邪宗門

芥川龍之介 / 「邪宗門」説明評論・・・
高橋和巳 / 高橋和巳と邪宗門評論私論1私論2・・・
北原白秋 / 「邪宗門」「第二邪宗門」詩にみる切支丹南蛮趣味と浪漫主義北原白秋集邪宗門秘曲「東京景物詩」白秋について邪宗門序文の詩論・・・
諸話 / 寺山修司「邪宗門」と虚構世界三田文学「邪教問答」「天皇陛下にさゝぐる言葉」「女神」新宗教1新宗教2葬式仏教日本仏教は「葬式仏教」か新宗教批判道院と世界紅卍字会の教義形成
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神道 [出口王仁三郎関連]
細川ガラシャ [日本キリスト教史]

雑学の世界・補考

「邪宗門」 芥川龍之介

一  
先頃大殿様(おおとのさま)御一代中で、一番人目(ひとめ)を駭(おどろ)かせた、地獄変(じごくへん)の屏風(びょうぶ)の由来を申し上げましたから、今度は若殿様の御生涯で、たった一度の不思議な出来事を御話し致そうかと存じて居ります。が、その前に一通り、思いもよらない急な御病気で、大殿様が御薨去(ごこうきょ)になった時の事を、あらまし申し上げて置きましょう。
あれは確か、若殿様の十九の御年だったかと存じます。思いもよらない急な御病気とは云うものの、実はかれこれその半年ばかり前から、御屋形(おやかた)の空へ星が流れますやら、御庭の紅梅が時ならず一度に花を開きますやら、御厩(おうまや)の白馬(しろうま)が一夜(いちや)の内に黒くなりますやら、御池の水が見る間に干上(ひあが)って、鯉(こい)や鮒(ふな)が泥の中で喘(あえ)ぎますやら、いろいろ凶(わる)い兆(しらせ)がございました。中でも殊に空恐ろしく思われたのは、ある女房の夢枕に、良秀(よしひで)の娘の乗ったような、炎々と火の燃えしきる車が一輛、人面(じんめん)の獣(けもの)に曳かれながら、天から下(お)りて来たと思いますと、その車の中からやさしい声がして、「大殿様をこれへ御迎え申せ。」と、呼(よば)わったそうでございます。その時、その人面の獣が怪しく唸(うな)って、頭(かしら)を上げたのを眺めますと、夢現(ゆめうつつ)の暗(やみ)の中にも、唇ばかりが生々(なまなま)しく赤かったので、思わず金切声をあげながら、その声でやっと我に返りましたが、総身はびっしょり冷汗(ひやあせ)で、胸さえまるで早鐘をつくように躍っていたとか申しました。でございますから、北の方(かた)を始め、私(わたくし)どもまで心を痛めて、御屋形の門々(かどかど)に陰陽師(おんみょうじ)の護符(ごふ)を貼りましたし、有験(うげん)の法師(ほうし)たちを御召しになって、種々の御祈祷を御上げになりましたが、これも誠に遁れ難い定業(じょうごう)ででもございましたろう。
ある日――それも雪もよいの、底冷がする日の事でございましたが、今出川(いまでがわ)の大納言(だいなごん)様の御屋形から、御帰りになる御車(みくるま)の中で、急に大熱が御発しになり、御帰館遊ばした時分には、もうただ「あた、あた」と仰有(おっしゃ)るばかり、あまつさえ御身(おみ)のうちは、一面に気味悪く紫立って、御褥(おしとね)の白綾(しろあや)も焦げるかと思う御気色(みけしき)になりました。元よりその時も御枕もとには、法師、医師、陰陽師(おんみょうじ)などが、皆それぞれに肝胆(かんたん)を砕いて、必死の力を尽しましたが、御熱は益(ますます)烈しくなって、やがて御床(おんゆか)の上まで転(ころ)び出ていらっしゃると、たちまち別人のような嗄(しわが)れた御声で、「あおう、身のうちに火がついたわ。この煙(けぶ)りは如何(いかが)致した。」と、狂おしく御吼(おたけ)りになったまま、僅三時(わずかみとき)ばかりの間に、何とも申し上げる語(ことば)もない、無残な御最期(ごさいご)でございます。その時の悲しさ、恐ろしさ、勿体(もったい)なさ――今になって考えましても、蔀(しとみ)に迷っている、護摩(ごま)の煙(けぶり)と、右往左往に泣き惑っている女房たちの袴の紅(あけ)とが、あの茫然とした験者(げんざ)や術師たちの姿と一しょに、ありありと眼に浮かんで、かいつまんだ御話を致すのさえ、涙が先に立って仕方がございません。が、そう云う思い出の内でも、あの御年若な若殿様が、少しも取乱した御容子(ごようす)を御見せにならず、ただ、青ざめた御顔を曇らせながら、じっと大殿様の御枕元へ坐っていらしった事を考えると、なぜかまるで磨(と)ぎすました焼刃(やきば)の(にお)いでも嗅(か)ぐような、身にしみて、ひやりとする、それでいてやはり頼もしい、妙な心もちが致すのでございます。  

 

御親子(ごしんし)の間がらでありながら、大殿様と若殿様との間くらい、御容子(ごようす)から御性質まで、うらうえなのも稀(まれ)でございましょう。大殿様は御承知の通り、大兵肥満(だいひょうひまん)でいらっしゃいますが、若殿様は中背(ちゅうぜい)の、どちらかと申せば痩ぎすな御生れ立ちで、御容貌(ごきりょう)も大殿様のどこまでも男らしい、神将のような俤(おもかげ)とは、似もつかない御優しさでございます。これはあの御美しい北の方(かた)に、瓜二(うりふた)つとでも申しましょうか。眉の迫った、眼の涼しい、心もち口もとに癖のある、女のような御顔立ちでございましたが、どこかそこにうす暗い、沈んだ影がひそんでいて、殊に御装束でも召しますと、御立派と申しますより、ほとんど神寂(かみさび)ているとでも申し上げたいくらい、いかにももの静な御威光がございました。
が、大殿様と若殿様とが、取り分け違っていらしったのは、どちらかと云えば、御気象の方で、大殿様のなさる事は、すべてが豪放(ごうほう)で、雄大で、何でも人目(ひとめ)を驚かさなければ止まないと云う御勢いでございましたが、若殿様の御好みは、どこまでも繊細で、またどこまでも優雅な趣がございましたように存じて居ります。たとえば大殿様の御心もちが、あの堀川の御所(ごしょ)に窺(うかが)われます通り、若殿様が若王子(にゃくおうじ)に御造りになった竜田(たつた)の院は、御規模こそ小そうございますが、菅相丞(かんしょうじょう)の御歌をそのままな、紅葉(もみじ)ばかりの御庭と申し、その御庭を縫っている、清らかな一すじの流れと申し、あるいはまたその流れへ御放しになった、何羽とも知れない白鷺(しらさぎ)と申し、一つとして若殿様の奥床しい御思召(おおぼしめ)しのほどが、現れていないものはございません。
そう云う次第でございますから、大殿様は何かにつけて、武張(ぶば)った事を御好みになりましたが、若殿様はまた詩歌管絃(しいかかんげん)を何よりも御喜びなさいまして、その道々の名人上手とは、御身分の上下も御忘れになったような、隔てない御つき合いがございました。いや、それもただ、そう云うものが御好きだったと申すばかりでなく、御自分も永年御心を諸芸の奥秘(おうひ)に御潜めになったので、笙(しょう)こそ御吹きになりませんでしたが、あの名高い帥民部卿(そちのみんぶきょう)以来、三舟(さんしゅう)に乗るものは、若殿様御一人(おひとり)であろうなどと、噂のあったほどでございます。でございますから、御家の集(しゅう)にも、若殿様の秀句や名歌が、今に沢山残って居りますが、中でも世上に評判が高かったのは、あの良秀(よしひで)が五趣生死(ごしゅしょうじ)の図を描(か)いた竜蓋寺(りゅうがいじ)の仏事の節、二人の唐人(からびと)の問答を御聞きになって、御詠(およ)みになった歌でございましょう。これはその時磬(うちならし)の模様に、八葉(はちよう)の蓮華(れんげ)を挟(はさ)んで二羽の孔雀(くじゃく)が鋳(い)つけてあったのを、その唐人たちが眺めながら、「捨身惜花思(しゃしんしゃっかし)」と云う一人の声の下から、もう一人が「打不立有鳥(だふりゅううちょう)」と答えました――その意味合いが解(げ)せないので、そこに居合わせた人々が、とかくの詮議立てをして居りますと、それを御聞きになった若殿様が、御持ちになった扇の裏へさらさらと美しく書き流して、その人々のいる中へ御遣(おつかわ)しになった歌でございます。
   身をすてて花を惜しやと思ふらむ打てども 立たぬ鳥もありけり
三 

 

大殿様と若殿様とは、かように万事がかけ離れていらっしゃいましたから、それだけまた御二方(おふたかた)の御仲(おんなか)にも、そぐわない所があったようでございます。これにも世間にはとかくの噂がございまして、中には御親子(ごしんし)で、同じ宮腹(みやばら)の女房を御争いになったからだなどと、申すものもございますが、元よりそのような莫迦(ばか)げた事があろう筈はございません。何でも私(わたくし)の覚えて居ります限りでは、若殿様が十五六の御年に、もう御二方の間には、御不和の芽がふいていたように御見受け申しました。これが前にもちょいと申し上げて置きました、若殿様が笙(しょう)だけを御吹きにならないと云う、その謂(い)われに縁のある事なのでございます。
その頃、若殿様は大そう笙を御好みで、遠縁の従兄(いとこ)に御当りなさる中御門(なかみかど)の少納言(しょうなごん)に、御弟子入(おでしいり)をなすっていらっしゃいました。この少納言は、伽陵(がりょう)と云う名高い笙と、大食調入食調(だいじきちょうにゅうじきちょう)の譜とを、代々御家に御伝えになっていらっしゃる、その道でも稀代(きだい)の名人だったのでございます。
若殿様はこの少納言の御手許で、長らく切磋琢磨(せっさたくま)の功を御積みになりましたが、さてその大食調入食調(だいじきちょうにゅうじきちょう)の伝授を御望みになりますと、少納言はどう思召したのか、この仰せばかりは御聞き入れになりません。それが再三押して御頼みになっても、やはり御満足の行くような御返事がなかったので、御年若な若殿様は、一方ならず残念に思召したのでございましょう。ある日大殿様の双六(すごろく)の御相手をなすっていらっしゃる時に、ふとその御不満を御洩しになりました。すると大殿様はいつものように鷹揚(おうよう)に御笑いになりながら、「そう不平は云わぬものじゃ。やがてはその譜も手にはいる時節があるであろう。」と、やさしく御慰めになったそうでございます。ところがそれから半月とたたないある日の事、中御門の少納言は、堀川の御屋形(おやかた)の饗(さかもり)へ御出になった帰りに、俄(にわか)に血を吐いて御歿(おなくな)りになってしまいました。が、それは先ず、よろしいと致しましても、その明くる日、若殿様が何気なく御居間へ御出でになると、螺鈿(らでん)を鏤(ちりば)めた御机の上に、あの伽陵(がりょう)の笙と大食調入食調の譜とが、誰が持って来たともなく、ちゃんと載っていたと申すではございませんか。
その後(のち)また大殿様が若殿様を御相手に双六(すごろく)を御打ちになった時、
「この頃は笙も一段と上達致したであろうな。」と、念を押すように仰有(おっしゃ)ると、若殿様は静に盤面(ばんめん)を御眺めになったまま、
「いや笙はもう一生、吹かない事に致しました。」と、冷かに御答えになりました。
「何としてまた、吹かぬ事に致したな。」
「聊(いささ)かながら、少納言の菩提(ぼだい)を弔(とむら)おうと存じますから。」
こう仰有(おっしゃ)って若殿様は、じっと父上の御顔を御見つめになりました。が、大殿様はまるでその御声が聞えないように勢いよく筒(とう)を振りながら、
「今度もこの方が無地勝(むじがち)らしいぞ。」とさりげない容子(ようす)で勝負を御続けになりました。でございますからこの御問答は、それぎり立ち消えになってしまいましたが、御親子の御仲には、この時からある面白くない心もちが、挟まるようになったかと存ぜられます。  

 

それから大殿様の御隠れになる時まで、御親子(ごしんし)の間には、まるで二羽の蒼鷹(あおたか)が、互に相手を窺いながら、空を飛びめぐっているような、ちっとの隙(すき)もない睨(にら)み合いがずっと続いて居りました。が、前にも申し上げました通り若殿様は、すべて喧嘩口論の類(たぐい)が、大御嫌(だいおきら)いでございましたから、大殿様の御所業(ごしょぎょう)に向っても、楯(たて)を御つきになどなった事は、ほとんど一度もございません。ただ、その度に皮肉な御微笑を、あの癖のある御口元にちらりと御浮べになりながら、一言二言(ひとことふたこと)鋭い御批判を御漏(おも)らしになるばかりでございます。
いつぞや大殿様が、二条大宮の百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)に御遇いになっても、格別御障りのなかった事が、洛中洛外の大評判になりますと、若殿様は私(わたくし)に御向いになりまして、「鬼神(きじん)が鬼神に遇うたのじゃ。父上の御身(おみ)に害がなかったのは、不思議もない。」と、さも可笑(おか)しそうに仰有(おっしゃ)いましたが、その後また、東三条の河原院(かわらのいん)で、夜な夜な現れる融(とおる)の左大臣の亡霊を、大殿様が一喝して御卻(おしりぞ)けになった時も、若殿様は例の通り、唇を歪(ゆが)めて御笑いになりながら、
「融の左大臣は、風月の才に富んで居られたと申すではないか。されば父上づれは、話のあとを打たせるにも足らぬと思われて、消え失せられたに相違ない。」と、仰有(おっしゃ)ったのを覚えて居ります。
それがまた大殿様には、何よりも御耳に痛かったと見えまして、ふとした拍子(ひょうし)に、こう云う若殿様の御言葉が、御聞きに達する事でもございますと、上べは苦笑いに御紛(おまぎら)わしなすっても、御心中の御怒りはありありと御顔に読まれました。現に内裡(だいり)の梅見の宴からの御帰りに、大殿様の御車(みくるま)の牛がそれて、往来の老人に怪我させた時、その老人が反(かえ)って手を合せて、権者(ごんじゃ)のような大殿様の御牛(みうし)にかけられた冥加(みょうが)のほどを、難有(ありがた)がった事がございましたが、その時も若殿様は、大殿様のいらっしゃる前で、牛飼いの童子に御向いなさりながら、「その方はうつけものじゃな。所詮(しょせん)牛をそらすくらいならば、なぜ車の輪にかけて、あの下司(げす)を轢(ひ)き殺さぬ。怪我をしてさえ、手を合せて、随喜するほどの老爺(おやじ)じゃ。轍(わだち)の下に往生を遂げたら、聖衆(しょうじゅ)の来迎(らいごう)を受けたにも増して、難有(ありがた)く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ。」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇が上って、御折檻(ごせっかん)くらいは御加えになろうかと、私ども一同が胆(きも)を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入って居(お)るようでございます。この後(のち)とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦(しんたん)までも伝える事でございましょう。」と、素知(そし)らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我(が)を御折りになったと見えて、苦(にが)い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。
こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守(おまも)りになっていらっしゃる若殿様の御姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時の事を考えますと、まるで磨ぎすました焼刃(やきば)の(にお)いを嗅ぐような、身にしみてひやりとする、と同時にまた何となく頼もしい、妙な心もちが致した事は、先刻もう御耳に入れて置きました。誠にその時の私どもには、心から御代替(ごだいがわ)りがしたと云う気が、――それも御屋形(おやかた)の中ばかりでなく、一天下(いってんか)にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、慌(あわただ)しい気が致したのでございます。 

 

でございますから若殿様が、御家督を御取りになったその日の内から、御屋形(おやかた)の中へはどこからともなく、今までにない長閑(のどか)な景色(けしき)が、春風(しゅんぷう)のように吹きこんで参りました。歌合(うたあわ)せ、花合せ、あるいは艶書合(えんしょあわ)せなどが、以前にも増して度々御催しになられたのは、申すまでもございますまい。それからまた、女房たちを始め、侍どもの風俗が、まるで昔の絵巻から抜け出して来たように、みやびやかになったのも、元よりの事でございます。が、殊に以前と変ったのは、御屋形の御客に御出でになる上(うえ)つ方(がた)の御顔ぶれで、今はいかに時めいている大臣大将でも、一芸一能にすぐれていらっしゃらない方は、滅多(めった)に若殿様の御眼にはかかれません。いや、たとい御眼にかかれたのにしても、御出でになる方々が、皆風流の才子ばかりでいらっしゃいますから、さすがに御身を御愧(おは)じになって、自然御み足が遠くなってしまうのでございます。
その代りまた、詩歌管絃の道に長じてさえ居りますれば、無位無官の侍でも、身に余るような御褒美(ごほうび)を受けた事がございます。たとえば、ある秋の夜に、月の光が格子にさして、機織(はたお)りの声が致して居りました時、ふと人を御召しになると、新参の侍が参りましたが、どう思召したのか、急にその侍に御向いなすって、
「機織(はたお)りの声が致すのは、その方(ほう)にも聞えような。これを題に一首仕(つかまつ)れ。」と、御声がかりがございました。するとその侍は下(しも)にいて、しばらく頭(かしら)を傾けて居りましたが、やがて、「青柳(あおやぎ)の」と、初(はじめ)の句を申しました。するとその季節に合わなかったのが、可笑(おかし)かったのでございましょう。女房たちの間には、忍び笑いの声が起りましたが、侍が続いて、
「みどりの糸をくりおきて夏へて秋は機織(はたお)りぞ啼く。」と、さわやかに詠じますと、たちまちそれは静まり返って、萩模様のある直垂(ひたたれ)を一領、格子の間から月の光の中へ、押し出して下さいました。実はその侍と申しますのが、私(わたくし)の姉の一人息子で、若殿様とは、ほぼ御年輩(ごねんぱい)も同じくらいな若者でございましたが、これを御奉公の初めにして、その後(のち)も度々難有(ありがた)い御懇意を受けたのでございます。
まず、若殿様の御平生(ごへいぜい)は、あらあらかようなものでございましょうか。その間に北の方(かた)も御迎えになりましたし、年々の除目(じもく)には御官位も御進みになりましたが、そう云う事は世上の人も、よく存じている事でございますから、ここにはとり立てて申し上げません。それよりも先を急ぎますから、最初に御約束致しました通り、若殿様の御一生に、たった一度しかなかったと云う、不思議な出来事の御話へはいる事に致しましょう。と申しますのは、大殿様とは御違いになって、天(あめ)が下(した)の色ごのみなどと云う御渾名(おんあだな)こそ、御受けになりましたが、誠に御無事な御生涯で、そのほかには何一つ、人口に膾炙(かいしゃ)するような御逸事と申すものも、なかったからでございます。 

 

その御話のそもそもは、確か大殿様が御隠れになってから、五六年たった頃でございますが、丁度その時分若殿様は、前に申しあげました中御門(なかみかど)の少納言様の御一人娘で、評判の美しい御姫様へ、茂々(しげしげ)御文を書いていらっしゃいました。ただ今でもあの頃の御熱心だった御噂が、私(わたくし)どもの口から洩れますと、若殿様はいつも晴々(はればれ)と御笑いになって、
「爺よ。天(あめ)が下(した)は広しと云え、あの頃の予が夢中になって、拙(つたな)い歌や詩を作ったのは皆、恋がさせた業(わざ)じゃ。思えば狐(きつね)の塚を踏んで、物に狂うたのも同然じゃな。」と、まるで御自分を嘲るように、洒落(しゃらく)としてこう仰有(おっしゃ)います。が、全く当時の若殿様は、それほど御平生に似もやらず、恋慕三昧(れんぼざんまい)に耽って御出でになりました。
しかし、これは、あながち、若殿様御一人に限った事ではございません。あの頃の年若な殿上人(てんじょうびと)で、中御門(なかみかど)の御姫様に想(おも)いを懸けないものと云ったら、恐らく御一方もございますまい。あの方が阿父様(おとうさま)の代から、ずっと御住みになっていらっしゃる、二条西洞院(にしのとういん)の御屋形(おやかた)のまわりには、そう云う色好みの方々が、あるいは車を御寄せになったり、あるいは御自身御拾いで御出でになったり、絶えず御通い遊ばしたものでございます。中には一夜(いちや)の中に二人まで、あの御屋形の梨(なし)の花の下で、月に笛を吹いている立烏帽子(たてえぼし)があったと云う噂も、聞き及んだ事がございました。
いや、現に一時は秀才の名が高かった菅原雅平(すがわらまさひら)とか仰有る方も、この御姫様に恋をなすって、しかもその恋がかなわなかった御恨みから、俄(にわか)に世を御捨てになって、ただ今では筑紫(つくし)の果に流浪して御出でになるとやら、あるいはまた東海の波を踏んで唐土(もろこし)に御渡りになったとやら、皆目御行方(かいもくおゆくえ)が知れないと申すことでございます。この方などは若殿様とも、詩文の御交りの深かった御一人で、御消息などをなさる時は、若殿様を楽天(らくてん)に、御自分を東坡(とうば)に比していらしったそうでございますが、そう云う風流第一の才子が、如何(いか)に中御門の御姫様は御美しいのに致しましても、一旦の御歎きから御生涯を辺土に御送りなさいますのは、御不覚と申し上げるよりほかはございますまい。
が、また飜(ひるがえ)って考えますと、これも御無理がないと思われるくらい、中御門の御姫様と仰有(おっしゃ)る方は、御美しかったのでございます。私が一両度御見かけ申しました限でも、柳桜(やなぎさくら)をまぜて召して、錦に玉を貫いた燦(きら)びやかな裳(も)の腰を、大殿油(おおとのあぶら)の明い光に、御輝かせになりながら、御眶(おんまぶた)も重そうにうち傾いていらしった、あのあでやかな御姿は一生忘れようもございますまい。しかもこの御姫様は御気象も並々ならず御闊達(ごかったつ)でいらっしゃいましたから、なまじいな殿上人などは、思召しにかなう所か、すぐに本性(ほんしょう)を御見透(おみとお)しになって、とんと御寵愛(ごちょうあい)の猫も同様、さんざん御弄(おなぶ)りになった上、二度と再び御膝元へもよせつけないようになすってしまいました。 

 

でございますからこの御姫様に、想(おもい)を懸けていらしった方々(かたがた)の間には、まるで竹取(たけとり)物語の中にでもありそうな、可笑(おか)しいことが沢山ございましたが、中でも一番御気の毒だったのは京極(きょうごく)の左大弁様(さだいべんさま)で、この方(かた)は京童(きょうわらんべ)が鴉(からす)の左大弁などと申し上げたほど、顔色が黒うございましたが、それでもやはり人情には変りもなく、中御門(なかみかど)の御姫様を恋い慕っていらっしゃいました。所がこの方は御利巧だと同時に、気の小さい御性質だったと見えまして、いかに御姫様を懐(なつか)しく思召しても、御自分の方からそれとは御打ち明けなすった事もございませんし、元よりまた御同輩の方にも、ついぞそれらしい事を口に出して、仰有(おっしゃ)った例(ためし)はございません。しかし忍び忍びに御姫様の御顔を拝みに参ります事は、隠れない事でございますから、ある時、それを枷(かせ)にして、御同輩の誰彼が、手を換え品を換え、いろいろと問い落そうと御かかりになりました。すると鴉の左大弁様は、苦しまぎれの御一策に、
「いや、あれは何も私(わたし)が想(おもい)を懸けているばかりではない。実は姫の方からも、心ありげな風情(ふぜい)を見せられるので、ついつい足が茂くなるのだ。」と、こう御逃げになりました。しかもそれを誠らしく見せかけようと云う出来心から、御姫様から頂いた御文の文句や、御歌などを、ある事もない事も皆一しょに取つくろって、さも御姫様の方が心を焦(こが)していらっしゃるように、御話しになったからたまりません。元より悪戯好(いたずらず)きな御同輩たちは、半信半疑でいらっしゃりながら、早速御姫様の偽手紙を拵(こしら)えて、折からの藤(ふじ)の枝か何かにつけたまま、それを左大弁様の許へ御とどけになりました。
こちらは京極の左大弁様で、何事かと胸を轟かせながら、慌(あわて)て御文を開けて見ますと、思いもよらず御姫様は、いかに左大弁様を思いわびてもとんとつれなく御もてなしになるから、所詮かなわぬ恋とあきらめて、尼法師(あまほうし)の境涯にはいると云う事が、いかにももの哀れに書いてあるではございませんか。まさかそうまで御姫様が、思いつめていらっしゃろうとは、夢にも思召(おぼしめ)さなかったのでございますから、鴉の左大弁様は悲しいとも、嬉しいともつかない御心もちで、しばらくはただ、茫然と御文を前にひろげたまま、溜息(ためいき)をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、御眼にかかって、今まで胸にひそめていた想(おもい)のほども申し上げようと、こう思召したのでございましょう。丁度五月雨(さみだれ)の暮方でございましたが、童子を一人御伴に御つれになって、傘(おおかさ)をかざしながら、ひそかに二条西洞院(にしのとういん)の御屋形まで参りますと、御門(ごもん)は堅く鎖(とざ)してあって、いくら音なっても叩いても、開ける気色(けしき)はございません。そうこうする内に夜になって、人の往来(ゆきき)も稀な築土路(ついじみち)には、ただ、蛙(かわず)の声が聞えるばかり、雨は益(ますます)降りしきって、御召物も濡れれば、御眼も眩(くら)むと云う情ない次第でございます。
それがほど経てから、御門の扉が、やっと開いたと思いますと、平太夫(へいだゆう)と申します私(わたくし)くらいの老侍(おいざむらい)が、これも同じような藤の枝に御文を結んだのを渡したなり、無言でまた、その扉をぴたりと閉めてしまいました。
そこで泣く泣く御立ち帰りになって、その御文を開けて御覧になると、一首の古歌がちらし書きにしてあるだけで、一言もほかには御便りがございません。
   思へども思はずとのみ云ふなればいなや思はじ思ふかひなし
これは云うまでもなく御姫様が、悪戯(いたずら)好きの若殿原から、細々(こまごま)と御消息で、鴉(からす)の左大弁様の心なしを御承知になっていたのでございます。 

 

こう御話し致しますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、この御姫様の御行状(ごぎょうじょう)を、嘘のように思召す方もいらっしゃいましょうが、現在私が御奉公致している若殿様の事を申し上げながら、何もそのような空事(そらごと)をさし加えよう道理はございません。その頃洛中(らくちゅう)で評判だったのは、この御姫様ともう御一方、これは虫が大御好きで、長虫(ながむし)までも御飼いになったと云う、不思議な御姫様がございました。この後(あと)の御姫様の事は、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中御門(なかみかど)の御姫様は、何しろ御両親とも御隠れになって、御屋形にはただ、先刻御耳に入れました平太夫(へいだゆう)を頭(かしら)にして、御召使の男女(なんにょ)が居りますばかり、それに御先代から御有福で、何御不自由もございませんでしたから、自然御美しいのと、御闊達なのとに御任せなすって、随分世を世とも思わない、御放胆な真似もなすったのでございます。
そこで噂を立て易い世間には、この御姫様御自身が、実は少納言様の北の方(かた)と大殿様との間に御生まれなすったので、父君の御隠れなすったのも、恋の遺恨(いこん)で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す輩(やから)も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急に御歿(おな)くなりになった御話は、前に一応申上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆跡方(あとかた)のない嘘でございます。さもなければ若殿様も、決してあれほどまでは御姫様へ、心を御寄せにはなりますまい。
何でも私が人伝(ひとづて)に承(うけたま)わりました所では、初めはいくら若殿様の方で御熱心でも、御姫様は反(かえ)って誰よりも、素気(すげ)なく御もてなしになったとか申す事でございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様の御文を持って上った私の甥(おい)に、あの鴉の左大弁様同様、どうしても御門の扉を御開けにならなかったとかでございました。しかもあの平太夫(へいだゆう)が、なぜか堀川の御屋形のものを仇(かたき)のように憎みまして、その時も梨の花に、うらうらと春日(はるび)が(にお)っている築地(ついじ)の上から白髪頭(しらがあたま)を露(あらわ)して、檜皮(ひわだ)の狩衣(かりぎぬ)の袖をまくりながら、推しても御門を開こうとする私の甥に、
「やい、おのれは昼盗人(ひるぬすびと)か。盗人とあれば容赦(ようしゃ)はせぬ。一足でも門内にはいったが最期(さいご)、平太夫が太刀(たち)にかけて、まっ二つに斬って捨てるぞ。」と、噛みつくように喚(わめ)きました。もしこれが私でございましたら、刃傷沙汰(にんじょうざた)にも及んだでございましょうが、甥はただ、道ばたの牛の糞(まり)を礫(つぶて)代りに投げつけただけで、帰って来たと申して居りました。かような次第でございますから、元より御文が無事に御手許にとどいても、とんと御返事と申すものは頂けません。が、若殿様は、一向それにも御頓着なく、三日にあげず、御文やら御歌やら、あるいはまた結構な絵巻やらを、およそものの三月あまりも、根気よく御遣(おつかわ)しになりました。さればこそ、日頃も仰有(おっしゃ)る通り、「あの頃の予が夢中になって、拙(つたな)い歌や詩を作ったのは、皆恋がさせた業(わざ)じゃ。」に、少しも違いはなかったのでございます。 

 

丁度その頃の事でございます。洛中(らくちゅう)に一人の異形(いぎょう)な沙門(しゃもん)が現れまして、とんと今までに聞いた事のない、摩利(まり)の教と申すものを説き弘(ひろ)め始めました。これも一時随分評判でございましたから、中には御聞き及びの方(かた)もいらっしゃる事でございましょう。よくものの草紙などに、震旦(しんたん)から天狗(てんぐ)が渡ったと書いてありますのは、丁度あの染殿(そめどの)の御后(おきさき)に鬼が憑(つ)いたなどと申します通り、この沙門の事を譬(たと)えて云ったのでございます。
そう申せば私が初めてその沙門を見ましたのも、やはり其頃の事でございました。確か、ある花曇りの日の昼中(ひるなか)だったかと存じますが、何か用足しに出ました帰りに、神泉苑(しんせんえん)の外を通りかかりますと、あすこの築土(ついじ)を前にして、揉烏帽子(もみえぼし)やら、立烏帽子(たてえぼし)やら、あるいはまたもの見高い市女笠(いちめがさ)やらが、数(かず)にしておよそ二三十人、中には竹馬に跨った童部(わらべ)も交って、皆一塊(ひとかたまり)になりながら、罵(ののし)り騒いでいるのでございます。さてはまた、福徳の大神(おおかみ)に祟られた物狂いでも踊っているか、さもなければ迂闊(うかつ)な近江商人(おうみあきゅうど)が、魚盗人(うおぬすびと)に荷でも攫(さら)われたのだろうと、こう私は考えましたが、あまりその騒ぎが仰々(ぎょうぎょう)しいので、何気(なにげ)なく後(うしろ)からそっと覗(のぞ)きこんで見ますと、思いもよらずその真中(まんなか)には、乞食(こつじき)のような姿をした沙門が、何か頻(しきり)にしゃべりながら、見慣れぬ女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)を掲げた旗竿を片手につき立てて、佇(たたず)んでいるのでございました。年の頃はかれこれ三十にも近うございましょうか、色の黒い、眼のつり上った、いかにも凄じい面(つら)がまえで、着ているものこそ、よれよれになった墨染の法衣(ころも)でございますが、渦を巻いて肩の上まで垂れ下った髪の毛と申し、頸(くび)にかけた十文字の怪しげな黄金(こがね)の護符(ごふ)と申し、元より世の常の法師(ほうし)ではございますまい。それが、私の覗(のぞ)きました時は、流れ風に散る神泉苑の桜の葉を頭から浴びて、全く人間と云うよりも、あの智羅永寿(ちらえいじゅ)の眷属(けんぞく)が、鳶(とび)の翼を法衣(ころも)の下に隠しているのではないかと思うほど、怪しい姿に見うけられました。
するとその時、私の側にいた、逞しい鍛冶(かじ)か何かが、素早く童部(わらべ)の手から竹馬をひったくって、
「おのれ、よくも地蔵菩薩を天狗だなどと吐(ぬか)したな。」と、噛みつくように喚きながら、斜(はす)に相手の面(おもて)を打ち据えました。が、打たれながらも、その沙門(しゃもん)は、にやりと気味の悪い微笑を洩らしたまま、いよいよ高く女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)を落花の風に飜(ひるがえ)して、
「たとい今生(こんじょう)では、いかなる栄華(えいが)を極めようとも、天上皇帝の御教(みおしえ)に悖(もと)るものは、一旦命終(めいしゅう)の時に及んで、たちまち阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄に堕(お)ち、不断の業火(ごうか)に皮肉を焼かれて、尽未来(じんみらい)まで吠え居ろうぞ。ましてその天上皇帝の遺(のこ)された、摩利信乃法師(まりしのほうし)に笞(しもと)を当つるものは、命終の時とも申さず、明日(あす)が日にも諸天童子の現罰を蒙って、白癩(びゃくらい)の身となり果てるぞよ。」と、叱りつけたではございませんか。この勢いに気を呑まれて、私は元より当の鍛冶(かじ)まで、しばらくはただ、竹馬を戟(ほこ)にしたまま、狂おしい沙門の振舞を、呆れてじっと見守って居りました。 

 

が、それはほんの僅の間(ま)で、鍛冶(かじ)はまた竹馬(たけうま)をとり直しますと、
「まだ雑言(ぞうごん)をやめ居らぬか。」と、恐ろしい権幕(けんまく)で罵りながら、矢庭(やにわ)に沙門(しゃもん)へとびかかりました。
元よりその時は私はじめ、誰でも鍛冶の竹馬が、したたか相手の面(おもて)を打ち据えたと、思わなかったものはございません。いや、実際竹馬は、あの日の焦(や)けた頬に、もう一すじ蚯蚓腫(みみずばれ)の跡を加えたようでございます。が、横なぐりに打ち下した竹馬が、まだ青い笹の葉に落花を掃(はら)ったと思うが早いか、いきなり大地(だいち)にどうと倒れたのは、沙門ではなくて、肝腎の鍛冶の方でございました。
これに辟易(へきえき)した一同は、思わず逃腰(にげごし)になったのでございましょう。揉烏帽子(もみえぼし)も立(たて)烏帽子も意気地なく後(うしろ)を見せて、どっと沙門のまわりを離れましたが、見ると鍛冶は、竹馬を持ったまま、相手の足もとにのけぞり返って、口からはまるで癲癇病(てんかんや)みのように白い泡さえも噴いて居ります。沙門はしばらくその呼吸を窺っているようでございましたが、やがてその瞳を私どもの方へ返しますと、
「見られい。わしの云うた事に、偽(いつわ)りはなかったろうな。諸天童子は即座にこの横道者(おうどうもの)を、目に見えぬ剣(つるぎ)で打たせ給うた。まだしも頭(かしら)が微塵に砕けて、都大路(みやこおおじ)に血をあやさなんだのが、時にとっての仕合せと云わずばなるまい。」と、さも横柄(おうへい)に申しました。
するとその時でございます。ひっそりと静まり返った人々の中から、急にけたたましい泣き声をあげて、さっき竹馬を持っていた童部(わらべ)が一人、切禿(きりかむろ)の髪を躍らせながら、倒れている鍛冶(かじ)の傍へ、転がるように走り寄ったのは。
「阿父(おとっ)さん。阿父さんてば。よう。阿父さん。」
童部(わらべ)はこう何度も喚(わめ)きましたが、鍛冶はさらに正気(しょうき)に還る気色(けしき)もございません。あの唇にたまった泡さえ、不相変(あいかわらず)花曇りの風に吹かれて、白く水干(すいかん)の胸へ垂れて居ります。
「阿父さん。よう。」
童部(わらべ)はまたこう繰り返しましたが、鍛冶が返事をしないのを見ると、たちまち血相を変えて、飛び立ちながら、父の手に残っている竹馬を両手でつかむが早いか、沙門を目がけて健気(けなげ)にも、まっしぐらに打ってかかりました。が、沙門はその竹馬を、持っていた画像(えすがた)の旗竿で、事もなげに払いながら、またあの気味の悪い笑(えみ)を洩らしますと、わざと柔(やさ)しい声を出して、「これは滅相な。御主(おぬし)の父親(てておや)が気を失ったのは、この摩利信乃法師(まりしのほうし)がなせる業(わざ)ではないぞ。さればわしを窘(くるし)めたとて、父親が生きて返ろう次第はない。」と、たしなめるように申しました。
その道理が童部(わらべ)に通じたと云うよりは、所詮この沙門と打ち合っても、勝てそうもないと思ったからでございましょう。鍛冶の小伜は五六度竹馬を振りまわした後で、べそを掻いたまま、往来のまん中へ立ちすくんでしまいました。 
十一

 

摩利信乃法師(まりしのほうし)はこれを見ると、またにやにや微笑(ほほえ)みながら、童部(わらべ)の傍(かたわら)へ歩みよって、
「さても御主(おぬし)は、聞分けのよい、年には増した利発な子じゃ。そう温和(おとな)しくして居(お)れば、諸天童子も御主にめでて、ほどなくそこな父親(てておや)も正気(しょうき)に還して下されよう。わしもこれから祈祷(きとう)しょうほどに、御主もわしを見慣うて、天上皇帝の御慈悲に御すがり申したがよかろうぞ。」
こう云うと沙門は旗竿を大きく両腕に抱(いだ)きながら、大路(おおじ)のただ中に跪(ひざまず)いて、恭(うやうや)しげに頭を垂れました。そうして眼をつぶったまま、何やら怪しげな陀羅尼(だらに)のようなものを、声高(こわだか)に誦(ず)し始めました。それがどのくらいつづいた事でございましょう。沙門のまわりに輪を作って、この不思議な加持(かじ)のし方を眺めている私どもには、かれこれものの半時もたったかと思われるほどでございましたが、やがて沙門が眼を開いて、脆いたなり伸ばした手を、鍛冶(かじ)の顔の上へさしかざしますと、見る見る中にその顔が、暖かく血の色を盛返して、やがて苦しそうな呻(うな)り声さえ、例の泡だらけな口の中から、一しきり長く溢れて参りました。
「やあ、阿父(おとっ)さんが、生き返った。」
童部(わらべ)は竹馬を抛り出すと、嬉しそうに小躍りして、また父親の傍へ走りよりました。が、その手で抱(だ)き起されるまでもなく、呻り声を洩らすとほとんど同時に、鍛冶はまるで酒にでも酔ったかと思うような、覚束ない身のこなしで、徐(おもむろ)に体を起しました。すると沙門はさも満足そうに、自分も悠然と立ち上って、あの女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)を親子のものの頭(かしら)の上に、日を蔽う如くさしかざすと、
「天上皇帝の御威徳は、この大空のように広大無辺じゃ。何と信を起されたか。」と、厳(おごそ)かにこう申しました。
鍛冶の親子は互にしっかり抱(いだ)き合いながら、まだ土の上に蹲(うずくま)って居りましたが、沙門の法力(ほうりき)の恐ろしさには、魂も空にけし飛んだのでございましょう。女菩薩の幢(はた)を仰ぎますと、二人とも殊勝げな両手を合せて、わなわな震えながら、礼拝(らいはい)いたしました。と思うとつづいて二三人、まわりに立っている私どもの中にも、笠を脱いだり、烏帽子を直したりして、画像(えすがた)を拝んだものが居ったようでございます。ただ私は何となく、その沙門や女菩薩の画像が、まるで魔界の風に染んでいるような、忌(いま)わしい気が致しましたから、鍛冶が正気に還ったのを潮(しお)に、梶X(そうそう)その場を立ち去ってしまいました。
後で人の話を承わりますと、この沙門の説教致しますのが、震旦(しんたん)から渡って参りました、あの摩利(まり)の教と申すものだそうで、摩利信乃法師(まりしのほうし)と申します男も、この国の生れやら、乃至(ないし)は唐土(もろこし)に人となったものやら、とんと確かなことはわからないと云う事でございました。中にはまた、震旦でも本朝でもない、天竺(てんじく)の涯(はて)から来た法師で、昼こそあのように町を歩いているが、夜は墨染の法衣(ころも)が翼になって、八阪寺(やさかでら)の塔の空へ舞上るなどと云う噂もございましたが、元よりそれはとりとめもない、嘘だったのでございましょう。が、さような噂が伝わりましたのも、一応はもっともかと存じられますくらい、この摩利信乃法師の仕業には、いろいろ幻妙な事が多かったのでございます。 
十二

 

と申しますのは、まず第一に摩利信乃法師(まりしのほうし)が、あの怪しげな陀羅尼(だらに)の力で、瞬く暇に多くの病者を癒(なお)した事でございます。盲目(めしい)が見えましたり、跛(あしなえ)が立ちましたり、唖(おし)が口をききましたり――一々数え立てますのも、煩わしいくらいでございますが、中でも一番名高かったのは、前(さき)の摂津守(せっつのかみ)の悩んでいた人面瘡(にんめんそう)ででもございましょうか。これは甥(おい)を遠矢にかけて、その女房を奪ったとやら申す報(むくい)から、左の膝頭にその甥の顔をした、不思議な瘡(かさ)が現われて、昼も夜も骨を刻(けず)るような業苦(ごうく)に悩んで居りましたが、あの沙門の加持(かじ)を受けますと、見る間にその顔が気色(けしき)を和(やわら)げて、やがて口とも覚しい所から「南無(なむ)」と云う声が洩れるや否や、たちまち跡方(あとかた)もなく消え失せたと申すのでございます。元よりそのくらいでございますから、狐の憑(つ)きましたのも、天狗の憑(つ)きましたのも、あるいはまた、何とも名の知れない、妖魅鬼神(ようみきじん)の憑きましたのも、あの十文字(じゅうもんじ)の護符を頂きますと、まるで木(こ)の葉を食う虫が、大風にでも振われて落ちるように、すぐさま落ちてしまいました。
が、摩利信乃法師の法力が評判になったのは、それだからばかりではございません。前にも私が往来で見かけましたように、摩利の教を誹謗(ひぼう)したり、その信者を呵責(かしゃく)したり致しますと、あの沙門は即座にその相手に、恐ろしい神罰を祈り下しました。おかげで井戸の水が腥(なまぐさ)い血潮に変ったものもございますし、持(も)ち田(だ)の稲を一夜(いちや)の中に蝗(いなむし)が食ってしまったものもございますが、あの白朱社(はくしゅしゃ)の巫女(みこ)などは、摩利信乃法師を祈り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白癩(びゃくらい)になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天狗の化身(けしん)だなどと申す噂が、一層高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍馬の奥から参りました猟師も、例の諸天童子の剣(つるぎ)にでも打たれたのか、急に目がつぶれた揚句(あげく)、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申す事でございました。
そう云う勢いでございますから、日が経(ふ)るに従って、信者になる老若男女(ろうにゃくなんにょ)も、追々数を増して参りましたが、そのまた信者になりますには、何でも水で頭(かしら)を濡(ぬら)すと云う、灌頂(かんちょう)めいた式があって、それを一度すまさない中は、例の天上皇帝に帰依(きえ)した明りが立ち兼(か)ねるのだそうでございます。これは私の甥が見かけたことでございますが、ある日四条の大橋を通りますと、橋の下の河原に夥(おびただ)しい人だかりが致して居りましたから、何かと存じて覗(のぞ)きました所、これもやはり摩利信乃法師が東国者らしい侍に、その怪しげな灌頂の式を授けて居(お)るのでございました。何しろ折からの水が温(ぬる)んで、桜の花も流れようと云う加茂川へ、大太刀を佩(は)いて畏(かしこま)った侍と、あの十文字の護符を捧げている異形(いぎょう)な沙門とが影を落して、見慣れない儀式を致していたと申すのでございますから、余程面白い見物(みもの)でございましたろう。――そう云えば、前に申し上げる事を忘れましたが、摩利信乃法師は始めから、四条河原の非人(ひにん)小屋の間へ、小さな蓆張(むしろば)りの庵(いおり)を造りまして、そこに始終たった一人、佗(わび)しく住んでいたのでございます。  
十三

 

そこでお話は元へ戻りますが、その間に若殿様は、思いもよらない出来事から、予(かね)て御心を寄せていらしった中御門(なかみかど)の御姫様と、親しい御語いをなさる事が御出来なさるように相成りました。その思いもよらない事と申しますのは、もう花橘(はなたちばな)の(におい)と時鳥(ほととぎす)の声とが雨もよいの空を想(おも)わせる、ある夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、朧(おぼろ)げには人の顔が見分けられるほどだったと申します。若殿様はある女房の所へ御忍びになった御帰り途で、御供の人数(にんず)も目立たないように、僅か一人か二人御召連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりと御出でになりました。が、何しろ時刻が遅いので、人っ子一人通らない往来には、遠田(とおだ)の蛙(かわず)の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、殊にあの寂しい美福門(びふくもん)の外は、よく狐火の燃える所だけに、何となく鬼気が身に迫って、心無い牛の歩みさえ早くなるような気が致されます。――そう思うと、急に向うの築土(ついじ)の陰で、怪しい咳(しわぶき)の声がするや否や、きらきらと白刃(しらは)を月に輝かせて、盗人と覚しい覆面の男が、左右から凡そ六七人、若殿様の車を目がけて、猛々(たけだけ)しく襲いかかりました。
と同時に牛飼(うしかい)の童部(わらべ)を始め、御供の雑色(ぞうしき)たちは余りの事に、魂も消えるかと思ったのでございましょう。驚破(すわ)と云う間もなく、算(さん)を乱して、元来た方へ一散に逃げ出してしまいました。が、盗人たちはそれには目もくれる気色(けしき)もなく、矢庭(やにわ)に一人が牛の韁(はづな)を取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白刃(しらは)の垣を造って、犇々(ひしひし)とそのまわりを取り囲みますと、先ず頭立(かしらだ)ったのが横柄に簾(すだれ)を払って、「どうじゃ。この殿に違いはあるまいな。」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。その容子(ようす)がどうも物盗りとも存ぜられませんので、御驚きの中にも若殿様は不審に思召されたのでございましょう。それまでじっとしていらっしったのが、扇を斜(ななめ)に相手の方を、透かすようにして御窺いなさいますと、その時その盗人の中に嗄(しわが)れた声がして、
「おう、しかとこの殿じゃ。」と、憎々(にくにく)しげに答えました。するとその声が、また何となくどこかで一度、御耳になすったようでございましたから、愈(いよいよ)怪しく思召して、明るい月の光に、その声の主(ぬし)を、きっと御覧になりますと、面(おもて)こそ包んで居りますが、あの中御門の御姫様に年久しく御仕え申している、平太夫(へいだゆう)に相違はございません。この一刹那はさすがの若殿様も、思わず総身(そうみ)の毛がよだつような、恐ろしい思いをなすったと申す事でございました。なぜと申しますと、あの平太夫が堀川の御一家(ごいっけ)を仇(かたき)のように憎んでいる事は、若殿様の御耳にも、とうからはいっていたからでございます。
いや、現にその時も、平太夫がそう答えますと、さっきの盗人は一層声を荒(あらら)げて、太刀の切先(きっさき)を若殿様の御胸に向けながら、
「さらば御命(おんいのち)を申受けようず。」と罵ったと申すではございませんか。  
十四

 

しかしあの飽くまでも、物に御騒ぎにならない若殿様は、すぐに勇気を御取り直しになって、悠々と扇を御弄(おもてあそ)びなさりながら、
「待て。待て。予の命が欲しくば、次第によって呉れてやらぬものでもない。が、その方どもは、何でそのようなものを欲しがるのじゃ。」と、まるで人事のように御尋ねになりました。すると頭立(かしらだ)った盗人は、白刃(しらは)を益(ますます)御胸へ近づけて、
「中御門(なかみかど)の少納言殿は、誰故の御最期(ごさいご)じゃ。」
「予は誰やら知らぬ。が、予でない事だけは、しかとした証(あかし)もある。」
「殿か、殿の父君か。いずれにしても、殿は仇(かたき)の一味じゃ。」
頭立った一人がこう申しますと、残りの盗人どもも覆面の下で、
「そうじゃ。仇の一味じゃ。」と、声々に罵り交しました。中にもあの平太夫(へいだゆう)は歯噛みをして、車の中を獣のように覗きこみながら、太刀(たち)で若殿様の御顔を指さしますと、
「さかしらは御無用じゃよ。それよりは十念(じゅうねん)なと御称え申されい。」と、嘲笑(あざわら)うような声で申したそうでございます。
が、若殿様は相不変(あいかわらず)落ち着き払って、御胸の先の白刃も見えないように、
「してその方たちは、皆少納言殿の御内(みうち)のものか。」と、抛(ほう)り出すように御尋ねなさいました。すると盗人たちは皆どうしたのか、一しきり答にためらったようでございましたが、その気色(けしき)を見てとった平太夫は、透かさず声を励まして、
「そうじゃ。それがまた何と致した。」
「いや、何とも致さぬが、もしこの中に少納言殿の御内(みうち)でないものがいたと思え。そのものこそは天(あめ)が下(した)の阿呆(あほう)ものじゃ。」
若殿様はこう仰有(おっしゃ)って、美しい歯を御見せになりながら、肩を揺(ゆす)って御笑いになりました。これには命知らずの盗人たちも、しばらくは胆(きも)を奪われたのでございましょう。御胸に迫っていた太刀先さえ、この時はもう自然と、車の外の月明りへ引かれていたと申しますから。
「なぜと申せ。」と、若殿様は言葉を御継ぎになって、「予を殺害(せつがい)した暁には、その方どもはことごとく検非違使(けびいし)の目にかかり次第、極刑(ごっけい)に行わるべき奴ばらじゃ。元よりそれも少納言殿の御内のものなら、己(おの)が忠義に捨つる命じゃによって、定めて本望に相違はあるまい。が、さもないものがこの中にあって、わずかばかりの金銀が欲しさに、予が身を白刃に向けるとすれば、そやつは二つとない大事な命を、その褒美(ほうび)と換えようず阿呆ものじゃ。何とそう云う道理ではあるまいか。」
これを聞いた盗人たちは、今更のように顔を見合せたけはいでございましたが、平太夫(へいだゆう)だけは独り、気違いのように吼(たけ)り立って、
「ええ、何が阿呆ものじゃ。その阿呆ものの太刀にかかって、最期(さいご)を遂げる殿の方が、百層倍も阿呆ものじゃとは覚されぬか。」
「何、その方どもが阿呆ものだとな。ではこの中(うち)に少納言殿の御内でないものもいるのであろう。これは一段と面白うなって参った。さらばその御内でないものどもに、ちと申し聞かす事がある。その方どもが予を殺害しようとするのは、全く金銀が欲しさにする仕事であろうな。さて金銀が欲しいとあれば、予はその方どもに何なりと望み次第の褒美を取らすであろう。が、その代り予の方にもまた頼みがある。何と、同じ金銀のためにする事なら、褒美の多い予の方に味方して、利得を計ったがよいではないか。」
若殿様は鷹揚(おうよう)に御微笑なさりながら、指貫(さしぬき)の膝を扇で御叩きになって、こう車の外の盗人どもと御談じになりました。 
十五

 

「次第によっては、御意(ぎょい)通り仕(つかまつ)らぬものでもございませぬ。」
恐ろしいくらいひっそりと静まり返っていた盗人たちの中から、頭(かしら)だったのが半(なかば)恐る恐るこう御答え申し上げますと、若殿様は御満足そうに、はたはたと扇を御鳴らしになりながら、例の気軽な御調子で、
「それは重畳(ちょうじょう)じゃ。何、予が頼みと申しても、格別むずかしい儀ではない。それ、そこに居(お)る老爺(おやじ)は、少納言殿の御内人(みうちびと)で、平太夫(へいだゆう)と申すものであろう。巷(ちまた)の風聞(ふうぶん)にも聞き及んだが、そやつは日頃予に恨みを含んで、あわよくば予が命を奪おうなどと、大それた企てさえ致して居(お)ると申す事じゃ。さればその方どもがこの度の結構も、平太夫めに唆(そそのか)されて、事を挙げたのに相違あるまい。――」
「さようでございます。」
これは盗人たちが三四人、一度に覆面の下から申し上げました。
「そこで予が頼みと申すのは、その張本(ちょうぼん)の老爺(おやじ)を搦(から)めとって、長く禍の根を断ちたいのじゃが、何とその方どもの力で、平太夫めに縄をかけてはくれまいか。」
この御仰(おんおお)せには、盗人たちも、余りの事にしばらくの間は、呆れ果てたのでございましょう。車をめぐっていた覆面の頭(かしら)が、互に眼を見合わしながら、一しきりざわざわと動くようなけはいがございましたが、やがてそれがまた静かになりますと、突然盗人たちの唯中から、まるで夜鳥(よどり)の鳴くような、嗄(しわが)れた声が起りました。
「やい、ここなうっそりどもめ。まだ乳臭いこの殿の口車に乗せられ居って、抜いた白刃を持て扱うばかりか、おめおめ御意に従いましょうなどとは、どの面下げて申せた義理じゃ。よしよし、ならば己(おの)れらが手は借りぬわ。高がこの殿の命一つ、平太夫が太刀ばかりで、見事申し受けようも、瞬く暇じゃ。」
こう申すや否や平太夫は、太刀をまっこうにふりかざしながら、やにわに若殿様へ飛びかかろうと致しました。が、その飛びかかろうと致したのと、頭だった盗人が、素早く白刃を投げ出して、横あいからむずと組みついたのとが、ほとんど同時でございます。するとほかの盗人たちも、てんでに太刀を鞘におさめて、まるで蝗(いなむし)か何かのように、四方から平太夫へ躍りかかりました。何しろ多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)と云い、こちらは年よりの事でございますから、こうなっては勝負を争うまでもございません。たちまちの内にあの老爺(おやじ)は、牛の韁(はづな)でございましょう、有り合せた縄にかけられて、月明りの往来へ引き据えられてしまいました。その時の平太夫の姿と申しましたら、とんと穽(わな)にでもかかった狐のように、牙ばかりむき出して、まだ未練らしく喘(あえ)ぎながら、身悶えしていたそうでございます。
するとこれを御覧になった若殿様は、欠伸(あくび)まじりに御笑いになって、
「おお、大儀。大儀。それで予の腹も一先(ひとまず)癒えたと申すものじゃ。が、とてもの事に、その方どもは、予が車を警護旁(かたがた)、そこな老耄(おいぼれ)を引き立て、堀川の屋形(やかた)まで参ってくれい。」
こう仰有(おっしゃ)られて見ますと盗人たちも、今更いやとは申されません。そこで一同うち揃って、雑色(ぞうしき)がわりに牛を追いながら、縄つきを中にとりまいて、月夜にぞろぞろと歩きはじめました。天(あめ)が下(した)は広うございますが、かように盗人どもを御供に御つれ遊ばしたのは、まず若殿様のほかにはございますまい。もっともこの異様な行列も、御屋形まで参りつかない内に、急を聞いて駆けつけた私どもと出会いましたから、その場で面々御褒美を頂いた上、こそこそ退散致してしまいました。  
十六

 

さて若殿様は平太夫(へいだゆう)を御屋形へつれて御帰りになりますと、そのまま、御厩(おうまや)の柱にくくりつけて、雑色(ぞうしき)たちに見張りを御云いつけなさいましたが、翌朝は梶X(そうそう)あの老爺(おやじ)を、朝曇りの御庭先へ御召しになって、
「こりゃ平太夫、その方が少納言殿の御恨(おうらみ)を晴そうと致す心がけは、成程愚(おろか)には相違ないが、さればとてまた、神妙とも申されぬ事はない。殊にあの月夜に、覆面の者どもを駆り催して、予を殺害(せつがい)致そうと云う趣向のほどは、中々その方づれとも思われぬ風流さじゃ。が、美福門のほとりは、ちと場所がようなかったぞ。ならば糺(ただす)の森あたりの、老木(おいき)の下闇に致したかった。あすこは夏の月夜には、せせらぎの音が間近く聞えて、卯(う)の花の白く仄(ほのめ)くのも一段と風情(ふぜい)を添える所じゃ。もっともこれはその方づれに、望む予の方が、無理かも知れぬ。ついてはその殊勝なり、風流なのが目出たいによって、今度ばかりはその方の罪も赦(ゆる)してつかわす事にしよう。」
こう仰有(おっしゃ)って若殿様は、いつものように晴々と御笑いになりながら、
「その代りその方も、折角これまで参ったものじゃ。序(ついで)ながら予の文を、姫君のもとまで差上げてくれい。よいか。しかと申しつけたぞ。」
私はそのときの平太夫の顔くらい、世にも不思議なものを見た事はございません。あの意地の悪そうな、苦(にが)りきった面色(めんしょく)が、泣くとも笑うともつかない気色(けしき)を浮かべて、眼ばかりぎょろぎょろ忙(せわ)しそうに、働かせて居(お)るのでございます。するとその容子(ようす)が、笑止(しょうし)ながら気の毒に思召されたのでございましょう。若殿様は御笑顔(おえがお)を御やめになると、縄尻を控えていた雑色(ぞうしき)に、
「これ、これ、永居は平太夫の迷惑じゃ。すぐさま縄目を許してつかわすがよい。」と、難有(ありがた)い御諚(ごじょう)がございました。
それから間もなくの事でございます。一夜の内に腰さえ弓のように曲った平太夫は、若殿様の御文をつけた花橘(はなたちばな)の枝を肩にして、這々(ほうほう)裏の御門から逃げ出して参りました。所がその後からまた一人、そっと御門を出ましたのは、私の甥(おい)の侍で、これは万一平太夫が御文に無礼でも働いてはならないと、若殿様にも申し上げず、見え隠れにあの老爺(おやじ)の跡をつけたのでございます。
二人の間はおよその所、半町ばかりもございましたろうか。平太夫は気も心も緩みはてたかと思うばかり、跣足(はだし)を力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿若葉の(におい)のする、築土(ついじ)つづきの都大路(みやこおおじ)を、とぼとぼと歩いて参ります。途々通りちがう菜売りの女などが、稀有(けう)な文使(ふづか)いだとでも思いますのか、迂散(うさん)らしくふり返って、見送るものもございましたが、あの老爺(おやじ)はとんとそれにも目をくれる気色(けしき)はございません。
この調子ならまず何事もなかろうと、一時は私の甥も途中から引き返そうと致しましたが、よもやに引かされて、しばらくは猶も跡を慕って参りますと、丁度油小路(あぶらのこうじ)へ出ようと云う、道祖(さえ)の神の祠(ほこら)の前で、折からあの辻をこちらへ曲って出た、見慣れない一人の沙門(しゃもん)が、出合いがしらに平太夫と危くつき当りそうになりました。女菩薩(にょぼさつ)の幢(はた)、墨染の法衣(ころも)、それから十文字の怪しい護符、一目見て私の甥は、それが例の摩利信乃法師だと申す事に、気がついたそうでございます。  
十七

 

危くつき当りそうになった摩利信乃法師(まりしのほうし)は、咄嗟(とっさ)に身を躱(かわ)しましたが、なぜかそこに足を止めて、じっと平太夫(へいだゆう)の姿を見守りました。が、あの老爺(おやじ)はとんとそれに頓着する容子(ようす)もなく、ただ、二三歩譲っただけで、相不変(あいかわらず)とぼとぼと寂しい歩みを運んで参ります。さてはさすがの摩利信乃法師も、平太夫の異様な風俗を、不審に思ったものと見えると、こう私の甥は考えましたが、やがてその側まで参りますと、まだ我を忘れたように、道祖(さえ)の神の祠(ほこら)を後(うしろ)にして、佇(たたず)んでいる沙門の眼(ま)なざしが、いかに天狗の化身(けしん)とは申しながら、どうも唯事とは思われません。いや、反(かえ)ってその眼なざしには、いつもの気味の悪い光がなくて、まるで涙ぐんででもいるような、もの優しい潤いが、漂っているのでございます。それが祠の屋根へ枝をのばした、椎の青葉の影を浴びて、あの女菩薩の旗竿を斜(ななめ)に肩へあてながら、しげしげ向うを見送っていた立ち姿の寂しさは、一生の中にたった一度、私の甥にもあの沙門を懐しく思わせたとか申す事でございました。
が、その内に私の甥の足音に驚かされたのでございましょう。摩利信乃法師は夢のさめたように、慌しくこちらを振り向きますと、急に片手を高く挙げて、怪しい九字(くじ)を切りながら、何か咒文(じゅもん)のようなものを口の内に繰返して、堰X(そうそう)歩きはじめました。その時の咒文の中に、中御門(なかみかど)と云うような語(ことば)が聞えたと申しますが、それは事によると私の甥の耳のせいだったかもわかりません。元よりその間も平太夫の方は、やはり花橘の枝を肩にして、側目(わきめ)もふらず悄々(しおしお)と歩いて参ったのでございます。そこでまた私の甥も、見え隠れにその跡をつけて、とうとう西洞院(にしのとういん)の御屋形まで参ったそうでございますが、時にあの摩利信乃法師の不思議な振舞が気になって、若殿様の御文の事さえ、はては忘れそうになったくらい、落着かない心もちに苦しめられたとか申して居りました。
しかしその御文は恙(つつが)なく、御姫様の御手もとまでとどいたものと見えまして、珍しくも今度に限って早速御返事がございました。これは私ども下々(しもじも)には、何とも確かな事は申し上げる訳に参りませんが、恐らくは御承知の通り御闊達な御姫様の事でございますから、平太夫からあの暗討(やみう)ちの次第でも御聞きになって、若殿様の御(ご)気象の人に優れていらっしゃるのを、始めて御会得(ごえとく)になったからででもございましょうか。それから二三度、御消息を御取り交(かわ)せになった後、とうとうある小雨(こさめ)の降る夜、若殿様は私の甥を御供に召して、もう葉柳の陰に埋もれた、西洞院(にしのとういん)の御屋形へ忍んで御通いになる事になりました。こうまでなって見ますと、あの平太夫もさすがに我(が)が折れたのでございましょう。その夜も険しく眉をひそめて居りましたが、私の甥に向いましても、格別雑言(ぞうごん)などを申す勢いはなかったそうでございます。  
十八

 

その後(ご)若殿様はほとんど夜毎に西洞院(にしのとういん)の御屋形へ御通いになりましたが、時には私のような年よりも御供に御召しになった事がございました。私が始めてあの御姫様の、眩しいような御美しさを拝む事が出来ましたのも、そう云う折ふしの事でございます。一度などは御二人で、私を御側近く御呼びよせなさりながら、今昔(こんじゃく)の移り変りを話せと申す御意もございました。確か、その時の事でございましょう。御簾(みす)のひまから見える御池の水に、さわやかな星の光が落ちて、まだ散り残った藤(ふじ)の(におい)がかすかに漂って来るような夜でございましたが、その涼しい夜気の中に、一人二人の女房を御侍(おはべ)らせになって、もの静に御酒盛をなすっていらっしゃる御二方の美しさは、まるで倭絵(やまとえ)の中からでも、抜け出していらしったようでございました。殊に白い単衣襲(ひとえがさね)に薄色の袿(うちぎ)を召した御姫様の清らかさは、おさおさあの赫夜姫(かぐやひめ)にも御劣りになりはしますまい。
その内に御酒機嫌(ごしゅきげん)の若殿様が、ふと御姫様の方へ御向いなさりながら、
「今も爺(じい)の申した通り、この狭い洛中でさえ、桑海(そうかい)の変(へん)は度々(たびたび)あった。世間一切の法はその通り絶えず生滅遷流(せいめつせんりゅう)して、刹那も住(じゅう)すと申す事はない。されば無常経(むじょうきょう)にも『未[四]曾有[三]一事不[レ]被[二]無常呑[一](いまだかつていちじのむじょうにのまれざるはあらず)』と説かせられた。恐らくはわれらが恋も、この掟ばかりは逃れられまい。ただいつ始まっていつ終るか、予が気がかりなのはそれだけじゃ。」と、冗談のように仰有(おっしゃ)いますと、御姫様はとんと拗(す)ねたように、大殿油(おおとのあぶら)の明るい光をわざと御避けになりながら、
「まあ、憎らしい事ばかり仰有(おっしゃ)います。ではもう始めから私(わたくし)を、御捨てになる御心算(おつもり)でございますか。」と、優しく若殿様を御睨(おにら)みなさいました。が、若殿様は益(ますます)御機嫌よく、御盃を御干しになって、
「いや、それよりも始めから、捨てられる心算(つもり)で居(お)ると申した方が、一層予の心もちにはふさわしいように思われる。」
「たんと御弄(おなぶ)り遊ばしまし。」
御姫様はこう仰有って、一度は愛くるしく御笑いになりましたが、急にまた御簾(みす)の外の夜色(やしょく)へ、うっとりと眼を御やりになって、
「一体世の中の恋と申すものは、皆そのように果(はか)ないものでございましょうか。」と独り語(ごと)のように仰有いました。すると若殿様はいつもの通り、美しい歯を見せて、御笑いになりながら、
「されば果(はか)なくないとも申されまいな。が、われら人間が万法(ばんぽう)の無常も忘れはてて、蓮華蔵(れんげぞう)世界の妙薬をしばらくしたりとも味わうのは、ただ、恋をしている間だけじゃ。いや、その間だけは恋の無常さえ忘れていると申してもよい。じゃによって予が眼からは恋慕三昧(れんぼざんまい)に日を送った業平(なりひら)こそ、天晴(あっぱれ)知識じゃ。われらも穢土(えど)の衆苦を去って、常寂光(じょうじゃっこう)の中に住(じゅう)そうには伊勢物語をそのままの恋をするよりほかはあるまい。何と御身(おみ)もそうは思われぬか。」と、横合いから御姫様の御顔を御覗きになりました。 
十九

 

「されば恋の功徳(くどく)こそ、千万無量とも申してよかろう。」
やがて若殿様は、恥しそうに御眼を御伏せになった御姫様から、私の方へ、陶然となすった御顔を御向けになって、
「何と、爺(じい)もそう思うであろうな。もっともその方には恋とは申さぬ。が、好物(こうぶつ)の酒ではどうじゃ。」
「いえ、却々(なかなか)持ちまして、手前は後生(ごしょう)が恐ろしゅうございます。」
私が白髪(しらが)を掻きながら、慌ててこう御答え申しますと、若殿様はまた晴々と御笑いになって、
「いや、その答えが何よりじゃ。爺は後生が恐ろしいと申すが、彼岸(ひがん)に往生しょうと思う心は、それを暗夜(あんや)の燈火(ともしび)とも頼んで、この世の無常を忘れようと思う心には変りはない。じゃによってその方も、釈教(しゃっきょう)と恋との相違こそあれ、所詮は予と同心に極(きわ)まったぞ。」
「これはまた滅相な。成程御姫様の御美しさは、伎芸天女(ぎげいてんにょ)も及ばぬほどではございますが、恋は恋、釈教は釈教、まして好物の御酒(ごしゅ)などと、一つ際(ぎわ)には申せませぬ。」
「そう思うのはその方の心が狭いからの事じゃ。弥陀(みだ)も女人(にょにん)も、予の前には、皆われらの悲しさを忘れさせる傀儡(くぐつ)の類いにほかならぬ。――」
こう若殿様が御云い張りになると、急に御姫様は偸(ぬす)むように、ちらりとその方を御覧になりながら、
「それでも女子(おなご)が傀儡では、嫌じゃと申しは致しませぬか。」と、小さな御声で仰有いました。
「傀儡(くぐつ)で悪くば、仏菩薩(ぶつぼさつ)とも申そうか。」
若殿様は勢いよく、こう返事をなさいましたが、ふと何か御思い出しなすったように、じっと大殿油(おおとのあぶら)の火影(ほかげ)を御覧になると、
「昔、あの菅原雅平(すがわらまさひら)と親(したし)ゅう交っていた頃にも、度々このような議論を闘わせた。御身も知って居(お)られようが、雅平(まさひら)は予と違って、一図に信を起し易い、云わば朴直な生れがらじゃ。されば予が世尊金口(せそんこんく)の御経(おんきょう)も、実は恋歌(こいか)と同様じゃと嘲笑(あざわら)う度に腹を立てて、煩悩外道(ぼんのうげどう)とは予が事じゃと、再々悪(あ)しざまに罵り居った。その声さえまだ耳にあるが、当の雅平は行方(ゆくえ)も知れぬ。」と、いつになく沈んだ御声でもの思わしげに御呟(おつぶや)きなさいました。するとその御容子(ごようす)にひき入れられたのか、しばらくの間は御姫様を始め、私までも口を噤(つぐ)んで、しんとした御部屋の中には藤の花の(におい)ばかりが、一段と高くなったように思われましたが、それを御座(おざ)が白けたとでも、思ったのでございましょう。女房たちの一人が恐る恐る、
「では、この頃洛中に流行(はや)ります摩利の教とやら申すのも、やはり無常を忘れさせる新しい方便なのでございましょう。」と、御話の楔(くさび)を入れますと、もう一人の女房も、
「そう申せばあの教を説いて歩きます沙門には、いろいろ怪しい評判があるようでございませんか。」と、さも気味悪そうに申しながら、大殿油(おおとのあぶら)の燈心をわざとらしく掻立(かきた)てました。 
二十

 

「何、摩利(まり)の教。それはまた珍しい教があるものじゃ。」
何か御考えに耽っていらしった若殿様は、思い出したように、御盃を御挙げになると、その女房の方を御覧になって、
「摩利と申すからは、摩利支天(まりしてん)を祭る教のようじゃな。」
「いえ、摩利支天ならよろしゅうございますが、その教の本尊は、見慣れぬ女菩薩(にょぼさつ)の姿じゃと申す事でございます。」
「では、波斯匿王(はしのくおう)の妃(きさい)の宮であった、茉利(まり)夫人の事でも申すと見える。」
そこで私は先日神泉苑の外(そと)で見かけました、摩利信乃法師(まりしのほうし)の振舞を逐一御話し申し上げてから、
「その女菩薩の姿では、茉利夫人とやらのようでもございませぬ。いや、それよりはこれまでのどの仏菩薩の御像(おすがた)にも似ていないのでございます。別してあの赤裸(あかはだか)の幼子(おさなご)を抱(いだ)いて居(お)るけうとさは、とんと人間の肉を食(は)む女夜叉(にょやしゃ)のようだとも申しましょうか。とにかく本朝には類(たぐい)のない、邪宗の仏(ほとけ)に相違ございますまい。」と、私の量見を言上致しますと、御姫様は美しい御眉(おんまゆ)をそっと御ひそめになりながら、
「そうしてその摩利信乃法師とやら申す男は、真実天狗の化身(けしん)のように見えたそうな。」と、念を押すように御尋ねなさいました。
「さようでございます。風俗はとんと火の燃える山の中からでも、翼に羽搏(はう)って出て来たようでございますが、よもやこの洛中に、白昼さような変化(へんげ)の物が出没致す事はございますまい。」
すると若殿様はまた元のように、冴々(さえざえ)した御笑声(おわらいごえ)で、
「いや、何とも申されぬ。現に延喜(えんぎ)の御門(みかど)の御代(みよ)には、五条あたりの柿の梢に、七日(なのか)の間天狗が御仏(みほとけ)の形となって、白毫光(びゃくごうこう)を放ったとある。また仏眼寺(ぶつげんじ)の仁照阿闍梨(にんしょうあざり)を日毎に凌(りょう)じに参ったのも、姿は女と見えたが実は天狗じゃ。」
「まあ、気味の悪い事を仰有(おっしゃ)います。」
御姫様は元より、二人の女房も、一度にこう云って、襲(かさね)の袖を合せましたが、若殿様は、愈御酒(いよいよごしゅ)機嫌の御顔を御和(おやわら)げになって、
「三千世界は元より広大無辺じゃ。僅ばかりの人間の智慧(ちえ)で、ないと申される事は一つもない。たとえばその沙門に化けた天狗が、この屋形の姫君に心を懸けて、ある夜ひそかに破風(はふ)の空から、爪だらけの手をさしのべようも、全くない事じゃとは誰も云えぬ。が、――」と仰有(おっしゃ)りながら、ほとんど色も御変りにならないばかり、恐ろしげに御寄りそいになった御姫様の袿(うちぎ)の背を、やさしく御さすりになりながら、
「が、まだその摩利信乃法師とやらは、幸(さいわ)い、姫君の姿さえ垣間見(かいまみ)た事もないであろう。まず、それまでは魔道の恋が、成就する気づかいはよもあるまい。さればもうそのように、怖がられずとも大丈夫じゃ。」と、まるで子供をあやすように、笑って御慰めなさいました。  
二十一

 

それから一月ばかりと申すものは、何事もなくすぎましたが、やがて夏も真盛りのある日の事、加茂川(かもがわ)の水が一段と眩(まばゆ)く日の光を照り返して、炎天の川筋には引き舟の往来(ゆきき)さえとぎれる頃でございます。ふだんから釣の好きな私の甥は、五条の橋の下へ参りまして、河原蓬(かわらよもぎ)の中に腰を下しながら、ここばかりは涼風(すずかぜ)の通うのを幸と、水嵩(みかさ)の減った川に糸を下して、頻(しきり)に鮠(はえ)を釣って居りました。すると丁度頭の上の欄干で、どうも聞いた事のあるような話し声が致しますから、何気なく上を眺めますと、そこにはあの平太夫(へいだゆう)が高扇(たかおうぎ)を使いながら、欄干に身をよせかけて、例の摩利信乃法師(まりしのほうし)と一しょに、余念なく何事か話して居(お)るではございませんか。
それを見ますと私の甥は、以前油小路(あぶらのこうじ)の辻で見かけた、摩利信乃法師の不思議な振舞がふと心に浮びました。そう云えばあの時も、どうやら二人の間には、曰(いわ)くがあったようでもある。――こう私の甥は思いましたから、眼は糸の方へやっていても、耳は橋の上の二人の話を、じっと聞き澄まして居りますと、向うは人通りもほとんど途絶えた、日盛りの寂しさに心を許したのでございましょう。私の甥の居(お)る事なぞには、更に気のつく容子(ようす)もなく、思いもよらない、大それた事を話し合って居(お)るのでございます。
「あなた様がこの摩利の教を御拡(おひろ)めになっていらっしゃろうなどとは、この広い洛中で誰一人存じて居(お)るものはございますまい。私(わたくし)でさえあなた様が御自分でそう仰有(おっしゃ)るまでは、どこかで御見かけ申したとは思いながら、とんと覚えがございませんでした。それもまた考えて見れば、もっともな次第でございます。いつぞやの春の月夜に桜人(さくらびと)の曲を御謡いになった、あの御年若なあなた様と、ただ今こうして炎天に裸で御歩きになっていらっしゃる、慮外ながら天狗のような、見るのも凄じいあなた様と、同じ方でいらっしゃろうとは、あの打伏(うちふし)の巫子(みこ)に聞いて見ても、わからないのに相違ございません。」
こう平太夫(へいだゆう)が口軽く、扇の音と一しょに申しますと、摩利信乃法師はまるでまた、どこの殿様かと疑われる、鷹揚(おうよう)な言(ことば)つきで、
「わしもその方に会ったのは何よりも満足じゃ。いつぞや油小路(あぶらのこうじ)の道祖(さえ)の神の祠(ほこら)の前でも、ちらと見かけた事があったが、その方は側目(わきめ)もふらず、文をつけた橘の枝を力なくかつぎながら、もの思わしげにたどたどと屋形の方へ歩いて参った。」
「さようでございますか。それはまた年甲斐もなく、失礼な事を致したものでございます。」
平太夫はあの朝の事を思い出したのでございましょう。苦々しげにこう申しましたが、やがて勢いの好(よ)い扇の音が、再びはたはたと致しますと、
「しかしこうして今日(こんにち)御眼にかかれたのは、全く清水寺(きよみずでら)の観世音菩薩の御利益(ごりやく)ででもございましょう。平太夫一生の内に、これほど嬉しい事はございません。」
「いや、予が前で神仏(しんぶつ)の名は申すまい。不肖(ふしょう)ながら、予は天上皇帝の神勅を蒙って、わが日の本に摩利(まり)の教を布(し)こうと致す沙門の身じゃ。」  
二十二

 

急に眉をひそめたらしいけはいで、こう摩利信乃法師(まりしのほうし)が言(ことば)を挟みましたが、存外平太夫(へいだゆう)は恐れ入った気色(けしき)もなく、扇と舌と同じように働かせながら、
「成程さようでございましたな。平太夫も近頃はめっきり老耄(おいぼ)れたと見えまして、する事為す事ことごとく落度(おちど)ばかりでございます。いや、そう云う次第ならもうあなた様の御前(おまえ)では、二度と神仏の御名(みな)は口に致しますまい。もっとも日頃はこの老爺(おやじ)も、余り信心気(しんじんぎ)などと申すものがある方ではございません。それをただ今急に、観世音菩薩などと述べ立てましたのは、全く久しぶりで御目にかかったのが、嬉しかったからでございます。そう申せば姫君も、幼馴染のあなた様が御(ご)無事でいらっしゃると御聞きになったら、どんなにか御喜びになる事でございましょう。」と、ふだん私どもに向っては、返事をするのも面倒そうな、口の重い容子(ようす)とは打って変って、勢いよく、弁じ立てました。これにはあの摩利信乃法師も、返事のしようさえなさそうにしばらくはただ、頷(うなず)いてばかりいるようでございましたが、やがてその姫君と云う言(ことば)を機会(しお)に、
「さてその姫君についてじゃが、予は聊(いささ)か密々に御意(ぎょい)得たい仔細(しさい)がある。」と、云って、一段とまた声をひそめながら、
「何と平太夫、その方の力で夜分なりと、御目にかからせてはくれまいか。」
するとこの時橋の上では、急に扇の音が止んでしまいました。それと同時に私の甥は、危く欄干の方を見上げようと致しましたが、元より迂闊(うかつ)な振舞をしては、ここに潜んでいる事が見露(みあらわ)されないものでもございません。そこでやはり河原蓬(かわらよもぎ)の中を流れて行く水の面(おもて)を眺めたまま、息もつかずに上の容子へ気をくばって居りました。が、平太夫は今までの元気に引き換えて、容易に口を開きません。その間の長さと申しましたら、橋の下の私の甥(おい)には、体中の筋骨(すじぼね)が妙にむず痒(がゆ)くなったくらい、待ち遠しかったそうでございます。
「たとい河原とは申しながら、予も洛中に住まうものじゃ。堀川の殿がこの日頃、姫君のもとへしげしげと、通わるる趣も知っては居(お)る。――」
やがてまた摩利信乃法師は、相不変(あいかわらず)もの静かな声で、独り言のように言(ことば)を継(つ)ぐと、
「が、予は姫君が恋しゅうて、御意(ぎょい)得たいと申すのではない。予の業欲(ごうよく)に憧るる心は、一度唐土(ひとたびもろこし)にさすらって、紅毛碧眼の胡僧(こそう)の口から、天上皇帝の御教(みおしえ)を聴聞(ちょうもん)すると共に、滅びてしもうた。ただ、予が胸を痛めるのは、あの玉のような姫君も、この天地(あめつち)を造らせ給うた天上皇帝を知られぬ事じゃ。されば、神と云い仏(ほとけ)と云う天魔外道(てんまげどう)の類(たぐい)を信仰せられて、その形になぞらえた木石にも香花(こうげ)を供えられる。かくてはやがて命終(めいしゅう)の期(ご)に臨んで、永劫(えいごう)消えぬ地獄の火に焼かれ給うに相違ない。予はその事を思う度に、阿鼻大城(あびたいじょう)の暗の底へ逆落しに落ちさせらるる、あえかな姫君の姿さえありありと眼に浮んで来るのじゃ。現に昨夜(ゆうべ)も。――」
こう云いかけて、あの沙門はさも感慨に堪えないらしく、次第に力の籠って来た口をしばらくの間とざしました。 
二十三

 

「昨晩(ゆうべ)、何かあったのでございますか。」
ほど経て平太夫(へいだゆう)が、心配そうに、こう相手の言(ことば)を促しますと、摩利信乃法師(まりしのほうし)はふと我に返ったように、また元の静な声で、一言(ひとこと)毎に間を置きながら、
「いや、何もあったと申すほどの仔細はない。が、予は昨夜(ゆうべ)もあの菰(こも)だれの中で、独りうとうとと眠って居(お)ると、柳の五つ衣(ぎぬ)を着た姫君の姿が、夢に予の枕もとへ歩みよられた。ただ、現(うつつ)と異ったは、日頃つややかな黒髪が、朦朧と煙(けぶ)った中に、黄金(こがね)の釵子(さいし)が怪しげな光を放って居っただけじゃ。予は絶えて久しい対面の嬉しさに、『ようこそ見えられた』と声をかけたが、姫君は悲しげな眼を伏せて、予の前に坐られたまま、答えさえせらるる気色(けしき)はない。と思えば紅(くれない)の袴の裾に、何やら蠢(うごめ)いているものの姿が見えた。それが袴の裾ばかりか、よう見るに従って、肩にも居(お)れば、胸にも居る。中には黒髪の中にいて、えせ笑うらしいものもあった。――」
「と仰有っただけでは解(げ)せませんが、一体何が居ったのでございます。」
この時は平太夫も、思わず知らず沙門(しゃもん)の調子に釣り込まれてしまったのでございましょう。こう尋ねました声ざまには、もうさっきの気負った勢いも聞えなくなって居りました。が、摩利信乃法師は、やはりもの思わしげな口ぶりで、
「何が居ったと申す事は、予自身にもしかとはわからぬ。予はただ、水子(みずご)ほどの怪しげなものが、幾つとなく群って、姫君の身のまわりに蠢(うごめ)いているのを眺めただけじゃ。が、それを見ると共に、夢の中ながら予は悲しゅうなって、声を惜まず泣き叫んだ。姫君も予の泣くのを見て、頻(しきり)に涙を流される。それが久しい間続いたと思うたが、やがて、どこやらで鶏(とり)が啼いて、予の夢はそれぎり覚めてしもうた。」
摩利信乃法師がこう語り終りますと、今度は平太夫も口を噤(つぐ)んで、一しきりやめていた扇をまたも使い出しました。私の甥はその間中鉤(はり)にかかった鮠(はえ)も忘れるくらい、聞き耳を立てて居りましたが、この夢の話を聞いている中は、橋の下の涼しさが、何となく肌身にしみて、そう云う御姫様の悲しい御姿を、自分もいつか朧げに見た事があるような、不思議な気が致したそうでございます。
その内に橋の上では、また摩利信乃法師の沈んだ声がして、
「予はその怪しげなものを妖魔(ようま)じゃと思う。されば天上皇帝は、堕獄の業(ごう)を負わせられた姫君を憐れと見そなわして、予に教化(きょうげ)を施せと霊夢を賜ったのに相違ない。予がその方の力を藉りて、姫君に御意得たいと申すのは、こう云う仔細があるからじゃ。何と予が頼みを聞き入れてはくれまいか。」
それでもなお、平太夫はしばらくためらっていたようでございますが、やがて扇をつぼめたと思うと、それで欄干を丁(ちょう)と打ちながら、
「よろしゅうございます。この平太夫はいつぞや清水(きよみず)の阪の下で、辻冠者(つじかんじゃ)ばらと刃傷(にんじょう)を致しました時、すんでに命も取られる所を、あなた様の御かげによって、落ち延びる事が出来ました。その御恩を思いますと、あなた様の仰有(おっしゃ)る事に、いやと申せた義理ではございません。摩利(まり)の教とやらに御帰依なさるか、なさらないか、それは姫君の御意次第でございますが、久しぶりであなた様の御目にかかると申す事は、姫君も御嫌(おいや)ではございますまい。とにかく私の力の及ぶ限り、御対面だけはなされるように御取り計らい申しましょう。」  
二十四

 

その密談の仔細を甥の口から私が詳しく聞きましたのは、それから三四日たったある朝の事でございます。日頃は人の多い御屋形の侍所(さむらいどころ)も、その時は私共二人だけで、眩(まば)ゆく朝日のさした植込みの梅の青葉の間からは、それでも涼しいそよ風が、そろそろ動こうとする秋の心もちを時々吹いて参りました。
私の甥はその話を終ってから、一段と声をひそめますと、
「一体あの摩利信乃法師(まりしのほうし)と云う男が、どうして姫君を知って居(お)るのだか、それは元より私にも不思議と申すほかはありませんが、とにかくあの沙門(しゃもん)が姫君の御意を得るような事でもあると、どうもこの御屋形の殿様の御身の上には、思いもよらない凶変でも起りそうな不吉な気がするのです。が、このような事は殿様に申上げても、あの通りの御気象ですから、決して御取り上げにはならないのに相違ありません。そこで、私は私の一存で、あの沙門を姫君の御目にかかれないようにしようと思うのですが、叔父さんの御考えはどういうものでしょう。」
「それはわしも、あの怪しげな天狗法師などに姫君の御顔を拝ませたく無い。が、御主(おぬし)もわしも、殿様の御用を欠かぬ限りは、西洞院(にしのとういん)の御屋形の警護ばかりして居(お)る訳にも行かぬ筈じゃ。されば御主はあの沙門を、姫君の御身のまわりに、近づけぬと云うたにした所で。――」
「さあ。そこです。姫君の思召しも私共には分りませんし、その上あすこには平太夫(へいだゆう)と云う老爺(おやじ)も居りますから、摩利信乃法師が西洞院の御屋形に立寄るのは、迂闊(うかつ)に邪魔も出来ません。が、四条河原の蓆張(むしろば)りの小屋ならば、毎晩きっとあの沙門が寝泊りする所ですから、随分こちらの思案次第で、二度とあの沙門が洛中(らくちゅう)へ出て来ないようにすることも出来そうなものだと思うのです。」
「と云うて、あの小屋で見張りをしてる訳にも行くまい。御主(おぬし)の申す事は、何やら謎めいた所があって、わしのような年寄りには、十分に解(げ)し兼ねるが、一体御主はあの摩利信乃法師をどうしようと云う心算(つもり)なのじゃ。」
私が不審(ふしん)そうにこう尋ねますと、私の甥はあたかも他聞を憚(はばか)るように、梅の青葉の影がさして居る部屋の前後へ目をくばりながら、私の耳へ口を附けて、
「どうすると云うて、ほかに仕方のある筈がありません。夜更けにでも、そっと四条河原へ忍んで行って、あの沙門の息の根を止めてしまうばかりです。」
これにはさすがの私もしばらくの間は呆れ果てて、二の句をつぐ事さえ忘れて居りましたが、甥は若い者らしい、一図に思いつめた調子で、
「何、高があの通りの乞食(こつじき)法師です。たとい加勢の二三人はあろうとも、仕止めるのに造作(ぞうさ)はありますまい。」
「が、それはどうもちと無法なようじゃ。成程あの摩利信乃法師は邪宗門(じゃしゅうもん)を拡めては歩いて居ようが、そのほかには何一つ罪らしい罪も犯して居らぬ。さればあの沙門を殺すのは、云わば無辜(むこ)を殺すとでも申そう。――」
「いや、理窟はどうでもつくものです。それよりももしあの沙門が、例の天上皇帝の力か何か藉(か)りて、殿様や姫君を呪(のろ)うような事があったとして御覧なさい。叔父さん始め私まで、こうして禄を頂いている甲斐がないじゃありませんか。」
私の甥は顔を火照(ほて)らせながら、どこまでもこう弁じつづけて、私などの申す事には、とんと耳を藉しそうな気色(けしき)さえもございません。――すると丁度そこへほかの侍たちが、扇の音をさせながら、二三人はいって参りましたので、とうとうこの話もその場限り、御流(おながれ)になってしまいました。 
二十五

 

それからまた、三四日はすぎたように覚えて居ります。ある星月夜(ほしづくよ)の事でございましたが、私は甥(おい)と一しょに更闌(こうた)けてから四条河原へそっと忍んで参りました。その時でさえまだ私には、あの天狗法師を殺そうと云う心算(つもり)もなし、また殺す方がよいと云う気もあった訳ではございません。が、どうしても甥が初の目ろみを捨てないのと、甥を一人やる事がなぜか妙に気がかりだったのとで、とうとう私までが年甲斐もなく、河原蓬(かわらよもぎ)の露に濡れながら、摩利信乃法師(まりしのほうし)の住む小屋を目がけて、窺(うかが)いよることになったのでございます。
御承知の通りあの河原には、見苦しい非人(ひにん)小屋が、何軒となく立ち並んで居りますが、今はもうここに多い白癩(びゃくらい)の乞食(こつじき)たちも、私などが思いもつかない、怪しげな夢をむすびながら、ぐっすり睡入(ねい)って居(お)るのでございましょう。私と甥とが足音を偸(ぬす)み偸み、静にその小屋の前を通りぬけました時も、蓆壁(むしろかべ)の後(うしろ)にはただ、高鼾(たかいびき)の声が聞えるばかり、どこもかしこもひっそりと静まり返って、たった一所(ひとところ)焚き残してある芥火(あくたび)さえ、風もないのか夜空へ白く、まっすぐな煙(けぶり)をあげて居ります。殊にその煙の末が、所斑(ところはだら)な天の川と一つでいるのを眺めますと、どうやら数え切れない星屑が、洛中の天を傾けて、一尺ずつ一寸ずつ、辷る音まではっきりと聞きとれそうに思われました。
その中に私の甥は、兼ねて目星をつけて置いたのでございましょう、加茂川(かもがわ)の細い流れに臨んでいる、菰(こも)だれの小屋の一つを指さしますと、河原蓬の中に立ったまま、私の方をふり向きまして、「あれです。」と、一言(ひとこと)申しました。折からあの焚き捨てた芥火(あくたび)が、まだ焔の舌を吐いているそのかすかな光に透かして見ますと、小屋はどれよりも小さいくらいで、竹の柱も古蓆(ふるむしろ)の屋根も隣近所と変りはございませんが、それでもその屋根の上には、木の枝を組んだ十文字の標(しるし)が、夜目にもいかめしく立って居ります。
「あれか。」
私は覚束(おぼつか)ない声を出して、何と云う事もなくこう問い返しました。実際その時の私には、まだ摩利信乃法師を殺そうとも、殺すまいとも、はっきりした決断がつかずにいたのでございます。が、そう云う内にも私の甥が、今度はふり向くらしい容子(ようす)もなく、じっとその小屋を見守りながら、
「そうです。」と、素っ気なく答える声を聞きますと、愈太刀(いよいよたち)へ血をあやす時が来たと云う、何とも云いようのない心もちで、思わず総身がわななきました。すると甥は早くも身仕度を整えたものと見えて、太刀の目釘を叮嚀に潤(しめ)しますと、まるで私には目もくれず、そっと河原を踏み分けながら、餌食(えじき)を覗う蜘蛛(くも)のように、音もなく小屋の外へ忍びよりました。いや全く芥火の朧げな光のさした、蓆壁にぴったり体をよせて、内のけはいを窺っている私の甥の後姿は、何となく大きな蜘蛛のような気味の悪いものに見えたのでございます。  
二十六

 

が、こう云う場合に立ち至ったからは、元よりこちらも手を束(つか)ねて、見て居(お)る訳には参りません。そこで水干(すいかん)の袖を後で結ぶと、甥の後(うしろ)から私も、小屋の外へ窺(うかが)いよって、蓆の隙から中の容子を、じっと覗きこみました。
するとまず、眼に映ったのは、あの旗竿に掲げて歩く女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)でございます。それが今は、向うの蓆壁にかけられて、形ははっきりと見えませんが、入口の菰(こも)を洩れる芥火(あくたび)の光をうけて、美しい金の光輪ばかりが、まるで月蝕(げっしょく)か何かのように、ほんのり燦(きら)めいて居りました。またその前に横になって居りますのは、昼の疲れに前後を忘れた摩利信乃法師(まりしのほうし)でございましょう。それからその寝姿を半蔽(なかばおお)っている、着物らしいものが見えましたが、これは芥火に反(そむ)いているので、噂に聞く天狗の翼だか、それとも天竺(てんじく)にあると云う火鼠(ひねずみ)の裘(けごろも)だかわかりません。――
この容子を見た私どもは、云わず語らず両方から沙門(しゃもん)の小屋を取囲んで、そっと太刀の鞘(さや)を払いました。が、私は初めからどうも妙な気おくれが致していたからでございましょう。その拍子に手もとが狂って、思わず鋭い鍔音(つばおと)を響かせてしまったのではございませんか。すると私が心の中で、はっと思う暇(いとま)さえなく、今まで息もしなかった菰だれの向うの摩利信乃法師が、たちまち身を起したらしいけはいを見せて、
「誰じゃ。」と、一声咎(とが)めました。もうこうなっては、甥を始め、私までも騎虎(きこ)の勢いで、どうしてもあの沙門を、殺すよりほかはございません。そこでその声がするや否や、前と後と一斉に、ものも云わずに白刃(しらは)をかざして、いきなり小屋の中へつきこみました。その白刃の触れ合う音、竹の柱の折れる音、蓆壁の裂け飛ぶ音、――そう云う物音が凄じく、一度に致したと思いますと、矢庭に甥が、二足三足後(うしろ)の方へ飛びすさって、「おのれ、逃がしてたまろうか。」と、太刀をまっこうにふりかざしながら、苦しそうな声でおめきました。その声に驚いて私も素早く跳(は)ねのきながら、まだ燃えている芥火の光にきっと向うを透かして見ますと、まあ、どうでございましょう。粉微塵になった小屋の前には、あの無気味な摩利信乃法師が、薄色の袿(うちぎ)を肩にかけて、まるで猿(ましら)のように身をかがめながら、例の十文字の護符(ごふ)を額にあてて、じっと私どもの振舞を窺っているのでございます。これを見た私は、元よりすぐにも一刀浴びせようとあせりましたが、どう云うものか、あの沙門(しゃもん)の身をかがめたまわりには、自然と闇が濃くなるようで、容易に飛びかかる隙(すき)がございません。あるいはその闇の中に、何やら目に見えぬものが渦巻くようで、太刀の狙(ねら)いが定まらなかったとも申しましょうか。これは甥も同じ思いだったものと見えて、時々喘(あえ)ぐように叫びますが、白刃はいつまでもその頭(かしら)の上に目まぐるしくくるくると輪ばかり描(か)いて居りました。  
二十七

 

その中に摩利信乃法師(まりしのほうし)は、徐(おもむろ)に身を起しますと、十文字の護符を左右にふり立てながら、嵐の叫ぶような凄い声で、
「やい。おのれらは勿体(もったい)なくも、天上皇帝の御威徳を蔑(ないがしろ)に致す心得か。この摩利信乃法師が一身は、おのれらの曇った眼には、ただ、墨染の法衣(ころも)のほかに蔽うものもないようじゃが、真(まこと)は諸天童子の数を尽して、百万の天軍が守って居(お)るぞよ。ならば手柄(てがら)にその白刃(しらは)をふりかざして、法師の後(うしろ)に従うた聖衆(しょうじゅ)の車馬剣戟と力を競うて見るがよいわ。」と、末は嘲笑(あざわら)うように罵りました。
元よりこう嚇(おど)されても、それに悸毛(おぞけ)を震う様な私どもではございません。甥と私とはこれを聞くと、まるで綱を放れた牛のように、両方からあの沙門を目蒐(めが)けて斬ってかかりました。いや、将(まさ)に斬ってかかろうとしたとでも申しましょうか。と申しますのは、私どもが太刀をふりかぶった刹那に、摩利信乃法師が十文字の護符を、一しきりまた頭(かしら)の上で、振りまわしたと思いますと、その護符の金色(こんじき)が、稲妻のように宙へ飛んで、たちまち私どもの眼の前へは、恐ろしい幻が現れたのでございます。ああ、あの恐しい幻は、どうして私などの口の先で、御話し申す事が出来ましょう。もし出来たと致しましても、それは恐らく麒麟(きりん)の代りに、馬を指(さ)して見せると大した違いはございますまい。が、出来ないながら申上げますと、最初あの護符が空へあがった拍子に、私は河原の闇が、突然摩利信乃法師の後だけ、裂け飛んだように思いました。するとその闇の破れた所には、数限りもない焔(ほのお)の馬や焔の車が、竜蛇のような怪しい姿と一しょに、雨より急な火花を散らしながら、今にも私共の頭上をさして落ちかかるかと思うばかり、天に溢れてありありと浮び上ったのでございます。と思うとまた、その中に旗のようなものや、剣(つるぎ)のようなものも、何千何百となく燦(きらめ)いて、そこからまるで大風(おおかぜ)の海のような、凄じいもの音が、河原の石さえ走らせそうに、どっと沸(わ)き返って参りました。それを後に背負いながら、やはり薄色の袿(うちぎ)を肩にかけて、十文字の護符をかざしたまま、厳(おごそか)に立っているあの沙門(しゃもん)の異様な姿は、全くどこかの大天狗が、地獄の底から魔軍を率いて、この河原のただ中へ天下(あまくだ)ったようだとでも申しましょうか。――
私どもは余りの不思議に、思わず太刀を落すや否や、頭(かしら)を抱えて右左へ、一たまりもなくひれ伏してしまいました。するとその頭(かしら)の空に、摩利信乃法師の罵る声が、またいかめしく響き渡って、
「命が惜しくば、その方どもも天上皇帝に御詫(おわび)申せ。さもない時は立ちどころに、護法百万の聖衆(しょうじゅ)たちは、その方どもの臭骸(しゅうがい)を段々壊(だんだんえ)に致そうぞよ。」と、雷(いかずち)のように呼(よば)わります。その恐ろしさ、物凄さと申しましたら、今になって考えましても、身ぶるいが出ずには居(お)られません。そこで私もとうとう我慢が出来なくなって、合掌した手をさし上げながら、眼をつぶって恐る恐る、「南無(なむ)天上皇帝」と称(とな)えました。  
二十八

 

それから先の事は、申し上げるのさえ、御恥しいくらいでございますから、なる可く手短に御話し致しましょう。私共が天上皇帝を祈りましたせいか、あの恐ろしい幻は間もなく消えてしまいましたが、その代り太刀音を聞いて起て来た非人(ひにん)たちが、四方から私どもをとり囲みました。それがまた、大抵(たいてい)は摩利(まり)の教の信者たちでございますから、私どもが太刀を捨ててしまったのを幸に、いざと云えば手ごめにでもし兼ねない勢いで、口々に凄じく罵り騒ぎながら、まるで穽(わな)にかかった狐(きつね)でも見るように、男も女も折り重なって、憎さげに顔を覗きこもうとするのでございます。その何人とも知れない白癩(びゃくらい)どもの面(おもて)が、新に燃え上った芥火(あくたび)の光を浴びて、星月夜(ほしづくよ)も見えないほど、前後左右から頸(うなじ)をのばした気味悪さは、到底この世のものとは思われません。
が、その中でもさすがに摩利信乃法師(まりしのほうし)は、徐(おもむろ)に哮(たけ)り立つ非人たちを宥(なだ)めますと、例の怪しげな微笑を浮べながら、私どもの前へ進み出まして、天上皇帝の御威徳の難有(ありがた)い本末(もとすえ)を懇々と説いて聴かせました。が、その間も私の気になって仕方がなかったのは、あの沙門の肩にかかっている、美しい薄色の袿(うちぎ)の事でございます。元より薄色の袿と申しましても、世間に類(たぐい)の多いものではございますが、もしやあれは中御門(なかみかど)の姫君の御召し物ではございますまいか。万一そうだと致しましたら、姫君はもういつの間にか、あの沙門(しゃもん)と御対面になったのでございましょうし、あるいはその上に摩利(まり)の教も、御帰依なすってしまわないとは限りません。こう思いますと私は、おちおち相手の申します事も、耳にはいらないくらいでございましたが、うっかりそんな素振(そぶり)を見せましては、またどんな恐ろしい目に遇わされないものでもございますまい。しかも摩利信乃法師の容子(ようす)では、私どももただ、神仏を蔑(なみ)されるのが口惜(くちお)しいので、闇討をしかけたものだと思ったのでございましょう。幸い、堀川の若殿様に御仕え申している事なぞは、気のつかないように見えましたから、あの薄色の袿(うちぎ)にも、なるべく眼をやらないようにして、河原の砂の上に坐ったまま、わざと神妙にあの沙門の申す事を聴いて居(お)るらしく装いました。
するとそれが先方には、いかにも殊勝(しゅしょう)げに見えたのでございましょう。一通り談義めいた事を説いて聴かせますと、摩利信乃法師は顔色を和(やわら)げながら、あの十文字の護符を私どもの上にさしかざして、
「その方どもの罪業(ざいごう)は無知蒙昧(もうまい)の然らしめた所じゃによって、天上皇帝も格別の御宥免(ごゆうめん)を賜わせらるるに相違あるまい。さればわしもこの上なお、叱り懲(こら)そうとは思うて居ぬ。やがてはまた、今夜の闇討が縁となって、その方どもが摩利の御教(みおしえ)に帰依し奉る時も参るであろう。じゃによってその時が参るまでは、一先(ひとまず)この場を退散致したが好(よ)い。」と、もの優しく申してくれました。もっともその時でさえ、非人たちは、今にも掴みかかりそうな、凄じい気色を見せて居りましたが、これもあの沙門の鶴の一声で、素直に私どもの帰る路を開いてくれたのでございます。
そこで私と甥とは、太刀を鞘におさめる間(ま)も惜しいように、梶X(そうそう)四条河原から逃げ出しました。その時の私の心もちと申しましたら、嬉しいとも、悲しいとも、乃至(ないし)はまた残念だとも、何ともお話しの致しようがございません。でございますから河原が遠くなって、ただ、あの芥火の赤く揺(ゆら)めくまわりに、白癩どもが蟻(あり)のように集って、何やら怪しげな歌を唄って居りますのが、かすかに耳へはいりました時も、私どもは互の顔さえ見ずに、黙って吐息(といき)ばかりつきながら、歩いて行ったものでございます。  
二十九

 

それ以来私どもは、よるとさわると、額を鳩(あつ)めて、摩利信乃法師(まりしのほうし)と中御門(なかみかど)の姫君とのいきさつを互に推量し合いながら、どうかしてあの天狗法師を遠ざけたいと、いろいろ評議を致しましたが、さて例の恐ろしい幻の事を思い出しますと、容易に名案も浮びません。もっとも甥(おい)の方は私より若いだけに、まだ執念深く初一念を捨てないで、場合によったら平太夫(へいだゆう)のしたように、辻冠者どもでも駆り集めたら、もう一度四条河原の小屋を劫(おびやか)そうくらいな考えがあるようでございました。所がその中に、思いもよらず、また私どもは摩利信乃法師の神変不思議な法力(ほうりき)に、驚くような事が出来たのでございます。
それはもう秋風の立ち始めました頃、長尾(ながお)の律師様(りっしさま)が嵯峨(さが)に阿弥陀堂(あみだどう)を御建てになって、その供養(くよう)をなすった時の事でございます。その御堂(みどう)も只今は焼けてございませんが、何しろ国々の良材を御集めになった上に、高名(こうみょう)な匠(たくみ)たちばかり御召しになって、莫大(ばくだい)な黄金(こがね)も御かまいなく、御造りになったものでございますから、御規模こそさのみ大きくなくっても、その荘厳を極めて居りました事は、ほぼ御推察が参るでございましょう。
別してその御堂供養(みどうくよう)の当日は、上達部殿上人(かんだちめてんじょうびと)は申すまでもなく、女房たちの参ったのも数限りないほどでございましたから、東西の廊に寄せてあるさまざまの車と申し、その廊廊の桟敷(さじき)をめぐった、錦の縁(へり)のある御簾(みす)と申し、あるいはまた御簾際になまめかしくうち出した、萩(はぎ)、桔梗(ききょう)、女郎花(おみなえし)などの褄(つま)や袖口の彩りと申し、うららかな日の光を浴びた、境内(けいだい)一面の美しさは、目(ま)のあたりに蓮華宝土(れんげほうど)の景色を見るようでございました。それから、廊に囲まれた御庭の池にはすきまもなく、紅蓮白蓮(ぐれんびゃくれん)の造り花が簇々(ぞくぞく)と咲きならんで、その間を竜舟(りゅうしゅう)が一艘(いっそう)、錦の平張(ひらば)りを打ちわたして、蛮絵(ばんえ)を着た童部(わらべ)たちに画棹(がとう)の水を切らせながら、微妙な楽の音(ね)を漂わせて、悠々と動いて居りましたのも、涙の出るほど尊げに拝まれたものでございます。
まして正面を眺めますと、御堂(みどう)の犬防(いぬふせ)ぎが燦々と螺鈿(らでん)を光らせている後には、名香の煙(けぶり)のたなびく中に、御本尊の如来を始め、勢至観音(せいしかんのん)などの御(おん)姿が、紫磨黄金(しまおうごん)の御(おん)顔や玉の瓔珞(ようらく)を仄々(ほのぼの)と、御現しになっている難有(ありがた)さは、また一層でございました。その御仏(みほとけ)の前の庭には、礼盤(らいばん)を中に挟(はさ)みながら、見るも眩(まばゆ)い宝蓋の下に、講師読師(とくし)の高座がございましたが、供養(くよう)の式に連っている何十人かの僧どもも、法衣(ころも)や袈裟(けさ)の青や赤がいかにも美々しく入り交って、経を読む声、鈴(れい)を振る音、あるいは栴檀沈水(せんだんちんすい)の香(かおり)などが、その中から絶え間なく晴れ渡った秋の空へ、うらうらと昇って参ります。
するとその供養のまっ最中、四方の御門の外に群って、一目でも中の御容子(ごようす)を拝もうとしている人々が、俄(にわか)に何事が起ったのか、見る見るどっとどよみ立って、まるで風の吹き出した海のように、押しつ押されつし始めました。  
三十

 

この騒ぎを見た看督長(かどのおさ)は、早速そこへ駈けつけて、高々と弓をふりかざしながら、御門(ごもん)の中(うち)へ乱れ入った人々を、打ち鎮めようと致しました。が、その人波の中を分けて、異様な風俗の沙門(しゃもん)が一人、姿を現したと思いますと、看督長はたちまち弓をすてて、往来の遮(さまたげ)をするどころか、そのままそこへひれ伏しながら、まるで帝(みかど)の御出ましを御拝み申す時のように、礼を致したではございませんか。外の騒動に気をとられて、一しきりざわめき立った御門の中が、急にひっそりと静まりますと、また「摩利信乃法師(まりしのほうし)、摩利信乃法師」と云う囁き声が、丁度蘆(あし)の葉に渡る風のように、どこからともなく起ったのは、この時の事でございます。
摩利信乃法師は、今日も例の通り、墨染の法衣(ころも)の肩へ長い髪を乱しながら、十文字の護符の黄金(こがね)を胸のあたりに燦(きらめ)かせて、足さえ見るも寒そうな素跣足(すはだし)でございました。その後(うしろ)にはいつもの女菩薩(にょぼさつ)の幢(はた)が、秋の日の光の中にいかめしく掲げられて居りましたが、これは誰か供のものが、さしかざしてでもいたのでございましょう。
「方々(かたがた)にもの申そう。これは天上皇帝の神勅を賜わって、わが日の本に摩利の教を布(し)こうずる摩利信乃法師と申すものじゃ。」
あの沙門は悠々と看督長(かどのおさ)の拝に答えてから、砂を敷いた御庭の中へ、恐れげもなく進み出て、こう厳(おごそか)な声で申しました。それを聞くと御門の中は、またざわめきたちましたが、さすがに検非違使(けびいし)たちばかりは、思いもかけない椿事(ちんじ)に驚きながらも、役目は忘れなかったのでございましょう。火長(かちょう)と見えるものが二三人、手に手を得物提(えものひっさ)げて、声高(こわだか)に狼藉(ろうぜき)を咎めながら、あの沙門へ走りかかりますと、矢庭に四方から飛びかかって、搦(から)め取ろうと致しました。が、摩利信乃法師は憎さげに、火長たちを見やりながら、
「打たば打て。取らば取れ。但(ただし)、天上皇帝の御罰は立ち所に下ろうぞよ。」と、嘲笑(あざわら)うような声を出しますと、その時胸に下っていた十文字の護符が日を受けて、眩(まぶし)くきらりと光ると同時に、なぜか相手は得物を捨てて、昼雷(ひるかみなり)にでも打たれたかと思うばかり、あの沙門の足もとへ、転(まろ)び倒れてしまいました。
「如何に方々。天上皇帝の御威徳は、ただ今目(ま)のあたりに見られた如くじゃ。」
摩利信乃法師は胸の護符を外して、東西の廊へ代る代る、誇らしげにさしかざしながら、
「元よりかような霊験(れいげん)は不思議もない。そもそも天上皇帝とは、この天地(あめつち)を造らせ給うた、唯一不二(ゆいいつふじ)の大御神(おおみかみ)じゃ。この大御神を知らねばこそ、方々はかくも信心の誠を尽して、阿弥陀如来なんぞと申す妖魔(ようま)の類(たぐい)を事々しく、供養せらるるげに思われた。」
この暴言にたまり兼ねたのでございましょう。さっきから誦経(ずきょう)を止めて、茫然と事の次第を眺めていた僧たちは、俄(にわか)にどよめきを挙げながら、「打ち殺せ」とか「搦(から)め取れ」とかしきりに罵り立てましたが、さて誰一人として席を離れて、摩利信乃法師を懲(こら)そうと致すものはございません。 
三十一

 

すると摩利信乃法師(まりしのほうし)は傲然と、その僧たちの方を睨(ね)めまわして、
「過てるを知って憚(はばか)る事勿(ことなか)れとは、唐国(からくに)の聖人も申された。一旦、仏菩薩の妖魔たる事を知られたら、梶X(そうそう)摩利の教に帰依あって、天上皇帝の御威徳を讃(たた)え奉るに若(し)くはない。またもし、摩利信乃法師の申し条に疑いあって、仏菩薩が妖魔か、天上皇帝が邪神か、決定(けつじょう)致し兼ぬるとあるならば、いかようにも法力(ほうりき)を較(くら)べ合せて、いずれが正法(しょうぼう)か弁別申そう。」と、声も荒らかに呼ばわりました。
が、何しろただ今も、検非違使(けびいし)たちが目(ま)のあたりに、気を失って倒れたのを見て居(お)るのでございますから、御簾(みす)の内も御簾の外も、水を打ったように声を呑んで、僧俗ともに誰一人、進んであの沙門の法力を試みようと致すものは見えません。所詮は長尾(ながお)の僧都(そうず)は申すまでもなく、その日御見えになっていらしった山の座主(ざす)や仁和寺(にんなじ)の僧正(そうじょう)も、現人神(あらひとがみ)のような摩利信乃法師に、胆(きも)を御挫(くじ)かれになったのでございましょう。供養の庭はしばらくの間、竜舟(りゅうしゅう)の音楽も声を絶って、造り花の蓮華にふる日の光の音さえ聞えたくらい、しんと静まり返ってしまいました。
沙門はそれにまた一層力を得たのでございましょう。例の十文字の護符をさしかざして、天狗(てんぐ)のように嘲笑(あざわら)いますと、
「これはまた笑止千万な。南都北嶺とやらの聖(ひじり)僧たちも少からぬように見うけたが、一人(ひとり)としてこの摩利信乃法師と法力を較べようずものも現れぬは、さては天上皇帝を始め奉り、諸天童子の御神光(ごしんこう)に恐れをなして、貴賤老若(ろうにゃく)の嫌いなく、吾が摩利の法門に帰依し奉ったものと見える。さらば此場において、先ず山の座主(ざす)から一人一人灌頂(かんちょう)の儀式を行うてとらせようか。」と、威丈高(いたけだか)に罵りました。
所がその声がまだ終らない中に、西の廊からただ一人、悠然と庭へ御下りになった、尊げな御僧(ごそう)がございます。金襴(きんらん)の袈裟(けさ)、水晶の念珠(ねんず)、それから白い双の眉毛――一目見ただけでも、天(あめ)が下(した)に功徳無量(くどくむりょう)の名を轟かせた、横川(よかわ)の僧都(そうず)だと申す事は疑おうようもございません。僧都は年こそとられましたが、たぶたぶと肥え太った体を徐(おもむろ)に運びながら、摩利信乃法師の眼の前へ、おごそかに歩みを止めますと、
「こりゃ下郎(げろう)。ただ今もその方が申す如く、この御堂(みどう)供養の庭には、法界(ほっかい)の竜象(りゅうぞう)数を知らず並み居られるには相違ない。が、鼠に抛(なげう)つにも器物(うつわもの)を忌(い)むの慣い、誰かその方如き下郎(げろう)づれと、法力の高下を競わりょうぞ。さればその方は先ず己を恥じて、梶X(そうそう)この宝前を退散す可き分際ながら、推して神通(じんずう)を較べようなどは、近頃以て奇怪至極(きっかいしごく)じゃ。思うにその方は何処(いずこ)かにて金剛邪禅(こんごうじゃぜん)の法を修した外道(げどう)の沙門と心得る。じゃによって一つは三宝の霊験(れいげん)を示さんため、一つはその方の魔縁に惹(ひ)かれて、無間地獄(むげんじごく)に堕ちようず衆生(しゅじょう)を救うてとらさんため、老衲(ろうのう)自らその方と法験(ほうげん)を較べに罷(まか)り出(いで)た。たといその方の幻術がよく鬼神を駆り使うとも、護法の加護ある老衲には一指を触るる事すらよも出来まい。されば仏力(ぶつりき)の奇特(きどく)を見て、その方こそ受戒致してよかろう。」と、大獅子孔(だいししく)を浴せかけ、たちまち印(いん)を結ばれました。 
三十二

 

するとその印を結んだ手の中(うち)から、俄(にわか)に一道の白気(はっき)が立上(たちのぼ)って、それが隠々と中空(なかぞら)へたなびいたと思いますと、丁度僧都(そうず)の頭(かしら)の真上に、宝蓋(ほうがい)をかざしたような一団の靄(もや)がたなびきました。いや、靄と申したのでは、あの不思議な雲気(うんき)の模様が、まだ十分御会得(ごえとく)には参りますまい。もしそれが靄だったと致しましたら、その向うにある御堂(みどう)の屋根などは霞んで見えない筈でございますが、この雲気はただ、虚空(こくう)に何やら形の見えぬものが蟠(わだか)まったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ、元の通り朗かに見透かされたのでございます。
御庭をめぐっていた人々は、いずれもこの雲気に驚いたのでございましょう。またどこからともなく風のようなざわめきが、御簾(みす)を動かすばかり起りましたが、その声のまだ終らない中に、印を結び直した横川(よかわ)の僧都(そうず)が、徐(おもむろ)に肉(しし)の余った顎(おとがい)を動かして、秘密の呪文(じゅもん)を誦(ず)しますと、たちまちその雲気の中に、朦朧とした二尊の金甲神(きんこうじん)が、勇ましく金剛杵(こんごうしょ)をふりかざしながら、影のような姿を現しました。これもあると思えばあり、ないと思えばないような幻ではございます。が、その宙を踏んで飛舞(ひぶ)する容子(ようす)は、今しも摩利信乃法師(まりしのほうし)の脳上へ、一杵(いっしょ)を加えるかと思うほど、神威を帯びて居ったのでございます。
しかし当の摩利信乃法師は、不相変(あいかわらず)高慢の面(おもて)をあげて、じっとこの金甲神(きんこうじん)の姿を眺めたまま、眉毛一つ動かそうとは致しません。それどころか、堅く結んだ唇のあたりには、例の無気味(ぶきみ)な微笑の影が、さも嘲りたいのを堪(こら)えるように、漂って居(お)るのでございます。するとその不敵な振舞に腹を据え兼ねたのでございましょう。横川(よかわ)の僧都は急に印を解いて、水晶の念珠(ねんず)を振りながら、
「叱(しっ)。」と、嗄(しわが)れた声で大喝しました。
その声に応じて金甲神(きんこうじん)が、雲気と共に空中から、舞下(まいくだ)ろうと致しましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護符を額に当てながら、何やら鋭い声で叫びましたのとが、全く同時でございます。この拍子に瞬く間、虹のような光があって空へ昇ったと見えましたが、金甲神の姿は跡もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰(あられ)のように、戞然(かつぜん)と四方へ飛び散りました。
「御坊(ごぼう)の手なみはすでに見えた。金剛邪禅(こんごうじゃぜん)の法を修したとは、とりも直さず御坊の事じゃ。」
勝ち誇ったあの沙門は、思わずどっと鬨(とき)をつくった人々の声を圧しながら、高らかにこう罵りました。その声を浴びた横川(よかわ)の僧都が、どんなに御悄(おしお)れなすったか、それは別段とり立てて申すまでもございますまい。もしもあの時御弟子たちが、先を争いながら進みよって、介抱しなかったと致しましたら、恐らく満足には元の廊へも帰られなかった事でございましょう。その間に摩利信乃法師は、いよいよ誇らしげに胸を反(そ)らせて、
「横川(よかわ)の僧都は、今天(あめ)が下(した)に法誉無上(ほうよむじょう)の大和尚(だいおしょう)と承わったが、この法師の眼から見れば、天上皇帝の照覧を昏(くら)まし奉って、妄(みだり)に鬼神を使役する、云おうようない火宅僧(かたくそう)じゃ。されば仏菩薩は妖魔の類(たぐい)、釈教は堕獄の業因(ごういん)と申したが、摩利信乃法師一人の誤りか。さもあらばあれ、まだこの上にもわが摩利の法門へ帰依しょうと思立(おぼした)たれずば、元より僧俗の嫌いはない。何人(なんびと)なりともこの場において、天上皇帝の御威徳を目(ま)のあたりに試みられい。」と、八方を睨(にら)みながら申しました。
その時、また東の廊に当って、
「応(おう)。」と、涼しく答えますと、御装束の姿もあたりを払って、悠然と御庭へ御下(おお)りになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。
(未完 / 大正七年十一月)  
 
邪宗門

 

「邪な宗門」、つまり現代風に言えば「邪悪な宗教」といった意味の言葉・表現で、豊臣政権及び徳川幕府(江戸幕府)が用いた一種の政治用語である。
「邪宗門」というのは、宗教用語や学術用語とは言い難い用語であり、あくまで時の権力者が彼らから見て敵対していると感じられたり都合が悪いと考えられた宗教にまとめてレッテルを貼るための政治的な用語であり、よく知られるところでは豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教がそれとされたり、また民こそが国の主役であると考え正義を重視することで、豊臣・徳川らの命令への非服従を貫いた日蓮宗不受不施派が「邪宗門」とされた。また宗門改などを通じた宗教統制に入らなかった民間宗教、新宗教なども徳川幕府によって「邪宗門」に分類された。
戦国時代、人々は現世利益や、葬式を中心とした冠婚葬祭への期待から、仏教に帰依するようになった。16世紀半ばにフランシスコ・ザビエルがキリスト教カトリックを伝えたが、キリスト教は仏教徒の教義の類似性から、当時の日本において仏教の一種と誤解され、当時の日本人に受容されやすく、キリシタン大名も生まれた。当時の織田信長が実権を握った当時は、キリシタンは九州地方に多く、近畿地方には少なかった。信長の勢力圏ではキリシタンは有害な存在とみなされなかったため、信長はキリスト教を保護した。信長の家来の中から頭角を現し、信長亡き後権力を握った豊臣秀吉は、天正17年(1589年)にバテレン追放令を出して以後、「(太陽神・天照大神の末裔とされる)天皇と天皇によって任命され政治的な正統性を付与された関白及び将軍(幕府)の至上性を認める宗門のみが日本における正法(正しい宗教)であり、これを認めない宗門は日本の正統な国家秩序を破らんとする「邪法」を奉じる宗門である」すなわち「邪宗門」とした。江戸幕府もこの方針を継承し、一般民衆に対して「キリスト教=邪宗門」とする観念を植え付け、多数のキリスト教徒を迫害し、島原の乱など信者による反乱も発生した。
明治維新の直後、明治政府から出された五榜の掲示第三札には、当初「切支丹邪宗門」の禁止が掲げられていた。この文言があることを知った欧米諸国は明治政府に猛抗議を行ったため、慌てた明治政府はただちに「切支丹」と「邪宗門」それぞれを禁止する、と訂正した。
明治6年(1873年)のキリスト教解禁において、300年近くにわたって「キリスト教=邪宗門」との観念を植え付けられてきた一般民衆の間には、解禁に対して不安や恐怖を覚える者もあったとされる。その不安と蔑視はキリスト教解禁後も続き、政府及び民衆からの様々な圧迫が日本のキリスト教徒に対して加えられる要因となった。 
 
芥川龍之介の邪宗門 評論 

 

評論 1
芥川龍之介の未完の小説である。大正7年(1918年)10月から『大阪毎日新聞』に連載された。『大鏡』や『栄花物語』などを基に、芥川独自のストーリーで書かれている。
芥川の小説『地獄変』に登場した堀川の大殿の子、若殿が主人公である。『地獄変』と同一人物と思われる語り部により物語が進むが、本作では語り部自身も本編に登場する。時代は平安時代、本編に出てくる「摩利の教」は山田孝三郎の景教という説が有力。物語は中盤、いよいよ主人公が邪宗の沙門と対決するところで未完となっている。未完の理由については芥川の体調不良とされているが、展開に行き詰まった点を理由とする向きもある。

堀川の大殿様の子である若殿様は、父親とは容姿、性格、好みすべて正反対で、優しく物静かな人物であった。その生涯は平穏無事なものであったが、たった一度だけ、不思議な出来事があった。
大殿様の御薨去から5、6年後、洛中に摩利信乃法師という名の沙門が現れ、障害や怪我に悩む人々を怪しげな力で治してまわり、信奉者を増やしていた。ある時、建立された阿弥陀堂の供養の折、沙門が乱入し、各地より集まった僧に対し法力対決をけしかけた。大和尚と称されていた横川の僧都でも歯が立たず、沙門がますます威勢を振りまく中、堀川の若殿様が庭へと降り立った。(未完)
評論 2
芥川龍之介と云う作家は少し変わった作家である。「文学者」として教科書にも登場するのでその評価は非常に高いものであると思われているが生前からその死後数十年に亘って文壇では高く評価されていなかったと云うことは意外な事実である。橋本治によれば「芥川をいじめ殺した当時の文壇」(「三島由紀夫とは何者だったのか」)と書かれている。ちくま版全集1巻の中村真一郎氏も文壇での評価の低さと一般読者からの評価の高さについて書かれている。これは私にはかなり意外なことであった。
芥川の魅力はその人工的で審美的な文体にあろう。特に初期の王朝ものをはじめとする格調高い文体はその溢れんばかりの才能と共に美しい。ただその芸術至上主義、物語性(これは後に芥川本人によって否定される)、児童文学の執筆、そして短編がメインであった事が文壇での評価に繋がらなかったのであろう。更に「私小説」に重きを置く近代日本文学では芥川のような才能は相容れなかったのかも知れない。志賀直哉が絶賛したとかいう「一塊の土」や晩年の私小説などは文壇を意識して書かれたものかもしれない。しかし私はやはり日夏耿之介の指摘通り初期から中期にかけて書かれたものが芥川のベストではないかと考えている。
芥川龍之介は私が初めて全集で全作品を読み通した作家である。35歳と云う短い生涯に残された作品はそう多くなく「全集読み」のしやすい作家である。先にあげた「一塊の土」や晩年の自伝的私小説などは好きではないがそれはそれで興味深い。「王朝もの」の中では「好色」がユーモアと皮肉が綯い交ぜで不思議な読後感がある。また「神々の微笑」のような日本人の文化に鋭く切り込んだ作品も忘れがたい。キリスト教伝来の頃、日本の南蛮寺にたたずむオルガンティーノ。日本での布教活動は好調でこうして寺院まで建つに至ったがその顔は浮かない。そこへ日本古来の八百万の神々が現れる。神々はオルガンティーノに「お前の祈っている神と日本人の祈っている神は違う」と言う。日本人は外から入ってきたものを「自分のもの」にしてしまうと指摘する。オルガンティーノの浮かない顔、それは日本人との根本的な文化の差であった。芥川はこの作品によって日本人の文化を鮮やかに分析して見せた。晩年の「河童」は明らかに「ガリバー」中の「ヤフー」に想を得ており両者の読み比べは面白い。
ちなみに「トロッコ」の主人公と私の名前は漢字も同じ同名である。あの走って帰る帰り道の夜景、それは人生の残影であろうか、それをある雑誌社の社員となった主人公が回想する巧みな構成を理解し味わうのには随分と時間がかかったものである。文学とはどのように読んでも面白いものであると思う。
「邪宗門」は未完の長編小説である。「地獄変」の姉妹編として書かれその格調高い文体と多彩な物語で読むものを魅了する。近代文学の最も優れた伝奇小説のひとつであると思う。未完であるのが惜しい作品である。読んでいただくと判るがまさに一番盛り上がったところで「おあずけ」をくう様な作品である。おそらく芥川龍之介と云う人は生粋の短編の名手であったのだろう。三島由紀夫が「文章讀本」の中で森鴎外を「短編の文章」として紹介しているように芥川もまた「短編の文章」の名手であって長編向きではなかったのあろう。しかし本作では立派に「長編の文章」であると思う。尤も三島が例に挙げる鏡花程の長編向きの文章であるとは言えないが。
「文芸的な、余りに文芸的な」で芥川と激しく論争した谷崎潤一郎であるが谷崎もまた「残菊物語」という優れた伝奇小説を未完のまま残している。未完でありながらその面白さ、文章の美しさは比類が無い。両者がどのような結末を考えていたのかは判らないがあれこれ想像して見るのも一興であろう。
評論 3
「地獄変」の続編といった体裁。語り手は同じ。前回は堀川の大殿様時代の話で今度はその若様の話。いったい堀川の大殿様とは誰なのか?吉田精一氏によれば「邪宗門」は「大鏡」、「栄花物語」あたりから材料を得ているらしいという。そこで堀川の大殿様は藤原道長で若殿は藤原頼通を想定しているようだ。だがこれは推測ではっきりしていない。中断した訳は芥川によれば病気のためということだが、構成上の失敗があったようだ。これも本人が弁解している訳ではないから、あくまでも推測である。この点については後ほど…
「邪宗門」では「地獄変」で解らなかった語り手の性別と年代が解った。繊細な語り口で女官と思っていたが、実はいい年をした男である。この男の身分は不明だが、二代の殿様の近いところで使えていたのは間違いがない。
「邪宗門」では大殿はすでに亡くなっている。大殿と若殿の人間の違いが物語りの違いにもなっていると思う。大殿は大兵満で男らしい神将のような面影で、気性は豪傑で雄大でなんでも人目を驚かさなければやなないという。牛車を焼く所業は豪傑でなければ、恐ろしくて出来ない。若殿は中背のどちらかと云えばやせすぎで、容貌は眉の迫った、眼の涼しい、心もち口もとに癖のある女のような顔立ちという。性格はどこまでも繊細でどこまでも優雅な趣がある。
武者的で怪奇な「地獄変」に比べ「邪宗門」は貴族的で妖気だ。二対で一つの作品を目論んだのかもしれない。
あらましは、大殿が亡くなって五、六年も経ったころである。若殿は中御門の小納言の一人娘の美しい姫に想いを寄せた。が、この姫はかぐや姫のような所があって、なかなか落ちない。それでも手練手管の末、親しくなることが出来た。その頃、都には麻利の教えなるものを説く異形の沙門が現われた。麻利の教えとは文庫注によればキリスト教の一種であるらしいが、よくわからない。この沙門、麻利信乃法師と言うが、妖術を使って信徒を増やしていく。
ところで、麻利信乃法師と中御門の小納言の娘が幼なじみという話を耳に入れた語り手(「地獄変」では完全な傍観者であったが今回は事件に関る)は姫に危害が及ぶのを恐れ、甥を伴ない殺しに行くが、麻利信乃法師の操る幻に恐れおののいて逃げ帰ってくる。
それから暫らくして、
長尾の律師が嵯峨に阿弥陀堂を建てたときのことである。御堂供養の当日、多くの人に交じって麻利信乃法師が現われたのである。邪教の教えを広めるためにだ。
検非違使たちがからめとろうとするが敵わない。僧都たちに向かって法力比べをしようと申し立てるが誰も名乗りを上げなかった。
が、横川の僧都(天が下に功徳無量の名をとどろかせたという)が名乗りを上げる。…僧都の法力は麻利信乃法師の法力に敵わなかった。誇らしげな麻利信乃法師であったが、
(以下「邪宗門」より)
『「応(おう」と、涼しく答えますと、ご装束の姿もあたりを払って、悠然とお庭へおおりになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。』(未完)
― 活劇のクライマックスで停電に会ったようなもので残念!いったいどのように麻利信乃法師をからめたのかは永遠に謎である。若殿が勝ったのは間違いがないだろうが。
麻利信乃法師とは何者か?麻利信乃法師と姫の関係は?若殿と姫のその後は?いくつかの謎が残された。作者以外は知る由もない。三好行雄氏によると姫を抜きにして若殿と麻利信乃法師の対決に至ったせいと推測する。構成上の失敗と言えばそれまでだが、流石に芥川だ、こだわる。普通の作家ならそのまま書いてしまうと思う。 
 

 

 
高橋和巳と「邪宗門」

 

第一節 「世なおし」思想の極限化に至る思考実験
まず第5章の本論に入るまえに、戦後を代表する思想家・詩人である吉本隆明は、中山みきの生きざまと「おふでさき」について、その思想を彼なりに「近代の古典的思想の実践例」として読み切っていたのではないかと確信させる『高橋和巳作品集4 邪宗門』(河出書房新社)の「あとがき」に寄稿している「新興宗教」(641 〜 659 頁)があるということを紹介しておきたい。つまり、本稿最終章であつかう吉本の『思想のアンソロジー』(ちくま学芸文庫)に《解説》された「中山みき『おふでさき』」の文章の背景には、天理教原典や、高橋和巳の『邪宗門』の背景をなす緻密な大本教史や天理教史の和辻哲郎が言う「あらわにされた」「出来事」研究がなされていたと思われるからである。また、吉本隆明と松岡正剛が応酬する『遊』(1982 年9月特大号・特集・「日本する」)も、「こと」的世界観への未来像構築に勇気を与えうる貴重な文献になるであろう。
さて、『邪宗門』は高橋和巳(1931 〜 1971)の小説の中で2千枚のもっともながい大河小説であり、『朝日ジャーナル』1965 年1月3日号から翌年の5月29 日まで連載された。宗門としてあってはならないものが「あらわにされた」「こと」であるところの「邪宗門」の「もの」がたりである。歴史的には邪宗門は、江戸時代の禁制の文脈からキリスト教を指していた。誤解と白眼視に堪え、いかほどに世の立替え、立直しを叫びつづけても、社会や国家から邪宗門は徹底的に排除される。偏狭な軍国皇道政治につきすすむ戦争前夜、昭和10 年12 月には、大正10 年の第一次大本事件につづいて、第二次大本教弾圧事件が勃発。綾部、亀岡両巨大聖地本部破壊には、武装した430余人の警官の包囲をうける。苑内にいた教主出口王仁三郎や本部役職員ほか100 人余りが検挙され京都に護送されたり、亀岡署に拘置された。両本部にはダイナマイト数千発がぶち込まれ、鉄骨はガスで焼き切られ、樹木は切りたおされ、石段さえも削りつぶされて、一帯は見る影もない荒野と化してしまったという。日本史上類を見ない大弾圧を受けた戦争前夜の教団大本。数多くの新宗教を生んだ丹波篠山盆地の一教団があたえたその宗教思想的影響はいまも小さくはない。教主出口には『霊界物語』(全72 巻)、『聖師歌日記』(全53 巻)のほか数種の書物がある。第二次大本教弾圧事件につづいて、昭和11 年9月27 日には「PL教団」初代教主御木徳一が教祖の地位を譲った翌日に警察に拘引され、「ひとのみち事件」がはじまった。  
一方、天理教では昭和11 年に教祖五十年祭、翌12 年には立教百年祭の両年祭が執行された。教祖五十年祭直後には2・26 事件が発生。このころより軍隊が国家の主導権をにぎりはじめ、同13年には「泥海古記に関連ある一切の教説は之を行わず」と、軍部によって強制された「諭達第八号」の「革新指令」が発布された。天理教団が執拗な追求と攻撃をうけた理由は、「元の理」が近代天皇制のもとで絶対化された記紀神話とは根本的に異質であり、そのひろめは記紀神話の権威を脅かすものであったという点にある。教説の受難史の詳細については拙著『中山みき「元の理」を読み解く』(日本地域社会研究所、第1章第2節)を参照されたい。
これら両宗教を素材にしたであろう高橋和巳の『邪宗門』は、若者に発表当時おおきな衝撃をあたえ、学生運動にかかわる彼らがバイブルのように読んだと言われ、「東大教官がすすめる100 冊」では、世界の数々の名著をおさえ第8位の評価をうけている。『邪宗門』は文学というアプローチで描かれた日本の精神史でもあった。高橋はこの本になにを込めようとしたのか。彼は「あとがき」において次のように述べる。
「 発想の端緒は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている〈世なおし〉の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験をしてみたいという事であった。表題を「邪宗門」と銘うったのも、むしろ世人から邪宗門と黙される限りにおいて、宗教は熾烈にしてかつ本質的な問いかけの迫力を持ち、かつ人間の精神にとって宗教はいかなる位置をしめ、いかなる意味をもつかの問題性をも豊富にはらむと常々考えていたからである……。
繰り返しをおそれずに言えば、私の描かんとしたものは、あくまで歴史的事実ではなく、総体としての現実と一定の対応関係を持つ精神史であり、かつ私の悲哀と志を託した宗教団体の理念とその精神史との葛藤だったためである。私が自らを確め、自らを深めるためには、私が生まれ育ったこの日本の現代精神と私の夢とを、人間をその総体において考究しうる文学の領域において格闘させることが必要だったのである。 」
高橋が日本に現存する新宗教団体の二三を遍歴、その世なおしの教えや教史を研究し、そこから若干のヒントを得たという、いわゆる「邪宗門」と対立せざるをえない国家の本質とはなにか。こうした問いかけは史観によって答えられることがおおい。史観とは「なぜこのような日本の社会や国家ができあがったのか」という説明であるとされる。「史観」が制度史に限定されるなら「史実」と照合しやすい。しかし、この問いかけへの回答がむずかしいのは、その問題の対象に精神史、つまり精神の歴史がひそむからである。人々の内面に存在する精神は、さまざまな事件の表層からは見えてこない。精神史は複数の事象の整合的なまとめよりも、信仰や教理などを簡素なモデルとして提出する必要がある。天理教でいえば「泥海古記」や「おふでさき」「みかぐらうた」などから抽出された人間世界創造・救済をのべた簡潔な教典類、他の新興宗教にあっては天国や浄土の確信、あるいは奇跡や聖者への帰依などだ。こうしたモデルは国家からすればその簡素さゆえに思想ではなく、虚構に近いとみられる。この意味において精神史は文学にかぎりなく接近する可能性を得ることができるともいえよう。文学によって前近代から近代の日本の精神史を描き出すこころみは数おおくなされてきたが、高橋和巳の『邪宗門』は、そのスケールにおいても突出しているというのが識者一般の評価である。
天理教も天保9年の立教以来、中山みき教祖の17、18 回にもおよぶ官憲の召喚問答、および投獄がつづき、第二次世界大戦がおわるまで、組織が巨大化するに比例して国家が敵対し排除する「邪宗門」として弾圧され、「つとめ」や神名までも強制変更、原典『おふでさき』などは国家により全教会から没収された。それはあたかも国家にとっては「邪宗門」が、「天皇制」という「国家共同幻想」を映し出す鏡像であるかのように国家の精神性を対照的に映し出す。この逆転鏡像から精神史の史観のモデルを描きだすことで、日本国家の精神的な呪縛である「共同幻想」というものの正体を暴露することが可能になる。高橋和巳の『邪宗門』はこの課題(国家共同幻想の暴露)に、小説としての豊穣さをふくめながら真正面に挑んだ作品でもあり、近代日本の精神的な呪縛の仕組みを逆説的に描きだしてもいる。しかもこの逆説には、さらにもう一段の逆説がくわわり、国家に反逆する反国家精神や批判もまた、結果的に倒錯した共同幻想の問題をふくむことをあきらかにした。この課題、つまり国家批判の倒錯性は戦後、いわゆる左翼勢力・マルキシズムが倒錯していく傾向をなぞってさえいる。くわえてそれはまた信仰の自由を法的に獲得した戦後の諸新興宗教、維新前後の新興宗教教団にも通底する問題をも包括しているといえる。その意味で『邪宗門』は、「共同幻想」を極限化させるとどのように成るかという思考実験でもあったと評価されるであろう。  
第二節 国家と宗教の共同幻想
天理教は、終戦直後において中山正善二代真柱により「復元」が提唱されたが、高橋和巳の暗喩する戦前の「共同幻想」の倒錯性からの脱却に成功しているかどうかは、いまだに疑問である。達成された「復元」と、未完の「復元」の領域をただしく認識区分し、それをあきらかにして民主的に議論する知恵と勇気が、真の「練り合い」「談じ合い」の意味するところであるにもかかわらず、その実践がシステムとして「元一日の精神」にかえる教団改革刷新にむけられていないという批判もある。
いうまでもなく、吉本隆明と高橋和巳の二人は、60 年安保闘争の学生たちのカリスマ的存在であった。高橋は『邪宗門』巻末の秋山駿との「私の文学を語る」というインタビュー(629 頁)の中で、大学での友人が就職運動に奔走しはじめたころ、自分には将来設計とかいうことは全然なく、ほんとうに食い詰めていて、母親がある新興宗教(天理教)の信者だったから、私のそういうのめり込み型(内面の葛藤、その葛藤の起伏がおおきいことがそれ自体充実しているという心的状態)の精神を直してやろうという気もあったかも知れなかったが、「天理教の修養科」という固有名詞こそ出てはこないが、あきらかに9回の「別席」とよばれる信者(ようぼく)の資格があたえられる講話も聴いている。そのときの天理での修行・研究のようすは次号において紹介するが、秋山との対談で高橋はつぎのように告白している。
「大学を出ても何も仕事もないものですから、たまたまその教団で教祖の編纂事業みたいなものをやっているわけです。雑誌も出していましたし、多分そういう仕事に予定されたんでしょう、そこへ行けといわれましてね。ただ宗教団体なものですから無条件で仕事に参加できるわけではなく、教義の講義を受け信徒ないしは信徒なみの認定を受けなければならないわけですね。それでその講義を受けに行った(中略)。あれは九回講演を受けて、その教義を飲み込んで試験のようなものを受け、さらに一定期間の共同生活と奉仕をすませますと、資格が与えられるわけです。」と紹介した後、天理教教理について、「教義は割合合理化されておりまして、天地創造からはじまる教典にもそうおかしいところはなく、何回か実にいろんな階層の人々が、実にいろんな悩みを背負ってきているその間にはさまって説教師の言うことを聞いているわけですけれども、あれは面白かったんだけれども、ただ最後に独特の祈祷の形式がありまして、手踊りをしなければいけない。宗教ですから、理解だけではだめで祈りがなされなければ信徒ではない。信徒にならなければ就職はできない。これは何というのですかね、どうしても踊れないのですよね。」と告白し、踊ろうとすると、「背中にだらだらと冷汗が流れてきて、単にはずかしいとか、そういうことではないのです。食っていくためにはある程度はずかしさみたいなものはかなぐり捨てなければならないことぐらいは知っています。」とつづけ、「このぐらいのことができると逆にやってやろうというような気もするのですが、とにかく、全身硬直みたいになって、どうしても体が動かないのですね。」というわけである。
しかし、なぜ全身硬直状態になったかを文章化するのが文学者としての役割ではないかというのがわたくしの疑問である。つまり、入信を拒否した高橋の論拠としてはきわめて軽薄な弁解であると思われる。この疑問への回答は後に述べる彼の異例の究極的文学観にあるはずだ。
一方、高橋和巳が白川静の招きで立命館大学文学部の講師をしていた1963(昭和38)年、彼の受講生であり、高橋が京大助教授に招かれたのち同人誌の飲み友達でもあった高橋の下宿のそばに住む村井英雄は、その著『闇を抱きて─高橋和巳の晩年』(阿部出版)において高橋が反日共系の過激派と総称される全共闘系学生を1969(昭和44)年に支持表明し、京都大学文学部助教授を辞職した後の、彼の孤独と苦悩と病、そしてその酒豪ぶりや、執筆状況など、日常会話についてもくわしく紹介している。「論理の導くところ、いずこへなりとも行こうではないか」というプラトンの言葉をよく引用していたとも回想しているが、それは高橋が、思想的な敵対関係や人間関係が憎しみ合う状況に至っても、往来の礼儀を尊び、問題は論理的に対決すべきであるという信念を抱いていたからだろうというわけである。ある夜、風呂桶を手にのろのろとうつむき加減になにかをふかく考えながらせまい道を歩いている身長180 センチもある高橋が、道端の電信柱にぶつかりかけて「あっ失礼」と電信柱を人とまちがえ、謝罪しているのを村井が目撃したなどというエピソードもある。
『邪宗門』の巻末に紹介されている秋山駿のインタビューのあとに、吉本の「新興宗教について」という論文が掲載されている。この16 頁に及ぶ論考の大半は「元の理」の全文引用をふくめた、教祖論と「天理神」の吉本自身の解釈からなっており、このときは「注記」として論文の最後に追記されているように、すでに高橋は病床にあり、この書の出版後1年足らずして氏は没している。ということは、吉本は前出の『思想のアンソロジー』出版の30 数年前には「おふでさき」をすでに読み込んでいたことになる。『邪宗門』のテーマの通奏低音となっている〈新興宗教〉・天理思想による歴史観と国家体制との関わりにおいてもその意義を的確に把握していたにちがいない。したがって、この吉本の巻末論文は『邪宗門』を評価する思想的根幹を示しているといえるだろう。くわえて、高橋の天理での身体的修行は頓挫したとしても、天理の教えの土俗的表現に隠された宗教思想的根源への思索は、教祖「ひながたの道」のさまざまな史実を知るにおよんで『邪宗門』という作品に活かされていたにちがいない。
『邪宗門』は、夫にも6人の子供たちにも叛かれ、半狂乱の彷徨の果てに一種の悟達の境地に達した下層農民出身の開祖・行徳さまによってはじめられた明治の土俗的な新興宗教、ひのもと救霊会を主題にした小説である。その発生から二代目教主行徳仁二郎の手腕による教団の整備と拡張、そして戦時下の大弾圧、くわえて敗戦期に「世なおし」を希求する三代目教主千葉潔に率いられた信徒たちの武装蜂起の結果による決定的壊滅という筋道をたどる教団史が小説の骨格である。その物語の骨格をおおう生命の臓器は、国家と宗教の関係性、「家父長制と家族制度の被害を集中的にひっかぶった下層民の母親だ」という女性の性と家からの解放、死の自由と自殺の黙認、男女の性の関係における葛藤、親子兄弟姉妹・近親関係における不和と闘争に譬えられる。人間を破局までおいつめるこれら凶暴な諸情念の浄化は宗教にとって可能か、つまり宗教によるユートピアの実現にはいかなるハードルを越えなければならないかというのが作者高橋和巳の宗教論の主調低音になっている。  
 
高橋和巳の邪宗門 評論 

 

評論 1
1966年に出版された高橋和巳の小説『邪宗門』。発表当時、若者に衝撃を与え、その後も学生運動に関わる若者がバイブルのように読んだという本書。現在でも、絶版にもかかわらず「東大教官がすすめる100冊」では、世界の数々の名著を抑え8位という評価を受けています。出版の5年後に39歳で亡くなった早世の作家・高橋和巳は、この本になにを込めようとしたのか。

日本の社会や国家の本質は何か。こうした問いかけは史観によって答えられることが多い。史観とは「なぜこのような日本の社会や国家ができあがったのか」という説明である。史観が制度史に限定されるなら史実と照合しやすい。だが、この問いかけの対象には精神史が潜む。精神の歴史である。人々の内面に存在する精神は各種事件の表層からは見えない。しかも精神史は複数の事実の整合的なまとめよりも、信仰や教理など簡素なモデルとして提出する必要がある。天国や浄土の確信、あるいは奇跡や聖者への帰依などだ。こうしたモデルはその簡素さゆえに虚構に近い。ここで精神史は文学に接近する。文学によって前近代から近代の日本の精神史を描き出す試みはいくどとなく試みられてきた。そうした試みの一つとして読むとしても、高橋和巳『邪宗門』は壮大なスケールをもっている。
「邪宗門」という言葉は字義的には「邪悪なる宗門」である。「宗門」は宗教とは微妙に異なる。いま日本人の大半に「あなたの宗教は?」と問えば無宗教と暢気に答えるだろうが、続けて「あなたの家のご宗派は?」と問えば、親の葬式も出したことがない若者を除けば、浄土真宗、曹洞宗、真言宗といった宗派名を何の矛盾も感じることなく答えるにちがいない。この「ご宗派」が「宗門」であり、宗門としてあってはならないものが「邪宗門」である。社会や国家から邪宗門の人は排除される。
歴史的には「邪宗門」は、江戸時代の禁制の文脈から、キリスト教(切支丹)を指してきた。「五箇条の御誓文」発布の翌日に発された最初の禁止令「五榜の掲示」の第三札にも「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事(キリスト教邪宗門については禁止する。不審者を役所に通告すれば報償を出す)」とある。なお「切支丹邪宗門」という表現については、キリスト教がイコール邪宗門か、キリスト教と邪宗門は二項なのか、解釈に余地があるが、いずれも広義に邪宗門であることは変わりなく、国家秩序に反する敵と見なされていたのはまちがいない。
国家が敵対し排除する邪宗門には国家の精神性が対照的に映し出される。あるいは邪宗門こそが天皇制という国家幻想を炙り出す鏡像である。この像から精神史の史観のモデルを描き出すことで、日本国家の精神的な呪縛、「共同幻想」というものの正体を暴露することが可能になる。高橋和巳の『邪宗門』はこの課題(国家共同幻想の暴露)に、小説としての豊穣さを含めながら真正面に挑んだ作品でもあり、近代日本の精神的な呪縛の仕組みを逆説的に描きだしてもいる。しかもこの逆説には、さらにもう一段の逆説が加わり、国家に反逆する反国家精神や批判もまた、結果的に倒錯した共同幻想の問題を含むことを明らかにした。この課題(国家批判の倒錯性)は戦後、いわゆる左翼勢力が倒錯していく傾向をなぞってさえいる。

戦前から戦後にかけて、ある架空の新興宗教団体の軌跡を描いた本作。そのモデルになったと思われる団体との比較や、当時の精神性を振り返ることで描かれた物語の意味をあぶりだします。
『邪宗門』はよく練られた三部から構成されている。第一部は、明治30年代に大衆から自然発生した新興宗教「ひのもと救霊会」が、最終的な弾圧の段階を迎える昭和6年から昭和7年頃までを克明に描いている。
物語は、餓死寸前の14歳の少年・千葉潔が信者であった母の遺骨を下げて教団本部のある山陰の神部という村を訪問することから始まる。救護された少年は教団と深い関わりのある家庭・堀江家で暮らすようになる。
前年の昭和5年、「ひのもと救霊会」は国家からの弾圧を受け、神殿なども破壊され、教主も不敬罪と治安維持法違反で逮捕されたため、教団の人々は残された教主の妻・行徳八重を中心にひっそりと暮らしていた。堀江家はまた、開祖・行徳まさに使えた老婆・堀江駒が、教主・行徳仁二郎の娘で小児まひの残る小学生・行徳阿貴の面倒をみていた。駒の息子で教団の幹部だった堀江真輔は教主らとともに逮捕されたので、嫁の菊乃と小学生の娘・民江も駒と一緒にひっそりと暮らしていた。
物語の主人公は千葉潔であると言ってよいが、同じく教主の娘で、妹の阿貴とは正反対の性格の姉・阿礼もまた主人公と見られる。他に教団に関わる群像が壮大な物語を支えていく。
第一部では、一時釈放された教主が国家からの宗教弾圧に耐える様子や弁護にまつわる弁舌などで濃厚に思想的な叙述が続くなか、教団の最高顧問・加持基博の命を受けて潔が天皇直訴に及ぶ事件や、五・一五事件を絡めて緊張した展開が続く。最終的には国家側の陰謀と見られる口実からさらなる弾圧を受け、仕掛けられたと見られる火災で教団組織は壊滅した。信者の信仰は社会から隠れることになった。

高橋和巳の小説『邪宗門』評、後編です。前編では、作者自身や物語が描かれたころの時代背景を、中編ではなぜ国家の近代的な共同幻想と民衆の土着の共同幻想が衝突することになったのか、物語を追いながらその必然性を論じてきました。中編の最後では、宗教団体を描いた物語でありながら「内面には、教義・教理・信仰は内在化されてはいない」ということが示されました。作者高橋和巳はなにを意図していたのでしょうか。
なぜ高橋和巳は、主人公のふたりの思想を宗教から切り離したのだろうか。高橋としてはこのような設定にせず、潔と阿礼を狂信家にすることも可能だっただろう。狂信的な信仰を理性的に受け止めて武装蜂起を直線的に結びつけることもできたはずだ。しかしこの物語はそうなってはいない。そもそも、こうした新興宗教の共同幻想の持つ、本質的な国家との齟齬は、戦後の国家幻想の消滅期間より、国家幻想が剥き出しになっていた戦争に至る時期、この物語でいうなら第二部で展開されるのが妥当である。「第二次ほんみち不敬事件」のように、その期間での衝突として描くほうが自然でもあったはずだ。政治家や軍人に信徒を増やすような展開にすれば容易に可能だった。むしろなぜ、この物語では、大衆を率いた武装蜂起が戦後という時代に設定されたのだろうかという疑問がわく。
おそらく「ひのもと救霊会」として語られている対象は、新興宗教というより、土着の社会主義・共産主義の革命の理念であり、憶測の部類にはなるが、この物語が書かれたころの、日本の社会主義者・共産主義者を少なからずを熱狂させた中国の文化大革命への憧憬からではないだろうか。
土着の社会主義・共産主義の革命の理念は、戦後、といっても1951年だが、日本共産党による第4回全国協議会(四全協)の反米武装闘争方針となったものだった。この方針によって、日本共産党は武装集団として山村工作隊を形成した。これは中国共産党の抗日戦術を模倣し、山村地区の農民を中心に武装化を図って、農村地帯に「解放区」を形成しようとしたものだった。戦後の共産党の革命理念でもあった。
山村工作隊的な武装理念の本質がどのようなものか。この小説は「世なおし」の暗喩を隠れ蓑に残酷なまでに暴露して見せている。
「 戦争は、彼我の拠っている地域の境界が敵味方の岐れ目である。巨大な破壊力を、より大きく投入したものの方が勝つ。だが世なおしは、同じ国内、同じ地域、同じ職場、同じ家庭に、敵味方が入り乱れるもの。大量殺戮の武器もそこでは役立たない。それ故に、いかに多くの人々を抗争の中に捲き込むかによって、事の成敗は決まる。罪なき人を捲き込むこと、それが、世なおしの必須条件なのだ。 」
世なおしの理念が実現するためには、無辜の人を大量に犠牲に巻き込むことが必要条件であるとされる。これこそが、山村工作隊が消滅しても、新左翼として戦後社会主義運動に隠された奥義であった。しかも活用できる武力が不足しているなら、天変地異や大規模事故を活用してもよい。無辜の人々の犠牲を多数巻き込むことが世なおし、イコール革命の前提条件として肯定されてきたのだった。
評論 2
この本が何であるかを的確に表現する文章が、著者本人のあとがきにありました。
「 発想の発端は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている〈世なおし〉の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるのかを、思考実験をしてみたいということにあった。 」ということです。
簡単にあらすじを書きますと、「ひのもと救霊会」という宗教団体の昭和初期から戦後すぐまでの盛衰を三つの時期の三部構成で描いています。背景となる時代は、第一部が、五・一五事件をモデルにした部分がありますので昭和6、7年、第二部が太平洋戦争前夜の昭和15年頃、そして第三部が敗戦後の進駐軍占領時期ですので昭和20年頃です。
明治期に開教した「ひのもと救霊会」は、開祖行徳まさ、そして二代目教主行徳仁二郎により100万の信徒を抱える巨大宗教団体となっていたのですが、昭和に入り、国家弾圧により、神殿は破壊され、非合法化されます。すでに開祖まさは他界しており、仁二郎や主だった幹部は逮捕されているところから物語は始まります。
各部がいくつかの章に分かれており、それぞれ主に語られる人物が変わっていきますので群像劇のスタイルとも言えます。囚われた教主の代理を務める妻の行徳八重、秘蔵っ子的に育てられたらしい勝ち気な長女の阿礼、小児麻痺による障害をもち、幹部の堀江家に預けられている次女の阿貴、教団内の若手のホープ的な植田文麿、克麿兄弟、兄の文麿は陸軍士官学校生です。その他、阿貴を預かる堀江家の駒、民江など多くの人物のことが語られます。そして、序章として最初に登場する千葉潔、貧困ゆえに、自らの肉を食って生きよと言い残して餓死した母の遺骨を持って「ひのもと救霊会」にやってきます。潔は堀江家で暮らすことになり、阿礼、阿貴の姉妹から好意を持たれた存在として、この小説の軸となる人物だと予想させます。
第一部では、そうした登場人物の背景や人となりを語ることで「ひのもの救霊会」の全体像を明らかにしていくわけですが、中に、幹事会や長老会議、そして弾圧のために分派していった他派との宗教論争といった章があり、やや文学書の枠を超えるような、もちろん超えていけないわけではありませんが、思想書のような部分もあり、冒頭に引用した著者の「日本の現代精神史を踏まえ」たものをという意識が強く感じられます。
「ひのもと救霊会」というのはどんな宗教団体か、大雑把にいいますと、神道をベースにしていますが、それが当時の国家思想、国体へと結びつくものではなく民間信仰として民衆との結びつきを重要しており、具体的には農村、農民重視、労働者との共闘という形として現れます。
また組織論としては、教主を頂点とした原始共同体的なものであり、本部のある(架空の)神部地域全体が教団そのものであり、また組織内には製糸工場(記憶違いかも)や新聞や教書を発行する出版部、そして病院まで持つ自給自足志向の強い団体です。もうひとつ重要なのが、男女平等、女性の開放を(著者が)強く押し出していることです。開祖が女性であることをその理由のひとつとしていますが、国体思想が男系概念で構築されていることに相対するものとして強調されているのだと思います。こうした思想は、神道系とはいえ、当時の日本が進めていた万世一系の天皇を不可侵とする国家神道と対立する概念ですので、当然国家弾圧を受けることになります。つまり、終局的には「世なおし」を志向する集団ということであり、各所に革命集団を思わせる記述が出てきます。
あらためて思い返してみれば、上に昭和初期から戦後までの「盛衰」と書きましたが、「盛」の時期は過去のものとして書かれるだけで、第一部が弾圧により耐え忍ぶ時期、第二部は、皇国救世軍として勢力を伸ばした教団の分派が教主代理となった長女阿礼との婚礼という形での吸収を迫り、それを受け入れるという屈辱の時期、そして第三部は、戦後急激な復活を成し遂げたがために政府や進駐軍と対立し、ついには武装蜂起するも三日天下となり壊滅するという、言ってみれば苦難の時代のみが書かれていることになります。
第三部の武装蜂起については、正直、かなり唐突な印象を受けるのですが、そうした行動へ導いていくのが、千葉潔という存在に象徴され、全編を覆っている「ニヒリズム」という概念です。
「 「正義なく勝つ者の、勝利を無意味にする方法は、いまはただ一つ」千葉潔が言った。
   貧者とは何ぞや、支配されるものなり
   支配とは何ぞや、悪業なり
   悪業とは何ぞや、欲望なり
   欲望とは何ぞや、無明なり
   無明とは何ぞや、執着なり
   ああ、如何にして執着をのがれんや、ただ信仰によってのみ
   信仰とは何ぞや、救済なり
   救済とは何ぞや、死なり
   死とは何ぞや、安楽なり
誰が誦するともなく、門外不出の奥義書がとなえられはじめた。そう、千葉潔がその政治主義を救霊会にもちこむまでもなく、救霊会は確かに〈邪宗〉だった。 」
「ひのもと救霊会」は、ある種理想郷を目指しつつ、その裏側に常に破滅的な自己破壊欲望をもっている存在だということです。
この相対する概念を並列させるという手法は、この小説の全般に見られることであり、それは、二代教主の娘二人阿礼と阿貴がそうであり、植田兄弟もまたしかり、また、二代教主は獄中で亡くなるのですが、その教主の遺書が二通あり、一方が穏健な宗教的な光であれば、もう一方は影、ある種蜂起のアジテーションとも言える内容になっています。
簡単にあらすじをと言いながら、ここまで来ていしまいましたが、とにかく、ここに書いたことはこの小説のほんの一部、大筋だけです。壮大な大河小説の趣ですので、当然様々な世の動きの記述も多いですし、五・一五事件に参画した青年将校の挫折と没落、戦時中南洋諸島へ布教と称して追いやられた女性の悲哀、スラム街や炭鉱に生きる人々の話、教団内の性的関係も含んだ制度の話などなど、多くの問題をはらみつつもすべて現代に通じる話ばかりです。
評論 3
400字詰め原稿用紙にしておよそ2千枚になる分量、さらには宗教弾圧という重いテーマ…。覚悟を決めると、仕事を整理してこの小説だけに没頭できる時間を確保した。それでも読了するのに5日かかった。読後感は「打ちのめされた」のひと言。数年後に還暦を迎える人間(筆者のこと)に、人間と世界を見る目がわずかながらも深まったと感じさせる作品など、そうそうあるものではない。20歳前後にこの作品を読んでいたら、それまで築いてきたちっぽけな人生観と世界観は大きく揺さぶられ、その後の人生が変わったかもしれないと思う。それほどの魔力を備えた作品だ。東大教官が新入生に薦める本の上位に入っているが、ちょっと危険すぎやしないか。

