺害を厳命したが、竹中半兵衛は成敗覚悟で密かに長政を匿い、病身を押して東奔西走した後、三木城攻囲の陣中で力尽きた。中国大返しを差配して豊臣秀吉を天下人に押し上げた黒田官兵衛、関ヶ原合戦で小早川秀秋の寝返りを誘った黒田長政と比べると、裏方に徹した竹中半兵衛の業績は目立たず軍記者で和製張良に仕立てられたが、実像も誠実・智謀の名軍師であった。
1565年
[永禄の変]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が三好長慶の死を機に自立を図る二条御所の将軍足利義輝を襲撃(松永久秀は消極的あるいは不関与説もあり)、塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪将軍義輝は刀を換えつつ奮戦するが斬死(享年30)、義輝の生母慶寿院は殉死し弟の鹿苑寺周ロは殺されるが一乗院覚慶(足利義昭)は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、三好長慶の養嗣子義継を擁する三好三人衆が専横を強める松永久秀と断交し争乱に発展
足利義輝は、抗争の末に三好長慶に屈服するも諸侯に通じて三好政権打倒を画策、三好三人衆・松永久秀の謀反に斃れたが塚原卜伝直伝「一つの太刀」で奮闘し最後の意地を示した剣豪将軍、弟の足利義昭が織田信長を裏切り室町幕府は滅亡する。12代室町将軍足利義晴の嫡子で、1546年10歳のとき亡命先の近江坂本で将軍位を譲られたが、敵対する管領細川晴元に追われては近江の六角定頼に匿われる無頼生活が続いた。1549年江口の戦いで主君晴元を破った三好長慶が幕政を握ると、足利義晴・義輝は細川晴元に担がれ長慶に抵抗したが、六角定頼の死で勢力を削がれ近江朽木へ退避、1558年京都奪回を試みるも阿波勢の来援で撃破され降伏して5年ぶりに京都へ戻った(北白川の戦い)。傀儡将軍も確保し幕政を牛耳った三好長慶は摂津・阿波を拠点に畿内・四国10ヵ国を制圧したが、剛毅な将軍足利義輝は抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達稙宗・最上義光・武田信玄・上杉謙信・織田信長・斉藤義龍・北条氏政・毛利元就・尼子晴久・大友宗麟・島津貴久らと関係を築き三好政権打倒を目論んだ。宿敵三好長慶の運命は弟の十河一存の病死で一気に暗転、1562年河内の畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢を誘って蜂起すると、和睦工作で窮地を凌ぐも弟の三好実休が戦死し三好家中では戦功著しい松永久秀が台頭(久米田の戦い)、翌年嫡子三好義興に続き細川晴元・細川氏綱も死んで大義名分の管領を喪い、謀反の嫌疑で弟の安宅冬康を誅殺した直後に長慶自身も病没した。足利義輝には好機が到来したが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に先手を打たれ二条御所を急襲されて討死(永禄の変)、三好氏を倒しても誰かに担がれるほか無かったが見事な死様で武門の棟梁の矜持を示した。足利義輝には嗣子が無く、三弟の周ロは殺されたが次弟の足利義昭は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、幕臣の細川藤孝・明智光秀の斡旋工作が実り3年後に織田信長に担がれ最後の室町将軍となる。信長の上洛軍に三好三人衆も六角義賢も蹴散らされ、松永久秀は帰順するも後に謀反して滅ぼされた。

興福寺に幽閉された将軍足利義輝の弟一乗院覚慶(足利義昭)が三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は近江甲賀の和田惟政邸で足利将軍家の家督を宣言し南近江守護六角義賢が献上した野洲郡の矢島御所に移り還俗して足利義秋(義昭へ改名)を名乗り、関東管領上杉輝虎(謙信)・河内守護畠山高政・能登守護畠山義綱らに三好三人衆・松永久秀打倒を要請するが三好長逸に矢島御所を襲撃され六角義治(義賢の嫡子)に内通疑惑が生じたため若狭守護武田義統を頼り亡命、力不足の武田家を去り越前朝倉氏を頼るが朝倉義景は重い腰を上げず
足利義昭は、横死した剣豪将軍足利義輝の弟で、「天下布武」を目指す織田信長に担がれるも裏切って自滅した室町幕府最後の将軍、旧臣明智光秀が信長を討ったが天下は豊臣秀吉が奪いその庇護下で天寿を全うした。12代将軍足利義晴の次男で興福寺一乗院門跡となり28歳まで僧侶覚慶であった。1565年兄義輝を弑殺した三好三人衆・松永久秀に捕えられたが三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は足利将軍家の家督を宣言し還俗して足利義昭を名乗り、南近江守護六角義賢が献上した矢島御所に拠って上杉謙信ら諸侯に上洛を促すが、三好氏に圧迫されて逃亡し若狭武田氏を経て越前朝倉氏に身を寄せた。1568年朝倉義景に失望した足利義昭が新参の明智光秀の手引きで尾張の織田信長へ鞍替えすると、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ六角・三好を一掃し入洛して義昭を15代室町将軍に擁立した。義昭は帰順した仇敵松永久秀の処刑を望んだが謝辞された。翌年三好勢が本圀寺に仮寓する義昭を襲うが岐阜城から戻った信長が一蹴、信長は豪壮な二条御所を造営し将軍の権威付けに努めるが、「幕府再興」に有頂天の足利義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが逆に『殿中御掟』を突きつけられ傀儡将軍の増長を掣肘された。1571年石山合戦勃発で信長包囲網が結成されると、将軍足利義昭はあっさり恩人を裏切り「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・六角・延暦寺に内通し仇敵の松永・三好へも決起を呼掛け武田信玄・上杉謙信・毛利輝元には上洛を懇請した。翌年戦国最強の武田軍が三方ヶ原合戦で徳川家康を撃破し京都に迫ると、松永久秀の呼応に逸る足利義昭は勇み足で挙兵したが信玄急死で目論みが崩れ宇治槇島城を攻囲され降伏、明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣にも見限られ、1573年京都を追放され室町幕府は滅亡した。前将軍足利義昭は、毛利輝元に匿われ備後鞆から打倒信長・幕府再興を訴えたが相手にされず、1588年天下人豊臣秀吉に召出され正式に将軍職辞任を表明、没落大名の文芸サロン御伽衆に加えられ9年後に大坂で病没した。
1566年
塚原卜伝が10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国、家政は養子の塚原幹重に任せ吉川道場で兵法を教えながら歌を詠む悠々自適の余生を過ごす(和歌集『卜伝百首』が現存)

織田信長が美濃稲葉山城を攻撃(木下藤吉郎(豊臣秀吉)による墨俣一夜城伝説あり)、猛反撃に遭って力攻めを断念するが、稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全の美濃三人衆や竹中半兵衛重治を懐柔して斎藤龍興を孤立させ攻略に成功(近江に逃亡した斎藤龍興は、三好三人衆、最後は越前朝倉義景の客将となって抗戦を続けるが1573年に戦死)
織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。

[箕輪城落城]局地戦では無敵ながら関東に安定基盤を築けない上杉輝虎(謙信)の権威が低下し守将の北条高広まで離反、最後の拠点上野箕輪城を武田信玄に落とされ長野業盛(業正の後嗣)は自刃し上野長野氏は滅亡、輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総を転戦するが挽回できず関東制覇を断念、代わりに北条氏康が関東諸豪を切崩し勢力を回復
長野氏は、平城皇孫で『伊勢物語』主人公の在原業平の後裔を称した古豪で領地の上野群馬郡長野郷から名字を採ったとされる。上野を領有した関東管領山内上杉氏と守護代長尾氏(白井長尾家・総社長尾家)に仕えて西上野の土豪「箕輪衆」を束ね、長尾景春の乱で長野為兼・立河原の戦いで長野房兼が戦死し衰退したが、山内上杉顕定の執事で箕輪城に拠った長野業尚と嫡子の憲業が関東公方足利氏・山内と扇谷の両上杉家・越後と上野の長尾家の内紛(享徳の乱・長享の乱・永正の乱)に乗じて盛返した。憲業の嫡子長野業正は、扇谷上杉朝良の娘を娶り12人の娘を土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を伸ばし、惣社長尾顕景・白井長尾景誠(嫡子吉業の舅)を滅ぼして西上野を掌握し河越夜戦で吉業を喪いつつも支配を堅持、山内上杉憲政を保護した上杉謙信に臣従し老骨に鞭打って死ぬまで武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ切った。が、自らの死が上杉方諸豪の動揺を招き「これで上野を手に入れたも同然」と勇んだ信玄は直ちに2万の大軍を率い上野へ侵攻、後を継いだ次男の長野業盛は謙信の来援を得て撃退するが次第に追詰められた。鷹留城主長野業氏(業正の庶兄か)が戦死し、厩橋城主長野方業(業正の叔父)も滅ぼされ、遂に箕輪城陥落となり業盛は自害し上野長野氏は滅亡した。業正庶子の長野伝蔵(業実)が生母の縁故を頼って井伊直政に仕え知行4千石の重臣となり、井伊直弼の謀臣長野主膳はその子孫とする説があるが信憑性は乏しい。

箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される)
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。

[第二次月山富田城の戦い]毛利元就・吉川元春が5年に及んだ月山富田城攻囲戦を征し尼子義久が降伏開城(尼子義久・倫久・秀久兄弟は助命され子孫は毛利家臣として存続、後に尼子再興軍を旗揚げする山中鹿介は上京へ逃れ諸国巡歴)、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇
毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。

松平家康が改姓し徳川家康を名乗る(松平氏は三河賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、家祖徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河一国の太守に相応しい源姓・名字徳川に改めたと考えられる)
松平氏の祖親氏は、もと徳阿弥と名乗る時宗の遊行僧(賤民とも)で、西三河に漂着し松平郷の庄屋家に入婿し、兵力を蓄えて近隣を侵略し相当な土豪となった。この前に徳阿弥が坂井郷の庄屋の娘に産ませた子が酒井氏の祖という。5代目の松平長親は、三河に侵攻した今川氏親軍を撃退し総大将の北条早雲に黒星をつけた傑物で、安祥城に拠って頭角を現した。孫の松平清康も優秀で数年で西三河の大部分を切り従え尾張へ侵出したが、突如家臣に暗殺された。10歳の嫡子広忠は、織田信秀に圧迫され伊勢へ逃亡したが、今川義元に臣従し領地を回復して岡崎城に入った。広忠は三河苅屋城主水野忠政の娘お大を娶り、嫡子竹千代(徳川家康)をもうけたが、水野氏が織田方に属したためお大は離縁され、後に尾張知多郡阿古屋の久松定俊に再嫁した(伊予松山藩祖)。徳川家康は、今川一族の関口親永の娘(10歳上・築山殿)を妻に迎えたが、放置が祟って武田氏に内通し謀反、織田信長の命で嫡子信康と共に殺害した。松平氏は賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河平定を機に徳川(源姓)に改めようだ。この後は朝日姫(豊臣秀吉の妹)以外に正室を置かなかったが、秀吉と違って多くの子宝に恵まれ、優秀な男児は無いものの、婚姻政策は天下獲りの武器となった。実娘を池田輝政(岡山藩・鳥取藩)・浅野長晟(広島藩)、養女を黒田長政(福岡藩)・蜂須賀至鎮(徳島藩)・井伊直政(彦根藩)・鍋島勝茂(佐賀藩)・加藤清正・福島正則らに入輿させ皆大封を与えている。次男松平秀康は、秀吉・結城晴朝の養子を経て越前藩をもらったが、浮気性だった生母のせいか家康に嫌われ、後嗣忠直は逆恨みで狂人となり慰みに家中の男女を虐殺した。2代将軍となった三男徳川秀忠は、関ヶ原合戦で本隊を率いながら真田昌幸の挑発に乗って足止めを食う大失態を犯し、嫉妬深い妻江(信長の姪で淀殿の妹)を恐れ生涯妻妾を置けなかった。家康の男児は皆大藩の主に据えられたが、最年少の義直・頼宣・頼房が尾張・紀州・水戸の徳川御三家の祖となった。

島津貴久が隠居し嫡子島津義久が16代島津宗家を承継、義久・義弘・歳久・家久の島津4兄弟による九州統一への挑戦が始まる
島津氏は近衛氏の荘官として平安時代から南九州を支配する古豪で、初代島津忠久が源頼朝により薩摩・大隅・日向3国の守護に任じられ、元寇以来の九州領主の土着推進政策に従って島津一族も移住を進め、同族間で凌ぎを削りながら勢力を拡大した。島津氏では忠久の頼朝落胤説を伝えるが権威付けのための仮冒とみられ(豊後大友氏も頼朝落胤説を伝える)、秦氏の子孫惟宗氏の裔とする説が有力である。戦国大名の島津氏は、島津一族伊作家の忠良に始まる。応仁の乱後、内輪もめと土豪の台頭で薩摩・大隅守護の島津宗家は衰亡し、薩州家島津実久の専横に圧迫された14代当主島津勝久は有力者島津忠良の嫡子貴久に15代当主を譲って救助を求めるが、実久の抗戦と勝久の寝返りで貴久は鹿児島清水城と守護職を奪われ、内戦は13年に及んだ。凡愚な勝久が国人衆に見放され再び実久と抗争を始めると、忠良(日新斎)・貴久は反攻を開始、加世田別府城・市来鶴丸城の戦いに勝利して実久を降伏させ、鹿児島内城に入って島津宗家の家督と守護職を奪回、火種の勝久も追放した。島津貴久は、有力国人入来院重聡の娘を娶り、忠良が「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と嘱目した「島津四兄弟」をもうけた。16代当主を継いだ嫡子島津義久は、最初の妻に叔母(忠良の娘)・継室に種子島時尭の娘を迎えたが男児に恵まれなかった。豊臣秀吉に剃髪降伏した義久に代わって第17代当主となった島津義弘は、次男忠恒に家督を継がせ(嫡子久保は朝鮮役で病死)、この系統が幕末の島津斉彬・忠義まで薩摩藩主を継承した。久保・忠恒は義久の娘亀寿の入婿となっている。島津歳久は秀吉の怒りに触れて誅殺されたが、養子忠隣が島津日置家を伝えた。庶子の島津家久は耳川・沖田畷・戸次川戦勝の立役者で義弘と双璧を成したが九州征伐の渦中に病死、嫡子豊久は関ヶ原で壮絶死したが養子忠栄が永吉家を伝えた(次男忠仍は相続を遠慮)。なお、島津製作所の島津家は、播磨の飛び領管理の功で義弘から島津姓と丸十字紋を許された井上惣兵衛の裔という。
1567年
毛利元就に通謀した秋月種実(文種の次男)が筑前で挙兵し呼応した筑前宝満城・岩屋城主の高橋鑑種と筑後の筑紫惟門が大友宗麟に反旗を掲げ筑前の宗像氏貞・原田隆種と肥前の龍造寺隆信も呼応、征伐軍を率いる戸次鑑連(立花道雪)は戸次一族と譜代重臣の多くを喪う激戦の末に立花山城を攻略し(城主の立花鑑載は自害)筑前・筑後の反抗勢力を鎮圧
立花道雪(戸次鑑連)は、百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱である。大友一族の戸次氏の嫡流で、13歳の初陣以来連戦連勝、1550年二階崩れの変で大友宗麟の家督相続を差配し、翌年陶晴賢の謀反で大内氏が滅亡すると筑前・筑後・肥前・肥後の反抗勢力を一掃した。45歳の道雪は落雷に斬りつけて感電し後遺症で歩行困難となったが、戦場では輿に乗って最前線で指揮を執り「雷神」と称された。1555年陶晴賢を滅ぼし防長経略を果した毛利元就が北九州に侵入、道雪は秋月文種を討って反乱を抑えたが、1562年門司城の戦いに大敗した宗麟が道雪の猛反対を抑えて和睦恭順し反大友陣営を勢いづかせた。「道の雪がその場で消えるように武士も死ぬまで一主君に忠節を尽くすべし」との決意で道雪と号し、享楽と宗教に耽る宗麟を諌め続けた。1567年毛利に通じた秋月種実・高橋鑑種らが挙兵、道雪は一族・重臣を喪う激戦の末に立花山城を攻め落とし筑前・筑後を制圧、肥前の龍造寺隆信討伐に向かうが、来援した毛利軍に立花山城を奪回され、引返した道雪が防戦するうち山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱で毛利軍を退けた。筑前・筑後の軍司令官に就いた立花道雪は、筑前守護職に補され立花氏の名跡と立花山城を承継し、高橋紹運・立花宗茂らを統率して大友領を死守した。1578年大友宗麟が道雪の制止を振り切って島津討伐に乗出すが(宗麟は道雪を従軍させず)耳川合戦で壊滅的大敗、龍造寺隆信の台頭を許し、1584年その龍造寺を斃した島津軍が大友領へ殺到、立花道雪は豊後へ長駆して宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家の援軍が撤退するなか高良山に布陣して3倍の敵軍を撃破するが、柳川攻城中に力尽き「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言して陣没した。大黒柱を喪った大友氏は滅亡寸前に追込まれたが、豊臣秀吉の九州征伐で辛うじて豊後一国を保った。

織田信長が美濃国を制圧、中国周王朝の発祥地に因んで稲葉山城を岐阜城へと改名し本拠を移動、国境を接した武田信玄を贈物攻勢と婚姻政策で宥めつつ「天下布武」を掲げて京都を窺う
織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。

丸目蔵人長恵が愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ世人に真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず、師の上泉伊勢守信綱は長恵に新陰流の印可を授与(「殺人刀」教授は認めるが「活人剣」は秘匿すべしとの制限付)、長恵は肥後人吉へ戻り相良晴広の命により薩摩大口城守将の東伊勢守の旗下に入る
丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。

北近江小谷城主の浅井長政が越前朝倉氏に背かないことを条件に上洛を望む織田信長と同盟し南近江の六角義賢攻めを加速、信長の妹で「近国無双の美人」市は浅井長政に入輿し茶々(豊臣秀吉側室で嗣子秀頼の生母淀殿)・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠正室)を出産する
浅井氏は、藤原北家閑院流を称する近江の土豪(小谷城主)で北近江守護京極氏に仕えたが、京極騒乱で台頭した浅井亮政が浅見氏らを切従え京極高延を傀儡化して北近江を掌握、南近江守護の六角定頼に圧迫されたが越前の朝倉宗滴に助けられ領国支配を固めた。嫡子の浅井久政は軟弱で、家督相続に逆らう田屋明政(亮政の婿養子)が京極高延を担ぎ反乱、久政は六角義賢(定頼の嫡子)に臣従し越前朝倉氏に助勢を乞うて保身を図った。父の弱腰を見兼ねた嫡子の浅井長政と家臣団はクーデターで家督を奪い六角氏に手切れを通告、攻め寄せた六角軍を撃退し(野良田の戦い)、畿内へ浸出した織田信長と同盟を結び「近国無双の美人」と賞された市を娶って茶々・初・江の三姉妹を生し(信長は少年期に同母妹の市を犯したため「たわけ」と呼ばれたとも)、三好三人衆に通じて敵対する六角義賢を信長と共に滅ぼした。信長が朝倉義景を攻めると浅井長政・久政は反旗を翻したが、金ヶ崎の退き口で挟撃の好機を逃し姉川の戦いで大敗、信長包囲網を結成し抵抗するも近江領を守る豊臣秀吉・竹中半兵衛を攻め破れず、頼みの武田信玄が急死すると直ちに小谷城を攻められ越前一乗谷城の朝倉氏諸共に滅ぼされた。浅井の男系は絶たれ市は再嫁した柴田勝家に殉じたが、女児は数奇な運命を辿った。茶々(淀殿)は、柴田勝家・市を滅ぼし伯父織田信長の天下を奪った豊臣秀吉の側室となり嫡子豊臣秀頼を産んで事実上の当主となったが、無謀にも徳川家康に挑戦し秀頼と豊臣家を破滅へ導いた。初は信長・秀吉に拾われた京極高次に嫁ぎ、江は徳川秀忠(家康の後嗣)に入輿して3代将軍家光を産み、庶女のくすは松の丸殿の侍女・刑部卿局は千姫の乳母で淀殿の側近となった。なお京極高次は、高延の弟高吉の子で人質として信長に仕え、秀吉側室の松の丸殿(妹)・淀殿(従妹)の七光りで出世した「蛍大名」の分際で関ヶ原で東軍に属し若狭小浜藩9万2千石に大出世、嫡子京極忠高は初姫(秀忠の四女)を娶り松江藩26万4千石へ躍進したが無嗣没により讃岐丸亀藩6万石へ減転封となった。淀殿は生家浅井氏の旧主である京極氏出身の松の丸殿を敵視し側室筆頭を争った。

[三船山合戦]北条氏政(氏康嫡子)が安房に攻め入り里見義堯・義弘に決戦を挑むが水陸両戦でまさかの大敗、房総情勢は里見氏優位に転換(その後一時降伏(房相一和)するも反北条を貫く)
北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。

駿河侵攻を企図する武田信玄が嫡子武田義信を今川氏の妻と離縁させ廃嫡のうえ幽閉し(2年後自害に追込む)傅役の飯富虎昌らも謀反の疑いで殺害、信玄の四男武田勝頼が信濃高遠城から甲府躑躅ヶ崎館に召還され跡継ぎ的立場となる
甲斐武田氏は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光が甲斐守在任中に生した次男義清を祖とする。清和源氏の名門だが、逸見・甘利・板垣・小笠原・南部・秋山・平賀など甲斐の土豪は概ね同族で、飛び抜けた存在ではなかった。猛将武田信虎は、武力で諸豪を切従え甲斐守護職を獲得、伊沢(石和)から甲府躑躅ヶ崎に居館を移して東信濃に侵出し、遠江守護今川義元に娘を嫁がせ甲駿同盟を結んだ。暴虐な性質で、胎児の発育過程を見るため10人の妊婦の腹を割いたという。嫡子の武田信玄は、信虎が同母弟の信繁を偏愛したため少年期は阿呆な素振りで警戒をかわし、重臣と姉婿今川義元を味方につけて信虎を駿河へ追放し家督を奪った。武田信玄は、継室三条の方(本願寺顕如の妻如春尼の姉)との間に三児を生し、滅ぼした諏訪頼重の娘で「かくれなき美人」諏訪御料人を強引に側室にして四男勝頼を産ませた。嫡子の武田義信は優秀だったが今川氏真(正室の兄)を庇い駿河侵攻を狙う信玄と対立、謀反の嫌疑で廃嫡・自害させられた。次男信親は盲人で三男信之は夭逝したため、信玄は四男勝頼(公式には勝頼の嫡子信勝・生母は織田信長の姪で養女)を家督に据えた。長篠の戦いに敗れた武田勝頼は、北条氏政の妹を継室に迎え甲相同盟を固めたが、御館の乱で上杉景勝に乗換え(妹菊姫が入輿)実弟の上杉景虎を殺された氏政は甲相同盟を破棄して織徳同盟へ加盟、織田・徳川・今川が三方から甲斐へ攻込み孤立した勝頼は信勝・郎党90人と共に自害した。信玄娘婿の木曾義昌・穴山信君が寝返り信玄弟の武田信廉を筆頭に諸将悉くが降参するなか、仁科盛信(同五男)・武田信豊(同甥)は意地を貫き死花を咲かせた。勝頼が遺した一女は旗本宮原氏に嫁いで嗣子晴克を産み、信親(信玄次男)の孫信興は柳沢吉保の引立てで武田氏再興を許され表高家に列し、信清(同七男)は上杉景勝に仕え、信俊(同甥)の家も大身の旗本として残った。武田の精強を恐れる信長は根絶やし作戦を展開したが、生延びた遺臣の多くは徳川家康に召抱えられ、選に漏れた者は武蔵多摩に集住し「八王子同心」として武士の面目を許された。近藤勇ら新撰組の多くは八王子同心の家柄である。

[明禅寺合戦〜備中兵乱]沼城主中山信正(舅)、鷹取城主島村盛実(祖父能家の仇)、沼城主松田元輝・元賢(娘婿)、岡山城主金光崇高、龍口城主撮所元常を次々に謀殺し身代を併せた宇喜多直家が主君浦上宗景を圧伏して備前の実権を掌握、父の三村家親(毛利元就被官の備中領袖)を直家に暗殺された嫡子の三村元親は大軍を率いて備前へ攻め込むが撃退され、直家は毛利・三村勢が九州遠征に出た隙を衝いて備中へ攻め返し松山城・猿掛城を奪取するも毛利軍来援で撤退
宇喜多直家は、流浪の身から有力者を次々謀殺して身代を奪い主君浦上宗景を追放して備前を乗取った悪逆無道の卑劣漢、毛利から織田に転じて備前岡山城57万4千石を保つが嫡子秀家が関ヶ原合戦に敗れ子孫は流刑地の八丈島で逼塞した。祖父宇喜多能家は浦上氏を播磨・備前・美作の領袖へ導いた勇将だったが、大物崩れで浦上村宗が討取られ尼子経久の侵攻で主家が没落するなか後継の浦上政宗に嫌われ政敵の島村盛実に殺害された。5歳の宇喜多直家は流浪の身に転落したが元服後に浦上宗景(政宗の弟)に出仕すると、毛利元就と同盟し政宗に取って代った宗景の下で勢力を伸ばし、沼城主中山信正(舅)、鷹取城主島村盛実(祖父能家の仇)、沼城主松田元輝・元賢(娘婿)、岡山城主金光崇高、龍口城主撮所元常を次々と謀殺して所領を奪い邪魔者の浦上政宗・清宗父子も始末した。主君宗景を凌ぎ備前の実権を握った宇喜多直家は、美作を争う三村家親(毛利被官で備中領袖)を鉄砲で暗殺し、1567年父の仇を討つべく備前へ来襲した三村元親を撃退し毛利氏と対峙した(明禅寺合戦。直家唯一のまともな戦功)。1569年浦上宗景・赤松義祐が播磨の赤松政秀を攻撃、織田軍が来援すると宇喜多直家は宗景に反旗を翻すが、姫路城を攻めた政秀が黒田官兵衛に逆襲され龍野城を落とされ滅亡(毒殺)、辛くも助命された直家は臥薪嘗胆で主家簒奪の機を窺った(青山・土器山の戦い)。織田信長の脅威が山陽道に及び浦上宗景と播磨の小寺政職・黒田官兵衛・別所長治・赤松広秀(政秀嫡子)らが織田に帰順すると、1575年宇喜多直家は毛利と同盟して対抗、直家憎しで織田へ奔った三村元親を討ち滅ぼし、宗景を敗走させて備前を制圧(天神山城の戦い)、宗景の嫡子浦上宗辰に娘を娶わせ偽りの和議に誘って毒殺した。が、1577年毛利討伐を決意した信長が豊臣秀吉軍団を派遣すると忽ち織田へ寝返り、娘婿の三星城主後藤勝基を毒殺して美作を制圧、三木合戦を織田軍勝利へ導いた。翌年宇喜多直家は備前岡山城で病没、嫡子宇喜多秀家は秀吉に厚遇され五大老・朝鮮役総大将に抜擢され関ヶ原合戦で西軍主力として奮戦したが敗亡、流刑地の八丈島で生涯を終えた。

武田信玄を恐れる織田信長が養女(姪)を世子武田勝頼に嫁がせ(遠山夫人)武田信勝が出生、上機嫌の信玄は信勝を跡継ぎに定め娘松姫と信長嫡子信忠の婚約を認める(後に武田と織田は手切れとなり婚姻は成立せず)
武田勝頼は、長篠の戦いで織田信長に惨敗し、無闇な外征と佞臣重用で家臣団に見放され御館の乱で上杉景勝に乗換え生命線の甲相同盟が破綻、織田・徳川・今川に挟撃され自滅した武田信玄の跡取り息子である。信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘に産ませた四男で諏訪氏の名跡と信濃高遠城を継いだが、長兄武田義信の廃嫡に伴い世子となり、信長の養女(姪)を娶り嫡子信勝をもうけた。1573年信玄死去により甲斐・信濃・駿河3国と上野・遠江・三河に及ぶ大封を承継すると、側近の長坂釣閑・跡部勝資を寵遇し歴戦の信玄遺臣との軋轢を深め信玄の遺志に背いて短兵急な外征を開始、織田領東美濃の明知城を攻略し徳川領東遠江の高天神城を奪取し、内通した大賀弥四郎が家康に誅殺されると兵1万3千で三河長篠城を攻囲するが奥平貞昌の抵抗に遭った。1575年徳川軍8千と織田軍3万が来襲、信玄遺臣は甲府撤退または長篠城攻城を説くが勝頼は野戦を決断、馬防柵と鉄砲の三段撃ちで撃破され山県昌景・馬場信春・原昌胤・真田信綱など武将の大半を喪う惨敗を喫した(長篠の戦い)。甲斐に逃げ戻った武田勝頼は、北条氏政の妹を継室に迎えて甲相同盟を固め将軍足利義昭・本願寺顕如を通じて上杉謙信と和親したが、1578年謙信が信長討伐の号令直後に急逝し養子の上杉景勝(謙信の甥)・上杉景虎(北条氏政の実弟)の家督争いが勃発、勝頼は氏政の要請で出陣するが長坂・跡部の策動で景勝へ乗換え(御館の乱)、宿敵上杉家を降すも肝腎の甲相同盟が破綻した。真田昌幸の活躍で北条領東上野を席巻したが家康に高天神城を奪還され城兵を見捨てた武田勝頼の権威は失墜、信長に人質を返して講和を図るが拒絶された。1582年畿内を平定した信長は木曽義昌(信玄の娘婿)の寝返りを機に甲州征伐に乗出し織田・徳川・今川の軍勢が三方から甲斐へ侵入、駿河の守将穴山信君(同娘婿)は寝返り伊奈口の武田信廉(同弟)らは逃亡、孤立した武田勝頼は韮崎新府城を落ちて郡内(大月)岩殿城へ辿着くが小山田信茂の寝返りで入城を拒まれ長坂・跡部まで遁走、天目山麓で追詰められた勝頼は嫡子信勝・一族郎党90余人と共に自刃し武田氏は滅亡した(天目山の戦い)。

[東大寺大仏殿の戦い]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に三好康長・安宅信康・篠原長房・池田勝正ら三好家重臣と大和の筒井順慶が加勢し将軍足利義栄からも討伐令を出された松永久秀が大和多聞山城に孤立(柳生家厳・宗厳父子は久秀方で参戦)、畠山高政・安見宗房・根来衆と同盟し挽回を図るも堺を落とされ逃亡するが、三好家当主義継の寝返りを誘って盛り返し三人衆が陣取る東大寺を夜襲で撃退(東大寺大仏殿は失火で全焼し大仏は首が焼落、奇しくも10年後の同日10月10日に松永久秀は自爆死)、順慶とゲリラ戦術に手を焼いた久秀は局面打開のため織田信長に名物茶器「九十九髪茄子」を献じて帰服、信長は久秀に大和一国・義継に河内半国の切取り次第を許す
松永久秀は、寝返りが茶飯事で謀略渦巻く畿内政局をリードして三好政権を支え、主君長慶没後は三好一門衆の総スカンを食って孤立しつつも逸早く織田信長に帰服して勢力を保ち、猜疑心の強い信長から使い捨てにされる未来を予見して謀反の先鋒役を果した智謀の士である。「寝返り癖」は細川政元暗殺後の乱脈極まる畿内政局にあっては別段目立つことではなく、恩人の長慶には終生忠節を貫き、信長への最初の謀反は大和救援を拒まれたため止むを得ない面があり、実際に信長も赦免している。猜疑心強烈で裏切りを許さない信長の性格を知れば、上杉謙信と石山本願寺の強勢をみて捨て身の勝負に出たのも頷ける。戦国大名としては、畿内勢共通の弱兵故に戦闘には強くなかったが、京都・堺・奈良をおさえて抜群の経済力を備え、防衛強固な信貴山城・多聞山城で戦国城郭建築の先駆者となり、茶道や連歌に通じて朝廷・幕府の権威を巧みに利用、いずれも信長が踏襲したことを考えると天下獲りの先導役だったともいえよう。ただ、三好三人衆ら同僚の悉くに憎悪され三好政権衰亡の元凶となったのは不徳の致す所で、苛酷な施政に苦しめられた領民は久秀が滅ぶと農具を売って酒に換え大いに祝ったという。三好家簒奪・将軍足利義輝暗殺・東大寺大仏殿焼討ちは久秀の「三悪事」とされるが、義輝弑逆の主犯は三好義継と三人衆で久秀は不関与あるいは消極的だったとする説もあり、大仏焼討ちの非は東大寺に陣取った三人衆側にあるだろう。久秀自害の日が奇しくも大仏焼討ちから10年後の同日10月10日であったことは事実のようだが、後世の軍記物は久秀を異常な好色漢に仕立て、いつも美女数人を引き連れて行軍し興じると紙帳を張って用を足した云々と伝えるが、信憑性は乏しい。また、年貢滞納の百姓に蓑を着せて火を放ちもがき死ぬ様を「蓑虫おどり」と称して楽しんだとか(斎藤道三にも類話あり)、大ケチながら貯めこんだ名物珍品を気前良く信長に献上して命を繋いだ云々の悪評も、伝説の域を出ない。恩人を次々に葬り去って成り上がった斎藤道三・宇喜多直家と並べて戦国三大梟雄と呼ぶのは久秀には酷であろう。
1568年
将軍足利義輝を殺害した松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が阿波に居た足利義栄(11代将軍義澄の孫で13代義輝の従弟)を担ぎ出して14代室町将軍の宣下を受けるが、専横を強める松永久秀と三好一門衆の抗争が勃発し将軍義栄は入京できぬまま半年後に病死
松永久秀は、三好長慶の下で勢力を伸ばすが長慶没後三好一門衆と対立して孤立、織田信長に帰順して大和支配を回復するも信長包囲網に加担、二度目の謀反に敗れて名器「平蜘蛛」諸共自爆死した下剋上の代名詞である。狡猾な辣腕家、主家簒奪・将軍弑逆・大仏焼討ちの「三悪事」で戦国三大梟雄に挙げられるが、斎藤道三・宇喜多直家のように恩人殺害や追放の証拠は無い。20歳過ぎで仕えた三好長慶は、微賤の出ながら有能な松永久秀を重用し、木沢長政・三好政長を討ち細川晴元・将軍足利義輝を追放して三好政権を樹立すると、40歳で京都所司代に就いた久秀は朝廷・幕府・寺社との折衝で頭角を現し、茶道・連歌に通じて一流の文化人となり、堺代官も兼ねて貿易で巨富を積み三好家中第一の勢力家となった。三好長慶が義輝・晴元を降し四国・畿内10カ国に君臨して全盛期を迎えるなか、大和侵攻を託された久秀は戦国城郭の範となる信貴山城(天守閣)・多聞山城(多聞造り)を築いて国人勢を討平した。が、主君長慶の運命は突如暗転、十河一存・三好実休・安宅冬康と柱石の実弟と嫡子三好義興まで相次いで喪い(久秀の陰謀説あり)、1564年自らも病没した。松永久秀は、近江六角・河内畠山の挟撃を退け、黒幕の将軍足利義輝暗殺により政権を保ったが(永禄の変)、権勢を妬む三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)ら一門衆との内部抗争が勃発、弟松永長頼の敗死で支配地の丹波を失い、三好義継を寝返らせ東大寺夜襲で三人衆を撃退するも挽回ならず(東大寺大仏殿の戦い)、1568年織田信長に帰服し加勢を得て大和を回復した。が、宿敵筒井順慶・興福寺の反撃で十市城を奪われ、信長に背いて近江戦線を離脱し順慶に決戦を挑むも大敗(辰市城の戦い)、孤立した久秀は信長包囲網に活路を託し謀反を起すが武田信玄急死で挫折、多聞山城と夥しい献上物を差し出して赦免され、佐久間信盛旗下で石山合戦に従軍した。そして1577年、信長包囲網再結成に呼応して再び謀反するが、頼みの上杉謙信が急死、大軍に信貴山城を攻囲されるなか信長所望の名物茶器「平蜘蛛」と共に自爆死、嫡子久通と妾腹の二児も処刑され松永氏は滅亡した。

足利義昭(三好三人衆・松永久秀が弑殺した将軍足利義輝の弟)が上洛要請に応じない朝倉義景に失望し幕臣の細川藤孝・新参の明智光秀の手引きで越前を脱走し尾張の織田信長へ鞍替え、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ南近江の六角義賢と畿内の三好三人衆を一掃し(松永久秀・三好義継は逸早く投降)、入洛して義昭を15代室町将軍に擁立、織田信長は関所撤廃と楽市楽座により寺社特権を剥奪し松永久秀が敷いたキリスト教宣教師追放令も撤廃
足利義昭は、横死した剣豪将軍足利義輝の弟で、「天下布武」を目指す織田信長に担がれるも裏切って自滅した室町幕府最後の将軍、旧臣明智光秀が信長を討ったが天下は豊臣秀吉が奪いその庇護下で天寿を全うした。12代将軍足利義晴の次男で興福寺一乗院門跡となり28歳まで僧侶覚慶であった。1565年兄義輝を弑殺した三好三人衆・松永久秀に捕えられたが三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は足利将軍家の家督を宣言し還俗して足利義昭を名乗り、南近江守護六角義賢が献上した矢島御所に拠って上杉謙信ら諸侯に上洛を促すが、三好氏に圧迫されて逃亡し若狭武田氏を経て越前朝倉氏に身を寄せた。1568年朝倉義景に失望した足利義昭が新参の明智光秀の手引きで尾張の織田信長へ鞍替えすると、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ六角・三好を一掃し入洛して義昭を15代室町将軍に擁立した。義昭は帰順した仇敵松永久秀の処刑を望んだが謝辞された。翌年三好勢が本圀寺に仮寓する義昭を襲うが岐阜城から戻った信長が一蹴、信長は豪壮な二条御所を造営し将軍の権威付けに努めるが、「幕府再興」に有頂天の足利義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが逆に『殿中御掟』を突きつけられ傀儡将軍の増長を掣肘された。1571年石山合戦勃発で信長包囲網が結成されると、将軍足利義昭はあっさり恩人を裏切り「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・六角・延暦寺に内通し仇敵の松永・三好へも決起を呼掛け武田信玄・上杉謙信・毛利輝元には上洛を懇請した。翌年戦国最強の武田軍が三方ヶ原合戦で徳川家康を撃破し京都に迫ると、松永久秀の呼応に逸る足利義昭は勇み足で挙兵したが信玄急死で目論みが崩れ宇治槇島城を攻囲され降伏、明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣にも見限られ、1573年京都を追放され室町幕府は滅亡した。前将軍足利義昭は、毛利輝元に匿われ備後鞆から打倒信長・幕府再興を訴えたが相手にされず、1588年天下人豊臣秀吉に召出され正式に将軍職辞任を表明、没落大名の文芸サロン御伽衆に加えられ9年後に大坂で病没した。

[観音寺城の戦い]上洛に向かう織田信長が通路確保のため南近江の六角義賢に従軍を要請するが拒絶(領地明渡しや臣従の強要ではなかったが、義賢は近江で争う浅井長政と同盟した信長を警戒、将軍足利義栄を担ぐ三好三人衆に与して信長に抵抗)、支城の箕作城を一夜で落とされた義賢は観音寺城を放棄して逃亡し鎌倉幕府創立から続く佐々木氏嫡流の六角氏は滅亡、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は嫡子蒲生氏郷を人質に出して降伏、蒲生氏の義理堅さに感じた信長は氏郷を近侍させ厚遇する
六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。

織田信長軍団の高級将校木下藤吉郎(豊臣秀吉)が六角義賢討伐・観音寺城の戦いで主戦場となった支城の箕作城攻めで活躍(信頼できる資料に初登場)、翌年京都警備役(師団長格)に大抜擢され1万石の所領を得る
豊臣秀吉は、尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも愛児秀頼が徳川家康に滅ぼされた戦国下克上の出世頭である。尾張の「あやしき民」から放浪生活を経て20歳前後で織田家の小者(下働き)となり、士分で裕福な浅野家から妻ねね(北政所)を迎え、真冬に信長の草履を懐中で温めた話や墨俣一夜城伝説が象徴する抜群の要領と自己アピールで台頭し30歳過ぎには高級将校に列した。但馬攻略を指揮し、浅井長政離反時の退却戦(金ヶ崎の退き口)で信長の窮地を救い、近江攻略の勲一等で浅井家遺領20数万石と長浜城を与えられ織田家屈指の将領となったが、古参の柴田勝家と丹羽長秀への気配りも忘れず一字ずつもらって羽柴秀吉を名乗った。上杉謙信との対決(手取川の戦い)で主将の柴田勝家と反目し戦線離脱の重罪を犯すが、馬鹿騒ぎ戦術で信長の逆鱗をかわし、1577年逆に中国・毛利攻めを任されると、毛利方に寝返った別所長治を兵糧攻めで討ち(三木の干殺し)、梟雄宇喜多直家を調略して4年で播磨・但馬・備前国を完全制圧、山陰に転戦して因幡鳥取城を兵糧攻めで落とし(鳥取の渇え殺し)、1582年備中高松城を水没させて毛利軍と対峙した。この間、軍師の竹中半兵衛を病気で喪ったが、播磨攻めで得た黒田官兵衛もまた逸材だった。信長の猜疑心を熟知する秀吉は、養子の秀勝(信長の四男)に近江経営を任せて赤心を示し、大量の土産物で機嫌をとり、備中攻めの果実を献上すべく信長に出馬を要請した。が、その途上滞在した京都で織田信長が落命(本能寺の変)、黒田官兵衛の激励で天下獲りに目覚めた豊臣秀吉は、毛利との講和を妥協して片付け、大急ぎで畿内へ進軍(中国大返し)、僅か11日後には明智光秀を討ち果し(天目山の戦い)、その14日後の清洲会議で柴田勝家の推す織田信孝(信長の三男)を退けて三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に擁立、自身も旧明智領28万石を獲得し名実共に織田家の最高実力者に躍進し、織田家簒奪を睨み「人たらし」の才を駆使して人心掌握に励んだ。

長宗我部元親が瓜生野城攻囲中に宿敵本山茂辰が死去し嫡子本山親茂を降伏させて土佐中部を平定、翌年の八流の戦いで安芸国虎を攻め滅ぼし土佐東部も制圧した元親は土佐統一を臨み毛利氏の伊予出兵に敗れ衰亡へ向かう伊予国司一条兼定を標的に据える
長宗我部元親は、父長宗我部国親の遺志を継いで土佐統一を果し本能寺の変に乗じて四国制覇を成遂げた智勇兼備の名将だが、豊臣秀吉に屈して土佐以外の所領を没収され後嗣盛親が関ヶ原合戦・大坂陣に敗れ滅亡した。長宗我部兼序が土佐国人連合に討たれた後、遺児の国親は土佐国司一条房家に養われ元服後に長岡郡の旧領に戻された。岡豊城に帰還した国親は、復讐心を隠して国人衆の離間を図りつつ勢力を伸ばし、仇敵の山田教道を討果し1560年本山茂辰を攻めて長浜城・浦戸城を落とすが合戦中に陣没した(長浜の戦い)。嫡子の長宗我部元親は、本山勢の反攻を自ら槍を振るって撃退し「姫若子」と揶揄した家臣達を心服させると(潮江堤合戦)、一条兼定(房家の曾孫)と共に諸豪を切従え1568年本山氏を降伏させて土佐中部を平定、翌年安芸国虎を攻め滅ぼし土佐東部まで制圧し、毛利氏の伊予出兵で致命傷を負った一条兼定を圧迫した。疑心暗鬼の兼定が柱石の土居宗珊を殺害すると、1575年長宗我部元親は一条家重臣を篭絡して兼定を追放し大友宗麟の力添えで攻め返すも殲滅(四万十川の戦い)、土佐統一を果した元親は織田信長と同盟を結び一領具足を率いて強敵不在の四国平定に乗出した。元親は三好一族を掃討して阿波・讃岐を掌中にしたが、1580年畿内を平定した信長が土佐以外の放棄を要求し、1582年抵抗する元親を討つべく大軍を送るが渡航直前に本能寺の変が勃発、昵懇の明智光秀・斎藤利三に窮地を救われた元親は阿波勝瑞城を攻落として十河存保・三好残党を讃岐十河城に追詰め、柴田勝家・徳川家康と通謀して豊臣秀吉に抵抗、1584年讃岐の豊臣勢と伊予の毛利勢を追払い河野通直を降して四国統一を達成した。が、翌年10万余の豊臣軍が来襲すると為す術なく長宗我部元親は土佐一国の安堵を条件に降伏、1586年先発隊2万を率いて九州征伐に乗込むが軍監仙石秀久の勇み足で島津家久の「釣り野伏せ」に嵌って惨敗、期待の嫡子信親を喪った。悲嘆の余り暴君となった長宗我部元親は、反対派重臣を容赦なく誅殺して四男盛親を家督に立て、小田原征伐と2度の朝鮮出兵に従軍して忠誠を示し関ヶ原合戦の直前に病没した。

[甲相同盟破綻と越相同盟]武田信玄が徳川家康と今川領の東西分割を約し駿河侵攻開始、難なく駿府城を落として今川氏真を遠江掛川城へ追い払うが、甲相同盟を解消した北条氏康の侵攻により甲府へ撤退、北条氏康は宿敵上杉輝虎(謙信)に上野国支配と関東管領職を認めて越相同盟を結び元盟友武田信玄を圧迫(今川と北条に塩の移出を止められ難渋する武田信玄に上杉謙信が越後の塩商人を派遣した「敵に塩を送る」逸話はこのときの出来事)
武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。

島津義久が日向国主伊東義祐の猛攻に晒された飫肥城を放棄、城主島津忠親は庄内(都城)へ撤退し間もなく病没、「九州の小京都」佐土原に拠り日向国内に四十八支城を構えた伊東氏は全盛期を迎える

[毛利氏の伊予出兵]大友宗麟と通じる大洲城主宇都宮豊綱・土佐中村城主一条兼定が湯築城主河野通宣を攻撃、河野重臣の村上通康(渦中に病死し嫡子の来島通総が家督と来島村上水軍を承継)から援軍要請を受けた毛利元就は小早川隆景・乃美宗勝を派遣し宇和島の西園寺公広と同盟して大洲城を攻略、元就は元寇の勇将河野通有以来伊予を支配した河野氏と村上通康ら水軍衆を支配下に置くも九州大友氏との二方面戦争を余儀なくされ敗戦で没落した一条家では被官の長宗我部元親が台頭する
村上氏は、村上帝皇孫の源師房の末裔を称したが、河内(清和)源氏の信濃村上氏(村上義清が有名)の庶流とも伊予を支配した越智(河野)氏の庶流ともいわれる。確実なのは南北朝時代に伊予大島に拠り「海賊大将」と称された村上義弘からで、大内義興に属し勢力を伸ばしたが、嫡流の能島と来島・因島に分裂した「三島村上水軍」は骨肉の勢力争いに陥り能島村上隆勝の暗殺事件が起った。隆勝長子の義雅は早世し次男の義忠が後を継いだが来島村上通康が義雅嫡子の義益を担ぎ対抗、義忠嫡子の武吉は一時肥後菊池氏へ亡命したが叔父村上隆重・大内義隆・小早川水軍の支持を得て家督争いを制し来島衆を懐柔すべく通康の娘を娶った。村上武吉は、厳島の戦いで毛利元就の勝利に貢献、小早川隆景に属しつつも独立保持に固執し豊臣秀吉に無謀な抵抗を続けたが海賊停止令で息の根を止められ、毛利氏の庇護下で失意の晩年を過ごした。毛利輝元に仕えた嫡子の村上元吉は関ヶ原合戦で毛利水軍を率いて蜂須賀家政の阿波猪山城を攻落とし加藤嘉明の伊予松前城を攻めたが佃十成の夜襲に遭い討死(三津浜夜襲)、弟の村上景親は細川忠興や池田輝政の招聘を断って毛利家に留まるが船手組組頭の微役で生涯を終えた。政治的手腕に優れた来島村上通康は伊予国主河野通直の娘を娶って河野家簒奪を狙い毛利氏の伊予出兵を招来して宇都宮豊綱・一条兼定を撃退するが渦中に病没、村上武吉と不仲な嫡子の来島通総は織田信長の毛利攻めに際して豊臣秀吉へ帰服し四国攻めで旧主河野氏の討滅に働いて伊予風早郡1万4千石の大名に栄達するが朝鮮役で戦死した。嫡子の来島長親は関ヶ原で西軍に属し所領を没収されるが福島正則の取成しで山間の豊後森藩1万4千石を与えられ久留島へ改姓した子孫は幕末まで森藩を保った(来島村上水軍は解体)。幕末に禁門の変で暴発した長州藩士の来島又兵衛は血類かも知れない。因島村上吉充は、小早川水軍と懇意で一貫して毛利氏に仕え長州藩の船手組組頭となったが知行1800石に不満で故郷の因島へ出奔、養嗣子の因島元充が長州藩に留まり子孫は能島村上氏と共に同職を世襲した。
1569年
[本圀寺の変]織田信長の岐阜城帰還を衝いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が将軍足利義昭が仮寓する京都本圀寺を襲撃、引き返して反乱を一蹴した信長は豪壮な二条御所(烏丸中御門第)を造営して将軍の権威を示し衰微した皇室の経営再建にも尽力、「幕府再興」に有頂天の将軍義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが信長は逆に『殿中御掟』を突きつけて傀儡将軍の増長を掣肘、義昭から貿易都市堺支配のお墨付き得た信長は町衆を脅して自治権を剥奪し外国貿易と鉄砲・煙硝の供給ルートを掌握(信長は堺商人で侘茶名人の千利休を茶頭に召抱える)
足利義昭は、横死した剣豪将軍足利義輝の弟で、「天下布武」を目指す織田信長に担がれるも裏切って自滅した室町幕府最後の将軍、旧臣明智光秀が信長を討ったが天下は豊臣秀吉が奪いその庇護下で天寿を全うした。12代将軍足利義晴の次男で興福寺一乗院門跡となり28歳まで僧侶覚慶であった。1565年兄義輝を弑殺した三好三人衆・松永久秀に捕えられたが三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は足利将軍家の家督を宣言し還俗して足利義昭を名乗り、南近江守護六角義賢が献上した矢島御所に拠って上杉謙信ら諸侯に上洛を促すが、三好氏に圧迫されて逃亡し若狭武田氏を経て越前朝倉氏に身を寄せた。1568年朝倉義景に失望した足利義昭が新参の明智光秀の手引きで尾張の織田信長へ鞍替えすると、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ六角・三好を一掃し入洛して義昭を15代室町将軍に擁立した。義昭は帰順した仇敵松永久秀の処刑を望んだが謝辞された。翌年三好勢が本圀寺に仮寓する義昭を襲うが岐阜城から戻った信長が一蹴、信長は豪壮な二条御所を造営し将軍の権威付けに努めるが、「幕府再興」に有頂天の足利義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが逆に『殿中御掟』を突きつけられ傀儡将軍の増長を掣肘された。1571年石山合戦勃発で信長包囲網が結成されると、将軍足利義昭はあっさり恩人を裏切り「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・六角・延暦寺に内通し仇敵の松永・三好へも決起を呼掛け武田信玄・上杉謙信・毛利輝元には上洛を懇請した。翌年戦国最強の武田軍が三方ヶ原合戦で徳川家康を撃破し京都に迫ると、松永久秀の呼応に逸る足利義昭は勇み足で挙兵したが信玄急死で目論みが崩れ宇治槇島城を攻囲され降伏、明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣にも見限られ、1573年京都を追放され室町幕府は滅亡した。前将軍足利義昭は、毛利輝元に匿われ備後鞆から打倒信長・幕府再興を訴えたが相手にされず、1588年天下人豊臣秀吉に召出され正式に将軍職辞任を表明、没落大名の文芸サロン御伽衆に加えられ9年後に大坂で病没した。

織田信長の滝川一益軍団が伊勢に侵攻、三男信孝を神戸氏・弟信包を長野氏の当主に据え、伊勢国司(飛騨姉小路・土佐一条と並ぶ三国司)北畠具教の大河内城を攻囲・恭順させて次男信雄を養嗣子に据え名門北畠家と伊勢国を奪取(北畠具教は塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪であったが、1576年三瀬の変で一族と共に殺戮された)〜信長近侍の蒲生氏郷が初陣し介添役無しで首級を挙げる活躍、信長は自ら烏帽子親となって岐阜城で氏郷を元服させ、娘の冬姫を妻に与え近江日野城への帰還を許す
織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。

[青山・土器山の戦い]播磨に野心を抱く備前国主浦上宗景が播磨守護赤松義祐に加担して赤松政秀領へ侵攻するが、政秀は足利義昭を介して織田信長の援軍を招来し宇喜多直家も離反の色を立てたため浦上勢は備前へ撤退、一転優位となった政秀は手薄な姫路城を攻めるが小寺孝高(黒田官兵衛)の伏兵戦術に敗れ撤退、翌月再攻するも播磨英賀城主三木通秋の加勢を得た官兵衛に本陣を奇襲されて潰走、機に乗じた浦上宗景に龍野城を攻められ降伏した政秀は間もなく毒殺され龍野赤松氏は衰亡(家督は嫡子広秀が相続)、浦上宗景に帰順した宇喜多直家は辛くも助命される
黒田官兵衛孝高は、東播磨の盟主小寺家の筆頭家老で姫路城代の黒田職隆の嫡子に生れ、織田方の急先鋒として毛利攻めを牽引、備前の宇喜多直家を調略し、主君小寺政職に裏切られ荒木村重に幽閉されても操守を貫き、本能寺事変後の中国大返しで豊臣秀吉を天下人に押上げるも智謀を警戒されて不遇に泣き、関ヶ原合戦中に漁夫の利を狙い九州北半を征するが東軍完勝で天下争覇の夢破れた心優しき天才軍師である。嫡子黒田長政は、徳川家康の養女婿となり小早川隆景・吉川広家を寝返らせた功績で豊前中津12万石から筑前福岡52万石へ諸大名中最大の加増を受けた。守護赤松氏がお家騒動で没落し播磨・備前・美作は国人割拠の情勢を強めるなか、21歳で家督を継いだ黒田官兵衛は、姫路へ侵攻した赤松政秀を寡勢で撃退して武名を上げ(青山・土器山の戦い)、1575年織田信長の天下を予見し主君小寺政職と別所長治を口説いて帰順させたが、織田方の備前国主浦上宗景が毛利の加勢を得た家臣の宇喜多直家に追放され(天神山城の戦い)、一向宗門徒の盟友三木通秋が反信長に転じて乃美宗勝の毛利水軍が来襲(英賀合戦)、偽装援軍の奇計で撃退するも国人衆は動揺し、局面打開のため嫡子長政を人質に送って援軍を督促した。1577年中国征伐を決意した織田信長は豊臣秀吉軍団を派遣、姫路城に入った秀吉は忽ち要衝上月城を攻略するが、別所長治の離反を機に播磨国人の大半が毛利方へ靡き毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の大軍が来援、備前宇喜多直家の調略で窮地は凌いだが、息つく間もなく荒木村重が謀反、村重と通じた小寺政職に欺かれ説得に赴いた黒田官兵衛は有岡城の土牢に幽閉され、官兵衛反意を疑う信長は人質長政の殺害を命じた。1年後、有岡城落城で半死半生の官兵衛は救出され(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、竹中半兵衛に匿われた長政も無事、軍師官兵衛が戻った秀吉軍団は別所長治を滅ぼし(三木合戦)、反抗勢力を掃討して播磨を平定(小寺政職は官兵衛の嘆願で助命)、吉川経家の鳥取城を落として因幡を制圧、清水宗治の備中高松城を水攻めで攻囲した秀吉は手柄献上のため信長に出馬を要請した。

[掛川城攻略]武田信玄と今川領の東西分割を約した徳川家康が遠江へ侵攻、掛川城落城により駿河守護今川家滅亡(今川氏真は妻早川殿の実家後北条氏に亡命後、徳川家康の庇護下に入り家名存続)、遠江一国を制圧した徳川家康は三河岡崎城から遠江浜松城に居城を移し大井川を隔てて武田信玄と対峙
徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。

戦国大名屈指の名門で駿河・遠江・三河を領有した今川氏が滅亡、今川氏真は流転の末に徳川幕府に庇護され77歳の長寿を全うし子孫は高家旗本として存続
今川氏は、足利将軍家の連枝で、内部分裂で衰退した本家の三河吉良氏を臣従させて駿河守護となり、足利宗家に次ぐ名門と仰がれた。三河の一土豪に落ちた吉良氏は、桶狭間合戦後に勢力を盛り返し、三河一向一揆の旗頭に担がれて徳川家康を苦しめたが征伐された。江戸時代に入ると、松平清康(家康の祖父)の妹を母とする吉良義定が取り立てられ、吉良荘3000石と高家筆頭の家格を与えられ、儀典の家元として繁栄したが、吉良上野介義央が赤穂浪士に討取られ世論に押された幕府は吉良家を改易に処した。さて、今川氏の繁栄は南北朝争乱で足利尊氏を支えた今川頼国に始まり、頼国の子頼貞は丹後・但馬・因幡の守護に、頼国の末弟範国は駿河・遠江の守護に任じられ、範国の嫡子範氏の系統が今川氏嫡流として駿河守護を世襲した。範氏の弟今川了俊は九州探題として南朝勢力の強い全九州を平定し、戦国初期の今川範忠は古河公方足利成氏の軍勢を撃退して鎌倉を制圧するなど(享徳の乱)、室町幕府の用心棒として強勢を誇った。範忠の嫡子義忠は、斯波氏に守護職を奪われた遠江の奪回に奮戦したが土豪一揆に遭い落命、家督争いが起ったが、北条早雲が上杉氏・太田道灌が推す小鹿範満(義忠の従兄弟)を廃して今川氏親(義忠と早雲の妹北川殿の子)を擁立した。氏親は娘を北条氏康に入輿させ関係を深めた。氏親没後は嫡子氏輝が後を継いだが、10年後に次男彦五郎と同時に死去(謀殺説あり)、正室寿桂尼の子で五男の今川義元が異母兄玄広恵探の反乱挙兵を討平して当主となった(花倉の乱)。氏輝・彦五郎の同時死といい、側室腹の玄広恵探の挙兵といい、太原雪斎による一連の陰謀劇であった可能性が高い。今川義元は、同盟した武田信虎の娘を妻に迎え、娘を武田義信に嫁がせた。徳川家康の悪妻築山殿は義元の姪で養女である。嫡子今川氏真は、再同盟した北条氏康の娘を妻に迎え、北条氏直を猶子に戴いて助勢を哀願したが挽回ならなかった。が、家は滅んでも子作りには励み、範以・高久の二男が誕生、氏真は徳川家康の庇護下で77歳の長寿を全うし、範以の今川氏と高久の品川氏は高家旗本に取り立てられ幕末まで存続した。

