■一億総中流 | |
1970年代の日本の人口約1億人にかけて、日本国民の大多数が自分を中流階級だと考える「意識」を指す。日本より中流意識が高い国にはスペイン・アメリカ合衆国・カナダなどがあるが、いずれも国民の数が約1億人ではないため、「一億総中流」という語は日本の場合にのみ使用される。国民総中流ともいう。
日本の人口の推移。 1966年(昭和41年) 100,554,894人 1967年(昭和42年) 100,000,000人 1970年(昭和45年) 104,665,171人 法定人口に用いられる国勢調査によれば、1970年(昭和45年)10月1日付けで、日本の実効支配地域(46都道府県)の総人口が1億0372万0060人、本土復帰前の沖縄県を含めた日本の国土全体(47都道府県)のそれが1億0466万5171人となり、史上初めて全数調査で1億人突破が確認された。 しかし、約7000万人だった日中戦争期から戦後占領期までに「一億一心」「一億玉砕」「一億総懺悔」、同様に約9000万人だった1957年(昭和32年)に「一億総白痴化」などという標語や流行語があり、日本国民全員を指す場合に「一億国民」「一億同胞」「一億総○○」という言い回しが1億人以下の時代より使われてきた。これは、大日本帝国(内地・朝鮮・台湾・樺太)、あるいは、租借地(関東州・満鉄附属地)および委任統治領(南洋群島)を含む帝国全土に住む臣民の国勢調査人口が1935年(昭和10年)以降、約1億人であったことに由来する(参照)。内閣統計局も1937年(昭和12年)12月1日現在の推計人口として帝国人口一億人突破(内地・朝鮮・台湾・樺太:1億0079万7200人、さらに関東州・南洋群島・在外邦人を足すと1億0308万7100人)を発表し、英国(約4億9千万人)、中華民国(約4億人)、ソ連(約1億7千万人)、米国(約1億3千万人)、仏国(1億8百万人)に次ぐ世界第6位とした(いずれも植民地等を含む)。 なお、2015年(平成27年)国勢調査による日本の総人口は1億2709万4745人である。 ■2 大多数の日本人が、自分は中流階級に属すると考えていること。旧総理府などが実施した「国民生活に関する世論調査」で昭和40年代以降、自分の生活水準を「中の中」とする回答が最も多く、「上」または「下」とする回答が合計で1割未満だったことなどが根拠とされる。 [補説]日本において国民の所得・生活水準に大きな格差がないことを指していたが、平成初期(1990年代前半)バブル経済崩壊後は、格差社会の進行が認識、問題視されている。 ■3 日本の人口が 1億人を突破した高度成長期末期の 1970年代に、国民の大多数が共有した、自分が中流階級に属すという意識。「中流」とは多様な階級・階層論を内包する概念である。たとえばカルル・ハインリヒ・マルクスが生産手段の所有・非所有の観点から人々を資本家階級と労働者階級(プロレタリアート)に区分したが、ここでいう中流とはそのような実体的側面からはかられるものというよりは、広く所得水準や職業威信、消費生活水準など多様な指標から人々に準拠集団として意識されうる社会的態度の総称といえる。一億総中流の意識を示す調査結果としては、(1) 内閣府による「国民生活に関する世論調査」、(2) 日本社会学会による「社会階層と社会移動全国調査」(SSM調査)がある。(1)は、世間一般からみた自分の生活程度を、「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」「わからない」の項目から選択させるもので、1970年代には「中の上」「中の中」「中の下」を合わせた「中流に属すと意識している人」は全体の 9割を占めた。(2)は 1955年以降 10年ごとに行なわれてきたもので、所属階層に関する意識調査では、「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」から選択する項目があり、1975年調査では 75%の人が「中」に属すとの結果がみられる。