物語はひとりの少年が京都にほど近い神部(かんべ)という山村に現れるところから始まる。時代は大正末期。神部は、江戸末期に貧農の3女として生まれ、現世のあらゆる労苦を味わった女性が、明治中期に神がかりとなって興した教団「ひのもと救霊会」が本拠を置く町。このころには救霊会は跡を継いだ男性教主の才覚もあって100万人を超える信徒を抱えるようになっていたが、不敬罪および治安維持法違反の容疑で国家から激しい弾圧を受けていた。少年、千葉潔は極限の飢餓の中で母の言葉に従い、亡くなったばかりの母の肉を食らって命をつなぎ、はるばる救霊会を訪ねたのだ。
大東亜戦争へと突き進む時代のなかで教団は壊滅状態に追い込まれる。敗戦後、生き残った信徒たちが再興をめざすなか、千葉は獄死した教主の長女と謀って教主の座を簒奪(さんだつ)する。ここから教団は一気に急進化し、国家からの独立を求めて武装蜂起、警察と進駐軍を相手に破局へと突き進むのである。

日本近代の歴史を少しでも知っている者なら、救霊会が国家による過酷な弾圧を受けた大本教をモデルにしていることにすぐに気付くだろう。一橋大学名誉教授の安丸良夫氏は大本教の開祖を描いた『出口なお−女性教祖と救済思想』(岩波現代文庫)の中で、《大本教の成立過程は、日本資本主義の成立にほぼ対応し、没落してゆくなおたちの生活が、じつは確立してゆく日本資本主義の特質を逆照射するような性格をもっていたのである》と書いているが、高橋の書いた救霊会壊滅の物語は、ファシズムに収斂(しゅうれん)していく昭和の日本社会の特質を逆照射し、その武装蜂起は、かつての敵国から与えられた「解放」に対する命懸けの異議申し立て、と読むことができるだろう。
一点強調しておきたいのは、教主の座を簒奪した千葉潔は、その育ちと、従軍中に捕虜を射殺するという罪を犯すことで、完全にニヒリズムに支配されていたということだ。ニヒリズムに主導された運動が向かうのは、破滅以外にない。

本書はリアルな昭和史を背景に描かれたリアリズム小説である。簡単に言えばそうなる。だが、本書の本質は何と言っても「対論」にあると考える。教団を弾圧する国家、教団から分離独立して逆に救霊会を併呑しようとする皇国救世軍にも理屈はあり理もあるのである。高橋は人間観、宗教観、国家観、さらには教団の運動論をめぐり鋭く対立する考えを、犀利(さいり)な筆致で一方に与(くみ)することなく丁寧に描いてゆく。それが作品にこれ以上はない深みと厚みを与えている。それゆえ読む者に「あなたならどう考え、どう行動する」と、本書は静かに問いかけてくるのである。その意味で、本書は観念小説でもある。
現代は「対論」なき時代と言ってよいだろう。思想の異なる者は互いに取り合わず、討論会で席を同じくしても、非難の応酬だけできちんと向き合った真摯(しんし)な議論にはならない。何も深まっていかない悲しすぎる時代である。たとえば雑誌「正論」と「世界」が激突し、ともに考えていく共同企画があってもよいではないか。
本書がしばらく絶版状態にあったのは、そんな時代状況を反映しているのだろう。だからこそ今夏、これを復刊した河出書房新社の英断に拍手を送りたい。

高橋和巳 / 昭和6年、大阪市生まれ。京都大学文学部中国文学科卒。同大学大学院博士課程満期退学。立命館大学講師、明治大学助教授をへて42年に京都大学助教授に就任するものの、44年大学紛争のさなか学生側を支持して辞職。46年、39歳で死去。小説の代表作に『悲の器』『我が心は石にあらず』『憂鬱なる党派』など。「苦悩教の始祖」と呼ばれた。『邪宗門』は40年から41年にかけて「朝日ジャーナル」に連載された。
評論 4
――彼らは屍体になろうとする。その意志をみとめようではないか。この死人たちがめざめないように、この生ける棺桶をうち壊さないように、用心しようではないか。――(ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』)

かねてから懸案であった高橋和巳(一九三一〜一九七一)の長編小説『邪宗門』(一九六六)を一読した。若い頃、法学を志したこともあって、彼の文壇デビュー作『悲の器』を何度も読んで感動した記憶があった。今でも、戦後が生んだ数少ない名作の一編という思いは変わらない。本書、分厚い文庫本二冊にもなる一大長編を読み終わり、がっかりしたというのが率直な感想である。あれから五十年以上も経過した、私の気持ちのありようも大きく変容したことを踏まえても、期待を裏切られたと感じている。本書『邪宗門』を未読の読者のために、ごく簡単に物語の概要を記せば、明治期に雨後の竹の子のように発生した新興宗教の一つである〈ひのもと救霊会〉の大正期・昭和、そして戦後と、左翼運動と同様に、絶対天皇制の国家権力から激しい弾圧に遭い、施設の徹底的な破壊、幹部の検挙・投獄にめげずに、戦後までなんとか命脈を保ち、戦後、一転して、新憲法も未だ発布されない進駐軍制下の政府に反逆して無謀な武力闘争の末に殲滅される宗教団体の消息を延々と綴られる。

モデルに近い教団――出口王仁三郎(一八七一〜一九四八)の大本教――は存在する。類似は、前半部分の外形だけといって良い。著者が、小説による思考実験と称しているように、歴史的な現実をリアリティとして踏まえながら、いわば空想的な観念小説である。読みどころは、現実の日本近代史の中で、観念的な可能性を探ることが狙いである。だが、両者の密接なつながりを保つためには、歴史のリアリティに徹しなければならず、観念的な思考に重点を移せばリアリティが失われるという背反的な関係にある。著者は、この無謀な企てを思考実験と名付けていると思われる。まず、読んでいて気になるのは、主要な登場人物ばかりでなく、人物の性格や容姿などの描写が類型的で繰り返しが多く、心理的な実在感に欠けていること。いわば膨大な固有名詞の羅列の物語である。
例えば、主人公と思われる千葉潔少年は、不幸な来歴を秘めて教団に迷い込む、死に神のような、陰鬱な性格に設定されている。登場する女性達の誰もが、彼に惹きつけられるのだが、人物像が最後まで不透明で捉えどころがない。彼は、一部の教団仲間の感化を受けて、伊勢神宮で、天皇への直訴を敢行、それに失敗した後、官憲の追求を逃れ、教団本部のある神部の街に極秘の内に舞い戻る。以降、彼が再登場するのは、京都三高のボード部のリーダーとしてである。いったいその間、宿無しの少年がどういう経過を辿ったのか、重要な形跡が描かれていない。後に、従軍したらしく、南方の戦線で捕虜の処刑に関与したにもかかわらず、そこにくわしい記述がない。敗戦後帰国、また、教団に舞い戻り、教団の権力を簒奪して教主までなる。が、彼のイニシアチブが充分に描かれていない。もともと彼は指導者というよりも参謀役なのだ。
一方のヒロインであるべき、初代教主の行徳仁二郎に甘やかされて育てられた、長女の阿礼は、ヒステリー的な傲慢な性格とエゴイスティックな行動が付与されて、著者は、やたらに胸の豊満さを強調するなど稚拙な描写に終始している。事ほどさように、すべての登場人物が、役柄と外形的な特徴――小児麻痺で足を引きずるとか、寡黙であるとか、思わせぶりな性格付け以外に、行動に至る心理を克明に描かれることはない。
教団という組織の役割に重点が置かれていて人物描写は常に後手に回っていると云えよう。じつは、組織の名称――長老会・幹事会・組織・宣教・財務・企画・機関誌・青年部・婦人部・顧問など――があるとはいえ、その実体となると雲を掴むような図式的な概念に過ぎない。さらにストーリー展開は、切り貼りのように次々と場面と登場人物が入れ替わり、その間の記述の欠落部分は、読み手の想像力に委ねられている。教団の下部組織と労働団体との提携にしても、具体的な実体となると、組織が人間を度外視して、図式的に進行しているに過ぎない。彼らの組織は、かつて集団農場や作業所、病院、植物園を保有し、布教のために都市の貧民窟での診療や瀬戸内海のレプラ隔離棟への医師派遣・果ては開拓団に参加して満州渡航、南海の玉砕の島にまで活動範囲が及ぶ。しかし、〈ひのもと救霊会〉なる教団の全国的な規模の活動諸点や信者の数なども、恣意的で捉えどころがない。

長大な小説の目次を挙げてみよう。いくらかの参考にはなろう。
序章・第一部――廃墟・再建会議・薪造り・疑惑と苦渋・慎ましい日常・予審決定・晦日から新年へ・保釈・病床指令・ストライキ・繭と剣・湯崎温泉・失踪・四面楚歌・公判1・諫暁・召集・公判2・死の影・宗教と生・闇から闇へ・教姉教弟・農村改革案・生(エロス)と死(タナトス)の情熱・正統と異端・暗殺・清野作戦・壊滅。
第二部――かくれ宗教・貧民窟・湖畔・本部・闇の思想・牢獄・南洋・参禅・廃者の島・再会・捕虜・西と東・感傷旅行・満蒙開拓団・特赦・産業報国会・吉報?・甘美な惑い・夢幻の能・総転向。
第三部――一九四五・虚脱と悲哀・七哀詩・死の釈放・残党・兄弟・進駐軍・姉妹・失われた時・復員・学校騒動・冬・喪中の正月・再生・不吉な前進・供養塔・世代交代・宗教裁判・節分・強制寄進・誓約・抗議デモ・突発事故・白虹・簒奪・あり得ざりし歴史・三日天下・浮城・破局・餓死・終末――は、戦後の武力闘争と敗北の部分をなしている。
掲げた章は、いずれも二つか三つの部分に区切られて構成されていて、映画の場面転換に似ている。この長編小説は、劇画のコマ割りや映画の手法に類似した章割なのだ。
人物描写も劇画的に類型化されていて、書かずもがなの常套的な心理的描写そのものが図式化されている。主役の千葉潔自体が、劇画の登場人物にふさわしい、思わせぶりなキャラクターであって、好意的に読んでも、そこに思想性を見出すのは難しい。
だが、第一部の章に「生と死の情熱」があるように、〈エロスとタナトスの欲動〉の葛藤が、大きな意味の小説の主題であり、「死」の衝動に導かれ、教団に壊滅をもたらす役割は、死に神のような千葉潔である。生の衝動を、わずかに示しているのが、教主行徳仁次郎の次女阿貴であろう。だが、存在感は、姉の阿礼と比べると極めて薄い。
教主仁二郎の獄死後の教団の混乱は、獄中で伝えられた二つの相反する遺言、教団の存続を熱望する「生」の遺言と怨念に充ちた「死」の遺言によってもたらされたといえよう。千葉は「死」の遺言の実行者なのだが、必ずしも積極的なアジテーターではなく、教団に染みこんだタナトスの衝動を顕在化させるための活動家に過ぎないと見なすことも出来る。物語の終末で、阿礼は壮絶な自殺を遂げる。一方、千葉潔は、潔い戦死を回避して、死に装束で落ち延び、餓死を選ぶのにも、つねに生者につきまとうタナトスの必然性が見える。二人の主人公にいささかの共感も覚えないのはこの文学作品の致命的な欠陥だろう。

私は必ずしも、この長大な小説を否定的にばかり捉えているわけではない。戦後文学を代表する陰鬱な小説群の総括として、『邪宗門』があるとすれば、後に大流行した劇画ブーム、そして今日のアニメ全盛時代の心理的な下地として、戦後文学が位置しているのではないかと疑っている。アニメ的な世界観――画一化・映像化・短絡化――に耐えがたい違和感を持っているとはいえ、劇画や映像芸術を侮るような文学的な視点にいるわけではない。
もともと死体である組織を生きかえらせる作業で組織は成り立つ。組織とは、死体なのであって、実体ではない、それは作家の執筆というエクリチュール作業に似ている。高橋和巳は『邪宗門』において、〈ひのもと救霊会〉なる組織をでっち上げるために心血を注いで書き続けたのだ。だが、エロスを代表するはずの行徳阿礼は、時代の閉塞状況の中で突破口を奪われ、そこへ、タナトスの千葉潔という著者の分身を紛れ込ませる事によって、必然的な破滅の途を選んだ。思考実験は失敗に帰した。だが、文学の両義性は、その欠陥をも前向きに捉え得るとだけ指摘しておこう。

ラカンの鏡像段階論を参照すると、高橋和巳の思考実験は、象徴的な脱皮を遂げることなく、精神病の様相に終わったと云えようか。(「鏡像段階においては、主体は鏡のなかの像を自らの存在として予知的に掴むことで現在の欠如を隠そうとしているに過ぎない」向井雅明『ラカン入門』)
それも人間の一つの側面であることに変わりがない。障害者施設を襲って「彼らは生きている価値がない」と重度障害者十九名を殺害した男も実在している。もちろん、ペンで書くのと、麻薬中毒を疑われようが現実に手を下すのとの相違を承知の上でだが。
ただし、私が詩や文学に求めているのは、紙とペンで描くエクリチュールの道であって誤解を恐れずに書けば、秘教的で、ごくマイナーなものであることを断っておきたい。(了)
評論 5
私がまだ学生だった頃、大学で知りあった尊敬すべき先輩が、とある新興宗教の信者だったことがあった。その頃はメディアでも、心霊現象やミステリーサークルといった超常現象企画がさかんに取り上げられていて、いわゆる「オカルトブーム」だった時代であるが、それと関連してか、たしかに大学の構内や駅の近くに、ごく普通に「人の幸せを祈る人々」の姿があったりしたものだった。だが、知らず知らずのうちにその先輩とともに、とある新興宗教の集会に参加させられたこと、そして何より、尊敬すべき先輩が他ならぬ新興宗教に傾倒していたことに気づいたときは、相当にショックだったのをよく覚えている。
新興宗教の信者は、たいてい非常に穏やかな表情をしている。まるで、この世に悩むべきことなど何ひとつない、と信じて疑っていないかのような穏やかな微笑は、しかしそれゆえにこそどこか人間離れしていて、そのときの私にとってはただただ不気味に映っただけだった。だが、あれから多少なりとも人生の酸いも甘いも知り、世の中の不条理の前に、成すすべもなく立ちすくんだことのある今なら、その先輩にかぎらず、新興宗教に走っていった人たちの気持ちが、何となく理解できるように思う。人間は、誰しもが弱い生き物なのだ。そして誰もが、自分がこの世に生きていることに対して、それを無条件に肯定できるような心のよりどころを――けっして揺らぐことのない強い心のよりどころを求めている。
本書『邪宗門』では、「ひのもと救霊会」と呼ばれる架空の新興宗教が登場する。新興宗教というと、今ではオウム真理教が引き起こした一連の事件のおかげですっかり悪い印象をともなう言葉となってしまったが、ひのもと救霊会の場合、明治の中頃にごく平凡な女性だった行徳まさを開祖に、その後を継いで行徳姓となった仁二郎を教主として、わずか30年程度の活動実績しかない宗教団体でありながら、小作農や女工といった、文明開化の恩恵を受けられない底辺層の人々の圧倒的な支持を得て、昭和初期の時点で全国に百万人の信者を持つまでの勢力に成長している、という設定となっている。だが、物語全体に漂う雰囲気は非常に沈痛で暗く、救いのないものであり、その前兆は、教主をはじめとする教団幹部の不当な逮捕という形で、すでに物語の冒頭から現われている。
そもそも強烈な終生観、宿命論をもち、現世の世なおしを標榜するひのもと救霊会は、二代目教主の時代には独自の自給自足の共同体――労働と信仰を結びつける原始共産的な運動へとシフトしていったものの、労働者こそが革命の担い手であるとする共産主義同様、国家にとって思想的統一をさまたげる団体のひとつとして、けっして無視できない存在となっていた。本書は大きく昭和初期、戦前、終戦直後の三部構成となっているが、そこに描かれているのは、国家権力や他の宗教団体による弾圧や誹謗との戦いの歴史であり、組織が大きくなるにつれて政治的色彩の濃くなった教団内部の対立、分裂の歴史であり、また不当に搾取される側に、人間としてあたりまえの幸せをもたらすために、最終的には極端な方法をとらざるを得なかったひとつの理想の、挫折と破滅の歴史でもある。
何が必要か? 結論は簡単だった。無理な工業化政策をとる必要のない<平和>。そして農村の、他の何ものにも指導されない自治。そして労働者や中産層組織との、互いに犯しあうことなき自由連合。
ひとりひとりでは弱き人間たちが集団を組むことで形成されていった「社会」は、その集団性という特性ゆえに、どうしても支配・被支配の構造、つまり人間が人間を支配し、その行く手を導いていくという階級構造から脱却できずにいる。それはカリスマ的な王族や支配者による封建統治から、議会制民主主義による行政統治へと移行してもけっして消え去ることのないものであり、この日本においても、近世における江戸幕府の支配体制が明治維新、大正デモクラシーによって変革されてはいったが、けっきょくのところその支配者層が領主から資本家、そして国家そのものへと代わっていっただけのことでしかなかった。そうした昭和初期から終戦直後における政治の移り変わりをリアルに描いた、という意味で日本近代史的な価値をもつ本書であるが、より重要なのは、本書の視点が徹底して被支配者層の側に置かれている、という点であろう。時代が変わり、体制が入れ替わっても、農民や労働者たちが常に搾取され、虐げられる立場であることは変わらない――農民や女工たちを取り込んで成長していった「ひのもと救霊会」は、まさに被支配者側の代表なのだ。
誰かが誰かを一方的に支配するようなことのない、そんな理想的な社会を実現させるためには、どのような方法をとるべきなのか――著者である高橋和巳は、よく左翼知識人の代表として、かつて全共闘時代を戦ってきた活動家のあいだで熱烈な支持を得ていた、というきわめて政治的な部分がクローズアップされがちな作家であるが、私が本書を読んで感じたのは、マルクス主義とか現行の社会構造の解体、あるいは自己変革とかいったこととは無関係に、ひたすらよりよい社会の実現を願ったひとりの人間だったのではないか、ということだった。著者があえて宗教団体を物語の主体においたのも、理想社会のひとつの形として、人間の理性や思考によって生み出された体制には限界がある、と悟っていたからだと考えると、本書が書かれた理由としても納得がいくし、また本書で「ひのもと救霊会」がたどることになる悲劇についても説明がつく。
はたして「神」は実在するのか――私は宗教についてはけっして明るいほうではないのだが、ひとつの考え方としてあるのは、たとえば人間が世の中のあらゆるものに対して名前をつけ、そのことによって世の中を自分たちの認識の内にとりこんでいったように、「神」という概念もまた、「人はなぜ生きるのか」という究極の問いに対する、ひとつの名づけの行為なのではないか、ということである。未知である、というのは、人間にとっては恐怖の対象だ。であれば、自分という存在がたしかにここにあるにもかかわらず、その理由がわからない、という状態もまた、一種の恐怖である。その恐怖を克服するために、ほかならぬ人間が生み出した概念こそが宗教であるとすれば、かつてのオウム事件をふりかえるまでもなく、究極的には宗教もまた「人間が人間を支配する」という構造に陥らざるを得ない。
そういう意味では、本書の壮絶な悲劇は、すでにその最初から運命づけられたものであったと言えるが、本書ではさらに、千葉潔という少年を物語の主要人物とすることで、その悲劇性をさらにはっきりとしたものに仕上げた。彼は母親の死後、その遺言にしたがって「ひのもと救霊会」の本山である神部を訪れ、そこではからずも教主の娘たちをはじめとするさまざまな信者や幹部たちと知り合うことになるのだが、彼はけっきょくのところ最後まで「ひのもと救霊会」の信仰を心から信じることはなかった。父の失踪、母の餓死――人が幸せに暮らしていくにはあまりに貧しい環境のなかで、人として許されない禁忌を犯してまで無様に生きつづけている自分は、ほんとうに生きていていい存在なのか? 本書がただよわせている沈痛さは、教団の運命というよりも、むしろ千葉潔個人がいだいていた、あまりに潔癖な自己への問いかけによるところも大きい。
人間は想像力をあたえられた唯一の生物であるが、何かを想像すること、考えをめぐらせることは、同時に悩み、苦しむことでもある。おそらく、千葉潔は物質的な飢餓もさることながら、自分の生を肯定したいという精神的飢餓にさいなまれつづけていたのだろう。そういう意味では、本書は「人はなぜ生きるのか」という究極の問いかけを真っ向から受け止め、その答えを導こうとした作品であり、またそのことによって生じる、他の人間との関係について問いただす作品でもあるだろう。結果的に、千葉潔の行動は宗教によって結ばれていた連携を破壊し、宗教そのものをも否定することになったが、それが「想像」することを運命づけられた人間の本質であるとするなら、それはなんという悲劇であろうか。
本当は誰も信じていなかった。それは千葉潔自身が一番よく知っている。ただ彼の孤独は無為と寂寞のうちに解消させるには、あまりにも深すぎた。――(中略)――むろん彼の記憶の灰色の幕にも、人の慈悲に胸つかれ、なにかの喜びに胸ふくらんだ一齣一齣も映らぬわけではなかった。――(中略)――だが彼に報恩すべき地盤がなかった以上、それは常に負債にしかなりようはなく、結局は苛立たしい心のしこりとなった。
現在、全共闘による社会革命は水泡に帰し、宗教による救いの道も絶たれた。そして世の中は確固とした価値観を見出すことができないままに、今もなお迷走をつづけ、その歪みがさまざまなところで噴出しはじめている。かつて、新興宗教の信者だった尊敬すべき先輩が今、どこで何をしているのか、また彼女がその過去において何を抱えていたのかも、今ではもう知りようもないことだが、自身の生に対してゆるぎない心のよりどころを求めざるをえない何かがあった、という意味において、おそらく著者も同じであったのだろうと思う。もし、今という時代において、本書を読むという行為に価値観を求めるなら、それは真に理想的な社会のあり方を模索しつづけ、そして挫折していった人々の真摯な思いを受けとる、ということにこそあるのではないだろうか。 
私論 1 

 

高校2年生の頃だったか、ある日、放課後の正門を出た歩道で、緑色のヘルメットをかぶった二人の「活動家」が下校する生徒にビラを配っていた。その「活動家」たちのすぐそばには、中年の見知らぬ男性が二人ほど立って様子をうかがっている。たぶんその二人の「活動家」はオルグに来た他校の高校生らしく、中年の男性は物腰からして刑事なのだろう。刑事と活動家たちは顔見知りのようだった。活動家たちは、校門を出る生徒にむかってアジ演説したりチラシを配ったり、屈託なさそうに何か話しかけたりしている。デモ参加への呼びかけだった。二人の演説の内容は、もう忘れた。
刑事たちとヘルメット姿の二人の間には、なぜかあまり緊張感は感じられない。むしろ、刑事たちも「子どものやんちゃ」をじっと見守っているような風情にさえ見えた。それどころか、刑事の「立会い効果」を楽しんでいるかのような「活動家」の軽い振る舞いには、ある種「自己陶酔」の気分が漂っていた。私はしばらく話を聞いていたが、やがてその場を去った。
あの頃の同世代の中には、ヘルメット学生の呼びかけに応じてデモに参加した人もいたようだ。東大安田講堂の攻防戦や、連合赤軍の浅間山荘事件が世間を騒がせた頃だが、私の田舎の高等学校は、それでもまだ比較的「平穏」だったように記憶する。
数年後、東京の大学の受験当日の朝。
その大学の正門前には、ものものしい装備の機動隊がずらりと並び、ジュラルミンの盾の間を縫って受験会場に入った。左右には新左翼のタテ看板が並んでいた。あの独特なクセのある画一的な字体の、硬直的なアジ演説調の言葉の羅列。自分には何か場違いのような感じがした。
味気ない受験勉強をやっと終えて、せっかく入ったものの、大学はなんとなく荒廃したキャンパスムードだったように思う。大学紛争はすでに峠を越え、我々の大学時代は校内が次第に「正常化」「体制化」された頃だった。学生の一般的態度は「しらけ」を気取ることだった。
だから、団塊の世代の先輩たちからは「飽食世代」「陽だまり世代」「ノン・ポリ」「保守派」などと揶揄されたように思う。マルクス・レーニン主義の関連本が古書店に溢れていた。面白かったのは、神田のパチンコ屋の景品ににまで左翼の古書籍があったことだった。
その団塊世代の間でさかんに論議された作品のなかに、高橋和巳の小説「邪宗門」や吉本隆明の「共同幻想論」などがあった。今の若者の間ではほとんど口の端にものぼらないが、マルクス主義の諸文献とともに、「活動家学生」たちの必須本だったそうだ。私もとりあえす手にとってはみたが、難解で読みきれなかったのだろう、詳細はあまり記憶にないが、ともかく、「希望のない物語」、「悲観的な議論」が多いという印象だけが残っていた。
最近になって、その小説「邪宗門」をもう一度読み返してみた。関心のきっかけは、高橋和己と同じ昭和6年生まれの篠田正浩監督の「映画ゾルゲ」を観たことや、昭和3年生まれの手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」を読んだりしたことの延長線上にある。
それにしても、今から思えば、こんなに暗鬱な小説が学生運動家たちの必読本だったとは、あの運動の結末を予め暗示していたかのようだ。
著者の高橋和巳自身も、学生運動家たちに寄り添うようにして39歳の若さで亡くなったという。そこには、「知的に誠実な人」というイメージがあったのだろうか。
ある程度覚悟はしていたが、「邪宗門」を読み進むにしたがって、物語の暗澹たる展開に、こちらの気分も滅入ってくるような思いだった。ともかくも我慢して最後まで読了してみた。そしてその根の暗さはやはり、昭和初期に生まれた世代に共通の時代背景を反映しているのだろうと思った。
リヒャルト・ゾルゲがドイツ向けの雑誌に報告していたように、昭和初期の東北地方の農村の、極端な貧窮が「邪宗門」の主人公━千葉潔の悲惨な生い立ちに強く投影している。彼は餓死した母親の遺言に従って、その遺体の一部を食べて生きのびたという、想像するだに胸の悪くなるような「原罪」を背負った人物に設定されている。
その母親は新興宗教「ひのもと救霊会」の熱心な信者で、その遺言にしたがって遺骨を納めるために、はるばる東北の農村から京都府下にある架空の田舎町「神部」の教団本部にやっとたどり着いた、というところから話が始まる。これ以上はない「悲惨」を主人公に背負わせて展開する大部の小説は、著者が中国文学の専門家だったからだろうが、難解な漢語が多くて読みにくい。それでなくても全体のトーンが陰鬱なので、漫画がこれだけ普及した今の若者世代に、広く読まれる作品かどうか私にはわからない。わずか半世紀で、若者の文化状況も大きく変化したものだと思う。今は、どちらかというと内容のない軽薄なお笑いが多いように思う。「思想」は流行らない。
思潮という言葉があるが、この時代の左翼過激派もいまどき人気のタカ派右翼も、所詮は流行に過ぎないのだろうか。季節に合わせて人が着替える、気軽な衣のように。
しかし、いまだに団塊の世代の人々には高橋和巳の「邪宗門」を高く評価する人がいることも事実だ。これほど世代によってその評価に大きな落差のある作品も珍しい。高橋自身は篠田監督と同じ年に生まれた人だから、最後の「軍国少年」だったのだろう。その屈折感の根っ子には、やはり敗戦による価値観の大変動があるのだろうか。
その作品を熱心に読み込んだ世代は、大学をはじめ大人の作った世界をいかがわしいものと決め付け、「ノー」を突きつけて大暴れした世代だった。だからそこには、ことの成否は別として、それ相応に戦後社会を考えるための示唆が含まれているのだと思う。
私には文学を専門的に評価する力はないが、まずは著者自身の言葉(あとがき)で執筆意図を確認しておこう。
「・・・・発想の端緒は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている<世なおし>の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験してみたいということにあった。表題を『邪宗門』と銘打ったのも、むしろ世人から邪宗と目されるかぎりにおいて、宗教は熾烈にしてかつ本質的な問いかけの迫力を持ち、かつ人間の精神にとって宗教はいかなる位置をしめ、いかなる意味をもつかの問題性をも豊富にはらむと常々考えていたからである。 ・・・・ ここに描いたものは、あくまで『さもありなむ、さもあらざりしならむ』虚実皮膜の間の思念であり、事件であり、人間関係である。・・・」
高橋和巳は大阪市浪速区生まれ、実母は熱心な天理教の信者だったらしい。「邪宗門」を執筆するにあたって天理教、大本教、創価学会など戦前・戦中に弾圧された教団史を綿密に取材したようだ。
小説に登場する架空の神道系新興宗教「ひのもと救霊会」は、外形的には大本教を主たるモデルとしているが、著者によると「あくまでも、さもありなむ、さもあらざりしならむ、虚実皮膜の間の」思考実験なのだという。「世直し」を標榜する新興宗教の叛乱は、学生運動家の期待する「反体制」的な要素をはらみながら出発するので、教団が次第に膨張する過程で必ず権力との葛藤に晒される。これを徹底して非妥協的に突き進めると、どうなるか。それを高橋和巳の観念の中で展開してみた、ということなのだろう。自由奔放な大衆宗教運動の下からの伸長と、反対に上から民衆を管理しようとする権力の本質との間には、原理的な対立関係が発生するということのなのだろう。たちまち異論が出てきそうだが、まずは著者に敬意を表して謙虚に読み解きたい。
特に作品中で、第3代教主の千葉潔の時代に絶望的な武装蜂起を試みて「三日天下」で鎮圧され壊滅した顚末が、後の「オウム真理教」を予言するような展開だったので、一時話題にもなった。私は、高橋が中国文学の専門家であったことから、大陸の王朝交代期に登場する農民暴動にヒントを得たのではないだろうかと想像していた。
また、私自身の記憶に鮮明なのは、高校生のとき、三島由紀夫との対談が創価学会系の月刊雑誌「潮」(69年11月号)に掲載されたことがあって、とても興味深く読んだこと。当時の私には、どちらかというと豪華絢爛たる三島由紀夫の作品のほうに魅力があった。ちょうど「憂国」を読了して日にちもたたないときに、あの「割腹事件」が勃発したので、尚更印象深い。「こんなこと、本気で考えるような人は、畳の上では死ねないだろうな」と思っていたからだ。
確か「潮」編集長の後日談(あとがきだったか)によると、屈託なく食事をしながら語る三島に対して、病み上がりなのかジュースしか飲めない体調の高橋だった」というような回顧談の記憶がある。 私の印象は、明朗快活な三島に対して、高橋という作家は(それまでまったく知らなかった)奥歯にものの挟まったような暗い口吻で、なにかすねたインテリ風だった。当時17歳の私は、あまりよくわかっていなかったのだろう。
そして、その直後(確か翌年)に三島由紀夫が突然の自決、さらに高橋和巳も結腸癌で死去したのだった。二人の存在は戦後を対極的に象徴していたのだろうか。共通しているのは、二人とも「70年安保」を前後して死んでしまったことだ。それがひとつの時代の区切りだったのかもしれない。
これ以降の日本の若者文化は、社会意識や思想性がしだいに退潮して、何か弛緩した「低迷期」に陥ったのかもしれない。
そうすると、さしずめ私などは、その「低迷期のはしり」にあるのだろうと思う。

たぶん、小学校の6年生の頃だったか、我が家のすぐ裏隣に、不思議な初老の男性がひとりで住んでいた。
そこは鳩小屋のような外見の狭い住居で、金網のようなものが軒下に張り巡らされていて、戸外と室内とを分けていた。その人は金網の内側から、日がな一日じっと外を凝視して座っていることが多かったように思う。白髪交じりで伸び放題の長髪を後ろに束ね、からだは小太り、眼は猛禽類のように炯々として鋭かった。部屋は日中でもうす暗く、汗臭いすえた匂いがした。
この「変なおじさん」の奇怪な話を聞くのが面白いので、学校が終わった後よく遊びに行ったものだ。子供らしい怖いもの見たさだったのだろう。
話の内容はあらかた忘れてしまったが、このおじさんは山奥で修行に励んで神通力のようなものを得たのだという。今から思えば、いわゆる山岳宗教の「修験者」(行者)だったのかもしれない。
その話によると、人の病の原因は悪霊(悪い「気」か)のしわざで、その悪霊を取り除く術を身につけたのだという。見ていると、人の病気を治すため患部にに掌をあて、半眼で一心になにかを念じる。呪文を唱えていたかもしれない。すると反対側の手をすっぽり包んでいるビニール袋が少しづつ膨らんでゆくのだ。病人の患部にあてている手から悪霊が吸い取られて反対側の手に移動するのだ。患部に当てている手のひらからおじさんの腕や両肩、そして背中を経由して、反対側の手を包むビニール袋に移るのだという。不思議なことに、確かにその黒いビニール袋が、時間をかけてゆっくり膨らんでいくのだ。これは何回も実際に見た。
このとき悪霊(悪気)がおじさんの背中を通過するので、本人はその冷気でぞくぞくすると言っていた。私の目には何もみえないのだが、おじさんは、ありありと感じているようだった。何回見ても、子供だましのトリックなのか、本当に起きていることなのか、判断はつかない。子供心にも「インチキ」ではないかと疑ったが、どうしてもごまかしは発見できなかった。膨らんだビニール袋の中に「悪霊」を閉じ込めたのだという。部屋の中には、その膨らんだビニール袋が無造作にいくつか転がっていた。あの袋がその後どう処理されたのか、記憶にない。おじさんは、いわゆる「拝み屋」さんだったのだろうか。手かざしではない。不思議な光景だった。
この人は近くの銭湯でもよく見かけたが、その場で出会った見知らぬ他人にいきなり言葉をかける癖があった。そして、その相手の人がいま何を考えているのか、あるいは何に心を奪われているのか、何か困ったことがあるのか、好きな食べ物、来歴など、その場でぱっと即座に言い当てるので、気持悪がられているような様子だった。脱衣場で親子でいたとき、私が「あんたのお父さんは頭がいいなぁ」と言われて、父はまんざらでもない気分のようだったことが、今思い出しても微笑ましい。なにの根拠もない。
ある日遊びに行くと、見知らぬ白髪老齢の女性が、くだんのおじさんが住む「鳩小屋」の前の、小さな家庭菜園風の庭を箒で掃除していた。見かけぬご老人なので、何をしているのかと思って見ていたからだろう、子どもの私に向かって「・・・お陰で病気を治してもらったから、せめてものお礼に掃除をさせてもらっているのよ」というようなことを話しかけてきた。和服姿で、品の良い老婆だったことを記憶している。おじさんの「鳩小屋」の隣は、キリスト教の教会で、牧師の娘は中学校の同級生だった。
この「修験者」(行者)のおじさんはある時、自分はいずれ東京の国会議事堂に出て国民向けに大演説することになっているのだと、真顔で私たち子どもに語っていた。
あれから半世紀以上は経たから、もうその「修験者」もこの世にはいまい。(あるいは神通力で、今もどこかに生きているのだろうか)もちろん、国会で演説などはしていないに違いない。
高橋和巳が「邪宗門」を創作するに当たって、大本教の創始者出口なおや、教祖の出口王仁三郎などの「霊能者」をモデルにしていることは良く知られている。
出口なおは、現在の京都府福知山市に天保年間に生まれた。極端な貧困と、言うに言われぬ家庭の不幸のなか、明治25年頃に「神がかり」になって、さまざまな宗教や行遍歴の後に、大本の信仰対象となる「お筆先」と呼ばれる言葉を多数残したという。「神がかり」という言葉で、子どもの頃に見た、あの行者を思い出した。
大本の信仰は、開祖なおの不思議な神がかり体験がひとつの原点なのだろうと思う。その後継者になった出口王三郎という人は、様々な人生遍歴を積んだスケールの大きな人物だったようで、正規の神道儀礼も学んだらしい。そしてなおと出会い、末娘と結婚した。なおの教えは、この非凡で多彩な能力を持つ義理の息子を得て、教団に組織化され急速に発展したようだ。教団自身の説明によると
「・・・・大正初年における大本は、信徒数1000人にみたない綾部(京都府)の一地方教団にすぎなかった。しかし、第一次世界大戦後の変動期において、大本は異常なまでの成長をとげた。1917年(大正6)年の1月に機関紙『神霊会』を発刊していらい、『大正維新』をスローガンとして、鎮魂帰神とはげしい予言・警告にもとづく強力な宣伝を展開した数年の間に、大本はめざましい躍進をとげ、その発展ぶりには目をみはるものがあった。・・・・」(「大本事件史」 昭和45年8月刊)
「世直し」を標榜した大本の、教団発展を担った王仁三郎という人物は「邪宗門」では「ひのもと救霊会」の教主、「行徳仁二郎」のモデルとなった。
江戸時代の末から明治期に至る激しい社会変動や、過酷な自然災害、飢饉、疫病の発生などで塗炭の苦しみにあった民衆の願いに応じて、黒住教、金光教、天理教、丸山教などの新興宗教が続々登場して多くの信者を得たことはよく知られている。その宗教現象については、専門的な研究の蓄積があるようだ。幕藩体制の権力構造に組み込まれ、体制に保障され既成化してしまった伝統教団が、生きた宗教としての救済力を失っていたからでもあるだろう。
いわゆる専門家の研究態度は、宗教が発揮した社会現象を犀利に分析しているのだろうが、信仰や呪術そのものの内容について、とくにその不可思議な「効果」については、用心深く立ち入らない。合理的な説明がつかないから扱いにくいのだろう。宗教的な体験は、学問の対象とは別次元と考えられているのだろうと思う。小説「邪宗門」も信仰の内容には、あまり深い入りしてはいないと思う。
いわゆる「啓蒙主義」は、合理的に説明のつかないことを、学問の世界からきれいに排除した。とくに西洋の合理主義が紹介された明治以降はむしろ、「いわしの頭も信心から」と揶揄する言葉があるように、宗教を非科学的な「迷信」とみなす傾向が根強い。新興宗教の膨張を無智な民衆の「ご利益信仰」などと侮蔑することが多い。
こうした「科学的」な態度は、新興宗教の発展を社会現象のひとつとみなして、合理的説明を試みるものの、それはひとつの側面を突いているに過ぎないと思える。主観的な「信仰」それ自体を解明する方法ではないからだ。逆にいうと、なぜ新興宗教がかくも広汎な民衆の心をつかんだのかを、すっきりと納得できる説明はできないのではないだろうか。隔靴掻痒で、不全感が残る。
むしろ「客観性」を装う安全地帯から、高みの見物をしているようにすら見える。「信仰と合理的精神は両立しない」という考えが疑問の余地の無い前提になっているからだろう。しかし、本当にそうだろうか。
「科学的合理主義」の限界が指摘されて久しい。宇宙や自然の不思議は未だに何も本質的には解明されていない。むしろ、ますます謎は深まっているといえるのではないだろうか。人生や社会は不合理に満ちているし、一瞬先のことも予測不能だ。だから不安の種は尽きないし、我々はいつ襲ってくるかわからない「大災害」にいつも怯えている。だから「不安」を煽る詐欺商売まである。
科学は眼の前にある事実の「時系列的な因果関係」を精緻に説明できるが、なぜそうであるのか、という存在論的な疑問にはまったく無力だ。hawは説明できてもwhyにはきちんと解答できないことのほうが多い。
以前、テレビでたまたま「大本教の弾圧事件」をテーマにした教養番組を興味深く見たことがあるが、弾圧の原因について、専門家の客観的な説明はなるほどよく分かったものの、ある種の本質的な説明が抜けているようにも感じた。うまく表現できないが、社会科学的な視点からの分析だけでは、信仰そのものの持つ生々しい「迫力」があまり伝わってこないからではないだろうか。宗教現象を「客観化」する操作過程で何か大切なものがすっぽり抜け落ちている。客観性の盲点なのだ。ちょうど本来は信仰の対象である仏像を美術品として鑑賞する行為に似ている。わかったようで実はわからない。
国家権力が血相を変えて弾圧しなければならなくなったほどの存在感を、なぜ宗教教団が持ったのだろうか。
公共の電波だから、信仰の内容まで立ち入ることには限界もあるだろう。
つまらない難癖をつけるつもりはないが、肝心なものを欠いた説明では、「さもありなん」という程度の感想に終わってしまう。
宗教の究極は信仰という「主観体験」の世界だろうから、客観的な説明に限界があるのはやむを得ないと思うが、実は人間にとって本当に切実なのは、なまなましい存在実感の話なのだろう。生身の人生は「剥製品」を眺めているようなわけにはいかない。私たちの人生は「一人称」なのだ。他人の話ではない。信仰心は温かい血肉の通った、当事者の生身の話なのだ。人生の切実な問題を他人事や二人称で語ることには限界があるだろう。
なぜ自分がこんな矛盾に苦しまねばならないのか。こんな不条理な世になぜ生まれ会わせたのか・・・・こうした存在論的な疑問や問いかけに対して「精子と卵子の合体」などという生物学的な説明を与えても、本当は何も答えていないに等しい。自分自身が「人生ゲーム」の駒なのだから。
この分野に科学的態度は無力に近い。むしろ、お門違いと言うべきか。核分裂から膨大なエネルギーを取り出す技術を開発できたものの、それが使い方次第で自らの大厄災になって還って来るという事態は、人間存在の深淵に潜む「矛盾」が潜んでいるというべきなのだろう。「想定外」という都合の良い言葉が3.11で使われたが、なぜ「想定外」に見舞われる人とそうでない人の差があるのだろう。自分が被害者なら「想定外」という説明では納得できない。
生きることに困難を感じている 人は、自らの腑に落ちるような理由(いわれ)や、切実な救い(苦しみからの解放)を求めている。だから神話や伝説の役割は大きい。いわゆる「因縁話」も大事な場合があるのだろう。そのとき、眼に見えない世界への感受性が大きな意味を持つツールになるのではないだろうか。今起きている現象を動的に直感し理解する感性も必要だろう。しかも安易な主観主義に陥らない方法を宗教は「修行」や「作法」(儀礼)として育ててきたのではないだろうか。
宗教が説く世界では、人生に偶然や例外はない。すべてが厳密な因果関係にある。すべてが必然の理の顕現とみる(実感する)のだろうと思う。そうでないと存在の不安や空虚感は根本的に解決しない。いな、すべてが偶然だとする主張もある得るだろうが、これをたんなる情緒ではなくて意思的な虚無観として貫徹し生きることには、かなり大きな心的ストレスが伴うだろう。その緊張感や孤独に耐えられる人は少ないと思う。「苦しいときの神頼み」と揶揄されても、やはり神仏に祈願する行為はなかなか捨てられない。「はやぶさが」が軌道から消えたとき、最先端の科学者がすべての人事を尽くしたうえで、神社に祈願したことは興味深い。
優れた宗教経典がしばしば象徴的な「物語り」とか「韻文」であるのは、そのメッセージが宇宙と人生の存在理由を説き、救いを与えるためのひとつの有効な方法だからなのかもしれない。大本や天理教の場合、それは開祖の「お筆先」に該当するのだろうか。そして、その解釈が教義に発展したのだろう。
宗教には必ずなんらかの「修行」や「儀礼」を伴う。観念の操作だけでは、人は何も変わらない。道徳や精神修養、あるいは教訓話などは、おのずから限界があるだろう。そんなものでは、変わったと錯覚するか、「したり顔の偽善」に陥る危険性を排除できないように思う。
あらゆる宗教の核心部分には、まことに生々しい心身全体的な体験があると思われる。自分が体ごと没入して、「実感」を得るしかないのものだろうと思う。ただ、人格の根本的な変容を起すわけだから、ある面とても危険で、場合によっては「命」をともなうような行為だと思われる。きちんとした指南役が必要なのだろうと思う。だから、修行は必然的に「師弟関係」で導かれる。「先達」が必要なのだろう。
難しいのは、「神がかり」と「狂気」との境界が、いかにも曖昧に見えることだ。
高橋和巳は勃興する宗教勢力には、個人の救済だけではなくて、広く「世直し」への強烈な志向性が顕現する場合が多いと指摘する。文字もまともに読み書きできないような庶民がこれと思い定めて、その強い信心への情熱を結集したとき、これを巨大な「体制変革」のエネルギーに汲み上げる組織家が登場する場合があると考えた。学生運動家たちの関心の所在も、ここにあったのだろうか。
幕末から明治、大正、昭和初期にかけての変動期に登場した様々な新興宗教は、時代の闇が深ければ深いほどに、苦悩する民衆の間で新鮮な「信仰の威力」を蓄積したのだと思う。それを「歴史の裏側」などと見下すのは、自分を不遜な「高み」に置いて、民衆を見下した態度ではないだろうか。いわゆる「歴史」の表面の記述に載らない「民衆の真実」は、社会科学的な分析手法だけでは十全に掬いきれないのだろうと思う。
子どもの頃に見た、くだんの修験者のような話は昔の庶民の間ではもっと多かったのだろう。切実な苦悩のなかで、藁をもつかむ思いで拝んでもらったり、自ら修行したり祈ってみたら、病が治ってしまったなどという主観的な「実体験」が本当にあったのだろう。だからこそ、新興宗教がこんなに大きくなったのだと、ひとまずは素直に事実を受け入れるほうが、よほど「科学的」「合理的」な態度だと言えないだろうか。そうしないと、こんなに隆盛した原因を、それこそ「科学的」に説明できない。
確かに、いかがわしい似非宗教や詐欺商法も多いので、「主観」だけに閉じる危険性はある。映画「自転車泥棒」にも、大戦直後のイタリアの貧困のなかで、いかがわしい占い師が登場していたが、決してすべての信者が愚かな「迷信」に嵌って騙されている、ということだけでもないようにも思う。
もちろん、宗教を判断することはとても難しい。普遍妥当的で理性的に洗練された判定基準のようなものがないからだろう。そこで俗悪週刊誌が、これは売れるとばかりに、鵜の目鷹の目で新興宗教を書き立てる。あるいは「ひのもと救霊会」のように、当局側の意図的なネガティブ・キャンペーンに動員される。
子どもの頃に見た「修験者」の、摩訶不思議な呪術や洞察力、あるいは信心の威力のような、合理的に説明のつかないものの「効果」については、「ある」とも「ない」とも即断しないという抑制的な態度が、とりあえずは合理主義の適切な姿勢ではなのだろう。全共闘運動の理論的な根拠だった「マルクス・レーニン主義」という思想の大前提は「唯物論哲学」なので、「唯心論」の典型みたいな「宗教」は、不合理な因縁話や因果論を説く「迷信」だと単純に見下げられていた。だから、宗教はもはや淘汰されるべき「過去の遺物」に過ぎないという考えが当時の学生一般の通念だった。しかもそれは、現実の階級矛盾からしばしば民衆の関心を彼岸の世界にそらす「反動的な装置」、つまり「阿片」だと、よく糾弾されていたと思う。
マルクスは「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「・・・宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と指摘した。小説「邪宗門」でも第14章「四面楚歌」に典型的なマルクシストの批判が記されている「・・・・・中国の王朝交替の歴史が教示するごとく、黄巾の乱、白蓮教徒の乱、さらには太平天国など、道教、仏教、キリスト教などの宗教家に指導された百姓一揆は、それが何ほどかの成功をおさめた際にも、遂に社会経済史的な何らの変革をもたらしえないことは、歴史がこれを証明する。いっさいの宗教は、これが宗教であるかぎりにおいて、被搾取者に忍従を教え、結局は権力者と取りひきして私腹をこやす以外のなにごとをもなしえない。民衆の憤激を組織化するかにみえてその方向をそらせ、教化するかにみえて愚蒙をおしつけるもの━それは宗教である・・・」この批判は、確かに現在でも相応に説得力があるとは思う。
無知蒙昧の「民草」は意識が低いので、まずは目覚めた「前衛党」が先頭に立って革命を指導するのだ、というような考えだった。
しかし、個人の救済に留まらず広く「世直し」「立て替え」を果敢に唱えて急拡大する新興教団の勢いは、現にある体制を根柢から揺るがすパワーを持っている。大本教が過酷で大規模な弾圧を受けた原因も、ここにあったようだ。流行の学生運動など足元にも及ばない。それは広範な民衆の生存に深く根を下ろして活力を汲み上げるからだろう。そこに宗教としての「威力」があった。
小説「邪宗門」が朝日ジャーナルに掲載されていた頃、学生の間では「唯物論」が優勢だった。にもかかわらず、この小説はなぜか当時の多くの活動家学生から熱心に読まれ、議論されていたのも興味深い現象だった。
しかし、学生の間で流行した「史的唯物論」は、「流行」である限りおいて、やがてあっさりとキャンパスから退潮した。そして活動学生のなかには立派な「モーレツ社員」に「変身」した人が多かった。やがて「マルクス・レーニン主義の総本山」ソ連は崩壊消滅し、実利を大切にする中国大陸の人々は「社会主義市場経済」などという論理矛盾の国策を、恬として恥じない「おとな」の経済大国になった。
いっぽう「宗教」は今もなお、しばしば世界秩序を揺るがす威力を失ってはいない。むしろ、よくみると、ますます世界規模で人心を揺るがすパワープレーヤーのひとつなのだ。

高橋和巳が創作した「ひのもと救霊会」の宗教的な原点には、開祖である行徳まさの「神がかり体験」がある。その「神がかり」を促した背景には、彼女の言語に絶する悲惨な人生があった。
彼女を含め、当時の農家の貧困は、明治中期の日本がとった松方財政によるデフレ政策が一因だった。このため米をはじめとする農産物価格が暴落し、やむなく土地を手放して小作人に転落したり、都会に貧民として流れ込む農民が多数発生したという。この時期には全国各地で、追い詰められた農民の大規模で絶望的な暴動事件も頻発した。その犠牲のうえに「富国強兵」策が強行されたのだという。
行徳まさの身に起きた不幸に託して、今日では想像しがたいほどの貧窮ぶりが描かれている。つい90年ほど前までの、いわば「日本社会の底辺」のリアルな実像を映しているのだろう。
・・・安政2年生まれの行徳まさは、この時代の日本のどこにでもいそうな平凡な農婦だった。
悲惨な生い立ち、家庭の不和、絶望的な貧窮に追い詰められた挙句に、「・・・彼女は6つになる児をつれて山中をさまよい、虫を食い蛇をとらえて食い、そして次に山から降りてきた時、子供の姿はなく、目をらんらんと輝かせて、何かわけのわからぬことを叫びながら町を歩いた。もっとも常時錯乱状態にあったのではない。平静にもどると、彼女は遊里に売り飛ばされた長女や質屋にあずけられた長男や、姉にあずけた次男、子守に出した次女・・・・とたずね歩いた。だが、遊里の長女は母に会おうとはせず、長男は奉公先から出征して日清戦争で死に、次男は姉の家を飛びだして行方不明になり、次女は奉公先の虐待にたえず縊死していた。・・・・」という地獄絵図。
やがて「・・・半狂乱の女がつぎつぎと(寺社を)叩いてまわる姿がみられた。病を治してくれというのでもなく、自分が救われたいというのでもなく、奇妙な質問を執拗に発し続けるのである。6人の子を生んで、4人に先立たれ、残った子にも背かれた母親の命になんの意味があるのだろうか、と。なぜ長男は戦死したのか。なぜ長女は娼婦になり病毒におかされて死んだのか。なぜ次男は行方知れずになったのか。なぜ次女は地主の納屋で首をくくったのか。なぜ三女は末子を餓死させたのか。その三女は山でどうなったのかを彼女は言わなかったが、それよりそんな奇妙な質問をまともに答えてやる者はだれもいなかった。宗教家のところだけでなく、教育者や社会事業家、あるいは政党の演説会にも、その乞食女は現われて、弁士に向かって、とつとつと、しかしある迫力をもった声で同じことを問いかけるのだ・・・」
21世紀に生きる我々には、ややどぎつい描写かもしれないが、こうした生存ラインギリギリの境界線上を彷徨した人は、これまでの人間の歴史に、実際数え切れないくらいたくさんいたのだろうと思う。だから中世の「地獄草子」や「餓鬼草子」には、そうした生々しさが描かれている。決して空想の産物ではないのだろう。
そして今も、世界を広く見回せば、この物語が決して昔話とは言えないような、まさに地獄絵図さながらのなかで呻吟している人々は多いと思う。しかも貧困や自然災害だけではない。最近の中東やアフリカで見られるように、長期化した内戦で大量に発生した難民の余りにも惨めな姿は、あきらかに「人災」であり、それはただいま同時進行の出来事だ。
まるで民族大移動を彷彿させるような、危険な海を渡る大規模な「逃避行」。どれほどの恐怖と苦しみだろうか。自分だったら耐えられない。
不安や絶望が深ければ深いほど、信仰が先鋭化し、過激な行動に走る人も出るだろう。そして、なかにはある種の人格変容や精神の変調を起こす人がいたとしても、少しも不思議ではない。その中からまた新しい「武装過激派」が生まれのだろうか。これを力だけで抑え込もうとしても、やはり限界があると思う。
本文にもどろう。 「・・・やがてふたたび開祖(まさ)は山に入って姿を消し、今度あらわれたときには、怪しく人をひきこむ抑揚で、人の悩みを射当て、人の病を癒す祈祷師となっていた。・・・」
開祖まさの行った神がかりの祈祷や身替わりの法については、具体的な記述は少ないが、私は子どもの頃に怖いもの見たさで瞥見した、あの男性の行者を思い出す。そして実は、仏教やキリスト教のような高度で普遍的な宗教でも、それはお化粧を施された今日の姿であって、そもそもの原点には、こうした土俗的な神秘体験や奇蹟が基本にあったのではないかと思う。そこに信仰のある種、威力があるはずだ。
いずれにせよ、自然災害や社会矛盾のしわ寄せを一番被る最も弱い立場の人々に、温かい救いや蘇生の癒し、そして前途への希望を与える救いは、宗教の原点なのだろう。それは生身の生活のなかに息づく。それを「ご利益信心」と、高みから冷笑することには、一種の「傲慢」があるのはないだろうか。
もちろん、歴史の試練に堪えて生き残った普遍宗教は、ただたんに土俗性に閉じこもるのではなくて、深い思想性を開拓し、質的に洗練された姿なのだろう。それでもなおかつ、核心には生身の人間の救いに直結した熱く純粋な「信仰の炎」を継承しているのではないだろうか。日本では江戸時代の寺請け制度によって制度化され身分保障されたために、宗教としの救済力を失い信仰が形骸化して魅力を失ったことが伝統教団の低迷の原因だった、と学んだおぼえがある。政治的には体制の補完勢力に転落して堕落した。
小説「邪宗門」は、昭和初期という暗い世相の日本を舞台に発生した、想像上の教団の運命を描いたものといえる。
著者は、北京都の大本教を基本のモデルに創作したそうだが、その他の幕末・明治期に登場した新興宗教の発生過程や、専門である中国史上の、信仰を纏う農民暴動なども考えあわせて創造したのだろう。だから宗教とはいっても、かつて国家護持を担った仏教のような、整然たる体系化された教義はない。若干の末法思想を色づけしてはいるけれども、従来からひろく民間にあった土俗的で素朴な自然崇拝や、超常体験を含む雑多な信仰儀礼を構成要素にしているようだ。従って、先行する新興宗教の雑多な神概念や、山岳信仰の修行などの要素も混交している。主に戦後に登場した都市型の新宗教とは違って「ひのもと救霊会」は、北京都という農山村地域を基盤に発生した教団だったことも、その性格を構成するひとつの要素なのだろう。当時、国民の60パーセントが農民だった。
だからこそ、民間に深く根ざしているともいえるが、そこにはある面で不合理な「迷信」とみなされる非合理性も介在するのだろう。当時の支配的な社会通念や常識、あるいは道徳観念(それらがすべて超時代的に正しいとはかぎらないが)からみて、その許容範囲を逸脱しているとみなされやすく、そこを意図的に衝こうと狙う側からは、容易く「淫し邪教」のレッテルを貼られ攻撃される弱点もあった。その場合、ことに大衆の劣情におもねる興味本位のマスコミが悪宣伝を垂れ流す。そのうえに「異端」「少数派」に対する地域や職場の偏見や差別の圧力が増幅する。最初期の「ひのもと救霊会」に集団入信した人々のなかには「新平民」の人々が多かった。それが排除の感情をなおさら煽った。こうしていったん「非国民」と烙印されたとたんに、教団はもとより信者個人も容赦なく周囲から厳しい差別に晒され、孤立・疎外させられた有様が描かれている。
「ひのもと救霊会」は、すでに故人となっていた開祖・行徳まさと現教主の行徳仁二郎の2代、わずか30年余の歴史で急拡大した教団だった。そしてかつての封建領主の城郭跡を買い取って、そこに教団本部の大規模な神殿を荘厳するまでに発展していた。
開祖まさの神秘体験や加持祈祷だけにたよる宗教活動は、まだいわゆる「拝み屋」の段階だったが、これを後継した第二代の行徳仁二郎の時代には名実共に「教団」へと発展したのだった。それは仁二郎の非凡な事業経営能力が発揮されたからだった。確かに彼は世俗に通じ、多彩にして融通無碍、変幻自在の姿を演じる組織者のように描かれている。
仁二郎は、青年時代に家出して10年に渡る詳細不明の流浪生活を経たらしい。その素性にはある種いかがわしさがあるが、それを曖昧に糊塗して粉飾し、逆に自己の「神秘化」に利用するという才知を持っているようにも見える。大衆の組織指導者としての統率力や包容力、事にあたっての決断力に恵まれた男は、同時に人情の機微に通じた巧みな人心収攬術を備えた人物でもあった。つまり、典型的な「新興宗教」のカリスマ指導者らしく描かれている。それはある面で「詐欺師」すれすれのキャラクターだ。
信徒数100万を呼号する大教団は、当然ながら治安当局の警戒心を大いに刺激したのだった。権力の側に立つものの思いあがった「お上」意識がある。ましてや折からの世界不況のなか、戦争への道をひた走るための統制・・・・国家総動員体制を、一層強化せねばならないご時世にあった。
民間から立ち上がった新興宗教で、個人の救済に留まらず開祖以来「世直し」や「立て替え」を唱えて急速に膨張した教団は、出方しだいでは「国体」を脅かす危険性を疑われた。一般の大衆信者だけでなく、教主周辺のブレーンには帝国大学の教壇にあった学者、医師などのインテリ、士官学校出身の軍人もいて、折からの「昭和維新」とも気脈を通じている気配もある。病院を経営し、信者相互の協同による工場生産現場を構え、場合によっては信者の多い職場の労働争議にも関与するといった、社会的影響力のある存在だった。
「ひのもと救霊会」は、こうして治安維持を司る特高の過酷な弾圧を蒙ることとなった。昭和6年に2回目の大弾圧を受けた教団は、不敬罪、治安維持法違反などを問われ、教主行徳仁二郎と幹部、地区司祭(都道府県の支部長格)ら9名が検挙された。そして開祖まさの「神がかり」が生んだ口述の聖典「お筆先」の文言が国体に沿わないという理由から、その一部改竄を獄中の仁二郎自身が当局に妥協して許容し、事実上「転向」してしまったのだった。「お筆先」は絶対帰依の信仰対象であるだけに、教団の存立基盤を揺るがす深刻な事態であった。
こうして父仁二郎が獄中で「転んだ」とは知らない長女阿礼17歳やその妹阿貴のもとに、身元不明の14歳の少年・千葉潔が転がり込んでくるところから物語は始まる。
「・・・この(ひのもと救霊会が所在する)町は元来、絹織物の産地として知られ、木材をはじめこの地方の集散地として発展した。・・・だが、たび重なる不幸な事件(弾圧)のために、・・・(今は)まったく活気が」ない。
「・・・不幸の第一は昨年、つまり昭和5年の全国的な豊作飢饉だった。・・・昨年、米の収穫高の予想が、過去5ヵ年の平均の一割を上回る豊作だと発表されたのをきっかけに、米価が大暴落をはじめ、・・・失業して帰省した働き手を無為にかかえこんで(ひのもと救霊会を含む)近郊の農村はよどんだように動かなくなった。・・・」
ストーリーは、国家権力の弾圧に呻吟し動揺、やがて衰退しゆく「ひのもと救霊会」の人々と、心に深い「原罪」を背負っていながらとうとう最後まで信仰を持ち得なかった信者2世の千葉潔が、それにもかかわらずある目的をもって3代教主を「僭称」し、教団全体を破滅的な武装蜂起に導く滅びの物語だった。
暗い出だしで、前途の希望のなさが予測できるし、読んでいてしばしば心が塞ぐような救いのなさを禁じえない。それは未曾有有の敗戦へと向う、昭和初期の日本社会の閉塞感・衰亡観をも反映しているからかもしれない。
とともに、著者の視野は本筋の周辺に多角的な社会テーマを配した様々なメニューを啓蒙的に提供してくれている。当時の読者の多くが大学生など若い世代であったことも反映しているのだろうが、今日からみても、ひとつひとつが相応の思考実験に値するテーマだと思った。 
 
私論 2 

 

原発立地自治体の首長は、自分勝手じゃないか
今朝の朝日新聞一面・三面には、原発再稼働について「周辺自治体の同意を必要とするどうか」についての自治体の長に対するアンケート結果が掲載されていました。
周辺自治体に聞くと、必要が54%、不要が15%、立地自治体に聞くと必要が9%(3自治体)不要が38%(12自治体)とのことです。他は選択せずという回答で、多分判断保留ということでしょう。
判断保留という首長は、無責任だと思います。周辺自治体首長の不要15%というのは私には理解できません。判断留保(お任せ)と言うことかなと思います。判断保留を除いて、多数で言いますと、周辺自治体が「俺たちにも判断させろ」と言っているのに、立地自治体が、「いやおれたちで決める。君たちは口出すな」と言っていることだと思います。
立地自治体の首長の意見は、自分勝手と思います。一旦事故が起これば、周辺自治体に被害が及ぶのは明らかです。福島第一の事故は、周辺自治体どころか遠くの自治体の住民まで影響を及ぼしました。日本自体の評価の低下や電気料の値上げを考慮しますと全国民に影響しました。
全国民への影響と後世代への負担(放射性廃棄物の処理ー現在見通しまったくなし)を考えるなら、国民投票で決めるべきことです。立地自治体の脱原発の支援もしなければならないからです。なぜなら、全国民の多数意思で脱原発と決定すれば、これまでの原発推進からの大転換ですから、立地自治体の不利益も生じるだろうからです。
日本国民は、国民投票で決定する運動すべきです。私は、次の選挙では、原発全廃を言う政党を支持しますが、国民投票で決定するという政党も場合により支持します。
現政権は再稼働を目指しています。そのため、再稼働に関しては、「自治体の理解を得る」となっていますが、法的には不必要とのことで、自治体の範囲も明示してないそうです。(朝日新聞11/4キーワード)
まったくずるい無責任な政府です。安全面は、原子力規制委員会に任せ、地元の同意は、どこまでの同意が必要か明示しません。しかも避難計画もは地元任せです。実際完璧な避難なんて出来っこありませんよ。そうすると事故なんて起きないよ、と言う安全神話の復活ですか。こんな政府をつくった政党を支持するのは止めましょう。
話を戻しましょう。こんな国民やこんな政府のもとで大変申し訳ないのですが、それでもやはり、立地自治体の長は、周辺自治体の意見も聞くべきなんじゃないでしょうか。繰り返しますが、事故が起これば周辺自治体に迷惑をかけます。避難では周辺自治体のお世話になるはずです。立地自治体に入るお金は、全国民の電気料金からもらっているものです。
原発停止で原発関連の雇用は失われているでしょう。その雇用が生む需要も落ち込んでいるでしょう。困ることだと思います。
しかし、「俺たちは困っている。だからこうする、周りは何も言うな」は、身勝手すぎると思うんです。周辺自治体が、再稼働に反対となったとします。そしたら周辺自治体と一緒に、電力と日本国に「俺たち、他に迷惑かけたくないんで再稼働認めない。だから脱原発のため、支援してくれ」と言えばいい。国民はそれを応援すると思います。脱原発を支援する、そんな政府を作ればいいと思うんです。
少なくとも周辺自治体の意見は聞いてください。
話は変わって、(本当はこちらを書くつもりだったのですが)高橋和己「邪宗門」について書きます。
ブログ知人のエポム様に古処誠二を紹介され、読んでいく中で「ルール」に当たりました。これは、太平洋戦争フィリッピン戦線での人肉食の話です。いや正確には、軍隊の本質とか人間のあり方とかを人肉食という極限状態から描いたものと言えると思います。
この人肉食の話で、高橋和己「邪宗門」を思い出し、今再再再読をしています。「邪宗門」は、大学4年の時、二日二晩ほぼぶっ続けに読んだ本でした。そんな経験は、それ以前もそれ以後もありません。その後壮年時代に2度読みました。今高齢者の入口に立ち、読み始めましたが、まだ半分くらいしか読み進んでいません。
「おなつかしゅう」「おかえり」・・・この小説の舞台である新興宗教「ひのもと救霊会」(勿論仮想の宗教団体です)の挨拶です。この宗教集団では、初対面の人に対しての挨拶もこうなんです。
20数年ぶりに「邪宗門」を読んで私は、懐かしい人々にあったと思いました。特に女性です。行徳まさ、行徳八重、行徳阿礼、行徳阿貴、堀江駒、堀江民江、赤木かずこ、・・優しく強い、あるいは強く優しい(阿礼は強く強くかな)人々でした。男では、佐伯医師、西本園長、植田克麿、吉田秀夫。主人公千葉潔、教団第二代教主行徳仁次郎、新聞顧問中村鉄男、最高顧問加地基博、足利正、・・・教団の運命を左右した男たち、その思想・行動は、ある意味尊敬しますが、一方私は、身構えてしまいます。・・・俺は、このようには出来ないなあと。
そうです。この「ひのもと救霊会」は、戦前、大日本帝国の理念とぶつかり徹底的に弾圧され、戦後は、本当の自立・自由・平等・連帯を求めて米国占領軍とその手下日本国政府と真正面からぶつかり、壊滅した仮想の宗教集団です。
それにしても高橋和己は、すごい作家です。これを書いた時は、30代半ばです。知の巨人とは、彼のことでしょう。いや、知識・教養ではないんです。売らんかなじゃ絶対ありません。全身全霊で、自分の生き方を問いつつ書いているという気がします。
私は、高橋和己をよく知りません。読んだのは「邪宗門」と「悲の器」だけです。中国文学を専攻し、大学紛争時代全共闘を支持した京大助教授だったそうです。「邪宗門」の思想から言えば、さもありなんと思えます。その後40歳でがんで死亡とのことです。生きていて欲しかった。その後どれだけのことを書いたか?しかし、それは、高橋和己にとって苦悩の一生だったに違いありません。
「もしその時、その老婆が通りかからなければ、いや通りかかったとしても老婆に背負われた少女が発見しなければ、その少年の命はそこで終わり、一つの苦悩は蕾のままで朽ち果てていたはずだった」(少年・・千葉潔、老婆・・堀江駒、少女・・行徳阿貴(序章、その一の1)
高橋和己は、昭和史のなかでの日本人の幸せを考えるという巨大な苦悩の人であったとおもいます。 
道徳教育
現政権が道徳教育に力を入れる傾向に危険を感じる。現政権は、道徳を「特別の教科」とする方つもりのようだ。「特別の教科」とはどんなものかよく知らないが、力を入れていることに間違いないだろう。
現政権に限らず、政治が教育のことに口出しするのは、胡散臭い。その時の政権の正当性を子どもに教え込もうとする可能性がある。子ども達を特定の考えに導くのは、マスコミを抑え込もうとするよりも簡単だ。政治とは、権力行為である。権力の行為の正当性は、国民多数の意志がそれを支持したからである。しかし、多数が正しいとは限らない。何が正しいかは、多数決では決まらない。何が正しいかは簡単には決まらないだろうが、少なくともある権威が一方的にこうだと決めるものではない。いろんな考えのぶつかり合いから、より正しいものがきまると思う。子どもたちは将来の主権者である。彼らがどのような考えを選ぶかは、彼らの自由である。大人は彼らに判断材料を与えるだけの存在だと思う。
今日(11.6)の朝日新聞の声欄に女子高校生の投書が載っていた。小学校三年の時の道徳で、先生の考えの押しつけがあったことを指摘していた。「売れないマジシャンが大きな仕事を断り、先に約束をしていた子どもにマジックを見せに行く」という題材で、どちらをとるか聞かれた彼女は、「子どもをとります」、と答えたそうだ。すると先生は怒ったような声で「本当にそうしますか」と聞く。次の生徒が「仕事をとる」と答えると「正直でよろしい」と言ったそうだ。これはまずい。それぞれの勝手だろう。それぞれの選択でいいのは当然だ。どちらが正しいなんていえない。権力や多数や権威者が決めることじゃない。ただ、どちらが正しいかを話し合う価値は大いにある。ある行動は、どういう考えのものかを理解し合うことはとても大事だ。イスラム国の連中の主張だって知らなきゃいけない。在特会の主張もどんなもんか知らないといけない。韓国の従軍慰安婦についての主張も知らないといけない。たとえそれを否定するにしても。
高橋和己「邪宗門」の大きな特徴は、いろんな考えかたの対立を深く描いているということである。戦前の日本国家と「ひのもと救霊会」の考えの対立、「救霊会」とキリスト教や共産主義勢力や既成仏教の考えの対立、戦後の革命について「救霊会」と左翼思想の対立、・・・。全編が問答集のような小説だ。一人の心の葛藤も克明に描いている。
その中で、一番私が興味をひかれるのは、戦後追いつめられた「救霊会」が武装闘争を決断する時の対立である。肯定派=千葉潔・行徳阿礼・足利正と否定派=吉田秀夫・行徳阿貴・松葉幸太郎の対立である。千葉と吉田は旧制三高ボート部以来の友人、阿礼と阿貴は姉妹、足利正と松葉幸太郎は志操堅固の宗教人である。いずれも互いに信頼を寄せ合うペアである。この六人とも互いに信頼し合う仲間である。いずれの人も自分の利益で動く人たちではない。こんな人々が、米占領軍・日本政府と武装闘争に入る。
高橋和己は、一つの思想・行動に対して別な思想・行動をぶつけている。だからこそ深みがある。だからこそ感動がある。だからこそ納得させられる。
我々もまた自分と違う考えを知らなければならない。自分と違う考えを「見解の相違」なんて簡単に切り捨てちゃいけない。とは言うものの、それは難しいけどね。
朝日新聞の投書に出てきた先生は、「子どもをとります」と言う投書主に「それじゃ、お金もらえなくていいの」と問うべきだし、「仕事をとる」という子に対しては、「子どもが泣いていいの」と問うべきだ。子ども達がどちらをとるにしても、より深い考えのもとに行動するだろう。自分と違う行動をする人の気持ちもわかるだろう。それが先生の役目なんだと思う。それ以上じゃ決してない。勿論知識の伝授と言う点では別と思うが。
「見解の相違」なんて簡単に切り捨てる首相を持つ政権は、教育なんぞに口出しするな。そんな資格はない。 
「ひのもと救霊会」が求めたもの
「邪宗門」を読み終えた。そろそろ、「邪宗門」からの卒業論文を書かねばならぬと思う。備忘のために。
高橋和己が作った仮想宗教団体「ひのもと救霊会」の根本要締は、三行・四先師・五問・六終局・七戒・八請願とまとめられる。(第一部第二〇章)三行とは、歩行・誦行・水行の修行のしかたである。(第一部第三章)七戒とは、殺してはならぬ、姦淫してはならぬ、盗んではならぬなど、仏教やキリスト教と共通する倫理項目である。宗教に限らず人の世の生きるための共通の道徳である。四先師とは、開祖行徳まさを導いた四人の恩人である。キリスト教・イスラム教・仏教各派もそれぞれの「先師」を持つ故これも特に変わったことではない。ただ、これは言っておかねばならない。4先師とは、開祖に読み書きを教えた酒のみ坊主、開祖に水と握り飯を与えた名も知れぬ樵、間引きされそうになった開祖に乳を与えた白痴の女、娼婦となった開祖の子を助けた娼婦と言うことである。あくまでも庶民、しかも身分・地位のない貧民なのである。(第一部第一章の1)
「ひのもと救霊会」を特徴づけるのは、五問、六終局、八請願である。
五問とは、開祖行徳まさが他の宗教家や教育者・社会事業家に問うた五つの問いである。それは、一生懸命生きながら、六人の子を産んで四人に先立たれ、残った子にもそむかれた母の命に何の意味があるかと言う問いである。「何故長男は戦死したか、何故長女は娼婦になり病毒に侵され死んだか、何故次男は行方知れずになったか、何故次女は地主の納屋で首をくくったか、何故三女は末っ子を餓死させたのか」(序章その二の1)
これをまともに問えば、当然社会の仕組みのあり方の問題に行きつく。開祖行徳まさの時代であれば、明治の国家社会の中の根本=寄生地主制、資本主義、男尊女卑の封建制の遺構、それと不可分であった天皇制絶対主義国家の問題に行きつく。人の平凡な幸せを追求して行けば、当然社会体制の変革=世直しを求めることとなる。その世直しのイメージは、六終局にある。これは、開祖行徳まさの予言でもある。
最後の一人に到る最後の殉難
最後の愛による最後の石弾戦
最後の悲哀を産む最後の舞踏
最後の快楽に滅びる最後の飲酒
最後の廃墟となる最後の火の玉
そして宇宙一切を許す最後の始祖(第一部第二章の2)
つまり最初から、「ひのもと救霊会」は、国家権力と正面からぶつかり武装闘争も辞せず、その結果崩壊する性格を持つ。
そして、破局の末の理想の社会のイメージは、宗旨の最大の特徴である八請願にある。
たとえ花ひらき、無量光輝く天国の眼前にあろうとも、此岸に一人の不幸に涙するものあり、一人の餓鬼畜生道の徒ある限り、我らは昇天せじ
たとえ黄金珊瑚あり、真珠瑪瑙の輝きあるとも、此岸に一人の亡者あり一人の貧者ありて、その光を眺め得ぬ限り、我らもまたその宝を見じ
たとえ目くりぬかれ耳ふさがれ、手足もぎとらるとも、此岸に一人の不義の徒あり、人を支配し、徭役し、その手の血に穢るる者ある限り、我らこの世を寛恕せじ
たとえ劫億の未来世においても、そこに一瞬のそねみの心あり、人の禍を楽しむ一点の邪心の残る限り、我ら安心立命することなからん
たとえこの世に安楽の花の満るとも、祖霊に供養されざる一人の無縁の霊あり、精霊に慈悲かけられざる一個の怨霊のある限り、我ら成仏せず
たとえ身は業病に朽ち果つるとも、たとえ金の鎔け、陽の東に没し、川の逆流するとも、我らの信心に一点の動揺あらば、神よ、我らを救いたもうことなかれ
たとえこの世栄え、積善余慶あり、万人の生活自在なるをうるも、応報の理に一点の障礙ある限り、この世はむしろ呪われてあれ 
たとえこの世の破滅し、この世の永遠に呪われてあるとも、己一人にて救わるる心あらんよりは、むしろ世とともに呪われてあらん
   (第一部第十章の1)
この宗教の目指すところをまとめれば、次のように言える。死後の幸福(極楽往生、死後の永遠の生など)を願うものでなく、此岸(この世)での理想社会を作ろうとする宗教。一人の貧者の存在も悪とし、人が人を支配することを否定する宗教。(自由・平等・豊か)生きている人全てが救われることを望み、自分ひとりだけの幸福を望まない宗教。(信頼・連帯)換言すれば、全ての人が、言葉通りの「自由で平等で豊かな連帯」社会を作ろうという宗教と言える。その方法とそれをになった人々の奮闘と悲劇が、この小説である。行徳仁二郎、八重、堀江駒、堀江民江、松葉幸太郎、強く優しい人々である。行徳阿礼、足利正、強く強い人である。行徳阿貴、優しい優しい人である。佐伯医師、西本園長、円満な常識的な優しい人である。植田克麿は、善意の人である。植田文麿、加地基博は、正義の人である。第三部の主人公千葉潔は、・・・わからぬ。これらの人々に共通するのは、誠実と言うことだと思う。中村鉄男、吉田秀夫は、作者高橋和己の分身ではないか。
この宗教は、戦前には二度にわたって弾圧されて殆ど壊滅する。弾圧の主体は、国家権力であるが、左翼勢力、キリスト教、仏教側からも批判される。と言うことは、逆に言えば、戦前の国家権力、左翼勢力、キリスト教、仏教もまた正しいのかどうか問われることとなる。戦後はどうか、戦後も「ひのもと救霊会」は、言葉通りの自由・平等・相互信頼・連帯を求めるが、占領軍・日本政府に弾圧され、絶望的武装蜂起をして完全に壊滅する。(第三部)左翼勢力・キリスト教・仏教側からも批判される。ということは、占領軍や戦後の左翼勢力、キリスト教、仏教が正しいかどうかも問われることとなる。それ以上に、「ひのもと救霊会」を見殺しにした庶民も問われることとなる。ただし、崩壊したのは昭和二一年二月と言う設定である。この時期は、日本国憲法の原案がGHQから政府に示され押し付けられた頃である。日本国憲法体制について高橋は触れていない。この時期に設定したのは、日本国憲法信奉者である私には、高橋和己の逃げではないかと思うのである。つまり、日本国憲法原案を知っていれば、「ひのもと救霊会」は、絶望的武装闘争に陥らなかったのではと思うのである。武装蜂起の直前、武力闘争を考える千葉潔とそれを否定する吉田秀夫は、緊迫した討論をする。
吉田は言う。「何度も繰り返すようだが、俺は別の方法があると思う。血を流さず、教団が志向する理想社会を徐々に築いていくこともできると思う。たとえば選挙法さえ改正されれば、選挙によって、全国的には無理だろうが、この神部地区、うまくいけば府下(京都)一帯の地方自治に救霊会の意向を反映させることもそう困難ではない。・・・それを全国に推し広めていけば・・・」
千葉「いや、それは無理だろうな」
吉田「だとしても、君の考えてる方法が可能とも思えんがね」・・・
吉田「もう血を流すのは十分じゃないか。・・・日本人はいやと言うほど血を流してきた。・・・日本人は平和のイメージを持っていない。この悲しい民族を、多少の不徹底は残しながらも、いま、宗教は、平和に耐えうる存在にするために力を尽くすのが本道だ。ひのもと救霊会は、宗教団体なんだから」
千葉「今日本人は、確かに戦いに敗れたばかりだから、もう戦争はこりごりと思っており、もう戦争など、この日本にも世界にもありえないと思っている。その希願の痛切さを認めぬわけではない。・・・今九九歩まで来ている。だがあと一歩を怠れば元の黙阿弥になる・・・」
吉田「その通りと思う。しかしねえ、君の考えたことの実現、それも非常に可能性の乏しい実現のために救霊会の人々を矢面に立たせるのは、あまりにも無残と言う気がする。・・・救霊会が過去にも現在にも特色ある一つのまとまりを持ちえたのは、それが自然発生的な地域共同体に立脚していたからだと思う。人為的な人工的な国家の権力に反抗する感情的基盤が自然に備わっていた。だが同時にそれは救霊会の踏み越えてはならぬ限界も示していると思うのだ。・・・救霊会は、資本家が牛耳ろうと共産主義者が主人公になろうと、ひたすらに集中しようとする国家権力に対する抵抗基体として、政治的には消極的なしかし生活と精神の自由は断固と売り渡すことのない団体として活躍するよう助力すべきと思う。・・・
千葉「一つの思想と言うものは、まず少数の精神に宿り、やがてその思想の実現のため、特定の団体に委任される。クリストにとっては、心貧しき人々、マルクスにとっては、プロレタリアート、・・・委任された側は、委任された理想の実現のために苦しみを負っても、その理想によって勇気づけられた半面を持つ以上・・・」
吉田「そう、その委任と言うことだ、つらいのはね、君がね、・・・君が救霊会の人々と同じ信仰を持っているなら、その委任も倫理性があるんだが、・・」
千葉「マルクスもレーニンももともとプロレタリアートじゃなかった」
吉田「それはそうだが、君だけじゃなく・・メンバー全員がやはりまず平信徒になるべきであり・・・・」
千葉「君の言うことの方が本当だろうな。・・・実際俺は今悪魔的なことを考えている。・・・」・・・
   (第三部第二三章の1)
現在の我々は、この吉田の言う「選挙による理想の実現と言う方法」を基本としている。しかし、GHQと日本国民の意思を表現した現憲法下でも、21世紀の現在になっても、真の自由・平等・豊かさ・連帯があるとは、まったく思えない。「ひのもと救霊会」の人々の問いかけは、二一世紀の今も生きている。 
安楽死
近頃米国の若い女性の安楽死が一つの話題になっている。安楽死は、尊厳死と違って自然な死ではない。尊厳死は、延命治療を断って自然に死ぬことであり、安楽死は、何らかの理由と何らかの手段による自殺死である。安楽死は、薬物等により文字通り楽に死のうとすることである。私は、自分がどう生きるか=どう死ぬかは、各人の自由と思う。家族のため十分な治療を受けての死もある。尊厳死もあるだろう、許されれば安楽死もあるだろう。自殺もあるだろう。安楽死の問題は、社会が厳密な条件をつけてそれを認めるかどうかである。結局は、医師の苦痛や犯罪(殺人ほう助罪)を回避するかどうかの問題じゃないか。
高橋和巳の<邪宗>「ひのもと救霊会」の他宗との違いの一つは、安楽死を認める宗教と言うことである。いや違うな、安楽死じゃないな。自殺そのものを肯定する。その意味では、もともと邪宗かもしれない。戦前の第二次弾圧の時、教団本部の建物から出火した。ハンセン氏病が進み全身衰弱してほとんど歩けない老人は、嫌がりもせず自分を背負って救出してくれた青年部員に感謝の礼を言い、どうか下ろしてほしいという。そして焔の中にはうように身を没する。
「なにをする、爺さん。」
「わしはこの病院が焼けては生きてはゆけんでのう」異形の頬をひきつらせて微笑すると
最後の力で背筋を伸ばし、指のかけた掌を合わせて、自ら焔の中へ入って行った。
救いとは何ぞや、安眠なり
荘厳とは何ぞや、自己滅却なり
希望とは何ぞや、虚無なり
開祖まさと教主の問答録の一節を高唱しながら、焔の前に立ちはだかり、みるみる黒こげになっていった。
   (第一部第二八章の2)
自殺を肯定する「ひのもと救霊会」は、だから、ある部分危険な面を持つ。救霊会の支部ともいえる癩病患者の島は、救霊会への弾圧と活動禁止のため維持困難になる。救霊会本部も息絶え絶えで、救霊会から救霊会を否定して分離独立し、国家主義に転じた皇国救世軍から合体の申し出がある。合体とはいっても、救霊会の根本を自ずから捨てるものだ。その相談が癩の島にもたらされる。食うために心を売り渡すかどうか?食えずに主義主張を通すか?意見は厳しく対立する。その中で、もと本部員(刑期を終え出獄)で、もと医師(医師免許はく奪)の高倉佳夫は、合体に反対して次のように言う。
「・・・私はもし、教団本部が、教団は自滅した、お前たちも自滅せよと言うなら、殺人の罪を一身に背負って、回復の見込みもなく、人間らしい生活を送れない重症患者全てに、青酸カリを与えてもいいと思っている。・・・」
   (第二部第9章の2)
高倉佳夫は、教団の精神を守ることを第一義にして、殺人と分かっていながら薬物投入をも、思想的には肯定する。これは、もし同意を得ぬなら明らかに殺人である。教団の7戒の第一不殺生戒に違反する。同意を得た場合はどうか?本人の同意を得て、絶対治る見込みがないということが証明されて、苦痛がひどい場合、安楽に死ねる薬物を投与することを、殺人罪や殺人ほう助罪に問わないというのが安楽死である。青酸カリを投与するのは、安楽と言えない。だから高倉は、現代の安楽死を認める考えにも反する行為である。
自殺でも妙に納得できるのが、戦後の武力蜂起に敗れた千葉潔達の自ら望んだ餓死である。千葉潔・堀江民江達数名の残党は、大阪のスラム街に現れる。彼らは、食事を与えられても、それを食べることを拒否する。
(佐伯)医師には、神部から逃れてきた救霊会の残党がどうするつもりなのかははっきり分かった。瞑目したまま、この世の汚濁の一切から厭離し、何も語らず、何も食わず、餓死して果てようとしているに違いなかった。医師は知っていた。救霊会は他の宗教と異って、苦しみの果てに自殺することを許す宗教であり、沈黙は、この世に終着を残さぬため、絶食は罪なき動植物を食ってきた人間存在そのものの根元(ママ)悪に対するわずかな謝罪として、むしろ密かに称揚してきたことを。医師が救霊会の経営する愛善病院長をしていた時代にも、回復の見込みのない患者の多くが、このようにして死んだのを彼は見ていた。自ら意志した平静な餓死ーそれは自己の業を断ち切って二度と苦海に生まれ変わることのない死、まったくの虚無に帰さんとする人間存在の最後の祈願として認められていたのだ
   (第三部第三十章の2)
この自ら意志した平静な餓死は、尊厳死じゃないか。いや違うな、尊厳死は、死が不可避のものとなった場合、延命治療を拒否するということだからな。人間は、罪なき動植物の命を奪い自らの命を維持するしかない存在である。救霊会の言うとおり、これは根本悪である。「命を提供してくれた他の生命体に感謝していただこう」なんて言うが、これは誤魔化しのように思う。じゃー、餓死すればいいか。いやしんぼの俺には、安楽死の真逆の最高級の苦痛死だ。生きていたんだから、仕方ないか。誰かは言った。「死と太陽は見詰めることが出来ない」と。多分孔子は言った。「われ生を知らず、いずくんぞ死をしらんや」、しかし他の命をもらって生きているなんてすぐわかるじゃないか、孔子さんよ。誤魔化しじゃないのか。・・・どうも「邪宗門」から卒業出来そうもない。 
運命共同体としての国家/日本国憲法前文
弾圧されたひのもと救霊会から、九州地区が、国家主義の宗教集団として、分離独立する。皇国救世軍である。その軍父(中心人物)小窪徳忠(元救霊会九州地区司祭)と救霊会教主行徳仁二郎は、公開討論会に臨む。息詰まる真剣勝負である。この小説のメインテーマの一つである。その討論は、結局は、国家と宗教の衝突に行きつく。軍父小窪徳忠は、開祖まさの思想を批判して言う。
「国には国の道、我らには我らの道と開祖まさは言っておりますけれども、その道がもし皇国の将来に対して全く無責任であろうとするなら、宗教人であると同時に日本人であるものとして、それを非難せざるを得ないのであります。・・・このアジアの現状にあって、神の子としての日本人の今なすべきことは、女性的な厭戦の思想から平和を唱え、強者におこぼれを乞うことでなく・・・」「・・・ひのもと救霊会のように、いたずらに女性的忍従を説くだけでは、何一つ問題は解決しないのみならず、やがては、身を滅ぼし国を滅ぼす悲運を自ら招くのであります。・・・」
行徳仁二郎は、言う。「なるほど開祖まさは女性であり、・・・女性の思想と言うべきもの特質を濃厚にもっているかもしれません。・・・男たちのいわゆる思想、つまりは支配のための思想が虚偽に満ちたものだからである。・・・不具に生まれたわが子に注ぐ愛は、全世界を睥睨する君主の仁政よりもなお、神の心に近い。・・・政治はその本質において、治めるものと治められる者とからなり、しかも、治める者が辛苦して働き、治める者が治められる者に養われながら、しかも権力を行使するものである。かかるものは、一片の正義を与えてはならぬ」「弁士中止」・・・
小窪徳忠「宗教は誓約共同体にて、国家は運命共同体。自らが自らの運命を進んで担うことなくして運命の開けることもなく、運命の開けることもなき誓約に何の意味ありや。共に苦しみともに泣き、ともに誓約するは、全てのより大いなる共同体のためならずや」
行徳仁二郎「国家は、その版図内の民に対して、その国民たるを欲すると欲せざるにかかわらず、義務を課し租庸調を徴収し、生殺与奪の権を握る。・・・その運命は人為的、強制的運命であり、我らの宗教の自覚回心による入信と誓約より、明らかに下位。・・・現在において、尚国家が運命共同体であることは認めるにしても、その運命は、我々の使命とは相いれず・・・」「弁士中止」
長々と引用しました。
開祖まさの「国には国の掟(道)、我らには我らの道」は、強烈です。戦前にこれを貫くことのいかに難しいか、想像がつきます。日本国憲法のもと思想良心の自由の保障された今でも、何かの集会で「国歌を歌います。御起立ください」と放送があって、皆が立つとき、一人座っているのは、なかなかきついものがあります。さて、国家と宗教どちらが上か?小窪は、国民の運命も国家によって左右される故、個人も集団も、国家の運命に奉仕せよという。行徳は言う。国家は、各人が自覚して作ったものでなく、(つまり作ろうとして作ったのでなく)、作ろうとして作った宗教団体より下位の存在だという。難問です。行徳も認めるように、国家によって国民の運命は左右される、国家は、今も運命共同体です。この難問を解くカギは、日本国憲法の前文にあると思います。日本国憲法前文冒頭第一文は、「日本国民は、・・・この憲法を確定する」とあります。憲法に忠実に政治が行われれば、次のように言えると思います。日本国は、誓約団体でありかつ運命共同体であると。西洋的知識で言えば、日本国憲法成立後の日本国は、社会契約説で出来た国家と言うことになると思います。我々が作った国と言えると思います。ただし、国民の意思がちゃんと反映されていればですが。これに反して、2012年に作られた自由民主党憲法時改正案冒頭は、「日本国は、・・・統治される」とあります。誰がそんな中味を決めたのかを明示していません。つまり国家が国民より先にあるという考えです。いかに自民党改正案は、民主主義的言葉を連ねても、民主主義を嫌うものです。この一点からだけで、私は、自民党を軽蔑し、絶対投票はしません。自民党の考えでは、運命共同体と各種の誓約共同体の対立と言う不幸が生じるからです。仮想宗教団体とは言え、優しく誠実な「ひのもと救霊会」の人々の、ひどい不幸とついには自殺を肯定せざるを得ないる運命をもたらすと思うからです。 
ひのもと救霊会が達成した理想社会
高橋和巳は、数日達成された理想社会を次のように描写する。
まずは、外部の二人の目から見て
植田文麿:町の中心部の商店、散髪屋、外食券食堂の全てに店舗の共有化ないしは公私合弁の張り紙が貼られていた。人々は活気に満ちて、あちこちで立ち話をし、あるいは討論していた。人々の服装は昔道り質素で汚れていた。・・だがもう誰が誰に命令することもなく、誰が誰にペコペコすることもなかった。・・・人々は隣人愛に満ち溢れて見えた。全ての人は尚貧しかったが、どの一人としてもはや「もの言う道具」ではなく「二本足の機械でもなかった」
   (第三部第二八章の1)
吉田秀夫:私は・・・わずかな期間ながらも、達成されたその自治の形態を見る僥倖を得た。私はそれをあえて僥倖と呼ぶ。そこには確かに武装反乱に伴う、最も悲しい人間の悲劇、血と野望、陰謀と暴力が介在したことも事実だったが、しかしまたそこには事物や生産関係や権力が事を決するのでなく、人間が事を決する本来の「自治」なるものの姿があることも事実だった。・・・彼らが(救霊会)政府にそして占領軍に圧しつぶされたのは、自由、平等、文化、平和、ほかならぬ彼ら為政者の口にすることどもをほんとうに実行しようとしたからである。
   (第三部第三一章の3=最終章)
それはどのような社会であったか?目標も含めてまとめる。
元々信徒部落は土地共有、共同労働、分配は労働量と必要の法則により制定(これが戦前治安維持法の「私有財産否定」に当たるとして処罰の原因)(第一部第6章の1)
解放区内の大地主、官僚、資本家等の土地財産没収。高利貸しの財産没収。男子成人に七反、その家族に五反の土地を給与。農作物は、農民組合が管理、労働組合、都市居住住民自治体を通じて配給。
神部(解放区)の国有林は救霊会が接収。従業員五〇人以上の企業は全て自治体所有化。その企業の株式配当に相当する額を自治体収入とし、それに伴う税の廃止。娼家の破壊、娼婦の解放。未開放部落民を官公庁に収容。孤児、孤独老人、寡婦等は中小企業体からの事業税で自治体が養う。治安は、救霊会特設青年隊が担当。
まとめれば、これらは農村共同体を基礎にした労農連携の共産主義的社会と言えると思う。この小説の書かれた一九六〇年代半ばは、高度成長期半ばで、農村共同体が壊れつつあったころである。しかし、この小説の描いた敗戦直後は、農村共同体が機能していた。敗戦直後は労働組合も極めて盛んで、労働組合と農村共同体の連携があれば、あるいは達成し得たかもしれない。あるいは、小説内でも触れられているが、英ソ中のどの一国かが救霊会に対して中立で米国を抑えようとすれば、革命は成ったかもしれない。あるいは、突発的事故が起きなければ、準備整い、革命は成ったかもしれない。その革命の結果は、どのような社会か。ソ連が長い苦闘の末資本主義に戻ったように、あるいは中国が共産党独裁のまま、資本主義を導入したようになったかもしれない。日本国民の資質によりソ連や中国と違う理想的な共産主義国家が出来たかもしれない。それ以前に土地を得た農民の保守化のため、革命は中途で挫折したかもしれない。全てはありえなかった歴史である。現実の日本の歴史は、米ソ冷戦下米国の指導のもと独占資本主義国家として復活し、大発展し現在に至っている。日本の良いことも悪いこともその現実の中にある。別の良さは、東日本大震災の時に見られた日本人の良さ、侵略戦争の罪の反映である平和国家ブランドである。
二一世紀の現在は、農村共同体は、殆ど機能を失っている。しかも人口の多くは都市に住み、第二・第三次産業に従事している。我々は、ひのもと救霊会の理想を実現する基礎を現在全く欠いてる。我々はどこから何から真の自治・自由・平等・文化・平和を作り出すべきか?これまた「邪宗門」から卒業するのが難しい。 
女と男
ひのもと救霊会は、男女関係に特別な制度を持っている。教姉教弟(あねおとうと)という制度である。未亡人や棄婦、結婚の機会を逃した女工等に、婦人側に優先的選択権のある、青年部独身者との法律関係外の男女関係を許可していた。それは、単なる身の回りの世話で終わってもよいし、それ以上の関係に進んでもよい。女性の側の優先的選択権の代償は、青年が結婚するときは、女性の側から身を引くと言うことである。勿論青年は、教姉を結婚相手に選んでもよい。それは、当時の男尊女卑の制度と精神から女性を救おうという考えだからである。
○人類最初の階級闘争である雌雄葛藤の末の、男性による女性の制覇、・・・、それを正当化するためのイデオロギー。それが、三歳の児童にも見抜ける嘘を全世界に普遍させ、何千年かの真理となった
○宗教が人を救おうとするものである以上、男による女の抑圧を、その秘密の性の面においても解消としなければ、それは宗教の名に値しない
○女だけに要求される貞操観念や処女崇拝も家柄を重んじ私有財産制を守らねばならぬ支配層の動議に過ぎず、公娼制度がその裏返しの糊塗策とおしえられ、独特の廃娼運動が展開された
   (いずれも第一部第二十章の1)
私は、この制度を理屈ではいい制度と思うけれど、気分的には受け入れがたい。女から選ばれるというのがいやだ。男のがわに拒否権があるのかどうか判然としない。多分ないのであろう。結婚では男に選択権があるから、世話してもらうのは、そして単なるセックスの相手としては、いいのかもしれない。それでも俺はいやだな。男は、惚れて勇を決して申し込み大抵振られる存在でいい。俺はやはり、「男はつらいよ」の寅に近いんだな。好きでも嫌いでもない女から選ばれるのはいやだな。どうするか困る。好きな女から選ばれるというのはどうだろう。やっぱり、あまりよろしくないな。何故だろう?古い感覚を持っているのだろう、俺は。古事記の初めのころ国産みの話がある。女神から「ああいい男」と申しこんで国を産んだら、流れてしまって、男神の方から「ああいい女」と申し込んで国を産んだらうまく国土が生まれたという話である。読んだ当時、男尊女卑思想と思ったが、やはり俺もそのけがあるのかも知れぬ。幸い?わが人生において、女性から好きよと言われたことがないので、こういう局面にであったことがない。・・・ひょっとしたら、案外メロメロだったかもな。今の若者たちは、どちらが選ぶかなんてまったく関係なさそうだ。お互い選び合い、棄てあう。元彼、もとかの、・・・それでいいさ。その方が自然だ。戦後日本国憲法が施行された時、農村の青年たちが一番歓迎したのは、憲法9条の平和主義ではなく、憲法の「、男女の合意のみによる結婚」いう考え方だったそうだ。さもありなん。戦前「野菊の墓」のような、どれほどの男と女の涙が流れたか。
閑話休題。話がそれた。開祖が女であり、女を大切にしようと言う教団であるので、この小説では、女の活躍が目立つ。そしてそれが素晴らしい女性たちなのである。女たちに比べて男達は、思想に囚われ、意地を張り、自滅していくかに見える。教団の最高の知性、元京大教授・新聞社主幹中村鉄男の公判での理路整然とした分析、かつ毅然とした態度、それはすごいと思う。そして学問を実践に移そうとして大学を辞め、ひのもと救霊会に自分の理想をかけた。学問馬鹿じゃない。これは尊敬に値する。(第一部第18章の1)しかし、単なる意地っ張りじゃないかとも思える。教主行徳仁二郎と分離独立した皇国救世軍の小窪徳忠の討論内容は深い。が、生活から離れた思想の上滑りじゃないか。教団の最強の志操の堅固の足利正は、立派と思うが、思想にとらわれ過ぎていないか。周りを見てないんじゃないか。女達から見るとそう見えるのではないか。教団が弾圧され、教主以下幹部が逮捕され、牢屋に入っている時、教団が公的活動を禁止された時、細々ながら支えたのは女たちである。行徳仁二郎の奥様八重、長女阿礼、次女阿貴彼女らが教主代理、継主として教団を支えた。その周りには農民の女たちがいた。素晴らしい女たちである。
たとえば八重。
行徳仁二郎は、獄中で妥協をしてしまう。(これにより私はかえって、仁二郎を身近に感じる)それが検察の作戦で、明らかになっていく。温泉での二人のすがた。
しかし、隠しようもなく、傷ついた野獣のように布団の中をのたうちまわる夫の姿が映った。
「わしは耐えに耐えた。しかし、わしは、・・・」
「お静かになさいませ」無限の悲哀をこめて八重は言った。「言葉でしか身を守るすべのない時に、ただ一つか二つ心にもないこと言ったからとて、何を愧ずる必要があります。いえ、たとえ恥ずかしいことがあっても、それを人に見せてはなりませぬ。御うろたえなさいますな」おう、と仁二郎は悲鳴を上げた。・・・「あなたの御気持ちを鎮めるためなら、私はここで裸踊りでもいたしましょう。屈辱も苦しみも、女に注げば幾分は癒えるもの。教徒には私が何とでもつくろいます。さ、私を弄びなさいませ」
   (第一部第12章の2)
佐伯医師は、八重について言う。
「今も頭に残っている情景がある。わしだけじゃなく、神部の人々が百二十人も一度に警察に捕らわれた時・・・、警察官がその人をとらえようとした時、朱の緞子の覆いに包んでいつも帯の間に挟んでいた短刀を抜いて、自分のくびに当てながら、女には身だしなみと言うものがあります。着替えてまいります。お待ちなさい、と言った。空気を引き裂くように良く響く声だった。警官たちも気おされてね、よう近寄らなんだ。そのままの姿勢で、残る人々に後事をてきぱきと依頼し、そして焼け残った屋敷へと消えていった。ああいうのが、ほんとの大和撫子なんだな。日頃は月の光のようにやさしくて、控え目で、しかし夫が病気に倒れると、でしゃばりもせず、うろたえず、やるべきことはやっていた。久しくあわんが、その後、どうされたか」
   (第二部第1章の2)
佐伯医師は、八重のことが好きだったのだと思う。それが、佐伯をひのもと救霊会にとどめおいた理由かもしれない。
とどめ置くといえば、吉田秀夫は、阿貴にひかれて結局、考えの違う千葉と行動を共にする。
吉田は言う。「正直に言ってくれてもいいと思うね、千葉。君が立ち去りかねている理由と、君が高校時代から温めていた理念を救霊会に委任しようとする衝動が一番不幸な形で結びつくのは良くない。・・・一所不在の生活を何なら一緒にやってもいいと思っている。しかし、救霊会に定住したのは、明らかに別の原理、原理と言って悪ければ愛着のためだった。いや、君だけのことを言っているんじゃない。俺自身がそうだ。阿貴さんが、いや継主がいなければ・・・いや同じ援助を依頼されるにしても武骨な男に頼まれたなら君との関係はあっても、おそらくここにはいないだろう」
   (第3部第23章)
阿貴は、教主の家に生まれながら小児まひのため堀江家で育てられる。しかし、素直な控えめな普通の女らしい女の子だ。優しい人だ。吉田でなくとも、可愛く思う。男から見て可愛いひとだ。保護したく思う。彼女は、小さいときから、堀江駒に拾われた千葉潔が好きだった。大きくなってもそうだ。長女の阿礼は、違う。強烈な意志と誇りを持った女だ。教師をやりこめる女学生の阿礼。学生のストライキの応援に単身乗り込む阿礼。彼女が弾圧後の教団を渾身の力を込めて支えていく。女では、阿礼が一番良く描けているのではないか。ヒステリーを起こす阿礼。教団を守るため、教団を裏切った皇国救世軍に嫁ぐ阿礼の苦悶。そして、教団の規則を破り、教団を裏切り、妹を裏切り、千葉潔に教団を与える。危機が迫っても千葉に寄り添い嫣然と微笑む。阿礼の最後は、壮絶である。阿礼は、植田文麿と千葉潔を愛した。・・・千葉潔は、誰を愛したのだろう。
思えば、この小説には悪人と思える人が登場しない。裏切り者小窪徳忠だって、保身と時流に乗ったにすぎない。足利正が宗教裁判で糾弾する特高警察梅田も立身出世を目指しただけだ。正門検事もその仕事を果たしたに過ぎない。悪人がいないのは、高橋和己が登場人物の行動の背景・心理に分け入り説明するからだ。(高橋和巳は、本質的に優しい人なのだと思う)悪を悪と知っていながら行うのが悪人とするなら、悪人は、千葉潔、その人だろう。千葉は言う。>「悪を根絶するのは、・・・おそらく悪のみ」<(第3部第27章の1)理想の実現のため、殺人・暴虐と言う悪につながる革命は、許されるか?巨大な問題である。母の肉を食って生きのびた千葉潔だから許されると思うのだ、と思う。他の人はどうだろうか。
阿貴や千葉少年と一緒にある時期生活した堀江民江は、千葉潔をよくわかりながら、かつ否定する。堀江民江は、無口な百姓娘である。忍耐強く運命に逆らわない女性のように思える。堀江民江は、千葉と阿礼の陰謀に気付く。彼女は、革命の惨状を恐ろしいと批判する。私は、民江が京都に行って千葉潔を神部へ連れてくる場面が好きだ。無口なまま、嫌がる千葉を連れてくる。根負けした千葉が頭にきてぶとうとする。民江はぶたれるのが当然と言う風に目をつぶって、微笑して待つ。すごい。これは、自分のためじゃない。阿礼のために、千葉を神部に戻すためだ。こんな女もいる。この場面で千葉の優しさも感じる。そうだ、千葉も人間的な面を実はところどころで見せている。最後に民江は、千葉潔の餓死に殉死する。何故殉死するのだ。民江もまた千葉を好きだったのか?そう、前は好きだった。しかし、いや、そんなレベルじゃないな。民江もまた救霊会の信者。苦しみの最後に、自殺も認める。全ての罪業を打ち消すために。千葉は最後に何か言おうとした。民江は、そっと優しくうなずいた。千葉は何を言おうとしたんだろう。民江は何を受け止めたのだろう。
「邪宗門」の魅力は、真の自由・平等・自治とはどういうものか、それをどのようにして達成するか、あるいは、あるべき宗教の姿を追求した魅力である。それを昭和と言う舞台で追求した力作である。その格闘が魅力である。今から約50年も前の本なのに、東大教官が新入生に読むことを勧める本の第8位(いつのだか、どんな部門なんだか、知らず、未確認情報)にあるという。さもありなん。いろんなことを考えさせてくれる本であるから。しかし私にとって、一番の魅力は、登場人物たちの魅力である。前期高齢者の入口にたつ私が、今後また読むかどうかわからない。今回読んだ記念に長々感想を書いた。さよなら、救霊会に集う人々よ。 
 

 

 
「邪宗門」 北原白秋

 

父上に献ぐ
父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。

邪宗門扉銘
ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。

詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、ヴィオロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨の手触の棄て難さよ。

昔(むかし)よりいまに渡(わた)り来(く)る黒船(くろふね)縁(えん)がつくれば鱶(ふか)の餌(ゑ)となる。サンタマリヤ。   『長崎ぶり』

例言
一、本集に収めたる六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の臘月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中『古酒』中の「よひやみ」「柑子」「晩秋」の類最も旧くして『魔睡』中に載せたる「室内庭園」「曇日」の二篇はその最も新しきものなり。
一、予が真に詩を知り初めたるは僅に此の二三年の事に属す。されば此の間の前後に作られたる種々の傾向の詩は皆予が初期の試作たるを免れず。従て本集の編纂に際しては特に自信ある代表作物のみを精査し、少年時の長篇五六及その後の新旧作七十篇の余は遺憾なく割愛したり。この外百篇に近き『断章』と『思出』五十篇の著作あれども、紙数の制限上、これらは他の新しき機会を待ちて出版するの已むなきに到れり。
一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。
一、或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬なるべし。
一、本来、詩は論ふべききはのものにはあらず。嘗て幾多の譏笑と非議と謂れなき誤解とを蒙りたるにも拘らず、予の単に創作にのみ執して、一語もこれに答ふる所なかりしは、些か自己の所信に安じたればなり。
一、終に、現時の予は文芸上の如何なる結社にも与らず、又、如何なる党派の力をも恃む所なき事を明にす。要は只これらの羈絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲するものなり。
一、尚、本集を世に公にする事を得たる所以のものは、これ一に蒲原有明、鈴木皷村両氏の深厚なる同情に依る、ここに謹謝す。
  明治四十二年一月   著者識  
■魔睡
余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。すすりなく黒き薔薇、歌うたふ硝子のインキ壺、誘惑の色あざやかな猫眼石の腕環、笑ひつづける空眼の老女等はこまかくしなやかな舞踏をいつまでもつづける。余は一心に熟視めて居る……いつか余は朱の房のついた長い剣となつて渠等の内に舞踏つてゐる………   長田秀雄
邪宗門秘曲
われは思ふ、末世(まつせ)の邪宗(じやしゆう)、切支丹(きりしたん)でうすの魔法(まはふ)。黒船(くろふね)の加比丹(かひたん)を、紅毛(こうまう)の不可思議国(ふかしぎこく)を、色(いろ)赤(あか)きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、南蛮(なんばん)の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍酡(ちんた)の酒を。
目見(まみ)青きドミニカびとは陀羅尼(だらに)誦(ず)し夢にも語る、禁制(きんせい)の宗門神(しゆうもんしん)を、あるはまた、血に染む聖磔(くるす)、芥子粒(けしつぶ)を林檎のごとく見すといふ欺罔(けれん)の器(うつは)、波羅葦僧(はらいそ)の空(そら)をも覗(のぞ)く伸(の)び縮(ちゞ)む奇(き)なる眼鏡(めがね)を。
屋(いへ)はまた石もて造り、大理石(なめいし)の白き血潮(ちしほ)は、ぎやまんの壺(つぼ)に盛られて夜(よ)となれば火点(とも)るといふ。かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢は天鵝絨(びろうど)の薫(くゆり)にまじり、珍(めづ)らなる月の世界の鳥獣(とりけもの)映像(うつ)すと聞けり。
あるは聞く、化粧(けはひ)の料(しろ)は毒草(どくさう)の花よりしぼり、腐(くさ)れたる石の油(あぶら)に画(ゑが)くてふ麻利耶(まりや)の像(ざう)よ、はた羅甸(らてん)、波爾杜瓦爾(ほるとがる)らの横(よこ)つづり青なる仮名(かな)は美(うつ)くしき、さいへ悲しき歓楽(くわんらく)の音(ね)にかも満つる。
いざさらばわれらに賜(たま)へ、幻惑(げんわく)の伴天連(ばてれん)尊者(そんじや)、百年(もゝとせ)を刹那(せつな)に縮(ちゞ)め、血の磔(はりき)脊(せ)にし死すとも惜(を)しからじ、願ふは極秘(ごくひ)、かの奇(く)しき紅(くれなゐ)の夢、善主麿(ぜんすまろ)、今日(けふ)を祈(いのり)に身(み)も霊(たま)も薫(くゆ)りこがるる。
   四十一年八月
室内庭園
晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……そのもとにあまりりす赤(あか)くほのめき、やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。わかき日のなまめきのそのほめき静(しづ)こころなし。
尽(つ)きせざる噴水(ふきあげ)よ………黄(き)なる実(み)の熟(う)るる草、奇異(きゐ)の香木(かうぼく)、その空にはるかなる硝子(がらす)の青み、外光(ぐわいくわう)のそのなごり、鳴ける鶯(うぐひす)、わかき日の薄暮(くれがた)のそのしらべ静(しづ)こころなし。
いま、黒(くろ)き天鵝絨(びろうど)のにほひ、ゆめ、その感触(さはり)………噴水(ふきあげ)に縺(もつ)れたゆたひ、うち湿(しめ)る革(かは)の函(はこ)、饐(す)ゆる褐色(かちいろ)その空に暮れもかかる空気(くうき)の吐息(といき)……わかき日のその夢の香(か)の腐蝕(ふしよく)静(しづ)こころなし。三層(さんかい)の隅(すみ)か、さは腐(くさ)れたる黄金(わうごん)の縁(ふち)の中(うち)、自鳴鐘(とけい)の刻(きざ)み……ものなべて悩(なや)ましさ、盲(し)ひし少女(をとめ)のあたたかに匂(にほひ)ふかき感覚(かんかく)のゆめ、わかき日のその靄に音(ね)は響(ひゞ)く、静(しづ)こころなし。
晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……そのもとにあまりりす赤くほのめき、甘く、またちらぼひぬ、ヘリオトロオブ。わかき日は暮(く)るれども夢はなほ静(しづ)こころなし。
   四十一年十二月
陰影の瞳
夕(ゆふべ)となればかの思(おもひ)曇硝子(くもりがらす)をぬけいでて、廃(すた)れし園(その)のなほ甘(あま)きときめきの香(か)に顫(ふる)へつつ、はや饐(す)え萎(な)ゆる芙蓉花(ふようくわ)の腐(くさ)れの紅(あか)きものかげと、縺(もつ)れてやまぬ秦皮(とねりこ)の陰影(いんえい)にこそひそみしか。
如何(いか)に呼(よ)べども静(しづ)まらぬ瞳(ひとみ)に絶(た)えず涙して、帰(かへ)るともせず、密(ひそ)やかに、はた、果(はて)しなく見入(みい)りぬる。そこともわかぬ森かげの鬱憂(メランコリア)の薄闇(うすやみ)に、ほのかにのこる噴水(ふきあげ)の青きひとすぢ……
   四十一年十月
赤き僧正
邪宗(じやしゆう)の僧ぞ彷徨(さまよ)へる……瞳据(す)ゑつつ、黄昏(たそがれ)の薬草園(やくさうゑん)の外光(ぐわいくわう)に浮きいでながら、赤々(あか/\)と毒のほめきの恐怖(おそれ)して、顫(ふる)ひ戦(をのゝ)く陰影(いんえい)のそこはかとなきおぼろめきまへに、うしろに……さはあれど、月の光の水(み)の面(も)なる葦(あし)のわか芽(め)に顫(ふる)ふ時。あるは、靄ふる遠方(をちかた)の窓の硝子(がらす)にほの青きソロのピアノの咽(むせ)ぶ時。瞳据(す)ゑつつ身動(みじろ)かず、長き僧服(そうふく)爛壊(らんゑ)する暗紅色(あんこうしよく)のにほひしてただ暮れなやむ。
さて在るは、曩(さき)に吸(す)ひたる Hachisch(ハシツシユ) の毒のめぐりを待てるにか、あるは劇(はげ)しき歓楽(くわんらく)の後の魔睡(ますゐ)や忍ぶらむ。手に持つは黒き梟(ふくろう)
爛々(らん/\)と眼(め)は光る……
   ……そのすそに蟋蟀(こほろぎ)の啼く……
   四十一年十二月
WHISKY
夕暮(ゆふぐれ)のものあかき空(そら)、その空(そら)に百舌(もず)啼(な)きしきる。Whisky(ウイスキイ) の罎(びん)の列(れつ)冷(ひや)やかに拭(ふ)く少女(をとめ)、見よ、あかき夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)、その空(そら)に百舌(もず)啼(な)きしきる。
   四十一年十一月
天鵝絨のにほひ
やはらかに腐れつつゆく暗(やみ)の室(むろ)。その片隅(かたすみ)の薄(うす)あかり、背(そびら)にうけて天鵝絨(びろうど)の赤(あか)きふくらみうちかつぎ、にほふともなく在(あ)るとなく、蹲(うづく)み居れば。
暮れてゆく夏の思と、日向葵(ひぐるま)の凋(しを)れの甘き香(か)もぞする。……ああ見まもれどおもむろに悩(なや)みまじろふ色の陰影(かげ)それともわかね……熱病(ねつびやう)の闇のをののき……
Hachisch(ハシツシユ) か、酢(す)か、茴香酒(アブサン)か、くるほしく溺(おぼ)れしあとの日の疲労(つかれ)……縺(もつ)れちらぼふWagner(ワグネル) の恋慕(れんぼ)の楽(がく)の音(ね)のゆらぎ耳かたぶけてうち透(す)かし、在(あ)りは在(あ)れども。
それらみな素足(すあし)のもとのくらがりに爛壊(らんゑ)の光放(はな)つとき、そのかなしみの腐(くさ)れたる曲(きよく)の緑(みどり)を如何(いか)にせむ。君を思ふとのたまひしゆめの言葉(ことば)も。
わかき日の赤(あか)きなやみに織りいでしにほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに嗅(か)ぐとなけれど、ものやはに暮れもかぬれば、わがこころ天鵝絨(びろうど)深くひきかつぎ、今日(けふ)も涙す。
   四十一年十二月
濃霧
濃霧(のうむ)はそそぐ……腐(くさ)れたる大理(だいり)の石の生(なま)くさく吐息(といき)するかと蒸し暑く、はた、冷(ひや)やかに官能(くわんのう)の疲(つか)れし光――月はなほ夜(よ)の氛囲気(ふんゐき)の朧(おぼろ)なる恐怖(おそれ)に懸(かゝ)る。
濃霧(のうむ)はそそぐ……そこここに虫の神経(しんけい)鋭(と)く、甘く、圧(お)しつぶさるる嗟嘆(なげき)して飛びもあへなく耽溺(たんでき)のくるひにぞ入る。薄ら闇、盲唖(まうあ)の院(ゐん)の角硝子(かくがらす)暗くかがやく。
濃霧(のうむ)はそそぐ……さながらに戦(をのゝ)く窓は亜刺比亜(アラビヤ)の魔法(まはふ)の館(たち)の薄笑(うすわらひ)。麻痺薬(しびれぐすり)の酸(す)ゆき香(か)に日ねもす噎(む)せて聾(ろう)したる、はた、盲(めし)ひたる円頂閣(まるやね)か、壁の中風(ちゆうふう)。
濃霧(のうむ)はそそぐ……甘く、また、重く、くるしく、いづくにか凋(しを)れし花の息づまり、苑(その)のあたりの泥濘(ぬかるみ)に落ちし燕や、月の色半死(はんし)の生(しやう)に悩(なや)むごとただかき曇る。
濃霧(のうむ)はそそぐ……いつしかに虫も盲(し)ひつつ聾(ろう)したる光のそこにうち痺(しび)れ、唖(おうし)とぞなる。そのときにひとつの硝子(がらす)幽魂(いうこん)の如(ごと)くに青くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。
濃霧(のうむ)はそそぐ……数(かず)の、見よ、人かげうごき、闌(ふ)くる夜(よ)の恐怖(おそれ)か、痛(いた)きわななきにただかいさぐる手のさばき――霊(たま)の弾奏(だんそう)、盲目(めしひ)弾き、唖(おうし)と聾者(ろうじや)円(つぶ)ら眼(め)に重(かさ)なり覗(のぞ)く。
濃霧(のうむ)はそそぐ……声もなき声の密語(みつご)や。官能(くわんのう)の疲(つか)れにまじるすすりなき霊(たま)の震慄(おびえ)の音(ね)も甘く聾(ろう)しゆきつつ、ちかき野に喉(のど)絞(し)めらるる淫(たは)れ女(め)のゆるき痙攣(けいれん)。
濃霧(のうむ)はそそぐ……香(か)の腐蝕(ふしよく)、肉(にく)の衰頽(すゐたい)、――呼吸(いき)深く※[「口+哥」]※[「口+羅」]仿謨(コロロホルム)や吸ひ入るる朧(ろう)たる暑き夜(よ)の魔睡(ますゐ)……重く、いみじく、音(おと)もなき盲唖(まうあ)の院(ゐん)の氛囲気(ふんゐき)に月はしたたる。
   四十一年十月
赤き花の魔睡
日(ひ)は真昼(まひる)、ものあたたかに光素(エエテル)の波動(はどう)は甘(あま)く、また、緩(ゆ)るく、戸(と)に照りかへす、その濁(にご)る硝子(がらす)のなかに音(おと)もなく、※[「口+哥」]※[「口+羅」]仿謨(コロロホルム)の香(か)ぞ滴(したた)る……毒(どく)の※[「言+墟のつくり」]言(うはごと)……
遠(とほ)くきく、電車(でんしや)のきしり……………棄(す)てられし水薬(すゐやく)のゆめ……
やはらかき猫(ねこ)の柔毛(にこげ)と、蹠(あなうら)のふくらのしろみ悩(なや)ましく過(す)ぎゆく時(とき)よ。窓(まど)の下(もと)、生(せい)の痛苦(つうく)に只(たゞ)赤(あか)く戦(そよ)ぎえたてぬ草(くさ)の花亜鉛(とたん)の管(くだ)の湿(しめ)りたる筧(かけひ)のすそに……いまし魔睡(ますゐ)す……
   四十一年十二月
麦の香
嬰児(あかご)泣く……麦の香(か)の湿(しめ)るあなたに、続(つゞ)け泣く……やはらかに、なやましげにも、香(か)に噎(むせ)び、香(か)に噎(むせ)び、あはれまた、嬰児(あかご)泣きたつ……夏の雨さと降(ふ)り過(す)ぎて新(あらた)にもかをり蒸(む)す野の畑(はた)いくつ湿(しめ)るあなたに、赤き衣(きぬ)一(ひと)きは若(わか)く、にほやかにけぶる揺籃(ゆりご)や、磨硝子(すりがらす)、あるは窓枠(まどわく)、濡(ぬ)れ濡(ぬ)れて夕日(ゆふひ)さしそふ。
   四十一年十二月
曇日
曇日(くもりび)の空気(くうき)のなかに、狂(くる)ひいづる樟(くす)の芽(め)の鬱憂(メランコリア)よ……そのもとに桐(きり)は咲く。Whisky(ウイスキイ) の香(か)のごときしぶき、かなしみ……
そこここにいぎたなき駱駝(らくだ)の寝息(ねいき)、見よ、鈍(にぶ)き綿羊(めんやう)の色のよごれに饐(す)えて病(や)む藁(わら)のくさみ、その湿(しめ)る泥濘(ぬかるみ)に花はこぼれて紫(むらさき)の薄(うす)き色鋭(するど)になげく……はた、空(そら)のわか葉(ば)の威圧(ゐあつ)。
いづこにか、またもきけかし。餌(ゑ)に饑(う)ゑしベリガンのけうとき叫(さけび)、山猫(やまねこ)のものさやぎ、なげく鶯(うぐひす)、腐(くさ)れゆく沼(ぬま)の水蒸(む)すがごとくに。そのなかに桐は散(ち)る…… Whisky(ウイスキイ) の強きかなしみ……
もの甘(あま)き風のまた生(なま)あたたかさ、猥(みだ)らなる獣(けもの)らの囲内(かこひ)のあゆみ、のろのろと枝(え)に下(さが)るなまけもの、あるは、貧(まづ)しく眼(め)を据(す)ゑて毛虫(けむし)啄(つ)む嗟歎(なげかひ)のほろほろ鳥(てう)よ。
そのもとに花はちる……桐のむらさき……
かくしてや日は暮(く)れむ、ああひと日。病院(びやうゐん)を逃(のが)れ来(こ)し患者(くわんじや)の恐怖(おそれ)、赤子(あかご)らの眼(め)のなやみ、笑(わら)ふ黒奴(くろんぼ)酔(ゑ)ひ痴(し)れし遊蕩児(たはれを)の縦覧(みまはり)のとりとめもなく。
その空(そら)に桐(きり)はちる……新(あたら)しきしぶき、かなしみ……
はたや、また、園(その)の外(そと)ゆく軍楽(ぐんがく)の黒(くろ)き不安(ふあん)の壊(なだ)れ落ち、夜(よ)に入る時(とき)よ、やるせなく騒(さや)ぎいでぬる鳥獣(とりけもの)。また、その中(なか)に、狂(くる)ひいづる北極熊(ほつきよくぐま)の氷なす戦慄(をののき)の声(こゑ)。その闇(やみ)に花はちる…… Whisky(ウイスキイ) の香(か)の頻吹(しぶき)……桐の紫(むらさき)……
   四十一年十二月
秋の瞳
晩秋(おそあき)の濡(ぬ)れにたる鉄柵(てすり)のうへに、黄(き)なる葉の河やなぎほつれてなげくやはらかに葬送(はうむり)のうれひかなでて、過ぎゆきし Trombone(トロムボオン) いづちいにけむ。
はやも見よ、暮れはてし吊橋(つりばし)のすそ、瓦斯(がす)点(とも)る……いぎたなき馬の吐息(といき)や、騒(さわ)ぎやみし曲馬師(チヤリネし)の楽屋(がくや)なる幕の青みをほのかにも掲(かゝ)げつつ、水(み)の面(も)見る女(をんな)の瞳(ひとみ)。
   四十一年十二月
空に真赤な
空(そら)に真赤(まつか)な雲(くも)のいろ。玻璃(はり)に真赤(まつか)な酒(さけ)の色(いろ)。なんでこの身(み)が悲(かな)しかろ。空(そら)に真赤(まつか)な雲(くも)のいろ。
   四十一年五月
秋のをはり
腐(くさ)れたる林檎(りんご)のいろになほ青(あを)きにほひちらぼひ、水薬(すゐやく)の汚(し)みし卓(つくゑ)に瓦斯(がす)焜炉(こんろ)ほのかに燃(も)ゆる。
病人(やまうど)は肌(はだ)ををさめて愁(うれ)はしくさしぐむごとし。何(な)ぞ湿(しめ)る、医局(いきよく)のゆふべ、見(み)よ、ほめく劇薬(げきやく)もあり。
色(いろ)冴(さ)えぬ室(むろ)にはあれど、声(こゑ)たててほのかに燃(も)ゆる瓦斯(がす)焜炉(こんろ)………空(そら)と、こころと、硝子戸(がらすど)に鈍(に)ばむさびしさ。
しかはあれど、寒(さむ)きほのほに黄(き)の入日(いりひ)さしそふみぎり、朽(く)ちはてし秋(あき)のヴィオロンほそぼそとうめきたてぬる。
   四十一年十二月
十月の顔
顔なほ赤(あか)し……うち曇り黄(き)ばめる夕(ゆふべ)、『十月(じふぐわつ)』は熱(ねつ)を病(や)みしか、疲(つか)れしか、濁(にご)れる河岸(かし)の磨硝子(すりがらす)脊(せ)に凭りかかり、霧の中(うち)、入日(いりひ)のあとの河(かは)の面(も)をただうち眺(なが)む。
そことなき櫂(かい)のうれひの音(ね)の刻(きざ)み……涙のしづく……頬にもまたゆるきなげきや……
ややありて麪包(パン)の破片(かけら)を手にも取り、さは冷(ひや)やかに噛(か)みしめて、来(きた)るべき日の味(あぢ)もなき悲しきゆめをおもふとき……
なほもまた廉(やす)き石油(せきゆ)の香(か)に噎(むせ)び、腐(くさ)れちらぼふ骸炭(コオクス)に足も汚(よ)ごれて、小蒸汽(こじやうき)の灰(はひ)ばみ過(す)ぎし船腹(ふなばら)に一(ひと)きは赤(あか)く輝(かが)やきしかの※[「窗/心」]枠(まどわく)を忍ぶとき……
月光(つきかげ)ははやもさめざめ……涙さめざめ……十月(じふぐわつ)の暮れし片頬(かたほ)をほのかにもうつしいだしぬ。
   四十一年十二月
接吻の時
薄暮(くれがた)か、日のあさあけか、昼か、はた、ゆめの夜半(よは)にか。
そはえもわかね、燃(も)えわたる若き命(いのち)の眩暈(めくるめき)、赤き震慄(おびえ)の接吻(くちつけ)にひたと身(み)顫(ふる)ふ一刹那(いつせつな)。
あな、見よ、青き大月(たいげつ)は西よりのぼり、あなや、また瘧(ぎやく)病(や)む終(はて)の顫(ふるひ)して東へ落つる日の光、大(おほ)ぞらに星はなげかひ、青く盲(めし)ひし水面(みのも)にほ薬香(くすりが)にほふ。あはれ、また、わが立つ野辺(のべ)の草は皆色も干乾(ひから)び、折り伏せる人の骸(かばね)の夜(よ)のうめき、人霊色(ひとだまいろ)の木(き)の列(れつ)は、あなや、わが挽歌(ひきうた)うたふ。
かくて、はや落穂(おちぼ)ひろひの農人(のうにん)が寒き瞳よ。歓楽(よろこび)の穂のひとつだに残(のこ)さじと、はた、刈り入るる鎌の刃(は)の痛(いた)き光よ。野のすゑに獣(けもの)らわらひ、血に饐(す)えて汽車(きしや)鳴き過(す)ぐる。
あなあはれ、あなあはれ、二人(ふたり)がほかの霊(たましひ)のありとあらゆるその呪咀(のろひ)。
朝明(あさあけ)か、死(し)の薄暮(くれがた)か、昼か、なほ生(あ)れもせぬ日か、はた、いづれともあらばあれ。
われら知る赤き唇(くちびる)。
   四十一年六月
濁江の空
腐(くさ)れたる林檎(りんご)の如き日のにほひ円(まろ)らに、さあれ、光なく甘(あま)げに沈む晩春(おそはる)の濁(にごり)重(おも)たき靄の内(うち)、ふと、カキ色(いろ)の軽気球(けいききう)くだるけはひす。
遠方(をちかた)の曇(くも)れる都市(とし)の屋根(やね)の色たゆげに仰(あふ)ぐ人はいま鈍(にぶ)くもきかむ、濁江(にごりえ)のねぶたき、あるは、やや赤(あか)きにほひの空のいづこにか洩(も)るる鉄(てつ)の音(ね)。
なやましき、さは江(え)の泥(どろ)の沈澱(おどみ)よりあかるともなき灰紅(くわいこう)の帆のふくらみに伝(つた)へくる潜水夫(もぐりのひと)が作業(さげふ)にか、饐(す)えたる吐息(といき)そこはかと水面(みのも)に黄(き)ばむ。
河岸(かし)になほ物見(ものみ)る子らはうづくまり、はや倦(う)ましげに人形(にんぎやう)をそが手に泣かす。日暮(ひくれ)どき、入日(いりひ)に濁る靄(もや)の内(うち)、また、ふくらかに軽気球(けいききう)くだるけはひす。
   四十一年八月
魔国のたそがれ
うち曇(くも)る暗紅色(あんこうしよく)の大(おほ)き日の魔法(まはふ)の国に病(や)ましげの笑(ゑみ)して入れば、もの甘(あま)き驢馬(ろば)の鳴く音(ね)にもよほされ、このもかのもに悩(なや)ましき吐息(といき)ぞおこる。
そのかみの激(はげ)しき夢や忍(しの)ぶらむ。鬱黄(うこん)の百合(ゆり)は血(ち)ににじむ眸(ひとみ)をつぶり、人間(にんげん)の声(こゑ)して挑(いど)み、飛びかはし鸚鵡(あうむ)の鳥はかなしげに翅(つばさ)ふるはす。
草も木もかの誘惑(いざなひ)に化(な)されつる旅のわかうど、暮れ行けば心ひまなくえもわかぬ毒(どく)の怨言(かごと)になやまされ、われと悲しき歓楽(くわんらく)に怕(おそ)れて顫(ふる)ふ。
日は沈み、たそがれどきの空(そら)の色青き魔薬(まやく)の薫(かをり)して古(ふ)りつつゆけば、ほのかにも誘(さそ)はれ来(きた)る隊商(カラバン)の鈴(すず)鳴る……あはれ、今日(けふ)もまた恐怖(おそれ)の予報(しらせ)。
はとばかり黙(つぐ)み戦(をのの)くものの息(いき)。色天鵝絨(いろびろうど)を擦(す)るごとき裳裾(もすそ)のほかは声もなく甘く重(おも)たき靄(もや)の闇(やみ)、はやも王女(わうぢよ)の領(し)らすべき夜(よ)とこそなりぬ。
   四十一年八月
蜜の室
薄暮(くれがた)の潤(うる)みにごれる室(むろ)の内(うち)、甘くも腐(くさ)る百合(ゆり)の蜜(みつ)、はた、靄(もや)ぼかし色赤きいんくの罎(びん)のかたちしてひそかに点(とも)る豆らんぷ息(いき)づみ曇る。
『豊国(とよくに)』のぼやけし似顔(にがほ)生(なま)ぬるく、曇硝子(くもりがらす)の※[「窗/心」]のそと外光(ぐわいくわう)なやむ。ものの本(ほん)、あるはちらぼふ日のなげき、暮れもなやめる霊(たましひ)の金字(きんじ)のにほひ。
接吻(くちつけ)の長(なが)き甘さに倦(あ)きぬらむ。そと手をほどき靄の内(うち)さぐる心地(こゝち)に、色盲(しきまう)の瞳(ひとみ)の女(をんな)うらまどひ、病(や)めるペリガンいま遠き湿地(しめぢ)になげく。
かかるとき、おぼめき摩(なす)る Violon のなやみの絃(いと)の手触(てさはり)のにほひの重(おも)さ。鈍(にぶ)き毛(け)の絨氈(じゆうたん)に甘き蜜(みつ)の闇(やみ)澱(おど)み饐(す)えつつ……血のごともらんぷは消ゆる。
四十一年八月
酒と煙草に
酒(さけ)と煙草(たばこ)にうつとりと、倦(う)めるこころを見まもれば、それとしもなき霊(たま)のいろ曇(くも)りながらに泣きいづる。
なにか嘆(なげ)かむ、うきうきと、三味(しやみ)に燥(はし)やぐわがこころ。なにか嘆(なげ)かむ、さいへ、また霊(たま)はしくしく泣きいづる。
   四十一年五月
鈴の音
日は赤し、窓(まど)の上(へ)に恐怖(おそれ)の烏(からす)ひた黙(つぐ)み暮れかかる砂漠(さばく)を熟視(みつ)む。
今日(けふ)もまたもの鈍(にぶ)き駱駝(らくだ)をつらね、一群(ひとむれ)のわがやから消(き)えさりゆきぬ。もの甘き鈴の音(おと)、ああそを聴(き)けよ。からら、からら、ら、ら、ら……
暮(く)れのこるピラミドの暗紅色(あんこうしよく)よ。そが空のうち濁(にご)る重き空気(くうき)よ。いづこにか月の色ほのめくごとし。からら、からら、ら、ら、ら……
かの群(むれ)よ、靄(もや)ふかく、いまかひろぐる色鈍(にぶ)き、幽鬱(いううつ)の毛織(けおり)の天幕(てんと)。駱駝(らくだ)らのためいきもそこはかとなく。からら、からら、ら、ら、ら……
もの青く暮れてみな蒸しも見わかね。饐(す)え温(ぬ)るむ空(そら)のをち、薄(うす)らあかりに、ほのかにも此方(こなた)見るスフィンクスの瞳。からら、からら、ら、ら、ら……
あはれ、その静(しづ)かなるスフィンクスの瞳。ああ暗示(あんじ)……えもわかぬ夢の象徴(シムボル)。またくいま埃及(えじぷと)の夜(よ)とやなるらむ。からら、からら、ら、ら、ら……
烏いまはたはたと遠く飛び去り、窓(まど)にただ色あかき燈火(ともしび)点(とも)る。
   四十一年八月
夢の奥
ほのかにもやはらかきにほひの園生(そのふ)。あはれ、そのゆめの奥(おく)。日(ひ)と夜(よ)のあはひ。薄(うす)あかる空の色ひそかに顫(ふる)ひ暮れもゆくそのしばし、声なく立てる真白(ましろ)なる大理石(なめいし)の男(をとこ)の像(すがた)、微妙(いみ)じくもまた貴(あて)に瞑目(めつぶ)りながら清(きよ)らなる面(おも)の色かすかにゆめむ。
ものなべてさは妙(たへ)に女(をみな)の眼(め)ざしあはれそが夢ふかき空色(そらいろ)しつつ、にほやかになやましの思(おもひ)はうるむ。そがなかに埋(う)もれたる素馨(そけい)のなげき、蒸(む)し甘き沈丁(ぢんてう)のあるは刺(さ)せどもなにほどの香(か)の痛(いた)み身にしおぼえむ。わかうどは声もなし、清(きよ)く、かなしく。
薄暮(たそがれ)にせきもあへぬ女(をんな)の吐息(といき)あはれその愁(うれひ)如(な)し、しぶく噴水(ふきあげ)そことなう節(ふし)ゆるうゆらゆるなべに、いつしかとほのめきぬ月の光も。その空に、その苑(その)に、ほのの青みに静かなる欷歔(すすりなき)泣きもいでつつ、いづくにか、さまだるる愛慕(あいぼ)のなげき。
やはらかきほの熱(ほて)る女の足音(あのと)あはれそのほめき如(な)し、燃(も)えも生(あ)れゆくゆめにほふ心音(しんのん)のうつつなきかな。大理石(なめいし)の身の白(しろ)み、面(おも)もほのかに、ひらきゆくその眼(め)ざし、なかば閉ぢつつ、ゆめのごと空仰(あふ)ぎ、いまぞ見惚(みほ)るる。色わかき夜(よる)の星、うるむ紅(くれなゐ)。
   四十一年七月