織田信長の木下藤吉郎(豊臣秀吉)軍団が但馬に侵攻、山名祐豊を降し生野銀山(秀吉の強力な経済基盤となる)などを制圧
豊臣秀吉は、尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも愛児秀頼が徳川家康に滅ぼされた戦国下克上の出世頭である。尾張の「あやしき民」から放浪生活を経て20歳前後で織田家の小者(下働き)となり、士分で裕福な浅野家から妻ねね(北政所)を迎え、真冬に信長の草履を懐中で温めた話や墨俣一夜城伝説が象徴する抜群の要領と自己アピールで台頭し30歳過ぎには高級将校に列した。但馬攻略を指揮し、浅井長政離反時の退却戦(金ヶ崎の退き口)で信長の窮地を救い、近江攻略の勲一等で浅井家遺領20数万石と長浜城を与えられ織田家屈指の将領となったが、古参の柴田勝家と丹羽長秀への気配りも忘れず一字ずつもらって羽柴秀吉を名乗った。上杉謙信との対決(手取川の戦い)で主将の柴田勝家と反目し戦線離脱の重罪を犯すが、馬鹿騒ぎ戦術で信長の逆鱗をかわし、1577年逆に中国・毛利攻めを任されると、毛利方に寝返った別所長治を兵糧攻めで討ち(三木の干殺し)、梟雄宇喜多直家を調略して4年で播磨・但馬・備前国を完全制圧、山陰に転戦して因幡鳥取城を兵糧攻めで落とし(鳥取の渇え殺し)、1582年備中高松城を水没させて毛利軍と対峙した。この間、軍師の竹中半兵衛を病気で喪ったが、播磨攻めで得た黒田官兵衛もまた逸材だった。信長の猜疑心を熟知する秀吉は、養子の秀勝(信長の四男)に近江経営を任せて赤心を示し、大量の土産物で機嫌をとり、備中攻めの果実を献上すべく信長に出馬を要請した。が、その途上滞在した京都で織田信長が落命(本能寺の変)、黒田官兵衛の激励で天下獲りに目覚めた豊臣秀吉は、毛利との講和を妥協して片付け、大急ぎで畿内へ進軍(中国大返し)、僅か11日後には明智光秀を討ち果し(天目山の戦い)、その14日後の清洲会議で柴田勝家の推す織田信孝(信長の三男)を退けて三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に擁立、自身も旧明智領28万石を獲得し名実共に織田家の最高実力者に躍進し、織田家簒奪を睨み「人たらし」の才を駆使して人心掌握に励んだ。

[三増峠の戦い]武田信玄が上杉輝虎(謙信)と和睦し安房里見・常陸佐竹と同盟したうえで駿河侵攻を阻む北条氏康の小田原城を攻囲、北条軍を相模国境三増峠で撃破し駿河一国の制圧に成功、常陸の北条方小田氏治が佐竹氏に大敗降伏し北条氏康の関東制覇の野望が費える
北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。

筑前・筑後を制圧した戸次鑑連(立花道雪)が龍造寺隆信討伐のため肥前へ転戦すると、龍造寺と通謀する毛利元就が豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景が拠点の立花山城を攻略、鑑連は龍造寺と和睦して馳せ戻り最前線で奮戦するも戦線は膠着、大友宗麟が軍師吉岡長増の後方撹乱策を容れて山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)を誘発すると毛利軍は撤退、宗麟は戸次鑑連(立花道雪)・高橋鎮種(紹運)を守将に据え筑前・筑後支配を確立
立花道雪(戸次鑑連)は、百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱である。大友一族の戸次氏の嫡流で、13歳の初陣以来連戦連勝、1550年二階崩れの変で大友宗麟の家督相続を差配し、翌年陶晴賢の謀反で大内氏が滅亡すると筑前・筑後・肥前・肥後の反抗勢力を一掃した。45歳の道雪は落雷に斬りつけて感電し後遺症で歩行困難となったが、戦場では輿に乗って最前線で指揮を執り「雷神」と称された。1555年陶晴賢を滅ぼし防長経略を果した毛利元就が北九州に侵入、道雪は秋月文種を討って反乱を抑えたが、1562年門司城の戦いに大敗した宗麟が道雪の猛反対を抑えて和睦恭順し反大友陣営を勢いづかせた。「道の雪がその場で消えるように武士も死ぬまで一主君に忠節を尽くすべし」との決意で道雪と号し、享楽と宗教に耽る宗麟を諌め続けた。1567年毛利に通じた秋月種実・高橋鑑種らが挙兵、道雪は一族・重臣を喪う激戦の末に立花山城を攻め落とし筑前・筑後を制圧、肥前の龍造寺隆信討伐に向かうが、来援した毛利軍に立花山城を奪回され、引返した道雪が防戦するうち山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱で毛利軍を退けた。筑前・筑後の軍司令官に就いた立花道雪は、筑前守護職に補され立花氏の名跡と立花山城を承継し、高橋紹運・立花宗茂らを統率して大友領を死守した。1578年大友宗麟が道雪の制止を振り切って島津討伐に乗出すが(宗麟は道雪を従軍させず)耳川合戦で壊滅的大敗、龍造寺隆信の台頭を許し、1584年その龍造寺を斃した島津軍が大友領へ殺到、立花道雪は豊後へ長駆して宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家の援軍が撤退するなか高良山に布陣して3倍の敵軍を撃破するが、柳川攻城中に力尽き「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言して陣没した。大黒柱を喪った大友氏は滅亡寸前に追込まれたが、豊臣秀吉の九州征伐で辛うじて豊後一国を保った。

[尼子再興(第一回)]山中鹿介幸盛ら尼子残党が京都東福寺にいた尼子勝久(新宮党国久の孫)を還俗させて主君に担ぎ大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、隠岐から本土に渡って兵を募り、北九州攻めで手薄な毛利勢の虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻し月山富田城に迫るが、大友宗麟と和睦した毛利元就が次男吉川元春に大軍を預け派遣、間もなく元就が病没するが元春は弔い合戦と称して踏み留まり児玉就英の毛利水軍が制海権を奪い最後の拠点新山城も攻略、鹿介は捕捉されるが偽りの投降で助命され監視の目を逃れて伯耆尾高城から脱走
山中鹿介幸盛は、「七難八苦を授けたまえ」と月に祈り一騎打ちで武名を上げ、3度の尼子再興軍で毛利氏に挑み、最後は織田信長に見捨てられ上月城合戦で敗死した不撓不屈の勇将である。江戸時代を通じて軍記物や講談で人気を偶像化され、頼山陽・勝海舟・板垣退助などから絶賛され、第二次大戦期には教科書にも採用され忠君愛国の代名詞となった。山中鹿介は、尼子経久死の4年後に尼子一族山中家に生れ、8歳にして人を斬り、13歳の初陣で首を得る早熟ぶりを発揮した。病弱な兄に代わって山中家の家督と「三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑」を相続すると、毛利の豪傑菊池音八・品川大膳を一騎討ちで討取り、怖気ずく重臣連を叱咤して特攻作戦を画策したが、1566年21歳のとき出雲月山富田城が陥落し戦国大名尼子氏は滅亡した。諸国遍歴に出た山中鹿介・立原久綱ら尼子残党は、京都東福寺にいた尼子勝久を還俗させて主君に担ぎ、1569年大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、毛利の北九州攻めの虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻するが富田城を落とせず、大友と和睦した毛利の大軍が来襲、渦中に毛利元就は死去したが、猛将吉川元春に敗北した(第一回尼子再興)。臣従を偽って助命された山中鹿介は、監視の目を潜って伯耆尾高城を脱走、諸浪人を集めて尼子再興軍を再結成し、海賊働きで軍資金を蓄え、山名豊国に加勢して鳥取城の逆臣武田高信を討って東因幡を制圧するが、豊国が毛利方に寝返り、但馬の山名祐豊も毛利と和睦、若桜鬼ヶ城で奮戦するも挽回ならず逃走した(第二回尼子再興)。山中鹿介と尼子再興軍は、織田信長に臣従し、明智光秀に属して転戦した後、豊臣秀吉の中国侵攻軍に加えられた。そして1578年、攻略した播磨上月城の守将に任じられるが、三木城主別所長治を寝返らせた毛利の大軍が来襲、上月城は織田信長の命で見捨てられ尼子勝久一族悉く自刃し降伏開城、山中鹿介は斬殺された(第三回尼子再興)。尼子再興軍を承継した部下の亀井茲矩は、徳川家康に転じて4万石の大名となった。清酒の発明から大名貸しで日本屈指の財閥となった鴻池家には、鹿介の遺児山中幸元を家祖とする伝承がある。 

 

1570年
織田信長が朝倉義景討伐で越前に攻め込むが浅井長政離反により撤退、殿軍の木下藤吉郎(豊臣秀吉)の決死の奮戦で挟撃の窮地を脱出(金ヶ崎の退き口)、逃避行に随従した松永久秀は近江朽木谷城主の朽木元綱の協力を取り付ける活躍
浅井氏は、藤原北家閑院流を称する近江の土豪(小谷城主)で北近江守護京極氏に仕えたが、京極騒乱で台頭した浅井亮政が浅見氏らを切従え京極高延を傀儡化して北近江を掌握、南近江守護の六角定頼に圧迫されたが越前の朝倉宗滴に助けられ領国支配を固めた。嫡子の浅井久政は軟弱で、家督相続に逆らう田屋明政(亮政の婿養子)が京極高延を担ぎ反乱、久政は六角義賢(定頼の嫡子)に臣従し越前朝倉氏に助勢を乞うて保身を図った。父の弱腰を見兼ねた嫡子の浅井長政と家臣団はクーデターで家督を奪い六角氏に手切れを通告、攻め寄せた六角軍を撃退し(野良田の戦い)、畿内へ浸出した織田信長と同盟を結び「近国無双の美人」と賞された市を娶って茶々・初・江の三姉妹を生し(信長は少年期に同母妹の市を犯したため「たわけ」と呼ばれたとも)、三好三人衆に通じて敵対する六角義賢を信長と共に滅ぼした。信長が朝倉義景を攻めると浅井長政・久政は反旗を翻したが、金ヶ崎の退き口で挟撃の好機を逃し姉川の戦いで大敗、信長包囲網を結成し抵抗するも近江領を守る豊臣秀吉・竹中半兵衛を攻め破れず、頼みの武田信玄が急死すると直ちに小谷城を攻められ越前一乗谷城の朝倉氏諸共に滅ぼされた。浅井の男系は絶たれ市は再嫁した柴田勝家に殉じたが、女児は数奇な運命を辿った。茶々(淀殿)は、柴田勝家・市を滅ぼし伯父織田信長の天下を奪った豊臣秀吉の側室となり嫡子豊臣秀頼を産んで事実上の当主となったが、無謀にも徳川家康に挑戦し秀頼と豊臣家を破滅へ導いた。初は信長・秀吉に拾われた京極高次に嫁ぎ、江は徳川秀忠(家康の後嗣)に入輿して3代将軍家光を産み、庶女のくすは松の丸殿の侍女・刑部卿局は千姫の乳母で淀殿の側近となった。なお京極高次は、高延の弟高吉の子で人質として信長に仕え、秀吉側室の松の丸殿(妹)・淀殿(従妹)の七光りで出世した「蛍大名」の分際で関ヶ原で東軍に属し若狭小浜藩9万2千石に大出世、嫡子京極忠高は初姫(秀忠の四女)を娶り松江藩26万4千石へ躍進したが無嗣没により讃岐丸亀藩6万石へ減転封となった。淀殿は生家浅井氏の旧主である京極氏出身の松の丸殿を敵視し側室筆頭を争った。

出羽米沢城主伊達輝宗(政宗の父)が権臣中野宗時・牧野久仲父子を追放し父伊達晴宗を隠居に追込んで家中を掌握、鬼庭左月斎・遠藤基信を側近に登用して外交活動を展開、蘆名氏との同盟を保ちつつ南奥羽諸豪の紛争を調停し織田信長・柴田勝家・北条氏政らと友好関係を構築
伊達氏は、藤原北家山蔭流の常陸豪族で、源頼朝の奥州藤原氏征伐に従った常陸入道念西が陸奥伊達郡を与えられ所名を冠した。室町幕府に接近し陸奥守護職を得た伊達稙宗は、分国法「塵芥集」など統治体制を整備し、主筋の奥州探題大崎義直(斯波氏)を降して次男義宣を入嗣させ、葛西氏には七男晴清を送込み、羽州探題最上義守(斯波氏)・相馬・蘆名氏も臣従させて南奥羽11郡余に君臨した。勢い盛んな伊達稙宗は娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、自重を説く嫡子晴宗に幽閉されるも脱出し奥羽諸豪を巻込んで6年に及ぶ天文の乱に発展、将軍足利義輝の仲裁により晴宗の家督相続で決着するが伊達氏は求心力を失い、晴宗勝利の立役者蘆名盛氏が台頭した。西山城から出羽米沢城に移った伊達晴宗は、弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し、岩城重隆の娘を娶って六男五女を生し男児は岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児は二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力を回復、将軍義輝より奥州探題に補されたが、相馬盛胤(顕胤の嫡子)の反抗に手を焼いた。後嗣の伊達輝宗は、権臣中野宗時を追放して晴宗を隠居に追込み、蘆名氏と協調しつつ勢力を拡大、織田信長・柴田勝家・北条氏政と提携し新発田重家を支援して上杉景勝を圧迫し、田村清顕の娘愛姫を嫡子政宗の正室に迎え宿敵相馬氏から伊具郡を奪い還して稙宗旧領を回復、蘆名盛隆の横死後幼君亀王丸を後見した。輝宗は最上義守の娘義姫を娶って三児をなし、長男政宗を嫌い次男政道擁立を図る義姫を抑えて18歳の政宗に家督を譲った。伊達政宗は、拉致された輝宗を畠山義継諸共に銃殺し融和路線を放棄、弟の政道を亀王丸の後釜に据える企ては佐竹義重に敗れたが(次男義広が蘆名氏を承継)、義広を攻め滅ぼし諸豪を靡かせて150万石の太守となり、最上義光(義守嫡子)に通じる母義姫を追出し火種の政道を盛毒嫌疑で暗殺した。伊達政宗は十男四女をもうけ、次男忠宗に仙台藩62万石を継がせ、庶長子の秀宗(豊臣秀吉の人質)は宇和島藩10万石を立藩、他の男児は分家の当主に据え、長女は松平忠輝(家康の六男)に嫁がせた。

六角義賢が柴田勝家・佐久間信盛が守る南近江の長光寺城を攻めるが敗退(瓶割り柴田)、近江源氏佐々木氏の名門六角家は没落
柴田勝家は、織田信長の畿内制圧で台頭し北陸方面軍を託されたが、明智光秀討伐の先を越された豊臣秀吉に主導権を奪われ賤ヶ岳の戦いで滅ぼされた織田家筆頭重臣である。尾張の土豪に生れ、織田信秀に出仕して重鎮となり、嫡子信長の家督相続に次男信行を擁して反抗したが、稲生の戦いに敗れて剃髪謝罪し、信長に帰順して信行暗殺に加担した。上洛戦から重用され、南近江長光寺城の籠城戦では六角義賢を撃退して「瓶割り柴田」の渾名を授かり、各地を転戦して信長包囲網を凌ぎ切った。1573年武田信玄の急死で視界が開けた織田信長は、浅井・朝倉氏を屠り、長篠の戦いで武田氏を殲滅したが、1575年越前で朝倉遺臣の反乱に続き一向一揆が蜂起、総動員で一揆を鎮圧した信長は柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据えて北陸軍団を編成、加賀一向一揆・越後上杉謙信と対峙する構えをとった。この間、足利義昭の将軍擁立や本願寺顕如との和睦に働いた明智光秀、浅井・朝倉攻めの殊勲者豊臣秀吉、伊勢攻略と長島一向一揆平定の滝川一益ら、素性不詳の門外漢が台頭し、勝家・丹羽長秀ら譜代家臣との軋轢が深まった。甲斐征伐を終えた信長は上杉謙信との対決を決意、1577年柴田勝家の大軍を派遣するも加賀南部手取川で迎撃され惨敗、しかし翌年謙信が急死し後継争いで上杉家は弱体化(御館の乱)、秀吉の中国攻めと光秀の丹波攻略を横目に見つつ柴田勝家は攻勢を強め、1580年本願寺顕如の降服で加賀一向一揆が解体されると一気に加賀・能登を制圧、上杉景勝領の越中に殺到した。そして1582年、魚津城を騙し討ちで落とした直後に本能寺事変が勃発、激怒する上杉勢の抵抗に遭った勝家軍は身動きがとれず、神速の中国大返しで駆け戻った秀吉が信長の仇討を果した。直後の清洲会議で秀吉は織田家当主に三法師を擁立し丹波・山城・河内の光秀旧領を獲得、焦る勝家は滝川一益・織田信孝と結び長宗我部元親・紀伊雑賀衆も動かして反抗したが、頼みの丹羽長秀・前田利家に養子の柴田勝豊まで篭絡され、佐久間盛政の軍令違反で大敗、北ノ庄城まで攻め込まれ討ち滅ぼされた(賤ヶ岳の戦い)。

[姉川の戦い]織田信長・徳川家康連合軍が近江姉川河原(長浜市)で浅井長政・朝倉義景連合軍と激突、浅井軍の猛攻で織田陣は13段のうち11段まで突破され信長の本陣も危うかったが朝倉軍を破った徳川勢の奮闘で辛勝(本多忠勝は単騎駆けで戦端を開き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍)、合戦後も戦力を残した浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、信長は比叡山焼き討ちや磯野員昌ら浅井・朝倉家臣の離間工作で応戦
織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。

美濃岩手城主竹中半兵衛重治が舅の安藤守就の勧めで朋輩の牧村利貞・丸毛兼利と共に織田信長に帰服、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力に加えられた軍師半兵衛は旧知の堀家家老を口説いて長亭軒城を寝返らせ浅井長政が固めた美濃・近江の陸上封鎖を打破、姉川の戦いにも従軍し弟の竹中重矩が浅井家の豪傑遠藤直経を討取る活躍、合戦後最前線の近江横山城に留め置かれた藤吉郎は小谷城の浅井長政と対峙し半兵衛の軍略により均衡を保つ
竹中半兵衛重治は、僅かな手勢で美濃稲葉山城を強奪して主君斎藤龍興からの侮辱を雪ぎ、織田信長に転じて豊臣秀吉の与力となり浅井・朝倉攻めや毛利攻めに活躍、婦人の如き相貌に静かな勇気を秘めた天才軍師である。美濃岩手を所領する竹中重元の嫡子に生れ、父に従って道三亡き斎藤家の被官となったが、柔和な容貌から龍興主従の苛めに遭い、報復を決意した20歳の半兵衛は手勢14人で稲葉山城を急襲し占領してしまった。織田信長から美濃半国を条件に城の明渡しを誘われたが断って龍興に返還し、北近江の浅井長政に身を寄せた後、美濃岩手に戻り隠棲した。2年後の1566年、清洲同盟で東方を固めた織田信長が美濃に侵攻、竹中半兵衛は舅の安藤守就に従って信長に帰順し斎藤氏滅亡を傍観、1570年遁世欲を封印して豊臣秀吉の与力・軍師になると、長亭軒城を調略して美濃・近江の陸上封鎖を打破し、姉川合戦を戦った。徳川勢の奮闘で辛勝したものの信長包囲網が結成され、最前線の近江横山城に残された秀吉は苦境に置かれたが、軍師半兵衛の指揮で3年間浅井氏の反撃を凌ぎ、1573年武田信玄急死・信長包囲網瓦解と同時に一気に浅井・朝倉氏を討滅、殊勲者の秀吉は浅井遺領20数万石を与えられ長浜城に拠って織田家中屈指の将領に躍進した。1577年黒田官兵衛の要請を受けた織田信長が秀吉に軍団を預けて中国侵攻に着手すると、半兵衛・官兵衛「両兵衛」の軍略で秀吉軍団は播磨地方を席巻、別所長治の裏切りで山中鹿介の守る上月城を落とされ(上月城の戦い)、荒木村重謀反で使者に立った官兵衛が捕捉されたが、毛利方の備前国主宇喜多直家を寝返らせ、別所氏を三木城に追い詰めた。官兵衛反意を疑う信長は人質の嫡子黒田長政の殺害を厳命したが、竹中半兵衛は成敗覚悟で密かに長政を匿い、病身を押して東奔西走した後、三木城攻囲の陣中で力尽きた。中国大返しを差配して豊臣秀吉を天下人に押し上げた黒田官兵衛、関ヶ原合戦で小早川秀秋の寝返りを誘った黒田長政と比べると、裏方に徹した竹中半兵衛の業績は目立たず軍記者で和製張良に仕立てられたが、実像も誠実・智謀の名軍師であった。

[石山合戦・信長包囲網(第一次)]織田信長の石山本願寺明け渡し要求を拒んだ顕如が挙兵し石山合戦が勃発(下間頼廉・鈴木重秀の指揮のもと11年も織田軍団の猛攻を凌ぎ切る)、呼応して起った伊勢一向一揆で信長の弟織田信興が戦死、浅井・朝倉・本願寺・延暦寺の攻囲に晒された織田信長は将軍足利義昭の仲介で正親町天皇の勅命を得て和睦に漕ぎ着け窮地を脱出、和睦を成功に導いた明智光秀(このときは義昭・信長への両属)は近江坂本城10万石を与えられ44歳で一城の主となり、春日井堤の合戦で単騎踏み留まり味方の潰走を食止めた前田利家は信長から「日本無双の槍」と激賞され1万石余の加増を受けて織田家大名衆に加わる
本願寺顕如は、親鸞・蓮如の血を引く浄土真宗法主にして大坂の戦国大名、一向一揆と石山合戦で織田信長に抵抗を試み幾万の門徒を虐殺の奈落へ導いた戦う庶民のカリスマである。降伏・武装解除後も宗教的権威は保持し、子孫の大谷家は今なお東西本願寺の門首として皇族並みの権勢を誇る。寺社勢力は、領主への年貢は滞っても寺への貢納は怠らない門徒を支えに強大な経済力を誇り、武装して領主権を脅かす事実上の戦国大名であったが、比叡山焼き討ちと本願寺顕如の降伏で永久に武力を失った。顕如は、石山本願寺を築いた父証如の死により12歳で本願寺11世を承継、各地の一向一揆を組織化し、1570年、姉川合戦に敗れた朝倉義景(嫡子教如の舅)の要請に応じて浅井長政・比叡山延暦寺・武田信玄・将軍足利義昭らと信長包囲網を結成、11年に及ぶ石山合戦の戦端を開き、各地に一向一揆を起した。厭離穢土・欣求浄土を旗印に戦死即極楽と狂信する一向一揆は恐ろしく強く、軍事指揮官の鈴木重秀(雑賀孫一)と下間頼廉の采配も冴え、敵方武将にも門徒が多くいて隆盛を極めた。三河では若き徳川家康を追い詰め、伊勢では織田信興・長島では信広・秀成(いずれも信長の兄弟)を戦死させ、越中では6年に渡って上杉謙信の猛攻を凌ぎ、加賀に至っては守護富樫政親を討って以来90年も自治を貫き一時は朝倉氏滅亡後の越前も掌握した。が、1573年頼りの武田信玄が決戦を目前に急死、勢いを得た織田信長はすぐさま浅井・朝倉を討ち、室町幕府を滅亡させ、長島一向一揆を猛攻して門徒2万人を虐殺、長篠の戦いで武田勝頼を撃退し、越前一向一揆を討平、紀州征伐で鈴木重秀の雑賀衆と根来衆を軍門に降した。劣勢の顕如は、上杉・毛利・波多野と提携して信長包囲網復活を目指したが、1578年上杉謙信が大動員令を発した直後に急死、翌年波多野秀治が滅ぼされ、鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍に毛利・村上水軍が惨敗(第2次木津川口の戦い)、補給路を絶たれた顕如は1580年降伏した。猛撃を凌ぎ切った難攻不落の石山本願寺は、その年に焼失し、天下人豊臣秀吉の拠点大阪城の礎となった。

本願寺顕如の要請を受けた雑賀衆の鈴木重意が根来衆と協力し鉄砲隊600余を率いて三好三人衆に加勢し織田信長軍団と交戦(佐々成政を負傷させる)、石山合戦が起ると鈴木重秀(重意の次男)が石山本願寺に入り下間頼廉と共に一向一揆軍団の軍事指揮を担う(大坂左右大将)
鈴木重秀(雑賀孫一)は、鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いて本願寺顕如を援け石山合戦を指揮したが時流を悟り織田信長・豊臣秀吉に帰順、雑賀衆は滅亡したが後継者の鈴木重朝の子孫が水戸藩重臣として存続した。藤白鈴木氏は記紀に登場する穂積氏の嫡流で熊野神社の禰宜を世襲した名門だが、国人割拠の紀伊で戦国大名は育たず、鷺森別院を拠点に紀伊を支配する一向一揆の盟主的立場に留まった。1543年の鉄砲伝来から間もなく紀伊根来寺の津田算長が種子島から火縄銃一挺を持ち帰ると刀鍛冶の多い紀伊や堺で鉄砲製造業が興隆、新兵器を駆使する雑賀衆・根来衆は引張り蛸となったが、1569年堺の自治権を奪った織田信長に硝煙(火薬の主原料で当時は国内で産出せず)の調達を妨害された。雑賀衆首領の鈴木重意は、三好三人衆の要請に応じ根来衆と共に600余の鉄砲隊を率いて織田軍と戦い、1570年石山合戦が始まると次男の鈴木重秀を派遣、用兵にも優れた鈴木重秀は下間頼廉と共に「大坂左右大将」と称された。各地で勃興する一向一揆に手を焼いた織田信長は、本丸の顕如を猛撃するが難攻不落の石山本願寺を落とせず、1577年雑賀衆を排除すべく根来衆を寝返らせ大軍で紀州を制圧すると鈴木重秀は進んで帰順、上杉謙信の急死で信長包囲網が瓦解し顕如も11年に及んだ抗戦を断念した。鉄砲の威力を思い知らされた織田信長は、他の戦国大名に先賭けて鉄砲装備を強化し長篠の戦いで武田騎馬隊を撃滅したが、「三段撃ち」や装填・銃撃分業制は雑賀衆に倣ったものだという。君主権に逆らう宗教勢力や傭兵集団は天下統一の宿敵であり、忍者は天正伊賀の乱で信長に、三島村上水軍・鉄砲集団は海賊停止令・紀州征伐で豊臣秀吉に滅ぼされた。統一政権での生残りを図る鈴木重秀は、1582年土橋守重を謀殺して反対意見を封じるが本能寺の変で主導権を奪われ逃亡、1585年豊臣秀吉は藤堂高虎に命じて鈴木重意を暗殺し大軍を派して雑賀衆・根来衆を殲滅した。鈴木重秀は子の孫一郎を人質に出して秀吉に帰順、没後に家督を継いだ弟の鈴木重朝は1万石で秀吉に仕え徳川家康に転じて鈴木家を保った。

[今山の戦い]毛利元就を撃退して豊前・筑前の支配を固めた大友宗麟が傘下で台頭する龍造寺隆信を討つため6万の大軍を率いて肥前へ侵攻、佐賀城に追詰められた隆信は鍋島直茂の提言を容れて敵本陣への夜襲を敢行、敵将大友親貞(宗麟の従弟)をはじめ2千人を討取る大戦果を挙げて宗麟と和睦、大友氏の干渉を脱した隆信は肥前諸豪を切り従え大友・島津に対抗する第三極へ躍進
龍造寺隆信は、一族虐殺を生延びて曽祖父から家督を継ぎ大友宗麟の力添えで東肥前支配を確立、耳川合戦の漁夫の利をさらって肥前統一を果し大友領の筑前・筑後・肥後北部・東豊前を侵食するが、疑心暗鬼の国人統治で離反が相次ぎ沖田畷の戦いで島津家久に討取られた九州下剋上の第一人者である。馬場頼周の反乱で父と祖父を殺されたが曽祖父の龍造寺家兼に伴われて筑後柳川城主蒲池鑑盛に身を寄せ、家兼が復讐を果した直後に病死したため17歳で家督を相続した。周防の大内義隆に臣従して主家の少弐冬尚を追放し傀儡の本家から家督を奪ったが、1551年陶晴賢の謀反で後ろ盾の義隆を失い立花道雪の猛攻を受けて敗走、再び蒲池鑑盛に救われて2年後に肥前に帰還すると、1559年大友宗麟に帰服して旧主の少弐冬尚・千葉胤頼を攻め滅ぼし東肥前支配を確立した。1563年肥前の領袖有馬義貞・大村純忠兄弟を撃退し(丹坂峠の戦い)、1567年高橋鑑種・秋月種実の反乱に呼応して大友氏に反旗、筑前・筑後を鎮圧した立花道雪の討伐軍が来襲するも毛利軍の九州侵攻で難を逃れ、1570年宗麟率いる6万の大軍を夜襲で破り干渉を排除した(今山の戦い)。1578年宗麟が耳川の戦いで惨敗すると道雪が堅持した防衛ラインが決壊、龍造寺隆信は島原半島の大村純忠・有馬晴信を降して肥前を平定し、一気に筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏を広げ九州三強の一角に躍り出た。が、冷酷で猜疑心が強く「肥前の熊」と称された龍造寺隆信は酷薄な恐怖政治に陥り、蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の後嗣で娘婿)を族滅して柳川城を奪った暴挙を機に離反者が続出、武威を示すべく北上する島津氏に決戦を挑み有馬晴信の島原城へ攻込んだが、寡兵の島津家久に戦国史上最悪の惨敗を喫し隆信自身と龍造寺四天王全員(成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直)が討取られた(沖田畷の戦い)。嫡子の龍造寺政家は、島津氏を降した豊臣秀吉に肥前佐賀城32万石を安堵されたが、秀吉に取り入った鍋島直茂に家を乗取られ、嫡子高房が抗議の自殺を遂げた直後に死去し龍造寺の嫡流は断絶した。

島津家久の軍勢が相良氏に奪われた薩摩大口城を攻囲、肥後人吉城主相良義陽は援軍を派遣するが丸目蔵人長恵(柳生宗厳と双璧を為す上泉信綱の高弟でタイ捨流兵法の創始者)の勇み足により大敗(義陽は激怒し長恵を逼塞に処す)、菱刈氏の降伏開城で大口城を奪回した島津義久は東郷氏・入来院氏も降伏させて薩摩統一を達成
丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
1571年
[越中大乱]上杉謙信が関東から越中に主戦場を移し椎名康胤を猛攻するが、本願寺顕如と結ぶ武田信玄に扇動された越中一向一揆の猛反撃に遭い富山城を巡り6年に及ぶ争乱に発展
上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。

傀儡将軍足利義昭が恩人の織田信長を裏切り信長包囲網に加担し「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・延暦寺・六角義賢に内通し仇敵の松永久秀・三好三人衆へも決起を呼掛け上杉謙信・毛利輝元には上洛を要請、遠江・三河の徳川家康領に侵攻した武田信玄に期待を掛け使者を遣わして信長討伐を懇請
足利義昭は、横死した剣豪将軍足利義輝の弟で、「天下布武」を目指す織田信長に担がれるも裏切って自滅した室町幕府最後の将軍、旧臣明智光秀が信長を討ったが天下は豊臣秀吉が奪いその庇護下で天寿を全うした。12代将軍足利義晴の次男で興福寺一乗院門跡となり28歳まで僧侶覚慶であった。1565年兄義輝を弑殺した三好三人衆・松永久秀に捕えられたが三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は足利将軍家の家督を宣言し還俗して足利義昭を名乗り、南近江守護六角義賢が献上した矢島御所に拠って上杉謙信ら諸侯に上洛を促すが、三好氏に圧迫されて逃亡し若狭武田氏を経て越前朝倉氏に身を寄せた。1568年朝倉義景に失望した足利義昭が新参の明智光秀の手引きで尾張の織田信長へ鞍替えすると、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ六角・三好を一掃し入洛して義昭を15代室町将軍に擁立した。義昭は帰順した仇敵松永久秀の処刑を望んだが謝辞された。翌年三好勢が本圀寺に仮寓する義昭を襲うが岐阜城から戻った信長が一蹴、信長は豪壮な二条御所を造営し将軍の権威付けに努めるが、「幕府再興」に有頂天の足利義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが逆に『殿中御掟』を突きつけられ傀儡将軍の増長を掣肘された。1571年石山合戦勃発で信長包囲網が結成されると、将軍足利義昭はあっさり恩人を裏切り「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・六角・延暦寺に内通し仇敵の松永・三好へも決起を呼掛け武田信玄・上杉謙信・毛利輝元には上洛を懇請した。翌年戦国最強の武田軍が三方ヶ原合戦で徳川家康を撃破し京都に迫ると、松永久秀の呼応に逸る足利義昭は勇み足で挙兵したが信玄急死で目論みが崩れ宇治槇島城を攻囲され降伏、明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣にも見限られ、1573年京都を追放され室町幕府は滅亡した。前将軍足利義昭は、毛利輝元に匿われ備後鞆から打倒信長・幕府再興を訴えたが相手にされず、1588年天下人豊臣秀吉に召出され正式に将軍職辞任を表明、没落大名の文芸サロン御伽衆に加えられ9年後に大坂で病没した。

秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37度・真剣勝負19度に無敗で212人を斃し上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝えた塚原卜伝が故郷の常陸鹿島にて死去(享年82)、創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれる
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。  
 

 

 
堺の戦い物語

 

1  堺の危機
和泉国・堺。
高屋城を辛くも脱した畠山家当主・畠山政頼は、側近の遊佐高清ら700の将兵と共に、和泉国の堺の町に落ち延び、松永久秀の手勢300と合流していた。
畠山家は高屋城での敗戦により南河内を失陥した。畠山高政や湯川直光らの命懸けの奮戦によって寺倉に痛手を負わせることができたものの、所詮は焼け石に水であった。
だが、本拠地である高屋城を奪われてもなお、畠山政頼は諦めてはいなかった。政頼は御家を守るためならば、どんなに卑怯で汚い手であろうとも躊躇わない覚悟の下、幕府の名門たる畠山家を己の代で潰えさせる訳には行かないという並々ならぬ決意をその目に宿していた。兄・高政の後を継いでの名ばかりの当主ではあったが、その高政の遺言にも等しい最後の言葉によって、政頼は畠山家の"当主"としての自覚に目覚めたのであった。
「油屋常琢殿、ご助力かたじけない」
政頼は堺の町に入ると、まずは堺の町を治める10人の会合衆の一人で、中でもとりわけ強い影響力を持っていた油屋常琢に事情を説明し、畠山家がしばしの間、堺の町に駐留することへの理解と支援を求めた。政頼は名門・畠山家の当主として商人風情に頭を下げるとは屈辱だと自覚しながらも、そうした感情は表情にはおくびにも出さずに、努めて平身低頭の低姿勢を貫いていた。
「何の何の、畠山家が滅びるは我らが滅びと同じにございますれば、支援するのは当然のことにございまする。左衛門督様はお気になさらず、ゆるりと堺に逗留くださいませ」
油屋常琢は極めて柔らかな笑みで政頼を受け入れた。堺の町は「三津七湊」に数えられ、南蛮人からは「東洋のベニス」と謳われるほど栄華を極めた日本有数の港湾都市である。しかし、それだけでなく、堺の町は戦国時代には大名の支配を受けない自由都市であり、会合衆と呼ばれる豪商たちの合議によって運営される自治都市だ。故に戦の舞台になることなどあり得なかった。
畠山家は守旧派の名門である。革新的な手腕で商いの世界を掻き乱さんとする寺倉家を、和泉国に迎え入れることの危険性を会合衆らは十分すぎるほど理解していた。ましてや寺倉家は松原湊から蒲生家の大津湊、京の都、そして堺というルートで商品を調達・運搬することにより、堺の恩恵を存分に享受してきた家である。堺の町を攻撃することはすなわち、商業で成り上がった寺倉家が自分で自分の首を絞めるのにも等しい、滅びに通じる行為であると考えていた。
さらに、堺の町が戦乱の渦に巻き込まれることはないという根拠は他にもあった。乱世のこの時代に絶対という保証はない。万一の場合に備え、先代の堺の会合衆らは北、東、南の三方に堀を堀り巡らせ、西の海と合わせて堺の町を武家の攻撃から守って来たのである。
だからこそ、油屋常琢は余裕綽々といった態度で、畠山政頼を始めとする畠山家の将兵の駐留拠点になることを認めたのである。しかしながら、敗戦濃厚な畠山家に与することは利に聡い商人にすれば自殺行為とも言える愚策にも思える。
だが、寺倉家は領内で特権商人による市場の独占を否定し、"楽市楽座"を推進して一部を除いて座の支配も制限した。そんな寺倉家に堺の町が支配されることになれば、堺の自治がどうなるか分からない。会合衆たちは寺倉家に堺の自治権を奪われ、寺倉家の単なる商業都市の一つとして、我が物顔で統治されることを何よりも恐れていたのである。
「寺倉は南河内を制圧すると、すぐさまこの堺に向けて進軍し、堺の町を包囲したようだが、いくら寺倉と言えども、この堺に攻め入るという愚行など、犯すはずもござらぬ」
一方の畠山政頼としても、そんな堺の町の特異性や寺倉家との関係を良く理解した上で利用しようとしていた。堺の町全体を人質に取れば、寺倉家も安易に手出しはできないと踏んだのである。
こうして両者の思惑が合致した形で、畠山家は堺の町で籠城を貫いた。堺の町を包囲する寺倉軍からは降伏勧告が政頼の元に幾度となく届いていたが、政頼はその全てを無視していたのであった。
しかし、やがて堺の町は知らず知らずの内に苦境に立たされることになる。堺の町が陸だけでなく、海からも寺倉軍に包囲される事態になったのだ。南蛮船2隻を含む寺倉水軍の船団が堺の湊を海上封鎖し、北東南の陸では依然として寺倉の2万以上の大軍が包囲しており、まさに蟻の這い出る隙間もないほどの包囲網が敷かれたのである。

「もはやこれ以上待ったところで時間の無駄のようだな。十兵衛、攻撃を始めさせよ」 「ははっ」
寺倉軍が堺の町を包囲してから7日目の朝、堺の町が畠山家を匿い、降伏する意志はないことを確認すると、正吉郎はやむを得ず堺の町への攻撃を決断した。
――ドガーーン! ドガーーン!
間もなく寺倉軍は堺の町に対して、海上の南蛮船からの艦砲射撃と、陸からの大鉄砲による砲撃を開始した。
「な、何だ?! この音は!」
寺倉軍に海と陸から包囲されたことにより商品が荷止めされ、商売ができなくなって辟易としていた堺の会合衆たちは、耳をつんざくような轟音に飛び上がらんばかりに驚いた。
「ま、まさか、寺倉が攻撃してきたのではあるまいな?」
寺倉軍が攻撃を仕掛けてくるなど、露にも思っていなかった会合衆らは、途端に動揺の色を濃くする。そして、轟音と共に外に飛び出した会合衆の一人の高三隆世が戻ってくるなり、信じられないものを見たような面持ちで他の会合衆たちに対して声を張り上げた。
「あ、あの音は、沖に停泊する寺倉の南蛮船からでござる! 南蛮船の腹から火を噴いたかと思えば、鉄の弾が堺の町に降って来よるのだ! そのうえ、北東南からも寺倉軍の大鉄砲とやらが堺の町に砲撃を仕掛けておる! 鉄の弾が落ちた屋敷や蔵は目茶苦茶に壊れておるぞ!!」 「なっ、何だと! それは真か!」
高三隆世の声を聞いて慌てて海岸に向かった油屋常琢は、海に浮かぶ南蛮船を唖然呆然といった表情で視界に捉えた。常琢は南蛮の品に造詣が深く、数多の品を南蛮から仕入れては高額で売り出して暴利を貪っていた。そんな常琢でも寺倉の2隻の南蛮船による艦砲射撃を目の当たりにしては腰を抜かし、あまりの驚愕で泡を吹いていた。
「いっ、一体全体、寺倉には常識というものがないのか!!」
これまた会合衆の一人の松江隆仙が怒気で顔を真っ赤にして大声で吐き捨てると、他の会合衆の面々も寺倉軍の非常識な蛮行に対して、怒りに震えて小刻みに唇を震わせていた。
しかし、砲撃により自分たちが築き上げてきた堺の町が無残に破壊されていく様を、指を咥えて黙って見ているしかない状況に、やがてこの事態を招いた元凶とも呼べる者の存在を、会合衆で最も若い山上宗二が思い出した。
「畠山家さえ堺の町に来なければ、こんなことにはならなかったはずではないか?」
山上宗二の呟きに、会合衆たちの怒りの矛先は一斉に向きを変える。
その存在とは、寺倉に敗れて堺の町に逃れてきた畠山政頼ら畠山家の将兵であった。
会合衆たちは過去の自分たちの判断ミスを棚に上げて、"畠山政頼さえいなければ"という八つ当たりとも言える憤怒にすぐに意思統一された。このままでは栄華を極めた堺の町が灰燼に帰してしまうと危惧した会合衆たちは、秘密裏に"ある計画"を進めていくことになる。  
2 会合衆の謀
11月中旬、堺の町の会合衆の一人、油屋常琢の屋敷内にある茶室を、畠山政頼や松永久秀ら畠山家の一行が訪ねていた。
「左衛門督様、突然の招きに応じて我らの茶会にお越しくださり、誠にかたじけなく存じまする」 「頭をお上げくだされ。私は居候の身でござる故、堺の町が危機に瀕している今、憎き寺倉への今後の対応を話し合う茶会に招かれれば、行かない訳には参りますまい。余所者の我らもできる限り力になりましょうぞ」 (堺の町が壊滅するかの瀬戸際に立たされているのはお前たちのせいではないか!) (我らの茶会の招きに応じるのは当たり前であろうが!) (自らも被害者面をしおって! この厄病神め!)
会合衆の招きに応じてやって来た畠山政頼の挨拶を聞いた会合衆の面々は、にこやかな笑顔を浮かべながらも、煮えたぎる憎悪や憤懣やるかたない怒りの炎を密かに胸中で燃え上がらせて、一斉に心の中で政頼に罵声を浴びせていた。
「弾正忠様、何やら殺気を感じまする。用心なさいませ」
畠山政頼の横に座る松永久秀の背後に控える柳生宗厳が、不穏な空気を感じて久秀に小声で注意を促す。
「左衛門督様のご厚誼、誠に感激の至りにございまする。粗茶ですが、本日は暑い日ですので、まずは喉の渇きを潤してくだされ」
会合衆の一人で茶の湯で名を馳せつつある千宗易はそんな悪どい感情をおくびにも出さずに、松永久秀が持参した大名物・古天明平蜘蛛で沸かした湯を使い、洗練された手つきで冷静沈着に茶を点てると、政頼の前に名器の茶碗を差し出した。
「宗易殿が自ら点てた茶をいただけるとは、誠にかたじけない」
名家の生まれである政頼は、優雅な茶道の作法で茶碗を手に取り、静かに茶を飲み干した。
「大変美味しい茶でございました」 「ありがとうございまする」 (ふふっ、その茶がお主を黄泉路へと案内するのだ)
その瞬間、政頼の横に座っていた松永久秀は気づいた。柳生宗厳からの忠告に従って最大限に警戒していた久秀だが、向かいに座る会合衆の二人が、政頼が茶を飲んだ直後にほんの一瞬だけ、僅かに口角を上げたのを見逃さなかったのだ。
元来、人一倍猜疑心の強い久秀である。一人ではなく、二人がほぼ同時に口角を上げたのを見た久秀は、"絶対に何かある"と確信すると、急な腹痛を訴えて厠に行き、長い間、用を足す素振りを続けたのである。
四半刻の間、厠に籠っていた久秀だったが、厠の外から久秀が最も信頼を寄せる重臣である柳生宗厳が焦ったような声色で告げた。
「弾正忠様、左衛門督様が……」 「死んだか?」 「左様。おそらく茶に毒が……」 「やはりか。あのまま茶を飲んでいれば政頼と仲良く冥府行きだったな。……平蜘蛛と九十九茄子を置いて行くのは誠に口惜しいが、命には代えられぬか。新介、逃げるぞ!」
久秀の嫌な予感は的中した。紙一重で生命の危機を回避した久秀は、自分の悪運の強さに思わず身震いする。茶室に残されたままの古天明平蜘蛛と九十九茄子は命よりも大事と言っても過言ではない代物であったが、取りに戻れば間違いなく殺されるであろう。久秀は古天明平蜘蛛と九十九茄子を諦める苦渋の決断を下すと、厠を出て裏口から屋敷を脱出しようと目論んだ。
しかし、久秀のその動きはまんまと読まれていた。用心深い会合衆たちは暗殺計画の実行に際して、予め腕の立つ浪人衆を用心棒代わりに屋敷内に控えさせていたのである。
「弾正忠様、ここは私にお任せを!」
宗厳は久秀を庇うようにして浪人衆の前に立つ。宗厳は新陰流開祖の剣聖・上泉信綱から新陰流宗家を譲られた一流の兵法家であり、かの有名な「無刀取り」をも体得したほどの剣豪である。
「くっ、武士として逃げるのは面目ないが、多勢に無勢故、そうも言うてはおられぬな。新介よ、死ぬではないぞ」 「はっ!」
さすがに複数人で襲い掛かられれば分が悪いと考え、この中でもずば抜けて腕の立つ柳生宗厳にこの場を任せると、久秀は宗厳の無事を祈りながら、脱兎の勢いで屋敷を後にしたのであった。

遡ること、二刻半(5時間)。
寺倉軍が堺の町を砲撃した翌朝、町衆の目には砲弾により家や倉庫が幾つも倒壊した無惨な町の様子が映っていた。不幸中の幸いで火事は起こらず、被害は町の二割程度に収まっていたが、これまで戦国乱世の中で平和を享受してきた堺の町衆にとっては、かつて味わったことのない"恐怖"という感情を心の奥底に強く刷り込まれていた。
一方、堺の町を治める会合衆の面々は未だかつてない危機感を抱いていた。堺の町が自治都市として成立してから今まで、武家による攻撃を受けたことなど一度たりとてなかった。その安全神話が脆くも打ち崩されたのである。そして、この事態に至ったのは、会合衆が畠山家を匿うという致命的な判断ミスをしたのが原因であり、まさに自分たちが蒔いた種でもあった。会合衆たちは動揺を隠せるはずもない。
「寺倉は本気で堺の町を潰すつもりだぞ。いかがしようぞ?」 「今朝も寺倉から降伏勧告があった。もはや悩んでおる暇などないぞ。我らには一刻の猶予もない。これ以上返答を引き延ばせば、間違いなく堺の町は灰塵と化してしまうぞ」
油屋常琢は昨日、南蛮船の艦砲射撃を目の当たりにしてから、呆然自失して心ここに在らずといった様子であったが、一晩を経てようやく正気を取り戻していた。
「油屋殿、何を言っておる。寺倉に降伏すれば我ら会合衆も只では済まぬぞ。最悪は堺の自治を取り上げられかねん。そうなれば商人の我らに武家に抵抗する力などありはせぬ。ここは最後まで抵抗すべきではあるまいか?」
常琢は紅屋宗陽の言葉に唖然とする。昨日のあれほどの光景を見てもなお、寺倉軍に抵抗しようなどという言葉が出てくるとは、同じ会合衆の一人として信じ難いことであった。
「だが、紅屋殿。死んでは元も子もなかろう? 我らは名誉や忠義のために命を散らすような武士ではないのだぞ。商いを営む我らにとっては利が第一だ。死んでは冥府で銭は使えまい。最後まで抵抗するとは言うが、昨日の砲撃に対して我らは何も抵抗する術がなかったではないか? このままでは我らもこれまで築き上げた財産も地位も全て失うことになるのだぞ?」 「むむぅ……、確かに冷静になって考えれば一理あるな。これ以上、寺倉の降伏勧告を無視すれば、堺の町は全滅だ。ならば、命を繋いで好機を待つのが吉か」
会合衆の中では最も強硬派と言える紅屋宗陽の言葉に、場の空気は一気に"降伏やむなし"の流れに傾いた。
「だが、寺倉に降伏するにしても、我ら会合衆による堺の町の自治を認めてもらうのが最低条件ではないか?」
そこへ「天下三宗匠」の一人の津田宗及が寺倉家への降伏について注文をつける。
「左様ですな。ですが、そのためには寺倉に何か交渉材料を用意せねば、堺の町の自治は認められますまい」
すると、同じく「天下三宗匠」の一人の今井宗久が寺倉家との交渉に懸念を示すと、他の会合衆たちも無言のまま頷いた。
「……ですが、こうなったのも全ては畠山の所為。そうではありますまいか?」
一旦話が途切れたところに、これまで黙ったままだった茜屋宗左が、この堺の町が攻撃される発端となった畠山家の責任を糾弾する。もちろん会合衆の会合に畠山家の者が顔を出すことはない。
「左様だな。しからば畠山の当主を始め、その家臣たちには死んでもらわねばならぬな。その首を以って寺倉に降伏すれば、交渉材料にもなるのではないか?」
強硬派の面目躍如と言える紅屋宗陽の過激な発言であったが、異を唱える者はいなかった。会合衆の誰もが内心では畠山家の存在が元凶だと恨んでいたのである。
「ですが、どうやって始末すると言うのですかな? 傍には家臣が大勢おりまするぞ」
会合衆の中では最も穏健派の塩屋宗悦が疑問を投げ掛けると、しばしの沈黙が流れる。
「……茶に毒を混ぜてはいかがでしょうか? 即死する猛毒ではなく、四半刻の後に眠るように死ぬような毒を用いれば、勘づかれることなく始末できましょう」
そこへ「天下三宗匠」の一人の千宗易が茶の湯を利用した暗殺を提案すると、他の会合衆は"まさか魚屋殿が"と言った顔で驚く。
「……クククッ、魚屋殿も悪どいのぅ。だが、面白い。お主の策を採用しようではないか。そのような毒には心当たりがある。皆の衆もそれで宜しいかな?」
油屋常琢が全員に訊ねると、会合衆たちは沈黙により同意を表明する。
こうして、畠山政頼や松永久秀の知らぬところで、会合衆たちは畠山家の当主や重臣たちの暗殺計画を密かに練っていたのである。そして、畠山政頼はその餌食となり、畠山家の復興を叶えることなく、この世を去ったのである。享年33であった。  
3 堺の命運
和泉国・堺の郊外。
「はっ、はっ、はぁはぁ」
間一髪のところで会合衆の雇った浪人衆の襲撃から逃れ、堺の町から走って逃げ出した松永久秀であったが、顔色は青白く染まり、膝は小刻みに震えていた。
無理もない。いくら悪逆非道の限りを尽くしてきた久秀とは言えども、来年には還暦を迎えようという老齢の身である。誰一人味方のいない状況でいつ刺客に襲われるかも知れないという状況で落ち着いていられるはずもなく、堺の町から一里半(約6km)も全力で走ったところでさすがに息も上がって、もはや体力の限界を迎えようとしていた。
「いたぞ! あそこだ! 追え!」
そんな状況に追い打ちを掛けるように、堺の町を出て紀伊に向けて一路南下していた久秀は、会合衆が放った刺客にその姿を発見されてしまう。
「よもやこの儂がここまで追い詰められようとはな。新介は捕らえられたか」
追ってきた男たちの顔は先程見た浪人衆と全く同じ顔ぶれであり、柳生宗厳は捕らえられたか、あるいは殺されたのか、そのどちらかであると久秀に悟らせた。
「ふん、少々手こずったがな。いずれにせよお前はここまでだ。大人しく捕われてもらおうか。手向かうようならば、首だけ持ち帰るだけだがな」
老体に鞭打っての逃走劇で体力の限界を迎えていたところに、複数人の武士に囲まれた時点で、既に久秀は死ぬ覚悟を決め、肩の力を抜いて瞑目していた。
その時である。
――ダーン! ダーン!
乾いた銃声と共に、久秀を捕縛しようと近づいてきた浪人たちが次々と撃ち抜かれていく。
「ぐ、がぁぁっ!」 「うぎゃあぁっ!」 「うぐぅぅ、い、痛えぇ」
苦悶の表情を浮かべる浪人たち。鉄砲が撃ち抜いたのはいずれも浪人たちの右肩で、刀を振れなくする狙いだったようだ。久秀は即座に振り向くと、驚愕で目を見開いた。
「お、お主は……!!」
そう、久秀の目の前には、高屋城で敗戦してから姿を眩ませていたと聞き及んでいた雑賀衆の棟梁・鈴木重秀の姿があったのである。
「よう、久しぶりだな。既に請け負った仕事は負け戦で終わっているんだが、こんな浪人衆に貴殿が殺されるのを黙って見ているのも寝覚めが悪いしな。元の雇い主を救うくらいの報酬は前金で受け取っている故、心配するな」 「……ふふっ、儂もつくづく悪運の強い男よな。よもや傭兵に命を救われるとは思わなんだ」
既に死を覚悟していた久秀は、思いも寄らない事態に思わず溜息を吐いた。不利を悟ればすぐに逃げるはずの傭兵集団が、自分一人を助けるために戦おうというのだ。久秀が喜びよりも理解できないという困惑の色を見せるのも無理はなかった。
「無駄口を叩いておると本当に死ぬことになるぞ。生き延びたいのなら走れ!」
重秀は久秀と目を合わせることもなく、配下の雑賀衆の兵と共に久秀を庇うように立ち並ぶと、得物の鉄砲を構えた。
「かたじけない。互いに生き残った時には紀伊で酒の一杯でも奢ってやろうぞ」
久秀が軽口を叩くと、それに応えて重秀は不気味とも思える微笑を浮かべた。
「酒は伊賀の焼酎だ。ついでに干鮭も添えてもらおうか」 「ふっ、致し方なし」
二人はそう言葉を交わすと、久秀は一目散に走り出し、重秀は鉄砲の引き金に手を添えるのであった。

