化け猫

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雑学の世界・補考

 
化け猫 1

日本の妖怪の一種。その名のとおりネコが妖怪に変化(へんげ)したものであるが、猫又と混同されることが多く、その区別はあいまいである。日本各地に化け猫の伝説が残されているが、佐賀県の鍋島の化け猫騒動が特に有名である。
ネコが妖怪視されたのは、ネコが夜行性で眼が光り、時刻によって瞳(虹彩)の形が変わる、暗闇で背中を撫でれば静電気で光る、血を舐めることもある、足音を立てずに歩く、温厚と思えば野性的な面を見せることもあり、犬と違って行動を制御しがたい、爪の鋭さ、身軽さや敏捷性といった性質に由来すると考えられている。
動物の妖怪譚はネコ以外にも、ヘビの執念深さ、キツネが持つ女性への変身能力、民話『かちかち山』などで人を殺すタヌキの凶暴性などがあるが、江戸時代に入って都市や町場が形成され、人間たちが自然から離れて生活することが多くなると、そうした野生動物の妖怪としての特徴が、人間の身近にいながらも神秘性を秘めた動物であるネコのものとして語られることが多くなり、次第に化け猫のイメージが作り上げられていったとの解釈もある。
また、化け猫の俗信として「行灯の油を舐める」というものがあり、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも、ネコが油を舐めることは怪異の兆候とある。これは近世、行灯などの灯火用に安価な鰯油などの魚油が用いられ、ネコがそうした魚油を好んで舐めたためと見られている。また、当時の日本人の食生活は穀物や野菜類が中心であり、その残りを餌として与えられるネコは肉食動物ながらタンパク質や脂肪分が欠乏した食生活にあった。それを補うために行灯の油を舐めることがあり、行灯に向かって二本足で立ち上がる姿が妖怪視されたものとの指摘もある。
こうしたネコの神秘性は、江戸時代の遊郭に勤めていた遊女のイメージとも結びつき、当時の草双紙などで人気を博していたキャラクター「化猫遊女」が生まれる元にもなった。
民間伝承
化け猫同様にネコの怪異として知られる猫又が、尻尾が二つに分かれるほど年を経たネコといわれることと同様に、老いたネコが化け猫になるという俗信が日本全国に見られる。茨城県や長野県では12年、沖縄県国頭郡では13年飼われたネコが化け猫になるといい、広島県山県郡では7年以上飼われたネコは飼い主を殺すといわれる。ネコの飼い始めに、あらかじめ飼う年数を定めておいたという地方も多い。また地方によっては、人間に残忍な殺され方をしたネコが怨みを晴らすため、化け猫になってその人間を呪うなど、老いたネコに限らない化け猫の話もある。
化け猫のなす怪異は様々だが、主なものとしては人間に変化する、手拭を頭にかぶって踊る、人間の言葉を喋る、人間を祟る、死人を操る、人間に憑く、山に潜み、オオカミを引き連れて旅人を襲う、などといったことがあげられる。珍しい例では、宮城県牡鹿郡網地島や島根県隠岐諸島で、人間に化けたネコが相撲を取りたがったという話もある。
ただしネコが喋るということについては、人間がネコを見ながら自分の心の中で思った言葉を、あたかもネコが喋ったかのように誤解したものであり、妖怪の類ではないとの指摘もある。1992年(平成4年)の読売新聞には、ネコが人間の言葉を喋ったように聞こえたが、よく聞き直すと、単にネコが口ごもった鳴き声が、人間の言葉によく似て聞こえたに過ぎなかったとの記事が掲載されている。
江戸時代には尾がヘビのように長いネコが化けるという俗信があり、尾の長いネコが嫌われ、尾を切る風習もあった。現在の日本のネコに尾の短いものが多いのは、尾の短い猫が好まれたことによる自然淘汰とする説もある。
なお、老いたネコが怪異を為すという俗信は日本に限ったことではない。たとえば中国浙江省金華地方では、人間に3年飼われたネコは人間を化かすといわれていた。特に白いネコが化けやすいといって白いネコを飼うことを忌む風習もあり、人間を化かす能力を得る際には月から精力を取り込むといわれたことから、月を見上げるネコを見かけた者は、どんなに可愛いネコでもその場で殺したこともあったという。
文献・説話
鍋島の化け猫騒動
肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半左衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説。
史実では鍋島氏以前に龍造寺氏が肥前を治めていたが、龍造寺隆信の死後は彼の補佐だった鍋島直茂が実権を握った後、隆信の孫の高房が自殺、その父の政家も急死。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため、天祐寺(現・佐賀市多布施)を建造した。これが騒動の発端とされ、龍造寺の遺恨を想像上のネコの怪異で表現したものが化け猫騒動だと考えられている。また、龍造寺氏から鍋島氏への実権の継承は問題のないものだったが、高房らの死や、佐賀初代藩主・鍋島勝茂の子が早くに亡くなったことなどから、一連の話が脚色され、こうした怪談に発展したとの指摘もある。
この伝説は後に芝居化され、嘉永時代には中村座で『花嵯峨野猫魔碑史』として初上演された。題名の「嵯峨野(さがの)」は京都府の地名だが、実際には「佐賀」をもじったものである。この作品は全国的な大人気を博したものの、鍋島藩から苦情が出たために間もなく上演中止に至った。しかし上演中止申請に携わった町奉行が鍋島氏の鍋島直孝だったため、却って化け猫騒動の巷説が有名になる結果となった。
後年には講談『佐賀の夜桜』、実録本『佐賀怪猫伝』として世間に広く流布された。講談では龍造寺の後室から怨みを伝えられたネコが小森半左衛門の母や妻を食い殺し、彼女らに化けて家を祟る。実録では龍造寺の一件は関係しておらず、鍋島藩士の小森半太夫に虐待された異国種のネコが怨みを抱き、殿の愛妾を食い殺してその姿に成り変わり、御家に仇をなすが、伊藤惣太らに退治されるという筋である。
昭和初期にはこの伝説を原案とした『佐賀怪猫伝』『怪談佐賀屋敷』などの怪談映画が大人気となり、化け猫役を多く演じる入江たか子、鈴木澄子といった女優が「化け猫女優」として知られることとなった。
その他
ネコを妖怪視する記述が文献類に登場するのは、鎌倉時代の頃からである。同時代の説話集『古今著聞集』には、奇妙な行動をとるネコを指して「魔の変化したものではないか」と疑う記述が見られる。この頃の古い化け猫の話には、寺院で飼っていたネコが化けたなど、寺にまつわる話が多いことが特徴だが、これは当時の仏教の伝来にともない、経典をネズミに齧られることを防ぐためにネコが一緒に輸入されたことが理由の一つと考えられている。
江戸時代に入ると、化け猫の話は各種の随筆や怪談集に登場するようになる。民間伝承のようにネコが人間に化ける話や人間の言葉を喋る話は『兎園小説』『耳嚢』『新著聞集』『西播怪談実記』などに、ネコが踊る話は『甲子夜話』『尾張霊異記』などに見られる。『耳嚢』4巻によれば、どのネコも10年も生きれば言葉を話せるようになり、キツネとネコの間に生まれたネコは10年と経たずとも口がきける、と述べられている。化ける話においては、老いたネコが人間の老女に化けることが非常に多い。化け猫の怪談はこの江戸時代が全盛期であり、前述の「鍋島の化け猫騒動」などが芝居で上演されたことでさらに有名なものとなった。
播磨国宍粟郡山崎町牧谷(現・兵庫県宍粟市内)には、辛川某なる人が化け猫を退治した話が伝わっている。同様の話は同国の神西郡福崎村谷口(現・神崎郡福崎町谷口)にも伝わっており、金剛城寺で村人を困らせていた化け猫を寺侍が退治し、化け猫は茶釜の蓋や鉄鍋で矢や鉄砲玉を防いだという。これらはあたかもスサノオのヤマタノオロチ退治のように、土地の旧家が活躍している点が共通している。
明治時代には、1909年(明治42年)に東京の本所の長屋でネコが踊り出したという記事が、『報知新聞』『萬朝報』『やまと新聞』に掲載されている。
史跡
妙多羅天女(みょうたらてんにょ) - 新潟県弥彦神社
由来として、文化時代の随筆『北国奇談巡杖記』にネコにまつわる怪異譚が記述されており、同書では「みょう」に「猫」の字をあてて「猫多羅天女」と表記されている。北陸地方の説話による別説では、老いたネコが老婆を食い殺してその老婆になりかわり、後に改心して妙多羅天として祀られたという「弥三郎婆話」があり、北海道・北奥羽地方の「三左衛門猫」など、類話が全国に伝わっている。
猫の踊り場(ねこのおどりば) - 神奈川県横浜市泉区
かつて東海道五十三次の戸塚宿(現・神奈川県横浜市戸塚区)の醤油屋で、夜になると手拭が1本ずつなくなることがあった。ある夜に醤油屋の主人が仕事に出かけると、人のいないはずの寂しい場所から賑やかな音楽が聞こえた。見ると、そこには何匹ものネコたちが集まり、その中心では主人の飼いネコが手拭をかぶって踊っていた。主人は、手拭がなくなったのはあのネコの仕業かと納得したという。このネコの踊っていた場所は踊場と呼ばれ、後には泉区の踊場交差点や横浜市営地下鉄の踊場駅の駅名などに地名として残されることとなった。踊場交差点には1737年(元文2年)にネコの霊を鎮めるための供養塔が建てられており、踊場駅構内には随所にネコをモチーフとしたデザインが施されている。
お松大権現(おまつだいごんげん) - 徳島県阿南市加茂町
江戸前期、加茂村(現・加茂町)の庄屋が不作にあえぐ村を救うために富豪に金を借りたが、すでに返済したにもかかわらず、富豪の策略で未返済の濡れ衣を着せられ、失意の内に病死。借金の担保になっていた土地は富豪に取り上げられてしまう。庄屋の妻のお松は奉行所に訴え出るも、富豪に買収された奉行は不当な裁きを下す。お松がそれを不服として藩主に直訴した結果、直訴の罪により処刑され、お松の飼っていた三毛猫が化け猫となり、富豪や奉行らの家を滅ぼしたという伝説に由来する。お松大権現は、命をかけて正義を貫いたお松の墓所を祀ったもので、お松の仇を討った三毛猫は猫塚として祀られており、境内には全国的にも珍しいネコの狛犬もある。直訴によって悪人を倒したという伝説から、勝負事にもご利益があるといわれ、受験シーズンには受験生の合格祈願も多い。
猫大明神祠(ねこだいみょうじんし) - 佐賀県杵島郡白石町
「鍋島の化け猫騒動」と同様、鍋島氏にまつわる怪異譚に由来する史跡。化け猫が鍋島勝茂の妾に化けて勝茂の命を狙うが、勝茂の臣下の千布本右衛門がそれを退治する。しかしそれ以来、ネコの祟りのためか千布家に跡継ぎの男子が生まれなくなってしまったため、化け猫を大明神として秀林寺(現・白石町)の祠に祀ったという。この祠には、7本の尾を持つネコが牙を向いた姿で刻まれている。史実では、かつて白石を治めていた秀氏の秀伊勢守が、鍋島氏に尽くしたにもかかわらず、キリシタンの疑いをかけられて滅ぼされ、後に秀氏の残党が鍋島氏を怨んで抗ったことから、秀林寺では秀氏一派の暗躍が化け猫にたとえられたものと見ており、これが「鍋島の化け猫騒動」の原型になったとの説もある。  
 
化け猫 2

 

化け猫騒動とは
江戸時代より講談や演芸、演劇・芝居に脚色され、全国的に知れ渡った化け猫騒動。
「猫」と「怪談」の取り合せがよっぽど良かったのか、さまざまな怪猫騒動が創作されてきました。
特に有名なのが
『佐賀鍋島の怪猫』
『岡崎の猫』
『芝赤羽の有馬屋敷の化け猫騒動』
であり、これを『三大化け猫騒動』とする場合が多いようです。
その他にも、ざっと探しただけで下記のような「猫物語」があるようですが、詳細につきましては確認できておりませんので、今後調べていく予定でいます。たぶん、全国各地に郷土色豊かな化け猫話が数え切れないほどあると思われます。
阿波猫騒動 / 相良猫騒動 / 根岸猫騒動 / 阿波化け猫騒動 / 薄雲の猫 / 小幡小平次死霊の猫 / 海老屋の猫 / 山吹の猫 / 一厳寺の猫 / 赤壁明神 / 山王の山猫 / 所沢の勘七猫 / 市川団十郎の猫 / 按摩玄哲の猫 / 熊谷宿の鍋提猫 / 本所の服部猫 / 浦賀の唐茄猫 / 千本おみわ猫 / 品川の猫酒屋 / 京都の樫本猫
基本的にそれぞれ「化け猫騒動」の話は創作であり、実際に起きた事件ではないようです。
一番有名な『佐賀鍋島の化け猫騒動』もやはり創作話なのですが、その背景には史実として、鍋島家と竜造寺家のお家騒動があったといわれております。
尚、【佐賀化け猫騒動】だけでも大きく分けて二通りの物語系統があり、『佐賀怪猫伝』『佐賀の夜桜』『佐賀猫退治』『嵯峨奥猫魔稗史』など、数多く脚本されました。
登場人物なども微妙に違った話がいくつもあり、当時の人気をうかがい知ることが出来ます。
『化け猫』話というと、どうしてもその怪異性が強調され気味ですが、話の基本としましては
猫だけが真実を知っている…
飼い主の無念を晴らす為に復讐をする…
最後には退治されてしまう…
この三点が話の基本であり、考えようによってはものすごく美しく哀しい『忠猫話』だったりもするのです。
『佐賀鍋島の化け猫騒動』あらすじ
時は戦国時代。肥前国佐賀の鍋島藩二代目藩主・光茂は、鍋島家のかつての主家である龍造寺家の当主・又一郎を碁の対局中に惨殺した。
側近半左衛門により事件は隠蔽されたが、真相を知った又一郎の母で龍造寺家の後室・お政の方は、怒り悲しみ愛猫コマに復讐を託し、自分の血を舐めさせた後に亡くなる。
その後、鍋島家には怪猫が現れ、半左衛門の母が食い殺されたり、光茂の妻が頓死するなど怪事が次々と起こる。さらには光茂の愛妾お豊に化けて光茂をたぶらかしたり、子供をさらって喰うなど暴虐の限りを尽くしたという。やがて光茂が訳のわからぬ病気にかかるに及び、城内ではある噂がささやかれ始めた。
・光茂が碁の上の争いから又一郎を手討にした事…
・半左衛門が密かに死骸を始末した事…
・数日後にその首が持ち去られたという事…
・自害した母の血が、まるで拭ったかのようになっていた事…
・この騒ぎと、廊下に残る動物の足跡…
・一匹残らず姿を消した泉水の鯉…
・そして又一郎の母が自害して以来、姿を消した漆黒の猫…。
側近半左衛門の思案により、家中随一の槍の名手・千布本右衛門を呼び、光茂の身辺警護にあたらせるものの、光茂の容態は悪くなるばかりであった。
しかし、千布本右衛門は忍耐強く見張った挙句、ついに愛妾お豊の正体を見抜き!
・・・朝の光の中、ついに恐ろしい化け猫の正体をさらしたのだった。
尚、鍋島家に関わりのある人々の間では、今も猫を飼う事が禁忌になっているという。
七尾の猫
『佐賀化け猫騒動』は創作だと記しましたが、その一方で当時の怪異を今に伝える様々なものが現地には残されております。
猫塚の由来
伝説鍋島猫騒動は寛永十七年(1640)頃のできごとで化け猫をしとめた千布家にはなぜか男子に恵まれず代々の当主は他家からはいった 人である。
そのことに不審をいだいた七代目当主久右エ門という人が千布家に代々縁がないのは先祖の本右エ門が化け猫を刺し殺したおり断末魔の苦悶のなかに 千布家には七代祟って一家をとり潰しこの怨念を必ずはらすといったと伝えられているが猫の怨念によるものではあるまいかと七尾の白猫の姿を描いた軸幅を もって猫の霊を丁重に弔はれた
爾来千布家では毎年猫供養が営なまれているが幸いにも男子の成人がみられ家系は安泰に保たれている。
猫塚は当初化猫 の屍体を埋めた秀屋形の鬼門にあたる敷地に猫大明神とした石祠があったといわれるが現在の猫塚は七代当主が画像をもとに明治四年(1871)九月再建した ものである。
以上、佐賀・秀林寺『猫塚』脇に立てられた案内板より抜粋。
描かれた化け猫
歌舞伎絵・錦絵等
正確には『役者絵』と呼ぶべきかもしれませんが、数多く描かれた歌舞伎絵には芸術性の高いものが多く、『化け猫』の怪異性が素晴らしいタッチで描かれております。
『五拾三次之内岡崎の場』天保6年(1835)歌川国芳画
『昔ばなしの戯猫又年を遍古寺に怪をなす』弘化4年頃(1847)歌川国芳画
『五十三驛岡崎』弘化4年頃(1847)歌川国芳画
『見立東海道五拾三次』岡部 猫石の由来 弘化4年頃(1847)歌川国芳画
『東驛いろは日記』文久元年(1861)歌川国貞画
『八犬伝犬飼現八父赤岩一角の敵を討つ』嘉永時代(1848-54)歌川芳虎画
『東海道五十三對岡部』弘化4年頃(1847)歌川国芳画
『當ル酉の秋新狂言』東驛いろは日記 岡崎八ツ橋村の場 文久元年(1861)歌川幾英画
『大日本豪傑水獄伝』犬村大角 嘉永時代(1848-54)歌川芳艶画
『東錦晝夜競佐賀の怪猫』明治19年(1886)楊洲周延画
『古猫妙術説』嘉永2-3年(1849-50)歌川国芳画
『仮名読八犬伝庚申山の妖猫』嘉永4年(1851)二世為永春水作 歌川国芳画
『昔語岡崎猫石妖怪』弘化4年(1847)歌川豊国画
『東海道岡部宿猫石由来之図』鶴屋南北作 歌川国輝画
『新富座妖怪引幕(一部)』明治13年(1880)河鍋暁斎画
『櫓太鼓鳴音吉原』慶應2年 歌川芳幾画
『森三勇士傳』豊原周春画
『百猫伝手綱染分』元治元年 豊原国周画
『本朝水獄傳剛勇八百人一個』歌川国芳画
『八犬伝』歌川国芳画
『岩見重太郎の化猫退治』 右田年英画
『法光寺村古寺ノ怪』明治30年 豊原国周画
『皇国自漫初陽因雲閣』豊原国周画
『花野嵯峨猫魔』歌川豊国画
『どうけ八犬伝』文久2年(1863)一英斎芳艶画
『鎌田又八』歌川国芳画
『豪傑奇術競』月岡芳年画
『俳優大見立』周延画
黄表紙・書物等
江戸時代に数多く発行された『黄表紙』や『黒表紙』と呼ばれる書物は、絵の入った大人用の絵本…みたいな位置づけの書物です。そこに描かれた『化け猫』は、個性的かつユーモラスに生き生きと描かれております。
『化物四国猿』安永7年(1778)柳川桂子作 鳥居清経画
『化物箱根先』安永7年(1778)鳥居清長画
『御子様方御好付怪席料理献立』
『嘘無箱根先』寛政元年(1789)七珍万宝作 歌川豊国画
『花見帰鳴呼怪哉』
『怪猫奇談』
『腹皷臍囃曲』寛政十年(1798)式亭三馬作 歌川豊国画
『小しょぼ雨見越松毬』曲亭馬琴作 北尾重政画
『黄菊花都路』歌川国芳画
『売言葉』安永五年(1776)
『ばけ物よめ入』
『化物曾我』延享三年(1746)
『怪談宝初夢』十返舎一九画作 享和三年(1803)
『玉尽くし』
『頼豪阿闍梨恠鼠伝』
『ねこまた退治』
『金花猫猫婆化生舗』歌川貞秀画
『化物の娵入』十返舎一九作 勝川春英画
『百猫傳』明治初期
『化物一代記』伊庭可笑作 鳥居清長画
『化皮太鼓伝』十返舎一九作 歌川国芳画
『北雪美談時代加賀美』二代目為永春水作 歌川国貞画
『嵯峨奥妖猫奇談』竹柴金作著 梅堂国政画
『無如在怪談』文化十四年 歌川国信画
『金華七変化』安政7年(1860)鶴亭秀賀作 歌川国貞画
『復讐猫魅橋由来』文化6年 関亭伝笑作 勝川春扇画
『五十三驛梅東路』弘化5年(1848)並木五瓶作 歌川豊国・貞秀画
『黄金菊都路』安政7年 十返舎一九作 歌川国芳画
『復讐両股塚』文化5年 式亭三馬作 勝川春亭画
『夭怪着到牒』北尾政美画
『白縫譚』1849-85 一恵斎芳幾画
『八犬傳』朝霞樓芳幾画
『桃食三人子宝噺』寛政7年 市場通笑作 栄松斎長吉画
『復讐両股塚』文化5年 式亭三馬作 勝川春亭画
近代小説・新聞
『古今宝録 鍋島猫騒動 全』明治十二年 豊栄堂梓作
『絵入小説佐賀怪猫傳』明治23年 鋼島亀吉作
『怪猫奇談 赤壁明神』東京毎夕新聞連載 大正3年1月12日〜6月20日
『有馬猫騒動』昭和十年 榎本進一郎編集
『怪猫奇談 二人お絹』東京毎夕新聞連載 大正3年6月21日〜10月20日
『鍋島猫騒動有馬怪猫傳』桃川燕玉
街頭紙芝居
昭和初期より栄えた街頭紙芝居の文化は、戦後の昭和28年頃にピークを迎えます。情報や刺激に飢えた、当時の子供達の心を魅了した街頭紙芝居ですが、昭和36年頃には斜陽へと向かいました。『化け猫』を題材とした怪奇ものは、かなり人気があったようです。
『猫三味線』入江将介作 ケイタジミ画
『続猫三味線』入江将介作 ケイタジミ画
『赤い雪』入江将介作 森島画
『猫車』
『振袖供養』天野逸平作 山口正太郎画
『夜の目』
『青銅鬼』
『神変猫姫様』
『猫三味線』
広告等紙物
貸本漫画・文庫
紙芝居に変わり子供達を夢中にさせたのは漫画でした。しかし、まだまだ日本が貧しい昭和30年代、漫画書籍は現在の紙幣価値で数千円と、かなりの高値の花でした。そんな中で貸本用に出版されたのが貸本漫画と呼ばれるもので、一泊¥10程度だったと云われております。図書館の充実、少年誌の創刊・安価化により昭和40年代頃にはほぼ消滅してしまいましたが、その世界には『化け猫』を題材としたものが数多く見られ、まだまだ『化け猫』文化がメジャーなものだった事がうかがい知れます。
映画
戦前戦後と大人気を博した『化け猫映画』。チャンバラ・怪談・復讐…まさに日本人好みの要素が満載されております! その中で戦前は『 鈴木澄子』、戦後には『入江たか子』が『化け猫女優』と呼ばれ、見事な化け猫を演じたとの事です。テレビの普及と日本映画衰退と共に、忘れ去られた題材となってしまったようです。
1910 嵯峨の夜櫻
1911 有馬猫
1912 鍋島の猫 / 岡崎猫
1914 有馬怪猫伝 / 岡崎の猫 / 赤壁大明神 / 怪猫義民伝 / 山王の化猫 / 日本怪猫伝 / 鎌倉殿中猫騒動
1915 有馬猫騒動 / 怪猫伝
1916 佐賀の化猫 / 有馬の猫騒動
1917 嵯峨の夜櫻
1918 赤壁明神 / 木曾の黒猫 / 回向院の猫塚
1919 有馬怪猫伝 / 鍋島猫騒動 / 岡崎怪猫伝 / 岡崎の猫
1920 有馬の猫 / 赤壁明神 / 飛騨の怪猫
1921 鍋島猫騒動 / 鍋島猫騒動 / 有馬猫騒動 / 妙義の山猫
1922 有馬の猫 / 鍋島の猫 / 八須賀の猫
1923 鍋島の猫
1929 鍋島怪猫傳
1930 モダン猫騒動
1933 有馬の怪猫
1936 怪猫佐賀の夜櫻 / 有馬猫騒動
1937 佐賀怪猫伝 / 本朝怪猫伝 / 有馬猫 / 弥次喜多岡崎猫退治 / 呪ひの斑猫 / 三毛猫太平記 / 有馬猫
1938 巨猫伝 / 怪猫五十三次 / 閻魔寺の怪猫 / 怪猫謎の三味線 / 怪猫赤壁大明神 / 神変斑猫
1939 本朝怪猫伝 / 呪ひの銀猫 / 幻城の化け猫
1940 怪猫油地獄 / 怪奇笑ふ猫 / 山吹猫
1949 鍋島怪猫伝 / 弥次喜多猫化け道中
1953 怪談佐賀屋敷 / 怪猫有馬御殿
1954 怪猫岡崎騒動 / 怪猫腰抜け大騒動 / 怪猫逢魔ヶ辻
1956 怪猫五十三次 / 水戸黄門漫遊記怪猫乱舞
1957 怪猫夜泣き沼
1958 怪猫呪いの壁 / 怪猫からくり天井 / 亡霊怪猫屋敷 / 化け猫御用だ
1960 怪猫お玉が池
1962 怪談三味線堀
1968 藪の中の黒猫 / 怪猫呪いの沼
1969 秘録怪猫伝
1975 怪猫トルコ風呂
その後
昭和40年代、アポロが月に行く時代になると、一気に『化け猫』文化は下火になります。それでも、テレビや漫画の題材として時たま見受けられたのは、まだまだ『猫』自体の室内飼いが一般的ではなく、『怪しいもの』としての存在感があったからではないでしょうか。
衰退 / やがて猫のキャラクター『ハローキティ』の登場や、その後に訪れる『なめ猫』ブームの影響で、『猫』はすっかり『怪しいもの』から『可愛いもの』へと変貌を遂げます。自然の減少、住宅の密集化、車社会の激化等のマイナス要因と共に、キャットフードや猫砂の登場・品質向上等により猫の室内飼いが増えた事も、『化け猫』文化衰退の一因かもしれません。
西暦2000〜 / 平成の時代、怪しい『化け猫』はすっかり姿を消しました。誰もが絶滅したと思われたその存在…しかし…なんと!すっかり姿を変えて生き残っていたのでした。そう!「猫耳」を持つ二次元萌え系美少女キャラとして、『おたく』と呼ばれる青少年の心を、妖しく惑わしていたのです…。さらには、主に秋葉原を主な生息地として、『コスプレ』という術を使い『人間』が『猫』に化けるという、『逆転現象』まで確認されるに至りました。なんでも「萌え萌え」と鳴くとか…。つまり『猫』は、古来より受け継がれた『怪異性』を捨て、『可愛さ』を前面に出すことにより人間の心までコントロール出来る術を身につけたといえるでしょう。  
 
化け猫 3

 

化け猫とは
「化け猫」と言われて私が想像したのは、人間に飼われていた猫が長生きをして、不思議な妖力を持ち、しっぽが2つに別れ、人間の言葉を話す、というものでした。
しかし、それは「猫又」であり、「化け猫」とは少し違うようです。私と同じように混同している人が大勢いるようですが、「化け猫」はあくまでも「化け猫」であり、決して「猫又」ではないのです。
では「化け猫」とは一体、どういう猫を言うのでしょうか? 辞書などによると、「人などに化ける魔力のある猫。猫の妖怪」であるとあります。
これから見ても分かるように、「猫又」と「化け猫」は違うものであるが、その区別はとても曖昧と言うことでしょう。強いて言うなら、「猫又」は普通の猫が長生きすることで「猫又」になるのと比べ、「化け猫」は猫が妖力を持ったことにより変化した猫の妖怪、ということでしょうか。
「猫は化ける」と言われる理由
「化け猫」はよく耳にする言葉ですが、「化け犬」は聞いたことがありません。では、なぜ猫だけが「化け猫」と言われるのでしょうか。
一説では、猫は暗闇の中で目が光る夜行性であること、時刻によって瞳の形態が変わること、行動が身軽で制御しにくく、爪が鋭いことなどが上げられます。
また暗いところで、黒猫を撫でると静電気で毛が光ることも、昔の人には不可解で不気味だったのではないでしょうか。
因みに中国でも随の時代に、猫鬼(びょうき)という妖怪がいたと本に残されているようです。15世紀の中世ヨーロッパでは、黒猫は魔女が姿を変えたものだと信じられ、長いこと人々から虐げられて来たそうです。
反対にエジプトでは、猫は神聖な動物と捉えられ、「猫は9回生まれ変わる」という言い伝えもあり、未だに人々に信じられています。
要するに、犬と違って単独行動で、足音を忍ばせ行動し、簡単には人間には懐かないミステリアスな習性が、人間の目には不気味に映り、化け猫が生まれたのかもしれませんね。
有名な化け猫伝説
佐賀県に有名な化け猫伝説があります。その名も「鍋島騒動」。
戦国時代のこと。囲碁の名人・ 龍造寺又七郎が、主君であり二代目鍋島藩当主・鍋島光茂を囲碁で負かしたことで機嫌を損ね、切り捨てられたことが物語の発端です。
側近・半左衛門により事件は隠蔽されましたが、又七郎の母・お政の方が事の真相を知り、怒りに狂い、愛猫コマに復讐を託して自害をしました。その時に流れた血をコマが舐め、化け猫となり、光茂の側室・お豊の方を食い殺して乗り移ります。
その後、半左衛門の母親が食い殺されたり、奥女中の惨殺、関係者の原因不明の病など、怪事件が頻発しました。その後、家臣が化け猫の正体を暴き、退治して、佐賀藩を救います。それ以降、鍋島家では一切猫に関わるのは禁止になったそうです。
これは全くのフィクションですが、佐賀藩成立時に発生した鍋島家と旧主家の龍造寺家との間の権力闘争が元になっていると言われています。佐賀県白石町の秀林寺には、この騒動と関係するとされる「猫塚」があります。
古今それぞれで有名な化け猫3選
藤原定家『明月記』
鎌倉時代初期。藤原定家が残した日記。「猫股と言う獣が出て一晩で七、八人の被害者が出ました。目は猫のようで体は犬のようでした」という奈良からやってきた使者の話があります。恐ろしい化け猫の話ですね。
水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』の猫娘
1960年代に漫画家水木しげるさんが発表し、アニメ化されシリーズが今なお続く名作『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクター、猫娘が化け猫です。
猫娘は主人公・鬼太郎のガールフレンドで、公式では「ねずみ男と同じ半妖怪」とあります。要するに、半分は人間で、半分は猫ということでしょう。まさに立派な化け猫ですね。容姿は皆さんもご存知のように、尖った耳と猫目以外は人間の女の子と大きな違いはないようです。
緑川ゆき『夏目友人帳』のニャンコ先生こと斑(まだら)
漫画家緑川ゆきさんの作品『夏目友人帳』のキャラクター、ニャンコ先生も化け猫と言えるかもしれません。
幼い頃に両親を亡くした夏目には、人には見えないもの(妖怪)が見えます。そのことでトラブルに巻き込まれることが多く、親戚をたらい回しにされます。
高校生になって、ようやく落ち着いた生活を取り戻した矢先に、夏目はひょんなことから、祠に封じられた妖怪・斑(ニャンコ先生)の封印を解いてしまいます。ニャンコ先生は仮の姿が招き猫です。
友人帳という祖母レイコの残した遺品を巡り妖怪に襲われるようになった夏目と、ある契約を得て夏目を守ることになったニャンコ先生との、心温まり、ときに泣ける物語です。
アニメ化もされた人気シリーズです。
その他の化け猫
他にも様々なところで化け猫は活躍しています。小説では、かたやま和華の『猫の手、貸します 猫の手屋繁盛記』。シリーズになっています。旗本の跡取りですが、ある事情で白猫の姿になってしまった宗太郎(通称:猫太郎)が、よろず請け負い家業「猫の手屋」を舞台に善行を積んで人間の姿に戻るために奮闘する物語。
和製ホラー映画として人気を博した『怪〜ayakashi〜』の続編『モノノ怪』の中にも、化け猫のエピソードがオムニバス形式で登場しています。
時代のせいか、今の化け猫は怖いよりも、愛される化け猫が多いようです。
かの有名な『妖怪ウォッチ』のジバニャンも化け猫かと思って調べてみたら、「地縛霊の猫」とありました。要するに化け猫でしょうか。  
 
化け猫 4

 

文字通り、猫が妖怪化したもの。「化け猫」と「猫又」は似て非なる存在とする向きもあるが、ここではまとめて記述する。
中国では「猫鬼(マオグイ)」と呼ばれる妖怪が知られており、これがルーツという説もある。「猫鬼」は動物や虫を集めて人為的に作られた「蟲毒」の一種で、人に憑かせて病気にさせたり、直接けしかけて相手を殺す事も出来たという。これとは別に野生(?)の猫鬼もおり、広州では男の猫鬼「緑郎(ルーラン)」女の猫鬼「紅娘(ホンニャン)」が、未婚の男女に取りついて命を奪ったという。緑郎が女に、紅娘が男に取りついた場合は儀式で退散させられるが、緑郎が男に、紅娘が女に取りつくと助ける術はない。
金華ハムで知られる浙江省・金華地方では、「金華猫(ジンファマオ)」の伝承がある。人に飼われた猫は三年後に屋根に登って月に向かい口を開け、月の精を吸って化け猫となり、美男美女に化けて人を誑かすという。赤虎毛(黄猫)が一番化けるとされ、家に病人が出ると化け猫の仕業だとして、犬をけしかけられて殺される事もあったという。ひでえ。一方で化け猫の肉は薬になるとされていたようで「テーブルと椅子以外の四本足は何でも食べる」という中国らしいと言えばそうなる。
日本での化け猫には、山奥に棲息する野生の化け猫と、飼い猫が何らかの要因で妖怪となった化け猫、大別して2つのパターンがある。
年老いて尻尾が二本に分かれることから「猫又(猫股)」と称し、山奥に住んで旅人を食い殺す妖怪として知られていた。最古の記録は鎌倉時代で、天福元年(1233年)、南都(現在の奈良県)で「猫袴」と呼ばれる化物が、一晩で数人を襲って食い殺したという。またこれに類似して、吉田兼好の随筆「徒然草」の「第八十九段 奥山に猫またといふものありて」にて、その存在が記述されている。こちらは趣が異なり、ちょっとした笑い話になっているので割愛。この「山奥に住んで人を食い殺す妖怪」としての化け猫の言い伝えは全国各地にあり、富山県の猫又山、福島県の猫魔ヶ岳など、地名として残っているケースもある。
飼い猫が化け猫となる伝承は広く流布しており、魔性を想起させる猫の特性もあって、あまり長く猫を飼うものではないという俗信も多かった。特に知られているのが「化け猫は行灯の油を舐める」という俗信である。これは行灯の油のうち、安さを理由に庶民が使っていた魚油を、動物性たんぱく質や脂質として猫が摂取していたという指摘がされている。しかし後ろ足で立ち上がった影がうすぼんやりと浮かび上がる様は、さぞ気味悪く目に映っただろう。一方で「猫を殺せば七代祟る」とも言われ、また鼠を退治してくれる事もあり、必ずしも飼い猫がおろそかに扱われていた訳ではない。
なお現代においてはそのような事象は確認できないが、人が猫耳フードやカチューシャをつけることによって猫化することがあり、この変化の度合いが著しく度を超すと「化け猫」と言われることがある。かも。
また趣は異なるが、スコットランドの「ケット・シー」、スラブの「オヴィンニク」、アメリカ・テネシー州の「ワンパス・キャット」など、猫を題材とした妖精や妖怪の伝承は海外でも見受けられる。
鍋島の化け猫
「化け猫」として最もよく知られるのは、「鍋島の化け猫」であろう。肥前国(現在の佐賀県)で起きた「鍋島騒動」を題材とした物語で、講談や歌舞伎、怪談として広く知られている。時代設定や舞台設定が大きく変わる事もあるが、おおむね次のような内容。
「肥前国佐賀藩二代藩主・鍋島光茂の頃に起きた事件。
かつて佐賀藩は龍造寺氏によって治められていたが、先代・龍造寺政家が病弱を理由に隠居を余儀なくされ、当主・龍造寺高房も幼すぎるという理由から、家老職にあった鍋島氏が代わって大名となる。高房が成人したら家督を元に戻すという約束が結ばれていたが果たされる事はなく、高房は鍋島氏を恨みながら自害した。
その後月日は流れ、龍造寺氏最後の男子・又一郎は、御家再興を心に誓いながら、母と二人で慎ましく暮らしていた。そんなある時、光茂の御前に呼ばれ、碁の相手をするよう命じられる。登城した又一郎だったが、その日以来彼は戻らなかった。実は又一郎は碁の席でわざと負けるよう強いられたが龍造寺氏の誇りからこれを突っぱね、機嫌を損ねた光茂に手討ちにされていたのだ。我が子の行方を訪ねて回る母だったが、真相は闇に伏せられた。
しかしある雨の夜、母の愛猫・コマが又一郎の首をくわえて戻って来た。我が子の変わり果てた姿を前に御家再興の道が絶たれた事を悟った母は、龍造寺一族の恨みを晴らすようコマに言って聞かせる。彼女は城の方角を睨みつけて呪詛を吐きながら懐剣で自害し、コマは畳の上に溢れ出た血を全て舐めとって姿を消した。
程なくして、城内では次々と怪事が発生。侍女や家臣が襲われ、喉を掻き切られて殺される事件が続き、光茂も病に倒れて寝込んでしまった。光茂の愛妾・お豊の方が献身的に看病するが、光茂の病と苦しみはますます重くなってゆく。不信を抱いた忠臣・小森半左衛門が夜の寝所を覗き込むと、お豊の方が行燈の陰で油をぺろりぺろりと舐めている。実はお豊の方はとうに食い殺され、彼女に成り代わったコマが光茂を祟り続けていたのだ。正体を見破られたコマは本性を現して武士を相手に大立ち回り、主の仇を取らんと光茂に迫る。しかし遂に小森の槍に仕留められ、異形の姿を晒して息絶えるのであった。」
結末については光茂や小森を食い殺したり、鍋島家や小森家を断絶に追い込んだりと色々ある。
……が、実は「鍋島騒動」なる騒動は起きていない。というか、後世の人が勝手に騒動に仕立て上げたというのが、現在では一般的な見方である。
慶長12年(1607)年、江戸桜田屋敷にて龍造寺高房が乱心。妻を殺害し、自らも切腹した。その時は家臣や医師の尽力で命を取り留めたが、物狂いは納まらず、再度自殺を試みる。この時暴れたせいで腹の傷が開き、彼は22歳の若さでこの世を去った。病弱を理由に隠居の身であった父・政家はこれにショックを受け、後を追うように病死。本家の後継者として、龍造寺分家および重臣によって家老職をつとめていた鍋島直茂が推挙され、幕府の正式な認可を経て直茂の嫡男・鍋島勝茂が佐賀藩初代藩主に任ぜられた。……というのが実際の流れ。主家を建てて藩主の座を断った直茂の人望もあり、家臣団の不満は抑えられ、迅速かつ穏便な交替劇だったという。
ところがその後、高房の亡霊が夜中に城下に現れるという噂が立つ。更に間の悪い事に直茂が病死、更に勝茂の一子が急死する不幸が続いた。特に直茂の場合は耳に腫瘍が出来、激痛に苦しんだ末の「悶死」に近い最期だった。すなわちこれは龍造寺氏の祟りだという噂が立ち、それが「化け猫」としての物語の原点になったと思われる。また龍造寺氏本家も完全に絶えた訳ではなく、高房の息子と弟が存命だった。このうち弟は宗家として遇されたが、後に改姓している。息子の方は成人後に何度も本家再興を幕府に嘆願したが、幕府からすれば「何を今更」という話で、何度却下しても嘆願がしつこく続いた為、遂には別の藩に預かり(事実上の追放処分)となってしまった。こういった訴えがあった事実も、裏返して「鍋島氏は幕府重臣に取り入って主家を乗っ取った」という風聞の論拠にされた。更に付け加えると「初めて歌舞伎として上演される直前、佐賀藩から横槍が入って上演中止になった」という風聞が「騒動は本当にあったこと」としてますます広まってしまったという事情もある。
ともあれ、物語の悲劇性や「化け猫」という異形の存在は、多くの人々を夢中にした。江戸年間、またそれ以後にも様々な創作が行われたが、それは次項に譲る。
その後の「化け猫」
浮世絵では多数の「化け猫」が題材として取り上げられており、恐ろしげな姿もある中で、何処かとぼけた、愛嬌のある姿で描かれている。猫好きで知られる歌川国芳、数々の妖怪絵を描いた鳥山石燕・河鍋暁斎らの作品は有名。
江戸時代中期、様々な風聞・怪談を集めた「耳袋」には、寛政17年(1795年)に江戸牛込のさるお寺であった話が収録されている。
「ある日、和尚が何気なく庭を見ていると、かねてより可愛がっていた猫が鳩を狙っているのに気づく。鳩が可哀想だと思った和尚、その場で声を上げて鳩を驚かせ、逃がしてやった。するとこの猫、ぽつんと「残念なり」と人語を発し、和尚を大層驚かせた。咄嗟に猫を取り押さえ「お前は化け猫なのか?」と聞き返した和尚に、猫は「14、5年も生きれば、どんな猫でも人の言葉を話します。ですがそこまで長生きできる猫は多くありません」と語る。しかし和尚は納得がいかず「だがお前は10年も生きていないではないか」と突っ込むと、「狐と交わって生まれた猫は、10年以上生きなくても人の言葉が喋れます」と言う。ようやく得心した和尚だったが、流石にこれを放っておく訳にはいかない。「二度と人間の前で言葉を喋らないこと」を条件に、引き続き飼い続けようと申し出る。猫は和尚に三度お辞儀をしてその場を離れたが、それきり人の前に姿を現さなかったという。」
横浜市泉区には「猫の踊り場」という場所があり、横浜市営地下鉄・踊場駅の名の由来となっている。
「戸塚宿の醤油屋では、夜になると手拭が一本なくなるという不審事が続いていた。だが手拭はそう高いものでもなく、また商売柄たくさんあるのでさほど大きな問題にはならなかった。ある夜遅く、醤油屋の主人が帰宅の途についていると、宿場の外れから賑やかな音楽が聞こえてきた。気になって見に行くと、開けた場所にたくさんの猫がおり、手拭をかぶり、二本足で立って輪になって踊っている。輪の中心で指導役として踊っているのは、普段主人が可愛がっていた飼い猫だった。ようやく手拭泥棒の正体が解った醤油屋の主人だったが、自分の猫が上手に踊っている事に機嫌を良くし、愉快な踊りと音楽を楽しんだ。そのうち噂になり、こっそり見物に来る人が増えたが、見られている事に気づいた猫たちは集会を開かなくなってしまった。醤油屋の猫もそのうち姿を消してしまい、可哀想な事をしたと悔やんだ醤油屋の主人は、猫好きの人々と相談して供養碑を立てたという。」
1776年(安永5年)頃、品川宿の宿屋・伊勢屋に「化け猫の飯盛女(※下働きの一方で客に春を売る私娼)がいる」という噂が立ち、そこから化猫遊女(ばけねこゆうじょ)なる妖怪が誕生。多くの草双紙(絵本小説)や洒落本に登場し、人気を博した。萌えキャラクター化のさきがけとも言える。話の内容はほぼ同じで「美しい遊女が客と一夜を共にし、深夜になって客が目を覚ますと、本性を見せた化け猫がばりばりと魚や海老を齧っているのを目撃する」というもの。一仕事終えた女郎が夜食にあれこれ食べていただけだったのではというツッコミはさておき、発端となった伊勢屋は「化物伊勢屋」と呼ばれてたいそう繁盛したという。……あれ?
昭和になると「佐賀怪猫伝」「怪談佐賀屋敷」「怪猫呪いの沼」など、「化け猫映画」が多数製作された。多くは「鍋島の化け猫」を下地にした内容だが、変化球もそれなりにあり、いわゆる幽霊屋敷ものの体裁を取りながら過去と現代を跨いで物語が展開する「亡霊怪猫屋敷」は、傑作として評価されている。こうした中で、「化け猫女優」と呼ばれる女優が人気を博した。行燈の油を舐め、クライマックスに恐ろしい本性を見せて大立ち回りを演じる彼女らには演技力の高さが求められ、特に入江たか子、鈴木澄子はその美しさと迫真の演技によって人気となり、多数の作品に出演している。一方で「化け猫女優は色物」という扱いをされる傾向にあり、あまり良い言葉ではなかった。ただし入江は娘にたびたび自分が主演した化け猫映画を見せ、女優としての在り方の一つとして語っていたという。
水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する猫娘も、化け猫から派生したと言える。ヒロインにして鬼太郎のガールフレンド、ねずみ男の天敵。高い知覚力と猫との会話能力のほか、本性を見せると恐ろしい形相になり、鋭い爪と牙で戦う。実はねずみ男と同じく半妖怪という公式設定があり、作中での妖怪としての強さは低い方。
2006年のホラーアニメ『怪〜ayakashi〜』では、第三話に「化猫」が登場。ストーリーはオリジナルで、婚儀を控えたさる武家に起きた怪異と、過去に起きた悲劇が語られる。ここで描かれる化猫は文字通りの異形で、影のように自在に動き回る赤黒い靄として登場。ある人物の無念を晴らす為に復讐を続ける。3DCGや際立った色使い、和紙風のテクスチャなどの独特かつケレン味ある演出で話題を呼んだ。また主人公の「薬売り」のスピンオフである『モノノ怪』が2007年に発表、全12話が放送された。最終エピソードでは舞台や時代を変えつつ前作を踏襲した、新たな「化猫」が描かれている。 
 
化け猫 5

 

幽霊、妖怪の話はたくさん聞きますが、動物の中で一番「妖怪」に近い動物は?と聞かれたら、思い浮かぶのは「化け猫」という言葉。
猫以外でも他の動物、例えば狐やたぬきも化けると言われていますが、猫はその中でも「化けて恨みを晴らす」というような、ちょっとオドロオドロしいイメージがありませんか?
そもそも化け狐、化けたぬき、とは言いませんよね。どうして猫だけ「化け猫」という言葉が定着したのでしょうか。
猫が化ける、と言われはじめたのはなんと鎌倉時代から。鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、奇妙な行動をとるネコのことを「魔の変化したもの(化け猫)ではないか」と疑う記述があるそうです。
化け猫の由来は
始めて「化け猫」がきちんと文章で表されている書物として有名なのは、江戸時代中期から後期にかけて存在していた旗本・南町奉行の根岸鎮衛が30年以上書きついだ随筆「耳袋」だと言われています。
この根岸鎮衛という人物は下級旗本の3男として生まれましたが、持ち前の才能を生かして出世を重ね、最後は松平定信により勘定奉行に抜擢された人物。
好奇心が旺盛な人物だったらしく、仕事の傍、同僚や町民から聞いた珍しい、面白い話を聞いて随筆として発表しています。
この耳袋の中に、「化け猫」の話がいくつかあります。その中で、一番有名な化け猫の話をご紹介しましょう。
根岸鎮衛『耳袋』巻の四「猫、物をいう事」
寛政七年の春のことだ。
牛込山伏町の何とかいう寺では、猫を飼っていた。
その猫が庭におりた鳩を狙っているのを和尚が見つけて、声をあげて鳩を逃がしてやった。
そのとき、猫が、
「やっ、ザンネン!」
と呟いたのである。
聞いた和尚は驚いた。裏口の方に走っていく猫を取り押さえると、手に小柄(こづか)をかざし、
「おまえ、……」
「………」
「今、しゃべったな!」
「にゃあ?」
「ごまかすな。猫のくせにものを言うとは、恐ろしいやつ。さだめし、化けて人をたぶらかすのであろう。さあ、人語を話すなら正直に申せ。さもないと、坊主ながら、殺生戒を破ってでも殺してしまうぞ」
猫は観念したとみえて、こう応えた。
「ものを言う猫なんて、珍しくもない。十年以上生きた猫なら、みんなものを言うぞ。それから十四五年も過ぎたら神変も会得できる。もっとも、そこまで生きる猫は、まずいない」
「そうなのか……。ならば、おまえがものを言うのは無理もない。しかし、おまえはまだ十歳になっていないではないか」
「狐と交わって生まれた猫は、十年に満たなくてもものを言うのだよ」
和尚はしばらく考えた。それから、
「今日まで飼ってきたおまえを殺すのは、やはり忍びない。おまえがものを言ったのを、ほかに聞いた者はいないから、わしが黙っていればすむことだ。これまでどおり、この寺にいるがよい」
と言って、放してやった。
猫は三拝してその場を去った。
そのまま何処へ行ったか、行方知れずになったそうだ。
猫が化けるといわれる3つの根拠
1 猫は人間にだけ鳴く
「かなり長生きした猫は化け猫となり喋ることができる」という都市伝説があります。しかし平成4年の読売新聞には
「ネコが人間の言葉を喋ったという話は、単にネコが口ごもった鳴き声が、人間の言葉によく似ているので聞き間違いにすぎない」
という記事が掲載されています。
猫は子猫と母猫の間では鳴き声でコミュニケーションを取りますが、成猫になってからは仲間同士でのコミュニケーションの手段として鳴き声はあまり使わないそうです。
家猫は飼い主さんや家族にだけ鳴く、とも言われています。しかし動物の中で他の動物に対してこのようなコミュニケーションを取る動物は稀。
まるで猫は人間と自分を同等に考えているようですよね。そんな猫は人間から見ると「化け猫」のように感じたのかも知れません。
2 猫の生態がミステリアス
ネコは夜行性で暗闇で眼が光ります。そして毎日時刻によって瞳の黒目(虹彩)の形が変わります。
暗闇でも物がよく見えますし、足音を立てずに歩くなど、行動がミステリアスです。そして昔は、猫は二本足で立って行灯の油をぺろぺろと舐めたとか。その姿はまさに化け猫、というイメージがピッタリ。
そんな猫の生態は、やはりミステリアスだと思われるようです。
3 猫は仏教とともに伝来したから
縄文時代から日本人と行動をともにしてきた犬に比べ、猫はもともとは中国から仏教の大事な教典をネズミから守るために一緒の船に乗る事を許可された輸入動物です。
そのような背景もあって、人は昔から「猫」には不思議な雰囲気を感じていたのかも知れません。
そして昔、化け猫は当時の伝説やお芝居の演目にもなりました。飼い主の恨みを猫が晴らす、という内容の演目はまさに化け猫が主人公。「化猫遊女」や「鍋島の化け猫騒動」は特に有名です。
ミステリアスな伝来と復讐、怨念を晴らすという演目にぴったりだった化け猫。やはり化け猫は存在する、と当時の人は本当に信じていたかも知れませんね。

いかがですか。化け猫伝説。同じペットでも「化け犬」という単語は見た事がありません。化け猫は飼い主の味方です。愛猫が化け猫になったとしたら、それは飼い主への愛情が深いからかも。そう考えると化け猫は怖くありませんよね?  
 
猫又と化け猫 (明月記・徒然草) 6

 

良く知られている猫の妖怪といえば、猫又と化け猫があげられるでしょう。どちらも猫の妖怪として知られていますが、違いはあるのでしょうか。猫又と化け猫の違いを、それぞれの特徴や成り立ちを追いながら、調べてみたいと思います。猫又や化け猫は伝承は江戸時代にピークとなり、浮世絵や歌舞伎などに登場するようになりました。現代でも猫の妖怪はマンガやアニメなどによく登場しますが、江戸時代にはどんな猫の妖怪が描かれたのか、紹介していきます。
猫又と化け猫、はっきりした違いはない
まずは、化け猫と猫又の定義について見ていきましょう。地方や時代によって化け猫と猫又の特徴が混同されている場合もあるため、明確な違いはないのですが、だいたい次のようになっているようです。
猫股は長生きしてしっぽが2つに分かれた妖怪
猫股と書く場合もある。
「人間に飼われている猫が長生きするとやがてしっぽが2つに割れて、人の言葉を話す猫又になると言われる。」
その長生きの年数は地方などで異なるが、7年から15年位とされている。
地方によっては20年の場合もある。また葬式や墓場から使者を奪う妖怪、火車(かしゃ)は猫又が化けた物という説もある。
化け猫は猫の無念の死から生まれる妖怪
「魔力を持った猫の妖怪。無念の死を遂げた猫や、人間に殺されて恨みを持った猫が魔力を持ち妖怪となった姿と言われている。」
猫又と違いしっぽは1本に描かれることが多い。
猫又同様、長生きした猫が化け猫になる話もある為、猫又と同一視される場合も多い。
猫又は鎌倉時代にはすでに登場している
まずは猫又の成り立ちからみていきます。
現在確認されている書物で、猫又という言葉が出てくる一番古いものは鎌倉時代の公家である藤原定家(1162-1241)の書いた日記である「明月記」と言われています。
この明月記は定家が当時の政治の様子や民衆の様子、文芸の事や天文の出来事などを56年間記したもので、当時の様子を知るうえで大変貴重な資料となっています。
「その中に、奈良からやってきた使者が「猫股という猫のような目をして犬のような体の化け物が出て、一晩で7、8人の死者が出た」と話していた、という記述が登場します。」
ここでは猫の妖怪とはっきり書かれていたわけではありませんので、猫ではなく別の獣であった可能性も考えられます。
さらに鎌倉時代後期に書かれた随筆「徒然草」(1330年頃)では、人を食らう猫又という妖怪の話を聞いた、とある僧の話が登場します。
僧が夜道を歩いていると、飼い犬が足元に飛びついてくるのですが、飼い犬を猫又だと勘違いし小川に転がり落ちて大騒ぎになる、という話です。
古典の教科書に掲載される非常に有名な話なので、記憶にある方も多いかもしれません。
このように鎌倉時代にはすでに猫又という言葉が認知されていたことになりますが、どのようにして猫又という妖怪が形成されていったのかははっきりとはわかりません。
猫又は中国の山猫の妖怪がモデルという説も
一説によれば、中国に伝わる仙狸(せんり)という妖怪が日本に伝わり、猫又に変化したのではないかとも言われています。
「狸という文字を使いますが、たぬきのことではありません。もともとこの文字は山猫の事を指しており、仙狸とは山猫が歳をとって神通力を身に着けた妖怪とされています。」
仙狸が日本に伝わり、歳をとると魔力を持つという猫又のイメージが形成されていったのかもしれません。
また猫又は本来山に棲んでいるものとされていたようですが、飼い猫が猫又になるという伝承も存在し、江戸時代には広く一般的に認識されるようになっていきました。
長い尻尾の猫が猫又になると言われていた為、江戸時代には尻尾の短い猫が好まれたそうです。
「余談になりますが、猫の尻尾を形成する遺伝子が通常と違うパターンになることがあり、ごくまれに2つの尻尾を持った猫が生まれる事があります。」
今では遺伝子上の関係と分かっていますが、もしかしたらこの2つの尻尾を持つ猫が実際にいて、それを見た人が猫又という妖怪を作り上げた可能性もあるかもしれませんね。
化け猫は人間に恨みを持つ猫とされているが、猫又と同一視されることも多い
無残に殺された猫、あるいは無念の死を遂げた猫が化け猫になるといわれていますが、猫又同様に年を取った猫が化け猫になるという伝承がある地域もあり、しばしば猫又と混同されます。
猫又との大きな違いは、浮世絵などで尻尾が1本に描かれることが多いということです。
人間に化ける力があり、あるいは人間の言葉をしゃべり、人間に取りついたりすることもあると言われています。
「ただしこれらは猫股にも共通する特徴なので、場所や地域によって猫又だったり化け猫だったりする、というのが実際の認識と言えるでしょう。」
鍋島の化け猫騒動は、化け猫の登場する有名なフィクションの1つ
化け猫が登場する話で有名なものが、現在の佐賀県である肥後国佐賀藩に伝わる「鍋島の化け猫騒動」があげられます。
ただしこれは実際に起こったお家騒動をもとにつくられたフィクションであり、史実として記録されたものではありません。
「肥後国佐賀藩の2代藩主の鍋島光茂と碁を打っていた臣下の龍造寺又七郎は、ふとしたことから鍋島光茂の機嫌を損ねてしまい、その場で切り殺されてしまいました。それを知った又七郎の母は恨みの念を残しつつ自害してしまいます。この又七郎の母が飼っていた猫が、自害した母の血を舐めて化け猫へと変化し、鍋島家に入り込んで家臣や側室たちを次々に食い殺し、鍋島家を苦しめていきます。しかし、光茂の忠実な部下である小森半左衛門がこの化け猫を退治し、鍋島家をすくうという話です。」
あくまで創作なので、その話により様々なパターンが存在し、登場人物の名前が変わっていることもあります。
実際の所はもともと佐賀藩を治めていたのが龍造寺隆信であったところが、龍造寺隆信の死去によりその右腕でのちに義弟となった鍋島直茂が実権を握りました。
それを受けて隆信の孫が自殺。またその父も急死にしたため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため祠を建てました。
このことが、龍造寺家の恨みの念が化け猫を作り出した、という創作として描かれるようになっていきました。
江戸時代にこのような芝居が上演された事で、恨みを持った猫が化け猫になり人々を襲うという話が広く知られるようになっていったようです。
猫又も化け猫も大きな違いはなく、ほぼ同じ存在とされる
以上の事から、猫又も化け猫はほぼ同一のものであり、時と場合により別になるという、かなりあいまいな存在であるといえるでしょう。
どちらにしても、このような猫の妖怪が作られていった背景には、猫の持つミステリアスな生態の影響もあると言えそうです。
日本だけでなく、西洋でも猫は魔女の仲間といわれ迫害された歴史があります。
「暗闇で光る目や、犬のように飼い主に従順ではなくきまぐれなところなどが、猫がミステリアスな生き物として認識されていったのかもしれません。」
また、猫の鳴き声は人間の子供の声のように聞こえることがあります。外で子供が騒いでいるのかと思ったら、猫の声だったという経験をしたことはないでしょうか。
このことが、猫がしゃべったという伝承の元になっていった可能性があります。
かつては数年しか生きられなかった猫。長生きすること自体が不思議だった
今でもノラネコの平均寿命は5、6年と、現在の飼い猫の15,6年に比べるとかなり短くなっています。かつての猫たちも、数年の平均寿命であったでしょう。
だからこそ、10年以上生きる猫はとても珍しい存在で、それだけ長生きする猫は何か不思議な力がある、と考えられるようになったのかもしれません。
猫又も化け猫も、長生きすると妖術を使う、言葉を話せるなどの特徴があるのはそのことが理由と考えられます。
現在の飼い猫は20年生きる猫も多い為、現在の私達から見ると飼い猫のほとんどが猫又や化け猫になってしまうことになりますが、そのような当時の平均寿命の違いがあるのです。
「猫だけでなく、タヌキやキツネ、ヘビと言った他の動物も不思議な力を持っていて人間をだましたり襲ったり、といった伝承が各地に残っています。」
日本は古代より自然災害の多い国です。また、それによる農作物の不作が発生し飢饉が起きたり、疫病が流行ったりということが頻繁におきました。
動物たちの持つ不思議な生態が、このような人々の災害や疫病、飢饉に対する不安と結びついて人間に危害を加える妖怪、という存在を生み出していったという説もあります。
時代が進むにつれて、猫の妖怪は親しみのあるキャラクターとなっていく
この妖怪という存在は、時代が進むにつれてよりユーモラスに、そして親しみのあるキャラクター的な存在へと変わっていきます。
化け猫、猫又。これら猫の妖怪は創作としての題材に大変な人気があり、現在でも様々な猫の妖怪が登場する物語が作られています。
江戸時代には、猫の妖怪が活躍する作品が沢山作られた
江戸時代は印刷技術が発展したこともあり、絵物語や浮世絵、そして歌舞伎などの様々な芸能の中に猫が取り入れられるようになりました。
その結果、猫又や化け猫といった存在は広く大衆に知られるようになっていきます。最後に、江戸時代に花開いた猫の文化を数点紹介いたします。
鍋島の化け猫騒動をもとにした歌舞伎が登場。しかし鍋島家からクレームが入る
「高山検校が直島大領直繁と囲碁で争ったが、直島大領直繁に切り殺されてしまった。検校の飼い猫が猫又となり、直繁の後室嵯峨の方に化けて夜毎に直繁を苦しめていく。」
鍋島の化け猫騒動をもとにした歌舞伎の演目「花野嵯峨猫魔縞(はなのさがねこまたはなし)」を描いたもの。登場人物は鍋島の化け猫騒動をモデルにアレンジされた、別の人物になっています。
「この演目を上演する前日に、鍋島家から公演の差し止めを言い渡されてしまいました。さらに鍋島家の家中の侍たちが稽古場に切り込んでくるという事件が発生、主演の団十郎たちは事前に通知を受けて帰宅していた為、難を逃れたという逸話が残ってます。」
この演目は中止となり、明治になってから上演されました。
猫又のダイナミックな姿と、主人を殺害した直繁への恨みの表情が描かれています。
猫漫画のさきがけ!歌川国芳は多くの猫の作品を描いた
「尾上梅寿一代噺(おのえきくごろういちだいばなし)」を描いた錦絵。古寺に棲む老婆が深夜に化粧をしている。様子を見てみると、油を舐める猫の姿があった。歌を歌うとどこからか猫又が現れ歌に合わせて踊り出した。
古寺に棲む猫又が登場する演目で、お化けが舞台から飛び出すなどの大がかりな仕掛けと衣装の早変わりなど、見どころ満載で大評判となりました。
踊っている猫又はどことなくミステリアスで、可愛らしくも見えます。
またこの錦絵を書いた歌川国芳は大変な猫好きの浮世絵師で、猫を描いた作品をたくさん残しており、常に10匹前後の猫を飼っていたそうです。
猫に戒名をつけていたほどで、弟子たちにも猫を描くことをよく薦めたりしていました。
型破りの浮世絵師、河鍋暁斎は地獄絵や幽霊画を多く描いた
日本橋の小問物問屋、勝田五兵衛のために描いた画帳にある作品の1つ。河鍋暁斎は歌川国芳の弟子になったこともありますが独立し、様々な流派の技法を取り入れて型に捕らわれない作品を残しました。世界的にも評価の高い浮世絵師の1人です。
大きな化け猫に驚く男性達の姿が描かれています。驚きのリアクションの男性達とは対照的に、迫力満点の化け猫はどことなく可愛らしい感じもします。
猫の妖怪たちは恐れられる存在から、親しみのもてる存在へと変化していった
江戸時代以降、猫又も化け猫もキャラクターとしての存在が確立し、今ではアニメやマンガでも欠かせない存在となっています。
「かつては恐れられていたこの猫の妖怪たちも、数百年のうちに様々な特徴が加えられていき、今ではどこか親しみのある存在へと変わっていきました。」
言い方を変えれば、日本の歴史と多くの人々たちが共同して作り上げたキャラクターといえるかもしれません。
それはかわいらしくてどこかミステリアス、という猫の持つ不思議な魅力があってこそだったと言えるでしょう。
中世の頃はまだまだ珍しい存在であった猫も、今ではごく身近な存在となりました。
これからも、妖怪を含め様々な猫のキャラクターたちが作られていくでしょう。 
■「明月記」藤原定家と「徒然草」吉田兼好
「明月記」 1
鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録である。別名『照光記』『定家卿記』。
後世、歌道・書道において重んじられた藤原定家の日記である。『明月記』の名は後世の名称で定家が命名したものではなく、当人自身は「愚記」と読んでいた。没後、定家の末裔内では「中納言入道殿日記」の称を用いたが、一般的には「定家卿記」の名称が用いられていたようである。
南北朝の頃から『明月記』の名称が用いられるようになったとされる。広橋家記録によれば二条良基の説として『毎月抄』にある“定家が住吉明神参拝の際に神託によって作成した『明月記』”がこの日記であるとの考えが記されている。良基の説を証明するものはないが、当時の日記は公家が公事故実や家職家学の知識を子孫に伝えることを作成目的の1つとしていたことから、定家の日記=定家の奥義書『明月記』という認識が広く行われ、定家末裔を含めてこの呼称が用いられるようになったと考えられている。
定家自筆原本の大部分は冷泉家時雨亭文庫に残り、国宝に指定されている。なお、歌道、書道における定家の筆跡への尊崇から、『明月記』原本の一部は早くから流出し、断簡、掛け軸などとして諸家に分蔵されているものも少なくない。断簡は芸林荘・東京国立博物館・京都国立博物館・天理図書館などにある。
背景
定家の家は「日記の家」と呼ばれる家記(代々の日記)を通じて公事に関する有職故実を有していた家系ではなく、政治的な要職にも恵まれなかった。そのため、定家は『明月記』の中に自らが体験し、収集した知識を多く書き残して自身、あるいは子孫が「日記の家」として重んじられることを期待していたと見られている。
だが、定家の歌道、書道における名声は、結果的に『明月記』を筆頭とした「日記の家」(すなわち公家政権の官僚)としての御子左流の確立を阻むことになった。定家の子・為家が譲状を作成(文永10年7月24日(1273年9月6日))した際に、自分が持っている『明月記』について「一身のたからとも思候也、子も孫も見んと申も候ハす、うちすてゝ候へハ」と述べて公事に熱心である庶子・冷泉為相に譲っているのも、歌道の家となった御子左流に公事の書と言える『明月記』の活用の余地が低いものになっていたことを為家が自覚していたからであると考えられている。結果的には定家子孫で唯一存続した冷泉家とともに『明月記』のかなりの部分が伝存されたものの、その冷泉家においても『明月記』は歌道・書道の家の家宝とされ、定家が子孫に伝えたかった有職故実については顧みられることがほとんど無かったのである。
内容
歴史上著名な人物の自筆日記としての価値とともに、歴史書・科学的記録としても価値がある。ただし、漢文で記されていて難解な部分が多い。通説では現存本などを元に56年間の記録とされているが、後述の定家の子・為家の譲状には「自治承至仁治」とされており、定家が死去する仁治2年(1241年)頃まで書かれていた可能性もある。
また、八代国治や五味文彦の研究によって、『吾妻鏡』の建暦年間前後の記事で三善康信に関係するものが、『明月記』の記事と似ていることが指摘されている。これは『吾妻鏡』の編纂に関わった三善氏関係者と鎌倉幕府とのつながりが深く、晩年を鎌倉で過ごした冷泉為相から提供を受けたと考えられている。
天文学の記録として
日記には、定家自身が遭遇したものや過去の観測記録など、さまざまな天体現象についての記録も残されている。当時、見慣れぬ天体現象(天変)は不吉の前兆であると考えられており、人々の関心事だったのである。『明月記』の天文記録としては、かに星雲を生んだ超新星爆発の記述があることが著名であるが、これは定家の出生以前の出来事であり、陰陽師が報告した過去の記録が日記に残されたものである。 
「明月記」 2
養老4年(720)に完成した歴史書『日本書紀』はそれ以前に書かれていたいろいろな日記を参考にして作られたといいますから、かなり古くより日記をつけていた人がいたことになります。どんな日記だったのでしょうか。ただ『日本書紀』より少し早く和銅5年(712)に作られた『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)という人の記憶力に頼って書かれており、文字を書ける人が少なかった時代には日記はやはり一部の人のものであったことは確かなようです。
日記がより広く書かれるようになるのは、平安時代になってからのことです。特に熱心だったのは公家たちでした。しかし、彼らが毎日つけていた日記は現在のものとはかなり違います。そこには日常生活の細々(こまごま)としたことが書かれることはほとんどありませんでした。彼らが日記に一所懸命書いたのは、朝廷での会議・儀式の詳しい手順だったのです。これは日記を公家が自分たちの子供や孫に残す記録と考えていたためです。朝廷の会議・儀式で恥をかかないように子孫のために彼らは日記をつけていたのです。ですからその日記は最初から人に見られることを承知で書かれていたものということになります。自分の感想や意見を書かなかったのはむろんこのためです。その点で平安時代の特に最初の頃の日記は、一種の会議・儀式に関するマニュアルであったといってもいいかもしれません。
日記に自分が思ったことや、感じたことをつけるようになっていくのは、朝廷での会議・儀式が次第に形式化していった平安時代も後半になってからのことです。下の写真は、ちょうどそのような時代に書かれた、藤原定家(1162-1241)という人の日記です。この日記には『明月記』という優雅な名前が付けられています。
定家は和歌がたいへん上手で、天皇から命令を受けて『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の和歌集を編集したことでも知られた公家です。また今も正月によく行われるカルタのもとになる『小倉百人一首』を選んだのもこの藤原定家です。
定家は10代のときから80歳で死ぬまでほとんど欠かさず日記を書き続けていました。現在、残っているのは19歳から74歳までのものですが、その多くは今も定家の子孫である京都の冷泉家に大切に保管されています。
写真は定家が38歳の建久10年(1199)正月から3月までを収めた一巻です。ちょうどこの年の正月11日には、鎌倉で将軍の源頼朝が死んでおり、そのことも書かれています。京都にいた定家が、頼朝の死を知ったのは正月18日のことですから、この時代いかに鎌倉と京都が遠かったかが、これによってわかりますね。
のちの時代になると、定家は歌人から神様のように崇(あが)められるようになり、その結果定家の和歌だけでなく筆跡までをもまねることが大流行します。定家の名を取り「定家流」と呼ばれた書風で、日記に見えるかなり変わった筆跡がまさにその原形となるわけです。でも定家自身は、決して自分の字を上手とも思っていなかったようで、「鬼」のような字だと『明月記』に書いています。日記の記事だけでなく、定家の「鬼」のような字を鑑賞できるということでも、『明月記』はたいへん面白い日記といえましょう。 
「明月記」 3
中国では日本より古く隋時代には「猫鬼(びょうき)」「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては鎌倉時代前期の藤原定家による『明月記』の天福元年(1233年)8月2日の記事に、南都(現・奈良県)で「猫胯」が一晩で数人の人間を食い殺した という記述がある。これが、猫又が文献上に登場した初出とされており、猫又は山中の獣として語られていた。ただし『明月記』の猫又は容姿について「目はネコのごとく、体は大きい犬のようだった」と記されていることから、ネコの化け物かどうかを疑問視する声もあり、人間が「猫跨病」という病気に苦しんだという記述があるため、狂犬病にかかった獣がその実体との解釈もある。また鎌倉時代後期の随筆『徒然草』(1331年頃)に「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに……」と記されている。

その中に、奈良からやってきた使者が
「猫股という猫のような目をして犬のような体の化け物が出て、一晩で7、8人の死者が出た」
と話していた、という記述が登場します。

藤原定家が残した日記「明月記」の中では、「猫股と言う獣が出て一晩で七、八人の被害者が出ました。目は猫のようで体は犬のようでした」という奈良からやってきた使者の話が登場します。またこの話を聞いた定家が、二条院の時代、京の都に「猫股病」と呼ばれる疫病が流行ったことを思い出します。前者では「怪物」と猫股がリンクし、後者では「疫病」と猫股がリンクしているようです。猫股と病気が結びつくようになったのは、「猫鬼」(びょうき)のイメージが影響を及ぼしたのかもしれません。「猫鬼」とは伝染病を媒介する鬼神の一種で、この頃中国から輸入されたと考えられています。
鎌倉末期、1330年頃の成立と伝えられる兼好法師の随筆「徒然草」の中では、「山の奥に猫またと言うものがいて、人を食うそうだ」、「いや山だけではない。このへんでも長生きした猫が猫またという怪物になって人を取ることはあるだろう」という表現があります。山であれ市中であれ「猫股=人を襲う化け物」という扱いになっており、当時の人々にとっての「猫股」がどういう存在だったかを知る手がかりを与えてくれます。

「明月記 承元元年(一二〇七) 四十六歳」より
「○七月四日。陰晴し、雨灑ぐ。天明に退出するの間、去々年より養ふ所の猫放犬(1)のために噉(く)ひ殺さる。曙後放ち出すと。年来、予は更に猫を飼はず。女房此の猫を儲くるの後、日夜之を養育す。悲慟の思ひ人倫(2)に異らず。鶴軒に乗り、犬綬を帯ぶるを恥づといへども、三年以来掌上・衣裏に在り。他の猫時々啼き叫ぶ事有るも、此の猫其の事無し。荒屋の四壁全からず。隣家と其の隔て無きが如し。放犬多くして致す所か。」「〔四日〕妻の愛する猫、放犬に噛み殺される。・・・」
1、野犬のこと。2、人間。3、軒(けん)は高官の車。「鶴を可愛がるあまり車に乗せる」の意。 
吉田兼好「徒然草」の第八十九段
「奧山に、猫またと云ふものありて、人を食ふなる」と人のいひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の經あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを」といふものありけるを、なに阿彌陀佛とかや連歌しける法師の、行願寺の邊にありけるが、聞きて、「一人ありかむ身は心すべきことにこそ。」と思ひける頃しも、ある所にて、夜ふくるまで連歌して、たゞ一人かへりけるに、小川(おがは)の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふと寄り來て、やがて掻きつくまゝに、頚のほどを食はんとす。肝心もうせて、防がんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転(ころ)び入りて、「助けよや、猫また、よやよや」と叫べば、家々より松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こは如何(いか)に」とて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物とりて、扇小箱など懷に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ家に入りにけり。
飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。

今風訳 / 「山奥には猫又という肉食の怪獣がいて、人を食べるらしい」と、誰かが言えば「この近所でも、猫が猫又に進化して、人を襲ったらしい」と、言う者もいた。油小路にある行願寺の近くに住む何とか陀仏(だぶつ)という連歌好きな坊さんが、それを聞いてしまって、「一人でうろつく私などは用心しなくては」とビビっていた矢先の事である。一人で夜道を、ドブ川に沿って歩いていると噂に聞いた猫又がいるではないか。猫又は狙いを定めて足下に突進し素早く飛びつき首を引き裂こうとした。びっくり仰天して逃げようにも腰砕けになっていて、ドブ川に転げ落ちた。「助けて。で、出た。猫又、猫又が出た」と叫んだので、近所の住民が懐中電灯を灯しながら駆けつけた。灯りを照らしてみると、この辺の名物坊主である。「なんで、そんなに無様な姿を晒しているのですか?」と、引っ張り出せば、連歌の懸賞で貰った小箱や扇がポケットから飛び出してドブ川に浮いている。崖っ淵から生還した坊さんは、血圧が上がったまま帰宅したのであった。実は、愛犬ポチが暗闇の中、ご主人様の帰りが嬉しくて尻尾を振り振り抱きついたそうだ。  
■猫又、猫股 
日本の民間伝承や古典の怪談、随筆などにあるネコの妖怪。大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの2種類がある。
山中の猫又
中国では日本より古く隋時代には「猫鬼(びょうき)」「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては鎌倉時代前期の藤原定家による『明月記』の天福元年(1233年)8月2日の記事に、南都(現・奈良県)で「猫胯」が一晩で数人の人間を食い殺した という記述がある。これが、猫又が文献上に登場した初出とされており、猫又は山中の獣として語られていた。ただし『明月記』の猫又は容姿について「目はネコのごとく、体は大きい犬のようだった」と記されていることから、ネコの化け物かどうかを疑問視する声もあり、人間が「猫跨病」という病気に苦しんだという記述があるため、狂犬病にかかった獣がその実体との解釈もある。また鎌倉時代後期の随筆『徒然草』(1331年頃)に「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに……」と記されている。
江戸時代の怪談集である『宿直草』や『曽呂利物語』でも、猫又は山奥に潜んでいるものとされ、深山で人間に化けて現れた猫又の話があり、民間伝承においても山間部の猫又の話は多い。山中の猫又は後世の文献になるほど大型化する傾向にあり、1685年(貞享2年)の『新著聞集』で紀伊国山中で捕えられた猫又はイノシシほどの大きさとあり、1775年(安永4年)の『倭訓栞』では、猫又の鳴き声が山中に響き渡ったと記述されていることから、ライオンやヒョウほどの大きさだったと見られている。1809年(文化6年)の『寓意草』で犬をくわえていたという猫又は全長9尺5寸(約2.8メートル)とある。
越中国(現・富山県)で猫又が人々を食い殺したといわれる猫又山、会津(現・福島県)で猫又が人間に化けて人をたぶらかしたという猫魔ヶ岳のように、猫又伝説がそのまま山の名となっている場合もある。猫又山については民間伝承のみならず、実際に山中に大きなネコが住みついていて人間を襲ったものとも見られている。
人家のネコが化ける猫又
一方で、同じく鎌倉時代成立の『古今著聞集』(1254年稿)の観教法印の話では、嵯峨の山荘で飼われていた唐猫が秘蔵の守り刀をくわえて逃げ出し、人が追ったがそのまま姿をくらましたと伝え、この飼い猫を魔物が化けていたものと残したが、前述の『徒然草』ではこれもまた猫又とし、山にすむ猫又の他に、飼い猫も年を経ると化けて人を食ったりさらったりするようになると語っている。
江戸時代以降には、人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、前述のように山にいる猫又は、そうした老いたネコが家から山に移り住んだものとも解釈されるようになった。そのために、ネコを長い年月にわたって飼うものではないという俗信も、日本各地に生まれるようになった。
江戸中期の有職家・伊勢貞丈による『安斎随筆』には「数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる」という記述が見られる。また江戸中期の学者である新井白石も「老いたネコは『猫股』となって人を惑わす」と述べており、老いたネコが猫又となることは常識的に考えられ、江戸当時の瓦版などでもこうしたネコの怪異が報じられていた。
一般に、猫又の「又」は尾が二又に分かれていることが語源といわれるが、民俗学的な観点からこれを疑問視し、ネコが年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」と見る説や、前述のようにかつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」を語源とする説もある。老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり分かれているように見えることが由来との説もある。
ネコはその眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、葬儀の場で死者をよみがえらせたり、ネコを殺すと7代までたたられるなどと恐れられており、そうした俗信が背景となって猫又の伝説が生まれたものと考えられている。また、ネコと死者にまつわる俗信は、肉食性のネコが腐臭を嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、こうした俗信がもとで、死者の亡骸を奪う妖怪・火車と猫又が同一視されることもある。
また、日本のネコの妖怪として知られているものに化け猫があるが、猫又もネコが化けた妖怪に違いないため、猫又と化け猫はしばしば混同される。
なお、カナダで2本の尾を持つネコの写真が撮られている。
妖怪画
江戸時代には図鑑様式の妖怪絵巻が多く制作されており、猫又はそれらの絵巻でしばしば妖怪画の題材になっている。1737年(元文2年)刊行の『百怪図巻』などでは、人間女性の身なりをしなた猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、江戸時代当時は三味線の素材に雌のネコの皮が多く用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌っている、もしくは一種の皮肉などと解釈されている。芸者の服装をしているのは、かつて芸者がネコと呼ばれたことと関連しているとの見方もある 。
また1776年(安永5年)刊行の『画図百鬼夜行』では、向かって左に障子から顔を出したネコ、向かって右には頭に手ぬぐいを乗せて縁側に手をついたネコ、中央には同じく手ぬぐいをかぶって2本脚で立ったネコが描かれており、それぞれ、普通のネコ、年季がたりないために2本脚で立つことが困難なネコ、さらに年を経て完全に2本脚で立つことのできたネコとして、普通のネコが年とともに猫又へ変化していく過程を描いたとものとも見られている。また、アメリカ合衆国のボストン美術館にビゲロー・コレクション(浮世絵コレクション)として所蔵されている『百鬼夜行絵巻』にもほぼ同様の構図の猫又が描かれていることから、両者の関連性も指摘されている。
仙狸
中国で「仙狸」(せんり。「狸」は山猫の意)という猫の妖怪が伝えられている。これは年を経た山猫が神通力を身につけた存在であり、美男美女に化けて人間の精気を吸うとされる。
日本の猫又の伝承は、この仙狸を起源とする説もある。 
■仙狐と仙狸 
仙狐(センコ)も仙狸(センリ)も、中国を起源とし日本にも伝承が広く伝えられている妖怪。長い年月(1000年という説が有力だが、500年など様々な説がある)を生きた各々が仙人と同等の神通力を得たものだとされている。
仙狐は年を追う毎に尻尾の数が増え、最終的には九つになるとされている。尾の数が多ければ多い程神通力を得ているとされた。名前は「九尾の狐」としての方が有名だろうが、九尾の狐が「封神演義」に登場した「妲己」や「玉藻前(たまものまえ)」など、美女に化け男をたぶらかし国を動かす悪しき妖怪とされているのに対し、仙狐は日本におけるおいなり様等五社神の一角に数えられたり、安倍晴明の母親「葛の葉(くずのは)」が仙狐だとされていたりと、良き狐とされる事が多い。毛の色も九尾の狐が金色なのに対し、仙狐は白とされているようです。
仙狸は「狸」という漢字を使っているが、これは中国語での表記で、日本で言う山猫の事。尾が分かれるという記述はないが、日本における猫又の山猫版と考えて問題ないだろう(実際、ゲーム「真・女神転生3」では、ネコマタがレベルアップするとセンリになる)。仙狐ほど有名な伝承は残っていないが、美男美女に化け、人間と交わり精気や陽気を吸うとされる。(陰陽道でいう「陰と陽」に分けると、猫は陰なので、陽を必要とするとの事)。
双方とも人間との関わりが多い。仙狐は人間との間に子供を作る事が出来るが、仙狸はそのような伝承は残されていない。 
■猫鬼 (びょうき)  
ある日、天化が陣に猫を連れ帰った。
戦場に取り残されていたのだという。
子猫は真っ白で小さく、ひどく弱そうだったが、動物好きの仲間たちに可愛がられ、じきに西岐軍の陣営を元気よく駆け回るようになった。
しかし、天化はあまり子猫が出歩くことを望んでいないようだった。
周りの者があきれるほど、すぐに呼び戻し、自分の目の届くところに置こうとする。
しまいには、首に縄でもつけかねない様子に、太公望は苦笑した。
「自由気ままなのが猫の気質だろう。それじゃ可哀想だよ」
もしかして、天化は自分の恋人は部屋に閉じ込めて誰の目にも触れさせないようにしてしまうタイプなのだろうか。
自分は縛られるのが嫌いなくせに。
「天化の恋人になる人は大変だね」
と冷やかしてみたが、予想外に、何も言い返してこなかった。
ただ、怒ったように目をそらし、また離れてしまっている猫を呼ぶ。
触れると火花でも散りそうなほど、気を張り詰めているのが感じられた。
驚いていると、戻ってきた子猫を抱き上げて、さっさと天幕に戻ってしまう。
そんなに怒らせるようなことを言ってしまっただろうか……。
子猫が来て以来、ろくに話す機会もなかったのに。
あとで、天祥に頼んでまたたびでも差し入れておこう。
太公望は小さくため息をついた。

子猫は元気だった。
その人懐こさで、たちまち陣営でのアイドルの座を得た。
何故か太公望には対抗意識を持っていて、様々ないたずらをしかけていたが。
人の言葉を理解しているような賢さに、誰もが驚かされていた。
しかし、子猫が自分の居場所を獲得すればするほど、天化は妙に神経質となり、軍議の間でさえ上の空なことが多くなった。
「天化、一体どうしたんだ。最近変だよ」
「……なんでもねぇって」
「ないでもないってコトはないだろう。――何か悩み事でもあるのなら、相談……」
「お前には関係ない!」
きつい口調で怒鳴られて、しゅんとする太公望。
その表情に、さすがに我に返った天化は決まり悪そうに背を向けた。
「あ、いや……本当になんでもないんだ。多分、今夜辺り片付く。心配いらねぇよ」
「今夜、何?」
「――ったく、来るなら早く来やがれ……」
「え?」
「なんでもない」
一体何を待っているというのだろう。
恐らく、それが天化の苛々の原因。
今日は満月。
もっとも妖魔の力が強くなる。
何か関わりがあるのだろうか。
少しでも、話してくれればいいのに。
自分では力になれないかもしれないけれど。
太公望は肩を落として、立ち去っていく背中を見送った。

急に空気が重くなったような気がして、太公望は目を覚ました。
明り取りから入る明るい月の光の中、煙のような塊が、形を取った。
巨大な猫だった。
――猫鬼。
猫を殺して、その魔物化した実体と、霊体を使う外法。
術者自らは安全な場所にいて、対象である敵を呪い殺そうとする。
敵に、その呪術を使えるものがいたのだろう。
辛い、苦しい、悲しい――。
周りにそんな怨念が渦巻いて、息ができない。
その時、一陣の風が天幕を吹きぬけた。
飛び込んできたのは、天化の子猫。
太公望の前に立ち、猫鬼に向って鋭く鳴く。
猫鬼の動きが止まった。
赤く光る目が、子猫から動かない。
口から漏れる低い呻き。
苦しんでいる。
何かに逆らおうとして。
けれども、呪術師にさらに命令を受けたのか、悲痛な叫びと共に子猫ごと太公望に襲い掛かる。
とっさに、太公望は子猫を抱きしめ、目を閉じた。
――闇にこだまする絶叫。
白銀の刃が軌跡を描く。
実体ですらない猫鬼は、剣に貼られた呪符の力を受けて霧散した。
純粋な「呪い」となったそれは、呪術師の元に跳ね返される。
あれだけの怨嗟の塊を食らっては……もう生きてはいないだろう。
背を向けたまま、天化が呟いた。
肩が震えている。
「すまねぇ……お前の母親を、二度も殺しちまった……」
その言葉で、太公望は襲ってきた猫鬼が子猫の母であったことに気づいた。
天化は、魔物に変えられた母猫を倒した後、残された子猫を連れてきたのだ。
――魔物化したものの側にいれば、多かれ少なかれ影響を受ける。
天化が子猫から目を離さなかったのは、妖猫となるのではないかと恐れていたためだったのだ。
『猫』と呼びつづける天化に、名前をつけないのかと聞いたことがある。
天化は、情が移るからつけない、と答えた。飼い主が見つかれば手放すつもりなのだと思っていたが……いざという時には、自分の手で殺す決心をしていたのだろう。
そして、幽体となった猫鬼を呪術師がいつ仕掛けてくるか……気を張り詰めて待ち続けていた。
……たった一人で。
一言も相談してくれなかったことが少し悔しい。
「天化は悪くない。この子だって分かってるよ――天化が、母親を呪縛から救ってくれたってこと」
太公望の手から飛び出した子猫が、天化の手にすり寄る。
ありがとう。
そう言っているようだった。
「母親ってすごいね。猫鬼にするには、四十九日かかる。天化がこの子を見つけたときには、すでに魔物になっていたはずなのに。しかも、幽体になっても、この子のことを忘れていなかったんだ」
子猫を見て、猫鬼は確かに攻撃をためらった。呪いの媒介とされて、もう生前の意識など残っていないはずなのに。
その強い想いに圧倒される。
せめて、無事に転生の流れに入れるように。猫鬼の魂の為に祈る。
「悪かったな」
太公望に、天化が決まり悪げに言った。
「前の戦いで、奴の使役獣をまとめて片付けたから、てっきり俺を狙ってくると思ったんだ。まさか、お前を狙うとは……。巻き込んですまなかった」
「そうだね、一言くらい言ってくれれば、少しは用心したのに」
珍しく怒った口調で言われ、首をすくめる天化。今回は言い返せない。
しばらく睨んだ後、太公望はにこりと笑った。
「――明日、木天蓼(またたび)取りにつきあってくれたら、許してあげるよ」
天化の腕の中で、賛同するかのように、子猫がにゃん、と鳴いた。

猫鬼というのは、猫を使った呪術です。本来は猫と人間の子供を使った……ちょっと凄まじい方法なので、ここには書きませんが、まぁ、よくそんな方法を思いつくもんだというやり方で、魔物化するものです。怖いのは、これがある時期、中国で大流行したことでしょうか。国を上げて禁止しなくてはならないくらい、行われたそうです。でも国の方が先に滅亡しちゃったのだとか。恐るべし、猫鬼。まぁ、猫鬼が効いたかどうかは別として、呪われた方は、その事実に怯えて倒れてしまうということはあったでしょうね。まさに、病は気から。
さて、この話は「眠り猫」の裏話であります。あの能天気さとは一転しました。これだけシリアスになっていれば、猫と太公望のケンカなんぞに気づかないのも当然というわけで。子猫は、えらく頭は良くなってますが、敵になる心配はないでしょう。まぁ、妖猫くらいにはなって、人間に化けて天化に色仕掛けくらいはしそうですけど……。 
 
「猫」の俗説・噂 7

 

長生きした猫は化ける
しばしば語られているのが「10年生きた猫は化け猫に、20年生きた猫は猫又になって人間を化かす」といった俗説。化けるまでの年数は説によって異なるようだ。なぜかどちらも“人間に飼われている猫”限定らしく、野良猫が化けるという話は聞かない。猫が醸し出すミステリアスな雰囲気や独特の生態を見て、昔の人がおそれを抱いた結果生まれた俗説なのかもしれない。
こうした説は江戸時代以降に広く伝わったと言われ、日本各地に化け猫の目撃談、化け猫をモチーフにした物語・美術品などが残されている。
なおペットの飼育環境が発達した現在、飼い猫の平均寿命は14.82歳まで延びている(一般社団法人ペットフード協会の統計/2014年)。このままだと大半が化け猫になってしまうためか、「10歳で化ける」説はほぼ聞かれなくなった。その代わり、もっぱら最近はネコミミ美少女のように“萌えキャラ”に化けることが多い。また、猫の地縛霊がゲームキャラとして子供たちから絶大な人気を集めるなど、なかなかカオスな時代である。
猫は一生に一度、人間の言葉をしゃべる
猫は生きている間に一度だけ人間の言葉をしゃべると言われている。昔から年老いて化けた猫は人語を理解するとされているため、それが現代まで伝わっているのかもしれない。しゃべる内容は、ちょっとした日常単語から大災害の予言、飼い主の死期を言い当てる……などバリエーション豊富。
合理的に考えるなら、曖昧な猫の発声を人間が脳内で日本語に変換し、「ウチの猫がしゃべった!」と解釈しているだけだろう。猫はそもそも言葉の意味を理解していないというのが定説だ。
ただ、猫が人間とある程度コミュニケーションを取れることは広く知られている。研究者によれば、日本語の意味そのものではなく、音(声)と行動、そこから生じる結果を猫は学習しているそうなのだ。たしかに筆者宅の猫も「ご飯だよと呼ばれる → エサ場に行く → カリカリが食べられる」「おいでと呼ばれる → 飼い主のところへ行く → 頭を撫でてもらえる」といった複数パターンを記憶している様子がある。
猫の感情も、表情やしぐさ、鳴き声のトーン、しっぽの動きなどで飼い主には充分伝わっている。実際にしゃべることはなくても、人間と猫はうまくやっていけているのだ。
猫を殺した人間は祟られる
殺された猫が怨霊となり、人間を不幸にする。さらに殺した本人だけでなく七代先まで祟り続ける……昔から“猫の祟り”は人々に恐れられ、怪談や絵画、ホラー漫画などの題材になってきた。現代の最恐ホラー映画として名高い『呪怨』シリーズも、やや変則的だが作中で殺された飼い猫が大きな存在感を放っている。
だが猫を殺した人間のすべてが祟られるかといえば、普通に考えればありえない。伝えられてくる猫の虐待件数と、祟りと思われる人間側の被害数がまったく釣り合っていないからだ。おそらく猫が生来もっている霊的なムードに、「むやみに殺生してはいけない」という道徳観が加わって、猫殺しを戒める俗説が生まれたのではないだろうか。
その一方、猫の祟りではないかと考えられる事例も少数ながら報告されている。今年2月、アメリカである男が自宅の窓から誤って転落し、おまけにゴミ収集車に轢かれ重傷を負うという出来事があった。実はこの男、その前年に猫をバットで殴って目を潰していたのだ(殺してはいないらしいが)。このことから“猫の祟り”説を支持するネットユーザーは多かった。
また、日本でも似たような事例がある。野良猫をさらってきて虐待し、絶命するまでの様子をネット中継したとんでもない男が、数年後に自宅内の爆発事故で重傷を負った。このニュースが流れた時もネット上では「祟りだ」「天罰が下った」などの声が相次いだ。
上記の2名はともに動物虐待の罪で起訴されており、住んでいる地域やフルネームも公表されるなど社会的制裁は受けていた。そこへきて大ケガ、さらにそのニュースが広く報じられるという追加の制裁を受けた形だ。猫の祟りを科学的に立証することはできないが、むしろインターネットが発達した現代においては「虐待の罪状と個人情報が世界中へ拡散されること」が最大の“祟り”と言えるかもしれない。
死んだ猫は生まれ変わって飼い主の元へ戻る
動物好きなネット住人が口にする言い回しに「毛皮を着替える」がある。死んでしまった最愛の動物は新たな生命を受け、また飼い主の元へ戻って来るという意味だ。犬猫どちらにも使われる表現だが、割合では圧倒的に猫が多い。
猫が亡くなったことを誰かが報告した際、「きっとまた毛皮を着替えて戻って来るよ」と慰めるためによく使われ、ペットロス(ペットの死で起こる心身の不調)の緩和に一役買っているようだ。まれに「たまたま拾った捨て猫の外見が以前死んだ猫とそっくりだった」「死んだ猫が夢に出てきてから授かった子供が、その猫とよく似た性格に育った!」など、本当に“着替え”を済ませてきたかのような報告も目撃される。
では、猫が毛皮を着替える前に飼い主が死んでしまったら、永遠に再会できないのだろうか……? 実はこれに対しても、ネット上では「虹の橋」という表現を使って希望あふれる解釈がなされている。あるサイトの解説によれば「虹の橋」は英語で書かれた作者不詳の詩が起源となっており、ネットユーザーから共感を受け世界中に広がったらしい。
詩の内容は、天国の手前には「虹の橋」があり、先に天寿を全うした動物たちがそこで飼い主を待っているというもの。一度でもペットの最期を看取った経験がある人なら涙なしには読めない、感動的な詩である。
黒猫は不幸を呼ぶ
目の前を横切ると不幸になる、魔女の使いであるなど、キリスト教圏を中心に古くから不吉な存在として扱われてきた黒猫。そうした迷信のために無実の黒猫たちが長らく迫害されてきたという。
黒猫=不吉という迷信は日本でも有名だが、今は世界中で黒猫に対する考え方もずいぶん変わってきているらしい。迷信から特に多くの黒猫が犠牲となってきたイタリアでは「黒猫の日」が制定され、ローマ法王が黒猫の虐待をやめるよう声明を出したことがあった。同じく19世紀まで多数の黒猫を殺す行事を開催していたベルギーの一部地域では、その反省を踏まえて仮装パレードが催されるようになったそうだ。
また、インターネットの普及などにより「黒猫が幸運の象徴として扱われる国がある」ことも知られるようになってきた。とりわけ中国や日本といった東洋でその傾向が強く、魔除け・富・病気の治癒などが昔から信じられていた。毛色と性格の関係でいえば、黒猫はおだやかで飼いやすいとされ、実際に猫好きな人間からの人気も高い。ステレオタイプな迷信はほぼ払拭されている、と考えても良いのではないだろうか。
ちなみに猫の外見的な特徴と運勢を関連づける俗説は他にもあり、日本では「オスの三毛猫を飼っていると幸運が訪れる」「かぎしっぽ(尾の先端が折れ曲がっている)の猫は幸運を呼ぶ」などが有名。
もともと優れたハンターである猫は、大切な穀物や書物・教典などをネズミの害から守って人々を助けてきた。反対に、魔女狩りの影響で猫が激減した中世ヨーロッパではネズミが増殖し、ペストの大流行を招く結果になったという説がある。猫に罪を着せて迫害しても人類にはデメリットしかないのである。科学的にも、動物と接することが人間の集中力や免疫力を高めるといった効能が次々に発表されており、猫と人間の距離は今後ますます接近していくことが予想される。 
伝説・伝承
昔から日本では、ネコが50年を経ると尾が分かれ、霊力を身につけて猫又になると言われている。それを妖怪と捉えたり、家の護り神となると考えたり、解釈はさまざまである。 この「尾が分かれる」という言い伝えがあるのは、ネコが非常な老齢に達すると背の皮がむけて尾の方へと垂れ下がり、そのように見えることが元になっている。この、尾が数本に見えるネコは、実際に朝のテレビ番組(TBS)で紹介されたことがある。
猫又に代表されるように、日本において、「3年、または13年飼った古猫は化ける」、あるいは「1貫、もしくは2貫を超すと化ける」などと言われるのは、付喪神(つくもがみ)になるからと考えられている。『鍋島騒動』を始め、『有馬の猫騒動』など講談で語られる化け猫、山中で狩人の飼い猫が主人の命を狙う『猫と茶釜のふた』や、鍛冶屋の飼い猫が老婆になりすまし、夜になると山中で旅人を喰い殺す『鍛冶屋の婆』、歌い踊る姿を飼い主に目撃されてしまう『猫のおどり』、盗みを見つけられて殺されたネコが自分の死骸から毒カボチャを生じて怨みを果たそうとする『猫と南瓜』などは、こういった付喪神となったネコの話である。
ほかにも日本人は「招き猫」がそうであるように、ネコには特別な力が備わっていると考え、人の側から願い事をするという習俗があるが、これらも民俗としては同根、あるいは類似したものと考えられる。
以下、ネコにまつわる日本の妖怪変化の数々を紹介していく。これらの話は、ネコが死と再生のシンボルでもあったことの名残りであろう。
死者に猫が憑く (岐阜県)美濃国大野郡の丹生川村(現・岐阜県高山市丹生川町)では、ネコが死者をまたぐと「ムネンコ」が乗り移り、死人が踊り出すと言われ、ネコを避けるために死者の枕元に刃物を置く、葬式のときにはネコを人に預ける、蔵に閉じ込める、といった風習があった。今日もなお、この言い伝えは廃れていない。
死者に猫が憑く (佐賀県)佐賀県東松浦郡でも、死者にネコの霊が憑くと言われ、これを避けるために死者を北枕に寝かせた上でやはり枕元に刃物を置き、着物を逆さにかけるという。
死者の骸(むくろ)を盗む猫 (愛知県)尾張国知多郡(現・愛知県知多郡)の日間賀島に伝わる話では、百年以上も歳経たネコの妖怪を「マドウクシャ」と呼び、死者の骸を盗りにくるため、死人の上に筬(おさ、機織機の部品)を置いてこの怪を防ぐという。これと同じく、火葬場や葬列を襲って屍を奪う妖怪は「火車」と呼ばれるが、その正体はネコであることが多い。
生者にも猫は憑く 生きている人間にネコの霊が憑くという伝承もある。
○伊予国(現・愛媛県)での話によると、飼い猫を殺した者が、のち精神に異常を来たし、「猫が取り憑いた」と言いながら徘徊するようになったという。
○山口県大島郡では、死んだネコのそばを通ると犬神、蛇神に加えて「猫神」に憑かれると言われ、これを避けるために「猫神うつんな、親子じゃないぞ」と唱えるという。
猫の恩返し 貧乏な寺に飼われていたネコが、世話になった恩返しのため、野辺送りの棺を空に上げて、飼い主の和尚に手柄を立てさせる『猫檀家』という説話がある。一方、ネコを大事にする風習からネコを神として祀る地域もある。
猫神(養蚕との関連) 宮城県の村田町歴史みらい館の調査によると、猫の石碑が宮城県に51基(特に仙南の丸森町に多く分布)、岩手県に8基、福島県と長野県に6基ずつ存在することが確認された。さらに、宮城県には猫神社が10カ所あることも確認された。これは、江戸時代に養蚕が盛んだった宮城県南部で、蚕の害獣だったネズミを駆除してくれるネコに対して興った信仰だったようだと同館は見ている。また、山形県高畠町の猫の宮も同じく養蚕の守り神である。ただし、養蚕が盛んだった群馬県では1基も見つかっていない。
猫神(漁業との関連) 宮城県の仙台湾(石巻湾)に浮かぶ田代島では、「猫神様」が島内の猫神社に祀られている。島では漁業・稲作と並んで、かつて仙南と同様に養蚕が盛んだったためネコを大事にする習慣があったが、猫神は大漁の守護神とみなされており、養蚕との直接的な関係は見られない。同島には昔からイヌはおらず、島内へのイヌの持ち込みも島民から拒否されるほどの「ネコの島」が現在も維持されている。
猫返し 東京都立川市に在る「立川水天宮 阿豆佐味天神社」内の「蚕影神社」は、養蚕が盛んな地域であった当地にあって、蚕の天敵であるネズミを駆除する猫を守り神として祀っており、飼い猫の無事や健康、いなくなった飼い猫の帰還に利益があるとされ、「猫返し神社」として親しまれ、参拝者が訪れている。愛猫家の間では、中納言行平の詠んだ和歌が猫返しのまじないとして知られている。
「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む 百人一首第16番」
使い方としては、歌を書き込んだ紙に、いなくなった猫が使っていた食器を被せておく、食事場所や猫のトイレの場所に貼っておく、上の句だけ書いて器を被せ、帰還が叶ったときに下の句を書きこんで願ほどきをする、などがある。また、「いなばの山」と「猫返し」に関する伝承として、可愛がっていた猫がいなくなって悲しんでいる下女に、六部がいなばの宇山にいると教える「猫山」の民話が山口県、広島県、鳥取県などで採集されている。 
俗信・迷信
黒猫が通る 日本では、ネコに道を横切られると縁起が悪いとも良いとも言われる。黒猫に前を横切られることを不吉として忌むのは、”A black cat crossing one's path by moonlight means death in an epidemic(月夜に黒猫が横切ぎると、横切られた者が流行病で死ぬ)”というアイルランドの迷信を起源とするものであり、イギリスではむしろこれを幸運の印とすることが多い(黒猫は幸運のシンボルであり、それが自分の前を通り過ぎて行く→幸せが逃げて行く、とも解釈出来る)。また、黒猫を飼うと商売が巧くいくとも言われ(福猫と呼ばれた)、店舗などを営む自営業者が好んで飼う場合もある。
猫には九つの命がある 欧米では、人間から見て命がけのような行動をする猫を、9つ分の命がないと生きていけないと思われた。
漁師の黒猫 イギリスでは、黒猫を飼っていると海難事故を避けられると信じられていた。
幸運を運ぶ黒猫 スコットランドでは、玄関先に知らない黒猫がいると繁栄の兆しと信じられていた。
猫のくしゃみ イタリアでは猫のくしゃみを聞くと縁起が良いと信じられていた。
死を招く黒猫 16世紀のイタリアでは、黒猫が病人のベッドに寝そべると、その病人に死が訪れると信じられていた。
Matagot フランスでは、黒猫を大事に世話すると、お返しに富をもたらすと信じられていた。
猫と小川 フランスでは、猫を抱えて小川を渡るのは縁起が悪いと信じられていた。
尻尾を踏むと婚期が遅れる フランスでは、若い未婚の女性が猫の尻尾をふむと、1年間婚期が遅れると信じられていた。
新居に幸運をもたらす猫 ロシアでは、新しい家のドアを最初に入ったのが猫だと家の持ち主に幸運が訪れるとの言い伝えがある。
猫と噂 オランダでは、猫が街で噂を広めていると信じられていた。
事故死を招くサビ猫 ノルマンディーでは、サビ猫を見ると事故死の前兆と信じられていた。
死後の世界へお供する猫 フィンランドでは、死後の世界へ旅する魂に猫がお供すると信じられていた。
悲運の七年 アイルランドでは、猫を一匹殺すと、運の悪い七年間が続くと信じられていた。
猫が居つきますように アメリカでは、新居に移るときは猫を窓から入れると、家から離れないと信じられていた。
縁起の悪い白猫 アメリカでは、夜間に白猫を見るのは縁起がわるいとされていた。
幸運を呼ぶ猫肉 エウェ人は、猫を珍味として食し、特に頭を食べると幸運が訪れ、未知の土地で死ぬことを免れると信じていた。
縁起の悪い黒猫 ガーナでは、黒猫が夢に出てくると凶兆と信じられていた。
同情するなかれ 道端などで見かけた猫の死体に対して「かわいそう」といった同情の気持ちを起こすと「この人なら大丈夫だ」と思われてしまい猫の霊に取り憑かれる、という俗信が日本にはある。そのため、猫の死体に声を掛ける際には「かわいそう」ではなく、「成仏して」など別の表現を用いる。
猫と犬の雨が降る 英語では「土砂降りの雨」を指して「raining cats and dogs」という。これは中世ヨーロッパで多くの雨が降った時、不完全な下水の洪水によって汚水が道路上に溢れそれによって猫や犬が死に道路上にまるで猫や犬が空から降ったように見えたという言い伝えに基づくものである。
日本と欧米での相違 猫の好物は、日本ではかつお節だが、欧米ではミルクとされる。また、欧米では猫と犬は仲が悪いとされる。
猫の埋葬 沖縄では猫の死骸は地面から離しておかなければ災いを招くという迷信があり、木に首を吊るしたり、ビニール袋に入れて袋ごと吊るす習慣があった。 
雑学
オスの三毛猫はほとんどいない 遺伝上、三毛猫のほとんど全てがメス猫である。ところがごくまれ(3万分の1の確率とも)にオスの三毛猫が生まれる。オスの三毛猫は、海運業や漁業関係者から、海での危難を救う力があると江戸時代から信じられており、最近まで高値で取引されることもあったという。
猫の死に場所 死を悟ると死に場所を求めて姿を消すと言われるが、実際にはネコには「死」という抽象的概念を認識することは出来ないと考えられる。体調が悪化したり、致命的な傷を負ったときなどは、本能的な防御反応として危険な場所から移動して、身を守りやすい安全な場所に身を隠そうとし、場合によってはそのまま死んでしまうと考えられている。しかし、飼い主への依存度の高いネコの場合、心細くなって主の近くに寄ってくる、あるいは、近くにいてくれるよう求め、結果的に飼い主の目の前で死ぬことになる。
弱った猫の姿を見かけない理由 一般に猫は自分の弱った姿を飼い主や仲間に見せることはない。これは本能的に猫は弱った姿を見せると仲間からいじめられることを知っており、死に場所にたどりつくまで元気な姿を演じるからである。したがって人間は街中で弱りきった猫の姿を見る機会は少なくなる。
猫は家に付く 「犬は人に付き、猫は家に付く」これはイヌとネコの性質を表す上で最も分かりやすい例えである。飼い主がペットを置き去りにして転居したとする。両者とも初めのうちは飼い主の帰りを待つが、一定の期間が過ぎるとイヌは飼い主を探すためその場を離れるのに対し、ネコは今までと変わらずテリトリー内で平然と暮らし続ける。 このような性質のため、ネコはイヌに比べて環境の変化に敏感であり、転居の際には十分に気を遣わなければならない。 ネコを置き去りにすれば、たいていの場合野良猫として暮らすしかなく、環境にもよるが平均余命は極めて短くなる。引っ越しをする際、連れていこうとすると嫌がることから、「猫は家に付く」と言われ、そのまま置いてけぼりにされることがあるが、実際には単に「引っ越し」の概念を理解できず、テリトリーを離れることに不安を持っているだけである。元々捨て猫だった場合など、再度捨てられる不安から泣きわめく場合もある。無理やりにでも新居に連れていってやれば、家具についた匂いや飼い主がそこで暮らしていることを確認して、自分の新しい居場所であることを理解し、何の問題もなく飼い主と暮らす。
ネコにマタタビ ネコ科の動物はマタタビ特有の臭気(中性のマタタビラクトンおよび塩基性のアクチニジン)に恍惚を感じ、強い反応を示すため「ネコにマタタビ」という言葉が生まれた。同じくネコ科であるライオンやトラなどもマタタビの臭気に特有の反応を示す。なおマタタビ以外にも、同様にネコ科の動物に恍惚感を与える植物としてイヌハッカ(キャットニップ)がある。キャットニップは「ネコが噛む草」という意味であり、その名の通り、ネコはこの草を好む。これはこの草の精油にネペタラクトンという猫を興奮させる物質が含まれているからである。ネコに同様の効果をもたらす植物としてそのほかに荊芥、キャットミントがある。バレリアンの成分に吉草酸が含まれ、ネコはバレリアンの香りを特に好む。
猫水 日本の住宅街では、水の入ったペットボトルが通り沿いに並べてあるのを見ることがある。これは、ネコが塀の上を歩くのを妨害するために置かれていたものが形骸化したものとされ、俗に「猫水」と呼ばれている。放し飼い(ノラ)ネコのマーキングやトイレに困っている民家の住人などがプランター(植栽)や塀ぎわなどに並べてある場合もある。こちらは「水に反射した光をネコが嫌う」「ネコはきれいな水のそばでトイレしない」との解釈によるものであるが、元はニュージーランドで影響力のあった園芸家のエリン・スカロウ(英語版)による「芝生の上に水の入ったペットボトルを置いておくと、犬が入ってこない」というエイプリルフール・ジョークが真実と受け止められて広まってしまったものである。実際にペットボトルにはいった水を嫌うようなネコは少なく、設置しても初めの数分警戒するだけで、その後は全く気にしないことが多い(ペットボトルに対し不快な経験があればこの限りではない)。猫のような大脳の発達した動物は学習能力に優れ、このような単純な反射行動を反復し続けることはない。猫水はあまり意味がないばかりでなく場所によっては収れん火災の危険を孕んでいる。
飼育による健康効果 ミネソタ大学脳卒中研究所のアドナン・クレシ教授によると、猫を飼っている人は心筋梗塞などでなくなる確率が40%低い事が判明した。
猫の尿はブラックライトに反応する 猫の尿はブラックライトに反応することから、尿が原因となっている悪臭の場所をピンポイントで探すことができる。これは猫の尿に含まれる蛍光物質であるビタミンB2のためである。
日本初の飼育記録 宇多天皇の日記、『寛平御記』寛平元年(889年)12月6日は、日本の文献に実物のネコが初めて現れる。その内容である。「閑暇を利用して私のネコについて書くこととする。(先日に)大宰大弐の任を終えた源精から、(今から5年前に)先帝(光孝天皇)に奉られた(唐土からの)ネコである。在来のネコは浅黒いものだが、自分の飼うこのネコは墨のような黒で珍しく「韓盧(中国の黒い名犬)」のようである。身長は45cm高さ18cm。うずくまると黒い小さな秬(キビ)の粒のようになり、伸びれば弓を張ったように長くなる。瞳は光り輝いて針のように揃った穂先のようで、耳は匙のようにピンと立って揺らがない。寝るときは丸くなって足や尾が見えなくなり堀中(穴の中)の黒い宝玉のようであり、歩くときはひっそりとし少しも足音を立てず雲上の黒竜のようである。性質は、導引術を好み、五禽戯という5種の動物の動きをまねた健康術の動きを自然に身につけている。常に頭を低くし尾を地につけているが、立ち上がれば60cmほどになる。毛色のいいのはその健康術のためだろうか。夜にネズミを捕る能力も他のネコより優れている。先帝はこのネコを献上されてから数日後に、私にくだされたのである。先帝から賜ってもう5年になるが毎朝、乳粥をやって育てている。このネコの才能が優れているから愛するのではない。先帝から賜ったものはどんなものでも大切にしているだけである。ネコに向かって話しかける。お前は陰陽の気(命)を持っていて、両肢(手足)、七竅(目鼻口耳)を備えているのだから私の心がよく分かるだろう?というと、ネコはしゃべれないのが悔しそうに、ため息をついて首を上げ、私の顔を仰ぎ見て悲しそうな顔をした。」 
 
「化け猫」諸話 8

 

三毛猫の経立(ふったち)
昔、おじいさんとおばあさんが年を取った三毛猫と仲良く暮らしていました。
おじいさんが村の会合に出ていて、家ではおばあさんと三毛猫だけのある晩の日のこと。
なんとおばあさんに向かって三毛猫が急にたちあがり、しゃべりかけてきました。おばあさんはびっくりして声も出ず、猫を見つめていると、今度は踊り出しました。
そして、三毛猫はおばあさんに日頃の感謝を伝えながら、こう話しました。「このことを誰にも話してはいけません。話したら、」いつもの三毛猫に戻り、外に出て行ってしまいました。
やがておじいさんが戻ってきたのですが、おばあさんは三毛猫との約束通り話す事はしませんでした。
しかし、何日か経った日、三毛猫が返ってこないことをおじいさんが心配し、おばあさんに尋ねると、おばあさんは猫との約束を破り、おじいさんに聞いたこと見たことを話してしまいました。するとそこにいきなり猫の声が聞こえたかと思ったら、天井から猫が飛び降り、おばあさんの首に噛みつき、あっという間にいなくなってしまった。
それ以来、年を取った三毛猫は化け猫に代わってしまうと言い伝えられています。 
猫又
猫又とは、日本の民間伝承や古典の怪談、随筆などにある「猫の妖怪」のことを言います。
猫又の伝説には、人が飼っていた猫が年を取って妖怪化したものや、山中に棲む巨大な獣だったなど、様々な言い伝えがあります。そして、猫又は不思議な妖力を持ち、人の言葉を理解できると言われていました。
猫又の誕生の由来は?
猫又が初めて文献に登場したのは、鎌倉時代の「明月記」で、一晩に何人もの人間を食い殺したと書かれています。
ただし、「明月記」では『猫のような眼』とはありますが、猫とは断定していないので、元は猫ではなく妖怪であった可能性もあるそうです。
江戸時代になると、猫はネズミを駆除してくれる動物として民衆に愛され、人気のペットとなりました。しかし、猫特有の「足音がしない」「急に姿を消してしまう」という性質が妖怪のようであると言われ、猫=妖怪という図式に大きく役立ってしまったようです。
猫が年を取ると猫又になるってホント?
これは古くから言い伝わる「都市伝説」です。典型的な猫又のイメージ像が作り上げられたのは江戸時代後期で、そのころにはもう猫又や化け猫が成立したものであったと推測されます。
中国の明で1600年代初頭、「吾雑組」の中で「金花の家猫は3年以上飼えば人を迷わすことが出来る」と記されています。この「金花猫」とは、金花という地区に出没する中国版化け猫の事です。この「金花猫」のイメージが長い年月を経て、日本文化の中にあった「猫又」に影響を及ぼし、単純に「猫が化ける」という従来の図式から「年を取った猫が化ける」という新たな図式に変化したと思われます。 
化け猫はなぜ行灯の油をなめる?
洋の東西をとわず、昔から魔物の代表格のように言われてしまうのが猫。その理由は猫の習性が大きくかかわっている。
まず猫の瞳が暗闇で光るのが不気味だったこと。電気のなかった昔の人からすれば、これはかなりの恐怖だったはず。もう一つは人にこびない性格や待ち伏せをして獲物を殺すという狩りのパターン。中世ヨーロッパでは魔女狩りのとき、悪魔の使いとされた猫たちが多く犠牲になっている。
ところで、日本で化け猫といえばぺろりぺろりと行灯の油をなめることになっている。西洋では魔物の猫が油をなめるというのはあまり聞かない。なぜ日本の化け猫は油をなめるのだろうか。文化人類学者、石毛直道氏の「食卓の文化誌」にその答えがあった。
実はこれ、日本ということろがポイントなのである。猫はいわずと知れた肉食性の動物。しかし、かつての日本人は肉なし油気なしのさっぱりご飯を食べていた。当然飼われているイヌや猫もご主人様のと同じようなご飯に汁をかけたようなあっさり型の食生活になる。時たま動物性のたんぱく質にありつけたにしてもそれは魚の頭や内臓のおこぼれ程度か運良く小鳥を取る程度。
そんな生活の中で座敷にあがることができた猫が考えたのがつまみ食い。脂肪分のない餌の不満をなんと行灯の油で解消したのだ。そう、当時の行灯の油はナタネ油などの植物性。賢い猫はこれをぺろぺろとなめて油気を摂っていたというのである。四足の猫が油をなめるために2足でたつ姿が障子に映ったのを見て家人はびっくり。ほれ化け猫だ、という話になったといわれている。まさに油気のない食生活が生んだ悲喜劇。
油をなめる化け猫は日本の食文化の副産物だったとは今まで思いもつかなかっただけに驚きである。 
化け猫
猫の怪異の中でも、特に、人間の姿に化ける形態を指す。主に女に憑依し、時に死人を思いがままあやつる。
久留米地方では、猫を殺すと七代祟ると言い伝えがある。
猫の崇りは各地にあったようで、「行脚怪談袋」にあるエピソードは、江戸の怪談である。
ある煙草屋が、濡れた飼い猫が寝床に入ってきたので逆上、殺してしまう。
すると、猫を打擲した腕が痛み始め、次第に剛毛が生えて、遂には死んだという。落命したのは、ちょうど猫が死んだ、その日だった。
年齡を重ねた老猫も、化けると言われて、恐れられてきた。
「閑窓自語」に、老猫の崇りが記されている。怪異が続く家があり、修験者に相談したところ、その家の若者が年老いた猫を手に掛けたのが原因と言われる。
その猫を氏神と並べて祠り、猫霊と呼んだという。
備中の大野に古城跡があり、その育霊神という小祠は、俗に猫神と言う。参詣人は魚肉を供えて、夜籠りする。
因幡には、猫の宮があり、これは鼠の害を防ぐために勧進したと「因幡誌」にある。
化け猫は、御家騒動と絡んで伝わり、備前国の鍋島家を巡る伝承は、鍋島猫騷動と呼ばれた。
史実でも、備前を治めていた龍造寺氏と、家来から領主に上った鍋島氏の確執があったとされ、ここからフィクションの形を借りた、化け猫の逸話が成立したと推定される。
鍋島家の藩主に、家来の龍造寺が斬り殺され、その母親も憤死する。その飼い猫が母親の遺骸に乗りうつり、鍋島家に復讐をたくらむ。
鍋島の忠臣が、その正体を知り、化け猫を退治する。
このストーリーは、嘉永年間に歌舞伎に組まれ、「花嵯峨野猫魔碑史(はなのさが・ねこまたぞうし)」の外題で上演された。
明治時代には、筑後の有馬家の江戸屋敷に舞台を移した、河竹默阿彌「有馬染相撲浴衣(ありまぞめ・すもうやかた)」も出ている。
太田南畝「半日閑話」には、有馬の家臣が鉄砲で、怪しい獣を退治したと紹介されている。
「黒甜鎖語」にも、有馬の怪異は、番犬を置くと騷ぎは收拾したとあり、有馬氏に関する怪談は、江戸時代には知られていたようでもある。
一方、文政期には鶴屋南北「独道中五十三駅(ひとりたび・ごじゅうさんつぎ)」があり、これは岡崎に出現する、十二単を着た化け猫の条が人気を得た。
これら、佐賀、有馬、岡崎の化け猫を、三大猫騷動と言う。
その都度、書き替えられ、外題も替えられて、上演が続いてきた。佐賀の化け猫の上演は絶えているが、有馬猫は昭和40年代まで所演があり、岡崎の猫は今なお、人気演目だ。
江戸後期に全盛を迎えた錦絵、特に芝居絵には多く題材を提供し、化け猫の視覚イメージの醸造に大きく寄与した。
佐賀の化け猫なら、明治の楊州周延(ちかのぶ)が傑作を幾つも残しているし、岡崎なら、歌川国貞の巨大な猫が有名。
幕末から明治にかけての、おもちゃ絵でも、他の妖怪にまざって、化け猫も印刻されているので、当時の子供にもポピュラーな存在だったと思われる。
落語にも、「猫定」として知られた演目がある。博打打ちと猫が絡むストーリーだが、一名「猫怪談」とも言う。
これは、江戸の回向院にある猫怩フ由来が背景にある。
猫怩ニして知られるものなら、「越前国名蹟考」に載る、福井の白山神社の傍らにある碑がある。
正保年間、いつの間にか、妻とそっくりの女がもうひとり、家に現われる。
ハエが群がるのを見た、ニセの妻の耳が異樣に動くのを怪んだ亭主が矢で射ると、大きな猫だった。
この化け猫を袋羽大権現として祠ったのが、碑の由来だという。 
時代劇映画 『怪猫岡崎騒動』『怪猫有馬御殿』
昭和30年前後、入江たか子が怪猫映画でカムバックした時は、往年の大スターも落ちぶれたものという風な受けとめ方がされたものだが、彼女のお陰で、私などは辛うじて、映画というメディアを通じ「化け猫の怪談」という「民俗伝承」の末端に触れることができたことになる。
「有馬の猫」と「鍋島の猫」が『加賀見山』などと同じお家狂言なのに対し、「岡崎」は唐猫の子が日本にわたってきて古寺に棲みつくのが、音羽屋の家の芸にもなった基本のモチーフである。今度の『五十三駅』もそうだが、道中物と結びついているのも郷愁を誘うなつかしさがある。昨秋演舞場で獅童がやった森の石松の大元である戦前の片岡千恵蔵の映画『続・清水港』でも、退治した化け猫の皮でコントラバスみたいに大きな三味線を作るというギャグがあった。
「有馬の猫」は、昭和38年7月に梅幸が歌舞伎座で出していて、そのときの筋書に有馬の殿様の末裔で作家の有馬頼義が、中学生のころ同級生の伊達君と、僕の家には猫騒動がある、僕の家にだって伊達騒動があると自慢し合ったという随筆を書いている。化かされの女中の吹き替えを坂東八重之助がやったのと、有馬家の抱え相撲の小野川と雷電の対決を勘弥と松緑でやったのが昔の芝居らしかった。
映画の『岡崎騒動』はこうした伝承とは無関係の脚色で、御家狂言風に作ってある。むしろ『有馬御殿』の方が、『加賀見山』丸取りの設定で、お初に当る女中のお仲(阿井美千子がまだ若くて清楚だ)だの、敵役の局の岩波(金剛麗子という恐い婆役で当時よく見た顔だった)だの、黙阿弥の芝居と共通の役名が残されている。入江たか子の役は、「たき」という側室で、尾上と同じく町家の出(八百屋の娘なので腐った野菜の匂いがする、などと嫌味を言われたりする)で武芸が出来ないために辱しめを受ける。
監督は『有馬御殿』が荒井良平、『岡崎騒動』が加戸敏。『有馬御殿』は上演時間1時間足らずの短尺物で、チャチな造りだが(杉山昌三九の殿様と坂東好太郎の役はたぶん兄弟なのだろうが説明がない、など疎漏で矛盾点も多い)、かえっていかにもB級(いやC級か)映画の面白さがあって気に入っている。試合の場と化かされの場面では、下座の囃子を急テンポにアレンジするなど、歌舞伎ネタということをわざと見せたりする遊びがある。
もっとも入江たか子の怪猫の貫録と凄みを見るためには、『岡崎騒動』の方が上だろう。王朝風の舞姿で猫になるところに、わずかに岡崎の猫の伝承の匂いがあるわけだ。黄金分割風の正統派美女だから愛嬌はないが、見立てと品があるのが絶対的な強みである。戦前化け猫女優として鳴らした鈴木澄子が、戦後月形龍之介の『水戸黄門』で怪猫をやったのも見たが、美女が化け猫に変化するという不気味さで入江たか子がまさっていた。
入江たか子の怪猫もので一番こわくて、映画としても出来がよかったと思うのは『怪猫逢魔ケ辻』だが、残念ながら再見の機会に恵まれない。 
なぜ化け猫に相撲取りが出てくるのか?
昨日から腑に落ちないことが有馬す。そうそう「有馬の化け猫」の話です。なぜ、相撲取りが出てくるのか?
戦国時代から大名家は力士に俸禄を与えて家臣として召抱えていました。江戸時代になって諸大名は競って力士を抱えるようになりました。その中でも松江松平家は雷電爲右エ門をはじめ多くの力士を抱えていました。
その雷電の好敵手が化け猫騒動に出てくる久留米藩有馬家お抱えの小野川喜三郎です。その取り組みは預かりになったこともあるほどの好一番で、江戸の庶民に知らないものはなかったようです。
この化け猫の話は上手く作られています。
時代は二人の力士が活躍した頃に設定され、有馬家の殿様も当時の八代藩主頼貴公です。
物語では、頼貴公の正室は出雲松江藩から嫁いでいますが、実際は長州藩毛利家から嫁いでいます。実際に松江藩から嫁いでいるのは四代藩主頼元公の正室です。このように、有馬家と松江松平家の確執話に仕上げているのです。
主人公の猫の飼い主は、松江から嫁いできた姫づきの女中でした。その女中に殿様のお手がつき、愛妾となります。それによって、もともとの有馬家の女中と松江松平家の女中の対立が起こり、そして愛妾の自害。そして愛妾付きの女中の仇討。このあたりは「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)に瓜二つの話です。(いじめる老女の名前が岩波・・・加賀見山は岩藤)
それに加勢する怪猫。
ここまでは、怪猫で済むのですが、それからどうもこの猫は血の味を覚えたのかたくさん人を食い殺すのです。人食い猫ですな。
唐突ですが、そのころ、雷電に負けてしまった小野川。意趣返しに雷電を待ち伏せて襲いますが失敗してしまいます。で、殿様から出入り禁止。
それでなにか手柄を立てなくてはと化け猫退治をするわけです。言ってみれば、有馬家の小野川が、松江松平家の化け猫を退治した話なんですね。そうすると有馬と松江松平の対立軸がはっきりします。
相撲と大名の奥向のスキャンダル、江戸人が好む二つを取り入れて、さらに怪談話に仕立てたこの物語の作者は本当にすごいですね。 

怪猫について書く。私の中では「怪猫」と「化け猫」の区別がついていない。「化け猫」とは単に猫が化けたという解釈で「怪猫」とは そこに人間の怨霊とかを猫に入れ込んで膨らませ話を継ぎ足し継ぎ足しして、今に至る。
大袈裟な物語として残る猫の事を指しているのではないだろうか?とか推察しているのだがどうだろう。
人間の怨霊を鎮魂させるために猫を祀って鎮魂させたような形をとった形跡が残っているものなどに出てくる猫を怪猫というのではないだろうか?
この猫が苦手だった私でも未だに思う事がある。仔猫は、とにかく可愛い。あれは詐欺だともいえるほど可愛い。
それが気づくと ふてぶてしく、こちらが召使いのように使われている時がある。
私が一緒に暮らす気がないのに、すっと入り込んできて、気づくと当たり前のように そこにいる猫。
おまけに仔猫の時の可愛らしさは詐欺師真っ青の可愛らしさだからズルいとしか言えない。人間が感情移入するのも無理なかろうと思う。
今まで猫を主人公にした作品や化け猫の話を書いてきたが今回は「怪猫」として代表的な誰でも知る話を挙げてみる。
それではいつものように河合隼雄の抜粋と共に書いていく。まず猫といえば魔性の猫という感じがする。この辺から抜粋と共に考えていきたい。

魔性の猫。これがポジティブなときは、癒しの魔術になるが、ネガティブなときは、災難や病気などの送り手となる。
多くの場合、女性と結びつくことが多く、西洋の中世においては、魔女とのかかわりが強くなる。
どうして、西洋において猫は魔女と結びつくことになったのだろう。フレッド・ゲティングズ『猫の不思議な物語』(松田幸雄・鶴田文訳 青土社)によると、エジプトにおいて、猫の女神セクメトがあまりにも崇拝されたので、このような異教徒の宗教に対する反発として、キリスト教は猫を無視、または敵視しようとしたからだと言う。
同書によると、「1233年、教皇グレゴリウス九世は、異端者(魔女もそのなかに数えられる)が黒い雄猫の形をした悪魔を崇拝したと言って、猫反対の連合運動を推進した。」
また、グレゴリウス教皇以前から「一部の彫刻された悪魔の像は、そのサタンとしての権威を猫属の顔つきで」表されたという。
このような考えによって、「悪魔的な力の象徴たる猫を焼き殺す習慣」はヨーロッパにおいてよく行なわれたらしい。あるいは「黒猫はサバトに出席すると広く信じられていたので、猫の尻尾を切ると猫が女主人の魔女と一緒に出かけられなくなると想定し、村びとは慣習として猫の尻尾を切った」罪もないのに焼き殺されたり、尻尾を切られたりした猫たちは、真に同情に値する。
猫はキリスト教国以外でも悪魔的存在として見なされると述べ、前掲書には、南米のインデォオ、ケチュワ族の最強で邪悪な猫の悪霊があげられているが、面白いのは、ハドランド・ディヴィス『日本の神話と伝説』に語られている話として、「しっぺい太郎」があげられていることである。
「恐ろしい猫に率いられ猫属の形をした山の悪霊どもに、一家の長女の乙女は人身御供として捧げられなければならなかった。」と紹介されている。
「しっぺい太郎」の話はともかくとして、日本の昔話に怪猫が登場することは、既に話した。我が国にも魔性の猫のイメージが強くあるのは事実であるが、ここでは猫騒動としてよく知られている物語「鍋島猫騒動」を『講談全集』(大日本雄弁会講談社、昭和三十年刊)によって紹介しつつ考えてみるが、この講談によると、怪猫談は実に多くあり、「団十郎猫、按摩玄哲猫、熊谷の鍋さげ猫、浦賀の唐茄子猫、石川の猫酒屋など、挙げるにいとまないほど沢山」あるが、その両大関格が「鍋島の猫騒動と、久留米の有馬の猫騒動」であるらしい。
「鍋島猫騒動」の講談を読むと かなり長い。ここにストーリーを書いてもよいが、ストーリーだけだと味もそっけもない。
しかし かなり生臭い。そもそも勝手な人間の親子関係のもつれから父親を切って自ら切腹する。これが囲碁をしているうちの感情のもつれからだというのだから たまったものではない。
この基盤が、めぐって殿様のものとなるが、それ以来、殿様は囲碁をすると気が荒くなる。お付きの者も手を焼いてしまう程なのである。
そんな殿様の処に龍造寺又七郎が碁の相手として招かれる。この頃、龍造寺家で、子どもにいじめられているのを助けて以来飼っている玉という「半面斑の烏猫」(真っ黒だが顔の半面に白い斑がある猫)がいたが、この猫が必死になって又七郎に行かぬように説得する。
それでも又七郎は登城し、囲碁をめぐる感情のもつれから、殿様に殺される。又七郎の死体は当時普請中の壁に塗りこめ、龍造寺家に対しては、又七郎は帰宅途中、どこかで行方不明になったと伝える。
母・政は又七郎の行方を調べるがわからない。しかし、夢の中で飼い猫の玉に真相を告げられ、これは正夢と確信し、猫の玉を抱いて、「そなたの体内を借り受け、畜生道に堕ちたる上、通力を得て、鍋島三十五万七千石の家を覆し、我が子、又七郎の仇を討たん覚悟。のう玉、必ずわらわの願いかなえてくれよ」と言いつつ、懐剣を喉に突き立てて自害。
玉を自分の切り口に当てがって、血を飲ませる。何とも凄まじい光景である。猫はそのままどこかへ立ち去り、龍造寺は断絶。用心の石田来助は浪人暮らしとなるが鍋島家に仇を返そうと機会を狙うことになる。
鍋島の殿様が江戸詰となって江戸屋敷に来るが、ここから怪談話の本領発揮となる。怪猫も大暴れする。
最後は めでたしめでたしになっていくが、怪物の怨霊をおそれ、鍋島家では猫どもの霊を祀ることにした。土地の人々は猫魔明神と呼んで、佐賀名所の一つとした。
(何とも勝手な話だと思うのは私だけだろうか?宗教のせいで猫は徹底的に迫害されたり、祀られたり、神とされたり、人間の復讐に使われたり…おまけに猫は今でも昔話のせいで色々言われている。
個人的にはキリスト教の魔女狩りなんてナンセンスだし、そもそも畜生道という考えも好きではない。
肉眼で見えない世界というブログで私は述べているが、本当に この世に見えている物など ごくわずかなのだ。ほとんど見えていないと言っていいと思う。しかし彼等には見えているもの、聴こえているものがある。
人間が偉いとか何が偉いとかではなく、それぞれ違って役目を持って この地球に存在しているのだ。
あたかも人間が食物連鎖のトップにいるかのように理科で教わった記憶があるが、あれは大嘘であるのは、知っている人は知っているはずだ。
人間は本能に頼って生きることを、いつの頃からか止めて情報なるものに頼るようになった。つまり「操作」される生き物に成り下がった。
野生の動物は、その点まだ真偽を見破る能力が高い。その中で人間に飼いならされたはずの猫は未だに野生を持っている。
人間は、その部分を怖がっているのではないか。猫を本当は、物凄く羨ましいと思っている人はかなりいるのではないかと思われる。
私が耳にしただけでも「はぁ〜、猫にでもなりたいよ」なんて言う会話を何度も耳にしたことがある。
猫が苦手だったはずの私も、気持ち良さそうに日向ぼっこして全身伸びている姿を見ると、猫って良いなぁと思ったりする。
およそ、化け猫だの怪猫だの論外に感じる。それだけ人とか文化と密な存在なのかと思う。
犬は、どうしても人間よりで人間に同化しているように思える。関係が縦なので、忠義を売りにしている子が多いし、妙に恩を覚えていて人間を守ろうとする子が多い。
勝手な行動をする子は まず見たことがない。しても たかが知れている。では、話を鍋島猫騒動に戻そう)
この「鍋島猫騒動」には幾つか重要なテーマがある。
一つは父と息子の葛藤による息子の父親殺しとなると、誰しもエディプス・コンプレックスという言葉を思い出すであろう。
フロイトはギリシャ悲劇の『オイディプス王』の話にヒントを得て、すべての男性は幼児期に母親に対して愛着を感じ、その邪魔者である父親を殺そうと考えるが、そんなことは不可能であると思ってあきらめ、その欲望を抑圧してしまう。
しかし、その欲望とそれに対する罪の不安とは、男性の無意識にコンプレックスとして存続し続けると考えた。
あと惨殺された又七郎の死体が壁に塗り込められた部分だ。これは「壁に塗り込めた罪」と猫との関連となると、この前に書いたエドガー・アラン・ポーの「黒猫」を思い出すだろう。
妻を殺して壁に塗り込めた「私」は猫を酷くいじめ殺してしまう。この夜「私」の家は全焼するが、一カ所だけ焼け残った壁の「白い表面に薄肉彫りに彫ったかのように、巨大な猫の姿が見えた」猫の姿がそこに焼き付けられていたのだ。
「私」はこれに懲りずに、また猫を飼う。この猫が「胸のところがほとんど一面に、ぼんやりした形であるが、大きな白い斑点でおおわれている」。
これは「半面斑の烏猫」の姿を思い起こさせる。圧巻なのは一隊の警官が家宅捜査に来たが、何も見つけられず引き揚げようとした。「私」は嬉しくなって「この壁は…お帰りですか?皆さん…この壁は頑丈にこしらえてありますよ」と言って、妻の死体を隠してある壁をたたく。
すると、そこから「地獄に堕ちてもだえ苦しむ者と、地獄に堕して喜ぶ悪魔との咽喉から一緒になって、ただ地獄から聞こえてくるものと思われるような、なかば恐怖の、なかば勝利の、号泣ー慟哭するような悲鳴ー」が聞こえてきた。
「私」は妻の死体と共に、猫をもそこに閉じ込めてしまっていて、その猫の悲鳴が聞こえたのであった。これは本当に怖い描写だ。
「鍋島の猫騒動」は、いかにも怪談ぽく色々書かれているが、「父親殺し」「罪の塗り込め」の二本の柱で、結局は鎮魂という形で怨霊を祀り怪猫を「猫魔明神」とさえしている。

この怪猫の「猫」の部分を「犬」にしてもピンとこない。「馬」でも「ウサギ」でも駄目なのだ。犬が合うのは「里見八犬伝」とか、そういう類だろうか。
「100万回生きた猫」というベストセラーの絵本がある。これも猫でなければピンとこない。
随分前に子ども達の間で流行った漫画に「ネコムシ」というのがあった。イタガキノブオという人の作品で顔はネコで体は芋虫というシュールな作品だった。
それにもかかわらず子ども達は夢中だったことがある。
知られるところでは池田あさこの「わちふぃーるど」に出てくる猫のダヤンなど実に魅力的だ。革製品に、その絵が掘ってあるだけでも、その絵本も、縫いぐるみも見れば買ってしまうほど可愛い。
残念ながらネズミが主役のディズニーの猫のマリーより魅力的な猫は、沢山いるのだ。
長々と書いてきた猫の話。書けば書く程、猫に関する本が多くてキリがないことに気づく。
その作家の宗教観、時代背景によるが、作品に出てくる猫は必ずといっていいほど人間の心を投影している。
おそらく人間の心を一番投影しやすい存在なのではないだろうか?
矛盾・不条理・叫び・悲しみ・甘え…など犬では表現できないのではないだろうか?
人間は猫の力を借りて、さらに表現力を豊かにしたかったのかもしれない。太古の時代、その神秘性に何かを託したのかもしれないと思わずにはいられないのである。
猫を飼っている人ならわかるが、猫はまん丸な目の子とアーモンド状の目の形をしている子がいる。
そして、アーモンド状の形をしていても愛情豊かに生きている子は、限りなく丸い目になっていて人相が良い。
瞳の色はそれぞれだが、気分によって目の形と同様に変わって気持ちを表す。無言なのだが、訴えてくるテレパシーみたいな力は非常に強い。
犬は具合が悪いと、すぐにわかる。彼等は態度に出すし、アピールする。しかし猫はしないで耐えてしまう。
猫の病の進行は犬の7倍早いと言われている。余程注意してあげないと、手遅れになる。それほどの生き物なのに猫は何事もなかったように高い所に乗ってフンとすましている。
動物達と暮らしていると、ついつい色々なことに頭を突っ込んで、物事を違った角度から見てみようなんて思うものである。そう思うと彼等は私に、もっと色々勉強せぃ、と言っているのかもしれない。
内容詳細不明の譚
   市川団十郎の猫 百猫伝 団十郎猫
   按摩玄哲の猫 按摩玄哲猫
   熊谷宿の鍋提猫 熊谷の鍋さげ猫
   本所の服部猫
   浦賀の唐茄猫 浦賀の唐茄子猫
   千本おみわ猫
   品川の猫酒屋 石川の猫酒屋
   京都の樫本猫  
昔話にあらわれた猫 (「越後山襞の語りと方言」) 
猫は昔から人々の身近にいて、生活と深く関わって来たので、昔話の中でもたびたび登場する。その登場の仕方もいろいろである。犬と並んで人間には馴染みの深い動物であるが、犬とは反対に復讐や妖怪に関わるおどろおどろしいイメージで語られることが多い。猫の昔話を大きく分類すると次の四類に分けられる。
その一つが家で可愛がられていた猫が飼い主の危機を救う「猫檀家」という話である。檀家の少ない小さな寺に飼われていた猫が和尚の窮状を聞いて、葬式に大風を吹かせ、棺を空に巻き上げるが、勇気ある和尚の行動で無事引導を渡すことが出来た。和尚の勇気が評判となり、以後寺の檀家が増え、暮らしが楽になった話。実は棺を空に巻き上げたのは、その家の猫が、和尚の評判を上げるためにやったことだったという〔佐久間1974年〕。『北越雪譜』にある、雲洞庵の北高和尚の勇気もこの分類に入れることが出来る。雲洞庵十世北高和尚が、吹雪の日に葬式を上げていたら、突然空に黒雲が広がり、その中から尾が二つに割れた怪猫が現われ、棺を奪おうとするが、勇気ある北高和尚がその怪猫を退治して無事葬式を終えたという、和尚の勇気が評判になった話である。この話の系統からいえば、猫の霊力で檀家が増えるというべき筋になるはずなのに、和尚の活躍が強調されていて、民話のモチーフから離れてしまっている。佐渡おけさの由来も小木にすむ老人が、借金が増えて、家屋敷を手放す事になった話を猫にしたところ、猫が行方をくらます。その家におけいと名乗る娘がやってきて、遊女屋へ売って金を作ってくれという。その遊女は高い金で売られて、老人を助ける。おけいは、出雲崎の遊女屋で評判になったが、朝、あんどんの油を舐めているのを見つかり、猫とわかった。それを見ていた商人が人に話すと商人を攫って空に舞い上がったという話である〔小山1996年〕。
二番目が怪猫となって人に危害を加える話である。しばしば、この話は人を食う山姥弥三郎婆さんの話と結びついている。弥彦の猫多羅天女の由来もこれと似ている。ある夕方佐渡の砂浜で一人の老婆が涼んでいた。すると一匹の老猫が来て砂の上で浮かれて遊び始め、老婆も体が軽くなり、全身に毛が生え、猫となって空を飛び、弥彦に飛び移った。数日霊威を振ったので、里人は霊を鎮めるために「猫多羅天女」と称して崇めた。弥彦神社の宝光院の中にあるが、「妙多羅天女」となっている。弥彦の鍛匠黒津弥三郎が工匠と争い、退けられたため、その老母が悪鬼となって死体を盗む悪行を犯した。保元元年(1156)宝光院座主「典海阿闇梨」に遭い「妙多羅天女」の名を授けられ、悪心を翻したという老女が猫になったり、鬼になったりする〔平岩1992年、『北国巡杖記』〕。
その昔、浦佐の按摩杢市が珍念に呼ばれて肩をもみ始めたが、人間の骨格でないのに驚き、逃げだそうとすると、珍念は「おれは裏山の化け猫だ。このこと人に話すと食い殺す」と杢市を脅した。しかし、杢市は村人に災難がかかってはと家人に知らせ、そのまま息絶えた。村人達は総出で裏山を山狩りしたが、見つからず、仕方なく毘沙門堂に帰って堂内で押し合い、気勢を上げた。これに驚いたか、梁に潜んでいた化け猫は勢いに呑まれて落ち、村人に踏みつけられて死んでしまった。この日が一月三日で、以後、浦佐ではこの日の夜に若者達が裸になって押し合い、これが現在の裸押し合い祭りになったと言われる。猫面の原型は江戸時代左甚五郎作と伝えられているものという。以前三月三日の押し合い祭りで「魔よけの面」として売られていた(「大和町浦佐の猫面」パンフレット)。
三番目が夜中に猫たちが集まって踊る、猫踊りを見るが、このことは他の人に話すなと口止めされる話となっている。わが町に次のような話が伝わる。
小千谷の縮商人が峠を越えて小国に来る途中、七社権現(楢沢集落と小千谷市吉谷との郡境に祀る神)付近を通りかかると賑やかな声がする。見ると猫が大勢集まって踊っていた。小国町法坂の上ノ山の猫が音頭取りだったが遅れてきた。理由を聞くと家で熱いお粥を食べて舌を焼いたという。新しい手拭いをしていた。それを聞いた商人は法坂の上ノ山でこの語をするとたしかに新しい手拭いが汚れていて、猫がねそべっていた。それから上ノ山の猫はいつの間にか姿を消してしまった(小国町法坂山崎正治談)。
この話に結論は別にないが、昼間の家猫が夜は猫社会と交わり、猫たちは人間世界とは別の世界を形成し、決して人間が入れない世界として描かれている。
四番目は、猫の絵がネズミや怪物を退治する「猫絵」の話である。次のような話が伝わっている。
ある寺の小僧が十六、七才になっても猫の絵ばかり描いている。和尚が怒って三年修行して成功したら帰ってこいとりんと鉄鉢を持たせて追い出した。途中に大きな荒れ寺があって泊まる人がおらず、聞いてみたら化け物寺で泊まった人が化け物に食われたという。それでもと言って泊まって猫の絵を描いて「こんやは働いてくれ」と頼んだ。そこへ大きな音がして化けものが顔を出した。あちこちに猫の絵をはると、どたん、ばたんと大騒ぎになった。小僧は猫絵を励まして、化け物を退治した。朝になって村の衆が来ると化け物は大鼠だった。小僧はこの寺の住職になったが、猫絵を張ると鼠が騒がないと評判が立って大層栄えた〔佐久間1974年「猫寺」〕。
これと同じような話が、小千谷の昔話にも出てくる。地蔵様のそばに大きな穴が開いていて、その穴に勇気ある男が綱に伝って下りていって見たら、地下に街があったが、人がいない。漸く、人の女にあうが、他の人は山猫に喰われてしまったという。勇気ある男は女から筆と紙を借りて猫の絵を描く。それが夜中に出てきた山猫と闘い、たちまち山猫を退治してしまうという話である。
その他昔話には猫が話の中心ではないが、脇役として登場して来る話も多い。犬と猫が共同して助けて貰った人への恩返しをするという話である。
あにが、指輪を擦ると好きな物がでてくるという。その指輪の霊力でお姫様を嫁にするが、寝ている間に嫁が指輪を盗んで、あにを牢屋に閉じこめてしまう。その指輪を取り返し、あにを牢から救い出す時に、指輪で助けて貰った犬と猫が活躍する話である。これなどは、人間の助力者として猫も犬も活躍する。また十二支の中になぜ猫が入らなかったのか、その理由説明に猫が登場する。猫はネズミに騙されて集まる日を間違えて十二支のなかに入れて貰えなかった。それで今でも、猫はネズミを見ると追いかけるという。またお釈迦様が重い病気を患い、天から薬が授けられるが、それを取りに行ったネズミを猫が食べてしまったため十二支からはずされたとする。
栃尾市森上の南部神社には、狛犬のように立つ珍しい猫の石仏が建っていて、猫又権現とよばれている、大正年間蚕をかじるネズミ除けとして建てられたという。
昔話ではないが、猫に関わる様々な俗信があるので、上げてみよう。
 ・猫が顔を洗って耳を越すと晴れる。顔を擦ると雨になる
 ・猫が騒ぐと雨になる
 ・猫が尻をなめると雨になる
 ・寅年生まれの人がいる家には猫は育たない
 ・死人に猫を近づけてはならない
 ・死者の足下に魔除けとして刃物(カミソリ・刀・鎌)を置く。魔除けをネコヨケと呼ぶところもある。
 ・猫が死人を飛び越えると死人が踊り出す(死人に猫の霊が入る)
 ・猫は家につく
 ・猫を殺すと崇りがある
 ・カラス猫を飼うと病人が絶えない
 ・ネコツキ村に女のネコツキがいた。行灯の油をなめたり、木に登ったり、夜になると目が光り、ふとんに猫の毛がくっついたりした。神主にお祓いして貰ってネコオトシをした〔『新潟県史』資料編〕
 ・猫戻しのまじない 猫が帰らない時、猫のえさ椀を裏返しにして、たちわかれいなばの山の峰におふるまつとし聞かばいま帰り来むの歌を唱えると戻ってくる。
このように猫は、人間と霊界を結んで、人に危害を加えたり、逆に幸運をもたらしたりする動物として登場する。
この原稿を書いているそばで、我が家の二匹の猫は私のいすの周りに長々と寝そべって、主人が机から離れて餌をくれるのを待っている。なかなか原稿の世界と現実とは結びつかない。  
猫檀家 (広島の昔話)
むかし、あるところにとても貧乏な寺がありました。和尚さんは三毛猫を一匹飼っていました。自分の子のように大事に育てたので、三毛猫は長生きして相当な年寄り猫となりました。
おる時、和尚さんが法事から帰ってくると、静かなはずのお寺の中からにぎやかな声がします。のぞいてみると、三毛猫がとても大きくなって、和尚さんの衣に袈裟までかけて踊っており、たくさんの猫が見物していました。ついに化け猫になったか、と思った和尚さんは、三毛に「いま帰ったで」と声をかけてから奥へ入って寝てしまいました。
すると夜更けに、「和尚さん、和尚さん」とふとんの襟を引っ張るものがいます。起き上がってみたらそれは三毛猫で、化けているところを見られたから出ていかないといけないと言います。和尚さんは次の朝、猫に腹いっぱい食べさせて送り出してやりました。
それから十日あまりたって、だいぶ離れたところでたいそう金持ちのおじいさんが死にました。ところが葬式を出しても野辺送りをしようとしても、夕立はくるし、風が吹き荒れる市で全く葬式ができないでいました。そんな時、三毛猫は元の寺へきて言いました。「和尚さんへの恩返しです。金持ちのおじいさんが死んだが、葬式が出来ずに困っています。和尚さんが行けば、必ず葬式を出来るようにするから、少し遠いけど、「わしに葬式をさせてくれ」と尋ねて行ってください。」和尚さんはかわいがった猫の言うことだし聞いてみようと、その通りにしました。すると、和尚さんが読経を始めると天気がころっと変わり、結構な葬式をあげることができました。それからというもの、和尚さんは評判になり、落ちぶれていた寺は立ち直って立派にやっていけるようになったそうです。  
猫魔ケ岳 福島県耶麻郡磐梯町・北塩原村
標高1,403.6m。猫魔ヶ岳は磐梯山の西に位置し、猫魔火山が生み出した直径2kmほどの雄国沼カルデラの外輪山にある一峰である。猫魔火山は安山岩質で、100万から40万年前の活動で形成された。50万年前にカルデラを形成する古猫魔火山の北東方向への山体崩壊があり、その後の新猫魔火山の成長により猫魔ヶ岳峰ができた。カルデラ内には広大な湿原を伴う雄国沼があり、初夏にはニッコウキスゲの大群落が咲き誇る。
山名は昔化け猫が住みついて人を食べていたという伝説によるもの、あるいは、食料をネズミに食い荒らされて困っていた 慧日寺の僧がネズミ退治のため猫王を山に祀ったことによるものなどの説がある。それらの伝承に関連するのか山頂の西側ピークには「猫石」と呼ばれる大きな岩がある。
また、猫魔ヶ岳は、かつては慧日寺から磐梯山あるいは吾妻山へ行く修験道の経路となっており、多くの修験者たちに登られていた。なお、現在、山の南側はアルツ磐梯スキー場、北側は裏磐梯猫魔スキー場となっている。
伝説・信仰
猫魔ヶ岳の山頂から登山道を西方へ20分ほど進むと、雄国沼を見下ろす場所に「猫石」と呼ばれる安山岩の巨大な岩がある。方向によっては、大きな猫に大岩が覆いかぶさっているようにも見え、その昔、弘法大師がその法力によって化け猫を調伏(ちょうぶく)した姿ともいわれている。
江戸時代後期の『新編会津風土記』には、「磐梯山の西にあって高さは九十丈(約270m)周囲は二里(約7,850m)を計る。むかし猫又(ねこまた)が棲んでいたのでこの名が付いた。北の方に猫石という畳のような大石があって、その下には草木も生えず、掃除したように塵も埃もない。これは猫又が棲んでいたからである。」とあって、猫又の伝承を伝えている。一般に猫又とは日本の民間伝承や古典の怪談・随筆などにみられる猫の妖怪を指し、大別すると山の中にいる妖獣と、人家で飼われている猫が年老いて化けたものの2種類がある。日本各地にその伝承が伝わるが、猫魔ヶ岳は猫又伝承がそのまま山の名前になっている点でも珍しい。
我が国における化け猫伝承は鎌倉時代頃に起源を有するという。例えば、1254(建長6)年に成立した鎌倉時代の説話集『古今著聞集』には、奇妙な行動をとる猫を指して「魔物の変化したものではないか」と疑う記述が見られる。さらに、この頃の古い化け猫の話には寺院で飼っていた猫が化けたなど、寺にまつわる奇譚(きたん)が多いことも特徴だが、これは仏教の伝来にともない経典をネズミにかじられることを防ぐために、猫が一緒に輸入されたことが理由の一つと考えられている。猫魔ヶ岳はまさに慧日寺(えにちじ)の北側奥の深山にある。僧や修験者にとって、霊峰磐梯山やその西に連なる猫魔ヶ岳などの山々は格好の山岳修行の場であったことはよく知られており、山中の奇岩・巨岩は霊験あらたかなるものでもあった。慧日寺がその名称の成立に深く関係していたことは大いに考えられる。
ところで、江戸時代に入ると、化け猫の話は各種の随筆や怪談集に数多く登場するようになる。猫が人間に化ける話や人間の言葉を喋る話は『兎園(とうえん)小説』『耳嚢(みみぶくろ)』『新著聞集』『西播(せいばん)怪談実記』などに、猫が踊る話は『甲子(かっし)夜話』『尾張霊異記』などに見られる。例えば珍談・奇談を集めた随筆『耳嚢』には、どの猫も10年も生きれば言葉を話せるようになり、狐と猫の間に生まれた猫は10年も経たずとも口がきけると記されている。
このように、化け猫の怪談は江戸時代に至り全盛期を迎え、有名な「鍋島の化け猫騒動」などが芝居で上演されたことでさらに広く知れ渡っていった。釣り上げた魚目当てに老女に化けた雌猫を桧原村の郷士(ごうし)が斬り殺したため、山の主たる猫王はその奥方を食い殺して樹上に吊し復讐。怒りの郷士が宝刀で妻の仇を討つというあらすじの猫魔ヶ岳の伝承も、恐らくこのような時代を背景として生まれてきたものであろう。 
猫の恩返し 島根県江津市波積町
昔昔、母親と息子と二人暮らしていたそうな。一匹のネコを飼っていたのですが、仕事から戻ってくると母親がカンカンに怒っています。
「お母さん、何でそんなに怒っておるの?」
「お前のネコは、魚を盗ったけん、目をつぶして追い出してやろうと思うとった。じゃけん(だから)、早うそのネコ、捕まえてくれ」
プリプリ怒っている母親をなだめ、ネコに代わって詫びたのです。
翌日、仕事から帰ったとき、ネコの名を呼んでもその日は姿を見せませんでした。母親はこんな恐ろしいことを言いました。
「今日も魚を盗ってな、ハラがたったからネコの目をつぶして、追い出してやった!」
「ええっ、そんな」
息子は絶句して、ネコの名を呼びながら外に飛び出しました。
いくら呼んでも返事をしない自分のかわいいネコ。片目でどこへいったやら。
息子はネコをたずねて旅に出ることにしました。ネコを探し探しさまよううちに日はとっぷりと暮れ、宿さえありません。はるか彼方に、おお!ありがたや、ポツンと灯りのついた暗い家影が見えました。
「今晩は、今晩は。一晩泊めてください」 と、懸命に戸を叩きました。
すると奥から、お母さんかおばあさんのような風体の女の人が、面倒臭そうに出てきました。
「何のお構いも出来ませんが、一晩でしたら、どうぞ」
しばらくすると、その人の娘らしい人が戻ってきました。
「お客さんが出来たけ、早ようてご(手伝って)をしてくれえや」と年かさの女の人。また、しばらくすると、二人目の娘が帰ってきました。
「おう、おう。お客さんがあるけ、おまえもてごをしてくれえや」
間もなく三人目の娘が戻ってきたようです。この人は特にきれいな娘でした。
「お母さん、お客さんがあるそうで」
「おうおう、早う上がって、てごをしてくれえや」
息子は夕御飯を頂いて、寝床にやすんでいました。
そしたらね、真夜中頃、コトコト、コトコトと音がしました。
“不思議だな、こんな真夜中に”と、目が冴えて眠れません。母親と三人の娘達が、ペタペタ、ペタペタと何かなめるような音を立てながら、話をしています。
一番後から、戻ってきた娘が突然、部屋に入ってきました。息子にすぐ目隠しをして、「旅人さん、早く私の背中にさばって(乗って)ください」と、命じました。息子を背中におんぶしたまま、外に連れ出しました。
ずいぶん歩いたと思う頃、息子をぱっと背中から降ろして言いました。
「実は、私はお宅に飼われていたネコマタです。あの家にいるのですが・・・」
驚いたことに、あそこに居ては命が危ない、と話しました。
柳下さんは、最後に付け加えました。
・・・ネコはね、3日すりゃ恩を忘れるというが、それは嘘ですよ。  
 
日本三大猫騒動 9

 

鍋島の化け猫
実録本、芝居や講談の演目として江戸時代後期から明治頃に広く知られた怪猫譚のひとつで、肥前国佐賀藩の御家騒動にまつわる風聞を脚色して作られた物語です。俗に岡崎、有馬の猫と共に三大化け猫のひとつに数えられ、明治末、大正から昭和期にかけて鍋島猫騒動を題材とした映画は十作以上制作されています。
佐賀の二代藩主・鍋島光茂は、主筋である龍造寺家の盲目の当主・又七郎(又一郎とも)との囲碁の対局中、勝てぬ怒りからその場で彼を斬殺し、側近である小森半左衛門の働きで事件は揉み消されます。我が子の失踪が光茂らの仕業と知った又七郎の母・お政の方は悲嘆に暮れ、その胸中を亡夫より与えられた飼い猫・こま(たま)に吐露し、後の復讐を託して小刀で自害を遂げました。お政の胸から流れ出た血潮を舐め取り、こまはどこかへと姿を消しました。
これ以来、光茂たちを様々な怪異が襲うようになりました。まず鍋島上屋敷での夜桜見物の席に化け猫が現れて侍女らを殺害したのち光茂を襲撃、半左衛門の槍によって撃退されるという惨劇が起こります。復讐に失敗した化け猫は恨み重なる半左衛門を討つべく、母や妻を殺してなり代わり、彼の命を狙いました。しかし正体を見破られるや黒雲に乗ってまたも姿を消してしまいます。
その後、光茂は毎晩のように怪しい幻覚に悩まされて半狂乱となり、やがて病の床に臥せるようになりました。光茂の愛妾・お豊の方が看病にあたるとき、光茂は特に酷く幻覚に悩まされました。さらに、お豊の方は夜ひそかに池の鯉を手掴みで食らう、行灯の油を舐めるなどの奇妙な行動をとるようになっており、それに気付いた半左衛門が後をつけると、障子に映る彼女の影が恐ろしげな猫と化している場に遭遇します。かの化け猫が佐賀城内に入り込んでお豊の方を食い殺して姿を借り、梅の御殿を根城に光茂を苦しめていたのです。化け猫は眷属の猫を腰元に化けさせ、城下の小児を攫って餌食としていたともいいます。半左衛門や化け猫打倒を誓う伊東惣太らは御殿に踏み入ると、正体を現した猫たちを相手に立ち回ります。眷属を悉く討ち取られた化け猫は宝満山中の岩屋に逃げ込みますが、追ってきた小森・伊東らによって遂に退治されるのでした。猫の死骸は山頂に埋葬され、以後は神として祀られたといいます。
以上が講談などで語られる化け猫譚のあらすじで、やはり作品、演者により展開の順序や登場人物、祟りの発端や内容に違いがみられます。鍋島の御家騒動に化け猫の物語を組み込んだものを歌舞伎化したのは、嘉永六年(1853)三世瀬川如皐作の『花嵯峨猫魔稗史』が最初とされます。これは上演前から世間の注目を集めていましたが、とある大名家が町奉行を通じて抗議した、すなわち鍋島家からの圧力がかかったために上演中止(後年、改題して上演)となり、却って噂の真実味を高めたといわれています。
有馬の化け猫
講談などを通して広まった化け猫話のひとつで、俗に鍋島、岡崎の化け猫と共に三大化け猫に数えられています。江戸は赤羽にあった久留米藩有馬家の江戸屋敷を舞台にした怪猫譚で、岡崎の化け猫に次いで多く映画化もされています。
筑後国久留米藩八代当主・有馬頼貴(1746〜1812)の頃の出来事といいます。藩主の正室に仕える腰元のひとり関屋は、元の名をおたきといいました。ある日、奥御殿での宴の最中に事件が起きました。一匹の猛り狂った野犬が子猫を追いかけて酒席に飛び込み暴れだしたのです。猫が殿の背後に逃げ、犬が殿に襲いかかろうとした時、居合わせた関屋は手水鉢の鉄柄杓を取り、犬の額を打ち据えてこれを殺しました。手際よい行動に感心した頼貴が褒美に何を所望するかと問うと、彼女は先程逃げ込んできた子猫の助命を求めました。
勇敢かつ無欲で心優しい関屋は頼貴の寵愛を受けて側室に迎えられ、名をお滝の方と改めました。これが他の側室方や同輩だった奥女中の妬みを買う結果となり、お滝はことあるごとに嫌がらせを受けるようになりました。中でも奥女中頭の老女・岩波からの虐めは特に酷いものでした。心根の優しいお滝は虐め苛まれた挙句、とうとう自ら首筋を切り命を絶ってしまいます。彼女に仕える女中のお仲は怒りに燃え、短刀を握り岩波のもとへ乗り込みましたが、薙刀の名手である岩波には敵いません。返り討ちにされようかという時、突如怪しい獣が乱入し、岩波の喉笛を喰い切って殺してしまいました。それはかつてお滝に命を救われ、彼女の飼い猫「たま」となったあの猫でした。たまはお滝が流した血を舐め、化け猫となって復讐を開始したのです。
それ以来、お滝の自害と岩波の怪死で有馬家奥向きが混乱に陥る中で、お滝を虐めた女たちが不審な死を遂げる事件が相次ぎました。やがて懐妊した側室お豊の方が腹を食い破られて胎児や女中諸共惨殺され、遂には庭を散歩していた頼貴にも化け猫が襲いかかりました。警護に当たっていた藩士の山村典膳が眉間に一太刀浴びせると、化け猫は悲鳴を上げてどこかへと逃げ去っていきました。
典膳が帰宅すると、年老いた母が猫と同じ箇所に傷を作っていました。注意して見ていると、その行動にも折々怪しいところが見られます。実は化け猫は典膳の老母を食い殺し、以前からその姿を借りていたのでした。母の正体を察した典膳は、不始末により有馬藩お抱え力士の座を追われていた小野川喜三郎の力を借りて化け猫退治を試みます。猫は本性を現すと、拠点としていた有馬屋敷の火の見櫓に立てこもりましたが、典膳と小野川は力を合わせてこれを滅ぼし、ようやく化け猫による殺戮は幕を下ろすのでした。手柄を立てた小野川は再びお抱え力士に取り立てられたということです。
有馬家は代々芝増上寺の火の御番を務めており、頼貴の時代には華美な装束を纏った大名火消も江戸の人々によく知られていました。物語で化け猫との決戦の場となった火の見櫓も実在したもので、江戸随一の高さを誇る建築物として評判をとっていました。また、相撲は有馬頼貴の趣味のひとつであり、小野川喜三郎もまた実在の久留米藩お抱え力士でした。
この話の原型のひとつに有馬屋敷に怪獣が出現したという風聞があったとみられ、たとえば大田南畝の『半日閑話』には明和九年(1772)頃、有馬家の家臣・安倍群兵衛が怪しい獣を鉄砲で討ち取ったという噂が立ち、その図を載せた瓦版などが売られたと記されています。
岡崎の化け猫
文政十年(1827年)初演、四世鶴屋南北作の歌舞伎『独道五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』は東海道の各宿場を舞台に劇が展開されるという趣向で、その中に十二単を着た化け猫が登場するくだりがあります。これを元にした話が岡崎(愛知県岡崎市)あたりを舞台とする「岡崎の化け猫」として定着し、佐賀鍋島、赤羽の有馬屋敷の化け猫騒動と共に三大化け猫と称されています。
化け猫が主に活躍する『独道五十三駅』四幕目は、おおむね以下のような内容となっています。
母の薬代を稼ぐため身を売り行方知れずとなった姉・お松を捜し、お袖は夫の中野藤助と共に乳飲み子を抱えて旅をしていました。道中、休む場所が見つからず難儀していると昔馴染みのおくらが現れ、お袖たちを宿場外れの古寺へ案内します。古寺にてお袖は病死したはずの母と出会います。かつて死に装束とした十二単を纏う母親は、実は猫が化けたものでした。眷属である二匹の飼い猫が立ち上がって踊り、老婆が長い舌を伸ばして行灯の油を舐める光景を目撃してしまったおくらは、猫好みの子年生まれでもあったために食い殺されてしまうのでした。
一方、お袖と藤助の前には赤堀水右衛門という男に殺害されたお松の幽霊が現れていました。お袖は以前、己と同じく藤助を想う見知らぬ恋敵に呪いをかけたことがありました。この恋敵が姉のお松で、彼女の顔は呪いを受けて醜く変わり果て、買い手を求めての放浪からやがて死へと向かったのでした。真相を知った藤助が離縁を言い渡すと、お袖は絶望してその場で命を落としました。すると障子から獣の手が伸び、お袖の骸と赤子を引きずり込みます。障子の奥で化け猫の老婆がお袖と子を食らうと、「私は猫石の精霊とお松の亡霊が合体したものだ」と正体を明かして姿を消しました。
辺り一面の茅原、後に残ったのは猫の形をした大石ばかりでした。そこへ葬式へ出すためお松の死骸が運ばれてくると、たちまち雷雨となり、猫石が目を開いて火炎を吐き出します。そして再び老婆に化身すると、死骸を奪う怪猫・火車の様相を呈して暴れ、死骸を掴んで雲間へと飛び去ってしまうのでした。
劇に登場する猫石の元となったのは 東海道の鞠子宿と岡部宿の間にある宇津ノ谷峠の猫石だと考えられています。これは猫が臥した姿に似た石で、南北の台本では実際に丸子(鞠子)宿の猫石として登場しており、化け猫の役名も「丸子猫石の精」となっていました。この他、舞台を岡部宿と表記する資料や錦絵もありますが、再演、改作の過程で次第に岡崎で展開される物語に集約されていったようです。 
 
踊る猫 10

 

■はじめに
2008 年に発表した「「踊り歌う猫の話」に歌が組み込まれた背景―「猫じゃ猫じゃ」の歌を事例に―」(『非文字資料研究の可能性 ―若手研究者成果論文集―』神奈川大学21 世紀COE プログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」研究成果報告書、2008)では、「猫の踊り」型の話を中心とした「踊り歌う猫の話」の中に「猫じゃ猫じゃ」の歌がどのように組み込まれていったのかを中心に考察し、話の中に表れる「猫じゃ猫じゃ」の歌が歌舞伎の「猫騒動物」を隠喩している因子となっていることを指摘し、またそのことから「猫じゃ猫じゃ」が流行った時期以降に「踊り歌う猫の話」が想像・創造された、あるいは「踊り歌う猫の話」に手が加えられたという時期設定の確認と共に、「猫じゃ猫じゃ」という流行歌を昔話・伝説に組み込んでも違和感がなかったという、当時の人々の認識観を考察した。
本稿では、前回確認した、話中の歌が隠喩していた歌舞伎との関係性、なかでも歌舞伎演目の宣伝・販促の意味を持った錦絵を中心に、「猫騒動物」に関する錦絵が、「猫じゃ猫じゃ」の歌と同様に、「踊り歌う猫の話」に表れる「踊る猫」にどのような影響を与えたか、またそこから「踊る猫」と言ったときに人々がどのようなイメージを連想したのかということを確認するために、「猫騒動物」に関する錦絵に描かれた「踊る猫」と「踊り歌う猫の話」に表れる「踊る猫」を考察しようとするものである。 
■T 錦絵という浮世絵
本稿で採り上げる「猫騒動物」に関する錦絵を確認する前に、まず錦絵とは何かについて確認していこう。錦絵は浮世絵というジャンルに相当する絵画であり、浮世絵は一般に江戸時代を通じて生活や風俗という当時の現実世相を描いた町絵師の作品の総称で、絵師自身が直接描く肉筆画のほか、木版画や石版画などの版画類がある。錦絵は室町時代後期から江戸時代初期における風俗画・美人画をもととし、17 世紀後半、菱川師宣らによって版本挿絵や一枚摺りの様式の基礎が確立、さらに鈴木晴信が多色摺りの絵暦(後述)を明和2 年(1765)に完成させることに端を発する。浮世絵にはこの絵暦の他にも、墨(墨汁)一色で摺られている墨摺絵(すみずりえ)や墨摺絵に筆で彩色を加えている丹絵(たんえ)、丹絵と同じ技法を用い、墨の部分に膠を混ぜ光沢を出させる漆絵(うるしえ)などがある。この明和2 年の絵暦の誕生以降、すべての浮世絵が錦絵で作られたため、一般に浮世絵といえばこの錦絵を指すようになったという経緯がある。
たびたび名前が出てくる絵暦とは、大小暦(太陰太陽暦。大の月は30 日、小の月は29 日を使って年を割り何年かに一度閏月を入れ調節をする)を示すため、「大 何月」「小 何月」とあるだけではなくポスターのような絵が入ったもので、これが転じて絵の中に月や数字を隠して読み解くような遊びが加わった絵の暦である。この絵暦の担い手が俳人や旗本、呉服屋の主人といったいわゆる「お大尽」であったため、贅を尽くし趣向を凝らしたような絵暦を作成しようと競い合い、それに伴って委託された絵師たちも技術を伸ばし、多色摺りという技術を生み出した。このような技術の進歩が錦絵へとつながったとされる。また、このような江戸の文人たちの間で絵暦が流行したことに伴う版画の技術の発達と共に、紙の質も多色刷りに耐えられるよう工夫され、摺りやすいように大きさも定型化・規格化されていき、結果として一般的に浮世絵・錦絵と呼ばれるスタイルが確立したのである。このような経緯を持った錦絵のジャンルの中で、歌舞伎役者を描いたものが役者絵と言われるものである。
この錦絵や役者絵はどの程度、人々に流布されていたのか。役者絵とは違う性格の浮世絵になるが、「引札(ひきふだ)」を例に見ていこう。引札とは商品の売り出しや開店の挨拶などを宣伝するため配られた札とされる。このような定義がなされる引札と錦絵であるが、そもそも浮世絵が錦絵になると、広告主と版元が提携し宣伝文句を入れたものが多く出回った。そのため、錦絵と引札の違いは、購入か配布かという消費者がどのように手に入れるかという形態の違いでしかなく、特別な描写技法や絵自体に大きな違いはないものである。この引札の流布状況を高橋克彦は次のように説明する。「ある呉服屋が大蔵ざらえという名目で、江戸市中になんと五万枚のチラシを頒布したという記録があります。(中略)その五万枚とはどのくらいの規模かというと、その当時、江戸の人口がだいたい一〇〇万人といわれています。その一〇〇万人のなかで、絶対にそういう引札を配ってはいけない階級の人、いわゆる武士であるとか神社関係、お寺関係ですが、だいたいその人口が一〇〇万人のうちの半分の五〇万人を占めていました。そうすると残りの五〇万人に対して広告が出せる。では、五〇万人の人々は何軒ぐらいの民家に住んでいるかということを考えてみますと、江戸というのは、六畳一間に五、六人が住んでいる超過密都市だったのです。そのうえ、大店には、たとえば、一つの店に五〇人、一〇〇人の使用人たちがいましたから、だいたい民家というのは、その当時、多くて七万軒ぐらいだったのではないかと想像されています。」(高橋 1992:65︲66)。この場合は引札だが、錦絵の場合も多色摺りの刷物として相当な数が市場に出まわり、それ相応の人々が目にしたと考えられる。たとえば、錦絵の初期、背地に墨流し(水面に広がる墨の模様を用いた料紙装飾の技法)という特殊な模様を用いた例でも「それ(墨流し)を、版木に刻んで最小単位二百枚ほどの版画に複製する」(小林 1989:184)とあり、この墨流しのような複雑な技法を執らない一般的な錦絵の場合ならば、購入するかどうかは別にしても相当数の錦絵が何版にも摺られて流通したと考えられ、当然、「猫騒動物」に関する錦絵も相当数の人々が目にしたと考えられる。
   図1 「 東海道五十三次之内 白須賀 猫塚」(改印:米良、渡邊、子三)豊国 出版嘉永5 年
   図2 「 後室さがの方」(改印:福、村松、丑六)豊国出版嘉永6 年
   図3 図2 を一部拡大トレース 
■U 錦絵に描かれた「猫騒動物」
このような役者絵の題材のひとつに歌舞伎の「猫騒動物」がある。以前、拙稿でもふれたことと重なる部分もあるが、ここで歌舞伎の「猫騒動物」についても確認していこう。
「猫騒動物」とは歌舞伎演目のひとつである怪談狂言と呼ばれるもののひとつである。怪談狂言とは、幽霊や化け物、動植物の精霊などの超自然的な怪奇現象を歌舞伎の演目に取り入れ、宙乗りや早替りなどの「ケレン」と呼ばれる演出や舞台上にさまざまな仕掛けが駆使される芝居であり(織田2005:52)、江戸時代から現在まで人気のある演目である。その怪談狂言の中でいわゆる「化け猫」が登場する演目が「猫騒動物」と呼ばれる。
「猫騒動物」では『獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』の「岡崎の猫」の場面が有名であり(1)、初演は三代目尾上菊五郎、七代目市川団十郎等によって公演されている(渥美 2007a:19︲21)。音羽屋の屋号を持つ尾上家はこの『獨道中五十三驛』以前にも怪談狂言をお家芸としており、「猫騒動物」は尾上家のお家芸の中でも中心となるような演目である。五代目菊五郎の場合、この『獨道中五十三驛』以外では、「鍋島猫騒動」、『東海道いろは日記』での猫石の妖怪や『古寺の猫』などで「猫(人が扮する猫、以下「猫」)」を当り役にしている(織田 2005:48︲49)。
   図4 「 梅幸百種之内」「岡崎猫」(改印:明治二十六)国周 出版明治年代
   図5 図4 を一部拡大トレース
   図6 「 東海道五十三次 二川 猫石」(改印:改、巳二)豊国 出版安政4 年この『獨道中五十三驛』での「猫」や「踊る猫」が登場する場面では、影絵で猫の頭を写して行灯の油をなめる猫の姿を見せるトリックや、耳を猫のひとつの象徴として捉え、鬘(かつら)に耳を出す仕掛け、指人形のように演者が手を入れて動かす抱き猫、操りで猫の人形を動かす、猫の顔の化粧に猫の手をつけ十二単を着ての宙乗りの場面などさまざまな演出がなされている。この『獨道中五十三驛』の演出は、それまでの「猫騒動物」で見られた演出とは違う多くの革新的な演出で斬新であったため、それが人々の印象や記憶に残りやすかったと考えられる。以前、拙稿で「猫騒動物」の公演によって「猫じゃ猫じゃ」が流行したとする仮説を立てる理由も、この影響が歌に表れていることを基としている。
ではこのような「猫騒動物」を描いた錦絵とはどのようなものか、実際の錦絵を例に考察していこう。
ここで対象にする「猫騒動物」に関する錦絵は、錦絵に付けられた題名(演目名)や明らかに猫の
体(耳、手など)をなし、着物を着ているもの、「踊る猫」が描かれている図像などを対象とした錦絵である。ここで採り上げる18 点の錦絵は天保12 年(1841)〜明治20 年(1887)までのものであり、いずれも大判錦絵と呼ばれるサイズのものである。管見ではあるが現在まで残っている「猫騒動物」に関する錦絵や役者絵は概ね、この時代のものが何点か残っている程度である。
ここで採り上げた「猫騒動物」の錦絵の中で、「猫」を演じている役者の手が明らかに猫の体の一部をなしている錦絵は10 点(図1、6、7、11、13、14、15、16、17、20)となる。この内、たとえば、図1 の歌川豊国『東海道五十三次之内 白須賀 猫塚』は、嘉永5 年(1852)のものとされるものだが、ここでは化粧筆を持ち十二単を着た菊五郎扮する猫の精の手が、毛が生え爪の伸びた猫の手である。このような「猫」の役を演じる役者の手に同様の演出方法をしていることは他の錦絵でも見てとれる。
また、手が猫の手という演出をしていない素手の状態の錦絵は4 点(図2、4、9、18)あるが、これも「猫」を演じていることを示している。例えば、図2 や図4 などのこれら何も着けない素手の状態が描かれている多くの錦絵は、手の格好が猫の手を意識した構えである。この猫の手の構えは実際、尾上家伝統の猫の手の構えである。この手の構えを描くことにより、描かれた演者が尾上家関係の役者であって、且つそれは「猫」を演じているのだということが分かる隠喩となっている。
十二単を着ていると確認出来る錦絵は図18 と図20 を除く16 点である。これも演目上の演出であり、いずれの時代の「猫騒動物」の公演においても十二単を使った演出を行っていたということを示している。
またこれら錦絵全体の多くは鬘に耳というスタイルをとっている。これも実際の演出法の一つであり、鬘を付けて顔を出した状態で「猫」を演じていたという演出のそのままの姿を錦絵で描いている。
このような演出上の特徴が表わされているものの他に、演目の一場面だと特定できる錦絵もある。行灯の前に居るという構図をとる錦絵は7 点(図1、4、7、11、14、16、20)で、これらは行灯の油をなめる場面の演出を図像に取り入れたものである。同様に演目の一場面を限定できる錦絵としては、空を飛ぶという構図(図17)も、十二単を着ての宙乗りの場面を描いたものであり、ほかにも小さな猫が踊っているという錦絵3 点(図8、10、18)は、操りで猫の人形を動かしている場面を描いているというものである。
錦絵は役者絵以外でも絵画である以上、誇張して描くことができるという性格を持っているが、ここまでに採り上げた「猫騒動物」の錦絵は、歌舞伎役者のブロマイドとしての性格や歌舞伎演目の興行宣伝などの理由から、あまりにも荒唐無稽な想像を構図に取り込んで描いてはいない。これは絵の主題である歌舞伎の演目や歌舞伎役者自体が分からなくなるなどという理由から、特徴的な部分を写実的に描きつつ情報を伝えるという構図・描法を執っているのであり、このような役者絵は当時の歌舞伎の様子を伝える歴史的な資料性が高いと考えられる。
   図7 「 老女ニ尾実ハ両尾の古猫 尾上菊五郎」(改印なし)周延 出版明治20 年
   図8 「 古幸猫のよふかい」(改印:村田、米良)国芳 出版弘化4 年
   図9 「 猫石の変化」(改印:衣笠、濱)豊国 出版弘化4 年
   図10 「 古寺ノ猫怪異 尾上梅幸」(改印なし)景松出版天保12 年
   図11 「 後室手越ノ方」(改印:改、寅九)豊国 出版安政元年
   図12 「 東駅いろは日記 岡崎八橋村の場 猫石怪」豊国 出版文久元年
   図13 「 園部方 沢村田之助」(改印:辰二改)国周 出版明治元年
   図14 「 後室 実ハ猫之快 沢村田之助」(改印:辰二改)国周 出版明治元年
   図15 「 園部方 沢村田之助」(改印:辰三改)国周 出版明治元年
   図16 「 水木辰世実ハ猫石怪」(改印:酉七改)豊国 出版文久元年
   図17 「 後室さがの方」(改印:衣笠、村田、丑八)豊国 出版嘉永6 年
   図18 「 愛妾胡蝶」(改印:福、村松、丑六)豊国出版嘉永6 年
   図19 「 古猫の怪 市村羽左衛門」(改印:酉八改)豊国 出版文久元年
   図20 「 東都三十六景之内 山下御門 古猫の怪」(改印なし)国周 出版不明
また、錦絵は刷物であるため版木がもつ大きさの制約上、さまざまな表現技法を選択した絵画である。たとえば一般的な役者絵の場合、主題である役者を中心として描くため、構図としては遠近法や陰影法という手段を執らない表現方法、色彩構成では基本的に単色で描かれる単色構成などといった特有の表現技法を執っており、伝えたい主題(演目の一場面や演出)を前面に出して描かれる。ここまで見てきた「猫騒動物」の錦絵も、その表現技法としての方法に則りつつも、構図の中では、手や耳のある鬘、小さな猫が踊っている場面など、その演目の特徴が分かる部分を写実的に描いているということが分かるであろう。 
■V 錦絵での「踊る猫」の描かれ方
(1) 猫が踊ること
前章まで「猫騒動物」に関する錦絵が、歌舞伎の演目や歌舞伎役者自体が分からなくなるなどの理由から、特徴的な部分を写実的に描きつつ情報を伝えるという構図・描法を執っており、このような役者絵は当時の歌舞伎の様子を伝える資料性が高いことを確認してきた。また、錦絵はその表現技法としての独特の方法に則りつつも、構図の中では、手や耳のある鬘、小さな猫が踊っている場面など、その演目の特徴が分かる部分を写実的に描いているということや、且つ相当数の人々が目にしたということも確認した。このように当時の歌舞伎の演出を写実的に描き、また広く流布していた錦絵に描かれた「踊る猫」とはどのようなものだったのであろうか。また、「猫が踊ること」とは何だったのか。「踊り歌う猫の話」と歌舞伎役者を描いた錦絵(役者絵)との関係性を見る前に、「猫が踊ること」とはどのように捉えられていたのかを、動物学やジャーナリズム、民俗学のそれぞれの立場の認識から見ていこう。
ここでは明治から昭和にかけてを事例に、動物学者であり作家でもある平岩米吉や、新聞・雑誌を刊行した世相風俗研究家である宮武外骨、さらに民俗学者である柳田國男のそれぞれの猫が踊ることについての解釈や説明を見ていくことにする。はじめに平岩は踊る猫について「今日では猫が踊るということは、狐が化かすというのと同じ程度に通俗な常識となっているが、猫には、もともと、後足だけで立ち上がり、両手でたわむれる習性があるので、こういう話が起こって来たのはむしろ当然であろう。」(平岩 1992:42︲43)とし、動物学者の見地から猫の習性を基に解釈している。次に宮武は「鍋島の猫騒動と云ふ怪談、猫が手拭を冠つて踊つたと云ふ怪談など、古来猫を妖怪の動物して居る、これは何に原因するかと云ふに、猫は陰性獣であつて、夜間活動する事、其瞳孔が晝夜甚だしく變化し、又暗所に於て眼の光る事、人の屍體を跨げば其電氣にて屍體が動揺する事、暗室にて其背毛を撫れば光を放つ事、死して閉目せざる事、常に従順を装ふも、怒れば態度一變して獰猛の相を現はす事、顔面を洗ふ手振りが人の動作(手招き)に似たる事なとが、怪物視さるに至つた原因であらうと思ふ」(宮武 1992:572)とし、猫を妖怪視する事例を挙げそれぞれ合理的に解釈している。
柳田國男は「踊る猫」について「化けた踊つた人語したといふ奇譚ならば、掃くほども国内に散らばつて居るのである」(柳田 1998a:301)とし、その後、踊る猫の話の事例として、伊豆北部の或村を挙げ、その村ではかつて猫が警戒されていたことを指摘している。さらに、柳田は「猫が物を言ったといふ話も多い。(中略)新著聞集の中にも幾つか猫の人語した話を載せて居る。鼠を追掛けて居て梁を踏みはづし、畳の上へ落ちたときに、南無三宝と謂ったといふのは、古風なる猫言葉であった。(中略)或は時々手拭が紛失するので気をつけて居ると、猫がそっと口にくはへて出て行くのを見た。驚いて大声を出したら、それきり飛出して戻って来なかったとも謂ふ。猫をして謂はしむれば、踊る位なら人間の真似をして、手拭なんか被るものかと云ふだらう。」(柳田 1998b:311︲312)として、手拭いを持って踊る猫の話についても触れている。前者の二人とは違い柳田は、「踊る猫」について直接的な批判を加えてはいないが、この「踊る猫」がでてくる話は、全国に散らばるような話であり、「猫にして言わせれば」という言い方で、猫が踊るというような解釈自体が一種当たり前として通用する解釈であったとして、一方で錯覚・誤認とされるような見方ではなく、通念的な一般性をもった解釈であるということを指摘している。
このように「踊る猫」や「猫が踊る」という事象は、全国的に伝承され、錯覚・誤認の範疇とされる場合と昔話・伝説を基に一種当たり前として通用するという二通りの解釈があったといえるであろう。これらのことから、実際に猫が踊ったかどうかはともかくとして、「化けた踊つた人語したといふ奇譚」を多くの人々が知っていて、ここで挙げた三者の時代までには、「猫が踊る」ということが人々に素地として定着していて通念的で一般性を持っていたとすることができるであろう。  
(2) 「踊り歌う猫の話」における猫が踊ること
では、このような「踊る猫」や「猫が踊る」ということが人々の間で通念的で一般性を持っていたとするならば、本稿で対象とする「踊り歌う猫の話」の中で、それが具体的にどのように伝承されていて、また「踊り歌う猫の話」で「猫が踊ること」がどのように表わされているのだろうか。「踊り歌う猫の話」の中心となる「猫の踊り」を例に「踊り歌う猫の話」を確認していこう。
『藤沢の民話』では、このような「猫の踊り」の話は同地でたくさん伝承されていると指摘し、次のような粗筋を挙げる。
「 かけておいた手拭がなくなるので気をつけてみていると、夜になると飼猫がくわえて出て行く。あとをつけて行くと、淋しい野原の中で、どこから集まるのかたくさんの猫が踊っている。中で手拭をかぶって音頭をとっているのが、自分の家の猫だった(藤沢市教育文化研究所 1973:55︲56)。 」
この『藤沢の民話』の粗筋が「猫の踊り」話の主なプロットであり、この「猫の踊り」の話の主なプロットを基に、『藤沢の民話』以外の昔話・伝説集から「猫が人語を解し人語で歌い踊る」「猫が踊る」というモチーフがある話を「踊り歌う猫の話」として捉え、『日本昔話集成』、『日本昔話大成』、『日本昔話通観』、『現代民話考 10 狼・山犬・猫』から「猫が踊る」に該当する話をまとめたものが表1(2)である。 
表 「踊り歌う猫の話」、踊る猫一覧
 伝承地(伝承者名)/場所/時間/ことの次第を見た人/踊った猫/踊る様子/話型/備考
1 青森県弘前市田茂木町(女)/部屋(炉辺)/(お天気のよい時)/娘コ/めごいねごコ(飼い猫か)/馳せでいってたんす上さあがって豆しぼりの手拭コ持ってきて、ほかぶりして前脚あげて、後脚ついで(歌い)踊る/猫の踊(原題・猫の踊)/『通観第2巻青森』一八八〜一八九
2 青森県三戸郡五戸町/館鼻(地名)/日暮れ/家の人/たくさんの猫(猫仲間のおさのさんこなど)/歌いながら踊る/猫の踊(類話)/ 家の猫はとら猫 | 『通観第2巻青森』一八九
3 青森県三戸郡館村/家/(麻糸をうんでいる時)/不明/猫(飼い猫)/嫁の手拭いとって被っておどる/猫の踊(類話)/『集成第二部の3』
4 青森県三戸郡館村/家(恵比寿棚から降りて)/正月(飯を炊いている時)/不明/猫(六十二歳、飼い猫か)/手拭いをとって踊る/猫の踊(類話)/『集成第二部の3』
5 岩手県稗貫郡湯口村/(家)/留守番時/不明/古猫手拭いを被り歌って踊って見せる/猫の踊(類話)/『集成第二部の3』 | 『大成第7巻本格昔話六』
6 岩手県膽澤郡水澤町/山/―/ある男/三毛猫/三味太鼓笛の合奏で歌って踊る/猫の踊(類話)/『集成第二部の3』 | 『大成第7巻本格昔話六』
7 岩手県二戸郡福岡町/家(炬燵のあるところ)/留守番時/不明/二十五になる三毛猫/踊る(炬燵の側)/猫の踊(類話)/『集成第二部の3』 | 『大成第7巻本格昔話六』
8 岩手県上閉伊郡遠野町/家 | 庭(寺の庭ヵ)/留守番時(夜) | 月夜の晩/ | 和尚/虎猫 | 狐と虎猫/― | 赤手拭を被った虎猫が来て(狐と)二匹で踊る/猫の踊(類話)/浄瑠璃を語って聴かせる場面と虎子どのが来なければ踊にならぬと狐が言う場面の二部構成 | 『集成第二部の3』 | 『大成第7巻本格昔話六』(『集成』、『大成』ともに世間話とする) | 『現代民話考10』二二四〜二二五
9 秋田県大館市谷地町(女)/(家の)ろばた/(働きに出てみんながいない留守番時)/不明/「チャコ」/歌いながら踊る/猫の秘密(原題・猫踊り)/『通観第5巻秋田』三四一〜三四二
10 秋田県鹿角市(旧鹿角郡八幡平村)/お寺の墓の広場/月夜の晩/魚屋の女の子の兄/十三になる飼い猫の「ミケ」/大きな身ぶるいをして女の子に化け(女の子の)着物を着て手拍子、足拍子おもしろく(歌い)踊る(同様に着物を着た猫八匹も踊る)/猫の踊(類話)/『通観第5巻秋田』三〇四
 伝承地(伝承者名)/場所/時間/ことの次第を見た人/踊った猫/踊る様子/話型/備考
11 秋田県能代市/明神様/夜中/コジキ/伊藤さんの猫/みんな猫がた集まってきて踊る練習/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二二八
12 宮城県本吉郡/(家)/留守番時/不明/年取った三毛猫/浄瑠璃を歌いながら踊る/猫の秘密(類話)/『大成第7 巻本格昔話六』
13 宮城県牡鹿郡女川町/囲炉裏のそば/留守番時//トラ/(声もよく、悲しいところは本当に嫁さんが泣き泣き聞いた)/猫の浄瑠璃/『現代民話考10』二二一〜二二四
14 山形県羽前小国郷/―/爺の留守/不明/虎猫/(婆に甚句を歌わせて)踊る/猫の秘密(類話)/『通観第6巻山形』二一六 ※注
15 山形県最上郡/家/留守番時/不明/虎猫/(婆に甚句を歌わせ)手拭をかぶって踊る/猫の秘密(類話)/『大成第7巻本格昔話六』
16 山形県西置賜郡飯豊町須郷(女)/(家)/(留守番時)/不明/猫/歌ったり踊ったりする/猫の秘密(類話)/『通観第6巻山形』二一六
17 福島県大沼郡昭和村(女)/薬師堂の中/夜(寝所に入た後)//虎猫(いっぱいの獣)/虎猫は爺の頭巾帽をかぶり、獣たちと共に(歌い)踊る/猫の秘密(類話)/『通観第7巻福島』一一四〜一五
18 福島県郡山市湖南町三代(男)/鎮守様/毎晩/家人/猫(隣の家の権兵衛猫)/(歌い)踊る/猫の秘密(類話)/『通観第7巻福島』一一五
19 福島県須賀川市狸森(女)/家/―/他人/「ミー」三毛猫/(歌いながらか)踊る/猫の秘密(類話)/ 『通観第7巻福島』一一五
20 福島県伊達郡月館町/家/(機織り時)/嫁(踊りを見た)/古猫/猫踊り/猫の秘密(類話)/『通観第7巻福島』一一六
 伝承地(伝承者名)/場所/時間/ことの次第を見た人/踊った猫/踊る様子/話型/備考 
21 福島県東白川郡塙町川上(女)/―/―/不明/猫/(歌い)踊る/猫の秘密(参考話)/『通観第7巻福島』一一七
22 福島県東白川郡塙町川上(女)/―/―/不明/猫/(歌い)踊る/猫の秘密(参考話)/『通観第7巻福島』一一七
23 福島県石川郡平田村/岩倉の観音さま(盆踊りの踊りの場所)/―/不明/虎猫/集まって酒飲んで踊ってた/猫の秘密(類話)/『現代民話考10』二二八
24 福島県石川郡平田村/家のくるわの柿の木の下/―/不明/猫と狐/集まって木の下で踊り踊る/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二二九
25 福島県南会津郡田島町/(家)/留守居/婆様/―/婆様にドブロクを飲ませて上手に踊る/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二二九
26 群馬県利根郡新治村布施大塩(女)/家(いろり端) | 屋外/朝の仕事をすましたあと(留守番時) | 夏祭り、盆踊り時/ | 不明/猫(家の猫)/猫がいいおとたって、せいもんのお語ってきかせた |大勢の猫たちとにぎやかに(歌い)踊る、音頭をとる/猫の踊(原題・せいもんを語る猫)/せいもんを語る場面と盆に踊る場面の二部構成 | 『通観第8巻栃木・群馬』二四三
27 群馬県邑楽郡大泉町吉田/原っぱ/―/不明/ からかさやの猫(合わせて五匹の猫たち)/手拭い、茶釜の蓋、金火箸を持ち出して原っぱへ行き、鉢巻をしたり、頰かぶりして(歌い)踊る/猫の踊(類話)/『通観第8巻栃木・群馬』二四三 | 『現代民話考10』二三二
28 群馬県利根郡新治村布施大塩(女)/石臼のそば/―/爺と婆/飼っていた年をとった猫/子供のちゃんちゃんこを着て、石臼のそばで(歌い)踊る/猫の踊(類話)/『通観第8巻栃木・群馬』二四四
29 群馬県太田市/墓地/(町へお使いに出た帰り)/おじいさん/―/ネコが三匹、ほっかぶりして、踊りを踊っている/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二三〇〜二三一
30 群馬県桐生市/機神様/毎晩/度胸のある(見に行った)人/―/提灯つけていっておどりおどる/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二三一
 伝承地(伝承者名)/場所/時間/ことの次第を見た人/踊った猫/踊る様子/話型/備考
31 群馬県吾妻郡/(分校)/(春祭り)(お使いに出た帰り)/お婆さん/猫/後足でたって、前足で踊ってる | 歌いながら踊っている | くり返しくり返し言って踊ってる/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二三一〜二三二
32 栃木県足利郡山前村字山下/裏山/(晩)/祖父/近所の年老いた猫/猫が大勢集まって歌ったり踊ったり大酒盛りをやっていた/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二二九〜二三〇
33 茨城県那珂郡東海村舟石川(男)/―/夜/華蔵院(寺)の坊様/(猫)/歌って踊る/猫の踊(類話)/『通観第9 巻茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川』四六
34 茨城県東茨城郡美野里町堅倉(女)/森戸原(地名)/毎晩/湊の魚売り/華蔵院(寺)の猫/うたって踊る/猫の踊(類話)/『通観第9巻茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川』四七 | 『大成第7巻本格昔話六』
35 埼玉県児玉郡/山の中/宵のうち/徳おじい/ブチと大勢の猫ども/祭囃子、笛を吹いたりうたったり踊ったりしている/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二三三〜二三五
36 神奈川県津久井郡城山町川尻(男)/慈眼寺の前、観音堂の中/夕方/安西六左衛門(文言を聞いた)/猫の親方(猫たち)/手拭いでほおかむりした猫たちが踊る/猫の踊(類話)/『通観第9巻茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川』四七
37 神奈川県藤沢市亀井野(男)/中田の踊り場(地名)/(夕飯の後)/彦さん(文言を聞いた)/近所の猫/踊る/猫の踊(類話)/『通観第9巻茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川』四八
38 神奈川県横浜市戸塚区(男)/中田(地名)の山/夜/(仲間の猫)/川上町徳翁寺に古くから飼われていた猫/袋をかぶって踊る/猫の踊(類話)/『通観第9巻茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川』四九
39 神奈川県川崎市/猫の寄合い場所(大師の田町とかどことか)/夜/つれあいのおじいさん/―/お囃子をする猫と笛を吹く猫と踊りを踊る猫と、太鼓をたたく猫がいる/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二三八
40 千葉県安房郡三芳村下滝田(男)/家/和尚のいない雨の降る日/不明/―/和尚に教わった踊りを、家の中で笠を持って本気に踊りをおどる/猫の踊(類話)/『通観第9巻茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川』五〇
 伝承地(伝承者名)/場所/時間/ことの次第を見た人/踊った猫/踊る様子/話型/備考
41 千葉県市川市行徳/土間/夜/子守と女中/―/はちまきして、ほっかむりして、あぶらいさん(よだれかけ)かけて踊ってる/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二三五
42 千葉県浦安市/竹やぶの中/―/(おかつばあさん)/二、三匹の猫/頭の上に手拭のっけて「猫じゃ猫じゃ」踊ってる/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二三五〜二三六
43 東京都八王子市/石川の原/毎晩/和尚/猫達(寺の猫が総大将)/手拭いで頰かぶりして(猫達にはやされる中で)寺の猫が総大将で踊る/猫の踊(類話)/『通観第9巻茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川』五一
44 東京都大田区八幡塚(男)/―/(何かのひょうし)/不明/旧家の古猫/猫じゃ踊り/猫の踊り(参考話)『通観第9巻茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川』五一
45 東京都大田区/自性院のはかばの一本のいちょうの木のあたり/暗い晩/ある人/―/木のあたりが明るくなっていて、大きな三毛ねこやとらねこ、また白ねこが、てぬぐいや風呂しきをかぶり、おもいおもいにおどっていた(これがねこじゃねこじゃのおどり)/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二三六
46 東京都中野区/―/―/不明/―/手ぬぐい頭へのせて、二本脚で立って踊る/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二三六
47 東京都調布市/弁天様の広場(百坪くらいの広さ)/暖かい日なたばっこ(日だまり)/(年寄り)/又兵衛、佐治兵衛、もっくり兵衛/集まって踊ってた/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二三六〜二三七
48 静岡県富士郡富士町/踊り場、猫山/―/ある男/三匹の猫/踊る/猫の踊(類話)/『集成第二部の3』
49 新潟県/(家)/(湯をもらいに行った帰り)/不明/―/尾っぽでペンカ チャンカ ペンカ チャンカいい音をさせる(三味線の音をさせる)/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二二五〜二二六
50 福井県福井地方/座敷/風呂からの帰り、一番始めの人が帰った時/おじいさん/家で飼うていた猫/豆しぼりの手拭をかぶって(歌い)踊る/猫の踊(原題・猫の踊)/『通観第11巻富山・石川・福井』二三七
 伝承地(伝承者名)/場所/時間/ことの次第を見た人/踊った猫/踊る様子/話型/備考
51 福井県敦賀市/永覚寺の庭/ある月夜に住持の西念が小用に起きたとき(夏)/住持の西念/近所の飼い猫たち十数匹/手拭いで頰かむりをして(歌い)踊っている/猫の踊(類話)/『通観第11巻富山・石川・福井』二三七〜二三八
52 石川県小松市布橋町(女)/山のとある家/栗拾いの時期の夜/猫ども、鳥越のとじの伊助/猫ども(てんでに歌う)/猫どもは何やらてんでに歌いながら踊る(夜明けまで)/猫山(原題・猫の恩がえし)/『通観第11巻富山・石川・福井』二三八〜二三九
53 石川県金沢市無量寺町/―/―/不明/甚兵衛の三毛猫/文言を言いながら踊る(歌っているのか)/猫の踊(類話)『通観第11巻富山・石川・福井』二三七
54 石川県羽咋郡富来町/(家) | 黒島の浜/朝 | ―/ | /赤猫の男猫/子供のちいちゃい着物を着て踊って見せた | (道に迷ったのち)黒島の浜で踊った/猫の踊(類話)/家での場面と黒島の浜の場面の二部構成 | 『現代民話考10』二三八〜二三九
55 京都府与謝郡伊根町本庄宇治(女)/寺(釜のあるような場所)/留守をしている時/小僧/寺で飼っていた三毛猫/うたって踊る/猫の踊(類話)/『通観第14巻京都』一五〇
56 大阪府泉北郡忠岡町/工場隣の馬瀬屋の庭/―/工場のみんな/馬瀬屋の猫/ほおかむりをして踊る/猫の踊(類話)『現代民話考10』二三九〜二四〇
57 岡山県御津郡今村/(山寺)/和尚のいない留守の時/飯炊爺/山寺の猫/文言を言いながら踊る(歌っているのか)/猫の踊(類話)/『集成第二部の3』 | 『大成第7巻本格昔話六』
58 鳥取県東伯郡/(寺の庭)/夜/和尚/飼猫/草履をはいて白い手拭で頰かぶりをして歌って踊る/猫檀家(類話)『大成第6巻本格昔話五』
59 鳥取県東伯郡赤碕町大父(男)/矢田じ所の寺/―/てんぽろりんの和尚/てんぽろりんの猫(その他の猫たち)/猫が集まって踊る。中でも、別所のてんぽろりんという寺の猫が上手(に踊る)/猫檀家(類話)/『大成第7巻本格昔話六』
60 鳥取県東伯郡赤碕町大父(男)/(寺の庭か)/―/てんぽろりんの和尚/てんぽろりんの猫/和尚の草履をはき、手拭いをかぶって、歌をうたって遊ぶ/猫檀家(類話)/『大成第7巻本格昔話六』
 伝承地(伝承者名)/場所/時間/ことの次第を見た人/踊った猫/踊る様子/話型/備考
61 鳥取県東伯郡東伯町別宮(男)/山のなる(平坦なところ)/夜/和尚/飼猫の「三吉」/和尚さんの衣着て歌って踊る/猫檀家(原題・転法輪寺の猫檀家)/『大成第7巻本格昔話六』
62 島根県隠岐郡西郷町/(有木と東郷の村境をすぎた)山道/(隣村の盆踊りに出かけた帰り)夜も更けて/隣村の東郷の若い者が五、六人/猫が、五、六匹/盆の一六夜のお月の光を浴びながら手拭で頰被をしながら輪をつくりつつ盆踊りをしている/猫の踊(類話)/『現代民話考10』二四〇〜二四一
63 愛媛県上浮穴郡久万町/―/(家に戻った時)//―/三毛猫が踊りよる/猫の踊(類話)『現代民話考10』二四一
64 大分県速見郡中山香村/―/(夫婦がいない時か)/塩売り/猫(飼い猫か)/火起しかついで踊る/猫の踊(類話)/『集成第二部の3』 | 『大成第7巻本格昔話六』
65 熊本県玉名郡南開村/家(向側や坐つとつた)/御亭どんの山仕事へ出て行かした後/御亭どん/猫(飼っていた猫)/(若か善か聲で歌う)/猫の踊(原題・猫の踊)/『集成 第二部の3』 | 『大成第7巻本格昔話六』
66 熊本県/阿蘇の根子岳麓の猫屋敷/―/不明/灯心油をなめたりする年取った猫(全国から)/踊る/猫山(類話)/『現代民話考10』二四二
67 琉球(現鹿児島県)大島郡喜界島/家/留守番時/不明/飼猫/ふびにやべーという八月踊の歌をうたって聞かせる/猫の踊(類話)/『集成 第二部の3』 | 『大成第7巻本格昔話六』
参考 千葉県市川市原木/縁の下/―/(話者)/トラ/頭に手拭いをかぶって、肩にハタキをかつぎ、二本足で立った猫が十何匹か、トラを大将に「兵隊ごっこ」をしている/―/『現代民話考10』二四一〜二四二
○ 備考の『集成』は『日本昔話集成第二部の3』一二四七〜一二五二、『大成』は『日本昔話大成』第6巻本格昔話五 六二〜七八と同第7巻本格昔話六 三八〜四四、『通観』は『日本昔話通観』で頁はそれぞれ注記に記し、『集成』や『大成』にあり『通観』にもあるものは『通観』を省略した。※注 『通観第6巻山形』二一六で「典型話にほぼ同じ」とされ詳細までは分からない。 
この表は、「踊り歌う猫の話」のモチーフ(猫の行為)である「猫が人語する」「猫が歌う」「猫が踊る」の三点を基に、当該猫が踊った場所、時間、ことの次第を見た人、踊った猫、踊る様子を列記し、踊った猫に対する情報や踊る様子をまとめたものである(3)。対象となる話は67 話あり、この内、場所が判明する話では家屋内が17 話(家、部屋、炉辺、炬燵のあるところ、囲炉裏のそば、土間、座敷、向こう側に座っていた、など)と一番多く、次いで原・あるいは地名を含む原が7 話(館鼻【地名】、原っぱ、森戸原【地名】、中田の踊り場【地名】、石川の原、山のなる【平坦なところ】)、山が6 話(山、裏山、山の中、中田【地名】の山、踊り場・猫山)、寺が5 話(慈眼寺の前、永覚寺の庭、釜のあるような場所、矢田じ所の寺)、庭や家屋外の敷地内が4 話(家のくるわの柿の下、屋外、石臼のそば、工場隣の馬瀬屋の庭)、墓地が3 話(お寺の墓の広場、墓地、自性院のはかばの一本のいちょうの木のあたり)、以下、明神様、鎮守様、岩倉の観音さま、薬師堂の中、機神様、猫の寄合い場所(大師の田町とかどことか)、竹やぶの中、弁天様の広場(百坪くらいの広さ)、黒島の浜、阿蘇の根子岳麓の猫屋敷となっている。時間帯では厳密に何時と判明するものは少なく、朝、夕方、夜、月夜の晩などといった説明となっており、その中でも夜の時間帯が19 話(晩、夜中、宵のうち、など)と一番多く、朝や夕方がそれぞれ2 話となっている。また一年のうちの何時の時期かが判明するものでは盆、夏祭り、栗拾いの時期、正月などとなっている。
ことの次第を見た当事者がどのような状況だったかは、留守番時が12 話、ことの次第を見た当事者以外が出かけた時が4 話で、他には飯を炊いている時、寝所に入った後、風呂からの帰りなどとなっており、ことの次第を見ていた人では、安西六左衛門や彦さん、伊助といった実名を挙げたものも含む男が10 話(魚屋の女の子の兄、若い者5、6 人、小僧、など)と一番多く、次いで僧が8 話(和尚、坊さま、など)、爺が7 話(徳おじい、つれあいのおじいさん、祖父、など)、娘や嫁、姑といった女性が5 話(子守と女中、など)、婆が2 話、魚売りや塩売りが2 話となり、その他にも、隣人や度胸のある(見に行った)人などとなっている。またことの次第を見た当事者が複数という場合は、爺と婆、子守と女中、隣村の東郷の若い者が5、6 人の、3 例だけであとは当事者が一人きりという設定になっている(4)。 
(3) 描かれた「猫」
拙稿「「踊り歌う猫の話」に歌が組み込まれた背景―「猫じゃ猫じゃ」の歌を事例に―」では、「踊り歌う猫の話」の話中、「猫」と当事者が一対一になることが怪談狂言の「猫騒動物」の影響や(小林 2008:235)、 「猫騒動物」の影響を受けた「猫じゃ猫じゃ」の歌を話に組み込むといった間接的な歌舞伎演出との関係性(5)(小林 2008:241)、「踊り歌う猫の話」のステレオタイプと、時期設定や場所、猫が歌う・踊るなどの設定が同一であることなどを論じた(小林 2008:242)。このように「踊り歌う猫の話」は歌舞伎演目である「猫騒動物」との関係性が指摘できるわけだが、では歌舞伎役者を描いた錦絵(役者絵)にも「踊り歌う猫の話」と「猫騒動物」との関係性や、「猫が踊る」という通念的で一般性をもった特徴などが描かれているのであろうか。
まず、V章(2)項でまとめた表1 より、「踊り歌う猫の話」に表れた「踊る猫」がどのように説明されるのかを見ていこう。「踊る猫」自体の呼ばれ方や色柄を基とした種別(以下、種別)などについては、単に「猫」や「古猫」とされる話が多いなか、飼い猫と判明するものが多く、「チャコ」「ミケ」「ミー」「ブチ」「又兵衛、佐治兵衛、もっくり兵衛」「三吉」など猫の名前が判明するものや、飼っている家や寺の名前で呼ばれるもの(伊藤さんの、華蔵院、からかさや、てんぽろりん、など)となる。これらの名前は、茶色の猫で「チャコ」や三毛猫で「ミケ」といった種別や「ミー」といった鳴き声から付けられた名前、飼っている人や家の名前がそのまま「踊る猫」に付けられたなどと考えられる。種別としての「踊る猫」を見ていくと、ただ単に猫とされるものが多い中、判明するものでは三毛猫が7 話、虎猫が7 話、赤猫1 話(名前から判断したものを除く)となる。
踊る様子としては、ただ踊るとするものや歌いながら踊るとするものが26 話(猫踊り、集まって酒飲んで踊ってた、集まって木の下で踊り踊る、猫じゃ踊り、など)と多い。この踊る様子の説明としてただ踊る・歌いながら踊るとする以外では、手拭いを用いて踊るとするものが多く24 話となり、その内、手拭いなどを頰被りする話は22 話(ほかぶり、手拭いをとって、頭巾帽をかぶり、ほっかぶり、ほおかむり、袋をかぶって、手拭のっけて、など)もある。手拭い自体の説明では、ただ手拭いとするものがほとんどで、豆絞りが2 話、赤手拭、白い手拭いとするものがそれぞれ1 話である。また「着物を着ている」や「頭巾帽をかぶる」、「草履をはく」など、衣類を身に着けていたとする説明が9 話(着物、僧の衣、ちゃんこちゃんこ、あぶらいさん、など)となる。
どのように踊っていたかの説明としては、人間のように二本足で立って踊るとするものが4 話(前脚あげて後脚ついで、手拍子足拍子おもしろく、後足でたって前足で踊ってる)となる。これだけを見ると「踊り歌う猫の話」での「踊る猫」の踊る様子は、人間の様態を模して二本足で踊るといった直接的な表現の事例が少ないように見える。しかし、「笠をもって」とか「火起しかついで」といった表現、また、「茶釜の蓋、金火箸を持ち出して」や「笛を吹いたり」、「太鼓をたたく」などといった楽器類の演奏の表現など、これらのいずれも間接的に手(前足)を使ったと考えられる表現が8 話もあり、直接的に二本足で立って踊るとするものと合わせると12 話になることから、どのように踊っていたかの説明については、二本足で立って踊るとすることが特徴であるといえるであろう。
そもそも「踊る」という言葉が音楽に合わせて拍子を取りつつ身振り手振りで動くということの意味を持つことを考えれば、「猫が踊る」といった場合、二本足で立って踊ることが想起されるわけであるから、これら直接・間接的に「二本足で立って踊る」とする表現以外の場合でも二本足で立って踊っていたとすることは暗黙の了解であったとも考えられるであろう。
これら「踊る猫」の数が二匹以上と判明するものは17 話となっており、複数の「踊る猫」の場合では、祭や酒盛り、盆踊りといった様相を呈しているのが特徴である。
次に錦絵に表れた「猫騒動物」の「踊る猫」の描かれ方について、「猫が踊る」ということの歌舞伎演出の具体的な事例である操りで猫の人形を動かす場面の演出を表した錦絵(図8、10、18)を例に見ていこう。
U章図8 では下段に猫が二匹踊っている。ここでの「踊る猫」は、二匹とも白地に赤い染め抜きの模様が描かれた手拭いを頭に頰被りに被っている。踊り方は右の猫が両手(両前足)を上げて、また右足(右後足)も上げて踊り、左の猫は左手(左前足)を上げて左足(左後足)も上げている。種別は二匹とも白・黒・茶の三色に柄が分かれているところから三毛猫と考えられる。しかし、これらはただの三毛猫ではなく、尾の部分が二股に分かれているいわゆる「ネコマタ(猫又)」といわれる猫の妖怪化した姿の典型とされる様態である。ネコマタとはまさにこの尾が二股に分かれているところから付いた名前とされるが、「マタは爰(さる)というのが多いが、この名も徳川時代には消えてしまった。ただネコマタだけが残った。マタとは猿や山猫のように身体の自由がきいて、木を巧みによじるものを言ったものであろう。それが段々変化してネコマタだけが残ったものらしい。ネコマタのマタは尾が分かれているからなどというが疑わしい。マタは重複の意で年老いて変わったものと見るのがよかろう」(日野 2006:158︲159)ともいわれる。ともかく、ここではいわゆる「化け猫」を表しているといった程度に留めておき、歌舞伎の演出上でも錦絵の描写としても、尾が二股に分かれている猫は「この錦絵の中で踊っている猫は化けた猫だ」ということを認識させるものであったとだけしておこう(6)。当然、このネコマタを表す「尾が二股に分かれている猫」が「猫騒動物」に関する錦絵でも描写されているということは猫の妖怪化したことを端的に表すためだと考えられ、特に図8 では二匹の「踊る猫」のいずれにも二股の尾という描写がされていることが特徴といえるであろう。
   図21 図8 を拡大
   図22 図8 をトレース
   図23 図10 を拡大
次にU章図10 では、左側下段に猫が三匹踊っている。ここでの猫は右手前に手拭いを被った猫(図24)、真ん中に正面を向いた猫(図25)、左手前に右手(右前足)を出した猫(図26)が輪を描くように踊っている。それぞれの踊っている様子を見ていくと、まず図24 の猫は、図8 と同様な白地に赤い染め抜きの模様が描かれた手拭いを被っている。しかし、ここでは図8 とは違って頰被りではなく手拭いを頭に掛けた状態であり、前や顎下で手拭いを縛ってはいない。踊り方は左手(左前足)を図26 の猫に向けて横に広げたような形をとり、両足(両後足)を少し広げている。種別は茶色の縞模様でトラ猫といわれる猫かと考えられる(7)。また、図24 の猫も図8 の猫と同様に、尾の部分が二股に分かれているところからいわゆる「ネコマタ(猫又)」を表している。
図25 の猫は、これまでの「踊る猫」とは違い手拭いを被っておらず、また衣類等も身につけていない。踊り方は図24 の猫のように左手(左前足)を図24 の猫に向けて横に広げたような形をとり、右手(右前足)を頭の上にかざすような形をとっている。両足(両後足)は図24、26 の猫と重なりよく見えないが左足(左後足)先が図24 の猫の右足(右後足)の横から少し見えており、猫が踊る真ん中で飛び跳ねているといった可能性が考えられる。種別は茶色の縞模様でトラ猫と考えられる。
   図24 図10 をトレース1
   図25 図10 をトレース2
   図26 図10 をトレース3
   図27 図18 を拡大
因みに黄色から赤褐色の猫はその色味に応じて黄色ならトラで赤っぽい場合はアカ(赤)猫とも呼ばれるが定義自体が色という主観的な判断によることから断定はできない。ただ、この図10 の三匹の猫のうち図25 の猫は、図24 と同じような色合いだがより濃い黄色・赤褐色ともいえ、比較的アカ猫に近いかと考えられる。また、尾の部分は正面を向き前二匹の猫に重なっているため描写が無い。
図26 の猫は図25 の猫と同様に手拭いや衣類等をつけていない。踊り方は右手(右前足)を図24の猫の方に伸ばす、あるいは自分の前方に出すという形をとっているが、左手(左前足)は自分の体で見えない。足は左足(左後足)を上げた状態で片足立ちをしている。種別は白・黒・灰色の三色の柄に分かれているところから三毛猫と考えられる。尾は極端に短く丸まった形をしている。
U章図18 では、右側中段の子供の後ろで猫が踊っている。ここでの猫はこれまでのいくつかの猫と同様に手拭いや衣類等を着けていない。踊り方は両手(両前足)を上げた状態で前の子供と同じように踊っている。これは、これまで見てきた例では図25 の猫の踊り方に近い。足については、前面の子供の影になっていて描写が無い。種別は白地に黄色の斑模様でブチ猫といわれる猫かと考えられる。
では、これら描かれた「踊る猫」と「踊り歌う猫の話」に表れた「踊る猫」との比較を検証してみよう。まず「踊る猫」の種別について、「踊り歌う猫の話」では、「猫」や「古猫」とされる話が多いなか、「チャコ」「ミケ」「ブチ」といった名称として分かる種別や、直接的に表現された記述から種別がある程度判断できた。描かれた「猫」では、「三毛猫」(図8)、「トラ猫」(図10)、「アカ(赤)猫」(図10)、「三毛猫」(図10)、「ブチ猫」(図18)となり「踊り歌う猫の話」の「踊る猫」と共通している。踊る様子については、「踊り歌う猫の話」では、ただ踊る・歌いながら踊るとするものが多いなか、手拭いを用いて踊るとするものが多く、その内、手拭い(手拭い、豆しぼり、赤手拭、白い手拭い)などを頰被りすることが多かったがどのような手拭いなのかという説明は少なかった。また着物を着ているなど、衣類を身に着けていたとする説明があった。描かれた「踊る猫」では、手拭いを頭に頰被りに被っている(図8)、手拭いを頭に掛けた状態(図10)となり、描かれたすべての「踊る猫」ではないが手拭いを被る(掛ける)ことが確認できる。しかし、衣類を身に着けている「踊る猫」はいない。どのように踊っていたかについては、「踊り歌う猫の話」では、二本足で立って踊るとするものが多く、また、複数の猫が踊っていたとするものもあった。描かれた「踊る猫」では、図18 以外のすべてにおいて二本足で立って踊っていることが確認でき、手(前足)や足(後足)を上げて踊っていること、また、図18 以外のすべてで複数の猫が踊っていることも確認できる。とくに図10 は輪を描くように描写されているところから、「踊り歌う猫の話」の複数の猫による盆踊りの様相に近いと考えられる。
このように「猫騒動物」に関する錦絵での「踊る猫」の描かれ方は、衣類を身に着けていた以外、種別や踊る様子など「踊り歌う猫の話」での説明とほぼ共通していると確認でき(8)、「踊り歌う猫の話」での「踊る猫」を可視化した場合はこの描かれた「踊る猫」に近かったといえるであろう。このことから「踊り歌う猫の話」で説明が少なくどのように踊っていたかが分かりにくかった踊りの所作は、描かれた「踊る猫」の所作のような手(前足)や足(後足)を上げて踊っているという踊り方に近かったと想定できるであろう。
またこれはV章(1)項でも確認した、「猫が踊る」ということが人々に素地として定着しており通念的で一般性を持っていたと考えられることから、この「猫騒動物」に関する「踊る猫」の描かれ方が、その当時の可視化した「踊る猫」のイメージに近かったといえるであろう。この「踊る猫」が手拭いを被るということは、安永5 年(1776 年)の鳥山石燕『画図百鬼夜行』「猫また」にも描かれており、江戸時代中期ごろにはすでに手拭いを被って踊る猫というイメージが定着している可能性がある。  
■おわりに
これまで見てきたように、「猫騒動物」に関する錦絵の「踊る猫」の描かれ方は、基本的に「踊り歌う猫の話」での説明に近く、実際の「猫騒動物」の演出である指人形のように演者が手を入れて動かす抱き猫や、操りで猫の人形を動かすといった演出でも、昔話・伝説といった民間伝承に基づく猫のイメージを採用していたということが確認できた。このことから「踊る猫」と言ったときに人々が連想したイメージは錦絵に表された「踊る猫」であったともいえ、転じて「猫騒動物」での演出でも、「踊り歌う猫の話」を基とした小道具や踊り方などに近い演出をしていた可能性が考えられる。
「猫騒動物」の歌舞伎の演目を直接観覧した人々、またT章にて確認した錦絵などにより、「猫騒動物」の「踊る猫」は広い地域に情報が流布していたであろう。中でも錦絵は、大きさや軽さ、数量的に非常に流布しやすく、多少の時間差はあれども、江戸(東京)で流行った歌舞伎の演目の相当詳しい情報を地方にも伝える道具であっただろう。ともあれ、それらは「猫騒動物」の「踊る猫」でもあったが同時に「踊り歌う猫の話」の「踊る猫」でもあり、もっと包括的な意味での「踊る猫」でもあったのである。つまり、錦絵に見られるような「踊る猫」の視覚的イメージは江戸であろうと地方であろうと、また、歌舞伎演目の「猫騒動物」の「踊る猫」や、「踊り歌う猫の話」の「踊る猫」であっても、人々は共通した猫の像を想像したのである。
   図28 「 荷宝蔵壁のむだ書」国芳 出版 嘉永元年頃
   図29 図28 を一部拡大
錦絵のなかでも役者絵とは違うジャンルからも1 点だけ例を挙げて見てみよう。
嘉永元年頃(1848 年頃)の猫好きの浮世絵師で有名な歌川国芳による「荷宝蔵壁のむだ書」に描かれた猫の絵を見てみると三毛猫かあるいはブチ猫のネコマタの猫が手拭いを頭に掛け両手(両前足)を横に広げた絵が描かれている。猫の周りに歌舞伎役者の絵が描かれていることからも分かるように国芳が「猫騒動物」を見て描いた可能性があるが、水野政権下の出版統制の中、壁の落書きを写したものとして落款や版元まで落書き調で描いているという筆致から、文字通りの落書きやスケッチのようなものとして描いたと考えた方がいいだろう。落書きやスケッチといったラフなタッチで(わざと)描いたとしても「踊る猫」といった時に描く特徴が、この絵に端的に表れているといえるであろう。ここでは、手拭いを頭に掛けて二本足で立って踊る猫(ネコマタ・三毛猫・トラ猫・アカ猫・ブチ猫など)が描かれており、これまで見て来たような「踊る猫」に近い特徴を持っていることが確認できる。
渥美清太郎・坪内逍遥編『歌舞伎脚本傑作集第六巻 南北』(大正10 年【1921 年】春陽堂)での「獨道中五十三驛」の解題では「南北も、猫の怪を思いついたものの、どんな姿にしたものかと迷っていた時、隣家の猫が、官女を描いた錦絵を咬えて、偶然座敷へ入って来たので、それから十二単衣の姿を思いついたのだという話が残っている」と書かれている(渥美 2007b:33)。また、当時大流行であった『東海道中膝栗毛』からヒントを得、その東海道五十三駅を舞台面に応用するという趣向は、この作品が初めてのものであり、主人公の弥次喜多を作中に組み込んだ作品とした。これらのことから、南北は当時の『東海道中膝栗毛』の流行や自分の発想などを活かした脚本として『獨道中五十三驛』を作り上げたといえる。しかし、横山泰子は「怪猫に扮する菊五郎・『獨道中五十三驛』」の中で「怪猫劇の祖源」(『歌舞伎研究 第二五号』)の藤沢衛彦の「怪猫劇の構成は、民間発達の怪猫伝説に筋をとるところに一つの形式が認められる」という考え方に学びつつ歌舞伎演目の猫騒動物を考えたいとしている(横山 2007:40)。横山が飽く迄「考えたい」として断定を避けたのは、この解題や『東海道中膝栗毛』の影響などがあったためであろう。しかし、これまで本稿で見てきたように、「踊り歌う猫の話」の「猫」と「猫騒動物」を描いた錦絵の「猫」との間に相当数の共通性が見出されたことにより、横山の意見や横山の基層にある藤沢の「民間発達の怪猫伝説に筋をとる」は、「踊る猫」についての部分だけでも証明され、「猫騒動物」に関する錦絵は、拙稿での「猫じゃ猫じゃ」の歌の様に、昔話・伝説に表れる「猫」に影響を与えたのではなく、むしろ、「踊り歌う猫の話」を基に錦絵を描いていたといえるであろう。これは作者である鶴屋南北が、さまざまなアイディアから『獨道中五十三驛』を作り上げた演出の中でも、「踊る猫」の部分だけは昔話・伝説の「踊る猫」という通念的で一般性を持ったイメージからその演出を作り上げたことを証明しているのである。 

( 1 ) この『獨道中五十三驛』は、文政10 年(1827 年)6 月河原崎座初演、鶴屋南北の作品で、五十三段返しという素早い動きが要求される大道具転換のなかに、弥次喜多や白井権八などおなじみのキャラクターを登場させるという奇抜な趣向を盛り込んだ作品である。
( 2 ) 『日本昔話集成 第二部の3』〔関1955a pp。 1247︲1252〕、『日本昔話大成 第6 巻本格昔話五』〔関1978b pp。 62︲78〕、『日本昔話大成 第7 巻本格昔話六』〔関1978c pp。 38︲44〕、『日本昔話通観』(稲田・福田、以下略)では『日本昔話通観』(1982『第2 巻 青森』、1982『第5 巻 秋田』、1986『第6 巻 山形』、1985『第7 巻 福島』、1986『第8 巻 栃木・群馬』、1988『第9 巻 茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川』、1984『第10 巻 新潟』、1981『第11 巻 富山・石川・福井』、1980『第13 巻 岐阜・静岡・愛知』、1977『第14 巻 京都』、1977『第15 巻 三重・滋賀・大阪・奈良・和歌山』、1978『第17 巻 鳥取』、1978『第18 巻 島根』、1979『第19 巻 岡山』、1979『第20 巻 広島・山口』、1978『第21 巻 徳島・香川』、1980『第23 巻 福岡・佐賀・大分』、1980『第24 巻 長崎・熊本・宮崎』、1980『第25 巻 鹿児島』)、『現代民話考 10 狼・山犬・猫』〔松谷 1994 pp。 221︲249〕から、表1、「踊り歌う猫の話」、踊る猫一覧を作成した。他にもさまざまな昔話集や民俗学系統の雑誌、地方自治体史などにも数多く報告されているが、ここでは『集成』『大成』『通観』『現代民話考 10 狼・山犬・猫』のみを対象とした。
( 3 ) 拙稿「「踊り歌う猫の話」に歌が組み込まれた背景―「猫じゃ猫じゃ」の歌を事例に―」の「表1「踊り歌う猫」話一覧」に『現代民話考 10 狼・山犬・猫』を加え、更に「猫が踊る」に該当する話をまとめたもの(小林2008:236︲241)。参考は「踊る猫」の事例ではないが手拭いを被り行動をしたというバリエーションということで挙げた。
( 4 ) 「「踊り歌う猫の話」に歌が組み込まれた背景―「猫じゃ猫じゃ」の歌を事例に―」では「これら「踊り歌う猫の話」に共通することは、歌や踊りを見る(見せられる)という当事者の人間は必ず一人であり、偶然見てしまう場合や意図を持って聞かせる場合でもそれは共通している」(小林 2008:233︲234)としたが、『現代民話考 10 狼・山犬・猫』から「踊り歌う猫の話」を抽出しそれまでの資料と共に今回再考察した結果、当事者の人間は必ずしも一人ではないという事例があることが判明した。しかし、その数は3 例と少なく概要としては内容が大きく変化するものではないと考えられるが検証が必要である。今後の研究課題としたい。
( 5 ) 例えば「猫じゃ猫じゃ」の歌詞にある「猫が十二単衣を着るといな」は、『獨道中五十三驛』の十二単を着た猫の宙乗りの場面から着想を得て作られた歌詞である(小林 2008:241)。
( 6 ) 表1 では直接ネコマタと表される事例はない。しかし、化け猫の特徴として挙げられる「年をとった猫」という表現はいくつか確認できるところからネコマタを想起させる素地はあったとできるであろう。このネコマタと「猫が踊ること」についての考察は今後の研究課題としたい。
( 7 ) 尾の先は灰色から黒っぽい色であるが、体全体の色からトラ猫と判断した。
( 8 ) 「踊り歌う猫の話」に表れた「猫」では衣類を身に着けていた事例が確認できたが、描かれた「猫」では確認できなかった。これは「踊る猫」を操っている老婆が十二単を着ているところから着想されるイメージが「踊る猫」に融合していったとも考えられる。この衣類を身に着けていた猫が踊ることについての考察は今後の研究課題としたい。 
 
日光東照宮の眠り猫

 

眠り猫
制作年 不明 (推定:江戸時代初期)
作者  不明 (社伝:左甚五郎)
眠り猫の場所と眠り猫とは?
日光東照宮の彫刻の中で、三猿の他に有名な彫刻は何と言っても「眠り猫」です。この眠り猫はなんと!国宝の指定を受けているほどの彫刻でもあります。「眠り猫」とは、東回廊の出入り口部分の蟇股(かえるまた)に彫られた彫刻のことです。蟇股とは、建築部材の1つで、屋根の加重を支えるための部材の1つでもあります。
この眠り猫は、伝説の彫刻家と伝わる「左甚五郎」が制作したとされる彫刻です。しかし、本当に左甚五郎の作品かどうかは、現代においても定かではありません。
左甚五郎とは? / 江戸時代に実在したとされる、伝説的な彫刻家です。左甚五郎が彫った彫刻には魂が宿ると言われ、夜な夜な彫刻が動き出すといった、奇怪な噂が立つほどの腕を持った彫刻家だったと言われています。
「眠り猫」は、1608年(元和4年)に造営された東回廊奥、坂下門に据えられています。
眠り猫の意味
眠り猫の彫刻の裏側には、なぜか「雀の天敵である猫の彫刻がある」
実は、この眠り猫の彫刻の裏側には「雀(すずめ)の彫刻」が据えられています。
しかしこれは何とも滑稽な話だと思いませんか?天敵であるはずの猫(眠り猫)の裏側に、なぜか雀が据えられているのです。この理由は、猫が起きていれば雀は食べられてしまいますが、猫が居眠りしていれば雀と共に共存しているという平和の願いが込められているのだ、と云われています。
つまり、「警戒心の強い猫すらも安心して眠りに付ける世の中の到来」を意味し、さらに「天敵である猫が眠っている時にスズメが安心していられるように、弱い者も安心して過ごせる世の中である」といった深い意味合いがあるようです。
これはすなわち「猫が眠りに付くほど、徳川幕府(江戸幕府)の時代が平和であり、この平和が末永く続くであろう」という意味も込められていると云われています。
神社や寺の建物には、鳳凰や龍、麒麟などの伝説上の聖獣、そして鶴や亀、獅子や虎などの彫刻が施されることは多いものの、猫の彫刻というのはあまりありません。
さらに、眠った猫ともなると、非常に珍しい例であると言えます。
これには、猫と雀を対にすることによる、このような理由があったということです!
一説では眠っているフリをして薄目を開けて警戒しているとも
奥宮(奥社)の入り口にある眠り猫の彫刻は蟇股に彫られた小さい彫刻ですが、小さいながらも実は、いつも主人(家康公)が永眠する奥社を守護しています。
この場所に猫の彫刻があるのは、「これより先は神聖な場所であるから、不浄なものはネズミ一匹たりとも通さない」ということを表すためだとも云われています。
さて、眠り猫をよく見ると目を閉じているようにも見えますが、そもそも猫という動物は、寝ていても身を守るために常に耳を澄まし俊敏な動きで危機を回避する習性を持っています。
つまり、この眠ったようなスケベ目な薄目の猫を据えることで、一説では家康公を守護しているとも云われています。
ちょっと、眠り猫をよく見てください。
前足は踏ん張っている姿にも見えます。これは主人の墓に近づく妖しい者には、いつでも飛びかかれる警戒の姿勢をとっているとも受け取れます。
まるで家康公を守っているように見えませんか?
2016年の修復作業で「眠り猫の目が開いた?!」
日光東照宮では、平成の大修理が平成9年から執り行われ、境内の老朽化した建造物などが修理の対象となりました。
そしてこの眠り猫もいよいよ2016年6月に修理されることになり、一旦、この坂下門から取り外されました。
その後、2016年11月に坂下門に戻ってきましたが、よく見ると..ぬぅあんと!「薄目で少し目が開けられた状態」で戻ってきたそうです。
この目が開いているという事実は、飾られてから1ヶ月半経た後に判明したそうです。
目が開けられた理由としては、参照した大正・昭和期の図面の目の部分が黒で塗られているのを見た彩色担当者が、目の中心部分の黒さを強調し、更に周りを灰色にしたため、目が開いたようになってしまったということでした。
江戸期以降、近代まで一説では「眠り猫の目は主人(家康公)を守るため薄目で少し開いていた」という説があるのは事実ですが、確証があるわけではありません。
このため、「薄目を開いた眠り猫」は、判明後、すぐに再修理に出され、現在は従来通りの眠り猫が据えられています。
日光東照宮の中の立て看板の謎
眠り猫の手前、東回廊の入口には看板が立てられています。
この看板には・・「牡丹の花咲く下に日の光を浴びて子猫が転た寝しているところで日光を現わす絶妙の奥義を秘めている」と書かれています。
この意味は、「ぼたんの花に囲まれ、日の光を浴びて、うたた寝をしている姿のため、”日の光=日光”に因んで彫られた」と解釈することができます。
東照宮の中にはさまざまな動物の彫刻がありますが、この眠り猫は「恒久平和を象徴している彫刻」と解することができます。
謎に包まれた伝説の大工「左甚五郎」
上述では、少し左甚五郎について触れましたが、実はこの左甚五郎という大工は、一説では「存在しない」と云われています。
しかし、日光東照宮の創建に関係した古文書によると、確かに「左甚五郎」という名前の記載があるようです。
この左甚五郎という人物は、日本全国規模で神社や寺院の造営に携わっており、1600年頃から1700年頃の間に「飛騨・高山」「京都」「和歌山」「江戸」、そして日光と、幅広い地域に多数の意匠作品を残していることから、同時期に複数人存在していたとも云われております。
まさに、謎に包まれた人物ではありますが、その謎が思わぬ所で露見されることになります。
その場所とは1889年(明治22年)に、アメリカで行われた「世界博覧会」です。
この博覧会では日本文化を世界に紹介する博覧会として「左甚五郎」の彫刻が出展されることになりました。
しかし、展示物の由緒が不明なことから急遽、左甚五郎について調査されることになったのです。
そこで意外な事実が判明することになります。
まず、当時「左甚五郎」と名乗っていた彫刻師が確かに存在していたこと、そして左甚五郎の苗字「左」については、この人物が「左利き」であったことから「左」と名乗っていた、ということがわかりました。
さらに、この人物の出身地を調査すると、なんと!「四国の高松」に居住していた人物であることが判明しています。
日光東照宮と高松に居住の左甚五郎の関連性
しかし、ここで争点となってくるのが、なぜ左甚五郎が遠く離れた日光の地に居たのか?です。
実はこれにも理由がありました。
まず、甚五郎はこの当時、江戸幕府のお抱え大工の1人であった「平内大隅守正勝(ひらうちおおすみのかみまさかつ)」という人物の弟子になっています。
さらに、もう1人の幕府のお抱え大工であった「甲良宗広(こうら むねひろ)」の娘と甚五郎が、婚姻関係にあったことまでも判明しました。
つまり、これらの甚五郎の軌跡によって、日光東照宮の眠り猫が、紛れもなく巨匠・「左甚五郎」の作であるこということがわかったのです。
日光東照宮の彫刻制作に携わった後、左甚五郎は1651年(慶安4年)に高松で人生に幕を降ろしており、以後、甚五郎の子孫は松平家(徳川家)のお抱えの大工として繁栄を極めることになります。
しかし、「左甚五郎」という名前の襲名は4代目までで止まっており、その後、襲名されることはなかったと云われております。
つまりのところ、左甚五郎という人物が、複数にいたという説は、あながち間違いではないということになります。
実は東回廊自体が「立ち入り禁止」を示した建造物だった?!
東回廊の先には、家康公が眠りにつく奥宮(奥社)があり、その手前には上述の眠り猫があります。そしてこれはあまり知られていませんが、実は東回廊の入口に据えられた彫刻を通して「神域を示している」と云われています。
「鶴」の彫刻
眠り猫は東回廊の入口から入って奥の天井付近に据えられていますが、多くの人が眠り猫に注目するあまり、東回廊入口正面にも実は眠り猫同様の彫刻があることはあまり知られていません。
その彫刻とは、「鶴」が彫られた彫刻になります。
「鶴」は古来、「神の乗り物」として伝わっている霊獣でもあります。
蜜柑の彫刻
眠り猫の背面に雀(すずめ)の彫刻があるように、鶴の裏側には「蜜柑(ミカン)の彫刻」が彫られています。
このミカンは古来、常世の国(とこよのくに)の果物として伝わっています。
常世の国とは、海の水平線の遥か彼方にあるとされる伝説上の理想郷のことです。
これら鶴とミカンの彫刻から導き出される意味とは、「東回廊より奥は家康公が眠る神域である」ということであり、つまり、この先は何人たりとも入ることが許されない神聖な領域であることを示している、と云われています。 
 