かかる窓ありとも知らず、昨日(きのふ)まで過(す)ぎし河岸(かはきし)。今日(けふ)は見よ、色赤き花に日の照り、かなしくも依依児(ええてる)匂ふ。あはれまた病(や)める Piano(ピアノ) も……
   四十一年九月
昨日と今日と
わかうどのせはしさよ。さは昨日(きのふ)世をも厭ひて重格魯密母(ぢゆうクロヲム)求(と)めも泣きしか、今朝(けさ)ははや林檎吸ひつつ霧深き河岸路(かしぢ)を辿る。歌楽し、鳴らす木履(きぐつ)に……
   四十一年十一月
わかき日
『かくまでも、かくまでも、わかうどは悲しかるにや。』
『さなり、女(をみな)、わかき日には、ましてまた才(さい)ある身には。』
   四十一年十一月 
■朱の伴奏
凡て情緒也。静かなる精舎の庭にほのめきいでて紅の戦慄に盲ひたるヴィオロンの響はわが内心の旋律にして、赤き絶叫のなかにほのかに啼けるこほろぎの音はこれ亦わが情緒の一絃によりて密かに奏でらるる愁也。なげかひ也。その他おほむね之に倣ふ。
謀坂
ひと日、わが精舎(しやうじや)の庭(には)に、晩秋(おそあき)の静かなる落日(いりひ)のなかに、あはれ、また、薄黄(うすぎ)なる噴水(ふきあげ)の吐息(といき)のなかに、いとほのにヴィオロンの、その絃(いと)の、その夢の、哀愁(かなしみ)の、いとほのにうれひ泣(な)く。
蝋(らふ)の火と懺悔(ざんげ)のくゆりほのぼのと、廊(らう)いづる白き衣(ころも)は夕暮(ゆふぐれ)に言(もの)もなき修道女(しうだうめ)の長き一列(ひとつら)。さあれ、いま、ヴィオロンの、くるしみの、刺(さ)すがごと火の酒の、その絃(いと)のいたみ泣く。
またあれば落日(いりひ)の色(いろ)に、夢燃(も)ゆる、噴水(ふきあげ)の吐息(といき)のなかに、さらになほ歌もなき白鳥(しらとり)の愁(うれひ)のもとに、いと強き硝薬(せうやく)の、黒き火の、地の底の導火(みちび)燬(や)き、ヴィオロンぞ狂ひ泣く。
跳(をど)り来(く)る車輌(しやりやう)の響(ひびき)、毒(どく)の弾丸(たま)、血(ち)の烟(けむり)、閃(ひら)めく刃(やいば)、あはれ、驚破(すは)、火とならむ、噴水(ふきあげ)も、精舎(しやうじや)も、空も。紅(くれなゐ)の、戦慄(わななき)の、その極(はて)の瞬間(たまゆら)の叫喚(さけび)燬(や)き、ヴィオロンぞ盲(めし)ひたる。
   四十年十二月
こほろぎ
微(ほの)にいまこほろぎ啼(な)ける。日か落つる――眼(め)をみひらけば朱(しゆ)の畏怖(おそれ)くわと照(て)りひびく。内心(ないしん)の苦(にが)きおびえか、めくるめく痛(いた)き日の色眼(め)つぶれど、はた、照りひびく。
そのなかにこほろぎ啼ける。
とどろめく銃音(つゝおと)しばし、痍(きず)つける悪(あく)のうごめきそこここに、あるは疲(つか)れて轢(し)きなやむ砲車(はうしや)のあへぎ、逃げまどふ赤きもろごゑ。
そのなかにこほろぎ啼ける。
盲(めし)ひ、ゆく恋のまぼろし――その底に疼(うず)きくるしむ肉(ししむら)の鋭(するど)き絶叫(さけび)、はた、暗(くら)き曲(きよく)の死(し)の楽(がく)霊(たましひ)ぞ弾きも連(つ)れぬる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
あなや、また呻吟(うめき)は洩(も)るる。鉛(なまり)めく首のあたりゆ幽界(いうかい)の呪咀(のろひ)か洩るる。寝(ね)がへれば血に染み顫(ふる)ふわが敵(かたき)面(おも)ぞ死にたる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
はた、裂(さ)くる赤き火の弾丸(たま)たと笑ふ、と見る、我(われ)燬(や)き我ならぬ獣(けもの)のつらね真黒(まくろ)なる楽(がく)して奔(はし)る。執念(しふねん)の闇曳き奔(はし)る。
そのなかにこほろぎ啼ける。
日や暮るる。我はや死ぬる。野をあげて末期(まつご)のあらび――暗(くら)き血の海に溺(おぼ)るる赤き悲苦(ひく)、赤きくるめき、ああ、今し、くわとこそ狂へ。
微(ほの)になほこほろぎ啼(な)ける。
   四十年十二月
序楽
ひと日、わが想(おもひ)の室(むろ)の日もゆふべ、光、もののね、色、にほひ――声なき沈黙(しじま)徐(おもむろ)にとりあつめたる室(むろ)の内(うち)、いとおもむろに、薄暮(くれがた)のタンホイゼルの譜(ふ)のしるしながめて人はゆめのごとほのかにならぶ。
壁はみな鈍(にぶ)き愁(うれひ)ゆなりいでし象(ざう)の香(か)の色まろらかに想(おもひ)鎖(さ)しぬれ、その隅に瞳の色の窓ひとつ、玻璃(はり)の遠見(とほみ)に冷(ひ)えはてしこの世のほかの夢の空かはたれどきの薄明(うすあかり)ほのかにうつる。
あはれ、見よ、そのかみの苦悩(なやみ)むなしく壁はいたみ、円柱(まろはしら)熔(とろ)けくづれて朽(く)ちはてし熔岩(ラヴア)に埋(うも)るるポンペイを、わが幻(まぼろし)を。ひとびとはいましゆるかに絃(いと)の弓、はた、もろもろの調楽(てうがく)の器(うつは)をぞ執る。
暗みゆく室内(むろぬち)よ、暗みゆきつつ想(おもひ)の沈黙(しじま)重たげに音(おと)なく沈み、そことなき月かげのほの淡(あは)くさし入るなべに、はじめまづヴィオロンのひとすすりなき、鈍色(にびいろ)長き衣(ころも)みな瞳をつぶる。
燃えそむるヴヱスヴィアス、空のあなたに色新(あたら)しき紅(くれなゐ)の火ぞ噴(ふ)きのぼる。廃(すた)れたる夢の古墟(ふるつか)、さとあかる我(わが)室(むろ)の内、ひとときに渦巻(うづま)きかへす序(じよ)のしらべ管絃楽部(オオケストラ)のうめきより夜(よ)には入りぬる。
   四十一年二月
納曾利
入日のしばし、空はいま雲の震慄(おびえ)のあかあかと鋭(するど)にわかく、はた、苦(にが)く狂ひただるる楽(がく)の色。また、高※[「窗/心」]の鬱金香(うこんかう)。かげに斃(たふ)るる白牛(しろうし)の眉間(みけん)のいたみ、憤怒(いきどほり)。血に笑(ゑ)む人がさけびごゑ。
さあれ、いま納曾利(なそり)のなげき……鈍(にぶ)き思(おもひ)の灰色(はひいろ)の壁の家内(やぬち)に、吹(ふ)き鳴らす古き舞楽(ぶがく)の笙(せう)の節(ふし)、納曾利(なそり)のなげき……
納曾利(なそり)のなげき、ひとしなみおほらににほふ雅楽寮(うたれう)の古きいみじき日の愁(うれひ)、納曾利(なそり)の舞(まひ)の人のゆめ、鈍(にぶ)くものうき足どりの裾ゆるらかに、おもむろの振(ふり)のみやびの舞(まひ)あそび、納曾利(なそり)のなげき……
くりかへし、さはくりかへし、ゆめのごと後(しりへ)に連(つ)るる笙(せう)の節(ふし)、笛(ふえ)のねとりもすずろかに、広(ひろ)き家内(やぬち)に、おなじことおなじ嫋(なよび)にくりかへし、舞(ま)へる思(おもひ)の倦(う)める思(おもひ)のにほやかさ、ゆるき鞨皷(かつこ)の音(ね)もにぶく、古(ふる)き納曾利(なそり)の舞(まひ)をさめ……
今(いま)しも街(まち)の空(そら)高(たか)く消(き)ゆる光(ひかり)のわななきに、ほのかに青(あを)く、なほ苦(にが)く顫(ふる)ひくづるる雲(くも)の色(いろ)。また、浮(う)きのこる鬱金香(うこんかう)。暮(く)れて果(は)てたる白牛(しろうし)の声(こえ)なき骸(むくろ)。人(ひと)だかり、血(ち)を見(み)て黙(もだ)す冷笑(ひやわらひ)。
   四十一年七月
ほのかにひとつ
罌粟(けし)ひらく、ほのかにひとつ、また、ひとつ……
やはらかき麦生(むぎふ)のなかに、軟風(なよかぜ)のゆらゆるそのに。
薄(うす)き日の暮るとしもなく、月(つき)しろの顫(ふる)ふゆめぢを、
縺(もつ)れ入るピアノの吐息(といき)ゆふぐれになぞも泣かるる。
さあれ、またほのに生(あ)れゆく色あかきなやみのほめき。
やはらかき麦生(むぎふ)の靄に、軟風(なよかぜ)のゆらゆる胸に、
罌粟(けし)ひらく、ほのかにひとつ、また、ひとつ……
   四十一年二月
耽溺
あな悲(かな)し、紅(あか)き帆(ほ)きたる。聴(き)けよ、今(いま)、紅(あか)き帆(ほ)きたる。
白日(はくじつ)の光の水脈(みを)に、わが恋の器楽(きがく)の海に。
あはれ、聴け、光は噎(むせ)び、海顫ひ、清(すが)掻(がき)焦(こ)がれ眩暈(めくる)めく悲愁(かなしみ)の極(はて)、苦悶(もだえ)そふ歓楽(よろこび)のせてキユラソオの紅(あか)き帆(ほ)ひびく。
弾(ひ)けよ、弾(ひ)け、毒(どく)のヴィオロン吹けよ、また媚薬(びやく)の嵐。あはれ歌、あはれ幻(まぼろし)、その海に紅(あか)き帆(ほ)光る。海の歌きこゆ、このとき、『噫(あゝ)、かなし、炎(ほのほ)よ、慾(よく)よ、接吻(くちつけ)よ。』
聴けよ、また苦(にが)き愛着(あいぢやく)、肉(しゝむら)のおびえと恐怖(おそれ)、『死ねよ、死ね』、紅(あか)き帆(ほ)響(ひゞ)く、『恋よ、汝(な)よ。』
弾(ひ)けよ、弾(ひ)け、毒のヴィオロン吹けよ、また媚薬(びやく)の嵐。
一瞬(ひととき)よ、――光よ、水脈(みを)よ、楽(がく)の音(ね)よ――酒のキユラソオ、接吻(くちつけ)の非命(ひめい)の快楽(けらく)、毒水(どくすゐ)の火のわななきよ。狂(くる)へ、狂(くる)へ、破滅(ほろび)の渚(なぎさ)、聴くははや楽(がく)の大極(たいきよく)、狂乱(きやうらん)の日の光吸(す)ふ紅(あか)き帆の終(つひ)のはためき。
死なむ、死なむ、二人(ふたり)は死なむ。
紅(あか)き帆(ほ)きゆる。紅(あか)き帆(ほ)きゆる。
   四十年十二月
といき
大空(おほそら)に落日(いりひ)ただよひ、旅しつつ燃えゆく黄雲(きぐも)。そのしたの伽藍(がらん)の甍(いらか)半(なかば)黄(き)になかばほのかに、薄闇(うすやみ)に蝋(らふ)の火にほひ、円柱(まろはしら)またく暮れたる。
ほのめくは鳩の白羽(しらは)か、敷石(しきいし)の闇にはひとり盲(めしひ)の子ひたと膝つけ、ほのかにも尺八(しやくはち)吹(ふ)ける、あはれ、その追分(おひわけ)のふし。
   四十年十二月
黒船
黒煙(くろけぶり)ほのにひとすぢ。――あはれ、日は血を吐く悶(もだえ)あかあかと濡れつつ淀(よど)む悪(あく)の雲そのとどろきに燃え狂ふ恋慕(れんぼ)の楽(がく)の断末魔(だんまつま)。遠目(とほめ)に濁る蒼海(わだつみ)の色こそあかれ、黒潮(くろしほ)の水脈(みを)のはたての水けぶり、はた、とどろ撃(う)つ毒の砲弾(たま)、清(すず)しき喇叭(らつぱ)、薄暮(くれがた)の朱(あけ)のおびえの戦(たゝかひ)に疲れくるめく衰(おとろへ)ぞああ音(ね)を搾(しぼ)る。
黒煙(くろけぶり)またもふたすぢ。――序(じよ)のしらべ絶(た)えつ続きつ、いつしかに黒(くろ)き悩(なやみ)の旋律(せんりつ)ぞ渦(うづ)巻(ま)き起る。逃(に)げ来(く)るは密猟船(みつれうせん)の旗じるし、痍(きずつ)き噎(むせ)ぶ血と汚穢(けがれ)、はた憤怒(いきどほり)おしなべて黄ばみ騒立(さわだ)つ楽(がく)の色。空には苦(にが)き嘲笑(あざけり)に雲かき乱れ、重(おも)りゆく煩悶(もだえ)のあらびはやもまた黒き恐怖(おそれ)のはたためき海より煙る。
黒煙三すぢ、五すぢ。――幻法(げんぱふ)のこれや苦(くる)しき脅迫(おびやかし)いと淫(みだ)らかに蒸し挑(いど)む疾風(はやち)のもとに、現れて真黒(まくろ)に歎(なげ)く楽(がく)の船、生(なま)あをじろき鱶(ふか)の腹ただほのぼのと、暮れがての赤きくるしみ、うめきごゑ、血の甲板(かふはん)のうへにまた爛(たゞ)れて叫ぶ楽慾(げうよく)の破片(はへん)の砲弾(たま)ぞ慄(わなゝ)ける。ああその空にはたためく黒き帆のかげ。
黒煙終に七すぢ。――吹きかはす銀(ぎん)の喇叭もたえだえに、渦巻き猛(たけ)る楽(がく)の極(はて)、蒼海(わだつみ)けぶり、悪(あく)の雲とどろとどろの乱擾(らんぜう)に急忙(あわたゞ)しくも呪(のろ)はしき夜(よ)のたたずまひ。濡れ焙(い)ぶる水無月ぞらの日の名残(なごり)はた掻き濁し、暗澹(あんたん)と、あはれ黒船(くろふね)、真黒なる管絃楽(オオケストラ)の帆の響(ひゞき)死(し)と悔恨(くわいこん)の闇擾(みだ)し壊(くづ)れくづるる。
   四十一年二月
地平
あな哀(あは)れ、今日(けふ)もまた銅(あかがね)の雲をぞ生める。あな哀(あは)れ、明日(あす)も亦鈍(にぶ)き血の毒(どく)をや吐かむ。
見るからにただ熱(あつ)し、心は重し。察(はか)るだにいや苦(くる)し、愁(うれひ)はおもし。
かの青き国(くに)のあこがれ、つねに見る地平(ちへい)のはてに、大空(おほぞら)の真昼(まひる)の色と、連(つ)れて弾(ひ)く緑(みどり)ひとつら。
その緑(みどり)琴柱(ことぢ)にはして、弾きなづむ鳩の羽の夢、幌(ほろ)の星(ほし)、剣(つるぎ)のなげき、清掻(すががき)はほのかに薫(く)ゆる。
さては、日の白き恐怖(おそれ)に静かなる太鼓(たいこ)のとろぎ、昼(ひる)領(し)らす神か拊(う)たせる、ころころとまたゆるやかに。
また絶えず、吐息(といき)のつらねかなたより笛してうかび、こなたより絃(いと)して消ゆる、――ほのかなる夢のおきふし。
しかはあれ、ものなべて圧(お)す南国(なんごく)の熱病雲(ねつやみぐも)ぞ猥(みだ)らなる毒(どく)の※[「言+墟のつくり」]言(うはごと)とどろかに歌かき濁(にご)す。
おもふ、いま水に華(はな)さき、野(の)に赤き駒(こま)は斃(たふ)れむ。うらうへに病(や)ましき現象(きざし)今日(けふ)もまたどよみわづらふ。
あな哀(あは)れ、昨(きそ)の日も銅(あかがね)のなやみかかりき。あな哀(あは)れ、明日(あす)もまた鈍(にぶ)き血の濁(にごり)かからむ。
聴くからにただ熱(あつ)し、心は重し。思ふだにいやくるし、愁は重し。
   四十年十二月
ふえのね
ほのかに見ゆる青き頬(ほ)、あな、あな、玻璃(はり)のおびゆる。
かなたにひびく笛のね、……青き頬(ほ)ほのに消えゆく。
室(むろ)にもつのるふえのね、……ふたつのにほひ盲(し)ひゆく。
きこえずなりぬふえのね、……内(うち)と外(そと)とのなげかひ。
またしも見ゆる青き頬(ほ)。あな、また玻璃(はり)のおびゆる。
   四十一年二月
下枝のゆらぎ
日はさしぬ、白楊(はくやう)の梢(こずゑ)に赤く、さはあれど、暮れ惑(まど)ふ下枝(しづえ)のゆらぎ……
水(みづ)の面(も)のやはらかきにほひの嘆(なげき)波もなき病(や)ましさに、瀞(とろ)みうつれる晩春(おそはる)の※[「窗/心」]閉(とざ)す片側街(かたかはまち)よ、暮れなやむ靄の内皷(うちつづみ)をうてる。いづこにか、もの甘き蜂の巣(す)のこゑ。幼子(をさなご)のむれはまた吹笛(フルウト)鳴らし、白楊(はくやう)の岸(きし)にそひ曇り黄(き)ばめる教会(けうくわい)の硝子※[「窗/心」](がらすまど)ながめてくだる。
日はのこる両側(もろがは)の梢(こずゑ)にあかく、さはあれど、暮れ惑(まど)ふ下枝(しづえ)のゆらぎ……
またあれば、公園(こうゑん)の長椅子(ベンチ)にもたれ、かなたには恋慕(れんぼ)びと苦悩(なやみ)に抱く。そのかげをのどやかに嬰児(あかご)匍(は)ひいで鵞(が)の鳥(とり)を捕(と)らむとて岸(きし)ゆ落ちぬる。
水面(みのも)なるひと騒擾(さやぎ)、さあれ、このとき、驀然(ましぐら)に急ぎくる一列(ひとつら)の郵便馬車(いうびんばしや)よ、薄闇(うすやみ)ににほひゆく赤き曇(くもり)の快(こころよ)さ、人はただ街(まち)をばながむ。
灯(あかり)点(とも)る、さあれなほ梢(こずゑ)はにほひ、全(また)くいま暮れはてし下枝(しづえ)のゆらぎ……
   四十一年八月
雨の日ぐらし
ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく刻(きざ)む音(おと)……
河岸(かし)のそば、黴(かび)の香(か)のしめりも暗し、
かくてあな暮れてもゆくか、駅逓(えきてい)の局(きよく)の長壁(ながかべ)灰色(はひいろ)に、暗きうれひに、おとつひも、昨日(きのふ)も、今日(けふ)も。
さあれ、なほ薫(くゆ)りのこれる一列(ひとつら)の紅(あか)き花(はな)罌粟(けし)かたかげの草に濡れつつ、うちしめり浮きもいでぬる。
雨はまたくらく、あかるく、やはらかきゆめの曲節(めろでい)……
ち、ち、ち、ち、と絶えずせはしく刻(きざ)む音……角※[「窗/心」]の玻璃(はり)のくらみを死(し)の報知(しらせ)ひまなく打電(う)てる。さてあればそこはかとなく
出でもゆく薄ぐらき思(おもひ)のやからその歩行(あるき)夜(よ)にか入るらむ。
しばらくは事もなし。かかる日の雨の日ぐらし。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく刻(きざ)む音(おと)……さもあれや、雨はまたゆるにしとしと暮れもゆくゆめの曲節(めろでい)……
いづこにか鈴(すゞ)の音(ね)しつつ、近く、はた、速のく軋(きしり)、待ちあぐむ郵便馬車(いうびんばしや)の旗の色(いろ)見えも来なくに、うち曇る馬の遠嘶(とほなき)。
さあれ、ふと夕日さしそふ。瞬間(たまゆら)の夕日さしそふ。
あなあはれ、あなあはれ、泣き入りぬ罌粟(けし)のひとつら、最終(いやはて)に燃(も)えてもちりぬ。
日の光かすかに消ゆる。ち、ち、ち、ち、ともののせはしく刻(きざ)む音(おと)……雨の曲節(めろでい)……
ものなべて、ものなべて、さは入らむ、暗き愁に。あはれ、また、出でゆきし思のやから帰り来なくに。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく刻(きざ)む音(おと)……雨の曲節(めろでい)……
灰色(はひいろ)の局(きよく)は夜(よ)に入る。
   四十一年五月
狂人の音楽
空気(くうき)は甘し……また赤し……黄(き)に……はた、緑(みどり)……
晩夏(おそなつ)の午後五時半の日光(につくわう)は※[「日/咎」](かげり)を見せて、蒸し暑く噴水(ふきゐ)に濡(ぬ)れて照りかへす。瘋癲院(ふうてんゐん)の陰鬱(いんうつ)に硝子(がらす)は光り、草場(くさば)には青き飛沫(しぶき)の茴香酒(アブサント)冷(ひ)えたちわたる。
いま狂人(きやうじん)のひと群(むれ)は空うち仰ふぎ――饗宴(きやうえん)の楽器(がくき)とりどりかき抱(いだ)き、自棄(やけ)に、しみらに、傷(きず)つける獣(けもの)のごとき雲の面(おも)ひたに怖れて色盲(しきまう)の幻覚(まぼろし)を見る。空気(くうき)は重し……また赤し……共に……はた緑(みどり)……
オボイ鳴る……また、トロムボオン……狂(くる)ほしきヴィオラの唸(うなり)……
一人(ひとり)の酸(す)ゆき音(ね)は飛びて怜羊(かもしか)となり、ひとつは赤き顔ゑがき、笑(わら)ひわななく音(ね)の恐怖(おそれ)……はた、ほのしろき髑髏舞(どくろまひ)……
弾(ひ)け弾(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
セロの、喇叭(らつぱ)の蛇(へび)の香(か)よ、はた、爛(たゞ)れ泣くヴィオロンの空には赤子飛びみだれ、妄想狂(まうさうきやう)のめぐりにはバツソの盲目(めしひ)小さなる骸色(しかばねいろ)の呪咀(のろひ)して逃(のが)れふためく。
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
クラリネッ卜の槍尖(やりさき)よ、曲節(メロヂア)のひらめき緩(ゆる)く、また急(はや)く、アルト歌者(うたひ)のなげかひを暈(くら)ましながら、一列(ひとつらね)、血しほしたたる神経(しんけい)の壁の煉瓦(れんぐわ)のもとを行(ゆ)く……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……、
かなしみの蛇(へび)、緑(みどり)の眼(め)槍(やり)に貫(ぬ)かれてまた歎(なげ)く……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
はた、吹笛(フルウト)の香(か)のしぶき、青じろき花どくだみの鋭(するど)さに、濁りて光る山椒魚(さんしようを)、沼(ぬま)の調(しらべ)に音(ね)は瀞(とろ)む。
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
傷(きずつ)きめぐる観覧車(くわんらんしや)、はたや、太皷(たいこ)の悶絶(もんぜつ)に列(つら)なり走(はし)る槍尖(やりさき)よ、※[「窗/心」]の硝子(がらす)に火は叫(さけ)び、月琴(げつきん)の雨ふりそそぐ……
弾(ひ)け弾(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
赤き神経(しんけい)……盲(めし)ひし血……聾(ろう)せる脳の鑢(やすり)の音(ね)……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
空気(くうき)は酸(すゆ)し……いま青し……黄(き)に……なほ赤く……
はやも見よ、日の入りがたの雲の色狂気(きやうき)の楽(がく)の音(ね)につれて波だちわたり、悪獣の蹠(あなうら)のごと血を滴(たら)す。
そがもとに噴水(ふきゐ)のむせび濡れ濡れて薄闇(うすやみ)に入る……
空気(くうき)は重し……なほ赤し……黄(き)に……また緑(みどり)……
いつしかに蒸汽(じようき)の鈍(にぶ)き船腹(ふなばら)のごとくに光りかぎろひし瘋癲院(ふうてんゐん)も暮れゆけば、ただ冷(ひ)えしぶく茴香酒(アブサント)、鋭(するど)き玻璃(はり)のすすりなき。
草場(くさば)の赤き一群(ひとむれ)よ、眼(め)ををののかし、躍(をど)り泣き弾(ひ)きただらかす歓楽(くわんらく)のはてしもあらぬ色盲(しきまう)のまぼろしのゆめ……午後の七時の印象(いんしやう)はかくて夜(よ)に入る。
空気は苦(にが)し……はや暗(くら)し……黄(き)に……なほ青く……
   四十一年九月
風のあと
夕日(ゆふひ)はなやかに、こほろぎ啼(な)く。あはれ、ひと日、木の葉ちらし吹き荒(すさ)みたる風も落ちて、夕日(ゆふひ)はなやかに、こほろぎ啼く。
   四十一年八月
月の出
ほのかにほのかに音色(ねいろ)ぞ揺(ゆ)る。かすかにひそかににほひぞ鳴る。しみらに列(なみ)立(た)つわかき白楊(ぽぴゆら)、その葉のくらみにこころ顫(ふる)ふ。
ほのかにほのかに吐息(といき)ぞ揺る。かすかにひそかに雫(しづく)ぞ鳴る。あふげばほのめくゆめの白楊(ぽぴゆら)、愁(うれひ)の水(み)の面(も)を櫂(かい)はすべる。
吐息(といき)のをののき、君が眼(め)ざしやはらに縺(もつ)れてたゆたふとき、光のひとすぢ――顫(ふる)ふ白楊(ぽぴゆら)文月(ふづき)の香炉(かうろ)に濡れてけぶる。
さてしもゆるけくにほふ夢路(ゆめぢ)、したたりしたたる櫂(かい)のしづく、薄らに沁(し)みゆく月のでしほほのかにわれらが小舟(をふね)ぞゆく。
ほのめく接吻(くちつけ)、からむ頸(うなじ)、いづれか恋慕(れんぼ)の吐息(といき)ならぬ。夢見てよりそふわれら、白楊(ぽぴゆら)、水上(みなかみ)透(す)かしてこころ顫(ふる)ふ。
   四十一年二月 
■外光と印象
近世仏国絵画の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の叙情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に残れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める 〔Cafe'〕 の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金緑に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も青みゆき、青みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は来る。燈の薄黄は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。   太田正雄
冷めがたの印象
あわただし、旗ひるがへし、朱(しゆ)の色の駅逓(えきてい)馬車(ぐるま)跳(をど)りゆく。
曇日(くもりび)の色なき街(まち)は清水(しみづ)さす石油(せきゆ)の噎(むせび)、轢(し)かれ泣く停車場(ていしやば)の鈴(すゞ)、溝(みぞ)の毒(どく)、昼の三味(しやみ)、鑢(やすり)磨(す)る歌、茴香酒(アブサン)の青み泡だつ火の叫(さけび)、絶えず眩(くる)めく白楊(やまならし)、遂に疲れてマンドリン奏(かな)でわづらふ風の群(むれ)、あなあはれ、そのかげに乞食(かたゐ)ゆきかふ。
くわと来り、燃(も)えゆく旗は死に堕(お)つる、夏の光のうしろかげ。
灰色の亜鉛(とたん)の屋根に、青銅(せいどう)の擬宝珠(ぎぼしゆ)の錆(さび)に、また寒き万象(ものみな)の愁(うれひ)のうへに、爛(たゞ)れ弾(ひ)く猩紅熱(しやうこうねつ)の火の調(しらべ)、狂気(きやうき)の色と冷(さ)めがたの疲労(つかれ)に、今はひた嘆(なげ)く、悔(くい)と、悩(なやみ)と、戦慄(をのゝき)と。
あかあかとひらめく旗は猥(みだ)らなるその最終(いやはて)の夏の曲(きよく)。
あなあはれ、あなあはれ、あなあはれ、光消えさる。
   四十年十一月
赤子
赤子啼く、
急(はや)き瀬(せ)の中(うち)。
壁重き女囚(ぢよしう)の牢獄(ひとや)、鉄(てつ)の門(もん)、淫慾(いんよく)の蛇の紋章(もんしやう)くわとおびえ、水に、落日(いりひ)に照りかへし、黄ばむひととき。
赤子(あかご)啼(な)く、急(はや)き瀬(せ)の中(うち)。
   四十一年六月
暮春
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
なやまし、河岸(かし)の日のゆふべ、日の光。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
眼科(がんくわ)の窓(まど)の磨硝子(すりがらす)、しどろもどろの白楊(はくやう)の温(ぬる)き吐息(といき)にくわとばかり、ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、蒸し淀(よど)む夕日(ゆふひ)の光。黄(き)のほめき。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
なやまし、またもいづこにか、なやまし、あはれ、音(ね)も妙(たへ)に紅(あか)き嘴(はし)ある小鳥らのゆるきさへづり。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
はた、大河(おほかは)の饐(す)え濁(にご)る、河岸(かし)のまぢかをぎちぎちと病(や)ましげにとろろぎめぐる灰色(はいいろ)黄(き)ばむ小蒸汽(こじようき)の温(ぬ)るく、まぶしく、またゆるくとろぎ噴(ふ)く湯気(ゆげ)いま懈(た)ゆく、また絶えず。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
いま病院(びやうゐん)の裏庭(うらには)に、煉瓦のもとに、白楊(はくやう)のしどろもどろの香(か)のかげに、窓の硝子(がらす)に、まじまじと日向(ひなた)求(もと)むる病人(やまうど)は目(め)も悩(なや)ましく見ぞ夢む、暮春(ぼしゆん)の空と、もののねと、水と、にほひと。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、また懈(た)ゆく。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
   四十一年三月
噴水の印象
噴水(ふきあげ)のゆるきしたたり。――霧しぶく苑(その)の奥、夕日(ゆふひ)の光、水盤(すゐばん)の黄(き)なるさざめき、なべて、いまものあまき嗟嘆(なげかひ)の色。
噴水(ふきあげ)の病(や)めるしたたり。――いづこにか病児(びやうじ)啼(な)き、ゆめはしたたる。そこここに接吻(くちつけ)の音(おと)。空は、はた、暮れかかる夏のわななき。
噴水(ふきあげ)の甘きしたたり。――そがもとに痍(きず)つける女神(ぢよじん)の瞳。はた、赤き眩暈(くるめき)の中(うち)、冷(ひや)み入る銀(ぎん)の節(ふし)、雲のとどろき。
噴水(ふきあげ)の暮るるしたたり。――くわとぞ蒸(む)す日のおびえ、晩夏(ばんか)のさけび、濡れ黄ばむ憂鬱症(ヒステリイ)のゆめ青む、あなしとしとと夢はしたたる。
   四十一年七月
顔の印象 六篇
A 精舎
うち沈む広額(ひろびたひ)、夜(よ)のごとも凹(くぼ)める眼(まなこ)――いや深く、いや重く、泣きしづむ霊(たまし)の精舎(しやうじや)。それか、実(げ)に声もなき秦皮(とねりこ)の森のひまより熟視(みつ)むるは暗(くら)き池、谷そこの水のをののき。いづこにか薄日(うすひ)さし、きしりこきり斑鳩(いかるが)なげく寂寥(さみしら)や、空の色なほ紅(あけ)ににほひのこれど、静かなる、はた孤独(ひとり)、山間(やまあひ)の霧にうもれて悔(くい)と夜(よ)のなげかひを懇(ねもごろ)に通夜(つや)し見まもる。
かかる間(ま)も、底ふかく青(あを)の魚盲(めし)ひあぎとひ、口そそぐ夢の豹(へう)水の面(も)に血音(ちのと)たてつつ、みな冷(ひ)やき石の世(よ)と化(な)りぞゆく、あな恐怖(おそれ)より。
かくてなほ声もなき秦皮(とねりこ)よ、秘(ひそ)に火ともり、精舎(しやうじや)また水晶と凝(こご)る時(とき)愁(うれひ)やぶれて響きいづ、響きいづ、最終(いやはて)の霊(たま)の梵鐘(ぼんしよう)。
   以下五篇――四十一年三月
B 狂へる街
赭(あか)らめる暗(くら)き鼻、なめらかに禿(は)げたる額(ひたひ)、痙攣(ひきつ)れる唇(くち)の端(はし)、光なくなやめる眼(まなこ)なにか見る、夕栄(ゆふばえ)のひとみぎり噎(むせ)ぶ落日(いりひ)に、熱病(ねつびやう)の響(ひびき)する煉瓦家(れんぐわや)か、狂へる街(まち)か。
見るがまに焼酎(せうちう)の泡(あわ)しぶきひたぶる歎(なげ)くそが街(まち)よ、立てつづく尖屋根(とがりやね)血ばみ疲(つか)れて雲赤くもだゆる日、悩(なや)ましく馬車(ばしや)駆(か)るやから霊(たましひ)のありかをぞうち惑(まど)ひ窓(まど)ふりあふぐ。
その窓(まど)に盲(めし)ひたる爺(をぢ)ひとり鈍(にぶ)き刃(は)研(と)げる。はた、唖(おふし)朱(しゆ)に笑ひ痺(しび)れつつ女(をみな)を説(と)ける。次(つぎ)なるは聾(ろう)しぬる清き尼(あま)三味線(しやみせん)弾(ひ)ける。
しかはあれ、照り狂ふ街(まち)はまた酒と歌とにしどろなる舞(まひ)の列(れつ)あかあかと淫(たは)れくるめき、馬車(ばしや)のあと見もやらず、意味(いみ)もなく歌ひ倒(たふ)るる。
C 醋の甕
蒼(あを)ざめし汝(な)が面(おもて)饐(す)えよどむ瞳(ひとみ)のにごり、薄暮(くれがた)に熟視(みつ)めつつ撓(たわ)みちる髪の香(か)きけば――醋(す)の甕(かめ)のふたならび人もなき室(むろ)に沈みて、ほの暗(くら)き玻璃(はり)の窓ひややかに愁(うれ)ひわななく。
外面(とのも)なる嗟嘆(なげかひ)よ、波もなきいんくの河に旗青き独木舟(うつろぶね)そこはかと巡(めぐ)り漕ぎたみ、見えわかぬ悩(なやみ)より錨(いかり)曳(ひ)き鎖(くさり)巻かれて、伽羅(きやら)まじり消え失(う)する黒蒸汽(くろじようき)笛(ふえ)ぞ呻(うめ)ける。
吊橋(つりばし)の灰白(はひじろ)よ、疲(つか)れたる煉瓦(れんぐわ)の壁(かべ)よ、たまたまに整(ととの)はぬ夜(よ)のピアノ淫(みだ)れさやげど、ひとびとは声もなし、河の面(おも)をただに熟視(みつ)むる。はた、甕(かめ)のふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、内と外(そと)かぎりなき懸隔(へだたり)に帷(とばり)堕(お)つれば、あな悲し、あな暗(くら)し、醋(す)の沈黙(しじま)長くひびかふ。
D 沈丁花
なまめけるわが女(をみな)、汝(な)は弾(ひ)きぬ夏の日の曲(きよく)、悩(なや)ましき眼(め)の色に、髪際(かうぎは)の紛(こな)おしろひに、緘(つぐ)みたる色あかき唇(くちびる)に、あるはいやしく肉(ししむら)の香(か)に倦(う)める猥(みだ)らなる頬(ほ)のほほゑみに。
響(ひび)かふは呪(のろ)はしき執(しふ)と欲(よく)、ゆめもふくらに頸(うなじ)巻く毛のぬくみ、真白(ましろ)なるほだしの環(たまき)そがうへに我ぞ聴(き)く、沈丁花(ぢんてうげ)たぎる畑(はたけ)を、堪(た)へがたき夏の日を、狂(くる)はしき甘(あま)きひびきを。
しかはあれ、またも聴く、そが畑(はた)に隣(とな)る河岸(かし)側(きは)、色ざめし浅葱幕(あさぎまく)しどけなく張りもつらねて、調(しら)ぶるは下司(げす)のうた、はしやげる曲馬(チヤリネ)の囃子(はやし)。
その幕の羅馬字(らうまじ)よ、くるしげに馬は嘶(いなな)き、大喇叭(おほらつぱ)鄙(ひな)びたる笑(わらひ)してまたも挑(いど)めば生(なま)あつき色と香(か)とひとさやぎ歎(なげ)きもつるる。
E 不調子
われは見る汝(な)が不調(ふてう)、――萎(しな)びたる瞳の光沢(つや)に、衰(おとろへ)の頬(ほ)ににほふおしろひの厚き化粧(けはひ)に、あはれまた褪(あ)せはてし髪の髷(まげ)強(つよ)きくゆりに、肉(ししむら)の戦慄(わななき)を、いや甘き欲(よく)の疲労(つかれ)を。
はた思ふ、晩夏(おそなつ)の生(なま)あつきにほひのなかに、倦(う)みしごと縺(もつ)れ入るいと冷(ひ)やき風の吐息(といき)を。新開(しんかい)の街(まち)は※[「金+肅」](さ)びて、色赤く猥(みだ)るる屋根を、濁りたる看板(かんばん)を、入り残る窓の落日(いりひ)を。
なべてみな整(ととの)はぬ色の曲(ふし)……ただに鋭(するど)き最高音(ソプラノ)の入り雑(まじ)り、埃(ほこり)たつ家(や)なみのうへに、色にぶき土蔵家(どざうや)の江戸芝居(えどしばゐ)ひとり古りたる。
露(あら)はなる日の光、そがもとに三味(しやみ)はなまめき、拍子木(へうしぎ)の歎(なげき)またいと痛(いた)し古き痍(いたで)に、かくてあな衰(おとろへ)のもののいろ空(そら)は暮れ初む。
F 赤き恐怖
わかうどよ、汝(な)はくるし、尋(と)めあぐむ苦悶(くもん)の瞳(ひとみ)、秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇(くちびる)みな恋の響なり、熟視(みつ)むれば――調(しらべ)かなでて火のごとき馬ぐるま燃(も)え過ぐる窓のかなたを。
はた、辻の真昼(まひる)どき、白楊(はこやなぎ)にほひわななき、雲浮かぶ空(そら)の色生(なま)あつく蒸しも汗(あせ)ばむ街(まち)よ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、炎上(えんじやう)の光また眼(め)にうつり、壁ぞ狂(くる)へる。
人もなき路のべよ、しとしとと血を滴(したた)らし胆(きも)抜(ぬ)きて走る鬼、そがあとにただに餞(う)ゑつつ色赤き郵便函(ポスト)のみくるしげにひとり立ちたる。
かくてなほ窓の内(うち)すずしげに室(むろ)は濡(ぬ)るれど、戸外(とのも)にぞ火は熾(さか)る、………哀(あは)れ、哀(あは)れ、棚(たな)の上(へ)に見よ、水もなき消火器(せうくわき)のうつろなる赤き戦慄(をののき)。
盲ひし沼
午後六時(ごごろくじ)、血紅色(けつこうしよく)の日の光盲(めし)ひし沼にふりそそぎ、濁(にごり)の水の声もなく傷(きずつ)き眩(くら)む生(なま)おびえ。鉄(てつ)の匂(にほひ)のひと冷(ひや)み沁(し)みは入れども、影うつす煙草(たばこ)工場(こうば)の煉瓦壁(れんぐわかべ)。眼(め)も痛(いた)ましき香(か)のけぶり、機械(きかい)とどろく。
鳴ききたる鵝島(がてう)のうからしらしらと水に飛び入る。
午後六時、また噴(ふ)きなやむ管(くだ)の湯気(ゆげ)、壁に凭(よ)りたる素裸(すはだか)の若者(わかもの)ひとり腕(かいな)拭(ふ)き鉄(てつ)の匂にうち噎(むせ)ぶ。はた、あかあかと蒸気鑵(じようきがま)音(おと)なく叫び、そこここに咲きこぼれたる芹(せり)の花、あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。
声もなき鵞鳥(がてう)のうから色みだし水に消え入る
午後六時、鵞鳥(がてう)の見たる水底(みなぞこ)は血潮したたる沼(ぬま)の面(も)の負傷(てきず)の光かき濁る泥(どろ)の臭(くさ)みに疲(つか)れつつ、水死(すゐし)の人の骨のごとちらぼふなかにもの鈍(にぶ)き鉛の魚のめくるめき、はた浮(うか)びくる妄念(まうねん)の赤きわななき。
逃(に)げいづる鵞鳥(がてう)のうから鳴きさやぎ汀(みぎは)を走(はし)る。
午後六時、あな水底(みそこ)より浮びくる赤きわななき――妄念の猛(たけ)ると見れば、強き煙草に、鉄(てつ)の香(か)に、わかき男に、顔いだす硝子(がらす)の窓の少女(をとめ)らに血潮したたり、歓楽(くわんらく)の極(はて)の恐怖(おそれ)の日のおびえ、顫(ふる)ひ高まる苦痛(くるしみ)ぞ朱(あけ)にくづるる。
刹那、ふと太(ふと)く湯気(ゆげ)吐き吼(ほ)えいづる休息(やすらひ)の笛。
   四十一年七月
青き光
哀(あは)れ、みな悩(なや)み入る、夏の夜(よ)のいと青き光のなかに、ほの白き鉄(てつ)の橋、洞(ほら)円(まろ)き穹窿(ああち)の煉瓦(れんぐわ)、かげに来て米炊(かし)ぐ泥舟(どろぶね)の鉢(はち)の撫子(なでしこ)、そを見ると見下(みおろ)せる人々(ひとびと)が倦(う)みし面(おもて)も。
はた絶えず、悩(なや)ましの角(つの)光り電車すぎゆく河岸(かし)なみの白き壁あはあはと瓦斯も点(とも)れど、うち向ふ暗き葉柳(はやなぎ)震慄(わなな)きつ、さは震慄(わなな)きつ、後(うしろ)よりはた泣くは青白き屋(いへ)の幽霊(いうれい)。
いと青きソプラノの沈みゆく光のなかに、饐(す)えて病むわかき日の薄暮(くれがた)のゆめ。――幽霊の屋(いへ)よりか洩れきたる呪(のろ)はしの音(ね)の交響体(ジムフオニ)のくるしみのややありて交(まじ)りおびゆる。
いづこにかうち囃(はや)す幻燈(げんとう)の伴奏(あはせ)の進行曲(マアチ)、かげのごと往来(ゆきき)する白(しろ)の衣(きぬ)うかびつれつつ、映(うつ)りゆく絵(ゑ)のなかのいそがしさ、さは繰りかへす。――そのかげに苦痛(くるしみ)の暗(くら)きこゑまじりもだゆる。
なべてみな悩(なや)み入る、夏の夜(よ)のいと青き光のなかに。――蒸し暑(あつ)き軟(なよ)ら風(かぜ)もの甘(あま)き汗(あせ)に揺(ゆ)れつつ、ほつほつと点(と)もれゆく水(みづ)の面(も)のなやみの燈(ともし)、鹹(しほ)からき執(しふ)の譜(ふ)よ………み空には星ぞうまるる。
かくてなほ悩み顫(ふる)ふわかき日の薄暮(くれがた)のゆめ。――見よ、苦(にが)き闇(やみ)の滓(をり)街衢(ちまた)には淀(よど)みとろげど、新(あらた)にもしぶきいづる星の華(はな)――泡(あわ)のなげきに色青き酒のごと空(そら)は、はた、なべて澄みゆく。
   四十一年七月
樅のふたもと
うちけぶる樅(もみ)のふたもと。薄暮(くれがた)の山の半腹(なから)のすすき原(はら)、若草色(わかくさいろ)の夕(ゆふ)あかり濡れにぞ濡るる雨の日のもののしらべの微妙(いみじ)さに、なやみ幽(かす)けき Chopin(シオパン) の楽(がく)のしたたりやはらかに絶えず霧するにほやかさ。ああ、さはあかれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
はやにほふ樅(もみ)のふたもと。いつしかに色にほひゆく靄のすそ、しみらに燃(も)ゆる日の薄黄(うすぎ)、映(うつ)らふみどり、ひそやかに暗(くら)き夢弾(ひ)く列並(つらなみ)の遠(とほ)の山々(やまやま)おしなべてものやはらかに、近(ちか)ほとりほのめきそむる歌(うた)の曲(ふし)。ああ、はやにほへ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
燃えいづる樅(もみ)のふたもと。濡れ滴(した)る柑子(かうじ)の色のひとつらね、深き青みの重(かさな)りにまじらひけぶる山の端(は)の縺(もつ)れのなやみ、あるはまたかすかに覗(のぞ)く空のゆめ、雲のあからみ、晩夏(おそなつ)の入日(いりひ)に噎(むせ)ぶ夕(ゆふ)ながめ。ああ、また燃(も)ゆれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
色うつる樅(もみ)のふたもと。しめやげる葬(はふり)の曲(ふし)のかなしみの幽(かす)かにもののなまめきに揺曳(ゆらひ)くなべに、沈(しづ)みゆく雲の青みの階調(シムフオニヤ)、はた、さまざまのあこがれの吐息(といき)の薫(くゆり)、薄れつつうつらふきはの日のおびえ。ああ、はた、響け、嵯嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
饐(す)え暗(くら)む樅のふたもと。燃えのこる想(おもひ)のうるみひえびえと、はや夜(よ)の沈黙(しじま)しのびねに弾きも絶え入る列並(つらなみ)の山のくるしみ、ひと叢(むら)の柑子(かうじ)の靄のおぼめきも音(ね)にこそ呻(うめ)け、おしなべて御龕(みづし)の空(そら)ぞ饐(す)えよどむ。ああ、見よ、悩(なや)む、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
暮れて立つ樅(もみ)のふたもと。声もなき悲願(ひぐわん)の通夜(つや)のすすりなき薄らの闇に深みゆく、あはれ、法悦(ほふえつ)、いつしかに篳篥(ひちりき)あかる谷のそら、ほのめき顫(ふる)ふ月魄(つきしろ)のうれひ沁みつつ夢青む忘我(われか)の原の靄の色。ああ、さは顫(ふる)へ嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
   四十一年二月
夕日のにほひ
晩春(おそはる)の夕日(ゆふひ)の中(なか)に、順礼(じゆんれい)の子はひとり頬(ほ)をふくらませ、濁(にご)りたる眼(め)をあげて管(くだ)うち吹ける。腐(くさ)れゆく襤褸(つづれ)のにほひ、酢(す)と石油(せきゆ)……にじむ素足(すあし)に落ちちれる果実(くだもの)の皮、赤くうすく、あるは汚(きた)なく……
片手(かたて)には噛(かぢ)りのこせし林檎(りんご)をばかたく握(にぎ)りぬ。かくてなほ頬(ほ)をふくらませ怖(おづ)おづと吹きいづる………珠(たま)の石鹸(しやぼん)よ。
さはあれど、珠(たま)のいくつはなやましき夕暮(ゆふぐれ)のにほひのなかにゆらゆらと円(まろ)みつつ、ほつと消(き)えたる。ゆめ、にほひ、その吐息(といき)……
彼(かれ)はまた、怖々(おづおづ)と、怖々(おづおづ)と、……眩(まぶ)しげに頬(ほ)をふくらませ蒸(む)し淀(よど)む空気(くうき)にぞ吹きもいでたる。
あはれ、見よ、いろいろのかがやきに濡(ぬ)れもしめりて円(まろ)らにものぼりゆく大(おほ)きなるひとつの珠(たま)よ。そをいまし見あげたる無心(むしん)の瞳(ひとみ)。
背後(そびら)には、血しほしたたる拳(こぶし)あげ、霞(かす)める街(まち)の大時計(おほどけい)睨(にら)みつめたる山門(さんもん)の仁王(にわう)の赤(あか)き幻想(イリユウジヨン)……
その裏(うら)をちやるめらのゆく……
   四十一年十二月
浴室
水落つ、たたと………浴室(よくしつ)の真白き湯壺(ゆつぼ)大理石(なめいし)の苦悩(なやみ)に湯気(ゆげ)ぞたちのぼる。硝子(がらす)の外(そと)の濁川(にごりがは)、日にあかあかと小蒸汽(こじようき)の船腹(ふなばら)光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。
水落つ、たたと………‥灰色(はひいろ)の亜鉛(とたん)の屋根の繋留所(けいりうじよ)、わが窓近き陰鬱(いんうつ)に行徳(ぎやうとく)ゆきの人はいま見つつ声なし、川むかひ、黄褐色(わうかつしよく)の雲のもと、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………両国(りやうごく)の大吊橋(おほつりばし)はうち煤(すす)け、上手(かみて)斜(ななめ)に日を浴(あ)びて、色薄黄(き)ばみ、はた重く、ちやるめらまじり忙(せは)しげに夜(よ)に入る子らが身の運(はこ)び、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………もの甘く、あるひは赤く、うらわかきわれの素肌(すはだ)に沁(し)みきたる鉄(てつ)のにほひと、腐(くさ)れゆく石鹸(しやぼん)のしぶき。水面(みのも)には荷足(にたり)の暮れて呼ぶ声す、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………たたとあな音色(ねいろ)柔(やは)らに、大理石(なめいし)の苦悩(なやみ)に湯気(ゆげ)は濃(こ)く、温(ぬ)るく、鈍(にぶ)きどよみと外光(ぐわいくわう)のなまめく靄に疲(つか)れゆく赤き都会(とくわい)のらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。
   四十一年八月
入日の壁
黄(き)に潤(しめ)る港の入日(いりひ)、切支丹(きりしたん)邪宗(じやしゆう)の寺の入口(いりぐち)の暗(くら)めるほとり、色古りし煉瓦(れんぐわ)の壁に射かへせば、静かに起る日の祈祷(いのり)、『ハレルヤ』と、奥にはにほふ讃頌(さんしよう)の幽(かす)けき夢路(ゆめぢ)。
あかあかと精舎(しやうじや)の入日。――ややあれば大風琴(おほオルガン)の音(ね)の吐息(といき)たゆらに嘆(なげ)き、白蝋(はくらふ)の盲(し)ひゆく涙。――壁のなかには埋(うづ)もれて眩暈(めくるめ)き、素肌(すはだ)に立てるわかうどが赤き幻(まぼろし)。
ただ赤き精舎(しやうじや)の壁に、妄念(まうねん)は熔(とろ)くるばかりおびえつつ全身(ぜんしん)落つる日を浴(あ)びて真夏(まなつ)の海をうち睨(にら)む。『聖(サンタ)マリヤ、イエスの御母(みはは)。』一斉(いつせい)に礼拝(をろがみ)終(をは)る老若(らうにやく)の消え入るさけび。はた、白(しら)む入日の色にしづしづと白衣(はくえ)の人らうちつれて湿潤(しめり)も暗き戸口(とぐち)より浮びいでつつ、眩(まぶ)しげに数珠(じゆず)ふりかざし急(いそ)げども、など知らむ、素肌(すはだ)に汗(あせ)し熔(とろ)けゆく苦悩(くなう)の思(おもひ)。
暮れのこる邪宗(じやしゆう)の御寺(みてら)いつしかに薄(うす)らに青くひらめけばほのかに薫(くゆ)る沈(ぢん)の香(かう)、波羅葦増(ハライソ)のゆめ。さしもまた埋(うも)れて顫(ふる)ふ妄念(まうねん)の血に染みし踵(かがと)のあたり、蟋蟀(きりぎりす)啼きもすずろぐ。
   四十一年八月
狂へる椿
ああ、暮春(ぼしゆん)。
なべて悩(なや)まし。溶(とろ)けゆく雲のまろがり、大(おほ)ぞらのにほひも、ゆめも。
ああ、暮春。
大理石(なめいし)のまぶしきにほひ――幾基(いくもと)の墓の日向(ひなた)に照りかへし、くわと入る光。ものやはき眩暈(くるめき)の甘き恐怖(おそれ)よ。あかあかと狂ひいでぬる薮椿(やぶつばき)、自棄(やけ)に熱(ねつ)病(や)む霊(たま)か、見よ、枝もたわわに狂ひ咲き、狂ひいでぬる赤き花、赤き※[「言+墟のつくり」]言(うはごと)。
そがかたへなる崖(がけ)の上(うへ)、うち湿(しめ)り、熱(ほて)り、まぶしく、また、ねぶく大路(おほぢ)に淀(よど)むもののおと。人力車夫(じんりきしやふ)はひとつらね青白(あをじろ)の幌(ほろ)をならべぬ。客を待つこころごころに。
ああ、暮春。
さあれ、また、うちも向へるいと高く暗き崖(がけ)には、窓(まど)もなき牢獄(ひとや)の壁の長き列(つら)、はては閉(とざ)せる灰黒(はひぐろ)の重き裏門(うらもん)。
はたやいま落つる日ひびき、照りあかる窪地(くぼち)のそらのいづこにか、さはひとり、湿(しめ)り吹きゆく幼(をさな)ごころの日のうれひ、そのちやるめらの笛の曲(ふし)。
笛の曲(ふし)…………かくて、はた、病(や)みぬる椿(つばき)、赤く、赤く、狂(くる)へる椿(つばき)。
   四十一年六月
吊橋のにほひ
夏の日の激(はげ)しき光噴(ふ)きいづる銀(ぎん)の濃雲(こぐも)に照りうかび、雲は熔(とろ)けてひたおもて大河筋(おほかはすぢ)に射かへせば、見よ、眩暈(めくるめ)く水の面(おも)、波も真白に声もなき潮のさしひき。
そがうへに懸(かか)る吊橋。煤(すす)けたる黝(ねずみ)の鉄(てつ)の桁構(けたがまへ)、半月形(はんげつけい)の幾円(いくまろ)み絶えつつ続くかげに、見よ、薄(うす)らに青む水の色、あるは煉瓦(れんぐわ)の円柱(まろはしら)映(うつ)ろひ、あかみ、たゆたひぬ。
銀色(ぎんいろ)の光のなかに、そろひゆく櫂(オオル)のなげきしらしらと、或(あるひ)は仄(ほの)の水鳥(みづとり)のそことしもなき音(ね)のうれひ、河岸(かし)の氷室(ひむろ)の壁も、はた、ただに真昼の白蝋(はくらふ)の冷(ひや)みの沈黙(しじま)。
かくてただ悩(なや)む吊橋(つりはし)、なべてみな真白き水(み)の面(も)、はた、光、ただにたゆたふ眩暈(くるめき)の、恐怖(おそれ)の、仄(ほの)の哀愁(かなしみ)の銀(ぎん)の真昼(まひる)に、色重き鉄(てつ)のにほひぞ鬱憂(うついう)に吊られ圧(お)さるる。
鋼鉄(かうてつ)のにほひに噎(むせ)び、絶えずまた直裸(ひたはだか)なる男の子真白(ましろ)に光り、ひとならび、力(ちから)あふるる面(おもて)して柵(さく)の上より躍(をど)り入る、水の飛沫(しぶき)や、白金(はつきん)に濡(ぬ)れてかがやく。
真白(ましろ)なる真夏(まなつ)の真昼(まひる)。汗(あせ)滴(した)るしとどの熱(ねつ)に薄曇(うすくも)り、暈(くら)みて歎(なげ)く吊橋のにほひ目当(めあて)にたぎち来る小蒸汽船(こじようきせん)の灰(はひ)ばめる鈍(にぶ)き唸(うなり)や、日は光り、煙うづまく。
   四十一年八月
硝子切るひと
君は切る、色あかき硝子(がらす)の板(いた)を。落日(いりひ)さす暮春(ぼしゆん)の窓に、いそがしく撰(えら)びいでつつ。
君は切る、金剛(こんがう)の石のわかさに。
茴香酒(アブサン)のごときひとすぢつと引きつ、切りつ、忘れつ。
君は切る、色あかき硝子(がらす)の板を。
君は切る、君は切る。
   四十年十二月
悪の窓 断篇七種
一 狂念
あはれ、あはれ、青白(あをじろ)き日の光西よりのぼり、薄暮(くれがた)の灯のにほひ昼もまた点(とも)りかなしむ。
わが街(まち)よ、わが窓よ、なにしかも焼酎(せうちう)叫(さけ)び、鶴嘴(つるはし)のひとつらね日に光り悶(もだ)えひらめく。
汽車(きしや)ぞ来(く)る、汽車(きしや)ぞ来(く)る、真黒(まくろ)げに夢とどろかし、窓もなき灰色(はひいろ)の貨物輌(くわもつばこ)豹(へう)ぞ積みたる。あはれ、はや、焼酎(せうちう)は醋(す)とかはり、人は轢(し)かれて、盲(めし)ひつつ血に叫ぶ豹(へう)の声遠(とほ)に泡(あわ)立つ。
二 疲れ
あはれ、いま暴(あら)びゆく接吻(くちつけ)よ、肉(ししむら)の曲(きよく)。……
かくてはや青白く疲(つか)れたる獣(けもの)の面(おもて)今日(けふ)もまた我(われ)見据(みす)ゑ、果敢(はか)なげに、いと果敢(はか)なげに、色濁(にご)る窓(まど)硝子(がらす)外面(とのも)より呪(のろ)ひためらふ。
いづこにかうち狂(くる)ふヴィオロンよ、わが唇(くちびる)よ、身をも燬(や)くべき砒素(ひそ)の壁(かべ)夕日さしそふ。
三 薄暮の負傷
血潮したたる。
薄暮(くれがた)の負傷(てきず)なやまし、かげ暗(くら)き溝(みぞ)のにほひに、はた、胸に、床(ゆか)の鉛(なまり)に……
さあれ、夢には列(つら)なめて駱駝(らくだ)ぞ過(す)ぐる。埃及(えじぷと)のカイロの街(まち)の古煉瓦(ふるれんが)壁のひまには砂漠(さばく)なるオアシスうかぶ。その空にしたたる紅(あか)きわが星よ。……
血潮したたる。
四 象のにほひ
日をひと日。日をひと日。
日をひと日、光なし、色も盲(めし)ひてふくだめる、はた、病(や)めるなやましきもの※[「窗/心」]ふたぎ※[「窗/心」]ふたぎ気倦(けだ)るげに唸(うな)りもぞする。
あはれ、わが幽鬱(いううつ)の象(ざう)亜弗利加(あふりか)の鈍(にぶ)きにほひに。
日をひと日。日をひと日。
五 悪のそびら
おどろなす髪の亜麻色(あさいろ)背(そびら)向け、今日(けふ)もうごかず、さあれ、また、絶えずほつほつ息しぼり『死』にぞ吹くめる、血のごとき石鹸(しやぼん)の珠(たま)を。
六 薄暮の印象
うまし接吻(くちつけ)……歓語(さざめごと)……
さあれ、空には眼(め)に見えぬ血潮(ちしほ)したたり、なにものか負傷(てお)ひくるしむ叫(さけび)ごゑ、など痛(いた)む、あな薄暮(くれがた)の曲(きよく)の色、――光の沈黙(しじま)。
うまし接吻(くちつけ)……歓語(さざめごと)……
七 うめき
暮(く)れゆく日、血に濁る床(ゆか)の上にひとりやすらふ。街(まち)しづみ、※[「窗/心」]しづみ、わが心もの音(おと)もなし。
載(の)せきたる板硝子(いたがらす)過(す)ぐるとき車燬(や)きつつ落つる日の照りかへし、そが面(おもて)噎びあかれば室内(むろぬち)の汚穢(けがれ)、はた、古壁に朽ちし鉞(まさかり)一斉(ひととき)に屠(はふ)らるる牛の夢くわとばかり呻(うめ)き悶(もだ)ゆる。
街(まち)の子は戯(たはむ)れに空虚(うつろ)なる乳(ち)の鑵(くわん)たたき、よぼよぼの飴売(あめうり)は、あなしばし、ちやるめらを吹く。
くわとばかり、くわとばかり、黄(き)に光る向(むか)ひの煉瓦(れんぐわ)くわとばかり、あなしばし。――
   悪の※[「窗/心」]畢   四十一年二月

おほらかに、いとおほらかに、大(おほ)きなる鬱金(うこん)の色の花の面(おも)。
日は真昼(まひる)、時は極熱(ごくねつ)、ひたおもて日射(ひざし)にくわつと照りかへる。
時に、われ世(よ)の蜜(みつ)もとめ雄蕋(ゆうずゐ)の林の底をさまよひぬ。
光の斑(ふ)燬(や)けつ、断(ちぎ)れつ、豹(へう)のごと燃(も)えつつ湿(し)める径(みち)の隈(くま)。
風吹かず。仰ふげば空(そら)は烈々(れつれつ)と鬱金(うこん)を篩(ふる)ふ蕋(ずゐ)の花。
さらに、聞く、爛(ただ)れ、饐(す)えばみ、ふつふつと苦痛(くつう)をかもす蜜の息。
楽欲(げうよく)の極みか、甘き寂寞(じやくまく)の大光明(だいくわうみやう)、に喘(あへ)ぐ時。
人界(にんがい)の七谷(ななたに)隔(へだ)て、丁々(とうとう)と白檀(びやくだん)を伐(う)つ斧(をの)の音(おと)。
   四十年三月
華のかげ
時(とき)は夏、血のごと濁(にご)る毒水(どくすゐ)の鰐(わに)住む沼(ぬま)の真昼時(まひるどき)、夢ともわかず、日に嘆(なげ)く無量(むりやう)の広葉(ひろは)かきわけてほのかに青き青蓮(せいれん)の白華(しらはな)咲けり。
ここ過(よ)ぎり街(まち)にゆく者、――婆羅門(ばらもん)の苦行(くぎやう)の沙門(しやもん)、あるはまた生皮(なまかわ)漁(あさ)る旃陀羅(せんだら)が鈍(にぶ)き刃(は)の色、たまたまに火の布(きれ)巻ける奴隷(しもべ)ども石油(せきゆ)の鑵(くわん)を地に投(な)げて鋭(するど)に泣けど、この旱(ひでり)何時(いつ)かは止(や)まむ。これやこれ、饑(うゑ)に堕(お)ちたる天竺(てんぢく)の末期(まつご)の苦患(くげん)。見るからに気候風(きこうふう)吹く空(そら)の果(はて)銅色(あかがねいろ)のうろこ雲湿潤(しめり)に燃(りも)えて恒河(ガンヂス)の鰐(わに)の脊(せ)のごとはらばへど、日は爛(ただ)れ、大地(たいち)はあはれ柚色(ゆずいろ)の熱黄疸(ねつわうだん)の苦痛(くるしみ)に吐息(といき)も得せず。
この恐怖(おそれ)何に類(たぐ)へむ。ひとみぎり地平(ちへい)のはてを大象(たいざう)の群(むれ)御(ぎよ)しながら槍(やり)揮(ふる)ふ土人(どじん)が昼の水かひも終(を)へしか、消ゆる後姿(うしろで)に代(かは)れる列(れつ)はこは如何(いか)に殖民兵(しよくみんへい)の黒奴(ニグロ)らが喘(あへ)ぎ曳き来る真黒(まくろ)なる火薬(くわやく)の車輌(くるま)掲(かか)ぐるは危嶮(きけん)の旗の朱(しゆ)の光絶えず饑(う)ゑたる心臓(しんざう)の呻(うめ)くに似たり。
さはあれど、ここなる華(はな)と、円(まろ)き葉のあはひにうつる色、匂(にほひ)、青みの光、ほのほのと沼(ぬま)の水面(みのも)の毒の香も薄(うす)らに交(まじ)り、昼はなほかすかに顫(ふる)ふ。
   四十年十二月
幽閉
色濁(にご)るぐらすの戸(と)もて封(ふう)じたる、白日(まひるび)の日のさすひと間(ま)、そのなかに蝋(らふ)のあかりのすすりなき。
いましがた、蓋(ふた)閉(とざ)したる風琴(オルガン)の忍(しの)びのうめき。そがうへに瞳(ひとみ)盲(し)ひたる嬰児(みどりご)ぞ戯れあそぶ。あはれ、さは赤裸(あかはだか)なる、盲(めし)ひなる、ひとり笑(ゑ)みつつ、声たてて小さく愛(めぐ)しき生(うまれ)の臍(ほぞ)をまさぐりぬ。
物病(や)ましさのかぎりなる室(むろ)のといきに、をりをりは忍び入るらむ戯(おど)けたる街衢(ちまた)の囃子(はやし)、あはれ、また、嬰児(みどりご)笑ふ。
ことことと、ひそかなる母のおとなひ幾度(いくたび)となく戸を押せど、はては敲(たた)けど、色濁る扉(とびら)はあかず。室(むろ)の内(うち)暑く悒鬱(いぶせ)く、またさらに嬰児(みどりご)笑ふ。
かくて、はた、硝子(がらす)のなかのすすりなき蝋(らふ)のあかりの夜(よ)を待たず尽きなむ時よ。あはれ、また母の愁(うれひ)の恐怖(おそれ)とならむそのみぎり。
あはれ、子はひたに聴き入る、珍(めづ)らなるいとも可笑(をか)しきちやるめらの外(そと)の一節(ひとふし)。
   四十一年六月
鉛の室
いんきは赤し。――さいへ、見よ、室(むろ)の腐蝕(ふしよく)にうちにじみ倦(うん)じつつゆくわがおもひ、暮春(ぼしゆん)の午後(ごご)をそこはかと朱(しゆ)をば引(ひ)けども。
油じむ末黒(すぐろ)の文字(もじ)のいくつらね悲しともなく誦(ず)しゆけど、響(ひび)らぐ声(こゑ)は※[「金+肅」](さ)びてゆく鉛(なまり)の悔(くやみ)、しかすがに、
強(つよ)き薫(くゆり)のなやましさ、鉛(なまり)の室(むろ)はくわとばかり火酒(ウオツカ)のごとき噎(むせ)びして壁の湿潤(しめり)を玻璃(はり)に蒸す光の痛(いた)さ。
力(ちから)なき活字(くわつじ)ひろひの淫(たは)れ歌(うた)、病(や)める機械(きかい)の羽(は)たたきにあるは沁み来(こ)し新(あた)らしき紙の刷(す)られの香(か)も消(き)ゆる。
いんきや尽きむ。――はやもわがこころのそこに聴くはただ饐(す)えに饐(す)えゆく匂(にほひ)のみ、――はた、滓(をり)よどむ壺(つぼ)を見よ。つとこそ一人(ひとり)、
手を棚(たな)へ延(の)すより早く、とくとくと、赤き硝子(がらす)のいんき罎(びん)傾(かた)むけそそぐ一刹那(いつせつな)、壺(つぼ)にあふるる火のゆらぎ。
さと燃(も)えあがる間(ま)こそあれ、飜(かへ)ると見れば手に平(ひら)む吸取紙(すひとりがみ)の骸色(かばねいろ)爛(ただ)れぬ――あなや、血はしと、と卓(しよく)に滴(したた)る。
   四十年九月
真昼
日は真昼(まひる)――野づかさの、寂寥(せきれう)の心(しん)の臓(ざう)にか、ただひとつ声もなく照りかへす硝子(がらす)の破片(くだけ)。そのほとり WHISKY(ウヰスキイ) の匂(にほひ)蒸(む)す銀色(ぎんいろ)の内(うち)、声するは、密(ひそ)かにも露吸ひあぐる、色赤き、色赤き花の吐息(といき)……
   四十一年十二月 
このさんたくるすは三百年まへより大江村の切支丹のうちに忍びかくして守りつたへたるたつときみくるすなり。これは野中に見いでたり。
天草島大江村天主堂秘蔵
天草雅歌
四十年八月、新詩社の諸友とともに遠く天草島に遊ぶ。こはその紀念作なり。
   「四十年十月作」
天艸雅歌
角を吹け
わが佳※[「耒+禺」](とも)よ、いざともに野にいでて歌はまし、水牛(すゐぎう)の角(つの)を吹け。視よ、すでに美果実(みくだもの)あからみて田にはまた足穂(たりほ)垂れ、風のまに
山鳩のこゑきこゆ、角(つの)を吹け。いざさらば馬鈴薯(ばれいしよ)の畑(はた)を越え瓜哇(ジヤワ)びとが園に入り、かの岡に鐘やみて蝋(らふ)の火の消ゆるまで無花果(いちじゆく)の乳(ち)をすすり、ほのぼのと歌はまし、汝(な)が頸(くび)の角(つの)を吹け。わが佳※[「耒+禺」](とも)よ、鐘きこゆ、野に下りて葡萄樹(じゆ)の汁(つゆ)滴(した)る邑(むら)を過ぎ、いざさらば、パアテルの黒き袈裟(けさ)はや朝の看経(つとめ)はて、しづしづと見えがくれ棕櫚(しゆろ)の葉に消ゆるまで、無花果(いちじゆく)の乳(ち)をすすり、ほのぼのと歌はまし、いざともに角(つの)を吹け、わが佳※[「耒+禺」](とも)よ、起き来れ、野にいでて歌はまし、水牛(すゐぎう)の角(つの)を吹け。
ほのかなる蝋の火に
いでや子ら、日は高し、風たちて棕櫚(しゆろ)の葉のうち戦(そよ)ぎ冷(ひ)ゆるまで、ほのかなる蝋(らふ)の火に羽(は)をそろへ鴿(はと)のごと歌はまし、汝(な)が母も。好(よ)き日なり、媼(おうな)たち、さらばまづ祷(いの)らまし賛美歌(さんびか)の十五番(じふごばん)、いざさらば風琴(オルガン)を子らは弾け、あはれ、またわが爺(おぢ)よ、なにすとか、老眼鏡(おいめがね)ここにこそ、座(ざ)はあきぬ、いざともに祷(いの)らまし、ひとびとよ、さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。拝(をろが)めば香炉(かうろ)の火身に燃えて百合のごとわが霊(たま)のうちふるふ。あなかしこ、鴿(はと)の子ら羽(は)をあげて御龕(みづし)なる蝋(らふ)の火をあらためよ。黒船(くろふね)の笛きこゆいざさらばほどもなくパアテルは見えまさむ、さらにまた他(た)の燭(そく)をたてまつれ。あなゆかし、ロレンゾか、鐘鳴らし、まめやかに安息(あんそく)の日を祝(ほ)ぐは、あな楽し、真白(ましろ)なる羽をそろへ鴿(はと)のごと歌はまし、わが子らよ。あはれなほ日は高し、風たちて棕櫚(しゆろ)の葉のうち戦(そよ)ぎ冷(ひ)ゆるまで、ほのかなる蝋(らふ)の火に羽をそろへ鴿(はと)のごと歌はまし、はらからよ。
※[「舟+虜」](ろ)を抜けよ
はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、蝋(らふ)の火もともるらし、※[「舟+虜」](ろ)を抜(ぬ)けよ。もろもろの美果実(みくだもの)籠(こ)に盛りて、汝(な)が鴿(はと)ら畑(はた)に下り、しらしらと帰るらし夕(ゆふ)づつのかげを見よ。われらいま、空色(そらいろ)の帆(ほ)のやみに新(あらた)なる大海(おほうみ)の香炉(かうろ)採(と)り籠(こ)に※[「火+主」](た)きぬ、ひるがへる魚を見よ。さるほどに、跪き、ひとびとは目(ま)見(み)青き上人(しやうにん)と夜に祷(いの)り、捧げます御(み)くるすの香(か)にや酔ふ、うらうらと咽ぶらし、歌をきけ。われらまた祖先(みおや)らが血によりて洗礼(そそ)がれし仮名文(かなぶみ)の御経(みきやう)にぞ主(しゆう)よ永久(とは)に恵みあれ、われらも、と鴿(はと)率(ゐ)つつ祷らまし、帆をしぼれ。はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、蝋(らふ)の火もくゆるらし、※[「舟+虜」](ろ)を抜けよ、
汝にささぐ
女子(をみなご)よ、汝(な)に捧(ささ)ぐ、ただひとつ。然(しか)はあれ、汝(な)も知らむ。このさんた・くるすは、かなた檳榔樹(びろうじゆ)の実(み)の落つる国、夕日(ゆふひ)さす白琺瑯(はくはふらう)の石の階(はし)そのそこの心の心、――えめらるど、あるは紅玉(こうぎよく)、褐(くり)の埴(はに)八千層(やちさか)敷ける真底(まそこ)より、汝(な)が愛を讃(たた)へむがため、また、清き接吻(くちつけ)のため、水晶の柄(え)をすげし白銀(しろかね)の鍬をもて、七つほど先(さき)の世(よ)ゆ世を継(つ)ぎてひたぶるに、われとわが採(と)りいでし型(かた)、その型(かた)を汝(な)に捧(ささ)ぐ、女子(をみなご)よ。
ただ秘めよ
曰(い)ひけるは、あな、わが少女(をとめ)、天艸(あまくさ)の蜜(みつ)の少女(をとめ)よ。汝(な)が髪は烏(からす)のごとく、汝(な)が唇(くち)は木(こ)の実(み)の紅(あけ)に没薬(もつやく)の汁(しゆ)滴(したた)らす。わが鴿(はと)よ、わが友よ、いざともに擁(いだ)かまし。薫(くゆり)濃(こ)き葡萄の酒は玻璃(ぎやまん)の壺(つぼ)に盛(も)るべく、もたらしし麝香(じやかう)の臍(ほぞ)は汝(な)が肌の百合に染めてむ。よし、さあれ、汝(な)が父に、よし、さあれ、汝(な)が母に、ただ秘(ひ)めよ、ただ守れ、斎(いつ)き死ぬまで、虐(しひたげ)の罪の鞭(しもと)はさもあらばあれ、ああただ秘(ひ)めよ、御(み)くるすの愛(あい)の徴(しるし)を。
さならずば
わが家(いへ)のわが家(いへ)の可愛(かあ)ゆき鴿(はと)をその雛(ひな)を汝(なれ)せちに恋ふとしならば、いでや子よ、逃(のが)れよ、早も邪宗門(じやしゆうもん)外道(げだう)の教(をしへ)かくてまた遠き祖(おや)より伝(つた)ヘこし秘密(ひみつ)の聖磔(くるす)とく柱より取りいでよ。もし、さならずばもろもろの麝香(じやかう)のふくろ、桂枝(けいし)、はた、没薬(もつやく)、蘆薈(ろくわい)および乳(ちち)、島の無花果(いちじゆく)、如何に世のにほひを積むも、――さならずば、もしさならずば――汝(なれ)いかに陳(ちん)じ泣くとも、あるは、また護摩(ごま)※[「火+主」](た)き修し、伴天連(ばてれん)の救(すくひ)よぶとも、ああ遂に詮(せん)業(すべ)なけむ。いざさらば接吻(くちつけ)の妙(たへ)なる蜜(みつ)に、女子(をみなご)の葡萄の息(いき)に、いで『ころべ』いざ歌へ、わかうどよ。
嗅煙艸
『あはれ、あはれ、深江(ふかえ)の媼(おば)よ。髪も頬(ほ)も煙艸色(たばこいろ)なる、棕櫚(しゆろ)の根に蹲(うづく)む媼(おば)よ。汝(な)が持てる象牙(ざうげ)の壺(つぼ)はまた薫(くゆ)る褐(くり)なる粉(こな)は何ぞ。また、せちに鼻つけ涙垂れ、あかき眼(め)擦(す)るは。』このときに渡(わたり)の媼(おうな)呻(によ)ぶらく。『わが葡萄牙(ほるとがる)、こを嗅(か)ぎてわかきは思ふ。』『さらば、汝(な)は。』『責(せ)めそ、さな、さな、養生(やしなひ)を骸(から)はただ欲(ほ)れ。さればこそ、この嗅煙艸(かぎたばこ)。』

わかうどなゆめ近よりそ、かのゆくは邪宗(じやしゆう)の鵠(くぐひ)、日のうちに七度(ななたび)八度(やたび)潮(うしほ)あび化粧(けはひ)すといふ伴天連(ばてれん)の秘(ひそ)の少女(をとめ)ぞ。地になびく髪には蘆薈(ろくわい)、嘴(はし)にまたあかき実(み)を塗(ぬ)る淫(みだ)らなる鳥にしあれば、絶えず、その真白羽(ましろは)ひろげ乳香(にふかう)の水したたらす。されば、子なゆめ近よりそ。視よ、持つは炎(ほのほ)か、華(はな)か、さならずば実(み)の無花果(いちじゆく)か、兎(と)にもあれ、かれこそ邪法(じやはふ)。わかうどなゆめ近よりそ。
日ごとに
日ごとにわかき姿(すがた)して日ごとに歌ふわが族(ぞう)よ、日ごとに紅(あか)き実(み)の乳房(ちぶさ)日ごとにすてて漁(あさ)りゆく。
黄金向日葵
あはれ、あはれ、黄金(こがね)向日葵(ひぐるま)汝(みまし)また太陽(ひ)にも倦(あ)きしか、南国(なんごく)の空の真昼(まひる)をかなしげに疲(つか)れて見ゆる。
一※[「火+主」]
香炉(かうろ)いま一※[「火+主」](いつす)のかをり。あはれ、火はこころのそこに。
さあれ、その一※[「火+主」](いつす)のけむり、かの空(そら)の青き龕(みづし)に。 
■青き花
南紀旅行の紀念として且はわが羅曼底時代のあえかなる思出のために、この幼き一章を過ぎし日の友にささぐ。
   「四十年二、三両月中作」
青き花
そは暗(くら)きみどりの空にむかし見し幻(まぼろし)なりき。青き花かくてたづねて、日も知らず、また、夜(よ)も知らず、国あまた巡(めぐ)りありきしそのかみのわれや、わかうど。
そののちも人とうまれて、微妙(いみじ)くも奇(く)しき幻(まぼろし)ゆめ、うつつ、香(か)こそ忘れね、
かの青き花をたづねて、ああ、またもわれはあえかに人(ひと)の世(よ)の旅路(たびぢ)に迷ふ。

かかる野に何時(いつ)かありけむ。仏手柑(ぶしゆかん)の青む南国(なんごく)薫(かを)る日の光なよらに身をめぐりほめく物の香(か)、鳥うたひ、天(そら)もゆめみぬ。
何時(いつ)の世か君と識(し)りけむ。黄金(こがね)なす髪もたわたわ、みかへるか、あはれ、つかのまちらと見ぬ、わかき瞳(ひとみ)ににほひぬるかの青き花。
桑名
夜(よ)となりぬ、神世(かみよ)に通ふやすらひに早や門(かど)鎖(とざ)す古伊勢(ふるいせ)の桑名(くわな)の街(まち)は路(みち)も狭(せ)に高き屋(や)づくり音(おと)もなく、陰森(いんしん)として物の隈(くま)ひろごるにほひ。おほらかに零落(れいらく)の戸を瞰下(みおろ)して愁ふるがごと月光(げつくわう)は青に照せり。参宮(さんぐう)の衆(しゆう)にかあらむ、旅(たび)びとの二人(ふたり)三人(みたり)はさきのほどひそかに過(す)ぎぬ。貸(かし)旅籠(はたご)札(ふだ)のみ白き壁つづきほとほと遠く、物ごゑの夜風(よかぜ)に消えて、今ははた数(かず)添(そ)はりゆく星くづの天(そら)なる調(しらべ)やはらかに、地は闌(ふ)けまさる。
時になほ街(まち)はづれなる老舗(しにせ)の戸少し明(あか)りて火は路(みち)へひとすぢ射(さ)しぬ。行燈(あんどう)のかげには清き女(め)の童(わらは)物縫(ものぬ)ふけはひ、そがなかにたわやの一人(ひとり)髪あげて戸外(とのも)すかしぬ。――事もなき夜(よ)のしづけさに。

――汽車のなかにて――
わが友よ、はや眼(め)をさませ。玻璃(はり)の戸にのこる灯(ひ)ゆらぎ、夜(よ)はわかきうれひに明けぬ。順礼はつとにめざめてあえかなる友をかおもふ。清(すず)しげの髪のそよぎに笈(おひづる)のいろもほのぼの。
わが友よ、はや眼(め)をさませ。かなた、いま白(しら)む野のそら、薔薇(さうび)にはほのかに薄(うす)く菫よりやや濃(こ)きあはひ、かのわかき瞳(ひとみ)さながらあけぼのの夢より醒(さ)めてわだつみはかすかに顫(ふる)ふ。
紅玉
かかるとき、海ゆく船にまどはしの人魚(にんぎよ)か蹤(つ)ける。美くしき術(じゆつ)の夕(ゆふべ)に、まどろみの香油(かうゆ)したたり、こころまたけぶるともなく、幻(まぼろし)の黒髪きたり、夜(よ)のごともわが眼(め)蔽(おほ)へり。そことなくおほくのひとのあえかなるかたらひおぼえ、われはただひしと凝視(みつ)めぬ。夢ふかき黒髪の奥(おく)朱(しゆ)に喘ぐ紅玉(こうぎよく)ひとつ、これや、わが胸より落つるわかき血の燃(もゆ)る滴(したたり)。
海辺の墓
われは見き、いつとは知らね、薄(うす)あかるにほひのなかに夢ならずわかれし一人(ひとり)、ものみなは涙のいろに消えぬとも。ああ、えや忘る。かのわかき黒髪のなか、星のごと濡れてにほひし天色(そらいろ)の勾玉(まがたま)七つ。
われは見ぬ、漂浪(さすら)ひながら、見もなれぬ海辺の墓にうつつにも眠れる一人(ひとり)そことなき髪のにほひのほのめきも、ああ、えや忘る。いま寒き夕闇(ゆふやみ)のそこ、星のごと濡れてにほへる天色(そらいろ)の露草(つゆくさ)七つ。
渚の薔薇
紀(き)の南(みなみ)、白良(しらら)の渚(なぎさ)、荒き灘(なだ)高く砕(くだ)けて天(そら)暗(くら)う轟(とどろ)くほとり、ひとならび夕陽(ゆふひ)をうけて面(おも)ほてり、むらがり咲ける色紅(あか)き薔薇(さうび)の族(ぞう)よ。
瞬(またた)く間(ま)、間近(まぢか)に寄せて崩(なだ)れうつ浪の穂を見よ。
今しさと滴(したた)るばかり激瀾(おほなみ)の飛沫(しぶき)に濡れて、弥(いや)さらに匂ひ閃(ひら)めく火のごとき少女(をとめ)のむれよ。
寄せ返し、遠く消えゆく塩※[「さんずい+區」](しほなわ)暗き音(ね)を聴け。
ああ薔薇(さうび)、汝(なれ)にむかへばわかき日のほこりぞ躍る。薔薇(さうび)、薔微(さうび)、あてなる薔薇(さうび)。

海の霧にほやかなるに灯(ひ)も見ゆる夕暮のほど、ほのかなる旅籠(はたご)の窓に在(あ)るとなく暮(く)れもなやめば、やはらかき私語(ささやき)まじり咽(むせ)びきぬ、そこはかとなく、火に焼くる薔薇(さうび)のにほひ。
ああ、薔薇(さうび)、暮れゆく今日(けふ)をそぞろなり、わかき喘(あへぎ)に図(はか)らずも思ひぞいづる。そは熱(あつ)き夏の渚辺(なぎさべ)、濡髪(ぬれがみ)のなまめかしさに、女(をみな)つと寝(ね)がへりながら、みだらなる手して結びし色紅(あか)き韈(くつした)の紐(ひも)。

蜜柑船(みかんぶね)凪(なぎ)にうかびて壁白き浜のかなたはあたたかに物売る声す。波もなき港の真昼(まひる)、白銀(しろがね)の挿櫛(さしぐし)撓(たは)みいま遠く二つら三つら水の上(へ)をすべると見つれ。波もなき港の真昼、また近く、二つら三つら飛(とび)の魚すべりて安(やす)し。

あたたかに海は笑(わら)ひぬ。花あかき夕日の窓に、手をのべて聴くとしもなく薔薇(さうび)摘(つ)み、ほのかに愁(うれ)ふ。いま聴くは市(いち)の遠音(とほね)か、波の音(ね)か、過ぎし昨日(きのふ)か、はた、淡(あは)き今日(けふ)のうれひか。
あたたかに海は笑ひぬ。ふと思ふ、かかる夕日(ゆふひ)に白銀(しろがね)の絹衣(すずし)ゆるがせ、いまあてに花摘(つ)みながらかく愁(うれ)ひ、かくや聴(き)くらむ、紅(くれなゐ)の南極星下(なんきよくせいか)われを思ふ人のひとりも。
羅曼底の瞳
この少女はわが稚きロマンチツクの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。
美(うつ)くしきソフィヤの君(きみ)。悲(かな)しくも恋(こひ)しくも見え給ふわがわかきソフィヤの君(きみ)。なになれば日もすがら今日(けふ)はかく瞑目(めつぶ)り給ふ。美(うつ)くしきソフィヤの君(きみ)、われ泣けば、朝な夕(ゆふ)なに、悲(かな)しくも静(しづ)かにも見ひらき給ふ青き華(はな)――少女(をとめ)の瞳(ひとみ)。ソフィヤの君(きみ)。 
■古酒
こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神経には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウヰスキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂強き味覚の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の※[「窗/心」]より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の※[「酉+珍のつくり」]※[「酉+蛇のつくり」]の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる様々の夢と匂とに執するのみ。
恋慕ながし
春ゆく市(いち)のゆふぐれ、角(かく)なる地下室(セラ)の玻璃(はり)透きうつらふ色とにほひと
見惚(みほ)れぬ。――潤(う)るむ笛の音(ね)。
しばしは雲の縹(はなだ)と、灯(ひ)うつる路(みち)の濡色(ぬれいろ)、また行く素足(すあし)しらしら、――あかりぬ、笛の音色(ねいろ)も。
古き醋甕(すがめ)と街衢(ちまた)の物焼く薫(くゆり)いつしか薄らひ饐(す)ゆれ。――澄みゆく紅(あか)き音色(ねいろ)の揺曳(ゆらびき)
このとき、玻璃(はり)も真黒(まくろ)に四輪車(しりんしや)軋(きし)るはためき、獣(けもの)の温(ぬる)き肌(はだ)の香(か)過(よ)ぎりぬ。――濁(にご)る夜(よ)の色。
ああ眼(め)にまどふ音色(ねいろ)のはやも見わかぬかなしさ。れんほ、れれつれ、消えぬる恋慕(れんぼ)ながしの一曲(ひとふし)。
   四十年二月
煙草
黄(き)のほてり、夢のすががき、さはあまきうれひの華(はな)よ。ほのに汝(な)を嗅(か)ぎゆくここち、QURACIO(キユラソオ) の酒もおよばじ。
いつはあれ、ものうき胸に痛(いたみ)知るささやきながら、わかき火のにほひにむせてはばたきぬ、快楽(けらく)のうたは。
そのうたを誰かは解(と)かむ。あえかなる罪のまぼろし、――濃(こ)き華の褐(くり)に沁みゆく愛欲(あいよく)の千々(ちぢ)のうれひを。
向日葵(ひぐるま)の日に蒸すにほひ、かはたれのかなしき怨言(かごと)ゆるやかにくゆりぬ、いまも絶間(たえま)なき火のささやきに。
かくてわがこころひねもす傷(いた)むともなくてくゆりぬ、あな、あはれ、汝(な)が香(か)の小鳥そらいろのもやのつばさに。
   四十年九月
舗石
夏の夜(よ)あけのすずしさ、氷載せゆく車のいづちともなき軋(きしり)に、潤(うる)みて消ゆる瓦斯(がす)の火。
海へか、路次(ろじ)ゆみだれて大族(おほうから)なす鵞(が)の鳥鳴きつれ、霧のまがひにわたりぬ――しらむ舗石(しきいし)。
人みえそめぬ。煙草(たばこ)のただよひ湿(しめ)るたまゆら、辻なる※[「窗/心」]の絵硝子(ゑがらす)あがりぬ――ひびく舗石(しきいし)。
見よ、女(め)が髪のたわめき濡れこそかかれ、このときつと寄(よ)り、男、みだらの接吻(くちつけ)――にほふ舗石(しきいし)。
ほど経て※[「窗/心」]を閑(さ)す音(おと)。枝垂柳(しだれやなぎ)のしげみを、赤き港の自働車(じどうしや)けたたましくも過(す)ぎぬる。
ややあり、ほのに緋(ひ)の帯、水色うつり過(す)ぐれば、縺(もつ)れぬ、はやも、からころ、かろき木履(きぐつ)のすががき。
   四十年九月
驟雨前
長月(ながつき)の鎮守(ちんじゆ)の祭(まつり)からうじてどよもしながら、雨(あめ)もよひ、夜(よ)もふけゆけば、蒸しなやむ濃(こ)き雲のあしをりをりに赤(あか)くただれて、月あかり、稲妻(いなづま)すなる。
このあたり、だらだらの坂(さか)、赤楊(はん)高き小学校の柵(さく)尽きて、下(した)は黍畑(きびばた)こほろぎぞ闇に鳴くなる。いづこぞや女声(をみなごゑ)して重たげに雨戸(あまど)繰(く)る音(おと)。
わかれ路(みち)、辻(つじ)の濃霧(こぎり)は馬やどののこるあかりに幻燈(げんとう)のぼかしのごとも蒸し青(あを)み、破(や)れし土馬車(つちばしや)ふたつみつ泥(どろ)にまみれてひそやかに影を落(おと)しぬ。泥濘(ぬかるみ)の物の汗(あせ)ばみ生(なま)ぬるく、重き空気(くうき)に新しき木犀(もくせい)まじり、馬槽(うまぶね)の臭気(くさみ)ふけつつ、懶(もの)うげのさやぎはたはた暑(あつ)き夜(よ)のなやみを刻(きざ)む。
足音(あしおと)す、生血(なまち)の滴(した)りしとしととまへを人かげ、おちうどか、ほたや、六部(ろくぶ)か、背(せ)に高き龕(みづし)をになひ、青き火の消えゆくごとく呻(うめ)きつつ闇にまぎれぬ。
生騒(なまさや)ぎ野をひとわたり。とある枝(え)に蝉は寝(ね)おびれ、ぢと嘆(なげ)き、鳴きも落つれば洞(ほら)円(まろ)き橋台(はしだい)のをち、はつかにも断(き)れし雲間(くもま)に月黄(き)ばみ、病める笑(わら)ひす。
夜(よ)の汽車の重きとどろき。凄まじき驟雨(しゆうう)のまへを、黒烟(くろけぶり)深(ふか)き峡(はざま)は一面(いちめん)に血潮ながれて、いま赤く人轢(し)くけしき。稲妻す。――嗚呼夜(よ)は一時(いちじ)。
   三十九年九月
解纜
解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――ここ肥前(ひぜん)長崎港(ながさきかう)のただなかは長雨(ながあめ)ぞらの幽闇(いうあん)に海(うな)づら鈍(にぶ)み、悶々(もんもん)と檣(ほばしら)けぶるたたずまひ、鎖(くさり)のむせび、帆のうなり、伝馬(てんま)のさけび、あるはまた阿蘭船(おらんせん)なる黒奴(くろんぼ)が気(き)も狂(くる)ほしき諸ごゑに、硝子(がらす)切る音(おと)、うち湿(しめ)り――嗚呼(ああ)午後(ごご)七時――ひとしきり、落居(おちゐ)ぬ騒擾(さやぎ)。
解纜(かいらん)す、大船あまた。あかあかと日暮(にちぼ)の街(まち)に吐血(とけつ)して落日(らくじつ)喘(あへ)ぐ寂寥(せきれう)に鐘鳴りわたり、陰々(いんいん)と、灰色(はいいろ)重き曇日(くもりび)を死を告(つ)げ知らすせはしさに、響は絶(た)えず天主(てんしゆ)より。――闇澹(あんたん)として二列(ふたならび)、海波(かいは)の鳴咽(おえつ)、赤(あか)の浮標(うき)、なかに黄(き)ばめる帆は瘧(ぎやく)に――嗚呼(ああ)午後七時――わなわなとはためく恐怖(おそれ)。
解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――黄髪(わうはつ)の伴天連(ばてれん)信徒(しんと)蹌踉(さうらう)と闇穴道(あんけつだう)を磔(はりき)負ひ駆(か)られゆくごと生(なま)ぬるき悔(くやみ)の唸(うなり)順々(つぎつぎ)に、流るる血しほ黒煙(くろけぶ)り動揺(どうえう)しつつ、印度、はた、南蛮(なんばん)、羅馬、目的(めど)はあれ、ただ生涯(しやうがい)の船がかり、いづれは黄泉(よみ)へ消えゆくや、――嗚呼(ああ)午後七時――鬱憂(うついう)の心の海に。
   三十九年七月
日ざかり
嗚呼(ああ)、今(いま)し午砲(ごはう)のひびきおほどかにとどろきわたり、遠近(をちこち)の汽笛(きてき)しばらく饑(う)うるごと呻(うめ)きをはれば、柳原(やなぎはら)熱(あつ)き街衢(ちまた)はまた、もとの沈黙(しじま)にかへる。
河岸(かし)なみは赤き煉瓦家(れんぐわや)。牢獄(ひとや)めく工場(こうば)の奥ゆ印刷(いんさつ)の響(ひびき)たまたま薄鉄葉(ブリキ)切る鋏(はさみ)の音(おと)と、柩(ひつぎ)うつ槌と、鑢(やすり)と、懶(もの)うげにまじりきこえぬ。
片側(かたかは)の古衣屋(ふるぎや)つづき、衣紋掛(えもんかけ)重き恐怖(おそれ)に肺(はひ)やみの咳(しはぶき)洩(も)れて、饐(す)えてゆく物のいきれに、陰湿(いんしつ)のにほひつめたく照り白(しら)み、人は黙坐(もくざ)す。
ゆきかへり、やをら、電気車(でんきしや)鉛(なまり)だつ体(たい)をとどめてぐどぐどとかたみに語り、鬱憂(うついう)の唸(うなり)重げにまた軋(きし)る、熱(あつ)く垂れたるひた赤(あか)き満員(まんゐん)の札(ふだ)。
恐ろしき沈黙(しじま)ふたたび酷熱(こくねつ)の日ざしにただれ、ぺんき塗(ぬり)褪(さ)めし看板(かんばん)毒(どく)滴(た)らし、河岸(かし)のあちこちちぢれ毛(げ)の痩犬(やせいぬ)見えて苦(くる)しげに肉(にく)を求食(あさ)りぬ。油(あぶら)うく線路(レエル)の正面(まとも)、鉄(てつ)重(おも)き橋の構(かまへ)に雲ひとつまろがりいでてくらくらとかがやく真昼(まひる)、汗(あせ)ながし、車曳(ひ)きつつ匍匐(は)ふがごと撒水夫(みづまき)きたる。
   三十九年九月
軟風
ゆるびぬ、潤(うる)む罌粟(けし)の火はわかき瞳の濡色(ぬれいろ)に。熟視(みつ)めよ、ゆるる麦の穂のたゆらの色のつぶやきを。
たわやになびく黒髪の君の水脈(みを)こそ身に翻(あふ)れ。――うかびぬ、消えぬ、火の雫(しづく)匂の海のたゆたひに。
ふとしも歎(なげ)く蝶のむれころりんころと……頬(ほ)のほめき、触(ふ)るる吐息(といき)に縺(もつ)るれば、色も、にほひも、つぶやきも、
同じ音色(ねいろ)の揺曳(ゆらびき)に倦(うん)じぬ、かくて君が目も。――あはれ、皐月(さつき)の軟風(なよかぜ)にゆられてゆめむわがおもひ。
   四十年六月
大寺
大寺(おほてら)の庫裏(くり)のうしろは、枇杷あまた黄金(こがね)たわわに、六月の天(そら)いろ洩るる路次(ろじ)の隅、竿(さを)かけわたし皮交り、襁褓(むつき)を乾(ほ)せり。そのかげに穢(むさ)き姿(なり)して面子(めんこ)うち、子らはたはぶれ、裏店(うらだな)の洗流(ながし)の日かげ、顔青き野師(やし)の女房ら首いだし、煙草吸ひつつ、鈍(にぶ)き目に甍(いらか)あふぎて、はてもなう罵りかはす。凋(しを)れたるもののにほひは溝板(どぶいた)の臭気(くさみ)まじりに蒸し暑(あつ)く、いづこともなく。赤黒き肉屋の旗は屋根越に垂れて動かず。はや十時、街(まち)の沈黙(しじま)をしめやかに沈(ぢん)の香しづみ、しらじらと日は高まりぬ。
   三十九年八月
ひらめき
十月(じふぐわつ)のとある夜(よ)の空。北国(ほつこく)の郊野(かうや)の林檎実(み)は赤く梢(こずゑ)にのこれ、はや、里の果物採(くだものとり)は影絶えぬ、遠く灯(ひ)つけてただ軋(きし)る耕作(かうさく)ぐるま。鬱憂(うついう)に海は鈍(にば)みて闇澹(あんたん)と氷雨(ひさめ)やすらし。灰(はひ)濁(だ)める暮雲(ぼうん)のかなた血紅(けつこう)の火花(ひばな)ひらめき燦(さん)として音(おと)なく消えぬ。沈痛(ちんつう)の呻吟(うめき)この時、闇重き夜色(やしよく)のなかに蓬髪(ほうはつ)の男蹌踉(よろめ)き落涙(らくるゐ)す、蒼白(あをじろ)き頬(ほ)に。
   三十九年八月
立秋
憂愁(いうしう)のこれや野の国、柑子(かうじ)だつ灰色のすゑ夕汽車(ゆふぎしや)の遠音(とほね)もしづみ、信号柱(シグナル)のちさき燈(ともしび)淡々(あはあは)とみどりにうるむ。
ひとしきり、小野(をの)に細雲(ほそぐも)。南瓜畑(かぼちやばた)北へ練(ね)りゆく旗赤き異形(ゐぎやう)の列(れつ)は戯(おど)けたる広告(ひろめ)の囃子(はやし)賑(にぎ)やかに遠くまぎれぬ。
うらがなし、落日(いりひ)の黄金(こがね)片岡(かたおか)の槐(ゑんじゆ)にあかり、鳴きしきる蜩(かなかな)、あはれ誰(たれ)葬(はふ)るゆふべなるらむ。
   三十九年八月
玻璃罎
うすぐらき窖(あなぐら)のなか、瓢状(ひさごなり)、なにか湛(たた)へて、十(とを)あまり円(まろ)うならべる夢(ゆめ)いろの薄(うす)ら玻璃罎(はりびん)。
静(しづ)けさや、靄(もや)の古(ふる)びを黄蝋(わうらふ)は燻(くゆ)りまどかに照りあかる。吐息(といき)そこ、ここ、哀楽(あいらく)のつめたきにほひ。
今(いま)しこそ、ゆめの歓楽(くわんらく)降(ふ)りそそげ。生命(いのち)の脈(なみ)はゆらぎ、かつ、壁にちらほら玻璃(はり)透(す)きぬ、赤き火の色。
   三十九年八月
微笑
朧月(ろうげつ)か、眩(まば)ゆきばかり髪むすび紅(あか)き帯してあらはれぬ、春夜(しゆんや)の納屋(なや)にいそいそと、あはれ、女子(をみなご)。
あかあかと据(す)ゑし蝋燭(らふそく)薔薇(さうび)潮(さ)す片頬(かたほ)にほてり、すずろけば夜霧(よぎり)火のごと、いづこにか林檎(りんご)のあへぎ。
嗚呼(ああ)愉楽(ゆらく)、朱塗(しゆぬり)の樽(たる)の差口(だぶす)抜き、酒つぐわかさ、玻璃器(ぎやまん)に古酒(こしゆ)の薫香(かをりか)なみなみと……遠く人ごゑ。
やや暫時(しばし)、瞳かがやき、髪かしげ、微笑(ほほゑ)みながらなに紅(あか)む、わかき女子(をみなご)。母屋(もや)にまた、おこる歓語(さざめき)……
   三十九年八月
砂道
日の真昼(まひる)、ひとり、懶(ものう)く真白なる砂道(さだう)を歩む。市(いち)遠く赤き旗見ゆ、風もなし。荒蕪地(かうぶち)つづき、廃(すた)れ立つ礎(いしずゑ)燃(も)えて烈々(れつれつ)と煉瓦(れんぐわ)の火気(くわき)に爛(ただ)れたる果実(くわじつ)のにほひそことなく漂(ただよ)湿(しめ)る。
数百歩、娑婆(しやば)に音なし。
ふと、空に苦熱(くねつ)のうなり、見あぐれば、名しらぬ大樹(たいじゆ)千万(ちよろづ)の羽音(はおと)に糜(しら)け、鈴状(すずなり)に熟(う)るる火の粒潤(しめ)やかに甘き乳(ち)しぶく。楽欲(げうよく)の渇(かわき)たちまちかのわかき接吻(くちつけ)思ひ、目ぞ暈(くら)む。
真夏の原に
真白(ましろ)なる砂道(さだう)とぎれてまた続く恐怖(おそれ)の日なか、寂(せき)として過(よ)ぎる人なし。
   三十九年八月
凋落
寂光土(じやくくわうど)、はたや、墳塋(おくつき)、夕暮(ゆふぐれ)の古き牧場(まきば)はなごやかに光黄ばみてうつらちる楡(にれ)の落葉(らくえふ)、そこ、かしこ。――暮秋(ぼしう)の大日(おほひ)あかあかと海に沈めば、凋落(てうらく)の市(いち)に鐘鳴り、絡繹(らくえき)と寺門(じもん)をいづる老若(らうにやく)の力(ちから)なき顔、あるはみな青き旗垂れ灰(はひ)濁(だ)める水路(すゐろ)の靄に寂寞(じやくまく)と繋(かか)る猪木舟(ちよきぶね)、店々の装飾(かざり)まばらに、甃石(いしだたみ)ちらほら軋る空(から)ぐるま、寒き石橋。――鈍(にぶ)き眼(め)に頭(かしら)もたげて黄牛(あめうし)よ、汝(な)はなにおもふ。
   三十九年八月
晩秋
神無月、下浣(すゑ)の七日(しちにち)、病(や)ましげに落日(いりひ)黄ばみて晩秋(ばんしう)の乾風(からかぜ)光り、百舌(もず)啼かず、木の葉沈まず、空高き柿の上枝(ほづえ)を実はひとつ赤く落ちたり。刹那(せつな)、野を北へ人霊(ひとだま)、鉦(かね)うちぬ、遠く死の歌。君死にき、かかる夕(ゆふべ)に。
   三十九年五月
あかき木の実
暗(くら)きこころのあさあけに、あかき木(こ)の実(み)ぞほの見ゆる。しかはあれども、昼はまた君といふ日にわすれしか。暗(くら)きこころのゆふぐれに、あかき木(こ)の実(み)ぞほの見ゆる。
   四十年十月
かへりみ
みかへりぬ、ふたたび、みたび、暮れてゆく幼(をさな)の歩(あゆみ)なに惜(をし)みさしもたゆたふ。あはれ、また、野辺(のべ)の番紅花(さふらん)はやあかきにほひに満つを。
   四十年十二月
なわすれぐさ
面※[「巾+白」](ぎぬ)のにほひに洩(も)れて、その眸(ひとみ)すすり泣くとも、――空(そら)いろに透(す)きて、葉かげに今日(けふ)も咲く、なわすれの花。
   四十一年五月
わかき日の夢
水(みづ)透(す)ける玻璃(はり)のうつはに、果(み)のひとつみづけるごとく、わが夢は燃(も)えてひそみぬ。ひややかに、きよく、かなしく。
   四十一年五月
よひやみ
うらわかきうたびとのきみ、よひやみのうれひきみにもほの沁むや、青みやつれて木のもとに、みればをみなも。な怨みそ。われはもくせい、ほのかなる花のさだめに、目見(まみ)しらみ、うすらなやめばあまき香(か)もつゆにしめりぬ。さあれ、きみ、こひのうれひはよひのくち、それもひととき、かなしみてあらばありなむ、われもまた。――月はのぼれり。
   三十九年四月
一瞥
大月(たいげつ)は赤くのぼれり。あら、青む最愛(さいあい)びとよ。へだてなき恋の怨言(かごと)は見るが間(ま)に朽ちてくだけぬ。こは人か、何らの色(いろ)ぞ、凋落(てうらく)の鵠(くぐひ)か、鷭(ばん)か。後(しりへ)より、冷笑(れいせう)す、あはれ、一瞥(いちべつ)。我(われ)、こころ君を殺(ころ)しき。
   三十九年七月
旅情
――さすらへるミラノひとのうた。
零落(れいらく)の宿泊(やどり)はやすし。海ちかき下層(した)の小部屋(こべや)は、ものとなき鹹(しほ)の汚(よ)ごれに、煤(すす)けつつ匂(にほ)ふ壁紙(かべがみ)。広重(ひろしげ)の名をも思(おもひ)出づ。
ほどちかき庖厨(くリや)のほてり、絵草子(ゑざうし)の匂(にほひ)にまじり物(もの)あぶる騒(さや)ぎこもごも、焼酎(せうちう)のするどき吐息(といき)針(はり)のごと肌(はだ)刺(さ)す夕(ゆふべ)。
ながむれば葉柳(はやなぎ)つづき、色硝子(いろがらす)濡(ぬ)るる巷(こうぢ)を、横浜(はま)の子が智慧(ちゑ)のはやさよ、支那料理(しなれうり)、よひの灯影(ほかげ)にみだらうたあはれに歌(うた)ふ。
ややありて月はのぼりぬ。清らなる出窓(でまど)のしたをからころと軋(きし)む櫓(ろ)の音(おと)。鉄格子(てつかうし)ひしとすがりて黄金髪(こがねがみ)わかきをおもふ。
数(かず)おほき罪に古(ふ)りぬる初恋(はつこひ)のうらはかなさはかかる夜(よ)の黒(くろ)き波間(なみま)を舟(ふな)かせぎ、わたりさすらふわかうどが歌(うた)にこそきけ。
色(いろ)ふかき、ミラノのそらは日本(ひのもと)のそれと似(に)たれど、ここにして摘(つ)むによしなき素馨(ジエルソミノ)、海のあなたに接吻(くちつけ)のかなしきもあり。
国を去り、昨(きそ)にわかれて逃(のが)れ来し身にはあれども、なほ遠く君をしぬべば、ほうほう……と笛はうるみて、いづらへか、黒船(くろふね)きゆる。
廊下(らうか)ゆく重き足音(あしおと)。みかへれば暗(くら)きひと間(ま)に残(のこ)る火は血のごと赤く、腐(くさ)れたる林檎(りんご)のにほひ、そことなく涙をさそふ。
   三十九年九月
柑子
蕭(しめ)やかにこの日も暮(く)れぬ、北国(きたぐに)の古き旅籠屋(はたごや)。物(もの)焙(あ)ぶる炉(ゐろり)のほとり頸(うなじ)垂れ愁(うれ)ひしづめば漂浪(さすらひ)の暗(くら)き山川(やまかは)そこはかと。――さあれ、密(ひそ)かに物ゆかし、わかき匂(にほひ)のいづこにか濡れてすずろぐ。
女(め)あるじは柴(しば)折り燻(くす)べ、自在鍵(じざいかぎ)低(ひく)くすべらし、鍋かけぬ。赤ら顔して旅(たび)語る商人(あきうど)ふたり。傍(かたへ)より、笑(ゑ)みて静かに籠(かたみ)なる木の実撰(え)りつつ、家(いへ)の子は卓(しよく)にならべぬ。そのなかに柑子(かうじ)の匂(にほひ)。
ああ、柑子(かうじ)、黄金(こがね)の熱味(ほてり)嗅(か)ぎつつも思ひぞいづる。晩秋(おそあき)の空ゆく黄雲(きぐも)、畑(はた)のいろ、見る眼(め)のどかに夕凪(ゆふなぎ)の沖に帆あぐる蜜柑(みかん)ぶね、暮れて入る汽笛(ふえ)。温かき南の島の幼子(をさなご)が夢のかずかず。
また思ふ、柑子(かうじ)の店(たな)の愛想(あいそ)よき肥満(こえ)たる主婦(あるじ)、あるはまた顔もかなしき亭主(つれあひ)の流(なが)す新内(しんない)、暮(く)れゆけば紅(あか)き夜(よ)の灯(ひ)に蒸(む)し薫(く)ゆる物の香(か)のなか、夕餉時(ゆふげどき)、街(まち)に入り来(く)る旅人がわかき歩みを。
さては、われ、岡の木(こ)かげに夢心地(ゆめここち)、在(あ)りし静けさ忍ばれぬ。目籠(めがたみ)擁(かか)へ、黄金(こがね)摘(つ)み、袖もちらほら鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――ああ、耳に鈴(すず)の清(すず)しき、鳴りひびく沈黙(しじま)の声音(いろね)。
柴(しば)はまた音(おと)して爆(は)ぜぬ、燃(も)えあがる炎(ほのほ)のわかさ。ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫(かをり)のなかに、箸とりて笑(ゑ)らぐ赤ら頬(ほ)、夕餉(ゆふげ)盛(も)る主婦(あるじ)、家の子、皆、古き喜劇(きげき)のなかの姿(すがた)なり。涙ながるる。
   三十九年五月
内陣
ほのかなる香炉(かうろ)のくゆり、日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――
文月(ふづき)のゆふべ、蒸し薫(くゆ)る三十三間堂(さんじふさんげんだう)の奥(おく)空色(そらいろ)しづむ内陣(ないぢん)の闇ほのぐらき静寂(せいじやく)に、千一体(せんいつたい)の観世音(くわんぜおん)かさなり立たす香(か)の古(ふる)びいと蕭(しめ)やかに後背(こうはい)のにぶき列(つらね)ぞ白(しら)みたる。
いづちとも、いつとも知らに、かすかなる素足(すあし)のしめり。
そと軋(きし)むゆめのゆかいたなよらかに、はた、うすらかに。
ほのめくは髪のなよびか、衣(きぬ)の香(か)か、えこそわかたね。
女子(をみなご)の片頬(かたほ)のしらみ忍びかの息(いき)の香(か)ぞする。
舞ごろも近づくなべに、うつらかにあかる薄闇(うすやみ)。
初恋の燃(も)ゆるためいき、帯の色、身内(みうち)のほてり。
だらりの姿(すがた)おぼろかになまめき薫(く)ゆる舞姫(まひひめ)のほのかに今(いま)したたずめば、本尊仏(ほんぞんぶつ)のうすあかり静(しづ)かなること水のごと沈(しづ)みて匂ふ香(か)のそらに、仰(あふ)ぐともなき目見(まみ)のゆめ、やはらに涙さそふ時(とき)。
甍(いらか)より鴿(はと)か立ちけむ、はたはたとゆくりなき音(ね)に。
ふとゆれぬ、長(たけ)の振袖(ふりそで)かろき緋(ひ)のひるがへりにぞ、
ほのかなる香炉(かうろ)のくゆり、日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――
もろもろの光はもつれ、あな、しばし、闇にちらぼふ。
   四十年七月
懶き島
明けぬれどものうし。温(ぬる)き土(つち)の香を軟風(なよかぜ)ゆたにただ懈(たゆ)く揺(ゆ)り吹くなべに、あかがねの淫(たはれ)の夢ゆのろのろと寝恍(ねほ)れて醒(さ)むるさざめ言(ごと)、起(た)つもものうし。
眺むれどものうし、のぼる日のかげも、大海原(おおうなばら)の空燃(も)えて、今日(けふ)も緩(ゆる)ゆる縦(たて)にのみ湧(わ)くなる雲の火のはしら重(おも)げに色もかはらねば見るもものうし。
行きぬれどものうし、波ののたくりも、懈(たゆ)たき砂もわが悩(なやみ)ものうければぞ、信天翁(あはうどり)もそろもそろの吐息(といき)して終日(ひねもす)うたふ挽歌(もがりうた)きくもものうし。
寝(ね)そべれどものうし、円(まろ)に屯(たむろ)して正覚坊(しやうがくばう)の痴(しれ)ごこち、日を嗅(か)ぎながら女らとなすこともなきたはれごと、かくて抱けど、飽(あ)きぬれば吸ふもものうし。
貪(むさぼ)れどものうし、椰子(やし)の実(み)の酒も、あか裸(はだか)なる身の倦(た)るさ、酌(く)めども、あほれ、懶怠(をこたり)の心の欲(よく)のものうげさ。遠雷(とほいかづち)のとどろきも昼はものうし。
暮れぬれどものうし、甘き髪の香も、益(えう)なし、あるは木を擦(す)りて火ともすわざも。空腹(ひだるげ)の心は暗(くら)きあなぐらに蝮(はみ)のうねりのにほひなし、入れどものうし。
ああ、なべてものうし、夜(よる)はくらやみの濁れる空に、熟(う)みつはり落つる実のごと流星(すばるぼし)血を引き消ゆるなやましさ。一人(ひとり)ならねど、とろにとろ、寝(ね)れどものうし。
   四十年十二月
灰色の壁
灰色(はいいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。臘月(らふげつ)の十九日(じふくにち)、丑満(うしみつ)の夜(よ)の館(やかた)。龕(みづし)めく唐銅(からかね)の櫃(ひつ)の上(うへ)、燭(しよく)青うまじろがずひとつ照(て)る。時にわれ、朦朧(もうろう)と黒衣(こくえ)して天鵝絨(びろうど)のもの鈍(にぶ)き床(ゆか)に立ち、ひたと身は鉄(てつ)の屑(くず)磁石(じしやく)にか吸はれよる。足はいま釘(くぎ)つけに痺(しび)れ、かの黄泉(よみ)の扉(と)はまのあたり額(ぬか)を圧(お)す。
灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。暗澹(あんたん)と燐(りん)の火し奈落(ならく)へか虚(うつろ)する。表面(うはべ)ただ古地図(ふるちづ)に似て煤(すす)け、縦横(たてよこ)にかず知れず走る罅(ひび)青やかに火光(あかり)吸ひ、じめじめと陰湿(いんしつ)の汗(あせ)うるみ冷(ひ)ゆる時、鉄(てつ)の気(き)はうしろよりさかしまに髪を梳(す)く。はと竦(すく)む節々(ふしふし)の凍(こほ)る音(おと)。生きたるは黒漆(こくしつ)の瞳のみ。
灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。熟視(みつ)む、いま、あるかなき一点(いつてん)の血の雫(しづく)。朱(しゆ)の鈍(にば)み星のごと潤味(うるみ)帯(お)び光る。聞く、この暗き壁ぶかにくれなゐの皷(つづみ)うつ心(しん)の臓(ざう)刻々(こくこく)にあきらかに熱(ほて)り来(く)れ。血けぶり。刹那(せつな)ほとかすかなる人の息(いき)。みるがまに罅(ひび)はみなつやつやと金髪(きんぱつ)の千筋(ちすぢ)なし、さと乱(みだ)る。
灰色の暗き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。なほ熟視(みつ)む。……髣髴(はうふつ)と浮びいづ、女の頬(ほ)大理石(なめいし)のごと腐(くさ)れ、仰向(あふの)くや鼻(はな)冷(ひ)えてほの笑(わら)ふちひさき歯しらしらと薄玻璃(うすはり)の音(ね)を立つる。眼(め)をひらく。絶望(ぜつまう)のくるしみに手はかたく十字(じふじ)拱(く)み、みだらなる媚(こび)の色きとばかり。燭(しよく)の火の青み射(さ)し、銀色(ぎんいろ)の夜(よ)の絹衣(すずし)ひるがへる。
灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐(おそ)ろしき一面(いちめん)の壁(かべ)の色(いろ)。『彼。』とわが憎悪心(ぞうをしん)
むらむらとうちふるふ。一斉(いつせい)に冷血(れいけつ)のわななきは釘(くぎ)つけの身を逆(さか)にゑぐり刺(さ)す。ぎくと手は音(おと)刻(きざ)み、節(ふし)ごとに械(からくり)のごと動(うご)く。いま怪(あや)し、おぼえあるくらがりに落ちちれる埴(はに)と鏝(こて)。つと取るや、ひとつ当(あ)て、左(ひだり)より額(ぬか)をまづひしひしと塗(ぬ)りつぶす。
灰色(はひいろ)の暗き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。朱(しゆ)のごとき怨念(をんねん)は燃(も)え、われを凍(こほ)らしむ。刹那(せつな)、かの驕(おご)りたる眼鼻(めはな)ども胸かけて、生(なま)ぬるき埴(はに)の色ひと息に鏝(こて)の手に葬(はうむ)られ生(い)きながら苦(くる)しむか、ひくひくとうち皺む壁の罅(ひび)、今、暗き他界(たかい)より凄きまで面(おも)変(かは)り、人と世を呪(のろ)ふにか、すすりなき、うめきごゑ。
灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。悪業(あくごふ)の終(をは)りたる時に、ふとわれの手は物握(にぎ)るかたちして見出(みいだ)さる。ながむれば埴(はに)あらず、鏝(こて)もなし。ただ暗き壁の面(おも)冷々(ひえびえ)と、うは湿(しめ)り、一点(いつてん)の血ぞ光る。前(さき)の世の恋か、なほ骨髄(こつずゐ)に沁みわたるこの怨恨(うらみ)、この呪咀(のろひ)、まざまざと人ひとり幻影(まぼろし)に殺したる。
灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。臘月(らふげつ)の十九日(じふくにち)、丑満(うしみつ)の夜(よ)の館(やかた)。龕(みづし)めく唐銅(からかね)の櫃(ひつ)の上(うへ)燭(しよく)青(あを)うまじろがずひとつ照る。時になほ、朦朧(もうろう)と黒衣(こくえ)して天鵝絨(びろうど)のものにぶき床(ゆか)に立ち、わなわなと壁熟視(みつ)め、ひとり、また戦慄(せんりつ)す。掌(て)ひらけば汗(あせ)はあな生(なま)なまとさながらに人間(にんげん)の血のにほひ。
   三十九年十二月
失くしつる
失(な)くしつる。さはあるべくもおもはれね。またある日には、探(さが)しなば、なほあるごともおもはるる。色青き真珠(しんじゆ)のたまよ。
   四十一年七月

1909年(明治42年)3月、白秋が24歳のときに発表した処女詩集。明治39年4月から41年末に書いた121の作品を収録しています。
「今後の新しい詩の、基礎となるべきものだ」白秋と親交のあった歌人・石川啄木は、この詩集を読んで、日記にこう綴っています。二人は、当時開園したばかりの浅草の遊園地近くで、啄木は白秋の詩人としての成功を、白秋は啄木の就職を、互いに黒ビールで祝い合ったといいます。 
 
「第二邪宗門」 

 

■円燈 
飢渇
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。
わが熱き炎の都、都なる煉瓦の沙漠、沙漠なる硫黄の海の広小路、そのただなかに、饑(う)ゑにたるトリイトン神の立像(たちすがた)、水涸れ果てし噴水(ふきあげ)の大水盤の繞(めぐり)には、白琺瑯(はくはうらう)の石の級(きだ)ただ照り渇き痺(しび)れたる。
そのかげに、紅(あか)き襯衣(しやつ)ぬぎ悲しめる道化芝居の触木(ふれぎ)うち、自棄(やけ)に弾くギタルラ弾者(ひき)と、癪持(しやくもち)と、淫(たはれ)の舞の眩暈(めくるめき)、さては火酒(ブランデイ)かぶりつつ強ひて転(ころ)がる酔漢(ゑひどれ)と、笑ひひしめく盲(めくら)らは西瓜をぞ切る。
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。
既に見よ、瞬間(たまゆら)のさき、仄(ほの)かなる愁(うれひ)の文(あや)にしみじみと竜馬(りうめ)の羽うらにほひ透き、揺れて縺(も)つれし水盤の水ひとたまり。あるはまた、螺を吹く神の息づかひ焔に頻吹(しぶ)きひえびえと沁みにし歌も今ははや空(から)びぬ、聴くは饑(う)ゑ疲れ鉛になやむ地の管(くだ)の苦しき叫喚(さけび)。
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。
虚空(こくう)には銅色(あかねいろ)の日の髑髏(どくろ)転(まろ)びかがやき、雲はまた血のごと沈黙(しじ)に鎔(とろ)けゆき影だに留めず。ただ病める東南風(シロツコ)のみぞ重たげに、また、たゆたげに、腐れたる翼(つばさ)の毒を羽ばたたく。七月末の長旱(ながひでり)、今しも真昼、煉獄の苦熱の呵責(かしやく)そのままに火輪車(くわりんしや)駛(はし)り、石油泣き、瓦斯の香(か)喊(わめ)き、真黒げに煙突震ふ狂ほしさ、その騒かしさ。
誰(たれ)ぞ、また、けたたましくも、朱(あけ)の息引き切るるごと、狂気なす自動車駆るは。
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。
狂気者(きちがひ)よ、人轢(ひ)き殺せ。癪持(しやくもち)よ、血を吐き尽せ。掻き鳴らせ、絃(いと)切るるまで。打ち鳴らせ、木の折るるまで。飛びめぐれ、息の根絶えよ。酔へよ、また娑婆(しやば)にな覚めそ。盲(めしひ)らよ、その赤き腸(はらわた)を吸へ。あはれ、あはれ、この旱(ひでり)つづかむかぎり、汝(な)が飢渇(きかつ)癒えむすべなし。
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。
わかき喇叭
苦しげに喇叭(らつぱ)吹く息(いき)、苦しげに喇叭(らつぱ)吹く息(いき)、汝はゆきていづくにかへる。
心臓のあかきくるめきそを洩れて吹きいづるなる。なやましき霊(たま)のひとすぢいと冷(ひ)やき水の音色(ねいろ)に。
毒(どく)ふかき邪欲(じやよく)の谷に淫楽(いんらく)の蝮(くちばみ)まとふ、はたや身は痺(しび)れとろけて断(た)ちがたきほだしに悩(なや)む。
狂念(きやうねん)のめくらむ野辺(のべ)ゆ挑(いど)み搏(う)つ硫黄(いわう)の炎(ほむら)、また苦(にが)き檻(をり)のおびえにくれなゐの破滅(はめつ)をさそふ。
さまだるる恋慕(れんぼ)のあへぎ蒸しよどみ、かくてなやめどわれは吹く、息もほつほつうらわかき霊(たま)の喇叭(らつぱ)を。
かげ暗(くら)き恐怖(おそれ)の垂葉(たりは)そのなかに赤き実熟るる。わが夢(ゆめ)はあなその空に濡(ぬ)れつつも燃(も)ゆる悲愁(かなしみ)。
濡れつつも燃(も)ゆるかなしみそが犠牲(にえ)に吹きいづるなる。かぎりなき生命(いのち)の苦痛(くつう)かぎりある胸(むね)の力(ちから)に。
あはれ、なほ、喇叭(らつぱ)吹く息(いき)、あはれ、なほ、喇叭(らつぱ)吹く息(いき)、汝(な)はゆきていづくにかへる。
青き葉の銀杏のはやし
青き葉の銀杏(いてふ)の林、細(ほそ)らなる若樹(わかき)の林。
はた、青き白日(ひる)の日(ひ)かげに、葉も顫(ふる)ふ銀杏(いてふ)の林。
そのもとを北へかすめる、ひややけき路(みち)のひとすぢ、
かすかにも胡弓(こきゆう)まさぐり、ゆめのごと、われはたどりぬ。
青き葉の銀杏(いてふ)の林行き行けど路(みち)は尽きなく。
細(ほそ)らなる若樹(わかき)のはやし、頬白(ほほじろ)の鳴(な)く音(ね)もきかず。
すすりなく愁(うれひ)の胡弓(こきゆう)、葉の顫(ふる)ひ、青き日かげ。
さはひとり、われとさすらひ、われと弾(ひ)き、聴(き)きもほれつつ、
日もすがら涙さしぐむ、青き葉のかげをゆく身は。
それとなきもののかぜにも、弱(よわ)ごころ耳しかたむけ。
たちとまり、ながめ、みかへり、あはれさの絃(いと)をちからに。
ひそやかに、また、しづやかに、にほやかに尋(と)めもなやめば。
薄(うす)らなる青の絹衣(すずし)も、いつしかに露にしなえぬ。
さあれ、なほ弾(ひ)きゆく胡弓(こきゆう)、はてもなき路(みち)のゆく手に。
いつまでかかくて泣きつつ、いつまでかかくもあるべき。
あはれ、あはれ、銀杏(いてふ)の林、青き青き若樹(わかき)の林。
森の奥
森の奥ほのかにくらし。
夏のすゑ、長月はじめ、あはれ、日も薄らうすらに、
薄黄(うすぎ)なる歎(なげき)沁みゆく浮羅爛勤(はうのき)の広葉の青み、
あるはまた大木(おほき)の胡桃(くるみ)、憂愁(わづらひ)のかげのふかみに、
燃(も)えのこる熱き日ざしは黄に透かし暮れて薫れる。
そのなかに妙(たへ)にしづかに物おもふ白馬(はくば)のあかり。
それやはた、夏の日の神夕ぐれに騎(の)りやわすれし。
紅(くれなゐ)の手綱の色も、白がねの鐙も、鞍も、
いとほのに夢の照妙(てるたへ)ただ白し、ほのかに白し。
そをめぐり秋の笙(しやう)の音(ね)蕭(しめ)やかにひそかに愁ふ。
響かふは角(つぬ)の音色(ねいろ)か、病める果(み)か、饐(す)えゆく歌か。
かくてまた暗き葉越に鳩の笛沁みはわたれど。
薄黄(うすぎ)なる光の透かし、ひとすぢの昨(きそ)のほめきに、
ほの白う暮れてたたずむ物おもふ色のしづけさ。
森はいまほのかにくらし。
円燈
薄暮(くれがた)の谿間(たにま)の恐怖(おそれ)。今宵(こよひ)またかなたに点(とも)る紅(くれなゐ)の円(まろ)き燈(ともしび)。
そを知るや、知らずや、なほもなやましきにほひの奥(おく)にうづくまり黙(つぐ)むひとむれ。
真白(ましろ)なるゆめの水牛(すゐぎう)、しかはあれど、なべて盲(めし)ひし獣(けもの)らの重(おも)き起伏(おきふし)。
盲(めし)ひしは瞳のみかは、ものにぶく、闇(やみ)にくぐもるもろもろのこころごころも。
かくてあな幾夜(いくよ)か経(へ)にし。言(もの)いはず、かうべもあげず、さあれども物(もの)待(ま)つごとし。
深(ふか)みゆく恐怖(おそれ)の沈黙(しじま)。そのなかに今宵(こよひ)も消(き)ゆる紅(くれなゐ)の円(まろ)き燈(ともしび)。
   四十一年六月
尋(と)めゆくあゆみ
いと高くいと深くいと静(しづ)にいと蕭(しめ)やげる夜(よ)の森のかげ、暗(くら)く冷(ひやゝ)なる列(つらね)のもとを、われはあゆむ。
いと高くいと暗くいと密(みつ)にいとほのかなる細(ほそ)らなる赤楊(はんのき)の列(つらね)、そのもとの底の底をわれはあゆむ。
いと高くいと深く沈みたる憂愁(うれひ)のもとを、真素肌(ますはだ)のましろなる、衣(きぬ)つけぬ常若(とこわか)の矜(ほこり)もてわれはあゆむ。
赤楊(はんのき)のとある梢ありとしも見へぬ空のけはひ、あはれその枝に色紅き小鳥の如(ごと)も星の見ゆる。あはれひとつ
いと高くいと深くいと静(しず)にいと蕭(しめ)やげる夜(よ)の森のかげ、暗く冷(ひやや)なる列(つらね)のもとを、われはあゆむ。
さあれ今言(もの)いはぬ獣(けもの)忍びやかに蹤(つ)きぞ来(き)ぬる。昨日(きのふ)より去年(こぞ)より生(あ)れしより、否(あらず)、前世(さきのよ)より蹤(つ)きか来ぬる。
かかる夜(よ)のとある梢哀(あは)れその空に星の見えつ。紅き星紅き星ほのかにもわれは知れり、かかるゆめも。
いと高くいと深くいと冷(ひや)にいと蕭(しめ)やげる夜(よ)の森のかげ、ふとし、あな、路(みち)は落つる。あらぬ谷間。
哀(あは)れ哀(あは)れあらぬ谷にいと暗(くら)く霊(たま)や落つる。真素肌(ますはだ)の悲哀(かなしみ)よ血の香(か)する荊棘(いばら)のなかをいかにわけむ。
足音(あのと)のす、言(もの)いはぬ獣(けもの)忍(しの)びかにひき帰(かへ)すらし。哀(あは)れまたひとつ星、見もあへぬ闇のかなたにはたや消ゆる。
忽(たちまち)にものの呻吟(うめき)、やはらなる足に触(ふ)れつつそこここの血の荊棘(いばら)あなやその暗(くら)き底より赤子啼きいづ。
   四十一年六月
我子の声
われはきく、生(うま)れざる、はかりしれざる子(こ)の声(こゑ)を、泣(な)き訴(うた)ふ赤(あか)きさけびを。いづこにかわれはきく、見えわかぬかかる恐怖(おそれ)に。
かの野辺(のべ)よ、信号柱(シグナル)は断頭(くびきり)の台(だい)とかがやき、わか葉(ば)洩(も)る入日(いりひ)を浴(あ)びてあかあかと遙(はる)に笑(わら)ひき。汽車(きしや)にしてさてはきく、轢(し)かれゆく子らの啼声(なきごゑ)。
はた旅(たび)の夕まぐれ、栄(は)えのこる雲(くも)の湿(しめり)に、前世(さきのよ)の亡(な)き妻(つま)が墓(はか)の辺(べ)の赤埴(あかはに)おもひ、かくてまた我(われ)はきく追懐(おもひで)の色とにほひに、埋(う)もれたる、はかりしれざる子(こ)の夢(ゆめ)を、胎(たい)の叫(さけび)を。
帰(かへ)りきてわれはきく、ひたぶるに君抱くとき、手力(たぢから)のほこりも尽(つ)きて弱心(よわこゝろ)なやむひととき、たちまちに心(こゝろ)つらぬく赤き子の高(たか)き叫(さけび)を。
   四十一年六月
声なき国
声(こゑ)もなき薄暮(くれがた)の国、追憶(おもひで)のこなたなるほの暗(くら)き闇(やみ)、哀(あは)れ、さは冷(ひやや)けき世の沈黙(しじま)、恐怖(おそれ)の木(こ)かげ、何処(いづこ)より見ゆるともなく出(いで)て来(こ)し思(おもひ)の女(をみな)清(きよ)らなる真素肌(ますはだ)の身の独(ひとり)ほのかに暮(く)るる。
声(こゑ)もなき国の白楊(はくやう)、列(つら)長(なが)う両側(もろがは)に顫(ふる)へわななき、色(いろ)青(あを)き蝋(らふ)の火のほの暗(くら)みおびゆるごとく、広(ひろ)きより狭(せば)み暮れゆく其果(そのはて)の遠(とほ)き切目(きれめ)に、仄(ほの)かなる噴水(ふきあげ)の香(か)ぞひとり密(ひそ)かに泣ける。
声(こゑ)もなき国のさかひにすすり泣くそのゆめよ、水のひとすぢかすかにも色(いろ)映(うつ)り消えも入る吐息(といき)する時、哀れ、さは光(ひかり)匂(にほ)はぬ色(いろ)もなく声(こゑ)もなき野に、ただ寒(さむ)う涙垂れ熟視(みつ)めぬる女(をみな)の思(おもひ)。
声(こゑ)もなき国のかなたはあかあかと色(いろ)わかき追憶(おもひで)の空。歓楽(くわんらく)の楽(がく)の音(ね)よ、悩(なや)み添(そ)ふ甘き悲哀(ひあい)よ、猛(たけ)り狂(くる)ふ恋慕(れんぼ)の夢(ゆめ)の此方(こなた)には聞(きこ)えこそ来(こ)ね、雲(くも)はただ昨(きそ)のごと紅(くれなゐ)の色にただるる。
声(こゑ)もなき女(をみな)の思、熟視(みつ)めつつ、ややにまた暮(く)れもいためど、ただ密(ひそ)に頼(たの)みてし噴水(ふきあげ)のにほひとだえて、存命(ながらへ)し悩(なやみ)の夢の曲節(めろぢあ)も見るによしなみ、真素肌(ますはだ)の身は悲し冷(ひやや)けき石(いし)になりゆく。
声(こゑ)もなき薄暮(くれがた)の国。かくていま、追憶(おもひで)の空(そら)はあかあか、血のごとも雲(くも)は顫(ふる)へ楽(がく)の音(ね)の慄(わなな)くなかに、閃(ひら)めくは聖体盒(せいたいごう)の香(か)の曇(くもり)、骨も斑(まば)らに白白(しらじら)と浮(うか)びちり、あはれ早や沈み暈(くる)めく。
幽潭
あはれ、こはもの静(しづ)かなる幽潭(いうたん)の深(ふか)みの心(こゝろ)――おもむろに瀞(とろ)みて濁る波もなき胎(たい)のにほひの水の面(おも)。をりをり鈍(にぶ)き蛇のむれ首もたぐれどいささかの音(おと)だに立てず、なべてみな重(おも)たき脳(なう)の、幽鬱(いううつ)の色して曇る。
さるほどに日も暮がたとなりぬれば、あたりの樟(くす)の薄(うす)ら闇(やみ)しのびにつのる灰色の妖女(えうぢよ)の冷(ひや)やきうすわらひ。さあれど、ゆるにしづしづと髪曳きうかぶ底(そこ)の主(ぬし)面(おもて)はかたく縛(しば)られて、ただほの白(しろ)き身をなかば、水よりいづる。
ややありて、息吹(いぶき)のゆめもやはらかに、盲(めし)ひし空をうちあふぎ、管(くだ)かたぶけて吹きいづる石鹸(しやぼん)の玉(たま)の泡(あわ)のいろひとつびとつに円(まろ)らかに紅(あか)みてのぼる、これやかの若(わか)くいみじき血のにほひ。かくしてものの静(しづ)やかにひとときあまり。
ふと、ひらく汀の瞳(ひとみ)くろぐろと、冷やにならびうかがへる妖女(えうぢよ)のつらね肋骨(ろつこつ)の相摩(あいす)るごとき笑(わらひ)して灰色(はひいろ)の髪(かみ)音(おと)もなくさばくと見れば、そこここに首もたげゆく蛇のむれ、ああまたもとの幽鬱(いううつ)に主(ぬし)消えしづむ。
かくてまた、鈍(にぶ)く曇れる水の面(おも)、濁れる胎(たい)のもの孕(はら)む音(おと)ともなしに、静寂(じやうじやく)の深(ふか)みに呻(うめ)く夜の色。ほど経(へ)て声も消えゆけば、ああ見よ、いまし幽潭(いうたん)の鈍(にぶ)める空にあかあかとのぼれる玉か、数しれぬ幾千万(いくせんまん)の新星(にひほし)の華(はな)。
   四十一年六月
急瀬
『暗い。』『暗い。』聴け、夜に叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、熟視(みつ)むるは死よりも暗き鴆毒(ちんどく)の発作(ほつさ)に頻吹(しぶ)く水の面(おも)、聴け、わなわなとかたかたと千万(ちよろづ)歎く。時は冬、熊野の川の川上の如法の真闇、峡(かひ)の底。
『暗い。』『暗い。』聴け、はや叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石。さてはまた、聴け、歯を洗ふ血の流真黒(まくろ)に滴(した)る音ささとはた、きしきしと泡たぎち噎(むせ)びぬ、まさに丑満の黒金雲(くろがねぐも)の棺衣(たれぎぬ)は七岳(ななたけ)めぐり、風顫ふ。
『暗い。』『暗い。』聴け、また叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、熟視(みつ)むれど喚(わめ)けど、水は蝮(くちばみ)の腹なし、縞もひた黒に磨りては走る夜(よ)の恐怖(おそれ)、この夜(よ)もさらに琅※[「王+干」](らうかん)の断崖(きりぎし)づたひ投網(とあみ)うつ漁(いさり)の翁(おぢ)の火も見えず。
『暗い。』『暗い。』聴け、ひた叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、今はかの末期(まつご)の苦患(くげん)ひたひたとわななきほそる一刹那、鯱(しやち)より疾(はや)く、棹あげて闇より闇へ、火もつけず、声せず、一人(ひとり)丈長(たけなが)の髪吹き乱し舟(ふね)きたる。
『暗い。』『暗い。』聴け、今叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、一斉(ひととき)に驚破(すは)と慄くひたおもてかとこそ噛めば竜骨は血の香(か)滴る鋸を鑢(やすり)の刃(は)もて磨る如く、白歯をきしと一文字に、傷きながら逃れさる。
『暗い。』『暗い。』聴け、なほ叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、瞬間(たまゆら)の膏油と熱き肉(しし)の香(か)に狂へる慾は護謨の火の断(ちぎ)るるがごとひたわめく、呪詛(のろひ)と飢(うゑ)と悔(くい)と死と真黒に噎(むせ)ぶ血の底に歯を噛みながら熟視(みつ)めたる。
『暗い。』『暗い。』聴け、なほ叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、熟視(みつ)むれど天蝎(てんかつ)宮の光だに影せぬ冥府(みやうふ)、わなわなと喚(わめ)けどさらに蝮(くちばみ)は腹磨り奔り、絶えずまた泡だち落つる血はささとその戦慄(わななき)に噎(むせ)ぶのみ。
『暗い。』『暗い。』聴け、夜に叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、熟視(みつ)むるは死よりも暗き鴆毒の発作(ほつさ)に頻吹(しぶ)く水の面(おも)、なほ、きしきしとかたかたと嘆けど、哀(あは)れ、億劫(おくごふ)の窮(きはまり)あらぬ闇に堕ち闇に饑ゑゆく人の群。
二つの世界
色あかき世界のなかにうららにも小鳥さへづり、色白き世界のなかにものにぶき駱駝(らくだ)は坐(すは)る。
ものにぶき駱駝(らくだ)の見るは白き砂、白き思の星、えもわかぬ髑髏(どくろ)のなげき、ピラミドのたそがれの色
うららなる小鳥のうたはまた遠く、ひと世(よ)へだてて脳(なう)の内、もだえの熱(ねつ)に、謔言(うはごと)のかずかずうたふ。
かなたには隊商(カラバン)の鈴、こなたにはあかきさへづり。今日(けふ)もまた境し立てるスフインクスひとりしづかに。
スフインクス、恐怖(おそれ)の沈黙(しじま)、そが胸の象形文字(しやうけいもじ)の謎(なぞ)も、あな、半(なかば)しろく、はた赤く、聴耳(ききみみ)澄(す)ます。
あはれ、いま、白き世界のゆふまぐれ。しかはあれども色あかき世界の真昼(まひる)。スフインクス、こころは惑(まど)ふ。
   四十一年八月
暮れなやむ心のあそび
晩夏(おそなつ)の暮れなやむ日のわがこころ球突(びりああど)をばもてあそぶ、脳のくもりにうしろより煙草のくゆり病ましげに、なにともわかぬ思きて覗(のぞ)く心地す。
玉ふたつわれの好(この)める色したる、また玉ふたつうち曇る白の円(まろ)みす。棒(きう)とりていづれか突かむ。うち見れば萌黄の羅紗の台(だい)の面(おも)ほのに顫へる。
その嘆(なげ)き、おぼろげながらわれぞ知る。いつのゆふべとわかねども負傷(てお)ひし胸のそのにほひ、棒(きう)とりながらわれぞ知る。かくてもやまぬわがあそび、色入りまじる。
そを見つつ後(うしろ)にけぶすかの思なにしか笑(わら)ふ。さあれども暮(く)るるこころは色あかき玉もてあそびうちなやむ。重き煙草にまどはしく眩暈(めくら)みながら。
いづこにかものなやましきはなしごゑあるはきこゑて、ものあかくあかる心地す。わが脳のなかにか、室(むろ)のうつつにか、火点(とも)るごときそのけはひ、遊戯(あそび)夜に入る。
   四十一年八月
※[「金+襄」]工
静(しづ)やかに泣きつつあれば、わがこころ※[「金+襄」]工(もざいく)なしぬものとなく、――正方形(せいはうけい)の※[「金+襄」]工(もざいく)のその壁(かべ)をしも見まもればそはものにぶき顔の面(おも)、面(おも)のなかばを、やはらかき茎のうねりや、あかあかと蔽(おほ)ひ燃(も)ゆめる罌粟(けし)のゆめ
そのかげに、そのかげに、盲(めし)ひたる白き眼ふたつ。あはれその白き眼ふたつ、なにか見る、夕(ゆふ)ぐれのもののしじまに。
天幕の中
色にぶき毛織(けおり)の天幕(てんと)、そがなかにわがおもひひとりしあなる、あはれ、盲(し)ひたる白き目に花とりあてて、そが紅(あか)き色見むものと燥(あせ)りつつ、さは燥(あせ)りつつ、色にぶき毛織(けおり)の天幕(てんと)いつまでかわれの思(おもひ)のひとりしあなる。
   四十一年八月
髑髏は熟視(みつ)む
髑髏(どくろ)は熟視(みつ)む、きゆらそおの血の酒甕(さかがめ)の間(あひだ)より、髑髏(どくろ)は熟視(みつ)む、命(いのち)なくただうち凹(くぼ)む眼(まなこ)して、髑髏(どくろ)は熟視(みつ)む、忘(わす)れたる思ひいでんとするが如(ごと)、髑髏(どくろ)は熟視(みつ)む、寝(ね)そべりて石鹸玉(しやぼんだま)吹く女(め)が面(かほ)を。
   四十一年六月  
■樟の合奏 
樟の合奏
初夏(しよか)の空(そら)。灰白色(くわいはくしよく)の雲のもと。水沼(みぬま)のほとり。
ひと叢(むら)の樟(くす)のわか葉(ば)の黄金(こがね)いろ梢(こずゑ)も高く、濡(ぬ)れ濡(ぬ)るる雨後(うご)の夕(ゆふべ)のひとあかり、入日(いりひ)に燃えて潤(しめ)やかに、華(はな)やかに、調(しら)べあはするかなしみの、よろこびの、くるしみの香(か)も狂(くる)ほしき生(せい)の曲(きよく)……夢(ゆめ)の合奏(がつさう)……
そのかげに、赤(あか)き煉瓦(れんぐわ)の変圧所(へんあつじよ)、心(こゝろ)盲(めし)ひし高圧(かうあつ)の電気(でんき)の叫喚(わめき)音(おと)もなく、斜(ななめ)に走(はし)る銅線(はりがね)のかきむしりゆく火の苦悩(なやみ)。はたやオゾンの香(か)のしめり、渦巻(うづま)き縺(もつ)れ、昼(ひる)も、夜(よ)も、間(ま)なく、時(とき)なく、ひたぶるに暈(くる)めき、醸(かも)す死(し)の恐怖(おそれ)、列(つら)ね立てたる柱(はしら)には、『触(ふ)るる者(もの)かく死(し)すべし。』と髑髏(どくろ)あり、ひたと黙(つぐ)める。
また、見よ暗(くら)くとろとろと、曇(くも)り濁(にご)れる鈍色(にびいろ)の水沼(みぬま)の面(おも)を。病(や)める壁(かべ)、樟(くす)の調楽(てうがく)映(うつ)せども映(うつ)すともなきものの色。ただに声(こえ)なく、命(いのち)なく、鈍(にぶ)く、重(おも)たく、波(なみ)たたず、淀(よど)みもせなく、なべてこれこの世(よ)ならざる日の沈黙(しじま)。鈍(にぶ)く、ぼやけし忘却(ばうきやく)の護謨(ごむ)の面(おもて)を圧(お)すごとく、掌(て)に圧(お)すごとく、たまにのみ、太(ふと)き最低音(ベース)ぞ呻(うめ)くめる。
しかあれ、初夏(しよか)の夕(ゆふ)あかり、灰白色(くわいはくしよく)の雲(くも)の裏(うら)ゆ金覆輪(きんぷくりん)に噴(ふ)きいづる光の楽(がく)のさと赤(あか)く、照(て)りかへし、湿潤(しめり)に燃(も)ゆるひとときよ、あはれ斉(ひと)しく、はた高(たか)く、しめやかに、華(はな)やかに、調(しら)べいでぬる管絃楽(オオケストラ)の生(せい)の曲(きよく)――かなしみに、よろこびに、くるしみに狂(くる)ひかなづる、狂(くる)ひかなづる、狂(くる)ひかなづる狂(くる)ひかなづる樟(くす)の合奏(がつさう)……死(し)のオゾン………
さてしもあはれ、夜(よ)とならば夜とならば如何(いか)にかすらむ。
いま、夕焼(ゆうやけ)の変圧所(へんあつじよ)嘲(あざ)けるごとく、はたや、かの虐殺(ぎやくさつ)の血(ち)を浴(あ)びしごと、あかあかと笑(わら)ひくるめく……
   四十四年五月
晩夏
くわと照らす夕陽(ゆふひ)の光、噴水(ふきあげ)の霧のしぶきよ。
湿(しめ)らひぬ、蒸(む)しぬ、ひかりぬ、さは、苑(その)の若木のたわみ、花の叢(むら)、草葉のかをり、――さまざまの薫るおもひに。
こぼれちる水のにほひよ。日のひかり、雲のうつろひ、栄(は)えしぶく麝香の真珠(またま)、――絶えず、わが夢かしたたる。
ふくらかに霧にうもれて燃えたわむ色のうれひよ、うつろひぬ、蒸しぬ、しめりぬ、――ゆふぐれの胸のなごみを。
くわと照らす晩夏の光、尽きせざる夢のしぶきよ。

胸に、はた、夕日の幹(みき)に、つと来り、蜩(かなかな)なげく。
かなかなかなかな……かなかなかなかな……
黄金(こがね)なす細き旋律せはしげに、また、かなしげに。
かなかなかなかな……かなかなかなかな……。
かくて、また鳴きつつ熟視(みつ)む、栄(は)えあかる思より、梢より、実のひとつ落ちむとするを。
かなかなかなかな……かなかなかなかな……
   四十一年六月
夏の夜の舟
虫(むし)啼(な)ける。
りんりんすりりん……りんりんすりりん……
あはれわが小舟(をぶね)ぞくだる。痍(きず)つけるわかうどの舟(ふね)。
りんりんすりりん……りんりんすりりん……
はてもなう向(むか)ひてかすむ白壁(しらかべ)のほのかなる列(つら)。そのかげを小舟はくだる、蒸(む)し挑(いど)む靄のふるへに。
りんりんすりりん……りんりんすりりん……
いまし、また水路(すゐろ)のはてに、落ちかかる弦月(げんげつ)あかく、そこここのくらみの奥(おく)に寝(ね)おびれて倦(う)めるものごゑ。
りんりん……すりりん……
某(それ)の夏(なつ)、かかる夜(よ)の港(みなと)にききし
二上(にあが)りの音(ね)じめはすれど、あはれそをいづことわかむ。あたりやや暗(くら)みふけつつ、血のごとく顫(ふる)ふ月(つき)しろ沈(しづ)みゆくその香(か)のなごり。あなしばし、虫啼(な)きしきる。
りんりんすりりん……りんりんすりりん……りんりんすりりん……りんりんすりりん……りんりんすりりん……りんりんすりりん……
いつしかと真闇(まやみ)のにほひ、深(ふか)みゆく恐怖(おそれ)につれてはたと虫(むし)息(いき)をひそめぬ。蒸(む)しあつし、また息(いき)ぐるし。
………………………………………………
舟はなほ重(おも)たくくだる。ふと※[「窗/心」]に蝋(らふ)の火(ひ)あかり、病人(やまうど)の顔ぞいでたる。内部(うちら)には時計の響(ひびき)。
ぎいすちよつ……………………
重(おも)き咳(せき)ふたたびみたび、真黒(まくろ)なる帷(とばり)は落ちぬ。あはれ闇夜(やみよ)。
ぎいすちよつ……………………ぎいすちよつ……………………
かくてなほ小舟(をぶね)はくだる。いづくにかはてなむ旅(たび)ぞ、そも知(し)らね、水(みづ)のひとすぢ、白壁(しらかべ)のはてしなき夜(よ)を。
ぎいすちよつ……がちやがちや……ぎいすちよつ……
たちまちに閉(とざし)の扉(とびら)、かげ暗(くら)き大黒金(おほくろがね)の壁(かべ)のもと、小舟(をぶね)はなづむ。あなあはれ、ものなべて見わかぬ闇(やみ)よ、内(うち)にはた悩(なや)みか伏(ふ)せる幾百(いくひやく)の沈黙(もだ)の大牛(おほうし)。最終(いやはて)か、恐怖(おそれ)の淀(よど)か、舟は、あな、音なく留(と)まる。
りんりん……………………すりりん……
否(あらず)、また、おのづからなる抵抗(あらがひ)のすべなき力その水に舟押しながる。
ぎいすちよつ………ぎいすちよつ………がちやがちやがちや……ぎいすちよつ……がちやがちやがちや……がちやがちやがちや……がちやがちやがちやがちや……がちやがちやがちやがちや……はてもなう小舟(をぶね)はくだる。
大曲『悶絶』
色赤きものごゑあまた脳(なう)をいで、とどろと奔(はし)る。――逃れゆくわれの足音(あのと)か、もの鈍き毛織(けおり)の黝(ねずみ)蹈みにじり、蹈みにじり…………
ら、りら、ら、りら、ほのかに雲雀(ひばり)。
あはれいま砥石(といし)のひびき、鈍刀(なまくら)のすべるひらめき。
そのなかを赤きものごゑ血を滴(たら)し、とどろと奔(はし)る。
もの鈍き毛織(けおり)の夢を蹈みにじり、踏みにじり…………
ら、りら、ら、りら、かすかに雲雀。
はたと、あな、足音(あのと)絶え入り、ただひびく緩(ゆ)るく鈍刀(なまくら)。
しづかなる皐月(さつき)の真昼、白雲はゆるかにのぼり、軟(なよ)ら風ゆらにゆらるる。
ら、りら、ら、りら、さへづる雲雀。
いづこにかいづこにか揺曳(ゆらび)ける絃(いと)の苦悩(なやみ)の………『……ああはれ、よしなや、われらがゆめぢ、かなしきその日の接吻(くちつけ)にも………』
緩(ゆ)るやかにねぶたき砥石(といし)。
『……かなしきその日の接吻(くちつけ)にも、さまたげ難(がた)かる「我」のほこり、ひたぶる抱きて涙すれど恐怖(おそれ)と苦悩(なやみ)の………』さあれなほものうき砥石(といし)。
『……ああはれ、よしなや、肉(にく)のおびえの――汝(な)が火のまなざし、わが血のいどみ、殺さむ死なむと朱(あけ)に顫(ふる)ふ………』
ら、りら、ら、りら、ほのかに雲雀。
『………殺さむ死なむと朱(あけ)に顫(ふる)ふ………、』
聴くとなき黒ヴオロンの火のきざし見る見る野辺(のべ)に渦巻きて悶絶(もんぜつ)すれば、くわとあがる血しほの烟(けむり)、そのなかをわれのものごゑまた見えてとどろと奔(はし)る。
忍びかにひややかに清(きよ)らなる水のさらめき――
さらめきに角※[「竹かんむり/甬」](つのぶえ)あかり、かなしみの音(ね)の吐息(といき)ほのかにおこる。
はたと、また、足音(あのと)絶え入り、野はなべて黄昏(たそがれ)の色。
ほのかなるにほひのそらに、やや赤く地平は光り、そこここの水面(みのも)より水牛(すゐぎう)いづる。
水牛(すゐぎう)のしづけさや、しづかなる角(つの)の音(ね)に物をしおもふ。
しかあれ、鈍刀(なまくら)のすべる音(おと)、――砥石(といし)のひびき――
ら、りら、ら、りら、ほのかに雲雀。
しづかにも坐(すは)る水牛(すゐぎう)、戦慄(わななき)の、かなしみの唸(うなり)あげつつ、おもむろにおもむろにあかる不思議(ふしぎ)のいと赤き西天(さいてん)ながめ、恐ろしき、あるものの迫(せまり)にふるふ。
いづこにか洩れきたるヴオロンのゆめ………
『……そぞろ、あはれ、そぞろ、あはれ恋の帆船(ほぶね)の――空色(そらいろ)の帆もちぎれ、波にぬれて――今日(けふ)また二人(ふたり)、今日また二人、かなしき島根をさしてかへる………』
また鈍き砥石(といし)のひびき
『かなしき光に艫(ろ)のためいき、かなしき海ゆくわかき夢(ゆめ)のみそらにほのめく星の光、ああいますべなく、われら帰る。……』
ふと起る、この面(も)彼面(かのも)に嘲笑(あざわら)ふ人の諸(もろ)こゑ。
『……苦(くる)しき挑(いど)みにせきもあへぬ恋慕(れんぼ)の吐息(といき)に顫(ふる)ふこころ、嗚呼(ああ)このなやみをいかにかせむ。さあれど、すべなく帰る二人(ふたり)。……』
高みゆく砥石(といし)の響――鈍刀(なまくら)の増(ふ)えゆくすべり――
『……朱(あけ)なる接吻(くちつけ)、痛(いた)き怨言(かごと)、ああまた再度(ふたたび)抱き泣けど………』
また近く暗(くら)き嘲笑(あざけり)。
『……ああかなし、かなしき光、われらの光、内心(ないしん)のかなしき瞳………』
たと跳(をど)り逃(に)ぐる水牛(すゐぎう)あな、赤(あか)き血浴びしごとも啼き狂ひ絶望(ぜつまう)の唸(うなり)に奔(はし)る。
大空は見る見る月の面(おも)となり、たちまち赤き半円の盲(めし)ひし如(ごと)も広(ひろ)ごれば、一時(いちじ)に響く野の砥石、数(かず)かぎりなき刃(は)のにほひ――
はた、赤き此面(このも)彼面(かのも)の嘲笑(あざわらひ)……あまる空なくおほらかに広み尽くせる、大月(たいげつ)の恐怖(おそれ)の面(おもて)、爛(ただ)れたる眩暈(くるめき)三度(みたび)、くわつとして悶絶(もんぜつ)すれば見るが間(ま)に血烟(ちけむり)あがり、逃(のが)れゆく我(われ)のものごゑまた見えてとどろと奔る。
水牛(すゐぎう)の声………千万(せんまん)の砥石の響………苦(にが)き嘲罵(あざけり)………はたや、なほ奔(はし)る足音(あしおと)………
ら、りら、ら、りら、ほのかに雲雀。
はたといま聾(ろう)しぬる。色…………音…………光…………
   四十一年八月
大太皷の印象
跳(おど)りいづ、赤き獣(けだもの)、どんどん………とみかう見、円(まろ)らに笑ひ、はた跳(おど)る。どんどん………あなやいま街(まち)の角(かど)より人曲(まが)る。どんどん………また来(きた)る。どんどん………赤き獣(けもの)はふと消えて幼子(をさなご)となり、どんどん………電車線路を匍(は)ひめぐる。人また見ゆる。どんどん………あな、うち転(まろ)ぶ人のむれ、音(おと)もころころ。どんどん………幼子(をさなご)のうへに重なる。また転(まろ)ぶ。どんどん………逃げんと呻(うめ)く間(ひま)もなく、ひびきものうく、どんどん………鈍き電車は唸(うな)り来(く)る。はた、轢(し)き過(す)ぐる。どんどん………時に真白(ましろ)の雲の団街(たままち)よりのぼり、どんどん………かき消(き)ゆる人のあとよりどんどん………また跳(おど)る赤き獣(けだもの)どんどん………とみかう見、盲(めし)ひて笑ひ、はた、傲(おご)る。どんどん………
   四十一年八月
眼ふたげば
眼(め)ふたげば鳥は囀(さへづ)る。盲(めし)ひたる色赤き世界のなかに、疲れたる鳥は囀(さへづ)る。
盲(めし)ひたる色赤き世界のなかに、また見るは肋(あばら)のにほひ光なく、力なく、さあれほのめく。
肋骨(あばらぼね)泣(な)きかつ訴(うた)ふ。『わが骨(ほね)はわが骨(ほね)は色(いろ)あかき心(こころ)の楯よ。かくてはや終(つひ)の墓碑(おくつき)。』
鳥(とり)は囀(さへづ)る。
『婆羅門(ばらもん)の婆羅門(ばらもん)の塩を嘗(な)めつる咎(とが)ゆゑに昼(ひる)も夜(よ)もかくは啼(な)くめる。』いづこにか、さはきりぎりす。
盲(めし)ひたる色赤き世界のなかに、力なきうめきのやから騒(さは)ぎ立(た)ち、鳥はさへづる。はた消えてふと見ゆる顔。
その顔はあてに痩せたるかの少女(をとめ)。少女(をとめ)のなげく。『あはれ、君、われはもや倦みも死(し)なまし。』
鳥は囀(さへづ)る。
少女(をとめ)の顔はややありて白き手となり、疲れたる、葡萄酒を注(つ)ぐ顫(ふるへ)して『紅(あか)き酒、そはわが血潮、ほどほどに吸(す)ひて去(い)ねかし。』
鳥(とり)は囀(さへづ)る。
はと眼(め)ひらけば、わがまへに赤(あか)くちりかふ光線(くわうせん)の光(ひかり)の団(たま)のめくるめき。
鳥(とり)は囀(さへづ)る。
また眼とづれば、泣(な)きいづる骨(ほね)の揺曳(ゆらびき)、人の顔(かほ)。はた、きりぎりす。
鳥(とり)は囀(さへづ)る。
かうほね
きけ、あけぼのの香炉に、連弾(つれひ)く夜半(よは)のそらだき薄らひ、ほのにあかれば、清掻(すががき)、やがてもはらにひとつの香(かう)のいろのみ薫(く)ゆりぬ、――あはれ、水(み)の面(も)の後朝(きぬぎぬ)、――誰(た)をかかへすと、さは水無月(みなづき)のつくゑに香(かう)の火※[「火+(麈−鹿)」]くや、かうほね。  
■青き酒 
十呂盤
大いなる――聞け、大いなる黒金(くろがね)の巨人(きよじん)の指は絶えずわが紅玉(こうぎよく)の数(かぞへ)の珠(たま)を弄ぶ。
何時(いつ)よりか、知らず、左の掌(たなぞこ)の脈搏(う)つ上に水晶の星彫(きざ)む白壇の桁(けた)横たへつ。
見るは、ただ、蛇腹(じやばら)に似たる掌(たなぞこ)の暗き彫刻(ほりもの)弾(はじ)く指、また昼(ひる)と夜(よ)とも分かたぬ天(そら)の色。
わが珠(たま)の上(あが)れば、ひとつ、劫(がふ)の世に惑星うまれ、下る時、億年(おくねん)の栄華(えいぐわ)は滅ぶ加減則(かげんそく)。
斯くて、わが運(はこび)正しき紅玉の妙音楽は極みある命数(めいすう)の大歓楽に鳴りひびく。
光明の大千世界ひとときに叫喚つくる恐怖(おそれ)の日、はた、知らず、われと音(ね)に酔ふ星の桁。
聞くは、ただ、宏大無辺天空の寂寞(じやくまく)遠く筆走り、たまたまに『差引』記(しる)す夢の音。
さては、また、わかき巨人が黒金(くろがね)の高胸(たかむね)へだてわれは聞く、おほどかに鼓(つづみ)うつなる心(しん)の臓(ざう)。
はばたき
聞けとある大海原(おほうなばら)のただなかは終日(ひねもす)重(おも)きあかがねの霧たちこめてゆたゆたに濤(なみ)こそうねれ、日輪は凄まじ、黒き血の塊(くれ)と焦げて暈(くる)めく。
みるかぎり赤道下の炎熱に鉛のごとき鹹水(しほみづ)は炎(ほのほ)と燃えて、海蛇(うみへび)の鎌首高く、たまたまに煌(きら)めき、さてはづぶづぶと青く沈みぬ。
物なべて気懶(けだる)し重し、わだのはら溶(とろ)けたゆたふ鬱憂のうねりに疲れ夜のごとも深まる吐息。しかすがに、大寂静(だいじやくじやう)の空高く濃霧(のうむ)をわけて東より霊智の光しらしらと見え、かつ、消えぬ、大鳥(おほとり)の強きはばたき。
青き酒
青き酒、――など、汝は否(いな)む。これやわが深みの炎(ほのほ)、また永久(とは)の秘密の徴(しるし)、われと聴く激しき恋の凱歌(かちうた)に沈みにし色。
ただ刹那、千年(ちとせ)に一度(いちど)現るるかの星こそは、われとわが醸(か)みにし酒の火の飛沫(しぶき)、――濃き幻のしたたりに天(そら)さへ燬(や)けむ。
こを飲まば刹那の刹那、歎く血の歓楽(よろこび)にこそ、――痛ましき封蝋色(ふうらふいろ)の汝(な)が胸も、
焦げつつ聴かめ、この夜半(よは)に音(おと)なく響く管絃楽(オケストラ)、虚無より曳ける青き火の丈長髪(たけながかみ)を。
空罎
葡萄酒罎の上包(うはづつみ)、霊(たま)なるころも、何の魔か、飽くなき慾の痙攣(ふるへ)もてかく引き裂(ちぎ)り、むざむざと歩み棄てけむ。――火の片(きれ)ぞ素足にわれと泣かしむる。
いづくに行かば得らるべき命の糧(かて)ぞ。踏むはただ鉛の路の火の飛沫(しぶき)、死の色つづく高壁(たかかべ)のつらねのそこを蟻のごと匍ひもとほらむ末のすゑ。――
たちまち薫る酒の歌、蒸すかと見れば赭(あか)ら頬(ほ)の想(おもひ)の族(ぞう)らとりどりに、はや、酔ひしれて狂(たは)れきぬ、あな、わが血にぞ。
かくて、見よ、わが幻(まぼろし)に転(まろ)ぶもの吸い尽くされし空(から)の罎(びん)、――空(から)なる命、最終(いやはて)の辻の恐怖(おそれ)に、ふと青む。
炎上
焦げに焦がるる我心(わがこころ)、そことしもなく聞ゆるは執着(しふちやく)の日の喚叫(さけびごゑ)、黒ずむ悪の火の羽ぶき、油日照(あぶらひでり)の四辻(よつつじ)は凄惨として音もなく、雲なき空に電流の渦まき消ゆる断末魔。
もそろもそろに滞(とどこほ)る鉛の電車、一片(ひとひら)の命の紙と蝋づけの薄葉鉄(ぶりき)の人を吊るしつつ、黒き煉瓦の息づみにひたぶる咽(むせ)ぶ輪のほめき。事こそ起れ、いづこにか、早鐘すらむ物の色。
驚破、炎上(えんじやう)の火の光、見れどもわかぬ日ざかりにみるみる長く十字劃(か)きゐすくむ帯の※[「糸+條」]色(さなだいろ)、あなと、昏(くら)めば、後(しりへ)より、戞戞戞(かつかつかつ)と※[「足へん+鉋のつくり」](だく)ふませ、
隙(すき)こそあれや、たとばかり、鞭ひらめかし、驀然(まつしぐら)、黒き甲(かぶと)と朱の色の蒸汽喞筒(ぽむぷ)の馬ぐるま、跳(をど)りぞ過ぐれ、湯は釜に飛沫(しぶき)くわつくわと沸(たぎ)りたる
紅火
夜(よる)なり。二人、臨終(りんじう)の寝椅子(ねいす)に青み、むかひゐて毒酒(どくしゆ)を杯(はい)に。紅(くれなゐ)の燭(しよく)こそ点(とも)せ。まのあたり、無言(むごん)に凝視(みつ)め赫耀(かくえう)の波動(はどう)を聴(き)けば、夢心地(ゆめごこち)、浄華(じやうげ)のわかさ、身(み)も霊(たま)も紅(あか)く縺(もつ)るる赤熱(しやくねつ)よ。
火(ひ)は葡萄染(えびぞめ)の深帳(ふかとばり)、花毛氈(はなもうせん)や、銀(ぎん)の籠(かご)、また、羅(ら)のころも、緑髪(みどりがみ)、わかき瞳に炎上(えんじやう)の匂香(にほひが)熱(あつ)く、『時(とき)』の呼吸(いき)、瞬(またた)き燻(くゆ)る『追懐(おもひで)よ。『恋(こひ)』は華厳(けごん)の寂寞(じやくまく)に蒸し照る空気うち煽(あふ)る。
時(とき)経(へ)ぬ唇(くち)は『楽欲(げうよく)』の渇(かわき)に焦(こが)れ、心(しん)の臓(ざう)喘(あへ)げば、紅火(こうくわ)『煩悩(ぼんなう)』の血彩(ちいろ)薫(くん)ずる眩暈(くるめき)よ。朱(しゆ)の蝋涙(ろふるい)は毒杯(どくはい)の紫(むらさき)擾(みだ)し照り雫(しづ)く。
今こそ蝋(ろふ)は琺瑯(はうろう)に炎(ほのほ)のころもひき纏(まと)ひ、音(おと)なく溶(と)くる白熱(びやくねつ)に爛(ただ)れ艶(えん)だつ弱(よわ)ごころ、無言(むごん)に泣けば『新生(しんせい)』の黄金光(わうごんくわう)ぞ燃(も)えあがる。
暮愁
暮れぬらし。何時(いつ)しか壁も灰色(はひいろ)に一室(ひとま)はけぶり、盤上(ばんじやう)の牡丹花(ぼたんくわ)ひとつ血のいろに浮び爛(ただ)れて、散るとなく、心の熱も静寂(じやうじやく)の薫(くゆり)に沈み、卓(しよく)の上両手(もろて)を垂れて瞑目(めつぶ)れば闇はにほひぬ。
※[「窗/心」]の外(と)は物(もの)古(ふ)りし街(まち)、風湿める香(かう)のぬくみに、寺寺の梵音うるむ夕間暮、卯月つごもり、行人(かうじん)の古めく傘に、薄灯(うすひ)照り、大路(おほぢ)赤らみ、柑子(かうじ)だつ雲の濡いろ、そのひまに星や瞬く。
わが室(むろ)は夢の方丈、匂やかに名香(みやうかう)なびき、遠世(とほよ)なる暮色(ぼしよく)の寂(さび)に哀婉の微韻(ゆらぎ)を湛へ、髣髴と女人(ぢよにん)の姿光さし続く幾むれ、白鳥(はくてう)の歌ふが如く過ぎゆきぬ、すべる羅(ら)の裾。
そのなかに君は在(おは)せり。緑髪(みどりがみ)肩に波うち、容顔の清(すが)しさ、胸に薔薇色(ばらいろ)の薄ぎぬはふり、情界の熱き波瀾に黒瞳(くろひとみ)にほひかがやき、領巾(ひれ)ふるや、夢の足なみ軽らかに現(うつゝ)なきさま。
ああ、それも束(つか)の間(ま)なりき。花祭ありし夕(ゆふべ)か、群衆(ぐんじゆう)のなだれ長閑かに時花歌(はやりうた)街(まち)を流れて辻辻に山車(だし)練る日なり、行きずりに相見しばかり、高華なる君が風雅(みやび)も恋ふとなく思ひわすれき。
今行くは追憶(おもひで)の影――黄金なす幻追ひて、衰残の心の大路(おほぢ)暮れゆけば顧みもせぬ人生の若き旅びと、――くづをれて匂ゆかしみ我愁ふ、追慕の涙綿綿と青む夜までも。 
■乱れ織 
無花果の園
なにか泣く、野より、をとめよ、無花果(いちじゆく)の汝(な)が園遠くわれは来ぬ。いざ眼をあげよ。
今日(けふ)もまた葉かげ、実(み)がくれ、甘き香の風に日あびて語らまし。いざ手を交せ。
さは泣くや、夜にか、をとめよ。汝(な)が園は焼けぬと。草も、無花果(いちじゆく)の樹も実も無しと。
おお、なべて園はいたまし。葉も幹も、ああ、実も香(か)もか、草の床(とこ)――恋の巣までも。
さあれ、よし。白※[「巾+白」](しらぎぬ)やはにうるはしき汝(な)が頬(ほ)の涙まづぬぐへ。すみれのにほひ。
曾て汝(な)は春のほこりに、なに誓ひ、いづれ惜みしこの恋と、その古園(ふるぞの)と。
ああ、園は野火(のび)に焼かれて今は無し。――美(うま)し追憶(おもひで)ただ胸の香(か)にこそにほへ。
さば尋(と)めむ、恋(こひ)の歓楽(よろこび)。今日(けふ)よりは、野山(のやま)に、谷(たに)に、百合(ゆり)、さうび、花(はな)の日(ひ)の栄(はえ)。
ああ、かくて、終(つひ)の愛欲(あいよく)。火(ひ)と燃(も)えて身(み)を焼(や)く夜(よ)にも、汝(な)は泣(な)くや、いかにをとめよ。