和泉国・堺。
「松永弾正を逃したか」 「も、申し訳ございませぬ。一度は追い詰めたのですが、すんでのところで雑賀衆の邪魔が入ってしまい申した」 「それで、雑賀衆の鉄砲に撃たれて、松永弾正を逃した挙句、おめおめと逃げ帰ってきたと言うのか! このたわけもの!」 「高い金で雇っているのを忘れたのか! この無駄飯喰らいの役立たず共めが!」
会合衆の中でも強硬派の紅屋宗陽と松江隆仙が激怒して、浪人衆に怒鳴り散らす。
「肩を撃たれて刀を振れなくなったお前たちは、もはや用心棒としては用無しだな。クビだ。失せろ!」 「そ、そんな……!」
続けて、油屋常琢に次いで大きな権力を誇る高三隆世が冷酷な表情で告げると、クビを宣告された雇われの浪人衆は伏し目がちに歯噛みしていた。会合衆はこの堺の町で最も強い権力を誇る商人たちだ。"何としても捕らえよ"と命じられていた松永久秀を取り逃がしたのは、首を刎ねられても文句は言えないほどの大失態であり、物理的に首が繋がっているだけでも温情であった。
「くっ、雑賀衆か。我らが畠山に金を貸さねばこうはならなかっただろうに……」
口数の少ない茜屋宗左がポツリと呟くと、他の会合衆たちも苦虫を噛み潰したような顔となる。畠山家が雑賀衆という傭兵集団を雇えたのは、会合衆を始めとする堺の町衆の資金援助があったからこそであった。
その時は「高屋城の戦い」の前であり、畠山家にもまだ勝機はあると踏んでいた会合衆たちは、寺倉家に堺の自治権を取り上げられるのを恐れ、畠山家に金を貸さずにはいられなかった。寺倉家に兵力で劣る畠山家の戦力を補うために考えた、言わば苦肉の策であったのだ。会合衆が貸し付けた500貫文(約5000万円)の金も易々と出せる金額ではない。それが逆に、自分たちの首を絞める結果になるとは思いも寄らなかった会合衆の面々は、皆一様に奥歯を噛みながら顔を伏せて、拳を握り締めていた。
「だが、左衛門督(畠山政頼)の首は我らが手にある。それに加えて、松永弾正が置いていった古天明平蜘蛛と九十九茄子という二つの大名物もあるのだ。それらを以って寺倉との交渉材料とするには十分ではあるまいか?」 「「うむ、それもそうだな」」
塩屋宗悦の言葉に、会合衆たちもようやく気を取り直したように頷く。会合衆たちは畠山家当主の政頼の首と、松永久秀が命よりも大事に扱っていた茶器の大名物を切り札として、寺倉との降伏交渉を優位に進めようという目論見であった。
「ところで、捕らえた柳生とやらはどうしているのですか?」
会合衆最年少の山上宗二が話題を変えて訊ねる。
「厠に籠っていたはずの松永弾正に左衛門督の死を知らせ、屋敷から逃げるように手引きしたのは奴の仕業である模様です。始末すべきでは?」 「いや、それには及ばぬ。柳生など弾正の一家臣にすぎぬ男よ。殺したところで何の意味も為さぬであろう」 「ですが、奴はかなり剣の腕が立つようですぞ。雑賀衆の鉄砲の前ではからきしでしたが、10人の浪人衆を相手に引けを取らなかったようです。生かしておけば、いつか我らに危害を及ぼす危険があるかと存じます」
今井宗久と津田宗及が柳生宗厳の扱いについて意見を交わすと、千宗易が言葉を挟む。
宗厳は会合衆の集めた選りすぐりの浪人衆を、巧みな剣捌きで次々と薙ぎ倒していき、まさに"剣豪"と呼ぶに相応しい卓越した働きを見せていた。そして、松永久秀を堺の町から脱出させるための十分な時間を稼いだところで、宗厳は降伏して捕らわれの身となり、久秀が寄せていた篤い信頼に応えるように、忠義の証を見せたのである。
「ふむ、一理はある。とは言えども、柳生は元は大和の国人領主です故、故郷には家族も残っているでしょう。ここで奴を殺せば、大和国を治める寺倉の逆鱗に触れる恐れもあり得まするぞ。むしろそれほど剣の腕が立つのならば、柳生や他の捕らえた家臣たちの身柄も併せて降伏交渉の材料にもなり得るでしょう。殺すにしてもその後にすべきではありませぬかな?」 「うむ。確かに利用できるものは何だろうと使うべきであるな。ならば、早急に寺倉との降伏交渉を行わねばならぬな」
穏健派の塩屋宗悦が捕虜とした他の畠山家臣たちも降伏交渉の材料とすることを提案すると、最後は会合衆の筆頭格である油屋常琢がまとめて結論を下した。
こうして、会合衆の重鎮たちは松永久秀を取り逃がしたことには落胆しつつも、商人特有の利に聡い思考で、次は如何にして寺倉に取り入って利を得るべきかと頭を切り替えるのであった。  
4 私鋳銭と降伏交渉
和泉国・堺の郊外。
11月中旬、もう既に10日も堺の町を包囲している寺倉軍の本陣に、堺の会合衆の代表者3人がやって来た。左右に居並ぶ寺倉家の重臣に挟まれて、上等な衣服を着て恰幅の良い40代と思しき3人が上座の俺の前で平伏している。
「左馬頭様、お初にお目にかかります。堺の町の会合衆の油屋常琢と申します」 「左馬頭様、私は会合衆の高三隆世と申しまする」 「左馬頭様、私も会合衆の塩屋宗悦と申します」
会合衆の3人は平身低頭といった様子だ。伊賀衆の調べでは、油屋常琢は10人いる会合衆の筆頭格で、高三隆世はナンバー2らしい。塩屋宗悦は穏健派だそうだ。反対に会合衆には強硬派の者もいるようだが、この場で下手な発言をされて交渉が上手くいかないと困るので、連れて来なかったのだろう。
妥当な人選ではあるが、降伏勧告を何度も無視し続けた挙句、2日前の艦砲射撃と大鉄砲の砲撃を受けて、匿っていた畠山政頼を見限って毒殺したのは既に調べが付いている。奴らの腹の内にどれほどどす黒い陰謀が秘められているか、俺は先刻承知している。堺の町を破壊されるのを恐れて、今さら膝を屈するなど笑止千万だ。俺は一切甘い対応を取るつもりはない。
実を言うと、堺の町を攻撃したのは畠山政頼を匿ったのが本当の理由ではない。ちょうど好都合だったので、堺の町を攻撃する大義名分に利用させてもらったが、俺の本当の狙いは別にあり、それを達成する上で必要な措置だったのだ。
その狙いとは堺の"銭"だ。何も堺の商人から矢銭を徴収するという意味ではない。堺の町では"銭"を造っているのだ。俺は堺の町からその鋳造権を奪いたかったのだ。
日本の貨幣は、奈良時代の大昔には「鋳銭司」という役人の下で鋳造所で和同開珎を始めとする「皇朝十二銭」が造られていたが、やがて当時の精錬技術では銅の生産量が次第に減少したため、平安時代後期には貨幣の鋳造が行われなくなった。その後、平氏政権から鎌倉時代には日宋貿易で大陸の宋から宋銭が大量に輸入され、室町時代には日明貿易で永楽通宝などの明銭が輸入されるようになっていた。
しかし、今の戦国時代の日ノ本に流通している銅銭は宋銭や明銭だけではない。有力大名などが造った"私鋳銭"という銅の比率の少ない劣悪な品質の偽造貨幣も大量に流通しているのだ。もちろん貨幣の私鋳は捕まったら死罪となる犯罪だが、朝廷や幕府が有力大名らの権力者を捕らえることができるはずもない。
そして、私鋳銭は有力大名だけでなく、この堺の町にも私鋳銭の工房が存在し、堺の商人たちが粗悪な私鋳銭を造って流通させている。もちろん紙幣と違って造幣には銅のコストが掛かるが、銅の比率を落とすことで額面との差額が利益になるという濡れ手に粟の商売で、堺の商人たちはぼろ儲けしてきたのだ。
ただ、私鋳銭は単に金儲け目的だけでなく、宋銭や明銭が割れて"鐚銭"となったり、大陸からの明銭の輸入が途絶えたりして貨幣の流通量が減少する中で、大名や商人たちが必要に迫られて行ってきた必要悪の側面もあるので、一概に犯罪だと否定するつもりはない。
だが、問題はその私鋳銭の"質"なのだ。粗悪な私鋳銭や鐚銭が大量に市中に流通すると、当然のことだが、銅の比率が比較的高い宋銭や永楽銭と比べて、額面以下の価値しかない私鋳銭に対する信用度が低下する。それにより商売の際には私鋳銭での支払い拒否や、宋銭10枚を私鋳銭20枚と両替するような"撰銭"が起きて流通を阻害するようになり、史実では織田信長も撰銭を禁止する撰銭令を出したりする事態になっているのだ。
一方、今の寺倉家では灰吹法で粗銅から金や銀を回収して、大量に残った銅はほとんど青銅に変えて、鉄砲や大砲、ポンプ、スコップなどの用途に使用しており、私鋳銭は造っていない。だが今後、日ノ本を平定する上で私鋳銭の問題を放置しておく訳には行かない。今の状況を少しでも改善するために、まずは堺の町から鋳造権を奪い、少なくとも"六雄"の領内では宋銭と同水準の私鋳銭を鋳造して流通させたいと目論んでいるのだ。
そして、堺の町から鋳造権を奪うためには、堺の会合衆を屈服させる必要がある。そのためにはこの堺の町が戦とは無縁な安全な場所だという幻想を壊さなければ、それ以外の方法で会合衆が降伏を受け入れることはあり得ない。それが今回の「堺の戦い」の本当の目的だったのだ。
さらに言えば、俺は今、急ピッチで津守に湊を造らせている。これが完成すれば、もはや堺の町は用無し、いやむしろ邪魔な存在となる。だから俺は堺の自治権を奪うどころか、堺の町を潰して大坂へ移転させ、堺の跡地は寺倉海軍の軍港にするつもりだ。
だが、今回の降伏でいきなり堺の町を潰すのは少々無理があると考えている。あまり性急に強引な手段を取ると、世間の"六雄"に対する評価を下げてしまいかねないからな。そこで俺は、堺の町を潰す大義名分を得るために、有無を言わさぬ既成事実により会合衆に罪を着せて、その罰を以って堺の町を潰そうと企んでいるのだ。
「私は寺倉左馬頭伊賀守だ。泣く子も黙る堺の会合衆が3人も揃って何用で参ったのかな?」 「ははっ、本日、我らは堺の町が寺倉家に降伏するために参りました」 「ほぅ、ようやく降伏する気になったか。随分と早い決断だったな」 「いえいえ、滅相もありません。私ども会合衆は畠山に脅されて仕方なく……」 「ふん、下手な猿芝居はするな。では早速、交渉を始めるとしようか」
何事も交渉事は先手を取り、場の主導権を握ることが重要だ。俺の皮肉に会合衆の一人、高三隆世が慌てて弁明しようとするのを、俺は即座に否定し、会合衆たちの目算をわざとぶち壊すように冷淡に告げる。
俺は23歳という若年から老獪な会合衆たちに舐められないように、"次期天下人"である"左馬頭"として威厳を纏わせて床几に座すと、さすがに気圧されたのか、正面に平伏する会合衆3人の顔が青白くなって強張った。
「か、かしこまりまして存じます」 「では、肝心の降伏の条件だが、お主らはどの様な条件を望むのだ? 申してみよ」
俺はまず会合衆たちに一抹の希望を抱かせるべく、彼らが望む条件を言わせる。もちろん俺はどんな条件だろうと同意するつもりなどさらさらない。上に上げてから下に叩き落すつもりだ。だが、会合衆たちは俺の言葉に乗せられるように顔色をパッと明るくした。
俺は自然と口角が吊り上がりそうになるのを堪えながら、会合衆らの言葉を待った。  
5 会合衆の安堵
「さ、左様にございますか。では、私どもの願いは今後も堺の町の自治を認めていただきたいという一点にございまする。自治を認めていただけるのであれば、対価として畠山家当主・畠山左衛門督の首と捕縛しました畠山の家臣らの身柄をお引き渡しいたしまする。さらには、天下の大名物・古天明平蜘蛛と九十九茄子も用意してございます。いかがでございましょうか?」
「ふん、気に食わんな。私が左様な条件を飲むと思っていたのか? 再三の降伏勧告にも応じず、挙句の果てには畠山左衛門督の首を差し出すだと? 畠山の首に何の価値がある? 茶器は松永弾正忠の忘れ物であろう? 他人の褌で相撲を取るとは、正にこのことだな。お主ら会合衆の腹は何一つ痛まないではないか、違うか? 厚かましいにも程があるわ! この厚顔無恥な泥棒猫どもが!」
これほど恥知らずな条件を提示してくるとは思わなかった俺は、怒り心頭で頭に血が上り、床几から立ち上がって本気で怒鳴りつけた。
「「ひ、ひぃぃ、も、申し訳ございませぬ! な、何卒お許しくださいませ」」 「私はいずれ畠山を討ち果たすつもりだったが、それは決してお主ら商人の汚い手口によるものではない。甚だ遺憾だ。左衛門督も信用していたお主らに裏切られて死ぬとは、哀れな男だな。違うか?」
俺は会合衆たちを責め立てる。彼らは俺の言葉に青ざめると、視線を泳がせて口を噤んだ。
「た、確かに我らの腹は全く痛まない内容でございますれば、左馬頭様のお怒りはご尤もにございます。で、では、堺の町の負担として、一千貫文(約1億円)の矢銭をお支払いいたしまする。何卒寛大なご処置を伏してお願い申し上げまする」 「お主たちは商人だ。商売では商機が大事であろう? 商機を逸すれば、欲しかった品は他人の手に渡り、売りたかった品も売れなくなる。……お主たちは再三の降伏勧告を無視したであろう。お主たちが端から大人しく降伏しておれば、今後も堺の自治権を認めるつもりであった。だが、こうなった以上、ある程度の痛みは覚悟はしてもらおう」
俺は冷然と告げる。会合衆たちは脂汗を垂らして、誰も俺と目を合わせようとしない。
「まずは堺の降伏を認める条件としては、先ほどの捕虜の身柄と茶器に加えて、堺の私鋳銭の鋳造所は寺倉家が管理することとする。これ以上粗悪な私鋳銭を造って暴利を貪ることは一切認めぬ。良いな?」 「「ははっ、承知いたしました」」 「次に、今後の堺の自治についてだが、……」
会合衆たちがゴクンと唾を飲み込む音が聞こえた。
「次に、今後の堺の自治についてだが、本来ならば自治権を剥奪して、堺の町は寺倉家の直轄地とすべきところだが、私も鬼ではない。お主たちに最後の名誉挽回の機会を与えても良い」
その言葉を聞いて、会合衆たちは池の鯉が餌を得て食いつくが如く一斉に顔を上げた。
「あ、ありがたき幸せにございまする!」 「お主たちは堺の自治を守るために一千貫文の矢銭を払うと先ほど申したな。だが、我らの攻撃によって堺の町の一部は灰燼と化したと聞いておる。その復旧にも銭が入り用であろう? ならば、一度に多額の銭を支払わせるのは酷であろう故、今月末は十貫文(約100万円)で良い。その代わり来月末は倍額を、再来月はその倍額というように、一年間矢銭を納め続けてもらおう。どうだ?」
俺はさも気の毒そうな様子で伏せ目がちで言う。奴らは商人だが、金貸しを営んでいる者がいないのは調査済みだ。2の11乗がどういう数になるのかすぐには気づかないだろう。臭い芝居ではあるが、会合衆たちにこの提案を"好条件"だと思わせることができるだろうと考えた上での演技だ。
「左馬頭様の寛大なご配慮、誠に痛み入りまして、かたじけなく存じまする」
ほらな。絶望の淵に落ちた人間は、天から垂れ下がった蜘蛛の糸にも縋りたくなる生き物なのだ。俺の提案は彼らにとって正に蜘蛛の糸に見えたことだろう。
「だが、左衛門督を殺したお主たちの言葉をそのまま信用するほど、私は甘くはない。今の条件を書いた誓紙を取り交わし、誓いを破った場合は堺の自治を召し上げることとする。良いな?」 「ははっ、承知いたしました」
こうして、会合衆たちとの降伏交渉は"無事に"終わりを告げた。会合衆たちはどうにか堺の自治権を認められて、肩の荷を降ろしているだろうが、安心するのはまだ早い。後々になって、この条件の恐ろしさを知ることになるはずだ。その時が見ものだな。

会合衆との降伏交渉が終わってから一刻後、俺は、畠山政頼の首と共に本陣に連れて来られた畠山家の捕虜たちと対面していた。ここにいる捕虜たちは畠山政頼が毒殺された際に茶室で捕らえられた者や、宿舎として貸し与えられた屋敷で夕餉に眠り薬を盛られて捕らわれた者たちだ。これ以外にも1000名近い畠山軍の一般兵がいたが、わずかな傭兵以外は徴兵された農民であり、寺倉家にとっても今後は大切な領民となる者たちであるため、寺倉家の慈悲により特別に助命すると恩に着せた上で解散し、既に家路に就かせている。
俺の前で後ろ手に縛られた捕虜たちは跪かされて、もはや死を覚悟しているのか抗う者はおらず、12名の捕虜全員の名前と素性を確認させると、10名が畠山家臣、2名が松永家臣であった。
俺は捕虜たちの前に立つと、穏やかな口調で告げる。
「私は寺倉左馬頭である。先ほど堺の会合衆とは貴殿らの身柄を寺倉家が預かることで合意した。そして、貴殿らの処遇についてであるが、私は貴殿らの命を奪うつもりはない故、安心してもらいたい」 「「えっ?!」」
先ほどまで意気消沈して俯いていた捕虜たちが俺の言葉に驚いて、目を見開いて俺を見上げている。
「貴殿らには寺倉家に仕えるか、畠山家に帰参するかの2つの選択肢を与えよう。寺倉家に仕えたいという者は禄15貫で召し抱えよう。逆に、畠山家に忠義を尽くしたいという者はその意思も尊重し、解放すると約束しよう」 「ま、真にございまするか?」
捕虜の中で最も地位が高く、畠山政頼の側近だったという遊佐高清という重臣が声を上げる。
「ここで嘘を言っても仕方あるまい? 本音を言えば今後、寺倉家が河内や和泉を統治していく上で、この土地に明るい者たちの力が必要なのだ。故に河内や和泉の代官の下で働く者が欲しいと考えているのだ。一方、畠山家に帰参する者には左衛門督殿の首を預けるので、紀伊に持ち帰って弔ってほしいと考えておる」
この俺の言葉を聞いた捕虜たちは顔を見合わせて、「どうする?」と小声で話し合い始めており、しばし考える時間を与えることにした。  
6 柳生宗厳の仕官
俺が考える為の時間を設け、半刻の後戻って捕虜たちの意思確認をすると、10名の畠山家臣の内、河内と和泉が地元である7名は寺倉家に仕官することを決め、残りの紀伊出身の3名は畠山に戻ることを決めた。その3名の内の1人は遊佐高清であり、政頼の首を預けると、高清は首を抱きかかえて人目も憚らず嗚咽を漏らしていた。いずれは寺倉の手で政頼は討つつもりであったが、あまりにも呆気なく、そして無念の死に俺も同情しそうになってしまう。緩みそうになった兜をきつく締め直すと、残った松永家臣の仕置に移った。
松永家臣の2名だが、1名は事情があって後回しとしたが、残りの1名は異色を放つ存在で、名を柳生新次郎宗厳と名乗った。柳生宗厳と言えば、かの"柳生新陰流"の開祖として有名な剣豪・柳生石舟斎だ。柳生宗厳から話を聞くと、大和の国人領主だった宗厳は松永久秀が大和を治めるようになって以来、久秀から高い信頼を受けて腹心の家臣として仕えていたようだ。宗厳が故郷である大和を捨て、大和を追われた久秀に付いて行くほどなのだから、余程の信頼関係だったのであろう。
だが、宗厳は昨日、会合衆の屋敷で久秀を逃がすために刀を振るったものの、力及ばず捕らえられてしまったのだと語った。
そして宗厳は己の剣の未熟さを痛感し、寺倉家に臣従することは主君・松永久秀に対する背信を意味するし、かと言って久秀の元に戻るには力が及んでおらず、故にどちらにも答えを出せずに悩んでいたのだという。実は以前から柳生宗厳の仕官を望んでいた俺は、宗厳をこのまま剣術修行で流浪の身にしてしまうのは余りに勿体ないので、ある提案をすることにした。
「柳生新次郎殿。実はな、私は大和国を平定した後、添上郡の柳生郷に足を運んだのだ。無論、貴殿に会うためだ。あぁ、お父上は60を過ぎてもご壮健であったぞ。奥方やお子たちも息災であった。だが、肝心の貴殿は松永弾正忠殿と共に、大和を出て堺に行ってしまったと聞いて、縁がなかったかと非常に残念に思っていたのだ」 「未熟な某などのためにわざわざ柳生郷に足を運んでいただき、かたじけなく存じまする」
俺の話を聞いて、宗厳の物腰が少し柔らかくなったように感じた。下手をすると家族が人質にされると思ったのだろう。そんなことをするつもりは毛頭なかったが、俺は端然と続ける。
「正直に言うが、私からすれば貴殿のような優秀な人材はぜひとも家臣にしたい。だが、処遇は貴殿らの自由だと言ってしまった手前、今さら無理強いする訳にも行かない。ということで柳生新次郎殿、ここで我が剣の師と手合わせをしてみぬか?」 「手合わせでございまするか? ですが、何ゆえに?」
宗厳は俺の言葉の意図を掴めないのか、眉を顰める。
「何、腕試しという奴だ。我が剣の師は、冨田五郎左衛門という中条流の遣い手だ。竹刀という練習用に作った刀で手合わせを行い、貴殿が勝てば松永弾正忠殿に仕えるに値すると、自信を持って帰参すれば良かろう。だが、負ければ未だ未熟であるとして、五郎左衛門の弟子となり、寺倉家に仕えてもらう。如何かな?」 「……かねてから中条流の冨田五郎左衛門殿のご高名は伺っており申した。まさか、斯様な形で手合わせできるとは思いも寄りませなんだが、兵法家としてぜひとも手合わせをお願いしたいと存じまする」
迷いに迷っていた宗厳にとってその提案は渡りに船だったのか、殆ど間を置くことなく承諾した。
もちろん俺は、あらかじめ冨田勢源に柳生宗厳の実力を測ってもらい、勢源から"勝てまする"との言葉をもらった上での提案だ。これならば宗厳も結果がどうであれ納得できるだろう。早速、本陣脇の空き地で手合わせを行うことになった。有名な剣豪同士の対決ということで、家臣たちが一目見ようと集まってきた。
二人の手合わせは、序盤は宗厳の奮闘により互角の勝負に見えた。だが、勢源の実力は宗厳の一枚も二枚も上を行っていた。10分ほどして宗厳の剣を見切った勢源は、いきなり豹変すると、宗厳の剣の欠点を次々と指摘するかのように竹刀で打ちのめし、一方的な戦いになっていった。これが刀を使った果たし合いだったなら、宗厳は間違いなく10回は死んでいただろうな。かたや勢源は息一つ切らしていない。全く、いつまで経っても勢源には追いつけそうにないな。
「やはり某の腕はまだまだ未熟。冨田五郎左衛門殿に遠く及ばないのが良く分かり申した。五郎左衛門殿、何卒某を弟子にしていただきたくお願いいたしまする」
自らの剣技の未熟さに歯を噛み締める宗厳に、勢源は近づく。
「うむ。貴殿の剣は未だ未熟なれど、濁りのない真っ直ぐな剣筋である故、まだまだ伸びる余地がござるな。我が剣を教えて進ぜよう」 「ははっ、かたじけなく存じまする」
俺はすかさず冨田勢源に平伏する柳生宗厳に声を掛けた。
「では、柳生新次郎殿、五郎左衛門の弟子となって、寺倉家に仕えるということで宜しいな?」 「ははっ、武士に二言はございませぬ」
よし。これで柳生宗厳が俺の家臣になった。これで"新陰流"は"中条流"の技も取り入れた流派として"柳生新陰流"となるのだろう。ゆくゆくは宗厳には寺倉家の剣術指南役を命じたいところだな。
「ならば、貴殿は私の家臣であると同時に、弟弟子という関係になるな。ところで、松永弾正忠殿は貴殿を"新介"と呼んでいたと聞いたが、私もそう呼んでも構わぬか?」 「……申し訳ございませぬ。某を"新介"と呼ぶのは、家族と弾正忠様だけと決めておりますれば、何卒ご容赦願いまする」
なるほど、"新介"呼びは身内限定という訳か。それならば代わりに新しい呼び名を与えるとしよう。
「左様か、仕方あるまい。では、寺倉家に仕官したのを機に偏諱を与える代わりに、私は師の冨田五郎左衛門から名を少し分けて貰って、貴殿を"新左衛門"と呼ぼうと思うが、構わぬか?」 「ははっ、ありがたき幸せにございまする。これからは"柳生新左衛門"と名乗らせていただきまする」
こうして柳生"新左衛門"宗厳は寺倉家への仕官を決めた。その時の宗厳の顔は迷いが吹っ切れて、どこか晴れ晴れとしていた。  
7 三雲家との因縁
柳生宗厳が寺倉家への仕官を決めた後、会合衆から引き渡された畠山家臣の捕虜たちで畠山に帰参することを選んだ遊佐高清ら3人は、畠山政頼の首を大事そうに抱えて紀伊へと帰っていった。
そして翌日、俺は急遽呼び出した南摂津の代官である和田惟政と共に、後回しとしていた松永家臣のもう1名の処遇に関して事前に相談を行っていた。
その1名とは松永久秀配下の素破の頭であり、さらには配下の素破10名がいた。他の畠山家臣は寺倉家に仕えるか、畠山に戻るかを自由に選ばせたが、素破は違う。解放すれば何をされるかわからない。俺を暗殺しようと試みる者が現れたり、畠山に通じて寺倉家の情報が筒抜けになる恐れもあるのだ。そういった観点から俺は素破たちの処遇に困っていた。
そこで素破の扱いに長け、寺倉家の甲賀衆を率いる役目に就いている和田惟政と共に素破たちの処遇を相談することにしたのであるが、陰から素破たちの顔を見た惟政が驚いたように俺に告げる。
「典厩様。あの素破たちの何人かは見覚えがありまする。おそらくは三雲城を落ち延びた甲賀の者たちかと存じまする」 「何と、そうか。ならば和田弾正忠の下の甲賀衆に迎え入れることができそうだな」 「はっ、左様ですな。ですが、厄介なことに、あの素破の頭は三雲対馬守の三男にございまする」
そう言うと、惟政が同席していた蒲生宗智に気まずそうに目を向ける。三雲対馬守は「六角六宿老」の一角であり、かつては甲賀衆を率いていたが、「三雲城の戦い」で蒲生軍の前に壮絶な死を遂げたと聞き及んでいる。
「なるほど、そういうことか。あの素破の頭にとって、宗智殿は父親の仇という訳だな。さて、どうしたものか……」 「典厩殿。儂にお気遣いは無用にございます。この乱世においては肉親の仇として恨みを買うのは覚悟の上にございますれば、三雲対馬守の三男から刺されて死ぬことになろうとも、それは戦国の世の習いにて、やむを得ぬ仕儀にございまする」
宗智が平然とした態度で告げる。
「いやいや、宗智殿。私は家中で刃傷沙汰など起こしたくはないし、左様なことになれば蒲生山城守(忠秀)に会わせる顔がない。人の恨みは根が深い感情故、すぐに和解するのは難しいであろうが、やはりその三雲対馬守の三男を説得し、少しでも恨みを解きほぐすしかあるまい」 「「左様ですな」」
こうして素破たちの処遇に関する事前の相談を終えると、俺は素破たちとの会見の場に移動したのであった。

俺の前には丸腰の素破の頭と素破たち10名が、捕縛されて身動きの取れない体勢で跪いている。念のため俺の横には滝川慶次郎と冨田勢源にも護衛に就いてもらっている。
「さて、始めにお主たちに申しておこう。お主らは素破という特殊な存在故、無罪放免で松永弾正忠の元に帰す訳には行かぬ。だが、お主らが望めば、松永家にいた時の倍の禄の待遇で、寺倉家の甲賀衆に迎え入れよう。寺倉家ではこの和田弾正忠が寺倉家を頼ってきた甲賀衆を率いておる。和田弾正忠は甲賀出身である故、お主たちの中にも存じている者もおろう? 寺倉家では六角家と同じく、素破だからといって差別するようなことはないし、功績は武士と同じく正当に評価すると約束しよう。どうだ、寺倉家に仕えてみぬか?」
俺の言葉に松永久秀の配下だった素破たちの目が変わった。この時代の素破は世間では下賤な身分として捉えられており、日陰の存在故に名誉も得られなければ、十分な報酬や待遇を得ることも叶わぬ存在だったのだ。寺倉家に仕えれば厚遇されるとなれば、拒否する理由などないのは当然だ。
「寺倉家に仕える意志がある者は頭を下げよ」
和田惟政の一声に、素破たちは一斉に額を地面に擦りつけて、寺倉家に仕える意志を示した。そこまでしなくてもいいのだが。
しかし、その中に一人だけ頭を下げようとはしない男がいた。予想通りだ。俺はわざと怪訝そうな態度でその男に声を掛ける。
「お主、名前は何と申す?」 「某は三雲三郎左衛門総持と申す」 「ほぅ、三雲とな?」
俺は宗智に一瞬目を向けた。俺が「なぜ三雲の人間がここに?」と訊ねようとする前に、その男から答えが返ってくる。
「某は三雲対馬守の三男にございまする。過日の『三雲城の戦い』で、そこにおわす男に父や家臣たちを殺され、所領を追われてから、兄上達と共に各地を流浪しており申したが、旅の途中で兄上達とは別れ、独りで松永弾正忠様に仕えており申した」
やはり父・三雲定持を殺された恨みはかなり強いようだな。頭を下げようとしないのも無理はない。それはそうと、三雲定持は息子たちを落城前に逃したのか。兄弟たちが別れたのは、御家を断絶させないように別々の家に仕官してリスクを回避したのだろうな。
「貴殿はやはり宗智殿を恨んでいるのだな。まぁ、それは仕方なかろう。三郎左衛門殿、貴殿と少し話をしたい。佐平次よ。他の素破たちを解放してやってくれ。弾正忠、後は頼んだぞ」 「「はっ、承知いたしました」」
俺は近習の小川蹊祐に他の素破たちの縄を解くよう指示すると、他の素破たちは感激に目を潤ませていた。後は和田惟政に任せておけば問題ないだろう。
惟政が素破たちを連れて退出し、護衛の滝川慶次郎と冨田勢源にも席を外してもらうと、残るのは俺と宗智、総持の3人のみとなり、静寂がこの場を包んだ後、徐に蒲生宗智が口を開いた。
「……あの『三雲城の戦い』は蒲生家が南近江を制圧し、日ノ本の平定を目指す"六雄"の列に加わるためには必要な戦いであった。儂は今でも間違ったことをしたとは思うてはおらぬ故、後悔もしてはおらぬ。……三雲三郎左衛門殿、六角六宿老の仲間であったそなたの父、三雲対馬守を死なせたのは、誠に残念であったと思う。だが、勝敗は兵家の常と申す。ここで儂が貴殿に謝れば貴殿の気は少しは晴れるかもしれぬ。だが、一方でそれは最後まで武士として堂々と戦った三雲対馬守の誇りを汚すことになる。故に、儂は貴殿に謝ることはできぬのだ」 「くっ、何を申すか! よくも父上を……」
宗智の非情とも取れる言葉に、三雲総持は憤然とした態度を見せるが、宗智の言葉の意味を理解したのだろう。尊敬する亡き父を侮辱する訳にも行かず、恨みの言葉を飲み込んで必死に怒りを堪えているように見えた。
「なぁ、三雲三郎左衛門よ。私も貴殿の気持ちは良く分かる。なぜなら俺も父親を殺された身の上だからだ」
俺がそう言うと、総持はハッとした表情になった。寺倉家は日の出の勢いで弱小国人から急成長し、巷では数々の武勇伝が華々しく褒め称えられているが、影の部分は忘れられ、人の目は向かないものだ。総持も俺が父を失くした身であることをすっかり失念していたようだった。
総持は六角六宿老の家柄である三雲家の人間である。当然ながら六角承禎が浅井巖應に命じて俺の父を謀殺させた事実も三雲対馬守を通じて知っているようだ。
「……申し訳ございませぬ。まるで父親を殺された人間は自分だけしかいないかのように……。人を恨んで憎む心で闇に捉われ、少々自分を見失っていたようにございまする。3年前に父を失って以来、某は父を失った苦しみを胸に、自らを呪いに掛けるように仇討ちを期して日々を過ごしておりました。ですが、この乱世において勝敗は兵家の常にございますれば、蒲生殿を責めるなど言語道断。お門違いにございまする。父を失って蒲生家を仇と定めていた己の未熟さに恥じ入るばかりにございまする。蒲生殿、誠に申し訳ございませぬ」
総持は誠実な性格で聡明なのだろう。自分が怨恨に捉われていた過ちに気づくと、宗智に深々と頭を下げて謝罪した。
「いやいや、謝ることはないぞ。だが、人は過去に捉われてばかりいては闇に落ちてしまう。未来を見て歩むべきなのじゃ。きっと三雲対馬守殿も草葉の陰で貴殿を見守っているはずじゃ」 「う、ううっ。……はい」
総持は涙声で答える。
「宗智殿。そう言えば、もうすぐ今月末は三雲対馬守殿の命日のはずだな。今度、三雲家の菩提寺に三雲対馬守殿の墓参りに参ろうか?」 「左様でございますな。儂も久しぶりに三雲対馬守殿と語り合ってみたいと存じまする」 「か、かたじけなく存じまする。父上も喜ぶかと存じまする」
総持は嬉しそうに俺に礼を言うと、先ほど素破たちがしたように額を地面に擦りつけた。
「この三雲三郎左衛門総持、寺倉左馬頭様に忠誠をお誓い申し上げまする。如何様にでもお使いくだされ」 「うむ。仕えてくれるか。では、よろしく頼んだぞ」
こうして、三雲三郎左衛門総持が寺倉家の家臣となったのである。  
8 会合衆の失態
時は遡り、寺倉との降伏交渉が終わり、会合衆の3人が堺の町に戻ったその夜、降伏交渉の結果を聞くために、会合衆の面々は油屋常琢の屋敷に集まっていた。そして、油屋常琢から堺の自治が認められることになったと聞いて、会合衆たちはホッと胸を撫で下ろした。
「まずますの上首尾でしたな。やはり"六雄"の筆頭格と言えども、所詮は23歳の武家の若造にございまするな。交渉事で我ら堺の会合衆に敵うはずなどなかろう。ふっふふ」
鋳銭所の管理権を寺倉に召し上げられたのは手痛い損失であったが、それを除けば降伏交渉が上々の首尾で終わったと強硬派の松江隆仙がほくそ笑むと、他の会合衆たちの顔にも笑みが零れる。
だが、それも束の間、会合衆のナンバー2の高三隆世が降伏条件の詳細を説明すると、会合衆の強硬派で、金貸しを営む紅屋宗陽がすぐさま血相を変えて怒鳴り出した。
「大馬鹿者! 何が上首尾だ! 我らは寺倉典厩にしてやられたのが分からんのか! いいか、半年先まではまだ良い。だが、11ヶ月目、12ヶ月目ともなれば話は違ってくる。11ヶ月目は10240貫文、12ヶ月目は何と、20480貫文もの矢銭を払わねばならんのだぞ。つまりは総額で4万貫文(約40億円)以上になってしまう。だからこの儂が交渉の場に行くべきだったのだ! 塩屋殿がいながら気付かなかったのか?」
強硬派の紅屋宗陽が、敵対する穏健派の塩屋宗悦を睨みつける。
「「な、何と! それは真か?!」」
他の会合衆たちは慌てて紙に数字を書き並べ、紅屋宗陽の言うことが真実だと初めて悟り、寺倉が出した条件が如何に自分たちに不利であるかに気づいた。
「堺の大商人たる会合衆が、銭勘定で武家に手玉に取られるとは何たる失態か!」
茜屋宗左が商人の縄張りとも言える算術で武家に騙されたのを嘆く。正吉郎の他に選択肢はないという脅しと威圧に加えて、"堺の町の復興費用のため"という名目で、今月は僅か10貫文で良いという甘言に乗せられ、まんまと策略に嵌められてしまったことに気づいても、今さら後の祭りであった。
「寺倉典厩とは一体、何者なのです? とんだ食わせ者ですぞ。ただの武家の若造がこのような策謀を思いつくとは到底考えられませぬな」 「そのような呑気な事を申しておる場合ではなかろう! 寺倉典厩が何者か詮索したところで今さらどうにもなるまい」 「大事なのは、この条件を熊野の牛王宝印に書いた起請文を寺倉典厩と取り交わしたということです。油屋殿、一体いかがなさるおつもりですかな?」
正吉郎の策謀に驚きの声を上げる今井宗久を津田宗及が諭すと、千宗易が最も肝心な問題を指摘して、油屋常琢に問い質す。
「拙い、拙いぞ」
会合衆の筆頭・油屋常琢は顔面蒼白となり、ぶつぶつと呟いて呆然自失といった様子であった。
「いずれにしても4万貫文もの大金など、払う訳には行かぬぞ!」 「儂も支払うつもりはないぞ!」 
強硬派の松江隆仙と紅屋宗陽が声高に主張すると、他の会合衆たちも4万貫文という金額の大きさに震撼する。
「くっ、こうなれば寺倉典厩も殺す他あるまい。もはや一人も二人も同じことよ。畠山左衛門督を殺した時のように、儂の毒薬を使えば始末できるであろう」
ようやく気を取り直したのか、油屋常琢は暗い笑顔を浮かべて告げる。常琢の本業は高名な薬屋であるため、素破の筋から聞いた様々な毒薬の製法もお手の物だったのである。
「油屋殿、それは余りに危険すぎまする! 寺倉典厩が死んでも寺倉には嫡男や弟の北畠伊勢守がおりまするし、京を押さえる"六雄"の蒲生もおりまする。それに、ここで典厩を殺したところで、取り交わした起請文の内容は無効にはなりませぬ。むしろ我らは死罪となって自治権は召し上げられるだけにございます。それどころか、堺の町を包囲する寺倉軍から総攻撃されて、堺の町が壊滅するのは確実にございますぞ」 「左様。百害あって一利なしと存じます。皆の衆もそうは思いませぬか?」
油屋常琢の提案に対して2人だけがすかさず反論する。穏健派の塩屋宗悦と山上宗二である。2人は畠山政頼の殺害は不承不承認めたものの、堺の町をこれ以上危険に晒すような真似は断じて許すことができなかったのだ。
しかし、他の会合衆たちは2人の主張に頷こうとはしなかった。"3人集まれば派閥ができる"と言うが、会合衆10人にも派閥があった。強硬派の松江隆仙と紅屋宗陽、穏健派の塩屋宗悦と山上宗二、そして中間派の6人である。
塩屋宗悦は返碁、石鹸、蚊帳、羽根布団、算盤、焼酎、伊賀焼、炭団、手押しポンプといった寺倉家の商品を扱って大儲けしており、寺倉の御用商人だと陰口を叩かれていた。若い商人たちの代表格でもある23歳の山上宗二は、亡くなった父親が宗悦と親友だったため、宗二も穏健派と目されていた。
対する強硬派の2人は穏健派とはことごとく意見が対立する存在であり、残る中間派は日和見主義で筆頭格の油屋常琢の顔色を伺うだけのような者たちであった。したがって、常琢の提案に異を唱えることなどなかったのである。
さらに言えば、彼らは近年になって堺の町よりも繁盛していると噂される松原湊をライバル視しており、その松原湊を有する寺倉家のことが気に食わない、有り体に言えば嫌っていたのである。したがって、正吉郎が死ねば溜飲を下げられるという感情が先行し、堺の町が壊滅するという宗悦の意見になど耳を傾けようともしなかったのである。
「どうやら儂の意見に反対なのはお主たちだけのようだな。多数決は会合衆の掟だぞ」 「常琢殿! もう一度お考え直しくだされ! 寺倉典厩を殺せば堺の破滅ですぞ!」 「ええぃ、五月蝿い! 多数決に従わぬと言うのならば、お主たちに会合衆の資格はない。二人に計画を邪魔されても困るな。おい、二人を牢に入れておけ!」
会合衆の中でも一際強い権力を持った油屋常琢は、説教臭くて目の上のたん瘤のような目障りな存在であった塩屋宗悦を政敵と見做して、普段から人一倍厳しい姿勢を取っていた。そして今、自分の意見に真っ向から反論して筆頭格としての面目を潰された常琢は、この機に宗悦を会合衆から排除しようと企んだのである。
他の会合衆たちに羽交い絞めにされて部屋から連れ出されようとも、なお必死に叫ぶ宗悦と宗二だったが、その言葉が常琢の耳に届くことはなかった。
だが、油屋常琢は知らなかった。寺倉家の素破が天井裏に潜んでいたことを。

和泉国・堺の郊外。
「そうか。やはり俺の暗殺を計画したか」 「左様にございまする。如何いたしましょう。消しますか?」
植田順蔵の冷徹な声色に思わず身震いしそうになるが、一瞬眉を寄せるだけに留める。
「構わぬ。捨て置け。ここで殺せば俺が誓紙の約定を破ったことになる」
俺は溜息を吐いて答える。会合衆の奴らも愚かなことを考えるものだ。俺が死んだところで家臣たちが会合衆を根切りにするだけだ。蔵秀丸はまだ5歳だが、嵯治郎が支えてくれるだろう。蒲生だって黙っちゃいない。そうなれば堺は破滅だぞ。
「はっ。ならば如何いたしまするか?」 「これも目論見通りだ。ここは奴らの策に乗ったと見せ掛けるのだ。要は毒茶を飲まねば良いのだ。俺を暗殺しようとしたのが明白となった時点で、会合衆は全員磔刑だ」 「当然ですな。ただ、一つ気がかりなことが……」 「む、何だ? 申してみよ」 「会合衆の塩屋宗悦と山上宗二という2人が、正吉郎様の殺害に反対し、会合衆から追放されて、牢に閉じ込められたようにございまする」 「ふむ、塩屋宗悦か。昼の交渉の場にいた穏健派の男だな。俺の暗殺に反対したのならば少しは信用できそうだな。俺も堺の町衆をまとめ上げるのは難題だと考えていた故、会合衆を処刑した後には塩屋宗悦を町衆のまとめ役にして、津守への引越しを先導させよう」 「なるほど。良きお考えにございまするな」 「一両日中には茶会の誘いが来るだろう。万一のことがないよう、素破は増やして腕の立つ者を用意しておいてくれ」 「ははっ、承知いたしました」
こうして、その2日後、俺は会合衆からの招きに応じて、堺の町を訪ねたのであった。  
9 堺の斜陽
11月も下旬に入り、朝晩もめっきり肌寒くなった日の午後、俺は会合衆たちからの茶会の招きに応じて、油屋常琢の屋敷を訪ねた。
「左馬頭様、本日は我らが茶会の招きに応じてわざわざお越しくださり、恐悦至極にございます」
見え透いた世辞に反吐が出そうになるわ。目の前の常琢やその後ろに並ぶ会合衆たちが内心どんな気持ちでいるか想像に難くない。俺を殺せると思って嬉々としているのだろう。僅かに常琢の声が弾んでいるな。
「うむ。堺の町が降伏したからには、自治を認めた会合衆たちと親睦を深めるのも悪くはないと思ってな。忙しいのだが、お主たちの招きに応じて来てやったぞ」
俺はあくまで仕方なく来てやったのだと常琢に恩に着せるように答え、茶室は狭いので、本人の達ての希望で蒲生宗智が隣に同席し、滝川慶次郎が護衛で俺の背後に控える。
「はい。我々も左馬頭様に"少ない"矢銭で自治を認めていただいた御礼も兼ねて、茶会の場を設けさせていただきました。お忙しい中を足を運んでいただき、誠にありがとうございます」
傍から見れば和やかな雰囲気で始まったように見える茶会だろうが、この野郎、矢銭の額を"少ない"と皮肉を込めて言いやがったな。
やがて主の席で千宗易が茶を点て始めると、途端に茶室の空気が引き締まった。宗易に怪し気な所作は一切見られず、どうやら始めから茶入れの中に毒を仕込んであったのだろう。
「粗茶ですが、どうぞ」
宗易が俺の前に黒楽茶碗を静かに差し出す。ほぅ、既に"侘び茶"の様式は完成しているのか。俺は微笑を浮かべながら、あの茶聖・千利休が点てた茶碗を受け取った。そして、俺は黒楽茶碗を両手に持ち、口の前に持ってきて抹茶の香りを嗅いだところで徐に静止する。
「さ、左馬頭様。如何なさいましたか?」
露骨に動揺した様子を見せる会合衆の面々に、俺はまるで今気づいたかのような表情で口を開く。
「嫌な臭い、まるで毒のような臭いがするな。もしや茶に毒でも入れてはあるまいな?」
俺は向かいに座る常琢と宗易を鋭い眼光で睨みつける。
「め、滅相もございませぬ!」
常琢は慌てて首を横に振って否定する。演技が下手だな。一方、小心者丸出しで狼狽する常琢に対して、宗易は平然としている。こいつは相当のワルだな。
「今のお主の態度を見ると、余計に気になるな。左様に申すのならば、これを飲んでみよ。お主が飲んで、これに毒が入っていないと証明して見せよ。何事もなければ伏して謝罪し、矢銭の誓紙を破り捨てても良いぞ」
俺は真顔で茶碗を常琢の前に差し出した。常琢はガチガチと歯を小刻みに鳴らし、茶碗を前に持ってくると固まった。
「毒など入っておらぬのだろう? ならば飲めるはずだ。違うか?」 「……の、飲めませぬ」
俺は苛立ちを募らせ、肩を震わせる演技をすると、小声で呻く常琢を一喝する。
「飲め!」 「申し訳ございませぬ! この茶には毒が入っており申した」 「ふふっ、認めたか。俺に毒を飲ませようとしたのだな。常琢よ、どう落とし前をつけるつもりだ?」 「……堺の自治権を寺倉左馬頭様にお譲りいたしまする」 「ふん、論外だな。それは当然であろう? "六雄"の左馬頭の俺を殺そうとしたのだ。生きておられるとは思うなよ? それと、自分は関係ない振りをしている周りのお主たちも同罪だ。おい! こ奴らを捕えよ! 磔に処すのだ」 「なっ! それは余りにご無体な! 横暴にございますぞ!」 「横暴だと? 畠山左衛門督と同じ手口で俺を毒殺しようとした奴らが何をほざくか!」 「くっ、こうなっては仕方がない! おい、小僧! 左馬頭を殺せ!」
常琢の声で、茶室の端からまだ幼さの残る12歳前後の少年が現れると、俺に刃を向けて叫びながら突進してくる。
「なっ!!」
僅か5秒もない突然の事態に俺は反応が遅れて、身動きが取れずに固まってしまった。
「典厩殿!」
その時である。俺が避けられないことに気づき、咄嗟に庇うように俺の前に立つ影があった。蒲生宗智だ。
「うっ!」
俺を庇った宗智は、少年の匕首に右の脇腹を刺されて呻いた。
「宗智殿ぉ!!! 誰か、医者を! 近くの医者を早く呼んで来い!」 「は、はっ!」
俺はすぐに宗智に駆け寄り抱きかかえる。止め処もなく流れ出る血が掌を汚すのも気に留めずに、手拭いで脇腹を押さえて止血しながら、俺は声を張り上げると、全く反応できていなかった近習の蹊祐は慌てて部屋を飛び出していった。
宗智を刺した少年は、刺した直後に慶次郎に羽交い締めにされて大人しくなり、会合衆たちも茶室の外に控えていた家臣と素破たちに直ぐに捕らえられた。
「宗智殿、気を強く持て。もうじき医者が参るぞ」
瞑目して息も絶え絶えだった宗智は徐に目を見開くと、どこにそんな力が残っているのかと思えるような力強い声で呟く。
「齢60近くまで長生きし、典厩殿をお守りして死ぬるは本望にござる。孫の鶴千代を良しなにお頼み申す」
宗智はそう言うと、再び力尽きたように目を瞑った。一瞬まさか、と思ったが、呼吸音が聞こえて安堵すると、俺は自分の油断の所為で宗智に傷を負わせてしまったことに後悔の念で一杯で、涙が頬を濡らすのも気にも留めずに呟く。
「宗智殿、貴殿を斯様な目に遭わせてしまったのは、私の詰めが甘かった故にございまする。茶室の周りを兵が囲っているからと油断しており申した。申し訳ござらん」
俺は体を揺らしては良くないと考え、宗智の身体を横たえて安静にし、止血を続けながら医者の到着をひたすら待つと、やがて到着した医者に宗智を預けた。
「傷は内臓には達しておりませぬし、止血していただいた故、命に別状はありませぬ」
宗智を診断した医者の言葉に俺はホッと胸を撫で下ろすと、ならばと医者に声を掛ける。
「南蛮の医術では傷口を水で洗い流して綺麗な糸で縫合した方が早く治る。寺倉軍では疾うの昔から戦での腕や脚の刀傷はこの通り縫合しておる故、この傷口を縫ってもらいたい」
寺倉軍では簡単な縫合程度の外科手術は以前から行っており、失血死や破傷風など感染症による死亡率を下げる実績を上げている。医者は縫合の指示に驚きながらも、俺が「関谷の退き口」での刀傷を縫合した痕を見せると、素直に従った。宗智の方は痛みと意識が朦朧としていた所為か、5針ほど縫っている間も無反応だったが、これで一安心だと俺は安堵した。
「失礼ですが、寺倉左馬頭様は斯様な南蛮の医術を如何にしてお知りになったのでしょうか?」 「ん? これは明の書物の中で紹介されていてな。もちろん傷口を綺麗に洗うのが絶対条件だがな。腹の場合は内臓に傷が達していると、傷口を縫うだけでは治らぬ場合もあるが、今回は傷が内臓に達していない故に問題はないはずだ。案じずとも大丈夫だ」
宗智と同年代に見える医者は、武家の俺が南蛮の医術を知っていたのが疑問だったようだ。
「左様でございますか。私は曲直瀬道三と申しますが、南蛮の医術は全く存じませぬ故、人の身体を縫うなど誠に驚きました」 「おぉ、お主が高名な曲直瀬殿であったか。よくぞ堺にいてくれたな。礼を申すぞ」
彼がかの有名な曲直瀬道三か。普段は京にいるはずの道三とここで出会えたのは、不幸中の幸いだったな。
「はっ、誠に勿体ないお言葉にございます。今日は堺の商人の病の診察で参っておりました。いずれ寺倉領にも医術を学びに伺わせていただきたいと存じます」 「うむ。寺倉領の伊吹山には薬草も豊富である故、ぜひとも参るが良いぞ」 「かたじけなく存じます」
こうして俺は"医聖"こと、曲直瀬道三と知己を得た。

その後、俺は牢に入れられていた塩屋宗悦と山上宗二を解放すると、堺の自治権を召し上げた上で、宗悦を堺の代官、宗二を副代官として召し抱えた。 2人には近い将来、津守湊に堺の町ごと移転させる計画を話し、2人には堺衆をまとめ上げる役割を命じた。
翌日、会合衆たち8人は俺を暗殺しようとした罪で全員、堺の町の広場にて磔刑にされた。観衆の堺の町衆から石が投げつけられていたので、会合衆たちは町衆からもかなり恨みを買っていたようだった。
これで史実の「天下三宗匠」は全員お陀仏となり、日ノ本の茶道の歴史も大きく変わりそうだ。山上宗二は史実では豊臣秀吉に逆らって惨い殺され方をしたのだが、この世界では塩屋宗悦と並んで「天下三宗匠」として名を挙げることになるが、それはまだ先の話だ。
それと、会合衆たち8人の全財産を没収したところ、何と矢銭で回収予定だった4万貫文以上となった。さすがは堺の豪商たちだ。さらには名刀や茶器の名物も数多く手に入り、俺は思いがけない副収入に頰を綻ばせたのであった。  
10 目賀田堅綱の追憶
時は前日の曲直瀬道三の縫合が終わって、ひと段落した後に遡る。
俺は茶室から出ると、俺を襲おうとして捕縛された少年を睨みつけ、震える手を抑えながら訊ねる。
「……お主は会合衆に雇われたのか?」 「ふん、雇われたのではない。俺は父上の仇である寺倉蹊政を討とうと堺に身を潜めていたのだ!」
父の仇? 憎悪の篭ったその言葉に、俺は頭を殴られたような衝撃を受ける。自分が目の前の少年の父を亡き者にした。人死は乱世ではやむを得ぬことと割り切っていたが、こうして面と向かって仇だと言われると心が痛む。
「……お主、名は何と申す?」 「目賀田次郎左衛門尉堅綱だ」 「目賀田……。目賀田摂津守の子か」 「そうだ。俺はお前を討つためにこれまで生きてきたのだ」
堅綱の目には憎悪の炎が燃え盛っていた。
俺は5年前の「目賀田の戦い」で目賀田貞政を討ったが、確かまだ7歳で幼かった貞政の嫡男を助命して追放処分にした覚えがある。そうなると今は12歳のはずだ。12歳で父親の仇討ちか……。これ以上、堅綱と顔を合わせていると気が滅入ってしまいそうだ。俺はそれ以上言葉を交わすのは止め、植田順蔵に堅綱を牢屋に入れるように指示した。

「おじぃ〜様ぁ〜〜!!」
小姓の蒲生鶴千代の甲高い叫び声が響き渡る。鶴千代と藤堂与吉の小姓コンビはまだ11歳と幼く、屋敷では何が起こるか分からないため、屋敷の外で控えさせていた。だが、祖父の宗智が深手を負ったと聞き及んで、鶴千代が飛んできたようだ。
「鶴千代、大丈夫だ。宗智殿は死んではおらぬ。眠っているだけだ。脇腹を刺されたというのに、生きているのは僥倖と言う他ないが、何はともあれ安心するが良い」 「真にございますか? ううっ、良かった……」
鶴千代は俺の言葉に胸を撫で下ろして、涙声で言葉を返した。
「某の刀が間に合わずに宗智殿に傷を負わせてしまい、誠に申し訳ありませぬ。正吉郎様にも危険が及んでしまい、情けない限りでございます」
馬廻りの滝川慶次郎は俺を危機に晒してしまったことを悔んでいたが、俺はそれを慰めんと声を掛ける。
「構わぬ。気にするな。俺も宗智殿もこうして生きておるのだ。むしろ俺の責任だ。俺がかつて『目賀田の戦い』で目賀田貞政を討ち取り、幼い男子の命を奪わず追放処分にした。俺の甘い判断がこうして宗智殿を傷つける結果になったのだ」
俺は自嘲する。だが、宗智が死ななくて本当に良かった。もし宗智が死んでしまったら、俺は悔やんでも悔やみ切れなかっただろう。甘さは身を滅ぼす。これを教訓にしなければならないな。
「ですが……」 「いや、事実だ。今後同じことのないようにすればよい」
俺は反論しようとする慶次を制した。ここで止めないと慶次がいつまでも気に病んでしまう気がしたからだ。いつまでも陰鬱な表情をしている訳にはいかないな。いい加減に気分を入れ替えないとな。

油屋常琢の屋敷にある牢屋。ほとんど日の光も届かない薄暗い牢の中に身を置いた目賀田堅綱は、"六雄"の筆頭格、寺倉蹊政を殺そうとした罪人として囚われていた。数日中には厳しい取り調べの後、厳罰は免れない状況であったが、堅綱は未だに憎悪の炎を胸中にメラメラと燃やしながら、過去を追想していた。
(5年前の「目賀田の戦い」で母や姉たちと共に追放処分になった後すぐに、7歳で元服して目賀田家を継いだ俺は「六角六宿老」の後藤家を頼ろうと向かったが、後藤家や進藤家、平井家までもが「野洲川の戦い」で蒲生に敗れてしまった。俺は後藤家らが逃げ落ちた三雲家を頼ろうと考えたが、母上や姉上は素破たちの根城に行けば何をされるか分からないと同行するのを嫌がり、「必ず仇を討つのですよ」と申されて結局は尼寺に入ってしまわれた。あれが今生の別れになるとは、母上、姉上……くくっ)
堅綱はこの誰も見ていない真っ暗な牢屋では人目を憚らずに泣くことができた。
孤独の身となった堅綱は一人で三雲城に向かったが、三雲対馬守から「たとえ目賀田家を継いだ身であろうとも、7歳の童では戦えようもない。足手まといになるだけだ」と冷淡に告げられ、堅綱は堪らず怒って対馬守に食って掛かった。
(だが、今思えばその通りだな)
他に頼る宛てのない堅綱は、結局信楽の山奥のある寺に預けられる羽目になった。その山寺は実は素破の養成所とも言うべきところで、素破の子供20人ほどと共に学問だけでなく、憎き寺倉蹊政を討つために日々山中を駆け回り、木によじ登り、猪や熊を狩り、武術の鍛錬を積んで心身を鍛えた。
(……辛い毎日だったが、今思えば楽しい日々でもあったな)
堅綱は同年代の子供たちの顔が脳裏に浮かび、山寺での暮らしを思い出す。
しかし、3年前の「三雲城の戦い」で頼りにしていた三雲家までもが敗れてしまい、南近江は逆臣の蒲生の手に落ちてしまった。そして、半年前にはついに蒲生の兵が山寺を襲って来て、仲間たちとも散り散りになって逃げたのだ。堅綱は久しぶりに母に会いたくて尼寺を訪ねたが、尼寺は1年前に野盗に襲われて焼け跡となっており、寺の尼たちは殺されたり、捕らわれて売られてしまったと近くの村人から聞いた。殺された尼たちの遺品の中に母が大事にしていた櫛を見つけた堅綱は号泣し、尼たちの墓前で母の冥福を祈った。
堅綱は母の面影を思い浮かべ、姉がどこかで生きていると一縷の希望を抱く。
その後は、銭や食料を盗んでは食い繋いで辿り着いたこの堺の町で、商人の雑用をこなして手間賃を貰いながら糊口を凌いできた。そして天の配剤か、寺倉蹊政が堺の町に現れたと知った直後に、この屋敷の商人に高い金で「雑用がある」と言われて雇われた。その"雑用"が寺倉蹊政を殺す役目だったとは、願ってもない幸運だったというのに、父の仇も討てず母や姉の願いも果たせず、結局は死ぬ運命になってしまった。
(この5年間の苦難は、俺の人生は一体何だったのだ? 全ては寺倉蹊政の所為ではないか!)
堅綱は自分のこれまでの人生を振り返ると、こうなった全ての元凶は寺倉蹊政にあると呪った。しかし、堅綱はまだ12歳である。これまで復讐の念に突き動かされて生きてきたが、こうして囚われの身になったことで、少しずつ精神を闇に蝕まれつつあったのである。  
11 総持と堅綱の再会
俺は接収した油屋常琢の屋敷に泊まった翌朝、宗智が目を覚ましたとの報せを聞いて、宗智の部屋に駆けつけた。
「宗智殿、具合はどうだ?」 「大丈夫にございまする。ご心配をお掛けして申し訳なく存じまする。ご案じ召さりますな。どうやら悪運だけは人一倍強いようで、またもや地獄に行きそびれましてございまする」
そう言う宗智だが、かなり出血したせいか、その顔色は少し青白く、まだ本調子ではないようだ。俺はなるべく声を抑えて謝罪する。
「宗智殿、誠にすまなかった。彼の者は『目賀田の戦い』の後に、私が追放処分にした目賀田貞政の嫡男であった。私が情けを掛けて甘い判断をしたばかりに、もう少しでそなたを死なせてしまうところだった。もう二度とあのような過ちはしないと誓う。許してくれ」 「典厩殿。頭をお上げくだされ。こんな死に損ないの老いぼれの命で典厩殿の御命を救えるのならば本望にございまする。それに……」 「それに?」 「あの時、彼の者の背後に六角六宿老の一人だった目賀田忠朝の姿が見えたのでござる。実は『野良田の戦い』で忠朝を討ち取ったのは、寝返った我が蒲生軍でしてな。ですので、忠朝の姿が見えた時には、これも因果応報かと得心が行ったのでございまする」 「何と、そうであったか! 実はな、私も彼の者の背後に目賀田貞政の姿が一瞬見えた気がしたのだ。我々は彼の男の祖父と父の仇だったからな。どうやら我々は死んでも極楽には行けそうもないな」 「左様でございまするな」 「「はははっ、ははっ」」
俺が軽口を叩くと、しばらく二人で笑い合った。
「では、これ以上の長居は無用だな。宗智殿、ゆるりと養生してくれ。鶴千代、しばらくはお主が祖父殿の看護をせよ。よいな」 「はっ、かしこまりましてございまする」
俺は久々の祖父と孫の二人きりで積もる話もあるだろうと思い、鶴千代に宗智の看護を命じたのだった。