四天王寺猫之門

 

四天王寺 大阪市天王寺区四天王寺
聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。
『日本書紀』に見る創建経緯
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。
四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。
以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。
『書紀』の推古元年是歳条には「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とあって、「是歳」が造営の開始を意味するものか完成を意味するものか定かでなく、めでたい「元年」を造営の年にしたものとも考えられている。ただし、四天王寺が推古朝にはすでに存在したことは考古学的にも確認されている。前期難波宮(難波長柄豊碕宮、大阪市中央区法円坂)の下層遺構から瓦が出土するが、この時代の日本において瓦葺きの建物は仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺の創建瓦とみなされている。したがって、孝徳天皇が前期難波宮に遷った7世紀半ば以前の推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことがわかる。四天王寺の創建瓦の中には、斑鳩寺(法隆寺)のいわゆる若草伽藍(現存する法隆寺西院伽藍の建立以前に存在した創建法隆寺の伽藍)の出土瓦と同笵の軒丸瓦がある。若草伽藍と四天王寺の同笵瓦を比較すると、前者の文様がシャープであるのに対し、後者は瓦当笵に傷がみられる。このことから、若草伽藍の造営が先行し、同伽藍の造営が落ち着いたところで、瓦当笵が四天王寺造営の工房へ移動したことがわかる。
四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である「若草伽藍」の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。
創建に関わる異説
当初の四天王寺は現在地ではなく、上町台地の北部に位置する玉造(JR森ノ宮駅付近)の岸上にあり、593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(鵲森宮の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしている)。また、建立の動機も、丁未の乱で敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため、とりあえず守屋の最後の拠点の玉造の難波邸宅跡(元大阪樟蔭女子大教授今井啓一は鵲森宮が難波の守屋の宅跡と推測する)に御堂を営んだ六年後、荒陵の地に本格的な伽藍建築が造営されたのだとされる。現四天王寺には守屋祠(聖徳太子の月命日22日に公開。物部守屋、弓削小連、中臣勝海を祀る)があり、寺の伝説には守屋が四天王寺をキツツキになって荒らしまわり、それを聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起がのこっており守屋らの社を見下ろす伽藍の欄干に太子の鷹の止まり木が設置されているなどから、御陵社の意味合いを推察する向きもある。
山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。例えば、大阪市住吉区にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」「小帝塚山」地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学の敷地内にあったと言われている。また、東高津宮は、仁徳天皇の皇居であるとする明治31年(1898年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。
現在の大阪市東淀川区豊里の東部は、もとは西成郡天王寺庄村といった。四天王寺の建立予定地であったという伝承による。
20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある。また、上記の『書紀』批判の記述とは別に、四天王寺は渡来系氏族の難波吉士(なにわのきし)氏の氏寺ではないかとの説もある。
四天王寺聖霊殿・猫之門
四天王寺の七不思議の一つ、左甚五郎作、猫の門の「眠り猫」は元日の朝に三聲鳴く。
猫が門番をしていったい何を守っているのだろうかというと、聖霊院内にある経堂に納められた経文を鼠から守っているそうです。
四天王寺は大坂の陣で焼失しましたが、徳川幕府によって再建されました。再建された「猫之門」のネコは名匠・左甚五郎の作であったと伝えられており、日光東照宮の「眠り猫」 と一対となって、大晦日と元旦に鳴きあったともいわれています。第二次大戦の空襲で焼失し、現在の猫の門は戦後、1979年に再建されたものですが、先代のネコは鼠の番をせず、夜な夜な花街へ遊びに出かけているとの噂がたち、困った寺に金網 をかけられた為に空襲の際に逃げられなかったという、面白可笑しく可愛そうな噺も。
左甚五郎の眠り猫といえば、日光東照宮が有名ですが、京山幸枝若の浪曲に左甚五郎「四天王寺の眠り猫」があり、大阪日本橋三丁目の大工棟梁吉兵衛宅に寄宿した甚五郎が岡山の名人松吉と北門に飾り付ける眠り猫の出来を競うお話。「戦災前は天王寺なる北門に残りあったる眠り猫正月元旦来たりなば、ニャンと一声鳴いたという誰が付けたかニャン門という」
猫之門は、四天王寺をはさんで石の鳥居と向き合っていること。四天王寺は四天王寺式と呼ばれる謎めいた伽藍配置をしています。門は南門のほかに東西にふたつ。伽藍は金堂と塔 とが南北に並んでいますから、東西ふたつの門の間に建物はない。つまり、この猫は四天王寺越しに石の鳥居を眺めている。まあ寝ているから見てないでしょうけど。石の鳥居は、夕日を拝むポイントですから、猫は毎日、夕日を拝んでいるわけです。逆に石の鳥居から四天王寺を拝めば、四天王寺ごしに猫を拝むことになります。まあ、猫を拝ん でいるわけで はなく、その後ろの太子堂つまり聖徳太子を拝んでいるわけです。 
 
鍋島の化け猫 1

 

佐賀県はかつての肥前国の東半分に当たる地域で、江戸時代は南部を佐賀藩(35万7千石)、北部を唐津藩(6万石)が統治していました。
佐賀藩は慶長7(1607)年、鍋島勝茂を初代藩主として成立。筑後川の堤防を築き、佐賀平野での新田開発を熱心に進めた結果、実質の石高は70万石以上に達していたとされ、九州でも有数の大藩となります。支藩が多かったため財政難に悩まされましたが、江戸時代後期には10代藩主の鍋島直正が藩政改革に着手。西洋技術を導入して日本発の鉄製大砲を建造するなど軍備を近代化し、明治維新の際には新政府の成立に大きく貢献しました。
その佐賀に伝わる恐ろしい話が、かの有名な「鍋島の化け猫騒動」です。
鍋島の化け猫騒動とは?
ある時、2代目藩主・鍋島光茂の碁の相手を務めていた家臣・龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたため惨殺されてしまいます。又七郎の母は恨みを口にしながら自害。この時に母の死体から流れた血をなめた飼い猫が化け猫となり、側室・お豊の方を食い殺して乗りうつり光茂に近づきます。それ以降、家臣が発狂したり、奥女中が惨殺されたりと、さまざまな怪異が発生。光茂も苦しめられますが、最後は忠臣が化け猫を退治して佐賀藩を救うという伝説です。
別のパターンでは、藩主は光茂ではなく父の勝茂とされ、化け猫が姿を変えた側室・お豊の方に取り殺される寸前まで追い詰められます。しかし、鍋島家の家臣で槍の名手である千布本右衛門がお豊の方の正体を見破って成敗。夜が明けると屋敷の庭には、槍で突かれた傷のある大きな三毛猫の死骸があったといいます。
もちろん化け猫騒動は事実ではなく、又七郎もお豊の方も実在の人物ではありません。この騒動の下地となっているのは、佐賀藩成立時に発生した鍋島家と旧主家の龍造寺家との間の権力闘争です。「鍋島騒動」と呼ばれたこの事件をモチーフに化け猫が登場する歌舞伎演目や講談がつくられ、大ヒット。当時の人々には、あたかも実際の出来事として記憶に刻まれたようです。
鍋島騒動の真実
史実では、猛将として知られた龍造寺隆信が島津家との合戦で敗死したのですが、跡取りの政家は凡庸でした。このため時の天下人だった豊臣秀吉は、龍造寺家の実権を握っていた重臣の鍋島直茂による肥前の統治を認めてしまい、主従逆転が生じてしまいました。この状態は江戸時代になっても解消されず、龍造寺一族は巻き返しを図ろうとして鍋島家と対立。結局、龍造寺家の再起はならなかったのですが、重臣も巻き込んだ争いに発展したことで佐賀藩内に深い傷を残したのです。
化け猫騒動は明らかにフィクションなのですが、佐賀県白石町の秀林寺には、なぜか、この騒動と関係するとされる「猫塚」があります。
塚の由来によると、化け猫を仕留めた千布本右衛門は英雄となったのですが、これ以後、千布家は男子に恵まれず、養子を迎えて代々の当主としていました。不審に思った7代目の千布久右衛門が、成敗された化け猫の怨念ではないかと疑い、尾が7本ある白猫の姿を描いた掛軸を作って毎年猫供養を営んだところ、男子が授かるようになって家系が続いたとのこと。
猫塚は明治時代初期に作られたもので、現在もキャットフードなどをお供えする人たちが絶えないそうです。飼い主の仇を討とうとした化け猫は忠義心に厚いともいえますが、ついにその目的を遂げることはできませんでした。こんなところが龍造寺一族と家来たちの無念の思いとつながっているのかもしれません。
猫塚(秀林寺)
秀林寺に「猫大明神」の祠があります。これは白石化け猫騒動に関係して、猫の供養的意味合いのものです。たいへん主人思いの忠義をつくしたネコだったのでしょう。
忠犬ハチ公ならぬ、忠猫コマといったところでしょうか。物語は以下のとおりです。
今から四百年あまり昔のことです。ある夜、佐賀藩主鍋島勝茂と又一郎なるものが碁をうっている最中、又一郎の様子がおかしくなったため、恐ろしくなった勝茂は又一郎を斬り殺してしまいました。又一郎が殺されたことを聞いた母親は、飼い猫のコマに「どうか息子の仇をとっておくれ」と言って自殺してしまいました。
その死体から流れた血をなめた飼い猫はどこかへ姿を消しました。
その事件のあと、勝茂は毎晩うなされるようになりました。勝茂の妾(側室)お豊の方の様子がおかしいのに気づいた千布本右衛門は、こっそりお豊の方の見張りをするため庭に隠れて待っていました。お豊の方が廊下を歩いてくると、なんと、白い着物のすそから先がいくつにもわかれ、うねうねと動く猫のしっぽがみえました。お豊の方が勝茂の部屋にはいると、うめき声と女の笑い声が聞こえ、障子に大きな猫の影がうつっていました。本右衛門は障子越しに槍で力いっぱい突き刺しました。真っ赤な血が障子に飛び散りました。そして障子をあけてみると爪と牙で槍をつかんだ大きな白い猫がたおれていました。
その後、千布家では男子が育たなかったので、化け猫のたたりではないかということになり、菩提寺の秀林寺に「猫塚」を再建、「猫大明神」としてまつりました。 
 
鍋島の化け猫 2

 

肥前佐賀城(佐賀市)は初代藩主・鍋島勝茂によって江戸時代のはじめに築城が開始された佐賀藩主・鍋島家の居城である。なお、この城は龍造寺家の居城・村中(龍造寺)城を改築、拡充したもので、龍造寺時代には幾度となく攻防戦の舞台となった。
ところで、佐賀城と鍋島家に関しては、化け猫騒動などというオカルトめいた御家騒動が取り沙汰されることが多い。その伝説は一般には──佐賀城内で龍造寺又七郎(又一郎)と囲碁を打っていた第2代藩主・鍋島光茂(勝茂の長男)が「待った!」「待たない!」で口論となった挙げ句、又七郎を斬り殺してしまう。実は、又七郎は鍋島直茂(勝茂の父)に家を乗っ取られた龍造寺家の子孫だったが、又七郎の老母は鍋島家に恨みを抱きつつ自害して果てた。その際、「私に代わって、鍋島家に祟って欲しい!」と言い残した老母の血を嘗めた飼い猫が化け猫となり、光茂を大いに苦しめたものの、忠臣の活躍でどうにか化け猫は退治された──といったストーリーで知られている。
さて、又七郎が実在の人物であるか否かはともかく、16世紀末期以降に豊臣秀吉、徳川家康が鍋島家を肥前東部(佐賀県)の大名と認めるに際して、次のような出来事があった。もともと、肥前東部の戦国大名は龍造寺隆信だったが、その隆信は天正12年(1584)の合戦で討死する。やがて、龍造寺家の一族、重臣は隆信の義兄・鍋島直茂を支持するようになった。そして、遂には病弱を理由に龍造寺政家(隆信の子)が隠居し、代わって直茂・勝茂父子が秀吉や家康によって大名と認められたのである。あまりのなりゆきに、直茂の養子になっていた若年の龍造寺高房(政家の子)は慶長12年(1607)に妻を殺害した上で自害し、1か月後に政家も病没した。のちに、高房の長男・伯庵らが訴え出たものの、江戸幕府は龍造寺家再興を認めてはいない。これより先、佐賀では、「白装束を身にまとった高房公の亡霊が、愛馬に跨がって城下に出没する……」などという真偽不明の噂話が広まった。そこで、時の藩主・勝茂は城下に天祐寺を建立して、高房ら龍造寺家歴代を手厚く弔ったと伝えられている。
要するに、龍造寺家の没落、鍋島家の権力掌握という段階で因縁めいたことが少なからずあったのだが、高房の亡霊、化け猫の出現に加えて、奇抜な設定──老母が猫に復讐を依頼する、老母の血を嘗めた猫が化け猫となる、化け猫が藩主の愛妾に取りつく──が大いに受け、以後も類似したストーリーの講談、新作歌舞伎が発表されている。
また、佐賀県白石町には先の忠臣の子孫が建立したという猫塚(猫大明神)があった。現存する秀林寺(同町)の猫塚は明治維新後に再建されたもので、石に化け猫をモチーフとしたかのような「七尾の猫」が彫られている。 
秀林寺の猫塚(猫大明神祠)
JR長崎本線の肥前白石駅から徒歩5分ほどと近いが、路地の奥にあって非常に見つけにくい場所に建つ秀林寺。その境内に猫塚(猫大明神祠)はある。
佐賀藩の御家騒動から発展した「鍋島の化け猫騒動」の物語は芝居や講談等で広く知られているが、それと似た話がこの地に伝わっている。いわく、佐賀藩の二代藩主である鍋島勝茂が白石の秀屋形に居た折、化け猫がお豊の方という妾となって命を狙っていたが、家臣の千布本右ヱ門によって退治されたのだという。ところがこれでめでたしめでたしとはならず、退治された際に「七代祟って一家を取り潰す」と言ったという化け猫の祟りによってか以来千布家は男子に恵まれず、他家から養子をとっていた。そこで七代目の千布家当主が七尾の白猫の姿を描いた掛け軸を作って猫を弔い毎年猫供養を営んだところ、男子の成人がみられ、家系は安泰に保たれたのだという。
現在秀林寺の境内にある祠は、元々猫の死骸を埋めた秀屋形の鬼門にあったという祠を、七代目の千布家当主が画像を元にして明治4年9月に再建したものだそうな。  
「化け猫塚」龍造寺と鍋島
体は人間なのに、行燈に映し出されたのは大きな猫の姿。「すわ化け猫か!、とりゃー!」というのが、江戸時代から演劇や講談などで語られてきた「化け猫」騒動ですね。
佐賀はこの化け猫騒動の中でも特に有名な「鍋島の化け猫騒動」の舞台となった地で、化け猫を祀った猫塚(猫大明神)が白石町の秀林寺に残っています。
事の発端は戦国末期、九州北西部の大半を支配した龍造寺隆信が島津との戦いに敗れて討ち死に、跡め争いの中で鍋島一族が龍造寺一族を排除して佐賀藩主となったお家騒動にあるようです。
鍋島化け猫騒動のあらまし
龍造寺隆信が島津との戦いで戦死したのち、龍造寺政家が跡を継ぐが病弱であったため隆信の義弟で重臣であった鍋島直茂が実権を掌握します。1590年には天下を手中に収め九州仕置を行った豊臣秀吉の命により、龍造寺政家が隠居させられ家督は子の高房が相続します。龍造寺高房は秀吉より所領安堵の朱印状を受け君主として認められましたが、鍋島直茂にも4万4000石、その嫡男である鍋島勝茂にも7000石の所領安堵を認めたのです。つまり、鍋島一族は国政の実質的な支配を承認され、大名並みの所領を与えられました。
秀吉の死後、徳川幕府も龍造寺家を無視して鍋島家の実質的な支配を認めていました。何の実権も持たず、お飾りの主君とされた高房は自分の立場に絶望して自害します。また、病弱であった隠居中の高房の父、政家も病死して龍造寺家の本家は断絶したかに見えました。しかし、龍造寺本家は断絶したわけでは無く、龍造寺又一郎(又七郎の説あり)が鍋島家の家臣として存命していました。
時が過ぎて二代佐賀藩主鍋島光茂公の時代、龍造寺嫡流の最後の生き残り龍造寺又一郎が光茂公の碁の相手を務めていました。又一郎はそこで光茂の機嫌を損ねてしまい、お手討ちとなってしまいます。その話を聞いた又一郎の母は無念の胸中を飼い猫に語って自害。その母の血を舐めた飼い猫が化け猫となり光茂公を苦しめたが、光茂公の家臣千布本右衛門が化け猫を退治し、鍋島家を救ったというお話です。
猫塚が建てられた経緯
化け猫騒動は1640年頃の出来事で、化け猫を仕留めた千布家はなぜか男子に恵まれず代々の当主は全て他家から迎えていたそうです。その事に不信を抱いた七代目代目当主久右ヱ門が、千布家に代々縁がないのは先祖の本右ヱ門が化け猫を刺し殺したおり、断末魔の苦悶のなかに「千布家には七代祟って一家を取り潰しこの怨念を必ずはらす」といったとの伝承から、猫の怨念によるものではないかと判断し、七尾の白猫の姿を描いた軸幅をもって猫の霊を丁重に弔らったのが猫塚の由来です。
当初は秀屋形の鬼門に当たる敷地に猫明神とした石の祠があったそうですが、明治四年九月に現在の地に再建したものだと当地の由来には記されています。千布家は化け猫を丁重に弔ったのちは男子にも恵まれ、秀林寺には千布家代々の墓が残され現在も大切に守られています。
鍋島お家騒動の実態
史実では龍造寺から鍋島への政権交代時、鍋島の専横を快く思わない龍造寺派の家臣が鍋島派の家臣を襲撃するなど領内の治安が乱れました。また、化け猫騒動の中で語られている龍造寺家の嫡流で最後の生き残りとなったのは、鍋島直茂に出家させられていた高房の弟「龍造寺伯庵」と高房の子「龍造寺主膳」でした。この二人は1634年から1642年まで龍造寺家再興の訴えを徳川幕府に対して起こすのですが、その訴えは聞き届けられませんでした。佐賀鍋島藩成立後もお家再興を目指した二人は、白庵が会津藩の保科正之に、主膳は大和郡山藩にそれぞれ預けられる事となり、龍造寺家が大名として再興する道は絶たれました。
龍造寺家から実権を引き継いだ鍋島直茂は、1618年6月3日に81歳で亡くなっています。このとき直茂は大往生とならずに耳に腫瘍ができて激痛に苦しんだ上での半ば悶死だったため、直茂の死は高房の亡霊のしわざではないかと噂されたそうです。
龍造寺家から鍋島家への政権の継承は徳川幕府によって行われましたが、やはり戦国の雰囲気が残る時代の事ですから表では語られないような騒動はあったのではないでしょうか。そういった事柄が、化け猫伝説のような形で現在に残っているのだとおもわれます。

化け猫の話は各地に残っていて、その話の基本として共通しているのは「飼い主に愛されていた猫」「飼い主の恨みを晴らすために復讐」「最後に退治される」というお話です。怪談として恐怖の対象として化け物扱いされる化け猫達ですが、視点を変えてみてみると飼い主への忠義に生きた悲しい猫の物語だったりします。
日本人の判官贔屓からくる龍造寺家への同情から生まれた、悲しい物語なのかもしれません。  
 
鍋島の化け猫 3

 

1 史実の騒動
龍造寺氏の没落
巷間で伝わる鍋島騒動は、化け猫が登場することで有名となっているが、これは江戸後期に創られた戯作が元となっていて全くの虚構である。鍋島家は肥前の戦国大名であった龍造寺家の家宰の立場であり、龍造寺家がまだ豪族に毛の生えたような状態であったころから従っていたとされる。龍造寺が段々と力を得てきた過程において、鍋島家歴代の尽力は相当なものであり、龍造寺家の強大化に伴って鍋島家の地位も向上し、龍造寺隆信が五州二島の太守として北部九州に君臨するころには、重臣の筆頭であった。
龍造寺隆信はほぼ一代で勢力を急拡大させ、豊後の大友氏や薩摩の島津氏とともに九州を三分するほどの戦国大名になった。その陰には重臣筆頭として鍋島一族の貢献があったことは間違いない。ところが、隆信が力を得て強大になると鍋島氏との間に隙間風が吹き始めた。隆信は鍋島の当主直茂を疎ましく思い遠ざけるようになった。直茂もそれを感じたのか、占領地の筑後柳川に籠ってあまり隆信の側にいかなくなった。
そんなときに島原半島で合戦が起きる。世に沖田縄手の合戦と呼ばれるもので、最初は西九州の名族有馬氏の反乱であった。急拡大した隆信の領地支配は政治的にはまだ不安定で、多くの反乱が起きたが、島原は隆信の居城佐賀にも近くほっては置けない。直茂にも動員がかかり島原攻めになるが、有馬氏の背後には島津がいた。島津はこのころ肥後にまで進出しており、肥後からは有明海を一跨ぎすればすぐに島原である。
隆信と有馬の戦いは、すぐに隆信と島津・有馬の戦いとなった。これが沖田縄手の合戦であるが、この合戦でなんと隆信が戦死してしまう。戦国大名が合戦に敗れ戦死するというのは、再起不能と同義である。名のある戦国大名は合戦に敗れても戦死だけはしないように手を打っていたから、隆信のような例は少なく、ほかに桶狭間での今川義元があるくらいである。隆信の子政家は、沖田縄での敗戦後佐賀に戻り、筑後柳川にあった鍋島直茂を迎えて、直茂を国政の中心に据えて難局を切り抜けようとした。これは隆信の遺言でもあった。すでに直茂なしでは龍造寺の経営がすでになりたたなくなってており、しかも隆信の世子政家は若年で経験不足、さらに隆信の生母である慶ァ尼が直茂の器量を高く買っていた。これらのことを考えれば直茂が龍造寺を実質的に統治するのは当然であった。
龍造寺から鍋島へ
だが直茂は容易にこの要請を受け入れない。直茂は隆信とは義兄弟であり援け合って龍造寺を大きくしてきた間柄であるが、政家とは何の関係もないのである。一老臣にすぎぬ立場にある直茂が、いくら政家が頼んできたからと言って、簡単に龍造寺の中枢に入るわけには行かない。仕方なく龍造寺信周が一門代表として柳川に赴いて直茂を説得し、ようやく直茂は佐賀に入った。それでも直茂の乗っ取りとの風聞が流れ、直茂は蟄居しようとする。政家は直茂に起請文を差し出して、事実上の権力委任をした。ここにおいて龍造寺から鍋島への権力移行は公式となるが、直茂はあくまで龍造寺を主筋とした。
その後、直茂はあくまで主筋の龍造寺を気を使いつつ国政を運営した。だが、時の権力者秀吉も家康も龍造寺のことなど無視して接してくる。天正18年(1590年)に龍造寺政家は隠居させられ、龍造寺の家督は高房が継ぎ、政務は直茂が執ることとなった。直茂は政家の隠居と同時に肥前神崎郡で4万4千5百石をを与えられる。また直茂には従五位下、加賀守に任じられている。これは直茂が大名に取り立てられる条件を満たしたことと同義であった。いずれも秀吉の命である。文禄、慶長の役で実際に佐賀兵を率いて異国の地で戦ったのは直茂であり、龍造寺高房は何もしなかった。だが、直茂はあくまで高房の名代という立場を執り、内外にもそれを示した。
しかし軍役負担をを果たさないのは大名ではなく、逆に大名であるからこそ軍役が課されるのである。さらに文禄、慶長の役で直茂に従った諸将の中には龍造寺一門のほか肥前の国人達も多く含まれ、龍造寺軍団が直茂に完全に掌握された。ここに至り龍造寺家から鍋島への権力移譲は決定的となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原役でも高房は直茂の嗣子勝茂と出陣したが、主導権は勝茂が握った。関ヶ原では西軍に加担してしまうのだが、その原因は勝茂が病で出発が遅れ、西軍の道路封鎖にあってやむなく西軍に加わったのである。重要なのは勝茂の病ということだ。高房は関係ないのである。このときの軍団はすでに鍋島軍であった。
関ヶ原後の検地で確定した肥前佐賀35万7千石の地を領して、徳川家に対して奉公するのは鍋島であるというのが家康の考え方であった。だが直茂は筋論にこだわった。家康に願い出て、龍造寺高房を従五位下、駿河守に叙任、さらに二代将軍秀忠の近習とした。慶長9年(1604年)のことである。高房に大名の格を与えて、さらに将軍直臣としたのである。高房も最初は喜んだようであるが、周囲には鍋島の策略であると唆す者もあり、次第に高房に不満が募る。慶長10年(1605年)に勝茂は家康の養女となった岡部長盛の女と婚姻し、鍋島と徳川の関係が強化される。
高房の死と伯庵事件
鍋島氏の地位は相対的に向上し、龍造寺一門や重臣もそのことを現実として認めざるを得なくなる。「高房の取立ては鍋島殿のお力添え・・・鍋島殿御父子には二心なく忠誠を尽くします」という起請文が提出された。これにくさったのか慶長12年(1607年)3月3日、高房は江戸屋敷において夫人を刺殺して自害を図るが、家臣に助けられて一命は取りとめる。幕府直臣であるから、ことは直ちに届けられ本多正信、大久保忠隣らによって高房を取り調べるが、高房は自殺の理由など一切答えなかったという。
この報せに佐賀で隠居していた高房の父政家も鍋島父子も仰天した。下手をすれば取り潰されてしまう。直茂は「鍋島に対する当て付けではないか」と腹を立てて、7月26日に政家に対して長文の書を送る。世に直茂のおうらみ状といわれるものである。この書で直茂は隆信の死後家を守り、さらに高房を引き立て、江戸で不自由なく暮らせるように取り計らっているのに、このたびの一件は誰に当て付けたものか高房帰国後問いただして聞かせて欲しいという糾弾である。しかし、高房は帰国せず、9月に毒魚を食した後に馬を乗り回して自殺同然な死に方をした。その1月後に後を追うように政家も没した。
これにて龍造寺の嫡流は絶えた。幕府では龍造寺一門の有力者である諫早の龍造寺家晴、多久の龍造寺安順、須古の龍造寺信昭を呼び家督問題について意見を聞いた。3人は龍造寺と鍋島の関係、直茂の功績、龍造寺存続の経緯などを述べた上で、直茂が家督を相続すべきだが高齢のために勝茂への相続を上申し、幕府もそれを認めた。これによって佐賀35万7千石を領する近世大名鍋島氏が成立し、家督と支配は鍋島に統一された。龍造寺一門は鍋島氏に臣従することになり、いずれも改姓した。
しかし寛永11年(1634年)伯庵事件が起きる。伯庵は自殺した龍造寺高房の子で、4歳で里子に出されていた。成長して高房死去の事情を知り、高房の弟龍造寺主膳とともに竜造寺家再興を幕府に訴えた。もちろん幕府では取り上げなかったが、伯庵らはあきらめずに翌寛永12年、寛永17年、寛永19年と訴訟を繰り返した。幕藩体制が定着したとはいえ、大名の改易もまだ多く行われており、また寛永15年(1638年)の島原の乱の際に、幕命で出陣した鍋島勝茂が、軍令違反によって閉門処分を受けるという、佐賀藩にとっては不安材料もあった。佐賀藩内は一致結束し、多久安順(長信の子)が出府して幕府に対し龍造寺から鍋島への権力移譲は正当であった旨の説明が行われた。すでに龍造寺一門も龍造寺の姓を捨てて鍋島体制の中に組み込まれており、幕府としてもいたずらに混乱を招くだけの伯庵の訴えに耳を貸す道理もなかった。結局伯庵は、会津の松平(保科)正之のもとに預けられた。また、龍造寺主膳は大和郡山の本多家に預けられ、その後本多氏の家臣となった。
以上が鍋島氏が龍造寺の権力を引き継いだ経緯である。その権力移譲は異様なほど平和裏に行われ、人がなかった龍造寺から人を得た鍋島へ権力が移ることは当然の帰結であった。しかし庶民はいつの世でも判官贔屓である。龍造寺は鍋島に権力を奪われたと見る。直茂があれほど心配し、それがために気を使ったことが現実となる。しかも高房が夫人を刺殺し、自殺同様の死に方をしたことは庶民の好奇心を煽らないわけはない。ここに江戸後期に鍋島の化け猫騒動という戯作が生まれたのである。  
2 虚構の騒動
芝居となった鍋島化け猫騒動
鍋島氏への権力移譲が完成してから200年以上たった嘉永6年(1853年)、江戸の中村座に「花瑳峨猫又草紙」(はなのさがねこまたぞうし)という演題の芝居がかかる。このときは佐賀藩の厳重な抗議にあい、町奉行所も介入して初日前に上演が中止されてしまう。しかし約10年後の元治元年(1864年)には、今度は「百猫伝手綱之染分」(ひゃくびょうでんたづなのそめわけ)と題して上演されることとなった。すでに幕末であり要事多端で、幕府としてもとても芝居の取り締りどころではなかったのであろう。さらに明治に入って「瑳峨奥猫魔稗史」(さがのおくねこまたぞうし)と改作されている。
これらのあらすじは以下である。直島の領主直繁の跡目をめぐって二男松浦之助ではなく三男左近を擁立しようとする一派があった。松浦之助は奸臣たちにのせられて遊興に耽り、これにつけいった左近の母瑳峨は我が子のお家相続を画策する。瑳峨は滅亡した菊池家の縁続きで、左近に直島家を相続させた上で、お家を乗っ取ろうと考えたのだ。ここで直繁は主筋にあたる龍宝寺の末裔高山検校と囲碁の勝負をし跡目を決めようとする。奸臣たちは不正によって直繁に勝たせようとするが、それを検校が咎め、検校は直繁と奸臣によって傷を負わされ壁に塗りこまれてしまう。検校は毎夜化けて出て直繁らを苦しめる。一方、瑳峨は我が子の家督を願って猫又を祀る猫婦の祠に祈願を重ねる。奸臣たちは検校の飼い猫の生血で祠の封印を解いてしまう。猫又は瑳峨と一体となって直繁や松浦之助を苦しめるが、伊東壮太と名乗る侍に正体を暴露されて逃げさるというものである。
直島が鍋島、直繁が直茂、龍宝寺が龍造寺であるのはあきらかである。嘉永年間には鍋島家の抗議で上演中止となったが、そのことがかえって人気を呼ぶことになり、改作も多く上演されて化け猫人気の定着となった。この芝居となる鍋島化け猫騒動は最終的な形であるといってよく、ここまでの間にいくつかの騒動の種本が存在する。実際はこれらの種本から種々の脚色があり、長篇化されていったというのが実態であろう。
化け猫騒動の原形
寛政12年(1800年)に成立した元茂公御年譜は佐賀藩の支藩である小城藩初代藩主鍋島元茂によって編纂されたものであるが、そのなかに龍造寺高房の亡霊が徘徊する話がある。高房の死は前に書いたとおりであるが、その死後10日もたたないうちから佐賀城下に高房の亡霊が出現した。白装束に身を固め、馬に乗って武器を持ち、供の騎馬侍もいたという。江戸に居た高房が佐賀に派遣して直茂に懐柔されそのまま戻らなかった、高房に言わせれば鍋島におもねった久納市右衛門と石井主水の2人を高房の亡霊が殺す。亡霊に行きあった者は気絶したり死亡したりで、佐賀の城下は火の消えたよう。直茂は亡霊を宥めるために天祐寺を建立するが、亡霊は相変わらず跳梁する。
これがそもそもの騒動談の原形であるといわれる。次に出てくるのが「肥前佐賀二尾実記」の後半に載る話である。「肥前佐賀二尾実記」は成立過程はわからないが、巻一〜三十までのうち、二十四〜三十までが化け猫騒動の原型となると考えられる話である。享保14年(1727年)ころ佐賀藩江戸屋敷の用人森平右衛門に愛猫がいた。その猫は黒猫で、尻尾の先が2つに分かれていたが、平右衛門の母親を食い殺し母親に化けた。母親に化けた猫は酒宴の時に殿様に切りかかるが眉間を打たれて逃げ帰る。そこで正体を見破られ、そのままどこかに行方をくらましてしまう。黒猫は江戸から佐賀に遣わされた山崎重右衛門の肩に乗り、佐賀に移る。ここで黒猫は殿様の奥方を食い殺し、今度は奥方に化ける。殿様は江戸から帰国し、奥方に化けた猫によって夜な夜な苦しめられる。ついに伊藤惣太という足軽がその正体を見破って猫を殺して殿様を救い、加増の上に勘定役に抜擢されるという話である。
享保14年というのは四代藩主吉茂の代であるが、巷間流布しているものとしては、二代藩主光茂の話も有名である。この話はさらに芝居に近くなっている。二代藩主光茂は龍造寺家当主又七郎に囲碁の勝負を挑み、それに負けて逆上し又七郎を斬り殺す。又七郎の死骸は井戸の中に捨てられる。又七郎には母と可愛がっていた黒猫がいたが、帰りが遅い又七郎の身を案じて母は黒猫に不安を語る。黒猫はいつしか姿を消して、井戸の中から又七郎の首をくわえて帰ってくる。全てを悟った母は鍋島家に末代まで祟ると遺言して自害する。その死骸から流れる血を黒猫は舐めつくして、何処かへ姿を消す。黒猫は光茂の愛妾お豊の方を食い殺し、お豊の方に化けて光茂を苦しめるが、近習小森半左衛門と槍術家千布本右衛門に行燈の灯りで障子に映る化け猫の影から正体を見破られて始末されるという話である。
鍋島騒動については、勧善懲悪的な御家騒動ではなく、必然の流れでの政治権力の交代劇であって、一般に言う騒動にはあたらない。しかし、そこに龍造寺高房の自殺同然の死という出来事があったために、虚説の化け猫につながり娯楽の世界で発展していった。明治期以後も芝居や映画にまでなっていることから考えると、藩祖直茂のおうらみ状にある、「なんの怨みがあってこんなあてつけがましいことを」との嘆きは現実になてしまった。鍋島家にとっては不本意なのことであろう。  
 
鍋島の化け猫 4

 

鍋島勝茂公は、窮迫した藩の財政建て直しのために、領地の開拓による国益の増強を図るべく、有明海の干拓事業に着目し、白石の秀津に館を建て、よくこの館に来ては、工事の督励に当たった。
当時、武家の間には、鷹狩りの技がもてはやされ、佐賀藩でも、白石平野が藩随一の鷹狩り場とされ、勝茂公も、須古山、杵島山一帯、太原での鷹狩り、猪狩りを常とした。白石に来ては、この白石の館に滞在することが多かった。
ここに逗留(とうりゅう)する夜は、土地の者と語り合うことが常であったという。しかし、ここは龍造寺氏の家臣の領地であったために、鍋島家にとっては、必ずしも居心地は良くなかったらしい。
しかし、「葉隠聞書」によると、「この館は、白石秀林館と言い、勝茂公御狩り(須古山のお狩り)御鷹狩り(白石太原のお狩り)のため、ご逗留され候御館なり。ご隠居後は、御東(佐賀城)並びに秀津をご住居にされる思召の由……」とある。
化猫騒動は、この白石館を舞台にしたもので、寛永17年(1640)春3月のある宵、花見に疲れた勝茂公が就寝されたとき、風もない月夜に一陣のなまぐさい風がサッと吹いて、桜の花が散った。
不思議に思った千布本右衛門邦行が、南庭の方をジッと見つめると、暗やみの中に、何者とも知れぬ怪物が現われた。「おのれ化けものめ」と切りつけると、ヒイヒイとけたたましい叫び声を上げて、築山の陰に逃げ去った。
このようなことがあってから、勝茂公の近臣の発狂、庶子君の怪死などの怪しい事件が続いたり、勝茂公自身が、夜度々うなされて気分がすぐれぬ日が続いた。
そうして、ある夜の真夜中ごろ、勝茂公の寝室近くに、ただならぬ気配が感じられたので、近習の者が駆けつけると、愛妻のお豊の方が、「退れ」と、形相を変えて叱りつけたという。同じようなことが二晩も続いたことを知った本右衛門は、重松という武士と二人で、勝茂公の寝室の見通せる場所に身をひそめて、宵の口から見張りをしていた。
その夜中に、生温かい風を感じたと思うと、猫の鳴き声を遠くに聞いた気配がして、そのまま眠りこみ、気がついたときは、夜が明けていた。
前夜も怪しい気配がしたので、近習が寝所に駆けつけると、例のごとくお豊の方が、言葉も荒々しく叱りつけた。中の様子をうかがうと、勝茂公は、床の上で苦しみもがいていたという。しかし、相手は、主君の愛妻であってみれば、どうにもならない。
その翌日の夜、本右衛門は、「今夜こそ、実態を見届けよう」と心に期し、短刀を股にはさみ、眠りこけると短刀が股を刺すようにして、夜半を待っていた。どの位たったか、寝所を見やると、勝茂公もお豊の方も、もう寝ついていなければならないのに、お豊の方の影が、障子に写っていた。
よくうかがうと、寝室にただならぬ気配がし、中では、うめき苦しむようで、その度にお豊の方の影が動き、もがき苦しむ気配が感じられる度に、クックックという女の含み笑いの声が聞こえる。こうしたことが何度か繰り返されていたかと思うと、ひとしきり苦悶の声が高くなって、お豊の方の障子の影が横を向いたとき、本右衛門が見たのは、紛れもなく猫の影であった。
猫の影は、主君勝茂公の苦しみもがくのをあざ笑うように、これでもかこれでもかと、何か復讐しているような姿であった。
思わず短刀を握りしめて立ち上ろうとしたが、眠るまいとして股にはさんでいた短刀の傷で、股の痛みがひどく、どうしても立ち上がることができなかった。
間もなく寝室の灯が消えて、何事もなかったかのように静まり返り、どこかで猫の鳴き声を聞いたかのように思うと、本右衛門は、眠りに落ちていった。
昨日まで春の花に酔っていた秀林館も、今日は、惨雨愁風の妖気が漂うようであった。
今宵もまた、お豊の方は愛嬌よく、勝茂公の酒の相手をつとめていた。愛妾お豊の方が怪しいとにらんだ本右衛門は、サッと主君の居間に飛び込み、お豊の方の側に走り寄り、電光石火、エイッとばかり、大身の槍を構えて、一気に突き刺した。
この不意討ちに、勝茂公はびっくり仰天、「おのれ、本右南門、汝は乱心したか」と、大刀を取って、はったと睨みつけた。この時、本右衛門は、主君に一礼し、「殿、このお豊の方こそ、お家に仇なす怪物の化身、よくご覧ください」と言う間もなく、また女の脇腹を突き刺した。
近習の家臣たちが、すわ一大事とばかり、時を移さず、お居の間近く駆け付けた。
本右衛門の最後の槍先は、化猫の本性を現わした怪猫の急所を貫いた。怪猫は血に染まりながら、のたうち回り縁側から庭先へ逃げうせた。短い夜が明けてみると、築山の陰に怪猫が打ち倒れて、うめいていた。
それは、物すごい大三毛猫の死がいであった。
千布本右衛門は功労によりこの地に領地を賜った。  
 
鍋島騒動

 

鍋島騒動 1
肥前佐賀藩で起こったお家騒動。鍋島化け猫騒動として有名であるが、ここでは史実の出来事について記述する。
騒動まで
天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死し、後を継いだ龍造寺政家が病弱だったため、実際の国政は隆信の義弟で重臣である鍋島直茂が掌握した。天正18年(1590年)には豊臣秀吉の命により、政家は隠居させられ、家督は嫡男の龍造寺高房が相続した。秀吉は高房に所領安堵の朱印状を与えたが、同時に鍋島直茂にも4万4000石、その嫡男である鍋島勝茂にも7000石の所領安堵を認めている。つまり鍋島氏は龍造寺氏の家臣でありながら、大名並の所領を秀吉から承認され、同時に国政の実権を握っていたこともそのまま承認されたといってよいのである。秀吉の朝鮮出兵が始まると、直茂と勝茂は龍造寺軍を率いて渡海している。
騒動へ
秀吉の死後、覇者となった徳川家康も龍造寺氏を無視し、鍋島氏の肥前支配を承認していた。そのため、国主である龍造寺高房は名目上の国主という立場にとどめられ、家康の監視下に置かれていた。成長した高房はこの立場に絶望し、慶長12年(1607年)3月3日、江戸桜田屋敷で妻を刺殺した後、自殺を図る。家臣がこれを寸前で食い止め、医師が治療したため、高房の自殺は未遂に終わった。しかし高房の傷は思ったよりも深く、さらに妻の亡霊にも悩まされるようになり、次第に高房は精神を病んでいき、再び自殺を図ろうとした。このときに腹部の傷が破れて出血多量により、9月6日に死去したのである。父親である政家の心痛は深く、これに生来病弱な体が耐え切れず、10月2日に後を追うように病死した。これにより、龍造寺氏の本家は断絶したかに見えた。
このため、龍造寺の分家である多久氏・須古氏・諫早氏などは高房の後継者として龍造寺本家を盛り立てた功臣・鍋島直茂の嫡男・勝茂を推挙した。幕府もこれを承認し、ここに鍋島氏を肥前の国主とする佐賀藩が正式に成立したのである。慶長18年(1613年)には直茂に対して、幕府から佐賀藩35万7000石の所領安堵の朱印状が交付されている。
無念の死を遂げた高房の遺体は、江戸で火葬された後、佐賀城下の泰長院に葬られた。ところがそれから、高房の亡霊が白装束で馬に乗って現れては、夜中に城下を駆け巡るようになったという噂が立つようになる。この話が発展して、高房がかつて飼っていた猫が化けて出て直茂・勝茂に復讐を企て、鍋島氏の忠臣によって最終的には退治されるという化け猫騒動の筋書きとなる。
その後
しかし、龍造寺本家は政家・高房の死により断絶したわけではなく、高房の子・龍造寺伯庵と高房の実弟・龍造寺主膳が生き残っていた。両者は慶長12年(1607年)当時は若年のため、無視される形になっており、伯庵は直茂の命令で出家させられていたのである。
寛永11年(1634年)、伯庵と主膳は幕府に対して龍造寺家の再興を嘆願した。この訴訟は寛永19年(1642年)まで続けられたが幕府は認めず、伯庵を会津藩の保科正之に預け、主膳は大和郡山藩に預ける処分を下し、事実上、龍造寺家再興の道は絶たれたのである。
龍造寺から実権を奪った直茂は元和4年(1618年)6月3日に81歳で亡くなった。このとき直茂は耳に腫瘍ができ、高齢ながら大往生とはならず激痛に苦しんだ上での半ば悶死であった。そのため、直茂の死は高房の亡霊のしわざではないかと噂された。  
鍋島騒動 2
戦国時代、肥前国を支配した龍造寺氏は、天正十二年(一五八四)に龍造寺隆信が島原の戦いで敗死した後、その家臣の鍋島直茂に支配の実権を奪われ、それ以後、直茂-勝茂-光茂・・・と鍋島氏が代々の佐賀藩藩主の地位につくことになった。この政権の交代に取材し、鍋島氏に恨みを抱く龍造寺氏側の立場から、後世にまとめられた話が、いわゆる「鍋島の化け猫騒動」である。この怪談も、講談や芝居などで有名になり、いくつかのことなった話が世間に伝えられているのだが、怪描が藩主を襲い、家来に退治されるという点はいずれの話もほぼ同じである。ある話では、この物語は次のように語られている。
かつて、肥前を支配した龍造寺氏の直系の子孫に、龍造寺又一郎という若者がいた(別の話では又七郎ともいう)。又一郎は盲目であったが碁の名手だった。彼は、落ちぶれて、いまや鍋島氏の家臣となってしまった龍造寺家の再興をねらいながら、年老いた母のお政と二人で、佐賀の城下にひっそりと暮らしていた。又一郎は一匹の黒猫を飼っていた。この猫は、彼の父、龍造寺又八郎が、藩主のお供で長崎港の警備にあたっていた時に買い求めた天竺猫である。又八郎は、まだ又一郎が幼いうちに、長崎で不審な病死を遂げたが、「こま」と名づけられたこの子猫は龍造寺家で又一郎とともに育ち、残された二人に家族同様にかわいがられていた。さて、その頃、藩主の鍋島光茂は以後に凝り、毎日のように、家来相手に碁をうっていた。藩主の熱中ぶりに家来たちは閉口し、近習頭の小森半左衛門の思いつきで、龍造寺又一郎が相手を務めることになった。又一郎は城中に呼び出された。そして城内の一室で、二人きりの対戦が行われた。彼と光茂の勝負は夜遅くまで続き、決着はなかなかつかなかった。が、碁の腕は、又一郎の方が上であることが、しだいに明らかになり、追い詰められた光茂は不機嫌な表情をあらわにしはじめた。しかし、かつての領主の家であるという誇りをもつ又一郎は、決して藩主光茂に勝ちを譲ろうとはしなかった。又一郎の不敵な態度に光茂はつい逆上した。ふとしたきっかけで興奮した光茂は刀をつかみ、その場で又一郎を斬り殺してしまったのである。われにかえった光茂は、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づいた。部屋にやってきた小森半左衛門は、又一郎の死体とそのかたわらでぼう然としている藩主に驚いた。半左衛門は、慌てて死体を庭の古井戸に隠し、このことを家来たちにかたく口どめをした。こうして、事件は闇に葬られた。それ以来、又一郎は龍造寺家に帰ってこなかった。お政は、息子が藩主の近くに参上することを喜んでいたのだが、その喜びは不安にかわっていった。連絡もなく、いつまでも帰らない又一郎を心配したお政は、小森半左衛門に消息を問い合わせたが、知らぬ存ぜぬの一点張りで、いっこうに要領を得なかった。お政は亡き夫の仏前にすわり、息子の無事を祈り続けた。そして愛猫のこまを抱いては、息子のことなどを話しかけ、寂しさと不安をまぎらわす毎日が続いた。不思議にも彼女の言葉がわかるのか、こまは、お政の声に耳を傾けるようすを見せることがあった。ある雨の夜、ふとどこかへ出かけていたこまが帰ってきて、何かを知らせるかのように鳴き騒いだ。目を覚ましたお政がみると、こまは血だらけになった又一郎の生首をくわえていた。お政は事のしだいを察した。息子は光茂に殺され、龍造寺家再興の望みは絶たれたのである。お政は、光茂を呪いながら胸に小刀を突き立てて自害した。こまは、このありさまをじっとながめていたが、やがてお政の身体から流れ出る血潮をなめだした。そして血をなめつくすと、目を異様に光らせ、生首をくわえて、降りしきる雨の中に姿を消した。それ以降、光茂は夜ごとに怪しい幻覚に悩まされ、やがて半狂乱になって病の床についた。奇妙なことに、光茂の愛妾(めかけ)お豊の方が近くに来ると、光茂の物狂いが酷くなるようだった。それに気づいた小森半左衛門は、お豊の方をそれとなく見張り、ある夜、ついにその正体を発見した。ひそかに庭に出たお豊の方は、手づかみで池の鯉にかぶりつき、そのまま平らげ、部屋に戻ると行燈の油をなめはじめたのである。障子にうつるその影は、大きな猫の姿をしていた。家来たちを率いた半左衛門は、屋形へ乱入した。そこには、目がらんらんと光り、口は耳まで裂け、すでにその正体をあらわした化け猫がいた。化け猫は身をひるがえして逃げようとしたが、半左衛門はこれを追いかけ、決死の活躍で、化け猫にとどめを刺した。この騒動によって非を悔いた光茂は又一郎の霊を手厚く弔い、龍造寺の一族も優遇した。そのため、死者の恨みも晴れ、やがて彼の病気も回復したという。
ある春の日、ここへ狩りにやってきた勝茂は、白石町秀津(ひでつ)にあった彼の別館で夜桜見物の宴を開いた。その宴がたけなわになったころ、一陣の突風が吹き、その場の明かりがすべて消えてしまった。そして、暗闇の中で恐ろしい悲鳴が上がり、あたりは大混乱におちいった。ふたたび灯がともされると、そこには、喉笛をかみ切られた侍や女中の死体が横たわっていた。それが化け猫の仕業だとわかり、勝茂の家来で千布本右衛門(ちぶもとえもん)という勇者が館の警戒にあたった。そして、館の庭の築山で怪描と戦い、やっとのことでこれを退治した。見ると、身の丈五尺(約一.五b)で尾が七つに分かれた大猫が、本右衛門の足もとに倒れていた。本右衛門は、この手柄によって、別館付近の土地を与えられた。ところが、その後、千布家では男子が生まれなくなり、それを化け猫の祟りと考えた、本右衛門から六代目の子孫久右衛門(きゅうえもん)が、別館の近くに祠をつくり、怪描を「猫大明神」と称して祀ったという。この猫大明神の祠は、秀津の秀林寺(しゅうりんじ)に残されている。この寺には、千布本右衛門を祀る祠もある。また、佐賀市北川副(きたがわぞえ)町木原の千布家には、七つの尾をもつ猫の姿を描いた猫大明神の掛け軸が伝えられている。千布家の子孫は、毎年旧暦十一月十五日の満月の夜に猫祭りを行い、猫の好きな生魚などを供えるという。
なお、ここに紹介した二つの話がまとめられ、、ひとつの化け猫の話として後世に伝えられたものもあるらしい。  
 
有馬の化け猫 1

 

久留米藩21万石の8代藩主、有馬中務太夫頼貴夫人は、雲洲松江18 万石松平出羽守の息女千代姫であった。輿入れと共に付け人として従ってきた高尾重左衛門の姪のたきは、関屋といって奥方付きの女中となった。ある日の奥御殿での酒宴の最中に子猫を追いかけて1匹の犬があばれ込んできた。追われた子猫は、殿様の背後に難を避けた。たけり狂った犬は殿様にかみつこうとした。お側にいた関屋はとっさに手水鉢(ちょうずばち)の鉄柄杓(てつひしゃく)をとって、犬の眉間を一撃して殺し、その死骸を手っとり早く取りかたずけた。この関屋の機敏な振る舞いに殿様は感心され、当座の褒美に何なりと所望せよと言われた。すると関屋は逃げ込んだ子猫の助命とその拝領をお願いした。殿様は今さら、その機敏さと無欲ぶり、それに加えて猫の助命を乞うという優しさに心ひかれた。 いつしか関屋は殿様の寵愛を受けるようになり、名もお滝の方と改めた。しかし、今まで同輩であった奥女中たちは、嫉妬心を燃やした。まして彼女は他藩の者であったので、久留米家中から上がった奥女中たちは、事ごとくにつらくあたった。特に老女の岩波はひどくいじめた。お滝の方の母は、色情(しきじょう)のために松江を離れて江戸に流浪した女だという噂が立つとさげすむ心も手伝って、一段といじめ振りがひどくなっていった。心の優しいお滝の方は、これに悩み苦しんだ末に自殺してしまった。お滝の方に新しく仕えていた武家出の女中お仲は、主人の非命の最期に憤檄(ふんげき)し奥女中の頭である老女岩波を討って、主人の仇を報いようと決意した。 機を狙って、老女中1人を殺し、老女中の部屋に乱入したが、岩波は薙刀の名手であわや返り討ちになろうとした。その時不意に1個の怪物が飛鳥のように、岩波ののど笛に飛びつき、喰い殺してしまった。その怪物は、お滝の方に助けられて可愛がられていた猫であった。お滝の方の自害、老女岩波の変死で、江戸有馬家の奥向きは大騒ぎとな ったが、万事内々に事を済まそうとした。お滝の方の親元へ、金子50両それにお滝の方の手箱にあった金子30両、合わせて80両を実弟の与吉に母の元に持参させて、事を秘密に済まそうとした。この大金を託された与吉は御殿を出る時姉の死をかなしむあまりに心ふさいでいて、この大金を御門近くで取り落とし再び拾い上げて懐にした。これを見ていた足軽の鳴沢小介は、与吉のあとをつけて行き、江戸に出奔して来ている母親と与吉をだまし討ちにして80両の大金を奪って帰った。これを同輩に勘づかれた鳴沢は、この同輩も殺し犯行をくらますために、怪物に食い殺されたように見せかけ、与吉から奪った財布を首にかけて置き、中身だけ懐にして行方をくらまそうとした。その時またしてもお滝の方の愛猫が飛び出してきて、鳴沢ののど笛に喰いついて殺し、火の見櫓に引き上げた。二人の人間を喰い殺した猫は、血に狂ったか、狂い猫となって、有馬の家中の者に仇をし始めた。お滝の方に代わって殿様の愛妾となり、妊娠中のお豊の方と、そのお付き女中を、まず喰い殺した。その後、藩士山村典膳(てんぜん)の病中の老母を喰い殺して、この老母に化けていた。典膳はそれを知らなかった。ある時、殿様に従ってお庭に出たところ、怪しい獣が不意に現れて殿様を襲った。典膳は抜く手も見せず、一太刀あびせた。帰宅すると、老母の眉間に傷がある。これは不思議と思った典膳はそれとなく老母の挙動に注意していると、怪しい節々が多い。典膳は怪猫が老母に化けていることに気づき、退治しようとしたが取り逃がしてしまった。この頃、有馬家のお抱え力士小野川喜三郎は、殿様に特に愛されている温情に反して、雷電為右衛門に負けた。負けた小野川は雷電を九段坂に待ち受けて、遺恨晴らしをしようとした。両人まさに刀を抜いて血の雨を降らそうとする。その時、久留米藩士柔術師範犬上郡兵衛が中に割り入って仲裁した。この事件により小野川は、御前を不首尾にして出入りを差し止められた。小野川はおわびのため。何か手柄を立てて、殿様の勘当を許されたいと願っていた。その末、山村典膳と力を合わせて、赤羽根藩邸の火の見櫓にひそんでいる怪猫を退治し、再び有馬家のお抱え力士に返り咲いた。  
有馬頼貴(ありまよりたか)
筑後久留米藩の第8代藩主。久留米藩有馬家9代。藩校・明善堂を創設するなど久留米藩の文運興隆に尽力したが、その一方で趣味の犬や相撲に傾倒、小野川才助らを抱えた。華美な大名火消は江戸で知られ、巷説「有馬の猫騒動」の題材にもされた。
延享3年(1746年)4月2日、第7代藩主・有馬頼徸の長男として生まれる。宝暦8年(1758年)11月15日に将軍徳川家重に初謁、12月18日に従四位下・上総介に叙位・任官される。天明元年(1781年)に侍従に遷任。
天明3年(1783年)に父が死去したため、天明4年(1784年)1月23日に家督を継いで第8代藩主となった。天明4年(1784年)閏正月に中務大輔にすすむ。
当時の久留米藩は財政難に悩まされていた。ところが頼貴は相撲を好んで多くの力士を招いては相撲を行ない、さらに犬をも好んで日本全国は勿論、オランダからも犬の輸入を積極的に行い財政難に拍車をかけた。このため、家臣の上米を増徴し、さらに減俸したり家臣の数を減らしたりして対処している。しかし幕府からの手伝い普請や公役などによる支出もあって、財政難は解消されることはなかった。
寛政8年(1796年)に藩校・明善堂を創設し、藩士教育に尽力している。文化元年(1804年)に左少将に遷任された。文化9年(1812年)2月3日に死去。享年67。
嫡子だった三男・頼端は早世していたため、その長男の頼徳が跡を継いだ。  
 
有馬の化け猫 2

 

三田小山町辺から国際医療福祉大学三田病院(旧専売病院)、済生会中央病院、三田国際ビル、都立三田高校のあたりは、明治維新まで久留米藩有馬家二十一万石の上屋敷でした。
水天宮
この屋敷には名物が四つあり、一つは、「どうでありま(有馬)の水天宮」と言う軽口があったくらい有名な水天宮です。
明治以降は現在の日本橋蠣殻町に移転しましたが、これは維新後有馬邸が青山経由で蛎殻町に移転したためで、江戸時代の水天宮は赤羽橋の久留米藩上屋敷内北西角(中の橋側)にありました。
祭神を尼御前大明神と言い壇ノ浦の合戦で敗れた平家と共に入水した安徳天皇、建礼門院、二位の尼の霊を女官按察使(あぜち)の局が九州久留米地方まで落ち延びて祭りました。そして関ヶ原の戦いの戦功で領主となった有馬氏から庇護を受け文化五(1808)年、十代藩主頼徳のころに江戸藩邸に分霊を祭りました。これは当時虎ノ門にあった金毘羅宮の成功を模倣したといわれ、月に一度のご開帳では藩邸内に入りお参りが出来ましたが、その他の日にも赤羽橋から中の橋まで行列が出来るほどの大勢の参拝者が訪れ、藩邸の塀ごしにお賽銭を投げ入れる「投げ銭」を行ったといわれ、お札や供え物などによる収入は莫大で、とても貴重な大名の副収入になったそうです。余談ですが、こののち同じようなこと(邸内社信仰)が麻布でも起こり「がま池信仰」となりますが、明治期には、このがま池のお札である「上の字」さまを配布していた清水家では、子息の英国留学をこの売り上げだけで賄ったといわれています。
火の見やぐら
これは八代藩主の時幕命により大名火消を命ぜられ、三田台地に高さ三丈の火の見櫓を組みました。また、別説によると、四代将軍家綱の時代に三代久留米藩主頼利が芝増上寺の「火の御番」を命ぜられて以来、十一代藩主頼咸の時代[文久年間(1860年代)]まで代々その職に任じられたそうです。
ちなみに、もうひとつの将軍廟所である上野寛永寺の火の御番は加賀藩前田家に命ぜられていました。
他家の火の見やぐらは二丈五尺(約7.5m)以内、江戸城の方角には目隠しをすることなどが決められていましたが、久留米藩の火の見やぐらは特別に三丈(約9m)とすることが許され、さらに設置されていたのが三田段丘途中という標高(約22m)も加味されていたために日本一と称され、当然江戸で最も高いものでした。
そしてそれにより、「湯も水も火の見も有馬名が高し」「火の見より今は名高き尼御前」などと詠まれました。
赤羽橋や増上寺を描いている当時の絵には必ずこの火の見やぐらが描かれており、当時江戸のランドマークの一つであったことが推測されます。
そして約150年後には、やはり日本一になる東京タワ−がすぐ近くに建設されることとなるのは不思議な縁ですね。
曳き犬
六代藩主則維(のりふさ)は時の将軍綱吉(犬公方)から小犬を拝領し、それ以来藩主の行列には拝領犬を曳きつれ市民から「有馬の曳き犬」と称されました。
後の水天宮の犬帯は、犬で有名な有馬の水天宮で犬にあやかって安産、多子を祈願して売られたため、もし「有馬の曳き犬」が無かったら、水天宮の犬帯も存在しなかったと思われます。
有馬家化け猫騒動
芝居の「化け猫」で有名なのは、岡崎、佐賀鍋島と、この有馬家です。
この中でもっとも早く劇化されたのは岡崎の猫騒動。これは鶴屋南北の作で「独道中五十三次」といい文政10年市村座で初演されているようです。
次が佐賀鍋島で瀬川如齏皐の「花嵯峨猫又双子」。初演は嘉永6年中村座ですが、鍋島家よりの苦情で町奉行が芝居を中止させたと伝わります。しかし話は講談に受け継がれ「佐賀の夜嵐」、「佐賀怪猫伝」となりました。そして佐賀の化け猫は太平洋戦争中、米軍が飛行機で東京に撒いたの宣伝ビラにも利用されました。
最後が有馬家の化猫騒動。これは河竹阿弥の「有馬染相撲浴衣」で、初演は江戸期ではなく維新後の明治13年猿若座と新しく、その筋は藩主有馬頼貴が寵愛した側室「お巻の方」が他の側室の嫉妬で冤罪を被せられそれを苦に自害してしまう。すると「お巻の方」の飼い猫が主人の仇を報いようと奥女中のお仲に乗り移り側室たちを食い殺して火の見櫓にいるのを、有馬家のお抱え力士小野川喜三郎が退治する。
と言う筋書きでした。これ以前に風聞として、明和九(1772)年、大田南畝の「半日閑話」に有馬公の家臣、物頭の安倍群兵衛が怪しい獣を鉄砲で討ち取ったとあり、同じ頃の随筆「黒甜鎖語」にも有馬家では夜な夜な怪異があったが、番犬を置くとおさまるとあり、また怪異とは狐のたたりであると岸根肥前守(寛政10年の町奉行)「耳袋」にもあります。
これは、「 松平丹波守の家伝の秘薬に「手ひかず」という塗り薬がありその製法を有馬の殿様が所望し遂に処方を伝授された。それは生きた狐を煮込み煎じ詰めると言う製法で、多くの狐が殺された。そのため怨んだ狐が怪をなしたが、番犬により怪が止んだ。」とあります。
「半日閑話」の安倍群兵衛とは誤記で犬上群兵衛であるとも言われ、犬上群兵衛は久留米藩の柔術師範であり麻布狸穴に道場を開いていて、実在した人物です。しかし、晩年粗暴のため閉門中に死去し犬上家は取り潰されてしまいます。
しかし、後日血縁の者が犬上郡次郎を名乗り、先代の怪猫退治をまことしやかに言い立て館林藩に仕官してしまいました。そして八丁堀に道場まで開くこととなりますが、やはり身持ちが悪く、文久二(1862)年上州の博徒、竹居の安五郎の子分に惨殺されてしまいます。
このようにだいぶ芝居の下地となる風聞がそろってきましたが、最後に決定的な事件(事故?)がおこります。
「街談文々集要」文化元年甲7月28日の条に神田にある、
松平讃岐守の上屋敷で火の見櫓の番人が櫓より落ちて死亡した。死体を改めると何かに引っかかれたような傷が無数にあり、腹部も破れてひどい有り様だったので世間では天狗か物の怪の仕業だとうわさした。またこの屋敷の近くにある旗本大森家の飼い猫が変化して人を脅かすので、松平讃岐守邸の事件もこの猫の仕業だと言う評判が立った。
こうなると風聞が伝わるうちに、怪猫、火の見櫓、大名屋敷という部分が強調され有馬家と結びつくのに、それほど時間はかからなかったと思われます。ちなみに松平讃岐守邸の事件の真相は、邸の者によると、火の見櫓の端に腰掛けていた番人が誤って転落し高所からひさしなどに当たりながら落ちたので、惨状になった。物の怪とはまったく関係ないとの事です。
これらの化け猫話は、松平を除く有馬、鍋島共に九州の大名で、両家の因縁は深いようです。
鍋島家は主家の龍造寺家を乗っ取る時の恨み、また有馬家は藩主有馬晴信が死罪になって以降のキリシタン信者への弾圧など、両家に遺恨を持つものからの風聞だとしてもおかしくはないと思われます。この項の写真は元有馬家上屋敷(現港区立赤羽小学校)に台座が現存する「猫塚」は、おそらく明治期に建てられたものであろうと想像でき、その上部は現在も恵比寿にある防衛省防衛研究所敷地内前庭に現存します。
明治になるとこの藩邸の跡地は明治4(1871)年工部省所管赤羽製作所〜海軍造兵廠となりますが、海軍造兵廠が現在の築地市場に移転したのちには空き地となり、「ありまっぱら」と呼ばれ、格好の遊び場となったようです。また同様に三田通りで対面した薩摩藩芝藩邸跡地は「さつまっぱら」と呼ばれていたそうです。

江戸時代水天宮の川柳
○ 赤羽根の 流れに近き水天宮 うねるようなる 賽銭の波
○ 商いも 有馬の館の水天宮 ひさぐ5日の 風車うり
○ 人はみな 尋ねくるめの上屋敷 水天宮に 賽銭の波
○ 湯も水も 火の見も有馬 名がたかし
○ 火の見より 今は名高き 尼御前  
 
有馬の化け猫 3

 

舞台は旧久留米藩の江戸屋敷(東京三田)。江戸時代末期に市中の寄席や芝居小屋を沸かせた「有馬怪猫伝」がそれである。「有馬」とは、筑後国は久留米藩主の有馬氏のこと。舞台となる場所は現在の東京都港区三田赤羽あたり。怖ろしい化け猫騒動の話だが、実名などを微妙に避けながら展開する。
宴の席に野犬飛び込む
時は天明年間(1781〜89)、今から遡ること200年以上もむかしのことでございます。ところは、三田赤羽の久留米藩江戸屋敷の奥座敷。藩主の有馬中務ありまなかつかさ候が、大勢の美女を侍はべらせて賑やかな時間をお過ごしでございました。
そこに突然庭先から、一匹の子猫を追って獰猛どうもうな野犬が飛び込んできたものですからさあ大変。一同びっくりといったものじゃありません。上を下への大騒ぎとあいなりました。猫がお殿さまの背後に隠れますと、野犬は牙を剥いてお殿さまに飛びかかろうとします。もともと、無菌培養のお城でお育ちの殿さまでございますよ。目を白黒させて、気を失ってしまわれました。
殿さまが我れに返ったとき、座敷は何事もなかったかのように静かで、女中たちも元の位置で待機しておりました。殿さまに飛びかかった野犬の姿などどこにもなく、逃げてきた子猫だけが片隅で震えておりました。
妬みに負けて愛妾が自殺
野犬は、控えし女中が手水鉢ちょうずばちにあった鉄製の柄杓ひしゃくで一撃して殺し、死体を速やかに片付けたものでございました。
殿さまは、「気色が悪い。そこな猫も殺せ」と言いつけられます。野犬を征伐した女中が進み出まして申しますには、「どうか、この子(猫)の命だけはお助けを」。
猫の助命を嘆願する女中を愛しく感じた中務候は、その夜のうちに彼女を側妾そばめの一員に加えました。女中の名前は「お滝」と申しまして、それはもう美人で気立ての優しい女でございます。
そうなると、お殿さまの愛の分割をやっかむ他の側妾衆が黙ってはおりません。女中頭の岩波の指揮のもと、陰に陽にお滝の方への嫌がらせが激しくなりました。お滝の突然の出世が面白くない他の女中連中も、嫌がらせに加わります。
いたって心根の優しいお滝の方は、その都度泣きの涙で過ごし、ストレスが募っていきました。
飼い猫が仇の喉笛に
ある日の午後のことでございました。お使いから戻った女中のお仲が、不吉な予感を覚えて部屋に飛び込むと、一面が血の海に。お滝の方が自ら首筋を切って倒れているではありませんか。
「タマ、お方さまの血を舐めるのです。そして仇を討つのです」
タマとは、危ういところをお滝の方に助けられた、あの子猫のことでございます。お仲に促されてタマは、座敷に顔をこすりつけながらペロリ、ペロリ。顔中を血糊で染めたタマが、一瞬にして部屋の外に飛び出します。
お滝の方に忠誠を誓うお仲は、短剣をかざして仇の岩波に飛びかかりました。ですが長刀なぎなたの名手として知られる岩波でございます。そうやすやすと小娘に討たれる女ではございません。長刀をかざして返り討ちに出られたその時でございました。廊下の障子を突き破って飛び込んできた子牛ほどもある怪獣が、岩波の喉笛に食らいついたのでございました。「ぎゃーっ」と一声、間もなく岩波の息は耐えました。
それから後も、中務候の側妾や女中の不可解な死が相次ぐようになりました。いずれも、岩波とともにお滝の方を虐いじめた方ばかりでございました。
櫓の上で化け猫退治
そんな折、側妾の一人お豊の方がめでたく懐妊されました。候の喜びようは並みではありません。そんなめでたい最中でも事件は勃発いたします。お豊の方の膨らんだ腹が食い破られて、中の水子ともども腸はらわたが荒らされたのでございます。
藩邸警護役の山村大膳が奇怪な化け物の警戒中でございました。中庭を散歩中の中務候に、木の陰から突然怪獣が襲いかかりました。大膳は持っていた木剣で獣の眉間を一撃。「ぎゃーっ」と鳴き声を残して、獣の姿は消えてなくなりました。大膳が屋敷に戻ると、年老いた母上の眉間に新しい傷が見えます。
腑に落ちないものを感じた山村大膳は、殿が抱えられれている力士の小野川喜三郎に、母の身辺を見張るよう言いつけました。すると間もなく「火の見櫓ひのみやぐらに母上が…」と知らせがまいります。
駆けつけると、櫓に上る小野川に、上から大膳の老母が鋭い牙を剥いて威嚇しているではありませんか。眉間に傷を持つ母上は、実はタマが変じた化け猫だったのです。素早く櫓の梯子を登った山村大膳は、力士小野川と力を合わせて化け猫を追い詰め、退治したというお話しでございます。(完)

化け猫騒動の舞台となる旧久留米藩の江戸上屋敷は、東京芝公園の南側に位置し、赤羽小学校や東京済生会中央病院など近代的な建物がひしめくところ。このあたり、江戸時代には並み居る大名の江戸屋敷街であった。
山村大膳が化け猫を退治する火の見櫓は、久留米藩が徳川家菩提寺の増上寺を護る役目を負って造られた、江戸名所のひとつでもある。当時江戸屋敷には4千人の藩士と家族・中間などが住んでいたという。
劇中の有馬中務候は、第8代久留米藩主の頼貴を模したものだといわれる。世継ぎがなければお家断絶になった時代。久留米藩では、藩内の大庄屋の幼児を亡くなった世継ぎの替え玉に使ったこともあるとか。また、参勤交代中の藩主が、瀬戸内海の船上で近侍に殺害される事件も起きている。
一方、久留米藩邸に祀られている水天宮(筑後川畔の久留米水天宮から分祀・蛎殻町にある水天宮の前身)が、毎月5日、庶民に解放されることから、江戸中の安産を願う善男善女が集ったことでも有名な場所である。現在、赤羽小学校の体育館隅には「猫塚」が祭られているとも聞いた。
そんなこんなで、人の口端に上りやすかった久留米藩邸だったから、講釈師や戯作者が、化け猫の舞台にもってきやすかったのかもしれない。  
 
有馬の化け猫 4

 

怪猫有馬騒動 [ 1937年、新興キネマ、波田謙治脚本、木藤茂監督作品 ]
絵地図で、江戸城の外れにあった櫓の周辺にある有馬屋敷が示される。
座敷牢の中に閉じ込められた女が「止めて!」と叫ぶと、急に笑い出すと言う狂態を見せており、その声が聞こえて来る部屋にいた奥方は、あの声がいつも聞こえるので変になりそうじゃと不快感をあらわにしたので、側に控えていた老女岩波は、雪庵に一服盛らせましたと頭を下げる。
しかし、毒が入った食事を運んだ女中は、狂女が、そのお膳には毒が盛られていると、本能的に見抜いてしまったので驚くしかなかった。
その牢の女が狂ったのは、奥方様に嫌われたため、いじめ抜かれた末のことらしい。
そんな事情も知らなかった、まだ新入りのお部屋様付き女中のおたき(鈴木澄子)も又、その狂女の声を一日中聞き、夜も眠れないと思わず漏らしてしまうが、それを聞いたお部屋様は、奥方様付きお女中たちには逆らわない方が良い。ご不幸なお殿様をお慰めするのじゃと、大奥での内情を言い聞かす。
いつまでも、さらし者のように狂女を座敷牢に閉じ込めてる奥方の嫌がらせにも似た行為を見かね、さすがに有馬頼貴もたしなめようとするが、奥方は、差し出口はお控えくださいと聞く耳すら持たなかった。
ある日、牢の側を通りかかったおたきは、牢の前にいた一匹の猫を見つけ、部屋に持ち帰ると「タマ」と名付けかわいがるようになる。
ある日、おたきは、実家への帰宅を許される「お宿下がり」で、実家にいる母親と久々に再会を果たす。
母親は目が不自由で、出世した今の小滝の姿を見ることが出来ないことを悔しがりながらも、お父っつぁんが生きていたらなんて言うだろうと嬉しがる。
母親は、そもそも、おたきが大奥に召し上げられたきっかけの事件を思い出していた。
父親を早く亡くし、母親も目が不自由なため、毎日の生活さえままにならなかったおたきの家では、おたきは針仕事をして稼ぎ、まだ幼い妹のおたけまでも、毎日、シジミ売りに出歩いていた。
そんなある日、そのおたきが、有馬家の足軽に商売もののシジミをひっくり返された上に、乱暴までされていたのだが、それを知った今のお部屋様が、城に呼び寄せたおたけの口から不幸な家庭事情を聞き、同情して、姉のおたきを自分のお付き女中として大奥へ呼んでくれたのであった。
回想から覚めた母娘だったが、妹のおたけは、今日もシジミ売りに出かけて留守なのだと言う。
その時、貧乏長屋の隣で老いた父親と二人暮らしのおなかの家から、借金取りの婆さんの怒鳴り声が聞こえて来る。
様子を見ると、近所のものたちも押し掛けて、おなかの家の様子を気にかけている様子。
どうやら、借金を返せないので、おなかを売ってでも金を作れと無理難題を押し付けられているらしかった。
大奥に戻ったおたきは、自分と同じ年頃で、同じように貧しさに苦しんでいる親友おなかのことを思うと、沈み込んでしまうのだった。
そんなある日、座敷牢に入っているはずの狂女がどうしたことか牢から抜け出しており、しかも、その手には日本刀を持って、廊下を通りかかった奥方に迫ると言う事件が起きる。
それを知った有馬頼貴が、自分が成敗すると刀を抜いて近づいて来るが、それを知ったおたきは、相手が相手だけにお怪我があっては危ないと、自ら、狂女のそばに近づくと、今、殿から拝借した刀を使い、幼女に話しかけるように、自分のまねが出来ますか?と、手のひらの上で、やじろべえのように刃のバランスをとってみせる。
すると、狂女も、そのまねをしたので、おたきは、今度は刀を遠くに飛ばす勝負をしましょうと誘いかけ、まずは、自分が先に、持っていた刀を庭先に放り投げてみせる。
そして、あれ以上、遠くへは放れないでしょうね?などと言葉巧みに誘ってみると、狂女が刀を放り投げたので、その隙に捕らえることに成功する。
この機智に富んだ作戦を見ていた頼貴は感心し、おたきを大座敷に呼び寄せると、何でも褒美を取らしてやると言う。
それを聞いたおたきは、金子10両を賜りとうございますと願い出る。
それを側で聞いていた老女岩波は、金を要求するとはなんと卑しいと蔑む。
おたきは、お蔑みは覚悟の上で、実は、不幸な方を救うためにいるお金なのだと説明する。
その夜、暗闇にまぎれ、殺した狂女を井戸に捨てる奥方付き女中たちの姿があった。
後日、おたきから送られた10両を前に、おなかと父親赤芝金兵衛は泣いていた。
その頃、おたきは、病弱なお部屋様に代わり、有馬頼貴の相手をするよう頼まれるが、あまりに急な申し出だったので、返事を延ばしてもらう。
一方、奥方側ではこの知らせを知り、おたきの悪口が噴出する。
万一、おたきがわこを生んでしまったら、いまだに子宝に恵まれない奥方としては一大事だと岩波も焦る。
後日、おたきの方になったおたきの付き添い役になっていたのが、友達のおなかだった。
そんなある日、奥方の部屋に忍び込んでいた猫のタマが、奥方用の菓子を嘗め回すと言う事件が起きる。
それを見た岩波や女中たちは、シジミ屋の猫じゃと侮蔑の言葉を吐くが、奥方は、髪に挿していたかんざしを抜くと、それをタマに投げつけて突き刺す。
そこに、タマを探しに来たおたきが入って来て、猫の不始末は私が攻めを受けます。どのようなことでもいたしますと詫びる。
そして、タマに刺さっていたかんざしの血を拭いて返そうとするが、そのような汚らわしいものを二度と髪に挿せるか!そちにやるわと奥方に拒否される。
さらに、老女岩波からは、何でもすると言ったな?では、この場で着物を脱ぎ、裸踊りでもしてみろと言い出し、女中たちに、おたきの着物を脱がそうとしむける。
そこへお部屋様が通りかかり、何をおたきに対しなさろうとしておられるのか?まさか、裸踊りをさせるなど、下劣なことをお言いではないでしょうね?と諌めたので、おたきは救われる。
後日、奥方付き女中の一人が、おたきの方様にと重箱を持って来たので、受け取ったおなかが中を改めると、とても食べられるようなものではないものが入っていたので、おたきの方には、自分がいただいたものですと断り、外に処分しに出ようと歩いていたとき、廊下の角から出て来た老女岩波にぶつかってしまい、持っていた重箱を落として壊してしまう。
岩波は激高し、その場で、おなかの背中を叩き始めたので、騒ぎを聞きつけて駆けつけたおたきの方が詫びて許しを請う。
その後、おたきは、自分のために辛い目に遭わせて…、こらえてねと詫び、おなかと抱き合って泪するのであった。
さらに後日、おたきの方は、奥方付き女中の一人に、右手を怪我したので、代筆をしてくれないのかと頼まれたので、言われる通りに書いてやる。
奥方の元に戻って来たその女中は、手に巻いていた包帯を外し、まんまとせしめて来たと他の女中や岩波らと笑い合う。
翌日、岩波から頼貴の面前に呼び出されたおたきの方は、奥方の名前を書いた藁人形を突きつけられ、その人形に奥方のかんざしを打って呪ったのはそちであろうといきなり追求される。
全く見に覚えがないと驚くおたきの方だったが、藁人形の中に入っていた文はそなたが書いたのではないかと見せられると、それは確かに、自分が書いたものだったので、おたきの方は驚き、これは先日、こちらの御女中に代筆を頼まれたものですと言い訳をするが、その女中は、自分は手も怪我していないし、代筆を頼んだ覚えもないとその場でシラを切る。
ここまで用意周到に罠にはめられてしまっては、言い逃れが出来ないと覚悟したおたきの方だったが、お部屋様だけは、見に覚えのない罪は、いつか晴れましょうと優しく慰めてくれる。
しかし、おたきの方は、岩波から謹慎を言いつけられる。
おなかは、すっかり部屋でふさぎ込んでしまったおたきの方を案じるが、その夜、いきなり外への使いを言いつかったので、不思議に思い、訳を聞かせて下さいと頼むが、おたきの方は、言うことが聞けぬなら、暇を取って下がるか?とまで言われては、言うことを聞くしかなかった。
外出しようとしたおなかを呼び止めたおたきの方は、外に出るのに、髪が乱れていてはいけないと言いながら側に寄せると、自らおなかの髪を撫で付けてやる。
そして、自分のかんざしを、いつかお前も嫁にいくだろうからその時の用意として取っておきなさいと手渡す。
さらに、猫のタマまでもが、おなかを引き止めようとじゃれ付いて来たので、さすがに不振に感じたおなかだったが、そのタマを抱いたおたきの方は、おなかを見送った後、いよいよお別れの時が来ました。
心あらば、私の仇を取っておくれとタマに話しかけるのだった。
外に使いに出たおなかは、途中で酔っぱらいに絡まれ、それを振り払った拍子に、持たされていた包みを地面に落としてしまう。
ふみ箱の蓋が開いてしまって中の手紙が見えたので、思わずその内容を確かめると、それは書き置きだった。
驚いて、城に戻ったおなかだったが、そこで目にしたのは、既に自害して果てたおたきの方だった。
おたきの方は、三通の書き置きを側に残していた。
義憤に駆られたおなかは、そのまま老女岩波の寝所に忍び込むと、お恨み晴らしに来ましたと言いながら、懐刀で向かって行くが、長刀で応戦され、さらに応援を呼ばれてしまったため、その場で捕まってしまう。
これを知ったおなかの父、赤芝金兵衛は力を落とすが、ある日、おたきの方の妹、おたけと出会ったので、お部屋様から頂戴した金子を渡してやる。
しかし、この様子を盗み見ていた金兵衛と同じ見張り番が、帰る途中のおたきを遅い、金子の入った袋を奪い取ってしまう。
その後、知らぬ振りをして金兵衛が見はっていた櫓に交代のためやって来たその侍は、ふところから、思わず、盗んだ巾着袋を落としてしまったため、それを見とがめた金兵衛から、それはどうしたと詰問されるが、その時、どこからか猫の鳴き声が聞こえて来たかと思うと、突然首を押さえたその見張り役の侍は、階段から墜落して息絶えてしまう。
驚いて、その侍に近づいた金兵衛は、侍が何者かに首筋を噛み切られているのを発見する。
一方、盲目の母の元へ帰ったおたけは、財布を取られてしまったと報告していたが、その時、又しても猫の鳴き声が聞こえたかと思うと、部屋の中が真っ暗になり、気がつくと、いつの間にか、取られたはずの財布が畳の上に置かれているのにおたけが気づく。
大奥では、廊下を歩いていた奥方付き女中たちが次々に倒れて行く。
その側には、猫の足跡が点々と続いていた。
突如出現したおたきの方は、女中たちの首筋に食らいつくと、手を操って、死人たちを踊らせるのだった。
妖怪出現の噂が広まり、大奥では不寝番の警護が始まる。
しかし、さすがの警護の女中たちも、深夜には皆眠りこけてしまっていた。
又しても、おたきの方が出現し、岩波の寝所に来ると、岩波の首を締め付け殺してしまう。
さらに、奥方の寝所にも出現したおたきの方は、その首筋に食らいついて殺す。
緊急を知らせる太鼓が打ち鳴らされ、もはや、おたきの方の復讐は終わったと言うのに、無関係なものまでが襲われる事態となっては捨て置けないと、小島典隆(市川男女之助?)が妖怪退治に名乗りを上げるが、大奥のことは女たちの手で解決すると言われては手出しが出来なかった。
妖怪おたきの方は、ツタをターザンのように使って、屋根から屋根へと伝い逃げようとする。
さらに、奥女中たちに追われたおたきの方は、櫓のてっぺんまで階段を上ると、長刀を持って追って来たお部屋様の手にかかる。
お部屋様が、お前は猫のタマだろうが、もう主人の復讐は果たしたのだから、私の手にかかりなさいと言うと、その言葉を理解したのか、おたきの方に変化したタマは身を翻して自ら地上へと落下してしまう。
そこに、おなかが駆け上って来たので、タマは自ら自害したと教えたお部屋の方は、これで、おたきの自害も無駄でなかったとつぶやくのだった。  
 
怪猫有馬御殿

 

1953(昭和28)年9月8日にに公開された『怪談佐賀屋敷』が好評を得たとあって、急遽製作、同年12月29日に公開された監督荒井良平、脚本木下藤吉、主演入江たか子による大映化猫映画の第二弾です。尺は前作の半分ほどしかない中篇ですが、前半である人物の受難を綴り、後半で変化した飼い猫が復讐するという結構は同様です。それでいて話の雰囲気はけっこう変わりました。前作では事の起こりとなる事件の加害者・被害者ともに男性でしたが、本作では双方女性です。それに伴ない、板東好太郎と杉山晶三九の二人が前作から続投していはするものの、はなはだ影が薄く、当初二人の区別がつかないほどでした。クライマックスの立ち回りの口火を切る前者の役どころは、いかにもデウス・エクス・マキナ然としています。また前作では化猫は罪科のない加害者の母や妹に取り憑き、亡霊騒ぎのせいでこちらも罪科のない腰元二人が犠牲になっていましたが、本作では入江たか子扮するおたきの死後、猫はそのままおたきの姿をまとって、六人の加害者を標的にします。前半のおたきはひたすら迫害に耐えるばかりでじれったいほどですが、その分対比されて後半での迫力が増すわけです。取り殺した加害者陣の亡霊を手駒に、残った者に対する復讐はいっそう凄惨になる。あまつさえ首を落とされてなお、空飛ぶ生首と化して仇敵にとどめをさします。前作に引き続いてのクライマックスの大立ち回りでは、群がり押し寄せる藩士たちを屋根から落としたり引っ搔いたりしていますが、これは正当防衛というものでしょう。
古城映画的な見所としては、主なものが二つある屋敷内の部屋とは別に、前作にも増して廊下が曲がりくねってあちこちをつないでいます。それに加えて、冒頭とラストを占める火の見櫓が登場します。平屋建ての水平性に対し垂直軸をもって対比され、作中の空間を大いに豊かなものとしていました。この点では正体不明の足場も与ることでしょう。また前作では、町内の眺め等はあまり出てこないものの、藩主の館以外に二つの屋敷が舞台となり、その間を人物たちが往き来していました。これに対し本作は、一度だけちらっと町内が登場する以外、ほぼ館内、それも〈奥〉に舞台が限定されています。尺や予算との兼ねあいもあるのでしょうが、これがいっそう、閉塞感を高めることとなっています。
町家の出のおたきの方(入江たか子)はお殿様こと有馬頼貴(杉山晶三九)の寵愛を受けることで、古参の側室おこよの方(北見礼子)から疎まれます。おこよの方の周りには腕の立つ老女岩波(金剛麗子)、奥女中の呉竹(大見輝子。前作に続いての出演)と七浦(橘公子。『大魔神怒る』(1966、監督:三隅研次)にも出演)、そして腰元庵崎(小柳圭子。『雨月物語』(1953、監督:溝口健二)や『大魔神怒る』に出演)と浅茅(柳恵美子)の二人がいました。おたきには彼女付きの女中お仲(阿井三千子。第三作『怪猫岡崎騒動』(1954)に続投)が唯一の味方で、それにお殿様や、その弟だか血縁だか篇中からはよくわかりませんでしたが、有馬大学(板東好太郎)がその都度諫めに入りますが、それはおこよ一派の嫌がらせをエスカレートさせるばかりで、裸踊りの要求、紅白試合ではおたきが木刀を捨てたにもかかわらず岩波が打ち据え、丑の刻参りとその犯人呼ばわり、遂にはおこよ以外の者五人がおたきの部屋を訪れ、背の低い屏風を逆さにした上で殺害に及ぶのでした。おたきの飼い猫で、殺されそうになったから逃がしたはずの玉がおたきの血を舐めます。ここまでで約26分、まず犯行時に指を咬みちぎられた七浦の姿が見えなくなったと思ったら、火の見櫓に吊された状態で発見されます。火の見櫓の階段には猫の血染めの足跡が残されていました。続いて腰元二人が〈猫じゃらし〉の目にあわされ、二人の生首がおこよの寝所を訪れる。呉竹は影のみのおたきに怯え、お仲と小刀でちゃんばらしますが、誤って岩波に障子越しに刺されます。おこよと岩波が部屋に戻るとおたきが待っており、すでに死んだはずの奥女中二人、腰元二人を手下に、小屏風を逆さにして岩波に一矢報いる。そこへお殿様から化猫騒動をおさめるよう命じられた大学が介入、大立ち回りが始まるのでした。
以上がおおまかな粗筋です。プロローグでは屋敷の正門でしょうか、手前に幅の広い数段ののぼり階段があり、中央が斜面になっています。その左右に塀が伸び。右手の奥に火の見櫓がのぞきます。切り替わると塀の内側から、広場をはさんで火の見櫓がとらえられます。板張りでゆるく曲線を描いて下にひろがり、鐘楼をいただいている。すぐ右に小屋が接しています。ちなみに火の見櫓からまちづくりを考える会編、『火の見櫓 地域を見つめる安全遺産』、に江戸時代の火の見櫓の図が掲載されていました。その内一つは「三田有馬邸火之見櫓之図」です。出典は記されていませんでした。そこで「三田有馬邸」でウェブ検索してあたったのが「赤羽根 | 錦絵でたのしむ江戸の名所」( < 国立国会図書館 )です。同じ図版は載っていませんでしたが、その解説によると現在の東京都港区赤羽は、「明暦年間(1655-1658)からは、久留米藩有馬家上屋敷が全域を占めた。邸内には江戸で一番高い火の見櫓のほか、筑後川の水神を祭神とする水天宮があり、毎月5日の縁日に一般の参詣が許された」とのことでした。『大映特撮映画 怪猫有馬御殿』、に掲載された撮影風景の写真には火の見櫓のセットが見えますが、史実に基づいていたわけです。有馬屋敷とくれば火の見櫓が思い浮かぶ、そんな歴史的なり時代劇的な暗黙の了解があったということなのでしょう。
映画に戻ると、時ならぬ半鐘に見回りの者が櫓右下の小屋に駆けこみます。その戸口の中に左上がりの階段が見えます。ここから櫓内に入るわけです。切り替わると下から上を極端な角度で見上げたショットになる。蹴上げ無しの板階段が右下から左上へあがります。傾斜はかなり急なようです。欄干がついています。他にも斜めの梁だか何やらが交差しています。見回りは左下から現われ、階段を登っていく。次いで上から下をかなり極端な角度で見下ろしたショットに切り替わります。見回りは左下から少し右上へ、そこで左上へと折れ曲がります。左上に水平の欄干があるようです。階段映画のお手本のようなカットつなぎでした。あがった先が鐘楼で、太鼓が中央に吊ってあります。他方軒先には女が吊られ、目を開き笑うのでした。ここでタイトル・クレジットとなるのですが、その背景には冒頭に出たのとは別の小さめの門、塀の向こう、今度は左に火の見櫓が見えます。
以上のプロローグは、時間軸の上ではお話の折り返し時点を先取りしたことになります。本篇が始まると庭に面した縁側がまず映り、次いで廊下をはさんだ部屋が登場します。この部屋は廊下の向かい、床の間側が一段高くなっています。前作にも登場したこうした部屋は、前久夫、『床の間のはなし 物語・ものの建築史』、によると〈上段の間〉と呼ぶそうです。ここがおこよの方勢の陣地となります。なお床の間の壁には、木の枝が右下から左へ、中央あたりで上へほぼまっすぐ立ちあがり、太さを減じつつまた左横へ伸びるという絵が描かれていました。この図柄はただちに狩野山雪ないし/および山楽による妙心寺塔頭たっちゅう・天球院の《梅と山鳥図襖》、またもとはやはり妙心寺の天祥院にあり、現在メトロポリタン美術館所蔵の山雪《老梅図》を思わせずにいません。締まりのぬるさはともかく、後者よりは前者に近いようですがそのままではなく、元になった作品があるのか、天球院梅図を参考に新たに作ったのかは、不勉強のためわかりませんでした。枝が上向きになるあたりに雉か何かが配されているのはいかにもすわりが悪く見えたのですが、後の場面でこれは前に置かれた置物であることがわかります。また前作での段差の間同様、後に約39分、床の間と対面する襖や脇の襖、小屏風など、この部屋には他にもいろいろと絵が飾られています。近世絵画史に詳しい方はぜひご確認ください。
ついでおたきの部屋が登場します。けっこう広いのですが、部屋の一隅で、手前の障子より壁が少しだけ奥まっており、また床も一段高くなっています。天井からは帷が吊られ、おろせるようにしてありました。
オープニング・クレジットに映ったのと同じ、左に火の見櫓をのぞむ小さめの門を出たところで玉を放つ場面に続き、約7分、左奥から右手前へ縁側廊下が映されます。ここをお殿様が奥から進んでくる。右手前で引き戸を開き、数歩進んで一段下がります。この先は渡し廊下のようです。段差の間のカットをはさんで、右手奥に棟、その左側に沿って伸びてきた縁側廊下が、いったん鉤状に左へ折れてから、手前で枝分かれし、一つにやや左下へ、もう一つは右下へ伸びるという、はしゃぎ回りたくなるような空間がお目見えします。左右双方屋根付き、高床、低い欄干付きの渡り廊下であります。ここをお殿様は左へ曲がります。奥に段差の間、その前の縁側廊下は左で角にあたり手前へ、四間ほどの障子戸でまた左へ折れるのですが、そこで右下へ斜めの角度で渡り廊下がつながっていました。前作でも斜めの角度で接続する階段が登場しましたが、本作では階段でこそないものの、スケール・アップしています。お殿様は右から渡り廊下を通り、奥の段差の間ではなく、しかし、そのまま手前左へ進みます。それを見送るおこよの方のアップに続いて、先ほどの手前左の位置から段差の間の方を見るショットとなり、おこよの方がとことことこと手前へ進みます。なお段差の間は廊下より一段高くなっていました。今度は左下から右奥へ伸びる廊下です。左側は障子戸が連なり、奥で壁が少し右に出ています。その手前の床に行灯が置いてある。左に入ればおたきの部屋となるわけです。部屋はやはり廊下より一段高い。廊下の右手前いくらかは一段低くなっています。その向こうは欄干があって庭に面し、奥で左右に折れているようです。この廊下は約27分、後に奥右から大学が進んでくることでしょう。
広場での紅白試合の一段、薙刀を使う腰元と小刀の岩波とのちゃんばらはけっこうスピードがありました。おたきをいたぶる一幕を経て、約13分、軒先から庭をはさんで火の見櫓がのぞまれます。ここはマット画のようにも見え、櫓の左右縁が微光を放っていました。敷地内なのでしょうが、林の態をなし神木がある一角でのおこよによる丑の刻参り、眠っていたおたきは胸に痛みを覚えます。また庭に池のあることがわかります。後の場面では池の端で大学とお仲が、さらに別の場面でお殿様と大学が語らうことでしょう。
続く段差の間の場面では、床の間側からやや俯瞰で、まっすぐ縁側廊下の方が見渡されます。縁側廊下の向こうは庭で、右手で曲がってから少し奥へ伸びる。前におこよが進んだところです。庭をはさんだ向こう側にも別棟が見えます。池の端の大学とお仲、おたきの部屋での当人と呉竹の場面に続いて、また段差の間での詮議、お殿様がおたきを連れだすと、またおこよがとことことこと手前に進みます。切り替わって右手前が庭、そのまわりを囲む縁側廊下が左手前の窓のある一角の右手に出ます。そこに現われたお殿様とおたきが右から左へ進みます。手前に欄干があり、廊下が鉤状に幾度も折れているわけです。左で一段上がると、廊下が奥へ伸びて行く。この廊下は畳敷きのようです。奥の方で天井あたりに格子状の梁が渡されていました。おたきは手前で一段おり、左前の方へ進んで行きます。彼女の部屋はそちらにあることになります。お殿様は右へ戻る。
おたきの部屋での当人とお仲の場面に続いて、本篇で唯一、屋敷の外の町内をお仲が歩くショット、おたきの部屋での惨劇、そしてまっすぐ奥へ伸びる畳敷きの廊下が低い位置からとらえられます。格子状の梁からして、先だってお殿様とおたきが別れた場所なのでしょう。左は障子、右は下半が板の障子戸で、手前右で曲がる際に一段低くなるのも前段どおりです。この廊下の奥・左が〈奥〉への入口で、使いから帰ったお仲がここから入ってきて手前へ進みます。段差の間の一幕をはさんでお仲がおたきの部屋へ、背の低い屏風で三方を囲んだ中におたくの無惨な姿がありました。屏風には凸凹のある金雲が縦横に横切り、町内だか屋内だか風景だかが描かれているようです。飛びだしたお仲は、右の棟と左の棟をつなぐジグザグ状の廊下を奥から手前へ進んできます。手間左の角の床に行灯が置いてありました。ここはどこにあたるのでしょうか。
約28分、半鐘の響きとともに、奥に段差の間、手前に斜め渡り廊下を望むショットに再会できます。段差の間の障子戸が開いて女中衆が顔を出す一方、左手前から大学とお仲が現われ右へ、渡り廊下を進みます。続いて岩波たちも手前へ、渡り廊下に向かう。切り替わると左奥の障子戸附近から手前へ、いったん折れて右へ(左にも伸びているらしく見える)、右端でまた手前に折れる。この渡り廊下の周りは庭です。広場をはさんで火の見櫓がやや低い位置から見上げられます。背を向けた大学とお仲が櫓右下の小屋へ進む。切り替わると小屋内で、二人は左から出てきます。右すぐ奥で4段ほどののぼり階段、のぼると右上へ、かなり急な階段があがっていきます。すぐ奥の壁に欄干の影が落ちている。その左手の壁は右上がりの斜めになっており、すぐ次のショットで、柱から斜めの支え梁が伸びていたりもすることがわかります。プロローグの時とは違い、今回はカメラがかなり近い位置から猫の血染め足跡のついた踏面を見おろしつつのぼっていきます。一度角度を変え、鐘楼に出るのでした。
腰元二人が眠る部屋および続きの間での怪異と〈猫じゃらし〉、おこよの寝所への二つ生首来訪、庭でのお殿様と大学 − カメラは二人と平行に左から右へ動きます −、呉竹の部屋へのおたき訪問、襖におたきの影だけが落ち、ついでお仲が介入、呉竹とお仲のちゃんばら、その影が障子に落ち、廊下から岩波が刺す場面、岩波とお仲が廊下で対面するとその背後は以前お仲が通ったジグザグ廊下でした。すぐにお仲が腰元衆に廊下で取り押さえられるのは、おたきの部屋の前です。
おこよと岩波が段差の間に戻ってくるとおたきが待っていました。岩波への復讐を果たし、おこよの首筋に咬みつこうとしたところへ大学が入ってきて抜刀します。ちゃんばらの始まりです。段差の間とその続きの間から廊下へ、腰元衆も参戦、また段差の間に戻り天井へ跳躍します。屋根へ転がり出る。軒先から火の見櫓をのぞむ前出の構図をはさんで、屋根を右から左へ駈けます。カメラも首を振る。約45分、屋根の左方に足場が組んでありました。建物の補修用でしょうか。いったん右へ少し戻り、また左へ向かうと、画面に映るかぎりでは、面白いことに支えるものもなく足場だけが上方に組みあげられていました。そこをのぼる化猫と侍衆をカメラは仰角で追い、また下る。『大いなる幻影』(1937)の一齣が連想されなくもありません。屋根から飛び降りて火の見櫓へ、引きでとらえた視角の中で、ちゃんと右下の小屋に入り櫓への階段を登ります。鐘楼に現われますが − 『フランケンシュタイン』(1931)のクライマックスが連想されずにいません − 大学が放った矢にあたり転落、それでも倒れず大学と立ち回りを演じますが、ついに首をはねられてしまう。しかし首は飛翔、下から光があてられています。おこよは斜め渡り廊下を奥へ、段差の間に逃げこむも生首に首筋を咬まれるのでした。火の見櫓に登った大学とお仲の姿をエピローグに終幕となります。
行灯の油舐めこそ欠いていますが、前作同様本作も〈猫じゃらし〉と大立ち回りを備えています。芝居なり映画での化猫ものの伝統に則っているのであろう二つの見せ場は、怪談で怖がらせようという視点からすれば、いささか筋立てなり雰囲気の統一を破るものととれなくはありません。とはいえ見世物としてのあり方にしてみれば、近代的な統一性など何のそのということになるのでしょう。それはともかく、大立ち回りの口火を切る大学の「おのれ妖怪」という台詞は、前作で藩主が生きながらえた点に劣らず、唐突に聞こえました。お殿様と大学の何とかせなという会話が前もって配されていたにせよ、おこよ一派を悪役と解し、まがりなりにも犠牲者であるおたきとその仇をとろうとする化猫に肩入れする姿勢で筋を追ってきた見る側は、勧善懲悪という枠組みを脇に置いても、秩序回復の大義の前に擾乱因子は排除されねばならないことを思い知るといっては大げさでしょうか。女性同士の争いとそこに介入する男性という図式のもとに横たわる本作におけるジェンダー観ともども、何やら読みこめそうな点ではあります。とはいえこの点もやはり、見世物的・映画的な動きを始動させるための合図であり、そして大立ち回りは何より、生首飛翔を導くために必要だったとも見なせもするのではありますまいか。ところでいわゆる怪談映画なるジャンルにおいて、多く女性である幽霊は、加害者が破滅した後は成仏するものと見なされていたといってよいのでしょうか。そもそも加害者にだけ見える幻ともとれることが少なくない幽霊は、実体としてのあり方そのものがあやふやでした。それに対し化猫は、大立ち回りをしても滅せねばならないだけの実在感をもっているわけです。とまれ、そうした化猫が跳ね回り女たちが動き回れるのも、曲がりくねった廊下や火の見櫓、謎の足場があったればこそでありましょう。  
 
岡崎の化け猫 1

 

「岡崎の化け猫」を知っていますか−−。江戸時代から歌舞伎の演目や浮世絵に登場し、佐賀県の「鍋島」、福岡県の「有馬」と並ぶ日本三大化け猫騒動の一つともいわれる。愛知県岡崎市中心部の商店街がこのほど、化け猫の石像を設置し、化け猫の聖地をPRし、まちおこしにつなげる構想を練っている。
岡崎の化け猫は、1827年に初演された四世鶴屋南北の歌舞伎「独道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)」に登場し、全国的に名が広まった。舞台は東海道の池鯉鮒(ちりゅう)宿(現・同県知立市)。ある女の怨念(おんねん)が、死んだ母親に憑依(ひょうい)し、十二単(ひとえ)を着た化け猫となる。その後は時代とともに舞台を移し、現代の演目では岡崎市の無量寺に現れる。松竹大歌舞伎は昨年10月の地方巡業で上演。市川猿之助と坂東巳之助が化け猫となって宙を舞い好評を博した。
化け猫の活用を思い立ったのは同市康生地区の商店主らで作る「東康生商店街まちづくりの会」。会長の小野修平さん(69)は市内で開催された浮世絵展で「岡崎の化け猫」がかつて全国的な人気だったと知り、「徳川家康以外にも誇れるものがある」とひらめいた。
城下町として栄えた中心市街地は郊外の大型商業施設に客を奪われ、店主も高齢化し、店は20年前の半数以下に減った。町に再び「化けて」ほしいという願いも込められる。
石工が伝統産業の地域にふさわしく、地元の職人に御影(みかげ)石で製作してもらった。高さ約60センチの作品を昨年11月、商店街の歩道脇に設置した。妖艶かつ恨めしげな表情で十二単から抜け出る様子が表現されている。頭上に伸びる尾は二つに裂けている。「尾が裂け」が「おかざき」の地名になったという俗説もあるほどの特徴の一つだ。
小野さんは「(同市の人気キャラクターの)オカザえもんのようなゆるキャラも検討したが、おどろおどろしい方がインパクトがあると思った」と話す。多くの人に足を運んでもらうため、今後は石像の前に鳥居を建てて「化け猫神社」を造るほか、同市の愛知学泉大の学生が製作した化け猫の着ぐるみ「ねこにゃん」とオカザえもんのコラボ活動も計画中だ。商店街が再び「猫の手も借りたい」にぎわいを取り戻すかどうか。  
獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ) 1
『獨道中五十三驛』は文政10(1827)年6月に江戸河原崎座で初演されました。現在にも残る傑作の数々を書き、「大南北」と称される四世鶴屋南北の作で、当時流行していた十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に着想を得た南北が、東海道五十三次を舞台に御家騒動と仇討を主軸に描いた大作です。
昭和56(1981)年に三代目市川猿之助(現猿翁)がこの作品を復活上演。スペクタクルに溢れた舞台は大ヒットとなりました。再演ごとに改訂を加え磨き上げられ、代表作を集めた「三代猿之助四十八撰」の中でも人気作の一つとして上演を重ねています。
物語は、通常の東海道とは反対となる京都三條大橋から出発し、江戸日本橋を目指します。由留木家(ゆるぎけ)に伝わる二つの家宝「雷丸(いかずちまる)の剣」と「九重の印」を巡って、敵味方が追いつ追われつ、東海道五十三次の宿々を舞台に日本各地を駆け巡ります。岡崎の古寺では十二単を着た化け猫が現れるなど南北の怪奇さが存分に発揮され、化け猫の宙乗りは必見です。
常磐津を用いた舞踊「写書東驛路(うつしがきあずまのうまやじ)」は、お半と長吉、老若男女から雷までの十三役を、一人の俳優が早替りで演じ分ける洗練された演出でご覧いただきます。
この度の公演では、本作には既に定評のある市川猿之助と進境著しい花形の坂東巳之助がダブルキャストで演じることも話題となります。エンターテインメント性にあふれ、作品のエッセンスを凝縮したこの度の舞台に、どうぞご期待ください。 
独道中五十三駅 2
鶴屋南北(四世)作。文政十年(1827年)閏年六月六日初日(紋付番による「歌舞伎年代記続編」は六月三日とする)、江戸河原崎座で上演した夏狂言。南北七十三歳の作。 尾上菊五郎がさまざまな役に扮してほとんどの場面に出てくることから、「独道中」と名題を付けたのではないかといわれている。
岡崎無量寺の場
おやえおきちは金になりそうな雷丸を追うのをあきらめたが、金になると思われた九重の印の袋の中は石、十二単を売って金にしようとすれば洗濯女おくら(猿琉)に安い値で交渉され…と散々。
一方、与八郎の姉・お袖(笑野)と夫の由井民部之助(門之助)は、与惣兵衛が殺されたことを知り、幼子を連れ与八郎を訪ねる旅に出ており、宿を探していた。
通りがかったおくらにたずね、無量寺を預かっているお三婆(右近)に取りなしてもらうことに。
民部之助とお袖は奥の間に通され、おくらが寝ている隙に、お三婆は行灯に入れた魚灯を美味しそうに舐め始める。
実はこのお三婆こそ、老女の姿をした化け猫の怪だった。
物音に目を覚ましたおくらに見られてしまったお三婆は、かねて目をつけていた子年生まれであるおくらをなぶり食い殺してしまう。
お袖も泣き止まぬ子を抱え起きてくるが、子どもも共にお三婆に殺されてしまう。
この猫の怪は、武智光秀の城に住んでいたが由留木家に滅ぼされてしまったため、由留木家の殿様のおとしだねであったお袖を殺そうと呼びよせていたのだ。
そこへ、姉のお袖が危ないと父親が夢枕に出てきたのに胸騒ぎを覚えた与八郎が駆けつけ、民部之助もお袖を殺した猫の怪と応戦するが、化け猫はおくらが持ってきた十二単を纏ってその場から飛び去っていってしまった。 
 
岡崎の化け猫 2

 

“日本三大猫騒動”といえば、鍋島騒動、有馬騒動、そして岡崎の猫騒動となる。鍋島と有馬の猫騒動は史実に基づいた部分があり、藩主が怪異に巻き込まれるなどのまことしやかなお家騒動によって構成されている。しかし岡崎の猫騒動はあくまで創作であり、文政10年(1827年)に歌舞伎の演目として鶴屋南北が作った『独道中五十三駅』に登場するエピソードがその中核となっている。
この『独道中五十三駅』は、元々しっかりとしたストーリーがある作品ではなく、各場面ごとに趣向を凝らした演出で人気役者(初演では三代目尾上菊五郎)が活躍することが目的で作られている。そのために芝居に掛かるたびに内容が少しずつ変更されることになるのだが、岡崎の化け猫のくだりだけは人気が高く、繰り返し演目に取り上げられている(それでもディテールは相当書き換えられている)。
お袖は、姉のお松を捜して乳飲み子を抱えて夫と共に旅に出る。途中、岡崎で休むところを探していると、幼なじみのおくらに出会い、宿場はずれの古寺に案内される。そこには十二単を着た亡き母がいた。実はその亡き母親は化け猫であり、行灯の油を舐めている姿を見てしまったおくらを殺す。一方のお袖と夫は、お松の幽霊と出会い、夫の前の思い人がお松であり、その思い人が姉とは知らずに嫉妬してお袖が呪いを掛けたのがきっかけで死に至ったことを知る。事が露見して離縁を言い渡されたお袖はその場で亡くなってしまうが、その時障子の奥から手が伸びて、お袖の遺体と乳飲み子を引きずり込んでしまう。そしてお袖の老母は夫の前で化け猫の正体を現し、自分が猫石の精とお松の怨念が合体したものだと言い放って消え失せる。あとは猫の形をした巨石と茅原が残るのみ。そこへお松の遺体が運び込まれると、一転、猫石は再び化け猫に化身して、遺体を引っ掴むとそのまま宙を舞って消え去ってしまう。
この荒唐無稽な展開であるが、モチーフとなるような伝承が旧・足助町にある。曹洞宗の古刹である大鷲院である。この寺の裏山は霊場として整備されているが、多くの巨石が点在している。その中での最も大きな石の1つとされる八丈岩に、化け猫にまつわる伝承が残されている。
大鷲院の住職が、檀家の葬儀に行ったときのこと。空に突然暗雲が立ちこめ、嵐となった。いきなり住職は棺にまたがり、ある一点を睨み上げた。すると天空から化け猫が棺めがけて襲いかかってきたのである。住職が払子で顔面に一撃を加えると、化け猫は退散し、嵐は止んで嘘のように天候が回復した。寺に戻ると、飼い猫が顔を腫らしていた。先ほどの化け猫の正体がこの飼い猫であると悟った住職は、飼うことが出来ぬと追い払った。猫は裏山に行き、この八丈岩に足跡を残していずこともなく消えていったという(あるいは住職がこの八丈岩に封じ込めたとも)。
大鷲院の化け猫伝承と「岡崎の猫」に登場する化け猫とは、遺体を狙ったり宙を飛び交う能力があるということで同種のもの(おそらく“火車”と分類される妖怪の類)であると想像できる。また猫石と八丈岩にもかなりの共通の役割があることもうかがうことが出来る。大南北が意図して組み入れたのか、あるいは偶然の産物なのか、それを明瞭に示す資料はない。

『独道中五十三駅』(ひとりたびごじゅうさんつぎ) / 文政10年(1827年)初演。四世鶴屋南北作。初演の内容では、化け猫が登場するのは鞠子宿となっている(鞠子と岡部の宿の間にある宇津ノ谷峠に「猫石」も存在している)。推測するに、岡部と岡崎の宿場名が混同して、いつしか岡崎の化け猫話として定着したのであろう。また岡崎宿のはずれにある古寺は無量寺と称され、この名前を持つ寺院も実際に宿場はずれとおぼしき場所に存在する。ちなみに同じ南北の作品である『東海道四谷怪談』は文政8年(1825年)初演。また他の化け猫騒動の歌舞伎演目は、嘉永6年(1853年)に公演予定するも中止となった『花埜嵯峨猫魔稿』(鍋島猫騒動)、明治13年(1880年)初演の『有松染相撲浴衣』(有馬猫騒動)がある。
鶴屋南北(四世) / 1755-1829。歌舞伎狂言の作者。45歳で立作者となり、それ以降、数多くの作品を発表する。特に怪談物で名を成す。  
 
岡崎の化け猫 3

 

「東海道五十三対・岡部」(とうかいどうごじゅうさんつい・おかべ)は、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)と呼ばれる江戸時代に整備された五街道(ごかいどう=江戸・日本橋を起点とする五つの陸上交通路)の一つを題材とした、全55枚からなるシリーズのうちの一枚です。このシリーズは国立国会図書館デジタル化資料で確認できます。
さて、当作品で取り上げた「岡部」とは駿河(するが=現在の静岡県中部〜東部)に見られた地名です。元になった歌舞伎狂言は不明ですが、化け猫が登場することで有名な「独道中五十三駅」(ひとりたびごじゅうさんつぎ)系統の演目をモチーフにしていると考えられます。独道中五十三駅で化け猫(猫石の精)が出てくる場面を簡潔に説明すると以下です。
独道中五十三駅・岡部
「 赤堀水右衛門の仕打ちを受けて命を落とした姉・お松の死を知らない中野藤助と妹・お袖は、無事に生まれた赤子を抱えて岡部宿並木道を旅していた。休むところがなくて困っていたら、昔なじみのおくらが現れ、古寺に案内される。しかしその古寺で、死んだはずのお袖の母親に出会う。母の姿はいつしか化け猫になり、行灯(あんどん)の油をなめる。それを目撃してしまったおくらが化け猫に襲われる一方、藤助とお袖は幽霊となった姉・お松に出会う。藤助はお袖を離縁するが、そのショックでお袖は死んでしまう。すると障子の中から手が伸びてきてお袖の死骸と赤子を引き込む。化け猫となった老女は藤助の前に正体を現し、「我は猫石の精とお松の怨念が合体したものだ」と名乗り、消えうせ、後には猫の形の大石と茅原だけが残る。そこに、お松の死体が運び込まれてくると、猫石は再び目を開き、死体をつかむと、火を吐きながら空を飛んでいった。 」
当作品では猫の影が映った行灯と倒れこむ女性の姿が描かれていますので、油をなめているところを目撃されて老婆が襲い掛かるというドラマチックな場面をモチーフにしたと考えられます。
ところで「独道中五十三駅」という作品は「初春五十三駅」(うめのはつはるごじゅうさんつぎ)、「尾上梅寿一代噺」(おのえきくごろういちだいばなし)といったスピンオフ作品を多数排出していますが、「岡部」、および「岡崎」で登場する「化け猫」の場面はどの作品においても有名で、非常に多くの浮世絵師が作品のモチーフとして取り上げています。一例を挙げると以下です。
岡部・岡崎がモチーフの浮世絵
○歌川国芳 / 五拾三次之内・岡崎の場(1835)
○歌川貞秀 / 東海道五十三次之内・岡崎(1835)
○歌川国芳 / 日本駄エ門猫之古事(1847)
○歌川国貞 / 五十三次ノ内岡部丸子ノ間宇津谷猫石(1854)
○歌川国貞 / 十三代目市村羽左衛門の古猫の怪(1867)
大雑把(おおざっぱ)な共通点を挙げると、「猫の影が映った行灯」・「手ぬぐいをかぶって踊る猫」・「背景からのぞく巨大な猫」・「猫耳をつけた老女」といったところです。ちなみに猫が手ぬぐいをかぶっているのは、「猫が化けるとしっぽが二股に裂け、手ぬぐいをかぶって人間のように振舞う」という「猫又伝説」(ねこまたでんせつ)に根ざしていると思われます。 
  
国芳「東海道五十三對」「岡部」 (浮世絵)

 

蔦の細道神社平の上の方に猫石といふあり 古松六七株の陰に猫の臥たる形に似たる巨巌あり 其昔此所に一ツ家ありて 年ふる山猫老女に化し多くの人に害をなし人民を悩ませしに 天命逃れず終に死して其灵石と化すと世俗にそれを言つたへけれども 其絶詳らかならず
場所
「岡部」とは駿河に見られる地名のことである。他の名所図を見ると、「岡部」という地名と「宇津山」がセットにされて描かれているものが多く見受けられる。「(例:広重の『東海道五拾三次 岡部・宇津の山之図』『東海道 岡部・宇津の山』) また、「蔦の細道」「猫石」から、この絵は丸子から岡部のあいだにある宇津谷の峠の道を描いたものと思われる。
○宇津ノ谷峠
『静岡県の地名』のよると、「静岡市の宇津ノ谷と岡部町岡部の間にある峠で、標高約一七〇メートル。かつては宇津谷などと書いた。」とある。現在では、宇津ノ谷峠とよばれるものは大きく分けて三つあるとされているので、以下に箇条書きで記した。
1 宇津ノ谷の字会下之段と岡部町桂島の谷川を通る山中の峠
2 蔦の細道越えの峠
3 江戸時代の東海道の峠(東海道宇津ノ谷峠)
今回の作品の場合は、2の「蔦の細道越えの峠」を指しているものと思われる。
○蔦の細道
『静岡県の地名』によると、古代の主要官道であった日本坂に代わって、平安中期頃から「伊勢物語」の道として注目され、それ以降は宇津山として多くの文学作品に登場することが記されている。
以下は名の由来とされる『伊勢物語』での記述である。
『伊勢物語』 「ゆきゆきて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり」
また『東海道名所図会』には「宇治の山にあり、海道より右の方に狭道あり。これいにしえの細道なり。」という記述が見られる。
○神社平
前述した『東海道名所図会』に、蔦の細道の説明の際に出現する。以下は『東海道名所図会』の記述である。
『東海道名所図会』 「宇津山蔦細道は『勢語』〔伊勢物語〕に出でて、いにしえよりその名高く古詠多し。上方よりこゝに至るには、岡部の駅(うまや)海道を一里ばかり行きて、湯谷口坂の下という所あり。(中略)少したいらなる所あり。こゝを神社平という。むかし社ありし古跡なりと教ゆ。按ずるに、『駿河風土記』に、「宇津谷本原神社は、仁徳天皇紀七年乙卯祭る所なり」云々。もしこの神社の古跡ならんか。」
また、『東海道名所図会』は続けて「猫石」についても「その(筆者注:神社平)の上の方に猫石あり。古松六七株の陰に猫の臥したる形に似たる巨巌あり。」と記述している。
以上より、題材の『東海道五十三次・岡部』にある文章と『東海道名所図会』の文章を比較すると、猫石の記述についてはほぼ完璧に一致することがわかる。このことから今回の絵が『東海道名所図会』の影響を受けて書かれた可能性は高いといえる。
題材
絵には、後方の御簾の裏には巨大なぶち猫が、その前方には二人の女性がいる。若い女性の方はひっくり返って老婆を見上げており、老婆は若い女性に襲い掛かるかのような体勢で描かれている。本文に「山猫老女と化し」とあることから、この老女は山猫の化身であることが言えるだろう。 さて画題だが、この作品には歌舞伎作品の影響があるように考えられる。時代からみて、『独道中五十三駅』『初春五十三駅』『尾上梅寿一代噺』 が著名な化け猫物の歌舞伎作品であるから、このあたりの作品が下敷きになっていると思われる。 しかし、『初春五十三駅』『尾上梅寿一代噺』は『独道中五十三駅』の再演作品であり、その大まかな筋や今回述べたい猫石の話は『独道中五十三駅』と変わらないので、今回は『独道中五十三駅』を中心にして読み解いていきたい。
○あらすじ
『独道中五十三駅』という作品は長く複雑な話なので、ここでは猫石の精が出てくる場面だけ見ていきたい。
お松とお袖という姉妹がいる。姉のお松は母お三が病気になったので薬代を稼ぐために遊女となる。妊娠したため一度はやめるが、母のため再び身を売ろうとしている。一方妹のお袖も妊娠中である。二人は知らないうちに同じ男性(中村藤助)を愛していて、その子供を身ごもっていた。そうとは知らないお袖は、恋敵を呪い、その結果、お松の顔は呪詛の結果で醜く変わってしまう。 そうこうしているうちに、お三は死に、死に装束として十二単をかけてやると、異変が起こる。十二単を着た老婆が、猫の顔で鏡台の前に座り、お歯黒をつけていた。 母親の死を知らないお松は買い手を探していたが、醜い顔で買い手がない。そんな中、はぎという女がお松を買う。しかし、それは嘘で、家に連れて行かれたお松は、家で待っていた赤堀水右衛門(穢多江戸兵衛)に殺害される。 一方、中野藤助とお袖は赤子を抱えて岡部宿並木道を旅している。休むところがなくて困っていたら、昔なじみのおくらが現れ、古寺に導く。しかしその古寺で、死んだはずのお袖の母親に出会う。老婆はいつしか化け猫になり、行灯の油をなめる。それを目撃してしまったおくらは、猫に襲われる。 お松は幽霊になり、藤助とお袖の前に姿を現す。藤助はお袖を離縁し、そのショックでお袖は死ぬ。すると障子の中から手が伸びてきてお袖の死骸と赤子を引き込む。老女は正体を現し、「我は猫石の精とお松の怨念が合体したものだ」と名乗り、消えうせる。あたりには猫の形の大石がある茅原に変わり果てる。そこに、お松の死体が運び込まれてくると、猫石は再び目を開き、死体をつかむと、火を吐きながら空を飛んでいった。
考察
この『独道中五十三駅』の「猫石の怪」の場面には二つの作品の要素が見られる。一つはお松の顔が崩れるという話の運びと“お袖”という名前から『東海道四谷怪談』。もう一つは“赤堀水右衛門”という名前から『亀山の仇討』であろう。
以下に、今回の絵と一致すると思われる記述について台帳から抜き出してみた。
○猫について
「むかし南ばん国よりわたり、そのゝち姿をけし、いちもつの女婦(ママ)〈渥美本「命婦」〉となつて大内にありしを、とらへて宇都の山部(べ)にすてしに、陰気こもつて石となる。そのいちもつに似たるまだら。」@
ここでは、怪異を起こした猫は斑模様の猫であったといっており、これは絵の大猫が斑猫であることと一致している。
また、ここでは猫石の正体は大陸からやってきた妖怪だと言っている。そのことについては、後に猫石の精が自らを「中国の後漢の明帝十年(天竺から仏教典が伝えられた年)に中国で誕生したと語る。猟虎陰虎(りょうこいんこ)の生を合わせて生まれた異獣(霊獣)である」と述べる場面がある。 おそらくここの記述には「殺生石伝説」が下地にあるものと思われる。
○老女の描写
「左次兵衛きつと目を付る。どろゝになり、古(ふる)みしのやぶれより、そのかたちばつくんなる大猫のつら見へて、眼をひらききつとなる」
「こゝに丸子猫石の精〈菊五郎〉十二単のなり、老女のこしらえにて蚊やりの火をたき、猫の顔にて鏡台、かねつけ道具をならべ、かねをつけている。左次兵衛びつくりふるふ。猫石の精ふりむいてきつとみる。口の廻りおはぐろつきいるてい。うすどろゝ、あつらえの鳴り物。猫石の精、二重ぶたいよりゆうゝとおりて来ル。」
「本能寺古寺の道具、平舞台にかざり、釣らんま、これに紅葉蔦まとい、正面仏前のかゝり、左右の道具望み有(左右破れし杉戸、真中へやれし伊予簀上ゲおろしあり)、よき所にあんどうをともし有、宜敷道具納る。 トこゝに猫石の精灵白髪かづら老女の拵、破し十二ひとえの袖ぬぎかけ、頭に黄綿を置キ、糸車ニ而、糸を取て居る。」
ここでは、老女の姿に絵との一致が見られる。残念ながら、頭に「黄綿」を置いてはいないが、「白髪」「破れた十二単を袖脱ぎかけ」「おはぐろ」は一致を見せている。 また、室内の様子も、「釣らんま」は確認できないが、「御簾」「行灯」「糸車」はあることが伺える。
○おくら、化け猫を目撃する場面
「精灵、寐所よりそろそろとはい出し、後ロを伺ゝあんどうを引寄、その内へ顔をさし入る。その形猫に移〈映〉る。長き舌を出し、ひちやゝと油をなめる事。」
「トにげ行を手をのばし、おくらがゑり髪をとらえるとて、思わづ精灵向イ合て、中をへだてゝちりゞと精灵白眼(にらめ)る。おくら〈じりゝと〉すくむ事。よききつかけに、精灵、おくらのゑり元へ飛付、くわへし心。おくら振切にげんとしてあをのけになる。精灵この時中腰になり、前へ手を付、おくらをみてきつとなる。この時、顔はなまなりの猫の顔になる。」
まず注目してもらいたいのは行灯である。油を舐めるところは描かれていないが、行灯には猫の姿がくっきりと映っている。 ちなみにこの油を舐めるという行為は、『和漢三才図会』の「猫」の項に「油を舐る者、是れ当に恠を為すべき表れなり」と記載があることから、化け猫の行動パターンであったようだ。
次に、老女がおくらに襲い掛かろうとしている場面だが、おくらの仰向けになった体勢、老女の中腰の姿勢と手の置き方がことごとく一致していることがわかる。
考察
「東海道五十三次・岡部」という作品には、『独道中五十三駅』と一致する記述が多数見られる。まず登場人物の老婆と若い女。斑の猫。行灯や御簾といった小道具。このことより、この作品が、『独道中五十三駅』もしくは『独道中五十三駅』から発生した化け猫物と呼ばれる歌舞伎作品を参考にして描かれたものである可能性は極めて高い。
次に題材についてみてみたい。『独道中五十三駅』は鶴屋南北(四世)が作った歌舞伎作品である。確かにお松とお袖の愛憎話は、いかにも南北が得意とした話となっている。では、化け猫話の題材はどこから取ってきたのだろうか。今回、猫石の説話が南北以前に本当に実存していたのかは調べ切れなかった。しかし、南北が参考にした思われる作品についてはいくつかあげることができる。
一つは、「殺生石伝説」である。猫石が作中自分の出自を語る場面は、この殺生石の話の影響が見られるといえるだろう。このころ殺生石の話は謡曲や能で広く人口に膾炙されてきたので、用いられても何の不思議も無いことと思われる。
もう一つは「火車」の説話である。火車とは妖鬼が人の屍をつかみ去る怪事のことを意味する。『江戸の怪異譚』によると、江戸中期以降、火車の怪事を化け猫の仕業とする民俗信仰が目立つようになってきた。寺の飼い猫の奪屍を語る「猫檀家」が各地の民談に登場してくる、とある。『独道中五十三駅』では猫石の精が最後死体を掴んで空を飛ぶ場面がある。この場面は「猫檀家」の影響が見られるといえるだろう。
『独道中五十三駅』にはこのように数々の説話の影が見られる。しかし、ここで疑問が出てくる。それは、猫石の精が斑猫であったという点だ。『夭怪着致牒』という『独道中五十三駅』よりはるかに前に出版された本には、「三毛猫の二股は飼わぬもの。後には人間のごとく、心通じて、人を化かし、悩ます。」とある。ここでは怪異を起こす猫は三毛猫となっている。些細な点だが、この三毛猫と斑猫の違いにこそ、南北が何を基にしてこの作品を作ったのか考える上で大きな手がかりになるだろう。 
 
怪猫岡崎騒動

 

『怪談佐賀屋敷』(1953)、『怪猫有馬御殿』(1953)に続く入江たか子主演の大映化猫映画の第三弾です。屋敷の〈奥〉周辺の廊下は入り組み具合が前作に比べやや減じた感なしとしませんが、それでも庭をコの字状に囲い、一箇所では段差を設けられていました。また前作での火の見櫓に対応するかのように、天守最上階とそこから一階下に下る階段が垂直軸を構成する。さらに破やれ寺、別の寺の屋根付き通路などが登場します。「〜岡崎〜」という唄に踊り付きで川開きのありさま、また前作や前々作と違って街中の道路も出てきます。屋外階段つきです。ただし通行人の姿は見えません。
岡崎藩主水野伊勢守(澤村國太郎。第一作に続き殿様役です)の妾腹の弟・水野刑部(杉山晶三九)は仏像蒐集家で、伊勢守の妻・萩の方(入江たか子)に懸想していました。側近三人に煽られ伊勢守を毒殺してしまいます。萩の方は伊勢守の息子を産みますが、刑部の妻となった八重(霧立のぼる)は何かと萩に辛く当たる。和子を連れたお宮参りの際、賊に襲撃されます。和子はさらわれたかに見えましたが、家老・水野縫殿ぬい之助(板東好太郎)が助けだし、ひそかに保護するのでした。刑部は萩に天守最上階に籠もることを命じ、思いを遂げようとしますが、八重に邪魔される。結局八重は萩を刺殺、飼い猫みいもろとも萩は天守最上階の壁の奥に塗り籠められてしまいます。約51分、これ以後八重と刑部の身辺で怪異が起こり始めます。八重は萩=化猫に〈猫じゃらし〉され、刑部は四谷怪談風戸板返しあらため畳返しを目撃、また行灯の油を舐める化猫を切り捨てると八重でした。並行して5歳になった伊勢守の忘れ形見・雪太郎の命が狙われる。萩の父で霊魂の不滅を生涯追求し、京を追われたという西三条基昭(御橋公)の示唆によって再度天守最上階の壁への封じこめが計られます。萩の妹・綾(阿井三千子。前作からの続投)もからみ、雪太郎の運命や如何に……というのががおおまかな粗筋です。
帷がゆらゆら揺れるさまを背景にしたオープニング・クレジットに続き、乙川(菅生川)かそれとも矢作川ということになるのでしょうか、水面を隔てた向こうに、左から突きでる岬状になった木立の上に天守がそびえています。夜です。左に小さな櫓がのぞいています。視点は対岸にあるのでしょう、見上げる角度です。切り替わってより近い位置から見上げるカメラは、ズーム・インというか上昇していきます。最上階を目指す。また切り替わると、縦格子のはまった窓の外から中を覗きこみます。奥の壁にやはり縦格子の窓の影が斜めに落ちている。カメラは前進します。奥の壁の手前に三段ほどの横長階段がありました。その手前の板張り床に左からの窓の影が落ちています。カメラはそのまま窓の格子をくぐって屋内に入ります。若干左右しつつさらに前進すると、突きあたりの壁が向こうから崩れ落ちました。その向こうにあった観音扉が勝手に手前へ開きます。カメラはさらに前進、もう一つの観音扉がやはり開きます。その向こうでは何やら光がゆらゆらしている。向こうから髪を垂らし、恐い顔をした女性が歩み出てくるのでした。
切り替わって手前の庭を囲んで、左下から右上へ、そのまま廊下は続く一方枝分かれして右下へ伸びる長い廊下が二階の高さから見おろされます。角の床手前には行灯が置いてある。先の廊下より右下の長廊下は一段低くなっていることが後にわかります。カメラは下降する。また切り替わると女性(後に八重であることがわかります)が眠っています。カメラは接近します。飛び起きると障子に影が落ちる。消えたかと安心すると既に室内にいました。八重は障子に影を映しつつ縁側廊下に飛びだしてきます。廊下は左から右に伸びている。そのまま数段おりて庭に出ます。カメラは右から左へ振られますが、その際左奥へ伸びた廊下のその先で途切れ、さらに左から伸びてきた右下がりの斜面と交差しているのがちらっと映ります。八重の部屋に沿った廊下より、こちらは一段高くなっているわけです。この高床廊下は左へ、角で手前に、少ししてまた左に折れます。八重の悲鳴に腰元衆が集まってくると、高床廊下の凹角が最初に俯瞰された行灯置き場であることがわかります。腰元衆とともにカメラは左から右へ、彼女たちは数段下り斜面をおり、曲がって手前へ、それから庭に下ってきます。彼女たちとともにカメラは今度は右から左へ振られる。カメラは近づきます。切り替わって、行灯の左から伸びた廊下が曲がらず、そのまま障子間の間に伸びていた中廊下から刑部と伴の者が出てきます。行灯の角で右へ、カメラも右に振られる。右下がりの斜面を降り、曲がって手前へ、庭に降りて左へ進みます。いったん止まったカメラはまた左へ振られる。腰元衆を追った動きに変化を加えつつ反復したわけです。ここまでで約6分、充分元はとった気分であります。刑部は八重に小さな観音像を見せます。この時点では八重も刑部もとても悪役には見えません。
以上のプロローグは、前作同様、時間軸の上ではお話の折り返し時点を先取りしたことになります。約51分、壁塗り籠めに続き水面の俯瞰、カメラは右へ、切り替わって天守へのズーム・インが反復されます。壁崩しとその奥までそのままです。冒頭の水面越しの天守外観はその際省かれていますが、エンド・マークのところで反復されます。この時は昼間のように見える。戻って壁崩しに続いてやはり八重の寝姿に切り替わります。ただしこの折りは顔にあざができています。カメラは今回は後退、やはり飛び起きると髪を垂らした萩=みいが登場、天袋の中から顔を出したりしてから、〈猫じゃらし〉となるのでした。他方長廊下に関しては、まず、約19分、奥で鉤状に曲がってから左奥から右手前に伸びる縁側廊下と左側の庭が、再び二階の高さから俯瞰されます。雨が降っています。小姓二人に茶坊主が奥から進んでくる。水平に切り替わると、行灯を置いた外角を茶坊主が左から右へ曲がります。カメラもそれを追う。次の内角を曲がるあたりで、庭に刑部側近組の一人が現われます。手前に欄干の影が斜めに引き伸ばされて落ちています。八重がお茶をすり替える際、廊下に置かれた行灯が二つ間隔をとって見えました。そしてクライマックス、雪太郎を守ろうとする縫殿之助と敵方の立ち回りの主たる舞台が、この長廊下でした。廊下から庭へ降りるさまも再現されます。約1時間9分、松絵兼仏像の間で和子を始末したと虚偽の報告をした側近に刑部が斬りかかり、切り替わると、右奥の中廊下から側近が逃げだしてきます。廊下は左と右に枝分かれして内角をなしています。角の左寄りに行灯が置いてある。右手前に伸びる縁側廊下には、すぐ庭へ降りる3〜4段の階段がありました。下りた先、手前に小さな石の丸太橋が水路に掛かっています。冒頭とは別の位置でしょうか。二人はここを手前へ追いつ追われつします。とこうして本作では、一度現われた空間なり構図が、変奏を加えつつ再現されるさまをいくつか見ることができます。深読みすればなかなかに幾何学的な組立がなされていると見なせなくもないかもしれません。
またとても気になるのが、廊下の角近くで斜面となる部分です。地面に段差があるからともとれますが、セット造営に関係するとも考えにくい。それともセットを段差のある所に作ったのでしょうか。いずれにせよ視覚的な効果のために高低差を設けたと見なせるでしょう。充分に活用されたとはいえないかもしれませんが、その心意気やよしというほかありません。
戻って本篇は伊勢守の部屋から始まります。床の間には右手の幹から左に枝が伸びる松の絵が描かれています。枝には雉だか鷹だかが留まっているようです。前作同様、これも何かネタがありそうですが、不勉強のためわかりませんでした。他にもいくつか出て来ますので、近世絵画史に詳しい方はぜひご確認ください。また床の間左手には、いわゆる櫓時計が置いてありました。四角錐状の台の稜線はゆるい曲線をなしているようで、花紋か何かが散らされています。この部屋の続きの間は角部屋になっています。ここでの刑部は子供っぽい我が儘おじさん以上ではありません。次いで刑部の部屋です。やはり角部屋で、刑部は縁側廊下を角の方からやって来ます。廊下は一段低い。廊下から入って左側の障子窓の壁に沿って仏像がいくつも並べてありました。入口の向かい側が床の間、仏像の壁の向かいが続きの間となります。ここでの八重はいかにもしおらしい。
刑部の仏像の間に関してはすぐ後に、前と同じ入口が室内側から見渡されます。角と反対側では、入口のすぐ左で壁が少しだけ迫りだし、縁側廊下が左へ、少しして内角で曲がって続くことがわかります。前作の廊下もそうでしたが、本作でも縁側廊下は何かと鉤状に屈曲しているようです。手前で右を向く刑部、左奥から三人の側近が進んできます。奥行きを強調した構図であります。廊下の内側は畳敷きのようです。ただの我が儘だった刑部を側近たちがいっぱしの悪者におだて上げてしまいます。同じく仏像の間、ただし簾越しにカメラが左から右へ振られたかと思ったら、蓮池に雨が降るショットをはさんで、同じ部屋を同じく簾越しでカメラが右から左へ振られます。前者は刑部と三人の側近、後者は刑部と八重の場面でした。相変わらずしおらしい八重と刑部が接写で仰視されたりもする。宗達の《鶴図下絵和歌巻》を元にしたらしき襖らしきものがちらりと見えたりもしました。
松図床の間の部屋については、伊勢守暗殺後刑部が藩主の座につくと、仏像群がこちらへ移されていました。後の場面から隣が刑部の寝所であることがわかります。櫓時計はこちらに移されていました。その際背の低い屏風が自動的に閉じます。前作での屏風を逆さにするという二駒を参照しているのでしょうか。この場面では空飛ぶ萩に続いて畳返し、裏返ると伊勢守、また裏返ると萩という、四谷怪談における戸板返しのいただきを見ることができます。
萩の方の部屋と続きの間です。この部屋の壁や障子は下半が横長市松になっています。腰元たちが手毬遊びに興じ、萩は猫のみいをかわいがっています。この部屋については、伊勢守毒殺の段に続き、約22分、木漏れ日を見上げていたカメラが下向きに振られると、廊下内角の斜面、そのままカメラは左へ、次の内角と中廊下への分岐を経て手前へ、外角から左へ、そのまままっすぐ伸びるらしきかたわら、すぐ手前で左から出てすぐ外角、手前に続きます。赤子を抱き子守り唄を口ずさむ萩がいました。廊下の内側は畳張りの入側で外側より一段高い。左側の部屋に入ります。やはり一段高い。下半市松の部屋でした。部屋から見ると縁側廊下は少し進んでから内角となって左へ折れていることがわかります。続きの間の入口から八重と伴の者が入ってきます。左への縁側廊下がすぐ折れて奥へ、少しして左へ曲がっているのが見えます。その向かいにも棟があるようです。すっかり見違えた華やかさの八重はすっかり見違えた高慢ちきさを発揮してくれます。彼女たちが廊下を戻っていくさまが奥にとらえられます。また後の場面での下半市松の間、前にも見えた続きの間からの廊下の眺め、萩に迫る刑部が廊下に出ると、欄間にいた猫のみいに引っ搔かれます。廊下外寄りの低くなった部分に欄干の影が落ちていました。刑部は背を向け廊下を奥へ、曲がって右へ、角で奥へ、また右へ進みます。カメラもそれを追います。先に斜面が見える。なお後の場面で、萩の妹・綾が突っ伏すと萩の幻が現われます。この時は城内ではないように思われるのですが、なぜか下半市松の間でした。
城外についてはまず約28分、奥に立派な門を望む道を萩たち一行が手前へ、次いで俯瞰で左の塀に沿った道を奥から手前へ、そこに黒装束の面々が襲撃、チャンバラが始まります。庭の場面をのぞけば前々作・前作でもあまり見かけなかった屋外ロケであります。和子をさらった賊たちは左がやや高い川岸となる道を走ります。右手はやはりお屋敷の塀です。奥にそこから数段おりる階段が見えます。切り替わると同じ階段を覆面の剣士が駈けおり一味に通せんぼするのでした。川に蹴落とされた黒装束の一人の顔がアップになります。顔を憶えていなかったのですが、アップになるということは刑部の側近の一人なのでしょう。
約35分、和子=雪太郎5歳です。縫殿之助に連れられてお寺に来ます。軒先のショットの後、屋根付きの通路が奥までずずっと伸びています。あまり高くない梁は両端で少し低くなり、両脇は列柱、石畳が敷いてある。奥の方で3段ほど上がり、さらにずずっと続いています。この奥まで続くさまがたまりません。ここを雪太郎が走り去ることでしょう。手前へ進むとカメラは後退します。切り替わると右から左への屋根付き通路、こちらは板敷きです。左で3段ほど下り、手前へ曲がれば対面することになります。萩一行でした。雪太郎へのズーム・イン、萩へのズーム・インと切り返されます。先ほどの3段を降りて前方にも通路は続いていました。こちらから萩の父・西三条が現われます。同じ境内、えらく太く高い円柱が並ぶところを雪太郎は駆け抜け、そこにいた萩の妹・綾と縫殿之助が出会うのでした。
下半市松の間での萩の舞いに続いて約42分、天守最上階に萩は追いやられます。猫のみいもいますが、薄暗く、いかにも殺風景です。下り階段が真上から見下ろされます。途中に踊り場があり、欄干の影が斜めに落ちています。この時点では踊り場も含めてまっすぐ下っていました。左下から縫殿之助が乱入、階段を登ってきて手前で左に折れます。踊り場が手前にもう一つあったわけです。「お方様、このような所は、人の住む所ではございません」と言う。前にも見えた奥の幅広三段の手前で、中央を空けて欄干が左右から伸びてきていました。後にこの上で「〜大明神」という札が見えます。後の塗り籠めの件を考えると、下の階ならまだしも、天守最上階にしては広すぎるような気もするのですが。斜めの支え柱が手前左を横切ったりもします。後に斜め柱は垂直の太い柱の脇に接続してあることがわかります。また階段登り口の脇では低い梁が幅広三角をなし、その下は凹んで奥に格子をはめた窓があったりもする。階段が今度は斜め上からとらえられます。曲がった上下が映りこむ。刑部たちが登ってきます。縫殿之助が連れだされる際には、階段が斜め下からとらえられます。また最上階では階段をあがった先から一段高くなって中央部分となることもわかります。刑部は萩に迫りますが八重に邪魔される。刑部が退いた後、八重は萩に小刀を向けます。逃げる萩に追う八重、階段が下から、今度はまっすぐとらえられます。二人は二つめの踊り場のすぐ下までおりてきて、また上へ戻る。この間カメラは動きません。約49分、最上階、奥の扉の前まで逃げてきた萩が背後から刺される。カメラは奥の部屋の中に配されています。小刀を口にくわえた八重が扉を一つずつ閉じると、真っ暗になります。刑部たちが階段をあがってくると低いカメラはが右から左へ、あがりきると左から右へ振られます。八重が高笑いする。八重役一番の見せ場でありましょう。奥の部屋、またしても欄間にいたみいが切り捨てられます。後に約1時間16分、天守最上階への階段がまた真上から見下ろされることでしょう。下の階の床にも長い縦格子の影が縞状に並んでいます。刑部たちが左下から進んできて階段をあがります。
約1時間、天守最上階での供養に続いて眠る綾が飛び起き、綾が父・西三条の部屋に駆けつけます。この部屋は杉戸に囲まれており、一枚一枚に人物が描かれていました。さすが心霊学研究者というべきか。片側は格子で仕切られています。他方萩の幻を見た綾は縫殿之助の部屋を訪れます。もう一人は縫殿之助の母でしょうか。行灯がチラチラする。俯瞰になったりします。子守り唄に障子戸をあけると奥、左右に伸びる廊下の中央で、右手で手前に鉤型廊下が続いています。カメラは右から左へドリーします。切り替わって三人は左手前へ、障子戸をあけると雪太郎の寝所でした。つまり縫殿之助の屋敷だったのでしょうですが、ここも廊下は鉤型というわけでした。城内の館と同じセットの使い回しなのでしょう。
約1時間9分、虚偽の報告をした側近を刑部が追う続きで、今度は橋が濠越しにとらえられます。左が門付きの櫓でした。逃げてきた元側近は橋から濠に飛びこみます。刑部は配下に縫殿之助の屋敷へ行って雪太郎を連れてくるよう命じる。配下一同が橋を走って渡ります。一方縫殿之助の屋敷、鉤型廊下の下、庭に逃げてきた元側近が縫殿之助に訴えていました。夜道でのちゃんばらとなります。以前出てきた川沿いの道に続く一齣では、手前から奥へ道が伸びているのですが、右で奥への幅広のぼり階段がありました。
約1時間13分、雪太郎を抱いた縫殿之助は破れ寺に逃げこみます。かなり荒れ果てたさまです。追っ手たちを萩=みいが翻弄する。
最後に天守最上階、欄間の札が「長壁大明神」とわかります。姫路城以外でも祀られていたのでしょうか。縫殿之助、綾、雪太郎の三人が外廻縁に出、冒頭に続いて濠越しの天主仰視で終幕となる。
前作では殿様役で影の薄かった杉山晶三九演じる刑部は、ただの我が儘から前々作同様立派な悪者に復帰、また当初しおらしかった八重は一気に増長、果ては刑部たちすらあざ笑うこれまた立派な悪者と、悪漢勢の充実ぶりに比して本作での化猫は子を守る母としての側面が強く、クライマックスの大立ち回りも縫殿之助がもっぱら配下たちとちゃんばらするかたわらで、刑部本人と相対すると、あたかも分担したかのごとき善玉ぶりは、怨霊の復讐や勧善懲悪といった図式からはみだしかねない、前々作や前作に引き継がれた化猫映画の見世物的野放図さをいささか割り引いてしまった感がなくはありません。それでも萩が屏風の上に飛び移ると、アクロバットする八重をカメラは上から見下ろしたりし、その際ニコニコしているさま、あるいは破れ寺での忍遁ぶりにそうした相をうかがうことができるでしょうか。他方、天守最上階への階段や寺の屋根付き通路、破れ寺といったゲスト陣に助けられた鉤型廊下のつながり具合には、上下左右するカメラの動きとあいまって、賞味すべきものがあるといってよいでしょう。
入江たか子はこの後『怪猫逢魔が辻』と『怪猫夜泣き沼』に出演しました。化猫映画はこれらも含めて数多製作され、それ以外にも和風のお屋敷の登場する日本の怪奇映画はまだまだあることでしょうが、不見識のためほとんどが未見につき、今後の課題としておきます。 
 
阿波の化け猫 1 「お松大権現」

 

みなさんは化け猫についてどんなイメージを持っていますか?
日本には、人を驚かすだけのかわいらしい化け猫から人を食い殺す恐ろしいものまでいろいろな化け猫伝説が残されています。昔の人々は猫の夜行性や俊敏性をモデルに様々な化け猫を想像したのでしょう。
そういった化け猫伝説の中でも珍しい「飼い主の敵を討つ猫」をご紹介しましょう。日本三大怪猫伝の1つとしても有名なお松大権現の伝説です。
由来
舞台はおよそ330年前の阿波国(現在の徳島県)の加茂村。この村には惣兵衛とお松という夫婦がいました。二人には子供がおらず、飼い猫の三毛をかわいがって暮らしていたといいます。
当時、村では不作が続き暮らしに困る状態でした。そこで村の代表である庄屋の惣兵衛は、五反の土地(サッカーグラウンド半分くらいの広さ)を担保に野上三左衛門というお金持ちからお金を借りることにします。この機転のおかげで村は持ち直すことができました。
その後、惣兵衛は三左衛門に借金の返済をします。ですがこの時、三左衛門は「証文は後で届けるから」と言ってお金だけ受け取って帰ってしまいます。そしてあろうことか後になって「まだ金を返してもらっていない!」などと言い始めるのです。
さらに不幸が重なり、惣兵衛はこのゴタゴタのさなか病で亡くなってしまいました。
のこされた妻のお松は何度も三左衛門に証文を返すよう掛け合います。ですが三左衛門は全く相手にせず、担保だった五反の土地まで奪い取ってしまう始末。
あまりの行いにお松は奉行所に訴えます。
ですがお金持ちの三左衛門から袖の下(賄賂)を受け取っていた長谷川奉行は三左衛門の言い分を認める非道な判決を下すのでした。
この両者の金と権力をかさに来た仕打ちにお松は決死の覚悟を決めます。それは「直訴」。当時直訴は死刑となる重罪でした。
藩主の行列を横切り、殿様に直訴するお松。あたりは騒然となります。すぐにお松は捕らえられ、死刑を言い渡されるのでした。
そしてお松が処刑されようとするその時。処刑場にはお松を守るように小さな体を逆立てる三毛の姿がありました。
ですが三毛の奮闘もむなしく、姿無慈悲にも冷たい刃がふり落とされます。貞享3年(1686年)3月15日のことでした。
ですが事件はここで終わりません。お松の処刑後、なんと三左衛門や奉行の家に「怪猫」が現れるという怪事件が起きるのです。
それは三毛がお松の怒りと恨みを引き継ぎ復讐のために化けた姿でした。猫の祟りを受けた両家は様々な不幸が続き、やがて断絶の憂き目にあうのです。
こうしてお松の正義を貫いた姿勢と悲しい生涯をしのび、村の人々はお松を猫とともにおまつりするようになりました。それが現在の「お松大権現」の始まりです。
「猫神さま」としてのお松大権現
現在のお松大権現は苦難の復讐を遂げたことから勝負事の神様として知られ、合格祈願の参詣者にも人気の神社です。資料館には有名な切り絵作家宮田雅之さんの美しい作品によってお松さんの逸話が紹介されてます。またお松さんの飼い猫三毛が復讐を果たしたことからこの神社は「猫神さま」としても広く親しまれています。この神社を訪れてまず驚くのは、見たわす限りの猫!猫!猫!
拝殿は猫のモチーフで飾られています。圧倒されるのは、所せましと置かれた大量の招き猫たち。なんとおよそ1万体の招き猫が奉納されているのだとか。
お松大権現では、願掛けのために招き猫をお借りできる習わしがあります。招き猫をお借りして家でおまつりし、願いが叶ったら(もしくは1年後)新しい招き猫と一緒にお返しするのだそうです。なるほど、びっしりと並べられた招き猫たちをよく見ると、何度か借主たちの願いを叶えてあげたと思われる招き猫もありました。
まさに「猫神さま」の神社です。そして全国的にも珍しい猫のご神紋も魅力的。
宮司さんによると、このご神紋は猫が香箱座りをした姿をかたどっているのだとか。たしかによく見ると猫の顔を囲っている線には上下に小さいでっぱりがありますが、これは尻尾や前足だったんですね。かわいくて珍しいご神紋であることから、御朱印をいただく方も多いそうですよ。どこか愛嬌のあるご神紋が素敵です。 
奉行も恐れたお松さんの祟り
先ほどもご紹介した、お松さんに非道な判決を下したとされる長谷川奉行。長谷川家は徳島藩家老の家柄でしたが、怪猫の祟りにあった後に不運が続き失脚します。そこで祟りを恐れた長谷川家は別邸のあった王子神社にお松さんとその飼い猫をまつる祠(ほこら)を建てました。王子神社では猫の名前は「お玉」と伝えられていて、現在でも「お松大明神」と「お玉大明神」として二人とも大切におまつりされています。
家老という身分の高い武家が庄屋とは言え一介の女性と猫を丁重におまつりするだなんて、よほどお松さんと猫が怖かったのでしょう。村人がおまつりした「お松大権現」と、家老が建てた王子神社の「お松さんと猫の祠」。同じ女性と猫をおまつりする場所が二ヶ所もあるのですね。当時の人々にとってこの「阿波の猫騒動」がいかにインパクトがあったのかがわかります。 
伝説の「五反の土地」の今
悲劇の発端となった「五反の土地」はその後どうなったのでしょうか?実はこの土地、事件のあと何度か持ち主を変えましたが、その度に怪事が起きたのでだんだんと貰い手がなくなってしまったといいます。
この土地をめぐる事件さえおきなければ、お松さんと三毛は穏やかな人生を終えることができたのかもしれません。宮司さんいわく元々は肥沃で日当たりのよい土地だったとのことですが、今はお松さんの悲しい思い出とともに神社の管理となっています。いかがだったでしょうか?一人の女性とその愛猫の悲しい出来事についてご紹介してきました。お松大権現は、もともとはお松さんのお墓を地元の方々がひっそりとおまつりしていたのが始まりだといいます。
当時は直訴という大罪をはたらいた上に家老を祟ったということで藩主に目をつけられないようにという配慮だったのでしょう。現在のような神社として大きくおまつりされるようになったのは明治に入ってからだそうです。命がけで不正を訴えたお松さんとその恨みを果たした三毛、またそんなお松さんをずっとおまつりし続けた地元の方々。その強い意思は生き続け、「猫神さん」として今も広く愛されています。 
 
阿波の化け猫 2 「お松大権現」

 

お松大権現 1
「日本三大怪猫伝」といえば、肥前鍋島・久留米有馬ときて岡崎の化け猫を挙げることが多いが、岡崎の話は全くのフィクションであるので、史実との兼ね合いで言えばやはり阿波の化け猫騒動の方がしっくりくるだろう。この騒動の中心となったのが阿南市にあるお松大権現である。まさに猫尽くしの場所であり、境内所狭しと猫の置物が並べられ、屋根の上にも魔除けの猫、さらには紋所まで猫である。
貞享年間(1684〜1687年)、加茂村の庄屋・惣兵衛は不作の村を救うために私有地の五反の田地を担保にして、富商の野上三左衛門から金を借りた。惣兵衛は期日前に金を返したが、道すがらのことでその場で証文を受け取らず、その直後に病死する。
惣兵衛の妻のお松は三左衛門に証文を返すように催促するが、三左衛門は金を返すどころか、逆に金を受け取っていないと主張して五反田地を奪い取る。お松は奉行の長谷川越前に訴え出るが、美貌に目を付けた越前に言い寄られるも拒絶、さらに三左衛門も賄賂を送っていたために、結局理不尽な裁定しか下されなかった。
思い余ったお松は最後の手段として藩侯に直訴。しかしそこでも願いは叶わず、死罪となってしまった。死に際してお松は愛猫の玉(三毛)に遺恨を伝え、その後、三左衛門と奉行の許に怪猫が現れるなどの怪異が相次いで起こり、ついには両家とも断絶してしまったという。
他の化け猫騒動と違うのは、阿波の騒動だけは遺恨を晴らすことに成功している点である。そのためなのか、神として祀られているのはここだけである。今なお訴訟必勝などの勝負事の神として信仰を集めていると言える。
ちなみに、この話の発端となった「五反田地」であるが、その後も開墾すると変事が起こるために更地となっており、現在は参拝者の臨時駐車場という名目で神社が所有している。 
お松大権現 2
徳島県阿南市加茂町にある神社である。宗教法人お松権現社が設置した神社であり、通称「猫神さん」と呼ばれている日本三大怪猫伝の一つである。江戸時代の前期に加茂村(現・阿南市加茂町)の庄屋が不作である村を救うために富豪に金を借り、すでに返済したにもかかわらず、富豪の策略で未返済の濡れ衣を着せられ、失意の内に病死した。そこで、借金の担保になっていた土地は富豪に取り上げられてしまう。庄屋の妻のお松は奉行所に訴え出るも、富豪に買収された奉行は不当な裁きを下す。お松がそれを不服として藩主に直訴した結果、直訴の罪により処刑され、お松の飼っていた三毛猫が化け猫となり、富豪や奉行らの家を滅ぼしたという伝説に由来する。
直訴によって悪人を倒したという伝説から、勝負事にも利益があるといわれ、最近ではその勝負事が受験生のものとなっており、受験シーズンには合格祈願の場所として訪れているが、最近では平成の長期的な不況で、様変わりして本来の目的であるいくつかの勝負事に回帰して就職活動中の学生・金運上昇を願う人の参拝も増えている。遠隔地在住や用事で訪問不可能な場合には祈祷受付を郵送で行っている。また、境内には全国的にも珍しいネコの狛犬もある。
お松大権現 3
お松大権現は、有馬・鍋島と共に日本三大怪猫伝の1つとして名高い。時は天和〜貞享年間(1682〜1686)、今より約330年前の伝承。
阿波国那賀郡加茂村(現阿南市加茂町)は不作続きの年をむかえ、この村の庄屋 惣兵衛は村の窮状を救うため、私有の田地五反を担保に近在の富豪 野上三左衛門よりお金を借り受けていた。返済期限も近づき、丁度通りがかりの三左衛門にお金を返すが、通りがかり故証文を受け取っておらず、庄屋 惣兵衛は間もなく病死する。
惣兵衛の死後、その妻お松は幾度となく証文を請求するが渡そうとしない。後にお金は受け取っていないと偽られ、担保の五反地までも横領される。
思案の末、奉行所に申し出るが、お松の華麗な容姿に心を寄せ、食指を動かそうとする奉行 越前。お松は奉行の意に応じなかったため、また三左衛門からの袖の下を受け取っていた奉行は非理非道な裁きを下してしまった。お松は権力におもねる悪行に死を決して抗議する。それは直訴であった。 お松さま 貞享3年5月、藩侯の行列をよぎり直訴、その年の3月15日、お松は日頃寵愛の猫 三毛に遺恨を伝え、処刑に殉ずる。その後、三左衛門、奉行の家々に怪猫が現れ怪事異変が続き、両家は断絶している。
正義へのかぎりなき執念に死をも厭わず貫き散ったお松さまの悲しい生涯、その美徳を偲び今も参詣者は絶えない。現在、お松大権現と崇められ、その社殿には千万の招き猫が奉られている。 
 
阿波の化け猫 3 「お松大権現」

 

お松大権現の由緒は、そもそも江戸時代まで遡ります。当地の庄屋であった5代目、惣兵衛の妻“お松さん”と、その愛猫“三毛”を弔うために建てられた祠がはじまりですね。その後、明治時代になってから、神社となりました。
江戸時代、この地方一帯で、農作物の不作が続いたそうです……。庄屋の惣兵衛は加茂村を救うため、自分の土地を担保に、富豪の野上三左衛門に借金をします。返済日が近づいたある日、三左衛門にお金を返済するのですが、三左衛門は通りがかりだったため、証文(借金に関する証拠の文書)を持ち合わせておらず、その場で受け取っておりませんでした。
しかし、間もなく惣兵衛は病死してしまいます……。惣兵衛の死後、惣兵衛の妻、お松さんは三左衛門に証文を請求しますが渡してもらえず、それどころか、お金をもらっていないと偽られ、担保の土地まで横領されてしまいます……。
それだけではありません……。悩んだ末……お松さんは奉行所に申し出ますが、要求を聞き入れてくれないどころか、容姿の美しいお松さんに、奉行は言い寄る始末。お松さんが相手にしないことに腹を立てた奉行は、こっそり三左衛門から賄賂を受け取っていたこともあり、非理非道な裁きを下します。お松さんは死を決して直訴を実行するんです。
江戸時代は身分社会ですから。町民や農民が奉行所を飛び越えて上役に直接訴え出ることは一切許されていません。その結果、お松さんは死罪となってしまいます。
死罪となったお松さん。その恨みを晴らすため、お松さんの愛猫の三毛は、お松さんを苦しめた三左衛門や奉行の家に化けねことなって現れ、両家を断絶させたといわれています。
怪談話ではあるのですが、私財を投げ打ってまで庶民を救おうとした惣兵衛、死を賭してまで、正義を貫いたお松。庶民の間で密かに政治に反抗する気持ちが、この事件以来、“加茂の後家さん” “猫神さん”という信仰の形でとなって、現在まで語り継がれてきました。
昭和初期まで、ここにひっそりと祠があった。
ただ、江戸時代に、直訴は大罪です。罪人を公に祀ることはできませんから、静かに、目立たぬ形で祀られてきました。それが昭和時代、言論や思想の自由が認められ、密かに語り継がれたお松さんを“義理大権現(正しい筋道の神様)”“お松大権現”として公にまつるようになったんです。 
 
王子神社

 

王子神社 1
徳島県徳島市八万町向寺山55
祭神 / 天津日子根命、お松大明神、お玉大明神
社格等 / 旧無格社
別名 / 猫神さん、應神さん
祭神である天照大神の第三皇子・天津日子根命(アマツヒコネ)は太古より統治の根子神(土着神)として奉斎され社殿裏は命の御陵と伝承されている。神社名の「王子」は、天照大神の皇子(王子)に由来する尊称と伝えられる。学業成就・商売繁盛・をはじめとする開運の神様として知られており、蜂須賀候の家老である長谷川奉行家において代々崇敬されたと云われている。
境内の石碑『王子神社縁起』には天照大神の第一皇子・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)を祀る一王子祠が八万町福万谷に、第二皇子・天之菩卑能命(アメノホヒ)を祀る御縣神社が小松島市に、第三皇子・天津日子根命(アマツヒコネ)が当社に、第四皇子・活津日子根命(イクツヒコネ)を祀る四王子神社が八万町長谷に、第五皇子・熊野久須毘命(クマノクスビ)を祀る熊野神社が丈六町に在ると記されている。また八万村史には第二皇子は八万町柿谷の二王子祠に祀られ、一王子から四王子までが八万村に在ったとされる。山麓の反対側(西側)には朝宮神社(古くは旧八万村の氏神で御祭神は大靈女尊(天照大神)と月読命)が、南側には天王神社(祭神・素盞嗚尊)も鎮座する。また社殿裏には、命の御陵が存在する。
阿波の猫騒動
昔、那賀郡加茂村(現阿南市)の庄屋の娘・お松は身に覚えのない罪で捕らえられ、処刑されることになった。お松は、自分に罪をかぶせた人に報復するようにと愛猫のお玉に言い聞かせ亡くなった。お玉はお松に罪をかぶせた人々を祟ったため、長谷川奉行がこれを鎮めるべくお松とお玉の霊を祭った。これがいつしか「心願成就の猫神さん」として捉えられるようになった。  
王子神社 2
「願いをかなえてくれる猫神さまがいるらしい」。そんなウワサの発信源が、徳島県に鎮座する王子神社(おうじじんじゃ)。美術館や博物館のある徳島県文化の森総合公園の敷地内にあり、合格・学業成就の御神徳が知られています。
「猫神さま」と呼ばれる由縁は、約300年前にあった「阿波の猫騒動」にあります。
お松さんという後家が財産をだましとられたのが事の発端。お松さんは、だました人を許せず直訴しますが、当時直訴は死罪になる大罪。死を覚悟して訴えたものの、悪人が裁かれなかったのでしょうか。処刑される前に、愛猫お玉に報復するように言い含めたため、化け猫になったお玉による祟りが続きました。そこで、祟りをしずめるために当地の王子神社にお松さんとお玉の霊を合祀することになったのです。
ちょっとゾクゾクするようなお話ですが、このことによりいつの間に「願い事をかなえてくれる猫神さん」として崇敬を集めるようになったとか。
御祭神には、天津日子根命(あまつひこねのみこと)、に続いて「お松大明神」、そして猫のお玉も「お玉大明神」として祀られています。
境内の拝殿左側には、お松さんとお玉の荒魂(あらみたま)をお祀りする境内社と「さすり猫さん」があります。「さすり猫さん」をさすりながら住所、氏名、願いごとをとなえると、願いがかなうとも伝えられています。
境内には神使(しんし)のような本物の猫たちの姿もちらほら。人なつっこい看板猫たちと触れ合って大願成就を願ってみましょう。 
 
阿波騒動

 

はじめに
阿波騒動とは、阿波徳島藩第11代藩主蜂須賀重喜が、久保田藩佐竹家の分家から養子となって徳島藩主となり、改革意欲に燃えて藩政改革を手がけるが、家臣たちの反発にあって失敗に帰す一連の出来事を指す。つまり蜂須賀重喜の存在と行動が騒動の中心ということになる。前半の重喜の藩主就任までは、悪人達が自分らが擁立を目指す重喜を藩主とするために陰謀をめぐらすというドラマ風な展開。重喜の藩主就任後は一転して改革派の藩主と守旧派の家臣たちの対立という、現代にも通ずるような形をとる。
蜂須賀氏は濃尾国境付近で主に水運業に従事していた蜂須賀小六正勝が、秀吉の与力となって以後、秀吉の出世に連れて大きくなっていき、正勝の子の家政の時に阿波一国の大名となった。秀吉の死後は関ヶ原役を上手く乗り切り本領安堵。さらに大坂の陣での活躍を認められ淡路国を加増されて、阿淡二国25万7千石の大名となった。以後明治維新まで転封もなく両国に君臨するが、小六正勝の血は正勝から数えて9代目(徳島藩主としては8代目)の宗英で途切れる。宗英自身、一門ではあるが臣下として家老職にあった。しかし宗家に跡継ぎがなかったために、養子となって宗家を継いだのである。襲封時既に50歳を越えており、この宗英にも子がなかったために、隣国讃岐高松藩の松平家から養子として宗鎮を入れた。
重矩の死
やがて宗鎮の代となるが、ここからは蜂須賀の血統は他家の血になる。宗鎮は世子として2代前の藩主宗員の二男であった重矩を立てた。この重矩は江戸深川の下屋敷にいて日夜文武に励み、藩内の期待も大きかったのであるが、この重矩が一夜上屋敷に招かれ藩主宗鎮と歓談したあと数日を経て死んでしまった。
話はこうだ。久保田藩主佐竹家の分家に壱岐守家というのがある。代々の当主が壱岐守を名乗ったのでそう呼ばれるのだが、2万石の大名であり秋田新田藩といわれていた。ここの当主は当時佐竹壱岐守義道という人物だった。この義道は佐竹宗家の当主義真を毒殺して自分の長男義明に宗家を継がせたという噂もあり、相当な野心家であった。この義道の四男を義居(のちに政胤)という。義道は義居をどこかの大藩の養子にと考えていたが、こちらから持ちかけるわけにもいかない。
そんな時、どこかの交際の席で徳島藩江戸家老賀島政良と出会った。この賀島政良という人も我欲が強く義道と似たところがあったらしい。義道は賀島の性格をたちまち見抜き、賀島のことを調べてみた。すると賀島家はもともと1万石の知行であったが、祖父の代に何か失敗をやらかして5千石に減知されていることがわかった。義道は賀島を屋敷に招いたりして親しくなっていき、ある時5千石を1万石に復するためには、自身が藩主を擁立すれば大恩を負った藩主がすぐに加増をすると吹き込む。その擁立する藩主とは、もちろん義道四男の義居のことだった。ここに賀島は宗鎮の世子重矩を暗殺し、その跡に養子として義居を入れるという密約を義道と交わした。そして世子重矩が上屋敷に来たときに酔い覚ましに出した薄茶に毒を仕込んで、重矩を殺したというのである。これで義居を世子に推薦すれば…ところがそうはうまくいかなかった。
重喜藩主となる
宗鎮は今度は三代前の綱矩の子隆寿の子で、やはり分家を立てていた重隆を世子としたのである。賀島は落胆したが、そこは陰謀家であり、すぐに次の計略を巡らす。今度は世子だけでなく藩主ともに毒を盛ることにした。さすがにすぐでは怪しまれるので、人々が重矩の死を忘れるまで待った。重矩が死んでから3年ほどして、もうよかろうというので、やはり上屋敷での酒宴のおりに酒に毒を入れて出した。この時は賀島も杯を頂戴して飲み干し、後で解毒剤を服用したという。
数日後、毒が効いて宗鎮、重隆とも不例となった。死にはしなかったが廃人同様となり、公儀向きのことにはとても耐えられないということで、宗鎮は隠居、重隆も廃嫡ということになった。ところが、ここでも養子として義居が…ということにはならなかった。高松藩から急遽宗鎮の弟至央が養子に迎えられて10代藩主となった。しかし、この至央はわずか2ヶ月あまりで急死してしまう。ここでやっと義居が養子に迎えられて、名を重喜と改め阿淡両国の太守となるというのが前半である。
一般にはこのように語られているが、賀島政良は宝暦2年(1752年)5月に4千石を加増されている。目標であった1万石には千石足りないが、良しとしなければならない。ところが、この宝暦2年というのは重矩が死去した翌年であり、重隆はまだ世子とはされていない時期である。(重隆が世子となったのは宝暦2年10月)であれば、賀島は何も危険を冒してまで宗鎮と重隆に毒を盛らなくてもいいわけで、これをもって前記の話は相当に脚色されたものといわれている。
おそらく賀島がかなり我欲の強い人間であり、評判の悪い人間であったのは事実であろうし、また義道と交際があったのも事実であろう。そこに重矩の不審の死、さらに宗鎮と重隆の急病、至央の急死が立て続けに起きた。江戸家老の賀島は、この時点で迅速に動かなければ蜂須賀家は取り潰されてしまう。国許には相談する暇もなく、かねてから昵懇の佐竹義道の子義居を急養子としたのであろう。義居改め重喜という人は、世評はともかく徳島藩では悪評の高い藩主であるから、後世これらを含めて賀島が必要以上に悪役に仕立て上げられた感がある。
重喜の初入部
さて騒動後半である。義居改め蜂須賀阿波守重喜は、宝暦4年(1754年)8月幕府より朱印状を貰い、正式に藩主になった。翌宝暦5年阿波に初入部する。このとき重喜はまだ18歳であった。重喜という人は決して愚昧な人物ではなく、むしろ聡明な人であった。この時もある考えを持っていたといわれる。それは藩主への権力の集中、一種の独裁制に近いものの実施であった。このころの徳島藩の体制は家老仕置、つまり藩政を行うのは家老であり、藩主はある意味象徴的な存在であった。もともと藩政初期の四代綱通の代までは藩主の直仕置またはそれに準じる政治体制であった。しかし五代綱矩は正勝の血は引いているとはいえ、家臣に降下して家老となった家から養子に入った。それがコンプレックスとなって藩政を家老に委ねた。綱矩の治世は52年にも及び、その間一通も判物を発給しなかったという。
この綱矩治世期以降、家老仕置が常態化し、それがやがて家老の専横を招くようになった。綱矩が没した後の藩主たちは、これを藩主独裁に戻したいと願ったが、いずれも果たせなかった。重喜が藩主として独裁制への回帰を目指したのは、乱れ始めた藩内秩序を回復する意味でも当然のことであった。重喜が独裁制、藩内秩序の回復を図った最大の理由は財政の逼迫にあった。このころには全国諸藩が例外なく財政難に陥り、徳島藩でも財政が逼迫し、累積赤字も巨額になってきている。家老以下役人に任せ切りにしていると、役人というのは昔も今も旧態を変えようとしないから、財政は悪くなる一方であった。
当然改革が必要となるが、封建制度下において改革を行なうためには上からの指示、つまり藩主が方針を示して率先してやっていくしか方法はない。そのために権力の集中が必要であると重喜は考えていたようだ。ここに一つ障害がある。それは重喜が他家から来た養子で、しかもそこが2万石の小藩であったことである。徳島藩の藩士たちは、口ではいろいろと尊ぶようなことを言うが、「しょせん2万石の小藩より入った繋ぎの殿様」と思っている。これは当時の一般的な考え方であり、重喜も当然知っていた。繋ぎの藩主とは、家老に言われたとおりに行動し、嗣子を残すのが仕事で、それ以外のことは家老に任せておけばいいのである。このあたり凡庸な人間ならそのまま受け入れるのだろうが、聡明な重喜にはコンプレックスとなった。
初入部の時、徳島城の城門に近づくと「まず武器庫を見たい。武備の検査をいたす」と言ったという。これには家臣も驚いた。太平の世が続き武器庫など名のみで、中身はいいかげんにしてある。これは何も徳島藩だけのことではない。重喜もそれを知っていての発言だが、仮にも藩主の言だ。誰も答えられず、それを見て重喜は家臣たちを叱責したという。この一事が、この後の重喜と家臣たちの関係を表している。重喜にすれば小藩からの養子と侮られないための示威的な言動であったのだが、家臣たちからすれば意地悪でひがみっぽい殿様ということになる。初入部のとき、まだ城に入る前からこの有様であった。
職班官録の制
重喜は先に書いたように藩主独裁論者であった。しかも自分の考え方ややり方に自信を持っていた。もっとも独裁など自信がなければできるものではない。重喜は阿波に1年いて、宝暦6年(1756年)参勤のために江戸に向かった。その際に、
・奉行に少しでもも私曲があれば調べて江戸に報告し、指図を待て。
・士民で大罪を犯した者や藩士のうち遊学する者、病気の療養で国を離れる者は江戸に申告して藩主の決済を得よ
などと指示していった。権力集中化政策の第一歩であった。
宝暦7年(1757年)は在府、翌8年に再び阿波に戻った重喜は、ここでとんでもない爆弾を投げた。この爆弾の名を職班官録の制という。なお、職班官録の制とは「阿波国最近文明史料」の呼方で、蜂須賀家文書では役席役高制と表現している。早い話が家臣の知行地を固定給部分と職能給部分に分ける制度である。封建体制のもとでもっとも重視されたのは家柄であり、家柄と職は連動していたといってよい。家老は家老になれる家の中から選ばれた。能力があろうがなかろうが、あるいはほかにもっと能力のある者がいようが関係はなかった。逆に家柄が低ければ、どんなに有能であっても重臣クラスにはなれなかった。職班官録の制は、これを打破するのが目的だった。
それに一度職に就いて加増がなされると、その職を辞しても加増はそのままであった。これが藩財政圧迫の原因の一つであった。これも含めて各家に固定給を付し、役職に就いたときだけ役職給がつき、職を辞せばまた固定給だけになる。現代では珍しくない制度だが、この当時の武士の最重要なものは封地であった。封を増やすために戦い、その戦いのプロが武士である。天下泰平となって戦いはなくなったが、武士の考え方まで変ったわけではない。職班官録の制は、その根本を否定するものであった。
この制度はなにも徳島藩だけのものではなく、八代将軍吉宗も足高の制として幕府で実施しており、他藩でも行なわれていた。そういう制度であったから家老たちは内心は反対ではあったが、表面上は受け入れようとした。唯一人を除いては…反対したその家老を山田織部真恒という。真恒は重喜に対し諌書をしたため反対した。諫書の趣旨は従来の体制を重喜一人の考えだけで変更するのは先祖に対して尊敬の念が欠けており、嫡流であっても3年間は父道を改めないのが道理であるのに、養子であればなお一層父祖の道を改めるには慎重であるべきというものであった。
重喜はこの諌書に激怒し、隠居すると言い出した。山田の諫書の新法反対の部分は多くの藩士の賛同するところであり、表立って争論とならなかったが、重臣たちは不遜な表現の部分を攻めた。そして重喜に対し隠居を思いとどまるように願い出た。重喜もこのままでは大騒動に発展しかねず、幕府からも責任を問われるのでは志半ばとなってしまう。重喜は隠居をやめ山田真恒を閉門とし、その代わり職班官録の制は引っ込めた。
対立の激化
宝暦10年(1760年)重喜は出府し、翌11年に帰国する。この年あたりから重喜と家老たちの対立は段々と激しくなってくる。まず、会計検査をしたところ、藩の歳入をはるかに上回る歳出が続き、負債が30万両もあることが重喜に報告された。重喜はすぐさま倹約令を出し、隠居すると言い出した。家老たちへのあてつけである。次に平島公方問題が起きる。平島公方とは戦国時代に阿波に避難した足利十代将軍義稙の子義冬の子孫のことである。避難したといっても当時の阿波守護であった細川氏とその執政三好氏に匿われたのであるが、この子孫が連綿と那賀郡平島に住し、この頃でも平島公方といわれ敬われていた。
所領はわずか百石だが家柄がいいから公家衆を初め交際範囲が広い。交際費が不足気味なので百石の加増を要求してきた。これを聞いた重喜は、百石の加増をするのに条件を付けた。格式を捨てて徳島城下に住み家臣となるなら百石の加増を聞くというのだ。没落したとはいえ相手は源氏の名門で蜂須賀家などとは比較にならない。その名門意識だけで生きているようなものだから、絶対に承諾できるような条件ではなかった。このあたり重喜の小藩出身コンプレックスから抜けきれない。結局、条件をつけただけで参勤のため江戸に出府した。
江戸に入った重喜は大倹約令を出した。まず藩主の費用を千両から2百両、つまり五分の一とすることを宣言、食事も質素にし衣服も原則として新調せず、乳母の数も一人にするなど徹底したものであった。ここに国許から報せが入る。家老合議のうえで平島公方に百石の加増をしたというのだ。激怒した重喜は怒りの手紙を国許に発する。驚いた国許では賀島政良ら家老が弁明のために江戸に出てきたが重喜は会わない。ついに筆頭家老の稲田九郎兵衛まで引っ張り出した。
重喜は稲田には会った。そして稲田を説得して味方にしてしまったのだ。このあたり筆頭家老とはいえ稲田九郎兵衛は、あまり頭の出来が良くなかったらしい。この結果、重喜の改革が矢継ぎ早に実施される。まず大倹約令、公儀向きを除く一切の費用の節減であった。次に景気浮揚策として淡路国由良港の開港と城下郊外大谷の藩主別邸の建造、藩からの借金の帳消し、社倉の設置、それ増税である。ところが宝暦12年(1762年)に帰国すると、ここに意外な事件が起きていた。先に閉門を申し渡された山田織部真恒が重喜を呪詛調伏していることが発覚したのだ。既に閉門は解かれていたが、山田は重喜に対する不平不満の塊となり、呪詛に走った。
山田の呪詛の一件は、徳島城下近郊の沖浜村にある歓喜院という山伏が行った。山田はこの歓喜院をもともと信仰しており、正妻の安産祈願などをしていたが、重喜を憎むあまり歓喜院に重喜呪詛を依頼した。山田家は徳島藩では稲田家、賀島家に次ぎ5千石を給される家老の家柄であった。これほどの重臣が藩主を呪詛するなど謀反である。山田は捕らえられ切腹させられたが、これは当然至極なことである。重喜にすればこの一件は、改革に向けて大きく前進するための格好の材料であった。山田の行動そのものにも大きな問題はあるが、これほどの敵失は望んでも望めるものではなく、重喜は独裁性実現に向けて動き出すこととなる。
幕府の介入
この後明和3年(1766年)初頭、帰国中であった重喜は念願の職班官録の制の実施に踏み切った。第一班を家老として定員5名、知行は5千石〜1万4千5百石、第二班中老で定員37名、知行は4百石〜3千石、第三班は物頭で定員12名、知行は5百石〜千石、以下中下級に及ぶ。さらに門閥を打ち破るための抜擢人事を行なった。ところが、この前後の阿波は水害や日照りなど天災が続き、士民の不平不満は高まり、その怒りの矛先が重喜の改革に向かった。
そこに追い討ちをかけるように明和4年(1767年)幕府は木曽川と揖斐川の治水工事の公役を課してきた。この時期にと重喜は歯噛みしたことであろうが、幕命であり拒否はできず、なんとかやり繰りして乗り切った。これなども幕閣に対する根回し資金の不足が遠因である。さらに平島公方問題が再燃した。平島家では重喜を危険人物と見做し、格式の保全や増録を目指して広範囲な運動を展開した。江戸城大奥の実力者であった老女松島や川越藩主松平家などの親族、親交のあった京都の公家衆などを引き入れての大掛かりな運動であり、これだけでも重喜を隠居させるに充分な勢力であったともいわれている。
明和6年(1769年)重喜は参勤により出府した。藩内の対立、不和は幕府に聞こえ、幕府は、
・代々の家法をなぜ乱したか
・国民が難儀に及んでいると聞くが、これは新法のせいではないか
・重喜は遊興におぼれ、国民が難儀しているというが本当か
と質問してきた。重喜はこれに対して一切の弁明をしなかった。おそらくストライキであろう。内政について幕府に介入されるいわれはない。幕府に何者かが訴えたのだろうが、それを真に受けた幕府の問いに不信の念を抱いたのだろう。
徳島藩では親戚の高松松平家などに相談し、隠居願いを出すか押し込めするかとまでなったが、結局幕府により同年10月強制的に隠居させられ、家督を嫡子治昭に譲る。明和7年(1770年)に深川の下屋敷に移り、安永2年(1773年)に帰国を許された。帰国すると完成していた大谷の別邸に入り、今度は著名な金蒔絵師観松斎桃葉を召抱えたり、陶芸や茶道に嵩ずるなど派手で豪奢な生活を始めた。これがまた幕府に聞こえ、幕府は重喜を江戸に呼んで幽閉しようとしたが、治昭は老中に哀訴し、江戸幽閉は免れた。治昭の諌めもあって、以後は質素な生活に戻り、享和元年(1801年)10月20日64歳で死去した。
おわりに
この時期、15万石の出羽米沢藩では上杉治憲(鷹山)の改革が始まる。治憲の襲封は明和4年(1767年)だから重喜の改革の末期で、恐らく治憲も参考にしたのではないか。治憲も小藩から養子に入った人物で重喜と同じような立場にあり、藩内の反対派の反発も徳島藩と同様であった。しかし治憲は成功し、今でも江戸期を通しての名君中の名君と評価されているし、米沢でも尊敬されている。対して重喜の評価は改革に失敗した藩主とされ、徳島でも評判はあまりよくないという。
治憲は抵抗にあうと説得した。重喜の失敗は説得せずに強い態度に出たり、拗ねたり、いやがらせの行動をしたりした。聡明すぎたのだろう。言ってわからなければ強行し、そのうち言うのも面倒くさくなった。わからない人間に言うのは無駄だと考えたのかもしれない。幕府から詰問されたときに弁解しなかったのも、ストライキの一種だ。これでは人は付いてはこないし、反発するばかりである。重喜の改革は見る限り積極的であり、まっとうなものが多い。反対するほうがどうかと思うものばかりである。打ち続く天災など不幸な面はあったにしろ、やり方さえ間違えなければ成功し、上杉治憲とともに名君と称えられたかもしれない。  
 
化け猫一覧

 

鍋島の化け猫
○又七郎(又一郎)は斬殺・母お政の方は自害
○猫・こま(たま)
○お政の方が猫に復讐を託す
佐賀の二代藩主・鍋島光茂は、主筋である龍造寺家の盲目の当主・又七郎(又一郎とも)との囲碁の対局中、勝てぬ怒りからその場で彼を斬殺し、側近である小森半左衛門の働きで事件は揉み消されます。我が子の失踪が光茂らの仕業と知った又七郎の母・お政の方は悲嘆に暮れ、その胸中を亡夫より与えられた飼い猫・こま(たま)に吐露し、後の復讐を託して小刀で自害を遂げました。お政の胸から流れ出た血潮を舐め取り、こまはどこかへと姿を消しました。
有馬の化け猫
○お滝の方虐めに苛まれ自害
○猫・たま
○お滝の方女中のお仲の忠義を助け復讐を始める
筑後国久留米藩八代当主・有馬頼貴(1746〜1812)の頃の出来事といいます。藩主の正室に仕える腰元のひとり関屋は、元の名をおたきといいました。ある日、奥御殿での宴の最中に事件が起きました。一匹の猛り狂った野犬が子猫を追いかけて酒席に飛び込み暴れだしたのです。猫が殿の背後に逃げ、犬が殿に襲いかかろうとした時、居合わせた関屋は手水鉢の鉄柄杓を取り、犬の額を打ち据えてこれを殺しました。手際よい行動に感心した頼貴が褒美に何を所望するかと問うと、彼女は先程逃げ込んできた子猫の助命を求めました。
勇敢かつ無欲で心優しい関屋は頼貴の寵愛を受けて側室に迎えられ、名をお滝の方と改めました。これが他の側室方や同輩だった奥女中の妬みを買う結果となり、お滝はことあるごとに嫌がらせを受けるようになりました。中でも奥女中頭の老女・岩波からの虐めは特に酷いものでした。心根の優しいお滝は虐め苛まれた挙句、とうとう自ら首筋を切り命を絶ってしまいます。彼女に仕える女中のお仲は怒りに燃え、短刀を握り岩波のもとへ乗り込みましたが、薙刀の名手である岩波には敵いません。返り討ちにされようかという時、突如怪しい獣が乱入し、岩波の喉笛を喰い切って殺してしまいました。それはかつてお滝に命を救われ、彼女の飼い猫「たま」となったあの猫でした。たまはお滝が流した血を舐め、化け猫となって復讐を開始したのです。
岡崎の化け猫
○お松
○猫・
○お袖の呪いでお松は死ぬ、お松の怨念と猫石が合体
お袖は、姉のお松を捜して乳飲み子を抱えて夫と共に旅に出る。途中、岡崎で休むところを探していると、幼なじみのおくらに出会い、宿場はずれの古寺に案内される。そこには十二単を着た亡き母がいた。実はその亡き母親は化け猫であり、行灯の油を舐めている姿を見てしまったおくらを殺す。一方のお袖と夫は、お松の幽霊と出会い、夫の前の思い人がお松であり、その思い人が姉とは知らずに嫉妬してお袖が呪いを掛けたのがきっかけで死に至ったことを知る。事が露見して離縁を言い渡されたお袖はその場で亡くなってしまうが、その時障子の奥から手が伸びて、お袖の遺体と乳飲み子を引きずり込んでしまう。そしてお袖の老母は夫の前で化け猫の正体を現し、自分が猫石の精とお松の怨念が合体したものだと言い放って消え失せる。あとは猫の形をした巨石と茅原が残るのみ。そこへお松の遺体が運び込まれると、一転、猫石は再び化け猫に化身して、遺体を引っ掴むとそのまま宙を舞って消え去ってしまう。
阿波の化け猫 「お松大権現」
○お松は直訴により死刑
○猫・玉(三毛)
○理不尽な役人・商人への怒りと恨み
残された妻のお松は何度も三左衛門に証文を返すよう掛け合います。ですが三左衛門は全く相手にせず、担保だった五反の土地まで奪い取ってしまう始末。あまりの行いにお松は奉行所に訴えます。
ですがお金持ちの三左衛門から袖の下(賄賂)を受け取っていた長谷川奉行は三左衛門の言い分を認める非道な判決を下すのでした。
この両者の金と権力をかさに来た仕打ちにお松は決死の覚悟を決めます。それは「直訴」。当時直訴は死刑となる重罪でした。藩主の行列を横切り、殿様に直訴するお松。あたりは騒然となります。すぐにお松は捕らえられ、死刑を言い渡されるのでした。
そしてお松が処刑されようとするその時。処刑場にはお松を守るように小さな体を逆立てる三毛の姿がありました。ですが三毛の奮闘もむなしく、姿無慈悲にも冷たい刃がふり落とされます。貞享3年(1686年)3月15日のことでした。
ですが事件はここで終わりません。お松の処刑後、なんと三左衛門や奉行の家に「怪猫」が現れるという怪事件が起きるのです。それは三毛がお松の怒りと恨みを引き継ぎ復讐のために化けた姿でした。猫の祟りを受けた両家は様々な不幸が続き、やがて断絶の憂き目にあうのです。
こうしてお松の正義を貫いた姿勢と悲しい生涯をしのび、村の人々はお松を猫とともにおまつりするようになりました。それが現在の「お松大権現」の始まりです。
三春の化け猫
○滋野多兵衛は無実の罪で切腹
○猫・
○猫が怨霊となる
大町の浄土宗引接山紫雲寺、戦国期創設の浄土宗の古刹である、その境内に、三春の歴史を見続ける梅の古木があります。
三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。
正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました、しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。  
猫の妖怪
猫股 (ねこまた)
尻尾の先が二股に分かれ、蛇のように気味悪くうねる。さまざまな妖しい振舞をするとして恐れられた。先端がさすまた状になっているものと、根元からしっかり分かれて生えているものがいる。
人の言葉を理解し話す事が出来き、さらに三味線を弾くこともある。人を食い殺して、その人になり代わることができる。猫があまりに年を取るとなるといわれる。一晩に7〜8人を食べたともいわれる。好物は行燈の油。(魚油)
雌の猫又は男の夢に現れ、精を奪い取って行くといわれている。人間の女性に化ける事が出来る。(老婆が多い。)
山奥に住み、目は猫の如く、形は大きい犬のようである。一見ただの猫のようにしか見えない場合もあるが、犬をけしかけると正体を現す。年老いた黄色か黒の雄猫が多い。
化猫
怪異をなす猫のことで、古文献や民間伝承に多く見られる。
理由もなく猫を殺すと化けて出るので古猫とは限らないが、年を経た猫の方が確率は高いといわれる。化け猫のなす怪異は様々で、人に変化する、手拭いを被って踊る、言葉をしゃべる、山に潜み、狼を従えて旅人を襲う、祟りを及ぼす、死体を操る、人に憑くなど。
山猫
宮城県牡鹿郡網地島、島根県大田市、隠岐群、東京都八丈島などでいう猫の怪異。
島根県隠岐郡では猫が一貫匁(約3.75キロ)以上になると、山猫となってさまざまな怪異を起こすといわれている。山中で歌を歌ったり、木を伐る音をたてたり、河童のように相撲を取ることもある。
八丈島でいう山猫は、胴は太くて足は短く、尾はとても長く頭から尾先まで五尺(約1.5メートル)もあったという。昼夜を問わず人家を覗いてまわり、食べものや子供をくわえていったそうである。
宮城県牡鹿郡網地島の山猫は、歌を歌ったり貧相な男に化けて相撲をとったりした。
紳士に化け、木の葉のお金を使うなど人を騙すのが巧み。
大山猫
福島県から岐阜県の山中に住む化け猫。猫股の十倍ほどもある大きさ。
老婆に化け釣り人を食い殺したり、釣り上げた魚を奪いに来たりしたという。雄と雌がいるらしい。
火車 (かしゃ)
全国に生息し、暗雲と共に葬式の式場や墓場で死体を奪う妖怪。
猫が年月を経ると火車になるとの説。もともとは「火の車」という、火焔を発しながら空を飛び死体を奪う妖怪と「死体と猫の俗信」、さらに「中国由来の魍魎」が結びついて生まれた妖怪と考えられる。
化猫遊女
江戸は品川の色町 品川宿のある美しい遊女と床に入った客が夜中に目を覚ますと、遊女が恐ろしい老猫に化け、魚(または人間の赤ん坊)を頭から丸かじりにしていたという。
猫南瓜 (ねこかぼちゃ)
和歌山県西大牟婁群に伝わる猫の怪異。
ある者が猫をいじめ殺して埋めたら、その猫の口から南瓜が生えてきた。猫を殺した人物はその南瓜を食べて死んでしまったという。猫が復讐する為に南瓜をはやしたのだという。神奈川県横須賀市浦賀では、南瓜ではなくキュウリがなったという話である。
猫行者
東京西多摩に住んでいた異形の怪人物。
「猫魔大神」という化け猫が崇拝する神を崇拝、臼をゴロゴロと回しながら呪文を唱え呪術をかけていたという。多くの猫を引き連れて暮らしていた謎の行者。
鞍掛け猫 (くらかけみや)
鹿児島県大島郡沖永部島でいう猫の怪異。
夜中に鳴く猫を鞍掛け猫といって恐れた。
五徳猫
火鉢や囲炉裏端に寝そべっていて、人の気配がなくなると自分で五徳に火を起こすといわれる老猫の妖怪。秋田、山形など羽後地方にいると云われる。
尻尾が二股に分かれているので猫又の一種か? 付喪神(年を経た器物が精霊を宿して化けたもの)にも、同じような容姿をしているものがいるが、付喪神のほうは三つ目という違いがある。
猫神
宮城県伊具群、岡山県備前地方でいう妖怪。
どのようなものかは不明。
猫がめ
大分県地方でいう猫神のこと。
マドウクシャ
愛知県知多郡日間賀島でいう妖怪。「火車」の一種。
100歳以上も年を経た猫で、死体を取りに来る。「魔道来者」・「魔道火車」が語源か?。
ヒッパリドン
三宅島坪田でいう猫の怪。
「人を化かし引っ張り込む」が語源か?
孫太郎婆 (まごたろうばばあ)
静岡県富士群でいう妖怪。
甲州の商人が富士の裾野の遠つ原にさしかかったところ、山犬に追われて木に登るはめになった。すると山犬は梯子状態となり、その梯子を孫太郎婆と呼ばれる虎猫が昇って来た。商人は木の上に有った熊の巣をつついて熊を落とし、山犬がそれを追っているうちに夜が明けたので、難を逃れる事が出来たという。
新屋の婆 (にいやのばばあ)
広島県山県郡千代田町冠山の麗でいう妖怪。
昔、石見の飛脚が冠山の麗で猫の群れに襲われ、樹の上に逃げた。すると六匹の猫が梯子状態となったが、一匹分たりなかった。そこに新屋の婆が現れ、スルスルと一番上に上がって行った。飛脚が刀で猫の手を切り落とすと、婆や猫達は逃げて行った。その後飛脚が新屋という宿屋に行くと、そこの婆が手を怪我して寝ているという。そこで婆を斬りつけると、婆は猫の姿になった。この怪猫は本物の婆を食い殺してから化けていたという。
庄屋の婆
隠岐郡隠岐の島町に伝わる山猫の妖怪
袖無羽織を着た真っ白な大猫。山猫達の駕籠に乗って現れる。庄屋の本物の婆を食い殺して、化けていたという。
カブソ
石川県鹿島郡に伝わる、水の中に住む妖怪。
子猫の姿をしていて、尾の先の方が太くなっている。美女に化けたり、人に幻覚を見せたりする。また、人の言葉を話す時もある。
マブイクッピ
薩南諸島鬼界島でいう猫の怪異。
夜中に変な声で鳴く猫があると、近く死人があるといって気味悪がられた。マブイは霊魂、クッピはくくるの意味。
ムネンコ
飛騨国大野郡丹生川村でいう、猫が引き起こす怪異。
猫が死人を跨ぎ超えると、ムネンコが乗り移り死人が動き出すという。
コロケ猫
上州でいう、年を経て神通力を持った猫。
小池婆
島根県松江市の武家で家来を襲い、傷を負うと主人の母親を食い殺し、彼女になりすましたという。
チマ
香川県長尾町多和の谷の奥、ツツジの所で踊っているという三毛猫の怪異
墓猫
奈良では墓場・墓参りの道で転ぶと仏の怒りにあい、人が墓猫という怪物になる。  
髪結び猫
亀岡市の墓場に現れる、髪の長い女に変身する化け猫。
山吹猫
駿府城内の庭に潜み、まれに目撃されるといわれる怪しい老猫。目撃すると瘧(熱病)を患うという。
出世猫
駿府城内の庭に潜み、まれに目撃されるといわれる怪しい老猫。目撃すると立身出世の望みが叶うという、幸福をもたらす黒猫。
猫鬼 (ねこおに)
福島県いわき市好間町の一部地域では、猫鬼と呼ばれる角を持つ幻獣の言い伝えがあり、他に鶏鬼・狐鬼・熊鬼と共に頭蓋骨やミイラ等が残されている…。
猫鬼には下から野鬼・幽鬼・空鬼・天鬼の階級があると云われる。
○ 野鬼…角が一本・特別な能力は無。その頭領は代々『アメノカツブシノミコト』を襲名。
○ 幽気…角が二本・人語を解し化けることが出来る。その頭領は代々『アメノマタタビノミコト』を襲名。
○ 空鬼…角が三本・人語、動植物語を解し、化けるに加え地水火風を自由に操る。その頭領は代々『アメノシャミネンノミコト』を襲名。
○ 天鬼…角は無く普通の猫と区別ができない。神の様な存在で、通常は姿を見せない。その頭領は代々『ネコテラスオオミカミ』を襲名。人に害を加える事は無い。
身分は死ぬまで変わらないと云われるが、修行を積むことにより天鬼になれる。天鬼になることで角は自然に落ちると云われ、猫鬼達は日夜修行に努めていると云う。 
 
猫譚

 

猫の人に化し事
鄙賤の咄に、妖(ようびやう)猫古く成て老姥などをくらひ殺し、己れ老姥と成る事あり。昔老母を持たる者、其母猫にて有し故、甚酷虐にて人をいためし事多けれど、其子の身にとりてすべき樣なく打過しが、或時猫の姿を顯し全く妖怪に相違なし、しかれば、我母をくひし妖猫とて切殺しける。母の姿となりし故大に驚き、全く猫に紛(まがふ)なき故に殺しぬるに、母の姿と成し是非もなき次第也、いわれざる事して天地のいれざる大罪を犯しぬるとて懇意の者を招きて、切腹いたし候間此譯見屆呉候樣申しける時、かの男申けるは、死は安き事なれば先暫く待給へ、猫狐の類一旦人に化して年久しければ、縱(たとへ)其命を落しても暫くは形を顯はさぬもの也とて、くれぐれ押留ける故其意に任せぬるが、其夜に至りて段々形を顯し、母と見へしは恐ろしき古猫の死がひなりけるとぞ。性急に死せんには犬死をなしなんと也。

田舎の下賤の者の語った話。年経た妖猫が老女を喰い殺して、自身化けて老女に成りすましていたという話である。
昔、老いた母を持った男がいた。その母(実は妖猫)は老女なれど、甚だ粗暴にして冷酷、残虐にして酷薄なる性質で、誰でも彼でも打擲罵倒すること甚だしかったのじゃが、息子の身にてあれば、男は如何ともし難く、苦痛の内にも、何とのう日を過して御座った。そんなある日のこと、男は遂にその母御前が猫の姿を露わにしておるのを目の当りにした。
「これは、全く以って妖怪に間違いなかったッ、されば既に我が母者(ははじゃ)を喰い殺した妖獣であったっか」と、おぞましき妖猫を、その場で一刀の元に斬り殺した。しかし、その猫の死骸は瞬く間に母御前の姿に変じてしまった。
男は大いに驚き、「全く猫と紛うことなき故に殺したに、紛れもなく我が母御前になった。なったのでは、母御前じゃ。こうなっては是非もない、道理に外れた錯覚に陥って、母殺しという天神地祇の許さざる大罪を犯してしまった。」と慙愧の念にうち震え、思い余った男は近隣の懇意にして御座った者を家内に密かに呼ぶと、母御前の遺体をありのままに見せた上、「かくかくの訳にて母者を斬り殺したればこれより切腹致すによって、是非もなき以上の顛末、呑み込んで貰うた上どうか見届けて下されい」と頼んだ。それを聞いた知れる者、口を極めて、「死は易きことなれば、先ず暫く 待たらっしゃい。 猫・狐の類いの、一旦人と化して年久しく経て御座ったれば、たとえその命を失いても暫くは、その本性を現さぬものにて御座るぞ」と、何度も押し留めた。
されば、男も半信半疑ながら思い留まり、取り敢えずは懇意の者の言に従って待った。その日の夜に至り彼らの眼前にて母御前の遺体は徐々に、徐々にその姿を変えその本当の姿形を、現わし始め遂に母御前と見えたその「もの」は見るも恐ろしい老猫の死骸となったという。この男、性急に自害致いておれば、これ妖猫死ぬるばかりか男も犬死にをするところで御座った。 
猫人に付し事
右猫の人に化し物語に付或人の語りけるは、物事は心を靜め、百計を盡し候上にて重き事は取計ふべき事也。一般猫の付しといふもあるよし也。駒込邊の同心の母有しが、件の同心は晝寢して居たりしに、鰯を賣もの表を呼り通りしを母聞て呼込、いわしの直段(ねだん)を付て、片手に錢を持此いわし不殘可調聞直段を負候樣申けるを、かのいわし賣手に持し錢を持候を見受、それ計にて此鰯不殘賣べきや、直段も負候事も成がたしと欺笑ひければ、殘らず買べしといひざま、右老女以の外憤りしが、面は猫と成耳元迄口さけて、振上し手の有樣怖しともいわん方なければ、鰯賣はあつといふて荷物を捨て逃去りぬ。其音に倅起かへり見けるに、母の姿全くの猫にて有し故、扨は我母はかの畜生めにとられける、口惜しさよと、枕元の刀を以何の苦もなく切殺しぬ。此物音に近所よりも駈付見るに、猫にてはあらず、母に相違なし。鰯賣も荷物とりに歸りける故、右の者にも尋しに猫に相違なしといへども、顏色四肢とも母に違ひなければ、是非なく彼倅は自害せしと也。是は猫の付たといふ者の由。麁忽(そこつ)せまじきもの也と人のかたりぬ。

前話にて人に猫が化けた話を致いたが、それを聴いたある人が、こういう話もあると語って呉れた話をもう一つ。この一件は、何事も事を処理するに当たっては心を静め、百計を尽くした上、その結果として重大な実行行為を行使するに際しては、十分過ぎるほどの深慮を図らねばならないという、よい例である。具体的には、猫は化けるのではなく人に憑依するという例もある、ということなのである。
駒込辺りに、さる同心が母とともに住んで御座った。倅であるその同心、ある非番の日、居間の厨近くにて昼寝を致いておったところ、表を鰯売りが売り声を上げて通ったのを、厨にあった母親が屋敷内に呼び込んだのを、うつらうつらしている耳に聴いて御座った。
鰯売りを前に、母御前は鰯の値段を聴いた上、片手に僅かばかりの銭を乗せた手を差し出し、「この鰯一匹残らず買い取ります故値段を、おまけなされ」と言う。この鰯売り、老女の持ったそのはした金を見て呆れ果て、「それっぱかりでこの鰯を残らず買う?『値段をおまけなされ』たあ、ちゃんちゃら可笑しいゼ」と嘲笑った。
と「残らず買うと言ったら買うヨッ」急に叫びながら、老女、異様な興奮と共に怒りだした。と見る見るうちにその面相、猫そのものとなり、その口、耳元まで裂け上がり、銭投げつけて振り上げたその両腕、それ猫の手振りそのままにて、最早怖ろしいなんどと言うどころの騒ぎではない。
鰯売り、「わああッ」と叫ぶが早いか、ばーんと棒手振り振り捨てて逃げ去ってしまった。
その騒ぎに目が覚めた倅、居間から、ふと庭表を見ると、そこに母御前と思いし人の姿はこれ、全くの猫なればこそ「さては真実の母者は、かの化け猫めに喰われてしもうたか、口惜しやッ」と枕辺の刀抜き取って、一刀両断の下に斬り殺してしまった。
しかしこの物音に近隣の者どもが駆けつけて見れば、猫にてはあらず見紛う方なき、その倅の母御前の御姿、そのまま暫く致いて、鰯売りも荷物を取りに戻って参った故、この者にも問い質いたところが、「いえもう、確かに猫にて相違なし」との答えが返っては御座ったれど、遺体の顔も、その姿も何時まで経っても常の女、倅は勿論のこと、近隣の者どもも知るところのかの常の母御前に相違なきことなればこの同心、是非なく、その場にて自害致いた、ということで御座った。
これ、猫が人に憑いたという例に他ならぬという由。「いやもう何より、物事、早計に断ずること、これ、決して致いてはならぬものにて御座る」と、その人が語って御座った。 
佛道に猫を禁じ給ふといふ事
猫は妖獸ともいはん、可愛物にもあらねど、宇宙に生を受るもの佛~の禁しめ給ふといへる事疑しく思ひけるが、佛~禁じ給はざる事明らかなる故爰に記し置ぬ。日光御宮御普請に付、彼御山に三年立交(たちまじは)りて有しに、右御宮御莊嚴(しやうごん)は世に稱するの通、結構いわん方なし。誠に日本の名巧の工(たく)みを盡しける。さるによりて和漢の鳥獸の御彫物いづれなきものはなし。支配成もの申けるは、數萬の御彫物に猫計は見へざるは妖獸ゆへ禁じけるやと申ぬるが、或日、御宮内所々見廻りて、奧の院の御坂へ登るべきと東の御廻廊を見廻しに、奧の院入口の御門脇蟇股(かへるまた)内の御彫物は猫に有けるにぞ、猫を禁ずるとの妄言疑ひをはらしけると也。

猫は妖獣とも言わるる、まあ特に愛玩すべきものとも私個人は思わぬもののが、この宇宙に生を享けたものを、神仏がお禁じになられるということ、永らく疑わしいことと考えて御座った。事実、神仏はこれをお禁じになっては、これ御座らぬこと、明白である故、ここにその証拠を記しおくものである。
私が御宮御靈屋本坊向並びに諸堂社御普請御用のため、かの御山に三年ほど赴任致いて御座ったことがある。かの御宮の荘厳なる様は、これ世に讃えられる通り、その日光山全体の結構、素晴らしいと言う外はない。誠日本の名工らが、その持てる妙技を尽くしたものにて御座る。
故に和漢の鳥獣類は総て御彫物として洩れなくあり、一つとして欠けている生き物は御座らぬ。御山のことに詳しい日光山管理人の者が申すことには、
「数万の御彫物の中に猫だけは見えないのは、妖獣故、禁じられたものかと思って御座ったが、ある日、御宮内の処々を巡回致いて御座った折り、さても最後に奥の院の御坂を登ろうと東の御回廊を見回って御座ったら、正に御霊を祀る奥の院入口の御門脇の蟇股(かえるまた)に彫られた生き物は猫で御座った。これにより、拙者、神仏、猫を禁じられ給うと言うは妄言なり、と永年の疑いを晴らすこと、出来申した。」
とのことであった。 
猫物をいふ事
寛政七年の春、牛込山伏町の何とかいへる寺院、祕藏して猫を飼ひけるが、庭に下りし鳩の心よく遊ぶを睍ねらひける樣子故、和尚聲をかけ鳩を追ひ逃しけるに右猫、殘念也と物言しを和尚大に驚おどろき、右猫勝手の方へ逃しを押へて小束こづかを持、汝畜類として物をいふ事奇怪至極也、全まつたく化け候て人をもたぶらかしなん、一旦人語をなすうへは眞直に猶又可申、若もしいなみ候においては我殺生戒を破りて汝を殺ころさんと憤りければ、かの猫申けるは、猫の物をいふ事我等に不限、拾年餘も生いき候へば都すべて物は申ものにて、夫より拾四五年も過候へば~變を得候事也。併しかしながら右の年數命を保たもち候猫無之これなき由を申ける故、然らば汝物いふもわかりぬれど、未いまだ拾年の齡ひに非ずと尋たづね問ひしに、狐と交りて生れし猫は、其年功なくとも物いふ事也とぞ答ける故、然らば今日物いひしを外に聞ける者なし、われ暫くも飼置かひおきたるうへは何か苦しからん、是迄の通可罷在とほりまかりあるべしと和尚申ければ、和尚へ對し三拜をなして出行しが、其後いづちへ行しか見へざりしと、彼最寄に住める人のかたり侍る。

寛政七年の春、牛込山伏町の何とかという寺院で、一匹の猫が大切に飼われて御座った。
ある日のこと、和尚が庫裡から見ておると、この猫、庭に下りた鳩の、無心に遊んでおったを、凝っと狙って御座る様子なれば、和尚、「喝!」と声をかけて鳩を追いはらって逃のがいた、ところが、猫が「残念なり」と言うた。
和尚、大いに驚き、この猫の庫裡裏へ逃げたを取り押さえ、小柄突きつけ、「汝、畜類の身にありながら、物を言うとは奇怪千万、化け猫となって人をも誑たぶらかそうものじゃ。一旦人語を成した上は、素直に諦め白状致せい、もしこれを聞かぬとならば我殺生戒を破りて汝を殺さん」と憤った。
と、かの猫が答える「猫のものを言うは、我らに限ったことではない、十年余も生きて御座ればどんな猫もものは申すものにて、それより十四、五年も過ぎて御座ればどんな猫も神通力を得て御座るものじゃ、しかしながらまず、その齢いを保てる猫は御座らぬのぅ」と申す故、「ウム然らば、汝がものを言うも、尤もなることと合点致いた。が汝、未だ十年の齢いにも届かざるは如何」と一喝致いた。
と「狐と交わって生まれた猫はこれ、その年の甲を経ずともものを言うものじゃ」との答え。
されば、和尚、「然らば今日、汝のものを言うたを外に聞く者はない。我も暫く飼いおいて参ったものなればこそ何の不都合があろうぞ。さても、これまで通りこの寺でもの言わぬただの猫として―暮らすがよいぞ」と申したところ、
猫は、和尚に正対三拝致いて、走り去った。それから何処へ行ったものかとんと見えんようになった、という。かの寺の最寄りに住む人が語った話に御座る。 
猫の怪異の事
或武家にて、番町邊の由、彼家にて猫を飼ふ事なし。鼠のあれぬるを家士共愁ひけるが、或人其主人へ其譯尋たづねしに、右聊いささか譯あれど、ひろく語らむも淺々あさあさしければかたらざれど、切せちの尋たづね故申まうすなり、祖父の代なりしが、久敷ひさしく愛し飼かへる猫あり、或時緣頰えんづらの端に雀二三羽居たりしを、彼かの猫ねらひて飛かゝりしに、雀はやくも飛とびさりしかば、彼猫小兒の言葉のごとく、殘念なりと言いひしに、主人驚きて飛かゝり押へて、火箸を以もつて、おのれ畜類の身として物いふ事怪敷あやしきとて、既に殺さんと怒りしに、彼猫又聲を出し、もの云し事なきものをといひし故、主人驚きて手ゆるみけるを見すまし、飛あがつて行方しらずなりし故、其已後それいご猫は飼間敷かふまじきと申置まうしおきて、今以いまもつて堅く誡いましめ飼はざる由なり。

とある武家、番町辺りの者の由にては猫を決して飼うことがない。
ある年のこと、鼠が猖獗を極め、屋敷内の荒れ様は家士の者どもでさえも、あまりのことに、ひどく気に致すほどの有り様で、ともかくこれ一方では御座らぬ所謂、『ばたばた』と申す呈にて御座った由。
されば、家内の誰彼、こっそりと主人の知音に頼み込んで、主人あるじに対し、「時に貴殿見たところかくも鼠どもの大きに徘徊致すにも拘わらず何故に猫を飼わざるや?」と執拗訊ねさせたと申す。
すると、「その儀につきては聊か訳が御座ってのあまりこれ、軽々に公言することの憚らるることなれば、今までは誰にも語らずに御座ったのじゃが、貴殿が切にと訊ぬるゆえ、申そう」。
祖父の代の、若き日のこととか申す。当時、当家にては、久しく飼っていた猫が一匹御座った。ある日のこと、縁側の端で雀が二、三羽遊んで御座ったところへ、かの猫の狙い澄まして飛びかかったものの、雀はこれ、一瞬早はよう、飛び去って御座った。というさまを、祖父は、家内より見て御座った。するとかの猫まるで小児の発する如く、「残念ジャ」と申した。
されば祖父、仰天致いて、即座に猫に飛び掛かって縁端に押さえ込むや、傍に御座った火鉢に刺して御座った火箸を執り、尖きっ先を猫の喉笛に突きつけ、「おのれ畜類の身でありながら、ものを申すこと、これ奇怪千万」と叱咤致いて、今にも突き殺さんと致いた。
ところが永年の愛猫なれば、一時手も止まって御座ったものか、その折りその猫、またしても声を発して、「チッ、今日ノ今日マデ、クソッ、モノ申シタコトコレナカッタニ、ノゥ」と喋った。
祖父は、これまた吃驚仰天、思わず押さえつけて御座った手を緩めてしもうたと申す。
まさにその一瞬を狙い澄まして御座ったと見えて、かの猫、飛び上がってそのまま行方知れずと相い成って御座ったと申す。
されば、その怪事以後、わが家にては、これ『猫を飼こうてはならぬ』と申す御家訓が御座って、今以て堅く誡めて、猫を飼わぬので御座るよ」との由で御座った。 
猫忠臣の事
安永の末、大坂嶋の内に□□屋□兵衞といへる者の娘有しが、其家に年久しく飼置かひおける猫ありし由。家内娘共愛しけるが、彼かの猫娘の起臥起居おきふしおきゐを聊不放いささかもはなれず、食事使用の時も其邊を不離はなれざる故、猫の見入みいりしと上下者ぞめき言いひける。父母も殊の外愁ひ、婚姻前の娘かゝる浮名立たちてはと歎き、相談して猫を打殺うちころすか、又は放ちすてんと打寄うちより相談なせしに、彼猫聞ききしやかいふつと行衞しれず。いづくへ失うせしや、年經る猫は化ばけるとの下諺げげんと、いよいよ憎み罵りしに、其夜親夫婦の夢に彼猫來り告つげけるは、我夢々娘子に執心せしにあらず、此家に年ふる鼠ありて、娘子へ執心なし害あらん事甚だ危し、是により我等多年養育の恩あれば、晝夜傍をはなれず守る也、然るに我等が惡心をと疑うたがひをうけ影をかくしけれど、椽下えんのしたに居をり又は天井の上に隱れて今以もつて守る也、彼惡鼠あくそを害せんと思へど、渠かれも年經る鼠故、我等猫の手際に及難およびがたく、助たすけと成なして是これしたがへんは、どこどこの傘やの赤ぶち成なる猫にあらでは事成り難し、何卒右の猫を借かり給へ、ともに右鼠怪をしたがへんといふと見て、夫婦同じ夢なれば大きに驚き、且右の猫の樣子、失うせし比ころよりは食事も乏しきや、又は椽下等に潛みける故や、甚疲衰はなはだつかれおとろへし躰てい也。かゝる事あるべき事ならねば傘やを尋たづね見よと、人して彼かの所へ至りしに、果して傘やも有ありて猫の事尋しに、年久しく飼かへる赤ぶちの猫有ありと聞ききて、彼かの□兵衞急ぎ傘やへ至り猫の事尋ければ、如何成なる事にて尋給ふや不審して尋る故、かくかくの事なりと有ありの儘に語りければ、左あらば貸かし申さんと承知せし故、歡びて宿に戻り妻に語りしに、其夜彼猫又夢に告けるは、來きたる幾日こそよろしけれと言いふにまかせ、暮比ころより右猫をかりて二階の古長持の内に入置いれおきしに、夜四ツ時比ころにもあらん、二階上殊の外騷敷さはがしく、中々立入たちいるさまにもあらず。しばらくして靜しづまりければ、燈火をかゝげ二階へ上り見れば、大きさ猫より揩ワさる大鼠を、かの借來かりきたりし猫喰殺くひころし守り居ゐたり。飼置かひおきし猫は鼠に鼻柱はなばしらを喰付くひつかれて死し居をりたりし故、大きに歡びて、かり猫は厚あつく禮謝して傘やへ返かへし、飼かひ猫は厚く葬はふり、ねづみは燒捨やきすてしと也。

安永の末、大坂嶋の内に〇〇屋×兵衞と申す町人が御座った。
その者には娘があって、家には年久しく飼いおける猫もおったと申す。
家内の者も娘も、ともどもにその猫を可愛がって御座ったが、この猫、娘には特に馴れて、その起き臥しから家内でのちょっとした折りにさえも、聊かも娘の傍らを離るることこれ御座なく、食事から果ては後架にゆく後さえも、その近くを離れずにおると申す有様で御座ったゆえ、次第に、なんとはなしに、『猫に魅入られたんとちゃうやろか』と家内にては、相応の使用人から丁稚下女に至るまで、気味悪がって騒ぎ立てては、陰で噂致すようにもなったと申す。
流石に父母の耳にもこのことが伝わり、殊の外、心痛の種と相い成って御座った。
何よりまず、嫁入り前の娘なればこそ、このような浮き名が巷に広がっては、これ、一大事と申す歎きの先立ったによって、手代なんどとも相談致いて、「まずあの猫を打ち殺ますか、または、これ、帰り来たることの出来ざる、遠き地へ連れ行きまして、放ち捨てますがよろしいか」なんどと、うち寄っては秘かに具体な打ち合わせも致いて御座ったと申す。
ところが、かの猫、それを聴き及んで自ずと悟ったものかフッと行方知れずとなってしもうた。「一体何処へ消え失せてしもうたもんやろ?年経た猫はこれ化けるとか桑原々々」などと申す下世話な噂を致いては、これ、いよいよ、「あの化け猫が」なんどと家内の者ども皆、口に出しては憎み罵しって御座ったと申す。
ところがそんなある夜のこと、親の夫婦めおとの夢に、かの猫が来たって告げたことには
「我ガ輩ハ猫デアル、斯クモ夢ニ人語ヲ以ッテ告ゲ参ラス、ナレド夢々娘子ニ執心セシニアラズ、コノ家ニハ年経タル鼠アリ、ソノ妖鼠娘子ヘ執心ナシ、害セントノ心アランコト、コレ明白、甚ダ危シ、サレバコソ我等多年養育ノ恩ヲ受ケタレバコソ、昼夜分カタズ、傍ヲ離レズ守リ来タッテ御座ッタ、然ルニ、我等ガ娘ニ悪心ヲ持ッタリト申ス、諸人ノ疑イヲ受ケタニヨッテ、我等身ヲ隠シタリ、ナレド我等ハ今モ、アル時ハ当家縁下ニ居又アル時ハ天井ノ裏ニモ隠レ潜ミ居リ、今以ッテ娘子ヲ守ッテ御座ル、カノ悪鼠ヲ誅セントハ思ヘドモ、カノ怪鼠モマタ年古タル鼠妖故、我等一猫ノ手際ニハ及ビ難キモノナリ、サテモ助ケト成シテ我等ニ相応シキ強猫ハコレ×××ノ傘屋ガ方ニ飼ワレタル赤斑成ル猫ニアラデハ誅殺ノ首尾成リ難シ、何卒右ノ猫ヲ借リ給ハレ、共ニカノ邪悪ナル鼠怪ヲ調伏致シマショウゾ」
と言うかと見て目醒め、目醒めた夫婦はそれぞれの顔に同じき夢の面影を感じて、互いに今見たばかりの妙なる夢を語り合おうてみたところが、全く以ってこれ、同じき夢にて御座ったればこそ、大きに驚く。
かつまた、その夢中の猫の様子も語り合おうて見たところが、失踪致いた頃よりは碌な食事にもありつけておらぬものか、または縁の下なんどに凝っと潜み続けて飲まず食わずのままででもあるものか、はなはだ疲れ衰えたる体ていであったことまでも、これ寸分違わず同じで御座った。
「このようなことはあるはずもないことじゃ、じゃが確かに夢は一緒やったッと、ともかくもその傘屋を尋ね捜して見まひょ」と、人を遣わし、夢で猫の告げたところの×××辺を探させたところが、果して傘屋も、これ、あるまた、それとのぅ猫のことなんども探らせたところが、これ、永年飼こうて御座る赤斑の猫もあるとのことなればこそ、〇兵衛、急ぎ傘屋へと馳せ参じ、「あんたはんのところに、赤斑の猫の、おりまっしゃろッ」と息せき切って質いたによって、傘屋はこれ、傘も買わざる猫の名を問うた妙な親父の来たったと、「なんでそないなこと、お尋ねなさいますぅ?」と如何にも不審気に尋ねて御座ったゆえ、〇兵衛、「かくかくのことの御座いますればこそ」と、まあ凡そ、『けったいな話』としか思われぬは覚悟の上、それでも誠心を以ってかの顛末を語ったところが、「よろしゅうおま、そんなら一つ、お貸ししまひょ」と、傘屋は二つ返事で承知して呉れたと申す。
さても喜んで屋敷へと戻り、妻に語っては二人して手を取って言祝いだ、その夜のことで御座る。かの猫、また夫婦の夢に出で来たってかく告げた。
「我ガ輩はハ猫デアル、来タル△△日コソ、調伏ノ吉日トシテヨロシキヒナリ」と言うて消えた。
されば、その日に合わせて、暮れ頃よりかの傘屋より赤斑の猫を借り来たって、老妖の鼠に気づかれぬようにと、二階の古長持のうちに入れおいたと申す。
その夜の四ツ時頃で御座ったか、二階の上、殊の外騒々しく、途轍もなき大音、奇怪なる獣の声々の叫び交わし、誰一人としてなかなか立ち入って見んも恐ろしきさまで御座ったと申す。暫く致いて、ふっと静まったによって、主人を先頭に男どもが燈火をかかげて二階へ上って見たところが、大きさは、猫より勝る大鼠をかの借り来たった傘屋の赤斑の猫が美事、喉元を喰い破って死んだる獲物をしっかと踏みしだいて御座った。さてもかの飼い猫はと申せば、かの大鼠に鼻柱を無惨に喰い付かれ、最早とうに息絶えて御座った。
さても主人一同、大きに歓び、借りて参った赤斑の猫には厚うに謝礼を添えて傘屋へと返し、飼うて御座ったかの忠義一途の、壮絶なる討ち死を遂げた猫は、これを厚う葬って墓なんどをも建立致いたと申す。かの大鼠の死骸はと申せば、そのままに庭先にて焼き捨てた、とのことで御座る。 
古猫奇有事
石川某親族の元に年久しく飼かへる猫有ありしが、或時客ありし時彼かの猫其邊を立𢌞りしに、彼猫は古く飼置かひおき給ふ抔物語の席にてい主申けるは、猫は襖抔建付たてつくるを明あくる者也なり、此猫も襖のたて明あけをいたし、此猫もやがて化ばけもいたすべきやといふを聞きく客も驚おどろきしが、猫てい主の㒵かほをつくづく見て立出たちいでしが、其後は何方いづかたへ行ゆきしや行衞知れず。亭主の言葉的中故ゆへなるべしと語りぬ。

石川某なにがしの親族の元に、年久しぅ飼うて御座った猫があったと申す。
ある時、客が御座った折り、その猫が主客の座せる座敷近くをうろついて御座ったが、「この猫は古うから飼こうております猫で御座ってのぅ」なんどと、物語の序でに亭主が申しましたは、「猫と申すものは、襖なんどを締め切って御座っても、これ、器用に開くるもので御座る、この猫も襖の開け閉めを人の如く致いて御座る、いやこの猫もやがては化けたりも、これ致すもので御座ろうかのぅ」と言うたによって聞いた客も驚いた。
ところがその時、うろついて御座った猫がピタと足を停めた。そうして亭主の顔をそのまま、ジッと見詰めた。暫く致いたかと思うとプイと、座敷を出でて行ったと申す。がそのまま何方へと行ったものやら一向、行衞知れずと相い成ったと申す。
これは亭主の言げんがまっこと、真実を射たもので御座ったがゆえ、かく姿を隠したもので御座ろう。と、石川殿が語って御座った。 
 
相良藩化け猫騒動 (猫寺の由来)

 

猫寺 1
相良(さがら)藩 700年の歴史が今に息づく人吉盆地。その盆地の最東端に位置する熊本県球磨郡水上(みずかみ)村は人吉市街から車で北東に約50分走ります。その水上村にある生善院(しょうぜんいん)は、別名を『猫寺』ともいい、狛犬(こまいぬ)ならぬ『狛猫(こまねこ)』が山門の両脇に建っていて訪れる人を迎えます。
なぜ狛猫なのか、それには理由があります。このお寺は、今から380年以上も前、まだ相良氏が人吉球磨地方を統治していた頃、相良藩にかかわる”猫の怨霊”を鎮めるために建てられた寺なのです。

当時、鹿児島(薩摩)の島津義久と戦っていた相良藩は、人質を出して和睦を結びますが、島津氏は『八代(やつしろ)も自領である』といって攻略を始めました。人吉球磨の人々はいつまた薩摩が攻め入ってくるか不安に駆られていました。
そんな中で、薩摩との戦いで死んだ先代相良藩主の腹違いの弟・頼貞(よりさだ) − 兄の先代相良藩主とは仲が悪く、薩摩に住んでいた − が多良木(現在の球磨郡多良木町)を訪ねてきました。
そのとき、相良藩の出城城主の湯山佐渡守宗昌(ゆやまさどのかみむねまさ)が、その弟で普門寺(ふもんじ)住職である盛誉法印(せいよほういん)と一緒に頼貞に会いに行き、戦死した先代の悔やみを申し上げ、世間話程度をして帰りました。
ところが、日頃宗昌をよく思っていない武士たちがこの会談のことを聞きつけ、『宗昌と盛誉法印は、薩摩にいる頼貞と結託して人吉球磨を攻める』と相良藩に嘘の密告をします。それを聞いた藩は、普門寺を攻め落とすことにし、天正10年(1582年)3月16日に攻撃する命令を出します。
自分たちに謀反の罪がかかったことを知った宗昌と盛誉法印は、二人で逃げれば本当に謀反をたくらんだと思われるので、宗昌は日向(宮崎)に逃げましたが、盛誉法印は普門寺に残りました。
一方、密告した武士たちは、自分たちの策略が藩主にばれた場合には、きっと早がけの犬童九介(いんどうくすけ)が攻撃中止の使いに出るだろうと予想し、『人吉から馬で来る者は無類の酒好きであるので、水を求められたら焼酎を出すように』と、行く先々にお触れを出しました。
普門寺攻撃の前日になって、相良藩家老は、盛誉法印は仏に仕える身、果たして謀反などを起こすだろうか、これを殺してしまっては取り返しがつかないことになると判断し、普門寺攻撃を中止させるため犬童九介を普門寺に走らせました。
普門寺に向った九介は案の定、途中でのどが渇き茶屋で水を求めました。住人はお触れの通り、大きな湯飲みで焼酎を何杯も飲ませました。酔ってふらふらになった九介は、馬にも乗れず歩くこともできず道端で寝てしまいました。
そのため、攻撃中止の命令は届かず、盛誉法印は殺され、寺には火が放たれました。九介が到着したときにはすでに普門寺は炎上していました。策略に乗せられていたとは知らない九介は、盛誉法印を死なしたのは自分の責任だと思い込み切腹して果てました。

無実の罪を着せられて殺された盛誉法印の母玖月善女(くげつぜんにょ)は、その恨みをはらすため、愛猫の玉垂(たまたれ)とともに市房山神宮にこもり、自分の指を噛み切って神像に塗りつけ、またその血を玉垂にもなめさせ、自分と一緒に怨霊となって相良藩にたたるよう言い含め、数十日の断食の後、茂間(もま)が淵(ふち)というところに愛猫とともに身を投げました。
すると、相良藩では、猫の怨霊が美女や夜叉に化けて藩主の枕許に立つなど、奇々怪々なことが次々に起き出しました。藩では寛永2年(1625年)に、霊を鎮めるために普門寺跡に千光山(せんこうざん)生善院と名付けて、藩主相良長毎(ながつね)が寺を創建しました。
法印の命日である3月16日に、藩民に市房神社と生善寺に参詣するように命じ、藩主自身もそうしたので、怨霊のたたりは鎮まったと伝えられています。  
猫寺 2
天正10年(1582年)、相良(さがら)藩への謀反を企てているという嘘の訴えにより、湯山(ゆやま)佐渡守宗昌(むねまさ)とその弟で普門寺(ふもんじ)の盛誉法印(せいよほういん)が殺されることになった。その話を聞いた宗昌は日向(ひゅうが)へ逃げたが、寺に残った法印は殺され、寺も焼かれてしまう。無実でありながらわが子を殺された法印の母、玖月善女(くげつぜんにょ)は愛猫玉垂(たまたれ)を連れて市房(いちふさ)神社に参籠(さんろう)し、自分の指を噛み切ってその血を神像に塗りつけ、 玉垂にもなめさせて、末代までも怨霊になって相良藩にたたるように言いふくめ、茂間(もま)が崎(さき)というところに身を投げて死んでしまう。すると、相良藩では、猫の怨霊が美女や夜叉に化けて藩主の枕許に立つなど、奇々怪々なことが次々に起きた。藩では霊をしずめるために普門寺跡に千光山(せんこうざん)生善院と名付けて寺を建立。現在の本堂も観音堂も、その時に建てられたものだ。法印の命日である3月16日に、藩民に市房神社と生善寺に参詣(さんけい)するように命じ、藩主自身もそうしたので、怨霊のたたりはしずまったと伝えられている。
猫寺 3
相良藩化け猫騒動
水上村の生善院(しょうぜんいん)は、普段は「猫寺」と呼ばれ、狛犬ならぬこま猫が山門の両脇に建ち、訪れる人を見守っています。
このお寺は、今から350年以上も前、まだ相良氏が人吉・球磨地方を統治していた頃、その相良藩にかかわる「ある霊」を鎮めるために建てられたといわれています。
それは、天正9年(1581年)のことでした。
当時、相良藩は鹿児島の島津義久(薩摩藩)と戦っておりました。その戦いの中、第18代藩主相良義陽(よしひ)が戦死したため、当時わずか10歳の忠房を第19代藩主とし、次男長毎(ながつね)を島津氏に人質として出し和睦を結びました。
しかし、島津氏は八代も自領であるといって攻略を始めたのです。このような薩摩藩の勢いに「やがてこの球磨、人吉の地にも再び進行してくるのでは」と言う噂が流れ始めたため、人々は安心できませんでした。
同年12月、先代藩主義陽とは仲が悪かった腹違いの弟頼貞(現在の鹿児島県湧水町栗野付近に住んでいたと伝えられている。)が多良木の地を訪れた時、相良藩の出城である湯山城主湯山佐渡守宗昌(ゆやまさどのかみむねまさ)は、その弟普門寺住職盛誉法印(せいよほういん)と一緒に頼貞に会いに行き、戦死した先代義陽の悔やみを申し上げ、世間話程度をして帰りました。
この会談を知った宗昌をよく思わない他の武士達は、先代義陽と頼貞が不仲であったのを利用し、「湯山佐渡守と盛誉法印は、頼貞とともに薩摩藩に協力して人吉球磨に攻め入ってくる。早く征伐しなければ危ない。」と嘘の密告をしたのです。
それを耳にした藩主忠房の姉は、重臣たちと協議して、米良の黒木千衛門を総大将として、米良・須木の武士に天正10年(1582年)3月16日に普門寺に攻め入るよう命じました。
一方、密告した武士達は、自分たちの策略が藩主忠房にばれてしまった場合、早がけの犬童九介(いんどうくすけ)が攻撃中止の使いに出るだろうと予想し、「人吉から馬で来る者は無類の酒(焼酎)好きであるので、水を求められたら酒を出すように。」と行く先々におふれを出しておきました。
普門寺攻略の前日、家老の深水宗方(ふかみむねかた)は、湯山佐渡守は俗人だから何を考えているか分からないが、盛誉法印は仏に仕える身、これを殺してしまっては取り返しがつかないことになると判断し、普門寺攻めは中止と決断、犬童九介を普門寺に走らせました。
ところが、九介が途中免田の築地でのどが渇いたため、水をもらいに茶屋に入ったところ、住人は「この人がふれてあった酒好きの人だろう」と思い、大きな湯飲みで焼酎を何杯も飲ませてしまいました。酔っ払い、ふらふらになった九介は、なんとか多良木までは来たのですが、とうとう馬に乗ることも歩くことも出来なくなり道に寝込んでしまったのです。
宗昌と盛誉法印は、自分たちに反逆のための追い討ちの命令が出たのを知ると、二人とも逃亡すれば本当に反逆したと疑われると思い、宗昌は日向(宮崎県)へ逃げたものの、盛誉法印は普門寺に残りました。
3月16日未明、中止の連絡が届かず何も知らない黒木千衛門は、球磨川を渡り普門寺に攻撃を始めてしまいました。止める弟子たちを切り倒し、千衛門はとうとう勤行中の法印を声もかけず後ろから首を切り落とし寺に火を放ったのです。
ちょうど燃え上がったところへ、やっとの思いでたどり着いた九介でしたが、自分のせいで法印を死なせてしまったと思い込み、ことの次第を藩主へ報告し切腹してしまいました。
無実の罪を着せられて殺された盛誉法印の母玖月善女(くげつぜんにょ)は、その恨みをはらすため、愛猫「玉垂(たまたれ)」を連れて市房山神宮にこもり、自分の指を噛み切って神像に塗りつけ、またその血を玉垂にもなめさせ、自分と一緒に怨霊となって黒木千衛門を始め相良藩にたたるよう言い含め、21日間の断食の後、「茂間が淵(もまがふち)」に猫を抱いて身を投じました。
すると間もなく相良藩では、毎夜、猫の玉垂が忠房を苦しめ、また盛誉法印を討った黒木千衛門は狂い死にし、次々に奇怪なことが起こり始めたのです。
そこで相良藩ではたたりの恐ろしさから逃れるため、盛誉法印とその母玖月善女、愛猫玉垂の霊を鎮めるため、普門寺跡に新しく生善院を建て、寛永2年(1625年)には別に観音堂を建て、法印の影仏として阿弥陀如来を、母の影仏として千手観音像を祀り、藩民には毎年3月16日には、15日の市房山神宮参詣(さんけい)とともに猫寺参詣を行うよう命じ、藩主自らもこれを実行したため、ようやく霊も静まったそうです。
この参詣は昭和30年代頃までは大変にぎやかに行われ、その後市房山神宮は縁結びの神様「おたけさん」として、また、玖月善女が身を投じた茂間が淵の神社は、子どもの護り神「ごしんさん」として今でも厚く信仰されています。
 
山吹の猫

 