燕は翔(かけ)る、水無月(みなづき)の雲の旗手(はたて)の濡髪に。――暗き港はあかあかと霽(は)れぬ、滴(したた)る帆の雫。
燕は翔る、居留地の柑子色(かうじいろ)なす※[「窗/心」]玻璃(まどがらす)ななめに高く。――ほつほつと霧に湿(しめ)らふ火のにほひ。
燕は翔(かけ)る、葉煙草とヴオロン薫(く)ゆる和蘭(おらんだ)の酒楼のまへを。――笛あまた暮れつつ呻(によ)ぶ海の色。
燕は翔(かけ)る、花柘榴(はなざくろ)――濡るる埠止場(はとば)の火あかりに。かくてこそ聴け、艶女(やしよめ)等が猥(みだ)らにわかきさざめごと。
珊瑚切
午(ひる)さがり、渚(なぎさ)に緩(ゆる)き波の音。少女(をとめ)はやがてあてやかに『何(な)ぞ。』と答(いら)へぬ、伏眼(ふしめ)して、紅き珊瑚の枝あまた撰(えら)みつ、切りつ、かろらかに鋸の歯のきしろへば、ほそき腕(かひな)と頬(ほ)のうへに薔薇(ばら)いろの靄さとけぶる。
ややありて、渚(なぎさ)に緩(ゆる)き波の音。男は燃ゆる頬を寄(よ)せて『君をおもふ。』と忍びかに、さては手速(てばや)にうしろより珊瑚細工の車の柄(え)かろく廻せば、ためらへる白(しろ)の上衣(うはぎ)と髪の毛に薔薇(ばら)いろの靄さとけぶる。
のびやかに渚(なぎさ)に緩き波の音。少女(をとめ)は、さいへ、あからみて『吾も。』とばかり、海の日を玻璃に透かしつ、やうやうに形(かたち)ととのふ恋の珠(たま)磨きつ、吹きつ、をりをりに車(くるま)まはせば、美しく薔薇いろの靄さとけぶる。
乱れ織 ――天草雅歌――
わが織るは、火の無花果(いちじゆく)を綴りたる花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)の猩猩緋(しやうじやうひ)。とん、とん、はたり。
さればこそ絶えず梭(をさ)燃え、乱れうつ火の無花果(いちじゆく)の百済琴(くだらごと)。とん、とん、はたり。
聞き恍(ほ)れて、何時(いつ)か、我が入る、猩猩緋(しやうじやうひ)花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)のまぼろしに。とん、とん、はたり。
乱れ織、落つる木の実のすががきにふとこそうかべ、銀の楯。とん、とん、はたり。
飜へす貝多羅葉(ばいたらえふ)の馬じるし花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)のまぼろしに。とん、とん、はたり。
また光る白き兜(かぶと)の八幡座(まちまんざ)、火の無花果(いちじゆく)の百済琴(くだらごと)。とん、とん、はたり。
乱れ織、つと空ゆくは槍の列(つら)。花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)のまぼろしに。とん、とん、はたり。
さては見つ、火の無花果(いちじゆく)のすががきに君が鎧の猩猩緋(しやうじやうひ)。とん、とん、はたり。
われは、また花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)のまぼろしに白き領巾(ひれ)ふる。百済琴(くだらごと)。とん、とん、はたり。
そのときに、馬は嘶く、しらしらと、火の※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](とろめん)の無花果(いちじゆく)に。とん、とん、はたり。
あはれ、いま花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)のすががきに再び擁(いだ)く、君と我。とん、とん、はたり。
天(そら)も見ず、被(かつ)ぐは滴(した)る蜜の音、君が鎧の猩猩緋(しやうじやうひ)。とん、とん、はたり。
こは夢か、刹那か、尽きぬ幻(まぼろし)か、花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)の梭(をさ)の音。とん、とん、はたり。
高機 ――天草雅歌――
高機(たかはた)に梭なげぬ。きり、はたり。
その胸に梭なげぬ。きり、はたり。
その高機に、その胸にきり、はたり。
顛末 ――天草雅歌――
『花ありき、われらが薔薇(さうび)、摘まれにき、われらが薔薇(さうび)。かくて、また、何時(いつ)としもなく凋みにき、われらが薔薇(さうび)。』あはれ、炉(ろ)に凭(よ)ればかならず、顛末(もとすゑ)はかかりきといふわが媼(をうな)、その日の薔薇(さうび)、『何ゆゑ。』と問へば、かくこそ、火にいぶる紅き韈(したうづ)つと退(ひ)きて噎(む)せ入りながら、『子らよ、そは、ああ、その薔薇(さうび)あまりにも紅(あか)かりしゆゑ。』
ためいき
今しがた、夜会(やくわい)ははてぬ。花瓦斯(はながす)のほそきなげきに絹帷(きぬとばり)紅(あか)き天鵝絨(びろうど)、散(ち)り藉(し)ける花束(はなたば)のくづ、おぼろげに室(むろ)は青(あを)みて、うらわかき騎士(きし)が拍車(はくしや)の音(ね)の乱(みだ)れ、舞(まひ)の足(あし)ぶみ、頬(ほ)のほてり、かろきさざめき、髪(かみ)あぶら、あはれ、楽声(がくじやう)、あたたかに交(まじ)りみだれてゆめのごと燻(くゆ)りただよふ。
そのなかに、水(みづ)のつめたさちらぼひぬ、これや、一夜(ひとや)を伴(つれ)もなく青(あを)みしなへし女子(をみなご)がわかきためいき。
時鐘
身にか沁(し)む。――『わが世がたりもはや尽きぬ。興(きよう)もなき事(こと)。わかうどよ、紅(あか)き炉(ろ)の火に美しき足袋をな焼きそ。かの宵の恋にもましてうそ寒き夜にもあるかな。』老媼(をうな)かくつぶやきながら力なう柴折りくべぬ。そともには雪やふるらむ。燃ゆる眼にわかきは見あげ、言葉なく、またうつぶきぬ。ひとしきり、沈黙(しじま)やぶれて、煤(すす)けたる江戸絵の壁に禁軍の紅帽(こうばう)あかり、はちはちと火(ひ)の粉(こ)飛(と)びちり、しづまりぬ。九時にかあらむ。ああ今、目白僧園の鐘鳴りやみぬ。
若し
炉(ろ)の椅子に我ありとせよ、また火あり熾(さか)れりと見よ。棚の上(へ)の小さき自鳴鐘(めざまし)鳩いでて三つと鳴かぬ間、わが唇(くち)は汝がくちに、頸(うなじ)まき、ただ火のもだえ、また韈(たび)の焦ぐるも知らね、さいへ、夏、我やはた、火の気(け)なき炉(ろ)に椅子もなし、人妻よ、安かれ、汝(なれ)も。
たはれ女
『やよ、しばし、そのうつくしきわかうどよ、君はいづこへ。』『君は、など。』『美男(うましを)、あはれ、いつの日か君に見えけむ。』『しかはあれ、われはえ知らず。』『さな去にそ、その御瞳(みひとみ)のうつくしさ、いかで忘れむ。』『さあれ、など、』『まづ、おきたまへ、原のぬし?』『いな、』『さは知りぬ、蜂須賀の君か。』『いな、いな。』『ほ、ほ、さても、御歳(みとし)は。』『十九。』『はしけやし、法科のかたか。』『いな。』『いなと、さらばいとよし。さて、君はいづこへ。』『麻布、君は、また。』ほほ、わすられぬ情人(こひびと)を招ぎに。』とばかり、かたへなる自働電話の火のとびらたわやに開(あ)けて、つと入りぬ。
驢馬の列 ――かかる詩の評家に――
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)をゆく。見よ、のろのろの練足(ねりあし)に、鼻も眼もなきひとやから載せて、うなだれ、呻(によ)びたる。
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)を行く。鳴くは通草(あけび)の変化(へんげ)らか、また、耳もなきひとやから口のみあかくただれたる。
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)をゆく。あはれ、終日(ひねもす)、手さぐりに生灰色(なまはひいろ)の怪(け)のやから、のへらのへらと鞭ふれる。
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)をゆく。もとより、人の身ならねば、色もにほひも歌ごゑも嗅(か)ぐすべはなし、罵れる。
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)をゆく。ただ戸に咲ける罌粟(けし)ひとつ知らえぬ汝等(なれら)、いかで、さは深き館(やかた)の内心(ないしん)を。
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)をゆく。すでに罵る汝(な)が敵(あだ)は白馬(はくば)に抱く火の被衣(かつぎ)千里(せんり)かなたのくちつけに。 
■落雷 
落雷
静まりてなほもしばらく霧のぼる高原(たかはら)つづき爛(ただ)れたる「時」ははるかに、恐ろしき苦悩をはこぶ。驟雨(にはかあめ)またひといくさ、走りゆく雲のひまよりかろやかに青ぞら笑ひ、日の光強く眩しく野はさらに酷熱のいろ。腥(なま)くさきオゾンのにほひ雫(しづく)する穂麦のしらみ、今裂けし欅(けやき)の大木(おほぎ)燥(い)るがごと疼(うづ)くいたでに脂(やに)黒くしたたるみぎり、油蝉ぢぢと鳴き立つ。根がたには蝮(まむし)さながら髪あかき乞食(こつじき)ひとり仰向けに面桶(めんつう)つかみ、見よ、死せり。雷火(らいくわ)にゆがむ土いろの冷(ひや)き片頬に血の雫――濡れて仄めく一輪の紅きなでしこ。
長月の一夜(初稿)
長月の鎮守の祭(まつり)夜もふけて天(そら)は険しく雨もよひ、月さしながら稲妻す、濃雲をりをり鉛いろ赤く爛れて野に高き軌道を照らす。
このあたり、だらだらの坂赤楊(はん)高き小学校の柵尽きて、下は黍畑こほろぎぞ闇に鳴くなる。いづこぞや、女声して重たげに雨戸繰(く)る音。
大師道、辻の濃霧(こぎり)は、馬やどのくらめきあかりに幻燈のぼかしの青み蒸しあつく、ここに破(やれ)馬車七つ八つ泥にまみれて、ひつそりと黒う影しぬ。
泥濘(ぬかるみ)は物の汗ばみ生(なま)ぬるく、重き空気に新らしき木犀(もくせい)まじり馬槽(うまぶね)の臭気(くさみ)ふけつつ、懶(もの)うげのさやぎはたはた夏の夜の悩(なやみ)を刻む。
足音す、生血のにじみしとしとと、まへを人かげおちうどか、はたや乞食か、背に重き佩嚢(どうらん)になひ、青き火の消えゆくごとく呻きつつ闇にまぎれぬ。
嗚呼今か畏怖(おそれ)の極み、轡虫(がちやがちや)は調子はづれに噪(わ)めきつつ、はたと息絶え、落ちかかる黄金(こがね)の弦(ゆづる)心臓の喘(あへぎ)さながらまた黒き柩(ひつぎ)にしづむ。
終列車とどろくけはひ。凄まじき大雨のまへを赤煉瓦高きかなたは一面に血潮ながれて野は紅(あか)く人死ぬけしき、稲妻す、――嗚呼夜は一時。

海ちかき真闇(まやみ)の狭間(はざま)、夜(よ)の火の粉まひふるなかに酒の罎(びん)とりて透かしぬ、はしりゆく褐色(くりいろ)の顔、汽車ぞいま擦れちがひぬる。かたむけぬ、うましよろこび、いな、胸にしらべただるる煉獄の火のひとしづく。時に、誰(た)ぞ、こん、こん、か、かん、槌つらね、蹠(あなうら)うつは。糸崎と子らがよぶこゑ。
そぞろありき
風寒き師走月(しはすづき)、それの港をわれひとり、夕暮のそぞろありきす。薄闇のほのかなる光のなかに老舗(しにせ)立つひと町は寡婦(やもめ)のごとくわれゆゑに面変(おもがは)り、かくや病みけむ。人あまた、はかなげにそともながめて石のごと店店(みせみせ)に青みすわりき。たまたまに、灯(あかり)さす格子(かうし)はあれど柩(ひつぎ)うつ槌(つち)の音(おと)ただにせはしく、煉瓦つむ空地(あきち)には、あはれ誰が子ぞ、心中(しんぢう)の数へぶし拙(つた)なげながら音(ね)もうるむ連弾(つれびき)のかなしきしらべ、いつになく旅人の足をとどめて、灯(ひ)は青く柳立つ闇にともりき。
港には浪の音(ね)も鈍(にぶ)にひびらぎ、灰だめる氷雨雲(ひさめぐも)空にみだれてすそあかる黄(あめ)いろの遠(をち)に、海鳥(うみどり)煙(けぶり)濃(こ)き檣(ほばしら)の闇に一列(ひとつら)朱(しゆ)の色の大き旗鳴きもめぐりぬ。船はまた鐘鳴らし、かくて失(う)せにき。そのゆふべ君のかげ消えしかなたに、さてしもや、みえそめぬ海のかなたにけふも見よ、木星の青ききらめき。
暗愁
なにごとぞ、夕まぐれ、人はさわさわ、新開(しんかい)のはづれなる坂のあき地にうづくまる。そこ、ここに煉瓦(れんぐわ)、石灰(いしばひ)、高草(たかくさ)の黄(き)にまじり、風ぞ冷えたる。
灰色(はひいろ)のまろき石子(いしこ)らはまろがし据ゑ、やをら爪(つま)立ちぬ、爺(おぢ)が肩よりのぞき見(み)す。――様様(さまざま)のくらき呼声(よびごゑ)世のほかの町の闇ひさぐ気遠(けどほ)さ。
古井(ふるゐ)あり、桁(けた)はみなくづれゆがみて桔槹(はねつるべ)ギロチンの骨(ほね)とそびやぎ、血はながる。赤ばみし蛇のぬけがらさかしまに下(した)はこれ暗き死の洞(ほら)。
人はみなめづらかに首(くび)つきいだしおづおづと環(わ)ぞ退(しざ)る。あはれ男子(をのこ)ら三人(みたり)まで影薄う青み入りぬれ、そよとだに腰綱(こしづな)の端(はし)もひびかず。
時や疾(と)し、ひよろひよろの青洋服(あをやうふく)はわと前へ面(おも)がはり、のめり泳ぎつ。と見ぬ、いま、むくむくと臭き瓦斯の香(か)町や蔽(おほ)ふ、みるがまに黄ばむ天色(そらいろ)。
驚破(すは)と、見よ、街道へまろびなだれて西日する町の屋根、高き耶蘇寺(でら)、ふりあふぎ人はみな面(おもて)冷(ひ)えぬれ。風さらにひややかに草をわたりぬ。
灯(ひ)ぞともる、支那床(どこ)の玻璃に人見え、あかあかと末広(すゑひろ)に光(ひかり)凍(こほ)れば、古煉瓦(ふるれんぐわ)うづだかき原のくまぐま、ほそぼそとこほろぎの鳴く音(ね)洩れぬる。
地獄極楽
『御覧(ごらう)ぢやい、まづ。』と濁(だみ)ごゑ屋根低き山家の土間は魚燈油のくすぶり赤く、人いきれ、重き夜霧に朦朦と地獄の光景(けしき)現(げん)じいづ。―あはれ鞭指(さ)し、案内者(あないじや)は茶いろの頭巾殊勝げに念仏ぞすなる。
木戸にまた高く札うち、蓮葉(はすは)なる金切(かなきり)ごゑと老いたるが絶えず客よぶ、――と見る、ただ赤丹(あかに)剥(は)げたる閻魔王、青き牛頭(ごづ)馬頭(めづ)、講釈のなかばいちどにがくがくと下顎(したあご)鳴らす。――『評判の地獄極楽。』胸わるき油煙のにほひ女子らが汗に蒸されて、焦熱のこころあかあか火の車、または釜うで、餓鬼道の叫喚(わめき)さながら人人が苦悩を醸す。さはれ、なほ爺(おぢ)は真面目(まじめ)に諳誦す、業(ごふ)の輪廻(りんね)を。
盂蘭盆の寺町通、猿芝居幕のあひまか喇叭節みだらに囃(はや)す。――うち湿(しめ)る沈(ぢん)の青みを稚子(ちご)あそぶ賽(さい)の河原は、長長と因果こそ説け、『なまいだぶ。』こゑもあはれに、かたのごと、涙を流す。
ひと巡(めぐ)り、はやも極楽、絵灯籠紅(あか)き出口は華やげ楼閣そびえ、頻伽鳥(びんがてふ)鳴けり。この時、酒の香(か)す、懐(ふところ)がくり徳利嘗め、けろり鐸(すず)ふる、太鼻の油汗見よ。『先様(せんさま)はこれでお代り。』
熊野の烏
夜は深し、熊野の烏旅籠(はたご)の戸かたと過ぐ、一瞬時(いつしゆんじ)、――燈火(ともしび)青(さを)に閨を蔽(おほ)ふかぐろの翼(つばさ)煽(あほ)り搏(う)つ羽(は)うらを透(す)かし消えぬ。今、森(しん)として冷えまさる恐怖(おそれ)の闇に身は急に潰(つひ)ゆる心地(ここち)。「変らじ。」と女(をみな)の声す。ひと呻(うめ)く、熊野の烏。丑満(うしみつ)の誓請文(きしやうもん)今か成る。宮のかなたは忍びかに雨ふりいでぬ。『誓ひぬ。』と男の声す。刹那、また、しくしくと痙攣(つりかが)む手脚のうづき、生贄(いけにへ)の苦痛(くつう)か、あなや、護符ちぎる呪咀(のろひ)のひびき。
はたと落つる、熊野の烏。と思へば、こは如何(いか)に、身は烏、嘴(くちばし)黒く黒金の重錘(おもり)の下に羽(はね)平(ひら)み、打つ伏(ぶ)す凄さ。はた、固く、痺(しび)れたる血まみれの頭脳(づなう)の上ゆ、暗憺と竦(すく)まりながら魂(たま)はわが骸(むくろ)をながむ、

時は冬、霜月(しもつき)下旬(げじゆん)、夜(よ)の一時(いちじ)、真闇(まやみ)の海路(うなぢ)。玄海か、朝鮮沖か、知らず。ただ波涛(はたう)の響※[「革+堂」]鞳(だうたふ)と※[「窗/心」]うつ暗(くら)さ。門司(もじ)いでて既に幾時(いくとき)。いとど蒸す夜来(やらい)の空は、雨交(まじ)り雹さへ乱れ、灘(なだ)遠く雷(らい)するけはひ。不安(ふあん)いま、黒き旗(はた)して死の海を船ゆく恐怖(おそれ)、深沈(しんちん)の極(きは)み真黒(まくろ)に点鍾(てんしよう)の悲音(ひおん)たまたま、天候(てんこう)の険悪いよよ、闇憺(あんたん)とわが夜はくだつ。
一室(いつしつ)に見知る顔なし。何ごとぞ、宵(よひ)のほどより、紅毛(こうもう)の羅面絃弾者(ラベイカひき)は白眼(しろめ)むき絶えず笑へり。陰翳(いんえい)は彼が肋(あばら)に明暗(めいあん)す一張一弛(いつちやういつし)、カンテラの青み吸ひつつ、縞蛇(しまへび)の喘(あへ)ぐが如し。深夜(しんや)なり。疫病顔(えきびやうがほ)に、衆人(しゆうじん)は疲れ黄ばみて銭(ぜに)ひとつ投ぐる者なし。乱撃(らんげき)よ、早鐘(はやがね)急に、甲板は靴音高く、『驚破(すは)。』『風ぞ』『誰(た)そ巻け』『倒せ。』『綱(つな)投げよ。』一時に水夫(かこ)ら狼狽(らうばい)の銅羅声(どらごゑ)擾(みだ)し、『飛沫(しぶき)』『それ辷るな』『立て。』と口口に、巻き、投げ、昇り、立ち騒ぐ刹那か、颯(さつ)と暴風の襲来迅く、帆の半、帆ばしら、帆桁、折れ、唸り、はためき、倒れ、動揺す、奈落へ、天へ、激瀾(おほなみ)の鳴号凄く
轟(ぐわう)轟と頭上に下に、刻刻の不穏等(ひと)しく一室は歯の根もあはず、惨たりな、垂死(すゐし)の境(さかひ)。
紅毛は笑ひつつあり。ふと見れば何らの贄(にへ)ぞ、わが膝は眩(まば)ゆきばかり乱髪(らんぱつ)の女人に温み、華奢ながら清き容顔夢(ゆめ)みるか、青うゑまひぬ。恋びとか、あはれ、抱けば軽軟(けいなん)の吐息すずろに頬(ほほ)触れぬ、薔薇(さうび)のにほひ。嗚呼暫時(しばし)流離の胸も脈絡の炎(ほのほ)に爛れ、痛楚なる人が呻吟(うめき)も、念仏も悲鳴も知らず、情界の熱き愉楽に、わが霊(れい)は喘(あへ)ぎ焦(こ)がれぬ。
何ごとぞ、一時に音し、※[「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」]のごと五体は飛べり。瞬く間、危急の汽笛一斉(せい)の叫喚(けうくわん)――うつつ、秒(べう)ならず、後甲板(こうかんぱん)は懸命の格闘黒く、『咄(とつ)、放せ』短艇(ボウト)に魔あり、櫂あげて逃路を塞ぐ。目前の障碍(さまたげ)――知らず紅毛か、水夫(かこ)か、女か、他人なり――死ねやとばかり、発止(はつし)、余は短銃(ピストル)高く一発す、続いて二発、三発す。あはや横波驀地(まつしぐら)頭上を天へ、舳(ぢく)なかば傾く刹那、しやしやしやしやと水晶簾ぞ落下すれ、苦鳴もろとも闇中の渦巻分時、微塵なり。――水天裂けて髣髴と白光走る。
眼ひらけば、小春のごとも麗らかに空晴れわたり、身辺は雑木(ざわき)踈(まば)らに、名も知らぬ紅花叢(むら)咲き涼風(すずかぜ)の朝吹く汀(みぎは)、砂雲雀(すなひばり)優にあがれり。ああ、神よ、他人は知らじ、我はわが生命(いのち)の真珠全きを今もながめて、満腔の歓喜(よろこび)高く大音に感謝しまつる。
吐血
罌粟畑(けしばたけ)日は紅紅(あかあか)と、水無月の夕雲爛(あか)れ、鳥鳴かず。顔火のごとく花いづるわかうど一人(ひとり)、黒漆のわかき瞳に楽欲(げうよく)の苦痛を湛へ、大跨に一歩ふりむく。極熱の恋慕の郊野蒼然と光衰へ、草も木も瀕死の黄ばみ、夜のさまに凄惨たりや。う、とばかり、刹那膝つき、絶望に肺はやぶれて吐息しぬ――くれなゐの花。 
■柑子咲く国 
南国
ああ、君帰(かへ)れ、故郷の野は花咲きてわかき日に五月(さつき)柑子(かうじ)の黄金(こがね)燃(も)え、天(そら)の青みを風ゆるう、雲ものどかに薄べにのもとほりゆかし。――帰(かへ)れ君、森の古家(ふるや)の蔦かづら花も真紅(しんく)に、飜(ひるが)へれ、君はいづこに、――北のかた柩(ひつぎ)まうけの媼(おうな)さび、白髪(しらが)まじりの寒念仏(かんねぶつ)、賢(さか)し比丘(びく)らが国や追ふ。ああ鬱憂(うついう)の山毛欅(ぶな)の天(そら)、日さへ黒ずみ、朽尼(くちあま)が涙眼(いやめ)かなしむ日の鉦(かね)に、畠(はたけ)の林檎紅(べに)饐(す)えて蛆(うじ)こそたかれ。帰れ、君、――筑紫平の豊麗(ほうれい)に白(しろ)がね鐙(あぶみ)、わか駒(ごま)の騎士も南(みなみ)へ、旅役者、歌の巡礼、麗姫(ひめ)、奴(やつこ)、絵だくみ、うつら練(ね)り続(つづ)け。なかに一人(いちにん)、街道(かいだう)や藤の茶店(ちやみせ)の紅(あか)き灯に暮れて花揺(ゆ)る馬ぐるま、鈴の静(しづ)けさ、四(よ)とせぶり、君も帰らふ夕ならば靄の赤みに、夢ごころ、提灯(ともし)ふらまし。朝ならば君は人妻、野に岡に、白き眼つどへ、ものわびし、われは汀(みぎは)の花菖蒲(はなあやめ)、風も紫(ゆかり)の身がくれに御名や呼ばまし、逢見初(あひみそ)め忍びしわかさ薄月に水の夢してほそぼそと、ああさは通(かよ)へ、翌(あけ)の日も、山吹がくれ雨ならば金糸(きんし)の小蓑(みの)、日には※[「足へん+鉋のつくり」](だく)、一の鳥居を野へ三歩、駒は木槿(むくげ)に、露凍(つゆしみ)の忍び戸(ど)、それもほとほとと牡丹花(ぼたんくわ)ちらぬほど前へ、そよろ小躍(をど)れ薔薇(いばら)みち、蹈めば濡羽(ぬれは)のつばくらめ、飛ぶよ外(と)の面(も)の花麦(はなむぎ)に。あれ、駒鳥のさへづりよ。籬(まがき)根近し、忍び足、細ら口笛(くちぶえ)琴やみぬ、衣(きぬ)のそよめき、さて庭へ、(それと隠れぬ。)そら音(ね)かと、(空は澄みたれ、また鳴(な)らす。)ほほゑみ頬(ほほ)に、浮(うけ)あゆみ楝(あふち)、柏(かしは)の薄ら花ほのにちる日(ひ)の君ならばそぞろ袂もかざすらむ。はや午(ひる)さがり、片岡(かたをか)の畑(はた)に子(こ)ら来て、早熟(はやなり)の和蘭覆盆子(おらんだいちご)紅(べに)や摘む歌もうらうら。――風車(かざぐるま)めぐる草家(くさや)は鯉のぼり吹きこそあがれ、ここかしこ、里の女(をんな)は山梔(くちなし)の黄にもまみれて糯(もち)や蒸(む)す、あやめ祭のいとなみに粽(ちまき)まく夜のをかしさか、頬(ほ)にも浮(うか)べてわかうどは水に夕(ゆふべ)の真菰刈(まこもがり)、いづれ鄙びの恋もこそ。君よ。われらは花ぞのへ、夕栄(ゆふばえ)熱(あつ)き紅罌粟(べにげし)の香(か)にか隠(かく)れて筒井(つつゐ)づつ振分髪(ふりわけがみ)の恋慕びと君(きみ)吾(われ)燃ゆる眼(め)もひたと、頬(ほほ)ずりふるへそのかみの幼(をさ)な追憶(おもひで)――君知るやフランチエスカの恋語(こひがたり)――胸もわななけ、人妻(ひとづま)か、罪か、血は火の美しさ、激しさ、熱(あつ)さ、身肉(しんにく)の爛(ただ)れひたぶるかき抱(いだ)き犇(ひし)と接吻(くちつ)け死ぬまでも忘れむ、家も、世も、人も、ああ、南国の日の夕。
恋びと
ああ七月(しちぐわつ)、山の火ふけぬ。――花柑子(はなかうじ)咲く野も近み、月白ろむ葡萄畑(ぶだうばたけ)の夜(よ)の靄に、土蜂(すかる)の羽音(はおと)、香(か)の甘さ、青葉の吐息(といき)、情慾の誘惑(いざなひ)深く燃(も)え爛(ただ)れ、仰げば空の七(なな)つ星(ほし)紅(あか)く煌(きら)めき、南国の風さへ光る蒸し暑さ。はや温泉(ゆ)の沈黙(しじま)――烏樟(くろもじ)の繁み仄透(ほのす)き灯(ひ)も薄れ、歓語(さざめき)絶えぬ。――湯気(ゆげ)白う、丁字湯(ちやうじゆ)薫る女(をんな)の香(か)、湿(しめ)りただよひわが髪へ、吹けば艶(えん)だつ草生(くさぶ)なか。露みな火なり。白百合は喘(あへ)ぎうなだれ、花びらの熱(ねつ)こそ高め。頬(ほ)に胸にああ息づまる驕楽(けうらく)の飛沫(しぶき)ふつふつ抱擁(だきしめ)に人死ぬにほひ、血(ち)も肉(にく)もわななきふるふ。
ああ七月(しちぐわつ)、ふと、われ、ききぬ――忍び足熱(あつ)きさやぎを水枝(みづえ)照る汀(みぎは)の繁木(しげき)そのなかに。さは近づくは黄金髪(こがねがみ)、青きひとみか、また知(し)らぬ、亜麻(あま)いろ髪か、赤ら頬(ほ)か、ああ、そのかみの恋人か、謎の少女(をとめ)か。遠つ世の匂香(にほひが)あまき幻想(まぼろし)に耳はほてりぬ。うつうつと眼さへ血ばみて、極熱(ごくねつ)の恋慕(れんぼ)胸うつくるほしさ。風いま燃(も)えぬ。ゆめ、うつつ、足音(あのと)つづきぬ。身肉(しんにく)のわづらひ、苦(にが)き乳(ち)の熱(ねつ)に汗ばみ眠(ぬ)れば心の臟(ざう)、牡丹花(ぼたんくわ)の騒ぎ瞬(またたく)く間(ま)、あな頬(ほ)は爛(ただ)れ、百合のなか、七尺(しちしやく)走(はし)る髪の音、ひたと接吻(くちつ)け、紅(くれなゐ)の息、火の海の、ああ擾乱(じようらん)や、水脈(みを)曳(ひ)き狂ふ爛光(らんくわう)に、五体(ごたい)とろけて身は浮きぬ。牡丹花(ぼたんくわ)ひとつ、血(ち)の波(なみ)を焦(こ)がれつ、沈(しづ)む。
霊場詣
行けかし、さらば南国の番(ばん)の御寺(みてら)へ。春なれば街(まち)の少女(をとめ)が華(はな)やぎに、君も交りて美しう、恋の祈誓(きせい)の初旅(はつたび)や笈摺(おひずる)すがた鈴(すず)ふりて、大野(おほの)のみなみ、菜の花の黄金(こがね)海(うみ)透(す)く筑紫みち列(つら)もあえかのいろどりに御詠歌(ごえいか)流し麗(うら)うらと練(ね)りも続(つづ)く日、軟(なよ)かぜに絵日傘あぐる若菜摘、法師(ほふし)、馬上の騎士たちも照りつ乱れつ菅笠に蝶も縺(もつ)るる暖かさ。はじめ御山(みやま)の清水寺(きよみづじ)。風雅(みやび)古(ふ)る代(よ)の絵すがたか、杉の深みの薄ざくら花も散りかふ古(ふる)みちを、六部(ろくぶ)、道心(だうしん)、わか尼(あま)のうれひしづしづ鉦(かね)うつや、袖も湿(うるほ)ふゆきずりに霊場詣(れいぢやうまうで)、杖かろく、番の歌(うた)ごゑ華(はな)やかに、巡礼衆が浮(うけ)あゆみ、峡(かい)は葉洩れの日のわかさ、風も霞(かす)みて、春の雲白ういざよふ静けさに鶯鳴けば、ちらちらと対(つゐ)の袂(たもと)へ笈摺(おひずる)へ、薄ら花ちるうららかさ。かくて霊地(れいち)の荘厳に古(ふる)き杉立つ大木(たいぼく)の霧の石階(いしきだ)ほの青み、白日(ひる)の灯(ひ)ともる奥深(おくふか)さ、遠みかしこみ絵馬堂へ、――桜またちる菅笠や、音羽(おとは)の滝に紅(くれなゐ)の唇(くち)も嗽(そそ)がむ街少女(まちをとめ)、思もわかき瞳して御堂(みだう)のまへの静寂に鈴ふりならびぬかづくや、金(きん)の香炉(かうろ)の薄けぶり、羅蓋(らがい)蓮華(れんげ)の闇(やみ)縫(ぬ)うてほのかにそらへ星の如(ごと)仏龕(みづし)に光る燈明(みあかし)の不断(ふだん)の燻(くゆ)り、内陣(ないぢん)の尊(たふと)さ深さ、先達(せんだつ)に連れて献(ささ)ぐる歌ごゑも後世(ごせ)安楽(あんらく)の願かけて巡(めぐ)る比丘(びく)らが罪ならず、恋の風流(ふうりう)の遍歴(へんれき)に、心も空も美しうあこがれいでし君なればそぞろ涙も薫(かを)るらむ。――あるは月夜の黄金(こがね)みち、菜の花ぞらの星あかり朧ろ煌(きら)めく野の靄に、鬢(びん)の香(か)吹かれ仄白(ほのじろ)う急ぐ楽しさ、灯(ひ)は街に、――しだれ柳(やなぎ)の※[「木+越」]路(なみきぢ)は紅提灯(べにちやうちん)の軒(のき)つづき、桃も鄙(ひな)めく雛祭、店のあかみに伏眼(ふしめ)して奉謝(ほうしや)を乞(こ)はむ巡礼(じゆんれい)の清(すず)しさ、わかさ、夕霧に若人(わかうど)忍ぶそぞろきも艶(なま)めかぬほど、頬(ほ)にゑみて鈴(すず)もほそぼそ「普陀落(ふだらく)や」練(ね)れば戸ごとの老御達(ねびごたち)春のひと夜の結縁(けちえん)に招(せう)ぜむ杖と白髪(しらが)ふり、転(まろ)び、袖(そで)とる殊勝(しゆしやう)さや。――行けかし、さらば南国の番の御寺へ春なれば街の習慣(ならはし)美しむ恋の祈誓(きせい)の初旅や、母にわかれて少女らと、朝な夕なの花巡り、やがて遍路の悲愁(かなしみ)に雲も騒立(さわだ)ち花ちらふ卯月とならば故さとへ、ああ妻なよび髪ねびて、我(わが)恋(こ)ひ待てる新室(にひむろ)に帰りこよかし、いざさらば、弥生(やよひ)はじめの燕(つばくらめ)、袖(そで)すり光る麗(うら)ら日(び)を、君も行くかよ、杖あげて、南無(なむ)や大悲(だいひ)の観世音(くわんぜおん)、守らせたまへ、朝風(あさかぜ)に、ああ巡礼の鹿島立(かしまだ)ち。
花ちる日
日も卯月(うづき)、ひとりし行かば――水沼(みぬま)べの緑のしとね、身はゆるに寝(ね)なまし。風の散花(ちりばな)に、水生(みづふ)の草に、さざら波、ゆめの皺みの口吻(くちづけ)に香にほふ夕(ゆふべ)。つねのごと花輪(はなわ)編みつつ君おもひ水にむかへば、遠霞む山の、古城(ふるしろ)市(いち)の壁、森の戸までも、白寂(しらさび)の静けさ深さ、いと青に天(そら)も真澄(ます)みぬ。ああ、君よ、ゆめみる人(ひと)の夕ながめ――汀(みぎは)白(しら)みて、木原(こばら)みち、薄ら花踏む里乙女、六部、商人(あきうど)文(ふみ)づかひ――それも恋路の浮(うけ)あゆみ、誰(た)へか――目守(まも)れば雲照らふ落日(いりひ)の紅(あけ)に水の絵の彩(あや)も乱れて眼(め)も病まむ、ややに古代(ふるよ)のうれひして影ちり昏みはや暮れぬ。市(いち)は点燈夫(ひともし)せはしげに走すらし。さあれ葦かびの闇(やみ)には鳰のほのなよび。小野の鈴の音、夕づつのほのめき、ゆめの頬白のみやびやすらに、風ぬるみ、髪にはさくら、くさに地(ち)の歔欷(すすり)ふけつつ、仄(ほの)に灯(ひ)は君が館(やかた)に、妻琴の調べ澄む夜ぞ、花やかに朧ろに耳はそのかみの日をしも薫(く)ゆれ。ああ平和(なごみ)、我はも恋のさみし児か、神に斎(いつ)きの環も成りぬ。靄の青みに静ごころ君思(も)ふ暫時(しばし)涙もろ、あたりの花に頬をうづめ泣かましものか。
ああ、二人(ふたり)。――君よ暮春(ぼしゆん)の市の栄(はえ)、花に幕うち、紅(くれなゐ)の花氈(くわせん)敷く間の遊楽や、大路(おほぢ)かがよひ潮する人数(にんず)、風雅(みやび)の衣彩(きぬあや)に乱れどよむ日。縦(よ)しや、また花の館(やかた)に恋ごもれ、君が驕楽(けうらく)琅※[「王+干」]のおばしま、銀の両扉(もろとびら)、※[「王+累」]※[「王+田」](らでん)の室屋(むろや)、早や飽きぬ、火炎の正眼(まさめ)、肉の笑(ゑみ)、蜜の接吻(くちづけ)、絵も香も髪も律呂(しらべ)も宝玉(はうぎよく)も晴衣(はれぎ)も酒もあくどしや、今こそ憎め。(楽欲(げうよく)は君がまにまに)ああ君よ、賤(しづ)の児(こ)なれば我はもや自然の巣へと花ちる日、市をはなれて、鄙(ひな)ごころ、またと帰らじ。
郊外
悄悄(しほしほ)と我はあゆみき。畑(はたけ)には馬鈴薯(ばれいしよ)白う花咲きて、雲雀の歌も夕暮の空にいざよひ、南ふく風静やかに、神輿(こし)の列遠く青みき。かかる日のかかる野末を。
嗚呼暮色微茫のあはひ、笙(せう)すずろ、かなたは町の夜祭(よまつり)に水天宮の舟(ふな)囃子。――夕ごゑながら乾(ひ)からびし黄ぐさの薫(かをり)、そのかみも仄めき蒸しぬ、温かき日なかの喘息(あへぎ)。
父上は怒りたまひき、『歌舞伎見は千年のち。』と。子はまたも暗涙せぐるかなしさに大ぞらながめ、欷歔(ききよ)しつつ九年母(くねんぼ)むきぬ。酸(す)ゆかりき。あはれそれよりわれ世をば厭ひそめにき。――

人みな往にぬ、うすらひぬ。森の御寺の夕づく日、ほの照り黄ばむさみしらにやがて鉦(かね)うつ一人(いちにん)のその夜ぞこひし、野も暮れよ、あはれ初秋、日もゆふべ、落穂ふみつつ身はまよふ。 
 
北原白秋の詩にみる切支丹

 

「天草雅歌」と「邪宗門秘曲」
白秋の処女詩集『邪宗門」の冒頭には、この詩集を象徴する「邪宗門秘曲」がある。「邪宗門秘曲」とは、切支丹に寄せたあこがれの情緒をうたったもので、白秋のキリスト教へのあこがれと文学的耽美を宣言したものである。だが、この冒頭の詩に先駆けて、白秋には、明治40年10 月作の「天草雅歌」のなかで、すでに「邪宗」について次のようにうたったものがある。
 さならずば
 わが家の
 わが家の可愛ゆき鳩を
 その雛を
 汝せちに恋ふとしならば、
 いでや子よ、
 逃れよ、早も邪宗門外道の教、
 かくてまた遠き祖より伝へこし秘密の聖磔
 とく柱より取りいでよ。もし、さらずば    
 もろもろの麝香のふくろ、
 桂枝、はた、没薬、蘆会
 および乳、鳥の無花果、
 如何に世のにほひを積むも、――
 さならずば、
 もしさならずば――
 汝いかに陳じ泣くとも、あるは、また
 摩蛙炷き修し、伴天連の救よぶとも、
 ああ遂に詮業なけむ。いざさらば
 接吻の妙なる蜜に、
 女子の葡萄の息に、
 いで『ころべ』いざ歌へ、かうどよ。
 
 わかうどなゆめ近よりそ、
 かのゆくは邪宗の鵠
 日のちに七度八度
 潮あび化粧すといふ
 伴天連の秘の少女ぞ。
 地になびく髪には蘆会、
 嘴にまたあかき実を塗る
 淫らなる鳥にしあれば、  
 絶えず、その真白羽ひろげ
 乳香の水したたらす。
 されば、子なゆめ近よりそ。
 視よ、持つは炎か、華か、
 さならずば、実の無花果か、
 兎にもあれ、かれこそ邪法。
 わかうどなゆめ近より そ。
この二篇の詩の中で用いられた「邪宗」の語句は、「逃れよ、早も宗門外道の教」「かのゆくは邪宗の鵠」というかたちの、異教徒である立場から「外道」とみられ、「邪宗の鵠」 とおとしめられて歌わ れている。ところが、「邪宗門秘曲」になると次のように「邪宗」が捉えられ、うたわれている。
 邪宗門秘曲
 われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
 黒船の茄琵苴を、紅毛の不可思議國を、
 色赤きびいどうを、匂鋭きあんじやべいいる、
 南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍靤の酒を
   目見青きドミニカびとは陀羅尼誦し夢にも語る、
   禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔、
   芥子粒を林檎のごとく見すといふ欺罔の器
   波羅葦僧の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。
 屋はまた石もて造り、大理石の白き血潮は、
 ぎやまんの壺に盛られて夜となれば火点るとい
 かの美しき越歴機の夢は天鵝絨の薫にまじり、
 珍らなる月の世界の鳥獣映像すと聞けり。
   あるは聞く、化粧の料は毒草の花よりしぼり、
   腐れたる石の油に画くてふ麻利耶の像よ、
   はた羅甸、波爾杜瓦爾らの横つづり青なる仮名は
   美くしき、さいへ悲しき歓楽の音にかも満つる。
 いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、
 百年を刹那に縮め、血の磔背にし死すとも
 惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、
 善主麿、今日を祈に身も霊も薫りこがるる。
「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法」「禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔」「善主麿、今日を祈りに身も霊も薫りこがるる」すなわち、「末世の邪宗、切支丹でうすの魔法」といい「血に染む聖磔」といいながら「今日を祈に身も霊も薫りこがるる」と、こうなるのである。「邪宗」へのまったき否定から、あこがれを表出する肯定への行程は、白秋にとって決して遠い道のりではなかった。ここで言うところの「邪宗」の徒は、文学者としての自己を「邪宗」に見立てて共感したものであり、キリスト教への憧憬と受容はこの詩の中のリズムとして奔騰しているのみである。ならば処女詩集『邪宗門』とは、一体どういう詩集なのか、考察してみることにする。
『邪宗門』について
北原白秋の処女詩集『邪宗門』は天金の上質紙で、表紙は紙と赤クロース布を使った豪華本である。さらに初版は、「フランス綴」になっている。この詩集の出た頃について室生犀星は、次のように言っている。
明治四十二年三月、北原白秋の処女詩集『邪宗門」が自費出版された。早速私は注文したが、金沢市では一冊きりしかこの『邪宗門』は、本屋の飾り棚にとどいていなかった。金沢から二里離れた金石町の裁判所出張所に私は勤め、月給八円を貰っていた。月給八円の男が一円五十銭の本を取り寄せて購読するのに、少しも高価だと思わないばかりか、毎日曜ごとに金沢の本屋に行っては、発行はまだかというふうに急がし、それが刊行されると威張って町じゅうを抱えて歩いたものである。誰一人としてそんな詩集などに眼もくれる人はいない、彼奴は菓子折を抱えて何の気で町うろついているのだろうと、思われたくらいである。(室生犀星「北原白秋一一我が愛する詩人の伝記」昭和46年12月)
これは、出版された当時を回想して書かれたものであり、多少の思い違いなどあるものの、北原白秋の存在が、いかに当時の若者を席捲していたかということをリアルに描出していて参考になる。「月給八円の男が一円五十銭の本を取り寄せて購読」したというところに先ずは驚嘆する。初版『邪宗門』は、厳密には「明治四十二年三月十五日」発行となっており、定価も「壱圓」となっている(なお、初版『邪宗門』には、表紙や目次の場所などが違う「異版」も存在する)。給料の8 分の1 をさいて、室生犀星はじめ当時の若者が貴重な詩集を買い求めていたのである。発行資金や発行部数については、藪田義雄氏が次のように述べられているのが参考になる。「白秋の処女詩集『邪宗門』は明治四十二年三月、書肆易風社から刊行された。蒲原有明の世話で、半ば自費の形であった。前年の冬ちかく有明と鈴木鼓村(琴の楽人) に同道してもらって飯田町のその社に赴き、出版上のとりきめが出来たのだが、坊ちゃん気質のぬけきらない白秋は、そうした交渉事になるとまるで不得手で、ろくろく口もきけなかったらしい。国許の父から二百円送ってもらって、その金を有明に預け、部数五百部として足りないところは発行所で負担してもらうことに話がまとまったのである。ところで年末になっても見本刷が出たきりで一向に仕事が進めてくれない。また五十円もっていって、天金にしてもらえまいかと遠まわしの催促をするのがやっとだった」(藪田義雄『評伝 北原白秋』)。
発行部数は「五百部」で白秋は、自費出版として結局は「弐百五拾円」支払ったことになる。「父上に献ぐ」とまず、「扉」においたこの詩集は、没落寸前の北原家の父から出してもらったものであった。「パン(PAN )の会」で親しくなった石井柏亭に装曠と挿画を頼み、山本鼎に木版の彫刻、木下杢太郎に挿画を貰うといった熱の入れようであった。
二年後の明治44 年ll 月に東雲堂書店から、高村光太郎の装幀となって「改訂再版」の『邪宗門』が出された。再版本には挿し絵がなく表紙も紙装になり、作品も「酒と煙草に」「赤き恐怖」が削除され「蜩」「我子の声」が加えられている。大正5 年7 月に「改訂三版」も出ている。
『邪宗門』のリズムに
『邪宗門』は明治42 年3 月に発行され、明治39 年4 月より41 年12 月までの作品119 篇が「魔睡」「朱の伴奏」「外光と印象」「天草雅歌」「青き花」「古酒」の六つの章に分けられおさめられている。続く詩集『思ひ出』の「断章」などは、『邪宗門」の時期と重なり、「創作の順位からいえば或いは「思ひ出」の方が先にだすべきであったかもしれない」(藪田義雄「評伝北原白秋』) という意見もあり、この両詩集は踵を接している。
本集に収めたる、六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の朧月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中「古酒』中の「よひやみ」「柑子」「晩秋」の類最も舊くして「魔睡』中に載せたる「室内庭園」「曇日」の二篇はその最も新しきものなり。(例言)と言っているが、北原白秋にはその前に「文庫」投稿時代の詩人・白秋と歌人・白秋がいた。選者であった河合酔名は、「「文庫』に於ける白秋最初の進出は目覚ましかつた。大抵の投書家は歳月を経るに従つて本領を発揮するものだが、白秋だけはさうでなく、初めから天才現はるの感じがした。だから彼の作は一篇も没書にはなつてゐない。明治三十六年十二月号『文庫』所載の『恋の絵ぶみ』がはじめである」(『文庫詩抄』の「解説」・昭和25 年6 月) と言っている。この「文庫」時代に投稿された詩は、「75 調」を中心において書かれている。それが、『邪宗門』にきて、「予が、象徴詩は情緒の諧謔と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が據る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と、刺激苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね、幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり」(例言) と白秋自身言うように「新しき自由詩の形式」であると白負する5 音と7 音を中心に組み合わせた自由な定型へと移行していく。集中「最も舊くして」という「よひやみ」は、初期の75 調から「57 調」へと変わる。
 よひやみ
 うらわかきうたびとのきみ
 よひやみのうれひきみにも
 ほの沁むや、青みやつれて
 木のもとに、みればをみなも。
 な怨みそ。われはもくせい、
 ほのかなる花のさだめに、
 目見しらみ、うすらなやめば
 あまき香もつゆにしめりぬ。
 さあれ、きみ、こひのうれひは
 よひのくち、それもひととき、
 かなしみてあらばありなむ、
 われもまた。――月はのぼれり。
そして、『邪宗門』の「最も新しき」という「室内庭園」あたりの作品にくると、
 室内庭園
 晩春の室の内、
 暮れなやみ、暮れなやみ、噴水の水はしたたる……
 そのもとにあまりりす赤くほのめき、
 やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。
 わかき日のなまめきのそのほめき静こころなし。 (六聯中の一聯)
という具合に、そのリズムは、555584547 …… という具合に、5 音を中心に自在な韻律でうたわれるようになり、55 調、57 調、75 調の律の他、5 音を中心にした56 、57 、58 、54 といった自在な律が駆使される、ことになる。
フランス綴の『邪宗門』
初版『邪宗門』は「フランス綴」になっていると先に書いたが、一枚の紙に16 ページ(あるいは8 ページ)分を一度に印刷したものであり、その折り目折り目を裁断して本にするのであるが、裁断しないで折ったままの状態で綴じたものをフランス綴と言うのである。読者は、その本を初めて手にして、折り目に沿ってペーパーナイフを入れて、綴じられたページを初めてみることができ、作品にただ一人ふれることができるのである。
『邪宗門』の場合、「父上に献ぐ」の献字があり、底のところの折り目にペーパーナイフを入れると右のページに「父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂に生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし」とあって、左のページには、かの有名な、ダンテの『神曲』中の「地獄界」の冒頭部分のパロディと言われる次の言葉が載せられている。
 邪宗門扉銘
 ここ過ぎて曲節の悩みのむれに、
 ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
 ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
そして、次をはぐれば、右のページに、詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたつね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苫しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシュの音楽と幼兒磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、ヴィオロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄のいうしたる毒艸の匂深きためいきと、官能の麻酔の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵝絨の手触の棄て難さよ。
という、上田敏に少しく影響されながらも独自に作り上げた象徴詩論と「我ら近代邪宗の徒」としての覚悟を見事に開示した文が載せられている、という具合である。
最初の詩である「邪宗門秘曲」からは、16ページ分を一度に印刷された「フランス綴」になっている。5 聯中の1聯目である、「邪宗門秘曲」の題と1聯目の4 行が左のページに見えるように置かれている。
 邪宗門秘曲
 われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
 黒船の加比旦を、紅毛の不可思議國を、
 色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、
 南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍靤の酒を
この冒頭の4 行が、先ず作品の一ページ目に「末世の邪宗」「切支丹でうす」「黒船の加比旦」「紅毛の不可思議國」「色赤きびいどろ」「匂鋭きあんじやべいいる」「南蛮の桟留縞」「阿刺吉」「珍靤の酒」と言った南蛮趣味や異国情緒を彷彿させる珍奇な語彙が彩なして現れるのである。そして、2 聯目以降は隠され、初版購入者のみがペーパーナイフで二ページ以降(これも下だけの綴じ方と下と横の両方が綴じられた二種類がある) を開封して5聯からなる「邪宗門秘曲」の詩に初めて出あうという仕掛けになっている。  
 
北原白秋『邪宗門』 南蛮趣味と浪漫主義 

 

要旨
北原白秋の第一詩集『邪宗門』(1909)のうち「邪宗門秘曲」(以下「秘曲」と記す)と「謀叛」を取り上げ、それらの作品から南蛮趣味の詩的形象化がいかになされているかを考察してみた。また、そのような形象化の核として浪漫的な要素が潜んでいる点にスポットを当てることにした。
当時は、木下杢太郎の他、白秋の周辺に九州旅行に端を発した南蛮趣味が広がっていた。杢太郎によると、南蛮趣味とは江戸浮世絵趣味、印象派の様式、西洋の高踏派や象徴派の詩の影響も加えられているから、きわめて広範な領域に渡ることになる。白秋において「南蛮」とは南方から来たポルトガル人やスペイン人などの他、渡来品など西洋風なものなどが含まれることはまず間違いないだろう。白秋のスタンスは、それらの異文化的表象への単純な驚きと共感を示しつつ、それらに耽溺する歓びに対して無自覚な当時の日本と向き合っていたのであり、それらの文化的受容者享受者としての情熱をあたかも隠れ切支丹のようにそれらに殉ずる覚悟として披瀝しているのである。それゆえに、自らを「近代邪宗門の徒」として自認していたのである。
他方、「秘曲」は作者の時代その身辺と周囲に実在しないある時代や過去、あるいは雰囲気などに向かって強く激しい憧憬をいだいてそれを現地点から歌い上げた点で、薄田泣菫の『白羊宮』(1906)に収められた「ああ大和にしあらましかば」と主題の性質が似ている。いずれも、時空を超えて遠きより現れ出る風景に憧れる心情において等価であり、ともに浪漫主義的であると思う。白秋はそこで、歴史上の一場面を仮構し、そこに自己の真実を吹き込んでいたのである。
「謀叛」においては、精舎の平穏が、戦車の響きと、弾と血煙と、紅蓮の火と刀の修羅場と化する様相を描いているが、感情と理性の激しい軋みのうちに、理性の側が敗退していくわけで、秩序と論理に反対するロマン主義的な要素と言っていいだろう。また、その激情は「秘曲」において、美のために死をも惜しまぬ激情に通じている。
以上、二篇を通して南蛮趣味の道具立てを借りて、自らのロマンテックな心情を歌い上げた若き白秋の面影を垣間見る思いであった。白秋は当時の日本において「近代邪宗門の徒」と名乗り、自明のもののように厳然としていた既成の美の秩序や論理にゆさぶりをかけ、美の革命の火花を散らしたのだ。筆者はそこに白秋における浪漫主義の発現を見る。
T. はじめに
北原白秋の第一詩集『邪宗門』は1909年易風社から刊行された。25歳の処女詩集であった。いち早く白秋の盟友․木下杢太郎が「詩の一新詩体であると同時に現代日本の一精神的産物」と言って高く評価したが、その新しさのゆえか、批判も多かったようである。また、白秋の作品としては、その難解さのせいか、第二詩集『思ひ出』(1911)ほどには人々に愛されることはなかった。しかし、「時代を画するほどの処女詩集でなければ世に問ふものではない」という若き白秋の情熱が傾けられた詩集であった。
この詩集の構成は製作発表の順とは逆に、新しい作品から古い作品へ遡行する形で編集されている。それらは、白秋が東京新詩社で機関誌『明星』を中心に新たな活動を始めた1906年4月から1908年末に至る約3年間に発表されたものである。その間、白秋は1908年1月『明星』を脱退して、その主催者として詩界に権威的な地位をもつ与謝野寛と一線を画している。その年、表題『邪宗門』につながる「邪宗門秘曲」(以下「秘曲」と記す)などの作品を生み出しているところは興味深い。ともあれ、全体は六章からなり、順に『魔睡』、『朱の伴奏』、『外光と印象』、『天草雅歌』、『青き花』、『古酒』と題が付され、119篇が収められている。
『邪宗門』の特徴としては、白秋みずから「邪宗門新派体」と名づけ、詩集の「例言」に「予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象を主とす」と記している。しかし、その詩は象徴詩というより象徴的感覚詩とか、象徴的官能詩と呼ばれることが多かった。象徴詩か、否かの問題はここでは扱わない。本稿では、代表的な作品二篇を改めて読み返し、難解な語彙の解釈にとどまらず、それらの作品の方法、影響関係、さらには作品の底に流れる詩魂にまで考察の手を伸ばしてみたい。作品は『魔睡』の章から「秘曲」を、『朱の伴奏』の章から「謀叛」を取り上げてみることにする。その際に、南蛮趣味と浪漫主義を作品理解のキーワードとして考察を加えてみたいと思う。
U.南蛮趣味について
ここで南蛮趣味の南蛮について、語義を確認しておきたい。南蛮とは1(むかし中国で)南方の野蛮人。南方の異民族。2近世、日本でシャム(=タイ)․ルソンなど南方諸国を呼んだ言葉。また、その方面から来たポルトガル人․スペイン人の称。32の「南蛮」からの渡来品。また、西洋ふうなこと(もの)、である。詩に表れる事物を見ると、2と3の意味と重なるだろう。坪井秀人は1に含まれる「野蛮人」という面をも南蛮のうちに見ていたが、白秋においてそれが適当であるかどうか分からない。白秋においては南蛮とは南方から来たポルトガル人やスペイン人などの他、渡来品など西洋風なものなどが含まれることはまず間違いないだろう。
白秋は死の前年「象徴詩集『邪宗門』は南蛮文学の先駆を為した。弱冠の私はこの詩集によつてはじめて個の風体を確立した」と語っている。『邪宗門』の南蛮文学としての先駆性については、すでに野田宇太郎と重松泰雄によって論じられているが、野田宇太郎は南蛮文学の創始者は木下杢太郎であり、白秋はその影響下で詩作したとして、白秋の偶像化に対して一石を投じた。その後、重松泰雄も南蛮文学の先駆性は白秋だけでなく、当時の白秋に影響を与えた木下杢太郎にも共有されるべきであると主張した。それ以前、木下杢太郎は「明治末年の南蛮文学」という文の中で、次のように語っている。
「 われわれ《杢太郎․白秋ら》の間に「南蛮」趣味が起つたのは明治四十年夏与謝野寛․吉井勇らとおこなつた九州旅行が機縁であつたが、その後も、上野の図書館などに行つて関係書をあさり「それに出てくるめづらしい言葉や短い挿話をさがし出す」のを仕事とした。そして北原白秋君、長田秀雄君の家などに集まり夜は鴻の巣といふ小さい西洋料理店などに行き、ひるまのうちに読んだものを発酵させて家にかへつて詩に作りました。然しわたくしは寧ろ材料を集める方で、どうもうまくそれが詩に発酵しませんでしたが、北原白秋君はそんな語彙を不思議な織物に織り上げました 」
当時は、杢太郎の他、長田秀雄など白秋の周辺に九州旅行に端を発した南蛮趣味が広がっていたことが知られる。白秋に詩材をもたらした杢太郎は「南蛮紅毛趣味、江戸浮世絵趣味、印象派の様式ーさういふものがわれわれの南蛮文学の基本調でした」と述べている。さらに、西洋の高踏派や象徴派の詩の影響も南蛮趣味の一要素として加えている。こうしてみると、南蛮趣味はきわめて広範な領域に渡ることに気づくだろう。さらに、彼らに注目された近世初頭の南蛮と江戸(浮世絵)、そして近代フランス(印象派)等、地域も時代も流派も折衷的な混沌とした領域。東京に対する江戸、日本に対するフランスというように、南蛮趣味というモードにはあらゆる異国趣味の様式を動員して<いま・ここ>の現実を超克しようとする野心がこめられていた。
こうして見ると、『邪宗門』は従来、耽美主義、象徴主義、南蛮趣味など、それぞれの性格を一面で表すと考えられてきたが、南蛮趣味の一語のうちにそれらの性格を集約することができそうである。以下、作品分析を通じて、南蛮趣味を表す物事を検証しながら、そのような道具立てを借りた意味なども考えていきたい。
V.「邪宗門秘曲」考
「秘曲」の初出は『中央公論』(1908・9)である。その初出には題名の後に「この一篇は『邪宗門新曲』と題する他の姉妹篇とともに、併せてわが詩集『邪宗門』序詩也」という詞書がある。したがって、『邪宗門』発刊前から全体の序詩にと構想されていたことが知られる。
まず題名についてふれておくことにする。1549年のザビエル来航、すなわち天明年間キリスト教の伝来以来、日本ではその信徒と宗門そのものを指して切支丹と呼んでいた。それ以降、豊臣秀吉のキリスト教禁令など、たびたびの禁令の後、江戸時代に入るとさらに禁教制度は厳重になる。近世初期にあたる1636年に厳禁され、それ以後江戸時代を通して禁じられた。そこで、キリスト教は地下にもぐることになり、一般にこれを「邪宗」、あるいは「邪宗門」と呼ぶようになった。
白秋はその教えの正邪を問題にしたのではなく、キリスト教が「邪宗門」と呼ばれた時代への憧憬、あるいは好奇心を示したと見ていいだろう。伊藤信吉はこの詩集の特徴として、「その見かけは宗教的の道具立を多分に借りているが、宗教的感情というようなものは全篇のどこにもあるのでなく、一途に作者の当時の異国趣味を歌い上げたもの」と語っている。すなわち、「邪宗」=「異国・異文化」、「邪宗門」=「異国・異文化の入り口」というニュアンスを持っていたと考えられまいか。しかも、「邪宗」とは「序」の詩論に「我ら近代邪宗門の徒」と名乗っていることからもわかるように、新しい美の創造に命をかける詩人の心情を、切支丹渡来当時の人々の異国の宗教をはじめ文物に対する畏怖と好奇心、さらには未知の国への憧憬などに託した比喩でもある。それにまつわる胸の底に隠していた願いを告白した詩であるから、「秘曲」と題したのである。それでは、詩の世界に具体的に分け入ってみよう。
われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。/黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、/色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、/南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍たの酒を。(第一連)
目見青きドミニカびとは陀羅尼誦し夢にも語る、 /禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔、/芥子粒を林檎のごとく見すといふ欺罔の器、/波羅葦僧の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。(第二連)
屋はまた石もて造り、大理石の白き血潮は、/ぎやまんの壷に盛られて夜となれば火点るといふ。/かの美しき越歴機の夢は天鵞絨の薫にまじり、/珍らなる月の世界の鳥獣映像すと聞けり。(第三連)
あるは聞く、化粧の料は毒草の花よりしぼり、/腐れたる石の油に画くてふ麻利耶の像よ、/はた羅甸、波爾杜瓦爾らの横つづり青なる仮名は/美くしき、さいへ悲しき歓楽の音にかも満つる。(第四連)
いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、/百年を刹那に縮め、血の磔脊にし死すとも/惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、/善主麿、今日を祈に身も霊も薫りこがるる。(第五連)
以下、特殊な用語に彩られた詩篇を先行研究を参考に解読を試みることにする。「末世の邪宗」の「末世」とは仏教から出た用語では、釈尊滅後千年を正法、次の千年を像法、それ以降を末法といい、仏道がすたれた末法の世のことを指し、道衰えた滅びの時代の比喩として用いられる。当時の白秋が心酔していた西洋世紀末詩人の影響から世紀末の世という意味もかけて用いられたのであろう。切支丹はポルトガル語でcristaoのことで、先にも記したように明治以前のカトリックとその信徒を指す。その切支丹信仰を末世の現象とし、「切支丹」=「邪宗」を慕うというところに、世間通常の倫理に反抗して「神秘」「夢幻」「腐爛したる頽唐」を夢見る新しい詩人の美意識が標榜されるのである。そこには、既成の詩歌に反抗しようという自負もあったであろう。同時に、末世は現在を、「邪宗」は象徴主義を暗示し、「われ」は過去の時代のうちに<現在>を見ていると察せられる。
「でうすの魔法」の「でうす」はラテン語のDeusで、造物主、天主などに当たる。切支丹の宣教師が理化学を応用した文明の器具や技術を未開地における布教の方便に用いたので、それらが宗教の持つ超自然的な「魔法」に見えたのである。また、その切支丹は、魔法を使って良民をたぼらかすなどの伝説が、明治頃までどこの土地にも伝承していたということである。明治以降も頑迷な老人たちは電気やガス灯を切支丹の魔法として恐れたという。とすれば、「切支丹でうすの魔法」は一般民衆には恐怖をもって疎まれた不思議な何かであった。それをこの詩の一行は「われは思ふ」と憧憬するのであるから、世俗の常識を逆手にとる書き出しであった。とはいえ、発表時は明治末の1900年代後半であるから、邪宗や魔法といった意識は稀薄になりつつあったと言えよう。そこで、その一行の真に言わんとしたのは邪宗も魔法も無知や無理解から怖れられた、また恐怖とともに珍しがられた、その驚異の感情、当時のその鮮やかな気持の一面を、「我は思ふ」と言っていると考えられる。また、鎖国が行われた江戸時代において大罪に当たるキリスト教への接近が、明治(近代)になって西洋への入り口の役割を果たし、新たな好奇心と驚異を持って迎え入れられていたことも考えあせておきたい。
「切支丹でうすの魔法」を受けて、まずそれを運んできた「黒船」、その船に乗った「加比丹」(キャプテン)、すなわち船長から、「紅毛」を連想する。つづいて、想像は翼を広げ、赤毛の人々が住む「不可思議国」、そして、その国の器物である「色赤きびいどろ」、すなわち、赤い硝子、または硝子製品、またその国にあって深紅の花を咲かせる植物「あんじやべいいる」が連想される。「あんじやべいいる」はカーネーションの一種、オランダセキチクという植物で強い芳香を放つ。ここで視覚に嗅覚が加わる。ここまでは先にも触れたが、色彩を主とする感覚表現が見事である。「黒船」と「紅毛」「色赤きびいどろ」「あんじやべいいる」の黒と赤の対照が鮮やかである。
「桟留縞」はインド東岸のサントメSan Tome から渡来したいわゆる唐桟といわれる赤または浅黄を交えた縞目の織物で、表はつややかな光沢があり触覚にも訴える。「阿刺吉」Arakはオランダ渡来の刺激の強い蒸溜果実酒、「珍だの酒」Vinho-Tintoはポルトガル渡来の赤葡萄酒である。ここで味覚が加わる。切支丹がそれらの品々とともに日本に出現した当時において、異文化との出会いに人々が驚嘆した気持ちを感情移入して珍らかに懐かしく思うというのである。ちなみに、「びいどろ」、「あんじやべいる」、「桟留縞」、「阿刺吉」、「珍だ」は、いずれも「スバル」派の詩歌人に愛用された題材であった。いずれも異国を表象する内容とともに、語感の美しさが詩趣をそそったのである。
以上のように、第一連において感覚に訴える南蛮的物象を並べることから切り出される。それを受けて、第二連では、いわゆる切支丹伴天連の徒が渡来し新宗をひろめた時代の驚きを、やはり異国表象の小道具を借りながら再現していく。
「ドミニカびと」はジェズイットに対して起ったカトリックの一派Dominicanで、聖どみにく派の聖職者を指す。常に黒い衣をまとっていたことから黒袍僧の異名がある。ここでは、その黒衣の異様な印象と語感の美しさを借りたもので、集中に収められている石井柏亭の版画「澆季」の伴天連上陸図も、この「ドミニカびと」を表している。
その「ドミニカびと」が「陀羅尼」を誦すとはいかなることであろうか。陀羅尼は真言密教で尊ばれている。ここではおそらくラテン語の耳慣れない祈祷の響きを表すのに、用いられたのであろう。第一連の「でうすの魔法」と同様に、神秘的な要素が付されているようである。その「ドミニカびと」の夢にまで現れて語るのは、当然主イエスについてであろう。そこで「禁制の宗門神」と「血に染む聖磔」、すなわち血に染まった十字架がまず表れる。すなわち、これは聖者殉教の暗示か、あるいは殉教したイエスを暗示しているのであろう。また、事情は禁教後の隠れ切支丹という見立てであるから、ただの「宗門神」ではなく「禁制の」と加えられている。
後の二行は当時の人々の驚嘆の情を機器の説明に借りて、描き出している。まず、切支丹たちがもたらした「欺罔の器」=顕微鏡や「奇なる眼鏡」=望遠鏡についてふれている。「欺罔」というのは「たぶらかす」というほどの意味で、「魔法」という表現に通じている。つまり、南蛮から持ち込まれた文明の利器を「魔法」の典型として驚嘆しているのである。『切支丹宗門来朝実記』に、伴天連オレガンチノが織田信長に謁見したときに献じた「第一に七十五里を一目に見る遠見鏡、第二は芥子を玉子の如く見する近眼鏡」という記述が見られるが、これが「欺罔の器」とほぼ重なる。白秋はおそらくこの資料に拠ったものと思われる。伴天連がそれらの品物を示しながら、それらについて説明する。おそらくそのような情景を「われは思ふ」というのである。
「波羅葦僧」Paraiso(ポルトガル語)は普通「波羅葦増」「波羅葦増雲」などと記述され、天国を意味し、切支丹文献に頻出する語である。白秋は上田敏の『海潮音』に訳出されたオオバネルの「故国」のうちに「うまれの里の波羅葦増雲」とうたわれ、「『故国』の訳に波羅葦増雲とあるは、文録慶長年間葡萄牙語より転じて一時、わが日本語化したる基督教法に所謂天国の意なり」と注記されたものを参考にしたのであろう。ほかにも、切支丹文献に実例は多く、「世界とぱらいそとは誠に天地の懸隔也。(略)ここは聖人、凡夫の借屋也。かしこは善人と天人の本国也。ここは後悔とぺにてんしやの所也。かしこは快楽悦びの所也」(『ぎや・ど・ぺかえる、上、第八』)「『はらいそ』ト云ハ、日本ノ言葉ニナラバ極楽ト云心ニテ侍」(『妙貞問答下巻』)などとある。白秋は別のところでも「波羅葦僧その空ゆめみ鴎われほのかにのぼる海の香炉に」(『明星』1909・11)と歌っている。また同時期の木下杢太郎にも「この絵画のいずくにか在る、/汝がいふ波羅葦僧の国は」(「波羅葦僧」1909・12)などの例がある。 
第三連は、第二連に続き伴天連を取り巻く情景が綴られていく。主格が曖昧になってくるなかで、好奇の眼と耳に映じる奇怪さを誇張して表現している。石造家屋や石油ランプのようなものなどが神秘的に描写される。
「大理石の白き血潮」とは、大理石と共通する感覚を持ちながらすぐ溶けてしたたる石蝋を、その血に見たてたものである。大理石のごとき石蝋が、ぎやまん=ガラスの壷に盛られ、夜になるとともされたその火影が妖 しく揺れている。大理石の冷たくなめらかな肌触りは、白秋も最も愛した感覚の一つだったのであろう。集中幾度となく表れる。
「越歴機」はElectriciteitの訛で電気のことであるが、当時の隠れ切支丹といえども電気器具や電灯を持っていたとは考えられない。日本においても江戸時代の末に蘭学者が関連して、発電器がもたらされたのである。よって、執筆時点での空想が入り交じったものと察せられる。次の一行と見合わせて考えると、幻灯機のようなものであろうが、この部分は時代考証が安易であったと言わざるを得ない。
さて、その「夢」が「天鵞絨の薫にまじり」という表現は、白秋特有の感覚表現であろう。普通私たちは「天鵞絨」からイメージされる柔らかい手触り、すなわち触覚を連想するのであるが、嗅覚に転じられるのである。「序」に表れた「ギオロンの三の絃を擦る嗅覚」という表現にも、普通想定されるイメージとの置き換えがなされる。これも、その白秋の方法のバリエーションなのである。それはともかくとして、この「天鵞絨」は垂れ巡らされた遮断幕かと思われる。夜の闇に溶け込むかのような深い色彩の天鵞絨の幕に、「月の世界の鳥獣」の映像が映し出されることが夢想される。
第四連は第三連を受けて、さらに不可思議な世界に分け入っていく。まず一行目は、『旧約聖書』に化粧の科として蘆薈を用いたとあるのに拠ったのであろう。香木を「毒草」といい、油絵具を「腐れたる石の油」と表現したところに、詩人の頽唐趣味がうかがえる。また、「腐れたもの」で聖母マリアを描くということによって、一種涜神的な、それだけに深い畏敬をひそめた官能が生じる。プロテスタントではマリア崇拝は禁じられているが、カトリックではマリアが崇拝されている。当時の日本にはないそのような化粧と油絵があると聞いたというのである。
次に「青なる仮名」は青インクで書かれた文字とも考えられるが、おそらく横書きされたラテン語、ポルトガル語の文字を青く感じたのであろう。そのロマンティックな視覚的印象から、「美くしき、さいへ悲しき歓楽の音」というどこか痴情の響きが込もった情緒が導かれるわけである。この「歓楽の音」こそ白秋が「切支丹でうすの魔法」に求めていたものに他ならない。
最後の第五連一行目の「いざさらばわれらに賜へ」は、次にくる主題を引き出す働きをする。「幻惑の伴天連尊者」はこれまでに述べられた様々な不思議を成しうるから「幻惑の」と呼ばれ、冒頭の「切支丹でうすの魔法」と対応する。「伴天連尊者」はPadre(ポルトガル語)の訛で神父のことである。「尊者」という語は、仏教語であるが、伝道の便宜から「でうす如来」「ぽうろ大師」などの借用語が作られたのと同様、当時の日本の切支丹の間では通用していたものと思われる。『天草本平家物語抜書』にはパードレとある。
二、三行目の「百年を刹那に縮め、血の磔脊にし死すとも/惜しからじ、願ふは極秘/かの奇しき紅の夢」という部分は、新しい美を求める精神の高揚とストイシズムを極限的に表わしたものである。ここに見いだされるのは、頽唐美、感覚性への憧れとともに、己れの命を賭してもというところに高揚した精神の高ぶりと既成のものへの反抗、すなわちロマン主義の精神である。「われ」はそこで「頽唐の紅」に通じる「奇しき紅の夢」のために百年の命を瞬間に縮め、磔の刑に処されても、惜しくはない、願いは「極秘」であると言う。その「夢」のために、切支丹禁制時代の殉教者が架けられて血まみれになっているその同じ磔の刑に処されても惜しくはない、と言うのである。そこに、キリスト教の伝道に命を懸ける彼らと同じく、新しい美の伝導に憧れる「邪宗門」の徒であるという自負が表される。この死を賭した美の追求とロマン精神の一体化に若き美の殉教者・白秋の独自性を見いだされる。
また、この部分は「美くしき、さいへ悲しき歓楽の音」に象徴される生の「極秘」に対する願いを告白したもので、「切支丹でうすの魔法」を思うのも、それらの裏に情緒を感じるという一面の吐露でもあるのである。さらに、これは遠い未知なるものにひかれる者の心情であると言っていいだろう。これが、この詩の主題の一面でもある。南蛮趣味も変形された異国趣味に他ならないことが知れるだろう。また、そのような情緒を端的に表すのが「紅の夢」という幻惑で、その渦のなかで溺れるように身をまかせたいというのである。また、これは、世の秩序をなす理性の枠組みを踏み破っても、美へ殉じるという激情を示しているのであり、その魂に筆者はディオニソス的な神性、日本においては荒魂の激情を見るのである。
四行目の「善主麿」はゼスス(Jeses)またはゼス・キリスト(Jesus Christo)とも呼ばれる。すなわちイエスのことで、イエスのごとく自分も「今日を祈に身も霊も薫りこがるる」というのである。この詩では宗教上の敬虔など最初から問題にしていなかったので、イエスに自らを擬しても信仰とは関係のない次元で語られているのである。つまり、「身も霊も薫りこがるる」というのは、はげしい憧憬とともに、密室、もしくは祖神前に立ちくゆる香煙のゆらめきのようなものが想像される。「幻惑の伴天連尊者」という語と対応して、幻想と奇異に陶酔しようとする青年の心情を表現したのである。また、「薫り」というのは忘我的な状態を表すとともに、香煙たちこめる密室で、ひそかに「邪宗」の神を祀る妖しいイメージを伴っている。 
ところで、坪井秀人は「秘曲」に'B6表れる小道具について、次のような解釈を施している。
「 この詩には顕微鏡(欺罔の器)や望遠鏡、電気(越歴機)といった、新しいオプティカルな技術が風俗として取り入れられているが、それらは進化した文明の表象として映し出されているわけではない。合理主義や科学主義の所産ではなく、まがまがしい力を期待させる<魔法>ーそれらはむしろオリエンタリズムの視線によって投射された野蛮なるものの表徴なのだ。<世紀末の邪宗>とは木下杢太郎が「南蛮寺門前」の色調として想定していたヨーロッパの世紀末デカダニズム(すなわち進化の果ての退化=末世Degeneration)の謂にほぼ等しい。テクストの中の<われ>の欲望とは近代世紀末の同時代モードとしての頽廃に投身することに他ならない。 」
坪井が世界同時性の文脈のうちに、「秘曲」を位置づけたのは見事としか言いようがないが、白秋のそれらに対するスタンスは、それらの珍かなる異文化的表象への単純な驚きと共感を示しつつ、それらに耽溺する歓びに対して無自覚な当時の日本と向き合っていたのであり、それらの文化的受容者享受者としての情熱をあたかも隠れ切支丹のようにそれらに殉ずる覚悟として披瀝しているのである。それゆえに、自らを「近代邪宗門の徒」として自認していたのである。
他方、「秘曲」は作者の時代その身辺と周囲に実在しないある時代や過去、あるいは雰囲気などに向かって強く激しい憧憬をいだいてそれを現地点から歌い上げた点で、薄田泣菫の『白羊宮』(金尾文淵堂1906)に収められた「ああ大和にしあらましかば」と主題の性質が似ている。「ああ大和にしあらましかば」は奈良朝廷の文化絢爛たる時代を夢想し、古代への憧憬を歌ったものであった。それは、いわば仮想願望の表現であって、定着するに値する世界が架空の国にしかなかったためである。その点は白秋も同様6178 で、「秘曲」も、過ぎ去った一つの世界への追慕ではあったが、そこには多分に異国の文物に憧れる好奇心、いわゆる南蛮趣味、異国情緒が盛られることになった。泣菫の求心を、時間的な隔たりを置いた彼方への憧憬というならば、白秋のは時間に加えて空間的な隔たりを置いた彼方への憧憬ということもできよう。しかしいずれも、時空を超えて遠きより現れ出る風景に憧れる心情において等価であり、ともに浪漫主義的であると思う。
すなわち、「秘曲」は単なる異国趣味の発見を示すにとどまらない。白秋が天草旅行で見い出した切支丹の寺が廃虚であったことは事実だし、そこから発した「秘曲」を含む『邪宗門』の世界は廃虚に古の物語りを織る姿勢で一貫されているからである。その立場において、根をなしているのはもはや現前しない風景に対する喪失感と枯渇感と言ってよく、失われつつある故郷を「水に浮いた灰色の柩」と喩えたた次作『思ひ出』までも深く通じているのである。
磯田光一は、これらの象徴詩が現れる背景として、日露戦争後の急速な近代化に対するアンチテーゼの一つとして捉えている。それは、「寺院」や「僧院」といった素材だけでなく、文体においても言えることである。白秋も泣菫も古語を多用しているが、白秋は「新しい自由詩」(「例言」)を訴える一方で、散文的な現実描写に
傾斜した自然主義隆盛の時期に、文語にこだわったことにも、通じている。
すなわち、白秋は近世初期の南蛮を新奇な異国情緒で染め上げ、キリスト教(新思想)の布教に命を懸けた神父との接触に自らの詩への決意を仮託しつつ、実際は、過去にその素材を求めることで、眼前の時代風景に一歩先んじようとした。要するに、近代に対する反近代的アプローチを試みていたことになる。そこにはまた、近代における歴史上の一場面を仮構し、そこに自己の真実を吹き込んでいたのである。したがって、「秘曲」はデカダニズム等の西洋世紀末詩人の詩風だけでなく、現前する日本近代に対して歴史的な事象を仮構する方法で自己の<今・ここ>を巧みに表現された詩であると言っていいだろう。
W.「謀叛」考
「秘曲」が収められた第一章「魔睡」の章が後の第三詩集『東京景物詩及び其他』(東雲堂書店1913)につながる都会的感覚詩への移行を示しているとすれば、ここに取り上げる「謀叛」の収められた第二章「朱の伴奏」の章と第三章「外光と印象」の章は本格的な象徴詩を目指して作られたもので、いわゆる「邪宗門新派体」の主調をなすものと言われる。そこには、頽唐頽廃の傾向が最も著しく表れている。
「謀叛」は『朱の伴奏』の章の冒頭を飾る作品で、初出は第一次『新思潮』(1908・1)である。その雑誌は小山内薫によって創刊され、反自然主義の一翼を担った芸術雑誌である。「謀叛」はその第四号に、蒲原有明の「黒き靄」、薄田泣菫の「鎌鼬」と並べて載せられた。そこから、新進の白秋が二大家と同等に評価され始めていることを感じ取れる。『邪宗門』の中で象徴意識が最も明確に打ち出されている作品であり、同時代の象徴詩を代表するものである。心の中に沸き起こる悪の情念を修道院の庭の情緒によって暗示している。三好達治・伊藤信吉編の「本文及び作品鑑賞」には、
「 詩の冒頭「ひと日、わが精舎の庭に」というのを、ひたすら抽象的に、即ち作者の胸裡そのものと見て、ーある一つの感情がそこにおいて、次第に強度を増してゆく息苦しい思いを経験し、ついにヴィオロンの盲いるようなぐあいに、破壊的な点に至るというのが、この詩の構造である。詩中の感情は「秘曲」とともに、極めて熱っぽくパッショネートなものである。 」
と記されている。村野四郎も「その想像力のスケールにおいて、また、その象徴力のエネルギーにおいて、白秋の他の作品に見られない異常な詩的空間をもっている」と絶賛している。以下、第一連から順次「謀叛」の詩的世界を見ていくことにする。
ひと日、わが精舎の庭に、/晩秋の静かなる落日のなかに、/あはれ、また、薄黄なる噴水の吐息のなかに、/いとほのヴィオロンの、その絃の、/その夢の、哀愁の、いとほのにうれひ泣く。(第一連)
蝋の火と懺悔のくゆり/ほのぼのと、廊いづる白き衣は/夕暮に言ものなき修道女の長き一列。/さあれ、いま、ヴィオロンの、くるしみの、/刺すがごと火の酒の、その絃のいたみ泣く。(第二連)
またあれば落日の色に、/夢燃ゆる噴水の吐息のなかに、/さらになほ歌もなき白鳥の愁のもとに、/いと強き硝薬の、黒き火の、/地の底の導火焼き、ヴィオロンぞ狂い泣く。(第三連)
跳り来る車両の響、/毒の弾丸、血の烟、閃めく刃、/あはれ、驚破、火とならむ、噴水も、精舎も、空も。/紅の、戦慄の、その極の/瞬間の叫喚焼き、ヴィオロンぞ盲ひたる。(第四連)
まず、第一連一行目の「わが」というところから、「精舎の庭」とは自身の心の暗喩であることが知れよう。二行目は静かな夕暮、そして、三行目は噴水のしぶきが夕陽に照らされて、そこはかとなくほのめいている様を印象的に映している。そこから、物わびしいだけでなく、何か満ち足りず、今にも何かが起りそうな気配を伝えている。四行目、五行目は精舎の庭の雰囲気をヴァイオリンの旋律としてとらえたもので、忍び泣くような心情の暗喩である。「ヴィオロン」の暗喩は『海潮音』所収のヴェルレーヌの「落葉」(『明星』1905・5)を参照したものであろう。参考までに、ここに引用しておく。
   秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し。
   鐘のおとに/胸ふたぎ/色かへて/涙ぐむ/過ぎし日の/おもひでや。
   げにわれは/うらぶれて/ここかしこ/さだめなく/とび散らふ/落葉かな。
「落葉」の「秋」と「ヴィオロン」(ヴァイオリン)という絶妙な組合わせを、白秋は「謀叛」の中に、借用している。
第二連では、より情感を込めて秋の夕暮の描写がなされている。一行目の「蝋の火」とは祭壇に燃える火で、そこから立ち上がる香煙に「懺悔」の情緒を感じたものであろうか。あるいは、「懺悔」という抽象的な心理を「くゆり」という可視的なイメージに還元して「螻の火」と対照させてていると考えられる。二行目の「ほのぼのと」は「懺悔のくゆり」と「廊いづる」の双方にかかる。「白き衣」は三行目の「修道女」をイメージを端的にかつ的確にとらえている。「修道女」は初出では「素童女」と記されている。夕暮に白く映える修道女の列が第一連の物わびしい心情に、ある悩ましい何か言いたげな心が「蝋」に灯された火のごとく「くゆり」のごとく忍び出てきたことを暗示している。四行目、五行目は、ヴァイオリンの音色に託して鋭く心情に痛みが走る様を、また、「火の酒」、すなわち度数の高い洋酒に喉を焼かれるがごとく、心痛の響きを表現している。
第三連は、「いたみ」に覆われた心情が次第に表面的には鎮静されていくように思われる。一行目、二行目は夕陽の赤色に、噴水のしぶきの色が染まっていることを表わしている。そこでは第一連の「薄黄なる」噴水のしぶきの時点から、時間が経過したこと暗に示している。また、わびしい思いから、「夢」が表象する憧れへと心情も変化していることを表わす。三行目の歌うことのできない「白鳥の愁」は、第二連の「白き衣」を着した「修道女」の「一列」と対応している。四行目、五行目は心のうちの強烈な火薬にたとえられる。くすぶりはじめたどず黒い情念の炎が、心の底の導火線を焼きはじめたことを、ここでもヴァイオリンの響きに託して洗練された表現に練り上げている。その響きは得たいの知れない欲求にもだえ狂う心情を暗示している。
最後の第四連はいわば導火線が燃えつき、爆発をおこす場面である。一行目、二行目は、車両(戦車)が轟音とともに頭上を駆けすぎるように激しい戦慄が体をかすめ、情念のうずまく戦場のような修羅場を一瞬心に感じたもので、赤く爛れた夕やけ空に触発された幻覚を表わしている。「血の烟」は初出では「血の煙」となっている。三行目の「あはれ、驚破」は、第一連の「あはれ、また」、第三連の「さらに、なほ」と同様に、音調の上からふと口をついて出たような趣きがあり、白秋の詩にいくつか見られる用例である。「驚破」は突然のことに驚いて発する感動詞である。「噴水」も「精舎」も「空」も、すべてが「火」に包まれ、第四連の「紅」にかかり、「紅」は続く「戦慄」にもかかって感覚的色彩を映し、極限に至る。五行目は「叫喚」に象徴される耳鳴りするような幻覚幻聴が瞬時に焼き尽され、「ヴィオロンぞ盲ひ1@たる」は焼け跡から一筋の煙が立ち上がるような、悔恨の忍びの音の暗喩として表現された。ヴァイオリンの失明とは、その音の乱れ、あるいは消滅を意味する。「謀叛」の詩情は、この終りから再び冒頭に返り、幾度でも同じ悔恨が繰り返されていく。これは、白秋詩のほとんどに見られる構成である。
この第四連のイメージは蒲原有明の「智慧の相者は我を見て」(『文章世界』1907・6)の最終行「よしさらば、香の渦輪、彩の嵐に」に相当すると言われる。その主題は感情と理性の対立についてであり、「謀叛」と同じである。詩の価値はその思念がどう形象化されているかで、そこに二人の個性の違いが表れている。「智慧の相者は我を見て」においては、「智慧」が理性を擬人化してものとして用いられ、「謀叛」においては、「ヴィオロン」が理性を象徴していると見ていいだろう。
第三連までは、重苦しく静まった晩秋の空気の中に、しだいに高まってくる不吉と危機の予感を描いているが、第四連になると、突如としてこの精舎の平穏が、戦車の響きと、弾と血煙と、紅蓮の火と刀の修羅場と化する様相を展開している。これらは、感情対理性の図式に引き寄せて考えると、激しい感情を表象していると見ることもできるだろう。そして、この戦慄の巷では、もはや、今まで痛ましく泣きしきっていたヴァイオリンの音も失われてしまった、というのである。ヴァイオリンは理性を表象しているので、感情と理性の激しい軋みのうちに、理性の側が敗退していくと見ていいだろう。これは、秩序と論理に反対する浪漫主義的な要素と言っていいだろう。また、一方の感情は「秘曲」において、美のために死をも惜しまぬ激情に通じている。つまり、これもディオニソス的な魂のなせる技であり、日本古来の荒魂を想起させうる。
また、第三連から第四連にかけてのきな臭いイメージは『海潮音』所収のエミール・ヴェルハーレンの「火宅」からも示唆を受けたものと考えられている。
嗚呼、欄壊せる黄金の毒に中りし大都会/石は叫び烟舞ひのぼり、/驕慢の円蓋よ、塔よ、石柱よ、/虚空は震ひ、労役のたぎら沸くを、/好むや、汝、この大畏怖を、叫喚を、/あはれ旅人、/悲しみて夢うつつ離りて行くか、濁世を、/つつむ火焔の帯の停車場。
中空の山けたたまし跳り過ぐる火輪の響。/なが胸を焦す早鐘、陰々と、とよもす音も、/この夕、都会に打ちぬ。炎上の焔、赤々、/千万の火粉の光、うちつけに面を照らし、/声黒きわめき、さけびは、妄執の心の矢声。/満身すべて涜聖の言葉の捩れ、/意志あへなくも狂瀾にのまれをはんぬ。/実に自らを埃りつつ、将、詛ひぬる、/あはれ、人の世。ー「火宅」 
この西欧の都会詩人の作品は毒された大都会崩壊の幻影が描いたものであるが、「火」の効果をふんだんに用いたファンタジーの類似性は指摘できるだろう。 
さらに、「謀叛」を音律の面から見ると、五七、五五七、五五五七、五五五、五五五五、というようになっていて、それらの音をたたみかけていくことによって内面に揺れ動き、次第に切迫していく呼吸を効果的に表わしている。「ヴィオロン」の旋律に託された各連後半の二行では、無意味な「の」の音も作用して特によくその情動が表わされていると言えよう。 
「謀叛」において、前半の二連に「精舎」、「修道女」など、キリスト教的な道具立てが並ぶのであるが、後半の二連でほとんどが「火」のイメージの内に無化されていく。その流れは「秘曲」において南蛮趣味的な道具立てが「紅の夢」に還元されていく様子と似ていなくはない。しかし、「秘曲」に比べ「謀叛」の道具立ては抽象度が高いようである。
X. おわりに
以上、本稿では『邪宗門』について、代表的な2作品を中心に論じてみた。そこから、南蛮趣味の道具立てを借りて、自らのロマンテックな心情を歌い上げた若き白秋の面影を垣間見る思いであった。ここに言う南蛮趣味とは、「秘曲」において素材として取り上げられた切支丹の神父と、ともにもたらされた物品などにとどまらない。広義においては、「謀叛」においてその影響がうかがえたヴェルレーヌやエミール・ヴェルハーレンなど西洋世紀末頽唐派詩人たちの情緒も含むものと考えられる。
白秋は当時の日本において「近代邪宗門の徒」と名乗り、自明のもののように厳然としていた既成の美の秩序や論理に覆い隠されていた美の在りかを求めて激する感情を「秘曲」に託している。その素材として江戸時代の禁制下の切支丹が選ばれたところに、白秋の独創性があった。そこから異国や異文化への憧れが浮き織りにされ、その禁じられた世界から何かを得られるのなら、「磔」の刑に処されても惜しくはないというところから、詩人として殉ずる覚悟を披瀝しているように感じる。『邪宗門』には、近代初期にもたらされた合理主義や啓蒙主義とは趣きを異にする若き個性の主張があり、空想の自由な飛翔があり、感情の解放があった。そこに、筆者は白秋における浪漫主義の発現を見た。また、「秘曲」と「謀叛」からは、夢のためには死をも恐れぬ激情の発露と激烈な破壊衝動が見られ、そこにディオニソス的な詩魂がうかがわれた。その点も、浪漫的と感じられたところである。
当時、詩の分野において、『新体詩』以来、『於母影』の森鴎外、『若菜集』の島崎藤村、また象徴主義の先達である泣菫、有明等はあまりにも、伝統の美に寄りかかりすぎていた。その美に対する疑いがなかったのである。美は伝統の上に厳然として輝いていたのである。白秋の『邪宗門』の試みは行き詰まっていた詩壇に新しい文学意識を生じさせたのである。そこから、河村政敏はこの作品が詩史上に果たした最大の功績として、「美による価値の転換」をあげている。もっともなことであるが、むしろ私には<美の価値の転換>、すなわち感性の革命を通してあらわれた美そのもの概念に揺さぶりをかけ、美の内部からその領域を拡大したようにも思えるのである。そんな白秋も後年、口語自由詩の行き過ぎに警鐘を鳴らし、自ら伝統美の世界へと沈潜していく。それは、『邪宗門』の頃の白秋が、西洋近代の美意識を意識的に受容しながらも、一方で文語にこだわっていたことに通じる。
ところで、白秋の芸術における志向は、西洋最新の芸術思潮を意識的に追求しながら、詩の世界に閉ざされた自足的なものであったと言わざるを得ない。そこから、白秋の詩に「社会的関心の希薄さ、思想性の欠如、近代精神についての無理解」と批判する声があがるのもうなずける。だからといって、この作品の価値を否定するのは酷であろう。  
 
北原白秋集

 

ぼくの年代では、北原白秋はまずもって“童謡をたくさんつくったおじさん”だった。子供のころの数年で、いったいどのくらい唄ったか、どのくらい聴かされたか。昭和25年くらいから昭和33年くらいまでのことだ。「待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良かせぎ」「からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ」「土手のすかんぽ、ジャワ更紗」は、新町松原の修徳小学校で唄った。「大寒、小寒、山から小僧が飛んできた」「雪のふる夜はたのしいペチカ。ペチカ燃えろよ、お話しましょ」「赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実をたべた」は、ガキどもとがらがら唄った。「この道はいつか来た道、ああそうだよ、あかしやの花が咲いてる」「海は荒海、向こうは佐渡よ」「揺籃のうたをカナリヤが歌う、ねんねこ、ねんねこ、ねんねこ、よ」は、綺麗な声の母に教わった‥‥。ぼくは、これらをすべてナマで聴き、その全部を歌って育ったのだ。なかで、その歌を母が唄ってくれると必ずや胸が詰まって、ううっと涙が溢れてくる定番があった。『ちんちん千鳥』『里ごころ』、『雨』である。「ちんちん千鳥の啼く夜さは」で始まるのは、千鳥が啼くと硝子戸をしめても寒いんだよ、千鳥の親はいないんだよ、ちんちん千鳥はだから眠れないんだよ、という歌詞である。母がこれを唄い出すと、とても寝付きの悪い子であったぼくは、途中からもう泣きべそになっていた。近衛秀麿のメロディである。いまはあまり知られていないかもしれない「里ごころ」のほうは、こういう歌詞だ。佐々木すぐるの曲が、またもの哀しい。
   笛や太鼓にさそわれて、
   山の祭に来てみたが、
   日暮はいやいや、里恋し、
   風吹きゃ木の葉の音ばかり
   母さま恋しと泣いたれば、
   どうでもねんねよ、お泊りよ。
   しくしくお背戸に出てみれば
   空には寒い茜雲。
   雁、雁、棹になれ。前(さき)になれ。
   お迎いたのむと言うておくれ。
この歌は「どうでもねんねよ、お泊まりよ」から「しくしくお背戸に」にさしかかるところで、もうがまんができず、「雁、雁、棹になれ」の「か〜り、か〜り、さぁおになぁれ」の先まで、母の美しい声を聴けたためしはなかった。そして、「雨が降ります、雨がふる」の『雨』だ。作曲は弘田竜太郎。この歌には格別の思い出があって、そのことがあってから自分ではからっきし唄えなくなった。一番の「遊びにゆきたし、傘はなし。紅緒の木履(かっこ)も緒が切れた」や、二番の「雨がふります雨がふる。いやでもお家で遊びましょう。千代紙折りましょう、たたみましょう」までは、まだいい。だいたい、この歌は女の子の歌である。だから男の子は泣かない。泣いちゃいけない。けれどもあるとき、この歌をいとこの眞知子と一緒に唄っているとき、4番の「雨がふります、雨がふる。お人形寝かせどまだ止まぬ。お線香花火も、みな焚いた」で、眞知子がぐすぐすしはじめたのだ。そして最後のコーダ、
   雨がふります、雨がふる。
   昼もふるふる、夜もふる。
   雨がふります、雨がふる。
というふうに、ただ雨ばかりが降りつづけ、その「昼もふるふる、夜もふる」という空漠たる不条理に、ぼくが親戚中でいちばん好きだった眞知子が泣き崩れてしまったのだった。これがトラウマになった。以来、何度、「雨がふります」と唄いはじめても、その最後の「昼もふるふる、夜もふる」の曲と詞と眞知子の高く細く引き裂く憂いの声とが重なった思い出が忘れられず、ぼくはいっかな唄えなくなってしまったのだ。このことは、いま思うだに重大なことだった。まだ6つか7つの少女が、「昼もふるふる、夜もふる」で憂愁の本来というものに泣いたのである。嗚咽したのだ。ぼくはそれを知ったことを子供ごころに重大な秘密に立ち会えたと思ったのだ。もっともそのことを、のちに山口小夜子や萩尾望都や木村久美子に尋ねてみると、「あら、その通りよ、少女はそのころときどき大人になって泣いているのよ」と、異口同音に言われてしまった。はい、はい、しかしそうだとしてもですね、ではそのように男の子を泣かせ、女の子を嗚咽させる一人の白秋がいなければ、そんなことはおこらなかったのである。
北原白秋とは、わが少年期の童謡においてすでに、こういうフラジリティを極め、ヴァルネラヴィリティに差し迫った詩人なのである。子供に対しても、決して哀傷を辞さない詩人なのである。どんなふうに哀傷を辞さなかったのか、ちょっと啄みながら、解説してみよう。さきほどあげた『里ごころ』でいうのなら、「笛や太鼓にさそわれて、山の祭に来てみたが」の、「が」がめっぽう早いのだ。最初から逆接の提示なのである。ついで、「日暮はいやいや、里恋し」に「風吹きゃ木の葉の音ばかり」の「ばかり」がすぐに追い打ちをかけてくる。子供に向かって「音ばかり」とは何事か。ほかに、何もない。そのうえでさらに、「恋しい母」と「お泊まり」の矛盾が突きつけられる。
これはもはや行き場がない。それでもやっと一転、「しくしくお背戸に出てみれば」で全景がさあっと広がるのだけれど、しかしそこはもう、もはや取り戻し不可能な、あの「雁、雁、棹になれ。前になれ」になっている。こういうぐあいなのである。いやいや童謡についてなら、雨情にも八十にも露風にもこういう芸当はあったけれど、しかし白秋にはその芸当が、のちに「白秋百門」といわれたごとく、徹底して広く、また深かった。つまりこの芸当は童謡だけでなく、近代詩にも短歌にも、そして長歌にも歌謡曲にも民謡にも彫琢されていた。
雨にまつわる詩歌だけをとりあげても、白秋は多彩の表意と多様の意表なのである。詩の『雨の日ぐらし』では、「ち、ち、ち、ち、と、ものせはしく刻む音。河岸のそば、黴の香のしめりも暗し」とあって、「かくて、あな、暮れてもゆくか、駅逓の局の長壁」と、言葉が近代都市の一郭を抉(えぐ)っていく。短歌では「長雨の蒼くさみしく淫(たは)れしてその日かの日もいまは戀しき」というふうに、青年の淫する日々を雨に回顧する。「ほのぼのと人をたづねてゆく朝はあかしやの木にふる雨もがな」といった相対静寂の雨もある。一方、男たちの濫賞に向けては、「雨‥雨‥雨‥雨。雨は銀座に新しく、しみじみとふる、さくさくと、かたい林檎の香のごとく、敷石の上、雪の上」というふうに男バカボンドの歌謡に乗せる。白秋の表意と意表は綺語歌語縁語の宗匠というほどに、幅がある。だいたいこの時期、近代詩人で長歌に凝った者などいなかった。白秋は折口信夫と「親類つきあひ」をした人であったのだが、その折口が唯一、長歌をものしたくらいなのである。のちに萩原朔太郎は「日本に幾多の詩人はあるが、概ね詩歌俳句等の一局部に偏するのみで、白秋氏の如く日本韻文学の殆んどあらゆる広汎な全野に渡つた、英雄的非凡の大事業を為した人はいない」と評した。
こういう広範きわまりない白秋を、さてぼくはどのように読んだかというと、これは子供のころにオルガン童謡、アカペラ童謡で育ったこととは、まったく異なってくる。
最初に活字として読んだのは第二詩集『思ひ出』だった。高校3年くらいのころだったろうか。しかし、これで思いは存分なほどに打擲された。おおげさにいえば、この詩集でぼくのフラジリティをめぐる感覚は劇的に発端したといってよい。
とりわけ「蛍」で比喩の美に凌辱されて、「青いとんぼ」で極微の表現に幽閉された。青年は、子供のころの寂しい日々の印象に戻っていいんだ、そこからしか寂しい本質の何物かに触れうるはずはないんだ。そういう負の確信をもてたのが『思ひ出』だったのだ。なかでも「蛍」は、昼の蛍を夏の日なかのヂキタリスに譬え、その小さな形象を五感に刻んでいくようになっていて、どぎまぎさせられた。とくに「そなたの首は骨牌(トランプ)の赤いヂャックの帽子かな」の2行に、とっくり、まいった。昼の蛍の首筋の赤に目をとめ、幼児の記憶に戻って「赤いヂャックの帽子かな」の換喩に遊んでいるのが、ああ、ひたすらに羨ましいかぎりだった。
もっと驚いたのが「青いとんぼ」である。「青いとんぼの眼を見れば 緑の、銀の、エメロウド、青いとんぼの薄い翅、燈心草の穂に光る」の出だしはともかく、「青いとんぼの奇麗さは 手に触るすら恐ろしく、青いとんぼの落つきは 眼にねたきまで憎々し」とあって、こういうふうに蜻蛉にでも赤裸々な感情移入ができるものかと思った瞬間、次の2行の結末に、わが17歳の精神幾何学の全身にビリビリッと電気が走っていた。
こういう結末の2行だ、「青いとんぼをきりきりと夏の雪駄(せった)で踏みつぶす」。嗚呼!
それからは、白秋を読み耽ったというより、その精神の電撃を眼で拾うために、白秋の詩集や歌集のページの中をうろつきまわったというに近い。これはいま憶えば、白秋が「幼年期の記憶の再生」をもって、新たな感覚のフラジリティの表現を獲得したことを追走したかったのだろうとおもう。この、「幼年に戻る」ということ、「幼な心にこそ言葉の発見がある」ということが、ぼくが白秋から最初に学んだことだったのである。そのことは『思ひ出』冒頭の「わが生ひたち」の、そのまた冒頭に白秋自身がちゃんと書いている。明かしている。「時は過ぎた。さうして温かい苅麦のほのめきに、赤い首の蛍に、或は青いとんぼの眼に、黒猫の美くしい経路に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も何時の間にか慕はしい思ひ出の哀歓となつてゆく‥」。また、こうもはっきり書いている。「‥玉蟲もよく捕へて針で殺した、蟻の穴を独楽の心棒でほぢくり回し、時には憎いもののやうに毛蟲を踏みにじつた。女の子の唇に毒々しい蝶の粉をなすりつけた。然しながら私は矢張りひとりぼつちだつた。ひとりぼつちで、静かに蠶室の桑の葉のあひだに坐つて、幽かな音をたてて食み盡す蠶の眼のふちの無智な薄褐色の慄きを凝と眺めながら、子供ごころにも寂しい人生の何ものから触れえたやうな氣がした」。これでフラジリティの国への断呼たる出立がなくてどうするか。白秋にとっては背水の、そういう文章だ。
おそらく詩集なら、いまでも『思ひ出』がいちばん好きだろう。山本健吉も三島由紀夫も、そんなことを言っていたかとおもう。
ついで早稲田に入ってしばらくして、第一詩集の『邪宗門』をやっと読んだけれど、これは、言葉の耽美主義の錬磨が果報であったことに目を奪われたくらいなのもので、それほどの衝撃はなかった。ぼく自身が白秋と同じ早稲田の学生になったこと、しかし白秋は青春に甘んずることなく早稲田を放り捨て、『天地玄黄』で世を震撼とさせた与謝野鉄幹主宰の新詩社の門をくぐり、さらに晶子の放埒がめざましい『明星』に入って、かつそこから離脱するにいたったことなど、ぼくのほうも白秋に関する知識も近代詩についての知識もふえていて、そういう経緯に詳しくなったことが邪魔なフィルターになり、まともな耽読に向かわなかったのだろうと憶う。しかしそれでも、白秋をとりまく詩魂たち機運に押され、ぼく自身の日々が叱咤されているような気になった時期の『邪宗門』なのである。
学生時代、そこまで白秋が気になったことについては、実はちょっとした理由もあった。ひとつは同じ早稲田に入ったというどうでもよいことだが、もうひとつは白秋もぼくも同じく1月25日に生まれていたということだ。
これもどうでもいいようなことだが、そうではない。いま初めて言うのだが、ぼくには、歴史の中の逸材とこそ伴走する癖があった。
そもそもぼくには、誰かと競いあうという競争意識がまったく欠けている。小中高を通じていっさい誰とも競わなかったし、その後も誰かをライバル視することも、貶めたいとおもうことも、あいつには負けられないと思ったことも、ない。その後も、誰が成功しようと、誰が大儲けしようと、まったく関係がない。嫉妬もない。また、挑まれたこともなく(そういう相手がいたとしても気づかない)、誰かを選んで挑んだこともない。そのかわり、ここがなぜだか妙なことなのだが、歴史の中を遊弋した人物にはめっぽう惹かれて、その歴史の活動の奥に分け入っては、まるでその時代の息吹を同時代でうけているかのように、その者たちとともに、当時の熱情や哀愁や、また革命や孤立に駆り立てられてしうまうのである。ぼくには、そういう性癖がある。早稲田時代は、いまおもえば、ブルームズベイリー・グループやゲバラや、明恵・大日能忍・道元や、ガンジーやアンベードカルや、またド・ブロイやハイゼンベルクやシュレディンガー、あるいはディアギレフやルドルフ・サリなどとともに、白秋やその周辺が、そういうぼくを伴走に駆り立てる群像だったのである。まして、二人は同じ誕生日‥‥。
白秋がその早稲田に入ってきたのは明治37年の19歳のときである。それまではずっと北九州屈指の水都・柳河にいた。海産問屋と酒造りを営んでいた素封家のトンカ・ジョン(大きな家の子)で、病弱で寂しがり屋の、何の苦労もない子供時代と見える。むろんそんなことは見かけ上のこと、実際には妹がチフスで亡くなり、明治23年のコレラの流行に脅えたりして、不安きわまりない少年期をすごしている。柳河ですら、白秋自身は「廃市」と呼んでいた。そういう白秋が傾きつつある家業から逃れて、親や周囲の反対を押し切って早稲田に入ってきた。英文予科だった。同級に若山牧水がいて、土岐善麿、佐藤緑葉、安成貞雄がいた。白秋はあっさり授業を捨ててこの破格の友人たちと語らい、図書館にこもって鴎外の『即興詩人』を、上田敏の『海潮音』を、さらに『大言海』の単語を片っ端から繰っていく。牧水と同じ部屋に下宿もした。早稲田にはまた、相馬御風、人見東明、野口雨情、三木露風、加糖介春らのいずれ劣らぬ綺羅星がいて早稲田詩社が結成されていた。
時はまさに鉄幹の「明星」全盛期。鉄幹はすでに明治25年には正岡子規・大町桂月・落合直文らと浅香社で新派和歌運動をおこし、30年代にはこれに佐佐木信綱・土井晩翠・外山正一・矢田部良吉が加わって新体詩会をかまえて、第一歌集『東西南北』では虎剣調とよばれた男性的謳歌を、第二歌集『天地玄黄』では万葉調の浪漫主義を標榜、その牽引力は絶顛ぎりぎのところまで達していた。そこへ晶子が飛びこんで、『明星』は新たな星菫調をもって女だてらのソフィスティケーションをおこしつつあったところだった。白秋も短歌や詩を寄稿しているうち、この歌壇新撰組組長ともいうべき偉大な大丈夫(ますらお)に目をつけられて、たちまち詩壇歌壇の麒麟児ともくされた。それが弱冠22歳のときである。白秋は夜な夜な、鉄幹、晶子、木下杢太郎、吉井勇、まもなく死ぬことになる石川啄木らの、才能ほとばしる詩才たちと語らうことになる。ぼくがそこにこそ参画して伴走したかったと思ったのは、明治40年7月下旬から1カ月をかけて、与謝野鉄幹、平野万里、木下杢太郎、吉井勇と連れ立って、故郷柳河を振り出しに、佐賀・唐津・佐世保・平戸・長崎・天草・島原・熊本・阿蘇を遊歴したという、例の「五足の靴」の旅である。このときの「天草雅歌」こそ第一詩集『邪宗門』の頂点を飾っていく。そんな「五足の靴」の経緯を知ったとき、ぼくは思わず「ちくしょう!」と叫んだはずだ。
このあとの白秋については、ぼくはその軌跡を追いかけなかった。白秋が鴎外の観潮楼の歌会に招待されたこと、そこで佐佐木信綱・伊藤左千夫・斎藤茂吉と知りあった直後、木下杢太郎・吉井勇・長田秀雄らと「明星」を脱退したこと、そこに石井柏亭・森田恒友・山本鼎らの青年画家が加わって浪漫異風の「パンの会」を結成したこと、翌年の明治42年の「スバル」創刊に『邪宗門新派体』の総題で「天鵝絨のにほひ」ほか七編を発表したこと、そこからは白秋こそが「スバル」を代表する詩人になったことなどについては、追いかけたい白秋には見えなくなったのだ。そんなこんなで、白秋を読まなくなった日々が10年ほどあったろうか。そのころのぼくはどちらかといえば、たとえば蒲原有明や薄田泣菫などの、むしろ白秋以前の近代短詩型の異端児を徘徊していたのだ。それがあることがきっかけで、『桐の花』を読むことになったのである。白秋が「またまた、御免よ」と帰ってきた。
あることというのは、テレビで美空ひばりの「城ヶ島の雨」を、ふーん、やっぱりひばりは絶品だ、こんなふうにこの歌を唄うなんて、すごい、凄い、サイコーだと思って聞き終わり、スタジオで司会の誰かが「えー、これは北原白秋の作詞ですよね」と言ったとたんのことである。
ここで白秋が急に蘇ったのだ。それにしても、またもや“雨”の白秋だった。
   雨はふるふる、城ヶ島の磯に、
   利休鼠の雨がふる。
   雨は真珠か、夜明の霧か、
   それともわたしの忍び泣き。
   舟はゆくゆく通り矢のはなを、
   濡れて帆あげた主の舟。
   ええ、舟は櫓でやる、櫓は唄でやる、
   唄は船頭さんの心意気。
   雨はふるふる、日はうす曇る。
   舟はゆくゆく、帆はかすむ。
曲は梁田貞。完璧な歌詞である。一聯ずつのトランジットが抜群にいい。最初に城ヶ島に「利休鼠の雨がふる」と、独特の水墨イメージを切り取っておいて、「真珠・霧・忍び泣き」のメタファー3発を並べて見せつつ、ついでは「わたしの忍び泣き」という自他の橋懸かり。その光景に舟を走らせ、そこからは「舟は櫓でやる、櫓は唄でやる」の返しがえし。そのくせ「唄は船頭さんの心意気」という親しみのこもった呼びかけが入って、あとはふたたび遠水幽帆の水墨画なのである。ぼくは白秋がどうしてここまでモノクロームな烟語をつかいきれるかと思って、久々に白秋を読みたくなっていた。本屋に走った。このとき、近所の本屋には白秋の詩集はたしか新潮文庫の『からたちの花』しかなく、よく探しはしなかったのだろうけれど、そのほかは講談社「日本現代文学全集」の『北原白秋・三木露風・日夏耿之介集』があっただけだったので、これを買った。そこに『邪宗門』『思ひ出』全詩のほか、『真珠抄』『白金ノ独楽』『水墨集』の抄録とともに、『桐の花』全歌が収められていたのである。
勿体なくもこのときまで、ぼくは白秋が短歌の名人でもあることを知らなかったのだ(岩波文庫の『北原白秋歌集』もまだ出ていなかった)。が、この歌集で“わが知らざる白秋の絲”ともいうべきものに切りきりきり、切りまわされた。
『桐の花』の歌集名は、「わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花のごとくに消えはつべき‥云々」にもとづいている。白秋は桐の花の薄い咲き方、はかない散り方を三十一文字の歌に託していた。ぼくは、まず花の歌に目をやった。
   いやはてに鬱金(うこん)ざくらのかなしみの
      ちりそめぬれば五月(さつき)はきたる
   廃(すた)れたる園に踏み入りたんぽぽの
      白きを踏めば春たけにける
   桐の花ことにかはゆき半玉(はんぎょく)の
      泣かまほしさにあゆむ雨かな
   君と見て一期の別れする時も
      ダリヤは紅しダリヤは紅し
   男泣きに泣かむとすれば龍膽(りんどう)が
      わが足もとに光りて居たり
   どれどれ春の支度にかかりませう
      紅い椿が咲いたぞなもし
このなかで「ダリヤは紅しダリヤは紅し」だけは、高校時代に誰かが放課後の黒板に書き残していて、白秋の歌と知らずに心の隅にひっかかっていた歌だった。ぼくは「桐の花」と「かはゆき半玉」が根本対同した歌に感服した。
が、こういう花の歌もよいのだが、この歌集でぼくをふたたび白秋に向かわせるきっかけになったのは、「秋思五章」に歌われた“絲”の音である。きりきり、きりり、こんな音がする短歌だ。
   清元の新しき撥(ばち)君が撥
      あまりに冴えて痛き夜は来ぬ
   手の指のそろへてつよくそりかへす
      薄らあかりのもののつれづれ
   微かにも光る蟲あり三味線の
      弾きすてられしこまのほとりに
   円喬のするりと羽織すべらせる
      かろき手つきにこほろぎの鳴く
   太棹のびんと鳴りたる手元より
      よるのかなしみや眼をあけにけむ
   常磐津の連弾(つれびき)の撥いちやうに
      白く光りて夜のふけにけり
第2首をのぞいて、とくに仕上がりがよい歌ではない。白秋にしてまだ未成熟のままであるけれど、それをこえて常磐津や清元の絲の音がする。のみならず、歌集全首がその三絃に切り結んで、魂を裸にさせている。いったいどうしてこのような『桐の花』になったのか。ぼくはふたたび白秋の「パンの会」のあとを追う気になった。そして、意外なことを知ったのだ。それは明治末年のことである。28歳の白秋は前年に原宿に転居したときに隣家の人妻松下俊子と知りあい、その後に熱烈な恋愛に落ちている。ここまでならよくあることだが、運悪くというのか、白秋は俊子の夫に姦通罪で告訴され、市ケ谷の未決監に放りこまれてしまったのだ。つい先だっては『思ひ出』が上田敏によって激賞されて栄光に包まれたのだし、高踏文芸誌「朱欒」(ざぼん)を創刊して気勢をあげたのだった。名声まっただなかの事件なのだ。事件はさいわい、1カ月後に無罪免訴となったのだが、白秋はそうとうに苦しんだ。一時は発狂寸前まで追いこまれ、憂悶のあまりふらふらと木更津あたりをさまよいもしている。ここで詠んだのが『桐の花』の哀傷短歌群なのである。それを詠んで白秋は三浦海岸に渡り、死を決意する。そんなことがあったのだ。
結局、白秋は死を選べない。そのかわり敗残者の烙印を秘めて、心の巡礼者になることを誓う。そこへ夫に離別され、胸も病んでいた俊子から助けを求められ、白秋は新生を求めて結婚、死にそこなった三浦の三崎町の異人館に転居する。ああ、そうだったのか、そういうめぐりあわせかと思ったのは、このとき三浦三崎の臨済宗見桃寺に仮寓していた白秋が、一気に仕上げたのが『城ヶ島の雨』だったということだ。だからこその、♪舟はゆくゆく通り矢のはなを、濡れて帆あげた主の舟‥‥。詩壇の寵児白秋は、あっというまの無一物なのである。それでも白秋はまだ心の巡礼を始めたばかりの日々。そこで、あえて船上の人となり、小笠原の父島にまで渡って俊子の療養にあたる。白秋が白秋自身を「寂寥コワレモノ」の極限にまで追いこんだのだ。けれども、俊子は耐えられずに東京に帰ってしまう。一人白秋はそのまま貧窮を厭わず父島に留まった。大正3年のことである。そう、白秋にして、そんな絶海の孤島にいたことがあったのだ。
以上のことは最初から白秋のことを調べていれば、容易にわかったことではあるけれど、ぼくは幸か不幸か、これらを『桐の花』とともに知り、その後は三崎時代に詠んだ歌を収めた『雲母集』や『雀の卵』を見開いて、うーむ、白秋はやっぱりただならないと、そんな溜息をついていた。その『雀の卵』には、「南海の離れ小島の荒磯辺に我が痩せ痩せてゐきと傳へよ」などという歌とともに、こんな文章も入っている。「我もとより貧しけれど天命を知る。我は醒め、妻は未だ痴情の恋に狂ふ。我は心より畏れ、妻は心より淫る。我未だ絶海の離島小笠原にあり‥」。
俊子に文句をつけているところが気にくわないものの(白秋には根本的にフェミニズムが欠けている。白秋の女性は母と少女と人形なのだ)、白秋その人はあまりに切々と痛々しい。それから大正8年の35歳あたりまで、さすがに白秋は窮乏のなかにいた。けれども、裸になれば人の世はときに大きく旋回したり寄り戻してくるもので、事態はしだいに変わっていく。まずは、「朱欒」に育った室生犀星・萩原朔太郎・大手拓次が“白秋三羽烏”として頭角をあらわし、次々に白秋に序文を求めて、傑作『月に吠える』などに結晶していった。
また、『城ヶ島の雨』は島村抱月によって芸術座の舞台で唄われ、つづいて中山晋平が曲をつけた『さすらひの唄』が大ヒットした。例の、「行こか戻ろか、北極光(オーロラ)の下を、露西亜は北国(きたぐに)、はてしらず。西は夕焼、東は夜明、鐘が鳴ります、中空(なかぞら)に」に始まる、一度口ずさんだら、胸をかきむしって離れぬ歌だ。このあと経済的にも復活し、白秋は平塚雷鳥のもとに身をよせていた大分の江口章子と結婚する。それで、やっと安定を得ると家を建てるのだが、その地鎮祭の夜に章子に逃げられ、ふたたび「心の巡礼」の杜撰であったことを思い知る。が、それも大正10年にはまたまた新たな大分の女性佐藤菊子と、今度こそはと結んで、子供を生むにいたった。このあとの白秋がいよいよ童謡に磨きをかけたのである。三好達治だったか、白秋の作品では童謡が最もすぐれていると言っていたのは言うまでもなく当然のこと、こうした激越な天罰の果てでの童謡ポイエーシスだったのである。
さて、ここまでがぼくの拙(つたな)い白秋遍歴であって、その後はときおり白秋に対座する夜がつれづれあって、そのつど、白秋百門に唸る、ちょんちょん読む、考えこむ、飽きてくる、また唸る、黙って読みたい、なんだか胸騒ぎがしてくるという、そんな断続にすぎない。そうしたなか、いま書いておきたいとおもうのは、ひとつには、白秋はついに“雅俗”を分離しなかったということ、その言葉の旋律はつねにノスタルジアとフラジリティに接しようとして生まれていたこと、それが歳を食むごとに「無常の観相」や「もののあはれ」にまで結びついたことである。「鳴かぬ小鳥のさびしさ、それは私の歌を作るときの唯一無二の気分である」と白秋自身は書いた。白秋は「欠如からの表意」に賭けたのだ。が、これらのことはいまさら説明するまい。
もうひとつは、そのことを書いて今宵の白秋と別れたいとおもうのだが、白秋には特別のオブジェの感覚に寄せる眼があったということだ。オブヂェと綴ったほうがいいだろうか。むろんいっぱしの詩人や歌人や俳人なら、なにかしら事物や物体に注意のカーソルが細かく動くのであるけれど、それが白秋ではやや風変わりだった。けれども、ぼくが白秋を贔屓にしたいのは、実はこの風変わりなのである。たとえば、カステラのことだ。そもそも『桐の花』には序文があって「桐の花とカステラ」が綴られている。そこで白秋は、夏の帽子をかぶるころ、眼で見るカステラの感触がわずかに変化するのが好きなんだと言い、触れぬのに感じるタッチというものの渋みこそ、自分が表現したかったものだと告白する。カステラの端の茶色が筋となって切れるところにも、眼を寄せる。こういう感覚は、舌出し人形の赤い舌、テレビン油のしめり、病いのときに一口だけ飲むシャンペンの味、銀箔の裏の黒、恍惚に達する寸前の発電機、堅い椅子に射す光、いままさに汽車が駅に入ってくるときの匂い、日曜の朝の蕎麦、背後の花火の音、そして、白金浄土のキリギリスというふうに、どんどん滑っていく。
これはシュルレアリスムのオブジェ感覚なんかではない。おお、ほろろん白秋、ほろろんの白秋オブジェのぢぇぢぇ、なのだ。たとえては、「一匙(ひとさじ)のココアのにほひなつかしく訪(おとな)ふ身とは知らしたまはじ」という、そのココアと一瞬だけ交わった眼の言葉、タッチの渋みなのである。この感覚は風の変わりというものだ。風変わりとは、そのことだ。その場を魂が立ち去る直前の風趣の変わりというものだ。いえいえ、それこそが郷愁という風趣、さもなくば風趣というオブヂェたちなのである。晩年、白秋は水墨山水の画境や老荘思想や黄表紙の戯れにも、さらにはついに「ほそみ」の趣向にさえ入っていくのだが、その趣向はすでにハッカの味がするオブヂェ感触の、風の去来に発端していたのではあるまいか。
しかしそれはまた、次の文章に秘められた白秋の風趣の極北を暗示していたともいうべきだった。「つくづく慕はしいのは芭蕉である。光悦である。北斎である。利休である。遠州である。また武芸神宮本玄心である。私もどうかしてあそこまで行きたい」。そうなのだ。白秋は昭和の戦争の渦中、ひたすら日本回帰の人となり、日本語だけがもつ風来ばかりに耳を澄ませていたようにも想われる。
では七夕は、こんなふうに良寛と響きあう二つの白秋を贈って、黒の夜を締めたい。ひとつはごく僅かな星の歌から一首、もうひとつは『他ト我』という、こんな詩が白秋にあったとはほとんどが気がついてない、こういう詩だ。
   寂しくも永久(とは)に消ゆなと離るなと
      仰ぎ乞ひのむ母父(おもちち)の星
   二人デ居タレド マダ淋シ。
   一人ニナツタラナホ淋シ。
   シンジツ二人ハ 遣瀬(やるせ)ナシ。
   シンジツ一人ハ 堪ヘガタシ。
附記 / 七夕さらさら、軒端にゆれて、オホシサマひとつ、金銀砂子。たいそう遅れましたね。でも、これがぼくの白秋です。『思ひ出』にしようかと思いましたが、それはこの七夕の夜の文間すべてに撒いて、あえて白秋の律動のちんちん千鳥の啼く夜だけにしました。だって、きっとそうでしょうが、いったい誰が今夜、慕える人と銀漢を眺めあえるでしょう? みんなみんな、本当にしたいことなんて、いつもできないのです。そう、七夕のこの夜だって。北原白秋とは、それでいいじゃないかと言いつづけた切実の人でした。良寛、思い出されます。 
 
邪宗門秘曲

 

邪宗門秘曲 1
   われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法、
   黒船の加比丹(かぴたん)を、紅毛の不可思議国を、
   色赤きびいどろを、匂い鋭(と)きあんじゃべいいる、
   南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍陀(ちんだ)の酒を。
      目見(まみ)青きドミニカ人は陀羅尼(だらに)誦(づ)し夢にも語る、
      禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔 (くるす)、
      芥子粒を林檎のごとく見すという欺罔(けれん)の器(うつは)、
      波羅葦僧(はらいそ)の空をも覗(のぞ)く伸び縮む奇なる眼鏡を。
昭和22-23年、私が初めてこの詩を読んだときの印象は未だに忘れられない。
日射しの強い、暑い夏のことであった。寮の一室でこの詩を初めて読んだとき、その意味はさっぱり判らないのに、まるで天然色映画を見たように眼前に色が散りばみ、音ならぬ音を 聞いたような幻想にとりつかれたことを、想い出す。戦後の荒廃の中で我々がアメリカ文化を、GIとJAZZと映画を通じて受け入れたときの心情は、我らの先祖が、安土・桃山時代に南欧の文化と情景を、不安と憧憬ををもって迎え入れた時の心情に、似ていたのであろうか。 
夏の強烈な日射しは、今も、白秋の「邪宗門」を初めて読んだときの想い出に繋がる。
北原白秋。日本が生んだ近・現代における最高の詩人の一人である。彼は明治43年にその処女詩集[邪宗門」を発表した。この詩集は、欧州印象派絵画の持つきらびやかな色彩感覚を、韻律に富んだ修辞に託して、官能的・耽美的な神秘の世界として展開している。白秋は、詩、短歌、童謡、民謡その他、詩歌の広い領域にその活動範囲を広げ、そのあらゆる分野で第一人者の評価を受けた。常に新境地を求めて、豊饒で美しい韻律と修辞をもって活躍し、同世代や後世代の文人に多大な影響を及ぼし続けた。
昭和17年、白秋は第2次世界大戦の激化する中、58歳でその生涯を閉じた。
   いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連(ばてれん)尊者、
   百年(ももとせ)を刹那に縮め、血の磔(はりき)背にし死すとも
   惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅(くれない)の夢、
   善主麿(ぜんすまろ)、今日を祈りに身も霊(たま)も薫りこがるる。
邪宗門秘曲 2
音楽と云えば洋楽、それもHR/HMしか聴かない。昔、音楽を聴き始めた頃は邦楽もよく聴いていたけれど、そのほとんどがロックだったため自然な流れでアメリカのロックに関心は移り、現在、邦楽は全く聴かない生活となった。
その理由はいくつかあって、ひとつは邦楽の歌詞の幼稚さ。あまりに無邪気な言葉が大の大人によって綴られては当然、気持ち悪いものを感じないわけにはいかない。一方、洋楽であれば歌詞は英語であるのだから多少、内容に乏しいものであっても゛音楽的″に楽しめたりする。いずれにせよ、日本の楽曲の歌詞はあまりに幼稚だ。
そう私が考える根拠は、それなりの判断基準があるからである。例えばボードレールの詩、それを一片でも読んでいれば、詩とはいかなるものか、かくあるべき詩とは何かが誰でもわかるだろう。多分に狡いことかもしれないが、ボードレールの詩を愛する私には、邦楽の歌詞はとても詩とは云えないのだ。詩を構成する言葉のひとつひとつの未熟さ、語られる思惑の幼児性。人は読んで気恥ずかしくならないのだろうか。
なにもペダンティックにボードレールを持ち出さなくても、日本には結構素晴らしい詩がある。高村光太郎の詩もそのひとつだろう。『週刊文春』6月8日号の高島俊男「お言葉ですが・・・」を読んで知った北原白秋の詩もまた、カッコイイ詩の代表だ。(なるたけ旧字体を使用。)
   われ思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
   K船の加比丹を、紅毛の不可思議國を、
   色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、
   南蠻の棧留縞を、はた、阿剌吉、珍酡の酒を。
      目見きドミニカびとは陀羅尼誦し夢にも語る、
      禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔、
      芥子粒を林檎のごとく見すといふ欺罔の器、
      波羅葦僧の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。
   屋はまた石もて造り、大理石の白き血潮は、
   ぎやまんの壺に盛られて夜となれば火點るといふ。
   かの美しき越歴機の夢は天鵝絨の桙ノまじり、
   珍らなる月の世界の鳥獣映像すと聞けり。
      あるは聞く、化粧の料は毒草の花よりしぼり、
      腐れたる石の油に畫くてふ麻利耶の像よ、
      はた羅甸、波爾杜瓦爾らの横つづりなる假名は
      美くしき、さいへ悲しき歡樂の音にかも満つる。
   いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、
   百年を刹那に縮め、血の磔脊にし死すとも
   惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、
   善主麿、今日を祈に身も靈も桙閧アがるる。
意味はわからなくても日本語のリズムのよさは誰でもわかるし、言葉のかっこよさもずば抜けている。詩は文語体が最良だが、現代語でも不可能ではないはず。そんな詩を読んでみたいもんだ。
ところで。おなじ高島氏の連載で知った真実。ご多分に漏れず「予言」と「預言」は別物だと思っていたのだが、なんと、同じ言葉だったとは。「豫」の簡略体が「預」と「予」であるから、「予言」と「預言」を別の意味にとるのは全くのデマだとか。辞書も間違っているらしい。これには驚いた。

「東京景物詩」 北原白秋

 

東京景物詩及其他 北原白秋
わかき日の饗宴を忍びてこの怪しき紺と青との
詩集を“PAN”とわが「屋上庭園」の友にささぐ  
■東京夜曲 
公園の薄暮
ほの青き銀色(ぎんいろ)の空気(くうき)に、そことなく噴水(ふきあげ)の水はしたたり、薄明(うすあかり)ややしばしさまかえぬほど、ふくらなる羽毛頸巻(ボア)のいろなやましく女ゆきかふ。
つつましき枯草(かれくさ)の湿(しめ)るにほひよ……円形(まろがた)に、あるは楕円(だゑん)に、劃(かぎ)られし園(その)の配置(はいち)の黄(き)にほめき、靄に三つ四つ色淡(うす)き紫の弧燈(アアクとう)したしげに光うるほふ。
春はなほ見えねども、園(その)のこころにいと甘き沈丁(ぢんてう)の苦(にが)き莟(つぼみ)の刺(さ)すがごと沁(し)みきたり、瓦斯(ガス)の薄黄(うすぎ)は身を投げし霊(たましひ)のゆめのごと水のほとりに。
暮れかぬる電車(でんしや)のきしり……凋(しを)れたる調和(てうわ)にぞ修道女(しゆうだうめ)の一人(ひとり)消えさり、裁判(さばき)はてし控訴院(こうそゐん)に留守居(るすゐ)らの点(とも)す燈(あかり)は疲(つか)れたる硝子(がらす)より弊私的里(ヒステリイ)の瞳(ひとみ)を放(はな)つ。
いづこにかすずろげる春の暗示(あんし)よ……陰影(ものかげ)のそこここに、やや強く光劃(かぎ)りて息(いき)ふかき弧燈(アアクとう)枯(かれ)くさの園(その)に歎(なげ)けば、面(おも)黄(き)なる病児(びやうじ)幽(かす)かに照らされて迷(まよ)ひわづらふ。
朧(おぼろ)げのつつましき匂(にほひ)のそらに、なほ妙(たへ)にしだれつつ噴水(ふきあげ)の吐息(といき)したたり、新(あたら)しき月光(つきかげ)の沈丁(ぢんてう)に沁(し)みも冷(ひ)ゆれば官能(くわんのう)の薄(うす)らあかり銀笛(ぎんてき)の夜(よ)とぞなりぬる。
   四十二年二月
鶯の歌
なやましき鶯のうたのしらべよ……ゆく春の水の上、靄の廂合(ひあはひ)、凋(しを)れたる官能(くわんのう)の、あるは、青みに、夜(よ)をこめて霊(たましひ)の音(ね)をのみぞ啼(な)く。
鶯はなほも啼く……瓦斯(ガス)の神経(しんけい)酸(さん)のごと饐(す)えて顫(ふる)ふ薄き硝子(がらす)に、失(うしな)ひし恋の通夜(つや)、さりや、少女(をとめ)の青ざめて熟視(みつ)めつつ闌(ふ)くる瞳(ひとみ)に。
憂欝症(ヒステリイ)の霊(たましひ)の病(や)めるしらべよ……コルタアの香(か)の屋根に、船のあかりに、朽ちはてしおはぐろの毒の面(おもて)に愁ひつつ、にほひつつ、そこはかとなく。
ヴオロンの三(さん)の絃(いと)摩(なす)るこころか、ていほろと梭の音(おと)たつるゆめにか、寝ねもあへぬ鶯のうたのそそりのかつ遠(とほ)み、かつ近み、静(しづ)こころなし。
夜もすがら夜もすがら歌ふ鶯……月白き芝居裏、河岸(かし)の病院、なべて夜の疲(つか)れゆくゆめとあはせて、ウヰスラアーの靄の中音(うちね)に鳴き鳴きてそこはかとなし。
   四十二年一月
夜の官能
湿潤(しめり)ふかき藍色(あゐいろ)の夜(よ)の暗(くら)さ……酸(す)のごとき星あかりさだかにはそれとわかねど濃(こ)く淡(うす)き溝渠(ほりわり)の陰影(かげ)に、青白き胞衣会社(えなぐわいしや)ほのかににほひ、※[「窗/心」]多く、而(しか)もみな閉(とざ)したる真四角(ましかく)の煙艸工場(たばここうば)の煙突の黒(くろ)みより灰(はひ)ばめる煤(すす)と湯気(ゆげ)なびきちらぼふ。
橋のもと、暗(くら)き沈黙(しじま)に舟はゆく……なごやかにうち青む砥石(といし)の面(おも)をいと重き剃刀(かみそり)の音(おと)もなく辷(すべ)るごとくに、舟はゆく……ゆけど声なくありとしも見えわかぬ棹取(さをとり)の杞憂(おそれ)深げに、ただ黄(き)なる燈火(ともしび)ぞのぼりゆく……孤児(みなしご)の頼(たよ)りなき眼(め)か。
つつましき尿(ねう)の香(か)の滲(し)み入るほとり、腐(くさ)れたる酒類(さけるゐ)の澱(おど)み濁(にご)りてそこここの下水(げすゐ)よりなやみしみたり、白粉(おしろい)と湯垢(ゆあか)とのほめく闇にも青き芽(め)の春の草かすかににほふ。
湿潤(しめり)ふかき藍色(あゐいろ)の夜(よ)の暗(くら)さ……かへりみすればいと黒く、はた、遠き橋のいくつのそのひとつ青うきしろひ、神経(しんけい)の衰弱(つかれ)にぞ絶間(たえま)なく電車過ぎゆき、正面(まとも)なる新橋(しんばし)の天鵝絨(びろうど)の空(そら)の深みにさまざまの電気燈(でんき)の装飾(かざり)、そを脱(ぬ)けて紫の弧燈(アアクとう)にほやかにひとつ湿(しめ)れる。あはれ、あはれ、爛壊(らんゑ)のまへの官能(くわんのう)のイルユミネエシヨン。
しかはあれども、湿潤(しめり)ふかき藍色(あゐいろ)の夜(よ)の暗(くら)さ……溝渠(ほりわり)の闇(やみ)の中(うち)病院(びやうゐん)の舟は消えゆき、青白き胞衣会社(えなぐわいしや)にほふあたりに、整(ととの)はぬ鶯ぞしみらにも鳴きいでにける。
   四十二年三月
片恋
あかしやの金(きん)と赤とがちるぞえな。かはたれの秋の光にちるぞえな。片恋(かたこひ)の薄着(うすぎ)のねるのわがうれひ「曳舟(ひきふね)」の水のほとりをゆくころを。やはらかな君が吐息(といき)のちるぞえな。あかしやの金と赤とがちるぞえな。
   四十二年十月
露台
やはらかに浴(ゆあ)みする女子のにほひのごとく、暮れてゆく、ほの白き露台(バルコン)のなつかしきかな。黄昏(たそがれ)のとりあつめたる薄明(うすあかり)そのもろもろのせはしなきどよみのなかに、汝(な)は絶えず来(きた)る夜(よ)のよき香料をふりそそぐ。また古き日のかなしみをふりそそぐ。
汝(な)がもとに両手(もろて)をあてて眼病の少女はゆめみ、欝金香(うこんかう)くゆれるかげに忘られし人もささやく、げに白き椅子の感触(さはり)はふたつなき夢のさかひに、官能の甘き頸(うなじ)を捲きしむる悲愁(かなしみ)の腕(かひな)に似たり。
いつしかに、暮るとしもなき※[「窗/心」]あかり、七月の夜(よる)の銀座となりぬれば静こころなく呼吸(いき)しつつ、柳のかげの銀緑の瓦斯(ガス)の点(とも)りに汝(なれ)もまた優になまめく、四輪車の馬の臭気(にほひ)のただよひに黄なる夕月もの甘き花(はな)※[「木+危」]子(くちなし)の薫(くゆり)してふりもそそげば、病める児のこころもとなきハモニカも物語(レヂエンド)のなかに起りぬ。
   四十二年七月 
■S組合の白痴 
雑艸園
悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷(ひや)き愁と、――霊(たましひ)の雑艸園の白日(はくじつ)はかぎりなく傷(いた)ましきかな。たとふればマラリヤの病室にふりそそがれし香水と消毒剤と、……※[「窗/心」]の外なる蜜蜂の巣と、……そのなかに絶えず恐るる弊私的里(ヒステリイ)の看護婦の眼と、霖雨後(りんうご)の黄なる光を浴びて蒸す四時過ぎの歎(なげき)に似たり。
見よ、かかる日の真昼にして気遣(きづか)はしげに点(とも)りたる瓦斯の火の病める瞳よ。
かくてまた蹈み入りがたき雑艸の最(もと)も淫(たは)れしあるものは肥満(ふと)りたる、頸輪(くびわ)をはづす主婦(めあるじ)の腋臭(わきが)の如く蒸し暑く、悲しき茎のひと花のぺんぺん草に縋りしは、薬瓶(くすりびん)もちて休息(やす)める雑種児(あいのこ)の公園の眼をおもはしむ。また、緩(ゆる)やかに夢見るごときあるものは、午後二時ごろの 〔Cafe'(カツフエ)〕 に Verlaine(ウエルレエヌ) のあるごとく、ことににくきは日光が等閑(なほざり)になすりつけたる思ひもかけぬ、物かげの新しき土(つち)の色調。またある草は白猫の柔毛(にこげ)の感じ忘れがたく、いとふくよかに温臭(ぬるくさ)き残香(のこりが)の中に吐息しつ。石鹸(シヤボン)の泡に似て小さく、簇(むらが)り青むある花はひと日浴(ゆあ)みし肺病の女の肌を忍ぶごとく、洋妾(らしやめん)めける雁来紅(けいとう)は吸ひさしの巻煙草めきちらぼひてしみらに薫(く)ゆる朝顔の萎(しぼ)みてちりし日かげをば見て見ぬごとし。
見よ、かかる日の真昼にして気遣はしげに瞬(またた)ける瓦斯の火の病める瞳よ。あるものは葱の畑より忍び来し下男のごとく、またあるものは轢かれむとして助かりし公証人の女房が甘蔗のなかに青ざめて佇むごとき匂しつ。ことに正しきあるものはかかる真昼を饐(す)え白らみたる鳥屋(とや)の外に交接(つが)へる鶏(とり)をうち目守(まも)る。
噫(ああ)、かかるもろもろの匂のなかにありて薬草の香(か)はひとしほに傷(いた)ましきかな、哀(あは)れ、そは三十路女(みそぢをんな)の面(おも)もちのなにとなく淋しきごとく、活動写真の小屋にありて悲しき銀笛の音(ね)の消ゆるに似たり。
見よ、かかる日の真昼にして気遣はしげに黄ばみゆく瓦斯の火の病める瞳よ。
あはれ、また知らぬ間(ま)に懶(ものう)きやからはびこりぬ。ここにこそ恐怖(おそれ)はひそめ。かくてただ盲人(まうじん)の親は寝そべり、剃刀(かみそり)持てる白痴児(はくちじ)は匍匐(はらば)ひながら、こぼれたる牛乳の上を、毛氈を、近づき来る思あり。またその傍(そば)に、なにとも知れぬ匂して、詮(せん)すべもなく降(くだ)りゆく、さあれ楽しくおもしろきやぶれかかりし風船の籠に身を置く心あり。あるは、また、かげの湿地(しめぢ)に精液のにほひを放つ草もあり。
見よ、かかる日の真昼にして気遣しげに青ざめし瓦斯の火の病める瞳よ。
悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷(ひや)き愁と、霊(たましひ)の雑艸園の白日(はくじつ)の声もなきかがやかしさを、時をおき、揺り轟かし、黒烟(くろけぶり)たたきつけつつ、汽車飛び過ぎぬ、かくてまたなにごともなし……。
   四十二年十月
瞰望
わが瞰望はありとあらゆる悲愁(かなしみ)の外に立ちて、東京の午後四時過ぎの日光と色と音とを怖れたり。
七月の白き真昼、空気の汚穢(けがれ)うち見るからにあさましく、いと低き瓦の屋根の一円は卑怯に鈍(にぶ)く黄ばみたれ、あかあかと屋上園に花置くは雑貨の店か、(新嘉坡の土の香(か)は莫大小(メリヤス)の香(か)とうち咽ぶ。)また、青ざめし羽目板(はめいた)の安料理屋の※[「窗/心」]の内、ただ力なく、女は頸(うなじ)かたむけて髪梳(くしけづ)る。(私生児の泣く声は野菜とハムにかき消さる。)洗濯屋(せんたくや)の下女はその時に物干の段をのぼり了り、男のにほひ忍びつつ、いろいろのシヤツをひろげたり。
九段下より神田へ出づる大路(おほぢ)にはしきりに急(いそ)ぐ電車をば四十女の酔人(よひどれ)の来て止(とど)めたり。斜(はす)かひに光りしは童貞の帽子の角(つの)か。
かかる間(ま)も収(をさ)まり難き困憊(こんぱい)はとりとめもなくうち歎(なげ)く。その湿(し)めらへる声の中覇王樹(サボテン)の蔭に蹲(うづく)みて日向ぼこせる洋館の病児の如く泣くもあり。煙艸工場の煙突掃除のくろんぼが通行人を罵る如き声もあり。白昼を按摩の小笛、午睡のあとの倦怠(けだる)さに雪駄ものうく白粉(おしろひ)やけの素顔して湯にゆくさまの芸妓あり。交番に巡査の電話、広告(ひろめ)の道化(どうけ)うち青みつつ火事場へ急(いそ)ぐごときあり。また間(ま)の抜(ぬ)けて淫(みだ)らなる支那学生のさへづりは氷室の看板(かんばん)かけるペンキのはこび眺むるごとく、印刷の音の中、色赤き草花凋(しな)え、ほどちかき外科病院の裏手の路次の門弾(かどびき)はげにいかがはしき病の臭気こもりたり。
(いま妄想の疲れより、ふと起りたる薬種屋内の人殺、下手人は色白き去勢者の母。)
何かは知らず、人かげ絶えてただ白き裏神保町の眼路遠く、肺病の皮膚青白き洋館の前を疲れつつ、「刹那」の如く横ぎりし電車の胴の白色(はくしよく)は一瞬にして隠れたり。いたづらに玩弄品(おもちや)の如き劇場の壁薄あかく、ところどころの※[「窗/心」]の色、曇れる、あるはやや黄なる、弊私的里性(ヒステリイせい)の薄青き、あるは閉せる、見るからに温室の如き写真屋に昼の瓦斯つき、(亡き人おもふ哀愁はそこより来る。)獣医の家は家畜の毛もていろどられ、歯科病院の帷(カーテン)は入歯のごとき色したり、その真中(ただなか)にただひとつ、研(と)ぎすましたる悲愁(かなしみ)か、冷(ひや)き理髪(りはつ)の二階より、剃刀(かみそり)の如く閃々と銀の光は瞬(またた)けり。
あらゆるものの疲れたる七月の午後、わが瞰望の凡ての色と音と光を圧すごとく、凡ての上にうち湿(しめ)る「東京の青白き墳墓(はか)」ニコライ堂の内秘(ないひ)より、薄闇(うすぐら)き円頂閣(ドオム)を越えて大釣鐘は騒がしく霊(たましひ)の内と外とに鳴り響く。鳴り響く、鳴り響く、……
   四十二年十月 
■心とその周囲 
T 窓のそと

わが※[「窗/心」](まど)のそと、黄(き)なる実(み)のおよんどんのちまめは小(ちひ)さなる光の簇(むらがり)をつくり、葉かげの水面(みのも)は銀色(ぎんいろ)の静寂(しづけさ)を織(お)る。白くして悩める眼鏡橋(めがねばし)のうへを鉄輪(かなわ)を走らしつつ外科医院(げくわゐゐん)の児は過ぎゆき、気の狂ひたる助祭(じよさい)は言葉なく歩み来る。
鐘を撞け、鐘を撞け、恐ろしき銀色(ぎんいろ)の鐘を……
この時、近郊(きんかう)を殺戮(さつりく)したる白人(はくじん)の一揆(いつき)は更にこの静かにして小(ちひ)さなる心の領内(りやうない)を犯さんとし、すでにその鎗尖(やりさき)のかがやきはかなたの丘の上に閃(ひら)めけり。
正午過ぎ……一分……二分……三分……日は光り、そよとの風もなし。