油屋常琢の屋敷にある牢屋。
会合衆が処刑された後の昼過ぎ、日の光が入らず薄暗い牢に囚われの目賀田堅綱を一人の男が訪ねた。
「次郎左衛門尉よ、久しいな。5年ぶりだが、随分と大きくなったな」 「貴殿は……三雲三郎左衛門殿か。誠に久しいな」
突然姿を現した三雲総持の顔をまじまじと見て、ようやく堅綱はその名を口にした。2人とも「六角六宿老」の一角を担った家の子供であり、観音寺城での正月の宴で総持は堅綱と顔を合わせたことがあり、旧知の間柄であった。最後は三雲城で会って以来5年ぶりで、その時の堅綱は年端も行かない7歳の子供であった。だが、5年ぶりに堅綱と再会した総持は、12歳にしては立派な体格に成長して、驚いた様子もなく、落ち着き払った堅綱を見て、「肝が太いな」と内心で驚いていた。
「驚かないのか?」 「貴殿が堺にいるのは存じていた故、さほど驚くほどのことでもないだろう。だが、なぜ斯様なところに参られたのだ?」
実は堅綱は堺の町に来てから、松永久秀に仕える総持の姿を何度か見かけていたのである。それなのに堅綱が知己である総持を頼らなかったのは、浮浪児のようなみすぼらしい恰好の堅綱が、目賀田家当主の矜持から今の姿を見せるのは憚られたためであった。
「俺は会合衆に捕虜にされたが、寺倉左馬頭様に仕えることにした」 「三郎左衛門殿、気が触れたか! よもや我らが主君・六角承禎様の仇である寺倉に仕えようとは! 恥を知れ!」
堅綱は12歳とは思えない威圧感を纏わせて、一回り年上の総持を怒鳴りつけた。
「俺は素破だ。仕えていた松永弾正少弼様が紀伊の畠山の元に逃げ延びられ、未だ存命である状況では、本来ならば素破の俺が解放されるはずなどなかった」 「ならば、何ゆえに寺倉に仕えたのだ?!」
堅綱も畠山が滅んで松永久秀が死なない限りは素破が解放されることはないのは理解できた。それだけに総持の言葉を聞いて、余計に表情が険しくなった。だが、総持は真剣な面持ちを崩そうとはしなかった。堅綱の姿が以前の自分と重なったからである。
「あぁ、分かっておる。だが、次郎左衛門尉よ、良く思い出してみよ。我ら六角家が寺倉家に対して行ったことを。それとも父君から聞かされてはおらぬのか?」 「左様な昔のこと、知るはずもないわ!」 「そうか、貴殿は童であった故、無理もないな。俺も左馬頭様に申されるまで忘れていたくらいだ。六角承禎様はな。蒲生家の家臣であった左馬頭様の父君を謀に掛けて殺したのだ。それも一陪臣にすぎない寺倉家の領地が栄えているのが"気に食わない"という理由でだ。その時の左馬頭様の心情は、貴殿ならば分かるであろう?」 「分からぬ! 貴殿のような誇りのない卑しい素破には、主家を失うことの重大さが分からぬのだ!」
六角家中において素破の身分の三雲家を差別することは御法度であった。六角家の最大版図を築き、三雲家を「六角六宿老」に重用した名君・六角定頼の命令である。故に堅綱の言葉は総持の逆鱗に触れた。
「六角江雲(定頼)様は我ら三雲家を素破だと差別せず、六角六宿老の地位にまで登用してくださった。この乱世において栄枯盛衰は珍しくもない。よいか、六角家が滅んだのも、全ては我ら家臣の力不足が原因なのだ。……寺倉左馬頭様は江雲様のように俺を素破と見下したりせず、余所者の俺を破格の待遇で召し抱えてくださった。寺倉家は今の戦乱の世を平定し、貴殿のような恨みに心を囚われた者を救うべく、泰平の世を作らんと志している。その一助として働くことこそ、冥府の父上への手向けになるはずなのだ。貴殿の父君もそれを望んでいるはずだ!」
総持は険しい顔つきで捲し立てる。その憤怒を孕んだ目つきに、堅綱は身震いし、徐に顔を伏せた。
「三郎左衛門殿、貴殿を侮辱したこと、お詫び申す。……だが、今からやり直しは効かぬ。俺は寺倉を討つためだけに生きてきた。もし赦されても何をどうすればいいのか分からぬ」
復讐の念に囚われて5年間を過ごしてきた堅綱は、目賀田家が滅んだ時点で精神の成長が止まって、精神的に未熟であった。故に堅綱の心を襲ったのは自分が何をしたらいいのか分からないという"困惑"の感情であった。
「顔つきが変わったな」
背後からの突然の声に、総持は瞠目して振り返る。そこには正吉郎が立っていた。  
12 堅綱と宗智の臣従
正吉郎の視線の先は堅綱に向いていた。
「左馬頭様、如何なる用にございまするか?」
素破である総持は、背後に正吉郎の気配を察知しており、驚くこともなく訊ねる。
「次郎左衛門尉に話があってな」
正吉郎は総持には一切目を向けず、真っ直ぐ堅綱の目を見据えていた。
「……」
既に堅綱の目から憎悪の炎は消えていたが、自分が殺そうとした父の仇に対して何を言えばいいのか戸惑っている様子で、堅綱は視線を泳がせていた。
「お主の父君を討ったのは御家を守るためだ。私は今も過ちだとは思わない。……だが、お主の父君を討ったのは事実だ。目賀田や六角に限らず、これまでの道程で私は数多の屍を越えてきた。故に、この乱世の犠牲になった者たちに報いるためにも、私はこの世に平穏をもたらす義務があるのだ。それには次郎左衛門尉、お主も含まれておる」
正吉郎は真剣な眼差しで堅綱を射抜いた。目を泳がせている原因はこれまでの堅綱自身の無礼な態度に起因している。今更それを責めるつもりなど毛頭ない。最初は無言で正吉郎の視線をチラチラと伺うだけだった堅綱も、一向に目を逸らそうとしない正吉郎から逃げられないと察し、恐る恐るといった様子で言葉を紡ぎ出した。
「私も、にございまするか?」 「ああ。この乱世を収め、皆が笑顔に溢れる世を作ることが、我が願いであり、使命なのだ」
そう言って、これまでの険しい顔つきは何処へやら、正吉郎は突如として破顔し、満面の笑みを浮かべた。
堅綱は再び困惑の色を浮かべるが、正吉郎の笑顔に一点の曇りもないことを感じ取るや否や、緩やかに口角を上げ、静かに瞑目した。
正吉郎は続ける。
「だが、私を殺そうとしたお主を私の家臣として召し抱えることはできぬ故、我が弟・北畠伊勢守に仕えよ。これからは生まれ変わって北畠家への忠義に生きるのだ」
正吉郎は堅綱の目をジッと見据えて告げる。
(堅綱はまだ12歳の子供だ。甘い処分は身を滅ぼすと身を以って実感したばかりだが、堅綱が本当に改心したのであれば、打ち首にするのはさすがに忍びない)
「俺を……、左馬頭様を殺そうとした私を赦してくださると仰るのですか?」
改心したといっても正吉郎のことを手にかけようとしたのだ。このまま処刑されて生を終えると思い込んでいた中で舞い込んだ生きる道に、堅綱は驚愕する。
「父君の復讐の念から解き放たれたのならば、お主を赦そう。無論、しばらくは目付役を付けるがな。それも働き次第で無くなるであろう。全てはお主次第だ。良いか?」 「ははっ、誠にかたじけなく存じまする。う、ううっ」
顔を上げた堅綱の両頰は、流れ落ちる涙で濡れていた。主家を失くし、父を失くしてからずっと長い間緊張の糸を張り巡らせていたのだろう。一度流れ出した涙は止まることを知らなかった。
「それと、三郎左衛門」
正吉郎はここで初めて総持に目を向ける。
「はっ!」 「お主の忠義は天晴れだ。六角の元家臣であり、松永弾正に仕えていたお主であるが、先ほどのお主の言葉には嘘偽りはないと分かった」 「誠に勿体なきお言葉にございまする」
総持は深々と頭を下げた。
「お主の忠義に報いるため私の偏諱を授けよう。"蹊政"の"政"の字を与える故、これからは"政持"と名乗るがよい」 「えっ? ですが、何の実績もない私に偏諱とは畏れ多いことに存じまする」 「実績ならば、たった今、次郎左衛門尉を改心させ、命を救ったではないか?」
正吉郎は総持を見据えると、少し語気を強めて告げる。
「ははっ、誠にかたじけなく存じまする。では、謹んで偏諱を頂戴し、これより三雲三郎左衛門"政持"と名乗らせていただきまする」
総持改め、"政持"は感激して堅綱と同じように涙を頰に這わせた。
「うむ。二人とも、これからの働きを期待しておるぞ」 「「ははっ!」」
こうして、目賀田堅綱は北畠家の家臣として召し抱えられることとなった。家臣たちからは少なからず懸念する声は出たが、正吉郎が説き伏せたのと寺倉家の直臣ではないことから渋々認めさせた。
一方、正吉郎から偏諱を受けた三雲政持は、その後、甲賀衆の筆頭として台頭し、「寺倉十六将星」最後の一人として名を連ねることになる。

俺は今回の暗殺未遂事件を機に、改めて心を入れ替えた。敵に対する中途半端な温情は自らの首を絞めることになる。今回だって宗智が庇ってくれなければ死んでいたかもしれない。俺が死ねばどうなる? 六家同盟は崩壊までは行かずとも、同盟を主導した俺が死ねば、その結束が弱まるのは火を見るより明らかだ。
俺は療養中の宗智と長い時間、腹を割って話をした。宗智は俺に心配を掛けまいと、体調は何ら問題ないと気丈な態度を示していたが、宗智も歳だ。心身共に大きなダメージを負ったに違いない。俺は宗智と今後の展望について時間を掛けてじっくりと話し合った。
宗智もこれまでは俺を元家臣だと見ており、どこか引け目のようなものを感じていたのだろう。かつては寺倉家が蒲生家に仕えていたのだ。蒲生家の先代当主として俺を主君として仰ぐことなどできないと、矜持が許さなかったのも理解できる。だからこそ俺は宗智を家臣としてではなく、一先ずは客分の相談役として受け入れていたのだ。
だが、宗智は療養の床の中で考える時間が十分にあったのだろう。完全に割り切ったようだ。蒲生家は忠秀が寺倉家と"対等な盟友"として確固としてある。老いぼれの身でいつまでもつまらない矜持に囚われている訳にも行かない。そんな考えが頑なだった宗智の心を変えたようだ。
そして、負傷してから10日後の11月末の朝、ようやく床から出た宗智は徐に平伏して、俺に臣下の礼を取った。
「寺倉典厩様、この蒲生快幹軒宗智はこれより寺倉家の家臣として典厩様にお仕えしたく存じまする」 「宗智殿、本当に良いのか? これまでどおり客分のままでも構わぬのだぞ?」 「はい。ようやく自分の中でけじめが付き申しました。これからは家臣として如何様にでもお使いくだされ」 「左様か。相談役という役目は変えるつもりはない故、これからも傍で私を支えてくれ」
こうして、蒲生宗智は客分としてではなく、主従関係で結ばれた家臣となった。宗智との間に主従の絆を得た俺は、これで後は岸和田城を攻略して和泉国を平定するだけだと、次なる目標を見据えていた。
だが、そんな俺のところへ植田順蔵から凶報がもたらされる。
「正吉郎様! 伊勢長島と西三河で一向一揆が起こりましてございまする!」 「何だと! くそっ、顕如の野郎、よくもやりやがったな! 重臣たちを集めよ。すぐに軍議を行うぞ!」
俺は高笑いする坊主どもの姿を思い描きながら、北の石山本願寺の方角を睨みつけたのだった。  
 
宝蔵院流槍術 1

 

奈良の興福寺の僧宝蔵院覚禅房胤栄(1521 - 1607)が創始した十文字槍を使った槍術である。薙刀術も伝承していた。 初代宝蔵院覚禅房胤栄、2代目胤舜、3代目胤清、4代目胤風。
初代胤栄は、柳生とも親交があったと云われる。また、福島正則の家臣で勇猛な武将として知られる笹の才蔵こと可児吉長が、初代胤栄に教えを請うた、とも云われる。 山縣有朋は、宝蔵院流槍術の達人。
現在はほとんどの形などが失伝しており、宝蔵院流高田派の江戸に伝えられた系統のみが現存している。だが、この系統も全伝は現存せず、辛うじて残っていた「槍合わせの形」のみが伝えられ、薙刀術の形などは失伝している。
宝蔵院流槍術の分派
胤栄┬宝蔵院流中村派─宝蔵院流高田派
├宝蔵院流松崎派─加来流
├姉川流
├法蔵院流(宝蔵院流長谷川派)
└胤舜─宝蔵院流礒野派─宝蔵院流下石派─宝蔵院流旅川派
宝蔵院流槍術の登場する作品
宮本武蔵を主役とする作品において、武蔵の決闘の相手として胤舜や高田吉次が登場することが多い。小説では『魔界転生』、漫画では『バガボンド』『ゴクウ』がある。シグルイでは徳川家の槍術指南として宝蔵院流槍術を習得した人物が登場する。「忠臣蔵」(赤穂事件)にからんだ架空の人物である俵星玄蕃は、宝蔵院流の天下無双の槍の名人であるとされる。このことは、三波春夫の名曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃」の前口上でも紹介されている。 
司馬遼太郎の短編集『新選組血風録』の「槍は宝蔵院流」では、新選組七番組組長の谷三十郎が宝蔵院流槍術の使い手として登場している。
『赤胴鈴之助』には宝蔵院流槍術の使い手、岳林坊が登場する。  
 
宝蔵院流槍術 2

 

1 宝蔵院流槍術と私
宝蔵院流高田派槍術 第二十世宗家 鍵田忠兵衛
ご縁を得て、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)について述べさせて頂くことになりました。
宝蔵院流槍術は、柳生新陰流剣術とともに奈良が発祥の古武道であります。その流祖は奈良・興福寺の子院・宝蔵院に住む覚禅房胤栄(かくぜんぼういんえい)といい、およそ450年前、猿沢池に浮かぶ三日月を突き鎌槍(かまやり)の技を工夫し、宝蔵院流を創めたと伝えられています。
宝蔵院流の槍は、通常の真っ直ぐな素槍(すやり)に対し、鎌槍と呼ばれる十文字形の槍先に特徴があり、この鎌槍を活かして、突くばかりでなく、巻き落とす、切り落とす、打ち落とす、摺り込むなど、攻撃と防御に優れ、やがて全国を風靡し、「突けば槍 薙(な)げば薙刀(なぎなた) 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」と詠われ、日本を代表する最大の槍術流派へと発展いたしました。
宝蔵院流槍術は、吉川英治の小説「宮本武蔵」や漫画「バガボンド」、さらに平成15年放映のNHK大河ドラマ「武蔵」にも登場し、一般の方々にもその名はよく知られています。 現在では私が第二十世宗家を継承し、約100名の伝習者が、奈良市中央武道場や、東大阪市、名古屋市、ドイツ・ハンブルグの各道場において稽古に励んでおります。
古武道は、型(形)の稽古が基本であり、この型稽古のお陰で400年以上も前の武道技術が現在にも伝えられている訳であります。ヨーロッパにも古来よりフェンシングや槍術の技術がありました。しかし、勝敗を主眼とするスポーツと化したため、人々は試合に勝つことに注力し、結局、古来の技術が消滅してしまいました。日本では古武道各流派がそれぞれ、先人が創始し磨き上げた技術の型稽古を繰り返すことにより体得継承して参りました。生身の人間が技術を受け継ぎ、それを次代に伝えることは容易なことではありません。一旦、途切れると復活は不可能でありますが、しかし、それがまた武道修行の醍醐味であり、修行者の励みでもあります。
2 槍と矛
槍と矛の違いは何か。イメージとしては矛は先端が丸みを帯びた鈍角が多いのに対し、槍は刃が直線的で先端が鋭角である、と言うことができますが、定義が曖昧で実ははっきりしておりません。
江戸時代の学者・新井白石(1657〜1725)も槍と矛について研究しており、彼の著作「東雅(とうが)」において考察がなされ、「天智天皇の中大兄と申まいらせし時に、入鹿の臣を斬り給ひしに、自ら長槍を執り給いし」との記述があるものの、槍と鉾に明確な区分がないことを記しています。私も同一物が上代にはホコ、南北朝時代以降にヤリと称するのが一般的であったと解するのが適当ではないかと考えております。
原始の時代から、狩猟や戦いの道具として木や竹の先端を尖らせ使用していたと想像されます。さらに、石器時代には骨や石などで鏃(やじり)を作り、長棒の先端にとりつけ使用していました。
古事記に伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二神が天浮橋(あめのうきはし)から「天沼矛(あめのぬぼこ)」を指し下ろし、とあるように、古墳時代から奈良時代にかけては矛の使用が見られます。その後はなぜか矛の使用は廃れ、平安時代末期から鎌倉時代頃は、長柄の武器としては薙刀・長刀(なぎなた)が多く使われていました。現代武道の「なぎなた」では女性が多く使用していますが、武蔵坊弁慶が京の五条大橋において薙刀で牛若丸に挑んだと伝えられるように、当時は男性が使用する武器でありました。
しかし、鎌倉時代後期に襲来した元寇(げんこう)で元軍が使用した長いヤリに触発され、有用性が認識されたのでしょうか、徐々にその活用が日本でも広まりました。
「ヤリ」の文字が最初に使用されている文献は「曽我氏文書」元弘4(1334)年です。「矢木弥二郎 以矢利(ヤリをもって)被胸突(むねつかれ)半死半生了正月八日」とあり、文献上では矢木弥二郎がヤリによる日本で最初の被害者ということになります。
南北朝時代になると、菊池武重が竹の先に短刀を縛り付けた槍によって、千名の兵で足利三千名の軍を敗走させたという箱根・竹ノ下の戦い(1335)での菊池千本槍の活躍が有名です。
また、戦国時代の戦ではまず鉄砲、そして弓を撃ち合い、続いて長槍を並べた槍衾(やりぶすま)による集団戦など、槍の特色を活かした戦法が採用されるようになりました。槍は、突くばかりでなく振り上げ打ち叩くことも可能で、訓練未熟な雑兵(ぞうひょう)においても相当の威力があったようです。
その後も槍は、羽柴秀吉が柴田勝家に勝利した賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(1583)における七本槍の活躍に見られるように、戦場武器の花形として活躍しています。
因みに、私共の宝蔵院流槍術はこの戦国時代末期頃に創始されました。
さらに江戸時代になり世の中が平和になると、槍は大名行列の先頭を飾り、また城門や関所の警護用など儀仗としても用いられるようになりました。
3 槍の種類
素槍(すやり):
通常よく見られる、その名のとおり槍穂が真っ直ぐな槍です。古い時代には素槍しかなく、素槍という呼称はなかったはずです。戦国時代に入って鎌槍や鍵槍が現れ、初めて素槍という呼称が使われるようになりました。
鎌槍(かまやり):
穂に鎌(横刃)の出ている槍です。素槍の槍穂に鎌を附けることによって、掛け切り、攻撃を防ぎ止め、巻落とすなどの利点を加えた槍です。鎌の形や長さ・角度などが様々に工夫され、戦国時代末期になると、鎌槍は武将の持料として脚光を浴び、加藤清正の片鎌槍、片桐且元の手違い十文字、森長可の大十文字などが今日にも伝わっています。また武術としても鎌槍の術が発達しました。はじめは独立の流儀になりませんでしたが、やがて桃山時代に宝蔵院胤栄の十文字鎌の術が一流として成立し、さらに優れた後継者によってますます洗練されました。鎌槍の柄の長さは素槍に比べ短いのが通例です。一つには素槍よりも身が重いこともありますが、それよりも鎌を利して敵の手元に入りやすく、また引落とす、巻落とす等の操作のためにある程度短い方が使いやすいのです。
十文字槍(じゅうもんじやり):
鎌槍の一種で、穂の両側に等長の鎌が附く槍を両鎌槍といい、槍穂が十文字型のためこの名が付いています。私共の宝蔵院流が使用する槍はこの槍です。突くばかりでなく、切り落とす、巻き落とす、摺り込む、など多用に使えます。
片鎌槍:
これも鎌槍の一種で、十文字槍の片鎌がない槍です。
鍵槍(かぎやり):
槍にカギと呼ばれる金具を固着し、これで敵の武器を押さえ、掛け落とすなどが出来るように作られた槍です。このカギ金具の多くが鈎(かぎ:L)形をしているのでこのように呼ばれています。
管槍(くだやり):
素槍の柄に一握りほどの長さの緩い管を通した槍です。その管を左手で握り、右手で槍柄を執って突き引きをすれば、槍は抵抗の少ない管の中を走り、軽快に使用できます。中国にも西洋にも管槍は見当たらず、日本独自の槍ということが出来ます。
大身槍(おおみやり):
際立って長い身(槍穂)を附けた槍をいいます。拵え(こしらえ)によって素槍も鎌槍もあります。槍は通常、四五寸から六七寸(12〜21p)もあれば突刺には充分とされました。ところが一尺、二尺、希には四尺(30〜120p)以上にも及ぶ槍があり、これを大身槍といいます。
長柄槍:
文字通り長い柄の槍をいいますが、長柄槍は単に長槍ではなく、槍足軽など歩卒に持たせ、集団の力で戦闘をさせるための特に長い槍を指します。特徴は普通の槍より長い、主家が用意し槍組の卒に配り持たせる揃いの槍、そして集団組織の指揮の下に使用する槍です。長柄槍は二間半から三間半(4.5〜6.4b)程度の長さがありました。戦乱の世では集団の戦術としては相当の効果がありました。江戸時代に入って平和になっても儀仗としても使用されました。長柄の槍がずらりと並ぶと壮観だったでしょうね。
4 中世の興福寺
中世(平安時代後期から鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代まで頃)は、平安時代の王朝国家体制から、武家による支配に変化したことが特徴であり、また守護(しゅご)・地頭(じとう)など各地の実力者の台頭による荘園制度崩壊過程の時代であるということができます。
また一方で、平安時代末期から、延暦寺、興福寺などの大寺社は僧兵を抱えて独自の武力を備えるようになりました。興福寺は春日大社の「神威(しんい)」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行ない、それが通らない時は、神木を御所の門前に放置し、政治機能を停止させるなどの強訴(ごうそ)を度々行使しました。延暦寺と興福寺を合わせて「南都北嶺」(なんとほくれい)と称され、白河法皇も「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と、延暦寺の強訴を嘆くほどに恐れられていました。
中世の興福寺は、大和一国の荘園のほとんどを領し、その経済力を背景に、最盛期には百を越す院家や坊舎があり、3000から5000人の僧がいたと伝えられています。そして院坊の多くは一乗院あるいは大乗院の配下に入っていました。私共の宝蔵院も興福寺子院の一つで大乗院系に属していました。
平安時代には、大和国の国司(こくし)の権限は事実上興福寺に委任され、この権限を一乗院と大乗院が分掌していました。両院家が興福寺の頂点に立つことが出来たのは、興福寺が藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であったこと。さらに、藤原家に繋がる摂関家(せっかんけ:摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)に任ぜられる家柄)の子弟が入室する院家であったからです。
鎌倉時代に入って各地に地頭が、また、室町時代には守護が幕府によって配置されても、大和国は変わらず興福寺が支配していました。大和国は幕府の力が及ばない、全国にも例がない特異な地域でありました。それほどに興福寺の力が絶大であったということであります。
こうして、興福寺は一乗院と大乗院が並び立ち、互いに覇を競い、時には協力しあって共闘し、衆徒(しゅと)と呼ばれる武装僧が大和国内の荘園やその領民を守るために活躍していたのです。こうした社会情勢が宝蔵院胤栄をして、鎌槍の利点に着目し独自の操作技術を発明確立し、興福寺寺内において流儀の創始に至らせたのではないかと思料します。
一方で興福寺は、衆徒・神人(しんじん)とよばれる俗人を多数配下におき、広大な荘園からの利益によって人材と文化を育成して、経済・学問・工芸活動などが盛んとなり、文化芸術の発展に大きく寄与しました。能、
茶道、華道、醸造技術、武術など、今日、日本の伝統文化と呼ばれている多くは、この中世の奈良が源流であると申しても過言ではありません。
奈良と言えば平城京、1300年前まで遡ってしまいますが、こうした中世の奈良文化についても、もっと光を当てねばならないのではないかと常々考えております。
5 宝蔵院覚禅房法印胤栄(ほうぞういん かくぜんぼう ほういん いんえい)
宝蔵院流槍術の流祖・胤栄は、大永元年(1521)、興福寺の衆徒(しゅと)、中御門(なかみかど)但馬胤栄の次子として生まれました。中御門氏は天武天皇の第四皇子舎人親王の後裔で、坂口氏と称していました。その祖坂口武蔵宣胤は、大剛勇猛、常に武術を好み、世人は荒武蔵とよんで恐れられていました。元弘元年(1331)元弘の変に後醍醐天皇に味方して、笠置城で抜群の功をあげ、天皇より御剣一振と中御門の家号を賜りました。
以来、六代胤定は、木津の鹿背山(かせやま)城に居住し、城洲岡田郡加茂庄山上城主満田(みつだ)左衛門尉英幸の女を娶(めと)りました。ここに後日、宝蔵院流継承に重要な役割を担う満田家との密接な関係が生じたのです。その子が七代胤永。胤永は南都草小路に屋敷を持ち、次子胤栄を宝蔵院に送りこんでその作外(いえもと・家元)となったのです。
胤栄は幼少の頃から僧兵以来の伝統的武術である長刀(薙刀)・長巻など長道具の繰法に習熟したと考えられます。そこへある日、回国修行の兵法者・成田大膳太夫忠盛が現れました。春日大明神所務の清僧、大西木春見(おおにしきしゅんけん)ともいわれる神道(しんとう・新当)流の達人です。神道流は剣法・長刀・槍法など総合的兵法でありましたが、忠盛は長刀・槍を得意とし、これが胤栄の眼を開かせ、十文字槍に奇妙のあることを思い出し創始させたのでした。胤栄33歳、天文22年(1553)正月12日の払暁、摩利支天の化身である成田大膳太夫忠盛から二箇の奥儀を授けられたと伝えております。
さらに永禄六年(1563)、新陰流上泉伊勢守信綱の一行を奈良に向かえ、知友柳生宗厳とともに弟子入りし、永禄八年の春、再び柳生を訪れた信綱を引き留めて教授を受け、宗厳は一国一人の印可を、胤栄は九箇までの指南を許されました。
宝蔵院流槍術には神道流と新陰流を下地として構成されていると考えております。こうして大成された宝蔵院流槍術でありましたが、天正13年(1585)、羽柴秀長が郡山城に入り、国中の寺社・国衆に対し、差出を命じ、同時に比叡山末寺の多武峰に対しては、一切の武器の提出を命じました。これらは寺門に対する圧力ともなり、武術稽古を差し控えねばならない世となったのです。
慶長元年(1596)、胤栄75歳は法印に叙せられました。ここへ金春太夫安照から子息七郎氏勝に伝授願いたいとの申し出を受けます。家康にも影響力のあった能・金春家からの熱望に、75歳の胤栄は再び手練の槍を執り、槍術稽古が始まりました。このころから胤栄のもとには門人も増え、「その法を伝える者、群を作し、隊を作し」であったと伝えられています。
慶長11年(1606)4月19日、柳生石舟斉はこの世を去り、翌12年(1607)8月26日、胤栄87歳にて遷化しました。日本を代表する剣と槍の巨星が相次いで奈良からこの世を去ってしまいました。胤栄とその一門の墓は奈良市白毫寺町にあり、今なお大切にお祀りいたしております。
6 柳生と宝蔵院
柳生は、京に36q、奈良に10数q、東に伊賀国がひかえ、各地の豪族達の情報を得るにも容易で、また豊かな水による肥沃な土地柄です。また、奈良から柳生、伊賀にかけては、柳生一族、槍の宝蔵院胤栄、高田又兵衛、薙刀・槍の棒庵、剣の荒木又右衛門、弓の日置弾正正次、忍法の伊賀流など多くの武芸者を育んできた地でもあります。
柳生は大化の改新(645)において、大和国に六つの県(あがた)の一つとして曽布(そふ)がおかれ、その中に楊生(やぎゅう)がありました。その後、楊生は藤原氏の荘園として経営されましたが、関白藤原頼通が藤原氏の氏神春日神社の社領として寄進されました。この社領を管理する豪族達のうち柳生家が頭角を現し戦乱の世を生き抜いてきました。柳生宗厳(むねよし)は、家厳(いえよし)の子息として享禄2年(1529)柳生庄に生まれました。宗厳は戦乱の世にあって武芸の研鑽に励み、畿内随一と目されるほどの青年に成長しました。
一方、上泉伊勢守秀綱の先祖は代々上野国勢田郡大胡の城主でしたが、北条氏康に攻められた後、上杉謙信に所属していましたが武田信玄に攻められ箕輪城落城とともに落ち延び、後武田軍に編入された、と伝えられています。信玄は、秀綱の非凡を惜しみましたが、愛州移香伝の陰流に神道(新当)流をあわせて工夫考案した新陰流の研究と弘法のため、武田家への仕官を辞し、数人の門弟と諸国遍歴の旅に出ます。
まず、伊勢の国司北畠具教(とものり)を訪ねました。具教は塚原卜伝高幹(たかもと)から新当流秘太刀を伝授された名手です。この時具教は秀綱に、刀槍術で実力五畿内随一といわれる柳生新左衛門宗厳、南都興福寺に宝蔵院覚禅房胤栄という槍術の逸材がいることを語ります。早速、永禄6年(1563)、秀綱一行は宝蔵院に入りました。秀綱56歳、宗厳35歳、胤栄43歳いずれも兵法家として最も技能の成熟した年齢でした。胤栄と宗厳は武を通して互いに親交があったものと思われます。胤栄は宗厳を宝蔵院に呼び寄せました。宝蔵院道場で、宗厳は秀綱に3日間3度の試合に完敗し、胤栄と共に入門します。以来宗厳は研鑽を積み、永禄8年4月、再び柳生を訪れた秀綱に与えられた考案「無刀取り」を示し、秀綱は宗巌に「新陰流兵法二世の正統」を継がせました。続いて八月には胤栄にも印可状が授与されました。宗厳は厳しい修行によって上泉新陰の総てを吸収し、これを基にさらに長い年月をかけて柳生新陰流を大成させます。一方、胤栄は秀綱の思想を基盤に宝蔵院流槍術を創始しました。
文禄2年(1593)、宗厳は剃髪して但馬入道石舟斉宗厳(たじまにゅうどう せきしゅうさい そうごん)と称しました。宗厳が徳川家康に初めて会ったのは、文禄3年(1594)、家康53歳、宗厳66歳でした。宗厳の兵法の卓抜さに深く感動した家康は、誓詞をいれ宗厳に勤仕を命じましたが、高齢のためその任に堪えないとして同行の五男又右衛門(24歳・後の但馬守宗矩)を推挙し、自らは慶長11年(1606)4月19日78歳、柳生庄で生を閉じたのでした。
7 武蔵と宝蔵院
宝蔵院流槍術は、江戸時代を通じて最大の槍術流派でありましたが、近世、一般の人達にその名が知られるようになったのは、やはり吉川英治の著「宮本武蔵」のお陰でしょう。
では、実際の武蔵はどうだったでしょう。慶長9年 (1604)21歳で、京都の蓮台野・一乗寺下り松・三十三間堂にて吉岡一門を破った武蔵はその足で奈良・宝蔵院にやってきます。この時、胤栄は84歳、胤舜16歳。初代は高齢、二代は若年であったためか、武蔵の相手は奥蔵院道栄がつとめ、この時の様子が「二天記」に記されています。
「二天記(にてんき)」は、武蔵の死(正保2年(1645)62歳)後、寶暦5年(1765)に弟子によって纏められた武蔵の伝記です。これによると、「僧鑓を以て立ち向ふ、武蔵は短き木刀を持て立会ひ、両度勝負をなすに僧利なし、以て武蔵が技術を感賞して、院に停め饗応あり、その夜談和(話)するに、已(すで)に曙(あけ)なんとす、武蔵去りぬ」つまり、二度試合をしたが両度とも宝蔵院が負けたとあります。私は武蔵の死100年後の弟子が記しているこの勝敗については重要視しておりません。ここで着目しますのは、試合後に互いに相手を認め合い、飲食を共にし、武術や人生について夜を徹して語り明かした、というくだりです。これまでの武蔵は、相手を叩きのめし、逃げるようにその場を立ち去る野獣のような行動が常でした。晩年の武蔵が著す品格の高い著述や書画に見られるように、武蔵における人生の転機が奈良・宝蔵院であったということが出来るのです。こうしたご縁から、武蔵創始の「二天一流(にてんいちりゅう)」ご宗家一門とは、今日においても交誼いただいております。歴史に繋がる400年の交流とは誠に愉快であります。
武蔵はその後、豊前小倉で宝蔵院流と試合をしています。これを故・松原英世氏(郷土史家)がその著「高田又兵衛」において詳しく紹介しておられます。
(宝蔵院流高田派槍術祖・高田又兵衛は、)武蔵とはただ一度仕合いをしたことがある。寛永9年(1632)、小笠原忠真が豊前小倉へ転封のとき、武蔵、伊織、又兵衝ともども同行しているので、小倉でのことである。小笠原忠真が武蔵、又兵衝の両名を呼び寄せて仕合いをするよう命じた。一度は拝辞したが忠真はあきらめず、やむなく又兵衛は竹製の十文字槍、武蔵は木刀を手にして立ち合う。この頃の武蔵は二刀を遣わず一刀であった。中段に構える武蔵に向かって又兵衛の槍が鋭く突き出された。二度目まで躱(かわ)したものの、第三の突きがやや流れるようになり、武蔵の股間へ入ってしまう。武蔵は即座に、「さすが又兵衛殿、それがしの負けでござる」それをさえぎるように又兵衛が、「本日は御前ゆえ、それがしに勝ちを譲ってくださったのであろう」と謙遜する。一説には、この仕合いは一進一退、形勢いずれが有利かと見る間に、突然又兵衝が槍を投げ出して「参った」という。不審顔の藩主忠真に対し、「槍は長く、剣は短い。長いものに七分の利があるにもかかわらず三合しても勝てなかった。したがって長い得物(えもの)を持って戦った私の負けでございます」と説明。忠真は両者の技量に大いに満足したという。
8 宝蔵院流槍術の系譜
宝蔵院流槍術は、胤栄が創始したことは五月号で述べました。そして、日本を代表する最大の槍術流派へと発展いたしました。これは、胤栄創始の鎌槍操法術理が優れていたことはいうまでもありませんが、それに加え宝蔵院には代々優れた門人が多く集まり、胤栄創始の技術をさらに体系化し継承発展させ、全国に波及されたのでした。
二世は禅栄房胤舜(いんしゅん)です。胤舜は胤栄の甥にあたり、天正17年(1589)に生まれ、慶長7年(1602)14歳で得度し法師になりました。このとき胤栄はすでに80歳を越えていました。胤舜に槍術を手引きしたのが胤栄の直弟子で、宝蔵院近くにあった奥蔵院の老僧であったといわれています。胤舜は体系が不整備であった伝授の体系を流儀としての体裁を整え確立しました。胤舜には優れた門人が多く集まり互いの技術の向上を競いました。なかでも中川半入、柴田加右衛門、高田又兵衛、長谷川内蔵助、磯野主馬、田中勘兵衛の六人を六天狗とよばれていました。
三世は覚舜房胤清、四世覚山房胤風、五世乗織房胤憲、六世覚乗房胤懐と続きます。こうした南都に伝わる鎌宝蔵院以外に、多くの門流がその門人達によって成立し、発展しました。
中村派 
流祖胤栄の一の弟子といわれる中村市右衛門直政(尚政1577〜1652)。14歳で胤栄の弟子となり、慶長10年(1605)29歳で印可を授けられました。後に直政は越前・福井藩に仕官し、代々伝えられていました。
高田派
私共が稽古する宝蔵院流高田派槍術の祖です。高田又兵衛吉次(1589〜1671)は伊賀国阿拝郡白樫村の郷士高田喜右衛門の長男に生まれ、慶長8年(1603)14歳で中村市右衛門直政に入門し、慶長20年(1615)に六十三か条の相伝目録を授けられました。寛永14年(1637)10月、島原の乱が勃発すると、小笠原忠真の招きに応じて小倉に赴きます。翌15年2月の原城攻めには、槍手一隊を率いて本丸を陥れ、その功によって700石を賜りました。慶長4年(1651)4月11日、病床にあった将軍家光への病中御慰みのため、長男斎(いつき)、弟子和光寺七兵衛とともに奥義上覧にに供しました。「又兵衛、技を演ずるにおよんでは疾風雷の如く、声、殿中に震う。一同その技の精妙敏捷に感激、家光公も病を忘れ・・」と伝えられています。そして10日後の4月20日、将軍家光はこの世を去ったのです。又兵衛には4人の男子がありましたが、三男吉通・四男吉全が小倉に留まり、吉通が相続して又兵衛を称しました。寛文11年(1671)正月23日、吉次宗伯は82歳で没し、小倉の峯高寺に葬られました。吉次にも久世大和守広之、森平三清政綱、河辺弥右衛門盛連、不破慶賀など傑出した門人が集まり、門人達の活躍によって江戸を始め諸藩に大きく広がる基礎を築いたのです。
このほか、磯野派、下石(おろし)派が伝えられ、さらに地方では、姉川流、上田流、会津藩高田派、地位(ちい)流、尽心(いんしん)流、長尾派、伊能派、篠田派、吉田派、など全国に本流、支流、傍流が伝えられ広がったのでした。
9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り
宝蔵院流槍術と鍵田家は不思議なご縁をいただいております。昭和33年(1958)、亡父忠三郎は、奈良の東山、高円山に日本で最初の有料道路を開設しました。その進入路として白毫寺墓地の横に新たな道路を敷設し、その道路わきに宝蔵院覚禅房胤栄師と一門の墓地を発見したのがご縁のはじまりでした。
以来、父はこのお墓を守り大切にお祀りしておりました。ある夜、父の夢に紫の衣を着た僧が現れ、父に向かって無言で強い念を送ってきました。金縛りのように動けなくなった父は「エーイ」と大きな気合いで跳ね起き、目を覚ましました。丁度その日は胤栄師墓参の日で、今にも雨が降り出しそうな暗い墓前で拝んでいると、再びその僧が眼前に現れたため、この僧こそが宝蔵院胤栄師であると確信したのでした。父は、胤栄師が何かの使命を託するために夢に出現されたのではないかと考えておりました。
そして昭和48年(1973)、父は奈良市長として市政の発展に心血をそそぎ、当時の自治体としては最大の四百畳敷きの奈良市中央武道場を建設しておりました。ここへ全日本剣道連盟会長(元最高裁判所長官)石田和外先生をお招きし、建設中の道場をご視察頂きました。槍の稽古も出来る広い規模に道場を建設しているとの説明に関心を示された石田先生は、父の案内で宝蔵院胤栄師墓前にお参りし、般若心経を捧げ終わった時「実は宝蔵院流高田派の型を少々たしなんでおります」と謙虚に申されたのです。石田先生こそが宝蔵院流槍術の継承者であったのです。驚いた父は昭和49年(1974)9月28日、奈良市中央武道場の竣工式においての模範演武をお願いし、石田和外先生により宝蔵院流高田派槍合せの型を、坂西太郎先生、山崎卓先生と共にご披露いただいたのです。
あまりに立派な槍の演武に感銘を受けた父は、是非この槍を里帰りし奈良に伝えてほしい、奈良に返して下さいと懇願しました。その熱意を受けて、石田先生に快く応諾頂き、槍術指導のために東京に剣士を受け入れ、その後も度々先生にご来県頂き、熱心にご指導をいただきました。お陰をもって昭和51年(1976)2月、宝蔵院流高田派槍術第十八世石田和外先生より、剣道範土八段西川源内先生に対しての伝授式が、奈良市中央武道場において挙行されました。明治の廃仏毀釈で一度は奈良から廃絶した宝蔵院流槍術が百年ぶりによみがえり、再び発祥地奈良に根付き、槍術稽古をはじめることが出来たのです。 
しかし、昭和54年(1979)5月、石田先生は惜しくも急逝されました。今思えば、あの時、石田先生が奈良へのお越しがなかったなら、父が胤栄師墓前への案内がなかったなら、宝蔵院流槍術は永久にこの世から消えていたところでした。歴史の幸運に感謝いたしております。
そして、その後も私どもは奈良においてさらに研鑽に励み、平成3年(1991)6月に西川源内先生より第二十世宗家を小生が継承させて頂き今日に至っております。
10 宝蔵院流槍術の技術
宝蔵院流槍術の特徴は、通常の素槍と異なり、鎌槍と呼ばれる穂先が十文字型の穂先に特徴であることは三月号で述べました。この十文字型の槍穂を活用して突くばかりでなく、切り落とす、巻き落とす、摺り込む、など多面的に使用することができ、その有効性が認められ、日本最大の槍術流派に発展しました。今回はその技術を具体的に述べることにしましょう。
私は常々、槍は頭で覚えるな、体で覚えろ、と伝習生に申しております。それほどに体で体得しないと槍術の技術は身に付かないものだと考えております。これを、文字のみでお伝えするのは至難でありますが、説明させて頂きます。
先ず、「構え」です。敵に対して左肩を前に横を向き、両足を約一bほどに開きます。従って体は敵に対し腰も肩も横を向いています。右手は槍の末(石突・いしづき)を握り、左手を約一bほどに開いて水平に槍を持ちます。そして腰は相撲の四股の姿勢のように低く構え、背筋は真っ直ぐに立てます。顔を左肩に顎を乗せるように九十度頭を左に回し、敵に対します。初心者がこの姿勢をとると非常に苦しく、足腰がパンパンに痛みます。しかし慣れてくると、この構えが長く重い槍を操作するには最適であることが解ってきます。
次に「歩行」です。継足(つぎあし)と歩足(あゆみあし)があります。
継足とは左足を敵に向かって十p前に進めると、右足も十p前に進めます。これを繰り返して前に進みます。退がる場合はこの逆です。
歩足は、右足を左爪先の左前に交差し、続いて左足を約一bほど左に開きます。これを繰り返して前に進み、退がる場合は、左爪先を右足踵の右に交差させ、続いて右足を右に開き、これを繰り返して退がります。ここで大切なことは、腰の高さを一定にし、また腰を振らないことが肝要です。
次は「引落(ひきおとし)」です。素槍が前面に突いてくるところを、鎌槍の右鎌で引き落とすのです。これは鎌槍でこそ出来る技です。鎌で押さえ落とすのではなく、鎌で相手の槍柄を引き切るのです。
「巻落(まきおとし)」。素槍が裏面(うらめん・左耳辺り)を突いてくるのを、鎌槍は両手を上げて受け止めます。槍で冠(かぶ)るように受け止めるところから、「冠(かんむり)」と呼んでいます。冠に受け止め、次に鎌の交差点辺りで捻るように素槍を落とすのです。これも鎌槍でないと出来ない技です。
「摺込(すりこみ)」。素槍が突いてくるところを、右鎌で素槍の柄に沿って滑らせ、相手の手元に入り込み、手首を切る技です。左鎌で素槍の手元に摺り込む技もあります。
「柄返(えがえし)」。素槍が鎌槍の柄を跳ね上げると、その力を利用して鎌槍は柄を半回転させつつ飛び込み、さらに石突で敵の喉元を突きます。
宝蔵院流槍術は、致命傷を負わせあるいは止め(とどめ)を刺す技が少なく、敵の攻撃を受け止め、止むを得ない場合にのみ少しの手傷を負わせ、相手の攻撃意欲を減ぜさせる技が多いのが特徴です。私は、宝蔵院流は平和の武道であると考えております。
また、宝蔵院流槍術には奥義第一に「大悦眼(だいえつげん)」が伝えられています。敵に相対した時や、平素の稽古においても、敵を睨みつけるのではなく、「大悦眼」すなわちニコッと微笑む眼を心掛ける。眼の力を抜けば、肩の力も抜け、体も自ずから自然体となり、心も体も自由・闊達となる、との教えと解しております。この教えは宝蔵院流槍術のみならずすべての武道にも通じ、また現代の社会生活にさえ活用できる教えです。
11 宝蔵院流槍術と川路聖謨
川路聖謨(かわじ としあきら1801〜68)は幕末の俊傑であり、幕府の要職を歴任し、日露通好条約を締結し、北方四島が日本固有の領土であることを明示したこと等で知られています。
その川路聖謨が1846年から5年余に亘って奈良町奉行として在任しました。この間、貧民救済策を実施し、東大寺・興福寺を中心に大規模な植樹を行い、今日の奈良公園の基礎を築くなどの善政を施し、奈良の大恩人として今なお市民に慕われ尊崇されています。
川路聖謨は、奈良町奉行在任時に綴った日記「寧府紀事(ねいふきじ)」を遺しています。これによると自身も宝蔵院槍術を修め、また子息・市三郎を興福寺の子院であった宝蔵院に入門させ、宝蔵院を訪問して稽古を見学し、度々院主と対談していました。さらに驚くことに、彼の日課は早朝に起き、3.7sの刀で2000回の素振り、3sの槍で基本稽古である「素こき(しごき)」を4000回、11sの甲冑を身につけて13qの歩行など徹底した鍛錬を怠らず、その後に「資治通鑑(しじつがん)」や「四書」等を読書の上で公務に就いていました。
川路聖謨はこのようにして毎早朝、人知れずの鍛錬と読書で心と体を養っていたのです。これは彼の健康法の一つではありましたが、それ以上に、いつでも国家のお役に立てるための準備を怠らぬ心構えであったようです。「甲冑惣目かた三貫目(11.3s)位にて二尺三寸に壱尺三寸の脇差をさし三里(11.8q)歩行し馬にて五里(19.6q)往来せねは武士の役はたたすとしるへし」と「寧府紀事」に記しています。
参考に、「寧府紀事」のうち、武道・槍術に関する抜粋を掲載します。
1846年
1月11日「奈良奉行に任ぜらる」
9月12日「鑓刃びきの数をましたるは、江戸の如き稽古なき故也」
10月11日「きょうも太刀ふり、鑓遣う(やりつかう)ことれい(例)の如し」
10月14日「六時より起きて、太刀ふり、槍遣うことれいの如し」
1847年
5月14日「すこき1500百本、大刀のすふり(素振り)500餘は毎朝するなれ共、體を遣うことの少なき故」
8月19日「毎朝3000本の素こき、太刀1000本」
8月29日「槍の素こき3000本、馬に乗り刃ひきふり、市三郎に剣術を遣い」
1848年
1月25日「きのふは市三郎宝蔵院へ槍の弟子入に遣したり・・・。宝蔵院は昨日稽古はしめ(始め)なるに古格にて狸汁を食するよし也、いにしへは真の狸にて稽古場に精進はなかりしか、今はこんにゃく汁を狸汁とてくはするよし也・・・」
5月2日「剣槍稽古に出精するよう激励の詩を与える」
1849年
4月4日「市三郎が稽古で先生と組打ちしたるを聞き、怒る」
5月15日「(宝蔵院)胤懐訪ね来たり、槍について歓談す」
5月22日宝蔵院を訪問し「宝蔵院は興福寺の地中なれど、構いの外也・・・稽古場は瓦ぶきはいふもさら也。立派なること目を驚かせり、三間に七間のから板にて、柱六寸角にて、板式はひのきふしなしにて、釘を表へうたず、すきめもなく、全に能舞台のごとし、稽古場のはめへ竹すだれのごとくにやりをかけたるに、二尺もあまれるにその高サを思ふべし・・・」
10月22日「宝蔵院の稽古場で演武を参観」
このように自身を厳しく律し、他人には優しく接している様子は、日記を通してその人柄が温かく伝わってまいります。そして私共の稽古ついても、先人の心・修行を見習わねばならぬと強く考えさせられます。また、幕末頃までは奈良興福寺・宝蔵院に院主が居られて槍術指導がなされ、その稽古場は立派な構えであったことが彼の日記から知ることができるのです。
12 宝蔵院流槍術の遺跡
先号で述べましたように、宝蔵院は幕末まで存在し槍術指導が行われていました。しかし、明治初年の廃仏毀釈によって上屋は取り壊され、敷地は収公されました。この際、宝蔵院道場や資料も総て散逸されたのでした。全く惜しいことです。宝蔵院流ゆかりの遺跡は数少ないですが以下にご紹介します。
宝蔵院跡・顕彰碑
武道においては有名な宝蔵院ですがその所在を知る人が少なく、たいへん残念に思っておりました。そこで、顕彰碑の建立を市民に呼びかけて寄付を募り、多川俊映興福寺貫首様に「興福寺宝蔵院跡 宝蔵院流鎌槍発祥之地」とご揮毫いただいた顕彰碑を跡地である奈良国立博物館本館西側に平成14年12月16日に建立しました。   
宝蔵院墓地
流祖・胤栄、二世・胤舜等、宝蔵院歴代が眠る宝蔵院墓地は、奈良市白毫寺町にあります。槍術伝習生は、時節毎の掃除と墓参を欠かさず、また流祖ご命日の8月26日には興福寺様、奈良宝蔵院流槍術保存会役員と揃ってのご供養を毎年続けさせていただいています。しかし、経年による風化や樹の根によって墓石が傾き、座視できぬ状態になってまいりました。
折しも、胤栄師没後400年の節目の年を迎え、記念事業のひとつとして宝蔵院槍術一門の墓所を整備させて頂きました。整備資金は広く市民に呼びかけご寄付を募り、お陰をもちまして、胤栄師400年目のご命日である平成19年8月26日に興福寺様ご導師による新造墓所開眼供養を挙行させていただきました。
摩利支天石(まりしてんせき)
流祖・胤栄は、宝蔵院にあった大きな石に摩利支天を祀って稽古に励み、この槍術を成就したと伝えられています。摩利支天とは梵語Marici(陽炎・かげろう)を神格化した女神で護身・勝利を司り、日本では古来より武士の守護神として尊崇されていました。摩利支天石は、幕末までは宝蔵院内で祀られていましたが、明治初年の廃仏毀釈によって廃墟と化した宝蔵院跡地に取り残されてしまいました。奈良市高畑菩提町・石崎直司氏の曾祖父で漢方医であった勝蔵氏は、これを残念に思い明治20年に自宅に移して供養し、且つ医業の守り神にと発願され、以来石崎家では「お石さま」とお呼びし、大切にお祀りされました。
こうしてお守りされてきた摩利支天石ではありましたが、ご寄贈の打診をいたしましたところご了解をいただきました。移転先については宝蔵院ご縁の興福寺様も快くお引き受けくださり、平成11年5月31日、摩利支天石は多川俊映興福寺貫首様のご供養の後、興福寺三重塔前にご遷座いただきました。 
金房辻(かなんぼうつじ)
奈良には古くから刀鍛冶が興り、大和五流と称する千手院(せんじゅいん)、手掻(てがい)、保昌(ほうしょう)、尻懸(しっかけ)、當麻(たえま)が著名です。さらに室町時代末期には金房(かねふさ)一派が活躍しました。この派は刀以外に槍を手掛け、宝蔵院に近い関係からか多くの十文字槍を残しております。刀工には正実、政次、政景、正真、正長、政定、政助、政重、正清などを輩出しております。政次の作には「南都子守住」との銘もあり、この一派は奈良市子守町辺りに屋敷を構えていたと伝えられております。奈良市史には「奈良市上三條町と本子守町との境に「金房辻」の旧名が伝えられ地元では『カナンボウツジ』と呼称している」とありますが、既に街路整備がなされ、詳しい位置は不明であるものの、現在の三条通りとやすらぎの道交差点の辺りと推察されます。

以上が宝蔵院槍術ゆかりの遺跡として残されており、大切に保存するとともに、稽古を通じてこの槍術をしっかり後世に伝えてまいりたいと念じております。 
 

 

 
剣の四君子 序 / 吉川英治

 

題して剣の四君子という。少し気取り過ぎたきらいがないでもないが、剣の相すがた、花の姿、対照はわるくないと、わたくしには感じられる。
菊の高雅な匂い、春蘭の身を懸崖に置きながらの優しさ。雪を凌ぐ梅花の芳烈。水仙の沈潜と謙虚な冷徹。どれも剣の精進と似通わぬはない。
剣に仕えた古人の行道ほど、きびしい道はなかった。妄想を憎むこと※[#「にんべん+丸」、7-6]の如く、懶惰と嬌慢をつつしむこと敵国を視るようだった。ひたぶるに勝たんとした。が、勝っても勝っても、唯の強さだけでは、なお甘んじられぬものだった。真の剣人とは、
おのれに勝つ
ことを得た者でなければならない、人生に勝ったことでなければならない。それは不断鍛錬と、人間的火華に自分を灼く生活のもとに、修行として営み励まれて行った。
剣は個性の道である。為に彼等のすがたは余りに孤高独歩の人に見える。時に、世間からは白眼視され、きびしさ、うらがなしさ、いいようもない人に見える。狂者にちかい姿まで見せる。
けれど、風雪の中に、人間の発しうる最高度の生命の火華をしめし、また花のような香気を研磨の人柄にたたえるなど、剣の道はやはり東洋人の心には何か捨て難い魅力をなす詩であるにはちがいない。
今、古い筐底から、四花の古人を選んで、一瓶の書幀に挿してみた。春風の芳気、霜雪の道明りとはゆかないまでも、これが手枕の人の眺める壺となって、ふと何かを興の琴線に奏でうれば幸甚である。  
 
剣の四君子 柳生石舟斎 / 吉川英治

 

草廬そうろの剣

新介しんすけは、その年、十六歳であった。
大和国神戸かんべノ庄しょう、小柳生城こやぎゅうじょうの主あるじ、柳生美作守家厳みまさかのかみいえとしの嫡男ちゃくなんとして生れ、産れ落ちた嬰児えいじの時から、体はあまり丈夫なほうでなかった。
母なる人が、青梅あおうめの実みにあたって、月盈みたぬうちに早産したせいだとか。――いわゆる月足らずの子であったとみえる。
「戦いくさに出たい。戦に連れて行って下さい」
彼も、武門の子である。合戦のあるたび父にせがんだ。
が、父の家厳は、「そちのような弱い肉体では、戦いに出ても物の役に立たぬ。柳生の一族は、病弱な子まで狩り出したと、敵方に笑われよう。――そういう望みは断たって、むしろそちは僧侶になれ、学問をしておけ。柳生家の累代るいだい、戦に次ぐ戦に、代々何十名の戦死者があったか数も知れぬほどだ。そちの兄、康やす太郎も二上山ふたがみやまの合戦に討死した。叔父御もおととしの出陣から帰らなかった。……のう、そういう人々の霊を弔とむらうべく、僧門に入るのも意義のないことではない。そちの体の生れつきひよわいのは、一族の中から一子はそれに捧げよとの、仏天のおいいつけかも知れないのだ。宿命というものである。いらざる憂悶ゆうもんは抱いだかぬがよい」と、懇ねんごろに諭さとすのであった。
「…………」
新介は、黙って聞いているが、いつも涙をこぼした。顔を横に振るたび、その顔から涙が飛んだ。
「わからぬやつ! 女のくさったようなやつ! 嫌いだっ、あっちへ退がれっ」
果はては、その涙へ、恐こわい顔を示して、家厳は大喝した。
それも、父性の大愛から迸ほとばしる声以外なものではない。
ところが。
ことし天文十三年の七月には、その父が好むと好まないに関わらず――子が望むと望まないに関わらず――否応のない戦火が、柳生父子おやこを、一つ戦場に捲き落した。
連年、鎬しのぎを削りあってきた宿敵、大和の筒井栄舜房法印順昭えいしゅんぼうほういんじゅんしょうが麾下きか二十万石の領土の精兵を、挙げて、この小柳生ノ庄のわずか七千石足らずの小城ひとつを、取巻いて、「三日のうちに踏みつぶして見せる」と、豪語し、そこの山上山下、野も畑も部落も、兵馬に埋めてしまったのである。
新介は、こうした危急が、わが家やの石垣の下まで迫ったのを眺めやると、「もう父もお叱りはなさるまい」と、生れて初めての武者ぶるいを――恐怖の快感を、鎧よろいの下の血は楽しむのだった。
そして、昼夜必死の防戦に、彼は搦手からめてから水の手までの線を死守し、父の家厳いえとしは、一族と共に、専もっぱら大曲輪おおぐるわの指揮に当り、時には自身、大手の木戸まで出て、士卒と共に奮戦していた。

石垣は血にそまった。
その血が黒くならないうちに、次の敵が、また石垣につかまって攀よじ登のぼってくる。
岩石、材木、沸湯にえゆ――糞泥ふんでいまでを、執念ぶかいその敵に浴びせかけた。
「多聞院日記」の記事によれば、この時の激戦は、三日に亙わたるとあるが、「柳生家家譜かふ」には、七日を過すぐとある――
何にしても、相互、夥おびただしい犠牲を出して、揉もみ戦った酸鼻さんびは分る。
筒井勢は、小柳生の在家散郷へ火をつけたから、その煙は、天を焦がし、畑はふみ荒され、百姓のすがたはおろか、家畜の影も絶えてしまった。
糧食の道、水の手の落口も、断たたれてしまった。城中の兵は、眼に領内の焦土をながめ、身のまわりには、飢渇きかつか死の影しか見られなかった。
が、なおも城は、頑強に落ちなかったので、筒井順昭じゅんしょうは、自身伊賀を発して、忍辱山にんにくさんに陣を取り、「これしきの小城に、七日もかかって、なお落ちぬと四隣に聞えては、筒井衆の名折れぞ」と、激励した。
順昭は、後の筒井順慶じゅんけいの父にあたる人である。順慶とちがって、英武な名将と知られていた。――その忍辱山の陣所へ、柳生方の捕虜が一名、高手小手に縛られて来た。
その晩も、諸所の放火、陣地陣地の篝かがりなどで、夏の夜空は、真っ赤に煙って、地の草露に虫の音もなかった。
「坐れっ」
「それへ直れっ。――直らんかっ」
繩付の弱腰を蹴って、一群の将士が、床几しょうぎの前へ突きのめした捕虜を一目見ると、筒井順昭は、「ああ待て。手荒にするな」と、思わず眉をひそめずにいられなかった。