駿府城の猫
駿府城内には、めったに人目に触れることのない、二匹の猫がいる。
一匹は庭に棲む老猫で山吹猫と呼ばれている。見た者は必ず瘧(えやみ)になるという。
もう一匹は大手門近くにある河内屋敷に棲む黒猫である。見た者は幸運に恵まれるという。特に、その者が青雲の志の持ち主だと、必ず立身出世する。それゆえ、出世猫と呼ばれている。
(『駿国雑志』巻之廿四下 「山吹猫」「出世猫」)

・・・日本固有の怪談映画の一種で、〈狸もの〉〈狐もの〉などと同様に古くから〈ゲテモノ〉としてつくられてきたが(日本映画史をつづった本には〈低俗観客層に愛好された〉などと記されている)、昭和10年代の初めに日本映画きっての〈妖婦女優〉として知られた鈴木澄子(1904‐85)がこの種の怪談映画のヒロインを次々に演じて(《佐賀怪猫伝》《有馬猫》(ともに1937)、《怪猫五十三次》《怪談謎の三味線》(ともに1938)、《山吹猫》(1940)、等々)、〈化猫女優〉の異名を取って以来、怪談映画のなかでも特殊なジャンルとして日本映画史の底流の一部を形成することになった。すなわち、ゲテモノ、低俗娯楽映画といわれながらも確実な興行価値をもつジャンルとして量産され、とくに戦前の新興キネマで鈴木澄子の〈化猫映画〉をヒットさせたプロデューサーの永田雅一は、戦後も大映(1947年より永田が社長に就任)で、戦前の〈お嬢さんスター〉で売れなくなっていた入江たか子を〈化猫女優〉に仕立てて成功した。・・・  
山吹の猫・山吹猫
駿府城内の庭に潜み、まれに目撃されるといわれる怪しい老猫。目撃すると瘧(熱病)を患うという。
出世猫 1
駿府城内の庭に潜み、まれに目撃されるといわれる怪しい老猫。目撃すると立身出世の望みが叶うという、幸福をもたらす黒猫。
出世猫 2
『駿国雑志』に、駿河国安倍郡府中城(駿府城)内の怪異として記されているものです。
城の大手門より内、河内屋敷には一匹の黒猫がいるといわれていました。たまたまこれを見かけた者は幸運に恵まれるといい、それが青雲の志ある者、つまり徳を磨き功名を立てて立派な人物になろうとする者であれば必ず立身出世するそうです。そのためこの猫は出世猫と呼ばれていました。

『駿国雑志』阿部正信著。天保14(1843)年成立。駿河国の地誌で、巻二十四に「怪異」の記述がある。 
 
薄雲の猫

 

薄雲太夫と招き猫
かって道哲とよばれたお坊さんが山谷掘りの土手に庵を建てて打ち捨てられた罪人の遺骸を埋葬して回向していた。正式には西方寺であるが、人々は道端の哲人の寺として「土手の道哲寺」と呼んだ。
明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火により焼け出された吉原の遊郭がこの山谷の地に移ってきた。
道哲和尚は埋葬されずに土手に打ち捨てられる遊女の遺骸を埋葬して一日中念仏を唱えて回向していた。
当時吉原京町三浦屋に薄雲太夫という非常な猫好きな太夫がいた。なにしろ寝るにも起きるにも一匹の三毛猫を側からはなさなかった。
客よりも大事にしたのであまり歓待されない客は「猫になりたや、三毛猫に」となげいた。
おいらん道中にも猫を加えるほど夢中になって、巷では薄雲太夫は猫にとりつかれたとの評判もたち営業にも差しさわりがあると考えた三浦屋の主人が猫を捨てるように言ったところ「私は厭でありんす」と断った。
その三毛猫もある事件で亡くなりなげき悲しんだ薄雲は遊女たちから信仰の厚い道哲和尚に頼み、吉原で葬儀をしたあとに西方寺の境内に一尺ほどの猫塚を建てて埋葬した。
猫を失った失意の薄雲は猫の話が出るたびに眼を泣き腫らしていた。
そのような時に 客の一人が大いに薄雲の心を憐み、長崎から取り寄せた一尺の伽羅の名木で一匹の「招き猫」刻み薄雲に贈った。
その客は中国の故事に「キツネが顔を洗うに左手耳をすぐれば、客至ると俗に謂えり」をキツネを猫にかえて彫刻し薄雲に贈った。
ようするにキツネが左手で左耳をこすると客がやってくるという縁起物のようだ。
この招き猫も薄雲の死後道哲寺(西方寺)に納められ、江戸末期の猿若町の火事により焼失したそうだ。
西方寺は大正時代の火事により焼失し、現在は豊島区の都電新庚申塚駅近くに移転して健在のようだ。
余談ですが、山谷掘は暗渠となり、そのうえに山谷掘公園ができた冬は親水公園として水が流れているが、夏は止められている。なぜか。
夏は近くの山谷の簡易宿泊所にとまれない人達がここで洗濯や風呂代わりに身体を洗っていたため、子供連れの人達から苦情が出て、注意書をだしたが効果が無く仕方なく水を止めたそうだ。
招き猫の発祥について / 道哲寺(西方寺)の招き猫をまねて花川戸のお婆さんが全く同じものをつくるのは著者権侵害だと思ったかどうかしらないが、左手ではなく右手をあげた招き猫を今戸焼きで沢山造り浅草寺で売り出し大儲けをした。それで今戸が招き猫の発祥地のひとつとされている。
薄雲太夫 (うすぐもだゆう)
江戸中期に江戸・吉原(よしわら)の三浦屋四郎左衛門方にいた遊女。薄雲は『源氏物語』第19帖(じょう)からとったもので、太夫は揚女郎(あげじょろう)の最高の職制をいう。勝山、高雄、吉野らとともに吉原で著名な遊女だが、薄雲を名のった遊女は3人あり、それぞれの詳細はさだかでない。一般に知られる薄雲は信州(長野県)埴科(はにしな)郡鼠宿(ねずみじゅく)の出身で、舞伎(ぶぎ)に優れ、猫を愛したといわれる。1700年(元禄13)7月に350両で身請けされた。
薄雲と「玉」
山手線で、巣鴨に行く。
高岩寺のとげぬき地蔵尊にやってくる参拝客で、地蔵通り商店街は、相変わらず活況を呈している。和菓子のお店、衣料品のお店、どこも値札の文字が大きくてわかりやすい。道ゆく人の速度もゆったりとしている。商店街を抜け、庚申塚を過ぎると、西巣鴨。
西巣鴨は、関東大震災以後、当時、浅草や四谷にあったお寺の多くが、ここ一帯に移転してきたという。妙行寺には「東海道四谷怪談」で知られる「お岩さん」のお墓がある。
また江戸町火消しの頭領で、徳川最後の将軍・慶喜のボディガードを務めた新門辰五郎もすぐ近くの盛雲寺に眠る。実在のお岩さんは、田宮伊右門の妻として、家事全般やりくり上手の良妻、お稲荷さんを信仰し家が栄えたそうだ。後世の歌舞伎の演目作者・鶴屋南北が巷の事件をヒントに恐ろしい事件物語を創作。一躍、売れっ子ライターになった。
さて、目指すは、招き猫伝説が伝わるS寺。ご住職にご案内いただき、境内を奥へ。
招き猫像は、二代目・高尾太夫のお墓を守るように鎮座。右手をちょこんと上げた仕草。人招きのポーズをしている。高さは30センチほど、成猫とおなじくらいの大きさ。 
「江戸元禄のころ、高尾と並んで吉原を代表した遊女・薄雲は、無類の猫好きで、「玉」という三毛猫を飼っていた。郭に行く道中も連れ歩くほどだった。あるとき、薄雲が入浴中に、玉が追い払っても叱っても一緒に入ろうとする。するどい顔でうなり声を上げる玉。困った薄雲は、助けを求めた。玉が狂ったと見た楼主が刀で切りつけた。すると玉の首は、表に飛び出し、薄雲を狙って、窓から忍び込もうとしていた大蛇に噛み付いたのだった。主人を守るために必死で危険を知らせた玉。その不憫さに薄雲は、日々、泣き続けた」というお話。
その後、薄雲は「玉」を偲んで、このお寺で供養をした。その逸話が元で、この招き猫像が誕生することになったのだという。
ご住職は言う。「この像は、昔は門柱の上にあったが、心無いいたずらで、破損傷つけられてしまった。修復して、安全な場所に避難してもらった」
「お寺は、先祖を供養する大切な場所、静かな環境を守って欲しい」と。  
招き猫物語
江戸時代のこと、浅草吉原の三浦屋抱えの遊女薄雲太夫(うすぐもだゆう)は高尾太夫と全盛を競っていた。遊女と言えば体を売る女性ということになりますが、当時の太夫というのは非常に格式が高く、今のスターのような存在だった。
置屋にも武士、大名、公家などの権力者が盛んに出入りした。その薄雲が大の猫好きで、いつも猫を抱いて道中し、愛猫(あいびょう)のために友禅の布団を作り、緋縮緬(ひちりめん)の首輪には純金の鈴をつけたという。
ところが、その愛猫が化け猫に間違われ、殺されてしまう。悲しんだ薄雲は、吉原をあげての葬式を出し、近くの土手に猫塚を作ってあげた。
ある日、馴染み客の一人、日本橋の唐物屋(からものや)(雑貨屋)の主人は悲しむ薄雲を慰めようと、長崎から伽羅(きゃら)(香木)の名木を取り寄せて、薄雲の愛猫の姿を彫って贈った。
薄雲は大喜びし、その木彫りの猫を片時も離さず、道中の際にも抱いていた。この話はたちまち広まっていった。そこで猫の模造品を作るものがいて、浅草の歳の市で売り出すと大人気となった。
そして、たちまち全国の水商売を営む人々に愛用されるようになったのが「招き猫」の始まりであると「近世江都著聞集」(きんせいこうとちょもんじゅう)に書かれています。
また芸者の異名を「ねこ」と呼ぶのに因んで(ちなんで)、特に花街(はなまち)や飲食店などで「招き猫」が愛用されている。
ちなみに昔からの言い伝えでは、白猫は福を招き、黒猫は病を防ぐ魔除け、右手をあげた猫はお金を招き、左手をあげた猫はお客様を招くといわれています。
今戸神社 縁結び招き猫
東京都台東区浅草の今戸神社の「縁結び招き猫」、向かって右がメス猫、左がオス猫のペアーになっています。この招き猫は男女の恋愛や縁だけに限らず、人間関係全般を円滑にするというご利益もあるそうです。
「今戸神社に伝わる招き猫」の話
江戸末期の話で、浅草に住むある老婆が、貧しさゆえに愛猫を手放したところ、夢枕にその猫が立って言いました。”自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる”と。そこで老婆が横向きで片手を挙げた人形を作り、浅草寺の参道で売り出してみたら大評判だったと・・・。
半七捕物帳 薄雲の碁盤 / 岡本綺堂
ある日、例のごとく半七老人を赤坂の家にたずねると、老人はあたかも近所の碁会所から帰って来た所であった。
「あなたは碁がお好きですか」と、わたしは訊いた。
「いいえ、別に好きという程でもなく、いわゆる髪結床かみゆいどこ将棋のお仲間ですがね」と、半七老人は笑った。「御承知の通りの閑人ひまじんで、からだの始末に困っている。といって、毎日あても無しにぶらぶら出歩いてもいられないので、まあ、暇潰しに出かけると云うだけの事ですよ」
それから糸を引いて、碁や将棋のうわさが出ると、話のうちに老人はこんなことを云い出した。
「あなたは御存じですか。下谷坂本の養玉院という寺を……」
「養玉院……」と、わたしは考えた。「ああ、誰かの葬式で一度行ったことがあります。下谷の豊住町ちょうでしょう」
「そうです、そうです。豊住町というのは明治以後に出来た町名で、江戸時代には御切手町ごぎってちょうと云ったのですが、普通には下谷坂本と呼んでいました。本当の名は金光山大覚寺というのですが、宗対馬守そうつしまのかみの息女養玉院の法名を取って養玉院と云うことになりました。この寺に高尾の碁盤と将棋盤が残っているのを御存じですか」
「知りません」
「吉原の三浦屋はこの寺の檀家であったそうで、その縁故で高尾の碁盤と将棋盤を納めたと云うことになっています。高尾は初代といい、二代目といい、確かなことは判りませんが、ともかくも古い物で、わたくしも一度見たことがあります。今でも寺の什器になっている筈ですから、あなたなぞは一度御覧になってもいいと思います。いや、その碁盤で思い出しましたが、ここに又、薄雲の碁盤というのがありました」
「それも養玉院にあるんですか」
「違います。その碁盤は深川六間堀の柘榴ざくろ伊勢屋という質屋から出たのです」と、老人は説明した。「ところで、その碁盤については怪談めいた由来話が付きまとっているのです。御承知の通り、高尾と薄雲、これが昔から吉原の遊女の代表のように云われていますが、どちらも京町きょうまちの三浦屋の抱妓かかえで、その薄雲は玉という一匹の猫を飼っていました。すると、ある時その猫が何かにじゃれて、床の間に飛びあがったはずみに、そこに置いてある碁盤に爪を引っかけて、横手の金蒔絵に疵を付けました。もちろん大きな疵でもなく、薄雲もふだんからその猫を可愛がっているので、別に叱りもしないで其のままにして置きました」
「碁盤は金蒔絵ですか」
「なにしろ其の頃の花魁おいらんですからね。その碁盤もわたくしは見ましたが、頗る立派なものでした。木地きじは榧かやだそうですが、四方は黒の蝋色で、それに桜と紅葉を金蒔絵にしてある。その蒔絵と木地へかけて小さい爪の跡が残っている。それが玉という猫の爪の痕だそうで……。爪のあとが無かったら猶よかろうと思うと、そうで無い。前にも申す通り、ここに一場の物語ありという訳です。
ある日のこと、薄雲が二階を降りて風呂場へゆくと、かの猫があとから付いて来て離れない。主人と一緒に風呂場へはいろうとするのです。いくら可愛がっている猫でも、猫を連れて風呂へはいるわけにはいかないので、薄雲は叱って追い返そうとしても、猫はなかなか立ち去らない。ふだんと違って、すさまじい形相ぎょうそうで唸りながら、薄雲のあとを追おうとする。これには持て余して人を呼ぶと、三浦屋の主人も奉公人も駈けて来て、無理に猫を引き放そうとしたが、猫はどうしても離れない。
こうなると、猫は気が狂ったのか、さもなければ[#「さもなければ」は底本では「さもなけれは」]薄雲を魅込みこんだのだろうと云うことになって、主人は脇差を持って来て、猫の細首を打ち落とすと、その首は風呂場へ飛び込みました。見ると、風呂場の竹窓のあいだから一匹の大きい蛇が這い降りようとしている。猫の首はその蛇の喉のどに啖くらい付いたので、蛇も堪まらずどさりと落ちる。その頃の吉原は今と違って、周囲に田圃たんぼや草原が多いので、そんな大きな蛇が何処からか這い込んで来たとみえます。猫はそれを知って主人を守ろうとしたのかと、人々も初めて覚ったがもう遅い。薄雲は勿論、ほかの人々も猫の忠義をあわれんで、その死骸を近所の寺へ送って厚く弔ってやりました。
その時に例の碁盤も一緒に添えて、その寺へ納めたのだそうですが、それから百年ほど経って、明和五年四月六日の大火で、よし原廓内は全焼、その近所もだいぶ焼けました。猫を葬った寺もその火事で焼けて、それっきり再建さいこんしないので、寺の名はよく判りません。しかし、どうして持ち出されたのか、その碁盤だけは無事に残っていて、それからそれへと好事家こうずかの手に渡ったのちに、深川六間堀の柘榴伊勢屋という質屋の庫くらに納まっていました。この伊勢屋は旧い店で、暖簾に柘榴を染め出してあるので、普通に柘榴伊勢屋。これにも由来があるのですが、あまり長くなりますから略すことにして、ともかくもこの伊勢屋では先代の頃から薄雲の碁盤というのを持っていました。物好きに買ったのではなく、商売の質流れで自然に引き取ることになったのです。
そこで、養玉院にある高尾の碁盤と将棋盤、これは今日こんにちまで別条無しに保存されているのですが、一方の薄雲の方は大いに別条ありで、それが為にわたくし共もひと汗かくような事件が出来しゅったいしました」
ここまで話して来た以上、どうで聞き流しにする相手でないと覚悟しているらしく、老人はひと息ついて又話しつづけた。
「質屋の庫に鼠は禁物です。質に取った品は預かり物ですから、衣類にしろ、諸道具にしろ、鼠にかじられたりすると面倒ですから、どこの店でも鼠の用心を怠りません。ところが、不思議なことには、例の碁盤を預かって以来、伊勢屋の庫に鼠というものがちっとも出なくなりました。碁盤には猫の爪のあとが残っているばかりでなく、恐らく猫の魂も残っているので、鼠の眷族けんぞくも畏おそれて近寄らないのだろうという噂でした。昔はとかくにこんな怪談めいた噂が伝わったものです。又、そういう因縁付きの品には、不思議に何かの事件が付きまとうものです。
お話は文久三年十一月、あらためて申すまでもありませんが、その頃は幕末の騒がしい最中で、押込みは流行る、辻斬りは流行する。放火つけびは流行る。将軍家は二月に上洛、六月に帰府、十二月には再び上洛の噂がある。猿若町さるわかまちの三芝居も遠慮の意味で、吉例の顔見世狂言を出さない。十一月十五日、きょうは七五三の祝い日だと云うのに、江戸城の本丸から火事が出て、本丸と二の丸が焼ける。こんな始末で世間の人気じんきは甚だ穏かでありません。それに付けても、わたくし共の仕事は忙がしくなるばかりで、今になって考えると、よくもあんなに働けたと思う位です。
その二十三日の朝のことでした。本所竪川たてかわ通り、二つ目の橋のそばに屋敷を構えている六百五十石取りの旗本、小栗昌之助の表門前に、若い女の生首なまくびが晒さらしてありました。女は年ごろ二十二、三で、顔にうす痘痕あばたはあるが垢抜けのしたいい女。どう見ても素人らしくない人相、髪は散らしているので、どんな髷まげに結っていたか判りません。その首は碁盤の上に乗せてありました」
「碁盤……。薄雲の碁盤ですか」と、わたしはすぐに訊き返した。
「そうです。例の薄雲の碁盤です」と、老人はうなずいた。「勿論それと知れたのは後のことで、そのときは何だか判らず、ただ立派な古い碁盤だと思っただけでしたが、なんにしても女の生首を碁盤に乗せて、武家の門前に晒して置くなどは未曾有みぞうの椿事で、世間でおどろくのも無理はありません。それに就いて又いろいろの噂が立ちました。
前にも申す通り、なにぶん血なまぐさい世の中ですから、人間の首も今ほどには珍らしく思われない。現にこの六月頃にも、浪人の首二つが両国橋の際きわに晒されていた事があります。しかし女の首は珍らしい。そこで、この女も何か隠密のような役目を勤めていた為に、幕府方の者に殺されたか、攘夷組に斬られたか、二つに一つだろうという噂が一番有力でしたが、さてどこの者か一向に判りません。
迷惑したのは小栗家で、自分の屋敷の門前に据えてあったのですから、係り合いは逃のがれられません。橋の上にでも晒してあったのならば格別、この屋敷の前に据えてあった以上、なにかの因縁がありそうに思われても仕方がありません。小栗家でもひどく迷惑して、用人の淵辺新八という人がわたくしの所へ駈けて来て、一日も早くこの事件の正体を突き留めてくれという頼みです。用人が来たのは検視その他が済んだ後で、二十三日の夕方でした。
用人の話によると、小栗の屋敷はどこまでも係り合いで、女の首と碁盤とはひとまず其の屋敷の菩提寺、亀戸かめいどの慈作寺に預けることになったと云うのです。まったく関係の無いものなら、飛んだ災難です」
「むかしは武家に首はめでたいと云ったそうですが……」
「ふるい云い伝えに、元禄十四年の正月元旦、永代橋ぎわの大河内という屋敷の玄関に女の生首を置いて行った者がある。屋敷じゅうの者はみんなびっくりすると、主人はおどろかず、たとい女にせよ、歳としの始めに人の首を得たと云うのは、武家の吉兆であると祝って、その首の祠ほこらを建てたという話があります。昔の武家はそんなことを云ったかも知れませんが、後世になってはそうはいきません。縁もない人間の首なぞを押し付けられては、ただただ迷惑に思うばかりです。わたくしもそれを察していたので、自分の縄張り内ではありませんが、なんとかしてやることになりました」
云いかけて、老人は笑った。
「こう云うと、たいそう侠気おとこぎがあるようですが、これをうまく片付けてやれば、屋敷からは相当の礼をくれるに決まっている。時々こういう仕事も無ければ、大勢の子分どもを抱えちゃあいられませんよ」 
・・・
 
小幡小平次の猫

 

小幡小平次 1
江戸時代の怪談に登場する人物で、自分を謀殺した男や、彼と密通していた妻の前に死霊となって現れ、様々な怪異を現した末に取り殺します。小平次怨霊譚の嚆矢とされる『復讐奇談安積沼』に基づいて、物語を紹介します。

小鱃(こはだ)小平次は江戸木挽町の役者・鰻太郎兵衛の弟子で、諸国の田舎芝居に雇われ出て糊口を凌いでいました。味わい深い師の演技に比べると、彼の演技は下手で鱃(このしろ)にも劣る味だとして、このような名で呼ばれていました。一説には山城国宇治郡小幡の里の生まれであるため小幡小平次といったともされます。大根役者ではあっても幽霊芝居にだけは長けていたために、幽霊小平次と呼ぶ者もありました。小平次の先妻は息子の小太郎を産んだ後病死しており、後に迎えた妻お塚は悪女で、継子を虐待するのみならず、小平次の知人で鼓打ちの安達左九郎と密通していました。やがて聡明な小太郎は役者の玉川千之丞に認められ、彼の養子となって小平次夫婦のもとを去ります。
ある時、親の仇である轟雲平(とどろきうんぺい)を捜し求める山井波門(やまのいはもん)、もと安西喜次郎と深い仲になった陸奥挟布里の娘お秋が、悪僧現西(げんざい)に殺害されます。波門はお秋との仲を妬んだ藤六の讒言で下手人の疑いをかけられましたが、代官は彼の人柄から判断して、殺害したのは別人だと推理します。そして真犯人を炙り出すために一計を案じました。夜、住処へ帰ろうとする現西の前に陰火が灯り、暗がりから長い黒髪を乱し、顔は雪より白く、喉笛から血を滴らせて着物を朱に染めた女が現れました。恨み言を述べる幽霊を前にして現西は大いに取り乱し、罪を認めてひたすらに命乞いをします。そのとき代官の下役・星川忠太と鹿角義平が現れて、速やかに現西を捕らえました。幽霊の正体は芝居公演のため当地を訪れていた小平次で、波門の証言により浮かび上がった容疑者現西を自白させるべく、星川と鹿角に扮装を依頼されていたのでした。陰火と見えたのもやはり芝居に使う焼酎火で、小平次迫真の演技が功を奏して現西は死罪、波門は無罪放免となりました。
挟布の里での興行を終えた小平次は、次に安積郡笹川宿での芝居に雇われました。ところが雨天が続いて休演が重なり、酒も好まず囲碁将棋もよく知らない小平次は暇を持て余す羽目になります。賊徒となった兄・雲平と再会を果たした轟右軍太こと安達左九郎は、そんな小平次ほか二、三人を安積の沼という大沼へ釣りに誘いました。これは左九郎がお塚を我が妻とするための姦計で、彼は雲平の手下と共謀して、船から小平次を落として溺死させてしまいます。居合わせた者たちには左九郎の仕業とは思われず、小平次水死は不慮の事故と判断され、更には妖怪の所為と恐れられるまでになって、死体の捜索も早々に打ち切られました。左九郎は江戸のお塚に事の次第を告げるとして一座と別れ、雲平の隠れ家で小平次の骸と対面します。総身泥に染まり、口から赤い泡を吹いた小平次の衣服を探り、奪われないよう襟元に縫い付けられた金五両を取ると、左九郎は「お前は稀代の戯け者だな。妻を俺に盗まれるのみならず、いま俺の策に落ちて見苦しい死に様を晒している。全てお前が愚かであったがゆえ、人を恨むことなかれ。冥土へ行くにはこの金も無用の物なれば、俺に与えて速やかに地獄へ行け。さあ引導を渡してやろう」と言い、死骸の顔に唾を吐きかけました。すると、怪しいことに死骸がむくむくと動きだし、金を持つ左九郎の手首を、氷のように冷たい手で握りしめました。引き離そうとすると、一瞬だけ小平次の目が開かれました。左九郎は恐ろしさのあまり気絶し、雲平はどうしても離れない小平次の手を刀で斬り落とし、腕に食い込んだ指をも一本ずつ切り捨て、ようやくこれをもぎ取りました。
江戸に戻った左九郎はお塚に小平次殺害の経緯を語りましたが、お塚は不審げな様子で「小平次は宿で病となったため人より先に帰り、いたく草臥れたと言って寝床に籠っている」と言います。左九郎が寝床の屏風に手を掛けると、内側からは青く細い手が伸びて押さえ、開かせようとしません。なおも引き開けようとすると、縁にかかる指五本ははらはらと落ちてしまいました。屏風は開けたものの、その中には何者の姿もなく、ただ夜着から陰火が転び出て、引窓を越えて飛び去っていきました。落ちた指は腐って臭気を放っており、先に雲平が斬り落とした小平次の指であるのは明らかです。肝を潰す左九郎とは対照的に、お塚は「こればかりの恨みはあるべきはず」と動じません。追善仏事を済ませた後、左九郎はお塚を妻とし、小平次の家を我が物としました。
しばらく平穏な日々が続き、新年を迎える頃には左九郎も怨恨を忘れつつありました。ある夜、左九郎はお塚と自分の間に挟まって横たわる男の姿を目撃します。何者か見定めようとしている内に姿は消えてしまいますが、左九郎はこれよりお塚の不義を疑い始めます。また別の深夜、酒を飲んで家に帰りついた時、生垣を越えて家に忍び込む者の姿がありました。さては例の間男かと様子を窺っていると、やはり男はお塚と共に臥しています。酒気も手伝って怒り心頭に発した左九郎は、刀を抜いて斬りかかりました。お塚は驚き慌てて刀身を握ってしまい、片手の指を全て失います。間男と見えた者の姿は消え失せてどこにもなく、棟の方でからからと笑う声がするばかりでした。気丈に振る舞っていたお塚も、指を失ってからは心身消耗して狂人となり、重病のために明日の命も危うい状態となりました。百万遍や様々な祈祷を行っても、効験は一切ありません。
ある日、通りすがりのみすぼらしい祝(はふり。神職の一種)が左九郎に向かって「この家には妖気が満ちていて、死霊の祟りがある。汝ら亡ぶること遠からじ、憐れむべきことだ」と告げました。左九郎がひたすらに救いを乞うと、祝は「今日より三十二日間、昼夜戸を閉じ心身清らかにして慎み守らば、九死に一生を得ることもあろう」と教え、神符を与えて去っていきました。その夜の子の刻、「今夜は命を取ってやろうと思っていたのに、憎き奴め、ここに尊き札を貼っている」と恐ろしげな声が聞こえました。更に丑三つの頃になると、窓の紙に赤い光が差し「憎い奴だ、ここにも貼っている」と言う声がします。以後、幽霊は夜毎に家の周囲を巡り、あるいは屋根から叫び声を上げて夫婦を恐れさせました。三十二日目の夜、遂に東の空が白み始め、安堵した左九郎は引窓を開けました。しかし外はいまだ暗く、吹きつけた風と共に陰火が屋内に飛び入り、次いで寝間から悲鳴が聞こえました。駆けつけると既に妻の姿はなく、壁に大量の血、軒に長い髪が残されているのみでした。左九郎は本当に夜が明けてからもお塚を捜し回りましたが、遂にその屍をも見つけることができなかったため、泣く泣く仏事を執り行いました。
お塚の治療や祈祷のために米銭ならびに日用品の類を大方失って、左九郎の生活は立ち行かなくなろうとしていました。そこで彼は盆までこの家で耐えて、妻の新霊を迎えた後には兄を頼って陸奥へ下る決心を固めます。禅僧を呼び入れて経を読んでもらうと、この僧もまた死霊の祟りを指摘し、左九郎の命も三日以内に取られるだろうと告げました。助けを求めたところ、「御身が命にも換え難いと思う宝なくしては術を施せない」との答えが返ってきます。宝として家財道具を売って作った金五両を出すと、僧はこれを紙に包んで術を施し、「これを懐中に収め、三日間物忌みして慎むべし。三日過ぎざるうちにこの包みを開けば術破れて命を失うゆえ、必ずこれを開くことなかれ」と忠告して去りました。左九郎は僧の言いつけを堅く守って三日を無事に過ごし、金を取り出そうと紙の封を切りました。中に入っていたのはなんと偽の金で、左九郎は僧に欺かれたと憤ります。方々頼っても金の工面ができずにいたとき、偶然かの僧に再会した左九郎は、彼を捕らえて厳しく責めたてました。すると僧は大いに怒り、鉄如意で左九郎の胸元を強かに打ちつけました。傍らの池に落ちて泥まみれとなった左九郎がもう一度僧を見れば、なんと彼は先の禅僧とは全くの別人。地に伏してあやまちを詫びるも許されず、僧は如意で続けざまに左九郎を打ち据え、その顔に唾を吐きかけます。往来の人の仲裁で場は収まり、左九郎は甚く打たれて総身に痺れを覚えながら、ようやく家に帰りつきました。
夜になると大いに発熱し、打たれた胸も頻りに痛み、譫言に「俺を水中に引き入れて水を飲ますのは、喉を絞めるのは誰だ、ああ苦しい、もう耐えられない」と叫びつつ、熱い息を苦しげに吐き、手足を溺れ死ぬ者のごとくにばたつかせ、左九郎は虎の刻ごろにとうとう狂死しました。
左九郎、お塚に降りかかった数々の災いは全て死霊の仕業で、この後小平次の物語をする者があれば、必ず怪しいことがあるといわれ、芝居に関わる人々は恐れて口をつぐんだといいます。そして死霊の復讐を受けなかった雲平らも、後には波門との対決に破れて命を落とします。
小平次の魂は安積沼に留まって人々を悩ませましたが、了然禅尼の教化により仏果を得て、祟りをなさなくなりました。沼は後に新田となり、小平次新田と呼ばれるようになったといいます。また、息子の小太郎は長じて優れた役者となっても、実父が悪霊と成り果てたことを深く悲しんでいました。そのため仏道を信じて朝夕数珠を離さず念仏を唱えて暮らし、後には了然禅尼の弟子になったといいます。

『復讐奇談安積沼』 読本。山東京伝作、北尾重政画。享和3(1803)年刊。安西喜次郎こと山井波門の仇討物語を軸に、絵の美男子に懸想した鬘児、役者小幡小平次の怨霊、賊医蒔田翻沖の非道などの諸要素が展開する。
小幡小平次 2
こんな話がございます。
元禄十七年、初代市川團十郎は、舞台上で亡くなりました。市村座での興行中に、杉山半六ト申す役者に刺されたものでございます。二代目を継ぎましたのは、初代の実子、九蔵でございました。
さて、この時代に、名を小幡小平次(こはだ こへいじ)ト申す役者がおりまして。小幡(こばた)と書いて、どうして「こはだ」と読むのかト申しますト。ひとつには故郷である小幡村にちなんだということもございますが。
師匠の名が「鰻太郎兵衛(うなぎ たろうびょうえ)」と申しまして。これは森田座の創始者ともなる当時の名優でございます。対して、弟子の小平次は芝居が非常に下手でございまして。うまい鰻に対して、まずい小鰭(こはだ)ということで、こう呼ばれたそうでございます。
この小幡小平次でございますが、ある女と深い仲になり、妻にいたしました。それが、あろうことか、初代團十郎を刺して処刑された半六の後家、お塚です。ただでさえ芝居のまずい小平次が、文字通り二代目ににらまれることトなりまして。江戸の歌舞伎からは声がかからなくなり、田舎芝居を回って日銭を稼ぐようになりました。
ただ、この小平次には、ひとつ特技と呼べるものがございます。これがために、江戸ではダメでも、田舎からはしょっちゅう声がかかりました。何かト申すに、幽霊役でございます。どれだけ幽霊役がうまかったかと申しますト、こんな逸話がございます。
奥州の南部領に逗留していた時のこと。ある商家の娘が、乞食僧に殺される事件が起きましたが。捕まったのは僧ではなく、恋人の山井波門という男でございました。これは波門に嫉妬した土地の若い衆が偽の証言をしたためで。
代官は真の下手人が乞食僧であることを見抜いている。何とかして証拠を掴みたいと機を狙っております。一方の乞食僧は、女を殺して手に入れた櫛、笄(こうがい)を金に替えようと、家を出た。ト、河原を通りかかったところで、人影に出くわしました。
殺した娘の怨霊でございます。死んだ時そのままの姿で、葦をかき分けて現れますト。
「櫛を返せ。笄を返せ」
ト、恨めしそうに迫ってくる。その凄まじい表情に乞食僧はわなわなと怯えだしまして。震える手で懐から櫛笄を取り出すト、娘の怨霊に投げ返そうとする。ト、そこで役人に捕らえられて御用となりました。
この娘の怨霊こそが、実は小平次で。代官に頼まれて、河原で待ち伏せていたのでございます。小平次はこの功によって、金五両を頂戴しました。
この時、妻のお塚は遠く江戸の長屋で夫の帰りを待っておりましたが。それはあくまでも表向きでございます。お塚には実は姦夫がある。
小平次の芝居仲間の鼓打ち、安達左九郎(あだち さくろう)ト申す、ならず者。この頃は仕事をせずに、小平次の留守宅に亭主づらをして暮らしておりました。
「ねえ、お前さん」
ト、お塚は左九郎をまるで夫のように呼ぶ。
「そろそろ、小平次をやってしまっておくれよ」
杉山半六に團十郎刺殺の凶行をそそのかした――。そんな噂もあるほどの毒婦です。大根役者の夫を殺すくらいは、わけもない。
「そうだな。俺もそろそろかたをつけようとは思っていた」
ト、こちらも相当の悪人で。
左九郎は小平次が安積郡笹川の宿にいると伝え聞きますト。かの地には、賊の頭領をしている雲平(うんぺい)と申す兄がおりますので。この力を借りて、小平次を亡き者にせんと、江戸を出発いたしました。
一方の小平次は、南部領で代官から五両の褒美を頂きましたのち。田舎芝居に誘われて笹川宿に来ておりました。そこへ、久しぶりに現れましたのが、かの悪人、安達左九郎で。
小平次は、まさか朋輩が自分を殺しに来たとは知りませんから。興行主に掛けあって、左九郎を鼓打ちとして雇い入れてもらいました。
ところが笹川宿では、その後、雨の日が続きまして。田舎芝居は文字通り、露天でございますから。興行は数日間、中止の日が続きました。
役者たちはみな、宿の中で暇を持て余しております。近くには安積山(あさかやま)、安積ノ沼、信夫山など、名所がたくさんございますが。旅役者に風流人などございません。毎日、酒を飲み、囲碁将棋を打つなどして、雲の晴れるのを待っている。
小平次は、酒も飲まず囲碁将棋も打ちませんので、退屈で仕方がございません。左九郎は目ざとくその様子を見て取りまして。
「どうだ。小雨になったら、安積ノ沼に釣りにでも行かないか」
ト、小平次を誘いました。小平次は元来釣り好きでございますので。
「よし、行こう。少しの雨くらいなら平気だろう」
ト、すっかり乗り気になりまして。二人は笠と蓑をまとい、弁当と酒を用意して、さっそく安積ノ沼へ出掛けました。
――チョット、一息つきまして。どこまでお話しましたか。そうそう、お塚と密通した左九郎が、小平次を亡き者にしようと安積ノ沼へ誘いだしたところまでで――。
雨のそぼ降る安積ノ沼に舟を漕ぎ出しますト。四方は、安積山が一望できる絶景でございます。あやめ草、かきつばたが咲き誇り、その色が雨のためにより深く見えます。
二人は沼の真ん中に舟を留め、酒を酌み交わしつつ、釣り糸を垂れる。左九郎は徐々に酔ってくる。小平次も気分が良くなって、舌も滑らかになる。
「最近、姿を見なかったが、どこにいたんだい」「俺か。江戸よ」「おや、それじゃあ仕事の方は」「仕事なんざあしねえよ。女の家に転がり込んでたさ」
左九郎は竿を置き、そっと立ち上がる。
「へえ、そうか。どんな女だ」「聞いて驚くなよ。お前の女房だ」
ト言い終わらぬうちに、左九郎は、釣り竿を握っていた小平次の背中をどんと押した。
不意を突かれた小平次は、ドボンと水の中に落ちました。バタバタともがきながら水面に上がってきて、必死に船べりに掴まろうとする。左九郎が櫓を手にして振り上げた時――。水中から何者かに引っ張られた様子で、小平次は勝手に沈んでいきました。
大きな沼に静寂が広がります。やや強くなり始めた雨粒が、沼の水面に当たってポツポツと音を立てている。
突然、ざぶんと大きな水しぶき。ざんばら髪の男が二人、勢い良く水中から現れました。
「死んだよ」「死んだか。死骸はどうした」「水の底に沈んでるよ」「それはいけねえ。あいつは五両の金を着物の襟に縫い付けてる。沈めるのはそれを頂いてからにしなくちゃいけねえ」
左九郎は二人に指示をして、再び水の中へ戻らせる。
この二人の男は、左九郎の兄、雲平の手下でございまして。元海賊をしていたというので、兄が沼に潜ませていたのでございます。泳いで舟の跡をつけ、左九郎が突き落としたのを見計らいますト。水中に潜って、小平次の首を絞めたのでございました。
左九郎は舟を沼のほとりへ引き返しますト。一人で兄の隠れ家へ向かいました。
隠れ家には雲平と手下が数人、左九郎を待っている。
「おお、帰ったか。お客さんは、もう着てるぜ」
ト、雲平が指差したのは、水に濡れた小平次の死骸。隣の間に横たわった姿がのぞいている。
「ずいぶん早いな。しかし、奴ら二人の姿が見えないじゃねえか」
左九郎は妙に思って兄に問う。
「奴らはまだだぜ」「じゃあ、この死骸は誰が運んできたんだよ」「さあ、俺たちが帰ってきたらここに転がっていたんだが」
ト、雲平も怪訝そうに答えます。
「まあ、いい。とりあえず、着物の金を抜き取ろう」
襟を解くと、五両分の一分金がざくざく出てくる。
「へっ。金も女房も、俺が頂いていくぜ」
ペッと、情け容赦もない左九郎は、仏の顔に唾を吐きかける。
するト――。
突然、小平次の死骸がむくむくと起き上がり――。氷のように冷たい手で、金を握った左九郎の手首をがっと掴んだ。
突然のことに、左九郎は慌てふためきまして。小平次の手首を外そうとするが、離れない。自分の腕を引っ張ると、そのまま死骸がついてきて、顔を合わせる形になる。
かっと目を見開いて下手人を睨みつける小平次。左九郎は思わず、ぎゃっと悲鳴を上げました。
その声を聞いて、隣の部屋にいた雲平と手下が駆け込んでくる。左九郎が小平次の死骸に覆い被されて、ほとんど気を失いかけている。雲平も死骸を引き離そうとするが、固まったように離れない。苛立ったあまり、刀を抜いて小平次の手首を斬り落とした。
だが、五本の指が左九郎の手首に食い込んで、やはりまだ離れません。しかたがないので、指を一本一本斬り落としまして。ようやく左九郎の身は自由にはなりましたが。
カッと見開いた死骸の眼差し。腕に食い込んだ指の感触。それらがまだ、左九郎の心から離れようといたしません。
兄の雲平は弟の様を見て、からからと笑いましたが。左九郎はとるものもとりあえず、江戸へ帰って行きました。
小平次の家へ戻ると、左九郎はお塚を外に呼び出しまして。かくかくしかじかト、奥州での一件を話します。すると、お塚はキョトンとした顔をいたしまして。
「小平次なら、さっき帰ってきて、疲れたと言って奥で寝ているよ」「なんだと。そりゃお前、幽霊だよ」
左九郎はお塚の手を引き、おそるおそる家に入っていく。奥の間に入ると、枕屏風が立っている。引き開けようとすると、屏風の内から青白い手首――。屏風を引っ張って、離そうといたしません。
左九郎が意地になって引っ張り返しますト。屏風の端を掴んでいた五本の指が、ぱらぱらと音を立てて落ちました。途端に、屏風が離れて左九郎は尻餅をつく。同時に火の玉が、布団の中から外へ飛び出していった。
落ちた指はたちまち腐って、臭気を放つ。見ると、死んで幾日も経ったような死肉です。
「それでも死んでくれたんだからいいじゃないか」
ト、お塚は度胸が据わっていますから気にしません。左九郎も、それで少しは気が楽になり。以後、二人は夫婦として暮らします。それからは特に異変もなく、半年ばかりが過ぎました。
その年も暮れて、新年を迎えたある晩のこと。二人が奥の間で寝ておりますト。左九郎は、自分とお塚の間に、誰か別の男が寝ているのに気がついた。
「お塚のやつめ。さては俺の寝ている間に、男を連れ込みやがったか」
左九郎はカッと頭に血が上って刀を抜く。お塚がハッと目を覚まして、飛び起きる。思わずその刀を手で握りましたので。五本の指が血を滴らせながら、斬り落とされた。
姦夫と思った男はカラカラと笑いながら姿を消す。その声はまさに小平次の声。
さしものお塚も、この一件ですっかり心神を乱しまして。斬り落とされた五本の指が徐々に腐り始めますト。悶え苦しみながら、やがて息絶えました。
残された左九郎は、すでに小平次の金も使い果たしておりましたので。なけなしの金で弔いを出しましたが。読経に招いた僧が、ふと後ろを振り返りますト。鉄の如意棒で突然、左九郎の腹を打ちました。
周囲の者が駆けつけました時には――。左九郎はまるで溺れた者のように。バタバタと手足を動かしながら。悶え苦しんだ末に、息絶えたと申します。
かの二代目團十郎が、この噂を耳にいたしまして。哀れに思い、小平次のために念仏を唱えておりますト。水に膨れた溺死体風の小平次が、にゅっと背後に現れました。
「小平次。お前、幽霊だけは上手いなあ」
團十郎はそう言って霊を慰めまして。ぐっと得意のにらみを利かせてやりますト。小平次の霊も観念したのか。すっと姿を消したという。
そんなよくあるはなし――。もとい、余苦在話でございます。

山東京伝「復讐奇談安積沼」及ビ、講談「小幡小平次怪談」(桃川如燕口演)ヨリ。歌舞伎「彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし)」(鶴屋南北)、戯曲「生きてゐる小平次」(鈴木泉三郎)ナド、翻案多数  
小幡小平次 3
小はた小平次事實の事 (「耳嚢」巻之九)
こはた小平次といふ事、讀本(よもほん)にもつゞり淨瑠璃に取組(とりくみ)、又は徘諧の附合(つけあひ)などにもなして人口に鱠(くわい)しやすれど、歌舞妓役者なりとはきゝしが其實を知らず。或人其事跡をかたりけるは、右小平次は山城國小幡(こはた)村出生にて、幼年にて父母におくれ、たよるべきものなければ其村長(むらをさ)抔世話をなし養ひけるが、一向兩親の追福(ついふく)のため出家せよと言ひしに隨ひ、小幡村淨土宗光明寺の弟子になり、出家して名は眞州と申けるが、怜悧(れいり)發明いふばかりなく、和尚も是を愛し暫く隨身(ずいじん)しけるが、學問もよろしく、何卒此上諸國を遍歷して出家の行ひもなしたきとねがひければ、金五兩をあたへ其願ひにまかせけるに、江戸表へ出、深川邊に在所者ありければ、是へたよりて暫くありけるに、與風(ふと)呪(まじなひ)祈禱など甚(はなはだ)奇瑞ありてこゝかしこより招きて、後には別段に店(たな)もちて、信仰の者多く金子抔も貯ふる程になりしが、深川茶屋の女子(をなご)に花野(はなの)といへる妓女、眞州が美僧なるを、病(わづら)ふの時加持(かぢ)致(いたし)貰ひ深く執心して、或時口説(くど)けれど、眞州は出家の身、かゝる事思ひよらずといなみけるが、或夜眞州が庵(いほり)へ花野來りて、此願ひ叶へ給はずば死するより外なし、殺し給ふやいかにと、切(せち)になげきし上、一つの香合(かうがふ)を出し、志(こころざし)を見給へと渡しける故、右香合をひらき見すれば、指をおしげなく切りて入置(いれおき)たり。眞州大きに驚き、出家の身いかにいゝ給ふとも、飽(あく)まで落入(おちい)る心なし、さりながら左程(さほど)にの給ふ事なれば、翌夜(あくるよ)來り給へ、得(とく)と考へていづれとか答ふべしとて立別(たちわか)れけるが、かくては不叶(かなはじ)と、其夜手元の調度など取集(とりあつ)め路用の支度して、深川を立退(たちの)き~奈川迄至りしが、或る家に寄(より)て一宿なしけるに、亭主は見覺へたるやうにて、御身いかなればこゝへ來り給ふやと尋(たづね)けるゆゑ、しかじかの事なりとあらましを語りければ、先(まづ)逗留なし給へとて、止置(とめおき)て世話なしけるが、右香合はけがらはしとて、途中にてとり捨(すて)しが不思議に獵師の網にかゝりて、~奈川宿にて子細ありて眞州が手へ戻りしを、亭主聞(きき)て、かく執心の殘りし香合なれば、燒捨(やきす)て厚く吊(とむら)ひ給へといふに隨ひ、讚經供養して一塚(いちづか)の内に埋(うづ)め、心がゝりなしと思ひけるに、或日大山へ參詣の者、彼(かの)家に泊(とまり)、眞州を見て、御身はいかにして爰に居給ふや、彼(かの)花野は亂心して親方の元を立出(たちいで)て、今はいづくへ行けん、行方(ゆくゑ)しらず、最早江戸表へ立歸り給へとて、口々すゝめてともなひ歸り、境町邊の半六といふ者世話をなし、浪人にて渡世なくても濟(すむ)まじとて、茶屋の手傳(てつだひ)、又樂屋の働らきなどなしける。出家にても如何(いかが)とて、げんぞくなさしめけるに、役者抔、御身も役者になり給へとて終に役者になり、初代海老藏といゝし市川柏莚(はくえん)の弟子になり、小幡(こはた)を名乘るもいかゞとて小和田(こわた)小平次といゝしが、男振(おとこぶり)は能(よ)し、藝も相應にして、中よりは上の役者になりしが、樂屋にて博奕(ばくち)致(いたし)候儀有之(これあり)、柏莚破門なしける間、詮方なく田舍芝居へ、半六同道にて下りしに、雨天續きて渡世を休みし日、右半六幷(ならびに)見世物師を渡世とせし穴熊三平連立(つれだち)て獵に出しに、不計(はからず)小平次は海へ落(おち)て水死なせしよし、〔實は花野、境町に小平次、有(ある)事を聞(きき)て尋來(たづねきた)り、夫婦(めをと)となりて有(あり)しが、三平儀(ぎ)深川の時より執心して、半六申合(まうしあひ)て、小平次を海へつきこみ殺しけるが、此事は追(おつ)て顯(あらは)れ吟味有(あり)て、三平半六ともに、御仕置(おしおき)になりしとなり。〕かくて三平半六は江戸へ歸り小平次留守へ來りしに、花野出て、なぜ遲く歸り給ふ、小平次は夜前(やぜん)歸りしといふ故、兩人甚だ不審して、實は小平次は海へ落(おち)、相果(あひはて)しゆゑ、申譯(まうしわけ)もなき仕合(しあはせ)ゆゑ申出(まうしいだ)しかねしと語りければ、妻は誠(まこと)ともせず、兩人も驚き一間(ひとま)を覗きしに、落物抔はありて形なし。其後も小平次に付ては怪敷(あやしき)事度々有(あり)しと也。其餘は聞(きか)ざるゆゑ、こゝにしるさず。享保初(はじめ)よりなかば迄の事に候由。
戲場者爲怪死の事 (「耳嚢」巻之四) 
これにつき三村翁の長文の注あり。曰く「山崎美成海錄、閏六月二日囘向院にて、歌舞伎役者尾上松之助施主にて、直幽指玄居士、俗名こはだ小平次のために施餓鬼をなす、役者ども參詣すときゝて人々群集す、こはだ小平次が傳、未詳、旅芝居をありきし役者也と云。吉田雨岡云、こはだ小平次といへる旅役者、伊豆國に行て芝居せしが、はかばかしきあたりもなく、江戸にかへりて面目なしとて自滅す、友なるものにいふは、わが妻古里にあり、われかく死すと聞かばかなしみにたへざるべし、必我死せし事かたり給ふなと言置て死せり、その友ふるさとにかへりしに、その妻小平次が事をとひしかば、程なく歸るべしとすかし置しが、月日へてかへらねば、その妻いぶかしく思ひて、その事をせめとひし時、まことは死したりといはんとせし時、屋のむねに聲ありて、それをいひきかしてはあしゝといひしとなん、夫より小平次の話をすれば必怪事ありとて、芝居もののことわざに、はなしにもいひ出す事なしといへり。耕書堂説、小平次旅芝居にて、金をたくはへしを、友達知りて、窃に殺して金を奪ひしが、その人もしれざれば、江戸にかへりて、泣々其妻にその事かたりしに、小平次はまさしく昨夜家に歸りて、蚊屋のうちにふせり居れりと云ふ、あやしみて蚊屋の中を見れば、その形をみずといふ。又一説、小平次は、下總國印旛沼にて、市川家三郎といふ者に殺され、沼の中に埋みしといふ、もと密婦の故なりとぞ。」

「海錄」は江戸後期の考証家山崎美成が文政三 (一八二〇) 年六月から天保八(一八三七)年二月まで書き続けた考証随筆。

小幡小平次(こはだこへいじ)は本文のように「こはた小平次」、「小はだ小平次」とも表記し、『江戸時代の伝奇小説や歌舞伎の怪談物に登場する歌舞伎役者。幽霊の役で名をあげた後に殺害され、自分を殺した者のもとへ幽霊となって舞い戻ったという。創作上の人物だが、モデルとなった役者が実在したことが知られている』。
「伝承」の項。『小平次は二代目市川團十郎の時代の江戸の役者だったが、芸が未熟なためになかなか役がつかなかった。小平次の師匠は彼を哀れんで金を握らせ、賄賂を使ってどうにか役を得るようにと言った。ようやく小平次が得たのは、顔が幽霊に似ているとの理由で幽霊役だった。彼はこれを役者人生最後の機会と思い、死人の顔を研究して役作りに努めた。苦労の甲斐あって小平次のつとめる幽霊は評判を呼び、ほかの役はともかくも幽霊だけはうまいということで、「幽霊小平次」と渾名され人気も出始めた。小平次にはお塚という妻がいたが、お塚は愚鈍な小平次に愛想を尽かし、鼓打ちの安達左九郎という男と密通していた。奥州安積郡(現・福島県)への旅興行に出た小平次は、左九郎から釣りに誘われるがままに一緒に安積沼へ行くと、そこで沼に突き落とされて命を落としてしまう。左九郎は、これで邪魔者が消えたとばかり喜んで江戸のお塚のもとへ行くと、そこにはなんと自分が殺したはずの小平次がおり、床に臥せっていた。小平次は死んだ後に幽霊となって江戸へ舞い戻ったのだが、生前あまりにも幽霊を演じることに長けていたために、そこにいる小平次の幽霊は生きていたときの小平次と変わらないものだった。驚きおののく左九郎のもとに、その後も次々に怪異が起きる。左九郎はこれらすべては小平次の亡霊の仕業だと恐れつつ、ついには発狂して死んでしまう。お塚もまた非業の死を遂げた』。
「考証」の項。山崎美成の「海録」『によると、この小幡小平次にはモデルとなった実在の旅芝居役者がおり、その名もこはだ 小平次だったという。彼は芝居が不振だったことを苦に自殺するが、妻を悲しませたくないあまり友人に頼んでその死を隠してもらっていた。やがて不審に思った妻に懇願されて友人が真実を明かそうとしたところ、怪異が起きたという』。『またこれとは別に、実在した小平次の妻も実は市川家三郎という男と密通しており、やはりこの男の手によって下総国(現・千葉県)で印旛沼に沈められて殺されたという説もある。山東京伝はこの説に基いて小平次が沼に突き落とされて水死するという筋書きを考えたのかもしれないと考えられている』。
最後に「小平次の祟り」という項目。『歌舞伎の舞台では、怪談物をやる役者、それも残虐に殺されたり恨みを抱いて死んでいった者の亡霊をつとめる役者は、その亡霊が気を損ねて舞台で悪さをしないように、特に気を遣ってその霊を慰めることで知られている。『東海道四谷怪談』のお岩をつとめる役者は、初日の前と千秋楽の後に必ずお岩の墓に参ったり、また興行中も幕が引くとすぐに帰宅して夜遊びなどはしないといった慣習は、江戸時代の昔から今日にいたるまで少しも変わらない』。『大南北が書いた『彩入御伽艸』や、それを下敷きにした後代の小幡小平次物の芝居の上演にあたっても、それをつとめる役者たちの間では、小平次の話をすると彼が祟って必ず怪事が起こると長く信じられていた。幽霊役はつとめる方も命がけだったのである』。『なお威勢のいい江戸っ子の夏場の決まり文句に「幽霊が怖くってコハダが食えるけぇ!」というものがあったが、これは寿司の小鰭にこの小幡小平次をひっかけたものである』というオチもつく。
「こはだ小平次」譚の型を考証
まず感じるのは、本話が前半と後半で論理上の連続した型を最早失っている点である。投げ捨てた花野の小指が漁師の網に掛かったまではよかろう。それがどうしてまた真州(小平次)の手元に戻ってしまうのか、これ、「実録」を称しながら、ちっとも論理的に記していない(私は訳で何とか辻褄を合わせようと敷衍翻案を試みて見たものの、途中で馬鹿らしくなって投げた)。何より特にひどいのは小平次の溺死のシーンで、割注によって、「実は」花野とめおとだった――「実は」三平なる突然出て来たばっかりの男が昔からずっと花野に執心していた――「実は」半六はグルだった――「実は」小平次の死は事故死ではなく殺人だった――「実は」後日露顕してお裁きを受けて仕置きされた――とくるところである。これはもう、本話が既にして浄瑠璃の全般に感染しているトンデモ展開に対する免疫のキャリア(だから割注のようにトンデモ内容を記しても少しも致命的病状を発して物語が死ぬことがなく、寧ろ、勧善懲悪大団円となるのである)化していることを意味している。
また、この前後の違和感は、実は前半の小平次と後半の彼が、別人のように見えるからでもある。花野の恋慕を頑なに拒絶する清廉な美僧小平次が、美形の役者になった途端に博奕に入れ込み、あっという間に実在した名人市川柏莚から破門され、溺れ死ぬという展開には私には現実味が全く感じられない(早回しの映像を見るように私には寧ろ滑稽でさえある。そこがまた浄瑠璃である訳でもある――尤も、破戒僧の堕落――というコンセプトは、これには、あり得ないが出来たらあって欲しいと我々がどこかで望むところの――背徳的且つ隠微で淫猥な豹変の魅力――が隠れており、それこそがこの話柄の小平次の面白さであるとも言えるかも知れない)。
そうして誰もが一読、この前半部は道成寺や清玄桜姫物の焼き直しであることに気づく。そうした、前半の古浄瑠璃の型と、後半の犯罪仕立ての当代実録風世話物の型が、軋みを起こして正直、変、なのである(これはしかしやはり浄瑠璃一般の自然態でもある)。
怪異が最後の最後まで現われないことも特異である。幽霊画では小平次は美形の役者なればこそ、如何にも迫力も糞もない文弱顔で蚊帳や屏風の向こうから覗き込むのであるが、多くのヴァリアントは、妻に姿を見せるだけ(それも妻一人の伝聞型)、最後のポルターガイストや声の出演(これらがまた如何にも浄瑠璃的歌舞伎的演出)だけという、怪談物としては、これ、すこぶるしょぼいと言わざるを得ない。これ、怪談というよりも――美形ではあるが、根性なしのみじめな男の悲惨小説、いやさ、転落の詩集――であり、最後には何か、妙にべたっとした哀れが残るばかりである(いや、それがこの「こはだ小平次」独特の被虐的怪談の魅力かもしれない)。
今一つの特徴は、その死や殺害がヴァリアントの殆んど総てを通じて常に水(海・沼)に関係している点であろう。そうして、ここには恐らく比較神話学的民俗学的な無意識の深層が隠れていると考えてよい。但し、今それを考察し始めると、この注がエンドレスになりそうなので、まずはここで打ち切りとしたいと思う。最後に一言。根岸自身はこの「実録」を信じてはいなかったのではないかと思われる。もし、相応の真実と考えていたとしれば、割注部の『此事は追て顯れ吟味有て、三平半六ともに、御仕置になりしとなり』という箇所に根岸が反応しないはずはないからである。彼は南町奉行である。そうした事実があるなら、その記録を容易に精査することが出来る立場にあるからである。しかし、彼はそうしたことをした雰囲気は全くない。これはとりもなおさず、彼がこれも結局、作話の類いであると判断した証拠である。

「讀本」江戸後期の小説の一種。絵を主体とした草双紙に対し、「読むことを主とした本」の意に由来する。寛延・宝暦(一七四八年〜一七六四年)頃、上方に興って寛政の改革以後は江戸でも流行を見せ、天保(一八三〇年〜一八四四年)頃までブームが続いた。中国の白話小説の影響を受けており、本邦の史実を素材とした伝奇的傾向が強く、勧善懲悪・因果応報などを軸とし、雅俗折衷文体で記されたものが多い。半紙本五、六冊を一編と成し、口絵・挿絵を伴う。作者としては都賀庭鐘・上田秋成・山東京伝・曲亭馬琴などが著名(三省堂「大辞林」に拠った)。
「淨瑠璃に取組」浄瑠璃の素材としても取り入れられ。ウィキの「小幡小平次」によれば、巷間に伝わる小幡小平次の奇譚が、一つの物語として形を成す最初は、享和三 (一八〇三) 年に江戸で出版された山東庵京伝作・北尾重政画の伝奇小説「復讐奇談安積沼」(ふくしゅうきだんあさかのぬま)をその嚆矢とし、次いで文化五(一八〇八)年閏六月に江戸市村座で四代目鶴屋南北作の「彩入御伽艸」(いろえいりおとぎぞうし)が初演されて、『今日に伝わる小幡小平次のあらましはこの』二作品によって決定的なものとなった、とある。根岸がこれを書こうとした、若しくはその元となった風聞の元はまさに、この記載時一年前に演じられた「彩入御伽艸」によるものであったであろうことが推測される。
「徘諧」底本では「徘」の右に『(俳)』と訂正注する。
「附合」連歌俳諧に於いて長句(五七五)・短句(七七)を付け合わせること。交互に付け連ねてゆくこと。先に出された句を前句、それに付ける句を付句と呼ぶが、そこでは見立てを変えることが要求され、そうした素材として、この「こはだ小平次」の素材やシーンが使われたことを示す。これはまさにちょっとしたシーンのショットを暗示するだけで、誰もが「こはだ小平次」の話を想起出来た、恐ろしいほどに人口に膾炙していたことを如実に示す好例なのである。
「鱠しや」底本では「しや」の右に『(炙)』と注する。膾炙に同じい。
「山城國小幡村」現在の京都府宇治市木幡(こわた)。
「光明寺」底本鈴木氏注には、京都府『綴喜郡宇治田原町岩山』とし、岩波版長谷川氏注も『宇治市隣の宇治田原市岩山。浄土宗』とする(長谷川氏の『宇治田原市』。は宇治田原町の誤りであろう)のであるが、現在、京都府綴喜郡宇治田原町岩山にはそのような寺はない。サイト「納骨堂」の「京都府のお寺一覧」の「綴喜郡」の一覧を見てもそれらしい浄土宗の寺はないのである。一つだけ、気がついたことはある。この宇治田原町岩山から東北東直線五・九キロメートルの地点、山越えをした滋賀県甲賀市信楽町宮尻に、実は浄土宗の光明寺という寺が現存するのである。しかし甲賀郡は古くも近江国であって山城国の現在の宇治田原町岩山に所属していたことはないと思われる。この寺の誤りか? 識者の御教授を乞うものである。
「怜悧發明」頭の働きが優れており、すこぶる賢いさま。聡明利発。
「香合」香盒とも書く。香を入れる蓋のついた容器。木地・漆器・陶磁器などがある。香箱。
「境町」現在の中央区日本橋人形町三丁目。江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋江戸三座の一つ、中村座があった。江戸三座はここと市村座・森田座(後に守田座と改称)。
「半六」偶然か、後に出る市川柏莚の父初代市川団十郎を舞台上で刺殺したのは役者の生島半六という。
「浪人」岩波の長谷川氏注に『一般に失業の者をいう』とある。
「げんぞく」底本では右に『(還俗)』と注する。
「初代海老藏といゝし市川柏莚」「初代海老藏」は誤り。「柏莚」は初代九蔵、二代目海老蔵同二代目市川團十郎(元禄元年(一六八八)年〜宝暦八(一七五八)年)。父(柏莚は長男)であった初代が元禄一七(一七〇四)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺(動機は一説に生島の息子が団十郎から虐待を受けており、生島はそれを恨んでいたとも言われるも真相は不明。ここはウィキの「市川團十郎(初代)」に拠る)されて横死(享年四十五歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。
「落物」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『荷物』。それで採る。
「享保初よりなかば迄の事に候由」本話中で、柏莚の登場とともに、実在した小平次の年代が推測出来る数少ない情報源である。享保は,正徳六・享保元(一七一六)年から享保二十一・元文元(一七三六)年までであるから、一七一六年から享保十三(一七二八)年位が半ばとはなる。柏莚の団十郎襲名は元禄一七(一七〇四)年であるが、未だ十七歳であったから、最下限まで引っ張って享保十三(一七二八)年とすると、柏莚満四十歳となる。
因みに「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年(根岸満七十二歳)であるから、小平次が生きていたのは八十年以前で、残念ながら、根岸の生まれるちょっと前ということになるようである。
 
赤壁大明神

 

赤壁大明神 1
兵庫県加古川市加古川町本町
赤壁大明神 加古川に架かる加古川橋の東詰、そのすぐそばに春日神社の鎮守の森がある。
その境内の片隅、少し木に隠れるようにして真っ赤な壁をした小祠がある。丸亀神社が正式な社名らしいが、その出で立ちから「赤壁大明神」の名で親しまれている。
この小さなお社の壁が赤く塗られているのには、こんな伝説があるからだった・・・
江戸時代の中頃の事、加古川宿に油絞りを生業とする徳蔵という男がいた。
この徳蔵、たいそうな博打好きであった。そんな徳蔵がいつものように船頭村(現 同市米田町船頭)の賭場に向かう途中のこと、徳蔵は一匹の猫を拾った。徳蔵は独り身の寂しさからこの猫を飼うことにし、「たま」と名付けて可愛がっていた。
ある日の事、いつものように徳蔵が博打に明け暮れていた時の事、一緒に懐に入れて連れて行っていた「たま」が、壷の中のサイコロの目が“丁”(偶数)なら両目を閉じ(両目を開けたともいう)、“半”(奇数)なら片方の目を閉じるという仕草をする事を知り、博打好きの徳蔵はこの「たま」の力を借りて一儲けしようと考えた。
そう思うが早いか、早速町外れの辰五郎の家へと行き博打を始めた。
徳蔵は、サイコロが振られる度に懐の「たま」の顔を覗きながら勝ち続け、結局、その場に居合わせた全員の持ち金八十両(現在の金額で約800万円相当)あまりを手にして、大喜びで家路へとついた。
ところが、その時有り金全てを巻き上げられた吉松、吉蔵(吉松、良蔵とも)という兄弟は腹の虫が治まらず、また徳蔵の持っていた大金に目がくらみ、徳蔵の後をつけ、夜陰に乗じて徳蔵を刺し殺してしまった。そして、持っていた金を奪うと、死体を川へ捨ててしまった。
その翌日、変わり果てた姿で川の下流で発見された(一説には川の土手で発見されたともいう)徳蔵の亡骸は、村の人々の手によって自宅へと運ばれた。
はたして、徳蔵の通夜がしめやかに行われていた時の事。徳蔵の可愛がっていた「たま」の声はすれども姿が見えない。しかも、どうやらその声は徳蔵の亡骸の中から聞こえてくるようである。「たま」の声がする度に蝋燭の灯がゆらゆらとくゆれ、殊更薄気味悪さを醸し出していた。
そんなところに、何食わぬ顔をして博打仲間の吉松兄弟が焼香にやってきた。
するとどうしたことか、風も無いのに徳蔵の亡骸に掛けていた着物が捲れ、ついには徳蔵の腕がかわるがわる上下に動き出したではないか。
「これは主人を殺された猫のタタリに違いない」
その場にいた皆が騒ぎ出し、ある者がこの事を名主に告げると、たまたま数日前から当地に逗留していた丸亀(香川県丸亀市)の吉岡儀左衛門という侍が槍を手に徳蔵の家に駆けつけた。
「化け猫め覚悟」とばかりに、儀左衛門が槍を向けると、徳蔵の体から女童(めのわらわ=小さな女の子)程もあろうかという猫が飛び出した。
撫 猫 徳蔵の亡骸に乗り移っていたのは「たま」だったのだ。
「たま」は表へ飛び出すと、そのまま近所の長屋へと逃げ込んで行った。すかさず儀左衛門は「たま」の後を追いかける。そして、長屋の中を縦横無尽に飛び回る「たま」目掛け槍を繰り出した。
確かな手応えがあった。しかし・・・そこには槍で突き抜かれた二人の男が居た。そう、この長屋こそは吉松兄弟の長屋で、儀左衛門の槍にかかったのは通夜から戻った吉松兄弟だったのだ。しかし、その間も無く「たま」も仕留められてしまった・・・
さて、儀左衛門であるが、罪の無い二人を殺めてしまった罪を悔い。自らの腹を切って自決しようとしていたその時、息も絶え絶えの吉松が、二人で徳蔵を殺して金を奪った事を白状したため、それを聞いていた村人達が儀左衛門の自決を押し止めた。
この時の猫の血で、白かった壁は朱(あけ)に染まった・・・
人々は、猫(たま)が主人の仇討ちをしたのだと、この猫の忠義の深さを称えると共に、哀れみ、この猫を手厚く葬り、血に染まった壁とともに小祠を建立して祀った。これが赤壁大明神の起こりだという。
この話は、後世「赤壁大明神の怪猫」という講談となり、その後も何度か映画化された(注)こともあり、広く知られるようになった。
社の前には、「招福 撫猫」と書かれた、眠っている猫が浮き彫りにされた線香立てがある。なんでも、この猫を撫でるとご利益があるそうだ。
国道の喧騒の片隅で、今も「たま」は人々の心の中でしっかりと生き続けている。

1914年「赤壁大明神」(天活)
1918年「赤壁明神」(日活京都)
1920年「赤壁明神」(国活東京)
1938年「怪猫赤壁大明神」(新興京都)
赤壁大明神 2
猫 [タマ] 兵庫県加古川市
江戸時代中頃、加古川宿に徳蔵という油絞りを生業とする男がいた。腕の良い職人だったが、博打好きが災いして貧乏暮らしを続けていた。徳蔵にはタマという飼い猫がおり、いつもこれを懐に入れて博打に出かけていた。徳蔵はあるとき、賽の目が丁の時はタマが両目を閉じ(あるいは開け)、半の時は片目を閉じることに気がついた。徳蔵はタマの合図を利用して大勝ちしたが、同じ長屋に住む吉松、吉蔵の兄弟の金を巻き上げてしまったことで恨みを買い、加古川の土手で殺され、死骸は川へ放り込まれた。タマはそれきり姿を消し、徳蔵の死骸は長屋の人々に発見され、通夜が執り行われることとなった。下手人の兄弟が何食わぬ顔で焼香に来た途端、徳蔵の亡骸にかけていた着物がめくれ上がり、腕が上がったり下がったりし始めた。一同は驚き、名主にこの奇怪な出来事を報せに行った。偶然加古川に滞在中であった丸亀藩士の吉岡儀左衛門はこの話を耳にして、妖怪を退治せんと槍を手に徳蔵宅へ駆けつけた。儀左衛門が起き上がり動き回る徳蔵に槍を向けると、その体から小さな女の子程の大きさの猫が飛び出した。主人の体に乗り移っていた化け猫タマは表へ逃れ、そのまま長屋の内の一軒へ入り込んだ。追って来た儀左衛門は逃げ回るタマに槍を打ち込んだ。確かに手ごたえを感じて見てみれば、槍で刺し貫かれていたのは猫ではなく吉松兄弟だった。間もなくタマも仕留められ、その血で長屋の白い壁は真っ赤に染まった。儀左衛門は兄弟を殺してしまった罪を償うため切腹を図ったが、瀕死の吉松が罪を白状したため、それを聞いた人々が切腹を押しとどめた。人々はタマが主人の仇を討ったのだと噂し、この忠義心ある猫を手厚く葬った。そして、血に染まった壁を使って小祠を建立した。これが赤壁大明神の起こりだという。 ▽講談として人気を博し、大正7年、9年の『赤壁明神』昭和13年『怪猫赤壁大明神』など映画化もされた。 ▽実際の赤壁大明神(赤壁さん)の由来ははっきりとせず、いつしか江戸時代の化け猫話と結びついて語られるようになったものと考えられる。  
赤壁大明神 3
加古川橋の近くまで行っていたのでその橋のたもとににある鎮守の森にある春日神社に寄ってきました、ここには赤壁大明神という化け猫のタマを祀ってある小さいが有名な社があり、『赤壁と言えば加古川』といわれるほどらしい、実際に講談として人気を博し、大正7年、9年の『赤壁明神』昭和13年『怪猫赤壁大明神』など映画化もされております。

江戸時代中頃、加古川宿に徳蔵という油絞りを生業とする男がいた。腕の良い職人だったが、博打好きが災いして貧乏暮らしを続けていた。徳蔵にはタマという飼い猫がおり、いつもこれを懐に入れて博打に出かけていた。徳蔵はあるとき、賽の目が丁の時はタマが両目を閉じ(あるいは開け)、半の時は片目を閉じることに気がついた。徳蔵はタマの合図を利用して大勝ちしたが、同じ長屋に住む吉松、吉蔵の兄弟の金を巻き上げてしまったことで恨みを買い、加古川の土手で殺され、死骸は川へ放り込まれた。タマはそれきり姿を消し、徳蔵の死骸は長屋の人々に発見され、通夜が執り行われることとなった。下手人の兄弟が何食わぬ顔で焼香に来た途端、徳蔵の亡骸にかけていた着物がめくれ上がり、腕が上がったり下がったりし始めた。一同は驚き、名主にこの奇怪な出来事を報せに行った。偶然加古川に滞在中であった丸亀藩士の吉岡儀左衛門はこの話を耳にして、妖怪を退治せんと槍を手に徳蔵宅へ駆けつけた。儀左衛門が起き上がり動き回る徳蔵に槍を向けると、その体から小さな女の子程の大きさの猫が飛び出した。主人の体に乗り移っていた化け猫タマは表へ逃れ、そのまま長屋の内の一軒へ入り込んだ。追って来た儀左衛門は逃げ回るタマに槍を打ち込んだ。確かに手ごたえを感じて見てみれば、槍で刺し貫かれていたのは猫ではなく吉松兄弟だった。間もなくタマも仕留められ、その血で長屋の白い壁は真っ赤に染まった。儀左衛門は兄弟を殺してしまった罪を償うため切腹を図ったが、瀕死の吉松が罪を白状したため、それを聞いた人々が切腹を押しとどめた。人々はタマが主人の仇を討ったのだと噂し、この忠義心ある猫を手厚く葬った。そして、血に染まった壁を使って小祠を建立した。これが赤壁大明神の起こりだという。 
ちなみに赤壁なのは血で染まったからではなく、白壁だと魚が寄り付かないのだそうでタマのために魚が寄り付きやすい赤になっているのだそうです。 
春日神社
武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神 (四神が含祀され一社総殿と言う)
この神社は、文治2年(1186)ごろ、時の雁南庄(がんないしょう)の領主、糟屋有季(かすやありすえ)が奈良本宮の春日大社から分霊を迎えて建立しました。加古川城主糟屋武則(かすやたけのり)は有季の子孫です。境内には赤い壁が印象的な丸亀神社(通称「赤壁さん」)があります。この赤壁には化猫話が伝えられており、映画化もされました。
地元で、「赤壁さん」と親しまれているこの「赤壁大明神」は、大正時代には、「赤壁」と言えば「加古川」と言われるほど、映画や講談に登場してくる有名な社でした。
江戸時代の中頃、加古川宿に徳蔵と言う腕のよい、サイコロの賭博が何より好きで、そのせいで貧乏暮らしを続けておりましたが、「タマ」という猫を飼い、とても可愛がっておりました。ある日のこと、タマを懐に入れて博打場にでかけたところ、妙なことにサイコロの目が丁(偶数)なら両目を閉じ、半(奇数)なら片方の目を閉じるではありませんか。徳蔵はタマの合図で久々に大勝ちをしたその帰り道、徳蔵に有り金すべてを巻き上げられた梅吉、松吉兄弟の待ち伏せに合い、金を奪われ殺されてしまいました。講談の続きは、その後タマが主人徳蔵の仇討ちを果たしますが、無念にも返り討ちに合ったタマの血で真っ赤に染まった壁を使って建立された社が「赤壁大明神」の起こりです。今も、赤壁さん
丸亀稲荷神社 (赤壁稲荷神社) / 宇迦之御魂神
山崎稲荷神社 (御乳母の懐) / 宇迦之御魂神 
地神稲荷大明神 / 宇迦の御魂神

春日神社は加古川大橋東詰南側にある小さな神社ですが源頼朝より加古郡雁南荘の地頭となった糟屋有季が文治2(1186)年頃に春日大社より勧進したのが始まりとされます。関ヶ原の戦いまでこの地の領主を務めることになる糟屋氏は藤原氏を称しているので藤原氏の氏神である春日大社を勧進するのは当然と言えるでしょうか。 
 
所沢の勘七猫

 

勘七猫塚 1
昔、所沢に、勘七という侠客(きょうかく)がいました。女房のおよしは胸の病を長いこと患って いました。
ある日、用事の帰り道に、子供達が、一匹の子猫をいじめているのを見たおよしは、かわいそうに思い、子供達に 小遣い銭を与え子猫をもらい、そっと逃がしてやりました。
それ以来、およしの病気は眼に見えて良くなり、すっかり元気になりました。勘七も、どこのばくち場に行っても いつも勝ちました。おかげで子分も増え「所沢の勘七親分」として近隣では幅が利く身分となりました。
ある時、八王子の安五郎親分の所で、大掛かりなばくち場が開かれ、勘七も子分の常次郎を連れて出かけました。 ところが、この時はどうしたものか、負ける一方で持っていた小(こ)百両(ひゃくりょう)の金や親分から借りた金まで 全部すってしまい、仕方なく、金を取り寄せに、常次郎を所沢へ行かせました。
所沢へ帰った常次郎が勘七の家に行くと、中がいやに騒がしいので、そっと覗いてみました。
すると、首から上が猫になったおよしが、三味線を弾いて歌い、その周りでは、小猫が2、30匹も踊っています。 びっくりした常次郎は、一目散に八王子へ走って勘七にこのことを話しました。
勘七も驚き、大急ぎで所沢へ戻りました。家へ着くと、およしが愛想良く出迎えました。勘七はいきなりドスに手を 掛け「お前はおよしではなく猫だろう。何の恨があって、家にいるんだ。」とどなりつけました。
およしは、決してそんなことは無いと言い張りましたが、常次郎も共に責めたので、遂に正体を現し
「私は、およしさんに助けられた猫です。おかみさんは、とうに亡くなりましたが、そのご恩が忘れられず、 私がなり代わって勘七さんに尽くしてきました。しかし、正体を見破られた以上はここには居られません。覗き見をした 常さんには、七日の中にきっとこのお返しをしますから。」と言って姿を消してしまった。
それから七日目の真夜中、常次郎が突然叫んだ声にびっくりして勘七が飛び起きて見ると、常次郎が喉を食い切られて 死んでいて、側に年老いた大きな猫が舌を噛んで死んでいました。勘七は肝を潰し、たたられては大変と、手厚く葬り、 そこに塚を築いて手厚く供養しました。
勘七猫塚 2
昔、勘七と云うばくち打ちがいました。女房のおよしは癆咳でした。ある日、およしは、近くの神社にお詣りし、帰る途中で子供たちが子猫をいじめているのに出会いました。およしはこどもたちに菓子を買って与え、子猫をたすけて逃がしてやりました。それ以来およしの病気はメキメキよくなり、以前にもまして元気になりました。また勘七の方も、子分もふえ、「所沢の勘七親分」で男を売り、近郷ではばがきく身分になりました。
ある時、勘七は子分の常次郎をつれて、賭場に出掛けました。ところがこのときは落ち目落ち目で負け、持って行った金を全部すってしまいました。やむをえず常次郎を使いに立てて、所沢へ金をとりよせに帰した。
その翌日、常次郎は血相をかえて飛んで来ました。それによると女房のおよしが猫に化けて子猫を十匹ばかり踊らせ、自分は三味線をひいて唄をうたっていたというのです。
勘七は、始めは信じませんでしたが、常次郎があまり熱心に話すので、薄気味悪くなり、賭博をやめて家に急いで帰ることにしました。
しかし、家に帰ると、女房には何の異変もないので、勘七は怒って常次郎をせめました。常次郎はおよしに向かい、「おい姉御、いや化け猫、いい加減で正体を現わせ」と、攻め寄りました。およしは暫らく経ってから、「本当のことをいいましょう。実は私はおよしさんに助けられた猫です。おかみさんはもう亡くなってしまいましたが、おかみさんのご恩が忘れられず、おかみさんに成り代わって勘七さんにつくして来たのです。しかし、常次郎に見破られた以上はもうここにいるわけにはいきません。憎いのは私の正体をしゃべった常次郎だ。七日のうちにキットこの恩返しをするから覚えておいで」と、常次郎をにらみつけてどこともなく姿を消してしまいました。
7日めの真夜中のことでした。常次郎が、突然「ギャツ!」という叫び声をあげたので、勘七が目をさますと、常次郎はすでに咽喉を食い切られて死んでいました。よくみるとその傍には大きな猫が舌をかんで死んでいました。勘七は肝をつぶすとともに、あとあとたたられては大変と塚を建てて、ねんごろに猫の供養をしたそうです。これが今に残る所沢の勘七猫塚の由縁です。
 
麗猫伝説

 

大林宣彦監督の『HOUSE ハウス』(1977) はタイトルどおり館ものであるとともに、吸血鬼ものでもあれば化猫ものでもあったわけですが、その内化猫をあらためて扱ったのが本作品となります。ちなみに本作もまた、館ものでもあるのでここでとりあげることにしましょう。本サイトで見た作品では『怪談佐賀屋敷』(1953)、『怪猫有馬御殿』(1953)、『怪猫岡崎騒動』(1954)などで化猫に扮した入江たか子を迎え、実の娘である入江若葉と二人で一役を演じるだけでなく、『怪猫有馬御殿』のフィルムが劇中で何度か登場します。入江たか子は大林作品では『時をかける少女』(1983)に続く出演で、この後『廃市』(1983)に続投することでしょう。入江若葉は『転校生』(1982)で大林作品に参加、やはり『廃市』はじめいくつもの作品で顔を見ることができます。俳優陣では峰岸徹、佐藤允など大林作品でお馴染みの顔とともに、円谷プロ製作の縁なのでしょうか、山形プロデューサー役で平田昭彦に出会えることには感涙を禁じえますまい。大林の作品で幾度となく美術監督をつとめた薩谷和夫はここでは美術ではなく役者として加わっています(高島監督役)。本作で美術を担当した山口修は後に、萩尾望都の『トーマの心臓』が出発点の『1999年の夏休み』(1988、監督:金子修介)を手がけました。また本作の音楽は大林が作曲、三枝成彰が編曲したとのことです。加えて『転校生』、『時をかける少女』に続き尾道でロケされています。
本作は全23章に細かく区分けされています。「198X年 瀬戸内市」の表示に続いて、四角の枠の中に「遙かなる映画に捧げる悲歌エレジー」そしてタイトルが記される。「第1の章 窓辺の麗人」:制作中の化猫映画を未完のまま残して、30年前に突如引退した伝説の大女優・竜造寺暁子。彼女が隠棲する小島に忍びこんだルポライター立原(峰岸徹)が盗み撮りした写真には、70歳を超えていようはずなのに30年前と何ら変わらぬ姿の暁子(入江若葉)が映っていました。約4分、ここでまず、屋敷が斜め下から部分的に見上げられます。一階の上、三角破風が直交しており双方に窓がある。いずれも灯りがともっています。片方から猫を抱く女が姿を現わします。さて、暁子の島から遠からぬ、瀬戸内市から船で5分という島には「瀬戸内キネマ」の撮影所があります。斜陽に染められていた映画界の起死回生をはかるべく、暁子の写真を見た山形ともう一人のプロデューサー(坊屋三郎)は一計を案じる。二人が試写室で見る未完の映画として『怪猫有馬御殿』が用いられており、小屏風上下反転や毛むくじゃらの腕など幾つかの場面を見ることができます。ただ火の見櫓に登った化猫へ矢を射かける若武者の部分だけ柄本明に差し替えられていました。麦わら帽子に白シャツ、サスペンダー付きズボンの進行係・陽子(風吹ジュン)の恋人で脚本家の志村良平(柄本明)が島にやってきます。自転車を押す陽子と良平が小高い山道に来ると、奥に海峡がくっきり見えます。この構図にはエピローグ近くで再会できることでしょう。また山頂には墓地があり、対岸の山裾に天守らしき櫓がありました。プロデューサーたちと打ちあわせしていたレストランに、暁子、そして彼女とともに引退した水森けんのすけ監督(大泉滉)の姿がありました。暁子は良平にネックレスを渡します。約14分、中央が円柱の螺旋階段が上から見下ろされます。良平がのぼると上に陽子がいました。陽子の部屋なのですが、天井は三角、プランも多角形らしい。住居らしからぬこの部屋は後に何度か映ることでしょう。窓も横長の大きな三角であることが後にわかります。
約16分(放映枠の前振りその他を含めた時間です)、「第2の章 島へ…」:島の外観がマット画で示されます。砂浜の上、左に大きめの小山、右に小さめの小山が並び、双方を橋がつないでいる。左の小山の左端に尖り屋根がのぞいています。なお屋敷の全体は本篇中には登場せず、常に部分的に映るばかりでした。良平はこの島を訪れますが、持参した紅薔薇の束を門をはさんだ水森に叩き返され死神呼ばわりされます。三角破風の窓をとらえたカメラが左上から右下へ、一階をはさんで海に接する石垣が見下ろされます。カメラがさらにめぐると、石垣の手前の方には格子をはめた開口部がありました。中がどうなっているのかとても気になるところです − 後に知れることでしょう。格子のすぐ左で石垣は手前に折れています。ここにいたルポライターと良平を開口部の中からカメラがとらえる。
約22分、「第3の章 傷ましき輝きの日々」:プロデューサー二人と再訪する。館で脚本を仕上げる条件で面会を許されます。約28分、「第4の章 海の恋人たち」:日をあらためて門から入り坂を登ると、屋敷が下から見上げられる。玄関のある一階より小さくなって二階、その上に屋根がのる。先に三角と見えましたが台形でした。破風には窓があります。引き戸の玄関扉を開けると土間で、あがった先は日本間です。さほど深くなく突きあたりとなる。なお上がり口右寄りに衝立が置いてあるのですが、そこに描かれた黒猫の図柄に見覚えがあると、「シャ・ノワール」で検索してみれば、スタンランのポスターでした。ただ画像検索で見るかぎりで、文字の位置の違うヴァージョンがあるらしい。細かい資料が手もとにないので委細はわからないのですが、本作で映ったのは上に大きく"PROCHAINEMENT"(近日中)、猫の頭のすぐ右に"CHAT"(猫)と記された、下のおまけでの左の図柄にあたります。なお同じポスターは、後に出てくる暁子の部屋にもありました。さて、古城映画的見せ場前哨戦です。幅の狭い暗い廊下が奥へ伸びています。天井は左下がりです。奥の右から光が射している。突きあたりには障子が見えます。後に奥が玄関にあたることがわかるでしょう。廊下を手前へ進みます。手前右に上への階段がありました。180度折れて奥の方へ上がっています。踊り場でまた180度折れていました。階段をあがると、すぐ左に扉があり、ここを開くとまたのぼり階段です。その先が屋根裏部屋でした。壁も斜めになっています。また出窓のすぐ外に破風の軒が見えます。
約33分、「第5の章 許されざる人々」:ルポライターが電車の高架下の細いトンネルを抜けると、すぐ線路沿いにのぼり階段があります。俯瞰でした。細い路地と坂からなる町です。井戸もあります。尾道でのロケなのでしょう。先立つ『転校生』と『時をかける少女』、また続く『さびしんぼう』(1985)や『ふたり』(1991)などで大林が、生地尾道を迷宮の相のもとに定着したことはファンにはお馴染みかと思われます。理容店に高島監督を訪ね、30年前にもう一人、俳優の田沼譲治も引退したことを聞きます。理容店の脇には?光寺との石碑が建っていました。
約39分、「第6の章 誘惑」:手前にピアノを弾く水森、奥に暁子と良平が坐っているのですが、両者の間には上下差があり、また距離が飛躍しているように見えます。この構図は後にもう1度登場することでしょう。本作には高低差を設けた視角が何かと見受けられるようです。暁子の部屋の扉を室内から床の高さのカメラがとらえます。扉の右にはまたシャ・ノワールのポスター、その手前の床にこちら向きの黒猫がいました。良平を暁子の手が猫招きする。
約42分、「第7の章 回想 1」:水森が手回し映写機で『怪猫有馬御殿』を一人見ています。30年前のパーティーの夜、譲治(柄本明の二役)はハリウッドに呼ばれたと別れを告げる。グレタ・ガルボと共演するそうです。柄本明は冷たい台詞がよく似合います。撮影用のΩ型の矢で彼を暁子は刺してしまいます。
約46分、「第8の章 時の輪舞」:手前に水森の背が肩から上で、ずっと先に低く、暁子と良平が砂州で戯れていました。二人を船の上のカメラが、右から左へと回りこんでとらえます。けっこう速度があるように見える。一方ぐねぐねとした山道を自転車の陽子が進みます。
約50分、「第9の章 ふたつの愛」:屋根裏部屋の外では雨が降り雷が鳴っています。中間報告のため良平が島を離れます。手前に背を向けた水森、谷のような低い所をはさんで向こうに岩山があり、階段が刻まれていました。そこを暁子が下ります。向こうと手前はお椀状につながっていました。
約51分、「第10の章 回想 2」:高台に水森と暁子がいます。画面中央を円状にカラー、周囲は青みがかったモノクロです。暁子が振りかえると年老いた姿(入江たか子)に変わる。奥に破風がのぞきます。全面モノクロになる。
約52分、「第11の章 帰還」:キネマに来た良平はやつれています。また暁子の元に戻ってしまう。廊下の右奥から暁子が出てきて、手前へ進みます。左手は障子でしょうか。奥の突きあたりは襖でした。切り替わると玄関に右奥から出てきます。暁子と良平は暗い階段をのぼります。
約55分、「第12の章 回想 3」:30年の「夢から醒めてしまった」と語る老いた暁子のアップ。入江たか子がすばらしい存在感を発しています。
約58分、「第13の章 復活」:手前にピアノを弾く水森、前と同じ構図ですが今回は昼間で、奥は庭に面した縁側のようです。水森は庭に出る。死んだはずの暁子が猫を抱いて屋根裏部屋の窓に現われます。
約1時間、「第14の章 別れの微笑」:陽子がルポライターに良平の様子を確かめてくれと頼みます。約1時間3分、「第15の章 夜の媚薬」:良平の昔の脚本を読む陽子の姿と交互に、暁子がまた猫招きします。
約1時間6分、「第16の章 潜入」:陽子が島に忍びこみます。以前出てきた石垣の格子から中に入る。約1時間7分、「第17の章 邂逅」:格子の中にはのぼり階段があり、10数段ほどでしょうか、すぐに庭の一角へ出ます。水森に見つかってしまう。向かいに縁側があり、しかし、そこに立つ猫を抱いた暁子が陽子を招きいれます。階段が上から見下ろされます。下・奥の踊り場の白壁にのぼってくる人影が落ちる。光は下から射しています。暁子でした。陽子が続きます。曲がって上へ、カメラは右から左に振られる。暗がりをはさんでガラス戸を開け、中の階段をのぼる暁子の背、ついで陽子が見上げられます。屋根裏部屋では引きでとらえられる。
約1時間10分、「第18の章 眠りへの誘い」:庭で4人が食事します。左上から下への瓦屋根、それに右上への瓦屋根が交わっているさまが俯瞰される。その間・下が方形の庭で、向こうは下方に海、島も見えます。庭の角あたりにテーブルが配されています。薬を盛られた陽子が眠ると画面は夜のように暗くなる。古城映画的山場の始まりであります。水森は彼女を抱えて運びます。突きあたりは障子です。右奥から出てきて手前へ、角を曲がって左奥へ進みます。低い位置のカメラは右から左へ振られる。先に扉口がありました。一段おります。階段が上から見下ろされます。屋外です。屋根と手すりがついている。いつの間にか昼間に戻っています。下では左に一部割れた広いガラス窓が見えます。壁は茶色い。屋敷部分とはあきらかに異なる、廃校か何かでロケされたようです。約1時間13分、「第19の章 悲しみの真昼」:階段をのぼってきます。切り替わると下から見上げられる。上に屋根付きの門状のものが見えます。屋根を渡したらしき二つの棟の間を通りぬけ、食堂だか調理室に入ります。広いテーブルの上は皿だらけです。左奥から入って角を折れ右奥に向かう。扉口がありました。右に窓のある部屋のベッドに陽子を放りだします。窓の外、下方に木立がのぞき、その向こうは海でしょうか。水森は手にした鞭で陽子を打ちすえ、追いかけ回します。食事の際着替えさせられた白いドレスがはだけます。マリオ・バーヴァをもじった「馬場毬男」なるペン・ネームを考えたことがあるという大林宣彦のこと(『A MOVIE・大林宣彦』)、『白い肌に狂う鞭』(1963)が参照されてでもいるのでしょうか。廊下に出て、また別の部屋へ、しかし「あなたを思い続けて40年。私を汚してしまった」と水森はくずおれます。屋根付き屋外階段が下から見上げられ、陽子が駈けおりてきます。
約1時間16分、「第20の章 罪深き視線」:陽子は奥の扉から出てきて、手前で曲がり右奥へ、低いカメラが左から右に振られます。奥はすぐに障子で左へ入る。半円アーチ状の障子戸の中には映写機がいくつもありました。倒れたルポライターを見つけます。口からフィルムを回している。右奥にスクリーンがあります。仰角です。円の中に何やら映っていると思ったら、猫じゃらしする入江たか子の映像でした。奥へ伸びる廊下を陽子が進んできます。右は縁側、左は襖です。手持ちカメラが前方で後退する。手前を右へ、のぼり階段でした。のぼるさまが下から見上げられます。あがった先の扉を開きます。壁に大正風の絵が掛かっている。暁子の部屋でした。良平と睦みあう暁子は、若い姿と老いた姿に明滅するのでした。階段が斜め下から見上げられ、陽子が駈けおります。左へ曲がる。広い畳の間でした。三方を囲む障子は青く染まっています。ここに駆けこんだ陽子を、障子の外から映される未完のフィルムが追い回します。空飛ぶ生首の場面も欠いてはいません。廊下で水森が手持ちの映写機を回していたのです。フィルムが途切れると白い方形が映ります。化猫化した暁子も登場します。なお右に背をそらし気味でおそらく歌っている女性、向かいあって左にピアノを弾くおそらく女性を描いた小額絵がありました。何かネタがあるのでしょうか?陽子は障子を破って庭へ飛びだす。
約1時間21分、「第21の章 脱出」:陽子がボートで去る姿を窓から猫を抱いた暁子と水森が屋根裏部屋の窓から眺めます。一方撮影所にピンチヒッターの監督(佐藤允)が到着する。約1時間24分、「第22の章 追憶・絶望」:シナリオが完成したと良平が別れの言葉を告げます。二人はいつの間にか時代劇風の衣裳になっている。青い照明のもと、三方障子の畳の間で猫じゃらしが行なわれるも障子を突き破って庭へ、30年前の悲劇が再現されてしまう。モノローグで入江たか子と若葉の声が重なります。
約1時間30分、「第23の章 大団円」:陽子の報でマスコミ勢が島に押し寄せます。崖の狭い階段をあがり、180度曲がって坂らしき所をのぼる。かなり高い位置にカメラを配した俯瞰でした。水森は暁子が10ヶ月前に亡くなっていたことを告げます。二人の亡骸にカメラを向けるマスコミ勢に「カメラ、スタンバイ?よーい、スタート!」と合図する。一方麦藁帽子と白シャツはそのまま、それまでのズボン姿からスカートに替えた陽子は、いつもの山道で黒猫を拾うのでした。始めの方に出てきた山上とそこからの俯瞰の構図が再現されます。
商業映画第一作だった『HOUSE』以後、大林宣彦は『瞳の中の訪問者』(1977)、『ふりむけば愛』(1978)、『金田一耕助の冒険』(1979)、『ねらわれた学園』(1981)、『転校生』(1982)、『可愛い悪魔』(1982/8/10TV放映)、『時をかける少女』(1983)と監督してきましたが、本作は脚本が『HOUSE』と同じ桂千穂で、人里離れた屋敷を舞台に、失なわれた恋人を死してなお、猫とともに待ち続ける女性という設定も共通しています。そのため無念の死を遂げた飼い主の仇を変化した飼い猫が遂げるという、伝統的な化猫ものとは趣を異にしている。他方『HOUSE』では待ち人不在のまま、男性を排除した女性だけによる永遠の待機にあり、だからこそ狂躁的な夢の様相を維持しえたのに対し、本作では永遠の女性のかたわらに男性が付き従うのみならず、不在であるべき待ち人も現われてしまいます。こじつければ『HOUSE』の後日譚と見なすこともできるでしょう。夢は現実によって引き裂かれざるをえないとして、しかしここにはまた、大林の作品にしばしば現われる、映画製作、とりわけその黄金時代への郷愁と憧憬が重ねあわされています。この点では志村三代子論文が言及するように『サンセット大通り』(1950、監督:ビリー・ワイルダー)が参照されているのでしょう。『サンセット大通り』のラストでヒロインが夢の中に戻っていったように、本作でも水森監督の合図によって夢=映画は回帰する。加えてこちらは『亡霊怪猫屋敷』(1958)同様、エピローグで陽子が猫を拾いあげる点も、夢が引き継がれたことを暗示していると深読みできるかもしれません(ただし『亡霊怪猫屋敷』ではエピローグでヒロインはそれまでの和装から洋装へと変わりましたが、本作ではズボンからスカートへとなります)。とまれ本作で夢と映画の交錯を保証したのは、孤島の屋敷、廊下と屋根裏への階段、屋敷に接続しているという設定の廃校への階段とその廊下にほかなりますまい。 
 
三春藩三代藩主・秋田輝季

 

輝季時代の出来事として重要だったのが、輝季の後継者問題でした。この件は、「三春化け猫騒動」として、多少ご存知の方もいらっしゃると思います。
秋田輝季には、12人の子どもがいました。男の子は7人で、彼らが無事成長していれば後継者問題は起きなかったのです。ところが、輝季の子どもは次々と病死し、成人に達した男子は長男広季(ひろすえ)(後就季(なりすえ))ただ一人だけだったのです。しかし、この広季も、父輝季より早く、45歳で亡くなってしまいました。また、広季には4人の子どもがおり、うち二人が男子でしたが、これも幼くして亡くなったため、輝季の後継者は一人もいなくなってしまったのです。広季死去の時、輝季は65歳くらいでした。これから後継ぎをもうけるのは難しいため、結局養子を得ることにしたのです。なお、次々と世継ぎの男子が死んだことが、後に「化け猫騒動」という話を生み出す原因になったのですが、これを「伝説」とするのは間違いです。
「化け猫騒動」はみなさんのご存知のとおり、佐賀藩で起こった藩主相続問題をモデルにした話ですが、この話も「伝説」ではなく、江戸時代後期に歌舞伎などで上演されて流布したものです。三春の「化け猫騒動」も、こうした歌舞伎を参考に創作されたもので、なんの根拠もない話だったのです。
輝季の後継者問題は、分家秋田家の当主秋田季侶(すえとも)を養子として迎えることで決着しましたが、この季侶が実は三春藩士荒木玄蕃の子どもだったため、後に藩内を二分する騒動になりました。輝季は享保5(1720)年に死去し、法名は乾元院殿前信州大守剛山瑞陽大居士、墓所は高乾院にあります。また、輝季の死により秋田氏の直系は絶えてしまったのです(広季の娘が頼季の正室となっていますが、血縁関係は次へつながりませんでした)。
三春の化け猫 1
大町の浄土宗引接山紫雲寺、戦国期創設の浄土宗の古刹である、その境内に、三春の歴史を見続ける梅の古木があります。
三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。
正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました、しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。
今も紫雲寺に、残る滋野多兵衛の墓には、猫の怨霊に苦しめられた荒木が、槍で突いたという傷がのこっています、又境内の白梅は紅梅に変わり、猫の怨霊は、約七十年後の「天明の大火」の時再び登場する。
享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。
天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城天守を炎上させました、その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。
消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かった
真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。
火勢は、ちょうどその場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。
この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいます。
「腹切り梅」の伝説は、荒木玄蕃が、我が子頼季を藩主の座に就けようと広季公の命をねらい、それに気がついた広季公護役の滋野某を無実の罪に追い込み、大町の紫雲寺境内白老梅にて切腹させました、このときいらい白梅は紅梅となったと言う話です。
「三春化け猫騒動」の伝説は、切腹した滋野某の飼い猫が、紫雲寺の切腹場に現れたところを、腹を切り息も絶え絶えの滋野某が、その猫の首を刎ね、「自分の代わりに化けて恨みを晴らせ」と言い残して絶命しました、それ以来家老荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来三春の大火の度に猫の怨霊が火を点けて空を駆け回ったと言う話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。
現在でも三春では猫の出し物の演芸が行われていません。
三春の化け猫 2
近世正徳期から享保期、三春藩(福島県三春町)で、お家騒動があった。野望と忠義の狭間で何が生まれたのだろうか。
奥州三春藩の三代藩主秋田信濃守輝季が六十六歳となった正徳五(一七一五)年、三春藩にお家騒動が起こった。原因は輝季の嫡男就季が、父より先に四十五歳で急逝してしまったことであり、就季の二男児が早世して二女子のみが残されたことにあった。つまり就季死去後、家督を継ぐべき男子のすべてが絶えてしまった、ということからである。
そこで宗家を継ぐ者として、次の二家が考えられた。
第一は、五千石秋田家である。
五千石秋田家は、三春初代藩主秋田河内守俊季の次男の季久が、父の遺領を分封されたもので、この時期は三代目の季成が継いでいた。
第二は、旗本秋田家である。
旗本秋田家はやはり初代藩主の弟季信を祖とし、四代季豊まで続いていたが、宝永三(一七〇六)年、季豊が終わりに臨んで、遠縁に当たり、尚かつ三春藩家老である荒木内匠の子の季侶を末期養子としていた。
この季侶を推す荒木と季成を推す側との確執が、『三春化け猫騒動』という伝説となって現在まで語り継がれている。ただしこの騒動話には、忠臣として実在の人物である滋野多兵衛が出て来るが、この人物が歴史上この事件にどう関与したかは、不明である。
三春町史より、この化け猫騒動の一部を抜粋すれば、次の通りである。
「正徳のころ、後継を残さずして逝去した藩主がいた。かろうじて世継ぎとなりうる幼君がいたが、当時藩の権力者であった家老荒木内匠は、この機にわが子を藩主に据えようと日夜画策していた。しかし、滋野多兵衛にその野望を阻まれ、幼君毒殺の隙すらなかった。やがて滋野は荒木によって無実の罪を着せられ、紫雲寺で切腹させられることとなる。そして、切腹の場にいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を達した荒木に祟るようになり、荒木の家は末代まで苦しめられたという……」
この争いの結果として、荒木の子の季侶が三春藩四代藩主秋田信濃守頼季となり、その家系が幕末まで続くことになるのであるが、『化け猫騒動』で悪家老として指弾されたにもかかわらず、その荒木の子孫が藩主となって続いていったことに、歴史の不思議さが感じられる。
そしてこの騒動の残り火が、十七年後の享保十四(一七二七)年に再燃する。三春町史ではこの事件を『享保事件』とし、前段の事件を『正徳事件』と分割して記述している。そしてこの享保に起きた事件が公儀の知るところとなり、幕府の老中や大目付、類属の若狭小浜藩主・酒井雅楽頭(室輝季女)や秋元但馬守(女就季室)果ては親族、藩士を巻き込んだあげく、結果として藩主頼季の閉門、家老荒木の蟄居という結末になってしまったのである。ともあれこの二つの事件は関連して起こっているので、一つのものと考えても良いと思われる。
なお、滋野多兵衛が切腹した場所と伝えられる紫雲寺の境内の梅の木は、『はらきり梅』として知られている。そしてもう一つ、いつの時代にかは不明であるが、この荒木家の墓地が誰かに荒らされたままになっている。これは、何を意味しているのであろうか?
そしてさらにもう一つ、ある墓地の一隅にある墓石に穴が通っており、その後ろの墓石にも穴があるのである。それは荒木が化け猫を追って槍を振るい、猫を刺した跡が墓石に残されたものと伝えられている。  
 
三春の化け猫

 

 はかりごと

 

■1
「ううっ!」
お毒味役の滋野多兵衛(しげのたへい)は、己が煮物の茶碗を庭に投げ捨てた。鈍い音とともに茶碗が割れ、中の具が飛び散った。
「何をしておる、多兵衛! 若君の面前で、無礼であろう!」
お付きのイシが、声を荒げた。
「妙な味が致しまする!」
多兵衛は、平伏をしながら腕で半歩ほど身体を押し下げると、そのまま立ち上がり、部屋の外へ走り去って行った。
「多兵衛も大仰な!」
そう強(きつ)く言うと、呆然としている季成(すえなり)の顔を見た。
女中が二、三人、慌てて入ってくると、季成と多兵衛の膳を取り片づけた。そして、その部屋を出た途端に、女たちの甲高い悲鳴が聞こえ、膳を取り落とす物音が続いた。
「タマが! タマが!」
というけたたましい声が聞こえた。
イシは、思わず腰を浮かす季成を目で制すると、廊下に出た。先ほどの女中たちが立ちすくみ、庭石のあたりを恐ろしげに凝視していた。そこには、白い子猫のタマがカッと目を剥き、泡を噴いて倒れていた。
そこへ足音も荒く戻ってきた多兵衛は、大声で叫んだ。
「医者を呼べ! 良庵殿を呼べ! 猫を調べさせねばならぬ!」
その場でイシは、凍り付いたように、立ちすくんでいた。
ここ奥州三春藩(福島県)・秋田氏は、慶長七(一六〇二)年、常陸の佐竹氏と入れ替えの形で秋田藩より宍戸藩(茨城県)に入り、正保二(一六四五)年には更に三春に移封になったものである。
三春に移封後二代目の秋田盛季(もりすえ)は、その祖父に当たる宍戸藩主秋田実季(さねすえ)の母が織田信長の妹の娘であり、かつ二代将軍・徳川秀忠の夫人とは従姉妹(いとこ)という関係もあって譜代の列に加えられ、さらにその由をもって大阪城勤番を勤めていた。
延宝四(一六七六)年、盛季が大阪城中で倒れたとの知らせを受けるや、二十七才であった三代目の秋田輝季(てるすえ)はすぐさま上阪したが時すでに遅く、父の最後に間に合うことにはならなかった。輝季はそのまま家督相続を許され、大阪城勤番として大阪城に残りながら、三春藩主となった。
しかし輝季の時代になると、どうしても徳川家との縁が薄くなるのはやむを得ないことであった。
———なんとか父の代まで持ちこたえてきた譜代の栄誉を、我が代で失う訳には参らぬ。
この思いは、強かった。そのためにも、まず藩内の結束を固め、そして経済的にも確固としたものを必要としていた。輝季は、宍戸由来の荒木高宅(たかいえ)を三春藩・筆頭御年寄に任じた。
宍戸由来とは、秋田家が宍戸藩に入ってからの家臣たちで、これに対して、秋田藩の時代以来より忠誠を尽くしてきた家臣たちを、秋田由来と呼んでいた。それであるから表面的にはともかく、秋田由来は宍戸由来を、新参者として見下していた。この輝季による高宅への厚志は、秋田由来の気持ちを逆なですることになってしまった。そのためにこの両者の間に、微妙な対立感を、人知れず育てはじめていたのである。
天和一(一六八一)年、輝季は越後高田騒動に当たって、その中心人物である小栗美作守正矩の兄・本多不伯を城下に預かり、さらに高田城在番を命じられて出張した。幕府からの命令は自分に対する信認と考え、これを忠実に実行することが、幕府での地位の確保の手段であると思っていた。だから出費の多寡は、これを問わなかった。
ところが翌年七月、三春藩江戸上屋敷に落雷があり、十一月には、中屋敷が焼失する火事があった。それらの復興に力を注いでいたさらに二年後、三春藩上屋敷より出火してしまった。幸い小火で済んだが、輝季は左遷を恐れて肝を潰した。しかしその罰は、当分の遠慮だけで済んだ。それであるから息子の就季が元服をし、その暮れに従五位下伊豆守に叙任されたことで、とりあえず輝季は、その不安から解放されることが出来た。
元禄一(一六八八)年十一月、就季は甲斐国の谷村城主・秋元蕎朝の娘を妻に迎え、さらに元禄三年、元禄五年と三春へ下向することで、輝季後継の地位を固めつつあった。しかし輝季の妻の急死後、後妻となった実家の佐塚氏が次第に力を得ていた。しかし一方で藩内の他の旗頭である荒木高宅の子、荒木玄蕃高村は、英季の子の季通の娘・フヨを妻に迎え、藩主類属と縁戚関係を強化することにより、藩内において秋田由来と肩を並べ、次第に頭角を現していた。つまり、家老職に就任し、藩内において絶対的な権威を得ようとしていたのである。
この頃、城下では不作が続いていた。あげくに元禄八年、江戸では四谷伝馬町より出火して、芝の海あたりまで焼失する大火があった。三春藩はまた中屋敷を類焼し、この再建のため、財政が逼迫した。
元禄十一(一六九八)年、輝季は、下総・古河藩の浪人・赤松政徳を招請して大郡代に任じ、財政改革にあたらせた。古河藩での実績を、見込んだのである。しかしそれでも、遅々として進まぬ財政改革の進捗状況を不満とした就季は、佐塚実邦を御年寄に抜擢したことで、就季・佐塚派・秋田由来と、輝季・荒木派・宍戸由来との対立となってしまった。この間にも、またまた江戸の中屋敷が火災で類焼をし、その上、十日とたたずに、上屋敷が大地震で大破した。続いて国元では、旱魃となり雨ごい祈祷などが行われていた。凶作であった。
宝永三(一七〇六)年、荒木高村の息子の季侶(すえとも)が、十一才で、旗本秋田家・季豊の末期養子となった。季侶は、旗本秋田家の当主となったのである。この養子になるについては、輝季の一方ならぬ後押しがあった。
江戸・愛宕下の上屋敷の普請を終えた年、就季の妻が死去した。さらに翌年、義母の輝季夫人が没っすると、輝季派の荒木氏と就季派の佐塚氏とが藩政において並立することになった。このために、藩内分裂が、表面化することになったのである。
このような中で三春新田藩の秋田季品(すえかず)は、ひたすら中立を守っていた。
正徳一(一七一一)年、季成は十五才で三春新田藩を相続、翌年には六代将軍・家宣に、初見を得た。この頃三春藩は、幕府の命令で、三河国の吉田橋架橋工事をはじめていた。難工事であった。
これらの度重なる災害と工事、そしてこれにともなう財政逼迫は、輝季と就季親子の対立を生み、荒木氏と佐塚氏との抗争に発展していった。この抗争こそが、輝季が就季に家督の相続をすることに、ためらいを持たせていたのである。  
■2
毒殺されかけた季成は、十七才になったばかりであった。
「殿、これは大分強い毒でございました」
良庵は、難しい顔をしている輝季にそう言うと、白い髭に触れながら多兵衛に向きを変えた。
ここは三春藩主・輝季の部屋である。
「で、滋野殿、あれはどのような味であったかの?」
良庵の問いに、多兵衛はかしこまって答えた。
「はい。渋いというか、苦いというか・・・、薄くはありましたが、とにかく刺激のある味でございました」
「うーむ。やはり毒は、石見銀山かのう・・・」
良庵は、腕を組んだ。
「石見銀山・・・? なぜ、それが・・・」
多兵衛はそう言って、絶句した。
石見銀山とは、石見国大森の銀山採掘の際に出るヒ石から産出された殺鼠剤で、「石見銀山猫いらず」と言われ、毒薬としても使われていた。
「それにしても季成殿が無事であったは、なによりであった。それに多兵衛、お主も無事でよかった。しかし猫が猫入らずを食っておかしくなるとは、冗談にもならぬわ!」
と家老の荒木高村が、吐き捨てるように言った。タマは、就季の娘たちが可愛がっていた子猫ということもあって、しばらく、沈黙が続いた。
「ところで多兵衛。お主何ゆえ、すぐに毒と分ったのかの?」
高村が、気まずさを隠すかのように尋ねた。
その高村は、四十才を過ぎたばかりの、男盛りであった。
「はい。手前、お毒味の習慣として、先ず色を見まする。いつもとは若干、違うやに思われました。そこで注意をしてすぐには嚥下せず、味を見ましたところ、舌先にて痺れなどの異常を感じ、すぐ台所に走り口中をすすいだものにございまする。タマは、そのまま喰ってしまったために、毒が回ったものでございましょう」
「うむ・・・。それにしても、石見銀山とはのう。無事であったからよかったが、いったい誰が、どうやって入れたものか・・・」
高村が、独り言のように言うのに、良庵が答えた。
「はい御家老様。あれからいろいろ調べましたところ、毒は、台所に汲みおいた水瓶(みずがめ)より見つかりました。そのため水を換えさせ、食器や道具それに台所の一切を、徹底的に洗い清めさせました」
「うーむ。良庵殿・・・。井戸は、大丈夫であったかのう?」
高村が、心配そうな顔をして尋ねた。
「はい御家老様。水は、誰にとっても生命線でございます。私も心配して調べましたが、幸いながら、井戸から毒は、見つかりませんでした」
「そうか・・・。ということは良庵、台所に出入り出来る者が、水瓶に毒を入れた、ということになるな?」
「はい。御家老様。それと同時に、井戸に毒を入れなかったということは、井戸の水を口にする者、つまりは、城中の者の仕業と思いまするので、意外に下手人の範囲は狭いかと・・・」
「うーむ良庵。さよう思うか・・・? しかし、季成殿を狙うとは・・・。わしには少々合点がいかぬがのう。今一つ、はっきりせぬは・・・」
「いいえ御家老様。水瓶から毒が見つかったということは、目的は季成様ばかりではなかった、と思われまするがまするが・・・」
そう良庵が言った。
再び、沈黙が続いた。
輝季も考えていた。その輝季の目に見える庭の木はすっかり色づいて、秋の深まりを感じさせていた。
輝季が、沈黙を破った。
「高村。台所を中心にして、下手人を探索致せ。城中で、しかも台所の関係者であるとすれば高村・・・。ところであれから、宿下がりになった者は、おるまいの?」
「御意」
「さすれば下手人は、城外に出ていぬことになろう。確と探索を致せ」
「はっ。すぐに調べまする」
高村は、ちょっと頭を下げながら言った。
「それにしても多兵衛、よくやってくれた。季成の命の恩人ぞ」
「ははっ・・・。ありがたきお言葉」
多兵衛は、平伏した。
「だが、なぜ石見銀山が台所の水瓶に入れられなければならなかったのか? 下手人もさることながら、なにやら背後の動きが気になる。高村、慎重に調査をの。それでもし下手人が判明致さば、即刻死罪。もし不明とあらば、疑わしき者も含めて、全員に暇を出せぃ。多勢でも構わぬ。台所から、頭の黒い鼠を一掃するのじゃ」
「ははっ」
「ところで良庵。猫は死んだかの?」
「いえ、調剤によっては、命は取り留めると思いまするが、後遺症の出る恐れもございまする。もはや、ものの役には立ちますまい」
「そうか・・・、孫娘たちには、可哀想なことをした。しかし猫であったとはいえ、毒であることを見つけたは、タマの大手柄であったからのう」
それを聞いた多兵衛が、平伏して言った。
「殿。タマは手前にとっても、場合によっては罪になるところを、冤らしてくれた猫。もしお許しを頂ければ、お下げ渡し願いとうございまする。良庵殿にすがって、何とか生かしてやりとうございまする」
高村は、タマを台所の近くに寝せて良庵に看病させ、それとなく台所を見張らせ、多兵衛もまた、その探索に参加させることを提案した。
「うむ、そうか。もはやどちらにしても、猫を城には置けぬ・・・。孫たちには、死んだことに致そう。あとは、よきようにはからえ」
そう言うと、輝季は立ち上がった。  
■3
輝季と就季の間には、二つの問題があった。
一つは、藩経営上の政策の違いである。輝季は赤松政徳の策を採用し、馬種を改良してその売上金を収納した。また、良種の雄馬を交尾のため貸し付け、駒付役、駄馬改役その他をおいてはらみ駒を書き上げ、競り場を設けて公営の競売を行い、その取引金額の定律二分の一を上納させる方式を実施し、それによって金方収納の道を開いた。また漆役を代米制とし、米方収納の増加を図った。すなわち、漸進的な改革を図っていたのである。
しかしそれでは手ぬるいとした就季は、積極的に新田開発を押し進めていた。すなわち就季は、家臣・栗原兵佐衛門に命じて各地の原野を開墾させ、用水池を作って水路を改築し、良田としていた。それは当然、多額の資金を必要とした。
第二にはその政策の違いから、秋田由来と宍戸由来、さらに三春入府以来の家臣団を巻き込んでの、軋轢が生じていた。
この親子の対立に、三春新田藩の秋田季品は、いまだ態度を明確にしていなかった。
———いかに中立とは言え、このわしがあっての三春新田藩ではないか。例え全部わしの側に立たずとも、就季との間の仲介に立っても良いのではないか。
そう思って輝季は、季品に不満を募らせていた。
「鼠め! 石見銀山などを運び来おって」
チッ、と輝季は、小さく舌打ちをした。
そこまで考えると、輝季は腕に鳥肌の立つのを覚えた。
———もしかして、本当は自分が狙われたのかも知れぬ。
と思ったのである。
「う・・・む。高村は、『下手人の様子は、まだ掴めませぬ』と申しておったが」
輝季は、思わず独り言を言って先日のことを思い起こしていた。
———高村が申しておった・・・。「実は今のところ、確たる者が浮かびませぬ。疑いを申さば、これがまた多くの女どもになりまする。殿の言われるようこれらに一挙に暇を出せば、町方でもあらぬ詮索をさせることになり、それにまた、女どもの口を塞ぐのも難しいと思われます。ここは城からは出さずに、しばらく様子を見た方が良いか、と思っておりまするが・・・」と。
高村と良庵が登城してきたのは、そんな折であった。
輝季に人払いを願った後、高村は両手をついて言った。
「殿。こたびの事件、どうも多兵衛めが匂いまする」
「なんじゃと。多兵衛じゃと・・・?」
思わず輝季は、高村の隣に座っている良庵の顔を見た。両庵は黙ったまま、小さく頷いた。
輝季は、しばらく言葉にならなかった。多兵衛は、高村や良庵とともに、犯人検挙の命を、他ならぬこの自分から受けているのである。
———多兵衛が犯人だとすれば、犯人に犯人探しをさせているようなものではないか。それでは、見付かる訳がない。
そう、思った。
「多兵衛としては、こちらの探索の方法を知っての上でのことでございますれば、自らの犯行の証拠を隠すには、かえって都合が良かったか、と思いまする」
高村が、一瞬ぼんやりした輝季に言った。
「む・・・? 二人とも近う寄れ。それでは話が、良く見えぬわ」
輝季が苦しげな顔で尋ねた。
「良庵は、いかが思うか?」
「ははっ。私も、御家老様のように思いまする」
「何か。証拠でもあるか?」
輝季は、たたみかけた。
「いいえ、今のところ、御家老様の申されるよう、証拠としては何もございませぬが、どうも態度や雰囲気に異なものが感じられまする」
「ふーむ、態度や雰囲気にのう? しかし、それだけでは・・・。多兵衛には、動機がなければならぬことになるのう?」
「その証拠でございまするが・・・」
そう言って高村が話を続けた。
「実は殿! 滋野の多兵衛は、就季様の側につかれておりました」
「なに?」
思わず輝季の声が大きくなった。
「多兵衛めは、私どもの目をかすめて、しげしげと就季様の元へ通っておりました」
「それについては、私も何度か見ておりまする」
良庵も、とりなすように言った。
「しかし高村。就季の所へ行ったというだけでは・・・、証拠になるまい?」
輝季は、高村を睨めつけるようにして、言った。いくら仲が良くないと言っても、就季は実子である。疑える訳がなかった。
「しかし殿。就季様の元へ行くということは、秋田由来と関係がある、ということでもございます」
「なるほど。しかしそうとして、秋田由来と『水瓶に毒が入っておった』こととは、どう関係するのか?」
輝季としても、そこが腑に落ちなかった。
良庵が、言った。
「ははっ、殿。実はそのことでございまするが、毒は本当は水瓶ではなく、季成様にお出しする煮物からのみ見つかり申しました」
「ん・・・? それでは良庵、先日と話が違うではないか。先日は、『毒は、台所に汲みおいた水瓶より見つかった』と申したではないか」
輝季は、理解し難い顔をしていた。
「殿。ご記憶でございまするか? あのとき多兵衛は、『煮物の汁の色が違う』と申しておりました。実は少々の石見銀山では、色などはつきませぬ。一瞬ハッと致しましたが、あの場は知らぬ顔を決め込み、しばらくは泳がせてみようと思いましたる次第・・・」
「うむ・・・。しかし、良庵の言う通りとしても、三春新田藩は中立であった筈。なに故に多兵衛に殺されねばならぬ?」
今度は、そう、高村に訊いた。
「はい。つまり多兵衛は、秋田家が三春に入府されてからの家臣、つまり三春由来でございまする。それ故いつも秋田由来に見下され、不満を募らせておりました。そこで季成殿に毒を盛り、それを見つけたふりをして、就季様に忠臣面をして見せたもののようにございまする」
「それで就季に取り入ろうとした、と申すか?」
「御意」
「さすれば・・・、城中といえども、わしとて安心できぬということか? わしも狙われているということではないか!」
輝季は、以前から気になっていたことを、口にした。
高村は、苦しそうに押し黙った。
「しかし、わしが目にかけておった多兵衛が・・・。なにゆえ就季に取り入ろうとしたのか、どうも合点がいかぬ・・・」
「はっ、それは・・・。誠に申し難いことでございまするが・・・。いずれ就季様が殿より三春藩をご相続なさると・・・」
「なに高村! 多兵衛がさように、申したのか?」
「・・・」
黙っている高村の傍らで、良庵が小刻みに首を縦に振っていた。
「殿。疑わしき芽は、摘むに限りまする」
高村が苦し気な表情で、そう言った。  
■4
滋野多兵衛に切腹の沙汰が下されたのは、それから間もなくのことであった。「詮議に及ばず」との命令が、付け加えられていた。 
就季の意を受けた秋田由来の家臣団から、嘆願書が提出された。しかしかえってそれは、輝季の怒りという火に、油を注ぐだけであった。結局は切腹執行の日を、明示されるだけに終わったのである。
「高村。秋田由来の輩が、大挙して文句を言いに来おったわ」輝季は、脇息に身体を預けながら言った。
「やはりさようでございましたか。黙って受け入れては、秋田由来としても非を認めたことになりましょう。そのために、なんらかの申し入れがあろうとは思っておりました。多分それがしの悪口をも、申して来たのでございましょう?」
「うむ、申して来たわ。有ること無いことを、わんさとのう」
「・・・して、秋田由来は、どのような悪口を申して参りましたか?」
輝季は、笑った。そして、言った。
「高村・・・。さすが剛胆なお主でも、気になるか?」
「殿。おからかいは、なしにして下されませ。さりとて悪口を言われたとあらば、何を言われたか、それは気になりまする」
「それはそうじゃの。しかしそれを申さば、お主を怒らせることになろう。まあお主を、あまり怒らせるのも問題じゃ」
そう言った後でも、輝季は笑っていた。
滋野多兵衛は、就季の元を訪れた。すでに覚悟はしていたが、死に臨んで、自分の本意は知らせておきたかったのである。 
「それにしても就季様。荒木様につきましては、腑に落ちかねることがございました。そのため、その行動につきましては隠密に注意をして参りましたが、まだ、その確証を上げるには至りませんでした。しかるに今回、私に切腹を命じられたは、荒木様がやったとの証拠と確信しておりまする。しかし今のところ『かんぐり』と言われればそれまでのこと。切腹をもって口封じをされるとは、返す返すも残念でございまする」
「うむ、多兵衛。わしとてそちの申すとおり、今回の命令には納得がいかぬ。それに『詮議立て無用』とは、誠にもって論外じゃ。しかし父上の命令とあらば、子として従わぬ訳にも参らぬ。せめて確証が掴めておればのう。こうはなるまいに・・・。それにわしも、父上との間をこれ以上に壊したくない・・・。ここのところも、納得してもらいたい」
「・・・就季様・・・。とはいえ毒を入れたは、決して私ではございませぬ・・・」
「うむ。分かっておる」
就季の表情は、厳しかった。
「就季様・・・。荒木はおとなしそうにして、猫をかぶっておりまする。どうぞ決して、お気の許すことのなきよう・・・。そしてせめて、荒木と良庵への注意を怠りなくして頂とう存じまする」
「うむ、分かった多兵衛・・・。誠に相済まぬ」
それだけの返事に、何らかの助力を期待していた多兵衛は、絶句した。しかしせめて就季に話すことで、気持ちの一部が、整理出来たように思えた。多兵衛としては今まで、藩のために中立を守ってきた積もりであった。しかしこうなった以上、多兵衛は誰かに自分の本意を残しておきたかったし、高村への疑念を、反高村派に知らせておきたかったのである。
それらの手順を尽くしておいて、多兵衛は妻を離縁した。せめて妻子に累を及ぼすまいとする、最後の選択であった。しかしそれが、よい効果を上げるものかどうか、それは確とはしなかった。
「タマ。旦那様を守ってくりゃれ・・・」
台所の隅にうずくまっていた猫の頭をなでながら、小さな声で話しかけた。それが、猫に何ができるとは思いながらも、家を出て行く妻に出来る、唯一の切ない願いであった。タマは、勝手口まで追いかけるように出てきて見上げていたが、多兵衛の妻に体をすり付け、尻尾を伸ばして先をピクッピクッと曲げながら、「ニャーゴ」と甘えた声で啼いた。
あれから多兵衛は、貰ってきたタマを可愛がり、夕食後にはハタキなどを持ち出して、飽きもせずじゃらしたりしていた。タマもまた多兵衛によく懐(なつ)き、多兵衛が登城の際など、犬のように跡を追ったりしていた。
切腹の日、多兵衛は、いつも通りの朝を迎えた。
家族のいない家の中は、深閑としていた。いつもと違ったのは、多兵衛が死装束に威儀を正したことだけであった。タマは、その雰囲気に何かの脅えを感じたのか、襖の陰から、身体を丸くしてじっと窺っていたが、いつの間にか庭へ出て行った。しばらくタマの、淋しそうな啼き声が響いていたが、気がつくとその姿が消えていた。
多兵衛がそのタマを見たのは、切腹の場所と指定された、紫雲寺に行く途中であった。紫雲寺は、城からそう遠くない、町の中の小さな丘にあった。その道筋には、多くの見物人が人垣を作り、警備の役人に引き立てられて行く多兵衛を見物していた。そして、なんと驚いたことに、その多くの人混みの喧噪の中を、タマが多兵衛の足元にすり寄ってきたのである。そして、彼の行く先を遮るかのように足元にまつわりついていたが、警備の役人の抱え棒で追い払われると、今度は多兵衛の傍らを、後になり先になり、また時折、多兵衛の顔を見上げ、小さな声で啼いていた。
「ニャー」
しかし周囲の喧噪の中で、その声が多兵衛の耳に、届くことはなかった
———タマ・・・。わしの無念が分かるか! 分かってくれるか!
多兵衛は、猫の姿に、心の中で話しかけた。その多兵衛の目に、タマは確かに、うなずいたかのように見えた。
多兵衛が、タマを最後に見たのは、切腹の場所、紫雲寺の境内の梅の木の下であった。秋田家の紋を染めた幕を引き回し、地面の筵の上に新しい畳を裏返しに敷き、それを白木綿で覆ってあった。その側で、袴の裾をこもも立ちにし、刀の切っ先を下げ持った介錯人が、待っていた。そして向かい合った確認者の席には、高村が床几に座っていた。寺の境内は、水を打ったように静かであった。この周囲から隔絶された切腹の場で、多兵衛が腹を押し広げ、手を添え、短刀を凝し、思わず見上げた寺の大屋根に、あのタマがうずくまっていた。しかしその姿は、もはや並の猫ではなかった。耳を伏せ、毛をさか立て、らんらんと目を光らせ、威嚇するかのように赤い口を開けていた。そして啼く声は聞こえなかったが、その顔は吼えているかのように見えた。介錯人は、三尺ほど隔てて背後に立った。
———タマ・・・! この恨み、晴らしてくれ!
そう強く念じると、今度は、多兵衛の耳に返事をするかのように、はっきりと大きく啼くタマの声が聞こえた。
「うおーっ」
悲痛な声とともに、見事、腹十文字にかき切った多兵衛は、介しゃく人の刀の煌く一瞬前、自分の内蔵を掴むと傍らの梅の木に投げかけた。そして、もの言わぬ多兵衛の首が、地に転がった。
とその時、あの白猫が、寺の高い大屋根から一気に飛び降りると、多兵衛の腑を喰いちぎり、驚き騒ぐ人々を後目に、体を血に染めて墓石の間を走り去っていった。  
■5
その晩、家に帰った高村の刀を受け取りながら、妻のおタカが言った。
「旦那様、今日の騒ぎはいかがでございました? 町の中では、不忠者の滋野多兵衛の切腹の話で、大騒ぎでございました」
「うむ、さもあろう。しかし不忠者は不忠者として、しっかり処断せぬと、御政道を揺るがすことにもなりかねぬからのう。ただ猫がのう。あの城中で死に損ないの猫が、多兵衛の肝を、喰いちぎりおった」
高村は、玄関に上がりながら言った。
「はい。そこのところでございます。私も話を聞いて、肝を潰してしまいました」
「うむ、わしものう・・・。わしもあの場で見ていて、びっくりしたわ。あんなことがあるのじゃのう」
「はい。町の中では、『あの猫が、町に悪さをするのではないか』との噂で、持ちきりでございました・・・。本当に、大丈夫でございましょうか?」
妻のおタカが、気味の悪そうな顔をして高村を見上げた。
「おタカ。お前までが何を言う。たかが猫ぞ。そんな猫に、何ができよう」
高村はそう言って、笑いながら部屋に行った。
しかしその心に、不安がよぎっていた。
「殿。あの多兵衛めに下げ渡していた猫のタマが、とんでもないことをやってくれまして・・・」
輝季に報告に来た高村の顔は、さすがに引き吊っていた。
「うむ、聞いたわ。妙な猫であったのう。祟りなど、なければよいが」
「ははは殿。相手は猫でございまするぞ。祟りなど起こす訳がございませぬ」
高村は空疎な笑いで、紛らわすように言った。
「うむ。まあそれならば、それでよいが・・・」
「ところで殿。江戸より早馬があり、一寸困った知らせが届き申しました」
「なに、困った知らせ?」
輝季は、ちょっと目を大きくして、返事を促した。
「ははっ、実は殿。時宗の本山より『神勅之御礼弘通として赴く』との飛脚が参りました。そこで、早急に当藩の時宗である法蔵寺の現状を調べた上、御上人様御居間、賦算所、厠などを整備せねばなりませぬ。それに御到着当日に、領分境までお出迎えと警護の人選もすすめねばなりませぬ」
「うむ・・・。しかし今三春に来られては、困るのう。多兵衛の切腹など公儀に知られれば、ただでは済むまい。なにかお断りする方法は、ないか?」
「ははっ・・・。確かに殿の言われること、もっともでございまする。となりますれば、時宗本山に、御来錫御辞退をせねばなりませぬが・・・」
時宗は、一遍上人智真により開かれた宗派であるが、幕府の保護もあって全国の遊行はその耳目にもなり、その道中は、十万石格式といわれるほど、公式化していた。輝季は、そのことを恐れていたのである。
「うーむ、高村。ちょっと待て。直接本山に御来錫御辞退を申し上げて、もし断られたら何んとする。断られれば、いかにも不味い。長谷川将監を使者として差し向け、江戸・日輪寺を仲介として御来錫御辞退を申し述べさせてはどうか」
「御意。ここのところの不作を理由に、申し入れをさせまする」
三春藩からの申し入れを受けた時宗側では、修領軒の名で「当年の予定としては、、十一月に御城下・法蔵寺で『神勅之御礼弘通』の筈であったが、本年の越年場である仙台の真福寺への到着が、雪となる恐れがある。急ぐ必要があるので、よんどころなく貴城下には立ち寄れぬ。須賀川から、直ちに仙台に向かうこととする、との連絡があった。
———やれやれ良かった。
輝季は胸を撫でおろした。
三春藩は、輝季の曾祖父にあたる実季の妻が二代将軍・秀忠の室と従姉妹という由緒もあって、譜代並となっていた。しかしさすがに、ここまで代を重ねてくると、徳川家との関係は、自然と疎遠となっていた。輝季は、何とかこれ以上疎遠とならぬようにと努力していた。それであるから、正徳四(一七一四)年に行われた季侶の七代将軍・家継への初見は、輝季にとって喜ばしいことであった。
輝季からこの知らせを聞いた高村も、平伏したまま嬉しさで顔を上げられなかった。
高村は家に戻ると、急いで自室に、おタカを呼んだ。
「まあ、お帰り早々、そんなに嬉しそうな顔をなさって如何が致しましたか?」
「いや、ははは。嬉しそうなのが分かるか。実は良い話があってのう」
高村は、今までに見せたこともないような笑顔を、おタカに見せた。
「あら・・・。それはようございました」
「実は季侶が、徳川将軍様と御初見の儀が、無事に済んだそうじゃ。殿も『いくら旗本とは言え、三春藩の分家じゃ』と申されて、大喜びされておられた」
「まあ、それはそれは・・・」
おタカも、こぼれそうな笑顔を見せていた。
「季侶を殿のお口添えで旗本の秋田家に養子と出したときから、旗本秋田家の当主となることは当然と思っておった。しかるに将軍様にお会いできたとは、大した出世じゃ。わしとて、将軍様にお目通りなど、出来ることではないわ」
高村は、まだ笑っていた。
「それに季侶は、まだ十八才。若いのにようございました」
「これで季侶も、旗本八万騎の一になった。わしも鼻が高い。もう秋田由来も宍戸由来もないわ。家老どもの、わしを見る目が、変わるじゃろう」
「旦那様、おめでとうございます」
「うむ、めでたいのう」  
■6
正徳五年六月四日、就季は三春藩主を相続することなく、四十五才で死去した。
高村は、てきぱきと対応していた。七日には知らせの触れを出し、鳴物・音曲・普請の停止を命じた。また七日当日の市日を中止して店仕舞いを命じ、すだれを掛けさせた。十一日から鍛冶・細工・桶屋・打綿屋・湯屋・粉屋・酒屋酒林・担売物などの商売諸職を解禁とし、普請も出来るようにしたが、高音を出す普請はさらに遠慮をさせた。さらに田村大元神社の祭礼も、中止としてしまった。その死や対応は、領内にも大きな疑問となって流れていった。季成の毒殺未遂事件が、公然の秘密として漏れていたこともあった。
輝季も、息子・就季の死に、釈然としなかった。
———親に逆らった上に、先に死ぬとは・・・。この親不幸者め!
そう憤ってもみたが、元に戻す手立てはなかった。漠然と就季もまた毒殺されたのではないかと疑った輝季は、良庵を詰問した。しかし良庵は、就季が内臓の病気であったことを説明し、力の至らなかったことを詫びるのみであった。そして輝季の疑問に対しては、「毒殺などとは飛んでもない。多兵衛も処刑されたことでもあるし、決して左様なことが、起きる訳がございませぬ」と断言していた。
輝季は、考えていた。
———滋野多兵衛が、真犯人であったのであろうか・・・?
どうしても疑いの晴れぬ輝季は、今度は高村を呼びつけた。
しかし高村は、
「就季様が毒殺されたという前提で考えるならともかく、良庵は否定しておりまする。さすれば殿が言われるように、多兵衛が犯人ではない、という証拠が、どこにもございませんでしょう」と明確に言い切った。 そう言われれば、輝季には、反論する材料がなかった。
———幸か不幸か、わしは六十六才になる今に至るまで、四十五才の就季に相続をしていなかった。とりあえず幕府には、就季を『急病にて病没』と届け出ておけば良いが・・・。しかし世継ぎを誰にするか。藩内では、秋田由来と宍戸由来、それに三春由来の家臣団が、三つ巴となって蠢いておる。
そう考える輝季の脇の下を、冷や汗がツツーと流れて行くのが感じられた。就季には男子二人があったが、早世していた。
———もしかして、これらも毒殺。さすれば、わしの目が甘かった。
そう思ったのである。残されたのは女子二人である。輝季直系の孫に譲ることは出来ない相談となっていた。
———それにしても、相続のための、養子をどこに求めるか?
これは、重要な問題である。
輝季が第一番に考えたのは、三春新田藩・秋田季品の子の季成である。季成は十九才、しかも輝季の娘・就季の妹のおトヨが嫁いでいる。
———血筋としては、わしの跡継ぎとして問題はないが・・・。
そうは思っていたが、「季成殿は、秋田由来に振り回されておりますれば、結局は大殿の、お荷物になってしまうのでは、ございませぬか? それに季成殿も、もう少ししっかりしてくれれば良いのでございまするが・・・」という高村の言葉も、気になっていた。
———うーむ。三春藩を五万五千石に戻すには、絶好の機会ではあるが・・・。確かに藩の将来を考えれば、季成では少々もの足りぬし・・・。とは言っても、五千石はそのままとしておく方が、三春藩は安泰なのかも知れぬ。
「とすれば、旗本・秋田家の季侶か?」
輝季は小さな声で呟いた。
季侶は、将軍にお目通りを願ってから覚えもよく、将軍近習役を勤め幕閣との関係の深くなっていた。その点から考えれば、旗本秋田家も相続に有力な位置にあった。
———季侶は高村が実子、こう反荒木の風が強いと、これも難しい・・・。しかし高村を我が方に抱き込むには、これも捨てがたい・・・。第三に分家の幕府小普請の秋田家があるが、それにしては血が遠い。
輝季は、季成にするか季侶が良いか、悩んでいた。それにしても、時間がなかった。相続人を、早急に決めなければならなかった。
輝季は、高村を呼んだ。
相談を受けた高村は、畳に頭をすりつけて言った。
「殿。そのように重要なことのご相談とは、高村、身に余る光栄にございまする。このようなお話ですので、あえて申し上げまする。実は就季様は、三春新田藩の秋田家より、御養子を迎えんと画策しておられましたようで・・・」
「なに! 就季がか? わしを差し置いて・・・」
輝季は、驚愕した。たしかに輝季も、薄々と感じてはいたが、そこまで就季が、一人で決めているとは、思いもよらなかった。
「そうか。いや、わしもそれは、のう・・・」
輝季は、言葉を濁した。
「殿も、ご存じであらせられましたか・・・。実は私も、立場上申し上げ難い立場にございました」
「うむ・・・」
「この際はっきり申し上げますが、季品様は、三春本藩五万石の乗っ取りを考えておられました」
「なんと・・・」
輝季にしてみれば、思いもかけぬところからの、静かな反乱である。
「うーむ」
思わず、そう唸った。
「不埒な奴め! 季品め、猫をかぶりおって!」
「はっ。これを私が申しては、周囲が殿に讒訴したのではないかと思うのではないか思い、言い出しかねておりました」
「うーむ。とにかく良く考えねばならぬのう」  
■7
「おタカ。すぐに、わしの部屋に参れ」
玄関に迎えに出た妻のおタカにそう言うと、刀をワシ掴みにしたまま、廊下を急いだ。おタカが、その後を追った。
部屋に入って刀を床の間に置き、ドーンと腰を下ろした高村は、気が急いだように早口で言った。
「季侶が・・・、季侶が殿の養子となることになった」
「はあ・・・?」
「何を妙な顔をしておる。嬉しくはないのか?」
「ですが旦那様。季侶は江戸の秋田家の養子。それなのに殿様のご養子とは、どういうことでございましょう?」
「なんじゃ、まだ分からぬか。しっかりせい、いいか・・・!。江戸の旗本秋田家が、三春藩五万石を継ぐことになったということじゃ。つまり季侶が、三春藩の藩主を継ぐことになったいうことじゃ」
高村は、おタカを睨めつけるようにして、言った。
「季侶が、三春藩のお殿様になると・・・?」
「そうよ、わが子が一国一城の主となる、ということよ。それはさらに季侶の子、孫と、代々続いて三春藩主となる、ということでもある。つまりは荒木の血筋が、藩主の血筋に入り込むのじゃ」
「・・・」
「それに季侶は殿のご指示で、名を頼季と変えることになった。いかにも殿らしい名ではないか?」
「えっ。頼季(よりすえ)様と・・・?」
高村は言うだけ言うと、気分が落ちついたのであろう、今までの早口が、ようやく元に戻った。
「それに驚くな。殿はご自分の孫娘のお岩様を養女となされ、頼季に娶せると申されておる。わしらは、三春藩主様の実の親ということになる。これで我が荒木家は、万々歳じゃ。もはや未来永劫、揺らぐものではないわ。どうじゃ、かくなる上は、わしは誰が何と言おうとも、荒木家の中興の祖じゃ」
「・・・」
「今の話、正式にお沙汰のあるまでは、他言無用ぞ」
高村は、おタカが部屋を出ていく後姿を、舐めるような目で見ていた。
「くくく・・・」
一人残った高村は、声を潜めて笑っていた。
———考えていた以上にうまくいった。
その思いが、笑いを誘っていたのである。
———しかし季成の暗殺失敗には、我れながら肝を潰した。それにしても、多兵衛にうまく罪を被せた。こうなれば、死人に口なしじゃ。あ奴は本気で犯人の詮索しおったからのう・・・。危ない、あぶない。
「くくく・・・」
高村は、また笑った。
———そして就季様の暗殺。これについては、良庵を褒めねばなるまいが・・・、季成の時には失敗しておるからのう。まあそれにしても、良くやった方だと言ってもよいか・・・。それに極めつけは、季侶、おっと頼季様を藩主の座につけた時よ。いかにも殿の意志という形で、ことを運んだわ。我ながらうまくいったものよ。
「くくく・・・」
高村の笑いは、まだ止まることを知らなかった。そしてその笑いのように、荒木高村の権勢は、日の出の勢いとなっていった。
やがて輝季は、頼季に三春藩の家督を譲って隠居となった。そして頼季は、参勤交代で江戸へ出ていった。そのためもあって、高村は三春の輝季の側で、城代家老として実権を握ったのである。そしてそれは、高村をより強い権力者に育てていった。そしてその後の数年間に、高村の権勢は猛威を振るった。自分の意にそぐわぬ者について、容赦のない弾圧を加えたのである。直接の犠牲者は、追放四名、御暇十九名、蟄居一名、御役御免一名、出奔一名の総計二十六名に及んだ。そのためもあって、町方でも、高村を誹謗する声が、上がりはじめていた。運上金が高額となり、御用商人が賄賂の額で決められていた。その反感も、高村の力で、強引に押さえ込まれていた。
しかしその高村にも、困ったことが起こった。江戸に行っている頼季が、何故か病弱になってきたのである。
おタカは心配のあまり、「頼季を看病するため、江戸に行きたい」と言っていた。
「おタカ。無理を申すな。すでに頼季は三春の藩主ぞ。町方、町人の親でもあるまいに、そんなことが出来るか。それに江戸には良医もおろう。足手まといになってはかえって迷惑、それに何故か、御隠居様も病気がちじゃ。今は動けぬ。我慢せい」
そう言って落ち着かせようとしてはいたが、高村としては、良庵の動きが気になった。
———あ奴め。まさか御隠居様に、毒を盛っているのではあるまいな?
そう思うのだが妻にも相談できず、気が気ではなかった。良庵は、高村が、季成、就季の二人に毒を盛らせた男である。それが勝手に動いているとなると、ことは面倒である。
———体の弱い頼季の後ろ盾として、今は御隠居様が必要じゃ。良庵を呼びつけて、ことの真偽を質すのも一法じゃが、もしそうして怒らせて、「私のことはどうなろうと結構。以前のことを大っぴらに致しましょうか」などと開き直られれば、それも致しかねる。
それらに対して具体的な対応策も打てぬまま、月日が過ぎていった。  
 猫の復讐

 

■1
享保五(一七二〇)年、御隠居・秋田輝季が死去した。
このことは、高村にとって、大打撃となった。頼季の後ろ盾であった輝季が亡くなったことで、反荒木勢力が公然と表舞台に飛び出して来たのである。その上、高村にいろんな問題が降りかかっていた。春には領内に洪水が発生し、江戸の上屋敷が大火で類焼した。頼季が許されて三春に帰国している間に、上屋敷再建の費用の金策をし、その間、三春・御免町から火が出て大火となった。この復興も大事業であった。
———この不幸続きは、一体なになのか?
さすがの高村も、気が滅入っていた。
その高村が、家の庭の松の木の根本に、なにやら小さな白いものを見たのは、ある夕暮れ時であった。
———あれはなにか?
と思って目を凝らすと、そのものは音もさせずに、木の陰に消えていった。
———気のせいか。
高村はそう思った。そして庭には、夕闇が迫っていった。やがてそんなことは、いつの間にか忘れてしまっていた。
高村は藩主・頼季の三春帰国中に、藩年寄衆宛に願書を差し出した。藩の各方面から、高村弾劾の声が捲き起こったのである。その願書の内容は、「自分が驕り長じ諸事一人で取り扱うことは御家のためにならないし、年寄の相談に勝手に出て口を挟むことも困る。それらは皆様の言われる通りで良くないことなので、この際御暇を願いたい」という、誠に殊勝なものであった。こういうものを提出すれば、藩内を沈静化させ得る、と考えていた。
しかしこの願書に対して、藩年寄衆は、「難御達御聴侯」との返答をした。藩としては、藩主の実父・高村の「御暇願」は、了承出来るものではなかった。思い通りに行ったと思いながらも高村は、今度は頼季よりの直接の回答を要求し、年寄衆の返答を拒否した。藩中枢での地位の保持のために、実子・頼季の取りなしを期待したのである。
その日の夕方、家に帰った高村は、あの松の木の根本に、また小さな白いものを見つけた。
「ん・・・?」
凝視する高村の目にはいったのは、大きな猫の姿であった。体を丸くして背をむけていたその猫は、高村に気づいたのか、キッ振り返った。
———タマだ! 多兵衛のタマだ!
高村は、ギョッとした。
———あ奴。あれからどこで、生きていたものか? 人間なら八十才位か? 
タマはしばらく動かなかったが、耳を伏せると急に口を大きく開けた。
「ふわぁーっ」
タマが唸った。
それを見た高村の背中を、ヒャーッと、冷たいものが走った。  
■2
藩年寄衆は、口上書を遣わしてきた。それには、「高村への相談役依頼は、頼季様が家督相続の際若年であったためである。現在隠居の身である高村の藩政への関与は、頼季様が壮年に達した今日に至っては遠慮すべきことである。さらに、御城下間屋たちの問で、経済的利権をめぐって高村の存在が間題視されつつある。必要以上の高村の干渉は、藩主・頼季様にとって難儀である」としたためられていた。
この口上書に対して、高村は、返答書をもって反駁した。
「正徳五年十二月以来、輝季様隠居の際、その意向に従って年寄衆の相談役を勤めてきたもので、不法なことではない。この正当性こそが、高村の藩政への参与を当然ならしめているのである」
というものであった。その上で高村は、先に提出していた御暇願を撤回し、藩重臣たちによる「藩政よりの引退勧告」をはねつけた。
———こんなことで、折れる訳には参らぬ。強硬に抗議するのみ。
これが、彼の考えであった。
その日の夜、寝床に入った高村は、スーッと襖の開くような感じと、誰かがすり足で歩くような音がしたような気がした。思わず耳をそばだてたが、なにも起きなかった。しばらく、なかなか寝つけなかった。半刻ほどの、時が経った。
スーッと、寝所の襖が開いた。
そこには、青い顔をしたおタカが座っていた。普通ではなかった。
高村は、ドキッとした。
「おタカっ。こんな時刻に、如何が致した?」
思わず高村は布団の上に起きあがり、大きな声で訊いた。
「旦那様・・・。随分引き留めたのですが、女中たちが辞めると申しまして、みんな家へ、帰ってしまいました。」
そこには、困惑したおタカの顔があった。
「何んじゃ。それはお前の仕事であろうが。それにそんなことを、寝ているのを起こしてまで申すことでもあるまい。しかし誰もいないとは、いったい何がどうしたのじゃ?」
「はい。それが私には聞こえないのですが・・・、女中たちが申すには、『夜な夜な、絞り出すような恐ろし気な猫の声が聞こえ、あの白猫の騒ぎが思い出されて、気持ちが悪くて勤めていられない』と言うのでございます。ほら、今も聞こえますでしょう?」
おタカは、声のする方を振り向いた。
「猫が・・・? 多兵衛の猫が啼いている、とでも申すか?」
そう訊いて高村は、ぞッとした。あの松の木の下に、蹲っていた、白い猫の姿を思い出したのである。
「はい。多兵衛の猫と申しましょうか、白い猫が・・・、ほら啼いてますでしょう?」
おタカは、今度は、虚ろな目を高村に向けた。
「白い猫? そんなもの・・・、わしには見えぬし、聞こえぬが?」
高村は、そう言った。隠した訳ではなかった。本当に、聞こえなかったのである。
———あ奴め。多兵衛の仇を討ちに来たか・・・。
おタカの目の色に恐怖を感じ、高村がそう思った時、猫の啼き声が、聞こえたような気がした。
「ん・・・?」
もう一度聞き耳を立てた高村は、
「いま、確かに猫が啼いたな?」
と訊いた。
おタカが言った。
「いいえ。私には、何も聞こえませぬが・・・」
怪訝なそうな顔をして、今度は反対のことを言うおタカの口が、一瞬だけ耳元まで割れているかのように、高村には見えた。思わず高村は、沈黙の中にあった。高村とて、巷間の噂を知らぬ訳ではなかったのである。
辞めた女中たちが、「高村屋敷に化け猫が出る」との話をしたらしく、町屋に野菜などを売りに来る百姓女たちの、格好の話題となっていた。そしてその話が、さらに広められていた。
あの日、多兵衛の腑(はらわた)を喰って逃げたタマは、山に身を隠し、野良猫となっていた。しかし、自然の治癒力が、あの毒による後遺証を癒し、目はらんらんとし、猫特有の敏捷な肢体を取り戻していた。
野性に近い生活をしていたタマは、やがて毎日のように、荒木の屋敷に行くようになっていた。庭の隅にある躑躅(つつじ)の茂みの間に身を隠し、耳を立て、身じろぎもせず、家の中を観察していたのである。それは、多兵衛の死に臨んでの願望を、何とか達成しようとしていたかのようであった。すでにタマは、復讐の権化となっていた。背の低い躑躅の混み合った枝が、格好の隠れ場所となっていた。
ある日、城から帰ってきた高村が、何気なく庭を見ていた。あの躑躅の陰から、白い猫が、そーと出てきた。
はっとした高村の目と一瞬目の合った白猫は、前の片足を上げたまま固まっていたが、すぐに高村を無視するかのようにして、松の木の下に背を見せて蹲った。
———あれは、タマだ! しかしあの猫が、何故、我が家に現れるのか?
高村は、怖れを感じていた。 何日かして、高村は、またあの松の木の下に蹲る猫を見た。
———何故、あの猫が、毎日のように、庭に来るのか?
そう思って怪訝な顔をする高村を、タマは、振り返って睨みつけたような気がした。高村は、ギョッとした。そして猫は、脅かすかのように口を大きく開け、牙を見せて唸ったのである。度重なる猫の出現に、高村の顔が、蒼白になっていた。
猫は、さっと身を翻した。  
■3
持病が悪化していた藩主の頼季は、三春藩年寄と御用人を、分家秋田家をはじめ各関係者などに内密にして、江戸へ派遣した。「自分の健康状態による隠居願いと、後継者の決定について、幕府・西丸老中の安藤対馬守信友に、率直な御意見を伺いたい」というものであった。頼季は、自分の悪い健康状態もあったが、実父の高村との軋轢からも逃れようとしていたのである。
この安藤対馬守の叔母は、盛季の室(輝季母)であり、頼季の養祖母に当たる人である。頼季が、心安らかにして、交際していた人物である。
城下の問屋たちが、高村との関係の決着を迫ろうとして、藩に訴状を提出してきた。
———何を、猪口才な!
そう思った高村は、今度は年寄衆を通じて、
「肴屋喜惣次、大町与左衛門それに伝蔵が、自分の不当を訴え出たことに関して、その吟味を自らやりたい」
との願書を提出した。
しかしこれは、「被告人が裁判官になる」というようなものであるから、年寄側は、頼季の江戸出発前を理由として、お取り次ぎを拒否した。
それでも高村は、「頼喜様に直接申し上げたい」と、再度願い出た。
それを受けた頼季は、
「年寄共と直談すべし」
として差し戻した。
———何だ、頼季は。わしはお前の父親だぞ1
三春藩と高村の関係は、ぎくしゃくしていた。
「おタカ。何やら臭いではないか。何の匂いじゃ?」
家に戻った高村は、不快気に言った。特に今日の、頼季の拒否が、面白くなかった。それらの不満が、輪をかけていた。
タマは、庭のそちこちに尿をして歩いていた。猫の尿には、強烈な臭いがある。まるでタマは、それで自分の存在を高村に示し、嫌がらせをしていたかのようであった。
「あれっ旦那様。お気づきになられましたか? どうも、野良猫でございましょうか、あちこちに悪さをしまして、私も気になって良く掃除をしたのでございますが、土に臭いが滲み込んで取れたものではございませぬ。困ったものでございますね」
「うむ。こんなことが、よくあったのかの?」
「いいえ、始めてでございます。明日にはもう一度、良く掃除を致しましょう」
「あっ・・・。まさかに、あの多兵衛の猫の悪さではあるまいな?」
高村は、おタカに確認するかのように、訊いた。おタカは、返事をしなかった。彼女も、そう思っていたのである。女中たちには辞められ、それに自分の思うように動いてくれぬ頼季に、高村は、苛立っていた。気のせいか、家の中が少し荒れてきたかのように思えた。
———どうもあの猫が出てきてから、悪いことばかりが続く・・・。多兵衛のせいか? それとも、あの猫が祟っているのか?
高村は、そう思った。その疑念が、高村をさいなんでいたが、しかし、対外的には、強硬な姿勢を貫いていた。
———わしは、殿の実父じゃ! どうじゃ、恐れ入ったか!
年寄衆も、殿の命令とはいえ、「直談は如何がか」ともめていた。それらを見すかした高村は、自ら与左衛門を調べたいとの願書を、年寄衆に再提出した。
年寄衆は、「すでに町方で吟味を始めた」との理由で、拒否した。
そこで高村は、「吟味の日延べ」を要求して時間を稼ぎ、「今夜にも、藩主の御意を得たい」と強請した。
今度も年寄衆は、それも拒否した。藩と高村は、抜き差しならぬ関係となっていた。
そしてこの頃、おタカは高村の態度に、以前と違うものを感じていた。夜になると、不気味に嗤うのである。外ではともかく、家にいる高村は、猫に異常な反応を示すようになった。そして何やら恐ろし気な獣の気配がすると言っては怯え、またおタカの背後に猫の影が見えると言っては恐れた。
高村屋敷では、タマがその縁の下に、居を移していることを、誰も知らなかった。その縁の下でタマは手を舐めて、悠々と毛づくろいをしていた。そして立ち上がると必ずあの松の木の下に行った。
高村は、その松の木の下にいる、猫に気が付いた。彼は猫を、じっと観察した。
———特にその姿に、変容はない。たかが、普通の猫ではないか。
そう思った高村の目から、猫の姿が、忽然と消え失せた。
「う・・・。消えた」
思わず、声になった。その声が、小さく震えていた。  
■4
間もなく頼季は三春を出発、江戸に向かった。参勤交代である。
高村は、拒否された要請を直訴状に変えると、江戸の頼季へ送付した。この間にも、藩によって大町与左衛門に対する吟味が進められ、彼は無罪とされた。
———何だ。あ奴等が無罪ということは、このわしが、罪人ということか!
不満をもった高村は、再々度、高村自身による取り調べを要求した。しかしこれは、藩の司法権に対する干渉ともなる。藩当局にとって、許容できるものではなかった。当然に拒否された。またも高村は、直訴状を江戸の頼季に送った。
実父の横車に困った頼季は、幕閣の安藤対馬守に相談を掛けた。対馬守は、三春藩上層部の上京を求めた。その内容を、知る必要があったのである。
とるものもとりあえず上京し、対馬守の屋敷に入った三春藩の上層部に対して、対馬守は、「高村の藩政よりの引退」と「高村が育てていた頼季の子・民部(高村の孫)の上京」とを申し渡した。
高村の知らないところで、高村の権力が瓦解しようとしていた。
家に戻った高村が、妻に訊いた。
「ん? いま猫が啼いたか?」
「いいえ、旦那様、なにも聞こえませぬが」
高村は、聞き耳を立てながら、周囲を見回した。
「今、この部屋に、猫が・・・おったと思ったが?」
「猫が・・・? いいえ何もおりませぬが?」
「そうか・・・。何もおらぬか」
そう鸚鵡返しに言った高村は、闇の中に金色に光る目が二つ、すーっと音もなく流れるのを見た。
———あの化け猫め。わしの様子を見に来おって・・・。
そう思って立ち上がり、障子を開けて庭を見た高村は、木陰に身を隠し、キチンと座って背を伸ばし、小首を傾げている猫を見つけた。
———あ奴め!
そう思う高村を、タマは背を伸ばすと、大きな欠伸をし、こちらを見た。
その瞬間、タマの姿が、すーっと薄くなると、ふぃっ、と消えた。
「・・・」
高村は、声も出なかった。
安藤対馬守からの意を受けた三春藩は、亡・輝季夫人及び重臣列席の下に、高村に申し渡しを行った。高村は、
「幕府御老中の御意であるから、恐れ入る」
と返事はしたが、その裁定には不満であった。しかし亡・輝季夫人の要求で、結局その場で、腰の刀を引き渡さざるを得なかった。高村の蟄居を含めた全ての処置を終了した三春藩は、安藤対馬守に、その一部始終を報告し、高村の家で育てられていた民部を、江戸上屋敷に引き取った。
「孫の民部が江戸に浚われて、寂しいのう」
高村が言った。
「今頃は、お屋敷でどうしていますやら・・・」
孫がいなくなって、二人には部屋の火が消えたかのように感じられた。話すこともなく、夜が更けていった。
「おタカ。猫の声が・・・。屋敷が振動するような、大きな啼き声が・・・」
急に、高村が叫んだ。
何をおっしゃいます。なにも聞こえませぬが・・・」
そして、耳をそば立てていたおタカが、
「ああ、遠くで犬は啼いておりますが」
と言った。
また静かに、刻が過ぎた。
「あっ・・・!」
「なんですか? 旦那様。急に大きな声で! 驚くではございませんか」
「また大きな猫の影が・・・。何か口にくわえて・・・。たった今、お前の後ろに影が見え・・・」
高村は怯えながら、おタカの背後を指さした。今までいなかった猫が、急に出現したのである。すでにそのおののく目は、常人のそれではなかった。
「旦那様、旦那様。なにもおりませぬ。どうぞお気を確かに・・・」
おタカは、そう言って気を落ちつかせようとしたが、彼女自身、恐ろしさで、後ろの闇を振り返ることが出来なかった。
その闇の中で、座った猫が目を細めて、小さな欠伸をした。それが高村の目には、たしかに猫が嘲笑したように見えた。その口が、一瞬、目の前でぐぐっと大きくなり、襖一ぱいに拡がった。後ろから、おタカの身体を食うかのように見えた瞬間、その口が、はっと、闇の中に呑まれ、消えていった。
高村は、ブルッと身震えをした。恐怖が体の中を、駆け抜けて行った。
猫の姿は、どこにも見えなかった。  
 欲の皮

 

■1
ある日、頼季は、殿中で旗本・朝倉甚十郎から、老中・水野和泉守の意向として三春表について聞かれ、一通の訴状を示されて請書を差し出すよう命じられた。
この訴状は、高村処分に連座して隠居を申しつけられた高村の弟・荒木又市の家人・渡辺長右衛門が、「悪事指募侯」との沙汰で三春にて打首となった。そのために長右衛門の妻が不当として、江戸の目安箱に投書したものである。
このために、三春の騒動が幕府老中・水野和泉守の知るところとなってしまった。
恐れ入った頼季は、安藤対馬守や御鑓奉行の朽木大和守らとも相談をして請書を提出したが、水野和泉守に「此間の請書見にくく有之」と戻され、書き直して持参したものも「意味不明」として戻された。請書は三度に渡って訂正され、ようやく受理された。
三春藩の騒動に対する幕閣の対応として、訴状と請書をもとに、両者の言い分を詮議することとなった。
荒木高村及び荒木又一の兄弟に、召喚命令が発せられた。
この二人は、老中・水野和泉守のお尋ねとして、大目付・奥津能登守より厳しい尋問を受けた。
ところが、この目安箱への投書にはじまった事件の詮議は、荒木又一の請書によって、朽木大和守の介入露見という、意外な方向に発展した。その上、亡・輝季夫人から、
「幕府の安藤対馬守に相談をし、その指示に依って処置した」
との発言があったのである。この発言が、安藤対馬守の独断潜行と判断されたのである。
朽木大和守に対する詮議からはじまったこの事件は、荒木高村の蟄居という単なる三春藩内から秋田氏一族を含み、さらに西丸老中の安藤対馬守の周辺にまで波及する様相を見せていた。
ある夜、詮議を受けた高村は、『かご』で、三春藩上屋敷、つまり帰宅への途上にあった。いくら詮議を受けた身とはいっても、藩主の実父である。それなりの格式は、要請されていた。しかし、『かご』の中は、退屈な環境でもある。高村は、「ふぁーっ」と大きな欠伸をすると、『かご』の格子窓を少し押し開けた。見るとはなしに見た外の景色の中に、白い猫が追って来るのが見えた。
「ん・・・?」
思わず、『かご』窓に額を押しつけるようにして、外を見た。高村は、たっ、と窓を閉めると、腕を組んだ。
———まさか、タマが・・・。
高村は、空(くう)を見つめていた。そしてその目は、虚ろになっていた。恐ろしさに、もう一度外を見る気には、ならなかった。
屋敷に戻り、『かご』から玄関の前に降りた高村が、門の屋根を見上げた時、そこに小さな白いものを見た。それは、紛れもなく、あの猫であった。
———タマがなぜ江戸に・・・。
そうは思ったが、黙って身を返すと、片膝をついた供の間を、玄関に向かった。猫の影に怯える高村の、気は重かった。
頼季は事件の拡大を気に病み、藩邸内に引きこもっていた。
その頼季のもとに、幕府御老中連署の御切紙が届けられた。それには秋田兵部の他、朽木大和守、朝倉甚十郎ら幕府役人も召喚されていた。そして頼季以下は、御用番老中・松平左近将監乗邑、同水野和泉守忠之、同じく酒井讃岐守忠音の三人が正面に列座し、松平左近将監乗邑の口上で申し渡しが行われた。その内容は、
一、高村の刀取り上げは、公儀の公裁を受けるべきことで、実父に対して不孝なる処置である。
二、長右衛門の打ち首は、粗末な策である。
というものであった。頼季は、「上江御苦労ニ相懸 心得違之儀迷惑仕侯所ニ 存知之外軽く被 仰出難在仕合奉存侯」と口上を述べて退座した。  
■2
幕府から一連の処分を受けて、高村は江戸から戻ってきた。
その夜は、いつになく空気がよどみ、蒸し暑い夜であった。扇子を使う高村の額に、汗が滲んでいた。庭に、大きく開かれた障子からは、そよとも、風が入らなかった。
あのタマが、二人のいる部屋に音もなく入り込むと、行灯の下段にあった油壷を倒した。高村は、ハッとした。タマが、畳に拡がる菜種油を舐めはじめたのである。その舐める音が、小さく鳴った。ぴしゃっ、ぴしゃぴしゃ・・・。
おタカが叫んだ。
「旦那様、猫が油を! そこの行灯の油を舐めておりまする・・・。旦那様!」
高村は、自分の身が、小刻みに震えるのを感じていた。
「ん・・・? なにを不埒な、この化け猫め! 成敗してくれようぞ。おタカ刀を! 刀を持てぃ!」
そして、
「エイッ ヤアー!」
かけ声と共に振り下ろした高村の刀から、血しぶきが上がった。襖に写る猫の影はそのままに、鈍い音がして手ごたえがあった。
「この、化け猫めが! 成敗してやったは」
勝ち誇ったように、刀の血を振り払いながらそう言った高村の目に、血まみれになり、動くことのなくなったおタカの死体が見えた。そして行灯の火が、一瞬明るく、部屋を照らした。その光の中で、おタカの口が、少しづつ耳まで裂けていくのが、見えた。
「・・・」
高村には、なにが起きたか理解できなかった。おタカの死体の後ろにいた白猫は、背中の毛をさか立てて耳を伏せ、火を噴くように目を赤く光らせ、唸り声を上げて高村を威嚇していた。
「おタカ・・・」
高村は、怯んだ。
そして高村は、おタカを斬り殺した恐怖から逃れるかのように、やみくもに刀を振り回した。
おのれー! こん畜生め! おタカの仇」
白猫は、右に左にと飛び跳ねた。
その猫は、高村が斬っても斬っても、手ごたえがなかった。高村の目には、間違いなく猫の身体を切っているのにである。そしてこの長い闘いに、高村は大きく息をはずませていた。
「化け猫め!・・・、そこを動くな!」
タマは血にまみれながらも、悠然とおタカの返り血を浴びている高村を見据えた。そして一瞬、行灯の後ろに回った。高村は刀を振りかぶって、行灯に踏み込んだ。ひっくり返った行灯の火が、畳や障子に飛び散り、あっという間に強い勢いとなって燃え上がっていった。その火と血で身体を朱に染めたタマは、家の屋根に飛び上ると、すぐに隣家の屋根に飛び移った。
猫を追って庭へ出た高村を、高村の子供たちが、取り押さえよう駆け寄って来た、がすでに乱心した高村の刀は、我が子といえども容赦しなかった。子供たちも空しく骸となり、庭に散乱していった。
この家の火事に周囲の人々が騒ぎだし、半鐘が鳴り、火消したちが駆け集まってきた。タマは、隣の屋根の上からしばらくそんな様子を見ていたが、やがて屋根の一番高いところに上って行った。そして多兵衛の家のあった方を見ていたが、
「ギャオーッ」
と大きく天に向かって啼いた。
———旦那様。旦那様の恨みを、晴らしました。
タマは心の中で、そう多兵衛に、報告をしていたのかも知れなかった。その目は、あの優しい、元の猫の目に戻っていた。やがてタマは、地上に飛び降りると尻尾をピンと立て、その先をピクピクッと動かした。そして、それらの喧噪を横目にすると、悠然と山に帰っていった。
あの大騒動が終わってしばらくして、紫雲寺の「梅の木」の根元に、白い一匹の猫の骸(むくろ)が横たわっていた。その死骸を見た和尚は、あの多兵衛の猫・タマであることに、直ぐに気がついた。和尚の目には、安らかに目を閉じたタマの顔が、微笑んでいるかのように見えていた。和尚は、数珠を取ると静かに瞑目した。
高村の強欲は、その庇護の対象であったわが子・頼季の閉門を招き、さらに幕府から町人をも巻き込んだ大騒動となって終了した。そしてその高い代償は、多くの関係者の処分となって表れた。すなわち、幕府老中・松平左近将監、以下八名。類族・秋田兵部、以下五名。藩士・荒木玄蕃高村、以下四十五名。町方・与左衛門、以下六名その他である。
即日、全ての三春藩江戸屋敷は、表・裏両門が閉じられ、窓も締め切られた。
この藩主閉門の処置は、領民の生活にも遠慮を強いるものであった。すなわち家中への日中の出入り、他所への出入りなども厳しく規制され、何事にも慎み深くし、諸事穏便にするよう繰り返して触れが出された。
寛保三(一七四三)年、頼季は、四十六歳で病死した。その当時としても、決して、老齢という年齢ではない。狂おしいほどの日々と、そこから得られた息子の藩主としての座。しかし高村は、その息子にも先立たれた。全てを失い、孤独となった高村は、世話をする係とされた老女と二人、座敷牢と化した屋敷の中に閉じ込められた。
彼の欲望の結果は、何であったのか? そして、何年か後、『彼は狂ったまま死んだ』とも伝えられている。もしそれが本当だとして、高村が息子の死を知らずして死んだとすれば、それは幸せなことであったのであろうか? さらに彼の没年も、定かではない。
それにしても、善悪の基準は何か? という問題が残される。このことはまた、歴史が勧善懲悪のみで紡がれるものではないという事実を、話しかけているのかも知れない。現在、福島県田村郡三春町大町にある紫雲寺の境内に、「はらきり梅」と彫られた碑とともに、梅の古木が一本ある。「忠臣・滋野多兵衛」が切腹をし、己の内蔵を投げ掛けたと伝えられている木である。ただその怨念を知ってか、この梅の木の花は下を向いて咲くという。
ただしこの木、「すでに何度か植え替えられたもの」とも聞く。そして碑と今の「はらきり梅」との間に、朽ち果てた、古い「はらきり梅」の幹の一部も残されている。  ( 完 )
 
年をとると猫股になる

 

猫の都市伝説の一つである「年をとると猫股になる」について真偽を解説します。果たして本当なのでしょうか?それとも嘘なのでしょうか?
■伝説の出どころ
日本には古くから「猫は年をとると猫股になる」という都市伝説があります。「猫股」(ねこまた, 猫又とも)とは、不思議な妖力を持ち、人の言葉を理解できる猫の化け物のことです。この伝説の出所として最もしっくりくるのは、「日本の各時代における猫股が長い時間の中で自然融合してできた」とする考え方です。
典型的な猫股の像は、江戸時代の後期には既に成立していたものと推測されます。例えば、1780年から1825年頃の成立と考えられる江戸時代の随筆「耳嚢」(みみぶくろ, 耳袋とも)の中では、長く寺で飼われていた老猫が和尚に向かい「十年あまりも生きた猫だったらすべて言葉をしゃべれるようになります。さらにそれから四、五年もすると、不思議な能力を身に付けます。しかしそこまで長生きする猫はほとんどいません」と語るエピソードが記されており、この頃には既に猫股の固定概念のようなものがあったことがうかがえます。
江戸時代における猫股の特徴を簡単にまとめると、以下のようになるでしょう。
   典型的な「猫股」像
   歳をとると化ける
   しっぽが二股に分かれる
   毛色は黄色〜黒
   人を襲う
   体が大きい
   オスである
   人間の言葉を理解する
   踊る
   人(老婆が多い)に変身する
「猫の歴史と奇話」平岩米吉氏、および「猫の古典文学誌」田中貴子女史は、上記したような典型的な猫股像が成立するまでには、少なくとも数百年の時間がかかっていると推測しています。両氏はそれぞれ著書の中で、日本の各時代における著名な文献の中から「猫」にまつわる記述をピックアップし、猫股の起源について考察を加えています。
■伝説の検証
猫股のイメージは、江戸時代の後期に当たる1800年代頃には既に成立していたと考えらます。以下では、日本の各時代における「猫」のイメージが、一体どのようにして後の「猫股」に影響を及ぼすようになったのかを概観していきたいと思います。
平安時代(794年〜1185年)
「猫が化ける」という図式が登場し始めたのは、おそらく平安後期の頃だろうと推測されます。
平安中期
花山天皇(かざんてんのう, 968〜1008)が「敷島の大和にはあらぬ唐猫の君がためにぞもとめ出たる」と詠んでいることから、平安中期にはすでに中国から輸入された「唐猫」が日本の宮中にいたものと推測されます。
平安後期
平安後期に記された「本朝世紀」(ほんちょうせいき)の中では、「山猫」と呼ばれる化け物が近江(おうみ=現在の滋賀県)と美濃(みの=現在の岐阜県)の山中に出現し、村に入って人々を襲ったという記述があります。この「山猫」が、種としての「ヤマネコ」なのか、宮中にいる「唐猫」と区別するための「山猫」なのか、それとも山犬をただ単に「山猫」と呼んだのかに関しては定かではありません。しかし、平安初期においては宮中で高い地位を占めていたはずの「唐猫」が、時と共に身近な存在となり、平安後期になると「化け猫」扱いされるようになったという経緯がうっすらと見て取れます。
鎌倉時代(1185年〜1333年)
平安後期に成立したと思われる「猫が化ける」というイメージは、鎌倉時代に入ると「猫が化けて人を襲う」という悪役のイメージへと進化していったようです。
鎌倉初期
藤原定家(ふじわらのていか)が残した日記「明月記」(めいげつき, 1180〜1235)の中では、「猫股と言う獣が出て一晩で七、八人の被害者が出ました。目は猫のようで体は犬のようでした」という奈良からやってきた使者の話が登場します。またこの話を聞いた定家が、二条院の時代、京の都に「猫股病」と呼ばれる疫病が流行ったことを思い出します。前者では「怪物」と猫股がリンクし、後者では「疫病」と猫股がリンクしているようです。猫股と病気が結びつくようになったのは、「猫鬼」(びょうき)のイメージが影響を及ぼしたのかもしれません。「猫鬼」とは伝染病を媒介する鬼神の一種で、この頃中国から輸入されたと考えられています。
鎌倉末期
鎌倉末期、1330年頃の成立と伝えられる兼好法師の随筆「徒然草」(つれづれぐさ)の中では、「山の奥に猫またと言うものがいて、人を食うそうだ」、「いや山だけではない。このへんでも長生きした猫が猫またという怪物になって人を取ることはあるだろう」という表現があります。山であれ市中であれ「猫股=人を襲う化け物」という扱いになっており、当時の人々にとっての「猫股」がどういう存在だったかを知る手がかりを与えてくれます。
室町時代(1336〜1573年)
室町時代において特筆すべきは、「玉藻前」(たまものまえ)のお話です。これは平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた絶世の美女が登場する物語で、彼女は二尾あるいは九尾の狐が化けたものとされていました。彼女のイメージは後に、猫股がもつ「2つに分かれたしっぽ」に影響を及ぼしたと考えられます。
江戸時代(1603年〜1868年)
江戸時代に起こった大きな変化は、「中国の金花猫と日本の猫股が融合したこと」と、「猫股のしっぽが二つに分かれ始めたこと」、そして「猫が躍り出したこと」です。
金花猫と猫股の融合
中国の明(みん)で1600年代初頭に出された「五雑組」(ござっそ)の中では、「金花の家猫は3年以上飼っていると必ず人を迷わすことができる」と記されています。この「金花猫」(きんかびょう)とは、金花と呼ばれる地域に出没する中国版の化け猫のことです。
一方、江戸前期の注釈書「徒然草文段抄」(つれづれぐさもんだんしょう, 1667年)の中では、「金花猫は黄色の猫で化けて婦女に煩いを成す」とあり、さらに「徒然草諸抄大成」(1700年ころ)の中では「金花猫は黄色の猫である。化けて婦女に煩いを成す」との記述があります。このことから、1600年代初頭に中国から輸入された「金花猫」という化け物のイメージが、その後約100年かけて日本文化の中に浸透していった流れがうかがえます。そしてこの流れは、日本版の化け猫である「猫股」に影響を及ぼし、ただ単に「猫が化ける」という従来の図式から、「年を取った猫が化ける」という新たな図式への変遷に拍車をかけたものと推測されます。
中国の「金花猫」と日本の「猫股」の融合を示す具体例も散見されます。例えば「本朝食鑑」((ほんちょうしょっかん, 1697年)の「おおよそ雄の老猫は妖怪となる。その変化の仕方は狐狸と変わらず、よく人を取って食う。俗にこれをねこまたという」という一節や、「和漢三才図会」(1712年)の「おおよそ十年以上生きた雄猫には、化けて人に害をなすものがある。言い伝えによれば、黄赤の毛色の猫は妖をなすことが多い」という一節などです。ちなみに「雄猫」という条件が追加された理由は、遺伝的にオス猫の方が金色(オレンジ〜茶色)の毛色を発現しやすいからかもしれません。
しっぽの分裂
江戸中期の成立と伝えられる辞書「安斎随筆」(あんざいずいひつ)の中には、「数年の老猫は形が大きくなり、しっぽが二股になって災いを成す。これをねこまたともいう。しっぽが分かれているからいうのだろう」という解説が記載されています。また江戸後期の博物学書「重訂本草綱目啓蒙」(1803年)の中には「俗に老猫でしっぽが二股に分かれ、人をたぶらかすのをまたねこという」との一説が見て取れます。このことから、江戸中期〜後期の頃にはすでに、「猫股のしっぽは2つに分かれている」というイメージが完成していたものと推測されます。このことは、妖怪画で有名な江戸後期の画家・鳥山石燕(とりやませきえん)の「画図百鬼夜行」(1776年)中にある「猫また」という絵からも明らかです。
猫股の尻尾が分裂し始めた理由については定かではありません。考えられるのは、九尾の狐が登場する「玉藻前」の話と、猫と狐が共通して持っている「化ける」というイメージが混じり合い、猫と狐が合体していつの間にか猫のしっぽが分かれてしまった、という仮説です。江戸末期の随筆集「燕石十種」(えんせきじっしゅ, 1860年頃)の中には、「猫と狐が番(つが)え、狐の体に猫のような白黒まだら模様を持った子が生まれた」という話があります。このことからも、当時の人々にとって猫と狐がイメージ的に近いもので、いつ合体が起こっても不思議ではないことが見て取れます。
猫股のダンス
先述した鳥山石燕(とりやませきえん)の「画図百鬼夜行」(1776年)の「猫また」を始め、猫股をモチーフとした絵画や浮世絵では、頭に手拭いを乗せて踊っている姿を多く見かけます。その端緒とでもいうべき逸話は、江戸中期、1708年刊の「大和怪異記」の中に早くも登場していました。
「筑後国(現在の福岡県)に暮らすとある侍の家では、夜になると手鞠ほどの大きさもある火の玉が現れ、家人に怪をなしていた。ある日主人が何気なく屋根の上を見ると、一体何年生きているのかわからないようなすさまじい猫が、下女の赤い手拭いを頭にかぶり、しっぽと後ろ足で立ち上がって手をかざして四方を眺めているではないか。すかさず矢を射ると見事に命中し、怪猫は体に刺さった矢を噛み砕きながら死んでしまった。屋根から引き落としてみると、そのしっぽは二つに裂け、体長は五尺(1.5m)ほどもあった。」
このように1700年代初頭の時点ですでに、「猫股が人間のように立ち上がる」という擬人化が進んでいたと考えられます。さらに、それから100年以上後の1821年に刊行された「甲子夜話」の中では、下総佐倉(現在の千葉県佐倉市)の高木伯仙という人物が体験した「ある夜寝ていると、枕元で何か音がする。目を開けて見てみると、長らく飼っていた猫が手拭いをかぶって立ち上がり、手を招く仕草を見せ、子供のように舞い踊る姿があった」というエピソードや、角筈(現在の東京都新宿区)に暮らしていた光照という女性が体験した「飼っていた黒毛の老猫が侍女の枕元で踊りだしたので布団をかぶって寝た振りをした」といったエピソードが紹介されています。
こうしたことから、1700年代初頭に現れ出した「猫股は踊る」というイメージが、100年以上の時を経て徐々に固定化されていった流れを確認することができます。
■伝説の結論
「猫は年をとると猫股になる」という都市伝説は、平安時代から江戸時代に至る数百年の歴史の中で、猫にまつわる様々な逸話がブレンドされて完成したと考えるのが妥当なようです。
こうした流れの中で固定化された猫股の悪役としてのイメージは、当時の猫たちにとって決して歓迎されるタイプのものではありませんでした。例えば江戸時代の百科事典「和漢三才図会」(1713年)の中では、三味線について「その皮みな猫の革を以てす、八乳の者を良しとす、狗子の皮を下となす」と記載されています。永禄年間(1558〜70年)では海ヘビだったはずの三味線の皮が、わずか70年ほどの間に猫の皮に入れ替わっています。この背景には「海ヘビの皮を入手しにくい」という物流的な問題のほか、「邪悪な存在である猫なら殺しても心が痛まない」といった文化的な後押しがあったように思えてなりません。また「長いしっぽの猫はそのうち2つに分かれ猫股に変化する」という都市伝説を信じていた人々は、特に虎毛や黒毛の子猫のしっぽを縛って血液を分断させ、意図的に壊疽させていたようです。これは現代でいう犬の断尾と同じ風潮です。猫からするとたまったものではないでしょう。
幸い、猫のしっぽを短くするという慣習は、明治と大正を経る間に風化していきました。また、社会的ステータスの上昇と共に平均寿命も大きく伸び、2014年の時点で、外に自由に出られる猫が13.19歳、完全に室内で飼われている猫が15.69歳程度と推計されています(ペットフード協会)。1800年頃の「耳嚢」(みみぶくろ)では「十年あまりも生きた猫だったらすべて言葉をしゃべれるようになります。さらにそれから四、五年もすると、不思議な能力を身に付けます。しかしそこまで長生きする猫はほとんどいません」とされていましたので、今の日本に暮らしている猫たちは、そのほとんどが「スーパーネコマタ」と言っても過言ではないでしょう。  
 
海老食い猫縁起

 

幕末…というにはまだ少し早い徳川時代の末ごろ、江戸に住む侍の家に二十年も飼われている猫がいました。ある年の瀬のこと、例年のごとく鏡餅を飾ると、その老猫がぴたりと床の間の前に座り、餅の上に載せられた伊勢海老をじっと見つめたまま、動きません。現代では、鏡餅の上には蜜柑を載せるのが一般的ですが、江戸の武家は、鏡餅のうえにはもっぱら伊勢海老を載せた…と、これは、その家に伝わる口承ですから、本当に江戸の、すべての侍の家がそうであったのかは解りません。
歴史的に考証するなら、蜜柑を飾るのは「子種を宿す」という縁起かつぎで、それより古くは橙が用いられたといいます。こちらは、「御家代々ご繁盛」という洒落。語呂の良い橙は、まことに目出たい柑橘類ですが、武家においては禁忌とされることもありました。橙は、見てくれは大屢立派ですが、果肉は貧弱で、酸もきつく、食用に適しません。ゆえに、格好だけは莫迦に立派で、ものの役に立たない武士のことを「橙武者」と呼ぶ風習が、これは戦国時代にあったそうです。大坂冬の陣の際、こっそり陣を抜け出して遊郭に通っている間に、守備を任された博労ヶ淵砦を敵に攻め落とされてしまった薄田隼人正という武将……嘘か本当かは解りませんが、彼の前半生は、狒々退治で有名な豪傑岩見重太郎であったといいます。その鳴り物入りのヒーローが、遊郭通いでとんだ恥をかいたわけで、彼などはまさに橙武者の典型といわれました。そんなこともあって一部の武家には、橙を嫌い、代わりに伊勢海老を飾る風習ができたのかもしれません。
ともかく、二十年も飼っている老猫は、床の間の前をじっと動きません。やがて大つごもりの夜が来、明けて元旦となっても動きません。まだ、松が取れないうちのこと。矢張、床の間の前をじっと動かないその猫に、当主が、屠蘇にでも酔っていたのか何気なく――「いったい何が欲しいのだ?」と問いかけました。すると猫は、すうっとこちらへ顔を向け、「いせ〜えび」と、答えたというのです。「化けたッ!」と、屋敷内は大騒ぎ。当時、化け猫は家に災いを齎すと信じられていました。当主は、床の間から海老を取ると庭へ投げ、「この伊勢海老は呉れてやるゆえ、我が家に仇はなすまいぞ!」と、叫びました。すると猫はまた、すうっとこちらへ顔を向けたかと思うと、「うん」と頷いて庭へ降り、海老を咥えて出ていったまま、二度と帰ってこなかったそうです。以来、この家には「猫は化けるから、飼ってはいけない」という家訓ができ、その後二百年、猫を飼っていません。
猫絵の作者は、この侍の家の子孫にあたります。自分の家が猫を飼わなくなった顛末を知人に語り、その時たまたま近くにあったコピー用紙に、持っていた筆ペンで海老を咥えた猫の絵を描いて見せたのが絵を描くきっかけ。「可愛いですね、もらってもいいですか? 」と、その絵を持っていった知人が、しばらくして電話をかけてきました。「あの猫の絵。何枚か描いてくれませんか?」何の気なしに、仕事机のパソコンの脇に貼っておいたら、妙に段取り良く仕事が片付くようになったというのです。おや?と思って、転職を考えている友人にその絵を与えたら、給料を今の二倍くれるという願ってもない転職先が見つかったとか。「親戚に高校受験を控えた子供がいる。宝くじを買った。猫好きの知り合いにやる。俺も転職したい― ―ともかく、五、六枚描いてくれ」…と。 偶然にしても、面白いこと。五枚描くのも、十枚描くのも一緒と、三十枚ほど描いて、知り合いに配ってみたところ、次々と「効果」が報告されはじめました。ある食品雑誌の編集者は、この猫絵を手に入れた翌日、病欠した同僚の代理で出張した取材先で、思いがけずロマネ・コンティを振舞われる幸運に恵まれました。本屋で立ち読みをしていたら、イケメン男子からナンパされた、という四十代の女性。猫の絵を飾ったその日、店の売上げ記録が出たという居酒屋。「彼氏ができた」「よりが戻った」「少額の宝くじが当った」「お通じがあった」「血糖値が下がった」「網棚の上に忘れた鞄が無事に戻ってきた」…いずれも、所詮は猫が咥えてくる程度の、小さな幸せばかりですが……。
実際のところ、そんな「小さな良いこと」は日常にいくらでも転がっていて、あるいはこの絵が無くても、屡々遭遇しているのでしょう。しかし、「日常にいくらでも転がっている」ことなるがゆえに、惰性に溺れ、それを「幸せ」とはカウントしなくなっている――ということも多々あること。もし、この猫絵に効力があるとするなら、それは、日常に埋没してしまいがちな「小さな良い事」を、「猫が運んできた幸せ」として認識することに他ならないのではないでしょうか? 猫絵を身近に置くことで、幸せの感知能力が高まり、ささやかな幸せを喜べるほどに豊かな情緒が育まれるとすれば、それはそれで、化け猫も、迷信も、妖怪も、多少の存在価値を持つのかもしれません。
なお、この絵は手描きですから、一枚いちまい微妙に姿かたちが異なっています。その顔の猫がお手元に届いたことを「縁」と思って、可愛がっていただければ幸いです。  
 
猫の穴掘り / 寺田寅彦

 

猫が庭へ出て用を便じようとしてまず前脚で土を引っかき小さな穴を掘起こして、そこへしゃがんで体の後端部をあてがう。しかしうまく用を便ぜられないと、また少し進んで別のところへ第二の穴を掘って更に第二の試みをする。それでもいけないと更に第三、第四と、結局目的を達するまでこの試みをつづけるのである。工合ぐあいの悪いのが自分の体のせいでなくて地面の不適当なせいだと思うらしい。
どこへ住居を定めあるいは就職しても何となく面白く行かないで、次から次へと転宅あるいは転職する人のうちにはこの猫のようなのもあるいはあるかもしれない。
永らく坐りつづけていたあとで足がしびれて歩けなくなる。その時、しびれた足の爪先をいくら揉もんでもたたいてもなかなか直らない。また、夜中に眼が覚めてみると、片腕から手さきがしびれて泣きたいような歯がゆいような心持がすることがある。これもその、しびれた手さきや手首を揉んでも掻いてもなかなか直らない。これらの場合にはそのしびれた脚や腕の根元に近いところに着物のひだで圧迫された痕跡が赤く印銘されているのでそこを引っかき摩擦すればしびれはすぐに消散するのである。病気にもこんな風に自覚症状の所在とその原因の所在とがちがうのがあるらしい。
人間の心の病や、社会や国家の病にもこんなのがある。異常を「感じる」ところをいくら療治してもその異常は直らない。それを「感じさせる根原」の所在を突き止めなければ病は直せないのである。しかしこの病原を突きとめて適当な治療を加えることの出来るような教育者や為政者は古来稀である。
喧嘩ばかりしていて、とうとうおしまいに別れてしまう夫婦がある。聞いてみると到底性格が一致せぬからだという。しかしよくよく詮議してみるとやはり貧乏が総ての究極の原因であったという場合もかなり多いようである。紳士と紳士が主義の相違で仲違いをしたというのが、その背後に物質の問題のかくれていることもある。
世の中が妙に騒々しくて、青いX事件があるかと思うと黒いY事件、黄色いZ事件などが続出する。ある人はこれを社会経済状態の欠陥のせいだと信じ、またある人は唯物論的思想の流行による国民精神の廃頽のせいだと思い込む。しかしこれらの動揺の真因は必ずしもそう手近な簡単なものではないかもしれないと思われる。
いろいろ考えられる原因の中での一つのかなり重要な因子として次のようなものが考えられる。それは、理化学の進歩の結果としてあらゆる交通機関が異常に発達したのはよいが、その発達が空間的時間的に不均整なために、従来は接触し得なかったような甚だしい異質的なものの接触が烈しくなり、異質間の異性質のグレディエントが大きくなった。そうして、そういう接触に人間が馴れ得るためにはそういう接触の時間的変化があまりに急激過ぎるか、ないしは人間の頭の適応性があまりに遅鈍であり過ぎるか、とにかくそのために接触界面の現象として色々な異常現象が頻出するかと思われるふしも少なくないようである。
例えば熱鉄を氷片に近づける場合を考えてみる。近づける速度が非常にゆっくりしていれば、近づいて行く間に鉄はだんだん冷却し、氷はだんだんに解け、解けた水は暖まり、それでいよいよ接触する瞬間にはもう両方の温度の差はわずかになっているから、接触しても別にじゅっともすうとも云わない。しかし両者の近づくのが早くて摂氏六百度、七百度の鉄がいきなり零度の氷に接触すると騒動が起る。
水の中に濃硫酸をいれるのに、極めて徐々に少しずつ滴下していれば酸は徐々に自然に水中に混合して大して間違いは起らないが、いきなり多量に流し込むと非常な熱を発生して罎びんが破われたり、火傷やけどしたりする危険が発生する。
汽車や飛行機や電話や無線電信はいわば氷の中へ熱鉄を飛び込ませ、水の中へ濃硫酸を酌み込むような役目をつとめるものである。
交通機関の拡がるのは、風の弱い日の火事の拡がるように全面的ではなくて、不規則な線に沿うて章魚たこの足のごとく菌糸のごとく播ひろがり、又てづるもづるの触手のごとく延びるのである。それがために暗黒アフリカの真只中にロンドン製品の包紙がちらばるようなことになる。提燈ちょうちんとネオン燈とが衝突することになる。それが騒動のもとになるのである。
こういう騒動をなくするにはあらゆる交通機関をなくしてしまうか、ただしはこれらの機関を万遍なく発達させるか、どちらかによる外はない。
精神的交通機関についてもやはり同様で、皆無か具足か、どちらかを選ぶことにしなければ面倒は絶えない。
教育にしても子供から青年までの教育機関はあっても中年、老年の教育機関が一向にととのっていない。しかし、人間二十五、六歳まで教育を受ければそれで十分だという理窟はどこにもない。死ぬまで受けられる限りの教育を受けてこそ、この世に生れて来た甲斐があるのではないかと思われる。現在ある限りの学校を卒業したところで、それで一人前になれるはずがない。
中年学校、老年学校を設置して中年、老年の生徒を収容し、その教授、助教授には最も現代的な模範的ボーイやガールを任命するのも一案である。
子供を教育するばかりが親の義務でなくて、子供に教育されることもまた親の義務かもしれないのである。
新しい交通機関、例えば地下鉄や高架線が開通すると、誰よりも先に乗ってみないと気のすまないという人がある。つい近ごろ、上野公園西郷銅像の踏んばった脚の下あたりの地下に停車場が出来て、そこから成田行、千葉行の電車が出るようになった。その開通式の日にわざわざ乗りに行った人の話である。千住大橋せんじゅおおはしまで行って降りてはみたが、道端の古物市場の外に見るものはないので、すぐに「転向」してまた上野行に乗込み、さて車内の乗客を見渡すと、先刻行きに同乗した見覚えの顔がいくつも見つかったそうである。多分みんな狐につままれたような顔をしていたことと想像される。
地味な科学者の中でさえも「新しいもの好き」がある。新しいもの好きが新しい長所を取るべきは当り前であるが、いわゆる「新し好き」は無批判無評価にただその新しさだけに飛びつくのである。新しい電車に飛び乗ってうれしくなってしばらく進行していると「三河島みかわしまの屋根の上」に出る。幻滅を感じて狐につままれた顔をして引返してくる場合もあるであろう。しかしアインシュタインは古い昔のガリレーをほじくって相対性原理を掘りだし、ブローイーは塵に埋もれたハミルトンにはたきと磨きをかけて波動力学を作りあげた。
時々西洋へ出かけて目新しい機械や材料を仕入れて来ては田舎学者の前でしたり顔にひけらかすようなえらい学者でノーベル賞をもらった人はまだ聞かないようである。
そうはいうものの新しいものにはやはり誘惑がある。ある暖かい日曜に自分もとうとう京成けいせい電車上野駅地下道の入口を潜った。おなじみの西郷銅像と彰義隊の碑も現に自分の頭の上何十尺の土層の頂上にあると思うと妙な気がする。
市中の地下鉄と違って線路が無暗むやみに彎曲わんきょくしているようである。この「上野の山の腹わた」を通り抜けると、ぱっと世界が明るくなる。山のどん底から山の下の平野の空へ向って鉄路が上向きに登っているから、恰度ちょうど大砲の中から打出されたような心持がして面白い。打出されたところは昔呉竹くれたけの根岸ねぎしの里今は煤すすだらけの東北本線の中空である。
高架線路から見おろした三河島は不思議な世界である。東京にこんなところがあったかと思うような別天地である。日本中にも世界中にもこれに似たところはないであろう。慰めのない「民家の沙漠」である。
泥水をたたえた長方形の池を囲んで、そうしてその池の上にさしかけて建てた家がある。その池の上の廊下を子供が二、三人ばたばた駆け歩いているのが見えた。不思議な家である。
千住大橋でおりて水天宮すいてんぐう行の市電に乗った。乗客の人種が自分のいつも乗る市電の乗客と全くちがうのに気がついて少し驚いた。おはぐろのような臭気が車内にみなぎっていたが出所は分からない。乗客の全部の顔が狸や猿のように見えた。毛孔の底に煤と土が沈着しているらしい。向い側に腰かけた中年の男の熟柿のような顔の真ん中に二つの鼻の孔が妙に大きく正面をにらんでいるのが気になった。上野で乗換えると乗客の人種が一変する。ここにも著しい異質の接触がある。
広小路ひろこうじの松坂屋へはいって見ると歳末日曜の人出で言葉通り身動きの出来ない混雑である。メリヤスや靴下を並べた台の前には人間の垣根が出来てその垣根から大小色々な無数の手が出てうごめきながら商品をつまぐり引っぱり揉もみくたにしている。どの手の持主がどの人だかとても分からない。大量塵芥じんかい製造工場のようなものである。また万引奨励機関でもある。
これらの現象もやはり交通文明の発達と聯関しているようである。
小さな不連続線が東京へかかったと見えて、狂風が広小路を吹き通して紳士の帽を飛ばし淑女の裾を払う。寒暖二様の空気が関東平野の上に相戦うために起る気象現象である。気層の不平の結果である。
昔、不平があると穴を掘ってはこっそりその中へ吐き込んだ人がある。自分も何かしら書きたいことがあって筆を取ったはずであったが、思うことがなかなか思うように書けないので、途中で打切ってさて何遍となく行を改めて更に書出してみても、やはりうまく書けない。思うことの書けないのは世の中のせいかというような気もするが、これも猫の穴掘りと同様に実は自分の筆の通じが悪いせいかもしれないのである。 
 
五郎左衛門狐

 

十返舎一九作『化皮太鼓伝』に登場する狐です。
木枯らしの森の狐の長「のまわり狐」のもとに手下を差し向け強盗をはたらいた結果、彼に力を貸す豪傑・見越入道に懲らしめられた安倍山の妖怪の頭領・山彦。雪辱を誓って山の妖怪たちを集め狐の森に攻め入るも、痺れ酒を飲まされ酩酊してしまいます。そこへ大勢の仲間を引き連れて颯爽と現れたのが、舟山の五郎左右衛門という狐の豪傑でした。五郎左右衛門は安倍山の妖怪たちを片っ端から打ち据えて倒していき、大将山彦もたまらず逃げ出しました。
その後、戦いに参加した野狐たちの働きを喜んで、のまわり狐はかれらに褒美を与えました。しかし、激しい戦いによって野狐たちが棲む土地は荒れ果てていました。「薮潜(やぶくぐ)り」と「こんちき」という二匹の狐の所有地を隔てる垣根も倒れて、その境界がわからなくなってしまいました。これを機に自分の土地を広くしたい狐は諍いを起こし、互いに譲らないために仲間の野狐をも巻き込んだ大喧嘩に発展してしまいました。事の裁断はのまわり狐に委ねられるも、境界には以前こんちきが地主として建立した稲荷宮の柱があり、薮潜りは分が悪いようです。
が、蓋を開けてみれば主張が認められたのは藪潜りの方でした。彼と親しい五郎左衛門狐は、酒の席でその真相を聞かされました。実は宮の柱には「地主こんちき建立」と刻まれており、当初藪潜りはこれを削って己の名を上書きする腹積もりでした。しかしながら藪潜りは字が書けず、心安い者として鼠の商いをする雌の猫股を頼りました。話を聞いた猫股は、何故かこんちきの名を再び書いて藪潜りを驚かせます。猫股曰く、名を上書きするのは元は別の名が記されていたから。元の名を削ったと悟られたとき、新たに名を書いた者が疑われる。そこで古い名を削ったうえで敢えてこんちきの名をもう一度記すことで、こんちきに疑いがかかるよう仕向けるという企みがあったのです。猫股の狙い通り、のまわり狐はこんちきに名を改竄した疑いをかけて糾弾し、薮潜りの訴えを認めました。
猫股の機知に富んだ働きを知った五郎左右衛門は大いに感心し、共に酒盛りをして親睦を深めました。
その後、小岩岳の荒れ城の近くを歩いていた猫股は、この辺りに巣食う無頼の化物たちに因縁をつけられて襲われそうになります。猫股は理詰めでかれらを退けようとしますが、言い返せずに怒った化物はついに彼女に暴力をふるい始めました。通りかかった五郎左右衛門が仲裁に入るも化物たちの怒りは収まらず、五郎左右衛門にも無礼な物言いをします。いよいよ五郎左右衛門も堪えかねて、たちまち化物たちを投げ倒すと、斬りかかってくるのをまた踏みつけて縛り上げ、猫股を助け出しました。話を聞いてみれば、やはり猫股の言い分の方が理屈の通ったものでした。五郎左右衛門は利発な猫股に惚れ込み、彼女を妾に迎えて以後寵愛しました。
猫股の父は「宿無し」と呼ばれる泥棒猫で、安倍山の山彦配下の化け猫でした。仇敵である五郎左右衛門に娘をやった宿無し猫は山彦たちにとっては裏切り者も同然。山彦一味に捕らえられ、あらぬ疑いをかけられ窮地に陥ります。このことを知らされた猫股は安倍山に赴き、山彦に対面して父の助命を嘆願しました。しかし山彦は父諸共に猫股を拷問にかけると言い出し、ふたりとも助かりたいなら五郎左右衛門たちに毒入りの鼠の油揚げを食わせて殺せと強いるのでした。「仰せの通り、狐どもを皆殺しにいたしましょう。それまでは父のこと、なにとぞ御慈悲の御計らいをお願いいたします」猫股はやむを得ず山彦に従い、狐たちの棲み処へと帰っていきました。
その頃、五郎左衛門狐は舟山稲荷の眷属総頭に任命され、のまわり狐から祝いの金銀米穀を数多贈られていました。もちろん山彦の陰謀を知る由もありません。五郎左衛門が新年の挨拶をする場面で物語は一旦終了、続きは後篇に譲ると予告されていますが、後編の出版は確認されておらず、『化皮太鼓伝』はこれをもって打ち切られたものと思われます。

『化皮太鼓伝』 合巻。十返舎一九作、歌川国芳画。天保4年(1833)刊。化物の世界で展開される活劇を描く。題名は水滸伝のもじり。未完。 
 
猫の山 

 

昔、ある所に奥様と下働きの娘と一匹の猫がいました。その家の奥様は猫をいじめて面白がって遊び、娘は「ミケ、ミケ。」と呼んで、可愛がって暮らしておりました。
ところがある日、その猫が急にいなくなってしまいました。娘は、ただ一人の友達を無くしたようにあちこちを探し回り、泣き暮らしました。 ある日、旅の六部が、猫を探す娘の前に現れました。
「その猫は九州のいなばの山の猫山と言う所にいるから会いに行け。」
六部はただそう告げるとどこともなく消えてしまいました。
それを聞くと、娘は、やもたてもたまらなくなり、奥様にひまをもらって九州のいなばの山へ向かいました。しかし、その山まで来ても猫山と言う所がどこなのかわかりませんでした。そのうち日も暮れてきて、山の中に一人、娘は大変困ってしまいました。そこにどこから現れたのか、男が一人通りかかりました。娘が猫山はどこかと聞くと、「それはこの道をもう少し行った所だ。」と、言ってまた消えてしまいました。
こんな所にミケがいるのかしら?
娘は恐る恐る教えられた通りに行くとそこには大きな家がありました。真っ暗な山の中に他に家は見当たりませんでした。娘はここで泊めてもらおうと戸を叩きました。すると中から美しい女が出て来ました。
「私は可愛がっていた猫を探しに猫山へ尋ねて来たのですが、道に迷って困っています。一晩宿をお貸し願えませんか?」
娘がたずねると、女はニタリと笑いました。
「こんな所に来て、お前さん喰い殺されたいのかい?」
突然、猫が鳴きました。どこからか、それに答えるように、また猫が大きくなりました。女は、その声を聞くと声をやわらげ、
「山の夜道で狼に狙われたらどうされます?早くお入りなさい。」と、娘を屋敷に招き入れました。
家の中に入ると、年老いた老婆が出てきて、娘の手を取り部屋に案内しました。「今夜はこの部屋に泊まるがよい。」娘は言われるまま、床に床につきました。
夜が更け夜半を過ぎた頃、隣の部屋から話し声が聞こえてきました。それは、何かが鳴くような、うねるような声でした。娘は、唐紙をそっと開けて隣の部屋をのぞきました。そこには先ほどの老婆を真ん中に、美しい娘が二人、眠っていました。唐紙を閉め、床につくと、また声が聞こえてきました。「今日の娘は可愛がっていた猫をたずねてきたのだそうよ。だから、噛みついてはいけないとおばあさまのお言いつけだわ。」娘は恐ろしくなり、蒲団の中で震えました。
「大丈夫よ、何もさせないわ。」
蒲団のそばにミケがいました。ミケは娘の顔を見るとペロリとなめ、すぅっと美しい女に変わりました。娘が驚いていると、美しい女になったミケは、娘の手を取りました。
「よく訪ねて来てくれました。私は年をとって、ここへ来る事となりました。ここに来る事は猫にとって出世なのです。あの家では私に優しくしてくれたばかりか、友達のように思ってくださってありがとう。」
娘はミケの顔を見ました。
「あなた、ほんとはこんな顔をしていたのね。」
ミケはにっこり笑いました。
「ここは、日本中の劫をへた猫が来る所、人の来る所ではありません。夜が明けたらこれを持って帰りなさい。」
ミケは娘に白い紙包みを渡しました。
「帰り道、猫を見たらこれを見せてふりなさい。必ず通してくれます。」
そう言うとミケは、さがりながらすぅっと元の猫に戻りました。そして昔のように、娘の手にほおずりをして、部屋から出ていきました。
夜が明けて娘は屋敷を出ました。外にはそこかしこに猫が集まって、娘を見ていました。それは、獲物を狙うような目をしていたのです。娘はミケにもらった白い紙包みを取り出し、猫達に見せてふりました。すると猫達は驚いたように跡すざりをして道を開けたのです。娘は、なんの危害にもあわず家に帰り着いたのでした。
家に帰った娘は、奥様に猫山での出来事を話すと、奥様はミケにもらった紙包みを開けて見るように言いました。娘が紙包みを開けて見ると、中には犬の絵が描いてあり、その犬は本物の小判を十両くわえていました。奥様はその小判をたいそう羨ましがり、自分も欲しくなりました。
「下働きの娘が十両手をするのは容易ではない。それだけの金子があれば一生食べていける。私は猫の主人だから、その山に行けばもっとたくさんのお金をくれるだろう。」
奥様はそのまま猫山へと向かいました。
聞いた通り進んで屋敷を見つけました。あたりで猫の鳴き声がギャアギャアとうるさく聞こえました。奥さんは戸をダンダン叩くと、「泊めておくれ、中に入れておくれ!」と叫びました。家の中から出てきた、女は取りあおうとしませんでしたが、奥様はしつこく食い下がりました。すると老婆が出てきて、仕方がないから泊めてやろうと中へ入れました。
夜が更けて来ました。しかし、猫の鳴き声があちこちから聞こえてうるさくて眠れません。唐紙の向こうからも、何か騒がしい声が聞こえてきました。奥様がそーっと、のぞいて見ると、そこには着物を着て顔が猫の、人とも猫ともつかぬものがふたつ、ありました。
奥様は驚いて、危うく声を上げそうになりました。すると今度は、後の方で、猫がギャアギャア声を立てています。後の唐紙を開けてみると、老婆と同じ着物の年老いた猫が一つ、こちらを睨んでいました。奥様は恐ろしくて、蒲団をかぶって震えていました。
しばらくすると、あれほど騒がしかった猫の声がぴたりとやみました。そして、唐紙がすーっと開いて、何かが近づいてきました。奥様は蒲団の中から見ると、それはミケでした。
「ああ、ミケかい?おまえ、よくこんな恐ろしい所に来たもんだね。さぁ、帰ろう。
ここにいると何が起こるかわからぬ。」
奥様は蒲団から出るとミケを抱こうとしました。
サッと爪が走りました。
奥様は慌てて手を引っ込めました。ミケの目の奥には何か得体の知れない恐ろしいものがありました。気がつくと、奥様のまわりには猫がたくさんいたのでした。
猫山から帰った娘は、いつまでたっても帰ってこない奥様の家から出て、十両のお金を元手に小間物の店を開きました。店はいつしか大きくなり、昔の自分と同じような娘が何人働いていました。忙しくクルクル働く娘達見るのが幸せでした。
そして、なにより、その中で働く事が娘にとって一番の幸せだったのです。
  
劫をへた猫は、尻尾が二つに別れるのが特徴だそうです。
「猫股(ねこまた)」ですね。
猫股の記述は「明月記」「古今著聞集」「徒然草」等に見られ、年老いた猫が人を喰う、老婆の姿となる、としているようです。美女に化ける、はもともと猫は中国の輸入で、限られた身分の高い人しか飼えませんでした。また、九尾の狐の化けたものが、玉藻の前という王朝美人であった事等から、猫の化るものは十二単の王朝美人→美人となったようです。
ではオスの猫股はどうなるのか?
・・・ごめんなさい。オスの猫股は発見出来ませんでした。猫目小僧のお父さんが確か猫股だったと思うんですが、文学上は見当たりませんでした。
やはり、猫は女性との結びつきが強いようです。  

 

 
 
丸山遊郭 猫の食いさし

 

こんな話がございます。
肥州長崎は唐船着岸の津にございます。綾羅錦繍の織物に金銀の糸、薬種にその他もろもろの品。種々の珍貨が絶えることなく我が朝へ入ってくる。その玄関口でございまして。
日本六十余州のあきんどが当地へ来たりて商売をする。その賑わいぶりは、難波を凌ぎ京にも劣らずト称されるほど。
かの地には丸山ト申す遊郭がございますナ。唐人、紅毛人の気を引こうト、着飾った女郎たちがひしめいている。いにしえの江口、神崎ナドもかくやト思わせる華やかさで。
もっとも、光が差せば影が従い、陽気が興れば陰気が篭もります。裏路地へ一歩踏み入るト、表のきらびやかさトハもう別世界。
揚荷抜きの小悪党、行き場を失った年増女郎。食いはぐれたドラ猫に、汚物にまみれたドブネズミ。夜ともなれば、魑魅魍魎が跋扈するとかしないとか。
さて、この丸山遊郭の一角に、枡屋ト申す女郎屋がございまして。ここに左馬の介ト申す一人の遊女がございましたが。
名の勇ましさとは裏腹に、まだ十五になったばかりの小娘です。ほんの昨日まで、禿(かむろ)――つまり姉さん女郎の侍女だったトいう。まだ客を取ったこともなく、面立ちも可憐で女童らしさが残っている。花代は格安の銀五分で、こういう端女郎を俗に「分け」ナドと申します。
好きでこの苦界に身を沈める者はない。左馬の介ももちろん然りでございます。
今日から客を取らされることが、不安で不安でなりません。結いたての髪に刺したかんざしが、カチカチと音を立てて揺れている。
雨のそぼ降る夏の夕。左馬の介が気を鎮めようト。格子窓から外の通りを眺めておりますト。
傘もささずにフラフラと。懐手で通りを歩いてくる。少年の姿が見えました。
年の頃なら、十六、七。立派な身なりに刀を差している。鞘に散りばめられた金銀細工。
餅のように白い頬、薄紅がほんのり差している。濡れ髪が乱れて額にかかる。その様が絵に描いたように美しい。紅顔の美少年とはまさにこのことでございます。
山出しの左馬の介は、吸い込まれるように見入ってしまう。姉さん女郎の客をこれまで数多見てまいりましたが。これほどまでに美しい優男を、ついぞ見たことがございません。
――どうせこの身を売るのなら、あんな優しそうな人に任せたいものを。
左馬の介は心底そう願う。ところが、そんな思いが通じるわけもございません。懐に手をしまったまま、あちらの格子、こちらの格子ト。きょろきょろト目をやりながら、若衆は歩いて行きますが。
そうだ、ト左馬の介が思いつきましたのは。こんな時のために習わせられたのではなかったかト。硯を出し、紙を広げ、思いの丈を綴りますト。今日からついた己の禿に、初めて用事を言いつけました。
「お清さん。これをあの若衆に」「アイ――」
お清も女郎屋暮らしが長うございますから。合点承知とばかりに、文を懐に表へ出る。するト、ほとんど同時に、若衆がこちらをふと振り向いた。幼い遊女と幼い武士の視線が図らずも交錯する。
ト、その眼差しを見て、左馬の介はハッとした。射るように見る若衆の瞳が、紅毛人のように青かったのでございます。
――チョット、一息つきまして。どこまでお話しましたか。そうそう、長崎は丸山遊郭の遊女左馬の介が、見初めた若衆から青い瞳で見つめられたところまでで――。
若衆は後ろから近づいてきた禿のお清から文を受け取りますト。しばらくはつらつらと文面に目を落としておりましたが。文をたたみ、顔をもたげるヤ、びいどろのように青い瞳で再び左馬の介を見た。我知らず頬が赤らむのが、自分でもよく分かりました。
お清に先導されて若衆が座敷へ上がっていく。左馬の介は別室で身なりを整え直しまして。満を持して廊下をしずしずト歩いていく。
震える手でスッと襖を開ける。端正な居住まいで若衆が待っている。左馬の介が硬い笑みを浮かべて会釈をしますト。若衆の柔和な顔立ちが途端にぱっとほころびました。
それからは若い者同士、すぐに打ち解け合いまして。美男と美女が仲睦まじく語らい合う。するト、店の主人が左馬の介の水揚げの祝儀にト。様々な料理でもって、この若衆を饗応いたしましたが。
おかしなことには、その食事の仕方でございます。精進料理やあつものの類には見向きもしない。ただひたすらに魚や鳥ばかりを食っている。しかも、食うのは刺し身ばかり。
ぺちゃぺちゃと嫌に舌を鳴らして食い。そのうちに素手でつまみ始める有様で。
店の者たちは、美麗な容姿とのあまりの不釣り合いぶりに驚きますが。左馬の介は田舎の出ですから、さほど気にも留めません。若衆の威勢のいい食いっぷりを、楽しそうに眺めておりましたが。
そうこうする間に、やがて夜は更ける。二人は晴れて床入りトなる。
左馬の介はすでに気を許しておりましたので。あれほど不安に思っていたのがまるで嘘のよう。若衆と一つ褥(しとね)に収まりまして。いつしか甘い眠りに落ちてゆきましたが。
何やら妙な肌触りを感じて、ふと目が覚める。首元がねちゃねちゃとして何だかこそばゆい。何だろうト、目をそちらへ転じてみて、ハッと驚いた。
暗闇の中、青い目が二つ光っている
カッと目を見開いて、こちらをじっと見ているのは。愛しい若衆に違いありません。
左馬の介は若衆の変貌ぶりに。もうびっくりしてしまいまして。
うんともすんとも言うことが出来ず。また、身動き一つ取れないまま。再び目を閉じてしまいました。
するトまた、ねちゃりねちゃり。若衆が左馬の介の白い首筋を。舌で舐め回しているのでございます。
ねちゃり、ねちゃり。ねちゃり、ねちゃり。
左馬の介は何だか気味が悪い気もしはしましたが。男女の同衾とはこういうものかもしれないト。じっと耐えに耐えておりました。
ねちゃり、ねちゃり。ねちゃり、ねちゃり。ねちゃり、ねちゃり。
「ぎゃっ」
ト、思わず叫び声が出た。
首筋に牙でも食い込んだような激痛が走る。その声に若衆の方でも驚いたのか。左馬の介の首筋から顔を離し。向こうを向いて寝てしまった。
翌朝。
後朝(きぬぎぬ)の別れト相成りまして。若衆は惜しみながら帰っていく。左馬の介もいつまでも手を振り見送っておりましたが。
「おい、左馬の介。お前、その傷はどうした。あのお客に噛まれでもしたか」
左馬の介はさっと傷を手で隠し。違う違うト首を必死で振りましたが。
大事な品物に傷をつけられたと知って、主人は怒り心頭でございます。
「しかし、良家のご子息だったりしたら面倒だ。おい、作造。六尺棒を持って来い。跡をつけて、大したことのない家の餓鬼だったら、これで懲らしめてやる」
ト、飯炊きの下男を連れて追いかけていった。
左馬の介は気が気でございません。どうか若衆が良家のご子息でありますように、ト。まだ痛む首の生傷を押さえて祈っておりましたが。
それから一とき(二時間)ほどして、主人が帰ってくる。
「左馬の介、あれは大変な御仁だったぞ」
左馬の介は身を乗り出して、主人の話に耳を傾ける。
主人と作造が跡をつけていきますト。若衆はとある裏通りの小汚い長屋へ入っていった。
武家の若衆がどうしてこんなところに、ト。不審に思い、その家へ踏み込みますト。中にいたのは禿親父が一人。
「何です。だしぬけに」「ここにさっき、お武家の若衆が入ってきませんでしたか」「むむっ。そのことですか。ただし、あれはただの若衆ではありませんぞ」
ト、禿親父が眉をしかめました。
「思い当たる節があるのですな。一体、どんな若衆なのです」「いや、その若衆というのは――」「――若衆というのは」「年来この家に住み着いていた南蛮の猫です」「南蛮の、猫――」
あまりのことに、主人は二の句が継げない。
どうやら、紅毛人が持ち込んだ南蛮の猫が、飼い主のもとを逃げ出したらしく。もう十幾年もその家の縁の下に住み着いているのだト、禿親父が申したそうで。
「時々、お侍に化けては、あちらこちらで悪さをすると、近所の人が噂するのですがな。やっぱり、化けましたか」「化けましたかじゃあない。あなたもあんまり呑気な人だ」
そこで主人が禿親父の許しを得て、板敷きを外してみますト。縁の下の暗がりに、全身の毛が白い異国の猫が。青い目を光らせてこちらを見ていたトいう。
「それで、猫はどうなりました――」
左馬の介が心配そうに尋ねますト。主人はしたり顔で胸を張りまして。
「この六尺棒で滅多打ちにしてくれたわ。しかし、惜しいことに逃げられてしまったわい。今頃、どこかで野垂れ死んでおるじゃろう」
ト、さも愉快そうに笑いました。
それから、左馬の介は「猫の分け」ト人々にあだ名されまして。大いに笑い者にされたトいうことでございますが。
これは銀五分女郎の「分け」に「分食(わけ)」――つまり、食いさしという意味を掛けたもので。猫が食いかけで捨てていった女郎だトいう。甚だ不面目なあだ名を付けられたものでございます。
当の左馬の介はまるで意に介していない。来る日も来る日も、格子窓から外の通りを眺めている。
心ここにあらずといった体で。道行く人々をただぼんやりと。飽かず眺めて暮らしておりましたが。
雨のそぼ降るある夕べのことでございます。
「あっ」
ト、左馬の介が声を上げた。通りの向こうから懐手をして。ふらふらト歩いてくるあの姿は。紛うことなく、件の若衆。
あちらの格子、こちらの格子ト。きょろきょろト目をやりながら。
左馬の介はじっと見つめて待ち受ける。やがて、若衆の青い瞳が左馬の介の瞳を捉えました。
その目は大きく腫れ上がっている。痣のまだ引かぬ顔で悲しそうに左馬の介を見ますト。足を引きずるようにして、フラフラとまた去っていった。
その後、左馬の介は、格子窓の外を眺めることもやめてしまいまして。毎日、鏡に首筋の傷を映し出しては、猫の若衆を思い出していたという。
そんなよくあるはなし――。もとい、余苦在話でございます。
(「新御伽婢子」巻一の八『遊女猫分食』) 
 
化猫遊女

 

江戸時代の日本の黄表紙、洒落本、咄本、歌舞伎などに登場して人気を博していたキャラクターの一つ。当時の品川宿で起きていた「化け猫の飯盛女がいる」という風説をもとに創作されたキャラクターであり、普段は遊廓に勤めている遊女が、深夜になると化け猫に姿を変えるというものである。
化猫遊女の典型的な描かれかたは、遊郭で遊女と客が一夜をともにし、客が寝入った後に遊女がこっそりと起き、客が気づくと、遊女がネコの顔と人型の体を持つ化け猫に姿を変え、こっそりと食べ物を食べているというものである。
1781年(天明元年)の黄表紙『化物世櫃鉢木』、および同書と他書との改題合成本である1802年(享和2年)の『化物一代記』では、品川宿の遊廓で深夜に客が遊女部屋を覗くと、井出野という馴染みの遊女が化け猫に姿を変えてエビを頭からガリガリと齧っている場面がある。この化け猫は、狩人に殺された親の家を相続したいと化け修行をしている、親孝行な娘とされている。1798年(寛政10年)の『腹鼓臍噺曲』にも同様に、化け猫に姿を変えた遊女がエビを齧っている姿を客が目撃する場面があり、1775年(安永4年)の歌舞伎『花相撲源氏張胆』では、化猫遊女が魚を食べ散らかす場面がある。
こうした魚介類を食べるもののみならず、人間を食べる物騒な化猫遊女もいる。前述の『花相撲源氏張胆』を描いた1775年(安永4年)の狂言絵本には、遊女の足元に食べ残しとおぼしき人間の腕が転がっている場面があり、1796年(寛政8年)の黄表紙『小雨衆雨見越松毬』では、客が遊女部屋を覗くと、遊女が人間の腕を齧っている場面がある。ただし後者では、遊女は化け猫ではなく人間の姿のままで描かれており、人間の腕と見えたものはサツマイモの見間違えにすぎなかったというオチがついている。
発祥
江戸当時、品川宿の伊勢屋という宿場に化け猫の飯盛女がいるという噂が立ったことが発祥とされる。1776年(安永5年)の咄本『売言葉』に「猫また」と題した話が2話あり、「此ごろ猫またざたの気味わるく」とあることから、1775年(安永4年)以前にこうした風説が存在していたものと見られている。1788年(天明8年)の洒落本『一目土堤』にも「化物伊勢屋は南駅(しながわ)の。猫が臑(かいな)を神田の台」とあり、1789年(寛政元年)の洒落本『まわし枕』にも「品川の倉田にて年を経し一疋のとら猫女郎と化たるためしもあり」とあり、実際に化け猫がいたかどうかはともかく、そうした噂話自体は確かに実在したようである。品川宿は田舎侍や坊主たち相手の遊廓として人気を博していたが、こうした噂が江戸中に広まるにつれて伊勢屋が「化物伊勢屋」「お化け伊勢屋」と呼ばれるようになった。1801年(享和元年)の品川細見『ぶら提灯』に「伊勢屋」が2件登載されている通り、「伊勢屋」の名は平凡な屋号であるため、ほかの伊勢屋と区別するために「化物伊勢屋」などの名が定着したようで、後年の時代小説『半七捕物帳』でも1862年(文久2年)の時代設定で「品川の伊勢屋……といっても例の化(ばけ)伊勢屋ではありません」という台詞があり、5代目古今亭志ん生の所演による『品川心中』にも「品川にはいい貸座敷がありました。土蔵相模、島崎、お化け伊勢屋」とある。
こうした風説が安永・天明期(1772年から1788年まで)にかけてキャラクター化されて黄表紙などに登場し、それらの作品の中で実際の品川の噂話とはまったく関係ない姿で描かれるようになり、キャラクターとして一人歩きを始めたものが化猫遊女である。前述の『化物世櫃鉢木』でも、化猫遊女を覗き見た客が「どこかで話に聞いたようなことだ」と台詞を言う場面があり、現実に品川でそのような噂話があったことを示している。伊勢屋の飯盛女の名は「野」で終わっていたため、『化物世櫃鉢木』の井出野をはじめ、化猫遊女も「野」で終わる名のことが多い。
このように遊女が化け猫にたとえられたのは、遊女が「寝子(ねこ)」の別名で呼ばれたことや、実際にネコを飼う遊女が多かったこと、周囲から隔離された遊郭は非現実的な空間であり、その中にいる遊女はある意味で妖しげ存在であったこと、そうした妖しげな遊女像にネコという動物の持つ神秘性が結びついたこと、遊郭で女性が閉じ込められて閉鎖された環境では陰湿な感情が蓄積されて妖怪伝承のもととなりやすかったこと、さらに加えて、遊女が客の前で食事をとるのは失礼にあたったため、廊下や下卑蔵部屋(遊女たちの食事部屋)などでこっそりと食事をとっており、そうした場面を偶然目撃した者は不気味な光景に映っていたであろうことが理由として考えられている。品川にほど近い増上寺では、1852年(嘉永5年)に住職が戒律を破り、医者に扮して吉原遊郭で遊女と戯れていた事件があり、「化ける」ということと品川の地が結びついていたと見る向きもある。
また、昭和以降の化け猫映画には「夜中に行灯の油を嘗める」という典型的な場面があるが、夜中に食べ物を食べる化猫遊女の姿がその原型だとの説もある。 
 
山王信仰 日吉神社・日枝神社・山王神社

 

■山王信仰
比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた神道の信仰である。
山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を指したものである。
日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。
神仏習合期には「山王権現」や「日吉山王」とも称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。なお、日吉大社では猿を神使とするが、猿との関連性についてはよく分かっていない。おそらくは原始信仰の名残りではないかと推測されている。
歴史
日吉大社の創建と延暦寺
日吉大社は、もともと近江国日枝山(ひえのやま:後に比叡山の字が充てられた)の神である「大山咋神」(おおやまくいのかみ)を祀っていたもので、後に近江京遷都の翌年である天智天皇七年(668年)、大津京鎮護のため大和国三輪山(三諸山(みもろやま)とも)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神(おおものぬしのかみ)を勧請しともに祀られた。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、大山咋神・大物主神は地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされた。延暦寺を開いた最澄は寺の周囲に結界を定め、その地主神を比叡山の「諸山王」として比叡社に祀った。唐の天台山国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていることに因み、延暦寺ではこの両神を「山王」と称した。なお、最澄にとって比叡山の「山王」とは、山岳信仰に基づく、アニミズム的な形態に近い信仰対象であった。
最澄にとって、「山王」とは山の地主神を仏教的に表現したものであるといわれる。最澄が著したと思われる文書には、神名ではなくほとんど「山王 が使われており、あえて「神」とは呼ばなかった点に、仏教徒としての配慮がうかがわれるという。このような、最澄による「山王」の扱いが、後に、神仏習合の「山王神道」の成立を導いていったともされる。
両所三聖
天長2年(825年)に、天台宗の第2代座主である円澄が、延暦寺の西塔を開いた。以後、西塔は独自色を深め、それまでの「東塔」での地主神信仰に対応させるかたちで、小比叡神を祀るようになった。小比叡神には、八王子山の磐座の神である大山咋神が勧請され、小比叡峯にある磐座に神が宿るとされた。
西塔の独立により、最澄が当初祀った諸山王は統合され、東塔と結びついて、比叡神または大比叡神と呼ばれるようになった。西塔で祀られる神も山王と呼ばれたため、「山王」は東塔と西塔で二極化することとなった。
その後、天台宗の第5代座主であり、夢で様々な啓示を受けたという伝承が残されている円珍が、円珍に夢で入唐を勧めたとされる「山王明神」を、自身の坊に祀るようになった。このため、それまでは最澄の創建として、千手堂または千手院と呼ばれていた円珍の坊が、山王院と呼ばれるようになった。このように、山王明神の信仰は、円珍が個人的に祀ったことから始まった。
こうして、大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・比叡山王(山王明神)の「両所三聖」が成立した。なお、円珍にとっては、「両所三聖」の中でも山王(山王明神)は別格で、「両所二聖」を超える存在、つまり、大比叡神・小比叡神を含んだ「比叡山」そのものを象徴しており、最澄が祀った諸山王をひとつにまとめた、非常に大きな信仰対象であったといわれる。
地主三聖
延暦寺の第18代座主であり、比叡山中興の祖とされる良源は、天禄3年(972年)に、比叡山の「横川」を、東塔・西塔に匹敵する地位を持つ独立地区として認めた。もともと、横川の発展には良源が大きく関わっており、その独立の裏にも、良源の意向があったとされる。以後、良源の意向は、古くから存在する東塔・西塔よりも、横川に大きく影響するようになった。
独立した横川は、西塔と同じように独自の地主神を求め、聖真子(しょうしんし)を信仰するようになった。聖真子の信仰は、既に、康保5年(968年)に認められるとされ、「聖真子」の名は法華経により、正統な仏法の後継者を意味するもので、神名であると同時に法号であり、日本古来の神々の系譜から切り離された独自のものとされるなど、神仏習合の最たるかたちを示しているとされる。
ここに、良源の思惑により、大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・聖真子(横川)の「地主三聖」が成立した。
だが、円珍によって定められた「両所三聖」を信仰していた僧たちは、良源に導かれて成立した「地主三聖」の信仰に反発することとなった。良源は「地主三聖」の信仰に反対する僧たちを僧籍から除名するなどし、後の山門・寺門分裂への流れを生み出していくこととなる。
地主三聖から山王三聖へ
良源により「地主三聖」の信仰が定着するにつれ、「地主三聖」は徐々に「山王三聖」と呼ばれるようになっていった。なお、「地主山王」と呼ばれた時期もあった。「地主三聖」の語は三塔の存在を意識して、それぞれの「地主」を強調しているが、「山王三聖」の「山王」の語は、寺院というより、比叡山という山全体に関わる神を意識しているとされる。
特に、正暦4年(993年)の叡山分裂以降、「山王三聖」の語は定着していったとされる。なお、「山王三聖」の語が文献に現れた最初は、康保5年(968年)の太政官牒であるとされる。
なお、円珍が個人的に祀った「山王(山王明神)」とは、円珍が実際に夢でお告げを受けたということから、確かに「実在」すると信じられた神を指したものであるが、良源の場合、「山王」の語には確かに実在するという重みはなく、ただ「地主三聖」の総称に過ぎず、抽象的な概念にとどまっていたとされる。
山王信仰の発展
天台宗が全国に広がる過程で、山王信仰に基づいて日吉社も全国に勧請・創建された。日吉(ひよし)神社・日枝(ひえ)神社、あるいは山王神社などという社名の神社は、日本全国に約3,800社ある。これにともない、日吉・日枝・比恵・山王・坂本などという地名が各地でみられる。
本地仏制定
山王三聖には、本地仏として、大宮(大比叡神、東塔)に釈迦如来、二宮(小比叡神、西塔)に薬師如来、聖真子(横川)に阿弥陀如来が、それぞれ定められた。これらの本地仏が定着したのは、浄土教の影響により八幡神(聖真子と同一とされる)の本地仏が釈迦から阿弥陀に変わった11世紀以降と推定される。本地仏の制定について、それぞれの由来には諸説があるが、定説といえるものはないとされる。本地仏の制定は、日吉大社における、本格的な神仏習合の始まりであるともいわれる。
やがて八王子(本地千手観音)、客人(本地十一面観音)、十禅師(本地地蔵菩醍)、三宮(本地普賢菩醍)を加えて山王七社(上七社)となすなど、総本山の威容を整え始めた。そして本地垂迹説によってさらに数を増し中七社、下七社を加えて「山王二十一社」と称した。
山王神道
山王信仰は、「山王神道」とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の垂迹であるとされ、「山」の字も「王」の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。また天台密教は、鎮護国家、増益延命、息災といった具体的な霊験を加持祈祷によって実現するという体系(使命)を持ち、山王にも「現世利益」を実現する霊威と呪力を高める性格を与えたようである。
中世以降
中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した神輿は日吉大社のものである。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は、安土桃山時代以降に再建されたものである。
以下に現在の日吉神社の有力社殿(山王二十一社)を列記する。( )内は旧称。
上七社(山王七社)
   西本宮(大宮(大比叡))大己貴神
   東本宮(二宮(小比叡))大山咋神
   宇佐宮(聖真子)田心姫神
   牛尾神社(八王子)大山咋神荒魂
   白山姫神社(客人)白山姫神
   樹下神社(十禅師)鴨玉依姫神
   三宮神社(三宮)鴨玉依姫神荒魂
中七社
   大物忌神社(大行事)大年神
   牛御子社(牛御子)山末之大主神荒魂
   新物忌神社(新行事)天知迦流水姫神
   八柱社(下八王子)五男三女神
   早尾神社(早尾)素盞嗚神
   産屋神社(王子)鴨別雷神
   宇佐若宮(聖女)下照姫神
下七社
   樹下若宮(小禅師)玉依彦神
   竈殿社(大宮竈殿)奥津彦神・奥津姫神
   竈殿社(二宮竈殿)奥津彦神・奥津姫神
   氏神神社(山末)鴨建角身命・琴御館宇志麿
   巌滝社(岩滝)市杵島姫命・湍津島姫命
   剣宮社(剣宮)瓊々杵命
   気比社(気比)仲哀天皇
なお江戸で「三大祭」として賑わったのは、山王祭(さんのうまつり)、神田祭、深川祭であるが、この山王まつりとは、徳川家康が江戸に移封された際に、同地にあった日吉社を城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守としたことに始まる。この社の由来は、太田道灌が江戸城築城にあたり、文明10年(1478年)に川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である日吉社を勧請したのにはじまるとされる。無量寿寺は平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立したとされる。ちなみに、この江戸の日吉社に日枝(ひえ)神社と名称が付けられたのは、慶応4年(明治元年)6月11日以降のことである。(神仏分離)
天台宗が全国に広がる過程で、山王権現も各地に勧請され、多くは天台宗の寺院の鎮守神とされた。明治の神仏分離の際に、仏教色を廃し寺院とは別れた。
社名については、「日吉」と書いて「ひえ」と読むもの、「日吉」と書いて「ひよし」と読むもの、「日枝」と書いて「ひえ」と読むものがある。
各地の日吉神社・日枝神社
総本社
日吉大社(滋賀県大津市、旧官幣大社、別表神社)
別表神社・旧官国幣社
日枝神社(東京都千代田区、旧官幣大社、別表神社)
日枝神社(富山県富山市、旧県社、別表神社)
その他の神社
日吉神社(岐阜県安八郡神戸町、旧県社)
日枝神社(岐阜県高山市、旧県社)
日枝神社(山形県酒田市、旧県社)
日枝神社(群馬県桐生市梅田町、旧県社)
日吉八幡神社(秋田県秋田市、旧県社) 日吉神社 【愛知県清須市】
新日吉神宮(京都府京都市東山区、旧府社)
日吉神社(福岡県柳川市、旧県社)
日吉神社(熊本県熊本市、旧県社)
山王神社(長崎県長崎市、旧県社)  
別表神社
神社本庁が定めた、神社本庁が包括している一部の神社のことである。
昭和21年(1946年)2月2日の神社の国家管理の廃止に伴い、公的な社格の制度(近代社格制度)が廃止されたため、それに代わるものとして昭和23年(1948年)に定められた。社格制度廃止後は、全ての神社は対等の立場であるとされた(伊勢神宮を除く)。しかし、旧の官国幣社や一部の規模の大きな神社については、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いをすると不都合があることから、「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをすることと定めている。その対象となる神社が同規程の別表に記載されていることから、「別表に掲げる神社」(別表神社)と呼ばれる。
別表神社は、人事の面で以下のような特別の扱いがされる。
○一定以上の基準に達すれば宮司の下に権宮司を置くことが認められる
○宮司・権宮司は明階以上の階位を有する者でなければ任用されない(一般神社では権正階以上)
○禰宜は正階以上の階位を有する者でなければ任用されない(一般神社では直階以上)
○権禰宜は権正階以上の階位を有する者でなければ任用されない(一般神社では直階以上)
○宮司・権宮司の在任中の身分は特級、一級・二級上以外の者は二級とする
○宮司・権宮司の任免は各都道府県の神社庁長の委任事項としない(神社本庁統理の直接任免とする)
当初の別表神社は旧官国幣社のみであったが、昭和26年(1951年)に「別表に掲げる神社選定に関する件」という通達が出され、官国幣社以外で新たに別表神社に加える神社の選定基準が示された。それは以下のものである。
○由緒
○社殿・境内地などの神社に関する施設の状況
○常勤の神職の数
○最近3年間の経済状況
○神社の活動状況
○氏子崇敬者の数および分布状況
この規定により、旧府県社・内務大臣指定護国神社を中心に別表神社の数は次第に増加し、平成18年(2006年)現在で353社となっている。
別表神社は社格のような神社の格付けではなく、あくまでも神職の人事のみにかかわる区別である。しかし、別表に掲げられている神社は社殿、境内、神職の数などの面で比較的大きな規模の神社であり、一般には一種の格付けとして捉えられている。
なお、社格同様、伊勢神宮は別格として別表神社に入れられておらず、神宮大宮司は、「神宮規則」により、勅裁を得て任免するとされ、さらに特別の扱いがなされている。
山王
日本の神のひとつ大山咋神、またはこれが天台宗の鎮守となった山王権現を指す。他にこれを氏神とする神社の別称や神社に由来する地名などで用いられる事も多い。
神道の流派のひとつ。山王神道、山王信仰。
各地の山王神社、また日枝神社・日吉神社の別称。 
山王権現
日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
山王権現とは、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神である。また、日吉大社の祭神を指すこともある。
山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた。また、「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる。
日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていた。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。
音羽山の支峰である牛尾山は古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。また、『古事記』には「大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す。」との記載があり、さらには三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。このようにして開かれた日吉大社は、天台宗の護法神や伽藍神として、神仏習合が最も進んだ神社のひとつとされた。
延暦寺と日吉大社とは、延暦寺を上位にしながら密接な関係を持ち、平安時代から、延暦寺が日吉大社の役職の任命権を持つようになった。天台宗が日本全国に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も全国各地で建立された。天台宗は山王権現の他にも八王子権現なども比叡山に祀り、本地垂迹に基づいて山王21社に本地仏を定めた。
江戸時代の初期に、大社の神主は神仏習合を認めることができず、唯一神道を行おうと、僧形の御神体を燃やすなど、廃仏毀釈を試みたことがあった。だが、延暦寺が幕府に訴えて裁判となり、日吉大社が負けたため、神主は島流しとなり、当時の社家は断絶させられ、大社は延暦寺の完全な管理を受けるようになった。このとき、延暦寺から、「祭りと掃除以外のことをするときは、延暦寺の許可を得なければならない」という掟を定められたという。その後、大社は経済的にも延暦寺の管理下となった。
神仏分離・廃仏毀釈
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、天台宗の鎮守神である山王権現は廃された。
日吉大社では、公布されたばかりの神仏分離令が最初に実行されたとされる。慶応4年(1868年)近江国日吉山王社は比叡山延暦寺から強制的に分離され、日吉大社に強制的に改組された。このとき、延暦寺に社殿の鍵の引渡しを要求するも拒否されたため、日吉社社司樹下茂国(神祇官神祇事務局権判事)は神威隊および雇い入れた農民100名を率いて社殿に乱入、祀られていた仏像、仏具、仏器、経巻など124点を焼き捨て、鰐口など48点を社司宅へ持ち帰り(『滋賀県百科事典』)、梵鐘等の金属部分を大砲や貨幣鋳造のために押収するなどした。これが先例となって、廃仏毀釈が全国的に行われるようになったという。
なお、日吉大社の権禰宜の話では、廃仏毀釈は「持て余すものをお焚き上げしたに過ぎない」ものだったという。 江戸初期に既に廃仏毀釈が行われた点をみても、大社側は神仏習合をもともと快く思っておらず、神仏分離令をきっかけにすぐ廃仏毀釈が行われたのは、自然な成り行きだったという。また、最初の廃仏のときに、仏像等を延暦寺に返せば、円満に解決したはずだが、裁判を起こされたことが、大社と延暦寺の間にしこりを残し、明治期の激しい廃仏につながったのだという。もっとも、当時は、これまでの崇敬の対象を破壊することはできないと、仏像等を隠した神官や氏子も多くみられたという。
現在も残る山王社の多くは、大山咋神を祭神とする神道の日枝神社や日吉神社等になっている。 
■日吉大社 [滋賀県大津市]