ある日、わが※[「窗/心」]の硝子(がらす)のしたに、覆(くつがへ)されたる蜜蜂の大きなる巣(す)激(はげ)しく臭(にほ)ひ、その周囲(めぐり)に数(かず)かぎりなき蜂の群(むれ)音(おと)たてて光りかがやき、粗末(そまつ)なる木(き)の函(はこ)へすべり入り、匍(は)ひめぐる。かがやかしき歓喜(くわんき)と悲哀(ひあひ)!すべてこの銀色(ぎんいろ)の光のなかに太(ふと)くしてむくつけき黒人(こくじん)の手ぞ働(はたら)ける……甘き甘きあるものを掻きいださんとするがごとく。
その前に負傷(ふしやう)したる敵兵(てきへい)三人(みたり)、――あるものは白き布(ぬの)にて右の腕(かひな)を吊(つる)したり――日に焼けたる絶望(ぜつまう)の顔をよせてそこはかとなきかかる日の郷愁(ノスタルヂヤア)に悩むがごとく珍(めづら)かにうち眺めたる……足もとの黄色(きいろ)なる花湿りたる土の香(か)のさみしさに※[「日/咎」](かげ)りつつうち凋(しを)る。
鐘は鳴る……銀色(ぎんいろ)の教会(けうくわい)の鐘……
硝子※[「窗/心」](がらすまど)のなかには薄色(うすいろ)の青き眼(め)がねをかけたる女、かりそめのなやみにほつれたる髪かきあげて、薬罎(くすりびん)載せたる円卓(ゑんたく)のはしに肱(ひぢ)つきながら金字(きんじ)見ゆるダンヌンチオの稗史(はいし)を閉(とざ)し、静かなる杏仁水(きやうにんすゐ)のにほひにしみじみときき惚(ほ)れてあり。
ああ午後三時の郷愁(ノルタルヂヤア)……
U S組合の白痴
夕まぐれ、石油問屋(せきゆどひや)のS組合(エスくみあひ)の入口に、つめたき硝子戸(がらすど)のそと、うち潤(しめ)る石油色(せきゆいろ)の陰影(いんえい)の中(うち)、薄(うす)ら光(ひか)る銀(ぎん)の引手(ひきて)のそばに薄白痴(うすばか)のわかきニキタは紫の絹ハンケチを頸(くび)にむすび、今日(けふ)もまたのんべりだらりと立(たち)ん坊(ぼう)の河岸の便所に凭(もた)るるごとく、のろまなその鈍(にぶ)き容態(なりふり)のいづこにか猾(ずる)き眼(め)を働(はた)らかせにやにやと笑ひつつあり。
日は向(むか)う河岸(がし)の家畜病院(かちくびやうゐん)の頽(すた)れたる露台(バルコン)を染め、入口の硝子戸の前に薬(くすり)塗(ぬ)らるる色黄(き)なる狂犬(きやうけん)を染め、隣(とな)れる健胃固腸丸(けんゐこちやうぐわん)の広告に苦(にが)き光を残しつつ沈みゆく。
S組合の薄白痴(うすばか)は石油ににじむ赤き髪(け)に雑種児(あひのこ)の矜(ほこり)を思ひ、けふの夜食(やしよく)も焼(やき)パンにジヤムと牛乳(ミルク)を購(か)はんとぞ思ふ。かかる間(ま)も白銅のこひしさに通(とほ)りすがる肥満女(ふとつちよ)の葱(ねぎ)もてる腕(かひな)に倚(よ)りてうち挑(いど)む。薄暮(くれがた)の河岸(かし)のあかしや、二本(ふたもと)の海岸(かし)のあかしや、その葉のゆめの金糸雀(かなりや)のごとくに散(ち)るころを、またしてもくちずさむ、下品(げひん)なる港街(みなとまち)の小唄(こうた)。青き青き溝渠(ほりわり)の光は暮れてゆく……
わかきニキタはぼんやりと薄笑(うすゑみ)しつつ、……十月の枯草(かれくさ)の黄(き)なるかがやき、そがかげのあひびきの浮(うは)つきし声のかすれを思ひいで、また外光(ぐわいくわう)の紫(むらさき)に河岸(かし)の燕(つばめ)の飛び翔(かけ)りながら隙見(すきみ)する瞳(ひとみ)青きフランス酒場(さかば)の淫(たは)れ女(め)が湯浴(ゆあみ)のさまを思ひやり、あるはまた火事ありし日の夕日のあたる草土堤(くさどて)にだらしなく擁(かか)へ出されて薫(かを)りたる薄黄(うすき)の、赤の乳緑(にふりよく)の、青の、沃土(えうど)の、催笑剤(わらひぐすり)や泣薬(なきぐすり)、痲痺剤(しびれぐすり)や惚薬(ほれぐすり)、そのいろいろの音楽(おんがく)の罎。さて組合の禿頭(はげあたま)のトムソンが赤つちやけたる鹿爪(しかつめ)らしき古外套(ふるぐわいたう)ををかしがり、恐ろしかりし夏の日のこと、どくだみの臭(くさ)き花のなかに「キ…ン…タ…マ…が…い…た…い」と白粉(おしろい)厚(あつ)き皺(しは)づらに力(ちから)なく啜(すす)り泣きつつ、終(つひ)に斃れし旅芸人(たびげいにん)のかつぽれが臨終(りんじゆう)の道化姿(どうけすがた)ぞ目に浮ぶ。
今瓦斯(ガス)点(つ)きし入口の撻(ドア)押しあけて石油の臭(にほひ)新らしく人は去る、流行(はやり)の背広(せびろ)の身がるさよ。いつしかに日は暮れて河岸(かし)のかなたはキネオラマのごとく燈(あかり)点(つ)き、吊橋(つりばし)の見ゆるあたり黄(き)なる月嚠喨(りうりやう)と音(ね)も高く出でんとすれど、あはれなほS組合の薄白痴(うすばか)のらちもなき想(おもひ)はつづく……
V 泣きごゑ
わが寝ねたる心のとなりに泣くものあり――夜(よ)を一夜(ひとよ)、乳(ち)をさがす赤子のごとく光れる釣鐘草(つりがねさう)のなかに頬をうづめたる病児(びやうじ)のごとく、あるものは「京終(きやうはて)」の停車場(ていしやば)のサンドウヰツチの呼びごゑのごと、黄(き)にかがやける枯草の野を幌(ほろ)なき馬車に乗りて、密通(みつつう)したる女(をんな)のただ一人(ひとり)夫(をつと)の家(いへ)に帰(かへ)るがごとく、げにげにあるものは大蒜(にんにく)の畑(はたけ)に狂人(きやうじん)の笑へるごとく、「三十三間堂」のお柳(りう)にもまして泣くこゑは、ネル着(つ)けてランプを点(とも)す横顔(よこがほ)のやはらかき涙にまじり理髪器(バリカン)の銀色(ぎんいろ)ぞやるせなき囚人(しうじん)の頭(かしら)に動(うご)く。そのなかに肥満(ふと)りたる古寡婦(ふるごけ)の豚ぬすまれし驚駭(おどろき)と、窓外(まどそと)の日光を見て四十男の神官(しんくわん)が死のまへに啜泣(すすりなき)せるつやもなく怖(おそろ)しきこゑ。
ああ夜(よ)を一夜(ひとよ)、わが寝(ね)たる心のとなりに泣くもののうれひよ。
W 銀色の背景
わが悲哀(かなしみ)の背景(バツク)は銀色(ぎんいろ)なり。そは五月(ごぐわつ)の葱畑(ねぎばたけ)のごとく、夏の夜の「若竹(わかたけ)」の銀襖(ぎんぶすま)のごとく青白き瓦斯(がす)に光る。
そのまへに、――弊私的里(ヒステリイ)の甚しきは私通(しつう)したる※[「さんずい+自」]芙藍色(さふらんいろ)の[「※[「さんずい+自」]芙藍色(さふらんいろ)の」は底本では「泊芙藍色(さふらんいろ)の」]女の声もなき白痴(はくち)の児をば抱きながら入日を見るがごとくに歩(あゆ)み、かの苦(にが)く青くかなしき愁夜曲(ノクチユルノ)……ある夜(よ)のわれは恐ろしくして美しき竹本小土佐の「合邦(がつぽう)」の玉手御前(たまてごぜん)の悲歎(なげき)をば弾語(ひきがたり)する風情(ふぜい)に坐(すわ)り、暗き暗き欝悶(うつもん)は鈍銀(にぶぎん)の引(ひ)かれゆく幕の前に、指組(ゆびく)める「仁木(につき)」のごとく隈(くま)青き眼(め)の光烟(けぶり)とともにスツポンの深き恐怖(おそれ)よりせりあがる。……
何時(いつ)も何時(いつ)もわが悲哀(かなしみ)の背景(バツク)には銀色(ぎんいろ)の密境(みつきやう)ぞ住む。そのなかに鳴きしきる虫の音よ、匂(にほひ)高き空気(くうき)の迅(はや)き顫動(せんどう)、太棹(ふとざを)と、鋭(するど)き拍子木(ひやうしぎ)、ああああわが凡(すべて)の官能(くわんのう)は盲(めし)ひんとして静かに光る。
X 神経の凝視
日は暮るる、日は暮るる、力(ちから)なき欝金(うこん)の光……
ゆき馴(な)れし一本(ひともと)の楡(にれ)のもと、半(なかば)壊(こは)れし長椅子(ベンチ)に、恐ろしき病室(びやうしつ)を抜(ぬ)けいでたるわがこころの神経(しんけい)の疑(うたがひ)ふかき凝視(ぎようし)……
足もとの、そこここの小さき花は長く長く抱擁(はうえう)したるあとの黄色(きいろ)なる興奮(こうふん)に似て光り……なげき……吐息(といき)し……沈黙(ちんもく)したる風は生前(せいぜん)の日の遺言状(ゆゐごんじやう)の秘密(ひみつ)のごとくに刺草(いらくさ)の間(あひだ)に沈み、美(うつく)しき絶望(ぜつまう)のごとたまさかに蜥蜴(とかげ)過(す)ぎゆく。
近郊(きんかう)の鐘は鳴る……修道院(しゆだうゐん)晩餐(ばんさん)の鐘……
神経の澄(す)みわたる凝視(ぎようし)はつづく――その青くして何物(なにもの)にも吸ひ取らるるがごとき瞳(ひとみ)は身をすりよする異母妹(いぼまい)の性(せい)の恐怖(おそれ)より逃(のが)れんとし、親(した)しき友人の顔に陋(いや)しき探偵(たんてい)の笑(わらひ)を恐れ、色黄(き)なる醜(みにく)き悪縁(あくゑん)の女(をんな)を殺(ころ)さんとし、さらにわが生(せい)を力(ちから)あらしめんがために砒素(ひそ)を医局(いきよく)の棚より盗み、終(つひ)にまた響(ひびき)も立てぬ霊(たましひ)の深緑(しんりよく)の瞳(ひとみ)にうち吸はれ、わが心の深淵(しんゑん)に突き落されし処女(ヴアジン)の銀(ぎん)の咽(むせ)びをきく。
この時(とき)、病院の青白き裏口(うらぐち)の戸に佇める看護婦は携へし鳥籠(とりかご)の青き小鳥の鳴くこゑをさびしみながら、角(かく)吹ける乗合馬車の遠き遠き黄(き)のかがやきをなつかしむ。
日は暮るる、日は暮るる、力(ちから)なき欝金の光……
   四十三年二月
物理学校裏
Borum. Bromun. Calcium. Chromium. Manganum. Kalium. Phosphor. Barium. Iodium. Hydrogenium. Sulphur. Chlorum. Strontium. ……
(寂しい声がきこえる、そして不可思議な……)
日が暮れた、淡(うす)い銀と紫――蒸し暑い六月の空に暮れのこる棕梠の花の悩ましさ。黄色い、新しい花穂(ふさ)の聚団(あつまり)が暗い裂けた葉の陰影(かげ)から噎(む)せる如(やう)に光る。さうして深い吐息(といき)と腋臭(わきが)とを放つ歯痛(しつう)の色の黄(きな)、沃土ホルムの黄(きな)、粉つぽい亢奮の黄(きな)。
……蒼白い白熱瓦斯の情調(ムウド)が曇硝子を透して流れる。角窓のそのひとつの内部(インテリオル)に光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。肺病院の如(やう)な東京物理学校の淡(うす)い青灰色(せいくわいしよく)の壁にいつしかあるかなきかの月光がしたるる。
……静かな悩ましい晩、何処かにお稽古(けいこ)の琴の音がきこえて、崖下の小さい平家(ひらや)の亜鉛屋根にコルタアが青く光り、柔(やは)らかい草いきれの底に Lamp の黄色い赤みが点る。その上の、見よ、すこしばかりの空地(あきち)には湿(しめ)つた胡瓜と茄子の鄙びた新らしい臭(にほひ)が惶(あわ)ただしい市街生活の哀愁(あいしゆう)に縺れる……
汽笛が鳴る……四谷を出た汽車の Cadence(カダンス) が近づく……
暮れ悩む官能の棕梠そのわかわかしい花穂(ふさ)の臭(にほひ)が暗みながら噎(むせ)ぶ、歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。
寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な……そこここの明(あか)るい角※[「窗/心」]のなかから。……棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、無意味な琴の音の稚(をさ)なびた Sentiment は何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。汽笛が鳴る……濠端(ほりばた)の淡(うす)い銀と紫との空に停車(とま)つた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。静かな三分間。
悩ましい棕梠の花の官能に、今、蒸し暑い魔睡がもつれ、暗い裂けた葉の縁(ふち)から銀の憂欝(メランコリイ)がしたたる。その陰影(かげ)の捕捉(とら)へがたき Passion の色、歯痛の色の黄(きな)、沃土ホルムの黄(きな)、粉つぽい亢奮の黄(きな)。
……
   四十三年三月
骨なし児と黒猫
そは恐(おそ)ろしきXなり。淫(みだ)らにして不倫(ふりん)なる母(はは)のごとく、汝(な)が神経(しんけい)と知覚(ちかく)とは痛(いた)ましきほど慄(わなな)けども、力(ちから)なき骨(ほね)なし児(ご)よ。終日(ひもすがら)、わづらはしき病室(びやうしつ)の白葡萄酒(はくぶどうしゆ)の如(ごと)き空気(くうき)に呼吸(こきふ)し、霊(たましひ)のうつらぬ瞳(ひとみ)は唯(ただ)狂(くる)はしき硝子戸(がらすど)の外(そと)をうち凝視(みつ)む。
そが背後(うしろ)の棚(たな)の上(うへ)、やや青(あを)みたる陰影(いんえい)の中(うち)、ニツケルの産科(さんくわ)の器械(きかい)鵞(が)のごとき嘴(はし)して光(ひか)り、薄(うす)く曇(くも)れる硝子(がらす)のなかにとりあつめたる薬剤(やくざい)の罎(びん)、その青(あを)く赤(あか)くおぼめける劇薬(げきやく)のエチケツテ……鋭(するど)く、苦(にが)し。
ああ骨(ほね)なし児(ご)よ。この薄暮(くれがた)の反射(はんしや)に、柔軟(やはら)かにして悩(なや)ましき汝(な)が衾(ふすま)は銀(ぎん)の潤沢(しめり)に光(ひか)れど、冷(ひや)やかなる鉄(てつ)の寝台(ねだい)の上(うへ)、据(す)ゑられし木造(きづくり)の函(はこ)は、汝(な)が身(み)を入(い)れたる小(ちひ)さき牢獄(ひとや)は山葵色(わさびいろ)の曇(くもり)にうち歎(なげ)く。
大人(おとな)びたる顔(かほ)の白(しろ)き白(しろ)き白粉(おしろい)の恐(おそ)ろしさよ。なよなよと凭(もた)せたる身体(からだ)のしまりなさ。霊(たましひ)の青(あを)さ、いたましさ、生温(なまぬ)るき風(かぜ)のごと骨(ほね)もなき手(て)は動(うご)く――その空(そら)に※[「金+肅」]銀(しやうぎん)の鐘(かね)はかかれり。
ああ、ああ、今(いま)しがたまでぞ、この硝子戸(がらすど)の外(そと)には五時(じ)ごろの日(ひ)の光(ひかり)わかわかしき血(ち)のごとくふりそそぎ、見(み)えざる窓下(まどした)のあたりより、抑圧(おさ)えあへぬ抱擁(はうえう)の笑(わら)ひ声(ごゑ)きこえしか――葱畑(ねぎばたけ)すでに青(あを)し。
※[「金+肅」]銀(しやうぎん)の鐘(かね)よりは一条(ひとすぢ)の絹(きぬ)薄青(うすあを)く下(さが)りて光(ひか)る。その端(はし)をはづかに取(と)りたる手(て)は、その瞳(ひとみ)は、ああ、すべて力(ちから)なし。――さらにさらに痛(いた)ましきはかかる青(あを)き薄暮(くれがた)の激(はげ)しき官能(くわんのう)の刺戟(しげき)。
聴(き)け、遂(つひ)に、彼(かれ)は泣(な)く。……あらず、そは馴染(なじ)みたる黒猫(くろねこ)なりき。ふくらなる身(み)を跳(おど)らせて、銀色(ぎんしよく)の衾(ふすま)の裾(すそ)にのぼりつつ背(せ)を高(たか)めたる。黄(き)ばみたる青葱色(あをねぎいろ)の眼(め)の光(ひかり)来(きた)る夜(よ)の恐怖(おそれ)にそそぐ。
かくてただ声(こゑ)もなし。青(あを)く光(ひか)る硝子戸(がらすど)に真白(ましろ)なる顔(かほ)ふりむけて、哀楽(あいらく)の表情(へうじやう)もなく親(した)しげに畜類(ちくるゐ)の眼(め)と並(なら)びつつ何(なに)をか凝視(みつ)む。ああ、暗(くら)き暗(くら)き葱畑(ねぎばたけ)の地平(ちへい)に黄(き)なる月(つき)いでんとして、※[「金+肅」]銀(しやうぎん)の鐘(かね)は鳴(な)る……幽(かす)かに、……幽(かす)かに……やるせなき霊(たましひ)の求(と)めもあへぬ郷愁(ノスタルヂヤア)。
   四十三年二月
雪ふる夜のこころもち
今夜(こんや)も雪が降つてゐる。……
Blue devils よ。酔ひ狂つた俺(おれ)の神経が――Sara …… sara ……とふる雪の幽かな瞬(またたき)を聴きわけるほど――ひつそりと怖気(をぢけ)づく、ほんの一時(いちじ)の気紛(きまぐれ)につけ込んで、汝(おまへ)はやつて来る……顫(ふる)ひながら例(れい)の房のついた尖帽(せんぼう)をかぶつて、掻きむしつた亜麻色(あさいろ)の髪(け)の、泣き出しさうな青い面(つら)つきで、ふらふらと浮いた腰の、三尺(さんじやく)ほどの脚棍(たけうま)に乗つて、ひよつくりこつくり西洋操人形(あやつりにんぎやう)のやうにやつてくる。
硝子の閉(しま)つた青い街(まち)を、濡れに濡れた舗石(しきいし)のうへを、ピアノが鳴る……金色(きんいろ)の顫音(せんおん)の潤(うる)むだ夜の空気に緑を帯びて消えてゆく。
雪がふる。……湿(しめ)つた劇薬(げきやく)の結晶(けつしやう)、アンチピリンの(頓服剤(ねつさまし)の)、粉末(ふんまつ)のやうに――それがまた青白い瓦斯(ガス)に映(うつ)つて弊私的里(ヒステリー)の発作(ほつさ)が過ぎた、そのあとの沈んだ気分(きぶん)の氛囲気(ふんゐき)に落(お)ちついた悲哀(かなしみ)の断片(だんぺん)がしみじみと降りしきる。
そのとき、酒場(さかば)の薄い硝子からむちやくちやになつた神経が、馬鹿にしろといふ調子で、それでも沈まりかへつて、恐怖(おそれ)と可笑(をかしさ)の眼を瞠(みは)つたまま、ふる雪を、Blue devils の歩行(あるき)を眺めてゐる。ひよつくりこつくり顫(ふる)へてゆく……ピアノに合せた足どりの、ふらふらと両手(りようて)を振つて、あかしやの禿げた並木をくぐりぬけ、三角形(なり)の街燈(がいたう)の鉄の支柱(ちゆう)によろけかかつて腰をつき、そそくさと、そそくさと、内隠(かくし)から山葵色(わさびいろ)の罎(びん)を取り出し、こくこくと仰向(あふむ)いて、苦(にが)さうな口のあたりに持てゆく。
雪がふる……白く……薄青く……
それが罎(びん)を収(しま)つてひよいと此方(こちら)を見る。涙の一杯たまつた眼に張(はり)のない痲痺(まひ)しきつた笑(わらひ)を洩らしながら、克明(こくめい)な霊(たましひ)のかたわれがひよつくりこつくり道化(だうけ)た身振に消えてゆく。
ああ、静かな夜(よる)、何処(どこ)かに幽かに杏仁水(きやうにんすゐ)のにほひがして疲れた官能が痺れてくる……
濡れたあかしやが銀(ぎん)の恐怖(おそれ)に光つて、一ならび青い硝子に反射する――そのほかは声もせぬ通の長い舗石(しきいし)のうへを痺(しび)れて了(しま)つたピアノの顫音(せんおん)が、ふる雪の断片が、活動写真のまたたきのやうに音もなく瓦斯の光に顫へてゐる。
雪がふる。Sara …… sara …… sara …… sara …… sara ……薄ら青い、冷(つめ)たい千万の断片が落ついた悲哀(かなしみ)の光が、弊私的里(ヒステリー)の発作(ほつさ)が過ぎた、そのあとの沈んだ気分(きぶん)の氛囲気(ふんゐき)に、しんみりとしたリズムをつくつてしづかに降りつもる。Sara …… sara …… sara …… sara …… sara ……
   四十三年六月
解雪
わが憂愁は溶(と)けつつあり、黄色(きいろ)く赤くみどりに、屋根の雪は溶けつつあり、光りつつ、つぶやきつつ、滴りつつ……
日はすでにまぶしく、菓子屋の煙突よりは烟(けむり)のぼり、病犬は跛(ちんば)曳きつつ舗石(しきいし)をゆく、そのなかに溶(と)けつつあるものの小歌(リイド)。
やはらかによわく、ほそく、そは裁縫機械(ミシン)のごとく幽かに、いそがしく、さまざまの光を放ちつつ滴(したた)る。
喪心(さうしん)のたのしさを聴け。薄暗き地下室(セラ)の厨女(くりやめ)よ、湯沸(サモワル)の湯気の呼吸(いき)も玉葱のほとりにしづごころなし。
丸の内の三号、その高き煉瓦より、筧より、また廂より、かくれたる物の芽に沁(し)みたる無数の宝玉の溶解(ようかい)、温かに劇薬のながれ湿(しと)る音楽……
わが憂愁は溶(と)けつつあり、黄色く、赤く、みどりに、屋根の雪は溶けつつあり、光りつつ、つぶやきつつ、滴(したた)りつつ……
   四十三年六月 
■青い髯 
青い髯
五月(ごぐわつ)が来た。硝子と乳房との接触(せつしよく)……桐の花とカステラ……春と夏との二声楽(ヂユエツト)、冷めたい冬……
とりあつめた空気の淡(うす)い感覚に、硝子戸のしみじみとした汗ばみに、さうして、私の剃(そ)りたての青い面(かほ)の皮膚(ひふ)に、黄緑(くわうりよく)の Passion を燃えたたせ、顫はす日光の痛(いた)さ、その眩(ま)ぶしい音楽は負傷兵(ふしやうへい)の鳴らす釣鐘のやうに、恢復期(くわいふくき)の精神病患者がかぎりなき悲哀(ひあい)の Irony に耽けるやうに、心も身体(からだ)も疲(つか)らしたその翌日(あくるひ)の私の弱い瞼(まぶた)のうへに、キラキラとチラチラと苦(にが)い顫音(せんおん)を光らす、強く絶えず、やるせなく……
午前十一時半、公園の草わかばの傷(いた)みに病犬(びやうけん)の黄(きいろ)い奴(やつ)が駈けまわり、禿げた樹木(じゆもく)の梢がそろつて新芽(しんめ)を吹く、螺旋状(らせんじやう)の臭(にほひ)のわななきと、底力(そこぢから)のはづみと、Whiskey の色に泡(あわ)だつ呼吸(いき)づかひと……而(さう)して、わかい男の剃りたての面(かほ)の皮膚の下から青い髯が萠える……
五月が来た。どこかしらひえびえとした微風(びふう)が閃(ひら)めく噴水(ふんすゐ)の尖端(さき)からしづれて、ニホヒイリスや和蘭陀薄荷(おらんだはつか)のしめりを戦(そよ)がせ、ぢつと、私が凝視(みつ)むる、小酒杯(リキユグラス)の透明な無色(むしよく)の火酒(ウオツカ)を顫はし、黄緑(くわうりよく)の外光(ぐわいくわう)を浴(あ)びた青年の面(かほ)のうへを、なめらかに砥石(といし)のやうな青みを、Poe の頬のやうな手ざはりを、すいすいと剃刀(かみそり)のやうに触れる、
私は無言(むごん)で冷(つめ)たい小酒杯(リキユグラス)をとりあげ、しみじみと赤い唇(くちびる)にあてる……
五月が来た、五月が来た。楠(くす)が萠え、ハリギリが萠え、朴(ほう)が萠え、篠懸(すずかけ)の並木が萠える。そうして、私の新しいホワイトシヤツの下から青い汗(あせ)がにじむ、植物性の異臭(いしゆう)と、熱(ねつ)と、くるしみと、……芽でも吹きさうな身体(からだ)のだらけさ、(何でもいいから抱(だ)きしめたい。)萠える、萠える、萠える、萠える、青い髯がウオツカの沁み込む熱(あつ)い頬(ほ)の皮膚(ひふ)から萠える。……
くわつとふりそそぐ日光、冷(つめ)たい風、春と夏との二声楽(ヂユエツト)、……緑(みどり)と金(きん)……
   四十三年五月
五月
新しい烏竜茶(ウーロンちや)と日光、渋味もつた紅(あか)さ、湧きたつ吐息(といき)……
さうして見よ、牛乳にまみれた喫茶店(きつさてん)の猫を、その猫が悩ましい白い毛をすりつける女の膝の弾力(だんりよく)。
夏(なつ)が来(き)た、静(しづ)かな五月(ぐわつ)の昼(ひる)、湯沸(サモワル)からのぼる湯気(ゆげ)が、紅茶(こうちや)のしめりが、爽(さわや)かな夏帽子(なつばうし)の麦稈(むぎわら)に沁(し)み込(こ)み、うつむく横顔(よこがほ)の薄(うす)い白粉(おしろい)を汗(あせ)ばませ、而(さう)してわかい男(をとこ)の強(つよ)い体臭(にほひ)をいらだたす。
「苦(くる)しい刹那(せつな)」のごとく、黄(き)ばみかけて痛(いた)いほど光(ひか)る白(しろ)い前掛(まへかけ)の女(をんな)よ。「烏竜茶(ウーロンちや)をもう一杯(ぱい)。」
   四十三年五月
銀座花壇
赤(あか)い花(はな)、小(ちひ)さい花(はな)、石竹(せきちく)と釣鐘艸(つりがねさう)。かなしくよるべなき無智(むち)……
瓦斯(ガス)の点(つ)いた勧工場(くわんこうば)のはいりくち、明るい硝子棚、紗(しや)の日被(ひよけ)、夏は朝から悩ましいのに花が咲いた……あはれな石竹と釣鐘草(つりがねさう)。
わかい葉柳(はやなぎ)の並木路(アベニユ)、撒水(みづまき)した煉瓦道(れんぐわみち)、そのなかの小(ちひ)さな人口花壇(じんこうくわだん)、(疲(つか)れた瞳(ひとみ)の避難所(ひなんしよ))その方(はう)二尺(しやく)のかなしい区劃(しきり)に、夏(なつ)がきて花(はな)が咲(さ)いた、小(ちひ)さい細(ほそ)い石竹(せきちく)と釣鐘艸(つりがねさう)。
絶(た)えず絶(た)えず電車(でんしや)が通(とほ)る……おしろい汗(あせ)を吹(ふ)く草(くさ)の葉(は)に、裁縫器(ミシン)の幽(かす)かな音(おと)に、よせかけた自転車(じてんしや)の銀(ぎん)のハンドルの反射(はんしや)日(ひ)は光(ひか)り、かるい埃(ほこり)が薄(うす)い車輪(しやりん)をめぐる……赤い花、小さい花、石竹と釣鐘草。
さうして女がゆく、すずしい白(しろ)のスカアトその手(て)に持(も)つた赤皮(あかがは)の瀟洒(せうしや)な洋書(ほん)、いつかしら汗(あせ)ばんだこころに異国趣味(エキゾチツク)な五月(ぐわつ)が逝(ゆ)く……新(あたら)しい銀座(ぎんざ)の夏(なつ)、かなしくよるべなき人工(じんこう)の花(はな)、――石竹(せきちく)と釣鐘艸(つりがねくさ)。
   四十三年五月
六月
白い静かな食卓布(テエブルクロース)、その上のフラスコ、フラスコの水にちらつく花、釣鐘草(つりがねさう)。
光沢(つや)のある粋(いき)な小鉢の釣鐘草(つりがねさう)、汗ばんだ釣鐘草、紫の、かゆい、やさしい釣鐘草、
さうして噎(むせ)びあがる苦い珈琲(カウヒイ)よ、熱(あつ)い夏のこころに私は匙を廻す。
高※[「窗/心」]の日被(マルキイズ)その白い斜面の光から六月が来た。その下の都会の鳥瞰景(てうかんけい)。
幽かな響がきこゆる、やはらかい乳房の男の胸を抑(をさ)へつけるやうな……苦い珈琲よ、かきまわしながら静かに私のこころは泣く……
   四十三年六月
新聞紙
一九一〇、六月(ぐわつ)、はじめの月曜(げつえう)冷(つ)めたい朝(あさ)の七時(じ)、つつましい馭者台(ぎよしやだい)のうへに、ただひとり爽(さわや)かに折(を)りかへす新聞紙(しんぶんし)の緑(みどり)の薄(うす)い反射(はんしや)……
微(かす)かな鉄分(てつぶん)をふくんだ空気(くうき)にまだ青味(あをみ)を帯(お)びた棕梠(しゆろ)の花(はな)がかよわい薄黄色(うすぎいろ)に光(ひか)り、ちらほらと夏帽子(なつぼうし)の目(め)につくなつかしいだらだら坂(さか)の下(した)のH分署(ぶんしよ)の前(まへ)の通(とほり)……せはしい電車(でんしや)の鐸(ベル)……
撒水夫(みづまき)の喞筒(ポムプ)を動(うご)かすさびしさ、濠端(ほりばた)の火(ひ)の消(き)えた瓦斯燈(がすとう)に白マントルが顫(ふる)へ、その硝子(ガラス)の一点(てん)に日光(につくわう)の金(きん)が光(ひか)つてる。
わかい馭者(ぎよしや)は窓(まど)のないカキ色(いろ)の囚人馬車(しうじんばしや)を梧桐(あをぎり)のかげにひき入(い)れたまま、しづかに読(よ)み耽(ふけ)る……
こころもち疲(つか)れた馬(うま)の呼吸(こきふ)……短(みじか)く刈(か)つた栗毛(くりげ)の光沢(つや)から沁(し)み出(で)る臭(にほひ)の奇異(ふしぎ)な汗(あせ)ばみ、その上(うへ)にさしかくる新聞紙(しんぶんし)の新(あたら)しい触感(しよくかん)、わか葉(ば)の薄(うす)い緑(みどり)の反射(はんしや)。新(あたら)しい客(きやく)を待(ま)つ間(あひだ)、やすらかな五分時(ふんじ)が過(す)ぎゆく……
   四十三年六月
畜生
やはらかにかなしきは畜生のこころなれ。
赤き日はアカシヤのわか葉にけぶり、※[「くさかんむり/(束+束)」]肉(にんにく)の黄なる花ちらちらと噎(むせ)ぶとき怖々(おづおづ)と投げいだし、眠りたる霊(たましひ)の人間の五官にもわきがたきいと深きかなしみ……そのゆめはこころもち汗ばみて傷(きず)つきし銀毛(ぎんまう)の耳に痛(いた)き花粉は沁(し)み、やるせなき肉体の憂欝(いううつ)に柔かにかろく魘(うな)さるれど、汝(な)が母を犯したる霊(たましひ)の不倫をば知るよしもなし。
五時過ぎて暮ちかき夏の日は血に染(そ)みし呼鈴(よびりん)の声のごとくふりそそぎ、嫋(なよ)やかなる風は蜜蜂の褐色(かちいろ)に、蜜蜂のつぶやきはかろく花粉を落す。
汝(な)が微(かす)かなる寝息は腐れたる玉葱のにほひにも沁(し)み、快(こころよ)く荒(すさ)みゆく性(せい)の秘密にや笑ふらん。匍(は)ひよりし毛虫の奇異(きい)なる緑にも汝(な)は覚(さ)めず……ひとみぎり園丁の鍬の刃はかなたに光り、掘りかへさるる土の香の湿潤(しめり)吹き来る。
あはれ、かかる日に病みて伏すやはらかにかなしき畜生(ちくしやう)の捉(とら)へがたき微温(びをん)の、やるせなきそのこころ……
   四十三年六月
隣人
隣人(りんじん)は露西亜の地主(ぢぬし)のごとく、素朴な黒の上衣(うはぎ)に赤木綿のバンドを占め、長靴を穿(は)き、禿げた頭(あたま)のきさくから他(よそ)の畑を見回(みまは)る。
隣人はよく蚕豆(そらまめ)のなかに立ち、雨に濡れた黄花※[「くさかんむり/(束+束)」]肉(きのはなにんにく)を眺める。自慢らしい手つきで喞(くは)えたパイプの雁首(がんくび)をぽんとはたく。
隣人は見え坊だ、そりばつてん、どうかすると吝嗇漢(しみつたれ)だ、世界苦(せかいく)の気欝(ふさぎ)から、馬鈴薯(じやがいも)を食(た)べすぎた食傷(もたれ)から。
隣人は女房を恐れる、長崎うまれの肥満女(ふとつちよ)の息の臭い、馬鹿力のある、それでよく小娘のやうにかぢりつく、牛肉(ビイフ)と昼寝の好きな飲酒家(のんだくれ)。
隣人は日に一度黒い蒸汽をながめる、その悲しい面(かほ)に※[「さんずい+自」]芙藍(さふらん)のやうな黄いろい日が光り、涙がながれる。さうして悄然(しほしほ)と御燈明(みあかし)をあげにゆく。
隣人の宣教師、混血児(あひのこ)のベンさん気まぐれな禿頭、青い眼鏡をかけては街(まち)を歩行(ある)き、日曜の日には御説教。
“Changhang-deki no Mariya Sanna Ne wa yasuka-batten, utsukushikaken, 〔Minasan yo_ ogan de wokinasare.〕”お精がでます、茂助。
   四十三年六月
雨の気まぐれ
雨はふる。……雨はふる……やるせない春機発動期(しゆんきはつどうき)の憂欝病(いううつびやう)……神経の哀(かな)しい衰弱……黄色い胃病患者の腐つた気分にふりそそぐ雨。私通した小娘(こむすめ)の青い悪阻(つわり)の秘密と恐怖とにふりそそぐ雨。泥酔漢(のんだくれ)のおくびと、殺人(ひとごろし)の温(ぬ)るい計画(たくらみ)とにふりそそぐ雨。
しとしとと、しとしとと、絶間なく雨はふる、ふりそそぐ、にじむ、曳く、消ゆる、滴(したた)る。わが暗い霊(たましひ)の霖雨季(りんうき)の長いひと月、日がな終日(ひねもす)、昼も夜(よ)も、一昨日(をととひ)も、昨日(きのふ)も、今日(けふ)も乱次(だらし)ない雨はふる、ふりそそぐ、にじむ、曳く、消ゆる、滴(したた)る。酸(す)つぱい麦酒(ビール)のやうな気の抜けた雨。いそぎんちやくの液(しる)のむづかゆい雨。黴(かび)くさいインキいろの青い雨。雨……雨……雨……雨はふる……雨はふる……酸敗(す)えかかつた橡(とち)の葉の繊維(せんゐ)に蛞蝓(なめくじ)の銀線(ぎんせん)を曳き、臭(くさ)い栗の花の白金(プラチナ)を腐らし、鉄粉(てつぷん)のやうに光る芝生の土に沁み込み、青い古池の面(おもて)に怪(あや)しい笑(わらひ)を辷らせ、せうことなしに雨はふる、ふりそそぐ、何時までも何時までも小止(をや)みなく……
陰気な黴くさい雨、長い雨……日ぐらしの雨……ともすると疲(つか)れきつた悲愁(かなしみ)の裏(うら)から微(ほの)かな日光の金(きん)を投げかくる雨。雨のふる廃園(はいゑん)の木立の暗(くら)い緑(みどり)色の空間(スペース)。その洞(ほら)のやうな葉かげの恐怖にふりそそぐ雨。……折から、ひよいと、花やかに地(ち)より身軽(みかろ)なひるがへり、躍り出したる怪(け)のものが突拍子(とつぺし)もないひと躍り、……
Kappore! Kappore! Amacha de Kappore! Shiwocha de Kappore! Yoito na! Yoi! Yoi!
緋のだんだらの尖帽(せんばう)に戯姿(おどけすがた)の道化師(だうけし)が恐ろしきほど真白(まつしろ)く白粉(おしろい)つけた呆(とぼ)けがほ。
   ……略……
目も動かさず、白々(しらじら)と悪(わる)く澄(す)ましたくはせ者、燥(はしや)ぎくるめく廉(やす)ものの蓄音機から絞(しぼ)りだす囃(はやし)――黄色(きいろ)な甲高(かんだか)の三味(しやみ)の笑(わらひ)に挑(いど)まれて、戯(おど)けつくした身のひねり、突拍子(とつぺし)もないひと躍り……
Ichi kake, Ni kake, San kake te, Shi kake te, Go kake te, Hasyo kake te, Kawai Okata wo ……
ふいと消えたる変化(へんげ)もの、白粉(おしろい)の濃(こ)い、手の白い、素足(すあし)の白い、唇(くちびる)の赤(あか)い沈黙(ちんもく)……
雨はふる……雨はふる……陰気な黴くさい雨……長い雨……日ぐらしの雨……気まぐれな不摂生(ふせつせい)のあとの痛(いた)ましい寂寥(さびしみ)、幻影(イリユージヨン)の消え失せた雰囲気(ふんゐき)の暗(くら)い緑に、むづ痒(か)ゆいやうな、気の抜けた、さみしい、弱い、せうことなしの雨はふる……雨はふる……本能と神経の黄昏時(たそがれどき)。
しとしとと、しとしとと、絶え間なく雨はふる、ふりそそぐ、葉から葉へ、しとと滴(したた)る。深緑(しんりよく)の闇(くら)い夜(よる)――ふる雨の黒いかがやき、廃(すた)れたる橡(とち)の葉に古池に霊(たましひ)の底の秘密へ、日がな終日(ひねもす)、昼間(ひるま)から、今日(けふ)の朝から、昨日(きのふ)から、遠い日の日の夕(ゆふべ)から、ふりつづく長い長い憂欝(いううつ)の単音律(モノトニー)、その青い雨……黴くさい雨……投げやりの雨……辛気くさい静かな雨、かなしいやはらかな……生温(なまぬ)るい計画(たくらみ)の雨。雨……雨……雨……
   四十三年六月
葱の畑
寥(さび)しい霊(たましひ)が鳴(な)いて居る。そこここの湿(しめ)つた黒(くろ)い土(つち)のなかで昼(ひる)の虫(むし)が幽(かす)かな、銀(ぎん)の調子(てうし)で鳴(な)いてゐる。
疲(つか)れた日光(につくわう)が五時半(ごじはん)ごろの重(おも)い空気(くうき)と、湯屋(ゆや)の曇硝子(くもりがらす)とに、黄色(きいろ)く濡(ぬ)れて反射(はんしや)し、新(あたら)しい臭(にほひ)のなかに弱(よわ)つてゆく。
寂(さび)しい霊(たましひ)が鳴(な)いてゐる。
毛(け)なみのいい樺(かば)と白の犬が交(つる)んだまま葱(ねぎ)のなかにかくれてる。眩(まぶ)しさうに首だけ覗(のぞ)いて淀(よど)んだ瞳(ひとみ)に何物(なにもの)をか恐(おそ)れてゐる。――息(いき)がしづかに茎(くき)の尖頭(さき)を顫(ふる)はす。
何処(どこ)かで百舌(もず)が鳴きしきる。疲(つか)れた、それでも放縦(ほしいまま)な三十(さんじふ)過(す)ぎた病身(びやうしん)の女(をんな)らしい、湯屋(ゆや)の硝子戸(がらすど)を出ると直(す)ぐ石鹸(しやぼん)のにほひする身体(からだ)をかがめて嬰児(あかんぼ)に小便(しつこ)をさしてる。
寥(さび)しい霊(たましひ)が鳴いてゐる。……
母(はは)の眼(め)と嬰児(あかんぼ)の眼(め)が一様(いちやう)に白(しろ)い犬(いぬ)の耳(みみ)に注(そそ)がれる。可愛(かあ)いいちんぽこから小便(しつこ)が出る。その尿(ねう)と、濡(ぬ)れた西洋手拭(タヲル)と、束髪(そくはつ)と、無意味(むいみ)な眼(め)つきと、白つぽい葱(ねぎ)の青(あを)みに、しみじみと黄色(きいろ)な光(ひかり)がうつる。
しだいに反射(はんしや)がうすれて外光(ぐわいくわう)が青(あを)みを帯(お)びた。煙突(えんとつ)から薄(うす)い煙(けぶり)がたなびき畑々(はたけ/\)の葱(ねぎ)の尖頭(さき)には銀色(ぎんいろ)の露(つゆ)が光(ひか)つてくる。そしてなほ、湿(しめ)つた黒(くろ)い土(つち)のなかでは寥(さび)しい虫(むし)が、幽(かす)かな昼(ひる)の調子(てうし)で鳴(な)いてゐる。
寂しい寂しい寂しい畑。
   四十三年一月
八月のあひびき
八月の傾斜面(スロウプ)に、美くしき金(きん)の光はすすり泣けり。こほろぎもすすりなけり。雑草の緑(みどり)もともにすすり泣けり。
わがこころの傾斜面(スロウプ)に、滑りつつ君のうれひはすすり泣けり。よろこびもすすり泣けり。悪縁(あくゑん)のふかき恐怖(おそれ)もすすり泣けり。
八月の傾斜面(スロウプ)に、美くしき金(きん)の光はすすり泣けり。
   四十三年八月

日曜の朝、「秋」は銀かな具(ぐ)の細巻の絹薄き黒の蝙蝠傘(かうもり)さしてゆく、紺の背広に夏帽子、黒の蝙蝠傘(かうもり)さしてゆく、
瀟洒にわかき姿かな。「秋」はカフスも新らしくカラも真白につつましくひとりさみしく歩み来ぬ。波うちぎはを東京の若紳士めく靴のさき。
午前十時の日の光海のおもてに広重(ひろしげ)の藍を燻(いぶ)して、虫のごと白金(プラチナ)のごと閃めけり。かろく冷(つめ)たき微風(そよかぜ)も鹹(しほ)をふくみて薄青し、「秋」は流行(はやり)の細巻の黒の蝙蝠傘さしてゆく。
日曜の朝、「秋」は匂ひも新らしく新聞紙折り、さはやかに衣嚢(かくし)に入れて歩みゆく、寄せてくづるる波がしら、濡れてつぶやく銀砂の、靴の爪さき、足のさき、パツチパツチと虫も鳴く。
「秋」は流行(はやり)の細巻の黒の蝙蝠傘さしてゆく。
   四十四年十月 
■槍持 
おかる勘平
おかるは泣いてゐる。長い薄明(うすあかり)のなかでびろうど葵の顫へてゐるやうに、やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、きんぽうげ色の草生(くさぶ)から昼の光が消えかかるやうに、ふわふわと飛んでゆくたんぽぽの穂のやうに。
泣いても泣いても涙は尽きぬ、勘平さんが死んだ、勘平さんが死んだ、わかい奇麗な勘平さんが腹切つた……
おかるはうらわかい男のにほひを忍んで泣く、麹室(かうじむろ)に玉葱の咽(む)せるやうな強い刺戟(しげき)だつたと思ふ。やはらかな肌(はだ)ざはりが五月(ごぐわつ)ごろの外光(ぐわいくわう)のやうだつた、紅茶のやうに熱(ほて)つた男の息(いき)、抱擁(だきし)められた時(とき)、昼間(ひるま)の塩田(えんでん)が青く光り、白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた、別れた日には男の白い手に烟硝(えんせう)のしめりが沁み込んでゐた、駕にのる前まで私はしみじみと新しい野菜を切つてゐた……
その勘平は死んだ。
おかるは温室(おんしつ)のなかの孤児(みなしご)のやうに、いろんな官能(くわんのう)の記憶にそそのかされて、楽しい自身の愉楽(ゆらく)に耽つてゐる。
(人形芝居(にんぎやうしばゐ)の硝子越しに、あかい柑子の実が秋の夕日にかがやき、黄色く霞んだ市街(しがい)の底から河蒸気の笛がきこゆる。)おかるは泣いてゐる。美くしい身振(みぶり)の、身も世もないといふやうな、迫(せま)つた三味(しやみ)に連(つ)れられて、チヨボの佐和利(さはり)に乗つて、泣いて泣いて溺(おぼ)れ死にでもするやうにおかるは泣いてゐる。
(色と匂(にほひ)と音楽と。勘平なんかどうでもいい。)
   四十二年十月
雪の日
淡青(うすあを)い雪は冷(つ)めたい硝子戸のそとに。……
紫の御召(おめし)をひきかけた浜勇は東の桟敷に。
薄い襟あしの白粉(おしろい)も見よきほどにこころもち斜(なゝめ)に坐つて。うつむき加減(かげん)にした横顔の淡青い雪の反射。
静かに曳かれてゆく幕そとの、立三味線、仁木の青い目ばりの凄さ。
暮れかかる東京のそらにはほんのりと瓦斯が点(つ)き淡青い雪がふる。
半玉は冷(つ)めたい指をそろへて、引込(ひきこみ)の面(つら)あかりをながめ、なにかしらさみしさうに。
淡青い雪は冷(つ)めたい硝子戸のそとに。
幽かな音、幽かな色、幽かなささやき……
   四十三年七月
種蒔き
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさ、つつましさ、……葱の畑のそこここに銀の懐中時計(とけい)を閉(し)める音。
けふも彼岸(ひがん)のあかるさに、誰に見しよとか、権兵衛は青い手拭、頬かぶり、桝を小腋(こわき)に、ひえびえと畝(うね)のしめりを踏んでゆく。畝(うね)の光に蒔く種はかなしみの種、性(せい)の種、黒稗(くろひえ)の種。
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさ、しをらしさ、……強い日射(ひざし)のそこここに若いこころの咽(むせ)ぶ音。
ほんに一日(いちにち)齷齪(あくせく)と歎き足らひで、権兵衛が青いパツチに縄(なは)の帯、及び腰してひとすぢに土の臭(にほひ)を嗅(か)いでゆく午後(ごご)の光に蒔く種はかなしみの種、性(せい)の種、黒稗(くろひえ)の種。
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさ、なつかしさ。……黒い鴉(からす)の嘴(くちばし)に種のつぶれてなげく音。
若い身そらの内密事(ないしよごと)、ひとり苦(く)に病(や)む権兵衛が、歩みののろさ、手の痛(いた)さ、腰の痛(いた)みにしみじみと明(あか)き其夜を泣いてゆく。銀(ぎん)の秘密(ひみつ)に蒔く種はかなしみの種、性(せい)の種、黒稗(くろひえ)の種。
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさやるせなさ。……常に啄(つ)まれて生れ得ぬ種の、嬰児(あかご)の、なげく音。
妻も子もない醜男(ぶをとこ)の何時(いつ)も吝嗇(つまし)い権兵衛が貧(ひん)の盗みか、一擁(ひとかゝ)え葱を伏せつつ、怖々(こは/″\)と畝(うね)の凸(たか)みを凝視(みつ)めゆく、伏せたこころに蒔く種はかなしみの種、性(せい)の種、黒稗(くろひえ)の種。
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさおそろしさ。……黒い眼玉が背後(うしろ)からぢつと睨んで歩む音。
欲(よく)のつかれか、冷汗(ひやあせ)か、金が唸(うな)れば権兵衛の野暮(やぼ)な胸さへしみじみと、金(きん)の入日の凌雲閣(じふにかい)傷(いた)みながらに蒔いてゆく。けふの恐怖(おそれ)に蒔く種はかなしみの種、性(せい)の種、黒稗(くろひえ)の種。
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさ、情(なさけ)なさ。……黒い鴉(からす)につぶされて種の凡(すべて)の滅(き)ゆる音。
   四十三年十月
忠弥
雪はちらちらふりしきる。
城の御濠(おほり)の深みどり、雪を吸ひ込む舌うちのしんしんと沁(し)むたそがれに、鴨の気弱(きよわ)がかきみだす水の表面(うはべ)のささにごり知るや知らずや、それとなく小石投げつけ、――ひつそりと底のふかさをききすますわかき忠弥か、わがおもひ。
君が秘密の日くれどき、ひとり心につきつめてそつとさぐりを投げつくる深き恐怖(おそれ)か、わが涙――千万無量の瞬間(たまゆら)に雪はちらちらふりしきる。
   四十五年十一月
歌うたひ
悲しいけれどもわしや男、いやでもお酒をさがしませう、赤いセエリイもないならば飲んだふりして就寝(やす)みませう。みすぎ世すぎの歌うたひ。
   四十三年十一月
槍持
槍は※[「金+肅」](さ)びても名は※[「金+肅」]びぬ、殿(との)につきそふ槍持の槍の穂尖(ほさき)の悲しさよ。
槍は槍持、供揃(ともぞろへ)、さつと振れ、振れ、白鳥毛。
けふも馬上の寛濶(くわんくわつ)に、殿は伊達者(だてしや)の美(よ)い男、三国一の備後様、しんととろりと見とれる殿御(とのご)。槍は槍持、銀(ぎん)なんぽ。供(とも)の奴(やつこ)さへこのやうに、あれわいさの、これわいさの、取りはづす、やあれ、やれ、危(あぶ)なしやの、槍のさき。
槍は※[「金+肅」]びても名は※[「金+肅」]びぬ、殿のお微行(しのび)、近習(きんじゆ)まで身なりくづした華美(はで)づくし、槍は九尺の銀なんぽ、けふも酒、酒、明日(あす)もまた、通ふしだらの浮気(うはき)づら、わたる日本橋ちらちらと雪はふるふる、日は暮れる、やあれ、やれ冷(つめ)たしやの、槍のさき。
槍は槍持、供ぞろへ、さつと振れ、振れ、白鳥毛。
雪はふれども、ちらほらと河岸(かし)の問屋の灯(ひ)が見ゆる、さてもなつかし飛ぶ鴎(かもめ)、壁のしたには広重(ひろしげ)の紺のぼかしの裾模様、殿の御容量(ごきりやう)に、ほれぼれとわたる日本橋、槍のさき、槍は担(かつ)げど、空(うは)のそら、渋面(しふめん)つくれど供奴(ともやつこ)、ぴんとはねたる附髭(つけひげ)に、雪はふるふる、日は暮れる。やあれ、やれ、やるせなの、槍のさき。
槍は槍持、供ぞろへ、さつと振れ、振れ、白鳥毛。
槍は※[「金+肅」]びても名は※[「金+肅」]びぬ。殿につきそふ槍持の槍の穂さきの悲しさよ。いつも馬上の寛濶に、殿は伊達者のよい男、さぞや世間(せけん)の取沙汰に浮かれ騒ぐも女なら。そこらあたりの道すぢの紺の暖簾(のれん)も気がかりな。槍は九尺の銀なんぽ、槍を持つ身のしみじみと、涙流すもつとめ故、さりとは、さりとは、供奴(ともやつこ)、雪はふるふる、日は暮れる。やあれ、やれ、しよんがいなの、槍のさき。
   四十五年三月
CHONKINA.
“Chonkina! chonkina! Chon-chon kina-kina! Chon ga nanoso de, Cho-chon ga yoi! ……”
「赤(あか)い夕日(ゆふひ)、活動写真(くわつどうしやしん)見(み)たいなキラキラが、あのやうに、あれ、御覧(ごらん)な。お向(むか)ふの三層楼(さんがい)の高(たか)い部屋(へや)の障子(しやうじ)に、何時(いつ)までも何時(いつ)までも照(て)りつける辛気(しんき)くささ、寝(ね)まきや、長襦袢(ながじゆばん)の、如何(どう)したんだらうねえ、まあ、両肌(りやうはだ)なんか脱(ぬ)いだりさ、欄干(てすり)に腰(こし)かけたり、跨(また)いだり、自堕落(じだらく)な、あれさ、落(おつ)こつたらどうするの、気(き)まぐれも大概(たいがい)になさいなね、あれ、あの手(て)も真赤(まつか)な狐拳(きつねけん)!」
“Chon-aiko! chon-aiko! ……”
「華魁(おいらん)、ちよいと、御覧(ごらん)なさいな、久(しさ)し振(ぶり)で裏門(うらもん)が開(あ)いたと思(おも)つたら、大変(たいへん)ですわねえ、あれ、あんなに水(みづ)が、随分(ずゐぶん)しどい音(おと)だこと、堤(どて)をもう越(こ)したんですとさ。竜泉寺(りゆうせんじ)、山谷(さんや)、今戸(いまど)のわたし、そりやもう大変(たいへん)な騒(さわぎ)よ、おやおや、まあ、素(す)つ裸(ぱだか)で、揚屋町(あげやまち)の通(とほり)を伝馬(てんま)担(かつ)いで奔(はし)るなんて銀(ぎん)ちやん、威勢(ゐせい)がいいことねえ。」
“Chon-aiko! chon-aiko! ……”
「華魁(おいらん)、何(なに)をそんなに見(み)てお出(い)でなの、くよくよとさ、黄色(きいろ)いふたつの高張(たかはり)に赤(あか)い日(ひ)が、あのやうに射(さ)しかけて、ぴちやぴちやと濁水(にごりみづ)が凄(すご)いわねえ、あら、ちよいと、そんな処(とこ)でおちんこなんか捲(ま)くるもんぢやありませんつたら、小児(こども)は罪(つみ)が無(ない)ことねえ、ほほほ。まあ。」
“Chonkina! chonkina! Chon-chon, kina-kina, Chon ga nanoso de, Cho-chon ga yoi, Aiko de yoi,…… Chon-aiko! chon-aiko ……”
吉原(よしはら)の中店(ちうみせ)のお職(しよく)「小主水(こもんど)」とて、愁(うれ)ひ顔(かほ)の寥(さみ)しい、どうしたことやら、白粉(おしろい)もまだつけぬ青(あを)いいろの、なつかしい眼(め)つきの女(をんな)、疲(つか)れたやうに、藍色(あゐいろ)の薄(うす)いネルを着(き)ながして新造(しんぞう)と二人(ふたり)、――ひとりは立膝――華魁(おいらん)は灯(ひ)のつかぬ五時(ごじ)ごろの薄暗(うすぐら)い角店(かどみせ)の二重(にぢゆう)に腰(こし)かけて、何(なに)とやら澄(す)まぬ顔(かほ)、左(ひだり)の人(ひと)さし指(ゆび)の薄(うす)い繃帯(ほうたい)に金(きん)いろの背後(うしろ)の附立(ついたて)が、支那彫(しなぼり)の唐獅子(からしし)の、冷(つめ)たい光(ひかり)を投(な)げかくる。そのさだまらぬ陰影(かげ)のかげのそのなかの幽(かす)かなためいき……
“Chonkina! Chonkina! ……”
格子戸越(かうしどご)しに、赤(あか)い日(ひ)が高(たか)い屋並(やなみ)の不思議(ふしぎ)な廂(ひさし)にてりかへし、洪水(こうすゐ)の音(おと)がきこえる。欄干(てすり)では何時(いつ)までも何時(いつ)までも気(き)まぐれな狐拳(きつねけん)。
“Chon-aiko! chon-aiko, Chon-chon aiko-aiko, Chon ga nanoso de Cho-chon ga yoi ……”
“Chonkina! chonkina! ……”
   四十三年七月
鬼百合
夏の日の東京に歌沢(うたざは)のこころいき……
しみじみと身にしみてきく年増(としま)、すらりとした立姿(たちすがた)の中形の薄青さ、それしやの粋(いき)なこころに。
日がそそぐ……銀色(ぎんいろ)のきりぎりす浮気男(うはきをとこ)を殺した昼寝(ひるね)の夢の凄さ、たてひきの憎(にく)さ、かなしさ、つらさ、くるしさ、日がそそぐ……わかいお七の半鐘か、死ぬるきりぎりすか。銀(ぎん)の光の細かな強いすすりなき。
大河(おほかは)をまへに、唇(くち)に啣(くは)えた帯留の金(きん)――手をうしろにまはして、暑(あつ)さうなものごしの、なにかしら寂(さみ)しさうに、きりきりと締(し)め直す黒い繻子(しゆす)の一筋(ひとすぢ)。
けだるげな三味線があれ、またもあのやうに、……青みもつ目のふちの疲(つか)れからなにを見るとなし熟視(みつ)むる黒い瞳の深さ、酸(す)いも甘いも噛みわけた中年(ちゆうねん)の激しい衝動(シヨツク)……その底のさみしさ、つらさ、かなしさ。
黒い繻子の手ざはりがきゆつ、きゆつと……
暑い、苦しい、くるしい日、渋い鬼百合の赤さ、鮮(あざや)かな臭(にほひ)の強さ、湿(しめ)つた褐色(かちいろ)の花粉(くわふん)の細(こま)かにちる……背後(うしろ)の床の間(ま)の大輪(たいりん)。
触(さは)る帯の繻子、やはらかな粉(こな)、こころもきゆつきゆつと……
夏の日のさる河岸に歌沢のこころいき。
ええまあ、奈何(どう)すりや宜(い)いつてんだらうねえ。
   四十三年七月
道化もの
ふうらりふらりと出て来(く)るはルナアパークの道化(だうけ)もの、服(ふく)は白茶(しらちや)のだぶだぶと戯(おど)け澄ました身のまわり、あつち向いちやふうらふら、こつち向いちやふうらふら、緋房のついた尖(とん)がり帽子がしをらしや。
鉛粉(おしろい)真白(まつしろ)けで丸(まる)ふたつ頬紅(ほべに)さいたるおどけづら、円(まる)い眼ばりもくるくると今日(けふ)も呆(とぼ)けた宙がへり。かなしやメエリイゴラウンド、さみしや手品の皿まわし、春の入日の沈丁花(ちんちやうげ)がどこやらに。
ひとが笑へばにやにやと、猫のなきまね、烏啼き、たまにやべそかき赤い舌、嘘か、色眼(いろめ)か、涙顔。鳴いそな鳴いそ春の鳥、鳴いそな鳴いそ春の鳥、紙の桜もちらちらとちりかかる。
薄むらさきの円弧燈(アークとう)、瓦斯と雪洞(ぼんぼり)、鶴のむれ、石油のヱンヂンことことと水は山から逆(さか)おとし、台湾館の支那の児足の小さな支那の児、しよんぼり立つたうしろから馬鹿囃子(ばかばやし)。
ぬうらりしやらりと日が暮れてまたも夜(よ)となる、道化もの、あかい三角帽をちよいと投げてひよいと受けたら禿頭(はげあたま)。あつち向いちやくうるくる、こつち向いちやくうるくる、御愛嬌(ごあいきやう)か、またしてもとんぼがへり。
   四十四年三月
あそびめ
たはれをのかずのまにまにじだらくにみをもちくづし、おしろいのあをきひたひにねそべりてひるもさけのみ、さめざめとときになみだし、ゆふかけてさやぎいづとも、かなしみはいよよおろかに、ながねがひいよよつめたし。あはれよのしろきねどこのまくらべのベコニヤのはな。
   四十五年五月
南京さん
李(リイ)さん、鄭さん、支那服さん、あなたの眼鏡はなぜ光る、涙がにじんで日に光る。鳥屋の硝子も日に光る。目白、カナリヤ、四十雀、鶉に文鳥に黒鶫(くろつぐみ)、鳥もいろいろあるなかにおかめ鸚哥(いんこ)はおどけもの焦(ぢ)れて頓狂に啼きさけぶ。さてもいとしや、しをらしや、けふも入日があかあかとわかい南京(ナンキン)さんは涙顔。
   四十四年十月
蝮捕り
旅のすがたの蝮(まむし)捕り。紺の脚絆に紺の足袋、紺の小手あて、盲縞(めくらじま)。羽織、腹掛しやんとして草鞋つつかけ忍びあし。
わかい男の忍びあし、まがひパナマに日が射せば、苦(にが)みばしつた横顔のことにつやつや蒼白く、ほそく割(さ)いたる青竹に蝮挟みてなつかしく、渚のほとり、草土手の曼珠沙華さくしたみちを、九月午後(ひるすぎ)、忍びあし。
静かにゆるき潮鳴(しほなり)は、夏と秋との伴奏(ともあはせ)、五十三次、広重(ひろしげ)の海の匂もまだ熱く、眉にかがやく忍びあし、……蝮の腹もいと青く。
けふのこの日の蝮捕り、――渡りあるきの生業(なりはひ)の昨日(きのふ)の疲(つか)れ、明日の首尾(しゆび)、案じわづらふ足もとに飛んで跳(は)ねたはきりぎりす。疲れた三味が鳴るわいな。
意気な年増の手ずさみか、取り残された避暑客の後(あと)の一人の爪弾か、離縁(さ)られた人か、死ぬ人か、思ひなしかは知らねども、昨日あがつた心中の男女(をとこをんな)の忍び泣き、……あれ三味が鳴る、昼日なか、知らぬ都のふしまはし。
わかい吐息の忍びあし、そつと留(とゞ)めて、聞惚れて、なにをおもふや、うつとりと、蝮の腹の青縞の博多帯めくつややかさ、きゆつきゆと白き指つけて、拭(ふ)きつ、さすりつ、薄笑みつ、九月、午後(ひるすぎ)、日の光――こころの縞もいと青く。
蝮よ、蝮よ、やはらかな、熱(あつ)い冷(つめ)たい手触(てさは)りの、そなたも三味にきき惚れて身をうねらすや、やるせなく、……平首(ひらくび)、竹に挟まれて、されどゆかしく、あどけなく、無心に瞠(みは)る眼のいろは空と海との水あさぎ。蝮よ小さい尾のさきの、匂の肌をつまぐれば、毒ある汗はいきいきと、神経のごと細(こま)やかに、朱の斑(ふ)なまめく褐(くり)と黄(き)の波斯(ペルシヤ)模様の美くしさ、それか、怪しき淫(たは)れ女(め)の閨(ねや)の麝香(じやかう)の息づかひ。
九月午後(ひるすぎ)、日の光――あれ三味が鳴る、きりぎりす、飛んで死んだがましかいな。
   四十四年九月 
■雪と花火 
夜ふる雪
蛇目(じやのめ)の傘(かさ)にふる雪(ゆき)はむらさきうすくふりしきる。
空(そら)を仰(あふ)げば松(まつ)の葉(は)に忍(しの)びがへしにふりしきる。
酒(さけ)に酔(よ)うたる足(あし)もとの薄(うす)い光(ひかり)にふりしきる。
拍子木(ひやうしぎ)をうつはね幕(まく)の遠(とほ)いこころにふりしきる。
思(おも)ひなしかは知(し)らねども見(み)えぬあなたもふりしきる。
河岸(かし)の夜(よ)ふけにふる雪(ゆき)は蛇目(じやのめ)の傘(かさ)にふりしきる。
水(みづ)の面(おもて)にその陰影(かげ)にむらさき薄(うす)くふりしきる。
酒(さけ)に酔(よ)うたる足もとの弱(よわ)い涙(なみだ)にふりしきる。
声(こゑ)もせぬ夜(よ)のくらやみをひとり通(とほ)ればふりしきる。
思ひなしかはしらねどもこころ細かにふりしきる。
蛇目(じやのめ)の傘にふる雪はむらさき薄くふりしきる。
柳の佐和利
ほの青(あを)い雪(ゆき)のふる夜(よ)に、電車(でんしや)みちを、酔(よ)つて、酔(よ)つて、酔(よ)つぱらつてさ、ひよろひよろと、ふらふらと、凭(もた)れかかれば、硝子戸(がらすど)に。〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕
ほの青(あを)い雪(ゆき)はふり、店(みせ)のなかではしんみりと柳(やなぎ)の佐和利(さわり)、酔(よ)つて、酔(よ)つて、酔(よ)つぱらつてさ、ふらふらと、ひよろひよろと首(くび)をふれば太棹(ふとざを)が……〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕
ほの青(あを)い雪(ゆき)の夜(よ)の蓄音機(ちくおんき)とは知(し)つたれど、きけばこの身(み)が泣(な)かるる。酔(よ)つて酔(よ)つて酔(よ)つぱらつてさ、ひよろひよろと、ふらふらと投(な)げてかかれば、その咽喉(のど)が……〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕
ほの青(あを)い雪(ゆき)のふる人(ひと)ひとり通(とほ)らぬこの雪(ゆき)に、まあ何(なん)とした、酔(よ)つて酔(よ)つて酔(よ)つぱらつてさ、ふらふらと、ひよろひよろと、しやくりあぐれば誰やらが、〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕
   四十四年一月
春の鳥
鳴きそな鳴きそ春の鳥、昇菊の紺と銀との肩ぎぬに。鳴きそな鳴きそ春の鳥、歌沢(うたざは)の夏のあはれとなりぬべき大川の金(きん)と青とのたそがれに。鳴きそな鳴きそ春の鳥。
   四十三年四月
かるい背広を
かるい背広を身につけて、今宵(こよひ)またゆく都川、恋か、ねたみか、吊橋の瓦斯の薄黄(うすぎ)が気にかかる。
   四十三年七月
薄あかり
銀(ぎん)の時計のつめたさは薄らあかりのZ(しち)の字に、君がこころのつめたさは河岸(かし)の月夜の薄あかり。
薄いなさけにひかされて、けふもほのかに来は来たが、心あがりのした男、何のわたしに縁があろ。
空の光のさみしさは薄らあかりのねこやなぎ、歩むこころのさみしさは雪と瓦斯との薄あかり。
思ひ切らうか、切るまいか、そつと帰ろか、何とせう。いつそあの日のくちつけを後(のち)のゆかりに別れよか。
水のにほひのゆかしさは薄らあかりの鴨の羽、三味のねじめのゆかしさは遠い杵屋の薄あかり。
かるい背広を身につけてじつと凝視(みつ)むる薄あかり。薄い涙につまされて、けふもほのかに来は来たが。
銀の時計のつめたさは薄らあかりのZの字に、君がこころのつめたさは青い月夜の薄あかり。
恋か、りんきか、知らねども、ほんに未練な薄あかり。思ひ切らうか、たづねよか、ええ何とせう、しよんがいな。
   四十三年三月
金と青との
金と青との愁夜曲(ノクチユルヌ)、春と夏との二声楽(ドウエツト)、わかい東京に江戸の唄、陰影(かげ)と光のわがこころ。
   四十三年五月
雨あがり
やはらかい銀の毬花(ぼやぼや)の、ねこやなぎのにほふやうな、その湿(しめ)つた水路(すゐろ)に単艇(ボート)はゆき、書割(かきわり)のやうな杵屋(きねや)の裏(うら)の木橋に、紺の蛇目傘(じやのめ)をつぼめた、つつましい素足のさきの爪革(つまかは)のつや、薄青いセルをきた筵若のそれしやらしいたたずみ……
ほんに、ほんに、黄いろい柳の花粉のついた指で、ちよいと今晩(こんばん)は、なにを弾かうつていふの。
   四十三年七月
水盤
そなたの移した水盤(すゐばん)に、薄い硝子の水の微(かす)かな光、新内のながしも通るのに、ほんとに睡(ね)ちやつたの。
そなたの冷(つ)めたい手はわたしの胸に、薄いセルは微(かす)かな涙に、ほんとに睡(ね)ちやつたの。
そなたの寝息は桐の花のやうに、やるせないこころをそそのかし、捉(とら)へかぬる微(かす)かな光。ほんとに睡(ね)ちやつたの。
そなたのけふ入れた緋鮒(ひぶな)か、それとも陶器(やきもの)の金魚かしら、なにかしら寂(さみ)しい力(ちから)の薄い硝子に触(さは)るやうな……ほんとに睡(ね)ちやつたの。
そなたの知つてる男はみんな薄情ものだ。さうしてそなたが眠(ね)むつてから何時でもこんな風にささやく、ほんとに睡(ね)ちやつたの。
   四十三年七月
心中
あはれなる心中のうはさよりわが霊(たま)は泣き濡れてかへりゆく、花つけしアカシヤの並木のかげを、嫋(なよ)やかなる七月のおとづれのごとく。
やすらかに平準(な)らされしこころはあるものの抑圧(おさへ)のかげにありて、つねにかかる微顫(ふるへ)をこそのぞみたれ。いみじく幽かなるその Lied(リイド) よ。
附(つ)きやすき花粉(くわふん)のしめりのごとく、そはまた※[「目+匡」](まぶた)の汗のごとくに顫(ふる)へやすし。護謨輪(ごむわ)のゆけばためらひ、吊橋の淡黄(うすき)なる瓦斯(がす)のもとを泣きゆく。
新道(しんみち)を抜(ぬ)けては※[「木+解」]の芽のむせびをあはれみ、御神燈のかげをばそれしやの浴衣(ゆかた)ともすれちがふ。
とある河岸(かし)のおでんやには寄席(よせ)のビラのかなしく、薄汗(うすあせ)の光る紙に水菓子の色透くがいとほし。
あはれなる心中のうはさよりわが霊(たま)は泣き濡れてかへりゆく、微風(そよかぜ)の吹くままに過ぎゆく嫋(なよ)やかなる七月のおとづれのごとく。
   四十三年七月
花火
花火があがる、銀(ぎん)と緑の孔雀玉(くじやくだま)……パツとしだれてちりかかる。紺青の夜の薄あかり、ほんにゆかしい歌麿の舟のけしきにちりかかる。
花火が消ゆる。薄紫の孔雀玉……紅(あか)くとろけてちりかかる。Toron …… tonton …… Toron …… tonton ……色とにほひがちりかかる。両国橋の水と空とにちりかかる。
花火があがる。薄い光と汐風に、義理と情(なさけ)の孔雀玉(くじやくだま)……涙しとしとちりかかる。涙しとしと爪弾(つまびき)の歌のこころにちりかかる。団扇片手のうしろつきつんと澄ませど、あのやうに舟のへさきにちりかかる。
花火があがる、銀(ぎん)と緑(みどり)の孔雀玉……パツとかなしくちりかかる。紺青(こんじやう)の夜に、大河に、夏の帽子にちりかかる。アイスクリームひえびえとふくむ手つきにちりかかる。わかいこころの孔雀玉(くじやくだま)、ええなんとせう、消えかかる。
   四十四年六月
放埒
放埒(はうらつ)のかなしみはひらき尽くせしかはたれの花のいろの、にほひの、ちらんとし、ちりも了らぬあはひとか。
かかる日の薄明(はくめい)に、しどけなき恐怖(おそれ)より蛍ちらつき、女の皮膚(ひふ)にシヤンペンの香(にほひ)からめば、そは支那の留学生もなげくべき尺八の古き調子(てうし)のこころなり。
うら若き芸妓(げいしや)には二上りのやるせなく、中年(ちゆうねん)の心には三(さん)の糸下(さ)げて弾(ひ)くこそ、下(さ)げて弾くこそわりなけれ。
かくて、日のありなし雲の雨となり、そそぐ夜(よ)にこそ。おしろい花(ばな)のさくほとり、しんねこの幽(かす)かなる音(ね)を泣くべけれ。
放埒(はうらつ)のかなしみはひらき尽(つ)くせしかはたれの花のいろの、にほひの、ちらんとし、ちりも了らぬあはひとか。
   四十三年八月
紫陽花
かはたれに紫陽花(あぢさゐ)の見ゆるこそさみしけれ。うらわかき盲人(まうじん)のいろ飽(あく)まで白く、そのほとりに頬を寄(よ)するは――かろくかさねし手のひらの弾(はぢ)く爪さき、それとなく隆達(りゆうたつ)ぶしの唱歌など思ひ出づるはいとかなし。
誰かつくりし恋のみち、いかなる人も踏み迷ふ……よしやわれにも情(なさけ)あれ。寮の日くれの、あ、もの憂(う)や、何(なん)とせうぞの。蜩(かなかな)の金(きん)の線条(はりがね)顫(ふる)はす声も、縁(えん)さへあらばまたの夕日(ゆふひ)にチレチレまたの夕日に時雨(しぐ)るる。
おはぐろどぶのかなしみは岐阜堤燈(ぎふぢやうちん)のかげうつる茶屋のうしろのながし湯の石鹸(しやぼん)のにほひ、黴(かび)の花、青いとんぼの眼(め)の光。
よひやみの、よひやみの、いづこにか、赤い花火があがるよの、音(おと)はすれども、そのゆめは見えぬこころにくづるる……
ほのかにも紫陽花(あぢさゐ)のはな咲けば、新(あらた)にかけし撒水(うちみづ)の香(か)のうつりゆくしたたり、さて、消えやらぬ間の片恋。
   四十三年八月
カナリヤ
たつた一言(ひとこと)きかしてくれ。カナリヤよ、たんぽぽいろのカナリヤよ、ちろちろと飛びまはる、ほんに浮気なカナリヤよ。おしやべりのカナリヤよ。たつた一言(ひとこと)きかしてくれ、丁度(ちやうど)、弾きすてた歌沢の、三の絃(いと)の消ゆるやうに、「わたしはあなたを思つてる。」と。
彼岸花
憎い男の心臓を針で突かうとした女、それは何時(いつ)かのたはむれ。
昼寝のあとに、ハツとして、けふも驚くわが疲れ。
憎い男の心臓を針で突かうとした女、――もしや棄てたら、キツとまた。
どうせ、湿地(しめぢ)の彼岸花、蛇がからめば身は細(ほ)そる。
赤い、湿地(しめぢ)の彼岸花、午後の三時の鐘が鳴る。
   四十四年十一月
もしやさうでは
もしやさうではあるまいかと思うても見たが、なんの、そなたがさうであろ、このやうなやくざにと、――胸のそこから血の出るやうな知らぬ偽(いつはり)いうて見た。
雪のふる日に赤い酒をも棄てて見た。知らぬふりして、ちんからと鳴らしたその手でさかづきを。
   四十四年十一月
片足
花が黄色で、芽がしよぼしよぼで、見るも汚(きた)ない梅の木に小鳥とまつて鳴くことに、――あれ、あの雪の麦畑(むぎばた)の、つもつた雪のその中に、白い女の片足が指のさきだけ見えて居る。
はつと思つて佇めば、小鳥逃げつつ鳴くことに、――何時(いつ)か憎いと思うたくせに、卑怯未練な、安心さしやれ、あれは誰かの情婦(いろ)でもなけりや、女乞食の児でもない。一軒となりの杢右衛門(もくよむ)どんの唖の娘が投げすてた白い人形の片足ぢや。
   四十四年十二月
あらせいとう
人知れず袖に涙のかかるとき、かかるとき、ついぞ見馴れぬよその子があらせいとうのたねを取る。丁度誰かの為(す)るやうにひとり泣いてはたねを取る。あかあかと空に夕日の消ゆるとき、植物園に消ゆるとき。
   四十三年十月
あかい夕日に
あかい夕日につまされて、酔うて珈琲店(カツフヱ)を出は出たが、どうせわたしはなまけもの明日(あす)の墓場をなんで知ろ。
   四十三年十月 
■銀座の雨 
銀座の雨
雨……雨……雨……雨は銀座に新らしくしみじみとふる、さくさくと、かたい林檎の香のごとく、舗石(しきいし)の上、雪の上。
黒の山高帽(やまたか)、猟虎(ラツコ)の毛皮、わかい紳士は濡れてゆく。蝙蝠傘(かうもり)の小さい老婦も濡れてゆく。……黒の喪服と羽帽子(はねばうし)。好(す)いた娘の蛇目傘(じやのめがさ)。しみじみとふる、さくさくと、雨は林檎の香のごとく。
はだか柳に銀緑(ぎんりよく)の冬の瓦斯点(つ)くしほらしさ、棚の硝子にふかぶかと白い毛物の春支度。肺病の子が肩掛の弱いためいき。波斯(ペルシヤ)の絨氈(じゆたん)、洋書(ほん)の金字(きんじ)は時雨(しぐれ)の霊(たまし)、〔Henri(アンリイ) De(ド) Re'gnier(レニエ)〕 が曇り玉(たま)、息ふきかけてひえびえと雨は接吻(きつす)のしのびあし、さても緑の、宝石の、時計、磁石のわびごころ、わかいロテイのものおもひ。絶えず顫へていそしめるお菊夫人の縫針(ぬいばり)の、人形ミシンのさざめごと。雪の青さに片肌ぬぎのたぼもつやめく髪の型(かた)、つんとすねたり、かもじ屋に紺は匂ひて新らしく。白いピエロの涙顔。熊とおもちやの長靴は児供ごころにあこがるるサンタクロスの贈り物。外(そと)はしとしと淡雪(うすゆき)に沁みて悲しむ雨の糸。
雨は林檎の香のごとくしみじみとふる、さくさくと、扉(ドア)を透かしてふる雨はVerlaine(ヴエルレエイヌ) の涙雨、赤いコツプに線(すぢ)を引く、ひとり顫へてふりかくる辛(から)い胡椒に線(すぢ)を引く、されば声出す針の尖(さき)、蓄音器屋にチカチカと廻るかなしさ、ふる雨に酒屋の左和利、三勝もそつと立ちぎく忍び泣き。それもそうかえ淡雪(うすゆき)の光るさみしさ、うす青さ、白いシヨウルを巻きつけて鳥も鳥屋に涙する。椅子も椅子屋にしよんぼりと白く寂しく涙する。猫もしよんぼり涙する。人こそ知らね、アカシヤの性の木の芽も涙する。
雨……雨……雨……雨は林檎の香のごとく冬の銀座に、わがむねに、しみじみとふる、さくさくと。
   四十四年十二月

雪でも降りさうな空あひだね、今夜もほら、もう降つて来たやうだ、その薄い色硝子を透かして御覧。なつかしい円弧燈(アークとう)に真白なあの羽虫のたかるやうに細(こま)かなセンジユアルな悲しみが、向ふの空にも、橋にも柳にも、水面にも、書割のやうな遠見の、黄色い市街の燈にも、多分冷たくちらついてゐる筈だ。それとも積つたかしら。幽かな囁き……幽かなミシンの針の薄い紫の生絹(きぎぬ)を縫ふて刻むやうな、色沢(いろつや)のある寂しいリズムの閃めきが、そなたの耳にはきこえないのか……湯から上つて、もう一度透かして御覧、乳房が硝子に慄へるまで。
曇つたのぼせさうな湯殿に、白い湯気のなかに、蛍が飛ぶ……燐のにほひの蛍が、ほうつほうつと……あれ銀杏がへしのつんと張つた鬢のうらから肩から、タオルからすべつて消える。ほうつほうつと。
さうではない、さうではない、すらりとした両(ふた)つのほそい腕から、手の指の綺麗な爪さきの線まで、何かしら石鹸(シヤボン)が光つて見えるのだ、さうして魔気のふかい女の素はだかの感覚から忘れた夏の記憶が漏電する。ほうつほうつと蛍が光る。不思議な晩だ、まだ鋏を取つたまま何時までも足の爪を剪(き)つてゐるのか、お前は※[「さんずい+自」]芙藍湯(サフランゆ)の[「※[「さんずい+自」]芙藍湯(サフランゆ)の」は底本では「泊芙藍湯(サフランゆ)の」]温かな匂から、香料のやはらかななげきから、おしろいから、夏の日のあめも美しく女は踊る、なつかしいドガの Dancer
雪がふる……降つてはつもる……しめやかな悲しみのリズムのしんみりと夜ふけの心にふりしきる……ほうつほうつと、蛍が飛ぶ……あれごらんな、綺麗だこと、青、黄、緑、……さうしてうすいむらさき、雪がふる……降つてはつもる……そつとしておきき、何処かでしめやかな三味線が、あれ、もう消えて了つた、鳴いたのは水鳥かしら、硝子を透してごらん、小さな赤い燈がゆつくらと滑つてゆく、河上の方に紀州の蜜柑でも積んで来たのかしら……何だか船から喚(よ)んでるやうな……ひつそりとしたではないか、もう一度、その薄い硝子からのぞいて御覧、恐らく紺いろになつた空の下から、遠見の屋根が書割のやうに白く青く光つて疲れた千鳥が静な水面に鳴いてる筈だ。サラリとその硝子を開(あ)けて御覧……スツカリ雪はやんで星が出た、まあ何て綺麗だらうねえ、あれ御覧、真白だ、真白だ。まるでクリスマスの精霊のやうに、ほんとに真白だねい。
   四十四年十一月
冬の夜の物語
女はやはらかにうちうなづき、男の物語のかたはしをだに聴き逃(のが)さじとするに似たり。外面(そとも)にはふる雪のなにごともなく、水仙のパツチリとして匂へるに薄荷酒(はつかさけ)青く揺(ゆら)げり。男は世にもまめやかに、心やさしくて、かなしき女の身の上になにくれとなき温情を寄するに似たり。すべて、みな、ひとときのいつはりとは知れど、互(かた)みになつかしくよりそひて、ふる雪の幽かなるけはひにも涙ぐむ。
女はやはらかにうちうなづき、湯沸(サモワル)のおもひを傾けて熱(あつ)き熱(あつ)き珈琲を掻きたつれば、男はまた手をのべてそを受けんとす。あたたかき暖炉はしばし息をひそめ、ふる雪のつかれはほのかにも雨をさそひぬ。
遠き遠き漏電と夜の月光。
   四十四年一月
キヤベツ畑の雨
冷(ひえ)びえと雨が、さ霧(ぎり)にふりつづく、キヤベツのうへに、葉のうへに、雨はふる、冬のはじめの乳緑のキヤベツの列(れつ)に葉の列に。
あまつさへ、柵の網目の鉄条(はりがね)に白い鳥奴(とりめ)が鳴いてゐる。雨はふる、くぐりぬけてはいきいきと、色と匂を嗅ぎまはる。
ささやかな水のながれは北へゆく。キヤベツのそばを、葉のしたを、雨はふる。路もひとすぢ、川下(かはしも)の街(まち)も新らし、石の橋。
キヤベツ畑のあちこちにかがみ、はたらき、ひとかかえ野菜かついではしるひと、雨はふる。けふもあをあを夏帽子。
小父(をぢ)さんが来る、真蒼(まつさを)に、脚(あし)も顫へて、お早うがんす。山※[「木+査」]子(さんざし)の芽もこわごわと泥にまみるる。立ちばなし。雨はふる。しつかと握る水薬の黄色の罎の鮮やかさ。
「阿魔(あま)つ子(こ)がね昨夜(ゆんべ)さ、いいらぶつ吃驚(たま)げた真似(まね)仕出(しで)かし申してのお前(まへ)さま。」雨はふる。光(ひか)つては消(き)ゆる、剃刀(かみそり)で咽喉(のど)を突いた女の頬。
「だけんどどうかかうか生きるだらうつて、医者どんも云やんしたから。」まづは安心と軍鶏屋(しやもや)の小父(をぢ)さん胸をさすればキヤベツまでほつと息する葉の光。
鳥が鳴いてる……冬もはじめて真実(しんじつ)に雨のキヤベツによみがへる。濡れにぞ濡れて、真実に色も匂もよみがへる。
新らしい、しかし、冷(つめ)たい朝の雨、キヤベツ畑の葉の光。雨はふる。生きて滴(したゝ)る乳緑のキヤベツの涙、葉のにほひ。
   四十四年一月

春と夏とのさかひめに生絹(きぎぬ)めかしてふる雨はそれは「四月」のしのびあし、過ぎて消えゆく日のうれひ。
蕨の青さ、つつましさ、花か、巻葉か、知らねども、その芽の黄(きな)さ、新らしさ……庭の井戸から水揚げて、しみじみと撰(え)る手のさばき、見るもさみしや、ふる雨に。
ひとりは庭のかたすみに、印半纏着てかがみ、ひとりはほそき角柱(かくばしら)、しんぞ寥(さみ)しう手をあてて、朝のつかれの身をもたす古い宿場の青楼(かしざしき)。
しとしとしととふる雨に柱時計の羅馬字も蓋(ふた)も冷(つめ)たし、しらじらと針のWを差すその面(おもて)。
ひとりはさらに水あげて、さつと蕨の芽にそそぎ、ひとりはじつと眼をふせて、楊枝(やうじ)つかへり弊私的里(ヒステリー)の朝のつかれの身だしなみ。
空と海との燻(いぶ)し銀(ぎん)、けふの曇りにふる雨はそれは涙のしのびあし、青い台場の草の芽に沁(し)みて「四月」も消えゆくや、帆かけた船も、白鷺もましてさみしやふる雨に。
もののあはれにふる雨は、さもこそあれや、早蕨(さわらび)のその芽に茎に渦巻きてはやも「五月」は沁(し)むものをなにかさみしきそのおもひ。
春と夏とのさかひめに生絹(きぎぬ)めかしてふる雨はそれは「四月」のしのびあし、過ぎて消えゆく日のうれひ。
   四十四年四月

蒼ざめはてたわがこころ、こころの陰(かげ)のひとすぢの神経の絃(いと)そのうへに、薄明(ツワイライト)のその絃(いと)に、
薄明(ツワイライト)のその絃(いと)に、ちらと光りて薄青く、踊るものあり、豆のごと……雨は涙とふりしきる。
見れば小さな緑玉(エメラルド)、ひとのすがたのびいどろの、頬にも胸にもふりしきる、涙……かなしいその眼つき。
声もえたてぬ奇(あや)しさは夜半(よは)に「秘密」の抜けいでて、所作(しよさ)になげくや、ただひとり、パントマイムの涙雨。
月の出しほの片あかり、薄き足もつびいどろの、肩に光れどさめざめと、歎き恐れて、夜も寝ねず。
金(きん)のピアノの鳴るままに、濡れにぞ濡るれすべもなく、神経の上、絃(いと)のうへ、雨は涙とふりしきる。
   四十四年十月
新生
新らしい真黄色(まつきいろ)な光が、湿(しめ)つた灰色の空――雲――腐れかかつた暗い土蔵の二階の※[「窗/心」]に、出※[「窗/心」]の白いフリジアに、髄の髄までくわつと照る、照りかへす。真黄な光。
真黄色だ真黄色だ、電線(でんせん)から忍びがへしから、庭木から、倉の鉢まきから、雨滴(あまだれ)が、憂欝が、真黄に光る。黒猫がゆく、屋根の廂(ひさし)の日光のイルミネエシヨン。
ぽたぽたと塗りつける雨、神経に塗りつける雨、霊魂の底の底まで沁みこむ雨雨あがりの日光の欝悶の火花。
真黄(まつき)だ……真黄(まつき)な音楽が狂犬のやうに空をゆく、と同時に俺は思はず飛びあがつた、驚異と歓喜に野蛮人のやうに声をあげて匍ひまはつた……真黄色な灰色の室を。
女には児がある。俺には俺の苦しい矜がある、芸術がある、而して欲があり熱愛がある。古い土蔵の密室には塗りつぶした裸像がある、妄想と罪悪とすべてすべて真黄色だ。――心臓をつかんで投げ出したい。
雨が霽れた。新らしい再生の火花が、重い灰色から変つた。女は無事に帰つた。ぽたぽたと雨だれが俺の涙が、真黄色に真黄色に、髄の髄から渦まく、狂犬のやうに燃えかがやく。
午後五時半。夜に入る前一時間。何処(どつか)で投げつけるやうなあかんぼの声がする。
   四十四年十月
四十四年の春から秋にかけて自分の間借りして居た旅館の一室は古い土蔵の二階であるが、元は待合の密室で壁一面に春画を描いてあつたそうな、それを塗りつぶしてはあつたが少しづつくづれかかつてゐた。もう土蔵全体が古びて雨の日や地震の時の危ふさはこの上もなかつた。
黄色い春
黄色(きいろ)、黄色、意気で、高尚(かうと)で、しとやかな棕梠の花いろ、卵いろ、たんぽぽのいろ、または児猫の眼の黄いろ……みんな寂しい手ざはりの、岸の柳の芽の黄いろ、夕日黄いろく、粉(こな)が黄いろくふる中に、小鳥が一羽鳴いゐる。人が三人泣いてゐる。けふもけふとて紅(べに)つけてとんぼがへりをする男、三味線弾きのちび男、俄盲目(にわかめくら)のものもらひ。
街(まち)の四辻、古い煉瓦に日があたり、窓の日覆(ひよけ)に日があたり、粉(こな)屋の前の腰掛に疲れ心の日があたる、ちいちいほろりと鳥が鳴く。空に黄色い雲が浮く、黄いろ、黄いろ、いつかゆめ見た風も吹く。
道化男がいふことに「もしもし淑女(レデイ)、とんぼがへりを致しませう、美くしいオフエリヤ様、サロメ様、フランチエスカのお姫様。」白い眼をしたちび男、「一寸、先生、心意気でもうたひやせう」俄盲目(にわかめくら)も後(うしろ)から「旦那様や奥様、あはれな片輪で御座います、どうぞ一文。」春はうれしと鳥も鳴く。
夫人(おくさん)、美くしい、かはいい、しとやかなよその夫人(おくさん)、御覧なさい、あれ、あの柳にも、サンシユユにも黄色い木の芽の粉(こ)が煙り、ふんわりと沁む地のにほひ。ちいちいほろりと鳥も鳴く、空に黄色い雲も浮く。
夫人(おくさん)。美くしい、かはいい、しとやかなよその夫人(おくさん)、それではね、そつとここらでわかれませう、いくら行(い)つてもねえ。
黄色、黄色、意気で高尚(かうと)で、しとやかな、茴香(うゐきやう)のいろ、卵いろ、「思ひ出」のいろ、好きな児猫の眼の黄いろ、浮雲のいろ、ほんにゆかしい三味線の、ゆめの、夕日の、音(ね)の黄色。
   四十五年三月
汽車はゆくゆく
汽車はゆくゆく、二人(ふたり)を載せて、空のはてまでひとすぢに。今日は四月の日曜(どんたく)の、あひびき日和(びより)、日向雨(ひなたあめ)、塵にまみれた桜さへ、電線(はりがね)にさへ、路次にさへ、微風(そよかぜ)が吹く日があたる。街(まち)の瓦を瞰下(みを)ろせばたんぽぽが咲く、鳩が飛ぶ、煙があがる、くわんしやんと暗い工場の槌が鳴るなかにをかしな小屋がけのによつきりとした野呂間顔(のろまがほ)。青い布(きれ)かけ、すつぽりと、よその屋根からにゆつと出て両手(りやうて)つん出す弥次郎兵衛姿(すがた)、あれわいさの、どつこいしよの、堀抜工事の木遣(きやり)の車、手をふる、手をふる、首をふる――わしとそなたは何処(どこ)までも。
汽車はゆくゆく、二人を乗せて都はづれをひとすぢに。鳥が鳴くのか、一寸と出た亀井戸駅の駅長も芝居がかりに戸口からなにか恍然(うつとり)もの案じ、棚に載(の)つけたシネラリヤ、紫の花、鉢の花、色は日向(ひなた)に陰影(かげ)を増す。悪戯者(いたづらもの)の児守さへ、けふは下から真面目顔(まじめがほ)、ふたつ並べたその鼻の孔(あな)に、眇眼(すがめ)に、まだ歯も生えぬただ揉(も)みくちやの泣面(なきつら)のべそかき小僧が口の中(うち)蒸気噴(ふ)きつけ、驀進(まつしぐら)、パテー会社の映画(フイルム)の中の汽車はゆくゆく、――空飛ぶ鳥のわしとそなたは何処(どこ)までも。
汽車はゆくゆく、二人を乗せて、広い野原をひとすぢに。ひとりそはそは、くるりくるくる、水車(みづぐるま)廻る畑(はたけ)のどぶどろに、葱のあたまがとんぼがへりて泳ぎゆく、ちびの菜種の真黄(まつき)いろ堀に曳きずる肥舟(こえぶね)の重い小腹にすられゆく。さても笑止や、垣根のそとで障子張るひと、椿の花が上に真赤に輝けば張られた障子もくわつと照る、烏勘左衛門、烏啼かせてくわつと吹くよかよか飴屋のちやるめらもみんなよしよし、粉嚢(こなぶくろ)やつこらさと担(かつ)いで、禿げた粉屋(こなや)も飛んでゆく。蒸気噴(ふ)き噴き、斜(はすかひ)に汽車はゆくゆく……椿が光る。わしとそなたは何処(どこ)までも。
汽車はゆくゆく二人を乗せて空のはてまでひとすぢに。硝子窓から微風(そよかぜ)入れて、煙草吹かして、夕日を入れて、知らぬ顔して、さしむかひ、――下ぢや、ちよいと出す足のさきついと外(そら)せばきゆつと蹈む、――雲のためいき、白帆のといき河が見えます、市川が。汽車はゆくゆく、――空飛ぶ鳥のわしとそなたは何処までも。
   四十五年四月
梨の畑
あまり花の白さにちよつと接吻(きす)をして見たらば、梨の木の下に人がゐて、こちら見ては笑うた。梨の木の毛虫を竹ぎれでつつき落し、つつき落し、のんびり持つた*喇叭で受けて廻つては笑うた、しよざいなやの、梨の木の畑の毛虫採のその子。
* 紙製の喇叭見たやうなもの
   四十五年四月
河岸の雨
雨がふる、緑いろに、銀いろに、さうして薔薇(ばら)いろに、薄黄に、絹糸のやうな雨がふる、うつくしい晩ではないか、濡れに濡れた薄あかりの中に、雨がふる、鉄橋に、町の燈火(あかり)に、水面に、河岸(かし)の柳に。
雨がふる、啜泣きのやうに澄(す)みきつた四月の雨が二人のこころにふりしきる。お泣きでない、泣いたつておつつかない、白い日傘(パラソル)でもおさし、綺麗に雨がふる、寂しい雨が。
雨がふる、憎くらしい憎くらしい、冷(つめ)たい雨が、水面に空にふりそそぐ、まるで汝(おまへ)の神経のやうに。薄情なら薄情におし、薄い空気草履の爪先に、雨がふる、いつそ殺してしまひたいほど憎くらしい汝(おまへ)の髪の毛に。
雨がふる、誰も知らぬ二人の美くしい秘密に隙間(すきま)もなく悲しい雨がふりしきる。一寸おきき、何処かで千鳥が鳴く、歇私的里(ヒステリー)の霊(たましひ)、濡れに濡れた薄あかりの新内。
雨がふる、しみじみとふる雨にうち連れて、雨が、二人のこころが啜泣く、三味線のやうに、死にたいつていふの、ほんとにさうならひとりでお死に、およしな、そんな気まぐれな、嘘(うそ)つぱちは。私(わたし)はいやだ。
雨がふる、緑いろに、銀いろに、さうして薔薇(ばら)色に、薄黄に、冷たい理性の小雨がふりしきる。お泣きでない、泣いたつておつつかない、どうせ薄情な私たちだ、絹糸のやうな雨がふる。
   四十五年五月
そなた待つ間
チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンキナ踊を、けふの踊をひとをどり。
そなた待つとて、いそいそと、岡を上(のぼ)れば日が廻(まは)る、雲も草木もうつとりと、それかあらぬか、わがこころ円(まる)い真赤(まつか)な日が廻(まは)る。
チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンキナ踊を、岡の草木がひとをどり。
そなた待つとて、ピンのさき池に落せばくるくると、生きて駈けゆく水すまし、それかあらぬか、投げ棄てたマニラ煙草の粉(こ)の光。
チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンキナ踊を、池の面(おもて)がひとをどり。
そなた待つとて、夏帽子投げて坐れば野が光るほけた鶯すみればな、それかあらぬかたんぽぽか、羽蟻飛ぶ飛ぶ、野が光る。
チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンキナ踊を、楡(にれ)の羽蟻がひとをどり。
そなた待つとて、そはそはと風も吹く吹く、気も廻る。空に真赤な日も廻る。それかあらぬか、足音か、胸もそはそは気も廻る。
チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンキナ踊を、白い日傘がひとをどり。
* チヨンキナの繰返しはやはりチヨンキナの囃子にて歌ふ。
   四十五年五月
薄荷酒
「思ひ出」の頁(ペエジ)にさかづきひとつうつして、ちらちらと、こまごまと、薄荷酒を注(つ)げば、緑はゆれて、かげのかげ、仄かなわが詩に啜り泣く、そなたのこころ、薄荷ざけ。
思ふ子の額(ひたひ)にさかづきそつと透かして、ほれぼれと、ちらちらと、薄荷酒をのめば、緑は沁(し)みて、ゆめのゆめ、黒いその眸(め)に啜り泣く、わたしのこころ、薄荷ざけ。
   四十五年四月
白い月
わがかなしきソフイーに。
白い月が出た、ソフイー。出て御覧、ソフイー。勿忘草(わすれなぐさ)のやうなあれあの青い空に、ソフイー。
まあ、何(な)んて冷(ひや)つこい風(かぜ)だらうねえ、出て御覧、ソフイー。綺麗だよ、ソフイー。
いま、やつと雨がはれた――緑いろの広い野原に、露がきらきらたまつて、日が薄(うつ)すりと光つてゆく、ソフイー。
さうして電話線の上にね、ソフイー。びしよ濡れになつた白い小鳥がまるで三味線のこまのやうに留つて、つくねんと眺めてゐる、ソフイー。
どうしてあんなに泣いたの、ソフイー。細(こま)かな雨までが、まだ、新内のやうにきこえる、ソフイー。――あの涼しい楡の新芽を御覧。
空いろのあをいそらに、白い月が出た、ソフイー。生きのこつた心中のちやうど、片われででもあるやうに。
   四十五年四月
芥子の葉
芥子は芥子ゆゑ香もさびし。ひとが泣かうと、泣くまいとなんのその葉が知るものぞ。
ひとはひとゆゑ身のほそる、芥子がちらふとちるまいと、なんのこの身が知るものぞ。
わたしはわたし、芥子は芥子、なんのゆかりもないものを。
   四十五年五月 
■余言 
本集名づけて東京景物詩と呼べども、その実は「邪宗門」以後に於けるわが種々雑多の異風の綜合詩集にして、輯むるに殆ど何等の統一なし。ただ何れもわがひと頃の都会趣味をその怪しき主調とせるは興趣相同じ。作品の多数は四十三年「PAN」の盛時に成れるものの如く、且つ又邪宗門系の象徴詩より一転して俗謡の新体を創めたるも概ねその前後なり。なお最近大正の所作はこれに加へず。此集もと昨春或はその前年末にも公にすべかりしも、人生災禍多く些か上梓の時機遅れたるを憾みとす。
東京、東京、その名の何すればしかく哀しく美くしきや。われら今高華なる都会の喧騒より逃れて漸く田園の風光に就く、やさしき粗野と原始的単純はわが前にあり、新生来らんとす。顧みて今復東京のために更に哀別の涙をそそぐ。
   大正二年 初夏   相州三崎にて
   著者識  
北原白秋と『東京景物詩』
明治37年、19歳の時に上京した白秋は明治41年に木下杢太郎、上田敏らと文芸懇話会「パン(ギリシャ神話の牧畜、狩猟の神の意)の会」を起こし、隅田川河畔で日夜芸術論を戦わすなど、正に白秋にとって青春の花期にあたる時期を送った。処女詩集『邪宗門』(明治42年刊)、『思ひ出』(明治44年刊)、『東京景物詩』(大正2年刊)には、「パンの会」時代に書かれた東京を中心とした官能的、唯美的傾向の詩が収められている。
第2詩集『思ひ出』が、郷土や幼少への愛着が基底となっていたのに対し、『東京景物詩』は、表題どおりに都会や青春に対する情緒が中心となっており、享楽的な面も多い。しかし、その享楽は『邪宗門』ほどには濃厚でもどぎつくもなくて、よりやわらかく軽く、ダンディなものである。近代的な東京風物をモチーフとしたり、一時代前の江戸情緒的要素を加味して下町的な気分を表現したりすることにより生まれたもので、白秋が多用した新俗謡体は、民謡、歌謡のスタイルでより情緒的に都会を描写するのに適していた。「片恋」の詩の<ちるぞえな>や組曲に収められている「カステラ」の<ほんに、何とせう、>のような江戸時代の言葉を思わせるゆるやかな語感とひらがなの表記が、やわらかい情緒をおぼえさせる。この「片恋」について、<わが詩風に一大革命を惹き起こした−私の後来の新俗謡体はすべてこの一篇に萌芽して、広く且つ複雑に進展して居つたのである>と白秋自身、書いている。
またこの詩集では、1人の人妻と恋に落ちたことも題材になっている。明治43年9月原宿へ転居した白秋は、隣家の人妻松下俊子と知り合い、不幸な結婚生活を送る俊子への同情の気持ちも相俟って恋に落ちる。その秘恋への悩みは切々と詩に綴られている。苦悩して居を転々と移す白秋のもとに、明治45年離婚を宣言されたと俊子が訪れるが、彼女の夫は法的に離婚は未だ成立せずと白秋を姦通罪で告訴。白秋と俊子は市ヶ谷未決監に2週間拘束される。これにより白秋の盛名は一時に失墜した。しかし、世間の指弾以上に白秋は罪の意識に苦しみ、しばらくは狂気寸前の錯乱状態となり、8月飄然と木更津に渡ることになる。大正2年、俊子と正式に結婚し、新生を求め三崎へ移住。そして7月『東京景物詩及其他』の刊行となった。
白秋自身、<この詩集は種々雑多の異風の綜合詩集であり、何ら統一はない>と言っている。しかしそこには白秋の東京への深い思い入れが感じられる。
1.あらせいとう / 1人であらせいとうのたねを取る子どもに、俊子を幸福にできない苦しみに涙を流す自分の姿を託している。2人でよく行った植物園に、赤い夕日が沈む情景がさらに哀しみを誘う。
2.カステラ / 当時あまり口にすることのできなかったカステラの甘さとふちのしぶさ、そして、カステラを食べる嬉しさとほろほろとこぼれる粉から連想する眼からこぼれ落ちる涙の対比が、恋することの喜びとそれに付き物の恋の苦さを物語っている。
3.八月のあひびき / 不幸な人妻俊子に恋をしてしまった白秋は、転居を繰り返したが、その思いを振り切ることができず、傾斜面を滑り落ちるように、深みにはまってゆく。俊子への同情の思いと許されない恋愛関係への迷いで、万物がすすり泣いているような幻想に襲われる。
4.初秋の夜 / 嵐が去った夜。その名残で、稲妻がまだ幽かに聞こえ、海は轟いてはいるものの、空には星、綿雲、そして十六夜の月。そして一面の虫の音が聞こえてくる。遠近の対比と視覚的、聴覚的描写が、やや肌寒い初秋の夜を想像させる。
5.冬の夜の物語 / 寄り添うようにして男の話を聞く女。そして、一時の偽りとは知りながら、女の愛に応える男。寒い雪の夜の白秋と俊子を映画のように視点を近づけたり遠ざけたりして物語的に描写することが、同情から生まれた煮え切ることのない愛を暗示する。
6.夜ふる雪 / 「邪宗門」の系譜から一転した俗謡調の詩。七五調のフレーズが4分の5拍子のリズムに乗って、津々と降りしきる雪を表している。そして、その雪降る夜の闇の中へ「見えぬあなた」を思いつつ1人寂しく白秋は遠ざかってゆく。  
 
北原白秋について 美輪明宏

 

さて今日は1月25日。私も大好きな日本の偉大な詩人で同様作家、北原白秋の生誕130年の記念日でございます。素敵な叙情歌の歌詞をたくさんお作りになった方ですよ。
「♪あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」これは作曲家が中山晋平という作曲家で、この方もまぁ量産して素晴らしい曲をたくさん作った方ですね。
その他は『この道』という曲もご存じでしょう、みなさま?「この道はいつか来た道ああ そうだよ」作曲家は山田耕作さん。山田耕作さんとの曲が多いんですけど、本当に短い歌詞でありながら、すばらしい多くのものを表現する。そういう詩でございましたし、韻を踏んでたり、五七五になってたり、とても歌いやすく作ってありますね。簡単な詞の中に多くの意味を含めてる。素晴らしい詩ですね。
北原白秋、この方は1885年、明治18年に生まれて1942年57歳で亡くなりました。昭和に手掛けた童謡作品は1200編以上ですよ。すごいですね。「♪この道は…」っていうのとか、あと「♪まちぼうけ まちぼうけ」「♪ゆりかごの歌を カナリヤが歌うよ」とかね。「♪海は荒海 向こうは佐渡よ…」『砂山』など。
作詞は曲作りの中でも一番難しいんですよね。言葉をいかに平易で分かりやすく作るか。ちっちゃい子どもでも分かり易いようなのを選ばなくちゃいけない。それでいて非常に純文学に近いような気品のある言葉選び、並べ方。そういうことを考えて作ってあるんですね。
詩人としての評価も超一流でございまして、森鴎外とか芥川龍之介、石川啄木。こういった文豪たちに絶賛されまして、この方は色んな他の芸術家とも交流があって、一緒に九州をずーっと旅して歩いて、素晴らしい作品をその間にお作りになったりしてるんですね。
なかでも有名な詩集は『邪宗門』。ご存知の方も多いと思います。これは私の故郷の長崎に訪れたのちに、南蛮文化に感動して書いた作品なんですね。
白秋の作品に魅かれるところは、まず本当に読んでて聴いてて、優しくなるということですね。これは、文学の持っている役目って言うのはそういうことなんですね。つまり本来持っている人間の優しさを取り戻す。そういうものがこういう童謡なんですね。  
 
白秋『邪宗門』序文の詩論について

 

明治の所謂新体詩は新しい様式の主張であるゆえに、明治期に刊行されたその集の序文には作者の詩論のうかがえるのが目につく。その中で白秋の『邪宗門』の序文は象徴詩について述べていることにより、有明の『春鳥集』自序とあわせて考えられるふしがあるはずであるが、同じように象徴詩とはいうものの時期と個人差とがどのようにその詩論を性格づけ関係づけているのであろうか。
白秋は例言の終りに『邪宗門』刊行が有明の好意による旨を明らかにしており、とにかく何かの意味でこの序文に記す所は有明の主張を意識していると推測できるであろう。尤も刊行当時はどの文芸上の結社にも党派にもくみせずそれによる「覊絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲する」とも述べてその自立性の強いのを明らかにしている。しかしこれは新詩社を脱退して自らの道をゆこうとした事情が最も強く映され、作品と詩論とに直接かかわることではない。詩論と直接かかわる文章はまず例言中の三番めと四番めとであるが、それも詩論だけを述べようとはせず、当時の他の詩人達にまた批評家に対して自らを主張しようとの意識が非常に強く働いている。従って白秋の象徴詩論を究めるには、彼が反撥しようとした詩や批評というものを探らねばならぬであろう。
まず表面だけを眺めて手がかりをえ易い集中での形式については「そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。」と述べていて、当時の詩界の志向する所に迎合したことを示すと考えられる。所で白秋には改造社刊の『日本文学全集』第三七巻にのせた「明治大正詩史概観」があるが、それによるとこの例言とつながる自由詩はその提唱と推移のありかたとより口語自由詩のはずなのである。しかし、制作年代も新しく而も巻頭にのせてこの集を代表すると思われる「邪宗門秘曲」の第一節をみると、七五五七、五五五七、五五五七、五七五七の四行よりなる。言葉も文語である。また件の概観中にも明治の定型律の例として藤村の七五、五七、八七、泣菫の八六、七四、六五、有明の五一二、三三・四一二、一三ニ・三回、四七六などと並べて、集中に「天草雅歌」の総題のもとに収めた「角を吹け」の五五五の形をあげている。明治四十一年十一月の『明星』にのせたこれは、制作年代はやや古いが邪宗門詩風の曙となったのである。尤も言葉の排列については有明のなどよりもっとやわらかみが考えられてはいるが、相馬御風が最も強く主張したという自由詩とはへだたっているだけでなく、後年彼自身も定型律の中に入れた『邪宗門』中の詩篇についてこう強く自由詩としたのには詩界の動向についての非常な配慮があるのではなかろうか。定型律の批判に伴なう自由詩の提唱に際して最も注目すべき詩集となった『有明集』に対する批評のうち『帝国文学』のそれは、新体詩界の結社なり党派にはよらず『帝国文学』という雑誌のもつ文学全体の指導という客観的立場よりの批判としてよくその性格と位置とを捉えているだけに、これの内容が例言の文章とつながるのに注意される。即ち新鮮な感情を理知で処理するという思索の弄びすぎのために切実な興趣を喚起せず、「ウエルレエヌを始め仏関西象徴詩派の人にそれから現英のイエエツなどのに見ても、音楽のひびき声調のうねりが貫いて居るのに反し、有明氏の詩歌には声調の美は甚だ乏しい」とはうらを返せばそのまま例言での主張となる。そのうえ、一方では小説中心に自然主義ということが盛んになってぎた明治四十一年頃に於て新体詩界の第一人者は有明と明言してそれは広い意味での自然主義の勝利と述べられている(生田長江「自然主義論」明治四一年一一一月『趣味』所収、『現代文学論大系』二巻による) だけではなく、『有明集』を批判はしてもまだそれにかわる新しい詩が確立しておらず一種の混乱別であったことが『帝国文学』の雑報欄やまた衰退を示しはじめた『明星』のありかたなどにうかがえる。そうした時に『有明集』批判を地盤としてそれにかわる詩の主張を意図することは新体詩界の注目をあびるはずである。そのための誇張がこのような白山詩という言葉の使用に表われたと思える。となると『有明集』の批判の言葉ときわめて密接につながる情緒万能の無思想性と音楽的象徴との主張にも実際とは異なる誇張がありはせぬか。
白秋は先にも引用した後年の「概観」に有明のことを「明治の全期を通じて最も近代額唐の燕習深く、万法に照応し、常に象徴詩林の首座に在った詩宗はおそらくこの人であろう。」といい、『有明集』を評しては有明を象徴する彼の最高の集成芸術として「いささか理智と思念に工み、悪の秘存を趣味し、或は霊蝕の陰影を濃く彫塑し過ぎたかも知れぬ。然し乍ら、この詩人のごとく、日本語葉の音韻を聴き、微妙の響と色とを黒髪のごとく生かして綜ね絢うた名匠は新体詩草創以来曽て無かったと言ってよい。」とまでいう。もとより青年客気の際と齢不惑をすぎて反省的態度をとれるようになったのとでは感じかたや語調に変化を来すのは当然であるが、白秋の詩人としての秀れた豊かな感受性を考えると、有明への評価がそれほど大きな変化を米すとは思えぬ。古典などについては経験のつみ重ねにより次第にその本質を会得するようになるのはあるものの、同時代の同じ詩作に努める者として僅かに先技後続の関係にある時にはやはりその作品の表われた当時のほうが新鮮な感覚によって味わいえたはずであろう。そのうえ、彼自身その詩人的出発当時を客観的に「白秋は『文庫』の典型と戸調とに倦厭たると共に自己の美辞麗句詩をも一蹴し」て『明星』へ飛躍したが「彼はまた先進の光耀と楽調とに多々恵まれた者の一人であった。彼、朱の阿前陀帆船の舵機は目まぐるしく動いた。彼は海湖立日の新航路に於て危ふく有明の黒船に衝突しようとした。云々」(「明治大正詩史慨観」)と記しているのは軽く見すごせぬのではなかろうか。この文章のとおりに解釈すると、末梢的な技巧だけで詩的情感をもたぬ彼自らの作品の否定が『邪宗門』の諸作品となっているのがうかがえるだけではなく、象徴詩の創作に努めたことで有明の詩に対抗しようとしたかにうけとれる。しかし、先人がすでに詩の世界に於て蹄しい道を聞いてくれたのにやす/\と乗ることができたのをものべている次第で、単純な判断は下せぬのである。文章表現のうえでは、その登場の時期の詩の状況を考えて『有明集』を強く否定する努勢をとるものの実際には有明を学んで象徴詩を作ったとするのが正しいと思える。それでは白秋の有明より学んだものは何か、白秋自身の純粋な象徴詩の主張は何か。
『邪宗門』ではいろ/\な総題のもとに各詩篇がまとめられているが、その総題の解説のようなぐあいで散文がつけられている。その体裁よりこれらは序文の言葉を更に補うとうけとれる。その中で「魔臨」と「外光と印象」とは長田秀雄と太田正雄とがかいているが、文章の調子と内容とがはっきりまとまっていることとその体裁が巻頭と「朱の伴奏」という白秋の主観調の文章で緊張をやわらげてその後におかれたと思えることとより最も重要な意味をもっとみられる。『有明集』刊行当時を回想した有明の文章に「川路氏の口語詩は河井酔若氏が出してゐられた「詩人」誌上で発表されたのであるが、強烈な外光の下で種々雑多な色と音とを交錯反映する港の印象的の描写などを見て、わたくしは確かに新芸術が生れたと思った。」(大正一一年『有明詩集』自註)とあるのは、外光の印象拙写が有明の象徴詩にはなく新しい詩歌の最も鮮かな特色とな司たのを示す。その典拠がフランス印象派の絵画であることは太田正雄の件の文章に明らかである。所で、文学と絵画との関係はすでに有明にも画家詩人ロセッチに傾倒し藤島武二・青木繁などの画を素材とするのがあり、『明星』にも画の展覧会の批評があるほか鴎外にも西欧の絵画の流派の紹介や解説があるというぐあいに明治の新しい文学は西欧の新しい絵画に学ぼうとして展開してきている。しかしそれはどこまでも附随的なのに比し、『邪宗門』に於ては積極的に手法の採用を宣言し強烈な真夏の外光の状景などをうたう。
「魔眼」のほうは当時の『帝国文学』をのぞくだけでもうかがえるマアテルリンクの作品の紹介と関係がありはせぬか。「現代青年の悲京」(四O年四月「雑報」欄)がかかれ、世紀末ということも輸入されているのがしられるだけではなく、激石や木下尚江などの小説に藤村操の哲学的自殺が云々されるなど日本でも転換期の不安が或程度の現実性を以て青年達に感じられていたと想像できる。心のうちに陰併な死の節奏を感じるという長田秀雄の文章の背後にはそうした時勢の不安の感情がひそむと思えるが、ここで注意せねばならぬのは陰部といい死というものの長田秀雄の文章には少しも不安のかげはみられぬことである。つまり「魔限」の文章は普遍的な底辺を時勢にもつが、個人的にはその末梢部分の現象だけがうけとられたのを示している。となれば件の文章中の何らかの象徴らしく綴られる「すすりなく黒き部破、歌うたふ硝子のインキ輩、云々」との言葉はただ感覚を刺戟するだけの道且円であるにすぎぬ。それだけに一層神経を麻梓させるほど刺戟的であることが必要で「魔睡」ということになるわけである。そして巻頭の「邪宗門秘曲」中の刺戟的なエキゾチックな言葉はことんt・、くこの要求に応じている。
とにもかくにも、このように時勢などとの関係で今までのものを更に進めた積極的な主張が白秋の二人の友人の文章によって示されるのに比し白秋自身の言葉はどうであろうか。単に紀行中の作であるのをいうだけの文章を除くと「朱の伴奏」と「古酒」とが詩論とつながる。そのうち「古酒」はこの詩集中では古い時期の作品であるのを示し、その内容は上田敏らによりすでに紹介されてむしろ象徴詩をしる者には常識であるはずの官能交錯の実際を述べ自らの習作ともいえる詩篇の象徴のほのかなにおいを示そうとしたもので、白秋のまとまった言葉は何もない。「米の伴奏」は「凡て情緒也。」というが、『明星』の終刊号(四一年一一月)に太田水穂が「最近文芸史上に於ける明星詩派の位置」と題して「明星詩派」を概観し維新以後の明治の新しい文芸はロマンチックの趣をもつが「此の内ことにその特性を発揮して空想の跳躍に委した趣のあるのが、明星詩派であるのだ。明星詩派は真にわが国最近に於ける情緒主義の田町騰的極致と云へよう。」と記している。つまり情緒万能は今吏のように述べるまでもなく『明星』中心に特に培われているのは周知のことなので為る。情緒というだけではこのように何ら積極的な主張の意味はないが、続けて心の動き情緒のあらわれを「紅の戦慨に盲ひたるヰオロンの響」として、あるいは「赤き絶叫のなかにほのかに出叩けるこほろぎの音」として捉えている所に音楽的象徴としての主張があるかと思われる。更に「紅の戦傑」「赤き絶叫」など心理現象に色をみることに独自性を示そうとしたとうけとれぬでもないが、もと/\官能の交錯は近代象徴の手法として上田敏が紹介し、有明が強く示している。ただ特にとりたてて音楽と結びつけようとせぬだけである。尤もこの音楽的象徴ということは先にもふれたように『有明集』批判の意識とも強く結びついているのは否めぬ。しかし、白秋の作品そのものの系列を眺めるとうたえるようなリズムのあるのが多い。『邪宗門』中の詩篇は白秋の生来的なものを自由にうたいあげた『思ひ出』の詩篇と比較するとかなりかたいが、それでもうたえる調子がひそむのは見逃せぬ。要するに音楽的象徴とは、理論的に自己の主張として究めていったのではなく、白秋に生来的なうたえるリズム感が正面におしだされたという非常に個人的な好みと資質とを強い支えとすることがいえると思う。市もそれが丁度時をえたということがあたかも新しい象徴詩の理論のように装わしめたといえるのであろう。
以上のようにみてくると、積極的な主張は友人によるのであって白秋自身のは非常に消極的で倒人の本来的なものに根ざしていることになる。この二人の友人は白秋によれば白秋と共に「昼革派の延長であった『明星』にとっては異様新装の外来人であった。」のであり、長田秀雄は「若きに似ず、グロテスクな一種の桃成派で」「深沈と狙ひ、工みて構成し」太田正雄は「医科大学生であり、洋画のアマチコアであり、美、殊に近代趣味の探究者であった」(「明治大正詩史概観」)と記している。この文章より世代的に共通でゐる三人が同じ新しい詩歌の創作に努めつつそれぞれの性質と学殖とを補いあう関係にあるとしられ、白秋のもちあわさぬ新知識の愉入と理論構成とをこの二人がうけもつ形になっているのが『邪宗門』を成立させることになったとみられるのである。このようにして、『邪宗門』中の直接作品とつながる文章の検討に於て白秋個人の詩人的資質が詩についての知識と理論以外に非常に強く働きそれが今までの詩にない新鮮さをもつのがうかがえたが、序文中の特に作品と密着してそれの効果をみめげるよう留意され而もその象徴詩論めいたものを述べた文章には、なおのこと白秋の生来的なものがその詩の新しさとなって主張されているのがうかがえるはずと思える。
それは「邪宗門扉銘」とあわせて考えねばならぬが、この扉銘がダンテの『神曲』の地獄界三歌の地獄門上の彫文に則っているのは−見して明らかである。文章表現の上では上田敏の『詩聖ダンテ』の解説と鴎外の『即興詩人』中の訳とを換骨奪胎したといわれているが、そういうのは単に文章だけの問題ではなくかなり重要な意味があるように思える。もと/\『神曲』が早くわが新体詩人達にもしられていたことは夙に有明などの回想に記されているが、明治三十四年に刊行された敏の『詩聖ダンテ』が好著として迎えられて正確な知識をあたえることになり、近代象徴詩の方法の一端も示されたのである。そして『めざまし草』などにのった鴎外の解説も有明の象徴詩に大きな導きとなっていることは『飛雲抄』中の諸文章に明らかである。鴎外訳の『即興詩人』の刊行が明治三十五年であるのを考えると、この主人公の『神曲』への傾倒感激は時宜に応じて新しい文学に志す者達の心の糧となったに違いない。それを裏付けるかのように『邪宗門』中の詩篇には件の『即興詩人』より何らかの材や暗示をえたかと思える作品がみられるのである。つまり一郎銘の文章の表現には新しい詩歌の動きの系譜がうらうちされているといえる。一扉銘の内容はといえば、これにつづく文章の内容を最も端的に示している。従ってその内容の説明は後の文章にあることになるが、この文章の表現の限りではこの文章の性質は説明することでも主張することでもないと考えられる。極めて主情的に感動をあらわすのに重点をおいた文章とうけとれるのである。構造内容を分析検討してみると、表現商だけで感じとれる主情性は実際の作品と相侠って白秋の象徴詩の特色をしりうる鍵となるのではないか。
冒頭の「詩の生命は暗示にして単なる事象の説明に非ず。」は一応一般的な詩のありかたを述べたとうけとれるが、文章全体の中での位置をみると、これだけが遊離している。このような書きかたは以下に展開されるはずの本論のいとぐちとして普通なのであるが、この序文ではこの言葉をもととして詩論はくみたてられず限の多い心のうちが象徴と結びつけて語られる。このような性質を異にする文章が安易に結びあわされているのは何故であろうか。もと/\詩に於て暗示の妙をつくすことが目標であるのは倣の『詩型ダンテ』中にすでに自明のようにかかれている。有明が『春鳥集』自序で説いた象徴詩論も陥示の妙をつくすための方法が採られているのである。新体詩、その中でも特に象徴詩を創ろうとする者は当然心えておらねばならぬ事柄のゆえに、白秋の頃にあっては一層理論的意識なしに本性的にうけとられることは推測できる。そうした性質の言葉となれば主情性の文章とはすなおに結びつくのである。それにつづく「わが象徴の本旨」と述べた文章が序文中の中心であるのは序文のもつ意義より明らかである。しかし、これだけではその主情性のゆえに論理のすじをおいがたいが、『海湖音』の序文の象徴の用を云々した文章とつながるふしがあるように思える。『海湖音』での「詩人も未だ説き及ぼさざる言語道断の妙趣」が「詩人の観想に類似したる一の心状を読者に与」えることを意図する象徴の方法によって表わされるとする解釈により、白秋のいう所を文章にも言葉にも表現しがたい情趣が心のすすりなきと音楽のたのしみとによって表わされようとするのがその象徴詩としているとすれば意味が明らかにとおるのである。先にみた例言のいう所とも通じるのであるが、この三者を比べてみると、『海糊音』のは最も論理的で普遍客観的に象徴詩の効用を説明している。『邪宗門』の例言では白秋が用いた象徴の方法は示され一応その作品を客観的に扱う所よりのべられているのに比し、象徴詩を創る心の経過が作者のがわより述べられるのがここの文章で、「わが象徴の本旨」とは象徴詩創作を求める白秋の心そのものであるのに気がつく。普遍的な象徴詩の概念に根ざして白秋の解釈し主張しようとする象徴の本質ということは意味せぬのである。尤もここの文章より白秩の創造の心とその作品との関係にうかがえる特色を客観的に把えることはできるのであって、それを感傷と享楽とで表現できるのではなかろうか。
それにつづく「されば我らは神秘を尚び」以下の文章は、集中の作品に示された白秋の好むままのうたいぶりと素材とを述べていることは一見して明らかである。しかし「神秘を尚び」「夢幻を歓」ぶことは「腐欄したる額唐の紅を慕ふ」のとどうつながるであろうか。文章の表現面と作品との関係より眺めて、「波霧」という作品を背景にして「青白き月光のもとに歌献く大理石の咲歎」は神秘のかげをもまとう頼れた官能を表わし、「暗紅にうち濁りたる挨及の濃霧に苦しめるスフィンクスの随」は題名と表現とに特に音楽的効果を狙っている「鈴の音」により人生の不可思議に思い至った詩人の哀愁が幻想的象徴をここにえたものとしられる。「落日のなかに笑へるロマソチッシュの音楽」とはタγホイザlの楽劇によって醸される幻想に心のうちを表わす「序楽」という作品を意味するものであろう。このようにして実際の作品を媒介にして神秘を尚ぶことと額唐の紅を慕うデカダンスとは極めて密着しているとしられるが、「幼児疎殺の前後に起る心状の悲しき叫」のばあいは、ここに挿入された石井柏亭の「幼児傑殺」と題する版画とつながる。そして幼児棟殺だけでキリスト誕生時のヘロデ王によるそれを想いおこす。白秋もそれをいうとは件の版画の示す所で、かくてキリスト教が邪宗とされた昔の事より『邪宗門』という題名及び白秋らの詩の仲間を「我ら近代邪宗門の徒」とすることとの密接な関係を考えねばならぬこととなる。その際手がかりとなるのは同時に創作の秘密をもうかがわせるものとして巻頭の「邪宗門秘曲」という作品をあげうる。ここではキリスト教の本質と歴史とには何の関係もないただ文字どおりの邪宗という言葉にまつわる幻想の展開だけがある。キリスト及び殉教者の流した血は末梢感覚を強烈に刺戟するものとして魔法という怪奇な幻惣の道具だてとなるにすぎぬa 而もその幻想は色彩的には極めて鮮かな美麗さと輝きとをもち感触・呑気に於ても非常に豪華に展開されているのである。従って幼児疎殺はへロデ王のことと本質的関係はなく現象面だけで邪宗との結びつきに一層の怪奇と残虐性をおびたものとして刺戟的に用いられたと容易に解釈できるu 心状の悲しき叫も要するに刺戟性の感覚的なものにすぎず、近代邪宗門の徒も好んで末制感覚の刺戟をうたう者を立味することも自ずから明らかとなる。更にここに至って、個々の作品を主にふまえて述べていたのが詩集全体のもつ感じを縁はありながら作品中にそのままでは求められぬ言葉でもっと刺戟的に語る姿勢をとるようになっているのも認められる。このような姿勢の変化は、一応は文章構成の上より最後のまとまりをつけるためのもりあげを図ったとするのが正しいように思える。かくて「黄蝋の腐れたる絶間なき痩鯵」「ヰオロγの=百絃を擦る峡覚」「公硝子にうち嘘ぶウキスキイの鋭き神経」「人間の脳髄の色したる毒草の匂深きためいき」「官能の施睡の中に疲れ歌ふ鴬の哀愁」はそういう姿勢のもとにつづられた言葉ではなかろうか。
腐れたものをうたうのは「腐れたる石の油に画くてふ」(邪宗門秘曲)「わかき日のその夢の呑の腐蝕」(室内庭園)「腐れたる曲の緑」(天鵡紋のにはひ)などと非常に多いが、ヰオロソを伯明党で把えるのは「かかるとき、おぼめき摩る Violon のなやみの絃の手触のにほひの重さ」(蜜の室)をあげるえようか。円以硝子とウイスキーの配合は実作にはなく欄熱をうらうちした陰岱を表わすものとして公硝子をとりあげ都会的な感覚をウイスキーで表わすのがみられる。毒草も魔睡も『邪宗門』中の主な素材ながら序文中の言葉と密着する用例はみえぬ。而も序文での言葉のほうが作品よりも更に刺戟的なのである。もと/\序文は本文を解説してその効果をあげる役をなすもので従属性のものでなければならぬ。所がここの文章は元来散文詩の趣をもっ序文全体の中で特に醜と怪奇と欄れとに徹し最も額廃的で、起される幻想に伴なう感傷は他の部分より少い。つまりこの部分は単に詩篇にだけ地盤をもっとは考えられぬ独自的な強さが認められる。となるとこれが何によりかかっているかを探らねばならぬが、そこで考えられるのは自然主義文学との関係である。
この序文のかかれた明治四十二年一月当時はすでに小説の世界では『破戒』のあと『部団』に一応自然主義小説としての完成をみ、自然主義文学についての評論が最も盛んに行われている。そしてこの序文執筆に何らかの意味で最も影響を及ぼしたはずの四十一年には白鳥の『何処へ』花袋の『一兵卒』『生』虚子の『俳諮師』藤村の『春』荷風の『あめりか物語』激石の『三四郎』などが発表され、ここには所謂自然主義文学とはされぬのも含まれそれん\ニュアンスを異にしつつ青年の虚無性が共通に潜む。その虚無性は現象的には本能の快楽だけをおい末梢感覚の刺戟を弄するだけのことと直接に結びつくものである。要するにこれはヨーロッパの自然主,義文学とある程度かよう文学的地盤がわが国にもいろいろな社会状勢との関係ででき、それが非常に強く文学全般に影響するようになったことの表われとみられる。従って白秋もこうした文学的地盤にたつはずで、散文形式に於て本能の追究が充分開かれたのに容易にのりえて自由に述べえたのではなかろうか。韻文形式では、自然主義の主張を結突させようとする過程にあって白秋のいう自由詩もまだそれまでの定型律にもとづくのは先にもふれた所である。とにかく文学形式の歴史的条件の差が序文と詩篇との聞にはあると思える。
結びの「仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵡紋の手触の棄て難さ」はこの言葉だけで考える限りでは前の文章に対して自然主義的ありかたとは違うものにひかれ歌うのを明らかにしているのではなかろうか。これの内容は作品中の用語例より牧歌的な味わいと豪華にして夢幻的な姉きと触覚とに人間の官能の喜びをうたわずにはおられぬことを述べたとみられ、従ってそれは醜怒怪奇などとは異質であるが、感傷と享楽性とが感じとれる。所で、もと/\感傷と享楽とは白秋のいう象徴の本旨に於ても貫かれている性格であった。そして白秋の文章としては他の部分より感傷性は少いというものの「悲しき叫」とか「哀愁」とかの感傷的な言葉がなまで使われているのがわが国の自然主義文学を直接の地盤としていると思える文章中にもみられる。もともとわが自然主義文学も非常にベシミスティックなことは先にあげた諸作品の虚無性にもうかがえるが、集中の「魔雌」に示す長田秀雄の文章と比べると、白秋の資質には特に感傷性が強いと思われる。このように白秋の主張を一示す文章と具体的に作品の傾向を示す文章との性格の一致は、白秋が自ら意識している好みと実作の性格が一致しているのを表わすこととなり、とにかく『邪宗門』は白秋の生来的なものが地盤をえて結実したと認められるのである。
所で、以上にみてきた文章の内容を簡潔に示すものとして「邪宗門扉銘」は一応文字どおりそのままうけとれるが、「曲節の悩み」「神経のにがき魔眠」の悩みやにがきがどの程度の重みをもつであろうか。「曲節の悩み」は音楽性の強調を意味することにもとづくと思えるが、白秋のいう音楽的象徴は先にみたようにそれまでの象徴詩に全然ない性質ではなく本来あるはずの音楽性が充分に表わされぬことへの批判に彼の資質が適合して唱えたにすぎぬ。そのゆえに本来的な意味での抵抗は認められぬ。従ってここの悩みは新体詩もしくはその中の象徴詩という全体的な様式の問題にかかわらぬ個人の技巧上の苦心にとどまるとみられる。神経のにがきという言葉は例言中にも「刺戟苦き神経の悦楽」と使われている。尤も例言の言葉では悦楽に最も重点があり一以銘では魔睡に重みがあるはずで、魔睡も長田秀雄の文章を考えあわせると全然不安の念のない快楽のためのものであるにすぎぬ。しかしここで考えねばならぬのは、正しくは麻酔か痢酔であるべきなのに魔艇とあることなのである。邪宗などと考えあわせて悪魔に魂をうり渡すこととのつながりでこのような字に無意識か有意識かでひかれたのではなかろうか。となるとかなり人間存在の不安に徹しているとも思われ、世紀末の不安にもとづく神経の鋭い働きを意味することとなる。所が、象徴詩論として例言をも含めて序文全体を有明の『春鳥集』に示したのと比べると、個人の好みの枠内にとどまる感じが強い。有明の詩論は実作での試みを裏づけとしつつ因襲的方法への対決として自然観芸術観までつながるのがはっきり・意識されている。こうして開拓された有明の象徴詩がわが国の新体詩史のうえに於て、官能解放の突をあげ対象把握の方法とそれの直接的な表現に今までの概念的な因襲を打破して近代西欧文学とかよう画期的な役割を果したことは別に検討した所である(『文学史研究』第十号に掲載予定)。それに比し白秋の説く姿勢と内容とは既にみたように論理的な普遍性をもたず個人の好みと資質とによる象徴詩であり方法であるゆえに、芸術観自然観とは全然結びつかぬのが認められる。このような性質であるのに扉銘の件の言葉だけが世界観と結びつく普遍性をもっとは考えられぬ。長田秀雄の文章のばあいにも直接の反映はないが当時の状勢に地盤をもつのが認められたが、白秋のもそれと同じように解釈できるのではなかろうか。もとより彼ら二人には個人差があるはずである。白秋に生来の感傷性が著しいのに比し、秀雄のには感傷はない。そこで世紀末の不安とつながる神経のにがさを白秋が感じるのは、その資質の感傷性が世界観などとしては把めぬものの本能的に不安を感じとっているのにもとづくのではないかと思える。やはり当時の文学環境と社会状勢とがはっきり地盤になっているのは否めぬのであろう。
かくて白秋の個人の好みを強調したその象徴詩もつきつめてゆくと、新体詩展開の方向を把えて普遍的な地盤を正しくふま与えているといえる。唯そのふまえかたが論理的に客観的に理論をたててっきつめることはせずに、より多くその本来の資質を支えとしたために日本人の日本語の詩としては代表的な結突を一示しえたが、象徴詩の理論そのものには何もつけ加えず従って象徴詩を展開させることとはならなかったのが序文のありかたよりはっきりしられるのである。しかし、象徴詩及び詩論としての独立性をもっ有明の『春鳥集』のばあいは、西欧の象徴詩が自然主義文学を地盤としているのを個人の知識で獲得して創りあげたのであって、その当時の文学的環境と社会状勢とにはまだ自然主義文学の地盤はできて、はおらぬ。このような現実に地粧をもたぬという文学的事情は、やはり心情の自由な発露を妨げて有明の詩のかたさとむつかしさとの原因の大きな要素となっているのは否定できぬであろう。それに比べて客観的な立場よりする時は、論理性をもたぬうえに独自の主張が認められぬゆえに詩論としての独立性をもたぬものといえる『邪宗門』の序文は、現実に地盤をもっている点に於てはるかに創作と享受とを含む実際の詩史展開のうえには力をもっとせねばならぬ。同じ象徴詩論とはいいつつ『春鳥集』のと『邪宗門』のとでは、地盤との関係、因襲との関係が異質なのが明らかにできる次第であるが、それは有明より白秋へというわが国の象徴詩の推移に断周があるのを示すのにほかならぬであろう。 
 
寺山修司の『邪宗門』とルイジ・ピランデッロの創造的虚構世界

 

1 まえおき
俳優で劇座主宰者の天野鎮雄氏は、2010年名古屋の千種小劇場でルイジ・ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』を公演したが、上演後に「『あなたがそう思うならそのとおり』は、芥川龍之介の『薮の中』に似ている」と語った。観客は、劇の中では、誰が言っている事が正しいのか分からなくて煙にまかれている様子であった。
しかし、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』は他のピランデッロの作品『作者を探す六人の登場人物』と比較するならば、少なくとも、一見込み入っているように見える謎が解ける手掛かりが得られる。
或いはまた、寺山修司が、存命の母はつがいたのに短歌で母を死んでいると歌ったり、妹や弟がいないのに俳句や短歌に歌ったりするのはピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』に見られる虚構世界と関係があるのかもしれない。
さて、このピランデッロの劇を演出した本島勲氏は、『ピランデッロの不条理はその仕掛けがわりと単純であるが、ハロルド・ピンターの不条理劇の方はその仕掛けの仕組みが難解なので容易には解けない』と、かつて語った事がある。
また、本島氏は、『ピンターの不条理劇は、フィクションのように見えるが、実は、リアリズムで出来ているから、単なる作りごとのフィクションとして片付ける事が出来ない』とも述ベた。
ピンターのドラマが不条理劇でありながら、同時に、リアリズムでもあるというのは、一見すると相矛盾しているように見える。だが、かつて、萩原朔美氏が、2007年栄中日文化センターの講座『寺山修司の47 年』で語ったことであるが、『どんな、芝居でも、劇場の仕組みに則って書かれている』と論じたことがある。
演出家のレオン・ルビン教授は、2006 年愛知芸術センターリハーサル室で、シェイクスピアの『十二夜』をミュージカル風に演じたり、不条理劇風に演じたり、歌舞伎風に演じたり、新劇風に演じたりする課題を与えたことがあった。これは、ロンドン大学演劇学部のセミナーでも行われたエクササイズでもある。かつて、筆者は、1995 年ロンドン大学のデヴィッド・ブラッドビー教授のセミナーで、ベケットの『ゴドーを待ちながら』をパントマイムで演じたことがある。
つまり、不条理劇を様々のドラマスタイルで上演する事は可能である。けれども、実際不条理であると同時にリアリズム仕立てにしてドラマ化する事は難しい。たとえば、不条理劇で幽霊を描くのは、フィクションとして描くのは比較的容易であるが、同時にリアリズムでも描くのは難しい。(例としてイプセンの『幽霊』はウイルスが息子の遺伝子に感染し息子は発狂する。)ピランデッロは劇自体が不条理なので比較的上演可能であるが、ピンターは、劇を不条理で同時にリアルに描くのでいわばフィクションとリアルを両立させなくてならないところが難しいのである。ところで、ピランデッロは『作者を探す六人の登場人物』を、舞台でフィクションとリアルとを並行させてドラマ化している。だから予めフィクションとリアルに別けて芝居を観ておれば混乱する事はない。けれども、『作者を探す六人の登場人物』は、ピンターの『昔の日々』のように、ドラマがフィクションであると同時にリアルであるようには描かれていない。警えれば、ピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』は正常者と異常者とがちょうど舞台中央に鏡を立てて双方を眺めているように並立してドラマ化されている。だが、ピンターの『昔の日々』は正常者が同時に異常者でもある。だから人物を鏡ではなくていわば重層的に見ていなければならない。ピンターの場合、どうしてそれが可能であるかといえば、レヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で描いた未開文明の人のように、現代人の眼で見ると未開文明の人の生活は異常であるが、未開文明の人の眼で見れば正常であるという観方がピンターの劇には存在するからである。
けれども、ピランデッロの不条理劇が今なおインパクトがあるのは、正常者が異常者によって混乱させられる事態が実際にしばしばあるからである。例えば、イヨネスコは劇『犀』でナチスの圧政下の状況を寓意化している。つまり、条理や道理が通らない場所では、正常者は不条理と対時しなくてはならなくなるのである。
さて、寺山修司が海外公演で、日本語の分からない観客に、日本語の台詞に、七五調のリズムをつけたり、方言のリズムで発話したり、歌舞伎の節回しで、所作をつけたりして公演したという。また筆者が『邪宗門』を英訳していた時に気付いたことがある。それは、脚本が、七五調のリズムをつけたり、方言で発話したり、歌舞伎の節目しで所作があったりして、劇全体が万華鏡のようにバラエテイに満ち溢れていて、一体こんな芝居を上演して海外の観客は混乱しないだろうかと思った事がある。しかし、外国では、観客は日本語が分からないから、言葉に変わる方法で、気持ちを観客に伝達しなければならない。それで、脚本には、七五調のリズムや、方言や、歌舞伎の節目しが折り込まれていたのである。
或いはまた、ロンドン大学演劇学部のセミナーでは、単なる散文でも、様々な声のサウンドをつけて、発話すると、言葉が、音楽に変わるのを体験した事がある。
後になって、ジョン・ケージのチャンス・オペレーションを知ったとき、当時、寺山が一人わけの分からない劇を上演していたわけではない事を知るに及んだのである。
ピランデッロにせよ、ピンターにせよ、劇場だけでなく、ラジオドラマや、テレビドラマや、映画に携わっていた。殊に、ピンターは、メディァ媒体と『金枝篇』の呪術の世界をクロスオーバーして、ドラマを書いた。
だが、ピンターのドラマの複雑さに較べると、ピランデッロのドラマは、主として劇場に限定した作品が比較的多いので、劇場の仕組みを熟知した演出家であれば、幾分分かりやすいことになるという事があるのかもしれない。
たとえば、ピランデッロの作品『作者を探す六人の登場人物』は、あくまでも、ドラマの内容が舞台での出来事なので理解しやすい。だが、ピンターの『昔の日々』は、舞台の生人間と映画の光媒体が同次元で語られたり、メディア媒体と『金枝篇』の呪術がパラレルに展開したりするので、多分野にわたって多角的な視点を幾っか持っている必要がある。しかも、逆説的ではあるが、ピンターは、ドラマを、多次元の異相の中に組み立て、劇場の仕組みを建築家の設計図のように細かく組み立てているので、その意味からみていくと、不条理劇をリアリズムの尺度で再構成をしなければならなくなるのである。
或いはまた、矛盾しているように見えるが、ピンターの芝居は、不条理劇をリアリズムの観点に立って上演してこそ、ピンターのオリジナルは冴え冴えとして輝きわたるのであり、極めて緊張感を要するのである。従って、本島勲氏がピンターの『昔の日々』を演出したとき、音響(BGM) なしで台詞だけに集中して劇を構成した。その演出態度は、ケージが~ 3分55秒』で、行った気配で感じる音楽を連想させた。
更に又、寺山の場合も、劇の中で、ピランデッロやピンターのドラマツルギーを各所に取り入れコラージュしているので、双方のドラマツルギーを熟知しておく必要がある。本稿では、殊に、ピランデッロのドラマツルギーを探求しながら、寺山の劇にある劇作術をパラレルに解明する事を目指す。
2 ピランデツ口の『あなたがそう思うならそのとおり』に於けるフィクションとリアリティー
演劇評論家の田之倉稔氏は専門がイタリア語であるがこれまで寺山修司の芝居を数多く観劇しており、寺山に関するエッセイも『十三の砂山J i見世物は幻想に対するくのぞきカラクリ)J などを書いている。そのエッセイには寺山の逆転の発想が見られる。ピランデッロは『あなたがそう思うならそのとおり』でも、意表を突く逆転に継ぐ逆転が続き次第に迷路へと導いていく。ピランデッロの迷路はカオスの世界であり、或る意味では子宮回帰に繋がっている。この点が、ピランデッロと寺山が類似している点でもある。次に、田之倉氏は、寺山の『観客席』を例に挙げる。
まず寺山とピランデッロの関係は結構あるとおもいます。『観客席』はきわめてピランデツロ的です。
或いは、また、田之倉氏は、寺山とピランデッロの共通項として、虚構と現実、つまりフィクションとリアリテイの両面性を指摘している。
寺山一ピランデッロは虚構の現実性という基本的な点で共通性があるのではないでしょうか。
さて、ピランデッロは『あなたがそう思うならそのとおり』の中で、先ず、ポンザ氏が、彼の母親のポンザ夫人が狂人だと証言する。
   ポンザ ……フローラ夫人は頭が狂っております。
続いて、ポンザ氏は、フローラ夫人の娘が4年前に死んだと言い、彼女が自分の娘の死を知らないと証言するのである。
   ポンザ ……彼女の娘は4年前に死んでいるというのに。
ところが、ポンザ氏によると、フローラ夫人は彼女の娘の死を認めたがらず、しかもこの事実に直面しようともせず、彼女が娘に会いたいと思っていると言うのである。
   ポンザ ……それに彼女が気遣いなのは、この私が彼女を彼女の娘に会わせたくないと信じさせようとしているからなのです。
更に、ポンザ氏は、話を続けて、自ら前妻が4年前に亡くなった後、それから、2年後になってから初めて2年前に再婚したと告白する。だから、ポンザ氏が一緒にいるのは2度目の妻であると証言する。
   ポンザ 2年前に結婚しました。あれは2度目の妻です。
さて、ポンザ氏が2度目の妻を実母のフローラに会わせたくない理由は、彼女の娘が死んではいず生きていると信じているからだという。ところが、問題が込み入って複雑になるのは、肝心のフローラ夫人が姿を表して、彼女は『自分の娘が4年前に死んだ』事実を知っていると証言するからである。
   フローラ ……私の娘は4年前に死んで、私はそれが分からない哀れな気遣いで、だから私に会わせたくないのだとそんなこと言えるものでしょうか?
そこで、このフローラの証言によって、ポンザ氏の2度目の妻は、死んだ筈のフローラの娘とは異なる全く別人という事になる。だが、仮に、前ポンザ夫人がフローラの娘でなく別人であるとすると、ポンザ氏がその間ず、っと無用な隠し立てをして嘘をついていた事になる。だが一体何故ポンザ氏は嘘をつく必要があったのか。それとも、2度目の妻は、この世のものではなくて幽霊のような存在であるという事になるのだろうか。もしもそうだとすればポンザ氏はその事実を隠、す必要がある。だが、遂に、終幕になってから、漸く肝心のポンザ夫人自身が姿を表す。先ず、ポンザ夫人は『自分がフローラ夫人の娘で、す』と自己紹介する。これで、どうやら彼女が幽霊ではないことが明らかになる。
   ポンザ夫人 ……私は、はい、フローラ夫人の娘です。
ともかく、死んだ筈のポンザ夫人が幽霊ではなくて現存するという事実は不気味である。というのは、ポンザ夫人は、死んだ筈の『フローラ夫人の娘で、す』と答えたからである。それだけではない、次いで、ポンザ夫人は彼女が『ポンザの二度目の妻で、す』とも答える。すると、彼女が言った事が真実であるとするなら、いわば彼女は死者でいながら、別人の2度目のポンザ夫人の身体の中に乗り移り姿を表した事になり、つまり彼女は『二重人格者』であることを認めた事になる。ということは、言い換えれば、ポンザ夫人は一人の女性の中に、二人の女性が同居している事を認めた事になる。更に、ポンザ夫人は、続けて言う。
   ポンザ夫人 ……そしてポンザの二度目の妻です。
ここで、今一度、三人の前述の証言を整理すると、ともかく、ポンザ夫人の証言によって、先ず、ポンザ氏が『フローラの娘が死んだ』といった告白が嘘になり、またポンザ氏が、『フローラは彼女の娘が死んだことが分かつていない』といった告白も嘘である事を暴露したことになる。しかも当然フローラは彼女の娘が死んだことが知っていると言ったことも嘘になる。ところで、肝心なのは、当人のポンザ夫人は『死んだはずのフローラの娘であるだけでなく、ポンザ氏の2度目の妻でもある』と述べたことである。つまり、要約すると、ポンザ夫人の発言は、死んだ筈の娘が生きている事自体がおかしなことになるだけでなく、死んだ筈の娘が前夫であるポンザ氏の2度目の妻でもあることになってしまう。すると、このポンザ夫人は一体何者なのかという問題になる。しかも、彼女は全く不条理で馬鹿馬鹿しい返答をする。
   ポンザ夫人 (続けて)……それに、私自身、誰でもないのです。
つまり、ポンザ夫人の証言は、お能でいう幽玄の世界か、或いは、狂言のように、狐が彼女に化けて人を編すような話のようである。というのは、彼女は、死んだ娘であり、前夫の妻であり2番目の妻でもあるというからである。しかも、彼女はその矛盾に応えて、今度は全く意表をついて『私自身、誰でもないので、すJ とさえ、返事するのである。そればかりでない。次いで、ポンザ夫人は『私自身は、人が思う通りの人で、す』と答えて、またしても前言を覆し、結局のところ『私自身、誰でもないので、す』と、応じるのである。ということは、ポンザ夫人は、ポンザ氏の言ったことも、母親のフローラが言ったことも、更に、ポンザ夫人自身が、たった今言ったばかりの証言さえも否定したのであり、彼女の発言は悉く嘘だということになる。
   ポンザ夫人 いいえ、私自身は、人が思う通りの人です。
こうして、ポンザ夫人は、彼女自身という存在は他人が勝手に想像する人物であると認めてしまう。先に紹介したように、田之倉氏は『寺山一ピランデッロは虚構の現実性という基本的な点で共通性があるのではないでしょうか』と指摘した。つまり、寺山にしてもピランデッロにしても、様々な現象的な側面から二人のドラマを見ていると、元々現実性には確実性というものはないことに思い至る。だからこそ、彼らは『虚構が現実性』になることもありうるというドラマを描いていたのである。また、仮に嘘をつくにしても意識的にする嘘と無意識的にする嘘がある。ピランデッロの場合、嘘が意識的なのか無意識的なのか分からないことがある。ところで、この矛盾で想い出すのは、ピンターの『昔の日々』である。問題の同劇では、二人の女性アナとケイトが同じ一人の物の中に入っているようなキャラクターなのである。しかも、更にピンターは、同劇中、現実と映画の映像との交流を求めるシーンを描いているので、更に、現実と映画の虚構との境目が分からなくなってしまうのである。
さて、ピランデッロは『あなたがそう思うならそのとおり』で、観客が、劇を見ている最中に、そのシーンはフィクションなのに、そのフィクションをリアリティーとして見てしまうところに陥穿がある事を教えてくれる。つまり、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』を『作家を探す六人の登場人物』と較べると明らかなのだが、『作家を探す六人の登場人物』は、フィクションとリアリティーを、あたかも舞台の真中に鏡を立ててあるかのように完全に二つに別けている。だから、フィクションとリアリティーの境目が理解しやすい。ところが、『あなたがそう思うならそのとおり』はフィクションとリアリティーの境目が分かりにくい。そこで、予め、誰がフィクションで誰がリアリティーなのか別けて芝居を観ていかないと混乱してしまう。ポンザ夫人が虚構(フィクション)の人であり、しかも、ポンザ氏とフローラ夫人が嘘(フィクション)をついているとすれば、ポンザ夫人とポンザ氏とフローラ夫人はフィクションという鏡の中の人であり、他の登場人物はリアリティー(現実)の人である事が容易に図式化出来る。
そこで、あたかも舞台の中央に鏡を立てて、『あなたがそう思うならそのとおり』を『作家を探す六人の登場人物』と比較すると、虚構の人と現実の人とは区別がつきやすい。
けれども、実際、フィクションとリアリティーの境目は、それほど理解しやすいものではない。ユングによると、現実は海面に突きでている氷山の一角で、無意識や夢の世界は殆ど水の中に埋もれており、底なしの見えざる氷山のようなものである。たとえば、プルーストは既に死んで失われた記憶が『心の間歌』によって覚醒することがある事を指摘している。そうした記憶が突如として間欠泉のように心の中で蘇るのである。またプルーストは生物だけではなく無機物にも記憶があると指摘している。フ。ルーストの『失われた時を求めて』の冒頭『コンブレー』では、無機質のマドレーヌや菩提樹のお茶に唇が触れた瞬間、長い間眠っていた失われた記憶が突然蘇る。つまり、マルセル(フ。ルースト)が菩提樹のお茶にマドレーヌを浸した小片を唇に触れた瞬間すっかり忘却の彼方に沈んでいた記憶が蘇ることになる。従って、ポンザ夫人とポンザ氏とフローラ夫人はフィクションの世界の人であるが、実は、彼らが、夢の世界の住民であり、『幽霊』のように惨い無意識の住民であるとしたら、どうだろうか。
また、しばしば、ピランデッロはイプセンと比較されるが、イプセンの『幽霊』では、人間の目に見えない遺伝子やウイルスが、気付かないうちに、しかも無意識のうちに、生身の人聞を襲ってくる。
或いは、ジョイスの意識の流れのように、夢や無意識の観念が、現実の人間の心に宿ると、くねくねと広大な無意識の世界がこの世に降りてくる。
そして、また、ピンターの『昔の日々』のように、現実と映画の境目を越えて『起こらなかったことも起きたことのひとつ』として、虚構が現実を侵食し始める。
更にまた、寺山の実験映画『ローラ』はピンターの『昔の日々』よりも一層過激に現実と映画(フィクション)との境目を暖味にしてしまう。
それ故に、ポンザ夫人とポンザ氏とフローラ夫人はフィクションの世界の人であり、しかも、寺山の実験映画『ローラ』やピンターの『昔の日々』のように、現実とフィクションとがお互いに浸食し合っているのである。
3 ルイジ・ピランデツ口の『作者を探す六人の登場人物』
ピランデッロは芝居『作者を探す六人の登場人物』を描き、その幕開きでは、舞台にもうひとつ芝居があって、そこではリハーサルの最中で、ある。こうして、ピランデッロはいわば芝居稽古のワークショップを見せてくれる。そこへ或る家族の父親役が稽古の途中に入ってきて、彼らの芝居の作者を探し始める。かくして、芝居が始まろうとする。
   父親 (前ヘ進み階段の下まで来る。他の者も続く)私達は作者を探しているんです。
実は、このような作者探しは、寺山も『邪宗門』の中で引用している。さて、ピランデッロの芝居では、継娘役が登場し新しい芝居を紹介する。
   継娘 (急いで階段を駆け上がり、興奮して)それが良いのよ。ずっとね。私たちが新しい芝居なの。
こうして、メタ・シアターのように、或る芝居のリハーサル中に他の芝居がもうひとつ割り込む。そこで、座長役が他のグルーフを排除しようとする。
   座長 どうか出て行ってください。気遣いを相手に時間を無駄にしている暇はない。
ともかく、先ず、座長役は、世間の常識を尺度にして、閲入者を撃退しようとする。ところが、父親役が他人の芝居の中で、自分の存在を強く主張し始める。
   父親 私が言いたいのは実際に狂気は評価できるのでして、物事を逆にするんです。
つまり、こうして見ていくと芝居の方物事を逆転するらしい。このようにして、リアルな世界からフィクションの世界に入っていく。そのとき、どうやらフィクションの世界へは狂気を介して入っていくしかないらしい。更に、父親役は、狂気は、物の見方を一新すると主張する。
   父親 (前に進み、決然と)驚いていますよ。どうして信じていただけないのでしょうか。多分、作家によって生み出された登場人物が生きている姿で飛び出して来るのを見るのに慣れていないのでしょうかね。それとも、多分、私たちには脚本がないからでしょうかね。
この場面で、父親役はこの芝居のフ。ロンプターを指差す。或る意味で、このフ。ロンプターの存在は俳優が台調の奴隷であることを表している。ところが、この芝居には、台本がないのである。そこで、台本の作者探しが始まる。この点で見ていくと、この劇は寺山のドラマツルギーの原点を表しているように見える。何故なら寺山は、台本は、稽古を通して作るからである。つまり、寺山は、舞台は、台本の指示通り作るのではなく、役者のワークショップを通して台本を舞台で、作っていくものだと考えていたようだ。
   父親 いいですか。芝居は一緒にするために準備ができています。もし、あなた方が準備していただければ、私たちは一緒に芝居ができるのです。
従って、最初から父親役には脚本がないことは明らかだ。この芝居の座長役は台本のない芝居に慣れていないようだ。
   座長 脚本はあるのか。
   父親 私どもの中にあります。
そこで次第に、座長役は、父親役の提案に混乱していく。その結果、芝居が始まるけれども、脚本がないので、即興的な会話が続いていく。妻役の愛人らしき男性が死に、別れた妻役が家族と一緒に戻ってくるところへと舞台のドラマは発展していく。
   父親 きっと分かつてくれると思いますよ。私たちは舞台のために生まれた。
どうやら父親役の家族には何か問題があるらしい。つまり、別れた妻役が戻ってきたので父親役との対立が発生し葛藤が生じてドラマが生まれる。ところで、寺山は、『事件がドラマだ』といっている。一方、座長役は父親役のコンセプトが分からないので父親役たちを『アマチュアか』と尋ねる。
   父親 いいえ、私たちは舞台のために生まれた、何故って・・・
もしも事件がドラマだとするならば、事件の真相を知っている当事者の父親役が本物に近いことになる。ところが、座長役は問題のこのドラマには作者がいないと言って父親役たちに反論する。
   父親 十分じゃあないんですか。見たように、私たちはドラマを生きている
   座長 多分そうでしょう。でも、必要なんです。誰かがそれを書かないと
ところで、寺山には、作者が脚本を半分書いて半分を俳優が作るという持論があった。さて、座長役は、父親役が主張する芝居のコンセプトが分からなくて、あくまでも完成台本を要求する。とにかく完全台本がなければ、芝居は即興でやるしかない。
   別の俳優 5分で芝居を組み立てるつもりかい。
   若手の俳優 そうだよ。昔のコメディアデァルテのように!
前述の台詞のやり取りのように、この芝居は複雑なので、事件をドラマとして構築するためには、コメディアデァルテのテクニックだけでは不十分である。けれども座長役はあくまで台本に頼ろうとする。
   座長 登場人物は脚本の中にいるわけです
むろん、座長役は、コメディアデァルテのテクニックだけでは不十分であると判断したのだから、当然のようにあくまで完成台本に固執する。それに対して父親役は台本ではなく劇は仕上がって実際目の前にあるという。
   父親 そうです。脚本はないが、俳優の方は幸運にも生きている登場人物を自の前に見ることカまできるのだから・・…・
父親役が主張する劇は、脚本+俳優のことである。だが、その場合、脚本は未完成ということになる。また台本がないのは他にも理由があるらしい。
   父親 どう説明したらいいのでしょうか……嘘に聞こえるでしょうし、私の言葉も誰か他の人のように聞こえるでしょうし、
この場合、父親役は、自分以外に父親役には成れないと主張する。一方、座長役はプロの役者は父親役を上手く演じることができると反論する。
   父親 はい、でも、声や仕草は……
つまり、父親役は自分以外の俳優の演技は模倣に過ぎないと主張するのである。
   父親 それに、私が自分で感じる私ではありません。
父親役は、フ。ロの俳優には、この父親役を演じることが出来ても、生の父親という人物は自分のように感じることは出来ないと主張する。そこヘ、マダーマ・パーチェ役が現れる。彼女はとてもひどい説りなので、他の俳優では彼女を演じることは殆ど不可能に見える。ところが奇跡が起こり、マダーマ・パーチェ役が実際に舞台に現れるのである。彼女は、ひと通り、自分自身をそのまま演じた後で退場する。
   主演女優 ゲームでしょう。手品の真似でしょう。
   父親 待ってください。どうして奇跡を台無しにしようとなさるのですか。事実に過ぎないのに。
主演女優は、演技だけでは“生"の演技が表現できないので、このマダーマ・パーチェ役に向かつて『手品を使ったのだろう』というのである。だが、父親役は、手品でもなんでもなく、『普通に話しただけだ』と答える。そして、役者と現実の人物について、父親役は『同じではない』と主張する。
   主演男優 こんにちは、お嬢さん。
   父親 (我慢できなくて)違う。
つまり、フ。ロの俳優が、継娘に話しかけたが、実は、この俳優は継娘の中身を全く知らないで話しかけるから紋切り型の挨拶になってしまう。つまり、継娘はプロの俳優に向かつて態度とか口調とかは、プロの発話なのだが、でも、感じがぜんぜん違うというのである。
   継娘 でも、私が誰かにあんな風にあんな声で『こんにちは』と言われたら吹き出すわ。
   父親 (彼も少し前に出て)そう。彼女が正しい。全体の態度とか……声とか……
継娘役と父親役は俳優たちと初対面である。だから、プロの俳優であっても、継娘役と父親役との親子としての心の動きが全然分からないのは当然である。かつて、寺山はチェーホフのドラマに登場するロシア人を日本人が演じた事に対して批判したことがある。
   父親 私は、あなた方俳優を、この紳士も(主演男優に)そしてこの女優にも(主演女優に)尊敬しています。でも、私たちとは違うんです。
父親役が俳優に向かつて『違う』というのは、素人的な見方と玄人の演技にも不満があるという見方の両方がある。しかし、例えば、日本人のようなアジア人にとっては、素人は無論の事としても、ともかく、西洋人をプロの日本人俳優が演じても、西洋人に成れない。この場合、父親役の発言はある異国人が他の異国人を演じるほどの違いを言っているのであろう。
   父親 俳優さんはどうにかやっているようですがどうも私たちのとは違うようだ。
どうやら、父親役は座長役の演技メソードを批判して発言しているようである。しかし、座長役は“生"の生活と舞台の演技との違いを認め始めたようだ。
   座長 ……しかし、あなたにも分かつて欲しいのですが、舞台ではあのような場面を本当には表現できないのです。
つまり、俳優を舞台にのせる事と、日常生活者を舞台にのせる事とは違う。だが継娘役はあくまでも『あたしのドラマ』と言って自己主張をする。
   継娘 ……でも、私のドラマを見せたいのです。私のを!
こうしてドラマの中では、形勢は徐々に逆転し始めた様子である。つまり、ある家族がプロの俳優よりも迫真性を発揮して演技し始めたのである。次いで、父親役と継娘役が抱擁する。
すると、それを見た母親役は、絶叫する。
   継娘 (父親の胸に顔をうずめ、肩を上げてあたかも叫びを聞くまいとする。息の詰まるような苦悩の声で付け加える)叫んで、あの時叫んだように!
   母親 (彼等を引き離すために突進する)いけない。彼女は私の娘なんです。私の娘(彼から彼女を引き離し)けだもの、けだもの、彼女は私の娘よ!
父親役と継娘役の愛は、家族の紳を超えた愛であるが、家族の紳に呪縛されている母親役は二人の愛に反対する。さて、ここのところで、座長役は劇を中断する。そして幕間となる。ところで、寺山は『青ひげ公の城』の中で、舞台監督役が芝居をしばしば中断するように工夫して劇を構成している。それはさておき、やがて、父親役がイリュージョンを問題にしていくと、次第に演劇のイリュージョンと現実の関係が焦点になってくる。
   父親 不真面白ではないのです。つまり、本当にゲームではなくて芸術であり、あなたがたった今言ったように現実の完全なイリュージョンを作り出そうというのです。
ここで、父親役が劇をゲームではなく芸術と主張するのは注意をする必要がある。つまり現実生活のゲームと芸術との違いは、警えるなら炭素とダイアモンドの違いのようなものであり、更に、また比除的に言えば炭素(ゲーム)がダイアモンド(芸術)に変わる瞬間をイリュージョンと言ってもよいのかも知れない。そのうえ、父親役は、俳優の仕事を遊びのように考えているようだ。
   父親 その通り、笑いだ、なぜならここでは全てがゲームですから。(座長に)実はあなたはゲームだからこそ、あの紳士は(主演男優を指差す) 『彼自身』でありながら、『私』に成らねばならず、逆に、『彼』は『私自身』でもあるわけです。ねえ、畏にかかったでしょう。
ここで、もう一度、父親役と父親役の俳優との違いを、炭素とダイアモンドに当て依めてみる。すると、炭素(父親役の俳優)はダイアモンド(父親役)に昇華しなければならない。だが、元々、炭素(父親役の俳優)はダイアモンド(父親)と同じ成分で出来ている。ここに見られるのは、父親役と父親役の俳優とは違うが、化学変化を起こして父親役の俳優は父親役になることが出来るのである。しかし、見方を変えて、劇を逆様に見れば、元々、ダイアモンドは炭素から出来ているのだから同じ成分である。従って、同じ成分であるという観点からみると父親役の俳優は父親役でもあるわけである。けれども、父親役がかけた畏は単なる笑いではない。
   父親 あなたは誰ですか。
この父親役の質問の真意は、いわば、炭素がダイアモンドに変わる美的な化学変化の意識がない普通の俳優や座長のことを言うのであろうか。ところで、このピランデッロの台詞のように、いつも、寺山は質問した。『あなたは誰ですか』と。つまり言い換えれば、このような質問は今日の現実も、明日になれば惨いイリュージョンに過ぎなくなるとも言える。
   父親 舞台が足元から崩れるように感じませんか、また、地面そのものが崩れるように感じませんか。つまり、今日の現実も明日にはイリュージョンであるかのように感じるようになるのではありませんか。
こうして父親役は、ここで再び観方を逆転してしまい、毎日、与えられた役を何の疑問もなく平然と変えて演じる身元不明な俳優に批判の矢を向ける。父親役は『今日の現実も明日になればイリュージョンになる』と言って、俳優が、何時までも、いわば炭素のままで居る現実に反論するのである。
   父親 私たちは変わることのない現実です。変わることのない現実のおかげであなたたちは私たちの近付くだけで身震いすべきなのです。
つまり、言い換えるならば、父親役は、ここで、変わる現実と変わらない現実を出してきて議論している。だから、この場合、リアル、つまり、変わる事のない現実とは芸術作品を指しているのであろう。もう一度、炭素とダイアモンドの比聡を使って考えると、変わる現実は炭素であろうし、変わらない現実とはダイアモンドとなるだろう。やがて、舞台では、話は作者探しに戻る。
   継娘 (夢うつつのように進み出て)そうよ、私も行ったわ、何とか説得しようと、夕暮れの、陰気な書斎で彼が明かりのスイッチをつけるのも忘れ、部屋に閣が広がるまま、肘掛け椅子に静かに座っているときにね、影が私たちに群がるなかを、私たちは彼を説得しに行ったのよ。
“生"の舞台で上演するドラマは、映画の一回性とは異なり、何回も繰り返し再生産しなければならない。そして、繰り返し上演する度に、いわば、作者は新しく美的化学変化を起こさなければならないわけである。さて、寺山の『邪宗門』にも作家が出てくる。それはさておき、舞台での『嘘』については、ピランデッロはまるで舞台の出来事が皆嘘だと告発しているかのようだ。
例えば、母親役と息子役は離れない。すると、継娘役は二人の関係を『嘘』と言う。また、母親役と息子役は部屋にいる。すると、息子役もこの二人の関係を『嘘』と言う。やがて、『嘘』はピストルの音となる。
ピストルの音。
ピストルの音は自殺か殺人を想起させる。ところが、舞台上の自殺も殺人も元々、『嘘』である。だからチェーホフの『かもめ』のラストシーンでピストル自殺があっても、舞台上では『嘘』の出来事である。或いは、フェリーニの映画1F81/2 .!lのラストシーンでピストル自殺があるが、それが『嘘』なのは、演劇の『嘘』と同じ仕組みで出来ている。こうして、ピランデッロは舞台の出来事は皆『嘘』であることを強調している。そして、俳優は『嘘』を連呼する。或いはまた、寺山の『青ひげ公の城』でもしばしば『嘘』を連呼する。
   主演女優 死んだわ、可哀想な坊や、死んだのよ。なんて恐ろしいことでしょう。
   主演俳優 何だって、死んだって。嘘だよ。恥ずかしい。死んでいないよ。信じるなよ
   右から出てきた俳優 嘘だって、本当だよ。本当だとも。死んだんだ。
   左から出てきた俳優 違う。死んでなんかいない。ふりをしているんだ。みんな嘘だ。
   父親 何だって、嘘だって。
ある家族の息子役がピストル自殺したのは舞台の作り事であり、その作り物の中では、本当でも、舞台上の出来事は皆嘘である。だから、皆が現実とは反対の『死んだ』と言っておきながら、それぞれが、正しいことを言っているのである。座長役は舞台の本当は現実の嘘である事に混乱し始める。
   座長 (もう何もかも構わないで)嘘だって、本当だって。いい加減にしてくれ。明かりだ!明かりをつけてくれ!
座長役は、ドラマの約束事では作り物であっても本当であるが、舞台上の出来事では現実では『嘘』であることが分からず、ドラマを中断させてしまう。
   突然に舞台と客席に煌々とした明かりに照らし出される。座長は悪夢から目覚めたように息をつく。一同顔を見合わせてなんとなく落ち着かない。
半睡で、眠っている人が、夢の出来事が真実であると思いつつ、無意識の内に、夢のような出来事だと思うように、舞台の出来事は半睡の人の夢の世界に似ている。だから、舞台が中断されると、生の現実が目の前に広がる。
   座長 なんてことだ! こんなことは初めてだ! 丸一日むだにしてしまった!
前述の座長の告白は、夢から覚めた人の気持ちを表している。また、フ。ルーストの『スワンの恋』で、スワンが『一生を棒に振ってしまった』と言った言葉を想い出す。
要約すると、六人の登場人物が突然舞台に現れ、勝手に喋り舞台で生活をはじめる。そして次第に演劇向きの人間になり、ユーモラスな状況が生まれ、ドラマが形成される。稽古中に紛れ込んだ6人が、このドラマを上演したいという。しかも、母親役が倒れると、他の俳優たちも興味を惹かれる。俳優たちは、父親役、継娘役、息子役、母親役がそれぞれ対立する情念をぶつけ合う。彼らは座長役を相手にして、このような絶望的な戦いを繰り広げ、疑似家族という普遍的な価値観を見出していく。六人が、てんでに生きる情熱や苦悩を語るうちにやがて、悲劇的葛藤が生じドラマが生まれる。
なかでも、六人のうち、父親役と継娘役が、お互いの葛藤の中に、永遠に変わらない本質を見抜き、父親役が罰を、継娘役が復讐を認める。一方座長役は演出の都合から変更や歪曲を目論むが、父親役と継娘役の二人は反発する。六人は同じレベルにあるけれども、父親役、継娘役、息子役は精神的であり、母親役は自然に振る舞う。息子役は何もせず、娘役はそこにただいるだけである。殊に、六人の中で、生き生きとして創造的なのは父親役と継娘役である。このような擬似家族というファンタジーの中で喜劇が生まれるのである。
このようにして、六人は舞台に登場し、芝居を始めたかったのであるが、肝心な作者がいないのである。そこで六人は、空しく作者を探す。しかも、その行為自体が喜劇なのである。六人は、作者を探す者として、次第にこのファンタジーに受け入れられていく。だが、結局、作者はドラマを拒絶してしまう。言い換えると、六人はこのドラマに関心があるが、作者には関心カまないらしいのである。
事実、ドラマがないと如何なる芸術上の創造物も存在しない。つまり、ドラマは生命機能であり、必要不可欠なのである。従って、生きたいと思う父親役と継娘役はドラマを必要としている。だから、二人は作家を探す。
確かに、六人の登場人物は時には作者自身でもある。だが父親役は、作者を探すけれども、創作が出来ない。父親役は、作者が与える存在理由を受け入れ、座長役を舞台から放り出してしまう。一方、母親役は、彼女自身が生きていないということを疑わないでいる。何故なら、彼女は、自然性であり精神的な働きがないからだ。彼女は全くの受身の女性だ。但し彼女は劇中一度だけ反抗する。というのは彼女が母性本能に目覚めたからだ。結局彼女は母という姿を借りた自然そのものだ。彼女は母親らしく振舞っているだけで、心の動きというものがない。彼女は、感じているだけで意識してはいないのである。父親役と継娘役は、精神面を表し、母親役は自然そのものを表わしている。ドラマの葛藤は老いが問題となっており、また生きるものは生きているがために形式をもつことになる。だからこのドラマでは、芸術派だけが永遠の命を持つことになる。彼らだけが創造の瞬間を見せたのであり、この創造的瞬間こそが作品の全生命と必要性を支えているのである。
また、このドラマには混乱がある。ドラマが整然と進行しないからだ。つまり、舞台でドラマが混沌とした展開の中で繰り広げられる。というのは、しばしば、舞台は中断し、わき道にそれ、矛盾に満ちているからである。
父親役と継娘役は、息子役を拒否する登場人物であり、しかも作者を探す登場人物としてのみ生きている。しかも、実は彼らの求めるのは劇作家ではない。彼らはドラマに混乱と無秩序をもたらしロマンチックな対立の原因になっている。だが、混沌を上演することは明快でもある。というのは、結局混乱は秩序を求めるからである。それに、このドラマでは、精神に価値を見出す作者を求める事をしなければ、上演できない事も示している。つまり、この劇は、自分自身の作品を創造する事を訴えている。一方座長役や息子役が暗示することは意味を持たないので舞台から消えてしまうのである。結局、この劇では、詩人がドラマを創造する事を暗示している。
4 芥川龍之介の『薮の中』
スティーヴン・スピルパーグは黒澤明の映画に描かれた不条理な時間に関心を示した。その理由のひとつには、恐らく『羅生門』に描かれた三人の錯綜した心の時間に関心を抱いたからであろう。或いはまた、スピルパーグは『羅生門』の異なる時間の処理の仕方と幾分似た寺山修司の『田園に死す』の錯綜した時間の処理の仕方にも興味を示したであろう。それほどまでに、『羅生門』と『田園に死す』は時間の錯綜した処理の仕方が似ている。寺山が『田園に死す』を映画化するときに、 黒澤が『羅生門』で描いた三人の錯綜した時間の処理の仕方が念頭にあった筈である。例えば、黒澤の『羅生門』に出て来る死んだ武士、金沢武弘の恨みを代弁する亙女がいるが、その亙女のように、『田園に死す』では、恐山のA女のいたこによって、セレベス島で戦病死した父が家族を思う気持ちを語る。
ところで、黒澤が『羅生門』を映画化したときに、特に工夫したのは、原典の芥川龍之介が『薮の中』に描いた錯綜した時間を、今度はどのように映像化するかであったろう。つまり、 黒澤は、芥川がビアスの『月明かりの道j] (The Moonlit Road) に描いた三人の錯綜した視点、を如何に映画化するかが重要だと考えた筈である。いっぽう、寺山は『田園に死す』の映画化をするにあたり、 黒澤が『羅生門』で描いた錯綜した時間を念頭に置いて更に、H ・G ・ウエルズの『タイム・マシーン』やボルヘスの『エルフ』の時間処理にー工夫加えて映画を仕上げたと考えられる。
或いはまた、スピルバーグが、黒澤の『羅生門』の錯綜した時間の描写に暗示を受け、また寺山の『田園に死す』の異次元空間からもヒントを得て、やがて、所謂タイム・マシーンに乗り、錯綜した異次元を自在に飛び回る『E.T..』や『パック・トゥ・ザ・フューチャー』を映画化したと仮定できる。殊に、スピルパーグは、ディズニー・アニメのピーター・パンが時空を自由に飛びまわるファンタジーを加え、寺山の『田園に死す』の映像からコンセプチュアル・アートとしてアイデアをコラージュしたようにも思われる。そこで、寺山とスピルパーグが映画で示した錯綜した時間の処理と、寺山の『田園に死す』とスピルパーグのI『E.T.』や『パック・トゥ・ザ・フューチャー』にある未知との遭遇の共通点を見つけることができる。殊に、寺山やスピルパーグが自作の映画を国際映画祭に出展した背景から類似性が見られる。
さて、日本映画が国際映画祭で評判になったのは、黒澤明が、1951年のヴェネチア国際映画祭に『羅生門』を出品しグランプリを受賞したことであろう。『羅生門』は、圏内では殆ど評判にはならなかった。元々芥川が『薮の中』の中で描いた三人の錯綜した時間を 黒澤が映像で表した作品であった。原典となった芥川の『薮の中』は、ビアスが『月明かりの道』で描いた三人の異なった視点で、小説化したといわれる。さて、寺山は、1975年にカンヌ映画祭で『田園に死す』を正式招待として出品した。ところが『田園に死す』の国内の新宿ATG映画館では不評であった。ともかく、寺山は『田園に死す』の評判が園内で不評であっても、国際映画祭に出品して、 黒澤のように国際的な評価を得ることは可能だという思いがあったかもしれない。そうした思いを懐きながら、寺山が『田園に死す』で、黒澤の『羅生門』の錯綜した時間を念頭におき、更に、H.G・ウエルズが『タイム・マシーン』やボルヘスの『エルフ』の時間処理に、シュルレアリスティックな味付けを加えて映画化していった。
実は、寺山が『田園に死す』をカンヌ映画祭に出品する前年の1974 年に、スピルパーグ自身は『続・激突カージャック』で脚本賞を獲得している。同年に篠田正浩監督も『卑弥呼』を出品している。もしスピルパーグが篠田の『卑弥呼』を通して、篠田と知人だった寺山や日本映画に注目していたら、寺山の『田園に死す』に関心を持って観たかもしれなかった。
何れにせよ、フランソワ・コッポラやジョージ・ルーカスは、黒澤の映画が好きだったから黒澤に協力して『影武者』を製作し、1984 年カンヌ国際映画祭で、パルム・ドール賞を受賞した。それらの経緯を考えると、もしかしたら、スピルパーグが 黒澤や寺山の迷宮的な日本映画に注目して映画を観たかもしれない。
ところで、寺山は、篠田正浩監督の映画『乾いた湖』で脚本を書いただけでなく、次いで、演劇『血は立ったまま眠っている』の台本を書き、映画界や演劇界へと関心を広げていた。当時、篠田は、大島渚、羽仁進、吉田喜重らと並んで日本のヌーベルバーグの映画監督であった。寺山もジヤン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーのヌーベルバーグの映画に影響を受け『書を捨てよ、町ヘ出ょう』を自主制作したのである。また、当時、ATG映画は低予算で質の高い映画を作るという方針で、映画制作を行っていたが、寺山は『書を捨てよ、町ヘ出ょう』や『回閣に死す』製作の際、このATG (日本アート・シアター・ギイルド)映画に、フランス映画の制作技法を取り入れた。たとえば、ゴダールの映画『気狂いピエロ』はビデオ撮りした技法が見られるが、寺山の『書を捨てよ、町へ出ょう』にもビデオカメラで撮るワンショット・ワンシーンの場面が数多く見られる。
また、スピルパーグはデジタルでCG技法を使うよりも、カメラフィルムの撮影に拘っていたといわれる。これはゴダールの映画撮影技法を雰繋させる。更に、ゴダール自身も、スピルノfーグの映画に強い関心を常に抱いたといわれている。ところで、寺山の自主映画『書を捨てよ、町へ出ょう』には、撮影技法がゴダールから影響を受けた色合いが見られる。
更にまた、スピルパーグは『未知との遭遇』で、映画監督のトリュフォーを俳優として使っているが、その際、トリュフォー監督は、スピルパーグが『子供の視点で映画を撮るように』と助言されたという。トリュフォーはパリの友人セルジ、ュ・ルソー宛にも次のように書いている。
   子供時代の夢が実現するからだ。
そして、実際、スピルパーグはトリュフォーの助言を取り入れたのであろう。スピルパーグは『E.T.』では子供の視点で捉えた映画を生み出すことになった。
また、寺山は『書を捨てよ、町ヘ出ょう』で、今村昌平のドキュメンタリー映画『人間蒸発』に感化を受け、独自のドキュメンタリー技法で『ドキュラマ』を生み出した。因みに、アメリカの映画監督マーチン・スコセッシは、今村昌平の『豚と軍艦』から、強い感化を受けたと証言している。
或いはまた、寺山は、フェデリコ・フェリーニの映画『甘い生活』や『8 1/2』から感化を受け、祝祭的な異空間を取り入れた。例えば寺山は『田園に死す』でサーカスの巡業を挿入し空気女を描いている。これは寺山が0"81/z.l]の祝祭的雰囲気を『田園に死す』にコラージュした例である。スピルパーグもローマでフェリーニに会い、フェリーニの映画『道』に大いに感化を受け、『道』の女芸人ジェルソミーナの孤独をスピルバーグは『E.T.』で使い、E. T. が仲間の宇宙人に見捨てられた孤独な表情をコラージュしたといわれる。それに、スピルバーグにとって、コッポラやスコセッシらは先輩の映画監督であったから彼らの映画技法を綴密に研究していたのは当然のことであった。
このようにして、1970 年代の国際的な映画界を僻撤して、世界各国の映画監督たちの様々な映画監督活動をみていると、寺山とスピルパーグを取り巻く映画の環境の中で、互いに彼らが影響し感化しあっていた映画環境が透けて見えてくる。
或いはまた、黒澤明がコッポラ、スコセッシ、スピルパーグに感化を与えたのは、黒澤の映画が欧米映画の技法をコラージュしているからであるとしばしばいわれる。その意味で、寺山は『田園に死す』の制作で、 黒澤の『羅生門』の映画技法をコラージュしているが、更に 黒澤以外にも実に多くの欧米映画の技法やSF 映画の技法をコラージュしている。だから、ゴダールの『気狂いピエロ』を見ていると、寺山の『書を捨てよ、町ヘ出ょう』を思い出すのである。そしてまた、全く反対に、スピルパーグのO"E. T..I]を見ていると、これまた、寺山の『田園に死す』を思い出してしまうのである。
更に、寺山は、後年自作の全映画作品を南カリフォルニア大学でも上映しているが、この情報をスピルパーグが知っていたら『田園に死す』を観たかもしれない。ともかく、H ・G ・ウエルズ、の『宇宙戦争』のコンセプトが、少なくとも寺山やスピルパーグの映画の根底にあるから、スピルパーグの『E.T.』や『未知との遭遇』や『パック・トゥ・ザ・フューチャー』の宇宙人や宇宙船を見ると、寺山の『田園に死す』に出て来る霊場の恐山や墨女のいたこを思い出すのである。
さて、スピルパーグが、もしも『田園に死す』の恐山のシーンで少年が亙女のいたこを通して霊界の父と会話する場面を見たとするなら、スピルパーグの『未知との遭遇』や『E.T.』に出てくる宇宙人から、共通したコンセプトが見えてくる。その共通点は、未知との遭遇という不条理な時間であろう。殊に、ほぼ同じ時期に前後して、寺山は『田園に死す』で、スピルノfーグは『E.T.』で、孤独な少年と未知との遭遇を共感の念を抱いて描いた。寺山にしてもスピルバーグにしても、『田園に死す』や『E.T.』以外の作品では、宇宙からの襲撃を不条理な恐怖として描いた。寺山は宇宙人襲来のパニックを『大人狩り』に描いてきたが、『田園に死す』で未知との遭遇に共感を持って描いた。一方、スピルパーグは『未知との遭遇』や『E.T.』では未知との遭遇に共感を持って描いた。だが、スピルパーグは、『E.T.』以後、宇宙の襲撃で、パニックを引き起こす映画『宇宙戦争』に傾斜していく。
少なくとも、この『田園に死す』と『E.T.』には、他の作品にはない、未知との遭遇や憧れと、思慕の念があり、そのような意味で、両作品には共通して子宮回帰が描かれているようにも思われるのである。
5 八口ルド・ピンターの『昔の日々』に於けるタイムレス
寺山はオスヴアルト・シュペングラーが『西洋の没落』で『起こらなかったことも歴史のひとつである』と言っているのをしばしば引用している。このアナグラムは、ハロルド・ピンターが『昔の日々』でアナの台詞をコラージュしたものと類似している。殊に、『昔の日々』の中で、アナは映画『邪魔者は殺せ』の出来事でさえ劇の中で『起こらなったかもしれないけれども、覚えていることがある』と言っているのである。
   決して起こらなかったかも知れないけれども、覚えていることが幾つかある。
ピンターの『昔の日々』では、やはり、20 年前の出来事と1970 年代の出来事が絶えず行き来しながら劇が進行するのである。寺山の『田園に死す』が製作されたのは、1974 年であるが、ピンターが『昔の日々』を書いたのは1970年であるから、恐らく寺山はピンターの『昔の日々』を読んでいたようだ。
こうして、寺山は、映画『田園に死す』の結末でセットの中での出来事が作られた虚構に過ぎないことを示すために、セットを崩して、セットの後ろから1970年代の白昼の東京の街並みが映し出した。
映画セットの屋台崩しは、今村昌平の『人間蒸発』の最後の場面にも見られる。寺山と今村の映画のセット崩しはフェリーニの『8 1/2』のラストシーンでセットが取り壊されるシーンからのコラージュでもある。
さて、フェリーニの『8 1/2』のセットはロケット発射台だったが、見方をH.G・ウエルズ、のタイム・マシーンのように設定して考え直すと、『田園に死す』は20 年前の霊場恐山から、20 年後の1974 年の東京新宿に一瞬にしてタイムトラベルしたと考えることが可能である。この場合、霊場恐山はH ・G ・ウエルズの宇宙船で、あり墨女のいたこは宇宙人ということになる。そして、映画『田園に死す』では、タイムマ・シーンの代わりに、恐山の舞台装置が崩れる。このシーンは、ちょうどロケットが、大気圏に突入した後、ロケットからパイロットが地上に現れるように、『田園に死す』のラストシーンでは、一挙に、20 年間の時間を飛び越えて1970 年の東京新宿の町並みが現れるのである。
寺山は、映画撮影の製作費は安いが、質の高い映画作りを目指したATG映画の事情もあったが、先ず、何よりも寺山自身が歌人であり、『田園に死す』で俳句や短歌をスクリーンにインポウズして見せ、更に、スピルパーグの玩具のようなタイム・マシーンではなく、目に見えないが、人間の想像力だけが見える、透明なタイム・マシーンを舞台崩しの場面で、使って、異次元空間を瞬時に見せたのである。また、歌人の寺山が、極限の三十一文字の世界を紡ぎだす詩人として、しかも、劇作家として、また、ステージを熟知したアルチザンだったので、ぎっしりと詰め込まれた不条理な異次元空間の妙味を現すのに、舞台の暗転のような効果を、映画のスクリーンに 使った。
6 バーナード・ショーの『ファニーの処女作』に於けるファンタジー
ショーは『ファニーの処女作』をドラマ化しているが、この劇構成はピランデッロの『作者を探す六人の登場人物たち』を想い出す。英国近代演劇の研究者の升本匡彦が2005 年9月4日、名古屋学院大学さかえサテライトで『ファニーの処女作』の研究を話した。その際、升本はショーの『ファニーの処女作』とピランデッロの『作者を探す六人の登場人物たち』についてその類似性に触れた。劇の作中人物である批評家が、同じく作中人物のファニーが書いた戯曲『ファニーの処女作』は、劇作家のショーが書いたものだという。従って作者を探すとういう点では、ショーの『ファニーの処女作』もピランデッロの『作者を探す六人の登場人物たち』も或いは寺山の『邪宗門』も類似している。しかも、舞台が劇の中にもう一つ劇があるというメタシアターの視点、からも似ている。劇中劇という観点、からみれば『ハムレット』や『かもめ』などの先行作品がある。また、舞台と観客席との間にある壁を突き破るというドラマであればメタシアターとなってしまい、観客は劇を見ながらフィクションの世界に巻き込まれることになる。さて、天野天街氏は、愛知トリエンナーレの催し物で、諏訪哲司氏の芥川賞小説『りすん』を脚色し演出したが、舞台の最前列に役者を並べて終幕でステージの役者と一緒に合唱する工夫をした。こうした天野氏の演出によって舞台と観客の境目は無くなり、劇場全体がメタフィクション化し、観客は小説『リスン』の世界に入り込んで一緒になって小説を読んでいるという感覚に陥るのである。作者が観客をドラマに巻き込むという戦略からすれば、ショー、ピランデッロ、寺山修司、天野天街氏の意図する実験演劇のドラマツルギーの内面が案外容易に見えてくる筈である。
7 寺山修司の『邪宗門』
『邪宗門』の中で登場人物たちが、終幕近くで、この芝居を誰が作ったのかと言っている。結局、新高恵子氏が『作者よ』という。この台詞は、直ちに、ピランデッロの『作者を探す六人の登場人物たち』を想い出してしまう。『邪宗門』は意図的にこの芝居が作り物である事を提示している。黒子が大勢登場し、しかも役者が“生"人間でなく人形であることを強調している。そして、終幕で、役者たちは“生"人聞から人形化し、更に、黒子は黒い衣装を脱いで生人間として姿を表す。
   山太郎……だとすれば、その黒子を操っていたのは一体誰なんだ。
   新高それは、言葉よ。
   佐々木じゃあ、その言葉を操っていたのは一体誰なんだ。
   新高それは、作者よ。そして、作者を操っていたのは、夕暮れの憂欝だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこのけむりよ。
前述の台詞は、先ず、新高恵子氏が黒子の衣装を脱いで“生"人間になり、ドラマがフィクションから現実へ変換した事を暴露する。しかも、ここで注意しなければならないのは、それまで、劇中人物であった山太郎が、俳優の佐々木英明自身に変わって“生"人間として話し始める場面である。この変化は、かつて、佐々木氏が映画『書を捨てよ、町ヘ出ょう』の冒頭シーンで、“生"人間としてスクリーンの中から観客に話しかけ、それから映画の中に入って行く場面を想い出す。そして、映画の終わりになって、佐々木氏は再びフィクションの北村英明から現実の佐々木英明自身に戻るのである。
そればかりではない、寺山は、『邪宗門』の終幕で舞台そのものを破壊して、劇場も破壊して市街をみせる。まるでパンドラの箱の中身が空中に霧散して消えていくように、舞台のキャラクター達は皆拡散して、遂には、あたかも、ウイルス菌のように、観客の心に感染していくのである。
8 寺山修司の『観客席』
前にも紹介したように、田之倉稔氏は『まず寺山とピランデッロの関係は結構あるとおもいます。『観客席』はきわめてピランデッロ的です。』と述べておられる。また、かつて、守安敏久氏が、『『観客席』を観劇中に、客席にボートが現れてびっくりした』と語った事がある。その場面は、『観客席』の『6 とびだす救命ボート』のト書に指示が次のように書かれている。
ふいに、観客Kの10 を突き破って、巨大な救命ボートがとびだす。一瞬とぴあがるKIO の客!
前述のト書は、現実とフィクションとが交錯した場面である。観客は、現実の場である観客席にいるので救命ボートが突然フィクションが異次元の世界から噴出したように驚くのである。そこで、田之倉氏は『寺山一ピランデッロは虚構の現実性という基本的な点で共通性があるのではないでしょうか。』と述べたのであろう。
9 まとめ
ピランデッロは『あなたがそう思うならそのとおり』や『作者を探す六人の登場人物たち』の中で、虚構の現実性を描いている。だが、寺山の場合には、更に、パラドックスがあるから、現実は嘘にもなるし、嘘も現実になる。
さて、映像作家の安藤紘平氏によると、寺山の映画のスクリーンにいったん、入り込むとそこから出られなくなるという。けだし、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』は、寺山が示す映画のスクリーンの世界を想い出させる。いったん、観客が映画のスクリーンの世界に入り込むと、映画の世界では、ポンザ夫人は、一旦は、死んだフローラの娘でもあるが、次の瞬間にはポンザの第二の妻にもなる。つまり、映画は、虚構の世界であり、嘘の世界であり、夢の世界であり、また幽霊が住む世界でもある。だから、映画の不連続な世界の視点、から見ると、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』は、何の矛盾も起こらない。しかし、あくまでも、現実の世界に拘ると、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』は、矛盾に満ちているので、遂には、不条理の世界に迷い込んでしまうのである。
結局、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』は、フィクションとして見続ける限り、ポンザ夫人の言っている事も彼女の存在も少しも矛盾しない。その尺度の基本となっているのはピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』である。仮に舞台の真中に鏡を立てると、現実世界の人物と舞台の登場人物がパラレルに登場する。従って、予め、現実とフィクションとを並列して見ている限り、矛盾が起こらない。しかし、『あなたがそう思うならそのとおり』では観客がこの舞台中央に立てである鏡を無視し、現実とフィクションを一直線に同列化しようとしたり、現実の視点だけで全ての現象を見ようとしたりすると、訳の分からない芝居になってしまう。
但し、一般の観客はピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』が、事件の当事者以外には虚構という真実が客観的に分からないので、『作者を探す六人の登場人物』に比べると少し複雑で分かりにくくなっている。言い換えれば、ピランデッロの芝居は、観客を、舞台に巻き込むように仕掛けた装置になっている。だから、~ß_、観客が舞台に巻きこまれると、現実とフィクションの境目が取り払われてしまい矛盾した世界に巻き込まれ、迷宮の世界に墜ちこんでしまうのである。しかし、舞台の出来事が、映画のスクリーンに映る虚構の世界だと思えば、矛盾は取り除かれ、難問は解決する。
しかしながら、逆に映画の世界が、現実を飲み込む宇宙空間だと思うと、もはや、現実の尺度は役に立たなくなる。なぜなら、現実の人間社会を含めた時間は150 億年の宇宙の歴史から見ればほんの一瞬であり、おまけに、この現実は、宇宙と全く無関係ではなく深く繋がっているからである。寺山修司は『壁抜け男一レミング』で次のように言っている。
   世界の涯てとは、てめえ自身の夢のことだ 
寺山は、宇宙を夢と同じ大きさで出来ていると考えていた。宇宙がビッグノてンで誕生したとすれば、人間の意識の底にある潜在意識は、その人自身の生命の誕生と深く関係してくる筈である。というのは、人間の心の奥底に眠る潜在意識は、宇宙の誕生と関わってくるはずだからである。しかも、人間の潜在意識は宇宙の誕生にまで遡る事が出来る筈であるが、寺山は、それを夢によってそれが可能だと述べている事になる。ピランデッロの虚構の世界もこの人間の潜在意識と関係してくる。『あなたがそう思うならそのとおり』では、ポンザ氏もフローラもポンザ夫人の記憶も、気まぐれで定かでない潜在意識から立ち昇ってくる。そんな不条理な咳きであるとすれば、それはロジカルではない子宮の世界が宇宙の縮図となる。そうだとすると、ポンザ氏もフローラもポンザ夫人の虚言も、覚醒し目覚めた意識では決して測定できない言辞である事を表している事になる。
さて、寺山は『邪宗門』で、現実の舞台を破壊しようとするが、元々、台詞も舞台も虚構である事を示している。だから、この逆転は、いわば、現実の舞台を破壊することが、創造でもある事を示しているのである。
   どんな鳥だって、想像力よりも高く飛べない (p126.)
鳥は現実を象徴しており、大気圏よりも遠い彼方ヘ飛んで、行けない事を表している。だが、逆説的に、想像力は、成層圏を突き破って宇宙の涯てまで飛んでいく事が出来る事を示しているのである。従って、『あなたがそう思うならそのとおり』の世界も、逆説的にみれば、現実の出来事よりも、不条理で脈絡のない人間の想像力の方が遥かに真実を含んでいる事を表しているのである。 
 