「女か。病人か」
順昭は、まず訊ねた。
見るからに弱々しい一名の敵を、大勢して、さも手柄顔に生擒いけどって来た味方の将士も、むしろ不快とするような順昭の語気だった。
「わしは、女ではないっ。病人などでもないっ。――柳生家厳いえとしの嫡男、新介宗厳むねとしなのだ。はや首を打てっ。首を打て!」
順昭の声に応じて絶叫したのは、彼の部下ではなく、彼の前にひき据えられている捕虜だったのである。
「何っ。柳生家の総領じゃと」
順昭が、思わず眼をみはると、籠手こての傷口を縛りながら、繩付のうしろに付いて控えていた朝山氏堯あさやまうじたかという赭顔しゃがんの勇将が、頭を下げて答え直した。
「幾度、水の手の樋といを断ち切りましても、いつの間にか、城内へ水の通っている容子なので、それがしの手勢を伏せておきますと、夜ごと、この若武者が、決死の一隊をひきつれて、搦手からめてから裏山へ攀よじ、貯水池の樋をかけ直し、水路をひいて城内へ走りこむのを見届けました。――で、こよいこそと、それがし自身、待ちかまえて、袋づつみにしましたが、若年とはいえ――また、見たところ、仰せの如く、病人か女のような弱々しい姿に似気にげなく、死にもの狂いに抵抗し、味方の兵を、八、九人まで斬りつづけました」
「……ふうム?」
順昭は、呻うめきながら、毅然きぜんとしている捕虜の色白な面おもてに、じいっと、眸をすえたまま聞いていた。
「――憎ッくい小冠者めがと、それがしが槍を突けると、それにおる野添盛八、漆間うるしま八郎右衛門の両人も、左右から力を協あわせ、追いつめ追いつめ、扇形おうぎなりの空濠からぼりの窪くぼへ、敵が足ふみ外して転ころげ落ちたので――討つなと、野添の槍を止めて、引っ縛からげて参ったのでござります。――縛からめ捕ってから気づいたのは、意外にも、それが城主柳生家厳いえとしの息子であったということです。さして手柄とも存じませぬが、他ほかならぬ敵将の嫡子、君前に献ささげるのが至当と考え、物々しゅう思し召されましたろうが、ともあれこれへ引っ立てて来た次第でございまする」
「そうか。……いや、よく縛からめて来た」
順昭は、初めの気色を改めて、「小冠者こかんじゃ、面おもてを上げろ」と、柳生新介を、睨ねめつけて、もう語気の端にも、不愍ふびんなどはかけていなかった。
新介は、死闘に燃やした眸を、まだそのまま持って、容かたちこそ、自若じじゃくとしていたが、「面は上げておる。これ以上あげて、天を笑えというか。首を刎はねる際には、頸うなじは伸ばすものと心得ておる。いらざる多言はお互いに無用であろう。はやく首を打てっ」と、さすがに声は甲走かんばしっていた。

暁早い短夜。――濛々もうもうとこめる戦雲と朝霧に明けて、夜もすがら戦い通した籠城の兵に、ふたたび飢餓きがと、炎暑と、重い疲労が思い出された朝の一瞬ひととき。
「新介様あっ」
「若殿うっ。――若殿には、何処いずこに」
搦手からめての兵たちが、大曲輪おおぐるわから大手の辺あたりまでを、血眼ちまなこに、捜さがし合っていた。
それと同じ頃に、望楼やぐらの上では、「敵が退ひいたっ。筒井勢は、いつのまにか、全軍退ひいて、今朝は、一兵も見あたらぬぞっ」と、狂気して呼ばわる声もしていた。
敵が囲みを解いて、総退却したという歓びと、同時に、城主の嫡男の姿が見当らぬという憂うれいの声とが、黎明れいめいの一瞬に、齎もたらされたのであった。
城外の水の手附近で、新介についていた部下は、全滅していた。生き残った者も、割腹かっぷくしていた。――が、新介の死骸はなかった。
「……もしや?」
父の家厳いえとしを初め、城中の者が、挙こぞって案じていた一つの推定は、その日の午うまの刻になって、不幸にも、適中していたことが知れた。
囲みを解いて引揚げた敵の筒井城から、軍使が来た。
「御子息の生命は、捕虜として預かってある。降伏人として、城池を出らるる場合は、御子息の身は返して進ぜる。――御評議もあろうゆえ、回答には、三日の猶予ゆうよをお待ち申すであろう」
軍使は、すでに勝者の態度で臨んで来たのである。いずれを選ぶも随意ずいいと、あっさり告げて帰った。
帰った後、惨たる一族の顔が、大曲輪おおぐるわの一室に集まった。どの顔も、眼は落ち窪くぼみ、髪は茫々として、血や泥や汗のうえに、さらに、濃こい憂色に塗りつぶされていた。
「……どうするか?」
それだけのことだが、一致は難しかった。
家厳いえとしは、父として、心強く云う。
「生れながら、武門の後継あとつぎとはなりかねる病弱な子だ。いつかは、僧門へ入れようとすら思い断っていた新介……。祖父以来の城池と名誉にはかえられぬ」――と。
だが一方。
親族の柳生河内、菅原夕菴せきあん、譜代ふだいの木村五平太、服部織部介はっとりおりべのすけ、庄田喜兵衛次きへえじ、和田、野々宮、松枝などの老臣旗下はたもとたちは、「仰せではありますが、それは殿のお眼ちがいでありまた、われわれどもも、昨日きのうまで、まったく若殿を、お見損ね申していたので、今日となっては、断じて、新介様を見殺しにいたすわけには参りませぬ」と、頑強に云い張った。
三日の猶予ゆうよは、経ってしまった。しかもなお、家厳の意見と、臣下の意見は、一致を見なかった。家厳としては、生けるわが子を受け取っても、筒井家に屈する恥辱を受けるに忍びなかった。また、自分のみか、城中七百の忠勇な将士をして、敵の足もとへ、拝跪はいきさせるに耐えなかった。――どう考えても、武門を捨てて武人はない。そうしか思えなかったのである。
すると。
三日目の黄昏たそがれ、一書が届いた。
大和やまと生駒いこま郡の筒井城からである。――が、書面は公式なものではなく、また、敵からでもなく、そこに捕われている柳生新介から父へ宛てて来た私信であった。

敵の中にあるわが子。何を齎もたらしてきたこの手紙か。――父家厳いえとしの手は顫おののかずにいられなかった。
――が、披ひらいて、一目、その文字の様を見ると、何か、彼はすぐほっとした。少しも字体が乱れていなかったからである。
文面の意味は、次のようなものであった。
父上。
さても人間とは明日あしたも知れないものであります。きのうまで御膝下ごしっかで甘えておりましたが、きょうは見も知らぬ敵方の中に、捕虜の身となっていること、ふしぎなる天命と、柔順に深思しております。
不覚とは思いません。新介は、最後まで戦いました。恥ともいたしません。勝敗は兵家の常です。一生は今日だけのものではありませんから。
むしろ私はこの天命を奉じて歓びさえ覚えています。生れて十六年、不孝のみ重ねてきたこの病骨が、今こそ幾分のお役に立つかと存ぜられます。新介はすでに討死なしたるものと思し召され、この身を筒井家の質ちとなし、即刻、和議をお講じ下さい。
祖廟そびょうの地こそ、病骨の子ひとりよりは、大事な筈です。忠勇な家士の面々こそ、私一人などには代えられない柳生家の石垣かと考えられます。
どうぞ御善処ありますように。
さもあらばあれ新介もまた、自ら生きゆく道を選んでゆくでしょう。御膝下を離れてむしろ今、人となる道を訓おしえられ、また、御両親様の大愛の一しお身に迫るものを新たに覚えておりまする。では呉々くれぐれも、御自重のほどを。
筒井城内の短檠たんけい一穂すいの下もとにて誌しるす
新介拝
父うえ様 「…
………」
家厳いえとしは落涙がとまらなかった。玉砕ぎょくさいを潔いさぎよしとして主張していた一徹な愚かさを、日ごろ病弱あつかいにしていた子から訓えられて、背に百杖を下された心地に打たれた。
「そうだ。云うが如く、善処いたそう。……新介の志を生かして」
評議の間まへ出ると、老臣以下、まだ暗澹あんたんとそこに坐っていた。家厳は、面々が夜に入ったのも知らずにいる態を見て、「燭しょくを燈ともせ」と、武士どもへいいつけた。そして、「燭が燈ったら、一同これへ寄れ。ただ今、敵方におる新介から、かような書面が届いたに依って、改めて諮はかりたい」と、新介の手紙を示した。
それを見て、泣かない家臣はなかった。或る者は、声をもらして嗚咽おえつした。
「――ついては、わしの心も決した。この新介が手紙の文面を篤とくと見よ。降伏とは書いてない。和議を講じてくれとある。ここに新介の真意があるらしい。――降伏は受け難いが、和睦わぼくを結ぶなれば悪しかるまじ、その代りに、自分は質子ちしとして、筒井家に留とどまる――という存念と相見える」
評議は一決した。
新介の意を旨むねとして、即刻、筒井家へ使者を送った。使者は、「降伏は申し出ぬが、和議なれば応じ申そう。条件としては、嫡男新介宗厳むねとし様を、長く質子ちしとして貴家へお預け申すべしとの主人家厳が意見にござります」と、口上で伝えた。
これでは、対等にひとしい返答である。筒井方の不満は明らかなように思われたが、意外にも、「承知いたした。御提示の条件をもって、宿怨しゅくえんを水に流し、改めて、隣交の誼よしみを結び申そう」と、筒井順昭は、一言に許した。
思えば危うい限りだった小柳生の城も――天慶てんぎょう以来つづいて来た柳生ノ庄七千石の領土も――ために、計らずも無事なるを得た。筒井家の属国的な位地に落ちたことはぜひもなかったが、ともあれ新介の身一つで、父家厳以下、多くの家臣までも、一応は滅亡の淵から救われた。

兵は強く、領土は広い。
覇業はぎょうを成した人物だけあって、筒井順昭は、やはり一世の雄ゆうであった。
彼に足らないものは、子であった。女子のみが多いのである。一男は夭折ようせつし、その下の藤勝ふじかつはまだ幼い。
「他家の質子ちしながら、新介ほどの嫡男があれば」とは、彼がいつも独り思うことだった。
合戦には十分に勝っていながら、また、筒井家とは比較にならぬほど領地も狭いし兵力も乏とぼしい柳生家と、対等に近い和議を容いれたのも、捕虜として連れて来た新介の飽あくまで毅然きぜんたる態度と、一族を思う至誠に動かされた結果だった。
「藤勝ふじかつ。そちもちと、新介を見習えよ。いつまでも家臣どもに甘やかされて駄々ばかり捏こねている和子様であってはならぬぞ。新介の刻苦こっくに見習うて、朝は夙つとに起き、馬術、弓道の稽古けいこに励み、読書もせねばならぬぞ」
四年間。――新介が質子ちしとしてここへ来てからいつか四年となる、――その間の彼の起居や修養ぶりに感じるたびに、順昭は、わが子にひき較べて、藤勝ふじかつを訓戒せずにいられなかった。
「はい。はい」
藤勝ふじかつは、ことし十五である。父の前では、非常に畏かしこまるが、駄々で懶惰らんだで底意地がわるい。順昭の歿後、領土をうけて、伊賀に本城を移し、筒井順慶と称したのは、この藤勝であった。
父から叱られるたび、新介の名が手本に出される。藤勝は、その反動で、城内に住むもののうちでは、誰よりも新介が嫌いだった。犬よりも下に新介を見蔑さげていた。
この新介は、城内の片隅に、質子構ちしがまえと称いわれる小さい一棟を当てがわれて住んでいた。戦国の世の慣ならいで、強国の城廓には、幾人も他国の質子が養われていた。
「弁之助。また、あの擒人とりこの新介が、経文みたいな書を読んでるよ。石を投げこんでやれ、喧やかましいから」
藤勝は質子構えの墻かきを覗いて、供の近習にいいつけた。
「そんなことをなすってはいけません。およしなさい」
「お前が抛ほうらなければわしが抛る」
小石を拾うと、止める間もなく、屋やの内へ投げこんだ。
家の中で、石の弾はじける音がした。しかし、読書の声は止まなかった。
「まだやっているな」
意地になって、三ツ四ツと投げこんだ。すると、墻かきの小門が開いて、「悪戯わるさをするのは何者ですか。そんなことをなさると承知しませんよ」と、怒って出て来た者がある。
見ると、新介ではない。女である。しかも藤勝ふじかつの姉にあたる由利女ゆりじょであった。
「あらっ? ……。姉上は、何だって、質子構ちしがまえになんか来ているんですか」
「いいでしょう。来ていても」
「いけませんよ。擒人とりこのいる囲いへなんか……おまけに、男の所へ、女のくせに」
「あなたこそ、今、何を投げたのですか」
「石さ、いけない?」
「なお悪いでしょう」
「大きなお世話」
「今日ばかりではありません。のべついろいろな悪戯わるさをして」
「じゃあ、姉上ものべつ来ているんだな」
「お可哀そうではありませんか」
「誰が」
「新介様のことです。ですから、時折、お見舞に来て上げるのです。其方そなただって、もし戦いくさに負けて、敵方へ質子ちしとなって行ったら、どんなに思いますか」
「父上にいいつけてやるぞ。こんな所へ、女のくせに、遊びに来て。――弁之助。行こう」
姉には敵かなわない。藤勝はぷいとそこから立ち去ってしまった。

「父上。由利ゆりどのは、質子構ちしがまえにおる柳生新介の所へ、時々、行っておりますよ。いいんですか、あんな所へ女が行って」
藤勝ふじかつが、或る折、口を尖とがらして、順昭じゅんしょうへ告げ口すると、順昭は、非常に怖い顔を示して、反対に叱りとばした。
「何を云う。由利は、学問好きゆえ、新介がよく書を読むので、解らぬ所を質ただしに行くのじゃ。そちもちと、新介について、学ぶがいい」
藤勝はまた、新介のために叱られた。
順昭は、すでに自分の末娘の由利を以て、密ひそかに新介へゆるしていたのである。和睦して六年、柳生家との間も、その後は至って円満なので、わが娘の一人を柳生家に入れ、それを機しおに、新介の身も、花嫁の輿こしと共に、柳生ノ庄へ帰してやろうと考えていたのだった。
父のそんな深い胸は知ろう筈もなく、藤勝は、それから四、五日後、新介が馬場から帰る途中に待っていて、「おい、おい、擒人とりこの新介。待て」弁之助と二人で呼び止めた。
新介は、馬の稽古の帰りなので、身軽に扮装いでたち、少し汗ばんだ顔をしていた。
「これは、若殿でございましたか。何かご用ですか」
「おまえ、幾歳いくつになる」
「二十一歳に相なりました」
「二十一にもなって、まだ質子ちしか。よその国に飼われているのか」
「……はい」
「お前の体からだは、お前の体ではないのだぞ」
「はい」
「何でもはいはい云っているぞ。お前は意気地がないな」
「恐れ入ります」
「恐れ入ったら、俺の股またを潜くぐれ」
「はい」
「張合いのない奴だな。そんなに尾を振られては、おかしくない。……怒れ、怒ってみろ」
「…………」
「何を笑う。怒れと云っているのだ。こら、怒らないか」
脛すねを蹴った。胸を突いてみた。それでも新介が怒らないので、図に乗った藤勝ふじかつは、いきなり彼の耳を掴つかんで引っ張った。
新介は、それでも逆さからわなかった。犬のように引廻されていた。藤勝は、「犬じゃ、犬じゃ、犬でも怒るが、この犬は、臆病おくびょう犬だ」突き離すと、その顔へ、唾つばを吐いて、逃げて行った。
新介は、懐紙を出して、顔の唾を拭きながら、さしたる血相も現わさず、静かに歩き出した。すると、物蔭から一人の武士が、寄って来て、「新介どの、よい御修行だな」と、その肩を叩いて慰めた。
――誰か?
と、振向いてみると、それはこの城に二ヵ月ほど前から滞留して、家中の士に剣の法を教えていた神取かんどり新十郎とよぶ新当流しんとうりゅうの武芸者であった。
新十郎はまた、新介の耳へ、こう信念をもって囁ささやいた。
「あなたは今に名を成すだろう。きっと大成する質だ。大事になさいよ」

天文二十年、新介宗厳むねとしは、二十五歳になった。
その春、彼は、由利女ゆりじょを携えて、十年ぶりで、柳生の城へ帰った。
――が、父の家厳はもうこの世にいなかった。彼は、山間の八千石に足らぬ痩地やせちと、数百の家臣と、古びたままの小城とを享うけて、乱世の中からさらに乱世へと臨んで行ったのである。
永禄二年。筒井順昭もすでにその頃病死していた。
時は近づいた。信貴山しぎさん城の松永久秀が、大和へ攻め入る事前に、「呼応こおうして、南の地より、筒井領へ斬り入られよ」と、簡かんを通じてきた。
この時から、柳生一族は、筒井の隷属れいぞくから離れた。そして松永弾正だんじょうの七手の旗頭はたがしらとして重用された。
多武とうノ峰みねの合戦では、山徒の僧兵と戦い、松永氏の勢が昂たかまるに従って、柳生家も当然、隆昌に向ったが、その弾正久秀が、三好義継と共に、永禄八年の夏、二条御所へ放火して、乱刃の下もとに、将軍義輝よしてるを弑逆しいぎゃくしてから、柳生宗厳むねとしは、彼にもすっかり望みを断って、「わが兵馬は、逆のために動かさず。わが剣は、乱のために把とらず」と、絶縁状を送りつけて、それ以後、ただ山間の孤城に拠り、深く守って、敢て、天下の乱へ出なかった。
義輝将軍の亡き後の京洛は、まるで無政府状態に近かった。中央の乱は当然、諸州に波及して、いよいよ天下大乱の相貌そうぼうを呈して来た。
禅に。
読書に。
また、養身鍛心に。
世の春秋もよそにして、以来数年のあいだというもの、柳生宗厳は、まったく門を閉じ客を謝して、草廬そうろに籠こもっていた。
柳生から近い月ヶ瀬に、ことしも鶯うぐいすの声が渓川たにがわ伝いに聞えてきた。――折から、奈良の宝蔵院ほうぞういんの僧を案内として、柳生村へ入って来た一行九人づれの武士がある。騎馬で先に立った人物はわけて風格が高い。
一行は柳生城の坂下門で駒を下り、宝蔵院の案内僧は、門をたたいて中の番士へ告げた。
「――前もって、書面にて申し上げておきましたお客方、元、上州箕輪みのわの御城主、上泉伊勢守かみいずみいせのかみどのを御案内申しあげて参りました。宗厳様へ、その由、お伝えをお願いいたしまする」
弓の家

「奈良の宝蔵院ほうぞういん」の住職で、胤栄いんえいという変った法師がある。宝蔵院流と称する槍をよくつかう。
宗厳むねとしは、彼をさして、「わが道友」と呼んで深く交わっていた。
彼も「道」をさがしている人間だった。宗厳も「道」を求めて熄やまない。人生の道、兵法の道、禅の道、極まりのない道である。――おたがいに迷悟の定まらない者同士が、「人と生れたからには、何とかして、人間が到り得る境地まで、この心を磨いて、辿たどり着いてみたい」という熱望の悶もだえを――いわゆる道心を――常日頃から語りあっている仲であった。
月々、父母の忌日には、必ずその胤栄いんえいが自身で読経どきょうにやってくる。そしては、お互いの修行を語りあっていたが、つい四、五日前に見えた折、「時に、わしは近頃、稀代きたいな人を見たぞよ」と、胤栄いんえいが云った。
「稀代な人とは」
宗厳が問うと、
「剣の達人じゃ。いや名人の境に達していよう。人品もよい。深淵をのぞくようでな。乱世の巷ちまたからもあんな人物が出るものかのう」
「よほど傾倒されておられますな。御僧はいったい、なかなか人にゆるさぬ方だが」
「四十年来、わしが参ったと感じたのは、ひとり伊勢守いせのかみ殿だけじゃ」
「伊勢守と云われますか」
「もと上州大胡おおごの城主であったが、後、長野信濃守に仕えて一方の将となり、その主家長野氏も武田信玄に攻略されたので、以来、甲州武田家に随身して、客分同様、気ままに諸国を遊歴しておらるるとか」
「えっ。……では、上泉秀綱かみいずみひでつな殿ではありませんか」
「御存じか」
「近頃、兵家のあいだでは、恐らく知らぬ者はございますまい」
「それにしては、寔まことに謙譲けんじょうなお人がらではある」
「その伊勢守殿と、御僧はどこでお会いなされましたか」
「わしの寺で」
「ほ。何として?」
「訪ねて御座られたのじゃ。その前に、伊勢の太ふとの御所――あの北畠具教とものり卿を訪ねられ、具教卿より、奈良へ渡られたら、胤栄いんえいという変な坊主といちど会って御覧なされと聞いて来られたらしい」
「ああ。残念なことをしました」
「なぜな?」
「会い難い御仁ごじんに会える機を逸したではございませんか」
「そんなことはない。まだ当分は、わしの寺に遊んでおるというている」
「や。まだ御滞在ですか」
「いつでも御案内して参ろう。柳生城の当主宗厳むねとしどのにも、兵法の道には執心しゅうしんと、ゆうべも何かの折、おうわさしたところ、一度は御見ぎょけんに入りたいものと、伊勢どのにも云われてござった」
「何の、自分こそ、願うてもない倖せ、おさしつかえなき日を仰せ下されば、当方より出向くのが礼儀。御内意を聞いておいてください」
「よろしい。さっそく、寺へ戻ったら伝えてみましょう」
ところがその翌日、胤栄から折返して来た使いの手紙によると、伊勢守がいうには、自分は、武田家の客臣ではありまた、兵法修行のため遊歴中の身である。それにひきかえ、柳生殿には、一城の御当主、領民への御体面もある。先にお訪ねをうけては恐縮、自身から出向いて、御拝眉ごはいびをねがおう。――そう当人の伊勢守が希望することであるから、近日、寺僧を案内につけて、お城まで参上する。当日は自分は同道できないが、さだめし興きょうある御清談が交わされよう。取敢とりあえず、御返辞までを、と認したためてあった。
――それが、今日の伊勢守の来訪となったのである。勿論、前の日、宗厳から命じられてあるので、番士は、直ただちに城門をひらき、そこにはまた、「ようぞお越しを」と、老臣以下、幾人かが出迎えに立ち並んでいた。

「お客様が見えられました」
小侍が、先にひとり、大手の坂道を駈け上って来て、宗厳むねとしのいる庭先から告げた。
宗厳は、朝から心待ちにしていた。
「そうか。今参る」
沓脱くつぬぎから草履ぞうりをはいて歩み出た。
彼はことしもう四十七歳になる。
妻の由利ゆりとのあいだには、長男厳勝としかつ、次男厳久としひさのふたりの子もあった。
いつか父となって――初めて亡き父の心がわかる心地も屡※(二の字点、1-2-22)しばしばであったが――剣の道に志してから、彼はふたたび、幼稚な己おのれに帰ってしまった気がする。
未熟
煩悩
迷妄
邪心
あらゆる痴人のもち前の短所と、身のみ大人になりながらなお、どこか大人になりきれない幼稚なものとが――四十七歳の自分を見まわす時、情けないほど、こびりついている。
抜いても抜いても伸びてくる雑草のように、未熟から脱けられない。迷妄から離れられない。邪心の濁にごりから澄みきれない。
こんなことで、剣の工夫などなろうか。
時には、諦あきらめて、捨てようとした。
しかし。
剣を捨てたら、自己の醜みにくさを、明らかに、自己に映してくれるものは無くなる気もする。
剣は鏡だと思う。
明澄な剣。――純一に心を研とぎすまそうとする剣。不断な心の緊張。
その道を捨てたら、何が、自分を救ってくれよう。――亡父ちちのいた時は、亡父ちちの訓誡に、たえず歪ゆがみを撓ためられていたが。
……などとこの日頃、頻しきりと思い悩んでいた折も折である。宗厳は、「抑そも、どんな人物か」と、客の伊勢守を想像しながら、出迎えのため、彼方へ足早に歩いてゆく間も、何か少年じみた動悸ときめきさえ抱いていた。

この山は古い、砦作とりでづくりの城も古い。
柳生一族が、この土地に住みはじめたのは、平将門たいらのまさかどの乱があった承平、天慶の時代からであった。
氏うじは、菅原の系類で、遠祖は、春日神社の神職をしていたが――武家勃興ぼっこうの機運から、ここの城寨じょうさいに拠よって、弓矢を兼かね、いつか豪族となって、源頼朝の覇はが成った時、初めて柳生谷三千石を本領と扶持ふちされた家がらであった。
北条氏が強権を執った頃、いちど敗れて一族離散したこともあったが、後にまた、本領を回復し、後醍醐ごだいご天皇が笠置山かさぎやまに行幸みゆき遊ばされて、官軍を召し募つのられた折には、柳生一族からも、中之坊という勤皇僧が出て、笠置衆徒に列し、正成まさしげの帷幕いばくに参じ、建武の復古によく働いた。
――そんな話も、宗厳むねとしは、御先祖の事績として、幼い時からよく聞いていたものである。
玄関前の巨おおきな杉。槇まきの喬木きょうぼく。
そこらの苔こけや草。
老仙のごとき磐石ばんじゃく。石を縫うささ流れ。
みな、それからの物であった。
宗厳は今、そこに立って、坂の下から上って来る伊勢守と一行の者を待っていた。
「おお……奈良はあの森よな。月ヶ瀬は、南の方か。ああ暢のびやかな」
客の一群れは、悠長であった。坂の途中の曲り角に立ちどまって、大和やまとの春の昼霞ひるがすみに恍惚こうこつと眼を細めていたり、辺りの老梅の半開の花を愛めでたりしていて、なかなか上って来ないのである。
――が、やがて、此方こなたへ足を向けると、伊勢守らしい先なる人物が、「あれに佇たたずんでおられるのは御主人であるか」と、傍かたわらの柳生家の者に訊ねていた。
宗厳の家臣が、「左様にござりまする」と答えると、伊勢守は、非常に恐縮した様子で、やや足を早め、真っすぐに宗厳の前まで来て挨拶した。
「武術修行の遍歴者に、御自身、勿体ないお出迎え、いたみ入りまする。てまえが伊勢守秀綱です。――よいお構え、遠方此方おちこち、思わず眺め入りました」
宗厳も、礼を返した。
そして初めて見る高名な剣人の風貌に眼をそそいだ。
伊勢守秀綱は、永正七年の生れ、その時五十七歳にあたる。
見たところ、至極しごく平凡人である。鄙ひなびた老武士といおうか、素朴の一語で尽きている。
別段烱々けいけいたる眼光を持っているわけでもないし、骨格もすぐれて頑健ともみえない。ただ異ことなっているのは、何となく、接していると、春風のような温雅な和気につつまれる。髪はまだ白くない。唇の色も歯なみも壮者と変りがない。強しいて普通人よりすぐれているかと思われるところを索もとめればそんな点ぐらいしか、見出せなかった。
「どうぞ」
客殿へ招しょうじると、伊勢守は、従者のうちから二人だけを伴って座敷へ通った。
座についてから、その二人を、改めて主あるじに紹介ひきあわせた。
「こちらは、門人鈴木意伯いはくと申す者。――また、これにおるのも、弟子の疋田ひった文五郎でござる」
その後から、「よろしく」と、両人が手をつかえた。
意伯はすでに老人であり、文五郎は、元服して間もないくらいな若者だった。

いつか、梅の梢こずえに、宵月よいづきが水々しい。
短檠たんけいの灯ひもかすむ宵となったが、客も主あるじも、話に飽かないのであった。
「剣の御修行へは、いかなる御発心から?」と、伊勢守に、その動機を質ただされて、宗厳は、「道に入りたいために」と、答えた。
伊勢守は、黙ってうなずいた。
話題を転じて、
「御当家は、天慶以来、武名のきこえある武門でおわすゆえ、定めし御先祖のうちには、兵法に心を潜ひそめたお方もおわそうな」
「特に、剣を学んだという者はございませぬ。――祖父のはなしに聞き覚えておりますことには、応仁の頃、柳生孫次郎家宗いえむねと申すのが、強弓ごうきゅうをよく引きました由で、その頃、奈良坂八町を射通し、世間に伝えられましたため、弓の柳生よ、弓の家よ、と云われていたようでござった」
「ホ。然らば、弓にかけて、名誉なお家だの」
「祖父も、亡父ちちも、そのせいか弓術は人なみに致したようです」
「では、剣に心を向けられたのは、御当主が初めてといえますな」
「少年の頃、筒井家に人質ひとじちとしていたことがあります。その折、筒井家の客となっていた神取かんどり新十郎という剣者と知りあい、後、当城へ招いて、数年のあいだ新当流を学び、その奥旨おうしを授さずかりましたが――なぜか自身、どうしても、満足ができません。分け入れば分け入るほど、踏み迷うばかりです。己おのれの未熟と不才がわかってくるばかりで、お恥かしゅうぞんじます」
「神取新十郎は、五畿内きない随一の兵法者。その人から、新当流の奥旨をうけられながら、なお御不足かの」
「生れつきの鈍才どんさいとみえまする」
「ははは。御謙遜ごけんそんであろう」
「いや、まったく」
我れ知らず、宗厳は、斬り込むような語気で云った。
必死に道を求める者の懸命なさけびが、つい迸ほとばしって、眸からも燃え出たのである。
今だ。この人にこそ、日頃の懐疑かいぎを質ただし、悶もだえを打明けてみよう。そして、礼を篤あつうして師事してもよい。
――この心の眼さえあくならば!
宗厳の胸には、さっきから、そうした熱情が抑えられていたので、我れにもあらず膝をすすめたのであった。
ところが。
伊勢守は、とたんに手の杯を、軽く下において、「思わず長座を。……文五郎、意伯、おいとま致そうか」と、さり気なく反そらして、宗厳の眸が、何を訴えているかも見てくれない。
「せめて一夜」と、留めてみたが、伊勢守は、春の夜道も好ましいゆえ、帰るという。
宗厳は、心残りでならなかったが、家臣三名に松明たいまつを持たせて、ここから奈良まで二里足らずの道を、送って行くようにいいつけた。

惜しい。実に惜しい。
つまらない座談に千載せんざいの好機を逸してしまった。
何ものかを、あの人から学ぶべきであった。
客の帰った後で、宗厳むねとしは、寝もやらずそんな悔くいをくり返していたが、また、 (案外、平凡な人物でもある)と云う考えもわいて来た。
世間の大家とか達人とかのうちには、ずいぶんまやかし者も多い。禅ぜんをやってみて、禅門の名僧智識などに見参してみても、よくそういう失望に会う。
得態えたいのしれない公案や一喝かつをくれて取り澄ましていられると、(これは抑そも、真ほんものなりや、偽にせものなりや)ちょっと惑まどわさせられる。
何ぞ知らん、ただの交際つきあいになってみると、ただの俗人以上の何ものでもなかったりする。いや俗衆以下の場合さえ往々にある。
書にも画えにも陶器や仏像にさえ偽物ぎぶつは世上に横行しているのだ。いわんや人間にあって不思議はない。
彼が騙あざむくのではなく、こちらの眼が曇っている罪ともいえよう。――真を観るむずかしさ。直指人心。これができれば、もう或る所までその人間は達している。
「はてな?」
宗厳は、疑いだした。
宝蔵院の和尚おしょうにしても、ああ極言して賞ほめちぎったが、道において、あの和尚と自分と境地は、大差はない。
「真価はわからぬ。よし、もう一度、こちらから出向いて会ってみよう。そのうえで、伊勢守の人物が、名声の如く、高潔であり、彼の剣に学ぶものがあったら、改めて、師礼を執とっても決して遅くない」
もし近日にでも、先へ旅立たれてはと惧おそれて、それから一日措おいてすぐ、柳生宗厳はただひとりで城を出た。
ここに久しく、絶えて何処へも出ない主人が、遽にわかに、「奈良まで」と、城戸きどへ向って行ったので、家臣の庄田喜兵衛次きへえじ、服部織部介おりべのすけなどが大手の坂まで追いかけて、「どちらへお出ましなされますか」と、顔いろを覗のぞいた。
「宝蔵院まで参る。供はいらぬ。供に従つくな」
「でも、お馬の口輪なと」
「いや歩いてゆく」
家臣たちは、茫然と見送っていた。
それほど、宗厳の姿は、道を求めるうつつな人であった。
彼の学んだ新当流の剣といわず、この時代のいわゆる刀法は、まだ極めて、技術も理論も粗あらい――ただいかに人を斬るかの工夫でしかなかった。
彼の理念は、そんな粗雑な構成の熟達じゅくたつで甘んじられなかった。
いちど、剣を離れて、禅に入ったのも、そのためだった。
けれども、混沌こんとんと、迷いに入るばかりだった。禅は禅、技わざは技わざ、ばらばらである。自己の一体に溶けて一つの力となって生命の泉を滾々こんこんと音立てて湧かして来ない。――むしろその技すら徒いたずらに伸びなくなるばかりだった。
「…………」
黙々と、村を通ると、村の人々は争って、路傍に屈かがんだ。野を通れば、野の百姓たちは、土に坐って、彼の姿に礼をした。
「みな父の遺徳、祖先の恩沢おんたくだ。……わしはまだわしとして、真に、領民から土下座をうけるほどな何事も為なしていない」
彼はむしろ恥かしかった。
しかも彼のすがたは、よほど年老とった百姓でなければ、「御領主様……」とは囁ささやかなかった。実に、質素な身なりであった。木綿と藁草履わらぞうりと、一がいの笠しか飾っていない。
やがて、宝蔵院の寺内へかかった。
ここの寺も、住持が変り者なので、ひどく虚飾きょしょくがない。がらんとして巨大な空洞のようである。
青銅の訪鉦ほうしょうが下がっている。備えつけの撞木しゅもくでたたく。
「おうっ」と、井戸の底から答えるように、黒衣の坊主がのしのしと出てくる。この僧も、柳生の城主の顔を知らない。
突っ立ったまま、見下ろして訊ねた。
「誰だ。武者修行か。……近国の郷士か」
求道の門

「――いや、遊歴の者ではない。自分は柳生宗厳むねとしでござる。胤栄いんえいどの在院なればお目にかかりたいが」
取次の法師の無礼を咎とがめないのみか、宗厳は、丁寧ていねいすぎるくらい、慇懃いんぎんに云った。
しかも彼の気持は、極めて自然であった。
これへ来るまでのあいだに、宗厳の心は、自分が柳生城の主あるじであるというような日頃の習慣や気位きぐらいはとうに振ふりすてていた。道を求めて熄やまないものだけが胸を占めていた。同時に身は出家にひとしい謙虚けんきょになっていた。
「あっ、宗厳様で」
突っ立っていた法師は、あわてて畏かしこまった。知らぬがための非礼をくどく詫びて、舞い込むように奥へかくれた。
「どうなされたのです」
代って、胤栄が笑いながら姿を見せた。親しいうちにも、貴人を迎える如く鄭重ていちょうに、自身案内に立って、宝蔵院の一間に招じた。
「寔まことに唐突とうとつだが、当寺の客、伊勢守どのには、まだ御逗留であろうか」
「御滞在でござるが、何か……?」
「されば、貴僧を通じて、お願いの儀があって参ったが」
「先日、伊勢どのから足を運ばれて、もう御昵懇ごじっこんのあいだだから、何も御遠慮には及びますまい。――御自身、おはなしなされてはどうです」
「いや一応、御内意を質ただして欲しい」
「よほど何か重大な儀でも」
「されば。この宗厳にとって、生死に関かかわる問題です」
「生死に」
動じない胤栄も、すこし眼をみはった。
長い交友なので、宗厳の人がらはよく知っている。かりそめにも衒気げんきや大袈裟おおげさを云わない人である。その宗厳がきょうは沈痛な面おももちで、――生死の問題と云ったので、胤栄も驚いたのである。
「ほかの儀ではないが」と、宗厳は、伊勢守に出会って後、またその前からも抱いていた苦悶を、何の見得みえもなく打明けた。
「――要するに、自分は自分に対して、日頃から不満でならない。未熟を知っている。多分な疑いを抱いている。まだ一日として、これでよいと、自分で安んじたことはない」
宗厳は、云うのであった。
「しかし人は、この身をさして、新当流の奥儀おうぎに達した者とかいう。畿内きない第一の剣であるなどとも噂する。いよいよもって恥かしい。何ぞ知ろうわし自身は、ここ数年前から、殆ど、壁に頭を打ちつけたように、道も悟さとれず、技わざも進まず、ただ昏迷こんめいがあるばかりだ。時にはつかれ、時には諦あきらめの嘆息が出て、剣も捨ててしまいたくなる。――かくまで喘あえぎつめてきた剣の道、それはもうわしの生命だ、それを捨てて、宗厳の生はない」
「…………」
胤栄いんえいは耳をすましていた。
時には、怪しむように、宗厳の面おもてを凝視したが、また、頷うなずいては聞き入った。
道を求める熾烈しれつな人のすがたは、路傍の眼から見れば、狂人かと疑われさえするものである。しかし宝蔵院胤栄には解る。胤栄も道の人である。同情せずにはいられなかった。
「それにしても、余りな御卑下ごひげ。いかに自省のお強い性質とはいえ」と、彼は心のうちで呟いた。
宗厳は、ことばを続けて、「つい、他事よそごとのみ申し上げたが、そうした自分の衷心ちゅうしんです。……実は一昨日、伊勢守どのに拝顔の折、よほどお打明けして、と存じたが、貴僧にこう申すようには云えぬのでござった。――小城ではあるが、柳生ノ庄の主あるじとして、あの城に坐しておることが、もういけないのです。今日は改めて、ただ一介の修行中の者として出直して来た次第。願わくば伊勢守どのへお通じ下されて、ひと手、御指南にあずかり申したい」と、云った。彼は、そう云い終ると、胤栄に対して、両手をついた。

渡り縁をこえた宝蔵坊の一棟に、上泉伊勢守は、もうだいぶ長いこと逗留とうりゅうしている。
甥おいの疋田ひった文五郎と、高弟の鈴木意伯いはくをつれて、今、裏門のほうからそこへ帰って来た。
「御見物でございましたか」
「おう、御住職か。あまり麗うららかさに、春日かすがの御社みやしろまで詣まいって来た」
「実は、お待ちしているお方がございます」
「どなたかの」
「柳生殿でござります」
「何、宗厳むねとしどのが。……それはまた思わぬ失礼を。いざ、お迎え下さい」
「いや、きょうのお越しは、そうした徒然つれづれのお訪ねではなく、実は必死なお気もちでお出でなされました」
「必死とな」
「実は、かような次第です」
胤栄いんえいは、板縁へ坐ったまま、宗厳の気もちと望みとを、つぶさに話した。
伊勢守は、縁の陽ひなたに腰かけたまま、聞いていた。いつのまにか、眼をふさいでいる。やがて、その眼をひらいて、胤栄を振向くと云った。
「近ごろ殊勝な人に出会うた。いかにもお望みにまかせよう。……しかし此方こちらが観た眼も、世間のうわさに違たがわず、すでに柳生殿には、一流に達しておられるお方、この伊勢守に御指南するほどな力があるや否や疑わしいゆえ、仕合とあれば、承知いたしたとお告げ下さい」
「ありがとう存じます」
胤栄は、静かに、退さがって行った。
しばらくすると、再び姿を見せて、「御斟酌ごしんしゃくの儀、柳生殿にも、御承知のうえで、先へ、道場へ通ってお待ちなされております。おさしつかえなくば」胤栄が、促すと、「おう、すぐ参ろう」と腰を上げながら、伊勢守は、意伯と文五郎を振向いて云いのこした。
「明日あすは、当寺をお暇いとまする。そち達はこれにおって、何かと旅行李たびごうりの物など、取りまとめておくがよい」
伊勢守が立つと、胤栄は長い廊下を導きながら、今のことばを質ただした。
「どうしても明日あすは、御発足でございますかな」
「はからず長いことお世話になった」
「奈良から何処いずこへおまわりですか」
「四国を経へ、九州へ渡ろうと思う」
「何やらお名残惜しいことで」
云ううちに、もう道場の床が見えた。寺院造りの太い丸柱のある広床は、講堂と云ったほうがよい[#「云ったほうがよい」は底本では「云ったほうが よい」]かも知れぬ。
南都宝蔵坊の槍の道場といえば有名である。現住持の覚禅法師胤栄かくぜんほうしいんえいの槍も共に宇内うだいに鳴っている。後に新井白石が本朝軍器考に誌しるすところの鎌槍かまやり――素槍に鎌を付けた工夫は、胤栄が晩年の発現といわれているから、伊勢守が同寺を訪れた頃は、まだそういう特色までは持っていなかったのであろう。
けれど毎日のように、ここの床を訪れて来る遠来の修行者と在住の法師たちとの間で、激しい仕合が行われていた。南都の僧俗そうぞくにも稽古けいこをうけに通って来る者が多かった。
つい先刻までは、その人々の鋭い気合だの、床を踏み鳴らす響きがしていたが、今来てみると、みな追い返したのか、寂せきとして人影もない、また足脂あしあぶらに磨かれた広い板敷にも、塵ちりひとつ見えず、ただ何処からか映さす春の陽が長閑のどかに斜影しゃえいをながしている。
「お。これは」
伊勢守は、そこにただひとりで坐っている宗厳のすがたを見ると、自分もひたと坐って、礼儀をした。
宗厳も、遠くから頭をさげた。
軽い挨拶がすむと、上泉伊勢守から起って、物腰しずかに、「では」と、支度をうながした。

木剣ぼっけんと木剣である。木剣はすでに真剣しんけんにひとしい。それが仕合を約して立ち対むかった際はなおそうである。打ち所が悪ければ死にもする。腕を折られ、脚を挫くじき、生涯の不具者となる例などはめずらしくない。
危険に対して何ら約束のない仕合。それがその頃の仕合だった。
「…………」
伊勢守は、まず宗厳むねとしが、どの程度に、身を捨ててかかっているか。それを木剣のさきから観るような眼まなざしであった。
かりそめにも宗厳は一城の主あるじである。多くの眷族けんぞくも養っている当主だ。必死と口にはいうものの、どれほどに、その身分や俗念が捨てきれているか?
「……これは」
伊勢守のひとみが革あらたまった。
彼は宗厳を、自分の想像していた以上に見直したらしい。きょうは生死の問題だと云ったという、最前胤栄いんえいから聞いたことばを思い出して、「さもあろうか」と、うなずいた。
動かない。
一方は山の如く、一方は水のように、木剣と木剣とは、ひそとしたまま動かないのである。
ただ刻々と、宗厳の形相ぎょうそうが蒼白く硬こわばって来た。毛髪のすべてが気息に喘あえぎ出したように見える。
宗厳はそうした丹田たんでんのそこで、「何ほどのことが」と、気をもって、まず伊勢守を圧しようとした。
彼は無数の剣者を、きょうまでは、およそその気をもって圧伏し得た。剣はその後に加える勝利の形を取るものにすぎなかった。
――が、きょうの相手は、如何いかんともすることができなかった。まるで無反応な存在である。山へ向って声を張るように、気ばかり渇かれてしまうのだった。
「彼も人! われも人!」
肚はらの底で喚いてみた。が、そんな空しい相対性の観念を奮ふるってみても何のかいもない。いたずらに毛の根が汗ばむばかりだった。
猛鷲もうしゅうが蒐かかるように、宗厳はいきなり跳びついた。理念をふみ超えた一瞬の捨身である。床板が踏み抜けるように鳴った。ふたつの体のうごきが一渦うずの旋風せんぷうとも見えたせつな、――戛かつっ。ぱツん!
二断だんに異様なひびきがした。
宗厳の木剣は打落されていたのである。
そして宗厳は、茫然ぼうぜんと立っていた。
「おそれいりました」
坐って、両手をつかえると、しばらくは胸を正せなかった。肩で大きく息をしていた。
伊勢守も静かに坐って、「失礼いたした」心もちにこやかに顔を和なごませて云う。宗厳は、その変らないすがたを仰ぐと、心の底から、「無念な」と、思った。
敵に怨みをふくむような小さい歪ゆがんだ憤念ふんねんではない。自分の未熟みじゅくに対する憤いきどおりだった。
――彼も人、われも人。
と思い較くらぶるところから沸わく無念である。自分へ責めそそぐ悲涙であった。

「席を改めて、お詫び申そう。何かと、一昨日おとといのお名残もござれば」
伊勢守が起つと、胤栄も、惨さんたる面持おももちして、気の毒そうに、「いかがですか。奥へお越しになって、御悠ごゆるりと遊ばしませぬか」と、云い添そえた。
さし俯向うつむいていた宗厳むねとしは、
「いや、きょうはこれでお暇いとまいたしたい。ただ上泉かみいずみ殿へお願いがござる。明日またお訪ね申しますゆえ、もう一度、お仕合くださいますまいか」
「折角のお望みながら、明日は早、当寺を辞して、旅の先へ立つつもりですが」
「えっ、明日、御出発とな……」
落胆がっかりしたように、宗厳は云ったが、では早暁そうぎょうにでも出直して来るゆえ、ぜひぜひ、出立の間際でも、もう一度、仕合ってもらいたいと口を極めて頼んだ。
「それまでに仰せあるものを、無碍むげにお別れもなるまい。然らば左様に早朝でなくても、お待ち申していましょう」
伊勢守は、約束を承諾してくれた。
「どうして敗れた」
宗厳は、一夜を工夫に凝こらして、次の日また柳生ノ庄から宝蔵坊まで歩いた。
そして望みどおり立合ったが、殆どきのうと同じような負け方をした。
どう思ったか、伊勢守は、どうせのこと、もう一日滞在を延ばそうから、明日あすさらに一回、仕合してみようと、彼の方から云った。
「願うてもないこと」
と、宗厳は次の日は、さらに、思念に思念を凝こらし、彼の前に立った。
ところが、その三回目の勝負も、無残に敗北してしまった。
しかも三日が三日とも、同じ負け方の下もとに敗れたのである。心外も無念も二日目までだった。最後の一敗をうけた時は、かえって何か痛烈な爽快さを覚えた。
「この人に敗れたのは当然だ」
伊勢守に対する欽仰きんぎょうの念が、彼の小我や妄念もうねんのすべてを解決したのである。――潔いさぎよく、彼は伊勢守に入門を乞こうた。
「お心根を見とどけた。不肖ふしょうながらお手を取って進ぜよう」
伊勢守は、九州へ立つ日取を遽にわかに変更して、柳生城へ臨のぞんだ。
柳生城では、元より師として、朝夕の礼をうけ、本丸の一棟に住んでいた。後に、彼の起臥きがの跡というので「新陰堂しんいんどう」と名づけられた建物である。
春の頃から秋まで、およそ半年の滞在だった。
その間に、疋田ひった文五郎は、暇をもらって、ひとり廻国に出た。後に疋田陰流を創始して、栖雲斎せいうんさいと号し、伊勢守の門を出た者として、また伊勢守の甥おいとしても、名を辱はずかしめなかった。
宗厳も、刻苦した。
「長い御縁の望まれぬ師」
と思えば、なおさら、伊勢守の一言半句も、一挙一動も、あだには接していられなかった。

朝、昼、夜、時も選ばず師事し研鑚けんさんした。また伊勢守もまた、訓おしえを惜おしまなかった。
天地に秋の声を聴くと、一日、伊勢守は宗厳むねとしを室へやに招いて、「もうよいでしょう。お別れしたい」と、云った。
そして、別れるに臨んで、最後のことばとして訓えた。
「宝蔵坊へ三日お通いになって三日ともあなたが敗れた。その以後も、ただの一回も、この伊勢守に、あなたの木剣が触ふれたということはない。……これは何故か。お考えつかれたか」
「わかりません。ただ到らざるを知るだけです。――それは理法に依りましょうや、技わざに依りましょうか」
「理も技も超こえたものです。理と考えれば、理念にとらわれ、技と考えれば、体にとらわれる。いったい人間の真体というものは、それ二つしかないものでしょうか。……否とはすぐにお気づきになろう。然らば、理にあらず、技にもあらぬ体は何か」
「…………」
「実はの」
伊勢守の語気も熱した。
「こうは申しながら、此方こちら自身もまだ、容易にそこの会得えとくはなり難かねておる。ただ伊勢守として、信念いたしておるところは、無刀、その二字が極意です」
「無刀。――無刀の極意とは」
「医術の究明きゅうめいは、医術の無用になることを以て目標とし、法令の要旨は、法令の無き世を創たつるにあり、兵馬の理想は、兵馬なき平和を招来するにある。――剣は、殺人をもって大願とせず、剣はまた、剣を帯おぶるがために、剣禍けんかにも会う」
宗厳は、頭を垂れて、心に銘じていた。
「なぜ、あなたは、この伊勢守にどうしても勝てないか。理は簡単である。あなたは剣を持ってかかる。常に常に、剣に恃たのみ剣に迷い剣に執着しておられる。それに反して、伊勢守はとくより剣を捨てておる。剣は持てど、剣に恃たのまず、剣に妄執もうしゅうせず、無刀の心をもって、体としておる。……いや理も体も超え、剣をすらあるとも思わず対しているのです」
「……あっ」
微かすかに、声を放って、宗厳はそれと共に、眸ひとみをあげた。
師と自分との、今までの距離が、心態の相違が、はっきりと心に見えた眸であった。
伊勢守は、なお語をつづけて、
「――が、それにしても、此方このほうの申したことは、多年の体験と感得かんとくからつかみ得た単純な道理にすぎない。まだ、その理法を明らかにし、それを基本として一流の兵法を構成するまでには至っていない。それがしはすでに老年のこと、あなたはなお春秋に富む身、どうかそれを研鑚けんさんし、完成して、あなた独自の一流を興おこして下さい。――そこを闡明せんめいして天下を益えきしてくれるほどな人は、御身を措おいて他にはない。伊勢守は、実は非常なよろこびを以て、この半歳はんとし[#ルビの「はんとし」は底本では「ほんとし」]を送っていたのでござる。――わたくしからかくの通りお願いする」
伊勢守は、そう告げ終ると、門人たる宗厳へ、心から頭をさげた。
「三年後に、もう一度、お訪ねする」
次の日。
伊勢守はそう約束して立った。中国から九州路への遊歴に。
「三年後の仕合には」
と、宗厳は、ひそかに自分へも誓った。そのあいだの彼のすさまじい修行の辛苦と克己こっきとはいうまでもない。彼の位置が、何不自由ない一城の主あるじの身であるだけに、その苦しみは、自ら求めて苦しまなければ、享うけられない苦しみだった。
苦しみのない修行などはあり得ない。
苦しみに迫られて、やむを得ずする苦しみと、進んで苦しみを求める心とは、大きな相違がある。
彼は、それに克かった。
永禄八年の初夏、伊勢守がふたたび訪れた時、それは実証された。
「こうもお違いになったか」
伊勢守は嘆賞たんしょうして、「おそらく、自分の眼界では、今はあなたに勝まさる人はあるまい。天下無双の剣といってもよいでしょう。爾今じこんは、あなた独自の一流をもって柳生流と称されるがよい」と、云った。
同時に、一国一人に限るとしてある新陰流の正統の印可と共に、伊勢守が旅すがら描いた絵目録えもくろくをも添えて授けた。
絵目録の末巻には、伊勢守が筆をとって、その旨むねを誌しるし、永禄八年卯月うげつの月日をも追記した。
石のふね

天はふたつを与えない。
彼の十数年にも亙わたる刻苦こっく精神が実みをむすんで、心、体、理の基本を一系に統合し、ここに、柳生新陰流やぎゅうしんかげりゅう――なるものの大成もほぼ完まっとうされたかと思われる頃、「ああ。世も変った」と、大和の一角から天下の推移すいいに眼をうつすと、思い半なかばに過ぐるものがあった。
彼が一度は扶持ふちをうけて合力ごうりきもした松永久秀は亡び、続いて、足利義昭よしあきも滅亡を遂げている。さらに、それらの旧勢力を一掃して、革新陣の先頭にあった織田信長も、本能寺一夜の兵燹裡へいせんりに歿し去っている。
「いや、変ったのは、世の中ばかりではなかった……」
今さらのように、宗厳むねとしは、自分の身のまわりを顧みた。
住居すまいは、依然として、柳生ノ庄の元の位置にあったが、彼の所領は、もう彼の手を離れて、領主の名は変っていた。
一家一族は、ここ数年、禄ろくを離れ、放浪せざる牢人ろうにんの境遇であった。
「これで三度か」
宗厳は苦笑して、自ら嘲あざけった。
筒井順昭じゅんしょうに敗やぶれた時、一度、領地を失い、足利家没落と共に、二度、所領を没収された。
その後、大和に在りながら、九州の大友宗麟そうりんに属して、金子きんすで三千石の扶持ふちを送られてたが、その大友家が島津氏に侵略されてからは、仕送りも途断えていた。
のみならず、わずかな衣食の糧かてと恃たのむ所領も、大和大納言秀長がこの地に来てから没収されて、まったく無領の一郷士にまで成下がってしまったのである。――幸いにも、祖先以来の砦とりでの山は、邸内といえるので、藪やぶを伐きり林を拓ひらいて、家族召使もみな鋤すき鍬くわを持ち、自分で耕して自分で喰う――自給自足を辛からくも生活として今をしのいでいる有様であった。
「思えば気の毒な――」と、宗厳は、わが身を憐あわれむより、まず家族が愍あわれまれた。家族を愍あわれむよりは、多くの家士を不愍ふびんに思った。
三度も領地を失っているので、その間に、自おのずから家臣も減り、また他へ仕官を求めて去った家士もあるが、今もなお、「御主君が鍬くわを持つなら鍬を持って。御主君が肥桶こえおけをかつぐなら自分らも肥桶をかつぎ。――たとえ、稗ひえを喰っても!」と、踏み止まっている家中も多いのである。そうした不平も鳴らさない家士たちを見ると、宗厳は眼を熱くして、「――何の徳もない自分に」と、主人たる自分の不才が、独り責められもして、「済まない」と、心のうちで掌てをあわせた。
慶長元年。
ことし柳生石舟斎宗厳せきしゅうさいむねとしは、六十八歳。
わが鬢髪びんぱつの霜に気づいて、彼が見まわした彼の境遇はそんな中にあったのである。
兵法の舵かじをとりても 世のなみを 渡りかねたる 石の舟かも
処世の如才じょさいに欠けている自分の――いわゆる世渡り下手を喞かこって、彼はこんな歌を詠んだ。
石舟斎という号も、おそらくはそんな自嘲をもって――或いは超然たる自負心をもって、――その時代から自身の称としたのではあるまいか。自分の愚を、浮かぬ石舟となぞらえて、自嘲した和歌の作はもう一首みえる。
兵法は 沈みてあるぞ尊とうとけれ 千代のながれに 朽くちぬ石ふね

七月。山城の国を中心に、大地震があった。
伏見の都市は、もっとも被害が多かったので、伏見の大地震といわれている。
もちろん大和やまとも相当に震ゆれた。
七、八百年も前から祖先代々住み古している柳生城の石垣なども、至るところ崩壊ほうかいして、土の肌をむき出していた。
農家も傾かしいでいる屋根が多い。秋も近く、百姓はたださえ忙しいのに、各※(二の字点、1-2-22)めいめいの家のことも措おいて、「お陣屋の石垣から先に」と、その修築に集まって来た。
領主の資格がなくなってからでも、柳生城の周まわりの百姓たちは、石舟斎を見かけると、「御領主さまが」と、単なる口ぐせではなく、心からなついて、以前と少しも変るふうが見えなかった。
石舟斎も、子どもや孫どもを従えて、自身、諸所の崖くずれや仆たおれた門の修築を指図し、また自身手をくだして、泥まみれに働いていた。
「お年をめした大殿様が、わしらの手で足る土仕事を、あのようにまでなされないでも」と、百姓たちは、家士を通じて、幾たびも、石舟斎が草鞋わらじなど召さないようにと願ったが、石舟斎は笑って、「とんでもないことだ、それは百姓どもへ対して、わしの方から申すことばだ。百姓たちは、田にあって働ければ、五穀こくを産む手をもっておるのに、その暇をつぶして、わしの如き、無禄むろくの隠士の住居すまいを繕なおすに集まって来てくれておる。――勿体ないことである。何で、わしが安閑あんかんとしていてよいものか」そう云って、「孫よ。土を担かつげ。――土を担ぐも兵法であるぞ。――五郎右衛門と宗矩むねのりとは、その石垣の崩れに石を積め。――石を積むは、智を積むのだぞ、智を積むのは、手でないぞ、頭で積むのだぞ」と、従えている子息や孫たちを指揮し、その労働のあいだにも、何ものか、学ぶものを得させようとして訓おしえていた。
家士も日頃から百姓仕事には馴れている。主従は一体となって汗と土にまみれ、明るい初秋の陽の下もとに、勇壮な鍬の音、土の音などが、掛声の中に揚あがっていた。
ばらばらっと、大手の坂の下から、やはり野良仕度のらじたくの家士のひとりが駈け上って来て、「甲斐守かいのかみ様がお越しになりました。――黒田甲斐守様が、ほんのお身軽で」と、あわただしく告げた。
石舟斎は、鍬くわの柄えを立てて、「なに、長政ながまさ殿が」と、坂下へ目をやった。
馬を家臣の手にあずけ、ただ一名で、もうこれへ登って来る人が見える。黒田甲斐守長政の姿であった。