さらに同年の調査では、親の地位よりも本人の学歴が地位決定に大きな影響を及ぼすことや、それまで当然視されてきた、職業的地位の高い人は学歴、所得、権力などほかの地位もすべて高いという「地位の一貫性」が日本社会にはあてはまらず「地位の非一貫性」が指摘できること、所属階層意識を醸成する指標が多様で一貫性を欠くことがだれもが中流意識をもちやすい結果につながったこと、などが指摘できる。 ■「総中流」 1948年(昭和23年)から不定期に始まり、1958年(昭和33年)を第1回として少なくとも毎年1回実施している内閣府の「国民生活に関する世論調査」の第1回調査結果によると、生活の程度に対する回答比率は、「上」0.2%、「中の上」3.4%、「中の中」37.0%、「中の下」32.0%、「下」17.0%であり、自らの生活程度を「中流」とした者、すなわち、「中の上」「中の中」「中の下」を合わせた回答比率は7割を超えた。同調査では「中流」と答えた者が1960年代半ばまでに8割を越え、所得倍増計画のもとで日本の国民総生産 (GNP) が世界第2位となった1968年(昭和43年)を経て、1970年(昭和45年)以降は約9割となった。1979年(昭和54年)の「国民生活白書」では、国民の中流意識が定着したと評価している。一方、同調査で「下」と答えた者の割合は、1960年代から2008年(平成20年)に至る全ての年の調査において1割以下となった。すなわち、中流意識は高度経済成長の中で1960年代に国民全体に広がり、1970年代までに国民意識としての「一億総中流」が完成されたと考えられる。 しかし、1人当たり県民所得のジニ係数における上位5県と下位5県の比を指標にすると、地域間格差は高度経済成長期の1960年代まで大きかった。地域間格差は1970年(昭和45年)頃を境に大きく縮小し始め、ニクソン・ショックおよびオイルショックを経て定着し、バブル景気期を除いて2003年(平成15年)まで安定して格差が小さい状態が続いた。すなわち、実体経済における「一億総中流」は、高度経済成長後の安定成長期に始まったとも見られ、国民意識とのずれが存在する。 「中流」がどの程度の生活レベルなのかの定義もないまま、自分を「中流階級」、「中産階級」だと考える根拠なき横並びな国民意識が広がった要因は、(1)大量生産と国内流通網の発展によって「三種の神器」と呼ばれたテレビジョン、洗濯機、冷蔵庫などの生活家電の価格が下がり、全国に普及したこと、(2)経済成長によって所得が増加したこと、(3)終身雇用や雇用保険(1947年〜74年は失業保険)による生活の安定、医療保険における国民皆保険体制の確立(1961年)による健康維持、生命保険の広まり、正社員雇用される給与生活者の増加など、貸し倒れリスクの低下により労働者の中長期的な信用が増大し、信用販売が可能になったこと、等等により、それまで上流階級の者しか持ち得なかった商品が多くの世帯に普及したためと、高等教育を修了する者が増加したこと、そしてテレビジョンなどの普及により情報格差が減少したことなどが考えられる。一億総中流社会では、マイホームには住宅ローン、自家用車にはオートローン、家庭電化製品には月賦などが普及し、さらに、使用目的を限らないサラリーマン金融も普及して、支払い切る前から物質的な豊かさを国民が享受できる消費社会になった。 |
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■1990年代以降の変化 | |
■バブル崩壊後
バブル崩壊後の「失われた10年」になると、グローバリゼーションの名の下にアメリカ型の新自由主義経済システムが日本でも普及した。すなわち、人事面で能力主義や成果主義が導入され、終身雇用が崩壊し、非正規雇用が普及することになり、労働者の長期的な信用は縮小して信用販売のリスクが増大した。また、急激な高齢化が進み、年金に頼る高齢者の割合が大幅に増加した。このため、一億総中流社会は崩壊してしまったとする意見もあるが、前述のように「失われた10年」においても国民意識としては統計的にまだ「一億総中流」が続いていたと見られる。 「一億総中流」という国民意識はあれ、1999年(平成11年)以降は年収299万円以下の層と1500万円以上の層が増加する一方で300〜1499万円の層は減少しており、現実には格差が拡大傾向を見せた。 