 

比叡山延暦寺の東、大津市坂本の日吉大社(ひよし たいしゃ)は、平安京の表鬼門(東北)に位置し、方除・厄除の大社とされてきた。また、比叡山延暦寺天台教学の護法神でもあった。八王子山の麓、大谷川と小谷川の間に13万坪の境内を有し西本宮と東本宮を中心として、本宮摂末社40社が建ち並んでいる。全国に約3800社ある日吉、日枝、山王神社の総本宮になっている。旧社格は官幣大社。平安時代、1081年に確定した二十二社の制の下八社の一つとされ、平安時代から中世においては日本最大の神社だったという。主祭神は、西本宮に大己貴神(おほあなむちのかみ、大国主神)、東本宮に大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る。
磐座・大山咋神 
神奈備山、神体山の牛尾山(八王子山、日枝山、381m)がある。地主神が坐す日枝山とされた。(『古事記』)。山頂東下に磐座の金大巌(こがねのおおいわ)がある。磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社、三宮神社)がある。山宮・牛尾神社に対して現在の東本宮は里宮として建立されたとみられる。三宮神社の里宮は樹下神社になっている。山宮と里宮の歴史的な経緯については、里宮が先行したともみられている。なお、八王子山の北東、比叡山中の横高山(767m)近くに、垂釣岩(鯛釣岩)という大岩があり、これも磐座という。『古事記』(712)中の、大山咋神(山末之大主神)が鎮座した神奈備山、「近淡海国の日枝の山」とは、この小比叡山、波母山(はもやま)ではないかともいう。かつては、ここに二宮権現という社があったという。 大山咋神は、また、葛野の松尾山(松尾大社)にも鎮座し、カモ氏の鳴鏑(なりかぶら、丹塗りの矢の精、雷神)を用いる神といい、カモ氏、渡来系の秦氏との関連もあるともいわれている。大友郷(坂本)にも、漢人系渡来人が住んでいた。
波止土濃 
西本宮近くの大宮川には石橋の橋殿橋(はしどのばし)が架けられている。かつて、大宮川には屋形の橋が架かっていたという。現在は、橋が川の途中で失われた形になっている。橋殿とは波止土濃(はしどの)とも書き、「波止まりて土こまやかなり」と読むという。西本宮祭神の大己貴神勧請にまつわる伝承がある。飛鳥時代、668年、近江京遷都後に、第38代・天智天皇は大津京鎮護のために大和三輪山の大神(おおみわ)神社から大己貴神を大宮(西本宮)に勧請した。大己貴神は、大比叡(おおびえ)神、大物主大神ともいわれる。琵琶湖上に顕れた大己貴神は、社家の宇志丸の導きにより、湖上の五色の波を尋ねやがて大宮川を遡る。五色の波が途絶えたというこの地に辿り着く。ここは、土細やかな霊地だとして現在の西本宮が建立されたという。
日吉七社・山王七社・祭神 
現在の祭神は、西本宮に大己貴神(第1位)、東本宮に大山咋神(第2位)を祀る。宇佐宮に田心姫神(第3位)を祀り、上位の三柱を「山王三聖」といった。その下に七社、さらに二十一社がある。2本宮と5摂社は「日吉七社、山王七社」と呼ばれている。上の七社をいい、東本宮系では、東本宮(二宮)、樹下宮(十禅師)、牛尾宮(八王子)、三宮宮(三宮)、西本宮系では、西本宮(大宮)、宇佐宮(聖真子)、白山宮(客人、まろうど)。また、摂社・末社あわせ21社を上・中・下7社ずつに分ける。八王子山は、古くより比叡山の神(大山咋神)が降り立つ神体山として崇められていた。やがて、八王子山には荒魂が祀られ、里宮には大山咋神の和魂が祀られた。新たに大神神社から大己貴神を勧請し勧請殿の大宮(西本宮)に祀られる。大己貴神は、朝廷との結びつき深い神であり、朝廷の鎮守神でもあった。大山咋神和魂は、遥拝殿の二宮(東本宮)に祀られることになる。大己貴神は、大比叡(おおびえ)神と呼ばれ、それに比して大山咋神は小比叡(おびえ)神となった。前者は、大物主大神、大国主神、後者は山末之大主神とも呼ばれた。神仏習合時代に、大己貴神は、本地仏の釈迦如来、大山咋神は、薬師如来としても祀られた。近代、東本宮と西本宮の祭神は入れ替えられ、西本宮の大山咋神を主祭神とし、東本宮の大己貴神は摂社・大神神社に格下げになった。また、本地仏は廃された。主祭神についてはその後戻されている。東本宮系にはカモの神も祀られている。氏神神社に鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)、樹下神社に鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)、樹下若宮に鴨玉依彦神(かもたまよりひこのかみ)、産屋神社に鴨別雷神(わけいかづちのかみ)。鴨別雷神にとって鴨玉依姫神は母、鴨玉依彦神は伯父、鴨建角身命は祖父になる。東本宮の大山咋神と鴨玉依姫神は夫婦。4月の山王祭では、午の神事(12日)に、八王子山から二基(大山咋神荒魂、鴨玉依姫命)の神輿が下山し、東本宮の拝殿に安置される。婚儀、「尻つなぎの神事」の後、翌13日の神輿入れ神事では、御生れ祭りにより若宮(別雷神)が生まれる「宵宮落とし」が行われる。
山王神道 
奈良時代末期、インドを発祥とする本地仏が日本にすでに伝えられていた。神々とは、仏の衆生のみならず、本地インドの仏、菩薩が日本に迹(あと)を垂れ、救済のために仮に現れたもの(権現)とする本地垂迹説だった。平安時代初期、南都六宗に抗して新しく台頭した天台宗は、比叡山延暦寺を開くにあたり、地主神の比叡の神を取り込む。日吉山王社は天台教の護法神になる。山王については、最澄が入唐した天台山国清寺で地主山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)を守護神として祀っていたことに因み、比叡山の守護神・日吉大神を「山王権現」と称したことに始まる。平安時代中期、神社内に神宮寺が建立され、神仏習合の傾向が深まる。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天台神道(山王一実神道)が成立した。釈迦仏は、日吉山王権現大比叡神の本地仏とされる。神仏習合の三王(和光同塵)とは、大山咋神(大比叡神)、大己貴神(小比叡神)、宇佐八幡(聖真子=阿弥陀如来)を主体とした。鎌倉時代後期から南北朝時代、吉田神道から出た延暦寺僧の慈遍、さらに吉田兼倶の唯一神道との融合があった。また、「山王」の「山」の文字は、縦の「三」と横の「一」の組み合わせであり、逆に「王」は、横の「三」と縦の「一」の組み合わせであるとした。この三画は空仮中の三諦(空諦・仮諦・中諦。あらゆる事象を3つの観点から捉え、相互に完全無欠)であるとし、天台教学の一念三千(日常の人の心中には、全宇宙の一切の事象が備わる)、また、一心三観(円融三観、一切の存在には実体がないと観想する空観(くうがん)、仮に現象しているとする仮観(けがん)、この二つも一つであるとする中観(ちゅうがん)を、同時に体得すること)を表しているとした。江戸時代、徳川家康没後の神号を巡り、天台宗の天海は臨済宗の金地院崇伝、家康側近の本多正純らと争う。天海は、「権現」として山王一実神道で祀ることを主張し、神号を「明神」とした吉田神道を退けた。天海は、家康を「東照大権現」としして祀り、久能山より日光山に改葬し、以後、勢力を伸長させた。
神宮寺 
神宮寺は、最澄の父・三津百枝が子宝を祈念し、八王子山背後の西の渓谷に草庵「神宮禅院」を結んだ。その結果、最澄を授かったという。当初は薬師如来が祀られ、最澄は十一面観音堂を建立した。また、母・妙徳が籠ったという大黒堂も建てられていたともいう。また、不動堂、二宮塔、日本一州総社、拝殿、舞殿もあったという。少なくとも平安時代、830年以前に、境内八王子山中、また西本宮付近に、神宮寺が存在していたともいう。942年、根本多宝塔が建立されている。鎌倉時代、1329年に再建され、安土・桃山時代、1571年の焼き討ちにより焼失、その後は再建されなかった。現在は、山王三聖を祀る小祠がある。近年の調査により、室町時代の遺構が確認された。さらにその下に平安時代、奈良時代の遺構もあるとみられている。そのほか、西本宮近くに金堂、七重塔、大宮多宝塔、大宮と客人宮に護摩堂、山王七社に夏堂、聖真子宮に本地堂、東本宮近くに地蔵堂などが建てられていた。
日吉 
古くは「日枝」「比叡」「裨衣」と書き、「ひえ」と呼ばれていた。平安時代以前は「比叡明神」「比叡大神」などと書かれた。平安時代、785年、延暦寺創建により、「日吉山王」「日吉権現」といわれる。957年、「日吉神社」が『延喜式』に初出した。また、931年に『偵信公記抄』に「比叡社」と初出する。平安時代以降は「え」を「吉」の字に替え、「ひよし」と呼び併用された。鎌倉時代以降は「日吉社」と書かれた。近代以降は「日吉(ひえ)神社」となり、戦後、全国の摂社末社と区別するため現在の「日吉大社(ひよし たいしゃ)」になった。
琴御館宇志丸 
飛鳥時代の日吉社社家始祖とされる琴御館(ことのみたち)宇志丸(宇志麿)。常陸国の国師だったというただ、異説もある。鴨賀島8世の孫、上賀茂の祝(はふり)ぶあったともいう。琴御館とは家に伝来の琴があったことによるという。第34代・舒明天皇(593- 641)の時、常州より三津浜(唐崎)に移り、庭に松(唐崎の松)を植えたという。また、常陸を追われて唐崎に着いたともいう。662年(?)、大比叡大明神(大己貴神)が松に影向し、宇志丸の導きにより西本宮に鎮座したという。宇志丸は、二宮、聖真子、八王子も建立したという。平安時代後期、琴御館宇志丸から23代目・祝部希遠の時、社家は、生源寺家(中祖・希遠)と樹下家(中祖・成遠)の二流に分かれたという。宇志丸妻の女別当(わけまさひめ)は後に唐崎神社の祭神になった。
後白河天皇 
平安時代の第77代・後白河天皇(ごしらかわ てんのう、1127-1192)。熊野大社とともに日吉社の崇敬篤く、1160年に京都に新日吉神宮を創建し、日吉大神の分霊を祀った。日吉大社と新日吉神宮併せて、50回あまりの行幸を行った。後白河法皇撰の「梁塵秘抄」には、「東の山王恐ろしや、二宮客人の行事の高の王子、十禅師山長石動の三宮、峯には八王子ぞ恐ろしき。神のめでたく験ずるは…日吉山王賀茂上下…」 (神分三十六首)とその神威への畏怖のを歌っている。
相応 
平安時代前期の天台宗の僧、天台修験の開祖・相応(そうおう、831-918)。南山大師。近江国に生まれた。845年、15歳で比叡山に登り鎮操に師事、17歳で得度受戒し相応と称した。858年、第55代・文徳天皇の女御・多賀幾子(藤原良相の娘)の病を加持した。861年には第56代・清和天皇の招きにより内裏に参内している。葛川、吉野金峰山で修行の後、865年、無動寺谷明王堂を建立しした。文徳天皇皇后明子(染殿皇后、藤原良房の娘)を加持したという。山王権現を崇敬し、887年、891年と日吉社の造営を行っている。889年、第59代・宇多天皇の加持の功により内供奉となる。
祝部行丸 
室町時代-安土・桃山時代の日吉社社家・祝部行丸(ほふりべ ゆきまる、1512-1592)。詳細は不明。社家・生源寺行貫の子。日吉社社家始祖・琴御館(ことのみたち、宇志丸)の37代に当たるという。本地垂迹、北斗信仰、天台教学の神仏習合の影響を受け、山王七社と北斗七社の対応、また、日吉社を皇城鎮護社とも考えていた。1571年の元亀の乱、信長の比叡山焼き討ちの際には、長男行広とともに伊香立(大津市)に逃れたという。その後、出雲、美濃、尾張、越前、加賀、山城などを巡り、1575年に坂本に戻った。当初は、伊香立村八所神社に山王七社を勧請した。日吉社の再興に尽力し、1582年の信長没後、1586年に大宮正遷宮を果たし中興の祖となった。墓は、聖衆来迎寺(下坂本)にある。
新田義貞 
境内に新田義貞願文碑が立てられている。南北朝時代の武将・新田義貞(1301-1338)は、1317年頃家督を継ぎ、上野国新田荘の一族惣領となる。1332年、幕府による河内の楠木正成攻めに対して中途で帰国した。その後、幕府に抗し挙兵、足利尊氏の子・千寿王軍と合流、北条軍を破る。尊氏の六波羅攻めと呼応し、14代執権・北条高時の鎌倉幕府を滅亡させた。第96代・ 後醍醐天皇の建武政府では、越後・上野の国司に任じられた。1335年、南北朝内乱では南朝方の侍大将になる。天皇を擁して比叡山に立てこもり、両朝の一時的和睦の際、後醍醐天皇の皇子・恒良親王を擁して越前に下向し、足羽七城の戦いで敗れ、藤島城付近の燈明寺畷で戦死した。新田義貞は、秘密裏に当社に参拝し、南朝方の巻き返しを図り戦勝祈願文を奏上したという。その際に、名刀「鬼切」を奉納している。
平家 
延暦寺は平家の氏寺であり、日吉大社は氏社に準じた。また、強訴の際には、山法師は平家一門との争いを引き起こした。
焼き討ち 
安土・桃山時代、1570年6月、織田信長は姉川の戦で北近江・浅井、越前国・朝倉の連合軍に勝利した。だが、三好方との野田城・福島城の戦いでは敗れ、また、連合軍は織田方の宇佐山城を落城させた。延暦寺は、浅井、朝倉方に味方している。9月、信長が、坂本の両軍を攻めた志賀の陣では、連合軍は比叡山に逃れる。信長は延暦寺に両軍の引渡しを要求するが拒否される。こう着状態になり、12月、一度和睦になる。翌1571年9月、信長は再び坂本へ侵攻する。坂本の町、日吉大社に火を放った。僧衆、神官、坂本の人々は、八王子山頂へ逃れ立てこもったが多くが殺害された。社家50数人も行方不明になった。延暦寺の伽藍の多くも焼かれ、僧、女子どもなど多数が殺されたという。以後、日吉神社は滅し、社領は没収され明智光秀などに配分された。延暦寺と信長が対立した契機は、信長が比叡山領を横領したからともいう。また、当時の比叡山の宗教的な堕落に起因しているともいう。近年の発掘で、延暦寺での焼き討ち、大量殺戮については疑問も出されている。ただ、日吉社の焼き討ち、八王子山での殺戮は否定されていない。焼き討ちについて、佐久間信盛、武井夕庵、明智光秀らが信長にとどまるよう諫言したともいう。
豊臣秀吉 
安土・桃山時代の豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1536/1537-1598)は、焼き討ちの際に、陸路の香芳谷(樺尾谷、樺生谷)を攻めたが、人々の避難を見逃したといわれている。また、織田信長死後、秀吉は日吉社の復興に尽力し木橋などを寄進している。復興に東奔西走した社家・祝部行丸が秀吉の幼名が日吉丸であり、あだ名が猿であったとして、日吉社と秀吉の縁を説いたといわれている。また、伝承として秀吉の母が日吉大社の社家の出身だったからともいわれている。
廃仏棄釈 
近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈は、日吉社に多大の損失を与えた。これには江戸時代、1681年に日吉社社家による、ご神体改めの習合撤廃事件が遠因にあるという。以後、延暦寺は日吉社に対する厳しい管理体制を敷いた。全国に先駆けた廃仏棄釈は、その処遇への反動ともみられている。1868年、本殿の鍵は延暦寺が管理していた。日吉社社司・生源寺希徳らと100人余りの農民が社殿に押し入り、下殿の本地仏、経巻、仏具、さまざまな献納品などを焼き払った。それらを燃やす煙は、数日にわたり立ち昇っていたという。ただ、坂本の人々の多くは破却に批判的だったという。
建築 
西本宮、東本宮、宇佐宮の3本殿は「日吉三聖」と呼ばれ、独特の建築様式日吉造、聖帝造(しょうたいづくり)になっている。これらは、平安時代以来の王朝邸宅の建築様式という。また、890年の相応の造営によるともいう。入母屋造の一種で、周囲は板壁に囲われている。正面中央にのみ扉を設け、内陣の前面と両側面に庇(外陣)を取り付け、それに比して背面は切り落とした様に見える。屋根には千木、堅鰹木がない。三間二間の身舎(みや、家屋の中心)の前、両側に一間の庇が突き出ており、一連の屋根でおおう。さらに、正面に一間の向背が付く。背面は「すがる破風」といい、両端に庇の屋根がついている。母屋柱根元には小縁を回らし、礎石が見えない。床下は、下殿(げでん)といわれ格子や戸がつく。下殿は山王七社にのみ見られる。内陣下の床下に設けられ、内部は板間になり、四方は板張りにより閉ざされている。近代以前にはここに本地仏を安置していた。
鳥居 
鳥居は山王鳥居の型式になる。合掌鳥居、破風鳥居、総合鳥居、日吉鳥居とも呼ばれる。山王鳥居とは、合掌した三角形部分の上を開くと「山」の字になり、下を開くと「王」の字になるためともいう。合掌鳥居といわれるのは、神仏習合の信仰の象徴として、合掌する形を表すことに由る。仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表す惣合ノ神門、吽字門(うんじもん)を表し、山王信仰の象徴とされる。最澄が生み出したともいう。山王鳥居は、明神鳥居の笠木の上の中央に棟柱(棟束)を立て、左右より材を合掌形に組む。その上に裏甲(うらごう)という雨覆を被せる。その頂上に烏頭(からすがしら)という反りのある木を置く場合もある。当社では置かない。型式は南北朝時代にはすでに成立していたともいう。
神輿 
全国神輿の起源といわれる山王神輿は、現在は神輿収蔵庫に安土・桃山時代の7基が収蔵されている。正式には「日吉山王金銅装神輿(こんどうそんしんよ)」(重文)という。平安時代、791年 第50代・桓武天皇の勅願により西本宮、東本宮の御輿2基が造られ、唐崎に渡御したという。1115年、7基が揃う。1123年に第72代・白河法皇が造り替えたという。平安時代、延暦寺の下級の僧侶(悪僧、僧兵)や日吉社の神人が武装し、洛中の朝廷、権門に対して強訴を繰り返した。これらは、山門の南都、寺門との対立の際に利用された。白河院政の頃(1086-1840)、7基の御輿による「神輿振り」が行われた。時には、源平に阻まれ、鴨川の河原に神輿を置いて帰ったという。神輿振りは40回以上にのぼったという。  白河法皇ですら「天下の三不如意」として、「賀茂河の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧兵)。是ぞ朕が心に随わぬ者」と嘆いたという。(鎌倉時代中・末期?『源平盛衰記』) 室町時代、1571年、元亀の兵乱では、織田信長の日吉大社、延暦寺焼き討ちにより、すべての神輿も焼失した。安土・桃山時代、1586年の西本宮再建時に新たに造られた。1589年さらに二基が新造されている。山王祭に使われている神輿は、1973年に新造されたもので、重量は600sに軽量化されている。
神猿 
神という字には申(さる)が含まれている。山王神に釈迦が変じ、猿の姿で降りたという。それは、陰陽道の伝送の申(4月)であり、山王の縁日は申の日となった。猿は五行中の金神であり、朽ちず常住不滅の仏身に等しいとされた。平安京の表鬼門(東北)に位置している日吉大社と猿のかかわりは深い。方除・厄除としての神猿は、御所鬼門の猿ヶ辻の魔去るの木像、また、赤山禅院の拝殿屋根に祀られている瓦彫の猿とも呼応している。京都・行願寺の平安時代中期の僧・行円が、日吉と宦者(つかはじめ)の神猿を結びつけたともいう。(『和漢三才図絵』) 神猿(まさる)と呼ばれ、日吉山王大神の第一の使い、神使とされている。猿はすべての厄魔を取り去る「魔去る」、また「勝る」に通じ、魔除け、必勝の信仰になった。山王祭も、申の日に執り行われていた。境内には、いくつかの猿にまつわる事象がある。西本宮楼門の屋根裏には、隅木に棟持猿(むなもちざる)という彩色された猿の彫刻が四隅にあり、棟を支えている。江戸時代以来、境内の神猿舎には二匹のニホンザルが飼われている。山王鳥居近くに猿塚があり、大きな平石は猿の霊を弔っている。西本宮近くには、があり、比叡山の猿の好物だという。
鬼門 
古代中国では、北東方角を鬼門と呼び、異界の鬼が人間界に行き来する出入り口があると考えられていた。また、陰陽道では、東北の艮(うしとら)とは、北方の陰から東方の陽に転ずる急所とされ畏れられていた。節分とは、冬至を真北とすると北東(丑寅)に当たるため鬼を払う。平安時代、鬼門信仰により、平安京の北東の門封じのため幾重もの社寺が配された。
聖女社 
平安時代中期の天台宗の僧・尊意(866/876-940)は、926年に天台座主となり14年間在任した。ある時、女人禁制の比叡山内で美女の乗る車が空から降りる夢を見た。尊意が咎めると、美女は稲荷神といい舎利会を拝むためという。仏法を護持すると答えたので、日吉社に聖女社として祀ったという。
桂 
ご神木は桂とされている。伝承がある。大和三輪より琵琶湖に顕れた大己貴神は、社家・宇志丸の教えた波止土濃近くで、桂の枝を地面に挿すと桂が育ったという。この地に宝殿を建て、桂の木で神像を彫ったという。山王祭は「桂の祭」と呼ばれている。西本宮例祭(4月14日)の「申の神事」では、桂の奉幣という神事が行われる。参列者は、冠や衣服に桂の枝を飾り、神縁を結ぶ。
七 
山王七社、山王二十一社中の上七社、中七社、下七社にみられるように、七の数にまつわる事例が多い。七は北斗七星と地の山王七社が呼応しているとする天台教学の思想に基づくという。ちなみに、本殿の昇段は7段、獅子・狛犬の尾も7束になっている。
回峰行 
延暦寺の北嶺行者は千日回峰行の際に当社に立ち寄り、東本宮、山王21社すべてに参詣し、坂本、八王子山を経て比叡山、根本中道へ向かう。
文化財 
鎌倉時代の「日吉山王曼荼羅」、「日吉山王本地仏曼荼羅」。山王曼荼羅は、神仏習合の山王神道を絵図で描いている。山王の神々を神影像で構成した山王垂迹曼荼羅、本地仏により構成した山王本地曼荼羅、境内の神苑と社殿を描いた山王宮曼荼羅がある。
年間行事・山王祭 
山王祭(3月上旬-4月15日)は日本最大の祭りといわれ、20余りの祭礼により構成されている。もとの地主神の祭礼に、新たな祭神の祭礼が加わり、さらに天台宗の儀式も取り入れられた神仏習合の祭礼になっている。東本宮系祭祀は「山から里へのみあれ(御生れ、神の誕生・来臨)」(景山春樹)ともいわれ、それに対して西本宮系祭祀は「うみ(湖)から山麓へのみあれ」(嵯峨井建)ともいう。神輿により、東本宮御祭神・大山咋神、妃神の鴨玉依姫命が奈良から勧請され、婚姻、出産の物語を再現しているといわれる。神輿上げ(3月上旬)では、八王子山に牛尾神輿と三宮神輿の二基が担ぎ上げられる。例祭(4月12日- 15日) (山王祭)では、午の神事(12日)に、八王子山から二基の神輿が下山し、東本宮の拝殿に安置される。「尻つなぎの神事」では、神輿の前と後ろの轅(ながえ)をつないで「御生れのまつり」が行われる。神輿入れ神事(13日)では、大政所(宵宮場)に4基の神輿(三宮、牛尾宮、東本宮、樹下宮)が安置され、夜に若宮(別雷神)が生まれるという「宵宮落とし」が行われる。14日、西本宮の例祭では神饌が供され、宮司の祝詞奏上、奉幣使の祭詞奏上に続いて、延暦寺僧が五色御幣を行い、天台座主が般若心経を読経する神仏習合の行事がある。その後、7基の神輿(西本宮、東本宮、宇佐宮、牛尾宮、白山姫宮、樹下宮、三宮宮)が琵琶湖を舟で渡る神輿御渡が行われる。神輿は日吉大社に戻り、15日、各社を巡行する。これらは、三輪神社から大己貴神(おほあなむちのかみ)を当社に勧請したことを再現しているという。山王礼拝講(5月26日)では、西本宮での大社宮司の祝詞奏上のあと、比叡山僧侶による法華八講、散華行道の法会という神仏習合の祭儀がおこなわれる。伝承によれば、平安時代、1025年、社家・祝部希遠(まれとう)の時、山王大権現が顕れ、比叡山僧が修学修練を怠っていると嘆き去ると、八王子山の木々が枯れたという。延暦寺の僧は怖れ、日吉社で八講を修したところ山の緑が戻ったという。
古墳 
境内八王子山麓を中心に3世紀から7世紀にかけての古墳「日吉大社古墳群」約70基がある。直径5mから12mの小規模な円墳で、いまも横穴式石室が残されている。最大の円墳は18.2mの直径がある。古墳と当社成立は偶然ではなく、何らかの関連があり、祖霊、死霊への畏怖、守護の意図があるともみられている。
最澄ゆかりの遺跡 
周辺に、日本天台宗開祖・最澄ゆかりの遺跡がある。八王子山山中に、最澄の父・三津首百枝が男児(最澄)の出生を祈願したという神宮禅寺(神宮寺)の遺跡がある。最澄が生誕した地といわれる坂本の生源寺(しょうげんじ)には、最澄の産湯の井戸が残されている。日吉馬場に最澄の胞衣(えな)塚と伝えられる祠(幸塚、和産塚)が祀られている。最澄が出家し、行表に師事した国分寺址(大津市石山、晴嵐小学校)がある。女人禁制の比叡山で、子・最澄に会うために母・藤子は山を登り、浄刹結界を越えたという。母子が対面したという花摘堂跡が本坂の山中にある。また、生源寺すぐ近くに、最澄の母を祀った市殿神社、北近くに父を祀った百枝社がある。京阪坂本駅南東に産湯の窯を埋めたという伝教石櫃(せきびつ)がある。百枝の邸宅を寺としたいう紅染寺(こうぜんじ)跡(坂本7丁目)がある。
坂本 
延暦寺が開かれ以来、坂本は門前町として表詣道になった。安土・桃山時代、1571年の織田信長による焼き討ち後、天海により坂本の復興が行われている。延暦寺表参道(日吉の馬場)、八条通などの道を中心として、天台座主のための滋賀院、山を下りた僧のために慈眼堂などの多くの里坊、東照宮が建立された。
穴太衆積 
参詣路、境内の随所に南坂本の穴太(あのう)の石工集団、穴太衆が石積みした穴太積(穴太衆積)石垣(大津市指定文化財)が見られる。延暦寺創建以来、石垣の構造物などを手掛けてきた。自然石を積み上げた野面積みであり、容易に崩れないといわれている。安土・桃山時代、1576年の織田信長の安土城築城の際にも関わったとみられている。ただ、今日ではさまざまな石工集団の手によるもので、そのなかに穴太衆も参加していたとみられている。
桜楓 
4月初旬、桜150本が日吉馬場にあり、山桜、染井吉野、紅しだれなどが咲く。11月中旬から下旬に、湖西随一という3000本の紅葉の名所になる。
年間行事 
日吉東照宮大戸開神事(1月1日)、山王祭山王祭奉幣式(3月第一日曜)、山王祭(4月12日-4月15日)、山王礼拝講(5月26日)、裏千家献茶祭(5月29日)、日吉東照宮例祭(6月1日)、唐崎神社みたらし祭(7月28-7月29日)、講員大祭(11月第2土曜日)、表千家献茶祭(11月17日)。月次祭(毎月1日、14日)。
大政所
末社・流護因社、祭神は護因法師、日吉社に奉仕した社僧。
摂社・産屋神社の祭神は鴨別雷神(かもわけいかづちのかみ)、山王祭では、宵宮落し神事でみあれ(御生、神の誕生・来臨)の神。
鼠社(子社)、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、逸話が残されている。平安時代、第72代・白河天皇の頃(1073 -1087)、三井寺の頼豪は皇子の生誕を祈念し、成就したことから天皇により戒壇の建立を許された。だが、延暦寺の横槍が入る。頼豪は怒り、100日の行を修するが、その護摩の火により焼死したという。その怨念は鉄の牙をもつ84000匹の鼠に化身し、叡山の仏像、経典を食い尽くしたという。そこで、山の高僧が猫に化し、この鼠の社に封じ込めたという。 
■日吉神社

 

日吉神社(ひえじんじゃ、ひよしじんじゃ)は、滋賀県大津市坂本にある山王総本宮日吉大社(ひえたいしゃ、現在は「ひよしたいしゃ」)を勧請して日本各地に建立された神社である。
北海道
日吉神社 (函館市) - 函館市湯川町二丁目に鎮座する神社。明治時代の北海道開拓会社開進社による勧請。函館市に合併された旧湯川町(湯川村)内の日吉町はこの神社名にちなむ。
日吉神社 (釧路市) - 釧路市旭町九丁目に鎮座する神社。
日吉神社 (夕張市) - 夕張市日吉に鎮座する神社。
日吉神社 (美瑛町) - 上川郡美瑛町字大村に鎮座する神社。
青森県
日吉神社 (青森市) - 青森市に鎮座する神社。
日吉神社 (弘前市大字三和) - 弘前市大字三和に鎮座する神社。
日吉神社 (弘前市大字青女子) - 弘前市大字青女子に鎮座する神社。
日吉神社 (平川市) - 平川市猿賀に鎮座する神社。
岩手県
日吉神社 (一関市) - 一関市山目町に鎮座する神社。
日吉神社 (金ヶ崎町) - 胆沢郡金ケ崎町三ケ尻に鎮座する神社。
日吉神社 (平泉町) - 西磐井郡平泉町平泉に鎮座する神社。
宮城県
日吉神社 (多賀城市) - 多賀城市山王に鎮座する神社。
日吉神社 (大崎市松山次橋) - 大崎市松山次橋に鎮座する神社。
日吉神社 (大崎市古川柏崎) - 大崎市古川柏崎に鎮座する神社。
日吉神社 (大崎市岩出山上野目) - 大崎市岩出山上野目に鎮座する神社。
日吉神社 (岩沼市) - 岩沼市寺島に鎮座する神社。
日吉神社 (白石市) - 白石市大平坂谷に鎮座する神社。
日吉神社 (富谷市) - 富谷市富谷落合に鎮座する神社。
日吉神社 (蔵王町) - 刈田郡蔵王町大字平沢に鎮座する神社。
日吉神社 (山元町) - 亘理郡山元町大平に鎮座する神社。
秋田県
日吉神社 (秋田市新屋日吉町) - 秋田市新屋日吉町に鎮座する神社。
勝平日吉神社 - 秋田市新屋松美町に鎮座する神社。
日吉神社 (秋田市金足下刈) - 秋田市金足下刈に鎮座する神社。
日吉神社 (秋田市上北手猿田) - 秋田市上北手猿田に鎮座する神社。
日吉神社 (秋田市雄和種沢) - 秋田市雄和種沢に鎮座する神社。
日吉神社 (秋田市雄和戸賀沢) - 秋田市雄和戸賀沢に鎮座する神社。
日吉神社 (能代市) - 能代市御指南町に鎮座する神社。
日吉神社 (大館市) - 大館市餌釣に鎮座する神社。
日吉神社 (大仙市) - 大仙市内小友に鎮座する神社。
日吉神社 (湯沢市角間) - 湯沢市角間に鎮座する神社。
日吉神社 (湯沢市川連町) - 湯沢市川連町に鎮座する神社。
日吉神社 (由利本荘市) - 由利本荘市二十六木に鎮座する神社。
山形県
日吉神社 (山形市) - 山形市大字岩波に鎮座する神社。
日吉神社 (上山市) - 上山市藤吾に鎮座する神社。
日吉神社 (寒河江市) - 寒河江市大字高松に鎮座する神社。
福島県
日吉神社 (福島市郷野目) - 福島市郷野目に鎮座する神社。
日吉神社 (福島市上鳥渡) - 福島市上鳥渡に鎮座する神社。
日吉神社 (福島市飯野町明治) - 福島市飯野町明治に鎮座する神社。
日吉神社 (会津若松市河東町) - 会津若松市河東町広野日吉に鎮座する神社。
日吉神社 (会津若松市河東町) - 会津若松市河東町東長原に鎮座する神社。
日吉神社 (会津若松市門田町) - 会津若松市門田町大字飯寺に鎮座する神社。
日吉神社 (郡山市富田町) - 郡山市富田町に鎮座する神社。
日吉神社 (郡山市富久山町久保田) - 郡山市富久山町久保田に鎮座する神社。
日吉神社 (いわき市山玉町) - いわき市山玉町に鎮座する神社。
日吉神社 (いわき市泉町下川) - いわき市泉町下川に鎮座する神社。
日吉神社 (いわき市渡辺町田部) - いわき市渡辺町田部に鎮座する神社。
日吉神社 (いわき市三沢町) - いわき市三沢町に鎮座する神社。
日吉神社 (白河市) - 白河市大信下新城に鎮座する神社。
日吉神社 (田村市) - 田村市船引町船引舘に鎮座する神社。
日吉神社 (相馬市柏崎) - 相馬市柏崎に鎮座する神社。
日吉神社 (相馬市赤木) - 相馬市赤木に鎮座する神社。
日吉神社 (二本松市) - 二本松市下長折に鎮座する神社。
日吉神社 (南相馬市) - 南相馬市鹿島区江垂字中舘に鎮座する神社。
日吉神社 (矢吹町) - 西白河郡矢吹町大和内に鎮座する神社。
日吉神社 (富岡町) - 双葉郡富岡町中央一丁目に鎮座する神社。
茨城県
日吉神社 (水戸市) - 水戸市千波町に鎮座する神社。
日吉神社 (五霞町) - 猿島郡五霞町に鎮座する神社。
鹿島日吉神社 - 常陸太田市に鎮座する神社。
日吉神社 (神栖市) - 神栖市に鎮座する神社。
栃木県
日吉神社 (宇都宮市古賀志町) - 宇都宮市古賀志町に鎮座する神社。
日吉神社 (宇都宮市中岡本町) - 宇都宮市中岡本町に鎮座する神社。
日吉神社 (宇都宮市海道町) - 宇都宮市海道町に鎮座する神社。
日吉神社 (鹿沼市日吉町) - 鹿沼市日吉町に鎮座する神社。
日吉神社 (鹿沼市池ノ森) - 鹿沼市池ノ森に鎮座する神社。
日吉神社 (鹿沼市上石川) - 鹿沼市上石川に鎮座する神社。
日吉神社 (鹿沼市下南摩町) - 鹿沼市下南摩町に鎮座する神社。
日吉神社 (上三川町) - 河内郡上三川町大字西蓼沼に鎮座する神社。
埼玉県
萩日吉神社 - 比企郡ときがわ町大字西平に鎮座する神社。
千葉県
日吉神社 (東金市) - 東金市大豆谷に鎮座する神社。旧社格は郷社。
日吉神社 (大網白里市) - 大網白里市に鎮座する神社。
日吉神社 (館山市) - 館山市神余に鎮座する神社。
東京都
日吉神社 (昭島市) - 昭島市拝島町一丁目に鎮座する神社。
創建は不明ですが、江戸時代初期、天正年間(1573-1591)、隣接する大日堂再興の折に旧拝島村総鎮守山王社として現在地に建立されたと言われています。さらに桜町天皇の寛保元年(1741)九月五日に宗源宣旨を受け山王大権現の称号を賜りました。その栄誉を記念して、氏子一人毎月一銭の積立が始まり、その積立により明和四年(1767)に御社殿を再建修理され神輿を新造して第一回の祭礼を行っています。これが現在も例祭(毎年9月)の前夜祭である榊の渡御(榊祭)として残っています。現存する社殿は安政2年(1855)の再建とされています。(幣殿、拝殿、神楽殿新営、鳥居、神橋、石燈篭再建)本殿はそれ以前の建立とされています。山王大権現社は明治2年(1869)の神仏分離によって日吉神社と改名し、密厳浄土寺と別れて独立し現在に至っております。
日吉神社 (八王子市) - 八王子市小宮町に鎮座する神社。
神奈川県
日吉神社 (横浜市旭区) - 横浜市旭区さちが丘に鎮座する神社。
新潟県
日吉神社 (糸魚川市) - 糸魚川市大字山寺に鎮座する神社。
山寺日吉神社 - 上越市板倉区東山寺に鎮座する神社。
日吉神社(上越市) - 上越市西本町四丁目に鎮座する神社。
鏡日吉神社 - 柏崎市日吉町に鎮座する神社。
富山県
祇園宮日吉神社 - 氷見市南大町に鎮座する神社。
日吉神社 (上市町) - 中新川郡上市町若杉に鎮座する神社。
石川県
三口新町日吉神社 - 金沢市三口新町に鎮座する神社。
大野日吉神社 - 金沢市大野町に鎮座する神社。
本折日吉神社 - 小松市本折町に鎮座する神社。
日吉神社 (能美市) - 能美市に鎮座する神社。
豊田日吉神社 - 野々市市粟田一丁目に鎮座する神社。
日下日吉神社 - 野々市市三納二丁目に鎮座する神社。
福井県
日吉神社 (福井市) - 福井市に鎮座する神社
日吉神社 (大野市) - 大野市日吉町に鎮座する神社。
日吉神社 (敦賀市) - 敦賀市山泉に鎮座する神社。
日吉神社 (あわら市) - あわら市二面に鎮座する神社。
長野県
雨宮日吉神社 - 千曲市大字雨宮に鎮座する神社。
日吉神社 (松本市) - 松本市寿北五丁目に鎮座する神社。
祢津日吉神社 - 東御市祢津に鎮座する神社。
日吉神社 (青木村) - 小県郡青木村殿戸に鎮座する神社。
岐阜県
日吉神社 (岐阜市) - 岐阜市則武に鎮座する神社。
日吉神社 (瑞浪市) - 瑞浪市宮前町に鎮座する神社。
日吉神社 (郡上市) - 郡上市八幡町島谷に鎮座する神社。旧社格は郷社。
日吉神社 (神戸町) - 安八郡神戸町大字神戸に鎮座する神社。旧社格は県社。
愛知県
日吉神社 (名古屋市中川区) - 名古屋市中川区吉津に鎮座する神社。
日吉神社 (名古屋市名東区) - 名古屋市名東区上社に鎮座する神社。
日吉神社 (岡崎市美合町) - 岡崎市美合町に鎮座する神社。
日吉神社 (岡崎市中金町) - 岡崎市中金町に鎮座する神社。
日吉神社 (豊川市) - 豊川市萩町松葉に鎮座する神社。
日吉神社 (豊山町) - 西春日井郡豊山町に鎮座する神社。
日吉神社 (江南市) - 江南市勝佐町に鎮座する神社。
清洲山王宮日吉神社 - 清須市清洲に鎮座する神社。旧社格は県社。
日吉神社 (津島市) - 津島市牛田町に鎮座する神社。
日吉神社 (蟹江町) - 海部郡蟹江町学戸に鎮座する神社。
滋賀県
日吉神社 (栗東市) - 栗東市上砥山に鎮座する神社。
日吉神社 (野洲市) - 野洲市竹生に鎮座する神社。
日吉神社 (高島市勝野) - 高島市勝野に鎮座する神社。旧社格は郷社。
日吉神社 (高島市安曇川町) - 高島市青柳に鎮座する神社。旧社格は村社。
日吉神社 (高島市新旭町) - 高島市新旭町針江に鎮座する神社。旧社格は村社。
日吉神社 (東近江市建部日吉町) - 東近江市建部日吉町に鎮座する神社。
日吉神社 (東近江市百済寺本町) - 東近江市百済寺本町に鎮座する神社。
日吉神社 (近江八幡市安土町) - 近江八幡市安土町に鎮座する神社。
今堀日吉神社 - 東近江市今堀町に鎮座する神社。旧社格は村社。
京都府
新日吉神宮 - 京都市東山区に鎮座する神社。旧社格は府社。
山王宮日吉神社 - 宮津市字宮町に鎮座する神社。
大阪府
日吉神社 (大阪市) - 大阪市旭区赤川に鎮座する神社。旧社格は府社。
日吉神社 (高槻市) - 高槻市古曽部三丁目に鎮座する神社。
兵庫県
日吉神社 (豊岡市) - 豊岡市山王町に鎮座する神社。
山王日吉神社 - 姫路市香寺町土師に鎮座する神社。
日吉神社 (加西市) - 加西市池上町に鎮座する神社。
日吉神社 (神河町) - 神崎郡神河町比延に鎮座する神社。
鳥取県
日吉神社 (鳥取市) - 鳥取市布勢に鎮座する神社。
日吉神社 (米子市) - 米子市淀江町西原に鎮座する神社。
島根県
日吉神社 (出雲市) - 出雲市今市町に鎮座する神社。
岡山県
日吉神社 (赤磐市) - 赤磐市中勢実に鎮座する神社。
日吉神社 (勝央町) - 勝田郡勝央町植月北に鎮座する神社。
日吉神社 (備前市) - 備前市吉永町加賀美に鎮座する神社。
広島県
本山日吉神社 - 福山市新市町大字藤尾に鎮座する神社。
日吉神社 (庄原市) - 庄原市山内町に鎮座する神社。
山口県
日吉神社 (長門市) - 長門市油谷向津具上に鎮座する神社。
香川県
日吉神社 (坂出市) - 坂出市川津町に鎮座する神社。
徳島県
日吉神社 (吉野川市) - 吉野川市山川町湯立に鎮座する神社。
愛媛県
日吉神社 (松山市) - 松山市南斎院町に鎮座する神社。
坂元日吉神社 - 伊予市八倉に鎮座する神社。
高知県
八王子日吉神社 - 香南市香我美町上分に鎮座する神社。
福岡県
日吉神社 (北九州市) - 北九州市若松区東二島に鎮座する神社。
日吉神社 (福岡市博多区山王) - 福岡市博多区山王に鎮座する神社。
日吉神社 (福岡市博多区立花寺) - 福岡市博多区立花寺二丁目に鎮座する神社。
日吉神社 (久留米市国分町) - 久留米市国分町に鎮座する神社。
日吉神社 (久留米市城南町) - 久留米市城南町に鎮座する神社。
日吉神社 (久留米市日吉町) - 久留米市日吉町に鎮座する神社。
西町日吉神社 - 久留米市西町に鎮座する神社。
日吉神社 (八女市) - 八女市今福に鎮座する神社。
日吉神社 (柳川市) - 福岡県柳川市に鎮座する神社。旧社格は県社。
日吉神社 (宮若市) - 宮若市に鎮座する神社。
日吉神社(福智町) - 田川郡福智町に鎮座する神社。
熊本県
日吉神社 (熊本市) - 熊本市に鎮座する神社。旧社格は県社。
吉王丸日吉神社 - 八代市千丁町に鎮座する神社。
黒石日吉神社 - 合志市須屋に鎮座する神社。
住吉日吉神社 - 菊池市泗水町に鎮座する神社。
大津日吉神社 - 菊池郡大津町に鎮座する神社。
山田日吉神社 - 玉名市山田に鎮座する神社。
用木日吉神社 - 玉名郡和水町に鎮座する神社。
大分県
日吉神社 - 大分市に鎮座する神社。旧社格は県社。 
■日枝神社

 

日枝神社は山王信仰に基づき比叡山麓の日吉大社より勧請を受けた神社の社号である。
日枝神社 (釧路市) - 北海道釧路市に所在する神社。
上日枝神社 (酒田市) - 山形県酒田市浜田に所在する旧郷社。
下日枝神社 (酒田市) - 山形県酒田市日吉町に所在する旧県社。
山王日枝神社 (鶴岡市) - 山形県鶴岡市山王町に所在する旧県社。
日枝神社 (郡山市西田町三町目) - 福島県郡山市に所在する神社。
日枝神社 (郡山市西田町根木屋) - 福島県郡山市に所在する神社。
日枝神社 (郡山市三穂田町) - 福島県郡山市に所在する旧村社。
日枝神社 (筑西市) - 茨城県筑西市下高田
日枝神社 (土浦市) - 茨城県土浦市
日枝神社 (小山市) - 栃木県小山市に所在する旧村社。
日枝神社 (足利市) - 栃木県足利市小俣町
日枝神社 (足利市) - 栃木県足利市葉鹿町
日枝神社 (足利市) - 栃木県足利市樺崎町
日枝神社 (桐生市) - 群馬県桐生市に所在する旧県社。
社伝によれば、桐生氏中興の祖・桐生国綱公は南北朝の観応元年(1350)桐生城(柄杓山)を築いた。同時に氏祖六郎公が近江国坂本より分霊勧請した山王宮を菱小屋の聖地より桐生城本丸下の当地に移建再祠し、御神木としてクスノキ5本を献じた。これによって社号を樟御殿山王宮とし、その後桐生城守護・桐生家祈願所としての機能が明確になる。(後略) 御祭神 大山昨命・大物主命・菅原道真公・大雷命・天御中主命・月読見命・大国主命 / 相殿神 木花開耶姫神・猿田彦命 / 社格等 旧村社
日枝神社 (前橋市) - 群馬県前橋市総社町総社
祭神・大山咋命。当社は天台宗の守護神として近江国日吉神(山王権現)を勧請したものである。往時この地に昌楽寺と称する天台宗寺院があったからであろう。社伝によれば治承4年 (1180) の兵火に焼かれる以前は、この地に山王21社があり早尾、王子宮はじめ諸種の社殿が立ち並んでいたという。社宝には、現在山王曼荼羅掛軸などが保存されている。鎮守産土神の例祭日は4月3日。境内には元禄8年(1695)の庚申塔をはじめ18基の万造物(民間信仰遺産)が安置されている。
日枝神社 (前橋市) - 群馬県前橋市山王町
貞観二年(清和天皇の御宇858年)嵯峨天皇の皇子、二品親王忠長郷が上野国大守に任ぜられたのを祝して九ヶ村の郡民相議り、社殿を造り近江国に鎮座の日吉山王大権現を遷祀して産土の神と仰ぎ安心立命と天下泰平五穀豊穣を祈ったのが本神社の興りである。当時この社地周囲の稲の収穫凡そ二百万把を山王と称し貞観七年(865年)阿部真行が上野介に任命されて水田数町歩を献じて神田としたと言われ現に神田の小字名を残している。文治二年(1186年)足立盛長が参詣して鰐口一ヶを奉献し建久七年(1196年)には源頼朝が参詣して三百余町歩を寄進、国家安全の祈祷をしたと言われる。その後は応仁の乱に当地も戦場と化し天文年中に至って兵火に罹って社殿僧房旧記の殆どを焼失したが永禄年間に漸く社殿を再造して僅かに旧態を保った、現存の本殿は実にこの時の建築である。近世に下っては慶安二年(1649年)徳川家光は朱印を以って神田五十四石を献じ又歴代の前橋藩主は祭祀料を献じ度々社殿、玉垣等の修復を行った。近代に至っては明治元年(1868年)神佛分離の令によって社僧、別当は廃止され神田は国へ返還し国家の管理の下に置かれ社名も村社日枝神社と改称された。明治四十二年国の方針により神社の合祀が行われ当時の佐波郡上陽村大字中内鎮座村社稲荷神社仝村大字東善鎮座無格社菅原神社、仝村大字西善鎮座村社稲荷神社並びに無格社菅原神社、神明神社及びその境内社を当神社の境内神社として移転合祀した。昭和二十一年十一月三日、日本国憲法の公布により神社は国家の管理を離れ宗教法人として発足し現在に至る。
日枝神社 (高崎市) - 群馬県高崎市上並榎町
日枝神社 (川越市) - 埼玉県川越市に所在する喜多院の鎮守社。
埼玉県川越市小仙波町の神社。旧社格は県社。もともと喜多院の境内にあったが、県道建設のため大正時代に仙波古墳群という前方後円墳を開削して喜多院門前に移転した。円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである(赤坂日枝神社もそう記述している)。本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。祭神は僧形の大山咋神(おおやまくいのかみ)・大己貴命(おおくにぬし)。
大附日枝神社 (ときがわ町) - 埼玉県比企郡ときがわ町大附に所在する村社。
日枝神社 (市川市) - 千葉県市川市に所在する神社。
当神社は相之川の里の鎮守として万治二年(1659年)九月十日創建と伝えられています。社中に宝暦七年(1757年)再建の記録が有ります。明治六年四月十一日村社に列せられ明治十六年四月に改築されました。御祭神大山咋神は大国主神、大年神と共に須佐之男神子孫にあたる神で国土守護を司どります。地域の発展と共にその神の守護地での御神徳が有るのを以て南行徳の相之川を開拓の中心と定め直ちに大山咋神を産土神に奉るためにお遷しいたしました。御事蹟により農業守護・殖産・商業繁栄の神として地域の信仰を集めました。終戦と共に村社という社格は廃止されましたが、宗教法人として人々の尊信を集め厄除・開運。安産育児・学業成就・工場安全・交通安全の守護神として今日にいたっております。
日枝神社 (千代田区) - 東京都千代田区にある旧官幣大社・別表神社。
当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として江戸の町の繁栄の礎を築きました。やがて天正18年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、又江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬されました。二代秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たに社地を江戸城外に定め、社殿を新築して遷祀されました。世に元山王と称する地は今の隼町国立劇場附近です。この時から別当神主を定め、神社の規模は広大に整い、広く一般衆庶も参拝し得る道を開きましたが、明暦3年(1657)の大火に社殿炎上の災に遇いました。時の将軍家綱は直ちに赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に充て、結構善美を尽くした権現造の社殿を造営・遷祀して、天下奉平、万民和楽の都を守護する祈願所として崇敬しました。
明治元年東京奠都と共に勅使奉幣が行われ、御西下御東幸に際しては御途中御安全の御祈祷を修せしめられ、明治2年7月天下水患にあたり勅使祈晴の御事があり、宮妃御懐妊の際は御安産の御祈祷を修せられ、皇室典範帝国憲法の制定を始めとして開戦及び平和回復等の重大事に際しては、常に勅使参向御奉告が行われ、畏くも大正天皇儲宮にまします時、御参拝があり、明治天皇は御愛蔵の御太刀一振(長光)を御進献あそばされました。
萬治2年御造営の社殿は、江戸初期権現造の代表的建物として国宝に指定されていました。昭和20年5月戦禍に遭い、末社山王稲荷神社を残し悉く烏有に帰しましたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により「昭和御造営」の画期的な大事業が企画され、昭和33年6月本殿遷座祭齋行、引き続き神門・廻廊・参集殿が逐次完成、更に末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで行ない、全都をあげて之を慶賀し、昭和42年6月奉祝祭が先ず齋行され、この間、昭和33年6月現社地御鎮座三百年祭を齋行し、ここに昭和24年復興後援会発足以来10年に亘る歳月を以て、山王台上に再び大社の偉容を拝するに至りました。
ご祭神 / 大山咋神(おおやまくいのかみ)。相殿に鎮まります神々 / 国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)。
「古事記」に『大山咋神(おおやまくひのかみ)。又の名は山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。この神は近淡海国(ちかつあふみのくに)の日枝山に坐す。また葛野(かづぬ)の松尾(まつのを)に坐す。鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり』とあるように、近江国(今の滋賀県)の日枝山(比叡山)に鎮まりましたのが最初で大年神(おほとしのかみ)の御子神で、別にその御名を山末之大主神とたたえて申し上げます。
大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山・水を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う御神徳は広大無辺です。近年は厄除け、安産、縁結び、商売繁盛、社運隆昌の神として崇敬されています。
日枝神社 (大田区) - 東京都大田区に所在する神社。
御祭神 / 大山咋命・大己貴命。社格 / 旧村社。創建の由緒は不詳。もとは新井宿村の名主・酒井権左衛門邸内に山王権現を祀った社であり、山王社と称されていた。鎮座地である山王地区は新井宿村の一小字で、地名の由来は当社の社号である。1677(延宝5)年、領主・木原義永の暴政に耐えかね、幕府への直訴を画策していた酒井ら新井宿義民六人衆が捕らえられ、斬首される。以後、現在も社地に隣接する成田山圓能寺(現・山王1-6-30)が別当として管理していた。1868(明治元)年、神仏分離令により圓能寺から独立し、日枝神社と改称されている。1923(大正12)年、社殿を新築の上6月8日に村社に列せられた。1945(昭和20)年の空襲により社殿は焼失したが、1960(昭和35)年に氏子一同の努力により再建された。
日枝神社・水天宮 (清瀬市) - 東京都清瀬市中清戸に所在する神社。
日枝神社 (横浜市) - 神奈川県横浜市に所在する旧村社。
日枝神社は、古くは山王社・山王大権現・山王宮と称せられましたが、今では「お三の宮」「お三さま」と広く親しまれ、崇め称えられています。これは、山王宮→山の宮→おさんの宮と転訛したこと、更には《お三の人柱伝説》を付会して「お三の宮」と書かれ呼ばれるに至りました。
現在の横浜市の中心部、中区と南区に亘る大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線からお三の宮所在地まで(関外地区)広い範囲は、釣鐘の形をした入海でしたが、今からおよそ三五〇年前に、江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた吉田勘兵衛良信という商人が、この入海を埋立て新田を築きました(吉田新田)。この大工事は、明暦二年七月十七日に鍬入れをしましたが、翌年の五月十日より十三日に亘る集中豪雨の為に失敗に終わります。しかし、万治二年二月十一日に再度試みて、寛文七年、十一年余りの歳月と八千三十八両の巨費により、市内最古で最大規模(およそ三十五万坪)を誇る新田開発を成し遂げることが出来たのです。そこで勘兵衛は、新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に、寛文十三年(一六七三)九月、新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈り、江戸の山王社(今の旧官幣大社日枝神社)より勧請し、山王社と併せて稲荷社を創建したのであります。この御由緒により『横浜開拓の守護神』として、氏子をはじめ横浜の普く人々に御崇敬を戴いているのです。
日枝神社 (大磯町) - 神奈川県中郡大磯町大磯に所在する神社。
大山祇命。由緒沿革不詳。社殿は安政五年(1858)十二月再建と伝えられる。住所は大磯(字山王)、山王町の氏神である。八坂神社、秋葉神社の二神も合祀されている。
日枝神社 (厚木市) - 神奈川県厚木市に所在する旧村社。
大山祇命。創立年月不詳。古くから山村にゆかりある神として地区民の信仰が厚く、明和元年(一七六四)十一月社殿を再建し、その後昭和三年社殿を改築した。風土記に見える「山王社四」の内の一つである。久保部落の鎮守社。
日枝神社 (上越市) - 新潟県上越市寺町に所在する旧県社。
日枝神社 (富山市) - 富山県富山市に所在する旧県社・別表神社。
別称「富山山王さん」。大山咋神・大己貴命を主祭神とし、相殿に天照大御神・豊受大御神を祀る。毎年5月31日より行なわれる春季例大祭「山王まつり」は、「さんのさん(はん)の祭り」として親しまれる富山県内最大の祭りで、大勢の人々で賑わう。日枝神社を山王さんというのは日枝山麓にある日吉(ひえ)神社の祭神を山王権現と称し、釈迦如来の仮の姿として天台一種の護法神とする考えからきている。創建の年代は不詳。古くは越中国新川郡針原に広い境内地をもって鎮座していたのを、南北朝の1335年(建武2年、桃井直常が北条時兼を追討した際、敗走する時兼が防戦のため社に火を放ったので、戦乱を避けて神体は旧上新川郡大山町隠土、旧上新川郡中野村と各地に遷座した。1367年(正平22年)以降、旧婦負郡藤居村(現在の富山城跡)に遷した。天正年間、佐々成政が富山に入城の際、城内にあった藤居山富山(ふせん)寺鎮守山王権現を現在地に遷し、富山の産土神とした。成政の越中退去後、1587年(天正15年)、前田利長が富山城に入城して以降は、富山前田家の産土社に定められ、新たに社地・社殿が寄進された。1873年(明治6年)に郷社に列した。1875年(明治8年)、天照大御神を祀る北神明社、豊受大御神を祀る中神明社を合祀した。1899年(明治32年)、境内地に新県庁を建設するのにあわせ、かつて鎮座していた縁で富山城跡内に遷座し、同年8月2日、県社に昇格した。しかし同年8月12日に市街全域を焼く大火があり、社殿を焼失した。1901年(明治34年)、現在地に本殿・拝殿を再建した。1945年(昭和20年)八月一日富山大空襲により全社殿その他建物の全てを消失したが、御神体は、本殿土壇の特設の防空壕に直前にお移しして被災を免れた。戦後は被災にあった本殿・拝殿・社務所等が氏子崇敬者の御浄財により次々とご復興し、神域は見違えるように旧に勝る威容を誇るに至った。1968年(昭和43年)、神社本庁の別表神社に加列された。
日枝神社 (高山市) - 岐阜県高山市に所在する旧県社。
別名飛騨山王宮日枝神社。春の例祭(山王祭)は、秋の櫻山八幡宮の例祭とともに高山祭として知られる。高山市の高山城下町南半分(宮川以南)の氏神である。祭神は大山咋神。1141年(永治元年)、飛騨国国司で三仏寺城(現在の高山市三福寺町に存在した飛騨国最古の城)城主である飛騨守平時輔が、近江国日吉神社を勧請し、三仏寺城の近くに創建した。言い伝えによれば、平時輔が狩りを行なっていたところ、一匹の老狼を見つける。これを仕留めようと矢を射たが獲物は見当たらず、矢は大杉に深くつき立っていたという。平時輔は「大山咋神が、お使いである老狼を救われたものであろう」と神の力を感じ、鎮護神として近江国より日吉大神を勧請し、日枝神社としたという。この時の大杉が、日枝神社の大杉という。1181年(養和元年)、源義仲により三仏寺城は落城し、日枝神社も焼失した。御神体は無事であり、片野村杉ヶ平(現、高山市片野町杉ヶ丘)に移され、片野村の産土神として祀られた。1586年(天正13年)、金森長近が飛騨国に入り、高山城に入城した。1605年(慶長10年)、日枝神社を高山城の鎮護神とし、現在地へ移転した。1692年(元禄5年)に飛騨国が天領となり高山城が廃城となった後も、高山陣屋(飛騨郡代)の鎮護神とされた。このころ、「両部習合神道」「山王一実神道」を以って松樹院が設けられ、山王権現宮と呼ばれた。飛騨国分寺との関係をもっていたという。1748年(寛延元年)、本殿が再建された。この本殿は現在移築修復され、末社の富士神社社殿として使用されている。1826年(文政9年)、真言宗仁和寺末となる。1869年(明治2年)、神仏分離により日枝神社に改称する。1935年(昭和10年)、豪雨で裏山が崩れて本殿が倒壊した。現在の本殿は1938年(昭和13年)再建である。
日枝神社 (沼津市) - 静岡県沼津市に所在する神社。
主神・大山咋神、相殿・大名牟遅神、大歳神。この地域は平安時代大岡庄と称され、関白藤原師通の領地でした。嘉保2年(1095年)美濃守源義綱が延暦寺の僧、山王の神主を殺害する事件があり、関白藤原師通はこの訴えを拒絶した為、僧・神主の呪詛により38才で死亡しました。師通の母は近江國の日吉大社の御神霊を分祀し八町八反の田を寄進して謝罪の礼を表されたのが当社の起源です。第73代 堀河天皇、永長元年(1096年)のことです。
日枝神社 (伊豆市) - 静岡県伊豆市修善寺に所在する神社。
神社は、807年(大同2年)、修禅寺の鬼門の鎮守として弘法大師によって創建された「山王社」がそのはじまり。明治の神仏分離によって修禅寺より分離された。祭神は大山咋神。境内には、杉・欅・槇など大木が聳え、源頼朝の異母弟で謀叛の疑いをかけられた源範頼(のりより)が幽閉されたという信功院跡がある。信功院は修禅寺の八塔司の一つで、後に庚申堂となり、現在は庚申塔一基のみが残っている。梶原景時に攻められた範頼は、信功院で自害した。
日枝神社 大水別神社 (高島市) - 滋賀県高島市今津町今津
御祭神・迩迩藝命、天水別神。滋賀県高島市にある。竹生島への船便が出る今津港の南に、湖に面して鎮座。湖岸の道路に鳥居が立ち、竹生島から戻る船の上からも確認できる。鳥居の扁額には、「大水別神社 日枝神社」の社号が並ぶ。あまり広くない境内の中央に拝殿があり、後方に本殿。創祀年代は不詳。鳥居扁額が示すとおり、当社は日枝神社と大水別神社を併せ祀る神社。日枝神社は、十禅社とも大野神社とも称し、もと、大野堂立山に鎮座していたという。一説には、延喜七年に、大久保坂に遷座し、正和二年(あるいは文永二年)に、木根田に遷座。貞和三年、現在地に遷ったという。大水別神社は、同じく大野堂立山に鎮座していたが、承平の頃、大久保坂に遷座し、後、日枝神社とともに遷座を繰り返して、現在地に至ったという。もとは、別々の社殿に祀られていたが、現在は、相殿に祀られている。日枝神社は、式内社・大野神社の論社、大水別神社は、式内社・大水別神社の論社となっている。
日枝神社 (泉佐野市) - 大阪府泉佐野市南中樫井に所在する神社。
御祭神は猿田彦命。創建は不詳。古くは山王と呼ばれていました。往古、この村に籾を浸す井戸があり、その名を籾井と言いましたが、井戸の傍に樫木があったので樫井と改めた、との地名説話が残っています。
日枝神社 (田辺市) - 和歌山県田辺市に所在する神社。
創建年代は不詳であるが、社伝により後柏原天皇の大永4(1524)年ころ勧請と『神社明細帳』に記さる。慶安2(1649)年の「田辺村々瀬戸神社書上」(『万代記』三巻)に記されていることからも、それ以前の創建であることは確かである。『田辺領神社書上帳』元禄7(1694)年・享保10(1725)年・寛政4(1791)年・文化13(1816)年によっても古くから氏神として崇められ、湊の御霊宮(現在の蟻通神社)の神主が社役を勤めていたことが知られる。明治元年の神仏分離によって社名山王権現を日吉神社と改称、また境内社3社も熊野神社・猿田神社・若年神社、大正5年6月、本殿相殿に改めた。明治6年4月、村社となる。同44年11月、神饌幣帛料神社に指定、さらに大正3年2月、会計法適用社にも指定される。同13年2月、境内地の拡張に伴って整備が行われた。
俗称「猿神さん」 / 日本人は古くから神様のお使いとして動物を考えている。熊野では烏、八幡では鳩、稲荷が狐であるように、日吉も猿が神様のお使いとされている。近江(滋賀県)の日吉大社では、神猿魔去として尊ばれている。
日枝神社 (徳島市) - 徳島県徳島市に所在する神社。
創建年は不明。元々は山王権現と呼ばれ、徳島藩主・蜂須賀氏が守護神として造営したと伝えられる。明治3年に日枝神社と改称した。祭神の大山咋神・豊国神・東照宮は「神社明細帳」によると、恐らく蜂須賀氏が奉斎していた山王社に、その後、豊臣秀吉がさらに江戸時代に東照宮が、相殿に合祀されたものである。境内には、御頭大明神(戦国時代、城山に居を構えた武家が蜂須賀家政の阿波国入国に当たり、追われて藍場町で刺客に襲われ殺された。人々はその徳を偲んで同地に祀り、御頭大明神と崇めた。)、徳島市指定保存樹木(フジ、マキ、クスノキ)がある。
日枝神社 (長与町) - 長崎県西彼杵郡長与町に所在する神社。 
■山王神社

 

山王神社は、山王信仰に基づいて各地に存在する神社。
山王神社 (苫小牧市) - 北海道苫小牧市
北大演習林に隣接した神社。近年、台風で巨大な鳥居が倒れ、鳥居は土台だけを残して撤去されている。
山王神社 (高畠町) - 山形県東置賜郡高畠町糠野目
天授4年(1378年)会津藩主・遠藤大和守勝平が糠野目松川寄りに堂宇を建立した。元和6年(1620年)現在地に社殿を造営し遷座した。現社殿は、嘉永2年(1849年)に建立したもので、正面・切妻などの彫刻は素晴らしいものである。
日吉山王神社 (松島町) - 宮城県宮城郡松島町松島
天長5年(828)慈覚大師が延福寺創建のときその護神として近江坂本(現滋賀県)の山王社の分霊を勧請し天竜安(五大堂向いの小高い丘)のほとりに祀ってあったものを寛永17年(1639)時の瑞巌寺住職雲居禅師によって現在の地に祀られたが寛永8年(1711)とその後数回にわたり修復が行われた。社殿は江戸中期の秀作とされ昭和43年春本殿拝殿が修理された。主祭神は大山咋神、相殿に国常立神、日仲彦神、伊弉神を祀っている。祭日は4月20日。日吉山王神社は平安時代初期の天長5年(828)、慈覚大師円仁が延福寺(瑞巌寺の前身)を開山した際、鎮守社として日吉大社(滋賀県大津市坂本)の分霊を勧請したのが始まりとされます。日吉大社は天台宗の総本山である比叡山延暦寺の守護神で、円仁は第3代天台座主である事からも、延福寺は天台宗の寺院だった事が判ります。延福寺はその後、臨済宗建長寺派円福寺、臨済宗妙心寺派瑞巌寺と宗派、寺号を変えましたが、日吉山王神社は鎮守社として奉斎され続けたようです。このように創建以来神仏習合の形態を取り付けましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により形式上は瑞巌寺とは分離し現在の社号に改め、大正元年(1912)に周辺の神社を合祀、昭和5年(1930)に村社に列し、神饌幣帛料供進神社に指定あれています。現在の日吉山王神社本殿は江戸時代中期に造営されたもので、三間社流造、銅板葺き、外壁は真壁造り素木板張り、社殿の規模として大型とは言えませんが歴史的背景や建築技術の高いなどの評価を受け昭和46年(1971)に宮城県指定重要文化財に指定されています。日吉山王神社は多少入り組んだ所に鎮座しているので観光客には解り難いかも知れません。普段は人気も少なくひっそりと佇んでいます。
山王神社 (取手市) - 茨城県取手市藤代町
山王神社 (取手市) - 茨城県取手市山王
山王神社 (八王子市) - 東京都八王子市
山王稲穂神社 (小金井市) - 東京都小金井市本町
江戸城の守護神として三百年あまり天下安泰の江戸麹町(東京 赤坂:日枝神社)山王宮より承応3年(1654)下小金井の新田開発のため、御分霊を祭る。御神祭の大山咋神(おおやまくいのかみ)は開拓の神として古来より新天地への社業繁栄、家運隆昌の御神徳あり。また山王の紳使(御神猿)は古くから魔が去る「まさる」と呼ばれ、 厄除、魔除の信仰を受け、犬と共に分娩の軽き安産の神とし信仰されている。境内に疱瘡神社、稲荷神社があり、病気平癒、縁結び、商売繁盛の御神徳。稲穂神社の稲穂とは、一粒の種子もまけば万倍の粒となることから、全ての事が栄え成し遂げられるようにと付けられたお社で御座います。
山王神社 (相模原市) - 神奈川県相模原市南区上鶴間本町
国道16号線とおおむね平行している谷口中学校前の道路(旧道藤沢までの八王子街道の一部)の鵜野森境にある山王神社の社殿の中に館区内で最も古い石塔である「山王さま」があります。この石塔が建てられた今から320年位前、将軍徳川家綱の時代、この辺りはどんな風景でどんな暮らしだったでしょうか。そのころ作られた絵図面によると、現在山野通りと呼ばれているこの辺りの沿道は開墾され畑になっています。当時この周辺は家が集まっていたからか新開といわないで新宿と呼ばれていました。そのころの記録によると座間村との間に起った秣場(馬牛の飼料の草をとる所)争いが1650(慶安3)年おさまり、それから25年経って開墾も進んだ1675(延宝3)年にこの石塔は建てられました。(高さ97cm、幅40cm、笠付)正面中央に「南無妙法連華経」右に「延宝三乙卯歳12月7日」左に「供養山王権現」そして右横側に「相州高座郡谷口村」左横側に「施主●●中間諸旦●●」と刻まれています。その三方の下部に見ざる、いわざる、聞かざるの三猿が浮ぼりになっているのは山王の神使が猿だからでしょう。山王信仰は天台宗総本山比叡山延暦寺の惣森神である山王権現に対する信仰で、山王は山の守り神、地主神としてまつられています。山王さまの講中の渋谷高幸さん、渋谷宣清さんのお話では、今は木造のお社ですが昭和10年代には茅葺で、年に一度のお祭りの日には芝居小屋が立つこともあってにぎわい、また子どもたちは毎朝ここへ集まってから大沼にある大野小学校まで通っていたそうです。現在も毎年10月20日には講中の約40名の方々が集まり祭りが行われています。
山王神社 (小田原市) - 神奈川県小田原市浜町
山王神社 (座間市) - 神奈川県座間市東原
山王神社 (藤沢市) - 神奈川県藤沢市長後
山王神社は、藤沢宿最初の鎮守で、寛永年中(1624-44)現在の藤沢高校跡あたりに勧請され、安永年中(1772-81)この地に移されました。境内裏にまわると庚申塔が人恋しそうにたたずんでいます。
山王神社 (横浜市) - 神奈川県横浜市泉区緑園
緑園三丁目にある地元の鎮守さまです。この神社の本社は比叡山山麓にある日吉大社で、大山咋神が祀られています。神社の周辺の地形は宅地開発により、すっかり変わってしまいましたが、神社は開発前から今と全く同じ場所、同じ高さに社がありました。また、境内には庚申塔、道祖神塔がひっそりと残っています。
山王神社 (早川町) - 山梨県南巨摩郡早川町湯島
素盞嗚尊。創立年代不詳。甲斐国志に、湯島村山王権現「上湯島ニ巌屋御前ト云アリ、又早川ノ東温泉ノ湧ク処ニ権現ノ祠アリ」と有。当社と推察される。
山王神社 (早川町) - 山梨県南巨摩郡早川町大原野
素盞嗚尊。創立年代不詳。甲斐国志に「山王権現(大原野村)下山一ノ宮神主兼帯ス下同」と有。
山王神社 (甲州市) - 山梨県甲州市塩山下粟生野
大己貴命、素盞嗚尊。平城天皇大同元年(八〇六)勧請。慶長八年に徳川家康より社領高二石一斗が寄進された。元禄十一年(一六九八)五月には社殿が再建され、明治三年社領上知、同七年村社に列す。昭和五十六年十月本殿を解体復元修理を行ひ御手水舎等も氏子中より寄進された。
山王神社 (笛吹市) - 山梨県笛吹市石和町下平井
寿永二年正月、武田太郎信義より勧請された「社領高、菊島郷、弐拾八貫五百文御寄進有」の記録がある。棟札には延宝七年霜月十一日神主、岩間河内守、神殿を奉造したことが記録されてゐる。明治初年英村「村社」に列せられた。
山王神社 (掛川市) - 静岡県掛川市東山
山王神社 (尾鷲市) - 三重県尾鷲市賀田町
この地域の山、或いは海の御守護神として、古くから親しまれていた神社。この事は地震、津波の影響で宝永年間(1704〜1710)に荒廃したのを享保14年(1729)に至るまでかけて再興した事からも物語っている。尚、境内内外に樹齢千数百年にも及ぶ杉・桧が茂っている。当社の創祀はついては詳にし難い。古くは山神社といい近隣の人々より崇敬されてきた。又、明治42年(1909)稲荷大明神と称し、同地区の氏神と崇められていた上地神社と合祀して山王神社と改称して現在に至る。
山王神社 (広陵町) - 奈良県北葛城郡広陵町南郷
弥勒石仏(県指定文化財、平安時代後期 永治二年 1142年、安山岩、高さ 125Cm)、「弥勒さん」と親しまれているが、像容は法界定印を結ぶ胎蔵界大日如来で、頭に宝冠を頂いている。像高91Cmの坐像で、膝から下は彫られていない。衣文は薄く、体部は豊かで肩幅が広く威厳に満ち格調が高い。
山王神社 (京都市) - 京都府京都市右京区山ノ内宮脇町
夫婦岩 / 子どもの誕生を望む夫婦の願いを、長年受け止め続けてきた岩が、山王神社にある。本堂前に寄り添うように並んでいる、しめ縄で飾られた二つの岩。名前を「夫婦(めおと)岩」という。神社には、二つの岩の由来が何とも不思議な話で伝わっている。約千年前、天台座主の良真がこの地を訪れた際、良真の後を追って、比叡山から一緒に飛んできたというのだ。同神社がある山ノ内地域はかつて、比叡山延暦寺の領地だった。同神社は、延暦寺の守護神でもある日吉大社(大津市)から分霊し、創建されたとされる。山王神社の米川保清宮司(八〇)は「延暦寺と山王神社のつながりを示す話ではないか」と推測する。岩はいつしか夫婦岩と呼ばれ、子授けや安産の信仰を集めるようになった。「岩が男性と女性らしい形をしていたからでしょう」と米川宮司。向かって左の女岩は高さ約1m、幅約2.5mで、中央部分がへこんでいる。男岩は高さ約1.5m、幅約1.3mで、ややずんぐりした形だ。男岩と言うには少し物足りない気がするが、実はこの岩、地中深く埋まっている。約十五年前、本堂の改修に合わせて、離れていた岩を現在の場所に移すために掘り出した際、大きさが5mほどであることが分かったという。神社の言い伝えでは、二つの岩の周囲を、三周回った後、岩をなでて願うと子を授かるという。また、子どもが生まれて初めての宮参りで、酒や米、梅干しを小皿に入れて、女岩のくぼみに供えて感謝し、長生きなどを祈願する。梅干しの皮で鼻をつまんで出世を祈り、種をくぼみに入れて、子孫繁栄を願う言い伝えも残っている。今でも願を掛けるために夫婦や女性が訪れ、深夜に一人で祈る女性もいる。また、「跡継ぎができました」「二人目が生まれました」などの喜びの報告があったり、手紙が日本各地から届く。一方で現在は虐待など子どもをめぐる悲しい出来事が多い世の中。米川宮司は「子どもが欲しいと一心に願う親の姿を見ているだけに、やりきれない。『子が宝』という思いは、時代を超えて変わらないはずなのに」と二つの岩を見つめた。
山王神社 (京都市) - 京都府京都市東山区
東大路通から渋谷通を東へ入り、急坂の途中、北西に小社・山王神社はある。かつて旧清閑寺全村は清閑寺の境内地になっていた。中世(鎌倉時代-室町時代)、寺勢の衰退に伴い分割された。祭神は、大山咋神、大名牟遅神、田心姫神、大山荒魂、白山姫神、鴨玉依姫神、鴨玉依姫神荒魂の7座。また、国常立命、天忍穂耳命を祀るともいう。創建、変遷の詳細は不明。かつて、当社境内東にある天台宗(現在は真言宗)・清閑寺の鎮守社として、その山門の内にあったという。近江・日吉社より勧請され、分霊を祀っていたともいう。一帯の清閑寺村の産土神だった。1901年、清閑寺より独立し、その境内より現在地に移る。
上唐櫃 山王神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市北区有野町唐櫃
大己貴命、少彦名命。[カミカラト] 創建は不詳であるが、以前は六甲山麓に近い遠坂というところに祀られていた。貞享4年(1687)に六甲山に大山津波が起こり、神社も流失し、その後現在地に移され、上唐櫃の産土神、農業・林業の守護神として祀られたという。社殿は明治19年(1886)と昭和45年(1970)に焼失し、現在の鉄筋コンクリート造の社殿は、昭和46年(1971)3月に再建された。社宝として、平清盛奉納と伝えられる。「神鏡」一面がある。
下唐櫃 山王神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市北区有野町唐櫃字溝ノ下
大己貴命、大歳命、猿田彦命。[シモカラト] 創建年月は不詳であるが、源義経が、一の谷の戦勝を祈願して、弓矢を奉納した。また、建武動乱のおり、赤松則村・則祐が戦勝を祈願して金幣等を奉納した、との伝承がある。当社は、江戸時代と明治維新に出された高札三枚を所蔵している。その内一枚は、正徳元年(1711)のもので、「火付人取締」に関するものである。
山王神社 (西宮市) - 兵庫県西宮市山口町
大己貴命、少彦名命、猿田彦命。当神社は、天正年間(1578年頃)、別所長治の祈願所であったため織田信長軍の兵火にあい、社殿などことごとく焼失したと伝えられる。そのため、創始以来の事歴は詳らかでないが、石碑に由緒が刻まれている。伝承によると、船坂に大岩信仰があり、船坂川上流にある巨岩に、六甲山の石の宝殿より、大己貴命、少彦名命、猿田彦命の3神が降臨し、鎮座しておられるのをここに招いたともいわれる。
山王神社 (久米南町) - 岡山県久米郡久米南町宮地
山王神社 (広島市) - 広島県広島市南区段原
猿田彦大神。山王神社は、正保三年(1646)現在地西南寄の旧社地に天狗松と称する大木があり注連を引き廻して祭神の猿田彦大神を奉斎したのが始まりである。この祭神は道案内の神と言われ、その大木は落雷により消失し類焼を免れたので小祠を建立し、火の神として猿田彦大神の霊を励請し旧段原町一帯の住民より宗敬される。慶応年間中半に小祠を小社に、又明治七年には社殿に改築し、更に明治四十年現在地に社殿を新築して遷座祭を執行する。昭和二十年八月六日の原爆により社殿は、多大の破損を蒙り、昭和二十八年地元の宗敬者達の協力により屋根及弊殿(弊殿?)の修理を行い、更に昭和四十三年には、明治百年記念事業として根本的改築を行い現在に至る。従来、比治山神社の摂社となっていたが、昭和二十八年宗教法人山王神社として独立法人を設立する。平成十四年には、山王神社が奥州藤原家の縁の神社である福島県の光照山王神社の発祥本宮である事が古文書により判明し一段と注目される事となる。
山王神社 (福岡市) - 福岡県福岡市南区皿山
大山咋神、火産霊神。
山王神社 (長崎市) - 長崎県長崎市
山王神社の参道には一の鳥居から四の鳥居までありましたが、爆風に対して平行に立っていた一の鳥居と二の鳥居の片方の柱は倒れませんでした。三、四の鳥居は倒れ神社境内に置いてあります。一の鳥居は、昭和37(1962)年までほぼ原型のままありましたが、現在は形跡もありません。二の鳥居は爆心側の半分を吹き飛ばされましたが半分は残りました。被害はまず強烈な熱線が鳥居の上部を黒く焼き、次の瞬間襲った秒速200mの爆風で鳥居は真っ二つになり1本の柱と上部を破壊しましたが、片側の部分は上に笠石を載せたままのこり、風圧が上の石を約5p横にねじ曲げました。柱に刻まれた奉納者の名前も爆心地に向いている部分は、熱線により文字が読めなくなっています。金比羅山への道筋にあったこの一帯は、熱と煙それに恐怖から逃れるように被爆者達がぞくぞくと山を目指して地獄絵さながらに避難していきました。爆風に耐え、それらを目の当たりにしてきた鳥居。頭に笠石ともう一枚の石、それに貫の一部で重量のバランスを保ち、半世紀を過ぎたいまも“被爆の証人”として一本柱で立ち続けています。平成28(2016)年10月3日、山王神社二の鳥居を含む長崎原爆遺跡が、国の史跡に指定されました。
山王神社 (曽於市) - 鹿児島県曽於市末吉町諏訪方
大山咋神、大己貴命。天正十三年三月、新留某が近江国坂本鎮座の日吉神社を勧請して当国に下り、後明治四十四年三月、荒神塚の霊地へ遷座奉斎した。  
 
今戸神社の招き猫

 

今戸神社 1
(東京都台東区今戸)
御祭神  
   應神天皇(おうじんてんのう)
   伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
   伊弉冉尊(いざなみのみこと)
   福禄寿(ふくろくじゅ)…七福神の内の一神
福禄寿 / 昭和十二年一月から同年十六年頃まで七福神巡拝が行われておりましたが、戦時下となり一時中止され、昭和五十二年一月より復活されました。浅草は江戸文化発祥の地といわれ、七福神巡りの流行したのはその江戸時代からと伝えられております。福禄寿は白髪童顔の温和な容姿で、年齢は数千年といわれ、福(幸福)と禄(生活・経済の安定)と寿(健康にして長命)との三つの福徳を授ける福の神として、古くから人びとの尊信を集めています。
御由緒
後冷泉天皇康平六年(一〇六三年)、京都の石清水八幡を勧請し、今戸八幡を創建。昭和十二年七月に、白山神社を合祀、今戸神社と改称。應神天皇の御神徳は武運長久と慈愛をこめて子を育てる大愛を本願としております。
後冷泉天皇康平六年(一〇六三年)、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、篤く祈願し、鎌倉の鶴ヶ岡と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。
その後、白河天皇永保元(一〇八一年)、謀反をおこした清原武衡・家衡討伐のため、源義家が今之津を通過するあたり戦勝を祈願しました。その甲斐あって勝ち、いくさをおさめることができ、義家は神徳に報いて社殿を修復しました。
戦乱兵火に遭うごとに再建されること、しばしばでした。
江戸時代、三大将軍徳川家光は、今戸八幡の再建ののために官材を下され、舟越伊豫守と八木但馬守に命じて、寛永十三年(一六三六年)に再建が成りました。
大正十二年九月の関東大震災によって社殿はまたも灰燼に帰し、間もなく復興したものの、つぎは昭和二十年三月の東京大空襲でも重ねて被災の憂き目に遭ってしまいました。
こうした、被災=再建の歴史をくりかえしながら、同四十六年十一月、現在の荘厳な社殿が、氏子崇敬者の浄財によって造営されたのです。その間、昭和十二年七月に今戸の隣地に鎮座されていた白山神社と合祀、社名が今戸神社と改称されました。
御祭神は應神天皇、伊弉諾尊、伊弉冉尊、そして七福神のうちの福禄寿です。
應神天皇とその母神功皇后は、大陸文化を輸入して日本の文化興隆を図られたことは周知のとおりで、両神の関係は母子の情愛の信仰が古代の日本にもあったことの證左です。ですから、八幡さまの信仰は、一般には武運長久の霊験と思われていますが、一方で、母が子を抱きかかえ、慈愛をこめて子を育てる大愛を本願としているのです。伊弉諾・伊弉冉の二柱の神は、天神の命を受けて、日本の国土を創成し、諸神を産み、山海や草木を生したといわれる男女の神で、古くから産霊の神として仰がれています。”古事記”や”日本書紀”を見るまでもなく、縁を結び、生産の基盤を固める神として崇められてきました。 
今戸神社 2
東京都台東区今戸一丁目にある神社である。
祭神
応神天皇・伊弉諾尊・伊弉冉尊・福禄寿を祀っている。
由緒
今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたといわれている。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B-29が昭和20年(1945年)3月10日に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものである。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。また現在では浅草七福神のひとつ福禄寿も祀っている。
平成・招き猫発祥の地
戦前またはそれ以前に遡っての古文献には招き猫の発祥と当社に関する文献上の記録や言い伝えは確認されておらず、招き猫と当社との結びつきを示すものはない。近年になって招き猫発祥の地のひとつとして縁結びと結びつけ自ら名乗りをあげている。
武江年表嘉永5年の項の記述によれば、浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草寺境内三社権現(現浅草神社(三社様)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという。
これが招き猫の発祥といわれている所以であるが、これは浅草寺や浅草神社に由来するものとしての記録であり、今戸神社(旧今戸八幡)との結びつきを示すものではない。平成の招き猫ブームのと縁結びパワースポットのブームに乗り、自ら招き猫発祥の地として看板を掲げるようになり多くの招き猫が奉られるようになったが、本殿や境内に安置されている招き猫の形状は江戸明治由来の今戸焼の招き猫とは何ら関係のないものであり、考証的には伝統的なものとは全く関わりのない平成の産物として見る必要がある。なお、本殿に祀られている大型の招き猫や社務所から授与されている土焼き製、磁器製の招き猫ともども形状は、戦後の常滑産招き猫の造形から影響を受けたものと考えられる。
沖田総司の終焉の地
当神社は新選組・沖田総司の終焉の地ともいわれている。これは、結核を患っていた沖田総司を診ていた松本良順が当時今戸神社を仮の住まいとしていたことからきている。
縁結びの神
戦前合祀された白山神社の祭神に伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神を祀っていることから、近年になって縁結びにゆかりがあるとアピールされている。また、絵馬は他の神社では見られない「真円形」のデザインの絵馬である。これは縁と円の語呂を掛け合わせたモダンなデザインのものとなっている。 
今戸神社 3
浅草にある「今戸神社」は、「招き猫」誕生の地として知られています。縁結びにも御利益があり、ぜひ訪れたいスポットとなっています。「招き猫」は日本旅行のおみやげとしても有名な、猫の形をした置物です。日本全国どこでも見かけることできますが、実はその発祥地が浅草にあることをご存知ですか?
招き猫誕生の地
今戸神社は東武浅草駅から隅田川沿いに歩いて15分ほどの位置にあります。浅草寺からもすぐそばなので、浅草観光の際、気軽に立ち寄ることができます。神社の鳥居の前には、招き猫の看板が置いてあります。目印にするとわかりやすいでしょう。
招き猫の置物は、もともと今戸神社周辺で作られていた陶器「今戸焼」の手法を用いて作られたとされています。なぜ猫の形をした置物が、この場所で作られるようになったのでしょう。今戸神社には、以下のような逸話が伝わっています。
その昔浅草に、猫を飼っているある老婆がいました。老婆は貧しく、あるとき飼い猫を手放さなければならなくなりました。泣く泣く猫を手放した日の夜、夢の中へその猫が現れ老婆に言います。
「私の姿の人形を作ってください。そうすればおばあさんは幸せになれますから」
老婆が言われた通りに人形を作ったところ、猫の人形は人々の間で大変な人気となりました。お金を出して買い求める人も現れ、老婆は貧しさから抜け出すことができました。
これが招き猫の置物がこの地で誕生したきっかけなのだとか。
境内では、たくさんの猫たちがお出迎え
招き猫のふるさとである今戸神社の境内では、たくさんの猫たちを見ることができます。猫の置物がところ狭しと並んでいる様子は、ほかの神社では見られない、今戸神社ならではの光景です。
ときには本物の猫に出会えることもあります。猫の人形と本物の猫が並ぶ光景は、なんともユーモラスです。
縁結びの神社
今戸神社には、日本で最初の夫婦と言われている「イザナギ」と「イザナミ」、2柱の神様が奉られています。そのため縁結びの神様としても有名です。招き猫を楽しんだ後は、よい人と出会えるようお祈りしてみてはいかがでしょうか。 
今戸神社 4
1063年、源頼義・義家親子が奥州討伐の際(前九年の役)、源氏の氏神として信仰された八幡宮の中心でもある京都の石清水八幡宮を鎌倉の鶴岡と共に江戸の今戸に勧請したのがはじまりです。この時の主祭神は八幡神、つまり応神天皇で長らく「今戸八幡」と呼ばれていましたが、昭和12年今戸の隣地に鎮座していた白山神社(主祭神はイザナミ・イザナギの夫婦神)と合祀となり、社名が現在の今戸神社となりました。今戸神社が建つ場所は住宅街の一角で、現在の社殿は1971年に建てられ、地域に昔からある鎮守様といった雰囲気の神社です。
招き猫
今戸神社 招き猫  江戸時代の頃、あるお婆さんが猫を飼っていましたが貧乏の為、飼うことができなくなり猫を手放しました。すると夢枕に捨てた猫が現れ「私の姿を人形にしたら福徳を授かる」と告げます。
お婆さんは夢は飼っていた猫のお告げに違いないと信じ、早速今戸焼きの猫の人形を作り売ってみました。するとあっという間に人気の商品となり、お婆さんの暮らしも楽になったということです。この今戸焼きの招き猫は今戸神社の社務所入り口をはじめとして至る所に置かれており今でも人気の商品となっていますが、ひとつひとつ職人さんによる手作りで作られているので一体ずつの顔立ちが異なり品切れとなってしまうこともあります。
また現在今戸神社の拝殿には2体の招き猫が置かれています。これはもともと近くにあるビルにお正月に飾られていたもので、この招き猫を処分することとなったので今戸神社が譲り受けたのだそうです。いまや今戸神社のシンボルとなっている2体の招き猫ですが、雑誌やHPなどの写真を見ると大きく見えますが、実際に直接見てみると大きさは子供の背丈ほど(60〜70cm)でさほど大きいわけでもなく、可愛らしさや愛嬌を感じる姿となっています。 
招き猫 1
前足で人を招く形をした、猫の置物。猫は農作物や蚕を食べるネズミを駆除するため、古くは養蚕の縁起物でもあったが、養蚕が衰退してからは商売繁盛の縁起物とされている。
右手(前脚)を挙げている猫は金運を招き、左手(前脚)を挙げている猫は人(客)を招くとされる。両手を挙げたものもあるが、“欲張りすぎると「お手上げ万歳」になるのが落ち”と嫌う人が多い。一般には写真のように三毛猫であるが、近年では、地の色が伝統的な白や赤、黒色の他に、ピンクや青、金色のものもあり、色によっても「学業向上」や「交通安全」(青)、「恋愛」(ピンク)など、意味が異なる。黒い猫は、昔の日本では『夜でも目が見える』などの理由から、「福猫」として魔除けや幸運の象徴とされ、黒い招き猫は魔除け厄除けの意味を持つ。また、赤色は疱瘡や麻疹が嫌う色、といわれてきたため、赤い招き猫は病除けの意味を持つ。また、福の字が逆さまに書かれているのは、福を倒すとしてそこから似た漢字の到達をあらわす。
招き猫の由来にはいくつかの説がある。
今戸焼説
武江年表嘉永5年の項には浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼(今戸人形)の焼き物にして浅草神社(三社様)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという。また古い伝世品や遺跡からの出土品から江戸時代の今戸焼製招き猫の存在は確認でき、上記嘉永5年の記述と符合する。記録では浅草寺および浅草神社(旧・三社権現)にゆかりのものである。平成のはじめ頃より、浅草今戸に鎮座する今戸神社は、平成の招き猫ブームや縁結びパワースポットブームに乗り、自ら「招き猫発祥の地」として看板を掲げ、多くの招き猫が奉られるようになった。その論拠は、旧今戸八幡が今戸焼の産地である浅草今戸町の産土神であったことによるものであるが、古い文献等には招き猫と今戸神社(昭和12年旧今戸八幡と旧亀岡町白山神社とを合祀)との結びつきを示す記録は見当たらず、発祥に関しては、平成の招き猫ブームや新・縁結びパワースポットブームに伴いマスコミに名乗るようになった。現在神社本殿に祀られている大型の招き猫は、戦後の常滑産招き猫の形状を参考に造形されたものであり、社務所より授与されている招き猫の形状は、土焼製磁器製のもの共に江戸明治の今戸焼製の伝世品や遺跡からの出土品とは異なるものであり、時代考証的にも伝統性のない現代の創作品である。
丸〆猫説(まるしめのねこ)
東京都台東区浅草二丁目3-1にある浅草寺及び浅草神社(三社様)に由来する今戸焼、今戸人形の招き猫。全国に「招き猫発祥の地」と呼ばれる神社仏閣が分布しているが、当時の言い伝えとともに現存する招き猫の実物や記録されたものがほとんどない。多くの招き猫発祥の地が伝説の域を出るものがほとんどないなかで、現在までのところ造形物として実在する最古の招き猫、あるいは遡ることのできる招き猫の起源と呼ばれるものである。その形状は基本的に江戸時代の今戸焼製の招き猫特有な「横座りで頭を正面向きにして招く」ポーズのものが基本で、臥して招いている古い作例も見られる。背面腰の辺りに「丸に〆」の陽刻があり、「金銭や福徳を丸く勢〆ると」という縁起かつぎの意味合いを持つ。
嘉永5年に記された武江年表によれば、浅草花川戸に住む老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れて「自分の姿を作り祀れば福徳自在となる」と告げたので、そのとおりにしたところ利益を得たことが評判となり、今戸焼の土人形にして浅草寺三社権現(現・浅草神社)鳥居辺りで老婆によって売りだされ大流行になった、とある。
また「藤岡屋日記」嘉永5年の項では浅草観音猫の由来として浅草寺梅園院境内でひねり土人形を渡世をしていた老夫婦の愛猫が知り合いの飼っていた小鳥をあやめてしまったことに罪を感じて自ら井戸に身を投げた。
その後、老婆の夢に猫が現れ非を詫び「今後はあなたを守りいかなる病でも全快させる」と告げ、仲間の今戸焼屋が作った猫を拝んだところたちまち病が治ったことが評判となり、浅草寺三社権現(現・浅草神社)鳥居辺りで鬻がれ大評判になったことが記されている。
その猫の姿は招き猫とも丸〆猫とも言われたことも明記されている。当時丸〆猫が鬻がれていた様子は嘉永5年の歌川広重(安藤広重)画の錦絵「浄るり町繁華の図」にも浄瑠璃「軍法富士見西行」の西行の見立てとして描かれている。
また都内の近世遺跡からの出土品の中から丸〆の陽刻のある江戸在地系土質の招き猫も出土していることから、記録、絵画、出土品と揃った現在まで一番確実な造形物としての最古の招き猫と考えることができる。
上記の複数の記録では具体的に浅草寺三社権現(現・浅草神社)の鳥居辺りで売られたことが明記されており、招き猫ゆかりの場所としてかつてはひとつであった浅草寺及び浅草神社が最も古い記録を有していることになる。
豪徳寺説
東京都世田谷区の豪徳寺が発祥の地とする説がある。江戸時代に彦根藩第二代藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかった。そのときこの寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため寺に立ち寄り休憩した。すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずにすんだことを喜んだ直孝は、後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、豪徳寺は盛り返したという。和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後世に境内に招猫堂が建てられ、猫が片手を挙げている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)が作られるようになった。この縁で豪徳寺は井伊家の菩提寺となったといわれる。幕末に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓も豪徳寺にある。また、同じ豪徳寺説でも別の話もある。直孝が豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の三毛猫が手招きをしていた。直孝がその猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちた。それを避けられたことを感謝し、直孝は豪徳寺に多くの寄進をした…というものである。これらの猫をモデルとしたもうひとつのキャラクターが、井伊家と縁の深い彦根城の築城400年祭マスコット「ひこにゃん」である。前述のように、招き猫は一般に右手若しくは左手を掲げているが、豪徳寺の境内で販売されている招き猫は全部右手(右前足)を掲げ、小判を持っていない。これは井伊家の菩提寺であることと関わりがあり、武士にとって左手は不浄の手のためである。そして小判をもっていない理由は「招き猫は機会を与えてくれるが、結果(=この場合小判)までついてくるわけではなく、機会を生かせるかは本人次第」という考え方から。
自性院説
東京都新宿区の自性院が発祥の地とする説がある。ひとつは、江古田・沼袋原の戦いで、劣勢に立たされ道に迷った太田道灌の前に猫が現れて手招きをし、自性院に案内した。これをきっかけに盛り返すことに成功した太田道灌は、この猫の地蔵尊を奉納したことから、猫地蔵を経由して招き猫が成立したというもの。もうひとつは、江戸時代中期に、豪商が子供を亡くし、その冥福を祈るために猫地蔵を自性院に奉納したことが起源であるとするもの。
伏見稲荷説
京都市伏見区の伏見稲荷大社が発祥の地とする説がある。

他にも、東京都豊島区の西方寺起源説、民間信仰説などいくつもの説があり、いずれが正しいかは判然としない。
招き猫のモデルは、毛繕いの動作(いわゆる「猫が顔を洗う」と言われる動作)ではないかという説もある。  
招き猫 2
恋愛に悩んでいる方なら迷わず行きたくなる、縁結びの神社「今戸神社」をご紹介します。ここは、江戸時代に初めて招き猫が作られた東京の今戸地区にある神社。子供の背丈ほどある大きなペアの招き猫がシンボルになっていて、恋愛運を上げたい人から大注目されています。招き猫を携帯の待受にすれば、恋愛運UPのご利益がある!との噂も…。
浅草縁結びの神社
浅草の神社と言えば、浅草寺が有名ですよね。他にも、浅草には縁結びにゆかりがある有名な今戸神社があります。今戸神社は、夫婦の神様を祀っていることから、特に縁結びにご利益があると言われるようになりました。また、今戸神社がある今戸は、招き猫発祥の地。そのため、今戸神社では、お守りから絵馬、ちょっと不思議な猫の石像など、さまざまな種類の招き猫が置かれているんですよ。
石なで猫
本殿の階段下(左手)にあったのが、石なで猫という石像。石なで猫を携帯の待ち受けにして毎日祈ると、願い事が叶うと書かれていました。「そんな、ばかな・・・」と思いながらも、しっかり待ち受けにしている私ですが、効果はあったような気がします。旅の記念にもなりますし、みなさんも、今戸神社を訪れたら、携帯の待ち受けにしてみてはいかがでしょうか。
本殿で出迎えてくれる、ペアの招き猫
ここは今戸焼き発祥の地で、江戸時代には今戸焼きで焼かれた「招き猫」が大ブームになりました。本殿の拝殿にあるのは、今戸焼きでできた大きなペアの招き猫。実際は60、70cmくらいあるビッグサイズで、目が大きくて顔立ちもキュート!現在、この招き猫は、今戸神社の顔になっています。さらに拝殿の奥で鎮座しているのは七福神の一人、福禄寿様。この神様も今戸焼きなんですよ!そして今戸神社に祀られてるのは、伊弉諾神(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の神様。この神様は夫婦で祀られています。これが「縁結びの神様」の由縁です。
まんまるの絵馬
絵馬というと、馬の絵が描かれた五角形のものを想像しませんか?今戸神社の絵馬はとっても珍しいので、要チェックです。「円」と「縁」をかけ合わせて、他にはない真丸形をしています。もちろん絵馬に描かれている絵は、馬ではなくペアの招き猫です。旅の思い出として、珍しい形の絵馬に願いを書いてみるのもいいですね。 
 
豪徳寺の招き猫

 

豪徳寺
東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある曹洞宗の寺院。元は臨済宗。山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地とされる。
本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
文明12年(1480年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じる。
寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。
招き猫伝説
招き猫発祥の地とする説がある。井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたという。
豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。 
招き猫 1
豪徳寺での招き猫の由来は、ある大名と深いかかわりがありました。その大名とは、彦根藩2代目藩主の井伊直孝です(徳川四天王の一人、井伊直政の次男。安政の大獄や桜田門外の変で著名な井伊直弼の祖先。)。井伊直孝は、大阪夏の陣で、豊臣秀頼と淀君を包囲して自害に追い込んだり(勇猛で井伊の赤牛と呼ばれていたり)、江戸幕府3代将軍徳川家光の後見役(大政参与、後の大老職とほぼ同義なので、初代大老と言えるでしょう)を務めたり、かなり重要な役どころを担っています。そんな井伊直孝と招き猫の関係とは、どんなものだったのでしょうか?
井伊直孝と招き猫の関係
鷹狩の帰り
井伊直孝が、江戸郊外に鷹狩に出ていた時の話。その帰り道に小さく貧しい寺(弘徳庵、後の豪徳寺)の前を通りかかりました。すると、寺の和尚さんの飼い猫(たまという名前)が門の前で手招きをしているではありませんか!
「おっ。猫が手招きしているぞ」
井伊直孝は、猫に招かれるまま、お寺に入り、休憩することにしました。井伊直孝、なにか感じるものがあったのでしょう。とても素直な心をお持ちのようで。これが、功を奏します。間も無く、雨雲が立ち込め、激しい雷鳴と雨が降り出します。
「助かったあ!」
もし、猫の招きを無視し、行軍していたら、雷雨の餌食になっていたところでした。間一髪、猫の招きが雷雨を知らせてくれたのでょう。雷雨の被害から逃れた直孝は、雨宿りしながら、話をし、和尚を気に入りました。こぼれ話で、和尚が猫に「お前も何かの役に立ちなさい」と言ったとか?
「和尚、助かったぞ。お礼に、寄進をし寺の立て直しをさせてくれ!」と後に直孝は、多額の寄進をし、荒れていた小さな寺を立派に立て直したのでした。
招き猫の誕生とご利益効果
井伊直孝を招いた猫(たま)がやがて亡くなると、和尚は墓を建てて祀りました。そして、後に境内に招猫堂という猫(たま)を祀ったお堂が建てられ、猫が片手をあげて招いている姿を形どった「招福猫児(まねぎねこ)」が作られるようになりました。この「招福猫児(まねぎねこ)」が、現代の招き猫に繋がっていくのです。なるほど、不運を避けて(雷雨を避け)、福を呼び込む(寺を立て直す)この一連の物語から、招き猫のご利益効果、かなりあるといって良さそうですね!
豪徳寺の招き猫が右手をあげている理由
一般的には?
招き猫について、少しトリビア。豪徳寺以外のいろんな招き猫を見ていると、左手をあげていたり、右手だったり、はたまた両手をあげて招いていたりするものもあり、なにか意味があるのだろうか?と思っちゃいました。一般的に、右手は金運を招き、左手は人を招くと言われています。両手は、欲張り過ぎで、お手上げ万歳と、逆に縁起が良くないといいます。
豪徳寺の猫はどちらの手をあげている?
豪徳寺の招き猫は、右手をあげて招いています。右手をあげている招き猫は通常小判を持ち、故に金運を招くと呼ばれています。豪徳寺の招き猫の場合は、小判を持っていませんでした。それは、井伊直孝が武士だという事実と関係がありました。
右手をあげている理由
武士にとって、利き腕は基本右手の人が多かったようです。右手の人は、左側の鞘に収まっている刀を右手で抜き使います。なので、右手がメインで、重要視されていたのです。そこから招き猫も右手をあげるようになったと言われています。なるほど!ちなみに、日本が左側通行になった理由が、鞘が左側にあったことから来ているようなのです。右側を歩いてしまうと鞘同士がぶつかり危ないから、という理由でした。
小判を持っていない理由は?
それでは小判を持っていない理由は何なのでしょうか?これには井伊家の家風と深ーいつながりがありました。豪徳寺では、招き猫は機会、チャンスを与えてくれはしますが、結果(この場合は小判を指します)を出すのは本人の努力があってこその事、だという意味が込められていました。なので、招き猫が小判を持っていないのです。この考えは、井伊直孝の考えが色濃く影響しています。
質実剛健な井伊直孝の考え
井伊直孝は、徳川譜代大名の中で最高の30万石の領地を持つ藩主ながら、とっても質実剛健の考えを実践する武将だったのです。たとえば、質素な身なりは当たり前で、寝床は畳ではなく竹のすのこの上、家の中は隙間風が吹き、庭は雑草が生え放題、医者にも不養生が過ぎるとたしなめられるレベルでした。
「戦場に比べれば大したことはない、このくらいに耐えられない武将なら、徳川家のためにならない」と言い切っちゃう人でした。
家臣にも、派手な衣装を着ているものに対して、泥を塗りたくる、という過激な罰を与えたりし質素な家風を育てていった人です。筋金入りの質実剛健振りです。チャンスは猫が招いてくれるが、小判=結果を得るのは自分の手で掴み取れ!というメッセージが込められていたのでした。 
招き猫 2
貧乏寺を救った一匹の猫
豪徳寺の歴史は室町時代前の南北朝の頃、関東管領足利基氏から吉良治家が戦の手柄から武蔵国世田谷領をもらい受けて、世田谷城を築城したことに始まります。そして吉良氏八代二百数十年の間、世田谷御所と呼ばれ、吉良政忠の時代に叔母を弔うため、この地に創建された弘徳院が豪徳寺の前身となるのです。その後、1590年秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたことから、吉良氏も運命を共にして世田谷城は廃城となったのです。これと同時に弘徳院も荒れた状態となったのですが、この貧乏な寺を救ったのが一匹の猫だったのです。
洒落のわかる新鋭大名
江戸時代、世田谷が井伊家の第二代彦根藩主直孝の時代に井伊家所領となったことから貧乏寺、弘徳院(後の豪徳寺)の運命も変わります。直孝が鷹狩の帰りに弘徳院の前を通ると、お寺の白猫《たま》が手招きをしていました。面白がった直孝が《たま》に招かれるまま住職とお茶をしていると雷雨となり、「濡れずに済んだ上に住職の話を聞けた」と大変喜び、弘徳院を井伊家の菩提寺としたのです。1633年、直孝は井伊家の菩提寺として伽藍を建立整備し、直孝の死後、その法号により『豪徳寺』と寺名を改称したのです。特に娘の掃雲院は多くの堂舎を建立し、仏殿を始めその三世仏像や鐘楼が現在文化財として残されています。
幸運を象徴する招き猫
豪徳寺復興のきっかけとなった《たま》が亡くなった時住職はお墓を作り、「招福猫児(まねぎねこ)」と称して招福観世音菩薩を本尊(招福猫児はその眷属)とする『招猫殿』を建立しました。この招福猫児は右手をあげて、小判などを持たない白く素朴な猫で、これは「左手は武士にとって不浄の手だから」と云う理由であり、更に「猫はチャンスはくれるけど、結果(=小判)は与えてくれない。」と云う戒めだったのです。これが各地にある“招き猫発祥伝説”の一つとなったのですが、発祥かどうかは別として現在では猫は幸運を招くという信仰から、願掛けや御礼として招猫殿の横に数多くの招福猫児が奉納されているのです。
歴史的偉人を偲ぶ墓所
こうして井伊家に庇護された豪徳寺は、井伊家代々の菩提寺として繁栄していきます。井伊家の墓所には、豪徳寺中興の祖とも云える二代直孝を始めとして、六代直恒、九代直=A十代直幸、十三代直弼、そして彦根藩最後の藩主である十四代直憲が葬られています。更に正室・側室・早世した家族、江戸で亡くなった藩士なども葬られており、三百余基の墓石がある広大な墓所となっていて、墓所全体が国指定史跡となっています。特にあの桜田門外の変で暗殺された『第十三代井伊直弼の墓』は東京都の史跡にも指定されています。
伝説と歴史のゆるキャラ
一匹の白猫《たま》と《直弼》を始めとする井伊家を融合させたのが、平成のゆるキャラ《ひこにゃん》で、彦根市のイメージキャラクターとして全国で人気を博し、これにより豪徳寺の街でも町興しが行われていますが、豪徳寺も手を拱いてはいません。それは、通常ありえない場所に《招福猫児》が居るサプライズなのです。一般的に仏塔の四方には、三体ずつ干支の動物の彫刻を守護として付けるのですが、この豪徳寺『三重塔』の“子(ねずみ)”の箇所には、何と干支から外された猫《招福猫児》が一緒に鎮座しているのです。この他にも塔には猫が三か所いますので、日本でも珍しい三重塔で幸運の猫を探してみてください。 
招き猫 3
彦根藩2代目藩主の井伊直孝がにわか雨にあって大木の下で雨宿りをしていた際に手招きをする白猫を見て近寄ったところ、その大木に落雷があった。直孝はこの猫に感謝し、後に豪徳寺(東京都世田谷区)を井伊家の菩提寺としたと伝えられています。
「国宝・彦根城築城400年祭」のマスコット「ひこにゃん」は、この白猫の伝説(いわゆる招き猫発祥伝説)にちなんでいるそうです。  
招き猫の発祥は豪徳寺?今戸神社?
招き猫伝承 1 
手招き猫に救われた井伊直孝
招き猫伝承で広く知られているのが、東京世田谷の豪徳寺に伝わる話。江戸時代初期の寛永年間(1624〜1644年)、大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公・井伊直虎の孫といわれている直孝が、豪徳寺の門前で手招きをする猫に誘われ、豪徳寺で休息したところ落雷の難を逃れた、というものです。
当時は荒れ寺でしたが、和尚は突然の来客にも精いっぱいのもてなしをし、因果説法などをしたといいます。貴重な法話を聞くことができたうえ、落雷にあわず生命の危機を逃れた直孝はこれぞ仏の因縁と感嘆。この寺を井伊家の菩提寺に決め、田畑などの寺領や堂宇を寄進したのだとか。こうして傾いていた寺は隆盛のきっかけをつかみます。
招き猫伝承 2 
花魁と猫の美しくも悲しい物語
江戸の新吉原には、大の猫好きだった「三浦屋」の薄雲大夫が。花魁道中にも愛猫タマを抱いて歩き、寝床や厠まで一緒とまさに猫かわいがり。「薄雲は魔性の猫に魅入られた」との町の噂を案じた三浦屋の主人は、厠(トイレ)に入ろうとする薄雲の足元にいたタマの首を打ち落とします。ところがはねられたタマの首は宙を舞い、厠に潜む大蛇をかみ殺して薄雲を助けました。タマの死を嘆き、悲しみに暮れる薄雲のため、贔屓客が高価な香木の伽羅で猫の姿を彫らせて贈ったとか。その猫人形の類似品が浅草あたりで売られ、招き猫人形となったとする説もあります。
浅草で大人気! 今戸焼の招き猫人形
いっぽうの招き猫人形発祥は、浅草今戸の今戸焼から、というのが定説です。安土桃山時代の初頭、天正年間(1573〜1592年)。隅田川西岸の今戸地域で焼物に適した粘土が採取されたため、付近の家々は瓦や生活雑器をつくるようになりました。
江戸時代になって徳川氏の江戸入府にともない、三河(愛知県)から陶工が移住してきたことや、江戸のにぎわいによって今戸焼も繁栄。元禄のころには、土人形も盛んにつくられたとか。ちょうど新吉原の薄雲大夫の話と同時代で、浅草で人気になったのは木製の猫ではなく、この今戸焼の招き猫だったというのが有力です。 
 
門真神社

 

(かどまじんじゃ・大阪府門真市元町中畔) 別称・旧称 / 四番の宮 牛頭天王社 中宮
門真神社は旧河内国茨田郡門真四番村の鎮守として、地元では「四番のお宮さん」と称ばれ親しまれてきた。古くは南宮・中宮・北宮の三社があり、門真神社はそのうちの中宮だという。この記述は『大阪府全志』にあるのだが詳細が書かれておらず、南宮・北宮が現存するいずれかの神社なのか、既に廃絶したものかは不明。門真荘は一番上・一番下・二番・三番・四番の五村からなる。門真神社の創建時期はわからないが、四番村の分村の際に一番上村の牛頭天王社(現御堂町の八坂神社)から勧請したものとみられる。文禄三年(1594)の検地の際に社地四畝一歩が除地とされ租税免除を受けており、少なくともこの時には存在していたことになる。
門真四番村の北に位置する門真三番村には、伊勢神宮の斎王(斎宮)が退下(離任)して京へ戻る際に立ち寄る宿所にあてられた茨田真手御宿所址がある。そこにはかつて三番村の産土神が祀られ、黄梅寺がその神宮寺であったが、明治時代に門真神社境内に遷された。菅原道真を祭神とする末社真手神社がそれである。これによって三番村に神社は存在しなくなり、同村字小路は門真神社の氏地、字宇治は二番村天神社の氏地となった。
おすまばあさんとガラスケ
むかし、門真四番村のお宮へ続く参道に小さな菓子屋があり、おすまというばあさんがひとりで切り盛りしていた。店は今日も今日とて閑古鳥。いつものように縁台に腰掛けてうつらうつらしていると、どこからかやって来た野良猫がばあさんの草履に鼻を摺り寄せて喉を鳴らしている。「なんや。腹減ったか」いやに人懐こい猫だと思いながら、団子を串からはずしてひとつ投げてやると、飛びついて旨そうに食い、平らげるとガラガラと変な声で鳴いた。まるで人の笑い声のようだ。前脚を手招くように上下させながら笑い続ける猫の姿がねだっているように見えて、「あとひとつだけやぞ」ばあさんは団子をもうひとつ差し出した。
次の日も猫はやって来た。おすまばあさんが団子を縁台に置くと飛びついてぱくり。そしてガラガラと笑うように鳴く。その次の日も現れた。ぱくり。ガラガラ。そのまた次の日も、ぱくり。ガラガラ。毎日通って来る猫はばあさんの店に段段と長く居据わるようになり、いつしかすっかり居付いてしまった。身寄りのないばあさんは猫のことを我が子のように思い、「ガラスケ」と名付けて可愛がった。たまに訪れる客にもガラスケはガラガラと鳴きながら手招きをして愛想を振りまいた。
ガラスケはやがて「おすまばあさんトコの笑い猫」として村中の評判になり、ばあさんの店は客足が伸びた。ガラスケを一目見ようとよその村からも人が押し寄せ、大繁盛した。人びとはガラスケが客を招き、福を招いたのに違いないと噂し合った。看板猫がすっかり板についたガラスケは、相変わらずガラガラと笑い、手招きの仕草で客を喜ばせた。
ある日、ばあさんの店を京都伏見の人形師が訪れた。ガラスケの評判をどこかで耳にしたらしい。ガラガラと笑いながら手招きをするガラスケを見て、人形師は「この猫の土人形を作って福招きの猫ゆうて売ったら大儲け間違いなしや!」と伏見に飛んで帰って行った。伏見稲荷の参道に何十軒もの人形屋が軒を連ね、様様な人形が並ぶ中で、ガラスケが片方の前脚を上げて手招きをする姿をかたどった福招き猫人形は、人形師の思惑通りたちまち大評判となった。参詣に訪れた人びとはその愛らしさに魅かれ、商売繁盛・福運招来の縁起物としてこぞって買っていった。
これが招き猫の起源と伝えられている。
ガラスケはその後もおすまばあさんに可愛がられ、幸せな日日を過ごした。ガラガラという、あのおかしな笑い声を辺りに響かせながら。 
 
鼠の草子

 

○ 昔話「鼠の浄土」によれば、鼠穴の先には素晴らしいユートピア「鼠の浄土」「かくれ里」があるという。この話は全国に伝えられており、広島県の昔話では、鼠たちが
   鼠の浄土に猫さえござらにゃ
   これ世の花盛り
と歌いながら、楽しく餅つきをしていた。古くは、オオクニヌシノミコトが野原で火攻めにあった時に助けられ、鼠穴にもぐって難を避けたというが(「古事記」)、これなどは「かくれ里」の古い例のようでもある。決して覗き見ることのできない鼠穴の向こうに、日本人は至福の楽土を夢想したのであった。
○ 大黒天の使いである鼠、とりわけ白鼠は福をもたらす動物として信仰を集めた。江戸時代には上州でも鼠を「おふく」と称した。明治の世に入ってなお、白鼠を「お福さまざまな」と呼んで大事にしていた人があったそうである。ねずみ算式に増える鼠は旺盛な生命力を感じさせ、富貴繁昌と結びつきやすい動物だったといえるだろう。
   荒にける鼠にや解く猫の綱
   女三ハ人にかげ隠れ里
   忍びつゝものかしハぎハ福おとこ
このようにかくれ里に住み、大黒天の使わしめとして衆人愛敬された鼠であっても、煩悩は捨て切れぬものらしい。室町物語『鼠の草子』はそうした古鼠の悲恋譚である。 
 
猫山の由来

 

その昔、この山に猫に似た石があり、それを持っていると鼠が暴れないという伝説(国郡志郡辻書出帳)から名が付いたと云われる。(中略) 全山超塩基性カンラン岩体で、地表部はほとんど蛇紋岩化しており学術的価値は高い。
「芸藩通志」には「猫山 三坂村にあり、麓は、小奴可、高尾、小鳥原(ひととばら)の数村に亘る」とあるに過ぎないが、「西備名区」は「猫山 此山高き事五十余町、周廻三里なり。伯州大山を眼下に見る絶景なり。里諺に云、米皮俵を背おふて一日の中に三度廻り猫の真似をすれば、山中の石悉く化して猫となる。よって山に名つくと云」という。この記録から猫山は伯耆大山を眼下に見下ろすほど地域住民にとっては大きく感じていた山であり、三里は周囲三里、また猫山は全山が化け猫の山で米を食い荒らす鼠に悩まされていた農民を守る猫神民間信仰の山であったことが推測される。
小五郎山鉱山跡
小五郎山は、古い露天掘りやタヌキ掘りなどが見られ、(谷をえぐり取られた跡やここにタヌキ掘りの跡が九つ在りましたが一つ残して、今はつぶれています)またこの地で鉱石を精錬した跡もみられます。古い書物や神社の起こりを示す記録、そしてこの地に伝わる物語とか古老の話から、考察しますと次のとおりです。
一、 最も古い時代の寺床について、古い本に「寺床山は大変高い山ですが大昔に精舎の家がありました」と記しています。精舎は、仏教語ですが、もとはインドの言葉で精錬を表すことから、大昔、この山では、修験僧による鉱石採掘精錬が行われていたことを物語っています。
二、 河津の「崎所(さきのせ)神社縁起」には、「炎を巻き上げる馬(精錬所)の噂を天皇が聞き、召し出せと言っても惜しむので佐伯氏重の子供小五郎は召し取られ誅されました。保元元年(1156)の出来事です」とあり、平安時代の鉱山のことでした。その後、この山はいつの間にか宇佐ヶ岳から小五郎山と呼ばれるようになりました。
三、 『向峠剣霊大明神略縁記』に、「讃井左馬助吉兼は弓で、小五郎山に通う大蛇を射殺すそのあと(坑道)今もはっきりわかります。享保三年(1531)のことでした」この延記録から室町時代に採鉱が行われていたことを物語っています。
四、 「化け猫物語」「讃井氏は、小五郎山に3日間の猟に出かけましたが(精錬の時間)ある晩、使用人に化けた飼い猫が登って来て、「奥さんが急病です。すぐ御帰りを」と言って主人を連れ出す…」前項と同時代。
五、 大正五年(1917)十七歳になった向峠の若者は、ここから採掘された小石くらいの鉱石をカマスに入れて背負い眼下の金山谷集落の大屋敷に運びました。そこで精錬された銅は「たかね」と記された鋳型で出来上がったインゴットを、馬で津和野街道を廿日市経由、船で大阪に運びました。
※この鉱山跡地や登山道を、数年かけてボランティアで整備された「小五郎開拓団」の熱意に心より敬意を表すものです。 
 
ヤマネコ (山猫)

 

ネコ目(食肉目)ネコ科に属する哺乳類のグループである。 細かく見れば、この語の示す対象には分類階層の異なる複数のグループが含まれる。すなわち、「ヤマネコ/山猫」という語には以下の3つの意味がある。
1.対馬に棲息するベンガルヤマネコの亜種・ツシマヤマネコの別名。
2.(野生化したイエネコを除く)野生の小型ネコ科動物の総称。
3.野猫(野生化したイエネコ)の別称。
広義の「ヤマネコ」は、野生のネコ科動物のうち、小型のもの全般を指す。この中には、ボルネオヤマネコのように「〜ヤマネコ」という形の標準和名をもつものも、スナドリネコのように標準和名では特にヤマネコと呼ばれないものも含まれる。大型ネコ類(現生ではライオン、トラ、ヒョウ、ジャガー、チーター)はこれに含まれない。また、イエネコ(いわゆるネコ)は後述するように、種としてはヨーロッパヤマネコに含まれるが、本来人間の生活圏で暮らす家畜種であるため、慣用的には「ヤマネコ」と呼ばれることはない。
この意味でのヤマネコ類の中で最大のものはピューマであるが、広義の「ヤマネコ」はあくまで便宜的な呼称であり、アメリカライオンとも呼ばれるピューマをヤマネコの仲間に含めるかどうか、また大型ネコと小型ネコの中間に位置し、ピューマよりも小柄なユキヒョウやウンピョウをどう位置づけるかは人により意見の分かれる。これら中間的なものを除けばネコ類のうち、現生種ではイエネコを除くネコ亜科 Felinaeのすべての動物と、ヒョウ類の近縁種とされることがあるマーブルドキャットがヤマネコ類というグループを構成していると言っていい。
日本のヤマネコ
日本本土には2種類のヤマネコが分布している。国内に生息する(広義の)ヤマネコ類は対馬のツシマヤマネコと西表島のイリオモテヤマネコの2つのみである。かつては、一般に「山猫」と言えば後述するように野猫を指す場合が多かったが、それを除けばツシマヤマネコのことであった。「ヤマネコ」がツシマヤマネコの和名として用いられることもあった。
ツシマヤマネコとイリオモテヤマネコの分類的な位置づけには諸説があるが、最近は南〜東南アジアに分布するベンガルヤマネコ Prionailurus bengalensis(または Felis bengalensis)の亜種として位置づけられることが多い。
イエネコを除けば、日本本土にはヤマネコ類の動物は生息しない。
「野猫」を意味する「山猫」
野生化したイエネコである「野猫(ノネコ)」は、広義であっても「ヤマネコ」には含められない。ただし、日本では対馬と西表島を除く大部分の地域にはヤマネコが生息しないこともあって、伝統的に、山野に住むイエネコ、すなわち野猫が、「山猫(やまねこ)」とも呼ばれてきた。近世までの文献に当たるときは、特に注意を要する。
なお、英語の"wildcat"もヤマネコのほかに野良猫の意味をもつ。

○ ヤマネコの登場する文学作品で知られるのは、童話作家・詩人の宮沢賢治である。童話集『注文の多い料理店』に収められた表題作や「どんぐりと山猫」は彼の代表作として親しまれている。
○ コンピューターゲーム『クロノ・クロス』では、「ヤマネコ」というキャラクターが物語の鍵を握る存在として登場する。
○ 江戸時代、傀儡子が首から下げた箱の中から猫のような小動物の人形を出すことから傀儡子は「山猫」とも呼ばれ、転じて酒席で帯のおたいこを前にする芸者のことを「山猫」とも呼んだ。
○ 労働組合の正式決定を経ずに一部従業員のみが行うストライキを「山猫スト」と呼ぶ。
○ 三菱・パジェロは山猫の一種であるパジェロキャットが車名の語源であり、更にその弟分である軽自動車のパジェロミニにも山猫の一種を意味する「リンクス」という特別仕様車が存在した。 
 
猫祠堂と猫塚

 

猫寺猫薬師猫神社猫返し神社猫明神猫天神猫観音猫突不動尊
  猫地蔵猫塚猫稲荷猫の宮猫叩き如来猫地蔵尊猫神猫淵様
猫寺
福蔵寺 岩手県二戸郡浄法寺町…猫檀家の伝承
猫檀家 1
ぼろ寺の和尚がトラという名前の猫を飼っていた。猫は年をとり、いつか化けるようになっていた。ある晩、和尚にそれを見られてしまい、猫はいとまごいを願い出る。そして、いままでお世話になったお礼に、一芝居打って寺を再興させてやるという。猫が言うのには、近々庄屋の娘が死ぬ。その葬式で、自分が妖力で棺を空中に上げるから、和尚がお経を唱えてそれを降ろせ、というのだった。その時合図として「南無トラや」と唱えろという。やがて猫の予言通り庄屋の娘が死に、葬式で棺が空中に上がって大騒ぎとなる。庄屋は近郷近在の僧侶を集めて読経させるが、棺は下りてこない。他にもう僧侶はいないのか? そう言えば山のぼろ寺にまだ一人いるぞ、ということでぼろ寺の和尚が呼ばれる。ぼろ寺の和尚は適当な経を読んでみせて、ころ合いを見て「南無トラや」と唱える。すると棺が下りて庄屋は大喜び。その後、庄屋はぼろ寺の檀家になり、寺は立派に建て直されたという。
猫の恩返しの寺「福蔵寺」2
今から350年ほど前のお話です。
浄法寺にある吉祥山(きっしょうざん)福蔵寺が山奥の小さな寺だった頃、寺の門前に住むお福と一人息子の長松が、迷ってきた1匹の痩せ猫をトラと名付けたいそう可愛がっていたそうです。
長松は素直で賢い子どもに成長し、寺の住職はお福を説得してお寺の弟子にしました。やがて老師の遷化の後を継いだ長松は福蔵寺第五世の住職となり、生みの親であるお福は息子のお陰で何不自由なく暮らしておりました。
さて、ある夜、トラがお福の枕元に来て「今までのお世話に報いる時が来ました。和尚様(長松のこと)もやがて御出世します。私の命は残り少なく名残惜しく思います」と涙を流し何度も頭を下げたのだそうです。その日からトラを見たものは誰もいなかったのだそうです。
慶長(江戸時代の年号)の初めの頃、南部の殿様が亡くなられ、その葬儀中のことでした。突然怪しい大風が吹き荒れ、殿様のお棺が空中に巻き上げられてしまいます。あわてた僧侶たちが必死に読経しても棺は降りてきません。困り果てた時、山奥から馳せ参じた福蔵寺住職の賢明な黙祷祈念によって風雲がおさまり、殿様の棺は元の座に戻りました。新藩主はこれをたいそう喜んで、多くの引き出物と寺領三十石を与え、これが福蔵寺の繁栄のきっかけになったと言われています。
藩主葬儀の怪異を聞いたお福は、先のトラの夢を思い出し我が子である住職に伝えると、すべてはトラが恩に報いるためにしたことと知った住職は、寺の鬼門にあたる森のなかに猫塚を建立して霊をあがめ敬ったといいます。 母猫とはぐれた痩せ猫がどんな人生を歩んだのか、福蔵寺で感じてみたいですね。
猫塚物語 3
今から三百五十年位前、吉祥山猫蔵寺が第四世天朔(てんさく)和尚の時代でまだ山奥のほんのささやかな小さな寺であったころ、寺の門前に夫に早く先立たれたお福と遺(わす)れ形見の一人息子長松が住んでいた。お福は長松の成長を楽しみに寺の針仕事や村の賃仕事などに雇われて細々と暮らしていた。夏が過ぎ秋となり稲庭おろしが身にしみる淋しい或る夜のことだった。
親子は炉端で松の根を焚いて明かりとし、お福は糸を紡ぎ、長松は手習いをしていた。すると軒下で猫の悲しい鳴き声が聞こえた。二人が戸をあけ鳴き声のする方をすかして見ると、どこから迷って来たのか、一匹の痩せ衰えた子猫が哀れみを乞うように鳴いていた。慈悲深いお福と友達の欲しい長松は、直ぐに子猫を抱き家に入れた。
よくよく見れば、生まれて四・五か月位の雌の虎猫であった。野良猫の子が母を失いよりどころが無く、家の灯りをたよりにここへ来たのであろうといじらしく思い、「トラ」と名付けて家族のように大変可愛がって育てていった。トラはまるまると太り、毛並の良い可愛い猫になって親子の寵愛の元に月日が流れた。
長松もいつしか十二歳となり、素直で賢い子供に成長し、習わぬお経を読むどころか一を聞いて十を知る神童であった。寺の天朔老師もそんな長松に眼をかけて、読み書き手習や行儀作法などを教えて可愛がり、お福を説得して弟子に貰った。長松は剃髪得度して大突(だいとつ)と名を改め、天朔老師に仕えた。やがて老師の遷化の後を継ぎ、福蔵寺第五世の住職となった。生みの親のお福は寄る年波に患うように仕事が出来なくなったが、息子のおかけで何不自由無く暮らしていた。トラをわが子のように思って話しかけ、親しみも増々深くなっていった。トラも長年の養育に恩を感じているようにお福の傍を離れず、三十歳くらいの老齢でありながら子犬のように肥太り筋骨逞しく、お福に馴れ親しんでいた。或夜「トラ」がお福の枕元に来て、「トラも三十年来並々ならぬ御世話を蒙りました。これまでお世話になりましたが、この度こそは、これまでの御恩に報ゆる時節が到来しました。和尚様もやがて御出世なさります。トラの寿命もいくばくもなく、名残り惜しいけれどもお暇をいただきます。」といい、涙をながして何回も頭をさげ、暇を告げてそのままツイと家から出て行ってしまった。お福も何か言おうと、思わず「トラ」と呼んでみたが自分の声に驚いて目をあければ夢であった。この日からトラの姿を見た者は誰もなかった。
時も同じ慶長の初め頃、南部の殿様が亡くなられて福岡で葬式が行われることになった。その葬式の最中に、突然怪しい大風が吹き、砂塵を巻き上げ黒い雲が下がって来た。天も地も見えなくなり、殿様のお棺が空中に巻き上げられてしまった。この不意の出来事に、参列していた一門の諸士は慌てふためき愕然としていた。僧侶たちは必死に読経をしたが効き目がなく、ただ青ざめて途方にくれていた。さらに近郷近在の弥宜や神主まで寄せ集め降伏の加持祈祷を命じたが、さっぱり其の効験がなかった。
此時急使によって馳せ参じた福蔵寺第五世兀山大突(ごつざんだいとつ)和尚は、悠然として少しも騒がず、おもむろに数珠の玉を繰りながら仏に念じ、懸命に黙祷祈念をした。するとたちまち風雲がおさまり、殿様のお棺はするすると元の座におりた。参列者達は蘇生の思いにほっと安堵の胸を撫でおろし、再び行列を立て直して首尾良く葬式を済ますことができた。福蔵寺住職のこの一大殊勲に対して、新藩主は大層感謝し当座の引出物を数々とらせ、尚その上に寺格を進め寺領三十石を賜った。これがそもそも寺門繁栄の端緒となったものである。藩主葬儀の怪異を聞いたお福は、先のトラの夢を思い出してわが子である住職に事の始終を話した。すべてはトラが親子の恩に報いるためにしたことであると知った大突たちは、檀家と図って寺の鬼門に当る森の中に猫塚を建立して霊をあがめ敬ったという。

物語にある猫塚は現在福蔵寺にはなく、またかってどこに建立されていたのかも定かではない。しかし大正十一年、大般若堂の大修理の際、堂の天井裏の中心部に「猫」の頭骸骨が安置されているのが発見された。これにより寺に伝わる伝承が全くの作り話ではないということになり、時の住職・二十九世淵沢知明和尚がこの骨に三帰戒を授けさせ、発見された場所へ再び安置した。また、この大修理を行った檀家の中心的存在であった其山小田島五郎は、「猫」の頭蓋骨発見を記念し、伝説を長く後世に伝えるために記念碑を建立してその由来と自身の句を刻んだ。なお、撰文と揮毫は当時浄法寺小学校の校長であった東山佐藤源八の手によるものだという。石工は目時長流である。  
唐猫 岩手県気仙地方
貧乏寺に、「虎猫」と「唐猫」がそれぞれ一ぴきずついた。ある時、長者の娘の葬式があり、式の途中で棺(かんおけ) が宙づりになって降りてこなくなった。貧乏寺の和尚がお経をとなえると棺は降りてきた。この結果、檀家が増えて寺は栄えた。
そのころ、猫二ひきは和尚を殺す相談をするが、事前にこのことを知った和尚は、二ひきの猫を追いはらい、ことなきを得た。 
増長寺の猫 岩手県奥州市水沢区
旧「水沢町」にある「増長寺」の猫は、和尚が寝ると必ずわらしべをくわえてきて、和尚の身長を測るような真似をしたので、和尚は不思議に思っていた。ある日、立町の「オカリヤ」という「御本陣」のおじいさんが、寺に碁を打ちにきたので、和尚は、猫の怪しいふるまいを物語った。それを聞いたおじいさんが、「なァに、猫だって悪い気があってするのではなく、いたずらのつもりでするのだらう、なァ玉や」と猫に声をかけると、猫は「糞くれァ」と叫んで、飛び出して、そのままついに帰ってこなかった。後に、和尚さんが寺のまわりを探してみたら、後ろの薮の中に和尚さんの身体がかくれるほどの大きな穴が掘ってあった。たぶん、猫は、和尚さんを殺してその穴に埋め、自分が化けて住職 (和尚のこと) になろうとしていたのだらうという噂であった。 
少林寺 埼玉県大里郡寄居町末野…猫檀家の伝承
踊る猫
猫寺としての少林寺の伝説はよくある猫の報恩話だ。茶釜のふたを持って踊る猫が住職に見つかり寺を出される。猫は恩返しに鉢形城主の葬儀の際に嵐になって棺が上がるので猫の教えのとおり呪文を唱えると棺が元に戻る。このことで住職の評判があがり寺の格も上がった。手拭いを被るかわりに茶釜のふたを持つという特徴がある。住職に暇をだされるとき世話になった御礼にと数珠を差し出すのも独特で、舞い上がった棺を戻すときにこの数珠を呪文を唱えながら天に投げるよう人語で語るという力をもった猫だ。
少林寺の縁起
少林寺、長泉寺開山大氵周存「大和尚が開山となり、永正8年(1511年)、創建開基は藤田右衛門佐康邦といいます。慶安年中(1648-1652年)寺領15石の御朱印状を拝領、二十四世大純万明大和尚の代に山中に釈尊、十六羅漢、五百羅漢の石像並びに千体荒神石碑を安置したといいます。
縁起 1
曹洞宗の寺である少林寺は、永正8年(1511年)、長泉寺開山大氵周存「大和尚が乞われて開山となりました。開基は、北条氏康の家臣となった藤田右衛門太夫国村となっているが、康邦だろうともいわれており確かではありません。本尊は釈迦牟尼仏です。慶安年中(1648-1652年)寺領15石を与えられています。二十四世大純万明大和尚の時、文政9年(1826年)春より四方浄財を募り、寺後山中に釈尊、十六羅漢、五百羅漢の石像並びに千体荒神石碑を天保3年(1832年)に安置し、信仰の道場として今日に続いています。山頂に立てば、寄居市街地が一望できるとともに秩父連峰が目前に迫り、眼下に円良田湖が望めます。
縁起 2
(末野村)少林寺 禅宗曹洞派、小玉郡高柳村長泉寺の末、萬年山と号す、又熊耳峯と云、開山大洞存「天正十六年十月二十日示寂、開基は藤田右衛門佐康邦永正十五年十一月十五日卒、藤栄院花巌常春庵主と称す、按に藤田右衛門佐康邦は、後用土新左衛門康邦と改め、北条氏康に従ひ、天文二十四年九月卒し、法名を藤源院殿天山組繁大禅定門と云しよし寄居村正龍寺の傳へなり。是に合せ考ふるに、永正十五年より天文二十四年は、其間三十八年をへだてり。されば時代もたがひことに法諡もあはざれば、当寺の傳ふる所は同人にはあらざるべし、藤田の系図によれば、康邦が父を右衛門大夫国村と云し由をのす、若此人の開基なりといはば時代も叶ふべし、されど是は私の考へなれば、暫くしるし置て後の正しき説を待のみ。後新太郎氏邦の時に至り、富永能登守奉りて寺地を寄付し、且寺内不入の制札を与ふ、天正の末には度々兵乱をへて衰微せしが、御入国の後再興ありて頗る奮観に復し、慶安年中寺領十五石を賜ひしより今に至れり、本尊釈迦。
鐘楼。元禄八年鋳造の鐘を掛く。(氏邦花押省略)
寺寶。
古鰐口一口。近年堂後の山より掘出せりと云、これによれば当寺にもと八幡社ありしや、又黒澤右衛門太郎政信とあるは、如何なる人にや詳にせず、天正十八年の頃北条安房守氏邦に従ひ鉢形の城にこもりし、黒澤上野之助が父祖の内なるにや、又慶長の頃黒澤帯刀と云ものあり、是らもその子孫なるべし、かの鰐口を掘出せし時、共に掘出せしとて、阿弥陀の木像あり、長二寸許、古物なり、これ八幡の本地佛なるべしと云、鰐口の図上に出せり。
塔頭。
久昌院。
萬寶院。本尊大日を安ず、村民の持。(新編武蔵風土記稿より)
昌福寺 埼玉県深谷市人見…猫檀家の伝承
寺の衰退を救った虎猫
深谷市人見の人見山昌福寺は、深谷上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基である。本堂裏の庭園は深谷市の名勝で、仙元山麓を生かした禅宗庭園で、室町時代の造園といわれている。上越新幹線沿線なので、車窓からも仙元山と昌福寺を見ることができる。
この寺に、猫の報恩譚の「猫壇中」という伝説がある。寺の衰退を一匹の虎猫が救う話だ。
猫と寂しく暮らす和尚が胸中を語ると、人語で猫が答えた。「檀家だった長者が近いうちに死ぬ。葬式のとき棺をつりあげるので、南無トラヤヤと唱えるように」と。はたして、猫の予言のとおり長者は亡くなった。その葬列を突然の稲妻と大雨が襲う。雨が去り、棺を置いたままいったん退散した葬列の人々が戻ってみると、棺が宙づりとなっているではないか。なみいる僧たちが経文を読んだり手を尽くすが、棺をおろすことができない。そこで昌福寺の和尚が呼ばれ、猫の言うとおり「南無トラヤヤ」と唱える。棺はするすると降り、そのまま昌福寺の墓地に行ってしまった。これを見て驚いた長者家では、死人が昌福寺が好きなのだろうということで、再び昌福寺の檀家に戻った。嵐を呼び棺を宙づりにしたのが昌福寺の猫だと知れ、以来、昌福寺の檀家を「猫壇中」というようになった。
突然の雷雨から棺(死体)が昌福寺に行くまでのパターンはもう一つある。伝えられている話では、十数件まとまって離壇した村が長在家村(旧大里郡川本村長在家、現深谷市長在家=昌福寺から南南西約5キロ)となっていることや、葬儀を出して棺を宙づりされた長者が小川家と特定していることなど、全国に分布する昔話の「猫檀家」が伝説化した例だ。
昌福寺には、伝説にまつわる猫塚などの遺物もなさそう。でも、行ってみないと何が見つかるか分からないものだ。あまり気乗りはしなかったが、雲洞庵に行った翌10月30日に出かけてみた。深谷駅から南東へ約3キロ。県道62号から仙元山(98m)を南側に回り込む。境内に入り、まず石板に彫られた「昌福寺誌」を読んでみる。案の定、伝説には一言も触れていない。室町時代の創建で江戸時代には幕府から二十石を下付された禅宗の名刹と説明されている。戦国時代にすたれた一時期のこととして語られた伝説を、今さら表に出す必要はないのだろう。猫の伝説など遠ざける寺がある一方、世田谷区の豪徳寺、長野県の法蔵寺などは伝説を寺院経営に生かしている。
背後の仙元山も何かと気にかかった。頂上に建つ浅間神社は昌福寺より古く、南北朝時代にはすでに存立していたと伝えられる。民話などで、踊ったり人語を話したのがバレた寺の猫は、年期を言い渡されたり、また自ら裏山に入っていなくなるものだ。寺と裏山と猫は結びつくのだが、猫の気配なし。散策路はよく整備され、隣接する運動公園とともに市民の憩いの場となっているようだ。何も収穫はなかったが、伝説のある寺を見ただけでも満足感があった。出発が遅かったため、渋沢栄一の生家や記念館までは足が回らなかった。

昌福寺は、深谷上杉氏第5代で深谷城初代城主である上杉房憲(ふさのり)が、古河公方に備えて深谷城を築いて移ったとき、父祖の冥福を祈るために仙元山のふもとに創建した曹洞宗の寺院で山号を「人見山」と号します。
豪徳寺 東京都世田谷区豪徳寺…招き猫のルーツとなる伝説
招き猫 1
2代目の井伊直孝というお殿様が鷹狩り……今で言うゴルフにお供5、6人を連れてここに来た際に、豪徳寺の住職が飼っていた白猫が手招きした。住職が珍しいお客さんも見えたものだと奥へ案内し、お茶を出したりもてなしをしたところ、今までお殿様がいたところに落雷があった。「もし猫に招かれなければ死んでいたかもしれない。しかもありがたいお話が聞けた。私は江州彦根城主井伊直孝です」と名乗って帰られたのがこんな立派なお寺になるきっかけになったという。
招き猫 2
井伊直孝が、江戸郊外に鷹狩に出ていた時の話。その帰り道に小さく貧しい寺(弘徳庵、後の豪徳寺)の前を通りかかりました。すると、寺の和尚さんの飼い猫(たまという名前)が門の前で手招きをしているではありませんか!「おっ。猫が手招きしているぞ」井伊直孝は、猫に招かれるまま、お寺に入り、休憩することにしました。井伊直孝、なにか感じるものがあったのでしょう。とても素直な心をお持ちのようで。これが、功を奏します。
間も無く、雨雲が立ち込め、激しい雷鳴と雨が降り出します。「助かったあ!」もし、猫の招きを無視し、行軍していたら、雷雨の餌食になっていたところでした。間一髪、猫の招きが雷雨を知らせてくれたのでょう。雷雨の被害から逃れた直孝は、雨宿りしながら、話をし、和尚を気に入りました。
「和尚、助かったぞ。お礼に、寄進をし寺の立て直しをさせてくれ!」と後に直孝は、多額の寄進をし、荒れていた小さな寺を立派に立て直したのでした。
井伊直孝を招いた猫(たま)がやがて亡くなると、和尚は墓を建てて祀りました。そして、後に境内に招猫堂という猫(たま)を祀ったお堂が建てられ、猫が片手をあげて招いている姿を形どった「招福猫児(まねぎねこ)」が作られるようになりました。この「招福猫児(まねぎねこ)」が、現代の招き猫に繋がっていくのです。
永久寺 東京都台東区下谷…「山猫めをと塚」
永久寺の山猫めをと塚(台東区谷中)
日暮里駅からもみじ坂経由で三崎坂へ。通りに面した永久寺の山門を入ってすぐの本堂右に山猫めおと塚と猫塔記念碑、右手には猫塚碑が建っている。写真では何度も見たことがあるので、初めてという気がしない。それでも細かいところは間近で観察しないといけない。
山猫めをと塚(正確には「山猫めを登塚」)は、魯文の飼っていた雌雄の山猫を供養する碑である。『猫の歴史と奇話』(平岩米吉著)によると、雌雄の山猫を魯文に譲ったのは当時海軍卿の榎本武揚であった。その山猫とは欝陵島(竹島とされているのは誤り)で捕らえられたらしい。榎本が塚石を建てたのは、贈って約1年後に亡くなった山猫を惜しんでのことだった。表に福地桜痴の碑文(明治十四年十月建 山猫めを登塚 桜痴居士源喜)が刻されている。裏面には「榎本武揚君嘗賜雌雄山猫于猫々道人魯翁 該猫病而斃標石一基 卿表追悼之意 嗚呼」とあり、遊食連(呑み食い友達?)として竹内久一以下16名が列記されている。なお、本堂には魯文の本箱の扉に描かれた「山猫の写生図」(大蘇芳年画)が掲げられているというから興味深い。
平岩によると、魯文は猫の書画玩具収集には目がないが、猫の飼育には不慣れで贈られた山猫はましてや野生猫であったから、飼い始めて約1年の短命に終わったのだと。面白いのは、明治14年10月4日付「仮名読新聞」(魯文主宰)に、「10月16日に山猫の追善法会施行」の広告を載せているが、その機会に収集した猫グッズを陳列して見せたのだろうという。
山猫めをと塚の隣に立つ猫塔記念碑は明治11年開催の「珍猫百覧会」の収益で建てたのだという。珍猫百覧会とは今でいう猫グッズ展だというから、昔も猫モノ人気は高かったのか。丸穴から中をのぞくと眠り猫の像が見えるという、なかなか凝った猫塔である。さすが猫々道人(みょうみょうどうじん)を名乗るだけの猫好きだ。
猫塚碑に刻まれた成島柳北撰文の文字は細かくて読みとれないが、線彫りされた猫の顔は目立つ。よく見ると目、鼻、口を「魯」の字形にしてある。この碑は、もともと谷中霊園にある高橋お伝の墓の近くにあったもの。本当のお伝の墓は南千住回向院にあるが、谷中霊園の墓は『高橋阿伝夜叉譚』を書いた魯文や歌舞伎役者らが伝三回忌に建てた。お伝ネタで得た収入を充てたものだ。正岡子規は「猫の塚お伝の塚や木下闇」と詠んでいる。
魯文の墓は、墓地入り口すぐのところ。墓石には、聖観音を線刻した板碑(13〜16世紀頃に追善のため造られた供養塔)がはめ込まれている。側面には「遺言本来空 財産無一物 俗名 假名垣魯文」と刻まれている。
西信寺別院大泉寺 東京都文京区大塚
縁起
当寺は動物専用の墓地として特に有名である。文京区大塚にある西信寺は、寛永2年(1625)(寛文2年1662の説もある)に開山された寺院であるが、第20世見誉上人は動物愛護の念が篤く、自坊で飼っていた猫、さらには周囲で行き倒れになった犬・猫・牛・馬にまでも戒名を与え供養したという。
人間と動物を同じ場所に埋葬することはできないので別院を設け、明治41年(1908)、動物専用墓地を長崎村(豊島区長崎)に開設したが、昭和6年(1931)さらに西郊の現在地に移転してきた。現在では都内各地からペット類(犬・猫・小鳥など)の埋葬供養に訪れる人が多い。 春秋のお彼岸の中日には、恒例の動物慰霊大法要が行われる。
自性院 東京都新宿区西落合 厄除開運の猫地蔵
縁起 1
真言宗豊山派の寺院で西光山自性院無量寺といい、秘仏「猫地蔵」を安置し、ねこ寺として有名。 寺伝によると弘法大師空海が日光山に参詣の途中で観音を供養したのが自性院の草創といい、また葛大納言経信が東下りして当地に身をかくし、朝夕当院の観音・阿弥陀を信仰したとも伝えられている。 猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)に豊島左衛門尉と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折に、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったため、猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという話が伝えられている。また、江戸時代の明和4年(1767)に貞女として名高かった金坂八郎治の妻(覧操院孝室守心大姉)のために、牛込神楽坂のD屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。二体とも秘仏となっており、毎年二月の節分の日だけ開帳されている。 毎年二月三日の午後に行われる節分会は、七福神の扮装姿の信徒らの長い行列が町内を練り歩く珍しいもので、秘仏開帳とあわせ、参詣客で賑わう。
縁起 2
東京都新宿区西落合一丁目にある真言宗豊山派の寺院。寺伝によると、平安時代に空海が同地で観音像を建立して供養したのが始まりであると言われている。同院は別名「猫寺」と呼ばれているが、これは室町時代の文明9年(1477年)、江古田・沼袋原の戦いにて道に迷い苦しんでいた太田道灌の前に一匹の黒猫が現れ、同院に招き入れ危機を救ったとする伝承に由来する。道灌はこの事に感謝し、この猫の死後に地蔵像を作り奉納したと言われ、これが「猫地蔵」と呼ばれているものである。また、江戸時代には顔が猫面の特徴的な地蔵像が同院に奉納され、「猫地蔵」と共に毎年2月3日に開帳されている。そのほか、境内には室町時代のものと推定される板碑(新宿区指定文化財)もある。
慈照寺 山梨県中巨摩郡竜王町…猫報恩話の伝承
猫寺
慈照寺はむかしは荒廃した貧寺だった。寺の和尚は猫を愛し、長年飼い馴らした一匹の猫がいたが、和尚老いて病気になり、「この猫が人であったらよかろうに、畜生だから恩返しも知るまい」と猫に語った。これを聞いた猫は寺を出て行ったが、甲府の旗本渡辺某の葬式に逢い、怪物に化けてその棺を奪い走り去った。人々は驚いて後を追ってくると、龍王の慈照寺に入ったから、渡辺氏はここを菩提寺としてその柩を葬り、その寄進によって荒れ寺は立派な寺になった。今も慈照寺では、その猫の絵を常に床の間にかけてある由。 
猫石
江戸の初期、慈照寺が貧しかった頃和尚が猫を飼っていました。和尚はお寺が貧乏なのでお前を養えないからここから出てどこか長者の処でも行って飼ってもらいなさい、と言いました。猫は泣きながら永年のご恩返しをしたい、いつ幾日に甲府の旗本にお葬式がありその葬式を持って来ますから、和尚様は手の数珠を高く投げて下さい、そこでお寺の庭に棺を落とすから、それを本堂に入れて葬式をして下さい。と言いました。
その日になると甲府で旗本渡辺家の葬儀があり本来は大泉寺で行われるはずでしたが、葬式の行列が家を出ると途中で黒雲が巻き起こり棺桶をさらっていきました。渡辺家の人たちはその後を追っていくと、それは慈照寺に入って行きました。本堂の前でお経を読んでいた和尚は頃合を見計って数珠を高く上げると黒雲の中から棺桶が落ちて来ました。その棺桶を本堂内に入れ葬式をあげると渡辺家の人達がやってきて改めて慈照寺の檀家となり猫はその後も帰らなかったので塚を建てたというお話です。
少し違う展開の話もあって、和尚が亡くなる時に猫が恩返しとして渡辺家の葬儀を持って来たというのもあったと思います。そして重要なのはその渡辺家が実際に檀家としてあり、更に徳川の時代の前は武田家臣であるという事なんです。
渡辺家が慈照寺の檀家になったのは渡辺定正の時であるので、上記の伝説は定正の葬儀の事でしょう(勿論実際はフィクション)。この渡辺善三朗定正が武田家に仕えています。武田滅亡後は他の武田家臣と同じく天正11年遠江国秋葉にて家康に誓詞を奉り、上田城に篭る真田幸昌を攻める時には徳川秀忠に従い、後幕府創始期には大久保長安に付いて甲府町奉行を勤め代官をかねて50人の同心と200石を賜っています。後に駿河大納言忠長に仕え、寛永9年8月2日に甲府で亡くなっています。
慈照寺
有富山「慈照寺」は曹洞宗(禅宗)の別格地で24ヶ寺の本寺である。古くは真言の寺院であったが、室町時代の延徳元(1489)年8月開祖真翁宗見禅師(竜華院開祖桂節宗昌禅師の法嗣)によって禅寺に改めて開創した。開基は諸角豊後守昌清公で、永禄4年9月信州川中島に戦死し、その古牌を祀ってある。本尊は華厳釈迦如来で、鎌倉末期湛慶の作といわれ、両脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩。富士の霊峰と相対し眺望が極めて良い境内には、法堂、庫院、書院、衆寮、開山堂、山門など十数棟の伽藍が完備している。また、創建当初から武田氏との関係が深く、多くの重要古文書を保存している。
本寺は武田氏および徳川氏の崇敬厚く、寺運の盛んな寺であった。このような背景を物語るものとして、桃山、江戸時代の優れた伽藍を残しており、この山門の外、法堂や古文書多数が県指定文化財になっている。この山門は桁行三間、梁間三間、重層入母屋造銅板葺で寛永16(1639)年に建てられたが、蟇股、木鼻実肘木等は、桃山時代の形をよく江戸初期に伝えており、建物全体の均衡もよくとれた貴重な建物である。
法堂はまた、本堂とも称され、寺院の建物の中では主要なものである。この法堂は、桁行12間、梁間8間で形式・手法から桃山時代のものと推定されている。堂内は正面入口から1間通りは土間、次の1間通りを板廊下とし、その奥を4間づつ2列・8室に仕切り、後列の中央西寄りに仏間を設け本尊を祀っている。仏間の前には大間があり、ここで法要がいとなまれる。仏間・大間の左右は、室中・客間など6室に分けられ、左端の梁行1間通りを、畳廊下とするほか、側・背の三面にはぬれ縁をめぐらした、構法の雄大な建築である。
猫石 / 昔、慈照寺が貧しい寺であったころ、和尚さんが一匹の猫をかわいがって飼っていた。ある時猫は、その恩に感謝して甲府の旗本家の葬式を不思議な力によって慈照寺に呼びこみ大檀家にし、お寺繁栄の基礎をつくった。そこで和尚さんは、感心な猫の霊に感謝し境内に猫塚を建てて供養してやった。猫石は現在も墓地入口にある。
智満寺 静岡県榛原郡中川根町上長尾…猫檀家の伝承
信州猫檀家
二世 伝浮宗芸(でんぷそうげい)大和尚さまむかし、応仁の乱が終わって、10数年たった明応(1492年から1500年)のころ、上長尾の智満寺の宗芸和尚さんという方が、1匹の猫を飼っておりました。
そのころ、この地方が飢饉にみまわれ、人々の食料がとぼしくなってきていましたので、ある日、和尚さんは猫に向かって、
「人間でさえ、食べ物がなくて困っている。本当に気の毒だが、このままではみんなの手前、食べ物をやることもできなくなりそうだ。今のうちに、どこか食べ物のあるところへ行きなさい。」
というと、和尚さんの顔をじっと見ていた猫は、うなずいて、
「和尚さん、長い間かわいがっていただいてありがとうございました。この御恩は一生忘れません。いつか必ず恩返しをします。」
それから何年かたったころ、信濃国大河原村(現在の長野県下伊那郡大鹿村)では名主の娘さんが亡くなり、そのお葬式をしておりましたが、その時、突然、空から黒い雲が降りてきて、あらよあれよという間に娘さんの棺をつつみこみ、また空に昇っていきました。
すると、棺の中は不思議なことにからっぽで、娘さんは煙のように消えて無くなり、お葬式は大騒ぎになってしまいました。
その時、どこからともなくあの智満寺にいた猫が現れ、
「娘さんを取り戻すには、遠江国山香庄の河根というところに智満寺というお寺がありますが、そこの和尚さまにお願いするしか方法はありません。この和尚さまは、人並みすぐれて修行をつんだ、たいへん徳の高い情け深いお人で、お願いすれば、必ず娘さんを取り戻してくださいます。皆さん、迷っている場合ではありません。」
と、それだけ言うと、その場から立ち去っていきました。
名主さんたちは、すぐに智満寺にきて和尚さんにお願いし、休む間もなく大河原村に案内しました。大鹿村 香松寺本堂 和尚さんは無言で祭壇の前に進み、正面に着座すると静かにお経を唱えはじめました。その声は、次第に高まってすみずみまでよく伝わり、すると不安だった人々の気持ちもだんだん安らいできました。
どのくらい時間がたったのでしょうか。ふたたびもとの静けさに戻るように、お経が終わりました。すると、不思議なことに娘さんの亡骸は、もとの姿のままで安らかに棺の中に戻っていたそうです。
そういうことがあって、大河原村の香松寺は、その時から智満寺の末寺になったそうです。
香松寺には『香松寺記』という記録がありますが、それを見ると、かんたんに宗芸和尚さまを『中興の開山』と記してあり、この出来事が文亀元年(1501年)であったということです。 この時から、かれこれ500年近くもの長い間、上長尾の智満寺と信州の香松寺との交わりが続いているとのことです。
智満寺の由緒
当寺は、今から1000年余年前の平安時代(藤原後期)に草創され千手観音菩薩像を御本尊とし、山号を千葉山と云い、寺号を智満寺と称した。一説には、島田市の智満寺の末寺として奥大井に天台教学の拠点として開かれたとの口伝がある。その後、延徳3年(1491)に駿河国・洞慶院より回夫慶文禅師を迎え曹洞宗に改宗開山された。河根法窟と云われ回夫派の派頭寺院として、江戸時代末期までは門葉100ケ寺に及ぶ禅宗の修行道場であった。 町の中心地の山裾に5000坪の境内を有し、樹木に囲まれた静寂な環境の中に七堂伽藍を備えている。延享2年(1745)の大火により焼失したが、第13世一音法牛禅師により伽藍が再建され、以降に増改築をかさね今日に至っている。 町の文化財に指定されている千手観音菩薩(平安時代の作)・阿弥陀如来座像(藤原時代の作)・山門(江戸時代中期)をはじめ、川根大佛(釈尊座像)・心の三十三観音・厄除延命地蔵菩薩座像(江戸時代初期の作)・釈尊涅槃像・絵天井、インド釈尊聖地踏土(涅槃堂)・お茶地蔵尊・わらじ観音(幸福観音)など、多くの仏像や日本画を拝観することができる。 「信州猫檀家」・「火防大師一音さま」の伝説がある。
日光寺 新潟県東蒲原郡上川村
津川の日光寺の猫は滝で行をして神通力を得て、殿様の棺を吊り上げて日光寺の住職に降ろさせ、恩返しをした。棺を戻した手柄で日光寺は西山八丁四面と言われる広い土地をもらった。
岩村寺 新潟県北蒲原郡笹神村折居
猫の恩返し
承応年中(1652〜4)高松山下に折居院という小道場があり法灯が守られていた。
ある日、行脚僧が訪れ、この庵に住む事になった。この僧が新潟県北部の朝日村へ托鉢の時、僧を慕い1匹の黒猫が折居院まで着いて来た。僧はこの猫を愛し、自分の食事を割いて猫を養った。
しかし、病魔に襲われ次第に猫は痩せ衰えた。僧は看護に手を尽くしたが、猫が僧の夢枕に立ち
「長い間お世話になりました、もう命数は尽きました。恩返しをいたします・・・この夜明けの卯の刻(午前6時)に庵の戸を叩く音がしたらその者についてお出かけください」といい残し夢枕から消えた。
その時間になると、戸を叩く者が来た。新発田の豪商岩村長右衛門の使者という。
母の他界に付き葬儀に参加して欲しいという。僧は乞われるまま、猫の夢枕の話の事もありついていった。岩村家の菩提寺は新発田市相円寺で豪華な葬儀で、僧侶数十人、見事に整った葬儀だった。僧侶は皆、立派な袈裟をまとっていたが、猫寺の僧だけは破れ衣の袈裟をまとい、どこの僧かとささやきあった。
読経が始まると、天気が悪くなり雷鳴が轟き、葬儀場の棺がするする引き揚げられ、葬儀に参加した人々は動転し、導師の読経、祈祷の甲斐無くただ唖然とするばかりであった。
このとき、猫和尚の大音声の陀羅尼経の読経、数珠を持ち祈祷すると、不思議にも雷鳴はおさまり、天気が良くなって棺は元の場所に戻った。
人々は喪主の長右衛門等が僧にひれ伏し貴僧は仏陀の化身かと、帰りは立派な籠に乗せられ折居院に戻った。寛文9年11月中旬である。
それから岩村家は伽藍を竣工し岩村寺と言うようになったという。
猫の恩返し (新潟県阿賀野市岡山町)
とんと昔があったでが寺山に今でも建物の跡があるがね
あそこに山寺が建ってで一時は方丈様居ねんたでんどもどっから来たんだやら ほいど坊主、托鉢に来てあそごになおったでがね
毎日、黒衣のぼろぼろでがん着て托鉢に村々回ってだでがね
そうして、村上の方へ行って、猫拾で来たんでがね、それが虎猫だったんでがね
そうして、トラと言う名前つけでね、家内も居ねがったしかね、トラば大事にしてでね 「トラ来たで。」と言うと、ニャーンと言で来たでんがね、 そうして、毎日、方丈様の来る時間になっと、山から下がって待っていたでがね
方丈様、トラば楽しみにして育てで、自分の飯も減らして食せでだでんがね、 そうして、だんだん、大きょなるにしたごで、寺大門の近所の人に毎日文句言わってね
お前のトラ、ほんね、毎日、俺へどこ入って、おかず、触したの、魚、ひっぱって行ったの、 方丈様、そんげな話し聞いで、耳、痛どなったでがねいや困ったなど思で 「トラや、トラや、んなー、ほら、村下がって、悪戯ばっかしているが、俺こんげに、 かわいがって育でだども、ほんね、恩おぐった事もねば、ほんね困ったなー」ど
そう言で、言だでばニャーンと言で、首傾げで、そんま丸まこなって、方丈様の膝元へ来たでがね
「したども、今まで飼んで、捨じゃる訳にもいがねし、ほね、困ったわぇ。」とそう言でね
撫でてくってだでんども、どうも托鉢に行って来ると、村の人に苦情言わってね
あっち行っては、悪戯、こっち来ては悪戯し、そしていっこう大きょなてんがね、そのトラが、方丈様、今日、上がって来たでば、毛艶、悪ろしてだが
「トラ、どうしたな。」と言で、背中撫でてくてだでば、ニャーンニャーンと言で方丈様の膝の上に上がったども、いつもよか、毛艶も悪がったし、元気も無がったでがね
今まで可愛がって来たんしと思で、なんだかんだ食しぇだども食ねがったど、あんま年いって、こーやんさね「トラやれ、今までこうやって育てだども、なんでも恩返しもしので、どこ具合悪んだやら、このまんまんあの世ねな、行かねでな。」ど言で、背中撫でてくったでばニャーンニャーンと言で、方丈様に言わった事分がったんこさね、あいさつ、すかんでがね
なおさら気の毒がっていだったど。
その晩、夢ざらしに、方丈様に「俺、トラだが、新発田の岩村様の御婆様が亡なって、そのお棺がそんま天の方へ巻き上げらって下りねしか、そん時、方丈様ば頼みに来すか、そん時、行ってお経、あげてくれ、そうすっと、雲の方からお棺がズラッ、ズラッと下りて来すかそれが俺が恩返しだ」ど言で夢ざらし見だでがね。
おやおやと思で、やろ死んだんだがなど思で、そうーと起ぎだでば方丈様が布団の上に丸まっこなって死んでだったでがね
やれやれ、ほんね、俺もお前の事ばっか思でやすか、あんげな夢見だんろうど思で面白しぇ、夢見だわど思で、方丈様、あんま可哀想で沢に埋めだんだでがね
そうして、二三日経ったでば、使いが、方丈様ば、頼みに来たでがね、おやおや このこったげだわいど思で 「はいはい 今行きます」と言で、行ったども
ぼろぼろで黒衣一枚すか無んで、その衣着て歩いで行ったでが、そご行ったでは、そごらの近所の人、真っ黒なって群りついでいだども、お棺、天上に吊るし上げらって、そんま、真っ黒な雲に巻き上げらったみたいになって、下がってこねんでがね、方丈様、多勢こど、立派な方丈様居だども下がってこねど
今度この折居の方丈様がなんと言っかど思だでば「トラや、トラや、落としてくれやーーーー」それがお経の文句だったでがね
そして「トラや、トラや」と言でだでば、ズラズラと落って来たでがね、そうしたでば、岩村様の人、喜んで、それから折居に、その前になんて言う名前のお寺だが分からねども、それから岩村様の人、自分の苗字くって、岩村寺と言うお寺作ってね
そのお褒めだでんで、山倉田地、四町あったでんがね、山倉田地、それがトラの働きなんでがね
いつか昔 ぶらーとさがった
法憧寺 新潟県佐渡郡畑野町三宮
寺院名 建立山法幢寺 / 曹洞宗 / 佐渡市三宮257
本尊 釈迦如来
開山は快峯憐悦大和尚で、開基はこの地の地頭名古屋四郎安藤によります。今の本尊は新穂の中川治郎右衛門が寄進したものです。
龍昌寺 石川県輪島市
創建年 / 永禄4年(1561)
ご開山 / 全源亮湛大和尚
開基 / 丹羽五郎左衛門
ご本尊 / 釈迦牟尼仏
曹洞宗。山号は五雲山。開創は永禄四年と伝える。初め加賀国小松八日市町に丹羽長重の菩提所としてあったが、元文三年、金沢裏五十人町に移転した。昭和五五年に石川県輪島市に移転して、現在に至る。裏五十人町は、現在の金沢市増泉1丁目、白菊町、中村町付近。
招き猫の由来については不詳。「猫寺」の由来については龍昌寺四世大信のとき猫の死んだ夢を見て、その猫の遺骸を供養したことから、以後猫をこの寺に葬るものが多かったことによるという。
法蔵寺 長野県上水内郡小川村……猫檀家の伝承、猫塚あり
法蔵寺の猫
むかし昔、法蔵寺に一ぴきの猫が飼われていた。それは祝安和尚の代とも、崇董和尚の代とも言い伝えられていて異説が多い。とに角、その猫がバケて檀家(だんか)をふやしたという伝説である。
和尚(おしょう)が寝るときにかけておいた法衣(ほうい)が朝みると、何時も落ちていることに気がついた。そして、それが猫の仕業であることがわかったので、和尚はそれとなく猫のようすを注意していると、ある晩猫は和尚の法衣を何時ものように掛けておいて、一足先に天神様へこっそり行き、松の木の上にのぼってみていると、猫だけではない。鳥も兎(うさぎ)も鹿(しか)も色々の動物がぞくぞくと集まってくるではないか。
天神様の庭いっぱい集った動物の前で、猫は和尚の法衣をつけて説教(せっきょう)をはじめた。それは和尚が日頃やっている説教そのものであった。猫のみごとな説教はえんえんとつづき、猫の得意が絶頂に達したところ、東の空が白々と明けはじめて、動物たちは森の中へ帰っていき、猫も知らん顔をして寺に帰った。
翌日、和尚は猫に向かって、「昨夜の説教はだいぶ上出来だったのう」というと、「さては和尚に昨夜のことをしられたか」と知ると、猫はやにわに和尚めがけてとびかかってきた。そこで和尚は「猫よ、お前があれ位の説教をしたとて、私に代って立つのはまだ早い。もし何か名を残したいなら、何か寺のためになる事をして死ね。今、私をかみころして、かわろうとするのは、まだ修業(しゅうぎょう)が足りないぞ。浅知恵じぁ。」というと猫は首をうなだれて、しおしおと寺を出て何所へともなく行ってしまって、その後猫は姿を見せなかった。
それから年月が流れ、ある年のこと、安曇郡(あずみぐん)千見村(せんみむら)の郷土条角平衛の母が年老いて死んだ。下条家は近くの寺に依頼して葬儀を行なうことになった。郷土下条家の葬儀であるから、その地方としては盛大なものであった。
さて某寺の僧が引導をわたすというときになると、一天にわかにかき曇り、死体を入れた棺(ひつぎ)が、黒雲の中からあらわれた鬼に引き上げられてはおろされ、また引き上げられては地上におろされるなど、引導どころのさわぎではない、某寺の僧の法力ではこの奇怪(きかい)の出来事を治める事が出来なかった。
一番困ったのは下条家である。死人を何時までも葬らないで置くわけにもならず、親類一族相談の結果、これは名僧の法力にたよるしかない、ということになった。そこで当時名僧の風聞の高かった法蔵寺へ引導を頼んだ。
法蔵寺の住職の引導をする日になったところ、何の不思議の事も起らず、無事に葬儀一式の行事をすますことができた。
下条家の喜びは尋常(じんじょう)ではない。一族をはじめ千見村の人達は総べて法蔵寺の檀徒(だんと)になることになった。この申し入れをするために人達が法蔵寺へ来た。その時である。千見村の上空から矢のように早く飛んできたものが、寺の本堂に入って、はたと止った。それは、おどろいたことに、以前天神様で説教をしたあの猫の死骸(しがい)であったのである。
猫は、天神様の庭での説教を和尚に見やぶられた事件があってから寺を離れ、千見村下条家の怪事をなし、千見村を法蔵寺の檀徒にして死んだのであろう。このことから「千見の猫檀那」と伝えられ、猫の伝説と共に猫の採ってきた檀徒であると今も信じられている。
それから法蔵寺は猫寺として有名になったのである。今でも境内には猫を葬ったという「猫家」が残されているし、猫が説教したときに着たという法衣も所蔵されている。
猫伝説の由来
当寺は猫寺の通称をもって知られる古刹にして江戸時代初期正保年間に起りし物語りとして伝ふ。当時三代に亘り飼われたる三毛猫が法師に化けて住持の法衣を着し夜毎鎮守堂に参じて同類を集めて勤行し説法などして奇行な振舞いに及びしが事発覚するや三毛猫は寺より姿を晦したといふ。
后年三毛猫は武士に変化して当寺を訪れ過去の非礼を詫び何れの日か多年の恩恵に酬いたきを約して去りたといふ。
当時安曇郡千見の郷に御番所守護職の任にありし下條七兵衛信春氏他界し葬送にあたるや暗雲かき曇り風雨烈しく稀まる荒天に阻まれ数日に亘り難渋を極め居る折旅僧立寄り進言し当山十一代格州良逸和尚を導師として招きたる処荒天たちまち鎮まり晴天白日の下恙なく大葬儀が執り行われたと云ふ。時正保四年〔一六四七〕初秋なり。
是より下條家一門を初めとして千見地区を中心に深く当寺に帰依して檀家となるなり当時の人々は彼の旅僧こそ猫の化身にして三代に亘り飼われたる三毛猫の報恩の所業なりとして猫檀家と呼び今日に伝わる所以なり。
霊験山法蔵寺
長野県上水内郡小川村瀬戸
曹洞宗 建築 1536(天文5年)
お寺には、伝説の猫が着たと言う袈裟、猫の塚が伝わっているという。 
称年寺 京都府京都市上京区
称念寺(猫寺)
1606年(慶長11)獄誉上人が浄土宗(総本山知恩院)に属す松平信吉公の帰依をえて創建。猫をかわいがった第3世還誉上人のころの「猫の報恩」の伝説が猫寺の由来。還誉上人が愛猫をしのんで植えた松は20mも横に伸び、猫が伏したさまに似ている。又、動物専用の観音堂がある。春秋の2回合同供養祭をする。

浄土宗(総本山知恩院)に属し、寺号を本空山無量寿院といい、通称猫寺ともいわれ広く親しまれています。開基嶽誉上人が常陸国土浦城主松平信吉公の帰依をえて慶長11年(1606年)に建立されたものです。嶽誉上人は浄土宗捨世派の祖、称念上人に私淑景仰し、同上人を開山としてその名を冠し寺号を称念寺と定めました。信吉公は元和6年8月1日(1620年)に没し、当寺に葬られています。信吉公の母君は、徳川家康公の御妹で信吉公と家康公は義兄弟に当り、当寺の寺紋は三ッ葵が許されました。三代目住職の猫の恩返しでお寺が栄えたお話しは有名です。
猫の恩返し
称念寺(猫寺)は江戸時代のページを開いた初期 慶長11年(西暦1606)に開基上人が松平信吉公(徳川家康公の義兄弟)土浦城主の帰依を受け建立されました。その当時 300石の寺領を得て寺は栄えておりました。しかし松平信吉公が没すると共に、松平家とだんだん疎遠の仲となり、いつしか300石の寺領も途絶え、称念寺の寺観は急激に色あせてまいりました。
さて、3代目の住職還誉上人の頃のお話になります。
和尚は一匹のかわいい猫を飼っていました。寺禄を失った和尚の日課のほとんどは、その毎日を托鉢による喜捨にたよるしかありませんでした。しかし、猫を愛した和尚は自分の食をけずっても愛猫を手放すことはありませんでした。
そんなある日 名月の夜でした。、和尚は疲れた足をひきずるようにして托鉢を終え寺へ帰ってきて、山門をくぐり本堂に近づいた時、ギョッとしてそこへ棒立ちになりました。 世にも美しい姫御前が優美な衣装を身にまとい月光をあびながら、扇をかざし、いとも優雅に舞っていました。本堂の障子には、月光により姫御前の後姿が愛猫の影としてボウッと映し出されていました。愛猫の化身ときづくと和尚は「自分はこんなに苦労しているのに、踊り浮かれている時ではあるまい」と立腹し心ならずとも愛猫を追い出してしまいました。
姿を消した愛猫は数日後、和尚の夢枕に立ち、「明日、寺を訪れる武士を丁重にもてなせば寺は再び隆盛する」と告げました。翌朝その通りに松平家の武士が訪れ、亡くなった姫がこの寺に葬ってくれるよう遺言したと伝え、以後松平家と復縁した寺は以前にも増して栄えました。
和尚が境内に愛猫を偲んで植えたと伝えられる老松があります。一本の太い枝が地面と平行に20mにも及び、横にのびた姿は猫が伏した姿を表わすといい、猫松とも呼ばれています。その後 称念寺は動物の霊位を手厚く供養しています。
法林寺 京都市左京区川端通…日本最古の招き猫?
壇王法林寺(だんのうほうりんじ)
文永九年(1272年)、浄土宗三祖・然阿記主・良忠上人の高弟、望西楼了恵上人(ぼうせいろうりょうえしょうにん)が、三条の地に浄土宗「朝賜山悟真寺」を開基。約300年後の永禄年間に全山消失。慶弔十六年(1611年)に袋中上人が「法林寺}として復興し、京都の町衆に念仏信仰を広めた。正式寺名を「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ)」と言い、この頃より、『だんのうさん』の通称が始まる。本尊阿弥陀如来は、恵心僧都の作と伝えられる。
主夜神尊
『婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんちしゅやじん)』と言い、お経の「華厳経入法界品(けごんぎょうにゅうほうかいぼん)」に登場し、「春日神」とも伝えられ、闇夜の陸においては火災盗難を消除し、海においては海難者のために船や魚等を司る王や海神に示唆して悪風雨を止め、大波浪を鎮め、また日月及び星や様々な光明を用いて、恐怖の厄を免れさせて安隠を与える等、古くからすべての衆生を救護するという篤い信仰を受けてきた神である。
檀王法林寺史
檀王法林寺の前身悟真寺
檀王法林寺は正式名称を「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ)といい、その歴史は望西楼了恵(ぼうせいろうりょうえ)上人(1243-1322)の悟真寺(ごしんじ)創建にはじまります。了恵上人は浄土宗三条派の派祖となり、亀山天皇の帰依を受けて「朝陽山」の山号を賜り、文永9年(1272)に悟真寺を三条の地に建立しました。この地で宗祖法然上人の浄土の真義を伝えるなど、専修念仏の布教につとめられ、法然上人の教義をまとめた「黒谷上人語灯録」を著しました。上人は元徳2年(1330)88歳で入寂されましたが、このとき後醍醐天皇より「広済和尚」の号を与えられました。その後、悟真寺は応仁の乱をはじめ、度重なる天災人災の被害を受け、永禄年間(1558‐69)に焼失したと伝えられています。
開山袋中良定上人
この悟真寺の縁地に新しく檀王法林寺を築いたのが袋中(たいちゅう)上人です。上人は天文21年(1552)磐城国(現在の福島県いわき市)にお生まれになり、14歳で出家し「袋中良定」と称するようになりました。上人はさまざまな地で修学に励み、若き頃より学僧と知られ浄土宗の教えをことごとく相伝されました。慶長7年(1602)、51歳の時に明(当時の中国)へ渡ろうと決意しましたがかなわず、翌8年から3年間琉球国に留まることになりました。帰国後、慶長16年(1611)京都に入り、了恵上人が開いた念仏道場の縁地(悟真寺)に草庵を建立し、「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」と名づけました。檀王法林寺において上人は、浄土念仏の教化につとめ著述に没頭された一方で、寺域を拡張し寺院の基盤を固められました。そして元和5年(1619)、住持すること9年にして上人は、「法林寺什物帖」を弟子の團王(だんのう)上人に書き残し、寺を譲って東山五条坂に袋中庵を創建し移り住まわれました。
「だんのうさん」の由来
そのあとを継いだ團王上人は寺院興隆に尽力され、恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像を本尊(現在の御本尊)として阿弥陀堂(本堂)を建立し、寺域も現在の広さにまで拡大させていきました。團王上人は人徳も厚く町衆信者との交流を深められましたので、当寺は庶民から「だんのうさん」と親しみを込めて呼ばれるようになったのが、「だんのう」という名称の由来です
檀王法林寺の中興
十二世住職に就いた良妙(りょうみょう)上人は元文3年(1738)の本堂再建に着手されました。この大修理は諸堂全般にわたる大規模なもので、本堂は、屋根を瓦葺き、扉を唐戸にし、内陣には須弥檀を拡張し、来迎柱を建て堂内外に彫刻をほどこすなど、荘厳を極めたもので、現在にその姿を伝えています。この良妙上人の代に、霊元帝の養母であった東福門院の御位牌がまつられるようになり菩提所となりました。この東福門院は徳川二代将軍秀忠の娘(五女和子)であったので、この頃より当山と皇室や徳川家との関係が一層深まり、本堂再建の際には寺内に皇室の菊御紋、徳川家の三葉葵紋の調度が許されるようになったと伝えられています。また、当山にまつられている主夜神尊の信仰は、霊元帝をはじめ皇室による保護をうけて発展してきました。良妙上人が主夜神堂を建立した際には、有栖川職仁親王筆の「婆珊婆演底神最初示現之処」の勅額がかかげられ、また音仁親王は朱塗りの開運門を寄進されました。この朱塗りの開運門は現在の川端門として残されています。この主夜神信仰の人気をうけて、宝暦年間(1750年頃)は江戸時代の最盛を極めたと言われています。
主夜神尊とは
主夜神は、もとの名を婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)といい、華厳経入法界品に、 「恐怖諸難を取り除き、衆生を救護し、光を以って諸法を照らし、悟りの道を開かせる」 と説かれる神様であります。さらに、主夜は守夜と転じて、夜を守る神として崇められ、盗難や火災などを防いでくれる大変なご利益をもつ神様であるとされています。この主夜神を奉る寺社は、日本ではあまり例がみられないという珍しい神様であります。
袋中上人による感得
当山縁起によりますと、慶長8年(1603)3月15日に、袋中(たいちゅう)上人が念仏をしていたところ、朱衣(あかごろも)に青袍(あおきひたたれ)を着た主夜神尊が光明の中に現れ、 「われは華厳経に説き給ひし婆珊婆演底主夜神なり。専修念仏の行者を擁護すべし。」 と袋中上人に告げ、符を授けたことが初見であると伝えております。慶長8年は袋中上人が学問探求のため明に渡ろうとした年であります。上人は国の許可が下りなかったため危険を冒して民間船に乗って航海に出ました。「夜暗く人静まって、鬼神や盗賊が横行する時、深い雲や濃い霧に蔽われて、月日が光を失う時、城や集落 や山間や荒野や大海の中で難に遭う人々のために、あらゆる手段をめぐらしてそれらの人々の恐れを除くでしょう。海にあって難に遭う人のためには、船の形と なり、海神の姿となってその難を救い、平地にあって難に遭う人のためには、月の光や星の光やたいまつの光や稲妻の光となってその難を救うでしょう。」(華厳経入法界品)と説かれる主夜神様は、先行き不安な航海に発たれる上人に大きな勇気を与えてくれたに違いありません。袋中上人は帰国した後も主夜神様への信仰を持ち、自らが建てた檀王法林寺にまつられました。その威徳は当時の帝後水尾天皇のお耳に届き、帝は自ら主夜神尊にお供えをされたことが伝えられています。これによって皇室との関係が築かれ、親密な関係を保ってまいりました。特に、霊元天皇は信仰篤く、寛文4年(1664)には天皇が「主夜神尊の御前に御行幸され、首飾りをお供え給うた」と記録にもあります。それ以後、勅使の関東下向の道中安全祈願が慣習化されるなど、その信仰が急速に大きく広まっていきました。
日本最古の黒招き猫
正確な年代は定かでありませんが、当山では古くから猫は主夜神様の御使いであるとされていたため、江戸の中頃より、主夜神尊の銘を刻んだ招福猫が作られ、民衆に受け入れられていたことが伝わっております。不思議な神通力のあるこの像は、右手を挙げ、黒色をまとった珍しい様相で、この「右手招き猫」は他が模作することを禁じられるほど、固有の信仰をあつめていたとされておりまして、寺社関連の招き猫としては最古のものとする説があります。主夜神様の説かれる経典にも登場しない猫が、なぜ主夜神様の御使いに選ばれたのかはわかりません。しかし猫との関係についてこのようなお話があります。猫は古来より船人たちから、暴風を察知する力があり、龍神に猫を捧げると風が治まるという不思議な力が あると信じられてきました。そのため航海に出る際、船には猫を必ず乗り込ませていたそうです。また猫は他にも、鼠の被害から守ったり、愛玩動物として可愛 がられたりと船の上では大いに役立ったとされています。袋中上人は危険を冒して長い航海の旅にでました。上人が御乗りになりました船にも猫が同船していたことでしょう。その長旅の中、主夜神を唱え海中の安全を祈る袋中上人と猫の間に何か出会いがあったのかもしれません。
転法輪寺 鳥取県東伯郡東伯町別宮…「おふじ猫」の彫刻
転法輪寺は、寺伝によれば承和年間(834〜848)に慈覚大師が開いたと伝えられる天台宗の寺院で、天禄2(971)年に空也上人がこの地に立ち寄り、翌年、この地で亡くなったと伝えられています。時の円融天皇は上人の功徳のために精舎一宇を建立し、空也上人像を祀るお堂でしたが、後に転法輪寺の本堂とし、平成22年国の登録有形文化財として登録されました。空也上人は、醍醐天皇の皇子とされています。転法輪寺の古い山門の欄間には、「化け猫おふじ」と呼ばれる猫の彫刻が飾られています。
化け猫おふじ
むかし、転法輪寺では1匹の飼い猫がいました。猫は「おふじ」と名付けられ和尚さんにとてもかわいがられていました。
ある夜のこと、夜遅くなってお寺に帰ってきた和尚さんが着替えようとしたところ、たたんでおいた着物の裾が少しぬれていました。その数日後もまた同じことがあり和尚が不思議に思っていると、ある夜おふじを呼ぶ声が・・。
和尚さんがその様子をこっそりとのぞいてみると、おふじは別の猫に踊りに誘われ、後日、一向が平に踊りに出かける約束をしているところでした。
約束の日の夜、和尚は法事先から寺へ帰らず、そのまま一向が平に行き何が起こるのか固唾をのんで見守っていました。するとあちこちの谷から、たくさんの猫が出てきて輪になって踊り始めたのです。おふじも和尚の着物を着て踊っています。そう着物は夜露で濡れていたのです。
翌朝、可愛がっていたおふじが化け猫だったことを知った和尚さんは、おふじに餌をやりながら、寺を出て行くよう別れを告げました。
それから10年以上後、遠く県東部八頭郡のお金持ちの家で葬式があり、和尚さんはそこへ呼ばれることに。
あまりに遠くからの迎えだったことに和尚さんが事情をたずねると、「葬式を出そうとしたときに、急に嵐になった。次の日も、その次の日も嵐になって困っていた。そこへ占い師が現れ、伯耆の別宮にある転法輪寺の和尚さんを呼んで、拝んでもらえばよいと教えられた。」と。
気の毒に思った和尚さんは、迎えの籠に乗り駆けつけました。和尚さんが拝み始めると、なんと嵐はたちどころにやんでしまったのです。そうするうちに、猫のおふじが和尚さんだけに見えるよう現れ、昔お世話になったお礼をするために占い師に化けて仕組んだことだと告げました。
そして、お経が終わると空はからりと晴れ上がり、葬式も無事終えることが出来ました。この話が、あちこちで評判になり、転法輪寺は人々に知られて栄えたということです。
見性寺 岡山県阿哲郡哲西町…猫檀家の伝承
徳恩寺 岡山県比婆郡…猫檀家の伝承
円蔵院 岡山県岡山市…猫檀家の伝承
慈泉寺 香川県仲多度郡まんのう町長尾…猫檀家の伝承
真宗興正派 阿弥陀如来
多聞院 香川県仲多度郡多度津町仲ノ町…猫檀家の伝承
真言宗醍醐派 
法然寺 香川県高松市仏生山町…「涅槃群像の猫」
法然寺 1
香川県高松市にある浄土宗の寺院。山号は仏生山。詳しくは、仏生山 来迎院 法然寺と称する。本尊は法然作と伝わる阿弥陀如来立像。法然上人二十五霊場第二番札所、さぬき七福神の大黒天。
御詠歌 / おほつかな たれかいいけん 小松とは 雲をささふる 高松の枝
鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐に配流された浄土宗開祖の法然が立ち寄った那珂郡小松荘(現まんのう町)に生福寺が建立される。 江戸時代前期の寛文8年(1668年)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が、戦乱で荒れ果てていた生福寺を法然寺と改名して、香川郡百相郷(現在地)に3年の歳月を要し移転・建立した。寺院背後の仏生山丘陵上を削平し「般若台」と呼ばれる松平家の墓所を設けて、当寺院を高松松平家の菩提寺とした。 本堂(明治40年(1907年)に再建)・三仏堂(別名:涅槃堂)・二尊堂・来迎堂・十王堂など現在も当時の建物が多く残っていたが、平成26年(2014年)1月13日に二尊堂が全焼で初の火災となった)。
法然寺縁記
法然寺は、建永2年(1207)に、法然上人が御年75歳で四国に流されてお住みになった小松庄生福寺の遺跡です。ここを高松藩祖松平ョ重公が復興して代々の菩提寺としたものです。
徳川家康公の孫であり水戸の徳川光圀公の実兄にあたるョ重公は法然上人を追慕して浄土宗に帰依し、高松入国ののち、寛文8年6月(1668)竹井葵庵を奉行として3年の歳月を費やして三十ニ門、二十余宇の仏閣僧房を建立しました。法然上人自作の阿弥陀仏および上人の真影を本堂に安置し、また上人墓と松平家の墓所を山頂に築いて「般若台」と名づけ、檀下に来迎堂をもうけて弘法大帥自作の阿弥陀如来ならびに二十五菩薩を祀り、不断常念仏会を行わせられました。
これにより法然寺は名実ともに浄土宗四箇本山に準ずる巨刹となり山号を仏生山、院号を来迎院、寺号を法然寺と呼ぶことになったのです。
総門から「二河白道」にみたてられた松並木の参道をゆくと黒門を経て仁王門に至ります。その上の仏生山の頂は、松平家一門の墓所「般若台」となり極楽の世界を形づくっています。この総門から山頂に至るたくみな諸堂の配置は、法然寺の特色です。また、古来より「さぬきの寝釈迦」で著名な涅槃堂の彫像群は、他に類例少なく、さらに来迎堂の二十五菩薩立像群は極めて珍しいものであります。
法然寺 2
高松藩祖松平ョ重は水戸徳川頼房の長子で、二代光圀の兄に当たり、徳川一門が崇敬する浄土宗に帰依、建永の法難で讃岐に流された法然上人が住したという生福寺(まんのう町)を城下約8.5km南の地に復興し、菩提寺とした。寛文8年起工、同10年正月25日に三十三門二十四宇の堂塔が完成、江戸小石川伝通院前住職真誉相閑を中興とし、仏生山来迎院法然寺と号した。須弥山を模した山上に位置する般若台には、法然上人を中心に、ョ重の父頼房をはじめ、ョ重以来の高松松平家一族の墓石202基が存在する。十王堂から参道を経て、黒門から仁王門へ、そして階段を上り、二尊堂、来迎堂へと続く境内諸堂の配置は、地獄から極楽へ到る「二河白道」を見立て、来迎堂内正面の黄金の阿弥陀二十五菩薩立体来迎像は阿弥陀如来のお迎えを表し、極楽浄土の位置には般若台が拝される。
1.此岸から彼岸(西方浄土)へと向かう二河白道図を具現化して配置した壮大な風景。二河とは前池・蓮池(現仏生山小学校)、白道は十王堂前から黒門へと続く参道(150メートル)。参詣順路は見返り地蔵堂・総門・参道・黒門・仁王門・四天王堂唐門(跡地)・二尊堂・文殊楼・来迎堂・般若台(松平家墓所)山頂北面から旧高松市内が一望でき、南面には讃岐山脈
2.本堂(明治40年の再建)には生福寺から移した法然上人御自作という阿弥陀如来立像が本尊として祀られている。上人配流のお姿像(波乗りの法然上人像)を祀る。
3.三仏堂には内陣奥の須弥壇上に、本尊の三仏(香川県指定有形文化財)すなわち、中央に阿弥陀如来座像(現在)・左に釈迦如来座像(過去)・右に弥勒菩薩座像(未来)を安置し、その前に釈迦涅槃の群像が配され、特殊な尊像構成で配置されている。
4.法然寺五重塔 法然上人八百年遠忌記念事業として平成24年1月25日新築
生善院 熊本県球磨郡水上村岩野
生善院(しょうぜんいん)
熊本県球磨郡水上村にある真言宗智山派の寺院である。 寺に残る伝説から、「猫寺」の通称で知られる。山門脇には、狛犬ならぬ「狛猫」が置かれる。 寛永2年(1625年)建立の観音堂は、国の重要文化財に指定されている。観音堂内の須弥壇嵌板にも猫が彫刻されている。
創建は寛永2年(1625年)、相良氏第20代相良長毎(頼房)によるもので、次のような由来をもつ。
かつてこの地にあった普門寺の住持・盛誉法印は、天正10年(1582年)3月16日、相良氏より無実の罪によって殺され、寺にも火をかけられた。息子の死を恨んだ法印の母・玖月善女は、相良氏を呪い、断食して市房神社で37日間(21日間とも)の咀呪をなし、指を噛み切って神像に血を塗り、愛猫の黒猫「玉垂」にも因果を含めて自分の生血をすすらせ復讐を誓い、猫とともに淵に身を投げて死んだ。その後、相良氏が化け猫に悩まされるようになり、盛誉親子らの霊を鎮めるため、普門寺跡に建てられたのが生善院だという。初代住持は願成寺第16代の尭辰。藩では盛誉法印の命日3月16日に藩民に寺への参詣を命じ、藩主自らも参詣したので、祟りは止んだと伝えられる。
猫寺 1
天正10年(1582年)、相良(さがら)藩への謀反を企てているという嘘の訴えにより、湯山(ゆやま)佐渡守宗昌(むねまさ)とその弟で普門寺(ふもんじ)の盛誉法印(せいよほういん)が殺されることになった。その話を聞いた宗昌は日向(ひゅうが)へ逃げたが、寺に残った法印は殺され、寺も焼かれてしまう。無実でありながらわが子を殺された法印の母、玖月善女(くげつぜんにょ)は愛猫玉垂(たまたれ)を連れて市房(いちふさ)神社に参籠(さんろう)し、自分の指を噛み切ってその血を神像に塗りつけ、 玉垂にもなめさせて、末代までも怨霊になって相良藩にたたるように言いふくめ、茂間(もま)が崎(さき)というところに身を投げて死んでしまう。すると、相良藩では、猫の怨霊が美女や夜叉に化けて藩主の枕許に立つなど、奇々怪々なことが次々に起きた。藩では霊をしずめるために普門寺跡に千光山(せんこうざん)生善院と名付けて寺を建立。現在の本堂も観音堂も、その時に建てられたものだ。法印の命日である3月16日に、藩民に市房神社と生善寺に参詣(さんけい)するように命じ、藩主自身もそうしたので、怨霊のたたりはしずまったと伝えられている。
猫寺 2
相良藩化け猫騒動
水上村の生善院(しょうぜんいん)は、普段は「猫寺」と呼ばれ、狛犬ならぬこま猫が山門の両脇に建ち、訪れる人を見守っています。
このお寺は、今から350年以上も前、まだ相良氏が人吉・球磨地方を統治していた頃、その相良藩にかかわる「ある霊」を鎮めるために建てられたといわれています。
それは、天正9年(1581年)のことでした。
当時、相良藩は鹿児島の島津義久(薩摩藩)と戦っておりました。その戦いの中、第18代藩主相良義陽(よしひ)が戦死したため、当時わずか10歳の忠房を第19代藩主とし、次男長毎(ながつね)を島津氏に人質として出し和睦を結びました。
しかし、島津氏は八代も自領であるといって攻略を始めたのです。このような薩摩藩の勢いに「やがてこの球磨、人吉の地にも再び進行してくるのでは」と言う噂が流れ始めたため、人々は安心できませんでした。
同年12月、先代藩主義陽とは仲が悪かった腹違いの弟頼貞(現在の鹿児島県湧水町栗野付近に住んでいたと伝えられている。)が多良木の地を訪れた時、相良藩の出城である湯山城主湯山佐渡守宗昌(ゆやまさどのかみむねまさ)は、その弟普門寺住職盛誉法印(せいよほういん)と一緒に頼貞に会いに行き、戦死した先代義陽の悔やみを申し上げ、世間話程度をして帰りました。
この会談を知った宗昌をよく思わない他の武士達は、先代義陽と頼貞が不仲であったのを利用し、「湯山佐渡守と盛誉法印は、頼貞とともに薩摩藩に協力して人吉球磨に攻め入ってくる。早く征伐しなければ危ない。」と嘘の密告をしたのです。
それを耳にした藩主忠房の姉は、重臣たちと協議して、米良の黒木千衛門を総大将として、米良・須木の武士に天正10年(1582年)3月16日に普門寺に攻め入るよう命じました。
一方、密告した武士達は、自分たちの策略が藩主忠房にばれてしまった場合、早がけの犬童九介(いんどうくすけ)が攻撃中止の使いに出るだろうと予想し、「人吉から馬で来る者は無類の酒(焼酎)好きであるので、水を求められたら酒を出すように。」と行く先々におふれを出しておきました。
普門寺攻略の前日、家老の深水宗方(ふかみむねかた)は、湯山佐渡守は俗人だから何を考えているか分からないが、盛誉法印は仏に仕える身、これを殺してしまっては取り返しがつかないことになると判断し、普門寺攻めは中止と決断、犬童九介を普門寺に走らせました。
ところが、九介が途中免田の築地でのどが渇いたため、水をもらいに茶屋に入ったところ、住人は「この人がふれてあった酒好きの人だろう」と思い、大きな湯飲みで焼酎を何杯も飲ませてしまいました。酔っ払い、ふらふらになった九介は、なんとか多良木までは来たのですが、とうとう馬に乗ることも歩くことも出来なくなり道に寝込んでしまったのです。
宗昌と盛誉法印は、自分たちに反逆のための追い討ちの命令が出たのを知ると、二人とも逃亡すれば本当に反逆したと疑われると思い、宗昌は日向(宮崎県)へ逃げたものの、盛誉法印は普門寺に残りました。
3月16日未明、中止の連絡が届かず何も知らない黒木千衛門は、球磨川を渡り普門寺に攻撃を始めてしまいました。止める弟子たちを切り倒し、千衛門はとうとう勤行中の法印を声もかけず後ろから首を切り落とし寺に火を放ったのです。
ちょうど燃え上がったところへ、やっとの思いでたどり着いた九介でしたが、自分のせいで法印を死なせてしまったと思い込み、ことの次第を藩主へ報告し切腹してしまいました。
無実の罪を着せられて殺された盛誉法印の母玖月善女(くげつぜんにょ)は、その恨みをはらすため、愛猫「玉垂(たまたれ)」を連れて市房山神宮にこもり、自分の指を噛み切って神像に塗りつけ、またその血を玉垂にもなめさせ、自分と一緒に怨霊となって黒木千衛門を始め相良藩にたたるよう言い含め、21日間の断食の後、「茂間が淵(もまがふち)」に猫を抱いて身を投じました。
すると間もなく相良藩では、毎夜、猫の玉垂が忠房を苦しめ、また盛誉法印を討った黒木千衛門は狂い死にし、次々に奇怪なことが起こり始めたのです。
そこで相良藩ではたたりの恐ろしさから逃れるため、盛誉法印とその母玖月善女、愛猫玉垂の霊を鎮めるため、普門寺跡に新しく生善院を建て、寛永2年(1625年)には別に観音堂を建て、法印の影仏として阿弥陀如来を、母の影仏として千手観音像を祀り、藩民には毎年3月16日には、15日の市房山神宮参詣(さんけい)とともに猫寺参詣を行うよう命じ、藩主自らもこれを実行したため、ようやく霊も静まったそうです。
この参詣は昭和30年代頃までは大変にぎやかに行われ、その後市房山神宮は縁結びの神様「おたけさん」として、また、玖月善女が身を投じた茂間が淵の神社は、子どもの護り神「ごしんさん」として今でも厚く信仰されています。
猫薬師

 

猫島「猫薬師」 鳥取県鳥取市湖山池
鳥取県鳥取市湖山池に浮かぶ猫島。猫島は、一枚岩で出来た小さな島。この湖にたたずむ猫島には「猫島異聞」「湖山の猫薬師」と、猫にまつわる2つの伝説が残っています。この島には、弁財天・千手観音が祀られているそうです。上陸は難しいですが、対岸からのお参りはいかがでしょうか。
湖山の猫薬師
昔、湖山長者の栄えていたころ、今の賀露町に長者の建てた薬師如来様をおまつりするお堂があった。ところが、長者がなくなると、お世話をする人もお祈りする人もなく、荒れるにまかせていた。
ある夜、湖山の村人がそら山の頂上光り輝いているのに気がついた。
それが幾晩も続いたので、村の若者がそら山に登ることになった。頂上についてみると、大きな松の下に、仏様が座っておられた。
「仏様が座っておられるとは、これは霊験あらたかな尊い仏様に違いない。お連れしよう」ということになり、若者たちは仏様をふもとまでかつぎおろしてきた。村人たちはてんでに拝んでいたが、誰というとなく、「これは賀露のお薬師さんだ。やっぱり湖山が恋しくなってお帰りになられたのだ」と言い合い、早速小さなお堂を建てておまつりする事にした。そしてお坊さんに「浄西坊」という人を迎えた。
ある日のこと、浄西坊がお勤めをしていると、薬師如来像の下のあたりが光っているのに気がついた。そこで手を触れてみると、赤毛の猫のみいらの目玉が光っているのである。
その夜、眠っていると、夢の中にこの猫が現れた。
「私は、もともと湖山長者の家に飼われていた猫ですが、一夜のうちに田んぼが池になったとき、私は泳げないものですから、池の真ん中に流されてしまい、溺れ死んでしまいました。その死体は干からびて島になり、猫島になりました。私は長者様から日ごろ信心ということを教わりました。そのおかげで、死んでもみいらとなり、この世に現れることができたのです」
浄西坊はそこまで聞いて目が覚めた。そして5,6年ほど前のことであろうか、一匹の赤毛の猫が住みついた事を思い出し、その猫がまるで人間が手を合わせて拝むような格好をしていた事を思い出した。
あれは長者の飼い猫が出てきていたのか。そしてまた、この度はみいらになって現れたのか。
浄西坊はここまで思いをめぐらすと、布団をけって飛び起きた。そして早速猫のみいらを厨子に納めて、御本尊の薬師如来様の右側にまつり、ねんごろにお経をあげて拝んだ。
このとき以来、湖山のお薬師様を「猫薬師」と呼ぶようになったという。そして湖山の猫薬師のお堂には、ねずみが一匹も出ないということだ。
ねずみの暴れる家では猫薬師のお札をもらって帰るとねずみが出なくなるとか、失せ物を探す際にご祈祷をしてもらうと、すぐに在り処がわかるようになるとか言って、今も信仰されているそうだ。
猫島異聞
湖山池に浮かぶ猫島に伝わるお話です。
昔、伏野長者の家に一匹の猫が飼われていましたそうな。女中はその猫をそれはそれはたいそうかわいがって育てていました。しかし、長者の奥様は大の猫嫌い、猫がそばに寄ると蹴飛ばしたりなぐったりの乱暴をふるっておりました。
「なぜお前はあんなに猫をかわいがるのです、早くこの家から追い出しておしまい。」
女中がひどく悲しんでいると、猫は女中の心を知ったようにふっと姿を消したのです。奥様の喜びとは対称に、女中は毎日泣いてばかりいました。そんなある日、訪れた旅のお坊さんに、猫が因幡山に居ることを聞いたので、女中はさっそくひまをもらって、因幡山へと猫を探しに出かけました。しかし、なかなか見つからず、日が暮れてしまいました。
泊まれるところをと探していると、一軒の立派なお屋敷を見つけました。
「私はかわいい猫を探しに来たのですが、泊まるところがありません、今晩一泊させていただけませんか?」
出てきた美しい娘にそう言うと、その娘はニヤリと笑って、「あなたも食い殺されたくてここにきたのですか」女中はその娘の気味の悪さにびっくりして、逃げようとすると、お屋敷の中からおばあさんが出てきて、申し訳ないことをしました、さぞかしお疲れでしょう。どうぞお泊りください。」
その晩、女中がふと目をさますと、隣の部屋からひそひそ話が聞こえてきました。
「あの女はねこをかわいがっていた娘じゃけえ、決してかみついてはいけないよ。」
怖くなった女中が、逃げようとしたそのとき、顔が猫の娘が部屋に入ってきました。それはよく見ると、なんと長者の家でかわいがっていた猫ではありませんか。
「よくたずねてくださいました。しかし私はあの家にはもう戻ることはできないのです。」
女中が何度説得しても猫の心は変わりませんでした。
女中が帰る時、猫は女中が猫屋敷から身を守ることができるようにと、白い紙袋を渡しました。外には何十という猫が集まっていましたが、猫にもらった紙を振ると、猫達は道を開けてくれました。
家に帰り、その白い紙袋を開けてみると、中には犬の絵が書かれており、本物の小判10両をくわえていました。
これを見た奥様は、女中で10両なら私なら100両くれるのではと、因幡山の猫屋敷へと出かけていきました。そしてその夜、明かりがついているしょうじを開けてみると、大きな猫が今にも飛び掛ってきそうなほどジロリとこちらをにらんでいるのです。
奥様は恐ろしさのあまりに腰を抜かしてしまいました。そこへ、以前かっていた猫がやってきて、「よくもいじめてくれましたね」と言い、奥様ののど元向かってかみつき、奥様は血まみれになって死んでしまったそうです。
湖山池 (こやまいけ) 鳥取県鳥取市
湖山池は周囲約18km、「池」と名が付くものの中で日本最大規模を持つ。元々は日本海に面した入り江湾であったが、砂の堆積によって海と分断され湖沼となったものとされる。しかしこの池には“長者伝説”の中でもひときわ有名な湖山長者にまつわる伝承が残る。
湖山長者はこの辺り一帯で一番の大金持ちであり、1000町歩もの田んぼを所有していた。そして毎年のように、近在の者をかき集めて1日で田植えを済ませてしまう習わしであった。ある年のこと。いつものように順調に田植えがおこなわれていたが、子供を逆に背負って歩く猿があぜ道を行き来するのに大勢の者が見とれてしまい、かなり遅れを取ってしまった。もう日没になろうとしているのに、まだ田植えだけは終わらない。この様子を見ていた長者はお気に入りの金の扇を持ち出すと、太陽を招き戻したのであった。これによって無事に田植えを日没までに完了させることが出来たのである。
そして翌日、長者が田んぼへ行ってみると、田んぼは消えてなくなって、代わりに大きな池が出来ていた。人々は、長者が太陽を呼び戻した罰として池になってしまったのだと言い合った。その池が湖山池なのである。
湖山池には大小いくつかの島がある。その中に猫島と呼ばれる小島があり、そこには猫薬師というお堂がある。この猫薬師も湖山長者にまつわる伝説である。
かつて湖山長者が祈願していた薬師如来があったが、近在の者が堂を建てて浄西坊という者がお勤めをしていた。ある時、仏様の下の方に光るものがあったので調べてみると、赤毛の猫のミイラが出てきた。その猫の目が光っていたのである。さらにその夜、浄西坊は猫の夢を見る。
夢に出てきた猫は、自分が湖山長者の飼い猫であったこと、そして長者の田んぼが一夜にして池にかわった時に溺れ死んでしまったこと、さらにはその死骸が小島に打ち上げられて干涸らびてミイラになり、そのためにその小島が猫島と呼ばれるようになったことを告げた。猫は長者から信心することを教わったことで、動物の身でありながら仏になることを許されたので、この薬師如来にお仕えして人々に利益を授けたいとも言ったのである。
浄西坊はここで夢から覚めると、以前に堂に住みついた赤毛の猫のことを思い出した。その猫は人間のように薬師如来に手を合わせていたが、それが湖山長者の愛猫の霊であり、今度はミイラとなって現れたのだと悟ったのである。そこでミイラを丁重に厨子に収めて、薬師如来と共に祀ったのである。
これ以降、この薬師如来は“湖山の猫薬師”と呼ばれるようになった。このお堂の護符は鼠封じに効くとされ、また失せ物がある時は祈祷してもらうと良いとされている。

長者伝説 / 貧しい者が仏の加護などで富裕となる話。また逆に富裕の者がふとしたことから没落していく話の総称。湖山長者の伝説は、長者の驕りによって没落する話の典型例である。長者が太陽を呼び戻すというパターンは、音戸ノ瀬戸での開削工事での平清盛の伝説にも見られる。  
瑠璃寺 長野県下伊那郡高森町大島山
日本で唯一の薬師猫神様がいる寺。1112年創建と古く、最近開基900年を迎えたようです。国の重要文化財の薬師瑠璃光如来三尊佛を始め、他にも聖観世音菩薩立像がある。他に源頼朝より寄進された桜もあります。
薬師猫神様と日光・月光と干支の十二神将(全て猫)が祀られています。
元々、養蚕が盛んだったこの地区で蚕の敵のネズミを退治する猫は大切にされていた。
薬師猫神様
かつて養蚕が盛んであったこの地方では、お蚕様をねずみから守ってくれる猫を「猫神様」として、大切にしていました。
伊勢のおかげ横丁「招き猫まつり」で初代猫神様に出会ってから12年。もりわじん氏との不思議な縁により、瑠璃寺ご本尊の薬師如来の化身として、お参り施設「瑠璃の里会館」にお迎えすることができました。そのお姿は千変万化。光の当たり方、見る角度によって、まったく違った表情で我々に語りかけてきます。 
参拝に来られる方はどうぞ心してください。我々凡夫により近い存在の神として、悩みを聞き、叱り励ましてくれます。その瞳は、あなたの心を映します。はたして、厳しさに打たれるか、優しさに包まれるか・・・。ご対面をどうぞお楽しみに!
東蓮寺 新潟県糸魚川市
猫薬師 群馬県利根郡川場村萩室
群馬県の北部にある川場村に「猫薬師」というのがあり、碑文に次のとおり書かれています。「飼い猫がいなくなったときにお願いすると猫が必ず帰ってくるという、不思議な霊験をもつ薬師様です」 田んぼ脇に、ぽつんとあるかわいい薬師堂です。
薬師様のカラ猫 東京都三宅島三宅村
子供が泣いて困る時、薬師様のカラ猫だぞ、と言っておどかす。
猫薬師さま 鳥取県倉吉市
江戸の昔から、地域の皆さんに信仰されて来た。  
猫神社

 

猫神様 宮城県石巻市田代島
猫神様
田代島では昔、マユの生産が行われていて、ネズミからマユを守るために、ネコが飼われ大事にされていました。
また、田代島では昔から大網(大謀網)が盛んで、最盛期には7ヶ統もの大謀網があり、そのために総元締めが存在しました。
大網に従事する漁師は気仙沼方面からと島の人たちであり、番屋という小屋を島の場所場所に構え寝起きしていました。番屋付近には食料となるものも豊富で食べ残しなども多く、自然に猫が集まってきたそうです。
漁師たちは、猫の動作などにより、天候や漁模様などを予測していたようです。網の設置には錨の代わりに現在は袋に砂や小石を詰め込んだ土俵を使用していますが、昔は岩を崩してその岩を結んで使っていました。
人が移動するところには、猫たちもウロウロと移動してきていたため、ある日岩を崩していたら、その1つが猫に当たり死んでしまったそうです。
総元締めは、常に大事にしている猫だから可愛そうなことをしたと心を痛め、その死んだ猫をねんごろに葬ったとそうです。それが現在の猫神様ということです。

旧北上川河口から東南約17Kmに位置する田代島は、コバルトブルーの海に囲まれ、風光明媚な自然を満喫できる島です。マンガを活用した島おこしとして、キャンプなどが楽しめる「マンガアイランド」が整備されています。また、島では大漁の守り神として猫をとても大切にしており、猫を祀った「猫神様(猫神社)」が島の中央にあります。
田代島 1
宮城県石巻市に属す島。「たっしょ」とも呼ばれる。三陸海岸南端を構成する牡鹿半島の先端近くの仙台湾(石巻湾)内にある。島内の農業は衰退したが、現在は漁業や釣り客・観光客を相手とする観光業が主な産業となっている。近年は「ネコの島」やマンガの島として知られる。
石巻港から約15km南東に位置し、島の北東部に大泊港(第1種漁港)を擁する大泊、南東部に仁斗田港(第2種漁港)を擁する仁斗田の2つの港および集落があり、両者は島内の道なりに2kmほど離れている。
島のほぼ中央に猫神社があり、島の漁師にとって大漁の守護神である「猫神様(美與利大明神)」が祀られている。そのため、猫がとても大事にされ、島内で自然繁殖しており、既に島民よりも個体数が上回っている。他方、島内では犬は猫の天敵とみなされており、犬を島内に持ち込むことは原則禁止されている(身体障害者補助犬あるいは警察犬や災害救助犬の持ち込みについての言及はない)。
猫の島
2004年9月、釣りが趣味の東京都出身と岩手県出身の夫婦が、脱サラして仙台市から島に移住し、民宿を始めた。2006年2月14日にはブログを開始。当初は島の暮らしや釣りおよび民宿の情報を載せていたが、同年5月20日にテレビ朝日系列「人生の楽園」でネコが多い島としても紹介され、同年7月22日にフジテレビ系列『めざましどようび』の番組DVD『にゃんこ THE MOVIE』が発売されると、同DVDに収録された田代島の「たれ耳ジャック」という名のネコのエピソードが影響して愛猫家のアクセスが増加し、田代島を「ネコの島」として発信するブログへと次第になっていった。『にゃんこ THE MOVIE』はシリーズ化し、毎回「たれ耳ジャック」のその後のエピソードが収録された。他のマスメディアでも同島は「ネコの島」「猫の楽園」などと紹介され、猫を目当てとした観光客が多数訪れるようになった。
猫神社
主祭神/美與利大明神 創建/江戸時代後期頃  別名/猫神様
田代島ではかつて養蚕が行われていたため、カイコの天敵であるネズミを駆除してくれるネコが飼われており、島民から大事にされていた。
江戸時代後期に定置網漁の一種である大謀網(だいぼうあみ)が三陸海岸中部(盛岡藩・船越村)で興ると、それが隣接する仙台藩気仙郡(気仙沼)を経由して田代島にも伝わり、改良されて田代型マグロ大網となった。この経緯から、田代島沿岸での大謀網は気仙沼周辺から来る漁師と島民によって営まれ、島内にいくつもの番屋(作業小屋兼簡易宿泊所)が設置された。すると、番屋に寝泊りする気仙沼漁師らの食べ残しを求めてネコが集まるようになり、漁師とネコとの関係が密になって、ネコの動作などから天候や漁模様などを予測する風習が生まれた。ある日、大謀網を設置するための重しの岩を漁師が採取していたところ、崩れた岩がネコに当たり死んでしまった。これに心を痛めた網元がその死んだ猫を葬ったところ、大漁が続き、海難事故もなくなったという。そのため、葬られた猫は猫神様となり、島内で猫が大切にされるようになったという。
宮城県内には猫神社が10ヵ所ある。また、猫の石碑が他の都道府県と比べて特に多く、51基存在している。猫の石碑は特に県南部(仙南圏)に集中しており、江戸時代に養蚕が盛んだった地域と重なることから養蚕との直接的な関連が指摘されている。田代島の猫神は、養蚕との関連が間接的なものに留まっているようである。
田代島 2
ネコ、ネコ、ネコ−−。至る所にモフモフの冬毛に覆われたネコの姿が見える。宮城県石巻市の田代島。周囲11キロほどの小さな島は「猫島」とも呼ばれ、現在も約200匹のネコが島民と共に暮らす。「ネコたちに会いたい」。12月中旬のある日、大のネコ好き記者は島を訪ねた。
石巻港からフェリーに揺られること約40分。島の玄関口、仁斗田港に到着した。下船後に住宅街に入り、持参したキャットフードの袋をかばんから出そうとした瞬間、5、6匹のネコが近づいてきた。初対面であるはずの記者への警戒心はほとんどない。中には、抱いても嫌がらないネコもいる。
地元住民によると、島のネコは白黒柄と黒柄の個体が多いという。過去に島外から持ち込まれたチンチラの系統で毛の長い「長毛種」も目立つ。ネコたちは港や住宅地など島内の各スポットにグループを形成。港を活動拠点にするグループは野性的な性格、住宅地にいるグループは友好的な性格のネコが多いという。かつては、気が小さくて愛嬌(あいきょう)のある「たれ耳ジャック」など全国的に有名な「スターネコ」も出た。
たくましくも愛らしいネコたち。2011年の東日本大震災の時も、高台に逃げて多くの個体が生き残ったという。そんなネコたちの世話係がこの島にはいる。地元のカキ養殖業者らでつくる社団法人「にゃんこ共和国」だ。11年に任意団体として発足し、スタッフ7人がキャットフードなどの餌を与える活動に取り組んでいる。民宿「海浜館」を経営する尾形あやめさん(85)は「日本には他にも『猫島』と呼ばれる離島はあるけど、田代島のネコが一番ふっくらしてて可愛いね」と太鼓判を押す。
同法人は16年9月、田代島小中学校の跡地に交流スペース「島のえき」を整備。この施設では、オリジナルのネコグッズを販売しているほか、軽食も楽しめる。同法人の濱温副理事は「島内の会合などで意見が割れても、ネコのためとなれば誰も文句は言わない。それほど昔から大事にされてきた存在」と話す。
「猫神」をまつる神社もある田代島。ネコと過ごした2日間が忘れられず、帰りのフェリーに乗り込む際は後ろ髪を引かれる思いだった。
今年は戌(いぬ)年。だがあえて、お気に入りのネコを探しに田代島を訪れてみるのもいいかも?
猫又権現 新潟県栃尾市森上 (南部神社)
南部神社 百八灯
南部神社 森上にある南部神社は別名猫又権現と言います。猫又とは年老いた猫が化けて妖怪になったものです。猫又権現は蚕(カイコ)をかじるネズミ除けの神様として祀られ、境内には狛犬ならぬも狛猫で有名です。
栃尾は周囲を山に囲まれ、風が弱く湿度があり養蚕に適した土地が多く、古くは栃尾紬などの絹織物、高度成長期には織物の産地として発展してきました。百八灯(南部神社)養蚕が盛んな地ならではの、生活に根差した信仰と言えます。
毎年5月8日に万灯供養が行われる「百八灯」は、参拝者がそれぞれロウソクを奉納し、真っ暗な中数千本のロウソクの灯りがまさに幽玄の世界にいざないます。
南部神社の成り立ちは古く、源平合戦で活躍した熊野水軍の統領田辺湛増が熊野の神領争いに敗れ、一時ここに逃れたという伝承や、ここの修験が新田義貞の挙兵を越後新田党に一日一夜で告げたという「新田触れ」の伝承が伝わっています。
南部神社
南部神社は、旧栃尾市の森上地区に鎮座する。「神社明細帳」(明治十六年)に「越後國古志郡森上村字笈返リ 無格社・南部神社」とある。祭神は軻遇突智命である。由緒についてはさまざまな伝承があり、錯綜している。
羽州森岡(盛岡)に鎮座した南部権現を勧請したという。(「南部神社」といえば岩手県遠野市東舘町の南部神社が名高いが、遠野市の南部神社は南部藩の祖霊を祭る神社であり、当社とは関連がないようである。)またいう。後醍醐天皇の時、鎌倉幕府追討のため出兵したが、南部権現が一昼夜でそれを越後国中に触れ回って追討軍の援軍を募った。さらにいう。後奈良天皇の時、権現が僧に姿を変えて北国巡行し、天文十二年(1543)この地に至り、大鍋ケ嶽に登り、笈を下ろしてにわかに姿を消した。昭和三年(1928)に現在地(字西中)に移転した。
当社は「猫又権現」とも呼ばれ、猫の石像があることで知られている。猫の像は、石段を登り詰めた所に座っている。社殿に祀られている本尊は猫の使いだとされている。猫が信仰されている理由は不明だが、養蚕が盛んだったころに蚕を食べる鼠を駆除する猫を尊重したことに由来するという解釈もある。  
養蚕神社 群馬県吾妻郡長野原町
養蚕信仰 1
かつての養蚕は、蚕を「オカイコサマ」と呼んで大切にし、労力を惜しみなく投入しました。
しかし、どんなに大切に飼育しても、病気によって作柄が悪かったり、せっかく掃き立てても、桑が霜でやられて、蚕を捨てなければならなかったり、決して安定した繭の収量が期待できたわけではありませんでした。それゆえ、人々は、ことあるごとに神に祈らずにはいられませんでした。「オカイコは身上(しんしょう)がけ」である以上、その願いもまた、切ならざるを得なかったのです。
蚕室や神棚に貼られた、数多くの養蚕守護の御札が、その願いを象徴しています。
かつて、元日には初絵売りが縁起の良い絵柄を売りに来ました。その中に必ずあった「絹笠明神初絵」は、これを買って神棚の下などに貼り付けておくと、蚕が当たると言われていました。
また、正月15日を中心とする小正月に飾られる「マユ玉飾り」も、その名称から明らかなように、カイコのマユを模したもので、豊蚕を願う行事と言われています。
その他、2月の初午(うま)を、蚕神であるオシラサマの祭日として、前の晩にオシラマチを行う例も、県内各地に見られました。蚕と馬は、深い関係があります。蚕の背の模様は、馬の蹄の跡。東北地方で、オシラサマの起源として語られている「馬娘婚姻たん」も、馬と人間の娘の話です。馬のわらじを神社から借りてきて、翌年倍にして返したりもしました。同じ倍返しとしては、沼田の迦葉山弥勒寺(かしょうざんみろくじ)の天狗の面も有名です。
また、ねずみは、上蔟直前の蚕を食い荒らし、マユになるとその中の蛹を食べに出没したため、ねずみ除けの信仰も広くあり、蛇や猫が守り神となりました。
県内のあちこちの寺社の縁日に境内では蚕具市が開かれ、そこで買った道具を使うとカイコが当たると言われていたり、春蚕の掃き立て前には、こうした神社などから、養蚕守護の御札が発行され、受けた御札は神棚や蚕室に貼っておきました。 
養蚕信仰 2
富岡製糸場と絹産業遺産群がユネスコの世界文化遺産に登録されたことで、にわかに群馬県の養蚕・製糸・絹織物が注目を集めている。群馬県の富岡に官営製糸場が造られた理由の一つに、養蚕が盛んな土地で原料の繭の調達が容易なことがあったようだ。
群馬県は『上毛かるた』に「繭と生糸は日本一」とあるように、古くから養蚕と製糸業の盛んな土地であったが、いつの間にか桑畑を見かけなくなった。若い人たちの中には養蚕って何のことと思う人も多いのではないだろうか。前橋市のばら園の片隅に前橋市養蚕記念館があり、養蚕のことを知ることができる。
蚕を育てて繭をとる養蚕は常に二重の脅威に晒されている。一つは蚕に対するもので、蚕は温度と湿度の影響を受けやすく、さまざまな病気が発生する。また、鼠の害も大きかった。もう一つは蚕の唯一の餌である桑(現在は人工飼料がある)に対するもので、桑は霜害、風害、雹害など天候の影響をもろに受ける。霜害によって桑の葉が全滅すれば、人工飼料のなかった時代、蚕を生きたまま捨てざるを得なかった。
養蚕農家にとって、蚕が不作か豊作かは死活問題であるが、養蚕は天候をはじめとして人事の及ばないこと多く、いきおい神仏頼みとなる。養蚕にはさまざまな俗信や民間信仰が見られた。
前橋辺りでは蚕神のことを主にオシラ様と呼んでいるが、オシラ様は蚕影様であったり、絹笠(衣笠)様であったりする。古くから養蚕の盛んな群馬県だが、どういうわけか蚕神を祀る大社はない。代わりに稲荷神社や諏訪神社、雷電神社などが蚕神として信仰されていた。蚕影様や絹笠様の小祠や石碑が各地の神社の境内などに見られる。前橋市とその周辺からいくつ拾って見た。
石関町の絹笠神社
前橋市東片貝町の群馬運輸支局の北側の道を東に向かい、桃ノ木川に架かる石関橋を渡って少し先から左に入ったところ、前橋市石関町に絹笠神社という小さな神社がある。小さいながら社殿があり、鳥居がある独立した蚕神を祀る神社は県内では珍しい。境内に「絹笠大神」の石碑がある。
絹笠様は滋賀県安土町の天台宗繖山(きぬがささん)桑実寺が本元である。
市杵嶋神社の蚕神搭
前橋市川原町に市杵嶋(いちきしま)神社という神社がある。祭神は宗像三女神の一人市杵嶋姫命である。川原は古くは川原島新田といい、利根川の中州に成立した村らしい。村を洪水から護るために水の神である市杵嶋姫命を祀ったのではないだろうか。神仏習合時代には、市杵嶋姫命は弁財天と併せられていた神で、~社近くに弁天前の地名もあった。
川原はかつて養蚕の盛んなところであり、村の鎮守市杵嶋神社に豊蚕を願ったと思う。市杵嶋姫命の本地弁財天は蛇として顕れる。養蚕の大敵は蚕や繭を食い荒らす鼠であり、蛇としての弁財天は養蚕の鼠除けとして信仰されたのではないだろうか。
境内に桑の枝を持ち馬にまたがった女神を浮き彫りにした珍しい蚕神搭(絹笠様)がある。台座の部分に「女人講」と刻まれていることから、女性による蚕神講があったようだ。養蚕の担い手は主に女性であった。その隣に自然石に「衣笠大神」と刻まれた石碑が建っている。
総社神社の蠶(蚕)影大神と猫の作り物
前橋市総社町の総社神社の本殿裏に「蠶影大神」と刻まれた大きな蚕神搭がある。蚕影様の石碑は県内に広く見られるが、蚕影神社の社名をもつ神社は県内にあるのだろうか。上州の蚕影信仰の元は茨城県つくば市の蚕影神社(蚕影山)であり、代参や養蚕講を記念して石碑が建てられたのではないかと思う。
蚕神搭の隣に石祠があり、石祠の前に小さな猫と思われる作り物がたくさん奉納されている。猫は蛇と同様に鼠除けとして養蚕信仰の対象になり得る。石祠前から猫の作り物を借りて来て、鼠除けとし、翌年倍にして返すという習俗があったのではないかと思うが、確かにことはわからない。石祠に「天満宮」とあるから蚕神というわけではないようだ。
猫については、江戸時代、新田岩松氏の殿様は「猫絵の殿様」として知られ、殿様の描いた猫絵は養蚕の鼠除けの効果があったという(落合延孝著「猫絵の殿様 領主のフォークロア」)。
猫についてもう一つ、『勢多郡誌』に荒砥村飯土井の猫山は昔は猫観音といって、蚕や繭を食う鼠の害を防ぐためにお祭りをしたとある。
熊谷稲荷神社の絹笠大神
前橋市総社町は江戸時代、佐渡奉行街道の宿場であったが、宿通りの中程から東に入った所に熊谷稲荷神社という神社がある。社殿は桃山時代の様式をもつ近世初期の建造物である。
祭神は宇迦之御魂神で農業神であるが、豊蚕祈願に参詣する人たちもあったようだ。境内に「絹笠大神」と刻まれた蚕神搭がある。稲荷に豊蚕祈願をする信仰は各地の稲荷神社で見られる。
稲荷と養蚕信仰の結び付きは稲荷の祭日である初午にあるようだ。初午は二月初の午の日で、初稲荷といって稲荷神社の祭日である。この日、繭形の団子を作って蚕神を祭る習俗も見られる。午は馬であり、蚕には馬に関わる伝承や習俗がまつわりついている。
猿田彦神社の絹笠様
渋川市石原の県道高崎渋川線の東側に猿田彦神社という神社がある。祭神は猿田彦命で、石原の庚申様として広く知られている。豊蚕の神様といわれ、渋川市内はもとより近郷からも参詣者を集めていた。
祭日は庚申の日であるが、大祭は立春の後の庚申の日で、ザル市が開かれ蚕具を買うと蚕が当たるという。猿の縫いぐるみ(おけらいさん)を借りて神棚に供え、五穀豊穣と豊蚕を祈願し、翌年倍にして返す。
境内に桑の枝を持ち馬に乗った女神の姿を刻んだ石碑がある。絹笠様と思う。その隣に「雷電神」と刻まれた石搭ある。この雷電神も養蚕信仰と関係があるかも知れない。雹除けの信仰があったのではないだろうか。雹は蚕の餌である桑の葉に害をなす。
神宮寺の石造笠搭婆
渋川市有馬の神宮寺の門前に変わった石造笠搭婆がある。四段の台座に乗ったりっぱな笠搭婆で、四角の搭身の東面に「衣笠大明神」、南面に赤子を抱いた女神像、西面に「淡嶋大明神」、北面に「文久二年」の銘がある。文久二年は西暦1862年で江戸時代末の建立になる。南面の台座に「女人講」と刻まれている。
衣笠大明神はまぎれもなく蚕神であるが、同じ石塔に「淡嶋大明神」とあるのはどういうわけだろう。淡嶋様は女神で婦人の下の病に霊験があるといわれている。また安産の神として信仰された。搭身南面の赤子抱いた女神像は淡嶋様で、安産の神であることを表したものと思われる。
台座に「女人講」とあるとことから、女子による淡島講があったようだ。一方、養蚕の担い手が主に女性であることから、養蚕信仰の一つに女子による蚕神講があった。一つの笠搭婆に二つの神名を刻んだ理由は同じメンバーによる二つの講があったためだろう。供養搭としてか、あるいは講の結縁の証として建立されたものと思う。
橋林寺の蠶霊供養塔
前橋市住吉町の橋林寺の境内に「蠶霊供養塔」と刻まれた大きな石碑がある。どういう経緯で建てられたのだろうか。
茨城県の蚕影神社や蚕霊神社などの蚕神の大社には関東各地の養蚕農家の代参者による参詣が多かった。代参の折りに供養に建てた供養塔や蚕神塔が各所に見られるが、橋林寺のものは、霜や雹によって桑が被害を受けたために、蚕を捨てざるを得なかった人たちによって建てられた供養塔ではないかと思う。
小出神社の「稚産霊神の石碑」
『毎日新聞』の群馬版(平成26年11月15日付)の「ぐんま歴史探報」に小出神社の「稚産霊神」の石碑が取り上げられている。養蚕信仰に関わるようなので、さっそく行ってみた。
小出神社は北群馬郡吉岡町陣馬の県道高崎渋川線から少し東に入ったところにある。この神社、伝承によると、桓武天皇の皇子葛原親王が東征の折り、ここに陣所を置き、武運長久祈願のために勧請したという。史実とは思えないが、相当に古いことは察せられる。
境内、社殿の右後ろに群馬絹遺産に登録された「稚産霊神」と刻まれた大きな石碑がある。『毎日新聞』の記事によると、一帯は1887(明治20)年5月23日、激しい雷雨とひょうに見舞われ、桑畑が大被害を受けた。蚕に与える桑の葉が壊滅したため、養蚕農家は苦渋の思いで地中に蚕を埋めた。それからおよそ1年後、供養のために「稚産霊神」の石碑を建てたという。
まだ人工飼料のなかった時代、蚕の唯一のえさであった桑の葉が霜害や雹害で全滅すれば、蚕の飼育を続けることはできない。養蚕農家の人たちは、生きている蚕を穴に埋めたり、川に流すなどして処分せざるを得なかった。その際に蚕影様などの蚕神搭や供養塔を建てている。
「稚産霊神」の石碑の後ろに「雷神宮」の石碑がある。渋川市行幸田の猿田彦神社の境内にも絹笠様の石碑の脇に「雷電神」の石碑があった。桑畑を雹害から守るための雷除け、雹除けの信仰があったのではないだろうか。
池端町神明宮の衣笠大神
吉岡町陣馬の小出~社に行った帰りに前橋市池端町の神明宮に寄った。小出神社から東南へ700メートルほど行ったところで、ここに「衣笠大神」の石碑がある。
神明宮という神社は群馬県内に多く見られる。一般的には伊勢神宮を勧請したもので、親しみを込めていえばお伊勢様である。ここの神明宮は『上野国神名帳』記載の従五位池岸明神を当てる説もあるようだ。
神明宮の社殿は二段に積まれた石垣の上にあり、石碑は一段目の石垣の左側上にある。高さ1メートル60センチほどの自然石の表面に「衣笠大神」と刻まれた蚕神搭で、裏面に「明治三十一季五月」の銘がある。「季」は年の意味で、石造物では「年」の代わりに「季」「天」「歳」「稔」「大才」「暦」「星」などを用いることがあるようだ。
この石碑について、神明宮の鳥居の脇の説明板に境内末社として、次のような記述がある。
「衣笠大神 (勧請年)明治三十一年 (祭神)宇迦御魂命」
宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)は穀物の神であり、稲荷神社の祭神とされる場合が多い。稲荷神社に豊蚕祈願をすることはあるが、「衣笠大神」と神名を刻まれた石碑に別の祭神を当てる理由がわからない。
日枝神社の絹笠大明神
総社町の日枝神社に山王廃寺の遺物を見に行った折り、社殿の東に大きな石造笠搭婆が目に止まった。お目当ての物ではないので、何とはなしに見たのだが、笠石の下の四角の搭身の西面に、右手に木の枝、左手に紙のような物を持った女神像が彫られている。木の枝は桑の枝と思う。紙のような物は種紙であろう。だとすると、女神像は蚕神である絹笠様ではないか。よく見ると蓮台の下に「絹笠大明神」と刻まれている。           
このあたりは古くから養蚕の盛んなところであった。日枝神社の周辺にかつて養蚕を営んでいたと思われる屋根の棟の上に高楼がある大きな家が多く見られる。この石造笠搭婆が元々日枝神社の境内にあったものなのかはわからないが、この地域に養蚕信仰があったことは間違いないだろう。
絹笠様の本元は、滋賀県近江八幡市安土町の天台宗繖山(きぬがささん)桑実寺である。寺伝によれば、開山の定恵が唐から桑の実を持ち帰って養蚕を始めたという。寺は繖山(観音寺山)の中腹にあり、この山の名が山号になった。「絹笠」の名はここからでている。
石塔を一回りしてみると、南面に「秋葉大権現」、東面に「馬頭尊」、北面に「北辰霊符尊」と刻まれている。四面それぞれにまったく異なる神仏を祀るという何とも欲張った石塔である。
四面の神仏にはそれぞれ固有の信仰がある。しかし、まったく無関係なのだろうか。四面の中で西面のみに神像が彫られおり、他は神名が刻まれていることから、中心は西面の絹笠様はではないだろうか。絹笠様は蚕神であり、石塔建立の背景に養蚕信仰があるような気がする。
もう一度、各面を眺めて見る。南面の秋葉大権現は火伏せの神であるが、藤岡市東平井の秋葉神社(諏訪神社に合併)は昔から蚕神として知られていた。
東面の馬頭尊は馬頭観音のことで、一般には馬の無病息災を祈る馬の守護神であるが、蚕は馬とかかわりが深い。馬頭観音は養蚕信仰の対象に成り得る。
北面の北辰霊符尊は北辰すなわち北斗七星に対する信仰である。本元は高崎市鼻高町の少林山達磨寺で、達磨寺は豊蚕祈願の寺としても知られる。一月六日のだるま市でだるまを買い、蚕があたるれば、だるまに目を入れた。
いずれも養蚕信仰と多少の関わりがあるように見えるが、秋葉大権現は養蚕信仰と結び付けるのは無理かも知れない。
蚕霊神社 茨城県神栖町日川
千葉県小見川町から小見川大橋で利根川を渡り、息栖大橋で常陸利根川を渡って茨城県神栖町に入るとすぐに、県道260号線に向かって右折します。県道260号線をしばらく走り、バス停「萩原公民館」を過ぎると左手奥の方に、こんもりとした森がみえます。それが、蚕霊神社です。
鳥居の下にある「蚕霊神社由来」によると、“孝霊天皇の5年(紀元前286)の春3月。豊浦浜(日川)の漁夫権太夫は、沖に漂う丸木舟を引き上げてみると、世にも稀な美少女が倒れていた。少女は天竺(インド)霖夷国霖光の一女金色姫。……”とその由来が書かれています。神栖町歴史民俗資料館の資料によると、“神栖町の日川(にっかわ)地区は、欽明天皇の時代(6世紀中頃)に金色姫がインドより養蚕を伝えた養蚕発祥の地と言い伝えられています。この地区にある蚕霊山千手院星福寺と蚕霊神社はもともとは一体のもので、養蚕の神として人々の信仰をあつめていました。『南総里見八犬伝』などで有名な滝沢馬琴も星福寺発行のお札を見て、衣襲明神(きぬがさみょうじん)の錦絵の文章を書いています”とあります。
この資料はさらに、神栖の養蚕について、“町域では、農家の副業として明治中頃より養蚕が急速に広まり、明治時代末には繭の生産額が水産物を追い越すほどになりました。また、この鹿南地方は気候が温暖なため、蚕の卵を取る蚕種製造に適していたようで、昭和初期には4軒の蚕種製造業者の名前が見られます。その後、群馬県の蚕種製造業者が木崎地区に出張所を置き、また居切地区には鹿島蚕種共同施設組合の蚕種製造所ができました。これは県内でも一、二を争う大規模なもので、170軒もの農家に卵を取るための蚕の生産を委託していました。太平洋戦争が始まると食糧増産のため、桑園は芋畑に代わり、戦後も澱粉製造のためのさつま芋の生産が盛んとなり、養蚕業は衰退していきました。昭和30年代後半には、澱粉製造も下火になっていく中、再び養蚕が見直され、大野原地区や平泉地区では桑園を造成し、大野原養蚕組合も結成されました。組合は千葉県我孫子市の製糸工場と契約し、年6回の繭の出荷を行っていました。しかし、鹿島開発による住宅の密集化や繭の価格の下落などの理由から養蚕を続けていくことが困難となり、昭和58年をもって養蚕の永い歴史の幕を閉じたのです”と記されています(神栖町歴史民俗資料館第19回企画展「蚕物語−天の虫・糸の虫−」より)