長政は、黒田如水じょすいの嫡男ちゃくなんであった。
彼はまだ若い。しかし父官兵衛孝高よしたかが早くも薙髪ちはつして、その封土豊前ぶぜん十六万石の家督を譲っているので、長政は若くしてすでに一城の主あるじであり、京大坂にあっては、錚々そうそうたる若手の武将だった。
「やあ、老先生。えらい姿でお働きですな。この辺の地震の被害も、思ったより大きいので、道々、驚いて参りました」
長政は、師礼を執とって、石舟斎の前に、こう挨拶した。
石舟斎は、木陰の床几しょうぎへ、彼を招じ、自分も一憩ひとやすみと腰かけて、「いつもお身軽ではあるが、今日はまた、何事で?」と、来意をたずねた。
双方、気軽な応対のうちに、親しみがある、情味が見える。石舟斎は、長政の恩師であり、長政は、石舟斎の愛まな弟子だった。
多年、剣の究明に没入して、世事をかえりみなかったために、石舟斎は領地をも失ったが、その代りに心には不動の光明を点じ、周囲にはいつとなく有為ゆういな弟子が多く集まっていた。
長政もその一人だった。父の如水と石舟斎とは茶禅の相識であった関係から、もっとも早く入門して、在京中は月に幾度となく騎馬でこの山荘まで通って来て、技わざを磨みがき、道をたずね、心法の鍛錬たんれんをうけていた。
「いや実は、老先生を世の中へ引出す大役を帯びて、徳川殿にも、必ずお連れして参ると、堅い約束をして罷まかり越したわけです。――老先生、長政がお供仕つかまつります。枉まげても、一度お会い下さい」
「誰とな?」
「徳川殿と」
「家康公へお目にかかって、どういうはなしをせいと仰せか」
「いえ、ただ一度会いたいと御意ぎょいされておるだけのことです」
「天下多事の際、徳川殿ともあろう忙しいお方が」
「何の、多事なればこそです。――世は挙げて、老先生のような人材を求めている秋ときなのです」
「石の舟は石の舟、不器用が生れ性だ。沈んだが最期浮び出る気もない。――石舟斎には左様な御推挙ごすいきょ無用でござる」
「強しいて御推挙するつもりでもありませんでしたが、自然、武芸のはなしとなれば、老先生のおうわさに及び、長政のみならず、大徳寺の和尚も、その他の人々も、天下の剣道の名人といえば、上泉伊勢守亡なきのちは、柳生の老龍ろうりゅう以外にはないと――これは、吾々が推挙までもなく、世の名声というもので、徳川殿にも夙つとに聞かれておいでなされます」
「…………」
「で。それがしに対し、また父の如水じょすいに対しても、再三の御懇望ごこんもうなのでござる。――ぜひ一度、召連れて参るようにと」
「…………」
「折ふしこの度たびは、大坂城、聚楽じゅらく、洛内などの、地震御見舞として、関東より上のぼられ、ここしばらく、京都紫竹村の鷹ヶ峰に、王城御警固の任につかれ、野津の仮屋におられましたが、いよいよ、近日には関東へお帰りとあって、一しお御催促が急なのでござりまする。――枉まげて、御苦労には存じますが、京都までお運び下さいますよう。長政の面目めんぼくも立ちまする。かくの通り、おねがい申しあげます」
「…………」
老龍――柳生谷の老龍――近ごろ誰となく宗厳むねとしのことを世人はそうよんでいる。深淵の潜龍せんりゅうという意味か、蛟龍こうりょうの池ちにひそむは伸びんがためというところか、とにかくそう称されている彼は、
「……さて」と、口のうちで呟つぶやいたまま、久しい間、秋の空に眼を放ったまま、考えこんでいる面持おももちであった。
その眼を、ふと地に落すと、そこには土けむりを浴びて、哀れな家士や孫たちが、汗みどろに働いていた。彼の眸は、不愍ふびんにうごかされた。涙を溜ためないばかりであった。
「長政ながまさどの」
「はっ」
「参ろう。すぐお供申そう」
「えっ。では、お越し下さいますとな」
「ただし、嫡子ちゃくし五郎右衛門と宗矩むねのりの両名に、もう一名孫まごの兵庫利厳としとしを連れて参りたいが、どうあろうか」
「願うてもないことです。御子息、お孫たちまで、みな老先生をしのぐ俊才しゅんさいと、徳川殿もよくおうわさのことゆえ、お伴つれ立ってあれば、徳川殿にもいっそうお欣よろこびでございましょう」
「では、直すぐにも」と、心を極めると、悠長に構えたり、徒いたずらに勿体ぶっている石舟斎ではなかった。
「おうい。五郎右衛門、宗矩もこれへ来い。……孫はおらぬか、兵庫も呼べ」と、自身さしまねいて、伴つれてゆく若者たちを、土けむりの群むれの中から呼び出した。

「何ですか。父上」
「祖父様じじさま。およびでございます」
名をさされた若者たちは、忽たちまち彼の前へ駆けて来て並んだ。どれもこれも土くさい百姓のように日焦やけしているが、さすがにその態度や眼ざしには、老龍の子とも鳳凰ほうおうの雛ひなとも見える気稟きひんを備えていた。
――四男の五郎右衛門が、その時二十八歳。
――五男宗矩むねのりは二十六歳。
そして、孫の兵庫利厳としとしが、まだ十六歳だった[#「十六歳だった」はママ]。
「支度せい。これよりわしと共に、長政殿の案内で、京都にある徳川公の御陣所まで罷まかり出る。――各※(二の字点、1-2-22)、手足を洗うて、厩うまやの馬に鞍くらをつけ、先に坂下の門まで出ておるがよい」
いい渡すと、「暫時ざんじ、失礼を」と、石舟斎は、自分も身支度のため、館たちのうちへ入って行った。

彼は、子福者のほうであった。
由利女ゆりじょと結婚したのが早かったせいもあろうが、男女十一人の子と、三人の孫とがあった。
だが、現在、男子で健康なのは、四男五郎右衛門と、五男の宗矩むねのり、そして孫の兵庫ぐらいしかなかった。
長男新次郎厳勝としかつも、衆にすぐれた若者だったが、備前の浮田家に仕え、十六歳の初陣に鉄砲で腰を打たれ、不具の身となってから、柳生に帰って引籠ひきこもったままである。
孫の兵庫は、その子である。
また。
次男は久斎といって、早くから沙門しゃもんに入り、三男の徳斎も病身で仏門に帰依きえしていた。
「娘どもには苦労はない。……女子おなごは産み捨て」と、石舟斎はいつも笑った。その半面には、いかに男の子や孫たちには、彼が人知れず育成の丹精たんせいをこめているか、世に送り出す苦労をしているか、思いやらるるものがあった。
「そちたちは、石の舟ではならぬ」
どうかして、晩酌ばんしゃくの室へやに、子や孫たちを集めて、微酔びすいのことばで戯たわむれなどする折、戯れのうちにも、石舟斎は訓おしえていた。
「わしが石の舟となったのは、わしが生おい立たち頃から近年にいたるまで、世は乱麻らんまのごとく、武門の道も、生きる道も、洪水こうずいのような濁流だくりゅうに侵おかされ、正しく道をとろうにも、正しく進めず、正義にあろうとすれば、滅亡か餓死がししかないような時代であったからである。――いわばこの石の舟は、洪水の濁流に、狡ずるく韜晦とうかいして来たのじゃ。かくせねば、とうに柳生家そのものは、水泡の如く、亡び去っていたかもしれぬ。……いや七百年来のわが家も、この辺りのすでに亡き土豪の如く、過去の土中へ葬ほうむられ去ったにちがいない。石の舟なればこそ、貧しくとも、今なお、有る所にこうして有ることができたのじゃ。……柳生城この山に、消えずにあるこの団欒まどいの燈火ともしびは、わしの眼には、むしろ奇蹟とも見える」
そういう述懐じゅっかいをしたことがある。
宗矩も五郎右衛門も、頭こうべを垂れて、聞き入っていた。――わけて多感な兵庫利厳としとしなどは、「祖父じじ様は、お辛つらかったでしょう。口惜しいことが、幾度もあったでしょうね」と、幼い胸にも、祖父の忍苦の生涯を思いやって、すすり泣きをし始めた。
「兵庫は、たのもしいやつ」
孫は可愛いいものという。老龍石舟斎も、眼のうちにも入れたそうな程、兵庫は愛していた。
しかし、盲愛ではなかった。
兵庫の天稟てんぴんの才を愛したのである。事実、十六歳の兵庫は、すでに、叔父の五郎右衛門や宗矩をしのぐものがあった。
とはいえ、その五郎右衛門といい、宗矩といい、おそらく畿内きないの剣人では、比肩ひけんし得る者はなかった。
「もう何処へ出しても、独り歩きはできる者達よ」と、石舟斎は、当人にも、他人にも、許してそう語っていた。
――が、世間の真ん中へ連れて行くことは、恐らくその日が初めてといっていい。しかも、征韓せいかんの大役たいえきにかかってからとみに落陽寂寞せきばくの感ある大坂城の老太閤たいこうに比して、今や次の時代を負う人と目されている徳川家康の前へ出るなど、余りにも、この山の子らには、唐突な曠はれがましさであったに違いない。

「支度はよいか」
一蓋がいの陣笠を手に、老龍はもう身支度をして出て来た。
「祖父じじ様。こちらです、こちらです」
遙はるか、坂下の大手門のそばで、孫の兵庫が手招きしていた。石舟斎は、自分の早支度をひそかに誇っていたらしいが、「やっ、もう出おるか、さすがに、若者どもの早さよ。そうなくてはならぬ」と、負けたのを欣ばしげに、足を早めて降りて行った。
馬の口輪は兵庫が把とる。
石舟斎は、それに乗った。二人の子は、徒歩である。
案内役の黒田長政ながまさは、
「どうぞ御子息方にも、お馬に召されますように」
と、謙遜けんそんして、騎馬をすすめたが、
「いや、若い者には鉄脚がある。――いざ参ろう。御案内へ、先へ立たれい」
坂の途中の石垣の土煙はその時熄やんで、秋の大気は澄んでいた。汗をふき、鍬くわの手を止め、百姓たちは、廬ろを出る老龍と、伴ともなわれてゆく鳳雛ほうすうのすがたとを、見送っていた。――
「ああ、こうしてみると、大殿もお年を召したはず、若様にもお孫様にも、いつしかお立派な骨柄になられた……」
じっと、立ち並んで、目礼を送っている家士たちの眸には、涙があふれかけていた。
一剣治天下

近くの地には、紫野むらさきのの大徳寺とか、その他、宿舎として恰好かっこうな建物がないではないが、家康いえやすはわざと鷹たかヶ峰みねの麓ふもとに野陣を布しいて、将士と共に野営していた。
こんどの大地震には、御所の築地ついじも大破して、内裏だいりの方々さえ幾夜か夜露よつゆの外に明かされたと聞えているほどなので、地震御見舞として上洛した家康のそうした慎つつしみは、当然でもあった。
洛内守護の任を果し、併あわせて伏見城に秀吉の安否を見舞って、彼は近く関東に帰る予定であったが、なお、ここに野陣している間も、「すべて戦時下の心得であること」を、陣中の法規として、自身も日中は物具もののぐすら解かなかった。
日盛りの木陰に、軍馬も懶ものうげに瞼まぶたをふさいでいた。蝉せみしぐれは、耳を聾ろうするばかりである。
「やれやれようやく辿たどり着きました。老先生、どうか駒を降りて、暫時、木陰でお涼みください」
黒田長政ながまさは、そう云って、陣門の傍かたわらに師の馬を曳ひきよせた。
石舟斎は、鞍くらの上からそっと降りた。従ついて来た四男の五郎右衛門、五男の宗矩むねのり、孫の兵庫の三人は、「おつかれでございましょう」と、各※(二の字点、1-2-22)、側へ寄って、老体の石舟斎を劬いたわった。
長政は、その間に、「すぐ戻って参りますから」と、断って、陣中へはいって行った。もちろん家康へ取次ぐためであった。
間もなく引っ返して来ると、「どうぞ」と、改めて、長政は自身、案内役に立って、柳生家の人々を、営内へ導いた。
木陰木陰に幕舎ばくしゃがある。整然とした中にも、将士の笑いさざめきなどが洩もれてくる――家康のいる仮屋は、林の小道をだいぶ歩いてからであった。翠みどりを映して、葵あおいの紋幕が、涼やかにうごいている。
鷹ヶ峰から落ちてくる水音がせんかんと耳を洗う。林間の一茶亭には、釜がかかっていた。その辺りのたたずまいでは、今し方まで、家康の主従と、大徳寺の僧などが、そこで茶を喫きっしていたらしく思える。
「すぐにと、お仮屋の方で、お待ちうけになられていますが、お急ぎにはあたりません。それなる清流でゆるゆる汗をお拭ぬぐい遊ばした上で、お支度もととのえ、それからお目通りなされたがよいでしょう」
長政は、士卒にいいつけて、小桶こおけやら手拭などを、流れの側に運ばせた。
「――何事も其許そこもと任まかせに」と云わぬばかり、石舟斎はうなずいて、彼のいうがままに、そこで顔の汗塩あせじおを洗い、手足をそそぎ、刀の笄こうがいを抜いて、孫の兵庫の髪まで撫なでつけてやった。
「祖父じじ様のお髷まげもすこし直しましょう」と、兵庫は、笄こうがいを取って、石舟斎のうしろに廻った。
兄の五郎右衛門はまた、弟の袴腰はかまごしをうしろから締め直してやっている。――こうした些事さじは日常の家庭で繰返している生活の断片にすぎないが、この林間に切離して見ていると、日頃の家風も偲しのばれて、美しくもあり床ゆかしい情景でもあった。
「お支度はおよろしゅうございますか」
長政も一休みして、物陰から立出て来ると、石舟斎は礼儀を施ほどこして、「お待たせいたした。御厄介ごやっかいながら」と、案内を乞うた。
そしてふと、もう一度、子や孫たちの姿を振顧ふりかえったが、五郎右衛門の顔いろが何となく蒼白あおじろく見えたので、「そちは昨夜、充分に睡ねむりをとらなかったとみえるな」と、訊ねた。
五郎右衛門は、はいと頷うなずいて、「旅籠はたごの蚤のみや蚊かが気になって、まじまじと眼ばかり冴さえ、明け方になってすこしばかり眠っただけでした」と、有りのままに答えると、石舟斎は袂たもとから少量の紅殻べにがらをふくませた打粉を取出して、「貴人の前へ出るに、そのような憔悴しょうすいした面おもてをもって、お目通りに伺うものではない。病者かと御覧ぜられるだけでも御不快であろう。これで程よく頬ほほを刷はいて、不つつかのなきように心を慥乎しかと持てよ」と、訓おしえた。

仮屋と云っても、二の間三の間もある。わけて主室はかなり広い。
涼やかな藺筵いむしろが敷いてある。大名らしい客が二、三名、ほかに天海とよぶ僧、大徳寺の和尚などが座にあった。武将は各※(二の字点、1-2-22)武装しているが、座談は至極しごく気らくらしい趣おもむきであった。
柳生谷に古い豪族ではあるが、今は無禄むろくの郷士ごうしにすぎない。当然、柳生父子おやこは庭へまわって、地上に座を占めた。そして奥まった仮屋の一室に聞える人々の気配をそれと察して、両手をついて控えていた。――石舟斎、五郎右衛門、宗矩、兵庫という順に。
つかつかと奥から跫音あしおとが渡って来た。簀子縁すのこえんから降りて、床几しょうぎを持てとその人はあたりの者にいいつけている。それが家康であった。
「はっ。これへ」と、近侍きんじが彼のみへ、一つの床几を置くと、家康はなお、腰をおろさず、「老体へもお席をさしあげい」と、云った。
近侍は恐縮して、あわててもう一つの床几しょうぎを、石舟斎の方にすえた。石舟斎は、「畏おそれ多いお扱い」と、固辞して、容易にそれへ着かなかった。
彼は、自分を迎える家康の厚い好遇に、年のせいか、涙もろい瞼まぶたの熱きをまず覚えた。六十八歳の今日まで、世が彼に遇して来たものは、白眼か、策謀さくぼうか、利用か、酷薄こくはくか、いずれにしてもかくの如く温かなものには絶えて遇あった例ためしがない。
家康の心を酌くむならば。
室には格式のうるさい僧侶や大名などもいるので、無名の一郷族ごうぞくを、座へ招じることはできないし、と云って、長政を使いとして、自身から迎えた客なので、礼も執とらねばならない。――そう考えて自分から室を下り、石舟斎にも床几をすすめて、主客対等に話そうとする心もちが、云わでも、石舟斎にはよく酌くみ取れたのである。
「老人、遠慮は無用じゃ、床几へお倚よりあれ。室内よりは、ここの木陰のほうが、むしろ清涼、ゆるりと語り申そう。――長政、老人へ床几をすすめてつかわさぬか」
「はっ。……老先生、あのように仰せられます。頂戴ちょうだいなされてはいかがでございますか」
「では、おことばに甘えるかの」
石舟斎は、ようやく、起って腰をうつした。
家康も剣道は学んだ。また、幾多の達人と称する者を見ている。
その眼と体験から見れば、石舟斎の何らの覇気はきも衒気げんきもない、淡々たる朴醇ぼくじゅんな風は、これが上泉伊勢守なき後の宇内の名人かと疑われるほどであった。
が、さすがに家康は、
「これでこそ、真の名人」と、むしろその覇気のない姿に傾倒した。
「使いをもって、遠路、老体をわずらわしたが、実を申せば、江戸にある嫡子ちゃくし秀忠ひでただに、剣の良師を求めておる。早速であるが、徳川家に随身ずいしんの意志はないか。それが問いたいのじゃ。もっとも長政を通じて、先に、余り気のすすまぬようなことは聞いておるが、もいちど、念のために……。どうであるな?」
家康は率直に、求めるところを云い出した。
それに対して、石舟斎は、心から頭をさげた。大きな知己ちきの言として、感謝の色を満面にあらわして答えた。
「まことに忝かたじけないお言葉にござりますが、この老骨は、すでに御奉公申しても、御奉公のかいなき老朽に過ぎませぬ。また、物事にはや懶ものういくせがつき初そめて、仕官の意志だに燃え立ちません。――が、願わくば、これに連れ参りました二人の男の子と、一名の孫のうちに、万一お眼鑑めがねにかなう者がござりましたら、お取立て下されますように。実は、わたくしの方よりその儀お願いのために、このたびは進んで長政殿の御案内に従ついて来た次第にござりまする」
すでに自分の老おい先さきと命めいを自覚している石舟斎は、この雛鳥ひなどりの孫や子を如何にもして世に出したいと思っていたに違いない。今、彼が家康に陳のべたことばは、何のかざりも誇言こげんもなく、平凡な頼みに過ぎなかったが、しかし、その淡なる辞句のうちには慈父の大愛というような切実な情愛がこもっていた。真心は面おもてにあふれ、やはり愛児の将来を江戸の地にいつも想う家康には、その気もちが分りすぎるほどよく分った。
「いや、よく分った」
家康は大きくうなずいて、
「三名とも、さすがは柳生の子息なり孫なり、いずれもよい面つらだましいの若者とは見うけるが、して、石舟斎には、この家康が子息への師範しはんとして、このうちの誰をかわしへ推挙すいきょしたいと申すか」
「所詮しょせん、まだ若年者、御師範などとは、烏滸おこがましゅう思われますが、お相手という程なれば」
「どちらでもよい」
「五男の宗矩むねのりをお召しつれ給われば、ありがたい仕合せに存じまする」
「宗矩をか」
と、家康は、改めて、石舟斎の床几の左に坐っている二人の若者をながめた。
家康から眼を注がれると、宗矩はハッとしたように頭かしらを下げた。けれど彼の隣にある兄の五郎右衛門は、ここの木陰のそよ風と、耳を洗うような快こころよい蝉しぐれの音に、先刻さっきからうっとりとしていたが、いつのまにか居眠りをし始めていた。
また。石舟斎の右側にひかえていた孫の兵庫は、眼をつぶらに見はって、無遠慮に家康の顔ばかり見ているのである。血はひとつの父母から生れても、その性格は三人三様であった。

五郎右衛門の居眠りも、兵庫の無遠慮も、石舟斎は、これがありのままの若者と、許しているかのように、咎とがめもしなかった。
家康も、にやにや眺ながめて、敢あえて、それに依って、石舟斎の躾しつけを疑おうとしなかった。
「宗矩むねのりは幾歳になるの?」
「二十六歳にございます」
「そちが推挙するからには、この三名のうちでは、宗矩がもっとも道に達しておると認めておるのか」
「いや」すこしあわてて石舟斎が答えた。
「当人を前において申してはいささか不愍ふびんにござりますが、剣の強弱としては、この三名の中で、宗矩がもっとも弱いかと存ぜられます」
「……ふウむ、一番未熟みじゅくというか」
「未熟というおことばは恐れながらちと当りませぬが、弱いことは、慥たしかに弱いと申されます。――けれども不肖石舟斎が宗矩に仕込みましたものは、徒いたずらに、強きを能のうとする剣道ではございません。――また、宗矩の性格に、そうした剣は身に持てぬところでもありますので」
「然らば、何をもって、宗矩は能とするか」
「治国ちこくの剣にございます」
「治国の剣。……それは初耳はつみみじゃが、どういう意味か」
「世を治めるの剣。民を愛護し泰平たいへいを招来するの経世けいせいの剣にござります」
「剣にもそういう徳があるか」
「術ではなく、道であります故に。――すでに道である以上、聖賢せいけんのこころ、禅の要諦ようたい、経世の要義、その道のうちにあらぬはございません」
「すると、学問だな、まるで」
「学問は理念を基とし、人の知性にのみ多く拠よりますが、剣は、体得の実相を主として、生死の解決から先にして、ただ実践をもって道に入るものです。故に、これを君主が行って、治国経世ちこくけいせいに、その理を用いうるにしても、自ら知識から得たそれと、実相体得から入ったそれとは、現わされる御政道の上に、大きな相違があるかと考えられます」
「わかった」
家康は、豁然かつぜんと、眼をあげて、梢のあいだの碧あおい夏空を見入った。
「……そうか。ムム、そうか。いやよく相分った。宗矩むねのりの性質もおよそその言葉で察せらるる。では宗矩を、今日より江戸の秀忠へ、奉公に差出すこと、異存ないな」
「何とぞ、お伴ともないねがいまする。宗矩、そちも、よう心を定めておろうな」
「はい」宗矩は、明確に答えたが、身に過ぎた大任を、果たして充分に勤められるかどうか、さすがにやや不安ないろを面おもてにかくしきれなかった。
「彼方の茶屋へ来ぬか。……茶などつかわそう。めでたい主従のかため」
家康が床几しょうぎを立った頃、五郎右衛門は渋そうな眼をあいて、そのくせ、何もかも知っているように、取澄ました顔をしていた。
陽なた竹

二十六歳、初めて老父の膝を離れて、彼は「奉公」の生涯にはいった。世の中に立ったのである。
その又右衛門宗矩むねのりが、ちょうど三十歳となった年の六月には、主君家康の軍に従って、上杉景勝かげかつを討つため、野州小山おやまの陣中に、一旗本として働いていた。
「柳生どの、柳生どの。御主君のお召しであるぞ。急いで――」
近習の一名に麾さしまねかれて、宗矩は、何事かと急いで、家康の幕営ばくえいへ駈けて行った。
家康は、祐筆ゆうひつに認したためさせた自身の書面を、膝においた手に持って、床几に倚よっていたが、
「宗矩か――」と、彼のすがたへ眼を与えると、手にしていたその書面を授けてから云った。
「この一書を持って、そちはすぐに陣を脱し、そちの郷里大和やまとの柳生谷へ急げ。仔細しさいはこれにある。……ただ老来、久しゅう相会わぬが、石舟斎にも変りないか、くれぐれ身をいたわるように、家康が申したと、よしなに伝えてくれい」
「えっ……では私は、せっかくの御合戦に、お供はかないませぬか」
「何も問うな。ただ急げばよい」
「……でも、上杉攻めの御陣中から、私のみ退去を命じられ、故郷へ帰って参りましたと、何でおめおめ老父に会って申されましょう。身不つつかのため、御陣中に留めおくこと相成らぬとの御叱責ごしっせきなれば、自決して相はてたほうが老父のよろこびと存じまする」
「はははは、疑うはもっともじゃが、そち一身に関かかわったことではない。何も申さず立帰って、石舟斎に儂みが書面をわたし、そのうえのこととせよ」
宗矩はぜひなく退さがって、即日、大和やまとへ急いだ。――が、その途中、江州ごうしゅうまで来ると、事態の真相がわかった。
上方かみがたの形勢は一変して険悪を極めていたのである。家康が野州へ向って手薄となったのを観て石田三成、小早川秀秋、浮田中納言、その他の反徳川聯合は、俄然、活溌な行動を起し、この機会に、大坂城以外の関東勢力を一掃せんものと、すでに大きな陣容のうごきが、京、伏見、近江、美濃の尨大ぼうだいな地域にわたって起され、その先鋒はもう関ヶ原の一端に、いわゆる「天下分け目」のただならぬ気を孕はらんでいたのだった。
小山陣から帰された者は、ひとり自分だけでないこともわかった。大小名の帰国してゆく者も多い。単身、物の具を携たずさえて、何処へやら急ぐ藩士や浪人も町に見えた。
「何か、容易ならぬ御書面とみえる。時遅れては――」と、宗矩は夜を日についで馬を励まし、郷里柳生谷へ急ぎに急いだ。

鷹たかヶ峰みねで手放されてから、そのまま父と相会わぬこともすでに四年ぶりであった。どんなにお変りになったろう。いやいや、平常ふだんのお心懸こころがけ、老来いよいよ御壮健かも知れない。
宗矩むねのりの心は、公私二つに惹ひかれていた。――主君から託された父への書面の内容も気がかりであった。
「やっ、叔父上ではありませんか」
兄の厳勝としかつの子――兵庫はちょうど何処からか帰って来たところだった。以前とすこしも変らない小柳生城の坂門の外で、今、馬を降りた宗矩のすがたを見ると、驚いて駈寄かけよって来た。
「オオ兵庫か、大きゅうなったな。はや二十二か。むむよい若者ぶり……。思わず見ちがえた」
「叔父上にもお変りになりましたぞ。逞たくましくおなりになりました。祖父じじ様が御覧になったらどんなにお歓びでございましょう」
「父上は、御健勝か」
「おかわりもなく、近頃は静かに御書見を好このまれています」
「……ああ、それを聞いて、ひとつは安心。兵庫、先に行って、お耳に入れい。宗矩が立帰りましたと」
「はいっ」
兵庫は、奥の丸へ、駈込んで行った。
宗矩は、外曲輪そとぐるわの玄関にかかる。かくと知ると、若殿のお帰りと伝え合って、昔ながら仕えている家臣や小者たちが、彼を迎えて、下へも措おかない騒ぎである。
「おう、助九郎も達者か。庄兵衛も髪が白うなったの。やあ、五平太もおるか」
懐なつかしさに包まれながら、家臣たちに笠をあずけ、衣服の埃ほこりを打たせたり、草鞋わらじの緒おなど解とかせていると、奥からばたばたと駈けて来た一家臣が、
「お待ちください! 大殿からのおいいつけでござる!」
父のいいつけと聞き、また、その家臣の口吻くちぶりにも、何やら峻厳しゅんげんなものを覚えたので、宗矩は、はっと立って、命を待った。
石舟斎の命を伝えて来たその家臣は、厳しい態度のうちにも、気の毒そうな容子ようすを見せて告げた。
「ゆるしなきうちは、草鞋わらじを解いて家に入ることは相成らぬ。用談は中門の墻かきを隔てて聞くであろうから、奥庭の境さかいまで廻れ――とのお言葉でござりまする」
「かしこまってござる」
宗矩むねのりは、父の意に従って、解きかけた草鞋の緒を結び直し、庭づたいに、中門のほうへ廻って行った。
中門の扉とは、片扉だけ開いていた。石舟斎は、その内側に立っていた。兵庫のことばでは、お変りもないといったが、四年ぶりに仰いだ宗矩の眼には、世にいう寄る年波の変り方が、余りにもはっきり父のすがたに見られた。
彼は、一目見ると、胸がせまって、あやうくも溢あふれかけるものを瞼まぶたに抑えながら、門の外に坐って一礼した。
「……宗矩むねのりでございまする。おわかれ申して後は、侍じしては大御所様の御陣に、平素、仕えては江戸表の秀忠様のお側に。――以後、御奉公に明け暮れもなく過ぎておりましたので、ついぞ御膝下ごしっかへ来て孝養もいたしませず、御ぶさたの罪、おゆるし下されますように」
彼が、そう云えば云うほど、眼にも見えるほど、老父の面おもては不機嫌な色になった。いや、巌いわへ刻きざんだ何人なんびとかの巨像のように、峻厳しゅんげんそのものを示すだけで、宗矩が胸にこみあげているような父子の温情らしいものは、その白い眉毛の一すじも見えなかった。
「……宗矩、何しに来た」
やがて老父が四年ぶりの子に対して、初めて云ったことばは、その一語だった。
「はっ。……申しおくれました。実は、大御所家康公おおごしょいえやすこうの御一書を携たずさえて、小山おやまの陣中から馳はせ参りました」
「では、飛脚ひきゃく役か」
「何かは存じませぬが、ただ急いで、柳生へ帰れとのおことばに依って」
「さてさて、そちも日頃、物の役に立たぬ者と、お眼鑑めがねに見られておるものとみえる。――今は一兵たりと、おろそかにならぬ場合。ただならぬ急な風雲の際。――可惜あたら、物の役に立つほどな男なら、御幕下ごばっかより除いて、お飛脚などはお命じあるまいに」
「……面目次第めんぼくしだいもございませぬ。が、何はともあれ、この御書面を」
懐中ふところのそれを取出して、老父の前へ捧げたが、石舟斎はなお手も伸べず苦々にがにがしげに云いかさねた。
「――と云うても、御奉公に出て以来、まだ四年、御用に立つ間もないは是非もないが、この父に対して、日頃の無沙汰の詫わびなどは何事か。奉公はどんなものかさえ弁わきまえおらぬか。……すでに、そちを御奉公にさし上げたその日から、石舟斎は、わしに宗矩という子があるとは思うておらぬ。ただわしが養育して世に出した一箇の者が、世にあって、いささかの奉公などしておるかどうか……それを案じる日はあったが」
「宗矩の心得ちがいでございました。おゆるし下さいまし」
「家康公の御書面を託されて参ったからには、そちは取とりも直なおさず徳川家の使臣ではないか。なぜ、家臣どもにもてなされて、わが家へでも帰ったように嬉々ききとするか。また、石舟斎のまえに来て、大地になど手をつくか。――主命の何たるものかすら忘れ果てるなど、言語道断ごんごどうだん」
「……はいっ」
「立て。――あらためて、徳川殿のお使いとして迎えよう。ここは庭口ではあるが、石舟斎が隠居所、略儀はおゆるしあって、お通りください」
老父は、手ずから、左右の門をひらいて、わが子の使者を、座敷に迎え入れた。

家康からの内書には、上方かみがたの急変を告げてあった。それについて、柳生家もこの際できるかぎりの、兵員を至急ととのえ、関東軍の出向うまでに、その戦場へ駈けつけて合力ごうりきするように――とのことだった。
石舟斎は、読み終って、「内書のお旨むね、慥しかと承知いたしました」と、宗矩むねのりに答えてから、「御苦労であった。お使いはこれで達した。そなたもお役を果した上は、ゆるゆる旅装を解き、皆の者とも会って来たがよかろう」と、初めて彼を犒ねぎらった。
その夜、石舟斎は、一族や家臣を呼びあつめて、家康の内書を披露ひろうした。もとより石舟斎自身も、年こそよれ出陣して、曠古こうこの大戦に加わる意気であった。
「では、われわれも、こんどの御合戦に加われますか」
心ばかりな酒宴となって、酌くみかわす杯のあいだに、人々はどよめき合った。年久しく用いなかった髀肉ひにくは疼うずき、淵に潜ひそんでただ鍛えるのみだった腕は鳴った。
「……時に、この中に、兄の五郎右衛門だけが見えませぬが、如何いかがいたしましたか」
宗矩は、さっきからそれを怪しんでいたが、老人も兄弟はらからも、五郎右衛門については、一言も触れないので、とうとう訊ね出したのである。
父石舟斎に伴われて、鷹ヶ峰の麓ふもとで初めて家康に謁えっした時は――自分と兵庫と、そして兄の五郎右衛門とが、三人してお目見得したものをと、宗矩は当時のことも思い合せながら、その姿の見えない座中を見まわして、一抹まつのさびしさを覚えたのである。
「ムム、五郎右衛門か。……あれについては、家臣のうちでもまだ知らぬ者もあろう。ちょうどよい折、語っておこう」
石舟斎はそう云うと、胸の傷いたむような面持おももちであったが、実はと――その夜まで公表されていなかった四男五郎右衛門の所在をうち明けた。
五人の子のうち、ひとり五郎右衛門だけは、さすがの石舟斎も手におえない男だった。型にはまらないというよりは型以上に大きいのだなど日常も自身で豪語ごうごして憚はばからないような人物だった。従って、この苔こけふかい柳生谷になど壮年までじっと屈していられる性格ではない。早くから家を飛出して、諸国を奔放ほんぽうに遍歴していたが、近頃、何かの手づるがあって、金吾中納言秀秋の小早川家へ仕えているという噂だけが聞えていた。
「ひとりぐらいは、柳生の蔓つるにも、ああいう変質へんなりの瓜もできてよかろう。――宗矩のごときは、余りに南向みなみむきのやぶ竹でありすぎるからの」
話し終って、石舟斎は、つぶやくようにこう述懐した。
南向きのやぶ竹とは、いったい何の比喩ひゆであろうかと、家臣たちは解けない顔していたが、そう例えられた当の宗矩には、よく分っていたとみえて、面目なげにさし俯向うつむいていた。
幼少の頃、父の石舟斎が、道場に立って、手ずから子を木剣で打ち鍛きたえ、また訓誡するたびによく、(――陽なたの竹ではだめだぞ!)と、云ったことを、宗矩は今、思い出すのであった。
宝蔵院ほうぞういんの胤栄いんえいが、よく尺八を吹くので、その胤栄がある折、尺八のはなしにことよせて、(御当家もお子達がたくさんであるが、子を育てるには、北向きの藪やぶ竹にしておかねばいけませんな)と、云ったのを、石舟斎がひどく感心して、それ以来、つい子どもへも、口ぐせになって出ることばであった。
胤栄いんえいが云った尺八のはなしというのはこうである。彼が、多年の経験に依ると、尺八を作るため、よい竹を探し求め、多年手にかけてみると、結局、地味も肥え、陽あたりもよい南向きの藪に育った竹からは、一本の名管も生れたためしはない。
それに反して、地は痩やせ、冬は氷や霜ばしらに虐しいたげられ、生れながらの若竹のうちから、蕭々しょうしょうと寒風に苦しめられて育った北向きの藪からは、勿論、笛にもならない拗者すねものもできるが、多くの名管はみなそこから生はえた竹にかぎる――という話なのであった。

「老父のお眼からみれば、なおわしは、陽なたの竹か」
宗矩むねのりは恥じた。
ことし男子の三十歳ともなって、徳川家の一麾下きかとなり、三千石の知行をうけて、奉公にある身が――と慚愧ざんきせずにはいられなかった。
また、不孝の大なるものと思った。
なぜなれば、石舟斎が、そういう胸のうちには、尺八の例もよく弁わきまえながら、子を育てる親には、どうしても子を南の藪に育ててしまう――平常ふだんの反省と苦慮と愛情とが蟠わだかまっているからである。そして今宵こよい――もう三十になったわが子を見てもなお、心ひそかに、陽なたの竹に育てたという悔くいをにじませている胸を察しると、宗矩は必然に、「まだどこか、自分が至らないからである。――自分の将来を、なお案じておいでになるからだ」と、天性の未熟を、自ら責めずにいられなかった。
その宗矩と較くらべると、兄五郎右衛門の素質はまったく反対である。早くから器量は一族にぬきんでて、老父の剣すらひそかに睥睨へいげいするの風があった。が、その兄も、老父の膝下しっかを去っているのみか、こんどは西軍の一方の雄たる小早川秀秋の陣にある。いうまでもなく、東軍に参加する石舟斎や宗矩とは、敵味方とわかれてまみえることになったのである。
初めて聞かされた家臣は、「お心のうちはどんなであろう」と、石舟斎の面おもてを仰ぐのも胸の痛むここちがした。平常ふだんは秋霜しゅうそうのようにきびしいが、実は、世の親の誰よりも子には甘い煩悩をも一面に持っていることをみなよく知っているからだった。
それから数日の後。
久しくこの古城に聞かなかった鎧よろいや具足の音が、鏘々しょうしょうと打揃って、陣列をなし、旗さし物や槍の光や馬のいななきと共に、美濃の戦場へ立って行った。
その中に、ことし七十二になる眉雪びせつの老将が、ひと際きわ、途上に見送る領民の眼をひいた。
氷こおりの縁えん

九月十九日、関ヶ原の戦端はひらかれた。
宗矩むねのりは、家康に対して、「父も何分老年ですから、願わくは父に代って、柳生の手勢をひっさげ、私に先鋒せんぽうの一手をおいいつけ賜わりますように」と、懇願こんがんしてゆるされた。
家康がその東軍の大部隊を、野州小山から引っ返して、三州の池鯉鮒ちりふにまですすめて来たのを、逸いちはやく宗矩がそこまで出迎えに出た時に――であった。
大戦が終って、天下の事は徳川家に帰すと、宗矩もまた論功行賞ろんこうこうしょうにあずかった。
柳生
本領二千石を封ぜられ、すぐ翌年、また一千石の加増をうけた。
そしてそれまでは、単に徳川秀忠の近衆のひとりであり、お相手役にすぎなかったが、以後明らかに、将軍家兵法師範という重職に登用され、但馬守たじまのかみに任官した。
で、かれは初めて、江戸に一家を興おこし、江戸柳生家の基礎をたてた。
世に出た子の将来を、そこまで見届けて、石舟斎も初めて、「……まず、但馬もあれで」と、安心したらしく見えた。
だが、世に巣立つ幾羽のうちには、悲運に終る子鳥もある。但馬守宗矩の兄――四男の五郎右衛門がそれであった。
元々、五郎右衛門だけは、幼年から石舟斎の規格にもはまらない豪放ごうほうな性質ではあったが、その後、諸国をあるいているうちに、小早川金吾秀秋の家に仕えていると、風の便りに聞えていた。
関ヶ原の陣中にもいたであろう。一時は、徳川家と対陣した西軍のなかに。――戦いくさの半なかばからは味方の石田三成以下を裏切って、関東軍の一翼となった秀秋の麾下きかに。
けれど、五郎右衛門は、石舟斎にも弟の宗矩にも、ついぞ姿を見せなかった。
その後、慶長七年。
小早川家は断絶した。――彼もまた流浪るろうして、伯耆国ほうきのくにの横田内膳ないぜんの飯山いいやま城に身をよせていたが、偶※(二の字点、1-2-22)たまたま、その内膳は、主筋にあたる中村伯耆守ほうきのかみに殺害され、飯山城は伯耆守の手勢にとり囲まれるところとなった。
五郎右衛門は、城内にいて、内膳の子主馬助しゅめのすけをたすけ、まったく義のために、寄手の大兵をうけて奮戦したのであった。
城は、慶長八年の十一月十五日に陥おちた。その落城の際の彼の働きこそ、当時しばらく中国の武人たちに鳴なり轟とどろいたものであった。
五郎右衛門は、焔ほのおをついて、城から半具足で討って出たが、大太刀を揮ふるって、仆たおれ歇やむまで、敵の甲胄かっちゅう武者十八人まで斬り伏せて戦死したという。
新陰流の古勢「逆風さかかぜ」の太刀を平常へいぜいから得意としていたので、その働きぶりは、殊にものものしかったとある。彼の従者の森地五郎八も、よく戦って斃たおれた。
彼の豪勇ぶりは、中国地方に、一躍、柳生流の名を高からしめた。――けれど石舟斎は、そのうわさはやがて柳生谷に聞えて人々の語り種ぐさとなっても、ただ暗然とするのみで、すこしも歓ぶ色は見せなかった。
「彼の剣は、わしの本意でない。柳生流の剣の一面を具現した強さにすぎぬ。五郎右衛門に倣なろうてはならぬ」
むしろそう云って、周囲の子弟を誡いましめた。

長男の厳勝としかつは先だち、その子久三郎は、朝鮮役で戦死し、次男の久斎、三男の徳斎、ふたりとも僧門に入ってしまうし、四男五郎右衛門は旅に果て、老齢の入道石舟斎の身辺も、ようやく、落寞らくばくとして、さびしげなものがあった。
ひとり五男の但馬守宗矩むねのりに、伝血の望みは嘱しょくされていたが、それも江戸常住となって、稀※(二の字点、1-2-22)たまたまの便りが、せめての楽しみであった。
ことし七十六歳の八月吉日。
彼はひとり焚香ふんこう静坐して、長巻の極意書がきをしたためていたらしい。
しかし、ふかく筐底きょうていに秘めて、人にも示さず、翌年また新あらたに一代の工夫と体験の精髄とを誌しるし、その年の末、ふたたび晩年に悟得ごとくした吹毛剣のことについて書き加えなどしていたが、翌年の春になると、長巻の末尾に奥書を染めて、ここにその業を終っていた。
「兵庫はいつ帰るのじゃ?」
時折、家人にたずねていた。
もうその頃、彼はひそかに、自分の天命に、ひとり期しているものがあったらしい。青葉若葉は、ことしの夏もしずかに山城の一荘をつつみ始めていた。

石舟斎が、掌上の珠たまのように、眼にも入れたいほど、鍾愛しょうあいして措おかなかったのは、孫の兵庫利厳としとしだった。
骨肉的にも、その天性の剣をも、彼はこの孫を、「わが家やの至宝しほう」と、珍重していた。
だから平常へいぜいもよく、「そちは、他家から求められても、千石が一粒欠けても、仕官してはならない」と、云っていたほどである。
肥後ひごの加藤清正から、彼と昵懇じっこんな黒田長政を介かいして、正式に兵庫をその家中へ懇望して来た折も、「千石ならでは」と、断わった。ところが清正は、他の家士のふりあいもあるので、表向き五百石、内分千五百石、客分として迎えましょうと、要求以上の好遇をもって答えて来たので、「それほどまで、孫の器量を御属望ごしょくもうくださるなら」と、一切を長政に託して肥後へ遣やった。
けれどその交渉の最後にも、もう一つ石舟斎から清正へ条件を云いたした。その条件とは、「兵庫事ことは、天性、御奉公を懈怠けたいいたすようなものではござらぬが、何といっても、若年者、それに短慮たんりょのところもありますゆえ、落度あっても、死罪三たびまでは、お宥ゆるしありたい」ということであった。
これを見ても、石舟斎が、どれほど兵庫を熱愛していたかがわかる。しかしまた、その無理な条件をも容いれてまで客分に迎えた清正の熱心と寛度も大きなものと云わなければなるまい。
その兵庫利厳が、肥後へ行ったのは二十五の年だった。肥後にとどまることも短く、わずか二年で加藤家を辞し、その足で彼は九州中国から北陸地方を遊歴していたのである。
本年二十八歳となった。先頃の便りでは、四月頃までには柳生に帰るとしてあったが、五月にも見えず、六月も過ぎかけていた。
「……兵庫はまだ帰らぬか」
石舟斎は、病床について、寝たきりとなると、なおさら、それのみ待ちこがれているふうであった。
「ただいま戻りました。兵庫でございまする」
秋の初め、秋の訪れ――。久しぶりな声は柳生家に聞えた。
石舟斎のよろこび方はいうまでもなかった。
一日、秋の気きの爽さわやかな昼。
「兵庫、こちらへ来い」
石舟斎は、病床を離れ、衣服もあらため、嗽水うがい、手水ちょうずまでつかって、奥の一室へ、孫の兵庫を呼び入れた。
「おからだは如何ですか」
「たいへん気分がよい。しかしもう枯木こぼくじゃ、もう咲く花は待たれん。たいがい秋の末か、この冬であろう」
「何を仰せられますか」
「死期のことじゃ」
「そ、そんな……ことは」
兵庫は泣き出した。二十八の――しかも千五百石で求められるほどな武士の偉材だったが、幼少から一倍愛された祖父のまえでは、やはりただの孫であった。
「愚かな涙を……」と、叱りながらも、石舟斎の面おもてもまた、一抹の哀愁あいしゅうはある。人間と生れたからは、何人にも是非ない別離の傷心であった。
「あらためて、今日はそちに授さずけておくものがある」
彼は自筆の「柳生流印可」の長巻に添えて、かつて自身が、上泉伊勢守からうけた、「新陰流相伝の書」「新陰絵目録」の三つをことごとく兵庫に授けたのだった。
「わしに一族の児輩は多いが、これを役立たしてくれそうなものは、そちしかない。終生、師鑑としてこれに怠るな。道業はそち一身や一生のみじかいものではないぞ。世々ひろく末代の衆と国土に益えきさねばならぬ。これを享うくる者の任はゆえに重い……たのむぞ、兵庫」

江戸表の但馬守宗矩たじまのかみむねのりは、国元の急報に接して、将軍家に暇いとまを乞い、落葉しきりな晩秋の駅路うまやじを、大和やまとへさして急いでいた。
にわかに病やまいのあらたまった石舟斎は、病床からひとみを動かして、「宗矩にも遙々はるばる見えられたか……」と、将軍家へ対して済まないような呟つぶやきをもらした。
枕頭には、門下の木村助九郎、庄田喜左衛門、出淵孫兵衛、その他ほか、多くの直門がみまもっていた。
その人々もみな、紀州家へ、仙台家へ、浅野家へ、各※(二の字点、1-2-22)仕官して一流一派をもう立てている者たちだった。
「心にかかるものもない」
石舟斎は、自分という巨幹から、枝となり葉となり花となり実みとなっている一門の子弟をながめて、むしろ楽しげであった。
諸家からの訪問、諸侯自身の見舞も絶えなかった。
泉州せんしゅうの沢庵たくあんなどが見えた日は、病室には談笑の声さえ聞えた。奈良ならの宝蔵院胤栄ほうぞういんいんえいは、かれよりも十数年まえに歿していた。
冬が近づく。極寒ごっかんに入る。
病は篤あつくなるばかりだった。
かれは一日、病臥のまま、その枕頭に、宗矩むねのりひとりだけを招いて、「見国の機――という旨むねを心得ておるか」と、たずねた。
宗矩がつつしんで教えを乞うと、「見国の機とは、兵法を通じて、一国の情勢を視みることである。剣理を基本として、経世民治の要を知ることじゃ」と、云い、またやがて、「そちは常に将軍家に対し、どういう心を旨として、剣を御師範ごしはん申しあげておるか」と、たずねた。
「天下を治おさむるの兵法をもって」と、宗矩が答えると、石舟斎は満足して、かすかにうなずきながら、「――庶人これを学べばすなわち身を修め、君子これを学べば学識を修め、王侯これを学べばすなわち国を治む。――庶人より王侯君子にいたるまで、みなその道はひとつ」と、大声で云って、しずかに眼をふさぎ、ややあってから、「そちには何の憂うれいもない。これで安心いたした」と、云った。
きょうか明日あすかとも見える容態になっても、石舟斎は決して厠かわやへ通うのに、ひとの手を借らなかった。手沢しゅたくのかかった細竹の杖をついて、病室の濡縁ぬれえんから後架こうかへゆくのを常としていた。
折ふし十二月の極寒ではあるし、伊賀境の山々から、粉雪は舞って、掃はいても掃いても縁にたまった。板縁は鏡のように凍るので、誰もよく辷すべっては怪我をした。周囲の者は、石舟斎の足もとをそこに見るたびに胆きもを冷やしたが、石舟斎は決して辷らなかった。
「あの御病体でありながら、何として? ……」と、人々がいぶかるのを耳に挾むと、石舟斎は枯葉こようのような頬にすこし笑みをたたえて云った。
「氷の縁えんをあるいて、後架こうかへ通ううちに、わしは工夫をこらし、浮身の法というのを発明した。それは浮身の太刀とも名づけられるもの。……一太刀、把とって、宗矩にも兵庫にも示したいが……」
その宵よいから昏々こんこんとして、遂に、彼の七十八歳の生涯は、雪ふかい柳生谷の晨あした、静かに終りを告げた。いやその遺業に悠久を約して大往生をとげたものと云えよう。
すでに死期を悟り、その死の迫っていた数日前まで、氷の縁を杖つきながら、なお、剣の工夫をしていた彼のごときこそ、真の名人というべきであろう。ゆかしい哉かな、尊い哉。この心をもってすれば、あらゆる道に達し得ぬ道はあるまい。  
 
剣の四君子 林崎甚助 / 吉川英治

 


母のすがたを見ると、甚助じんすけの眼はひとりでに熱くなった。
世の中でいちばん不倖ふしあわせな人が、母の姿であるように見られた。
「どうしたら母は楽しむだろうか」
物心のつき初そめた頃から、甚助はそんな考えを幼心おさなごころにも持った。
ふと、何かの弾はずみに、その淋しい母が、笑うかのような歯を唇くちにこぼすと、「母上がお笑いになった」と、その日は一日、彼も楽しく遊ぶことができた。
十二、三歳になると、そんな考えがもっと深くなって、「なぜだろ?」と、思うようになった。
自分が何をした時に、母の顔が欣うれしそうになるか、に気がつきだした。
「書ほんが好く読めた時と、長柄ながえの刀で、樹がよく斬れた時だ」
少年林崎甚助は、それからよけい声を張って良く書を読み、外へ出ては、身丈に過ぎた長巻刀ながまきを把とって、丈余の樹の梢こずえを、跳び斬りに斬って落した。
古い土塀門の外に佇たって、母は時折、微笑んでくれた。
その母は、またなく美しい人だった。年もまだ若かった。名は楡葉にれはといった。
楡葉は若後家であった。祖先からの土豪造どごうづくりの家は、羽前の大川たいせん最上もがみの流れに沿い、甑嶽こしきだけの麓ふもとにあった。山形から十里余、楯岡たておかの砦とりでから北へ一里、土称どしょう林崎という部落にあった。
この地方一帯は、足利家の管領斯波しば氏のわかれ最上一族の勢力圏けん内であった。甚助の父も、最上家の臣だった。
上杉謙信の越後本庄から最上川を溯さかのぼれば、最上領東根ひがしねの砦町とりでまち、また、黒伏嶽くろぶせだけや高倉の山道を越えれば、一路伊達家の仙台に通じる。武強の隣藩と境を接して、連年、ここにも戦乱は絶えなかった。
甚助は信じていた。
「わしの父者人ててじゃひとは、戦いくさで死んだのだ」
それは、父なき少年の、せめてもの誇ほこりでもあった。
ところが或る時、楯岡たておかの砦とりで町から部落へ来た馬商人あきんどの曳ひいて来た馬へ、甚助が他の少年たちと共に、悪戯いたずらすると、その中の一人の馬商人が、拳こぶしを振上げて、逃げおくれた甚助のうしろからこう呶鳴どなった。
「この童わっぱめッ。そげな悪性あくしょうな真似まねしさらすと、汝われが父者ててじゃのように、汝われも今に、闇討ち食ってくたばりさらすぞ」
その声は、甚助の耳より魂をつき破った。甚助は、色あおざめて逃げて来た。それからもう他ほかの子と遊ばなくなった。

長柄ながえという武器は、戦時の用具である。平時の刀では短きに過ぎるので、いざという場合、常の刀へ、常用の柄つかより寸法の長い特殊な柄をすげ替えて、これを引っ提さげ持もちにして、戦場へ働きに出るのである。
別名、長巻とも称よんでいる。
その寸法は、およそ三尺の刀身なかみへ、二尺二、三寸の柄をつける。三尺以上の刀になれば、それに三尺もある長柄をすげる場合もある。
林崎甚助は、天文十六年の生れで、その年少十四、五歳の頃は、ちょうど永禄年間に当り、戦国の英雄が諸州に覇はを興おこした頃であったから、長柄の流行は、旺さかんを極めて、戦場ばかりでなく、平時でも引っ提げて歩く者があった。
織田信長は、その頃、自己の歩兵隊に、刀の長サ三尺、柄四尺という長柄を揃えて持たせて、敵陣へ突貫とっかんさせて、いつも敵の一陣を縦横じゅうおう刺撃しげきして駈け崩くずしたということである。もっとも、それから間もなく鉄砲が渡来して全国に行き亙わたったので、後には、第一陣鉄砲隊、第二陣長柄隊というふうに、戦術の編制は変って来たが、とにかく甚助の少年頃には、ふと物置小屋を覗のぞいても、長柄の錆さびたのが一本や二本は転がっている程だった。それほど普及された兵具であった。
薪まき切りに、甚助が持ち馴れたのも、父の代に、戦場から束にして分捕って来た物のような中の一本であった。
それも、何のためか知らないが、母の楡葉にれはから、「枯れ木を拾うは百姓の子ぞ、そなたは、梢こずえの木を、長柄で伐おろして来やれ。長柄も背丈も届かぬ梢も、心して跳んで伐きって見やい。それしきもの斬れねば、殿様の御馬前に立って、戦いくさの場にわで人勝りの働きはならぬぞい」と、云い聞かされて、七ツ八歳やつ頃からし始めたことであった。雨さえ降らなければ、日課のように、「甚助。薪まきを伐おろして来やい」母は、いいつけた。
よく斬れると、遠くで、見ている母が微笑んでくれる。それが欣うれしさに、甚助は、高い樹へ、高い樹へと、次第に望みを大きく育てて、長柄を小脇に、仰いで迫った。

大同年間からあるという部落でいちばん古い杉木立がある。そこに熊野神社が祀まつってあった。部落の名をそのまま林崎明神ともよんでいる。
禰宜ねぎの山辺守人やまのべもりとは、時鳥ほととぎすや仏法僧ぶっぽうそうの啼音なきねばかりを友として、お宮の脇の小さい社家に住んでいたが、甚助の姿が見えると、かたこと木履ぼくりの足音をさせて出て来た。
麦餅や、麹飴こうじあめなどつつんで、「甚助、菓子やろう」と寄って来る。そして甚助の、鳥の巣のような頭を撫でて、一話しするのが、禰宜の守人にとっては、一日のうちで、人間と話をする唯一な時間のようであった。
ところが、その日ひに限って、甚助は、「お菓子、要らない」と、首をふって、守人をいぶからせた。
「喰べたくない」と重ねて云うのである。
長柄を横に置いて、朽くちた鳥居とりいの下に腰をおろし、眼すら、ぽつねんと、雲へやって、菓子を見ないのであった。
「そうかい」
守人は、強しいなかった。
顔をのぞいて訊ねた。
「甚助。どうかしたのか。この頃は、樹の梢へかかって、見事に枝を伐おろす姿も、ちっとも見かけないが」
「おじさん、どうしたんだろ」
「わしが訊いてるのだよ。どうかしたのかと」
「おらにも分らない。――この頃は、いくら樹へかかっても、今までは切れたぐらいな高さの梢も、急に斬れなくなってしまった」
「それはふしぎだな」
「だから、もう、樹を伐るのは、嫌いやになった。……だけど、伐きって見せないと、おっ母さんが、笑ってくれない」
「甚助、おぬしももう、十四だな。この頃は、よその子とも、遊ばぬのう」
「つまらないもの」
「考え事が胸にでき宿やどり始めたのじゃろ。何か、人にも云えぬ考え事が」
「ああ、無いこともない」
「そのためだ。わしに話してごらん」
「神主かんぬしさん」
甚助は、ふいに立って、守人もりとの胸へ、抱きついた。しゅくしゅくと泣き出したのである。
「なんだ、なんだ、男のくせに」
「おらの……おらのお父さんは、戦いくさで死んだのじゃないのかい。神主さんは、年老とっているから、おらが嬰児あかごの時分のことでも知っているだろ。話して、話して。よう、誰にもいわないから、俺にだけほんとのことを話してよう……」
守人も、眼を上げていた。
麦がよく伸びる頃の昼間の月に、禽とりの音が澄んでいた。

禰宜ねぎの守人もりとに連れられて、甚助は、家へ戻った。
守人から何か聞くと、彼の母は、いつにない改まった眼で、わが子を見、「口を嗽すすぎなさい。手を洗っておいでなさい。そして、お仏間へ来るがよい」と、云った。
甚助は、云われた通り、身躾みだしなみを作って、後から仏間へ行ってみると、母と守人が寂じゃくとして坐っていた。
御先祖の壇には、御灯みあかしがあがっていた。
「きょう初めてはなすが、真まことは、其方そなたの父は、人手にかかってお果てなされたのです」
母は、水のような声で、子に告げた。泣いてもいなかった。しかし、泣いている以上なものを、甚助は、その母の眼に見た。
それきり多くを母自身は語らなかった。
若くて美しかったその頃の彼女自身が、良人の横死の一原因であったせいもあろう。
が、あらましは、事情に詳くわしい守人もりとが、噛かんで喞ふくめるように聞かせてくれた。甚助が生れたその年のことだというから、天文十六年のことにちがいない。
坂上主膳さかがみしゅぜんという武士のために、楯岡たておかの藩祖の菩提寺ぼだいじのすこし下しも手町の辻で斬られたのであった。原因は意趣いしゅ、その詳つまびらかな事実は、おまえがもっと大人になれば自然分ってくる。母御もまた、話す折があろうと、守人は云った。
「わかったか」
「わかりました」
甚助は、そこでは泣かなかった。
青白い栗の花が咲いている厩うまやの横に佇たたずんで、独り眼を横にこすっていた。父の林崎重成しげなりが乗用したという馬も老いて、数年前に死んでいた。

元服したばかりの十五の甚助は、ひたむきに、何ものかを求めて、旅へ立った。
勿論、母のゆるしを得て。
世間も知らないそんな若冠じゃっかんの子を遠くへ見送るのに、当時の若い母親は健気けなげであった。しかも戦乱に次ぐ戦乱の世であった。
その年はちょうど川中島かわなかじまの大戦の翌年であった。
「大胡おおごのお城はどこですか」
上州へ来た甚助は、そこの城主、上泉伊勢守秀綱かみいずみいせのかみひでつなをさがした。
「お城はないよ」
土地の者は云った。
「伊勢守様も、もう都の空だよ。大胡城は去年、上杉勢に攻め落されて、石垣と焼やけ木杭ぼっくいしか残っていない。そこに今あるのは、上杉家の侍衆さむらいしゅうのお陣屋さ」
こう聞いて、甚助は空むなしく、常陸国ひたちのくにへ志した。大永年間の人で、鹿島神流の中興の祖松本備前守を初めとして、天真正伝神伝流の開祖、飯篠いいざさ長威斎もすでに遠い古人であるが、常陸の産であると聞いている。近くは、土地の土豪、塚原土佐守卜伝ぼくでんが、そこに住んでいると聞いている。
だが、訪ねて行ってみると、その卜伝も、「御遊歴中」とて、留守であった。
戦雲の世には、人も雲のように、諸国を去来していた。武芸者はわけても旅が生活だった。修行は遍歴にあった。
伊勢守秀綱とか、土佐守卜伝とかは、たとえ野やに在っても、土地の豪族なので、弟子郎党など四、五十人も召連れて、小姓の拳こぶしに鷹をすえさせ、乗更馬のりかえうまなど美々しく曳ひかせて遊歴した。
しかし、笠一つ、剣一腰で、時雨しぐれに会っても、乾ほす着更きがえさえも持たない武芸者もある。
雑多な時代の流れの中に、甚助も、一つの色だった。誰も怪しみはしなかった。この若冠な小修行者が、父の復讐を念じ、将来の大志を抱いているとは誰も見なかった。
四年経って帰って来た。
母の顔は、同じだった。
すぐ禰宜ねぎの山辺守人やまのべもりとが来た。家を立つ時と同じように、仏間に坐って、母と守人の前に手をついた。
「御修行は積んだかの」
母が訊たずねた。
「四年だけのことは致して参りました」
「仇かたきの消息は」
「ほぼ知れました」
「どこで見届けました」
「母上が仰せられた通り、やはり京都に住んでいました。松永久秀殿の御内みうちに潜ひそんでいるらしゅう思います」
「顕門けんもんに隠れていたのでは、近づく術すべもないと思うて、故郷くにへ帰って来られたか」
「いいえ、坂上主膳さかがみしゅぜんへ出会うのは易やすいことです。けれども強豪主膳を討つことは、決してたやすくはございませぬ」
「まだ、腕に、確しかと自信はできぬとお云いか」
「敵に勝つにはまず、敵を知るにあると申します。坂上主膳は、その後、京都に遁のがれてからも、風評のよくない男ではありますが、彼の武勇は、松永久秀が珍重して召抱えたのでも分ります。先さきつ年、久秀が室町の御館おやかたを襲おそうて、将軍義輝公を弑逆しいぎゃくし奉った折なども、坂上主膳の働きは、傍若ぼうじゃく無人な戦いくさぶりと云われております。いわゆる彼は悪人ながら、最上家もがみけにいた頃から鳴っている通り千軍万馬の士です。なんで甚助のような小冠者の細腕にようこれを仆たおすことができましょうか」
母は、子の言葉に、またたきもせぬ眼をして聞いていた。
守人は、「ううむ。成人したのう。やはり旅の風は人の子に世を歩む道を誡おしえてくれる」と、云って呻うめいた。