三田文学  

 

明治43(1910)年、永井荷風を主幹として誕生した『三田文学』は、七度の休刊及び活動休止を経験しながらも、平成22(2010)年に創刊100年の節目に達し、いまも力強い歩みをつづけています。
創刊以来『三田文学』は、慶應義塾の文学科顧問に就任した森鷗外、上田敏、さらに塾出身の佐藤春夫、水上瀧太郎、久保田万太郎らが健筆を揮う舞台となるだけではなく、泉鏡花、谷崎潤一郎のような反自然主義の作家たちの拠点として、あるいは若き井伏鱒二、丹羽文雄、坂口安吾ら塾外の才能にとっての登竜門として、日本の近代文学史上きわめて重要な役割を担ってまいりました。また文学の公器たらんとする編集方針にもとづき、小山内薫の伝統を継ぐ演劇人、西脇順三郎、折口信夫をはじめとする学匠詩人、そして同時代西欧の文学、思潮の翻訳・紹介に積極的に誌面を提供してきたことは、『三田文学』の顕著な特色でした。近年、日本の近代文学や文化に対する関心が世界的なひろがりを示しておりますが、そのような傾向も本誌の資料的な価値をいよいよ高めているとも言えるでしょう。
しかしここに問題が生じてまいりました。『三田文学』が刻んでまいりました100年は、近代的な製紙技術の紙の寿命とされる時間とほぼ合致しております。とくに、用紙確保の非常に困難なときに懸命に刊行を持続しておりました第二次大戦期の『三田文学』は、紙質の劣化が著しく、資料としての保全が喫緊の課題となってまいりました。
そこでこれを救うため、そして資料としての公共化をともに図るため、このたび『三田文学』創刊100周年を記念する企画の一環として、創刊号(1910年5月号)から、太平洋戦争期の空襲による刊行途絶(1944年11月号)までの397冊を、デジタル資料というかたちで復刻することと致しました。これまでの紙及びマイクロフィルムとは異なり、カラー画像で撮影されましたデジタル資料は、洗練された『三田文学』の表紙そして誌面を鮮明に再現いたします。
若く瑞々しい感受性による創作、そしてなによりも歴代の編集長、編集にたずさわってこられた方々との情熱に報いつつ、『三田文学』という貴重な資産を広く研究者等にも提供をし、20世紀の文化の香りと記憶を刻んだアーカイブとして活用していただくことを祈りつつ、『三田文学』100年の歴史にあらたな1ページを開きたいと考えております。
永井荷風時代(1910.5〜1916.5)
1910(明治43)年春、慶應義塾文科刷新を象徴し体現するメディアとなるべく、『三田文学』は創刊された。奥付上の発行日は1910年5月1日。当時30歳の永井荷風が編集主幹となり、彼を推輓した森鷗外と上田敏が顧問として名を連ねることも発表された。発行元は、慶應義塾理財科の卒業生で、すでに『三田学会雑誌』の刊行実績があった籾山仁三郎の籾山書店が引き受けた。ちょうどこの前後の時期は、夏目漱石『それから』『門』、田山花袋『田舎教師』、泉鏡花『歌行燈』、北原白秋『邪宗門』、石川啄木『一握の砂』が相次いで刊行され、『スバル』『白樺』『新思潮』(第二次)が創刊された、日本近代文学史上特筆すべき豊饒な実りの季節でもあった。そんな中、『三田文学』は、坪内逍遥=島村抱月ラインが取り仕切る『早稲田文学』の存在を強烈に意識しながら、新しい文学の一拠点たるべく船出したのである。
新雑誌の編集主幹・永井荷風が担うことになった職責は、決して容易なものではなかった。何しろ、それまで同時代の文学創作とはてんで縁のなかった場所で、一から文学雑誌を作りはじめるのである。しかもこれは、創刊号に福沢諭吉の言葉を戴いた学校の雑誌でもある。だから、所属する教員や学生たちを書き手として登用し、育成していく道すじともならねばならない。そこで荷風が選択したのは、近い未来の文学・芸術の創造を支える基盤となるような、総合的な文芸誌を志向することだった。
そうした意図は、荷風がピック・アップし、決定した執筆者の人選からも観察できる。顧問である鷗外の人脈をたどって、木下杢太郎・北原白秋・吉井勇・長田秀雄ら『スバル』執筆グループを基本的な軸として据え、彼らの師匠筋にあたる与謝野晶子には小説や戯曲を書いてもらう。井上唖々や生田葵山(生田葵)ら古い友人たちに対する義理を忘れない一方で、同僚の小山内薫が創設した新しい演劇運動「自由劇場」を二度にわたる特集号(1910年11月号、1912年4月号)で支援したり、泉鏡花や谷崎潤一郎を積極的に登用したりするあたりには、同時代の文壇的な勢力図を意識したジャーナリスティックな狙いが明白である。当の荷風自身はと言えば、いくつかの変名を用いながら、芸術と社会との関係について、日本社会の根底的な排他性について、日々折々の生活の中でのちょっとした気づきについて、機知と皮肉と情味とを自在にとりまぜたエッセイを掲げつつ、評論や紹介・研究的文章にも手を拡げて、慶應義塾の教員たちが誌面に登場する余地を作った。こうした編集方針に平仄を合わせるように、『スバル』創刊以後旺盛な執筆活動を再開していた鷗外は、「普請中」(1910年5月号)「沈黙の塔」(1910年11月号)「灰燼」(1911年10月号〜1912年12月号)など、力作・問題作を次々と寄稿、文字通りの大黒柱としてこの新しいメディアを支えた。以上のような荷風の差配からは、『三田文学』を、小説・詩・演劇・評論・随筆・翻訳・研究といった文芸各ジャンルのいずれをも排除しない、視野と幅の広い媒体として育て上げていこうとする意図を窺知できるように思う。
雑誌としてはひとまず順調に出発した『三田文学』だったが、記録を見る限り、慶應義塾の学生募集にはまるで結びつかなかったようだ。それでも、荷風らを招請した一連の刷新は、一部の学生たちに決定的な刺激を与えたことは確実である。荷風の教授時代を知る書き手の回想からは、授業以外の場での談論を含む、少人数ならではの濃やかな交流が、一種のサロンにも似た雰囲気を醸成していたらしいことが読みとれる。学内では実に勤勉な教員だったらしい荷風の薫陶を受けた教え子たちは、互いの顔が見えるこうした環境を、自己の文学的出発点としていたのである。
早くも創刊2年目には、編集の補佐役として荷風を支えた井川滋「逢魔時」(1911年3月号)を嚆矢として、「朝顔」(1911年6月号)の久保田万太郎、「山の手の子」(1911年7月号)の阿部省三=水上瀧太郎が相次いで登場、予科の同級生だった堀口大学と佐藤春夫も、堀口が「女の眼と銀の鑵と」、佐藤が「憤」で、万太郎・滝太郎と同月号でそれぞれ誌面にデビューしている。のちに水上瀧太郎は、「学校の使命は人を育てるにある」が、慶應義塾は「純文学の方面においては、永井先生のすっきりとした長身が三田山上にあらわれてから、ようやく一人前の人間を生むことができた」と書いた(「『三田文学』の復活」『時事新報』1926年3月6日〜24日)。この言を踏まえて言うなら、瀧太郎を含む学生作家たちの登場とその後の活躍によって、『三田文学』は、慶應義塾が出資する雑誌から、文字通りの意味で「三田山上」の文学雑誌として根づきを始めたのである。
だが、荷風が主幹として存分に手腕を振るえた時期は長くは続かなかった。はじめ『三田文学』は、鷗外の示唆もあって、当時としては高額の原稿料を支払っていた。慶應義塾が拠出した資金について、荷風には相当の裁量の余地が与えられていたようだ。しかし、『三田文学』にとって二度目の発禁となった谷崎潤一郎「颷風」(1911年10月号)を契機として、慶應義塾当局からの誌面への干渉が本格化したらしい。その翌月号に荷風が寄せた「谷崎潤一郎氏の作品」(1911年11月号)は、谷崎評価を長きにわたって決定づけた重要な評論とされてきたが、久保田万太郎によれば「“発売禁止”にからんでの学校当局に対するおもむろなる“回答”とわれわれには感じられた」(久保田万太郎「よしやわざくれ」)という。タイミングと内容を考え合わせれば、むべなるかなと言うべきだろう。
1911年12月8日付け小山内薫宛荷風書簡には、『三田文学』に、学校側の「検閲」があったことが記されている。こうした手続きがいつから始まったかは不明だが、「颷風」以降、学校当局のまなざしが厳しくなったことは事実だろう。雑誌の売れ行きが停滞した1914年ごろからは、会計的にも締め付けが行われたらしい。編集の独立性と雑誌経営の自律性を奪われてしまえば、主幹とは単なる現場責任者の謂に過ぎないものとなる。『夏すがた』発禁をめぐる事情もふくめ、荷風の心は『三田文学』から離れていった。1915年3月号から、奥付の編集発行人欄に永井壮吉の名前が消える。翌1916年2月には、荷風は『三田文学』と慶應義塾文科から立ち去ったのだった。
なお、『三田文学』創刊から荷風時代の誌面については、先掲の武藤康史「三田文学の歴史」が、詳細かつ丹念にたどり直している(『三田文学』2000年夏季号〜2013年秋季号)。合わせて参照されたい。
編集担当者について
永井荷風 1879(明治12)年〜1959(昭和34)年
東京生まれ。本名は永井壮吉。高等商業学校附属外国語学校清語科除籍後、アメリカ・フランスに約5年間滞在。帰国後は海外での生活時に培った文学的素養と独自の見識を活かし、『あめりか物語』(1908)『ふらんす物語』(1909=発禁処分)『歓楽』(1909=発禁処分)など多くの作品を発表、自然主義全盛期の文壇で特筆すべき活躍を見せた。1910(明治43)年2月、森鷗外・上田敏の推薦で慶應義塾大学部文科教授に着任、『三田文学』初代主幹となる。ちなみに父・久一郎はかつて慶應義塾で学び、当時の塾長鎌田栄吉とも相識る関係だった。『三田文学』には「紅茶の後」(1910年5月号〜11月号)「大窪日記」(「大窪だより」とも。1913年9月〜1914年7月号)「日和下駄」(1914年8月号〜1915年6月号)といったエッセイや小品・評論を多く寄稿した。『三田文学』発売元となった籾山書店の籾山仁三郎とは親しく交わり、慶應義塾辞職後は、旧友井上唖々と籾山とを誘って雑誌『文明』を創刊、『三田文学』時代には書かなかった長篇小説「腕くらべ」を連載するなど、自在の筆を揮った。「夜の車」(1931年8月号)以降『三田文学』に登場することはなかったが、1959年の逝去時には「永井荷風追悼号」が編まれ、荷風在職当時を知る教え子たちを含む30名の論文・回想を掲げて、故人の貢献を偲んだ。
沢木四方吉時代(1916.6〜1925.3)
1916(大正5)年、初代編集長であった永井荷風が『三田文学』の運営方針を巡って慶應義塾当局と対立し、教授職を辞した後、三田文学会主幹は同年3月にフランス留学を終え、慶應義塾大学部文学科の教員に着任したばかりの沢木四方吉に引き継がれた。
第一次世界大戦中であった欧州から戻った沢木主幹の下、『三田文学』誌上には太宰施門、竹友藻風、井汲清治等の文芸評論が目立つようになった。これには、沢木自身が日本における最初期の西欧美術史家として慶應義塾で教鞭を執っていたことが影響しているであろう。先に挙げた井汲清治や、沢木主幹時代の『三田文学』に頻繁に寄稿した南部修太郎、小島政二郎、宇野四郎、三宅周太郎等は、帰国後の慶應義塾における沢木の教え子でもあった。後の水上時代の『三田文学』を支えた作家・編集者の勝本清一郎もまた、沢木の着任と同時に設置された美術史科の第一期生であった。このように、慶應義塾の文学科教員を中心とした執筆者、並びにその教え子たちによる評論、随想が増え、アカデミックな様相を呈するようになったのが、この時期の『三田文学』の特徴の一つである。また、沢木とほぼ同時期にアメリカ、ヨーロッパに留学していた水上瀧太郎も1916年に帰国し、明治生命に就職していたが、同年12月号から随筆「海上日記」の連載を始めていた。この水上もまた、沢木とは慶應普通部時代からの知己であり、友人であった。水上は、この沢木主幹時代の1918(大正7)年1月号から、その代表作である随筆「貝殻追放」の連載も開始している。
『三田文学』の記事が学術寄りになったのには、1920(大正9)年に、慶應義塾が正式に「大学」となったことも影響していると考えられる。それまで、卒業生に学位を授与する権限を持っていたのは帝国大学に限られていたが、明治末から大正期にかけての進学率の上昇に伴い、旧制高校と大学数の不足が懸念されたため、政府は1918年に高等学校令を改正し高等学校を増設し、1919年には大学令を公布して、国公立専門学校や私立学校の大学化を認めたのである。この結果、慶應義塾は慶應義塾大学となり、それまでの「学科」を「学部」に改組し、文・経済・法・医の四学部を抱える総合大学となったのである。そして、『三田文学』主幹の沢木はこの時文学部教授となった。
主幹の沢木自身は「沢木梢」の筆名を用いて『三田文学』に寄稿し、欧州滞在記、美術史評論を発表していた。また「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の連載も行った。それらは後に『美術の都』『レオナルド・ダ・ヴィンチ その前半生』として出版され、両書は沢木の代表的著作となる。
『三田文学』創刊当初から寄稿していた野口米次郎(当時、英米文学科教授)は、この時期も引き続き誌面に登場している。当初は英語詩が主だったが、荷風主幹時代末期から評論・随想が多くなり、沢木主幹時代は殆どが評論・随想で、詩作の発表はわずかとなっていた。慶應義塾大学三田キャンパスにあった萬来舎は、父である野口がかつて教鞭をとっていた慶應義塾を訪れたイサム・ノグチがデザインしたものである。
また、荷風の推薦により、『三田文学』誌上にデビュー作を発表していた邦枝完二は、この時期も断続的に短編小説を発表していた。その多くは短編の時代小説で、後の人気時代小説家の萌芽の時期を、ここに見ることができる。
この沢木時代の『三田文学』は、1925(大正14)年3月号をもって突然休刊という事態を迎えた。編集主幹の沢木は当時病気療養中で大学も休職していたが、塾側の休刊決定について、彼には事前の相談もなかった。病中の沢木は、親友であり当時の『三田文学』の「精神的支柱」でもあった水上を後任の主幹にして刊行継続を求めたが、塾側は塾の教職員以外の人物を主幹に据えることを拒んだという。水上は、1926(大正15)年に『時事新報』紙上で『三田文学』休刊の事情に触れているが、水上の見解は、永井荷風を喪い塾側の熱が冷めたこと、沢木時代には塾からの補助金が横ばいで、満足な原稿料が払えなくなったこと、そのために一流の作家の原稿が望めなくなったこと、沢木が文学・哲学・美術に特化した雑誌にする改革案を提示したが、才能のある哲学者が若くして世を去ってしまったこと、などを挙げている。
編集担当者について
沢木四方吉 1886(明治19)〜1930(昭和5)年
現在の秋田県男鹿市生まれ。沢木梢、若樹末郎、LL生の筆名がある。生家は資産家で、沢木は兄弟達と同じ慶應義塾へ進学した。兄たちは理財科に進んだが、末子で体の弱かった沢木は文学科に進むことが許された。1906(明治39)年に慶應義塾本科文学科へ進んだ四方吉は、三年次に『三田評論』に評論、小説を続けて発表し(1908年)文名を挙げ、この頃から一学年下に在籍していた小泉信三との交友も始まった。1909(明治42)年、慶應義塾大学部を卒業すると、沢木は普通部の英語教員として採用された。この年5月、『三田文学』が創刊され、沢木は「沢木梢」の筆名で同年8月号・10月号に「ニィチェの超人と回帰説」を寄稿している。1912(明治45)年には、文学科留学生としてドイツへ派遣された。この留学は3年8ヶ月間に及び、その途中に第一次世界大戦が勃発し、同じくドイツに留学中であった小泉等と共に危ういところでロンドンへ脱出するといった出来事もあった。1916(大正5)年、帰国した沢木は慶應義塾大学部と予科の教員となり、同年、永井荷風に代わって『三田文学』の編集主幹に就任した。1920(大正9)年、大学となった慶應義塾大学文学部の美術史科教授となる。一方、『三田文学』等で発表してきた論文・評論をまとめた『美術の都』(1917年)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1925年)『ギリシャ美術概観』(1929年)といった著書も発表した。しかし、留学時代からよくなかった病が悪化し一時休職、その間に『三田文学』は休刊(1925年3月)となり、沢木は主幹を辞すことになった。その後、復職・休職を繰り返したが、病状は好転せず、1930(昭和5)年、43歳の若さで死去した。
水上瀧太郎時代(1926.4〜1933.12)
1926(大正15)年1月20日、「「三田文学」復活講演会」は慶應義塾内大ホールに於いて、700人の文学青年たちの熱気の中で開催された。編集委員・水上瀧太郎、久保田万太郎、井汲清治、南部修太郎、西脇順三郎、小島政二郎、水木京太、石井誠、横山重、編集担当・勝本清一郎が中心となって奔走した結果、休刊後僅か一年で不死鳥の如く復活したのである(第3次『三田文学』)。塾当局によって瀧太郎の主幹就任は拒まれ、編集委員制をとったのであった。復活講演会の席上久保田万太郎は物心両面にわたって牽引役を果たした水上瀧太郎を「我等の精神的主幹」と声明した。永井荷風時代の創刊は文科の機関誌として手厚い支援を受けたが、第3次の復活は塾当局と距離をおき(僅かな補助金があった)、文学青年たちの結集によって実現したことは特筆すべきことであった。瀧太郎は社業の多忙のため(勤務先明治生命保険の取締役に就任した)1933年12月をもって編集委員を辞退するが、彼の「精神的主幹の時代」は多くの新進作家が活き活きと活躍し、雑誌の資金的基盤を築いた正に「輝く『三田文学』の時代」であった。この間、編集担当は勝本、平松幹夫、和木清三郎と三代を数えるが、瀧太郎の存在と個性的な三人の編集担当者を得た事は復活『三田文学』にとってはこの上ない幸運であった。
復活号は澤木四方吉時代の歴史、哲学分野を切り離しているので、純文学関係だけで160頁余の頁数は文学雑誌としてはかなりの増頁であった。従来から重視された小説・戯曲・詩のジャンルを堅持し、一方で復活号から瀧太郎時代を特色付ける編集の基本方針がはっきりと打ち出された。新人の作品を積極的に取り上げることこそ復活の最大目標であった。復活講演会で瀧太郎は『三田文学』は「新進作家を生む為に存在する」と宣言したが、復活号は加宮貴一、久野豊彦、木村庄三郎を登場させ新進作家の活躍の場としての雑誌使命を内外に明示した。もはや荷風色(反自然主義、耽美派)は一掃されて三田派の結集を印象付けるものであった(荷風の寄稿は別誌用のものを転載したもの)。三田派の同人雑誌ではあるが、外部の新進作家を捲き込みつつ以後発展してゆく。また、海外文学の紹介は従来から特色の一つであるが、西脇、井汲などの論文や翻訳・評論の紹介、「海外文壇消息」欄など外国文学への目配りがなされている。表紙には新進画家の富澤有為男や鈴木信太郎などが登場するが、画家たちにとっても『三田文学』は画壇進出の場であった。変革は雑誌の資金集めにも現れ、前金購読者の勧誘、寄附金の依頼?広告の募集(デパート・化粧品・洋服店などに拡大)などを推進し、瀧太郎自身も「貝殻追放」や「六号雑記」で協力を要請した。平松によれば赤字から黒字に転換できたのは瀧太郎が「「三田文学」編集委員隠居の辞」(1933年12月号)を書いた頃だった。
第3次『三田文学』のもう一つの大きな特色は純文学路線の堅持である。復活号が出た大正末期から昭和初頭の文学界は、既成文学を打倒しようとする二つの流れ、即ちモダニズム文学とプロレタリア文学の流れと純文学と大衆文学の流れが輻輳した時期であった。商業的雑誌の創作欄は既成の作家で占められ、新人登場の余地は限られたものであった。こうした中で『三田文学』がこれらの流派には加担せず、「只管忠実におのれ一個の道を拓いて進む」(「人真似」)純文学の立場を貫徹しつつ新人にも場を提供した意義は大きい。
瀧太郎時代に活躍した執筆陣は三田派(荷風時代に登場)瀧太郎、万太郎、春夫を始め新三田派(澤木時代に登場)では南部修太郎、小島、井汲、演劇評論・三宅周太郎、劇作家・水木京太、詩の西脇順三郎、など多彩な顔ぶれが揃う。新々三田派(復活号以降)は、詩・蔵原伸二郎、加宮貴一、勝本清一郎、木村庄三郎、久野豊彦、倉島竹二郎、勝本英治、石坂洋次郎、平松幹夫、杉山平助、庄野誠一、丸岡明、今井達夫、劇作家・宇野信夫、南川潤、評論・矢崎弾など枚挙にいとまがない。紅野敏郎は「『三田文学』今昔」(『三田文学』1970年6月号)で「昭和初期から戦争下、水上さんが亡くなられるあの前後」が、創刊以降もっと面白い時期である」と結論付けている。冊子『三田文学創刊100年展図録』(2010年)が「「三田文学」の恩人、水上瀧太郎」として称賛する所以である。
編集担当者について
水上瀧太郎 1887(明治20)年〜1940(昭和15)年
東京生まれ、本名阿部章蔵。1912年慶應義塾大学理財科卒業、同年9月から4年間に亘り米英仏に留学。帰国後、直ちに明治生命保険に入社。サラリーマンと作家の「一身にして二生を経る」(福澤諭吉)生涯であった。処女作「山の手の子」が荷風の推挙で、創刊間もない『三田文学』に掲載された感動を「私のはなやかならぬ文筆生活も二十二年の久しきに及んだが「三田文学」はその揺籃であり、苗床であり、母の懐であつた」(「「三田文学」編輯委員隠居の辞」)と述懐している。熱意ある主幹の存在、新人に門戸を開いた雑誌、この二点は復活号以下を貫徹する瀧太郎の熱い思いであった。また純文学路線の堅持も瀧太郎の信念であった。関東大震災直後の「所感」(1923年10月号)で西洋近代の思想を無批判に受け入れ(未来派、表現派、ダダイズム、プロレタリアなど)、使い捨てる文壇の浮薄な風潮を厳しく論断した。作家自身の練磨と鞭撻と反省によって「今度こそは顧みて恥ぢない道を歩むべきである」と決意を披歴した。復活『三田文学』は瀧太郎の信念を具現化したものである。瀧太郎は毎号執筆を実践する一方、新人の発掘と育成に務め庄野誠一、丸岡明、杉山平助や義塾外でも藤原誠一、大江賢次、早川巳代治、井伏鱒二などを見出すとともに、それらの作品に適確な批評の筆を執った。毎月「水曜会」を開催し同人の懇親と切磋琢磨する場を提供した。『三田文学』は「水上瀧太郎追悼号」(1940年5月号)、「水上瀧太郎全集刊行記念」(1940年10月号)、「水上瀧太郎一周年記念特輯」(1941年4月号)によって哀悼の意を表した。
勝本清一郎 1899(明治32)年〜1967(昭和42)年
東京生まれ。1923年慶應義塾大学美術史科卒業、1925年同大学院修了。『三田文学』復活に際して初代編集担当となり、1927年11月号まで1年7ヶ月の短期間ではあったが、勝本のもとに『三田文学』の方針は具体化され創意溢れる雑誌が実現した。倉島竹次郎、木村庄三郎、杉山平助など新人登用を積極的に進めた。早くも1926年7月号では「新進の創作・六篇」の特集を試みている。ここに収録された久野豊彦、富田正文・高橋宏、葛目彦一郎はそれぞれ「葡萄園」、「青同時代」、「橡」の同人であるが、『三田文学』は周辺の同人雑誌を巻き込んだことは注目すべきである。長篇小説の連載など紙面の工夫がなされる一方で同人雑誌にありがちな馴れ合いを排除し、掲載作品の質的向上を追求した。「勝本氏も気性の勝つた、他に屈しない人であるが、編集者の立場を顧みて、よく不愉快を忍んでくれた。もう厭だといひ出した事もあつて、それをなだめるのも私の仕事だつた」と瀧太郎は回顧している。初代編集担当が勝本であったことは幸先良いスタートであった。勝本自身は1921年評論「お夏狂乱」で『三田文学』でデビューした。編集担当後も小説や評論に健筆を振るったが、中でも瀧太郎の「大阪の宿」を批評した「随筆的心境」(1926年12月号)は瀧太郎文学の批判として注目される。戦前はプロレタリア作家同盟の論客としても活躍したが、戦後は日本近代文学の実証研究に転じ『透谷全集』(全三巻、岩波書店)など成果をあげた。
平松幹夫 1903(明治36)年〜1996(平成8)年 
東京生まれ。1926年慶應義塾大学英文科卒、1928年同大学院修了。 勝本と急遽交代して1927年12月号から編集担当に就任したが、大病のため1929年3月号をもって退いた。義塾を卒業した直後で創作経験も少ない上に、雑誌編集は未経験であった。このため独自色を打ち出すまでには至らなかった。小品・随筆・評論、アンケート集約形式で多くの執筆者に出番を与え紙面を賑わしている。平松時代、「UP―TO―DATE」で杉山平助の時事批評を掲載したことは注目される。杉山は菊池寛の目にとまり、『文藝春秋』の匿名原稿や『朝日新聞』の「豆戦艦」に活躍の場を広げた。小説では新興芸術派の旗手・龍胆寺雄が瀧太郎の求めに応じて「A・子の帰京」(1928年9月号)で登場し、以後も作品を発表した。また、井伏鱒二は「鯉」(1928年2月号)、「たま虫を見る」(同年5月号)、「遅い訪問」(同年7月号)などの小説で文壇的にスタートしたことは注目される。平松自身は「汗の味」(1926年12月号)でデビューするが以後、主に評論・随筆を数多く寄稿する。『水上瀧太郎全集』(岩波書店)の編集にあたった。『三田文学』と敬慕する瀧太郎に関する時々の随筆は、同時代の証言者としての役割をよく果たしている。慶應義塾大学教授の他、戦後は日本ペンクラブ理事、日本翻訳家協会会長、日豪学術文化センター所長を歴任した。
和木清三郎時代(1934.1〜1944.3)
この時期の『三田文学』でまず特筆すべきは、新進の作家・評論家の積極的な登用である。それは和木自身が「しょっちゅう傍系でしたよ、「三田文学」は。だから、傍系でないようにするために〔いわゆる文壇に―尾崎注〕接近するような方法をとりましたね」(「座談会『三田文学』今昔」(『三田文学』1970年6月号))と証言したように、彼の意志に基づく編集方針であった。
英文科出身の原民喜が「貂」(1936年8月号)で、また、文学部予科に在学中の柴田錬三郎が「十円紙幣」(1938年6月号)で登場し、評論では和木が久野豊彦から紹介された十返一や、帝大文科卒業直後の保田與重郎が共に1934年5月号に登場して以降、継続的に執筆した。保田は日本浪曼派のマニフェストとも言える評論「日本浪漫派(ママ)のために」(1935年2月号)を発表している。和田芳恵は「樋口一葉」を連載(1940年6月号〜1941年8月号)、彼のライフワークとなる一葉研究の端緒を開いた。また、塾内からは山本健吉(本名・石橋貞吉)が初めてこの筆名で「文芸時評」を執筆(1940年4〜6月号)、山本と同じ国文科出身の戸板康二は1935年5月号以降、歌舞伎を中心とした演劇論の発表を開始した。
新進に限らずとも、高見順、上林暁や、既に『三田文学』に登場していた井伏鱒二や丹羽文雄ら早稲田出身の作家たちもこの時期に作品を発表している。和木の門戸開放路線によって、『三田文学』は追加注文に間に合わないと「編輯後記」に度々記されるほどの活況を呈することとなった。
誌面構成上の特徴は、「六号雑記」の復活(1934年4月号〜)、毎号一誌につき一頁を充てた主要雑誌の批評などがあるが、なにより多様な特輯を挙げられる。創作特輯はもとより、1937年から毎年8月号で組まれた随筆特輯は43年まで続いた。これは読者が避暑先で雑誌を気軽に読めるようにとの和木の配慮による。また、フランス文学、イギリス文学、美術といった学問分野でそれぞれ特輯号が出され、それらが研究者の寄稿で占められたことは、沢木四方吉時代に強まったアカデミックな傾向の再来だといえる。日米開戦以降は帰還作家報告、愛国詩、慰問文といった戦時色の濃厚な特輯が編まれた。
追悼号が多く編まれたことも、和木時代の『三田文学』の特色であろう。南部修太郎(1936年8月号)、水上瀧太郎(1940年5月臨時増刊号)、馬場孤蝶(1940年9月号)と続き、特に水上瀧太郎追悼号の執筆者は136名に及び、1940年7月には再版もされている。『三田文学』復刊のために奔走し、復刊後は毎月のように寄稿するなど、『三田文学』を献身的に支えた「精神的主幹」水上の死を、和木たちはこうした形で悼んだ。
また、1935年には1926年の『三田文学』復刊から十年を迎えた。1935年5月号は復活十周年記念と銘打たれ、小泉信三「三田文学と私」や宇野浩二「「三田文学」と私」が掲載されたほか、「三田文学復活十周年記念講演会」の開催が告知された。この会は時事新報後援のもと、水上瀧太郎、久保田万太郎、小島政二郎、西脇順三郎といった三田ゆかりの人物に加え、菊池寛、里見ク、佐藤春夫といった作家たちが登壇した。また、「復活十周年記念三田文学バラエティ」の開催も同時に告知された。これは映画、芝居、講談など諸芸能の上映・公演企画である。6月号には砧五郎「復活十周年記念「文藝講演会」見聞記」が掲載、7月号では小特集「三田文学祭の夜」が組まれ、二つのイベントの報告もつぶさになされた。これらに先立ち和木は「時事新報」1934年11月15日にて、「この雑誌が同人雑誌と呼ばれるのには多少不満がある」との談話を出しており、「文学の修練場」を超えた場の提供への意欲が強くあったことが窺える。
この時期の作品で注目されるのは、石坂洋二郎「若い人」の完結と、岡本かの子「肉体の神曲」の連載である。
「若い人」は1937年12月号で「続篇」が完結した。1937年中に改造社から単行本が刊行、また、豊田四郎監督により映画化され、双方ともヒットした。『三田文学』誌上では各企画の進捗状況や評判が逐一報告された。
また、「若い人」は第一回三田文学賞(1936年1月号で発表)を受賞した。同賞制定の経緯に触れておきたい。まず、「三田文学十周年記念短篇小説懸賞」(以下「懸賞」)の募集が1935年2月号で告知された。すると、このことを激励する「塾員一匿名氏」から年500円ずつ十年間の寄附金の申し出があった(1935年3月号にて報告)。続く4月号では「懸賞」と別に「三田文学十周年記念賞金」(以下「賞金」)の告知がなされ、これが「賞金五百圓」、発表が「昭和十一年一月号」誌上とある。ゆえに、寄附金が三田文学賞制定の遠因になったと考えられる。結果的に、「懸賞」は一次選考までしか行われず、「賞金」が三田文学賞と名前を変えたのである。
岡本かの子「肉体の神曲」(1937年1〜12月号)は、彼女にとって『三田文学』誌上に発表された五作目の小説である。前年に「鶴は病みき」で話題を呼んだかの子だが、『三田文学』での小説発表は「売春婦リゼット」(1932年8月号)にまで遡れる。この号の「編輯後記」で和木は「新人」としてかの子を紹介した。小説家・かの子の発掘は、編集者・和木の手腕が発揮された結果にも見えるが、二人の私的な関係性の影響も考慮できる。それというのも、和木は岡本家に寄寓していた恒松安夫と慶應義塾の同級生であり、その縁で1918年頃にはかの子を知っていたのである。和木にとってかの子は姉のような存在だったという。「岡本かの子の死を悼む」(1939年4月号)で和木は「僕は余りかの子さんの近くにゐた。そして、かの子さんの好いところばかりを知り過ぎてゐた」と綴った。
このように眺めてみると、和木清三郎の『三田文学』は新進の書き手の誕生を助ける一方で、先人の葬送を司りながら展開したといえるだろう。そして、昭和戦前・戦中期の文学状況にあって、命脈を保ち、豊かな文学的成果をもたらしたのである。
編集担当者について
和木清三郎 1896(明治29)年〜1970(昭和45)年
広島生まれ。本名は脇恩三。1923年3月、慶應義塾大学文学部国文科卒業の直前に、主任教授だった与謝野寛の推薦で改造社に就職、『改造』編集部に入った。『三田文学』の編集には1929年4月号から参加し、1934年1月号より編集主幹の任に当たった。それ以前にも同誌上で「江頭校長の辞職」(1921年10月号)をはじめとして創作を発表していたが、主幹在職期間には「早慶野球快勝記」(1935年12月号)、「リーグ戦見聞記」(1941年7月号)といった大学野球に関するエッセイを多く残した。水上瀧太郎に全幅の信頼を寄せ、編集面でも彼に伺い立てをしていた和木にとって、1940年3月の瀧太郎の死は大きな痛手となったが、瀧太郎関連の講演会を主催し、一周忌記念特輯(1941年4月号)を組み、その死を悼んだ。水上に続き和木を励ましたのは小泉信三であり、二人の親交は小泉の逝去の時まで続いた。1941年10月に和木も関わるかたちで創設された三田文学出版部は、経済的統制の進む出版業界の情勢と相俟って雑誌の運営を圧迫した。そして、事業整備を機として、『三田文学』1944年3月号をもって和木は15年にわたる『三田文学』の編集生活に幕を下ろすこととなった。敗戦を南京で迎えた和木は1946年5月に帰国したのち、小泉信三の協力を得て『新文明』(1951年9月号〜1970年6月号)を発行した。水上瀧太郎、小泉信三という二人の先達の後ろ盾を得つつ、雑誌編集者としての生涯を歩んだのである。
戦時末期(1944.4〜10)
当時の情報局による指導・監督のもと、《出版新体制》下の出版業者を束ねる組織として1940年12月に設立された日本出版文化協会は、1943年11月、統制団体「日本出版会」として再編され、法的な根拠にもとづく強力な権限を有することになった。アジア・太平洋各地域での戦局の悪化を受け、決戦体制構築のための「出版報国」を一義的な目標に掲げた日本出版会の最初の大仕事は、戦略物資としての紙をより〈有効に〉活用するための、出版事業者と雑誌メディアの整理・統合であった。
用紙統制が本格化した1941年以降、『三田文学』のページ数は、他の雑誌同様に減少の一途をたどっていた。1943年に入ると各号100ページを割り込み、1943年12月号・1944年1月号では30ページ台にまで薄くなった。そんな状態でも、どうにか『三田文学』の刊行は続けられた。1943年末から開始された戦時末期の雑誌メディアの統廃合の際にも『三田文学』は、ライバル誌『早稲田文学』とともに、存置される文芸文学雑誌の一つとして、辛うじて生き延びたのだった。
この決定後、1944年3月号をもって、長く『三田文学』の顔として活躍した編集主任・和木清三郎は退任、久保田万太郎、太田咲太郎、片山修三、庄野誠一、柴田錬三郎、富田正文、戸板香實、長尾雄、丸岡明、南川潤の慶應義塾関係者・『三田文学』出身作家10名が編集委員となり、発行人の名義も西脇順三郎から富田正文に交代、養徳社を新たな発行所として、1944年11月号まで刊行が続けられた。また、実際に発売されることはなかったが、1944年12月号〜1945年3月号の4冊については、当該号の目次を掲げた新聞広告の存在が確認されている。『三田文学』は、日本帝国の敗戦直前まで編集作業を続けていた数少ない文学雑誌の一つだったのである。
ただし、こうした編集体制の変更が、『三田文学』の誌面に小さくない影を落としたことは確実である。そもそも日本出版会による雑誌の整理は、用紙の割り当てを受けていた他の雑誌を「買収」「統合」することを条件としていた。生き残りがかかった『三田文学』が、どの雑誌を「統合」したかは正確には分かっていない。しかし、当時の編集委員だった庄野誠一は、「同じ塾内で刊行されていた三田評論その他の雑誌を統合した」と回想している(「戦時中の三田文学」『三田文学』1960年3月号)。とすれば、戦時末期の『三田文学』は、実質的に慶應義塾の雑誌になっていたことになる。
そう考えると、和木退任後の新体制下での誌面にほぼ毎号登場する小泉信三をはじめ、高橋誠一郎、峯村光郎、後藤末雄ら、慶應義塾の教員によるエッセイや学術的文章が多く掲げられていることが説明できる。事実、1944年4月10日付けの『三田新聞』には、和木時代の『三田文学』について、慶應義塾内部から「性格について疑点がさしはさまれていた」こと、当時文学部の教員だった井汲清治を中心に、三田文学会の新たな組織に向けた準備が進められるだろうと伝える記事が掲げられている。柴田錬三郎は、1944年8月号の編集後記の中で、上林暁から「数少ない文学雑誌だから立派に育てて欲しい」と激励されたことを紹介しているが、そんな言葉に込められた思いとは裏腹に、同じ1944年8月号は、『文学報国』の匿名座談会(1944.11.20)で「何だか文学雑誌ではないようですね。三田随筆とかいうものにしたらどうでしょうかね。相当えらい人が随筆を書いて居るのです」と、文芸雑誌としての「編集方針」に対する疑問が提出されるほど、いわゆる「創作」は圧迫されてしまっていた。
それでも、『三田文学』での文学の灯火が完全に消えたわけではなかった。確かに、視点人物の女性を中心とした人間関係の微細な変化を描く作品を多く書いた阿部光子や、「上海もの」を得意とした池田みち子ら、和木時代の後期を彩った女性作家たちは誌面から姿を消している。しかし、石坂洋次郎はフィリピンを舞台に、民族運動家の娘とヘミングウェイ好きの作家と元ジャズ・シンガーらのフィリピン人と日本人軍人と嘱託の文学者から成る奇妙な宣伝部隊の活動を描き(「湖水」1944年6・7月号)、原民喜は、現実感覚を失って、妄想めいた連想がとめどなく続いていくありようを切々と訴える「四十近い」母親の「手紙」を、あっけらかんと掲げてしまう(「手紙」1944年8月号)。編集委員の筆頭として名前の挙がった久保田万太郎は、関東大震災後、ささやかながら銀座の復興に立ち上がろうとした小料理屋の店主と、そこに集う人々を共感を込めて活写した水上瀧太郎の「銀座復興」を戯曲にリライトし、戦時末期に最後に刊行された号(1944年10・11月号)で完結させた。
万太郎の「銀座復興」は、敗戦直後の1945年10月、尾上菊五郎一座が帝国劇場で上演し、おそらくは1944年の万太郎が願ったように、戦後の銀座の復興を祈念し、改めて誓い直す作品となった。また、刊行されなかった幻の『三田文学』の広告には、北原武夫「マタイ伝」、山本健吉「美しき鎮魂歌」など、戦後第一次の『三田文学』復活を支えた作品の名前が挙げられている。列島の各都市が灰燼に帰し、アジアと日本の多くの生命と文化が失われた戦争の中で、三田の文学の灯火は消えることなく、次代に確かに手渡されていたのである。  
 
「邪教問答」 坂口安吾 

 

璽光(じこう)様の話がでるとみんなが笑う。双葉山が小娘の指一本でひっくりかえったり、世直しの後には璽光内閣の厚生大臣であったり、京浜地方へ落ちるはずの神罰大天災が一向に起らなかったり、愛きょうがある。
けれども璽光様ははじめから邪教の様式で登場したからお笑い草ですんでいるだけのことで、人ごとではない、璽光様はわれわれの心に住んでいるのである。
大東亜戦争という、これが璽光様にほかならないではないか。八紘一宇という、科学的な推論じゃなしに、神話の中から民族の理想と予言をひきだしてくる、何々教のお筆先、璽光様の世直しの御理想と全然異るところがないじゃないか。
璽光様が当局の呼び出しを受けたというので双葉関や呉八段が天璽照妙、隊をねって歩いたという。けれども戦争中の日本人は国民儀礼と称する奇々怪々なオツトメをやらされ、朝々ノリトのような誓いの言葉を唱え、その滑稽の度において天璽照妙と全く甲乙のないことをやっていたのである。
何百人の人々が一夜に家を失ったときも、明治神宮の拝殿だけは一週間ぐらいで再建する、国民共は米も魚も拝んだことがないのに、農村から敬々(うやうや)しく献上米が殺到する、これ皆々今日璽光様の身辺に行われていることゝ変りはない。
つまり日本全体が八紘一宇教という邪教徒であったわけで、教祖の東条尊者と璽光様も殆んど甲乙はない。御両者ながら自らの邪教性についてはとんと御反省の素質が欠けており、英雄のつもり、神様のつもりでいらっしゃる。
今度『朕』という奇妙な言葉がなくなったのは当り前のこと、朕だの天皇服、皇后服などと天皇というものが特別な人柄であるような何かゞ残っている限り、天皇自らが国民的邪教の教祖たる性格をとゞめていることを意味している。
大正年間、僕が小学校のころは、朕という言葉は子供のたわむれの言葉でいわばそんな奇妙な言葉があるために天皇が子供たちの悪フザケに恰好の遊び道具となったようなものだった。実質の伴わない架空な威厳、形式的な威厳によっては人は心服するはずはなく、あべこべに戯画となり、子供の遊び道具となる。つまり朕だの天皇服などゝいうものは、璽光様の御尊厳と同じ性格のものなのである。
天皇は国民のアコガレなどとは苦しいコジツケで、天皇は日本の一番古い家柄、それだけの事実にたよるのがもっとも正しく、事実そのもののもつ『つつましやかな』国民的敬意にたよっておれば、永遠に問題はない。事実そのものにのみ実際の力が即しているのだから。
天皇が関西方面へ旅行する、沿道の歓迎が大変だったという。多くの人が泣いていたという。
私はそれをやっぱり璽光様の同類と見るのである。八紘一宇教の残党で、国民儀礼という天璽照妙の一類型が、カンコ、バンザイという略式に変ったゞけ、日本人の胸にすみ太古さながらの邪教性には、敗戦による反省、進歩がないという証拠にすぎない。
直訴などということ璽光尊の世直し以上の馬鹿らしさ、これを滑稽奇怪と見ずに、国民忠誠のあらわれだの、ジュンボクなる心のあらわれなどと見る、かかる国民感情それ自体が驚くべき邪教性そのものであり、璽光尊様を笑うどころの段ではない。
天皇家、日本で最も古い家族、これはたゞそっとしておくべきもの、それだけの事実によっていたわり敬愛すべき性質のもの、日本はまず国民的邪教性からぬけでなければ、璽光尊も熊沢天皇も笑うわけにゆかぬ。 
 
「天皇陛下にさゝぐる言葉」 坂口安吾  

 

天皇陛下が旅行して歩くことは、人間誰しも旅行するもの、あたりまえのことであるが、現在のような旅行の仕方は、危険千万と言わざるを得ない。
「真相」という雑誌が、この旅行を諷刺して、天皇は箒(ほうき)である、という写真をのせたのが不敬罪だとか、告訴だとか、天皇自身がそれをするなら特別、オセッカイ、まことに敗戦の愚をさとらざるも甚しい侘しい話である。
私は「真相」のカタをもつもので、天皇陛下の旅行の仕方は、充分諷刺に値して、尚あまりあるものだと思っている。
戦争中、我々の東京は焼け野原となった。その工場を、住宅を、たてる資材も労力もないというときに、明治神宮が焼ける、一週間後にはもう、新しい神殿が造られたという、兵器をつくる工場も再建することができずに、呆れかえった話だ。
こういうバカらしさは、敗戦と共にキレイサッパリなくなるかと思っていると、忽ち、もう、この話である。
私のところへは地方新聞が送られてくるから、陛下旅行の様子は手にとる如く分るが、まったく天皇は箒であると言われても仕方がない。
天皇陛下の行く先々、都市も農村も清掃運動、まったく箒である。陛下も亦、一国民として、何の飾りもない都市や農村へ、旅行するのでなければ、人間天皇などゝは何のことだか、ワケが分らない。
朕(ちん)はタラフク食っている、というプラカードで、不敬罪とか騒いだ話があったが、思うに私は、メーデーに、こういうプラカードが現れた原因は、タラフク食っているという事柄よりも、朕という変テコな第一人称が存在したせいだと思っており、私はそのことを、当時、新聞に書いた。
私はタラフク食っている、という文句だったら、殆ど諷刺の効果はない。それもヤミ屋かなんかを諷刺するなら、まだ国民もアハハと多少はつきあって笑うかも知れないが、天皇を諷刺して、私はタラフク食っていると弥次ってみたところで、ヤミ屋でもタラフク食っているのだもの、ともかく日本一古い家柄の天皇がタラフク食えなくてどうするものか、国民が笑う筈はない。これが諷刺の効果をもつのは、朕という妙テコリンの第一人称が存在したからに外ならぬのである。
朕という言葉もなくなり、天皇服という妙テコリンの服もぬがれて、ちかごろは背広をきておられるが、これでもう、ともかく、諷刺の原料が二つなくなったということをハッキリとさとる必要がある。
人間の値打というものは、実質的なものだ。天皇という虚名によって、人間そのものゝ真実の尊敬をうけることはできないもので、天皇陛下が生物学者として真に偉大であるならば、生物学者として偉大なのであり、天皇ということゝは関係がない。況(いわ)んや、生物学者としてさのみではないが、天皇の素人芸としては、というような意味の過大評価は、哀れ、まずしい話である。
天皇というものに、実際の尊厳のあるべきイワレはないのである。日本に残る一番古い家柄、そして過去に日本を支配した名門である、ということの外に意味はなく、古い家柄といっても系譜的に辿りうるというだけで、人間誰しも、たゞ系図をもたないだけで、類人猿からこのかた、みんな同じだけ古い家柄であることは論をまたない。
名門の子供には優秀な人物が現れ易い、というのは嘘で、過去の日本が、名門の子供を優秀にした、つまり、近衛とか木戸という子供は、すぐ貴族院議員となり、日本の枢機にたずさわり、やがて総理大臣にもなるような仕組みで、それが日本の今日の貧困をまねいた原因であった。つまり、実質なきものが自然に枢機を握る仕組みであったのだ。
人間の気品が違うという。気品とは何か。たとえば、天皇という人は他の誰よりも偉いと思わせられ、誰にも頭を下げる必要がないと教育されている。又、近衛は、天皇以外に頭を下げる必要はないと教育されている。華族の子弟は、華族ならざる者には頭を下げる必要がないと教育されている。
一般人は上役、長上にとっちめられ、電車にのれば、キップの売子、改札、車掌にそれぞれトッチメラレ、生きるとはトッチメラレルコト也というようにして育つから、対人態度は卑屈であったり不自由であったり、そうかと思うと不当に威張りかえったり、みじめである。名門の子弟は対人態度に関する限り、自然に、ノンビリ、オーヨーであるから、そこで気品が違う。
こんな気品は、何にもならない。対人態度だけのことで、実質とは関係がない。対人態度に気品があって堂々としていても、政治ができるわけじゃない、小説が書けるわけじゃない、相撲が強いわけでもない。それでショーバイができるのは、実際のところ、サギぐらいのものだ。
ところが、日本では、それで、政治が、できたのだ。政策よりもそういう態度の方が政治であり、政党の党主の資格であり、総理大臣的であった。総理大臣が六尺もあってデップリ堂々としていると、六尺の中に政治がギッシリつまっているように考える。六尺のデップリだけでも、そうであるから、公爵などゝなると、もっと深遠幽玄になる。
ヨーロッパでも、サロンなどゝいう有閑婦人の客間では、やっぱり、こういう態度が物を言う。昔はヨーロッパでも同じことで、サロンが政治につながっていたころは、日本と同じようなものでもあったが、だいたい、こういう態度、育ちの気品というようなものが、女の魅力をひく、それぐらいなら、何も文句はない。天下の美女がみんな惚れても、我々がヤキモチをやくのはアサハカで、惚れるものは仕方がない。
然し、一国の運命をつかさどる政治というものが、サロンの御婦人の御気分なみでは、こまるのである。
自分の恋する人を、天下特別の人、自分の子供は特別の子供、なんでも、人間の群をぬいて神格視したがるのが、これが、そもそも御婦人の流儀で、アナタ負けちゃアいけないよ、しっかりしてちょうだい、日本一になるんですよ、などゝ、たゞもう亭主をたきつけ、自分は又亭主を日本一にしようと思ってワイロを持って廻ったり、だいたい日本の政治官僚の在り方は、これ又、婦人の流儀であったようだ。
日本は男尊女卑だなどゝいうけれども、そうじゃない。金殿玉楼では亭主関白の膳部のかたわらに女房が給仕に侍し、裏長屋ではガラッ八の野郎が女房お梅をふんづける。これが表向きの日本であったが、実は亭主は外へでると自信がないから、せめて女房に威張りかえるほかに仕方がなく、内実は女房の手腕で、ワイロが行きとゞいたり、女房の親父の力でもかりないとラチがあかない有様で、男は女に対して威張っているが、男に実質的なものがなくて、女の流儀に依存しているのが実状であった。
これに比べると、女尊男卑的な表てむきの方がよっぽど実質的で、男は実力があるから、女を保護し、いたわる。この方が、よっぽど、男性的であり、男性がその自主的自覚によって構成した風習なのである。
ところが、日本式の御婦人流儀のやり方であると、実質はどうでもいい、なんでもかでも、亭主を偉くし、偉く見せねばならぬ。
この流儀の奥儀をきわめた張本人が宮内省というところで、天皇服をこしらえたり、朕という第一人称を喋らせたり、特別な敬語を使わせたり、たゞもうムヤミに、実質のないところに架空な威厳をあみだして、天皇を人間と違わせようと汲々たるものだ。
その結果は実はアベコベとなるものなのである。朕という言葉があるから、朕はタラフクたべている、いらざる不敬問題が起きる。私が少年時代、朕という言葉は、子供たちの遊び言葉で、おかげで我々は少年時代に、余分に笑うことができた。天皇服などゝいうものがある限り、又メーデーに天皇服の人形がとびだして、我々を余分に笑わせてくれるであろう。
実質なきところに架空の威厳をつくろうとすると、それはたゞ、架空の威厳によって愚弄され諷刺され、復讐をうけるばかりである。
私は日本最古の名門たる天皇が、我々と同じ混乱の客車で旅行せよとは言わぬ。たとえ我々の旅行がどのように苦難なものであるとはいえ、天皇の旅行のため、特別の一車を仕立てることに立腹するほど、我利我利でありたいとは思わない。
然し、特別に清掃され、新装せられた都市や農村の指定席を遍歴するなどゝいうことは、これはもう、文化国に於ては、ゴーゴリの検察官の諷刺の題材でしかないのである。これに類するバカらしさは、中国に於ても「官場現形記」という小説によって、カンプなく諷刺せられておる。
このような指定席を遍歴し、キョーク感激の代表選手にとりかこまれて、天皇陛下は御満足であるのか。
国民たちの沿道の歓呼というようなものを、それを日本の永遠なる国民的心情などゝお考えなら、まことに滑稽千万である。
一種の英雄崇拝であるが、英雄とは、天皇や軍人や政治家には限らない。映画俳優もオリムピック選手も英雄であり、二十歳の水泳選手は、たった一夜で英雄となり、その場に於ては、天皇への歓呼以上に亢奮感動をうけ、天皇と同じように、感動の涙を以てカッサイせられる。
これを人気という。人気とは流行である。時代的な嗜好で、つまり、天皇は人気があるのだ。特に、地方に於て人気がある。田中絹代嬢と同じ人気であり、それだけのことにすぎない。
ところが、田中絹代嬢の人気は、彼女自身が自らの才能によって獲得したものであるのに、天皇の人気は、そうではない。たゞ単に時代自身の過失が生んだ人気であって、日本は負けた、日本はなくなった、自分もなくなった、今までのものを失った、その口惜しさのヤケクソの反動みたいなもので、オレは失っていないぞと云って、天皇をカンバンにして、虚勢をはり、あるいは敗北の天皇に、同情したつもりになってヒイキにしている、その程度のものだ。
然し、日本は負けた、日本はなくなった、実際なくなることが大切なのだ。古い島国根性の箱庭細工みたいな日本はなくなり、世界というものゝ中の日本が生れてこなければならない。
天皇の人気というものが、田中絹代嬢式に実質的なものならよろしいけれども、現在天皇が旅行先の地方に於て博しつゝある人気は、朕に対する人気、天皇服に対する人気で、もう朕と仰有(おっしゃ)らず私と仰有る、オカワイそうに、我々と同じ背広をきて帽子をふってアイサツして下さる、オカワイそうに。まったくバカバカしい。朕という言葉がなくなり、天皇服などゝいう妙テコリンの服装が奇ッ怪千万だということを露ほどもさとらぬ非文化的、原始宗教の精神によって支持せられ、人気を博しているにすぎないのである。
このように、実質によらず、天皇という昔ながらの架空な威厳によって支持せられるということが、日本のために、最も悲しむべきことであるということを、天皇はさとることが出来ないのであろうか。
田中絹代嬢の人気は、まだしも、健全なる人気である。実質が批判にたえて、万人の好悪の批判の後に来た人気だからだ。
天皇の人気には、批判がない。一種の宗教、狂信的な人気であり、その在り方は邪教の教祖の信徒との結びつきの在り方と全く同じ性質のものなのである。
地にぬかずき、人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業であります。天皇に政治権なきこと憲法にも定むるところであるにも拘らず、直訴する青年がある。天皇には御領田もあるに拘らず、何十俵の米を献納しようという農村の青年団がある。かゝる記事を読む読者の半数は、皇威いまだ衰えずと、涙を流す。
かく涙を流す人々は、同じ新聞紙上に璽光(じこう)様を読み笑殺するが、璽光様とは何か、彼女はその信徒から国民儀礼のような同じマジナイ式の礼拝を受けたり、米や着物を献納されたり、直訴をうけたりしており、この教祖と信徒との結びつきの在り方は、そっくり天皇と狂信民との在り方で、いさゝかも変りはない。その変りのなさを自覚せず、璽光様をバカな奴めと笑っているだけ、狂信民の蒙昧には救われぬ貧しさがあります。
超人間的な礼拝、歓呼、敬愛を受ける侘びしさ、悲しさに気付かれないとは、これを暗愚と言わざるを得ぬ。
人間が受ける敬愛、人気は、もっと実質的でなければならぬ。
天皇が人間ならば、もっと、つゝましさがなければならぬ。天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすゝめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。
私とても、銀座の散歩の人波の中に、もし天皇とすれ違う時があるなら、私はオジギなどはしないであろうけれども、道はゆずってあげるであろう。天皇家というものが、人間として、日本人から受ける尊敬は、それが限度であり、又、この尊敬の限度が、元来、尊敬というものゝ全ての限度ではないか。
地にぬかずくのは、気違い沙汰だ。天皇は目下、気ちがい共の人気を博し、歓呼の嵐を受けている。道義はコンランする筈だ。人を尊敬するに地にぬかずくような気違い共だから、正しい理論は失われ、頑迷コローな片意地と、不自然な義理人情に身もだえて、電車は殺気立つ、一足外へでると、みんな死にもの狂いのていたらく、悲しい有様である。
天皇が人間の礼節の限度で敬愛されるようにならなければ、日本には文化も、礼節も、正しい人情も行われはせぬ。いつまでも、旧態依然たる敗北以前の日本であって、いずれは又、バカな戦争でもオッパジメテ、又、負ける。性こりもなく、同じようなことを繰り返すにきまっている。
本当に礼節ある人間は戦争などやりたがる筈はない。人を敬うに、地にぬかずくような気違いであるから、まかり間違うと、腕ずくでアバレルほかにウサバラシができない。地にぬかずく、というようなことが、つまりは、戦争の性格で、人間が右手をあげたり、国民儀礼みたいな狐憑きをやりだしたら、ナチスでも日本でも、もう戦争は近づいたと思えば間違いない。
天皇が現在の如き在り方で旅行されるということは、つまり、又、戦争へ近づきつゝあるということ、日本がバカになりつゝあるということ、狐憑きの気違いになりつゝあるということで、かくては、日本は救われぬ。
陛下は当分、宮城にとじこもって、お好きな生物学にでも熱中されるがよろしい。
そして、そのうち、国民から忘られ、そして、忘れられたころに、東京もどうやら復興しているであろう。そして復興した銀座へ、研究室からフラリと散歩にでてこられるがよろしい。陛下と気のついた通行人の幾人かは、別にオジギもしないであろうが、道をゆずってあげるであろう。
そのとき、東京も復興したが、人間も復興したのだ。否、今まで狐憑きだった日本に、始めて、人間が生れ、人間の礼節や、人間の人情や、人間の学問が行われるようになった証拠なのである。
陛下よ。まことに、つゝましやかな、人間の敬愛を受けようとは思われぬか。
たゞ今の旅行のようでは、狐憑きの信仰がふえる一方に、帽子を握って手をふる背広服の人形がメーデーに現れたり、「アヽ、ソウ」などというような流行語が溢れて、不敬罪が流行ハンランするに至るであろう。 
 
「女神」 太宰治

 

あらすじ
細田氏は、大戦の前は愛国悲詩とでもいったような甘い詩を書いたり、ハイネの詩などを訳したり、女学校の臨時教師などをしたりして生活をしていた。大戦が始まると、彼は奥さんを連れて満州に行き、出版会社に夫婦共に勤めていた。満州から一枚葉書を頂いてからそれっきり付き合いは絶えたが、去年の暮れに細田氏は突然「私」の三鷹の家を訪れる。
「実は、あなたと私とは、兄弟なのです。同じ母から生れた子です。それから、これは、当分は秘密にして置いたほうがいいかも知れませんが、私たちには、もうひとりの兄があるのです。その兄は、」
ここで細田氏は、いかに言論の自由とは言っても、ここに書くのがはばかりのあるくらいの、大偉人の名を彼は平然と誇らしげに述べた。
「この我々三人の兄弟が、これから力を合せて、文化日本の建設に努めなければならぬのです。これを私に教えてくれたのは、私たちの母です。おどろいてはいけませんよ。私たち三人の生みの母は、実は私のうちの女房であったのです。女房は、男性衰微時代が百年前からはじまっている事、これからはすべて女性の力にすがらなければ世の中が自滅するだろうという事、その女性のかしらは私自身で、私は実は女神だという事、などいっさいの秘密を語り明かされたというわけなのです」
「私」は細君のもとに送りとどけるのが最も無難だと思い、彼と共に省線に乗った。彼の家は立川市とのことであった。
細君は健康そうな普通の女性であった。普通の女の挨拶を述べるばかりで、少しも狂信者らしい影がなかった。  

れいの、璽光尊(じこうそん)とかいうひとの騒ぎの、すこし前に、あれとやや似た事件が、私の身辺に於いても起った。
私は故郷の津軽で、約一年三箇月間、所謂(いわゆる)疎開(そかい)生活をして、そうして昨年の十一月に、また東京へ舞い戻って来て、久し振りで東京のさまざまの知人たちと旧交をあたためる事を得たわけであるが、細田氏の突然の来訪は、その中でも最も印象の深いものであった。
細田氏は、大戦の前は、愛国悲詩、とでもいったような、おそろしくあまい詩を書いて売ったり、またドイツ語も、すこし出来るらしく、ハイネの詩など訳して売ったり、また女学校の臨時雇いの教師になったりして、甚(はなは)だ漠然たる生活をしていた人物であった。としは私より二つ三つ多い筈(はず)だが、額(ひたい)がせまく漆黒(しっこく)の美髪には、いつもポマードがこってりと塗られ、新しい形の縁無し眼鏡をかけ、おまけに頬(ほお)は桜色と来ているので、かえって私より四つ五つ年下のようにも見えた。痩型(やせがた)で、小柄な人であったが、その服装には、それこそいちぶのスキも無い、と言っても過言では無いくらいのもので、雨の日には必ずオーバーシュウズというものを靴の上にかぶせてはいて歩いていた。
なかなか笑わないひとで、その点はちょっと私には気づまりであったが、新宿のスタンドバアで知り合いになり、それから時々、彼はお酒を持参で私の家へ遊びに来て、だんだん互いにいい飲み相手を見つけたという形になってしまったのである。
大戦がはじまって、日一日と私たちの生活が苦しくなって来た頃、彼は、この戦争は永くつづきます、軍の方針としては、内地から全部兵を引き上げさせて満洲に移し、満洲に於いて決戦を行うという事になっているらしいです、だから私は女房を連れて満洲に疎開します、満洲は当分最も安全らしいです、勤め口はいくらでもあるようですし、それにお酒もずいぶんたくさんあるという事です、いかがです、あなたも、と私に言った。私は、それに答えて、あなたはそりゃ、お子さんも無いし、奥さんと二人で身軽にどこへでも行けるでしょうが、私はどうも子持ちですからね、ままになりません、と言った。すると彼は、私に同情するような眼つきをして、私の顔をしげしげと見て、黙した。
やがて彼は奥さんと一緒に満洲へ行き、満洲の或(あ)る出版会社に夫婦共に勤めたようで、そのような事をしたためた葉書を私は一枚いただいて、それっきり私たちの附合いは絶えた。
その細田氏が、去年の暮に突然、私の三鷹(みたか)の家へ訪れて来たのである。
「細田です。」
そう名乗られて、はじめて、あ、と気附いたくらい、それほど細田氏の様子は変っていた。あのおしゃれな人が、軍服のようなカーキ色の詰襟(つめえり)の服を着て、頭は丸坊主で、眼鏡も野暮(やぼ)な形のロイド眼鏡で、そうして顔色は悪く、不精鬚(ぶしょうひげ)を生(は)やし、ほとんど別人の感じであった。
部屋へあがって、座ぶとんに膝(ひざ)を折って正坐し、
「私は、正気ですよ。正気ですよ。いいですか? 信じますか?」
とにこりともせず、そう言った。
はてな? とも思ったが、私は笑って、
「なんですか? どうしたのです。あぐらになさいませんか、あぐらに。」
と言ったら、彼は立ち上り、
「ちょっと、手を洗わせて下さい。それから、あなたも、手を洗って下さい。」
と言う。
こりゃもうてっきり、と私は即断を下した。
「井戸は、玄関のわきでしたね。一緒に洗いましょう。」
と私を誘う。
私はいまいましい気持で、彼のうしろについて外へ出て井戸端に行き、かわるがわる無言でポンプを押して手を洗い合った。
「うがいして下さい。」
彼にならって、私も意味のわからぬうがいをする。
「握手!」
私はその命令にも従った。
「接吻(せっぷん)!」
「かんべんしてくれ。」
私はその命令にだけは従わなかった。
彼は薄く笑って、
「いまに事情がわかれば、あなたのほうから私に接吻を求めるようになるでしょう。」
と言った。
部屋に帰って、卓をへだてて再び対坐し、
「おどろいてはいけませんよ。いいですか? 実は、あなたと私とは、兄弟なのです。同じ母から生れた子です。そう言われてみると、あなたも、何か思い当るところがあるでしょう。もちろん私は、あなたより年上ですから、兄で、そうしてあなたは弟です。それから、これは、当分は秘密にして置いたほうがいいかも知れませんが、私たちには、もうひとりの兄があるのです。その兄は、」いかに言論の自由とは言っても、それは少しここに書くのがはばかりのあるくらいの、大偉人の名を彼は平然と誇らしげに述べて、「いいですか? これは確実な事ですが、しかし、当分は秘密にして置いたほうがいいでしょう。民衆の誤解を招いてもつまりませんからね。この我々三人の兄弟が、これから力を合せて、文化日本の建設に努めなければならぬのです。これを私に教えてくれたのは、私たちの母です。おどろいてはいけませんよ。私たち三人の生みの母は、実は私のうちの女房であったのです。うちの女房は、戸籍のほうでは、三十四歳という事になっていますが、それはこの世の仮(かり)の年齢で、実は、何百歳だかわからぬのです。ずっとずっと昔から、同じ若さを保って、この日本の移り変りを、黙って眺めていたというわけです。それがこの終戦後の、日本はじまって以来の大混乱の姿を見て、もはや黙すべからずと、かれの本性を私に打ち明け、また私の兄と弟とを指摘して兄弟三人、力を合せて日本を救え、他の男は皆だめだと言ったのです。私たちの母の説に依(よ)れば、百年ほど前から既に世界は、男性衰微(すいび)の時代にはいっているのだそうでして、肉体的にも精神的にも、男性の疲労がはじまり、もう何をやっても、ろくな仕事が出来ない劣等の種族になりつつあるのだそうで、これからはすべて男性の仕事は、女性がかわってやるべき時なのだそうです。女房が、いや、母が、私にその事を打ち明けてくれたのは、満洲から引揚げの船中に於いてでありましたが、私はその時には肉体的にも精神的にも、疲労こんぱいの極に達していまして、いやもう本当に、満洲では苦労しまして、あまりひもじくて馬の骨をかじってみた事さえありまして、そうして日一日と目立って痩(や)せて行きますのに、女房は、いや、母は、まことに粗食で、おいしいものを一つも食べず、何かおいしいものでも手にはいるとみんな私に食べさせ、それでいて、いつも白く丸々と太り、力も私の倍くらいあるらしく、とても私には背負い切れない重い荷物を、らくらくと背負って、その上にまた両手に風呂敷包(ふろしきづつみ)などさげて歩けるという有様ですので、つくづく私も不思議に感じ、引揚げの船の中で、どうしてお前はそんなにいつも元気なのかね、お前ばかりでなく、この引揚げの船の中に乗っている女のひと全部が、男のひとは例外なく痩せて半病人のようになっているのに、自信満々の勢いを示している、何かそこに大きな理由が無くてはかなわぬ、その理由は何だ、とたずねますと、女房はにこにこ笑いまして、実は、と言い、男性衰微時代が百年前からはじまっている事、これからはすべて女性の力にすがらなければ世の中が自滅するだろうという事、その女性のかしらは私自身で、私は実は女神だという事、男の子が三人あって、この三人の子だけは、女神のおかげで衰弱せず、これからも女性に隷属する事なく、男性と女性の融和を図(はか)り、以(もっ)て文化日本の建設を立派に成功せしむる大人物の筈である事、だからあなたも、元気を出して、日本に帰ったら、二人の兄弟と力を合せて、女神の子たる真価を発揮するように心掛けるべきです、とここにはじめて、いっさいの秘密が語り明かされたというわけなのです。それを聞いて私は、にわかに元気が出て、いまはもう二日ものを食わなくても平気になりました。私たちは、女神の子ですから、いかに貧乏をしても絶対に衰弱する事は無いんです。あなたもどうか、奮起して下さい。私は正気です。落ちついています。私の言う事は、信じなければいけません。」
まぎれもない狂人である。満洲で苦労の結果の発狂であろう。或(ある)いは外地の悪質の性病に犯されたせいかも知れない。気の毒とも可哀想とも悲惨とも、何とも言いようのないつらい気持で、彼の痴語を聞きながら、私は何度も眼蓋(まぶた)の熱くなるのを意識した。
「わかりました。」
私は、ただそう言った。
彼は、はじめて莞爾(かんじ)と笑って、
「ああ、あなたは、やっぱり、わかって下さる。あなたなら、私の言う事を必ず全部、信じてくれるだろうとは思っていたのですが、やっぱり、血をわけた兄弟だけあって、わかりが早いですね。接吻しましょう。」
「いや、その必要は無いでしょう。」
「そうでしょうか。それじゃ、そろそろ出掛ける事にしましょうか。」
「どこへです?」
三人兄弟の長兄に、これから逢(あ)いに行くのだという。
「インフレーションがね、このままでは駄目なのです。母がそう言っているんです。とにかく、一ばん上の兄さんに逢って、よく相談しなくちゃいけないんです。母の意見に依りますと、日本の紙幣には、必ずグロテスクな顔の鬚(ひげ)をはやした男の写真が載っているけれども、あれがインフレーションの原因だというのです。紙幣には、女の全裸の姿か、あるいは女の大笑いの顔を印刷すべきなんだそうです。そう言われてみると、ドイツ語でもフランス語でも、貨幣はちゃんと女性名詞という事になっていますからね。鬚だらけのお爺さんのおそろしい顔などを印刷するのは、たしかに政府の失策ですよ。日本の全部の紙幣に、私たちの母の女神の大笑いをしている顔でも印刷して発行したなら、日本のインフレーションは、ただちにおさまるというわけです。日本のインフレーションは、もう一日も放置すべからざる、どたん場に来ているんですからね。手当が一日でもおくれたらもう、それっきりです。一刻の猶予(ゆうよ)もならんのです。すぐまいりましょう。」
と言って、立ち上る。
私は一緒に行くべきかどうか迷った。いま彼をひとりで、外へ出すのも気がかりであった。この勢いだと、彼は本当にその一ばん上の兄さんの居所に押しかけて行って大騒ぎを起さぬとも限らぬ。そうして、その門前に於いて、彼の肉親の弟だという私(太宰)の名前をも口走り、私が彼の一味のように誤解せられる事などあっては、たまらぬ。彼をこのまま、ひとりで外へ出すのは危険である。
「だいたいわかりましたけれども、私は、その一ばん上の兄さんに逢う前に、私たちのお母さんに逢って、直接またいろいろとお話を伺ってみたいと思います。まず、さいしょに、私をお母さんのところに連れて行って下さい。」
細君の許(もと)に送りとどけるのが、最も無難だと思ったのである。私は彼の細君とは、まだいちども逢った事が無い。彼は北海道の産であるが、細君は東京人で、そうして新劇の女優などもした事があり、互いに好き合って一緒になったとか、彼から聞いた事がある。なかなかの美人だという事を、他のひとから知らされたりしたが、しかし、私はいちどもお目にかかった事が無かったのである。
いずれにしても、その日、私は彼の悲惨な痴語を聞いて、その女を、非常に不愉快に感じたのである。いやしくも知識人の彼に、このようなあさましい不潔なたわごとをわめかせるに到らしめた責任の大半は彼女に在るのは明らかである。彼女もまた発狂しているのかどうか、それは逢ってみなければ、ただ彼の話だけではわからぬけれども、彼にとって彼の細君は、まさしく悪魔の役を演じているのは、たしかである。これから、彼の家へ行って細君に逢い、場合に依っては、その女神とやらの面皮をひんむいてやろうと考え、普段着の和服に二重廻しをひっかけ、
「それでは、おともしましょう。」
と言った。
外へ出ても、彼の興奮は、いっこうに鎮(しず)まらず、まるでもう踊りながら歩いているというような情ない有様で、
「きょうは実に、よい日ですね。奇蹟の日です。昭和十二年十二月十二日でしょう? しかも、十二時に、私たち兄弟はそろって母に逢いに出発した。まさに神のお導きですね。十二という数は、六でも割れる、三でも割れる、四でも割れる、二でも割れる、実に神聖な数ですからね。」
と言ったが、その日は、もちろん昭和十二年の十二月の十二日なんかではなかった。時刻も既に午後三時近かった。そのときの実際の年月日時刻のうちで、六で割れる数は、十二月だけだった。
彼のいま住んでいるところは、立川市だというので、私たちは三鷹駅から省線に乗った。省線はかなり混んでいたが、彼は乗客を乱暴に掻(か)きわけて、入口から吊皮(つりかわ)を、ひいふうみいと大声で数えて十二番目の吊皮につかまり、私にもその吊皮に一緒につかまるように命じ、
「立川というのを英語でいうなら、スタンデングリバーでしょう? スタンデングリバー。いくつの英字から成り立っているか、指を折って勘定(かんじょう)してごらんなさい。そうれ、十二でしょう? 十二です。」
しかし、私の勘定では、十三であった。
「たしかに、立川は神聖な土地なのです。三鷹、立川。うむ、この二つの土地に何か神聖なつながりが、あるようですね。ええっと、三鷹を英語で言うなら、スリー、……スリー、スリー、ええっと、英語で鷹を何と言いましたかね、ドイツ語なら、デルファルケだけれども、英語は、イーグル、いやあれは違うか、とにかく十二になる筈です。」
私はさすがに、うんざりして、矢庭(やにわ)に彼をぶん殴(なぐ)ってやりたい衝動さえ感じた。
立川で降りて、彼のアパートに到る途中に於いても、彼のそのような愚劣極まる御託宣をさんざん聞かされ、
「ここです、どうぞ。」
と、竹藪(たけやぶ)にかこまれ、荒廃した病院のような感じの彼のアパートに導かれた時には、すでにあたりが薄暗くなり、寒気も一段ときびしさを加えて来たように思われた。
彼の部屋は、二階に在った。
「お母さん、ただいま。」
彼は部屋へ入るなり、正坐してぴたりと畳に両手をついてお辞儀をした。
「おかえりなさい。寒かったでしょう?」
細君は、お勝手のカーテンから顔を出して笑った。健康そうな、普通の女性である。しかも、思わず瞠若(どうじゃく)してしまうくらいの美しいひとであった。
「きょうは、弟を連れて来ました。」
と彼は私を、細君に引き合した。
「あら。」
と小さく叫んで、素早くエプロンをはずし、私の斜め前に膝をついた。
私は、私の名前を言ってお辞儀した。
「まあ、それは、それは。いつも、もう細田がお世話になりまして、いちどわたくしもご挨拶(あいさつ)に伺いたいと存じながら、しつれいしておりまして、本当にまあ、きょうは、ようこそ、……」
云々(うんぬん)と、普通の女の挨拶を述べるばかりで、すこしも狂信者らしい影が無い。
「うむ、これで母と子の対面もすんだ。それでは、いよいよインフレーションの救助に乗り出す事にしましょう。まず、新鮮な水を飲まなければいけない。お母さん、薬缶(やかん)を貸して下さい。私が井戸から汲(く)んでまいります。」
細田氏ひとりは、昂然たるものである。
「はい、はい。」
何気ないような快活な返事をして、細君は彼に薬缶を手渡す。
彼が部屋を出てから、すぐに私は細君にたずねた。
「いつから、あんなになったのですか?」
「え?」
と、私の質問の意味がわからないような目つきで、無心らしく反問する。
私のほうで少しあわて気味になり、
「あの、細田さん、すこし興奮していらっしゃるようですけど。」
「はあ、そうでしょうかしら。」
と言って笑った。
「大丈夫なんですか?」
「いつも、おどけた事ばかり言って、……」
平然たるものである。
この女は、夫の発狂に気附いていないのだろうか。私は頗(すこぶ)る戸惑った。
「お酒でもあるといいんですけど、」と言って立ち上り、電燈のスイッチをひねって、「このごろ細田は禁酒いたしましたもので、配給のお酒もよそへ廻してしまいまして、何もございませんで、失礼ですけど、こんなものでも、いかがでございますか。」
と落ちついて言って私に蜜柑(みかん)などをすすめる。電気をつけてみると、部屋が小綺麗(こぎれい)に整頓(せいとん)せられているのがわかり、とても狂人の住んでいる部屋とは思えない。幸福な家庭の匂いさえするのである。
「いやもう何も、おかまいなく。私はこれで失礼しましょう。細田さんが何だか興奮していらっしゃるようでしたから、心配して、お宅まで送ってまいりましたのです。では、どうか、細田さんによろしく。」
引きとめられるのを振り切って、私はアパートを辞し、はなはだ浮かぬ気持で師走(しわす)の霧の中を歩いて、立川駅前の屋台で大酒を飲んで帰宅した。
わからない。
少しもわからない。
私は、おそい夕ごはんを食べながら、きょうの事件をこまかに家の者に告げた。
「いろいろな事があるのね。」
家の者は、たいして驚いた顔もせず、ただそう呟いただけである。
「しかし、あの細君は、どういう気持でいるんだろうね。まるで、おれには、わからない。」
「狂ったって、狂わなくたって、同じ様なものですからね。あなたもそうだし、あなたのお仲間も、たいていそうらしいじゃありませんか。禁酒なさったんで、奥さんはかえって喜んでいらっしゃるでしょう。あなたみたいに、ほうぼうの酒場にたいへんな借金までこさえて飲んで廻るよりは、罪が無くっていいじゃないの。お母さんだの、女神だのと言われて、大事にされて。」
私は眉間(みけん)を割られた気持で、
「お前も女神になりたいのか?」
とたずねた。
家の者は、笑って、
「わるくないわ。」
と言った。
 

 

 
新宗教 1 

 

 天理教大本生長の家天照皇大神宮教璽宇立正佼成会霊友会
 世界救世教神慈秀明会真光系諸教団世界真光文明教団PL教団創価学会
 真如苑阿含宗金光教霊波之光教会幸福の科学オウム真理教顕正会
 白光真宏会世界紅卍字会
伝統宗教と比べて比較的成立時期が新しい宗教のこと。国ごとに言葉の意味や捉え方が異なる。新興宗教とも呼ばれる。日本では、幕末・明治維新による近代化以後から近年(明治・大正・昭和時代戦前・戦後〜)にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。実に多種多様な団体を包括した用語であり、すべての団体にあてはまる概念、背景等の共通点は、成立時期のほかには存在しない。また、伝統宗教と比べて比較的新しいというだけで、江戸時代に起源をもつところもあり、それなりの歴史と伝統を確立している団体も多い。2000年代以後の現在、日本において一定規模で持続的に宗教活動を展開している新宗教の教団は、350〜400教団ほどと考えられ、新宗教の信者は、日本人のおよそ1割を占めると推定される。宗教が平和運動や福祉、ボランティア活動と関わる際に、新宗教は重要な役割を果たしてきた。一方、現代日本においてはオウム真理教事件などの負の側面、新宗教と政教分離について、特に創価学会と公明党や幸福の科学と幸福実現党に関する議論が強調されることも多い。
カルト(英; cult)に代わる中立的な用語として使用されるようになったnew religious movementを、日本では新宗教と呼ぶ。アメリカ合衆国では、「19世紀(1801年〜1900年)に基礎を確立した宗教」を指す場合が多く、ヨーロッパでは「1960年代以降に発展した宗教」を新宗教とよんでいる。ただし、歴史的、宗教的背景の相違から、意味内容や対象とする年代に若干のずれがある。
日本の宗教学では、近現代(近代・現代)に誕生した宗教を指す価値中立的な用語として新宗教を用いている。正確な範囲は論者によって異なるが、日本では、19世紀中頃の幕末・明治維新期以降に成立した宗教のうち、既成の宗教組織を継承していないもの、また新たな教義を掲げて伝統宗教から自立したものを新宗教と呼ぶ。
学問上の便宜的な用語であり、新宗教であることを否定する創価学会、天台宗との伝統を強調し新宗教ではないとする孝道教団、新宗教ではなく一切の宗教科学を包容した超宗教であると主張する生長の家のように、教団自体は自らを新宗教とは位置付けてはいないことも多い。
宗教研究者が用いる新宗教という言葉には、とりわけ「近代化」という時代背景が考慮されている。都市化、産業化、家族形態の変化、マスメディアの登場、交通の発達、学校教育の普及といった近代化によって、初めて可能となった教団の組織形態、布教形態を有する点が特徴的とされ、新宗教は近代以前に生まれた各時代における「新しい宗教」とはそれらの点で異なると見られている。
第二次世界大戦以前の日本においては、仏教宗派、キリスト教、教派神道が「公認宗教団体」とされ、文部省宗務局(現在の文部科学省、文化庁文化部宗務課に相当)の管轄であったのに対し、新宗教は、「類似宗教」として、内務省警保局(現在の国家公安委員会、警察庁に相当)の管轄であった。
新宗教は、いわゆる国家神道体制下で、「新興類似宗教団体」、「疑似宗教」等と呼ばれて淫祠邪教視され、警察の監視、取り締まりの対象とされていた。新宗教への弾圧を繰り返した政府は、その都度、ラジオ・新聞・出版などマスコミを使って大々的な邪教キャンペーンを展開して弾圧を正当化した。これらの宣伝が、国民の新宗教への邪教視、低俗視を抜きがたいものにしている。
日中戦争(支那事変)の最中にあった1940年(昭和15年)4月、当時の米内内閣(海軍大将、米内光政首相)下で「宗教団体法」が成立・施行されると、新宗教は、宗教結社として初めて宗教行政の対象となった。一方で、戦時体制により、政府による宗教統制はさらに厳しいものとなり、戦争推進協力に積極的であった生長の家、霊友会等の一部の新宗教を除き、大半の新宗教は、ほとんど活動の余地を奪われて、逼塞状態となった。新宗教が初めて活動の自由を獲得したの戦後(第二次世界大戦敗戦後)である。
明治〜大正時代までは、新宗教の勢力は小規模なものであった。現在の新宗教の大教団では、昭和初期以後、1930年(昭和5年)に創価学会(発足当時の名称:創価教育学会)と霊友会、1938年(昭和13年)に立正佼成会が創立され、戦後から1970年(昭和45年)頃までに急成長を遂げた。
戦前においては、新宗教や新興宗教という言葉は使われることがなかったわけではないが、一部にとどまり一般化はしなかった。そうした新しい宗教に対して用いられていたのが、邪教というイメージを伴う「類似宗教」という言葉であった。戦後の1950年代から60年代にかけて、新しい宗教団体の活動が活発化、爆発的な拡大を始め、「新興宗教」という言葉が一般に広く使われるようになった。1970年代半ば以降、新興宗教という表現には蔑視するニュアンスがあるとして、新宗教という表現が研究者やジャーナリストの間で一般化した。
特に、1970年代以降に台頭してきた宗教を新新宗教と呼ぶ学者もいる。これは宗教社会学者の西山茂、宗教ジャーナリストの室生忠などが提唱した概念で、既存の教勢が停滞する一方で、幸福の科学や旧統一協会(または統一教会、名称変更以後は世界平和統一家庭連合)などが急速に拡大した現象に注目したものである。しかし、新新宗教については、研究者によって多種多様な提唱があり、具体的にどの団体を指すのかも、何をもって新しいとするかの具体的基準も、明確に定まってはいない。どこまでを新新宗教に含めるか、他の新宗教と区別する意義は何か、といった議論があり、広辞苑や大辞泉にも独立単語として掲載されていない。
形態
ひとつの典型的な形態としては、ある人物の天啓や神がかりにより運動が創始され、既存の伝統的な宗教から影響を受けつつ、新たな宗教としての体裁をなし、組織的教団となっていく例があげられる。または、宗教的修行者のもとに病気治療や人生相談を要求する人々が集結し、組織が拡大して教祖的な位置に至る場合もある。通常は、霊能祈祷師的人物の周りに定期的にお祓いなどを求める信者が集まっているだけでは、新宗教とは呼ばれない。この集団が教義を次第に整え、多くの人に布教を始め、近代的組織ができてくると、新宗教とみなされるようになる。
新宗教の教祖の経歴は多様であり、宗教家をもつ家庭環境に誕生し育った人よりも、普通の生活をしていた人が宗教的回心によって教祖になる例が圧倒的に多い。信者たちにとって教祖は、尊敬されつつも、一般に考えられているよりは比較的身近で親しみの持てる存在として受け止められている。その一つとして、伝統宗教がその創始において教祖が家族を俗として否定したのに対し、多くの新宗教では教祖は家族を否定せず、家族関係を保持したまま家ぐるみで聖化されるストーリーを提示している。他方で、既成宗教の再生運動とみられるもの、あるいは道徳・倫理・修養団体とさほど違いのないような運動・教団も数多く存在する。
新宗教は、伝統宗教と比較すると、難しい教学をさほど重視せず、実生活に即した分かりやすい説明を大事としていることが多い。伝統的な神仏等を崇拝対象としつつも、事実上は教祖が崇拝されており、伝統宗教の教えを踏まえた上で、教祖による独自の教えが付け加えられている。新宗教の信者は、自分の日常に起こる出来事に関して、教団の教えに沿った解釈をし、考え方や行動パターンに共通点が多くなる。伝統宗教の信者にもある程度その傾向がみられるものの、新宗教の信者は概して思考の統一性が非常に高い。
また、布教方法は、伝統宗教と大きく異なり、伝統宗教では基本的に地縁・血縁による単純再生産がなされるのに対し、新宗教では、積極的に布教を実施しない姿勢の教団も少数あるが、布教師だけでなく一般信者も布教に尽力する教団が多く、新たな信者獲得に努める姿勢が見られる。伝統宗教が年中行事や人生儀礼に関わる比重が高いのに対し、新宗教では、日常生活で遭遇する現実的な問題解決に熱心である。人生の様々な悩みについて、信者たちは教団の指導を仰いだり、信者同士で話し合いの機会を持つ。伝統宗教に比べ、専従者と非専従者の境界がそれほど重要とされないのも特徴である。
かつて伝統宗教も分裂を繰り返してきたように、新宗教もカリスマ性を喪失するなどして分派することも多い(霊友会系教団、真光系諸教団など)。
平成期〜2000年代以後現在の新宗教の信者の大半は、二世信者以降となっており、誕生して幼い頃から家庭環境やコミュニティの影響等によりその宗教に接しているため、特別な入信動機は存在しないことが多い。初代の信者の入信動機で最も広くみられるのは、「病気による苦境」である。かつての新宗教の入信動機は、貧困といった経済的事由、病気をはじめとした健康問題、人間関係のトラブル(いわゆる「貧・病・争」)といった精神的苦痛が、多数を占めていた。しかし、戦後の高度経済成長期の終盤を迎えるころから、入信動機に精神的な満足や充足を求める割合が増えている。こうした変化はあるものの、依然として、新宗教においては貧病争の解消といった現世利益的なものが重要な役割を占めている。新宗教では、苦難に遭遇した理由や原因を説明することも多く、こうした悩みに対し、既存の伝統宗教にも共通する神仏への信仰のみならず、特別な力を持つとされる教祖への個人崇拝的信仰、勤行読経・唱題、手かざし、先祖供養等の方法により、悩みを直接的に解決できると打ち出すことも多いが、多くの場合、もっとも重要とされるのは本人の「心なおし」である。過去の心の在り方を反省し、心の持ち方を改め、他者に常に善意と感謝を持って対することが最も重要とされている点は、多数の新宗教教団に共通している。新宗教の教えとは「心なおし」の教えといってよいほど、多数の教団の教えの核心部分にこの「心なおし」が関わっている。
日本最大の新宗教教団である日蓮・鎌倉仏教系創価学会が戸田城聖同会第二代会長時代に(当時は既存仏教宗派の一つである日蓮正宗の信徒団体)、「謗法払い」と称して他の宗教・宗派の崇拝対象を撤去させたので、新宗教の信者は伝統宗教に対して攻撃的であるというイメージが形成されたが、大半の新宗教では、伝統宗教への関わりは肯定的である。
戦前から戦後しばらくまで、伝統宗教側では、新宗教は人々を惑わす低級な宗教だという評価が一般的であった。他方で、新宗教の急激な信者増加に注目し、その現象を見極めようとする動きも生まれた。その後、新宗連が結成され、新宗教の側から宗教協力が推進されたことで、伝統宗教との摩擦を小さくする努力が行われた。新宗教の信者たちは、日常生活の悩みについては自分の入会している教団を訪れるが、葬儀や法事等は伝統的な仏教宗派に依頼し、新宗教と伝統宗教との間には、暗黙裡に一種の役割分担、棲み分けが行われている例がよく観察される。一方で、伝統宗教である日蓮正宗と、創価学会、顕正会、正信会のように激しい対立に至る事例もある。
神道系───
国家神道系 招魂社
教派神道系
純教祖系 黒住教/金光教
山岳信仰系 丸山教/御嶽教/実行教/扶桑教
禊系 禊教/神道禊教/神習教
儒教系 神道修成派/神道大成教
復古神道系 神道大教/出雲大社教/神理教
大本系 大本(大本教)/三五教(あなないきょう)/神道天行居
世界救世教系 世界救世教/神慈秀明会/救世主教/救世神教
真光系 世界真光文明教団/崇教真光/神幽現救世真光文明教団/陽光子友乃会/真光正法之會/ス光光波世界神団
生長の家系 生長の家/白光真宏会
天理教系 天理教
その他神道系 松緑神道大和山/祖神道/霊波之光/ワールドメイト/皇道治教/神命愛心会(神命大神宮)/箱根大天狗山神社/紀元会(大和神社)/皇祖皇太神宮天津教(竹内文書を教典とする)/璽宇/神国教/荒薙教/玉光神社/平和教
仏教系───
法華系
日蓮宗系 本門佛立宗/日本山妙法寺大僧伽/釈尊会/国柱会/日蓮宗葵講/法師宗
霊友会系 霊友会/霊法会/立正佼成会/佛所護念会教団/妙智会教団/妙道会教団/大慧會教団/正義会教団/思親会/希心会(分派)/正導会/在家仏教こころの会/日本敬神崇祖自修団
日蓮正宗系 顕正会/正信会/創価学会/正理会/妙観講
天台宗系 念法眞教/孝道教団(霊友会系に分類することもある)/鞍馬弘教
浄土系
浄土真宗 浄土真宗華光会/浄土真宗親鸞会/浄土真宗一の会/仏眼宗/真宗長生派/浄土真宗同朋教団/仏教真宗/門徒宗一味派
その他浄土系 念佛宗三寶山無量壽寺
真言宗・密教系/真如苑-真言宗醍醐派から独立/辯天宗-大森智辯を宗祖とする宗派。高野山真言宗から独立/中山身語正宗-真言宗泉涌寺派から独立/一切宗-木原覚恵を創始者・宗祖とする宗派教団/光明念佛身語聖宗-中山身語正宗と創設者同一/肥後修験総本山六水院(教祖を下ヨシ子氏とする密教)/海命寺
禅系 如来宗/救世教/三宝教団/一畑薬師教団(一畑寺)
その他仏教系 幸福の科学/新生佛教教団/圓佛教(韓国系)/ホアハオ教(ベトナム系)/オウム真理教/真言宗金剛院派(前身は皇道治教で真言宗とは全く無関係。照真秘流を自称)/阿含宗 - 根本仏教系新宗教/日本テーラワーダ仏教協会
キリスト教系───   
セブンスデー・アドベンチスト教会/末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)/エホバの証人/世界平和統一家庭連合(「家庭連合」、旧称「世界基督教統一神霊協会」(「統一協会」または「統一教会」)、韓国では「統一教」)/キリスト教福音宣教会(摂理)/全能神/聖神中央教会/聖イエス会/キリストの幕屋(原始福音)(神道とキリスト教を融合)/イエス之御霊教会/道会(儒教・道教とキリスト教を融合)/クリスチャン・サイエンス/ニューソート/人民寺院/ユニティ派/ユニテリアン主義/ユニテリアン・ユニヴァーサリズム 
新宗教 総論 

 

まず昨今使用されていた言葉「新興宗教」という言葉は、どこか差別的な印象がつきまとうということで、現在研究者を中心に「新宗教」と呼ぶようになったそうです。新興宗教とはその名の通り、戦後急速に拡大していった既存の宗教から分派した宗派のことで、戦後成長期と事を共にするようにエネルギッシュに台頭してきたことからその名で呼ばれたそうです。ちなみに戦前においては、「類似宗教」「諸教」と言い方で呼ばれたこともあります。そういう意味で著者が本書を書く内容と目的として、10教団を選んだ理由を、すぐれた宗教というわけではないし、評価を意図したものでもなく、正しい新宗教というわけでもなく、過去における社会的な影響力や教団の規模から選んだとしています。また、社会的な影響力は大きくても、反社会的な性格を示していたり、社会の一般的な価値観と対立するような教えを含んでいるような教団やカルトと呼ばれる教団については、取り上げていないそうです。
著者が前書きで書いているところによると、その新宗教の教義と一般社会の乖離によって話題になる新宗教も少なくありません。前政権で連立与党となった公明党自体が新宗教である創価学会であることも、人々に新宗教への関心を高め、他の新宗教の事件、例えば長野県小諸市の神道系新宗教「紀元会」の信者による集団暴行事件の発覚し、それにともない、この教団の様々な問題が指摘されるようになりました。また最も衝撃的な新宗教の事件としては、オウム真理教によるものでしょう。1995年の前年、長野の松本市内で猛毒のサリンを撒き、多数の死傷者を出したオウムのメンバーは、この年の3月20日東京都内の地下鉄でサリンを撒き、再び多数の死者を出しました。このような宗教を背景としたテロは、2001年9月11日の同時多発テロのさきがけとなるものでした。
1999年11月には、ライフスペースの事件が起こっています。ライフスペースはもともとバブル経済の時代の自己開発セミナーの一つでしたが、次第に宗教化しました。リーダーである高橋弘二は、インドの宗教家で、オウム事件の前には日本でもブームになった、インドの宗教家サイババから「シャクティパット・グル」に指名されたと主張していました。しかし、サイババ側は、この事実を否定しています。シャクティパットは、オウムでも同名の技法が存在しましたが、ライフスペースでは頭部を手で叩く宗教的な病気治療の方法として利用していました。ところが、このシャクティパットが効力を発揮せず、高橋の信者が連れてきた男性が死亡してしまいました。しかし、高橋は死者はまだ亡くなっていないとして信者もそれを信じました。遺体は時間の経過と共にミイラ化していき、信者たちはその様子を写真などに撮り記録し続けていました。その後、ホテル側が不審な長期滞在に疑問を持ち警察に届けたところ発覚し、高橋や男性の長男などが逮捕されました。
2003年の4月から5月にかけては、白装束集団ことパナウェーブ研究所のことが大きな話題になりました。パナウェーブ研究所は、千野正法会とも呼ばれ、教祖は千野裕子という女性でした。千野はGLAの創立者高橋信次の後継者を自称していたそうですが、実際にはGLAとはまったく関係がありませんでした。千野の説く教えは、様々な宗教からの寄せ集めのようで、体系性を欠いていたと著者は書いています。ただし、共産主義を否定し反共色を打ち出したことで、一部の人たちから支持されていました。そのパナウェーブ研究所では、共産主義勢力からスカラー派という電磁波によって攻撃されていると主張しました。そのスカラー派を防ぐために、白い服やマスク、長靴などを着用していたことから白装束と呼ばれました。彼らは、日本各地を転々としていて、移動のために使われていた車にはスカラー波を防ぐための渦巻き模様を大量に貼り付けていました。実は騒動になるまで、7年間もキャラバンを続けていました。最終的に福井市に落ち着いたものの、その後、信者の大学助教授が施設内で死亡するという事件が起き、集団のメンバーが竹刀などで暴行した疑いが強まり、5名が傷害容疑で逮捕され、暴力行為法違反罪で罰金刑を受けました。リーダーの千野裕子は、当時末期がんを主張していましたが、2006年10月に死亡しているそうです。
そして2007年の5月にはエホバの証人の信者である女性が、妊娠し、帝王切開の際に大量出血したにもかかわらず、教団の教えに従って輸血を拒否したことから死亡するという出来事が起こりました。生まれた子供は無事でしたが、病院側は、死亡した本人から、輸血をしないで不測の事態が起こったとき病院側の責任は免責するという同意書を得ており、家族も本人の意思を尊重しました。また1985年には、川崎市で交通事故にあった小学校5年生の男児に対して、エホバの証人の信者だった両親が輸血を拒否し、男児が死亡するという事件が起こりました。これによってエホバの証人の輸血拒否が大きな話題になり、医学会はこの問題に苦慮するようになりました。1992年には、免責の同意書に署名していたにもかかわらず、患者の生命に危険が生じたときには輸血をするという方針で手術に臨んだ医師が、その方針を患者に説明していないまま輸血を行ったことで損害賠償を請求され、それが2000年に最高裁で認められるという事件も起こっています。彼らの信仰する神は輸血を禁じていると信じています。医師の側にとって、とくに判断が難しいのが、患者が子供の場合で、判断力の乏しい子供に対しては、親が反対しても行う方針で臨んでいる医師も少なくありません。いずれの新宗教も教祖の言うことをそのまま信じているのです。
2005年に起こった次世紀ファーム研究所をめぐる事件も、その一例で、この研究所は一種の宗教団体で、堀洋八郎という人物が代表でした。この研究所では、健康食品の販売の会社も設立し、光合堀菌という正体不明の菌をもとにした「真光元」という食品を販売していました。ところが、その施設内で、真光元を食べれば病気が治ると言われ、それを服用した糖尿病の女児が死亡するという事件が起こっています。注目されるのは、代表の堀が、創価学会の元会員である点です。堀は高校生のときに創価学会に入会し、活動していましたが、30代なかばで脱会しました。彼は、宗教団体を運営するノウハウや金の集め方、信者勧誘の方法は創価学会で学んだとしており、創価学会の名誉会長である池田大作に対しては憧れの気持ちをもっていることを告白しています。つまりは、多くの新宗教がすでに勢力を拡大している新宗教からそのノウハウを学び独自に新宗教を立ち上げるというパターンが古くから定着しているのです。
また新宗教といっても、あらゆる宗教は、最初、新宗教として社会に登場するといえます。仏教は、インドの伝統宗教、バラモン教のなかに出現した新宗教でありました。キリスト教も、ユダヤ教のなかに生まれた新宗教で、だからこそ、「聖書」のうち「旧約聖書」にかんしては、どちらの宗教においても聖典として教えの中心に位置づけられています。イスラム教の場合には、「アッラー」という独自な神を信仰し、その点では、同じ一神教でもユダヤ教やキリスト教とは異なる宗教であるように見えます。しかし、アッラーは、アラビア語で神を意味する普通名詞で、固有名詞ではありません。しかも、イスラム教の考え方では、預言者ムハンマド(マホメット)が信仰する神は、「旧約聖書」の冒頭にある「創世記」に登場するアブラハムが信仰していた神と同じだと考えられています。つまりイスラム教は、ユダヤ教やキリスト教と同一の神を信仰する宗教であり、先行する2つの宗教の影響を強く受けています。イスラム教の聖典である「コーラン」には、ユダヤ教のモーゼもキリスト教の救世主イエスもともに登場します。その点では、イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教を生んだ宗教的な伝統の中から生まれた新宗教なのです。
そして日本では、無宗教という宗教観が多くの人の意識にあります。それは明治に入って近代化するまで「宗教」という概念がありませんでした。宗教という言葉はあっても、それは宗派の教えという意味で現在の宗教とは意味が違いました。明治に入って、宗教という概念が欧米から導入され、神道と仏教とが2つの宗教に分離されたにもかかわらず、日本人は、片方の宗教を選択できなかったため自分たちを無宗教と考えるようになったのです。
新宗教の大きな特徴は、分派が多いことと、教団同士の間に対立が起こりやすいということにあります。新宗教では教団を生んだ特定のカリスマ的教祖がいることが多く、そのカリスマ性が教団を統合しています。ところがいくら神格化されても、人間ですから寿命を全うすると、新宗教の教団にとってはもっとも大きな危機であり、それを契機に、後継者争いが起こったり、分派が生まれたりします。特に分派が生まれやすいのは、教祖が生前神懸かり(かみがかり)をし、信者に神のお告げを下していたような教団の場合です。教祖が亡くなれば、新たに神のお告げを媒介する存在が求められます。創価学会と立正佼成会、霊友会は、みな日蓮系、法華系の教団で、高度成長の時代に教団が急拡大していた時には、信者の獲得合戦で激しく対立しました。現在、それぞれの教団は、世界平和の実現を説き、平和運動に熱心ですが、強調して平和運動にあたるようなことにはなっていません。 
天理教 

 

奈良県天理市は一大宗教都市だといいます。天理教の独特な建物が市内のいたるところに立ち並んでいるといいます。中心には巨大な教会本部の建物が建っており、「ぢば」と呼ばれ、その中の中心は「かんろだい」が据えられています。天理教の教えでは、このぢばは、人類が発祥した場所であるとされています。したがって、天理市を訪れ教会本部に礼拝に行くことは、「おぢばがえり」と呼ばれ、駅には「お帰りなさい」という看板が立っています。
天理教が誕生したのは、幕末維新のことです。天理教の教団では、1838(天保9)年10月26日を立教の日と定めています。この頃には天理教の他にも如来教、黒住教、禊教、金光教などが誕生しています。新宗教の発祥時期は幕末維新の頃や、教団が急速に拡大していく戦後だとするのか議論がありますが、最も有力な19世紀の終わりから20世紀の初めの頃に発祥を求めるとすれば、大方の宗教は新宗教でなくなります。その場合には既成宗教と新宗教の中間的な形態として「民衆宗教」といった呼び方が使われます。その一因は、宗教の発生時期と、拡大していく時期にずれがあるためです。創価学会の場合は80年の開きがあるとされています。
その天理教ですが、誕生した時代には、天理教関係の施設もなく、そこには丹波市という村であり、教会本部も教祖が嫁いだ中山家の屋敷にすぎず、周囲も農村で信者が急速に増えることもなかったといいます。天理教が立教の日を定めているのは、その日、教祖である中山みきが「神の社」に定まるという決定的な出来事が起こったからです。神の社が何を意味するかは教団の中でも議論がありますが、単純化すると、みきが神そのものになったと考えていいとされています。天理教の主宰神である天理王命は、人類全体を生み出した存在であることから「親神」であるとされていて、みきもこの親神と同一視されています。つまり立教の日は神(みき)がこの世に出現した日と考えられているそうです。
立教の日に先立つ10月23日、みきの長男秀司が足の病にかかり、修験者が中山家に呼ばれて、祈祷が行われました。その際に、神が降る巫女の代理をみきがつとめたところ、「元の神、実の神」と名乗る神が降り、みきを神の社としてもらい受けたいと言い出しました。この申し出を受け入れるなら、世界中の人間を救うが、拒むなら、中山家を破滅させるというのです。そこからみきに降った神と中山家の人々との間で問答が繰り広げられ、家族が申し出を拒むと、みき自身が苦しみました。そこで、みきの夫、善兵衛は、26日に、みきを神の社として差し上げると返答し、それでみきの苦しみも治まったのです。
実際、神の社と定まったはずのみきは、すぐには宗教家として救済活動をはじめることはなく、周辺地域で妊婦をお産の苦しみから救う「お産の神様」として知られるようになるのは、そのおよそ20年後のことで、教団組織が誕生するまでには、さらに20年の歳月がかかっています。みきは、妊婦を救う際に、「をびやゆるし」と呼ばれる行為を行いました。妊婦のお腹に三度息を吹きかけ、三度お腹をなでるというもので、まじないと変わりませんでした。それでも、それで救われた人間たちがみきの信者となり、その名が地域に広まっていきました。
明治に入ってしばらくの間、天理教は周囲からの迫害もなく、比較的穏やかに活動を展開していました。しかし時代が変わるごと次第に警察の取り締まりを受けるようになっていきます。確かに、天理教には、ぢばが人類発祥の地であることを根拠づける独特の神話が存在し、それは、「古事記」や「日本書紀」の記述とまったく異なっていました。一部の共産系研究者は天理教が近代天皇制に反対したからだとしていますが、実際に、取り締まりを受けたのは、天皇制に反対したからではありませんでした。取り締まりは、1873(明治6)年に教部省から出された禁厭祈祷を禁止する法令に基づいていました。翌74年には、教部省から、「禁厭祈祷ヲ以って医薬ヲ妨グル者取締ノ件」という布達が出され、呪術的な信仰治療に頼って医者や薬を否定することが禁止されていたため、医者や薬を拒絶し、祈祷や呪いによる信仰治療が実践されていた天理教は取り締まりの対象となりました。
さらに1880年には、今の軽犯罪にあたる大阪府の「違警罪」の一項にも違反し取締りの対象となり教団にとってはさらなる痛手でした。しかも教祖は高齢で逮捕・拘禁はその健康を害する危険性を持っていました。そこで刑法が改正された同年には、既成仏教宗派である真言宗の傘下に入り転輪王構社を長男秀司を中心に結成し迫害を避けようとしました。ところが結成の翌年その試みの中心を担っていた秀司が亡くなるという出来事がおこります。
その翌年頃から丹波市の周辺に奇怪な老婆が出現するようになります。彼女は自ら転輪王と名乗り「万代の世界を一れつ見はらせば、棟の分かれた物はないぞや」といった言葉や、自分を信仰する者には百五十年の長命を授けるといった言葉を言っていました。近隣の住民からは「お出まし」と呼ばれていました。通常の感覚からすれば、みきの振る舞いは尋常なものではなかったでしょうが、信者たちは、みきが激しい神懸り(かみがかり)を繰り返す姿を見て、その前提の上にみきのふるまいを解釈し、そこから意味を引き出し、救済の可能性を見出していったのです。その当時で信者数は200名以上を抱えていました。
みきは、警察による拘留を繰り返し経験していましたが、中には12日間の拘留もあり最低気温が4.2℃を記録することもあり、1887年2月18日にみきは90歳で亡くなっています。みきの死は、普通なら長寿をまっとうしたことになりますが、みきは生前、人間の寿命は百十五歳までと公言していて、信者たちはそれを信じきっていました。予想が外れたためです。
彼女の決まっていた後継者は、大工の棟梁だった飯降伊蔵という人物でした。彼はみきの生前から神懸りをし、その死後は、天理王命のことばを伝える役割を果たすようになっていました。その伊蔵に、みきの葬儀が行われた翌日の2月24日に神が降り、みきが百十五歳の寿命を二十五年縮めて信者たちの救済にあたるのだという意味の言葉を下しました。これで教団の決定的な危機を回避することに成功したのです。これはキリストの死の場面でも同じことがいえます。
そのみきがいなくなったことで、眞之亮を中心とした教団の幹部たちは、動きやすくなりました。みきの生前の1885年に、神道本局部属六等教会の設置を認可されたのを皮切りに、教派神道としての独立をめざす運動を繰り広げていきました。教団では「教則三条(三条の教憲)」の中にある、「天理人道を明らかにすべき事」という言葉に基づいて、その名称を天理教に改め、1891年には、神道本局直轄一等教会に昇格し、1908年にはようやく悲願だった独立を果たし、教派神道として公認されることになります。
公認を得る前から、天理教は、社会的に認知されることを求めて、政府に協力していきました。戦争が起これば、航空機などを寄付し、志願兵の応募に積極的に応じ、満州国が誕生すれば満蒙開拓団にも参加し、国家神道の体制に迎合するものに改めて布教も展開しました。これは「明治経典」と呼ばれ、現在の経典とは区別されており、天皇とその先祖を神として祀ることを強調する内容になっていました。
その太平洋戦争に突入する頃には信者数が30万人に増え、大正の終わりから昭和のはじめにかけて急増しています。天理教が拡大を見せていた時代、天理教は「搾取の宗教」とも言われていたそうです。信者の大半は庶民ですが、信仰の証として布教活動にすべてを費やし、稼いだ金はみな教団に献金してしまったからです。
その背景には、「貧に落ちきれ」という天理教の教えがありました。「稿本天理教教祖伝」には、神の社となったみきが、際限の無い施しを続け、それによって中山家は没落したと記されているためです。しかし、みきが際限のない施しをしたという証拠は存在しないそうです。
戦後の天理教はみきのひ孫にあたる二代目真柱、中山正善でした。彼は東大出のインテリで皇族ともつきあいがありました。そのこともあって、戦後の天理教は、創価学会などとは異なり、膨大な庶民を信者として取り込むことには必ずしも成功しませんでした。現在天理教は公称で百九十万人程度なんだそうですが、実際の信者数は五十万人程度だと著者は書きます。
天理教には分派が多くみきの跡を継いだ飯降伊蔵の後、神の言葉を取り次ぐ存在が、天理教のなかに途絶え、誰もが天理王命の啓示を受けたと主張できるようになったためです。最も名高いのは大西治郎が大正時代のはじめに創立した「ほんみち(当時は天理研究会)」です。また戦前において最も大きな新宗教であり、熱狂的な布教活動を展開したことで、社会からの反発も大きく、さまざまな形で天理教批判が繰り広げられました。戦後は創価学会などが活発化し注目はあまり集まらなかったといいます。それだけ定着したともいえるし活力を失ったともいえます。著者は天理教に限らず新宗教の課題は、その活力をいかに継続させていくかにあるといいます。 
天理教

 

日本で江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖とする宗教団体である。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部及び一般教会)を指すが、広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、信仰する単立の宗教法人もある。
「宗教法人天理教」及びその被包括法人である「宗教法人天理教教会本部(略して教会本部)」は奈良県天理市にあり、またその傘下にある一般教会は各地に点在する。
神名(かみな)は天理王命(てんりおうのみこと)で「親神」、「親神様」とも呼称される。教会本部、各地の一般教会では、天理王命とともに教祖と御霊の社を置き礼拝しているが、一神教(一つの神のみを信仰する宗教)である。「陽気ぐらし」という世界の実現を目指している。教祖は中山みき。天理教では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。明治20年(1887年)に、教祖・みきは90歳で死去したが、天理教では目に見える存在の「現身(うつしみ)を隠した」のであり、その魂は今でも「元の屋敷(現在の教会本部)」に留まっており、人々の暮らしを見守り守護しているとしている「教祖存命の理」が、天理教信仰の根本的な精神的支柱となっている。 現在の統理者は真柱(しんばしら)・中山善司。
天理教では、人間の命の発祥地の中心を「ぢば」(地場)と称し、明治8年(1875年)6月29日(陰暦5月26日)に教祖の「ぢばさだめ」という啓示でその場所を定めている。二代真柱の中山正善によれば「ぢば」という言葉には特別に意味は無く、教祖はあくまで「場所」という日本語のニュアンスで使用していたとさし、その後の教勢の発達と時間的な経過とともに「ぢば」は天理教義的な観点から「人間の宿し込みの地点」と意味が明示され、場所な視座ではその証拠として据えられている「かんろだい」のある特定の地点と定義されるようになったとされる。この「ぢば」は「元なるぢば」「かんろだいのぢば」の意味もあり、天理教の信仰の対象であり、中心であるとされている。このようなぢばの意義は「ぢばの理」と呼ばれている。現在の天理教教会本部は、この「ぢば」を中心に建られており、神殿の四方に建てられたすべての建物を「かんろだい」の礼拝所とし、全国の各教会の神殿も「ぢば」の方向にむけて建てられている。通常は、丁寧語の「お」をつけて「おぢば」と呼び、人がこの地を訪れることは、故郷に帰ることであるから、「おぢばがえり」と呼んでいる。そのため天理駅や天理市内の関係者の宿泊施設である信者詰所などには「お帰りなさい」や「ようこそおかえり」などという看板が見られる。
「ぢば」の中心には、人間創造のあらわす六角形の「かんろだい」(甘露台)が置かれた「神殿」が建てられ、四方から囲むように信者等が礼拝する四つの「礼拝場」(らいはいじょう)がある。そのほか教会本部には、教祖が存命のまま暮らしているとされる「教祖殿」(きょうそでん)、御霊を祀る「祖霊殿」(それいでん)などがあり、信仰に関係なく誰もが自由に出入りすることができ、南礼拝場は24時間開かれている。「神殿」では、毎日朝晩に「おつとめ」という定時定例の礼拝が行われており、また毎月26日は、「月次祭」(つきなみさい)という礼拝が行われる。傘下にある一般教会などにおいても、その例に倣い、「親神」「教祖」「御霊」を祀る御社を設置し、「おつとめ」や「月次祭」の礼拝が行われている。
「おつとめ」の「お」は丁寧語としてつけられたもので、天理教での公式な呼称は「つとめ」であり、その定義や種類は複数存在する。特にこの朝晩におこなう「つとめ」は「朝勤・夕勤」「朝夕のつとめ」などと呼ばれ、礼拝する際には、信者は「あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと」などと唱え、そこに定まった手振りを加え、主神の親神天理王命に感謝したり祈りをささげている。
かつて教派神道の一派として公認され活動していた(詳細は後述)ため、葬儀式などに見られるように神道の影響を大きく受けており、現在も「神道系宗教」とみなされることが多いが、教団側では新宗教諸派と称しており、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされている。文化庁の宗教年鑑では「諸教の諸教団」として分類されている。
天理教は「かなの教え」とも説かれる。教祖である中山みきが、民衆にも分かりやすく説きたいとの意思から、『おふでさき』『みかぐらうた』が仮名で書かれている。教義などに使われる言葉の多くが「かな表記」にされている。
基本的に信者達は、ハッピを平服の上から着用する。明治22年(1889年)に、奈良県秋津村(現・御所市)の新道開削のために地元の信者数百人が揃いの法被を着用したのがはじまりとされている。その後に「ハッピ」と表記されるようになり、昭和2年(1927年)にその表記が統一され、基本的に黒地で、背中には「天理教」「TENRIKYO」の文字が、襟表には所属団体名などが白字で記載されている。現在では、祭典などの公的行事のほかひのきしんやにをいがけなどの活動時などにも着用し、天理教のトレードマーク、象徴となっている。
教義・教理
天理教の教典の一つである『天理教教典』の第三章「元の理」には、天理教の根本教義が示されており、「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」と書かれている。親神が人間を造ったのは、泥海と表現されるような混沌と化した状態であった世界を面白くなく感じて、人間が明るく勇んで暮らす「陽気ぐらし」を見て、人間とともに「よろこび」「たのしみ」たいと思ったからであり、親神の守護と恵みにより、人間は生かされており、天然自然が存在すると説かれている。人間の役割は、親神が見たいと説く陽気ぐらしの実現にほかならず、親神によって生かされているという謙虚な気持ちを持ち、欲を捨て、嘘をつかず、平和で豊かな世界を目指すことが重要であるとされる。
改訂天理教事典によれば、天理教には「この世は神のからだ」、「いちれつ兄弟姉妹」、「身の内のかしもの・かりもの」、「ほこり」、「いんねん」の主に5つの教理が存在する。 このうち「この世の中は神のからだ」「身の内のかしもの・かりもの」「ほこり」は中心的な教説であり、この世の中は親神の守護の世界であり、人間の身体的生命(身上)をはじめとして、一切の物事は親神の「かしもの」であり親神からの「かりもの」であるという天理教独自の教理が存在し、心だけが自分のものとして自由に使うことが許されているとされる。親神の教えに反する心遣いを埃(ほこり)にたとえて「ほこり」と呼称し、心の使い方次第でこれがたまると説き、自己中心的な心遣いを慎むよう、また親神の思いにそって身体を使うことが重要であり、常日頃から「ほこり」を払う(掃除)ように説いている。 「いちれつ兄弟姉妹」の教えでは、人間はすべて親神天理王命を親とする同一兄弟姉妹であるとされ、互いに助け合い信心和楽の陽気世界の実現を目指し、弛むことなく努力を続けるべきだとされる。天理教のこの教えは、キリスト教の「隣人愛」や「兄弟愛」に類似する点があるが、天理教では単に同信、同宗のみならず、他宗教や敵対する人々も兄弟姉妹とみなしており、その点では異なる。 「いんねん」(因縁)は元は仏教用語であり、天理教での教理としては現在の事象が過去の事象に基づいて存在するという考えや、現在の事象のもととなる過去の事象をさす一般的な用法に近いとされる。天理教ではうまれかわりが教義として存在するため、因縁は一代かぎりではなく、前世のもの、あるいは末代の理とされ、陽気暮らし世界実現のために人間を創造した親神の「元のいんねん」を自覚し、懺悔し、その悪しき心遣いといんねんを納消しなければならないととかれている。
また、天理教では人間社会の根本的な基盤として親子・夫婦関係が重要視されている。人間創造の経緯を示した「元初まりの話」や、教典のひとつでもある『みかぐらうた』の中にも夫婦について言及した部分は多い。 結婚観については基本的に男女の両性が愛し合うことが前提とされており、2015年度に発行された信仰の指導文書である『諭達』でもその保守的な立場を堅持している。離婚についての否定は存在せず、教典『おさしづ』には夫婦の縁は切れても、「いちれつ兄弟姉妹の理」は忘れてはならないとの記述がある。
天理教の教理には「かしもの・かりものの理」があるため、誕生は親神から体を借りることであり、死は借りた体を返すだけであるという死生観が存在する。教義では、死ぬことは終わりではなく最初から新しく「出直す」のであり、死は「出直し」と呼称される。体を借りる主体者は「魂」(心)であり、その実在の場は「この世」以外にないとし、主体者である自己の同一性は魂によって存続すると説かれている。
「人たすけたらわがみたすかる」という教祖の言葉が重んじられるように、天理教では「人助け」が基本理念にあり、それは「自らが真にたすかる道」とされている。
信者の積極的な神恩報謝の行為をすべて「ひのきしん(日の寄進)」と呼ぶ。「ひのきしん」は天理教信仰を具現化、行為化、した姿そのものであると説かれている。日々健康に生きられることを親神に感謝し、その感謝の意味を込めて、親神のために働くことをいう。歴史的には天理教草創期から存在し、元治元年(1864年)の「つとめ場所」の棟上げからはじまり、その後の神殿や教祖殿、「おやさとやかた」など教団関係施設の建設の普請につながっている。現在では、教会本部や傘下の一般教会での清掃活動をはじめ、地域における奉仕活動、災害時における「災害救援ひのきしん隊」の派遣などが行われている。
天理教の祭典の中心の行事となるのが「つとめ」であり、幾つかの種類が見受けられる。教義上で最も重要とされるものは親神天理王命に「たすけ」(救済)の実現を祈る「つとめ」であり、その中でも「神楽面」を被り「元初まりの理」や親神の守護の様子を表現する「かぐらづとめ」は特別視され、現在では教会本部でしか行われておらず、一般教会で面をつけることは禁止されている。一般教会でも執り行われるのが「てをどり」と呼ばれる「つとめ」であり、『みかぐらうた』の「十二下り」をつとめる。これは親神への感謝を捧げ、世の中が陽気世界への建て替わっていくことを祈ることを意味している。「かぐらづとめ」は12通りあるものの、現在ではほとんどの場合そのうちの一種類が行われ、これと「てをどり」をあわせて「よろづたすけのつとめ」と称している。
教勢
天理教の信者数は明治末から大正・昭和初期にかけて大きく増加し、最も多かった時期である昭和初期の昭和13年(1938年)の『時事年鑑』には信者数4,559,000人の記述があり、多いときには300万人から500万人以上にのぼったといわれている。特に教祖30年祭及び40年祭が執行された大正から昭和初期頃にかけて行われた「教勢倍加運動」によって信者を獲得しており、時を同じくして分派団体が多く発生している(分派については後述)。また、当時の日本であった朝鮮半島や台湾においても布教が進み、現地人の信者が増加した(海外布教については後述)。戦前においては新宗教の中で最も大きな教団に成長した。終戦後は、戦後復興期には増加の傾向が見られたものの、その後は減少の一途を辿り、平成4年末での公称では185万人程度としている。この中には、他宗教に帰依した状態で天理教の信仰を行なっている者の数も含まれている。みさと原典研究会の代表で天理教御里分教会長をつとめる植田義弘によれば、統計を比較した場合に、ようぼく(天理教の布教伝道者、後述)の誕生数が、信者の増加を目指した「1・3・3運動」が展開された教祖80年祭(1966年)の最盛期(年間3万7681 人)と比べて、2014年度のようぼくの誕生数(5850 人)は85%減少しており、実際には多く見積もっても50〜100万人程度ではないかと指摘している。文化庁の『宗教年鑑 平成29年版』では119万9955人となっている。 教会数は2015年末の教内統計で16677とされている。
沿革
教祖在世時代
天保9年10月23日(1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「大神宮」とこたえたとされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。」と語り、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに憑依し天啓を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば中山家を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、10月26日(同年12月12日)になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている。みきの三男で後の初代真柱・中山眞之亮の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた。天理教では、この日を「立教の元一日」と称し、ここから天理教の歴史が始まったとされる。 こうして天理教が立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内の内蔵にこもりがちになり、遂には終日出てこずに内蔵に籠った教祖が誰もいないはずの蔵の中で誰かと話をするかのように眩く声が蔵の外まで漏れて聞こえてくることもあった。次第に中山家の評判は悪化し、史実でも庄屋中山善兵衞の名前は天保10年(1838年)3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所へ提出したのを最後に地方文書から消えている。
その後、みきは天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかったとされる。
41歳で「月日のやしろ」に定まったみきの精神状態は不安定で、幾度か池や井戸などに身を投げようとしたこともあったみきだが、その後、内蔵に篭ることもなくなり、精神状態は回復したものの、家財や道具を貧民に施したり、屋敷を取り払い、母屋や田畑を売り払えといったみきの言動は家族や親戚のみならず、村人や役人までもが不信感を抱くようになり、天保13年(1842年)には夫・善兵衛をはじめ多くの親族が、みきの行為を気の狂いか憑きものとして、元に戻るように手を尽くしている。
この後、長らく具体的な布教は行われず、嘉永6年(1853年)に夫・善兵衛が死去すると、当時17歳であった五女のこかんに浪速(現在の大阪)・道頓堀へ神名を流させに行かせたとされているが、これについては後に教団が信者から献金を受けるために事実が歪曲化、脚色されたという説が存在して。翌年、三女・はる懐妊の際にみき自ら安産祈願の儀式的行為である「をびや(おびや)許し」をはじめて施した。これが従来の毒忌みや凭れ物、腹帯といった慣習に従わなくても、容易に安産できるとして次第に評判を呼び、これをきっかけとして近隣の住民の信仰を集め、また人々の病気を治すなどの奇跡を起こし、みきの評判や教えは広がっていた。
元治元年(1864年)ごろにはみきを慕うものも増え、旧暦10月26日に専用に「つとめ場所」を建築。またこの年春ごろより、天理教の救済手段とされる「さづ(ず)け」のはじめとして、みきが信者に授けた扇によって神意をはかることができるとする「扇のさずけ」と「肥のさずけ」を開始、この頃には辻忠作、仲田儀三郎、山中忠七ら古参として教団形成に影響を与えた人物や、みきから唯一、「言上の許し」を与えられて神意を取り次いだ後の本席である飯降伊蔵夫妻が入信している。しかし信者らは、天理教への信仰さえあれば、みきから「をびや許し」や「たすけ」を受けられ、医者から治療を受ける必要はないと説いたために大和神社の神官や地元の僧侶、村医者などが論難にくるようになり、これは明治7年(1874年)に教部省から出された「禁厭祈疇ヲ以テ医薬ヲ妨クル者取締ノ件」という布達に違反、また明治13年(1880年)に制定され、翌年から施行された当時の大阪府の違警罪の一項「官許を得ずして神仏を開帳し人を群衆せしもの」にも違反し、警察からの取り締まりを受けるなど権力との対立が表面化していった。こうしたなかで、信者らは各地に出向き布教を行いはじめ、みきも慶応2年(1866年)、『あしきはらひ たすけたまへ てんりん(てんり)おうのみこと』の歌と手振りを教示、翌年には『御神楽歌(みかぐらうた)』の製作を開始し、手振りのほかにも鳴り物の稽古もはじめた。地元住民からも苦情が相次ぐ中で、側近達は、教団としての認可活動を得ることを試みたが、親神は教会の認可活動を認めず、幾度と無く反対の意思を示している。同年に長男・秀司が京都神祇管領吉田家に願い出て、7月23日に布教認可を得て公認となり迫害は収まった。その間にみきは神命に従い、明治元年(1868年)には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年(1869年)正月から『おふでさき』を書き始め、第一号(正月)と第二号(3月)を執筆、翌年には『ちよとはなし』『よろづよ八首』の教授、同6年には飯降伊蔵に命じての「甘露台(かんろだい)」の雛形(模型)製作、同8年6月29日(旧暦5月26日)の「ぢば定め」など、天理教の基を築いていった。
しかしながら、このころより官憲の取締りが再び活発化、神具の没収に続いて信仰差し止めの誓約書の署名を強いられた。この中でもみきは天命を貫き通し、1875年(明治8年)には奈良県庁より呼び出しがあり、秀司らとともに留置される。そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変が断行される。取締りが厳しくなった1880年にはみきの長男・秀司が既成宗教に傘下に入ることを試み、高野山真言宗へ願い出て、光台院末寺の金剛山地福寺のもとに「転輪王講社」を結成したが、翌年に活動の中心を担っていた秀司は死去している。眞之亮は神道の一派として講社を立ち上げることを試み、1885年(明治18年)5月23日に、神道本局傘下の六等教会「神道天理教会」として認可されたが、大阪地方局の認可が下りず、6月18日に教会設置が却下されている。その後もみきだけではなく、信者や家族も度々留置、拘留を受け、1886年(明治19年)には「最後の御苦労」と呼ばれるみき最後の12日間の拘留を受ける。こうした動きを止めようと眞之亮らをはじめ、古参信者らが教会設置公認運動を展開する中、その認可を見ることなく翌年2月18日(旧暦1月26日)午後二時ごろに90歳で死去した。
教団の組織化・国家統制時代・戦後
教祖死亡後は、教祖の生前中からの側近であり、本席に定められた飯降伊蔵と後に初代真柱となる教祖の孫、中山眞之亮が教団運営の中心となった。
みき死去の翌年1888年(明治21年)4月10日に東京府より神道の一派として「神道天理教会」として公認されたが、引き続き神道本局のもとに置かれていたため、教団としては独立が悲願であった。1900年(明治33年)8月から5回に及んだ請願と政府の意向に配慮した「明治教典」などの編纂を行うなど各方面で努力をした結果、1908年(明治41年)11月27日に神道本局から別派として独立し、教派神道となった。眞之亮は天理教管長に就任し、天理教教庁を設置した。しかし、悲願であった別派への独立を果たしたものの、昭和期に入っていくにつれて官憲による、いわゆる国家神道以外の宗教に対する弾圧が表面化、日中戦争勃発後は、文科省が国家非常時体制を期し、全宗教団体に対して、全面協力を依頼、天理教でも中山正善二代真柱が招請され、遂に内務省や文部省宗教局の指示により教団運営に関してさまざまな制限、改変が加えられた。主なものに、三原典の内『おふでさき』と『おさしづ』の使用を禁止(各教会から回収)し、天理教教典(明治36年編集の明治教典)のみを教義とすることや『みかぐらうた』から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除すること。泥海古記、「元初まりの話」に関する教説配布の禁止。全国各教会を通しての鉄材、金物の供出協力。天理教輸送部への満州、南方作戦の軍事物資と軍隊の輸送協力など指示された。教団側はこれらの内、特に『みかぐらうた』の改変や泥海古記の禁止などに難色を示したが、これより前に宗教界では大本事件に対する危機感から主立った宗教は諸手を上げて国家へ協力さぜるを得ない空気が流れ込んでおり、天理教でも二代真柱の中山正善が諭達第7号、第8号を相次いで公布、全教一丸となって軍部、国家へと協力するようにという指示はその後、『諭達』第14号まで出されている。
諭達第8号公布日の昭和13年12月26日、教団では13名の委員からなる「革新委員会」が設置され、二代真柱列席の元に於いて内務省と文部省宗教局より指示された事項に全て従うという決定が為された。この決断を天理教内では「革新」と呼称している。
以降、教団内ではかぐらづとめに於ける十柱面の着用中止。『みかぐらうた』から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除した『新修御神楽歌』の刊行、文部省の指示に則った「天理教教典衍義」の発表、『おふでさき』、『おさしづ』の引用自粛と冊子自体の回収。青年会や婦人会、教師会などを統合した天理教一宇会の結成、天理市内の「詰所」の名称使用を中止し「寮」に改め、軍関係の宿泊施設として提供。「革新教理」と称して、軍部の要請に合わせての戦争協力教理を説明する「革新講習会」の定期的な開催。全国各地に「いざ・ひのきしん隊」の結成を奨励(老若男女を問わず各地で炭坑掘りひのきしんが行われた)など、強制、自発問わずあらゆる形で戦争へ突き進む国家への協力が終戦まで続けられた。
1945年(昭和20年)8月に第二次世界大戦が終戦、即日、二代真柱は終戦の詔書に関する『諭達』第15号を発布、同年10月の秋季大祭で「かぐらづとめ」「十二下り」が復元され、終戦によって政府からの干渉から完全に解放され、教祖・中山みきの教えに基づく、本来の天理教の姿に戻る宣言が二代真柱よりなされた(この動きを天理教内では「復元」と呼称している)。昭和45年(1970年)4月には、教派神道から脱退している。現在では特定政党に関与はしていない。
原典
教義の基礎は、『おふでさき』(御筆先)、『みかぐらうた』(神楽歌)、『おさしづ』(御指図)の3種類の啓示書で示されている。天理教では教理と信仰を表明した『天理教教典』の編纂の原(もと)となった書物という意味で「原典」と称している。
○ 『おふでさき』は、「原典(一)」と通称されている。教祖が1869年(明治2年)から82年(同15年)までの13年間を掛けて執筆した、1711首の歌による書物。親神の教えを和歌の形で記してあり、「大和言葉」が特色とされる。教会本部内教義及史料集成室に直筆のものが現存する。教祖の直筆で複写されたもので当時の信者に渡されたものを「外冊」といい、昭和43年に二代真柱が上梓した『外冊「おふでさき」の研究』にて見ることができる。現在刊行されている「おふでさき」の原本は「正冊」と呼ばれ様々な形で目にすることが出来る。「外冊」にて「正冊」に対応しない和歌が11首あり、特別に「号外おふでさき」と呼ばれている。
○ 『みかぐらうた』は「かぐら」と「てをどり」の地歌を合わせた、つとめの地歌の書きもの。「原典(二)」と称される。「陽気ぐらし」を目指す天理教の教えを誰でもわかりやすく記したもので、最初に作られた時期とそれぞれの内容から五つの部分(節)に分けられる。教祖によって1866年(慶應2年)から1882年までの間に断続的に形作られ書かれたものとされるが、未だに原本が見つかっておらず、草創期の迫害干渉の時期に紛失したと考えられている。現存する数種類の筆写本を考証し、教祖から教えられたとするものが確認されている。
○ 『おさしづ』は教祖、または本席と呼ばれ、教祖によって神意の取次ぎを認められていた飯降伊蔵の口を通して、神の指図を側にいた書取人が速記したものを編集して成立した書物(そのため、同音異義語の問題がある)。通称、「原典(三)」。日常生活における現実的な心構えや具体的な解決方法、指導の弁を記したもの。明治20年から同40年に至る20年間の世界と道の事情に対する刻限のお言葉および個人の身上・事情に対する伺いさしづの筆録でもあり、当時筆録されたものが現存する。現在、公刊使用されているものは、教祖80年祭(1966年)の記念出版として、1963年(昭和38年)10月から翌年4月までに公刊されたものであり、「改修版」、その冊数から「7巻本」などと呼ばれている。それまでは、1936年(昭和11年)に教祖50年祭と立教百年祭を記念して刊行された「8冊本」が使用され、それ以前は「33冊本」が使用されていた。
3つの原典を呼ぶ順番は天理教内では『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』の順である。原典の内容に優劣があるわけではないが成り立ちから優先順位があり、教祖直筆であることから、天理教内で使われる言葉のつづりは『おふでさき』が最優先である。例としては、天理教の布教活動の事を「にをいがけ」とつづる。『おふでさき』では「にをいがけ」、『みかぐらうた』では「にほいかけ」となっているが、優先順位にもとづき、この様に定まっている。
教祖には神が入り込んでいたと考えられており、また本席・飯降伊蔵は「言上の許し」と言われる神の言葉を取り次ぐ許しが与えられていた。そのため、この3つの原典は全て「神意をあらわしているもの」であり、「人間の考えが混じっていない」、と考えられている点で、天理教内の他の書物とは全く異なるものであると考えられている。
天理教教典
天理教の書物の一つ。天理教教典は、3つの原典を基に教会本部が編述した教義の大綱を示す文書である。一派独立請願運動の中で形成された「旧教典(明治教典)」と、現在は使用されている「教典」の二種類がある。現在の教典は第二次大戦後に二代真柱・正善が唱えた「復元」の際に新しく編纂され、1949年(昭和24年)10月26日に裁定されたもの。3つの原典の中に示された親神の救済意思と、救済実現の筋道を体系的に説明したもので、前篇5章、後篇5章の全10章で構成されている。
泥海古記
天理教の書物「こふき本」に書かれた教説全体を指す言葉で「元初まりの話」を指している。また教祖がくりかえし口授した話を「こふき話」と言い、文として書き表したものを「こふき本」または「こふき話写本」と言い、それに書かれている教説全体を指す言葉として昭和10年代までは広く用いられていた。戦時中の体制に協力した「革新」の際にはその使用と、泥海古記、「元初まりの話」に関する教説配布が禁止された。こふき本は長い間出版されずにいたが戦後に二代真柱の「こふき本の研究」(昭和32年初版、道友社)が刊行されている。
稿本天理教教祖伝
天理教の書物の一つであり、中山みきの伝記。大正期に教祖50年祭を記念して完成した『御教祖伝史実校訂本』が基となっている。教祖70年祭を記念し、二代真柱の指導の下で、編集され改訂されたものが『稿本天理教教祖伝』として1956年(昭和31年)10月26日に教会本部より発刊された。その後、1981年(昭和56年)、1986年(昭和61年)、2016年(平成28年)に三度の改訂が加えられている。  
天理教 2 