神栖町の蚕霊神社、つくば市の蚕影神社、日立市の蚕養神社の3つは、あわせて「常陸国の三蚕神社」と呼ばれています  
大日神社 埼玉県秩父郡皆野町下田町…御神体は「猫石」
今戸神社 東京都台東区今戸…縁結びの招き猫
    今戸神社招き猫 
琴平神社 東京都八王子市川町
祭神 大物主命
旧格式 村社
川村の鎮守。明治時代に四国金毘羅宮のご分霊を遷したという。西側に「おしゃもじさま」といわれる小祠がある。下の病気や咽喉の病治癒に霊験があり、杓子を一本持ち帰り、病気が治ると2本奉納する習慣がある。  
住吉神社琴平神社合社 (宮尾神社) 東京都八王子市上恩方町
元暦年間(1184〜1185年)創建と伝えられる。明暦年中に再興し、弘化年中に修復、明治初年に琴平神社を合祀した。童謡「夕焼け小焼け」の作詞者・中村雨紅(高井宮吉)は宮司の三男で、境内の生家跡に歌碑が建てられている。
大原神社 京都府京都市天田郡三輪町字大原…「猫」と呼ぶ玉石信仰
大原神社 1 京都府福知山市三和町大原
創建と縁起
大原神社は安産の神として広く信仰を集めています。創建は『丹波誌』によると仁寿二年(852年)3月23日、桑田郡野々村(現南丹市美山町字樫原)に鎮座、 弘安2年(1279年)9月28日に大原へ遷座、応永4年(1379年)10月13日に社殿が整ったとされています。しかし社伝によると創建は仁寿二年と伝えられ、元宮の大原神社(美山町鎮座)は大化元年(645年)の創建と言い伝えられています。大原神社には『大原神社本紀』という大原神社の縁起を書き綴ったものが5点残されており、大原神社が安産の神として信仰を集める所以として、 「邪那岐と伊邪那美の神は天下万民を生み出した父母であるのだから、天下太平・国土安隠・宝祚長久・五穀能成・万民豊饒を守護すること、 他所の神社に勝り、天下万民を生み出した神なので、ことに婦人の安産を守る神なのである」と記されています。
遷座については、天児屋根命が宮地を求めてここ大原山麓の水門の瀬に来られたときに、水底から金色の蛙が現れ、 『私はこの水底に住んで長くこの山を守っており、嶺には白幣・青弊があり、いつも光を放っており、まさに神が鎮座されるべき霊地であります』と頼んだと記されています。また、遷座のときの様子について、神が黄色い牛に乗って遷られ、それ故、「お釜さん」の平らな石の上には今でも牛の蹄の跡があると記されています。大原神社は「天一位」という社号をもち、江戸時代には札にも刷り込まれていた。本紀によると、「一乾天の方位に御鎮座成ましまし、此謂を以て其位を尊て天一位大原大明神と社号を崇奉るものなり」 とある。乾の方位とは陰陽五行の方位で北西の方角にあたり、平安京から北西の方角をさす。
九鬼氏の信仰
綾部に九鬼氏が所領を拝領するのは寛永10年(1633年)ですが、寛文11年(1671年)に藩主隆季から黒印地として高三石の社領が保障されました。 社伝によると、大原神社の社殿や古記録は明智光秀が福知山に拠ったころに兵火に罹り消失したと伝えられ、 寛政8年(1796年)の社殿の再建までの間に九鬼氏により社域が整備されました。歴代藩主の参詣も頻繁で、江戸への参勤の中途は通行路でもあるため必ずお参りし、旅の安全祈願が行われました。明和4年(1767年)の九鬼隆貞の参勤にあたっては、 2月6日の四ツ時(午前9時半)ごろに大原村へ入られ、まず茶屋で上下100人が弁当をとられました。殿様のお迎えとして大原村庄屋が、 塩ケ崎(大原と台頭の境付近、現大原御供田付近)まで出向き、社参終了後、下向の節も同所までお見送りをし、川合組大庄屋は大原蔵の下(お旅杉の下辺り)まで見送り、 神主の和泉と日の社祢宜六太夫は宮坂口で出迎えて、町はずれの御蔵の下まで見送りました。綾部藩では、干ばつや飢餓、藩主や側室の病床のさいはかならずといってもよいほど代参を送り祈祷の執行を命じており、 天保10年(1839年)3月には江戸藩邸に大原神社が勧請されています。九鬼氏の縁故によると思われる諸大名や公家の代参も宝暦年間 (1751年〜64年)ごろから社務記録には記載されはじめ、多数の代参・寄進があったことがわかります。 代参の理由のわかるものはすべて安産祈願の代参で、宇和島藩伊達氏の奥方の安産折祷のための代参が送られた記録もあります。 さらに、宇和烏藩の家臣横山勝左衛門からは、5月20日付で無事安産の報告の書状も届いており、安産祈願の参詣者には「守砂」がわたされ、 出産後には返納されています。 .
本殿建立
現在の大原神社の本殿は、寛政8年(1796年)に再建されたものです。「大原神社社務記録」には再建にいたる動きが記録されています。天明4年(1784年)に相談の上、本殿建立の願書を差し出したところ、天明5年(1785年)2月に再建の許可があり、 氏子中へ再建許可の披露がなされ、同年3月の晦日には末社の大川社の上屋の棟上げが、若狭の大工2人によりおこなわれました。 4月にはいると1日に大原村の再建の奉賀がよせられ、6月には神主の兵庫と大原村の友八両人が、下川合村をはじめ郷中の村々へ奉賀初めに廻っています。寛政4年(1792年10月6日には「地築」初めがおこなわれました。地築は、地固め・上地の造成工事をさします。 「地築」の初日には「祢込」とあります。この「祢込」については、大原村のぼり・屋台、木挽より作り物、台頭より作り物、 上川合より引き山、岼村より引き山、大身・加用・猪鼻からも引き出、下川合よりは「祢り物無之」、竹田三ヵ月村からは「祢り込歌ふき」、 さらに綾部から200人ばかり「祢込小供かふき」、他にも黒井や水呑、近江からものぼりや「祢り込」があったとされています。 これらは、今日にまで伝わっている「練込み」のルーツにあたるものではないかと思われます。 本殿の再建にあたっては大原村のみでなく、広く各地から引き山や幟、屋台が集まって、盛大に「祢り込」や歌舞伎がおこなわれた様子がうかがえます。
祭礼
大原神社に参詣することは「大原志(オバラザシ)」と呼ばれ、現在でも俳句の春の季語として使われており、 「をしなべて人の心や大原志」-未得-(『日本大歳時記』)などとも詠まれています。特に祭礼の当日などには参詣者も多かったようで、 参詣者の増加にともない、道中に悪さをする者があらわれたために、綾部藩ではお達しをだし、取り締まりにあたったようです。安政2年(1855年)3月10日から14日までの5日間、大原神社一千年祭が執行された。一千年祭にあたっては、木版刷りで「一千年御鎮祭御寄進帳」が作られ、 広く寄進を呼びかけました。一千年祭の執行にあたっては、京の吉田神社から神官が招かれましたが、 その対応はじつに丁重で、代表が京へ出発し、菓子料として2朱と1分が献上されました。神官の他に侍7名、下部が4人で出京し、園部で一泊しました。 大原村からは年寄と和泉守が桧山のとうふ屋まで出迎え、戸津川峠や大原中津戸口でもそれぞれ出迎えました。 .
綾小路大原神社との関係
大原神社にある江戸時代の奉納絵馬や石造品には宇治や伏見などの寄進者が多いことが目につき、広域的に信仰があったことがうかがわれます。 その信仰の社勢を延ばすための手段として、午王札の配布があり、配布地域を檀那場と呼び、各地におかれた神子(巫女)がその任にあたりました。
山城地域の配札場の拠点は京綾小路にあり、大原神社と称し、神子の森氏が代々神職をつとめました。それぞれの配札場からは、春と秋の2回、米9石ほどの 初穂運上米が納められましたが、大原和泉守から土佐守への代わりのときに、京綾小路からの運上米が停止するという事態となりました。 大原神社文書によると、元禄年中までは上納されていましたが、祖父の大原和泉守が死してのち、しばらく名跡がないうちに運上米を納めないようになり、 享保4年(1719年)に養子である大原土佐守が家督を継いだのち、京綾小路へ催促をしたが、一向にとりあってもらえませんでした。そこで、吉田神社へ訴えたところ、 かっては初穂米を差し出していたが、その件についてはすでに了解したことである、とした上で、綾小路の札を配っているのだから上納はする必要はないとして、 吉田神社のあつかいにより、土佐は午王に「大原神社」と札に「天一位大原大明神」と書きつけること、 京綾小路は午王に「大原神社」と札に「大原大明神」と書き記し区別し、山城国では相対で配布することとなりました。
この時から、ここ大原神社と綾小路大原神社とは疎遠になってしましましたが、2001年(平成13年)に多数の関係者により両社の交流が再開し、 2002年(平成14年)の大原神社鎮座1150年祭には、祇園祭中に綾小路大原神社を会所とする綾傘鉾保存会による巡行も行われました。
大原神社 2
大原神社は、京都府福知山市三和町大原にある神社。参拝すれば、「天一位」とある御朱印を頂ける。
平安時代前期の仁寿2年(852年)に創建されたという。御祭神は、伊邪那美命・天照大日霎命・月読命。南丹市美山町樫原大原谷の当社と同名の神社では、当社は樫原大原谷を分祀したものという由緒を伝える。当社御朱印あるいは扁額にある「天一位」は自称だというが、やはり樫原大原谷の発祥だという。また、東京都中央区日本橋兜町の大原稲荷神社も「天一位」を称する。ともかく、創立以降、累代藩主の庇護を受け、公卿諸侯の尊崇を仰ぎ、とりわけ綾部藩主九鬼侯の崇敬が篤かったという。
現在の広壮な社殿は、江戸時代後期の寛政8年(1796年)に再建されたもの。拝殿の唐破風の「龍の丸堀り」などの彫刻が見もの。古くから「大原志(おおばらざし)」と俳句の季語にも詠まれた当社は、この地方の安産信仰をつかさどる神社として、多くの参詣者があった。例祭は5月3日で、春季例大祭。宵宮が前日の2日にあり、神興渡御がある。
境内の、神前の清流近くに産屋(うぶや)が建つ。大正年間(1912年-1926年)の初期まで、産婦が臨月を迎えると、ここに七日七夜篭り、出産に臨んだという。また、昭和23年(1948年)ごろまで、出産後の体を休める場所としても使われていたという。入口に魔除けの古鎌が掛けられ、みな平産(安産)だったと寛文年間(1661年-1673年)の当社記録にある。また、産屋の入口は当社本殿に向けられており、産土神の加護のもと新しい命を授かる場だったと考えられている。土間の砂は「子安砂(こやすのすな)」と呼ばれ、当社の安産の神符として授けられ、寛政12年(1800年)には愛媛宇和島藩伊達家の代参が送られた記録が残っている。
この神符のご利益が効果絶大として、江戸時代には現在の京都市内にも出張所が設けられ、祈願者に授与された。あまりの人気ぶりからか、当社とその出張所の間で金銭に関わるトラブルが発生し、両者の関係が悪化、交流は断絶したという。現在、京都市下京区の善長寺町にも同名の神社があるが、それが当社の出張所だったところ。平成13年(2001年)、江戸時代以来続いていた関係悪化が解消し、両者間の交流が再開されたという。
当社では、現在も安産祈願が盛んで、実際に妊婦が祈願したところ、悪阻(つわり)が楽になったなどの報告が多々寄せられている。何かと不安が多い妊婦に対して、「うぶや」効果もあり、神々がお腹の子を守護してくれる感覚に包まれ、精神安定にもつながっているようだ。当社を中心にうぶやの里・大原として、四季折々の様々な風景が見所になっており、「大原八景」が選定されている。
当社の絵馬群は、丹波地方一の質、量を誇るとされ、府下で5位の古さとなる慶長4年(1599年)奉納「神馬図」や、元禄4年(1691年)「平等院(宇治橋)図」などが現存する。幕末の丹波地方の農耕の1年の様子を描いた「四季耕作図」は、当時の農業の有様を物語る貴重な資料の一つになっている。また、伝説が記された巻物とともに残されている「蛇のひげ」と呼ばれるものが残されている。その昔、現在の蛇ケ谷の地域を荒らしていた化け物を、石粉主利助という者が退治した時、姿を現し逃げ出した竜が落としたものだという。
大原神社 3
大原神社案内看板 祭神伊邪那岐命・天照大日・命・月読命。天一てんいち社とも称す。旧府社。
社伝によると、仁寿二年852桑田郡樫原かしわら村(現北桑田郡美山町)に鎮座したのを初めとする。現在も同地に同名の神社があり、大原ではこの社を元社もとやしろといい、安永1772〜81頃には神主が祭礼に参加したと伝える。また鎌倉時代に領主大原氏がこの社を信仰し、弘安二年1279にこの地に移し祀った。その後応永四年1397に大原神楽頭が本殿・拝殿・舞楽殿などを造立、また近隣の村々の産土大神とするよう命じたという。近世には綾部藩主九鬼氏の崇敬厚く、社記には寛永十一年1634社領三石を寄進したのをはじめ、当社で百穀豊穣祈願・祈雨などを行ったこと、明暦三年1657九鬼隆季による修造、天保十一年1840神林に続く山林の寄進などを記す。社前を流れる川合川南岸に古くから産小屋うぶやがあり、現在は当社がその中の産砂を管理する。水門神社(大原神社末社)「丹波志」は祭神伊奘册尊、祭礼は正月二八日で「朝戸開ノ神事」と記し、そのほか三月二三日の御遷宮神事、六月一〇日の初夏神事、九月二八日の御殿造立の月日神事には神輿が出、馬二疋で流鏑馬が催されたとする。近年は五月三日に大祭を行う。大原神社は安産・五穀豊穣の神として近隣に広く知られ、社記によると寛政三年1791二月二八日に、公家北大路弾正少弼の代参で「安産御守砂拝借」とあるのをはじめ、丹波国峰山藩主京極家・日野大納言・伊予国宇和島藩主夫人などの同様の砂の拝借があり、丹後国宮津藩主本庄侯夫人は奉賽として御供田四畝六歩を寄進した。また「丹波志」によると大原神社が遷座する時、天児屋根命が宮地を尋ねてこの地の「水門の瀬」に来たところ、「水底ヨリ金色ノ鮭魚浮出テ申テ曰、非水底住、此山ヲ守ルコト数千年也、嶺ニ白和弊青和弊アリテ、毎年光ヲ放ツ、実ニ大神ノ鎮リ玉フヘキ霊地ナラン」と告げた。鮭は飛竜峰明神と号して末社天王社に祀っている。オカマサン現在もこの淵を「オカマサン」と呼び同書によると、「悪事アラントテハ此淵魚点シ、又不浄ノコト有ニハ鮭ノ魚浮出ル事有(中略)今ニ至ルまで鮭鱒ヲ食セス」などとの伝承が残る。鱒と鮭を食べないとお産に不調法しないともいい、妊娠は大正の末年頃までこの禁忌を守った。山手にある末社水門みなと大明神に関して同書に「俗ニ大原神社ニ詣スルヲ大原詣と云習セリ、水門社ヘ先ニ祭リ実ヲ清メ本社ニ向エハ、掌ニ指コトク願成就スト」とある。水門大明神はその名のとおり「水門の瀬」とよばれたオカマサンの淵に現れた神の意味で、オカマサンの淵の岩には、明神が赤牛に乗って示現した時の牛の足跡というくぼみがある。本社参詣の前に、明神影向の聖地を拝するのが古い作法であったらしい。また、この記述から大原神社へ詣ることを大原指オバラザシといったことが知れる。同書によると小野東風筆と伝える「天一位大原大明神」の扁額があったが、現存の額には「大原大明神」のみが記されている。また神社境内の絵馬堂は舞台になっていて、昔はここで村歌舞伎をした。
季語・大原志(おばらざし)
福知山市三和町の大原神社にちなんだ古い季語「大原志」をよみがえらせようと、地元の俳句愛好家が句を募集し始めて五年目を迎えた。これまで集まった俳句は計一千句を超える。句は、神社絵馬殿の掲示板に飾り、参拝者に紹介している。今年も神社の祭礼がある五月三日に投句箱を設けて、句を募集する。
かつて安産守護、養蚕の神として知られた大原神社への参詣者は多く、都から高貫な女御が牛車で訪れるほど高名だった。「大原志」は、そのにぎわうさまを表す夏の季語として江戸期の俳書「毛吹草」にも記された。神社絵馬殿には俳諧を楽しむ三十六歌仙の絵額や江戸の著名な狂歌師の狂歌額が残り、地方の文化拠点だったが、近年参拝者が減り、養蚕も廃れるなか、大原志も歳時記から消えつつあった。
俳句を愛好する地元の書家山内利男さん(六八)は大原志を知り、言葉が持つ豊かな世界を失ってはならないと、地元句会を中心に「よみがえれ『大原志』俳句募集実行委」を結成。二〇〇二年、神社鎮座千百五十年祭に合わせて句を募ると、全国から百四十句集まった。地域の大工や製材所が協力して句額を作成。山内さんが百四十句を揮毫(きごう)し、古い句額の隣に加えた。
毎年集めた句は、山内さんが短冊に書き、二カ月に三十点ずつ境内に飾る。特選の二句は献吟する。同神社の林秀俊宮司は「埋もれていた季語が復活してきた。絵馬殿を平成の句額でいつぱいにしたい」と喜ぶ。山内さんは「大原志を使った優れた例句がなかったのも、廃れた一因。いい句が集まっているので、いつか本にして残したい」と話す。俳句は郵送も可で、大原志の季語のない句も歓迎。…  
木島神社 京都府中郡峰山町字泉…狛猫
金刀比羅神社の境内社(末社)である。
1811年 峯山七代藩主京極高備の命によって金刀比羅神社創建される
1830年 木島神社が木嶋坐天照御魂神社の養蚕神社より分霊される
1832年 木島神社に狛猫が献納される
木島神社 1
蚕をネズミが食べるので、蚕の守護として猫が大事にされた。カイコもネズミもいなくなってドデっとして「ネコまっしぐら」などを食べているようだが、ネコちゃんも昔はよい仕事をしたのであった、ネコちゃんいなくばこんにちの日本経済はなかったかも…。そのニャンコの狛犬(狛猫)のいる神社である。こうした狛猫は全国的にもここだけとか… 社務所のあたりもコマネコだらけ…。
当社の「狛猫」は全国的に有名であるが、峰山だけにとどまらず、広く丹後繁栄の守護神のようなものか。近頃は「ねこ祭」が行われる。世界的にはベルギーのフランドル地方、イーペルの毛織物をかじるネズミを退治した「ねこ祭」が知られる。当地よりはずっとずっと暗い長い過去があり、第一次大戦で破壊し尽くされた町である。
『峰山郷土志』 木島神社(祭神 保食命)
木島神社は、養蚕の神で、ちりめん織りの業者が、藩の許可を得て、文政十三年(一八三〇)二月二十九日、山城国葛野郡木島養蚕神社からお迎えしたもので、遷座棟札に明記されていると『府・神社明細帳』(明治十七年)に記してあるが、その棟札は現存していないようである。文政十三年というと、菅峠で金毘羅宮の鐘を鋳た年であり、二層塔の鐘楼が建ったのもこの年であろう。『丹哥府志』にいう蚕の神はこれで、天保十二年頃は、町口の大鳥居の北側に、祇園、稲荷と並んでまつられていたことがわかる。明治六年の『郷社御記録』や『杉谷区所蔵文書』等によると、当社は文政年間、神職、榊出雲の時に勧請され、石の大鳥居の北側の横水道から東にあって、南北幅三間、東西奥行八間ばかりであったが、杉谷村に支払う年貢に困って、榊金丸(明治二年)の代に、溜池の下り水筋を区切って、石鳥居の北側にくっつけた。奥行はやはり八間もあった。その後、明治六年になって、社を籠堂に移した。ところが、御一新によって、鐘は宇川の久僧村隣海寺(または房蔵寺)に売り渡し、鐘楼は廃止されたので、その建物へ蚕の神をうつし、籠堂は改造して社務所に使用したもので、杉谷村に毎年納める年貢が、三斗五升助かったということである。この蚕の神をまつった鐘楼は「木島霊異殿」と改称された。山城の木島養蚕神社の伝記にならったものである。木島神社の震災前の建物は、二間三尺四面で、遊仙窟をしのばせる不思議なものであったろう。
『丹哥府志』 金毘羅(白銀町の南東側にあり、祭三、六、十月十日)
本社前に金燈籠一封、石燈籠二封、駒犬一封、本杜の左に絵馬堂一宇、絵馬堂の南に樟の化石高サ三尺周り八、九尺。石階幾段を下りて石燈籠三封、鳥井一基、道の右に堂一宇、籠堂の前に鐘楼並愛染明王の堂あり。又石階幾段を下りて厩あり是處に岐路あり、右の方へ下りて惣門あり、惣門の前左の方へ上りて粟島大明神の社あり、社の前に駒犬一対、石燈籠一対、社の後より上りて厩の前に至る、 於是本道と合す。惣門の前に鳥井一基、石燈籠一封、右の方に手洗鉢あり、道を狭みて石の玉垣左右に廻りて町の口に至る。町の口に鳥井一基、鳥井の左に祇園の社及小社二座、一は稲荷大明神なり、一は蚕の神なり、蚕の神の前に駒犬の如く石の猫あり。

としている。今とはだいぶ境内の様子が異なるようだが、石の猫はいたよう…。当社に限らず昭和2年の丹後大震災で峰山の市街地はほぼ100%が倒壊し尽くし崩れ尽くし焼き尽くした、それ以前の木造のものは残っていない。燃えない物だけがなんとか残っているだけである。
木嶋坐天照御魂神社は、「このしまにますあまてるみむすびのかみのやしろ」と呼ぶが、山城国葛野郡の名神大社。京福電鉄の太奏の「蚕の社」駅、近くのバス停も「蚕の社」となっている。本殿の右側に養蚕(こかい)神社がある。太秦は養蚕・機織・染色の技術で繁栄した秦氏の拠点地で、これにちなんで祀られた神社とされ、一般には蚕の社とよばれる。木島神社はこの社を勧請したものである。
秦氏は新羅系渡来人の雄で、養蚕や絹織物も渡来の技術であった。目のかたきのように、あるいは差別したり、あるいは加害者であったことを忘れ何か第三者かのように「基本的には、どこでもあることです…」などと自分の立場も都合悪ければすっかり忘れているようだが、中国や朝鮮なくば日本の「世界一の高度な技術」もなかった、こんにちの日本なるものはなかったのである。あたかも自力だけで「世界一」になったように思い込み発言しているのを聞けば、政治屋などとはええオッサンやオバハンが要するに幼児以下のアタマしかないクダラヌモノだということで、はたで聞いていても恥ずかしい。
木島神社 2
祭神:保食命
木島神社は養蚕の神。養蚕・ちりめん生産の盛んなこの地の業者が峯山藩の許可を得て文政13年(1830年)に木嶋坐天照御魂神社の境内社、養蚕神社よりお迎えする。木島神社の震災前の建物は二間三尺四面の遊仙窟をしのばせる不思議なものであったという。全国的に珍しい「狛猫」があり、猫は蚕をネズミから守る猫を大切にされ天保3年(1832年)東近江発祥の豪商、現在も京都室町で繊維商社を構える外村家一族、岩滝のちりめん問屋、山家屋の小室利七らによって献納された。
金刀比羅神社 京都府京丹後市峰山町泉
金刀比羅神社 1
文化8年(1811)藩主・京極高備創立の旧府社。最近勧請二百年を迎えている。祭神は大物主命。峯山藩主6代京極高久は多度津(香川県仲多度郡多度津町)の京極家の二男であったが峯山京極家に養子入りした人で、その縁で郷里の金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)を勧請しようとしたが果せなかった。文化八年、子の7代高備の時に実現した。勧請には増長院の尊光が当たった。讃岐の金毘羅権現は、日本一社の掟で、分宮を行なった先例はなかったが、こうした事情をたどってのことなので、このたびに限り、特別にお山の掟を破って、分宮を認めるというものであった。藩主が勧請したこともあって、江戸時代には特別の保護を受けて発展したが、明治に入って神仏分離し、一時琴平神社、その後現社号に改めた。明治6年(1873)赤坂の篠著明神(咋岡神社)や安の稲代吉原神社の氏子600余戸を自社の氏子として郷社に昇格、その後府社となったという。

峰山の町の中央部で北部は峰山町市街地に続き、南部は愛宕山丘陵にかかる。南北に走る旧国道312号線沿いの金刀比羅神社のある一帯。泉町は、江戸期〜明治22年の町名。江戸期は城下町峰山町の1町。文化4年に峰山藩主京極高久が当時の城下町の南方、小西川南側の杉谷村の田地宇塚(うづか)を城下町に組み入れて新町をつくり、その南半を泉町としたという。明治17年からは峰山15か町の1町となった。同22年峰山町の大字となる。泉は、明治22年〜現在の峰山町の大字名。平成16年から京丹後市の大字。
金刀比羅神社 2
京都府京丹後市峰山町にある神社である。文化8年(1811年)に7代目峯山藩主である京極高備の命により創建された。歴史は古くはないが丹後の中心的神社であり壮麗な境内である。町内だけではなく丹後一円から信仰を集め、漁業従事者の信仰も厚い。
祭神 大物主神(おおものぬしのかみ)
京丹後市峰山町の金刀比羅神社は、文化8年(1811年)峯山七代藩主京極高備の命によって創建された。京極高備は、讃岐の金毘羅権現の霊威感応が迅速で、たびたび効験を深く感じたことにより、分霊を峯山に勧請することを望み、文化7年(1810年)3月、増長院尊光に相談した。金毘羅権現は日本一社として、分宮をしない掟があったが、当時の金毘羅権現別当であった金光院が共に高野山で学んだ尊光の旧知の仲であったことや、高備の同族である多度津藩の京極家の縁もあり特別に分宮が認められた。そして翌文化8年(1811年)2月19日に金毘羅宮の棟上式が行われ、四国へ代参していた峯山藩番頭渡辺但見俊猛の手によって2月23日御神体がお山に遷宮された。 昭和2年(1927年)3月7日、丹後半島を襲った丹後大震災により、当時の社殿は全壊し失われている。現在の社殿は昭和8年に再建築されたものである。 
住吉大社 大阪府住吉区…商売繁盛の初辰猫
住吉大社 1
 ■祭神の神徳
祓の神
住吉大神は伊邪那岐命の禊祓 (みそぎはらえ) の際に海中より出現されたので、神道でもっとも大事な「祓(はらえ)」を司る神です。 住吉大社の夏祭り「住吉祭」が単に「おはらい」と呼ばれ、大阪はもとより摂津国・河内国・和泉国ひいては日本中をお祓いする意義があるほど、古くより「祓の神」として篤い崇敬を受けてきました。
航海安全の神
住吉大神は海中より出現されたため、海の神としての信仰があり、古くから航海関係者や漁民の間で、霊験あらたかな神として崇敬されてきました。 奈良時代、遣唐使の派遣の際には、必ず海上の無事を祈りました。 「住吉に斎く祝(はふり)が神言と行くとも来とも船は早けん」(万葉集)と詠まれるこの歌は、住吉大神の言葉として、遣唐使に対し無事の帰還を約束した神のお告げを伝えたものです。このような海上安全の守護としての信仰は、江戸時代、海上輸送が盛んになるとともに、運送船業の関係者の間にも広がり、現在境内にある約600基の石燈籠の多くは、運送船業の関係者から奉納されたものです。
和歌の神
古来より住吉大社は白砂青松の風光明媚なところから、万葉集や古今和歌集などの歌集に数多く歌が詠まれております。特に平安時代からは、歌道を志して参拝する人々も少なからず、献詠もまた数知れぬという有様でした。境内にはたくさんの歌碑・句碑が奉納されています。有名な和歌としては、「我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いく代へぬらむ」(古今和歌集)があります。この歌は、神楽の曲として、今日でも歌われています。
農耕・産業の神
住吉大神が草を敷かずに苗代をつくる方法を教えたという伝説により、古くから「農耕の神」として篤い崇敬を受けてきました。 古い時代の農耕は当時の産業を代表するものでしたから、住吉大神は「産業の神」とも崇敬され、現在は農業関係者のみならず、商業・工業関係者からも深く信仰されております。境内には約二反の御田があり、毎年6月14日には「御田植神事」が盛大に行われております。第四本宮祭神、神功皇后が長門国(現在の山口県)から植女 (うえめ) を呼び、御田を作り五穀豊穣を祈られたことが始まりといわれています。
弓の神
神功皇后の新羅遠征(三韓遠征)神話に由来します。神功皇后は住吉大神のお力をいただき、御自らも弓鉾をとり、大いに国威を発揚せられたとあります。また、神功皇后は住吉大神の鎮斎に際し、その警護のために土師弓部(はじのゆみべ)十六人を当社におかれたといいます。その故事にちなんで、邪気退散・天下泰平を祈願し、御結鎮神事(お弓始め)が新春に行われます。
相撲の神
「住吉松葉大記」によれば、往古の住吉大社年中行事のうち、相撲会(すもうえ)の神事が最も壮麗で盛大なものであったといいます。現在も「宝之市神事(10月17日)」の近くの日曜日には、近畿高等学校相撲大会 並 大阪府中学生招待相撲大会が行われ、熱戦が繰り広げられます
 ■住吉大社の由緒
摂津国一之宮 住吉神社の総本社
古くは摂津国 (せっつのくに=大阪府北西部と兵庫県南東部を占める旧国名) の中でも、由緒が深く、信仰が篤い神社として、「一之宮」という社格がつけられ、人々に親しまれてきました。昭和21年までは官幣大社であり、全国約2300社余の住吉神社の総本社でもあります。
鎮座 神功皇后摂政11年(西暦211年)
社格 延喜式名神大社 / 神階正一位 / 二十二社 / 摂津国一之宮 / 旧官幣大社
祭神 第一本宮 / 底筒男命
   第二本宮 / 中筒男命
   第三本宮 / 表筒男命
   第四本宮 / 息長足姫命(神功皇后)
祭神の由緒
住吉大社の祭神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、そして当社鎮斎の神功皇后を祭神とします。仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。
「日本書紀」や「古事記」の神代の巻での言い伝え
伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまいます。そのケガレを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が生まれました。
鎮座の由緒
住吉大社は、第十四代仲哀天皇の后である神功皇后 (じんぐうこうごう) の新羅遠征(三韓遠征)と深い関わりがあります。神功皇后は、住吉大神の加護を得て強大な新羅を平定せられ無事帰還を果たされます。この凱旋の途中、住吉大神の神託によって現在の住吉の地に鎮斎されました。のちに、神功皇后も併せ祀られ、住吉四社大明神として称えられ、延喜の制では名神大社、二十二社の一社、摂津国一之宮、官幣大社に列せられています。
住吉大社 2
大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。
大阪市南部、上町台地基部西端において大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。古代には遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国の一宮として大阪で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の1つである。
社殿は、本殿4棟が「住吉造」と称される古代日本の建築様式で国宝に指定されているほか、幣殿・石舞台・高蔵など多くの建物が国の重要文化財に指定されている。神宝としては、数少ない古代文書の1つである『住吉大社神代記』は国の重要文化財に指定され、木造舞楽面など多数が重要文化財・大阪府指定文化財に指定されている。また伝統的な神事を多く残すことでも知られ、特に御田植神事は全国でも代表的なものとして国の重要無形民俗文化財に指定、夏越大祓神事は大阪府選択無形民俗文化財に選択されている。
社名
社名は、『延喜式』神名帳には「住吉坐神社」と見えるほか、古代の史料上には「住吉神社」「住吉社」などと見える。また『住吉大社神代記』には「住吉大社」「住吉大明神大社」などとも記されている。中世には主に「住吉大神宮」と見える。明治維新後には社号を「住吉神社」と定めていたが、戦後の昭和21年(1946年)に『住吉大社神代記』の記述にならって社号を「住吉大社」に改め現在に至っている。
「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった。例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている。本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている(類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>)。ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある。
元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文では、現出した住吉大神がこの地を「真住吉住吉国(真住み吉き住み吉き国)」と讃称したことを由来とする地名起源説話を載せている。一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている。実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったとみられ、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている。
祭神
現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る。
第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) - 名は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」。第14代仲哀天皇皇后。
特に底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され、「住江大神(すみのえのおおかみ)」・「墨江三前の大神(すみのえのみまえのおおかみ)」とも別称される。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳での祭神の記載は4座。『住吉大社神代記』(平安時代前期頃か)でも祭神を4座とするが、第一宮を表筒男、第二宮を中筒男、第三宮を底筒男、第四宮を姫神宮(気息帯長足姫皇后宮)としており現在とは順序が異同する。
祭神について
主祭神の住吉三神(筒男三神/筒之男三神)は、『古事記』・『日本書紀』において2つの場面で登場する神々である。1つは生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が穢れ祓いのため禊をすると、綿津見三神(海三神)と筒男三神が誕生したとし、その筒男三神について『日本書紀』では「是即ち住吉大神なり」、『古事記』では「墨江の三前の大神なり」とする。次いで登場するのは神功皇后の朝鮮出兵の場面で、住吉神の神託もあって皇后の新羅征討が成功したとする。特に『日本書紀』では、住吉神は皇后の朝鮮からの帰還に際しても神託したとし、それにより住吉神の荒魂を祀る祠が穴門山田邑に、和魂を祀る祠が大津渟中倉之長峡に設けられたとする。通説では、穴門山田邑の祠(荒魂)が下関の住吉神社(山口県下関市)、大津渟中倉之長峡の祠(和魂)が住吉大社に比定される。
このように住吉三神は記紀編纂時の7-8世紀には神代巻に登場する天神(あまつかみ)のランクに位置づけられており、『令義解』・『令集解』でも伊勢神・山城鴨神・出雲国造斎神と並んで住吉神が天神である旨が記される。三神の「ツツノヲ」の字義については詳らかでなく、これまでに「津の男(津ツ男)」とする説のほか、「ツツ」を星の意とする説、船霊を納めた筒の由来とする説、対馬の豆酘(つつ)から「豆酘の男」とする説などが挙げられる。そのうち「津の男」すなわち港津の神とする説では、元々は住吉大社南側の住吉津の地主神・守護神であったとし、難波の発展に伴って難波津も含むヤマト王権の外港の守護神に位置づけられ、神功皇后紀のような外交・外征の神に発展したと推測される。また星の意とする説のうちでは、オリオン座中央の三つ星のカラスキ星(唐鋤星、参宿)と関連づける説などがある。
祭神数は『延喜式』・『住吉大社神代記』から現在まで4座とされ、他の式内社の住吉神社(3座または1座)と異にするが、住吉大社の場合も元々の祭神は住吉三神の3座であって4座目(第四宮)は時期が下っての合祀とされる。第四宮については、『住吉大社神代記』では「姫神宮」と記されるほか住吉三神との密事伝承が記され、現在の社殿配置も第一・二・三宮の列とは外れる点が着目される。これらを基に、元々は住吉三神に奉仕していた巫女が祭られる神に発展し(巫女の神格化)、住吉三神共同の妻神として第四宮が形成され、後世(一説に7世紀以降)の神功皇后伝説の形成とともに第四宮に神功皇后の神格が付与されたとする説がある。
なお、上記のように祭神の順序は『住吉大社神代記』と現在では異なるが、『二十一社記』・『廿二社本縁(二十二社本縁)』以降の鎌倉時代末から現在までは底筒男が第一とされることから、中世期に祭神の順序の変更があったとする説がある。中世期には祭神自体にも異説が生じ、『廿二社本縁』では筒男三神・玉津島明神(衣通姫)とする説(住吉社を歌神とする信仰に由来)を、『二十二社註式』では天照大神・宇佐明神・筒男三神・神功皇后とする説を挙げる。祭神の本地仏に関しても、4神を薬師如来・阿弥陀如来・大日如来・聖観音菩薩に比定する説を始めとして文献により諸説があった。
特徴
航海守護神としての信仰
住吉大社については、海上交通の守護神とする信仰が最もよく知られる。『日本書紀』神功皇后紀には、鎮座した筒男三神の言に「往来船(ゆきかよふふね)を看(みそこなは)さむ」とあり、当時には三神を航海守護神とした認識が認められる。この信仰については、前述のように住吉社は元々は住吉津の地主神・守護神であったが、難波の発展に伴ってヤマト王権の外港の守護神に発展したとする説がある。同様の航海守護神としては宗像大社(福岡県宗像市)も知られるが、宗像大社は在地の宗像氏の氏神であったのに対して、住吉大社の場合は特定氏族の氏神ではない点で性格を異にし(神職津守氏の氏神は摂社大海神社)、伊勢神宮・石上神宮・鹿島神宮とともに古代王権にとって国家的機関の位置づけにあったとする説もある。
住吉社は律令制下でも遣唐使との関わりが深く、『延喜式』祝詞では遣唐使の奉幣時の祝詞に「住吉尓辞竟奉留皇神」と見えるほか、『万葉集』天平5年(733年)の入唐使への贈歌には遣唐使船を守る神として「住吉の我が大御神」と詠まれている(後掲)。また、円仁は『入唐求法巡礼行記』において遣唐使船の船中で住吉大神を祀ったと記すほか、『日本後紀』では大同元年(806年)に遣唐使の祈りをもって住吉大神に叙位のことがあったと見え、『日本三代実録』では渡唐する遣唐使が住吉神社に神宝を奉ったと見える。また、神職の津守氏からも遣唐使になった者があった。
後世もこのような航海守護神としての信仰は継続し、江戸時代には廻船問屋から600基以上の石燈籠が奉納されている。
禊祓の神・和歌の神としての信仰
住吉大社は別の神格として、禊祓の神・和歌の神としても信仰された。禊祓の神としての信仰は、『古事記』・『日本書紀』のイザナギの禊による筒男三神の誕生神話に顕著で、現在も例祭の住吉祭では祓の意味を込めた神事が斎行される。その性格の顕在化として、難波の八十島祭(平安時代-鎌倉時代の天皇即位儀礼の1つ)への住吉社の関与を指摘する説もある。
和歌の神としての信仰は、平安時代頃から見られるものになる。元々住吉はのちに「住吉の松」と歌枕で歌われるように風光明媚な地であったが、平安時代中頃の遣唐使停止で航海の神としての性格が薄れる一方、そうした土地柄から貴族の来遊や熊野詣時の参詣を受けていつしか和歌の神として信仰されるようになり、特に住吉明神のほか玉津島明神・柿本人麻呂の3柱は和歌の守護神として「和歌三神(わかさんじん)」と総称されるようになる(3神の選定には異伝承もある)。古くは昌泰元年(898年)に宇多上皇が住吉社に参詣した際に和歌を献じたほか、長元8年(1035年)には藤原頼通邸での歌合に勝った公達が住吉社に御礼参りをして和歌を詠じるなど、平安貴族が度々京都から参詣に訪れていた。また住吉社は『伊勢物語』、『源氏物語』須磨巻・明石巻・澪標巻、『栄花物語』殿上の花見巻・松のしづ枝巻など多くの物語にも登場する。さらに前述のように院政期以降の熊野詣では途中に住吉社に寄って和歌を献じる例があったほか、住吉社神主の津守氏からも津守国基などの歌人が出ている。なお住吉関係の歌では、歌枕「住吉の松」など松が多く登場するが、これは住吉社の松が神木とされたことに由来する。
そのほか、石上乙麻呂が土佐国に流されたに詠まれた『万葉集』に見えるように神が現世に顕現するという現人神信仰があったほか(白髭の老翁として描かれることが多い)、平安時代からは祈雨の神とする信仰もあり、また当地の地主神として御田植神事に見られるような農耕の神とする信仰もある。
 歴史
創建
住吉神鎮祭地の名称
   ○ 日本書紀 大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)
   ○ 摂津国風土記逸文 沼名椋之長岡之前(ぬなくらのながおかのさき)
   ○ 住吉大社神代記 渟中椋長岡玉出峡(ぬなくらのながおかのたまでのお)
『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いた。そして神功皇后摂政元年、皇后は大和への帰還中に麛坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも船が進まなくなったため、務古水門(むこのみなと:兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと住吉三神が三神の和魂を「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀るように託宣を下した。そこで皇后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという。通説ではこの「大津渟中倉之長峡」が住吉大社の地に比定され、この記事をもって住吉大社の鎮座とされる。『日本書紀』では創祀年を明らかとしないが、『帝王編年記』では神功皇后摂政11年辛卯としており、現在の住吉大社でもこの年をもって鎮祭とする。
また『住吉大社神代記』(平安時代前期頃の成立か)によれば、住吉三神は「渟中椋長岡玉出峡(ぬなくらのながおかのたまでのお)」に住むことを欲したので、神功皇后はその地に住んでいた手搓足尼(田裳見宿禰)を神主として祀らせたという。この田裳見宿禰の後裔が、住吉大社の祭祀を担った津守連(津守氏)一族とされる。そのほか『摂津国風土記』逸文では、住吉社の地は「沼名椋之長岡之前(ぬなくらのながおかのさき)」と見える。
歴史考証上では、神功皇后の伝説的記事は別としても、実際にもかなり早い時期の創祀とされる。前述のように、上古に関しては住吉津の地主神からヤマト王権の外港守護神に発展したとする説が挙げられるが、そのヤマト王権の崇敬を背景として神功皇后伝説と住吉神とが結びつけられたとする説がある。なお「大津渟中倉之長峡」には異説として、本居宣長が『古事記伝』で摂津国菟原郡住吉郷(現在の神戸市東灘区)に比定した説が知られる。この説では、『古事記』仁徳天皇段の「墨江之津を定む」の際に住吉神も菟原郡から住吉郡に移されたとし、同地の本住吉神社も同様の創建社伝を残すが、現在の通説では住吉大社の地に比定する見解が有力視される。
古代
上記の『日本書紀』神功皇后紀の伝説的記事を別とすると、確かな史料のうえでの文献上初見は『日本書紀』朱鳥元年(686年)条で、紀伊国国懸神・飛鳥四社・住吉大神に弊が奉られたという記事になる。持統天皇6年(692年)5月・12月条にも、伊勢・大倭・住吉・紀伊大神の4所への奉幣(藤原京遷都に伴う奉幣)記事、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足の5社への奉幣(新羅進納調物の奉納)記事が見える。
前述のように住吉社は遣唐使を守る神とされ、『万葉集』の天平5年(733年)の歌や円仁の『入唐求法巡礼行記』の記事が知られる。神階は延暦3年(784年)6月に正三位勲三等、同年12月に従二位、大同元年(806年)に従一位にそれぞれ昇叙された。平安時代以降は祈雨の神としても祀られ、承和3-9年(836-842年)・貞観元年(859年)などに祈雨祈願の奉幣記事が見える。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、摂津国住吉郡に「住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗」として、4座が名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・相嘗祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が定められている。また『延喜式』臨時祭のうち、祈雨神祭条では祈雨神祭八十五座のうちに住吉社四座と見えるほか、名神祭条では名神祭二百八十五座のうちに住吉神社四座が、東宮八十島祭条では八十島祭に祀られる神に住吉神四座が見える。
前述のように平安時代には和歌の神としても信仰され、『源氏物語』を始め多くの物語に描かれ、たびたび貴族の参詣もあった。さらに院政期には熊野詣の途次で上皇・貴族が当社に参詣している。また長暦3年(1039年)頃には二十二社の1つに位置づけられ、その後摂津国内では一宮に位置づけられていった。
中世
鎌倉時代には武家からも崇敬され、建久6年(1195年)には源頼朝が梶原景時を使として住吉社に奉幣、神馬を奉納している。古文書ではこの頃に神仏習合の進んだ様子も見られる。また元寇に際しては文永5-建治元年(1268-1275年)に叡尊がたびたび当社で異敵降伏の祈祷を行なった。
神主の津守氏は建保3年(1215年)以降の鎌倉時代から南北朝時代にかけて摂津守に補任され、摂津国における政治的勢力を強めた。さらに大覚寺統の上北面にも任じられて大覚寺統・南朝勢力と政治的な関係を強め、その関係で南朝の後村上天皇・長慶天皇が一時期住吉大社に行宮を置いている(住吉行宮)。
室町時代にも足利尊氏を始めとする室町幕府将軍から崇敬され、第8代将軍足利義政は社殿造営を細川勝元に命じている。しかし社勢は衰え、戦国時代には火災で度々焼失し、社殿の式年造替も遅延した。
近世
文禄3年(1594年)には豊臣秀吉の検地により朱印地として住吉郷内2,060石が定められ、慶長11年(1606年)には豊臣秀頼による社殿再興がなされた。
江戸時代には江戸幕府から崇敬され、慶長19年(1614年)に徳川家康から禁制を得たほか、元和元年(1615年)に引き続き朱印地として住吉郷内2,060石が定められた。造替も度々実施され、文化7年(1810年)には現在の本宮社殿が造営された。西国の大名も参勤交代時には住吉社に参詣したほか、松尾芭蕉(元禄7年(1694年)参詣)・井原西鶴(貞享元年(1684年)参詣)が参詣して歌を詠んだことや、大田南畝・滝沢馬琴らの参詣も知られる。庶民からも信仰を集め、その様子は全国各地から奉納された多数の石燈籠にうかがわれる。
近代以降
明治維新後、社号を「住吉神社」に定め、明治4年(1871年)には近代社格制度において官幣大社に列した。戦後は、昭和21年(1946年)に社号を「住吉大社」に改称。また神社本庁の別表神社に列している。
平成18年(2006年)には境内域(住吉大社境内遺跡)での本格的な発掘調査が初めて実施され、調査地となった旧神宮寺跡の一角からは古墳時代末-飛鳥時代頃および中世頃の2期を中心とする多数の遺物が出土している。
神職
住吉大社の神職は、津守氏(つもりうじ、津守連のち津守宿禰)が担った。「津守」の氏名は住吉津を守ったことに由来し、それとともに住吉社を奉斎し、住吉郡の郡領も担ったとされる。出自について、『日本書紀』では住吉社創祀に関わる田裳見宿禰(たもみのすくね、手搓足尼)を祖とするほか、『新撰姓氏録』ではさらに遡って火明命(天火明命)を祖として尾張氏同祖とする。また『津守氏系図』では、手搓足尼が神功皇后の時に初めて神主となり、子の豊吾田が「津守連」の姓を賜ったとする。考証上では、特に尾張氏と同族とされる点が着目されており、尾張氏の畿内進出は継体天皇(第26代)の進出以降であることから、実際の津守氏の住吉進出および住吉社掌握を6世紀初頭頃とする説がある。その場合に、津守氏進出以前には阿曇氏系の海人族による住吉社の奉斎を推測する説もある。
津守氏の本宗は天武天皇13年(684年)12月に宿禰の姓を賜った。氏人は遣唐使として派遣もされており、『日本書紀』では斉明天皇5年(659年)7月に津守連吉祥の派遣記事が、『続日本紀』では宝亀9年(778年)11月に主神の津守宿禰国麻呂ら(宝亀8年(777年)6月に渡唐か)の遣唐使船の転覆記事が見えるほか、『住吉大社神代記』では天平3年(731年)7月に神主の津守宿禰客人が遣唐使になったと見える。11世紀後半の津守国基は歌人としても知られ、津守氏中興に位置づけられる。さらに長治2年(1105年)に津守広基が和泉国国司に任じられたほか(津守氏の国司補任の初見)、建保3年(1215年)には津守経国が摂津守に任じられ、以降の鎌倉時代の歴代神主は摂津守に補任された。また津守国助・国冬・国夏は大覚寺統の上北面に任じられて大覚寺統・南朝勢力と強い政治的関係を持った。その後も津守氏による世襲は続き、明治期の官制施行で他の社人が他職に転じても宮司職は津守氏が継承していたが、それも津守国栄を最後に廃され大正13年(1924年)以降は他氏が任じられる。
『住吉松葉大記』では神職として、正神主・権神主・家子・政所目代・神官・大海社司・斎童・権少祝・家司・開閤・田所・氏人・客方・侍家・伶人・勘所司・神宝所・戸方・神方・巫女・田辺宮主・出納役・小舎人役・田所役・釜殿役・木守・氏識事役・小預役・番匠役・物師役といった職名を伝える。正神主・権神主は両官と称されたほか、神官は神奴氏を称し正禰宜・権禰宜・正祝・権祝の4人が4社を管掌したとされる。この職制も明治期の官制施行で廃絶した。
社領
住吉大社の社領について、『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒によれば当時の住吉神には神戸として239戸が充てられており、そのうち摂津国50戸・丹波国1戸・播磨国82戸・安芸国20戸・長門国66戸であった。また同書所収の宝亀11年(780年)12月符では、住吉神について本封のほかに摂津国に新封10戸の存在も見える。また『住吉大社神代記』では、神戸として摂津国40烟・播磨国82烟・長門国95烟など計217烟が記載されるが、その史実性は確かではない。
保安元年(1120年)の『摂津国正税帳案』では「住吉神戸」として「五拾捌烟 租稲弐仟参佰弐拾束」とするが、社領の全体像は明らかでない。また文書によれば、長寛3年(1165年)・文治2年(1186年)・寛喜2年(1230年)・弘安9年(1286年)に四天王寺と阿倍野を巡って堺相論が、治暦3年(1067年)・天治2年(1125年)・承久3年(1221年)などに播磨清水寺と相論があり、相論の根拠に『住吉大社神代記』が持ち出されることもあった。延元元年(1336年)の後醍醐天皇の綸旨では『住吉大社神代記』を基に旧領の当知行が安堵されたほか、南北朝時代には津守氏が南朝勢力に属した関係で堺の地(大覚寺統荘園の堺北庄)が寄進された。
天正16年(1588年)6月には豊臣秀吉が大政所の病気平癒・延命祈願として1万石の加増を申し出たほか(実際の加増は不明)、文禄3年(1594年)には検地により社領(朱印地)は「欠郡住吉内」の2,060石と定められ、江戸時代も幕末までこの石高で推移した。
社殿造営
住吉大社社殿には、古くから伊勢神宮(三重県伊勢市)・香取神宮(千葉県香取市)・鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と並んで式年遷宮(式年造替)の制があった。『日本後紀』弘仁3年(812年)条では、住吉・香取・鹿島の三神社での20年ごとの造替について社殿全ての造替から正殿のみの造替に変更すると見え、この年以前からの造替が認められる。同様の旨は『延喜式』臨時祭にも見え、造替費用には神税・正税を充てるとする。なお『伊呂波字類抄』住吉神社項では、「称徳天皇御宇天平神護元年始造宮云々」として奈良時代の天平神護元年(765年)以来の伝統とする。
『玉葉』承安4年(1174年)条によれば大海社神殿の改築が天仁・長承・仁平・承安の約20年ごとに実施されているが、本宮本殿については不詳。平安時代後期からは住吉社造営役が一国平均役として賦課されており、『玉葉』建久4年(1193年)条では天永の宣旨(天永2年(1111年)の遷宮時)に明白として住吉社修造を賀茂・八幡領に賦課する旨が見える。仁平2年(1152年)の文書を初見として住吉造営役の免除もあり、建久5年(1194年)には広田社(廣田神社)の神輿が造営役免除を求めて上洛した。『住吉松葉大記』所収の正平9年(1354年)の注進状によれば、当時の賦課対象は摂津国・和泉国・河内国・丹波国・播磨国に及んだ。その後、永享6年(1434年)までで遷宮は中断し、永正18年(1521年)に遷宮があるも再び中断し、天正4年(1576年)には石山合戦で社殿は焼亡した。
慶長11年(1606年)には豊臣秀頼が住吉社造営を命じ、この時の建造物のうち反橋石桁・南門・東西楽所・石舞台は現在も残されている。その後、江戸時代にも数度の遷宮が実施され、文化7年(1810年)の遷宮では現在の本宮本殿が造営されている。
なお住吉大社側では、天平勝宝元年(749年)を第1回としてこれまでに次の遷宮が行われたとする。
和歌浦天満宮 和歌山県和歌山市和歌浦
神社(天満宮)。法人としての名称は「天満神社」。学問の神とされることから毎年多くの受験生が訪れる。
延喜元年(901年)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊した。その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠んだ。その後、村上天皇の康保年間(964 - 968年)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされる。また、道真が立ち寄った際に、敷物がなく、漁師が船の艫綱を敷物(円座)にして迎えたといい、綱敷天神とも称せられるという。天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置し、菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神として尊崇されている。
全国に天満宮と称する神社は数多くあるが、江戸時代の朱子学者で、徳川家康のブレーンも勤めた林羅山は、元和7年(1621年)、この地を訪れ、和歌浦天満宮は太宰府天満宮、北野天満宮と共に由緒がある神社であると言っている。
社殿は、豊臣秀吉の天正13年(1585年)の兵火の後、桑山重晴、浅野幸長により再建された。浅野幸長は、慶長9年(1604年)〜同11年(1606年)にかけて天神山の中腹を開墾して社地を造成し、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊などを再建したが、これが現存する天満神社である。本殿奥や楼門前面の石垣も、この時造られたものである。再建された本殿、楼門など4棟が重要文化財に指定されている。本殿は桁行五間・梁間二間の入母屋造で、装飾性の豊かな桃山建築である。正面の楼門は一間一戸門としては最大級で、禅宗様を取り入れている。本殿、楼門等の建築や彫刻には、江戸幕府御大工棟梁の平内政信(へいのうちまさのぶ)が関わった。

江戸時代造営の社殿に彫られた「眠り猫」。 
王子神社 徳島県徳島市(俗称:猫神社)
    阿波の化け猫 
御祭神 天津日子根命(あまつひこねのみこと)/ お松大明神 / お玉大明神
当王子神社御祭神 天津日子根命様は、当地の根子神として祀られ、江戸時代阿波藩蜂須賀家家老の長谷川奉公家が代々崇敬したと伝えられています。約五百年前に「王子神社」と正式に呼ばれ、別称「猫神さん」という呼び名は、俗に伝えられている「阿波の猫騒動」よりきております。約三百年前、無実の罪で捕えられた庄屋の娘・お松さんが処刑される前に、愛猫お玉に報復するように言い含めお玉の霊が罪をかぶせた人々に次々と祟ったので、長谷川奉公家は、この地にお松とお玉の霊を祀りました。それより誰ということなく「願い事をかなえてくれる猫神さん」となり、合格祈願・開運・良縁・商売繁盛の神様と知られ、多くの御崇敬を集めております。  
猫神神社 鹿児島県鹿児島市吉野町(仙巌園=磯庭園内)
猫神神社 1
鹿児島市磯の仙巌園(せんがんえん)は、かつての薩摩藩主島津氏の別邸跡。その広大な敷地の奥まった閑静な一角に、猫好きにとってはたまらない場所があります。日本で唯一猫を祀(まつ)るという『猫神神社』です。豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592〜1598年)の際、第17代島津義弘公は、朝鮮に7匹の猫を連れていき、猫の目の瞳孔の開き具合で時刻を推測したといわれます。この神社には、生還した2匹の猫の霊が祀られており、6月10日の時の記念日には、時計業者の人々がここに参集して例祭が執り行われ、また愛猫家のために猫長寿祈願と供養祭が行なわれます。猫人形などの猫グッズを売っている『猫屋』という店もあります。  
猫神神社 2
神社は万治元年(1658年)島津藩主の別邸として建てられた仙巌園(磯庭園)内に鎮座しています。仙巌園といえば鹿児島を代表する観光名所で、園内には反射炉跡や御殿、日本初のガス灯・鶴燈籠、曲水の庭など見所が多いのですが、私は3度目、夫は観光名所など目もくれず神社一筋なので、ツアーの限られた時間内で観光は一切せず、ひたすら園内3ヶ所の神社巡りに専念しました。この社は御殿北側の、普段は余り訪れる人もいない静かな場所に、ひっそりと鎮座していました。
文禄の役(1592〜1593)に17代島津義弘公は7匹の猫を連れて朝鮮半島へ出征し、これを各部隊に配属して、猫の瞳孔の開き具合によって時刻を推察したと言われています。その7匹のうち5匹は戦死し、生還した2匹の猫の霊を「時の神様」として祀ったのがこの猫神神社です。当時時計などは一般に普及して居らず、手軽に時刻を計る手段として猫の瞳孔の開き具合が用いられたのでしょう。この集団で従軍した猫達の功績もあったでしょうが、特に島津軍は「鬼石蔓頭(おにしまづ)」と敵兵から恐れられ、華々しい功績を挙げたと言われています。時の記念日(6月10日)には時計業者の人々がここに参集して例祭が執り行われ、愛猫家の為には猫長寿祈願祭も行っているとのことです。
猫神神社 3
豊臣秀吉が天下を治めていた時代、朝鮮を傘下に治めようとした秀吉は数回に渡って朝鮮出兵を行いました。文禄慶長の役(1592年〜1593年)で秀吉の命により出陣した薩摩藩藩主の島津義弘は7匹の猫を連れて出兵しました。
猫の役割は、なんと時計。猫の瞳孔は明るさによって大きさが変わりますが、島津義弘は7匹の猫を各陣営に置き、瞳孔の大きさを見て時刻を計り出撃の合図に使ったと言われているのです。
7匹の猫のうち5匹は戦死しましたが、2匹は無事に薩摩に戻ることができました。そのうちの1匹は義弘の次男久保(ひさやす)に可愛がられた猫でヤスと呼ばれ、もう1匹はミケと呼ばれていました。これら2匹の猫を祭ったのが「猫神神社」。今でも毎年6月10日は愛猫家のために猫の長寿祈願や供養が行われています。
島津家の猫だったためか、「猫神神社」は旧島津家別邸の中にあります。桜島を真正面に臨む海沿い山麓に広がる島津家の別邸は現在では仙巌園と呼ばれていますが、小川が流れ、島津家の邸宅や砲台など歴史的な建造物が残っていて、NHKの大河ドラマ「篤姫」のロケにも使われました。「猫神神社」はこの庭園の一角にある小さな神社ですが、愛猫家が愛猫の長寿を祈って数多く訪れています。園内の桜華亭売店ではヤスとミケが描かれた絵馬も売られ、猫の長寿を願う絵馬がたくさんかかっています。また、招き猫が描かれた「猫神神社」のお守りも愛猫家に人気です。
猫山観音堂 上田市
場所は、生島足島神社から東へ2Km弱の道沿いのそば屋「きこりん」の横道を入って小山の公園の駐車場に車を止め、石段を登った所です。元禄11年(1698)創建。安置された木造仏は、猫山という地名から鼠除けの仏さまとして信仰されています。
猫山公園
丸やかな山容から名付けられた猫山に、地域の人びとが古来から信仰してきた観世音菩薩を安置するため、観音堂が創建されたのは元禄十一年(1698年)の春でした。この地域は昔は松本村といわれ、記録によれば村には天正年間(1572〜1591年)に五光寺があり、その一つの錬光寺がこの猫山に建っていました。観音堂は茅ぶき屋根であったが平成六年に大改修が行われ銅板葺になりました。このお堂への一三〇段の参道は石段で、寛保(1742年頃)年間には水田三升播(約300坪)と畑一俵半取(小麦が1俵半とれる面積、約150坪)の土地が寄進され、それを資金としてつくられた古い参道です。観音堂からは塩田平が一望のもとに眺められるので、地元の人びとは此の地を猫山公園と呼び、信仰と憩いの場所になって居りました。  
猫山観音堂神社 長崎県佐世保市
猫山 佐世保市福田町
猫返し神社

 

阿豆佐味天神社 東京都立川市砂川町…迷い猫が出たらお参りする 
阿豆佐味天神社 1 
阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)は、砂川の新田開発の際に、村の鎮守の神として1629年(寛永6)に創建されました。ご祭神は、医薬・健康・知恵の神として名高い少彦名命(すくなひこなのみこと)、文学・芸術の神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)のお二柱です。
立川水天宮は、古来より安産・子授けの守り神として崇められています。
安産のご祈祷・安産祝帯の授与は、いぬの日以外でも行っております。
境内社には、蚕影神社(猫返し神社、養蚕の神)、八雲神社(厄除け)、疱瘡社(疫病除け、縁結び)、稲荷社(五穀豊穣、招福財福)、天神社(学問)、御嶽神社(火難盗難除け)、浅間神社(縁結び、安産)、金刀比羅社(交通安全)、八坂大神社(疫病除け)とございます。 ご参拝の際には、境内社にもお参り下さい。
阿豆佐味天神社 2
社名に「天神社」とありますが、学問の神様である菅原道真公を祀る「天神信仰」の神社ではありません。「あまつかみのやしろ」の「天神社」です。
総本宮は、東京の西多摩郡瑞穂町にある阿豆佐味天神社です。
ご祭神は、医薬・健康・知恵の神様である少彦名命(すくなひこなのみこと)と、文学・芸術の神様である天児屋根命(あめのこやねのみこと)の二柱です。
創建は江戸時代の初期である寛永6年です。この辺りの新田開発の際に、村の鎮守の神として、総本宮の阿豆佐味天神社より勧請し、創建されたのが始まりです。
本殿は江戸時代中期の元文の時代に建てられたと考えられ、立川市内では最古の木造建築物です。拝殿は江戸時代後期、文久の時代に建てられたものです。
境内には、安産・子授けの守り神である立川水天宮が合祀されています。
他にも多くの境内社があり、その中には菅原道真公を祀る天神社や、養蚕の神様である蚕影神社などがあります。蚕影神社は、蚕の天敵がネズミであることから、猫が守り神となっています。
また、ジャズピアニストの山下洋輔さんが、いなくなった猫を探し回りましたが見つからず、その後この神社に願掛けをしたところ、翌日に猫が帰ってきたそうです。そんなことから「猫返し神社」とも呼ばれるようになりました。
創建以来、この地の人々に厚く信仰されてきた神社であり、猫とも関わりの深い神社です。
猫返し神社
猫返し神社(命名者:ジャズピアニストの山下洋輔さん)と称され、愛猫の無事や健康を祈りに多くの方がいらっしゃいます。境内社の蚕影神社(こかげじんじゃ)がその社で、蚕の天敵がねずみ、猫を守り神にしています。「絵馬」に願いを書いたら、無事に帰ってきたという報告も寄せられています。また、境内には「ただいま猫」の石像があります。やさしく撫でて下さい。
阿豆佐味天神社 東京都西多摩郡瑞穂町
阿豆佐味天神社の総本宮である。
瑞穂町と武蔵村山市のほぼ境界上の狭山丘陵南麓部に位置する古社で、『延喜式神名帳』には武蔵国多摩郡八座の一座に数えられている。
社伝によれば、寛平4年(892年)桓武平氏の祖・高望王が創建したという。
村山郷の総鎮守で、武蔵七党の一、村山党(高望王の子孫で秩父平氏の流れを汲む)の氏神として崇敬を受けた。阿豆佐味という社名については、梓弓によるという説、楸(きささげ、古名あずさ)によるという説、湧水(阿豆=甘い、佐=味の接頭語、味=水で、甘い水の意)によるという説など諸説ある。
天正12年(1584年)、慶長3年(1598年)の修復を経て、享保年間(1716年-1736年)村山土佐守により社殿の修復が行われ、その後も後北条氏が社領15貫文、徳川幕府が朱印地12石を寄進するなど、歴代領主から厚く遇されている。明治6年(1873年)郷社に列格した。因みに殿ヶ谷の地名は、村山党の居館があったことに由来するという。
社頭前には文久3年(1863年)の社号標がある。
また、立川市砂川町に鎮座する阿豆佐味天神社は、江戸時代の初め、当社を勧請したものである。砂川の新田開発を行った岸村(現在の武蔵村山市岸)の村野氏(後の砂川氏)は村山党の後裔を称する。また、小平市小川町の小平神明宮、同市仲町の熊野宮は、同じく小川新田の開発を行った岸村の小川氏と、当社の社家、宮崎氏が、岸村に鎮座していた当社の摂社、神明社と熊野宮を勧請したものである。 「猫返し神社」としても知られており、飼い猫の無事や健康を祈る参拝客が多く訪れる。境内の蚕影神社がその社であり、蚕の天敵がねずみであることから、ネコが守り神となっている。「猫返し神社」として知られるようになったのは、ジャズピアニスト山下洋輔の影響とされている。
猫明神

 

猫座大明神 岩手県上閉伊郡
猫又明神 福島県伊達郡川俣町
猫又明神 新潟県三島郡三島町
猫社(ねこじゃ)さん伝説 熊本県猫宮地区
猫が祀られている猫大明神は小さな祠です。歴史的な由来は不明ですが「猫社(ねこじゃ)さん」と呼ばれるまつりが毎年一月十日に今も行われています。代々宮守をしているのが私の同級生の松尾家です。このまつりに因んだ話のなかに「せなが長者」があります。
昔、この付近の入江に出入りしていた唐船との貿易によって栄えていた「せなが長者さん」は、このあたりには勝てる犬や猫はいないという、とても喧嘩が強い猫を飼っていました。あるとき、とある唐船の船主さんが、長者さんと酒を酌み交わしているうちに、この猫の話を聞いて、「お互いの宝物を賭けて、私の犬と勝負しましょう」と申し出ました。船主さんの犬も、これまで喧嘩に負けたことがない犬だったからです。長者さんは即座に承知しました。猫と犬はすさまじい闘いをして、その果てに猫が勝利し、犬は死んでしまいました。
そこで、長者さんは「金の茶釜」を手に入れ、これは間もなく荒尾郷を治めていた小代家に献上されました。しかし、自慢の猫は、闘いによる深手が原因で、二、三日後に死んでしまいました。長者さんはこれを哀れんで、祠を建てて霊を慰め、これが「猫宮」となったそうです。 
猫天神

 

山梨県中巨摩郡竜王町
 (中巨摩郡竜王町は合併により2004から甲斐市になる)
猫観音

 

石宮の猫魔観音 福島県下野寺西中央
「石宮の猫魔観音」と呼ばれる祠は、福島イトマンスイミングスクー ルの敷地内にありました。
「ある貧乏な男が猫を拾うと、それ以後幸運に恵まれて、稼業も成功。男が死ぬと、その息子が猫嫌いでその猫を捨てた。猫は村娘に化けて人を襲うようになったので退治された」という話。
「化け猫の墓」といわれる石を見る事ができました。旧街道から畑の中に見える石碑群。石がかたまっている所から少し左手に離れたところにある石が化け猫の墓。 
猫啼温泉 福島県石川郡石川町(旧国陸奥国・明治以降の旧磐城国)
平安時代中期の女流歌人、和泉式部に縁があるとされる温泉である。開湯伝説によれば、和泉式部が京に上る際に、愛猫を当地において行ってしまった。その置いていかれた猫は、主人である和泉式部を探して啼き続けたと言われている。このことから、温泉名に猫啼温泉とつけられたといわれる。この猫は、その後に病にかかるものの、当地の温泉に浸かった事により元気を取り戻した。このことで、鉱泉の効能に地元の人たちが気づき、湯治場として発展することとなった。  
猫山観音堂 長野県上田市久保
場所は、生島足島神社から東へ2Km弱の道沿いのそば屋「きこりん」の横道を入って小山の公園の駐車場に車を止め、石段を登った所です。元禄11年(1698)創建。安置された木造仏は、猫山という地名から鼠除けの仏さまとして信仰されています。
猫山公園
丸やかな山容から名付けられた猫山に、地域の人びとが古来から信仰してきた観世音菩薩を安置するため、観音堂が創建されたのは元禄十一年(1698年)の春でした。この地域は昔は松本村といわれ、記録によれば村には天正年間(1572〜1591年)に五光寺があり、その一つの錬光寺がこの猫山に建っていました。観音堂は茅ぶき屋根であったが平成六年に大改修が行われ銅板葺になりました。このお堂への一三〇段の参道は石段で、寛保(1742年頃)年間には水田三升播(約300坪)と畑一俵半取(小麦が1俵半とれる面積、約150坪)の土地が寄進され、それを資金としてつくられた古い参道です。観音堂からは塩田平が一望のもとに眺められるので、地元の人びとは此の地を猫山公園と呼び、信仰と憩いの場所になって居りました。  
猫突不動尊

 

猫突不動尊 青森県弘前市 
 最勝院 東北36不動尊霊場の東北第15番(六波羅密修行の道場)
最勝院 1
青森県弘前市銅屋町にある真言宗智山派の寺院。山号は金剛山。境内には重要文化財に指定されているものとしては日本最北に位置する五重塔がある。
弘前ねぷたまつりで知られる弘前市の中心部、弘前城の南方の禅林街及び新寺町と呼ばれる地区には46の寺院が建ち並ぶが、その中で長勝寺と並ぶ代表的寺院であり、市民からは「五重塔の寺」として親しまれている。寺名はつぶさには「金剛山光明寺最勝院」と称し、院号は護国三部経の一つで密教色の強い『金光明最勝王経』に由来する。
『津軽一統志』によると、天文元年(1532年)、常陸国出身の弘信が、堀越城下(現・弘前市堀越)に堂宇を建立したことに始まる。江戸時代初期に弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことに伴い、慶長16年(1611年)、城の鬼門(東北)に当った現在地より北に3キロメートルほど離れた田町に寺院を移転し、弘前八幡宮の別当寺とされた。12か寺の塔頭寺院を従え藩の永世祈願所となった。近世には僧録所として、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった。
明治時代の神仏分離令により最勝院以外の11か寺は廃寺となり、最勝院は廃寺となった寺院の檀家衆を引き受けて現在地(旧大円寺跡)に寺籍を移転した。なお、大円寺は弘前市に隣接する南津軽郡大鰐町に移転している。ただし、市民からは今でも「大円寺」の俗称で呼ばれている。
伽藍は本堂、仁王門、五重塔、如意輪観音堂(六角堂)、五智如来堂、護摩堂、聖徳太子堂、薬師堂、庚申堂、鐘楼などからなる。本堂は1970年の再建で、本尊大日如来像を安置する。護摩堂はもとこの地にあった大円寺の旧本堂であり、五重塔なども旧大円寺の建物である。当院には本尊大日如来像のほか、五智如来、文殊菩薩、歓喜天(聖天)、薬師如来、「猫突不動明王」と通称する不動明王などが祀られている。
最勝院 2
天文元年(1532)、弘信上人が、堀越城外萩野の地に三宇の伽藍を造営し開基した。慶長14年(1609)、二代津軽藩主信枚が、高岡(現在の弘前)に新城を築いた際に、その鬼門の守りとして、慶長16年(1611)弘前田町に移転し、十二ヶ寺の塔頭寺院を擁した。また、津軽藩の永世祈願所に定められ、寺禄三百石を賜り、歴代藩主から手厚い保護を受けた。
二代藩主信牧の師でもある江戸寛永寺開山の天海らは、寛永3年(1626)に京都五山、鎌倉五山にならい津軽真言五山の制度を定め、最勝院はその筆頭とされ、領内総寺社を統轄する僧録に定められ、更には修験、座頭、巫女等を支配し、社人頭を通じて領内の社人をも支配した。
明治3年(1870)神仏分離令により、支配下の多くの寺院を合併し田町より現在地へ移転し、この地にあった大圓寺の五重塔や本堂、諸堂、など総てを受け継ぎ現在に至っている。
土踏まずの最勝院
弘前城の二の丸と本丸を結ぶ橋に「下乗橋」という赤い塗りの欄干が架かった橋がある。昔、弘前城が高岡城と呼ばれていた頃、津軽藩主はもちろん藩士たちは、この橋にさしかかると、乗っていた駕籠や馬より降り、歩いてこの橋を渡るのが慣わしだった。
しかし、最勝院の住職が城へ赴くときには、駕籠より降りずにそのまま通ることを許されており、その為、城下では「土踏まずの最勝院」と呼ばれていた。これは、当時の藩主の官位が従三位下であったのに対し、最勝院住職は正三位であったためだと伝えられる。
猫突不動明王伝説
かつて、最勝院のまわりにいつのころからか悪猫が住み着き悪さをしていた。ばかでかい三毛猫で、真っ赤な口を開き、牙をむき、するどい爪を振り立て、怪しく目を光らせる怪猫だった。さらに悪賢く、その姿を見ただけで無明の世界へ人々を誘う恐ろしい力を持っていた。その為、近郷近在の人々はその存在に恐怖していた。
寺でも、毎夜常夜灯の大皿の油を舐められ、本堂の火は消え、更に供物等もたちどころにかすめ取られた。さらにその悪事に益々拍車が掛かり、被害は増すばかりで、人々は困り果ていた。何とか退治したいものと色々と策を講じたが、その手に乗るような怪猫ではなく、むしろその裏をかいて一層人々を恐怖に陥れるのだった。
その噂は城内にまで及び、怪猫退治に藩士が出向いたりもしたが、人の力では如何ともし難く、ことごとく失敗した。業を煮やした殿様は、ついに常日頃信仰を寄せていた最勝院にご沙汰を出され、神仏の加護に頼るほか道は無いという仕儀に相成った。七日間にわたる真言の秘法が始まり、霊験あらたかな不動様に一日三座の護摩が焚かれ、祈願は続けられて行った。
満願の日、その日も悪猫は、草木も眠る丑三ツ時に足音を忍ばせ本堂へやって来た。そして、まさにご本尊のお供物に手をかけようとしたその刹那、一喝大音声と共に不動様の右手から降魔の利剣が飛び、悪猫の胸を一気に貫いた。「ギャー!!」ともの凄い悲鳴をあげ、悪猫は本堂の外へ逃げ去った。
その日の明け方、和尚の夢枕に不動様が立たれ、「寺の西方に、成敗した悪猫が居る。手厚く葬るがよい」と告げた。和尚様は早速本堂のあたりを探してみると、その悪猫が胸を真っ赤に染めて、巨大な体を横たえていた。驚いた和尚様は、不動様の前に走り戻ると、忿怒の形相もそのままに、右手に持つ降魔の利剣には血糊がべっとりと付き、左手に持つ羂索は暴れるものを絡めとったかのごとくに乱れていた。人々は、その霊験のあらたかなることに恐れ、且つは驚き、このお不動様を伏し拝んだと云う。
その後、和尚様は供養の塚を建て、懇ろに供養をし葬った。これ以後、里には元の平和が戻ったと云う。
最勝院 3
最勝院(以下当院)は具には金剛山光明寺最勝院と号す。この名称の起源は、『金光明最勝王経』という仏教教典に由来し、五穀豊穣、国家安泰等の深い願いが込められている。総本山は京都市東山の智積院、宗派は真言宗智山派の密教寺院である。本尊は金剛界大日如来、秘仏として五智如来、猫突不動明王、文殊菩薩、聖徳太子、牛頭天王、歓喜天(聖天)、 青面金剛、如意輪観世音菩薩等を祀る。
天文元年(一五三二)に高僧弘信上人が、堀越城外萩野の地に三宇の伽藍を造営し開基した。慶長十四年(一六〇九)二代津軽藩主信枚が高岡の新城(現在の弘前城)を築いた折、当院第六世日雄が地鎮の法式を執行し、慶長十六年(一六一一)新城の鬼門に当たる田町へ移転し弘前八幡宮別当となり、そこに十二ヶ寺の塔頭寺院を擁していた。また、津軽藩永世祈願所に定められ、寺禄三百石を賜り、手厚い保護を受けた。
幕府からの預人慶光院と、江戸寛永寺開山の天海は、相談の上寛永三年(一六二六)に京都五山、鎌倉五山にならって当地における津軽真言五山の制度を定めたと伝えられる。最勝院(田町現在銅屋町)、百澤寺(岩木町百沢の現在岩木山神社)、国上寺(碇ヶ関村古懸)、橋雲寺(岩木町植田)、久渡寺(旧小沢村現在坂元)がそれである。当院はその筆頭に位置し、領内総寺社を統轄する僧録に定められ、更には修験、座頭、巫女等を支配し、社人頭を通じて領内の社人をも支配した。当院には、領内壱千百三十三社の明細を記した重要文化財『神社微細社司由緒調書上帳』が現存し、当時の権勢の程を窺わせる。
明治三年(一八七〇)神仏分離令により支配下の多くの寺院を合併して田町より当地へ移転した。その頃まで当地には、大圓寺という真言宗の寺院があったが、その大圓寺は大鰐町蔵館の高伯寺と合併しそこへ寺格を移転した。当院は五重塔や本堂、諸堂、境内地など旧大圓寺の総てを受け継ぎ、寺院としての発展の中で境内整備を為し現在に至っている。
当院の境内では、弘前市教育委員会の発掘調査により縄文時代後期の土器類や住居跡が多数出土している。これにより往古よりこの地に人が住み、また信仰の為の霊地として崇拝を受けていたと考えられる。正面の仁王門の金剛力士像は岩木山旧百澤寺の山門に安置されていたものと伝えられる。また、現在の当院護摩堂は旧大圓寺の本堂であり、明和九年(一七七二)に奉納された本尊牛頭天王尊がそのままに、に奉安されており、旧暦六月十三日はこの牛頭天王尊のご縁日(例大祭)として善男善女が多数参拝し、大変なにぎわいが藩政時代より連綿と続けられている。
また、当院の文殊菩薩は古くから卯年生まれ一代様として親しまれてきた。学業に御利益があるとされるため、近年においては修学旅行生も多く立ち寄り、受験合格を祈念しお守りを求めてゆく。
弘前近郷においては宗派を問わずに多くの人々より信仰を受け、正月の元朝祈願参拝者数は、弘前市最大の規模となっている。
猫突不動明王
御真言 のうまくさまんだばざらだんかん
不動明王は、五大明王の中心の尊とされる。五大明王とは不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五尊である。この五大明王は大日如来を中心とした五仏が衆生教化のためにお姿を変えたものである。
大日如来はそこに本来ある法身であることから自性輪身という。そこで、われわれ衆生に親しみやすい菩薩の姿を現すのである。即ち、般若菩薩となって教化説法するのである。これを正法輪身という。しかし、我々衆生は、常に煩悩の波にさらされ迷ってしまう。菩薩の教化に耳を傾けず、煩悩の波に漂う我々衆生に、奴僕の姿となって働きかけ、救いの縄(羂索)を投げかけ、迷いの波を智慧の利剣によって切り払い、叱りつけ屈服させても救いの岸へ引き上げるために、大日如来は忿怒相の明王の姿に身を変じるのである。これを教令輪身という。そしてこの自性輪身、正法輪身、教令輪身を三輪身という。輪は摧破する義であり、輪身には衆生の煩悩を打ち砕く力がある。すなわち、自性輪身たる大日如来の正法輪身は般若菩薩であり教令輪身は不動明王ということになる。
不動明王の姿形は、大日経というお経がもととなっている。身は青黒色で、肥満した童子の肉体を持ち、頭頂には髪を結った七莎髻を載せ、左肩に髪を一本に束ねた辨髪を垂らしている。額に水波の皺をつくり、左目を細く歪め、下の歯は上唇を咬み、下唇も醜く歪めている。大盤石の上に坐し、燃えさかる大火焔の中に住し、右手に利剣、左手には羂索を持つ。不動明王は、このように恐ろしくも激しい忿怒の形相を現している、と大日経は説くのである。
教令輪身を考えるとき、言うことを聞かない子供を叱りつける親の姿を彷彿(ほうふつ)とさせる。つまり、言うことを聞かない子供は凡夫であり我々衆生である。それを優しくたしなめるのは、母親であり、正法輪身である菩薩の姿ではないだろうか。どうしても言うことを聞かない場合、父親が出て来て大きな雷を落とすこととなる。子供をたしなめ、叱りつけるその根底には無理な考えを人に押しつけたり、人に迷惑をかけたり、人が嫌がることをしてはいけないという、道徳(社会規範や倫理も含む)がある。その道徳は自性輪身に置き換えて考えることが出来る。道徳は形の見えるものではないが、人間がこの世で生きてきた永い歴史の中から必然的に生まれてきた大切なものである。我々大人はそれを後世を担う子供達に生活の中で伝えてゆかねばならない。
如来が衆生教化の方便として時には優しく、時には恐ろしい忿怒の形相を示し姿を変えながらも慈悲の心で衆生に接する教えが教令輪身である。
当院に伝わる『猫突不動明王』は、もともと高賀山大善院に奉安されていた尊像である。この不動明王は地元の古い書物である『津軽俗説選』にも出ており、これまでは秘仏として寺の奥深く祀られ、殆ど人目に触れることは無かった。この『猫突』(ねこつき)という名前の由来について、当院に古い言い伝えが伝承されてる。
『猫突不動明王』伝説
その猫は、ばかでかい貪瞋癡(とんじんち)の三毛猫で、悪口両舌(あっくりょうぜつ)の口を開き、殺生偸盗(せっしょうちゅうとう)の爪を研ぎ、瞋恚邪見(しんにじゃけん)の目を光らす怪猫である。おまけに、悪賢く人をたぶらかし、その姿を見ただけで無明(迷い)の世界へ人々を誘う恐ろしい力を持っていた。その為、近郷近在の人々はその存在に恐怖していた。一方、寺でも毎夜常夜灯の大皿の油を舐められ、本堂の火は消え、更に供物等もたちどころにかすめ取られる。これに一番割を食ったのは寺の小僧さんである。この所為は定めし小僧に外ならぬと決めつけられ、弁解むなしく叱り飛ばされた。が、悪事はおさまるどころか、益々拍車が掛かり、被害は増すばかり。人々は困り果て、何とか退治したいものと様々な策を講じたが、一向にその手に乗るような怪猫ではなく、むしろその裏をかいて一層人々を恐怖に陥れるのであった。
その噂は城内にまで及び、怪猫退治の騒ぎまで起きる始末となったが、人の力では如何ともし難い。業を煮やした殿様は、ついに常日頃信仰を寄せていた最勝院にご沙汰を出され、神仏の加護に頼るほか道は無しという仕儀に相成った。七日間にわたる真言の秘法が始まった。霊験あらたかなお不動様に一日三座の御護摩が焚かれ、祈願は続けられてゆく・・・。
ついに満願の日がやって来た。その日も悪猫は、草木も眠る丑三ツ時にソロリと足音を忍ばせ本堂へやって来た。そして、まさにご本尊様のお供物に手をかけようとしたその刹那(せつな)、一喝大音声と共にお不動様の右手から降魔の利剣が飛び来たって悪猫の胸を一気に貫いた。
『ギャー!!!』
もの凄い断末魔の悲鳴をあげながら、悪猫は本堂の外へ逃げ去った。
そして・・・、その日の明け方、和尚様の夢枕にお不動様が立たれて、こう申された
「お寺の西方に、成敗した悪猫が居る。手厚く葬るがよい。」と。
目が覚めた和尚様は早速本堂のあたりを探してみた。すると、その悪猫が胸を真っ赤に染めて、巨大な図体を横たえていた。驚いた和尚様は、さてはとお不動様の御前に走り戻ると、忿怒の形相もそのままに、右手に持つ降魔の利剣には血糊がべっとりと付き、左手に持つ羂索(縄)は暴れるものを絡めとったかのごとくに乱れていた。人々は、その霊験の顕然なのに且つは恐れ、且つは驚き、このお不動様を伏し拝んだという。
その後、和尚様は供養の塚を建て、懇ろに供養をし葬った。これ以後、里には元の平和が戻ったという事である。  
猫地蔵

 

猫地蔵 群馬県多野郡吉井町 地勝寺の本尊地蔵尊
 (多野郡吉井町は合併により2009から高崎市吉井町になる)
地勝寺 高崎市吉井町小串
廣願山地勝寺 真言宗豊山派
慶長10年(1605年)の開山と伝わる。元々は地蔵寺と言ったが、明治41年(1908年)に東深沢の勝持寺と合併したことにより、地勝寺と改称される。鎌倉時代から戦国時代にかけて、この地を治めていた小串氏の墓がある。小串氏は永禄6年(1563年)武田信玄の侵攻により滅亡。末裔は土着したという。寺の開山と小串氏の滅亡は時期的に合わないので、末裔の方が後に祖先を祀ったということか。
境内には南北朝時代の作である、薬師如来坐像がある。牛伏砂岩の石造りで、左手に薬壷を持ち、光背は舟形をしている。大きさは総高66cm、総幅35.5cm、像高35.5cm、像幅25.5cmである。
一石阿弥陀三尊像もあるということだったので探したら、木の陰にあった。その名の通り、ひとつの石に阿弥陀三尊がそれぞれ彫られている。主尊である阿弥陀如来は坐像で、脇侍観音・勢至菩薩は立像である。こちらも南北朝時代の作で、総高95.5cm、総幅41.5cmで、主尊の像高19cm、像幅16.5cmである。ところで、薬師如来坐像は堂宇内にあるのに、阿弥陀三尊像は屋外で野ざらし。どちらも南北朝時代の貴重な石仏なのに・・・・・。
石造薬師如来座像 / 一石阿弥陀三尊像
石造薬師如来座像
小串の地勝寺境内にあり、中世石仏彫刻である。一体は堂宇内にある。牛伏砂岩の石造薬師如来座像で南北朝時代の作である。像容は左手に薬壷を持ち、通肩厚肉彫りで、首に三道があり、肩はなで肩である。光背は舟形をしている。大きさは総高66.0cm、総幅35.5cm、像高35.5cm、像幅25.5cmである。
一石阿弥陀三尊像
一基は他の石造物とともに屋外にある。一石阿弥陀三尊形式で、舟形に彫りくぼめた中に像が彫り出されている。主尊阿弥陀如来は座像で、脇侍観音・勢至菩薩は立像で彫られている。南北朝時代の作である。総高95.5cm、総幅41.5cmで、主尊の像高19.0cm、像幅16.5cmである。
上野・小串館
築城年代は定かではない。 小串氏の名は建久6年(1195年)源頼朝の奈良東大寺供養に随行した小串右馬介がいる。永禄6年(1563年)武田信玄の上野侵攻によって落城し小串氏は土着したという。小串館は現在の地勝寺の境内にあったという。遺構は特に残っていないようであるが、地勝寺は小串氏の菩提寺で現在も小串氏の墓碑が残る。  
猫塚

 

松前怪猫塚 北海道上磯郡知内(しりうち)町元町
明治初年、箱館戦争のときの敵軍の兵が、化け猫の霊となって襲ってきたのを切って埋めたところに供養のため建立した祠。

雷公神社の社家大野家には「猫塚」の伝承がある。
22代神主大野石見重敬は文武両道に優れ、明治2年(1869)の箱館戦争には松前藩の攻撃軍に参加し、奇兵隊として大いに活躍した。その重敬が、茂辺地矢不来の戦いで強敵と一騎討の勝負になり、悪戦苦闘の末ようやく打ち倒し敵の首級を挙げたと言う。
その後、帰郷し元の神主に戻った重敬が、或る夏の夜うたたねの最中物の怪の気配を感じて目を上げると、矢不来で討ち取った武士の怨霊がランランと目を光らせ勝負を挑んでいる。重敬は驚きながらも床の間の刀を抜いて斬りつけたところ、「ギャッ」という声を残して姿を消し去った。家人と共に土間に残る血痕を辿ると裏庭に大きな古猫が額を割られて死んでいたという。古猫の死骸を庭に埋め石祠と共に椿を植えて「猫塚」と称したと言うのが伝承の由来である。
この伝承はその後忘れ去られていて、昭和35年国道改修の時、大野家が移転改築に際し石祠を移したら、その下から白骨が出て驚いたと言うが、その後の調べでこれが松前怪猫塚と判明し、永く埋もれていた大野家の「猫塚」の伝承は、「松前怪猫塚」として知内の新たな伝説に加えられた。この「猫塚」は、椿と共に今も大野本家の庭に昔と同じ姿で安置されている。
正法寺の猫塚 岩手県奥州市 曹洞宗
その昔、正法寺の和尚様の側に、いつも寄り添うように猫がおりました。
この猫、いつも天井を睨み付けているので、変に思った和尚様がその訳を猫に訊ねてみると、天井裏に住む大鼠が和尚様を喰わんと狙っているというのです。
ある日、猫は仲間を呼んで来ると和尚様に話をしました。そして自分がいない間、大鼠が和尚様を襲わないように、襖に猫の画を描いてほしいと和尚様にお願いし旅に出ました。
和尚様は猫に言われた通り、襖へ猫の画を描きました。大鼠はその画にすっかり騙され、「今日もあの猫がいる。和尚を喰えん。」と舌なめずりしては悔しがっておりました。
幾月かが経ったある日、猫が一匹の仲間を連れて帰って来ました。
「これから大鼠を退治して来ます。」と言って、二匹の猫は天井裏に上っていきました。
ドタン!バタン!と大きな音が響き渡ること数分。ピタリと音がしなくなりました。
和尚様は静かに天井裏に上ってみると、グッタリと動かなくなった大鼠の側に、息も絶え絶えの二匹の猫が横たわって息も絶え絶えの二匹の猫が横たわっていました。
和尚様が二匹の猫を抱きかかえると、猫はニコリと笑みを浮かべ、 静かに息を引き取りました。
和尚様はこの二匹の猫を弔うため、正法寺の境内地に塚を建て供養しました。
現在もこの塚は「猫塚」として正法寺に伝えられ、信仰篤き人々により守られております。
また退治された大鼠は、四足をもがれ、経机の脚にされたと伝えられております。
この大鼠の足を使った経机は、現在不明となっております。
大鼠の執念か、その四足を使い逃げてしまったのかもしれません。
正法寺
曹洞宗の古刹、大梅拈華山圓通正法寺は、南北朝時代の貞和4年(1348)、無底良韶禪師によって開かれました。無底禪師は能登国の出身で、大本山總持寺二祖峨山韶碩禪師の高弟でした。峨山禪師には25人の優れた弟子(峨山禪師二十五哲)がおりましたが、無底禪師はその第一番に列せられています。無底禪師発心前の19歳の時、熊野本宮大社(和歌山県)に参篭したところ、「もし出家修行するならば佛法純熟せん」との夢告があり、霊石一箇を授けられたと伝えられております。奥州を開闢の地に選ばれたのも、この霊石の告によるものとされています。寺地選定にあたっては、峨山禪師の嗣法を受けた後の禪師34歳のとき、初めて黒石郷の地に入り、もしこの地が佛法の霊場ならばその証を見たいと念じたところ、夜寅の刻(午前4時頃)に至って佛法僧(コノハズク)が鳴いたこと、また、二夜に亘って霊夢があり、守林神が一対の鹿となって現れ、道場開闢を喜び祝したとあります。
こうして開創した正法寺ですが、無底禪師は14年間の住山で遷化されます。無底禪師の後を嗣いだ月泉良印禪師は、「月泉四十四資」と呼ばれる数多くの弟子を養成し多くの信奉者を得て、正法寺一門は大きく発展しました。この開山無底良韶禪師・二祖月泉良印禪師の間に綸旨、及び總持寺峨山禪師からの認可状を得て、正法寺は永平寺、總持寺と並んで東北地方における「第三の本山」の格式を得ました。その勢力は東北地方を中心に関東関西にまで広がり、東北地方の宗教、文化の形成に大きな役割を果たしてきました。末寺の数は往事、508ヵ寺とも1200ヵ寺とも記されておりました。「第三の本山」の格式は江戸初期に幕府の政策によって失われましたが、由緒ある古寺として仙臺伊達藩から寺領や建物の寄進等で別格の待遇を受けておりました。現在も73ヵ寺の末寺を有し、宗門において特別の格式を保持する古刹として広く知られております。  
福蔵寺の猫塚 岩手県二戸郡浄法寺町寺ノ上
    福蔵寺 
少林神社の猫塚 宮城県仙台市若林区南小泉  猫塚古墳
猫塚古墳
現在の宮城県仙台市若林区南小泉にあった古墳である。早くに破壊され、遺物なく、詳しいことはわからない。跡地に少林神社が建つ。直系7-8mの円墳、または前方後円墳の後円部だともいう。
猫塚の名は、猫にまつわる伝説からとられた。すなわち、ある屋敷で飼われていた猫が、妻女が厠に行こうとするたびにつきまとって邪魔をする。たまりかねた夫が刀で猫の首をはねると、はねとんだ猫の首が天井まで届き、そこにいた大蛇の首に噛みついた。主人に危険を知らせようとしていたのだとわかり、家の者は猫を手厚く葬って塚を築いたという。
猫塚の言伝え
この地に住む姫様と、姫様がたいそう可愛がっていた猫がおったそうな。ところがある日、猫が姫様にまとわりついて離れない。あまつさえ、猫が姫様に飛び掛かろうとした。それを見た殿様が、怒って猫の首を斬りはねてしまった。
ところが、斬りはねた猫の首は大蛇の喉に噛付いていた。そう、猫は姫様を蛇から守ろうとしていたのだった。殿様は自分が過って猫を斬ってしまったことに気がつき、この地に塚を建てその猫を手厚く葬り、お参りするようにしたという。
少林神社(わかばやし) 1
当社の具体的創建年代は不明となるが、猫伝説が残る猫塚古墳の上に鎮座しているとされる。この猫伝説とは、「昔、この地に住む姫様と可愛がっていた猫がいたという。ところがある日、猫が姫様にまとわりついて離れず、そのうち姫様に飛び掛かろうとしたので、殿様は怒ってとっさに猫の首を斬りはねてしまったという。しかし、斬りはねた猫の首は天井にいた大蛇の喉に噛付いており、猫は姫様を蛇から守ろうとしていたと知り、殿様はこの地に塚を建てて、この猫を供養した。」というものである。ただ、社名は、この由来には直接関係なく、伊達政宗公が建てた「若林城」のに由来するとされる。
少林神社 2
この神社は若林区文化センター南、約200mに鎮座しています。朱の靖国鳥居を潜ると、正面に社殿が建ち、その左側に招き猫が沢山奉納されている「猫塚神社」の石祠が祀られています。この社には「猫塚の伝承」があり、「昔、この地に住む姫様と、姫様がたいそう可愛がっていた猫がおりました。ところがある日、猫が姫様にまとわりついて離れず、そのうち姫様に飛び掛かろうとしました。それを見た殿様は怒って猫の首を斬りはねてしまいましたが、斬りはねた猫の首は天井にいた大蛇の喉に噛付いていました。猫は姫様を蛇から守ろうとしていたのでした。姫を助ける為だったと知った殿様はこの地に塚を建てて、この猫を供養したのです。」と伝えられています。この猫塚の伝承に因んで、10月22日には「ねこまつり」が開かれるそうです。
かつてこの地には、南小泉の鎮守神・保食神社と呼ばれる豊作の神が祀られていましたが、保食神社は広瀬川沿いの旅立稲荷に合祀されました。その保食神社の移転に伴い、旧伊達邸の屋敷神と大杉明神、青葉神社の分霊を勧請し、戦後に創建されたのが、現「少林神社」です。社名は伊達政宗公が建てた「若林城」の名を遺そうと命名されたそうです。
八雲神社の猫塚 山形県小国村
 (現 山形県西置賜郡小国町)
八幡神社 - 山形県西置賜郡小国町大字小国小坂町
應神天皇(おうじんてんのう)
猫塚 埼玉県大宮市三橋
 (現 埼玉県さいたま市)
勘七猫塚 埼玉県所沢市
    所沢の勘七猫 
福猫塚 埼玉県所沢市…福猫の伝承
福猫塚 1
昔、桶屋職人が猫を飼っていた。ある夜、その猫が猫踊りをしていたのを見て追い出した。猫はその後、和泉屋という料理屋に拾われた。そして街道を通る旅人に手招きをするようになった。これが評判になり、店も繁盛した。この猫は福猫と呼ばれ、死んでから塚に祀られた。
福猫塚 2
旧町の西方、鎌倉街道に数年前迄、小さな塚が残っていました。この小塚は殆ど顧みる人もなく、この道を通る人も、気づかない程のものでしたが、明治初期頃は、参拝の人も多く、街道の両側には、露天商が店を張る程の賑わいを見せていたそうです。
昔、所沢に喜平次と言う桶職人が住んでいました。或る夜のこと、自分の飼っている猫が手拭いを姐さんかぶりにして、行灯のかげで踊っているのを見てびっくりしました。もともとおくびょう者の喜平次は、腰を抜かすほど驚いて「猫は魔物だと聞いていたが、うちの猫もいよいよ魔性をあらわしてきたな」とすっかり恐れをなしましたが、家の者には、内緒にしておきました。
そしてその年のえびす講に江戸より来た魚の行商人から、さいふをはたいてイワシを買い、なおお赤飯をたいて猫にふるまってから因果を含めるように「さてお前も長くこの家に居たけれど、これ以上飼っておくわけにはいかなくなってしまったから、どこへでもお前の好きな所へ行っておくれ」と言い渡しました。すると猫は、じっと考えているようでしたが、そのまますなおに、どことなく姿を消してゆきました。
その年の暮れのことです。喜平次の家から数町離れた泉屋と言う料理屋の縁側へ一匹の猫が迷い込んできました。いかにも可愛らしい猫なので、家の人や女中たちが、残り物などをやって、そのまま飼っていると、人によく馴れて、泉屋にそのまま居ついてしまいました。やがて猫は家の中から店先へでて、ちょこんと座り、旅人たちに「おいで、おいで」の手招きをはじめました。往来の人たちも、あまり可愛い猫で、あいきょうにつりこまれて、つい立ち寄るようになり、泉屋は大繁盛をし、それからは誰言うともなく、あれは「福猫だ」と大評判になりました。そこで隣近所では、是非これにあやかりたいと料理屋を開くものが増え、松葉屋、坂口屋、武藏屋など店開きをし、どれもこれも相当繁昌しました。
時を経て明治の初め頃、小金井小次郎の子分である所沢の侠客弥五郎が亡くなった福猫のためにお堂を建てたところ、商売繁盛の守り神だと言うので花柳界の人気を呼び、近在は言うまでもなく、遠く江戸からも参拝に来る人も少なくなかったとのことです。しかし、その後、このお堂も野火で焼け、小さな塚も跡かたもなく、いつしか参拝人も遠のいてついにさびれてしまいました。
福猫塚 3
昔、所沢に喜平次という桶職人が住んでいました。
ある夜のこと、喜平次は飼っている猫が、手拭をあねさんかぶりにして、行灯(あんどん)の影で踊っているのを見ました。 喜平次は驚きましたが、誰にも言わず、可愛がっていました。
ところが、その頃から桶屋の商売がうまくいかなくなりました。「これはきっと魔性の猫を飼っているからだ。」 と思いましたが、可愛そうで捨てられずにいました。
しかし、暮らし向きはますます苦しくなります。とうとう決心した喜平次は、財布の底をはたいてイワシを買い、 赤飯を炊いて猫に振舞い「お前も長いこと、この家に居たけれど、もう家では飼っておくことができなくなってしまった。 どこへでも好きなところに行って親切な人に拾われてくれ。だが、お前に魔性があるなら、それを人のためになることに 使わなければいけないよ。」と言って聞かせました。猫はじっと聞き、そのまま素直に姿を消しました。
その年の暮れ、喜平次の家から数町離れた和泉屋という料理屋へ喜平次の猫にそっくりな猫が迷い込みました。
可愛がっていると居つくようになり、やがて、店先へ出て、ちょこんと座り「おいでおいで」と手招きを始めました。 その愛嬌に思わず人々は店に立ち寄り、和泉屋はたちまち大繁盛しました。「あれは福猫だ。」と評判になりました。
時を経て、明治の初め頃、亡くなった福猫を奉るお堂が鎌倉街道の外れの塚の上に建ちました。 商売繁盛の守り神として、参拝に来る人が後を絶たなかったそうです。  
回向院の猫塚 東京都墨田区両国
回向院
浄土宗寺院の回向院は、諸宗山無縁寺と号します。回向院は、振袖火事(1657年)の死者を埋葬し供養したのが起源です。出開帳や勧進相撲が行われ、江戸庶民の信仰の場とされました。昭和新撰江戸三十三観音霊場4番札所としての馬頭観音の他、力塚、鼠小僧の墓など数多くの名所があります。また、赤穂四十七義士が討ち入った、本所松坂町の吉良邸跡はこのすぐそばです。
諸宗山回向院無縁寺 浄土宗
縁起
回向院は、振袖火事(1657年:明暦3年正月18・19日)の死者を埋葬した当地に、江戸幕府の下知により芝増上寺の森蓮社遵誉貴屋上人が罹災者を供養、回向院と称したといいます。以後も堕胎死胎夭殤之霊の水子塚や、安政大地震の死者供養、刑死者の供養塔、関東大震災の罹災者の合葬など、無縁者を回向、江戸市中の尊崇を集めています。

諸宗山無縁寺回向院は、江戸の災害と深いかかわりを持つ寺院であり、明麿の大火(俗に振袖火事といわれる)による焼死者を埋葬した地に建てられたものである。
明暦三年(一六五七)正月十八、十九両日の大火は江戸開府以来の大惨事で、これを記録した文献は、「むさしあぶみ」を初め「実現災徐類記」「千登勢の満津」「元延実録」「明暦炎上記」「明良洪範」等、数多くある。この火災で江戸市中の大半が焼き尽くされた。「むさしあぶみ」には次のように記されている。
むさしと下総とのさかひなる牛島といふところに舟にてはこびつかはし、六十間四方にほりうづみ、新しく塚をつき、増上寺より寺をたつ。すなはち諸宗山無縁寺廻向院と号し、五七日より前に諸寺の僧衆あつまり、千部の経を読誦して魂を弔ひ不断念仏の道場となされけるこそ有がたけれ、江戸中の老幼男女袖を連ねて参詣し、声うちあげて諸共に念仏申して回向するこそたうとけれ。(中略)あまたの死かばねをひとつの穴にうずまれし事なれば、我親類はそこもとに埋れたれとは知らねども、せめて悲しさのあまりには、思ひ〃に日輪卒都婆を塚の上に立ならベ、聖霊頓証仏果と回向して、花をさし水をくみて跡をとぶらひ、なくなく念仏申すありさま見きくにつけてあはれなり。
また、「元延実録」によれば、「災後の正月二十三日から、町奉行の下知で各所から焼死者の遺体を集め、二十七日には幕府から遺体を埋葬したこの地に一寺建立の沙汰があり、二月七日には仏堂の仮屋ができ、大石塔を建て、慰霊のための資金として三百両が下された。以後、毎月十八、十九日は命日として、参詣人が絶えなかった」とある。開山は芝増上寺の森蓮社遵誉貴屋上人で、回向院の名称は上人の命名であったという。遵誉は、小石川智光寺の信誉貞存上人をここに招じ、堂舎その他も逐次完成して、江戸市民にとっては掛け替えのない寺院となったのである。明暦三年大火災殃死者の石塔には、次のように刻まれている。
   延宝三己卯年
   壱万日数 三界万霊六親眷属七世父母
   奉回向明暦三丁酉孟春為焚焼溺水諸聖霊等増進仏果
   別時念仏 蠢蠢群生有情悉皆成仏
   八月二十五日
明暦の大火後の江戸の大天災といえば、安政二年(一八五五)十月二日夜半に起こった大地震がある。地震に伴って発生した大火災による被害はすさまじく、この時の犠牲者のうち、身元不明者や引き取り人のない者たちの遺体もまた、ここに埋葬されたのである。
大正十二年(一九二三)九月一日の大地震で難にあった者の一部も回向院に合葬されたという。境内には、海難に遭って水死した人たちの合葬墓や、明治二年(一八六九)肥後軍艦溺死四十七人墓というのもある。どういういきさつでここに葬られたかは分からないが、これが無縁寺回向院の真の在り方なのであろう。
水子塚というのがある。堕胎死胎夭殤之霊を供養するため、寛政五年(一七九三)五月、老中松平忠信が回向院一二世見蓮社在誉上人に建てさせたものである。
ほかに、寛文七年(一六六七)七月建立の捨市殃罰殺害前後衆霊魂等供養塔ゃ、天明三年(一七八三)浅間山噴火殃死者を供養した石塔もある。浅間山は、天明三年七月八日に噴火し、付近の村々の被害は極めて大きかった。「徳川実記」は、「死者二万人、牛馬数知らず、回畠の損失四十里余」と伝えている。石塔は、六年後の寛政元年八月に回向院の在誉上人が建立したもの、正面には南無阿弥陀仏と大書し、側面・背面に刻文がある。左側面の刻文を掲げると次のとおりである。
天明八歳龍次戊申臘念九日
県官令大常亀山侯、下台命於増上寺。其教曰、京師東都及奥羽上毛名刹六処、各当修無遮仏事廻向横死荒霊、且以祈大稔矣。於是錫白銀若干於各寺以為法要貲。東都本庄廻向院其一断。凡起寛政改二月十一日迄十三日、謹就道場勤修施食法会及別時念仏。東都大小寺院咸皆皆雲集。以助灋会法会既竣処、磨青石以勒祭文、永垂将来、祭文日
なお、回向院には、加藤枝直、加藤千蔭、岩瀬京伝、岩瀬京山、竹本義太夫、相撲呼出先祖代々、鼠小僧次郎吉など、多くの墓もある。
回向院と相撲とは深い関係があり、現在、日本大学講堂敷地になっている回向院境には、「力塚」の碑と「東京相撲記者碑」とがある。
回向院の猫塚
猫塚は、堂々たる鼠小僧の墓の向かって右隣にあったが、現在は左側にガラス張り小屋囲いの中へ移されている。欠き石と間違えられ「ネズミ」人間にかじられないようにということか。鼠の脇で小さくなっている猫が不憫に思えた。
猫塚の由来は、説明板によると文化13(1816)年建立とあり、その後文政期(1818〜1829年)に猫の恩返し(俗にいう猫に小判)の話に結びつけられて今に伝わるのだとされる。
「 猫の恩返し(猫塚) / 猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売できなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両をくわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。」
各物語に共通しているのは、文化13年(猫塚建立年)のこと、命日が3月11日であること。飼い主は、時田半治郎や時田喜三郎、あるいは福島屋清右衛門だったりする。「猫定」という落語にも登場し、飼い主が定吉だから猫の名は「猫定」。住んでいるところは、日本橋、深川、両替町、神田川のほとり、八丁堀玉子屋新道などといろいろだ。物語中の主人とは違って、猫塚の台座には木下伊之助(あるいは由之助)と実際の建立者名が刻まれている。この人も魚屋だったのだろうか。  
西方寺の猫塚 東京都豊島区西巣鴨
    薄雲の猫 
西方寺の招き猫
浄土宗道哲西方寺(豊島区西巣鴨4の8の43)は浅草にあったころ遊女の投げ込み寺として知られたが、関東大震災で消失し現在地に移転した。「遊女薄雲伝説」にちなむ猫塚はなくなったが、名残の石の招き猫像がある。主人を救う忠義猫の有名な伝説なのでかいつまんで記す。
吉原の遊郭・三浦屋の看板遊女であった薄雲が、ある時厠へ入ろうとすると、ついてきた愛猫の三毛猫が厠に入れようとしない。遊郭の主が魔性の猫かと脇差しで首を切り落としてしまう。猫の首は天井の大蛇に食らいついて薄雲を救った。忠義の猫を供養するため薄雲は西方寺に猫塚を建てた。贔屓の豪商は伽羅(きゃら)の木で造った猫を薄雲に贈った。これを真似たものを浅草で売りに出したのが招き猫の始まりだという。
「(遊女、殿様の奥方など)厠についてくる猫→誤解され切られて首が飛ぶ→蛇にかみつき飼い主を救う→猫塚が建つ」というパターンの伝説は、このほか仙台市若林区の少林寺の猫塚、山形県置賜郡高畠町の猫の宮、埼玉県秩父郡長瀞町の猫地蔵尊などに伝わる。
西方寺に行くのには地下鉄西巣鴨駅を利用するのが一般的だが、久々に都電荒川線に乗ってみたくなり大塚駅から新庚申塚下車。白山通りから裏道に入ると西方寺はすぐだ。招き猫は入り口の門柱の上にあったが、5年以上も前に二代目高尾太夫である万治高尾の墓前に移された。本堂脇を抜けて左手に万治高尾の墓を見つける。招き猫像は高尾の墓入り口の塚の脇に座っていた。しかし、上げていた左手はなくなり頭部も欠けているではないか。修理した跡も痛々しい。無残な姿に変わり果てていた。この招き猫は西方寺がまだ浅草にあった頃につくられたもので、関東大震災で焼け出されたとすれば、石ももろくなっていたのだろう。
西方寺 1
浄土宗寺院の西方寺は、弘願山専称院と号し、本所押上大雲寺(現江戸川区)末として、浅草聖天町に開山、明治24年に当地へ移転しました。当寺には、吉原で嬌名をうたわれた2代目高尾太夫の墓所があります。
弘願山専称院西方寺 本尊 木像阿弥陀如来坐像 浄土宗
縁起 1
元和8年(1622)道哲大徳、浅草聖天町吉原土手附近で遊女が無縁仏として投げ捨てられるのを悲しみ道蓮社正誉玄育上人を請じ聖天町に一宇を建立。大正4年(1915)春火災焼失。昭和2年(1927)浅草聖天町より現在地へ移転。
縁起 2
本所押上大雲寺末 浅草聖天町 弘願山専称院西方寺、境内356坪御年貢地180坪、遍照院ヨリ借地176坪。
当寺草創相分不申候。
開山道蓮社正誉上人玄育念死大和尚、俗名相不申候。万冶3年正月22日遷化。
開基順誉無辺光道哲大徳、俗名相不申候。万冶3年12月25日死ス。
本堂、本尊阿弥陀如来、立像3尺2寸恵心僧都作。右本尊汗掛之弥陀ト称ス。道哲之念持仏ト申伝候。
十一面観世音、銅仏立像。両祖師善導円光大師、立像丈3尺。
開基道哲木像、玉眼入丈2尺5寸。
一万日回向供養塔、長1丈3尺、門内ニ在之、年号月施主之名彫付在之。
道哲石像、丈2尺5寸、門内土手際ニ在之。
転誉妙身信女、三浦屋傾城高尾事、万冶3念12月25日死ス。
高尾襟掛愛嬌地蔵、銅仏丈1寸8分本堂安置。
高尾塚、150回ニ新吉原竹屋七郎兵衛建之。
鎮守稲荷社。以上甲乙書上。
西方寺 2
刑罰場蹟
(刑場は浅草元鳥越橋際から西方寺の向、日本堤上り口に移された)此西方寺の門前すこしき所空き地にて、十間ばかりの長さ、巾は弐間余もあらんところに移されたり。この時道哲という浄土宗の道心者、かの罪人仏果得達のために昼夜念仏してありしが、滅後この寺に葬れリ。されば土手の道哲と唱へたりと。
「闇の夜は吉原ばかり月夜かな 五十両の金を懐中へ佐野槌を出て、大門をそこそこに、見返り柳を後にして、土提の道哲、待乳山、聖天町、山の宿、花川戸を過ぎ、吾妻橋・・・・」
上は落語「文七元結」の一節で、左官屋の長兵衛が吉原から吾妻橋へと辿る道筋であるが、見返り柳の次に出てくる「土手の道哲」というのは「西方寺」を意味するのである。小塚原(現南千住駅周辺)の刑場に引かれていく囚人を日本堤の土手で念仏を唱えながら見送っていた和尚が「道哲」で、道哲の開基した寺を「西方寺」といったため、西方寺そのものを「土手の道哲」と称していたものである。
この道哲にまつわる話をご紹介する。
西方寺
浄土宗西方寺の草創年代は不明。境内は浅草寺領年貢地と遍照院からの借地からなる。本尊阿弥陀如来は汗拭の弥陀、汗かきの弥陀とよばれ、開基道哲の念持仏と伝える。寺は日本堤南東端に位置することから土手の道哲とも俗称された。吉原三浦屋の傾城二代目高尾(万治三年没)の墓、その150回忌に建てられた高尾塚があった。高尾の墓には目印に紅葉が植えられ、高尾が紅葉とよばれた(江戸砂子)昭和2年(1927)現豊島区巣鴨に移転。
西方寺の開山は一説には念誉上人、別説には寛文年間記録に正覚上人、他の説には、道哲道心が開山したともいう。本尊は汗かき阿弥陀とよばれる。石門は南面し、一柱に招き猫の像を安置する。
寺には吉原で嬌名をうたわれた高尾が、一刻も肌から離さなかった小指よりも小さい襟かけ地蔵と、常用していた銅鏡とがあって、いずれも寺宝である。
寺が巣鴨に移されるとき、道哲の墓を掘ってみると、墓穴から二つの骨壷が発見された。一壺は道哲道心、一壺は二代目万治高尾という太夫の遺骨であることが判明した。そのとき高尾の遺骨と一緒に出てきたのが、この地蔵と銅鏡である。
さて、2つの壺が同じ墓から出現したときには人々は驚いた。
道哲は信心深く、人情に厚く、ことに遊女が死んだあとで浄閑寺などに投げ込まれることを哀れみ、発見しだい、ねんごろに埋葬してやったという。高尾は道哲の人情の厚きに感激し、その果ては恋に落ち入ったと伝えられているが、道哲は僧侶ではなく寺男であったともいう。
一説には、道哲は当寺の開山でなくして第二祖とした。そのわけは、高尾と恋仲に陥って破戒したから始祖としなかった。とも言われている。
この遊女高尾には、仙台藩二代目藩主伊達綱宗との仲がいろいろと伝えられている。将軍家綱の時、綱宗がふとした動機から吉原通いが始まり、高尾に魂まで打ち込んだ綱宗は、世をはばかってついに隠居することになった。そして世上有名な「仙台騒動」がはじまる。さて高尾には島田権三郎という名の秀麗な美青年が相思相愛の仲であったという。
高尾の最後は権三郎の手によって埼玉県坂戸の曹洞宗永源寺に葬られ、月桂円心大姉の戒名がつけられてある。庚子霜月27日と命日を記す。
高尾太夫のことについては、『反魂香』という冊子にも書かれてあるが、道哲のあとを追って自害したのを、人々が哀れに思って同じ墓に葬ってやったというのが正しいのか。寺の過去帖には万治3年(1660)12月29日に死んだと記入してある。道哲の死は12月25日である。
高尾は江戸で死んだといい、他方では坂戸で死んだという。また浅草山谷の春慶院にしばし身を隠して綱宗には合わなかったという話も残っている。
ちなみに初代高尾太夫(のちの榊原氏の室)の墓は、南池袋の本立寺墓地にある。
西方寺本堂のかたわらに舟型の墓があるが、高尾太夫の菩提供養の石仏であるという。それには「転誉妙心信女」と彫ってあり、円頂、立姿、珠杖を持ち、舟型光背の面に浮き彫りされており、そばに233年忌と墨書した榜示が立つ。
西方寺の石門を入って右方に西面して印章塚と彫った碑がたつ。不要になった印章や、製作の際失敗したものなどを一まとめにして土中に埋め、その上にこの塚を立て、長い間ご苦労さんでしたと印章の楼を供養する碑である。
三浦屋の抱え娼妓のうちに猫を可愛がっていた一人がいた。ある日、不浄に入ろうとしたところ、日頃可愛がっていた猫が着物の裾を加えてなかなか内に入れさせない。扉を開けて無理に中に入ってみたら一匹の蛇がいて遊女に飛び掛ろうとする。猫は踊って蛇を食い殺した。という説話に基づいて西方寺の右門の上に猫の姿を置いたのである。
「武蔵野の地蔵尊」には上に紹介したとおり「一壺は万治高尾という太夫の遺骨である」と書いてあった。「武蔵野の地蔵尊」という本自体は「奇書」ではなく、立派な資料である。しかし、この部分はもっとはっきりとした資料がほしい。お骨の移動が昭和2年のことであるからお寺には資料もあるのだろう、そう思い直接西方寺へ電話し、ご住職にお尋ねした。その結果は残念ながら「明確なものは無し」ということである。「西方寺はどちらかといえば娼妓など、無名大衆を供養する寺であった。住持は私度僧で、無住の時もあるという状態で、資料はどの程度作成されていたかも判らない。その上関東大震災での焼失で資料は残されていない。過去帖も紛失部分の再発行を重ねて作り直されたようなものである。むしろ落語など寺出所以外の伝聞がある状態である。」という。たしかに、「『反魂香』という冊子に書かれている」とあるが、これは落語の『反魂香』のことではなかろうか。私の住む府中市の図書館で検索したが「反魂香」という「本」は置いてなかった。従って、「武蔵野の地蔵尊」の内容はこれ以上真実に迫ることは出来ないが、ご住職の言われたことを含め、今でいうとボランティア的な寺もあった、ボランティア的な僧侶もいた、そのような僧の一人が「土手の道哲」であった。そして大衆に美化されていったのであろう。「やはり道哲はえらいのだ」といろいろを含めて「江戸の一部の再発見」になったと思う。
「史実に正直に」というご回答をいただいたご住職にも感謝申し上げます。
土手の道哲並高尾
「吉原恋の道引き」(延宝6年(1678)板本)堤のかたはらに、いとかすかなる庵あり。これをいかにと問うに、さりし明暦(1655-58)の頃より、道哲といいし道心者、世を難しくや思いけん。所もおほきに、ここに庵をなん結びて住みしが、二六時中鉦の声たえせず。ねぶつかすかに聞こえて、いかなるも哀れをもよほさぬはなし云々。
「事蹟合考(じせきがっこう)」[割注]延享3年(1746)写本杏園蔵本」に、今戸橋(新鳥越橋か)の南、木戸際西方寺と云う寺の前、少し土高き所空地にて、十間ばかりの長さ、巾二間ばかりもあらん所、昔つみんどを刑せられたる所なり。その時道哲と云う道心者、彼罪人仏果得脱の為に、昼夜念仏したりしが、滅後西方寺に葬りしゆえに、道哲の昌あり云々。
「沾涼説」に、弘願山(こうがんさん)専称院西方寺は、開山念誉上人なり。巡誉(じゅんよ)道哲は住職にあらず。定念仏発起の願主道心者なり。得ある僧にて、世人当寺開山のように云い来たれリ云々。[割注]案ずるに、道哲在俗の時、三浦屋の高尾が私夫(まぶ)なりと云うは妄説なり。
「事蹟合考」の説の如く、罪人得脱抜苦の為、定念仏し、ここに吉原のうつらざる以前より住みし道心者なること疑いなし。土佐ぶし「三世二河白道」というに、高尾道哲が教化(きょうげ)にて、成仏したるよしを作りしより、虚妄を伝えしならん。予西方寺にいたりてたずぬるに、道哲万治3年(1660)12月25日、高尾と同日に寂(じゃく)すという。されど、「恋の道引」に、道哲庵の図出せるを見、「紫の一本(天和3年(1683)写本」(二本堤のきはに、道哲が寺ありと掲載)の文を考えれば、延宝、天和の頃まで、ながらへしよう思わる。道鉄が墓の年月を記(しる)さざるゆえに、詳らかならぬと見えたり。
<汗かきの弥陀>立像3尺、安弥作、道哲持仏、今西方寺本尊是なり。
<道哲の墓>同寺にあり。道哲の石像、定念仏の姿を刻む。法号年月等しるさず。
<高尾襟掛地蔵>銅仏立像、1寸8分、高尾守袋へ入れし仏なり。同寺にあり。
<同墓>同寺にあり。碑面に地蔵を彫る。上に紅葉の紋あり。右に転誉妙身信女。万治三庚子年十二月二十五。左に「寒風にもろくもつくる紅葉哉」とあり、墓の後ろに紅葉の木あり。高尾の紅葉と云う。今のは若木なり。
<同位牌>同寺にあり。法名前の如し。惣高二尺余。
<同所時羽子板>同寺にあり。図をあらわす。
<附云>同所三谷町春慶院にも、高尾の墓あり。法名辞世は同じと言えども、死せる年と日はおなじからず。万治二巳亥年十二月五日とあり。
高尾の襟掛地蔵
土手の道哲で通っている西方寺には、万治高尾の遺物だと言う手紙や色紙と共に櫛(くし)、笄(こうがい)、羽子板が残っていたが、今日では数度の火災で焼失し、ただ一寸二分ある木像の襟掛け地蔵が、一躯あるだけになった。それも先日搬出物の大部分が焼けて、本尊様さえ灰になった中に、厨子が壊れたのみで、不思議にも余燼のほかに、残っていたと云う。名妓高尾の生前に、襟にかけていた仏像とすれば、銅仏立像とある。現在の仏像ではあるが、木仏である。それを今更詮索しようと言うのではない。すでに高尾の遺物の全てが、真偽を考えさせるほどのものとは思われぬ。それらの遺物が、この寺にあるのは、高尾の墳墓があるからなのだが、「江戸鹿子」、「江戸砂子」などはこの寺にあるのが真実の墓だといえば、瀬名貞雄・太田南畝・山東京伝は山谷の春慶寺のが正しいと言っている。
今日は銅線で鉢巻をしている石像が、名高い道哲の形身なのだけれども、没後にも「かねをたたいて仏にならばサ、土手の道哲は気のとほつた仏じゃ」と唄われたのは、明暦(1655-58)の頃からここに庵居して、不断念仏を勤めていた、そこへ花廓が引っ越してきたのに、道哲は相変らずチャンチャン鉦をたたいていたから、小庵にやつれた道心坊と、全盛を唄われる遊女と、いかにも変った取り合わせであった。特に昼は賑やかな昔の吉原だけに、夜になっての道哲のチャンチャンは、妙に淋しさを加える。そんなことから、彼を名高くしたのである。高尾に搦んだ道哲の伝説は、好奇心が産んだ面白い嘘でなくて、何であろう。我らが嘘や偽物を知らないでもないのに、ご苦労様に、これらの訪問を何故するか。一体高尾などを研究の項目にすることは、いつ頃から起こったのだろう。そうして、洒落なのか、風流なのか、我らにはその方が考えたいのである。
仙台侯の狎妓かおる
仙台侯伊達綱宗が、伽羅の下駄を履いて吉原へ通ったとか、落籍した高尾を中州の三叉で堤げ切りにしたとか、盛んに訛伝(かでん)されたので、大名の傾城狂いの第一人者のように言われているが、延宝(1673-81)度に、遊女の腹から出た大名が23人ある(「長崎土産」)、といわれたのでも、大名の太夫買い、廓通いが仙台侯だけでないのが知れよう。陸奥守綱宗が、御茶の水開鑿の幕命によって工事を始めたのは、万治3年2月10日からで、牛込から和泉橋までの間を疎通するために、毎日6200人の人夫を使用した。在国であった綱宗が出府して自身で現場へ監督に出かけたのは6月1日からで、隠居させられたのは7月18日なのだ。綱宗は御茶の水への往復に吉原で遊んだ。この時は新吉原で、現在の場所なのに、仙台家の江戸屋敷は、今の新橋停車場のところにあったのだから、この間を往復されるのには、道寄りとか通りがかりとかでないのは明白である。年の若い仙台様は多数な人夫で盛んに工事を運ぶ、その景気に浮かれたのであろう。三浦屋の高尾を敵娼(あいかた)にしたと云うのは間違いで、京町高島屋のかおるを買い、それを落籍したと伝えたほうが事実らしい。

さて、ここに挙げた資料と高尾、道哲の事蹟を年代別に整理してみよう。
1655年頃  道哲西方寺で念仏始める
1659年12月 高尾死亡説
1660年6月  仙台侯出府
1660年7月  仙台侯隠居
1660年12月 高尾死亡説
1660年12月 道哲死亡説
1680年頃  道哲死亡説
1800年頃  近世奇跡考発表
1924年頃  鳶魚全集、文庫内容発表
1927年   西方寺が巣鴨に移転
1972年   武蔵野の地蔵尊発表
土手の道哲補追を作成して驚いた。説に一致するものは少なく、異説が多いのである。山東京伝、三田村鳶魚共に資料価値の高い作者として位置付けられているにもかかわらずである。寺社の由緒はいろいろのタイプがあり、明らかにありえない伝承によるものも多い(行基開山など)。それでも、その伝承をそのままに寺社を尊崇している。江戸時代まで来ると文献は結構残っているが、異なった内容のものが多いという、情報化は進んだが、一貫するまで高度にはなっていないと云う状態なのだろう、江戸研究者にとって反って定説を出しづらい状態にあるらしい。
私はもちろん自説を語ることはできない。「西方寺は土手の道哲といわれた念仏僧と、高尾太夫を頂点とする遊女に関係が深く、一つの役割を果たしてきた寺として有名である。」と理解しておきたい。  
大信寺の猫塚 東京都港区松坂町
大信寺 1 
浄土宗寺院の大信寺は、寶嶋山峯樹院と号します。大信寺は、念蓮社称誉上人涼公和尚(寛永14年寂)が開山となり、慶長16年八丁堀に創建したといいます。寛永12年三田へ移転、称蓮社教誉上人源公和尚(正保3年1646年寂)が中興したといいます。
寶嶋山峯樹院大信寺 浄土宗
縁起 1
大信寺は、念蓮社称誉上人涼公和尚(寛永14年寂)が開山となり、慶長16年八丁堀に創建したといいます。寛永12年三田へ移転、称蓮社教誉上人源公和尚(正保3年1646年寂)が中興したといいます。
京都知恩院末 芝三田
寶嶋山峯樹院大信寺、境内九百八十九坪内八百二十四坪拝領地百六十五坪年貢地
起立之儀ハ慶長十六辛亥年八丁堀ニ而一宇建立仕候。
開山念蓮社称誉上人涼公和尚寛永十四丁丑年正月十一日卒
寛永十二乙亥年当所江替地被仰付候。
中興称蓮社教誉上人源公和尚正保三丙戌念九月十六日卒。
本堂、間口七間奥行六間半。
本尊阿弥陀如来、木立像丈二尺五寸三分。
脇立観世音菩薩、勢至菩薩、各木立像丈一尺九寸五分。
善導大師、木座像丈一尺六寸五分。
円光大師同。
喚鐘、差渡一尺二寸。
鐘楼、二間四方。大鐘丈三尺四寸三分差渡二尺五寸。
秋葉社、九尺ニ一間、拝殿一間ニ二間。神体面厨子入。前立三尺坊、厨子入丈九寸。
観音堂、三間四方、向拝九尺ニ三間。
厄除正観世音菩薩、丈一尺九寸、聖徳太子作。右本鎌倉権五郎景政守本尊。脇立地蔵尊、厨子入立像丈七寸五分。毘沙門天、厨子入立像丈九寸。前立観世音、立像丈二尺。馬頭観世音同。聖徳太子、厨子入立像丈三尺一寸五分・弁財天、厨子入座像丈一尺二寸。以上戊子書上。
縁起 2
大信寺 三田松坂町三十番地
浄土宗智恩院末、寳島山峰樹院。慶長十六年八丁堀に創建し、寛永十二年現在の地に遷った。開山凉公は寛永十四年正月寂した。寺内に、鎌倉権五郎の持佛と稱する厄除観音がある。
大信寺 2
東京都港区三田四丁目7-20に存在する浄土宗の寺院。詳しくは宝島山峯樹院大信寺(ほうとうざん ほうじゅいん だいしんじ)という。別名「三味線寺」。
慶長16年(1611年)涼公上人が、江戸幕府より南八丁堀に寺領を拝領し寺院を創建した。この時の山号は峰島山であった。
寛永12年(1635年)江戸の町の発展に伴い上知により現在の三田に移転した。翌、寛永13年(1636年)江戸における三味線製作の始祖とされる石村源左衛門が当寺に葬られ、以後、当寺は三味線製作者石村近江累代の墓所となった。
三味線屋の猫塚
日本に鉄砲と三線が伝わらなければ・・・
三味線屋さんの看板猫を弔った宝島山峯樹院大信寺(別名:三味線寺)の猫塚を訪ねてみました。慶長16年(1611年)に涼公上人が創建し、寛永12年(1635年)に現在の場所に移転したと伝えられている浄土宗のお寺さんです。江戸における三味線製作の第一人者である石村近江累代の墓所となったことから三味線寺とも呼ばれています。
さて、このお寺というか猫塚を取り上げる以上、なぜ猫の皮が三味線に使われているのかについて触れないわけにもいきません。
16世紀末、琉球貿易により中国の三弦が堺にもたらされたのが三味線の始まりで、蛇皮の三弦から猫皮の三味線へと短期間の間に改良されたそうです。三弦から三味線への改良に関しては、上方の盲人音楽家(琵琶法師など)が深く関わっており、そのことは演奏方法に見てとれ、義爪を使う三線の演奏から琵琶の撥を使う三味線への演奏へと変化しています。こうした三味線への改良(日本仕様の楽器への改良)を完成させたのが大信寺に墓所のある石村検校(石村近江の始祖)で、三味線は日本全国で盛んに地唄とともにつま弾かれるようになりました。なぜならば、当時民衆が手にすることを許された楽器は、神楽の笛、太鼓、鈴、三味線の4つだけだったからです。
質が良かったばかりに猫の皮が最高級品とは・・・
三弦から三味線へと改良にあたり、最も変化したのは弾いた音を共鳴させる皮の部分でしょう。なぜ、にゃんこの皮になったのかと言えば、蛇革は高価(南方から輸入となります)であったため、廉価で代用できる犬と猫を比較した場合、猫皮の方が丈夫で音色にはりがあり、使うほど色艶が上がるためだそうです。
四つ乳、または四つ皮と言う乳首が四つある猫の皮を裏表に張った八つ乳(にゃんこは乳が8つある)と呼ばれるものが最高級品とされており、肩のあたりの硬い部分と乳首のまわりの柔らかい部分が、やはりこれも不規則に共鳴し合い、いい音色となるのだそうです。そのため乳の数が少ないものはランクが落ちるとのこと。さらに若くて妊娠経験のない雌猫(皮にキズがないため)や魚をたらふく食べる瀬戸内の猫が人気を集めたようです(諸説あり)。
今では合皮や犬の皮(7割程度)が使われ、猫の皮は海外からの輸入品と殺処分された猫の皮を使っているようです。また、野良猫や野良犬を捕獲してくることを生業としている人たちもいるようで、本件に関しては「伝統芸能に関する生業(許可制)」として、動物保護法からは免除されているとのことです。ちなみに力強い音が特徴の津軽三味線は犬の皮で必ず作るそうです。
また、傾城太夫で有名な薄雲太夫(にゃん旅Vol.5)が常に猫を膝に乗せていたことから、その人気にあやかるためという異説もありますが・・・こちらは後づけでしょう。
無駄な殺生が行なわれていないことを祈るのみ
わんこの皮が7割の使われていることも愕然とする事実ですが・・・国内外問わず、毛皮目的の密猟が行なわれていないことを強く深く願うものです。くれぐれも皮目的だけの殺生がないことを祈るのみです。
さて、本題に戻り大信寺奥の墓地には三味線屋である「ねこ屋」の看板猫だった「駒」を祀った猫塚があります。石村近江の菩提寺であることから、あやかって葬ったのでしょう。お寺の方によると「駒」のみならず、三味線の犠牲になった他の猫たちも弔っているとのことです。
夏目漱石の猫塚 東京都新宿区弁天町
吾輩は猫である
『吾輩は猫である』は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年1月、『ホトトギス』に発表され、好評であったため、翌1906年8月まで継続した。主人公「吾輩」のモデルは、夏目漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住み着いた、野良の黒猫で、1908年9月13日に猫が死亡した。
そのとき、夏目漱石は親しい人達に猫の死亡通知を出した。また、猫の墓を立て、書斎裏の桜の樹の下に埋めた。
小さな墓標の裏に「この下に稲妻起る宵あらん」と安らかに眠ることを願った一句を添えた後、猫が亡くなる直前の様子を「猫の墓」という随筆に書き記している。「猫の墓」という随筆は『永日小品』所収されている。
毎年9月13日は「猫の命日」である。
『猫』が執筆された文京区千駄木にあった当時の漱石邸は。現在は愛知県犬山市の野外博物館明治村に移築されていて、公開されている。近くには森鴎外邸も移築された。
東京都新宿区弁天町の漱石山房跡地漱石公園には「猫塚」がある。これは、後年復元したものだという。
漱石山房
「山房」とは一般に書斎を意味し、記念館の建つ場所にはかつて夏目漱石の文学活動の拠点となった「漱石山房」と呼ばれる空間がありました。 漱石は明治40年(1907)9 月29日に早稲田南町に転居し、大正5年(1916)12 月9 日に亡くなるまで、この場所で生活し数々の作品を生み出しました。記念館には漱石の書斎等の再現展示がありますが、これを制作するにあたり、「漱石山房」の姿を求めて様々な調査が行われました。本展では、この調査成果を中心に、「漱石山房」の誕生から、門下生たちにとっての「漱石山房」、空襲による焼失、その後の記念館が開館するまでの経緯などをわかりやすく紹介します。
1.「漱石山房」の誕生
明治40年(1907)、漱石は教職を辞し東京朝日新聞社に入社すると、本格的に学者から作家としての道を歩み始めます。本郷区駒込千駄木町(現在の文京区向丘)の家から駒込西片町(現在の文京区西片町)の家を経て、同年9月に生家にも程近い牛込区早稲田南町七番地に転居しました。「漱石山房」と呼ばれたこの家は、洋風とも中国風ともつかないベランダ式回廊を三方に廻らせた和洋折衷のつくりでした。
2.「漱石山房」と木曜会
森成氏送別宴記念写真(明治44年4月12日)漱石の家族や、芥川龍之介、森田草平をはじめとする漱石の門下生が漱石山房の様子を書き残しています。その記述を辿り、彼らの心に刻まれた「漱石山房」、「木曜会」を探ります。
3.主無き「漱石山房」
九日会手帳漱石の没後も、門下生たちは命日の9日に「漱石山房」に集い、師を偲びました(九日会)。また、夫人の鏡子はこの土地を買い取り、書斎と客間部分を曳家し、母屋は増改築して居住していました。漱石生前のままに残された書斎部分を保存しようという動きもありましたが、実現せず、昭和20年(1945)5月の空襲で家屋は全て焼失しました。
4.「漱石山房」の姿を求めて
漱石山房模型(新宿歴史博物館蔵)戦後、山房の土地は東京都及び個人の所有に移りましたが、新宿区は「漱石山房」の記憶をとどめるため史跡に指定し、その一画を借用し「猫の墓(猫塚)」を再興しました。その後平成29年(2017)の漱石山房記念館開館に到るまで、失われた「漱石山房」の姿を求めて行われた様々な調査成果を紹介します。
慈照寺の猫塚 山梨県中巨摩郡竜王町
    慈照寺 
遍照院の猫塚 静岡県榛原(はいばら)郡御前崎町
猫塚 ねずみ塚 1
その昔、御前崎に遍照院という寺があった。そこの住職がある時、難破した船の木片に取りすがって流れてきた子猫を助けて、寺で飼うことにした。
それから10年の月日が流れた頃、遍照院に旅の僧が宿を求めてきた。住職を快くその僧を迎え入れた。そして3日目の夜、突然本堂の屋根裏で何かが格闘する大きな物音がした。翌朝、おそるおそる屋根裏を覗いてみると、寺の飼い猫と隣家の猫が深手を負って倒れていた。さらにそのそばには、旅僧の衣服をまとった大鼠が死んでいたのである。旅の僧に化けて住職を喰い殺そうとした大鼠の企みに気付いた猫が、命を助けて貰った恩義に報いるために、大鼠を倒して住職の危難を救ったのである。
住職はこの2匹の猫を懇ろに葬り、そこに塚を建てた。これが現在でも残る猫塚である。
一方の殺された大鼠であるが、こちらは海に捨てることとなったが、運びきれずに海岸近くにうち捨てられてしまった。すると住職の夢枕に大鼠が現れ、改心して今後は海上の安全と大漁を約束すると伝えた。そこで住職は、大鼠のためにも塚を建ててやったのである。それがねずみ塚である。
猫塚 ねずみ塚 2
昔、御前崎に遍照院というお寺がありました。ある日、住職が丘の上から海を眺めていると、沖に流されている一匹の子猫を見つけました。子猫は船の板の上にすがり、荒波に揺られています。かわいそうに思った住職は、漁師に頼んで子猫を助け、寺に連れて帰りました。
お寺で育てられた子猫はすくすくと成長し、住職の言葉を聞き分けるほどになりました。それから10年の月日が経ったある日、一人の僧が「四・五日泊めてくださらぬか」と寺をたずねてきました。住職は快く僧侶を泊めてあげました。
3日後。寺の猫のもとに、隣の猫がお伊勢参りに行こうと誘いにやってきました。寺の猫はなんとなく住職のことが気がかりで「今は行けないよ」と断りました。隣の猫はしばらく話をした後、重い足取りで帰っていきました。
その夜のこと。本堂の天井裏で激しい物音が起こりました。驚いた住職は急いで本堂に向かいましたが、周りは暗くてよく分かりません。
朝になって住職が再び本堂へ行くと、天井の板の間から血がしたたり落ちていました。びっくりして屋根裏を調べると、寺の猫と隣の猫が傷だらけになって倒れていました。その近くには、犬ほどもある大きさの古ネズミが衣をまとってうずくまっています。
ネズミは旅の僧侶に化けて、住職を食い殺そうとしていたのです。それに気づいた寺の猫は、隣の猫に助けを借りて、二匹でネズミを退治したのです。手当の甲斐なく死んでしまった猫たちは、寺の脇に葬られました。
一方のネズミの死体は、村人たちが海に捨てようと運び出しました。ですが、道中で急に重くなったので、その場に捨て去られました。その後、ネズミは村人の夢に現れ、「われを祀ってくだされば、この地の漁業の守りとならん」と告げました。村人たちはネズミも手厚く葬りました。それぞれの墓は「猫塚」「ねずみ塚」と呼ばれて今に伝わっています。
猫塚 ねずみ塚 3
昔、御前崎に遍照院という寺がありました。寺の住職がある朝、海岸で難破した船の木片に掴まって流されている子猫を見つけ、漁師に頼んで子猫を助けてもらいます。住職は子猫を寺で飼うことにしました。
住職の愛情を受けて子猫はすくすくと育ち、それから10年の月日が流れた頃、遍照院に旅の僧が宿を求めてきました。住職は快くその僧を迎え入れます。
そして3日目の夜、本堂の屋根裏で何かが格闘する大きな物音がした。翌朝、住職は恐る恐る屋根裏を覗いてみると、寺の飼い猫と隣家の猫が深手を負って倒れていました。さらにその側には、旅僧の衣服をまとった犬程の大きさのある大鼠が死んでいました。旅の僧に化けて住職を喰い殺そうとした大鼠の企みに気付いた猫が、命を助けて貰った恩義に報いるために、大鼠を倒して住職の危難を救ったのでした。
住職はこの2匹の猫を懇ろに葬り、そこに塚を建てました。これが現在、御前崎市の住宅地に残る猫塚です。
一方、猫に退治された大鼠は、海に捨てることとなり、村人は運びきれずに海岸近くの崖に捨てました。
数日後、村人の夢枕に打ち捨てられた大鼠が現れ、改心して今後は大漁と海の安全を約束して守り神となるからお墓を建てて欲しいと訴えました。そこで住民は、皆と相談して大鼠のためにも塚を建ててやりました。
それが現在伝わるねずみ塚で、以来、御前崎の人は、航海や漁の安全を祈願に訪れるそうです。
猫塚は静かな住宅地の畑の側に昭和7年に建立され、かなり風化が進んでいる印象でした。一方のねずみ塚は、カップルや家族連れが訪れるケープパーク近くにねずみ塚公園として整備されてます。〜住職の危機を救ったのは、猫達なんですけどね〜
猫塚 静岡県湖西市白須賀
猫塚
昔、白須賀のわかば屋という宿におかよという気立てのよい色白の娘が女中として雇われていました。おかよはすぐにお客の人気者になり、特別に許されてタマという白猫を飼い始めました。しばらくしておかよは労咳(肺結核)にかかってしまいました。すると、宿屋の主人とおかみは、手のひらを返すようにおかよを虐待し始めました。食事もろくに与えられなかったので、おかよはついに亡くなってしまいました。そのうえ、お葬式も出してもらえず、無縁塚へ葬られたのでした。  
それから少しして、宿屋の主人が廁(かわや)から出てくると、そこへタマが現れ、主人の顔を爪で引っかきました。その拍子に、主人は庭へ転げ落ち、運悪く石に頭をぶつけて亡くなってしまいました。その直後には、わかば屋が原因不明の火事になりました。これはおかよの怨念(おんねん)だと驚いた人たちは、おかよの霊をしずめるために塚を造り、それを猫塚というようになりました。
袈裟切り地蔵
昔、ある侍が、白須賀の宿に泊まったところ、「近ごろ潮見坂に毎夜化け物が出て、通行人が難儀をして困っている」という話を聞きました。「それでは、わたしが退治してやろう」と夜になるのを待って潮見坂に向かいました。坂の途中に差し掛かると、確かに得体の知れない化け物が現れたではありませんか。侍はひるむことなく刀を抜き「えいっ」と一太刀切り付けて宿へ戻ると、「手ごたえがあった」と町の人たちに伝えました。 翌朝、町の人たちが見に行くと、どうしたことか6体のお地蔵様の内1体が袈裟がけに切られていました。化け物の正体は、お地蔵様のいたずらだったのです。
白須賀宿
あたりは、遠州灘を前に美しい松林がつづく。爽快な海の眺めは旅人の疲れを癒してくれた。さすが、汐見坂というが中々の眺め。眺めはいいが、下をみろ。大名が通っているぞ。頭を下げろ、頭をさげろ。
白須賀は街道としては古くから交通の要衝で、室町幕府六代将軍足利義教は永享4年(1432)に富士山を見に行く途中潮見坂で歌を作り、天文年間(1532〜55)に関東へ旅した法華門徒たちは往復とも白須賀を通っており、室町時代にも江戸時代同様に重要な街道筋であった。慶長6年(1601)に東海道が整備され、白須賀宿が正式に東海道筋の宿場町となった。宿場は潮見坂の下にあったが、宝永4年(1707)の津波によって壊滅的な被害を受けたため、坂の上の天伯原台地に移転したが、今度は西風が強く火災に見舞われることが多くなった。江戸時代を通じて幕府領のまま推移している。慶長7年(1602)の資料によると、町並の長さは10町、町名には東町・橋町・東中町・西中町・高見町・西町があり、家数300軒余。天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、宿内の町並は東西14町余、加宿境宿新田を含めた家数613・人数2,704、本陣1・脇本陣1・旅籠27(大15・中2・小10)・問屋1。農業の合間に、男は往還稼ぎや漁猟、女は麻・木綿を織る。 
安永2年(1773)の大火により、宿伝馬・問屋のある西部の高見町から東町まで全焼し、200戸余が罹災した。そのため宿の西方の各所に槙の木を植えて防風林・防火林とした。今でも軒の深い伝統的な家屋がよく残っていて、宿場町当時の面影を色濃く残しているのは、東海道本線が北の鷲津を通ったために、発展から取り残されたのであろう。宿内には枡形(当地では曲尺手(かねんて)という)も残り、防衛的な配慮もされていたし、防火林も残っていた。これだけ多くの伝統的な家屋が残っているにも拘わらず、本陣や脇本陣、問屋の遺構が残っておらず、その点では少し哀れなひっそりとした町並であった。 
猫塚 石川県鹿島郡能登部村
法船寺の義猫塚 石川県金沢市中央通町
法船寺 義猫塚 1
法船寺は元は尾張の犬山にあった寺院であるが、前田家の移封に合わせて移転を繰り返し、加賀移封の際にも金沢に地所を与えられた。本尊は藩祖・前田利家が豊臣秀吉から奥州統一の戦利品として拝領したものであり、また他の寺院が寺町に集められたのに対して現在と同じ場所に置かれ、さらに寛永時代の頃の住職の母が先代藩主・前田利長の乳母だったとされ、前田家にとっては所縁の深い寺であった。ところが、寛永8年(1631年)に起こった大火がこの法船寺前が火元であったために、地所を返上。約70年後の元禄時代になって、ようやくかつてと同じ地所に再建を許されたという経緯を持つ。
そして法船寺には金沢を代表する有名な伝説が残されている。
享保の頃。本堂の天井裏に鼠が棲み着いて暴れるようになった。その大きさは並みの鼠の比ではなく、相当な大きさであった。住職が困り果てていると、近所の者が1匹の子猫を持ってきたので、それを寺で飼うことにした。
しばらくして猫も立派な体格となったので、そろそろ鼠を退治するかと期待したが、一向にその気配はない。やきもきしているとある晩、その猫が夢枕に現れた。そして「あの大鼠は私だけでは退治できません。能登の鹿島郡にいる猫と共に戦えば勝てると思います。少しお暇をいただきます」と言うと、翌日から姿を消した。
2日後、再び猫が寺に姿を見せたが、見慣れぬ猫を連れている。そしてまたその夜に夢枕に現れて「明後日の夜に鼠を退治します」と伝えた。
その当日の夜、2匹の猫は本堂の天井裏に入り込むと、いきなり大きな物音がして猫と鼠の戦いが始まった。猫が鼠を天井から追い落としたら打ち据えて殺そうと人々が本堂で待ち構えていると、ますます物音は大きくなり、ついに天井の板が破れて鼠が落ちてきた。寺男たちは傷つき力尽きた鼠をたやすく打ち殺したのである。そして住職が天井裏に上ると、2匹の猫は古鼠の毒気に当てられたのか、既に死んでしまっていた。憐れに思った住職は2匹の猫の死骸を丁重に葬ってやったという。
現在も寺の境内の一角に、この猫を供養したとされる義猫塚が残されている。またさらに境内にある薬師堂の一部は、加賀騒動で有名な大槻伝蔵の屋敷の一部を移築したものであるという。
法船寺の猫塚 2
むかしむかし、金沢の法船寺の和尚さんは、この頃仏壇の天井裏にネズミが出るので困っていました。それもかなり大きいようです。お経を唱えるごとに上をドカドカと走り、時々天井板を踏み外していきます。はじめは、こんなでかいネズミはいない、ムジナか何かと思っていましたが、ときどきチューチューと鳴き声がするので、やはりネズミに違いありません。
ある日、近所のじいさんが法船寺へ猫を持ってきてくれました。「ネズミが出ると聞きましたのでな。こいつの親はネズミをたくさん捕りましたので、こいつもきっと役に立ちますよ。」「おお、それはうれしい。なんとかせねばいかんと思っていたとこじゃ。」見ると目がくりくりとして大変可愛い猫です。猫は見知らぬ人になかなか馴れないものですが、和尚さんが抱くと安心したように腕の中で眠ります。和尚さんはいっぺんで気に入ってしまいました。でも、あのでかいネズミを退治するにはまだ体が小さくてかわいそうだなと和尚さんは思いました。そこで玄関先に小さな小屋を作り、大切に育てることにしたのです。
その猫はじつに和尚さんになつきました。和尚さんがおつとめから帰ってくれば、玄関先から走ってきて、お帰りといわんばかりに和尚さんの顔を見上げてにゃあにゃあと鳴くのです。和尚さんが縁側に座って庭をながめていれば、その膝に飛び込んで甘えます。その間も、例のネズミは相変わらず天井裏を走りまわっていました。でも和尚さんはその猫がいとしくて、まだまだ大きくなってから手柄を上げさせてやりたいと我慢していました。
やがて一年半がたち、その猫はかなり立派な体格になってきたので、和尚さんはそろそろいいかなと思い、はしごを持ってきて、天井板を外し、猫を天井裏へ入れようとしました。ところが、猫は激しく鳴き始め、和尚さんの手をつかんで天井裏へ入ろうとしません。和尚さんの目を見つめ悲しそうに鳴くのです。和尚さんは思わず猫を降ろして抱きしめました。「おおお、すまなかった・・・わしの都合ばかりでお前をこんなに苦しめるとはの。わしはなんと、だいそれた事をしたのじゃ・・・」和尚さんは涙を流してしまいました。
しかし、あのネズミはそのまま放っておくわけにいきません。次の日、和尚さんは近所の人々にネズミ捕りの依頼をしました。すぐに元気な若者二人がネズミ捕りを持ってきて、「ご心配いりませんよ。一、二日で静かになります。」そう言って天井裏へ上がって行きました。ところが、しばらくして「うわあー」と声があり、ガタガタと天井をはいずる音がして、二人がはしごをかけ降りてきたのです。
二人の話では、天井裏をはい進んでいた時、奥の角に何か大きい丸いものが見えるので、ソロリソロリと寄って行ったら、それには毛が生えていた。一体何だろうともう少し寄ってみたら、それはヒクとかすかに動く。その丸いものの下に明らかに2つの目がある。やがてそれはタヌキほどもある、でかいネズミだと気づいて、二人はあわてて逃げ出してきたと言うのです。「和尚さん、申し訳ありません。私どもでは退治は無理です。」二人は和尚さんに何度も謝り、帰って行きました。
「タヌキほどもあるとはのう。わしの猫が怖がるのも無理はない。本当に申し訳ないことをしてしまった。さてどうしたらよいものじゃろう。」その日の夜、和尚さんはそう思いながら眠りに入って行きました。すると夢のなかに猫が、娘の姿で現れてこう言うのです。「和尚さま、私を毎日大事に育てていただいて有難うございます。なんとか御恩をお返ししたいと思っているのですが、あのネズミは到底私の手におえないのです。私もつらかったので、あちこち仲間に聞いておりましたら、能登の鹿島に強い仲間がいると聞きました。しばらくおいとまを頂きましたら連れてまいります。どうかそれまでお待ちください。」
次の日、和尚さんが起きて夢を思い出し、猫の小屋まで行くと、あの猫がおりません。あちこち呼んでみましたが、それでも現れません。夢の中で猫が言った言葉を思い出しましたが、夢は夢に過ぎません。もしかしたら、あの恐ろしさで猫がどこかへいって、もう帰ってこないのかと和尚さんは悲しみました。
ところがそれから二週間後のことです。和尚さんがおつとめから帰ってくると、猫が玄関から走ってきてにゃあにゃあと和尚さんをむかえてくれたのです。「おお、おまえさん帰ってくれたか! よう帰ってくれた。わしはさみしかったぞ。」和尚さんはうれしくて猫を抱き上げ、しっかり抱きしめていた時、玄関の猫の小屋の横に、もう一匹のでかい猫が、その様子をじっと見つめているのに気づきました。「ああ、あれがお前の仲間か。あの夢は本当だったのじゃな。だがもういいぞ。わしはネズミ退治よりお前のほうが大事なんじゃ。わしが少し我慢していればいいことじゃ。」
しかし、そう言って猫を腕から下ろした途端、二匹の猫はすぐ仏壇の部屋へ走っていき、天井を見つめてにゃーにゃーと鳴き出したのです。「お前さんたち、あいつをやっつけてくれると言うのか。無理をせんでもいいのだぞ。」何度そう言ってなだめても、二匹の猫は鳴き止みません。そこで和尚さんは仕方なく近所の人達数人に助っ人を頼みました。「よいか、無理だと分かったらすぐ降りてくるのじゃ。」和尚さんは猫たちに念を押して天井板を一枚はずし、二匹の猫をその中に入れました。
すると一瞬の沈黙のあと、「ふーっ」「ふーっ」「ぎゃおー」、ガラガラ、ドーンと戦いのすさまじい鳴き声と音が聞こえてきました。「おおお・・・がんばってくれ。」近所の人たちも、口々に応援します。「がんばれー。」「やっつけろー。」しばらくして、とつぜん、はずした天井板から、でかい灰色の動物がドオンと畳の上へ転げ落ちてきました。そいつは人々を見て逃げようとするので、人々は用意していた棒でたたきのめし、とうとうやっつけてしまいました。
人々が喜んでいた時、和尚さんが天井を見上げると、あの猫たちは、はずれた天井板から顔をのぞかせ、ネズミをにらみつけていました。「お前たち、ようやってくれたな。」和尚さんはそう声をかけました。ところが猫たちはピクリとも動きません。和尚さんはどうしたのかと思ってはしごを登って行きました。動かないのも当然、猫はすでに息をひきとっていたのです。「お前たち・・・こんなわしのために命をかけてくれたのか・・・」和尚さんは泣きながら2匹の猫をしっかり抱きしめました。
その後和尚さんは、2匹の猫の大きい葬式をおこない、お墓を立てて、毎日ねんごろに弔ったそうです。この墓は「義猫塚(ぎびょうづか)」と名付けられ今でも法船寺に残っています。  
千光寺の猫塚 石川県金沢市
慈眼山千光寺 石川県珠洲市正院町 曹洞宗
創建年 弘治2年(1556)
開山 海雲瑞東大和尚
開基  細川刑部(慈眼院殿秀光不昧大居士)
ご本尊 千手千眼観世音菩薩
千光寺は、当寺の主寺 瑞源寺(現・穴水町)の「瑞源寺文書」によると、天台宗徒であった近江重兵衛が瑞源寺5世海雲瑞東和尚を弘治2年(1556)に開山として招いたのが始まりです。(『加能郷土辞彙』) その後、天正5年(1577)に黒滝城主温井兵庫の家宰、細川刑部が出家し、邸宅を(現在の千光寺境内)寄進し、開基壇越(経済的援助者)となっています。 細川家の家紋が五三桐だったので、それを寺紋となし、後に大本山總持寺の許可を得て總持寺と同じ五七桐となりました。
日光山千光寺 横浜市金沢区東朝比奈 浄土宗
かれきにも はなさきみのる せんこうじ たのまばちかひ たれもてるひめ
千光寺は応永年間(1394〜1427)の創建とされ、数百年の間六浦の川地区、川郵便局の近くにありましたが、昭和58年2月、現在の東朝比奈に移転しました。山門の手前右側に古い石塔があり、右側面には「照手姫身替本尊」正面には 日光山 武列金澤三拾四ヶ所第拾四番 千光寺、左側面にはせん志ゅ十一めんくわんせおんほさつ、裏面には宝暦五乙亥天七月吉丹 と刻まれています。寺の本堂には須弥壇中央に御前立ちの千手観音が祀られています。
寺伝によると「本尊千手観音は照る手姫の守り本尊で有名であり、応永年間の開 創で寺運隆盛であったが、往昔大津波にさらわれたり、万治元年全焼したりし、その後は六浦町字川の農村の菩提寺として法燈を守り本尊は鎌倉時代より有名かつ、霊験あらたかであって、秋のお十夜はまことに盛んなものである。千手観音を本尊とするものは金沢地域内で唯一のものであって、凡ゆる願い事の何事でも叶えて下さる大悲のお誓いを千の御手で現わしてどんな苦悩も、もらさずお救い下さる忝けない聖像である。金沢猫を葬ったという猫塚がある。」と伝え、千光寺が地元の人々の篤い信仰を受けていたことがわかります。
金沢猫
六浦の三艘に着いた唐船には中国からの長い航海の間、積荷や食糧をネズミの害から守るために猫(唐猫)が乗せられていました。唐猫は長い船旅から解放されて上陸すると、金沢の地に住み着いて繁殖し、その子孫は「金沢猫」と呼ばれ、この辺りに居た猫と違い、尻尾の短い三毛猫でした。背中を撫でると普通の猫とは反対に背中を持ち上げるので、それがまた可愛いいと珍しがられ、その愛らしさは全国で評判になり、「カナ、カナ」と呼ばれ、どこへ行っても可愛がられました。「唐猫」が死んだのち埋められた所と伝えられる「猫畑」の地名が川地区に残っています。また川地区にあった千光寺(昭和58年に東朝比奈町に移転)には「唐猫」の供養のための「ねこ塚」が造られ、今も茂みの中にひっそりと建っています。
千光寺
新編武蔵風土記稿には
千光寺 境内除地八畝、小名川にあり、浄土宗町屋村天然寺末、日光山と號す、本堂四間半四方東向、本尊千手観音、照手姫の身代佛と云秘佛なり、前立の像立身六尺許、照手姫のことは泥亀新田いふし嶋の條にしるす、・・・
と書かれていますが、本尊の十一面千手菩薩は三十三年に一度開帳の秘仏で普段は拝見できません。胎内にはおや指ほどの大きさの照手姫の観音さまが収められているといいます。
照手姫伝説
昔、常陸国で戦いに敗れた小栗判官満重が落ちのびていく途中、藤沢の山中で泊った宿で、満重を助けようとした照手姫が朝比奈峠を越えて、六浦港に出ようとする所で追手に捕らえられ、身ぐるみはがれて千光寺(現在は東朝比奈に移転)の近くの油堤というところで川に投げ込まれてしまいました。 それから数日後、照手姫の乳母の「侍従」が姫を探して油堤まで来ましたが、姫が川に投げ込まれたと聞くと悲しみのあまり、姫の化粧道具をその場におくと、姫のあとを追うように川に飛び込んで自殺してしまいました。このときからこの川は「侍従川」と呼ばれるようになりました。また乳母が飛び込んだ川の土手を化粧道具にちなんで油堤(包)といわれるようになったともいわれます。侍従側に投げ込まれた照手姫は千光寺の観音様に救い出され野島の漁師の家につれていかれました。川のほとりにあった千光寺の本尊、千手観音の胎内仏=腹に納められた小さな仏像、はこのときの姫の身代わり仏だと伝えられています。 野島の漁師の妻は嫉妬深い女だったので照手姫を松の木にしばりつけて、松の青葉でいぶり殺そうとしました。しかし姫はまたも観音様に助けられ美濃国に落ちていきましたが、その後小栗判官と再会、夫婦となって幸せな日々を過ごしました。瀬戸橋近くの「姫小島跡」がその松葉いぶしの場所といわれます。  
猫塚  福井県福井市宝永
袋羽神社 (ほろは・ほろわ) 「猫塚さん」神明神社の境内社
御祭神 / 袋羽大神
古くは「正保2年(1645年)3月吉祥日 施主川澄角平興勝」の銘のある袋羽大権現碑として祀られていたが、天保・弘化の頃より庶民の信仰を得て諸願成就の奇瑞があり、社殿・鳥居・絵馬が寄進されて境内社としての姿をととのえるにいたった。「猫塚さん」の名で親しまれ、子供の夜泣き平癒に霊験あり、鰊(にしん)を供え、絵馬を掲げて子供の無事成長を祈願する人の参拝が絶えない。
猫塚伝説
江戸時代の初めごろ、越前国(今の福井県福井市)に、川澄角平という片目の武士がいた。
ある時、江戸勤めになり、妻子が留守を守っていたある日、ひょっこり角平が帰ってきた。しかし、『内密に帰ってきたので、親類や近所に知らせてはいけない』という。ちょうど、料理しようとしていた鯉があったので、その鯉料理を出す時に、妻は角平がおかしいのに気づいた。角平はもともと右目がつぶれていたが、「江戸から帰ってきた」という角平は左目がつぶれている。角平の妻が人をやって弟に連絡をし、戻ってくると、男は逃げた後だった。鯉を食べるためにタヌキが化けていた。
さて、角平が本当に江戸から帰ってきて何年か経ったある日のこと。今度は瓜二つの女房が二人いるという事件が起きた。二人とも声も所作も全く同じで、見分けがつかない。そこで角平は自分の故郷 結城の産土神の袋羽神を勧請し、祈った。
ある夜、酒を飲みながら二人の女房を見ていると、ハエが飛んできて、一人の方の耳に止まった。するとその耳がピクピクと動いたので、化けものだと分かり、角平が切りつけると、それは年を経た大きな猫だった。角平は化け猫を葬って、その上に衣羽(袋羽)大権現を祀った。
『故郷結城の産土神』の『衣羽(袋羽)神』です。衣羽(衣羽)は、『ほろわ』と読む。
結城と福井の繋がり
ここでまず、川澄角平さんの故郷が、(現在の茨城県の)結城であるということについて、考えてみます。物語の時代 『江戸時代初めごろ』 に注目。
下総国結城(現在の茨城県結城市)の大名だった結城秀康は、江戸時代初め、越前国北庄(現在の福井県福井市)に移り住みます。そして、越前北ノ庄藩初代藩主、越前松平家宗家初代となります。
たぶん、川澄角平という人は結城家の家臣で、共に越前国に移ったのでしょう。だから、家で起きた怪奇現象の時に、自分の故郷の神様だった『袋羽神』に祈ったのです!
福井県に伝わる伝説ですが、その中にある『故郷の結城の産土神に祈った』という一文に、戦国時代終りから江戸時代初期の頃の地方史と当時の信仰が見えて、とても面白いです。
袋羽神
『ほろわ』の字は、『袋羽』と書いたり『衣羽』と書いたりするようです。伝説では『袋羽』で、現在ある神社の額は『衣羽』になっています。結城地方に同様の伝説がないか、また、ほろわ/袋羽神についての信仰・風習があるかについて、地図や文献でも調べているうちに、『ほろわ(ほろは)』について詳しく調査された方の論文を見つけました。それによると、『ほろわ(ほろは)神』は、東日本、特に東北から茨城にかけてかつて信仰されていた神様だったようです。
また茨城県内の『ほろわ(ほろは)』にまつわる神社等を詳細に調べられていて、結城市付近にはないようですが、筑波山の近く、つくば市北条にある八坂神社の境内社に、保呂羽(ほろは)神社があるとのこと。
川澄角平さんが結城に住んでいた時代(戦国時代終り〜江戸時代初期)には、まだ『ほろわ神』信仰が続いていたのでしょう。
東日本の失われた民間信仰の痕跡が、遠く北陸の福井県の昔話に伝わっているのも面白いです。  
神明神社の猫塚 福井県福井市宝永
御祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
社格 旧県社・神社本庁別表神社
御鎮座の由来
社伝によれば、遠く越前国北庄三郷(現在の福井市中心部)は足羽御厨(あすわのみくりや)と呼ばれ、伊勢神宮に御戸帳(みとばり)を献上する神領でありました。
第六十代醍醐天皇の御代、北庄に明光長者という人があり、厚く天照大御神を崇敬し、御神徳を頂くことも少なくなかったため、当地に社殿を造営し、皇大神宮を勧請したい旨を朝廷に奏聞に及んだところ、天皇深く叡感なされて直ちに、「国家鎮護のために大神宮を勧請せしむべし」との勅命を下されました。かくして延長二年(924年)三月九日、右大弁藤原親正、神使久志本右衛門大夫広次等が、御分霊・神宝・幣帛等を奉戴して北庄に参着、暫く足羽神社御宝殿に御滞座の後、同年九月二十日、御社殿の竣功をまって御鎮座になられました。
以来御祭神にきわめて由緒の深い三月九日、九月二十日は春秋の大祭日として明治の改暦に至るまで連綿と受け継がれました。
歴代国主の崇敬
足羽御厨とも呼ばれた北庄には鎌倉時代には越前守護所が置かれていたとも云われ、越前における政治上の重要地点でありました。したがって北庄総鎮護として御鎮座相成った当社には平重盛公を始め、源頼朝、執権北条氏、新田氏、斯波氏、朝倉氏、柴田勝家、丹波長秀、堀氏、青木秀以、松平氏等歴代国主の崇敬厚く、社領寄進、社殿造営、社参奉幣の事など枚挙にいとまがありません。
斯波氏の重臣から越前守護になった朝倉氏は北庄を根拠地として政治的地位を高めましたが、初代広景は敬神の念厚く貞和三年(1347年)領内の諸社に先駆けて当社の規模を修復、六代家景は文安三年(1446年)に再興し、初代越前守護となった考景もまた深く当社を崇敬して国の安泰と民心の安定を祈願しており、一乗谷に移ってからも朝倉氏の守護神として尊崇され、代々参詣を怠らなかったと伝わります。
福井藩祖結城秀康公は入封後の慶長八年(1603年)神領二〇石を寄進し、二代忠直公も元和五年(1619年)に社領八〇石を加増、以来歴代藩主も就封後の社参奉幣・叙位任官の際の奉告は怠らず、社殿修復、判物を与え、国元で出産の時には安産祈願をし、誕生後には健やかな成長を祈り初宮詣を行い、当社を氏神として崇敬していました。社領百石は元和六年(1620年)には幕府によって安堵され、以来越前では平泉寺白山社と共に歴代将軍家によって安堵される御朱印地とされていました。
福井(北庄)と神明神社
北庄は柴田勝家公が入部して城を築き、城下町として一層市街地が進んだことにより、名実ともに越前における政治・経済の中心地となりました。勝家公は築城にあたり当社境内に70〜80人の侍の屋敷割を行ったとの記録もあります。
慶長二年に入国した結城秀康公は北庄城を拡張するため、当社の門前町であった神明町を城北に移転させましたが、神域は動かさず城郭内に残しました。第三代藩主忠昌公は北庄の「北」は敗北に通じ不吉であるということで、福居(福井)と改称しました。以来当社は「福井惣社」(越前国名蹟考)と称されるようになりました。
寛延二年(1749年)の屋根葺替後の御遷座の時には「町内にも簾を下げ、提灯を出す。尤も祭の如き参詣あり。色々見せ物もこれ有り。賑々しき事」(国事蕞記)と記され、また「当御代より夏祭り執り行う。(中略)…由縁は国主(十四代斉承公)春三月江戸詰、五月に御帰国相成る。故に秋祭一度ばかり御在国に付き、夏祭始まる。国主は当国にて御生出に付き、当社は氏神なり」(社記)と見えるように、藩主をはじめ城下の人々が身分の上下を問わず、心から当社を崇敬し、その祭礼を待ち望んでいた様子がうかがえます。この伝統は維新後も引き継がれ、五月の祭礼は「神明祭り」と呼ばれて親しまれ、明治十八年からは大名行列も加わって、福井市民の心意気を示す祭として盛大に行われています。
境内社
稲荷神社 【御祭神】稲荷大神(宇迦之御魂神・佐田彦神・大宮能売神)
稲荷の名は、五穀成就の神として、秋に立派に稔った稲穂を肩に荷って神に捧げたところから起こっている。今日では商売繁盛の神として崇敬されているが、3神の御神徳を兼ね併せた、世の先駆者となって人心と調和し、穢悪を祓い清めるという深い信仰がその奥底にある。
恵比須神社 【御祭神】蛭児大神
恵比寿神は海の外から来られた守り神とか漁業の神と信じられたところから、釣竿をかつぎ抱くお姿で親しまれている。こうした海の神の信仰から海産物を交易するための市場、商家の守護神となられ、今日ではあらゆる商売繁盛の守り神として信仰されている。古くは「西の宮大神宮」とも称され、10月20日には商家でゑびす講が行われ、社頭も賑わったものである。
袋羽神社 【御祭神】袋羽大神
古くは「正保2年(1645年)3月吉祥日 施主川澄角平興勝」の銘のある袋羽大権現碑として祀られていたが、天保・弘化の頃より庶民の信仰を得て諸願成就の奇瑞があり、社殿・鳥居・絵馬が寄進されて境内社としての姿をととのえるにいたった。「猫塚さん」の名で親しまれ、子供の夜泣き平癒に霊験あり、鰊(にしん)を供え、絵馬を掲げて子供の無事成長を祈願する人の参拝が絶えない。
太子堂
聖徳太子の偉徳を敬慕する人々によって明治34年平岡山に建立されたが、昭和26年春に当神社に移築された。建築関係の人々が祖神と仰いで崇敬しているが、最近では総明な太子にあやからんとしてか入学試験をひかえた受験生の姿も見られるようになった。この太子堂は創建当時の建築技術の粋を集めて造られたもので、現在は破損を防ぐため覆舎が設けられている。
猫塚 愛知県中島郡大和村
松乃木大明神 大阪府大阪市西成区太子 近松門左衛門碑
御祭神 / 松乃木大明神
松乃木大明神は、大阪府大阪市西成区にある神社。明治34年(1901年)当時三味線の原料になっていた猫の供養のために立てられた。

日本最大級の遊廓とされる飛田遊廓(飛田新地)に沿うように東西に延びる飛田本通商店街の路地の奥に鎮座する。明治34年(1901年)、当時三味線の原料になっていた猫の供養のために建てられた。境内には猫塚がある。御祭神は松乃木大明神。ちなみに、大正5年(1916年)に築かれた飛田新地よりも当社は先行する。戦前の大門通駅はこの附近にあった。現在は、すぐ背後には旧南海天王寺支線の線路跡がある。
拝殿の横には近松門左衛門の碑がある。「平安堂近松巣林子信盛碑」と刻銘されている。平安堂や巣林子は近松門左衛門のペンネーム。もともとは明治36年(1903年)に天王寺で第五回内国勧業博覧会があり、その時に天王寺公園になる予定の土地だった万博会会場にあったものを移設したもの。近松門左衛門『曽根崎心中』の「堂島新地天満屋の場」の一節に、下記のように飛田の名が出てくる。「ここにいるお初の一番客といえば平野屋の徳兵衛めが(中略)どうせあいつは野江か飛田で処刑される奴だから・・・」つまり、飛田新地を中心とした地域は、昔は処刑場だったことになる。ちなみに、『曽根崎心中』と関連の深い神社に、市内北区曾根崎の露天神社がある。
もともと天王寺界隈は芸人が集まる場所で、「近松門左衛門の碑」と「猫塚」は、関係者にとっては今でも祈りの場なのだろう。
近松門左衛門碑
松乃木大明神内に近松門左衛門を顕彰した大きな碑がある。この碑は元は現在の天王寺公園内に1897年(明治30年)室上小三郎なる人が発起人となり、建てられたが、1903年(明治36年)に天王寺公園を会場として第5回内国勧業博覧会が開かれるため、室上小三郎が許可を得て、1901年(明治34年)現在地に移している。明治の時代に個人のレベルで、近松門左衛門を顕彰しようとした人がいたことは、お役人に頼らない大阪人の意気込みが感じられる。
猫塚 大阪府大阪市西成区太子
蓮昌寺 岡山県岡山市北区田町
蓮昌寺 1
日蓮宗の寺院。山号を仏住山、主院の院号を龍華樹院と号す。旧本山は京都妙覚寺。奠師法縁。塔頭として覚善院がある。
開山日像の高弟大覚大僧正に帰依した備前領主松田左近将監元喬により、正慶年間(1332年-1334年)または、康永3(1344年)に創建された。寺号の蓮昌寺は松田元喬の法号に基づく。かつては一万坪におよぶ広大な境内地に旧国宝の本堂、三重塔(室町時代)と祖師堂など七堂伽藍が甍を並べ、檀家七千を有したとされ偉容を誇っていたが、第二次世界大戦の岡山空襲で伽藍を焼失した。
蓮昌寺 2
蓮昌寺はいわゆる備前法華の中心道場として栄えた日蓮宗の巨刹で、山号を仏住山、主院を龍華樹院と号する。かつては檀家七干を有したといわれ、一万坪におよぶ境内地には国宝の本堂をはじめとする七堂伽藍が萱を並べ、その偉容を誇っていたが、惜しくも、第二次世界大戦の戦火で灰焼に帰した。しかし、寺宝である大曼茶羅(日蓮宗宗宝・岡山市重要文化財)だけは、その難を免れた。
開山は龍華樹院日像聖人。その高弟大覚大僧正が備前地方弘通の瑚、これに帰依した備前の領主松田左近将監元喬により、光厳天皇の正慶年中(一三三二〜三四)あるいは、後村上天皇の康永三年(一三四四)に創建されたと伝えられる。寺号を蓮昌寺と称するのはその法号に基づく。
蓮昌寺は岡山における代表的仏教寺院で、著名な法華経の伝道者大覚大僧正に帰依した富山城主(後に金川城主)松田元喬により一三三三年(正慶年中)に創建された。寺号を蓮昌寺と称するのは、彼の法号に基づくものである。もと、岡山城中榎の馬場にあったが、岡山藩の覇者が、松田氏から宇喜田氏、小早川氏へと変転するにしたがい、境内地も二転三転と移り変わり、それが現在の地に落着いたのは、一六〇一年(慶長六年)のことであった。
それ以来、二万四千坪におよぶ広大な境内地に七堂伽藍を完備、四十八ケ寺もの末寺を有し、中国一の大道場としてその偉容をほこっていたが、一九四五年(昭和二〇年)、戦火によって、十八間四面の大本堂(国宝・桃山時代)や三重塔(国宝・南北朝時代)をはじめとする、すべての建造物・文化財を焼失した。だが、諸天の加護とでもいうべきか、寺宝である「大まんだらさま」だけは、その災をまぬがれた。
それから二十年、仮本堂で再建準備にとりかかり、一九六八年(昭和四三年)春、ようやくにして新本堂の建設がなった。  
坂井谷の猫塚 広島県比婆郡東城町坂井谷
猫山 1
猫山 (1,196m) 中国山地脊梁の一峰(広島県比婆郡東城町と西城町との境)。東城川・西城川上流の谷が周囲を刻み、平坦面のない険しい山容をもつ。猫の寝姿からついた山名ともいわれる。この山には猫に似た石があり、そのためネズミが恐れをなし、暴れなかったという伝説が残っている。坂井谷には「猫塚」がある。
猫山 2 ネズミ退治の山
たたら製鉄が盛んだった中国地方にあって、“全山鉄の山”の猫山(1196m)は、「猫山三里がわいていた」「同じ住むなら猫山三里」といわれるほど周辺域に活況をもたらした。その山名は『日本山岳ルーツ大辞典』によると、「猫の寝姿に似ているところから付いた山名か」とあるが、『西備名区』には次のような由来を記している。
「猫山 此山高き事五十余町、周廻三里なり。伯州大山を眼下に見る絶景なり。里諺に云、米皮俵を背おふて一日の中に三度廻り猫の真似をすれば山中の石悉く化して猫となる。よって山に名付くと云」
従って、「猫山は全山が化け猫の山で米を食い荒らす鼠に悩まされていた農民を守る猫神民間信仰の山であったことが推測される。(中略)この猫山は鼠殺しの猫、鉄山の富の招き猫など、さまざまなイメージが重なる。鉄は山岳修験とも関係し、標高約900メートルのルート脇の岩穴には山岳修験の祖役小角に関係する石仏三体が祀られている。猫の妖刀、役小角、鉄。これらが純朴な里人の手にかかると、鼠退治の山になるから面白い」と『広島県百名山』(1998、中島篤巳)で解説されているように、“猫山”としての奥深さを秘めた山の一つである。
『国郡志書出帳』にも「猫に似た石があってネズミが暴れない」とあり、山麓の集落・坂井谷に残る猫塚が往時の猫神信仰を偲ばせる。この猫塚については、「猫を捨てる場合、谷に捨てれば戻ってこないという俗信がいくつかの地方に残っているが、そのひとつだったのだろうか」(『猫まるごと雑学事典』)と推測する向きもある。猫神信仰からするとむしろ逆で、猫塚はネズミ退治に活躍した猫を手厚く葬った場所ではあるまいか。ただし古猫が化け猫になるのを恐れて、飼い猫に年期を言い渡す習慣がこの地方にあったとすれば、前記の解釈は成り立つかもしれない。  
袋羽権現の猫塚 徳島県勝浦郡小松島町塚ノ本
お松大権現の猫塚 徳島県阿南市 
    阿波の化け猫「お松大権現」 
東光院の猫塚 福岡県福岡市博多区吉塚
東光院は、大同元年(806)に、最澄(伝教大師)により開山された寺院で、本尊である薬師如来立像のほか、重要文化財として指定された仏像計25体および県指定文化財(絵画)15点が所蔵されていた。これらの文化財が本市に寄贈され、また境内地も譲渡されたので、保存・活用を図るため寺そのものも市史跡に指定されている。
猫つか
福岡県の黒田忠之という殿様が、家来たちをひき連れて、狩りに出かけたときのことです。久しぶりに馬を走らせ、野鳥や獣を追って、殿様も家来たちも汗びっしょりになりました。
昼どきになって、休息をして食事をとることになりました。とはいえ、そこは狩り場のこと、人里はなれた寂しいところです。
しかも、殿様がお休みになるのですから、どこでも良いというわけにもいきません。
家来たちは、近くの木立ちの中を探しまわりました。
やがて、こんもりとした木のかげに、屋根らしいものを見つけました。
近づいてみると、どうやら寺のようです。
「よし、ここなら良いだろう」
ところが寺は思った以上の古さでした。
山門はかたむき、屋根は落ち、本堂の柱も曲がり、障子もボロボロです。境内も雑草だらけで、無人の寺のようでした。
「いたしかたない。殿に辛抱していただこう」
殿様の一行は、その寺へとやってきました。
家来たちは焚き火をし、狩りの獲物などを焼く準備をしました。
すると、本堂の奥から、一人の年老いた僧侶があらわれました。
老僧は大勢の侍たちを見て、眉をひそめています。家来はあわてて、殿様の狩りの一行であること、中食をとるために立ち寄ったことなどを説明しました。
「それは、お疲れでござろう。お見かけどおりの貧乏寺で何のおもてなしもできぬが、冷たい水だけはたっぷりござる。どうぞごゆるりと」
老僧はていねいに頭をさげると、また本堂へと帰って行きました。
やがて、にぎやかな食事がはじまりました。
そのときです。どこからともなく、のっそりと、一匹の猫が姿をあらわしました。
<ハハーン、獣のにおいにつられてやって来たのだな>
侍の一人が、ポイと肉を投げ与えました。
しかし、猫はクンクンとにおいを嗅ぐだけで、食べようとしません。おとなしくその場に座ると、侍たちを見回しました。
<やけに落着いた猫だな。…それにしても、この荒れ寺、さぞ腹もすいているだろうに、好物の肉に見向きもせぬとは、おかしなものだ>
侍は、次に鳥の肉を与えてみました。
しかし、猫はやはりにおいを嗅ぐだけで、口にしようとはしません。
<もしかすると、腹がすいていないのかな?>
そう思いましたが、ためしにと、今度は御飯と野菜のおかずを投げ与えました。
すると、何と、猫は喜んで食べはじめたではありませんか。そして、食べ終わると、大きく背伸びをし、本堂の棟から出た屋根を支える角材の上に飛び乗り、うつらうつら、居眠りをはじめたのでした。
<変わった猫もいるものだ…>
侍は首をかしげました。
やがて、休息を終えた殿様の一行は、老僧に礼を述べ、城へと引きあげて行きました。
それっきり、侍たちは猫のことなど忘れていました。
ところが、寺の付近の村々では、そのことが人々の口にのぼり、たいへんな評判になっていました。
「お寺のしつけが良かったので、猫といえども獣の肉を食べなかったのだ」
「まったく信仰深い猫がいたものだ」
そのころ、寺では酒や肉、魚などは修行のさまたげになるとして、禁止されていました。
しかし、それは実は表面上のことだけで、こっそり食べていた人もいたのです。
うわさは日を追って広がり、お城にまで伝わりました。
「猫にまでしつけをするとは、立派な僧侶ではないか。寺をくわしく調べてみよ」殿様は、家来に申し付けました。
さっそく、家来が出向き、あらためて荒れはてた寺を調べてみると、境内の広さといい、建物の構えといい、何やら由緒ありげな寺でした。
とくに本堂には立派な仏像が祠られ、『東光院』という名前であることも分かりました。
家来の報告を受けた殿様は、この寺の修復を命じました。そして、手厚く保護しました。
村人はたいそうありがたく思い、寺が立派になったのは好物の肉に見向きもしなかった猫のおかげだと、その猫が死んだとき、お墓を作って供養したということです。
義民豊田徳作
脊振山に源を発した清冽な山水が、筑紫耶馬渓の谷間を縫って流れ、末は福岡市中洲のネオンの影を浮かべて、博多湾にそそぐ那珂川が、国鉄竹下駅の西方をゆるく流れるところに、番托(ばんたく)の井堰(いぜき)があります。
川の沿岸にひろがる福岡市と、筑紫郡にわたる約300町歩の水田は、この井堰からそそがれる水に潤されて、稲田は初めてみのりの秋を迎えることができるのです。筑前を襲った去る昭和24年夏の水害によって、この堰が決壊した時は博多祇園山笠に奉仕する人々の応援で、土嚢の堤を築いて小康を得ましたが、同28年の大洪水の時に大破したので、翌年には6000万の県費で延長139mの、鉄筋コンクリートの堰が築かれて、水利陣は初めて強化されたものでした。
この重大な使命をもつ番托の井堰を、今から190年前の封建治下に、不当な上司の弾圧と闘いぬいて、万難を克服して築きあげたものは、義民豊田徳作その人でした。
徳作は、正徳3年(1713年)に那珂郡堅粕村(現福岡市博多区吉塚)の大庄屋の農家に生まれ、長ずるに及んでその職務をつぎましたが、剛毅でしかも温情に富むその性質はよく里人のあつい信望を集めて、慈父のように人々から慕われていました。
そのころ、那珂川一帯にひろがる田地は、水の利便に乏しく、番托の地点にやっと丸太材を以て堰をつくり、せき止めた水をやっと田に引いていたのですが、この一時的な堰はすぐに壊れてしまった毎年の損失は多大なものがありました。
これを見かねた徳作は、木材の代わりに石を積み重ねて強固な堰をつくり、永く水利の道を開こうと考えて、とりあえず杉材1000本で堰を造り、将来は石材で築くことを立案し、黒田藩にその許可を申請したのは明和4年(1767年)、翁が55歳の時でした。
ところが、民間では土木工事を行うということは、徳川幕府の保安政策によって絶対に禁圧されていまして、庶民の交通のための橋でさえも、新規に架設することはできませんでした。これは工事にかこつけて、庶民が不穏な挙に出ることを恐れたからでもありましょう。その発頭人と目されるものは、多くいわれのない理由のもとに弾圧されています。
さて徳作は、永久的な番托井堰の築造を大庄屋の名を以て黒田藩に申請しましたが、時の役人は、土木禁圧政策のみを固執して、この請願をたちどころに却下しました。農民の困窮を座視するに忍びぬ翁は黙視することができず、これが受理善処を当路に要請すること再三に及び、役人は土民の分際に過ぐるものとして、翁を捕えて水牢におしこめてしまいました。はれあがる両脚の苦痛に日夜悩みながらも、翁はただ庶民の福利のために、千万人と雖もわれ往かんという気概に燃えていました。

そのときの藩主は、福岡藩第6代黒田継高です。彼は元禄16年(1703年)に生まれ、安永4年(1775年)に73歳で福岡城に於いて歿するまで治国51年、歴代藩主の中では済世利民に心を用い、遠賀郡から洞海に通ずる堀川を開さくして、水利を興した人です。
徳作の事業申請は、もちろん藩主のところまでは届かず、下部の役人によって却下されていたのでした。
黒田忠之が堅粕の古刹東光院によく参詣したということは、同寺の猫塚伝説にも伝えられていますが、継高も時々この方面に出向いて、大庄屋の豊田徳作の家に休憩することがあり、徳作は継高の知遇を受けていたのです。あryとき、鷹狩りのため堅粕を通った継高は、いつものように大庄屋の宅に立ち寄ったみると、徳作の姿が見えません。不審に思って家人にこのことを尋ねたので、その娘は泣いて父の入牢のてんまつを訴えました。初めてこれを知った継高は帰城して直ちに事件の真相を調べて、豊作の井堰築造の嘆願は、改めて聞き届けられることになりました。
徳作は直ちに水牢から解放されましたが、脚部の疾患がひどいので、暫く入湯して静養するよう、藩主は内命したといわれています。
やがて、番托井堰築造の大工事は、徳作の不屈の精神を反映して、威勢よく開始されました。老司あたりを流れて下る那珂川の水を番托でせき止めて、満々とたたえた水を、御笠川(石堂川)の金島の堰まで誘引して、そこから改めて東方の稲田に灌漑しようというのです。
けだし、御笠川は那珂川に比して水量に乏しく、且つその上流に於いて既に水は多く引用されていました。この難工事に参加したのは、東堅粕・西堅粕・比恵・吉塚・馬出に清水の農民たちで、中東光寺区は何かの都合で参加を中止したそうです。番托に築かれた五ケ山石の堰にたまった水を金島まで引くために、幅7尺2寸の堰がつくられましたが、徳作は連日連夜陣頭指揮に立ち、その費用に充てるためにその私財を投入して惜しみませんでした。
2年ほどかかってこの番托の大井手は竣工し、そのために水利を得て稲作ができた田は300余丁に及びました。筑前に於いて水利の上で有名なのは、筑紫郡白水池が500町、糟屋郡加馬與丁池が500町の田を潤す古くからいわれていますが、この井堰も徳作の熱意によって、それに劣らぬ水利を起こして、農民の生活をたいへん豊かにしてくれたのでした。
徳作は1代の偉業を終わった後、安永6年(1777年)6月16日、水田に繋がる青々たる苗を見わたして、65歳で安らかに逝去しました。
法名を「禅界休穏居士」といい、檀那寺の御供所町乳峰寺の過去帳に記されています。その屋敷は明光寺の東側にありましたが、明治6年の一揆に焼亡して、今はその跡を「豊田屋敷」の名に留めていまして、その子孫に当たる市内犬飼新堀町の豊田好夫氏が先祖をまつっています。
翁の命日が、翁と肝胆相照らした明主黒田継高(安永4年6月17日歿)と1日ちがいであることも、奇しい因縁といわねばなりません。

「徳孤ならず、必ず隣あり」という古人の言葉があります。徳作の献身的な厚生事業は、後の世までも人々から讃えられて、明治13年9月には、番托大井手の現地に豊田徳作生彰徳碑が建てられ、高場乱(おさな)女史の碑文を渡辺一翁和尚が書いた碑文が自然石に彫みこまれました。
高場女史は人参畑に住んで、女医をつとめるとともに、頭山満、箱田六輔らの玄洋社の同人を育成した女丈夫、一翁は千代町崇福寺に住寺し、後に永寿院に退住した書道の名家で、ともに当時の郷土代表の文化人です。その銘はつぎの通りです。
「百里海に入り、混々たり□の川、□豊耗あり、毎々たり原田、昔豊氏あり心を執ること□然、大いに水利を興し、彼の□□にす、威をお冒して事に従い、□□□さず、砦を破り産を傾け、拮据いよいよ堅し、厚生利用は俗吏の損つる所、□□□□は明府の全うする所、遂に宿志を酬ひ民以て年々に□し、沢は都邑に及び、ながく養いなが恬(やす)んず、□碑具さに在り、明□あやまつこと勿れ」(原漢文)ついで明治28年春には、堅粕・西堅粕・比恵・馬出の農業者は協力して、堅粕西林寺の境内に翁の墓を建てましたが表に「豊田徳作之墓」と彫み、裏面には番托の碑文の要文を記しています。
金島水利組合では毎年7月12日の「さなぼり」に、西林寺に集まって墓参読経して翁の遺徳を感謝していますが、昨年も小山龍次郎組合長が肝煎りとなって市農事課の係員も列席の上、ねんごろな供養が行われました。番托から金島への水路は、国庫負担金2000万円を以て改修工事が昨年秋から行われました。
官威を恐れず、身心を献げて多くの人々の生活を厚く豊かにしてくれた徳作は、永く平和の偉人として讃えられねばなりません。  
追い出し猫 福岡県鞍手郡若宮町
福岡県宮若市の特産品である。1995年(平成7年)旧若宮町に組織された、特産品の委員会が、旧若宮町に伝わる「追い出し猫伝説」に基づき試作を繰り返してできたものである。縁起物で、普通の招き猫の裏にもう一つの猫がくっついたような、表裏一体の形になっている。一方の側の猫は普通の招き猫と同様、笑顔で手招きをしており、幸せを招くとされているが、もう一方の側の猫は片手にほうきを持ち怒った顔をしており、ほうきで災いを追い出すとされる。怒った顔の側を表に向け、笑顔の側を裏に向ける。
由来 「400年以上昔、宮若市(旧若宮町)に西福寺というお寺がありました。そこに住む和尚さんは、猫をたいそう可愛がっていた。あるとき、その寺に大ねずみが住み着き、大暴れして和尚さんはとても困っていました。これを見かねた和尚さんの飼い猫は、何百匹もの仲間の猫を集め、その大ねずみと長い時間戦い、とうとう退治しました。しかし、力尽きた飼い猫や仲間の猫もみんな死んでしまいました。哀れんだ和尚さんは、猫塚を作って、丁寧に供養しました。」
現在でも、その猫塚は残っており、猫塚公園として整備されている。なお、現在西福寺は宮若市に隣接する宗像市野坂にある。
秀林寺の猫塚 佐賀県杵島郡白石町福田 「猫大明神」の石祠
    鍋島の化け猫 
猫塚 1
秀林寺に「猫大明神」の祠があります。これは白石化け猫騒動に関係して、猫の供養的意味合いのものです。たいへん主人思いの忠義をつくしたネコだったのでしょう。
忠犬ハチ公ならぬ、忠猫コマといったところでしょうか。物語は以下のとおりです。
今から四百年あまり昔のことです。ある夜、佐賀藩主鍋島勝茂と又一郎なるものが碁をうっている最中、又一郎の様子がおかしくなったため、恐ろしくなった勝茂は又一郎を斬り殺してしまいました。又一郎が殺されたことを聞いた母親は、飼い猫のコマに「どうか息子の仇をとっておくれ」と言って自殺してしまいました。
その死体から流れた血をなめた飼い猫はどこかへ姿を消しました。
その事件のあと、勝茂は毎晩うなされるようになりました。勝茂の妾(側室)お豊の方の様子がおかしいのに気づいた千布本右衛門は、こっそりお豊の方の見張りをするため庭に隠れて待っていました。お豊の方が廊下を歩いてくると、なんと、白い着物のすそから先がいくつにもわかれ、うねうねと動く猫のしっぽがみえました。お豊の方が勝茂の部屋にはいると、うめき声と女の笑い声が聞こえ、障子に大きな猫の影がうつっていました。本右衛門は障子越しに槍で力いっぱい突き刺しました。真っ赤な血が障子に飛び散りました。そして障子をあけてみると爪と牙で槍をつかんだ大きな白い猫がたおれていました。
その後、千布家では男子が育たなかったので、化け猫のたたりではないかということになり、菩提寺の秀林寺に「猫塚」を再建、「猫大明神」としてまつりました。 
猫塚 2
JR長崎本線の肥前白石駅から徒歩5分ほどと近いが、路地の奥にあって非常に見つけにくい場所に建つ秀林寺。その境内に猫塚(猫大明神祠)はある。
佐賀藩の御家騒動から発展した「鍋島の化け猫騒動」の物語は芝居や講談等で広く知られているが、それと似た話がこの地に伝わっている。いわく、佐賀藩の二代藩主である鍋島勝茂が白石の秀屋形に居た折、化け猫がお豊の方という妾となって命を狙っていたが、家臣の千布本右ヱ門によって退治されたのだという。ところがこれでめでたしめでたしとはならず、退治された際に「七代祟って一家を取り潰す」と言ったという化け猫の祟りによってか以来千布家は男子に恵まれず、他家から養子をとっていた。そこで七代目の千布家当主が七尾の白猫の姿を描いた掛け軸を作って猫を弔い毎年猫供養を営んだところ、男子の成人がみられ、家系は安泰に保たれたのだという。
現在秀林寺の境内にある祠は、元々猫の死骸を埋めた秀屋形の鬼門にあったという祠を、七代目の千布家当主が画像を元にして明治4年9月に再建したものだそうな。
猫稲荷

 

西坂稲荷(猫稲荷) 福島県福島市御山
ねこ稲荷(西坂稲荷)の由来
昔々「信夫の三狐」といわれる3匹の狐がいました。人を化かすことが大好きな信夫山の御坊狐と、頭のいい一盃森の長次郎と、ずる賢い石ヶ森の鴨左衛門です。この3匹のなかでも御坊狐は木の葉の小判で魚屋をだましたり、馬方に馬糞(まぐそ)を食わせたりと、悪戯三昧でした。しかしある日、御坊狐は石ヶ森の鴨左衛門に騙され、大事な尻尾と神通力を失ってしまいます。そして御山の僧に諭され改心した御坊狐は、カイコを食い荒らすネズミを退治し、養蚕の守り神として大切に祀られています。
ねこ稲荷伝説
かつて御山村の名主であった西坂家は、信心深くよく働く夫婦でした。しかし、子宝には恵まれずにいました。ある夜、観音様が夢枕に立って「汝らにねこを授ける」とお告げがありました。すると翌朝庭に三毛猫があらわれました。夫婦はとても喜び、「タマ」と名付けて大切に育てました。タマは夫婦になつき、村のネズミを取るようになり、養蚕の盛んだった村ではたいそうかわいがられました。一方、信夫山には信夫の三狐の一匹、御坊狐が住んでいて、人を化かしてはおもしろがっていました。ある日、仲間の鴨左衛門にだまされ、神通力の尻尾を失った御坊狐はすっかり自暴自棄になっていましたが、観音様の使いである「タマ」に出会い、今までの悪行を諭されすっかり改心しました。それからは、タマと御坊狐はすっかり仲良くなり、ともに蚕を食い荒らすネズミを退治するようになりました。
また、御坊狐は最後の神通力をふりしぼって、夫婦に子どもを授けました。喜んだ夫婦と村人は、御坊狐を西坂稲荷(ねこ稲荷)として大切に祀ることにしました。そして、タマは西坂家とともに末永く幸せに暮らしました。 
猫稲荷 群馬県桐生市
「昭和の初めまで、犬、猫が帰ってこないのを案じる願主が祈願し、成就すると礼参りをした。二月初午日に幟をたてて祭った。祀堂には猫や蛇の絵馬が奉納され…」
「かつて近接の白髭神社境内の金比羅宮に詣でたついでに芸妓たちは必ず立ち寄ったといわれる」
「桐生豊綱の四家老のひとり谷家の裏の金塚から移遷した」
けっこう有名な伊達地方・川俣町の猫稲荷だけではなく、東京赤坂の美喜井稲荷や日本橋稲荷町の三光稲荷、立川の蚕影神社(猫返し神社)にまで触れてあり、他の項目に比べてとても長いのは、ひょっとして執筆者の猫がこの神さまのお蔭でちゃんと帰ったことがあったのかもしれません。
昔わが家の男猫がしばらく帰らなかったとき、猪子峠のお地蔵さまに願を掛けたら戻ったことがありましたが、そんな遠くまで行かなくても専門神が桐生市内にいらしたわけです。
蚕を食べにくる鼠除けとして猫を祀ったり、招き猫としての福神、あるいは江戸の昔から芸者さんを隠語で猫と称し、芸事上達や商売繁盛の神としても祀られ、おまけに行方不明の猫を探してくれるなんて素敵な神さまです。
右手に水道山、左手に吾妻山を眺めながら彷徨う住宅街。新しいお家と、古い三角屋根や、庭に梅や木蓮の大木があるかつてのお屋敷が混在する一角に、棕櫚や躑躅に囲まれて本格的な瓦屋根が少し崩れかけた小さなお堂をやっと発見!三段の石垣の上に木製のお堂が乗っていて、前には小さなお皿が供えられ、今のわが家の猫は遠くへは行かないので、ここは猫のことではなく筆者の芸事上達のため手を合わせました。  
三光稲荷神社 東京都中央区日本橋堀留
中央区日本橋堀留町にある稲荷神社です。三光稲荷神社は、当地付近(旧長谷川町)に居住した絹布問屋田原屋村越庄左衛門、木綿問屋建石三蔵の両家が江戸時代初期に勧請したとも、中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者関三十郎が元禄2年(1689)以前に伏見より勧請したもいいます。大正13年の区画整理で当社のある旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町2丁目になり、旧田所町の田所大明神も当神社に奉祀されたといいます。また、拝殿右上の額「日本橋区長谷川町守護神三光稲荷神社」は神田神社宮司平田盛胤氏の揮毫だといいます。
祭神 / 三光稲荷大神、田所稲荷大明神
由緒
三光稲荷神社は、当地付近(旧長谷川町)に居住した絹布問屋田原屋村越庄左衛門、木綿問屋建石三蔵の両家が江戸時代初期に勧請したとも、中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者関三十郎が元禄2年(1689)以前に伏見より勧請したもいいます。大正13年の区画整理で当社のある旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町2丁目になり、旧田所町の田所大明神も当神社に奉祀されたといいます。また、拝殿右上の額「日本橋区長谷川町守護神三光稲荷神社」は神田神社宮司平田盛胤氏の揮毫だといいます。
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中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者関三十郎が伏見より勧請したと伝わる当神社は、「江戸惣鹿子」元禄2年(1689)には記載があることからそれ以前と推測される。近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座、市村座、更には操り人形や人形浄瑠璃の小屋等があり、それを背景とした江戸落語に「三光新道」や「三光神社」が登場するところとなった。古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多く、ことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物は猫が無事に帰ったお礼に建立、奉納された。
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三光稲荷神社(日本橋堀留町二の八)一に三十郎稲荷と称し旧長谷川町の町内神社として崇敬された。嘉永の切絵図に三光稲荷と見え、古鹿子に三十郎稲荷とあるが、いつの頃から三光と改めたかは詳らかでない。現社敷地二十七坪余、社殿は震災後の造営にかかり延十七坪二合余で今次大戦の災厄はまぬがれた。氏子は堀留町二丁目の約百二十四戸、「新撰東京名所図会」には、『娘、子供、芸妓等が、三十郎の容所を愛でつゝ参詣するもの夥しかりしより、誰いふとなく、三十郎稲荷には猫が寄るとの風説より訛伝して、猫児を見失ひし時、立願すれば験ありとなむ、又鼠除の守札を出すと。このこと砂子にも鹿子にも見えず』と記されているが、現在でもよろず猫に関する願いごと御利益ありとして、猫の失踪した時に三光稲荷に祈願する者が多い。
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慶長八年(一六〇三)、家康が江戸城開設のころ、当時の長谷川町、現在の堀留二丁目に居住された絹布問屋田原屋村越庄左衛門、木綿問屋建石三蔵の両家は、海岸を埋立てて貸家をたて、大家主、大地主となった。そこで天の光、地の恵み、人のお蔭様に感謝して、三光稲荷大神としてお祭り申し上げたのが、神社のはじまりである。現在日本橋堀留二丁目の産土神として、住民の崇敬を受け、多数の繊維問屋の守護神として、業者の感謝を受けている。
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三光稲荷神社は、二十三番地にある小社なり。嘉永の切絵圖に三光稲荷と見えたるが、古鹿子に、はせ川町、三十郎稲荷とあるを當社なりといへり。さればいつの頃よりか三光と改めしか、詳らかならざるも、堺町に歌舞伎ありし頃、關三十郎といへる俳優ありて、其の屋敷内に勧請ありたる稲荷なればとて、三十郎稲荷と呼びしと、其の頃のことかとよ、娘子供藝妓等が、三十郎の容色を愛でつ、参詣するもの夥しかりしより、誰いふとなく、三十郎稲荷には猫が寄るとの風説より訛傳して、猫兒を見失ひし時、立願すれば験ありとなむ、又鼠除の守札を出すと。このこと砂子にも鹿子にも見えず。
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三光稲荷神社でいただいた由緒書によれば、元禄2年(1687)の『江戸惣鹿子』に「はせ川町、三十郎稲荷」とあるのが当社のことで、歌舞伎役者の二代目関三十郎の邸内に祀られていたという。三十郎は屋敷の庭に伏見稲荷を勧請し、日頃から深く信仰していた。ある時、中村座で三十郎が演技をしているとき、場内に霊光のような閃きがあり、三十郎がくっきりと照らし出されたため、観客からやんやの喝采を浴び、その名声を不動のものとした。三十郎は神明の加護によるものと感じ、自身の名の「三」と「光」の字を合わせて「三光稲荷」と称し、木綿問屋で当地の大地主でもある長谷川町の建石三蔵の邸内に安置したという。『平成「祭」データ』にある由緒によれば慶長8年(1603)絹布問屋の村越庄左衛門と木綿問屋の建石三蔵が当地を埋め立てて多数の借家を建て、その鎮守として祀ったことにはじまるとなっている。大正13年(1924)区画整理のため長谷川町と田所町が合併して堀留町二丁目となり、その際、田所稲荷が合祀された。また、当社は猫族守護神として、特に失せ猫祈願の霊験で知られる。境内の招き猫は、猫が帰ってきたことのお礼として奉納されたものとのこと。最近では遠方からも参拝や代理祈願の依頼があるという。
稲荷神社 (大原稲荷) 東京都世田谷区大原
祭神 倉稲魂命(うかのみたまのかみ)
元禄十五年(1702)の検地水帳に、大原の現在地に稲荷社があることが記され、天明二年(1782)五月に、京都伏見稲荷本宮に請願し本宮正官御殿預羽黒摂津守荷田宿禰信邦氏により安鎮之證を拝受したものが現存する。以後大原の鎮守として現在にいたる。 
猫石稲荷神社 熊本県天草市 
その昔、官山に猫に似た岩があるというので、庭の飾石にしようとその岩を取り壊しにかかったが、石屋がのみを打ち込む毎に岩の割目から血しぶきが石屋の顔にかかるので、たたりを恐れその岩を壊すのをやめたという伝説があります。 
猫の宮

 

猫の宮 山形県東置賜郡高畠町亀岡
猫の宮 1
この村には信心深い庄屋夫婦がいた。二人には子供がいなかったので、猫を飼っていた。しかし飼っている猫は病気ですぐ死んでしまったので、二人は丈夫で健康な猫を授かるように観音様に祈った。
そしてある夜に、観音様が夢枕に立ち「猫を与えるから大切に育てよ」とお告げがあった。
ネコの神社授かった猫に『玉』と名づけ大変可愛がった。長い間この猫を育てていると、不思議なことに何処へ行くにしても傍らを離れず着いてきて何物かを狙うがの如く睨むようになった。
そのあまりにも異常な行動に、庄屋は気持ち悪くなり思いあまって懐に隠していた刃物で猫の首を切り捨てた。
ところが猫の首は天井裏へ飛んで行き、隠れていた大蛇に噛み付き殺した。この大蛇は70年前に三毛犬と四毛犬によって殺された狸の怨念の姿で、猫は観音様の化身で庄屋夫婦を守っていた。村人は庄屋を救った猫のため、観音堂を建て供養した。それが現在の『猫の宮』となっている。
猫の宮 2
延歴年間(781年〜805年)高安村に代々庄屋で信心深い庄右衛門とおみね夫婦が住んでいた。2人には子供がなく、猫を心からか可愛がっていたが、なぜか次々と病死してしまう。今度こそ丈夫な猫が授かるように祈っていた。ある夜、同じ夢枕に観音菩薩が現れ「猫を授けるから大事に育てよ。」とのお告げがあり、翌朝庭に三毛猫が現れ、夫婦は大いに喜び、玉と名付けそれはそれは子供のように大切に育てていた。
玉も夫婦にますますなつき、そして村中のネズミをとるのでたいそう可愛がられていた。
玉は不思議なことに、おみねの行くところどこへでも付いていった。寝起きはもちろんの事、特に便所へいくと、天井をにらみ今にも飛び掛からんばかりに耳を横にしてうなっている。おみねは気持ちが悪く思い、夫にそのことを話してみた。
夫が妻の姿をして便所に行くとやはり、玉は同じ素振りをする、庄右衛門はいよいよあやしく思い、隠し持っていた刀で猫の首を振り落とした瞬間、首は宙を飛び屋根裏にひそんでいた大蛇にかみついた。この大蛇は、70数年前に三毛犬、四毛犬に殺された古狸の怨念の血をなめた大蛇が、いつかいつの日か仕返しをしようとねらっていたが、玉が守っているため手出しできなかったのだった。この事を知った夫婦は大いにくやみ村人にこの事を伝え、村の安泰を守ってくれた猫のなきがらを手厚く葬り、堂を建て春秋2回の供養を行ったという。
猫の宮 3
猫の宮は犬の宮の対面に建立されています。犬の宮と比べると平地に鎮座し、参道も短い為、緊張感は少ないのですが、社殿には同様に猫の写真が貼られていて独特の景観となっています。案内板によると「 延暦年間の頃(和銅より約70年後)この村に、信心深い庄屋夫婦がいた。二人には子供がなく丈夫な猫が授かるように祈っていた。ある夜観音様が夢枕に立ち「猫を与えるから大切に育てよ、さすれば村中安泰、養蚕が盛んになる。」とお告げにあり授かった猫は「玉」と名付け、大変可愛がり丈夫に育てたが歳月がたつにしたがい不思議な事に、何処に行くにも傍をはなれず、何物かを狙うが如き睨み据え、その異常さに思いあまった主人は、ある日隠しもった刀で切り捨てた。ところが猫の首は天井裏に飛び隠れていた大蛇の首に噛みつき殺していまった。大蛇は昔、犬に退治された古狸の怨念の姿であり、猫は(観音様の化身)庄屋夫婦を守るための振舞いだったのです。村人は庄屋を救った「玉」をねんごろに葬り、観音堂を建てその供養を行い恩徳を偲び「猫の宮」と称した。以後村人は猫を大切に育て養蚕が盛んになり、安泰な生活が続いたと云う。 高畠町 高畠町観光協会 」とあります。社殿(当初は観音堂だった事から往時は神仏習合していたと思われます。)は入母屋、鉄板葺、平入、桁行2間、正面1間軒唐破風向拝付、向拝木鼻には獅子と象の彫刻、外壁は真壁造、板張、表面は極彩色で彩られていたと思われます。
犬の宮
犬の宮は高畠町郊外にある神社で、雰囲気のある参道の奥地に建てられています。建物自体はさほど大きくはありませんが、神社の由来や名称から、社殿には多くの犬の写真が奉納されています。一見して生前のペットの供養と思われ何とも言えない緊張感があります。犬を祭った神社は全国的にも珍しく広く信仰されているようです。近くには猫の宮がありこちらは社殿に多くの猫の写真が貼り付けられています。案内板には神社の由来が記されていてそれによると「 昔(和銅年間の頃)この高安村は毎年春秋の二回、都の役人に人年貢を差し出す事になり村人が難渋していました。ある時、道に迷った旅の座頭が一夜の宿を乞い、村人から不思議な年貢取立ての話を聞き及び、何物かの仕業と推察、村人に悪魔退散の策を授け座頭は村を去った。村人達は早速、役人を酒席に招き甲斐の国から借りて来た、三毛犬、四毛犬を放ったところ、大乱斗の末、倒されたのは役人ではなく二匹の大狸と多数の荒狸であり傷ついた二匹の犬も、まもなく死んでいました。この村の大難を救ってくれた二匹の犬を村の鎮守とせよ、と座頭のお告げにより、崇めまつったところ、この里は難産もなく生まれる子供は無難に育ち村が栄えたと云う。又、この地に生息した高安犬は強い耐久力と激しい闘魂をもつ優秀な狩猟犬として有名である。 (戸川幸夫 「高安犬者語」) 高畠町 高畠町観光協会 」とあります。拝殿は寄棟、鉄板葺(旧茅葺)、平入、桁行3間、外壁は真壁造、板張、本殿は入母屋、銅板葺、妻入、正面1間向拝付、外壁は真壁造、素木板張り。祭神:三毛犬、四毛犬。
犬の宮・猫の宮
山形県高畠町高安にある神社。日本でも珍しい、犬と猫を祀る神社である。それぞれ愛犬・愛猫の供養と健康祈願で、写真や首輪を奉納する参拝者が多い。
養父神社 (やぶじんじゃ) 兵庫県養父市
但馬国三宮、式内社(名神大社)で、旧社格は県社。「養父の明神さん」と呼ばれ、農業の神として知られる。養父神社のある養父市場は古くから但馬牛の牛市の中心地であり、現在でも近隣の大藪で但馬牛のせり市が開かれている。
祭神 倉稲魂命 / 大己貴命 / 少彦名命 / 谿羽道主命 / 船帆足尼命
江戸時代に編纂された地誌『但馬考』にはかつて弥高山の山頂にあったとされる上社に大己貴命、中腹の中社に倉稲魂命と少彦名命、現社地である下社に谿羽道主命を祀るとの記述がある。『特選神名牒』では大己貴命以外の4座を不詳としている。昭和3年(1928年)発行の『養父郡誌』では上社が保食神と五十猛神、中社が少彦名命、下社が谿羽道主命と船帆足尼命としている。
崇神天皇30年創祀と伝えられ、天平9年(737年)の『但馬国税正帳』にも出石神社、粟鹿神社とともにその名が見える。神階は承和12年(845年)に従五位下を授けられ(『続日本後紀』)、貞観11年(869年)に正五位下、同16年(874年)に正五位上まで昇叙した(『日本三代実録』)。『延喜式神名帳』には「夜夫坐神社五座(名神大二座小三座)」との記載がある。江戸時代は、神仏習合して「水谷山 普賢寺」と呼ばれ、満福寺の別当寺院であり、神前に般若心経が奉読されていた。

社殿の右手奥に、境内社が幾つか。境内社参道の奥には、山野口神社が鎮座。拝殿扁額に、養父大明神と併記されているように当社にとって重要な摂社なのだろう。この参道にある境内社は、それぞれ猫の宮(迦遅屋神社)、鯉の宮(厳島神社)、狼の宮(山野口神社)と動物の名で呼ばれているのが面白い。
迦遅屋神社 / 迦遅屋神社は奧津彦命、奧津姫命、猿田彦命、表米親王をお祀り申し上げております。別称「猫の宮」と申し鼠除けの信仰もあります。主に火除、災除けの神であり ます。
厳島神社 / 厳島神社の御祭神は厳島姫命であります。安芸の宮島にお祀りしてある神と同じであります。前の池には鯉が放流してあり、女性の 守り神です。古代より鯉に縁のある当神社では、鯉(恋)の宮として古えより鯉が飼育されています。二百有余年の寿命があると言われる鯉は、長寿の魚として昔から珍重されました。当神社で結婚式場は勿論銀婚式、金婚式をも挙行され 鯉の長寿に肖って下さい。
山野口神社 / 山野口神社の御祭神は大山祇命であります。別称は「山の口のおおかみ」と申し上げ、流行病を退けられ「つきもの」を落す神として広く信仰されています。この奥には神の滝があり、上社跡、中社跡が遥拝できます。社殿は元禄年中(江戸時代)建立と伝えられております。 
猫叩き如来

 

光明寺(本尊) 奈良県宇陀郡神戸村西山
 (現 奈良県宇陀市大宇陀西山)
遍照山朝徳院光明寺 融通念仏宗
開基・開創 不詳
中興 永欣上人 応永十年(1403年)
再興 法俊上人 天正十四年 (1586年)
本尊 阿弥陀如来坐像
光明寺縁起
創建は第五十九代宇多天皇の頃と伝えられるも詳細は不祥。その後応永十年(1403年)大念仏宗本山恵観浄善の弟子永欣が中興、天正十四年(1586年) 法俊上人が再興。現在の本堂は、寛政五年(1793年)の建立。内陣に藤原時代の本尊阿弥陀如来立像、多聞天立像、八幡大菩薩、大日如来、永欣和尚坐像などを安置。境内の観音堂には十一面観音像を安置しています。
猫たたき如来
大宇陀町西山の光明寺で、天和年間のこと。ある百姓の妻の葬式でにわかに雷鳴風雨が起こった。憲海上人が棺に七条の袈裟を巻いて本尊の阿弥陀様の箱を投げつけると、たちまち空は晴れて、1匹の老猫が死んでいた。本尊の箱が当ったから、猫は片目がつぶれていた。以来その本尊を猫たたき如来という。
猫地蔵尊

 

猫地蔵尊 埼玉県秩父郡長瀞町本野上
猫地蔵尊 1
秩父は養蚕の盛んだった地域で、蚕神としての猫の言い伝えや神社がいくつかある。長瀞町の猫地蔵尊は個人宅に祀られている珍しい猫神である。言い伝えでは、厠についてきた猫の首を切ったところ蛇に食らいついて妻女を守ったので、猫の供養のために地蔵を安置した。300年以上も守り続けているが、養蚕が盛んだった頃は鼠除けに参詣する農家が多く、今では主に安産・交通安全祈願だという。
秩父鉄道野上駅から彩甲斐街道を南下して消防署分署から右折、十字路で散歩中の男性に尋ねると親切に教えてくれた。昔は養蚕の盛んな時代でよく猫地蔵に参拝にきていた。今はこの町でも数件しか養蚕はやっていないとのこと。左の道(旧道?)を50mほど行くと左に猫地蔵の小さな看板。青い屋根が見えてそれだと分かった。庭におばあさんがいたので確認する。大きな岩に猫地蔵と刻んである。拝観をお願いすると快く扉をあけていただいた。物置小屋のような建物で間口1・5m、奥行き2mほど。物置としても利用しているようで、大きなカメや石油貯蔵のドラム缶も入っている。奥正面の台に鎮座した猫地蔵尊は高さ約30センチで優しいお顔をしていた。赤い頭巾と前垂れをかけ彩色ははげかかっている。下の台座には黒光りした木彫り猫?が横たわっていた。招き猫が20体ほど並べられ、右下には色あせた絵馬が二枚おかれていた。かろうじて大正十二年と読みとれる。猫の絵は消えかかっていた。以前はもっとあったが雨漏り等で痛んでしまったらしい。
猫地蔵尊はかつては家の中にあったが、地蔵のところが雨漏りがする。これは元の屋敷に置いてあった場所に戻りたいということなのだろうということで、旧屋敷に安置されていたところに小屋を建て安置し直したらしい。それでわざわざこの小屋があるのだった。これは新たな伝説だ。
猫地蔵尊 2
200年ほど前、妻がお便所に行くと猫が毎回ついて行くので、夫がねたんで猫の首を切ってしまった。するとその首は飛んで行って便所で妻を狙っていた大蛇に食らいついたという。そこで妻を守った猫の供養に地蔵尊を祀ったとのこと。明治から大正の養蚕が盛んな時代には、ネズミ退治の猫として参拝者が多く、昭和になってからは飼い猫がいなくなった時に拝みに来ると必ず戻ったとのことで、猫が病気になった時等願をかけに来る人が今でも時たま見かけられるとのこと。  
猫神

 

猫神様 宮城県角田市梶賀
猫神さま
桜地区に「猫神さま」で親しまれている場所があります。立内宿彌(たけうちすくね)を祭神とし、梶賀の鎮守として村人に崇拝されていた仁和多理社(にわたりしゃ)と、猫神権現を合祀し仙光院を別当として祀り継がれてきた五穀豊穣の神様です。
猫神さまの石碑
この石碑にはこんな話が残っています。
昔、梶賀に帯刀(たてわき)という男が住んでいました。その妻に大蛇がまといつき困っていました。この家では妻によく懐いた猫を飼っていて、トイレにまでついて行くほどでしたが、その時の異様な猫の目が、彼は次第に恐ろしくなりました。ある日トイレに行った妻のあとを帯刀がついていくと、猫の目があまりにも恐ろしくてただならぬ様子に、思わず帯刀は脇差で猫の首を切り落としました。切られた猫の首は天井まで飛び、大蛇に噛みつき、妻を守ったと伝えられています。
育霊神社 岡山県新見市哲西町
「藁人形の呪い」丑の刻参り、草木も眠る丑三つ時、全身に白装束をまとい、呪いたい相手を藁人形に見立て、誰にも見られないように五寸釘を打ち込み相手を呪い殺すと云う。日本古来の儀式、その歴史は古く奈良時代に実際に使用された呪いの人形が現存している。木片には相手に見立てた顔が描かれ、心臓部には釘らしきものが打ち込まれている。
育霊神社の奥の院本殿、祭壇には猫の絵、そして猫の像がある。
猫の祠、猫を可愛がっていた依玉姫を祀っている。
680年前育霊神社本殿には斉藤尾張守影宗が治める城があった。しかし統治も長くは続かず敵勢により落城を余儀なくされた。その時、影宗の娘、依玉姫と姫が可愛がっていた猫は何とか逃げ延び、近くの祠に隠れた。姫がお腹を空かしていると考えた猫は姫を助けるため、里に下り村人から握り飯を貰って、ふたたび姫の隠れる祠へ向かった。すると途中で敵勢に見つかったと気付いた猫は、姫を守るため、直接祠へは戻らず、敵兵をまこうと考えた。しかし猫がだましていると気付いた敵兵はその場で猫を突き殺してしまう。翌日、山道で死んでいる猫を見つけた姫は悲しみのあまり自害を遂げる。それを聞いた父影宗は怒り狂い姫と猫の祠を建て、その前で敵兵を呪った。すると猫を殺した敵兵が次々と狂い死にしたと云う。
それ以来、育霊神社では呪いが成就すると云われ、呪いを行う人が後を絶たない。育霊神社は呪われた人、呪った人を救う「呪い払いの神社」。  
猫神 岡山県川上郡備中町
猫神さま 高知県須崎市多ノ郷
猫神社 1
昔、吾川郡吾川村(現仁淀川町)にあった寺でいたずらをしていた大猫が追放され、須崎の箕越にたどり着いたという伝説が残っています。その「猫さん」を祀った神社。「諸病、特に婦人の病や脳病に顕著な御利益」、または「ぜんそくが治る」などと伝えられています。
猫神社 2
須崎湾の東海岸に面した、箕越という集落にある小さな社である。鳥居と祠だけという簡素な造りであり、しかもこれらはこの神社を管理する集落の人々によって造られているようである。
この珍しい名前の神社には、次のような猫にまつわる伝説が残されている。
江戸時代の中頃のこと。名野川村(現在の仁淀川町名野川)の寺に一匹の赤毛の大猫が住み着いていた。この猫が大層ないたずら好きで、夜な夜な和尚の袈裟を持ち去り、それを着て僧に化けると踊っていたという。しかしそれがばれてしまい、和尚に追い出されてしまった。結局、この大猫は最後にこの須崎の箕越にやって来て、そこを安住の地としたのである。
その後、和尚の夢枕に大猫が現れ、世話になったお礼に寺のために役立つことをしようと告げた。しばらくすると、佐川領主の深尾氏の家に不幸があり、出棺の折に棺が動かせなくなるという騒動が起こった。そこで和尚が祈祷すると軽々と動き出したため、大いに面目を施すことになったという。
猫神社のご利益は、諸病平癒。特に婦人病や脳病、さらには喘息にも効験があるとされる。そして近年、祈願成就を果たすと招き猫を祠に納める風習が始まり、さらに、先に納められた招き猫をいただいて帰るようになったという。そのため祠には数多くの招き猫の像が所狭しと置かれていた時期があったらしい(現在は招き猫の像をほとんど見ることはない)。  
猫神さま 高知県幡多郡三原村
御霊神社にまつわる伝説
敷地藤康は椿姫を入野但馬守の妻とすることを約束していたが、 同時に主君である一条房冬の簾中に差し出すことも約束したため、それを知った入野但馬守は激怒した。敷地氏と入野氏の間に戦端が開かれることとなったが、両者の矛を引かせるために椿姫は自ら桶に入り生き埋めにされた。その跡地に椿姫の霊を慰めるため建てられたのが、御霊神社だという。
猫神様 1
椿姫が可愛がっていたという猫を祀って建てられたもの。椿姫の行方がわからなくなったとき、猫は姫を探してあちこちを歩き廻ったそうです。しかし結局見つからず、疲れ果てた猫は息絶えてしまったと言われています。この猫神様には気管の病気にご利益があると 言われており、子どもがぜんそくになった時などにお参りする人も多いそうです。
猫神様 2
椿姫が行方不明になったとき姫の飼猫も乳母達と姫を探したが姫は見つからず、乳母は下長谷の瀧に身を投げて死んだ。屋敷に戻った猫は何も食べず痩せ衰えて死んだので里の人達が祠を造り猫神様として祀った。猫神様にお願いすると御利益があり、こどもの喘息や胸の病に御霊験があり、今でも村内だけでなく県外からのお詣りもある。
猫淵様

 

岩手県陸前高田市矢作町 
猫淵神社縁起
昔、矢作(ヤハギ)村(現・陸前高田市矢作町)の小黒山(コグロヤマ)に宝鏡寺という小さなお寺があった。ある日、この寺の坊さんが中平の方に托鉢に出掛けた時、道端に一匹の仔猫が棄てられ鳴いているのが目に入った。
坊さんは可哀そうに思って、その虎毛の仔猫を拾い上げ、衣に包み寺へ帰った。
坊さんは虎猫を“トラ”と名付け子供のように大事にして育てていた。仔猫は段々大きくなり、炉端にデンと座って、宝鏡寺の名物となり、お寺に来るお客さんは、誰でも堂々としたこの虎猫に驚いたという。
こうして何年かは過ぎた。名物の虎猫も段々年老いていった。ある夜の事、坊さんは不思議な夢を見た。それは、「明日、長部(オサベ)村(現・陸前高田市気仙町長部)の大金持ちの家の嬶様の葬式がある。その葬式に棺が空の上に昇って行くであろう。その時、坊さんお経を上げて下さい。そのお経の中に“トラヤー、トラヤー、ナムトラヤー”と三遍唱えて下さい。きっと空に舞い上がった棺が祭壇へ下りてくるでしょう」という事であった。
坊さんは目を覚まして、「どうも不思議な夢を見たものだ」。朝起きると炉端で渋茶を啜りながら考え込んだ。そう言えば、トラがここ二、三日姿を見せない。この夢は何かトラの身の上に変わり事でもあっての事ではなかろうかとそんな心配もした。
兎に角、今日は長部村へ行って見よう。坊さんはヨレヨレの衣を纏い、草履を履いて宝鏡寺を出た。ようやく長部村へ入って見ると、名にしおう大金持ちの家の葬式ということで、すぐその場所は分かったが、どうも様子が変である。何か変わり事でも出来たような騒ぎである。集まった人々のヒソヒソ話を聞いて見ると遺体の入った御棺が空中へ昇ってしまって、偉いお坊さんたちがどんなにお経を上げても、一向に下りて来ないという事であった。
坊さんは昨夜の夢を思い出した。全くこんな場面であった。またトラがこの頃姿を見せないのも気になっていた、さてはと思った坊さんは、つかつかとその門の前に立った。するとその家の旦那さんは真っ青になって怒鳴っていた。「御布施は幾らでも出す。あの御棺を下ろす坊主はいないのか」と立ったり座ったりして喚き散らしていた。
宝鏡寺の坊さんは静かに、「わしがお経を上げて進ぜよう」と申し出た。旦那さんは一目坊さんの身なりを見ると、「此処にいる坊さんたちは皆偉い坊さんだが下ろしかねている。お前のような乞食坊主は頼まない」と膠もなく断った。するとその家の娘さんが傍から「父さん、父さんそんなお話はないでしょう。私からお願いします」と、宝鏡寺のお坊さんに丁寧にお願いした。
それではと坊さんは祭壇の前に座り、音吐朗々とお経を読み始めた。読経の声は辺りを圧し、その中に、「トラヤー、トラヤー、ナムトラヤー」の文句があったことは言うまでもない。
当家の人達は勿論、会葬の人達はどうなる事かと固唾を呑んで見守っていた。しばらくは読経の声が響いていたが、天に昇った御棺が静々と下りてくるではないか。人々はあれよあれよと棺を見つめている間に、静かに祭壇に納まったのである。
これを見た旦那の喜びは一通りではなく、先刻の無礼を詫び、一番の上座に坐って頂き、沢山の御布施を上げてもてなした。
この事があってから宝鏡寺のお坊さんの名前は近郷近在に名僧として語り伝えられたという。
しかし愛猫「トラ」は再び宝鏡寺に帰らなかった。間もなくトラの屍体が飯森川の渕に沈んでいるのが発見された。坊さんは勿論、村の人達はトラの死を悼み、これを偲び、トラの屍体の見つかった渕の傍に祠を建て「猫渕様(ネコブッツァマ)」として祀った。この事から此の渕を「猫渕(ネコブチ)」と呼ぶようになったという。

以上が細谷敬吉著『陸前高田市地名考〜地名に秘める由来をたずねて』(陸前高田市郷土史研究会/1983)に掲載された、猫淵神社の創建にまつわる「猫渕の伝説」のあらましであるが、これは所謂「猫壇家」と呼ばれる話型の昔話で、招き猫発祥伝説地の一つとして有名な東京都世田谷区豪徳寺の大渓山豪徳寺を始め、新潟県阿賀野市折居の高松山岩村寺や長野県上水内郡小川村瀬戸川の霊験山法蔵寺、埼玉県深谷市人見の人見山昌福寺、埼玉県大里郡寄居町末野の萬年山少林寺、静岡県富士宮市杉田の般若山安養寺、静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方の稲荷山笠森峰善住寺、静岡県榛原郡中川根町上長尾の千葉山智満寺、香川県さぬき市多和兼割の医王山遍照光院大窪寺、岩手県二戸市浄法寺町寺ノ上の吉祥山福蔵寺などなど、「猫檀家」や「猫寺」の伝説として、日本各地に似たような筋立てで語られる飼い猫による報恩譚が伝わっているが、その一方で、猫はその眼光や習性の不可思議さから、魔性のものとして考えられることも多く、猫にまつわる禁忌や俗信も世界中に残されている。
中でも葬送に関して、猫は死者にショウ(生)を入れると言われて特に忌まれ、家に死人が出た場合は葬儀が終わるまで蔵や納屋などに押し込められたり、笊を被せられたり、逆さ屏風や衝立を立て廻したりして遺体の側に近づかせないようにした。
「猫が棺桶をまたぐと死人が起き上がる」「死人の近くに猫を近づけると、死人が水飲みに出掛ける。そして暴れ狂う」「嵐が吹く」「お化けが出る」「死者が成仏出来ない」などといった俗信や伝承は、猫の魔性を畏怖する例として今日も広く信じられており、同じような伝承は朝鮮半島や中国、台湾、ロシアなどにも伝わっている。
また、火葬にする前の故人の遺体の胸元や枕元に、魔除けとして短刀や包丁、鎌、木割、鉈、剃刀、女性の場合は鋏(はさみ)などといった刃物(※現代の葬儀においては、葬祭社が用意した模造刀や木刀が用いられることが多い)を置く習慣があるが、これは成仏せずに留まっている故人の霊魂や、死んで魂が抜け出て抜け殻となった肉体が、猫やそれに類する悪霊に取り憑かれないようにするための呪いとされる。
この怪異を「猫またぎ」といい、「カシャ(火車)」と呼ぶ地域もある。
 
死絵

 