当初所得のジニ係数の上昇傾向は長期に続いた。1990年度(平成2年度)調査では0.4334であったが、2005年度(平成17年度)調査では0.5263に上昇した。当初所得とは、所得税や社会保険料を支払う前の雇用者所得・事業所得などの合計である。また、公的年金などの社会保障給付は含まれない。 再分配所得のジニ係数は、1990年度調査から2005年度調査では、0.3643から0.3873へと0.023程度上昇。再配分所得とは、実際に個人の手元に入る金額であると考えてよく、当初所得から税金等を差し引き、社会保障給付を加えたもの。 年間等価可処分所得は、1994年(平成6年)が0.265、2004年(平成16年)が0.278と上昇した。比較のために、2000年時点の他国のジニ係数を掲載しておく。アメリカ0.368、イタリア0.333、カナダ0.302、フランス0.278、ベルギー0.277、ドイツ0.264、スウェーデン0.252。 ■リーマン・ショック後 2008年にはリーマン・ショックが起こり、世界的不況に見舞われ、日本でも多くの非正規労働者が派遣切りにあった。しかし、内閣府が実施する「国民生活に関する世論調査」では、その資産や収入、教育程度や居住地域は問わず、2008年以降も大多数の国民が自らの生活程度について「中の上」、「中の中」、「中の下」のいずれかであると回答しており、その割合もリーマン・ショック以前とほとんど変わらなかった。 また、2013年6月に実施された同調査でも、9割以上の国民が自らの生活程度を「中」であると感じると答えており、リーマン・ショックから数年経った現在でも、国民意識としての「一億総中流」は続いているといえる。 ■中流意識 日本人の9割が、自分は中流の生活をしていると考えているという、マーケティング戦略の発想の原点をなしている社会状況の視点である。その根拠は、毎年行なわれている総理府の世論調査で、昭和45年以来、9割程度の人が、自分の生活程度を「中」と答えているというのが、数字的裏づけとなっている。 ・・・職工間身分格差の撤廃、実質賃金と生活水準の上昇、教育水準の高度化、仕事内容の知識集約化などがその促進要因とされる。日本の場合、ブルーカラー労働者の社会階層帰属意識は、高度成長期を通じて〈中流意識〉の比重を高めてきた。ブルーカラー労働者に伝統的な〈階級意識〉――その内容は、社会構造についての二項対立的イメージ、〈奴らと俺たち〉意識、従前のライフスタイルの維持、集団的連帯と集合主義的な問題解決行動、労働者政党への半ば無条件の支持感情などによって特徴づけられる――は、それと並行して希薄なものとなってきた。・・・ |
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■中流階級 | |
社会学などでは上流階級と労働者階級の間の幅広い社会階層を含む階級として定義されるものである。
生活のために労働する必要があるという点で上流階級と異なるが、労働者階級とも異なり、単純労働や肉体労働だけでなく、高等教育や専門教育を受けた結果もたらされる頭脳労働も売ることができる。第三次産業従事者から教員、中小産業資本家まで幅広い人々が含まれ、先進工業国では人口の殆どがこの階級に含まれるとされる。 構成の多様さから複数形で「中流諸階級 (middle classes)」と呼ばれる事もある。一般的には中産階級(ブルジョワジー)の意で使われることが多い。厳密にはマルクスが生産手段という観点から中産階級を規定したのに対し、「中流階級」には教員、個人投資家、自由業者、管理職、法律家など生産手段や階級闘争に関連しない職業が含まれる点で異なる。 ■経済との関係 アメリカのバラク・オバマ大統領(当時)は、中間層が経済成長の恩恵を受けるために政府が大きな役割を果たさねばならないとする。第2期オバマ政権ではインフラストラクチャーや製造業への投資増や就労スキル向上のための教育投資により中間層の雇用改善を目指すことが計画されている。 |