 

人類のふるさと
四季の移り変わりとともに、ゆったりとした時間が流れる天理。 この町を訪れる人は、誰もが「おかえりなさい」の言葉で温かく迎えられます。なぜでしょうか。ここ天理は、“親なる神様”によって人間が創造された地点「ぢば」がある、人類のふるさとだからです。
京都・大阪から、いずれも車や電車で約1時間。天理は、ゆるやかな山並みに囲まれた奈良盆地の東にあります。
名所旧跡が連なる日本最古の幹道「山の辺の道」が、奈良盆地の山ぎわを南北に通っています。かつて、古代王権の中心地であったこの一帯は、「まほろば(素晴らしい場所)」とたたえられる豊かで美しい土地です。悠久の歴史が育んできた風景は、懐かしさにも似た親しみを感じさせます。
日本の原風景が広がる大和の地に、天理教が始まったのは江戸時代末期。やがて、この一帯は、人間の“親なる神様”がいます里「親里(おやさと)」と呼び親しまれるようになりました。
天理教信仰の中心地「親里・ぢば」には、日本国内にとどまらず、広く世界各地からも多くの参拝者が訪れます。
親のいます里・天理 人間創造の元なる「ぢば」
教祖・中山みきは、人間をはじめ、この世界を創造された親神「天理王命(てんりおうのみこと)」の啓示(おつげ)を受けて、現在の神殿中央にある「ぢば」という地点を、親神様が人間を創造した元なる場所であると明らかにしました。
天理教信仰の中心である「ぢば」の一帯は、もとは大和の国の庄屋敷村(しょやしきむら)(現在の天理市三島町)という小さな村でしたが、やがて多くの人々が寄り来るようになり、「親里(おやさと)」と呼び親しまれるようになりました。
親里・天理は、子供である人間の“里帰り”をお待ちくださる“親なる神様”がいます、人類のふるさとなのです。
信仰となりたち 幕末の大和 神の啓示を受け
江戸時代末期の天保9年(1838年)、教祖・中山みきが神の啓示(おつげ)を受け、その教えを人々に伝えたのが天理教の始まりです。私たちは、教祖・中山みきのことを「教祖(おやさま)」と呼び慕い、あらゆる人々の救済に、自ら身をもってお働きになった教祖の生き方をお手本としています。こうした人間本来の生き方を伝え広めることによって、すべての人々が心を澄まし、たすけ合って仲良く暮らす「陽気ぐらし」世界の実現を目指しています。
教祖 中山みきの足跡
  心優しく、信心深く
天理教の教祖・中山みきは寛政10年(1798年)、大和国山辺郡三昧田村(やまとのくにやまべごおりさんまいでんむら)(現・天理市三昧田町)の前川(まえがわ)家の長女として生まれました。大庄屋の家柄に育ち、心優しく、信心深い子供だったと伝えられています。
  中山家へ嫁ぐ
13歳のみきは、庄屋敷村(しょやしきむら)(現・天理市三島町)の中山家へ嫁ぎます。嫁として妻として、村役を務める家をきりもりし、慈悲深く善行を施すみきの姿は、近隣の人々から敬愛されたといいます。
  神の啓示で貧に落ちきる道へ
天保9年(1838年)10月26日、41歳のみきは、神の啓示(おつげ)を受けます。みきの体に、世界と人間を創造した神様である親神・天理王命が入(い)り込んだのです。以来、教祖(おやさま)は人々に教えを説き、自ら身をもって人をたすける手本を示します。その手始めとして、近隣の貧しい人々に家財を施し、貧に落ちきる道を歩んでいきました。教祖(おやさま)は嘉永7年(1854年)、妊婦が安心して出産に臨めるよう「をびや許し」を始めました。安産はもとより、産前産後の健康もお守りいただけると近隣の評判を呼びます。これをきっかけに、天理教の教えは日本各地へ伝わっていきました。
  迫害のなか、さらなる救済の道へ
教祖(おやさま)を「生き神様」と慕って、多くの人々が「親里・ぢば」へ帰るようになると、これを快く思わない神社仏閣や官憲などから迫害干渉が加えられるようになります。しかし教祖(おやさま)は、そんな道中もいそいそと通られ、人々の救済に一層力を注ぎました。
  人間本来の生き方を示した50年
教祖(おやさま)が神の啓示(おつげ)を受けてからの道中は、親神様の教えを伝え、寄り来る人々を育てて、ひたすら救済する日々でした。その年月は、50年の長きに及びます。世界中の人々が心を澄まし、仲良くたすけ合う人間本来の生き方の手本を、自ら身をもって示されました。
いまなお慕われる存命の教祖
教祖(おやさま)が90歳を迎えるころ、迫害干渉はさらに激しさを増していきました。そして明治20年(1887年)陰暦1月26日、教祖(おやさま)は親神様の思召(おぼしめし)により、静かに現世での姿を隠します。教えを受けた人々は、教祖の姿を拝せなくなったと嘆き悲しみました。しかし、その魂は存命同様に世界の救済に働いていると知らされ、人々はますます布教伝道に奔走するようになります。こうして、天理教の礎が築かれていったのです。教祖(おやさま)はいまも存命であり、世界中の人々が仲良くたすけ合って暮らす「陽気ぐらし」世界の実現のうえに、昼夜の別なくお働きになっています。
みかぐらうた
天理教で行われている儀式、おつとめの地歌である。
天理教の儀式、おつとめで行われる「かぐら」・「てをどり」の地歌の書き物のことを指し、天理教の原典の一つである。一般には「よろづたすけのつとめ」といわれる地歌のことを指す。
天理教の教祖・中山みきは、慶応2年 (1866年) から、つとめの地歌であるみかぐらづとめを信仰者に教えはじめた。同年の秋には「あしきをはらひ たすけたまへてんりわうのみこと」の第一節を、「ちよいとはなし」の第二節を明治3年 (1870年) に、「あしきはらひ たすけたまへ いちれつすますかんろだい」の第三節は明治8年 (1875年)、「よろづよ八首」を明治3年に、「十二下り」は慶応3年 (1867年) の正月から8月にかけて教えて成立をみている。
教義原典としては、広い意味では「おふでさき」であると考えられているが、みかぐらうたも教祖の筆で書かれたものであり、つとめの地歌として重要な要素を持っているとされる。「つとめ」では鳴物の音律にあわして一定の手振りや足の動きなどで「おてふり」を行い、この地歌を歌うことには基本的な信仰の心得が集約的にうたいこまれていると教えられている。みかぐらうたは覚えやすい仮名遣いで親しみやすく、陽気な雰囲気で歌うことができ、なおかつそこから教理を学べるとされる。特に有名なのは「これは理の歌や。理に合わせて踊るのやで。ただ踊るのではない。理を振るのや。」と諭している。みかぐらうたは信仰者にとってもっとも身近な教理である。  
天理教 3 

 

創立 / 天保9年(1838年)10月
創始者 / 中山みき(教祖)
現継承者 / 4代真柱・中山善司
信仰の対象 / 親神天理王命、ぢば(親神が人間を創造した場所)、教祖(おやさま)・中山みき
教典 / 『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』
沿革
中山みきによって幕末に創立された、新興宗教の草分け的な教団です。
神がかり新興宗教の草分け
寛政10年(1798年)、現在の奈良県天理市に生まれた中山みきは、13歳で同市内の中山家に嫁ぎました。しかし中山家は裕福な家柄でしたが、夫・善兵衛はとても身持ちが悪く、夫婦仲も悪くなり、家運も落ちていきました。
みきが41歳の時、みき夫婦と長男の病気平癒(へいゆ)の祈祷を修験者(しゅげんじゃ)に依頼しましたが、祈祷の加持台(かじだい=神が降りる中継人)の代理になったみきが神がかりとなり、「この世のすべての人を救うため、神の住む社(やしろ)としてみきを差し出せ」「不承知ならこの家を元もこもないようにしてしまうぞ」と夫・善兵衛を脅しました。
結局これに善兵衛が応じ、みきを社として差し出しました。こうしてみきが「神のやしろ」と定まった天保9年(1838年)10月26日を、天理教では立教の日としています。
陽気暮らし
みきの神がかり以後、中山家は没落しはじめ、その日の食べ物もない状態になりました。これは、みきが神からの「貧に落ちきれ」という命令に従い、全財産を貧しい人に施したことによります。教団では、みきの行動は「どんな境遇でも心の持ち方一つで<陽気暮らし>ができるという手本である」としています。
嘉永7年(1854年)、みきの祈祷(をびや許し)によって三女が無事に出産したことが評判となり、近隣の妊婦にも祈祷をして「をびや神様」と呼ばれるようになり、この「をびや許し」と病気治しで、次第に信者が増えていきました。
そして、みきは慶応2年(1866年)から『みかぐらうた』を作って「つとめ」の形式を定め、明治2年(1869年)から『おふでさき』の執筆を開始して、教義の体系化を進めるようになりました。
その後の展開
明治13年、天理教は、明治政府の取り締まりを逃れるため、仏教宗派を偽装して転輪王講社を設立し布教しようとしましたが、計画は失敗し、みき他関係者は官憲に摘発されました。その後、明治19年までの間に、みきの逮捕・拘留は10数回におよびました。
そうして大阪府から教会設立許可が下りないまま、みきが明治20年に死去。中山眞之亮(しんのすけ)が初代の教団代表者「真柱(しんばしら)」に就任しましたが、実質的な教団の中心者は本席(みきの死後の神意の取り次ぎ者)・飯降伊蔵でした。
教団は明治21年に「神道天理教会」の設置許可を得ましたが、明治41年(飯降伊蔵死去の翌年)に「天理教」として独立しました。
その後、2代真柱・中山正善(しょうぜん)は昭和24年に『天理教教典』などを刊行して今日の教団の教義の基礎をつくり、3代真柱・中山善衛(ぜんえ)を経て、現在は善衛の長男の善司(ぜんじ)が4代真柱となっています。
教団ではみきを「教祖(おやさま)」と称し、それ以後の代表者は「真柱」と呼び、今日まで中山家の直系の男子によって教団が継承されています。
教義の概要
信仰の対象と教典
教団では信仰の対象を「目標(めど)」と称し、
(1)「ぢば」・・・親神が人間創造の際に最初に人間を宿した場所。現教団本部の神殿中央には、このぢばの目印として「かんろだい」が置かれている。
(2)「親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと)」・・・人間をはじめ、世界を創造した根元の神。教祖みきの体を借りてこの世に現れ、世界中の人々を一切の苦から解放して、喜びずくめの生活(陽気暮らし)へと導き、すべての人々を守護する。
(3)教祖・中山みき・・・死後もその命を「ぢば」にとどめて永遠に存在していて、親神による人類救済はこのぢばを中心に行われているとする。
の3つを挙げています。なお、教会では天理王命の象徴として神鏡(しんきょう)を、教祖の象徴として御幣(ごへい)を祀(まつ)っています。また信者の家では「神実(かんざね)」という小さな神鏡を祀ります。
また教典としては、
(1)『おふでさき』・・・みきが親神の教えを歌形式で記したもの。
(2)『みかぐらうた』・・・みきが作った数え歌。人間が陽気暮らしを実現するための方法を示しているとする。
(3)『おさしづ』・・・教祖みきや本席・飯降伊蔵が親神の言葉として述べた内容を筆記したもの(ほとんどは伊蔵によるもの)。
の3つがあり、これら3原典に基づいて昭和24年に編集されたものが「天理教教典」です。
「つとめ」と「さづけ」
教団では、親神は人間を助ける方法として「つとめ」や「さづけ」を示し、陽気暮らしの世界をこの地上に実現するとしています。
(1)「つとめ」・・・「本づとめ」と「朝夕のつとめ」の2種。教団では、「本づとめ」によって心が澄みきり、親神と人間がともに陽気がみなぎり、全世界を陽気暮らしに立て替えていくと主張する。
(2)「さづけ」・・・病気治しの手段。決まった手振りをしながら「あしきを払うて助けたまえ」等と3回唱えて3回なで、これを3回繰り返す。
八つの埃(ほこり)
天理教では「心と肉体は別のもの」とし、肉体は親神からの借り物で、心だけが自分独自のものであるとしています。
人間は意識しないうちに、心に「をしい(惜)」「ほしい(欲)」「にくい(憎)」「かわい(可愛い)」「うらみ(怨)」「はらだち(怒)」「よく(貧)」「こうまん(慢)」の八つの埃(ほこり)を積んでおり、天理王命に祈ることによって、ホウキで塵(ちり)を払うごとく陽気暮らしに導かれるとしています。
貧に落ちきれ
教祖みきは、神からの「貧に落ちきれ」という命令に従って全財産を貧しい人に施(ほどこ)したといいます。そこで教団では、「教祖の行動は、どのような境遇でも心の持ち方一つで<陽気暮らし>ができるという手本(ひながた)である」と信者に教えます。
信者は欲の心を離れて、欲を起こす原因となる金銭を親神にお供え(おつくし)し、自分のために働く日常生活を離れて教会に行き(はこび)、人のために奉仕する(ひのきしん)ことを実践の徳目としています。 
天理教 4 「みかぐらうた」の成立 

 

要旨
日本の幕末期は、民衆の政治・経済への不安等が社会情勢の変化に同調するかのように、種々様々なかたちで現出した。そうした中、人々の信仰の主流で、あった仏教や神道に対して、民衆の悩みに直接関わってきたそれまでの民間信仰とは異なる民衆救済を説く人々が現れる。民衆宗教の誕生である。
1838 年に立教した天理教は、教祖中山みきの言動がj:~き物扱いされる一方、お産や病たすけの生き神様として流行神的に理解されてもいた。しかし、1864年につとめ場所ができ、1866年、世界たすけの「つとめJの実行が強く促され、その地歌であるみかぐらうたによる教理の明文化後、信者が急増すると共に激しい外部干渉が起きる。これは結果的に信者に信仰的な自信と自覚を喚起し、社会的に天理教公認と教団成立を促した。
ここでは、天理教の発展を当時の思想潮流を鑑み、聖典みかぐらうたを中心に考察する。
はじめに
本稿は2005年3月下旬に行われたIAHRの第四回大会(東京)における、 The Development ofFolkloric Beliefs in Sh泊toand Buddhismと題したパネル発表のひとつである。当初、「みかぐらうた」が音楽聖典であることの意味と、その表現形式があまりにも日本的といえる和歌体でありながらも、普遍性をもった聖典として日本人以外の人々にも受容されていることの意義について述べてみたいと考えていた。しかし、他の発表者との話し合いの中から、 日本の宗教伝統における天理教の成立の意味を考えてみることになった。すると、「みかぐらうた」は信者にとっては、信仰そのものを表現し実践するのにもっとも重要な聖典であること、また、「みかぐらうた」を唱え、踊り、奏でることは、信者にとっては直接「救しリへとつながっていくこと、また、天理教とし、う宗教集団の成立を「みかぐらうた」とそのっとめの完成がいわば促すものであったことなどが整理されてきた。したがって、本稿は「みかぐらうた」の持つ「音楽」という側面を直接には扱っていないが、その特徴を考察するための一側面であり、同時にそれは人々がどのように教えを受容していったかを考えるための端緒であることをご理解頂きたいと思う。
“日本文化"と日本人の信何
日本列島の歴史と文化は、内なる文化に外なる文化をたくみに結合し、変容して、日本に固有で、独自な文化を形成し「日本らしさ」とした。それは、日本の宗教構造では、仏教の土着化の過程に現れ、また、 日本人の基層信仰とされる神祇信仰と普遍宗教である仏教との習合として現れている。その結果、神棚と仏壇が平和的に共存してまつられることになった。日本人の多くはどこかの神社の氏子であり、どちらかの寺院の檀家である。なかにはさらに別の宗教の信者・信徒となっている人さえいる。一人一宗ではなくて、一人多宗であるといってよい。もっとも神仏対抗の動きもあったが、日本ではひとつの宗教が他の宗教と習合するシンクレテイズム(重層信仰)が、 日本の宗教史の基本的な流れであった。日本の場合は各地で横に別々に発達した信仰が融合したシンクレテイズムに加えて、そこには次々に縦型に、また、入れ子型に重なっていった重層的信仰が入り込んで、、アワセとカサネの両方がおこったといえる。そして、このアワセとカサネのうえに、全体を調整するソロエがおこった。このソロエは為政者に必要なことで、社寺に等級をつけ、順番をつけた。
こうして神道や仏教は、日本人の信仰を重層的に形成するいわば「大伝統」となった。一方で、個々の現実の悩みや苦しみに現世利益をもたらす「小さな神々」が同時に存在していた。「流行神」(はやりがみ)とも呼ばれた。人々の信仰の主流であった仏教や神道に対して、民衆の悩みに直接関わってきた民間信仰である。日本の幕末期は、 19世紀初頭からの対外的・対内的危機が進展し、民衆の政治的・経済的などの社会不安が、種々様々なかたちで現出し、 日本の社会や人々の意識が大きく変化する歴史的うねりを迎えていた時期ともいえる。そうした中、幕末期に創唱宗教と名付けられた信仰の多くは、「生き神信仰」に特徴付けられ、民衆の自己確立、自己解放を内包した民衆宗教である。一方、幕末期は、為政者側に「現人神」という思想を創出させ、これは後に民衆宗教を抑圧するという政治的な道具立てになる。
信何伝統の中の天理教
天理教は、現在の奈良県天理市に発祥し、本部が置かれている。ここは「山辺の道」として知られる日本最古の道のちょうど真ん中あたりで、 日本武尊(やまとたけるのみこと)が、「大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和うるわし」と、国偲び歌を詠んだ地域である。また、山辺の道は『万葉集』の舞台ともなっていて、「素朴で率直で人としてのまことを形象している」(米田勝『心の原風景万葉を行く』奈良新聞社、 2002 年、はじめに)土地と評価されている。
風土がそこに住む人々の思考や生み出した文化・宗教・価値観などに多大な影響を及ぼしているとは、多くの研究者によって指摘されてきた。山折哲雄は日本人の意識のなかには、 3000 メートル上空から眺めおろされた日本の風土、その日本の風土がはぐくんだ感性・文化に、その後の農業革命に伴って生じた稲作農耕社会の観念や世界観、宇宙観が重なり、さらにその上に明治以降の近代化革命によって生じた近代文明の観念や物の考え方が重なった、 3つの大いなる文化の層が重層的に畳み込まれていると指摘し(山折哲雄『日本の心、 日本人の心』) 、その上で、『万葉集』を「われわれの精神の核」とする。そして、 I多神教という宗教や多神教的な宗教感情」の根底にあるものこそ「天然の無常観」にほかならないといい、これこそが、 日本人の心の通奏底音だという(前掲書) 。これを大村英昭は、めぐまれた自然環境にはぐくまれた私たちの集合心性(大村昭英『日本人の心の習慣鎮めの文化論』)と表現する。
さて、山折は、寺田寅彦の指摘する日本人にとっての自然観について次のように紹介している。
「日本人にとっての自然は、一方では、ひとたび荒れ狂うと手がつけられないほどに凶暴な「厳父」のような存在だが、しかし一方で、は、われわれを豊かに包み込む「慈母」のような存在である。日本の文芸・学術・詩歌・美術の豊かな開花は、この慈母の如き自然との共存関係のなかで可能となった。慈母のごとき自然に接すると、我々自身がその自然の中に包摂される。慈母の如き自然にふれるとき、われわれは森の中に神の声を聞くようになる、山の中に人の声を聞くようになる。 」
そして、こうした意識こそ、最も普遍的な宗教意識ではないかという。
このような背景のなかで、 Iやまと」に生まれた天理教が、日本の伝統という文脈のなかで分析され、しばしば神道との関連において解説されるが、これは、天理教が生まれた「やまと」としづ風土や日本人の心性に呼応する和歌体で「おふでさき」や「みかぐらうた」が書かれているので万葉集と浄土和讃、ご詠歌の流れに位置づけ、 Iみかぐらうた」というその名称から神楽と神楽歌の伝統との関連でこれを理解しようとするものであろう。しかし、以上のことを踏まえたながらも、信者の信仰生活における「みかぐらうた」そのものを考えてみる時、 Iみかぐらうた」を習熟し、つとめを勤めることは信者の信仰生活に不可欠で、あり、それは教えの究極的な目標である「陽気ぐらし」世界実現に向かうもので、それゆえ、伝道における「みかぐらうた」の重要性はたすけ(救済)と直結していると考えられる。
天理教の成立と「みかぐらうた」
天保9年(1838)に立教した天理教は、教祖中山みきの言動が遍き物扱いされる一方、お産や病たすけの生き神様として流行神的に理解されてもいた。しかし、 1864年につとめ場所ができ、 1866年、世界たすけの「つとめ」の実行が強く促され、その地歌である「みかぐらうた」による教理の明文化後、信者が急増すると共に激しい外部干渉が起きる。これは結果的に信者に信仰的な自信と自覚を喚起し、社会的には天理教公認と教団成立を促した。天理教の発展を「みかぐらうた」を中心に考察すれば、そこに現出された「この地上での喜びの世界」が指摘される。
前述から理解されるように、 「みかぐらうた」は天理教の信仰者にとっては最も身近にある原典である。朝夕のおっとめに唱えられ、 うたに合わせて手がふられる。この毎日のおっとめでは拍子木・太鼓・すりがね・ちゃんぽんという鳴物に合わせて、 「みかぐらうた」の冒頭の3節が歌われ、月々の月次祭では、人間の9つの道具を象徴する9つの鳴物すべてがはいる。陽気づとめ、たすけづとめとも呼ばれ、教えの実践あるいは修養という点でもっとも重要な役割を担っている。
天保9年(1938)、中山みきが41歳で「神のやしろ」となり、天理教は立教する。この教祖の立場は、 「おふでさき」では以下のように、位置づけられている。
   ■いまなるの月日のをもう事なるわ
    くちわにんけん心月日や
    しかときけくちハ月日がみなかりて
    心ハ月日みなかしている   (おふでさき)
しかし、私財を投入した貧者への施しゃ神がかる教祖の姿は、狐つきなど想き物の扱いを受け、お産の神(女性救済)、癌癒の神(子どもの救済)、病たすけの神(病人救済)の評判が高くなり、どんなこともたすけてくれる「生き神」として知られるようになっても、当時の人々は流行神としてしか見ていなかった。元治元年(1864) につとめ場所ができた頃から後に信仰の中心となる人々の入信が相次ぐようになった。
教祖は世界たすけのっとめの実行を促し、その地歌である「みかぐらうた」を教えた。そこに表れる夫婦を核とし互いに助け合う世界観や鳴物・手振りの陽気さは、神と人との関係を親子とする神観や死を出直しと説く死生観と共に、天理教の独自性を表象し、天理教を天理教と位置づけていく。教理が明文化され、信者一人ひとりは教えられた新たな世界観や人間観を繰り返し確認でき、みずからの生き方を問い、反省することができるようになったのである。それは教えの実践であると同時に自己改革や自己解放を促すことになった。こうして、信者が急増した。信者はつとめの勤修に励むが、それこそが、外苦悶ミらの干渉の的となる一方、個々の信者に自らの信仰の自覚を促していった。結果的に天理教は信仰の公認獲得をめざし、教団へと組織化されていくことになったのである。
つとめと「みかぐらうた」
つとめは親神が人間を救済する手段であり、人間の側からすれば、親神の守護を受けるための祈念である。「つとめ」には天理教の信仰が凝縮されていると言える。口に「みかぐらうた」を唱え、さらに、その意味を手振りに表して、しかも皆が一手一つに陽気に勤める。教祖は「これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。たゾ踊るののではない、理を振るのや。」また、 「つとめに、手がぐにや-----するのは、心がぐにやf 三して居るからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このっとめで命の切換するのや。大切なつとめやで。」 と諭されている。
教祖は、慶応2年(1866)から、 「かぐら」と「ておどり」の「つとめの地歌」である「みかぐらうた」を教えはじめられた。「みかぐらうた」は教祖の直筆である。「つとめ」は、その完成(実現)がなによりも急がれた「たすけ一条」の道であるとされる。教祖は、 「この歌は、なんぼわしはよう字を知らんなどというても、 3人よるときっと読みが下る。分からんと思うていても、ひとりで、に分かつてくる。みながいつのまにやら調子づくのや」といわれる。「みかぐらうた」は本来、おっとめをつとめるなかから、歌う者も聞く者も、教理を、 しみじみと心に味わいつつ、身につけることができる唱え歌である。また、 「みかぐらうた」の言葉は、教祖が熟知し、使用していた言語で書かれているので、いわゆる「大和言葉」の特色がある。こうしたことは、 「みかぐらうた」が書かれた聖典であるだけでなく、パローノレ性に富んで、いることを示してもいる。また、和歌体であることから、詩的文体として暗示性・多義性・象徴性に富んでいることのほかに、特に「親(神)から子(人間)への言葉」として、神が人間に語りかける話を書物として残されたという特徴を持つ。
ところで、 「みかぐらうた」は、その漢字表記(御神楽歌)などから神道的な雰囲気を漂わせる。また、 「人から人へ、心から心へ向けての問いかけの様式としての短歌があり、五・七・玉・七・七という律の約束が、微妙に感情の波を表現する役割をはたしていた。このリズムに乗ったことばだけが、心の真実をかがやかすものであった。」といわれる和歌体表現は、 日本人の伝統的なリズム、耳に入りやすいリズムであり、和讃や俳句を継承しているともいえる。それは、ひらがな表記、唱え歌、数え歌とし、う表現上の特徴とともに、人々に受容されやすかったということだろう。しかしながら、 「つとめの地歌」であり、それを「唱え、踊る」ことによって、 「つとめ」を実践するという特徴は、おうたの内容(教え)を信者一人ひとりが受肉化することを意味し、自他の救済に直結し、「陽気ぐらし」としづ天理教の目指す世界の実現につながる。そして、信者は「みかぐらうた」に歌われている「喜び」「積極的な生き方」を発見し、体感し、体現していくことが期待されるのである。「みかぐらうた」の世界は、たとえば、次のようにうたわれる。
   ちょとはなしかみのいふこときいてくれ
    あしきのことはいはんで、な
    このよのぢいとてんとをかたどりて
    ふうふをこしらへきたるでな
    これハこのよのはじめだし   (みかぐらうた)
   かみがで与なにかいさいをとくならパ
    せかいーれついさむなり
    一れつにはやくたすけをいそぐから
    せかいのこ〉ろもいさめかけ   (みかぐらうた)
   とん------とんと正月をどりはじめハやれおもしろい
    二ツふしぎなふしんか〉れパゃれにぎはしゃ
    三ツみにつく
    四ツよなほり   (みかぐらうた)
ここに個人救済を実現しつつ民族を超える普遍宗教・伝道宗教の特徴が現れてくる。多くの人々は個々人の直接的な悩みの解決(現世利益)を契機として入信するが、信仰が進むと「みかぐらうた」(つとめ)の勤修によって、自己内省し、 「命の切換」をする。それは「生きながらにして生まれ変わる」という体験であり、換言すれば、 「自己解放」である。これは、当時の既成宗教や慣習、官憲からの干渉のもとになったが、それに対する教祖の厳然とした態度に支えられ、結果的に教えが広がった重要な素因のひとつとなったと考えられる。
おわりに
中島秀夫は、 「つとめを修するということは、親神の守護の世界にみずからの存在をあげて参入することであるし、また角度をかえて言うなら、自己存在の確認を、親神の守護に対する確信の中で得ていくことでもあるo ・・神の存在は無限定であり、親神はどこにでも存在し給う。しかし、ここで、あえて言えば、つとめこそ親神と人間とが、 じかに対面できる時間であり空間なのである0 ・・・つとめは最もすぐれた意味において、親神と人間との対話、呼応の場であると考えることができる。」 「体験をとおして『おつとめ』を考える」という。
また、高野友治は、初代の頃、 i天理教はおっとめで伸びた」といい、たとえば、大阪本田の真明組(井筒梅治郎)は「お手の講」(明治十年代)と呼ばれ、 i病人がいると聞くと、信者たちが、つとめの道具(鉦や太鼓など)をもって病人の家へゆき、みかぐらうたをうたい、てをどりを踊り、神に祈って、不思議なたすけをいただいていた」というような話をいくつも伝えている。
こうして、ひらがな表記(やまとことば)、和歌体、数え歌としづ特徴的な表記は、人々の受容を容易にしただ吋でなく、唱え、踊り、楽器(鳴物)を奏でることによって陽気ぐらし実現(救済)をめざす「みかぐらうた」が、信仰実践と直接かかわりをもつことは重要である。なぜならそれは,ここで教えられる天理教の信仰世界を自分の生活に日々映すという側面をもつだ、けで、なく,つとめが直接・間接に他の人々のたすけへと向かつてはたらく祈りにほかならなし、からである。 
天理教 5 みかぐらうた (御神楽歌十二下り) 

 

ここに、「御神楽歌」全文(但し、翻訳文)を誌すと次のようになる。史上最高の傑作中の傑作との評価に値すると拝察させていただく。要旨は、人生のよろず悩みの解決の道筋と、「お道」の形成の方向と、その際の道人の心構えを実にやさしく且つ内容豊かに歌い上げており、人々がこの教えに一筋にもたれて通るなら、豊かな実りが約束され、難渋を救い、遂には謀反と病の根を切り、国々所々の治まる平和な世の中になることを詠っている。まさに教祖流の「世直し」であり、「人々の心の入れ替え、胸の掃除を通じての『世の立て替え』(社会の再創造)」に特徴が見られる。但し、今日定式されているこの形式が教祖の教えたそれであったかどうかとは別である。
   ■神楽づとめの地歌
「座りつとめ」で表現される際の御歌である。
第1節、悪しき払いのつとめ
「悪しきを払うて助けたまへ てんりん王のみこと」
第2節、天地の理の諭しのつとめ
「ちょとはなし 神の云うこと聞いてくれ 悪しきのことは云わんでな この世の地と天とをかたどりて 夫婦をこしらえきたるでな これハこの世の始めだし、ようしようし」
第3節、たすけせきこみのつとめ
「悪しきを払うて助けせきこむ 一列澄まして甘露台」
   神楽づとめの手踊り、総歌「よろづよ八首」
「立ち手踊り」で表現される際の御歌である。「十二下り」を章歌とすれば、総歌的位置を占める。
第4節、よろづよ八首
「よろづ世の世界一列見はらせど 胸のわかりたものはない
その筈や説いて聞かしたことハない 知らぬが無理でハないわいな
このたびは神が表へ現われて 何か委細(一切)を説ききかす
この所大和の地場の神がた(館)と いうていれども元知らぬ
このもとを詳しく聞いたことならバ いかなものでも恋しなる
聞きたくバ訪ねくるなら云うて聞かす よろづ委細(一切)の元なるを
神が出て何か委細(一切)を説くならバ 世界一列勇むなり
一列に早く助けを急ぐから 世界の心も勇さめかけ」
   (解説) これを解説すれば、次のように云われていることになる。世間を見晴らせど、本当の真実を分かった者はいない。それも道理で、神はこれまで真実を明かされなかった。このたび神が現れ、この世の仕組み、人の在り方の元真実、本真実について教えることになった。神が現れたここ大和の地場は神の館である。神の話を聞きたければ訪ね来るが良い。一から十まで何なりとたっぷりと十分に聞かせよう。この話は聞けば聞くほどもっと聞きたくなり、勇むことになる。神は、世直し、世界の立て替えを願うから、世界の人々を勇まそうと思う。
   神楽づとめの手踊り、章歌「十二下り」
「立ち手踊り」で表現される際の御歌である。1年12ヶ月の暦になぞらえて、道人の成人の歩みを御歌で表現している。その思想の深さは驚きであり、普遍的ともいえるあらゆる組織原理ひいては社会原理の方程式を伝えているやに見える。れんだいこの思案はまだこれを読み解くのに覚束ない。(後半の推敲がまだできていない)
第5節、「十二下り」
一下り目から六下り目までの前半部は、主として個人としての信仰の立脚を歌う。七下り目から十二下り目までの後半部は、主として陽気暮らし世界創出に向けての道筋や道人の布教に於ける諭しとなっている。
一下り
一ツ 正月こゑ(肥え)の授けは やれ珍しい
二ニ にっこり授けもろたら やれ頼もしや
三ニ 散財心を定め
四ツ よのなか(世の中又は大和方言で「豊に」)
五ツ 理を吹く
六ツ 無性にでけまわす
七ツ 何かつくりとるなら
八ツ 大和は豊年や
九ツ ここまでついてこい
十ド 取りめが定まりた
   (教理) 「1・お道信徒の最初の歩み・入信祝い」をお歌で表現している。正月から説き始め、お道の信仰が「授け」を受けることから始まることを示唆している。「物の豊かさのご守護」を歌っている。お道では、授けを受けた者を「用木(ようぼく)」と云うが、用木は第一に「散財心を定める」よう諭している。「散財心」とは、世間常識的な物欲から離れた財の活用を云うものと思われる。従って、「散財心を定める」とは、物心崇拝的蓄財の執着心を捨て、我が身も財貨も「世の為人の為」に使い散じる気持ちになるというこを意味し、これが肝要と諭されていることになる。今風に言えば、ボランティア精神、縁の下の力持ち、革命精神の称揚という意味合いである。この心さえ身に付ければ、そこから筋道が拓けて無限に広がり、何をしても良い結果に繋がる。この道筋に世の「真の豊かさ」が始まると説く。この道に向かうのがお道信仰であるということになる。まさに字義通りの「有り難い教え」のように思われる。が、少し思案すると、我が身に直接的な福運を呼び込む為の信仰とは対蹠的であるように思われ興味深い。(解説) 一下り目と二下り目が手毬(まり)歌となっている。毬つき歌というよりはむしろお手玉歌の節回しのように思われる。この時代においては非常に盛んであった。
二下り
一ツ とんとんとんと正月踊りはじめは やれ面白い
二ツ 不思議な普請かかれば やれにぎわしや
三ツ 身につく
四ツ 世直り
五ツ いづれもつきくるならば
六ツ 謀反の根えを切らふ 
七ツ 難渋をすくひあぐれば
八ツ 病の根をきらふ
九ツ 心を定めゐやうなら
十デ ところのをさまりや
   (教理) 「2・お道信徒の次の歩み・身上事情のご守護と心定め」がお歌で表現されている。「授け」を受けたら次に「踊り」に取り掛かるよう示唆している。その際「面白い」のが肝要とも示唆している。その「踊り」と平行して「不思議な普請」に取り掛かるよう促している。その際「賑わしい」のが肝要とも示唆している。この二つの意味から、「踊りと普請」こそ道人の肝要な勤めであることが分かる。この二つが身につけば、「世直し」の始まりである。これに精進すれば、無用な争いや謀反が立ち消えることになる。困っている人の身上事情たすけに向かえば、助ける側の者の病も治る。この理を深く悟り、この道に向かう「心定め」するのが道人(みちびと)足る所以の要諦であり、「真の治まりの道」と諭されている。ここで気づくことは、お道の信仰が、単に頭脳内への教義の読誦ではなく、それをより身体的な踊りで確認しつつ、更に協働的な普請へと押し広げられていることである。非常に行動的といおうか立体的な信仰であることが分かり興味深い。
三下り
一ツ ひのもとしょやしきの 勤めの場所は世のもとや
二ツ 不思議な勤め場所は 誰に頼みはかけねども
三ツ 皆世界がよりあうて でけたちきたるがこれ不思議
四ツ ようようここまでついてきた 実の助けはこれからや
五ツ いつも笑われそしられて 珍し助けをするほどに
六ツ 無理な願ひはしてくれな 一筋心になりてこい
七ツ 何でもこれから一筋に 神にもたれて行きまする
八ツ 病むほどつらいことはない わしもこれからひのきしん
九ツ ここまで信心したけれど 元の神とは知らなんだ
十ド このたびあらはれた 実の神には相違ない
   (教理) 「3・お道信徒の次の歩み・教理とつとめとひのきしん」がお歌で表現されている。お道信仰の目標(めどう)は「つとめ」と「つとめの持続」であることが示唆されている。ここまで信仰が進むことにより「本当の助け」の展望が拓ける。世間から嘲笑され謗られようとも、しっかり神にもたれて、無理な願いをせずに利害得失から離れた「一筋心」で信仰しなさい。そうすれば、不思議なことや珍しい助けが起ると示唆している。「病むほど辛いことは無い」。気弱にならずむしろ「ひのきしん」に向かいなさい。「ひのきしん」とは、日々の寄進の意であり、それは普請労働であり多寡では無い真心込めた金銭ないし物資の寄進のことを云う。お道が根本に据えている神は元の神で、実の神である。この神の思いを聞き分けすれば、効能がもたらされる、と諭されている。
四下り
一ツ 人が何事云おうとも 神が見ている気をしずめ
二ツ 二人の心をさめいよ 何かのことをもあらはれる
三ツ 皆見てゐよそばなもの 神のすること為すことを
四ツ 夜昼どんちゃん勤めする そばもやかましうたてかろ
五ツ いつも助けがせくからに 早く陽気になりてこい
六ツ むらかたはやくに助けたい なれど心がわからいで
七ツ なにかよろづの助けあい 胸のうちより思案せよ
八ツ 病のすっきり根は抜ける 心はだんだん勇みくる
九ツ ここはこのよの極楽や わしも早々(はやばや)参りたい
十ド このたび胸のうち すみきりましたがありがたい
   (教理) 「4・お道信徒の次の歩み・心の澄ましと練りあいに向うべき信仰のあり方」がお歌で表現されている。お道信仰に必須なものは「心を治めること」、「陽気になること」であることが示唆されている。お道信仰の道中で世間から謗られることもあろうが、夫婦が心を合わせて陽気にしっかりつとめなさい、お道のつとめは賑やかなので周囲の者に迷惑かけようが、助けの通り道であるから心配するに及ばない。お道信仰を非難する者も含めて「なにかよろづの助けあい 胸のうちより思案せよ」。人と人とは「助け合い」に向かうべきである。ここのところが深く思案でき得心がいくに応じて、病が快方に向かい次第に元気が出てくる。お道信仰は、「この世の極楽や」。みんなこの極楽目指してやってくれば良い。このたびこういうことが分かり、心の中がすっきり澄み渡ったのがありがたい、と諭されている。
五下り
一ツ ひろい世界のうちなれば 助けるところがままあろう
二ツ 不思議な助けはこのところ おびやはうその許しだす
三ツ 水と神とは同じこと 心の汚れを洗ひきる
四ツ 欲のないものなけれども 神の前には欲はない
五ツ いつまで信心したとても 陽気づくめであるほどに
六ツ むごい心をうちわすれ やさしき心になりてこい
七ツ なんでも難儀はささぬぞへ 助け一条のこのところ
八ツ 大和ばかりやないほどに 国々までへも助けゆく
九ツ ここはこのよのもとの地場 珍しところがあらはれた
十ド どうでも信心するならば 講を結ぼやないかいな
   (教理) 「5・お道信徒の次の歩み・じばの理、匂い掛けと講の結成」がお歌で表現されている。お道の教えを広めるべく「匂いがけ」に向かいなさい。この道は「安産とほうそ」助けから始まった。心の汚れを洗い、欲から離れて、陽気な心になり、優しい心になるように。「助け一条」になるなら難儀はささない。信仰が深くなれば、国々所々世界中へ助けに行きなさい。更に、お道信仰を強めるために「講を結ぼやないかいな」と講の結成を諭されている。
六下り
一ツ 人の心と云ふものは 疑い深いものなるぞ
二ツ 不思議な助けをするからに いかなることも見定める
三ツ 皆世界の胸のうち 鏡の如くに映るなり
四ツ ようこそ勤めについてきた これが助けのもとだてや
五ツ いつも神楽や手踊りや 末では珍し助けする
六ツ むしやうやたらに願いでる 受け取る筋も千筋や
七ツ なんぼ信心したとても 心得違いはならんぞへ 
八ツ やっぱり信心せにゃならん 心得違いはで直しや
九ツ ここまで信心してからは ひとつの講をも見にゃならぬ
十ド このたび見えました 扇の伺いこれ不思議
   (教理) 「6・お道信徒の次の歩み・正しい信心と講の結成」がお歌で表現されている。神楽、手踊りが大事。「これが助けのもとだてや」。つとめを続けているうちにきっと珍しい助けが為される。但し、お道の教理に添ったものでないといけない。いくら信仰しても「心得違い」は最初からやり直しせねばならない。信仰がかなり深くなると道人たちで信心の発展系としての講を結成せねばならない。いくつもの講を早く見たい。「扇の伺い」はこれは不思議である、と諭されている。
七下り
一ツ 一言話しはひのきしん 匂いばかりを掛けておく
二ツ 深い心があるなれば 誰も止めるでないほどに
三ツ 皆世界の心には 田地のいらぬ者はない
四ツ 良き地があらば一列に 誰も欲しいであろうがな
五ツ いづれの方も同じ事 わしもあの地を求めたい
六ツ 無理にどうせと云わんでな そこは銘々の胸次第
七ツ なんでも田地が欲しいから 与えは何ほどいるとても
八ツ 屋敷は神の田地やで 蒔いたる種は皆はえる
九ツ ここはこの世の田地なら わしもしっかり種をまこ
十ド このたび一列に種を蒔いたるその方は 肥を置かずに作り取り
   (教理) 「7・お道信徒の次の歩み・真の種まき、匂い掛け、ひのきしん」がお歌で表現されている。とりあえず声を掛け、僅かでも話を取り次ぐ「匂い掛けひのきしん」が肝心だ。しっかり思案したものがあるならば、誰も邪魔できるものではない。世界中の人は皆田地を欲しがっている。同じ田地なら良いほうが良かろう。例えて云えば、お道はそういう最良の田地なのだ。無理に誘うのでは無く、このことを理解して貰いなさい。「屋敷は神の田地やで 蒔いたる種は皆はえる」。この神の田地に種を蒔け。自らが手本となって種を蒔きなさい。その先は実り豊かである、と田地に例えて諭されている。これを福田思想とも云う。
八下り
一ツ 広い世界や国中に 石も立ち木もないかいな
二ツ 不思議な普請をするなれど 誰に頼みはかけんでな
三ツ 皆段々と世界から 寄り来た事なら出けて来る
四ツ 欲の心を打ち忘れ とくと心を定めかけ
五ツ いつまで見合わせ至るとも うちからするのやない程に
六ツ 無性やたらに急き込むな 胸の内より思案せよ
七ツ 何か心が澄んだなら 早く普請に取り掛かれ
八ツ 山の中へと入り込んで 石も立ち木も見ておいた
九ツ この木切ろうかあの石と 思えど神の胸次第
十ド このたび一列に 澄み切りましたが胸の内
   (教理) 「8・お道信徒の次の歩み・本普請に取り掛かれ」がお歌で表現されている。「適材適所の世界作り」、「真の治まり難渋助け、適材適所の世を創る」ことの大事さが諭されている。世間から人材を探し出そう。お願いするのや無い、同心の同志を求めるのや。世界中の各地から次第に同志が結集するに応じて何事も出来る。欲の心を抑え捨て去り、世界たすけの精神を修めるのが肝心や。次に自主性が肝心や。得心したら世界たすけに乗り出そう。急ぐばかりではいけない。思案を練ることが肝心や。「何か心が澄んだなら 早く普請に取り掛かれ」。船出に当たって、みんなの心を澄ますことが肝心や。かねてより世間の中へ飛び込み人材の調査をしておけ。そして必要な人材を寄せよう。と諭されている。
九下り
一ツ 広い世界を内廻り 一せん二せんで助け行く
二ツ 不自由なきやうにしてやろう 神の心にもたれつけ
三ツ 見れば世界の心には 欲が混じりてあるほどに
四ツ 欲があるなら止めてくれ 神の受け取りでけんから
五ツ いづれの方も同じこと 思案定めてついてこい
六ツ 無理に出ようといふでない 心定めのつくまでは
七ツ なかなかこのたび一列に しっかり思案をせにゃならん
八ツ 山の中でもあちこちと てんり王の勤めする
九ツ ここで勤めをしていれど 胸のわかりた者はない
十ド とても神名を呼びだせば 早くこもとへ訪ね出よ
   (教理) 「9・お道信徒の次の歩み・心定めのつとめ、布教」がお歌で表現されている。いよいよ世間活動に向かう。「一せん二せんで助け行く」。神の心にもたれるなら自由自在が働いて不自由無い。世間は欲にまみれているので神の自由自在が働かない。この理は誰も同じで思案を定めるのが肝心だ。この心定めがついてからお助けに向かいなさい。この間「てんり王の勤め」が大事である。しかし、本当にお道教義が分かって勤めしているのか心もとない。本当の話を聞きたければ、「早くこもとへ訪ね出よ」と諭されている。
十下り
一ツ 人の心と云うものは ちょとにわからんものなるぞ
二ツ 不思議な助けをしていれど 現われ出るのが今始め
三ツ 水の中なるこのどろう 早くいだしてもらいたい
四ツ 欲に切り無い泥水や 心澄みきれ極楽や
五ツ いついつまでもこのことは 話しの種になるほどに
六ツ むごい言葉を出したるも 早く助けを急ぐから
七ツ 難儀するのも心から わが身恨みである程に
八ツ 病はつらいものなれど 元を知りたる者はない
九ツ このたび迄は一列に 病の元は知れなんだ
十ド このたび現われた 病の元は心から
   (教理) 「10・お道信徒の次の歩み・心澄みきれ極楽や」がお歌で表現されている。お道信仰の眼目は、欲の心を棄てて心を澄まし、親神の思いに叶うことにある。「欲に切り無い泥水や 心澄みきれ極楽や」。時に厳しいことを云うのも「早く助けを急ぐから」であり、致し方ない。当り障りの無いことばかり云っていては助けができない。「病の元は心から」の理が分からないから難儀が起っている。今までこのようにはっきりと述べた信仰は無いであろうが、このことを深く諭すのが肝要である、と諭されている。
十一下り
一ツ 日の元しょやしきの 神の館のぢば定め
二ツ 夫婦揃うてひのきしん これが第一もの種や
三ツ 見れば世界が段々と もっこ荷うてひのきしん
四ツ 欲を忘れてひのきしん これが第一肥えとなる
五ツ いついつまでもつちもちや まだあるならばわしもいこ
六ツ 無理に止めるやない程に 心あるなら誰なりと
七ツ 何か珍しつちもちや これが寄進となるならば
八ツ 屋敷の土を掘りとりて 所替えるばかりやで
九ツ このたびまでは一列に 胸がわからん残念な
十ド 今年は肥え置かず充分ものを作り取り やれ頼もしや有難や
   (教理) 「11・お道信徒の次の歩み・喜び勇んでひのきしん」がお歌で表現されている。世間へ向けてのお道の発展に応じて「神の館ぢば本部」の整備に向かう。この事業を道人の「ひのきしん」でやるのが良い。夫婦力合わせての「夫婦ひのきしん」が肝心で理想だ。欲を忘れての「もっこひのきしん」が一番功徳がある。この道中を喜び勇んで通るなら、例えて云えば肥料無しに作物が充分に出来るようなことになる。お道信仰は頼もしいし有り難い。
十二下り
一ツ 一に大工の伺いに 何かの事も任せおく
二ツ 不思議な普請をするならば 伺いたてて云いつけよ
三ツ 皆世界から段々と 来たる大工に匂いかけ
四ツ 良き棟梁があるならば 早くこもとへ寄せておけ
五ツ いづれ棟梁四人いる 早く伺い立てて見よ
六ツ 無理に来いとは云わんでな いずれ段々つき来るで
七ツ 何か珍しこの普請 しかけたことならきりはない
八ツ 山の中へと行くならば 荒き棟梁連れて行け
九ツ これは小細工棟梁や 建前棟梁これかんな
十ド このたび一列に 大工のにんも揃い来た
   (教理) 「12・お道信徒の次の歩み・四人の棟梁と共に」がお歌で表現されている。世界たすけを家の普請に例え促している。世界普請の仕切りは大工に任せている。この後の世界普請に向かうには大工と相談して為せ。寄り集う大工に「匂いかけ」し、良い棟梁を見つけたら寄せよ。棟梁は4名必要である。この仕組みえしっかり確立されればお道は磐石となる。この事業にはきりはない。困難待ち受ける世界には荒き棟梁が相応しい。その他小細工棟梁、建前棟梁と要る。今や大工が揃い踏みしている。さぁ、臆することなく世界普請に取り掛かれ。
   ■お歌考
このたびの「み神楽歌」の御作成について教理では次のように説く。「御神楽歌」は、教祖が、従来折に触れ事に当って、断片的にお口を通して説かれてきた教えを、わかり易くまとまった形に歌い上げており、ここに信仰の要領、目的、道人の在り様、布教の仕方等々が簡潔明瞭に指し示されることになり、当時の道人の心強い「目標」となった。
「十二下り」を通じて、溢れでているものは、親神様のお望み下さる、陽気暮らしの喜びの、如実の姿であり、その喜びに至る道を教え、早々と足並み揃えてその道に進むことの「おせき込み」である。同時に、「みかぐら歌」を拝聴する者は、誰もが皆、誰彼の区別なく、必ずこの「陽気ぐらし」の喜びを味わうことができるという、希望と楽しみを与えられる。逆にどんな悲境に打ち沈んでいる人でも、親に抱かれているような安らかさを与えられると共に、悲しみを越えて、奮い起つ勇気と力をお与え頂くことができる、喜びの「お歌」であった。ここには、過去30年にわたってなめてこられた嘲笑、離反の淋しさや、貧の生活の陰影など、何処にもない。また現に受けつつある身の危険など、何処にも感じらぬ、「お歌」となっている。
思えば、教祖は「月日のやしろ」としておなりくだされてより、親類縁者や友人知己からは見捨てられ、世間の人々からは笑われ、そしられ、誰一人訪れる者もない、貧のドン底にありながらも、常に明るい喜びを失わず、心一つでどんな中も喜び勇んで暮らすことの出来るひながたの道をお通りくだされること30年。ここにめでたくお迎えになったのが、慶応3年の新春であった。「月日のやしろ」とおなりくださるや、瞬時も早く、一列の子供に「たすけ一条」の道を教えてやりたいとの切なる「おせき込み」をお待ちくださっているはずの教祖が、30年の歳月を経た今、初めてこれお教えくださることになったのは一体どうしたことだろう。言うまでもなく、子供に聞き分けがなかったからである。聞き分けのない子供を相手に30年、聞き分けのつくまで、じっとお待ち下さった根気強さ。しかも単に手をつかねてお待ちくださったのではない。幾重の道を通って「陽気ぐらしのひながた」を示され、なお疑いの晴れない子供の前に、親神ならでは絶対お見せ頂くことの出来ない不思議な「たすけ」を示された。
これによって、ようやく疑い晴れて、親を慕い始めた子供たちに、今度は理の御用を与え、「ふし」を与えてお連れ通り下され、今ここに漸く聞き分けの付くまでの成人に到達さして頂いたのであった。すると今度は、教祖の評判と、お屋敷の賑わいをそねみ、ねたんで、乱暴狼藉を働く、暴徒の調跳梁するにまかさなければならぬ日々が続いた。考えてみると、何時なんどき白刃が降ってくるかわからぬ不安の明け暮れである。人間の常識からすれば、悠然と筆など執れるのどかな時ではなかった。けれども子供の聞き分けがつき、受け入れ態勢さえ出来れば外界の状況など、たとえどうあろうと、そんなことを気にかけられる教祖ではなかった。 
大本 (おおもと・おほもと) 

 

「邪宗門」で有名となった大本は、日本の新宗教のなかで、これほど高い評価を受けている教団はないと著者は書いています。大本は戦前「皇道大本」戦後には「愛善苑」を名乗っていましたが、現在の正式名称は大本(おおもと)です。
大本は大正と昭和の二度にわたって、権力による過酷な弾圧を受けたこともあり、権力に徹底して戦った新宗教として、特に反権力の傾向をもつ人々からは好感をもって迎えられてきていました。大本が、そうした高い評価を受けるにあたっては、前述した高橋和己の朝日ジャーナルに連載された小説「邪宗門」が大きな反響を巻き起こしたことで知られることとなりました。この単行本は政治運動、学生運動が勢いを増していた1966年に刊行されており、左翼の学生たちによく読まれました。そこから、大本=反権力、反天皇制の宗教というイメージが定着しました。しかし、小説のなかに登場するひのもと救霊会のイメージと、現実に存在した大本の実態との間には相当に開きがありました。
大本を描いた小説には、大本を語るうえではかかせない人物、出口王仁三郎が生きていた時代を徹底的に取材した出口王仁三郎の孫である出口和明著「大地の母」がありますが、全十二巻にわたる長大なもので、単なるフィクションとは思えない小説でした。大本には出口王仁三郎という常識をはるかにこえる人物が重要な役割を果たしました。王仁三郎は、有栖川宮熾仁親王の御落胤だという噂が広まっていて、王仁三郎自身も、歌のなかでそれを暗示していました。ところが弾圧によって裁判にかけられた際には、周囲がそう噂するだけだと御落胤説を否定しています。
王仁三郎という人物は、天衣無縫で、破格の人物であり、常識では計り知れないところがあったようだと著者は書いています。1935(昭和十)年の弾圧の時には、治安維持法と不敬罪に違反したとして裁判にかけられますが、法廷では珍問答を繰り返し、猥談を交えて、裁判官を煙に巻いたり、裁判にあきると、足や腹、頭が痛いと大騒ぎし、休廷に持ち込んだりしたそうです。極めつけは、この裁判の一審で無期懲役の判決を下されたときで、後ろをむくと、舌を出してあかんべーをしたといいます。こうした王仁三郎の天衣無縫とも言える魅力によって、大本には様々な人間が集まってきました。
大本はたんに宗教団体にとどまらず、精神革命、社会革命の運動としての性格があり、昭憲皇太后の姪である鶴殿ちか子が大本に入信するということもありました。彼女は鶴殿男爵の夫人で、岩下子爵や宮中顧問だった山田春三も入信しています。大本の場合、そこから後に宗教界のリーダー的な存在が輩出されている点にも特徴があります。浅野和三郎の場合、第1次大本事件の後に教団を離れ、心霊科学研究所を結成し、日本におけるオカルティズムの先駆者となりました。生長の家の創立者、谷口雅春も大本にいたことがありました。世界救世教の創立者、岡田茂吉も大本に入信していました。また神道天行居の創立者、友清歓真も大本に入信していたことがありました。大本から分かれた人間たちは、神懸りする教祖的な人格というよりも、心霊現象や神道に関心をもつインテリ宗教家であったところに特徴があるそうです。
大本の教祖であるなおは、天理教の中山みきが神懸りをするようになった天保年間、1836(天保7)年に、京都の福知山で桐村という大工の家に生まれました。しかし、生活は貧しく、なおが五十三歳の時には夫が亡くなり、生活は困窮します。そうした中で、なおは、みきと同じように神懸りするのです。最初に神懸りをしたのは、他家に嫁でいた三女で、初産がきっかけでした。続いて他家に嫁いでいた長女も神懸りし、長女の方は特に激しかったそうです。そして、なおは五十七歳の時に神懸りします。腹の中に強い力を発するものがいて、それが突如大きな声となって表に出てきたのです。なおの住む地域は陰陽道系の祟り神である金神で、教祖によって金神が本当は幸福をもたらす神であると解釈しなおし、信仰の対象としていた金光教が勢力を伸ばしていました。なおは、この金光教に影響され、自らに宿った神を「艮(うしとら)の金神」としてとらえました。注目されるのは、この艮の金神が、実は国常立命であるとされている点です。国常立命(尊)は、天理教の主宰神、天理(輪)王命を構成する神々の筆頭に位置づけられていました。つまり、名称は異なるものの、オーソドックスな神道でも、天理教や大本のような新宗教でも、神道系であれば、国常立命という同一の神を根源的な神として信仰の対象としていることです。
最初、なおは、金光教の枠のなかで宗教活動を展開していました。病気治しを行って、信者を増やすとともに、やがて、神懸りの状態で筆をとり、神の言葉を書き記すようになります。それが御筆先で、なおはその時点で字が書けなかったとされています。なおは、亡くなるまでの四半世紀にわたって御筆先を書き続けました。それをまとめたのが「大本神論」です。御筆先の内容は「さんぜんせかい いちどにひら九 うめのはな きもんのこんじんのよになりたぞよ」といったように金神が世に現れたことを説き、世の立て替え、立て直しを進めることを求めることでありました。しかし金光教には終末論的な世直しの傾向をもっていなかったため、なおは、1897(明治三十)年には金光教から独立します。
王仁三郎が表に立って活躍するにつれて、なおの方は、表舞台から退き、最後の段階では、御筆先さえ書かなくなります。そして、事件の起こる前の1918(大正7)年に83歳で亡くなっています。先に触れた出口和明の「大地の母」では、なおに降った天照大神と、王仁三郎に降ったスサノオノミコト、あるいはなおの側からは悪神とされた小松林命の間で激しい対立、抗争が繰り広げられたことになっています。そうした話は、大本についてあつかった他の書物には書かれていません。この事件の大打撃によって先に触れた浅野や谷口などは大本を去ることになりました。
王仁三郎は大陸進出を果たしていきます。それはやがて、第二次大本事件にも結びついていくのですが、大本を日本のみならずアジア全体に広めるのに貢献しました。大本には世の立て替えという考え方があり、社会変革の志向性がありました。そのため、1934(昭和9)年には、昭和維新を掲げて「昭和神聖会」が組織されます。昭和維新会は、反体制的な政治運動ではなかったものの、会の賛同者には、大臣や貴族院議員、衆議院議員、陸海軍の将校なども名を連ねていたため、国家権力にとっては脅威であり、1935年12月警察の大々的な取締りを受け、王仁三郎以下教団の幹部たちは不敬罪や治安維持法違反で逮捕されました。大本の施設は徹底的に破壊され、メディアは反大本キャンペーンをはることになります。これが第二次大本事件です。1940年、一審では王仁三郎に無期懲役の判決が下され、信者たちは有罪判決を受けます。王仁三郎は、6ヶ月にわたって獄につながれ、日本の敗戦によって控訴中に大赦となります。
戦後、大本教団は再建されますが、1948年に王仁三郎は亡くなっています。王仁三郎なきあとの教団は、すみや直日のもと、農業運動や平和運動に力を注ぐものの、王仁三郎生前の時代のように、運動として大きく発展することはありませんでした。しかも、内紛から分裂しその点でも力を失っているそうです。 
大本

 

(おおもと) 出口なおとその女婿出口王仁三郎によって立教された神道系新宗教である。一般に「大本教」と呼称されるが、大本側の正式名称は“教”を付けない。
1892年(明治25年)、なおに「うしとらのこんじん(艮の金神)」と名乗る神が憑依する。1898年(明治31年)、なおと王仁三郎が教団組織を作る。王仁三郎はなおの娘すみの婿となり、なおの養子となった。 なおには国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)によって伝えられた。王仁三郎には豊雲野尊などの神懸りによって神示が伝えられていたが、なお没後には国常立尊の神懸りも加わり、『霊界物語』の口述を始めた。 1980年(昭和55年)、三代教主直日の後継者をめぐって内紛が起こる。王仁三郎の孫・出口和明が教団批判を行った。当初直日の後継者とされていた直日の長女・直美の夫である出口榮二が追放されたことを機に、教団全体を巻き込んだ抗争となり、裁判沙汰となった。最終的に大本は三女・聖子が継ぐことになった。直美を四代教主と仰ぐ一派は「大本信徒連合会」を結成、和明は王仁三郎のみを教祖とする宗教法人愛善苑を設立した。
教典
出口なお『大本神諭』
出口王仁三郎『霊界物語』
教義
『大本神諭』『霊界物語』による。
型の大本(大本内で起こったことが日本に起こり、日本に起こったことが世界に起こるという法則)
立替え・立直し(終末論と理想世界建設)
大本事件
第一次大本事件
1921年(大正10年)に起きた事件である。不敬罪と新聞紙法違反の容疑で王仁三郎が逮捕された。1927年(昭和2年)に恩赦(大正天皇大葬による)が行われ、裁判自体が消滅、事件は終結した。この間、一部の信者が教団を離脱した。生長の家を立教した谷口雅春は当時大本の信者であったが、明治55年(大正10年、1921年)に起こると予言された「立替え」が起こらなかったことに不信を抱き、事件に際して教団を去っている。
第二次大本事件
1935年(昭和10年)に起きた事件である。教団本部の建物撤去が行われた。
大本神諭 (おおもとしんゆ)
新宗教大本の教典。お筆先とも呼ばれる。
明治時代後期、大本の開祖出口なお(直)(以下なお(直)と表記)は天地の創造主神国常立尊の帰神から、1918年(大正7年)に逝去するまでの約27年間、自動書記により「お筆先」と呼ばれる一連の文章を残した。お筆先はほとんどひらがなで記されたが、これを娘婿にして大本の聖師の出口王仁三郎(以下王仁三郎と表記)が漢字をあてて発表したものが『大本神諭』である。「神のお告げ」による啓示系の教典である。現代文明に対する強烈な批判と、国常立尊の復活に伴う終末と再生を預言した。大本において『大本神諭』は、なお(直)の死後に発表された王仁三郎の『霊界物語』と併せ、大本二大教典の一つとして扱われる。
大本神諭は『三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。神が表に現れて三千世界の立替え立直しを致すぞよ』という宣言を機軸とする。神の名前や啓示そのものは、当時のなお(直)が置かれた極貧生活や明治時代という社会情勢、金光教や九鬼家の影響が見られるが、それだけで解釈できない点もある。王仁三郎は、艮の金神の正体を古事記や日本書紀で国祖神とされる国之常立神(国常立尊)と審神した。国祖神の治世は厳格を極めたため、不満を募らせた八百万の神々により国常立尊は艮の方角(鬼門)に封印されて「艮の金神」となり、妻神豊雲野尊は坤の方角にこもって「坤の金神」となったという。神諭は、節分(豆まき)、鏡餅、門松など日本の多くの宗教的儀式に国常立尊を調伏・呪詛する目的が隠されていると指摘する。だが国常立尊が再び現れる日は迫っており、それにともない体主霊従の文明から霊主体従の文明へと、価値観が大転換すると説く。変革が行われたあとに到来する理想世界はみろくの世とされる。「水晶の神世」「松の世」とも表現される。独特の神話観と、個人的利益・救済の域を超えた強烈な終末論・千年王国思想は従来日本宗教の中でも特徴的である。
お筆先は、神懸かりしてから大正7年6月の最後の筆先まで約27年間、半紙20枚綴りで約1万巻を記述したが、二度の宗教弾圧(大本事件)により多くが散逸した。筆先は基本的にひらがなのみで構成される。それは、神の意志によりひらがなで記述されることが筆先の中に記されている。一つには、とかく学問に縁遠い当時の婦女子にも読めるようにという事において、二つには物質文明を支える知識学識万能主義に対する警告として、である。しかし句読点も漢字も当てられていないので、通読はしてもその意味は何通りにでも理解出来てしまい、王仁三郎以前の大本幹部達はその内容を整理できず教義を確立できなかった。ひらがなばかりの独特の書体は執筆当初から執筆を終える約27年間、ほとんど変化なく同じ筆圧、筆速、力強さも同じであり、一種の風格をえ、賛美する書家もある。断定的な表現と独特の文体は読者に強い印象を与えた。歴史家松本健一は、神諭の文体は王仁三郎の文章と比較して非常に厳しく男性的であり、「変性男子」にふさわしいと評している。
王仁三郎は大石凝真素美らを始めとする国学者らから習得した言霊学と古神道の知識を持っていた。彼は古事記の新解釈によってこの筆先に句読点と漢字を当て、かくして編纂した独特の神話『大本神諭』が誕生した。以前から筆先は綾部町の大本本部に参拝した信者達に読み聞かせるという形で公開されていたが、教団機関誌「神霊界」1917年(大正6年)2月号に始めて『大本神諭』として掲載され、1919年(大正8年)11月25日に『大本神諭・天の巻』が、1920年(大正9年)7月28日に『大本神諭・火の巻』が発刊された。ところが神諭の社会的影響力の強さを憂慮した政府により、同年8月5日に「火の巻」を不敬と認定、発禁となった。神諭にはアメリカとの戦争の予言や天皇への批判と受け取られる文面があり、治安当局に警戒されていたという事情がある。各所の伏字は秘密めいた異端説として終末観的期待を増幅させた。当局は第一次大本事件でも、神諭は天皇の尊厳を冒涜するものと認定すると、不敬罪で追求している。
歴史
1892年(明治25年)2月3日、京都府綾部市本宮町で極貧生活を送る無名の女性、出口なお(直)に、「艮の金神」と名乗る神の神懸かり現象が起きた。当初、周囲はなお(直)が発狂したと判断して大目にみていたが、放火犯と誤認逮捕したことがきっかけとなり、自宅の座敷牢に押し込める。この時、文盲のなお(直)が牢内で釘をつかって文字を刻んだのが「お筆先」のはじまりとされる。現存する最も古い筆先は明治26年旧7月12日付であるが、さらに古いものがあった可能性もある。当時、行政当局により宗教法人設立は厳しく監視され制限されていた。そこで金光教の傘下で活動したが、なお(直)はあくまで艮の金神を重要視し、同時に神の正体を見極めることを望んだ。現実社会における信仰を説く金光教と、現世を「けもの(獣類)の世」「われよし(利己主義)の世」と定義して終末論的な立替え立直しを訴えるなお(直)/艮の金神は、根本的な神学が異なったのである。
1898年(明治31年)10月と翌年7月、古神道の知識に長けた上田喜三郎(出口王仁三郎)がなお(直)を訪問し、艮の金神を審神(さにわ)する。審神とは憑霊状態が高次の神霊で、かつ善神によるものなのか、神格はどの程度なのか、あるいは動物霊や低級霊が憑依しているのかなどを審理・判断する行為をいう。従来の神道や仏教、天理教や金光教といった新宗教ですら艮の金神の正体を判別できず、審神のエキスパートであった喜三郎の知識と能力が必要とされていたのである。喜三郎は「艮の金神」を「国武彦命(国常立尊)」と審神する。なお(直)の教団に加わった喜三郎は、なお(直)の末子で後継者と決められていた出口すみ(澄)と養子婿結婚して出口王仁三郎と改名した。
なお(直)と王仁三郎の関係は複雑である。筆先によれば、なお(直)の守護神は「艮の金神」で厳霊(女性の肉体に男霊が宿った変性男子、天照大神)、王仁三郎の守護神は「坤の金神」で瑞霊(男性の肉体に女霊が宿った変性女子、スサノオ)であり、宗教上の夫婦関係は現実において養母・養子婿だった。非合法は覚悟で活動しようとするなお(直)と、公認宗教の下部組織として警察の干渉を避けようとする王仁三郎は対立する。これに従来幹部の権力争いが加わり、彼らは王仁三郎を厳しく攻撃した。王仁三郎は日露戦争終結後に一度教団を離れるが、教派神道の知識を身につけると再び綾部に戻り、教団の発展に尽力する。彼の守護神とされる「坤の金神」を公式に祭ったことでなお(直)との宗教的対立は終息した。1916年(大正5年)、なお(直)の筆先に「王仁三郎こそみろく大神」という啓示があり、初対面から18年後、なお(直)は王仁三郎の神格を認めた。これにより神聖とされた筆先を、王仁三郎の手で編集することが可能となった。
以前より大本の実質的指導者は王仁三郎だったが、新たな啓示により、宗教的な主導権も王仁三郎に移った。1918年(大正7年)11月、開祖・なお(直)が死去。末子の出口すみ(澄)が二代教主、夫の王仁三郎が教主輔に就任する。大本は大正日日新聞を買収してメディア展開を開始。社会構造の変化や都市化を背景に、京都府綾部・丹波の地方民間宗教団体から全国規模の教団へと飛躍する。同時に、大本の中で王仁三郎と新幹部浅野和三郎の間で対立が生じた。浅野を中心とした派閥は大本神諭を重要視する。なかでも「大正十年立替え説」(明治五十五年の立替え)という終末論を強く主張する。第一次世界大戦やロシア革命といった歴史的転換点の中で終末観は多くの人々の心を捉え、秋山真之海軍少将も大本を訪れている。教団本拠地である綾部や亀岡には神諭の終末論を信じた人々が続々と移住したが、彼らの思想と見通しは太平洋戦争の展開と驚くほど合致する。大本が大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍・華族への影響力を強めていたことに危機感を抱いた大日本帝国は、1921年(大正10年)2月に不敬罪と新聞紙法違反を罪状に王仁三郎や浅野を逮捕して弾圧を加えた(第一次大本事件)。
保釈された王仁三郎は同年10月18日より、新たな教典『霊界物語』の口述筆記に着手する。なお(直)の「筆先/大本神諭」は強烈であるが具体性と論理性に乏しく、その内容を具体的に教義として確立させたものが王仁三郎の活動であり『霊界物語』とも言える。神諭が発禁となったため新教典が必要となったという切迫した事情があったとも言われている。王仁三郎の手法に失望した多くの幹部や信者が教団を去り、浅野は心霊科学研究会を、谷口雅春は生長の家を、友清歓真(友清の離脱は1919年)は神道天行居を設立した。第一次大本事件の後、王仁三郎は自らのカリスマと新教典『霊界物語』を中核に新たな展開を行なった。
大本神諭の正当性
『大本神諭』は開祖・なお(直)の「お筆先」を王仁三郎が編集したものであり、原文そのままではない。筆先にあった土俗性や神仏習合といった混沌が整理され、伝統的な日本神道への接近が意図されている。筆先を書かせた神は「艮の金神=国常立尊」の他にも天照皇大神、金勝要之神、竜宮の乙姫など複数存在した。「艮の金神」についても、綾部藩主九鬼家に伝わる『九鬼文書-鬼門呪詞』の主神「宇志採羅根真大神(ウシトラノコンジン)」に由来するという説もある。なお(直)の死後、王仁三郎が九鬼隆治(子爵、第21代)に宛てた書簡からもうかがえる。さらに『天理、金光、黒住、妙霊先走り、とどめに艮の金神現れて、世の立替えを致すぞよ』という表現もあり、なお(直)が先行した民衆宗教の影響を受けていることを示す。一方で、神諭の表現は立教の年代順と異なる。これは教義の親縁性による順の可能性があり、王仁三郎も大本神諭を天理教神諭と比較して両者の関係を考察した。
王仁三郎のみにしか筆先の編集作成は出来ないとされていたにも関わらず、浅野和三郎が筆先から神諭への編纂に携わったという逸話がある。1916年(大正5年)12月に入信した浅野が編纂した箇所がどの部分で、どれだけの量、またはどれだけのパーセンテージで編纂したのかも正確に判明していない。ただ浅野が「皇道大本」の教義形成、神諭の研究に没頭していたという事実はある。また王仁三郎が筆先から神諭へと編纂したと言われているが、当事者である王仁三郎も京都府警に対し『年月日と組立等を、開祖なおに尋ね乍ら書いたのであるから、誌上の稿になったものと同じお筆先は実際にはありません」』と大正8年に発言している。第一次大本事件における当局の追及に対しては、「筆先は神霊現象で人間に責任はなく、皇道大本に不敬の意図はない」と釈明している。
王仁三郎は、開祖・なお(直)(厳霊)の役割を洗礼者ヨハネ、自身(瑞霊)をスサノオ/救世主と位置づけている。1935年(昭和10年)の第二次大本事件を回顧した歌集(1942年10月)では「筆先は 神々教祖に 懸かられて しるし玉ひし 神言なりけり」「御神諭は 毛筋の横幅も 違はぬと 月座の教祖(王仁三郎)は 宣らせ給ひぬ」「人皆を 昔の神の 大道に 改めたまふ 神諭の主意なり」「善心で 読めば善なり 悪神で 読めば怪しく 見ゆる筆先」と詠う。新教典『霊界物語』第7巻総説では筆先について「1916年の神島開き(みろく神啓示)前の筆先は御修行中の産物であり、未成品」と述べ、12巻序文で「筆先は神々の言霊の断片を録したもの、演劇に例えると台詞書の抜書。霊界物語は、その各自の台詞書を集めて一つの芝居を仕組む全脚本。筆先は純然たる教典ではない」としている。第36巻序文においても、国常立尊は「大海の潮水」であり筆先は「手桶に汲み上げられた潮水」「神の演劇の台詞書のみを抜き出したもの」と定義する。平仮名のみの卑近な言であっても「神様の意志表示に就ては毫末も差支ないものである」とした上で、霊界物語は神諭を補完するものと述べている。なお(直)や王仁三郎の魂が国常立尊やスサノオ全体ではなく、その一部分であるとした。
王仁三郎は2つの和歌を残した。「みな人の 眠りにつける 真夜中に 醒めよと来なく 山ほととぎす」「梅の花 一度に開く 時来ぬと 叫び給いし 御祖畏し(みおやかしこし)」
大本神諭と予言
『大本神諭』は「神の申した事は、一分一厘違わんぞよ。毛筋の横巾ほども間違いはないぞよ。これが違うたら、神は此の世に居らんぞよ」「大本は世界の鏡の出る処であるから、世界に在る実地正味が、皆にさして見せてあるから」と主張する。神懸かり初期のなお(直)は周囲から「発狂した」「狐か狸がついた」と見られていたが、「綾部の金神さん」という評価を得るに至ったのは日清戦争の予言だった。ほかにも関東大震災や太平洋戦争を示唆する表現もある。特に1923年(大正12年)の関東大震災で東京が甚大な被害を受けると多くの人々が「神諭の予言が的中した」と受け取り、第一次大本事件により大打撃を受けていた大本は一転して熱烈な支持を受けることになった。
この後、1930年代の大本は王仁三郎の指導下で爆発的に発展すると、革命を起こしかねない危険勢力として1935年(昭和10年)12月に日本政府(岡田内閣)の徹底的な弾圧を受けた(第二次大本事件)。綾部と亀岡の本部は焼け野原状態となり、1942年8月に保釈された王仁三郎は廃墟となった亀山城址(大本聖地)を見て「このように日本はなるのや、亀岡は東京で、綾部は伊勢神宮や」と語ったとされる。松本健一は王仁三郎の発言について、なお(直)の「東京は元の薄野に成るぞよ。永うは続かんぞよ。東の国は、一晴れの後は暗がり。これに気の附く人民はないぞよ」という筆先を下敷きにしていると指摘した。
霊界物語
新宗教「大本」の教祖・出口王仁三郎が大正〜昭和初期に口述筆記した物語。開祖出口なお(直)の大本神諭と並ぶ同教団の根本教典の一つ。全81巻83冊ある。
明治時代後期に開祖出口なお(以下なお(直)と表記)の神懸かりによって誕生した新宗教大本は、なお(直)が養子婿として迎えた出口王仁三郎(以下王仁三郎と表記)の活動により、大正時代に教勢をのばした。
大日本帝国政府は、1921年(大正10年)に不敬罪を理由に弾圧を行った(第一次大本事件)。これにより従来の教典『大本神諭』が発禁となり、王仁三郎は同年10月18日から新たに『霊界物語』の口述筆記を開始した。
王仁三郎を通して啓示された教えには、ほかに「道の栞」「道の光」などの教典がある。
『霊界物語』は全81巻83冊に及ぶ大長編である。古事記に基づく日本神話を根底とするが、聖書、キリスト教、仏教、儒教、孟子、エマヌエル・スヴェーデンボリ、九鬼文書など、あらゆる思想と宗教観を取り込んでおり、舞台は神界・霊界・現界と全世界に及ぶ。王仁三郎によると、『霊界物語』には126種類の読み方があると述べていたとされ、予言書としての読み方も存在する。内容は、宇宙及び大地の創造の過程、超太古の神政の様子、現代社会への批判や風刺、未来の予言(第二次世界大戦なども示唆するという)など、多種多様。登場人物の言動や王仁三郎の解説を通じ人間の霊性について読み取ることが出来る。その一方、政治的なエピソードも盛り込まれており(後述)、戦前は安寧秩序紊乱との理由で一部発売頒布禁止処分を受け、第二次大本事件で全巻発禁処分、私蔵も禁じられていた。大本では『大本神諭』と共に二大根本教典とされており、現在は一般にも販売されている。
内容
全81巻、83冊からなる(第64巻が上下の2冊、特別篇として「入蒙記」が1冊)。第1巻は「子の巻」、第2巻は「丑の巻」というように順番に十二支の名前が付けられている。各巻はいくつかの「篇」に分かれ、最小単位として「章」がある。『霊界物語』が完結作品か未完作品かについては、立場や識者によって意見が異なる。予定では5巻完結、12巻完結ともされる。王仁三郎は第37巻序章にて、36巻を1集として48集、つまり1728巻書けという神命が下ったが、神に頼み120巻に縮小したと述べた。第74巻(昭和8年)の時点で残り46巻と述べたが、20巻出すことは難しいとも語る。1巻の分量は約300-400頁で、各巻100字詰め原稿用紙約1200枚。全巻原稿用紙換算約10万枚であり、中里介山の時代小説『大菩薩峠』と比較しても膨大である。王仁三郎と会見した大宅壮一も同様の感想を抱き「内容は別にしても、これだけのものがどうしてできたかは、興味のある問題である」と述べた。
1921年(大正10年)10月18日から『霊界物語』は著された。王仁三郎は30分ほど睡眠、目覚めると横たわったままある種のトランス状態で口述し、選抜した信者に筆録させるという形で著述された。主な口述筆録者は谷口雅春、加藤明子、桜井重雄、東尾吉雄など。筆録者の内崎照代は、わからない部分を聞き返すと「文章がカイコの糸のようにスルスルスルスルと出てくるので、途中で止められると糸が切れるようになるんじゃ」と叱られたと回想している。
村上重良は「王仁三郎の才能とエネルギーは人間離れしている」と評する。第1巻は10月18-26日で完成し12月30日に教団出版局から刊行された。1922年(大正11年)に5-46巻を、1923年(大正12年)7月までに47-65巻を完成させた。1924年(大正13年)2月、責付出獄中に植芝盛平たちを率いて日本を脱出、モンゴルに赴いた時には流石に中断となった。この冒険の直前に書かれた第64巻はキリストがエルサレムに再臨する展開であり、王仁三郎は「スサノヲの神の踏みてし足跡を 辿りて世人を治め行くかな」と詠っている。一方で冒険とモンゴル独立運動計画そのものは失敗、張作霖により処刑されかけるなど危機を乗り越えて10月に帰国した。11月に釈放されると口述を再開し、1926年(大正15年)5月22日に72巻完成、7月1日までに特別編「入蒙記」が完成した。発刊ペースは平均1月に1冊ほどで、1929年(昭和4年)4月に72巻が発刊となった。口述は暫く中断するものの、王仁三郎は各巻の細かい修正や加筆を行った。
1933年(昭和8年)10月4日(旧8月15日)〜翌年8月15日に73〜81巻「天祥地瑞」が書かれた。それまでの物語は楽な姿勢で口述していたが、天祥地瑞は緊張した雰囲気の中で行われ、亀岡では聖壇も用いられた。この篇は一章を一時間程で口述すると筆記者が復唱して、王仁三郎がミスを修正、休憩時間を取ると筆記者が変更して1日3-6章を完成させたという。その後、昭和9〜10年に王仁三郎自身の手によって全巻の校正がされた。
あらすじ
出口王仁三郎は霊界物語第1巻の冒頭「序」において、次のように述べている 「この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞鳴命が地球上に跋扈跳梁せる八岐大蛇を寸断し、つひに叢雲宝剣をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を再建し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまひし太古の神世の物語および霊界探検の大要を略述し、苦集滅道を説き、同胞礼節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく現界に現はれ来ることも、あながち否み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。」
つまり霊界物語の主人公は神素盞嗚大神(かむすさのおのおおかみ)であり、救世主神である神素盞嗚大神が八岐大蛇を退治して地上天国である「みろくの世」を建設し、太古の神代に邪神によって追放された艮の金神=国常立尊を再び地上神界の主宰神として復活させる物語と定義した。
実際のストーリーとしては、神素盞嗚大神が全巻を通し主役として活躍するわけではない。まず物語冒頭に王仁三郎が霊的に体験した天国と地獄の様相が述べられる。次に舞台は神話世界に移り、日本神話の創造神にして国祖国常立尊が物語の中核となる。霊主体従を原理とする国常立尊は、敵対する体主霊従(われよし)の盤古大神一派(ウラル教)・力主体霊(つよいものがち)の大黒主神一派(バラモン教)と争った末、八百万の神々の要求により地上神界の主宰神の地位を追放され世界の艮の方角に隠退、妻神豊雲野尊も坤の方角に隠退してしまう経緯が記されている。王仁三郎は、国常立尊こそなお(直)に懸かった「艮の金神」と定義している。
以下、伊邪那岐命と伊邪那美の国産み・神産み、アマテラスとスサノオの誓約や天の岩戸隠れ・開き、スサノオとヤマタノオロチの戦いなどが再構成されており、『霊界物語』前半は日本神話の影響が強い。王仁三郎は権力者達によって改竄された古事記を本来の姿にしたものが『霊界物語』とも語る。天照大神(万世一系の天皇)を正統とする従来の日本神話に対し、王仁三郎はスサノオこそ正統の神と読み返える事で「自分(スサノオ=王仁三郎)が世界を救う」と宣言したと指摘される。
神素盞嗚大神による世界救済の経綸が始まるのは、第15巻以降である。高天原を追放された神素戔嗚尊は贖罪神となり、悪神・悪人を言向け和し(改心させ)、地上を国常立尊の霊主体従世界(みろくの世)へと変えて行く。その過程で主神は三五教(あなないきょう)の宣伝使(せんでんし)と呼ばれる弟子たちを世界各地へ派遣した。彼らは八岐大蛇や金毛九尾の狐に代表される邪神・悪霊と戦う。そして悪霊由来のウラル教・バラモン教・ウラナイ教といった宗教の信仰者が、神素盞嗚大神の教えに帰順する様が描写されている。
日本語名を持つ神々や人物と、カタカナで表現される外国人のような人物が混在し、神獣や妖怪を交えた物語が世界規模で展開する。さらに実在した人物が登場することも特徴的であり、王仁三郎の分身や大本信者をはじめ、第71巻(戦前は発禁となり戦後は64巻下として発刊)ではレフ・トロツキーが出てくる。開祖・なお(直)は第2巻で稚桜姫、第15巻11章で手名椎命、第21巻第5章で初稚姫、特別篇「入蒙記」で国照姫として現れるという解釈もある。初稚姫は物語中盤以降、神覚に優れた絶世の美少女宣伝使として活躍する。ただしほとんどの登場人物は近代小説のように内面性を持たず、全巻を通じて言及される者は一部の神々を除いて存在しない。基本的に波乱万丈で、ムー大陸が登場し、ハルマゲドンを「黄泉比良坂の戦い」になぞらえるなど奇想天外であり、王仁三郎の得意とする駄洒落・語呂合わせ・戯詩が滑稽な口調と文体で表現されているが、そのことについて、王仁三郎自身は次のようにのべている。「本書は王仁が明治三十一年旧如月九日より、同月十五日にいたる前後一週間の荒行を神界より命ぜられ、帰宅後また一週間床縛り修業を命ぜられ、その間に王仁の霊魂は霊界に遊び、種々幽界神界の消息を実見せしめられたる物語であります。すべて霊界にては時間、空間を超越し、遠近大小明暗の区別なく、古今東西の霊界の出来事はいづれも平面的に霊眼に映じますので、その糸口を見つけ、なるべく読者の了解し昜からむことを主眼として口述いたしました。 霊界の消息に通ぜざる人士は、私の『霊界物語』を読んで、子供だましのおとぎ話と笑はれるでせう。ドンキホーテ式の滑稽な物語と嘲る方もありませう。中には一篇の夢物語として顧みない方もあるでせう。また寓意的教訓談と思ふ方もありませう。しかし私は何と批判されてもよろしい。要は一度でも読んでいただきまして、霊界の一部の消息を窺ひ、神々の活動を幾分なりと了解して下されば、それで私の口述の目的は達するのであります。 (中略)本書を信用されない方は、一つのおとぎ話か拙い小説として読んで下さい。これを読んで幾分なりとも、精神上の立替へ立直しのできる方々があれば、王仁としては望外の幸であります。」
第72巻までは「三十五万年前の太古の神代」という時代設定で小説と歌を中心に構成されているが、第73〜81巻(天祥地瑞)は趣きが異なり「紫微天界」という原初の宇宙が舞台であり、ほぼ連歌体と問答体の和歌で表現されている。
王仁三郎は1933年(昭和8年)11月19日皇道大本大祭・開祖十五周年大祭にて、天祥地瑞編は神代時代/霊国の事を描写し、読者に予備知識を与えるため・筆記者の育成をするため、連載再開まで7年間の期間を設けたと語った。
また本来のストーリーの流れとは若干異なる物語が随所に挿入されている。たとえば第37・38巻は王仁三郎の若い頃(20代後半〜40代前半)の自叙伝である。第60巻の後半には「三美歌」と呼ばれるキリスト教讃美歌の替え歌や、各種の祝詞、また「三五神諭」という「大本神諭」のリニューアル版を収録する。第61・62巻は「大本讃美歌」という567篇の歌が書かれている。第64巻上・下の2冊は現代のエルサレムが舞台。特別編入蒙記は大正13年に王仁三郎がモンゴルを行軍した実話である。第一巻冒頭は、第一次大本事件前の教団月刊誌「神霊界」に発表された文章を修正して掲載してある。同様に大正9年11月号に掲載された「古事記略解」が第12-15巻にかけて収録されている。
加えて第8巻や第54巻では階級制度の打破を明確にしたかのような表現など、政治的なエピソードも盛り込まれている。
第69巻では登場人物の境遇によせて万世一系に対し女系天皇の利点(浮気をしても女系なら血統は必ず続く)を解説していると解釈する人もいる。グロス島(グロテスクな大日本帝国という暗喩)を舞台とする第78巻では、主神由来の女神の活躍によりグロス島は葦原新国に改名され、島東部の桜ヶ丘から全島を治めていた天津神達が国津神に格下げ・島西部の国津神が格上げして天津神になるという地位逆転劇を描写している。
霊界物語に見られる天界と天使 / 霊界物語に登場する天界の天使たちは主に主たる神から発せられる信真と愛善によって生かされるとしていたが、天使たちは神の働きをしたものの、謝礼や感謝されることを拒む。理由は神から発せられているものであって、神が施す加護であり、天使はその指示に従ったにすぎず、すべて感謝するのは神のみにすべきであるということを天界を巡覧する宣伝使たちに告げている。王仁三郎は「祈りは天帝のみにすべきもの。他の神様は礼拝するもの。誠の神は一柱のみで、他はみなエンゼルである」と述べた。
天界 / 天界は主に霊国と天国に別れており、この二つの天国が天界全体を構成し、さらにこの天国は三つの階層によって構成され、最高天国、中間天国、下層天国に分類され、各天使たちはその智慧証覚の程度に応じて住居していると記載される。
歴史
成立の背景
1892年(明治25年)2月3日(旧正月5日)、京都府綾部町で極貧生活を送る無名の女性出口なお(直)に艮の金神を宣言する神が帰神(神憑り)した。病気治療や予言で「綾部の金神さん」の評判を得たなお(直)は金光教の傘下で活動したが、教義の違いから独立した。
1898年(明治31年)2月、丹波国桑田郡穴太村(京都府亀岡市)に住んで牧畜と牛乳販売業を営む青年・上田喜三郎が喧嘩で負傷、直後、富士浅間神社の祭神、木の花咲耶姫の命の天使、松岡芙蓉仙人に導かれて、近隣の高熊山で一週間の霊的修行を行う。この霊的体験が後年の『霊界物語』の原型となる。下山した喜三郎は駿河の稲荷講社総長長沢雄楯を尋ねて言霊学と古神道の知識を得た。同年10月と翌年8月、喜三郎は綾部の出口なお(直)を訪問する。喜三郎は「艮の金神」を「国武彦命」と審神(後に稚姫君命、国常立尊と神格が上がる)。なお(直)の信頼を得た喜三郎は後継者と定められた出口すみ(澄)(のち大本二代教主)と養子婿結婚して出口王仁三郎と改名した。
大本では、なお(直)を「女性の肉体に男神が宿った変性男子」、王仁三郎を「男性の肉体に女神が宿った変性女子」と定義し、なお(直)の「経、火、厳霊、艮の金神」と王仁三郎の「緯、水、瑞霊、坤の金神」の伊都能売(いづのめ)の御霊の働きで世界は救われると説く。だが神霊的には夫婦関係だったものの二人の性格と行動は正反対であり、当初は「火水の戦い」と呼ばれる宗教的大喧嘩を繰り返した。加えて教団内の権力闘争と教義解釈により王仁三郎は孤立。高熊山での神秘体験を一部原稿化したものの、従来幹部との対立から公表することはなかった。王仁三郎は一時教団を離れ京都皇典研究所(国学院大学)に入学、建勳神社や御嶽教に勤務しつつ、さまざまな宗教や人物と交流して見識を高めた。その後、綾部に戻り、なお(直)のエネルギーと王仁三郎の解釈をうまく合致させ、地方民間宗教団体だった大本を全国規模の教団に拡大させている。対照的な資質を持つ二人は大本に複雑な性格を与えた。1916年(大正5年)10月4日(旧9月8日)、「王仁三郎こそ五六七(みろく)神」という筆先が出現し、なお(直)は王仁三郎の神格を認めた。これによって筆先を王仁三郎の手で編集することが可能となった。1918年(大正7年)11月6日、なお(直)が死去。末子の出口すみ(澄)が二代教主、夫の王仁三郎が教主輔となる。
1920年(大正9年)8月、王仁三郎は大正日日新聞を買収、全国的メディア展開を開始した。この頃、大本筆頭幹部で王仁三郎に匹敵する信望と指導力を持つ浅野和三郎が「大正10年立替説」という終末論を唱えて大反響を引き起こした。当局は宗教団体が大手メディアを買収して権力者・体制批判を始めたことに危機感を抱いた。大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍の高級軍人や華族が次々に入信したことも、当局の懸念をますます強くした。さらに終末論と黙示録的予言が社会問題化、従来マスメディアは大本を厳しく批判する。原敬総理大臣や床次竹二郎内務大臣も大本の勢力拡大を憂慮。1921年(大正10年)1月10日、平沼騏一郎検事総長は大本検挙命令を下し、2月12日に一斉検挙と捜索を開始、王仁三郎や浅野は拘束された。同年10月5日、第一審にて不敬罪と新聞紙法違反により王仁三郎に懲役5年、浅野に懲役10月、吉田祐定(機関誌発行兼編集人)に禁固3か月の判決が下った。その後控訴審が行われるが、昭和2年5月17日、大正天皇崩御による大赦令で免訴となった。これを第一次大本事件という。事件を契機に、教団内で王仁三郎(教主・大先生派)と浅野派(修斎会会長)、福島久派(開祖三女)の間で内紛が勃発した。
当局は、伊勢神宮に似ているため不敬との理由で、完成したばかりの綾部本宮山神殿を破壊するよう命じた。神殿破壊は当局により10月20日から開始される予定だったが、その2日前の10月18日、王仁三郎は綾部並松の松雲閣で『霊界物語』の口述筆記を始める。10月8日(旧9月8日)に神示が、10月17日になお(直)の霊が、それぞれ口述筆記を促したとされる。口述は神殿の破壊中にも続けられ、大本の教義はこの『霊界物語』をもって確立した。
大本神諭との関係
最初の神懸かりの翌年1893年(明治26年)、なお(直)は放火犯と誤認逮捕されたことがきっかけで、自宅の座敷牢に監禁された。この時、牢内で釘を使って書いた文章が「筆先」のはじまりとされる。文盲のなお(直)がつづった文章は平仮名と数字のみで構成され、限られた信者のみに清書することが許された。また漢字に置き換えることは神示によって王仁三郎だけに与えられた特権であり、彼の手により編集された筆先は1917年(大正6年)の機関誌「神霊界2月号」に『大本神諭』として発表された。多くの軍人や知識人を大本に入信させるほど強い影響力を持った書だが、1920年(大正9年)8月5日に『大本神諭・火の巻』が発禁処分となる。さらに文章を文字通りに解釈した浅野和三郎を始め多くの幹部・信者が終末論に走り全国に宣伝、第一次大本事件の一因となった。王仁三郎はなお(直)の権威で書かれた『大本神諭』を克服するために『霊界物語』を著したという指摘もある。一方『大本神諭』が発禁となり、終末論的な社会改革運動が弾圧されたことで、新たな教義と教典が必要になったという側面もある。教団の内部事情と当局からの弾圧が、複雑で曖昧な新教典を形成したといえる。安丸良夫は、王仁三郎と大本が『霊界物語』の教典化や国際的平和主義への対応、昭和初期の超国家主義運動団体化などさまざまな変貌を遂げつつ、千年王国主義的救済思想を維持し続けたと指摘した。
『霊界物語』では、『大本神諭』について「そもそも教祖の手を通して書かれた筆先は、たうてい現代人の知識や学力でこれを解釈することは出来ぬものであります。いかんとなれば、筆先は教祖が霊眼に映じた瞬間の過現未の現象や、または神々の言霊の断片を惟神的に録したものですから、一言一句といへども、その言語の出所と位置とを霊眼を開いて洞観せなくては、その真相は判るものではありませぬ。(中略)ゆゑに神様は、三千世界の大芝居であるぞよと、筆先に書いてゐられます。その各自の台詞書を集めて、一つの芝居を仕組むのが緯の役であります。ゆゑに霊界物語は筆先の断片的なるに反し、忠臣蔵の全脚本ともいふべきものであります。」と述べている。第36巻序文でも同様の事を述べ、「霊界の幾分なりとも消息が通じない人の眼を以て教祖の筆先を批評するのは、実に愚の至りであります。」と指摘している。
王仁三郎と霊界物語
多趣味多才の王仁三郎は『霊界物語』を演劇化する事にも熱心であり、王仁三郎自らが登場人物になって神劇を演じることも多かった。教義的な位置づけとして、第40巻序章で「霊界物語そのものは、つまり瑞月(王仁三郎)の肉身であり、霊魂であり、表現である」と強調している。読者には音読を推奨しており、平家物語のような口承文芸・日本の伝統的な語り文化を意図したと見られる。王仁三郎は「物語を読むには、なるべく音読がよい」と話していた。物語は王仁三郎の口を通じて出た言霊であって、言霊はそのまま霊界にも通じ、読者当人のみにとどまらず、多くの精霊たちにも聞かせることになり、霊魂の救済にも繋がるとした。大本では、黙読して頭で読むというよりも、臍下丹田に心を静めて、赤子の心となって魂で音読し、心の糧にするという方が望ましいとしている。
1924年(大正13年)にモンゴルへ電撃的に渡航した際には、娘婿・出口伊佐男に遺書「錦の土産」を託し、この中で「伊都能売の御魂霊国の天人なる大八洲彦命の精霊を充たし、瑞月(王仁三郎)の体に来たりて口述発表したる霊界物語は世界経綸上の一大神書ならば、教祖の伝達になれる神諭と共に最も貴重なれば、本書の拝読は如何なる妨害現はれ来るとも不屈不撓の精神を以て断行すべし。例え二代三代の言と雖もこの言のみは廃すべからず(以下略)」と厳命している。第二次大本事件後に出獄後は、周囲に物語の真意を語りだした。例えば第28巻は第二次大本事件そのもの、サアルボースやホーロケースという登場人物は西園寺公望と原敬と述べている。第57-58巻は太平洋戦争や東京裁判の隠喩と信者に語った。
松本健一は、『霊界物語』は古事記を筆頭に天皇制国家を支える神話を模倣しつつ「あるべき神の国(理想)」と「大日本帝国(現実)」の対比を描き出したと評し、王仁三郎は「霊魂的革命」を物語ることで現実世界の変革を訴えたのだと考えた。また村上重良は、直接的な表現をつかった『大本神諭』に対し『霊界物語』は抽象的表現で「立替え立直し」を表現し、読者に対し多様な解釈を暗示しているとした。  
大本 2

 

大本の概要と歴史
大本は、宇宙万物を創造された主神の愛善と信真にもとづく地上天国建設を目的としています。
諸悪の根元は、人心の利己主義(われよし)と弱肉強食(つよいものがち)にあるとし、人類が四大綱領【祭・教・慣・造】の本義にかえり、四大主義【清潔主義・楽天主義・進展主義・統一主義】の生活を実践することを説いています。
また、すべての正しき宗教や教えは究極の実在(一つの主の神)から出ていると説く“万教同根”の真理に基づき、各宗教宗派が大和協力するよう、活発な宗教協力・宗際化活動を行っています。
大本の歴史
明治25年(1892)
出口なお開祖に大地の主宰神、艮(うしとら)の金神=国祖・国常立尊(くにとこたちのみこと)が帰神して「三千世界の立替え立直し」を宣言、開祖が昇天する大正7年(1918)までに世界への預言・警告の筆先(半紙20枚綴り1万巻)を記しました。
明治31年(1898)
出口王仁三郎教祖は、神霊の導きにより、郷里の高熊山(京都府亀岡市)で1週間の霊的修業をし、現界・幽界・神界、三界の過去・現在・未来を洞察する神力を受け、救世の使命を悟りました。
明治32年(1899)
王仁三郎聖師は、神命を受け、大本に入り、開祖の五女出口すみこと結婚し、開祖とともに大本の基礎を築きました。
大正6年(1917)
開祖の筆先を『大本神諭』(全7巻)として発表。
大正8年(1919)
亀山城址を入手し、“霊国”の移写・神教宣布の中心(天恩郷)とし、発祥の地・綾部を“天国”の移写・祭祀の中心地(梅松苑)として二大聖地を築きました。
大本と丹波亀山城址(明智光秀公築城) / 丹波亀山城は、織田信長公の命をうけた明智光秀公が、丹波攻略の拠点として築城しました(天正5年ごろ)。「本能寺の変」後、豊臣時代には、その重要性から城内や城下町の整備がなされ、ついで江戸時代に入り、幕府が西国大名に命じ、「天下普請」により近世城郭として大修築がなされました。しかし、300年余り続いた丹波亀山城も明治初期に廃城令を受けて、天守はもとより、すべてが払い下げとなり、多くの遺構や石垣までもが分割売りされ、各地へと散りました。残された城址は荒れ果て、狐狸の巣くう丘陵台地となり、町の人々は「何がでるやら怖くて」通る人さえいない状態となっていました。大正8年(1919)、亀岡出身の宗教法人「大本」の教祖・出口王仁三郎師は、荒れゆく亀山城の様に憤慨し、待てしばし昔の城にかへさんと雄たけびしたる若き日の吾と歌に残した通り、亀山城址を買い取りました。出口王仁三郎師は、大本信徒を動員して、残った石を土中から掘り起こし、元の亀山城石垣を復元。そして、自然あふれる大本の聖地「天恩郷」として亀山城址をよみがえらせました。城址は今、平和な世界と人類の幸福を祈る場となっています。
同10年(1921)から、王仁三郎の高熊山修業の際、見聞した内容を口述した救世の書『霊界物語』(全81巻83冊)を刊行。
王仁三郎聖師が大本入りしてからは、大本の教勢は飛躍的に伸び、国家当局はその影響力を見のがすことができず、大正10年(1921)には第一次弾圧を、昭和10年(1935)には「大本をこの世から抹殺する」として第二次弾圧を加えます。
昭和20年(1945)
無罪判決により第二次大本事件は全面解決し、翌21年(1946)に「愛善苑」として再発足します。
同27年(1952)
出口直日(なおひ)(王仁三郎、すみこの長女)が三代教主を継ぎ、教団名を「大本」に復活、出口日出麿三代教主補とともに、人心の改造と世界恒久平和実現につとめました。
平成2年(1990)
出口聖子(きよこ)(直日、日出麿の三女)が四代教主を継承しました。
平成4年(1992)
開教百年を迎え、綾部・梅松苑には、天地の親神をまつる神殿「長生殿」が完成しました。
平成13年(2001)
4月29日、出口聖子四代教主の昇天により、出口紅(くれない)(聖子の養女、直日・日出麿の孫)が五代教主を継承しました。
21世紀をむかえるとともに、大本百年の基礎を経て大本神業は新たな段階を迎えています。
大本の祭神
大本では、天地のありとあらゆるもの、全大宇宙を生み、育てられている、根本の独一真神(主神)をはじめ、大地を造り固められた祖神である国常立尊(くにとこたちのみこと)<厳霊>、豊雲野尊(とよくもぬのみこと)<瑞霊>、その他正しい神々を「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」と仰ぎ、おまつりしています。
大宇宙の創造主神とは、永遠に変わることなく、絶対の存在として実在するただ一柱のみご存在になる根本の真の神のことで、古事記ではこの神のことを天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、大本では大国常立大神(おおくにとこたちのおおかみ)というご神名で尊称しています。
世界の各宗教ではこの主神のことを、ゴッド、エホバ、アラー、天、天帝などいろいろな名称で呼んでいます。
主神は、天地万物を司るために、幾百もの神々を生み出され、それぞれに役目を仰せ付けられ、世界を守り開かれています。
大本では、主神をはじめその正しい神々を総称して、「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」としておまつりしています。
なお、大本では主神とともに、主神の手足となって活動している多くの天使(かみがみ)を神さまとしてあわせておまつりし、各家の祖先の霊魂も丁重におまつりしています。
大本の教祖
出口なお開祖、出口王仁三郎(おにさぶろう)聖師によって開教した大本には、二人の「教祖」がいます。
出口なお 開祖
出生と昇天 / 天保7年旧12月(1837年1月)現在の京都府福知山市で出生。大正7年11月6日、81歳で昇天。
幼少時代 / 貧困家庭のため寺小屋に通う機会もなかった。19歳の時、綾部市に住む叔母出口ゆりの養女となり結婚。夫のもとで8人の子女に恵まれその養育に苦労する。
神がかりの始まり / 大工の夫・政五郎の病気そして昇天の後、56歳(明治25年・1892年)の節分の夜、にわかに神感状態となる。本人の意思とは異なる別な力がこみ上げ、威厳に満ちた言葉が口から出る。
「筆先」の始まり / やがて「筆を持て」と言う神のお告げを受けて、開祖の手が自然に動き〈自動書記的に〉、和紙に文字を書き始める。昇天までの27年間に半紙約20万枚に達する。
大本神諭 / “ひらかな”で記された筆先に出口王仁三郎が漢字を当て、まとめた大本の根本教典。その内容は、大本出現の由来、神と人との関係、現実社会の批判、日本民族の使命、人類の将来に対する予言・警告を通して、「三千世界の立替え立直し」を断行し、永遠に変わらない地上天国「みろくの世」の到来が啓示されている。
出口王仁三郎聖師
出生と昇天 / 明治4年(1871)、京都府亀岡市で出生。昭和23(1948)年1月19日、78歳で昇天。
幼少時代 / 神童・八ツ耳と言われるほど特別な霊能力を持つ。〈幼名・上田喜三郎〉。小作農の家庭に生まれ小学校を中退。農業のかたわら書生やラムネ製造、牛飼いなど辛酸をなめる。
高熊山での修行 / 明治31年(1898)旧2月、郷里の霊山・高熊山にて1週間の霊的修行を行う。霊界の秘奥をきわめ、天眼通、天耳通、天言通、宿命通、自他心通などの高度な霊能力を体得。救世の大使命を自覚。
開祖との出会い / 「西北の方角をさして行け」との神示を受け、綾部の大本開祖を訪ねる。明治32年から開祖と力を合わせて神業を推進。やがて開祖の末子・すみこ(後の二代教主)と結婚。後に開祖とともに大本の教祖として大本の教えを説く。
霊界物語の口述 / 大正10年(1921)に出口王仁三郎は、人類の危機を救い、思想の混乱を正し、宗教・科学を真に生かし、人間の霊魂を改造すべく、永遠にわたる人類の指導書として81巻にわたる「霊界物語」を口述。霊界物語は開祖の筆先の真意を解きあかし、天地創造に始まる地上霊界の歴史を述べた、地上天国建設の設計書。
万教同根と宗際化 / 大正12年(1923)、国際語エスペラントを導入。同14年(1925)、北京において世界宗教連合会を発足。続いて人種・民族・宗教等あらゆる有形無形の障壁を越えて、人類の大和合を唱導するため人類愛善会を創立。ベトナムのカオダイ教やドイツの白色旗団、ブルガリアの白色連盟等、広く世界の新精神運動と提携した。今日に至る宗教協力活動の礎を築く。
芸術と耀盌(ようわん) / 王仁三郎は「芸術は宗教の母なり、芸術は宗教を生む」と主張し、「洪大無辺の大宇宙を創造したる神は大芸術家でなければならぬ。天地創造の原動力、これ大芸術の萌芽である」とのべた。さらに芸術と宗教の一体を説くとともに、自ら、自然を愛し芸術に親しんだ。文筆、書画、陶芸、詩・歌など、多方面にわたる膨大な数の芸術作品を残した。それら作品の中で、もっともつよく人々を驚かせたのは、晩年に全精力を注いだ手造りの楽茶わん3000個であった。フランス油絵のような鮮やかな色彩美により、昭和24年(1949)「耀わん」と名づけられた。のちに耀わんをはじめとする作品は、欧米6カ国13都市における海外芸術展「王仁三郎とその一門の芸術展」で展示され、大きな反響をよんだ。
大本の教え
神の実在
天地のすべてのものは、関連し統一されています。しかも、絶えず動いています。この複雑微妙な統一が偶然にできあがるものではありません。そこには、絶大な統一意志が働きかけているのです。この絶大な意志の所有者を「神」といいます。
生み出し導く力
宇宙には造化のはたらきがあり、あらゆるものが生み出され、守られ、導かれています。この宇宙造化のはたらき、大自然の力こそ神から出たものであり、その力が神そのものでもあります。時計でも、時計自身が自然に動いているようですが、実は人間がさまざまな部品を組み合わせ、動くように造っているのです。天地でも、自然に動いているようであり、偶然に関連し統一されているようですが、そこには神という大宇宙を造られ、天地間のすべてのものを関連させ統一しておられる存在があるのです。神は大宇宙そのもの、また大宇宙のすべてのものを創造されたのですから、私たち人間一人ひとり、小さくは細胞の一つひとつまで、また私たちの周りの草や木、山や川など動物、植物、鉱物一切、大きくは地球、太陽、また私たちの肉眼では見えない星にいたるまで、無限に広がる大宇宙すべてを創造され、守り、生かしておられるご存在です。
限りない神の恵み
神から生み出された存在として、私たち人間を例にとって考えてみましょう。人間は、自分自身で生きているように錯覚していますが、神の大きな恵みによって生かされているのです。当たり前のように呼吸をしていますが、空気が数分間止まったら私たちは生きていけません。私たちが食する物は、すべて神の恵みによるものです。農作物や海産物などは、日、土、水など神の恵みによって生み出されはぐくまれたもので、人間はそれを収穫するために労働したにすぎません。加工品でも、神の恵みによって生み出されたものに人が手を加えただけです。そして、意識をしなくても私たちの体内の臓器、一つひとつの細胞は生きて活動できるように日夜動き、働いています。それぞれの臓器、細胞の一つひとつを生かし動かしてくださっているご存在こそ、神なのです。
神は大創造主
神は、見ることはできませんが、感じることはできます。人間一人が生かされていることひとつとってみても、神の偉大さを感じずにはいられません。それが、小さくは人の細胞一つひとつ、地中の微生物、植物の葉脈の一本一本、大きくは天体の寸分狂いない運行など、すべて神によって生かし動かされているのです。空に輝く星の世界、その星の群のまた彼方に広がる星の群…。この大宇宙に整然とした秩序をつけ、動かしている神のお力を悟らせていただきましょう。神が創造された世界は、この物質的な世界だけでなく、目に見えない心の世界、私たちの死後の世界など、人間心では到底計り知れない霊的な世界をも創造され、守り育てておられるのです。
大本教旨
神人一致
神は万物普遍の霊にして 人は天地経綸の主体なり、神人合一して 茲に無限の権力を発揮す
大本は、神について、人について、神と人との関係について示した聖言を「教旨」としています。人は、神のみ心を腹の底から理解し、神のみ力を受け、神と人とが一体となって人類の理想の世界を築いていくことをうたっています。
「神は万物普遍の霊」とは、神はこの世一切を創造されたご存在であり、この世一切のものには神の普遍的な霊が宿っているということです。
天地経綸の天とは、地上に対する宇宙であり、現実世界に対する霊の世界をも意味します。ここでいう天地とは、霊界・現界を合わせた全宇宙を指します。経綸とは、整え治めることです。
私たち人間は神の代行者として、神の願われる理想世界の実現に向けて、宇宙全体を整え治めるために構想し、実践していく責任者です。
人間は神が創造されたすべてのものの霊長であり、神の願われる理想世界を実践していくために、神から絶大なる知恵と力を授けられているのです。
人はこのような雄大な使命を頂いていますが、その使命を果たすには、神人合一することが絶対の条件です。神の心を心とし、神の力を身に受けてこそ、この使命を遂行し、限りない権威と力徳を発揮することができるのです。
三大学則
大本は、独一真神が無限絶対な存在であり、広大無辺であることを悟るために、三カ条の学則を示しています。この三大学則は聖師のお示しであり、神の創造された宇宙のすべてのものは「霊・力・体」の三元から成り立っています。
神が創造された全大宇宙をじっくりと観察することにより、神の実在とご神徳、神性を悟ることができます。大自然は、無言の教科書です。人間的知恵で書かれた書物よりも、大自然、天地万物を心ひそめて観察することによって、神の霊・力・体を深く感じ、悟ることができるのです。神の黙示は、大自然のいたるところに満ち満ちています。
神は、霊・力・体の三元をもって万有一切を創造されました。したがって、宇宙にあるものはすべて、霊・力・体の三元よりほかにはありません。
三大学則の三カ条を拝しながら、神の霊・力・体について思考してみたいと思います。
三大学則
一、天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし
一、万有の運化の毫差なきを視て、真神の力を思考すべし
一、活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし
天地の真象を観察して真神の体を思考すべし
肉眼で見える星の数は7,500余。天体望遠鏡を用いると、300億以上になるといいます。天の川は無数の星の集まりで、その端から端までの距離は30万光年あります。光の速さは、1秒間に地球を7回り半します。1光年とは、光の速さで1年かかって到達する距離ですから、30万光年という距離は驚異的です。
私たちの住む地球は、太陽系宇宙の小さな一惑星にすぎません。太陽系宇宙といっても、銀河系宇宙のほんの一部分です。その周りには数限りない宇宙が広がり、最も近い星雲でも70万光年あると言われています。神が創造された宇宙は無限に広がり、はかり知れません。
地球は、海があり陸があり、山があり川があって、60億の人類をはじめ、さまざまな動植物が太陽の光と土、水など大地の恵みによって生きています。生を受けた生物は、寿命を終えると一様にその亡きがらは大地に帰り、次の生命を養う栄養となります。
土の中にも数十億の微生物がおり、顕微鏡でしか見られない微生物、体内の細菌等にもはっきりとした組織があり、はたらきを持っています。極小のものとしては原子の世界があり、整然とした秩序、法則をもっています。
これらは一例ですが、極大の世界から極微の世界までを創造し、秩序・法則をもって生かしはぐくんでいる無限絶対のご存在が神なのです。
万有の運化の毫差なきを視て真神の力を思考すべし
天地間のものの中で、静止しているものはありません。大は天体から、小は原子まで、すべてが活動し、運化しています。そして、その動き方、うつり方にはみな一定の法則があり、軌道があります。このことが、宇宙間に大小さまざまな周期律をつくっています。
太陽系では太陽を中心に九つの惑星がそれぞれの軌道で回っています。地球が太陽の回りを1周する時間を1年、地球自体が1回転する時間を1日とし、それによって、1年の中に春夏秋冬が、1日の中に朝昼夜が巡ってきます。そして、悠久の太古から永遠の未来へと、一分の狂いもなく動き続けています。
すべてのものは物理的に運化しているだけでなく、質的にもうつり変わっています。たとえば大地に落ちた樫の実が芽を出したとしましょう。次第に幹ができ、枝が伸び、葉を付けます。やがて大きな木になり、花を咲かせ、実を結びます。そしてその実が落ち発芽して、新たな生命が誕生します。これが、樫の質的なうつり変わりであり、軌道です。
生物は独自の軌道を持ち、その軌道に従って生まれ、育ち、成熟し、生み、老い、死ぬという運化を繰り返し、この順序に狂いはありません。また、動物は空気中の酸素を吸い、二酸化炭素をはきます。植物は二酸化炭素を吸って酸素をはき出します。このように、それぞれの運化の中で双方が立ち栄えていっています。
生物だけではありません。大地の上の水は、絶えず水蒸気となって空にのぼり、やがて雲となり、雨や雪となって大地に還ります。
このように極大から極微まで、すべてがそれぞれ運化を続け、大調和のうちに、天地の生成発展に参画しています。そこには、神の絶大な力と、その力から分け与えられたそれぞれの分力がはたらいているのです。
活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし
活物の心のはたらきの中で、最も基本的で共通していることは、生命を大切にする思い、生きようとする意欲です。この生存本能によって、すべての活物は呼吸し、光、熱を求め、食物その他生きるために必要な諸条件を求めています。生命を犯すものから逃れようとし、避けられない困難には打ち勝って、生き延びようとします。このような心性、本能を活物に与えたのは神であり、それによって活物は生き、栄えているのです。
いま一つ、活物すべてに基本的に共通しているのは、生殖本能です。それは、自己の子孫をつくり、自己の遺伝子を永遠に広げようとする営みです。それに関連していろいろな性情が現れ、異性に対する慕情が生まれ、やがて親子の深いきずなができてきます。
動物でも、親子の強い情愛があります。私たちの身近にいる雀を例に取ってみましょう。カップルができたら一生懸命に巣作りに励み、卵を産んだら親鳥はほとんど巣から離れることなく卵を温めます。雛がかえると親鳥自身はほとんど食べずに、エサを雛に運びます。外敵が来ると、身をもって雛を守り、大きい外敵にも立ち向かいます。
だれに教えられなくても、雛に対する愛情、育てる知恵、勇猛心、親和の情などの心のはたらきが備わっているのです。これは、動物に限らず植物にも言えることです。
広大無辺な宇宙に対し個々の活物は、比較にもならないほど小さな存在です。しかし、生きようとする力強い本能があり、親子の間にみられるような美しい愛を持っています。この本能は、神から分け与えられた尊い心性なのです。
四大主義
大道実践の原理 「四大主義」(しだいしゅぎ)
一、清潔主義 心身修祓の大道
一、楽天主義 天地惟神の大道
一、進展主義 社会改善の大道
一、統一主義 上下一致の大道
清潔、楽天、進展、統一の四項目からなる四大主義は、天国天人が実践している生活そのものです。地上天国を建設していくことが人生の目的であると教えられている私たちは、この四大主義の実践に努め、人として生まれさせていただいた使命を果たさせていただくことが最も大切です。
清潔主義 心身修祓の大道
清潔主義を実践することは、物質方面だけでなく、霊的な方面、心の方面をも祓い清めることです。私たちはとかく目に見える方面のみにとらわれがちですが、物質方面を祓い清めること以上に、霊的な方面のお祓いが大切です。
私たちは日常生活の中で、物質的な祓い清めは、意識的に、また無意識のうちに行っています。朝起きたら顔を洗いますし、窓を開け、掃除をします。風呂に入って体を洗うこと、日々の掃除で補いきれない部分の定期的な大掃除なども、修祓、潔斎ですし、身だしなみや、トイレに行くなど生理的現象による行動も、無意識のうちに行っている体内の浄化、潔斎です。
私たちの体内では、常に浄化作用が行われています。物を食べると胃腸で消化され、体内に必要な養分が吸収されると、残った部分は体外へと排泄されます。血液の循環も、胃腸で吸収した栄養分、呼吸器で取り込んだ酸素などを末端組織まで運び、使用された不要物を体外へ運び出して新陳代謝を行っています。
この体内での浄化作用のいずれかが障害を起こすと、体のバランスを崩し、健康を損なう原因となります。
  天地自然の潔斎
天地自然の潔斎は、大潔斎、中潔斎、小潔斎に分けられます。 大潔斎は、大地震、大洪水など、天地の大掃除です。中潔斎は国家、社会の大掃除で、戦争、火事、飢饉など。小潔斎とは一身一家の掃除のことです。大潔斎、中潔斎は、それらが起こることによって被害が伴います。神から見れば潔斎ですが、人間の小さな視野で見ると、これは災いであるとも言えます。聖師は、「大三災小三災の頻発も人の心の反映なりけり」と示しています。大三災とは風、水、火による天災、すなわち大潔斎のことで、小三災とは、飢、病、戦による人災を意味します。ここ数年、異常気象や大地震、アメリカ同時多発テロに端を発したアフガニスタンやイラクでの戦争など、大三災や小三災が頻発しています。このような災禍が起こるのは、人の心が反映しているのです。
  邪気が災害の原因に
清潔主義は、霊体不断の修祓です。霊的方面でみると、心の中に起こる地獄的な想念、恨み、ねたみ、憎しみといったものを絶えず祓い清め、常に清らかな気持ちで生活していなければ、清潔主義とは言えません。それができていないから、その心の反映として、大三災、小三災が起きているのです。すべての災害は邪気に原因があり、地獄的な想念が凝れば、それが社会全体へ影響して、災害を起こすのです。異常気象が起こるのも、社会に争闘があるのも、社会共同の責任であると認識しなければなりません。
  環境・食物が心に影響
出口日出麿尊師は、環境と食物が心に大きな影響を与えることを示しています。私たちの身近な環境を見てみましょう。便所のツボにはうじ虫がわき、溝には溝相応の物がわき、きれいな水にはきれいな魚が住んでいます。不衛生な場所には腐敗が生じます。きれいな花園にはその蜜を求めて蝶が飛び交い、美しさを求めて人が寄り、天国さながらの空間が現出します。このように、環境のいかんによって住むものも変わり、人間の気持ちも天国的になったり地獄的になったりします。食物も人間の心に大きな影響を与えます。肉食は精神的にも肉体的にもあまりよい影響を及ぼさないと示されています。特に日本人は、昔からあまり肉を食べなかったため、体質的にも肉食はふさわしくありません。腸の中で腐ると非常な毒になるそうです。また肉類を多く食すると、性欲が強くなったり、気持ちが荒くなったり、忍耐力がなくなります。食物は、植物性のものを主とした方が良く、植物性の物でも新鮮なものを摂取することが、体にも心にも良い影響を与えます。植物性のものは、その土地の気を含んでいて、新鮮なほど気が充満し、栄養価は高いです。しかし、現在店頭に並んでいる野菜の多くは、形は美しくても新鮮さが感じられません。食物は旬のものがよいのですが、その季節にしか収穫できないものが年中出回っていて、いつが旬かも分からない状態です。加えて、外国から輸入される果物や野菜、多量に農薬が使われているもの等も多く出回っています。自分の健康は自分で守っていかなければいけません。自身で無農薬有機農法で畑作を行ったり、害のない食物を求めるなど、体によいものを頂くよう心がけたいものです。
  良い言霊で浄化を
清潔主義とは心身修祓の大道であり、修祓はすべて祓戸の神のお働きです。 私たちが奏上する祝詞は、全大宇宙を清める祓戸の神に、神意に反すること、罪、汚れを祓い清めていただき、神々が祓い清めの神徳を発揮されることをお願い申し上げるものです。私たちは、祝詞を奏上するとともに、神人一致し、罪けがれを祓い清めるよう努めていかなければいけません。祝詞だけでなく神書、宣伝歌、愛善歌などはすべて神の言葉であり、天授の真理です。それらを声を出して発していくことで、大きな言霊の力によってその一帯が浄化されていきます。加えて、周りに対して善言美詞に努め、人をほめたたえ、気持ちの良い明るく前向きな言葉をかけていくことも大切なことではないでしょうか。
楽天主義 天地惟神の大道
一般的に楽天主義というと、自分自身が楽しければそれで良いというふうにとらえられがちです。しかし、自分の喜びを得るために周囲の人に不快な思いを与え、社会に害をなし、ひいては地球環境をも悪化させていることに気づかなかったり、気づいていても狭い範囲の喜びのために見て見ぬふりをしていることが、私たちの周囲には多いことも事実です。
楽天とは天命を楽しむことです。天命とは、神から与えられた天職使命であり、神からのお言いつけです。動物にも植物にも鉱物にも天命があり、いのちがあります。すべてのものがその天命にしたがって天地の化育に参加することが、真の楽天です。
  悪に陥りやすい特性
私たちの身の回りの動物、植物、鉱物は、天命にしたがって天地の化育に参加しています。与えられた境遇に不平を言うわけでもなく、与えられた天命を果たすために懸命に生きています。それに比べて、万物の霊長である人間はどうでしょうか。人間には、神から分け与えられた知能と霊性が備わり、動物に比べてずば抜けて優れています。それは、神の代行者として神の願われる理想世界を建設するために与えられたものです。しかし、その優れた知能、霊性が、逆に悪霊の欲望を満たすために発揮されてはいないでしょうか。現在、日本で、世界で起こっている現象を考えてみると、人間自身がより便利にしていこう、合理的にしていこう、開発していこうと行ってきたことが、オゾン層の破壊や地球温暖化現象などの世界的な異常気象につながり、神が造り上げられた美しい地球をも破壊してしまっています。また、優れた知能は、核を開発したり自然や人を破壊していくさまざまなものを生み出す方向へと、利用されてきているのです。人間は、神の入れ物になり得ると同時に、悪霊の入れ物にもなり得る特性を持ち合わせています。そのために起こる罪悪の心が、神のみ心に背く形として現れてきているのです。
  信仰的刹那最善主義
それでは、万物自然の心境である楽天的な気持ちで生きるには、どうしたらよいのでしょうか。大本では、信仰的刹那最善主義の実践こそが楽天主義だと教えています。すべてを神に任せ、刹那刹那に最善を尽くすことです。人間には、幅広い自由意思が与えられています。その自由意思を行えるのは、「今」という刹那だけしかありません。過ぎたことはいくら悔やんでもどうにもなりませんし、先のことはいくら思いわずらっても仕方ありません。すべてを神に任せ、その時その時を楽しみながら精いっぱい生きることが、真の楽天です。「今」というものは、過去が積み重なって「今」になったものですし、過去の結果があらわれたものです。また「今」が伸びていけば、未来になるものです。過去も未来も現在が積み重なり、また現在が造っていくものです。よく「人事を尽くして天命を待つ」と言われますが、すべてを神に任せて自身の最善を尽くす「天命を知って人事を尽くす」生き方の実践が、真の楽天主義の生活です。楽天主義を実践し、勇んで暮らすことによって、歓喜に満ちた生活が現出します。その生活こそが、地上天国なのです。
進展主義 社会改善の大道
進展とは、より良くなりたいという行動の希望です。天命を楽しむ「楽天主義」の実践には、行動が伴い、動きがあります。その動きには、すべてのものが良くなりたい、向上したい、進歩したい、開発したいという、前向きな希望を持っています。これは、私たちの周囲だけでなく、大宇宙のすべてにあるものです。
  消極は地獄、積極は極楽
人間だけでなく、動物も植物も鉱物も、完全なものはありません。完全でないから、より完全に近づくために、絶えず進展しようと努力し、生成化育を遂げています。そして、すべてのものは常に進展し続け、後戻り、し直しはしないのが真のあり方です。尊師は「消極は地獄であり積極は極楽である」と示し、生活の中で積極的に物事をなしていくことの大切さを説いています。信仰生活では省みることが大切ですが、省みることは消極的に考えられる向きがあります。省みるとは「少し上を見続ける」ことで、決して萎縮してしまったり、引っ込み思案になったりすることではありません。
  現実を向上させる
現実は、一足飛びに理想どおりにいくものではありません。少し上を見るということは、理想を見ながら今の現実を一歩ずつ着実に理想に近づけていくことです。私たちは、天授の真理である「教え」と現実を照らし合わせ、現実をより理想に近づけていくことに努めていくことが大切です。
  刹那最善主義の実践
そのために、常に内に省み、「教え」にそぐわない点は改善していく勇気が必要です。自己を改善していくには、理想にそぐわない自己というものを捨てることが大切です。自己を捨てることによって、より自己が拡大していくものです。そして、信仰的刹那最善主義を実践し、謙虚に自己を省みる心によって、霊性の上でも進歩向上していくことができるのです。この世の中は、一本の道筋の進展でなく、相反するものが順序よく行われていくことで進展していきます。一日の生活の中には、夜があって昼があります。呼吸をするにも、吐く息があって吸う息があります。食事を食べれば、必ず排泄という行為が伴います。これらが順序よく適度に行われ、進展があるのです。すべて、この+と−との無限の組み合わせによって、宇宙のすべてのものが生まれ、進展していっているのです。進展していく中には、目の前にハードルが立ちはだかる場合もあります。しかし、それを乗り越えると一気に道が開けることもよくあります。さまざまな試練に遭い、壁にぶちあたって苦しい思いをしながら、真剣に神に祈り、その壁を乗り切っていくことが、人間をより成長させていくことにつながります。神が創造したこの大宇宙は、無限の広がりをもちながらわずかな狂いもなく、一刻も休むことなく動いています。私たちの人体も、寝ている間も神の守護を受けて活動しています。私たちも、進展し続けるすべてのものに逆行することなく、常に前向きに進んでいきたいものです。
統一主義 上下一致の大道
統一主義は、四大主義の中でも最も重要なものです。すべてのものに統一がなかったら、そのものの存在自体がなくなってしまいます。
宇宙そのものが統一体
大宇宙そのものが、統一体をなしています。無限に広がる広大な宇宙の空間にある天体は、すべて統一されて動いています。その軌道が不規則になったり変更されたら、宇宙そのものの統一がなくなってしまいます。
また、人体やその細胞一つひとつ、分子、原子といった極小の世界まで、すべて統一が保たれています。
  中心帰向の調和相
統一とは、中心帰向の調和相です。すべてのものは統一体であり、それぞれに必ず中心があります。人間なら、頭が中心となって、頭の指令によって手足などの部分がその意思を把握し、体現しています。団体生活の中では特に、統一は不可欠です。団体なら必ず団体の長が中心になります。その長と団体を構成する人たちの気持ちが一つになって物事が行われたとき、その団体は繁栄していきます。
  神を中心とした統一体に
すべてのものは、神によって造られ、神によって生かされています。すべてのものにとって、神を中心とした統一体になることが、それぞれの真の幸福につながっていくのです。そのためには、「まつり」が不可欠です。私たちは、神からつくられたすべてのものとまつりあわせていくとともに、創造主である神を絶対の中心として統一し、まつりあわせていくことが大切です。そして、神のリズムである宇宙の普遍的なリズムにまつりあわせ、そのリズムにとけ込んだ生活を心がけていくことが、真の幸福につながる道なのです。神のもとにすべてのものが和合し、神が願われる理想世界建設のために、私たち一人ひとりがその神業に奉仕していくことが、統一主義の根幹です。
四大綱領
人類生活の原理 「四大綱領」(しだいこうりょう)
一、祭(まつり)惟神の大道
一、教(おしえ)天授の真理
一、慣(ならわし)天人道の常
一、造(なりわい)適宜の事務
人にはそれぞれ、神から与えられた本分(使命)があります。人生の本分をつとめあげるために必要な、日常生活の原理を四大綱領といいます。人はこの「祭」「教」「慣」「造」の原理にそって生きることによって、幸せな人生を送り、世の中を明るく平和にしてゆくことができるのです。
祭(さい・まつり) 惟神の大道
まつりとは「真釣り」の意味で、全く釣り合うことをいいます。神のみ心と自分の心がまったく釣り合った状態が神とのまつりの状態、神人合一の状態、無限の権力が発揮される状態です。
神とのまつりあわせは、経のまつりです。 同様に経のまつりとして、天界と地上世界のまつりあわせがあります。また緯のまつりとして、宇宙環境、地球自然環境、社会環境、人間環境のまつりあわせがあります。つまり、まつりとは神と人との間だけでなく、宇宙のすべてのものの間に行われているものであり、私たち人間相互の間にもまつりがあります。このまつりが崩れると、幸福はなく、調和が崩れ、平和は到来しません。
  人間相互のまつり
ここで、人間相互のまつりについて考えてみましょう。私たちの身近なところでは、まず夫婦のまつりあわせがあります。男女は同権ですが、大本では 夫唱婦随 と教えています。夫は家の大黒柱です。妻は夫をたて、夫に従いながら家を治めていく役割があります。縫い物にたとえると夫は針、妻は糸です。針である夫が縫い代をすすみ、その後を糸である妻が従ってすすんで、縫い上げられていきます。この 夫唱婦随 の基本が崩れると、夫婦のまつりが崩れてしまいます。親と子にも、まつりがあります。親は子を養い育てる義務があり、これをいい加減にしていると、子供の性格までもゆがんできます。一方子供は、養い育ててくれる親を愛し敬うのが、本来の姿です。家庭で起こる諸問題の多くは、親と子のまつりあわせができていないことに起因します。先生と生徒の間のまつりは、教える側と教わる側というけじめが大切です。これが師匠と弟子のまつりとなると、教える側と教わる側のけじめがより絶対的なものとなります。師匠の指導は絶対として素直に受け取ることで、弟子は師匠の技術のみならず精神までも吸収していくことができるのです。このほか、先輩と後輩、友人同士など、身近なところでいろいろなまつりがあります。それぞれそのまつりのあり方は異なりますが、正しいまつりあわせが行われていけば、そこには幸福があり、調和があり、平和なのです。
  自然とのまつり
動植物の世界にもまつりが行われています。草食動物は植物を食し、肉食動物は草食動物を食し、すべての生命は土に帰って植物の養分となり、それぞれが生成化育していっています。大自然の営みの中で、植物、草食動物、肉食動物の三者が見事にまつりあって、それぞれの子孫を残し、はぐくんでいるのです。宇宙大に目を移せば、宇宙の中では小さな存在である太陽系宇宙でも、太陽の周りを地球などの惑星が衝突することもなく、規則正しく運行しています。そのまつりが、無限に広がる宇宙の彼方まで絶妙に行われているのです。人体も小宇宙と言われ、あらゆる臓器が、すべての細胞が、まつりあって動いています。このバランスが崩れると体調を崩したり病気になったり、生命をむしばんでいきます。このように、まつりとは宇宙の普遍的リズムであり、すべてのものは大神さまの神格であるこのリズムによって動いているのです。
  神霊との和合
すべての組織には中心があります。全大宇宙の中心は、天地宇宙をお創りになった主の神です。この中心の主の神とまつりあわし、そのご恩に対して感謝の気持ちを表すことが、まつりであり、祭祀です。神をまつるあり方として、顕斎と幽斎の二つがあります。さまざまな形式を整え、荘厳にして美しく楽しく行うものを顕斎、神霊に対して自身の霊をもって行うものを幽斎と言います。日本の神道では、昔から祭を顕斎と幽斎に分けています。幽斎は、体的な対象なしに、あるいは形式なしに神に対するものです。顕斎は、ある一定の儀式にしたがってお祭りすることで、神さまの宮を作りお供えをしたり、朝夕のお礼をするということは、顕斎にあたります。顕斎は「祭るの道」、幽斎は「祈るの道」で、どちらも大切です。顕斎のみにかたよるのも、幽斎のみにかたよるのもよくないと示されています。
  正しいまつり
人は神に目ざめ、万物は神のみ心によって、神のみ恵みの中に生かし育てられていることを悟る時、おのずから、神さまに対する感謝の心がわき上がってくるものです。人の心の中にあることは必ず言動となって現れますが、この神さまに対する感謝の念は、神を斎きまつるというやむにやまれぬ心情となって現れるのです。また、神さまのみ心に真釣り合い、神のみ国をこの地上に移してゆくためには、まず、神さまに祈りをささげることからです。この感謝の心が行為となって現れたのが「祭り」です。
  大祓いの意義
神に仕えるには、修祓、潔斎が不可欠です。 大本の祭典は、種々の罪穢、科過を大麻(切火、塩水の祓いもあります)で、それぞれの心、身体を清めた上にも祓い清めて、祭典を始めます。そこには、神さまから付与されている霊魂を増殖させ、新しく祓い清められた霊魂に神さまのご守護をうけ、すがすがしく祭典に奉仕、参拝し、ご神徳を頂くものです。『大祓いはすなわち天地の真釣りなり』と示されていますが、信仰生活の第一歩は、祓いの実践からはじまります。朝夕奏上する祝詞は祓いの言葉であり、浄化・潔斎につながっていくものです。神を斎きまつるには、顕斎と幽斎の区別をわきまえ知らざるべからず。真如ここにそのことを証せん。顕斎は天津神、国津神、八百万の神を祭るものにして、宮あり、祝詞あり、供物あり、御弊ありて、神のご恩徳を称えて感謝の心をあらわす尊き業なり。幽斎は誠の神、天帝を祈るものなれば、宮も社もなく、祝詞もなく、御弊もなく、供物もなし。ただ願うところのことを霊魂をもって祈りたてまつる道なり。つづめていうときは、顕斎は祭るの道にして、幽斎は祈るの道なり。まことの神は霊なれば、その尊き霊に対して祈るは霊をもってせざるべからず。顕斎のみにかたよるも悪しく、幽斎のみにかたよりすぎるも悪しきなり。祭るには偶像も悪しからず、ただし偶像目あてにして幸わいを祈るはよろしからず。祈りは霊魂をもって天の御霊に祈るべきなり。 (出口王仁三郎)
教(きょう・おしえ) 天授の真理
大本の「教」は、天授の真理です。天とは神のことですから、天地を創造された神から授けられた真理を教えとしています。神は絶対的なご存在であり、大本の教えは、人間的な考えや私的な都合などはいっさい含まない、絶対的なものです。そして、大本の教えは、時、所、人を問わず、時代を問わず、また現界、霊界を問わず、どこでも、だれに対してでも、絶対的な真理なのです。
  教典・教説書・教書
特に二大教祖である出口なお開祖、出口王仁三郎聖師をとおしてまことの神から伝達された天授の真理が、根本の「教」です。大本では、開祖の筆先に聖師が漢字を当てた「大本神諭」(全7巻)、聖師が口述した「霊界物語」(全81巻83冊)を二大教典とし、聖師が示した「道の栞」「道の光」を加えて教典としています。教祖が直接示した教えが教典です。それ以外の聖師の論文、随想、道歌、歴代教主・教主補の教示を教説書、時代の教主の教示を教書としています。神書とは、教典、教説書、教書の総称です。
  強制の力が必要
教の方法は、外から内へ与えることと、内なるものを引き出すことの二方面があります。この二つの方法は、同時一体となって行われるべきです。前者は、教を豊かに学ばせるために外から与えることであり、後者は、生まれながらに宿っている神性を引き出し、それを成長させることです。出口日出麿尊師は 教えること について、「緒強う」という字を当て、「オは魂の緒で霊魂のこと、教というのは悪い方の魂の緒をだんだんと強いて良くしてゆくという意味であります。これは、悪い方を純化してゆく向上的な手段であります」と示しています。霊魂の悪い面は強いて抑え、良くしていくことです。また良い面は、困難を排してそれを引き出し、伸ばしていくことです。したがって、教には強制の力が必要です。「なくて七癖」と言われ、だれでも自分の考え方、価値観、また態度や動作に現れる癖があります。しかし、それが正しいとして自分勝手に生活していたのでは、この世に争いごとは絶えません。特に、自分の考え方、価値観の中には、神がもっとも戒めている「われよし」「強い者勝ち」という悪の要素が、多分に含まれています。大本の教えは天授の真理ですから、悪の要素が含まれていません。この教えを実践することによって、神が願われるみろくの世が実現していくのです。
  「感恩」「鍛錬」「順序」
尊師は、天授の真理である教の中で、、「感恩」「鍛練」「順序」の大切さを示しています。
まず「感恩」。いろいろの理屈を知ったり、知識を得ることよりも大切なことは、ありがたいという気持ちを持ち、また友情、誠とはどういう力であるかを知ることです。私たちの行動は、根底にある感謝の気持ちから発しているものです。人間は片時も、神の恵みなくしては生きてゆけません。しかし、私たちはこのみ恵みに慣れすぎていて、神のありがたさを忘れてしまいがちです。教えをとおして、改めて神の感恩を悟らせていただきましょう。
次に「鍛錬」。真の自分をつくり上げていこうと思えば、それだけ苦しまなければなりません。それだけ鍛錬されなければならないのです。
最後に「順序」。これは、物と物との関係、人間同士の上下、左右の区別などをしっかりとわきまえていないと、真の教え、物の道理がわからないということです。
  まず神書拝読から
教えを実践するには、まず神書を拝読することです。手を清め、口をすすいで、清らかな気持ちで神書に向かい、二拍手をして拝読しましょう。大切なことは、神の教えを素直に項くこと。そして、声を出して音読することです。音読することにより、自分の頭の中だけでなく、自分の中の守護神、また回りの霊にもみ教えが浸透していき、自分の血となり肉となっていきます。拝読をしたら、示されていることを実践していくことに努めましょう。大本の教典は普遍的な真理です。また、歴代教主の教えは、それらの教典を時代に即して分かりやすく説き、時代時代の神の経綸の柱となるものです。教えに基づいて、神の目から見て何が正しくて、何が間違っているかを判断し、神のみ心に添える行い、生活の実践に心がけていきたいものです。
慣(かん・ならわし) 天人道の常
慣とは「天人道の常」と示され、天道の常、すなわち神が定められたならわしと、人道の常、人としてのならわしをさしています。
神が創造した宇宙のすべてのものは、天道のならわしのもとに活動しています。すべての物の軌道は慣そのもので、地球と太陽、大宇宙と太陽系など、みな、神が定めた慣によって動いています。また人も、神が定めた慣が備わっています。そういう意味で、天道と人道は一体のものであると言えます。
人間はだれでも、さまざまな癖、いろいろな習慣を持っています。その中で、生まれながらにして先天的に持っている習慣があります。これは、五倫五常といわれる君臣、父子、夫婦、長幼、親友の守るべき道があります。また一霊四魂の働き、すなわち、五情の戒律といわれる省みる、恥る、悔いる、畏る、覚るという、人間の霊魂の中に備わっているものがあります。これらは、神から授かった人間の慣性です。
同時に、生まれてから日常生活の中で、後天的な慣性が身に付いてきます。それによって生活のリズムができ、規律が生まれ、社会で生きていくすべを身につけていきます。
尊師は「人を仕込むにも、教を先にしたらわからぬ。型からはいらせなくては身にしまない。真理に導くためには、慣ということは非常に大事なものであります」と示しています。口で言うよりも、実際に体験させることで、体にしみこんでくるのです。
私たちが信仰生活をしていく上で大切なことは、知らず知らずのうちに身に付いた癖を直すことです。よくない習慣は、生まれながらに神から授かった一霊四魂をも曇らせてしまうことになります。み教えに基づいて悪い慣を直し、良い慣をつくっていくよう心がけたいものです。
造(ぞう・なりわい) 適宜の事務
造は「適宜の事務」で、人の天職使命である地上天国建設のために適材適所に従事する職業のことです。尊師は「造は自分の思うままをつくること、創造すること、自己の自発的衝動のままに行うこと」と示しています。
慣や教にとらわれず造の生活をしているのは、赤ん坊です。神さまから頂いたままの清浄無垢な状態で、朗らかな生活をしていますが、人間として生まれた以上は、慣や教を身につけ、祭の境地まで進まなければいけません。造は慣を作り出します。造を悪く利用すると悪い慣が、造をよく利用すればよい慣ができます。造を行わせる力とは、人間の本能であり、神から頂いた先天的な意志です。
私たちは、なんらかの職業を持って生活しています。私たちが神から頂いている天職使命は、地上天国建設のご神業に奉仕することで、すべての人に共通しています。そして、それぞれの職業に従事し、その職業に励み、職業を通してこの天職を果たしていくことが、私たち人間に課せられた使命なのです。
一人ひとりが真の目的に向かってそれぞれの仕事に励むことで、世の中は一歩一歩みろくの世へと前進していきます。そして、生業の中で信仰生活を実践していくことが、私たち信仰者にとって最も大切なことです。  
生長の家 

 

生長の家の信者数ですが1980年に300万人としていたものの、数字を改める試みを行い、300万人に改めたそうです。それは公称の信者数と現実の間に大きな開きが生じたためです。生長の家は、戦前において、あるいは戦後の一時期、時代の空気をつかみ、その勢力を拡大しました。しかし、時代が変化することで、信者数を減らすことになってしまったそうです。
生長の家の創立者谷口雅春は、1893(明治26)年11月22日、現在の神戸市の谷口音吉・つまの次男として生まれました。本名は正治でした。子供時代にはきぬの夫である又一郎の石津姓を名乗っていました。やがて大阪市岡中に入学し早稲田大学に進みました。その時代の早稲田大学は直木三十五や西条八十などの文学のメッカで、プラグマティズム哲学やウィリアム・ジェームズの思想やオスカー・ワイルドの耽美主義、さらにはトルストイの人道主義に惹かれ、こうした文化や思想に関心を持っていました。
その後女性関係で身を持ち崩し、やむなく大学を中退することになり工場で低賃金の労働者として働くことになります。やがて資本主義の世界に対する疑問から、工場長と激論したことをきっかけに工場を辞めます。そして、心霊治療や催眠術に関心をもち、それは大本への入信につながります。
谷口はそれまでも雑誌に記事を翻訳し投稿して原稿料を得ていたこともあり、大本でも文才が認められ、機関紙の編集や聖典である「大本神論」の編纂作業に当たり、大本の霊学の体系化にも力を注ぎます。やがて第1次大本事件で逮捕を免れた谷口は、聖師、出口王仁三郎が勾留の執行停止で出獄中、「霊界物語」の口述などの筆記をはじめます。また開祖出口なおが神懸りで記した「御筆先」と王仁三郎が漢字混じりに書き直したものとを比較対照し、不敬罪に該当する箇所がないか調査する作業を依頼され、谷口は御筆先をすべて読むことになります。
しかし、第1次大本事件の半年後京都鹿ヶ谷にあった一燈園の活動に惹かれ、その生活や思想に影響を受けた谷口は、王仁三郎の意に沿わなかったようで、谷口は、大本で結ばれた夫人の輝子とともに脱退の意を固めます。すでに大本の教団のなかで最後の審判が起こると予言されていた1922(大正11)年5月5日には、何事もなく過ぎてしまっていました。
谷口は、出勤前に近くにあった本住吉神社に参拝するのを日課にしていました。ある日彼は、「色即是空」という言葉を思い浮かべながら静座して合掌瞑目していました。すると、どこからともなく大波のような低く、威圧するような声がして、「物質はない!」と聞こえます。続けて「色即是空」を思い浮かべると、また、「無より一切を生ず」という声が返ってきました。この問答を通して、彼自身がコントロールに苦労してきたこころというものが実在せず、その代わりに実相があり、その実相こそが神であると悟ります。そうすると、「お前は実相そのものだ」という天使たちが自分を讃える声が聞こえてきました。
谷口は、自らの悟りを広く伝えるために雑誌の刊行を考えます。そして、会社に勤務するかたわら旺盛な執筆活動を開始し、雑誌に文章を投稿します。正治から雅春へと改名したのも頃でした。谷口自身は新しい雑誌を創刊し運動を進めたいと思っていましたが、資金も時間的余裕もありません。そうすると例の声は彼に「今起て!」と呼びかけてきました。決して彼は無力ではなく、力を与えているというのです。彼が「実相はそうでも、現象の自分は・・・」と、戸惑いを見せると、頭の中では「現象は無い!無いものに引っかかるな。無いものは無いのだ。知れ!実相のみがあるのだ。お前は実相だ。釈迦だ、基督だ、無限だ、無尽蔵だ!」という声が鳴り響きました。
谷口は、こうして雑誌「生長の家」創刊号を刊行します。1929(昭和4)年の大晦日に1千部の雑誌が刷り上り、正月早々、「求道者の会」に賛同した仲間を中心に、「生長の家」を無料で進呈していく。生長の家の目的は、「心の法則を研究しその法則を実際生活に応用して、人生の幸福を支配するために実際運動を行ふ」こととされました。こうして新しい宗教運動が誕生しました。
谷口はその教養を生かして、仏教やキリスト教の思想を自らの教えに取り込み、世界の本来のあり方としてとらえた実相の世界を説いていきました。人間の「念のレンズ」は歪みその結果、神の世界と人間の世界とに不一致が生じた。谷口は、「汝ら天地一切の物と和解せよ」と言い、迷いという念のレンズの曇りがなくなれば、地上にも神の世界が現れると説きました。雑誌「生長の家」が神誌として受け入れられたのは、雑誌を読んだだけで病気が治ったという人間があらわれ、それに感謝する手紙が多数谷口のもとへ寄せられたからでした。こうして、生長の家は現世利益の側面を強調するようになっていきますが、それはあくまで実相という本質に気づいたことの証として哲学的に解釈され、他の宗教とはちがって特殊な祈祷などを行うことがなかったために、生長の家は哲学的でインテリ向きの宗教だというイメージを保持していました。そして「生命の実相」全集普及版全十巻を観光し、大々的に広告をうち、第1巻だけでも5万3千部も売れました。教祖の著作を大々的に宣伝し、売り上げをあげる手法の先駆けは生長の家でした。
しかし、ジャーナリスト大宅荘一は、生長の家の根本思想は、素朴で原始的な唯心論にあり、「病は気から」という俗説を「盲滅法」に普遍化し、それを神秘化して宗教に立ち上げ、徹底した商品化をめざしていると分析しています。
1940年に宗教団体法が施行され、生長の家が宗教結社として認められると、天皇信仰を強く打ち出します。「すべて宗教は、天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる途なり」と主張しました。太平洋戦争が勃発すると、谷口はそれが「聖戦」であると主張し、中国軍を撃滅するために「念波」を送ることを呼びかけた。しかし、聖戦と主張したものの敗戦したしたことで、雑誌の復刊が可能になり、「日本は負けたのではない」「ニセ物の日本の戦いは終わった」と敗戦を合理化しました。生長の家の教えには、「本来戦い無し」のことばがあるとし、成長の家が平和主義を説いていたと主張しました。
やがて60年安保などをめぐって、生長の家の天皇崇拝や国家主義、さらには家制度の復活などの主張を展開したことで保守勢力に支持され、社会的な影響力を発揮するようになりました。生長の家は海外にも進出し、ブラジルにおいてでは最も成功をおさめました。一方、日本の生長の家は、さらなる時代の変化によって衰退を余儀なくされていきます。谷口は1985年に亡くなり、彼が崇拝の対象とした昭和天皇も亡くなっています。また政治運動が衰退するにともなって、成長の家の存在意義も薄れていかざるを得ませんでした。 
生長の家

 