江戸後期から明治にかけ、亡くなった人気歌舞伎役者を偲んで出された「死絵(しにえ)」という錦絵があります。そのいくつかの表現パターンから、当時の死のイメージをとらえていきます。死に関するものを描き加えたり、死出の旅路や遺影の礼拝の様子などを描いたり、さまざまな表現方法がみられます。
一般的な死絵 死装束をつけた基本的な姿
○ 四代目中村歌右衛門(なかむら うたえもん)死絵
嘉永5(1852)年、歌右衛門は大坂で没したが、長年江戸の舞台も勤めたため、数多くの死絵が作られた。
○ 初代板東しうか(ばんどう しゅうか)死絵
安政2(1855)年、しうかは江戸末期の名女形。帽子に振袖という女形の装いで数珠を持つ。
○ 五代目瀬川菊之丞(せがわ きくのじょう)死絵
歌川国芳画 天保3(1832)年、化政期に名女形として活躍した菊之丞を、女人出家の姿で描いている。
樒 樒(しきみ)は常緑樹で香りもあることから香花(こうげ)とも呼ばれ、四季を問わず仏の供花や葬儀に用いられた。
○ 三代目助高屋高助 死絵
嘉永6(1853)年、興業先の名古屋で病没した高助。右手に数珠、左手に菊と樒を活けた手桶を持つ。
○ 初代板東しうか 死絵
安政2(1855)、女人出家の姿で樒を持つしうか。人生のはかないことをたとえた「胡蝶の夢」に由来する蝶が飛ぶ。
○ 六代目岩井半四郎 死絵
歌川国芳画 天保7(1836)年、女形として活躍した六代目半四郎。振袖の上に水裃をまとい、数珠と樒を活けた手桶を持つ。
蓮華 蓮(はす)は泥の中からのびて清浄な花を咲かせることから、仏の悟りをあらわすといい、仏事や葬儀では蓮華(れんげ)の造花が用いられる。
○ 三代目尾上菊五郎 死絵
嘉永2(1849)年、掛川宿(静岡県)で病を得て没した菊五郎。水裃を着て数珠を持ち、手桶には蓮の花が活けられる。
○ 三代目板東三津五郎 死絵
歌川国安画 天保2(1831)年、袈裟をまとい、数珠と樒の枝を持つ。極楽浄土への旅をイメージさせる雲に乗り、頭上から蓮華が降りかかる。
香華 仏や死者を供養するために花を供え、香を焚くが、死絵においても香華の場が登場する。
○ 初代板東しうか 死絵
安政2(1855)年、香炉と樒の花を前にして合掌するしうか。蝶は人生のはかないことをたとえた「胡蝶の夢」に由来する。
○ 四代目尾上菊五郎 死絵
万延元(1860)年、女形として活躍した四代目菊五郎の死絵。菊を生けた手桶を傍らに香炉に向かう。
遺影(掛軸) 死者の肖像画を掛軸にして残されたものが拝礼する形態。
○ 五代目市川海老蔵 死絵
安政6(1859)年、海老蔵の遺影に、実子の初代河原崎権十郎(後の九代目団十郎)と市川猿蔵が焼香する。
○ 三代目尾上菊五郎 死絵
嘉永2(1849)年、手向けの菊は、菊五郎の名にも因む。水をつぎ足すのは女婿にあたる四代目尾上梅幸。
お迎えと死出の旅 あの世に旅立ったり、あの世からお迎えが来る場面もよく描かれる。
○ 極楽より翫雀(がんじゃく)仏を出むかひの図 (四代目中村歌右衛門死絵)
嘉永5(1852)年、三途の川の渡しで、歌右衛門よりも先に死んだ役者たちが出迎える。
○ 初代板東しうか 死絵
安政2(1855)年、地獄の鬼の担ぐ駕籠に乗って冥土へ着いたしうかを、前年に世を去った八代目市川団十郎が自室へ迎え入れる様子。
○ 熊谷次郎直さねほつしん、蓮生坊(五代目市村竹之丞死絵)
嘉永4(1851)年、竹之丞を、歌舞伎「一谷嫩軍記」で世の無情を感じて出家する蓮生坊に見立てて浄土へ旅立たせる。
○ 三代目板東三津五郎、五代目瀬川菊之丞 死絵
天保3(1832)年、「南無阿弥陀仏」の文字を染め抜いた着物で三途の川にたたずむ姿は、歌舞伎のお半と長右衛門の道行きの見立て。
八代目市川団十郎の死絵 絶世の容貌と32才での自死のため、団十郎(だんじゅうろう)に関する死絵は100種類以上発行された。そのバリエーションはさまざまである。
○ 八代目市川団十郎 死絵
嘉永7(1854)年、八代目団十郎は大坂で自刃したため、切腹姿の死絵が多く出されている。本図は「忠臣蔵」の塩冶判官(えんやはんがん)切腹の様子。 八代目市川団十郎死絵 嘉永7(1854)年 本館蔵数珠と樒を活けた手桶を持ち立つ団十郎を、すでに世を去った役者があの世から見守る。
○ 八代目市川団十郎 死絵
嘉永7(1854)年、閻魔大王の浄玻璃に写る八代目。位牌を持つのは、嘉永4年に没した五代目市村竹之丞。 八代目市川団十郎死絵 嘉永7(1854)年 本館蔵自刃した八代目を塩冶判官切腹の様子を描く。絵も摺りも死絵としては質のよいもの。
○ 八代目市川団十郎 死絵
嘉永7(1854)年、並はずれた美貌で女性の圧倒的人気を得ていた八代目らしい死絵で、遺影の前に老若の女たちや猫までが泣き崩れる。 八代目市川団十郎死絵 嘉永7(1854)年 本館蔵旅姿であの世へ向かう八代目。この世の女たちが必死で呼び戻そうとするが、先にあの世へ旅立った役者たちが手招きをする。
明治の死絵 明治期になっても死絵はしばらく発行されるが、頭髪などに時代の変化が見られる。
○ 十代目片岡仁左衛門 死絵
明治28(1895)年、数珠と辞世を記した短冊を手にし、悲壮な覚悟をにおわせる裃姿。
○ 三代目沢村田之助 死絵
明治11(1878)年、香を焚くと亡き者の姿が浮かび出るという反魂香(はんごうこう)の趣向に見立てた死絵。香を焚く四代目沢村訥升(とっしょう)は田之助の実兄。
○ 九代目市川団十郎 死絵
梅堂豊斎(三代歌川国貞)画 明治36(1903)年、死絵によくある釈迦涅槃の見立て。団十郎の周囲を遺族や劇界関係者が取り囲む。 
 
火車の誕生

 

■はじめに
近現代の民俗資料に見える火車は妖怪の一種で、葬列を組んで墓地へ向かう野辺送りの途中、黒雲とともに現れて死体をさらう魔物のように思われていることが多い。これが登場する昔話「猫檀家」もあるが、まず昔話以外のものを中心に、比較的古い採集資料からいくつか例をあげ、近現代の火車の特徴をみてみよう。

山形県最上郡最上町
「一六四 カシャの怪 いつ頃の昔か。堺田の弥惣治家の婆様が、おまいり(死去)して、いよいよ出棺となった。朝からの上天気が昼すぎに変り出して、墓所近くの一本大松まで来ると、天にわかにくもり、雷鳴がして風雨となり、ものすごい嵐となった。葬送の者たちがあわてふためいている中で、お寺様は、これは何か魔物のしわざに相違ないと、棺にまたがり経文をとなえ続けていると、その嵐は間もなくして、からりと晴れた。やれうれしやと、棺をはこぶと、あまりにも軽いので、フタをとって驚いた。中はもぬけのカラであった。これは、カシャ(火車)という魔物で、その時のお天蓋が、五、六十里離れた宮城県のある村に吹き飛ばされて落ちてあったという」
「一六五 古猫のカシャ 死人をさらうカシャとは、正体は年古くなった虎猫だそうな。風雨をよび雲にのってあるくが、天からおりるときは大きな一本杉や松の木をつたって来るという。昔、ある高僧が墓地で、いま、引導をひこうとしているところ、にわかに空がくもって低くなり、雲間からカシャが手をのばして来たので、僧は経文をとなえ続けて、カシャの手を打ち払っていた。だが、ついには疲れて声が細くなると、棺はカラとなり、天が晴れ上って、安堵したものの、さすがの高僧も坊主頭を爪で引っ掻かれて血だらけとなり、「トラヤァトラヤァ」とただ一心に猫を呼んでいたそうな」
福島県南会津郡檜枝岐村
「死体を盗みにくるカシャとよばれる魔物がいると信じられ、棺を運ぶ途中で、これが棺にとっつくので棺の重さが軽くなったり重くなったりするといわれている。ただし、この村にはカシャに死骸を盗まれたという実例は今までになかった。同郡田島町の方では実例があるという」
群馬県
「刃物は、カシャという魔物をよけるために置く。つまりカシャの魂が仏に入ると仏が立って歩くので(吾妻郡嬬恋村)、あるいはカシャが死人をとりに来るので(勢多郡粕川村)、それを防ぐのだという。この魔物が死者を飛びこえると死者が息を吹きかえす(群馬郡榛名町、山田郡大間々町)。生き返ったら箒でたたくと再び倒れるという(邑楽郡大泉町)。出棺のとき急に夕立が降るとカシャが死者をさらいに来たという。カシャは死人のにおいが好きで、険しい山の裏山に住んでいると信じられている(利根郡川場村谷地)。棺が急に軽くなったので中を見たら仏が消えていたことがあった(榛名町)。このようにカシャが死者や死者のすんでいる部屋に近づくことをきらうのである。カシャとは猫の化物のことであるが、動物の猫が死者に近づくことも同様に嫌悪される」
愛知県知多郡南知多町日間賀島
「死人の上に箴(筬カ)を上げる。マドウ―クシャと云う百年以上の猫―がとりに来るので、目の多いものを上げるのである」
徳島県三好市西祖谷山村日比原
「クワシャ―葬式の時雷がなるとクワシャが来たと云う。クワシャは猫だと云う人あり、猫死人に近よる事をきらわれている(前述)。野辺送りの途中で来た時は坊さんの七丈を棺にかければ防げる。「お前が死ぬ時はクワシャが来るわ」と云って人を罵る事がある(日比原)」
 
これらの例ではカシャは猫のような怪物で、葬列の最中や墓場での引導のときに死体を奪うので棺が軽くなるという。またこのとき雷や黒雲が現れる。山形県最上町の二番目の例は「猫檀家」の一種である。群馬県、愛知県日間賀島、徳島県祖谷山の例のように、安置した遺体を猫が飛びこえると動き出すという俗信を背景に遺体の上に刃物などを置いて魔除けとする民俗の説明としてもカシャが登場する。
カシャは火車で、本来は地獄に落ちる人を連れて行く火の車であった。各時代の史料にその例が多い。右の民俗例でも徳島県祖谷山の罵りの言葉には地獄落ちと結びついていた名残りがみられるが、ここに示したように多くの事例では妖怪のカシャは地獄とはにわかに結びつかないほど変容している。地獄への車から死体をさらう魔物まではかなりの距離があるが、これまでの研究ではカシャが火車であることは認識されていても、死にゆく人の目にしか見えない火の車と死体をさらう妖怪との落差を埋めて、その変遷の過程を明らかにしたものは見当たらないようである。しかし中世史料を検討すると、地獄へゆく火車から死体をさらう火車へと変遷していくようすが読み取れる。これにはいくつかの段階があり、それぞれ問題を含んでいる。まず死ぬ人の目にだけ見える火車が第三者にもわかる「客観的」存在にならなければならない。次に地獄へは死者の霊だけが行けばよいのに、その死体を奪うのはなぜか。また
この火車にどのようにして猫が結びついたのか、などである。以下順を
追ってこれらの段階を検討してみよう。
■一 中世の火車
1 臨終の火車
地獄の迎えとしての火車は中国仏教の著述にも見える。『大智度論』巻十四には、仏の足指を傷つけるなどした提婆達多がまだ王舎城に着かないうちに「地自然破裂。火車来迎。生入地獄」とあり、火車が迎えに来て生きながら地獄に落ちたとされる。また天台宗の開祖智は剡東の石城寺に赴き、ここで死ぬだろうと弟子に言って讃を作った。それには「火車相現。一念改悔者。尚得往生」の文があった(『浄土聖賢録』巻二、智)。
平安時代の往生伝や説話集にはこの智の讃のように臨終の人の目に火車が来るのが見えたが、念仏を唱えるなどすると火車は去って極楽の迎えが来たという話が多い。十世紀末の『日本往生極楽記』第十九話では、延暦寺の僧明靖が病になって弟子の僧を呼び、地獄の火が遠くに見えるから念仏三昧を修すべしと言い、僧を枕元に招いて仏号を唱えさせると、火は消えて西方の月が照らすのが見えたという。十二世紀前半の『今昔物語集』巻十五第四話では、薬師寺の済源僧都が臨終に起き上がって弟子を呼び、火の車がやってきた、自分に何の罪があったのかと尋ねると、先年この寺の米を五斗借りて返さない罪だと鬼が言った、すぐ一石の米を寺にやってくれと言った。弟子がそうすると火の車は去って極楽の迎えが来たという。『日本往生極楽記』第九話にも済源の往生説話があり、臨終に米を返させたことを記すが、火の車を見たとは書かれていない。
鎌倉初期の鴨長明『発心集』巻四第七話では、ある宮腹の女房が病になって善知識を呼んだ。僧が念仏を勧めると女房は真っ青になり、恐ろしげな者が火の車を引いてきたという。僧が本願を信じて名号を唱えるよう言うと、玉の車に天女が乗って迎えに来たと言った。しかし僧はそれにもついて行くなと命じ、女房は玉の車も去って何も見えなくなったとき、念仏を唱えて息絶えたという。火の車や玉の車は魔のはかりごとだとされているが、芥川龍之介は『六の宮の姫君』でこの話を使い、姫君は結局浮かばれなかったとした。
平康頼の『宝物集』巻七では、一生の間仏法を信じず罪を作った人が臨終になって初めて僧を呼び、火の車が見えたと言って悲しんだとして「『火車自然去、蓮台即来迎』ととくは是也。こまかには法鼓経にぞ申たる」と評するが、この出典は不明確で、唐の道綽撰『安楽集』が「依法鼓経云。若人臨終之時不能作念。但知彼方有仏。作往生意。亦得往生」とするのが元になっているらしい。ただこの文には火車は見えないので、日本での説話形成の過程で当時の火車の通念が入り込み、誤った引用文が作られたのかもしれない。
鎌倉時代の説話には、他人を地獄に連れて行く者を夢に見た話がある。『古事談』巻四第二十一話によると、武勇で知られた源義家には懺悔の心がなく悪趣に落ちたという。病悩の時に家の向かいに住む女房が夢で、地獄絵に描いたような鬼形の者が大勢義家の家に乱入し、家主を捕らえ大きな札を先頭にして引っ立てていくのを見た。その札には「無間地獄之罪人源義家」と書いてあった。翌朝義家の様子を尋ねると、この暁に逝去したと言われたという。
源義家の話では獄卒だけで車は見えないが、『平家物語』巻六「入道逝去の事」では、平清盛が死ぬ前に妻の八条の二位殿(平時子)が夢に、猛火が燃える無人の車を牛頭馬頭が曳いて門内に入るのを見た。車の前には「無」と書いた鉄の札が立てられていた。どこから来たのか尋ねると、閻魔王宮からの使いだ、大仏を焼いた罰で無間(無間地獄)の底に沈めると沙汰があった、札の文字は無間の無だと言ったという。延慶本(第三本、太政入道他界事)では清盛に仕えた女房が見た夢とし、またこの車は「火車」であると鬼神が言っている。
南北朝時代の『太平記』巻三十三「新田左兵衛佐義興自害事」によると、初代鎌倉公方足利基氏を輔佐する関東管領畠山国清が夢を見た。黒雲の上に太鼓を叩いて鬨の声を上げるような音がして、武蔵の矢口の渡で謀殺された新田義興が二丈ばかりの鬼になって牛頭馬頭などを従え、火車を引いて足利基氏の陣中に入ると見た。目覚めて夢のことを語るか語らぬうちに雷火が起こって入間川の在家三百宇と堂舎仏閣十か所が灰燼になり、その後も矢口の渡には毎晩光り物が出たので、近隣の人々が社を建てて義興を新田大明神と祝ったという。この話では火車のほか雷火という後の火車説話によくある設定も登場している。ただ新田義興の謀殺は延文三年(一三五八)、足利基氏は貞治六年(一三六七)に没しているので、義興が引いた火車はすぐに基氏を連れて行ったわけではないようである。
平清盛が死ぬとき高熱を発して看病の者も近くに寄れず、水風呂に入れても沸騰したという『平家物語』巻六「入道逝去の事」の記事はよく知られているが、鎌倉の執権北条泰時が仁治三年(一二四二)に死んだときも清盛のように熱気が責めて蒸すようだったという。冥火が燃えたためだろうか、人が近くにおれないほどだったという伝聞を京都の貴族は記し、「極重悪人之故歟、可憐々々」と評している(『民経記』仁治三年六月二十六日条)。泰時は今日では鎌倉幕府の名執権とされているが、承久の乱のときの京都攻めの総大将でもあるので貴族の心証はよくなかったのだろう。これらの例では火車とはされていないが、臨終の人を迎えにきた冥火が傍にいる第三者にも感知できるとされている点は注意を要する。
2 雷の火車
平清盛や北条泰時の臨終説話では地獄の火が看病する人々にも熱気として感じられるとする描写が見られたが、これはある意味では、極楽往生のさいの聖衆の来迎が第三者にも「奇瑞」として感知できると古くから考えられてきたことと対応しているといえるだろう。往生伝に載せられた往生人の多くは、紫雲が部屋に入る、香気が漂う、微妙な音楽が聞こえるなどの奇瑞を傍の人にも感知させながら入滅し、それが第三者にとって往生の証拠とされていた。臨終の熱気はいわば奇瑞の地獄版である。
南北朝期の『太平記』の新田義興説話では激しい雷で村や寺院が焼失したが、これは火車が雷を落としたというより義興の怨霊としての活動を示しているようである。しかし十五世紀になると、現実の落雷や雷雨が火車のしるしだという解釈が古記録に現れるようになる。
伏見宮貞成親王の『看聞日記』(看聞御記)応永二十八年(一四二一)二月三十日条には次の記述がある。

卅日。雨降。(略)抑後聞。今夜石井村黒雲聳。其辺火炎燃出云々。人々見之。御香宮巫女家辺云々。此一村病者多之。若火車来歟。又火柱歟。何様ニも不思儀也。不審々々。

この夜、伏見九郷の一つで現在の御香宮神社付近の石井村に黒雲がそびえ、そのあたりに火炎が燃え出たのを人々が見た。火炎は御香宮の巫女の家のあたりだった。この村には病者が多い。もしかすると火車が来たのだろうか。または火柱だろうか。いずれにしても不思議であると書いている。村の病者については、少し前の二月十八日条にこの春は疫病が大流行して万人が死んだので天龍寺や相国寺が施行したとあるので、石井村には疫病に罹った人が多かったのだろう。火車と火柱とが区別されているのはよくわからないが、現象としては黒雲の記述もあることから落雷で火柱が上がったのであろう。それを聞いて「火車か」と書いているのは、病人が悪人であったため火車の迎えが来たことが第三者にもわかる形で現れたのが火炎であると解釈されたことを意味するのではないか。
後世の火車説話を念頭において考えると、この記述の火車は死体を取りに来たものかとも思われるが、この史料の文面からそこまで解釈するのは深読みに過ぎるようである。葬送のときのことだという記述はないので、死亡時の火車と考えられる。この時代には火車による死体消失というモチーフはまだ成立していなかったのだろう。
御香宮の巫女の家付近に立った火柱が臨終の人を迎えに来た火車だとすると、火車は死にゆく人の主観のみに現れる存在から踏み出して「外部化」していることになる。そして十五世紀から十六世紀にかけては、葬儀のさいの天候を人々が気にして、もし雷雨でもあると死者が悪人だったからではないかと噂することがあった。奈良の興福寺大乗院門跡の日記『経覚私要鈔』宝徳四年(一四五二)四月十一日条には

一清覚得業観順房、今日葬礼也、大雨大風時分云々、於清覚者、如法雖穏便者也、依舎兄光宣律師悪逆無道、一家者共如此歟、不便不便

とある。清覚という僧の葬儀で大雨大風があったが、清覚は穏便な人物だったのに舎兄の光宣律師が悪逆無道であるために、同じ家の者もこのようになったのか、気の毒なことだと書いている。「このようになった」というのは大雨大風のことだが、それが兄の悪逆無道と結びつけられているのは、清覚も地獄に落ち、それが大雨大風になって現象したということであろうか。
文明五年(一四七三)、六月二十二日、応仁・文明の乱の東軍の総帥細川勝元の葬礼が悲田院内の地蔵院で行われた。甘露寺親長は日記に「雨下、雷一声」と記した後に勝元の葬儀を記し、敵の山名入道(宗全)が三月十八日に死去したとき雷鳴がして雨が降った。今度の葬礼でもそうだ、不思議だと書いた(『親長卿記』文明五年六月二十二日条)。親長は葬儀に参列したわけではないが、この日雷雨があったことを同日の細川勝元の葬儀に結びつけて考えており、山名宗全の死亡時の雷雨も思い出している。この時代の人々にとって死亡時や葬礼時の雷雨は葬儀の当事者でなくても気になり、記憶に残ることだったらしい。経覚が暗に述べているように、それが堕地獄の表象と思われていたからかもしれない。
十六世紀になっても葬儀のときの雷雨と堕地獄を結びつける感覚は続いており、奈良の興福寺多聞院の英俊が書いた『多聞院日記』に多く見られる。天文十二年(一五四三)五月三日条によると、春日社奥殿の下人太郎という者が去年から血を吐くようになり、この前日に死んだ。太郎は淫欲が盛んで、病になってから神主が夫婦を別居させたが、太郎の宿から妻の家へ毎晩猛火が通うという怪事があり、許可して二人を同居させたところ血を吐いて死んだという。この日は宗円房という僧の葬儀も正午にあり、そのときは晴れていたが、終わって太郎の葬儀になると雷電がして大雨が降り、雹まで降ったという。英俊は「造悪令然事可衆多ナル、浅猿々々」造悪が多かったためだろう、あさましいと書いている。
天文十九年(一五五〇)閏五月五日には奈良で八ツ時過ぎに雷電がおびただしく、大雨と霰が降った。七、八十歳になる者も記憶にないほどだったという。ある人が堀池の内の高の林という者の葬儀の最中だったと言ったので「彼仁ハ関取ニテアリシ、一生人ヲ悩せし故歟、浅猿々々」と多聞院英俊は書いている。「関取」は関所を持っていて関銭を収入にしていたという意味かと思う。この例でもまず雷雨や霰があって驚くという経験が先にあり、その「原因」として当日に行われた悪人の葬儀が当てはめられている。
天正十年(一五八二)七月五日条では、昨日の大雨は産で煩って死んだ下御門のカウシヤ(麹屋か)の女の葬送の時分だった、「大地獄ノ先相、浅猿々々」と記す。産死した女も血の池地獄に落ちるとされた時代だったが、「大地獄」とあるのはそれだけでなく女の職業なども勘案しての評価なのかもしれない。後述するが近世では商売の不正が火車に取られる原因となったとする話が多い。いずれにしても大雨が地獄に落ちたことの証拠とみられている。天正十八年(一五九〇)三月二十三日条では、京都の聖護院の奉行慶忠という者が頓死したが、葬儀のとき雷電大雨が激しかった。「一段大堅貪重欲ノ仁也シ、噺云々」と英俊は記す。ここでも雷電大雨と「大慳貪重欲」が何の疑いもなく結びつけられており、言外に地獄に落ちたという判断が下されているようである。
これらの例では葬送のさいの雷雨が問題になっているが、それは堕地獄の表象とはされているものの「火車」とは表現されていない。『看聞日記』の火炎は「火車か」と言われたが、これは臨終時と思われる。また中世の臨終の人の目に見える火車は当然ながら死ぬときに現れるのに対して、中世後期の雷雨はかなり遅れて野辺送りに出現している。これらの雷雨が「火車」と呼ばれないことを重視すれば、雷が地獄に落ちる者を衆人に示すような意志を持つと考えられていたのかもしれないが、雷は本来的に地獄と結びついた存在というわけでもないだろうから、やはり火車のイメージが背後にあるのだろう。
中世前期の葬列は人目を避けるように夜に行われ、京都の場合は京からいったん郊外の安置所に運ぶときは葬列ではなく平生の行列のようにすることも多かった。葬列の飾りつけも発達していない。これに対して中世後期には武士の葬儀が昼に行われるようになるとともに、多くは禅宗による葬儀の豪華さが競われ、龕、幡、天蓋などの葬具が発達し、また多くの見物人が集まった。梅雨時のように雨が降り続いていれば葬列も蓑笠などの準備をして行っただろうが、葬列が出発したときは晴れていたのに途中で雷雨に遭ったら見栄を張った豪華な葬列も乱れてしまう。堕地獄の表象としての雷雨が臨終時ではなく葬送の途中で出現するようになるのはこれと関係があろう。有力者の野辺送りが人に見せることを意識した重要な儀式になると、それを乱す雷雨が遺族からも見物人からも心配されるようになり、もし雷雨があると何か死者によくない事情があった、つまり地獄に落ちたと考えるようになったのではないか。民俗例では青森県上北郡野辺地町で「この日(葬式の日―引用者)天気が良いと良い往生だという。雷でもなると遺族がひどく気にやむ」といった。ひどく気に病むのは雷が堕地獄の表象であるという感覚が後の火車伝承と結びついて近代まで残っていたからだろう。
一方、第三者の側では生前に悪人と言われたような人に対しては雷雨で野辺送りが混乱するのを望む心情さえあったかもしれないし、さらに葬儀で雷雨があった場合、生前の人となりにかかわらず実は悪人で地獄に落ちた証拠だと思われてしまうこともありうる。『経覚私要鈔』の清覚得業は穏便な人物だったのに、葬送のとき大雨大風だったばかりに兄の悪業と結びつけられ、地獄に落ちたと思われてしまった。多聞院英俊が書いたいくつかの例の死者も、本当に生前に世人から悪人と思われていた人ばかりだったかどうか。
最上孝敬はカラダビ(空荼毘。遺体は早く密葬してその後に盛大な葬儀をすること)をカラダメという千葉県匝瑳市(旧匝瑳郡野栄町)堀川で調査をしたが、カラダメの由来について「同地では華々しい葬儀の途中一天にわかにかきくもって疾風がおこり、火車が現れて棺内の遺体がさらわれたというさる旧家にかかわる伝説を説くので、同家に対する配慮からか、この特異な習俗のかつての存在を説くことを好まない様子がうかがえるのである」と述べている。一方、同県香取市(旧香取郡小見川町)木内でもカラダビがあり、この由来として「木内の北方すこしはなれた所にある上小堀部落のある家で、通常の葬儀で墓地へむかう途中一天にわかにかきくもって激しい雷鳴がとどろき、遂に落雷をみたが、それより一瞬早く側にいた僧が麻の衣を棺の上へ投げかけたので仏は無事であったという話」が伝えられているが、ここではカラダビについての話を憚る様子はなかったという。つまり火車(ないしそれに類するもの)に死体を奪われることは恥辱であり、死者が善人だったか悪人だったかの評価にもかかわるため、その実例があったとされても地域内で秘かに話されるたぐいの物語になるのに対して、僧の活躍でそれを退けたとされる場合はそのような不名誉は被せられないのである。この点に僧が活躍する火車退治の物語が近世に盛行する理由があるようだが、少し先回りしすぎたので再び中世史料に戻ることにしたい。
天正年間(一五七三〜九二)になると、雷が死体を摑み去るという噂が記録されるようになった。これも奈良の『多聞院日記』天正十一年(一五八三)六月十六日・十七日条には、

十六日、夜前大雨下了、(略)
一及晩大雷鳴消肝了、近年不覚事也、大雨下了、(略)
十七日、(略)
一昨夕ノ大雷神杉谷ノ枯タル大杉ヘ落テ、一夜焼、今朝ナラヨリ見付テ各出逢、則ソマ出テ切倒了、大凶事々々、南里ニ伊賀ノ人死タルヲツカミ取テ上了ト、

とあり、十六日の大雨と雷について翌日に「大雷神」が杉谷の枯れた杉に落ちて一晩中燃えた。今日奈良から行って見つけ、杣が伐り倒したが、この雷雨のとき南里で伊賀の人が死んだのを(雷神が)摑み取って上がったという話を書き留めている。ただこの書き方では、伊賀の人が悪人とされていたのかどうかはっきりしない。この時代の他の例からはそう推定されるが、近世の火車説話や「猫檀家」の昔話ではカシャが妖怪化しており、悪人だから死体を取るという理由づけが失われているものが多い。
『多聞院日記』の巻四十三は「天文三年夢幻記」と題され、天文三年(一五三四)から文禄三年(一五九四)までの間に多聞院英俊が聞いた異聞や説話、見た夢を書き留めた一篇であるが、その中に火車の話があった。天正丙子年(天正四年、一五七六)三月中旬、奈良の脇戸郷に「有力の夫婦慳貪無法の物」があった。女は妊娠したが子は多くいらないといって堕ろした。血の鎮まらないうちに下女が隠れて矢田の地蔵に参詣したのを女は怒って打擲すると、まだ血が鎮まらないので急死した。そして「葬送ノ日北乾ヨリ黒雲ムラカリテ悪風シキリニ雲中光リ来ル、火車来テツカミ了トナン、眼前ノ現果可悲々々」ということになり、その後に夫と子が夢に、広い野原の井戸に赤鬼がこの女をはめたり引き上げたりするのを見たという。
これは死体を奪うものを「火車」だとする話の初見であろう。この説話が天正四年当時に書き留められたものだとすれば、死体を奪う主体としては火車が雷より早く登場することになるが、いずれにしても中世末の奈良の世間話の世界では、葬送のさなかに何者かが死体をさらうという後世の火車説話に近い話が伝わっていた。これ以前の雷は本当に死体をさらうとは考えられていなかったようだが、ここにきて死体が奪われるというモチーフが出現している。死者が地獄に落ちるのに死体ごと奪う必要はないわけだが、このモチーフはどこから来たのだろうか。これがあることによって火車が「死体を奪う妖怪」への道を踏み出す重要な転換点だが、今のところその由来を明らかにすることができない。臨終時ではなく葬送の途中を狙って雷雨を仕掛けるのは死体を取るためだというように解釈が展開していった結果なのか、それともこれに影響を与えた別の話があったのだろうか。
また後世の火車説話と異なり、中世史料には火車が猫であるというモチーフは見られない。猫がどこから来たのかという系譜の追究も重要だが、歴史的には日本で猫が津々浦々にいるようになったのはいつごろかという難しい問題もある。ある地域にまだ猫がいない時代に「猫檀家」の昔話は話されないだろう。
火車を禅僧が撃退するという、各地の寺院縁起や「猫檀家」でおなじみの話も天正〜慶長ころには成立していたようだが、これを含め火車説話の展開については次章で触れたい。
■二 近世の火車
1 火車に引かれる人々
臨終に死ぬ人の目に見える火車については鎌倉時代から後の例をあげなかったが、近世までこのタイプの説話も続いている。これらの話では死ぬ人の目に見えたり、近親者の夢に現れたりするのは牛頭馬頭が引く炎が燃える車で、仏教的な火車のイメージがずっと保たれている。
中世の例として『満済准后日記』応永三十四年(一四二七)六月二十四日条では、貴族の中院通淳が来て、先月ごろ清閑寺の寺僧が住坊に召し使っていた下女が悶絶し、大盤石が落ちてくるとか青鬼赤鬼がたくさん来て責めるとか言い、最後に「火車已ニ来候。参候ハテハ不可叶ニテ候哉。無是非事候。サ候ハヽ参候ハム」と言って死んだ。眼前にこれを見た者が語ったとして満済に話したという。
東寺の宝菩提院が蔵する説話集『漢和希夷』は出典の一部が中国明代の『剪灯新話』であり、「新渡ニ剪灯ノ新話ト云書アリ」という記述から同書の渡来後まもない慶長〜元和(一五九六〜一六二四)ころの成立とされる。この中の説話で、天文六年(一五六七)に駿河府中の屋形衆の朝日名孫八郎の隣家の男が伊豆の火金の地蔵(日金山東光寺)に参詣すると、朝日名の奥方が一人で参るのを見た。やせ衰えて青白く、自分に目もくれずに通ったのを不審に思ったが、にわかに黒雲が起こり雷電がして雲から火車が現れ、鬼神が奥方をつかんで火車に乗せて去った。地蔵堂の別当に今のを見たかと尋ねると、こういうことはよくあると語った。府中に帰ると朝日名殿の奥方は死んで明日が初七日だと言われたという。
延宝五年(一六七七)刊の『諸国百物語』巻五第二話「二桝をつかひて火車にとられし事」では、西国巡礼が京都の誓願寺に参詣すると四十歳余りの女を牛頭馬頭の鬼が火の車から引き下ろして呵責し、また車に乗せて西の方に行った。巡礼が跡をつけると火車は四条堀川の米屋に入った。米屋の女房はこの四、五日煩っており、昼も夜も身が焼けると言って苦しんでいるという。巡礼が見たことを話すと亭主は驚き、女房は欲が深くいつも二枡を使った(米を買うとき大きな枡で買い、売るときは小さな枡で売る不正をした)、その罪で生きながら地獄に落ちたのだろうと言ってその場で出家になり、諸国修行に出た。妻はその後死んで家は絶えたという。
二枡を使う者の話は他にもかなりあり、寛文元年(一六六一)刊『片仮名本因果物語』中巻第五話「二舛ヲ用者雷ニ攫ルヽ事」では江州松原の後家が家に落雷して死に、野辺送りのときも雷雨になった。やっと薪に火をつけて帰り、翌朝行ってみると死骸を取り出して十間ほど遠くに捨ててあった。欲が深く二枡を使って一生を送った科だという。また寛延二年(一七四九)刊『新著聞集』第十四、殃禍篇「逆風家に入り貪姥首をうしなふ」では信州松本領の善治の母が二枡を使ったが、山里の窮民はそれを知りつつ借りていた。延宝初年、婆が炉に生木を焚いていると大風が吹いて入口の戸を炉の上に吹き落とし、火も消えた。灯をともして見ると婆は首を抜かれ胴だけになっていたという。これらは臨終の目に見える火車ではないが、二枡との関連であげた。
天和三年(一六八四)刊『新御伽婢子』巻一第六話「火車の桜」。大坂に近い平野に老夫婦があり、娘が二人いたがみな嫁に行った。母が煩ったので二人の娘が実家に戻って昼夜看病し、少しよくなったので二人とも帰ったが、その夜二人の夢に牛頭馬頭の獄卒が火車を引いて母を乗せ、責めながら連れて行った。娘たちが車を引き止めて庭の桜の木に結びつけると、綱も桜も燃え切れて火車は帰っていくと見た。二人とも同じ夢で、覚めても手のひらが熱かった。二人が急いで親元へ行くといま死んだという。なきがらは悪相で、庭の桜は枯れしぼんでいた。つないだ縄目の跡もはっきり残っていたという。この話では夢で火車を結びつけた桜の木が実際に燃えて枯れていたこと、手のひらが熱かったことを記し、火車の炎や熱が現実世界に痕跡を残している。
天和四年(一六八四)の序がある『古今犬著聞集』巻九「火車乗事」では、編者の親が召し使っていた西京出身の下女の伯父が長く煩ったが、死ぬ七日前から青い鬼の姿の者が来ると言って泣きわめいた。七日目に「あらくるしや、其火の車にのれとや、かなしや、ゆるしたうへよ」と手すり足すりし、「とかく参りてハ成ましきとにや、是非なき事哉」と言いざま、足腰の立たない病人が立って走り出ると門口の敷居につまずいて倒れ死んだ。下女が常々これを語っては泣いたという。この伯父の言葉は二六〇年前の『満済准后日記』の下女の言葉とそっくりである。臨終に火車を見た者の最期の言葉として定型化して長く伝えられていたのかもしれない。
享保十年(一七二五)刊『続礦石集』巻上第七話「孝女我母の獄卒に捕られ火車に載られたるを見たる事」の条にも「火車の桜」の類話が二つある。一つは出雲の松江藩士堤家の下女が夜中に叫び、夢で母が火車に乗っているのに出会い、鬼の命令で車を引かされたといって胸を開くと軛の当たった胸を火傷していた。母は慳貪邪見だったが娘は親孝行で泣き崩れるのを主人がなだめていると、夜更けに使いが来て母の死を告げた。いま一つは大和の法隆寺近くの村の女が夢で母が火車に乗せられていくのを止めようとして手を焼いたとする。
宝暦四年(一七五四)刊の『西播怪談実記』巻三「竜野林田屋の下女火の車を追ふて手并着物を炙し事」では、播磨龍野の林田屋という商家に出入りする老婆が熱病になり、林田屋に仕えている婆の娘が看病するうち「ああ母を乗せて行く」と言って何かを止めるように表へ走り出ると病人は死んだ。娘の袖の下に火がついており、右の手のひらが焼けただれていた。火の燃える車を鬼が引いて母を火の中へ投げ込み、表へ出て行くのを止めようとしたが車は虚空へ去ったと語ったという。
また安政三〜四年(一八五六〜五七)成立の『尾張霊異記』初編中巻に収められた話では、名古屋の上宿天神町の商家の下女が寝所で叫んだ。主人が尋ねると、母が火の車に乗っていくのを見た、引き下ろそうとしたができなかったと言って泣いた。両腕とも火傷していたので主人夫婦が驚いていると、下女の在所から母が先刻死んだと告げがあった。
いずれも娘が火車に乗せられて行く母を止めようとして火傷しているが、特に『続礦石集』の出雲の話と『尾張霊異記』はよく似ている。同じ話が伝播しているのだろう。火車に乗せられるのはここでも女性だが、なぜ火車に乗せられるのかは『続礦石集』の出雲の話で「慳貪邪見」とされる他は説明がない。
近世説話全体では必ずしも女性が多いわけではなく、宝永八年(一七一一)刊『善悪因果集』巻四の「正法ヲ誹謗スル者火車来現ノ事」では中京の商人が日蓮宗徒になり他宗を誹謗すること甚だしく、親に先立って死んだ浄土宗の息子の仏像経巻を破却したが、命終に臨んで鬼が来た、火の車が見えると叫び、意識不明になって死んだとする。
前述の『続礦石集』巻上第八話「師匠を殺し金を偸める人現罰火車焔魔王の使を得たる人」では高野山の僧が酒色博奕にふけり追放されたが、舞い戻って師匠を殺し二百両を奪った。師僧の縁者は公儀への告訴は高野山の恥だとして仏罰に任せた。僧は金を使い果たして番太郎になったが、最後は狂乱して火車が来ると一か月余も叫び、井戸に落ちて死んだという。これに続けて類話を記している。流罪になった高野山の僧が赦免されて故郷に帰る途中で伊勢国に宿った。亭主は僧が金を持っているのを見て殺して金を奪い、僧は行き倒れたと披露したが、一周忌に閻魔王の召し状が届き、僧の訴えで明日汝を呼び取ると言った。翌日の未の刻、空から羅刹が現れて亭主を連れ去ったという。
寛延二年(一七四九)刊の『新著聞集』第十、奇怪篇「火車の来るを見て腰脚爛れ壊る」では、武州騎西に近い妙願寺村の酒屋安兵衛がある時大道へ飛び出し、やれ火車が来るわと叫んで倒れた。それから煩い、腰から下がただれて十日ばかりで死んだ。二、三軒隣の者は炎が燃え上がるのを見たという。
享保十一年(一七二六)刊の『諸仏感応見好書』には火車の話が二話載せられている。巻上「慳貪」の話は、天正(一五七三〜九二)のころ某国の酒屋の妻が慳貪で、息子が諫めたが聞き入れなかった。息子は家を捨て高野山に入った。母は自分で酒を量ったので枡の罪(二枡を使うということだろう)が深かった。人の薦めで寺の説法を聴聞したが、ひたすら居眠りした。そのときの夢で家に帰り、大蛇になって金箱を巻いていたという。死ぬときは悪相を現じ火車に遭った。これは女性で、前述の『諸国百物語』の米屋の類話といえる。
巻下「救亡者」の話は、同書の編者が天和のころ相州の山寺に宿ると、夜に門を叩く者がいた。自分は何某でいま命終した。牛盗人で、一生牛馬を盗んで渡世したが、自分のために宝篋印陀羅尼を唱えて火車の難を逃れさせてくれと言った。住僧が仔細なしと言って一心に誦すると亡魂は徳に和して光明かがやき、葬式も支障なかった。この者はこの寺の檀家だったという。この話の死者は男性である。
文政八年(一八二五)初演の鶴屋南北『東海道四谷怪談』大詰でも、お岩の亡霊に悩まされる伊右衛門が庵室から刀を抜いて飛び出し「アヽ、夢か。ハテさておそろしい。まだしなぬ先、この世から、あの火の車へ。南無阿弥陀仏」と言っている。
臨終に火車が現れるのはどのような罪によってなのか。これらを一覧すると、女性の場合は特に理由を示さないことも多い。単に性格の問題とされているのだろうか。近世には「火車婆」なる語があり、悪心の老婆をいうと辞書にある。『日本国語大辞典』は雑俳『二息』の「火車祖母が野送り義理の講中間」などの例を挙げる。「火車」だけでも同じ意味の用法があり、『和訓栞』は「くゎしゃ(略)俗に悪心の老婆をいふは、因果経に今身作後母諛尅前母児者死堕火車地獄中と見えたり。此に本づきたる詞也」と説明する。『善悪因果経』にはここに引かれたように継子をいじめると火車地獄に落ちるという仏の言葉が見えるが、説話を眺めているとそれだけが典拠となってできた語でもないように思える。
「はじめに」で引いた徳島県祖谷山の民俗誌は、「『お前が死ぬ時はクワシャが来るわ』と云って人を罵る事がある」と記していた。話者が念頭に置いていたのは男だったか女だったか。
女性で火車に引かれる理由があるときは二枡を使うとされることが多く、「慳貪」の典型のように扱われている。男性では謗法(善悪因果集)、不正な商売(新著聞集の酒屋はその可能性がある)、殺人(続礦石集・東海道四谷怪談)、牛盗人(諸仏感応見好書)などさまざまであるが、具体的な不正行為を記すことが多い。女性は家にいるので、「慳貪邪見」であっても二枡を使う以外に悪事をする機会がなかったのか。
これらを中世の源義家、平清盛、北条泰時などに比べると小粒になった感が否めないが、武士一般に対する反感は近世社会ではあっても表に出せないし、支配者の恣意的な収奪や処刑も少ない。また大罪人でも磔にされたら臨終に火車を見る暇もなく死んでしまうだろうし、教訓を与える説話としては処刑だけで十分であろう。つまり法網にかからずに暮らして病死するような人で、しかも財力があって商売や金貸しを営み、その過程で不正があったのではないかと人に思われやすい人物や、性格上の問題で人に嫌われているような人が説話の中では火車に襲われるといえるだろう。近世に治安が改善して罪人が現世で処罰されることが多くなったことの表れという面もあるだろうが、ここにあげた事例を通覧すると火車の恐ろしさが生前の所行に対してややアンバランスな感もある。
2 禅僧と火車
近世の火車説話や「猫檀家」の昔話では葬送のさなかに死体を奪おうとする火車を阻止する禅僧の活躍に興味の中心があるものが多いが、禅僧との組み合わせは中世末か近世ごく初期(慶長ごろ)には成立していた。堤邦彦は長野県佐久市前山の曹洞宗貞祥寺の開山節香徳忠の伝を記す『貞祥寺開山歴代略伝』は慶長(一五九六〜一六一五)以前の成立とするが、雪香は前山城主伴野光利の子で、「子育て幽霊」型の出生譚を持つ。光利の招きで大永元年(一五二一)貞祥寺を開く。近くの小宮山村に柏山宗左衛門という狩猟を業とする暴悪の者がいたが、ある日奇異な容貌の武士二人が寺に来て、三日後に宗左衛門が死ぬが、師は葬儀に呼ばれても応じてはならない、われらが地獄に連れて行くと言った。三日後果たして葬儀に招かれたので行くと、青天に黒雲が起こり雷電が震動した。雪香は念珠で棺を打ち偈を詠むとまだ終わらぬうちに空は晴れたという。
これに似た話としてはやはり堤邦彦が紹介した尾張福厳寺の盛禅洞奭が延徳年中(一四八九〜九二)盗賊の首領の葬儀で雷雲の中から声がしたのを棺の上に座して退けた話(元禄六年〈一六九三〉序の『日域洞上諸祖伝』巻下)や、下野鶏足寺の開山天海舜政が大永七年(一五二七)、悪人の屍を奪おうとした山の神を退けたものの七日後に示寂した話(享保二十年〈一七三五〉序の『日本洞上聯燈録』巻八)がある。この二話の僧はいずれも中世の人だが、伝が記録された書は後世のものなので伝承が中世に遡るものかは不明である。ただこれらの話では死者はいずれも悪人であり、またそれを襲うものは必ずしも妖怪とされてはいない。貞祥寺の雪香徳忠に警告した異相の武士は自分たちが宗左衛門を地獄に連行すると言っているから獄卒であろう。盛禅洞奭が引導したのは盗賊であり、殺人や放火も犯していた。空の声は「極重悪人天将罰。禅師不許。我等空去」と言い、笑い声を残して去ったという。このような悪人が処罰されずに死んで、高僧を招いた葬儀を営むことができたという設定は中世的である。天海舜政が対決した山の神はその前には天海の能筆を敬い、その右腕を数日間借りたためその間は天海の手がしびれていたというエピソードがあり、また死者は悪人なので屍を奪って罰するのだから葬儀に行ってはならない、無理に行けば死ぬだろうと警告している。これらの話では、地獄に落ちるべき罪人をも救うことができる禅僧の法力に重点があり、死者が悪人であるという設定が保持されている。
これに対して同じく近世初期の『漢和希夷』に載せられた越後上田庄の雲東庵の長老の話は事件を天正二年(一五七四)とし、檀那の引導でにわかに雷雨があり、黒雲が龕の上に落ちかかり死人を摑み上がろうとしたのを長老が死人の足に取り付き、いっしょに空に引き上げられたがついに死人とともに地に落ちたので再び龕に納めて下火を遂げたという。「其辺ニ高山アリ、黒雲繋ル時ニ動火車来ル事有リ」と記しており、この黒雲は「火車」だとされている。ただこの話では死者の善悪が記されず、話の興味の中心は和尚の活躍にあることから、雷雲は独自の意志で死人を取る「妖怪」に近付いているともいえよう。火車が「高山」にいるのは雷雲が湧いてくるからで、天海舜政が戦ったのが山の神だったのも雷雲を発生させるからだろう。
なお雲東庵は正しくは雲洞庵という新潟県南魚沼市の曹洞宗の名刹で、天保十二年(一八四二)に刊行された鈴木牧之の『北越雪譜』二編巻三「北高和尚」は火車を撃退したのを十世北高和尚とし、血痕のある「火車落の袈裟」の由来を説くが、現在も同寺にはこの袈裟が伝わっている。ただ実在の北高全祝は永禄末年に武田信玄の招きで信濃に赴き、以後そこで活動しているので、天正二年という『漢和希夷』の記述を生かすなら北高に当てるのは問題もあるが、慶長ごろから雲洞庵の高僧の火車退治説話が語り伝えられていたのは事実であろう。
鈴木正三の談話を弟子が書き留めた『驢鞍橋』は万治三年(一六六〇)に刊行されたが、この中巻第七十四条には曹洞宗の三箇寺が徳川家康の前で咄をしたとき、在江(在郷)で火車が亡者をつかむのを落とした導師があったと語ったところ、家康は「なぜくれてやらなんだ」と言ったので長老は言葉に詰まったという話がある。これは北高和尚のことかもしれない。
自ら火車に取られる禅僧の話もあり、寛文元年(一六六一)刊『片仮名本因果物語』巻下第十一話「悪見ニ落タル僧自他ヲ損ズル事」では、正保年中(一六四四〜四八)美濃の八屋(美濃加茂市蜂屋)の臨済宗関山派の長老快祝が多くの人に悟りを授け、わが心のほかに仏なしと言って神木を切り、仏像を破却した。死んで出棺しようとすると雷雨になり、火車が来て死骸を摑んで行って捨てたという。曹洞宗の臨済宗への対抗意識がうかがわれる。
これら近世初期〜中期の書物に載せられた高僧譚では黒雲が「火車」とは呼ばれていないことも多いが、『漢和希夷』『驢鞍橋』『片仮名本因果物語』では「火車」の語が用いられており、時代が下がる『北越雪譜』も「火車落の袈裟」と書いていた。他の例でも死者が悪人だとするのが普通であることから、死体を奪うものは仏教の火車であるという意識があったものと見られる。ただ火車が猫であるという設定はどの話にも見られない(時代が下った『北越雪譜』の北高和尚譚では尾が二股の大猫になっている)。
古浄瑠璃の『牛王の姫』は、『東海道名所記』巻六によれば京の四条河原で次郎兵衛(淡路丞)が西宮の夷かきを語らい、鎌田正清のことや「がうの姫」、阿弥陀の胸割りなどを語ったとされており、慶長年間(一五九六〜一六一五)の初演とされるものだが、当時の正本は伝わらない。新日本古典文学大系所収の寛文十三年(一六七三)刊本によると、牛若が朱雀権現堂の父義朝の墓に参った帰りに牛王の姫の家に雨宿りした。姫は義朝の郎等鎌田正清の妹で牛若に恋するが、話を聞いた伯母の尼公が牛若がいることを清盛に訴え出る。牛若は龕に入って逃れ、姫は清盛に拷問されて自害する。清盛は姫を牛王の宮として祀り、伯母の尼公の所行を憎んで牛裂きにした。すると「天俄にかき曇り 車軸の雨降り 尼公が死骸を摑み行 上下万民をしなべ憎まぬものこそなかりけり」という。尼公の死骸を摑んだ主語が不明確だが、挿し絵では「あつきにかうをつかむ」(悪鬼尼公を摑む)と書かれており、絵は雷神のように描かれている。
これは高僧譚ではなくまた「火車」の語も見えないが、死体を取られるのは悪人である。またここでもまだ猫の姿はない。近世初期ではまだ火車の正体が猫とはみなされていなかったようである。中世末の『多聞院日記』に記された死体を奪う雷の説話がまだ生き続けているともいえるだろう。死体が奪われる話は中世のものは『多聞院日記』しか残されていないため大和の事例が古いように見えるが、信濃貞祥寺や越後雲洞庵の事例から考えると中世末には東日本を含めた各地で初期的な死体消失譚が流布していたのかもしれない。
禅宗の高僧が火車を撃退した話は曹洞宗では寺の事跡ともなり、前述の雲洞庵の火車落としの袈裟のように宝物が伝わっていることもあった。各寺院で共通の説話が伝えられた背景として、曹洞宗で広く行われた切紙伝授の中に「火車落切紙」があったことを切紙を批判した面山瑞方が『洞上室内断紙揀非私記』に記しており、埼玉県大里郡寄居町の正龍寺に伝わる正徳五年(一七一五)の「宗門魔払大事」には太源和尚が焼香のとき虚空から手が出て死人を取ろうとしたのを退けた話が記される。応安四年(一三七一)に示寂した太源宗真は峨
山韶碩の高弟で曹洞宗の大きな門派を形成したが、太源が実際に死人を取る怪物を退けたことはもちろん、その時代に死体を奪う火車の話がまだ成立していなかったことも、これまで見てきたことから明らかである。しかし曹洞宗内で過去の高僧に仮託しながら火車退治の話が広まっていった一端をうかがうことができる。
3 猫の火車
十七世紀末から十八世紀初頭になると、猫が葬送のさい火車になって死体を奪う話が登場する。しかもこれはきわめて昔話の「猫檀家」に近いのである。
議論の前提としてまず「猫檀家」の例を『新版 静岡県伝説昔話集』から一つ紹介する。

四八四 猫の恩返し(周智郡城西村・現磐田郡佐久間町)
ある所に位のあまり高くない僧が一人で住んでいて一匹の猫を大変可愛がって飼っていた。しかし、だんだん僧は貧乏になって、可愛い猫さえ飼う事が出来なくなったので、猫に向かって「お前もずいぶん長く大事にして飼ってやったけれども、もう今は飼う事も出来なくなった。今になってお前を手離すのも辛いけれど、どうも仕方ないから、どこへでも好きな所へ行って幸福に暮らしてくれ」と言った。そうすると、猫はしばらく悲しそうにしていたが「それでは私も無理にいても仕方がないからどこかへ行きますが、一つ御恩返しをしたいと思います。もう少しすると、今病気で寝ている庄屋さんの所のおばあさんが死にます。そうすると、私はその葬式の日にかしゃになって、そのおばあさんをまき上げ、誰が祈っても、戻しませんが、あなたが祈ればすぐ降ろしますから」と言って、それきり姿を消してしまった。数ヶ月すると、果してそのおばあさんは死に、葬式の日になると俄に黒雲が出て激しい雨が降り出した。そして、そのおばあさんの死体は、するすると空へ上って行った。さあ大変と大騒ぎになり、色々位の高い僧が幾人もで祈ったけれども少しも下りて来そうな様子がなかった。致し方なく、位は高くなくてもと言って、例の僧が祈ると、不思議や、死体はするすると下りて来て元通りに棺の中へ納まった。それからその僧の評判は一時に高まり、大いに出世したという。(伊藤こと)
 
「猫檀家」の典型的な話はこのように貧乏寺の和尚に猫が話をもちかけ、寺を繁栄させるために両者結託して火車の事件を仕組むことになっている。このような典型的な「猫檀家」を以下、便宜的に「結託型」と呼ぶことにする。この例には出てこないが、僧が「とらやーやー」という経を読むと棺が地上に下りるという語り方もことに東北地方では多く、禅宗でよく読まれる『大悲呪』の冒頭句「なむからたんのう とらやーやー」が印象深かったことを示している。「はじめに」で挙げた山形県最上郡最上町の例では「トラヤァトラヤァ」を「猫を呼んでいた」言葉だとしていた。この例では猫が策を授ける部分がないのに最後に猫を呼んでいるので、典型的な話が崩れたものと思われる。『大悲呪』の影響で猫を虎猫とする話例も多い。「猫檀家」は『日本昔話大成』では第六巻の「動物報恩」に各地の例がまとめられており、福田晃や山田厳子の研究がある。
さて猫が登場する火車説話で最も古いものはこれも堤邦彦が紹介した元禄六年(一六九三)刊『礦石集』巻一第十五話「猫火車と成て人の死骸を取事」であろう。著者は真言僧の蓮体(惟宝)で、書名は鎌倉時代の無住の『沙石集』にならったものである。洛陽の浄土宗の寺の長老が猫を三十年も飼っていたが、ある夜障子の外から人声がした。猫が出て行って人間の言葉で話をしたが、先方は怒った様子で帰った。和尚が猫を捕らえて問い詰めると、猫は数十年を経れば必ず化ける、自分は京中の猫の長で、悪人が死ねば火車となって死骸を取る党の主宰だ。尊師の檀越の尼公が明日死ぬが、邪見放逸なので朋輩が死骸を取る評議に来た。しかし尊師に恥をかかせることはできないと断ったので朋輩が怒ったのだと語った。長老は驚き、死骸を取るとき恐れるものがあるかと尋ねると、数珠ほど恐ろしいものはない、中でも達磨の数珠で打たれると多くは死ぬと語った。長老は明日は力を尽くして死骸を取れ、我も取られないようにすると言い、猫も喜んでまた外に出て行った。翌朝尼公の死が告げられ、猫の姿は見えなくなった。長老が引導に出ると青天にわかにかき曇り雷雨となったが、雷が棺の上に落ちた瞬間長老が数珠を投げると空は晴れた。棺を開けると何事もなかったので人々は長老を賞賛した。三日後猫が寺に帰ってきたが、達磨で打たれたと見えて一眼が飛び出していた。療治したがついに死んだ。最後は「此事洛陽の老宿。物語せられしまゝ。書付侍るなり。此猫年久しくなりて。魔民となれるなるべし。世に邪見の人の死せるにハ。葬の時は雷電するあり。猫酋の所為にや。一可畏しき事どもなり」と結んでいる。
この十年ほど後の元禄十七年(一七〇四)に刊行された浮世草子『多満寸太礼』巻四「火車の説」も似た話である。前置きとして往古東国では人が死ぬと屍を奪い、引き裂いて木の枝にかけたり、首や手足をもいだり、屍を摑んで虚空に失せるものがあり、これを火車と名づける。関東に限らず諸国にも稀にあったが、今は仏神の信心が広まったので少なくなったとする。上野国の名古に宗興寺という禅寺があった。住持は古くから一代を保つことがなく、常は無住だった。そのわけは、この里の大座村はこの寺の檀越だったが、代々の名主が死んで葬礼に赴くと、黒雲が覆って屍を摑んだ。そのため数人の住職が寺を出ることになった。周厳長老という僧がこれを聞いてはるばる来て住持を望んだ。人々は喜んだが、程なく名主が重病になった。長老が座禅観法に入っていると、深夜に寺に飼っている斑の猫が友に呼ばれて出て行った。友猫は名主が今夜死んだ、例のように取るから出てくれと言うと、寺の猫は住持の心が例のようでないので連衆を外してくれと言った。長老が猫を捕まえて叱責すると猫は飛び出した。翌日野辺送りのとき黒雲が棺の上を覆ったが、長老が野良猫めらと叱ると空は晴れた。名主の子息は罪業が晴れた思いがして長老を尊崇した。その後近郷近在まで猫を集めて遠郷に捨てたという。なお名古、大座村、宗興寺とも地名辞典に見いだせず、創作地名と思われる。
この二話では死体を奪うものの正体が寺の猫であり、かつ和尚は猫が死体を奪うことを知っているのが結託型の「猫檀家」と非常に似ている。しかし和尚は猫と結託しておらず、猫と戦って退治するという点では違いが見られる。二話を比べると『礦石集』では「火車」の語を用いるとともに、邪見放逸の死者を取るとする点で伝統的な火車説話との連続性を持っている。編者が僧侶であることと関係しよう。これに対して、『多満寸太礼』では「火車」の語は用いているものの、前置きの説明は全くの妖怪としてのそれで、仏教的な色彩は見られない。これが当時の一般の通念を示したものなら、死体を奪う火車の「脱仏教化」は十八世紀初頭にはかなり進展していたと見なければならない。また奪う死体も代々の名主のもので、死者の善悪の設定は消滅している。猫の性格づけも微妙に異なり、『礦石集』の猫は悪人の死体を取るだけあって住持に恩義を感じており、そのため最初は仲間の誘いを断り、また自分の弱点も教えている。
二話に共通する設定で、かつ典型的な「猫檀家」に見られないのは、猫の仲間があり、その付き合いで死体を取るという設定である。結託型では猫が自分から和尚に火車の話をもちかけるが、二話の和尚は猫と結託していないので、猫同士の会話から死体を奪うことを知らなければならない。また『礦石集』ではこれは死体を奪う役目と和尚への配慮との板挟みになった猫が和尚に事情を説明する理由としても機能している。
この二話のような話と結託型「猫檀家」とはどちらが先にできたのだろうか。これらのような話をひねって両者結託するように変更して「猫檀家」が生まれたのか、それとも「猫檀家」の話の方が先に流布しており、これではあまり和尚の名誉にもならないと思った誰かが結託を解除して、このような話を作ったのだろうか。
まず指摘したいのは、この二話と結託型「猫檀家」とはリアリティのレベルが異なることである。この二話は近年起こった事実談として読めるように書かれている。しかし結託型の「猫檀家」はそう語ることが困難である。火車の真相は和尚と猫だけの秘密であり、昔話の中ではその秘密は保たれている。しかしその世界の外にいる聞き手は、その秘密を知っている。昔話あるいはフィクションならこれは可能である。しかしこれをそのまま事実談(世間話)にしようとすると、和尚や猫と聞き手が同じ現実世界にいることになるから、秘密が漏れたとしなければならない。この秘密を知ったら、和尚を尊崇して寄進をした庄屋や恥をかかされた多くの坊さんは何と言うだろうか。遠い昔のこととしたり、皆が猫の報恩に感動したとすれば破綻を最小限にできるかもしれないが(「猫檀家」の中にも実在の寺院の昔の出来事として伝説化して語るものが少なくない)、最近の出来事としてリアルに語るのは難しいだろう。それが可能なのは和尚が人をだましたりしない二話のような構成にする場合である。このことからただちに両者の先後関係を判断することはできないが、よく似た話であるにもかかわらず両者が同じ平面上にないことは意識しておかなければならない。つまり、結託型の「猫檀家」は近世に非常に多く書かれた実話風怪異譚や随筆の世界に入り込むことが難しいところにいる「話」である。
『礦石集』の話は猫が和尚に自分の弱点を教えており、このため真剣勝負でありながら筋書きが決まっているところがやや不自然な印象を与える。これは結託型の昔話の影響とみられないこともない。しかし猫は片目をつぶされて死ぬという犠牲を支払っており、猫が全部の筋書きを書く結託型とも一線を画している。『礦石集』的な話から結託型に変化したとも考えられ、この話の猫は和尚と親しいことからその落差は小さい。管見に入った近世初期までの火車説話で火車を猫とするものが皆無であることから考えると、元禄より前に昔話として結託型の「猫檀家」が広く流布していたとは考えにくい。
現在採集されている「猫檀家」の昔話の中にも『礦石集』の猫が片目をつぶす話の系統のものがある。福田晃が収集した各地の事例を見ると、山梨県の旧西八代郡上九一色村の話は貧乏寺の和尚が食えなくなって三毛の雄猫を寺から出そうとすると、猫は長者の母の葬式のときの策を与える。棺が空中に上がり、和尚が数珠を投げると降りる。寺は繁昌するが猫は数珠が当たって片目になった。
奈良県宇陀市(旧宇陀郡神戸村)では天和年中(一六八一〜八四)、百姓七兵衛の妻の葬式で雷雨が起こり、光明寺の憲海上人が棺に袈裟を巻き本尊の箱を投げると晴れた。そばに猫が死んでおり、本尊が当たって一眼になっている。これ以来本尊を猫たたき如来というようになった。
岡山市甲浦の話では円蔵院の和尚が居眠りをしていると、寺の古猫がよその猫と死体を盗む話をしている。和尚は雨具を用意して葬式に行き、雷雨になると棺の上に坐って数珠を振りながら読経する。後に和尚が化猫を退治すると猫は数珠で打たれて片目になっていた。
岡山県小田郡矢掛町では、東三成の山寺の和尚が猫が踊るのを見て追い出す。数年後猫が来て、明日の葬式で雨が降ったら水晶の数珠で棺を一つ叩けば自分の目が一つ飛び出し、二つ叩けば両目がなくなるという。葬送で雷雨になり、他の和尚は逃げるが山寺の和尚は棺にまたがり数珠で棺を叩いて死体を守り有名になる。後に侍が化猫を退治するが、片目だったので寺の猫だろうといわれた。
香川県三豊市(旧三豊郡吉津村)の話では、弥谷寺の和尚の飼い猫が猫又になり、明日は天霧山の猫又と弥谷山の猫又が死人を取るが、天霧山の猫又の代わりに私が出ることになったと教えて策を授ける。雷雨のとき和尚が数珠で棺桶の端を叩くと空は晴れるが、猫又は片目になっていた。
福田が指摘するように東日本、ことに東北地方には猫と和尚が結託する典型的な「猫檀家」が多いが、西日本では猫を魔物とする話が目立つ。その中でもこのように猫が片目になる話がいくつかあり、『礦石集』に近い話が口承話としても広まっていたことを示している。また猫と和尚の関係をみると、これらの話の間でも結託型(山梨県)から『礦石集』のように猫が自分の目をつぶすことになる策を授ける話(岡山県矢掛町、香川県)、『多満寸太礼』に近い対決型(奈良県、岡山市)までのスペクトルを持っている。
『礦石集』は他に「猫の踊り」や「鶏報恩」も収録していることからみて、当時の口承話を比較的忠実に採録したのだろう。編者も「洛陽の老宿」つまり京の年長の僧が語った話をそのまま記したと述べている。ただ昔話資料集の梗概からは、これらの昔話の死者がとりたてて悪人であったとは見られないので、僧侶だった『礦石集』の編者またはやはり僧侶の話者が仏教の火車を念頭に悪人の設定を加えたのかもしれない。おそらく東北地方に多くある結託型の「猫檀家」はこのような形から分化したもので、『大悲呪』の「なむからたんのう とらやーやー」を持つ話が多いことから、曹洞宗の檀徒の多い地域に比較的後世に流布したものと考える。
それにしても、『礦石集』や『多満寸太礼』のような話はこれまで見てきた中世以来の火車説話の展開過程から飛躍して、しかも話として整った形態で猫を登場させているのがやや唐突な感じを与える。
宝暦二年(一七五二)の序をもつ甲斐国の地誌『裏見寒話』巻二では、甲府市の時宗の名刹一蓮寺の項で「手形傘」を紹介している。中古この寺に剛力の住僧があり、人々は朝比奈和尚と読んだ。あるとき葬礼で雷雨になり、黒雲が堂内に舞い下りた。雷が龕の上へ落ちかかり、雲から大きな手が和尚を摑んだ。和尚もしばし争い、ついに雲から怪異な獣を引き下ろして組み敷いた。そのうち空は晴れ、怪物は雲がないため帰れず、命乞いをした。和尚はこれからは時宗の亡者を妨げたり、在俗の家でも時宗の檀家には雷を落とすなと約束させた。証文を書けと言ったが怪物は字を知らないというので傘に手形を押させた。今でもこの長柄傘を葬送には必ずさすという。六月の虫干しに諸人に見せる。手の跡は猫の類か、猫よりはずっと大きいという。河童の詫び証文のような話である。
もし中世末から近世初期に伝承されていた、雷または火車が死体を奪う話に猫を組み入れるとすれば、『裏見寒話』のように和尚が雲から引きずり出してはじめて正体がわかるというのが自然だとも思われる。もとより文献への掲載は偶然に左右されるから、口承の世間話の世界ではそういう話が「猫檀家」のような話よりも前に成立していたのかもしれないが、文献的にはいまのところ『裏見寒話』より半世紀も前に「猫檀家」的な話が登場するのである。
しかし考えてみると、『裏見寒話』のような形で猫を登場させても、ふだん人に飼われているはずの猫がなぜいきなり野辺送りの空に現れるのか、十分に説明することができないだろう。『裏見寒話』の怪物も手形が猫のようだというだけで、自分から猫だとは名乗らなかったし、明確に猫の姿だと描写されてもいない。そう考えると、飼い猫に自分の本性を語らせる『礦石集』や「猫檀家」のような話がまずあって、それを前提として『裏見寒話』のような物語が出現したのかもしれない。
それにしてもなぜ火車は猫なのか。これは「はじめに」で紹介した各地の火車の事例にもあったように、遺体を安置した上に刃物を置いて魔除けとすることの由来として猫が死体をまたぐと死体が動き出すという俗信が広く分布していることと関係があろう。中国では僵屍という動く死体の伝承が多いが、中国でも猫が僵屍と関係づけられている。澤田瑞穂「僵屍変」によると、
 
ある人が死んだ。家人は遺骸を室内の木板の上に横たえて置いた。夜間に一匹の猫がその上にきてから、たちまち僵屍に変じ、板の上から這い出して裏口から出ていった。家人これを秘し、平日の衣服を代りに入れて納棺した。幾年か経つと、家の鶏や家鴨がよく失われる。猫にでも食われたものと思って家人は気にも留めないでいた。ある日、一和尚が訪れ、僵屍が鶏などを取って食うことを教える。その晩、家人は家をあけて他処に避ける。老和尚ひとり燭を点じ、帚を手にして室に坐する。夜半に物音がしてかの僵屍があらわれ、和尚に跳びかかる。身を躱して帚を投げつけると、僵屍は地に倒れて動かなくなった。(中略)(鄭辜生『中国民間伝説集』の「僵屍与老和尚」)
筆録者によれば、この伝説は長江流域に流布する。人が死んだとき、猫が屍体の傍を通ると復活して、人を見ると抱きつき、人の口から息を吸う。吸われた人はすぐに倒れて死ぬ。ただし脚は硬直しているので、押し倒せば起き上れないという。
 
中国の僵屍も箒を投げると倒れるなど、日本との共通点が多く、日本の伝承は中国の影響であろう。また東欧のスラヴ諸民族の間に伝承されていた吸血鬼も、猫や鳥などの動物が飛びこえることによって生じるとされていた。
ただ僵屍や吸血鬼は妖怪として独自の存在感を持っているが、日本で猫がまたいで動き出した死体はそうではない。動き出す瞬間の恐怖に話の重点があり、そのあとは箒を投げつけられて倒れるだけで、独自の妖怪として活動する話は現行民俗ではあまり伝えられていないようである。
猫に関する怪異譚は昔話としては「猫と南瓜」「鶏報恩」「猫の踊り」「鍛冶屋の婆」「猫と釜蓋(猫と茶釜の蓋)」「猫又屋敷」「鼠退治」など種々伝えられており、日本各地で猫が普通に飼われるようになった時代に、これらの話も広まっていったのだろう。「猫と南瓜」のカボチャ、「猫と釜蓋」の鉄砲など南蛮渡来の産物が重要な役割を果たす話は、その成立年代もこれらの渡来普及以後と判断できる。前述の元禄六年(一六九三)刊『礦石集』巻一は「猫檀家」的な話とともに「鶏報恩」「猫の踊り」を事実談扱いで収録し、猫が大名の母に化けるという「鍛冶屋の婆」に似た話も収録している。寛文三年(一六六三)刊『曾呂利物語』巻三第五話「猫またの事」や延宝五年(一六七七)刊『宿直草』巻四第一話「ねこまたといふ事」では、深夜に山でぬた待ち(湿地に来る猪などを待ち伏せして射る猟の一種)をしていた男が妻(宿直草では母)が来るのを見て妖怪だと思って射たが、血が家まで続いており、妻(母)は無事だったが飼い猫が縁の下で死んでいたとする。これらも狼梯子のモチーフはないが「鍛冶屋の婆」に近い。十七世紀の怪談集には猫の話がかなり多く、この時代には猫が広く飼われるようになっていたことがうかがわれる。またこれらの話は家で飼われていた猫が実は化けていたという点で、『礦石集』や『多満寸太礼』に載せられた「猫檀家」に近い話とも通ずる。これらの猫の怪談の広がりを背景にして『礦石集』などに収録された話が登場したのだろう。一方、結託型の「猫檀家」は猫が和尚のために一肌脱いで檀家を騙す話だから、妖術を使える点では共通するとはいえ、怪談の猫とはキャラクターが異なり、後次的に発生したものと見たい。
『多満寸太礼』には猫が死体を動かす話もあった。美濃国不破郡の豊かな農民が城下の商人に娘を嫁がせたが、その後娘を取り戻した。娘は婚家に残した子に会えないのを悲しみながら病で死んだが、一夜明けると死人が蘇った。しかしものも言わず、時々木の実や果物を食うだけで茫然としていた。神子山伏の祈禱も効果がなかったが、霊仏の薬師の別当に頼んで理趣分を繰ると、三日目に飼い猫が病人の前で血を吐いて死に、病人は倒れた。猫が見入って三十日あまり過ぎていたという。猫が死体を動かすという話としては管見に入った中で最も古いものだが、死体はただ茫然と座って木の実を食っているだけというのは少々情けないものがある。日本では猫が死体を動かすという俗信が入っただけで、僵屍のような妖怪譚全体は伝播しなかったらしいが、猫が死体を動かすことができる魔物だという話から、死体を奪う火車が猫であるという設定が発生したのだろう。
ただそれにしても、猫が化けたものが死体を取るのであれば、悪人の死体に限るような選好を示すだろうか。『礦石集』の猫は悪人の死体を取る性格を残していたが、『多満寸太礼』や「猫檀家」の昔話はそうではない。火車は死体を取りたいから取る妖怪への道を歩むのである。
4 妖怪としての火車
火車が猫であるという近世説話は前述の『礦石集』『多満寸太礼』『北越雪譜』のほか、文政十年(一八二七)に上演された鶴屋南北の『独道中五十三駅』四幕目には駿河の宇津ノ谷峠の猫石の精霊が火車になって屍を奪う話があり、精霊はみずから「名付てこれを火車といふ」と名乗っている。しかし説話や随筆に火車が登場しても、必ずしも猫とされない正体不明のものが多いし、猫以外のものが火車になるとされることもある。たとえば寛保二年(一七四二)の序がある『老媼茶話』巻二「山寺の狸」では、山寺の和尚が「狐狸千歳を経て怪をなす。狸の年経たる、能雷雨を起し人の死骸をさらひ取。是を人化者といふといへり」と話しており、火車は狸だという。
宝永六年(一七〇九)刊『大和怪異記』巻七第一話「久右衛門といふもの天狗にあふ事」では、丹波国福知山領多和村の久右衛門が鹿を狙って深夜に猟をしていると、天狗倒しがおびただしかった。豪傑の久右衛門が手を叩いて笑うと、空に白布を引いた。弓で叩くとほとほとと鳴った。そのうち左手の方から物が落ちかかるのを弓で射ると、傍の沼に落ちた。近付くと黒井村の六兵衛の死体だった。宿に帰って黒井村に人をやって尋ねると「過し夜身まかりしを、火車にとられし」とのことだった。射た場所を調べると死骸はなかったが落ちた跡があったという。この話では題名を含め、火車は天狗のように描かれている。火車が狸や天狗であるというのは猫の火車から変化したのではなく、それとは独立して火車に結びついた解釈かと思われる。
寛延二年(一七四九)刊『新著聞集』第十、奇怪篇「葬所に雲中の鬼の手を斬とる」では旗本の松平五左衛門が従弟の葬礼に行くと龕の上に黒雲がかかり、雲から熊の手のようなものが出たので抜き打ちに斬った。恐ろしい爪が三つあり銀の針のような毛が生えたものを切り落としていた。それからこの刀を「火車切」と名づけて所持したが、諏訪若狭守の所望で与えたという。『裏見寒話』の一蓮寺の和尚が組み敷いた怪物と同じく、猫のイメージは残しているが猫そのものでもない怪物であろう。なお軍書『甲陽軍鑑』品第四十三には、多田淡路という武士が「既に信州こくうざう山の城にて、くわしやを伐程の此末きれてみへす」という記述があり、不明部分はあるが「くわしや」(火車)を斬った武将の話も近世初期からあった。もし『甲陽軍鑑』に高坂昌信が書いた部分があれば、この記述も戦国期に遡る可能性があるが、判断は難しい。
十八世紀後半の根岸鎮衛『耳嚢』巻之四「鬼僕の事」では、芝田某という人が普請の用で美濃へ赴いた。出発前に僕を雇って召し連れたが、ある夜宿で夢ともなく僕が枕元に来て、自分は人間ではなく魍魎というものだ、暇をいただきたいと言った。子細を尋ねると、順番で死人の亡骸を取る役があり、今度その役に当たったので、この宿から一里ほど下の百姓何某の家の死人を取ると言った。翌朝この僕がいないので驚き、百姓某のことを尋ねると、その母を今日葬送したが野道で黒雲が覆い、棺の中の死骸を失ったと言われていっそう驚いたという。文政二年(一八一九)序の『茅窻漫録』の「火車」も中国の諸書を引いて、火車とは魍魎だと論ずる。
『耳嚢』や『茅窻漫録』は「死体を奪う妖怪」の存在は受け入れながら、それを仏教の火車ではなく魍魎とするところが、儒教の影響の強い近世の武士知識人層の思考を表しているようだ。しかしそればかりではなく、臨終の人の目に見える古典的な火車と、死体を奪う火車との距離があまりにも大きくなり、いわば火車とカシャが別物のように受け取られるようになったことの表れでもあろう。
これらの近世の諸例は死体を奪うものを「火車」と記すのが普通で、この点は中世末から近世初期の話で死者を悪人とするのが一般的でありながら「火車」の名称を用いることは比較的少なかったのと対照的である。民俗学の採集資料では多くカシャと片仮名で書かれるが、これらの史料は漢字で「火車」と書いているのだから、筆録者は仏教の火車を知っていたであろう。しかし名前とは異なってこれらの「火車」はもはや悪人を地獄に連れ去る性格を失い、死骸を取ること自体が目的のようになっていることが多い。すでに『多満寸太礼』がその傾向を強く示していた。火車が猫や狸や魍魎なら、悪人を罰する仕事に従事するのではなく自分の都合で死体を奪うだろう。それと表裏の関係にあるが、火車を阻止する僧や武士の活躍が話の興味の中心になっている。「猫檀家」の昔話に至っては、寺を立派にできる財力のある家の死者ということだけが条件である。おそらく火車が悪人を取る地獄の使いの性格を失う過程が先に進行しており、その結果として火車の「正体」をめぐって猫をはじめ狸、天狗、魍魎などの解釈がなされるようになったのだろう。獣のイメージは近世の「雷獣」から来たところもあるのかもしれない。
もっとも近世にも悪人であるために火車に遭う話も続いている。臨終の火車については第二章1「火車に引かれる人々」で紹介したが、死体を奪われる話もいくつかある。寛保二年(一七四二)の序がある『老媼茶話』巻三「亡魂」では、下野の宇都宮上川原町の長嶋市左衛門の妻が邪見で、子がないため養子を取ったがその養子を憎んで殺した。その後死霊に取り付かれて狂死したが、宇都宮の清閑寺への野辺送りの途中で雷雨となり、黒雲が棺を奪おうとした。清閑寺七代の上人は山本勘助の孫で、棺を取られなかった。しかし火葬にするとき棺の中から青い火が出て自然に焼けた。これは業火だという。寛文十九年(ママ)のこととする。
同書巻五「久津村の死女」では、奥州岩城領の百姓庄三郎の女房たつは慳貪邪見で人をそねみ、二十人を呪い殺したが三十七歳で死んだ。僧が髪を剃ろうとして剃刀を当てると亡者は手を上げ頭を振って剃らせなかった。鬼のような形相に変化したので僧は用心して葬送したが、雷雨となり黒雲が棺に覆いかぶさったので人々は逃げた。夜明けに行ってみると棺は砕けて死人はなかった。元文四年(一七三九)のことだとする。
このような例もあるが、近世後期になると死体を奪われる話の多くは死者の善悪を記さない。妖怪の火車が何のために死体を取るのかは、話の中では明確に語られない。猫や獣であれば食うためとも考えられるが、その記述のある話は近世には見出していない。新潟県などに伝わる弥三郎婆の伝説では死体を食ったとするものがある。新潟県柏崎市久木太では弥三郎の母が鬼婆になり、弥三郎が山で狼に襲われたとき狼が鬼婆を呼んできたので鉈で斬りつける。家に帰ると母は鉢巻をして寝ている。その後赤ん坊を食ったので弥三郎が斬りかかると鬼になって破風から飛び出し、弥彦山へ行った。一説では弥三郎婆はその後八石山の岩屋に住み、赤い長柄の傘に赤の衣を見ると葬式だと知って棺をさらい、死人を食った。飛岡の浄広寺の和尚が一計を案じ、青の日傘に青の衣に改めたら、棺を奪われることがなくなったという(『柏崎市伝説集』)。この話は火車説話の一種といえるが、弥三郎婆の伝説は弥彦山周辺など新潟県各地に伝わるのを含めて「鍛冶屋の婆」型の話に中心があるので、この土地ではそれに火車が取り入れられたと思われ、死体を食うのは火車の一般的性格とはいえないだろう。もともとの悪人を地獄に連れて行くという設定は失われたが、それを補うような死人を奪う理由は考え出されなかった。他の多くの妖怪もそうだろうが、火車は「葬送のさい雷雨になる」という実際の現象および「葬送のさい死体が奪われる」という噂の中の現象を妖怪化したものであり、弥三郎婆のような別の話を取
り入れない限り、独自の生活などの奥行きは本来持っていない。
火車が人間に死体を奪われたり、自分から死体を捨てたりする話がある。天和四年(一六八四)序の『古今犬著聞集』巻十二「慳貪女、生キなから􄙼事」では、大村因幡守が船で備前の浦辺を通っていると、黒雲が近付き、雲の中から「あらかなしや」という声がした。船の上に雲が来たとき雲から足が下がっているのを引き下ろすと死んだ婆だった。訝しく思っていると浦で里人が騒いでいるので足軽に尋ねさせたところ、材木屋の邪慳放逸の母が雲にさらわれていったと話した。婆は生きながら空にさらわれたので雲の中から叫んだのだろうが、引き下ろすと死体だったというのは葬送のとき死体を奪われる話がもとにあったための混乱であろうか。この話では死体を引き下ろされても火車は抵抗しない。
大田南畝『半日閑話』「屋根に溺死人落つ」では、寛政十二年(一八〇〇)四月七日の昼、浅草堀田原の堀筑後守の屋敷の屋根に物が落ちる音がした。怪しんで調べると日を経た溺死人だった。寺に葬り、秘して人に語らなかった。火車というものが取って捨てたのか、腐乱していて見分けがたかったとある。火車は死体を取っても腐るまで空を引き回しているのだろうか。
これらの奇妙な話は、もともと堕地獄の表象だった葬送時の雷雨が次第に変遷して死骸を取る怪物にまでなったが、それ以前の歴史の多くを引きずっているため、独自の妖怪として見た場合には奥行きが足りないところが露呈したものだともいえよう。
■おわりに
臨終の人の目に見える火車から死体を奪う怪物までの変遷を見てきたが、火車がここまで性格を変え、善悪を問わず人の死骸を奪うようになる必然性はあったのだろうか。
これについては、火車の話が単なる昔話ではなく、実際に某家で火車に死骸を取られたという噂が流布することがあったことに注意する必要がある。第一章2「雷の火車」で紹介した最上孝敬の調査では、千葉県の一調査地ではその土地の旧家がかつて葬送中に死体を奪われたのがカラダメ(空荼毘)の起源だと伝えるため、人々はカラダメについて語るのを憚った。一方、別の調査地でも同様の伝承を持つものの、ここでは死体を奪うものを高僧が袈裟を投げて撃退したとされることから、空荼毘について話すことを忌避することがなかった。
もし火車や雷に死体を奪われることが、その死者が悪人であるからだとすれば、このような噂を立てられることはその死者の評価、ひいては家の評価に直結するから、遺族も安心できないであろう。中世後期の葬送の雷雨はまさに堕地獄の証拠として話されていた。しかし火車が死体を奪う妖怪にすぎないなら、火車が襲来したという噂は死者の善悪と結びつかないから、世間話として気楽に話すことができる。火車が次第に妖怪化することにはこのような社会的背景があり、単なる妖怪としての火車が悪人を取る火車を「淘汰」していったのではないか。
禅僧の火車退治譚の流布にも妖怪への方向性が内在していたのかもしれない。第二章2で述べた曹洞宗の僧の火車撃退説話では死者が悪人とするものが多かったが、悪人の死体が火車に奪われる話に馴染んでいた聞き手の中には、いかなる罪人でも僧の力で火車から守られることに違和感を持つ人もいたであろう。『驢鞍橋』の徳川家康が死体を「なぜくれてやらなんだ」と問うたのはそういう疑問からだったのではないか。高僧の火車撃退譚を語り伝えるなら、死者が悪人ということにしない方が収まりがよい。といった心理から悪人の設定が脱落すれば、その反作用で火車は獄卒から妖怪へと重心を移すことになる。近世初期の『漢和希夷』の雲洞庵の僧が火車から守った死者も、すでに悪人とはされていなかった。
また僧と猫が結託する「猫檀家」は曹洞宗寺院に伝えられている場合もあるので、僧が広めた面もあったかもしれないが、これは猫の報恩譚であると同時に、煎じ詰めれば「火車事件は寺院の自作自演である」という話である。このような話が成立する背景には、各地の禅宗寺院が僧の火車撃退を事跡として宣伝することへの批判的意識があったと見られる。この話の火車は飼い主の僧以外の誰が祈っても棺を下ろさないのだから、火車の方が僧の法力より強いことにもなる。お寺が伝える火車退治の話は、実は「秘密が保たれた猫檀家」ではなかったのか。ユーモラスな昔話だが、檀家の民衆が坊さんを笑いの対象にしてゆく視線も感じさせる。
妖怪については柳田國男がハイネにヒントを得た神の零落説をはじめとして多くの研究や解説があるが、歴史的に扱うのはなかなか難しい。その中にあって火車は仏教の説が元であるのが明確であり、各時代の史料が比較的そろっており、段階を追って変遷したようすを明らかにしうる点で他の妖怪には少ない好条件を持っているといえるだろう。白昼に現れて葬送の途中の死骸をさらうのも他の妖怪には少ない劇的なふるまいであり、しかも全国に出没している。
妖怪が神から零落したという説をそのまま受け入れることは現在の研究段階ではできないが、意外にも火車は地獄へ罪人を引っ立ててゆく本来のありようから、猫や狸や魍魎へと「零落」したと見ることもできるかもしれない。それとも閻魔王宮の職員から独立自尊の妖怪へ「上昇」したというべきだろうか。もっとも筆者は妖怪研究に詳しいわけではないので、火車の変遷からさらに進んで「妖怪」というものをどう理解するか、という問題にまで踏み込むことはできなかった。
また変遷の各段階を示すことと、段階ごとの移行のプロセスを明らかにすることは別のことである。この稿でも「葬送のときの雷雨が堕地獄の証拠とされる」段階から「葬送のさい雷などが死体を奪う」という段階へは飛躍があるが、死体消失のモチーフが何に由来するのかは明らかにできなかった。また火車が猫と結びつく過程についても、より詳細な解明が必要である。今後とも検討を進めたいが、それとともによい史料が発見紹介されることを期待したい。
俗信に関する国立歴史民俗博物館の共同研究に参加するにあたり、これまで自分が專門にしてきた中世の葬送儀礼を扱うことも考えたが、葬儀はある意味では俗信の塊のようなものであるにしても、これまでの研究の繰り返しになりかねないことや、この共同研究で設定された目標の一つが妖怪であることから、葬送に関連した妖怪として火車を選んだ。このテーマはかなり前から温めていたが、今回発表の機会を得ることができたことに感謝したい。また火車の史料収集にあたり、安沢出海氏のサイト「火車の資料」を参考にした。記して謝意を表する。 
■火車 2
悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪である。
葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある。正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう。
昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話がある。
火車から亡骸を守る方法として、山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡、富士河口湖町)で火車が住むといわれる付近の寺では、葬式を2回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に亡骸を奪われるのを防ぐこともあったという。愛媛県八幡浜市では、棺の上に髪剃を置くと火車に亡骸を奪われずに済むという。宮崎県東臼杵郡西郷村(現・美郷町)では、出棺の前に「バクには食わせん」または「火車には食わせん」と2回唱えるという。岡山県阿哲郡熊谷村(現・新見市)では、妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられるという。
古典に登場する火車
『奇異雑談集』より「越後上田の庄にて、葬りの時、雲雷きたりて死人をとる事」越後国上田で行なわれた葬儀で、葬送の列が火車に襲われ、亡骸が奪われそうになった。ここでの火車は激しい雷雨とともに現れたといい、挿絵では雷神のように、トラの皮の褌を穿き、雷を起こす太鼓を持った姿として描かれている 。
『新著聞集』第五 崇行篇より「音誉上人自ら火車に乗る」文明11年7月2日、増上寺の音誉上人が火車に迎えられた。この火車は地獄の使者ではなく極楽浄土からの使者であり、当人が来世を信じるかどうかにより、火車の姿は違ったものに見えるとされている。
同 第十 奇怪篇より「火車の来るを見て腰脚爛れ壊る」武州の騎西の近くの妙願寺村。あるときに、酒屋の安兵衛という男が急に道へ駆け出し、「火車が来る」で叫んで倒れた。家族が駆けつけたとき、彼はすでに正気を失って口をきくこともできず、寝込んでしまい、10日ほど後に下半身が腐って死んでしまったという。
同 第十 奇怪篇より「葬所に雲中の鬼の手を斬とる」松平五左衛門という武士が従兄弟の葬式に参列していると、雷鳴が轟き、空を覆う黒雲の中から火車が熊のような腕を突き出して亡骸を奪おうとする。刀で切り落としたところ、その腕は恐ろしい3本の爪を持ち、銀の針のような毛に覆われていたという。
同 第十四 殃禍篇より「慳貪老婆火車つかみ去る」肥前藩主・大村因幡守たちが備前の浦辺を通っていると、彼方から黒雲が現れ「あら悲しや」と悲鳴が響き、雲から人の足が突き出た。因幡守の家来たちが引きおろすと、それは老婆の死体だった。付近の人々に事情を尋ねたところ、この老婆はひどいケチで周囲から忌み嫌われていたが、あるとき便所へ行くといって外へ出たところ、突然黒雲が舞い降りて連れ去られてしまったのだという。これが世にいう火車という悪魔の仕業とされている。
『茅窓漫録』より「火車」葬儀中に突然の風雨が起き、棺が吹き飛ばされて亡骸が失われることがあるが、これは地獄から火車が迎えに来たものであり、人々は恐れ恥じた。火車は亡骸を引き裂いて、山中の岩や木に掛け置くこともあるという。本書では火車は日本とともに中国にも多くあるもので、魍魎という獣の仕業とされており、挿絵では「魍魎」と書いて「クハシヤ」と読みが書かれている 。
『北越雪譜』より「北高和尚」天正時代。越後国魚沼郡での葬儀で、突風とともに火の玉が飛来して棺にかぶさった。火の中には二又の尾を持つ巨大猫がおり、棺を奪おうとした。この妖怪は雲洞庵の和尚・北高の呪文と如意の一撃で撃退され、北高の袈裟は「火車落(かしゃおとし)の袈裟」として後に伝えられた。
火車に類するもの
火車と同種のもの、または火車の別名と考えられているものに、以下のものがある。
岩手県遠野ではキャシャといって、上閉伊郡綾織村(現・遠野市)から宮守村(現・同)に続く峠の傍らの山に前帯に巾着を着けた女の姿をしたものが住んでおり、葬式の棺桶から死体を奪い、墓場から死体を掘りこして食べてしまうといわれた。長野県南御牧村(現・佐久市)でもキャシャといい、やはり葬列から死体を奪うとされた。
山形県では昔、ある裕福な男が死んだときにカシャ猫(火車)が現れて亡骸を奪おうとしたが、清源寺の和尚により追い払われたと伝えられる。そのとき残された尻尾とされるものが魔除けとして長谷観音堂に奉納されており、毎年正月に公開される。この話はまんが日本昔ばなしで「渡り廊下の寄付」の元とされ妖怪火車として登場している。
群馬県甘楽郡秋畑村(現・甘楽町)では人の死体を食べる怪物をテンマルといい、これを防ぐために埋葬した上に目籠を防いだという。
愛知県の日間賀島でも火車をマドウクシャといって、百歳を経た猫が妖怪と化すものだという。
鹿児島県出水地方ではキモトリといって、葬式の後に墓場に現れたという。
考察
日本古来では猫は魔性の持ち主とされ、「猫を死人に近づけてはならない」「棺桶の上を猫が飛び越えると、棺桶の中の亡骸が起き上がる」といった伝承がある。また中世日本の説話物語集『宇治拾遺物語』では、獄卒(地獄で亡者を責める悪鬼)が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。火車の伝承は、これらのような猫と死人に関する伝承、罪人を奪う火の車の伝承が組み合わさった結果、生まれたものとされる。
河童が人間を溺れさせて尻を取る(尻から内臓を食べる)という伝承は、この火車からの影響によって生じたものとする説もある。また、中国には「魍魎」という妖怪の伝承があるが、これは死体の肝を好んで食べるといわれることから、日本では死体を奪う火車と混同されたと見られており、前述の『茅窓漫録』で「魍魎」を「クハシヤ」と読んでいることに加えて、根岸鎮衛の随筆『耳袋』巻之四「鬼僕の事」では、死体を奪う妖怪が「魍魎といへる者なり」と名乗る場面がある。
転用
経済状態の切迫を意味する「火の車」と言う言葉は、この火車(火の車)によって亡者が責め苦をうけることに由来している。
播磨国一帯では性格の悪い老婆を、化け猫のような老婆との意味合いで「火車婆」と呼ぶと言う。
遊廓で遊女たちを取り締まる女性である遣り手(やりて)のことを花車(かしゃ)と呼ぶのも火車から派生したものであり、遣り手は万事を切り回す女であり、遣り手が牛車を動かす人を意味する言葉でもあることが由来とされている。  
 
精霊
 

 

 宮本誼一先生は、「忘れられた熊野」を著し、熊野地方の矢倉信仰を紹介した。氏の提起によって、熊野地方に石神信仰が古代から存在することが明らかになった。宮本先生は,串本高校で私のクラスの副担任をされた方である。「鈴木君、矢倉信仰を追究してみたら。」といって、資料をくださった。生来おっちょこちょいの私は、気軽に引き受けたのであるが、やってみて大変なことだと感じた。史料がないのである。また、対象地域も散在しており、跡を辿るだけでも苦労であった。歴史学的方法では追究は無理で、宗教民俗学的な方法によらねばならず、自分のもっとも苦手な分野である。和歌森太郎氏、宮家準氏、五来重氏、谷川健一氏、柳田国男氏、安井良三氏などの研究成果に導かれながら、矢倉信仰をまとめてみた。もちろん、完成されたものではないので中間報告として、理解していただきたい。
「矢倉信仰」
矢倉というのは、一般的には城門や城壁に設けられた高い建物を指す。展望や見張り用の高い建物の意味であるが、他にも鎌倉では洞窟を矢倉と呼んでいる。つまり、高さを表す意味だけでは,無いのである。
矢倉の用例として、地名や氏名に用いられている。古座川の支流の小森川では戸矢倉山があるし、矢倉さんという氏名も串本にある。矢倉というのは、熊野では高い岩壁を指すことが多いようだ。矢倉と類似した言葉に大倉というのがあるが、矢倉同様、岩壁を意味している。
この矢倉や大倉が、なぜ信仰の対象になったのか。それには、弥生時代の日本人の信仰観に起因する。弥生時代には神は天にあり、各地の甘南備 山に天下るとされていた。その時の依り代となるのが、岩峰や岩壁である。天下った神々は水源を辿り、川から田畑に入り、農作物の穀霊となり、人間生活を豊かにする。そして、秋の収穫を終えると、山に帰り天に昇る。神々の神意は、様々の自然現象によって示される。雨風や雷、寒暖の気候変動が、神意を示すことになり、それを解読するのがシャーマンの役割であった。邪馬台国の卑弥呼を筆頭とするシャーマンたちは、各村々におり、神意を村人に伝えたのである。
そのような信仰を史料的側面から辿るには、最古の歴史書「日本書紀」に求めるより、方法が無い。「古事記」を最古の歴史書として、教科書に記載しているが、大 安麻呂の主張を鵜呑みにしているだけであり、信憑性が薄い。「日本書紀」神話編に、八百万の神が紹介されているが、その中に、クラヤマツミの神がある。クラヤマというのは、岩山のことであり、雨が降れば滝になる。滝は各地方の水源となるから、神格化されやすい。
私は、クラヤマが逆転してヤマクラになり、山倉が省音されてヤグラとなり、矢倉の漢字が宛てられたのであろう、考えている。このような逆転した読み方の例は古代には多々あり、渡来人系のオミアシ神社はアチノオミを祀っているが、オミとアチの語順を逆転させている。このように、矢倉が山倉から省音されたものであることを、お分かりいただけたと思うがいかがであろうか。
宮本 誼一氏は、矢倉信仰の特徴を以下のように要約している。
自然物を神体とし、丸石を神座とする。基本的に社殿をもたない
海人系の祭りで、太陽を招くことを主眼とする
海岸及び川の中流や支流に多い
私は、矢倉信仰を弥生時代から続く生産・出産の霊力を取り込む性器信仰と考えている。その根拠は、クラヤマツミの神が性器を連想させるからである。古事記火神被殺の条に、イザナギがカグツチを殺害し、陰部から生まれでた神がクラヤマツミであるという。陰部は性器を表すから、男性器と女性器の象徴がクラヤマツミつまり矢倉神なのだ。山、滝、岩、岩礁、樹木、泉などは、性器の象徴で、それを神体化したのが矢倉信仰なのである。以上は私の仮説であるが、多くのご教示をお待ちしている。では、矢倉信仰の分布はどうなっているのか、代表的なものを検証して みよう。東熊野では、三重県熊野市の花の窟神社、和歌山県新宮市神倉山神社、同じく那智勝浦町飛竜神社、同じく串本町河内神社があげられる。それぞれ、岩壁、大岩、大滝、島がご神体である。岩壁はイザナミノミコト、大岩はアマテラスオオミカミ、大滝はオオクニヌシノミコト、島はスサノオノミコトに比定されているが、後世のこじつけであることはいうまでもない。日本書紀が編纂されるころに、創作されたのであり、もともとは、矢倉、神倉、那智、河内と呼称されていた。しかし、これらの神社は伝統的祭祀が今でも残っており、花の窟はお綱渡し、神倉はお灯祭り、那智は扇祭り、河内は御船祭りとして、盛大に行われている。
大辺路から順に、各地に残っている矢倉信仰を紹介してみる。
○大辺路の矢倉神社
 日生矢倉明神森 すさみ町太間川 樹木を神体とする 社なし
 狼森      同 上     木の根を神体とする
 若宮      同 上     木を神体とする 社なし
 矢倉明神森   すさみ町口和深 同 上     
 猪神碑     同 上     石を神体とする 社なし
 本の宮森    すさみ町和深川 同 上     
 明神森     串本町東雨   木を神体とする 社なし
 木葉神森    串本町二色   同 上     
 矢倉神社    串本町串本   石と泉を神体とする
 二河諏訪神社  那智勝浦町二河 石を神体とする 社なし
 高津気神社   同   高津気 岩を神体とする
 飛龍神社    同   那智山 滝を神体とする
 滝姫神社    串本町 神野川 同 上    
 浅間山神社   同    大島 同 上
 高塚の森    同    潮岬 同 上
 矢倉明神社   新宮市馬町   岩を神体とする
 花の窟神社   熊野市  有馬 同 上 
○日置川流域の矢倉神社
 矢倉明神社   白浜町玉伝   木を神体とする 社なし
 日生大明神森  同  小川   同 上
 地主大明神森  同 上     同 上
 矢倉大明神森  同 上     同 上
 大宝天王森   同 上     同 上
 地主神森    同 矢野口   同 上
 槻宮森     同 上     同 上
 矢倉明神森   同  矢谷   滝を神体とする 社なし
 大滝神社    同 市鹿野   同 上
 矢倉明神社   同  古谷   山神を神体とする 社なし
 矢倉明神    同 中野俣   木を神体とする
○古座川流域
 神殿明神森   古座川町高川原 木を神体とする
 河内明神    同   宇津木 川中の島を神体とする
 明神森     同   月の瀬 木を神体とする
 矢倉明神    同    立合 岩を神体とする
 矢倉明神森   同     峰 木を神体とする
 矢倉明神森   同    相瀬 社なし
 宝大神森    同    洞尾 空神を祀る
 嶽の森     同    同  岩を神体とする
 矢倉明神社   同    大川 記述なし
 矢倉明神社   同   三尾川 同 上
 矢倉明神森   同   井野谷 木を神体とする
 春日社     同    小川 滝を神体とする
 春日社     同    大桑 同 上
○太田川流域
 深瀬明神森   那智勝浦町口色川 岸壁を祀る
 王子権現社   同    樫原 木を神体とする
○赤木川流域
 高倉神社    新宮市熊野川町赤木 石を神体とする
 高倉神社    同    鎌塚 同 上

以上のごとく、矢倉神社は熊野地方の海岸、川の流域に広く分布しているが、熊野の自然そのものが神として信仰されていたことが分かる。のちに熊野信仰として、大規模に展開される信仰の基層が、矢倉信仰である。三重県にも矢倉神社があるが、未調査なのでまたの機会に譲りたい。
矢倉信仰が社殿を持たないことを繰り返し述べたが、祭祀形態がどのようなものだったかは,わからない。宮本氏は海人系の祭りで、太陽を招くことに主眼をおいたと述べている。(「忘れられた熊野」)祀り場の様式に岩肌の一部を取り入れ、それを神体として「しめ縄」を張り、その前に神坐となる岩坐をおく様式が同じである。
矢倉祭りは旧霜月24日(新暦では年末)に実施するが,これは冬至を一陽来復の日、春への転回として、おこなったのであろう。
確かに、古座川町峰地区では、冬至の日に太師講を開いて焚火をするが、一陽来復を願ってのことであり、那智の扇祭りや大島の水門祭りのおやまの扇も太陽を象徴するといわれている。矢倉祭りが招陽と一陽来復を願う祭りであることは、了解していただけると思う。
では、このような信仰をもたらした海人はどこからきたのかが次の課題となる。宮本氏は沖縄の御嶽信仰との類似を唱え、黒潮を遡ることを示唆しておられる。また、安井 良三博士は朝鮮や南中国の迎日湾の地名の所在に言及され、渡来人の信仰を想定している。
わたしは、対馬の天道信仰が類似性が多いと考える。天道信仰とは何かといえば、太陽祭祀を中心にした自然信仰であり、そのシャーマンが天童法師である。最初に、提起したのは平泉 澄博士である。博士は「中世に於ける社寺と社会の関係」を著して、天道信仰の遺跡について、次のように述べている。 「天道法師の入定地は、豆酘郡の卒土山の中腹地にある。その土地を計測してみるに、縦横八町ばかり、その区域内に平石を積み上げ、九重の宝塔をなしている。」というもの、すなわちこれである。対馬が位置朝鮮に近きこというまでもない。まったく朝鮮と同じ風俗であったと察する点が多いことである。ここにおいてソトを解するに古代朝鮮語とするに、理由があるといわざるを得ない。
以上のように、対馬や朝鮮半島に太陽祭祀を行う自然信仰があり、その聖域はソト(卒土)と呼ばれていたことがわかる。ソト信仰は中国でも注目されるほど、特異であったようで、「魏志・東夷伝・韓人」の条に、ソトについて次のように説明している。
韓に鬼神を信じて、村々に一人をたてて天神をまつる風習がある。そのものを天君と名付ける。また諸国に、「蘇塗」をなす村がある。大木をたてて、そこに鈴と太鼓を掛け、鬼神をよびよせるのである。この「蘇塗」の内部に、さまざまな逃亡者が入り込むと、「蘇塗」の人々は保護する。旗竿をたて、その標識とする。
つまり、「蘇塗」はアジール(聖域)の役割をはたしているのである。わたしは矢倉信仰も同様であったと考えている。中世日本において,寺社はアジール役割を果たしたが、それは「蘇塗」信仰からきているのである。矢倉信仰の代表的なものに花の窟神社がある。その祭祀に「蘇塗」信仰が、残っている。日本書紀巻一神代上に、次の記述がある。
イザナミノミコトが火の神を生む時に、体を焼かれてお亡くなりになった。それで、紀伊の国の熊野の有馬に葬った。とちの人がこの神をお祭りするには、花のときは花をもってまつり、太鼓・笛・旗をもって歌舞して祭る。
安井 良三氏は、矢倉信仰を南中国・朝鮮からの渡来と示唆されたが、わたしはアジールを伴った「蘇塗」信仰が日本の風土に適応して定着したものと考えている。
では、韓人が信仰した鬼神の正体は、なんだろうか。魏志東夷伝倭人の条に、邪馬台国卑弥呼の説明に、
鬼道につかえ、よく衆をまどわす
とあり、鬼道はあやしい術、魔術、妖術の意味で用いられている。人道に対立する用語であるから、鬼道は死者の霊魂を降下させる術なのである。したがって、鬼神とは死者の霊魂をあらわす神なのだ。それを降下させる霊媒師が卑弥呼なのである。卑弥呼を固有名詞と考えるから、歴史上の人物に比定したくなるのであるが、卑弥呼は日巫女であり普通名詞と考えたい。太陽祭祀をおこなう巫女が、シャーマンとなったのである。朝鮮半島のシャーマンである天童法師が男性なのにたいして、大霊女が女性なのが異なる。倭人社会が母系制的風習が強かったからであろう。
「蘇塗」信仰に近いものに、韓国の花歌巫儀式がある。これは、造花を飾り、死者の霊が花の常世にいけるように祈る儀式である。ムダン(巫女)が祈る時、鉦太鼓をならし、ムーダンが神がかりして死者の言葉を宣託する形式が、鬼道を髣髴させる。 
かくして、朝鮮半島からの渡来人によって、もたらされた蘇塗信仰は熊野の国に根付き、伝統的な信仰として保持されてきた。中世に熊野信仰が隆盛を迎えると変容し、神仏習合の信仰として現代に至っている。
「高塚の森」
串本町潮岬に高塚の森と呼ばれる古代の祭祀遺跡がある。安井 良三博士の見解では、五世紀頃の太陽祭祀遺跡であろうとのことであるが、以前から古墳説が根強く語られていた。それは、神功皇后の侍従が埋められたという伝承があるからである。確かに、甘南備型の地形は円墳を思わせるが、日本書紀には神功皇后が熊野地方を訪れた記述がないから、これは住吉の神を奉じた瀬戸内海の海人たちが広めた伝承であろう。高塚という地名は、古墳を意味するから、古墳説が定説であった。しかし、古墳とする と古墳を築造する権力を有する豪族が潮岬に存在したかというと、肯定できない。つまり、豪族の墓とするには、生産力が低く、有力者が発生したとは言いがたい状況である。
次に祭祀遺跡説であるが、昭和44年に「高塚の森調査委員会」が発足し、以下の見解をまとめた。
名称を潮岬太陽祭祀遺跡とする
遺跡の構造は、岩座、祭壇、斎庭、斉場、司祭の道よりなる
面積は28000平方メートルで、禁足地である
築造は3世紀末、神武比定の人物である
祭祀は太陽神の昇天をみはからっておこない、夏至のころが太陽の勢いが強い
司祭王が祭祀を執り行い、岩座に降臨した太陽神と神人一如となる
短期間の祭祀場であった
高塚が太陽祭祀遺跡という見解には、異論はない。しかし、これを神武東征と結びつけ、高塚を建国宣言をした場所というのは、飛躍した結論であろう。というのも、古事記や日本書紀にハツクニシラススメラミコトとして登場するのは、神武だけではない。物部系のニギハヤヒや崇神天皇もハツクニシラススメラミコトとして登場する。いわば、ご都合主義の産物であり、信憑性は薄い。したがって、日本書紀の記述と結びつける見解は、妥当性を持たないと考える。
では、だれがいつこの遺跡を築造したかを論じねばならない。わたしは矢倉信仰を朝鮮系の渡来人の信仰と指摘したが、高塚も渡来人が築造したと仮説をたてている。
朝鮮半島から日本への渡来の波は、大別すると三波に分けられる。
第一波は、紀元前三世紀から紀元後一世紀にかけて伽耶・新羅建国に伴う部族国家民の渡来である。建国により追い出された先住民が安住の地を求めて倭国に渡来した。かれらは、農耕技術を携えて倭国に広めた。一方、伽耶や新羅も倭国が、米作の適地であることを知り、国民を倭国に移住させた。古代日本に新羅や伽耶の言葉が多いのは、それゆえである。
第二波は、四世紀末の広開土王による百済攻撃の結果、王族、貴族、軍人、学者、技術者が集団亡命した。フルキノテヒトと呼ばれた人々である。
第三波は、六世紀半ばから七世紀後半にかけての伽耶、百済、高句麗の滅亡による権力層、学者、軍人の集団渡来である。イマキノテヒトと呼ばれた。いかなる理由によれ、亡国の国民ほど悲惨なものはない。祖国をなくした人々は、異国の土となる覚悟でいきねばならないのである。そのためには、共同体を形成し、相互扶助を行うためには、集団を結束させる祭祀が必要だ。私は朝鮮半島南東部の「蘇塗」信仰が、その役割を果たしたのであると考える。
高塚の太陽祭祀遺跡は、三世紀から四世紀頃、伽耶・新羅系の渡来人による築造であり、太陽祭祀は「蘇塗」信仰に基づくものである。高塚が禁足地であり、祭司王は天童法師であり、太陽が天君と考えると符号することが多い。このように、高塚は建国宣言にかかわる遺跡でなく、伽耶・新羅系の渡来人による「蘇塗」信仰遺跡であるというのが、わたしの見解である。
伽耶・新羅系と特定できる根拠は、地名や遺物に求められる。第一に、熊野地方から出土する土器は伽耶地方のものが多い。また、竪穴住居も半地下式の松菊里遺跡(伽耶地方)と同形式のものが出土する。
新宮市の明日香遺跡などがそれである。
第二に、串本、波田須などは、古代朝鮮語で串は岬、波田は海を意味する。熊野市波田須は、徐福の渡来伝説が残っているが、実際は新羅系の渡来人の根拠地である。熊野市有馬の花の窟神社の祭祀は、「蘇塗」信仰そのものであり、伽耶・新羅地方に広く分布するものと類似している。
したがって、伽耶・新羅系の渡来人が3、4世紀ごろに渡来し、一族の共同祭祀場として高塚を築造したが、その後各地に祭祀場が設けられたため(矢倉信仰遺跡)放棄されたが、アジール(聖域)としての機能が残ったというのが潮岬太陽祭祀遺跡に対する私見である。祭祀が短期間に終わったのは、以上の理由と推測している。
潮岬太陽遺跡(高塚の森)についての私見をまとめると、以下のごとくになる。
3-4世紀頃、朝鮮半島南部の伽耶・新羅地方の渡来人によって築造された(物部系阿刀氏ではなかろうか)
「蘇塗」信仰に基づく太陽祭祀遺跡である
熊野地方の渡来人の共同祭祀場であったが、各地に矢倉信仰が普及すると役割を喪失した
ただしアジール(聖域)としての機能は残り、のちに高塚の森という禁足地になった(御崎会合が潮岬で開かれたことの一因か?)
建国神話とは無縁である
熊野地方の地名には古代朝鮮語によるものが残っており、遺物や遺跡にも朝鮮半島南部のものと類似点がみられる
読者諸賢の御教示を賜れば幸いである。
「玉石信仰」
熊野地方の矢倉信仰の神社を訪れてみると、奇妙な共通点に気づく。玉 石あるいは丸石という球形の石が安置されている。大きさは、さまざまで熊野市有馬の花の窟神社や那智飛龍神社の丸石は直径1メートル以上ある。
古座川町春日神社の丸石は直径30センチメートルくらいの小さな石である。どれも神体として主役でなく、脇役のように思える。花の窟の丸石は参道の左側に置かれており、那智のそれは右側にさりげなく置かれている。敬して遠ざく扱いである。
しかし、すべての丸石が脇役かといえば、さにあらず。奈良県十津川村の玉置神社の丸石は主役であるし、現在でも信仰が厚い。玉置神体巻外古文書によれば、
崇神天皇、王城火防鎮護と悪霊退散のため、早玉神を奉仕され、以後玉置と名づけられた
とあり、丸石が神体とされた由緒を記述している。しからば、丸石をなぜハヤタマと呼ぶのかが、問われねばならない。私はハヤタマは、古代朝鮮語であると考えている。李 寧煕氏の「枕詞の秘密」によれば、ハヤは岩、タマは王を意味する古代朝鮮語であるという。ハヤタマは石の王者を表すのである。天皇の身体を玉体と呼ぶのも、古代朝鮮語の流れである。このように、ハヤタマには石の王者という意味がこめられ、原初的信仰の神体として崇敬されてきた。熊野の本宮大社、熊野の速玉大社の神体も、原初は丸石だったと推測しているが、いかがであろうか。
丸石が神体としての役割をなくしていったのは、仏教の隆盛や663年の白村江の戦い以降の「日本化」の流れの中で、朝鮮半島の匂いの消去という意識改革のゆえであろう。半島系の姓名を和風の姓名に改める動きのなかで、宗教改革がおこなわれ、熊野御毛野命や速玉の大神や熊野牟須美の大神が創出されていった。韓神が大和神化したのである。そうなれば、主役から脇役に格下げされ,脇にまつられたのが丸石である。
しかしながら、民衆は丸石を見捨てず様々な形で信仰してきた、前記の丸石以外にも、本宮町船尾谷の乳房石、本宮町湯の峰の小栗判官の力石、那智光が峰遥拝所の光石、那智色川の丸石、那智浜の宮の力石、那智色川神社の丸石、熊野川町高倉神社の丸石、新宮市高田の高倉神社の丸石、串本町の徳大明神の丸石、同じく矢倉神社の丸石などは地区民の信仰の対象となっている。身近な地主神としての役割をはたしている。氏名にも玉置、玉石、丸石など丸石信仰を示すものが残っているが、「丸石信仰は死なず」という証左であろう。
丸石の変わった使い方として、道祖神的使用法がある。三重県大峪峠には、峠の頂上に丸石が置かれている。これは、後世に丸石が玉石と呼ばれ、玉が霊と解釈されたからであろう。霊はタマと解釈され、四つの役割が与えられた。すなわち、満足玉(たるたま)、生存玉(いくたるたま)、道反玉(みちがえしたま)、死反玉(まかるがえしたま)の四つで、それぞれ満足、長寿、防災、再生などを祈願する信仰になった。峠に置かれたのは、災いや疫病が村に侵入するのを防ぐ意味があった。
かくして、半島の渡来人がもたらしたハヤタマ神は支配層には棚上げされたが、民衆層には支持され今に至っている。
「金精さま」
金精神は男根に似た石や樹木、張り型を神体として信仰するもので、起源は古く縄文信仰に遡るといわれている。江戸時代までは、日本各地で信仰され不妊治療や性的不能の治療を祈願されていた。特に、遊郭では商売繁盛の神として、厚く信仰された。ところが、明治維新の1868年、明治政府は廃仏棄釈令を出して、金精信仰を厳禁した。各地の祭りも禁止や変更を余儀なくされた。淫風撲滅の宗教政策は、山伏や熊野比丘尼の追放にも及び、近代国家建設の国家理念のもとで金精信仰は壊滅したのである。
と思ったが、民衆の抵抗は水面下で続き,ひそかに信仰され続けた。宮崎県小林市に行った時、陰陽石を見たのであるが、その雄渾さに驚いた。
語るなよ 誰が問うとも 川中の 陰陽石の 姿形を
という、吉井 勇の歌碑が建てられたいた。語るなよ、という助言を無視して語ると、高さ20メートル近い陽石の下部が高さ4、5メートルの陰石になっている。一体の石柱に陰陽二体の性器があらわれているという、まことに珍奇な光景だ。まるで、彫刻家のいたずらとしか思えないできばえである。造化の神の才能は、まさに神秘的であり、脱帽以外にない。
しかし、驚いたのは近くに結婚式場がつくられ、利用が多いことである。不便な場所につくられた結婚式場が利用されるのは、金精信仰が続いているからである。民衆の信仰は、国家権力の弾圧では消えないことの証拠である。
では、熊野の金精信仰はどうなっているのか。立派に生きているのである。
白浜町阪田に、阪田祭祀遺跡がある。1300年前の祭祀遺跡といわれ、男女の性器が岩壁に彫られて神体とされ、ひもろぎ形式をとどめた祭祀場となっている。熊野地方では、7世紀頃には陰陽信仰が成立しており、それが、2008年の現在も続いている。「金精は死なず」といったところか。
陰陽信仰は新宮市三輪崎の鈴島の陰石と陽石、新宮市神倉山のゴトビキ岩、花の窟神社の陰石と陽石などにみられるが、わたしは矢倉信仰に形を変えて、熊野地方に広く存在すると考える。滝は女陰の象徴であり、樹木や立岩は男根の象徴だからだ。玉石も睾丸の象徴であろう。
明治政府の弾圧を避けるために、金精様は矢倉信仰に変形して各村むらで生き延びていたのである。「隠れ」キリシタンや「隠れ」念仏のように、権力の弾圧は成果を生まず、事態を混乱させるだけであった。
かように熊野信仰は熊野の自然そのものを神として、民衆の信仰として継承されてきたのであるが、信仰の国家統制は決して成果をあげない。信教の自由は保障されねば、ならないのである。  
 
付喪神
 

 

付喪神といえば器物の妖怪だということで、日本・中国あるいは朝鮮の器物妖怪との比較研究がもっぱらなされているの。しかしながら年を経ると妖怪化するのは何も器物に限ったことではない。そのもっとも代表的なものは猫又であろう。ところがネット検索しても付喪神と猫又の関係を扱ったものは意外に少ない。おそらく研究も少ないものとみられ、むしろ素人の素朴な疑問としてそれに言及するものの方が多いように感じられる(それを「詳しい人」が否定してたりもする)。
で、調べてみたところ「猫又(猫また)」は『付喪神記』が成立したと考えられる室町時代よりも前から存在するのであった。
「夜前自南京方来使者小童云、當時南都云猫胯獣出来、一夜噉七八人、死者多、或又打殺件獣、目如猫、其體如犬長云々、二條院御時、京中此鬼来由、雑人又稱猫胯病、諸人病悩之由、少年之時人語之、若及京中者、極可怖事歟、」(『明月記』天福元(1233)年八月二日)
奈良に「猫胯(ねこまた)」が出現して7〜8人が食べられ、死者多数。この獣を撃ち殺したところ、猫のような眼をして体は犬のように長かった云々。ところが藤原定家はそこから二条院の時に流行した「猫胯病」の話をしている。前者は実体のある「獣」の話なのに、後者は「鬼」で話がかみ合ってないように思われる。奈良に出現した獣の話が実話なのか噂話なのかわからないが、「猫胯」という名前は「猫胯病」の原因とされる「鬼」にちなんで名づけられたものだろうと思われ、妖怪として語られているのではなく実在する動物として語られているのだろう。すなわち奈良の「猫胯」は妖怪ではないかもしれないが、妖怪「猫胯」の存在があってこそのことであるには相違ないだろう。だが「猫胯」がどんな妖怪なのかは不明。「鬼」で病気の原因だということは想像できるけど、猫が化けたのかといったことはこれだけでは全くわからない。
一方、『徒然草』(鎌倉時代末期)
「「奥山に、猫またと云ふものありて、人を食ふなる。」と、人のいひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを。」といふものありけるを、なに阿弥陀仏とかや連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが聞きて、「ひとり歩かむ身は心すべきことにこそ。」と思ひける頃しも、ある所にて、夜ふくるまで連歌して、たゞ一人かへりけるに、小川の端にて、音に聞きし猫またあやまたず足もとへふと寄り来て、やがて掻きつくまゝに、頸のほどを食はむとす。胆心も失せて、防がむとするに力もなく、足も立たず、小川へころび入りて、「助けよや、猫また、よやよや。」と叫べば、家々より松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。こはいかにとて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物とりて、扇小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ〳〵家に入りにけり。飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。」
この「猫また」は明らかに妖怪。ただし話に出てくる猫が本当に妖怪なのかといえば、「猫また」の話を聞いた法師がびびってたので、ただの猫を「猫また」だと勘違いしたとも解釈できなくはない。猫だけじゃなくて犬も法師に飛びついてるし。それはともかく、この話は妖怪「猫また」の存在があってこその話である。その「猫また」とはどんな妖怪なのかも
「奥山に、猫またと云ふものありて、人を食ふなる。」
「山ならねども、これらにも、猫の経あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを。」
とあることから、わりとはっきりしている。猫又は「奥山にいて人を食べる」「山でなくても年をとった猫が猫またになって人をとる(食べる)」である。ただし、奥山にいる猫又が年をとった猫なのかははっきりしない。奥山以外にいる猫も元は奥山にいる猫又と同じだが本性を隠しており、年をとると本性が出て奥山にいる猫又と同じになるというように解釈できないこともない。「野生化する」というのと似たようなニュアンス。
それはともかく、『徒然草』の「猫また」は、「奥山に住む(ただしそうでない猫又もいる)」・「人を食べる」・「(山にいない猫も)年を取ると化ける」という特徴がある。
一方、『付喪神記』における器物妖怪は
「奥山に住む」/「妖物共、住むべき在所を定めけるに、あまりに人里遠くては、食物の便あるぺからずとて、船岡山の後、長坂の奥と定めて、皆々かしこに居移り、」※(京都市北区鷹峯長坂あたりか?)
「人を食べる」/「常には京白河に行て、捨てられし仇をも報じ、又は食物の為に貴賤男女は申すに及ばず、牛馬六畜までも取りければ、」
「年を取ると化ける」/「彼等すでに百年を経たる功あり、造主に又変化の徳を備ふ。」
と「猫また」の特徴と合致する。
『付喪神記』以前の器物妖怪との比較よりも「猫また」との比較の方が、より合致する点が多いのではないだろうか? 
付喪神、つくも神 (つくもがみ)
日本に伝わる、長い年月を経た道具などに神や精霊(霊魂)などが宿ったものである。人をたぶらかすとされた。また、『伊勢物語』の古注釈書である『伊勢物語抄』(冷泉家流伊勢抄)では、『陰陽記』にある説として百年生きた狐狸などが変化したものを「つくもがみ」としている。現代では九十九神と表記されることもある。
「つくもがみ」という言葉、ならびに「付喪神」という漢字表記は、室町時代の御伽草子系の絵巻物『付喪神絵巻』に見られるものである。それによると、道具は100年という年月を経ると精霊を得てこれに変化することが出来るという。「つくも」とは、「百年に一年たらぬ」と同絵巻の詞書きにあることから「九十九」(つくも)のことであるとされ、『伊勢物語』(第63段)の和歌にみられる老女の白髪をあらわした言葉「つくも髪」を受けて「長い時間(九十九年)」を示していると解釈されている。
『付喪神絵巻』に記された物語は次のようなものである。器物は百年経つと精霊を宿し付喪神となるため、人々は「煤払い」と称して毎年立春前に古道具を路地に捨てていた。廃棄された器物たちが腹を立てて節分の夜に妖怪となり一揆を起こすが、人間や護法童子に懲らしめられ、最終的には仏教に帰依をする。物語のなかで語られている「百年で妖怪になる」などの表現は厳密に数字として受け止める必要はなく、人間も草木、動物、道具でさえも古くなるにつれて霊性を獲得し、自ら変化する能力を獲得するに至るということを示しているのであろうと解釈できる。
「つくもがみ」という存在を直接文中に記している文献資料は、『付喪神絵巻』を除くと、『伊勢物語』の古注釈書に「つくも髪」の和歌の関連事項としてその語句の解釈が引かれる以外には確認されておらず、その用例は詳細には伝来していない。『今昔物語集』などの説話集には器物の精をあつかった話が見られたり(巻27「東三条銅精成人形被掘出語」)、おなじく絵巻物である『化物草紙』では、銚子(ちょうし)などが化けた話、かかしが化けた話などが描かれているが、「つくもがみ」といった表現は見られない。江戸時代の草双紙などにもほとんど「付喪神」という表現は使われていない。
小松和彦は、器物が化けた妖怪の総称としての「つくも神」は中世に最も流布したものであり、近世には衰退した観念であった。幕末になり浮世絵の題材として器物の妖怪は再浮上したものの、それは「つくも神」の背景にあった信仰とは切り離された表現だった、と考察している。  
 
鼠浄土
 

 

鼠浄土 1
○ 昔話の一。爺(じい)が落として転がった握り飯を追って穴へ入ると、鼠の国へ案内され、歓待されたうえに土産をもらって帰る。隣の爺がまねをして穴へ入り、猫の鳴き声をまねると穴が崩れて埋まってしまうというもの。
○ 〈おむすびころりん〉〈鼠の餅(もち)つき〉ともいう。ネズミに握り飯や餅などの食物をやった礼にネズミの国に招かれて宝物をもらう爺(じじい)の話。隣の爺がまねして失敗する。異郷との交易から生まれたと考えられる昔話。地蔵に食物をやった礼に鬼の博奕(ばくち)の金をもらう話は地蔵浄土という。
○ 昔話。〈おむすびころりん〉〈鼠の餅つき〉とも呼ばれる。善良な爺が,取り落としただんごや握飯や焼餅を追いかけていくうちに穴に入り,地中の鼠の浄土に至る。そこには歌をうたいながら,多くの鼠が餅をついている。爺は歓待されて土産に餅,金銀,呪宝などを授けられる。それをうらやんだ婆が,わざとだんごなどを転がして鼠の浄土に行く。歌をうたう鼠を猫の鳴き真似をして驚かす。するとすべてが消え去り,婆は何も得られず地中に埋もれる。
鼠浄土 2
昔、ある所にじい様とばあ様がおった。焚き木取りに山へ出かけたじい様が、弁当のきゃんば餅を食べようと包みを開くと、沢山の子ネズミ達がにおいにつられて集まって来た。優しいじい様は、子ネズミ達に小さくちぎったきゃんば餅を一つ一つ手渡してあげた。
喜んだ子ネズミ達は、じい様を担ぎあげて土の穴の中にあるネズミの家に連れて行った。そこには親ネズミが待っていて、きゃんば餅のお礼にと、たくさんのねずみ餅をじい様に渡した。夜になって家に帰ったじい様は、今日の出来事をばあ様に話しながらねずみ餅の入った包みを開くと、なんと餅は小判に変わっていた。
それを見ていた隣の婆さんは、さっそく爺さんに大量のきゃんば餅を持たせて、翌日山へ行かせた。隣の爺さんはきゃんば餅を大きいまま放り投げたので、子ネズミ達は餅に潰されて大騒ぎだった。それでも子ネズミ達は、隣の爺さんを担いで土の中のネズミの家に連れて行った。
ネズミの家についた隣の爺さんは、ネズミを脅して餅を全部奪ってしまおうと考え、猫の鳴き真似をした。すると驚いたネズミ達は、明かりを消して一斉に逃げ出し、残された隣の爺さんは暗い土の中から出られなくなった。
鼠浄土 3
むかし、あるところに、爺さまと婆さまがおったと。ある日、爺さまは弁当を持って山仕事に行ったげ。昼になったので弁当を食べようとしたところが、おむすびがころがっていったもんで、追かけたら、穴の中へ入っいってしもうた。爺さんは、ありやと思うてのぞいとったら、ネズミが出てきて、「このおむすびは爺さんなのか」ちゅうて聞くもんで、「そうや、おらのがや」というて、返えしてもらったが、あんまりかわいいネズミやったもんで、「おまえに半分やるわいの」ちゅうて半分わけてやったと。二個めも三個めも食べようとしたら転がって穴の中へ入ってしもた。とうとう婆さんのつくったおにぎりやないがになってしもたと。
そこへネズミがきて、「どうかおらの家まできてくだんせえ、おらのしっぽつかまえて、目をつむっておればええから」というたと。
爺さんも、ネズミの家をみてみたいと思ったので、いわれたとおり、しっぽにつかまって、目をつぶって行ったと。目を開けてもいいと言ったもんで、目を開けたら、そりやりっぱなネズミの家やった。大ぜいのネズミがでてきて、爺さんに、おにぎりの礼を言ったら臼を出すやら、米をむすやらして、餅つきの用意をした。そして歌をうたいながら、餅つきをはじめたと。じっと聞いていたら、「この世にノーエ 猫やイタチがいなければ 極楽浄土のまん中だ ぺタンコ ぺタンコ」 と歌いながら餅をついたげ、そして爺さまにごちそうしたがや、爺さまがひどいよばれたもんで、そろそろ帰ろうとしたら、「爺さま、爺さま、おみやげに宝の箱をくれっさかい、重いのと軽いのと、どっちゃいのお」と聞いたので、「おら年やさかい、軽いがでええ」と軽いがをもろで、家に帰ったと。
家には婆さまが待っていた。
「爺さま、今日は遅かったのお、何かあったがかぁ」と言うたもんで、爺さまは、あったことをみんな話して、もらった宝箱をあけると、大判・小判がいっぱい入っておったと。爺さんと婆さんは喜んでジャララン、ジャラランと音をさせて楽しんでおったら、隣りの爺さん、婆さんがそれを見て「どうして、そんなに金持ちになったのか」とたずねたのや、正直な爺さんは、あったことみんな話したら、隣りの婆さんが、さっそくにぎりめしをつくって爺さまに持たせて山へ行かせた。
欲ばり爺さんはまえの爺さんの穴をみつけて、にぎりめしをころがしたら、ネズミが出てきて、爺さんをしっぽにつかませ、目をつぶれといって、りっぱな家に連れていった。前の爺さんのときと同じように、歌をうたいながら餅をつきはじめたと。隣りの爺さんは、ここで猫の鳴き声を出せば、この家の宝物はみんなおれのものだと考えて、「二ャゴー」と猫のまねをしたと。すっとあたりは真暗になって、ネズミたちは逃げてしまったし、宝物どころか、土の中に爺さんひとり残されて、泣き泣き手さぐりで外に出たと。家に待っとった婆さまは、「宝物は、早く早く」といったが、爺さまは泣き泣き帰ったと。
鼠浄土 4 (石川県)
とんと昔、あるところに爺(じ)さまと婆(ば)さまとおったと。
ある日のこと、爺さまが山へ柴刈(しばか)りにいって昼飯(ひるめし)を食べようとしたら、にぎり飯(めし)がコロコロコロッと転がって、穴の中にストンと落ちてしもうた。
「こりゃぁ、しもうた」
仕方なく木の根っこに腰掛(こしか)けて休んでいたら、それはそれは美しい姉(あね)さまが現(あらわ)れた。
姉さまは、「ただ今はごちそうさまでした。お礼に私の家にご案内(あんない)しますので、目をつぶって背負(おぶ)さりなされ」というた。
爺さまが言う通りにすると、間もなく、「目を開けてもいいですよ」という。爺さまが目を開けると、いつのまにか広い立派な御殿(ごてん)の中にいたと。目をまんまるにして見とれていると、姉さまたちが十人も二十人も出て来て、
「テンやイタチやネコさえおらにゃぁ ネズミの世の中 チャンカチャンカ チャンカチャンカ」と唄(うた)い踊(おど)りながら餅搗(もちつ)きを始めた。爺さまは、「姉さまたちはネズミだったか」と思うたが、それでも餅(もち)は食えるし、踊(おど)りは見られるし、ええ気分だったと。
そのうち腹もふくれたので、「おら、いっぱいごちそうになった。婆さまも待っとることだから、そろそろ家に帰らねば」というと、さっきの姉さまが箱を一つお土産(みやげ)にくれて、「また、目をつぶって私に背負(おぶ)さりなされ」というた。言う通りにして、間もなく下ろしてもらったら、そこは元の木の根っこのところだった。爺さまは家に帰り、婆さまと箱を開けてみたら、中にはお金がぎっしりと詰(つ)まっていた。
爺さまと婆さまが急に金持ちになったので、隣(となり)の爺さが不思議(ふしぎ)がってやってきた。「お前(め)たち、どうして金持ちになったんじゃ。わしにも教えて呉(く)ろ」 爺さまは、 「山に柴刈りに行ったら穴ににぎり飯(めし)を落としてな、これこれこんな訳だ。」と教えてやったと。さあ、これを聞いた隣の爺さは、礼も言わないで、あたふたと家に戻って、婆(ばあ)さににぎり飯をこしらえさせ、早速(さっそく)山へ行った。
「おお、ここがその穴だな」というて、にぎり飯を穴の中にポンポン放り投げた。「これでよし」というて、木の根っこに腰掛けて待つほどに、美しい姉さまが現(あらわ)れて、「ただ今はごちそうさま・・・」「いいんじゃ。わかっとる」 隣の爺さは、姉さまに終(しま)いまで言わさないで、勝手(かって)に背負(おぶ)さって目をつぶった。
「さあ、目を開けてもいいですよ」と言われて目を開けると、聞いた通りの立派な御殿(ごてん)の中だった。姉さまたちが十人も二十人も出て来て
「テンやイタチやネコさえおらにゃぁ ネズミの世の中 チャンカチャンカ チャンカチャンカ」と唄い踊りながら、餅搗(もちつ)きを始めた。隣の爺さは、「そうか、姉さまたちはネズミか。ネズミがこんな御殿に住んでいるとはなまいきなこんだ。ようし、ひとつおどかしてこの御殿から追い出してやれ。そのあとでここにある財宝(ざいほう)を残らずもろうていけばええ。そうせば、あの爺さまよりわしの方が金持ちになれる」と思案(しあん)して、大きな声で「ニャオーン」と叫(さけ)んだ。
そのとたんに周囲(あたり)は真っ暗になった。すぐにガラガラガラッと御殿が崩(くず)れだして、天井が落ちた。隣の爺さは埋もれてしもうた。さあ、隣の爺さは困った。財宝を集めるどころでない。真っ暗な中で、両手であっち堀り、こちい掘りして、身体(からだ)じゅう血だらけになって、ようやく穴の外に這(は)い出たと。
その頃、家では婆さが屋根の上にのぼって、爺さの帰りを今か今かと待っておった。そうしたら、遠くの方から爺さがやって来た。何やら、赤っぽくて、よろけているようだ。「ほう、ほう。うちの爺さは赤い着物(べべ)を来て帰ってきた。それに、あのよろけ具合(ぐあい)。さぞかしたんと土産(みやげ)をもろうて来たにちがいない」
隣の婆さは、大喜びして、屋根から下りると、「もう、こんな古いのはいらん」いうて、家じゅうの古着(ふるぎ)を、全部(ぜんぶ)燃(も)やしてしもうた。ところが、家に帰ってきた爺さは、赤い着物(べべ)ではなく血だらけで真っ赤になった爺さだった。よろけていたのは、息も絶(た)え絶えだったからなんだと。
なんば味噌(みそ)、あえてくったら辛(から)かった。
鼠浄土 5 (青森県)
むかし、あるところに爺(じい)と婆(ばあ)がおったと。あるとき、爺は山へ木を伐(き)りに行ったと。ガッキン、ガッキン木を伐って、飯時(めしどき)になったので、薪(まき)の上に座って、そば餅を食おうとした。すると、はつかねずみがちょろちょろと穴から出て来たと。
「おお、かわいいねずみだ。お前も食うか」というて、そば餅をち切ってやったと。
ねずみは、そば餅を食わえて穴に入って行き、しばらくすると、また出て来て、「さっきのそば餅、うまかった。こんどはおれもごちそうするから、おら方(ほ)さ来てけろ」というた。爺が、「あんな小っさい穴に、どうやってわしが入っていける」と聞いたら、ねずみは、「眼(まなぐ)つぶって、おれの尾っぽさつかまって呉(け)さい」という。
爺が、ねずみの尾っぽにつかまって、眼をつぶると、どこをどう潜(もぐ)ったのか、ねずみの家へ着いたと。ねずみの家は、大きな構えの家であったと。庭では、たくさんのねずみたちが、「百になっても 二百になっても ニャンゴの声コば 聞きたくねえ トントン カンカン トントン カンカン」と、こんな唄をうたって餅を搗(つ)いておった。あっちの方では、「孫 ひこ やしゃごの代まで 猫の声コば 聞きたくねえ」 と唄いながら、これは粟餅(あわもち)を搗いている。
爺が面白がって見ていると、さっきのねずみが、「爺、爺は本当にニャンゴと言わねえな。おらたち、そいつが一番おっかねえからな」という。爺が、「ああ、言わね」というと、ねずみはほっとして、いろんなごちそうを並べてもてなしてくれたと。
帰るときには、土産に、銭コまでどっさりもらったと。 (爺は、また、ねずみに送られて、ねずみの尾っぽにつかまって、眼閉じているうちに、元のところへ帰り着いたそうな。) 爺と婆は、ねずみにもらった銭コで、うまいものを買うて、ぬくい着物(べべ)もこしらえて、毎日が楽々暮らせるようになったと。
あるとき、隣りの婆が、「火種コひとつ、たんもうれ」というて入って来て、目を丸くしてたまげたと。「あれや、お前(め)どこは、おらどこと同じ貧乏たれだったのに、白いまんまに赤い魚(とと)そえて食っている。昨日に変わる長者の暮らし。こりゃまた、どういうわけだ」と聞くので、爺は、わけを話してやったと。そしたら隣りの婆は、「おらどこも、あやかりてえ」というて、火種をもらうのも忘れて、とって返したと。
次の日、隣りの婆はそばもちをこしらえて爺にもたせ山へおいやったと。隣りの爺も山で木を伐って、昼飯どきになったら薪に腰かけて、そば餅を食ったと。すると、ほんとにねずみが出て来たので、そば餅をぶっつけるように投げてやったと。ねずみが、「おらほへ来て呉さい」というので、ねずみの尾っぽにつかまって、眼をつぶっていたら、間もなく、ねずみの家に着いたと。
ねずみの家の前には、たくさんのねずみが集まっていて、「百になっても 二百になっても ニャンゴの声コば ききたくねえ トントン カンカン トントン カンカン」と唄いながら、にぎやかに餅を搗いていた。
隣りの爺があたりをキョロキョロ見まわしていると、先程のねずみが、「爺、爺はニャンゴと言わねえな、そいつが一番おっかねえからな」という。爺は、早く銭コが欲しいから、「ニャンゴー」と、猫の鳴き真似をしたと。
そしたら、そのとたんに、あたりが真っ暗闇になって、ねずみたちは、わっと逃げ失せたと。隣りの爺は、これさいわいと、手さぐり、足さぐりで、そこいらにあった銭コだの宝物だのを持ちかかえた。外へ出ようとしたが、どうしても出口がわからない。ねずみの穴の中を、あっちこっち、もくもく掘っているうちに、隣りの爺は、とうとうもぐらもちになってしまったと。
どっとはらえ。
鼠浄土 6 (島根県)
とんと昔があったげな。あるところにな、じいさんとばあさんがおったげな。
「なんと、ばばよ。今夜は焼き餅焼かあや」「ああ、ようござんしょう」
それからばあさん、焼き餅こしらえた。囲炉裏のオキの上で焼き餅を焼いて、じいさんもばあさんも腹いっぱい食ったげな。ところが、一つ残ったわい。
「ああ、一つ残ったわ。ばば、食えな」「いやまあ、じいさん、食わっしゃいな」「いやぁ、おれも腹いっぱい食ったわ。ばば、食え」「いや、ま、じいさん、食わっしゃい」
「じい食え」「ばあ食え」「じい食え」「ばあ食え」て、あっち転がし、こっち転がししよるとなぁ、囲炉裏の隅っこに穴があって、ころころっと転がりこんだ。
「やれ、しまった。焼き餅が穴から転がって通ったわい。せっかく焼いた焼き餅だ、行ったから拾ってくるか」って、じいさん、それからじいさん、尻からげて、囲炉裏の隅っこの穴からもぐって行ったが。奥へ行ってみれば、だんだんだんだん、だんだんだんだん、ずっーと穴がつながっとる。一生懸命で追いかけていった。行ったら、途中に地蔵さんが立っとる。
「なんと、地蔵さん。ここを焼き餅が通りゃせだったかの」「うん、通った通った。さっき通ったわ」「ああ、そうですか」
で、じいさんは、そいから一生懸命で、額の汗をぬぐいながら追っかけて行ったんや。しばらく行ったらまた地蔵さんが立っとるわい。
「なんと、地蔵さん。ここを焼き餅が通りせだったかの」「うん、通ったで。たったさっき通って行ったわ」「ああ、そうですか」
また、どんがらどんがら追いかけていった。しばらく行ったら、また地蔵さんが立っているわい。
「なんと、地蔵さん。ここを焼き餅が通りせだったかの」「うん、通った。あんまりうまさげなもんだけんなぁ、一口かじってやったわい」「ああ、そうですか」
じいさん、それからまた一生懸命で追っかけて行った。ずっーと行ったら、何やら音がする。
ーはてな、何かいなぁーと思って、耳を澄まして聞いてみたら、
「猫さや来ねば、国ゃわがもんだい。スットンカタン。 スットンカラン。」
言って、ネズミが、米ついちょるわい。
ーははあ、ネズミのやつが米をついちょるぞ。何だら妙なことを言ったぞー
猫さや来ねば国ゃわがもんだ スットンカッタン スットンカタン
ーああ、なるほど。よしよし、一つこのネズミを脅(おびや)かいてやらあかいー
じいさん、物陰から、
「ニャーオー」と…、何とネズミがおびえまいことか。
「そら、猫が来た」っていうので、みんな一目散に逃げていった。後には米がどっさり残って、じいさんはその米を臼からすくい上げて、やっこらさぁやっこらさぁと戻ってきた。
さあ、これを聞いた、隣におった欲の深いじじとばばが、
「なんと、隣のじいとばあとがうまいことやって、米をもらって戻ったわい。われわれも一つやってみるか」「うん、よからぁ」「ばばよ、早ぁ焼き餅こしらえよ。一つ余るようにこしらえよ」
それから、じいとばあとがのう、焼き餅こしらえて食って、「ま、よからぁど。一つ余さぁど」。一つ余して、「さあ、じいさん食わっしゃい」「ばば食え」「じいさん、食わっしゃい」「いや、ばば食えの」。
「じいさん、食わっしゃい」「ばあさん、食わっしゃい」「じいさん、食わっしゃい」「ばあさん、食わっしゃい」言っとって、囲炉裏の側の穴の中にポッと入れてやった。
ーそりゃ入った。入った。さあ行くぞー
じいさん、尻つば(尻からげ)して、後から追っかけていったわい。
行きてみたらちゃんと地蔵さんが立っている。
「うん、これこれ、やっぱり隣のじいさんが言ったように、地蔵が立っておるわい。なあ、お地蔵さん、ここ、焼き餅が通りせだったかの」「うん、通った通った」
また追っかけて行った。次の地蔵さんのとこへ行った。
「地蔵さん、地蔵さん、焼き餅が通りゃせだったかの」「うん、通たぞ」
それから、また行ったら三番目の地蔵さんが…、「うん、やっぱりなぁ、地蔵さんが三つ立っちょるわい。なあ、地蔵さん、地蔵さん、焼き餅が通らせだったか」「うん、通ったで。あんまりうまさげなもんだけんなぁ、一口かじってやったわい」「ああ、そうですか」 から行きたわい。
ーまだかいなあ。もうそろそろネズミの所へ行きてもよさげなにー
だんだん行ってみたところが、やっちょるやっちょる。ネズミが、「猫さや来ねば、国ゃわがもんだ。 スットン カタン。スットン カラン。」って臼ついちょるわい。
ーこれこれ、隣のじいが言うとおりだわい。さて、一つ脅かすかなー
じいさん、物陰から、「ニャオー」って、猫の鳴き真似をしたところが、「そりゃ、また夕べのじいが来た。今夜、敵討ちやるか」「よかろう」と言うので、ネズミがバラバラバラッと飛び出してきて、そのじいの足に食いつくやら手に食いつくやら、身体中あっちやこっちやも噛みついた。
じいはあっちもこっちも血だらけになって、米どころかほうほうの体で戻ってきたちょ。その昔のスットンカタン。

簡単に隠岐地方の特色を述べておくと、まず隠岐型として島前地区(海士町、西ノ島町、知夫村)、島後地区(隠岐の島町)に共通していることは、爺と婆が焼き飯(チャーハンではなく、隠岐独特の小醤油味噌を焼いて握り飯の上にまぶしたものを、現地では「焼き飯」と呼んでいる。)を二人で食べるが、一個余り、それをお互いに食べることを譲りあうモチーフが存在している点である。仮にこれらを「謙譲型ネズミ浄土」と呼んでおきたい。
関敬吾『日本昔話大成』第4巻で調べると、このような譲り合いを持った話は、他の地方では石川県石川郡だけに存在していた。関係部分を抄出すると「…爺が山へ柴刈りに行っているところに婆が団子を持って行き三つずつ食べる。爺食え婆食えといっている間に一つ転がって穴に入る。」(137ページ。傍点酒井)とあった。
さらに地下へ行った爺は、いくつかの地蔵の前を通り、その地蔵に焼き飯が通ったかどうか尋ねるところがある。このようにいわゆる「地蔵浄土」という別の話種に似た部分を持つ点も両地方に共通している。
次に島前地区では、畑や漁に出かけたりなど、屋外で焼き餅を食べ一つ余る。譲りあうと、それが転がりだして穴に落ち、爺が追う屋外型であるのに対して、島後地区では家で焼き飯を作って食べると、一つ余ったので譲りあううちに、そばの囲炉裏の横の穴に落ちる…という屋内型であるように、両地区で際だった違いを持っているのである。
鼠の浄土 7
「古今著聞集」巻二十に、「安貞の頃(1227)矢野ノ保という荘園の人里より一里程離れたところで、「桂はざまの大工」と言う網人(漁師)が、網を曳こうとしていると、黒島のほとりの水面がおびただしく光るのを見て、魚と思い曳いた所、それがことごとく鼠であった。鼠は浜に曳き上げられると、みなちりぢりに逃げうせ、 以来島では鼠が満ち満ちて畑の作物を食い荒らし、耕作が出来なくなってしまった。」という記録があります。
鼠は野ネズミ・家ネズミとも泳ぐらしく島にネズミが渡り、その島から人間を追い出すほど繁殖することが多くあったようです。山口県東部、大島群島の南方にある片山島、方山島の東・端島、伊予の黒島、広島県倉橋島南方の葉山島にも同様な記録が残っていて、十九世紀始めの頃、橘南谿(たちばななんけい)の記した「西遊記」後編には、「肥後と天草の間、海中に小さき島あり。いかなることにや、此島(この島)には鼠昔よりおびただしく、もとより小さき島なれば人も住まず、ただ鼠のみなりといふ。この海を通ふ船にては、三味線を引く事を船頭堅く留めて許さず。もし此辺(このへん)にてこの禁を犯せば、必ず波風大きに起りて危き(あやぶき)ことあり。 三味線は猫の皮にて張りたるものなれば、鼠の忌む故なりとぞ云々」とあります。ただのネズミ?とあなどれないこの猛威、一味違うんです。
奄美大島ではネズミは一つの神様でテルコ神の使いだとされています。毎年二月にナルコテルコという神を御迎え申し、四月に御送り申す厳粛なお祭りがあり、この神はもと一つの神を、ナルコ、テルコと二通りの呼び名をしていたものが、ナルコ神を山の神、テルコ神を海から来る神と解するようになると、鼠はニライ・カナイという海上はるかかなたの神の世界からテルコ神のお使いとして、海から渡って来たと昔の人は考えていたようです。また、鼠の元祖は天のテダ、または大テダという日輪の神で、テダの子の一人にオトヂジョという神があり、この神の産んだ子、または出来損ないの子であるともしています。そのためこのあたりでは、だいたい旧暦八月以後の甲子の日を、鼠のための物忌みの日とし、鼠と言う言葉を使わず、鼠の姿をみたら害があるとし、一日中野原や畑にも出ずにいたそうです。
記紀神話でのネズミの登場は古事記中、大穴牟遅神が根の堅州国で、須佐之男命に野に放った矢を取ってこいと命じられた際、鼠が火に囲まれ逃げ場を失った大穴牟遅神を「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言って地下の穴に導き、また矢を口にくわえて持って来て助けた、というかたちで登場しています。大穴牟遅神はこの後、須佐之男命から大国主命と名づけられ、国造りを始めます。つまりねずみは大国主命の大恩人なわけですね。
民間では、ネズミはその子だくさんからかオフクサン、ヨメサマ、大黒様の家来で、時折小判を口に帰ってくるとか、人間の言葉がわかっていて柱の陰や天上で盗み聞きをしているとか、身近な小動物らしく、いろいろな名前やお話が残っています。

ある所に与兵衛とおふさという仲の良い老夫婦がおりました。与兵衛さんは、朝、目を覚ますと、「ほい、ほっほっ、ほい、ほっほっ。」と体を動かし、おふささんとあさげをとりました。与兵衛さんは箱膳に箸をしまうと、「ではら、おふさ、いってくら。」といいます。するとおふささんは「はい、いってくらせ。」とおにぎりを三つ渡します。こうして毎日、与兵衛さんは、おふささんの握ったおにぎりをもって山や畑に出かけました。 
春、彼岸の日、与兵衛さんは山菜を取りに山に入りました。しょいカゴの中に、ぜんまいやら蕨やら、たくさんとれたので、ちょうど良いあんばいの石に腰掛けて、お弁当をひろげました。するとおにぎりがひとつ、与兵衛さんのひざから転がり落ちました。
「ああっ、おふさのおにぎりっ。」
おにぎりはコロコロコロところがっていき、与兵衛さんはあわてて追いかけていきました。
「おにぎり 待て待て ほいほっほ。」「コロコロ コロリン コロコロリン。」「待て待て おにぎり ほいほっほ、待て待てほっほ 待てほっほ。」「コロリン コロコロ コロコロリン。」
おにぎりはコロコロと草むらをころがり、木の枝をぴょ〜んとはね、はらっぱのタンポポを飛び越えると、切り株の下にある穴に転がり落ちました。
与兵衛さんは切り株の穴に手を入れると、おにぎりを探しました。穴の中は広く、与兵衛さんの手はどこにも届きませんでした。与兵衛さんが不思議に思っていると、「コロコロ コロコロ おにぎりこ。もっとくれろ、もっとくれ。」と穴の中から聞こえてきました。不思議に思った与兵衛さんは、おにぎりをもう一つ、穴の中に入れました。するとおにぎりは、コロコロと転がって、穴の中に消えていきました。しばらくすると、また穴の中から声が聞こえてきました。
「コロコロ コロコロ おにぎりこ。 うんめぇかった、うめかった。じじさ、こっちにおいでくらっせ。」
与兵衛さんは、どこから声がしたのかと、穴の中をのぞきました。しかしあたりは真っ暗で何も見えません。与兵衛さんはもっとよく見ようとぐいっと身をのり出しました。その瞬間、与兵衛さんは穴の中へコロコロコロと転がり込んでしまいました。しばらくすると与兵衛さんは、穴の底にいました。そこにはお地蔵様がおられました。
「ほへっ? お地蔵様がおらを呼ばれたのすか? なら、おにぎりを転がすて失礼すますたの。ここにもうひとつ、泥のついてないおにぎりがあるすけ、どうぞ、ゆるしてくらせ。」
与兵衛さんは残っていたおにぎりをお地蔵様に供えました。すると、穴のおくからもう一度、与兵衛さんを呼ぶ声がしました。
「じじさ じじさ うめかった。 こっちにおいで、おいでくらっせ。じじさ、じじさ、おいでくらっせ。」
与兵衛さんはびっくりしてお地蔵様を見ました。するとお地蔵様は目を開けられると、
「与兵衛さん、与兵衛さんを呼んだのは私ではない。この穴の奥に住むものがよんだのじゃ。」「お地蔵様。」
与兵衛さんはお地蔵様が話されたのできょとんとしました。
「よいか、与兵衛さん。この奥に行きなされ。しかし、けっして猫の鳴きまねをしてはいけませんよ。」
お地蔵様はそう言うとまた目を閉じられました。
与兵衛さんはしばらくぼんやりしていましたが、「わかりますた、お地蔵様。」と言うと奥の方へ向かって歩いていきました。
しばらく歩くと穴の中が薄ぼんやりと明るくなってきました。するとまた、声が聞こえてきました。
「じじさ、よくおいでくらさいました。」
与兵衛さんは声のする足下を見ると、ネズミが三匹頭を下げていました。
「わしを呼んだのは、おめさま達かね?」「はい、わたすたちです。おにぎりこ、うめかった。ちょど、まま焚くひまもなくて困っておりますた。ありがたくいただきますた。」
与兵衛さんが耳をすますと。チュチュチュ、チュチュチュと、ちいさな泣き声がします。
「おらとこのムスメッコが三人。」「おらとこのムスメッコも二人。」「おらとこなぞ五人もムスメッコが産気づいてすもて、今、やっとこさ産み終えたばかりっさ。」「・・・それは難儀な事ですた。」
与兵衛さんはネズミ達の話にすこしびっくりしました。
「で、じじさ、これからお祝いのお餅つきをしますさ。じじさも一緒にお祝いしてもらえねだろかね?」「ああ、いっしょにお祝いさせてくらっせ。」
与兵衛さんは、目を細めて答えました。するとあたりにぽつぽつちいさな明かりがつきました。それはネズミのぼんぼりでした。穴の中にはたくさんのネズミの家があり、のきが幾重にも重なって、京の都がすっぽり穴の中にはいっているようでした。そこからゾロゾロたくさんのネズミが出てきて、お祝いの餅つきが餅つきがはじまりました。
「にゃんごおらねば、ネズミの世ざかり、ほいほいポンポン、ほいポンポン。鈴の音ならねば、ネズミの天下、ほいほいポンポン、ほいポンポン。百になっても、二百になっても、にゃんごの声などきぎだくね。ほいほいポポポン、ほいポポポン。」
つき終わったおもちは姉御かぶりのネズミ達が、小豆餅だの麦こがしだの、いろんなおもちをポコポコと、次々に作っていきました。
与兵衛さんはネズミのあまりの数の多さに目をぱちくりし、次々につきあがるおもちに、またまたびっくりしました。しばらくすると、ムスメッコのネズミ達が赤ちゃんを連れて与兵衛さんに挨拶に来ました。赤ちゃんネズミは、「ちゅ。」と鳴きました。一匹、二匹、三匹と、「ちゅ。」「ちゅ。」「ちゅ。」と鳴きました。 十人のムスメッコの赤ちゃんたちは、全部で二百四十八おりました。与兵衛さんは、ネズミ達と一緒に小さな小さなおもちを食べ、赤ちゃんネズミのお祝いをしました。
さっきの親ネズミが三匹、大判やら小判やら金銀の大粒小粒を持ってきました。
「じさま、これはおもすろうて引いては来たものの、わすらには使い道の無いものです。持って帰ってつこうてくだされ。」
そう言ってネズミ達は与兵衛さんを家まで送りました。家に帰ると与兵衛さんはおふささんに、ネズミのお産の話をしました。するとおふささんは、次の日からおにぎりをおじいさんの分と、赤ちゃんネズミの分を作って、与兵衛さんに渡しました。
それから与兵衛さんは毎日穴の前におにぎりを置いておくようになりました。与兵衛さんがおにぎりを切り株の穴の前に置いておくのを見て、隣の弦蔵おじいさんは不思議に思いました。そして婆さまに、与兵衛さんは、なんしてあんな事をするのか、隣へ行って聞いてこいと言いました。そしておふささんからネズミのお産の事を聞くと、自分もちょっくらマネしてみべえと、婆様におにぎりこさえてもろうて、穴の前に行きました。弦蔵さんは与兵衛さんの置いたおにぎりをはねのけると、自分の持ってきたおにぎりを穴の中に転がしました。するとおにぎりは入り口の所にべちゃりとつぶれてしまいました。腹を立てた弦蔵さんはつぶれたおにぎりを穴の中にけり入れました。弦蔵さんはしばらく耳をすませていましたが、何も聞こえて来ません。弦蔵さんはおにぎりをもう一つとりだすと穴の中に蹴り入れました。すると足下が崩れ弦蔵さんは穴の中にどどどどっと落ち、何かにごつんと頭をぶつけました。
「あたたたたたた。」
弦蔵さんは頭をかかえてました。見るとぶつかったのはお地蔵様でした。
「なすてこげなとこにお地蔵さんがおる?」
弦蔵さんは頭をかきかき残ったおにぎりを自分で食べてしまいました。
すると弦蔵さんの後で、お地蔵様が目を開けられ、「弦蔵さん、けっして猫の鳴きまねをしてはいけませんよ。」と言ってまた目を閉じられました。弦蔵さんは誰が何を言ったのかわからず、きょとんとしていました。
すると穴の奥の方から声が聞こえてきました。
「にゃんごおらねば、ネズミの世ざかり、ほいほいポンポン、ほいポンポン。」
話に聞いたネズミのもちつき歌でした。弦蔵さんは声のする方へ頭をゴンゴンぶつけながら進みました。弦蔵さんが穴の奥にいくと、たくさんのぼんぼりの下に、着飾った小さなネズミ達がたくさん、千歳飴を持って座っていました。その前でネズミ達が大勢でおもちをついていました。どうやらネズミの七五三のようでした。
「鈴の音ならねば、ネズミの天下、ほいほいポンポン、ほいポンポン。百になっても、二百になっても、にゃんごの声などきぎだくね。ほいほいポポポン、ほいポポポン。」
弦蔵さんはここが与兵衛さんの来た所だと思いました。ここには小判や金銀の大粒小粒がたくさんある。弦蔵さんはハッとしました。そうだ猫の鳴き声をするんだ。弦蔵さんは大きな声で猫の鳴きまねをしました。
「うにゃあぁあぁ〜〜〜っごぉ。」
歌がぱたっとやみ、ぼんぼりの明かりが消えてあたりが突然真っ暗になってしまいました。
「・・・・・・・あっ。」
弦蔵さんがびっくりしていると、 暗やみの中に、ネズミ達がチュチュ〜〜〜ッと、どこかへ走り去る声が聞こえました。弦蔵さんは真っ暗な穴の中でぽつんと一人、もうどうにもなりませんでした。
弦蔵さんは次の日、おにぎりをもってきた与兵衛さんに助けだされました。与兵衛さんは切り株の中に入って見ましたが、中は崩れていて、もう先には進めませんでした。お地蔵様もネズミ達もみつかりませんでした。
「ネズミ達はどこに行ったのかね?」
与兵衛さんはおふささんに聞きました。おふささんはお茶をすすりながら、「もしかすたら、また、どこかの切り株の下で、にゃんごの声などきぎだくね。と、おもちをつきながら歌ってるかもすれねぇな。」と答えました。天井裏から「ちゅ〜。」とネズミも答えました。
   
「ねずみの浄土」は「鼠浄土」「団子浄土」などと呼ばれ、近年では「おむすびころりん」という名前の方が通りが良いようになりました。昭和五年版「日本の昔話」柳田国男の「団子浄土」では、ネズミのかわりに鬼が登場、「瘤取り爺さん」の後半部分の型を取っています。また新潟県の採取例のように、「鼠と木挽きは引かねば食んね、十七八なるども、猫の声は聞かないしちょはちょちょ」という実際の民謡が取り込まれているものもあるそうです。人里近く地下にネズミの世界があるという観念は、古くからあり、室町時代の「鼠の草子」「かくれ里」にもすでに克明な描写があるそうです。
古事記の根の堅州国は一般に地中と思われていますが、"根"は根源の国という意味で、根の国、底の国(「大祓詞」中の異称)は、さいはてを意味し、はるか果てにある堅い州の国という意であると考えられます。古事記の世界観では、根の国も黄泉ひら坂も葦原中国も同じ"クニ"の世界であり、鳥取県の向こうの島根県、島根県の向こうの福岡、隠岐というイメージであり、最近の研究では「根の国はニライカナイと同じように海上にある他界」という考えに変わってきているようです。
多くの島の集まりのような日本では、海の上に昇る太陽、テダの神、日輪の神は「旭の豊さかのぼり」と言われた日の出であり、海の向こうの光り輝く神々の国があると信じられてきたようです。
ネズミはその海の果てからやって来る、神様の一員なのです。
鼠の浄土 8
昔話。異郷を訪れて財宝を得ることを主題にした致富譚(ちふたん)の一つ。爺(じじ)が落とした団子が穴に転がり込む。追って穴に入るとネズミの国である。機(はた)を織りながら、ネコがいなければ世の中がよいと歌っている。爺は歓迎される。ネコの鳴きまねをするとネズミは逃げる。爺は宝物を持って帰る。隣の爺がまねをするが、さんざんなめにあう。「地蔵浄土」と基本形式が同一で、異郷をネズミの国とするところに特色がある。本来、一つの昔話から分化したものであろう。地下のネズミの世界の説話は、『古事記』の大国主命(おおくにぬしのみこと)の物語にもある。物語の表現も、団子が転がる場面、ネズミの歌、ネコの鳴きまねなど、技巧的で興味深い。
動物の国を訪ね、財宝を得て帰り、まねをした人は失敗するという構想は、「舌切り雀(すずめ)」とも共通する。この類話の「猫の家」は、トルコを中心に、カフカス、ハンガリー、ギリシア、イタリアに分布している。親切な女はネコの家で贈り物をもらい、悪い女は蛇やサソリの入った袋をもらう。ネコがスズメにかわったのが「舌切り雀」である。「猫の家」は継娘(ままむすめ)と実の娘が主人公で、継子話になっている。「継子の栗(くり)拾い」はその形を継承して分化した話である。「鼠の浄土」は「猫の家」のネコとネズミが入れ替わった形である。これらは、ヨーロッパに広く分布する「親切と不親切」の系統に属する類型群である。「親切と不親切」は、継母が継子を井戸に突き落としたため、地下の国へ行く話になっており、親切な継娘はネコとスズメに助けられて、そこで1年間奉公し、褒美に宝石の入った箱をもらって帰るが、不親切な実の娘は火の入った箱をもらって焼け死ぬという話もある。「鼠の浄土」の発端は「地蔵浄土」と同じく、団子、握り飯など食物をネズミに与えることから始まるが、これはもともと、稲穂を手に入れ、それで食物をつくるという、日本の昔話の語り始めの形式の一つで、「語りの様式」とよぶべき部分である。類例は古く「かちかち山」の赤本『兎(うさぎ)大手柄』にあり、「猿蟹(さるかに)合戦」のカニの握り飯や、「舌切り雀」のスズメがなめた糊(のり)も、おそらくその名残(なごり)であろう。  
 
団子浄土・おむすびころりん・鼠の餠つき
 

 

■団子浄土
団子浄土 1  (「日本昔話集」柳田国男) 
昔々あるところに、爺と婆とがまたありました。春の彼岸に彼岸団子をこしらえていたところが、一粒の団子が底に落ちて、ころころと転がってゆきました。
だんごだんご何処まで転ぶと、爺がそう言って追っかけていくと、地蔵さんの穴まで転ぶと言いながら、団子はとうとう穴の中に入ってしまいました。
爺もその後から穴の中へ入っていきますと、穴のそこは広くて、そこに地蔵さんが立っておられました。その地蔵の前でやっと団子をつかまえて、土のついている方を自分で食べて、土のつかぬ方を地蔵さんにあげました。
そのうちに暗くなったからもう帰ろうとすると、地蔵さんがおれの膝の上さあがれという。もったいなくてあがれません。いいからあがれというからそのとおりにすると、今度は肩の上さあがれといいます。
膝までもやっとあがったのに、とてももったいなくてあがれませんと断りましたが、無理にあがれというから肩の上へあがりました。そうすると、今度は頭の上さあがれといいます。辞退をしてもなんでもあがれというので、思い切って地蔵の頭の上にあがりました。
そうすると一本の扇を地蔵さんが貸してくれました。今にここへ鬼どもが来て博打(ばくち)をはじめるから、よい頃にこの扇をたたいて、鶏(にわとり)の鳴く真似をしろと教えられました。
案のごとく大勢の鬼がやって来て博打をはじめたから、しばらくしてから地蔵のいうとおりに鶏の鳴くまねをすると、そらもう夜が明けると鬼どもは大騒ぎをして、銭や金をたくさんに残して置いたままで、みな逃げていってしまいました。それで爺はその金や銭を地蔵さんにもらって、喜んで家に帰って来ました。
うちでは婆が待っていて、二人でその銭金をひろげて見て大喜びをしていますと、ちょうど隣の婆が遊びにきてびっくりしました。
どうしてこの家では、急にそのように福々しくなったのかと聞くので、正直な爺はありのままの話をしますと、それならおら家の爺も地蔵さんの穴へやるべちゃといって、いそいで帰って二人でわざわざ団子をこしらえました。
そうしてその中の一粒をわざと庭におとしましたが、ちっともころばないので足でけるようにして、むりやりに穴の中に入れて、自分もそのあとからのこのこと入っていきました。
地蔵さんの前に行ってみると、団子が土まみれになってころがっています。その中のきれいな所だけを自分が食べてから、まわりの土のついたのを地蔵さんにあげました。
そうして誰もあがれともいわないのに、ひとりで地蔵さまの膝から肩、頭のてっぺんまでさっさとあがって、貸すともいわない扇をだまって取って待ちかまえていますと、やはりその日も鬼どもが集まってきて、地蔵の前で博打をはじめました。
それでさっそくその扇をはたはたとたたいて、鶏のなく声をまねてみますと、鬼たちはもう夜が明けるのか、早いなあといってあわてました。そのうちに一匹の小鬼がにげそこねて、囲炉裏のかぎを鼻の穴にひっかけて大きな声を出して、
 やあれ待ちろや鬼どもら
 かぎさ鼻あひっかけた
といったので、爺は思わず知らずくすくすと笑ってしまいました。そうれ、人間の声がしたと、鬼はほうぼう捜しまわって、とうとう地蔵さんの頭の上から、隣の爺をひきずり下して、ひどい目にあわせました。
鬼がのこしていく金をひろって来るかわりに、やっと命だけをひろって、ほうほうの体でにげて帰りました。だからあんまり人のまねはするものでないという話であります。 
団子浄土 2
むかしとんとんあったずま。
あるところにじんつぁとばんちゃいだけずま。ほうしてその年ぁ何だか作ええくなくて、ええ米、うまく穫んねがった。屑米みたいなばりだった。
「んだげんども、こりゃ、ばんちゃ、ばんちゃ、お八日には地蔵さまさ団子上げっだった。まず、悪い米だって、地蔵さまに勘弁してもらって団子上げんなねべなぁて言うわけで、じんつぁとばんちゃ、粉はたいて、ほして、はいつば練ってセイロでふかして団子搗きはじまった。ほして腰のし、腰のし、団子搗きして、ばんちゃ丸べた。ほしたれば何の拍子だか、ばんちゃの手から団子ひょろっと、転げて落っでしまった。
「はてはて、これぁ困ったもんだ。地蔵さまさ上げんなね団子落したんでは、うまくない」と思って、団子さ追かけて行った。ずうっと追いかけて行った。ほして今度ばんちゃこわいから(つかれたから)、「団子どの、団子どの、待ってでけろ、どこまでござる」ほしたれば、ずうっと団子行ったけぁ、ちっちゃこい孔の中さ、ひょろいっと入ってしまった。ねずみ穴みたいなどこさ。したけぁ、そこさばんちゃもこそこそと入って行った。ほしていたれば、広い原っぱあっけ。
「いやいや、あだな狭いとこから来たれば、すばらしい原っぱあるっだ、こりゃ。どっちゃ行ったべ」と思って、「おお、団子どの、団子どの」したれば、団子どのはまだ、コロコロ、コロコロとばんちゃば待っていながら転げて行いんけ。ほして団子さ追っかけて行ったれば、万年堂みたいなあって、ほっからつうと先さ行ったれば、お堂あって、そこに地蔵さま立っていだっけ。
「はぁ、ここさも地蔵さま立ってござった。何だか、おら方の地蔵さまとよくよく似てる地蔵さまだ。地蔵さま、地蔵さま」どこの地蔵さまだって同じだと思って言うた。
「地蔵さま、地蔵さま。地蔵さまさお上げすっだいと思って団子搗きしったれば、手からちょろっと団子こぼっで、団子さ追かけて来たんだげんども、ここらで見失ってしまったはぁ。地蔵さま、不調法だげんど、はいつ見ねがったべがっす」て言うたらば、「ばんちゃ、ばんちゃ、おれぁ今御馳走なってしまった。いや大変うまい団子だった」「地蔵さま、ほだごど言うても、ええ米も取んねで、悪われ米だったから、うまいわけなのなかったべげんど、おらえでの一番ええ米で搗いた団子だったず、まず」「ああ、ええ、分った分った。時になぁ、ばんちゃ。ちょえっとおれの膝さ上がれ」「なんだ地蔵さま、地蔵さま、拝むことこそすれ、膝さなの上がらんねっだな、もったいなくて」「いやいや、上がれ、上がれ。おれの命令だからな」「んだら仕方ないっだな。地蔵さま、ごめんしてけらっしゃい、ああ、どっこいしょ」「ええか、ばんちゃ、ばんちゃ、こんど肩さ上がれ」「肩さなて上がらんねっだな。膝さ上がらんねんだも」「ええから上がれ、ええから上がれ」「ほんじゃ、よっこいしょ」肩さ上がった。
「ばんちゃ、ばんちゃ、頭のてっぺんさ上がれ」「なんだまず、地蔵さま、ほだな頭のてっぺんさなて、おれ上がらんねっだなす」「ええから、上がれ」て言うて頭のてっぺんさ上がったれば、上は何だか頭のてっぺんみたいでなくて、ちゃんと坐っているい。ええどこあるんだけど。
ほだいしているうちはぁ、いつかの小間こまに暗くなって、鬼集まってきたんだど。
「何だか人くさいようだね」「人の匂いするなぁ、んだげんどもここの地蔵が原、おら方の原っぱだから、人なの来るわけないもなあ。あだい小ちっちゃこい穴もぐってくるわけないもなあ」「んだずねぇ」「どうだ、そろそろ始めっかい」て言うたけぁ、ジャラジャラと銭出して、丁半の博奕打ちはじめた。したけぁ、地蔵さま、小声で囁いだんだど。
「ばんちゃ、ばんちゃ、ええか、おれちょっと一ぺん突っついたら、コケコッコウて鶏の真似するんだ。二度突っついたら二回鳴くんだぞ。三度突っついたら、三度鳴け」こういう風に言うた。して、ちょうど丑三頃になったれば、地蔵さま、ばんちゃばちょぇっと突っついだ。ばんちゃ、ほれ、地蔵さまから命令さっだもんだから、絶対服従だ。コケコッコーて言うた。ほうしたれば鬼だ、博奕打ちぱたっとやめて、「おお、今日は早いな、一番鶏ぁ。んだげんど二番鶏まで一刻いっときほどあっからな」一刻ていうのは今の二時間、何、まもなくはぁ、一時間もおもったら、こんどは二番鶏、「コケコッコー、コケコッコー」て、二度やった。
「やぁ、二番鶏鳴いた、ほんではまず、いそげ」そしてまた博奕始まった。丁半、丁半で始まった。ほしたらば、間髪を入れず地蔵さま突っついだ。ばんちゃ本気なって、「コケコッコー、コケコッコー、コケコッコー、トトコノクー」て、三べん鳴いだらば、「三番鶏だ、他の人来っどなんねぇから、んじゃ、んじゃ(行こう、行こう)」て、みな銭ぶち投げて行ってしまった。ほうすっど地蔵さま、「ばんちゃ、ばんちゃ、実はな、お前から御馳走になってだ地蔵さまも、おれも同じもんだ。とぼしい中からも、毎年毎年団子こしゃえで上げてもらった。忘せらんねんだ。んだからここさ鬼ども置いで行った。銭、ろくだなことしてとった銭でないから、おれぁ巻き上げてやったんだ。結局、かいつ、家さもって行って、じんつぁとばんちゃと仲よく暮らせな」「んだげんど、地蔵さま、あだな狭っこい道狭っこい穴んどこ、こだい銭もって行かんねべした。つうとでええっだな」「いやいや、お前、欲ないこと、ほだごと言わねで、ええか、おれ、今、まじないして呉けっから目つぶれ。ええか、ほら、目開いてみろ」パッと目あいでみたら、自分の家どこさ投げ出さっでいだんだけどはぁ。ほして、「じんつぁ、じんつぁ」じんつぁ、まだ臼んどこさ、ばんちゃいねぐなったし、団子、なぜしたらええかと思ってうろうろていだけど。一晩過ごしてきたような気してきたげんど、大した時間経っていねんだけど。ほして銭いっぱいもらって、二人は、よく後あとまで暮したんだけど。どんぴんからりん、すっからりん。
団子浄土 3 (新潟県)
むかし、むかし、きょうも、おじいさんは、いつものとおり、山へ柴刈に出かけます。
「では、おばあさん、いってきますぞ。」「はい、おじいさん、今日は、地蔵さまの縁日で、よいお日和ですから、おそなえの団子をつくったら、山へもってってあげますぞ。」「そうかいな。」
山でおじいさんが、昼やすみしているところへ、おばあさんは、大きな団子を三つ持って、山をのぼってきました。みると、おじいさんのいる山は、その山ではなくて、谷のむこうの山で、いっぷくしておりますので、おばあさんは、「おじいさァ、団子もってきたけどなァ、谷が渡られないが、団子どうしよう。」と、大ごえで、ききました。すると、おじいさんは、立ちあがって、「団子投げれえ。」といいました。
それで、おばあさんが、「そら、投げるでえ。」と、いって大きな団子を、グーンと一つ投げました。でも、その団子は、おじいさんのところまで、とどかないで、山のへりを、ころころころ、ポトーンと、そこん穴ン中へ、おちこんでしまいました。
おじいさんは、それを見て、「もっと力出して投げれえ。」といいました。それで、おばあさんは、力ァだして、二つ目の団子を、
「そら投げるでえ。」と、グ、グーンとひょうしをつけて投げましたが、まだ、おじいさんのところまでとどかないで、ころころころころ、山のへりをころんで、ポトーンと、これも、穴ン中へ、おちこんでしまいました。
おじいさんは、手をあげて、「おばあさんやァ、もう一息だ、うんと力ァだして、むだンせんよう、投げれえ。」と、ちゅういしました。すると、おばあさんも、手をあげて、それにこたえ、
「もう、これきれだでえ、ほうれ。」と、こんどこそ力いっぱい、グ、グ、グ、グーンと投げたれば、しまいの団子は、やっと、谷を越して、おじいさんのそばの木の株に、引っかかりました。
おじいさんは、まだ、やわらかいその団子を、むしゃむしゃたべましたが、あんまり、うまかったので、かえりがけに、団子のころげ落ちた穴ン中をのそいてみました。
ところが、こんどは、おじいさんが、ズラズラズラズラッとすべって、たちまちポトーンと、中へ落ちこんでしました。さいわいに、けがもせずに、おっこちた穴ン中を、みわたしますと、そこに、地蔵さまが立っていらしって、
「これ、じじ、おまえ、なにしに来たや。」と、とがめました。
「はい、ここへ、おばあさんが、ころころ団子を投げおとしたようなので、のぞきこんで、ズラズラすべりおちました。ここへ、団子が落ちてはきませんでしたか、お地蔵さま。」と、いいますと、
「おお、ころんできたけど、一つは、おれが拾うて食うてしもうた。」と、お地蔵さんがいわれました。
「では、もう一つは。」と、おじいさんがききますと、「一つは、ここん小鬼共がひろうてな、こん夜、黄金の臼に入れ、銀の杵でついてしまうというてたぞ。」と、お地蔵さまがおしえてくれました。
「では、それえ、かえしてもらわにゃァならん。」と、おじいさんが、いいますと、「だら、はようせにゃ間にあわん、まず、おれの膝の上に上れや。」と、お地蔵さまが、もうされます。
「こりゃァ、もったいない、どうして、お地蔵さまの膝の上に上れましょうば。」「まあ、いいから、上れ、上れ。」
それで、おじいさんが、お地蔵さまの膝の上に上りますと、お地蔵さまは、「膝あ上ったら、そこを足場にして、肩の上へ上れ。」と、お地蔵さまが、もうされます。
「こりゃァ、ずっともったいない、どうして、お地蔵さまの肩の上に上れましょうば。」「まあ、いいから、上れ、上れ。」
それで、おじいさんが、お地蔵さまの肩の上に上りますと、お地蔵さまは、こんどは、「肩の上さ上ったら、もう一息、頭の上へ上れ。」と、お地蔵さまが、もうされました。
「もったい至極もない、どうして、お地蔵さまの頭の上へなんか、上られましょうば。」「まあ、いいから、上れ、上れ。」
おじいさんが、お地蔵さまの頭の上に上りますと、そこはほんとうに、いい居ごこちのするところで、まるで、極楽浄土にきているような気持です。
「もっていないけど、なんと、ここは、けっこうな居ごこちのよいところで、ござりましょう。」と、おじいさんがいいますと、「そこは、みほとけのてっぺんじゃ、おちて小鬼の臼につかれぬがよいぞ。やがて、小鬼どもがやってきたら、折を見て、鶏の鳴くまねをし、団子をとりかえすがよい。」
はなしてるところへ、小鬼どもは、
   黄金の臼に 銀の杵 これでつきゃ 団子浄土
   小鬼の世盛り
   チャンカチャンカ チャンカチャンカ。
と、うたいながら、やってきて、とりだした黄金の臼と銀の杵、ていねいにささげた団子をとりだして、チャンカチャンカ、鬼共は、団子を搗きにかかりました。
じぶんはよしと、おじいさんが、
「ケ、ケッコウ、ケ、ケッコウ。」と、鶏のまねをして、東天紅を鳴きだしましたら、鬼どもは、「さあ大変。」「もう夜が明けたそうな。」と、黄金の臼も、銀の杵も、団子も、なにも、ほっちゃらかして、逃げていってしまいました。あとで、おじいさんが、団子をとりだしてみたら、団子も黄金にかわっていましたとさ。 
おむすびころりん

 

おむすびころりん 1
おじいさんが、いつものように山で木の枝を切っていた。昼になったので、昼食にしようとおじいさんは切り株に腰掛け、おばあさんの握ったおむすびの包みを開いた。すると、おむすびが一つ滑り落ちて、山の斜面を転がり落ちていく。おじいさんが追いかけると、おむすびが木の根元に空いた穴に落ちてしまった。おじいさんが穴を垣間見ると、何やら声が聞こえてくる。おじいさんが他にも何か落としてみようか辺りを見渡していると、誤って穴に落ちてしまう。穴の中にはたくさんの白いねずみがいて、おむすびのお礼にと、大きいつづらと小さいつづらを差し出し、おじいさんに選ばせた。おじいさんは小さいつづらを選んで家に持ち帰った。
家で持ち帰ったつづらを開けてみると、たくさんの財宝が出てきた。これを聞きつけた隣りのおじいさんは、同じようにおむすびを蹴って穴に無理矢理入れた。おじいさんは自分から穴に入っていき、土産をよこせと怒鳴りつけた。ねずみが大きいつづらと小さいつづらを選ばせたが、欲張りなおじいさんは猫の鳴き真似をしてねずみを脅し、両方のつづらを持って帰ろうとした。ところがねずみはおじいさんに噛み付いたので、おじいさんは降参した。
おむすびころりんの話は様々なバリエーションが存在する。中にはねずみが浄土の明かりを消してしまったために、そのままおじいさんの行方が知れなくなった話(このようなバージョンが存在するのは、今日みられる暴力的表現を排斥しようとする運動の影響が強い)やそのままおじいさんがねずみもち(もぐら)となった話などがみられる。
また、ねずみ浄土とおむすびころりんは別々の昔話として区分している書籍もある。

古くからある口承文芸で室町時代に『御伽草子』として成立したと見られる。あらすじの特徴は「こぶとり爺さん」と同じく、無欲な老人と強欲な老人の対比であり、因果応報など仏教的要素も併せ持つが、『グリム童話』にある「ホレ婆さん」との類似性も指摘されている。特徴的なのは異界の住人であるネズミが善人に福をもたらすという筋立てであり、ネズミは「根の国の住人」(根住み)とも見られており、米倉などにあるネズミの巣穴は黄泉の国、浄土への入り口と言い伝えられる地方がある。
またこの話は鼠を神の使い、あるいは富をもたらす者とする民間の観念が反映されている。この昔話のような鼠の世界が地中にあるとする観念は、古くからあり室町時代物語の『鼠の草子』や『かくれ里』にも克明に描写されている。 この話の中で歌われる鼠の餅搗き歌は地方によって変化があり、土地によっては〈鼠とこびきは引かねば食んね、十七八なるども、猫の声は聞かないしちょはちょちょ〉(新潟県)のように実際の民謡が盛り込まれている例もある。
おむすびころりん 2
むかしむかし、木こりのおじいさんは、お昼になったので、切りかぶに腰をかけてお弁当を食ベる事にしました。
「うちのおばあさんがにぎってくれたおむすびは、まったくおいしいからな」
ひとりごとを言いながら、タケの皮の包みを広げた時です。
コロリンと、おむすびが一つ地面に落ちて、コロコロと、そばの穴ヘ転がり込んでしまいました。
「おやおや、もったいない事をした」
おじいさんが穴をのぞいてみますと、深い穴の中から、こんな歌が聞こえてきました。
   おむすびコロリン コロコロリン。
   コロリンころげて 穴の中。
「不思議だなあ。誰が歌っているんだろう?」
こんなきれいな歌声は、今まで聞いた事がありません。
「どれ、もう一つ」
おじいさんは、おむすびをもう一つ、穴の中へ落としてみました。
するとすぐに、歌が返って来ました。
   おむすびコロリン コロコロリン。
   コロリンころげて 穴の中。
「これは、おもしろい」
おじいさんはすっかりうれしくなって、自分は一つも食ベずに、おむすびを全部穴へ入れてしまいました。
次の日、おじいさんは昨日よりももっとたくさんのおむすびをつくってもらって、山へ登っていきました。
お昼になるのを待って、コロリン、コロリンと、おむすびを穴へ入れてやりました。
そのたびに穴の中からは、昨日と同じかわいい歌が聞こえました。
「やれやれ、おむすびがお終いになってしまった。
だけど、もっと聞きたいなあ。
・・・そうだ、穴の中へ入って頼んでみることにしよう」
おじいさんはおむすびの様にコロコロころがりながら、穴の中へ入って行きました。
するとそこには数え切れないほどの、大勢のネズミたちがいたのです。
「ようこそ、おじいさん。おいしいおむすびをたくさん、ごちそうさま」
ネズミたちは小さな頭を下げて、おじいさんにお礼を言いました。
「さあ、今度はわたしたちが、お礼におもちをついてごちそうしますよ」
ネズミたちは、うすときねを持ち出して来て、
   ペッタン ネズミの おもちつき。
   ペッタン ペッタン 穴の中。
と、歌いながら、もちつきを始めました。
「これはおいしいおもちだ。歌もおもちも、天下一品(てんかいっぴん)」
おじいさんはごちそうになったうえに、欲しい物を何でも出してくれるという、打ち出の小づちをおみやげにもらって帰りました。
「おばあさんや、お前、何が欲しい?」と、おじいさんは聞きました。
「そうですねえ。色々と欲しい物はありますけれど、可愛い赤ちゃんがもらえたら、どんなにいいでしょうねえ」と、おばあさんは答えました。
「よし、やってみよう」
おじいさんが小づちを一振りしただけで、おばあさんのひざの上には、もう赤ちゃんが乗っていました。
もちろん、ちゃんとした人間の赤ちゃんです。
おじいさんとおばあさんは赤ちゃんを育てながら、仲よく楽しく暮らしましたとさ。  
鼠の餠つき

 

鼠の餠つき 1 (宮城県)
正直者だが貧乏な老夫婦がいて、爺は正直正兵衛といった。キノエネの大黒様のお祭が貧乏でできないので、おわびしながら拝んでいると、鼠が庭の角から出てきて「面白いところに連れていってやろう」と爺を連れて行った。細い道を抜けた奥に大御殿があり、そこの大きな旦那鼠が爺に酒を飲ませ、歓迎した。鼠の餅つきが行なわれ、爺はさまざまな餅をご馳走になり、鼠踊りなどを見物し、帰りに大判小判を婆への土産にもらった。その夫婦の隣に住んでいる慾深の慾兵衛老夫婦の婆が、火種をもらいにきたときにこの話を聞き、無理矢理慾兵衛を鼠の穴に突っ込んだ。慾兵衛は今回鼠たちが大判小判をいっぱいひろげたものを全部とろうと、猫の鳴き真似をしたところ、鼠が一斉に逃げ、真っ暗になったので、小判どころではなく命からがら帰ってきたという。
鼠の餅つき 2 (秋田県)
昔々あるところ、おじいさんとおばあさんがいました。ある日おじいさんが庭を掃いていたら豆が一つ落ちていました。「この豆を拾って、おばあさんと二人であぶって食べよう」と思ったら、豆はコロコロと転がって、ねずみの穴に落ちました。おじいさんはあきらめて、また庭を掃き始めました。
そしたら「おじいさん、さっきは豆を貰ってありがとう」おじいさんは、なんだかどこかで声がするな、と思ってあたりを見たら、ねずみが穴からチョコンと顔を出して「豆のお礼にごちそうしたいので、ぼくたちの家に来てくれませんか」「ああ いいよ」「そしたら、ぼくのシッポにしっかりつかまって、目をしっかりつむって、ぼくがいいって言うまで、絶対目を開けないでネ」
おじいさんがねずみの言うとおりにしていたら「目をあけていいよ」そう言われて目を開いたら、それはそれは広い座敷でねずみ達がごちそうをいっぱい作って、おじいさんの来るのを待っていました。
そしてこんどは「餅つきをするから、おじいさん猫の声だけ絶対しないでネ」「はいはい ぜったいしないから安心しておくれ」そうしたら、ねずみ達は唄を歌いながら餅つきを始めました。
   あぁ ここから ここから ここからだ
   猫さえ来なければ
   ぼくたちの世の中だ
   コラ スコカン スコカン
そして おじいさんはおなかいっぱいごちそうになって、歌ったり踊ったりして「たくさんごちそうになったし、おばあさんも待っているから家に帰ることにしよう」
そしたらねずみ達から宝物をいっぱい貰いました。
次の朝、おばあさんと部屋中に広げて喜んでるところに、隣のヒクヒクばあさんが「やあやあ、火をくれ」と、火種を貰いに来て、その宝を見てびっくりして、「昨日まで うちと同じだったのに どうしてそんなに金持ちになったんだい」「コレコレこうだったんです・・」と話すと「それなら うちのじいさんもそうさせよう」と、早速家に帰って無理やりねずみの穴に豆を入れました。
そしたら、やっぱりねずみが出てきて「じいさんじいさん豆いっぱい貰ってありがとう。じいさんにごちそうするから、ぼくのシッポにつかまって、目を開けてもいいと言うまで開けないでネ」「ハイハイ ぜったい開けないヨ」といったものの、どうしても開けて見たいと思ったけど、やっと我慢しました。
「目を開けてもいいヨ」広い座敷でごちそうをいっぱい並べてじいさんを待っていました。そして「餅つきをするから、猫のまねだけはぜったいしないでネ」「ハイハイ」そしてまた、ねずみ達は唄を歌いながら、餅つきを始めました。
   あぁ コッカラ コッカラ コッカラだ
   猫さえ来なきゃ
   オラミヨ ミヨダ・・
そしたら、じいさんは猫のまねをしたくなって「ニャオ ニャオ」と言ってしまいました。
すると、ねずみ達は驚いて、明かりをみんな消して逃げてしまいました。真っ暗なところに、一人残されて困ったけど、いくら大声をあげても誰も出てこないので「ワンワン」泣き出しました。
ヒクヒクばあさんは、じいさんが宝物をいっぱい貰って来ると思って、家の中の物をみんな燃やしてしまって 腰巻き一つで待っていて、じいさんの泣く声を聞いて「ああ じいさんが宝物をいっぱい貰って、唄を歌っている音がする」いくら待ってもさっぱり帰って来なくて、よくよく聞いたら唄でなく泣き声でした。
ばあさんが 鍬をもってきて庭を掘ったら、じいさんの額に鍬が刺さって、血と涙でだらだらになりました。家の物は焼いてしまったし、宝物どころじゃなくみんな 無くしてしまいました。
とっぴんぱらりのぷー
鼠の餅つき歌 3
『ネズミの餅つき歌(もちつきうた)』とは、日本の民話・昔ばなし「おむすびころりん」において、お爺さんを招待したネズミ達がお土産用のお餅をつく際に歌う短い作業歌(仕事歌・労働歌)。「おむすびころりん」に関する歌といえば、山でおむすびが穴に落ちたときの「♪おむすびころりん すっとんとん♪」が有名だが、『ネズミの餅つき歌』の方が歴史が深く、「すっとんとん♪」が考案される以前にすでに存在していた歌である。具体的には、「おむすびころりん」のルーツである日本の民話「ネズミ浄土」において、すでにネズミ達が餅つきの際に歌っていた歌であり、日本各地の「ネズミ浄土」の中で地方によっていくつかバリエーションも存在している。このページでは、民話「ネズミ浄土」における『ネズミの餅つき歌』について、日本各地の「ネズミ浄土」におけるバリエーションをいくつかご紹介したい。
1 島根県
「猫さや来ねば 国ゃわがもんだい
スットンカタン スットンカラン」
猫さえ来なければネズミの天下だと歌う。この「猫さえいなければ」型が全国的に基本の型となっているようだ。
2 石川県鹿島郡中能登町
「猫さえおらねば ネズミの世の中
ストトン ストトン」
これも典型的な「猫さえいなければ」型。
3 石川県鹿島郡中能登町
「この世にノーエ 猫やイタチがいなければ
極楽浄土のまん中だ ぺタンコ ぺタンコ」
このケースでは、猫だけでなくイタチも天敵として挙げられている。「ネズミ浄土」の「浄土」というキーワードがさらりと回収されているのもポイントが高い。
4 石川県
「テンやイタチや ネコさえおらにゃぁ ネズミの世の中
チャンカチャンカ チャンカチャンカ」
ネズミのお姉さまたちの踊り付き。ネズミの天敵として、ネコ以外にテンやイタチが登場する。テンはイタチ科の雑食獣。
5 日本昔ばなし「鼠浄土」
「ねこっこ にゃんたら どやすべな
たんたらとん たんたらとん」
「猫が鳴いたらどうしよう(猫の鳴き声が怖い)」と、自分たちネズミの一番嫌いなものを改めて教えてくれるという、物語上の前フリとなっている。

『ネズミの餅つき歌』のパターンとしては、「猫さえいなければ」型と、「猫がないたらどうしよう」型の二つに大きく分けられるようだ。いずれにしても、自分たちネズミの天敵はネコであることをストーリー上で改めて前振りすることで、その直後のネコの鳴き真似の分かりやすい伏線となっていることがよくわかる。 
 
地蔵浄土
 

 

地蔵浄土とは、有名な昔ばなし「おむすびころりん」との関連が深い日本の古い民話・昔ばなし。「おむすびころりん」では、お爺さんが穴に落としてしまうのは「おむすび(おにぎり)」だが、「地蔵浄土」では団子や豆粒であることが一般的。また、「地蔵浄土」ではネズミは登場せず、代わりにお地蔵様とのやりとりでストーリーが進んでいく。このページでは、民話「地蔵浄土」の典型的・代表的なストーリー・あらすじを紹介するとともに、関連が深い民話「ネズミ浄土」や「おむすびころりん」との関係について、それらと比較しながら解説してみたい。
1.団子や豆が穴に落ちる
典型的な「地蔵浄土」の冒頭では、お爺さんか団子や豆などの食べ物を穴に落としてしまう(勝手に落ちることも)。おむすびが登場するケースはほとんど見られない。
穴の開く場所は、「おむすびころりん」のように山の中とは限らず、自宅の庭や台所など様々なバリエーションが存在する。
落ちた食べ物を追いかけていくのはほとんどの場合お爺さんだが、お婆さんが追いかけていく民話もあるようだ。
このお婆さん版については、小泉八雲が執筆し明治35年に英文で出版された『お団子ころりん』にその影響を見ることが出来る。
2.お地蔵様が団子を食べる
穴に落ちてしまった団子や豆を追いかけ、お爺さんが穴の中に入っていくと、その先でお爺さんはお地蔵さまに出会う。
話のバリエーションとしては、落ちてきた団子や豆をお地蔵さまが勝手に食べてしまうパターンや、お爺さんがお地蔵さまにお供えするパターンなど様々あるが、いずれの場合も、お爺さんはそのお礼(または詫び)を受け取ることになる。
良いお爺さんが、転がった団子の綺麗な部分のみをお地蔵さまにお供えし、自分は土で汚れた団子を食べる描写があるバージョンがあるが、おそらくこれが「地蔵浄土」の最初の姿だったのではないかと推測される(詳細は後述)。
3.鬼の宝を横取りさせる
落ちてきた食べ物を食べてしまったお詫びに、またはお供え物のお礼として、お地蔵さまはお爺さんに対し、鬼の宝を横取りさせる方法を伝授する。
その方法とは、深夜に鬼たちが集まってきたところで、夜明けを告げるニワトリ(一番鶏)の鳴き声をお爺さんに真似させて鬼たちを追い払い、鬼たちが慌てて置いていった宝をお爺さんに持ち帰らせるというもの。
「動物の鳴き声を真似る」というアクションは、「おむすびころりん」で悪いお爺さんがネズミの屋敷でネコの鳴き声を真似るシーンをほうふつとさせる。
なお、鬼から隠れる際、お地蔵様を足場に屋根裏へあがる場面があるバージョンがあるが、これが「地蔵浄土」の当初のストーリーに近い展開と思われる。
4.隣の欲張り爺さんが真似て失敗
一夜にしてお金持ちとなったお爺さんの様子を隣の欲張りばあさんが鋭く察知すると、自分の旦那(欲張り爺さん)にも同じ事をさせて金持ちになろうと企む。
同じ手順を踏もうとするが、欲張り爺さんのやり方は雑で粗暴。お地蔵さまに無理やり土で汚れた団子を食べさせたり、早く宝が欲しいがあまりに話を自分で勝手に進めようとする。お地蔵様への敬意や遠慮はまったく見られない。
欲張り爺さんも一番鶏の鳴き真似で鬼たちを追い払おうとするが、何度も同じ手を食らうほど鬼はたやすい相手ではなかった。欲張り爺さんのウソ鳴きはすぐに見破られ、鬼たちに捕らえられて酷い目にあわされてしまう(いわゆるバチ当たり・仏罰)。
お地蔵様=閻魔様?
最後に、民話「地蔵浄土」の意味するところについて、当サイト管理人の私見を述べることとしたい。
まず、食べ物が落ちる穴は冥界への入り口(奈落)、奈落の底で出会うお地蔵さまは、死者の霊を裁く地獄の閻魔(えんま)大王の暗示ではないかと推測される。
閻魔大王は日本仏教においては地蔵菩薩(お地蔵様)と同一の存在と解され、地蔵菩薩の化身ともされている。
本来、閻魔大王は死者の生前の行いに基づき裁きを下すが、民話「地蔵浄土」では対象者が二人とも生きているので、現時点でのお地蔵様に対する接し方でその後の命運が分かれることになる。
落ちて汚れた団子をお地蔵さまにお供えする際、汚れたところをよけてお供えした良いお爺さんと、汚れもかまわず無理やり食べさせようとした強欲爺さん。
鬼から隠れるために屋根裏へあがる際、何度も遠慮しながら、自分の服で汚れた足を拭いてからお地蔵様に足をかけて上った良いお爺さんと、何の遠慮もなく汚い足でお地蔵さまに足をかけた強欲爺さん。
お地蔵様の裁きにより、良いお爺さんは宝を手にして極楽浄土へ、欲に目がくらんだ悪い爺さんは地獄の鬼(獄卒)による責め苦を受けることになる。
つまり、民話「地蔵浄土」の当初の姿は、世俗的な仏教説話としての意味合いを持っていた可能性が高いと考えられる。
そして、仏教説話としての肝の部分は、お地蔵様に対する態度の違いということになるので、落ちてきた団子をお地蔵さまが勝手に食べてお詫びするなどといった展開は、この説話の趣旨から外れた後世の創作ということがはっきりしてくる。
神仏習合、そして商業的な「おむすびころころ」へ
仏教と神道が混然となる神仏習合(しんぶつしゅうごう)が進んでいくと、仏教的な民話「地蔵浄土」に神道の要素が浸透していき、「地蔵浄土」は「ネズミ浄土」に上書きされていったと考えられる。
穴の先の地下の異世界は、日本神話の「根の国(ねのくに)」と同一視され、根の国に住むネズミ(根住み)が、「地蔵浄土」の地蔵に代わってお爺さんらの運命を左右する存在となる。
「ネズミ」は神道寄り、「浄土」は仏教寄りの概念なので、「ネズミ浄土」はまさに神仏習合の象徴的な形態の民話であるといえる。
そして現代に入り、「ネズミ浄土」は宗教的な意味合いを極力薄めた中立的な立場の民話に修正されていく。
宗教的なキーワードはタイトルから除外され、おむすびが転がっていくという子供ウケが良さそうなユーモラスな場面に焦点(商材としてのセールスポイント)が移され、今日の商業的な期待を背負った「おむすびころころ」が誕生していったのではないだろうか。 
地蔵浄土 1
1
昔話。異郷を訪れて財宝を得ることを主題にした致富譚(たん)の一つ。爺(じじ)が山で昼食のとき、握り飯を転がす。転がり込んだ穴の中に入って行くと、地蔵があって、握り飯を食べている。地蔵は爺に謝り、やがてここに鬼どもがくるから、合図をしたら鶏の鳴きまねをしろという。そのとおりにすると、鬼は朝になったと思いあわてて宝物を置いたまま逃げ去る。爺はその鬼の宝物を持って帰る。それを知った隣の爺がまねをして、鬼にひどい目にあわされる。
話の外枠は善悪2人の爺の対比を主題とする「隣の爺」型になっている。浄土とは異郷の仏教的な表現で、地下の異郷への訪問譚であるところに特色がある。構想のほとんど同じ昔話に「鼠(ねずみ)の浄土」がある。「継子(ままこ)話」の「椎(しい)の実拾い」には、後半部分がこの昔話の後段と一致している例も少なくない。朝鮮に多く分布している「金の砧(きぬた)・銀の砧」の昔話は、「地蔵浄土」と「椎の実拾い」の中間の型をとっている。「兄弟話」の一例で、どんぐり拾いに行った弟が、トケビ(雑鬼)の家で、なんでも欲しい物の出せる金の砧と銀の砧を得てくるが、それをまねた兄はトケビにたたかれ、ばかになったという。地蔵の浄土という観念は、日本の地蔵信仰を背景に成立したものである。「金の砧・銀の砧」に地蔵信仰が結び付いた型が、「地蔵浄土」と「椎の実拾い」との共通の原型であろう。
2
(継子いじめ譚) ・・・継子の幸運な結末の話と悲惨な死の話の2系列がある。(1)継娘が山姥(やまうば)のくれた衣装で芝居に行き,殿様に見初められる,シンデレラそっくりの紅皿欠皿(べにざらかけざら)型,(2)殿様の前で歌をよみ比べて実子に勝つ皿皿山(さらさらやま)型,(3)継母にいじめられて盲目になった娘が,捜してきた父親の涙で開眼するお銀小銀型,(4)継母に手を切られるが,背中の児が川へ落ちそうになり助けようとした無意識の行為で,手が再生する手なし娘型,(5)追い出されて宿を借りた山姥に老婆の皮をかぶせられ,大家の下働きになるが美女とわかって,そこの嫁になる姥皮型,(6)底なし袋を持って栗拾いに出され,いっぱいにならず野宿するが,地蔵様に助けられて富を得る地蔵浄土の変形型,などは幸運な結末にいたる話の系列であり,(7)継母に殺されて鳥になる話,(8)墓に生えた竹で造った笛が継母の殺人を歌う話,(9)殺された娘の骨が歌を歌う話,(10)継母に釜ゆでにされるが父が復讐してくれる話,などは悲惨な結末の系列である。このうち(1)のシンデレラ型は,ヨーロッパや中国に広く分布する。・・・
地蔵浄土 2
むかしむかし、仲のよい、気持ちのやさしい、おじいさんとおばぁさんがありました。おばぁさんが庭をはいていると大きな団子が転んで来ました。ころころと転んで土の穴に入ってしまいました。
「おじいさん、おじいさん、団子がこの穴から落ちて行きましたよ」と、おじいさんを呼んでいいました。
「どれどれ」と、おじいさんは団子を拾いに穴に入っていきました。団子はまたころころと転んでいきました。
「団子さん、団子さん、どこまでござる、どこまでござる」と追っかけましたが、見失なってしまいました。お地蔵さんが立っていました。
「お地蔵さん、お地蔵さん、団子が転んできませんでしたか」と聞きました。お地蔵さんはにこにこして、そっちの方に行きましたよと指さして教えました。団子はやっぱりありました。
「お地蔵さん、団子がありましたよ」と、気のやさしいおじいさんは、汚れたところは自分が食べて、あとはお地蔵さんに食べさせました。お地蔵さんの傍で一服しながらいろいろと話をしました。お地蔵さまは言いました。
「おじいさん、私のひざに上りなさい」
「いいえ、もったいない、お地蔵さんのひざになど上がれません」と言うと、いいから上がりなさい。と言います。今度は腹の上に上がりなさいと言います。おじいさんはもったいないからというと、いいからと、上がりなさいと言います。今度は肩に、今度は頭にと、もったいがるおじいさんを頭の上に上げて言いました。
「ずうっと東の方を見なさい。大きなヤカタが見えるでしょう。あのヤカタに、夜になってたくさんの鬼共が集まって、バクチを始めます。一晩中バクチをすると、朝三番鶏が鳴くのを合図にみな帰って行きます。あなたが行って、鶏のまねをしてみなさい」と教えました。おじいさんはお地蔵さんの言うとおりにそのヤカタに行ってみました。そして屋根裏に上って見ていました。夕方になりました。赤鬼・青鬼、大きいの、小さいの、こわい顔をした鬼共がたくさん集まって来ました。おじいさんはこわくなって、ガタガタしていました。
まもなくバクチが始まり、金のやりとりが始まりました。おじいさんはこわごわと、「コケコッコー」といいました。鬼共は「一番鶏が鳴いたぞ、少し早いようだな」と言いながら、一生けんめいバクチです。おじいさんは少し間をおいてまた「コケコッコー」といいました。二番鶏が鳴いたぞ、それもう一息だ」と、見むきもしないで夢中にやっています。東の空がしらけた頃、おじいさんは、ひときわ大きく、「コケコッコー、コケコッコー」と言いました。鬼共はあわてて金も集めず、「勝負はあしたの晩だ」といって帰ってしまいました。おじいさんはこわごわ屋根裏からおちて来て、その金を頂きました。お地蔵さんにようくお礼をいって帰って来ました。
となりに欲の深いおじいさんとおばぁさんが住んでいました。ようし、おれも行って金をとってこようと思いました。うまくもない団子を作って転ばし、上れともいわないお地蔵さんの頭の上にあがり、
「あそこだ、あそこだ」と、走って行きました。鬼どもがたくさん集まって来ました。バクチが始まりました。おじいさんは目を光らせて、あの金を全部取ってやろうと思っていました。
にわとりのマネをしました。一回、二回はうまく行きました。三回目の「コケコッコー」は夜明けないのに、早く金がほしいので、早くに鳴いてしまいました。鬼共は少し変だぞと帰らないでさわぎはじめました。おじいさんはガタガタしてかくれていましたが、屋根裏から落ちてしまいました。鬼どもは「あのヤローだ。この前もおれたちの金をとったのは、こらしめてやれ」と、てんでに着物をはいだり、なぐったりでひどい目にあって帰りました。それからは悪いおじいさんもよいおじいさんになりました。 
地蔵浄土 3 (秋田県)
じんつぁ、庭掃きしったら、落っでだ団子拾うべと思ったら、ねずみ孔から地蔵さまの前さ転んで行ったど。
   団子どの団子どの どこまでござる
   「さいの河原の地蔵どこさまかる」
そして行ったらば、地蔵さまあっけど。
地蔵さまさ行ったら、地蔵さまに教えらっだごんだけど。
「晩げ、鬼どもぁ来て、博奕すっから、鶏のまね三度すっじど、三番鶏で逃げて行んから、隠っでろ」て言(や)っで、かげさ隠っでいたど。そしてそのうちに鬼ども来たっけど。いっぱいな。そしてええ頃加減に、鶏の真似したど。「コケコッコー」て。
「一番鶏だ。二番、三番ていうど行かんなねぞ」ていうもんだから、かげで聞いでいだっけど。こんど二番鶏鳴いて、三番鶏したらば、「行かんなね。行かんなね」て、みな逃げて行ったど。そして銭ぺろっともらってきた話だど。そいつ見た隣のばば、来て、「どっから出しやった、この金」「団子転げて行ったから、追っかけて行ったば、地蔵さまからもらってきた」ていうたど。
「おれもすんなね」て、行ったごんだど。そして団子こさって、そして転ばねのも転ばしてやったど。そしたれば、鬼来たもんだから、一番鶏、二番鶏、そしたら、「人くさい、人くさい」て、見つけらっで、ひどい目にあったど。 
地蔵浄土 4 (秋田県北秋田市阿仁)
昔あったどな。ある村サ、正直者で働き者の爺っちゃと、婆[ばば]が、居てあったと。家の周りの田畑で、仕事したり、また山になるもの取りに行ったりして、二人で仲良く暮らしてあったと。
ある日のこと、爺っちゃは、焼き飯持って、山に薪を取りに行った。昼飯時になったな、と思って、地蔵さまのそばで焼き飯を食うことにした。
自分ばかり食うのは良くないな、と、人の好い爺っちゃは思い、周りの地蔵さまにも少しずつお供えをした。
何と、焼き飯貰った地蔵さまが爺っちゃに話しかけてきた。
「爺、爺。黙っておれの言うことを聞け。飯食ったら、おれの後ろサ来て、寝てろ」
・・・そうするとな、キツネがたがやって来て、バクチを始めるだろう。頃合を見て、鳥っこのなく真似をすれば、朝が来た、と、キツネがたは、銭っこを置いて逃げてってしまうからな。
爺は、晩になるのを寝ながら待っていた。晩がたになった。あたりが暗くなると、ワイワイワイワイ、ガヤガヤガヤガヤ、あっちからもこっちからも、キツネがいっぱい集まってきた。地蔵さまの前で丸く輪になって座ると、めいめいが自分の銭を出して、バクチを始めた。
爺は、“不思議なこともあるもんだな!”と思いながら、息を殺して見ていた。
もういいかな、と思って、“コケコッコ〜”と、一発、鳴いてみた。キツネがたは、慌てふためいて逃げだした。
「朝まなった、それ、急いで逃げるどオ〜」
爺は、地面の銭をかき集めて袋に背負って、大急ぎで婆のところに帰った。
「ばば、ばば。今日はこんな不思議なことがあったよ(今日、こういう不思議あったれば・・・)」と、一部始終を聞かせた。
その話を聞いたのが、隣の慾張り爺だった。
“ようし、そんなことならオレも一つ、同じようにして、大金を儲けるぞ(ようし、そいんだらおれも一つ、そんたんでにして、大金儲けてやれ。)”
次の朝、隣の爺も同じように、焼き飯しょって、山に出かけた。昼飯時になったな、と思って、地蔵さまのそばで焼き飯を食うことにした。
隣の爺は慾張りだもの、地蔵さまには一つも供えないで、全部ひとりで食ってしまった。
やがて、晩がたになって、あたりが暗くなった。昨日のように、あっちからもこっちからも、ワイワイワイワイ、ガヤガヤガヤガヤ、キツネがたが、いっぱい集まってきた。地蔵さまの前で輪になって、あぐらをかいて座ると、めいめいが銭をジャラジャラ出して、バクチを打ち始めた。
慾たかりの爺は、“ウフフ、おれもこの銭で、金持ちになれるどオ〜。”胸わくわくさせて、目をギラギラ光らせて待っていた。
気持ちばかり先に立って、もう我慢が出来なくなった。キツネがたがバクチを始めると、もう少し待てばいいのに、“コケコッコオ〜”と、鳴いてしまった。
キツネがたは爺を見つけると、サッと取り囲んだ。
「昨日の一番鶏の爺[じじい]だな、よく来たもんだ」
みんなで寄ってたかって、爺の着物を剥いで、丸裸にした。キツネがたは、爺の身体をどこそこいわずに、爪を立てて引っかいた。
爺は血塗れになって、おいおい泣きながら、やっとの思いで痛む身体を引きずって、家にたどり着いた。まだかまだかと、爺を待っていた婆は、帰って来る爺を遠くに見て、
“おらえの爺、金持ちになって、赤いべべ来て戻って来るウ〜!”と、叫んだ。爺の着物は、火にくべて、はやばやと燃やしてしまったのだった。
裸にされた慾張り爺っちゃは、そのあと、どして暮らしたべなあ。 
地蔵浄土 5
むかし、あるところに、心根のいいおじいさんがいました。ある日のことおじいさんは、いつものようにひき臼で米をひき、丁寧にふるいにかけました。それから粉をよくこねて、甘い小豆のあんこをたっぷり入れて団子を作ると、囲炉裏の火で焼きました。
しかし、団子が焼けて、おじいさんが、食べようとすると、団子はぽろりと落ちて、ねずみの穴へ転がっていきます。おじいさんは団子の後を追ってねずみの穴へ潜り込みました。
おじいさんは汗を拭き拭き、団子の後を追っていきます。すると地蔵さまが立っていてそこで団子は見えなくなりました。地蔵さまの口にはあんこがいっぱい付いています。
おじいさんは、団子の行方を地蔵さまに尋ねました。すると地蔵様は、もっと下の方へ転がっていったと答えます。
それを聞いたおじいさんは、さらに団子を追って下りていこうとすると、地蔵さまがおじいさんを引き止めました。そして福を授けてやるといいます。そして地蔵さまはおじいさんに、自分の上にあがれといいました。
おじいさんは、そんな罰当たりなことができるものかと恐れますが、地蔵さまは構わずあがれと聞きません。おじいさんは、遠慮しながら手ぬぐいで足をよくふいてからお地蔵さまにあがりました。
地蔵さまは、どんどんあがれといいます。そしておじいさんは、とうとうお地蔵さまの頭の上まであがりました。そして地蔵様は、さらに天井裏にあがるように指示します。そしてそこにある箕をかぶって待っていろと言いました。
そして地蔵さまは、日が暮れると、ここには鬼どもがやってきて博打を始めるから、お金が場にたくさん出たら、箕から出て、一番鶏の声を真似をしろと教えてくれました。
おじいさんが箕をかぶってじっと待っていると、果たして地蔵さまが言った通り、鬼が大勢集まってきます。そして博打を始めました。
そしておじいさんは地蔵さまの言った通り、鬼たちが博打真っ最中になると、箕から出て一番鶏の声を真似しました。
すると鬼たちは、たいへんだ夜が明けたと、大慌てで金を散らかしたまま逃げていきます。
するとお地蔵さまはおじいさんに天井裏から降りてくるようにいい、袋を与えおじいさんに散らかっているお金を集めさせました。
そしてお地蔵さまは、昼間嘘を言ったことをおじいさんに謝ります。なんと団子は地蔵さまが食べてしまっていたのでした。そして今ここで集めたお金は団子のお礼だといいます。おじいさんは一夜にして金持ちとなりました。
おじいさんとおばあさんがお金の勘定をしていると、隣の欲張りばあさんがやってきて、そのたくさんのお金に驚きます。心根のいいおじいさんは隣のばあさんに、正直に事の顛末を話して聞かせました。
隣のばあさんはそれを聞くと、うちの爺さんにも金儲けしてきてもらわにゃと言って帰って行きました。
はたして隣の欲張りじいさんは、その出来事を真似をしようとします。しかし何を真似しようとしたのでしょうか。隣の欲張りじいさんは、心根のいいじいさんがここで何をしたのかよくわかっていないようです。
隣の欲張りじいさんは、まずい団子をこしらえ、地蔵様に無理やり食べさせ、頼まれもしないのに汚い足で地蔵さまにあがります。そして天井裏で箕をかぶって待ちました。
しばらくすると、鬼たちは今日もやってきて博打を始めました。そして隣の欲張りじいさんは、お金欲しさのために、博打が始まったばかりだというのに、早速一番鶏の鳴き真似をしてしまいます。
しかし、鬼には手の内がもうすでにばれていました。昨日の一番鶏の鳴き声は人間の真似であることを知っていたのです。隣の欲張りじいさんは天井裏から鬼たちに引きずり降ろされます。
鬼たちは、隣の欲張りじいさんの体中をひっかきました。隣の欲張りじいさんは、そんなわけで何ももらえず散々な目にあい、泣き泣き家に帰ったと物語は結ばれます。

日本の昔話に度々物語られる、隣の欲張り者が猿真似して失敗するお話の系譜です。もう何度か過去の記事に書いたのですが、猿真似しても同じ成果にはたどり着けません。
我々日本人は、猿真似とまでは言いませんが、真似の大好きな国民性を発揮します。隣のやっていることなら自分たちも、という根性を少なからず持っています。
それがこのように、むかしから戒められ、真似をしても同じ成果は得られませんよと、口が酸っぱくなるほどいわれ続けているのです。これは心がけておく価値があるのではないでしょうか。
この系譜の物語を一つずつ列挙してもいいのですが、亜種を含めると多数になってしまいます。興味がある方はブログ内検索で『真似』などを検索してみてください。
また、団子がぽろりと落ちて、ねずみの穴へ転がっていくくだりから、その後の展開については、ある種、ホレおばさん型と言ってもいいでしょう。 
地蔵浄土 6 (福島県大沼郡三島町)
むかぁし、あったど。あるところに良い爺さまと婆さま、また悪い爺さまと婆さまが互いに暮らしてたど。ある時、良い爺さまと婆さまは団子こしゃって食ってたど。したら一つ残っちまったど。婆さん食え、爺さん食えなんているうち、団子がひとんじぇ外さ転がりだしたど。やれやれ爺さんが追っかけたど。
「団子、団子、どこまで、どこまで」ったら、「すんじゃの御山のこっけらぶきの堂まで、堂まで」って、どこまでも転んでいくどな。追っかけでいったら地蔵様立ってで、地蔵様の口さ、ぱっくりしょと団子が入っちまったど。不思議だと思ってだら地蔵様が、「爺さま、なんともしょうねぇ。団子口さ入ったから食っちまった。つぐないに金儲けさせっから、今晩ここさ泊まれ。鬼どもがここでバクチ打ちやっから俺の裏さ隠っちぇろ。頃合い見て、鳥のまねしっとせ鬼の野郎みんな銭置いて逃げっからな。それ持ってっていいぞ」そう言わっちぇ隠れてだら来たど。鬼だれ大勢来てバクチ始まった。ジャラージャラ始まったど。酒飲み飲みなぁ。そんじぇ頃合い見て、「トテコッコーッ」ちゅったら、鬼だれ、「やれ大変だぁ。朝んなるわー」銭みんな置いて逃げてったど。爺さまは地蔵様にお礼申して銭もらって家さ来たど。
「婆さん、こういう訳であった」なんてしゃべって、「隣の爺さまに聞かれっと悪いがら、しんずかにあけろよ」婆さま喜んでジャラジャラーンとあけっちまったのな。ちげぇねぇ、隣の意地悪爺さまだれ聞きつけて、「なんだどぉ。ずもねぇ金儲けしたんねぇがぁ。銭の音聞けぇだぞ」どって来たど。そんじぇその話したら、「んじゃーおら家もやってみんべ」どって二人で団子こしゃって食って、一つ残して、団子転びもしねぇのに足でコロコロけったぐって、地蔵様んどこさ行って、地蔵様の裏さ隠っちゃど。すると鬼どもがいっぺぇ来てバクチ打ち始まった。ほんで意地悪爺さま、待ちぎんにぇで鳥の鳴きまねしたど。こっぱやくまねしたべぇ。
「ゆんべなも下手なにわとり鳴くど思ったら、今来たばっかなのに変だな」どって地蔵さまの裏さ来て爺さまんどこめっけだど。
「こらぁ、ゆんべなも下手なまねしてなんちゅうふてぇ隠居だぁ。おもさもひっぱたいてしまえ」なんて大勢にたたかっちぇ金儲けどこのさたでねぇ。あっちこっち血流して家さ帰ったら、婆さまも待ちぎんにぇで外さ出たら、爺さまがあーあーどって泣きながら戻ってきたど。
「やっぱり人まねはできねぇなぁ。ろくなごどねぇがら」それがらは意地悪やめて、良い爺さま婆さまになったど。ざっと昔、栄え申した。 
地蔵菩薩
地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。サンスクリット語ではクシティガルバと言う。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。日本における民間信仰では道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶ菓子が供えられている。一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。
地蔵菩薩は忉利天に在って釈迦仏の付属を受け、釈迦の入滅後、5億7600万年後か56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう為、その間、六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救う菩薩であるとされる(六道能化)。虚空蔵菩薩と地蔵菩薩が一対で安置される例は京都・広隆寺(講堂)などにあるが、一般的ではない。
像容
一般には剃髪した声聞・比丘形(僧侶の姿)で白毫があり、袈裟を身にまとう。装身具は身に着けないか、着けていても瓔珞(ネックレス)程度。左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ形、または左手に如意宝珠を持ち、右手は与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)の印相をとる像が多い(この場合、伝統的に彫像であることが多く画像はまれである)。しかし密教では胎蔵曼荼羅地蔵院の主尊として、髪を高く結い上げ装身具を身に着けた通常の菩薩形に表され、右手は右胸の前で日輪を持ち、左手は左腰に当てて幢幡を乗せた蓮華を持つ(この場合、絵画で表現されることが多い)。 
 
妙多羅天と猫多羅天女
 

 

妙多羅天 1
妙多羅天(みょうたらてん)または妙多羅天女(みょうたらてんにょ)は、神仏、善人、子供の守護者、悪霊退散の神、縁結びの神とされる日本の神。新潟県、山形県で祀られている。
新潟県西蒲原郡弥彦村には、弥彦神社に隣接して妙多羅天が祀られており、以下のような伝承がある。
「佐渡国雑太郡(現・新潟県佐渡市)でのこと。ある夏の夕方、老婆が山で涼んでいると、老いたネコが現れた。ネコが地面に転がったので、老婆もそれを真似ると、なぜか急に体が涼しくなってとても気持ち良くなったので、毎日のように同じことを繰り返した。すると老婆の体がとても軽くなり、自在に空を飛ぶようになり、体に毛が生え、凄まじい形相となり、雷鳴を放ちながら空を舞い、海を渡って弥彦に至り、雨を降らせた。土地の者が困り、祠をもうけて老婆を崇めると、ようやくこの暴威はおさまった。ただし年に一度だけ、妙多羅天が佐渡に帰る際には、激しい雷鳴で国中を脅かすという。」
これは文化時代の随筆『北国奇談巡杖記』にあるもので、同書ではネコとの関連のためか、名称の「みょう」に「猫」の字を当てて「猫多羅天」と記述されている。
ほかにも新潟の妙多羅天には、鬼または化け猫が弥三郎という者の母を喰って母に成り済ましたが、後に改心して妙多羅天として祀られた、など多くの異説がある。
また、山形県東置賜郡高畠町一本柳にも「妙多羅天」という祠があり、これには以下の伝承がある。
「平安時代。源義家に敗れた安倍氏の武士の一子・弥三郎が、母と共に御家再興を願いつつ隠れ住んでいた。やがて弥三郎が修行の旅に出た後、母は悪病に侵されるが、悲願達成の想いの強さから死に切れずに鬼と化し、オオカミたちを率いて旅人を襲い、金品を奪って御家再興の資金を貯めていた。やがて帰って来た弥三郎も母に襲われるが、彼は母と知らずに鬼の手を斬り落とした。弥三郎が帰宅すると、家で寝込んでいた母は、弥三郎が持ち帰った鬼の手を奪い取るなり、弥彦山へと逃げ去った。弥三郎は家への想いのあまり鬼と化した母を哀れみ、母を妙多羅天として祀ったという。」
前述の新潟のような妙多羅天・弥三郎婆の伝承は、この山形の伝承がもととなり、化け猫やオオカミの怪異譚が混ざってできたものと考えられている。
妙多羅天女 2 弥彦山宝光院
弥三郎婆が改心してなった存在
保元元年(1156)、当時弥彦で高僧と評判の高かった典海大僧正は、ある日、山のふもとの大杉の根元に横になっている老婆を見つけた。その異様な形態にただならぬ怪しさを感じて話したところ、鬼婆の弥三郎婆であることがわかった。典海大僧正は、老婆に説教し、本来の善心に立ち返らせるべく秘密の印璽を授けられ、「妙多羅天女」の称号を授けた。典海大僧正のありがたいお説教に改心した老婆は、「今からは神仏の道を護る天女となり、これより後は世の悪人を戒め、善人を守り、特に幼い子らを守り育てることに力を尽くします。」と大誓願を立て、神通力を発揮して、誓願のために働きだした。
その後は、この大杉の根元に居を定め、悪人と称された人が死ぬと、死体や衣類を奪って弥彦の大杉の枝にかけて世人のみせしめにしたといわれ、後にこの大杉を「婆々杉」と呼ぶようになったという。婆々杉は宝光院の裏山のふもとにあって、樹齢一千年を超えると伝えられ、昭和27年、県の天然記念物に指定された。弥彦山の頂上近くには、婆の仮住居の跡といわれる婆々欅(ばばけやき)がある。この欅は農民が雨乞い祈願に弥彦山へ登山するとき、必ず鉈目を入れたといわれている。
妙多羅天女 3 根金神社
祭神が弥彦神社と同じだから、下閏戸十羅刹社とは伊夜彦神社のことではないかというのは、あまりにも牽強付会であると思われるかもしれないが、わたしにしてみると、まんざらでもなく、むしろ、いわゆる「いい線いっている」説と思わないでもない。というのは、新潟の弥彦神社本宮の北隣にある宝光院という寺に、婆々杉と呼ばれる杉の巨木があって、そこに弥三郎婆、別名妙多羅天女の伝説があるからで、妙多羅天女は妙虎天女あるいは猫多羅天女ともいわれ、その振舞いはまさに羅刹女を髣髴とさせるものがあるからである。
妙多羅天女伝説
「承暦三年(1079)弥彦神社造営の際、棟上の第一日目の奉仕について鍛冶屋黒津弥三郎と大工との間で争いとなり、壱番大工棟上、弐番鍛冶棟上と決まった。このとき負けた弥三郎の母は憤懣やるかたなく、恨みの念が昂じて悪鬼となって、雲に乗って飛翔し、諸国を自由に飛行して悪行の限りをつくし、「弥彦の鬼婆」と世間に恐れられた。それから80年後の保元元年(1156)、当時弥彦で評判の高かった典海大僧正が弥彦山麓の大杉の根元に横たわる老婆を見つけ、悪行を改め、本来の善心に立ち返るよう説得したところ、老婆は前非を悔い、名を「妙多羅天女」と改め、その後は神仏、善人、子どもの守護に尽くしたので、宝光院に祀られるようになった。そして、村人はこの大杉を「婆々杉」と呼ぶようになった。 」
ここに登場する黒津弥三郎は実在の人物で、黒津家は弥彦大神の随神印南鹿(いなじか)の子孫といい、『弥彦文書』(新潟県文化財調査報告書第二)に「黒洲金村、あるいは黒洲真保古とも云ふ」とあり、黒洲とも書いたらしい。
弥彦山中には宮多羅という地名があり、俗にオンバのネドコといわれ、妙多羅天女の終焉の地であるという。弥三郎婆の話は各地に残っており、そのなかから柳田國男の『桃太郎の誕生』「狼と鍛冶屋の姥」から引用し、紹介する。
「 弥三郎は綱使ひ、即ち田圃に出て鳥を捕るを業とする者であった。或日四頭の狼に襲はれて松の木に逃げ上がると、狼はおいぬ繋ぎをして次々に肩の上に乗って来たが、一番下の狼が腰が弱くて、何度でもおいぬ繋ぎが崩れるので、今日はだめだ、弥三郎婆さんを頼まうと、一疋の狼が走って行く。はて弥三郎婆さんと云ったらうちの婆さんだがと思っているうちに、俄に西の空が大荒れして黒い雲が蔽ひかかり、其雲の中から大きな手を出して、弥三郎の首筋を摑む。やけになって其手を押さへて、腰の鉈を出して力まかせにぶった切ると、血がだらだらと流れる。おいぬはそれを見て叶はん叶はんと遁げて行く。そして大荒れも止んだので、弥三郎は斬り落とした腕をかかへて家に還って来た。婆さん今帰ったで、今日は鬼の腕を取って来たといふと奥の間でうんうん唸っていた婆さんが、どれどれ早う持って来て見せろといふから、その針金のやうな毛の生えた腕を、婆さんの寝ている所へ持って行くと、婆さんは忽ち鬼婆の姿になり、いきなりその腕を引ったくって是は俺の腕にちがひないと言ひながら、それを血がだらだら流れている自分の腕の切り口にくっつけて逃げて行った。鬼婆が弥三郎の婆さを食って化けていたのであった。床の下をめくって見ると、鳥獣や人間の骨が積み重ねてあった。 」
谷川健一は『鍛冶屋の母』のなかで、「弥三郎婆が他人の子供を食うというのは、鬼子母神の説話が混入していると思われる。」と書いているが、わたしには、鬼子母よりも羅刹女のほうがより近いと思える。
それは、「根金神社 十羅刹女と鬼子母神 」の冒頭でも書いたが、羅刹女は、「通力によって姿を変え、人を魅惑し、血肉を食う。水をすみかとし、地を疾く走り、空を飛び、また闇夜に最強の力を発揮し、夜明けと共に力を失う」という性質を持つわけで、これはまさに妙多羅天女の振舞いと瓜二つといっていい。特に、弥三郎婆の「俄に西の空が大荒れして黒い雲が蔽ひかかり」というところは、羅刹女の「空を飛び、また闇夜に最強の力を発揮し」というところに対応し、これは同時に一目連を想起させずにはおかない。
妙多羅天女と婆々杉 4 (弥彦由来の伝説)
承暦3年(1079)彌彦神社造営の際、上棟式奉仕の日取りの前後について鍛匠と工匠(大工棟梁家)との争いとなり、結局、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕と決定された。鍛匠・黒津弥三郎の祖母は無念やるかたなく、怨みの念が高じて悪鬼に化け、工匠らにたたり、方々を飛び歩いて悪行を重ねた。家から姿を消した祖母は、ものすごい鬼の姿となり、雲を呼び風を起こして天高く飛び去ってしまった。それより後は、佐渡の金北山・蒲原の古津・加賀の白山・越中の立山・信州の浅間山と諸国を自由に飛行して、悪行の限りを尽くし、長らく「弥彦の鬼婆」と恐れられた。保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が、ある日、山のふもとの大杉の根方に横になっている一人の老婆を見つけ、その異様な形態にただならぬ怪しさを感じて話したところ、これぞ弥三郎の祖母であることがわかった。典海大僧正は、善心に立ち返らせるべく老婆に説教し、「妙多羅天女」の称号を与えた。高僧のありがたいお説教に目覚めた老婆は、「今からは神仏の道を護る天女となり、これより後は世の悪人を戒め、善人を守り、とりわけ幼い子らを守り育てることに力を尽くす」と大誓願を立て、神通力を発揮して誓願のために働きだした。その後は、この大杉の根元に居を定め、悪人と称された人が死ぬと、死体や衣類を奪って弥彦の大杉の枝にかけて世人のみせしめにしたといわれ、後にこの大杉を人々は「婆々杉」と呼ぶようになったという。
猫多羅天女の事 1 (佐渡由来の伝説)
鳥翠台北茎の『北国奇談巡杖記』(文化4年〈1807〉刊)巻三「猫多羅天女の事」
弥彦神社末社に猫多羅天女の禿(毛髪)というのがある。その由来を尋ねるに、夏の夕方、佐渡国雑多(さわた)郡小沢の老婆がひとり山上で涼んでいた。すると一匹の老猫があらわれ砂の上でころがってたわむれはじめた。老婆もつられて猫と遊ぶこと数日、そのうちに体が軽くなり、やがて全身に毛が生えてついに飛行自在の妖術を得た。形相もすさまじく、見る人肝をつぶし驚くうち、猫となった老婆は雷鳴をとどろかせて対岸の越後国・弥彦山に飛び移り、霊威をふるって大雨を数日降らせた。里人は困り、これを鎮めて猫多羅天女とあがめた。年に一度、猫多羅天女が佐渡にわたる日には、ひどい雷鳴があるという。
猫多羅天女 2
妙多羅天女といわれる像が、新潟県にある越後一ノ宮彌彦神社の北、真言宗紫雲山龍池寺宝光院の阿弥陀堂に安置されているというです。
この妙多羅天女の話は、佐渡の金北山・蒲原の古津・加賀の白山・越中の立山・信州の浅間山などを舞台に展開され、モデルは実在の人物とされます。引用すると長いからあらすじだけ紹介します。
妙多羅天女は、老婆、あるいは母とあるけど老女と見ていいです。嫉妬に狂った老女が悪鬼となり、荒々しいおこないをしてあばれ回ったが評判高い高僧に諭され本来の善心に立ち 返り神仏の道を護る天女となります。悪人を戒め善人を守り幼い子らを守り育てることを誓ったと言うです。
みて貰えばおわかりのように、どこか鬼子母神と似たところがあるのです。この妙多羅天女には実は妙なことがあるのです。別名を猫多羅天女と言うのです。
猫多羅天女の話は、「猫多羅天女の事」と言う題で鳥翠台北茎の『北国奇談巡杖記』(文化4年〈1807〉刊)巻三に収められています。
「ある夏の夕方、佐渡国雑多(さわた)郡小沢の老婆がひとり涼んでいた。すると一匹の老猫があらわれ砂の上でころがってたわむれはじめた。老婆もつられて猫と遊ぶこと数日、そのうちに 体が軽くなり、やがて全身に毛が生えてついに飛行自在の妖術を得た。形相もすさまじく、見る人肝をつぶし驚くうち、猫となった老婆は雷鳴をとどろかせて対岸の越後国・弥彦山に飛び 移り、霊威をふるって大雨を数日降らせた。里人は困り、これを鎮めて猫多羅天女とあがめた。年に一度、猫多羅天女が佐渡にわたる日には、ひどい雷鳴があるという」。
妙多羅天女は、悪鬼に変じたというからおそらく鬼子母神のような風貌ではないでしょうか。猫っぽくはないかも。名前が変えられた事からも、そう思えます。実際に見たわけではないので、どこまでも想像ですけど。
猫多羅天女のほうは、像があるかどうか残念ながらわからないですね。もしあれば、話からはワイルドなヤマネコっぽい姿と想像されますけど。
妙多羅天女ではモデルとなった人物があげられてるのに、猫多羅天女の方は老婆がひとりとなんてあっさりしたもんですね。
ここで興味深いのは、どちらも老女の化けたものとされることです。老女を、人生経験豊富な女、つまり、智恵や知識が豊富な女、と見たらどうでしょう。
智恵や知識が豊富な女が摩訶不思議な力を発揮するというのが、猫多羅天女または妙多羅天女の本筋と見ていいです。わたしは、猫多羅天女のほうが古い伝承で、妙多羅天女は仏教によって鬼子母神伝承を元に作り変えられたとみます。つまり猫多羅天女が仏教によって、悪鬼改心話にされたと思えるのです。 
 
猫の踊り場
 

 

猫の踊り場 1
昔、戸塚宿に水本屋という醤油屋があった。主人夫婦と一人娘の家族3人と、奉公人の番頭と丁稚が住んでいた。そして娘が雌の黒猫の“トラ”を飼っていた。
醤油の付いた手を拭くので、毎日晩になると5人分の手ぬぐいを洗って干しておくのが、この家の習慣であった。ところがある時、丁稚の手ぬぐいがなくなり、翌日には主人のものもなくなった。主人は丁稚がわざとなくしたのだと思って問い詰めたが、埒が開かない。一方、丁稚はいわれのないことで怒られ、泥棒の正体を暴いてやろうと夜なべして見張った。すると夜中に手ぬぐいが地を這うように走って行くのを見たが、結局正体は分からなかった。
翌日、主人は用事で隣町へ行ったその帰りの夜道で、不思議な光景に出くわす。人気のない空き地で、手ぬぐいをかぶった何匹かの猫が人語で会話しているのである。月明かりの下、猫たちは踊りの師匠を待っている様子。そこへ来たのが、手ぬぐいをかぶった黒猫、まさしく飼っている“トラ”である。しかも“トラ”は、晩御飯に熱いおじやを食べて舌を火傷して満足に喋れないとぼやきつつ、踊りの手ほどきを始めた。腑に落ちた主人は,店に戻ると内儀に猫の晩御飯を尋ねると、案の定熱いおじやであった。
翌日の晩、家族と店の者を連れて主人は、昨日の空き地へ行った。隠れて待っていると、やがて手ぬぐいをかぶった猫が集まりだし、そして“トラ”が音頭を取って踊りを始めた。不思議な光景であったが、全員が得心がいったようにその場を離れた。
それ以降、戸塚宿では猫が踊る光景を見に行く人がぽつぽつ現れた。しかし見られていることに気付いたのか、そのうち猫が空き地で踊りをすることはなくなってしまった。そして“トラ”もいつの間にか水本屋からいなくなってしまったという。
横浜市営地下鉄戸塚駅の次の駅は「踊場」駅という。ここが、猫たちが踊りをしていた空き地のあった場所であると言われている。当然、駅名の由来はこの伝説であり、駅構内には猫をモチーフとした意匠が数多く見られる。そして2番出口の脇には、「踊場の碑」と言われる石碑がある。案内板には“猫の霊をなぐさめ、住民の安泰を祈願して”とあり、元文2年(1737年)に建てられたとされる。今でも猫の置物が供えられており、猫供養のための碑と言えるだろう。さらにこの石碑から見て、交差点の斜め向かいとなる場所に交番があるが、この場所が実際に猫が踊りをしていた空き地の跡であるということ。