永禄十一年、彼が二十二歳の春だった。その二月中旬なかば頃から、五月末までの間、まる百ヵ日、彼は家に寝なかった。また、帯おびを解とかなかった。
林崎明神の神殿の辺りは、真昼、木洩こもれ陽びがすこし映さす時の他ほかは、昼も暗かった。守人もりとの住む社家の勝手元には、黄昏たそがれると、一椀の粥かゆが出されてあった。それが甚助の食事であった。夜が明けると、また一椀、盆にのせて出されてある。
守人は、姿を見せない。努めて見せないことにしていた。勿論、母の楡葉にれはも、ここへは近づかなかった。
ここは今、熊野権現ごんげんの聖地であると共に、林崎甚助にとって、生死を超脱ちょうだつした剣の道場だった。
彼は、百日の参籠さんろうを誓願したのだった。
朝夕一椀ずつの粥かゆを守人から恵まれる他ほか、何も口にしなかった。七日、二十七日は、まだまだ鋭気もあったが五十日、六十日となると、肉は落ち、眼まなこは澄み、皮膚は垢あかを持ちながら蝋ろうのように白くのみあった。
――喝かアっ。
――ええおうっ。
異様な声が、杉木立に谺こだました。
月の晩も。風の昼も。
――えやーつッ。
神殿の広前ひろまえに、彼は、三尺余もある長刀を、革紐かわひもで帯にくくし、われとわが影を、月の白い地上に睨んでいた。
革紐の帯をなであげて、左手ゆんでが、鯉口こいぐちにふれる。右手めてが、軽く柄つかをうつ。
瞬間。
上体が折れる。満身の毛穴から、喉のどを破って、声が発しる。
一揮き、風を断たつ。
その時はもう、風か影か、空を一颯さつした大刀は、彼の腰間の鞘さやに吸われているのだった。肉眼では、その間かんの剣のうごきは、見て取れないくらい迅はやかった。
この行ぎょうを、彼は、暁天ぎょうてんから夕べまで、また、宵よいから深夜まで、一日何百回、行の熟達につれて、何千回もくり返して行った。
疲れれば、拝殿の破れ廂ひさしの下にある、一枚の莚むしろの上に、身を横たえた。眠りから醒めると、すぐ大地に立った。
日の出るたびに、傍かたわらの大杉の幹へ、一太刀、刀痕を入れた。その刀痕の数が日の数であった。
世上良師多し。世転せてん縹渺ひょうびょうの間かん
師縁求めて求め難し如しかず直ただちに神しんに会わん
上泉伊勢守を訪ねて伊勢守に会わず、塚原土佐守を訪ねて土佐守に師事し得ず、その他ほか、当代著名の人、富田勢源、戸田一刀斎などの、高名を慕い、住居を追う間に、いつか四年の歳月を空しくした甚助は、翻然ほんぜん、
――直ちに神に会わん、と、悟さとったのであった。
自然は皆みな師しだ。一冊の書物に師となることばがあれば、一木一草にも師となる声はあろう。そう考えて、彼は自嘲の一詩を旅の記に賦ふし、故郷ふるさとの産土神うぶすながみの前に額ぬかずき、嬰児あかごにかえったような心で、「我に、前人未踏みとうの剣の極理を授けたまえ」と、すがった。
彼の誓願は、「人の末流を汲まんより、われ自みずから一流の祖たらん」というにあった。
諸国の剣人の実状を見、また、いよいよ剣磨けんまの時代の必然を、社会に視て来たからであった。
勝敗は髪一すじである。
間まの遅いか迅いかで勝敗はすでに決する。
剣のあつかい、間あい、心胆しんたんの工夫をした達人は尠すくなしとしない。
けれど、勝負に立つ、まず間髪の勝目を電瞬にとる工夫をした者はかつてない。
刀とうはすべて鞘にある。
刀が鞘を脱する時、勝負はすでにつきかけている。いや、勝目を掴つかむ機おりがあるはずである。
抜刀の法だ。練磨れんまだ。
それを研究しよう。究めて神しんに入り、そこの極理を掴つかもう。
甚助の誓願にかかった端緒たんしょは、実にそこにあった。

初め、木の皮も喰いたいような飢餓きがに襲われた。それがやむと、時折、胃ぶくろが暴れて苦悶した。それに馴れると、妄念もうねんが起った。肉体の疲労が、自分の踏む足にもわかった。そこを超えると、自己が分らなくなった。
五、六十日頃から、ようやく、「苦行のかいがあったか」と思われるように、頭脳は冴さえ、心は清澄に、技わざもわれながら、見事になって来た。
しかし、それは、技のみであった。
「心は?」と、訊ねてみると、空漠くうばくだった。何も得てない気がした。
「これでいいのか」
迷い出した。一心不乱がみだれかけた。壁に突き当ったように技も進まない。われとわが身がふがいなくなって死にたくさえなった。
そこを超えて、「何を」と、魔とも人とも思われない形相ぎょうそうになった頃、大杉の幹の刀痕は、九十を超えていた。
「もう百日」とも思わなかった。甚助は発狂していたかも知れないのである。一刀、一刀、また一刀、空くうを斬っては鞘さやにおさめる時の凄すさまじい彼の気合は、もうしゃ嗄がれ果てて、何ものか世にあり得ない野獣の咳声しわぶきのようだった。喉のどはやぶれ手足は血によごれていた。百日も櫛くしを入れない髪には落葉の骨がたかっていた。雨露にまみれた袴はかま、小袖、それも傷ましく綻ほころび果てている。そこからかなり距へだてている甚助の家へまで、近頃は、夜になると、最上川の水音より明らかに、彼の狂わしいしゃ嗄れ声が響ひびいて行った。楡葉にれはは、共に寝なかった。
いや遂には、「百日の間は顔を見せぬ」と、子へも、守人もりとへも、固く約した事も制しきれなくなって、守人の家まで忍んで来ていた。しかし、守人は、「今あなたが、甘い涙などそそいだら、あなたは何のために、甚助どのを、あそこまで、きつい心で育てて来たか、意味のないことになりましょう」と、窓を閉じて、固く一室に止めた。
それでも彼女は、破れ戸の隙間すきまから、時折、彼方かなたを窺うかがったり、耳をすましたり、悶もだえていたが、そのうちに、何思ったか社家の裏から馳け出して、最上川の畔ほとりに、衣をぬぎ捨て、月よりも白い肌、烏羽玉うばたまより黒い黒髪を、怯ひるみもなく、川水に浸ひたし、また川水を一心に浴びて、そこから見える神居かみいの森へ、夜もすがら、掌てのひらをあわせていた。
まだ五月の末だったので、川水は冷たかった。渓谷の奥ふかくには雪さえ残っている頃である。彼女は、凍こごえたまま、仆たおれていた。夜の白んだのも知らなかった。
同じように。
その夜明け頃。
甚助も、大刀を持ったまま、熊野権現の前に、平べッたくなっていた。完全に呼吸もしていなかった。肌も、死人のような色をしていた。
陽がさし昇った。
巨杉おおすぎの梢から金色の雫しずくが、甚助の背へぽとぽと落ちた。美しい毛艶の神鴉しんあが、ふた声ほど、高く啼ないた。
「甚助どのの母御が、最上川の水に浸って、気を失うてござらっしゃる」
河往来かわおうらいの船子たちが知らせて来た。それはちょうど、朝の粥かゆを炊たいて、守人が、神殿の前に仆れている甚助の姿に気づき、驚いて、手当をしていた時だった。
幸いに、二人とも、蘇生そせいした。元より母の楡葉にれはのほうが恢復かいふくは早かった。楡葉は気がつくと、寝食も忘れて、子の枕元に坐ったきりだった。
甚助も日ならずして恢復した。
床とこを払って起きた日に、彼は、身の垢あかをそそぎ、衣服を更かえて、「母上、一緒に行って下さい」と、云った。
「どこへ」
「神前へ、お礼詣まいりにです」
楡葉にれはは頷いた。そして心密ひそかに、わが子が百日の参籠とあの精進の結果、何ものか神霊の示顕じげんを得て、志す剣の工夫のうえに、一つの光明を掴み得たにちがいないと思った。
「守人もりと様、神灯みあかしをお願いいたします」
社家へ声をかけると、守人も来て、神前に菅莚すがむしろを展のべ、母子おやこの坐った端へ、自分も共に坐って、拍手かしわでをうち鳴らした。
「…………」
祈念をこめて、神へ心から額ぬかずき終って後、楡葉は甚助へ問うた。
「何ぞ、神さまの、御霊現みしるしをうけたかや」
「いいえ、べつに」
「百日のあいだに、何もなかったかの」
「八、九十日から先は、一切夢中でございました。何も覚えませぬ。精も力も尽き、昏々こんこんと仆れて夢中の霧につつまれたように気を失ったのが、ちょうど百日目の暁方あけがたでございました」
「それだけか」
「それだけです」
母はやや失望の色を泛うかべた。けれど甚助の胸には、口で言い現し難い何ものかが実は宿っていた。けれどそれを説明する言葉がなかった。
「行って参ります。――母上、もう一度お暇を下さい。こんどは、坂上主膳へ出会って参ります」
数日の後、彼はふたたび、旅へ立った。腰間ようかんの一水は、伝家の銘刀来信国らいのぶくにの三尺二寸という大剣であったという。

京都へ上るその途中だった。やがて木曾路へも近い一夜、信州岩村田の土豪北山半左衛門の家に泊った。
「お客様、逃げて下さい。はやく、はやくたいへんです」
真夜半まよなかのことなのだ。
主あるじの子息北山半三郎が寝室へ来て、甚助をゆり起し、顫おののきながら云うのだった。
「――茨組いばらぐみがやって来ました。木曾の宿々から善光寺いったいを荒して廻る茨組です。家財や金さえ攫さらってゆけば立去るでしょうが、お怪我があるといけませんから」
茨組という名は、街道いたる所で甚助も聞いていた。応仁の乱以後、室町幕府の紊乱ぶんらんにつけこんで、京都に簇出そうしゅつした浪人くずれの無頼者ならずものの一団である。
しかし、その京都や浪華なにわでも、近頃は取締りが厳しくなった。近畿や地方の都会でも、信長とか、朝倉家とか、徳川家などの武将が、自己の領政に厳密な改正を加えている折なので、浮浪人や暴徒の横行する世間はだんだん狭められていた。
で、自然、武将の勢力や統治の行き届かない片田舎へと、茨いばら組なども流れて来た。同時に彼等の持前とする殺戮さつりくと兇暴な質たちも、野に返った野獣と同じで、とても人間の仕業しわざとは解し得ないことを平然とやって歩いた。
「お静かになさい。騒ぐことはありません」
甚助は、信国のぶくにの一腰を横たえて、裏戸を開け、墻かきを躍おどって、表の土塀門のほうへ迫って行った。
信濃の名物という月がその晩も煌こうとして中天にあった。外から窺っていると、大槌おおづちや棍棒こんぼうで打ち壊したらしい門内へ、およそ三十人ばかりの賊がなだれ込んで、土蔵を破壊し、全家族を縛くくし上げ、手燭を持ち廻って、大がかりな掠奪りゃくだつにかかっている様子であった。
どんな人間どもかというと、その頃の世相を見て書いた「室町殿むろまちどの物語」に依ると、茨いばら組の風俗をこんなふうに写してある。
ソノ装束ハト見レバ、茜染アカネゾメノ下帯、小玉打コダマウチノ上ウハ帯ナド、幾重ニモマハシ、三尺八寸ノ朱鞘シユザヤノ刀、柄ハ一尺八寸ニ巻カセ、ベツニ二尺一寸ノ打刀モ同ジ拵ヘニテ仕立テ、ソギタテ鑓ヤリ、掻カイ持モテルモアリ、髪ハ掴ミ乱シテ、荒繩ノ鉢巻ナドムズト締メ、熊手、鉞マサカリナド前後ヲカタメ、常ニ同行二十人バカリニテ押通ルヲ、「アレコソ、当時世ニ聞ユル茨組ゾ。辺リヘ寄ルナ、物言フナ」トテ人々怯ヲヂ怖レテ道ヲヒラキケル。
悪党でも派手を誇る時代だったから、それは洛内の見聞であったろうが、いずれはそんな部類の雑多な扮装ふんそうをしていたにちがいない。それと武器は流行はやりの長柄が最も多く、槍、山刀、鉞まさかり、槌つちなども持ち歩いていたらしく思える。
やがて屋内の悲鳴や物音が少しやむと、その寂寞せきばくの中から、三人、四人と外へ出て来た。目ぼしい家財を担いで来るものもあり、金や女を盗んで戯たわむれながら、出て来る男もあった。
甚助は、ふいに、前へ立って、「待てっ」と、云った。
待て――と聞えた時はもう、彼の大剣の左右に、二つの死骸が一度に薙なぎ仆たおされていた。仰天して逃げ込もうとした男も一名は後ろ袈裟けさに、一名は腰ぐるまを払われて、醜い胴を地へ転がした。
刀を拭ぬぐって、また待った。
次の三人も、一颯さつに斬った。
甚助は、心で、(母上。これです)と、叫びたかった。
林崎明神の神前に額ぬかずいて、母から、百日の参籠と精進のうちに、何か、神の御霊現みさとしはなかったかと問われた時、云い現わすべき言葉がないので、(べつに、何も覚えませぬ)と答えたが、その云い現わせないものを、彼は今、紛まぎれない事実の上に、また、無意識な行動の上に、間違いなく自己の相すがたとして、現わしていることを思ったのであった。
「何だ?」
「どうしたと?」
門外の異変に気がついて、茨いばら組の総勢一かたまりとなって、やがて甚助の前後へ、真っ黒に躍りかかって来た。
信国のぶくにの刀は、月下に十数箇の死骸を積み、大地を碧あおい血に光らせた。
かなわじと余の者は怖れて逃げたが、その騒動も片づいて、翌日、北山家を辞し去った彼を、道に待っていたらしいその夜の茨組の男三名が、「しばらく」と、並木の蔭から呼びとめた。

呼び止めた男は、茨いばら組の沼沢甚右衛門、葦沢あしざわ弥兵衛、桜場隼人さくらばはやとなどだった。見れば大地へ姿を揃えて平伏している。そして誠意を示して云うのだった。
「御門下の端はしに加えていただきたい。――とお縋すがり申すからには、今日以後、悪行を止やめて完まったき武士となるよう志すことを、三名、神に誓い申しての上でござる」
甚助は、乞こいを許した。しかし、誓約に止とどめて後日の再会を約し、なお行くと、また彼を追って来た者がある。岩村田の近郷に住む田宮平兵衛という郷士だった。
「願わくば拙者をお弟子として伴つれ給え」
切実な願いなので、田宮だけは供にした。やがて京都へ着いた。そしてあらゆる苦心と手引を経て、松永久秀の幕下ばっかにいる父の讐敵しゅうてき坂上主膳と出会うことができた。
主膳を斬った際も、信国の鍔つばが、彼の手に鳴ったせつな、実にただ一刀しか費ついやされなかったということである。唯、遺憾ながらその場所や、当時の実状など、史録には明確を欠いている。
居合いあいという言葉は、後世にできた称よび方であろう。彼の創始した抜刀法――後に称となえたところの林崎夢想流むそうりゅうとは、純正剣道の一流であって、本流の剣に、剣とは不可分な抜刀の神息をふきこんだものに他ほかならないのである。
彼に随身した田宮平兵衛は、後に、――柄つかに八寸の徳、みこしに三重じゅうの利。
という有名な居合の名標語を吐いた人で、抜刀田宮一流の別派を興し、当時の達人ともいわれて、林崎夢想流麾下きかの第一人者と目されるに至った。
また、茨いばら組から脱した沼沢甚右衛門は、常陸ひたちの真壁まかべに、葦沢あしざわ弥兵衛は武州牛久在うしくざいに、桜場隼人さくらばはやとは三州挙母ころも村に、それぞれ一道場を持って大いに道風を興したとある。
なお、林崎甚助自身は、各地を遊歴して、自然、門流のひろまる一方、後年またさらに、鹿島神宮の武林ぶりんに入って、天真神道流の研鑽けんさんに身をゆだね、元亀何年かには、越後の上杉謙信の幕将、松田尾張守に随身して、戦場をも馳駆したらしいが、謙信の歿後ぼつごは、杳ようとして、その足蹟も定かでない。
晩年は奈良に住んでいたという説もあるし、鹿島で終ったという説もある。五十何歳かで郷里林崎で病歿したともいわれている。いずれにしろ半生は確説もない。しかし、彼の林崎夢想流は、不滅の光茫こうぼうを遺のこして行ったし、その誕生の森、林崎明神は今もそのまま現存している。
夢想と流名に称となえても、彼の百日参籠さんろうには、何らの奇蹟的なはなしも伝えられなかった。けれど奇蹟のないところに、彼の真実な魂の神化があった。肉体を百日の精進に燃えきらして仆れるまでに至れば、ひとり林崎甚助重信しげのぶのたましいばかりか、誰の精神でも、どんな道に於ても、神の夢想をつかむことができよう。
「甚助。ようしやった」
彼の母は、京都から一先ず帰郷した甚助を迎えて、初めて、心から綻ほころんだ笑え顔を子へも見せたろうと思われる。
「生涯の満足は今だ」
母の一笑に、甚助もまた、そう思ったにちがいない。だが、若くして美しかった楡葉にれはは、亡夫の讐怨しゅうえんを子の討ちはらしてくれた報告を聞いてから幾年いくとせもなく、病の床について世を去った。
甚助重信が、孤剣、白雲の人となって、郷土を離れたのは、そのためであると云われている。 
 
剣の四君子 高橋泥舟 / 吉川英治

 


熟うれた柿かきが落ちている。何のことから始まったのか、柿の木の下で、兄弟は取っ組み合っていた。
小さい謙けん三郎は、手もなく、兄の紀き一郎に投げつけられて、強したたかに背を大地へ打ちつけた。
「よくも投げたな」
恥辱だと思うのだ。武士の子だ。転まろびながらも歯軋はぎしりして、兄の足へしがみつく。
「まだ懲こりぬか」
紀一郎は振り放す。小癪こしゃくな弟は、喰い下がって離れない。そしてまた組む。また勢いよく叩きつけられる。
妹の英ふさ子は泣き出して、「――母かあ様、母あ様」と、奥へ急を告げる。
書院の破やれ障子が開いて、立ち出でたのは、兄弟の母でなくて、父の山岡市郎右衛門であった。
「また喧嘩かっ。紀一郎、大きなくせに、止めんか。謙三郎、弟の分際で、兄上に対し、何たることか」
この一喝いっかつで、兄弟は立別れ、やがて半刻ときもお談義だんぎを喰う。母の文子が来て詫わびる。おまえの躾しつけが悪いからだと母までも叱言を聞く。幼い英ふさ子までが一緒に泣いて謝あやまりぬく。女の子の可憐いじらしさにはかなわぬといった風で、市郎右衛門は、「泣くな、もうよい」と、英子を宥なだめることに依って、一先ず母も兄弟も、以後を誡いましめられてやっと許される。
旗本といえば歴乎れっきと聞えるが、幕臣山岡家は微禄びろくだし豊かでなかった。庭の草も茫々、障子の貼代はりかえも年に一度を二年越しに持たせたりしている。唯、そんな家庭にも絶えず旺さかんな物音がある所以ゆえんは、元気な男の子二人のためだった。兄の紀一郎がことし十五。弟のなかなかきかない方が、やっと九歳で、通称謙けん三郎、字あざなは寛猛ひろたけ、後に養家の高橋姓に改めて、伊勢守となり、泥舟でいしゅうと号した人である。
その高橋家は、母の里方の家だった。
二の丸留守居役の高橋義左衛門包実かねざねが、母の父であった。兄弟たちには外祖父にあたる人だ。
そこへ兄弟は、毎日、剣道と槍術の指南をうけに通っている。高橋家は、累代るいだい、剣、槍、薙刀なぎなたの三法一如を唱えて、幕府の子弟に教授し、流風は地味であったが、武技そのものより士魂を尊んで、幕末の頽廃的たいはいてきな士風に、復古的な武士道教育を打ちこんでいた。
その祖父であり師である高橋義左衛門が、ふと訪れて、「此家ここの兄弟を出してみんか、人前に立たせるのも、修業のひとつじゃで」何の話かして帰った。
父と祖父との対談を小耳にはさんでいた兄弟は、まろい眼を見合せていた。義左衛門が帰って行くと、紀一郎、謙三郎のふたりは呼ばれた。父の市郎右衛門は、二人を見較べて、「そち達、よう精出して喧嘩するので、明日あすは、曠はれて真剣の決戦をさせてやると、義左衛門様のお計はからいじゃ。明日こそは、兄弟とて、紀一郎も弟に負くるな。謙三郎も兄に負けるなよ」と、云い渡した。

枯れ初そめた初冬の草床くさどこが暖い日だった。物頭ものがしら松平六左衛門の邸内に人がたくさん集まった。門脇から幕が張ってある。朝からずっと、鋭い掛声と、竹刀しない、木太刀きだち、稽古槍けいこやりの響きなどが続いている。
年々一回ずつ行われる幕府の旗本の子弟の武技試験であった。各組頭くみがしらに通牒つうちょうしてあるので、組頭は当日名簿と人員を携たずさえて参加する。山岡家の兄弟も、ここへ連れて来られたのであった。
人中である。兄弟はおとなしい。ふたり共、好きな道であるのでわき目もせず、飽あきもせず、朝からずっと、各流各人の入り交かわり、立ち交わって戦う試合をながめていた。
判者はんじゃの中には、兄弟の先生でもあり祖父でもある人の顔が見えている。けれど父の市郎右衛門は来ていない。
そのうちに、山岡紀一郎、山岡謙三郎、と名を呼びあげられた。
「はいっ」
「はいっ」
兄弟は一緒に答えて、真ん中へ出た。かいがいしい支度が人目をひいた。
「御記録となって、上様のお耳にまで達するのですぞ。懸命にやりなさい」
世話人は励まして、二人へ同様な稽古槍けいこやりを供えた。小剣士と小剣士との礼儀をするのが、人々を微笑ほほえませた。
だが、槍を持ったなと思う瞬間、微笑ましい光景などは消し飛んで、兄弟の掛り合う烈はげしい気声は、朝から続いて惰気だき満々まんまんだった大人おとなどもの試合のどれよりも真剣で凄まじくさえあった。
そのうちに、あッ――と皆が口走った。弟の謙三郎の小さい体が、砂を浴びる山鳥のように、草埃くさぼこりにつつまれて、だっと槍もろとも、躍ったと思うと、兄の紀一郎は物すごい勢いで仰向けに突き仆されていたのだった。
「――危ないっ」
「もうよいっ」
判者も思わず叫び、世話人も駈け寄って中を割った程であった。

紀一郎は、頬を突かれたのである。それから数日、顔半分が樽たるのように腫はれ上がって、寝床から起つこともできなかった。
「兄さん、痛い。まだ痛い?」
謙三郎は心配そうに、兄の枕元から離れなかった。
そして兄の顔をさし覗のぞいては、「ごめんね」と、云った。
「…………」
紀一郎は、眼をふさいだまま、何も云わなかった。余りに何も云ってくれないので、
「怒ってんの?」
謙三郎が云うと、
「……ううん」
首を振って、兄の紀一郎は、たらりと眼じりから涙を垂らした。そして弟の手をにぎり、
「よくやったね、欣しいよ、兄のくせに、わしの勉強が足らなかった。体が快よくなったら、一生懸命、未熟を取返してみせる」
それきり、このふたりの兄弟喧嘩は見られなくなった。両親には孝行であった。山岡の孝童こうどうと、模範に云われた。
弟の謙三郎は十七歳となると、高橋家へ養子に貰われて行った。別れてからの兄弟はなおさら情愛の度を深めるばかりだった。
唯、武道の上に於てだけは、互いに、「負けないぞ」との黙契もっけいを固く抱きつづけていた。
わけても兄の紀一郎は、十五歳の時、顔半分腫はらして七日も寝た時から、深刻な感銘をうけたとみえ、以来心機一転して、その精進ぶりは、両親も体を案じる程だった。
年少、早くも禅に心を潜ひそめ、諸家の門を叩き、工夫を鑚つみ、また、文事にも精励せいれいして、号を静山と称し、その二十四、五歳の頃にはすでに、「槍では今、山岡静山、天下の第一人者であろう」と云われ、また、「怖おそらく、静山のような人物は、百年に一人か二人しか現でない天才というものだろう」と評されたくらいであった。
世人は自分らの中から群を抜いた非凡を発見すると、必ずそれを「天才」と呼ぶ。しかし山岡静山の名人といわれるに到った域は、決して天稟てんぴんだけのものではない。むしろ努力であったのだ。
頼山陽らいさんようの文名が一世を圧した時、世人はまた、山陽の詩、山陽の文業をさして、「あれは天才の筆だ」と云った。
山陽はそれを聞いて呟いたそうである。
「わしを天才などと観みる者は、わしの知己じゃない」――と。
人の目になど見えない所に、そう云う人の刻苦こっくと精進はあるのだったが、深夜の寒燈の下もとに、血を咯はきながら修史何十年の悲壮な努力の姿は、誰も山陽に見ていなかったのである。
静山、山岡紀一郎の上達にも、誰も知らぬ苦行があった。毎年の厳寒げんかんには、深夜、凍天とうてんをいただき氷地を踏み、井戸端へ出て、荒繩あらなわで腹を巻きしめ、氷を砕いた水を頭からかぶって、丑満うしみつから独り道場入りを始め、夜の明けるまで、重さ十五斤きんの槍を揮ふるって突つきの猛練習をなし、一夜一千回から二千回に及び、それを三十夜も続けたという。
一家をなして、当代一流といわれてからでも、昼は何百の門人に当り、夜は必ずその「突つき」の練習を怠らなかった。少しくらいな風邪かぜや病気などは、三千回も「突」をやれば癒なおると自分で云っていた。宵の灯ともし頃から翌朝の禽とりの音の聞えるまで、二万何千回という「突」を数えたことすらあった。
「近代めずらしい武道家」
噂を伝え聞いて、或る時、訪ねて来た一人物がある。筑後ちくご柳河やながわの人で南紀理介なんきりすけ、槍術では海内かいだい無双むそうという聞えがあった。
初対面の時は、武談だけして別れた。
「さすがだな」
お互いにその人間だけを観て別れたのである。
一月程ほど後、南紀理介は、「帰国するのでお別れに」と、挨拶に来た。
そして国のみやげに、静山の槍を見たいと乞うた。
静山も、理介の槍を見たいと思っていたところである。人を払って、ただ二人、神厳しんごんなる床に立った。
壮烈を極めた名人同士の試合は、古来からの試合の記録を破った。朝の九時前後から立合って、午ひる過ぎの四時頃になってもまだ勝負がつかなかったのである。熔鉱炉ようこうろ中の鉄と焔ほのおのごとく心魂を凝こらし合ったので板敷は二人の汗で辷すべるばかりであった。引分ひきわけとして、双方の槍を、後で眺めあうと、穂先はくだけて、何寸もささらのように欠け減っていたという。

父の市郎右衛門は早く世を去った。母の文子は多病であった。
静山の書斎の壁には、
七の日墓参 三八聴講ちょうこう 一六母のあんま
と書いて貼はってあった。
母の按摩あんまをしたり、書斎で書物に向っている間などは、短い木刀を一腰さしているだけであった。木刀の一面には、――人の短をいわず、己れの長を不説とかず と刻し、裏の一面には、――人に施ほどこして念とす勿なかれ、施ほどこしをうけて忘る勿なかれ と自刻の銘めいを彫ほっていた。
そして、門下には常に、「怖いのは驕慢きょうまんだ。増長だ。心にいささかでも、驕傲きょうごうのヒビが入れば、百年鍛錬の道業も一朝に崩廃し去る」と云っていた。
弟の謙三郎の養子先でありまた、師にも外祖父にもあたる高橋義左衛門は、ようやく老齢になったので、師範にたえず、弟子とその道場とを挙げて、「後事をたのむ」と、静山に譲って隠居した。
それからは、高橋謙三郎も、親しく兄の静山について、槍法の教えをうけていた。
この頃、やはり静山の所へ、よく武道をただしに来る真面目な青年があった。後の山岡鉄舟であった。
母の亡ない後は、静山の妹の英ふさ子も一つ棟に来ていた。英子は、やがて鉄舟の夫人となった女性である。その頃から道場でよく顔は見合せたが、お互いの生涯をどっちもまだ予感していなかった。
この一家には、ただ武道の光あるばかりだった。
何といっても静山が柱だった。
弟の養祖父に仕えては飽あくまで礼と誠に篤あつく、亡き父母には孝養の限りを尽したし、弟妹には情けぶかくて優しかった。知己友人、誰ひとり静山に反そむく者はない。実によく人に慕われる人だった。
しかもまだ武道家としては、若輩といってよい年齢のうちから、当代無双といわれ、槍では名人とゆるされている。そうした風格が余りにも若くから備わり過ぎていたのも、後に思えば、短命な花の早咲きであったのか、安政二年の夏七月、実に、余りにも飽あっ気なく、静山は夭折ようせつしてしまったのであった。
その死もまた、彼らしい、義のためではあったが。
「ああ、儚はかない!」と人をして、嗟嘆さたんを久しゅうせしめるような突然の死であった。
夏の初め頃から静山は、脚気を病んでいたが、七月の暑い日盛り頃、自分の水泳の師たる人が、何か恨みをうけている者のために、品川沖の水練場で、相手に謀はかられて危難に墜おとし入れられようとしていると病床で聞いたので、「一大事」と、自分の重態もわすれて、炎天を馳けつけ、その人を救うために沖へ泳いだので、脚気衝心かっけしょうしんを起して途中でことぎれてしまったのである。
静山は、年二十七。
残された高橋謙三郎は二十一歳であった。

養家の父高橋鏈之助れんのすけは、それより数年前に死亡していたし、生家の母もつづいて逝ゆくし、またその年の春には、養祖父の義左衛門も病歿し、今またつづいて、実兄の山岡静山に死別れたのである。
何たる不幸つづきか。二十一歳の謙三郎は、途方に暮れた。
「これからは、あなたがここの柱になるのではないか。貴公がそんなに嘆いてばかりいては、お妹の英ふささんも、どうしてよいか分るまい。お察しはするが、気を取り直し給え、もっと元気に」
兄の友であり弟子であった山岡鉄舟から、こう励まされて、
「そうだ、いや、お恥かしい」
謙三郎も、すぐ気づいた。そして一心不乱、道場に立って、一槍に心胆を凝こらすことを以て、独り淋しさを慰めていた。
けれど余りにも、優しかった兄、弟思いな兄、また力と恃たのんでいた兄に、突忽とっこつと、現うつし世の姿を眼の前から掻消かきけされてしまったので、多感な謙三郎は、「兄恋し」の想いを、どうしても、脳裡から拭き去ることができなかった。
槍を持てば、槍を持つ兄の姿が憶い出され、飯を噛かめば、共に膳をかこむ兄の姿や言葉がありありと偲び出される。飯を噛み噛み茶碗の中へ、われ知らず涙をながしているのに、はっと気がつけば、さし向っていた妹の英ふさ子も、わっと箸はしをおいて泣き出すようなことも屡※(二の字点、1-2-22)しばしばであった。
「ああ、だめだ。兄の偉大が、今わかった。兄の愛情が、骨身にこたえる。生き残って、この任を負い通せるわしではない。お慕なつかしい兄上の許もとへ行って」
ふっと、彼はそんな気になった。仏間を閉じて、腹を切ろうとしていたのである。
「――あれッ、お兄様っ」
ふと見つけて、仰天した英子は、悲鳴に似た声で、人々を呼び立てた。
来合せていた山岡鉄太郎も、駈けつけて来て、「ばかなっ」と叱りながら、謙三郎の手から白刃を※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)もぎ取った。
謙三郎は打伏して、人前もなく声をあげて慟哭どうこくした。人々は一時、彼は発狂したのではないかとすら疑った。

忍斎にんさいと号し、または泥舟でいしゅうとも称いったのは、ずっと彼の晩年ではあるが、便宜上、以下高橋謙三郎を単に泥舟で記してゆく。
二十一歳で養家の支柱となった泥舟に取って、唯一の心友は、何といっても亡兄の門友小野鉄太郎であった。
鉄太郎の実家は、泥舟の生家山岡家よりも、遙はるかに家格もよい家がらであったが、泥舟は養家の姓をつぎ、兄紀一郎は世を去って、山岡家の跡目もここに絶えんとしているのを知ると、「自分で宜よろしければ、山岡家の相続人となってもよい」と、捨て難い事情にあった小野家の跡目あとめを他ほかへ譲って、山岡姓を名乗る人となってくれたのだった。
それもこれも、悲愁ひしゅうの裡に沈んでいる泥舟を励ますためであった。実際、泥舟に取っては、それも一つの悩みであったのである。
英ふさ子は、鉄太郎と結婚した。鉄太郎と泥舟とは、こうして義兄義弟の間となった。鉄太郎も以後は鉄舟と記してゆこう。
「聞けば貴公は、まだ九歳の頃、十五歳の兄紀一郎殿を、一撃に突き負かしたというではないか。そうした勇猛心のある貴公が、近頃は何たる女々しさだ。これしきの悲嘆、これしきの逆境に負けてどう召さる。門人に対してだッて見っともない」
義の兄弟となると、鉄舟はなおさら、歯に衣きぬ着せずずけずけ言った。泥舟も励まされては道場へ出て門人に接した。当時その門には、松岡万、関口隆吉たかよし、大草多喜次郎、中条金之助などの錚々そうそうたる人々が集まっていた。
安政二年の暮に幕府は、泥舟を勘定奉行下の一会計吏に任命したが、翌年はすぐ、適材でないとして、幕府講武所の槍術教授を申し付けた。また将軍直属の親衛軍の内へも加えた。
多忙になった。愁うれえる間もない体になった。けれど性来の多感と情熱は彼を去ったわけでない。人にこそ云わないが彼の胸中にはたえず亡き兄の静山に対する恋々な慕情が熄やむべくもなかった。
安政の四年、泥舟が明けて二十三歳となった年の二月きさらぎの一夜だった。
「謙三郎。――謙三郎っ」
誰か彼を呼び起す者があった。
はっと頭こうべを上げてみると、兄の静山が立っている。水のように立っているのだ。じっと自分を見ている容子ようすは、在りし日の静山と少しも変りはない。
「……おっ。兄上」
「弟。どうだ」
「…………」
「そちの槍術は上達したか。槍の名家の跡目を嗣ついで、嗤わらわるるようなことはあるまいな。兄も日ごとのそちの努力はよそながら観てはおるが」
「……?」
「わしも現世を去ってより正に三年、生を天上界にうけて霊福極まりないが、なお、憶念そちの身を案じ、愛恋の情じょうをどうしようもないのはお前とも同じことである。どうだ、近頃の修業は、また心機の妙を得たか」
「……?」
「起てよ、謙三郎。別離三年、どれ程にそちが進歩しておるか。兄が試みてやる。はや身支度して道場に出よ」
茫然――現うつつか夢かとそれまで聞いていた泥舟は、さては日頃、自分が余りに兄を恋い慕うので、心の煩悩ぼんのうにつけ入って、狐狸こりか物の怪けが、亡き兄の姿をかりて誑たぶらかしに来たなと覚えたので、
「だまれっ、変化へんげ、愚おろかな狐伎こぎを演じておると、一刀の下もとに斬捨てるぞっ」
すると、水の如き、静山の姿は、
「弟よ。道理である。この兄の現影を、狐狸のしわざと疑うもむりではない。しかし、理外の理のあるをそちは知るまい。死後生あり、生後死あり、人間の一魂は、生々死々輪輾りんてんして極まりのないものなのだ。もし此方このほうが狐狸の性しょうならば、お前の鉾ほこ先に当るべくもない。そちもよもや変化に劣るが如き脆弱ぜいじゃくな腕は持つまい。いざ、試合おうっ。――試みに当って参るがよい」
静山は、そういうと、音もなく、道場の方へ足を運んでゆく様子であった。

「……おのれっ」
泥舟は、夢中で刎起はねおきていた。
そして道場へ躍り立った。
沍寒ごかんの大床おおゆかは氷を張つめたようである。泥舟はりゅうと一颯さつ氷気を裂さいて相手の影へ迫った。
――うむッ。
巌いわの揺ゆるぐような呼吸が泥舟を圧した。はっと繰くり引けば、かえって相手の槍こそ泥舟の胸いたへ真一文字に来ていたのである。だ、だ、だッと踵かかとを鳴らして踏み止まる。爛らんと眸ひとみの霞かすみを払って敵を見澄ます。
「……ああ、兄だっ。兄上だっ」
もう泥舟は疑わなかった。兄静山に非ざれば見得ない長槍の神技の構えを、彼は幾年いくとせぶりかでその眼に見ていたのである。
――と憶うた瞬間である。泥舟はいきなり横顔を持って行かれたような痺しびれを覚えた。あっと、叫んだ時は勢いよく仰向けにもんどり打っていたのである。我れを突仆つきたおした稽古槍の先は、せつな、火の出るように覚えた眼の上をさっと翻かえり、道場の隅へすぐ投げ捨てられた音が、からからと聞えた。
「未熟、未熟。思うにそちはまだ業を蔵し、心しん開けず、手頭滅離めつり、たとえば徒いたずらに騒いで風にも咲かず散らざる半開の花にも似る。わしはまた、明夜来よう。――おさらば」
静山の言い残して行く声なのである。
「あなや!」
泥舟は手をあげた。兄の名を呼んだ。枕から顛動てんどうして落ちた。
夢は、忽然こつぜんと、醒さめたのであった。
「…………」
満身の汗は、寝衣ねまきを湿うるおしていた。破戸やれどの隙間洩る白い光は如月きさらぎの暁あけに近い残月であった。
「ふしぎ? ふしぎ? ……」
解けぬ謎に髪の毛はそそけ立っている。しかも、兄静山の一語一句、その音声おんじょうまでも、ありありと耳に残っている。われとも知らず泥舟の頬には、滂沱ぼうだたる涙が止まらなかったのである。
次の夜も、彼は、同じふしぎを体験した。弟よ、約束によって来りしぞ、はや道場に出よ。と静山は呼ぶのであった。
「おおっ」と泥舟はもう何の遅疑ちぎもなく道場へ出た。
「兄と思うなっ。汝の敵と思え!」
静山は峻烈しゅんれつであった。しかも昨夜以上、強したたかに泥舟は突き負かされた。
「起てっ。立ち直って来い」
静山は云う。そして猛烈な刺撃しげきに次ぐ刺撃を以て、泥舟の息も塞ふさぐばかりだった。
何遍、大床にぶっ仆れたか。果はては起ちも得ず、気息奄々えんえんとなると、「意気地のない!」と叱咤しったして、静山は怒り罵ののしるが如き形相を示した。
「少年九歳の頃の精魂しょうこんは失ったのか。われも人間の精魂ぞ。汝も人間の精魂ぞ。如何いかなればかくの如き腕の差があるのかを考えて見たか。――明日の夜こそは、十本勝負をしよう」
云うかと思えば、掻消かききえるように、静山の姿はもう見えない。
終日、朦朧もうろうとした面持で、泥舟はうつつに次の一日を過した。そして深夜となると、頭は冴えて寝つかれもしなかった。一念、工夫苦心していたのだった。そしてそのまま、昏々こんこんと夢現むげんの境にはいった頃、兄の姿はまた、前の夜と変りなく、彼の眼に見えた。
道場へ出て、礼を交わし、槍を把とり合うと、静山は、こよいは約束どおり十本勝負であるぞと云って、前の二夜にもまさる程、仮借かしゃくない烈はげしさで立ち対むかって来た。
槍が軽い――。どうしたのか、泥舟は、その夜に限って、心は開け、手足心息、まったく一つに動くのであった。
十本勝負のうち、九本まで、泥舟が勝った。
「あと一勝」と、さらに気負いかかると、静山は槍を捨てて、その夜初めて、莞爾にこと笑い顔を見せた。
「弟よ。もうよい」
「え……?」
「天授の槍法を感得かんとくしたのだ。これでわしも初めて安心した。さらば、永く別れねばならぬ。命めいを愛し、国に報ぜよ」
沁しんみりと云う。じっと泥舟を見つめる。そして裳もを曳く人の如く、遅々と、名残惜しそうに、道場の裏戸から静山は戸外おもてへ立ち去る――
「あっ、あっ、兄上っ……」
泥舟は蹌よろぼうた。追えば去り追えば去り、寄せつけぬ兄の影を追っては叫んだ。
「まっ、待って下さいっ……」
彼はいつか大地を馳けていた。慥たしかに彼の足の皮膚は凍いてた地の霜に破られて血をにじませている。とはいえ、家の何処の口から出て来たか、垣を越えてか、門を開けてか、それはまったく覚えないのである。
「兄上っ。兄上っ……」
唯、何度か呼び、何度か残月に哭ないた。道は白々と、人影もない。有るのは、先に行くかのような静山の影と、自分の惨さんたる姿だけだった。
気がついて見ると――彼はいつか一箇の墓石の前に坐っている自分を見出したのである。見まわせば、そこは覚えのある山岡家の菩提寺ぼだいじ駒込蓮華寺れんげじの墓地であった。卒塔婆そとうばの文字、――清勝院殿法授静山居士――と読み下すと共に、彼は、そこまで追って来た慕わしい恋しい兄が、何ものであったかはっきり覚さとった。一塊の土塊どかいに寄せるべく余りに彼の情涙は熱かった。土を抱いて泣き伏したまま、「もう一度。……もう一度お姿を」と、凡愚ぼんぐの子の極かぎりもなく訴えた。
残月は冷やかに、彼の乱るる鬢髪びんぱつの一すじ一すじを照らしていた。霜は彼の涙に溶けても、土は物云わず、風も答えない。泥舟は、何かふッと、人間の儚はかなさ、無常観むじょうかんといったようなものに囚とらわれたらしい。いやひたむきな性情は、遂に、地下の兄の魂魄こんぱくをもって抱きつかなければ熄やまない衝動に駆られたものとみえる。やにわに、諸肌もろはだを脱ぎ、脇差を引き抜くよと見えたが、「ゆるして下さい。兄上、わたくしも」脾腹ひばらへ突き立てようとした。
それより前に、高橋家の人々は、 (ゆうべも、おとといも?)と怪しんでいた折ふし、こよいまた、泥舟が狂せる如く、何処へともなく走り出て行ったので、ちょうど泊り合せていた妹の英ふさ子、山岡鉄舟、下僕や門人など七、八名して、闇夜ではないが町方などへの証あかしのため、提灯ちょうちんを打振りながら、
「おおうい。待てえっ。おーい」
「謙三郎どのう」
「お兄様あっ……」
後追いかけて来たのだった。
けれど泥舟の足の早さは驚くばかりであったし、それほど人々が呼ぶ懸命な声も耳に届かないのか、振向きもせず、蓮華寺の寺域へ駈け込んでしまったのであった。
「そこか。――此方こちらか?」と、手分して尋ねて来ると、今し泥舟は割腹かっぷくしようとしている態なので、あっと、人々は仰天して左右から彼の身へ飛びついた。

昏々と眠り落ちていること数日、泥舟はやっと起きた。
起き出た彼には、以前と何の変りも見られなかった。
だが、その日。
「久しぶりに」と、道場で彼と槍を合せた鉄舟は、殆ど、唖あ然たるばかりな驚きに打たれた。
「別人のようだ!」と、鉄舟は唸うめいた。
「もう、自分などの寄りつける御身の技わざではない。一体、これはどうしたことか」と云って、いぶかしそうに訊ねた。
実に、泥舟の槍術は、その時から、自己も人も驚くほど、格段な進境を現わしたのであった。――どうしてと、鉄舟に問われても、泥舟自身にも分らなかった。
しかし、或る会心は、胸にあった。けれどそれは怪力乱神を語るに似て、人には語れないものであった。だから泥舟は黙然――「ふうむ、そうかな。道理で、自分でも少しこの頃は、槍がうごくようになったと覚える」としか云わなかった。
けれど彼は遂に語らずにいられなかった。兄静山に対する切々な思慕は老いてまでも胸の埋うずめ火となっていた。晩年、彼は多くの詩をつくり和歌随筆などを物しているが、その一著「泥舟遺言いげん」のうちに、以上の事は彼自ら記していることなのである。
古来よく伝えらるる「夢想の剣」なるものがある。人間の心情と一念の凝こるところに往々理外の理なる神示、霊感、夢想などがあった。奇蹟はこれを解き得れば奇蹟でも何でもないのである。剣では男谷下総守おだにしもうさのかみ、槍では高橋と並び称されて、幕末の剣雄中に、彼の槍法が断然異彩をもって他の追随ついずいをゆるさなかったのも、実に、彼自身が正直に「泥舟遺言」に云っている如く、夢中の掴得かくとくであり、一苦悩期を脱殻だっかくした日からであった。
だが、凡夢は常に枕を襲うが、神夢はただ枕辺には下りて来ない。ましてや苦悩の殻からは、鶏が孵かえるがごとく、自ひとりでには割れない。
力である。悩み、迷い、愛、熱、どんな力でもよい。神に徹とおるまでの力であればよい。  
 
剣の四君子 小野忠明 / 吉川英治

 

神子上典膳みこがみてんぜん時代

「松坂へ帰ろうか。松坂へ帰ればよい師にも巡めぐり会えように」
典膳てんぜんは時々考えこむ。彼も迷い多き青年の二十歳へかかりかけていた。
郷里伊勢の松坂は武道の府であった。世に太ふとの御所とよばれた国主の北畠具教とものり卿は、卜伝ぼくでん直系の第一人者であった。その権勢、その流風を慕って、由来、伊勢路の往来には武芸者のすがたも多い。
神子上みこがみ家は、世々、神宮のおまもりをしている伊勢の神職荒木田家に属す神苑衛士えじの家だったが、典膳がもの心づいた頃は、松坂在ざいにひき籠こもって、母ひとり子ひとりの暮しであった。
その母に伴われて、初めて武道の師というものにまみえたのは、六ツか七歳ななつぐらいなときだった。
三神流刀槍道床どうしょう
と、門の柱だったか入口かに懸けてあった雄壮な文字は、よほど幼いあたまに沁しみ入ったものとみえて、眼をとじれば成人したいまでも、その筆法の一点一画まで脳裡に思い出すことができる。
十三の時、彼は生れて初めて、戦争を見た。織田信長の伊勢攻略に潮うしおして、精悍せいかんな軍馬が村にも入って来たのである。
滝川一益とか、明智光秀とか、木下藤吉郎とかいう敵将校の名なども、小さい反抗心にふかく刻きざみつけられた。わすれもしないこの年は天正四年で、実にこのときに国主北畠具教とものりも討死して終ったのであった。
――戦いくさに出たい。
と母にせがんだことも覚えている。しかし、彼はその母と共に、伊勢湾から東国へ行く便船に乗って、荷物の間から燃える故郷ふるさとをながめていたのだった。津、松坂などの町々はもちろん伊勢は部落の方まで一円に黒煙くろけむりをあげていた。
この房州へ移って来たのは、つまりはその戦争が動機であった。上総かずさ夷隅郷いすみごうの万喜頼春まきよりはるは里見一族の武将であるが、その家人けにんのうちに小野朴翁ぼくおうという老人がある。
(このお方が、そなたのお祖父じいさまですよ)と、母にいわれながら、初めて白髯はくぜんの人の前に坐ったとき、典膳は、何かふしぎなここちがした。
母の父親、という感じだけでなく、自分の血液が、思いがけないところから岐わかれ流れて今のわが身というものに育ちかけている相すがたを、何か眼で見たような気がしたのである。
故郷の土から離れて、母方の血の故郷へ帰ったのだ。神子上典膳は、そんなふうな生い立ちを経て、房州の一海辺に、いつか二十歳をかぞえる若者になっていた。
「もう一ぺん、伊勢へ」
この念はやまなかった。伊勢にはまだ戦争がある気がする。そして夥おびただしい武芸者の往来もあるような心地がする。
「……いやいや世の中は変ったろう。伊勢へ行っても、今は知る辺べもないし」
思い直しては、母の孝養に努めた。老いこそすれ、母はなお息災そくさいであった。けれど自分が側を去ったらいかにお淋しかろうぞ、と彼はすぐそれを思う。
「このまま為なす無く、田舎武士で朽くち終ってもいい。母上の余生だにおつつがなく、朝夕のお笑え顔に仕えられるものなら――」
彼はやさしい子といえよう。一面、理性に富んでもいた。といって青年の多感や志望が低いのでは絶対にない。時今、天正十二年は、本能寺の変後、山崎の合戦後、急転機を、次なる太閤時代に大らかな暁あかつきを告げていた。しかもこの房州上総かずさの波打際なみうちぎわは、北条氏の領治下に、眠っているような、現状だったのである。

一日に一度は浜辺に出るのが癖のようになっていた。そしてこんな空想にふける。せめてもの空想だった。もし典膳てんぜんから空想を除いたら彼は青年ではあり得なくなる。
「……帰ろうか」
磯の岩から腰をあげたときである。舂うすずく夕陽を浴びて波間を漕こいでくる小舟があった。櫓ろ音を聞くだけでも、いかに腕強い上手な船頭かがわかるように思われたが、やがて岸へ漕ぎ着けて降りて来た者を見ると、船頭ではない、二人とも旅固がためした身拵みごしらえの、どこにも隙すきのないような武士だった。
典膳を見かけて、若い方の連れが、「この町に旅籠はたごはないか」と、訊く。
礼儀のない訊ね方に、典膳も簡単に、「旅籠はないが、寺はある」と、教えてやると、また寺の名をたずね、ありがとうともいわずに、先へ行く老武士のあとを追って立去った。
典膳も同じ方へ歩いていたので、自然、二人の後ろ姿を観察していた。何かしら急に大股にいそいで、その老武士の面を、正面から見たいような衝動に駆かられだした。それほど一方の年老とったさむらいの後ろ姿には、いぶかしい力の魅力と重厚な線の美があった。
美といっては、或いは、誤る惧おそれがある。衣飾の美や皮膚の美ではない。着ているものは、胴服の継ぎはぎした物。穿はいているのは染色も分らなくなっている革の膝行袴たっつけばかまにすぎない。長やかな腰刀だけに鞘さやの塗ぬりの剥落はくらくしているのが目にたつ。
主人か、師匠か、長上の老人すらこの装いであるから、以てその尻えに従ってゆく若いほうの旅支度ときたらそのお粗末さは想像がつこう。――しかしまた、その垢あかじみた、被服大小たりとも、見すぼらしくは見えない程、この二人の濶歩かっぽには、悠々とした気概があり、堂々とした構えがあった。決して人を蔑さげすむことをさせないものを常にもって、やがて町のどこかへ曲がって行った。

四、五日すると、町にはうわさが伝わった。
どこで聞いて来たか、小野家の若党わかとうも、典膳をつかまえて、こんな世間ばなしを、おかしそうに喋舌しゃべっていた。
「御家中の、地摺じずりの青眼せいがんどのが、龍王寺に泊っている武芸者を訪ねて、問答をしたことをお聞きになりましたか」
「龍王寺に滞在中の二人というのは、一体何者だね」
「ひとりは伊藤一刀斎、供の者は、善鬼ぜんきとかいう弟子だそうです。――その一刀斎へ、地摺の青眼どのが、問われたことには、それがし、師匠よりかつて、地摺の青眼という秘太刀を習い、年来研磨けんまして、天下に敵無き自信を持ち得るにいたった。聞くならくあなたは一刀流の達人とか。それがしの地摺の青眼を止める御工夫があるやいなや。あるならば見せていただきたい。――と、あの人のことですから肩肱かたひじ張はってこう問いつめたものらしいのです」
「なるほど」
「すると、相手の一刀斎は、言下に。――よく世間の武芸者のうちに、地摺じずりの青眼せいがんなどということを口にするのを聞くが、そんな構えは何流にもありようはない。児戯じぎにひとしいと、笑っていたそうです。――で、地摺の青眼どのは、本名池野内蔵くら八という立派な名があっても、御家中では誰も名をいわず。『地摺の青眼どの』で通っているほど、日頃から大自慢なそれを、ありようもない、児戯にひとしい、などと一笑に附されたのですから、当然、息いきり立って、次には、ここにある、ここにいる自分に持っている、ないとは逃げ口上――と膝詰よせて返答を迫ったということです」
「ははあ。では、ついに仕合になったのか」
「ところが、一刀斎は、なるほど、あるといえばあるだろう。あるものなら、此方こっちにも、止めようの工夫もある。笑って云うと、地摺じずりの青眼せいがんどの、いよいよ、目はしら立てて、然らば見せよ、いざ起て、と急せきこんだそうですが、先はからから笑ってばかりいて、いずれお目にかけよう、今日はまずまずとばかりで、相手にならず、やむなく立帰って来たそうですが、その後先方から何の沙汰もして来ないのに業ごうを煮やし、彼が寺を出て、旅立つ途みちをとらえ、かねて御自慢の地摺の青眼を以て、一手に斬伏せてみせると、自分から御家中へ吹聴ふいちょうしているそうですから、近日、その結末が見られることになりましょう」
こんな噂を耳にしてから数日の後。地摺の青眼と綽名あだなのあるその池野内蔵くら八が朝早く、「典膳てんぜんどの。来てくれないか」と、誘いに来た。
どこへ、と訊ねると、「かねてお聞及びだろうが、一刀斎の師弟が、今朝がた寺を立つという。そこで彼を途中に待ち、先頃の過言を責め、詫わびなければ、自分に量見がある。後々、世上に誤聞ごぶんを撒まかれぬため、見届けに来てもらいたいのだが」立会人として、典膳を引き出しに来たものとわかった。
「よろしい」典膳は肩を並べて門を出た。
半里ほど先の街道に待っていると、程なく先日浜辺で見かけた師弟が歩いて来た。地摺じずりの青眼せいがんは、躍り出して、すぐその前に立ちふさがり、
「あるとも、ないとも、その後、返答にも及ばず、無断、当地を立退くとは、卑怯ではないか。あの問題を明らかにして行け。できなければ大地に両手をついて謝罪しろ」
鐺こじりを上げて、喚わめいた。
一刀斎は、こころもち頤あごをひいた。
「ああ、先日のお人か。忘れておった。……地摺の青眼とかいう構え、どれお見せ、止めようを伝授しよう」
「慥しかとか」
「念には及ばぬ」
「止めてみろ」
一颯さつ、風を割って、大刀を抜いたのと、一転、身をひくのと、殆ほとんどひとつの動作だった。
「ム。なるほど」
一刀斎はうごかない。
池野内蔵八は、自ら云うところの、地摺の青眼を構えて、するすると、粘ねばりつくように一刀斎へ迫って来たが、どうしたのか、ぎゃっというと、三足四足、前へよろめいたままどすと重い地ひびきを最後に息絶えてしまった。
一刀斎の右の袂たもとのうしろに、刀の切っ先が血しずくを静かに落していた。死骸をしばらく凝視ぎょうししていたが、刀を拭って振向くと、「善鬼。参ろうよ」と、実に、馬のわらじに躓つまずいたほどな顔色もうごかさずに行ってしまった。
「…………」
典膳は見恍とれていた。この朝から彼はまた青年の憂悶ゆうもんを深くした。

「お腰でもすこしお揉もみしましょうか」と、母の側へ寄った或る夜のことである。
「典膳。そなたほど腑ふがいないものはないぞよ」と、案外な母のことばだった。
母はいつになくきつい容かたちをその姿に持って云う。
「そなたも二十歳を一つこえたではないか。いまをどんな時勢じゃと思います。可惜あたら、若い者が、老い先知れた老母の腰をなでさすっていることなどが、時の若者の一番よい道と心得ていなさるか。――としたら、この母は、悲しゅう思う。そなたは、母に早く死ねと望むか」
「め、めっそうもない。……母上には、いつにないお怒り、こよいはどうかなされましたか」
「さればよ、母はゆうべ、そなたの亡きお父上から叱られました。夢のうちに。……典膳、なぜそなたは、母のことなど捨てきらぬ。自らを大成して、後々の大きな孝養を心がけてくださらぬか。なし易やすい目前の小さな孝養に自分をなぐさめ、ふたたびはない若い日を空しく見送っているのですか。……ああ、子を愛しながらも、子に鞭打むちうつことをなさる、お父上のきびしいお力、大きな愛のお力が借りたい。そう日頃から思いつめていたせいであろ。ゆうべそなたのお父上からこの母が叱られました。……おまえがわるい、おまえがあまいぞと」
母は泣いてしまった。これは母の本能ならぬ心をもって、必死に云ったからであろう。やがては子のまえにすら居たたまれず、寝間へかくれてなお泣いていた。
雨が降っていた。夜は墨のように暗い。その雨の中を、ただ一書かきのこして、神子上典膳みこがみてんぜんは家の門を出てしまった。もちろん修行の旅へである。
典膳が幼少から志している道。また日頃の憂悶も、彼の母は、よく知っていた。よくよくな決心であったにちがいない。父なれば知らず、母としてあれほどまでのことをいうには。