1930年(昭和5年)に谷口雅春により創設された新宗教団体。 その信仰は、神道・仏教・キリスト教・イスラム教・ユダヤ教等の教えに加え、心理学・哲学などを融合させている。正しい宗教の真理は一つと捉えている。宗教法人格を持つ。
1930年に谷口雅春によって創始された。『宗教年鑑 平成29年版』における国内信者数は、459,531人である。本部は山梨県北杜市。
現在の総裁は雅春の娘婿の谷口清超の二男谷口雅宣。2008年10月28日に父清超が89歳に死去したため、立教記念日の2009年3月1日付を以て雅宣が第3代生長の家総裁に就任した。
総本山として龍宮住吉本宮が長崎県西海市に、別格本山として宝蔵神社が京都府宇治市に各々ある。教典として『生命の實相』、『甘露の法雨』、「七つの燈臺の點燈者の神示」などがある。
保守的な教義をもちかつては自由民主党から組織内候補を擁立していたが、1983年から自民党と距離を置くようになり2016年からは明確に自民党への不支持を表明するようになった。またプロライフ・エコロジーの立場から現在も政治への発信は強めている。
教義
生長の家の教義は雅春の著作特に生命の実相と甘露の法雨を基礎とする。なお、生長の家は、神道や仏教、キリスト教、天理教、大本等諸宗教はその根本においては一致するという「万教帰一」という思想を主張・布教している。ただし、現総裁の雅宣が生長の家の経典を含む各宗教の聖典の原理主義的解釈を否定していることでもわかるように、例えばイスラム原理主義や創価学会の教義をそのまま認めている、というわけではない。
生長の家では、世界を実相と現象に分けて区別し、第一義的実在であるのは「善一元なる唯一絶対神」だけであって、それ以外のものは実相には存在しない、と考える。現象世界のものは、物質から霊的なものまで、すべて「第一義的実在に非ず」と説く。「物質は心の影」であると説く一方で、その「心」すらもなく、死者の霊も先祖供養等の対象とはするが、物質が存在しないというのと同じ意味で霊魂も存在しないといている。逆にいうと、例えば先祖供養の形式については、信徒は仏教やキリスト教、神道のいずれの方式で行っても、生長の家の教義に違反しない、ということであり、生長の家が信徒に対して改宗を求めない理由の一つとなっている。
唯神実相 / 生長の家の基本教義。「縦の真理」と呼ばれる。教団公式HPには「実相の世界は神の御徳が充満していて、人間は神の子であり、神と自然と人間とは大調和している世界です。つまり本当に存在するものは唯、神と神の作られた完全円満な世界だけであるという意味で「唯神実相」と呼んでいます。」と記されている。これに対して一般に「現実」と呼ばれる世界は「現象」と呼び「現象の世界は、全体の膨大な情報量のうち、人間の肉体の目、耳、鼻、口、皮膚で濾(こ)し取ったごく一部の不完全な情報を、脳が組み立て直して仮に作り上げている世界です。ですから、世の中には戦争やテロがあったり、病気などの不完全な出来事があるように見えますが、それらはすべて「現象」であって、本当にある世界の「実相」ではないと説いています。」と述べている。なお、生長の家の教義に「実相の日本は未だ敗戦をしていない」というものがあるが、これは住吉大神から谷口雅春に下った神示とされる「軍国日本の如きは本来無き国であるから滅びたのである」が出典であって、当初は「現象」における過去の日本と「実相」における本当の日本とを区別すべきという意味であり大東亜戦争肯定論を意味するものではなかった。(「軍国日本」は実相世界には存在しないことが前提であった。)今でも教団が公式に大東亜戦争肯定論を主張したことはないが、生長の家本流運動系の団体では大東亜戦争肯定論が主張されることがある。
唯心所現 / 教団の公式HPには「唯心所現の「心」とは「コトバ」であり、コトバには行動で表現する「身(しん)」、発声音で表現する「口(く)」、心の中で思う「意(い)」の3つがあり、これら身・口・意の三業を駆使することで、唯心所現の法則によって現象世界をいかようにでも作り上げることが出来るのです。」とある。
万教帰一 / 教団の公式HPには「宗教に違いがあるのは国や地域、民族によって服装が違うように、宗教も文化的な違いが現れているからだと言えます。目玉焼きに喩えると、中心部分の黄身を普遍的な根本真理と見立て、それぞれの宗教が共有していると考えます。一方、周縁部分である白身は、文化、民族、時代などの違いによって変化している部分だと考えると分かりやすいでしょう。世界の各宗教が、この中心部分(黄身)の共通性と周縁(白身)の多様性をお互いに認め合うことによって、宗教間の対立は消えることになります。それを端的に表わした言葉が「万教帰一」の教えなのです。」とある。
生長の家の教義と他の宗教の教義が直接に一致するという意味ではない。神については「第一義の神」「第二義の神」「第三義の神」が存在するとしており、第一の神が実相における唯一絶対神、第二義の神が現象における宇宙の法則やその具体化した姿、第三義の神が人格神であるとしている。例えば旧約聖書におけるエロヒムとヤハウェについては創世記でこの世界について「甚だ良し」と言ったエロヒムこそが第一義の神(=唯一絶対の神)であって、人類をエデンの園から追放したヤハウェは第二義の神であると説いている。仏教や神道についても、例えば谷口雅春に度々啓示を下す住吉大神は「第二義の神」であるとしている。
行法
行法は、「神想観」「大祓の人型」(年間二回)「浄心行」「写経」とよばれる「行法」のうちどれか一つでも一日に一回するのが望ましいとされている。
永代供養は、永代祭祀ともいい、供養される者の氏名を専用の「甘露の法雨」経典に書き供養する。生存者の場合は総本山龍宮住吉本宮の誠魂奉安筐に奉安され故人に為ると別格本山宝蔵神社の紫雲殿に遷され永代供養される。
人間観
生長の家では唯神実相の観点から生老病死・輪廻転生を遂げる人間・霊魂は実在しない「仮相人間」であり、生老病死・因果や法則を超越した存在こそ金剛不壊の真に存在する「実相人間」であると説く。その上でこの世、現象世界での生きるべき姿・処世術を説いている。
人間が実相を悟れば事態・環境・法則は自ずから無害有益なものに為り、真に無限供給の神の恵みを受ける事が出来るとする。
歴史
創始から終戦まで
創始者(生長の家では開祖や教祖の名称は使われない)の谷口雅春は、紡績会社勤務のときから1918年(大正7年)に大本の専従活動家になり、出口王仁三郎の『霊界物語』の口述筆記に携わった他、機関紙の編集主幹などを歴任した。同時期に大本の本部で活動していた江守輝子と出会い、1920年(大正9年)11月22日に結婚。
1922年(大正11年)の第一次大本事件を機に、大本から離脱した浅野和三郎と行動を共にし、翌1923年(大正12年)には浅野が旗揚げした『心霊科学研究会』に加わった。同年関東大震災で被災し、妻・輝子の実家である富山に疎開中の10月10日、長女の恵美子が誕生。
雅春は、外資系石油商ヴァキューム・オイル・カンパニー勤務の傍ら『心霊科学研究会』で宗教・哲学的彷徨を重ね、一燈園の西田天香らとも接触した。特に当時流行していたニューソート(自己啓発)の強い影響を受け、これに『光明思想』の訳語を宛てて機関紙で紹介した。
1929年(昭和4年)12月13日深夜、瞑想中に「今起て!」と神から啓示を受けたことを機に、1930年(昭和5年)3月1日に修身書として雑誌『生長の家』1000部を自費出版した(生長の家ではこの日を以て「立教記念日」としている)。
「人間・神の子」「実相一元・善一元の世界」「万教帰一」のニューソート流主張により、支持者・講読者を拡大。 『生長の家』誌で発表した雅春の論文は1932年(昭和7年)に『生命の實相』としてまとめられ、1935年(昭和10年)には購読者を組織して「教化団体生長の家」を創設する。各地に支部を設立し、また学校などでも生長の家の講演会が開かれるなど教勢を拡大した。
敗色濃厚な1944年(昭和19年)には紙の配給が止まり『生長の家』誌の発行も一時停止したが、軍国的な「皇軍必勝」のスローガンの下に、金属の供出運動や勤労奉仕、戦闘機を軍に献納するなど教団を挙げて戦争に協力し、天皇信仰・感謝の教えを説いた。一方で、海ゆかばの歌を歌うことに反対するなどの活動も行ったため、憲兵や特別高等警察と教団の講師がトラブルになることもあった。
生長の家および生長の家系列の宗教の書籍等では旧日本軍に生長の家信者が少なくなかったことが記される。宮城事件は信者の田中静壱が鎮圧した。根本博は生長の家の教義にしたがい終戦後も内モンゴルでソビエト連邦と戦った。
戦後の法人化と政治への参加
戦後は西洋思想家の著作の邦訳も行っていたが、その翻訳作業の助手の募集を見た者の中に、後に雅春の養嗣子となり、第2代総裁となった荒地清超(後の谷口清超)がいた。清超は1946年(昭和21年)に雅春の一人娘の恵美子と結婚する。
1949年(昭和24年)に「生長の家教団」として宗教法人格を得て、組織の再構築を行った。その後は妊娠中絶反対運動などでも積極的に政治活動を行うようになり、伊勢神宮の神器の法的地位の確立(一宗教法人の私物ではなく皇位継承と特別な関係のあるものと主張)や、靖国神社国家護持運動など右派活動を行った。さらに、建国記念の日の制定や、元号法制化に教団を挙げて協力した他、「優生保護法廃止(堕胎禁止・反優生学)」「帝国憲法の復原・改正」を掲げて生長の家政治連合(生政連)を結成し玉置和郎、村上正邦、田中忠雄、寺内弘子を自由民主党公認候補として参院選に送り込んだ(この付近の経緯は、公明党を生んだ創価学会とよく似ている。公明党の前身は創価学会文化部から出た無所属議員である)。
1978年(昭和53年)の第2回相愛会男子全国大会(日本武道館で開催)の時には、玉置和郎や中川一郎、黛敏郎また130名程の国会議員が参加し、渡米中だった、時の首相・福田赳夫から祝電が届いた。
また、学生運動が再高揚した1969年(昭和44年)には、生長の家学生会全国総連合(生学連)を中心に生長の家青年会・生長の家政治連合の後押しを受け、他の保守系諸団体と共に全国学生自治体連絡協議会(以下「全国学協」)を結成し、「学園正常化」と「YP体制打倒」「反近代・文化防衛」を掲げて、全国の大学で全日本学生自治会総連合と激しく衝突した。
日本青年協議会(以下日青協)はただし、組織的には生長の家教団とは全く無関係の組織である。また、日青協の学生組織である反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)は、全国学協内の路線対立、分裂によって生まれた組織である。1973年(昭和48年)に、全国学協中執を中心とする一派が自立草莽・実存民族派路線、反米帝・民族解放路線を採択したのに対し、もう一派は、反ヤルタポツダム・反憲・民族自立路線の下に新たに反憲学連を結成した。
現在、日青協や、伊藤哲夫の興した「日本政策研究センター」は、「日本を守る国民会議」の後継団体である日本会議の加盟団体として、神社本庁やその傘下の神道政治連盟、念法眞教、仏所護念会、崇教真光、キリストの幕屋等、生長の家以外の保守的宗教団体と強い関係を構築している。保守的宗教団体に数えられることもある世界基督教統一神霊協会=原理研究会とも、全国学協の草創期に一時部分的に共闘したことがある。
生長の家は伊勢神宮や靖国神社を皇室に帰属させるべき、といった保守的な主張のみならず堕胎禁止を始めとするプロライフ的な主張を展開した。マザーテレサの著書を関連会社から出版するなど国際的な宗教右派との連携も展開していた。
こうした生長の家のプロライフ(生命尊重)の主張で特筆すべきは、第一にそれが1959年という他の団体と比べても初期に行われていたこと、第二にそれが胎児の権利のみならず動物の権利にも及ぶ徹底した生命尊重主義であったということである。谷口雅春はつぎのような主張を展開していた。
「人間が生物を殺して生きていながら、人類だけが殺し合いの戦争をしないで平和に生活したいと考えるのは、すべての業は循環する、一点一画と雖も、播いた種子は刈りとらなければならないと云う原因結果の法則に矛盾するのである。人類の平和は先ず生物を殺さないことから始まらなければならないのである。 — 限りなく日本を愛す」
「「世界の平和も、肉食の廃止から」といいたいのでありますが、政府が肉食を奨励して牛肉なども国費を使って大量に輸入しているのだから、我々の思想が政界を浄化しない限りは、国内の闘争も、世界の戦争もなかなかおさまりそうにないのであります。 — 心と食物と人相と」
しかし、このような徹底したプロライフの立場が政界に受け入れられることはなかった。
政治活動の撤退と「国際平和信仰運動」の提唱
1978年に雅春は生長の家総本山に移住し政治活動の一線から退いた。生長の家の政治運動には初期から内部での路線対立は存在したが、この頃から政治運動に積極的な「飛田給派」と否定的な「教団派」(本部派)の対立が激しくなる。しかし、1982年時点では教団派の理事長が更迭されるなど飛田給派の影響力が強かった。なお、飛田給派と本部派の名称の由来はその拠点となった場所がそれぞれ「生長の家飛田給道場」と「生長の家本部」だったからである。
1983年(昭和58年)、当時の理事長の徳久克己は飛田給道場の創設者ということもあり飛田給派の人間であると見られていたが、優生保護法改正を巡って自由民主党と対立したことを理由に、生長の家政治連合の活動を停止を決断した。1985年(昭和60年)6月17日に雅春が死去し、娘婿の清超が第2代の総裁に、妻の恵美子が第2代の白鳩会総裁に就任。同年、日本を守る国民会議から脱退し生長の家は自民党やその支持団体と距離を置くようになった。
1988年(昭和63年)4月26日には雅春の妻で初代白鳩会総裁の輝子が死去。その後1990年(平成2年)11月22日には、清超の次男の谷口雅宣が副総裁に就任し、清超と共に講習会への講師としての出講を行うようになっていく。1993年、「国際平和信仰運動」を提唱し推進、日本政府による大東亜戦争への反省や戦争責任の追及、人権感覚からの女系・女性天皇の推進を表明するなど、これまでの愛国・保守(=右翼)的教義から距離を置くような転換を積極的に進めている。1994年(平成6年)には雅宣の妻・谷口純子が白鳩会副総裁に就任。
近年では、地球環境問題や遺伝子操作・生命倫理問題、エネルギー問題などの現代科学に対し宗教右派の立場からの主張が多く、教団の教義にもその意向が強く現れてきている。一方、雅宣は自身のブログでは民主党への支持を表明するなどしたため、一部の信徒は雅宣を「左翼」と批判し、1998年から旧飛田給派の信徒らを中心に公然と教団に反対する生長の家本流運動の動きが生まれた。だが、実際には雅宣は例えば「非核三原則の堅持」を表明した民主党政権に対して「この問題は日本が単独で決定すべきものではない」「現状の国際関係にあっては、“アメリカの核の傘”がまだ必要だ」と述べるなど親米保守的な発言もしている。
また、「国際平和信仰運動」については、「政治力を用いない」ことが明記されており、現時点で生長の家政治連合の活動再開は、一切考えていない旨を明言した。過去に生長の家の推薦を受けて当選していた政治家も、KSD事件以来、全員が今では議員を辞めている。
現在
現在の生長の家は緑の保守主義色を全面に出すようになっている。2000年生長の家は環境マネジメントシステム“ISO14001”の導入を運動方針に決定し、「生長の家環境方針」を定めた。環境方針では、
「地球環境問題は、その影響が地球規模の広がりを持つとともに、次世代以降にも及ぶ深刻な問題である。今日、吾々人類に必要とされるものは、大自然の恩恵に感謝し、山も川も草も木も鉱物もエネルギーもすべて神の生命(イノチ)、仏の生命(イノチ)の現れであると拝み、それらと共に生かさせて頂くという宗教心である。この宗教心にもとづく生活の実践こそ地球環境問題を解決する鍵であると考える。 生長の家は、昭和5年の立教以来、“天地の万物に感謝せよ”との教えにもとづき、全人類に万物を神の生命(イノチ)、仏の生命(イノチ)と拝む生き方をひろめてきた。 生長の家は、この宗教心を広く伝えると共に、現代的な意味での宗教生活の実践と して環境問題に取り組み、あらゆるメディアと活動を通して地球環境保全に貢献し、未来に“美しい地球”を残さんとするものである。」
との「基本認識」を示し環境問題への取り組みが「現代的な意味での宗教生活の実践」であるとの認識を示した。
2001年には生長の家国際本部と生長の家総本山がISO14001を取得し、2008年までに国内の生長の家の全ての事業所がISO14001を取得している。海外では、2009年10月に生長の家ブラジル伝道本部が、2010年11月に生長の家アメリカ合衆国伝道本部が、同じくISO14001の認証を取得した。
清超は2005年(平成17年)頃より体調を崩し自宅にて療養・静養中であったが2008年(平成20年)10月28日に死去。それに伴い、2009年(平成21年)3月1日の立教記念日に「生長の家総裁法燈継承祭」が執り行われ、雅宣が第3代総裁、あわせて妻の純子が恵美子より白鳩会総裁職を譲り受け、第3代白鳩会総裁に就任した。
2011年には、教団として脱原発を支持する方針を明確にした。2013年には本部を東京都から山梨県に移動し、「自然とともに伸びる運動」の象徴的な建物として「森の中のオフィス」を建設、国際本部とした。さらに、2015年になると、青年会がこれまでの「青年会宣言」及び「青年会綱領」を規約から削除し、より環境主義的な色彩の強い「生長の家青年会ヴィジョン」を制定した。以降、生長の家は環境重視の路線を強めている。
生長の家から保守的な教義がなくなったわけではない。現在でも、生長の家の講習会その他の行事では、開会の際に国歌斉唱が行われる。また、皇居遥拝や天照大御神への祭祀も行われており、環境重視の路線についても決して「左翼思想に染まっているわけではない」とする証言もある。
また、安倍政権成立後は安倍政権や日本会議に否定的な主張も目立つ。2014年、生長の家は安倍政権による安保法制について立憲主義の観点から反対した。
2016年6月9日、生長の家は2016年の参議院選挙において、安倍首相の政治姿勢に反対の意思表明をするために、組織として「与党及びその候補者を支持しない」ことを決定した。また、元生長の家信者らの関与する政治組織・日本会議が政権運営に強大な影響を及ぼしている可能性があるとして、遺憾の想いと強い危惧を表明した。
2017年10月6日、生長の家は第48回衆議院議員総選挙に対する方針を発表し安倍政権が「政治姿勢が改まらないどころか、国民を無視した強引な政権運営を繰り返している」として再び与党への不支持を表明した。その中で生長の家は「環境・資源問題の解決を含めた安全保障の推進」を訴え「現在、地球温暖化の影響で、激しい気候変動が起こり、巨大ハリケーン、洪水や干ばつの頻発によって飢餓が発生し、難民が大量に流出しています。これらの問題は国家間の紛争の火種になっています。また、石油や天然ガスなどの枯渇資源に依存した文明に頼れば、これも資源の争奪による紛争・戦争を引き起こす可能性があります。私たちは、このような環境問題や資源問題を解決することが、世界の平和安定に大きく貢献するものであると確信しています。」と主張した。
主張
生長の家はかつて政治運動に積極的であったこともあり、社会問題に対して様々な主張をしている。
ノーミート
谷口雅春は「平和論をなすもの、本当に平和を欲するならば、肉食という殺生食をやめる事から始めなければならないのであります。」と主張していた。その内容は肉だけでなく魚や鶏卵、乳製品の摂取をも好ましくないというヴィーガニズムに近い考えであったが、生長の家が教団として信徒に対して徹底した菜食主義を行うように指導しているわけではない。しかし、谷口雅宣が副総裁になってから地球環境問題と家畜産業の関係が注目され、再び「食卓から平和を」をスローガンに肉食を減らすべきであるという主張を行うようになった。
政治的スペクトル
菅野完は生長の家について「三代目総裁・谷口雅宣のもと過去の「愛国宗教路線」を放棄し「エコロジー左翼」のような方向転換をして」いると述べているほか、雅宣が「『生命の実相』の長版を停止」するなどしていると主張しているが、実際には教団が『生命の実相』を出版しないのは著作権を管理している生長の家社会事業団が生長の家本流運動に参加して教団に出版を認めない方針になったためであり、菅野の発言は事実に反する。
また生長の家が「エコロジー左翼」路線に立ったという主張にも異議がある。例えば現総裁である谷口雅宣が発表した「天照大御神の御徳を讃嘆する祈り」には次のような記述がある。
「われは今、天照大御神の実相の光、与える愛の力の尊さをあらためて誉め讃う。われは今、実相世界の真の我を観ずる。天照大御神の御心われに流れ入りて、わが心を満たし給う。天照大御神の生命われに流れ入りて、わが生命となり給う。わが心は天照大御神の愛の心に満たされている、生かされている、満たされている、生かされている。天照大御神は「愛なる神」の別名である。キリストの愛の別名である。自ら与えて代償を求めない「アガペー」の象徴である。また、三十三身に身を変じて衆生を救い給う観世音菩薩の別名である。われは今、天照大御神と一体となり、地上のすべての人々、生きとし生けるものに愛を与えるのである。天照大御神の愛は無限であるから、われもまた無限に愛を与えてもなお減ることはないのである。 — 日々の祈り」
このように現在でも生長の家は保守的な教義を持っており、宝蔵神社で水子供養を行い堕胎や動物性集合胚に反対するなどプロライフな主張も展開している。2006年8月30日には人クローン胚の研究・利用に反対する意見書を文部科学省に送付している。 
生長の家 2 

 

概要
名称 / 生長の家(せいちょうのいえ)
立教 / 昭和5年3月1日
創始者 / 谷口 雅春
前総裁 / 谷口 清超
総裁 / 谷口 雅宣
本尊 / 生長の家の本尊は「生長の家の大神」と仮に称していますが、「生長の家」とは「大宇宙」の別名であり、大宇宙の本体者(唯一絶対の神)の応現または化現のことであります。正しい宗教の本尊は、この唯一絶対なる神を別名で呼んでいるものであるとして、いかなる名称の神仏も同様に尊んで礼拝します。また、生長の家では、本尊を現す像などは造らず、あらゆる宗教の本尊の奥にある「実相」(唯一の真理)を礼拝するため、『實相』と書いた書を掲げています。
信徒数 / 1,511,859人(日本国内:521,100人/日本以外:990,759人)
基本的な教え
生長の家の教えの主な特長は「唯神実相(ゆいしんじっそう)」「唯心所現(ゆいしんしょげん)」「万教帰一(ばんきょうきいつ)」の3つの言葉で表わすことができます。
唯神実相(ゆいしんじっそう)
「唯神実相」の「実相」とは本当にある世界のことであり、唯一にして絶対の神がつくられた世界のことです。実相の世界は神の御徳が充満していて、人間は神の子であり、神と自然と人間とは大調和している世界です。つまり本当に存在するものは唯、神と神の作られた完全円満な世界だけであるという意味で「唯神実相」と呼んでいます。 一方、人間の感覚器官で捉える世界を「現象」と呼んでいます。現象の世界は、全体の膨大な情報量のうち、人間の肉体の目、耳、鼻、口、皮膚で濾(こ)し取ったごく一部の不完全な情報を、脳が組み立て直して仮に作り上げている世界です。ですから、世の中には戦争やテロがあったり、病気などの不完全な出来事があるように見えますが、それらはすべて「現象」であって、本当にある世界の「実相」ではないと説いています。
唯心所現(ゆいしんしょげん)
「唯心所現」とは、この現象世界は人間の心によって作り出している世界であるという教えを表現しています。唯心所現の「心」とは「コトバ」であり、コトバには行動で表現する「身(しん)」、発声音で表現する「口(く)」、心の中で思う「意(い)」の3つがあり、これら身・口・意の三業を駆使することで、唯心所現の法則によって現象世界をいかようにでも作り上げることが出来るのです。唯心所現の法則は厳密かつ公平であり、悪いコトバを使えば、悪い世界が現象世界に現れてしまいます。従って善い世界を実現させようと思うなら、実相世界の善きコトバ、神様の御徳である、智慧・愛・生命をコトバで表現すればよいことになります。
万教帰一(ばんきょうきいつ)
「万教帰一」とは、万(よろず)の教えを一つ(生長の家)にするという意味ではありません。これは後ろから読んで、一つの教えが万の教えとして展開していると説いています。宗教に違いがあるのは国や地域、民族によって服装が違うように、宗教も文化的な違いが現れているからだと言えます。目玉焼きに喩えると、中心部分の黄身を普遍的な根本真理と見立て、それぞれの宗教が共有していると考えます。一方、周縁部分である白身は、文化、民族、時代などの違いによって変化している部分だと考えると分かりやすいでしょう。世界の各宗教が、この中心部分(黄身)の共通性と周縁(白身)の多様性をお互いに認め合うことによって、宗教間の対立は消えることになります。それを端的に表わした言葉が「万教帰一」の教えなのです。
沿革
生長の家の立教は昭和5年3月1日。これは創始者、谷口雅春が精神修養のための月刊誌『生長の家』を創刊した日にあたります。同誌に説かれた「人間・神の子」の教えによって、多くの人々が自己の神聖性と、すべての人に神性、仏性が宿ることに目覚め、天地の一切のものに感謝する生活を送るようになりました。その結果として病が癒され、家庭に調和が実現し、人間が本来持つ無限の能力が花開き、経済難が解消し、多くの事業が発展しました。
生長の家では、「真理の言葉」を掲載した月刊誌『生長の家』(現在では3種の普及誌と機関誌に分化・発展)や書籍を頒布する「文書伝道」と、総裁、白鳩会総裁が各地に出向いて直接講演を行う「講習会」を2つの柱として、布教活動を行ってまいりました。
全国に信徒が増えるに従ってそれらは組織化され、現在では、女性組織の「白鳩会」、男性組織の「相愛会」、及び青年組織の「青年会」の3つの組織を通じて伝道活動を活発に展開しています。またこれに加えて産業人組織の「生長の家栄える会」、教職員の組織として「生長の家教職員会(生教会)」があり、それぞれの分野で活動を行っています。
創始者、谷口雅春は昭和60年に昇天しましたが、その後、娘婿の谷口清超が法燈を継承して生長の家総裁となり、平成20年10月28日に昇天。また現在は、その子息の谷口雅宣が法燈を継承して生長の家総裁となり、数々の著作、講習会、インターネット上のブログなどを通して教えを宣布しています。
創始者・谷口雅春によって始められた、人類の生活の全面を光明化しようとする「人類光明化運動」は、谷口清超・前総裁、そして谷口雅宣・総裁へと継承され、現在は唯一絶対の神への信仰によって世界の平和をめざす、「国際平和信仰運動」を展開し、日本をはじめ北米、中南米、アジア・オセアニア、ヨーロッパなどの世界各国の拠点を通して、さらに力強く運動の輪を広げています。 
生長の家 3 

 

創立 / 昭和5年3月
創始者 / 谷口雅春(初代総裁)
現継承者 / 2代総裁・谷口清超(雅春の娘婿)
信仰の対象 / 生長の家大神(大宇宙の応現・化現)
教典 / 聖典『生命の實相』その他
沿革
生長の家(せいちょうのいえ)は、谷口雅春(たにぐち・まさはる)の「真理の書かれている言葉を読めば病が治る」等の主張によって、膨大な量の書籍を発行し、会員に購読させる、いわゆる「出版宗教」です。
また谷口雅春の思想には、宗教・哲学・心霊学・精神分析学などの教説が混ぜこぜに取り込まれていることから、「宗教のデパート」などとも呼ばれているものです。
女性との二股交際と性病
谷口雅春は、明治26年11月、兵庫県の農家に生まれました。
早稲田大学に進学したものの、女性問題を起こしたため養父母から仕送りを断たれて中退し、そして大正3年、大阪の紡績会社に勤めました。
ところが、会社の上司の姪(めい)と、色街の遊女の2人と二股交際をしたあげく、その遊女から性病を移されてしまいました。雅春は、その病気が上司の姪に移りはしないかと悩み続けたそうです(これが後に、病気治し宗教の原点となります)。しかしこの女性問題が原因で工場長と口論となり、紡績工場を退職しました。
その後、雅春は大本(当時は皇道大本。別項参照)が発行する雑誌に心を引かれ、大正7年に大本に入信しました。そして翌年には教団機関誌の編集員となり、大正9年には同じく信者の江守輝子と結婚しました。
そうした中、大正10年に「第一次大本事件(大本の項参照)」が発生。しばらくは出口王仁三郎の口述筆記なども担当していましたが、次第に大本の信仰に疑問を感じるようになり、ついに大正11年、雅春は大本教団を去りました。
『生長の家』の発刊・立教
某宗教思想家の著書を読んで、「不幸の存在を意識の圏外に追い出すことが、幸福になる道である」などという心の法則なるものを発見したという雅春は、昭和4年36歳の時、今度は神がかりとなり、「物質はない、心もない、実相がある」というような声がどこからか聞こえてきて、雅春は悟(さと)りに達したのだそうです。
そして翌年、自分が悟ったという内容を発表するために、月刊誌『生長の家』を創刊しました。教団では、この雑誌創刊日を立教の日としています。
その雑誌に「購読したら病気が治った」などの体験が掲載されると、購読者が増え始めました。また雅春は雑誌に「万教帰一の神示」など、自らの思想の核となる説を相次いで掲載し、さらにその内容を加筆・整理して、昭和7年から『生命の實相(じっそう)』と題して順次刊行し始めました。
昭和9年には信者の出資で、出版会社「光明思想普及会」を設立。昭和15年には宗教結社「教化団体 生長の家」を設立しました。
その後の展開
太平洋戦争中、雅春は「天皇中心の国家社会の実現こそ神の意志である」などと主張し、軍部による領土拡大を正当化し、軍部に積極的に協力。天皇の元首化や靖国神社の国家護持を提唱していました。
しかし昭和22年、GHQから雅春は戦争犯罪者とされ、公職追放処分となりました。これによって雅春は教主を辞任し、娘婿の谷口清超が第2代に就任しました。
昭和27年、宗教法人「生長の家教団」を設立し、昭和32年には「生長の家」と改称し、雅春が総裁となり、清超が副総裁となりました。
昭和50年には、生長の家の総本山として、長崎に「龍宮住吉本宮(りゅうぐうすみよしほんぐう)」を建設しました。教団では、長崎の総本山を祭祀(さいし)の中心地とし、東京本部は宗務および出版時・事務の中心地としています。
教義の概要
本尊と教典
総本山である龍宮住吉本宮には「住吉大神(神体として両刃の剣)」を祀(まつ)り、道場や集会所では「生命の実相」「実相」などと書かれた額や掛け軸を掲げています。しかし会員に対しては「実相とは唯一の真理であり、あらゆる宗教の本尊の奥にあるもの」としていて、各自の先祖伝来の神棚や仏壇をそのまま祀ることを認めています。
教典には『生命の實相』などがあり、そのほかに『白鳩』『光の泉』『理想の世界』などが信者用の機関誌として毎月発行されています。
教義
この教団は「デパート宗教」と呼ばれるだけあって、日本の神話、仏教、キリスト教などの教義に加え、西洋哲学やら日本の思想家の論なども混ぜこぜにして教義を形成しています。
教義の中心は「唯心実相哲学」なる教祖の教えで、
・タテの真理 / すべての人間が神の子であり、無限の生命・智恵・愛等のすべての善徳に満ちた久遠不滅(くおんふめつ)の存在である。これが人間の真実の相であるとする思想。
・ヨコの真理 / 心の法則のこと。現実世界はただ心の現すところであり、心によって自由自在に貧・富・健康・幸福等、何でも現すことができるという。
例えば病気にかかっても、「人間本来病気無し、病気は心のかげ」ということで、実相の完全さを信じるならば、すべての病は消え、完全な至福の世界が顕(あらわ)れるなどという原理。
というような教えです。
また「万教帰一」と言い、「すべての宗教は唯一の大宇宙(神)から発したものであり、さまざまな宗教や真理は、あくまでも時代性・地域性に照らして説かれたものである」などと主張しています。
信者の修行
教団では、「生命の実相」の真理を体得するためとして、
(1)毎日、必ず『生命の實相』などの教典を読む。
(2)先祖供養のために、聖経と称する『甘露(かんろ)の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』を各々の神前・仏前で読誦(どくじゅ)する。
(3)毎日、「神想観(しんそうかん=「物質はない、肉体はない、人間は神の命そのものであり、神の子である」という人間の実相なるものを実感するための瞑想法らしきもの)」を実行する。
という3つの修行を信者に課しています。そしてさらに「人類を光明化(こうみょうか)」するという「布教活動」を奨励しています。 
「生長の家」諸話 

 

日本会議産みの親「生長の家」が安倍政権と日本会議の右翼路線を徹底批判!
〈来る7月の参議院選挙を目前に控え、当教団は、安倍晋三首相の政治姿勢に対して明確な「反対」の意思を表明するために、「与党とその候補者を支持しない」ことを6月8日、本部の方針として決定し、全国の会員・信徒に周知することにしました。〉
宗教法人「生長の家」が、昨日6月9日、ホームページにてこんな書き出しで始まる声明文を公開。安倍政治に真っ向から反対を宣言した。
生長の家は1930年に故・谷口雅春氏によって設立された宗教団体で、49年に法人化。当時は皇国史観や国粋主義的思想のもと「明治憲法復元」や反共を掲げ、政治家と結びついて積極的に政治活動を行っていた。
また、現在、安倍政権と一体化して、改憲を推し進めている極右団体「日本会議」も元生長の家の信者が中心になっている。その生長の家が、この声明文では、安倍首相の政治姿勢に対する明確なNOを突きつけているのだ。
〈その理由は、安倍政権は民主政治の根幹をなす立憲主義を軽視し、福島第一原発事故の惨禍を省みずに原発再稼働を強行し、海外に向かっては緊張を高め、原発の技術輸出に注力するなど、私たちの信仰や信念と相容れない政策や政治運営を行ってきたからです。〉
〈安倍政権は、旧態依然たる経済発展至上主義を掲げるだけでなく、一内閣による憲法解釈の変更で「集団的自衛権」を行使できるとする“解釈改憲”を強行し、国会での優勢を利用して11本の安全保障関連法案を一気に可決しました。これは、同政権の古い歴史認識に鑑みて、中国や韓国などの周辺諸国との軋轢を増し、平和共存の道から遠ざかる可能性を生んでいます。また、同政権は、民主政治が機能不全に陥った時代の日本社会を美化するような主張を行い、真実の報道によって政治をチェックすべき報道機関に対しては、政権に有利な方向に圧力を加える一方で、教科書の選定に深く介入するなど、国民の世論形成や青少年の思想形成にじわじわと影響力を及ぼしつつあります。〉(声明文より)
見ての通り、生長の家は、安保法の強行による民主主義と立憲主義の破壊だけでなく、原発再稼働や歴史修正主義、さらにメディアへの圧力行為まで、かなり全般的に安倍政権の政策を批判しているが、同教団がこれほどまでにはっきりと現政権との距離を明確にするのは、安倍首相と二人三脚でその極右的政策の数々を支援している「日本会議」の存在がある。
日本会議は、1997年に宗教右派が結集した「日本を守る会」と、「日本を守る国民会議」という二つの団体が合流して結成された国内最大の保守系団体。著述家・菅野完氏の労作『日本会議の研究』(扶桑社)に詳しいが、日本会議の事実上の事務方である右翼団体「日本青年協議会」は、かつての全共闘時代に民族派学生運動を牽引した生長の家関係者が組織したものだ。とりわけ、日青協会長の椛島有三氏は、現在日本会議の事務総長を務め、その前身から運動のオーガナイズに寄与してきたという。こうした同書が指摘する生長の家OBと安倍政権との関係について、声明文ではこのように書かれている。
〈最近、安倍政権を陰で支える右翼組織の実態を追求する『日本会議の研究』(菅野完、扶桑社刊)という書籍が出版され、大きな反響を呼んでいます。同書によると、安倍政権の背後には「日本会議」という元生長の家信者たちが深く関与する政治組織があり、現在の閣僚の8割が日本会議国会議員懇談会に所属しているといいます。これが真実であれば、創価学会を母体とする公明党以上に、同会議は安倍首相の政権運営に強大な影響を及ぼしている可能性があります。事実、同会議の主張と目的は、憲法改正をはじめとする安倍政権の右傾路線とほとんど変わらないことが、同書では浮き彫りにされています。〉(声明文より)
また、生長の家は60年代半ばには「生長の家政治連合」(生政連)を結成し、運動だけでなく、「参院のドン」と呼ばれた村上正邦氏らを通じて政界に影響力を及ぼしていた。しかし、生長の家内では、こうした政治偏重の一部信者らの姿勢に反発する動きも現れ、生政連は83年に活動停止。生長の家自体も同時期に政治活動から撤退し、近年では、環境問題への取り組みなどにシフトしている。そうした現教団から見て、日本会議と安倍政権の行いは「誠に慚愧に耐えない」ものだという。
〈当教団では、元生長の家信者たちが、冷戦後の現代でも、冷戦時代に創始者によって説かれ、すでに歴史的役割を終わった主張に固執して、同書(『日本会議の研究』)にあるような隠密的活動をおこなっていることに対し、誠に慚愧に耐えない思いを抱くものです。先に述べたとおり、日本会議の主張する政治路線は、生長の家の現在の信念と方法とはまったく異質のものであり、はっきり言えば時代錯誤的です。彼らの主張は、「宗教運動は時代の制約下にある」という事実を頑強に認めず、古い政治論を金科玉条とした狭隘なイデオロギーに陥っています。宗教的な観点から言えば“原理主義”と呼ぶべきものです。私たちは、この“原理主義”が世界の宗教の中でテロや戦争を引き起こしてきたという事実を重く捉え、彼らの主張が現政権に強い影響を与えているとの同書の訴えを知り、遺憾の想いと強い危惧を感じるものです。〉(声明文より)
“テロや戦争を引き起こす「原理主義」”というのは強烈な批判だが、これは、椛島氏ら一部OBへの決別宣言であると同時に、その影響を受けて戦前回帰的傾向を強める安倍政権への明確な拒絶に他ならない。声明文の最後はこのように締めくくられている。
〈私たちは今回、わが国の総理大臣が、本教団の元信者の誤った政治理念と時代認識に強く影響されていることを知り、彼らを説得できなかった責任を感じるとともに、日本を再び間違った道へ進ませないために、安倍政権の政治姿勢に対して明確に「反対」の意思を表明します。この目的のため、本教団は今夏の参院選においては「与党とその候補者を支持しない」との決定を行い、ここに会員・信徒への指針として周知を訴えるものです。合掌。〉
日本会議と安倍政権の関係者たちにこの言葉が響くとは思わないが、有権者には、彼らを生み出した当の宗教団体ですら、その右翼路線に危惧を抱いていることをぜひ認識しておいてもらいたい。 (2016/6)
日本会議と「生長の家」
「日本会議」のことが急に注目されるようになってきた。日本会議について論じた本がいくつも出版され、かなりの売り上げを見せている。それだけ世間は、この団体に注目していることになる。日本会議について扱った本では、この組織と新宗教の教団、「生長の家」との密接な関係が指摘されている。ただし、生長の家は日本会議の加盟団体ではないし、現在の教団はむしろ日本会議の路線に対しては批判的である。
生長の家の創始者は谷口雅春という人物で、雑誌『生長の家』を刊行し、その合本である『生命の実相』を刊行することで、「誌友」と呼ばれる会員を集めた。
新宗教のなかには、出版活動に重きをおいているところが少なくないが、生長の家はその先駆けである。
ただ、生長の家の特徴は、『生命の実相』を読めば、万病が治り、貧乏も逃げていくと宣伝したことにある。評論家の大宅壮一は、新聞に大々的に掲載された『生命の実相』の広告を見て、これほど素晴らしい誇大広告があっただろうかと皮肉っていた。
もう一つ、生長の家の特徴は、戦前においては天皇への帰一を説いて天皇信仰を強調し、さらには、太平洋戦争が勃発すると、それを「聖戦」と呼び、英米との和解を断固退けるべきだと主張したことにある。
中国を撃滅するために「念波」を送るよう呼びかけたところでは、まるでオカルトの世界である。
戦後になると、谷口は、「日本は決して負けたのではない」と主張し、生長の家の教えには「本来戦い無し」ということばがあるとして、本来は平和主義であると主張した。
まるで御都合主義で、節操がないとも言えるが、谷口の思い切った言い方は、多くの読者に共感をもって迎えられた。
彼は、早稲田大学の文学部で学んだインテリで、文才に恵まれていた。文章が書ける宗教家は珍しい。つまり、それまでの主張と合わない状況が生まれても、谷口は、それを文章の力で合理化できたのだ。
戦後谷口にとって好都合だったのは、冷戦という事態が生まれ、東西の対立が生まれた点である。
日本国内では、保守と革新、右翼と左翼が激しく対立するようになり、生長の家の天皇崇拝や国家主義、さらには家制度の復活などの主張は、保守陣営に支持され、社会的に大きな影響力をもった。
具体的には、明治憲法復元、紀元節復活、日の丸擁護、優生保護法改正などを主張したが、これが戦前の軍国主義の時代に教育を受け、戦後急に生まれた民主主義の社会に違和感をもった人々の考えを代弁するものとなったのである。
さらに生長の家は、「生長の家政治連合」を結成して、参議院に議員を送り込んだ。
また、生長の家学生会全国総連合という学生運動の組織を結成したが、これは、1960年代広範に盛り上がる新旧左翼の学生運動に対抗するためのものであった。ここに集った人間たちが、現在の日本会議の事務局を担っている。
新宗教はどこでもそうだが、その教団を作り上げた初代がもっともカリスマ的で、迫力があり、人を引きつける力をもっている。
生長の家の場合がまさにそうで、谷口のカリスマ性が多くの会員、支持者を集めることに結びついた。
しかし、そうしたカリスマ性を後継者も同じようにもつことは不可能である。
それに、谷口が活躍した時代は次第に過去のものとなり、冷戦構造は崩れ、左右の対立という構図も重要性を失った。生長の家の教団自体が衰退したのも、時代の変化ということが大きかった。
生長の家と日本会議の関係について、もう一つ注目する必要があるのが、谷口がかつて所属した大本のことである。
大本は、出口なおという女性の教祖が開いた新宗教の一つだが、教団を大きく発展させたのは、神道家で、なおの娘すみと結婚した出口王仁三郎である。
王仁三郎がいかにユニークな人物であるかは、拙著『日本の10大新宗教』(幻冬舎新書)でふれているので、それを参照していただきたいが、日本会議との関連で注目されるのは、この王仁三郎が1934年に組織した、「昭和神聖会」の存在である。
昭和神聖会は、昭和維新を掲げる団体で、その賛同者には、大臣や貴族院議員、衆議院議員、陸海軍の将校なども名を連ねていた。
この昭和維新会の綱領では、「皇道の本義に基づき祭政一致の確立を帰す」や「天祖の神勅並に聖詔を奉戴し、神国日本の大使命遂行を期す」といったことばが並んでおり、これは、谷口の主張、さらには日本会議の思想にも通じるものをもっていた。
王仁三郎は、全国を奔走し、組織の拡大につとめるが、国家権力の側は、昭和神聖会の急成長に警戒感を強め、それが1935年の大本に対する弾圧に結びつく。
警察は、大本が国体の変革をめざしているとして、王仁三郎などの教団幹部を逮捕し、教団施設を徹底的に破壊した(昭和神聖会については、武田崇元「昭和神聖会と出口王仁三郎」『福神』第2号を参照)。
日本会議の代表役員のなかに、手かざしで知られる新宗教、崇教真光の教え主岡田光央が含まれていて、崇教真光は日本会議の大会に大量動員を行うなど、熱心に活動している。
その崇教真光の創立者、岡田光玉は、世界救世教の元信者であったが、世界救世教の創立者、岡田茂吉は大本の幹部であった。
現在の大本は、教団のあり方も変わり、日本会議に加盟しているわけではないが、日本会議のルーツの一つなのである。
そうした側面から、日本会議を見ていくことも、今必要なことではないだろうか。
それにしても、日本会議についての本が立て続けに出版され、多くの読者を獲得している状況は不思議である。
実は私は、少し前に『日本会議と創価学会』といった本を書こうとして準備も少し進めていた。
ところが、「日本会議ブーム」が起こったことで、組織としての実態を必ずしも持っていないこの団体が、あたかも最近の日本を動かしてきたかのようなイメージが作られてしまった。
そうした予想外な事態が起こったので、『日本会議と創価学会』はとりあえずお蔵入りにしたのだが、本当に日本会議には、関連の書籍が指摘しているような力があるのだろうか。
私はたまたま、今年の3月、地震前の熊本で、日本会議の熊本支部が街頭で活動しているのを目撃した。ただ、全国で同じような活動が展開されているのかと言えば、そうではなく、むしろ熊本だけが熱心であるようだ(街頭で日本会議が活動している写真は必ず熊本である)。
日本会議が右派運動の中心という見方は、分かりやすいかもしれないが、事実とはずれている。私たちは、冷静に日本会議の存在意義を評価しなければならないだろう。
生長の家 芸能人・経済界の大物も信仰
2016年6月9日に宗教法人「生長の家」は参院選で与党の候補者を支持しない旨を発表しました。安倍政権の方向性に対して明確に反対するという趣旨だそうです。「生長の家」とは政治や選挙にどのような影響を与えているのでしょうか?
「生長の家」とは?
「生長の家」は1930年に「谷口雅春」氏が立ち上げた宗教団体です。
教義は「万教帰一」。
神道、仏教、キリスト教、天理教、大本等諸宗教はその根本においては一致するという考え方です。ただ全ての宗教が含まれるわけではなく、創価学会などの原理主義宗教とは一線を画しています。
教本は「生命の実相(せいめいのじっそう)」と「甘露の法雨(かんろのほうう)」で、「生命の実相」は約2,000万部近く発行されています。
「谷口雅春」氏は元々、戦前において有数の巨大宗教団体の1つである「大本(おおもと)」の信者でした。「大本」は神示を伝える宗教でいくつかの予言を残していました。しかし、主たる予言の1つが起こらなかったため、熱心な信者であり教主の右腕として活動していた「谷口雅春」氏は疑いを持ち退団。
自らも神示を受け「生長の家」を設立。
100万人を超える信仰者を抱える巨大宗教団体の1つに数えられています。
著名人の信者
信者には経済界関係者が多く、京セラの「稲盛和夫 」氏、ヤオハンの「和田一夫」氏、ハリウッド化粧品の「メイ牛山」氏など日本経済に影響を与えてきた著名人が名を連ねています。鳩山一郎元総理大臣も入信し、活動したことで病気が治癒したと言われています。
芸能人だと「竹内まりや」さんの名前が度々聞かれますが、父親が入信していた関係で、ご本人が機関紙のインタビューに答えた形であり、「竹内まりや」さん自身は入信していないと話しています。
日本会議との関係
「日本会議」とは1997年に設立された改憲運動を推進している国民運動団体で、安倍政権を支持しています。
こちらの事務総局幹部らは元々「生長の家」の信仰者でしたが、方向性の違いから離脱しています。
日本会議の考え方は「美しい日本の再建と誇りある国づくり」を理念として、
• 美しい伝統の国柄
• 新しい時代にふさわしい新憲法の制定
• 国の名誉と国民の命を守る政治
• 日本の感性をはぐくむ教育の創造
• 国の安全を高め世界へ平和貢献
• 共生共栄の心で結ぶ世界との友好を目指す
「生長の家」は安倍政権の現在の政策は「民主政治が機能不全に陥った時代の日本社会を美化している」とし、日本会議の方針は生長の家の現在の信念と方法とはまったく異質で時代錯誤的との見解から候補者を支持しないことを表明することとなりました。

「生長の家」は戦後、日本を立て直す気概が溢れていた時代に設立され、「万物に感謝する」という基本理念が人々を惹きつけ100万人を超える信仰者が集まりました。
その中に日本経済に影響力を持つ人物も含まれていたことから、政治的影響力も持つようになっていきました。
現在、3代目総裁である「谷口雅宣」氏はこのような右派よりな考え方から離れ、世界平和を願う「国際平和信仰活動」の推進へ舵を取ったため、今回の与党不支持を決定したというのが今回の背景にあります。 
「生長の家」考 

 

創始者である谷口雅春の死去を報じた週刊文春(1985年7月4日号)記事
・・・生長の家といえば、公称信者数300万人を擁する新興宗教の雄だが、その創立者・谷口雅春総裁が、このほど亡くなった。大正6年に大本教に入信。機関誌の編集にあたったが、大正11年大本教を去った。昭和4年、「物質はない、実相のみがある」との神示を受けたと称し、翌年雑誌「生長の家」を創刊。人生苦の解決と病気快癒の体験で評判になり、多数の読者を獲得した。戦時中は天皇中心主義、軍国主義を鼓吹して信者を増やしたが、終戦後は一転して自由と平和を唱える。講和後は再び右傾化。帝国憲法への復帰、国家神道の復活等を訴え、戦後の右翼運動の精神的な支柱の1人になった。(中略)この谷口雅春氏をどう評価するか。「あの人は文学青年でしたから、初期の頃の著作は大変ロマンチックで文章もうまかった。文学青年の段階でとまっていれば評価できるんですが、その後ウルトラ国家主義路線を打ち出して来た。過激な右翼青年を輩出した危険で有害な人だと思います。そういう路線は、私が考える本来の宗教とはなじまない。普遍性を持ち得ないから民族宗教に留まり、世界宗教たり得ない。教勢拡大のためには、ウルトラ国家主義では布教しにくいので、やや手直しをするのではないでしょうか。」・・・
「黒い宗教 その実態と悪の構図」石井岩重著
・・・ここで私が言いたいのは、谷口の一貫して変わらない体制順応主義、権力への迎合ぶりである。昭和12年に日華事変が勃発して、日本が軍国主義時代に突入して行った後、ほとんどの宗教団体はその存続を図るために、カーキ色を帯びはじめたが、谷口はより急進的だった。国家が広がることは“実相”が拡がることで、「日本軍の進むところ宇宙の経綸が廻る」と“念波”の一斉祈願で敵軍を圧迫するため「光明念波連盟」を結成し、天皇絶対化の度合が手ぬるいと文部大臣に公開状を送り、満州を講演旅行して歩いた。「非常時に労働争議を停止させ、反戦思想を抑圧するのに最も効果のあるのは光明思想である」(「生長の家」17年10月号)と、 いやはや大変なタカ派ぶりである。それはそれでかまわないし、ファシストなどと言うつもりはない。ところがである。敗戦後の谷口の態度はどう変わったか。「今や自由を得た。生長の家ほど平和愛好の教えはない」とこうだ。この臆面の無さはどうだ。恥ずかしくないのであろうか。そして、それまでの国家主義的な色彩を極力払拭し、急激にキリスト教的なものを強く打ち出している。それにもかかわらず、戦後しばらくして、公職追放組が解除されて権力の座にカムバックするようになると、とたんにまた、日本主義、 愛国主義、反共主義を打ち出したのだ。このような節操のない人物をはたして信用していいものだろうか。私が「生長の家」に対して抱く不信感は、以上のようなことに強く裏打ちされている。・・・
教義の概略
○ 全ての存在は、無限の愛、無限の知恵、無限の自由、その他あらゆる善きものであるところの完全なる生命、すなわち神が現れたものである。従って、人間の実相(本当の姿)は神の子であり、無限の愛、無限の知恵、無限の自由、その他あらゆる善きものに満ちた永遠不滅の生命である。
○ 人間の実相はあらゆる善きものに満ちた神の子であり、絶対唯一神が<全き善・無限知・無限力>で創った世界(生長の家はこの本来の世界を「実相世界」と呼びます。)は完全である、すなわち無限の幸福に満ちた世界なのであるから、「実相」を悟れば事態・環境・法則は自ずから無害有益なものに為り、真に「無限供給の神の恵み」を受ける事が出来る。つまり貧・富・健康・幸福等、何でも自由自在に現すことができる。
○ 我々が5官によって認識する世界は、心とは独立した客観的実在ではない。現象の世界は、全体の膨大な情報量のうち、肉体の5官で受け取ったごく一部の不完全な情報を、脳が組み立て直して仮に作り上げている世界である。物質はない、肉体はない、だから世の中に戦争やテロがあったり、病気などの不完全な出来事があるように見えるが、それらはすべて「現象」であって実在しない。心に思い描いたものが現れたものがこの物質現象界なのであるから、心のあり方によってどのようにでも現れる。
一見するとよい教えのように思われるかもしれませんが、これがなかなか危険な教えなのです。生き方を学んで自らの心がけを省みたりといった本来というか正しい宗教とは全く違うことがお分かり頂けると思います。生長の家の教えを理解し「神想観」という行法(これとて谷口が元いた大本教の「鎮魂帰神」という行法を真似たもの。戦前のことですが大本教が弾圧されそうになる気配が濃くなるや、それまで世話になった恩義などどこへやら、さっさと逃げ出しました。)を修しさえすれば人間の実相である「神の子」の本質が現れ、人格も神の如くに成り、健康、富も思いのまま、といったどちらかと言うと魔術に近いような宗教なのです。
昭和を代表する評論家である大宅壮一は著書「宗教を罵る」の中で次のように生長の家を批判しています。「人間はまず心に思って、それによって行動し創造するではないか。それでも判るように 心こそ主人、精神こそ肉体の支配者である。いや、本当に存在するのは心だけで、物はその影にすぎない。スクリーンに映じる万象が、実は存在せずフイルム面のしみの影にすぎないのと同じこと。この真理を悟って精神が肉体の束縛を離れれば、フイルム面のしみは消えて、スクリーン一杯に精神の光明が輝く。肉体無し、ゆえに病気も無い。病気は本来無い、と悟った時、すなわち病気は治っている……。」
‥‥どんな観念論者でも、盲人が気を取り直し悲しみを超越することと、実際に目が再生することとは別だ、ということを知っている。ところが谷口の「大真理」によると、目を生やすも無くすも心のまま、ということになる。‥‥要するに、ゴテゴテの観念論を漫画化したような教えにすぎないのだが、物質に対する観念の優位を説くためには、どんな観念論哲学でも、観念論を説いているどんな宗教の教義でも自由に借りてこられるわけで、唯物論をしっかり掴まず、哲学的な考えに慣れてもいない一般の読書層としては、谷口の巧みな話術に抵抗することは難しい。
「生長の家」以外の思想的知識をあまり持たないA君は盲信してしまった訳なのです。物質は究極的には実在しないものであるとは私も思います、私が「物質はあくまでも“本来”ないものだ」と言ってもA君は「物質はない!!」と言い張り、聞く耳を持ちませんでした。A君はよく素粒子の非実在を語っていました。確かに素粒子の次元ではそうかも知れませんが、素粒子を砂粒位の大きさだとすると人体は太陽系程の大きさになるそうです。つまり1臓器ですら地球より遥かに大きいことになります。素粒子の次元で非実在だからといって、それがいか程の意味があるでしょうか。原子、分子といった各次元で法則と働きが厳然とあるのです。
大宅氏の批判をさらに紹介すると
○ 太田某は、顔を剃ると必ずカミソリで1箇所は傷を作っていたが、生長の家に入ってからちっとも顔を切らなくなった。
○ 家ダニに困っている家で、神想観をして立ち去るように命じたが、去らない。そこで、「ダニだって住む所が必要なのだ」と反省して、家中の畳を剥いで6畳1室に積み重ね、「この室をあなた方の棲み家に提供しますから、これからどうぞこの部屋から出ないで下さい」と言って、また神想観をすると、それ以来ダニは刺さなくなり6畳の部屋に列を作って生活している。
○ 前橋のある養蜂家が「生長の家」に入って「神のお送りになったこの世界は無限供給であって、必ずよき成績が上がるものだ」と信じていると、去年の倍ほどの成績を上げることができたし、先日ひょうが降って桑の葉が傷めつけられた時にも、自分の畑だけは別に損害を蒙らなかった。
○ 五十嵐某は、隣の工場から出火し、折悪しく風下だったが、自分は「生長の家」だから、火事に焼けるなどということはない、と言って悠々としていると、途端に風向きが変わって風上になった。
○ 某の孫が疫痢にかかったとき「天地一切のものと和解せよ」という教えに従って「ばい菌よ、お前といえども生命である。生命は神から来たものであり、我々もまた生命であって神から来たものである。されば汝と我々とは神において兄弟ではないか。汝兄弟なるばい菌よ、私らは決して殺菌剤を使ったり、注射したりしてお前を殺そうとはしないから、お前もこの子供を殺さないでくれ」と和議を申し込むと、たちまち熱は下がって快癒した。
これに似た「実例」は「生命の実相」を始め生長の家の発刊物から無数に拾い出すことができる。これが、もし事実だとすれば今日までに人類が築き上げてきた科学も文明も、根こそぎ覆ってしまいそうな一大驚異だが、もしそうでないとすれば、人心を惑わすこと、これほど甚だしきはなく、正に詐欺以上である。
生長の家の教えを悟れば病気が治るという主張を谷口の著作から幾つか紹介すると
○ 不幸や病気が現れているのは、ただ眠って夢を見ているだけのことであります。だから、吾々は眼を覚ませばいいのです。初めから吾々は如来であり、初めから救われている。如来は眠って居っても如来である。眼を閉じて居っても盲目ではないのであります。病気のように見えていても健康なのであります。吾々は神の子であり、本来、如来でありますから未だ嘗て迷ったことはないのでありますが、勝手に心の眼を瞑って病気や不幸災難の夢を見ているのですから覚めればいいのであります。
○ 此の肉体の谷口雅春はまだ1人の病気も治したことはないのである。『肉体は無い』のであるから『無い谷口』がどうして病気を治したり出来るのであるか。また『病気は無い』のであるから『無い肉体谷口』がどうして『無い病気』を治し得よう。ただ『無い病気』を治す道は、真理の明るみの前に照らし出すだけで好いのである。手紙の返事よりも尚詳しい返事が聖典に書いてある。それを読んで理解する者は救われるのである。
○ 利己的目的で病気が治りたいだけには道場へ来ない方がよい。病気は物質に執着せる利己心の投影であるから、利己的に肉体に執して肉体を健康にしたいというのは要するに自己撞着である。そういう人は利己心の代価をしっかり医者に払うがよい。その方が医者救済になる。生長の家は医者と競争しない。病苦の中にも病苦を見ず、他を救おうとする決心のつく者のみ『生長の家』で救われる。『生長の家』の救いは『心』の全般的救いであって、肉体が治るのは心が治った反射に過ぎない。だから他動的に治して貰っても真理の書を読みこれを理解しようと勤めない者の病気は再発するのは当然である。
○ 「‥‥あなたのお子さんの扁桃腺が小さくならないのは、あなたが扁桃腺で苦しんでいるお子さんの姿を本当の姿だと認めて、それを治そう治そう、とあせっていられるからですよ。治すも治さぬもないではありませんか。肉体はないのです。つまり病気は本来ないのですから、本来ない扁桃腺炎をあなたが勝手にあると設計して、扁桃腺炎ばかりに捉われているから、その心が反映していつまでもお子さんの扁桃腺が腫れているのです。」
○ 「人に痛いことを言ふ人、キューと突く様な辛辣なことを言うやうな心の傾向のある人は、キューと突かれる、すなわち注射をされたりしなければならぬ病気に罹る訳であります。」「便秘はケチの心の影」、「ヘルニアはへそくりの心の影」 「舌ガンは嘘をつく心の影」、「咽喉ガンは悪い言葉の心の影」
次は「本当の生長の家を伝え遺す信徒連合」が開設している『今昔物語』というサイトにおいて谷口雅春の著作の中で述べられているエピソードから信者が「病気や不幸をいくら研究しても良きものは出て来ない。実相を追求してこそ良きものが出る。」と珍妙なタイトルで次のような見解を述べています。「 ある僧侶出身の自然科学書の著述家が谷口先生に「病気の存在を認めない生長の家が本を読んで病気が治るというのはインチキだ。」というような質問をした。「インチキによってでさえ治るのが病気なのだから、病気の存在こそまさにインチキだ」と谷口先生はお笑いになった。しかし「生長の家は肉体の病気治しではありません。私はまた病人に手も触れません。」「私は病人が治してくれと言って来ても治しません。病人は自分自身の心で病気を作っているのですから、私の話を聴いたり、私の書いた本を読んで心が癒れば、病気が自然に治るのです。」 」
砂糖の甘さは嘗めれば即座に解るのですが、そんな事ははしたないとして、化学者は砂糖の甘さは研究室で化学分析によって追及するのが理性ある学者の姿勢であると研究を続けます。そして砂糖の甘さの実際を知らないで一生を過ごすのであります。従って学者は「病・悩・苦」の現実的解決は出来ませんが、覚者は「病・悩・苦」の現実的解決を行なうのであります。学者は「悟り」は潜在意識で起きる、と考えますが、覚者は、「無の関門」を超えて「悟り」を成就された「霊的覚醒者」であり、心理学的にいえば、「悟り」とは、潜在意識・深層意識を超越し、意識の釜の底をぶち抜いた超高次元の超意識の世界(境地)で起きるもの、ということが出来るのであります。学者は、殊更に難解な言葉で理屈っぽく語りますが、覚者は、平易な分かりやすい日常の言葉で的を射た端的な言葉で語るのであります。学者と金持ち、後回しです。
奇蹟のない宗教では、医者や社会から見放された人々の”病・悩・苦“は救われません。開祖・谷口雅春先生が遺された<奇蹟の聖経『甘露の法雨』>には私たち個人個人の”病・悩・苦”を救う力があり、更に”国家”自体をも救う力があるのであります。‥‥「生長の家立教の使命」のために必要な今まで創造の根元世界の最深奥部に秘められていた霊的真理哲学体系の全相を、全人類の中から只1人の人・谷口雅春先生が選ばれまして、釈迦・キリストを超える完成の教えとして啓示されたということであります。
と、学者は無用の長物と言わんばかりに好き放題言っていますが、哲学と宗教は医学と民間療法の関係にも喩えられると思います。社会がまだ高度に発達していなかった時代ならともかく現代の先進国で医学や哲学思想を民間で広めないといけない理由が思いつかないのです。谷口の主張するように、あらゆる病気を治すことができる唯一無比最高の医学療法を発見した、つまり自分は人類史上最高の医学者であると思ったなら、どういう行動をとるでしょうか。まず医学界に正しさを認めてもらおうとするでしょう。
また彼が主張するように宇宙最高の思想であり全人類を救うものであるというのなら 哲学界等思想界でも認められようと考えるはずであり、認められれば 全世界の教育機関で教えられ、子供の頃からその思想を教育すれば、全ての人間が神の如き存在になり、病気や争いといった不幸がこの世界から一掃され、彼らの主張する『地上天国』とやらが到来するではないでしょうか。
仮に、ある犯罪行為に関して嫌疑をかけられている人がいるとします。自らの身の潔白を証明したいなら、裁判で決着を付けようとするでしょう。それをせず、事情を何も知らない人々に自らの身の潔白を説いて回り、「私の主張は正しいだろう?この私を罪人呼ばわりする人達の方が間違っているだろう? 私の身の潔白を人々に訴えよ。」と言ったりするでしょうか? やましいところがあると思われても仕方のない行動ではないでしょうか? 偏見あるいは何らかの利害関係から不当な扱いをアカデミズムから受けたなら、それを社会に告発する運動を起こすというのなら分かるのです。
「‥‥自分のかざす火は人類の福音の火、生長の火である。自分は此の火によって人類が如何にせば幸福になり得るかを示そうとするのだ。如何にせば境遇の桎梏から抜け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば一切の病気を征服し得るか、また、如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか。‥‥今人類の悩みは多い。人類は阿鼻地獄のように苦しみ踠がきあせっている。あらゆる苦難を癒す救いと薬を求めている。しかし彼らは悩みに眼がくらんでいはしないか。方向を過っていはしないか。探しても見出されない方向に救いを求めていはしないか。自分は今彼らの行手を照す火を有って立つ。」(「生長の家」出現の精神、神誌『生長の家』創刊号、昭和5年3月1日発行)
○ 聖経『甘露の法雨』は素晴らしいお経である。小さくは個人の病いを癒し、大きくは国家の大病、世界の大病をも癒すことができるのである。
○ 私には全人類が一切の病・悩・苦から開放されて光明化生活を送れる日が来るまで休日というものは無い。自分は何も要らぬがただ時間だけが欲しい。
○ どうしたら全人類が速やかに光明化されるかということばかりを寝ても覚めても考えている。日本の現状を想うと夜も充分眠れぬ。
○ 私は哲学者としては、カント、フィヒテ、ヘーゲルに並べられても差し支えないところの哲学界に功績を残したとは思っている。
哲学の世界では谷口雅春という哲学者など聞いたこともないのですが、医学界ではいかがでしょうか?これほど救世の情熱に燃えながらも、学会に論文を提出する等、アカデミズムに認めてもらおうという行動だけはしなかったようです。言うまでもなく笑い者になって「大聖師」と崇め奉られる教祖様の地位から一気に転落してしまうことを谷口自身がよく解っていたからです。
信者を布教に駆り立てる論理もまた極めて巧妙です。
「人間は嬰児としてこの世に生まれて来た時、既に人類の想念の中に置かれるのであります。その想念を嬰児といえども感受しないというわけには行かないのであります。そこで嬰児も病気にかかるのであります。嬰児のみならず成人も、如何に自主独立の精神を持っていると自称するものも、やはり人類の想念の中に生きているものであるから、多少とも人類全体の想念の影響を受けないということは難しいのであります。だから吾々といえども常に毅然とした自主的自覚をもって「人間は神の子、無限に円満完全である。如何なる病気にも、一切の欠乏にも悩まされることはないのである」という想念を常に強固に把持して、その反対の精神波動の影響を拒否することが必要なのであります。そうでなくして、うっかり人類全体の想念の傾向に同調していたら、知らず識らずの中に病気に侵されるに到るのであります。だから、吾々は病気になるのに手間暇はかからない、ただうかうかと人類全体の病念と一緒に漂わされていたら病気に罹れるのであります。それに反して、常に人類の病的精神波動を感受しないようにするためには、正しき健康の想念を把持することが必要であり、その思想的根拠ある所の正しき哲学に対する理解が完全であることを必要とするのであります。何よりもまず大切なのは、実在するものは、神のみであるということであります。従って神より出でたる所のすべての実在は完全であるという事を信ずることが、自分自身を健康にし、自分の住む世界を幸福に楽しく愉快な善き世界ならしむる根本となるのであります。」『神癒への道』より
「物質肉体、物質世界が実在する」という人類共通の迷妄想念は大多数であるがゆえ強大なものであるのでこの世界から病気、争いといった不幸がいつまでも無くならない。生長の家の信仰のみが人間が本来の「神の子」という実相、物質は存在しないという実相を現わすことができる、つまりこの世界に様々な不幸が実在するという迷妄から覚まさせることができる唯一最高の真理であり、そのためには生長の家の教えを1人でも多くの人に信じさせ、迷妄想念を弱めなければならない、という論理なのです。
そしてこの論理をを国家観・世界観に適用し、「天皇信仰」に繋がっていきます。
「日本の国の実相顕現こそ真の宗教心」(『理想世界』昭和34年11月号)
政権行使の実力者が、織田、豊臣、徳川・・・・という風に変わり、又大戦後においてはその実力者がマッカーサー元帥という風に変わりましても国民統合の「中心」として厳然として変わることなく、歴代連綿として不変に続き給うのが日本天皇なのであります。こういう「国家の良心」たる「鏡的存在」が国家統合の「精神的中核体」として万世不変に連綿として続いている国家は日本国家のみなのであります。
一切の存在にはすべて、それを統合する中心に位する変わらざる中核者があることが宇宙の真理であります。(原子には原子核、細胞には細胞核、太陽系には太陽という中心、樹木には幹という中心があり、その中心が破壊すれば全体が死滅する)だから私達は日本国家を神意の発現する「真理国家」と認めざるを得ないのであります。真理とは「神が宇宙を秩序的に統一するための秩序的法則又は統一原理であります。」換言すれば神の御心であります。
神は「宇宙」という、大きな骨格≠竍卵の殻≠ンたいな輪郭≠セけを動かされるのではなく、宇宙の中にある一切のものを、どんな微小なものをも、この秩序的法則によって、全体的統一をあらしめておられるのであります。だから国家≠フ問題や人類の問題はもちろん、肉体の1個の細胞の中までも、神の叡智によるその統一原理は行き渡っているのであります。全てのものに、不変に続く統一原理なる中心は、万物にはただ1つあるのが原則であるのに、地球世界だけは諸国家の中心者が実力によって始終交代し、実力者の個人的恣意で相争い多数国家がばらばらに分かれて、ただ1つの連綿たる中核統一体がないのは、地上世界がまだ未完成であって、完成の途上にあるためだということができるでしょう。 
かかる諸国家の中において、政権担当の実力者が変わるとも、連綿として万世不変の「国家の良心」ともいうべき中心者たる天皇を有する国家は、最も完全に神の御心を地上に実現した国家だということができるのであります。世界にもし、このような天皇国家≠ェなくなるならば、神の御心の現れた国が全然地上から姿を消すことになるのであります。そういう真理を如実に体現した国家――神の御心が最も完全に現れた国家を護持することは、神の御心にかなうところの行為であり、最も高き宗教心の現れだと認め得るのであります。
宗教心とは、自分だけが極楽浄土へ行くために「南無阿弥陀仏」と唱えることだけではないのであります。むしろ、そのような自分だけが救われたいための宗教は、利己心養成の宗教であって、原始的低級宗教であります。私たちは、神意が地上世界に成就して地上に天国が成就するように、世界に唯一の「国家の良心」ともいうべき万世不変の中心を有する真理国家たる日本国家を護り育てて、全世界を永久平和の理想国家たらしめるための種子国家たらしめ、この神聖なる日本国の実相を顕し、ひいては全世界に地上天国をもたらすために協力する愛国の実践が宗教的実践であると考えるのであります。…(略)…『御心の天の成るが如く地にも成らせたまえ』とイエス・キリストが祈ったところの、その理想的天国世界を実現する、その使命を持っているのが皆さんであると私は思うのであります。この生長の家の『生命の実相』の哲学によって養われたところのその学徒でなければ本当に日本国を救うことはできないし、又、世界全体を救うこともできないと思うのであります。」
「生長の家系の天皇制右翼「反憲学連」が11月に入って教養部に登場し活動を活発化させている。 彼らは「反共・反安保・憲法9条解体」をスローガンに、全国の大学で右翼学生運動の建設を目指して活動している。とりわけ日本大学文理学部では、80年11月の武装登場以来、テロ・リンチを用いて学園の恐怖支配を行っている。「戦後史研究会」を名乗ってビラを配っていた彼らは、11月5日「真の戦没者慰霊を考える」を銘打って学内でシンポジウムを開催しようとしたが、急遽集まった学友の抗議の前にこれは断念せざるを得なかった。さらに11月25日、「三島由紀夫森田必勝憂国忌」ということで学内で集会をやろうと昼休みに登場し、多くの学友の目の前で、抗議する1人の学友に暴行を加えケガを負わせた。 彼らの主張は民族排外主義に貫かれたものであり、「大東亜戦争は聖なる戦いであった」「朝鮮人は天皇のために喜んで死んでいった」と侵略、虐殺行為を正当化し賛美するものである。 このところ原理研と並んで反憲学連(生長の家)が各地の大学で活動を活発化させている。恐ろしい時代になったものだね。」九州大学新聞(83年11月25日付)
生長の家の掲示板にも次のような批判がありました。
「‥‥生長の家の右翼的な主張や活動を実際に行っていた信者を見て、私は正しい宗教の持つ愛と献身の精神など彼らから微塵も感じることはできませんでした。生長の家の右翼学生の姿を実際に見たことも生長の家が邪教であると確信した理由の1つです。」
昭和59年、熊本大学に入学した私は学内でアンケート勧誘をしていた「日本文化研究会」なるサークルに入部しました。そこの部長を務めていたのがA君でした。A君は活動の内容をあまり説明しませんでしたが、その時はあまり疑問にも思わず、その名の通り日本の歴史や文化を学ぶサークルなのかなという軽い気持ちでした。「例会」なる勉強会が中心なのですが、天皇とか神風特攻隊の犠牲的な精神、あるいは明治維新の志士とかの内容が中心であり、宗教団体であるとは気付かせないような内容にしていたようです。部室には生長の家の書籍が揃えられており、しばらくするとA君は、生長の家の本を読むことをさも当然のように勧めてきました。
哲学や宗教に興味のあった私には、興味深い内容もあったのですが、「話が出来過ぎている、論理のトリックで丸め込もうとしている、こんな教えを実行できる人間などいるのだろうか」と思い、信じる気にはなれませんでした。狂信的に信じているA君を始め他の部員も教えを実行できているようには思えなかったことも疑念を抱いた理由でした。 
例えば、彼は、私が少し批判めいたことを述べると、「今まで一緒にやってきたではないか」と虫のいい事を言い(辞めなかったのはダミーサークルであることを隠していたからであるのに)、教義について正しいと思わないと思う旨を述べると「間違ってる言うんか!」怒ったりもしました。
数ヶ月経った頃、A君に「(このサークルは)勉強会ではないんだろう?」と尋ねたことがありました。「勉強会じゃないよ。お前はいつまでもその段階に留まっているではないか!」となじったのです。この期に及んでもサークルの目的は言わず、自分が信じている宗教を受け入れて布教活動(彼が意図していたのは反憲学連としての活動の方でしょう)に加わろうと思わないお前は劣った人間だ、と逆に非難したのです。(最後までサークルの目的は明かしませんでした。)まともな誠実さを持つ人間なら、カムフラージュしたサークルだ。今まで申し訳なかった、となるところでしょう。反憲学連と判れば辞められてしまうかも知れない。それは黙っておいて、信じてくれれば儲けもの、だめなら、はい、さようなら、といったところだったのでしょう。
生長の家本部からの連絡書をたまたま見て、自分以外の部員が皆、生長の家の信者であることを知り、そのことをある部員に話したところ「誰から聞いたのか!」とかなりの剣幕で詰問されたことがありましたので、宗教団体であることは教義を信じるようになるまでは明かさない方針であったことは間違いないようです。
数年前、教祖による女性信者への強姦が問題化した韓国のカルト宗教団体「摂理」は、スポーツや文化系サークルを装って学生に近付き、濃密な人間関係を築き辞めにくくさせ、徐々に教義を教え込むという手口だったそうですし、統一教会は、街頭で勧誘しビデオセンターに連れて行き最初は娯楽ビデオ、徐々に教義のビデオを見せ週末に泊り込みの洗脳合宿に誘うという手口でした。教義を信じるようになるまでは宗教団体としての正体を隠すというのはカルト宗教に共通した手口のようです。
A君に入信を執拗に誘われましたが、拒否し半年ほどで辞めました。
傑作なエピソードがあります。大学の近くに暴力団があるのですが、ある日、そこの2人組のチンピラにA君が大学内で因縁を付けられ恐喝されたことがありました。自転車を盗まれ見付けたら殴ってやろうと思っていたので、その悪い想念の報いとしてそういう目に遭った、と話していましたが、本当にそう思っていたのではないでしょう。帰ってから「人間神の子。彼らもまたそうである。許すべきである。」と祈った、でも戦おうと思えばできた、と強がっていましたが、暴力団員が喧嘩が弱い訳がなく、まして相手は2人で戦闘態勢であり武器を持っている可能性もあります。かなりの格闘技の心得がなければ勝ち目がないこと位分からない筈がないのです。
こういう嘘さえつかなければ実行できないような教えなのです。哀れさえ感じます。A君の話は到底信じられませんでしたが、普段反省などするようには思えない彼でも、他人に押し付けるからには、自ら教えを守らなければならないということだけは理解していたようです。
以上述べたA君の姿勢も生長の家の教えからすれば当然に思えます。「自らは神の子」と増長しますが「他人も神の子」と他人を同等に尊重するわけでは決してないのです。観念的に理解することと実際に行動に現わすことは明らかに別なのです。人間は現在の人格以下の行動も取れないのと同じく人格以上の行動も決して取れないからです。
生長の家の掲示板にも次のような批判がありました。
○ 宗教に入信してただ本を読んだだけでは、人間の人格は決して向上しない。 宗教に関わって、真理と称される受け売りを偉そうに垂れ流し、周りの人々を不愉快な気分に、ひいては宗教不信させている未熟な人格の愚劣漢のいかに多いことか。「人類光明化運動」なんて聞くと、使命感に燃えちゃって、その担い手になることは価値あることだと錯覚しちゃい、自分の意識レベルが上だとこれまた誤解する。こうして傲慢さが知らず知らずの内に身に付いてしまう。
○ 私は別に生長の家の教えのことを「自分だけが神の子だという教えだ」とは言っていない。「他人も神の子だ」と説いていることはもちろん承知している。その上で批判しているのだ。だからこそ他人の欠点にやたら目が行くのだろう。「あの人は私と違って神の子の自覚を得ていない。だからあんな風なんだ」と見下す。他人の世話をする前に自分の欠点を直せ。いくら神想観やったって「自分のこういう欠点が改まりますように」なんて祈ったことないだろう、あるはずがない。生長の家からはそういう教えが全く欠落しているから。念じるのは「自分は神の子だから完璧だ」という自己暗示。こんな信仰やってて傲慢な人間にならない方が不思議だ。
○ 私の小さい頃 町のドンがいてそいつが生長の家だった。町内会の人達は信じていないけど、 おっかながって生長の家の集まりに出ていたようだ。うちは引っ越したばかりだし、信じるつもりないから断ったら、私の家を村八分にし、私と妹をいじめの対象にしていじめ続けた。
○ 人間の努力や積み重ねを根底から否定し、お仕着せの真理を吹聴する宗教ヤクザ・生長の家の1日も早い崩壊と幹部クラスの逮捕を強く望みます。
「吾々の外部に見える生活というものは、全て自分の心の影である。『実相世界』には善しか存在しないのであるから、もし自分の周囲に悪い事があるように見えても、それは自らがまだ「神の子」としての実相を現わせずに心の持ち方が悪いのであって、それが相手に反映しているのだと思って、自分自身を振り返らねばならない。他人が悪いと思っても、それはきっと自分が悪いのである。 」という教えを説いているのですが.....。他の人が皆そうなってくれれば確かに自分は「地上天国」にいるかのようになりますよね、あくまでも“他の人”がですけどね。
彼等が信じているように本当に生長の家の教えが人間の「神の子」としての「実相」を現わし地上天国をもたらすものであるならば、私が疑義を唱えた際、怒ったりせず、「どこが納得できないのか? それはこうだから正しいのではないか?」ときちんと説明する筈ですし、また教えを押し付けずとも、接する人達が「この人達は他の人達とは人格レベルが全然違う。生長の家という宗教を信じている人達なのか。どれどれ、どんな教えなのか、なるほど、こんな素晴らしい思想を学んでいるからなのか。自分も学んでみよう。」となると思うのです。
宗教の布教に熱心な人達の熱心さを善意であると好意的に捉える向きもあるようですが、そうではないです。確かに社会を良くしたいという動機があることは否定しませんが、それはその人の人格、精神性の高さと同等のものであるはずであり、聖人君子の集団でもない彼等が人々を救いたいという情熱だけでそれほど熱心になれるわけがないのです。
『驚異と占有―新世界の驚き』という本を読まれたことがあるかもしれませんが、これは新大陸を発見したコロンブスの驚きは、なぜ必然的にその「土地の占有」と結びつくのかという、植民地化への心理機構を分析した内容なのですが、世界を席捲し支配するのは、富への欲望だけではなく、世界を自らと同じ信仰の色に染め上げてしまおうという、獰猛なまでの信仰心がエネルギー源である、思い込みの強さがある限り、どんな野蛮も合法化されるし正当化できてしまう、という分析を著者は行っていますが、その通りであると思います。
特段、精神性が高くもないのに、つまり自らが実行できもしない教えを「あなたを幸福にしたいのだ。」と他人に押し付けようとする熱心さにこれで説明がつきます。自らの思想を他人にも信じさせたいという「獰猛な欲望」に動かされているだけなのですが、自らは、正しい思想を広めている、人々を救う崇高な生き方をしているレベルの高い人間なのだ、と思い込んでいるので手に負えないのです。宗教が人類の歴史において対立と流血をもたらしてきたのも頷けます。
今度A君にお会いになったら「なぜ私達には『多くの人が生長の家を信じないからこの世界から病気が無くならないんだ。生長の家の本を読めよ。何だと!間違ってる言うんか? お前は程度が低いからこの真理を理解して布教するという崇高な生き方ができないのだ。病に苦しむ人々を救おうと思わないのか?』と言わないのか? 患者に対しては『病気など本当は存在しないのだ。生長の家の信仰をすればすぐ治るのだ。』となぜ言わないのか?」と是非尋ねてみて下さい。
それにしてもA君がオウムでなくてよかったですね。もしそうだったら皆さんも、もしかしたら今頃はこの世にいないかもしれません。 
天照皇大神宮教と璽宇 

 

1948(昭和23)年9月8日、数寄屋橋公園に「踊る宗教」なるものが出現しました。その模様を朝日新聞は次のように報じています。「ナニワ節みたいであり、筑前ビワのごときところもある奇妙なフシ回しで老若男女とりまぜて二十名ばかり、無念無想の面持ちよろしく踊りまくる図に銀座マンも笑っていいのか、カナシンでいいのかポカンと口を開けての人だかり・・・・」だったといいます。
この踊る宗教こと天照皇大神宮教の教祖である北村サヨは、当時48歳で、教団の中では「大神さま」と呼ばれていました。彼女の説法は、「朝日新聞」にあるように、ナニワ節を思わせる歌による説法で、それが延々四時間も続き、その間、大神さまは、水も飲まず、ぶっ通しで歌説法を続けます。
サヨはウジやウジのコジキといった表現をよく使いました。それは利己心に固まり、神のことを理解できない人間のことをさしています。この世界に起こる現象は、すべてそこに神が関わっていることから「神芝居」と呼ばれ、自らのことは「女役座」と称し、「同士」とも呼ばれる信者たちの先頭に立って、世直しのときが迫っていることを訴えました。
また数寄屋橋公園に出現する前の1946年、サヨは、食糧緊急措置違反に問われ、懲役八ヶ月、執行猶予三年の有罪判決を受けたことがありました。ウジムシに食わせる米はないと、信者たちに米の供出を拒否するよう呼びかけたからです。サヨは、法廷で、歌説法を行い、無我の舞を披露します。
彼女の肚には神が宿っていて、歌説法を含め、すべてはその神の言うことだとされていたからです。その神こそが、教団の名前にもなった天照皇大神宮で、それは天皇家の祖神とされる天照大神に由来します。なお、伊勢神宮の内宮は、皇大神宮と呼ばれています。終戦後天皇陛下が「人間宣言」を行ったため、自らがその空白を埋めようとしたといいます。
サヨは1920(大正9)年に田布施の北村清之進と結婚しています。清之進は、一時、ハワイに移民していたことがあります。それが後に天照皇大神宮教がハワイに進出するのも、そうした地理的な環境が影響していました。
1942年7月、家の離れ、あるいは納屋で不審火がありました。サヨは、その原因を突き止めようとして祈祷師のもとを訪れ、それから深夜に神社へ参拝する丑の刻参りなどを実践しました。1944年には、祈祷師から生き神になると告げられます。その年の5月4日には、彼女の肚のなかに入り込んだものと話をするようになりますが、それは命令を下すようになり、サヨがその命令を拒むと、体が痛み、命令に従うと、痛みが消えます。やがて、肚のなかのものは、サヨの口を使って直接語りだすようになります。そして天照皇大神宮という神であり、宇宙を支配する神であることを明らかにします。そして戦後サヨが公衆の面前で実践したように、ウジの世の中に対する厳しい批判をするようになったのでした。
肚の中に神が宿っているということは、サヨ自身が神であることを意味し、彼女は生き神として人々の信仰を集めるようになります。サヨに伺いをたてると、よく当たると言われ、生き神としてのサヨに祈れば、病気が治るとも言われるようになります。天照皇大神宮教は、もっぱらこの生き神としてのサヨの魅力によって信者を集めていきます。しかし、体系的な教義が作られ、洗練された儀礼が形成されていったわけではありません。
新宗教に厳しい大宅荘一も、天照皇大神宮教が信仰による金儲けをめざしていないことをさして、「ノン・プロ主義」と呼び、その点を評価しています。実際サヨは、神殿を建てる際、建設作業に従事するなどしていました。
天照皇大神宮教が踊る宗教として注目を集める前に、もう一つ、騒動を起こし注目をされた教団がありました。それが璽光尊(じこうそん)こと長岡良子を中心とした璽宇という教団でした。北村サヨは「第二の璽光尊」とも呼ばれました。その璽宇に不世出の横綱双葉山も傾倒していました。璽宇は幡を立てて「天璽照妙」と唱えながら、町中を練り歩き、神楽舞を披露したことから、人々の関心を呼び、メディアでも取り上げられました。警察は璽宇の動静に注目していて1947年1月18日、取締りの方針を決定します。そして、二十一日深夜、警察は検挙のために捜査に入ります。その際に、双葉山は大立ち回りを演じ、幹部とともに検挙されています。双葉山は翌朝、朝日新聞の記者にもらい下げられ、説得されて璽宇を離れることになります。璽宇の幹部たちは30日に釈放され、璽光尊については、金沢大学の精神科医が鑑定を行い、妄想性痴呆と診断されました。同じ医師は2007年に101歳で亡くなる直前、オウムの麻原と面会し、訴訟能力を欠いていると診断しています。
天照皇大神宮教と璽宇が似ているのは、単に社会的な騒動を起こした点だけでなく、璽光尊は国粋主義の傾向が強く、皇室を崇拝していましたが、戦時中、日本が敗色濃厚となるとき神としての自覚を持つようになり、自分が現人神として天皇を補佐することで八紘一宇が実現すると考えるようになりました。天皇陛下が人間宣言をすると、今度は皇室に変わって自らが世直しを代行するものと考えるようになり、璽宇のある場所を「皇居」引越しを「遷宮」家具や日常使う物までに菊の紋章をつけるようになりました。また璽宇ではアピールのために「行軍」あるいは「出陣」を行い、天璽照妙の幡を立て、天璽照妙と唱えながら、宮城前、靖国神社、明治神宮をめぐるようになりました。
璽宇は取り締まりこそ受けたものの、教祖も幹部も起訴されず、裁判にはかけられませんでした。しかし、メディアによって璽光尊は精神病者で、璽宇は邪教であるというイメージが広まりました。世間から白眼視され、各地を転々としていきます。流浪の旅は最終的に横浜に落ち着きました。
璽宇の前身となったのは、鉱山関係の実業家で、神道系の行者であった峰村恭平を中心とした皇道大教でした。この皇道大教が、1941年に璽宇に改称します。その時点で、二つのグループがそこに加わりました。一つは大本系のグループで、もう一つが璽光尊となる長岡良子を中心としたグループで、良子は真言密教系の霊能者として病気治しなどを行っていました。そして峰村は、病もあって、璽宇から退き、良子がその中心になっていったのです。
一方、天照皇大神宮教の方は、その後も活発に活動しています。1951年にサンフランシスコ講和条約が発効になると、日本の新宗教教団は海外布教に乗り出すのですが、天照皇大神宮教も、本部のある田布施と縁のあるハワイに進出します。進出したのは52年のことですが、到着するやいなや埠頭で歌説法を行い、無我の舞を披露しました。サヨは1967年に亡くなっていますが、その後は、孫の清和が継いでいます。彼女がサヨの後継者となったのは高校2年生の17歳のときのことで、教団内では「姫神さま」と呼ばれていました。しっかりとした後継者が定まったことで、天照皇大神宮教は教祖の死後にありがちな分裂を経験しないですみました。現在ではそれほど目立った活動を展開しているわけではありませんが、中規模の教団として存続しています。 
天照皇大神宮教

 

(てんしょうこうたいじんぐうきょう) 宗教法人格を有す新宗教団体の一つ。文化庁『宗教年鑑』の分類では「諸教」となっている。
信者数は国内で約48万人(2017年現在)。本部は、山口県熊毛郡田布施町大字波野10123。山口道場は、山口県山口市平井188。東京道場は、東京都千代田区九段北4丁目3-18。
教祖は熊毛郡田布施町の農婦、北村サヨ(大神様、1900年1月1日-1967年12月28日)(出生地:山口県玖珂郡日積村大里(現在の柳井市日積))。二代目教主はサヨの孫娘(サヨの長男北村義人(若神様、宗教法人天照皇大神宮教代表役員)の娘)、北村清和(姫神様、1950年4月27日-2006年6月7日)。三代目教主は清和の娘・北村明和(明和様、1990年1月9日-)。
サヨは農家の嫁であったが、1942年に自宅の納屋などが放火に遭い犯人捜しのために祈祷師に勧められた丑の刻参りと水行の修行を始めた。そして1944年に肚(はら)で自分以外の何者かがサヨに話しかけるようになり、サヨの口を使って人々に教えを説き始め開教した。1945年8月12日に宇宙絶対神(天照皇大神)が降臨したとしている。
昭和21年、教団ではこの年を「神の国の紀元元年」と呼び、独自の年号「紀元」を使用し始めた。
なお、教団の名称は、第二次大戦中の国粋主義的な歴史教育を受けた人々に対して、宇宙の最高神の教えであることを示すために呼称されたものであり、神道(皇大神宮・伊勢神宮)とも他の既成宗教や新興宗教ともまったく関係がない、と教団関係者は言っている。
そして、天照皇大神宮教の神とは、仏教でいう本仏やキリスト教でいう天なる神と同じ、宇宙絶対神であるとしている。
このことに該当する記述は、教団が出版している『生書』(「せいしょ」)第一巻によると、次のとおりである。「夜はまた夜で肚のもの(=教祖の肚に入った神―当編者補足)は、思いもよらぬことを教祖に話して聞かせるのである。『おサヨ、天照皇大神宮というのは、日本小島の守護神と思うなよ。宇宙を支配する神は一つしかありゃしない。キリストの天なる神、仏教の本仏というのもみな一つものぞ』と」。
教義
『生書』第一巻・第二巻によれば、その教義はおおよそ以下の内容である。
なお、『生書』は、人が日々生きる上で、指針としての具体的かつ生きた働きをする書という意味で、教祖によって命名されたとのことである。『聖書』とはたまたま読みが同じであるだけで、まったく関係はない。
教祖の肚(はら)に、宇宙絶対神が天降り、教祖・北村サヨの口を通して、人類に神の教えを授けた。その神の目的は、倫理が乱れた人の世を神の世にすること、すなわち、地上神の国建設である。
人生の目的は、心の掃除をして魂を磨き、神様に少しでも近い存在になることである。すなわち、日々刻々と心に浮かぶ邪念を打ち払い、自分の自我と悪癖(わるぐせ)・欠点を神に反省懺悔して真人間になろうとすることが、生きる目的である。
よって、「しんこう」とはただ信じ仰ぐのではなく、神に行く「神行」と理解すべきである。
悪霊(救われていない霊。霊界の地獄にいる霊、および、幽霊や地縛霊)や邪神の作用で、悩みや喧嘩や戦争が起きたり、ひどくなったりしている。
また、人は、前世、先祖、自分の半生による因縁因果によって、様々な出来事に遭遇する。中には、厳しい運命に直面する人もいる。
宇宙絶対神は、神の国建設の妨げとなる悪霊を済度し悪因縁を切る祈りを人類に授けることとなった。
人が、真に神に帰依し、利己的な願いのためではなく、世界平和・神の国建設のために、その祈りを祈るときに、宇宙絶対神は法力をくださる。
人間は、惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれたの六つの魂でできているので、これらを清浄にして、反省しては懺悔することが大切である。
六魂とは、食欲・物欲など、物に関する「惜しい」、逆に求める「欲しい」、人を「憎い」と思ったり、逆に好感を持つ「かわいい」、異性に対して「好いた(好きだ)」あるいは「好かれた(い)」のことであり、人の日常生活ではこの六つの魂がいろいろと働いている。これらを禁欲して捨てきるのではなく、見ても、聞いても、不清浄な邪念を起こさないレベルまで、魂を磨くことが大切である。
この六魂清浄について、「欲望を捨てよということですか」と質問されて、教祖は次のように答えている。「捨てきれとは言わない。清浄にしろと言うのよ。金もない者が飲みたい飲みたい思うたら、女房に隠れてでも飲む。・・・・・・それが悪いと言うのよ」。
お祈り
『生書』第一巻によると、その法力ある祈りとは、「名妙法連結経」である。仏教の「南無妙法蓮華経」とたまたま似ているが、まったく関係がなく、真似たりもじったりしたものではないようである。
同じく『生書』第一巻によると、この祈りを教祖の肚に宿った神は、「少し名のある女が、天から法の連絡をとって結するお経」と説明したという。少し名のある女とは、救世主として世に知られることとなった教祖のことを指す、としている。
信者(同志)は、世界平和のために悪霊を済度すべく、この祈りをおよそ10分間、朝晩唱えている。
なお、天照皇大神宮教では、信者のことを「世界平和・神の国建設に志を同じくする者」であることから、同志と呼んでいる。
神の国
天照皇大神宮教では、「世界平和は己の心の平和から」と捉え、心が清らかで正しい人間になることが、まず大切であると説いている。
そして、個人の心の平和から、家庭の平和、学校の平和、職場の平和、地域の平和へと拡充していくことを目指している、という。
教祖の肚に入った神の目的は、地上神の国建設であり、教祖が説く教えを中心に、神行(しんこう)の日々を送る同志の世界ができたことで、「神の国ができた」としている。そして、この世界が広がることが、地上神の国建設である、と説明している。
教祖
教祖の北村サヨは、小学校6年間を経たのち、嫁いで農家の主婦であったが、放火の疑いのある自宅の火事を機に、丑の刻参りや水行を始めた。そして、1944年(昭和19年)5月4日、肚で何者かがものを言うようになり、人々に教えを説き始めた、という。
『生書』第一巻によると、教祖は、神から「世界が一目に見えるめがね」を授かり、宇宙一切のもの、そして、人の過去の行状から前世にいたるまで、見ることができたという。
その後、教祖は国内はもとより、世界各国に何度も巡教し、その教えを広めた。その様子は、『生書』の第一巻から第四巻までに記されている。
そして、昭和19年5月から死去するまでの24年間にわたり、教祖は日々、教えを説き続けたという。
教団の特徴
職業宗教家、すなわち、教えを伝え、教団活動をすることを生業(なりわい)とすることを教団は禁止している。その理由は、宗教に肩書きや免状は、意味がないからだという。すなわち、人の心は、日々刻々と向上したり、邪(よこしま)な方向に落ちたり、不安定なものであり、肩書きや免状で箔付けできるものではないからだという。よって、この宗教では、ただで教えを受けて、ただで伝道すべきである、と教団は規定している。
宗費を信者(同志)から取らない。すなわち、月々の会費や年会費を取られたり、出版物を割り当てで買わされることはない。ただし、本部道場の維持には費用がかかるので、信者(同志)はそれぞれの自由意志で、金額の定めのない「拠金」を維持箱(拠金箱)に入れるが、強制されることはないという。
人が死ぬことは、魂が肉体から離れてあの世に生まれるといったことなので、「おめでとう」と言ってよいとの教祖の言葉がある(『生書』第一巻、第11版、504頁)。「即身成仏ができて実相界(霊界)に誕生することができたら、おめでたいのじゃ」と教祖は述べたという(同上)。俗にいう「大往生(だいおうじょう)ですね」に相当する意味と思われる。しかし、最近の教団の葬式(告別式)で、遺族に「おめでとう」というケースはあまりなく、「ご苦労様です」という場合の方が多い。
人が死ぬと、その魂は霊界に行くのであって、骨壺や墓の中に魂が残ることはない、との教えから、天照皇大神宮教の告別式(葬式)では、収骨をせず、墓や位牌もない。しかし、先祖への感謝は重視されており、同志は亡くなった人への感謝のお祈りを折に触れて行っているという。
教団は、夫婦の魂と魂が結ばれるという意味で、結婚を結魂と表記している。信者(同志)どうしの結魂は、お見合いを希望する同志またはその親が、本部事務所に申請を出し、お見合いをして両者がよく納得したうえで、婚姻に至る。集団見合いや、見ず知らずのものと強制的に結婚させられることはない。
教祖在世中は、教祖が同志の「因縁と因縁を見て」縁組をするといったことがあった。「因縁と因縁を見て」とは、たとえば前世で夫婦であったという意味と思われる。  
天照皇大神宮教 2

 

創立 / 昭和20年8月
創始者 / 北村サヨ(大神様)
後継者 / 姫神様・北村清和
信仰の対象 / 天照皇大神宮
教典 / 『生書』
沿革
「踊る宗教」として有名な天照皇大神宮教(てんしょうこうだいじんぐうきょう)は、農家の主婦が突如として神がかって「神の言葉」なるものを語りだしたことに始まりました。
明治33年に山口県に生まれたサヨは、大正9年、20歳の時に北村清之助と結婚しました。
昭和17年、北村家の放火消失事件があり、それについてサヨが祈祷師にたずねたところ、「丑(うし)の刻参りと水行をせよ」と言われました。
それにしたがって行を続けていたところ、サヨは昭和19年に「自分以外の何者かが、肚(はら)の中でものを言い出した」などと言い出しました。
さらに翌20年には、宇宙の絶対神とする「天照皇大神の降臨を自覚した」として、自分のことを「皇大神という男神と、天照大神という女神を一体にして肚の中に納めている<天照皇大神宮>である」と宣言し、自身を「大神様(おおかみさま)」と称するようになりました。ちなみに「宮」とは、サヨの肚の中ということだそうです。
サヨは、無我の境地で自由に手足を動かす「無我の舞」を踊り、「歌説法」をするなかで、自らを磨かない人間を「蛆(うじむし)の乞食」と叫び、「蛆の乞食よ、目を覚ませ」などと訴えて、信者(同志)たちに無我の舞をさせました。これが、世間から「踊る宗教」と呼ばれた所以(ゆえん)です。
昭和21年には「肚の中の神からのお告げ」なるものによって法人設立を決め、翌年1月に宗教法人「天照皇大神宮教」を設立しました。教団では昭和21年を「神の国の紀元元年」と勝手に決め、独自の年号を使用するようになりました。また、徹底して既成宗教を批判し、在家教団を前面に打ち出しています。
活動としては、昭和39年に竣工された本部道場で、2と6を除く毎日2回、教祖サヨの語ったテープを信徒に聴かせ、修練および布教活動の指針としています。
昭和43年、サヨは孫娘の清和(姫神様)を後継者に定め、死去しました。
教義の概要
教典と信仰の対象
教祖サヨの言行録である『生書(せいしょ)』というものがあり、これのなかで儀礼化した既成宗教のあり方や、戦後の風潮を批判しています。さらに、組織的にまとめられた『神教』というものもあり、この2書が一応、教義のようです。
また拝む対象としては、天照皇大神を「最高の神」として、その札(ふだ)のみとし、他の一切の神仏は否定しています。
神の国の建設
教祖サヨは、独特の時代区分を述べ「人の世から神の世の転換にあたり、大神様の出現によって神の子となることができる(趣意)」と言い、これを受けて教団では「今はまさに神の世である」とし、神の国の建設を訴えています。
また教団では「現世は霊界との因縁によって結ばれている」などと言い、この世で多くの利己闘争が起きる原因は「宇宙が悪霊で充満しているから」だと主張しています。そこで、現世の乱れをなくすためには霊界の掃除、すなわち「悪霊を済度(さいど)」しなくてはならないのだそうです。
そして人間は、それぞれの因縁(いんねん)によって悪霊に取り憑(つ)かれているなどとし、煩悩(ぼんのう)・苦悩の原因である悪霊を断ち切れば苦悩から脱せられると言っています。
「六魂清浄」と「名妙法連結経」
教団では、神のところに行くためには「神行(しんこう)」が必要であるとし、「六魂清浄(ろっこんしょうじょう)」を説いています。教団の言う六魂とは「惜しい」「欲しい」「憎い」「かわいい」「好いた」「好かれた」であり、これらを罪の根元であるなどと主張しています。
この六魂を清浄するために「名妙法連結経(なみょうほうれんけっきょう)」と唱え、反省することが「神行」で、これによって神に気に入られ、住み良い神の世界が与えられるなどとしています。
この「名妙法連結経」は、教祖サヨの肚の神からのお告げによって決められた、ということで教団の題目となっています。教団では、これを一心に唱えれば自然と無我になり、手足も自由に動き、歌も歌うようになって、霊界とも通じ合うことができ、学ばなくても悟ることができるなどと主張しています。
この無我の境地になって踊る「無我の舞」によって、一切が救われるというのがこの教団の教えです。
先祖供養は不要
教団では天照皇大神以外の、一切の神仏を否定し、特に形骸化した既成宗教を金儲け主義であるとして厳しく非難しています。
その金儲け主義の要因は「墓」であると主張し、教祖サヨ自身が「墓を建てないように」などと遺言しています。さらに、先祖供養や死者に対する儀礼も不必要であるなどとしています。 
天照皇大神宮教 3

 

■教義
天照皇大神宮教は、山口県熊毛郡田布施(たぶせ)町の農家の主婦であった教祖・北村 サヨ氏によって、昭和19年より説き始められた教えです。
その教えは、宇宙絶対神が教祖の肚(はら)に天(あま)降(くだ)られて、教祖の口と心と体を使って、 世界平和・神の国建設のために、人類に授けられた神直々の教え、神教(みおしえ)です。
教団名は、第二次大戦中の国粋主義的な歴史教育を受けた人々に対して、宇宙の最高神の教えであることを示すべく呼称されたものであり、 神道、仏教、キリスト教、イスラム教などの既成宗教、または、他の新興宗教とは一切関係がありません。
教祖・大神様(おおがみさま)は、その教えの根本を下のようにお説きになりました。初めて読む人には、意味がわかりにくいかもしれませんので、 引用の後の解説もご覧ください。
「神行(しんこう)神(かみ)に行く、合正(がっしょう)正しく合う。神と人との肚(はら)が正しゅうに合うようになったら、 神人合一(しんじんごういつ)天使、神に使われる。油断したら邪の神に使われる。 邪神(じゃしん)は己の邪念じゃで、出てくる邪念を打ち払い、打ち払い、死ぬまでかかろうと構やせぬ。神のみ肚に合うように心の掃除をしてゆけば、 肚に入った神様が人間自由自在に人を使って世の中治めて取らなきゃならない時が来た」
人生の目的は、心の掃除をして魂を磨き、 神様に少しでも近い存在になることである。すなわち、日々刻々と心に浮かぶ邪念を打ち払い、心の掃除をして、自分の自我と悪癖(わるぐせ)・欠点を神様に反省懺悔し 真人間になることが、生きる目的である。
よって、「しんこう」とは、ただ信じ仰ぐのではなく、神に行く「神行(しんこう)」であると理解すべきである。
前世、先祖、自身の半生、これらの因縁因果によって、人は様々な出来事に遭遇するが、それらは、自分の魂を磨く行(ぎょう)の糧(かて)である。
すなわち、己の心を鍛え、成長させるとともに、悪癖(わるぐせ)・欠点を反省懺悔して直してゆくためのものと捉えるべきである。
悪霊(あくれい)(救われていない霊)の後ろ控えによって、人と人は喧嘩をし、国と国とは戦争し、病や悩みが生じている。
世界平和のために、悪霊を済度(さいど)する(霊を救済し、あの世に送る)法力(ほうりき)ある祈りを祈れ。
解説
宇宙絶対神
唯一無二の宇宙の最高神。仏教やキリスト教などでいうところの、本仏や天なる神と同じ。
大神様、釈迦、キリスト
宇宙絶対神に使われた三人の救世主。教えの内容に異なる点がある理由は、 宇宙絶対神が、それぞれの時代・場所・人々に応じて、わかりやすくお説きになったため。
心の掃除
日々刻々心の中に浮かぶ、悪しき思い(邪念)を打ち払い、神様に反省懺悔して、心の清らかな人間になろうとすること (詳細な説明は、このリンクを参照)。
魂を磨く
邪念を日々刻々打ち払い、反省懺悔して、法力ある祈りを祈り、 自分の自我と悪癖(わるぐせ)・欠点を直し、真人間(まにんげん)になろうとすること。
法力ある祈り
宇宙絶対神が大神様を通じて、人類に賜ったお祈り。一見、仏教の「南無妙法蓮華経」と似ているが、 たまたま音が似ているだけで、まったく無関係。世界平和、神の国建設のために、魂を磨き真人間になることを神様に誓った 者がこの祈りを祈るとき、宇宙絶対神が直々に法力をくださる。利己的な目的で祈っても、法力はない。 メニューの一つに挙げているので、詳細はそれをご覧ください。
■大神様
ご略歴
教祖・大神様(おおがみさま、北村 サヨ氏)は、明治33(1900)年1月1日に山口県の日積村でご生誕されました。 当時の初頭教育である尋常小学校6年間をご卒業、20才で熊毛郡田布施(たぶせ)町の北村家に 嫁がれました。
嫁を3年間に6人も取り替えるほどの難しい姑にお仕えになり、一人息子の義人氏(若神様)を産まれ、 農家の主婦として家庭を守り、地域に貢献し、実直で正義感の強い人生を歩んでおられました。
放火の疑いがあるご自宅の火事をきっかけに、丑の刻参りや水行(水をかぶる修行)をお始めになり、 ある日、肚で何者かがしゃべりはじめて、教祖としての活動が始まりました。
それ以来、肚の神様に命ぜられるままに救世主として行じ、説き続けられ、日本のみならず世界中に 神教を広められました。
紀元22(西暦1967)年12月28日にご昇天されるまで、世を救い人々に生きる道をお示しになるために、 骨身を削り、命をかけての毎日を送られました。ご昇天の前日の12月27日の夜まで、絶え絶えの息のままに、道場で ご説法をされました。
肚の神様と大神様
大神様の肚に天降(あまくだ)られた神様は、宇宙絶対神です。ご説法によると、宇宙絶対神は、男性の神様と女性の神様であり、 両神様が一体となって大神様の肚を宮(ぐう、すなわち、お宮。神様の御在所といった意味)として 天降られたそうです。
よって、大神様のご説法や神言の多くは、肚の神様が大神様の口をとおしてお説きになったものです。 また、宇宙絶対神は、宇宙そのものであるため、人間が心に思ったこと、しゃべったこと、行ったことのすべてを ご存知であり、大神様を通じて同志を日常生活にいたるまで、ご指導されました。
たとえば、ある同志が子供の頃に、学校の売店で お金を払わずに消しゴムを盗ってしまったことを指摘され、反省懺悔するよう促されたことなどが、教団の出版物 に記載されています(『天聲』、第771号、紀元73年3月、82頁)。
教祖として
大神様は、他の宗教団体に所属しておられたことはなく、そうした学習や取組みをされたこともありません。 つまり、神教は、人間が頭で作ったものではなく、大神様の肚に宿った神様から直々に人類に説かれた教えなのです。
天照皇大神宮教で使われる用語には、当時の言葉の同音異義語などがありますが、安易にもじったり真似たものではなく、 肚の神様が人々にわかりやすいようにとお使いになったものであり、どれも神教を体した深い意味をもった言葉です。 各用語については、「その他」のページをご覧ください。
大神様は、元々礼儀正しく、言葉使いも上品だったそうですが、肚の神様は、魂の腐りきった人々に対して、 やさしく上品な言葉で説いても目が醒めない状況を鑑(かんが)みて、 衝撃をもって受け取られ、そして広まるようにと、罵倒するような表現を数多くお使いにまりました。
たとえば、 世の人々を「蛆虫(うじむし)」と表現されました。人より上にのしあがろうとあがいている人間のことです。
便所の蛆虫が、他よりも上にあがろうとしてお互いにうごめいて、ついには団子になって一斉に転がり落ちる様にたとえたものです。
神言はしばしば辛辣(つんらつ)ながら、大神様のご日常は大変質素で、同志の真心にはいつも感謝と労いの言葉をかけてくださっていました。 時には慈母のごとく優しく、時には厳しく間違いをご指摘になり、同志をお導きいただきました。
開元当初の農家の主婦としての現職を持ちながら、教祖として教えを説いておられた様子を『生書』第一巻では、次のように記録しています。
「ある時は、大根の切り干しをされながら、ある時は、縁側で縫い物をされながら、またある時は、井戸端でうずたかくたまった洗濯物を洗われながら、 説法されるのであった。結局、大神様御自身には休日はないのである。・・・・・・家庭内のことはほとんど、大神様御自身でしておられた。漬物を漬けたり、 みそ、しょう油のこうじをねせたり、染め物、ぼろ繕いなど、殊に農繁期には朝昼晩の説法の合い間合い間に、ご飯炊きから後片付けまで、 御自身でやられる忙しさである」
日常生活そのものが、即神教実行であることを大神様は御身をもって示され、 生涯かけて貫かれました。奉答歌の歌詞にあるように、大神様のご足跡は、神そのものの神教です。
解説
大神様、釈迦、キリスト
肚の神様は、釈迦、キリスト、大神様以外に(宇宙絶対神が)使ったおぼえがないと仰せになりました。 大神様、釈迦、キリストの教えが異なるのは、それぞれの時代・場所・人々に 合うようにと神様がお説になったからだそうです。
文明科学の発達とともに、道義は地に堕ち人倫は乱れ、第二次大戦時にはますます末世の様相を呈しました。 その乱れに乱れた人の世を救うために、宇宙絶対神は三度(みたび、すなわち、三回目として)天降られて、 大神様を通じて人類に神直々の教えをお示しくださいました。
そして、これからの時代には、まさに天照皇大神宮教こそが 世の中を変え、人々を救っていく教えである、と大神様はお説きになりました。
ですから、仏教やキリスト教が間違っているとか、役に立たないという ことではありません。煩悩を捨てることを説いた仏教の教えによって、欲望に執着する 自分を反省して改める必要性を知る人はいるでしょう。神を深く信じて隣人を愛することを説いたキリストの教えを受けて、 心の平和を身につける大切さを痛感する人もいるでしょう。
大切なことは、各教義を比較して論じることではなく、心の掃除を実行することです。 日々、心の掃除をして法力ある祈りを祈ることで、一人一人の心の中から神の国が広がっていきます。  
■神の国
天照皇大神宮教の目的は、世界平和・地上神の国建設です。
世界平和という言葉は、様々な意味で使われていますが、 天照皇大神宮教では、「世界平和は己の心の平和から」との神言(みことば)に則して、自分の心の平和、家庭の平和をまず確立すべく取り組み、 学校、職場、地域社会、そして世の中全体に、そうした平和な世界が広まることを目指しています。
つまり、天照皇大神宮教でいう世界平和・神の国建設とは、人の心の中に生まれて、肚(はら)で育ってゆく性質のものであり、 神様を中心にして魂を磨く人々の集う世界(すなわち神の国)が、世界中に広がっていくことを意味しています。
人は皆、幸福な人生を歩むことを目指しているでしょう。しかし、何を「幸福」と考えるのかは人それぞれであり、 理想とする地位や名誉や金や財産やパートナーを獲得することを目指しているか、 または、そうした希望・欲望は持たないものの、愛に満ちた平穏かつ安定した暮らしを 送ることを希望している人もいるでしょう。
たとえば、ある地位を得ようとする人が複数いて、あからさまに、または、ひそかに心の中で、弱肉強食の修羅場を演じている様子は、多々目にします。 自由競争と市場原理は、社会の基盤として大切であり、切磋琢磨(せっさたくま)は必要ですが、個人として立身出世に魂を奪われるのは、人の生き方として浅まし限りであり、間違っています。
しかし、多くの人は、このように自分についての幸福だけを考えるのではなく、人や社会の役に立てたことに、喜びを感じたことがあるでしょう。 故事にも言うように、幼児がヨチヨチ歩きで井戸に落ちそうになっていたら、誰しもハッとして 助けようという気持ちが働く「惻隠の情」(そくいんのじょう)、すなわち、善なる魂を持っています。
自分の幸福を追い求めるのではなく、まずはより良い世界の実現のために貢献しようという肚(決意)を持つことが、 社会を良くしていく原点です。では、利他と相手を思いやる真心を持った人々が集うとき、その社会の規範は何でしょうか。
利己・自我、ひいてはその悪の華ともいうべき邪念・罪の正反対の世界は、清く正しい善の世界に他なりません。 そうした正義と清らかさの源は、神様の教えです。神様の教え、すなわち、神教(みおしえ)を人々が心と発言と行動の規範にして 集う世界こそ、神の国です。
解説
神中心
天照皇大神宮教は、開元当初(教祖・大神様が教えを説き始められた頃)より、大神様を中心に同志が集い、神様の教えを 基に魂を磨く人々の集団―すなわち、神の国が誕生したことを宣言しました。そして、同志は それぞれの家庭、学校、職場、地域において、神様の教えを実践・実行することによって、神の国の拡充に取り組んでいます。
同志
世界平和・神の国建設に志を同じくする者という意味で、天照皇大神宮教では信徒や信者といわずに同志と呼びます。 よって、教団の活動や行事に事情があって参加できなくても、日々の日常生活でこの教えを実行し、法力ある祈りを祈って、 清らかで平和な世界の到来に貢献している者は、同志です。
悪霊済度と世界平和・神の国建設
教義のページでも説明したように、悪霊や邪神の後ろ控えで、人と人とは喧嘩をし、国と国とは戦争をします。 ここ数世紀の間に起きた様々な戦争の歴史を思い起こせば、やむを得ない正当防衛としての国防は少なく、残忍な 殺戮、蛮行が行われてきました。まさに、悪鬼の所業です。世界平和・神の国建設を進めるためには、 悪霊を済度することが不可欠です。法力ある祈りを祈ることで、即世界平和に貢献できるのです。
■お祈り
天照皇大神宮教のお祈りには、悪霊(救われていない霊。すなわち、霊界の地獄にいる霊、および、幽霊や地縛霊)を済度する力、すなわち法力があります。
宇宙絶対神は、乱れに乱れた人間の世を神の世に変えていくために、大神様を通じて神直々の教えすなわち神教(みおしえ)を人類にお示しになりました。目的はあくまでも 地上神の国建設であり、お祈りはその目的のために神様が授けたもうたものなのです。大神様は「世界平和のために己れの利己、自我を捨て、無我で祈れ」と教えてくださっています。
すなわち、神の国建設のさまたげとなる悪霊を済度して、真の世界平和が進むようにと祈るものであり、個人的な目的―たとえば、 病気が治るようにとか、自分が苦境から逃れられますように―などの目的で祈るものではありません。
多くの宗教家が、法力を得ようとして、滝に打たれたり断食したりしていますが、そのように人間の努力と修行で得られる法力と、 天照皇大神宮教のお祈りの法力は、まったく異なります。難行苦行をせずとも、本当に神の国建設の役に立つのであれば、 神様が法力を授けてくださるのです。よって、小さな子供でも無我で祈れば、法力を授かります。
お祈りは、名妙法連結経(なみょうほうれんげきょう)です。それに付随しての難しい経文の類はありません。 「名妙法連結経」を何度も繰り返して唱えます。仏教の「南無妙法蓮華経」と大変似ていますが、たまたま音が似ているというだけで、 何の関係もありません。南無妙法蓮華経と似ていることを理由に批判する人がいますが、それに対しては 「FAQ」のページで 説明していますので、ご覧ください。
名妙法連結経の含意は、「少し名のある女が、天から法の連絡をとって結するお経」(『生書』第一巻、第11版、紀元62年、55頁)であると、宇宙絶対神は、教祖・大神様にお伝えになりました。 「少し名のある女」とは、教祖として名前を広く知られている大神様のことであり、「名妙」の字をよく見るとそうしたつくりになっています。
正しいお祈りの手順は下のとおりですが、大前提として「真人間(まにんげん)になれるよう、日々心の掃除に取り組み魂を磨いて、 世界平和・神の国建設のために少しでもお役にたてるような人生を歩みます」といった内容の誓いを心の中で神様にお伝えします。 これは、毎日毎回する必要があるということではなく、この神教に帰依する最初の誓い(つまり、神様との約束)という意味です。
もちろん、神様との約束ですから、安易に適当な気持ちでやるものではありません。教義に賛同したうえで、厳粛な気持ちで覚悟を持って行いましょう。
では、毎回のお祈りの手順です。まずお祈りの詞(ことば)を唱えます。これは、お祈りと一体の重要な前文です。 お祈りの詞もお祈りも、軽く目を閉じ、合正して背筋を伸ばし、正しい姿勢で唱えます。
  お祈りの詞(ことば)
  天照皇大神宮 八百万(やおよろず)の神
  天下泰平 天下泰平
  国民揃うて天地のお気に召しますうえは
  必ず住みよき神国(みくに)を与えたまえ
  六魂清浄(ろっこんしょうじょう) 六魂清浄
  わが身は六魂清浄なり
  六魂清浄なるが故(ゆえ)に
  この祈りのかなわざることなし
そして、名妙法連結経 名妙法連結経 名妙法連結経と繰り返します。名妙法連結経には、決まったリズム、メロディー、速さはありません。 お祈りの詞も含めて、おおよそ10分間唱えます。ただし、直面している状況によっては、長く祈る人もいます。
同志は、朝と晩の一日に二回、(お祈りの詞も含めて)10分間のお祈りをします。また、折に触れ、 それ以外の時間でもお祈りをします。食事の前後、入浴のときなども、そうした生きる糧を神様からいただいていることに 感謝が湧き、自然と口からまたは心の中でお祈りが出ます。出産や冠婚葬祭に際しても、もちろんです。大神様は「わしは、吸う息、吐く息、 名妙法連結経」と仰せのごとく、いつもお祈りをしておられました。 
解説
無我で祈るとは
お祈りは、合正(がっしょう)して目を閉じ、正しい姿勢で無我で唱えます。 この場合の無我とは、乳児が無心になって母乳を飲むんでいるときのような状態、と 大神様は教えてくださっています。何か心の中で、想念や言葉を発信するのではなく、心を無にして 祈ります。
八百万の神
大神様のご説法によると、宇宙絶対神は、唯一無二の宇宙そのものの神様であり、「自然即神、神即自然」すなわち 霊界も物質界も含めて、宇宙の法則そのものです。神言によると、宇宙絶対神には家来の神々がおられ、大神様は八百万の神と 表現されました。“八百万”とは、正確に数が800万という意味ではなく、“非常に多くの”という意味でしょう。
八百万の神といっても、『日本書記』など神道に登場する神々とは異なります。 古(いにしえ)より様々な宗教や記録の中で、天使とか諸仏などと人類が表現してきた霊的な存在のことです。
そして、魂を磨きぬいて神人合一のレベルになれば、人の肚に八百万の神が宿り、天使となりうるそうです。 逆に、邪念に耽溺して魂が腐りきると、邪神に憑りつかれ悪行を働いたり、自分自身を破滅させたりします。
「邪神は己の邪念。出てくる邪念を打ち払い、打ち払い、死ぬまでかかろうとかまやせぬ。心の掃除を怠るな」の神言のごとく、 魂を磨いて、神の器となる目標を大切にしたいものです。
六魂清浄
[1]食欲、物欲、金銭欲等にかかわるもの、つまり、何かを失いたくない、または、欲しいという欲望、[2]人に対して 憎い、または、友情や親近感を感じる、3異性に対して好きだ、または、好かれたい、という人間の六つの根源。
すなわち、「惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた、この六つの魂が根本になって人間は できている。それを捨て切れとは言わない、それを清浄にせよ」と大神様はお説きになりました。
「惜しい、欲しい」は自己保存の本能、「憎い、かわいい」は社会本能、 「好いた、好かれた」は種族保存の本能によるものだそうです。
管理人が理解した限りで、敷衍して例示しましょう。職場で共同で出しあっているお金で揃えられた共用のコーヒーやお茶を「自分もお金を出しているのだからいいだろう」などと解釈して、 (職場ではなく)自宅にこっそり持ち帰るのは、泥棒、すなわち「欲しい」が不清浄です。
腹を痛めて生んだ子供のみを愛し、継子(ままこ)を憎むことは、「憎い、かわいい」が、不清浄です。
また、他人の妻やパートナーに対して、異性としての好意を持つことは、「好いた」が不清浄です。
我々の日常生活を注意深く自省すると、この六魂が目まぐるしく働いています。それらを清らかなものへと磨き上げて いくことが、神行の第一歩です。
■六魂清浄・事例解説
六魂清浄
「お祈りの詞(ことば)」の中に六魂清浄があるように、神行の第一歩として六魂清浄は大切な取組みです。
大神様は次のようにお説きになりました。 「六魂清浄だけでも書いて教えるのになったら、三年書いても書ききれんほどある。あらゆる方面で、それが出てくるんじゃけえ。 それを書いて暗記せても少しも清浄にゃならん。理屈頭でこねまわしていくんじゃない、心の掃除せえ。あ、そうか、あ、そうかと 知らずに神の方へ向いて行ったら、あんたらの肚に神様が入って、その時、その都度教えるんじゃけえ」。
そこで、まず、六魂清浄とはどのような教義なのかを前半で概説します。そして、後半の「事例解説」で、当管理人が自己研修した限りでの、具体例を述べてみます。
惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた
六魂とは、「惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた」であり、この六つの魂がだいたいの根本となって人間はできている、と大神様は お説きになりました。
人間が肉体を持って物質界に生きていくためには、基本的な本能があり、それは自己保存本能、社会本能、種族保存の本能と言われています。 自己保存本能が、「惜しい、欲しい」つまり衣食住に関するものを発端とした本能、次に社会本能が「憎い、かわいい」つまり、 対人関係に関するものであり、三つ目が「好いた、好かれた」つまり異性に関する本能です。
「それらを捨て切らねばならないとしたら、人間を廃業しなければなりません。 しかし一方、六魂を浄化せず、放置しておくと、それは煩悩となり人生に苦をもたらし、人の幸福を害し、将来に罰の種を蒔くことになります」。
惜しい、欲しい
まず「惜しい、欲しい」について、大神様は、「惜しい、欲しいが、利己や自分中心で汚れるとケチや貪欲になる。 清浄になると物を大切にするが、ケチじゃなく、世のため、人のために物惜しみをしないということになる」とお説きになりました。
「宗教は利他」。簡潔ながら、ご説法で大神様はこうお示しになりました。大神様は、別のたとえで、次のようにも お説きになりました。すなわち、風呂の水を自分の方にかきよせようと思ってかきよせても、端から外に向かって流れる。外の方へやろうと逆に水をかいても、 自分の方に流れ込んでくるものだ、と。
物資や金・財産や地位や名誉や見栄や体裁(ていさい)を欲しい欲しいと個人の利益を追求してあがいても、それに何の意味があるのでしょう。 豪奢な家に住んでも、家族不和でギスギスした毎日を送れば、幸せではありません。貧しく慎ましい生活であっても、 人々や家族に感謝され、神中心の清らかで和やかな毎日を過ごす方が、よほど幸福です。
自分や自分の家族の欲望を満たすことに汲々として、一つ得られればさらに別の物を欲する という具合に、「惜しい、欲しい」を利己に染めていくと、ますます執着と欲望が強くなります。 そのような利己的な欲望に固まった人間同士の関係は、不和や妬みを往々にして引き起こします。
当管理人による事例紹介ですが、大金持ちになりたいと人生を賭けてきた人が、小金持ちにまでしかなれなかった場合、知り合いの大金持ちと接するとき、 表面は笑顔でも、心の中は妬みやコンプレックスに満たされ、敗北感を味わって不幸な心になることもあります。 また、ときには「見下しやがって」などと自己解釈して、相手に不清浄な「憎い」が働くこともあるでしょう。
それに対して、大神様は、「あってもぜいたくに流れな、なくて不平不満を言うな」「寒うさえなけりゃよい、 ひもじゅうさえなけりゃよい肚をつくれ」とお説きになりました(『天聲』、同上、42頁)。物資や金や財産や地位や名誉をどんなに 集めても、あの世には持っていけません。
人間の幸、不幸と所有の大小とが別でることがわかり、 物を大切にしつつも、無理のない範囲で、出しおしみをせずに世の中や人のために、自分の持てるものを役立てる方が、よほど さわやかで幸せです。
憎い、かわいい
「憎い、かわいい」は、すでに述べたように社会本能に由来するもので、 敵を憎み、味方を愛する防御本能、攻撃本能などの対人関係の本能がこれに属するとされています。
「かわいい」がなぜ不清浄になりうるのかについて、大神様は、自分の腹を痛めて生んだ子がかわいくて、 先妻の子が憎らしくて罪をつくる、との例でご説明されました。学校の先生が生徒をえこひいきすることも、同様でしょう。
「憎い、かわいい」が生じる原因は、肉体を持った人間が、その生存のために、自分や自分の家族・仲間を他と区別する ところにあるようです。つまり、自分や自分の家族や仲間に対する一体感、それ以外に対する差別感を人間も動物も持っています。

“たとえば、狼はいつも群れをなして生活しており、お互いは極めて仲が良いのですが、外の動物に対しては、 すぐ激しい憎しみを発揮します。人間は、まず自分を一番かわいがり、次に自分の身内をかわいがって、他人と差別します。 また、大きな集団になると、同じ共同体に属する者を愛し、他を排斥します。母校出身者を愛し、他校の出身者を排斥するような感情です。
この本能を、心理学では社会本能と呼びます。このような自己中心的本能は、浄化し、高められねばなりません。そうしなくては、 住みよい世界は達成されないし、自分も幸福な世界へ行くことはできません。
・・・・・・差別心は、あの人は嫌い、この人は好きというような情緒的な差別心となったり、自分に利益を与える者は好み、 そうでない者は嫌うという利己的、自己中心の差別心となります。これは自分のもうけ、これはあいつの得といったように分けて考え、 自分の利益のみを考える、寂しい考えになります。
人間は、本来自分を主体として考える傾向があり、自己本位の恣意、わがままがそこにあります。その我と我との衝突が、 自他の差別を徹底的なものとしています。そこに薄情な不和、不安に満ちた調和のない世の中になる根源があるのです。この世では、よそに倉が建つのを羨み、 人の喜びはしゃくの種となって、生霊(いきりょう)の飛ばし合いをして、傷付け合い自滅していくのです。
「憎い、かわいい」という差別心が浄化された慈悲、慈愛
人間は・・・・・・「憎い、かわいい」という愛憎の感情を持っております。愛は自然に湧いてくるものですが、 そのまま放っておくと、盲目愛となってしまいます。それゆえ、一方において憎しみを生じます。 これは生きとし生けるものの本能と言ってよいものであり、人間と人間との間においては、喜怒哀楽や争いという人間模様をつくりだします。
このような本能は、より純粋かつ高度なものに浄化されていかねばなりません。それが慈愛とか、慈悲という至純な愛で、これこそ動物的盲目愛が、 神のものにまで高められたものでありましょう。神の慈悲に差別はありません。一視同仁の愛で、そこにはえこもひいきもありません。 継子(ままこ)と自分の腹を痛めた子に対する差別心はなくなり、同じように愛することができるまで浄化されればなりません。神の国は一大家族と言われますが、 私たちの家族愛は、それまで広げられるべきであります。
大神様は、「人の田がよくできているのを見て喜べるような人間になれ」と仰せになります。すなわち人の喜びを自らの喜びとし、 人の苦しみを自らの苦と感じられるような人間になれと仰せになっております。親子の間では、子供の喜びを親は自分のことのように喜び、 子供の苦は自分のそれのように、共に苦しみます。それは前述のように、親子が一体だからです。しかし、世が末になると、 親子でさえ利害関係で争うようなことになってきます。
人の喜びを自分の喜びとすることは、難しいことです。なぜならば、それは利己、自我―自分中心の心を捨て、 自分を愛すると同じく人を愛せるようにならねばならないからです。無我―神と人との肚が正しく合った神人合一にまで人が高められたとき、自他の差別ない、 えこもひいきもない、人に対して慈愛をもつことができるようになります。そのときこそ、人の喜びを自分の喜びとし得ること必定であります。自我の愛から、 無我の慈愛へ、差別心から、広い一体感になることが、「憎い、かわいい」の面における心の行、六魂清浄の行でありましょう。
・・・・・・盲目の自我の愛から、一足飛びに無我の慈悲までには、なかなかなれません。そこに心の修錬が必要になってきます。 ことに、感情はなかなか人の意のままに動きません。人の喜びを共に喜んであげねばならないとわかっていても、何か喜ばせないものが心の中に残っています。 そこに、まだ自我、小我をかわいがる利己心が残っているからでありましょう。
また、差別心を少しでも少なくするよう努めねばなりません。それには、まず人を思いやることが大切です。小さな自我を離れ、人の身になってみる。 すると、相手を自分と同じように理解できるものです。そのとき、自分との一体感が生まれてきます。人と自分の間の固い壁が取れ、 悪意や感情がスムーズに溶け合うようになり、対立や争いも少なくなってくるものです。それだけでも、世の中がどれほど住みよくなるかわかりません。
「憎い、かわいい」の終着点は、やはり無我にあることがわかります。自分自身が神に帰一したとき、生きとし生けるものはすべて神より出て、 神に帰一すべきものである。すべてが我が兄弟であり、仲間であり、同根であるという一体感が、また分け隔てない愛情、慈愛が、すべてに対して油然(ゆうぜん) と起こってくることでしょう。
大神様のすべての人を真人間に導こうとされる慈悲には、えこもひいきもありません。心に一物なく、世間のどこに行かれても我が家と同じく、 どんな人にお会いになっても、差別ない慈悲で導かれる神姿―。これこそ、無我の神姿であり、神人合一の神姿であります。それこそ、三界は我がものと、 すべてのものと一体になられたみ神姿であります。ここに神行の理想像があるとともに、「憎い、かわいい」を清浄にした理想像があるのです。
自意識過剰症の病膏肓に至った(病気がひどくなって、治療のしようがないこと―当管理人、補足)現代人です。それが無我になるのは、たいへんな行であります。それについて、 大神様は三つの方法でみ教えくださっております。
第一は心の行です。心の掃除をして、六魂を清浄にしてゆくことであります。
第二はお祈りをすることです。お祈りは実相界の万能の武器であり、道具であります。これを唱え続けることで邪念を払い、 心の掃除をさせていただけますし、因縁も切っていただけますし、霊界の掃除もさせていただけますし、知らず知らずのうちに、神に帰一して合正、 無我の境に入らせていただけます。
第三は実行であります。自我を捨てた、素直な心になるために、具体的にまず「はい」という返事を実行させていただくことが大切です。 利他の行為を、どんな小さなことからでも真心で実行していき、小さな我を捨て、徳を実行で積み重ねると、自然に、美徳の根が養われます。すなわち、 具体的に現れている「行い」から精神を育てていくのであります。
神行は、以上三つのどれが欠けてもだめです。実行は肚によってなされ、心の行は真心(利他)が基本となり、 神と人とをつなぐ直接的な手段が祈りであります。”
好いた、好かれた
「好いた、好かれた」の根源は、種族保存の本能と称するもので、代表的には性欲であり、恋愛や夫婦愛に関係しています。
第一に、肉体的な面における「好いた、好かれた」を清浄にすることは、とても大切です。最近の性道徳の乱れは凄まじいものがあります。
世間では「見つからなければ不倫ではない」などという屁理屈を聞くこともありますが、神様はすべて見抜き見通し、天の写真帳にはすべてが 記録されています。心のなかで不倫をしただけでも、そうです。そうした邪念が起きたら、すぐに打ち払って反省懺悔し、「名妙法連結経」を唱えましょう。
第二に、精神的な面での「好いた、好かれた」を常に内省することが大切です。異性に対するものに限りません。 先生、上司、目上の人、部活動の監督・コーチ、などなどに気に入られたい、好かれたいという気持ち、逆に、好きだという気持ちを 人間は持つものです。この「好いた、好かれた」が不清浄になると、嫉妬や羨望といったマイナスの感情を生み出すことになります。
第三に、「人間は未完成なほど、愛されることや与えられることに満足感を覚えます。 子供など例外なく人の愛を求め、与えられることに満足します」。「好いた、好かれた」が清浄になると、 愛されることや与えられることよりも、見返りを求めずに愛すること、与えることが、できるようになります。
そして、愛するといっても、一方的に自分の気持ちを押し付けるのではなく、相手を思いやり、相手の立場に立ち、 相手を大切にする配慮に溢れた愛の表現をするようになることでしょう。
いくつか敷衍しましょう。六魂清浄について、「欲望を捨てよということですか」と質問されて、教祖は次のようにお答えになりました。 「捨てきれとは言わない。清浄にしろと言うのよ。金もない者が飲みたい飲みたい思うたら、女房に隠れてでも飲む。・・・・・・それが悪いと言うのよ」とあるように、禁欲や耐乏生活をするということではありません。
「金がない者が(酒を)飲みたい飲みたい」と思うのは、心を過度の欲望に占拠されています。その邪念に邪神が憑りついて常態化し、さらには肉体に 依存症が起きることもあります。そのような不清浄な「欲しい」ではなく、家計や健康に支障がない範囲で、慎ましくたしなむ程度であれば、清浄だということです。
事例解説
一例
同僚と出張したところ、ビジネスホテルの部屋で、その同僚は歯を磨くときに水を流しっぱなしにしながら、磨いていました。 翌朝も、寝起きにすぐ顔を洗うときも、その人は水を流しながらでした。
当管理人は、歯を磨くときはコップに水を入れて、液体歯みがきで少し歯ブラシを浸したりしながら磨きます。水を流しながらということは、まずしません。 洗顔のときも真冬でお湯になるまで時間がかかるまではある程度仕方ないものの、そのときは水をケトルに取って、その後、お湯になってから顔を洗います。
その同僚によると、“家では水を流しっぱなしにしない。ちゃんと倹約している。ここはホテルで、 水の使用量が自分の出費にかからないから、関係ない” とのことでした。
単に節約することと、物に対して「惜しい」が清浄であることは、異なることだとあらためて感じました。その人のいう「節約」とは、 自分の家計にとっての水道代の減少という意味であり、ホテルに宿泊しているときは、ホテルが水道代を支払うのだから、関係ないという不清浄なものです。
水に対しての真の「節約」「倹約」は、自分の家計にとって支払いがどうこうではく、他の客やホテルも含めて、社会・世の中のために、水を大切にすることを心にとどめているかどうか、 ということでしょう。
自分の家計にとってではなく、社会にとってという視点は、利己から利他への転換があります。そのことを体得すれば、ホテルであれ自宅であれ、 同じように水を大切に使おうという行動が身につくのではないでしょうか。「惜しい」を清浄にするための考えとして、やはり利己から利他への転換が必要であると 思いました。
無形物・サービス、および、お金に対する惜しい、欲しい
惜しい、欲しいは、有形の物だけに限定できるのか、それとも、無形のものでも対象なのかも大切な問題でしょう。 たとえば、音楽CDを買いたいということと、そのアーチストのライブに行きたいということは、どちらも六魂の一つ「欲しい」 の働きのようにも感じます。前者はCDという物を欲しいのであり、後者は有形物を手に入れたいのではなく、 ライブというサービスを購入したいと思っているわけです。
他の例として、隣人がよく海外旅行に行くことを聞いて、くだらない対抗心を燃やし見栄を張って、借金までして旅行することは、 「欲しい」が不清浄です。ただし、この場合「欲しい」のは有形物ではなく、旅行というサービスです。 もちろん、純粋に夫婦や家族の絆を深めたい、心のリフレッシュをしたい、いい思い出を作りたい、という目的で、無理な借金などせずに旅行をすること 自体は、不清浄ではないでしょう。
また、物を欲しいという場合、お金がないと買えません。物を欲しいという欲求が転じて、人はお金や財産を惜しい、欲しいと 感じる生き物です。上の引用のように、お金や財産、そして地位や名誉に対する「欲しい」も、浄化すべき「惜しい、欲しい」の対象です。
六魂は連動して働く
次は、理屈頭で余計なことをあれこれ考えてしまっているのかもしれません。六魂はそれぞれ単独で働いているわけでもなさそうです。 たとえば、異性との交際がもつれて、ストーカーに転じる例はよくあるでしょう。事件にまでならず報道されていないものの、 そうした事例は大変多くあると思います。
ストーカーもいろいろなタイプがあるのでしょうが、異性に対する「好いた」が急転直下、「憎い」に転じている恐ろしい場合もあります。
もともとの「好いた」が自己中心的で利己によるものだから、そうなるのでしょう。相手を本当に大切に思い、その幸せを願うという 利他の思いが根本にあれば、思い通りの展開にならないからといって、「憎い」にはならないだろうと思います。
利己・自我に由来して執着が起こり、邪念に耽溺して邪神がついてしまって悪循環、ますます邪念・邪神のおもちゃになる―そんな「恋愛」を数多く耳に します。
上記の神言「惜しい、欲しいが、利己や自分中心で汚れるとケチや貪欲になる」からわかるとおり、六魂を不清浄にする原因は 利己心やエゴイズムです。
たとえば、あるスポーツチームのコーチが、特定の生徒に対してとくに時間を割いて指導していたとします。えこひいきであると憤慨して、 そのコーチの行為に対して、怪しからんという気持になるのは、正義に則して判断した清浄な心の反応でしょうか。それとも、自分もかまってほしいのに、 という「好かれた」いという利己心・自我から生じた嫉妬という不清浄なのでしょうか。
そのコーチは、チームの勝利のためにはその生徒の実力を伸ばすことが不可欠であると 判断して、つまり、チームのため、そして全員のためという利他の気持ちからそうしていたのかもしれません。そうではなくて、その生徒がただ個人的に 「かわいい」と感じて、他の生徒の気持ちなどお構いなしに、そうしていたのかもしれません。同じ事態 であっても、双方の魂の状態によって、見え方も、理解も、展開も、そして清浄か不清浄かも異なるようです。
まさに、「三年書いても書ききれない」ほどであり、それぞれが心の掃除、とくに、利己と自分中心の自我を自分の中に見つけ出して魂を 磨いていくことこそが、大切なのだなあと、しみじみ思います。
さらに思いいたったこと[1]― 物を選ぶときの利他
ずっと昔、ある同志から聞きました。たとえば、果物が入っている籠を出されて、おひとつどうぞというときは、大神様は、一番形などが良くなく、 味も良くなさそうなものをおとりになっていた、とのことです。
その人の説明によれば、そうすることで他の人により美味しいものを取ってもらえるという 利他に徹しておられたから、とのことです。果物一つを選ぶにあたっても、どれを選ぶかというときに六魂の一つ「欲しい」が働き、 そこで利己から利他への実行の余地があるのだなあ、と痛感しました。
もちろん、人が真心からいいものを一つ選んで勧めてくれているのに、固辞して悪いものを取ることにこだわる過ぎるのは、 かえってやりすぎにもなりかねませんが。
さらに思いいたったこと[2]― 物以外を選ぶときの利他
上の[1]の話は、物を選ぶときの話ですので、六魂清浄の「欲しい」の話だということが、しっくり当てはまりそうです。
しかし、自分(達)にとっての何かを「選ぶ」という行為は、対象が物ではない場合も多々あります。そして選ぶ際のその基準いかんによって、利他と自我の分かれ道があるように感じます。
たとえば、ある若人の同志は、知人と居酒屋に行った際に、靴を脱いで靴箱に入れる場合には、自分の靴は一番下の靴入れに入れることを 心がけている、というか、身についていて自然とそうした行動になるそうです。人様に入れやすい上を空けておいて、自分を下にするのは当然であると親に教わった、と 言っていました。
何か物や無形財(サービス)を手に入れている行為ではなく、自分の靴の入れ場所を「選ぶ」ときの話です。よって、直接的には六魂清浄の話ではないかもしれません。 しかし、上記の[1]の話と同一線上にあるような気がします。
六魂清浄は、様々な神教実行につながっているのですね。
■反省懺悔
恨みが感謝に変わって初めて神行の道に入り、六魂を清浄にした上で、反省懺悔の日々を送る― 神行、神に行く日々を送るうえでのエッセンスです。
「神行の第一歩は六魂清浄」との神言にあるように、六魂が清浄でなければ、真の反省懺悔が出なかったり、 同じ罪を繰り返したりしてしまい、天の写真帳がいつまでも白地にならずに神に行く道を進めず、行きつ戻りつということになってしまいます。
六魂清浄に取り組んだうえで行う反省懺悔とは、具体的にどのようなものかを説明します。
懺悔についての神言
○天の計算係には、一分一厘の計算違いも、つけ落としもない。皆の言うたこと、やったことだけじゃない、心で思うたことまで、皆天の写真帳についておる。
○罪ありゃ行かれぬ天国なれば、誰も行かれはしないけど、反省しては懺悔なし、天の記録写真帳の黒地が白地になるまで、魂磨いて上がっておいでりゃ、誰でも行けます天国へ。
○死んで、閻魔(えんま)の前で、お前は地獄行きと言われたのでは、もう遅い。生きているうちに犯した罪は、皆懺悔せよ。
○一度罪を犯したら、懺悔しても、消しゴムで字を消すようなもの、元の白地にはならない。二度、三度、繰り返しておると、紙が破れてしまうように、いくら懺悔しても罪は消えりゃせぬ。
○死ぬまで己の反省懺悔ができなけりゃ、次々々に子孫に因果が残りいくことを知らずして、蛆の世界じゃ、信仰信仰いうたなら、己の利己を募らせるのが信仰じゃ思うたが、どっこい違います。
○神教より食い、拾い食い、ともすりゃおかげ信仰になりがちよ。神行の道を踏み、神のみ肚に合うているか、己のやっているそのことが神国大事をいう者の行じる道か、日夜反省懺悔ができなけりゃ、なんで行かりょうか、神の国。
○相手が悪いと思う間はまだだめ。
神行は、反省懺悔によって進ませていただくといっても過言ではありません。船に例えれば、その推進力であるスクリューが、反省懺悔であると言えましょう。
私たちは、その大切な反省懺悔が常に行われているか、またどのように反省懺悔してゆかねばならぬか、その実行点を掘り下げてみましょう。
反省懺悔といつも続けて用いますが、反省と懺悔は、それぞれ別の意義を持つ言葉であります。反省は自らを省みることであり、懺悔は、その反省の結果、気付かされた罪汚れを神に対しおわびし、悔い改めることであります。そこで、反省と懺悔を、まず別々に取り上げてみましよう。
反省について
一、反省心を養うこと
神行し、心の掃除をするためには、まず強い反省心を持つことが大切であります。自らの反省はせず、人の足元を見ることのみ多い、世の末の人々の姿に多く接する昨今であります。
相手を責め、自分のことは棚に上げておくのが常であります。「すみません」と自分を反省する代わりに、「相手の方が悪い」と人を責めるのです。まさに、神に行く神行の正反対で、お互い責め合う地獄行きであります。
反省するには、人に目を向ける前に、まず自分自身に目を向けることが必要であります。常に内に目を向けて内省する心を自分の個性となるまで養ってゆかねばなりません。それは、日頃の心の修錬であります。何につけても、すぐ自分を反省することが反射的に行われるまで、自己反省を繰り返していく以外ありません。
そこで、まず心せねばならないことは、神教を人のために聞かず、自分自身のために聞かねばならないということです。もし、人のために神教を聞いていると、人を神教で縛ることのみ上手になり、自分自身の反省の糧(かて)とはならず、神に行く神行どころか、地獄行きの上塗り(うわぬり)をすることになります。神教を自分の心の中にいただくとき、反省の元である自分の曇り果てた良心を覚ましてくれます。
良心とは、人間の心に与えられた神性であります。しかし、利己と自我とによって塗り潰され、あってないようなものになって、良心の働きさえ感じないようになっているのが、世の末の人々であります。
大神様を通して神に接し、神教を自分の心にいただくとき、自らの心を振り返らずにはおれない気持ちにかられ、その神言、神姿(みすがた)は常に生きた神として自分の心の中にあって、それが私たちの反省の鏡となり基準となるので、神行の第一歩は、この反省心を持たせていただくことであり、この反省により、常に心の掃除をして、罪を犯すことのないよう行じさせていただかねばなりません。
反省懺悔の実行は、まず反省心を養うこと。言い換えれば、心の目を緩みなく、いつも自分自身に向け、神教を基準に反省させていただくことであります。
二、反省を深めること
反省には、おざなりな反省と、深く掘り下げた反省があります。神教をいただいている私たちでありますから、邪念が湧いたり、邪神のおもちゃになったとき、気付きさえしたら、必ず、一応の反省はさせていただきます。しかし、その反省が浅いため、自分の奥底に潜んでいる本性や自我、利己心、悪癖などに気付かず、とおり一遍の反省に終わり、したがって、懺悔も、仕方がないかぐらいに終わって、結局、それらに気付かずにいる私たちではないでしょうか。
それではいつまでも反省の実を上げえません。そのため、反省は徹底的に掘り下げ、悪癖、欠点や自我本性に気付き、それを根底から直していかねばなりません。「あっ、しまった」と気付いたとき、それのみにとどまらず、もう一押し、その反省を掘り下げるよう努めさせていただきましょう。
例えば、夫婦げんかをしたとき、「しまった。悪いことを言ってしまった」と反省したとき、そのけんかは自分のどのようなところに原因があったか。例えば、「どういう真心に欠けていたか」「どういう邪念があり、邪神のおもちゃになったか」等を深く掘り下げて反省してみることが大切であります。そのような深い反省をさせていただくことによって、自分の本性や自己中心の邪念、悪癖に気付き、それを直す可能性が与えられるのです。
懺悔について
懺悔とは、反省によって自分の犯した罪に気付いたら、それを神に対しおわびし、悔い改めることであります。反省に伴って、この悔い改めが必ずなされなければなりません。その反省が浅く懺悔も出ないと、同じ罪を何度も犯すことになります。
懺悔とは、人間が神の前に自分の罪を意識して、真から謝罪の心が出たときの状態であると言えましょう。
これは、道徳的心情だけでなく、純粋な神に対するときの宗教的心情であります。そこには、自我の存在はありません。神の前に、自我が崩れ去ったときの心の状態と言えましょう。
人間は、利己や自我があるゆえに罪をつくります。そして、その罪を強く意識したとき、実は、その罪の根源である自我に気付きます。そのとき、真の懺悔が出てくるのであります。
懺悔が神によって受け入れられたとき、人の心を軽くし、より平和な、楽しい心境に上がらせてくださるものであります。反省ばかりして、懺悔が伴わない場合、偽善的小心者、小さく萎縮した、いわゆる職業宗教家的な臭みのある人間になってしまいます。罪に気付いたら、毒水を吐くような、心の底からの懺悔をさせていただいて、くよくよせず、すぐ次の行に移らせていただけるような人間を大神様はお好きになります。
正しい反省によって、清く、正しく、強く、明るい人間にならせていただかねばなりません。
反省懺悔の盲点(反省懺悔に自己弁護を交えないこと)
良心(神)と自我と、二つを共々に持った私たちは、多くの場合、一方では反省するとともに、必ず他方においては自己中心の考え方による自己弁護や言い分を持っているものであります。
同志が磨きの会などで、「懺悔させていただきます」との前置きで、よく自己弁護まじりの懺悔をされることがありますが、そのような場合、決して本当の懺悔は湧いてきません。反省の実が上がりません。真の懺悔をさせていただくためには、私たちは、その自己弁護させる自我や利己中心の心を捨て切らなければなりません。
反省は、神の側に立った絶対なる立場で行われなければならないものであります。この絶対なる神の側に立たせていただくことは、なかなか凡人にとって難しいことであります。「それでも・・・」と心の中のどこかで自己主張している自我は、なかなか取れません。
ここで気付かせていただくことは、大神様にお叱りをいただくことが、いかにありがたいかということであります。生ける神様にお叱りいただくことによって、神側に立っての、絶対なる反省を可能にしていただき、そのことによって、次に来る真の懺悔=悔い改めがさせていただけるのであります。
しかし、私たちは、大神様のお叱りを待つまでもなく真の反省懺悔をさせていただいて、神行、神に行く道を進ませていただかねばなりません。それが、一人歩きをさせていただくゆえんでもあります。
それでは、真の懺悔をさせていただく邪魔をする罪の根源の自我を、どのようにして捨てさせていただいたらよいでしょうか。それにはまず、同志間の徹底した共磨きとお祈りであります。
共磨きにより、自分の気付かないでいる自我を発見させていただくこと、どうしても捨てきれない自我を、神力(みちから)によって捨てさせていただくためには、お祈り以外ありません。
入教間もない人が、実に自然に、毒水を吐くような痛烈な懺悔をされることがあります。それはお祈りにより邪神が取れるとともに、純粋に神のみ前に、自我を投げ捨てられたからだと思わせていただきます。
反省懺悔の具体的実行点
以上のような反省懺悔に対する掘り下げから、具体的実行点を列挙すると、次のようなものになります。
○まず、反省懺悔の元である良心を磨かねばなりません。そして、何が罪で、何が自我の種であるか、その時その都度、反省できるようにならねばなりません。そのためには、ご説法、生書、天声、支部の磨きの会などで、常に神教に接し、心の中にいつも神教が生きているようにせねばなりません。
○自分がこれまでしてきた過去一切のことを反省し、神教に反し悪かったと思い当たることは、すべて反省懺悔を繰り返すこと。
○神様に対して反省懺悔させていただくとともに、迷惑をかけた相手がいる場合は、その人に向かって、「すみませんでした」と、肚から懺悔すること。物である場合はお祈りすること。
○今していること、これからしようとしていることで、良心のとがめることは、きっぱりやめること。それが難しいときは、必ずお祈りすること。
○一度懺悔したことは、二度としないこと。(肚)
○懺悔せねばならぬと気付きながら、どうしても心の底から懺悔が出ないときは、それが出るまで懺悔の祈りを繰り返しすること。祈りにより、邪神が払われ自我がなくなったとき、真の懺悔が出てきます。
○大きな悔い改めには、試錬や大きな行の相手、大神様のお叱りなど、大きな行が与えられることが常であります。その場合、自分に与えられている行の内容意義を早く気付かせていただいて、その行に取り組んでいくことです。
○神教は生きた宗教と言われるように、心の中の生ける神に、その都度突き出されて、反省懺悔させていただくので十戒といったようなものもありませんが、ごく一般的な懺悔の対象となるものは、
[1]神に対する罪として
  ・神教の冒涜(ぼうとく)をし、神の国破りをしたこと
  ・神の国の定め、しきたりを破ったこと
  ・神様を使いものにしたこと
[2]人に対する罪として
  ・人に迷惑をかけたこと
  ・泥棒をしたこと
  ・小言、人の悪口を言ったこと
  ・うそを言ったこと
  ・心の中で、人殺しをしたこと
  ・人の真心を踏みにじったこと
  ・自己中心のけんかをしたこと
  ・弱い者をいじめたこと
  ・感情や自我を張って、いやな思いをさせたこと
  ・人の行の妨げになったり、腐らしたりしたこと
[3]物に対する罪として
  ・物を粗末にしたこと
  ・物に対する感謝がなかったこと
以上、反省懺悔について書かせていただきましたが、要は、「お休みのそのときは、今日一日家内そろうて神国のお役に立ちましたやらと、祈りと反省に生きよ」との神言を文字どおり実行していくことであります。神国のお役に立つか、立っていないか、立っていないときは、必ず、その反対に罪を犯している私たちであることを銘記させていただきましょう。
■神歌
紀元13年の12月に、大神様は、神歌(みうた)の歌詞とメロディーとリズムを同志に示されました。神歌の歌詞には、神教の根本が込められており、 神歌は神教そのものです。大神様は、神歌について「神行の指針として、永久(とわ)に復唱してこい」と仰せになりました。 同志はあらゆる会合・行事の冒頭のお祈りの直後に、皆で歌います。
神歌
ああ美(うる)わしの神の国
世が乱れたるあかつきに
天なる神が天くだり
天が治めて天が取る
神のみ国ができました
    その時天父(てんとう)にめらとれて
    天なる神の大聖業に
    神の召集受けたる
    わが身の幸をよろこんで
    行じてゆけよ天国に
夜明けだ夜明けだ
神のみ国の世はあけた
早く心の目をさまし
人間いう名がついたなら
天に恥じない道をふめ
    人生行路が神に行く
    行の道中を忘れなよ
    肉体もったそのままで
    天国住まいができるよに
    心の掃除をおこたるな
おのれの肚さえできたなら
たれでもやれる国救い
やっておくれよ神国のために
世界平和の来る日まで
ともにやろうよ国救い
    名妙法連結経
    名妙法連結経
    名妙法連結経
神歌をいただいたことを契機に、同志は奉答歌を作りました。 つまり、奉答歌は、宇宙絶対神の教えをいただき、救われた感謝、大神様への尽きせぬ感謝を込めて、同志が作詞・作曲した歌です。 しかし、内実としては、神様がその同志を使ってできた曲であると、大神様は仰せになりました。
奉答歌
宇宙の夜明けの 鐘がなる
人の力で いかにとも
救うすべなき 世の末に
神のみ国を つくるため
天のつかわす 救世主
大神様の み姿を
今あおぎみる ありがたさ
    迷いに迷う 迷い子に
    そちらに行けば 生地獄(いきじごく)
    こちらに来れば 天国と
    神に行く道 さし示し
    夜に日をついで 説き給う
    大神様の みことばは
    人生行路の 羅針盤
この世に生(せい)を うけられて
われらと何の へだてなく
人間道(にんげんみち)を 歩みつつ
示され給う 行(ぎょう)の道
神の化身(けしん)で あればこそ
大神様(おおがみさま)の 御足跡(ごそくせき)
神そのものの 神教(みおしえ)よ
    神のみ国の 建設に
    尊き御身(おんみ)で ありながら
    骨身をけずり 命かけ
    先頭切って 進まれる
    神姿(みすがた)こそは かしこしや
    大神様の おおみわざ
    日毎夜毎(ひごとよごと)に 進み行く
とうときみ代に 生(せい)をうけ
大神様に 救われて
神教(みおしえ)うける 身の幸に
感謝のまこと 捧げつつ
世界平和の 来る日まで
命かけての 国救い
大神様の み跡(あと)慕わん
    名妙法連結経
    名妙法連結経
    名妙法連結経
解説
神歌・奉答歌
神歌も奉答歌も、出だしは世の中が大きく替わる画期のときであることを明言しています。宇宙絶対神が直々に天降り、 大神様を通じて神の国建設を始められたことが、歌詞からも如実に伝わってきます。
神歌は、神教の会合・行事の最初のお祈りの後に、皆で歌います。奉答歌は、会合・行事の最後のお祈りの後に、皆で歌います。
天父にめとられて、とは
神歌の歌詞の中に「その時天父にめとられて」とあります。この「めとられて」は文字としては 「娶られて」つまり嫁に行く、嫁としてもらわれる、ですが比ゆ的な表現です。 「神様にお引き寄せをいただいて」とか「神様の召集を受けて」といった意味です。
■言葉解説
踊る宗教
天照皇大神宮教は、「踊る宗教」という名称で広く知られました。開元当初、駅前や街頭で、同志が舞を披露したことによります。 踊ることで魂が救済されるという教義であると理解している人がいますが、誤解です。現在は、式典などの重要な行事のときと、月に一度の ご慰安日に、無我の歌と無我の舞が行われています。
無我の歌・無我の舞
開元当初、様々な霊的な現象が起きていました。同志に霊が宿り、口が動いて歌を歌ったり、手足が動いて舞を舞ったりしました。 歌詞もメロディーもリズムも舞の所作も事前に用意されたものではなく、霊的現象として出てきたとのことです。 現在、無我の歌と無我の舞は、式典のときや月に一度のご慰安日に行われます。メロディーやリズムや所作に決まりはなく、 めいめいが、心に浮かぶ歌と舞を行います。「踊る神様」の項目で説明したように、無我の舞をすることで魂が救われるという ことではなく、無我の歌と無我の舞は、式典とご慰安日の催しであり、神教をいただいた喜び、神教によって救われた感謝の気持ちから 、各人が自然に繰り出すものです。
肚(はら)
大神様は、まず肚を作ることが先決であり一番大切とお説きくださいました。ここでいう肚とは、決意とか意志といった意味です。 なお、「肚の神様」という場合は、大神様の肚に天降られた宇宙絶対神のことであり、上記の意味とは別です。また、 「神と人との肚が正しゅうに合うようになったら、神人合一、天使、神に使われる」の神言の意味は、 “人間の魂が、神様のレベルに合致するようになれば、八百万の神が人間の肚に宿り、天使として神の国建設のために人を使う”との意味です。
悪霊
悪霊(あくれい)とは、救われていない霊、すなわち、霊界の地獄にいる霊、そして、幽霊や地縛霊の ことでしょう。悪霊とか幽霊などと言うと、「まるでオカルト」「宗教は、そうやって怖がらせて人々を喰いものにする」などと 批判が聞こえてくるような気がします。
霊視ができるとか、霊体験があるかどうかは、魂を磨くこととは関係がありませんが、悪霊の作用で様々な問題が起きていると 知り、悪霊済度の法力ある祈り・名妙法連結経を唱えることの大切さを知ることは、非常に重要です。その一例を引用しましょう。
“お祈りしていると、家内の祖父と私の父の霊が目の前に出てくるようになりました。 祖父はいつもいい顔をしていましたが、父は屍臭ただよう死人の形相をしていました。十日以上も同じ祈りが続きましたが、最後には立派になった父が、祖父と花園で語らっている姿が見え、 「おまえのお陰で、こんなになれた。死んだ者には、名妙法連結経は 天国から美しい音楽のように聞こえてきて、ここまで這いあがることができた。ほかの祈りをなんぼうしても、我々の所には届かない。 ありがたいお祈りじゃ、しっかりやってくれ」と言いました。それまで、お祈