戸塚宿 / 東海道五十三次の5番目の宿場。江戸から早朝出発するとちょうど宿を取る時間帯に到着できる場所として、慶長9年(1604年)に宿場町として開けた。ちなみに伝説に登場する水本屋は現存しない。
「猫の踊り場」伝説 / 細部は異なるが、これとほぼ同じパターンの伝説が、戸塚以外にも静岡県函南町、同富士市などに残されている。人間に飼われているうちに特殊な能力を持つようになった化け猫の、1つの典型的なパターンであると考えてもよいだろう。
猫の踊り場 2
昔、戸塚宿に水本屋という醤油屋があった。
あるとき、主人が、手ぬぐいの数が減っていることに気がつく。
使用人に聞いても知るものがいない。
手ぬぐいだけを盗む泥棒もあるまいと思うが、気持ちの良いものではない。
そこで、毎晩、手ぬぐいを干してある場所を見張ることにしたところ、飼い猫が手ぬぐいを咥えて出てゆくではないか。
泥棒ではなく、猫のいたずらであったか。しかし、どこへ行くのか。
主人はその後を付けてゆくことにした。
猫は、長後街道の坂道を上ってゆく。
見れば、峠の頂にさしかかったところに、すでに猫が大勢集まっていた。
醬油屋の猫は、それら猫たちの前に立つと、手ぬぐいをかぶり、拍子を取って踊りだした。
他の猫たちは、醤油屋の猫の踊りについて、見よう見まねで踊った。
飼い猫が、近隣の猫たちの踊りの師匠であると知った主人は、誇らしく思った。
やがて、猫たちが踊るということは、誰いうともなく知られるようになり、峠の頂を「猫の踊場」「踊場」と呼ぶようになったということだった。
猫の踊り場 3
その昔、相模の国(神奈川県)の戸塚の宿に水本屋という醤油屋がありました。商売柄手が汚れやすいのでたくさんの手ぬぐいを毎晩洗濯して物干しに干しておりました。しかしのの手ぬぐいが夜毎、なぜか一本ずつなくなるのです。そこで不思議に思った店の主人が、手ぬぐいに紐をつけ、その端を自分の手に結んで床に入りました。
すると夜中、その紐が引っぱられ、誰かが手ぬぐいを持っていこうとしております。そっと紐の先に目を移した主人の目に映ったのは、なんと家で飼っている猫のトラでした。そのまま手ぬぐいをくわえて逃げていくトラを追いかけましたが、追いつけずに見失ってしまいました。
つづく夜もやはり手ぬぐいがなくなっていきました。猫のトラが一体何のために手ぬぐいを持っていくのだろう?と主人は気になる一方です。
しかしある日のこと、となり町で開かれた宴会から帰るとき、村はずれの小高い林の中から話し声が聞こえてきたので、そっと近づいてみました。覗いてみると、何匹もの猫が林の中の広場に集まっていました。そしてその中の何匹かが手ぬぐいをかぶっているではありませんか。
「師匠がまだ来ないねえ。」「今夜こそ上手に踊って、師匠から手ぬぐいをもらおうと思ってたのにぃ。」「師匠がいないんじゃ面白くないなぁ。」
しばらくすると、頭に手ぬぐいをのせた猫が、
「ごめん、すっかりおそくなっちゃった。」と走ってきました。主人は、びっくりしました。自分の飼っているトラが猫たちの踊りのお師匠だなんて。
そしてトラが踊ると、ほかのネコたちも、一緒に踊りはじめました。主人は猫たちに気づかれないようにその場をはなれました。
主人はなくなった手ぬぐいの謎がわかってホッとするとともに、自分の家の猫を誇らしく思うようになりました。しかしそれからしばらくすると、猫の踊りの話が町のうわさになり、見物に行く人がふえるようになりました。
すると敏感な猫たちはそれに気づき、その場所で踊るのをやめてしまい、トラもしばらくすると戻ってこなくなりました。主人は町の人たちと話し合い、猫の踊っていたところに供養碑をたてました。猫の踊りの話は代々語りつがれて、今でもそこは「踊場」と呼ばれております。
猫の踊り場 4
昔、戸塚の町に、代々続いた「水本屋」(みずもとや)という 醤油屋さんがありました。
その店には、主人とおかみさんとその娘が、長年勤めている番頭と小僧をひとり置いて、毎日 せっせと忙しく働いていました。
幸い、店はお客様のごひいきも沢山にあって、とても繁盛していました。
ところで、その店には 一匹の黒い猫が買われていて、とてもおとなしく、人の仕事の邪魔をしないで、でも 猫好きの人のご来店には、そそっと出ていっては、頭を撫でてもらいながら お客様のお相手をするなど、これも 愛想の良い猫ではありました。
醤油屋ですから、お客様の持ってこられた入れ物に、樽から醤油を注ぎます。手や樽の注ぎ口、入れ物などに醤油がたれ、それをふき取ってきれいにしてから、お客様にお渡しするのですが、そのとき使う手ぬぐいは、醤油を拭くものですから、見る見る汚れてしまいます。でも これは仕方のないことですよね。
ですが、店の主人は、とてもとてもきれい好きで、見た目を気にする人だったので、いつもさっぱり洗ったきれいな手ぬぐいを使うように、毎日 必ず汚れた手ぬぐいは洗うように、と 口をすっぱくして皆に言いつけていました。
店のものは 皆 言いつけに従って、いつもきれいなてぬぐいをつかっていましたが、そのためには、毎日 当然 汚れた手ぬぐいを洗濯しなくてはなりません。朝から晩まで、働きづめですから、洗濯は その日の仕事が終わった後にし、それは一晩中、庭の物干しに掛けられて 朝には すっかり乾いているようにしていました。
ある日、いつも朝一番に起きる主人が庭に出て、手ぬぐいを取り込もうとしたところ、主人の手ぬぐいが 見当たりません。やれやれ、洗い忘れたか、と 夕べ手ぬぐいを洗ったものに聞いてみましたが、ご主人様のものは一番初めに洗って干しました、といいます。おかみさんも、自分もそれをみて知っている といいましたので、それでは 手ぬぐいは 盗られでもしたのか・・?と 皆、妙な気持ちで お互いの顔を見合わせました。
新しい手ぬぐいを下ろし、その日は、また いつものように 忙しく働きました。
次の日、今度は おかみさんの手ぬぐいがありません。そして その次の日は、娘の手ぬぐいがなくなっているではありませんか・・・!
たかが手ぬぐい数本、どうということはないのですが、それでも 誰も気付かないときに、誰かが来て 店のものを持っていったとなると、やはり 商売としているところですから、心配です。それより何より、なんで 手ぬぐいなんか・・と、薄気味悪い思いがしてきました。
その晩、小僧は 寝ずの番をして、雨戸の隙間から 庭を見つめていました。最初に、ご主人の手ぬぐいがなくなったとき、一度 お前が取ったのか?と聞かれたことがあり、その後の手ぬぐいについても、いちいち 自分のほうを見られた小僧は、なんでてぬぐいなんか ほしがるものか!と、疑われたことに腹を立てていたのです。今日は、どうしても その疑いを晴らして、犯人を突き止めようと思っていたわけです。
最初こそ、一生懸命みはっていたのですが、やはり 昼間の疲れが出てくれば、真夜中すぎには うとうとしないではいられなくなってしまいます。しかし、そのとき、ふと なにか気配を感じた小僧は、はっとしてあわてて隙間から庭をのぞきました。
すると、まるで それを待っていたかのように、番頭さんの手ぬぐいが ふわりと宙に浮いたかとおもうと、す〜っと地面を這うように 動き出すではありませんか。
小僧は、がらっと雨戸を開けると、こら、待てー!!と 怒鳴りながら飛び出したのですが、あっというまに 手ぬぐいは 暗闇の中に消えていってしまいました。
騒ぎを聞きつけた皆がおきだし、小僧の話しを聞くと、おかみさんは、本当に怖くなって、もういいから、早く戸締りをしっかりして もうわすれておくれ、といいながら 娘と一緒に部屋に入ってしまいました。

それから、しばらくたったある日の夜。水本屋の主人は、呼ばれた席で程よく酔って、いい気分で月夜の道をあるいていました。
丘に差し掛かったとき、主人は ふと なにやら 話し声を聞いたような気がして、足を止めました。そして、声のする方に そっと近づき、草むらを分けてのぞいたところ、そこにはなんと 沢山の猫たちが集まって にゃごにゃごやっているではありませんか。
よく見ると、その猫のうちの何匹かは 頭に手ぬぐいを姉さんかぶりにしています。「おや、あれは 盗まれたわたしのてぬぐいではないか。あ、あれは おかみの。。あっちの猫のは、娘のだ。なんとなんと、では うちの手ぬぐいを盗んだのは、猫だったのか。」
猫たちは、そんなこととはつゆしらず、おしゃべりを続けています。
「今夜は おっしょうさま、おそいねぇ。」「今日こそ、私が手ぬぐいをもらう番だよ。」「何を言っている、それはオレの言うせりふだよ。」「いやいや、あんたはまだまだ。私こそ、今日一番にうまく踊って、手ぬぐいをいただくさ。」
ははぁ・・、さては 手ぬぐいは そのおっしょうさんが盗んで持ってきていたというわけだ。主人は すっかり酔いも吹っ飛んで、面白くなってきていました。
やがて、猫たちが ざわざわしだし、あっちこっちで、「あ、おっしょさんだ。」「おっしょさん、こんばんわ。」という声が聞こえました。
息せき切って遅れてきたのは、なんと、水本屋の黒い猫。あれあれ! では、うちの猫が おっしょさんなのかい?一体 なんの?
「やぁやぁ、おそくなってすまんね。さて、月も昇った。始めようじゃないか。」
そういって、水本屋の黒猫は、みんなの前に立って、チントンシャン、テテツツ、テンツツ、ツテテテテン・・ と 口三味線を取り出したのです。そして それにあわせて、集まっていた猫たちが いっせいに、踊りを踊り始めました。
皆、一生懸命、前足を振り上げ、腰を揺らし、しっぽをたてて、うまい具合です。
主人は、おかしいのと 面白いのとで、思わず声を出しそうになるのをこらえて、その場をそっとはなれ、道々、『なんと面白いことに出会ったものよ。それにしても、どうしてうちの猫は、踊りなんか知っているんだろう?ああ、そうか、娘のお稽古を よくじっと見ていたが、あれで憶えたか・・! はてさて、なんともおかしなことを見たものだ。』と 思い出しては、ひとり ニヤニヤしながら 戻っていきました。
 
さて、翌朝。主人は皆に、手ぬぐいを取っていった犯人がわかったぞ、といいましたが、それが誰であるかは 一言も言わず、おかしそうに 笑うばかりでした。
その日の晩、店を閉め、すっかり仕事が終わったとき、主人は言いました。
「さ、みんな、出かけるから支度をしなさい。」「え?皆で出かけるのですか?どこへ?」
おかみさんの聞くのにも主人はおかしそうに笑いながら「まぁ、いいからついておいで。」というばかり。皆は 不思議に思いながらも、ぞろぞろと 主人の後についていきました。
そして、丘に着くと、主人は 皆に言いました。「いいかい、これからは 絶対に声を出してはいけないよ。どんなものを見ても、何が起こっても、笑っても話してもいけない。そうでないと 見られなくなるぞ。」
皆は、主人の後について、そぉっと身をかがめながら 草むらの中を進みました。
さて、今日は満月です。あたりは 明るく照らされて、ぐるりと囲んだススキを涼しい風が揺らして、丘の上はまるで、沢山の猫たちが踊るための舞台のようでした。
沢山の猫たちは、きょうも 何とか手ぬぐいを自分のものにしようと、一生懸命 おっしょさんについて 踊っていました。
水本屋の皆は、自分たちの見ているものを にわかに信じることはできませんでしたが、でも 見ていると とてもおかしいし、楽しい。なにより、自分たちの猫がおっしょうさんというのが、とても 愉快でした。
ふと、気が付くと 店の黒猫は、今日は小僧の手ぬぐいを持っています。今日、うまく踊った猫には、小僧の手ぬぐいがごほうびというわけです。
皆、帰る道々、あの猫がうまかった、あの猫は まだまだ 練習しなくちゃいけないね。などといいながら、珍しい面白いものを見たことを 楽しく語り合っていました。
最初のうちこそ、皆、黙っていましたが、誰かが話したのでしょう、そのうち、町でも 猫が踊るということが評判になり、そっと見に行く者たちが増えてきました。
でも、そんなにすれば、猫たちは すぐに気付きます。それで、あるときを境に、猫たちは すっかり そこには集まらなくなってしまいました。
相変わらず、水本屋の黒猫は、店のお客の相手をしたり、娘のお稽古をじっと見つめたりしていましたが、あるとき、出かけていったっきり、とうとう帰ってきませんでした。
店の皆は、黒猫を思って、あの丘に碑を立て、猫を偲んだということです。
寒念仏供養塔と猫の踊り場 5
むかし猫が踊ったという伝説のある踊場の長後街道と岡津・藤沢道が交差する角に、南無阿弥陀佛と刻まれた「寒念仏供養塔」が立っている。地元の有志が史跡として保存しようと、十数年前に石碑保護のために上屋(うわや)を建てた。毎日お参りをする人も多く、供花や供え物も絶えることがない。
この供養塔建立は元文(げんぶん)二年(一七三七)の十一月である。旧暦の十一月だから、新暦では十二月末か一月の初めである。寒念仏と刻まれているように、寒い中を中田寺(ちゅうでんじ)の住職等五人の僧侶が、戸塚元町から吉田、矢部、鳥ケ谷、戸塚宿の上、中、下町、汲沢大丸、坂下、宮ケ谷の広い地域を、念仏修行して廻った総仕上げに、開鑿(かいさく)されてまだ何年も立っていなかったであろう踊場の坂の頂上に、この供養塔を祀ったものと思われる。
戸塚宿が成立したのが慶長九年(一六〇四)で、この供養塔建立が元文二年であるから、この間百三十三年のひらきがある。ということは、戸塚宿ができた頃はまだこの踊場の坂を越えて戸塚宿方面へ行くはっきりとした道は整備されていなかったと思われる。
戦国末期の天正十八年(一五九〇)八月、石巻康敬(いしまきやすたか)が徳川家康に会うために中田から戸塚へ向かった道は、しらゆり公園の庚甲塚から岡津・藤沢道を横断し、鳥が丘から矢部町へ下って倉坪(くらつぼ)を通り、戸塚の元町である今の吉田町に通ずる、この時代の主要道であった「谷矢部(やとやべ)道」を通ったと思われる。この呼び名は今も生きている。
外様や譜代大名の参勤交代が盛んになるのが寛永の末頃であるが、戸塚宿の助郷を課せられて中田方面から戸塚宿に出向いた道は、恐らくこの谷矢部道を使ったのであろう。
しかし戸塚宿の本陣や脇本陣が整備され、宿の中心が今の戸塚町に移ってくると、谷矢部道より戸塚宿に近い、この踊場を越える道が開鑿された。それがいつ頃であったのかは供養塔しか知らない。
現代では、愛玩動物として猫が親しまれているが、昔の人たちは、人間の身近で生活しながらも、犬のようには馴(な)れず、野性的で不可思議な習性を多く持っているため、油断のおけない魔性の動物と考えられていた。猫が踊る不気味な淋しい村の境であったからこそ、供養塔を建てる場所に選ばれたのかも知れない。
踊場の猫の伝説を紹介すると、
その一
戸塚の宿内に、水本屋という醤油屋があった。あるときのこと、沢山ある手拭いが、毎晩一本ずつなくなった。不思議に思った主人は、手拭いに紐を付けて、その先を自分の手に結んで寝た。すると、飼い猫が手拭いをくわえて逃げようとする。主人は飛び起きて後を追ったが、猫が手拭いを何にするのかと不思議であった。その後ある晩、踊場付近を水本屋の主人が通りかかると、「おい、今夜は笛子が来ないぞ」「そうだ。水本のが見えないな」「そういやぁ、今夜、熱いオジヤを喰わされたんで、舌をやけどしたといっていたぜ」「そうか、それで来ないんだな」という猫の話し声が聞こえてきた。びっくりして飛んで帰り家人に聞くと、猫にオジヤを喰わせたという。水本屋の主人は、これで手拭いのなくなる訳がわかったといって喜んだそうだ。この踊場では、近所の猫どもが、寄ってたかって毎晩踊っていた。猫は、頭にかぶる手拭いにするために、主人の家の手拭いを持ち出したのである。
その二
汲沢町の踊場では、むかし付近の猫が集まって踊りをした。あるとき、戸塚四丁目の料理屋「伊勢吉」のみけ猫がひどく遅刻したので、みんなが「どうして遅れたんだ」と間くと「ひどい目にあった。夕飯に熱いお粥(かゆ)を出され、それをうっかり喰って舌を焼いてしまったんだ」と答えたそうである。
その三
川上町の徳翁寺(とくおうじ)には、古くから一匹の猫が飼われていた。ところが最近小猫が飼われるようになってからというもの、心中、たいへん面白くなかった。そこで毎晩、中田の山に遊びに行って踊った。ところが徳翁寺の猫はいつも袋をかぶって踊っているので、仲間の猫が「なぜ袋をかぶっているのか」と間くと、「自分の飼い主が新人の猫を可愛がり、情を取られたから恥ずかしい」といって、また、互いに化かし合い、踊りあって興をわかしたという。 
 
大直禰子神社の「おからねこ」 名古屋市中区大須 

 

大直禰子神社 
[大直禰子神社 (おおただねこじんじゃ)・愛知県名古屋市中区大須] 名古屋の中心街の一角にあるこの神社は、大和一の宮・大神神社の初代神主である大直禰子(大田田根子:おおたたねこ)を祭神とし、家内安全・無病息災に霊験あらたかとする。しかし、この神社は「おからねこ」としての方が名が通っている。
「おからねこ」の由来については『尾張名陽図会』によると、昔、鏡の御堂と呼ばれるお堂があって、そこには本尊がなく、三方の上に狛犬(お唐犬)の頭が一つ置かれていた。それを「おからねこ」と呼んでいたという。またその後、お堂もなくなりこの狛犬の頭も行方知れずとなったが、お堂のそばにあった大榎が残り、その大榎も枯れて根だけが残ったのを「お空根子」と呼んだともいう。
さらに『作物志』によると、上のような奇談めいた話ではなく、まさに妖怪変化として「おからねこ」が存在したとされる。その姿は、牛や馬を束ねたほどの大きさ、背中に数株の草木が生えており、いずれの時からか、この場所から動くことなく居続け、一声も吠えず、風雨も避けず、寒暖も恐れないとされている。人々の願いを叶えてくれることは著しいが、その名前を知っている者はなく、その姿が猫に似ているので「御空猫」と呼び習わしているとしている。
この伝承が広く言い伝えられているせいか、本来は全く関係のない猫を祀る神社であると誤解されているところがあり、駒札にも猫とは無縁である旨の断り書きがある。(と言いつつ、写真にあるように、1匹の猫が出迎えてくれたわけだが)

大直禰子(大田田根子) / 10代崇神天皇の御代に疫病が大流行した時、天皇の夢枕に大神神社の祭神である大物主神が現れ、自分の子孫である大直禰子に祀らせよと伝えた。そこで天皇は大直禰子を探し出して大神神社の神主としたところ、疫病は収まったと言われる。その後、大直禰子も三輪氏の祖として祀られ、大神神社の摂社・大直禰子神社(若宮社)の祭神となっている。無病息災に霊験あらたかとされるのは、この出自によるものであると考えられる。
『尾張名陽図会』 / 尾張藩士であった高力猿猴庵(1756-1832)作。名古屋近辺の名所図会。奥付はないが、文政年間(1818-1832)に著述されたものであると推測される。
『作物志』 / 尾張の読本作家であった石橋庵真酔(1774-1847)の作品。序文に文化4年(1807年)の冬とある。 
 
大直禰子神社の「おからねこ」 名古屋市中区大須 
■1 はじめに 
名古屋地下鉄「上前津」駅の「12番出口」を出て、南へ徒歩数十秒、距離にしておよそ二十メートルほど行くと、地元の人々からは「おから猫」と呼ばれて親しまれて来た小さな神社が右に現れる。入口の石段の右には、「大直禰子神社」と刻まれた石の社号標が立てられ、左には、町中にしては大きな木が立っている。石段を四五段上った先に石の鳥居が構えており、その奥に「拝殿・覆屋」があって、その下に祭神を祀った「本殿祠」がある。南から訪ねていく場合は、前津通りに沿って「上前津郵便局」の北へ、二つ隣りくらいだったと思う*。
筆者が、ここの神社を訪ねたのは、実はもう六、七年前のことで、「足助」の番茶や、「新城」「西尾」「四日市」のお茶産地を巡ると同時に、「四日市」や「桑名」、それに「常滑」の名窯を特殊な急須を求めて行脚した際、「大須観音」の骨董市に出かけたときだった。時間が早すぎて、いまだ開いている店は二三店しかなく、やむなく近くを散歩したり、喫茶店で名古屋名物のモーニングを満喫したりして時間を潰したのである。散歩は、十五分くらい真っすぐ東に歩いてから引返したのだが、その切り返し点の近くでふと目に入ったのが、ビルの谷間にちんまりと収まった、由緒ありげなお社だったのである。
このときは、この神社のことは知らなかったのだが、ちょうど社号標の右後ろに当たる、瑞垣のうちに、木製の高札が建てられ、墨書きでこの神社の由来などの説明が記されていたので、これを読んで初めてここの一風変わった縁起などを知ったのである。以下、その説明板の内容を紹介しよう。

大直禰子神社由緒 / 祭神・大直禰子命
当社の祭神は大直禰子命にして人皇㐧八代崇神天皇の御代国内に疫病流行して天皇痛く宸襟を悩まし給ひしが一夜夢中に大物主命 (大国主命) 枕上に立ち給ひ我を大直禰子をして祭らしめよ 然らば国内の疫病直ち止まむとの神告によって河内国に住みし大直禰子命をして祭祀を掌どらしめ給ふ之に依て国内の疫病止まりしといふ (古事記) 之は即ち現今奈良県三輪町鎮座、大神神社 (元官幣大社にして大和国の一宮) 初代の神職にして大直禰子命は之大国主命の子孫なり
尚当社は古来より「おからねこ」の俗称を以て猫の守護の如く云ひ慣ひしも祭神とは何ら関係なきにして家内安全無病息災の霊験あらたかなるものなり
 
当然、このとき初めて、筆者は、えっ、なんか猫に関わる話があるの? と思ったのである。しかし、いくら大都会の「名古屋」でも、こう云う小さな神社に人が朝から常駐しているはずもなく、近くに事情通の御老人などが歩いていないかと目で探ったが、休日の朝に人通りもさほどなく、めぼしい相手を発見することは出来なかった。この時は、しょうがなく、参拝だけして「大須観音」に帰ったのであった。
しかし、縁とは不思議なもので、骨董市も盛りを迎えた頃、筆者がさる骨董屋で急須をいくつか手にして店の主人と話しているとき、ふと、先ほどの神社の話をしてみると、色々な情報が集まってきた。もっとも、店の主人は、「おから猫」は知らない様子で、猫なら「東仁王門通り・ふれあい広場」に巨大な招き猫がいるけど、その神社のことは聞いたことがない、と云うことであった。
そんな話をしていると、隣りにいた五十がらみの男性が、「赤門通り」と「新天地通り」が交錯する角に「美奈須 ビーナス 」と云う喫茶店があり、そこには木の「招き猫」が祀られているよ、と教えてくれた。でも、新しいものらしいよ、とも付け加えていた。公式ブログ (?) では、百年くらい前のものではないか、と書かれていたが、本当にそうであるなら、「招き猫」としてはかなり古い部類である。しかも、一般にそれほど古い招き猫は、首にひらひらした前掛けを着けていることが多く、鈴に首輪と云うのはもう少し新しいことが多いので、そのタイプとしては、かなり草創期のものと云うことになる。
結局、話はこの辺りから大きく逸れはじめ、「招き猫」ならあっちの店にあったよ、何て情報をくれる人もあり、話題は自然に「招き猫」の話に移っていってしまった。筆者は、この頃はまだ「猫神」探訪を始める準備をしている段階で、しかも「招き猫」自体を収集する意図はなかったのだが、話自体は面白かったので、色々な人の「招き猫」話を聞くことにした。そして、ひとしきり「招き猫」話に花が咲いて、一段落がついた頃、そろそろ引上げようと思った筆者が、今一度だけ「おから猫」の話を切り出してみたら、自分ちはそこの氏子だと云う老人に出会えたのである。これはもはや僥倖としか言いようがなかった。
「大直禰子神社」は、地元では単に「猫神社」で通っているそうで、説明板にあった通り、本来は疫病を治す神様だと云う。面白かったのは、この人が祭神を「少彦名神」だと教えてくれたことである。説明板では、「大直禰子命」だったはずだから、これもまた神社側の主張と食い違うのである。昔は、近所で飼い猫が迷子になるとここの神社に「おから」をお供えして猫が無事に帰ってくるよう願かけをしたとも話してくれた。しかし、祭神が「大直禰子命」だから、「ねこ」の語呂から、「猫」の神様のように云われ始めたのならば、祭神が「少彦名神」であっては語呂が合わない。もちろん、氏子だからと云って、その人の云うことが社頭の説明板より正しいとは断言出来ないが、逆もまた然りなのである。
「少彦名神」は、「大国主命」と共に、我が国の国土を開拓した神であると同時に、古くから医薬の神様として知られている。その意味では「大直禰子命」と共通する性格を有している。ちなみに、筆者が話を聞いた老人は、「少名彦神」と云ったか「少名彦命」と呼んだかは定かに覚えていないのだが、ここで「記紀」にしたがって「神」にしておいた。 
話ついでに記しておくと、こう云う議論を嫌う風潮が神職や僧侶、あるいは熱心すぎる信徒や氏子の中にあったりするが、それは大きな勘違いで、むしろこう云ったことが存在するのが、その寺社が生きた信仰の歴史を保持していることの何よりの証拠なのである。あんまり整然と統一されて、齟齬のない縁起などと云うものは、大抵古くとも「明治時代」に、新しければ「戦後」になってから、出来上がったものであったりするのだから。それでも、「戦前」の縁起創成までは、往々にして「明治期」の「神仏分離令」や「神社合祀令」を生き延びるための必死の方策だったり、あるいは御維新で失った諸侯の保護に代わる収入の道を探るためのものが多く、ある種の捏造とは云え、十分に関係者たちの敬虔かつ真剣な討議の上で遂行されたのでまだまだよい。ところが、現代に近づけば近づくほど、信仰の延命と利得沙汰が混淆してくるのは、色々と難しい問題があるのは分かるが、やはり諸手を挙げては歓迎出来ない。しかも、地元の商工会と寺社が結託して人気取りの縁起をつくり出したのなどはまだよい方で、広告代理店に金を払って大衆受けしそうな縁起や伝説をオーターメイドする輩まで現れてくるとなると、尚更である。もちろん、過疎や高齢化が進んでいる地方などについては、やむを得ない場合も多い (でも、タチの悪いのは都会の寺社に多いんだよなぁ...) 。まあ、これらのことも数百年も経てば、「昭和・平成」の頃の文化的風潮として、特筆するに値する文化史的な事項になるのかもしれないが...。
筆者は、新しい縁起の創出は絶対駄目だ、と云っているのではなく、それを通してそれ以前の縁起や由来などを抹殺迫害することを批判しているのである。縁起を変えてもいい、と主張するほどに柔軟な考えを持っているならば、次いでに複数の縁起があってもよい、と云う程度の柔軟さを兼ね備えてほしいだけである。自分の主張を通すときだけ寛容さを求め、他人に対しては非寛容と云うのでは、いずれがまともな対応か、およそ知れるものである。こう云う良識が通りにくい世の中になってはいるが...。
いずれにしても、色々なヴァリエーションの縁起があるのは、決して恥ずべきことではない。大体、「出雲大社」にしたって、「伊勢神宮」にしたって、その他、どんな由緒正しい寺社だって、完全に統一された縁起を持っているところなんて本当はない。仮に、いまの執行部がそう主張していたって、一部右翼がどんなに騒いだって、古い歴史と、古い記録を持っていればいるほど、こう云うズレは生じやすいのである。したがって、複数の縁起が存在することは、恥どころか、誉れだ、とさえ云えるのである。だからと云って、「大直禰子神社」の祭神が「少彦名神」だと云うのが、筆者が偶々話を聞いた方の記憶違いじゃないとも限らないから、これを以て何かしらの立場を言い張ろうとは毛頭思っていない。ただ、色んな人の話を聞くのは、面白いと云いたいだけ。
そう、筆者はこのとき、また、別の老人の話を聞くことが出来たのである。その人によると、昔は子供の麻疹や疱瘡に御利益のある神様、いわゆる「疱瘡神」の一種として信仰を集めていたようで、その点では、 祭神の「大直禰子命」の由緒と概ね合致する。当時は、親が子を連れてお参りし、無事治ったときは、神様送りに桟俵の上に「おから」を載せ、その真中に御幣を立ててお供えしたと聞く。「おから」と云うのは、おそらく「おから猫」から来た連想なのだろう。
しかし、それにしても、こんな美しい伝統があったなんて、何で隠す必要があるのだろうか。しかも、後者の風習は、神社の「本来」の由緒とも、見事に溶け合っていると云うのに...。実は、後で分かったことなのだが、神社の頑な姿勢には、ちょっとした事情が隠されていたのである。その事情については、もう少し後で...。  
■2 闇に葬られつつある「猫」の由来 
それにしても、社頭の由緒書きの最後の二行は、「猫神」探訪の徒としては、やや気勢を挫かれる感は禁じ得ない。この時の筆者は偶然の巡り会わせに過ぎなかったが、もしもこれがわざわざ「千葉」くんだりから訪ねた「猫神」の社だったならば、まるで門前払いを食らうようなこの一手には、流石に気も殺がれそうなものである。もちろん、こんなことで意気消沈してしまうようでは「猫神」探訪などと云うマイナーな行脚は出来ないのである。ましてや、ここの神社が、地元では昔から「おから猫」と呼ばれて親しまれてきたと云う確かな氏子の証言を得た上での訪問なのだから、心強さも人一倍である。
神社からすれば、問題はこの「おからねこ」と云う名前にあるのだろう。「記紀」に登場する「大物主命」とか「大田田根子 (大直禰子) 」などのいわゆるビッグネームの方が、「猫」などと何処の路地にでもいる半家畜などよりは有難いと云う思いがあって、躍起に「猫」を否定するのだろうか。しかし、「おからねこ」の伝承だとて、実際には「猫」と決まっていた訳ではなかったようなのだから、そんなに目くじらを立てることもないのに、とは思う。表記上も、「おからねこ」「おから猫」を筆頭に、「御唐猫」「御空根子」などが知られ、それぞれに由緒が語られていたようなのである。「猫」話は、飽くまでも「ワン・オブ・ゼム」に過ぎないのである。
以下、そのような亜流の由緒を紹介してゆく。  
A 「お空猫/根子」系の由緒
まず、ここのお社に関する筆者の知る最も古い資料から紹介しよう。資料は、「江戸後期」に成った『尾張名陽図会』である。
おから猫 / むかしよりおからねこをいひつたふ。或説には往古此地は老人の咄に幸行 ぎやうこう の御車もたちし其跡に社をたつといふ。愚按ずるにむかしより左有事をしらず。しかはあれど持統天皇三河國尾張國へ御幸あり。もし是等に據 よりどころ とせば佳ならん。三州には宮路山 みやぢやま とて御行の跡定しきに、本州には其御舊跡をしらず。これも其跡ならずや。
鏡御堂 / むかしおからねこといふ所ハ鏡の御堂の事なり。市橋如蘭翁の隨筆の中に相傳ふ鏡の御堂とて到て古く荒はてし堂あり。其中央にハ本尊も無くして小さき三方の上にこまいぬの頭一ツを乘たり。世におこまいぬをおからねこといふ異名をつけたりとぞ。其後年月を經るにしたがひて其堂も跡無。こまいぬの頭をも今はいづちへ行たらんもしらず。しかるに其傍に大なる古榎の大樹ありて枯くちはてて其根斗りのこれるをおからねとよび又はおからねことも云たり。猶此隨筆に有を聞ば尤ときこゆ。
要するに、このお堂には御神体がなく三宝の上に「狛犬」の頭ひとつが載せてあった。里人はこの「お狛犬」に「おからねこ」と異名をつけるようになった、と云う説である。
他方の説は、やがて年月を経るにつれてお堂が跡かたもなくなり、「狛犬」の頭もどこにいったか分からなくなってしまっていた。そして、お堂のかたわらにあった大きな榎の樹も枯れ果てて、根っ子の部分だけが残っていたのを「お空根子 (からねこ) 」と呼ぶようになった、と云う説である。ちなみに、上記引用文中に登場する「市橋如蘭翁の隨筆」と云うのは、現在のところ未詳であると云う。
ここまでは、『尾張名陽図会』の記事に基づいて書いたのだが、次にあげる文章などは、さしたる根拠もなしに、前提的に「おから猫」と記し、それをまた脈絡なしに、「お空根子」説と折衷しているから面白い。別に非難しているのではなく、むしろ、それほどまでに、地元の人にとっては、「おから猫」のイメージと用法が定着していると云えそうなことを指摘したいだけである (この後、実はそれどころの話ではなかったことを知るのであるが...) 。
昔、鏡御堂というお堂の中に狛犬の頭が一つまつられていた。人々は狛犬を唐の猫と思い、「おから猫」と言っていた。江戸時代後期には御堂も狛犬の頭も無くなってしまったが、傍らにあった榎の大樹が朽ち果てて、根だけが残っていたのを、「おから根」とも「おから猫」とも呼ぶようになった。
   
この節は、結局、『尾張名陽図会』の記事の紹介にとどまった。しかし、その中で現れた「頭だけの狛犬」と「大木の虚ろな洞」と云うイメージは、意外にも後ほど重要な要素として、再登場してくることだけは、ここであらかじめ述べておく。もっとも、その再登場は、次回の記事の中になるのだが...。  
B 「お唐猫」系の由緒
正直云って、以下に紹介する由緒は、おそらくはその著者によって新しく創作されたものである。出典元の『作物志』も、『尾張名陽図会』よりはわずかばかりだが後の成立である。
『作物志』を著した「石橋庵真酔」 (1774‐1847) は、安永三年生まれの戯作者で、「市岡猛彦」に「国学」を学んだ後、「名古屋」の貸本屋の読物作家となり、雑俳・狂俳の宗匠もつとめた文人である。弘化三年 (1847) 十一月二十七日あるいは二十八日に、七十三歳で死去したとされている。名は「時恭」で、字は「豹恵」であった。別号に「増井 (万寿井) 山人」「彙斎 いさい 」。号は「せっきょうあん」「しゃくきょうあん」「いしばしあん」などと訓む。作品には、『小説不実梅』『津島土産』などが知られている。もちろん、この辺りのことは、すべて『名古屋叢書』の解題の受け売りである。
さて、その『作物志』の中の記事なのだが、以下にそれを書き出そう。
異獣 / 城南の前津、矢場の邊に、一物の獸あり。大きさ牛馬を束ねたるが如し。背に數株の草木を生ず。嘗ていづれの時代よりか、此所に蟠 わだか まりて寸歩も動かず。一声も吼ず、風雨も避けず、寒暑を恐れず、諸願これに向て祈念するに、甚揭焉 はなはだいちじるし。然れども人、其名をしらず、形貌 かたち 自然と猫に似たる故に、俚俗都 すべて 御空猫と稱す。
この「石橋庵真酔」の戯文に近い「おからねこ」紹介に関しては、「沢井鈴一」氏が、自身監修の『堀川端ふしぎばなし』 (堀川文化を考える会、2003) の中で、短編の佳品をオマージュとして載せている。なかなか品位もあって暖かく、しかして哀切で渺々とした小品である。機会があったならば、是非とも手にとってみて下さい。
   
ここから少しばかり、筆者の予断のみに頼って記述するならば、「石橋庵真酔」が上の「おからねこ」のイメージをどこから得たのかについて、個人的には臆見がある。
一つには、「高力種信」が『尾張名陽図会』を書くに当たって入手出来なかった、別の地元の伝承を「石橋庵」が手に入れていた可能性である。後ほど詳しく述べることになる「東北」の信仰の一つに、「権現様」信仰と云うものがある。筆者の想像は、この民間信仰を手掛かりに広がるのである。
詳細は、「おからねこ」を巡る民間信仰の背景を理論的に考証してゆく次回の記事に譲るとして、簡単に云ってしまえば、「獅子舞」の「獅子頭」を神仏がこの世に垂迹した仮の姿として、崇め敬う信仰の形態のことである。具体的には、「獅子舞」などを通して、災厄の防除を祈願するのを主とした信仰であるが、「岩手山」などを中心として、一部、「獅子頭」そのものを神として崇める極端な形態へと深化した「権現様」信仰も見られるのである。そして、そのような地域では、野辺や山腹、山頂の祠堂に、石の「獅子頭」を祭る風習がある。
この「石造獅子頭」を祀る信仰形態が、「岩手山」周辺以外に現在も残るかは分からないのだが、筆者のわずかな知見の限りでは、あまり聞いたことはない。しかし、かつてそのような民間信仰が存在したのではないかと疑われる痕跡は、各地に散見される (後に少しばかり記す) 。このことを念頭に入れると、かつてこの系統の民間信仰が、「尾張」地方に存在した可能性も、一概には否定出来ないのである。特に、「狛犬」と「唐猫」を混同した形跡がはっきりと残る「おからねこ」の伝承や、これまた後ほど触れる「岡崎市」の「糟目犬頭神社」の「唐猫」と呼ばれる「狛犬」の存在 (そして、犬頭と云う社名そのもの) などから、この地域にはかつて「狛犬」の頭を崇める信仰が行なわれていたのではないかと疑われる傍証が意外にも豊かに存在するからである。
もしも、かつてそのような民間信仰が行なわれていたが、「東北」を除いて、その他の地域では皆その後、衰退してしまったのと同様に、「尾張」の地でも衰退してしまったと仮定するならば、何故、「江戸後期」の頃には、既に「おからねこ」の信仰の実態が不明になってしまっていたかの説明もつく。「岩手山」周辺の祠に祀られる石造の「権現様」は、古いものは風化し、苔や草に覆われて野辺にあるものも多い。「おからねこ」の御神体だった「狛犬の頭」も、あるいはその信仰が衰退した晩年には、似たような状態で野ざらしになっていたのではあるまいか。そして、その記憶がまだ完全には消え去らぬうちに、「石橋庵」が地元を取材したならば、なくなってしまう前は、朽ちた大木の根本で苔蒸して、草に覆われていたよ、などと云う古老の昔語りを聞けたかもしれないのである。あるいは、「高力種信」が御三家「尾張藩」の馬廻組三百石と云う中級武士の家に生まれ、生涯、藩の重鎮たちと交際があったお堅い教養人だったのに対し、「石橋庵」が狂俳や戯文・滑稽本の類を専らとした市井の文人だったこととも関係して、二人が自らの取材から得た情報が、それぞれに異なっていたのかもしれない。
この他にも、「石橋庵」が、『釈日本紀』巻十二に見える『摂津国風土記』逸文の「夢野の鹿」の説話に触発された可能性と云うのも、考えてみた。あまり露骨に似ている訳ではないが、基本的なイメージの借用による翻案であってみれば、換骨奪胎こそが戯文の命脈なのだから、これくらいの類似は似ているうちに入るのではないかと思われる。個人的には、『日本書紀』仁徳天皇三十八年七月条の同一説話の方が好みなのだが、「石橋庵」の「おからねこ」のモデルたりうるのは、『摂津国風土記』逸文の方なのである。
攝津の國の風土記に曰はく、雄伴の郡。夢野有り。 (中略) 昔者、刀我野に牡鹿ありき。其の嫡 むかひめ の牝鹿は此の野に居り、其の妾 をむなめ の牝鹿は淡路の國の野島に居りき。彼の牡鹿、屢 しばしば 野島に往きて、妾と相愛しみすること比ひなし。旣にして、牡鹿、嫡の所に來宿りて、明くる旦 あした 、牡鹿、其の嫡に語りしく、今の夜夢みらく、吾が背に雪零 ふ りおけりと見き。又、すすきと曰ふ草生ひたりと見き。此の夢は何の さが ぞ、といひき。其の嫡、夫の復妾の所に向 おもむ かむことを惡みて、乃ち詐り相せて日ひしく、背の上に草生ふるは、矢、背の上を射むのなり。又、雪零るは、白鹽 あわしほ を宍に塗るなり。汝、淡路の野島に渡らば、必ず船人に遇ひて、海中に射殺されなむ。謹 ゆめ 、な復往きそ、といひき。其の牡鹿、感恋 こひのおもひ に勝へずして、復野島に渡るに、海中に行船に遇逢ひて、終に射死されき。 (後略) (「嫡」は本妻、「妾」は妾 めかけ のこと)
背中に雪が降り、薄が生えて、死に向かう牡鹿は、何となく「おからねこ」に似ている気がするのだが、どうだろうか。この逸話は、寛政十年 (1798) に、「秋里籬島」編纂で刊行された『摂津名所図会』巻四にも詳細に紹介されており、「石橋庵」が仮に『釈日本紀』を閲覧していなかったとしても、こちらは一読していた可能性が高い。最も、若い日に国学を修めた「石橋庵」からしてみれば、『日本書紀』にも異伝が載っているのだから、『釈日本紀』の「夢野の鹿」に馴染んでなかったと云うのは考えにくい。背中に植物の生える動物の話などさほど多くもないのだから、一見すれば印象に残っていたことだろう。
以上、何ら具体的な証拠のないままに、純粋な推測のみを頼りに、「石橋庵」の「おからねこ」の誕生過程を想像してみた。学術的な正確さや可証性はないけれど、さほど突拍子もない推論ではないつもりなのだが、いかがだろうか。 
C 「大直禰子」系の由緒
C-1 「大直禰子神社」の誕生秘話
しかし、これら「江戸時代」以来の諸説に対して、「おからねこ」は「大直禰子」が訛ったものとする説が、何てことはない、「明治」の末頃に唱えられるようになった。『前津旧事誌』によると、氏子をはじめその他多くの人々が、この「大直禰子」転訛説に賛同したため、明治四十二年 (1909) 四月に、社名を正式に「大直禰子神社」に改めて、「春日神社」の末社として奉斎することとなったと云う。念のために、原文を引用しておこう。
明治半頃まではここは猫の~社なればとて、失踪せる猫の歸來を祈るもの等ありしが、甚しきは死猫の骸をここへ捨てゆくものもありて、近隣の迷惑一方ならざりしとぞ。然るに明治の末年頃に若原敬經、こは奈良にある大直禰子~社を春日三輪の兩社と共に遷せるものにして、おからねこは大直禰子の訛れるなりとの新說を唱へ、氏子其他これに同ずるもの多かりしかば、四十二年四月今の名に改め、春日~社の末社として奉齋することとなれり。
『前津旧事誌』は、あっさりとこう書いているが、これはなかなか由々しき話である。しかし、それにしても、うーむ、思わぬところで思わぬ人が出てきたものである。「若原敬経」と云えば、明治四十一年 (1908) に『宿曜経真伝』なる奇書をものしたことで、その筋の人々には知られている、「密教占星術」の大家である。かつては幻の本として法外な値段で取引されていたが、近年、復刻されたことから少し入手しやすくなっている (それでも高いけどね) 。でも、興味のある方は、「国会図書館」の「近代デジタルライブラリー」で閲覧出来ます、念のため。
筆者も、この人物については、以前から名前を聞いていただけで、実はほとんど何も知らないのだが、「密教」と「両部神道」を接合した先に、「密教占星術」の極意を見出そうとしていたような印象を受けている。いまのところ、「若原敬経」がどのような根拠を元にして、「おからねこ」の祭神を「大直禰子」だと同定し、いかなる理由で「奈良」の「大直禰子神社」を「春日神社」「三輪神社」と一揃いで遷したものだと断言出来たのかは、皆目、分からないでいる。いまはとにかく、彼の思想大系などは措いて、この件に関する彼の考えの道筋だけでも知りたいと願っているが、これは今後の課題としておく。
ちなみに、筆者は初めて『前津旧事誌』の文章を読んだとき、「奈良県桜井市」の「三輪山」西麓に共に鎮座し、一方が他方の摂社でもある「大神神社」と「大直禰子神社」がセットにされているのは理解出来たのだけれど、何で「奈良市春日野町」の「春日山」西麓に坐します「春日大社」がこの鼎立関係の中に含まれるのか、ちょっと分からなかった。
「上前津」に「春日神社」があることと附会させるために、やや強引に「奈良県」の有名な神社を組み合せたかな、などと思ったのだが、よくよく「大神神社」周辺の地図を見てみたら、「大神神社」から見て東南に七百メートルほどの距離に、「春日神社」と云う社が立っていたのである。おそらく、「若原敬経」が「これだ!!」と思ったのも、この三角形だったに違いない。最初に誤解して、御免なさい...。
要するに、下の地図にあるように、「奈良県桜井市」には「大神神社・大直禰子神社・春日神社」が、三角形に鼎立してあり、それを三社揃いで勧請したのが「名古屋」は「上前津」の地だと云う見解なのだろう。
ただ、残念なことに、この「春日神社」の由緒がほとんど分からないのである。「奈良県」の「春日神社」は、「摂関藤原氏」の氏寺としてあまりに名高い「春日大社」の存在のおかげで、すべて「藤原氏」系の神社と思われやすいが、必ずしもそうではなく、「奈良」南部の「春日社」は、実は「物部氏」所縁のものが多い。ただ、滅んでしまった「物部氏」よりも、生き残った名族「藤原氏」との縁故を語った方が有利なためか、後世、「物部」系の「春日社」も少なからず、その祭神を「藤原」系のものへと変えていると云う。したがって、「奈良」南部の中小の「春日社」の本来の性格を同定するのは、なかなか困難なことなのである。
ところで、「三輪」の土地は、「大神神社」の祭主であった「三輪氏/大三輪氏」の根拠地である。しかし、この「大神神社」及び「大三輪氏」と、「物部氏」との間には深い結びつきがあることは、その道の人々には常識でも、一般にはあまり知られていない。
「上前津」の「大直禰子神社」社頭説明板で見た通り、『日本書紀』崇神天皇七年八月条に、国中に疫病が蔓延したとき、天皇の夢の誣告で「大物主大神」の祟りと分かったので、その子孫「大田田根子」を探し出して「三輪山」に「大物主大神」を祀らせたところ、疫病は止んで、国は治まったと云う記事がある。このとき、「神班物者」に任じられ、「大物主大神」と「倭大国魂神」を祭った後、更に八十万の群神を祭って、差配役として疫病の終熄に大きな役割を果たしたのが、「物部氏」の祖とされる「伊香色雄命」なのである。したがって、「大神神社」「大直禰子神社」と「春日神社」が並び立つのは、それが「物部」系であることを考えると何ら不思議ではないのである。
しかし、このこととは別に、よくよく考えて見ると、上の地図の三角形では、「春日神社」だけが、いやに遠くはないだろうか。何しろ、「上前津」の三社は、最も遠い二つの間の距離が四百メートルくらいで、三つともほぼ直線で結ばれているのだから、「三輪」山麓の三角形はやや西南にいびつだと云うことになる。これくらいいいじゃないか、と云う考え方もあるが、一応、念のために、もう一度あれこれ調べて見ることにした。その結果、筆者がまたもや誤解をしていた可能性が高いことが判明してしまった。
地図にはほとんど載っていないが、「平等寺」の東方の林の中に、小さな祠堂があるのだが、これが「春日神社」なのである。「平等寺」は、かつて「大神神社」の神宮寺だったのだが、この「春日神社」は、その神宮寺の鎮守社だったようであり、「廃仏毀釈」によって「平等寺」が廃毀されるまでは、この神社付近まで伽藍が立ち並んでいたそうである。現在の「平等寺」は、その後、「河内」から遷された「翠松寺」と云う寺の後身で、本来の「平等寺」ではない。
しかし、いずれにせよ、こちらの「春日神社」の方が、三社一体の連合としては、距離的にも近く、地理的にもほぼ一直線に並んでおり、信仰の性格 (i.e. 大神神社の神宮寺の鎮守) も並べられるに相応しい。ただし、この神社の現在の祭神は「藤原」系の「春日大社」と同じになっており、これだけは過去のいずれかの時点で、「物部」系の祭祀から変えられたのではないかと推測される。そもそも、位置的に、この「三輪」山中に「藤原」系の社が、元から存在する必然性がないのである。 
C-2 「若原敬経」説の検証
さて、ここからは「上前津」の「春日神社」及び「三輪神社」について、分かる範囲で、その由緒を概観し、それを通じて「若原」説の妥当性を検証してみよう。
まずは、「上前津」の「春日神社」であるが、ここの古い由来については、文献上、確かなことを知ることは出来ない。「春日神社」の社頭説明板には次のようにある。
由緒 /  (中略) 当社は創立の起源は称徳天皇の御宇神護景雲年間奈良春日大社創祀に際し常陸国鹿島神宮の御祭神武甕槌命の御神霊を大和国春日山に御遷座の途次当尾張国山田庄 (現社地) に御假泊あらせられたるに因み天暦二年時の郡司藤原某南都春日野を模して春日四柱大神を奉祀したものである その後文亀年間前津小林城主牧与三左衛門尉長清 (正室織田信長の妹) の崇敬を受け牧氏退転の後尾州藩主も亦代々崇敬の誠を捧げ殊に二代徳川光友公の母君乳の疾に惱まれし折神木椎の木を採りて祀られ平癒しその頃より婦女はこの木を崇め何時の頃よりか変じて産の守となった惜しくも戦災の為椎の木は焼失した現在当市中央の地にあり氏子数四千余戸を擁す
神護景雲二年 (768) の「奈良・春日大社」の創建時に関わる由緒と、「常陸国」の「鹿島神宮」から祭神を「大和国」の「春日山」に迎える途中、「郡司・藤原某」による天暦二年 (947) の勧請の間には、二世紀近い時が流れており、この間に何があったのか、気になるところである。寺社の縁起類を見るときに、あまり重箱の隅をつつくようなことをするのは野暮なのは百も承知だが、「上前津・春日神社」の場合は、おそらく「天暦二年縁起」が先にあり、後に「神護景雲二年縁起」が起こり、近年、その二つを上のような形で接合したのではあるまいか。だからこそ「平凡社」の『日本歴史地名大系 23・愛知県』は、「天暦二年縁起」のみを採用しているのではないだろうか。
既に筆者自身の考えは述べた通りであるから、二つの縁起があるからと云って、その神社の尊さを微塵とも揺るがせに出来るとは思わぬが、ただ、「春日大社」の創建云々の辺りは、必ずしも明確ではない、と云うことだけ認識しておけばよいのだと思う。
それにしても、「織田信長」は天文三年 (1534) から天正十年 (1582) までの生涯を過ごした訳だが、文亀年間 (1501-1504) となると、最後の年でさえ、それより三十年は遡るのである。「牧与三左衛門尉長清」の正室は、「信長」の十二番目の妹「おとく (信徳院) 」だったと云うから、いかに「長清」の生没年が未詳とは云え、これはちょっと無理がある。「長清」は天文十七年頃 (1548) に「小林城主」となり (岡田、1923; 8) 、以後、「尾張・名古屋」の留守居のような存在として活躍したとされている。仮に、文亀四年に二十歳の若者だったとしても、「信長」より五十歳年長になる。これは、「春日神社」が自らの由緒を間違えていると考え、「文亀年間」が実は「元亀年間 (1570-1573) 」だったと考えれば、穏当な年代になるのだが、どうだろうか。「牧氏」子孫の「岡田穎斎」による『牧氏始祖墳墓発見録』 (1923) には、天文十七年段階で、「長清」は二十三歳だったと記している。これから逆算すれば、「長清」の生年は大永五年 (1525) 前後と云うことになる。
実際、一方の「三輪神社」の由緒では、「牧長清」による創建を「元亀年間」としている。以下、その由緒書を見てみよう。
創建に関しては詳らかではありませんが元亀年間 (一五七〇〜一五七二) に奈良桜井三輪町から小林城 (現在の矢場町交差点辺り) に移った牧若狭守長清氏が深く崇敬する生れ故郷大和三輪山に鎮まります大物主神 (大国主神) を築城と共に鎮め祭ったと言われています。 (下略)
ただし、この「元亀年間縁起」にも多少、問題は存在する。それは『尾張群書系図部集』によれば、「長清」が元亀元年 (1570) 二月二十五日には没していると云うことである。もしも「長清」が「元亀年間」に「三輪神社」を創建しているならば、それは元亀元年の一月一日から二月二十四日までの間に、よほど性急に行なわれたものでなければならない。あり得ないことではないが、極めてあり得そうな話とも云えない。これとは別に、『尾張群書系図部集』は「長清」が「清浄寺」に葬られたとも記しており、実際に現在も寺内に墓所があるにはあるのだが、この寺自体が元禄十二年 (1699) に、「海東郡津島」から旧「小林城」の跡地に遷されたものであるから、この年代考証に齟齬があると思われる人もあるかもしれない。しかし、これについては「天野信景」の『塩尻』や、前記の『牧氏始祖墳墓発見録』に詳しく経緯が記されており、どうやら「小林城」廃城後も、祟りの騒ぎなどがあって、旧城跡敷地内に墓所は残されていたようで、後に続く「土方彦左衛門」「柳生厳包」の屋敷時代にも、やや散逸しつつも現存したようなのである。
また、「三輪神社」の縁起中の記述では、「牧長清」が「大和」の生まれである、と云うのも少々解せない。筆者は、「尾張牧氏」については、ほとんど知る所がないので、その一人一人の伝記に詳しいはずもないのだが、「長清」が「大和国・三輪山」近郊の生まれだと云う記録は、何か残されているのだろうか。「長清」の父親の「長義」は、大永・天文年間 (1521- ) に「尾張川村北城 (名古屋市守山区) 」を譲られ、そこに居住した後、天文十七年 (1548) に「前津小林城」を築城して根拠としたとされている。「牧氏」は、そもそも「尾張国守護」の「斯波氏」一族で、代々「尾張」に居したものと思っていたのだが、どうなのだろうか。『塩尻』には、「愛知郡長湫村 (長久手) の人」とある。母方の血統も「尾張」の一族であるようであり、前述の『牧氏始祖墳墓発見録』の系図考証にも、「長清」の「大和」生誕説は載っていない。
確かに、文化文政年間 (19C前) に成立した『尾張名陽図会』には「△三輪社 牧氏の建立なり此人は本國大和国の生なれば」云々とあるのだが、これに対する確証のある資料が見つからないのである。「長清」の「大和」生誕説を裏付ける資料に心当たりのある方がいらしたら、是非とも御一報下さい。いずれにせよ、どうもこの「牧長清」を巡る縁起の詳細と云うのは、「春日神社」にしても「三輪神社」にしても、現時点では、あまり確かな話ではなさそうだと捉えておくしかないようである。ただ、「長清」が「前津小林」を領するに当たって、「前津」「小林」の両地域を円滑に納めるために、「前津の春日社」「小林の三輪社」の祭祀を改めて強化したらしいことは、「天野信景」の「城南三輪社、春日社、及び村西芦御堂等をも再建重修せられしと云々」とあることからも、ある程度は信用出来そうである。
ところで、「三輪神社」の由緒書きは、「春日神社」に比べると、その穏健で謙虚な書きっぷりに思わず好感を抱いてしまうのだが、残念ながら、ここに見られる「元亀年間縁起」でさえ、同時代記録による裏づけはないのである。むしろ、寛文年間 (1661-1673) に「尾張藩」によって編纂された村勢調査書『寛文村々覚書』には、この地域の氏神としては「春日大明神、おんない明神」が記されているだけで、「三輪神社」に当たる名前は見当たらないのである。その社名は漸く、宝歴二年 (1752) の『張州府志』に「三輪社」、文政五年 (1822) の『名古屋府城志』に現れるのみであるから、『塩尻』の「三輪社」の記述は、最古の部類に入るのかもしれぬ。
地誌のような文献に載っていないから、その神社は存在しなかったと云う訳ではないのは、そもそも「おからねこ」がどの地誌にも掲載されていないが、『尾張名陽圖會』や『作物志』には、既に存在して久しい旧蹟として紹介されていることからも理解されよう。ただ、それが旧村社あるいは旧郷社クラスの神社である場合、大抵はその村落の鎮守様であったろうから、何かしらの記録に残りやすい傾向は強い。そのため、そのような神社に限っては、文献への登場時期は、その実際の創建時期と、そんなにも離れていないことが多い。「三輪社」に関しては、それが「牧若狭守」時代に、「名古屋」周辺の村落の再編が進められた時代に勧請されたと考えるのが、妥当と思われる。そして、そうであるならば、それよりはかなり古い創建年代を誇る「春日神社」とセットで「大和国」から勧請されたと云うのは、あり得ない話となってしまう。
    
それにしても「若原敬経」は、よくぞ「春日神社」「三輪神社」「おからねこ」の三社に目を付けて、一セットにしたものである。変な感心の仕方だが、彼の提唱した仮説は、表面上は、実によく出来ているのである。ただ、その仮説を本格的に支える証拠らしい証拠が何もない、と云う欠陥は覆い隠しようがない。それでも、「若原」説に対する、一番有力な援護は、「三輪神社」の社伝にある、「牧長清」が「大神神社」から「三輪神社」を勧請したと云う縁起であるが、これも既に見たように、やや怪しい節があって、真剣に採用することは躊躇される。その上、この三者が同時に「大和」から勧請されたと考えるには、「春日社」と「三輪社」の創建に関わる社伝が、余りに時代的にかけ離れていると云う問題が立ちはだかる。
ついでに云うならば、そもそも、「春日神社」の方が、かなり古くから、自らを「奈良・春日山」の「春日大社」と強く結びつけているようであるから、少なくともここの神社自身は、「三輪山麓」の「春日神社」のいずれかと自らを関係づけるつもりは、さらさらないようなのである。また、逆に、「若原」の唱えていた元の「春日社」と云うのが「春日大社」だと云うならば、何故、「大神神社」や「大直禰子神社」とは地理的にもかなり離れ、まったく異なる氏族の氏神を祀る社を組み合せて「上前津」の地に遷したのかの説明が必要とされる。
このことは「春日社」近くの池を、「春日大社」近くの有名な池にちなんで「猿沢の池」と呼んでいたことからも明らかである。参照「△春日大明~ (中略) 當社は牧氏城の近邊にまつる所にして別建立なり 又此邊に大池を堀りて猿澤の池をうつさしむ今にいたりてその地を池の内といふ (下略) 」『尾張名陽圖會』
敢えて傍証らしき事例を挙げるならば、伝説の「大田田根子」は、「須恵器」を焼く窯群のある「河内国・茅渟県・陶邑」 (大阪府堺市東南部の陶器山からその西方にかけての地域) に住していたとされていることであろうか。何故なら、「おからねこ」からも程近い、「大須」の南西に当たる「正木町遺跡」などからは、「陶邑」形式の「須恵器」が多数出土していることが報告されているからである (城ヶ谷、2007 etc.) 。もちろん、この遺跡の発掘が開始されたのは「戦後」のことで、明治四十年頃の「若原敬経」がこんな事実を知るはずもなかったのであるから、もしも彼の仮説が当たっているならば、それは物凄いことである。
この他にも、「大須・前津」の土地は、「大田田根子」の故郷である「河内国」の「陶邑」と関わりそうな、間接的事由が多くある。例えば、「前津小林村」の東隣りの村は「御器所村」と云い、『熱田御祭年中行事記』によれば、その名の由来は、「熱田社」へ土器 かわらけ を貢進していたことによると云う。文献上の初見は、『吾妻鏡』文治六年 (1190) 四月十九日条で、「尾張國松枝保御器所長包庄」と記されている。また、近くの「新栄一丁目」の土地は、かつて「瓦町」と呼ばれていたが、『名古屋府城志』によれば、この地に瓦師が居住していたことによると云う。『塩尻』卷之三十「金鱗九十九之塵」では、瓦師頭「齋賀六左衛門」などが住んだと云い、『尾陽寛文記』には瓦師「十左衛門」が住んだために「瓦町」と呼ばれたとある (大日本地名辞書) 。また、「春日神社」の北、「萬松寺」に続く森は「隠れ里」と呼ばれ、陶物師「豊八・豊助」が住んだと云う。要するに、古代以来、「大須・前津」周辺の地は、陶器造りとは一貫して縁深い土地柄であったのである。
話ついでに、もう一つだけ述べておくならば、「河内国」の「陶邑」は、その遺跡の発掘調査から、「奈良時代」以降、急激にその「須恵器」生産を減少させ、十世紀頃には土器制作は完全に途絶したと考えられている。原因はいくつか考えられているが、この地区では既に九世紀には土器制作民の間で土器焼成用の薪の伐採を巡って争論が生じており (三代実録) 、長きに渡って近在の森林を伐採し尽くしたことによる、良質の薪炭材の欠乏が一因に挙げられている。一方、「陶邑」の粘土層 (大阪層) は、「瀬戸」の「猿投窯」から広まったとされる新たな施 (灰) 釉陶器の焼成をするには耐火度が低過ぎたため、この新潮流に乗れなかったことが、薪材の不足と相まって、「陶邑」の衰退につながったとも考えられている。そして、このことは逆に推測すれば、この時期に「河内国・陶邑」から、新しい施釉陶器の生産に適した土地への制作工たちの移動があったとも考えられるのであり、そのような移動先の有力候補の一つに、「瀬戸」に近い「須恵器」産地だった「大須・前津」界隈を含むことは、決して飛躍ではないのである。また、この推定時期が、「上前津・春日神社」の「天暦二年縁起」と時期的に合致するのも興味深い。
『日本三代實錄』卷二・貞観元年四月「○廿一日丙午 (中略) 河内和泉兩國相爭燒陶伐薪之山」云々とある。
だが、誤解しないで頂きたいのは、筆者は、「ここで極めて穿った見方をすれば」「かなりの飛躍的な推論を重ねれば」と云う前提で、以上の議論を提示しただけだと云うことである。今後、より直接両者を結びつける資料を発掘しない限り、ただ「明治末」に新しく決定された「おから猫」の祭神「大田田根子」を以てして、「河内国・陶邑」と「大須・前津」界隈の土地を直接的に結びつけることは出来ないのは、言を待たない。
    
要するに、「若原敬経」の推論は、「上前津」の地に「三輪神社」と「春日神社」があり、その間に「おからねこ」と呼ばれている由緒が不確かな古社があると知って、各地の神社に関する自らの該博な知識を動員して、「おからねこ」の「ねこ」が、「奈良県」の「三輪」山麓にある「大直禰子神社」の「禰子」に当たれば、この地の 「大神神社」「春日神社」「大直禰子神社」との対応関係が成立すると考えたことに拠るのであろう。ただ、これは純粋に本人の主観的な直観に過ぎず、論拠として認めうる性質のものではないのは、上に見た通りである。それに、「大直禰子」が訛って「おからねこ」になったと云うのも、よくよく考えてみるとかなりのこじつけである。「お」と「ねこ」は分かるとして、一体どう訛れば「ただ」が「から」になると云うのだろうか。
結局、この一連の議論を通して、我々が明白に理解出来たことはただ二つ、現在の「上前津」の「大直禰子神社」は、1かつては「おからねこ」とのみ呼ばれており、「大直禰子神社」と呼ばれ始めたのは明治四十二年 (1909) からであると云うこと、2祭神が「大直禰子」だと云うのもこのときに決められたことだと云うこと (これは江戸期の書物に祭神名の記載がないこととも一致する) 、くらいなのである。『前津旧事誌』は、「明治半頃まではここは猫の神社」だったとまで言い切っている。
1に関しては、「江戸期」の『尾張名陽図会』に「鏡の御堂」と云う名が仮に挙げられているが、これもまた、同書執筆時点での仮説の一つとして紹介されているに過ぎない。当時、既に「おからねこ」と云う呼び名以外は、はっきりとしなくなっていたことが読んでとれる。2に関しては、現在でも、一部の氏子によって、祭神は「少名彦神」だとされていて、混乱が見られることに現れている。「大直禰子」も「少名彦神」も、いずれも医薬の神と云う側面がある。
要するに、古い記録を見る限り、この社に「〜神社」のような社名は確認出来ず、単に「おからねこ」と呼び慣わされていたことだけが分かり、「おからねこ」が 「大直禰子」の愛称であるかのように主張する現在の神社側の主張は、完全な誤りであると云うよりも、まったく本末が転倒した説明であることが知れるのである。真実はその逆で、 「おからねこ」と云う呼名から、「大直禰子」が連想されたのである。「名古屋市丸田町」の交差点に遺る「江戸末期」ごろの道標にも、「おからねこ道」とあり、それが当時の人々の標準的な呼び方であったことが分かる。
それにしても、地元の人々は、意味もなく神社名を変えたり、新しい祭神を創出したりはしないだろう。そこで、明治四十二年前後に、そのような動きを生み出してしまう社会的な背景があったのか、少しく探ってみたいと思う。
しかし、今後の検討課題として辛うじて残されたのが、「陶邑」と「大須・前津」の「須恵器」生産集団とのつながりを巡る議論なのだが、このことについては、「大阪府」の「猫神探訪」で「陶器山・猫坂の猫」を扱うときに述べてゆこうと思うので、今回は割愛する。  
■3 「大須」の町と「猫」のイメージ性 
A 「精進川」と「おからねこ」
「大直禰子神社」の「おからねこ」とどの程度関係あるかは未知数なのだが、「大須」界隈には「猫」のイメージが秘かに漂っている。既に触れたように、「東仁王門通り・ふれあい広場」には巨大「招き猫」がでんと構え、「赤門通り」と「新天地通り」が交錯する角の喫茶店「美奈須」には木の「招き猫」が祀られていると云う。しかし、これらはすべて近年のもので、「大須」の再開発や、個人の趣味が、偶然「招き猫」と云う接点を持ったものに過ぎない。
しかし、「ふれあい広場」の「招き猫」を見れば分かる通り、二頭身のフォルムに、くっきりと大きな垂れ目とくれば、これは、今ではすっかりスタンダードとなってしまった「常滑」系の猫である。ただし、このタイプの「招き猫」の流行は歴史的には新しく、せいぜいが「戦後」から流布したものに過ぎない。それ以前の「招き猫」となると確実なことは云えないのだが、中部圏では少なくとも「瀬戸」のものが主流だったはずである。ピエロのような多色のヒラヒラした襟のような前掛けを着け、すらっとした、より実際の猫に近いフォルムの「招き猫」だった。
現在の主流となっている「常滑」系の「招き猫」のデザインは、「常滑市」の「冨本人形園」の「冨本親男」氏が生みの親だと多くのメディアで断定調に書かれることが多いが、「親男」氏が「招き猫」の生産を手がけるようになったのは昭和二十五年頃からだと云うから、既にそれ以前から存在した二頭身かつ垂れ目で小判を持った「招き猫」を「冨本」氏が単独で創造したかのような認識は誤っていると云わざるを得ない。筆者の知る限り、二頭身の「招き猫」は、「三河土人形」系の産地で「戦前」から少しずつ現れ始め、「愛知県半田市」の「乙川土人形」では早くから垂れ目で小判を持った、現在の「常滑」系の原型と一目で分かる作品が造られている。
昭和六十三年に出版された「宮崎良子」氏の『招き猫の文化誌』では、氏が「常滑」の「陶美園」の「伊藤」氏に取材して、「常滑」の「招き猫」は氏が四十四、五年前に「乙川土人形」を真似て造ったのが始まりだと云う回答を得ている (宮崎、1988; 122-123) 。ただし、同書で「宮崎」氏が「瀬戸」最大の「招き猫」業者である「丸靖製陶所 (まねきねこや) 」への取材で、「招き猫づくりを始めたのは約二十年程度前からで、常滑から伝わってきた (ibid., 127) 」と教えられたことを根拠に「瀬戸焼きの猫よりも、常滑焼の方がその歴史が古い (ibid., 122) 」と述べているのは、完全な誤り。これは「常滑」系の「招き猫」のことで、当の「丸靖製陶所」自身が、「戦前」から「瀬戸」系の「招き猫」を製造しており、現物も型も残されているのである (阿木、1996a: 60 / 1996b; 78) 。また、「立命館大学・木立雅朗」教授らは、近年「五条坂・かわさき商店」で発見された「招き猫」を含む大量の色絵磁器人形が「大正期」を中心とした「瀬戸焼」であり、 「瀬戸」の「西茨1号窯遺跡」からも類例が出土していることを確認している (木立、2011 etc.) 。やや詳しくは後述。 
ただ、今見ればやや奇妙な感じのする「瀬戸」系の「招き猫」が、「招き猫」界のモードの先端を走っていた頃、「名古屋」には「堀川駅」と云う名鉄瀬戸線のターミナル駅があった。元々、「瀬戸」の焼物を遠隔地に移出・輸出する場合、「瀬戸川」から「矢田川」に船を流して「庄内川」に入れ、途中、「堀川」で荷揚げして「名古屋」市中に運ぶか、そのまま「堀川」を辿って「名古屋港」に持ち込んだものだったと云う。明治四十四年 (1911) に開業した「堀川駅」は、この古来の水運と新時代の鉄道と云う陸運を合体させた、当時の貨物輸送の新機軸だったのだろう。そして、一方では、その時代まで地域を支えた川運に、最終的な引導を渡すことになった、一連の出来事の始まりの一つでもあったであろう。
「堀川」と云うのは名の示す通り、天然の河川ではなく、人力によって掘削されたいわば運河であり、「名古屋市守山区」で「庄内川」から取水する形で発祥し、市の中心部を南流して「伊勢湾」に注いでいる。「庄内川」が直接「名古屋港」に出ないのに対し、「堀川」は元々資材の積み出しのために掘削された堀だけに、「名古屋港」にそのまま接続する。そして、それ故に、かつてはこの地方の舟運の中心的な川だったのである。歴史的には、慶長十五年 (1610) 、「福島正則」が「名古屋城」築城のための資材運搬を目的とした水路を掘削したのが始めと云う。
この「堀川」は、「名古屋城」の西側を回り込みつつ、「熱田台地」の西を流れてゆくのだが、この「熱田」の地とお城の間に挟まれたのが「大須」の町で、元はお城の南を外敵から防御するために、巨大な「寺町」として計画されて造られた町であった。この「寺町」と東西の水流を利用して、城の防衛を図ったのであろう。したがって、「大須」の地は、地名が「大洲」に通ずるだけに、西をこの「堀川」、東を「精進川」に囲まれた水の豊かな土地なのである。
中でも「大須」の東側に当たる「前津」の辺りは、名前の示す通り、豊かな湧水の見られる「精進川」沿いの低湿地だったのであり、蛇行する「精進川」が溢れればすぐにも水没する土地であった。「天野信景」の『塩尻』巻三十「金鱗九十九之塵」によれば、「前津」の地名は、かつてはすぐ南の「古渡」の辺りまで「熱田」の海が湾入していた頃の船着場であったため「前の津」と呼ばれたと云う説と、海辺の「舞鶴」に由来すると云う説の、二説を紹介している。
「大直禰子神社」附近の「上前津」は、これまた名前の示す如く、本来は、低湿地の「前津」に望む高台なのである。いまは土地整理などで、大分地形が変わってしまったそうだが、かつては「上前津」から「鶴舞」方面にかけては、「幽霊坂」だの「宇津木坂」だの、幾多の坂があったと聞く。
さて、「前津」を流れた「精進川」は、かつて「今池」附近の「古井村」を源流として、「前津小林村」「御器所村」と、南に「名古屋台地」を流れ、「熱田」で「堀川」と合流していた。川の名前は、昔「熱田神宮」の社人が六月の「名越の祓」に際して「鈴の宮 (元宮) 」の傍らを流れるこの川で禊をしたことに由来すると云われ、「熱田」では別に「僧都川」とも呼んだそうである。普段は、湧水量の多い美しい川だったが、その紆余曲折する川道は頻繁に洪水を引き起こすことで知られていた。
この川の治水は為政者にとっては頭痛の種であり続けたのだが、予想される膨大な費用が枷となって、工事はなかなか実行に移されなかった。そのため、藩政時代の文政十三年 (1830) 以来の懸案だった「精進川」の水利工事は、ようやく明治四十三年 (1910) になって、現在の「新堀川」の流路に付け替えられることになったのである。そして、旧川道は、大正十五年 (1926) までに完全に埋め立てられ、今はもうない。しかし、この付け替え工事の後も、新しい川自体はしばらくの間「精進川」と呼ばれていたと聞く。その辺りの消息を知るために、ここで『前津旧事誌』を参照してみたい。
此工事起こるや工區を四區に別ちしため請負者を異にせる區境に於ては土工の紛爭しばしば起り、ために土運車に拔身の日本刀を突立て或は腹卷の間に短刀を包むなど、工事場の土工間に殺氣滿ち滿ちて一時は付近住民ら安き心なく、婦女子らの通行杜絶せる事ありたり。尙竣工後此川に入りて水死するもの多かりしかば、これ精進川といふ名の祟りなりとて (佛ヘにては死者のあるとき又は佛の命日には精進する慣しなるより連想して) 新堀川と改められしが、かくても尙入水者絶えざりしかば前津邊にてこれ「死に堀川」なりと噂せり。
郷土史家「沢井鈴一」氏によると、『大井学区町の沿革誌』には、さらに陰惨な話が載せられている。
新堀川の工事中、土工の某が瀕死の重傷を負った。なぜ、自分はこんな事故で死ななければならないのか。自分の運命と世の中を呪った土工は「自分は、あの世から、この川で千人の人を死なしてやる」と言って息を引き取った。その後、何人もの人が新堀川に魅せられるようにして生命を断った。
この記事を『前津旧事誌』の記事と照らし合わせると、この重傷を負った土工の怪我の元と云うのは、もしかしたら工事中の事故ではなく、土工同士の出入りだったのではないかと想像されてしまう。また、その方が、土工の呪詛の言葉とすんなりつながるのである。いずれにせよ、この「祟り」のせいか、あるいは単に川の底が泥土で、一度、川にはまったら二度と浮かばないと云われたためか、工事が終わってからも、川で身投げをする者は後を絶たなかった。そのため、当時の「乗円寺」住職「中井俊童」は、土工の霊を慰めるために近在の人から浄財を募り、明治四十三年 (1910) 、一体の石地蔵を建立した。「新堀川」沿いには、この他にも、「宇津木橋」の南側に水死者の霊を供養する碑が、同じく明治四十三年に建てられ、いまに残っている。川の名前が「新堀川」に変えられたのは、慰霊碑が建てられた翌年の明治四十四年だったと云うが、その証を立てるかのように、「宇津木橋」南の石碑台座には、いまだ「精進川 溺死者諸群霊」と刻まれている。
    
この辺りで、「おからねこ」に話を戻すと、この神社の社地が、現在の場所に遷されたのは、およそ四十年ほど前のことだそうで、それ以前は元の「長松院」のすぐ脇にあったのだが、地下鉄工事で移転を余儀なくされたと云うことである。「長松院」は、現在「大須 4-14-44」にある「曹洞宗」の古刹であるが、この寺も元は「春日神社」の東隣りに立っていたらしく、「大直禰子神社」と共に現在地に移転させられたようである。要するに、「大直禰子神社」も「長松院」も、本来は「大津通」の「上前津」交差点の北側辺りにあったのだろう。今度、古い地図を探して確認してみよう、などと思っていたら、偶然「名古屋市博物館」発行の『名古屋城下図集・幕末編』と云う簡易な古地図集を手にとる機会に恵まれたのだが、やっぱり「長松院」は「春日神社」とくっついていて、いまの「上前津」交差点の北側にあった。ただし、残念ながら、「大直禰子神社」も「おからねこ」も、この地図集には記載されていなかった。もっと本格的な古地図を見ればあるのだろうか。
伝聞情報。ちゃんと市町村史で調べたり、役所に問い合わせたりしていないことをお詫び致します。そのうち、きちんとした調査をする機会を狙っています (こればっかり...) 。おそらくは、昭和四十二年 (1967) の「名城線・上前津駅」開業時のことではないかと思っている。
しかし、このような「おからねこ」の歴史的変遷との関連で、古地図を見ながら、上記の「新堀川」悲話に再び耳を傾けると、また別の事実が浮んでくる。それは、現在の地図からでは分かり難いことだが、「おからねこ」の「大直禰子神社」は、かつて水の豊かな「精進川」とその周辺の掘割に囲まれた高台に立つお社だったと云うことである。
氾濫を繰り返す低湿地と云うのは、近代的な水利と衛生防疫の知識がなかった時代には、しばしば疫病の大発生地になったことが知られている。あるいは、死病に罹ったものを河原に棄てると云う風習も、かつての都市部では広く行なわれたと聞く。それに、「精進川」の付け替え工事とは関係なく、実はその以前から身投げは多かったものと思われる。「熱田神宮」の精進潔斎と、低湿地での氾濫疫病、それに無数の水死者と云うイメージを重ねると、疫病除けのお社としての「大直禰子神社」の存在が、別の意味で深みを増してくる。堂社や「おからねこ」の頭部が失われてしまったと云う現実自体が、実は、「精進川」が過去には繰り返し氾濫して猛威を奮ったことの傷跡だったのかもしれない。
既に述べたことだが、『作物志』のお話は、おそらくは「石橋庵」先生の洒脱な作り話だとは思うのだが、「石橋庵」は次のように想像したのではなかろうか。あるときまで境内に遺されていた首だけの「唐猫」と云うのは、かつては五体満足だった彫像が、洪水に流されて、堂社や胴体とは別れ、首だけ泥砂に埋もれて発見されたのだ。見つかったときは、苔や草に覆われていたのではないか。そして、三宝に祀られた後、またしても行方不明になるのだが、その後もきっとどこかの野原で、砂礫と塵埃にまみれ、草木に覆われ、時と人と、その推移を見守っていたに違いない、と。そんな想いが、「石橋庵真酔」の寓話の裏に隠されているように思える。
しかし、筆者は、これに対して水を差さねばならない。筆者は、「おからねこ」と呼ばれた狛犬の頭部のような御神体は、元あった彫像の欠落した部分なのではなく、初めから頭部として造られた、現在の「獅子頭」のようなものではなかったかと考えている。「獅子頭」やそれを使った「獅子舞」が、本来、疫病などの災厄を払う目的を持った祭物であることはよく知られるところだが、それと「おからねこ」の「疫病払いの神」としての性格が似通うことからも、筆者の推測に一定の信憑性が得られるものと思う。このことについては、既に述べた通り、次回の記事でより詳しく触れたいと思う。
    
ここで、ちょっとおまけの話。
現在の「名古屋市千種区」には、「猫ヶ洞池」と云う大きな池がある。昔は、「上池」と「下池」の二つがあったそうなのだが、現在は「下池」だけが残されている。この池は、「江戸期」には農業用の溜池として利用され、ここから引かれた「猫ヶ洞用水」は、周囲の村々の灌漑に一役を買っていた。今は周囲に水田などあるはずもなく、この池を水源とした「山崎川」もすっかり暗渠化され、「猫ヶ洞通り (キャットロード本山商店街) 」と名を変えてしまっているため、この通りが南方で、「末盛通り」とぶつかる「本山」交差点付近までは、流路を見ることすら出来ない。
この「猫ヶ洞用水」と云うのには、実は二つの流路があったようで、一つは現在の「徳川園」付近の「大曽根屋敷」方面の灌漑を目的とし、他方は「御器所」方面の灌漑に利用されたようである。既に、『延享二年村絵図』 (1745) において、東部台地を南下して、「大曽根屋敷」から「井戸田」にかけての「名古屋新田」の水田化に役立つ水路と、「辰ヶ池」を通って「精進川」へと入る水路の二つが描かれている。『天保村絵図』 (c. 1840) では、「末森村」の「猫ヶ洞池」と「古井村」の「蝮ヶ池」を水源とする「新川 (長根川) 」が、「御器所村」の西で「精進川」に合している様子が見て取れると云う。
「猫ヶ洞池」の名前の由来については、一般には、池が作られた当時のこの地の地名である「兼子山」が転じたものだとされている。より具体的には、「明治」頃まで、池の周辺は「金児硲・金子狭間 かねこはざま 」と呼ばれていたが、この「金子」が「猫」に、「はざま」は「洞」と同じく丘陵の谷間のことだから、「金子はざま」が「猫ヶ洞」に転じたのだと云う説もある (小林、1984) 。この他にも、「磯谷滄州」が中国の「猫堂」に因んで名づけたと云う説などもあり (千種区婦人郷土史研究会、1983) 、どれも尤もらしくは聞える。
「猫ヶ洞」については、いずれ丁寧に扱う機会があろうかと思うが、筆者は「兼子山」転訛説や、「磯谷滄州」の「猫堂」説には、はっきりと懐疑的である。それは、同じ「中部地方」の「岐阜県」にも「猫ヶ洞」と云う地名が見られるからである。これは、「千葉県浦安市」の「猫実」と云う地名について述べたときにも力説したことだが、たとえ珍しい地名の由来説明が地元に残っていたとしても、近接地域に同じ地名があり、かつ別の地形、あるいは別の地名起源を有していたならば、どちらの由来も、精査なしには事実として認めることは出来ないと云う原則を筆者は採用している。特に、「兼子山」説・「猫堂」説のように、はっきりとその地元にのみ限定される起源説明は、他所の地に同一地名があった場合、その信憑性は大きく揺らぐと云わざるを得ない。
もちろん、「猫ヶ洞」に関しては、それが「猫」と直接関わる地名なのかさえ、筆者には確証がない。古い地誌類には、「猫ヶ洞」にまつわる伝説は、あまり伝えられていないようであるが、比較的新しい書籍には、「猫ヶ洞」の伝説を載せるものが、一応、二三はある。それらを総じて見ると、「猫ヶ洞」の伝説には、大きく二つの系統があるようで、一つは「猫ヶ洞の鬼婆」系 (eg. 小島勝彦、1975 / 黒柳、2001) で「猫」は登場せず、他方は、「猫ヶ洞の化け猫」系の説話である (eg. 毎日新聞社学芸部、1975) 。
しかし、「猫ヶ洞池」は、「上池」が寛文四年 (1664) 、「下池 (大池) 」が寛文六年 (1666) に造成されたものであることが、歴史的に分かっているのだから、「中世・那古野荘」の時代にまで遡ってその起源を語る「猫ヶ洞の化け猫」系の説話は、逆に、その説話が「寛文年間」以降の創作であることが証明されるのである。「猫ヶ洞の鬼婆」系のものにしても、その話型はより古いかもしれないが、こちらも「猫ヶ洞池」の起源を語っていることから、自らの新しさを露見しているのである。
ただ、このことを以て、「猫ヶ洞」と云う地名自体が新しいことの証明とすることは出来ないのは云うまでもなかろう。だが、現時点で筆者は、この地名の起源に関して、新たな自説を唱える準備もないので、ここでは「猫ヶ洞池」からの水流が、「大須」の真南に至っていた、と云う事実だけを、何かしらの符合であるかのように提示しておくことに留める。実際、筆者にとっても、このことは、それ以上でも以下でもないのである。 
B 「旭廊」と「猫飛び横丁」
さて、今度は「大須」の話をしよう。
現在の「大須」の土地がいわゆる「大須観音」を中心に発達した門前町であることは言を待たないが、この地の東には既に見たように、往時の「名古屋」物流の動脈であった「堀川」が流れている。この「観音様」から「堀川」までの間の地は、「堀川端」などとも呼ばれ、古くはここの門前町の中でも指折りの歓楽街を形成していた。
「大須」の歓楽街の原型は、「徳川宗春」の開放政策に基づき、城下にそれまで禁止されていた芝居小屋や遊廓を造ることが許可された際の享保十七年 (1732) 、「前津小林村」の南、「長栄寺」の東辺りに営まれた「富士見原遊廓」に見ることが出来る。この遊廓は、四年ほどで廃止されたが、以降も風光明媚なこの地には、料亭や茶屋などが開かれ、質素ながら遊侠の風流子などを多く集めた。藩の重臣で、文人としても高名な「横井也有」の別荘地でもあり、「北斎」の『富嶽三十六景』にも「尾州不二見原」の一枚がある。
その後、この地域の歓楽街は、「幕末」の「安政年間 (1854-1860) 」に、「玉屋町」 (現・中区錦) の宿屋「笹野屋庄兵衛」の上願により、「大須観音」の北にあたる「北野新地」に役者芸人の宿が置かれたのを受けて、やがては遊女を置く私娼も現れ、本格的な歓楽街としての様相を帯び始めたと云われる。維新後の明治七年 (1874) 十月には、「大須」の「北野新地」が公認の遊郭に指定されたが、翌年、より広い敷地を求めて「西大須」に移転した。この遊郭が「旭廊」と名付けられたのも、元の「北野新地」があった「日之出町」に因んだものだと云う。
北野新地---現「北野神社」付近。「清安墓地」の南、「大光院墓地」の西の区画。
北野新地の南西、園町以東。「大須観音」の堂裏、「堀川」以東の五箇所。
この地は、大正元年 (1912) には、「萬松寺」が寺領の山林を一般の商業用地として開放したのが切っ掛けで、遊郭のみならず、劇場、演芸場、映画館などが軒を並べる「名古屋」随一の歓楽街として栄えるようになった。しかし、「名古屋市」の拡大に伴い、遊郭が市街地と接することになり、風紀の面と用地不足が問題となり、大正十二年 (1923) には、現在の「中村区大門地区 (旧・中村) 」に移転して「中村遊廓」へと発展解消された。
ところで、「明治」から「大正」にかけて隆盛したこの「旭廊」にあって、その中心街たる「花園町」から、一本北に入った路地は旧「音羽町」と云った。東西を「常盤町」と「富岡町」に挟まれた小さな町である。そして、このささやかな遊郭の一角には、かつて胸を締めつけられるような哀切な俗地名があったと云う。その名も「猫飛び横丁」...。
えっ、何で哀切かって? 籠の鳥である遊女たちが、抜け出すことの出来ぬ窓の向こうの、狭い路地の庇の間を飛び交う「猫」たちを見ていたのかと思えば、これが哀切じゃなくて何だと云うのだろう...。しかも、「猫」と云うのは、「遊女」たち自身を指す隠語としても広く普及した言葉だったことを思うと、なおさらその感が強められるのである。いつか自分たちも本物の「猫」のように、自由にこの横丁をひとっ飛びしたい、そんな思いが隠されているように感じられるのである。
遊女や芸者を「猫」と異称するのは、少なくとも「江戸中期」から行われているが、これについて多くある文献的な例証はここでは省く。ただし、大正十年 (1921) の「樋口紅陽」による『芸者哲学』と云う書に、「其の何れのためかは判明せぬが、既に猫と言へば藝者の別名であるといふ事は、金と言へば錢の別名であるといふ如く、兒童と雖も能く之れを知るところであります」とあるのだけは、この用語法が比較的近年まではかなり行き渡っていたことの例証として挙げておく。
この「猫飛び横丁」について、「堀川文化を伝える会」顧問の「沢井鈴一」氏は、端的にこのことを述べておられる。
二階のひさしからひさしまで猫が飛び移れるほど狭い町で、猫のような自由を求めた遊女の境遇を、俗名として呼ばれた『猫飛び横町』から思い浮かべることができる。
実際、明治末期に執筆された「名古屋」の遊郭案内記の一種には、次のようなくだりがある。
猫飛びある記 / 富岡町の各樓を素見果てし西側を 御園にぬける小路あり いと狹ければ猫飛びと 誰がつけたるか面白し 軒近ければ しかいふかわれも軒下傳ふ猫 北のかゝりを美の宇とて こゝにお職はまるぼちやの愛嬌ざかり賣れざかり それにも似たる勝山は 瓜實ならでまる切の 其片われとしられたり したゝるゑがほこがね齒の げにすてがたきけしきなり ある人が
   みのうへのこともわすれてあそふかな
   けに勝山のけしき みとれて (中略)
次を松花樓といふ いろに秋花みつる花 まぶの色花 ひとよ花 月の花山さむし花 よし花つけてあげずとも 一言こゑをかけしやんせ 客をまつ花線香花、仲居は客の花をまち 小猫も緣のはなにねて はなをならすか面白し
明治八年に誕生した「旭廊」が、大正十二年には、旧「中村」 (現・中村区大門地区) に移転して「中村遊廓」となったことは、既に触れた。ここで変に法令史に詳しい人なら、明治八年にせよ、大正十二年にせよ、どちらの時期も既に我が国では娼妓たちの身体的な拘束を禁止する法令が出されて久しいのではないか、と疑われるかもしれない。
確かに、明治五年 (1872) 十月二日、時の政府は、我が国の「アミスタッド号事件」とも云える「マリア・ルス号事件」を切っ掛けに、「芸娼妓解放令 (太政官達295号) 」を発し、続く十月九日に「司法省達第二十二号」を発令して、遊廓の女たちを縛っていた芸娼妓の前借金を無効にすることを確認している。しかし、これは国内での人身売買や奴隷労働を禁止することを通じて、西欧列強に対して、日本国が対等外交に値する近代国家であることを示したかった当時の政府の思惑を性急に反映した法令であったため、娼妓たちの解放後の生活保障などの施策がなく、結果的に新たな「貸座敷」制度を生み出す形で、公娼制度は継続されたのである (牧、1979 / 下重、2012) 。要するに、娼妓の解放と云うのは建前ばかりで、実際にはまったく法令は遵守されることなく、ほとんどすべての遊廓では遊女たちの身分的拘束は依然として続けられたのであり、「旭廊」「中村遊廓」もその一つだったのである。「猫飛び横丁」と云うのは、そのような時代の呼び名なのだと、理解されねばなるまい。
明治五年 (1873) 「横浜」に寄港した「ペルー」船籍の「マリア・ルス号」が、大量の清人苦力を乗船させ、その身体的自由を奪い、逆らったものには拷問を行なったのは奴隷貿易に当たるとして、日本政府が、これら清人を解放した事件。これに対し「マリア・ルス号」側は、国内で「遊女」と云う奴隷契約を公認している政府が、自分たちの移民契約を奴隷契約と批難するのはおかしいと論駁したことがきっかけとなって、「芸娼妓解放令」は発令された。
「牛馬とりほどきの御触」とも云われた。特にその第二項の「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事」の文言で知られ、「芸娼妓の前借金の無効」を確認したものだった。
娼妓たちが個人の資格において売春を営業するに当たって、妓楼の主人たちが営業の場としての「座敷」を貸すと云う契約形態に変えることで、旧態依然とした遊廓が経営されたのである。「人身売買」は禁止するが「売春は禁止しない」と云う「芸娼妓解放令」の限界であった。
ただし、「招き猫」と「遊廓」の関係は、娼妓たちが「猫」に擬されたことや、妓楼の主人たちが、商売繁盛を願って入口の縁起棚に置いた、と云うだけの関係ではなく、より個別的に、「籠の鳥」であった娼妓・娼婦たちと関わるものであった、と云うことを「神崎宣武」氏は、その著『聞書・遊郭成駒屋』 (講談社、1998) の末尾で明らかにしている。
「成駒屋」の残存民具のなかで、ひとつだけわけのわからないものがあった (中略) それは、人形・玩具の類である。娼妓の部屋には何種類かの人形や玩具が残っていた。もちろん、それらは装飾品であり遊具なのである。その景色がふつうの人形や玩具といささか異なっているのである。 (中略) 部屋に残されていたのは土器や磁器の稲荷の狐像と招き猫像であった。
「神崎」氏は、もちろん、これらの玩具が商売繁盛、千客万来を願っての縁起物であるのは百も承知の上でこのように云っているのである。要するに、それ以上の何かを感じ取ってこそ、上のように述べているのである。そして、そのことに関しては、直後に明らかにしているのだが、その謎解きは折角だから原著に任せておくこととしよう。
ただ「神崎」氏が、これらの「稲荷さま」や「招き猫」に最初に強い興味を抱いたのは、それらが取り壊された妓楼の玄関や帳場の近く、すなわち商店の縁起棚が飾られているべき辺りからではなく、奧の女郎衆の個人部屋などから見つかったことであった。縁起棚の「招き猫」については、幾多の文献から、花柳界のお店での存在が確認出来る。しかし、そこに働く個々の女たち、すなわち「籠の鳥」と称されて、外出の自由などを奪われていた女郎衆と「招き猫」のつながりで云うと、必ずしも直接に関係づける資料はなかったのである。
有名な「吉原」の「薄雲太夫」の話だとて、どこまで真実を伝えているかははっきりとしないのだが、仮に本当だったとしても、松の位の最高の花魁ならぱ「猫」を飼うことも許されたか知らないが、一般の遊女たちがそんな自由を与えられたはずはない。しかも、「東日本」の遊郭は、一般に「廻し」と云われた接客方法を導入していたため、遊女と云うものは個室を与えられていないのが通例だった。そう云う中で、愛玩動物の飼育はおろか、私物の玩具さえもが普及していたとは、実物が明確な状況を伴って見つからない限り、なかなか信じにくい。「神崎」氏が「招き猫」を発見した「中村遊郭」などのように、「名古屋」や「関西」の遊郭には「廻し」のシステムがなかったために、廓内の女たちは狭いながらも個室を与えられていたのである。少なくとも、「貸し座敷」制度の確立以降はそのようであったと考えられる。そして、「中村遊郭」の前身、「旭廊」も同じようだったと云える。その個室から、「招き猫」が見つかったのである。
「中村遊郭」の時代のことについては、「神崎」氏が、「成駒屋」の間取図や帳簿への記載事項の分析から証明し、かつ当事者の証言を得ている。「旭廊」時代のことに関しては、「中村」への移転直後の「関東大震災」時に既に確立されたシステムとして語られていることから、およそ推測出来る。
このとき「神崎」氏が発見したのは磁器製の「招き猫」であったが、昭和三十三年 (1958) 当時で、既にだいぶ使い込まれていた「招き猫」が磁器で出来ていると云うのは、「招き猫」の発展史の中で見ても貴重な情報である。上の写真を見る限り、どちらも「戦後」普及した「常滑」型の「招き猫」とは似つかず、特に右側は、地理的に近い「瀬戸」でかつて焼かれていた「招き猫」か、あるいは「三河土人形」系の「招き猫」に間違いなさそうである。左側のものは、どこかで見た覚えがあるので、もしかしたら何かしらの作家ものかもしれないが、今は思い出せない。御存知の方がいらしたら、是非、御一報を...。
いまでこそ「招き猫」と云えば、ほとんどが磁器製になっているが、これは飽くまでも「戦後」しばらくしてからの特徴で、現存する遺物を見る限り、より古くは土製や木彫りが中心で、大型のものを中心に、稀に石製のものなどが見られる程度である。
そもそも、「江戸期」から「明治期」にかけて、我が国の玩具人形の代表格だったのは、各地で生産された土人形であったが、「明治」を最後に、これら土人形は衰退の一途を辿った。従来は、西洋化や交通体系の変化によるものと説明されてきたが (木立、2008 etc.) 、近年、この衰退は、「瀬戸焼」から新たに起こった磁器人形との競合に敗れたためと理解されるようになってきている。これは、「五条坂・道仙化学製陶所窯跡」の出土品整理の過程で、「立命館大学」の「木立雅朗」教授の研究班が、平成二十三年 (2011) 二月二十二日に、「五条坂・かわさき商店」で大量の色絵磁器人形が残されていることを確認、調査の結果、これらは「大正期」を中心とした瀬戸焼であり、「瀬戸焼・西茨1号窯遺跡」から類例が出土していることが判明したことによって提唱されたのである (木立、2011 etc.) 。
磁器製の「招き猫」の正確な起源については、現在知りうるところはないが、「木立」教授らの調査報告を元に考えるならば、「瀬戸焼」がその起源と深く関わっている可能性は極めて高そうである。そして、既に見たように、「遊廓」で、一人一人の娼妓が個室を与えられていると云うのは、大まかには「名古屋」以西の「西日本」に限られた慣習だったのだから、遊廓で働く女たちが個人的な玩具人形などを飾れたのもこの地域に限られることであろう。「中村遊廓」の跡から、「瀬戸焼」らしき磁器製「招き猫」が出てきたと云うのも、このような地理的な条件に影響された象徴的な出来事なのかも知れない。
    
「中村遊郭」は、昭和三十三年 (1958) の「売春防止法」を控えて、その年の一月のうちにすべての業者が自主転廃業に踏み切り、その遊廓としての歴史に終止符を打った。全国の遊廓・赤線は、最終期限であった、この年の四月までに皆これに続いた。
この「中村遊廓」の自主廃業に見られた従順さには、しかし、裏があったそうである。妓楼の経営者たちでつくっていた組合「名楽園」は、「新名楽園」と名称を改め、旅館業や特殊浴場 (トルコ風呂) 、それに飲食店などに転業したが、これは遊廓建築からの改修なども最小限に済ませられ、設備をほとんど居抜きで使えるように考えた転業だったのである。多くの楼主たちは、「売春防止法」は、それまでの多くの反売春立法と同様、建前だけの一時的なもので終わり、やがてまた遊廓は復活するものとタカをくくっていたのだと云う。
結果として、この見通しの甘さが、繁華街として「中村」が生き残っていくことの命取りとなり、以降、この町は衰退の一途を辿ることになった。現在は、廃墟や空地に交じって、辛うじて人が生活しているような古びた建物がチラホラする中、かつての遊廓の中心地には駐車場も備えた大型のスーパーマーケット (ユニーだったと思う) が構える、不思議な町になっている。ただ、その中にも何軒かは、往時を偲ばせる遊廓建築の風情を漂わして佇む建物が残されている。おそらくは、「中村遊廓」盛んなりし頃でも、何本かの指には入れられた一流の妓楼だったのだろう。そのような建築物は、「売春防止法」から半世紀以上が経ち、人々の記憶から「遊廓」や「赤線」と云う言葉さえ消え失せつつある今、「大正」から「昭和初期」の貴重な文化財として、特に四軒が、市から「名古屋市都市景観重要建築物」に指定されている (うち一軒は平成十六年に取り壊された) 。
今も残るそのような遊廓建築のうち、大門通りと寿町通りの交点にある「長寿庵」には、遊廓と「招き猫」の縁を今に伝える造形物が残されている。あでやかな赤壁と黒光りする桟格子を背景に吊り下げられた青銅の燈籠を見つけ、それを提げている綱に沿って目を軒下に移すと、迫り出した梁の木鼻に、まるで空を飛ぶが如き見事な「招き猫」が彫り出されているのである。場所は「旭廊」ではないが、その後身たる「中村遊廓」にも、「猫飛び」はあったのである。
かつて「熊谷市」の赤線跡に残った旅館風情の建物の軒下にも、「招き猫」をあしらった木彫りの額が掲げられていたのを見たことがあるが、それも四五年前には撤去されてしまったと聞く。旧「中村遊廓」の「長寿庵」は、現在、この地域の地主でもある病院経営者の所有だと云うから、しばらくは安泰かも知れない。しかし、近い将来には、「遊廓」の記憶と共に、ここの「招き猫」も失われてしまわないか、筆者としては不安でならない。 
■4 .おわりに 
それにしても、本来の名前 (少なくとも古い歴史のある方の名前) である「おからねこ」を頭から否定して、明治の終わり、二十世紀に入ってから創作された祭神と神社名を「正しい」ものとして押しつけようとする神社の社頭説明板には、正直、からくりを知ってしまえば興ざめする。しかも、神社が躍起になって否定する「猫」関連の由来の方が、少なくとも「江戸期」にまで遡れると分かったからには、なおさらである。
「明治末」の頃は、政府が拡大し続ける我が国の帝国主義的膨張を支える戦費を稼ぎ出すために、あらゆる方面で歳出を抑えようと躍起になっていた時代である。「神社合祀令」も、実は宗教政策と云うよりは、一種の財政的な措置として運用されたのである。「平成の大合併」が、とにかく自治体の数を減らすことで、交付金や支出金を減額して、国の歳出を抑制しようと云う目的で、強引に推し進められたのと同じように、国の「国家神道」政策に見合う規模の神社のみ残すことで、天皇と国家の威信を高めつつも、その上で財政の負担を逓減化しようと図ったのである。これは同時に、政府の進める地方自治政策とも相まって、一町村に一つの神社と云う形を創り出し、地方の自治は神社を中心に行なわれるべきだと云う、いわゆる「神社中心説」の理念の実現のためにも利用された。結果的には、住民の居住域の神様が廃されたことで、集落単位の生活暦に組み込まれた祭祀も中断させることになり、現在へとつながる、我が国の近代化の中での大きな問題である「地方の弱体化」が大きく推進されることになったのである。
しかし、この「神社合祀令」を受け入れる側に回った当時の住民たちからすると、こんな国家の意図とは無関係に、寝耳に水で、先祖伝来のお祭りを廃されるかも知れないと云うのは、驚天動地の出来事でもあった。各地で、おらが村の神様を守るために、当時の常識に則って、必死の工夫や抵抗が行なわれたのである。かつては、各地に鎮座したそれぞれの地に土着の神々も、生き残りのために、この時期に多く、「記紀」神話に登場する皇祖神系の神様、あるいは国神でも、国造りに活躍した「出雲」系や「三輪・加茂」系などの有名どころの神様に変身を余儀なくされたのである。最後は、とにかく「記紀」や『延喜式』に載る神や神社と何かしらの縁戚関係を築くことで、「合祀=廃絶」を免れようとしたのである。
そして、われらが「おからねこ」の数奇な運命も、この時代の趨勢と無縁には済まなかったのである。神社の合祀が盛んに執行されていた頃、ちょうど「精進川」 の水利工事が始まり、「おからねこ」を巡る状況は、急激に悪化したからである。合祀推進派からすれば、「おからねこ」などと云う由緒不明な、天皇中心的な神道観からすれば「怪しい」の一言に尽きる神社など、廃絶するのにちょうど良い機会だったに違いない。大体、「ねこ」とは何だ、と云う論法である。そもそも、遊廓の近くで「ねこ」を名乗っていること自体が、この場合は、頭の固い、中央の教養人からは軽蔑に値することだったのだろう。神社や氏子たちからすれば、生き残りへのただ一つの有効な手段が、有力な「記紀」神話の神様との縁を掘り起こすことだったのであろう。
この辺りの具体的な経緯は、まったく把握していないのだが、おおよそこのような心理の下で、明治四十二年 (1909) の「大直禰子神社」への改称は断行されたのではなかろうか。逆に、そうでなければ、何も拙速に祭神を新たに決定したり、社名を変更したりする必然性がないのである。
ただ、現代と云う時代が、もはや「神社合祀令」の発せられ、「国家神道」が幅を利かせている時代でないのは、いまさら言を待たない。その状況の中で、神社側が、「大直禰子」を祭神とすると云う、「明治末」に考え出された縁起や祭祀を頑なに守ろうとするあまり、少なくとも同じほどに古く、おそらくはそれよりもずっと古いだろう「猫の神様」としての性格を揉み消そうとしているのは、甚だ残念だと云わざるを得ない。まあ、「猫の神様」なんて謳ってしまうと、捨て猫などが増えて大変だろうから、事前に危険な火は消しておこうと云うことなのかも知れない。
現在、狭い境内は、隣りの不動産屋さんの女性によって毎日、綺麗にされていると云う。又聞きに、ちょこっと耳にしただけなので、それが信仰心から来るものなのか、純粋な社会奉仕の精神から来るものなのかは分からない。ただ、この女性のことを考えると、確かに捨て猫が増えたり、あるいは「東京」は「谷中」の寺などが悩んでいるように、猫の亡骸を置いていく輩が現れたりしては困ろうものである。
けれども、節度ある範囲で、地域の猫好きの人々が、ささやかな「猫の神様」の古習を受け継いでいって下さったらいいな、とは願っている。もちろん、他所の地からお参りするものは、マナーを守るのは当然として、「猫神」さまへの感謝の気持ちを込めて、お賽銭もお忘れなきよう、お願いしたい。 
 
大猫
 

 

日本各地の何箇所かに伝わる巨大な猫の怪異である。代表的なものとして「麻布の大猫」などといった名で知られる江戸笄町の大猫がいるほか、同じ江戸市中の大崎袖ヶ崎、紀伊国(現在の和歌山県および三重県南部)、越後国(現在の新潟県の本州地域)などに、それぞれ個別の大猫の記録がある。
江戸笄町の大猫 1
現在では「江戸麻布の大猫(えどあざぶのおおねこ)」「麻布の大猫」「麻布の大猫伝説」などといった名で知られている、江戸笄町の大猫怪異譚である。なお、江戸時代当時も「麻布」という地名は「麻布村」「麻布三軒家町」などという名で存在したが、大猫がいたという場所の地名は「笄町(こうがいちょう)」で、今は「元麻布」と呼ばれている当時の麻布村などとは違う。従って、「江戸麻布の〜」「麻布の〜」では、近場とは言え見当外れな場所を指して「大猫」がいたとする名称になってしまう。つまり、現在名称は当時を伝えていないわけであるが、この名しか通用していない以上、用いないわけにはいかない。しかし時代考証を踏まえるなら、「江戸笄町の大猫」もしくは「笄町の大猫」という呼び名がふさわしく、これを論拠として、本項のセクション名に限って「江戸笄町の大猫」を用いる。
係る大猫の怪異譚は、武蔵国荏原郡笄町(江戸市中の笄町。明治2年〈1869年〉以降の東京府麻布区麻布笄町、現在の東京都港区南青山6・7丁目〜西麻布2・4丁目)界隈での出来事として、今は西麻布(東京都港区西麻布)と呼ばれる地域で刊行された瓦版に記されている。時期は不明ながら、江戸時代前期の瓦版はほとんど現存せず、中期のものも少ないのであるから、後期と見るのが妥当であろう。
怪異譚
この地にあったとある江戸下屋敷に、ご隠居付きの盲目の鍼医がいたが、治療の帰りに消息を絶った。多くの人々が鍼医を捜したものの、行方は杳として知れなかった。しかし幾日かのち、鍼医は畑の肥壺で発見され、介抱の末に正気を取り戻した。これを聞いた下屋敷の人々は、狐(妖狐)に化かされたのに違いないと考え、狐退治に乗り出した。あちこちから集められた狐釣の名人達が狐を捕らえようと夜ごと挑んだ結果、5匹目にしてようやく、名人で百姓の一人がそやつを捕らえた。ところが、捕らえてみたらばそやつは狐などではなく全身斑まだら模様の猫であった。猫は猫でも、立丈 壱尺三寸(立った姿勢の時の体高 約39.4cm)・横 三尺二寸(自然な姿勢の時の長さ〈※全長か頭胴長かは不明〉約97.0cm)という見たことも聞いたこともない大猫で、尾が二股に割れていたという。
江戸麻布の大猫 2
江戸麻布・笄町笄町(こうがいちょう/現在の港区南青山6・7丁目〜西麻布2・4丁目)付近の下屋敷から、お付ききの盲目の針医師が、治療の帰り道に消息を絶った。しばらく行方がわからなかったが、数日後、畑で発見され、正気を取り戻した。下屋敷では、狐に化かされたのだろうということで、狐釣りの名人たちに頼んで狐狩りを行った。その結果、捕まったのは狐ではなく、3尺2寸もの大猫で、尾が二股に割れていたということであった。
江戸麻布の大猫 3
旧麻布龍土町を西麻布まで歩き、笄(こうがい)坂を上っていけば、旧麻布笄町(現港区西麻布2〜4丁目、南青山6〜7丁目付近)にたどり着きます。笄町の地名の由来は諸説あり、付近を流れていた笄川に架かっていた笄橋から採られたとする説が有力のようです。その笄川についても由来は諸説あり、明確ではありません。
笄町には面白い怪異譚「麻布の大猫伝説」が伝えられています。江戸時代の瓦版などにも紹介されている話で、笄町のある大名家下屋敷に出入りしていた盲目の鍼医が、帰り道に行方不明になり、数日後に近くの畑の肥溜めに落ちていたところを発見されます。狐に化かされたのだと判断した下屋敷の人々が狐狩りの名人を集め、なんとかその犯人らしき動物を捕まえたところ、狐ではなく尾が二股に分かれた巨大な猫だったというのです。
猫の妖怪「猫又」を想起させる伝説ですが、当時の青山・麻布・六本木などは、武家屋敷がたくさんあったとはいえ、そんな妖怪が登場してもおかしくないほど、正真正銘の郊外地だったということでしょう。  
袖ヶ崎の大猫
袖ヶ崎の大猫(そでがさきのおおねこ)は、江戸における仙台伊達家(伊達氏宗家)知行地の一つである大崎袖ヶ崎 (武蔵国荏原郡上大崎村袖ヶ崎。現在の東京都品川区東五反田3丁目) に新設された下屋敷(大崎袖ヶ崎屋敷)にて、悪さを繰り返して討たれたという大猫の怪異譚である。
只野真葛が文化8年(1811年)に刊行した回想記『むかしばなし』の巻1に掲載されている。只野真葛の祖父・丈庵(工藤安世)が獅山公(陸奥仙台藩第5代藩主・伊達氏宗家第21代当主・伊達吉村)の隠居屋敷(仙台藩下屋敷の一つとして隠居後の吉村のために新設された、大崎袖ヶ崎屋敷のこと)に勤めていた時の話という。怪しげな出来事があったのは下屋敷の落成後間もない頃ということであるが、伊達吉村が隠居して「袖崎隠公」と呼ばれるようになるのが息子に家督を譲った寛保3年7月(西暦換算:1763年の8月か9月)以降であることとすり合わせて、ちょうどこの頃と推定できる。
怪異譚
大崎袖ヶ崎屋敷では、昼夜の別なく長屋にどこからともなく拳大の石が投げ込まれる、宿直の侍が枕返しをされる、灯火が突如として消える、蚊帳の吊り手が一斉に切れて落ちるなどといった、怪しげな出来事が相次いでいた。そのような最中のある日のこと、犬ほどもある大きな猫が長屋門の軒下あたりで眠っているのを見て近侍の者が鉄砲で撃ち殺したところ、それよりのち、妖しい出来事は起きなくなったという。
紀州熊野の大猫 1
紀州熊野の大猫(きしゅうくまののおおねこ)は、江戸時代半ばの寛延2年(1749年)に刊行された説話集『新著聞集』に収められている、江戸時代初期の大猫怪異譚である。同書の編纂者は、紀州藩士で学者の神谷養勇軒(かみや ようゆうけん)と考えられる。
怪異譚
徳川の世の初め頃、紀伊国牟婁郡熊野(紀伊国の南部地域で、上古における熊野国域。現在の和歌山県熊野市を含む広範地域)の山の中、山陰やまかげになるとある洞窟に、虎と見まごうほどの大きな獣がいたという。そやつは山里にも下りてきて狐や犬を捕えて食らうのであるが、時には人が追いかけられることまであった。そのような時は里人(山里の地元民)が鉄砲(※火縄銃)で撃つものの、素早く逃げおうせてしまうという。捕らえたのは貞享2年5月(西暦換算:1685年6月頃)のこと、ある者の仕掛けた罠にその獣が掛かったのであった。そうして獣の正体を確かめてみたところ、猪ほどにもなる大きな猫であった。
紀州熊野の大猫 2
随筆集『新著聞集』によると、貞享2年(1685年)5月。紀州熊野(現在の三重県の南部で尾鷲市・熊野市を中心とする地域)の山中の洞窟に虎のような獣がいるという噂で、里の犬や狐などを捕えて食べ、人を追いかけることもあったという。銃を撃つと素早く逃げたが、ある者が仕掛けで捕えたところ、それはイノシシほどの大きさの大猫だったという。
紀州熊野の大猫 3
紀州熊野(和歌山県)の山陰の洞窟に、虎のような獣がいて、里の犬や狐などを補食していた。時々人間を追いかけるので、里人が鉄砲で撃つと素早く逃げた。ある者が仕掛けをして捕まえると、猪ほどもある大きな猫であったという。これは貞享2年5月のことであった。  
土岐山城守の大猫 1
土岐山城守の大猫(ときやましろのかみのおおねこ)は、新場老漁(大田南畝)の随筆『半日閑話』の巻16に収められている大猫怪異譚である。
土岐山城守の大猫 2
文政元年(1818年)8月中旬、浦賀奉行の内藤外記の屋敷の台所に、何かの獣が出て、飯を喰い、魚などを盗んだ。また、門番たちを化かしたり、奥方の名を呼ぶなどの現象が幾度もあった。それで、外記の命で落とし罠を作ったところ、罠に何かが掛かったいうのでと引き出させると、虎のような大猫で、黄色に黒の縞模様も虎そのものであった。珍しい猫だというので、つないでおいたところ、噂に伝え聞いた土岐山城守から使いが来て、「先年、山城守が道中で貰った秘蔵の飼い猫が逃げてしまい、どうもその猫のようなので返してほしい。」とのこと。外記は、猫を騙しとろうとする者かと思い、断った。すると再び使者が来て、「どうも間違いがなさそうなので、不審ならば、この親類衆にお問い合わせください。」と五人の名前を書付にして持ってきたが、中には阿部備中守などの名前もあったという。ちなみに、猫の名前は『まみ』であったそうだ。その後、返されたのかどうかは不明だが、この話自体は、内藤外記本人が直接語った話だそうである。
土岐山城守の大猫 3
文政元年八月中旬、浦賀奉行の内藤外記の屋敷の台所に、何の獣とも知れないものが出て、飯を喰い、魚などを盗んだ。また、門番たちを化かし、あるときなど、奥方が納戸にいたところ、奥方の名を呼ぶので、障子を開けて見たけれど何もいない。で、障子を閉めるとまた呼ぶ。気味が悪くなって人を呼んで調べたが、何もなかった。こういうことが幾度にも及んだので、外記が命じて落としの罠を作った。ある夜、罠に何か掛かったと近習の者が知らせてきた。罠ごと持ってこさせて、おそらく狸か何かだろうと思って見るが、落としの中が暗くてよくわからない。そこで門番に命じて引き出させると、よく絵に描かれている虎のような大猫で、黄色に黒の縞模様も虎そのものである。これはまた珍しい猫だというので、つないでおいた。
このことを噂に伝え聞いたのか、土岐山城守よりの使いだという者が来て、「先年、山城守が領地に旅したおりに道中で貰って、以来、秘蔵していた飼い猫が、世話係の不注意で逃げてしまいました。こちらさまで捕らえておいでとのこと、何とぞお返しくださいますようお願いいたします。山城守は大坂在番中でもあり、係の者も困り果てております。なんとかよろしくお願いいたします」と、口頭で申し入れた。外記は、もしや猫を騙しとろうとする者かもしれないと思って、断った。すると、また使者が来て、「先ごろ取り逃がした際、親類衆にも捜索の協力をお願いしました。このことに間違いはありません。もし不審に思われるのなら、この親類衆にお問い合わせくださいますように」と述べて、五人の名前を書付にして持ってきたが、中には阿部備中守などの名前もあったという。
まったく珍事である。ちなみに、猫の名前は『まみ』という。その後、返されたのかどうかは知らない。しかし、この話自体は、内藤氏から直接聞いたものである。文政元年(1818年)8月中旬、浦賀奉行の内藤外記の屋敷の台所に、何かの獣が出て、飯を喰い、魚などを盗んだ。また、門番たちを化かしたり、奥方の名を呼ぶなどの現象が幾度もあった。それで、外記の命で落とし罠を作ったところ、罠に何かが掛かったいうのでと引き出させると、虎のような大猫で、黄色に黒の縞模様も虎そのものであった。珍しい猫だというので、つないでおいたところ、噂に伝え聞いた土岐山城守から使いが来て、「先年、山城守が道中で貰った秘蔵の飼い猫が逃げてしまい、どうもその猫のようなので返してほしい。」とのこと。外記は、猫を騙しとろうとする者かと思い、断った。すると再び使者が来て、「どうも間違いがなさそうなので、不審ならば、この親類衆にお問い合わせください。」と五人の名前を書付にして持ってきたが、中には阿部備中守などの名前もあったという。ちなみに、猫の名前は『まみ』であったそうだ。その後、返されたのかどうかは不明だが、この話自体は、内藤外記本人が直接語った話だそうである。  
泊り山の大猫 1
泊り山の大猫(とまりやまのおおねこ)は、越後国魚沼郡塩沢村(幕藩体制下の越後御料出雲崎代官所支配塩沢村。現在の新潟県南魚沼郡塩沢町)の文人・鈴木牧之が、江戸時代後期の天保8年(1837年)に著わした『北越雪譜』の初編巻之下に記されている大猫である。足跡がお盆ほどもあったという。 
泊まり山の大猫 2
『北越雪譜』によると、飯士山(いいじさん/新潟県南魚沼市と南魚沼郡湯沢町にまたがる山)の東に阿弥陀峯(あみだぼう)という山があり、昔、百姓たちは雪の少なくなる頃にこの山に入り、木を切って薪を生産していた。村人はこれを「泊まり山」と呼んでいた。この山には水がなかったので、樽を背負って、谷川まで水をくみに行っていた。ある時、七人の若者が薪作りをしていたら、山あいに響きわたるような、大きな猫の鳴き声が聞こえてきたので驚いて襲撃に備えていた。しかし、姿を見せなかったので後でその場所へ行って見ると、雪の上に丸盆のように大きな猫らしき足跡があったという。
泊まり山の大猫 3
我が友信州の人かたりしは、同じ所の人千曲川へ夏の夜釣に行しに、人の三人もをるべきほどのをりよき岩水より半いでたるあり、よき釣場なりとてこれにのぼりてつりをたれてゐたれしに、しばしありてその岩に手毬ほどに光るもの二ツ双びていできたり、こはいかにとおもふうちに、月の雲間をいでたるによくみれば岩にはあらで大なる蝦蟇にぞありける。ひかりしものは目なりけり。此人いきたる心地もなく何もうちすてゝ逃げざりしとかたりぬ。

「北窓雪譜」(天保六年) 越後塩沢の商人、鈴木牧之がその地方の話題を集めて記した本。この初編巻之下に、「泊り山の大猫」という話があります。足跡がお盆ほどあるという大猫の話の後、大蝦蟇の話が出てきます。
雲洞庵の「火車落の袈裟」と「化け猫の骨」
金城山麓の雲洞庵。大河ドラマ「天地人」で、上杉景勝と直江兼続が幼少時代を過ごしたことで一躍有名になった。鈴木牧之の「北越雪譜」には、雲洞庵の北高和尚が野辺送りの棺を奪おうとする化け猫を退治した話がある。六日町駅から坂戸山(633.9m)の山裾を歩いて約1時間だ。坂戸山は金城(1369m)へと峰続きで、積雪期は低山ながら面白い雪稜となりそうだ。
宝物殿、歴史的に貴重な文物が多く展示されている。北高禅師が着ていた血染めの「火車落としの袈裟」と、退治された化け猫の頭骨。頭骨は、猫科の動物のものという感じではないし、火星人みたいな顔をしている。ま、怪獣だから、これはこれでいい。伝説の物証が大切に残されていることに意義がある。説明書きによると、化け猫の出撃基地は金城山の岩洞だったという。「北越雪譜」にはない情報だ。  
ネコと茶釜のふた 1
伝承ばなしによると、昔、腕の良い猟師が山から下りてくると、家の前で一匹の子ネコが鳴いていたので、その子ネコを、飼う事にした。それから十数年後のある日、猟師の家に村の名主がやって来て、「山に恐ろしい化け物が現れて、村人たちが災難にあっているので、退治してもらいたい」と言って頼むので、猟師は化け物退治を引き受け、さっそく、鉄砲の玉を、いろりばたで作り始めた。猫が見ているようだったので猟師は隠し玉をお守りの中に忍ばせた。次の朝、猟師は化け物退治に出かけ、山中を歩き回るが、化け物は現れず、山小屋に泊まることにした。真夜中、何者かが、足音を忍ばせて近づいて来る音がしたので、猟師が鉄砲を取り小屋の隙間から外をのぞくと、暗闇の中に、ピカピカと二つの目玉が光っていた。そこで、鉄砲の引き金を引くと、カチーン!と、何かにはじかれてしまい、次から次へと鉄砲を打ち込むものの、全てはじかれて、ついに玉が無くなってしまった。それで隠し玉を込めて打ち込んだところ、化け物はものすごい叫び声を上げると、そのまま山奥へと逃げていった。血の跡をたどって行くと、その先にイノシシよりも大きなネコが死んでいた。猟師が家に帰ってみると、いつも出迎えてくれるネコがおらず、茶釜のふたがなくなっていた。猟師は山へ戻るとネコの亡骸を持ち帰り、手厚く弔ってやったそうである。
ネコと茶釜のふた 2
むかしむかし、腕の良い猟師(りょうし)が山から下りてくると、家の前で一匹の子ネコが鳴いていました。子ネコは猟師を見ると、甘えた様に体をこすり付けてきました。「おー、よしよし。行くところがないのなら、わしの家においてやろう」猟師はその子ネコを、飼う事にしました。
それから十数年後のある日、猟師の家に村の名主(なぬし→身分は百姓だが、役人の仕事をしている人)がやって来て言いました。「山に恐ろしい化け物が現れて、村人たちが災難にあっておる。ひとつ、あんたの鉄砲(てっぽう)で、化け物を退治してもらいたい」「わかりました」猟師は化け物退治を引き受けると、さっそく化け物退治に使う鉄砲の玉を、いろりばたで作り始めました。すると、それまで居眠りをしていたネコが薄目を開けて、鉄砲の玉を数えている様なそぶりを見せました。(なぜ、ネコが鉄砲の玉を数えるのだ? ・・・ネコは年を取ると魔物(まもの)になるというから、用心した方が良いな)猟師は十二個の玉を作った他に、金の隠し玉をネコに気づかれない様にお守りの中に忍ばせました。
次の朝、猟師は鉄砲を手に、山の化け物退治に出かけました。山中を歩き回りますが、化け物は現れません。やがて日が暮れて、辺りが暗くなってきました。「今夜は、山小屋に泊まるとしよう」
真夜中の事、猟師が山小屋で寝ていると、ミシッ、ミシッ、ミシッ。と、大きな何かが、足音を忍ばせて近づいて来る音がしました。それに目を覚ました猟師は、枕もとの鉄砲を取ると小屋の隙間から外をのぞきました。すると暗闇の中に、ピカピカと二つの目玉が光っています。(出たな、化け物め)  猟師は化け物の目と目の間に狙いをつけると、鉄砲の引き金を引きました。
ズドーン! ところが鉄砲の玉は、カチーン!
と、何かにはじかれてしまいました。
猟師が続けて二発目を撃つと、カチーン!と、またはじかれてしまいました。
(こなくそ!) 猟師は次から次へと鉄砲を打ち込みましたが、その全てがはじかれてしまいます。そしてとうとう十二発目の玉を撃ったところで、暗闇の目玉がにやりと笑いました。「馬鹿め、全ての玉を撃ちつくしたな」暗闇の目玉は安心した様に、猟師へと近づいてきました。すると猟師は首からぶら下げているお守りの中から金の隠し玉を取り出すと、素早く鉄砲に詰め込んで、
ズドーン!と、撃ちました。
「ギャオォーー!!」化け物はものすごい叫び声を上げると、そのまま山奥へと逃げていきました。
翌朝、猟師が化け物を撃った辺りを調べてみると、そこには見覚えのある茶釜のふたと十二個の鉄砲の玉が落ちていました。「この茶釜のふたは、わしの家の物と同じだ。・・・おや、血が」茶釜のふたが落ちていたところから、山奥へと血の跡が続いています。猟師が血の跡をたどって行くと、その先にイノシシよりも大きなネコが死んでいました。大きさは違いますが、家で飼っているネコと毛のもようが全く同じです。「もしや、これは・・・」 猟師が家に帰ってみると、いつも猟師を出迎えてくれるネコがおらず、茶釜のふたがなくなっていました。「そうか。わしのネコが、化け物だったのか。鉄砲の玉よけに茶釜のふたを持ち出して、わしを殺そうとしたのだな」
猟師は山へ戻るとネコの亡骸を持ち帰り、手厚くとむらってやりました。
猫と釜蓋 3
ある山奥の一軒家に狩人の甚八が母親と暮らしていました。甚八は腕のいい猟師で、猟師仲間で一番とされている男でした。
ある時猟師仲間で寄り合いがあり、そこで、山の中で怪しい業をするヤマネコの話が出ました。山の中に、いつの間にかヤマネコが集まっておって、いろんな業をやってのけ、村人が怖がっているという話でした。甚八は、よし、それなら俺が退治してやろうと、鉄砲の弾をこしらえに家に帰ったのでした。
家に帰ると、小猫が一匹いました。「かかさん、この猫はどうした?」「ああ、かわいかろう?さっきそこで見つけたのじゃ。こんな山奥にどこから来たのかのう?」甚八の母親は、雑炊を作りながら、そう答えました。小さなかわいらしい猫で、甚八にもすり寄ってきて甘えました。頭をなでるとにゃあと鳴いて側にすわりました。甚八が囲炉裏端で鉛を溶かし、鉄砲弾をこしらえていると、その様子をじっと見ているようでした。「そうか、弾が出来るのがめずらしいか?」カラン、カラン、カラン。甚八は出来た弾を一つ一つ数えて、ちょうど十二作りました。小猫はその様子をじっと見つめていました。
甚八は妙な胸騒ぎがしました。猫が弾の数を数えているように思えたのです。甚八はそのまま知らんふりをして、十二の弾を皮袋に入れると、「かかさん、山に変なものがおるらしい。 二、三日帰れんかも知れんきに。」と言って、そのまま山へ出かけていきました。胸にはお守り袋が入っていました。その中には金の弾が一つ、入っていました。それはしゃち弾といって、いよいよと言う時が来たら使う最後の弾でした。甚八は胸のお守り袋の金の弾を確認すると、山へ登って行きました。
聞いた話をたよりに、ヤマネコが集まる所を探してみました。なるほど、沢山の猫の足跡と、喰い散らかされた鳥の羽が、あちこちに引っ掛かっていました。甚八は山の中でヤマネコのいそうな所を探しましたが、見つかるのは喰われた動物の跡だけで、肝心のヤマネコはどこにも見つかりませんでした。そのうち日が暮れてしまい、甚八は狩りの時、いつも寝泊まりする小屋で、休む事にしました。
夜中過ぎた頃、小屋に何かが近づいてきました。甚八は鉄砲を寄せると、そっと外をのぞくと、暗い闇の中に二つ、赤い目がゆらゆら見えました。それはゆっくりゆっくり甚八の方へ近づいて来たのです。
こいつが例のヤツか?!
甚八は、鉄砲に弾をこめると、目と目の間に狙いをさだめ、ゆっくり引き金を引きました。ズドーン! 弾はヤマネコに向かって飛びました。ちゃりん! 「!」 甚八は耳を疑いました。弾は何か鉄のようなものに当たったような音をさせて、そこに落ちたようでした。赤い二つの目が、まだ、ゆらゆらゆれていました。
甚八は二発目の弾を込めると、もう一度撃ちました。するとまたチャリンと音がして、弾が落ちたのです。甚八は次々と弾を込めて撃ちました。しかしいくら撃ってもチャリンチャリンと音がして、いっこうになんの手ごたえもありませんでした。甚八は最後の弾を込め、慎重に引き金を引きました。最後の弾は、やはりチャリンと音をさせ、地面に落ちました。
赤い目がこちらを見つめてしました。そして今度は、ゆっくり、甚八の方へ近づいて来たのです。
甚八は胸のお守り袋から最後のシャチ弾をとり出しました。そして赤い目が充分近づいてくるのを待ちました。
最後の弾です。充分、引きつけて撃とうと思ったのです。
戸板の向こうに大きなものの気配がしました。目の前に化け物が立っていたのです。甚八は銃口をその化け物の体に当てると、引き金を引きました。ズドン! 「うぎゃぁ〜〜〜!!」
化け物は大きな声を上げると山の方へ逃げていきました。甚八は夜が明けるのを待って、小屋の外に出て、あたりを探しました。戸口の側には、茶釜の蓋が落ちていました。あたりには十二の鉛弾が散らばり、血がたくさん流れていました。
甚八は点々と続く血の跡をつけていきました。すると、一匹の大きなヤマネコが、腹を打ち抜かれて、竹林の中に息絶えていました。
甚八は急いで家に帰りました。家にいた小猫が気になったのです。家に帰ると母親が何かを探していました。「甚八、茶釜の蓋を知らないかい? 見当たらないんだよ、どこいったのかねぇ。」 甚八は、あっと思いました。あの蓋か。「かかさん、昨日の小猫はどうした?」「それがねぇ、いないんだよ。 小猫も。 どうしたことかねぇ。」 甚八はやっと合点がいきました。
あの大きなヤマネコは、小猫に化けてここで俺の弾の数を数えていたんだ。おまけに茶釜の蓋を持っていきやがった。
甚八は、油断ならねぇものだなぁと、ふところのお守り袋を握りました。
茶釜のふた 4 (秋田県横手市)
昔、一人のまたぎ、ネコどこ大しためっこがって(可愛がって)、飼ってやんだけど。ある日、玉無[ね]くなったな、と思って、またぎ、晩げに炉端サ座って、玉作り始めた。そうしたきゃ、側サいた飼いネゴ、玉っこ一つ出来れば、コクッとうなずくんだ。二つ出来れば、コクッと。三つ出来ればコクン。
そうしてまたぎは、ようやく玉を7個作った。
“明日からまた、鉄砲打ちに行くにいいな(明日から又、鉄砲打ちに行くことができるな。)”
「さ、今日はもう寝よう(今日は寝るべ。)」と独り言を言った。
次の日、猟をしに山に入った。どうしたことか、何にもいない。
・・・やまどり一羽、うさぎ一羽いない。
・・・何だ、こういう日もあるんだなあ。
背後から、ギヨロッとにらむけものの気配を感じた。またぎは、そこに隠れていて、じっとその方をうかがった。何だか、大きなけものがいるような感じがした。
・・・よし、射止めてやろう。
玉を込めて、バーンと一発目をぶっぱなした。カツーンと音はしたが外れた。
あや〜、
二発目の玉を込めて、バーンと打ったが、今度もカツーンと音はしたが当たらなかった。
そのけものがだんだんと近寄って来る。七発目の玉を込めて、バーンと打ったが、それもカツーンと音がしただけだった。
“あと、もう玉がない!”このまたぎは、プロであった。
猟師というものは、必ず一発だけ、余分の玉を持って行くものだ。
“よし、これで最後だ。これが当たらなくては、どうしようもない(これ当たらねば、何ともならね)。”
その最後の玉を鉄砲に込めて、バーンと打った。
・・・ギャーッ!
ものすごい声がして、そのけものはすっ飛んで逃げた。
またぎが、その声の方に走って行くと、そこには血の跡だけがあって、何も居なかった。
“・・・不思議なことだ。何だったのか(何だったべな)。”
家に戻ると、“今日も片づいた。お茶(お茶っこ)でも飲んでみよう。”と、湯を(湯っこ)沸かそうと思って、鉄瓶びんを見たが、
あれっ、ふたがない!
ふた、どこへいったのかな、と思いながら、大して気にもしないで、湯を沸かし茶を飲んで、くたびれていたのでそのまま寝た。
翌朝、起きてみたところが・・・今まで可愛がっていた(めんこがっていた)ネコがいない。
“さあて、どこへ、行ったのだろう?(どこサ行ったもんだべな。)”
そう思って、昨日鉄砲を撃ったところに行ってみると、あれっ、・・・オレ(わい)の茶釜のふた(ふたっこ)がある!
ネコが死んでいた。それも茶釜の姿になってね。 
大猫ばやし 1 (相模原民話伝説)
「ブッツク ニャンゴロ オッピーヒャラリコ スッテンテレツク ザルヨコチョウ」
へんなお囃子が、坂の上の一人住いのお婆さんの家から、夜毎聞こえてきました。そっとのぞくと、大きな猫が音頭をとって、狐や狸やむじなが鍋や釜を叩いていました。
「この化け物ども!」と村人たちが怒鳴ると、音はピタッとやみます。
ところでこの音、心のやさしい人には良く聞こえたそうです。あなたは?
大猫ばやし 2
おお猫ねこばやし!!
昔な、大島村の中の郷の下村に、善太郎婆さんと云うお婆さんが住んでいたんだ、と。善太郎婆さんはの、お爺さんが死んでから、年取った大猫と一緒に暮らしていたんだと。善太郎婆さんの大猫は、かしこい猫ねな、家の中な入る時には、しっかりつるりと足を拭いて入る猫だったんだ、と。
ところでな、いつのころからか、善太郎婆さんの家の床下から、何ともいえん、御囃子が聞こえてくるようになったんだ、と。「ブッツク、ブッツク、ニュンゴロリオン、オッピーヒャラリコ、八王子、スッテンテレスク、ザル横山」いや〜もう踊りだしたくなるようなおはやしでな、石やら、木やら、鍋釜やらを、大猫と友達のキツネとタヌキとムジナやらが、にぎやかに、たたいて、拍子をとって、歌っていたんだと。
だがの、近所の若い衆が、これはあやしいとのぞくとはやしは、ピタリと止んでだれもおらん。だれでもな、善太郎婆さんみたいにニコニコと耳をすましていると、いつでも聞こえてくるんだと。「ブッツク、ブッツク、ニュンゴロリオン、オッピーヒャラリコ、八王子、スッテンテレスク、ザル横山・・・」って、な。
おお猫囃子 3
むかし大島に善太郎婆というお婆さんが住んでおりました。 亭主の善太郎に先立たれてさみしかったので、一匹の大きな猫を相手に暮らしておりました。 この猫は大変に利口な猫で、家に上がるときにはいつも足をぞうきんで拭いて上がったそうです。
この善太郎婆の家の床下から、夜になると、なんとも妙な音がお囃子のように聞こえてきたのです。 それは、石と石、木と木、鍋や釜や茶碗のかけら、骨と骨などを打ちつけたり、こすり合わせたりする音でした。
とてもこの世のものと思えぬへんてこな音でした。 そしてこの調子に合わせて大合唱が起こるのです。
「ブッツク、ブッツク、ニャンゴロリン、オッピーヒャラリコ、ハチオウジ、スッテンテレツク、ザルヨコチョウ」  このへんてこなお囃子のかしらは、この家の主の大猫でした。この猫が近くに住む狸や狐、むじなやかわうそなどを集めて、夜毎の大合奏、大合唱をやっていたのです。
善太郎婆はこのお囃子に聞きほれていましたが、近所の人はたまりません。 「このばけものども」と棒や鎌などを持って押しかけてきますが、その度に音はぴたりとやんでしまうのでした。
その音は、普通の人にとっては騒音にしか聞こえませんでしたが、心に何のやましいことがない人には、それは良い音に聞こえたのです。 
 
五徳猫
 

 

鳥山石燕の『百器徒然袋』にある日本の妖怪。
2本の尻尾を持つ猫が、五徳(囲炉裏で鍋・やかんなどを乗せる台足)を冠のように頭に頂き、火吹き竹を持って囲炉裏で火を起こしている姿で描かれている。石燕による解説には、「七とくの舞をふたつわすれて五徳の官者と言ひしためしもあればこの猫もいかなることをか忘れけんと夢の中におもひぬ」とあり、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)が引き合いに出されている。『徒然草』(第226段)には、行長は本来は学識ある人物だったが、舞曲「七徳の舞」の内の二つの徳を忘れたことから「五徳の冠者」と渾名されたという話が記されている。これは器物の五徳と、五徳の冠者との語呂あわせを石燕がして解説したものであると見られている。
室町時代の『百鬼夜行絵巻』にも同様に五徳を頭に乗せた姿の妖怪が描かれており、五徳猫はこの妖怪の姿をモデルにして石燕が創作して描いたものであると考えられている。  
五徳猫 1
鳥山石燕の『画図百器徒然袋』に尾が二つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言ひしためしもあれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。『鳥山石燕画図百鬼夜行』の解説によれば、これは『徒然袋』にある『平家物語』の作者信濃前司行長にまつわる話と、室町期の土佐光信画『百鬼夜行絵巻』に描かれた五徳を頭に乗せた妖怪をモデルにしているという。行長は学識のある人物であったが、七徳の舞という唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、二つの徳を忘れてしまったために、「五徳の冠者」とあだ名を付けられてしまった。そのために世の中に嫌気をさし、隠れて生活するようになったという話である。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを乗せる台)を引っかけて創作された妖怪なのであろう。
五徳猫 2 (「百器徒然袋」)
「七とくの舞をふたつわすれて、五徳の官者と言ひしためしもあれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」
五徳猫は、囲炉裏を囲い、火吹き竹でふぅふぅしてるカワイイ猫の妖怪。肝心の五徳は頭の上に載ってて意味なし。しかしこれは解説文にもあるように、「七徳の舞」の内、二つを忘れてしまったことから「五徳の冠者」と呼ばれるようになってしまった信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)が例として出ており、石燕は最後に「この猫もよく忘れるんですよねぇ」と書いて結んでいる。
なるほど、本当は囲炉裏に置かなきゃいけない筈の五徳を頭に載せちゃってるのもそのせいか。尚、その例に出てくる「五徳の冠者」は徒然草第226段に記載がある。
徒然草 第226段
「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり」
五徳猫 3
五徳と言うのは、今でいう所のガスコンロの上の部分ですね。上に物を乗せ、下で火を焚き熱する為の道具です。「五徳猫」とは文字通り、こいつを頭にかぶった猫です。
「五徳猫」の絵を見ると尻尾が2本あります。猫と言っても猫又の類であることが分かります。さて、この猫は何をしているのかというと、見た通り、火を焚きます。ただそれだけ。
秋田の方で家で、いつも囲炉裏や火鉢の近くに寝そべって、人がいなくなると、自分で五徳に火を起こすようです。一体何がしたいのか。五徳に火をつけたがる老猫です。
その被っている五徳については別の謂れがあります。平家物語の作者とされる信濃前司行長が唐の舞曲「七徳の舞」のうち2つの徳を忘れてしまい、「五徳の冠者」なんていわれ、不愉快のあまり遁世したという話があります。それと囲炉裏にあった五徳をかけた解説が「画図百器徒然草袋」に記載されてるようです。
五徳猫 4
ネコが五徳をかぶっているように見えますね。ネコと書いていなければ、牛か狸に見えます。
解説文も、「七徳の舞」の内、二つを忘れてしまったことから「五徳の冠者」と呼ばれるようになってしまった人物もいるし、この猫もよく七徳のうち二つを忘れる。と書いてあります。
しかし、これが書かれているのは鳥山石燕の『図画百器徒然袋巻之下』。百の鬼ではなく、「百器」です。字を読んでの通り、器物が変化した妖怪を描いているのです。描いてある妖怪も松明が妖怪化した「松明丸」、木魚が妖怪化した「木魚」だるまなどなど、いろいろなモノが化けた妖怪が登場しています。天井嘗という器物なのか判定できない例外もいます。
つまり、五徳猫は五徳が猫に化けた妖怪なんです! だから五徳が置かれる囲炉裏も一緒に描かれているんです。解説も絵もネコが五徳をかぶっているために、勘違いされやすいです。
五徳猫 5
初めに、五徳猫についての話を少しだけ紹介する。昔、秋田にとても猫好きな男が居た。その男は、葬式がある度に自分の飼い猫に死人の気を吸わせていた。ある日、男が家を出ている間に、その猫が男の妻に話し掛け、舞まで踊ってみせた、という話である。ここでは、五徳猫は普通の猫から妖怪に成っている。つまり、猫又(化け猫)である。他に、五徳猫は“五徳”の付喪神とされることもある。
“五徳”とは、三本又は四本の足がある鉄の輪で、囲炉裏や大鉢の中に立てて鉄瓶や薬缶等をかけるのに用いる。家に火鉢があったりするならば、見たことがあるだろう。五徳は丑の刻参りの時にも用いられる。大抵の人はご存知だろうが、五徳の足を上にして、その足の一本一本に蝋燭を灯す。それに白装束を合わせるのだ。このような五徳のオカルト的要素も、妖怪である五徳猫と結び付けられる。他に五徳には、『五つの徳』(儒教では『温・良・恭・倹・譲』、武家では『智・信・仁・勇・厳』)という意味もある。
『平家物語』の成長に携わった信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)は、人前で舞曲『七徳の舞』を披露する際、七徳のうちの二つを忘れてしまった為、「五徳の冠者」という渾名を付けられた。五徳猫が舞を舞ったという話が生まれたのも、行長の『五徳の舞』と少なからず関係があるのかもしれない。
五徳猫は、常に囲炉裏や火鉢の傍に居て、人が居なくなると自分で火をおこすと言われる。現代でも猫は比較的暖房機具の傍に居るというイメージが強い。秋田の冬は厳しいので、昔の猫もずっと囲炉裏等の近くに居たのだろう。そこから猫と五徳が結び付き、五徳猫なる妖怪が生まれたのだと思う。自ら火をおこすという技も、人の家で長く暮らし、長い間人と接してきた老齢の猫だからこそできるのであろう。猫は、どんなに長く人と一緒に過ごしてきたといえども、掴めなく神秘的な動物である。
百器徒然袋 (ひゃっきつれづれぶくろ)
1784年(天明4年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集。上中下の3巻。『画図百器徒然袋』とも。
『画図百鬼夜行』『今昔画図続百鬼』『今昔百鬼拾遺』と続いた石燕の妖怪画集の中でも最後に刊行されたもの。鳥山石燕の刊本作品としては最晩年(石燕の没年は1788年)の作のひとつである。
内容は室町時代から江戸時代にかけて御用絵師たちが多く画題として用いられてきた百鬼夜行絵巻に登場する妖怪を題材としたものが多く、同絵巻に器物を素材とした妖怪が多い点から本作にも道具の妖怪たちが数多く描かれている。石燕自身による本書の序文には、百鬼夜行絵巻を見たあとに夢のなかに出て来た妖怪たちを描いたと記しており、先行している3種の妖怪画集に較べると、妖怪そのものの題材として求める典拠にばらつきはなく、一貫した制作構成をとっている。巻頭と巻末には七福神と宝船が描かれているが、これは先行する『今昔百鬼拾遺』での「隠れ里」や『今昔画図続百鬼』での「日の出」と趣向を同じくするものである。
『百鬼夜行絵巻』を手本とした石燕の創作による妖怪が多数を占めており、その題材となった器物に関連する故事や歌を『徒然草』や謡曲などから引き、その連想を膨らませている。例えば塵塚怪王。・文車妖妃は『百鬼夜行絵巻』に登場する妖怪を題材に描き、『徒然袋』にある「塵塚の塵、文車の文」という「見苦しいもの」のたとえとして挙げられた二つの事物を妖怪の名前に用いたものである。松明丸や栄螺鬼に用いられている妖怪は東京国立博物館所蔵の『百鬼夜行絵巻』の系統にみられるもので、真珠庵本系統の『百鬼夜行絵巻』にはみられないものである点から、石燕が参照した絵巻は真珠庵本系統のもの以外の構成を含んだ複数の系統の図様が描かれたものであったとも考えられる。
それ以前の作品とは違い、各妖怪に対して「夢のうちにおもいぬ」という文などが示されるのも石燕自身による創作を明確に示している。 
 
猫娘
 

 

ネコの風貌、生態、仕草などの特徴を持つ人物やキャラクターの呼称。
見世物の猫娘
宝暦・明和年間(1751年から1771年まで)の江戸、京都、大阪では、見世物小屋で障害者を見世物にすることが流行しており、その最中の1769年(明和6年)に江戸の浅草で、ネコのような顔つきの女性が「猫娘」と称して見世物にされていた。こうした障害者の見世物は、後に安永・天明年間(1772年から1788年まで)にかけて最も盛んになったものの、猫娘はそれほど評判にはならなかった。
古典の猫娘
1800年(寛政12年)刊行の読本『絵本小夜時雨』巻五にある奇談「阿州の奇女」によれば、阿州(現・徳島県)の富豪の家に男を嘗める奇癖を持つ女がおり、その舌がネコのようにざらざらしていたことから「猫娘」の名で呼ばれたという。妖怪をテーマとした1830年(天保元年)の狂歌本『狂歌百鬼夜興』にも「舐め女(なめおんな)」の名で登場するが、妖怪ではなく、奇人変人の類である。
江戸時代の政情や世相を描いた古書『安政雑記』には、実在の人物として以下のような猫娘の記述がある。

1850年(嘉永3年)、江戸の牛込横寺町に、まつという名の知的障害の少女がいた。幼い頃から彼女は奇癖があり、家の長屋で生ゴミとして捨てられた魚の頭や内臓を食べ、さらには垣根の上や床下を身軽に駆け回り、ネズミを捕まえてむさぼり食っていた。そのネコのような奇行から「猫小僧」「猫坊主」とあだ名され、「深き因縁にて猫の生を受候哉」と噂された。この奇行を心配した母親は医者や神仏に頼ったが一向に効果はなく、厳しく仕置きしても無駄で、遂には剃髪させて尼僧に弟子入りさせた。それでもやはり魚の内臓を拾って食べるような奇行は収まらず、尼僧にあるまじき悪癖の持ち主として家へ帰された。まつは周囲の子供たちには格好のいじめの標的だったが、たとえ子供たちに追われても、ネコのような身軽さで家の屋根に飛んで逃げるので、誰にも手出しすることはできなかった。一方で大人たちには、家を荒らすネズミを捕ってくれることから大人気で、彼らに銭を握らされ、親には内緒にすると言い含められたまつは、近所の床下やゴミ捨て場でネズミ捕りに耽っていたという。  
嘗女 1
江戸時代の絵本読本『絵本小夜時雨』五之目録にある奇談「阿州の奇女」に登場する怪女。原典での名は後述するように「猫娘」だが、後の天保元年(1830年)の狂歌本『狂歌百鬼夜興』には「舐め女(なめおんな)」の名で登場しており、昭和・平成以降の妖怪関連の文献では「嘗女」の名で記載されていることが多い。
かつて阿波国(現・徳島県)の富豪の家に娘がいた。この娘は大変器量が良かったが、なぜか男の体をやたらに嘗め回す奇癖があった。
あるとき、娘の美貌に魅入られた若者が婿に入った。いざ寝床に入ったところ、娘は若者の頭から足先まで全身を嘗め始めた。その舌はまるで猫の舌のようにざらざらとした感触であった。若者は気味悪がり、たちまち逃げ出した。以来、この娘は「猫娘」と呼ばれたという。
なお前述の『狂歌百鬼夜興』は妖怪を主題とした狂歌本だが、この「嘗女」は妖怪ではなく単に奇癖を持った人間、奇人変人の類であり、かつてはそのような奇矯な性格の人間たちも妖怪同然に見なされていたとの見方もある。
寛政5年(1793年)の黄表紙『古今化物評判』にも「なめ女」の名があることから、当時はよく知られた存在と見られており、黄表紙にしばしば「油舐めの禿」と呼ばれる、行灯などの灯油を舐める禿が登場していることから、嘗め女はこの禿に類するものだったとも考えられている。 尾張藩士三好想山が著した『想山著聞奇集』(1850年)にも行灯の油を嘗める奇癖を持つ品川の飯盛女の話が収められている。前半は怪談めいているが、舌が荒れた時に行灯で温められた油を舐めると具合が良いので、それが癖になってしまった人も希にいるという話で締めくくられている。
一方で大正時代には、真木痴嚢による『狂歌化物百首』に「涎たれ接吻をねらふ色摩さへ なめ女には逃げ出すらむ」とあることから、人間を舐める女の妖怪が知られていたとの解釈もある。
嘗女 2
阿波国(現徳島県)に居を構えるある富豪の娘には、とても変わった性癖があった。それは男を嘗めるのが堪らなく好きというもの。なめてほしい。その女の舌はざらざらとしていて猫の舌のようでもあり、そのために猫娘とも呼ばれていた。なめてほしい。エピソードの書かれている『絵本小夜時雨』には、妖怪としてではなく奇人として書かれている。
ただ、江戸時代の黄表紙などにはよく出てくる妖怪でもあり、奇人変人の類が妖怪として描かれることが多かった証拠にもなっている。
このような変わった癖は、自然界から生まれた妖怪の特徴とは異なり誰にでも共感できる部分があったりするので、流行り易かったのではないかとも考えられる。 
 
黙阿弥の怪談 1
 

 

河竹黙阿弥
(旧字体/默阿彌、文化13年-明治26年/1816-1893) 江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村芳三郎。俳名に其水(そすい)。別名に古河黙阿弥。江戸日本橋生まれ。
江戸・日本橋の裕福な商家吉村勘兵衛の二男に生まれたが、若い頃から読本、芝居の台本、川柳や狂歌の創作にふけるようになり、14歳で道楽が過ぎて親から勘当されてしまう。貸本屋の手代となって生計をたてるようになるが、仕事はそっちのけで朝から晩まで読書三昧の日々を送る。これが将来の糧となる。
やがて「芳芳」の雅号で狂歌や俳句、舞踊などで頭角をあらわすようになると、天保6年(1835年)にはとうとう仕事を辞めて、芝宇田川町の踊りの師匠お紋(歌舞伎役者二代目澤村四郎五郎の娘)の紹介で、五代目鶴屋南北の門下となり、勝 諺蔵(かつ げんぞう)と名を改める。そもそも抜群の記憶力があり、『勧進帳』などは若い頃から読み尽くしているので、その全科白を暗記して難役・弁慶をつとめる七代目市川團十郎を後見、これで認められるようになる。天保12年 (1841年) 芝 晋輔(しば しんすけ)、天保14年(1843年)には二代目 河竹 新七(にだいめ かわたけ しんしち)を襲名し立作者となる。嘉永4年(1851年)11月江戸河原崎座の顔見世狂言『升鯉滝白籏』(えんま小兵衛)が好評で注目される。
立作者になってからもしばらくは鳴かず飛ばずだったが、四代目市川小團次と出逢ったことが大きな転機となる。嘉永7年(1853年)に小團次のために書いた『都鳥廓白波』(忍の惣太)は大当たりとなり、これが出世作となった。幕末には小團次との提携により『三人吉三廓初買』(三人吉三)や『小袖曾我薊色縫』(=『花街模様薊色縫』、十六夜清心)などの名作を次々に発表する。また、三代目澤村田之助には『処女翫浮名横櫛』(切られお富)、十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)には『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)などを書き、引っ張りだことなった。
慶応2年(1866年)に小團次は死ぬが、明治維新後もその筆は衰えなかった。この時代には明治歌舞伎を牽引した團菊左と不可分の作者として活躍する。この時期の代表作としては五代目尾上菊五郎に書いた『天衣紛上野初花』(河内山)、『茨木』、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)、初代市川左團次に書いた『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)、九代目市川團十郎に書いた『北条九代名家功』(高時)、『紅葉狩』、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)など、枚挙に暇がない。
生涯に書いた演目は300余。歌舞伎に西洋劇の合理性を取り入れようと試行錯誤した坪内逍遙でさえ、新七のことになると「江戸演劇の大問屋」「明治の近松」「我国の沙翁」と手放しで絶賛した。一方新七の方はというと、はじめのうちは九代目に乞われて活歴物をいくつか書いてはみたものの、その九代目が新聞記者出身の福地桜痴などと本格的に演劇改良運動に取り組み始めると、これに嫌気がさしてそろそろ作者家業もおっくうになってきた。明治14年(1881年)、團菊左のために散切物の『島鵆月白浪』(島ちどり)を書き上げると、これを一世一代の大作として引退を宣言し、さらにその名を黙阿弥(もくあみ)と改めた。
しかし黙阿弥に匹敵するような作者は当時他にはいなかった。結局黙阿弥は引退後も「スケ」(助筆)の名で事実上の立作者であり続けたのである。黙阿弥の存在はそれほど偉大だった。演劇改良運動の推進者ひとりだった依田学海は、自ら文化人を自負する漢学者だったこともあり黙阿弥を「馬鹿」と酷評したこともあったが、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)で主人公の宗五郎が最愛の妹を殺されて禁酒を破り酔態に陥ってゆくくだりを目の当たりにすると、「あのように書けるものではない。天才だ!」と絶賛している。やがて演劇改良運動が活歴の失敗という形で幕を下ろすと、黙阿弥改メ古河黙阿弥(ふるかわ もくあみ)の意欲的な創作活動は以前にも増して活発になった。そしてそれは最晩年まで変わることはなかった。
明治26年(1893年)1月東京歌舞伎座『奴凧廓春風』を絶筆として同月22日、本所二葉町の自宅で脳溢血のため死去した。享年76(満年齢)。

黙阿弥の作品の特徴としてまず第一にあげられるのが、俗に「黙阿弥調」とも呼ばれる華美な科白にある。たとえば『三人吉三』の序幕「大川端庚申塚の場」の「厄払い」と呼ばれるお嬢吉三の独白は、「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空……」と朗々と唄い上げる極めて洗練されたもので、しかも類語や掛詞を駆使した七五調の句が観客を魅了する。〆句の「こいつぁ春から縁起がいいわえ」とは、実は通りすがりの夜鷹を大川に突き落として金を奪ってみたところなんと百両もあったという、とんでもない幸運を素直に喜ぶ盗賊の浮かれ具合が言い表されているのだが、ここで強盗傷害犯の悪逆さを観客に微塵も感じさせないのが黙阿弥の真骨頂である。
黙阿弥が特にその本領を発揮したのは世話物で、特に盗賊を主人公に添えた一連の演目は「白浪物」として一つの分野を確立するまでに至った。黙阿弥の白浪物に登場する悪人は、いずれも小心者だったり因果に翻弄される弱者であり、そこがふてぶてしい極悪人が最後に高笑いするような大南北の作品と大きく異なる点である。
黙阿弥はまた、現実的な内容をあくまでも写実的に、それでいてどこまでも叙情的に描くことに秀でていた。黙阿弥の演目の多くは市井の人、それも社会の底辺で喘ぎながら、毎日を綱渡りのようにして暮らしをしている者を主人公としている。それでいて下座音楽に浄瑠璃が多用されているため、全体の雰囲気が陰鬱さに包まれることがなく、情緒豊かで印象的な叙事詩に仕上げられている。
明治以後は『船弁慶』や『紅葉狩』などの松羽目物の作詞も行った。晩年には自作の演目を全集としてまとめた『狂言百種』を発行している。 
■1、黙阿弥の怪談
江戸末期に活躍した黙阿弥は、多くの怪談及び怪異な題材を扱った作品を手掛けている。
維新以後も黙阿弥は精力的に活躍を続けるが、維新後の初の怪談作品は『好色芝紀島物語』(明治2・1869年、守田座)である。黙阿弥は、自分を世に出した協力者であった小団次(慶応2年死去)の影響で、講談を歌舞伎化する手法を身につけており、怪談もこの例に漏れない。
以後、惨殺された大工の霊が陰謀を伝える『宇都宮紅葉釣衾』(講談『宇都宮釣天井』を脚色、明治7・1874年、守田座)、同じく責め殺され亡霊となって陰謀を伝える『筑紫巷談浪白縫』(明治8・1875年、新富座)伝奇的な『吉備大臣支那譚』(『吉備大臣』明治8・1875年、河原崎座)、諌言し続けて手討ちになったが、亡霊となっても諌言し続け主君を改心させる『花紅葉根津神籬』(明治11・1878年、都座)をへて、『木間星箱根鹿笛』(『木の間の星』、明治13・1880年、新富座)を発表する。
『木間星箱根鹿笛』は開化期の文学芸能において、怪談を扱う際に幽霊や怪異の存在を心の病とする病理説に基づくもので、三遊亭円朝の落語『真景累ヶ淵』と並んで「神経病の怪談」として有名である。円朝同様、黙阿弥自身が「怪談神経病説」を心底から是認していないことがこの芝居の台本には表れているが、ともかくも「怪談神経病説」を題材にして作品を書いたことは事実である。
黙阿弥作品の維新前・近代以前と以後の総合的な比較は、様々な論者が行っており、黙阿弥が近代の題材を扱って歌舞伎を創作した点はどの論者の見解も一致しているが、作品の評価は両極をなしている。開化期以後の作品は、題材としては近代社会の事物を扱っているものもあるが、とらえ方や描き方は江戸期そのままであるためほとんどが失敗作であるという評価と、江戸期に生きた作者でありながら開化期以後の事物を描いてそれなりに成功しているという評価がある。怪談においては、黙阿弥自身が「怪談神経病説」を是認せず新時代の風物として取り上げていると著者は考える。「怪談神経病説」を逆用している観さえある。
しかし、この後、黙阿弥は、新時代のものの見方をうまく逆用して怪談劇を書くのをやめてしまう。同年以降の主な怪談としては、世話物は、『有松染相撲浴衣』(明治13・1880年、猿若座)『嵯峨奥妙猫奇談』(竹柴金作の作で黙阿弥は助、明治13年・1880年、市村座)『新皿屋舗月雨暈』(明治16・1882年、市村座)吉原の女を思い生霊となって悩まし、女の兄に殺されては死霊となって兄に女を殺させる清玄の名を借りた作品『浮世清玄廓夜桜』(明治17・1893年、市村座)『北条九代名家功』(明治17・1983年、猿若座)六代目菊五郎の死神が登場する『盲長屋梅加賀鳶』(『加賀鳶』、明治19・1895年、千歳座)『五十三駅扇宿付』(『岡崎の猫』明治20・1886年、中村座)、『因幡小僧雨夜噺』(明治20・1888年、中村座)があり、浄瑠璃・所作事として『土蜘』(明治14・1880年、
新富座)『釣狐』(明治15・1881年、春木座)「茨木」(明治16・1883年、新富座)『船弁慶』(明治18・1884年、新富座)、『紅葉狩』(明治20・1887年、新富座)がある。
黙阿弥の怪談は、「怪談神経病説」への批判から撤退したかのように見られるが、『北条名家九代功』は活歴物及び能作品の歌舞伎化は『新歌舞伎十八番』(『土蜘』『茨木』『船弁慶』『紅葉狩』)の一環であり、どちらも九代目市川団十郎の提唱により創作されたものである。これまでのものとは創作された経緯が異なるものの、文明開化後の時代に古典的な怪異を継承しようとする姿勢と古典劇の怪異を精緻かつ詳細に描写して実在であるかのごとく描こうとする姿勢はうかがえる。
『有松染相撲浴衣』は「有馬の猫騒動」を描いた作品である。化猫物のルーツは、岡崎の猫を扱った四世鶴屋南北作『独道中五十三次』(文政10・1827年、河原崎座)であり、以後大流行しているが、黙阿弥は、これを改作して『五十三駅扇宿付』(明治20・1887年)としている。南北の作では姉妹ともに殺害され化猫は逃げ去るが、黙阿弥の改作では化猫は猟師によって仕留められながらも、化猫の祟りで一家は滅亡する。
『新皿屋敷月雨暈』は皿屋敷伝説に取材した歌舞伎だが、この皿屋敷伝説は江戸期の百物語や随筆や講談などに見られ、黙阿弥以前にも劇化されている。最初の劇化は『播州評判/錦皿九枚館』(歌舞伎、亨保5・1720年、京都・榊山座)であり、以後、『播州皿屋鋪』(浄瑠璃、寛保元・1741年、大阪・豊竹座)、『彩入御伽草』(歌舞伎、文化5年、江戸・中村座)などの歌舞伎や浄瑠璃が先行している。『新皿屋敷月雨暈』をこれらの先行する演劇と比較すると、題材としてはお家騒動と連結されており番町皿屋敷よりも播州皿屋敷の系譜であることがわかる。愛妾であったが、悪事を目撃して無実の罪を着せられ讒言されて無残に殺害されるお蔦の幽霊の出現は、無実の罪で殺害される『好色芝紀島物語』の敷島や『有松染相撲浴衣』のお牧の流れであろう。黙阿弥の維新後の作品は非業の死を遂げた女性の幽霊の出現が多いが、決して女性の幽霊自体が復讐するわけではない。
『北条九代名家功』で北条高時が天狗を見る話の原典は『太平記』である。『太平記』のこの部分に比べてずっと精細な描写によって描かれている。
また、『土蜘』『釣狐』『茨木』『船弁慶』『紅葉狩』は能を舞伎化した作品である。『土蜘』は、『平家物語』剣の巻を典拠とした能『土蜘蛛』との比較だけではなく、能『土蜘蛛』が古浄瑠璃『頼光跡目論』や近松門左衛門作の浄瑠璃『関八州繋馬』、金井三笑作の常磐津『蜘蛛糸梓弦』(明和2年、江戸・中村座)、初代桜田治助作の長唄『我背子恋の相槌』(天明元年、江戸・市村座)、三世桜田治助作の常磐津『来宵蜘蛛線』(天保8年、江戸・市村座)、長唄『土蜘蛛』(常磐津『蜘蛛の糸』改作、三世杵屋勘五郎作曲、文久2年)等に取り入れられたため、これらの先行作品との比較も必要である。市川家の『勧進帳』に対抗するためにかなり能に近いものとなっていると考えられる。
また、『茨木』は、謡曲『羅生門』との比較が必要であるが、これも『兵四阿屋造』(寛保元・1741年、江戸・中村座)、長唄『渡辺綱館の段(綱館)』(杵屋勘五郎作曲、明和2年)をへている。『紅葉狩』も謡曲『紅葉狩』との比較が必要である。
この論考では、これらの維新以後の河竹黙阿弥の作劇の変遷を怪談への取り組みと姿勢という観点にしぼってみてゆきたい。
■2、『好色芝紀島物語』
講談『敷島怪談』から作られ、三世沢村田之助のために書き下ろした通し狂言である。三世沢村田之助は芝居中の事故により脱疽となり、やがては四肢を失い発狂して死亡した悲劇の役者として名高いが、既にこの時片足を切断していながら敷島とお玉の一人二役を早変わりで演じたという。
敷島は吉原三浦屋の有名なおいらんであるが、かつての同僚の遊女お玉がこの店の女将になっており内心嫉妬心をいだいている。女郎屋での盗難事件が相次いだ際に、遣手婆お爪と源四郎(実は女将の情人)の悪巧みにより、敷島は無実の罪をせられて幼い娘ともども残虐な折檻を受け、死へと追いつめられる。後に、真相を知った主人により、お玉、お爪、源四郎は三浦屋から追い出され、お玉と源四郎は府中に行き、青山主膳の援助で女郎屋を始める。一方、敷島の恋人である藤代屋十三郎や漁夫で自分が敷島の実父であることを知った五平次らは、敷島の無実を知り、三人の下手人を探す。やがて、五平次が、人徳のある国分寺の代官足利満詮に直訴したことで、三人の悪事が明るみに出る。危機を感じた青山主膳は、お爪を殺害し、お玉に源四郎を殺害させる。満詮の近臣が調査に現れ、捕り手に囲まれお玉と主膳は討たれるという内容である。
この芝居には、敷島の幽霊が出現する場面が幾つかある。
最初に敷島の幽霊が出現するのは、源四郎が敷島の遺骸を古い葛籠に入れて海に流した後のことである。葛籠を橋から投げ込んだ後に、人魂が出現する。
何だ人魂か、おらア時節違ひの花火かと思つた、あんまり白癡脅しな、ふん、(ト肩で笑ふを道具替りの知らせ、)笑わせやアがらア。
源四郎は、当初、このように自分が殺害した敷島の人魂を馬鹿にするしたたかなあくどさを見せている。直後、夕立のような激しい雨が降ってきたため、源四郎は辻番小屋に助けを求める。後に、辻番の傳助が敷島の幽霊を目撃するが、源四郎には見えない。

傳助 おや、辻行燈の燈火が消えたが、油は澤山ある筈だが。(ト弓張提灯へ燈火を點し持ち來り、辻行燈へ點さうとすると、仕掛けにて燈火附く、傳助びっくりなし、)あれ、燈火が附いた、何だか薄気味の悪いことだ。(ト言ひながら敷島を見て、)そこに居るのは女の様だが、あゝ、お前あの人の連かえ。
  トこの聲に源四朗目を覺し、
源四 え、何と言ひなさいますえ。
傳助 あそこに居る女は、お前の連れだらうといふことよ。
源四 いゝえ、私ヤあ連れはござりませぬ。
傳助 はゝあ、それぢやあ別か、何にしても其處に居ちやあ濡れるから、お前も此方へ上んなせえ、何を言つても黙つて居る女だ、ああ恥かしいのか、何も恥かしいことはないから、遠慮なく此方へ上んなせえ〳〵(ト言へども、源四郎には見えぬ思入。)
源四 もしもし、その女といふのは、いつたいどこに居るのでございます。
傳助 こなたも若いくせに、眼の悪い、それ、其處に居るわな。
源四 え。(ト少し薄気味わるきこなし、)
傳助 あゝ、お前女郎だな。
源四 なに、女郎。
傳助 それ見なせえ、知つて居るのだらう、大方お前が連れてゞも逃げて、髪の亂れて居る鹽梅では、よい中の戀爭いで、道で喧嘩でもしたのぢやあないか。
源四 もしもし、もう止しておくんなせい、ちつと此方に覚えがあれば。
傳助 え。
源四 何さ、ちつとも覺えのねえことを。
傳助 それでもお前の顔を、恨めしさうに、あれ、見詰めて。
源四 何だか不気味な。(トぞつとせし思入にて立上り、四邉を見廻す、敷島源四郎の目先へずつと顔を出す、源四郎暗き思入れにて透し見て、)や、敷島か。
  トびつくりして、どうと下に居るを木の頭、敷島柱の際へ立上る、傳助はこれを見て式臺へ俯伏せになり、着物をすつぽり被る、源四郎は逃げようとし逃げられぬ思入、敷島だんだん柱へ消えるをきざみ、大ドロドロにてよろしく、

敷島は、過酷な折檻を受け自殺しようとしたが、途中で現れた源四郎にとどめをさされた。傳助にしきりに問われているうちに、とうとう源四郎にも敷島の姿が見える。源四郎は殺害した敷島の死体を海に捨てたばかりであり、敷島の霊は出現したばかりである。死体を捨てて初めて人魂になり幽霊になるという幽霊の誕生の経緯が描かれている。この場面を見る限り、死体が捨てられる→拠り所が無くなる→人魂・幽霊になる、という流れになっている様が読み取れる。
また、人魂を見た当初はふてぶてしかった源四郎が少しずつ薄気味悪くなり、ついには敷島の幽霊を自ら見て逃げようとするまでの心理の変化が描かれているが、この描き方は、傳助が幽霊を見る→傳助が幽霊の様子を語る→源四郎が次第に薄気味悪くなる→源四郎が敷島の幽霊を見る、と言うように段階を踏んでじわじわと恐怖へと追い込んでゆく手法であり、怪談として非常に良くできている。
再び敷島の幽霊が表れるのは、敷島を死に追いやることを命じたお玉と手を下した源四郎が三浦屋の主人に真相を知られて追い出されて、昔、お玉を好いていた青山主膳を頼って府中に向かう場面である。

  源四郎は土手へ下り、水にて手を洗はうとして、びつくりしてふり払ひ、ぱつと本水かかり、
源四 誰だ、おれの手を引張るのは。
お玉 源さん、何だえ。
源四 水の中で,手を引張つた。
お玉 河童ぢやアないかえ。(ト源四郎又洗はうとして、)
源四 えゝ、又引張りやあがる。(ト水の中を見る、波の音になり、セリの穴より誂への葛籠浮上る、源四郎見て、)や、この葛寵は覚えのある、家の印を引ツペがして、海へ流した古葛籠。
  ト源四郎葛籠を引き寄せ、印の跡を見る、お玉ぞつせし思入にて、
お玉 あゝ、いやな風が吹いて來た、身の毛が立つほどぞつとする。
  ト辻堂の内へはひり、狐格子をしめる、これと一緒に源四郎は葛籠の紐を解き、
源四 もう一月の上になるから、死骸は腐つてしまつたらう。(ト蓋を明ける、兩窓をおろし、一つ鉦にて源四郎葛籠の内を見て、)や、まだ生々しい、此の死骸、(ト髻を持つて引き上げる、敷島殺されし時の薄色の装にて目をねぶり、半身出る、)恨みの念が殘つてか、死んだ時に少しも替らず、こりやアうぬは迷つたな。(ト寢鳥になり、敷島眼を明き、源四郎をきつと見て、)
敷島 えゝ恨めしい源四郎、よくも此の身に濡衣着せ、非業な最期をさせしよなあ。
  ト敷島恨めしさうに源四郎の顏をきつと見る。
源四 なに、源四郎が恨めしい、恨めしくば取り殺せ、腕に力はねえけれど肚胸で賣出す敵役、憎まれるのは合點だ。さあ、取殺すなら殺して見ろ。(ト手を放し、顔へ唾を吐き掛ける、敷島顔をづつと出し、)
敷島 恨みの一念この土に止まり、取り殺さいでおくべきか。
源四 えゝ、うぬ等に殺されて、(ト葛籠の蓋をしやんとなし、)つまるものか。
  ト葛籠へ片足踏掛け、きつと見得、此の時辻堂の横手の窓より、お玉顔を出し、
お王 源さん、何だえ。
源四 葛籠へ入れてぶち込んだ、敷島の死骸が流れて来たのよ。
お玉 早く突き出しておしまひな。
源四 むゝ、合點だ。
  ト側にある水死人の卒堵婆を取つて葛籠を突き出す、波の音にて下手へはひる。雨車になり、
お玉 おや、ばら〳u12341 .降つて来たよ。
源四 丁度葛籠をぶち込んだ、あの晩の雲行きだ。
お玉 たんと降らねえうちに。
源四 ちつとも早く出掛けよう。(ト空を見て、)こいつは今にどつと來るわえ。
お玉 金はなし、困るね。
源四 爰に菰がある、是れを引ツ掛けて行かう。(ト両人手拭を冠り、)
お玉 何だか眞闇だね。(ト窓より引込み、狐格子を明け、手拭を冠りしお玉の吹替さぐりながら出る。)
源四 危ねえ、手を取つてやらう。
  ト源四郎吹替の手を取つて下へおろし、二人して菰を引張り行かうとする、この時ばつたりと音する、源四郎吹替を圍ひ窺ふ、下手の薮を押分け、十三郎逆熊好みの鬘、着流し大小雪踏にて出で兩人を窺ふ。時の鐘きびしく、忍び三重模様の合方になり、源四郎吹替に菰を着せ、手を取り行かうとするを、十三郎立ち塞がりちよつと立廻リ、此の時下手へもやひの解けたる棹の附きたる小舟流れて來る、土手の上にては三人立廻りあつて、上手に十三郎下手に源四郎、眞中に吹替裏向にて見得、これより葛西念佛の間へ狸囃子を冠せし誂への鳴物になり、下手よりお爪遣手にて尻端折り、焼印のある雪踏を持ち、窺ひながら出來り、此の中へはひり源四郎を尋ねる心にて、探りながらだんまり模様の立廻りよろしくあつて、トド吹替、土手よリ船の内へすべり落ち、其のまゝ菰を冠り、俯伏になり居る、源四郎續いて船へ飛び込まうとする、お爪捕へようとするを十三郎隔てる、此の時大ドロ〳u12341 .になり、上手柳の立木へ陰火燃え、敷島の亡霊出で源四郎を引戻す思入、源四郎後髪を引かれる心にて、たぢたぢと戻り、十三郎に行當る、爰(ここ)へお爪割つて入り、ちよつと立廻つて上手にお爪.下手に源四郎、十三郎眞中にて敷島を見上げ、
十三 やゝ、柳の下にありありと、見えし姿は正しく敷島。
お爪 さては魂魄、
源四 中有に迷ひ、
敷島 恨みを晴らさでおくべきか。
  トお爪源四郎上下へ逃げ行くを、れんり引に引き戻される、十三郎、これを見て、
十三 はて、執念深い、
  ト此の時非人兼出で、うぬと十三郎に組附くを、抜打ちに浴びせる、敷島白刃に恐れる思入、これと一時に、お爪上手の土手からすべり落ち、卒塔婆にすがり上を見上げる。源四郎は下手の船へ飛び込み、棹を突ッ張る、十三郎刀を引き、兼見事に轉る、これを木の頭。
  女だなあ。
  ト大ドロドロにて、敷島柳の下へ消える、十三郎は刀の糊紅を拭ふ、お爪はほつと思入、源四郎は船に乗り、棹をさし花道附際まで行く、この模様よろしく大ドロドロにて
  ひやうし  幕
  ト幕引附けると波の音にて、源四郎ほつと思入あつて棹をさし、花道よき所まで行き、艫の方へべつたりとなり、やれ嬉しやといふ思入にて、手拭を出して汗を拭ふ、此の時、お玉菰を刎ねのけ、
お玉 源さん、どうした。
源四 どうしたどころか、がつかりした。
お玉 意気地のねえ男ぢやあねえか。
源四 それだつて出たものを。
お玉 何が。
源四 幽霊がよ。
お玉 それがお前怖いのか。
源四 怖くねえこともねえ。
お玉 それぢやあ圓朝の話しは聞けねえよ。(トこの時薄ドロドロにて船の中へ陰火燃える。)
源四 それ、其處へ陰火が燃えた。(トお玉見て、)
お玉 煙草入を賃してくんな、陰火を借りて一服呑まう。
源四 いや、呆れたちのだ。(ト叺煙草入を出すをお玉取る、これにて陰火消え、お玉立上り、)
お玉 さあ、ぐづぐづせずと早く遣んねえ。(ト舳の方へ腰を掛け、銜え煙管にて憎體に摺火打を打つ。)
源四 いや、亭主遣ひの悪い女だ。(ト源四郎立上り、棹を取直す。)
お玉 えゝ、じれってえ、さつぱり附かねえ。

葛籠に入れて流したはずの遺骸が、殺害者の元に流れ着き怨霊が現れると言うのは南北の『東海道四谷怪談』(文政8・1825年、江戸・中村座)を思わせる怪異のくだりである。
最初は、「とり殺すなら殺してみろ」と、敷島の幽霊の顔に唾を吐きかけて強がり、お玉の命令で水死人の卒塔婆で敷島の乗った葛籠を川へ突き出す源四郎だが、やがて途中から現れたお爪とともに敷島の幽霊に引き戻されて、恐怖を感じるようになる。一方、お玉の方は実際に敷島の幽霊を見たわけではないので、ふてぶてしい。『妲妃のお百』(桃川燕林の講談)にある殺害した夫の人魂でタバコに火をつけるくだりを取り入れ、悪女のふてぶてしさを描いている。
幽霊は、加害者の元へは恨み憎しみの念によって現れ、親しい者の元へはいとしい一念で現れる。敷島の幽霊は、自分を弔っている十三郎の元へも現れる。

十三 そなたがあの世へ先立つとは、神ならぬ身の露知らず、二世の誓ひを此のやうに、取交したる血起請も、今となりては反故同然、輪囘の絆を打ち切る爲め、此の血起請を火中なし、亡き敷島を弔はん。
  後の世掛けし血起請を、煙となせば風立ちて、軒端にそよぐ呉竹の葉音も凄き秋の聲、ト此の十三郎守袋より起請を出し、思入あつて、側にある火鉢へ打ちこむ、掛焔硝ぱつと立ち、ドロドロになり、十三郎うつとりとなる、鼓、唄掛りになり、
  ありし廓の面影も、此の世を去りて亡き魂の、夫子に引かれ髣髴と傍の籬に敷島が、
  ト焼酎火ドロ〳〵寢鳥になり、掛焔硝ばつと立ち、件の火鉢の中より、敷島幽霊のこしらへにて出で、上手よき所まで行く、此の文句の留り、引抜きになり、
  部屋着の儘の立姿、
  トドロドロにて、敷島部屋着好みのこしらへになり、十三郎心附き敷島を見て、
  やゝ、そなたは敷島、どうして爰へ。
敷島 あい、お前に一目逢ひたさに、廓を脱けてやうやうと、幾せの思ひで来ましたわいな。
十三 むゝ、そんなら非業な死を遂げし、噂ありしは偽りにて。
敷島 さあ、旣にわたしや死ぬ所、危い命を助かりて、やつぱり此の世に居ますわいな。
十三 さては形見と思つたが、この片袖は心得ず。
敷鳥 いえいえそれはわたしの小袖、葛籠の内へ入れ置きしが、廻り廻りてお前の手ヘ。
十三 それと知つたら互ひの起請、火中するではなかつたに。
敷島 えゝ聞えぬわいな十三さん、そもや二人の馴れそめは、
  七歳後の文月に、初會からして馬鹿らしい勤め放れし蚊帳の内、惚れた心がすいて見え、二階に浮名立つ秋や、
  二度の月見も早や過ぎて八ツ口厭ふ五月帯、子持高尾の古へを、忍ぶ紅葉の染模様、血汐の起請反放となし、切れる心でござんすなら、これが別れと情なくも、立つを引留め十三郎、
  其の疑ひは無理ならねど、秋の日和の替るとも替らぬ心汲み分けて、機嫌直してくりやいのと、留むれば拂ふ女郎花嵐にくねる風情なり。
  ト此の内敷島十三郎口説の振りよろしくあつて、合方になり、
十三 さあ、わしに替りはない程に、心を直してくりやいの。
敷島 いえいえ何と言はしやんしても、所詮添はれぬ譯あれば、血汐の起請も今は反故、お前と女夫になられぬわいな。
十三 なに、ニ人が女夫になられぬとは。
敷島 さあなられぬ譯はお袋さまが、お前と女夫になさるとてお貰ひなされたおみつさん、一ツになられぬ其の時は、髪をみろして尼となり、一生男を持たぬとやら、もしも其のよなことがあつたなら、是れも誰ゆゑ敷島ゆゑと、お袋さまがお恨みなされう、爰の道理を思ふ時はどうでも添はれぬ二人が中、それゆゑ思ひ切る程に、おみつさんと睦じう添うてあげて下さんせいな。
十三 すりやそれゆゑに此のわしを、今日からふツつり思ひ切り、おみつと女夫になれと言やるか。
敷島 その替りには、わたしと思ひ、
  二人の中のお和歌をば、行末長う見捨てずに不便を掛けて下さんせ、又ニツには百萬年、御壽命過ぎてあの世では、
  どうぞわたしと睦じう、女夫になつて下さんせ。
十三 おゝ、そりや言はずとも知れたこと、夫婦は二世といふからは、
敷島 彌陀の御國に、世帯して、
十三 一ツ蓮に差向ひ、
敷島 何方が先きへ行かうとも、
十三 半座を分けて待つ心。(ト敷島思入あつて、)
敷島 それでは迷はず、
十三 や。
敷島 嬉しいわいな。
  これが別れと敷島が口には言はねど閻王の、修羅の迎ひのしげゝれば心急るゝ折柄に、
  ト此の内薄ドロドロ敷島名殘惜き思入、ばたばたになり奥より以前の和歌野走り出來たり敷島を見て、
和歌 や、お前はおいらん。(ト敷島びつくりなす、)
  親子は一世草の葉の露と消え行く秋の夜も、覺むれば春の夢見草形見ばかりぞ。
  ト此内敷島立ち上り、和歌野縋るを振切り行かうとする、十三郎これを留める、トゞ大ドロドロになり掛焔哨パツと立ち敷島仏壇の中へ消える、和歌野行こうとするを十三郎二枚折の屏風で隔て、この蔭へ兩人隠れる、これにて伊豫簾を下しC元連中を消し、道具居所替りになる。
  (五平次内佛間の場)=本舞薹三間の間常足の二重、向うの暖簾口上手古びたる佛壇、白木の位牌佛具よろしく飾り、下手鼠壁に替り上手の屋體打返して中窓のある鼠壁、いつもの所海苔粗朶の垣根、下の方二階下よりあふり、船板の塀に替り。よろしく道具納まる。
  ト床の浄瑠璃になり、
  吹送る濱邊の風に見し夢も、破れ屏風の二枚折り、目覚めて起きる十三郎
  トドロドロにて、日覆より心といふ字を屏風の内へ引いて取り、ドロドロを打上げ、屏風を取りのける、内に十三郎目の覺めし思入、側に和歌野俯つ伏せになり居る。
十三 さては今のは夢であつたか(ト本釣鐘を打込み、)非業に死せし敷島が、後世の苦患を助けんと、位牌に向ひ囘向をなす内、まどろむともなく見し夢にありあり姿顯はして、詞交せし嬉しさも覺めて悔しき玉の緒の、果敢なく切れし敷島が迷うて会いに來たりしか、又おいらんと聲かけて縋り寄りし小坊主は正しく娘和歌野なりしが、案じる故に見たることか、是れも心の疲れぢやなあ。
  歎息なして吐息をつき、傍を見れば俯伏せに、居睡り居るは以前の小坊主。
  ト十三郎思入あつて、和歌野を見て、
  やや、爰に居るのは今見たる、夢のうちの慥に小坊主。
  起きよ起きよと搖り起こせば、(ト十三郎和歌野を搖起す、和歌野目を覺し、)
和歌 やあ、十三さんか、逢ひたかつたわいな。
  縋り附けば顏打ち見やり、(ト和歌野十三郎に縋り附く、十三郎見て、)
十三 さういふのは和歌野か。(ト顏をとつくり見て、)おお、和歌野だ、和歌野だ、よく無事で居てくれたなあ。
  抱きしむれば嬉しげに、
和歌 十三さん、今爰に居たおいらんは、何處へ行かしやんしたぞいな。
十三 そんならそちも爰に居て、同じ夢を見やつたか。
和歌 あい、お師匠さまのござる内、つい睡くなって寐ましたが、それでは夢でござりましたか。
十三 おゝ、夢ぢやわいの。
和歌 夢なら覺めずに、居てくれゝばよいに。

十三郎は、敷島が現れたことを夢としているが、二通りの解釈をしており、愛しあっていた敷島が悔しくて迷って逢いに来たのか、それとも敷島や和歌野を思う故に見たことか、いずれにしても「心の疲れ」によるものとしている。ここには、既に、後の『木間星箱根鹿笛』において幽霊を見るのは「神経病」とする明治開化期に流行した「怪談神経病説」につながる解釈が登場している。しかし、この芝居は『好色芝紀島物語』だが、副題は『怪談敷島物語』であり、怪談をテーマとしていることは間違いない。『木間星箱根鹿笛』も副題が『おさよの怪談』であり、黙阿弥は維新後も怪談を怪談として描くことに積極的であったと思われる。
『好色芝紀島物語』では、敷島の幽霊は悪事をたくらんだ者たちを驚かし怖がらせ、また真実を愛するものに語りはするが、幽霊自身の力により悪事をたくらんだ者たちを滅ぼすことはない。
■3、『新皿屋鋪月雨暈』
小幡小平次や宇津野谷峠、佐倉宗吾などの男性の幽霊を多く扱った江戸期と比して、黙阿弥の維新後の怪談には女性の幽霊が目立っている。『好色芝紀島物語』だけではなく『木間星箱根鹿笛』『新皿屋鋪月夜雨暈』における幽霊、化猫が女性に化身する怪異と言うことでは『有松染相撲浴衣』と、女性の幽霊や物怪が目立っている。
『新皿屋鋪月夜雨暈』では、磯部の愛妾お蔦は、謀略を聞いてしまったために、事実無根の讒言をされ、無残に殺害される。美しい女性が謀略に巻き込まれ事実無根の讒言で無惨に殺害されるパターンは『好色芝紀島物語』『有松染相撲浴衣』と共通であり、また謀略で無惨に殺害という部分だけで見るならば『木間星箱根鹿笛』をもそれに加えることができる。
『好色芝紀島物語』と同様、『新皿屋敷月雨暈』もまた非業の死を遂げるお蔦の幽霊は、幽霊自身の力で悪を滅ぼすわけではない。悪人を驚かし、信頼する人のところに現れ真実を語る。
お蔦は、磯部主計之介の愛妾だが、岩上吾太夫・典蔵親子らの主家の実権を握るための陰謀を聞いてしまったために、岩上親子に狙われる。猫を探しに庭に出たところを典蔵に襲われ、帯を解かれ助けを求めた時に助けに来た忠臣浦戸紋三郎と密会していた、とでっちあげられ、典蔵から殿様の磯部主計之介に訴えられ、さらに典蔵が家宝の茶碗を割ったことまでお蔦の仕業に転嫁される。短気で酒乱の主計之介は、岩上親子にお蔦に対する厳しい折檻を命じたうえ、瀕死のお蔦を切り殺し井戸に落とす。
この場面で、この井戸が実はいわくつきの井戸でこれ以前にも同様の事件があったことが匂わされている。

  折柄吹來る小夜風に、散來る柳の物凄く苔むす井筒の中よりして、怪しの鬼火立登り、主計介は相好變り、死靈の祟りかむら〳〵と、お蔦が肩先切付れば、苦痛を怺へ這い寄りて、
  トどろどろの様な風の音になり、井筒の中より誂の陰火立登り、主計之介むらむらとせし思入にて、お蔦を一刀切る、お蔦アツと倒れる。
つた 殿様ばかりは私が、直なる心を御存じと思ひの外に覺えもない、お疑ひにて此樣にお手にお掛けなさるとは、お主樣へ勿體ないが、お恨み申しまするぞえ。
  ト恨めしき思入にて見上げる、主計介きつとなつて、
主計 恨まば勝手に予を恨め、恥辱をあたへしのみなるか、重器を失ふ憎くい奴、なぶり殺しに致さねば、主計介が腹がいぬ。
  又も肩先切下げれば、(ト主計介又お蔦を切下げる。)
なぎ こりや旦那様を、
なぎ・梅次 むごたらしう
典蔵 えゝ邪魔せずと、退いて居れ。(ト竹で打ちすゑる、主計介お蔦を又切る。)
伴蔵 常に替りし御様子は、
傳平 御酒狂なるか、但しは、
四人 死霊の、

お蔦が殺害される以前に鬼火が立ち上り、主計之介は「死霊の祟りかむら〳u12341 .と」お蔦を切るとト書きがある。また、岩上親子の一味の荒波伴蔵、潮田傳平らが主人である主計之介の様子が普段と違っており、酒乱によるものかそれとも死霊によるものかと考えている。
当初、「恨みに思はゞ化けて出ろ、芝居の外で幽靈にいまだ出合つたことがない、胸定めに見たいから、今夜からでも出るがいゝ。」と憎まれ口をたたいていた典蔵だが、お蔦の無残な殺害後に吹く風によって燈火が一斉に消え、「吾太 烈しき夜風に燈しが消えしは、/典蔵 何だか不気味なことでござる」と気味悪く思いはじめる。その後、お蔦を殺害し御殿へ戻ろうとした主計之介が、お蔦の幽霊を目撃した際には、典蔵はさらに恐怖を感じている。

主計 袖を引くのは誰だ。
吾太 誰も是には、
典蔵 居りませぬが。
  ト此時上手にある箱提灯仕掛にてぱつと燃える、中より誂の煙出で四邊を覆ふ、どろ〳u12341 .にて煙の中へお蔦好みの拵へにて出る、煙消え主計介見て、
主計 や、お蔦か。(ト兩人びつくりして、)
吾太 なに、お蔦どのが。
典蔵 何所にをります。
主計 そちが後に、
典蔵 えゝ、
  トぞつとして尻餅をつく、どろどろにてお蔦柳の木へ消える、是にてどろ〳〵止み、霞付の月を下し、主計之介はホツとせし思入、吾太夫典蔵は不審のこなしにて、
吾太 心得難き殿の御様子、
典蔵 もしや蔦めが、(ト言ふを主計之介思入あつて、)
主計 心の迷ひで、(ト傘を持替るを木の頭、)あつたよなあ。

典蔵の恐怖に対して、主人である主計之介は、「怪談神経病説」につながる「心の迷い」と言っている。
この芝居でお蔦の幽霊が登場するのは、2回である。2度目は、お蔦と密会していたという疑いで家名を穢すことを恐れて切腹しようとしていた紋三郎のところに現れ、立ち聞きして知った岩上吾太夫典蔵親子の陰謀を紋三郎に伝える。

  ト獨吟の内紋三郎差添を抜き、脇腹へ突立てようとする、お蔦の靈下手にて留めるこなし、紋三郎切らうとして留めらるゝ思入、始終薄くどろ〳u12341 .をあしらひ、宜しくあつて、
紋三 はて心得ぬ、今切腹なさうとせしに我腕のしびるゝは、正しく誰やら止める心地、むゝ、(ト合點の行かぬこなしあつて氣を替へ、又切らうとして切れぬ思入、)さるにても不思議千萬、止むる者もあらざるに、此腕のしびるゝは、如何致せしことなるか。
  夫におくれて嗚く鴈の、聲も幽に星の影、 ト心得ぬ思入にて、四邉を見廻し、下手に居るお蔦の靈を見てびつくりなし、
  や、其處に居るのは何者なるぞ。
蔦靈 紋三郎様、わたくしでござりまする。(ト顔を上げる、紋三郎よくよく見て、)
紋三 や、さういふはお蔦殿か。
靈  はい、左様にござりまする。
紋三 えゝ、(ト驚き氣を替えてきつとなり、)扨は身共が愁ひを付入り、狐狸の類ひが切腹の妨げ致すと覺えたり、末期の際に殺生なすもuなき事故助け遣はす、早く其座を立ち去りをらう。
  ト是にてお蔦の靈思入あつて、
靈  今は此世に亡き身にて、お目にかゝりし事故に、そのお疑ひは無理ならねど、御家の大事を申さんと、これへ參つてござりまする。
  落ちてきもじの袖袂、晴れぬ思ひにしよんぼりと、
  ト紋三郎扨はといふ思入あつて、
紋三 扨は御身は非業の死をなし、迷つて爰へ出でたるか、してして御家の大事とは。
靈  只今申し上げまする。
  ト又獨吟になり、お蔦の靈立上り四邉を見るこなし、紋三郎ぎよつとなし、白刄を持ちしまゝ油斷をせぬ思入、お蔦の靈紋三郎の側へすり寄り、こなしあつて、
紋三 して、お家の大事とは、
靈  御家の大事と申しますは、岩上吾太夫典蔵親子が竊に謀反を企つて忠義なお方を退けんと、一味に加わる道庵が調合なせし毒薬にて、御本家樣を初めとして十左衛門さま貴方をば、亡きものにして殿様へ淫酒を勧め御放埓、それを言ひ立御隠居を、おさせ申して御幼年の、若殿様をお跡へ立て、心の儘に吾太夫が押領なさん深き企み、一味の者と牒し合すを襖の陰で私が立聞をなせし故、人にそれを語らうかと、身に覚えもなき不義を言ひ立て、貴方も共になきものに致さん彼等が仕拵へ、此の悪人を退けねば、御家のお爲になりませぬ。今御切腹なされまするは、お止まり下さりませ。(ト思入にて言ふ。)
紋三 かかる企みのあると聞いては、今切腹なすところに非ず、よしや一命捨つればとて、只此の儘に犬死せず謀反を企つ悪人共を、打果して切腹なさんが、それに付けてもお蔦殿は、いまだ迷うてござるからは、定めてお上を恨みつらん。
靈  何のお上を恨みませう、一度御恩を受けし上は、魂魄此土に止まつて御殿をお守り申す心、何卒貴方も御切腹をお止まり下さりませ。
紋三 いかにも御身が異見に付き、切腹思ひ止まりて、御家の守護を致すであらう。
靈  すりやあなたには御切腹を、お止まり下さりまするか。えゝ有難うござりまする。
  いつしか空も晴れる小夜風、
  ト獨吟のあげ、どろどろになり、お蔦の靈嬉しき思入にてよき所へ消える。紋三思入あつて、
紋三 お蔦殿の亡靈が、知せによつて密計の様子は委しく知れたれど、岩上親子に加擔なす医師道庵を初めとして、あら方人數も誰かれと推察なせど確とした、何ぞ證據を欲しきものぢや。
  ト風の音になり、下手より序幕の三毛猫手紙を銜へ出て來る、紋三郎見て、
  是は何れの飼猫なるか、手紙を銜え來りしは、はて心得ぬことではある。(ト猫紋三郎の前へ手紙を置く紋三郎取上げ見て、)「廻章、」(ト開き見て、)「廻章を以て申入れ候、然者豫ての一條にて御密談申し度く明夜暮六つ時より私宅へ御入來可被下候、岩上吾太夫、」初筆は医師の濱田道庵、荒浪、潮田、砂川、中州、其外一味加擔の者の、姓名記せし密事の廻章、(ト思入、猫側へ來る、襟の守札を見て、)「磯部奥つた飼猫三毛、」すりやお蔦殿の飼猫なるか、扨は是も亡靈の、われに證據を送りしか、はてよき物が手に入つたり。
  ト嬉しき思入、ばたばたにて花道より以前の左市歸り來り、花道にて、
左市 お馬場の隅の稻荷の宮に、狐がゐるといふことだが、つまゝれでもしたことか、僅な道を幾かへり、何うして道に迷つたか、嘸旦那様がお待兼であらう。(ト舞薹へ來り、枝折戸を明け旦那様、只今歸りましてござりまする。(ト内へはひる、是にて紋三郎心付き、)
紋三 おゝ左市、戻りしか、して兄上はお宅でありしか。
友市 へい、お宅においでゞござりました、(ト言ひながら紋三郎の様子を見てびつくりなし、)や、こりや且那様には、御切腹をなされますか。
紋三 気遣ひ致すな、コリヤ左市、汚名を受けしが殘念放、切腹なさんとせし折柄、不思議にも此處へお蔦殿の亡靈出で、御家の大事を告げし故、死するを思ひ止まりしぞ。
左市 え、すりやお蔭殿の幽靈が、どゞ何處へ出ました。(ト驚きながら四邊を見る。)
紋三 いや、最早退散致せしぞ。
左市 何に致せ御切腹を、よくお止まり下さりました、ちえゝ忝い。(ト悦ぶ、紋三郎白刄を鞘へ納め、)
紋三 此の悦びに引かへて、思へば不便なお蔦殿、其の身は無慚に殺害されても、一旦受けし御恩を忘れず、お家を守る忠義な心底、あたら貞女を失ひしは、返す返すも殘念ぢやわえ。

忠義貞節でありながら讒言により叱責を受けて殺害され、死してもなお悪者を除こうとするお蔦には、それを助ける存在として三毛猫が登場するが、これは忠義貞節でありながら讒言により叱責を受けて殺害された女主人の復讐を猫がなす化猫話『有松染相撲浴衣』に通じている。
「皿屋敷伝説」は全国に散見しその源泉として特に注視されているのは、江戸番町と播州姫路の伝説である。このうち江戸のものは皿割とお家乗っ取りの陰謀が結びつかないが、播州姫路のものは両者が結びついたものとなっている。播州姫路の伝説は、「城主小寺が没したため若い主君を立て、お家を乗っ取ろうとする執権青山とそれに抗しようとする忠臣の家老衣笠らとの抗争を軸に展開する。衣笠の妾であったお菊が密偵として青山の元に送り込まれていたが、かねてより青山はお菊の内通を疑っていた。姫路城を占拠した青山は、その祝いに城主小寺家に伝わる十枚揃いの皿を持ち出させたが、お菊が一枚足りないのに気づき、それを口実にお菊を拷問にかけ井戸の中に切り込み、以後、井戸の中で皿を数える怪異が起こった。青山は忠臣たちに姫路城を奪い返され、城主小寺に本拠地の青山城も攻め滅ぼされた。皿が無くなったのはお菊に懸想しながら拒絶された町坪の仕業であり、お菊の妹たちが仇を討った。」というものである。
お家乗っ取り、懸想をしていた男を拒絶し報復される、拷問にかけられ井戸に切り込まれる、悪臣が忠臣に倒されるという全体的なストーリーの骨格が播州皿屋敷の影響を感じさせる。しかし、播州皿屋敷伝説には、お菊以前の井戸の死霊が登場しない。
一方、江戸番町皿屋敷の伝説の方は、旗本青山の屋敷の場所は天樹院(千姫)の屋敷跡地であるが、夫亡き後の愛人であった花井と花井が戯れていた少女を、天樹院がかつて殺害して死骸を井戸に投げ入れた場所であった。その屋敷跡で、青山は、侍女のお菊が十枚揃いの皿を一枚を割ったということで十本の指のうちの一本を斬り、お菊は青山を恨んでかつて花井と少女が投げ入れられた古井戸に飛び込んで死んだ、というものである。
『新皿屋敷月雨暈』は江戸番町と播州姫路両者の伝説を取り入れて作られている。
黙阿弥の怪談はこのように、幽霊が悪者を脅かすだけではなく、善者に協力して真実を伝えるという役割を果たしており、幽霊や怪異を否定する文明開化・近代化の時代であったからこそ、怪談の果たす役割を強調しようとする意識が強い。幽霊もまた、恐怖の対象、怪異なものへの好奇の対象であるだけではなく、正義のために尽力する存在へと変移している。
■4、化猫怪談の時代(序)
  『有松染相撲浴衣』『五十三駅扇宿付』
幽霊を見るのは神経病であるという思潮の流行した開化期において、怪異な存在をどのように表現するかは話芸・芝居・文芸を問わず怪談を創作するものの共通したテーマであったろう。三遊亭円朝は、『怪談牡丹灯籠』でお露主従の幽霊は伴蔵の作為であると語りながら余地を残し、お国の幽霊は憑依にとどめて神経病によるともよらぬとも解釈ができる可能性を残すというように意図的に曖昧に語った。
幽霊という実体のない存在は近代合理主義により神経病という心の病とされ、谷口基の指摘のように有象無象の霊は、見る者の神経病として抑圧する一方で、近代国家創設のために役に立ったと思われる人物の霊を神霊として祀ることで強力に帝国主義を進展させるというシステムが恣意的に国家によって推進されていく。しかしながら、人間の知がすべてを理解できるという傲慢な近代合理主義とは裏腹に、人間の感覚でとらえきれないものは存在し、それを語ろう描こうとする怪談は消滅することなく続いてゆく。
近代合理主義への違和感と抵抗から、円朝が「怪談神経病説」を逆手にとって曖昧にぼかしてどのようにでも解釈できるように語った描き方を、黙阿弥もまた『木間星箱根鹿角笛』で行っている。登場人物のセリフから一見「怪談神経病説」を肯定的に描いているようだが、劇全体の構成を考えて見ると幽霊や怪異は一概に否定されておらず、幽霊は病理的な現象であるともないともとれるような曖昧な描かれ方になっている。
一方、こうした「怪談神経病説」の逆用とは違った方向性として桃川如燕の『百猫伝』等の講談や歌舞伎の「化猫譚」が存在する。平安期には天皇や貴族等の上流階級のペットだった猫だが、室町期以後には飼猫は普及しはじめ江戸期に入ると次第に庶民にも浸透し、維新以後はさらに一般化する。猫は身近でありながら魔性を感じさせる存在であり、昔から山猫や老猫は猫又という化物になると言われていた。古典文学にはしばしば猫股が登場しているが、江戸期後半になるとお家騒動や直訴などの政治的・社会的なテーマと結びついた化猫が登場する。中でも、通称「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」と呼ばれると呼ばれる三大化猫譚が特に有名である。
「有馬の猫騒動」は、桃川如燕の講談が有名である。如燕の講談が書籍化されたのは明治18年文章体の『高櫓力士旧猫伝』、明治26年速記本の『小野川真実録』であるが、黙阿弥の『有松染相撲浴衣』は如燕の講談の歌舞伎化である。
いわゆる「有馬の猫騒動」は、亨保13(1728)年に久留米有馬藩で起きた一揆と世継ぎ問題によるお家騒動に伴って巷間に流布した有馬家の化猫話である。猫をからめた噂話が瓦版に取り上げられ諸本に記録されたものを、後代に如燕が潤色した。歴史物が講談の正統であることを意識してのことであろう。
ストーリーは、有馬家の愛妾であるお槇をめぐって展開される。お槇は、他の妻妾及びその女中らの嫉妬により非業の死を遂げる。お槇の愛猫が、主人を死に追いやった者たちに復讐し、さらには有馬家にもたたるようになってゆく。正室の奥女中によって自害に追い込まれた側室お槇の女中お仲にお槇の愛猫が乗り移って復讐する。猫が生者に憑依する。
この如燕の講談を、黙阿弥が歌舞伎化したのが『有松染相撲浴衣』(東京猿若座、明治13年初演)である。「有松染」は「有松鳴海絞り染」のことで、江戸初期から東海道鳴海宿の名産で「浴衣」などに使われた。「浴衣」は相撲取りの日常着である。また、「有松」にはお家騒動のあった有馬家の「有馬」がかけてある。黙阿弥の作品の中では二流という評価を受けているが、大衆的には人気があり小芝居で繰り返し上演されたという。如燕は有馬家の騒動と化猫をからめ、さらに「小野川」と「雷電」という有名な関取二人をからめ、雷電に負けて一時失脚した小野川は有馬家に復帰することができたが、主家への忠義のために化猫を退治するという内容を付加し、黙阿弥もそれを踏襲している。
猫の歴史を概観するならば、飼い猫は室町時代以後に普及し江戸期になるとさらに普及し一般庶民の間で犬や猫が飼われるようになり、近代に入るとさらに一般化してゆく。
『読売新聞』『朝日新聞』のデータベースを検索すると、猫に関する明治期の新聞記事数が『読売』では明治9年(24件、前年12件)から急増しており、12年頃(17件)まで多い。『朝日』(広告もふくむ)が12年(44件)の刊行開始年から猫に関する記事が非常に多く13年(67件)14年(68件)と増え、15年に至って半減(31件)、16年にはさらにその2/3(20件)となっている。双方とも後には安定した記事数(『読売』は13─29年の平均記事数が8、『朝
日』は16―29年の平均記事数が19)となるため、明治初期(開化期)は一時的に非常に多くの猫に関する記事が見られる。
それらの記事の中には、生活に困った人が猫を獲ってその皮を売り生計をたてるという記事が散見し、時には不法に飼い猫を捕獲して処罰されている。このことからも近代初頭に猫に対する興味関心が高まっていることが推測できる。「神秘性を秘めながら人間のそばで暮らす猫は、人間の想像力を喚起してきた。そのはてに、人間は猫の摩訶不思議な物語を生みだすことになる。」(『不思議猫の日本史』)のである。
明治初期に怪談を創作しようとした者にとって、実体の存在しないために心の病ゆえに見えてしまうと解釈されてしまう幽霊よりも、身近に飼われている実体であり魔性を感じさせる猫の怪異を描く方が描きやすく、身近ゆえの恐怖を感じさせることも可能であったろう。
黙阿弥もまた、化猫譚が、怪談受難の時代に適した怪異の表現であることを桃川如燕・松林伯円らとともに肌身でつかんでいたのではないだろうか。作品本文を引用しての考察は、次の機会に譲ることとする。 
 
黙阿弥の怪談 2 

 

■1、化猫怪談の時代
明治初期において怪談神経病説が流布し、戯作者や歌舞伎作者、落語家や講談師等もこの言説の影響の元に作品を創作した。国家が帝国主義的な意図によって軍神を祀りあげるために、この言説にのっとって幽霊を封殺したという説にも言及した。
一方、動物の怪異は、この時期においてもまだ素朴に信じられていたようで、当時の新聞にもしばしば取り上げられている。近代合理主義や帝国主義へと邁進する国家もガス抜き的な意味でこれを利用し、動物の怪異は息の根を止められなかったのであろう。
こうした社会の動向は文学・芸能にも反映しており、江戸末期から明治前期にかけて、空前の化猫ブームが到来する。中心は歌舞伎と講談である。歌舞伎では、三世瀬川如皐、三世河竹新七らの鍋島の猫騒動物、河竹黙阿弥の有馬の猫騒動物・岡崎の猫騒動物、講談では、桃川如燕の有馬の猫騒動物を始めとした連作化猫譚「百猫伝」が特に有名で、この他、実録物や絵本等も刊行されている。特に1880年以降に上演された芸能や刊行された書物は多い。
こうした一大化猫ブームとでもいえる文化状況の中で、本稿では黙阿弥の化猫物の二作『有松染相撲浴衣』『五十三駅扇宿付』に関して、前者は原作である桃川如燕の講談の有馬の猫騒動物、後者も原作である四世鶴屋南北作『独道中五十三駅』と比較しながら、怪異の質を考えてゆきたい。
■2、『有松染相撲浴衣』と桃川如燕『高櫓力士旧猫伝』『小野川真実録』
『有松染相撲浴衣』の原作とされる桃川如燕の講談がうかがえる書物は二点ある。『高櫓力士旧猫伝』は桃川如燕著と表記されており、講談の原稿のようである。一方、『小野川真実録』は、桃川如燕の講演を今村次郎が速記した形となっており、講演時の社会情勢や寄席の観客の傾向等をリアルタイムで反映していると思われる。(以下、『有松染…』『高櫓…』『小野川…』と略して表記する。)
『有松染…』は、有馬の猫騒動を題材にした作品である。親の病と貧困に悩みながら、親孝行で殊勝なお巻が、浅間の太守に気に入られ召抱えられる場面から始まる。器量の良いお巻は妾となるが、浅間の太守のもう一人の妾おしげの奥女中たちに妬まれる。おしげの奥女中の一人霧島が、小野川の弟子花菱と相撲を取るなどして盛り上がっている場に、犬に追われた猫が逃げ込み、肴の入った皿に飛び込んだり太守の紋付を汚したりしたため、太守の命令で殺されそうになる。しかし、お巻の助命に共感した奥方や奥方の奥女中・腰元たちの嘆願で猫は許される。
『高櫓…』では、お巻にあたるのはお槇、おしげにあたるのはお志賀であり、『小野川…』では、お巻に当たるのはお瀧、おしげにあたる妾は登場しない。
『有松染…』では、助けられた猫が当初より化猫であったことが、騒動が起こる前の浅間家の屋敷に猫が見慣れぬ若い男の姿で現れることで示される。命を助けられたお礼を告げるために猫が主水若衆に化身して現れる。主水若衆は、屋敷内に突然現れ、お巻の作った下の句に上の句を付け句してくる。そして、礼を告げお巻の書いた短冊を奪っていった。その後、短冊を猫が持っていたことから、主水若衆は猫の化けた姿だとわかる。
『高櫓…』『小野川…』においては、猫は主人の生前に何者かの人物に化けて姿を現わすことはない。化猫が怪異を起こしたり化身したりするのは、もっぱら主人が不幸な死を遂げた後の部分に凝縮されている。なお、『小野川真実録』に登場する猫は二匹おり親子である。殺されそうになった子猫を助けられて親猫が恩義に報いようとする展開である。
原作との違いは、元々この猫が化猫であったという設定が見られる点であろう。鍋島の猫騒動物では、通常は主人の仇討ちのために猫が化ける等の怪異を起こすのが主流であり、有馬の猫騒動物も同様である。桃川如燕が、小幡小平次物と化猫物をないまぜにした講談『百猫伝巻之一 俳優市川団十郎の猫』においても、主人の仇討ちのために猫は化けるという展開となっている。主人の仇討ちをするような事態が起こる前に、猫が最初から怪異を発揮する展開は珍しい。
次に猫が怪異を表すのは、猫が死んでお仲に乗り移る場面である。もう一人の妾おしがの女中たちが、正室である奥方を呪詛する人形をでっちあげるが、奥方は見破ってしまう。しかし、こうした謀計が再度重ねられるのではないかと絶望し、お巻は自害する。この時、猫はしきりに主人の自害を止めようとし、お巻は猫に話しかける。猫とお巻の深い愛情の交流を丁寧に描き出して、後の猫の仇討ちに共感させる展開は、原作にない独自のものである。
ところが、お巻の女中であるお仲は、猫が主人を救えなかった愚痴を言い猫を責める。このため猫は仇討ちに行って返り討ちにあい、瀕死の状態で戻ってくる。猫は死んでお仲に憑りつき、三人の女中に仇を討つ。

  はあとばかりに泣き伏せしが、死したる三毛は燈火と共に形は消え失せたり、不思議やさつと一吹の風にお仲はむつくと起き、
  トお仲泣伏す、薄ドロドロのやうな風の音になり、行燈の明り消える、猫お仲の背中へ飛上り、體の内へ消える仕掛よろしく、是れにてお仲すつくと立上り、思入あつて、
  おゝそれよ、畜生ですら恩を忘れず其身を捨てるに、人として恩を報はぬ其時は、猫にも劣る人でなし、もう此上は我身も共に、叶はぬまでも主人の敵、命を捨てゝも四人の者に恨みを返さで置くべきか。
  はつたと睨み忿怒の形相、さながら猛虎の勢ひなり。虎にはあらで三毛猫の、足跡慕ふ惡戲もの。
  トお仲に猫の一念乗り移りし思入にてきつとなり、猫のこなし、此時廊下の口より奥女中小濱、雪洞を持ち先きに立ち、朝霧、霧島短刀を持ち猫を捜しに來たる心にて出來り、 …(中略)…
  三毛を尋ぬる三人の、聲にお仲は身を潜め、猫にひとしく窺ひ居る。
  ト此うち薄ドロ にて、お仲猫の思入にて三人を窺ふ、これにて心附かず三人あちこちを見廻し、お仲を見附け猫に見ゆる思入、
小濱 や、今の猫はあそこに居ります。
朝霧 こんどはお逃し遊ばすな。
霧島 心得ました。
  心得たりと三人とも、一度にはひればお仲は飛びつき、(ト三人つかつかとはひる。)
お仲 主人の恨み思ひ知れ。(ト三人に喰ひ附く.是れにて皆々心附き、)
小濱 や、そちは端女の、
朝霧 お仲なるか。
霧島 慮外ものめが。
三人 覺悟しや。
  覺悟をしやと拔連れし白刄に切られぬ怪猫の、一念皮肉に分け入れば、飛行自在に荒出し。
  ト始終薄ドロドロにてちよつと立廻りきつと見得、是れより誂への鳴物になり、お仲立廻りのうち前髪亂れ、口のはたへ血紅を附け、猫の乗り移りし思入にて、三人を相手に立廻りよろしくあつて、ト 三人共嚙み殺しきつと見得、
  狂ひ狂うて。
  トお仲喰切りし首を御へ、死骸の上にほつと思入、

お仲になぜ恩人であるお巻の仇を討たないのかと責められ、猫は本当に仇討に行って返り討ちにあってしまう。しかし、切られて苦しみのうちに死んだ猫の死霊は、泣き伏すお仲に憑りつく。憑りつかれた途端、猫でさえ命を捨てて仇を討つのだから人でありながら主人の恩に報いようとしないのは猫に劣るという思いがふつふつと沸き起こり、小濱・朝霧・霧島の三人相手に飛びまわり、かみ殺し仇討ちをする。
『小野川…』では、猫は白猫であり、誰かに憑りついて復讐するのではなく、親子で加害者の女中たちを次々襲って復讐する。費用が莫大であるため、家老や奥方から頼まれ能役者や相撲取りの出入り留めをお瀧が提言したため、女中たちの楽しみを奪ったとして、お瀧が恨まれる。猫が襲う際に一度だけ名前が登場するが、総じて「お末」とされ個別化して描かれていない。ここでは、猫は化けることもしないし憑りつくこともない。『高櫓…』では、猫は黒猫であり、この黒猫の手引きと助力によって、お仲が小濱・朝霧を切る。
怪猫は、次にリーダー格の岩浪を襲う。

  本釣鐘薄きドロドロのやうな風の音になり、櫺子をこはし大きな猫頭を出す、是れを見て岩浪は、
  あれえ。(トびつくりして、逃げられぬ思入にて膝行り居る。)
  すくむ五體にたらたらと冷汗流す濡鼠、飛びからんと魔物の一念。
  ト誂へ上下の合方になり、櫺子を破り以前のお仲飛び出し、猫の見得、岩浪鼠のこなしにて逃げようとする、お仲猫の思入にて岩浪に嚙附く、これより猫と鼠のこなしよろしくあつて、鼠のやうにもてあそびになし、トヾお仲岩浪を喰殺し花道へ悠々と行く、始終薄ドロドロをあしらひ、此時鐡鋼行燈自然と灯つく。合方きつばりとなり、上手より以前の重左衛門、繼上下大小にて、雪洞を持ち出來り此體を見る、お仲恐れし思入にて花道へはひる、ドロドロを打ち上げ、重左衛門跡を見送り思入あつて、
重左 只今あれへ逃げ行きしは、お卷が使ひし端女のお仲、用事あらざる此の廊下を深夜に及び通行なすは、何事なるか合點行かず、四邊を見れば四人の者賛をみだせし此の死骸、仲が主人の恨を受け繼ぎ仇を返せしものなるか、是れに附けても心善からぬ四人の者が非業の最期。(ト岩浪の死骸を見て、)是れも惡事の報いなるか。(ト爰へ以前の切られし猫、岩浪の死骸の側へあらはれ、すつくと立ち、雪洞へ映りし心にて、)正しく怪猫。(ト重左衛門きつと見返るを、木の頭、)はてな。
  怪しかりける。
  ト猫はばつたり倒れる、重左衛門これを見て、不審の思入、

最初の部分に岩浪の罪悪感からくる神経病とも解釈できる心理描写がある。その後、大きな猫が頭を出し、逃げようとする岩浪にお仲が噛みつき食い殺す。逃げるように去ってゆくお仲を重右衛門が目撃し、お仲が主人の仇をとったのは相手が悪人であったから仕方がないと好意的な目で見ているが、その際に見えた、切られたはずの怪猫の姿には不審感をいだく。
『高櫓…』では、中老の岩波は武芸の心得もありなかなか手強いが、お仲は黒猫の加勢により、岩波を刺し殺す。女中らが騒ぎ、復讐を遂げた事からお仲は自害するが、黒猫は姿を隠す。『小野川…』でも、老女岩崎はやはり武芸の心得もあり、女に似合わぬ小力もあるが、親子猫が次々と食いつき殺す。猫が仇を討ってくれたので、お仲は自害する。その頃、お仲の主人であった妾お瀧の弟與吉は恐ろしい光り物を目撃し、家に帰ると、大きな畜生の足跡が板の間にペタペタ付き、仏壇の障子の紙に女の髪の毛がぶら下がり、仏壇の障子が外れて岩崎の首が転がり出る。
その後、岩浪らの主人である妾おしがは、女中たちの不祥事のためか、浅間家からお暇を出される。一方、浅間家に仕えていた関取小野川も、互角の勝負の末、雷電に負けお暇を出される。おしがは元々小野川を慕っておりながら、殿様のご意向で妾となっていた。このたび、実家に下がった後も小野川を慕う気持ちは変わらず、父小兵衛に口添えをしてもらいながら小野川に求婚する。しかし、小野川は死を決意しているため受けようとしない。思い余っておしがは自決するが、その時の様子が尋常ではなかった事を、父小兵衛は小野川に報告する。
おしがは猫が恨みを返しにきたと言い、あたりを切払ったうえで自殺したという。朝霧らの下女中、リーダー格の岩浪に続いて主人のおしがに憑りつき自殺させるというのは、まさに身分の低い者から高い者へと猫の祟りが及んでゆく構図となっている。
『高櫓…』では、お志賀は、お槇の自害の件で有馬家からお暇を出され、小野川に求婚するが身分違いと断られ、異常な精神状態で、出奔し水死する。なお、『小野川…』では、おしがにあたる妾が登場しないため、このくだりはない。
この後に、『高櫓…』では、有馬家の足軽で放蕩無頼な鳴澤吾助が、お槇の母お道を殺害して有馬の殿様の奥様からいただいた大金を奪って逃げ、火の見櫓にいた酒飲みの近藤と酒を飲みながら火の見の番をしていると、怪物に襲われ殺害されるくだりがある。『小野川…』でも、有馬の火の見番の鳴澤五助が、お瀧の母を殺害して有馬の殿様の奥様からいただいた大金とお瀧の所持金を奪う。そして、同役の大久保に酒を飲ませて仲間に引き入れようとするが、大久保が頑として悪事に加担するのを拒否するので、鳴澤は大久保も切ってしまう。火の見櫓には魔がさすという評判なので、逃げてしまえば鳴澤も襲われ身体まで持って行かれたと思われるだろうと考えて逃げようとしたところ、何者かに名を呼ばれ身体がしびれて動けなくなり、猫に首を食い切られる。後に、與吉の家には、鳴澤の首と財布が並んで置いてあった。
この後、猫の憑りついたお仲は、浅間家の火の見やぐらに登り、飛行自在であるため足軽たちが手を焼いている。そこへ小野川がやってきて、お仲と対決する。小野川はお仲を取り押さえ、猫の霊を立ち去らせると、お仲は自害する。

  時しも冬の中空に、老女の粧ひ物凄き、月も雲間の薄暗がり、鐘の響きも木枯しの、風に交りてどろどろと、震動なすに異ならず、肌に貫く寒風にぞつと身の毛も立つ煙り、見上ぐる火の見の中段より顯はれ出でし猫の怪、お仲は髪を振亂し、柱に爪を磨ぎ立てゝ、物凄くも又恐ろしゝ。
  ト此うち小野川は尻を端折り、身ごしらへして、きつと櫓の上を見上げる、ドロドロにてよき所中段の羽目を毀し、黄色の煙りぱつと立つ、お仲猫のこしらへにて髪を振り亂し短刀を逆手に持ち、櫓の閂に片足踏みかけ下を見る、小野川は肌を脱ぎ、双方きつと見得、誂への鳴物になり、お仲平舞臺へ飛び下りる、小野川大手を廣げ生捕らうとする、お仲短刀を持つて突いてかゝるを身を躱し两人立廻る、此うちお仲は始終猫の思入よろしくあつて、小野川お仲の襟上を取つて引き寄せる、お仲振りはなすことの出來ぬ思入。
襟上取つて引き据ゑれば、年經る猫も大力に四足を藻掻くばかりなり。
小野 一旦命を助けられし恩を忘れずおどのに、無實の言ひかけなせし者を、一々汝が害せしは、あつぱれなる忠義なれど、なぜ速かに立ち去らざりしぞ、淺間の屋敷に恨みある年經る猫の怪異ありと、尾に尾をつけて世上の噂、御家の瑕瑾になる事を汝は辨へ知らざるか、假令主人の仇にもせよ、多人數害せし上からは、最早命はあらざるぞ。
  大地へ摺り突き放せば。
  トお仲の襟上を取り、猫を懲らす思入にて大地へ摺り附け突き放す、お仲猫の思入にて小野川をきつと見上げ、
  主人に無實の罪負はせし四人の者は害せしかど、今一人の吾助をも害せし上にて立ち去らんと、是れまでお仲の五體を借り、附けねらへども水天宮の、尊き守りを所持なし居るゆゑ妖魔の身にては近寄りがたく、あらぬ浮世の噂となり御家に瑕を附けたるは恐れ入つたる我が身の科、只今爰を立ち去りまする。(ト此うちお仲よろしく猫の思入、)
  悔悟いたさば速に、お仲が五體を立ち去るべし。
  いふにお仲はかつぱと伏し、猫の一念立ち去れば、我に返りて顔を上げ、
  とお仲かつぱと伏し、ドロドロにて黄色の煙り立ち、お仲正氣になりし思入にて、

『高櫓…』においては、鳴澤吾助への襲撃と殺害を皮切りに、毎晩、火の見櫓を見張る足軽たちが怪しいものを見る。(「何やらKき物の膝の邊を飛廻るを眼を止て能々見ればまた生々しき女の首にて丈なる黒髪を振乱し」「虛空を飛て二人の方を打見遣り莞爾 と打笑ふ」)。有馬家では、妖怪退治を誰に命じようかと頭を悩ましていたところ、有馬家に仕える関取である小野川が、恩を報ずるために名のり出た。火の見櫓で妖怪の出現を待ったが、妖怪は弟子の八陣に化けて柏戸親方が急病だと欺く。ここで初めて猫は人に化けて登場する。やがて「森の茂みの暗き方より月の如き光り物此方を指て飛來」り、仲間が腰を抜かして逃げ帰ってからは、「火の見へ顯はれし化物が、今はお屋敷中の淋しき所へ出て時廻りの者を恊かす」ようになる。「脊の高き山伏」や「美麗き」「十六七の娘」に化けて現れ、拍子木や提灯を奪い取る。小野川は火の見櫓に上るのをやめて時廻りを始めるが、化物は家老に化けたり、有馬家の柔術指南で小野川も世話になった犬上軍兵衛に化けたりして現れ、提灯・拍子木を奪われる。さらには、小野川を贔屓する西山友之進に化けて小野川宅にやってきて、食物で釣り出すという妖怪退治のアドバイスをするが、魚だけが奪われる結果となる。再び火の見に上ると、弟子の岩角に化けて登ってきて騙そうとしたが、小野川が切りつけると、黒猫の毛を残して逃げる。小野川は水天宮のお札を神棚に祀り、水垢離を取って祈る。「毎夜の如く水天宮に参籠して」「七日の満願に至」る。そして、再び「怪しき物の見えたり」と聞いて火の見に行き、「惣身一体眞Kにして其美麗き事天鵞絨の如く尾は二股に裂廣がり眼は金色に光り輝き其形容宛然畫ける虎の如く是ぞ全く猫の年經し者と見定め」、「神夢の御告」により「怪猫は火の見櫓の緣の下を巢窟となして潜み居る」と知り、「足軽大勢に指図して」「妖怪の出入りする」「大きなる穴」を見つけ、「焚火の支度を整へ」、「穴の小口へ積重ね火を焚付けて熏し」た。すると、「形は犬と見紛ふばかりにて口は耳の根元まで裂廣がり尾は二股に割毛色は總てKけれども其中に赤毛の交りしは以前は三毛の猫なりしが今は年經て眞Kに變じ光りを生じて天鵞絨の如く怒れる襟毛は 立て宛然針を植たる如く金色を帯て閃々と光り眼は黄金の鈴に似て月無空に明星が照輝くが如く人を白眼む其形容は實に怖ろしき有様」の大猫が躍り上がる。小野川は「妖猫の飛付來るを引外し大喝一聲」「切下したる一刀の力に彼の妖猫が脇腹を破落離ずんと切裂たり」「猫は身を悶え苦しみながらも益々猛りて小野川に咬付んと肩の邊りへ飛付」が、「耳を摑み力を極めて引下しと其塲へ投付け痿むを速さず飛懸り骨も通れと一刀切付しかば襟首の所を五六寸切下げられ流石の怪猫も今は身体疲勞れ果働き得ず其所へとばかりに平張伏て呻き苦しむ」。さらに「一太刀咽喉の邊を刺通したりしかば妖猫は手足を縮め煩悶つゝギャッと叫びて斃れ」、小野川は化猫を退治した。
 一方、『小野川…』では、小野川は雷電に負け有馬家を暇となったままで、足軽たちの話を聞いて火の見櫓に上げてもらい妖怪変化を倒そうとする。青山辺に火事が見え盤木を鳴らしてしまい、火事もないのに盤木を鳴らしてしまう。次の日は化かされまいと本当の火事があったが盤木を打たず、火の見櫓を降りるように言われてしまう。何とか頼み込み、次の晩も火の見櫓にいると、妖怪は弟子の水引清五郎に化けて現れ、小野川の息子の首が亡くなり小野川の妻が騒いでいるという。後に、本物の清五郎の登場で化かされたと判明する。次の晩は、有馬雪斎という有馬家のご隠居から変化を倒すために有馬家秘蔵の名刀をくださると言われる。雪斎を訪ねてみたが何の沙汰もなく、手紙は実は白紙であったと判明する。その後、火の見に戻ったところ、「色青褪めた一人の女」が現れ、取り押さえようとすると「忽然として夢現の如くになり身体疲れて指先さへも自由に動かず五体すくんで は變化のために愈よ殺される事かと思ふばかり」であったが、「気をば取直してハッタと睨」み女に切り付け、白猫の尻尾を切り落とした。化猫は狂暴化し、夜回り足軽を襲う。他の足軽たちは恐ろしくなり有馬家に奉公できないと言い出す。そこで、小野川は、家老の許しを得て夜回りを続ける。十五日目の雨の降る晩に、小野川は水田の水天宮を念じた名刀を携えるが、光り物に気を取られる間に拍子木を奪われる。次に有馬藩の柔術指南役で小野川も世話になった犬上軍兵衛が現れ、小野川は手に「ズブリと突込」まれ、「血がダク 出て痛みが激しい」。「此上は神の力でなければ迚も打てない」と考えた小野川は、水天宮で水垢離を行った。そこで、本物の犬上軍兵衛と出会い、軍兵衛の道場に行き、「向うに体があつたら後ろを切れ後ろに姿が見えたらば前を切れ」とアドバイスされる。赤羽の有馬屋敷に向かった小野川を、弟子の水引清五郎・越の海勇三が後を追い、二人も水天宮で水垢離を取り竹槍を作った。有馬の火の見下に行くと、「全身眞白なる猫」が出現し、「飛掛かる其の勢い猛虎の如」く小野川を襲うが、小野川は「後ろの足を一本切った」。小野川が勢い余って転んだ所へ、「猫は上に飛び掛つて來る途端に突出したる水引清五郎の竹槍に体を交はして飛退うといふ時又も横合から突出だした勇蔵の竹槍怪力の爲めに脇腹より左りの前足のつけねまで突通され流石に猛き怪猫もギャァッとばかりに一聲叫ぶを小野川喜三郎が起上がつてエイといつて切り下げたれば全身勞れた猫の事ゆゑ遂に其の塲へドウと倒れて息絶へ」た。
■3、『五十三駅扇宿付』と四世鶴屋南北『独道中五十三駅』
『東海道中膝栗毛』の影響を受けて成立したと言われる『独道中五十三駅』に比して、『五十三駅扇宿付』は、場面と人物を焦点を絞って怪異を描いている。『独道中五十三駅』はその構想から「五十三次の宿次を京から順にそれぞれ舞台に出現させようとする思い付きに仕組みの基礎があった。」(『鶴屋南北全集 第12巻』解説、服部幸雄)ため名所巡りに主眼がある。一方、『五十三駅扇宿付』は、きっちりしたストーリー構成を行い、ストーリーや人物の軸を作ってまとめている。(以下、『…扇宿付』『独道中…』と略して表記する。)
『…扇宿付』の化猫が登場する三幕目は、『独道中…』では猫石の精が登場する四幕目「岡部宿松並木の場/鞠子在古寺の場/同 猫石怪異の場」であり(岡部宿は現在の静岡県藤枝市岡部町、鞠子宿は現在の現在の静岡県静岡市駿河区丸子)、通称「岡崎の猫」と言われるが、実際の舞台は現在の静岡市内の丸子である。現在の静岡市駿河区丸子と藤枝市岡部町の間には山道があり、そこにある宇津ノ谷峠の途中に猫石と言う石が現存しており、この石を題材にしている。そこで、黙阿弥は舞台を岡崎市の無量寺に設定変更する。
『…扇宿付』は、一幕目にお袖の母お爪が登場し、西川宗三郎と駆け落ちをするくだりがあり、『独道中…』に登場するお袖の姉お松は登場しない。二・五幕目は、一幕目にも登場する平井權八が中心である。遊女と恋仲になり困窮して辻斬りで多くの人を殺害して金品を奪い、処刑された人物である。猫石の精が登場する三幕目は狩人繁藏を介して四幕目へと続く。一方、六幕目では、宗三郎とお袖が、権八からもらった金を役人からとがめられるが、共に猫石の精と戦った行きずりの五百原正作により助けられる。七幕目は、権八の許嫁であった八重梅が、暴れ者久下玄蕃一党にからまれ手ごめにされそうだったのを、五百原がやっつけた話である。
このように黙阿弥はストーリーの錯綜する『独道中…』の猫石の精の物語に白井権八の物語をからめ、まとまった芝居へと再構成したのである。なお、『独道中…』の猫石の精霊は、『…扇宿付』では妖猫となっている。
『独道中…』は、二幕目にお松・お袖・丸子猫石の精が初登場する。お松は当初より猫を抱えて登場する。お松は、妹のお袖に人を呪うのをやめるように注意するが、その際にお松の顔が痛みだす。実は、お松を呪っていたのは、お袖であったのだ。お袖は藤助により懐妊し、姉のお松も女郎として民部(藤助)により懐妊しており、お袖が呪ったライバルは実は姉であったことがわかる。お松が、病気の実母を救うために身を売った後に、お袖・藤助・左次兵衛の所に亡くなったお松とお袖の母の死骸が届く。藤助が死骸に十二単を着せ三人が回向すると、左次兵衛は、お袖に、藤助を殺すために腰の刀を盗むように言うが、そこへ猫石の精が現れる。
猫石の精が登場する場面では、「古みすのやぶれより、そのかたちぱつくんなる大猫のつら見へて、眼をひらききつとなる、左次兵衛びつくりして、/左次 ヤヽヽヽヽ、みすのちぎれに見ゆるは、ねこのおもての。さもすさまじき。/トなたにてみすを切て落す。こゝに丸子艶ホの精、十二ひとへのなり、老女のこしらへにて蚊やりの火をたき、猫の顏にて鏡台、かねつけ道具をならべ、かねをつけている。左次兵衛びつくりしてふるふ。猫石の奄モりむいてきつとみる。口の廻りおはぐろつきいるてい。」と十二単の老女の姿で現れる。(母の死骸に取り憑いたと推定される。)
次に、『…扇宿付』の妖猫の登場する三幕目と四幕目を、見てゆきたい。
冒頭で村の怪異が噂される。子供達が表へ出て赤子の守りをして居る所へ、友達の子供に化けてやって来てさらって行くという。三州きっての腕前の鉄砲撃ちである繁蔵に頼んだことも語られる。
次に、くらと雲鐡が登場し、二人の会話で、老女が一人で住む古寺にくらが出入りしていることが語られる。その後、宗三郎とお袖がくらと遭遇し、宗三郎は知己を頼りに岡崎に来たがその家は断絶して跡形もなく、行く当てもなく困っていると語る。くらは、二人を古寺に案内する。宗三の知己野崎主膳の母と名のる老婆が留守番をするその古寺は、無量寺という現存する寺であり、リアリティのある設定となっている。
一方、『独道中…』では、お袖が生んだ子の父中野藤助を探してめぐりあった直後に、昔藤助の家に奉公していたくらと藤助が再会する。体調を悪くしているお袖のために、くらは自分の住む所まで道案内をしようとするが、その途次に宿はなく今までなかったはずの古寺にたどりつく。地元に住んでいながら見た事もないという設定から、妖怪が住んでいて幻覚を見せているのではないかと想像がつく。
その後、『…扇宿付』では、くらは、宗三郎・お袖とつたをひきあわせ、つたは野崎の母として振舞うが、赤子を見て、よく太っていて食べたいくらいだなどと口走ったりもする。宗三郎にも、つたに対する不信感が見られる。『独道中…』では、猫石の精は母の遺体に憑依してお袖を娘と言い、お袖も母と見る。お袖が出奔した後に母は牢死したと言われていたが、後に蘇生したと猫石の精は言う。この辺も『…扇宿付』の方が不自然さが少ない。そして、お袖・藤助は、古寺に泊まることになる。
『…扇宿付』では、宗三郎・お袖に続いて、雲鐡が道に迷った正作を連れてやって来る。つたは、正作にも泊まっていけと言う。正作との会話の中、つたは徳川への恨みを語る。だが、正作は、大阪落城より100年たつにもかかわらず、現在60歳だと語るつたの話の矛盾に気づく。一方、お袖は、古寺のすさまじい不気味さに恐怖を感じていたが、正作が現れ二人と同宿するというので、心強く思う。
夜、くらはつたの部屋の行燈を変えに来る。そこで、くらはつたが行燈の油をなめるのを見てしまう。

  おつた四邊を窺ひ行燈の側へ寄り顏を入れる、此形猫にうつる、舌を出し油を甜めることよろしくあつて、よき時分おくらそつと顏を上げ、此の體を見てびつくりなし、はつと飛退き逃げようとする、おつた裾を押へて、
  これこれ、こなたは何ぞ見やつたか。
くら いえいえ、何も私は、
つた いやいや、何か見たであらう、殊にそなたは常々からわしが望みの子年の產れ、命は貰うた覺悟しや、さあ、念佛なりと申しやいなう。
くら どうぞ助けてくださりませ。
  トおくら遁げ出すをおつたつかつかと行き襟上を捉へる、おくら振切りおつたと向ひ合ひきつと睨むこれにておくら縮む、爰へ嚙附きしこなしにて飛附く、おくら苦しみながら仰向けに倒れる。おつたは、中腰になり、下手へ手を突ききつとなる、この時顏は猫の模樣よろしく、おくらはよろよろ逃げるをおつた毛のはえたる手にて打倒す、是れにて鼠の思入にて、おつた飛附き、襟元を御えよろしくあつて、正面の簾の内へ引込む、