やさしい子典膳は、世上へ出ると、必ずしもやさしい子ではなかった。また理性にのみとらわれて勇邁ゆうまいを欠かく若者でもなかった。
山に里に都に、何流のなにがしありと聞けば、ひたぶるに訪ねて、教えを求め、仕合を乞い、また禅門に潜ひそんでは、心胆を練ねった。技わざを研みがいては技を捨て、技に達しては技を忘れることに苦しむのだった。
しかし、禅家の門には、また禅家の安息と弊へいがある。それに馴れると、奮然、またわらじを穿はいて、勝敗の中へとび出して行く。清隠せいいんの門から市塵の中へ。
幾年も櫛くしの歯を入れたこともない頭髪、家を出たときのままといってよい服装。その垢あかと埃ほこりを負ってあるく彼の眼は、いつとなく爛々らんらんと研とがれ、その道を求める熱意の烈しさに、人呼んで、
獅子咬典膳ししがみてんぜん
とすら異名するに至った。
「――彼に勝つほどになれば」
典膳は、その精進に、ひとつの目標をもっていた。それは伊藤一刀斎という者である。一刀斎に当ることを以て、修行の試金石しきんせきとし、明けても暮れても、その姿を幻想のうちにおいて、理心二つを一体に磨いていた。
家を出て四年目である。夏の頃、島田の宿の木賃に泊っていると、近くの豪農の家に、伊藤弥五郎一刀斎という剣客が弟子を連れて泊っているというはなしをふと耳にはさんだ。
典膳は、血が熱くなった。自みずから自分に問うて、 (いまの腕で、彼に勝てるか、まだ勝てないか)を胸に質ただした。
(勝てる) 当然なように肚の底からわき上がった信念が、彼の面に微笑を刻きざんだ。
早めに、湯漬ゆづけをかきこみ、木賃を出た。外の道はまだ夕明りの頃おい。
訪ねあてた農家の柴垣しばがきには、夕顔が白く咲いていた。さし覗のぞくと、幸いにも、その人はいま外の風呂小屋から出て来て、母屋おもやの土間へはいりかけていた。
「弥五郎先生っ」
大きく呼びかけながら近づくと、一刀斎は濡ぬれ手拭をさげたまま、まじまじと典膳のすがたをながめて、「……誰だな」と、ずいぶん間まを措おいてからたずねた。
「御記憶はないでしょう。しかし私には充分な覚えがあります。数年前、上総かずさの夷隅いすみの浜へお上りになったことがありましょう」
「ほ。……ある」
「数日を、龍王寺に御滞在。それから再びお旅立ちの朝、万喜頼春まきよりはるの家中のものが、道を阻はばめて、敢て先生のお刀をわずらわしました」
「ははあ。あの地摺じずり青眼せいがんか。……ふッむ。さては、おぬしには、その身寄りの者とでもいうのか」
「ちがいます。縁類のよしみによって一太刀うらみ申さんなどという仇討ちの者ではありません。仔細しさいあって、その折、私は先生のあの地摺り青眼を破ったあざやかな御神技を見ていたものに過ぎません」
「地摺り青眼? おぬしもそんな囈言たわごとをいうか。世に地摺り青眼などという構えはありはしない」
「お待ちください。是非の論を伺いたいのでもありません。私はただあれ以来一意懸命に、あなた程な神技の持主に打勝ってみたいことのみに潜心して来たものです。どうか、一太刀お仕合ください」
「止やめよ、止めよ」
一刀斎は、わからぬ子を諭さとすようにかぶりを振って云った。
「たいして益にもなるまい。のみならず、おぬしのような若者をしばしば片輪者にするのが嫌でのう。努めて仕合は断わっている。駄々を捏こねずに帰んなさい」
うしろを見せた。冷えた濡れ手拭のごとくその背は冷然と見える。
「待てっ。道の修行に生死なしッ。それがしを辱はずかしめるかっ」
典膳は跳びかかった。まさに獅子咬ししがみ典膳の異名をすがたに現わしたといっていい。
抜打ぬきうちに、弥五郎の背へ。
蚊ばしらを斬った白刃しらはが、どすっと、大土間の入口の柱へ喰いこんでいた。そして典膳の獅子にも似た体は、そこから九尺も外の大地へ背を打って転まろんでいた。
「ちいッ」と、跳ね起きた手はすぐ土間口の柱から刀を抜き取って、一刀斎のすがたを、「どこに」と、その眼はするどく見廻している。
火のない炉ろ部屋の炉のそばで、一刀斎は笑っていた。典膳のほうを見てではない。そこに蚊やりを燻くべているこの家やの主あるじに向ってである。
「いや、愕おどろくにはあたらない。ああいう半狂人きちがいにはのべつ見舞われるでな、わしは馴れているのじゃ。なあに、いくら半狂人きちがいでも、家人には何もせぬ。気のどくな。愕おどろいてみな奥へ逃げこんだか。はははは」

典膳は土間の中に突っ立ってなお一刀斎のほうへ白刃を向けていた。幼少からいえば七歳の頃から。家出した時から数えればここ四年。寝食を忘れて築きあげてきた修行とその自信はいま血の音をたてて胸の底へ崩壊していた。さはいえ心外である。無念とも何とも云いようはない。或はいまの不覚はまったくの一失かも知れないと思う。負けてなろうか。この壮者があの老いぼれ如きに。いや負ける理由はない。絶対にあり得ない。
(自分はひとの十倍二十倍も苦しい修行をした。ひとの為なし得ない艱苦かんくをもこらえてやった)
燃ゆるような残念さがこう思う。そう信じないで行いきれるような生ぬるい今までの修行ではなかった。また、何のために、老後わずかな母の余生に仕える子の真情までを抑えて、こう長い年月遠く離れていたか。
「…………」
獅子の眦まなじりには涙がにじんでくる。ここに勝ち得ないほどなら死ぬるがましであるかもしれない。不孝の[#「不孝の」は底本では「不幸の」]罪だけでも死に値する。典膳の血相は刻々すさまじいものを加えるばかりだった。
一刀斎は、その息を聞いて、ふと、蚊遣かやりの煙から此方こなたを振向いた。
「……まだ、いたのか」
「仕合えっ。一刀斎」
「仕合はすんでいる」
「すんでいない。みろっ。神子上典膳みこがみてんぜんはまだかくの如く健在だ。片輪者になってはおらぬぞ」
「なりたいのか」
「息の音ねのとまるまでは仕合する。弥五郎一刀斎を砕くだかぬうちは、生きては還かえらぬ」
「どうしても」
「起てっ。起たねば、卑怯なりと、世間へ嗤わろうてやるぞ」
「ぜひもないが……はてさて、身を弁わきまえぬほど始末のわるい者はないの。山の高さも知れぬ無智をもって山にとりつく莫迦者ばかものがあるかっ」
語尾つよく、大喝だいかつすると、その頭が天井をつくかと思うほどぬっと起ち上がった。反射的に、すぐ典膳が、身がまえを引緊めると、何事ぞ、一刀斎は横を向いて縁の方へ立出て、もう藁草履わらぞうりへ足をのせていた。
そして斜めに、風呂小屋のほうへ歩いてゆく。――と見て典膳が、疾風しっぷうのように土間から跳び出すと、一刀斎は、「あわてないでよい。まだ若いおぬしを、不具者にしては愍あわれ。怪我せぬように仕合うてやる。落着いてかかれ。落着いて」風呂場の横に積んである松薪まきの一本を取って、きっと此方こなたへ向け、夕月の下涼しげに、典膳の手もとを見直していた。
兄弟子善鬼

搏うって搏って、搏ってかかる波の精根も、巌いわおをうごかすことはできない。典膳と一刀斎との半刻ときにもわたる仕合は、まさにそんなふうだった。また、両者の実力にはそれくらいの相違があった。
刀を奪とられて、茫然、なす術すべもなく立たされてしまうこと二度。空を斬って、身ぐるみ、遠く投捨てられてしまうこと四たび。
このあいだに、典膳の刀は、ついに一刀斎の衣服のたもとを掠かすめることもできなかったのである。
「もういちど。もうひと太刀っ」
惨さんたる敗れに腰をつくたび、典膳は喚わめきの中から身をふるい起して、狂う炎のごとく一刀斎へおどりかかった。一刀斎は、もう拒みもせず、止めもしなかった。
「よしっ、幾千遍でも」
初めに構えた一本の薪まきは、つねに同じところに同じ角度で持たれていた。もちろん動く一瞬は疾風しっぷうを起し電光を描く。けれどそのあとはすぐ元のすがたに回かえっているのだった。
さいごに、典膳は、その薪でしたたかに肩を打たれたのである。
体の骨がばらばらに打砕うちくだかれたと思ったとき、ずしんと腰の坐骨を大地について坐っていた。
刀は遠くへ刎はねとばされている。そして一刀斎のすがたは夕月の下もとに、依然、一幹かんの松が嘯うそぶくように立っている。
「…………」
それを仰ぎながら、典膳はもう喚く声も出なかった。いや腰すら起てない。ただ満面に凄愴せいそうな汗を光らせながら、大きく両方の肩で息をつくばかりだった。
「若者。気がすんだか」
一刀斎は風呂小屋の方へ歩みだした。そこの薪の棚たなへ、手の薪を返して、ふたたび典膳のまえを通りぬけ、母屋のうちへ姿をかくした。
「……ああ。……もし」
よろよろと彼は起った。何を訴えるとも考えず、一刀斎のすがたに惹ひかれて起ったのである。――が、そのとき垣の外からひとりの男がこの家へ戻って来た。一刀斎の弟子の善鬼ぜんきである。うさん臭そうな眼をくれて善鬼も土間のうちへ隠れてしまう。典膳は落ちている自分の刀を拾うと、生きている辱はじに耐えられないように、惨たる面おもてを両手で蔽おおって、脱兎だっとのごとくこの家の門から外へ駈け去った。

武道家の門人として、大小を帯び、侍には装っているが、善鬼の肥肉ひにくは余りに逞たくましすぎて、その起居たちいまでも、前身の船頭癖ぐせから脱けなかった。
酒が好きなので、今夜も町へ出て、独り飲む寝酒をそっと買って来たものらしい。一刀斎の眼にふれないように、それを土間の隅すみへおいて、何喰わぬ顔して框かまちから上がりかけると、「善鬼か」と、奥で師の声がいう。
「はい。善鬼でございますが」
「外にいた若い男はもう帰ったか」
「いつの間にか、消えて失なくなりました。何事かあったので?」
「たいしたことじゃない。風呂に入ったか、おまえは」
「これからでございます」
「わしは寝る。そちも風呂をいただいてすぐ寝やすめ。あすは常のように夙はやく立つぞ」
一刀斎は、そういうと、夜具のうちにはいったらしい。
善鬼は風呂場へ行って、湯を浴びていた。
すると、彼がそこから出て来るのを待っていたように、垣の蔭から走りよった人影が、彼の足もとへ額ぬかずいた。
「おねがいの者です。憚はばかりながら、しばらく愚存ぐぞんをお訊きください」
「だれだい。……何だ?」
「それがしは、神子上典膳みこがみてんぜんという若輩じゃくはいです」
「あ。いまし方、そこらをうろついていた男か」
「お嘲わらいください。実は、身のほども弁わきまえず、一刀斎どのへ、仕合を乞い、強したたかに打ちすえられて……ようやく夢のさめたるごとく、自分の至らなさを今初めて知りました」
「よくもそうして体が片輪にもならずに済んだな」
「いまは、恥かしさに、一刀斎どのの前へ、ふたたび出る面おもてもありません。いちどは、ここで腹切って死なんかとも思いましたが、それも世間のもの笑い。かつは、故郷くにに私の人となる日を待っているただ一人の母もあります。……とつこうつ、垣の外をさまよっているうちに、あなたのお姿を見かけ、羨ましさに耐えなくなりました」
「なにがそんなに、俺の身分がうらやましいか」
「良い師のおそばに仕えておいでになることが」
「冗談をいうな。あんな気むずかしい爺じいさんはない。だが、せっかく十年もこの道にはいって、水を担かつぎ薪たきぎを割り、夜は夜で、足腰を揉むなど、ずいぶん辛抱して来たのに、奥印可おくいんかも貰わないで離れては、そのあいだの勤めは水の泡あわというものなんで、もう一年か、もう二年かと、じっと、我慢をしているところだ。武芸者の弟子なんて、おまえの考えているようなものじゃあねえ」
「勿体ないことです。およそ人の一生にも会い難きものは、良師と良主であると申しまする。……どうか、この私を、あらためてあなたの師、伊藤弥五郎先生へおひきあわせ下さいまし。過去一切の迷夢と思い上がりを捨て、新たに、もういちど剣の初歩から学ぶ七歳の童子のむかしに帰って、一刀斎先生にお仕えいたしたいのです」
こう聞くと善鬼はひどく意地悪い顔つきを示した。典膳の希望のひと通りでない熱意を感じるとなおさら彼はおいそれと取次いでやる気になれなかった。
「よしな。だめに極っている」
膠にべもなくこう吐き出して、
「さきも云ったとおり、気難しいことといったら無類な先生だ。絶対に弟子なんざ取らないお方だ。それをなぜ俺だけが許されて門弟として附いているかといえば、もう十年も前になるが、淀よどの三十石船で先生が大坂へ下って来たことがある。――その頃、かくいう俺は、枚方ひらかたの船持の息子で、自分も船頭していたのさ」
この男は前身をつつまない。むしろ誇ほこりとしているふうすらある。典膳にはそれが正直な人物のようにうけとれた。黙ってその顔を見あげたまま聞いていた。

善鬼が自慢ばなしに語りだしたのは、こういう過去の事だった。
ひと年とせ、弥五郎一刀斎が、舟で大坂へ下る途中、骨逞ほねたくましい船頭が、「この船には、ずいぶん武芸者も乗るので、余り腕自慢するやつは、いつも懲こらしてやっているが、まだ、俺を打った武芸者なんてひとりもいない。術の法のと、理窟はうまいが、持って生れたほんものの腕ぶしには敵かなわねえのさ」と、大声に乗客へはなしかけていた。
一刀斎は、わざとそら耳を装って、横を向いていたが、船頭はまた、強しいて彼のほうへ、「ねえ、お侍さん。そこにいるお武家さん。そんなものじゃありませんか」と、是非の返答を求めた。
そう云われると、一刀斎も、衆に対して、「道」の誤まられることを惧おそれた。愚者の[#「愚者の」は底本では「患者の」]矇もうをひらいてやるのも修行者の任と思った。
「いや、ちがう。持って生れた腕ぶしでも、磨みがかない力は、俗にいう莫迦ばか力、くそ力とも申すもの。そういうものに慢じていると、いつかはきっと身をやぶるだろう。其方はまだ人に負けた覚えがないというが、それらの武芸者が未熟なためで、決して、剣の法や術が無益なためではない」
懇ねんごろに諭さとしたつもりだが、その船頭は、いきり立って、やにわに船を岸へ着け、「おい、ばか力が勝つか、剣法が勝つか、陸おかへあがって試そうじゃねえか。大勢の客衆のなかで、おまえさんのような田舎侍いなかざむらいに子どもあしらいにされちゃ、あしたから大きな顔して淀の船頭はしちゃいられねえ。さっ、上がれ」と、櫂かいをかかえて先へ跳び上がった。
大人気ないと思ったが、ぜひなく弥五郎も陸おかへ上がった。もちろんこの試合は試合というほどな勝負にもならず、船頭は得物えものとする櫂かいを相手にとられて、その頭を打砕かれそうになると、平謝ひらあやまりに手をついて謝った。
枚方ひらかたの船持とかいうこの船頭の親なども馳けつけて来て、共に息子の無礼を詫わびた。一見、勝負は呆ッ気なくついたように見えるものの、弥五郎も心のうちでは、この船頭の力量と剛気には感心していたので、「惜おしいものだ」と、呟いてゆるした。
(さては俺に見所があるな) と思ったその船頭は、親を説いて、弥五郎の弟子にしてくれとせがんだ。その頃、弥五郎一刀斎も壮気旺さかんな時代ではあり、弟子のひとりも連れ歩きたい気もあったので、恰好かっこうな門人と、その乞いをゆるした。これが今の弟子、善鬼なのである。
「――こういうわけで、俺は弟子にはいったが、それ以来、ずいぶん諸国の行く先々で、頼まれることがあっても、断じて、弟子はもうとらないと仰っしゃっている。折角だが、おめえもその組だ。断られるに極っている。いや、そんなことを取次ぐと、第一、俺が、怒られる。帰りねえ。むだな夜露に濡ぬれていねえで」
善鬼は、喋舌しゃべるだけ喋舌ると、すたすたと、土間のうちへかくれ、隠しておいた寝酒をさげて、自分の寝屋ねやへもぐりこんでしまった。

典膳は寝られなかった。悄然しょうぜんと、木賃きちんへ帰ってから、ひとり薄いふとんの中で、これまでの修行と、現在の自分の力とを、反省し、また反復して、痛切に省かえりみてみた。
道とは、こうも高いものか。
修行とは、こうも深くて遠いものか。
今まで自分のしてきたことなど、あの老剣客からくらべれば、千里の道を、十里歩いて来たほどにも近づいていないのであろう。
恥かしい。
よくもあんな広言を吐けたもの。――そうだ、この思い上がりがいけない。生兵法なまびょうほうが邪さまたげていたのだ。もいちど、七歳の初歩にかえろう。
鶏とりの声を聞くと、彼はもう木賃を出ていた。そして島田の宿端しゅくはずれで待っていた。果たして、まだ朝霧の中を、弥五郎一刀斎と善鬼のすがたが彼方から見えた。
もう往来の人も馬もあったが、彼は、見得みえも外聞もなかった。一刀斎のまえへ馳けよって、「しばし、おとどまり下さい。昨夜の不心得者です。神子上典膳です。もはや、ゆうべのたわ言は、悉ことごとく自己の迷夢めいむとわかりました。いかなる辛苦も辞しません。何とぞ、おそばにおいて、先生のお草鞋わらじの緒おなりと結ばせてください。……おねがいいたしまする」大地へ額ひたいをすりつけて云った。
杖を立てて。
弥五郎一刀斎はその杖ごしにしげしげと典膳のすがたを覗いていた。善鬼はそっぽを向いている。――かなり沈黙のあいだが長かったので、典膳のむねは早、七歳の童子のように、そのあいだおどおどしていた。
「……ふうム。……そうか。よかろう、供について来い。だが、わしはつねにあてのない旅路をさまよっている人間だよ。合点か」
「もとより修行の道。師とお仕えすることができますならば、いずこの空なりとも」
「……善鬼」
「はあ……」
「おまえの弟弟子だ。今朝からはな。……仲よくせい。また、よう導いてやれ」
「この者の入門をおゆるしになったのですか」
「おまえの弟弟子として恥かしくないものだろう。わしにもちと見るところがあるによって」
「ははあ。そうですか」
善鬼は正直者である。感情をつつむことすらできなかった。それほどに無智な中で育った生い立ちの粗野が、この年になってもまだそのまま、人がらの中に根づよく残っていた。

師弟は三人となった。なるほど朝夕ちょうせき側に仕えてみると、弥五郎一刀斎は気難しい。善鬼の蔭口かげぐちは嘘ではない。
朝起きるから寝るまで叱言こごとである。歩き方がいけない、坐り方が悪い。廁かわやの出這入りから眠っている間でも寸分の油断はできない。時には、大喝たいかつを浴び、横顔へ平手を喰う。
「ありがたい。すべて是これ、修行でないものはない」
典膳は忠実に服して、飽あくまで師の心にかなおうと努めた。
しかし、その間にも、彼として、時には師の人格に全く懐疑かいぎしないわけでもなかった。一世の剣雄、宇内うだい随一といっても、二とは下るまいと思われるほどな一刀斎にも、起居同床、何年も側にいてみると、性格的にまったく短所も欠点もないというような人ではない、否、むしろこういう一道の達人にありがちな欠陥も多分に持っているのである。
たとえば、金銭などには、関かまわないようでいながら、案外こまかい。道中の木賃の料や中食じきわらじの代まで、典膳がいちいち誌しるしているが、「なぜこんな無駄をする」と、些細ささいな茶代の心づけの多少にまで喧やかましくいう。
そうかと思うと、周遊中には、高名を聞いて、所の諸侯が使臣をさしむけ、「城中へ参って家中一同へ一刀流なるものを観せてくれぬか」などと礼物を齎もたらして、いんぎんに迎えても、「わしは、芸者ではない。慰なぐさみに観るなら、余人を召されたがよろしい」などと膠にべなくそれを突っ返し、超然、物や黄金には目をくれない。
総じて、権門にたいし、一種の白眼をもっている。狷介けんかい不覊ふきなところがある。酒を飲めば、大気豪放、世の英雄をも痴児ちじのごとくに云い、一代の風雲児をも、野心家の曲者しれもののごとく誹そしる。
いわゆる世に容いれられない性格が、自然、世に対してそう云わせるものらしい。元来従順な典膳には、正直、師のそういう狷介けんかいなところには、好きになれないところもあった。
けれど彼は、ひとたび師と仰いだからにはと、そういう自分の性質に合わない点までも、常に、謹んで聞き、かりそめにも、それを以て、師を軽んじるようなことはなかった。
だが、兄弟子の善鬼となると、これは典膳のように、師その人にたいして、最初からの考えがちがっていた。
「おれは一刀流の印可いんかさえもらえばいいんだ。一日もはやく奥伝をもらって、一人前の武芸者として立ちたい」というのが偽りのない願望であるから、師の人格というものには二義的なものしか感じていないし求めてもいないのである。で、善鬼はよく蔭口をささやいて、「典膳。おまえは余り固くなり過ぎるよ。師匠のはなしも、十年以上聞いていると、たいがい同じことを繰返しているのさ。酒の肴さかなにはなすのだ。それをいちいち畏かしこまって、貴様のように懼おそれ謹んで聴いていたひにはたまらないぞ」と云ったりまた、「師匠だって、聖人君子じゃない。あんな顔していても、以前はあれで女子おなごにかけても、なかなか隅へ措おけないところがあったものさ」と、訊きもしないことまで喋舌しゃべった。
そうして善鬼は、時折、師に対して示す不遜ふそんを、自ら理由づけているふうでもあった。
しかし、こう三人三様な性格が、ひとつになって、諸国を周遊して少しも倦うまなかったのは、それが単なる生活の方便ではなく、師弟ともに、武者修行としての「道」ひとつへ研磨けんまを志していることに変りはないからであった。
師の一刀斎としても、なおまだ自己の剣を、 (これでいい)とはしていない。
達人の剣は、飽くまでも研みがき高められてゆく。
しかしその反面、一刀斎の肉体は、年ごとに老いても見えて来た。
善鬼は、いよいよ壮年期の逞しいさかりへかかって、その実力も、鍛えを加え、また諸国の剣客やその道床どうしょうに人中の場数をふんで、覇気はき満々たるものがあった。
いかにせん、年齢としにはかてず老いて行く達人と、また、抛ほうっておいても、技わざも体も、伸び熟うれてゆく生命力に、いつか驕慢きょうまんとなってゆくその弟子とを。――典膳はいつも心配そうに見較べながらついてあるいていた。彼も、弟子ではあるが、つねに荷持のお供であり、相弟子というよりは、草履取ぞうりとりか若党わかとうのごとく、その兄弟子にこき使われていた。

典膳が、師一刀斎についた年は、弘く天下を観ると、ちょうど、羽柴秀吉の中国軍が、いまやその攻略に、酣たけなわなる頃だった。
間もなく、北方には、甲斐の武田の没落が伝えられ、その年、夏の初めには、突如とつじょとして本能寺の変が起り、信長の死が、地殻の色をも革かえるほど、大きく世上を愕おどろかした。
「驕慢きょうまん、恐るべしじゃ。信長もついに達人でない。剣道から観るに、本能寺の一夜は、まったく信長の油断にすぎん。一失の油断は、何から生じるか。……さ。そこじゃよ」
一刀斎は、例によって、世乱変転の相すがたを、あたかも道中の山水風物と同視して、冷酷に批判する。浮沈ふちん興亡こうぼうする英雄の道と、いま自分のあるいている道とは、まったく別箇のものとしているのである。
山崎の合戦、賤しずヶ嶽たけ、小牧こまきの役、世潮はしぶきをあげて移り変ってゆく。しかもこの師弟のあるく道とその姿とは、七年たっても八年経っても変っていなかった。
典膳が師事してからまる九年め、師弟は九州を一巡じゅんし、四国を経へ、船で駿河するがにつき、しばらくの後、江戸へはいって来た。
梅雨つゆの不順な気候にあてられてか、伊藤一刀斎は、旅籠はたごで病みついてしまった。そこへ駿府すんぷから徳川家の重臣が、彼の足跡そくせきをたずねて追って来た。
「何用だろう?」
善鬼はひどくその重臣の訪問に気をつかって云う。船頭の家に生れたせいか、彼は今もって、官職権門などに対して、盲拝的な庶民根性をもっている。口では何かと大きなことばかりいいながら、折があれば自分の生涯のうちにはそういう身分に伍してみたいという幼稚な望みを抱いていた。
いま江戸は、開府創市の機運にあい、どこもかしこも埋立てるやら屋敷や町家をたてるやら、また道路や橋工事などに、埃ほこりだって、殷賑いんしんをきわめていた。
秀忠の居府となすべく、その大改築にあたり、江戸城には近頃、駿府から家康も来てさしずしているという。
そういう中であった。
「先生、徳川家の臣が、何のお使いに参ったのですか」
善鬼はよほど気になるらしく、一刀斎に、二度もたずねた。
「なんでもない」
一刀斎は、薬を服のむときのような顔して、その顔を横に振る。
数日たつと、北条安房守あわのかみがまた訪れた。安房守は、秀忠の兵学師範をしている。このときも密談で、善鬼は何も聞けなかった。
「典膳、おぬしは聞いたろう。茶を運んでいたから」
「いや、何も聞かぬ」
「うそ云え。聞いたにちがいない。安房守は、何しに来たのだ。師匠とどんなはなしをして帰ったのか」
「知らぬよ」
しかし善鬼は、典膳のことばまで、ほんとにしない顔つきであった。

一刀斎は、ようやく、病床を離れた。一雨ごとに葉の落ちてゆく晩秋の巨木に似ている。典膳は、この土用に向って、師の健康が案じられた。
「江戸の埃ほこりは、馬糞まぐそ臭くそうてたまらん。安房あわの海辺へでもゆこうか」
師弟三名、また黙々と、旅へ出かけた。八、九年も前は、一日に山や峰を踏みあるいても十五、六里から時には二十里もあるいた一刀斎も、近頃は、一日七、八里も歩くと、「典膳。宿をとれ」と、命じる。
そこにも、あらそわれない師の老齢が想われた。
下総しもうさの国へはいった。相馬郡そうまごおりの小金ヶ原に近い寺に泊った。馬の尿いばりを嗅かいで農家の蚤のみに喰われたり、下の竈かまどで焚たく煙にいぶされながら木賃の屋根裏で寝るときよりも、寺に泊って寝られる夜はもっとも恵まれた晩である。折から小金ヶ原の野末には白い月が出ていたし、一刀斎も病後初めて、「ああ、こよいは快よい気もち」と、心から夜の涼味をたのしんでいた。
そのうちに、善鬼に向って、「蚊遣かやりをもっと焚たけ」と、命じ、また典膳に向っては、「すこし善鬼とはなしたいことがあるから、おまえは庫裏くりなと本堂へなりと行って、すこしこの座を遠慮しておれ」と、いう。
いつになく改まっている師のすがたにも見えたので、典膳は何事かとあやしみながらも、「かしこまりました」と、素直にそこを去った。
そして庫裏へ行って、野僧や小坊主をあいてに話しこんだり、本堂で月をながめたり、ずいぶん時を費ついやしてから、 (もう、よかろうか)と、師の部屋を窺うかがってみると、一刀斎と善鬼とは、依然、かたく対坐したまま、まだ何事か、話し中であった。
で、彼はまた、そっと戻って、ぜひなくこんどは外へ出た。そして大きな藁わら屋根のうえに更ふけた月をぽつねんと独り仰いでいた。
するとこうした静かな夜のしじまを突然やぶって、あらあらしい大声がどこかできこえた。たしかに方丈の一室である。師の泊っている部屋あたりだ。
「……や?」
からたちの垣がその外を囲んでいる。典膳は草履ぞうりの音をしのばせてその外へ馳け寄った。内では、月のさす廂ひさしの奥で、善鬼が、呶鳴どなっているのである。

「ばっ、ばかなことを、お云いなさいっ。いかに、師であろうが、先生であろうが、余りといえば、ひとを莫迦ばかにしたおことばだっ。いったいこの善鬼のどこがわるいんです! どこが」
ひどい声だ。すさまじい感情だ。もう平常の師弟の礼も逸脱いつだつしている。典膳は、これは困った喧嘩であると眉をひそめた。
病後の一刀斎の声にも、すこし癇癖かんぺきが加わっていた。駄々ッ子を叱る父のように、「たわけ者がッ」と、つよく叱咤しったし、
「どこが悪いか、ひとに訊きかねばわからぬほど、そち自身の愚鈍ぐどんが、まだ気づかぬか。それも見えぬものに、何で、真の剣が観えよう、一刀流の極意ごくいの印可など、沙汰さたのかぎりである、断じて、そちにはまだ許せない」
「ゆるしてくれないものなら、仕方がないと、諦あきらめもしよう。だが、この善鬼よりずっと後に弟子入りした典膳にそれを譲るから、左様心得ろ、口惜しくば、もっと励め、とは一体なんという無慈悲無情なおことばだ。弟子を愛すのが師ではないか、その弟子を、もう十九年も仕えている弟子に、こんな酷ひどい想いをさせてもよいのですかっ」
「やかましい。そちのいうことは、いちいち理に外はずれておる。まるで痴人ちじんの喚わめきだ」
「なに。痴人だと。どうせわしは痴人でござる。それ故、徳川家へも、典膳を御推挙になったのでしょうが、それでは、この善鬼、兄弟子として、世上へ面おもてが立ちません。痴者には痴者の一念がありますからそう思ってください」
「一念とな。それはいい発心ほっしんだ。ちかって弟弟子の典膳に劣らぬよう、もういちど勉強し直すがいい。山へでも籠って」
「く、くそっ。ば、ばかな」と、善鬼は牙きばを噛み身をふるわせて云い返した。
「先生っ。あなたの依估えこひいきな眼を正してあげるのです。あなたは、この善鬼が憎くて、典膳がおすきなのだ。怪けしからん片手落ちだ。善鬼は、兄弟子ですぞ。典膳ごときに劣るものではありませんぞ」
「だから、……どうするというのか」
「いや、それよりも、先生。……もしこの善鬼が、典膳と尋常じんじょうに立合って、一刀のもとに彼を斬伏きりふせたら、あなたは何といたしますか。それから先に聞かせてください」
月明りを横にして、膝をつめよせている善鬼の血相といったらない。すでに人の見さかいを失っているのであろう。左の手は刀にふれている。典膳は垣を破ってはいろうか、このまま、控えていようか、師の心も推おし測はかりながら迷っていた。
初代次郎右衛門以後

寺僧の声がした。師の部屋に青い蚊帳かやが吊られ、やがて善鬼の影は縁伝いに退さがって行く。
典膳が戻ってみた頃、善鬼もすでに眠っていた。典膳も眠るしかない。
しかし兄弟子の寝返り打つのを、幾たびも知っていた程、彼も寝辛ねづらい夜ではあった。
夜が白む。まだ朝露のふかい間に、この師弟三人は、もう昨夜の寺を出て、先の旅へと、黙々、野路を歩いていた。
今朝、寺の筧かけひの水で、起抜おきぬけに顔を洗うときから、善鬼の面おもてには、夜来の感情がすこしも拭ぬぐわれていないのみか、むしろ、そそ毛立っているような凄気せいきをすら――典膳は、ひそかに見ていた。
ゆうべ彼が師と争ったことの内容は、典膳にもほぼ推察されていた。それだけに、彼としても、この兄弟子に、何となく気まずいものを覚えずにいられない。自然、腫はれ物にでも触さわるような無口がつづく。
師の弥五郎一刀斎もきょうばかりは少し常と容子ようすがちがう。察するに、胸の中で、夜来の問題を、いかに解決すべきか。師として、また人間として、さらに、奉ずる剣道の上から観て――善鬼と典膳と、ふたりの弟子の将来に、並ならぬ苦悶くもんを抱いているらしく思われる。
陽は高くなる。草も乾く。きょうも烈しい土用照でりだった。下総半国もつづいているかと思われる小金ヶ原の果はてなき野道を、こう三人は、草いきれのような胸を抱いて歩いた。
昼顔や切れぬ草鞋わらじの板となる
誰やらの句も偲しのばれて、足の裏すら熱かった。――一刀斎はふと杖を止め、一朶いちだの白雲を仰いでいたが、このときもう彼の考えは定きまっていたものの如く、善鬼と典膳を顧みて、「ふたりとも待て。……ちと、はなしがある」と、笠の緒おを解いた。
焦やくが如き炎天の下もと、碧落へきらくの十方、キチキチ、キチキチと、青い虫の飛び交うほか、旅人の影一つない真昼だった。

一刀斎は、道の傍かたわらに、大きな石を見出し、汗を拭って、それへ腰かけた。
弟子の二人は、二十歩ほど彼方に、命じられたまま、佇たたずんでいる。
まず、先に、「善鬼。これへ参れ」と、呼んだ。
善鬼は、大股に歩いて来ると、彼の前に突っ立った。一刀斎は、その非礼に顰蹙ひんしゅくしたが、今はその非礼を咎とがめる気にもならないように、「夜前の希望をかなえてつかわす。望みどおりここで典膳と立合うがよい。おぬしが勝たば、ここに携たずさえておる瓶割かめわりの刀、伝書、相添あいそえてそちに譲ろう。このふた品を持って、北条安房あわどのを訪れ、幕府への御推挙を仰ぐとも、また一刀流を称して他に一家を構えようとも志こころざしどおりにいたせ」と、云い渡し、重ねて、「よろしいか」と、念を押した。
善鬼は、そう聞いてから、急にひざまずいた。自分の意志が容いれられたし、師のことばに、親切も感じられたからである。そして典膳との勝負については、何の顧慮こりょなく、勝つものと、極めているらしかった。
「ありがとうぞんじまする。お見届け下さい」
明答して、元の所へ、引き退がった。
次にまた、一刀斎は、「典膳。これへ来い」と、さしまねいた。
典膳は、師の脚下に坐って、両手をついた。
彼方から善鬼がじっと見ている。――一刀斎は善鬼へ云い渡したことばを、彼へもそのまま繰返したに過ぎない。ただし、彼に対しては、その唐突とうとつを気の毒がるように、べつにこれだけのことは云い足した。
「好むことではない、何分にも、善鬼の我意はわしにも、撓ためきれん。よんどころなく希望を容れたわけだ。――故に、其方そのほうとしては、兄弟子たりとも、毛頭、斟酌しんしゃくに及ばぬ。修行の年月は、彼よりも浅いが、死力を尽して立合え。怖らく、技わざに於ては、そちは到底とうてい、善鬼の敵ではあるまい。及ばぬこと遠いとわしは視る。しかし剣道の真は、技や作り構えでないことぐらい、万々、そちも開悟かいごしておる筈。よも見苦しい負けは取るまい。確しかと肚をすえて致せよ」
「おいいつけとありますれば。……畏かしこまりました」
典膳も、起って、元の位置まで戻った。
一刀斎は、腰かけている石から離れず、彼自身また、石に化したかのように、じっと、二人の弟子を見くらべていた。

「聞いたか。典膳」と、善鬼は、革襷かわだすきを綾あやなしながら、愍あわれむように典膳へいう。
「承りました。兄弟子ながら、白刃しらはとあれば、御仮借はいたしかねる。御免を」
「よしよし。せめて、善鬼の髪の毛一すじなりと、斬って死ぬ気でかかれ。――典膳、はやく支度しろ」
「よろしいのです」
「なにっ」
「支度には及びません。いつでも」
「よいと云ッたな」
右の肘頭ひじがしらが、善鬼の顔半分をかくした。柄つかを握ったのである。身を斜めにして。
風を呼ぶかのように、善鬼が、うむッと、宙の気を嚥のんだ。そして鞘さや口から刀身が走り出すことまだ半なかばのうちに、典膳から、「いざっッ」と、凄すさまじい気を吹いて、はや一太刀先へ揮ふりこんだので、善鬼は、ばッと、踵かかとを退ひき、さらにまた、相手の鋭鋒えいほうを避けて、二度まであとへ飛び退さがってから、初めて、ぎらっと、鞘さやの内から焦やけている大きな刀を引抜いた。
――相青眼あいせいがんというのか、彼も中段、典膳も中段に構えた。そしてふたりの剣尖から剣尖までのあいだは、十歩も離れていた。
いずれからにじり寄るともなく、その十歩が、七歩となり、五歩となり、三歩となり、はや相触れ合うばかりに見えたとき、石の上から突然腰をあげて、一刀斎が大喝した。
「典膳、勝ったりっ。そのまま、瓶かめを割る気で、真二つにしてしまえっ」
ことばのうちに、典膳は、ふところを開けて、大上段にふりかぶっていた。この際、善鬼としては、つけ入る虚きょがあったはずだが、一刀斎の声に驚いて、感情を掻きみだされ、機を失っていたせつな、殆ど、無造作むぞうさといってよい程、自らの噴血の中に、二言ともいわず、幹竹割からたけわりに斬り伏せられていた。
「…………」
むしろ茫然たる姿は、ただ一刀に彼を斬った神子上みこがみ典膳の姿だった。
切ッ先下がりに、精いっぱい、相手を両断したままの姿を――その刀、その構え、その足までを、少しも崩すことなく、いつまでもじっと、そのままに、思考していた。
自分にないとしていた力が自分から出たのである。それは、はからずも画えがけた神品の名画に似ている。どうして画けたか、よく自分に意識づけて一つの悟入ごにゅうとしておかないことには、平常に回かえって、ふたたびこの神品が画けるか否か、自分のものでも、自信することができないだろう。
典膳は正しく、自己の剣に、陶酔とうすいしたのだと云ってよい。涙がにじみ出てならなかった。今日以後、一箇の剣人たることを、天地からゆるされたかのような心地である。
「……止とどめを刺せ」
うしろから、一刀斎に云われるまで、典膳の四肢しは、土から生えたようになっていた。しかし、敢あえなき兄弟子のすがたを見ると、止めまでは刺し得なかった。善鬼はなお手足をぴくぴくさせているのだ。どうしても忍び難い。
「わしに貸せ」と、一刀斎は、典膳の刀を取った。典膳は鞘ぐるみ、師の手にあずけた。一刀斎は、断末だんまつの善鬼をしげしげとながめて、「不愍ふびんなれど、かくなり果つるように、所詮しょせんは、生れついておる男じゃった。助かるべくもない深傷ふかで、せめてこう致してやるが師の慈悲よ」と、刀の切っ先をもって、一抉えぐり与え、さて、典膳に向っては、「忘るるなよ、典膳。いかなる上手になろうとも、善鬼の如く慢じては、その終り、かならずかくの如きものじゃ。思えばわしも一代に大きな過失を一つした。それは、習まなぶべからざる質の者に、わが剣法を習ばせたことじゃ。豈あに、善鬼の罪とのみいえようや。――善鬼よ、ゆるせ」一刀斎は、左の手で、白髪しらがまじりの髻もとどりの根をつかんだ。そして右手の刃で、ぷつと断きり、善鬼の胸のうえに投げた。
そしてその刀は、自分の腰に収め、自分の腰にさしていた刀を取って、典膳に与えた。これは、どういう由縁ゆかりから起った銘か、瓶割かめわりの刀とよばれ、稀代きたいな名刀と知っているので、死せる善鬼もかねがね、師匠が死んだら俺の物と、独り極めにしていたほどの刀だった。
それと、伝書とを、併せて、典膳に贈り、「さらば今日が、師弟のわかれと相成った。そちは江戸へ戻って、北条殿を訪れよ。委細いさい何事も、安房あわどのがお心得ある。……何。わしか。入道一刀斎の行く先は、いくらでもある。何の、巷ちまたの世間に限ろうぞ。案ずるな。おさらば、おさらば」追えども追わせず、袂たもとをふり払って、一刀斎は、野面のづらの空の白雲のように、いずこともなく独り去ってしまった。
以来、この人についての消息はない。世間にも伝わらず、典膳の耳にすら聞くことがなかった。

典膳がその姓、神子上氏を変えて、小野姓になったのは、師一刀斎とわかれ、北条安房守の斡旋あっせんで、幕府へ禄仕するようになってから後である。
同時に、名も改めて、次郎右衛門忠明と名のり、神田もちの木坂に、邸やしき及び道場を賜わり、受禄三百石ぐらいであった。
将軍家師範の家としては、すでに柳生家があり、家格待遇も甚だ彼よりは高い。とはいえ、かりそめにも、小野次郎右衛門を、その次席に登用したことは、けだし野やに遺賢いけんなからしむる意味で、北条安房守そのほかの幕臣にしてみれば、かなりな勇断と破格を示したものであった。
そのとき次郎右衛門の年歯としはもまだ壮年だったから、修行中、安房の夷隅いすみ郡にのこしてあった老母も、やがて彼の新邸に迎えられたであろうし、以後、いよいよ道に研鑚けんさんし、奉公にも篤あついわが子の将来を見とどけて、安らけく、終ったであろうことも想像される。
また、一説には、次郎右衛門忠明の「忠」なる字は、二代将軍の秀忠から賜わったものであるともいわれているから、以て、彼が将軍家から寵任ちょうにんされていたこともわかる。
おそらく、この説は、ほんとうであろう。すでに、将軍家が秀忠と名のっているのに、彼が自みずからその「忠」を勝手に用いるはずがない。たとえ将軍家の方が後から称える場合でも、臣下は遠慮と称して、文字を改めたものである。然るに、忠明は歿ぼっするまで、忠明でとおしている。

これは忠明が、禄仕の後か、その前の神子上時代のことか、定かでないが、薩摩さつまに一話を残している。
彼が、薩摩へ行くと、その著名を聞いて、土地の瀬戸口備前びぜんなる剣家が、「一夕せき、お迎え申したいが」と、使いを以て招いた。
約束の夕べ、瀬戸口の邸やしきへのぞむと、十坪ばかりの道場に、弟子たち大勢がひかえていた。そして、忠明が奥へ通ろうとする足もとから不意にむらがり立って、総勢して斬りつけた。
「かかることもあるべし」と、予期していたかの如く、忠明は、慌あわてず、怯ひるまず、身辺の者を、蹴仆けたおし、踏みつぶし、一刀を抜き払うや、獅子のように薙なぎ廻って、狭い道場を忽ち天井まで紅くれないにしてしまった。
死骸となって、床に伏す者八名、深傷ふかでを負い、うめき這う者四人、あとはみな逃げ散ってしまった。
「御案内の人じんはいかがなされた」と呼ばわりながら、忠明は、なおも奥へ入って行った。すると一室に、赤い広袖を着た人物が、惣髪そうはつの頭を下げ、大小を前へさし出して、「備前でござる。今夕こんせきの戯たわむれは、まったく門人どもの私意。平ひらにおゆるしを。平に」とばかり百遍も叩頭こうとうして詫び入った。
「御もてなしとはこれでしたか」
一笑を残して、忠明は帰った。即日、国外へ去るべく山道へかかると、はや知って、先廻りしていた数十名の者が、樹下叢陰そういん、思い思いな所から立ち現われて、彼を阻はばんだ。もちろん手槍、太刀、薙刀なぎなたなど、武器もさまざまであった。
そのうちに、一名の手練の立ちすぐれた男が、鍵鎗かぎやりを揮ふるって、忠明の片袖を絡からみ奪とった。忠明は、絡まれた袂たもとの上から鎗をつかみ、手元へ躍りこんでその者を一颯に斬った。ぎゃっと、のけ反ぞったとき、その面おもてに思い出されるものがあった。おそらくは主謀者か。これを見ると余の者は、脆もろくも散って逃げ去った。
人あって、後に、忠明に問うと、「いくら一時に大勢してかかって来ても、衆も結局一人に過ぎない。衆に出会って、敵は我れの何十倍に当るなどと思うことが敗れである」と、答えた。
戦闘に当っては、一人も一、衆も一なり、というその理を説いては、またこう言った。
「――たとえば、敵、万人かかり来るとも、一箇のわが身辺へ近づける者は、せいぜい前後を囲んでも八人を出いずることはない。さらに、各敵が、二尺以上の太刀を、双手もろてに揮って使うとなれば、なおその間隔は局限されるし、また、各人の我れに斬りつけて来る太刀にも、必然、迅いのと遅いのがある。こう審つまびらかに観て来ると、八人の数は、半分もうごけず、その半分から我れに触れて来る切っ先に至っては、やっと一人がせきのやまである。――故に、胆をすえて、此方こちらがその一人一人を制しさえすれば、べつだん何ということもない」
それから、また、「大勢の敵を悩ますには、その多数性をこちらの利に取って、彼の混乱を促うながせばいい。自分一人というものほど、統率とうそつがよくとれて、混雑しないものはないからな。――戒いましむべきは、衆に対して、いたずらに虚勢を張り、大勢の力を、求めて我れの一ヵ所へ集注させることだけだ」

一刀流三祖伝に伝えて曰いう。
或る折、同職の柳生但馬守たじまのかみが、小野どのの剣を、一見したいと求めたことがある。
「畏かしこまった」と日を期し、忠明のほうから柳生邸へ出向いた。この日、十兵衛三厳みつとしもおり、甥おいの柳生兵庫も待ち、ほか柳生の四高足といわれる木村助九郎、村田与三、出淵平八、庄田孫兵衛などもみな居合せて、「まず、私から」と、柳生十兵衛が初めに立った。
彼は、但馬守の長子で、父にまさる者という世評すらあったが、立合うと、半ばにして、「まことに、お見事です。わが家いえの水月の太刀を、祖父石舟斎のおすがたに見るままな心地がしました」木剣を下に置いて退さがってしまった。
「さらば」と、兵庫が立ちかけるのを、忠明は、いやと抑しとどめて、「今日、但馬どのから、お求めをうけたのは、こちらの御子息や御門下の太刀を一覧の上、忌憚きたんなき御評などもうかがいたいとの御意ぎょいであった。さほどのことなれば、一人一人に、辞儀申すよりは、一度に拝見いたしたほうがよいと思う」と、云ったので、それがやや不遜ふそんに聞えたのであろう、四高足は、色めき立って、各※(二の字点、1-2-22)木剣を手にして立った。
「兵庫は、控えて、傍かたわらより見学いたしておれ」と、但馬守は、特に彼を避けさせた。避け得ないところの殺気をすぐ感じたからである。
けれど、結果は、あっ気なく終った。四人が汗してかかってもついに忠明に木剣の先も触れることが出来なかったのである。
奥へ招じて、懇ねんごろに歓待した。種々、忠明の評を聞いた。やがて客はすずやかに立帰って行ったが、その後で、十兵衛が、「四人でかかったときはどうだった」と、訊ねると、四高足ともみな口を揃えて、「ただ、水を断きり、雲を払うような気がするのみでした。どうしても、敵の骨身に入っていなければならないと思われる太刀も、一瞬ごとに、虚きょまた虚です。その虚に憑つかれたように、こちらの頭が疲れたとき、忠明どのの太刀が、いつのまにか自分に来ているというわけですな」但馬守も側にあって、「予は、どうかして、忠明の眼ざしが、どこへついているかを、見極めようと観ていたが、ちょうど、陽炎かげろうを追っているようなもので、どうしても彼の眸ひとみのつけどころを、適確に、見極めることができなかった」と、共に嘆じていたという。

小野忠明と柳生但馬守とは、同じ将軍家師範の職にあったため、対立的に視られ、ほかにいろいろ別説もあるが、多くは信じるに足らない。
典膳が独り江戸に出たとき、噂を聞いて、柳生家を訪ね、その不敵を怒る但馬守に対し、燃え捨ての薪まきをもって、彼の流名と誇りとを辱はずかしめて帰ったという如き――またそれを聞いた大久保彦左衛門が、急遽きゅうきょ登城して、将軍秀忠に、忠明を推薦したという如き――みなそれに類する巷説こうせつといえよう。
けれど、両家とも、同じ剣を以て、同じ職に仕えていたことだから、道を研みがく上において、談合上の研究的な仕合などは、あったと見ても当然である。その意味で、一刀流三祖伝の伝えている彼と柳生の高弟たちの仕合は或る程度まで信じていいことかと考えられる。
その記載に依れば。
なおその後、十兵衛三厳は、忠明の剣の玄妙げんみょうに深く感じ、父の門人村田与三よぞうを伴ともなって、もちの木坂の彼の道場を訪れ、「先頃はまこと失礼いたした。顧みて汗顔にたえないものがあります。どうかわが家いえの流法について、長短善悪の個所を、御忌憚ごきたんなく批評し、またお訓おしえを仰ぎたい。――その代りに、柳生流について、何ぞ御質疑ありたい儀でもあれば、家の秘法とか相伝外に限るなどという狭量は申さず、どんなことでもお答え仕る所存しょぞんでござる」と、胸を割って、親しく話し入れたという。
そこで忠明はよろこんで、自己の感想、また見解を披瀝ひれきし、十兵衛三厳も家の流法の秘とする点まで打語って、相互ともに悟るところ多く、十兵衛の剣も、忠明の剣も、以来いよいよ精妙に入ることを得たということである。
奉公の道も一つであり、研みがく道も一つである以上、こうした相互研究を望むことは、たしかに両家の態度であったにちがいない。それを対立的に観て、噛み合すような風説をこしらえたのは、両家以外の世間であったろう。当時の一般剣術者の仲間などには、殊に、何のかのと、いろいろに取沙汰されていたにちがいない。

まったく政略経世けいせいの武将と観られる徳川家康すら、その若年にも中年にも、個人的修行のひとつとして、剣は学んでいた。
姉川の合戦のときだ。旗本奥平九八郎が、敵の名だたる者の首二級を獲て、実検にそなえた。家康は、九八郎の若年にしては、過ぎたる大功と、いたく賞揚して、「汝そちは平常へいぜい、誰に剣を学んでいるか」と、たずねた。
そこで、九八郎が、「奥山流という刀法を少しばかり学び申した」と、答えると、家康、膝を打って、「それは定めし、急加斎きゅうかさいという者であろう。いまは汝そちの家の客臣となっておる。自分も年少のときから、彼に剣法を授けられたものであるが、近頃は戦陣の軍務に忙しく、まことにその道も怠っていたが、やがて今度帰陣のうえは、いちどぜひ急加斎を伴つれて浜松へ見えよ」と、なつかしそうに云ったという。
この急加斎というのは、奥平氏の一族で、孫七郎公重きみしげといい、剣は、上泉伊勢守の門流を汲み、神陰流の奥秘に達して、さらに三河国奥山明神に参籠して、自己の哲理てつりを発明し、以後みずから称となえて「奥山流」といっていた人である。
家康はなおその家中にも、有馬大膳という剣客を召抱えていた。大膳は新当流を以て久しく家康に手をとって師範していたが、その嫡流ちゃくりゅうの絶えたため、後に家康は、その孫の有馬豊前ぶぜんに家名を継がせ、一族を紀州家に転職させている。これらの遺事は、家康も剣道を学んだという例証によく語られている場合が多い。
二代の江戸将軍家たる秀忠は、家康以上、剣磨けんまの行には熱心だった。当時ようやく、剣道の真価がみとめられ、また剣と人生、剣と武士道が、併行的に磨き上げられてきた時代である。いわゆる「一剣天下ヲ治ス」と当時に標語されたように、剣の哲理と経国の道――すなわち政治性とのかかわりなども深く考えられていた。そして将軍家自身の熱心な実践と唱道も大きな素因となって、斯道しどうの名人達人は、まさにこのときを陽春の魁さきがけとして輩出した観がある。
学ぶ者が、熱烈なので、自然、柳生家にしても小野家にしても、うかうかはしていられない。
で、その秀忠を対象として、柳生家は柳生流の信条を以て――また小野家は小野忠明その人の信念を以て、これに教授していたこと勿論であり、異流同職、おのずから二家の教え方に、大きな相違があったことは否めない。
その相違を、ひと口にいうと、柳生家は柔らかにまた鷹揚おうように。小野家は、阿諛あゆをきらい、率直に烈しい稽古を特色とした。
秀忠が、或る時、側臣たちをあいてに、座談のうえ、頻しきりと、剣道上の理論をならべていると、忠明があとで、「理論に賢くなって、理論剣術の達者になられることは、もっとも禁物と申さねばなりません。とかく剣の哲理は、口さきではだめで、生死のさかいに立たないでは、何も云えるものではない。座上の兵法、畳のうえの水練など、弁口の士にとっては、ちょうどよい芸当ですが、心ある者の眼には、苦々しいものとしか見えませぬ」こういう直言を憚はばからない小野忠明は、時に依って、苦言余りに直心に過ぎ、年経つほどに、将軍家からの気うけは次第に良くなかったようである。

真偽しんぎのほどは分らないが、生兵法なまびょうほうの秀忠が、夜ごと、城外へ出て、黒衣覆面し、無辜むこの往来人を辻斬して、ひそかに楽しむというのを聞き、忠明が、わざと彼の徘徊はいかいする濠端に夜行し、その斬って出いずるや、児戯じぎをあしらう如く脚下にねじ伏せ、懇々、これを懲こらして放したというような話すら遺のこっているほどである。
また、両国橋の畔たもとに、飛入とびいり剣術の小屋掛がけがあった。見物人のうちに交じっていた次郎右衛門忠明が、時折、苦笑をするのを見て、その興行者たる自称天下無双の兵法者が、「笑うからには、腕に覚えがあるからだろう。これへ出て、衆人の前で、何が故に、俺の剣術がおかしいかを、実際に証拠だてろ」と、忠明へ喚わめきかかった。
忠明は、心得たりと、わざと大刀は門弟にあずけ、鉄扇ひとつ携えて、衆人環視かんしのまん中へ出て行った。
相手はもう大刀を抜いてふりかぶりながら待っている。見るからに眼も眩くらみそうな大業刀おおわざものである。次郎右衛門忠明は、そのまえに立って、鉄扇をさし向けると、「その恰好は何か。それが笑わずにいられるか」と、云ってまた笑った。
「何をっ」と、怒りにまかせて大刀を揮ふり落したとき、どうしたのか、天下無双の先生は、片足を高く揚げ、頭を低く地へ突くように、と、と、と、と三つ四つよろめいていた。
興行人たちが驚いて抱き起してみると、鼻から血を出して昏絶こんぜつしていた。見物人はわんわとばかり囃はやし立てている。しかし暫しばし鳴なりもやまない喝采かっさいから彼等がわれに返って見廻した時には、もう次郎右衛門忠明のすがたはどこにも見当らなかったとある。
いつかこれが、将軍家の耳にはいると、秀忠は、「天下の師範たるべきものの行状でない」と、蟄居ちっきょを命じられたという。前の辻斬を懲こらしたはなしにも、秀忠の不興に会って、閉門を命じられたということが附随している。いずれが真なりや無根なりや知れないが、とにかくこんな風に、柳生家への恩寵おんちょう篤あつきにひきかえ、小野家の方は何となく重んじられていなかった風が観える。

晩年のこと。柳生但馬守の顔を見ると、次郎右衛門忠明は、よく口癖くちぐせのように、「貴家の御子息にも、不肖ふしょうのせがれにも、もっともっと真剣の境地を悟らしめなければ、ついには型にのみ陥ち入りましょう。死罪とする罪人の中から腕強き者を申しうけ、それに真剣を持たせて刃向わせ、斬って捨てさせることを繰返したなら、必ずよい修行になると思いますが」と、談合しかけて来たが、但馬守はいつも、その度に、「いかにも。なる程なる程」と、共鳴して、ひどく挨拶顔はよいが、決して、実行するような気はなかったということである。
こういうふうに、剣の烈しい一面のみを以て、秋霜しゅうそう身を持し、また将軍にもそのまま、刃びきの刀をもって、遠慮なしに稽古けいこをつけたりした小野一刀流は、自然、忌いまれ避けられ、次郎右衛門その者の人間まで、知らず知らず遠ざけられて、独り柳生流のみが、将軍お手直しの剣道として、世人にまで称美される風を作った。
けだし、柳生流の本来とするところは、流祖石舟斎が、但馬守宗矩むねのりの出府に際して、懇ねんごろに諭さとしているとおりに、――殺人ノ剣タル勿ナカレ、治国ノ剣、経国ノ剣トシテ家流ノ本旨トナシ、又奉公ノ念トセヨ。と、いうにあったので、一秀忠の剣技などは、下手へたでも上手でも、問題とはしなかったのである。
だが、その天下一柳生流も、柳生の四代、五代となっては、見るかげもなく堕落だらくしている。かんじんな流祖の精神はいつか失って、その恩寵に馴れ、声名に驕り、生活に安んじ、不断の研きも忘れるに至ったからである。
忠明の子、二代小野二郎右衛門も、達人の聞えが高かった。まず父の名を辱はずかしめない人といえよう。長命で七十余年も生きたが、毎朝の稽古や素振すぶりを死ぬまで怠らなかったなど、その人の並ならぬ心がけが、窺うかがわれる。ただ一度、七日ほど朝の稽古をしなかったことがあるので、門人たちが不審ふしんがって、「お体でもお悪いのですか」と、たずねたところ、二郎右衛門は笑って、「いや、体がわるければ、なおやるよ。実は、将軍家から七日ほど過すぎに、わしの剣を御覧になりたいというお達しが参ったからじゃ」と、云った。その気持が、門人達には、なお解げせないので、「近く御上覧の栄に浴されるなら、なおさらその日までは、稽古をお励みあって然るべきに、お沙汰を拝したからお止めになるとは、どういうお考えなのですか」かさねて質ただすと、二郎右衛門はからからと笑って、「さればよ。わしが十年二十年の稽古も、事あるときの唯一日の備えでしかない。七日や八日の急稽古をして、不覚な怪我けがでもいたしたなら、却って大なる不忠ではないか。総じて、間際まぎわと相成っては、はや稽古の日ではない。むしろ爪でも剪きったり、髪なども梳すいて、その一日を、すずやかに待つべきものだ。生涯の修練が、滞とどこおりなく失念なく、その場で現わし得るように――」と、訓おしえたということである。  
 

 

 
   
 
   
 
 

 

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