宗三郎とお袖は気味悪く寝られずにいるが、宗三郎がつたに声をかけたところ、つたは口のあたりを血で染めた顏を見せ、宗三郎は驚く。そこへ雲鐡がやって来て、この古寺の辺を居所とする変化が赤子を取り食うから、宿泊するのはやめた方が良いと言う。忠告した後、雲鐡は村の人々がやってきた幻覚を見て、独り言をつぶやきながらうろうろし、やがて何者かに襲われてしまう。

  この時、大ドロドロになり、雲鐡連理引きにて引き戻され舞臺へ來る、
  宗三郎お袖は平舞臺へ下りて、この體を見て打伏せになる、雲鐡は襟髪を取られし形になり、
雲鐡 あゝ苦しや苦しや助けて下され下され、今口走りしは愚僧が惡かった、助けて下され下され。
  トドロドロにて雲鐡我が手で襟を拂ふこと、眞中にてくるくる廻る、この時二重御簾の内より毛の生えた長い手出で、雲鐡の襟髪を取る、これにて雲鐡苦しみながら御簾の内へ引込まれる、宗三郎お袖そつと顏を上げて、此體を見て抱子を放し氣絶する、又ドロドロになり、長い手出で抱子を引く、

宗三郎とお袖は雲鐡が御簾に引き込まれたのを見て気絶し、正作に助けられる。気絶している間に赤子の姿も消えている。そこへ村中の百姓たちが妖怪退治に古寺へやって来る。つたは、正作、宗三郎、村の百姓たちに囲まれ、猟師の繁蔵に撃たれる。

  ト正作宗三郎御簾を引取る、これにて一面にぱらりと落ちる。内に老女十二單衣のこしらへにて住ひ傍に鐡漿道具をおき鏡臺に向ひ、鮑貝にておはぐろを附居る、两人見て、
  扨こそ汝は變怪よな、いで、正體を、
两人 顯はしくれん。
つた やあ、おろかや两人、汝等ごときに暗々となど本性を顯はさうや、早々この場を退散せよ。
正作 やあ、假令その身の業通にて姿を包み隠すとも、身共が所持なす不動の名刀、梵字の威コと手練を以て、きつと正體顯はしくれん。
宗三 わが子の敵、憎き妖怪。
正作 不勣の劔で討取らうや。
つた さあそれは、
正作 本性明すか、
つた さあ、
三人 さあさあさあ。
正作 きりきり本性、
两人 顯はしをらう。(ト是れにて老女、劔に恐れるこなしあつて、)
つた ちえゝ殘念や、口惜しや、劔に彫りし梵字の威コと汝が手練に敵し難く、今ぞ本性語り聞けん。
两人 何と。(ト誂への合方になり、)
つた 我は大和の國金峰山の奥に產れ、數千年の功を經て父諸共に攝津の國、大阪城の北の櫓に年久しく住ひしが、落城の折わが父は焰の中に身を焦し、この身は辛く遁れしが恨みに思ふコ川の本國三河に飛行なし、西尾の家の老女にて二尾と言ひしを咬殺し、姿を替へて國中を惱まさんと思ひしも、望みの叶はね上からは、見よ 此場で汝等にも、修羅の苦患を見せてくれん。
正作 小癪な一言、ものどもそれ。
皆々 合點だ。
  ト正作宗三郎左右よリ切つてかゝる、おつたちよつと立廻る、百姓皆々竹槍を差附ける、是れにて大ドロドロになり、皆々たぢたぢとして跡へ下がる、老女正面へ逃げてはひる。跡追駈け行かうとする此時下手張壁を破り、内より吹替の猫出でちよつと立廻りあつて、よき程に本鐡砲の音して、吹替上手へぱつたり倒れる、

『独道中…』でも、猫石の精は、お袖・藤助の子を抱いたくらと会話する。猫石の精が幼子を寝かしてやると言い、盆踊の歌を歌うと、二匹の猫が歌に合せて立って踊る。
くらは夜がふけるにつれて、すさまじい恐怖を感じる。くらが寝たと誤解した猫石の精は、「あんどうを引寄、その内へ顔をさし入る。その形猫に移る。長き舌を出し、ひちや と油をなめる」。くらはこの様子を見てしまい、このため、猫石の精はくらを食べてしまう(「顔はなまなりの猫の顔になる。」「手を出してはりたをし、あちこちをかむ事。」)。
一方、藤助は、くらの母が蘇生したことを疑っている。お袖はかつて姉を呪って醜い顔にしたことに悩んでいる。ここへ、死人を葬る所を探していた願哲と、お袖をものにしようとして追ってきた五郎吉がやって来るが、藤助は追い返す。その後、赤子が泣くため藤助は薬を買いに出て、お松の亡霊と遭遇する。お松の亡霊は、お袖を見て怨念の形相となる。やがて、お袖はお松の亡霊に気がつき、お松の亡霊はお袖を襲う。この時初めて、お袖はお松が非業の死を遂げたことを知る。藤助が帰ってくるとお袖が倒れており、姉お松の亡霊が現れ、その恨みを受けお袖は世を去ると言い、苦しみながら事切れる。
ここで藤助は、怪異をなす存在に気がつく。「下のせうじ家たいのやぶれより、細長き手を差のべ、お袖のゑり元をとらへ、づるづると障子の内へひつこむ。藤助びつくりして、/藤助 さてこそあやしい一ト間の内。○/ト家たひへかり、せうじ取のける。うちにお袖の首なき死がい有り、薄どろどろにて、くだんの家たひの内より玉生[(魂しい)]ふわりふわりとむかふへ飛ゆく事。藤助おどろき、/藤助 コリヤ、死りやふのわざにお袖はかわひや。さすれば今よりおさな子は、親に[(乳房に)]はなれて泣き死に。○/ト思い入れ。どろどろに(て)この時上の方のせうじの内より毛のはへし畜生の手を出し、つめをとぎたてしていにて、赤子をつかみひきこむ。/藤助 又もや、こなたに。○/トかけよつて障子をけはなす。内に二やくの[菊五郎]、くだんの老女にて、(赤子を)つかみ、これをくろふていにて立ち身。」
『独道中…』では、お袖の母を名のる猫石の精が、藤助の見ている所でお袖・赤子を次々と襲って食べてしまう。『…扇宿付』では、くらと雲鐡と赤子が食べられ、お袖は生き残る。つたが行燈の油をなめたのを見てしまい食べられるのは『独道中…』と同じであるが、雲鐡はつたの一味であるにもかかわらず、この寺に変化が出て付近の赤子を食べてしまうので逗留をやめるように忠告したために、つたに食べられてしまう。
猫石の精が、藤助に自らの出自を語るのはその直後である。この出自が『…扇宿付』とは異なっている。『独道中…』では、南蛮国において、偶然に「猟虎院虎」の生が合して異獣が誕生したという。異獣は日本にわたって、「火車」と呼ばれた。東国に下る道にて山中にわけ入って人を害し、姿を隠して「大石」となった。人々も恐れ、雲を起こしたり炎の色に光ったりする魔界の者である猫石の精霊であると言う。さらには、毎日恩愛を受けた飼い主の松山の怨念と合体し、恨みはつきないと言う。
猫石の精霊は、藤助が懐中から出した経典一巻と、同時に現れた犬とに苦しみ、猫石と化し、周回は茅原となる。そこへ、願哲が施主山形屋義兵衛一行を引き連れて現れる。願哲が葬儀を頼まれた水死人は、吉原の松山(お松)であった。願哲は藤助を怪しい者と思い、山形屋の若衆とともに藤助に切りかかる。
その時、天候が変化し、「うしろの猫石目をひらき、火ゑんをふきかけ、そのあたりより猫石の精ヨ六あらわれ、くだんのおけへたちかゝかる。藤助やらじととゞめる。立ち廻りに猫石の精ヨ六、ひきぬきにて老女のかつら、すがたもともに半身まだらの大ねことなつてきつと見得。…(中略)…/藤助 さてこそ火車の正たいを。/精ヨ六 民部がくわひ中、アノ一くわん。ちかよる事のかなわねば、女の死がひは八まんならくへ。/ト早おけを打くだき、松山の死がひに、お袖の首をにぎつてたち上る。/藤助 ハテすさまじきくわしやのふるまひ。/精ヨ六 雲に飛行し、このまゝに。/ト大どろどろはげしく[(大どろどろ早笛じやりじやりにて)]松山の死がひの帯ぎわをつかみ、お袖のくびをくわえきつとなる。」と、猫石の精霊は復活し、松山の死骸とお袖の首を持って、二股の尾の猫の姿となり飛び去る。
『…扇宿付』では、妖猫は、金峰山の奥に生まれ大阪城に住んだ猫であるが、大坂夏の陣の際に父を焼き殺され、徳川への恨みから徳川の本国である三河へ行き、西尾家の老女をかみ殺して化けたという。しかし、徳川への恨みを果たす望みがかなわないうちに、正作・宗三、村中の百姓に取り囲まれ切りつけられて、繁蔵に撃たれてしまう。『独道中…』では猫石の精は逃げた後再登場することはないが、『…扇宿付』では、妖猫は、今度は狩人繁藏の所に現れる。
第三幕で妖猫退治の際に登場した狩人繁蔵であるが、第四幕にはその妻子が登場する。繁蔵は、親類から頼まれて岡崎へ行く。付近の農村で赤子が度々消えてしまう事件が起き、詳しく調べてゆくと、法光寺村の古寺に年を経た猫が住んでいて、それが赤子をさらって食べるという。もし妖猫を撃ち留めることができれば人助けになるので、頼まれて行ったと言う。
繁蔵とお静には二人の娘がいる、庄屋に認められて庄屋の息子與太郎も預かっている、猟師の松蔵がお静に惚れている、松蔵の女房がやきもち焼きである、娘が父の帰宅に備えて焚木を拾いに行き一人が谷に落ちるなど、きめ細かく物語が構成されている。
繁蔵が不在でお静が留守居をしている家に、松蔵が仲間と連れ立ってやってきて強引に入り込み、お静にからむ。庄屋が息子與太郎の誕生祝いのために持ってきた重箱を肴に酒を飲む。怒鳴り込んできた松蔵の女房おかんも、お静が松蔵を引っ張り込んだと誤解する。
一方、妖猫は、おかやに化けて乳をもらいにやって来るが、その子に乳をやっている間に與太郎が泣き出したため、うかつにもおかやに與太郎を預けてしまう。おかやは、與太郎を抱えたまま、姿を消す。
そこへ繁蔵が帰って来る。お静と話をしているうちに、與太郎がいないことに気がつく。繁蔵が家内の酒肴に気がついたときに、おかんがやってきて、お静が松蔵を引っ張り込んだと言う。おかんの讒言により怒り狂った繁蔵は、お静を責め打ち据える。そこへ、焚き木を拾いに行った妹のお道が帰ってきて姉のお辰が谷に転落したことを告げる。
繁藏がお辰を助けに出てゆくと、お静は泣きながら繁蔵に誤解された経緯をお道に伝える。お静は、潔白を証明するために死を決意する。お道も共に死ぬと言い、母子共に死ぬ。
一方、繁蔵は谷から転落しながらも生きて気絶していたお辰を見つける。
そこへ、庄屋がやってきて、繁蔵の妻子の自殺を告げる。遺書には、夫の留守には人にあらぬことを言われぬように大事に家を守っていたのに、夫に不義の疑いを受け、言訳ができないうえ、大恩のある庄屋様の大事なお子様を失って申訳ないため、娘のみちと共に自害しますから、御許しください、とあった。繁藏は涙ながらに遺書を読み、「一途に迫り、發狂したと思はるゝ、不便な事をさせたなあ。」とつぶやく。
自らの不運を嘆く繁藏に対して、突然猫に憑りつかれて豹変したお辰が、繁藏に殺された妖猫の恨みが原因で、繁蔵一家の悲劇が起きた事を告げる。お辰が繁藏に襲いかかったために、繁藏は思わずお辰を切り殺し、猫の祟りの恐ろしさを思って自害する。

  歎息なせば泣き居たる、娘お辰が顏を上げ、(ト繁藏ぢつと思入。お辰側へ寄り、)
お辰 とゝさん、お前それを知らぬかえ。
繁藏 なに、知らぬかとは。
お辰 お前が撃つた猫の恨み。
繁藏 何と。
  折から落す山風に、髪も亂れて形相變り、さも恨めしげに打見やり。
お辰 庄屋の息子を奪ひしも、女房娘が自殺なせしも、我が通力のなせしこと、見よ見よ汝等四人共取殺すからさう思へ。
繁藏 さては撃ちたる猫の一念、娘お辰に乗りうつりしか。
お辰 わが恨みをば、思ひ知れ。
  繁藏目がけて飛びかゝる、姿はさながら猫に似て、通力自在に飛び附き飛び附き飛び附き、變化の業通あしらひ兼ね、用意に差したる山刀、脅しに拔いて切拂へば。
  ト誂への鳴物になり、お辰猫の思入にて繁藏へ飛附く、繁藏山刀を拔いて、脅しに切拂ふ立廻りよろしくあつて、
  爪とぎ立てゝ飛び附くにぞ、是れまでなりと繁藏が、たゞ一刀に切下れば、あつとばかりに倒るゝ娘、果敢なく息は絶えにける。
  や、脅しに拔いた刀にて娘お辰を切殺せしか、やゝゝゝゝ。
  刀投げ捨て駆け寄りて、抱き起せど事切れて、餘りのことに茫然と暫し呆れて居たりしが、
  ト刀を捨てお辰を抱き起し見て、あきれし思入にて手を放す、お辰ばつたり倒れる。
  今日一日に女房はじめ、二人の娘が非業の最期、かゝる憂き目を今見るも三州西尾で撃留めし猫の祟りであつたるか。
  折しも吹き來る一陣の、風に木の葉もひらひらと、目先に殘る妖猫の、拔けつ潛りつ切拂ふ。
  ト此うち繁藏へ猫飛びかゝるといふ思入にて切拂ふ、トゞ山刀を我が咽喉へ突き立て、
  妖魔の祟りぞ。
  ト繁藏よろしく苦しみ倒れる。

妖猫の祟りによる猟師一家全滅の物語は『…扇宿付』における創作であり、これにより妖猫譚に因縁果報の報にあたる結末が付け加えられる。
引用は、『有松染相撲浴衣』(『黙阿弥全集』第24巻、河竹黙阿弥著、河竹糸女補、河竹繁俊編、春陽堂、大正
15年)、『高櫓力士旧猫伝』(桃川如燕著、鶴声社、明18年、上・下2冊)、『百猫伝内 小野川真実録』桃川如燕講演、今村次郎速記、九皐館、明26年)、『五十三駅扇宿付』(『黙阿弥全集』第26巻、河竹黙阿弥著、河竹
糸女補、河竹繁俊編、春陽堂、大正15年)、『獨道中五十三駅』(『鶴屋南北全集』第十二巻、竹柴 太郎編、三一書房、昭和49年)による。 
 
■如皐と黙阿弥 / 岡本綺堂 
少し調べたいことがあって、古い歌舞伎新報を繰っているうちに、明治二十五年九月の部に行き当った。その時の歌舞伎座では新作の「仕立卸薩摩上布」(五大力の実録)と「世話情浮名横櫛《よわなさけうきなのよこぐし》」を上演していたのである。その薩摩上布については別に云うこともないが、今更の様に「浮名横櫛」の正本を繰返して読んでいるうちに――その時は源氏店《げんやだな》の一幕を演じただけで、歌舞伎新報のもその一幕の正本しか載っていなかった――自分が若い時に西田菫坡老人や条野採菊老人から聞かされた瀬川如皐《じよこう》の話を思い出した。
「浮名横櫛」と「うはばみお由」と「佐倉宗吾」とが如皐一代の傑作であることは云うまでもない。併しこの劇通の諸老人の説によると、如皐はその当時、時代物の作者として知られていた人で、一口に一番目物は如皐、二番目物は新七(黙阿弥)と云われていた。その如皐が世話狂言を書いたと云うので、観客も少し不安に思っていると、それが案外の成功でびっくりさせられたという。  併しこの作の面白いのは、木更津の浜辺と源氏店の妾宅との二幕で、その他は唯、ゴタゴタするばかりで江戸前のすっきりした気分に乏しい嫌いがある。そのときに蝙蝠安《こうもりやす》を勤めた仲蔵の「手前味噌」にも、如皐は文車の講釈種に拠って書き下したのを、それでは面白くないと云って、与三郎を勤める八代目団十郎やお富を勤める梅幸等が相談の上で、しん生の人情話を基にして稽古の時に改作したと書いてある。生世話の狂言を人情話に拠らないで、講釈種に拠つたと云うのを見ても、如皐という人の作風が想像される。彼はどこまでも時代物式の重苦しい作風の人であった。
その一例として、かの源氏店で有名な与三郎の台詞《せりふ》の中に「その白化か黒塀の、格子づくりの囲い者は、死んだと思ったお冨とは、お釈迦様でも御存じあるめえ。」とある。それを如皐は「格子づくりの囲い女は」と書いた。八代目がそれを見て、囲い女と云っては与三郎らしくないと云うと、如皐は五七の調子の都合でそう書いたと云う。八代目は笑って「師匠は江戸ッ子のようでもない。たとい囲い者はと書いてあっても、口で云うには囲いもなアと詰めて云うに決まっているから、ちっとも五七の調子に差支えない。」と答えたと云う話が伝えられている。成ほど「囲い女」は面白くない。これを見ても如皐と云う人は飽までも一番目式の作者であったと云うことが判る。それと同時に、一言一句の事となおざリ雖も等閑《なおざり》にすべきものでないと云うことも身にしみて考えられる。
「浮名横櫛」の正本全部を読んだ人は十分に気がつくであろうが、大体に於てそれが非常に長い、むしろ冗漫に傾いていると云う嫌いがある。この作に限らず、如皐という人は根気の好い綿密な作者で、どの作も皆な長いのを以て有名である。如皐さんのものは何うも長くて困ると、その当時でも、楽屋内一般の評であった。で、何の狂言の時であったか忘れてしまったが、小団次が彼の正本の長いのを恐れて、一つの狂言は横書(横綴にした脚本)七十丁を越ゆべからずという制限を加えた。その正本が脱稿して、いざ本読になると、やはり長い。どうも制限の七十丁を超過しているらしいので、本読が済んだ後に小団次は彼に向って「如皐さん、ちょいと正本《ほん》を見せて下さい。」と云うと、如皐は何か曖昧《あいまい》な挨拶をして、慌ててその正本を風呂敷に包んでしまおうとするので、此方はいよいよ怪しんで、無理にその正本をうけ取ってみると、成ほど約束通りの七十丁には出来あがっているが、紙を小さく剪って其処にも此処にも一面に貼り足してあって、その実際の分量は矢はり八九十枚に達していることが判ったので、小団次も思わず噴き出したという。あまり綿密なのがわずらいをなして、彼の書く芝居は、何時もこんなに長くなるのであった。
江戸時代の狂言作者といえば、すぐに放縦懶惰な生活を連想させるが、江戸末期の二大作者であった如皐も黙阿弥もみな小心な謹直家であった。かの鍋島の猫騒動は如皐の書下しである。これを書くにあたって、如皐はその妖猫の崇りをひどく恐れたが、座元から強いられて余儀なく筆を執った。その初日の幕間に、如皐が土間に来ている知人のところへ挨拶にゆくと、誰が投げたのか一つの猪口《ちよこ》が飛んで来て、彼の顔に中《あた》って少しばかり血が滲んだので、彼はおどろいた。その晩に家へ帰ると、留守の間に女房が気絶したというのである。夕方の薄暗がりに女房が台所の引窓をあけると、上から大きい猫が口をあいて睨んでいたので、びっくりして気を失ったと云うのである。その話を聴いて、如皐はいよいよ顫《ふる》えあがって、それから気病みで床について、化猫の狂言興行中は劇場へ立入らなかったと云う。この時代の劇場関係者に通有の迷信も手伝っているには相違ないが、いかに彼が小心の神経家であったかと云うことが知られるではないか。
これに似寄った話は黙阿弥にもある。四谷怪談と小幡小平次とを兄妹に仕組んだ「雨夜鐘四谷怪談」という草双紙を柳下亭種員が書いて大層売れた。ところが、これを書くと何かの崇りがあるという伝説に脅かされて、種員は二編まで書くと病気になった。そのあとを頼まれて、黙阿弥が書きつづけることになると、これも忽ち病気に罹《かか》ったので、黙阿弥はおどろいて直ぐに断わってしまった。結局そのお鉢が仮名垣魯文に廻ったが、魯文は物に頓着しない男であったから、何の祟りもなしに書きつづつけた。
話にだんだんと枝が咲いて来たが、そのついでに黙阿弥のことに就いて、あまり世に伝わらないことを少しばかり書いてみたい。これは条野採菊老人の話であるが、黙阿弥は河竹新七と改名して立作者の地位に昇ったものの、河原崎座の座元たる河原崎権之助は新作を好まなかった。今日でも然う云う議論を唱える人が無いでもないが、彼の議論として、昔から在来りの狂言は必ず何処かに面白いところがあればこそ今日まで寿命を保っているのである。それに比較すると、海の物か山の物か判らない新狂言は甚だ危険である。何でも在来りの物さえしていれば間違いはないと云うので、彼はひどく新作を嫌った。それが為に約十年間、黙阿弥は何の仕出《しでか》すことも無しに楽屋の飯を食っていなければならなかった。本人も無論残念であったが、親類や友達からもいろいろの苦情を云い出た。甚だしいのになると、折角狂言作者になりながら芝居やを書くことが出来ない位ならいっそ作者を罷《や》めてしまえと云った。本人が書けないのではない。座元が採用してくれないのであるが、しろうと それ等の事情が局外の素人《しろうと》にはよく呑込めないで、所詮は彼に新狂言を書くだけの力が無いものと見縊《みくび》られたらしく、蔭へ廻って悪口を云う者もあり、面と向って責めた者もあった。
黙阿弥も終にはその圧迫に堪えられなくなって来た。ある暗い夜に両国橋を渡って、薄明るい水の光を眺めた時に、人間は斯ういう時に身でも投げる料簡《りょうけん》になるのであろうと、しばらく立停ってつくづく考えた。翁はそれを後に採菊老人に語って「併し私は意気地が無いから、思い切ってとび込む気にはなれませんでした。」と云ったそうである。私はその話を更に採菊老人から聴かされた時に思わずひやりとした。意気地が無くて結構であったと思った。いや、意気地があったから飛び込まなかったのかも知れないと思った。
白浪作者の名を謳《うた》われた黙阿弥も固より泥坊に知己のあろう筈はない。謹直な彼は博奕《ばくち》打や遊人のたぐいとは決して交際しなかった。それで何うして彼等の生活状態や彼等社会の術語などを譜《そらん》じていたかと云うと、その頃の講釈師に琴鶯というのがあった。それが博奕打のあがりで、それ等の消息を詳しく心得ていたので、黙阿弥は専ら彼に因って其材料を得たのであると云う。これも採菊老人の話である。 
 
岩見重太郎譚
 

 

■岩見重太郎 1 
1、講談の重太郎
僕等の小さい時分、重太郎兼相などという人は中々流行って居たものである。天の橋立千人斬などと云って、二千五百人の真中にたった二人で斬込んで行くのであるから、いくら荒木又右衛門が強かったって、武蔵坊弁慶が大力だったって敵うものでない。塚原卜伝というのも可成り多数の中へ暴れ込むが、二千五百人の半分よりも大分少なかったと覚えている。
余り強すぎたので流行らなくなったのか、悟道軒円玉なんかが「講談も合理的に申し上げませんと」とか「どうも世の中が科学的に成りまして」とか、と云いながら粂平内を平気で書くようになったからか、とにかくせいぜい二三十人位の相手に止めておかぬと信用しなくなったらしい。
岩見重太郎だけで無く「稲生武太夫の八百八狸」とか「元和三勇士」とか「蒲生三勇士」とか、その講談の中より外に決して名を見ないというような人物の多い種はだんだんすたれて行く傾がある。「猿飛佐助」がもう流行らなくなったが、今に粂平内も飽きられてしまうだろう、少しは嘘も交っていいが矢張り「清水次郎長」とか「伊達騒動」とか云った事実の確な物の方が長続きするらしい。
尤も、岩見重太郎などは不幸なことに、上方種の講釈だから、上方の釈師が無くなると共にすっかり勢力を失墜してしまった点もある。芥川龍之介に云わせると、玉田玉秀斎の作だろうというが、純上方物の「誰ケ袖音吉」とか「木津勘介」とか「天下茶屋仇討」とかと同じように、釈師の口にかからなくなると共に忘れられていったらしい。講釈種として「誰ケ袖音吉」など決して偽り物でないが、恐らく誰も知らぬ位に古い物になってしまった。「天下茶屋」なども安達元右衛門が芝居で生きているから名を知られているようなものの、東京の席では恐らく上った事はあるまい。
芝居も落語も講釈も殆ど東京種に押されてしまって、純上方種のものがだんだん少くなるが、地方に行くと岩見重太郎武勇伝など、旅廻りの大阪役者によって時々演ぜられているらしい。中村信濃という人など、重太郎の猅々退治一つで一生暮らした人であるが、そういう人の御馴染あとを「合理的」岩見重太郎の歩いているのを一つ二つ知っている。
落語には未だいくらか上方の味らしい物を残している一人二人の人が居るが、講釈になると旭堂南陵のほか一人も居なくなってしまった。そしてこの人が余りうまく無いから岩見重太郎の運命も末知れたものである。近頃講談が流行るからと、堀江の賑江亭にまでしたが、ここと松島の旭亭とが大阪で二軒の釈場である。私の小さい頃、岩見重太郎流行時代には、そういう小さい私の覚えているだけでも法善寺内に一軒、天満天神裏門に一軒、空堀に一軒あった。法善寺には神田伯龍が掛っていて大抵太閤記をやっていた。いつの間にか浪花節になって、その後ビアホールになったが、丁度その頃バアとかカフェーなどが流行りかけた頃で、ビアホールという屋根看板の大きいのが、随分気の利かない名だと思わせたが、今はどうなったか? 
2、天狗に習う
岩見重太郎は私の知っている頃より少しずつ変遷してきている。合理的、科学的になってきている。私の御馴染の頃は七つ位で天狗にさらわれるのだが、近頃の赤本を読むと、何んとか山へ登って、白髪の老人から剣法の奥秘を授けられると云う事になっている。いつの時代だって余り嘘らしい事は永続きしないが、玉田玉秀斎の時分には、天狗で立派に通用していたにちがいない。天狗だって白髪の老人だって大して違いはない。講釈師は剣客を山へ登らしさえすれば、すぐ白髪長鬚の老人を発見してくるから、円玉の合理的も天狗と大して違いはない。
天狗がひどく軽蔑されて、とうとう存在を失ってしまったのは、ここ二三十年位の事らしい。玉秀斎当時はきっと天狗で通っただろう。立派な武術の秘伝書に「流祖は天狗也」として、そのまま信じられていたのだから、重太郎が天狗から教えられたって不思議でない。天狗に剣を習って一流を開いた人の例話はいくつもある。「自源流」の瀬戸口備前守、この人は名の如く自源という天狗から教えられたのだし、もっと露骨になると「正天狗流」という按摩みたいな名だが、池原五左衛門正重。「東軍流」の開流川崎時盛の師匠が「白雲山の天狗」。「片山流」の片山伯耆守久安が、阿太古山の天狗。斎藤伝鬼の「天流」が矢張り天狗の一種から伝わった物。鞍馬の外に天狗もいろいろ広まっていたものである。
日本書紀、舒明天皇九年の条に、
大星従東流西たいせいひがしよりにしにながれ、便有音似番ー僧旻すなわちおとありばんににたり―そうびん、曰いわく、非流星是天狗也りゅうせいにあらずこれあまつぎつねなり。
とあるが、天狗は舒明天皇の頃から明治二十年頃まで生存していて遂に亡んでしまった。尤も天狗の流行ったのは武術の流行と一緒で、足利末、武芸隆盛になると共に、狩野探幽が山伏姿のものにしてしまって、それ以来木っ葉天狗、烏天狗などを生じ、武術の師匠をしていたが、維新と共に廃刀令が行われて、天狗、岩谷松平に使われて、金天狗、銀天狗になったが、これが天狗の末路である。
白髪の老人も、釈師が探出す程たくさん居た訳で無いが、天狗より以前にかえって存在を明かにして諸所にいる。「蔭の流」の流祖愛州移香の学んだ人が、僧慈音というが、この人は九州鵜戸の岩屋にいた。そしてこの人も、元その窟にいた人から学んだらしく「鵜戸岩屋神伝」と称している。
「中条流」中条長秀もこの慈音に学んでいるし、鞍馬には剣僧八人いて、各々奥義に達し、この流を、「京八流」と称しているが「剣僧」だからまさか白髪長鬚でもあるまい。「念流」の開流、上阪安久なども僧侶であるが、釈師の手にかかると、こういう連中が悉く、萱の屋根、柴折戸、炉を切って童一人使っていることになっている。弁慶以来、坊主だって強いのがいるからどれもこれも白髪にしないで岩見重太郎一人位は、くりくり坊主で四十位の師匠にしておくと、もっと合理的になるかも知れない。 
3、力量を見せる
そこで、岩見重太郎三年山へ入って戻ってきたが、前の如く、力があるのか無いのか、武術が出来るのか出来ないのか少しも判らない。これが一日朋輩の侮辱を避けんが為めに驚くべき腕前を現す。
「へえ、岩見の小伜が」
「あの、のろまが」と、忽ち毛利家中の噂に上って、御目通という事になる。
江戸時代もそうだが、戦国末からは大抵五歳になると馬を教えた。それから弓に剣柔の道と入って、七歳位から、判っても判らなくても四書五経。
「山高きが故に尊からず」と大音声に読上げたものである。今の秀才教育の最も厳しいもので、力の強い敏捷な子はどんどん強くなるし、弱い子は、
「お前は坊主になれ」と云われたものである。江戸時代になると、この外、謡曲、仕舞、茶の湯もちゃんと稽古する慣しであったから、今の学生より余程手数がかかった訳である。従って身体の発達も精神の生成も、今より早く、十四歳で初陣兜首を取ったなど嘘のようであるが、選まれた子供だと十七八歳位の仕事は楽に出来たと思える。
親爺こういう教育を施しながら、こやつ見込みがあると思うと、
「武芸はいざという場合に現すべきもの、平常決してみだりに現してはならぬ」と戒める。重太郎もこう云われてよく守った一人らしい。表面からだけこの言葉を採ると尤もと思うだけであるが、ここが兵法の懸引で中々裏に裏がある。よく「産死女」(うぶめ)から力を貰ったから差物へ「産死女」を書いたとか、「河童」から金創膏の秘法を授かったとかいうが、昔の広告法の一つである。
君臣の分定まり、足軽一躍士分にはなれず、二百石忽ち千石になる機会など中々無い折には、時々広告法を用いてみる。
「重太郎は薄呆んやりでして」とまず云っておいて、次に、
「三年天狗にさらわれまして」と泣いて、朋輩七人をやっつけたと聞くと同時に、
「重太郎、それ兼ねての如く」と、
「実は、天狗様から武術の奥秘を受けたそうでして、帰りましてからも、天狗様から口止めされていたので、今まで誰にも話さなかったと申しておりますが」
「へえ、天狗様からね」と忽ち評判。同じ齢頃で道場へ通って、
「あの子は強い」と云われているようなのは広告にならない。重太郎とやらを目通りさせい、と言葉がかかる。
「お父さん、うまく参りましたな」と、元服してようよう目通り出来る位のが、お蔭で前髪のままで登城。岩谷松平が天狗を使ったより岩見重左衛門の方が遥かにうまい。殿の前上首尾、一人二人に打勝って、ちよつと力を現しておくと、もう殿の頭に残ってしまう。閑な殿様だからすぐ憶えてしまう。殿様に覚えておいて貰えば悪い事は無い。「河童に教えて貰った金創膏」などにしても同じ手で、芥川龍之介の「河童」よりもいくらか金儲けになる。 
4、神出鬼没
重太郎が天狗から貰った力七十人力と云う。だんだんすくなくなって近頃は、何人力なんて云わなくなったらしいが、角力の衰えているのも無理は無い。
七十人力と云うと、六尺以上はなくてはならぬ。六尺以上で七十人力と云うと、帯びている刀、先ず鎺元(はばきもと)で一寸五分以上、厚重ねで三尺五六寸あろうという強刀で無くてはならぬ。それ以下になると吾々が、細い篠竹か何かを持って居るようでかえってうまく使え無い。剣法では自分の力に比例した重さ長さの刀がいいとしてある。尤も江戸時代に入ると、二尺五寸以上の刀は佩用してはならぬと布告されたが、岩見重太郎は大阪役以前だからいくら長くても差支えない。
七十人力というと、普通の人が二尺の刀でいいとすれば、長さを半分にしても七十尺の刀。真柄十郎左衛門が姉川の戦いで使ったという有名な大太刀が七尺有余。新田の四天王、篠塚伊賀守の佩刀が五尺六寸。共に名代の大太刀であるが、重太郎の刀は二尺七八寸らしいから、講釈師の七十人力、なる程不合理で、重太郎の迷惑察すべしである。刀も三尺位まではいいが、こういう大太刀になると、背中に背負っていて、戦が始まる前になると一旦降ろして、
「おい刀を抜くのだ」と、兵卒に鞘を持たせ、
「後方の方危いぞ、退け退け」と、ずるずると引抜く。それから空鞘を背へ結びつけて、抜いた刀を肩に担ぐなり、楯の上へ置くなりして敵の近づくのを待つのである。こうなると名は太刀であるが、長巻か、薙刀か、鉄棒か判らない。力に任せて振廻すより外に方法があるまいと思える。
父重左衛門、広瀬軍蔵、大川八右衛門の為に暗殺され、重太郎の兄重蔵が妹お辻と共に仇討に出たが、無惨や返討になってしまって、お辻も既に危い折、塙団右衛門直之が現れてお辻を助ける。
第一お辻を連れて仇討に出るのが間違っている。何時でも手足纏いにしかならぬのに重蔵も重太郎も連れて歩く。連れて歩いてはひどい目に合わせる。お辻が国に居る時、誰かと恋愛関係でもあって、その為め父が暗殺になるとでも云うなら、いくらか因縁もあるが、不幸なこの娘は、仇討に出るくだりになって突然現れる。そしてその娘盛りを、女郎に売られ、敵の刃に罹らんとし、最後に牢死してしまうのである。性根の判らない、出所進退の拙さ加減、「榊原高尾」みたいなものである。
このお辻を助けに塙団右衛門直之が現れるのだが、これは愉快な人間である。日本中の、助太刀とか、強きをくじき弱きを救うとかを一人で背負っているような人間で、そういう時には必ず現れてくる。時間と距離とを超越していて、何時何処へでも出てくる。
記録によると加藤嘉明の足軽大将で、主家を去って後、京で僧侶をしでいたが、やがて伏見の近くの藪の中に浪居を構え、寺小屋を営みつつ細々とした煙をあげて居たが、大阪役の起る前に入城した人であって、強情我慢、強がりの随一だから、記録なんか気にもしない。坊主になっていたって、大髷深編笠で山賊退治に出てくるし、其日は確に藪の中に居たが、お辻の危難に出てくるし、出没自在アルセーヌルパン以上の代物である。
これがお辻を助けて重太郎へ引渡す。重太郎妹を連れて仙台へ入ると共に、関所で引捕えられると云う事になる。 
5、見事に捕縛される
塙直之も出没自在であるが、岩見重太郎も大して劣らない。大阪役の前だから、諸国の風雲穏かでない時分、番所々々を境々に設けて中々入国を許さないのに、中国の端からどう抜けてきたか、仙台へ入ったのだから大したものである。
ずっと後になっても、薩摩に土佐、紀州、伯州、仙台、木曽、加賀などが入国は中々むずかしい国で、薩摩へなどは幕府の隠密でも生命がけで入ったものである。他の国でも出しはするが容易に入れはしない。知人の無い人間だと泊めもしない掟さえあったのだから、岩見重太郎、どうして三百里以上を出て来たか、豪傑の豪傑たる所以はこの辺にあるのかも知れない。
釈師が云うと、関所、関所は、そう無暗にない。番所という。重太郎仙台の町へ入ろうと、関所の前へかかると、
「待て待て待て」と云ったというのだが、これは町の木戸だろう。番所は国境にしか置かないものだから、町の入口では関所と同じようにおかしい。木戸へかかると、
「やあやあ浪人、尋常に縄にかかれ」
番所で見逃して木戸で捕えられたとすると、番所の役人大手落になるが、そこは、重太郎、天狗から教えられて影の如く通ってしまった。町木戸へかかると白昼で、天狗の術が使えない。
「理不尽なる役人かな。一応の取調べもなさずして」
「いや舌長なるその一言、そーれッ」と、これが広瀬、大川の二人の讒言によると云うのだが、仙台藩の役人も、今の役人のように融通無限、鼻薬ですぐ転んだものとみえる。重太郎怒って、その上をもう一つ転がしてみたが、お辻が危くって、
「離れるでないぞ」と云っている内に、遠くで、
「あーれっ」
南無三、妹を殺してはと、
「縄受けよう。女に手荒くすな」と引立てられるが、後々、天の橋立で二千五百人の真中へ斬込む程の重太郎、町木戸の役人を対手に妹を奪われるなど、重太郎腹でも痛かったせいにちがいない。とにかく七十人力だから、お辻位小脇に掻込めばいい。弁当箱の重さにしか当らない。そして身の丈六尺もあるのだからどんどん逃げ出せば追っつけまい。
武芸の方では多勢を対手にする時には、決して小楯にとった防禦物とか、背中合せの人間とか、からは離れないのを原則とする。離れると敵が背後に廻るから倍の力の敵を受ける勘定になる。いくら対手が多勢だって、一時に向って来られる数は三人しか無い。前と左右とである。この三人の中へもう二人、又は四人が入れそうであるが、実戦になると相当の距離を各々に必要とする関係からそうは行かない。七人も密接して立向ったら、横の刀は絶対に使えない。左右へ相当の間が無ければ受ける事も交す事も出来ないから、大抵三人が前と左右から向う事になって居る。
重太郎無双の豪傑で七十人力、お辻の一人居た為めに捕縛になる。心得ざるの甚だしきもので、お辻もお辻、女郎に売られたり、牢死したり、少し薄馬鹿で身体が弱かったのだろう。その弱い身体で二百里もよく歩いた、と。そう穿鑿されても困る。まあまあ。 
6、破牢
二人の兄妹、そのまま投獄されて一回の取調もない。一夜重太郎うとうととしていると、お辻が夢枕に立って牢死した事を告げる。目が醒めると冷汗腋をうるおしているから朝に成るのを待兼ねて牢番に聞くと、
「知らぬ」
「これでも」と、腕を握ると七十人力、
「わーっ、お話し申します。実はこれこれ」
重太郎怒髪冠を突いた。よしその儀ならば破牢致してくれんと、むずと手をかけた欅五寸角の牢格子。破獄の方法としては一番原始的である。原始的だが七十人力があると、吾々が杉箸を折るのと違わない。忽ちめきめきばりばりと壊してしまった。
破獄の中で一番気の長いのは「ジャンバルジャン」の中の僧で、十数年かかって坑道を掘る。それに続いては、実際あった話であるが、衣類の糸を一分位の太さに撚って、飯粒を塗込んでは、塵の上へ転がして乾し固め、それで鉄棒を磨切ったというが、案外早く成功して二三年しか掛っていない。嘘のようであるが、「軒滴石をうがつ」の好例である。
釘一本で破獄するというのは昔の事で今は絶対に不可能である。昔の錠前だと、それで蓋が外せたが今は駄目である。アメリカ製の金庫用になると、科学的の方法でないと絶対に手が出せない。尤も文字合せというのは、非常に理論上、複雑にならなくてはならぬ訳であるが、製作者の方で、手数を省くので案外種類が少ない。支那の文字合錠など十個も買って見るがいい。
重太郎、牢を破ってどんどん走る。とうとう夜に入って役人の目から逃れてしまったが、山中へ入込んでくると一軒の大きい門構えの家に、何か只事ならぬ事があると見えて、出入の人々の悲嘆顔。一人を捕えてきくと、生身御供に娘さんが上るのだという。重太郎聞いていよいよ猅々を退治るという、岩見武勇伝中の大眼目。 
7、猅々と対決
合理論者円玉に云わせると、この猅々を山賊にしてしまう。この位の合理論なら円玉でなくったって、近頃の子供でもいい。こういうのは猅々にしないと面白くない。猅々という動物はボルネオ辺のものだから、奥州に居ない―などもますますいけない。大江山の酒天童子は鬼でなくて漂流のロシヤ人だとか、生血は葡萄酒だとか、桃の中からは人が生れないとか、岩見重太郎の流行らなくなるのも無理は無い。動物学上、猅々は奥州に生れないが、伊達政宗が支倉常伊右衛門以前に人を欧洲へ派した時に、猅々を持って戻った。天正六年申丑六月の事である。この猅々が檻を破って逃げ出したのが重太郎の退治た猅々だと、白井喬二が云っている。―と、これは嘘であるか、講談師の動物学によると、猿が何百年かすると白くなる。これを白猿という、とある。
狐だって金狐、白狐、黒狐とこしらえてあるが、アメリカには本当に青狐があるから、講釈師だって出鱈目の嘘を吐いているのでもなかろう。
野猿八百年を経て白毛となる。これを猅々と称す。こいつが娘を年に一人ずつ御供としないと野畑を荒す。貧乏の家の娘は女郎に売って心中したとあきらめると村の人々からの金や貰物で二三年は楽にくらせて都合がいいが、庄屋の娘はそうは行かない。大抵、美人でやさしいから父母の愁嘆見る目も憐れである。
「拙者娘御と代って山へ参ろう」
今ならこんな手の詐欺はいくらでも出来るだろうが、昔は素朴。
「それなら一つ」と、刀を与えて輿の中へ入れる。
「何んと重い御嬢さんだんべいの」
「食物がいいからの」と、御きまりの文句を云いながら、山腹の一宇の堂の前へどっかと下して一目散に下ってしまう。重太郎刀を抜放って息抜きの穴から四方を覗う。来た道から来る事はない。右手は谷間だから、ここからも来ない。来るとすれば正面の拝殿の中からか、左手の杉林の中からか。来たらこうこうと片膝立てて耳を澄ます。
日が落ちると共に、ぱたりと止んだ風、時々梢を動かすが山中蕭寂の気、落葉一つの音さえ聞き取れる。夜に入って一刻ばかり、穴からのぞいても見えぬから、ただ耳と心のみで四辺を窺う。
さっさっと梢を渡るもののある気配。重太郎刀を構えつつ、長持の中から音する方を見ると、折柄の月に照らされつつ、白いものが梢から梢ヘ渡りつつ近づいて来る。三間も間のある枝から枝をひらりと渡る。と見る木陰へ隠れる。忽ち白い姿が現れたかと思うと、五六間も下に降りて七八間も近づいてきている。
「聞いた如く年経た猿にちがいあるまい」と、左の膝をしっかと長持に当て、右脚を縮めて、刀は真向に切っ先を額に当てつつ明けると同時に突上げるつもり。そのままの姿で窺っているとは知らず、拝殿の屋根に降りたらしく思う刹那、ひらりと縁に立った早さ、うずくまって辺りを眺めていたが、片手を延して引寄せようとする。例年の娘ならとにかく二十貫以上の岩見重太郎が入っている。爪をかけた位では引寄せられない。片手、片脚を延して、ぐいと横に押す。力の強さに流石の長持五寸ばかり斜になる。
「余り廻さないでくれ」と、重太郎あべこべにでも向けられたら堪らないから、踏張っていると、そろそろ近寄りつつ、錠前の所へ手をかけた。十分の気合い、猅々の大力、蓋ヘ手をかけると共に、上ヘべりべりと引裂く。刹那に、さっと突上げる重太郎の刀、胸を五寸余り斬裂いて、咽喉へ突込んで二寸ばかり。
「ぎゃっ」と叫ぶと共に、ひらりと屋根へ身を翻さんとする。重太郎刀を突上げると共に、右脚で一蹴り長持を蹴破るや、拝殿の縁側へさっと立つ。今飛上らんとする猅々へ、横に払う一太刀、斬落しは出来ないが、したたかに傷つけられて、早くも下へ逃げんとする。重太郎飛鳥の如く飛下りると共に、猅々の前へ立ったが、猅々のうしろは谷間、いくら身が軽くても谷越えは出来ない。
「うーっ」と、歯を剥き出しつつ、手足を突いてきっと睨んだが、すぐ次第々々に立ちながら、爪を立てつつつかみかからん姿勢。重太郎、刀を真直に猿の胸許へつけて、左手左脚を地に突きつつ次第々々に小刻みに迫る。すべて動物という奴は、驚くと立上る。馬にしても犬にしても、立上る所へ一撃を加えられるから倒されるのであるが、逆に平伏されたら飛越えてしまうより外に法がない。猅々が攻撃しようと立ってくる。対手も猅々だと同じく立つ。対手が虎だと前脚を張って飛びかからん用意をする。
重太郎人間だからそんなへまをしない。師匠に私がついている。次第々々に切っ先は上ってくるがあべこべに人間は低くなる。ひどく勝手が違うから猅々も困った。飛つけば刀に刺される。飛つかないと―矢張り刺される。立上った猅々がじりじり後退りしつつ又次第々々に低くなろうとする。この劣勢を示したのを見た重太郎、半身を起して刀を引く。猅々、不意の変に忽ちすっくと立つのを、下から上へ払上げた一刀、つかみかからんと延しかけた手を逆に斬ったから、
「ぎゃあ」
猅々最後の力を込めて、拝殿の縁側へ飛ばんとするのを片手なぐりに横腹へ、
「ぎゃっ」
最初の一撃で敵が強いとみると、猅々でも何んでも逃げる事ばかり考える。辛くも縁側へ登ろうと片脚かけた背後から、首筋に一突き、
「ぐっ」
どっと転落ちるのを、長持の棒でめちゃめちゃになぐったから、歯を剥き出したまま死んでしまった。 
8、二千五百人を相手
猅々を退治てから重太郎、広瀬軍蔵、大川八右衛門の二人が、丹後の国宮津の城主、中村式部少輔の家来になっていると聞込んで植松藤兵衛の二人で、乗込んでくる。中村式部少輔一氏といえば太閤三人衆の一人、生駒親正等と併称された人物だが、講釈師にかかっては耐らない。御仕舞に切腹させられてしまう。
重太郎から中村家へ差出す仇討願、家老の吉村某は尋常に討たせた方がいいと云ったが、殿様承知しない。調練に事よせて二人を殺してしまえと、場所もあろうに天の橋立という細長い、調練向きでない場所を選んだ。重太郎、乗込んでくると、
「何用あって参る」
「岩見重太郎兼相で御座る。御達しにより敵討に参る者。御人数何卒御開き下されますよう」
「黙れ、強いてとあらば槍玉にかけるぞ。退れ退れ不届者」
「これは心得ぬ事を申される。御重役の方々に御伺い下さらば―」
「黙れと申すに、岩見重太郎なる者参らば討取れとの申付じゃ。かかれ」
重太郎、さてはと、
「藤兵衛、それ」
さっと引抜く何尺何寸。第一番手へ斬込んだが、何しろ狭い松原、重太郎左右へ飛鳥の如く働くから、後陣の軍勢繰出す道が無い。
「押すな押すな押すと海へはまる」
「危い危い拙者は泳ぎの心得がない。とッとッとッ、押すとだんだん深味へ出るよ。わーッ、胸まで来たッ」と、二千五百人、数は多いがどうする事も出来ない。所へ又も出てくる二人の武士、
「卑怯なる中村かな。吾こそは後藤又兵衛隠岐基次」
「つづいて塙団右衛門直之」と次々に名乗って、どっと暴れ込んだが、後藤基次という人は六尺有余、大兵肥満の人で強かった。智謀もあったし、真田幸村より、上席で、将器としてはどうも基次の方が大きかったようである。
四人が四列に並んで、暴れ出したからいよいよ乱立つ。二千五百人、悉とく海の中へ逃込んで、
「橋立を横に眺めるのも一興で御座るて」
「横を股のぞきで見たら如何で御座ろう」
浅瀬の所では、しきりにのぞいている。
「いや勇ましい勇ましい。活動写真をみているようで御座る」
四人大暴れに暴れて、とうとう二人を討取ってしまう。この話が秀吉の耳に入って、重太郎、秀頼の馬廻り十人衆の一人に選ばれて、名を薄田隼人正兼相と改めたというが、この薄田隼人正は明かに大阪落城に出てくる。隼人戦死の一条、史実通り書いてみる。  
9、大阪役の不評判
隼人正になってから一番講談によく出てくるのは、木村重成に蝿坊主といわれて綽名になったのを怒った茶坊主が、重成の入浴中を見て背後から打つとこれが薄田隼人正であったと云う話だが、どうも嘘らしい。重成の事蹟を書いた本にはこの話は載っていないから、隼人正が打たれた筈はない。
とにかく二千五百人の中へ斬込んで行く人間だから可成り向う見ずで強かった事は本当らしいが、甚だ遺憾な事に、大阪役では隼人正余り評判がよろしく無い。冬の陣の講和の時重成の前に、
「薄田隼人正はいかが、右府の御覚え目出度き人故」と云うと、一人が、
「近頃は博労淵の不始末にて余り御前体よろしくないから」と反対されておじゃんになっている。秀頼寄合衆の一人として、可成り聞えた人間であったが、別にこれと云って評判の武勇を現した事は無かった。そういう機は無かったが、秀頼の気に入りの上に、諸侯の家の人々とも交際があり、薄田能登守という長尾家の士が家康に、
「隼人正という人間は聞ゆる剛の者にて、刀の柄糸は汚なくとも目釘さえ確かなら、鞘の塗が剥げていようと、中身さえ切れたらと常に申して居りまする」と、話している。
大阪冬の陣には博労淵の要塞を守っていた。手兵七百、大阪城外の防禦地としては一番遠い所である。今の江の子島の東に面した所一帯を博労淵と称していたが、ここを守っている時が十一月の末、寒くって耐えられない。兼相今夜は敵も来るまいと思って、阿波座の方へ引揚げて一杯傾けながら、よからぬ女にも弄れていると、石川主殿頭忠総の手から攻撃が始まった。
「それっ、大将へ」と云ったが、当時の大阪だって広いし、いくら隼人正六尺以上あったって、そうすぐ判るものでもない。第一酒飲みの癖として、行く所はここと云って出たが梯子をしたかも知れない。伝令蒼くなって、
「薄田様敵襲で御座りまする」と、馬を馳せつつ町々を呼廻ったが、どうしても知れぬ。留守居の平子主膳必死となって防いだが、主殿頭の軍中から小舟を漕出して、城兵の弾丸に船の焼けるのも顧みず、城へ迫る七人、いわゆる博労淵破れ舟の七人衆と後の物語に伝えられた神田九兵衛、平木市之丞、中黒弥兵衛、大河内杢左衛門、村田新助、浅井左次右衛門、坪井七兵衛。いずれ劣らぬ無法者で、めちゃめちゃに乗付けて、とうとう斬入ってしまったから、その口から雪崩れ込む石川勢。
女を突のけて馬に乗った頃、隼人正の酔顔に写るのは博労淵の火の手。暫くすると敗兵が引揚げてくる。一遍に酔が醒めたが追つかない。尤も、こんな遠い所まで兵を出しておく必要は無かったから、城の為めには損にならぬが、挙兵前後に入城した諸侯はそれぞれ奮戦しているのに、城つきの連中悉く不成績だったから、それが今隼人正自身の上に現れてみると、平常の武勇評判と思い合して見るのも気の毒な位しょげて居たらしい。謹慎してしまって、
「岩見重太郎時代がなつかしい」
その内に講和になったが、明くる元和元年四月に、東軍再び大挙、城東の野に迫ってきた。 
10、鉄砲には敵わない
四月三十日の城中大評定に、薄田隼人正は第一軍の手に属して、大和口へ進む役、この軍の先鋒は後藤又兵衛基次、三千の兵を率いて百城を出て羽野陣を布く、隼人正の手兵五百、基次の兵の後につづいて、動かばすぐ追うつもりで城中に在って伝令を交している。
第一軍の総数六千四百人、将としては二人の外に井上定利、山川賢信、北川宣勝、山本公雄、槙島重利、明石全登、小倉竹春の七将がいる。第二軍が真田幸村であるが、この両軍を以て、松平忠総が奈良から進撃するのを、亀瀬越の険路で迎え撃とうというのである。
ところが軍参謀大野治長、戦機を知らず、中々命令を下さない。一日二日と延びて五日になった。諜者から、
「敵軍奈良を立った」と、報じてきたから、基次、
「最早これまで、自分一人で戦ってみる。この上待つことは出来ないから」と、幸村と毛利勝永にこの事を告げておいて、五月六日夜の明けぬ内に、どんどん進軍してしまった。
薄田隼人正、この度の一戦こそ博労淵の汚名をそそぐ時であると、基次の進軍を待ち、治長の命令を待っていると、六日の明け方に、
「平野の先手は進発しました」と知らせてきた。治長に告げると、
「それではすぐ続け」と、云うから、井上、北川、山川と七将各々兵を督して急行軍。平野を出て八尾を経、藤井寺の方へ進んで行くと、夜がほのぼのと明けて来た。
快よい朝風に吹かれて馬上にいい気持ちに、進んで行く前面で、間断しつつ聞えてくる小銃の音、忽ち一軍興奮して急ぎ足は乱るるばかりに早くなる。藤井寺を外れると、誉田の村が見える。その前は道明寺の河原、その後方は山又山。明るくなった河原から田畑へかけてちらちらと黒く動いている軍勢の、散々になりつつ引揚げるらしい者、踏止まりて応対しているらしいもの。
「急げ」と隼人正馬上で大音声、一鞭入れると共にどんどん駈出す。馬を右手の小高い畑地に乗上げて瞳を定めると、二三十人一団となりつつ次第々々に現れてくるのは後藤の軍、その内に百四五十騎、村影から退却してきたかと思うと、間近く迫る四五百人の兵、鉄砲の音がするとともに突撃してきたが、味方の一団忽ち四散して、倒れる者、傷つき戦う者、走りくる馬を捕えて逃出してくる者。
それと共に山際に動く旗指物の、少し動ずる色の無く、右へ右へと進みつつ次第に正面へも現れてくるのは、味方の来援を知った敵の陣立である。玉手村から円明村へかけて伊達政宗の陣らしく、大勢が右ヘ前へと開展してくる。片山村の方には水野勝成の勢が旗を翻している。
隼人正、誉田御陵の左へ井上時利の軍と共に真先に開展する。二人の後方に山本公雄、右方へ山川、北川、槙島と陣を布くと同時に後藤の軍の敗兵が引揚げてきた。
「いかが」
「基次殿は危いらしい」
「首になったか」
無言でうなずく。途端、前面から撃出す小銃、土煙を上げて田畑へ射込む。頭上をビューンと捻りつつ飛ぶ。
「伏せッ―打てッ」と部隊長の懸声、隼人正前面を見ると、未だ味方が戦っているらしく時々喚声と銃声が起る。山田外記、片山助兵衛が基次を討たれながら必死の戦をしているのである。隼人、これを聞くと共に、
「それッ」と、刀を執る。どっと揚る鬨の声、道明寺の磧の広草場へどっと殺倒する。丁度この時、伊達家名代の猛将片倉小十郎重綱が、後藤の軍を破って勢に乗じて追撃してきた時である。
「小十郎か、不足無い対手じゃ」と、三尺六寸、志津兼氏の大太刀を片手に、左手の手綱をしっかと腰に結んで、真先立ちに先へ立つ。小十郎これをみて、
「上方のへろへろ武士め、こやつは薄田よな。撃ってとれ、撃ってとれ」と戦上手、必死の斬込みと見ると共に、仙台名代の銃騎兵。駒の頭を立て並べると共に馬上から釣瓶打ちに、馬を疾風の如く飛ばせてきて、どんどん打込む。その勢の猛烈さと砲火の劇しさに、井上薄田の兵忽ち乱立つ。
「卑怯者め」と、隼人正切歯、馬首に兜をつけて弾を避けつつ、
「退くな退くな」と必死の指揮、銃騎兵の馬が左右に分れると共に、後につづく槍騎兵、長槍を並べて隙間もなく突撃してくる。隼人正、馬上にすっくと立つや、馬と馬との間へ、さっと乗入れる。左右より閃く槍、右手よりくるのは、一打に折り斬り、馬を右手に迫らせて、左手のをかわす。腰を一捻り馬首を左にするや、今かわした槍を刎上げて真向一打に。どっと乗下げる槍騎兵五六騎。巧に馬を乗寄せて隼人正を取囲むや、四方から突いてかかるのを、正面へさっと寄せて左手に槍を引つかみつつ右手で横なぐりの一刀。どっと落馬する上を馬蹄にかけて、奪ったる槍を後方へ投げ突きに。手応えあって、馬の高くいななくのは馬を突いたものらしい。
バチーンと近くでの砲音、隼人正、はっと呼岐づまった如く感じたが、眩暈して、鐙をしっかと踏張ったつもりのが、どうしたかどっと落馬すると共に、二三ケ所叩かれたように覚えたが、あとは判らなくなった。
岩見重太郎でも薄田隼人正でも鉄砲には敵わない。土方歳三が鳥羽伏見の戦に出て、長州のイギリス仕込の鉄砲に手も足も出ず、近藤勇にどうだと聞かれた時、
「これからの戦争には鉄砲でなくては駄目だ。剣術がいくら強くても、近寄れぬでは勝負にならぬ」と、答えたが、上には上があって、正午近くになって駈つけた真田幸村が、見事にこの仙台兵を打破る話、又折を見て。 
■岩見重太郎 2 概説
花は根に鳥は古巣に帰れども、返らぬ親の慕わしく、春風桃李花開くの夢すでに去りて、秋露梧桐葉落つるの悲しみを見たる哀れさを、取り直しつつ子心の色さえ丹後国天橋立において、父兄の仇、妹のかたきたる三人の悪漢、それに助太刀をなしたる千有余人の若武士を向こうにまわし、めでたく仇討本懐をとげ、のち大阪落城の際、誉田山一片の露と消えたる、後年の薄田隼人正兼亮、前名岩見重太郎の伝記を本日より講述に及びまする。
岩見家家系重太郎の生立ち
筑前国名島城主 小早川隆景に岩見重左衛門という5千石取りの臣下があり、剣道指南と軍学兵法の教授を兼ねる文武両道の達人であったが、妻芳江との間には仲睦まじいのに相反して長く子が出来なかった。
これを心苦しく感じる芳江は重左衛門に妾を召抱えて子供を作るよう頼み込むが、その結果7歳になる重蔵を子として迎える事となった。実は重蔵は若き日の過ちで使用人に重左衛門が生ませたが、世間をはばかって旧知の百姓に預けていた、実の息子であった。
ところが皮肉なもので、重蔵を引き取って間もなく芳江は懐妊し、男子が生まれた。これが重太郎である。また三年後には妹、お継も授かる事となり、親子5人は仲良く暮らすうちに重太郎は13歳の春を迎えた。
重左衛門は兄には若いうちから文武の道を仕込んだが、思惑があってか弟重太郎には学問のみ仕込み、武道の手ほどきは行わなかった。
岩尾山において剣道修行
剣術を学びたい重太郎。しかし父は、重太郎には剣術より軍学が向くと考え、剣は教えないつもりでいた。しかし我慢しきれない重太郎は近所の岩見山に登って独自に修行を開始する。
自己流の修行を続けるうちに、通りかかった80歳以上と見える 仙人のような風貌の老翁が剣を教えてくれることになり、重太郎は家出してこの老人に弟子入りしてしまう。
この老人は滅亡した大友家で軍学武術師範役であった、角熊越前守石斎という人物であった。重太郎はここで3年間一心に修行して鞍馬八流の極意を授かり、師の「もう教えることはない」との言葉もあって屋敷に戻る事にした。
大男総身に知恵が回りかね
16歳の秋に重太郎は実家に戻るが、どこで何をしていたかは特に親兄弟には話さず、ニコニコしているばかり。家人はこれを失神者として扱い、重太郎は17、18歳と成長する。周囲は重太郎を独活の大木とか大男総身に知恵がまわりかね馬鹿だ阿呆だ、と言いたい放題だが本人は全く気にしない。18歳の3月15日、けらいの者2名をつれて箱崎の八幡様に参詣に向かった重太郎は、父のライバルでもある剣術指南役、野村金太夫の倅金十郎が門弟50人と奉納試合をやっているのに出くわし、一つからかってやれと悪心を起こした金十郎に誘われて門弟7、8人と戦うはめとなる。
能ある鷹は爪を隠す
師匠の戒めもあり、剣は知りませぬ、とやりすごそうとしたもののそうもいかず、金十郎の弟子7,8人と立ち会うはめになった重太郎は難なく彼らを打ち据えてしまう。これを見た金十郎はさすがに重太郎がなかなかの腕前を持っていると見抜き、弟子を下がらせて1対1の勝負を挑むがあっけなく破れ、さらに4、50人いた残りの弟子達も重太郎は軽くあしらってしまう。これが家中の評判となり、父にどこで剣を習ったか問われた重太郎はこれまでの経緯をはじめて父に話す。父は感じ入りながらも無法の立会いをいましめ、重太郎も慎むが、そのひと月後、金十郎は宴席中に通りかかった重太郎を今度は酒席に誘い、酔い潰してしまう。
約半日寝込んだ重太郎は一人料亭で目覚め、勘定は済んでいると聞き帰ろうとしたところを覆面の男にいきなり切りつけられる。
若武士重太郎を暗討にせんとす
重太郎は盗賊に襲われたものと思い、反射的に応戦し最初の一人を切り倒す。だが次から次へと曲者が湧き出て、気がつけば重太郎は50名近い敵を切り倒し、返り血で真っ赤に染まっていた。心配して探しに来た実家の使用人の一人が、倒れている男の一人が城代家老の息子である事に気付く。また例の金十郎も袈裟切りとなって倒れていた。思わず酔いが覚める主人公。
早速目付けに届け出るが、目付けから言上された主君小早川隆景は重太郎に同情的である。しかしながら家中の者が重職の息子も含め大勢殺された事実は重い。
だがここで息子を斬られた城代家老その人が非は我が息子をはじめとした襲撃側にあり、寛大な措置を、と目通りを願い出る。
武術修行のための諸国遍歴
息子を殺された家老がなかなかの人物で、悪いのは倅達、襲われた重太郎は身を守っただけ、と主張しお咎めは無かったが、重太郎は父の命により故郷を離れ武者修行へ出ることに。
父重左衛門暗討ちにあう
主君小早川隆景は子が無かったため、養子浮田中納言秀秋を迎える。秀秋について来た大川八左衛門、成瀬軍蔵、広瀬権蔵の3名は腕自慢で重太郎の父に挑むが敗れ、卑劣にも銃で暗討ちにする。
野州街道にてお継の危機
出奔した三人を追って、重太郎の兄重蔵と妹お継は仇討ちの旅へ。難波、京都、花のお江戸と巡るが仇の消息は無く、奥州すじ野州街道へ足を向ける。途中ではぐれたお継は雲助につかまり、あわやというところを追いついた重蔵に助けられるが、ここで重蔵は腹痛を起こし倒れてしまう。
兄重蔵敵のために逆討ちにあう
そこに仇の三人が偶然通りかかり、戦いに。だが重蔵はほとんど動けず重傷を負う。通りかかった加藤左馬助喜明の家臣、塙団右衛門直之と名乗る大兵肥満の武士が助太刀に入り、兄妹を救うが三人は逃亡する。
若松太兵衛の義侠
重傷を負った重蔵を団右衛門は最寄の旅館に担ぎこむが、旅館の主人は商売の邪魔だと、手当ての場所さえ貸そうとしない。見かねた地元の侠客、若松太兵衛が自分の家で手当てを、と一行を迎え入れる。
お継苦界に身を沈む
手当ての甲斐あって介抱に向かう重蔵。それと見て団右衛門はもう安心と旅立つが、その後の容態思わしくなく、ついに急変し重蔵はこの世を去る。太兵衛は葬儀の手配にも心を配り、野辺の送りをすませるが、お継はこの恩を返さんと、渋る太兵衛を説き伏せて、宇都宮の遊郭に若浦という名前で上がることとなる。
重太郎汐巻平蔵を驚かす
そんな事とは知らぬ重太郎は宇都宮の近在川田村の高野道場に酔った勢いで乗り込み、仙台出身の中沢万之助及び汐巻平蔵なる剣術使いと立会い、これを見事打ち負かすが 酔いが覚めると悪いことをしたと謝罪に出向く。彼らの看病のため重太郎は高野道場に泊まりこむこととなるが、ここで道場主高野弥平次の悪癖を彼の妻から聞かされる。
岩見高野弥平次に意見す
弥平次は立派な女房がありながら、毎晩宇都宮の遊郭の若浦という女のところに通っているのだという。これを聞いて女房に同情した重太郎は、高野に意見をしようとさっそく遊郭へ乗り込むが、若浦が妹お継に瓜二つなのを見てけげんに思う。
重太郎はからずお継に会う
遊郭に泊まることとした重太郎。夜半訪ねてきた若浦が、まさしくお継である事を名乗り、再会を喜ぶ二人。父と兄の無念やお継の苦労を聞かされ、すぐにでも仇を追おうと二人で出立する。お継はとうに身代金は払い終えており、問題は無かったが、若浦が妹であると言うのを恥ずかしく思った重太郎は、高野には何も言わず立ち去る。高野は重太郎が若浦を奪ったと誤解してしまう。
高野は重太郎が出羽山形の金蔵破りの犯人で、情婦をつれて逃げている、とありもしない罪で重太郎を訴え、何も知らない二人は関所で捕まってしまう。
自分がいなくなれば重太郎は一人で逃げられる、と思ったお継は、舌をかんで果てる。
仙台石の巻において破牢
お継の死を聞き、もはや辛抱の必要なし、と重太郎は破牢。石巻から信州松本へ逃げ延びる。ここでいよいよ狒狒退治のエピソード。
重太郎はここで国常明神へ人身御供として名主の娘が上がると聞き、ついにこの娘を助け、年ふる大狒々を退治した。これはすでに芝居演劇で、人口に膾炙している・・・
この後近州長浜から大津行きの船に乗った重太郎、暴風雨にあって船が沈み、一か八か、板一枚かかえて波の中へ。
村松のために危機を救わる
江州滋賀郡唐崎村の庄屋、村松平左衛門は慈悲深く村人の信頼熱い好人物。息子平三郎と共に無類の剣術好き、苗字帯刀御免の家柄。悪天候を案じて湖水を訪れ、波打ち際で死にかけていた重太郎を発見し、屋敷へ連れ帰って介抱する。重太郎はまもなく気がつくが、追っ手をはばかり正体を明かさず、重蔵と兄の名を語り、村松父子の下男として過ごすこととなる。
七人天狗の乱暴
村松父子の通う新田村伊藤亘道場に七人天狗と名乗る腕利きの道場破りが現われ、門人を次々に打ち倒す。平三郎は岡野なるうち一人を倒すが、続く薙刀使い大日五郎左衛門に敗れ、まいったと言っているところを起きあがれなくなるまで叩き伏せられる。これに対し父平左衛門は逆に大日を追い詰め、まいったを許さずに打ち据え、息子の敵をとる。
下男重蔵初めて腕前を現わす
七人天狗の頭、赤星主膳が進み出て、平左衛門と対決。しばし互角に打ち合うも、平左衛門請け損じ、肋骨を折る。ここでまいったするが赤星許さず、脳天へ木刀を振り下ろし、眉間の皮が破れて平左衛門は大量に出血昏倒。これを見て伊藤道場主、敵わぬまでも出ようとするが これを制して立ち会った重蔵こと重太郎、なんと素手で赤星の木刀を制し、これを取り上げてさんざんに殴りつける。これを静かに見つめる七人天狗の一人、上松藤兵衛。
天狗の鼻折重太郎の巧名
上松以外の5人は、赤星の敵をといっせいに重太郎に打ちかかるが、あっという間に殴り倒され、二度と乱暴はしない、命ばかりはお助けを、とほうほうの体で逃げ帰る。
重太郎ここで出身を筑前と明かすが、なおも本名ではなく野村金十郎を名乗る。
七人天狗が去った後、改めて伊藤道場主と村松父子と親しむ重太郎。しかしもはや重太郎を下男扱いできなくなった村松父子に、改めて自分は仇持ちであり、本名も野村でなく岩見重太郎であると名乗ると、父子は重太郎の衣服と旅支度を整え、ここに重太郎敵を求めて京都へ旅立つ。
悪漢姦計をめぐらさんとす
一方の七人天狗。一度は退散したものの、二度と乱暴はしないと誓ったはどこへやら、仕返しを言い出す赤星主膳。それに次々同意する一同の中、一人上松藤兵衛だけはそのような卑怯な真似には賛同しかねると袂を分かつ。
悪漢村松伊藤を討つ
残った6人は村松親子をいとまごいの名目で訪ね、重太郎がすでに旅立ったと知るや、これはしめたと和解の酒宴をもちかけ、何も疑わずこれを受けた村松父子が酔ったところを切り捨て、さらに同じ手口で伊藤先生もだまし討ちにして、村を去る。
岩見恩人の仇討ちに出立
かろうじて難を逃れた村松家の番頭、丈助は重太郎に知らせて敵を討ってもらおうと、京都を目指し、清水観音で重太郎を見つけ、親子の無念を告げる。
重太郎これを聞き新田村へ戻り、恩人の墓参をすませると、天狗どもを追って再び旅に出る。
重太郎恩人の仇敵に出会う
丹波篠山、前田徳善院のご城下はお殿様が剣術好きで 腕自慢はお召抱えになるとのことで全国から剣術使いが集まってくる。最近6名の剣客が新たに召抱えとなっており、これが七人天狗のうち6名らしい。重太郎はさっそく 藩の武術指南、宝蔵院流槍術の福田庄三郎に仕官を申し入れ、福田の槍を鉄扇であしらって腕を認められる。福田さっそく藩主前田公に重太郎の話をすると、候おおいに喜び、先に召抱えた6人と立ち合わせ、その様子を自ら検分してその実力を確かめたいとの仰せ。
いよいよ恩人の恨みを酬う
一方の天狗6人。岩見重太郎との腕試し受けるかと問われ、重太郎を野村金十郎という名でしか認識していない彼らは引き受ける。試合場で重太郎であることを知り慌てるがもう遅い。
重太郎は彼らを打ち負かし、前田公に彼らの非道のふるまいを告げる。
追放になった彼らをさらに城下はずれで打ち殺した重太郎は、村松家の番頭たちにこれを知らせ、また旅立つ事に。
塙団右衛門と山中の奇遇
丹波・但馬の国境、桂山ふもとの茶店に現われた重太郎、主人から山賊が出ると聞くや退治してくれようと、握り飯をもらって山中へ。だが誰にも出会わず辻堂で寝てしまう。夜半目を覚ました重太郎、星明りの中で鉄棒を持った巨漢の武士と遭遇し、戦う事に。
亡父夢に重太郎を教ゆ
山賊と思って巨漢の武士と戦ううちに、重太郎は相手がなみなみならぬ技量の持ち主であると悟る。すると相手も同じ思いを抱いたと見え、鉄棒を引いて自分は塙右団衛門という山賊退治に来た者だが、貴殿の腕前に感服した、是非名をお聞かせいただきたいと言う。
これを聞いて重太郎も剣を納め、二人は語り合ううちに兄と妹を通じての縁もあることを改めて知り、再会を約して別々の方角に旅立つ。
重太郎は宮津の旅籠に泊まり、父が もうすぐ敵と出会えるが、相手には大勢助太刀があるので油断するな、と語りかける夢を見る。
宮津における旅宿の侠気
中村式部少輔一氏殿のご城下、宮津で仇討ちの支度をと格式の高い旅籠に泊まった重太郎だが、熱を出し四、五日寝込んでしまう。それも回復し、旅籠の亭主伊勢屋才助と酒を飲みつつ殿様の話などを聞く。
初めて三人の敵を見出す
そこで折りよく中村式部少輔一氏の一行が旅籠の前を通り、格子からこれを覗いた重太郎、一行の中に憎き仇、広瀬、成瀬、大川の3名が行列の中にいる事を見て取る。亭主に聞けば、この春殿舟遊びの際に大風で転覆したところをお助けし、新規召抱えとなり、今は剣のご指南番を仰せ付けられた沢田新左衛門、村田仙右衛門、松崎小兵太だという。
丹後天の橋立大仇討ち
重太郎は伊勢屋才助に自分は父の敵を追う身であり、偽名を使っているがその沢田、村田、松崎の三名こそかの者らに相違ないと打ち明け、伊勢屋の助けを借りて町奉行中村惣左衛門へ仇討ちを願い出る。
奉行の話を聞いた大殿は、さっそく三人を呼んで問いただすと 彼らは確かに岩見重太郎の父を討ち取ったが、これはあくまでも武術の上の問題で、卑劣なことはしていない、しかしながら息子が仇討ちに来たとあれば討たれてやりましょう、と心にもない殊勝な言葉。
これに感じ入った大殿は討たせてはならじ、と家中の者に助太刀を命ずる。その数350名に達する。
塙団右衛門その他の助太刀
この仇討ちの噂はたちまち城下に広がり、助太刀はさらに増えて1千名に達する。重太郎はそれでも仇討ち願いを取り下げず、城下はその戦いの日を今か今かと待っている。
重太郎の旅籠を一人の武士が訪れる。それは七人天狗でただ一人、卑劣な真似を嫌って彼らと袂を分かった上松藤兵衛であった。さらに続いて鉄棒を持った巨漢、塙団右衛門が現われる。彼らは重太郎の助太刀を申し出る。旅籠の主人、伊勢屋才助も微力ながら助太刀に加わる事に。
めでたく本望を達す、終局
決闘の日9月20日、天の橋立の砂原に、三方矢来を結いまわし、陣取る中村家中の御歴々。敵の三名、最初こそ重太郎としばし切り結ぶが 不利と見るや後ろに下がり、千人の助太刀が重太郎に殺到する。すわと飛び出す塙、上松に、六尺棒を手にした伊勢屋。
邪魔者は我等が引き受けた、御身は早く三人を、と団右衛門。
心得た、と重太郎、たちまち刀はひらめいて、成瀬軍蔵は一刀両断唐竹割り、大川八左衛門は胴斬り、残った広瀬権蔵は背を見せて逃げるところに追いついて、左肩口より右乳下へパラリズンと、大袈裟掛けに斬り倒す。この有様を見た中村家臣下のめいめいは、さながら大水の引くがごとくドッと八方へ逃げ散りぬ。
大阪の秀頼公に仕えるという塙と別れ、筑前に戻った重太郎は小早川公に五千五百石を賜り、伊勢屋は出入り商人に、上松藤兵衛も新規お召抱えに。
哀れは中村式部少輔一氏、この始末が上聞に達し、御公儀によって切腹を申し付けられる。  
■岩見重太郎 3 ヒヒ退治と一夜官女 
毎年2月20日、大阪市西淀川区野里に鎮座する野里(のざと)住吉神社では、一夜官女というお祭りが催されます。これは、江戸時代は元禄以前から伝わるお祭りで、大阪府の民俗文化財にも指定されている伝統のあるもの・・・
由緒によれば、室町幕府・第3代将軍の足利義満によって創建されたこの神社ですが、神社の建つ野里という場所は淀川に近い小さな村で、度々の風水害や疫病に悩まされていたところ、「毎年、決まった日に、子女を一人、神に捧げよ」とのお告げがあった事から、毎年1月20日、一人の乙女を選んで、丑三つ時に唐櫃(からびつ)に入れて神社に運び、人身御供としていたところ、ちょうど7年目の時、この村に、豪傑で知られた武者=岩見重太郎が現われ、「神は人を救うものであって、人間を犠牲にするのは、神の思し召しではないはずだ!」と言って、自らが唐櫃の中に入り、神社に向かいます。
しかし、翌朝、彼は傷だらけの姿となって遺体で発見されてしまいます。
その代わり、彼が命を懸けて立ち向かってくれたおかげか・・・その日以来、村は安泰の日々を送れるようになったのだとか・・・その出来事を、後世に永く伝えるべく始まったのが、一夜官女というお祭りで、明治の終わり頃からは、月遅れの2月20日に行われるようになったとの事・・・
伝承
その昔、野里の村では、秋の実りの頃になると、収穫直前のイネが根こそぎ引き抜かれて荒らされるという事件が起こっていました。
周囲には、獣の毛や足跡があった事から、「これは、住吉の森に住むヒヒの仕業に違いない!」との噂となり、困った村人たちが住吉さんにお参りして、「なんとか、ヒヒを退治してくだされ〜」とお願いしたところ、あくる日になって、お代官様が・・・
「昨日、神さんからのお告げがあった!ぎょーさんのお供え物をして、汚れの無い乙女を差し出せば、ヒヒは暴れへんとの事や。今度、正月の16日に、いけにえとなる娘の家に白羽の矢がたつそうや」と・・・
その言葉通り、正月の16日に、村で一番美しい娘の家に白羽の矢がたちます。
以来、毎年々々、村のべっぴんさんが、一人ずついけにえに捧げられました。
おかげで、村が荒らされる事はなくなったものの、娘を差し出した家の悲しみは相当なもの・・・しかし、現に事件は止み、代官からも「村のため」と言われれば、耐えるしかありませんでした。
そんなこんなのある年、いけにえとなった彼女・・・
いつものように唐櫃に入れられ、神社に備えられた彼女は、誰もいなくなった真夜中、一人で、その唐櫃から抜け出します。
すると、暗がりから声が・・・
「心配すな!俺らはここにおる!」
それは、彼女に思いを寄せる村の若者とその仲間たち4人・・・
毎年、いえにえを差し出したところで、ヒヒがおとなしくなるのは、その年だけ・・・こんな事を続けていたら、毎年、美人がいなくなって、村はブサイクばっかりに・・・もとい、
毎年、犠牲者が増えるばかり・・・
「今年こそ、自分たちでヒヒをやっつけてしもたれ!」と集まった、勇気ある若者たちでした。
おとし穴を掘り、石や火縄も用意して準備万端・・・
そこへ、ゴォーーーという轟音きとともに、毛むくじゃらのヒヒや何頭ものイノシシが登場!
慌てて、彼女は唐櫃に戻り、男たちは戦闘準備!
集団が近づいたところで綱を引っ張り足をすくったのち、石を投げ、火縄で攻撃すると、イノシシたちは怯えて逃げ回り、やがて、ヒヒの背中の毛に火が燃え移る!!!
「あつっ!助けてくれ!」と、なんと、ヒヒが大阪弁をじゃべった!?と、思うがはやいか、火だるまとなって苦しみながら、落とし穴に落ちるヒヒ・・・
火の勢いがおさまったところで、おそるおそる落とし穴に近づき、中を確認すると・・・
なんと、そこには毛皮をかぶった人間・・・しかも、それは、あのお代官様でした。
即座に、この代官が、毎年、供え物を奪い、娘をさらっていた事を理解する若者たち・・・
「やっぱり、ヒヒなんか、おらんかったんや!」と、安心もしましたが、同時に・・・
相手は悪人で、しかも正当防衛の過失致死だったとは言え、彼らは代官を殺してしまった事になるわけで・・・
この事が知れたら、彼らが、どんな罪に問われるか・・・そこで、一同、相談のうえ、お察しの通りのラブラブ真っただ中だった彼氏と彼女は、二人で村を捨て、逃げる事に・・・
そして、残りの若者らは、村に戻って、こういう噂を流します。
「ヒヒを退治したのは、天下の豪傑=岩見重太郎様やて! ちょうど、この村を通りがかって、ヒヒを、一発でやっつけなはった。」
「一人は岩見はんの家来になるって、ついて行ったわ」
「あぁ、あの娘が最後のいけにえになってしもたなぁ・・・かわいそうに」と・・・ 
■岩見重太郎 4 諸話 
岩見重太郎
岩見重太郎という豪傑が諸国を漫遊しながら各地で狒々や大蛇を退治し、父の仇を宮津の天橋立で討ったという伝説は、数十年前までは多くの人々に知られていたものである。現在でも天橋立には仇討の碑があり、その周辺には岩見重太郎に関連する史跡が残っている。岩見重太郎は実在の人物であったが、伝説の成立過程において、講釈師らの手により各地に残る豪傑の伝説と結びつけられた。その結果、岩見重太郎の狒々退治伝説は、全国各地に残っているのである。  
岩見重太郎伝説 (富山県射水市黒河:旧小杉町)
四月のはじめ(六月とも)、越後から越中に入った岩見重太郎が黒河の地を訪れると、幟が立てられ祭だというのに村中が静まり返っていた。訳を尋ねると、毎年祭になると一人の未婚の女を宮の神様に献じないとならず、今年は村の旦那さん(黒田家)の娘の番となったので静かなのだという。
重太郎はそれを聞き、神さまが人を食うなどあるものか、自分が身代わりになる、と頼んだ。家の人々は夢かと喜び、人身供養の箱に入った重太郎は若衆に山のお宮へと運ばれた。
深夜となり、強風が吹いたかと思うと足音が箱に近付き、蓋に手がかかった。重太郎はここぞと斬りつけ、戦闘が始まった。その激戦は三日続いたともいうが、最後は重太郎がとどめを刺した。それは恐ろしい化物であつて、頭は猿で、体は獅子の如く、尾は大蛇のようだつた(一説にヒヒ、ショウジョウともいう)。
しかし、重太郎はこの戦いで化物の毒を受けて、死んだようになってしまっていた。若衆がやってきたとき、重太郎は死人のように倒れ、その傍らに化物が死んでいた。黒田の旦那さんの家に運ばれた重太郎は懸命の介抱によって回復し、能登の方へと修行の旅を続けたという。これを記念して村の祭にヨータカ(夜高)の習わしがあるのだという。

武人が人身御供をとる神に憤り、身代わりとなってこれを退治する、という伝説が各地にあるが、これには典型話がある。この岩見重太郎の伝説というのがそうだ。仇討のために諸国を武者修行で回る重太郎が、その途中に狒々だの大蛇だのを退治する、という話は近世から戦前まで大変好まれ、各地で語られまた出版されていた。
土地の伝説としても、代表する大阪市西淀川区の住吉神社の伝をはじめ、京都・三重・新潟などでも語られる。そしてこのように、越中黒河でも語られるのだ。各地で倒される化物は狒々(ヒイヒイ猿)か大蛇と相場が決まっているが、黒河では鵺のようでもある。
なお、黒河でもそれは大蛇だった、の伝もあり、歌の森にあった大きな湖のヌシの大蛇と重太郎の三日三晩の激闘としても語られる。
武人が人身御供をとる神を倒すモチーフは中国東晋の『捜神記』に見えることが知られ、また猿の怪としては「白猿伝」が知られ、おそらく話の骨子そのものはそこに由来すると思われるが、本邦で遡っては美作一宮・中山神社の説話がよく知られる。美作は犬が活躍するという展開が語られ、しっぺい太郎の伝説などへとつながっていく。どこかに何らかの分岐点があるのだろう。
ともかく、黒河の伝説は土地の祭「よーたか(黒河夜高祭)」と結びつき、今でもその夜高灯篭の主題として盛んに描かれ続けている。 
薄田兼相(すすきだかねすけ)
戦国時代から江戸時代初期の武将である。通称は隼人正。豊臣秀頼に仕えた。仇討ちや狒々退治の伝説で知られる武芸者・岩見 重太郎(いわみ じゅうたろう)と同一視される。
前半生はほとんど不明。妹に堀田一継室がいる(『寛政重修諸家譜』)。
豊臣氏に仕官し、秀吉の馬廻り衆として3,000石を領したとされる(後に5,000石に加増)。慶長16年(1611年)の禁裏御普請衆として名が残っている。
慶長19年(1614年)、大坂の陣に参戦。冬の陣においては浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが、博労淵の戦いでは遊郭に通っている最中に砦を徳川方に陥落されるという失態を犯した。味方からは野田・福島の戦いで大敗した大野治胤と並び、「橙武者(橙は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味する。)」との嘲りを受けた。
夏の陣の道明寺の戦いにおいては、霧の発生により先陣の後藤基次の到着から8時間以上も到着が遅れ、直前に基次を討死させてしまう。そこで陣頭指揮を取り、乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒したが、討死を遂げたといわれている。討ち取ったのは水野勝成の家臣・河村重長、本多忠政勢、伊達政宗家臣の片倉重長勢などそれぞれの家臣の説があり、はっきりしない。
墓は大阪府羽曳野市誉田7丁目に子孫にあたる浅野家の一族によって建立され、平成8年(1996年)に羽曳野市の指定有形文化財となっている。
剛勇の武将として知られ、兼相流柔術や無手流剣術においては流祖とされている。
伝承
薄田兼相の前身が岩見重太郎であるという説は有名である。それによるならば、小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生したが、父は同僚の広瀬軍蔵によって殺害されたため、その敵討ちのために各地を旅したとされる。その道中で化け物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立て、天正18年(1590年)天橋立にてついに広瀬を討ち果たした。その後、叔父の薄田七左衛門の養子となったとされる。
大阪市西淀川区野里に鎮座する住吉神社には薄田兼相に関する伝承が残されている。この土地は毎年のように風水害に見舞われ、流行する悪疫に村民は長年苦しめられてきた。悩んだ村民は古老に対策を求め、占いによる「毎年、定められた日に娘を辛櫃に入れ、神社に放置しなさい」という言葉に従い、6年間そのように続けてきた。7年目に同様の準備をしている時に薄田兼相が通りがかり、「神は人を救うもので犠牲にするものではない」と言い、自らが辛櫃の中に入った。翌朝、村人が状況を確認しに向かうと辛櫃から血痕が点々と隣村まで続いており、そこには人間の女性を攫うとされる大きな狒々が死んでいたという。 
岩見重太郎
むかしあるとこに、鎮守さまが、その当時の娘ば人身御供にとるどこあったど。そしてそこの家さ白羽の矢立つど、どうでも上げんねねがったごんだど。箱さ入れてはぁ。そさ、むかし偉い強い侍で、岩見重太郎という人いて、その村通りかがって、庄屋さんさ泊ったど。そうしたば、
「泊めて下さい」て言うたば、
「今夜は、とり込みだども、まずどこがさ、ほだら部屋もあんべから、泊まれ」 「どんなとり込みだ」て聞いたば、
「実は鎮守さまさ、家の娘、このたび人身御供に上げんねねことになってはぁ、それ当ったごんだ、今までも村のうちに代り代りに上げらっだんだども、この度はうちんのが、白羽の矢立ったごんだ。おらえの屋根さ」て、こう言うごんだど。泣いて教えっずも。
「鎮守さまとあるものが、そんなはずはない。そんでは、おれ代りに箱さ入って行ってみるから、娘でなく、おれば入れろ」て、そう言うたずも。そうして今度はぁ、箱さ綿帽子かぶってはぁ、娘の仕度して、入って行ったごんだど。そうして行って箱置くど、村の若衆はビンビンと跳ねて来たど。
そして、いつでも、いま来っか、いま来っか、なじょなもの来っかと思って中で考えっだじもの。刀は短かいなもって、そのうちにこんど、雷など鳴って、何かドサーッと社(やしろ)の前さ落ちたど。そうしているうちに、その箱の蓋、ミリミリミリと破って開けるものあっずもの。そうしたら夜目にもわかるような赤い顔した白いような者だずもの。
そうすっど、その喉のようなどこめがけて、手掛けようとしたとこを、突き上げたごんだど。そうすっど、キャーッという声だずもの。そして箱から飛び上がって、あちこっち突っついたど。そしてまず箱さ入っで、かつねで来(こ)らっだから、方角も夜のことだし、よく分んねから、夜明けてからすんべと、そう思っているうちに、夜ほのぼのと明けたか、村の衆、遠くから、
「いたか、お侍、いたか」て来たずもの、
「いた、いた」て。そうしたば、みんな集まった。よく見たば、年経(へ)た狒狒(ヒヒ)であったど。そうしてはぁ、そういう風にして、娘ば食ってだなであったど。村の衆に大変喜ばっでだけど。むかしとーびん。 
大祖神社 福岡県鞍手郡小竹町赤地
鞍手郡小竹町の赤地地区にある「大祖神社」は、その昔、地域で疫病が流行した際、大祖山山上の樟に霊光が見られたことから、神のお告げと信じた村人が鉾や弓などを捧げてお祭りして祈ったところ疫病が治まり、その霊験をたたえて慶応元年(1389年)に社殿がつくられたという歴史深いお社。毎年、秋の例祭が10月14日に行われていますが、かつては、その頃になると、村一番の美しい娘を人身御供として差し出さないと、大ヒヒが出て一晩で田畑が荒らされてしまうという難題をかかえており、筑前名島(現在の福岡市東区名島)の小早川隆景の家臣で、諸国を武者修行中の岩見重太郎が参拝の折に話を聞きつけ、娘の身代わりとなって見事大ひひを退治したという伝説を記した祠が現在も残っています。 
狒々、狒狒、比々(ひひ)
日本に伝わる妖怪。サルを大型化したような姿をしており、老いたサルがこの妖怪になるともいう。
山中に棲んでおり、怪力を有し、よく人間の女性を攫うとされる。
柳田國男の著書『妖怪談義』によると、狒々は獰猛だが、人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆ってしまう。そこで、狒々を笑わせて、唇が目を覆ったときに、唇の上から額を錐で突き刺せば、捕らえることができるという。狒々の名はこの笑い声が由来といわれる。また同書では、天和3年(1683年)に越後国(現・新潟県)、正徳4年(1714年)には伊豆で狒々が実際に捕らえられたとあり、前者は体長4尺8寸、後者は7尺8寸あったという。
北アルプスの黒部谷に伝わる話では、滑川伊折りの源助という荒っぽい杣頭(樵の親方)がおり、素手で猿や狸を打ち殺し、山刀一つで熊と格闘する剛の者であったという。あるとき源助が井戸菊の谷を伐採しようと入ったとき、風雲が巻き起こり人が飛ばされてしまい、谷へ入れないので離れようとした途端、同行の若い樵(作兵衛)が物の怪に取り憑かれて気を失い、狒狒のような怪獣が樵を宙に引き上げ引き裂き殺そうとしたという。源助は狒狒と引っ張り合いになり、しばらく続いたが、作兵衛を殺したらお前たちも残らず殺すと言うと放し立ち去った。源助は作兵衛を背負って血まみれになり、夜明け近くになり仲間が助けたという(肯搆泉達録、黒部山中の事)。この話では狒狒は風雲を起こしてその中を飛び回り、人を投げたり引き裂く妖怪とされる。
もとは中国の妖怪であり、『爾雅』釈獣に「狒狒は人に似て、ざんばら髪で走るのが速く、人を食う」という。郭璞の注には「梟陽のことである。『山海経』に「その姿は人の顔で唇が長く、体は黒くて毛が生えており、かかとが曲がっている。人を見ると笑う」という。交州・広州・南康郡の山中にもいて、大きいものは背丈が1丈あまりある。俗に「山都」と呼ぶ。」といっている。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には西南夷(中国西南部)に棲息するとして、『本草綱目』からの引用で、身長は大型のもので一丈(約3メートル)あまり、体は黒い毛で覆われ、人を襲って食べるとある。また、人の言葉を話し、人の生死を予知することもできるともいう。長い髪はかつらの原料になるともいう。実際には『本草綱目』のものはゴリラやチンパンジーを指すものであり、当時の日本にはこれらの類人猿は存在しなかったことから、異常に発育したサル類に『本草綱目』の記述を当てはめたもの、とする説がある。
知能も高く、人と会話でき、覚のように人の心を読み取るともいう。血は緋色の染料となるといい、この血で着物を染めると退色することがないという。また、人がこの血を飲むと、鬼を見る能力を得るともいう。
山童と混同されることもあるが、これは「山で笑うもの」であることから「山ワラハ」が「山童」(やまわろ)に転じたとの説がある。
岩見重太郎が退治した怪物としても知られる。また、人身御供を要求して人間の女性を食べる妖怪・猿神と同一視されることもある。
近年ではアメリカ人の動物学者のエドワード・S・モースが、東京の大森貝塚を発見した際に大きなサルのような骨を見つけ、日本の古い記録に大型のサルを記したものがあるか調査したところ、狒々の伝承に行き当たり、この骨を狒々の骨かもしれないと結論づけている。  
 
近現代怪談文学史

 

 

文学・芸能作品の怪異を類型化してみるならば、[1]幽霊の出現 [2]幽霊の憑依 [3]怪異・不思議な現象 [4]妖怪・化物・物怪 [5]動物の怪異に分けられる、と著者は考える。小松和彦は、怪異の原因を基準として、1、怪異の原因を自然の中に見出す。2、怪異の原因を人間の中に見出す(怪談の大半を占める)。3、怪異を引き起こす原因は人間の側にあるが、怪異それ自体は自然の中に見出す、という3つの類型に分類している(「日本怪談史のために」…『国文学』平成19年9月)。この分類に当てはめると、前記の分類の[1]と[2]は2であり、[3][4][5]は1〜3のすべてに該当すると考える。
幽霊の出現や憑依が、人間の怨念や執着に由来することは言うまでもないが、[3]の自然界の怪異も人間の怨念によって引き起こされる場合もある。[4]は人間の霊の変質したものとも自然界の怪物とも考えられる。[5]も野生の動物と人に飼われている動物とでは異なり、野生の動物の場合は1または3、人間に飼われている動物の場合は2または3と考えられる。
江戸期の作品には、先に類型化した5種類が登場しているが、近代の文学・芸能作品ではどうだろうか。総じて近代には、文学・文化における価値観の一元化により、怪談・怪異を扱った文学及び周辺文化における作品自体極めて少なくなってきたが、その中でも怪異の比重の変質は見られる。
「怪談神経病説」の流布により、[1]と[3]は描きにくくなり、[2]と[5]が増えてきている。[2]は憑依であるから、怪異や幽霊を真実とも解釈もできるし、見た者の心の病理(神経病)とも解釈できるため、怪談を曖昧に朧化して表現するのに、この時代の作品には良く用いられた。一方、[5]は井上円了ら妖怪を排撃する論客も存在したものの、時代の空気としては、当時の新聞記事にもうかがわれるように動物の怪異はありうるという認識が見られた。動物が怪異を引き起こすわけであるが、当時はまだ自然が人間社会を取り巻いていたうえに、身近に飼育されている動物は身近ゆえに恐怖を感じることもあったであろう。ことに近世から近代にかけて飼育が一般化した猫は、当時化猫の実在を信じる人も多かったようであるし、猫は神秘的な習性を持つため、怪談の好個の素材となった。
ここでは、明治元年から20年までを対象として文学・芸能の書籍化された個々の作品を概観する。明治前期は、開化期に始まり欧米の合理主義や物質科学が流入するため、幽霊を見るのは見たものの神経病によるものであると言う「怪談神経病説」が流布し、そうした幽霊や怪異を否定する風潮による怪談受難の時代である。これに対して、明治後期は、江戸回帰や欧米の神秘主義哲学や心霊学等の流入により作家たちが怪談への禁欲を解いた時期である。しかし、こうした傾向は年代で明確に区切れるものではない。
1、人情噺系の怪談
落語家の語る人情噺系の怪談は、江戸期の初代林屋正蔵(天明元・1781─天保13・1842年)に始まる。正蔵の怪談(「怪譚」「化物咄」を用いた)には、『尾尾屋於蝶三世談』(文政8)『怪譚桂の河浪』(天保6)等があり、この林家の系統は代々怪談噺を演じたという。三代〜五代は円朝の活躍した時期と重なり、五代目林家正蔵は『深川怪談染分手綱』『正直清兵衛雪埋木』等の怪談噺を得意とした。また、円朝の師匠である二代目三遊亭圓生は、『累草紙』を創作したという。この他、怪談を得意とした噺家は多数存在する。幕末から明治期にかけて三遊亭円朝が活躍し『真景累ヶ淵』『怪談牡丹灯籠』『怪談乳房榎』等の著名な怪談噺を創作した。円朝は近代文学への影響から高く評価されてきたが、他にも同時代に怪談を扱った噺家は存在していた。初代柳亭左龍、二代目人情亭錦紅、三代目金原亭馬生、八代目入船亭扇橋、三代目麗々亭柳橋、三代目春風亭柳枝、初代談洲楼燕枝、二代三代立川善馬、初代春錦亭柳桜らがいる。
坪内逍遥や当時の文化人への影響により円朝は評価が高いが、他の噺家についても速記本を一つ一つ検証してみる必要がある。確かに円朝はテレコやないまぜ等の歌舞伎の手法を用いて複数のストーリーを変形してまったく新しい物語を構成してゆく手腕は卓抜であるが、他の噺家の旧時代より語り継がれている怪談であっても、細部においてそれぞれ異なる点が多々見られた。
2、講釈系の怪談
三遊亭円朝と併称される二代目松林伯円と、講談界では伯円と併称される初代桃川如燕が最も有名であるが、二人とも化猫にまつわる怪談を幾つか創作している。伯円の有名な化猫の講談には「鍋島の猫」を扱った『嵯峨の夜桜』、阿波のお松大権現にまつわる『怨霊』等がある。一方、如燕は、『百猫伝』と言う化猫物のシリーズが有名で「猫の如燕」と言われたほどであった。この他、初代一立斎文慶、邑井一、三代目蓁々斎桃葉、初代放牛舎桃林らが怪談物の講釈を行っている。
3、歌舞伎の怪談
河竹黙阿弥が江戸後期から明治末期にかけて多くの怪談狂言を創作している。黙阿弥の他に、そのライバルであった瀬川如犀や黙阿弥の弟子三世河竹新七=竹柴金作等の怪談も存在する。「有馬の猫」「鍋島の猫」等の化猫譚が多いが、黙阿弥は皿屋敷物や古典・謡曲の怪談物の歌舞伎化も行っている。
4、翻訳の怪談
シェークスピア『ハムレット』は父王の幽霊の登場で名高いが、この時期から様々な翻訳者によって訳出されている。この他、リットン、ポー、アプレイウス、ハウフの作品が訳出されている。
5、その他
江戸期から続く絵本の怪談物が幾つか刊行されている。また、実録物が流行し、皿屋敷や四谷怪談の実録物が刊行された。
6、文壇の動向
坪内逍遥が三遊亭円朝の影響の元に言文一致を主導したことは名高いが、逍遥はリアリズム文学をも主導し、本来の自らの嗜好にあっていた『八犬伝』等の伝奇物や怪談物等も抑圧してしまった。しかし、逍遥の演劇論には、怪異への嗜好はうかがわれる。総じて文壇文学がリアリズムに向かった時代ではあるが、そのスタンスはまちまちである。そのため、作家の怪異に対する姿勢にも幾つかのパターンが存在している。1、怪異は存在しないから怪異を扱わないとする立場。リアリズム文学。2、怪異は存在しないが空想として怪異を描く立場。巌谷小波ら。3、怪異は存在するが、それにはその法則性があるとする立場。因果論的怪談。4、怪異は存在するが、怪異にその法則性など無いとする立場。
〈明治前期の怪談文学概観〉(維新後に刊行された書籍のみ番号を付した。)
○ 『児雷也豪傑譚』美図垣笑顔・一筆庵・柳下亭種員・柳水亭種清作、甘泉堂、天保10・1839─明治元・1868年、43編
○ 『釈迦八相倭文庫』万亭応雅作、錦重堂、弘化2・1845─明治4・1871年、58編
○ 『白縫譚』柳下亭種員・二世柳亭種彦・柳水亭種清作、菊壽堂、嘉永2・1849─明治18・1885年、90編…三編は、江戸期から続く合巻の伝奇小説である。『自雷也〜』は豪傑自雷也の活躍を描き、妖怪退治や蝦蟇の術が登場する。『釈迦〜』は釈迦の一代記で怪異も登場する。『白縫譚』は妖術使いの美姫の活躍を描く。
○ 「好色芝紀島物語(怪談敷島譚)」(世話物)河竹黙阿弥作、守田座、明治2年3月…河竹黙阿弥の維新後に上演された怪談劇。「怪談神経病説」につながる幽霊を見るのは心の疲れによるものという台詞が登場する。一方で、積極的に怪談を描こうとする姿勢が見られる。
1、『木間星箱根鹿笛』河竹黙阿弥作、『歌舞伎新報』掲載、明治12年12月(『木間星箱根鹿笛 上』は東京・吉村いと刊で明治13年、『下』は明治24年11月)…円朝の『真景累が淵』に続く神経病の第二の作品として名高い。幽霊の目撃に対して神経病と言う言葉が何回か投げかけられるが、女を殺害して幽霊が見えてしまう男に神経病ではないかと言う言葉を投げかけた人々も、後には通常とは異なる気配に幽霊の存在を感じると言う展開となっており、黙阿弥が「怪談神経病説」の立場を取っているとは言い難い。
2、「奥州安達原」上・下([絵本]柳水亭種清編、東京・小林鉄次郎刊、明治12─15年、45冊、和装)…歌舞伎・浄瑠璃の演目を戯作絵本化した作品である。8冊目が「奥州安達原」の上・下である。
3、『開巻驚奇 竜動鬼談』(ブルワー・リットン作『ホーンターズ・エンド・ホーンテッド』)井上勤訳、徳島・世渡谷文吉刊、明治13年11月、169頁…ブルーワー・リットンの有名な怪奇小説を開化期の翻訳家井上勤が翻訳する。井上は巻頭に、日本では怪異を否定する風潮があるがイギリスにも怪異があるという父の書いた序文を掲載し、翻訳でもそのスタンスを取っている。原作以上に写実的で迫真の怪異描写を行っている。
4、『怪物画本 巻1』 李冠光賢画、鍋田玉英模写、東京・和田茂十郎刊、明治14年12月、21丁、和装…明治期の妖怪絵本である。くずし字の序文がある。江戸時代の絵を写して出版したもので鳥山石燕のものと類似しているが、李冠光賢が描いたとされている。
○ 「有松染相撲浴衣(有馬猫騒動)」(世話物)河竹黙阿弥作、猿若座、明治13年5月…「有馬の猫騒動」を扱った作品で、桃川如燕の講談が原作である。現存する如燕の作は『高櫓力士伝』と『小野川真実録』である。原作との相違は、黙阿弥作の方が伏線を周到に張り巡らしている。猫は女主人が殺される前から化猫であり、殺されて女主人の女中に憑依する設定となっている。
5、『嵯峨奥妖猫奇談』竹柴金作(三世河竹新七)編、梅堂国政画、東京・栄久堂、明治13─14年、9冊、和装…竹柴金作の同名の歌舞伎を絵本化したものである。
○ 「土蜘」(舞踊劇)河竹黙阿弥作、新富座、明治14年6月
○ 「茨木」(舞踊劇)河竹黙阿弥作、新富座、明治16年4月…それぞれ謡曲「土蜘蛛」「羅生門」の歌舞伎化作品で、尾上家の新古演劇十種の一つである。前者は源頼光を殺害しようとする土蜘蛛を頼光および四天王が倒すと言うもの、後者は、大江山酒呑童子討伐時に生き残った茨木童子が渡辺綱を襲って腕を斬り落とされ、腕を取り返しに綱の家にやってくると言うものである。幻想劇である能と比して、黙阿弥は詳細かつ写実的に描いている。
○ 「新皿屋敷雨夜月暈」(世話物)河竹黙阿弥作、市村座、明治16年5月…播州・番町両皿屋敷伝説を取り入れて作劇されている。幽霊は怪異を表す存在にとどまらず、正義のために尽力する存在となっている。怪談の存在意義を勧善懲悪に依拠する時代を反映していると考えられる。
6、『古今実録 怪談皿屋鋪』編輯人不詳、東京・英泉社、明治16年5月、上23丁・下22丁、上下合本、和装
7、『古今実録 怪談皿屋鋪実記』編輯人不詳、東京・英泉社、明治16年5月、上24丁・下22丁、上下合本、和装…6・7は同じ書籍であるが、後者は仮名垣魯文によって書かれた序詞を付しているため、上丁が1丁多い。明治18年9月に銀花堂から刊行された『怪談皿屋鋪実記』、同年10月に時習堂から刊行された『実説怪談皿屋敷』も同書である。播州皿屋敷の成立の経緯を述べた書である。この時代に怪談の実録物が幾つか出版されている。
8、『實説双紙 四ツ谷怪談 全』松亭鶴仙編、梅亭金鵞如叙、東京・鶴声社、明治16年12月、10丁、和装…梅亭金鵞の序では、御霊社に祀られている怨霊や平将門、蘇我入鹿らのように暗殺されたり、政治的あるいは軍事的に敗れたりした人々の怨霊を祀っているが、お岩稲荷は人々の尊崇を集めているとある。そして、南北の『東海道四谷怪談』を始めとする歌舞伎や講談等にあるようないかにも大仰な尾ひれのついたお岩さんの祟り話ではなく、お岩さんにまつわる事実だけを取り上げ、お岩稲荷の実説を紹介しているという。6・7とともにこの時期にこうした怪談の実説本が流行ったようである。梗概は、お岩が伊右衛門の姿勢に憤り、自ら家を出て奉公に出るが、それは伊藤・秋山の謀略によるもので、それを知ったお岩は姿をくらまし、以後様々な良からぬことが起こると言うものである。書籍の末尾の「實説双紙出版書目」に『皿屋敷怪談』『佐賀怪猫傳』『祐天上人御一代記』(累に関連した人物)『魁神於松一代記』等がある。
9、『四谷怪談』和田篤太郎編、尾形月耕画、東京・春陽堂、明治17年1月、2冊(各19丁)、和装…作者の和田は春陽堂の創業者である。
10、『勧懲十八番 神経闇開化怪談』一竿斎宝洲(鹿塩文七) 著、竹柴其水閲、東京・松寿堂・金亀堂、明治17年1月、3冊(第1冊40丁、第2冊49丁、第3冊68丁)、和装…神経病を連想させるタイトルを付した最初の戯作である。幽霊は罪を犯した人間の罪悪感から見えるものという解釈がされている一方、死後の世界の存在が語られている。
11、『怪談深閨廟』柳亭種彦(高畠藍泉)、『絵入朝野新聞』掲載、明治17年2─3月(東京・礫川出版、明治23年11月、53頁)…神経病をタイトルに引っかけた『怪談深閨廟』が出ている。10と同様、この戯作も幽霊の存在自体は見るものによってそのように見えたという怪談神経病説に近い幽霊観となっているが、輪廻転生は否定していない。悪行は後生において悪い結果を生むという死後の世界の存在は、はっきりと肯定されている。
12、『復讐怪談 久智埜石文』千霍庵万亀著、東京・秩山堂、明治17年4月、2冊(上・中合本)、上・中・下33
丁、和装…伝奇的な色彩が濃く、郁の精霊が修行僧に取りつき、また修行僧の与えた玉を通して菊池大友両家の家臣をもあやつる物語である。
13、『怪談牡丹灯籠』三遊亭円朝演述、若林玵蔵筆記、東京・稗史出版社、明治17年7─12月、13冊…近代初期の怪談の代表作であるとともに、言文一致体の手本として坪内逍遥が二葉亭四迷に勧めた事により、近代文学最初の名作と言われる『浮雲』が誕生したことでも有名である。物語中の二つの怪談は、幽霊や怪談を否定する当時の社会や文化の状況を反映している。すなわち有名なお露主従の幽霊が下駄の音をたてて萩原新三郎を訪問する物語は、後日談の中で幽霊に見立てた伴蔵の主人殺しということに種明かしされ、後半に出て来るおみねの霊は憑依霊としてのみ現れ、取りつかれた者の神経病という逃げができる形になっている。石井明『円朝 牡丹灯籠』(東京堂出版、平成21年)は、この物語を、累の物語や四谷怪談などの影響関係から解きほぐして、成立過程を明らかにしている。
○ 「北条九代名家功」(時代物)河竹黙阿弥作、般若座、明治17年11月…『太平記』の歌舞伎化作品で市川家の新歌舞伎十八番の一つ。北条高時亭に天狗が出現し高時とともに舞い踊る。演劇改良運動の一環である写実的な時代もの(「活歴物」)の一つである。
14、(絵本)沢久次郎編、東京・沢久次郎刊、明治17─20年、80冊、和装…7冊目は「怪猫佐賀之夜桜」、11冊目は「安珍清姫譚」の上下、19冊目は「文弥殺宇津谷怪談」の上・下、25冊目は「笠松峠お松一代記」の上下、34冊目は「敵討裏見葛葉」となっている。
15、『鏡池操松影 1』三遊亭円朝演述、牡丹屋、明治18─23年、5冊、(2牡丹屋、3・4朝香屋、5金桜堂)和装
16、『一読一驚 妖怪府』加藤鉄太郎抄訳、東京・尚成堂、明治18年4月…中国怪談の翻訳集であり、一編ごとに訳者の批評が付されている。
17、『百猫伝 巻之一 市川団十郎の猫』桃川如燕(杉浦要輔)述、東京・傍聴速記法学会、明治18年10月、28丁、和装…小幡小平治の物語と化猫物をないまぜにした講談である。(本来の小幡小平治物には猫は登場しない。)「有馬の猫」や「鍋島の猫」に共通する怪猫の敵討ち譚であり、勧善懲悪譚ではあるが、善者の非も描いているところが独自性がある。
18、『怪談 怨緒環』関谷孝橘編、東京・宝島与兵衛刊、明治18年11月、55丁、和装…「怪談神経病説」を取り入れた作品である。末國善己「明治の恐怖小説」(『国文学』平成19年9月号)にて言及がある。浮世絵師葛飾正久が挿絵を描く。
○ 「船弁慶」(舞踊劇)河竹黙阿弥作、新富座、明治18年11月…謡曲の歌舞伎化作品で市川家の新歌舞伎十八番の一つ。源頼朝に疑われて西国に落ちる義経一行を、平家一門の亡霊が悩ます。幻想劇である能と比して、黙阿弥は詳細かつ写実的に描いている。
19、『怪談牡丹灯籠』三遊亭円朝、隅田園春暁鈔録、東京・鶴啼社、明治19年1月、174頁…若林とは別の速記者による円朝の語った『牡丹燈籠』である。
20、『芭蕉翁行脚怪談袋』広野仲助編、東京・三好守雄・村上真介刊、明治19年7月、113頁、…芭蕉師弟の紀行に不思議な物語を融合した作品である。芭蕉師弟とは、芭蕉以外に門人の去来、支考、嵐雪、其角、許六、支考の門人杜友である。不思議な物語は、能の「兼平」を始め浄瑠璃「梅若」等の故事にひっかけた幽霊出現や動物の怪異などの怪談で、旅を愛した芭蕉師弟の住居や旅先等での故事による怪異の出現が芭蕉師弟の句と密接にむすびつけられて語られている。
21、『怪猫嵯峨之夜桜』長谷川園吉編、東京・長谷川園吉刊、明治19年10月、23丁、和装…長谷川園吉は日清戦争時の錦絵の版元として有名である。
22、(絵本)壱川礼山画、名古屋・鍋野長三郎刊、明治19年11 月、4冊、和装…2冊目が「怪談百物語」、3冊目が「昔話大江山入」となっている。
23、『四谷怪談(屏風怨霊)』山月庵主人(瀬川恒成、天保頃)著、大阪・岡本仙助刊、明治19年11月、78頁…十章立てであるが、この十章が六道と仏界の四道を表す形になっており、六道輪廻、十界互具を表わしている。
24、『紀州怪談 英国汽船ノルマントン号奇聞 船幽霊噂の高潮』柑舟漁夫編、東京・開成堂、明治19年12月、62頁…谷口基『怪談異譚』(水声社、平成21年)において論じられているが、列強が武力で日本に強要して結ばれた不平等条約への批判が込められた怪談である。  
25、『金驢譚』不語軒主人(森田思軒)訳、(アプレイウス)、『郵便報知新聞』掲載、明治20年1月18日─2月2日(東京・文泉堂、明治21年7月、61頁)…アプレイウスは古代帝政ローマの弁論作家である。原題は『変身譚』で『黄金のロバ』の訳題が有名なこの作品は、魔術に興味を抱く主人公がロバに変えられ数々の試練の後、人間に戻るまでの物語である。森田思軒は後に翻訳王と呼ばれた翻訳家である。
26、『砂漠旅行 亜拉比亜奇譚』ハウフ著、霞城山人訳、大阪・浜本伊三郎刊、明治20年2月、144頁…ハウフはドイツの幻想的な童話作家であり、この作品の原題は『隊商』である。話中話の不思議な物語のうち、幽霊船の話が特に有名である。霞城山人は、翻訳や児童劇脚本等で活躍した中川霞城のことである。この書籍は、いわゆる豆本である。
27、『本説四谷怪談』奥田忠兵衛編,梅堂国政画、東京・奥田忠兵衛刊、明治20年4月、16丁、和装…当時流行した実説物の一作である。奥田忠兵衛は和歌山県九度山町出身で絵草子の版元である。
28、『神経小説 怪談牡丹燈』岩本吾一(香夢楼主人)編、東京・畏三堂、明治20年6月、170頁…『剪刀新話』中の「牡丹燈記」に基づくが、山東京伝『浮牡丹全伝』や三遊亭円朝の『怪談牡丹灯籠』とは別物である。舞台を南北朝の争乱終息後に設定している。
29、『狐狗狸怪談 西洋奇術 一名西洋の巫女』凌空野人編輯、東京・イーグル書房小説部、明治20年6月、42頁…一柳博孝『〈こっくりさん〉と〈千里眼〉 日本近代と心霊学』(講談社、平成6年)において論じられている。明治前期に西洋から伝えられた占いがもとになり狐狗狸ができたという。渋江保は明治期の翻訳家・著作家である。
30、『開巻消魂 妖怪百物語』大木月峯(鹿之助)著、京都・川勝鴻宝堂、明治20年8月、73頁…「此書借怪以示道依奇以述理意亦在巽與焉耳請讀者捨其怪而繹道去其奇而索理則庶幾得格致之一端乎」
怪によって道を示し、奇によって理を述べると序文にて述べている。怪奇は怪奇を楽しむためのものではなく、道理を示し述べるためのものと言う認識である。江戸期において、百物語が一種の遊戯であったことから考えるならば合理主義的な怪異観である。21編の怪奇短編を収録しており、すべて最後に編者の教訓が記されている。「金桐釵」等は、中国怪談の翻案と推定される。
31、『峡中奇聞 小松之怪談』編輯人不詳、甲府・芳文堂、明治20年11月、55頁、和装…「天地の大なる造化の妙なる殆んど思識すべからず見る所を信じ不見所を疑ふ是庸人の情なり青蟲蝶と化し寒蟬衣を脱するが如きは造化の至妙にして自他怪ならざる者は何ぞや謂んや萬物の長にして魂魄の霊なしとせんや暫く疑ひを闕て可なり又謂らく奇説怪語は多く世教に益なく而も人を惑はす故に君子は怪力乱心を語すと夫れ悪を懲らすに足ん者は妨ずと聖人遇々怪を辨じ乾坤の大ひなる何ぞ怪なからんや」
過去にした約束を覆されたことにより怨んで死んだ若者の霊が、その家の関係者を次々と取り殺すというもので、その怨念の強烈さはすさまじいが、名僧により怨霊が鎮められるという点で累の系譜の作品と推定される。
32、「西洋怪談 黒猫」饗庭篁村訳(『黒猫』ポー)『読売新聞』掲載、明治20年11月3日、9日…饗庭篁村には『新殺生石』(春陽堂、明治22年uc2い)という作品もあるが、ポーの『黒猫』を翻訳しているのは異色である。原作との細部の相違等はあまり見られなかった。
33、『妖怪船』ウィルヘルム・ハウフ著、高橋礼五郎(杏堂散史)訳、東京・松成堂、明治20年12月、43頁…『隊商』中の一話で幽霊船の話である。山本正秀『近代文体発生の史的研究』(岩波書店、昭和40年)中で訳が冗長であると指摘されている。 
 
歌舞伎絵・錦絵物語
 

 

■猫の妙術 1 
佚斎樗山(本名丹羽忠明、1659 - 1741年)著の談義本(戯作の一)『田舎荘子』(享保12年(1727年)刊)内の一話であり、剣術書(厳密には、精神面を説いた書)。
猫に語らせる(若猫達と古猫の問答)といった体裁で記述され(人外に仮託した教訓話の一つ)、剣術の所作・気・心のあり方を説き、我と敵の関係・定義を記述し、精神面や境地について、最終的に達した者は、敵が生じず、周囲にも現れないとしめくくる。
同著者の『天狗芸術論』巻三にも引用が見られる孟子の「浩然の気」を古猫に語らせたり、『田舎荘子』のタイトルにあるように荘子の「木鶏」をモデルとして応用した「木猫」ともいえる流れが見られるなど、禅(仏教)を主体とした『不動智神妙録』(17世紀)と比較した場合、中国思想(孔子や易経なども含む)を引用する傾向が見られる(特に『芸術論』においては、仏僧といえども中国聖人の考えに触れれば、感化される旨の記述がある)。佚斎自身は陽明学の熊沢蕃山の影響を受けたとされ、この為とみられる。
時代的背景としては、17世紀の『不動智』と異なり、実戦経験に乏しい太平の世に書かれ(江戸開幕から100年ほど経っている時期)、武芸者の質も落ちた為に、分かりやすく書かれた兵法書である(そのため、それまでの兵法書と比較してもフレンドリーな内容となっている)。

剣術家の勝軒(しょうけん)の家に大鼠が現れ、ネズミを捕えるため、初めは自家猫を仕向けるもネズミに噛まれ、そこで近所中のネズミ捕りに実績がある猫達を集めさせるも、どれも敵わず、とうとう勝軒自身が木刀を手に振り回すも、逃げ回って逆に噛みつかれそうな勢いとなり、手に負えない。最後に名立たるネズミ捕りの古猫を連れてこさせるが、その姿はきびきびとせず、元気がない。ところが、いざネズミのいる家に入れさせると、ゆっくりと追い詰め、大した抵抗をされることもなく、造作もなく咥えてきた。その夜、猫達が集い、その古猫に教えをこう。一匹(若い黒猫)は所作を鍛錬したことを、一匹(少し年上の虎猫)は気を修行したことを、一匹(さらに年上の灰猫)は心を練ったことを語り、古猫はそれぞれ虚を指摘し、実を説いていく。自分は何の術も用いないし、無心で自然に応じるのみと語った後、自分自身も過去に出会った猫に比べれば、まだその境地(周囲に敵が生じない)に達していないと諭す。最後にそれらの問答を聞いていた勝軒の問いに対し、古猫は、敵とは何か、心のあり方を説き始める。 
■猫の妙術 2 (現代語訳) 
勝軒という剣術者がいた。その家に大きなネズミが出て、真っ昼間に駆け回っていた。家の主人は戸やふすまを閉め切り、飼っていた猫にネズミを捕らせようとした。ところがこの大ネズミが、猫の顔に飛びかかって食いついたので、猫は鳴き声を挙げて逃げ去ってしまった。
これはいかん、と主人は思って、それから近郷近在の、ネズミ取りの名手と名が高い猫どもをたくさん捕まえてきて、ネズミがいる一部屋に追い込んだのだが、ネズミは床の隅に身を潜め、猫が来たなら飛びかかり、食いついてやろうとする殺気がすさまじく見えたので、猫どもはみんな尻込みして動かない。
主人は腹を立てて、自分で木刀を取り出して、ネズミを打ち殺そうと追いかけ回したが、斬りつけても抜けかわして木刀に当たらない。そこらの戸・障子・ふすまなどを叩き破るほど振り回しても、ネズミは空中を飛んで、その早さは稲妻が光るようなものである。どうかすると、主人の顔に飛びかかって、食いつこうとする勢いすらある。
勝軒は大汗を流し、下僕を呼んでこう命じた。「ここから六、七町(1町≒110m)先に、たぐいまれなすごい猫がいると聞いている、借りてこい。」というわけで、すぐさま人をやってその猫を連れてくると、見た目は役立ちそうにも見えず、それほどはきはきした猫にも見えない。
「そいつをまず、ネズミのいる部屋に追い込んでみよう」ということで、少し戸を開けて、その猫を入れたところ、ネズミはすくんで動かず、猫は何事もなく、のろのろと歩いて、ネズミを口にくわえて、引いて戻ってきた。
その夜、ネズミを取り損なった例の猫どもが、勝軒の家に集まり、ネズミを捕った古猫を上座に招いて、いずれもお辞儀してこう言った。
「私どもはネズミ取りの名手と呼ばれ、その道に修練し、ネズミどころかイタチやカワウソでも取りひしいでやろうと、爪を研いでいたのですが、今だにこのような強いネズミがいたことを知りませんでした。あなた様は、いったいどのような術を使って、簡単にあのネズミを討ち取ったのでしょう。どうかおねがいです、惜しまず、あなた様の妙術をご教示下さい」と、神妙な顔つきで丁寧に申し上げた。
古猫が笑っていった。
「皆さんいずれもお若く、一生懸命にネズミ取りをなさったが、今だに正しいネズミ取りの法をお聞きになっていないから、思わぬネズミに出くわして、不覚をお取りになった。ま、それはそうと、まず皆さん方の、これまでの修業のほどをお伺いしましょう」と言う。
猫どもの中から、鋭そうな黒猫が一匹進み出て、こう言った。
「私は代々ネズミ取りの家に生まれて、その道に心がけましたので、七尺の屏風を飛び越え、小さい穴もくぐり、子猫の頃より、早業・軽業で出来ないと言うことがありません。例えば寝たふりをしてだまし、あるいは不意に飛び起きて、家の梁・桁を走るネズミであろうとも、取り損なったことはありません。それなのに、今日は思いも寄らぬ強いネズミに出くわし、一生の後れを取ってしまい、心外の至りでございます。」
古猫はこういった。
「ああ、お前さんが修業したのは、技法だけだ。だから、今だにネズミを狙う欲心が抜けていない。昔の人が技法を教えたのは、勝とうとするその欲から自由になる道筋を、分からせてやろうとしたからだ。だから技法というものは、単純でやさしそうに見えても、その中に究極のことわりを含んでいるのだ。
それなのに後世になると、技法ばかり修業するようになって、どうかすると、色々余計なことをこしらえて、技の上手さを極めては昔の人を馬鹿にし、自分の技量にまかせてやりたい放題、はては技くらべということになり、その技巧がどこまでも進んで、どうしようもなくなっている。
つまらない者が技のうまさを極め、技法のみに頼るというのは、みなこのようなものだ。確かに技法は心の働きだから、心と技法は無関係ではない。しかし正しい道に基づかないまま、単に技巧をこらすばかりでは、偽物の道に陥るきっかけになってしまう。こういった技法の使いようは、却って害になることが多い。だから今言ったことをもとに反省し、よくよく工夫しなさい。」
また虎毛の大きな猫が一匹まかり出て、こう言った。
「俺が思うに、武術は気を尊ぶから、長いこと気力を練ってきた。今やその気力は広々として力強く、天地に満ちるほどだ。
その気力を使って、まず心眼で敵であるネズミを足元に踏みつけ、気で勝ちを取っておいてから、その後に体を動かす。声に従い、響きに応じているから、ネズミが左右どこにいようとも、その変化に対応できないことはない。このように型に頼らなければ、型は自然に湧き出てくるものだ。だから高い梁や桁を走るネズミは、にらみ落としてこれを捕る。
それなのにあの強いネズミは、向かってくるにも姿かたちが無く、逃げ去るにもその気配を残さない。あれはいったい何者なのだ。」
古猫が言う。
「お前さんが修業したのは、気力の勢いにまかせた上で、はじめて役に立つやり方だ。それは自分の自信を頼みとしなければ成り立たず、最善のものではない。
こちらが撃ち破ってやろうとすれば、敵もまたそうしようとする。だが破ろうにも破れない相手が出てきたらどうだね?
こちらが相手をしのいでくじいてやろうとすれば、敵もまたそうしようとする。しのぐにしのげない相手が出てきたらどうだね?
どうして、自分ばかり強くて、敵はいつも弱い、なんてことがあるだろう?
自分の気力が、広々として力強く、天地に満ちるように思えるのは、お前さんの体や心がその一つであるような、万物を形作っているモトが、たまたま、強そうな形になっているだけだ。だからお前さんのは、孟子先生が言う浩然の気に似ているようで、実は全然違う。
浩然の気とは、宇宙の真理を体得した者が、強く健やかでいることだ。お前さんのは、ものごとの勢いに乗って、たまたま強そうに見えるだけだ。だからそのはたらきは、浩然の気と同じではない。普段の穏やかな川の流れが、偶然一夜にして洪水になるようなものだ。そんな勢いにも、屈しない者が出てきたらどうするね?
追い詰められたネズミが、かえって猫を噛むということはあるものだ。そういうネズミは、必死の勢いで、自分を頼みにすることがない。自分の命も忘れ、欲を忘れ、勝ち負けももはや気にしない。この身を全うしようという気持ちもない。だからその意志たるや、鋼鉄のようである。このような者を、どうして気力の勢いで破ることが出来よう。」
次に、灰色の少し年取った猫が、静かに進み出てこう言う。
「おっしゃる通り、追い詰められたネズミの気勢は盛んではあっても、やはりその姿は消すことが出来ません。姿がある者はいくら小さくても、必ず見ることが出来ます。
私は心を練ってから長くなります。勢いを張ることもなければ、何ものとも争わず、互いになじんで離れず、相手が強がるときは、なじんでそれに従います。
私の術は幕を張って、ふわりと石つぶてを受け止めるようなものです。いくら強いネズミが来ても、私に挑もうにも手がかりがありません。
ところが今日のネズミは、勢いにも屈しませんし、なじもうとしても応じません。その振る舞いはまるで神のようです。こんなのは、見たことがありません。」
古猫が言った。
「お前さんのなじむというのは、欲得なしになじむというやつではない。なじんでやろうとしてなじんでいるに過ぎない。
敵の鋭気をかわそうとしても、少しでもかわしてやろうと心に思えば、敵はその気配を察する。
なじもうとする欲を持ったままなじめば、心が汚れてしまって、単にだらけているようにしか見えない。欲を持ったまま事を行えば、本来は自然に感じることができるはずの感覚が、感じられなくなってしまう。
この自然な感覚をふさいでしまえば、精妙な働きが、どうして生まれようか?
ただ思うこともなく、することもなく、この感覚に従って動くときには、自分には姿というものがない。姿がなければ、天下に、自分にかなう者はいない。」
さてあれこれ小言を言ったが、みなさんの修業してきたことは、全部無駄だというわけではない。真理とその実践は、分かちがたく結びついているから、体ですることの中に、真理は含まれているからだ。
そもそも気というものは、この身を操るモトと言うべきものだ。その気がとらわれのない境地にあるなら、どんな物事にも対応できて困らない。気がなごみ、相手となじむときには、力を使って何かする必要がなくなるし、この身を鋼鉄のようなものにぶち当てても、折れる気遣いはない。
ところが、心にどんな些細な欲でもあれば、やることなすことは、全てわざとらしくなる。それは、真理と一体になった体の動きではない。そうなれば、向かってくる者はまるで意のままにならず、我と戦おうとする心を持つ。
さよう、術というのは、使えばわざとらしくなる。ならばいったいどうして、私は術など使うだろうか。心を無にして、自分を取り囲むありのままに、その時その時応じるだけだ。
ただしね、真理に至る道というものには、限りがない。だから私がいま言ったことを、究極の真理などと思ってはいかんよ。
昔、私の住む隣の村に、ある猫がいた。一日中寝ていて、動きも気配もない。木で作った猫のようだった。その猫がネズミを捕ったところを、誰も見たことがなかった。ところがその猫がいるところには、ネズミは一匹もいなくなるのだ。猫がよその場所へ行っても、同じようにネズミはいなくなる。
私はその猫の所に出かけて行って、なぜでしょうかと聞いてみた。でもその猫は答えなかった。四度聞いたが、四度とも答えなかった。これはね、答えなかったんじゃない。答えを知らなかったんだ。
ここで私ははっと気付いた。老子さまの教え、知る者は言わず、言う者は知らざるなり、ということに。その猫は、自分を忘れて、無そのものになっていたんだ。これこそ、神の如き武術を持ちながら、殺さない、というものだ。だから昼間ネズミを捕った私というのは、彼には遠く及ばないのだよ。」
ここまで、古猫のお説教を聞いていた勝軒は、夢のお告げを聞いたように感心した。そこで、猫が集まっているところに出てきて、古猫にお辞儀してこう言った。
「私は剣術を修業して、ずいぶん長くなります。しかし今だにその道を極めていません。この夜、猫のみなさんの話を聞いて、私の剣の道の極意を悟りました。どうかお願いですから、さらにその奥義をお教え下さい。」
古猫が言った。
「いやまぁ、私はけものですから。ネズミについては、ただ日々の食事を得るための話に過ぎません。私ごときが、なんで人がする剣術を、分かっているものですか。
…それでもまぁ、こういう話を、ちょっと聞いたことがあります。そもそも剣術は、人に勝つことだけを目的とし、修業するものではありません。命のやりとりをする事態に陥ったとき、どちらが生か死か、それを決める術だと言うことです。だから侍たる者、いつもこの心を養い、この術の稽古に励まなければ、侍と言われる資格がありません。
ですからまず、生と死とは何かということわりをよく理解し、己の心から偏りやこだわりを捨て、疑うことも迷うこともなく、考えや技術を使うことなく、心も気も穏やかにして、気がかりが無く、落ち着いて、あるがままに過ごしているなら、どんな変化に出くわしても自在に対応できます。
ただしこの心に、わずかでも気がかりがあれば、自分にかたちが出来てしまいます。かたちが出来てしまえば、敵ができ、それに刃向かう自分が出来ます。そうなったら、互いに戦うしかありません。こうなってしまったら、変化に対して自在に応じることはできません。加えて、自分の心は戦う前に死の境地に落ちてしまい、たましいも曇ってしまいます。
こうなればどうして、素早くはっきりと、勝負をつけることが出来ましょう。もし勝てたにしても、それは、何だか知らんが、刀を振り回してたら勝っちゃった、というものです。剣術の本来の道に沿った勝ち方ではありません。
ただし、こだわりを捨ておのれを無にする、と言っても、それは、俺は無だ、俺は無だと、無理やり思い込もうとする無ではありません。
そもそも心には、かたちがありませんから、何か心でないものを、その中に含むことは出来ません。それが無理をして、少しでも含まそうとすると、気がそこに偏ってしまいます。このように気が偏るときには、するりとした自由でいることは出来なくなります。
そんな気分で何かをしたら、いずれもやり過ぎになりますが、そうかと言って気を向けずに何かをしたら、いずれも中途半端になります。やり過ぎるときは勢いが付きすぎて、引っ込みがつかなくなりますし、中途半端な時は、ぐうたらとものの役には立たなくなります。どちらも、変化に応じることは出来ません。
私が言う、無というのは、何も心に挟まず何にも頼らず、敵もなく我もなく、せまってきた物事に従って、それに応じて、しかもその気配を残さないことです。易経にはこう書いてあります。思いもせずすることもなく、静かに動かなければ、感じるだけで、天下の物事に通じることが出来る、と。このことわりを知って剣術を学ぶ人は、真理に近付いているのですよ。」
勝軒が尋ねた。「敵もなく、我もなし、というのは、どういうことでしょうか。」
古猫が言った。
「自分があるから、敵が出来る。自分がなければ、敵は出来ない。そもそも敵というのは、何かと何かが対立して、向かい合うさまを言う。陰陽・水火のように、すべてかたちがあるものには、必ず対立するものがある。だから自分の心にかたちがなければ、対立するものはできない。対立するものがなければ、争うということがない。これを、敵もなく、我もなし、と言うのです。
自分を取り巻くものと自分のいずれも忘れて、深い湖のような静けさで何事も起こさないときには、すべてはなじんで一つになる。その境地で姿ある敵を破ったとしても、自分はそれに気付くことがない。いや、気付かないと言うより、勝とうという思いが無く、感じたままに動いただけのことなんです。
この心が深い湖のように静かで、事を起こさないときには、世界は自分の世界になる。何が正しい間違っている、どれを好む嫌うという、こだわりが無くなるからです。誰もが自分の心のままに、苦か楽か、得か損かを分けています。だから天地は広いと言っても、自分の心のほかに、求めるものなど無いのです。
昔の人が、こう言ったそうです。眼の中にチリが挟まっているから、この世界が窮屈になってしまう。こころに何も無ければ、一生は広々とする、と。目の中にちょっとでもチリが入ってしまえば、目を開けることは出来ません。視力というのは元々ものではなく、だからこそはっきりと見えるというのに、そこにものが入ってしまったから、このように狭苦しい思いをすることになるのです。心とは何かと例えれば、こういう話になるのです。
また昔の人は、こうも言ったそうです。千人万人の敵の中にあって、たとえ我が身のすがたは微塵になっても、この心は私のものだ。いかなる大敵であろうとも、これはどうすることも出来ない、と。また孔子さまもこう言っています。つまらない男であっても、これをやるぞ、というその志を、誰かが奪うことは出来ない、と。もし心に迷いがあるなら、かえって自分の心が、敵を助けることになってしまう。私が話したことを突き詰めて言えば、そういうことになるのです。
さらに話を続けるなら、ひたすら自分で気付きなさい、とも言われています。以心伝心、心から心に伝わった、という言葉で表現してもいいでしょう。教外別伝、教えたわけではないけど伝わった、ということでもあります。
これらは、教えに背く、ということではありません。師匠にも、ことばや体で伝えることが出来ない何かがある、ということなのです。これは何も、禅の世界だけではありません。聖人の教えから、様々な技術の端に至るまで、弟子が自分で気付いたことというのは、すべて以心伝心であり、教外別伝なのです。
教えるということは、元々弟子自身が持っていたが、自分では気付かないものを、それがそうだよ、と指さして知らせてあげるだけのことです。師匠から、弟子に授けることではないんです。教えることそのものは簡単ですし、教えを聞くことも簡単です。ただし、弟子が自分の中にあるものを、確かに見つけて、自分のものとするのは難しい。
この見つけるはたらきを、見性といいます。悟るということも、妄想の夢から覚めるだけのことです。目覚める、と言い換えても同じです。誰にも覚えのあることで、ごくありふれた話に過ぎません。」

「猫の妙術」は、江戸期に刊行された『田舎荘子』の一節。版本は享保12年(1727)のものが九州大学に、出版年不明のものが早稲田大学に所蔵。著者は関宿藩士であった丹羽十郎左衛門忠明とされ、佚斎樗山の筆名で刊行された。 
■南総里見八犬伝 
江戸時代後期に曲亭馬琴(滝沢馬琴)によって著わされた大長編読本。里見八犬伝、あるいは単に八犬伝とも呼ばれる。文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。上田秋成の『雨月物語』などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。
『南総里見八犬伝』は、室町時代後期を舞台に、安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説である。共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、牡丹の形の痣が身体のどこかにある。関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集する。
馬琴はこの物語の完成に、48歳から75歳に至るまでの後半生を費やした。その途中失明という困難に遭遇しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができた。『八犬伝』の当時の年間平均発行部数は500部ほどであったが、貸本により実際にはより多くの人々に読まれており、馬琴自身「吾を知る者はそれただ八犬伝か、吾を知らざる者もそれただ八犬伝か」と述べる人気作品であった。明治に入ると、坪内逍遥が『小説神髄』において、八犬士を「仁義八行の化物にて決して人間とはいひ難かり」と断じ、近代文学が乗り越えるべき旧時代の戯作文学の代表として『八犬伝』を批判しているが、このことは、当時『八犬伝』が持っていた影響力の大きさを示している。逍遥の批判以降『八犬伝』の評価は没落していくが、1970年代から80年代にかけて復権し、映画や漫画、小説、テレビゲームなどの源泉として繰り返し参照されている。
なお、里見氏は実在の大名であるが、「八犬伝で有名な里見氏」と語られることがある。『八犬伝』の持つ伝奇ロマンのイメージは安房地域をはじめとする里見家関連地の観光宣伝に資しているが、史実とフィクションが混同されることもある。
庚申山の妖猫退治
荒芽山の離散後、諸国を巡った現八は、文明12年(1480年)9月に下野国網苧(あしお)を訪れ、庚申山山中に住まう妖猫の話を聞く。期せずして庚申山に分け入った現八は妖猫と遭遇し、弓をもって妖猫の左目を射る。現八が山頂の岩窟で会った亡霊は赤岩一角を名乗り、自らを殺した妖猫が「赤岩一角」に成り代わっていることを語り、妖猫を父と信じて疑わない犬村角太郎(犬村大角)に真実を伝えるよう依頼する。また、一角は大角が現八と同じ因縁に連なることも告げる。山を降りた現八は、麓の返璧(たまがえし)の里に大角の草庵を訪う。大角の妻である雛衣の腹は懐妊の模様を示しており、身に覚えのない大角は不義を疑って雛衣を離縁、自らは返璧の庵に蟄居していたのであった。
偽赤岩一角(実は妖猫)は、後妻に納まっていた船虫とともに大角を訪れ、雛衣を復縁させた。これは偽一角が目の治療のために孕み子の肝とその母の心臓とを要求するためのものであった。大角は孝心に迫られて窮したが、夫を救い自らの潔白を明かすために雛衣は割腹する。その腹中からは珠が飛び出して偽一角を撃った。以前雛衣が病となった際、大角は珠をひたした水を飲ませたのだが、雛衣は珠を誤飲してまい、その後懐妊と見られる様子が現れたのであった。大角は現八とともに正体を現した妖猫を退治した。大角は妻の喪に服し、家財を処分して、文明13年(1481年)2月に現八とともに犬士として故郷から旅立つ。  
庚申山の山猫
曲亭馬琴作『南総里見八犬伝』に登場する妖怪です。下野の郷士の子・犬村大角(いぬむらだいかく)が仁義八行の霊玉を得た八人の勇士「八犬士」に加わるまでの物語に敵役として現れ活躍します。

時は文明十二年(1480)。先の荒芽山での戦いの結果、追手から逃れて離散した五人の犬士。「信」の霊玉を持つ犬飼現八(いぬかいげんぱち)は、離ればなれになった四人の仲間を探し求めた末に下野国真壁郡の網苧という里に到ります。現八は里の茶屋にて奇妙な話を耳にしました。
庚申山は奇岩の連なる険しい山で、足元は苔に覆われ足を滑らせやすい難所でした。のみならず、この山には木精(すだま)、あるいは虎のように獰猛な数百の齢を重ねた山猫が潜んでおり、山奥に迷い込む者があればたちまち引き裂き喰らってしまうのだと語り伝えられていました。十七年前、赤岩一角なる郷士が武勇を示すべく山に入り、一時は遭難、負傷するも探険を成し遂げ自力で生還を果たすという出来事がありました。山には毒蛇猛獣なし、と一角は断言しましたが、いずれ険阻な山であるため、その後にも登山を試みる人はなかったようです。帰還した一角と後妻との間には男子が生まれ、牙二郎(がじろう)と名付けられました。この頃から、一角は先妻との子である角太郎(かくたろう。後の大角)をひどく憎んで虐待するようになりました。この境遇を不憫に思われ、角太郎は母方の伯父・犬村儀清に引き取られました。文武に優れた儀清に教え導かれて、角太郎も文武両道の逞しい青年に成長し、儀清の実の娘である雛衣(ひなきぬ)を妻に迎えました。
一角の後妻は牙二郎幼少の折に頓死し、その後に迎えた妻は半年、一年ほどのうちに次々と暇乞いし、または逐電し、あるいは死して一角のもとを去っていきました。ただ一昨年に武蔵国の方から流れてきた船虫(ふなむし)という女との関係だけは長続きし、今に至っています。この船虫、実は犬士とも因縁浅からぬ者で、武蔵の盗賊の妻であった頃に「悌」の珠を持つ犬田小文吾を陥れようとした悪女だったのです。
このような話を聞いた後に茶店を発った現八は、やがて道に迷って夜の庚申山へと分け入っていきました。丑三つ時、「胎内潜(たいないくぐり)」と呼ばれている大きな門のような岩の辺りで、現八の目前に松明のような二つの灯りが迫ってきました。それは得体の知れない妖怪の両眼の輝きでした。妖怪の面構えは荒れ狂う虎のごとく、血潮よりなお赤い口は耳まで裂け、牙は真っ白にして剣を植えたかのよう。猛獣のごとき容貌ながら、身体は人に異ならず、腰に二振りの太刀を佩いて、枯木のごとき異形の馬に乗っていました。左右には、かれに従う若党らしき妖怪の姿もみえます。現八は携えていた矢を放ち、馬上の妖怪の左目を見事に射抜きました。妖怪たちはみな驚いてもと来た方へ逃げ帰り、周囲は再び夜の闇に包まれました。
険しい山中をさらに進みだした現八の前に、今度は顔色の青い、痩せ枯れた三十歳あまりの男が現れました。彼はかつて山猫を退治せんと庚申山に登り、あえなくその猫に食い殺された男の冤魂、すなわち本当の赤岩一角の亡霊だったのです。一角の霊は現八に十七年前の真相を語りました。数百歳を経て犢牛のような体躯となり、神通自在の力を得た山猫は、山の獣類を従えるのみならず、数千歳の木精を馬とし、土地の神、山の神を従者とするほどの強大な怪物となっていました。一角を殺した猫は、彼の美しい後妻・窓井を犯そうと企みます。そのために一角の衣服を奪い、彼になりすまして山を降り、淫楽を貪る生活を始めました。窓井たちが死んでいったのは猫と枕を重ねて精気を吸い取られたためでした。邪智に長け欲深い船虫だけは化け猫とも性質が合致したものか、邪気にふれても平然として、かつ化け猫にもいたく気に入られているのでした。偽の一角と船虫は儀清亡き後の角太郎夫婦をいじめ、それでも我が親と信じ孝を尽くそうとする角太郎を苦しめていました。本物の一角が夢枕に立ち、今の一角は偽者であると告げても角太郎が信じる見込みもありません。赤岩一角の霊は勇敢な現八に、どうか息子の角太郎を助けてくれないかと頼みこむのでした。現八はこれを引き受け、化け猫を滅ぼすことを誓って山を下りました。
角太郎を訪ねた現八は、彼が玉を所持する八犬士のひとりであることに気がつきました。しかし角太郎が持っていた霊玉は、いま妻の雛衣の体内にありました。腹痛に苦しむ彼女を救おうと玉を浸した霊水を飲ませようとしたとき、強欲な継母船虫の横槍が入り、慌てた雛衣が玉を飲み込んでしまったのです。このため雛衣の腹は妊娠したように膨らみ、船虫はこれを密夫と姦通して孕んだものと言い立てました。親への孝のため、角太郎は雛衣と離縁せざるをえない立場となってしまったのです。
船虫の姦計を察した現八は、今度は偽赤岩一角を探るべく、彼と息子の牙二郎が開いている剣道場を訪れました。現八は一角門弟を試合で全員打ち負かしますが、これによって更なる恨みを買ってしまいます。夜更けにあわや暗殺というところで霊玉の加護により危険を察知、襲いくる牙二郎らと戦いながら角太郎の庵に辿りつきました。角太郎は現八を匿いますが、そこへ船虫を伴った偽赤岩一角がついに現れました。
偽一角は角太郎夫婦を呼びつけ、現八を匿ったことは不問に付す代わり、自身の突き破られた左目を癒す薬の材料として雛衣の胎児を差し出せと迫りました。角太郎は苦悩した末にこう答えます。「それがしだけの事であれば、たとえ身を八つ裂きにされたとて惜しむべくもございません。しかし雛衣はわが養家の嫡女にして殊に義理ある妻。また懐胎の事実も定かでなく、もし血塊の類であれば、その功もなく犬死にとなるでしょう。どうかそのことはお許しください」しかし、偽の一角はこれを聞き入れません。親子の義理を持ち出し、隻眼となり生き恥を晒すなら今ここで切腹するとまで言い張って、なおも雛衣の腹を暴くよう強要します。「親を死なせても御身は何とも思わぬか」と、船虫も角太郎を煽ります。困り果てた角太郎はもはや沈黙するしかなくなっていました。
船虫や牙二郎が自害を催促するなか、夫の心を汲んだ雛衣は、とうとう覚悟を決めて短刀を己が腹に突き立てました。鮮血がほとばしり、「礼」の玉が雛衣の体から飛び出しました。霊玉はそのまま鉄砲の弾のごとく飛んで、雛衣の向かいに座していた偽一角の胸骨を打ち砕きました。これぞ天の冥罰、「あっ」と叫び終らぬうちに倒れ、偽一角は動かなくなりました。父を討たれた怒りに燃えて角太郎に斬りかかる牙二郎を、現八の投げた手裏剣が仕留めました。逃げようとした船虫も捕えられましたが、いまだ真相を知らぬ角太郎は弟と継母を害されたと怒り、現八に刃を向けました。対する現八は庚申山で山猫に殺された本物の赤岩一角の髑髏を突きつけ、あらためて真相を語りました。
全てを知って愕然とする角太郎。ようやく夢が覚めた心地がして、かつ大いに驚き恥じ入りつつ、雛衣の最期を看取りました。直後、牙二郎が息を吹き返し、またも刀を抜いて現八らに襲いかかりました。今度は角太郎がこれを斬り結び、いまこそ冥罰の刃を受けよとその首を刎ねて殺しました。牙二郎の骸が偽一角に折り重なるように斃れると、次は偽一角が蘇生して唸り声を発し、庵全体を震わせたかと思うと、山猫の正体をあらわにして身を起こしました。目は鏡のごとく輝き、髭は雪を貫く芒(すすき)のよう。大山猫は爪を立て、牙を鳴らして角太郎を睨みつけました。しかし角太郎はもう少しも騒がず、先ほど牙二郎を斬った刀を構えます。「二人とも引き裂いて、血を吸い肉を食らわずば、我が通力もその甲斐なし。覚悟をせよ」山猫が人語で恨み言を述べると、二人の犬士はうち笑い、最後の決戦に臨みました。
猛り狂う山猫でしたが、次第に角太郎に追い詰められていきました。やがて腰骨を切り離されて倒れ込んだところで喉笛を刺し貫かれ、遂に息絶えました。角太郎は父の仇を討ち果たしたのです。
正体を現した偽一角と牙二郎の死骸は、事情を聞いた村人たちによって焼き払われて灰燼に帰しました。ところがこれより後、この場所では怪事が続き、人々が病死したため、灰を集めて埋め直し、猫塚を建ててその霊を弔いました。これによって祟りも鎮まり、十里四方の田畑には鼠がよりつかなくなったといいます。なお、船虫は助命されたものの再び逃走し、後にまたしても犬士と敵対することになります。
作中では馬琴の言として山猫に関する諸説が紹介されています。また現八の台詞においては山猫は「一種の妖獣」で、家の猫とは異なるものだとされています。この山猫退治の場面は錦絵の題材にもなっており、たとえば歌川国芳による『曲亭翁精著八犬士随一』では、犬村大角が巨大な三毛猫の喉元に刀を突き立てる様子が描かれています。

『南総里見八犬伝』 曲亭馬琴による読本。全9輯106冊、文化11年(1814)から天保13年(1842)にかけて刊行された。伏姫と犬の八房の因縁が元で齎された仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌  の仁義八行の玉をもつ八犬士らが安房里見家を再興する伝奇小説。 
庚申山と八犬伝
「八犬伝」読本は当時の発行部数は年間500部程度であるが、多くの人々は貸本として読まれたようだ。当時は庚申講の隆盛時期でもあり、人気の庚申山信仰・講を「八犬伝」の題材い組み込んだのでろうか。また八犬士の持つ八っの珠玉や怪猫などの妖怪は、庚申山の神霊な雰囲気はこの山域にマッチしていたのであろうか。曲亭馬琴自身は庚申山を歩いたのであろうか。曲亭馬琴は最初から壮大で超長なストーリーを考えていたという。江戸文化と庚申山の当時を探る手掛りに「南総里見八犬伝」を探訪した。
長大な読本の内容は、南総里見家の勃興と伏姫・八房の因縁を説く発端部(伏姫物語)、関八州各地に生まれた八犬士たちの流転と集結の物語(犬士列伝)、里見家に仕えた八犬士が関東管領・滸我(古河)公方連合軍との戦い大団円へ向かう部分に大きく分けられる。
関東公方足利持氏は、謀反を起こし京都将軍家に滅ぼされる。その遺児をいただいて将軍家と対立した結城氏朝もまた落城する。里見義実は、父とともに結城方に参戦していた武士であったが、里見氏を再興するため、忠臣と共に三浦の浜まで落ちのび、龍が現れて安房国へと飛び去ったのを見て吉兆とし、舟で安房国へと向った。安房南半分の領主安西景連らに助力を頼むが、用心した景連に難題を出されて追われる。「安西館の場」
安房の国の北半分は神余光弘の所領であったが、悪妾玉梓(たまづさ)は、光弘の家臣山下定包と密通し、共に謀って光弘を殺し、その地位を得ていた。金碗八郎は弘光の忠臣であったが、上陸した里見義実に定包を討伐するよう請う。
「庚申山の場」は『八犬伝』第六輯第六十回から第七輯第六十六回にかけて登場する。
南総里見八犬伝・庚申山の場
犬飼現八は下野国の茶屋で休んでいる時、庚申山に怪猫がいて人を襲うと聞く。さらに武芸に秀でた赤岩一角が怪猫を退治に庚申山に出かけて無事であったが、帰って来たら人が変わってしまい、子の角太郎を虐待するようになり、子は親戚に引取られたという。
現八は庚申山で怪猫に遭って矢をその片目に射る。さらに赤岩一角の亡霊が現われ、今赤岩一角の姿で里にいるのは、怪猫が化けているのだと告げる。自分の髑髏を差し出し、故事にならい、親子であれば子の血がしみ込むはずだから、偽一角を信じている角太郎に渡して自分が死んでいることを伝えてほしいという。
現八の矢により片目を患った偽一角は、それを治すために胎児の生胆を求める。角太郎は赤岩家を出されて返壁の草庵で無言の行を繰り返しながら暮らしていたが、偽一角は夫婦となっていた悪女船虫と共に、角太郎の妻雛衣の腹が大きい事に目をつけ、親への孝行だと、礼を重んじる角太郎を責めて雛衣の命をとろうとする。責められた雛衣が自ら腹を刀で差すと、以前に誤って飲み込んだ「礼」の玉が飛び出して偽一角を打ち倒す。角太郎は自分の血を髑髏にたらし、それが父の遺骨であることを知る。偽一角の正体を知って角太郎は、現八の助けを得ながら怪猫を退治し、仇討ちをすることができた。まもなく角太郎は犬村大角礼儀(いぬむらだいかくまさのり)と名をあらためる。
錦絵、八犬伝「庚申山の場」
赤岩一角は、犬村大角の父親であるが、庚申山において怪猫に食い殺され、怪猫は一角に化けた。現八が半弓を脇に挟んだまま木精(すだま 老木の精)が化けた馬を踏みしめて、偽赤岩一角の怪猫を睨んでいるところ。原本の読本では、怪猫の目に矢が射られているはずであるし、現八はこの場面では怪猫の前に姿を現さない、というように、原本の読本の筋からは少々ずれているが、猯(まみ いのしし)や狢(てん)の化け物たちの驚いた表情が面白く、見ていてワクワクさせる絵である。ただし、鈴木重三氏は、「図様の構成は、模倣の多い芳虎だけに、妖猫は馬琴の読本『青砥藤綱模稜案』の北斎の口絵、木魂の馬は国芳の川中島合戦の錦絵から借用、他にも類例が考えられ、全体に散漫感のあるのはその故らしい」
八犬伝と浮世絵
『八犬伝』第六輯第六十回から第七輯第六十六回にかけて登場する偽赤岩一角の化け大怪山猫である。第六十回、文明12年(1480)9月7日夜更け、下野の州庚申山の奥の院胎内賽において、犬飼現八は妖怪主従に行き会い、半弓にて騎馬なる妖怪の左目を射抜いた。この場面の半弓は、楊弓でなくて、暗殺に用いる戦闘用の弓である。その場面の英泉の挿絵は細かすぎてよく判別できない。これに対して、庚申山の場 赤岩一角に化けた怪猫と犬飼現八 歌川(一猛斎)芳虎画、嘉永頃 小嶋屋重兵衛板、大判錦絵3枚続がある。 
庚申信仰
中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。
庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つである。 陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を60で割り切れる年)を始め、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。
この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く上代に体系的ではないが移入されたとされている。
歴史
『入唐求法巡礼行記』838年(承和5年)11月26日の条に〈夜、人みな睡らず。本国正月庚中の夜と同じ〉とあり、おそらく8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと思われる。すなわち守庚申とは、庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごすという行いである。
平安時代の貴族社会においては、この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」と称する宴をはるのが貴族の習いであった。9世紀末から10世紀の頃には、庚申の御遊は恒例化していたらしい。やがて時には酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなったようである。鎌倉時代から室町時代になると、この風習は上層武士階級へと拡がりを見せるようになった。『吾妻鏡』(鎌倉幕府の記録書)にも守庚申の記事が散見される。また資料としてはやや不適切かとも思われるが、『柏崎物語』によると織田信長を始め、柴田勝家ら重臣20余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたともある。
やがて守庚申は、庚申待(こうしんまち)と名を変え、一般の夜待と同じように会食談義を行って徹宵する風習として伝わった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのではないかと推測される(いにしえのカミ祀りは夜に行うものであった)。
庚申待が一般に広まったのがいつ頃かは不明だが、15世紀の後半になると、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、庚申信仰は仏教と結びついた。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され始めることになり、行いを共にする「庚申講」が組織され、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した。また「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申(供養)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。
このように、本来の庚申信仰は、神仏習合の流れの中で、猿を共通項にした新たな信仰へと変化していることが伺われる。つまり、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ、現世利益を得ようとするものである。やがては宮中でも、庚申の本尊を祀るという形へと変化が見られるようになった。
仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。大正時代以降は急速にその信仰が失われた。
とはいえ、この夜慎ましくして眠らずに過ごすという概念は、比較的よく受け継がれている。また男女同床せぬとか、結婚を禁ずるとか、この日結ばれてできた子供に盗人の性格があると恐れられたりする因習もある。また地域によっては、同志相寄って催す講も続けられている。それらは互助機関として機能したり、さらには村の常会として利用されたりすることもある。
青面金剛、猿田彦神
庚申信仰では青面金剛と呼ばれる独特の神体を本尊とするが、これは南方熊楠によればインドのヴィシュヌ神が転化したものではないかという。 石田英一郎によれば青面金剛にはまた馬頭観音(インドのハヤグリーヴァ)との関連性も見られるという。
庚申信仰はまた神道の猿田彦神とも結びついているが、これは「猿」の字が「庚申」の「申」に通じたことと、猿田彦が塞の神とも同一視され、これを「幸神」と書いて「こうしん」とも読み得たことが原因になっているという。
また庚申信仰では猿が庚申の使いとされ、青面金剛像や庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が添え描かれることが多かった。  
■夢市男達競 (ゆめのいちおとこだてくらべ) 
夢市男達競 1
「西行が猫 頼豪が鼠 夢市男達競」を観て来ました。このお芝居は河竹黙阿弥の「櫓太鼓鳴音吉原」を原作に使って現代風にアレンジした復活狂言です。粟津の合戦で討死したはずの木曽義仲は生きていて頼豪阿闍梨の怨霊と合体して鼠の悪霊を使い将軍の源頼朝を苦しめ鎌倉市中を騒がせます。悪霊退散を祈念する上覧相撲が催され大江広元が後援する力士、明石志賀之助は北条時政のお抱え力士、仁王仁太夫に勝ち「日の下開山」の称号を得ます。北条家の家臣は明石への仕返しを企むのですが明石の義理の兄で男達の夢の市郎兵衛が阻止します。

北条家の怒りを買ってしまった市郎兵衛は謹慎処分になります。そこへやって来たのは北条家の家臣、神崎伝内と杉伴六、市郎兵衛に謝罪を求めます。大江家の事を思い理不尽な要求に耐える市郎兵衛ですが伝内達は白銀の猫を見付けたので鎌倉御所に持参すると言います。
鼠の化け物を退治する唯一の方法は西行法師に頼朝が与えた白銀の猫の置物を返して貰う事だったのですが、その白銀の猫は行方不明になっていました。
そこで大江広元に詮議役目が命じられていたのです。広元の立場を考えた市郎兵衛は必死で止めます。そこへ市郎兵衛の息子、市松も飛び入り白銀の猫を奪おうとして置物を壊してしまいます。責任を感じた市郎兵衛と妻のおすま、息子の市松は一家で心中をしようとします。そこへ現れたのが明石志賀之助、広元が元家臣の市郎兵衛の謹慎を解き白銀の猫の詮議を命じるという事を伝えに来たのでした。
割れた白銀の猫は伝内と伴六が仕立てた偽物だった事を知り市郎兵衛は本物を探し出す事を決意します。
白銀の置物の一件で北條家を追放された伝内と伴六は大磯の廓、三浦屋にやってくる。伝内は花魁、薄雲の事が忘れられず一目会わせろと騒ぎます。
薄雲は死んだ愛猫の玉の供養に出かけていましたが廓に帰ると最近、通り掛かる虚無僧の深見十三郎が姿を現します。十三郎に惚れた薄雲は費用を自分で立て替えて十三郎を部屋で遊ばせる事に、そこへ伝内が出て来て思いを遂げさせて欲しいと頼みますが薄雲は拒否します。怒る伝内の前に市郎兵衛が現れ伝内と伴六を懲らしめます。市郎兵衛は、おすまの妹で猫好きの薄雲に白銀の猫の話しをして協力を頼みます。部屋に通された十三郎でしたが薄雲が集めていた猫に因む品々を恐がり帰ろうとします。そこで薄雲は猫に関する品々を片付けさせると、やっと十三郎が部屋に入る事が出来ました。薄雲は妹のように可愛がる新造、胡蝶を十三郎に紹介すると、十三郎は怯え、胡蝶は敵意を抱きます。
実は十三郎の正体は木曽義仲だったのです、正体を見破られそうになった十三郎は姿を消し、その後を胡蝶が追います。十三郎は木曽義仲で鼠の化身、胡蝶は薄雲の愛猫、玉の化身だったのです。2人は猫と鼠の姿になって闘います。負傷し瀕死の状態の胡蝶の許へ駆け付ける薄雲は胡蝶が落とした銀の鈴が玉の物と同じだった事から胡蝶の正体に気付きます。胡蝶が息絶えると、そこには白銀の猫が…市郎兵衛は白銀の猫を使って木曽義仲を倒します。
市郎兵衛は広元に白銀の猫を渡し、広元が病の癒えた源頼朝に献上し、めでたしめでたし。
夢市男伊達競 2 西行が猫・頼豪が鼠 
「日下開山 明石志賀之助物語」 この芝居にも出てくる、初代横綱・明石志賀之助の事を書いたもの。明石は陸奥の出羽上山の藩主ご覧相撲に招かれていて、その事を日記に書き綴っていた人がいる。藩主の側近くにいた中村文左衛門尚春でその記録は「上山三家見聞日記」として残っている。
この尚春が又兵衛の三番目の姉とつながりがあるのである。「明石志賀之助物語」によると、又兵衛の父・荒木村重は明智光秀の家臣で織田信長と対立する。城は落城するが村重と次男村基、三女荒木局、又兵衛が難を逃れる。荒木局は50年後老中松平伊豆守や春日局の推挙で大奥にあがり、春日局の下で要職を与えられる。春日局が亡くなると松山局が力を持ち不正事件を起こし松山局は惨罪となり荒木局も巻き込まれ江戸から出羽上山に配流となる。このとき幕府に仕官していた甥の荒木村常(兄村次の子・荒木局が養母)が推挙した村常の友人の遺児・中村文左衛門尚春がお供をし、「上山三家見聞日記」をかくのである。
又兵衛はこの姉の力で福井から将軍家筋の用命をうけ江戸に出て来たのであろう。将軍家光の娘千代姫の婚礼調度品を製作したり、川越東照宮の再建拝殿に三十六歌仙の扁額を奉納する仕事をしている。本によっては伯母の力ともあるが、荒木局が村常の養母からそうなったのかもしれない。又兵衛の姉・村重の三女が荒木局で、春日局とともに大奥で活躍していたとあれば、面白い現象である。
又兵衛は「西行図」も描いている。目も口も優しく笑みを浮かべている。その他平家物語関係では「文覚の乱行図」。ここでは文覚が神護寺修復の勧進で白河法皇の前で暴れる様子を。「俊寛図」では砂浜に取り残された俊寛を小さく描いている。「虎図」は竹に体を巻きつけるようにして牙をむき出し吼えているようであるがなぜか可笑しいのである。
「夢市男伊達競」の筋書きの表紙が鼠の影とそれ見詰めている猫の前身の絵で裏表紙にその原型の絵が載っている円山応挙の「猫」である。芝居に合わせなかなか凝っている。四国金比羅宮・表書院・虎ノ間の虎たちを思い出す。数日前に二回目の対面をしてきたのである。

原作は河竹黙阿弥の『櫓太鼓鳴音吉原(やぐらだいこおともよしわら)』である。先月は黙阿弥没後百二十年の祥月でありそれに因んで黙阿弥の埋もれた作品を取り上げたようである。題名から想像するに、相撲と吉原を舞台とした芝居と思える。
原作をかなり変えているようであるが、一言で云えば入り組んだ筋でありながら解かりやすく、楽しく、役者さんたちの動きも為所も役に合い、物語りの中であれこれ遊べて堪能できた。
源頼朝の執権北條時政と執権大江広元の争いに、頼朝に討たれた木曽義仲が頼朝を恨み、その恨みに自分の恨みを重ねた頼豪阿闍梨(らいごうあじゃり)の亡霊が義仲と合体して鼠の妖術を使い頼朝を苦しめる。この二人の執権の争いと頼朝と義仲・頼豪の亡霊の争いを複線に侠客の夢の市郎兵衛が活躍する筋立てである。頼豪は平家物語にも出て来てこの人の恨みはあとで説明する。
頼朝が鎌倉市中に現れる大鼠の影に気を病み、その退治祈願のため頼朝上覧の相撲を開催する。この頃、相撲は神事の役も担う事があったわけである。北條方のお抱え力士が仁王仁太夫(松緑)で、大江方のお抱え力士が明石志賀之助(菊之助)である。明石の花道からの出が美しい。着物は地味に押さえ色白で大きく見える。明らかに松緑さんの方は敵役である。その前に團蔵さんが北條方として憎々しく演じてくれているし、大江方の梅枝さんがいつもの女形ではなく、なかなかしっかりすっきりした立役で楽しませてくれているので、どちらが善か悪かがはっきりしている。明石の弟子・朝霧の亀三郎さんが愛嬌があり明石に明るさを添えている。この場で仁王と明石の睨み合いとなるがそこへ仲裁に入るのが行司の田之助さん。今回前方の席だったので、田之助さんの為所が無いようで居て息を詰めたり遠くからは解からぬ為所のある事を見せてもらった。
明石と仁王の取り組みは明石の勝ちとなり、明石は<日下開山(ひのもとかいざん)>今で言う横綱の称号をもらう。負けた北條は、明石を待ち構え襲撃(亀蔵)しようとするがそこへ明石の義兄の市郎兵衛(菊五郎)が現れ痛めつける。明石の黒の羽織の背中には白で右に[日下開山]左に[明石志賀之助]と名前が入り、市郎兵衛の衣裳と並んで派手であるが初芝居に相応しい。
頼豪は「平家物語」では三の巻きに出てくる。白河天皇は、ご寵愛の中宮賢子(けんし)の皇子誕生を望み、三井寺の頼豪阿闍梨に祈祷を頼み願い叶えば望みの褒美をとらせると約束する。望み通り皇子が誕生し、頼豪は三井寺に戒壇建立を願い出るが比叡山がそれを認めないであろうから世の乱れとなるとして白河天皇は聞き入れなかった。頼豪は無念と自分が祈って誕生させた皇子だから連れてゆくと言い残し断食し死んでしまう。この皇子は四歳で亡くなられた敦文親王である。「平家物語」では木曽義仲も善くは書かれていない。義経との比較もあるのか木曽の山の中で育ったということもあるのか頼朝に人質として息子をあずけ前線で戦いつつ京の罠にはまってしまった感がある。
歌舞伎では頼豪は願いを妨げた延暦寺を恨み鼠に化けて延暦寺の経文を食い破るがなお恨みが消えず、義仲を助け義仲と合体するのである。義仲は鼠の妖術を使い頼朝への復讐と天下取りを狙う。芝居では頼豪は左團次さん、義仲は松緑さん。
<頼豪が鼠>に対し<西行が猫>とは。西行は頼朝から褒美として白金の猫の置物を賜るが、西行はそれを見知らぬ子供に与えてしまう。この白金の猫の置物こそ妖術の鼠を退治する力を所持していたのである。元大江の家臣であった市郎兵衛は、大江家のため白金の猫置物を密かに捜す手伝いをする。
夢市男達競 3
原作は、河竹黙阿弥作の「櫓太鼓鳴音吉原」とかで、これを元にして、菊五郎監修・国立劇場文芸課補綴で、現代版にすっきりと作り上げたものだと言う。解説によると、かなり、斬新な手法で、黙阿弥のオリジナル版を脚色変更しているようであるが、現代的な感覚で、アップツー・デートに、復活再興していると言うことであろう。シェイクスピア戯曲など当時のイギリス演劇などは、上演する度毎に、書き換えられていて、時には、オリジナルの原型を殆ど留めないと言ったケースがあったりして、歌舞伎や文楽でも、同様だから、結果オーライで、良ければ良いと考えるべきであろう。

粟津で討死したはずの木曽義仲(松緑)が生きており,頼豪阿闍梨(左團次)の怨霊と合体して鼠の悪霊を使い,源頼朝(左團次)を苦しめ,鎌倉市中を騒がせる。悪霊退散を祈念する上覧相撲が開催され,大江広元(松緑)が後援する力士・明石志賀之助(菊之助)は,北條時政のお抱え力士・仁王仁太夫(松緑)に勝ち,「日の下開山」の称号を得る。一方,悪霊を退散させるためには,頼朝が西行法師に授けた白銀の猫の置物を必要とするので、志賀之助の義兄・夢の市郎兵衛(菊五郎)は,旧主の広元の依頼で女房のおすま(時蔵)と共に置物の詮議に奔走し,義妹の傾城薄雲(時蔵)の協力を仰ぐ。薄雲は謎の虚無僧・深見十三郎(松緑)に心を寄せるが,彼の怪しげな様子に新造の胡蝶(菊之助)は不審を抱き、義仲であることを見破り、薄雲を守って追い払う。胡蝶(実は、薄雲の愛猫・玉の亡魂)が息絶えると、その傍に白銀の猫の置物が現れる。喜んだ市郎兵衛は,白銀の猫の置物を持って,頼豪の鼠の妖術を使って鎌倉方を滅亡させようと戦う義仲に対峙し、猫の置物の威徳で鼠の術を破って義仲を滅ぼす。頼朝の病気も快癒し、目出度し目出度し。 
■花野嵯峨猫魔稿 (はなのさがねこまたぞうし) 
花野嵯峨猫魔稿
1 ・・・江戸時代,佐賀藩成立をめぐる巷説。これを取り上げた物語に《肥前佐賀二尾実記》(発行年不明)や《嵯峨奥猫魔草紙(さがのおくねこまたぞうし)》(1854),歌舞伎狂言に《花埜嵯峨猫魔稿(はなのさがねこまたぞうし)》(1853年初演の予定であったが佐賀藩の抗議で中止)や《百猫伝手綱染分(ひやくみようでんたづなのそめわけ)》(1864初演)がある(猫騒動物)。《花埜嵯峨猫魔稿》の筋書は〈直島大領直繁が盲目の高山検校と囲碁で勝負を争い検校を殺害したので,検校の飼猫が後室嵯峨の方に化けて夜ごとに直繁を苦しめるが,忠臣伊東壮太が嵯峨の方の正体を見破り撃退する〉といった筋である。・・・
2 ・・・のち河竹黙阿弥が改作上演し,近年3世市川猿之助も大幅に改作して復活した。また佐賀鍋島騒動に取材した《鍋島の猫》の最初の作は1853年(嘉永6)の3世瀬川如皐作《花埜嵯峨猫稿(はなのさがねこまたぞうし)》であるが,佐賀藩の抗議にあい上演されなかった。別に1880年5月東京猿若座の河竹黙阿弥作《有松染相撲浴衣(ありまつぞめすもうゆかた)》は有馬騒動に取材したもので,通称《有馬の猫》。・・・
嵯峨の奥猫又草紙
嘉永六年九月(1853)
筆禍「嵯峨の奥猫又草紙」合巻・二代目国貞画
 処分内容 版元 浜田屋徳兵衛 発禁
      画工 記載なし(二代目国貞は不問)
 処分理由 不明
(中村座興行予定の「花野嵯峨猫またざうし」が佐賀鍋島家の抗議によって公演禁止。その余波で合巻も発禁。但し『嵯嶺奥猫魔多話』と改題して発売した)
『藤岡屋日記』第五巻 (藤岡屋由蔵・嘉永六年九月記事)
「一 嵯峨の奥猫又草紙 作者花笠文京、二代目国貞画、板元南鍋町二丁目浜田屋徳兵衛 右種本は、五扁迄書有之候由、初扁びらは九月十日頃に処々へ張出し置、芝居初日に配り候積りにて相待居り候処に、是も同時に御差止に相成候、大金もふけ致し候積り之処、差止られ、金子三十両計損致し候由、右に付、落首、浜徳もしけをくらつて損になり 然る処に、右合巻、名題書替に致し、嵯嶺奥(サガノヲク)猫魔太話と直し候て、初扁、十月十日配りに相成候」
〈中村座「花野嵯峨猫またざうし」に連動した際物出版だったが、下出のように、佐賀の鍋島家から抗議が入って狂言は禁止になった。合巻も発禁になる。ただ合巻の方は『嵯嶺奥猫魔多話』と改題して、約一ヶ月遅れて出版に漕ぎ着けた。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」には楳田舎好文作・歌川国貞二世画・濱田屋徳兵衛板・嘉永七年刊とある〉
『藤岡屋日記』第五巻 (藤岡屋由蔵・嘉永六年九月記事)
(九月二十一日から興行予定の中村座「花野嵯峨猫またざうし」同月十五日番付を市中に配る)
「右狂言大評判に付、錦絵九番出候也。
一 座頭塗込  三枚続 二番     蔦吉/角久
一 同大蔵幽霊 同   三番 照降町 ゑびすや
               神明町 いせ忠  
               南鍋町 浜田や
一 碁打    三枚続 壱番 石打  井筒屋
一 猫又    同   壱番 銀座  清水屋
一 大猫    二枚続 壱番 両国  大平
一 猫画    同   壱番 神明町 泉市
  〆九番也。

右は同日名前書直し売候様申渡有之候得共、腰折致し、一向に売れ不申候よし」
〈「早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム」には、外題を「花野嵯峨猫☆稿」として、延べ三十八点が収録されている。すべて豊国三代の作画である。この芝居は興行直前、佐賀の鍋島家から当家を恥辱するものと訴えられて、上演禁止になった。鍋島家のこの抗議は頗る評判が悪い。佐倉宗吾狂言に対する堀田家の姿勢と比較して次のように言う〉
「去年、小団次、佐倉宗吾にて大当り之節に、堀田家にては、家老始め申候は、今度の狂言は当家軽き者迄いましめの狂言也、軽き者は学問にては遠回し也、芝居は勧善懲悪の早学問也、天下の御百姓を麁略に致時は、主人之御名迄出候也、向後のみせしめ也、皆々見物致し候様申渡され候よし。鍋島家にて、狂言差止候とは、雲泥の相違なり」 
■皇国自漫初陽因雲閣 (こうこくじまんはつひのでちなみのうんかく)  
歌舞伎の悪の華。歌舞伎の悪の美は阿国が異端視されていた傾き者の姿で人々の前に現れた瞬間から存在した。“敵役”や“悪人方”という名称で類型化を進めた。敵には、立敵、半道敵、手代敵、伯父敵等の種類があり、憎悪の対象となった役柄の類型名称の悪人方。実悪、公卿悪、色悪等、悪の性格が付与された名称もある。
『皇国自慢初陽因雲閣』明治17 豊原国周 悪人も結構登場な錦絵。化け猫の佐賀ノ怪猫(5代菊五郎)が空を飛び、下の石川五右衛門(4代目芝翫)と岩藤の霊(4代目岩井松之助)を見ている。市川左團次の日本駄右門は捕り手に囲まれている。芝翫の五右衛門は刀を手に見得を切る。雲閣に乗るのは9代目市川團十郎の児雷也。横に3代目福助の田毎姫。犬飼現八(右團次)や犬塚信乃(3代目中村富十郎)も屋根の上にいる。
公卿悪。身分の高い貴族階級の悪役のコト。天皇の位を狙う皇位簒奪者であることが多い。頭に金冠、白衣を纏い“王子”と呼ばれる髷を付け藍隈を取り超人的な力を持つ。見得で真っ赤な舌を見せる等、人間離れした外見も持つ。妹背山婦庭訓の蘇我入鹿等が有名。
『名優四君子より時平公』絵は豊原国周。明治27 藍隈の目。キッと睨んだアップ。三代目市川九蔵の見立て。
『早晩稲守田当穐より入鹿大臣』明治2年 絵は国周。キッと睨みはするが髷を結い女性っぽい。朝廷は女性的というイメージが当時はあったかららしい。5代目大谷友右衛門が見立て。他に、芳幾の大伴の黒主も。
『押隈「暫」』公卿悪の清原武衛の物がある。俳優は6代目坂東彦三郎。しっかり藍色の押隅。軸にしてあった。飾ったのだろう。
実悪。腹の座った徹底した悪。御家騒動作品で謀反を企む。首領役であることが多い。
『錦絵 伊達ぜん盛桜のいろまく』中央に仁木弾正(松本錦升)。後ろ姿を見せ、顔は横チラ。厳しい顔の弾正。左に局の八しほ(5代長十郎)と乳の人政岡(4代目梅幸)。八しほは、憎たらしい表情で刀を持ち政岡に切りかかる。政岡も刀を持ち横座りで応戦。右は3代目岩井粂三郎の荒獅子男之助。
八しほは弾正の妹。伽羅先代萩で彼女が鶴千代に食わせる、小道具の毒入りの菓子も展示してあった。
『錦絵 楽屋十二支之内「子」』1860年8月 絵は2代目国貞。仁木弾正(初代河原崎権十郎)。スッポンから巻物を咥えてせり上がって来る弾正。せり上がりを上げる人や黒子の姿も描かれる。鼠がその様子を振り返って見ている。
白浪物 盗賊コーナー。
『錦絵 鼠小紋東君新形』1857年1月 絵は3代目歌川豊国。4代目小團次の稲葉子僧次郎吉。千両箱を抱えキッと見得を切る。後ろの障子に写る影が鼠のシルエットなのが面白い。
『錦絵 浜真砂長久御摂』1851年3月 絵は国芳。上に5代目海老蔵の五右衛門。下に大釜の用意をする5代目長十郎の大候久吉。五右衛門は建物の縁に足をかけ、久吉と大釜をキッと睨んでいる。
これも錦絵『増補双級巴』右に4代目小團次の五右衛門。捕り手に取り押さえられ、それを払いつつ刀を上げる。1人捕り手を投げ飛ばした五右衛門。2代目福助の早野弥藤治がそれに向かおうとし、左には岩城兵部(初代中村鶴蔵)と岩城藤馬(3代目市川市蔵)の姿。藤馬は口で刀を咥えている。
『石川五右衛門の鬘(大百の垂れ)も展示してあった。大盗賊や妖術使いに用いる鬘。100日間月代を剃らなくて髪が伸び放題になった状態を表している。月代の毛が長く大きな物が大百日と言うそうな。思いのほか、髷が大きかった。 五右衛門は、京都、大坂等、豊臣秀吉の居住する地域を荒らした盗賊団の首領。最終的には秀吉に捕まり、釜ゆでの刑になった。
『道具帳 楼門五三桐』昭和38 作画は釘町久磨次。真正面の楼門の絵。“「かすみさくら」出し上へ引く”等とメモもしてある。
世話物の悪。江戸後期の世話物作品で開花した歌舞伎の悪。色悪と悪婆が代表。美貌だが、女性を裏切り殺人等を犯す色悪。悪役でも情けの深みを大事に演じるのが大事らしい。悪婆は惚れた男の為に盗みや強請等をする色気のある年増のコト。私が好きな鬼神の於松もコレだね。髪は結わず、後ろで纏めた鬘に格子縞の着付けが典型的な扮装。悪婆は女方は悪役を演じない古くからの建前の為、性格は善良という設定。1792年に4代目岩井半四郎が演じた三日月おせん役に始まるらしい。
『錦絵 仮名手本忠臣蔵 五段目 六段目』絵師は3代目歌川豊国。1857年10月 右に斧の定九郎(3代目九蔵)が刀を振り上げ百姓与一兵衛(中村成蔵)を襲う。中ほどに初代福助のおかる。左に草野勘平(3代目市蔵)もいる。おかるは勘平を嬉しそうに見ている。
『錦絵 七役之内 土手のお六 岩井半四郎』 文化末期頃の絵。絵師は初代歌川豊国 小粋に着物の裾を持ち、楽しげに下を見るお六。
『錦絵 三十六句選土手のお六 願哲坊』1856年11月 絵師は3代目歌川豊国。初代坂東志うかの土手のお六が手代(かな?)を足蹴にする。初代松本錦升の願哲坊をニヤリと見るお六。
『錦絵 追善累扇子』1817年8月 絵師は初代歌川国貞 3代目坂東三津五郎の羽生の与右衛門が左にいる。中央に3代目菊五郎のかさねと木根川与右衛門。与右衛門は鎌を振り上げ、かさねは下で傘で応戦。帯を引っ張る与右衛門。絵の下に法懸松成田利剣の鎌も展示してあった。木で出来てる。刃の部分も木だと思う。彩色はしてあるケド。かさねは結果、与右衛門に殺される。
『錦絵 若葉梅浮名横櫛』絵師は2代目歌川国貞。1861年4月 左に切られお富(3代目澤村田之助)。お富は笑顔で短剣を振り上げ、3代目九蔵の蝙蝠安に襲い掛かる。蝙蝠安は傘でガード。安の顔には灰色の蝙蝠の痣(かな?)がある。こっちには、切られお富の蝙蝠安の破れ傘が小道具で展示してあった。
忠臣蔵の定九郎。定九郎は父に勘当され、山賊となる。与市兵衛を殺害し、五十両の入った財布を奪う。定九郎は白塗り黒羽二重で紋服を裾に端折り足を見せる、典型的な色悪の拵え。与市兵衛を殺した後は、刀を下がり(褌の前垂)で拭う姿に色気がある。初演は野暮な山賊らしい拵えだったが、初代中村仲蔵が二枚目の色悪に姿を変えたら大評判になったそうな。以降それが定着した。
定九郎は猪と見誤った勘平に鉄砲で撃たれるが、空をもがき、口から吐血し、仰向けで絶命する。この時、口腔から滴る血が裾端折りで見える足を流れるよう工夫するそうだ。  
 
錦絵の填詞(てんし)
 

 

出板史上、十九世紀において最も注目すべき現象は、刊行された本の多くが〈絵入本〉であったことである。と同時に役者絵や美人画など様々な種類の多色摺りが施された浮世絵(錦絵)が売り出され、全国に広く流通していた。正月には私家版として、贅の凝らされた美しい歳旦摺物(絵入の狂歌、俳諧)や絵暦(大小)などが数多く出回っていた。各種の御披露目の会などでも、特別に誂えた絵入りの摺物が配布されることが少なくなかった。
これらの印刷物に摺られた目にも鮮やかな彩りの絵は、大部分が浮世絵師に拠って描かれたものである。本や摺物に於ける〈絵〉が占める割合は、東洋は勿論のこと、十九世紀の西欧においてすら、類を見ないほど多かったと断言して差し支えないだろう。十八世紀以降、重ね摺りなどの印刷技術が加速度的に発展し、三都を中心とした和本の流通機構が整備された。結果として、嘗ては江戸の地方出板物に過ぎなかった草双紙や錦絵などの江戸地本類が、広く全国に普及するようになったのである。
さて、美術史における浮世絵研究は、国内に残存する資料が限られているため、在外資料の調査研究が必須であった。日用品として消費されてしまう運命にあった一枚摺や錦絵は、十九世紀に来日し、西欧では見たことのない固有の美しさを発見した西欧人達に拠って欧羅巴にもたらされた。その後、欧州で開催された万博などに触発され、所謂日本趣味ジ ヤ ポ ニ ズ ムが流行した。日本では廃棄されかねなかった浮世絵や絵入本が、西欧で売れることを知った業者により輸出され、巴里などで競売オークシヨンに掛けられた。結果として、世界中の蒐集家の手に渡って美術品として蒐集コレクシヨンに加えられ大切に保存された。美術品としての評価が定まったが故に、所有者の代替りに際して再び競売に掛けられ、散逸したものも少なくないが、多くは公的機関に拠って購入されたり、時には寄贈されたりして安定した管理下に安住の地を得たのである ※1。
しかし、海外では専門知識を持った司書や学芸員が少なかったために、これらの資料は長年に亘って未整理のまま保管されてきた。日本に於ても浮世絵や和本をめぐる板本書誌学の進捗に拠り、幾つかのプロジェクトが立ち上げられて在外資料の調査が進められた ※2。 さらに、在外機関の職員の研鑽と努力とが相俟って目録カタログが整備され、十八世紀以降の絵入り資料研究は大幅に深化してきたのである。
同時に、浮世絵師の個別研究の進捗に拠って、浮世絵のみならず画工として挿絵(や口絵)を担当した絵入本にも目配りが行き届くようになり、文学研究と美術研究との共同研究も盛んになりつつある ※3。 また、近年は、春画や春本に関しても所在情報の調査が進み、比較的自由に研究発表が行えるようになった。これらの非合法出板物に関しては、文化史研究の側面からの進捗が著しい分野である ※4。
海外の蒐集では、資料の中心を十八世紀から十九世紀初頭に置くものが多い。一般的に古い時代のものを珍重するのは稀少価値からも致し方ないことではある。尤も、十八世紀は瀟灑で洗練された文人趣味の横溢する前期戯作時代であるが、十九世紀後半に化学染料が入ってきてからは、どぎつい色相と残虐な画柄とが増えたので、あながち稀少価値のみに起因するわけではなく、嗜好の問題なのかもしれない。
一方で、十九世紀以降は後期戯作と呼ばれ、商業資本主義の経済的発展の下に戯作が大衆化した時代である。読書層の拡大に伴う流行作品ベ ス ト セ ラ ーも生み出したが、天保改革に拠って水を差され十九世紀半ばには衰退に向かった。この十九世紀後半の在外資料を中心とした蒐集が少ないのは、浮世絵などの資料が日本趣味ジ ヤ ポ ニ ズ ムの影響下に輸出された時期に於いては、ほぼ同時代であり、さらに河鍋曉齋の如き突出した才能を他に多く見出し得ないことに起因するかも知れない ※5。
ただ、美術史に於いては明治維新で時代を区分をしていない点に注目すべきである。日本文学史は明治維新で劃期してしまったために、高校の教科書も古典と現代文とに分断されており、研究者の所属する学会も異なる。その上、長期間に渉って文学史が近代至上主義的な所謂〈発展史観〉に囚われてしまい、幕末維新期を〈前近代〉と位置付け、近代に至る過渡期として定義してきた。この前近代という発想は、日本文学史に〈自我の発見史〉を見出してきた近代主義に基づくものであった。この所謂〈戦後民主主義〉的な傲慢な発想に対して、ポスト構造主義の流行に伴い疑義が差し挟まれることになる。この思想がもたらしたのは近代主義を相対化する視点である。所謂バブル経済崩壊後の政治的経済的閉塞期を生きる我々の時代を、近代以後ポ ス ト モ ダ ンとして位置付けたのである。そのことに拠り、日本文学史を近代的主体形成を前提とする発展史観から解放したものとして捉えることができる。近代主義に支配されていては、真っ当な十九世紀文学史を見通せるはずがない。
十九世紀という時代区分に拠る文学史は、製版から活版へという印刷技術の変遷にも沿っており、二十世紀初頭が自然主義の擡頭する時期でもあるので、理に適った時代区分なのである。 
絵と文
かつて美術史の側から次の発言があった ※6。
「画面に文章を入れることは、絵を絵だけで鑑賞の対象とするに耐えられないことを意味し、絵の貧困を示す物と考えられる。たとえば絵巻物でも、詞書と絵の部分が別々である時は藝術性が高く、それが入り混じるとしだいに藝術性が低下していくのと似た現象である。」
歌麿の画力が衰退して行くという文脈での行文であり、絵だけの価値に焦点を当てたい意図は理解できなくもないが、安易に一般化されてしまっても納得するわけにはいかない。他方、文学研究者の中にも、いまだに「絵入本は低俗で、言葉こそが文学の本質だ」というような感覚は存在しているかと思われる。だがしかし、十九世紀絵入メディアを俎上に載せた上で、今我々は果たして芸術性などを語る必要があるのか。芸術性などという実証不能な主観的判断を、無前提に語ることこそ近代主義的発想の産物であり、葬り去るべき価値観なのではないだろうか。まして、絵と文との芸術的優劣など問題ではない。
ならば、ことさらに絵巻物まで遡らなくとも、十七世紀半ばには〈絵俳書〉が出され、菱川師宣に拠る〈墨摺絵〉や〈評判記〉〈名所記〉などが人気を得ていたが、いずれも絵と文とを兼ね備えていた。その後、十八世紀に掛けて〈絵入狂言本〉や『絵本徒然草』など絵入りの古典が流行する。同時に『訓蒙図彙』『和漢三才図会』などの事典や本草関係、農業工業書などでも各項目に添えられた絵の果たしている役割は小さくなかった。つまり、古くから日本文化に於いては、絵と文とが融合した作品群が一般に広く受け入れられていたのである。
〈雅〉文化の領域でいえば、絵の中に記された詩文として〈画賛〉がある。中国の詩書画において生まれたもので、画と響き合う独自の文学として展開していた。画を「無声句」、詩を「有声画」という有名な比喩があるが、中世の禅林美術の分野で画賛研究が進んでいる。一方、〈俗〉文化の領域では、屏風歌の流れを汲む〈和歌画賛〉があり、近世後期に盛んに行われていたことが明らかにされている ※7。
この時期には、俳諧や川柳に絵を添えた八島五岳『俳諧画譜集』や、同『画本柳樽』なども出されていた。つまり、雅俗に渉って、詩文と絵画との融合は日本文学史上を通底する流れを形作っていることは間違いない。
そこで、本稿では絵だけが独立して描かれ、文字列が記されていない錦絵や、〈画譜〉や〈絵手本〉など文章を持たない本、絵と共に詩歌などが記されていても相互に有機的な関係が稀薄な〈狂歌絵本〉や、本文中に挿絵として絵が加えられた〈読本〉や〈人情本〉などの〈絵入本〉は、ひとまず措く。全丁に絵が入り一貫した筋を持つ本文を備えた本のうち、特に絵と文とが極めて緊密な関係を保持する〈草双紙〉に注目したい。この草双紙は、十七世紀末の赤本に始まり、青本・黒本、黄表紙、合巻、明治期草双紙と、表紙の様式や構成など体裁の変化に伴ってその内容を変化させながらも、息長く十九世紀末まで出板され享受され続けてきた。近世近代を通底した一ジャンルの息の長さという意味において、文学史上特異なものである。十九世紀に限って見るならば、合巻と明治期草双紙の時代ということになる。
ところで、錦絵の一部分にも、絵の余白に文章が書き込まれた画文が渾然一体と化した作品が存在していた。興味深いことに、草双紙と錦絵とは共に地本であり、江戸の地本問屋が刊行して売り弘めていたものである。双方ともに絵を描いていたのは浮世絵師であり、草双紙は当然のこと、錦絵に入れられた文章を記したのも戯作者が多かった。つまり、合巻と文章入りの錦絵とは、同じ環境の下で作成された十九世紀の絵入メディアとして存在した。今、其処に両者を比較検討する意義を見出したいと思うのである。  
錦絵
十九世紀の浮世絵は基本的には色摺りが施された錦絵である。紙の判型サ イ ズとしては大判や色紙判が標準的になり、印刷方法としては主に製版が用いられたが、明治期に入ると石版や銅版が用いられることもあった。ジャンルとしては描かれた対象に拠り、役者絵、美人画、名所絵、花鳥画、武者絵、相撲絵、鯰絵、死絵など、描かれ方や用途などに拠り、大首絵、柱絵、団扇絵、紅絵、浮絵、見立絵(やつし絵)、風刺画、判じ絵、疱瘡絵、春画、漫画、戯画などと分類されている。画面の意匠も工夫されており、小さな枠で囲まれた〈コマ絵〉を配したり、短冊や色紙などを〈貼交ぜ〉にした配置、画面を扇形にくり抜いた意匠などがある。
さて、このように多様な錦絵は如何に受容されていたのであろうか。三代豊国画の揃物「曽我八景自筆鏡・當世自筆鏡」合冊版(魚屋栄吉板、文久元年12月改)の最初に付された和泉屋市兵衛の序を見るに
「皇國みくにに倭繪やまとゑと号なづけしハ土佐とさの末流ながれにして、 岩佐いはさ、菱川ひしかはに起おこり、今いま歌川うたがはの流なかれ廣ひろく、浮世繪うきよゑと称しようし、其その時々とき/\の風俗ふうぞくをうつして 画工ぐわこうの名誉めいよ多おほし。猶なほ諸國しよこくの勝景しやうけいを模写もしやし、其その地ちに歩あゆまずして名所めいしよを知しらしめ、且かつ往古いにしへより近ちかき世まで、目めに見ぬ軍事いくさの、たけきさま/\なるを、今いま看みる如ごとく、いさましくも 描かきつらね、或あるハやごとなき君きみたちの、四季しき折おり/\御ご遊覧いうらんまし/\給たまふさまなど、都而すべて筆者ひつしやの丹情たんせいを こらし、東都とうとにこれを製せいせバ東錦繪あつまにしきゑとぞ美称ひしようせり。此こハまた御客おきやく達さまの應需もとめにおうじて、それかれを綴つゞり合せ一覧いちらんに備そなふと云尓。」
とある。十九世紀半ば過ぎに於ける浮世絵史に関する当事者の把握と、地方から来た人々の江戸土産として人気のあった〈東錦絵〉の受容相の一端が知れる。現存している錦絵の多くは合綴され画帖仕立にされて保存されていることが多いが、それは持ち主が後から施したものであると思われる。揃物は本来、袋や畳紙に入れられて、時には目録や序を添えて売られていたのであろうが、右に見られるように後摺を合綴して売られる場合もあったのである。
ここで、錦絵に於ける文字の入れられ方について概観しておこう。何処まで一般化できるか心許ないが、十九世紀に入ると全く文字が記されていないものは少なくなるようだ。肉筆浮世絵には落款が在り、同時に〈賛〉として詩歌(和歌・狂歌・俳諧・漢詩文)が加えられたものが多数あるが、売り物の錦絵においても花鳥画などでは同様であり、とりわけ私家版である摺物には狂歌や俳諧が入れられて、関連する絵が摺られているのが普通である。
錦絵に題名タイトルが付されたり、揃物の場合には揃物シリーズ名が記されている場合も多い。また、画工名や板元の略称や商標、改印などの出板にかかる書誌事項が記されるようになる。美人画の場合は、全盛の遊女の場合でも、没個性的な類型的美人として描かれるので、人名が書き込まれていないと何処の誰だか分からない。役者絵は似顔で描かれているのが普通であるが、それでも役者名が記されることが多くなる。時には評判になった舞台から切り取られた如くの場面が描かれ、その時の歌舞伎狂言の外題や、扮した役名が記される ※9。
さらに、上演時に演奏された浄瑠璃等の詞章や、台詞そのものが余白に書き込まれることもある。風景画は、後に流行する絵葉書のように、基本的に定番の名所がお定まりの方向から描かれることが多いが、知らない人のために地名などが記されている。
錦絵も草双紙も同様に歌舞伎と近い関係を持ち続けていた。〈評判絵〉は『腕競東都之花形梨園ち か ら く ら べ え ど の は な か た』 ([寅三改]慶応2年3月)などのように、梨園での力関係や給金などを見立てた〈風刺絵〉である。
一方、〈死絵〉は役者などの死後に出されたもので、全体に水色や灰色を用いたものが多い。早くから見られるが明治30年代まで続いて出されていた。代表的なものとして、文化9年の春扇画、四代目宗十郎・菊之丞の死絵が挙げられるが、此処では魯文の書いた三代歌川豊国の死絵(大判二枚続、一鶯齋國周画、[改子十二](元治元年12月)、松嶋彫政、錦昇堂)を紹介しよう。「元治元甲子年十二月十五日寂\豐國院貞匠画僊大居士\二代目一陽齋歌川豊國翁 行年七十九歳\本所亀戸村天台宗 光明寺葬\門人一鶯齋國周謹筆」とあり、以下の追悼文と賛が載る。
「東都とうど浮世繪師うきよゑし、古今こゝん絶命ぜつめいの名工めいこう、二世にせ歌川うたがは豊國とよくに翁おうハ、前さきの一陽齋いちやうさい豊國とよくに先生せんせいの門人もんじんにして、初号しよがう一雄齋いちゆうさい國くに貞さだとよび、俗称ぞくしよう角田すみだ庄藏しやうざうと云いふ。本所ほんじやう五ッ目の産さんにして、天明てんめい六丙午ひのへうま年としの出生しゆつしやうなり。幼稚ようちの頃ころより深ふかく浮世繪うきよゑを好このみ、未いまだ師しなくして俳優やくしや似顔にがほを画ゑがけり。其その父ちゝ傍かたはらに是これを閲けみして其その器きを悟さとり、前さきの豊國の門人もんじんとす。豊國始はじめて監本てほんを与あたへし時とき、淨書せいしよを一見いつけんして大おほひに驚おどろき「此この童ちごの後年こうねん推量おもひやらるる」とて、称誉しようよ大抵おふかたならざりしとぞ。文化の初年はじめ、山東さんとう京山きやうざん初作しよさくの草紙さうし、妹背山いもせやまの板下はんしたを画ゑがきしより、出藍しゆつらんの誉ほまれ世よに高たかく、是これより年歳とし%\發市はつしせる力士りきし俳優はいゆうの似顔にがほ、傾城けいせい歌妓かぎの姿繪すがたゑ、及および團扇うちわ、合巻がうくわんの板下はんした、大おほひに行おこなはれ、画風ぐわふうをさ/\師しに劣をとらず。此頃このころハ、居所きよしよ五ッ目なる渡と舟せんの株式かぶしき其その家いへに有あるをもて、蜀山しよくさん先生せんせい、五渡亭ごとていの号がうを送おくらる。後のち、亀戸町かめどまちに居きよを轉うつして、香蝶樓かうてふろう、北ほく梅戸ばいこと号がうし、且かつ、「家いへの中うちより冨岳ふがくの眺望てうもう佳景かけいなり」とて、冨望ふもう山人さんじんと号がうし、京山きやうざん、冨眺庵ふてうあんの号がうを送おくれり。翁おきな國貞たりし壮年さうねんより、先師せんしの骨法こつぽうを学得まなびえて、別へつに一家いつかの筆意ひついを究きはめ、傍かたはらに一蝶いつてふ嵩谷すうこくが画風ぐわふうをしたひ、懇望こんもうの餘あまり、天保てんほ四癸巳年嵩谷すうこくの画裔ぐわえい、高嵩凌かうすうりやうの門もんに入いつて、英はなぶさ一□いつたいと別号べつがうす。此頃このころより、雷名らいめい都鄙とひ遠近ゑんきんに普あまねく、牧童ぼくどう馬夫ばふに至いたるまで「浮世繪としいへバ國貞に限かぎれり」と思ひ、斗升とせうの画者ぐわしやを五指ごしにかぞへず。故ゆゑに錦繪にしきゑ合巻がうくわんの梓客はんもと、門下もんかに伏從ふくじうして筆跡ひつせきを乞こふもの群ぐんをなせり。中興ちうこう、喜夛川きたがは歌麻呂うたまろが板下はんした世よにおこなはれしも、九牛きう%\が一毛いちもうにして、比競ひきやうするに足たらざるべし。近世きんせい、錦繪合巻の表題ひやうだい、製工せいこう備美びびをつくしに尽つくし、東都名産めいさんの第だい一たるハ、全まつたく此人このひとの大功たいこうにして、前さきに古人こじんなく、後のちに來者らいしやなき、實げに浮世繪の巨挙こきよといふべし。于時ときに、弘化二乙巳年、師名しめい相續さうぞくして二世豊國と更あらため、薙髪ちはつして肖造せふざうと称しようす。將はた、嘉永五壬子年門人國政くにまさに一女いちぢよを嫁めあはして養子やうしとなし、國貞くにさだの名な及および亀戸かめどの居きよをゆづりて、其その身みハ翌年よくねん柳島やなぎじまへ隱居いんきよして、細画さいぐわの筆ふでを採とらずといへども、筆勢ひつせい艶容ゑんよういよ/\備そなはり、老おいて倍益ます/\壮さかんなり。殊更ことさら、近來きんらいハ役者やくしや似顔にがほに専もつはら密みつなる僻くせを画分かきわけ、精神せいしん頗すこぶる画中ぐわちうにこもり、其その人ひとをして目前もくぜんに見るが如ごとく、清女せいぢよが枕まくらの草帋さうしにいへりし、徒いたづらに心こゝろをうごかすたぐひにや、似にたらまし。そが中に、當時とうじ發市はつしの俳優はいゆう似顔にがほ繪ゑの、半身はんしん大首おほくびの大錦繪おほにしきゑ今百五十余よ番ばんに及および、近ちかきに満尾まんびに至いたらんとす。こハ翁おきなが丹誠たんせいをこらし画ゑがゝれたりしものにして、百年以來いらい高名かうめいの大立者おほだてもの等らを、一列ひとつらにあつめて見物けんぶつせる心地こゝちぞせらる。嗚呼あゝ、翁の筆妙ひつめう絶倫ぜつりんにして神しんに通つうぜしゆゑ、普あまねく世人せじんの渇望かつもうせるも宜むべなるかな。可惜をしむべし、當月たうげつ中旬ちうじゆん、常つねなき風かぜに柳葉りうえうちりて、蝶てふの香かほりを世よにとゞむ。たゞかりそめの病気いたつきとおもひしことも、画餅ぐわべいとなりし。錦昇堂きんせうだうの悼いたみに代かはりて、知己ちきのわかれをかこつものは、
遊行ゆぎやう道人だうじん\鈍阿弥どんあみなりけり。今年こんねん暮くれて今年の再來さいらいなく古人こじん去さつて古人に再會さいくわいなし
哥川うたがはの水原みなかみも涸かれて流行りうかう半月はんげつに變へんずべし\水莖の跡ハとめても年波の寄せて帰らぬ名殘とそなる
   應畧傳悼賛需\戯作者 假名垣魯文誌[印]
似顔画をかきたる人もにかほゑに\かゝれて世にも残りをしさよ   法齋悟一
倭繪に魂こめて豊なる\神の皇國にのこすおもかけ   鱗堂伴兄
豊なる稲の落穂や年の市   大笑坊銀馬
さすかたを問ふすへもなし雪の道   一壽齋國貞
砕く程あつき氷や筆のうみ   一雲齋國久
口真似の師のかけふますに節季候   一鶯齋國周
辞世
向に弥陀へまかせし気の安さ\只何事も南無阿弥陀佛   七十九翁豊國老人
甲子晩冬中の五日 ※10。」
魯文の長い追悼文は伝記事項を含んでいて興味深いが、絵師の死絵としては破格のものであろう。
天保三年に香蝶樓国貞に拠って描かれ山本平吉から出された五代目瀬川菊之丞の死絵には、美艶仙女香の袋を手にした菊之丞の姿が描かれ、上部に「天保三年壬辰正月六日\行年三十一歳」「瀬川菊之丞\辞世\薺はやす音をとられつ松の風 路考」とある。国芳に拠って描かれ和泉屋市兵衛から出されたものもあり、こちらには数珠を手に立った姿で描かれ、左右に「本所押上大雲寺\勇譽才阿哲藝信士\去ル天保三年正月七日\俗名瀬川菊之丞」「風さわきむら雲まよふゆふべにも忘るゝ間なくわすられぬきみ\桃廼屋」とある。この時には、実に十数種に及ぶ死絵が出され、後摺もされたようで着物の模様が違う異板や、絵に拠って辞世の字句が多少異るものもある。
また、江戸の贔屓に別れを告げる口上と共に、演じた当たり役を似顔で三図描いた「中村歌右衛門一世一代御名残」(五渡亭国貞画、山庄板、〔文化12〕)など〈口上絵〉も絵と文が一体となったものである。例えば、香蝶樓国貞画「下り 芝翫改中村歌右衛門」(山本平吉板)は、天保9年3月の中村座「樓門詠さんもんひとめ千本」上演時のものと思われるが、四代目歌右衛門が上下を着け口上を述べている絵の上部に、その内容が記されている。
「高たかうハござり升れど御免ごめんのかふむり升て是これより口上を以て申上升。まづハかやうにうるはしき御顔かほを拝はいし升る段だん。恐悦きやうゑつ至極しごくに奉存升。随したかつて申上升るハ私身分みぶんの儀にござり升。往いぬる巳年上方かみかたおもてへ参り升たる処。彼地かのちにても御贔屓ひいきに預あつかり升たる段。全まつたく其以前ぜん御當地とうちにて御取立被下升たる御余光ゆへと。心魂しんこんに徹てつし升て。有難き仕合奉存升。それより京大坂をはじめ。所々しよ/\方々はう%\めぐり升ても。東の方はうハ恐おそれながら足にハいたしませず。御取立の御高恩ねたまも忘わすれハおきませぬ。明暮おなつかしく存升て。或あるときハかけ出しても帰りたう存升たれど。師匠の手前てまへ浮世うきよの義理ぎりにつながれ升て。心ならず月日を送をくり升たる段たん。思召おぼしめしのほども恐おそれ入奉り升。併又候相かはらずかやうに御目見いたし升る段。日頃念じ升たる心願とゞき。難有仕合に奉存升。猶此上ながらいつ/\までも御かはりなふ。御贔屓ひいきのほど偏ひとへに奉願上升。わけて申上升るハ名前なまへの儀にござり升。不調法ふちやうほうなる私。師匠の名跡相續さうそくの義。たつて辞退申し升たれど。師匠梅玉はいきよく申升るハ。イヤ/\わが身改名して帰れバわしがゆくも同前どうせん。生涯の思ひ出に。今一度お江戸へ参り各様の御顔かほを拝はいし。おぬしが御取立の御礼をも申たけれど。もはや老らう年に及およびたれバ此段を。御馴染の何れも様へおはなし申てくれいと申付升てござり升。まづハ久%\にて御目見へいたし升る御礼の口上。且ハ改名かいめいの御披露ひろう。すみからすみまでさやうにおぼしめし下くだされ升ふ
   花はなに蝶てふもとの所ところへ舞まひ戻もどる 一泉 ※11。」
これなどは、口上を記録し、贔屓連や関係者への配り物として出されたものと思われる。
また、〈団扇絵〉でも文字が書き込まれているものが大量にある。五渡亭国貞画「すしやの弥助坂東三津五郎」([酉改]、伊場屋仙三郎板)には、声色に用いる為であろうか
「つるべすし\すしやの弥助坂東三津五郎  五渡亭國貞画
是迄こそ仮のなさけ夫婦となれバ二世のゑん結ふにつらき壱ッの云訳ヶ何をかくそふそれかしは國に殘せし妻子あり貞女両夫にまみへすのおきては同じ事二世のかためハゆるして下され」
とあり、千本桜三段目を写している。
これ以外にも〈疱瘡絵〉の一部や〈双六〉などにも文字が入っているが、いずれにしても、此等の絵には文章が入っていなければ意味を持たないのである。 
揃物
一枚の錦絵は、二枚続き、三枚続きと並べられることに拠って横長の視角が得られ、迫力を増すべく変化してきた。さすがに五枚続きになると圧倒されるが、歌舞伎舞台上の複数の役者たちを描く場合には必要な工夫であった。中には上下二枚続きとして高さを表現したものもある。いずれにしても、一場面の面積を広げる方向での拡張である。
一方、独立した一枚(時に複数枚)の錦絵を、ある主題の下で二点以上一括して出されたものは〈揃物そろいもの〉と呼ばれる。揃物シリーズを企画することに拠って、たとえ三枚続きにしても一場面だけでは扱い切れない大きな主題を扱うことができる。絵画表現の場合、時間の経過や別の場所などを同時に一画面で表現するには工夫が必要であるが、一画面という制約がなくなる揃物にすれば表現できる規模は格段に広がる。とりわけ、『源平盛衰記』などの軍記物語や『前太平記』などの仮作軍記、『水滸伝』など長編稗史小説などには大勢の人物が登場し、説話の集合体としても把握出来るので絵画化する場面に事欠かない。
つまり、揃物では、一図では表現しきれなかった長編の鈔録が可能になり、名場面集としての〈組絵〉ないしは紙芝居的な性格を錦絵に付与できたのである。と同時に、従来の揃物でないものと同様に、一図(時に複数枚)だけの独立した鑑賞も可能であるが、折角なら全部を揃えたいという購買者の蒐集欲を刺戟することができる。また、完結後は大揃として目録や序を足して一括販売をすることも可能になる。場合に拠っては、他の板元に板木を一括売却することができるという利点もあったかもしれない。複数の板元が複数の画工や戯作者を動員して作成された揃物などもあることから、錦絵の揃物は地本問屋の営業戦略として企画されたものと捉えることができるのである。
安政期に入ると仮名垣魯文が中心的に担った〈切附本きりつけぼん〉という読本や実録を鈔録した末期の中本型読本が流行する ※12。 この時期の戯作者たちは〈鈔録ダイジエスト〉を得意としていたので、これまた揃物錦絵の説明部分を担当するのに相応しかったのである。
ところで、錦絵の揃物の名称には名数が用いられているものが多い。画工も時代も版元も様々であるが、見掛けた標目を挙げてみる。「相傘三幅対」「風俗四季哥仙」「風流酒屋五節句」「諸国六玉河」「今様七小町」「坐鋪八景」「婦人人相十品」「武勇見立十二支」「妙でんす十六利勘」「新歌舞伎十八番」「浮世二十四好」「月二十八景」「今様三十二相」「善悪三拾六美人」「浮世四十八手」「書畫五十三次」「源氏五十四帖」「東海道五拾三次」「木曽街道六十九次」「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」「名所江戸百景」。これらの数字は必ずしも揃物の枚数と一致しない場合もあるが、画題として普遍性のある「五節句」「六歌仙」「七福神」「瀟湘八景」などから採り、「今様」「風流」などを冠して新たに編んだことを明示した〈見立〉が多い。もちろん、数字を標題としない揃物も多くあるが、その場合も敢えて「五拾番続」などと揃物であることを明示したものもあり、明治期以降も陸続と出されている。
さて、揃物自体は早くから在ったが、大部の揃物となると文政末の一勇齋国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個ひ と り」が早いものであろうか。『水滸伝』の好漢を描いたものであるが、宋江が描かれないまま74図にて中断した。その中の一図「黒旋風李逵 一名 李鉄牛」に「沂洲き し う沂縣き け ん百丈村ひやくしやうそんの産さん\江洲こうしう白龍はくりやう神しんの廟門びやうもんを二斧ふたつのおのを以もつて打うち毀こぼつ」とある如く、筆者は記されていないが、描かれた人物についての簡単な説明が付されている。他方、同じ時期に出されたと思しき、国芳「水滸伝豪傑百八人」(加賀屋板)には天□こう星36名と地□さつ星72名との全108名の好漢が、12枚に渉って名前と共に描かれている。さらに、天保以降の武者絵揃物の様式を決定付けたといわれる「本朝水滸傳豪傑八百人一個」が出されている ※13。 これらの大部な揃物が出され始めたのが、文政末〜天保初(1830)年頃である点に注意が惹かれる。
一般的に、近世小説には幕末明治初期に向けて次第に長編化して行く現象が見られ、特に貸本屋を通じて読まれることが多かった読本では『南総里見八犬伝』全9輯106冊(文化11(1814)〜天保13(1842))が長編化の先鞭を付けた。貸本屋の顧客を継続的に維持する仕組みとして有効であったために、ほとんどの読本が長編していくことになる。人情本でも事情は同様で、文政期には2巻2冊か3巻3冊の短編読切であったのが、天保3年(1832)刊の為永春水作『春色梅児誉美』以降は続編が次から次へと出されることになる。折しも、文化期から流行していた読切短編合巻も、馬琴の『西遊記』を翻案した『金比羅船利生之纜』全8編(文政7(1824)〜天保2(1831))や、『水滸伝』の好漢を女性として翻案した『傾城水滸伝』初〜13編上巻(文政8(1825)〜天保6(1835))が出され始めた。中国白話小説の翻案という趣向が合巻の長編化を促して、柳亭種彦に拠る『源氏物語』の翻案作である『偐紫田舎源氏』(文政12(1829)〜天保)の流行を先導することになったのである。
この稗史小説長編化の流れは錦絵にも影響を与えたものと思われ、従来『前太平記』『平家物語』、時には『太閤記』などを利用していた武者絵の〈世界〉は、文化期から挿絵入りで出されていた『新編水滸画伝』や『南総里見八犬伝』などの読本や、合巻では美図垣笑顔等の『児雷也豪傑譚』43編(天保10(1839)〜慶応4(1868))などの長編稗史小説に〈世界〉を求めるようになった ※14。 その結果として、多くの登場人物や場面を細かく描いた揃物が出されるようになったものと理解できる。天保改革以後は武者絵以外のものにも揃物が増え、とりわけ『偐紫田舎源氏』の続編が刊行されるに及び、『源氏物語』を〈世界〉として用いた〈源氏絵〉が大流行するようになる。 
填詞
ところで、一惠齋芳幾戯画「芋喰僧正魚説法いもくひそうじやううをせつぱう」(大錦二枚続、安政6年12月改、山本平吉板)という錦絵がある。講壇に座す蛸入道の前に、あまだい・かつを・みのがめ・ふぐ・まご九郎・あんかう・なまづ・たい・人魚・めばる・おとひめ・いなせ等が集まり説法を聞いている体が描かれる。
「填詞てんし
此この入道にうだうの漢名かんめうを。絡蹄こくていといひ形容かたちをさして海藤花かいとうげと称となふ。花洛みやこにてハ十夜鮹じゆうやだこ。又海和尚かいおしやうともいふといへり、然しかるに當時たうじ人界にんかいに。持もて奏はやさるると聞きくものから、許夛あまたの魚類うろくず是これをうらやみ。龍宮城りうくうじやうに集會あつまりて蛸魚たここに對むかひて故ゆへを問とふ、入道にうたう例れいの口を鋒とがらせ。渠かれ等らに答こたへて説とけるやう。善哉々々ぜんざい/\我われハ乍麼そも藥師やくし如来によらひの化身けしんにして圓頂ゑんてう赤衣しやくえハ即身即佛そくしんそくぶつ八足はつそくに八葉はちえうの蓮華れんげをかたどり八功はつく徳水とくすい自在じざいを行ぎやうとす、智力ちりきを論あけなバ但馬たじまの大鮹おほたこ松まつに纏まとひし巴蛇うはばみを。根ねぐる蒼海うみへ引汐ひきしほの。調理ちやうりハ御身おみ等らが腹はらにほふむり、万葉集まんえうしうの妹いも許がりも芋いもを堀ほるとの雅言みやひこと將はた近来ちかごろの童謡こうたにも。蛸たこの因縁いんえん報むくひきて。おてがならてと唄うたひしハ欲よくを離はなれた悟さとりにして。足袋たび八足そくの入費いりめを厭いとはぬ。珎宝ちんぼう休位きうゐ清淨しやう%\無垢むく。しかハあれども折々をり/\ハ浮気うはきの浪なみに乗のりがきて生うまれながらに酢すいな身みと。我われから身みを喰くひ足あしをくふ。破戒はかいの罪つみを侵をかせしゆへ此程このほど市場いちば辻街つぢ/\に、身みを起臥をきふしの優うきつとめ火くわ宅の釜かまにゆであけられ。煮にられて喰くはるゝ堕獄だごくの苛責かしやく。必かならずうらやむことなかれと。床ゆかを叩たゝひて諭さとせしハ實げに百日の説法せつはうも。芋いもの放屁はうひにきゆるといへる。電光でんくわう朝露ちやうろのお文ふみさま。あら/\ゆで蛸たこ、疣あなかしこ/\、〈作者卵割|二代の蘖〉忍川市隱 岳亭春信戲誌 」
「天蓋を身の\袈裟ころも八葉の\蓮華に坐せる\蛸の入道\みなそこに\こそりてありか鯛ひらめ\すくひ給へや\南無あみの目に\假名垣 魯文」 ※15。
この絵に付された戯文は二代目の岳亭 ※16 に拠って書かれたもので、魯文による二首の狂歌が賛として添えられている。蛸の豊漁で街中に多く出回った際の風刺画であるが、絵に付された文章のことを「填詞」と記している。
本来〈填詞〉とは、「漢詩の一體。樂府から變化した一種の詞曲で、樂府の譜に合はせて字句を填入したもの。宋末に詩餘といひ、明の呉訥及び徐師曾に至つて填詞といふ。一定の圖式により字を填めるからいふ。」(『大漢和辞典』)とあるように、中国の詩文形式の名称であった。
何時から、錦絵の賛や解説を〈填詞〉と呼ぶようになったかは定かではないが、「源氏雲浮世画合げんじくも うきよゑあはせ」(一勇齋國芳画、伊勢市板、改印「渡」〔弘化3〕、54枚揃)は、各巻に則して巻中歌を色紙風に記した下に、芝居の登場人物を一部役者似顔を用いて描き、花笠文京に拠る説明文が付されたもの。葵の巻は、
「葵あふひ\はかりなき ちひろのそこの みるふさの おひゆくすゑは われのみぞ見ん
金王丸\水源みなもと清きよくして東ひがしに流ながれ。系圖けいづ正たゞしき鱗うろくづの加茂かもならねども。葵あふひの影かげを首かうべに戴いたゞき。源氏げんじの籏はたの白しろきを其そのまゝ。白魚しらうをと命なつけし也。原来もとより草分くさわけの江戸ゑどそだち。魚うをにして屋敷やしきの地ちを給はる事こと。実げに有ありが鯛たいといふとも。中々なか/\に及およびがたし。獨活うどに白魚しらうをの魁さきがけハ初春はつはるの一備ひとそなへにて見上みあぐる鯱しやちほこ金王こんわう童わつぱ。手網てあみに魚うををすくはんより。奚なんぞ内海うつみに主家しゆうかの難なんを救すくはざらんや   填詞 花笠外史」 
という具合にあり、全てではないが、その文末に「填詞」と記す。
また、「一席いつせき讀切よみきり 東錦浮世稿談あづまのはなうきよかうだん」(一魁齋芳年筆、近久板、改印「卯九改」〔慶応3年9月〕、五拾番續)は、伊藤潮花以下19人 ※17 講談師が語った題材を描き解説を加えたものである。「松林斎琴鶴」の「曲木平九郎」には
「幕府ばくふの泰命たいめい。泰山たいさんを輕かろしとし。壮士さうしの馬術はじゆつ飛鳥とぶとりを欺あざむく。曲木まがきにつなぐ意こゝろの駒こま。心猿しんゑん端綱はつなを採とるときんバ。愛宕あたごの石階せきがい百段だんを短みじかしとせん。檀溪だんけいをこゆる劉りう玄徳げんとくも。百生なりやつる一ひとすぢの意傳心いでんしん。なんぞ藝術げいじゆつの巧拙こうせつに依よらん。遮莫さばれ曲木まがきの馬術ばじゆつの精妙せいめう。彼かの小栗をぐり氏うぢが碁盤ごばん乗のりの先手せんをゆく業わざとやいはむ   填詞 假名垣魯文」
とあり、やはり「填詞」とある。
「〈春色|今様〉三十六會席」(山々亭有人・假名垣魯文戲述、一惠齋芳幾筆、亀遊堂・集玉堂・愛錦堂・亀松堂板、改印[巳四改]〔明治2年4月〕、36枚)は、序文に
「花はなハ盛さかりに月ハ隈くまなきを見みて春秋しゆんじう長きを楽たのしむハ東京とうけいの餘澤よたくにして。九夏きうかの炎暑あつさを兩國りやうごくの橋間はしま。隅田川すみだがはの中州なかずにながし。玄冬げんとうの素雪そせつを巨燵こたつぶとんに眺ながめて。家根舟やねぶねの簾すだれをかゝぐ四時しいじ歡樂くわんらく。その主しゆとするハ食しよくにあり。されバ割煮れうり通つうの通家つうかを撰えらみて。是これに祥瑞しやうずいの歌妓うつわを添そゆるは。惠齋けいさい大人うしの筆頭ひつとうに發おこり。並ならんで寸楮すんちよに戲文けぶんを述のぶるハ。魯文ろふん有人ありひとの兩兄りやうけいが筆端ひつたんに成なれり。此この三子さんし當世たうせい画作くわさく中ちうの三聖さんせいにして。所謂いはゆる酢嘗すなめの粋達すいたちなれバ流行りうかう此この画ゑの中うちに籠こもり。製巧せいこうの美び至いたれり尽つくせり。時製糟じせいそうの案内しるべ。是これより穿うがでるハなしとせん   応需 秋津齋我洲戯述」
とあるように、芳幾の絵に、山々亭有人と魯文が「填詞」している揃物である。
以上、見てきたように、弘化の源氏絵、慶応の講談、明治の割烹と、扱われる主題は変化するものの、「填詞」という言葉は定着してきたものと思われる。「填詞」以外の語彙では「記」「筆記」「酔題」「操觚」「暗記」「賛辞」「誌」「略傳」などが見られる。書き手の肩書きとしては「稗官」「舌師」「略傳史」などがあるが、要は戯作者たちである。
揃物として扱われる主題の中でも多いのが武者絵の系列であり ※18 、歌舞伎や稗史実録に登場する虚実交えた英雄豪傑等が描かれるが、一作品の銘々伝でない限りは、様々な〈世界〉から取り込まれることになる。つまり、複数の原作からの選集アンソロジーとして編まれるのである。三代豊国画「近世水滸傳きんせいすゐこでん」(伊勢兼板、魯文筆記、文久2年、36番続)や、一魁齋芳年画「和漢百物語」(大黒屋金之助板、慶応元年、菊葉亭露光記・隅田了古記・山閑人交來暗記・仮名垣魯文記、26枚と目録)、芳年画「美勇水滸傳びゆうすいこでん」(近江屋久次郎板、魯文記、慶応2年、50図と目録・表紙)、一勇齋国芳・一惠齋芳幾画「太平記英勇傳」(廣岡屋幸助板、山々亭有人輯・柳下亭種員記、慶応3年、100枚)などである。
では、これらの揃物は一体誰が編輯企画し、如何なる人物を集めて配列したのであろうか。画像として粉本とすべきものは(上方)読本の挿絵や ※19 、歌舞伎の舞台などであろうが、描かれる人物に相応しい衣装や姿勢、そしてその場面に見合う背景などの画面配置を按配した上で、人物と場面との説明が必要とあらば、やはり戯作者の教養知識が不可欠であろう。化政期以降の読本や草双紙も、全て作者が画稿を描いてから画工に清書を託していたことから考えて、文章入りの錦絵の場合も同様ではなかったかと推測されるのである。
現代の我々は当然のこと、当時の人々ですら知らないような〈英雄豪傑〉を描いた絵に関しては、人物と場面に関する説明文が付いていなければ、絵を十全に理解することができない。著名ではない人物を取り上げたのは何故であろうか。此等については、絵の粉本を博捜するのみならず、文章に就いても典拠研究や注釈を施して読む必要がある。また、絵と文とに内容的な齟齬が見られ、戯作者と画工との意思疎通がうまく行かなかったと思われる場合もある。錦絵は、浮世絵師の名前を商標として売るものであるから、文字通り〈絵が主で文が従〉なのであろうが、従来のように浮世絵師の業績として見做すだけでは不充分であろう。複数の戯作者が填詞を担当している揃物もあり、一概に画工か戯作者とのどちらが主導したかを決めつける必要はないかもしれない。いずれにしても、資本を先行投資した板元の企画制作プロデユースの下で、戯作者と画工との分業で成立したものであるという事情は、草双紙と大同小異なのであった。 
戯作者の逸文
近年になってインターネット上で急速に浮世絵の画像が公開されつつあり、本稿の執筆時にも、大型の重い美術書や図録を繰りながら、公開された浮世絵画像には大きな恩恵を蒙った。国会図書館、早稲田大学演劇博物館、東京都立中央図書館、立命館大学アートリサーチセンターなどのサイトには、検索可能なタグが付されてデータベース化された浮世絵画像が数万枚の規模で公開されている。書誌記述の精粗や画像の解像度の疎密の差はあるものの、海外の機関が公開しているものを含めれば、出版されている美術書を遙かに上回る画像が既にインターネット上で閲覧できると思われる。
ところが、填詞とその筆者に関しては関心がなかったのか、多くの書誌解題メ タ デ ー タには填詞者の記述が見られない。例えば、魯文の書いた填詞を探そうと思っても、数万枚の画像を逐一当たるしか術がないのである。浮世絵研究者が填詞を重視してこなかった所為であろうか、はたまた文学研究者が填詞に興味を示さなかったからであろうか。いずれにしても、画と文とが一体となった錦絵であるという認識が欠如していたことは間違いない。
ただし、絵巻研究でも同様であるが、浮世絵に関しても描かれている物品に関する関心は高まっており、画像内容検索の模索が始まっている ※20。
しかし、文学研究の立場からいえば、ある一人の人物が書き残した言葉を、可能な限り蒐集したいという願望は断ちがたいものがある。填詞入り揃物錦絵では、柳下亭種員筆記とある「小倉・擬百人一首」(国芳画、伊場仙板、〔嘉永〕、100枚)や「曽我物語圖會そ が ものがたり づ ゑ」(広重画、伊場仙板、〔嘉永〕、30枚)、假名垣魯文鈔録「蜘絲錦白縫くものいとにしきのしらぬひ」(国周画、伊勢屋藤吉板、元治元年、8図を知る)、楳素亭玄魚筆記「古今名婦傳」(三代豊国画、魚栄板、明治4年、12枚)、轉々堂主人操觚「新柳二拾四時」(月岡米次郎画、出板人・中村美津、明治13年、24枚) 、千秋しるす「大江戸しばゐねんぢうぎゃうじ」(吟行画、臨写印刷兼發行者・長谷川壽美、明治30年、25枚)などがあるが、各戯作者に関する研究文献に於いて言及されたことがあるだろうか。
京伝・京山・三馬・馬琴・一九の賛が添えられた「豊国十二ヶ月」(一陽齋豊國画、鶴屋金助板、文化8年11月)は、鳥羽絵風の戯画で年中行事を描いたものである。文化期に活躍した戯作者達が一堂に会した珍しい揃物である。
〈一月萬歳〉山東京傳「福来るかとに舞つゝ萬歳の 先笑はする春の山/\」
〈二月初午〉山東京山「初午はつむまの時ときの狂画きやうぐわの狐きつねつり いくこん/\もすぎた酒もり 」
〈三月花見〉山東京傳「人の散るそはからひらく弁當は 花に賑ふ春の野遊ひ」
〈四月初鰹〉式亭三馬賛「鳶飛て天にさらひ犬地に走る鰹の狼狽それ上下大さわきなるかな\ゆだんした跡では騒ぐ二本橋 棒にふつたる初鰹かな」
〈五月端午節句〉曲亭馬琴賛「 ほとゝきすなくや五尺のあやめ太刀 こしりを引てのきにさゝせん」
〈六月夏祭〉馬琴賛「 市中はこのみ草のみひやし麦 口に土用の入るあつさかな」
〈七月盆踊〉式亭三馬「 はつ雁にさきたち衆のひとつらは 夜風に聲のまよふ盆うた」
〈八月月見〉山東京傳「 空と水合せかゝみのつきあひは 月にさからふ雲もあるまし」
〈九月重陽〉式亭三馬賛「いにしへのなぞ/\に座頭の坊とかけて楠正成の紋ととけりそのこゝろはみずにきくなりといへりしざれことをおもへばかなは違へどもおもむきハたくみなり今はからずも此繪にかなひたるはをかし\ざとの坊わたるあたまの丸木橋 おい老をせくなよ菊の下水」
〈十月恵比須講〉山東京山「 これもまた東あづまのにしき恵比寿ゑ び す講こう 鳥羽と ばの筆意ひついをお目にかけ鯛」
〈十一月婚礼〉十返舎一九賦「陰陽のふた柱といへとも陽にハはしらありて陰に柱なし蛤にハ貝の柱あり川柳点のやなき樽にみ子を見てふとしくたてる宮柱とよみたるは是陽のはしらなりされと爰にハ\ みやしろの大黒はしらなりけらし 大あなむちの神子の愛敬」
〈十二月煤掃〉十返舎一九賦「借金の山うしろに崩れかゝれともひくともせす質のなかれ前にさかまけともへちまともおもはす節分の悪魔をはらふ西の國に百万石のあるし顔して餅のかはりに嘘をつき煤とともに太平樂をはきちらして\ 戸障子をはつして見れは大廣間 大名竹に煤やはらはん」
というものであるが、それぞれの個性が出ていて興味深い。このような浮世絵師と戯作者との合作ともいえる錦絵揃物は、早くに寛政期から出されたのである。
以上、粗々としか述べられなかったが、近代文学風にいえば〈逸文〉とでもいえる此等の画賛や填詞入りの錦絵群は、文学研究としても無視するわけには行かない資料群であり、今後の研究課題となっているのである。 

※1. 嘗ては「文化財の流出」などといわれてきたが、松野陽一氏は「現在海外各国の図書館・個人の所蔵する日本関係書籍は日本のものではない。(中略)基本的にはそれぞれの国の日本研究者が活用すべき資料なのである。」「在外書籍は既にそれぞれの国の文化資源です。ぜひその国の研究者と共同調査、研究の形をとって、それぞれの国の研究者による日本学研究の発展に寄与できるように配慮していただけたらと思います。これこそが「国際化」の本道なのではありますまいか。」(『書影手帖』、笠間書院、2004)と述べられている。浮世絵などに関しては、そもそも資料の価値を発見したのは西欧人であり、当時の日本人の扱いを認識することなく、被害者面して「流出」などというのは、傲慢な国粋主義的発想である。それは、一部の超保守主義者達に拠る太平洋戦争に関する被害者的な総括と同様に、甚だしく不見識であり、世界規範グローバリズムの時代には相応しくない反知性主義的認識であるといわざるを得ない。
※2. 国文学研究資料館の各プロジェクトのほかに、十数年来継続している九州大学の松原孝俊氏や中野三敏氏等を中心とする海外和本調査プロジェクトや、立命館大学アートリサーチセンターの赤間亮氏等に拠る在外浮世絵や和書に関する調査プロジェクトなどが成果を挙げ、目録やデータベースとして公開されている。
※3. 2004年以来、実践女子大学(文芸資料研究所)の佐藤悟氏等による「絵入本ワークショップ」が開催されており、絵や絵入本に関する文学と美術とを越境した国際的な研究交流の場として機能している。
※4. 立命館大学アートリサーチセンターや国際日本文化研究センター等に拠る「春画プロジェクト」が成果を上げ、2009年にシンポジウム「近世春本・春画とそのコンテクスト」が、「林美一コレクション春画展」と共に開催された。また、石上阿希氏等に拠る「近世艶本総合データベース」も公開されている。これらは GCOE「日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」の研究活動に引き継がれ、その成果の一端は2013年に大英博物館で開催された「春画展」に結実した。残念なことに、この「春画展」が国内で開催できる見通しは立っていない。
※5. ヴィクトリア・アルパート博物館のように十九世紀末の錦絵を多数所蔵する蒐集も存在する。一級の芸術ファインアーツの蒐集保存も大切では在るが、所謂「品降った」資料の蒐集保存は、売価は安価であったかもしれないが夥しい標目が存在していたので一層困難であったはずである。したがって、何でも蒐集して保存するという見識はもっと評価されるべきである。
※6. 山口桂三郎「189 歌麿 教訓親の目鑑 もの好すき」解説(『浮世絵聚花』第12巻、小学館、昭和60(1985)年)。
※7. 田代一葉『近世和歌画賛の研究』(汲古書院、2013)。
※8. 国会図書館蔵(寄別2-7-2-3〜001)に拠る。
※9. 文化元(1804)年5月17日に町年寄であった奈良屋市右衛門より「繪双紙問屋行事共、年番名主共え申渡」が出され、度々町触を出したが守られていないとして、「一枚絵草双紙類に天正以来の武者の名前や紋所、合印、名前を記すな。」「一枚絵に和歌の類いや景色の地名、相撲取や歌舞伎役者、遊女の名前は特に、その他の詞書きは一切書くな。」「絵本や双紙の彩色摺りは無用」という三点を禁じている。また、天保13(1842)年から弘化3(1846)年は天保改革により、特に厳しく役者似顔が禁じられるが、岩切友里子「天保改革と浮世絵」(「浮世絵芸術」143、2002、国際浮世絵学会)に拠れば、万延元(1860)年から役者名の記載された役者絵が再び出されるようになるという。
※10. Chazen Museum of Art, University of Wisconsin-Madison.
※11. 立命館大学アートリサーチセンター(Ebi0283)。
※12. 高木元「末期の中本型読本 ―いわゆる〈切附本〉について―」(『江戸読本の研究 ―十九世紀小説様式攷―』、ぺりかん社、1995)参照。
※13. 岩切友里子「歌川国芳「本朝水滸伝豪傑(剛勇)八百人一個」について」(「浮世絵芸術」138、2001、国際浮世絵学会)参照。
※14. 前項、岩切論文で、武者絵が読本などからも取材し始める契機となった揃物である点に関して考証されている。
※15. Museum of Fine Arts Boston, (11.41219a-b). William Sturgis Bigelow Collection.
※16. 初代と混同されていた二代目岳亭については、「二代目岳亭の戯号・交友関係攷」(『近世文藝』100号、2014、日本近世文学会)を始めとする康志賢氏に拠る一連の研究が備わる。
※17. 桃川燕山、一立斎文車、伊東凌潮、 旭堂麟正、神田伯龍、 柴田南玉斎、邑井貞吉、伊東湖琉、 田邉南龍、伊東花清、田辺南鶴、 伊東〓鶴、清草亭英昌、伊東燕尾、森川馬谷、伊東燕来、松林斎琴鶴、花井晴海、森川馬龍
※18.菅原真弓「武者絵の十九世紀―葛飾北齋から歌川国芳へ」(『浮世絵版画の十九世紀』、ブリュッケ、2009)参照。
※19.鈴木重三「月岡芳年筆「和漢百物語」解題」(町田市立国際版画美術館)参照。
※20. 本多亜紀・内田保廣「浮世絵の構成要素を対象とする検索方法の検討」(共立女子大学総合文化研究所紀要第19号、2013 )や、武藤純子「歌舞伎の画証的研究―浮世絵データベースを活用して―」(科研報告書、2011)など一連の研究報告が出されている。 

 

 
 
 
 

 

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