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■中流階級 2 ミドルクラス middle class の訳語であり、学術的正確さに欠けるうらみはあるが、中間階級、中間層といった用語と互換的に使われることがある。 古くは18世紀フランスにおいて支配階級であった貴族、僧侶に対する〈第三身分〉として、新興の都市商工業者を指すのに用いられた。これら商工自営業主層および自営農民は今日旧中産階級と呼ばれる。被雇用者であるホワイトカラー労働者を指して新中産(中間)階級と呼ぶ用語法が生まれたためである。この新中産階級(正確には新中間身分 neue Mittelstand)という呼称は、1926年に E.レーデラーと J. マルシャクが用いて以来、一般化した。 ところで古典的マルクス主義の社会階級論に従えば、旧中産階級は資本家階級か労働者階級かのいずれかに二極分解するものとみなされていた。この点に最初に実証的な反論を加えたのがE. ベルンシュタインである。それは K. カウツキーとの間でたたかわされた〈修正主義〉論争のひとつのテーマとなった。現在もこれら小零細自営業をめぐって成長、存続、衰退という三つの見方が競合しているが、歴史的事実として衰退仮説は今日までのところ妥当しない。1970年代末葉になって、西側先進資本主義国はこぞってスモール・ビジネスの重要さを強調し、その育成政策を重視しはじめた。 他方、新中産(中間)階級と呼ばれてきたホワイトカラー労働者は、とりわけ第2次大戦後になってめだって増加した。日本でも1970年代後半に入って、その数がブルーカラー労働者を上回った。とくに中間管理職、研究開発技術者の増加が著しい。しかし営業・販売部門を中心とする大卒者の〈現場〉配置、ME 革命と呼ばれる技術革新の進展(オフィスの工場化)は、これらホワイトカラー労働者の地位と仕事内容を従前に比して相対的に低下させつつあるという見方が提出されている。それは、ホワイトカラーの〈相対的価値剥奪relative deprivation〉と呼ばれる。この動きと関連して見落とせない現象に、ブルーカラー労働者のブルジョア化(ミドルクラス化)がある。それは、第2次大戦後の資本主義社会の未曾有の繁栄によってもたらされた。職工間身分格差の撤廃、実質賃金と生活水準の上昇、教育水準の高度化、仕事内容の知識集約化などがその促進要因とされる。日本の場合、ブルーカラー労働者の社会階層帰属意識は、高度成長期を通じて〈中流意識〉の比重を高めてきた。ブルーカラー労働者に伝統的な〈階級意識〉――その内容は、社会構造についての二項対立的イメージ、〈奴らと俺たち〉意識、従前のライフスタイルの維持、集団的連帯と集合主義的な問題解決行動、労働者政党への半ば無条件の支持感情などによって特徴づけられる――は、それと並行して希薄なものとなってきた。むしろ彼らは、中産階級に特徴的とされる社会意識の性格――その内容は、社会構造を連続的ヒエラルヒーとしてとらえる見方、自助努力によるそのヒエラルヒーの上昇、生活水準やライフスタイルの漸進的改善、個人主義的な問題解決行動などによって特色づけられる――を、すでに部分的に内面化しているとみることができる。 ■中流意識 自分の所属する階級を中流だと考えること。日本では「人並み」「世間並み」意識をさすことが多い。高度成長期の生活水準の高まりを背景に、1970年以降総務庁の調査で9割以上の国民が自分の生活を中程度だと回答している。 ■国民半数が中流〔1967年〕 『国民経済白書』昭和41年度は、国民の半数が自分を中流と意識していると発表した。総理府の『国民生活に関する世論調査統計』によると、1958(昭和33)年の時点ですでに72.4%に達する国民が中流意識をもっていたとあるが、これとは別の社会学者による『社会階層と社会移動全国調査』では、中流意識をもつ国民の割合は、1955(昭和30)年41.9%、1965(昭和40)年54.8%となっている。つまり、一口に国民の中流意識などといっても、調査方法や質問に対する選択肢の相違等によって結構大ざっぱなものだということがわかる。それにしても、戦後の日本社会では、プロレタリアとブルジョア、資本家と労働者というような対立社会構造思考ではなく、マイルドな「中流意識」でそれなりに半数以上の国民が満足してくれれば、少なくとも支配階級にとって、これほど御しやすい羊の群れはないだろう。おそらく、人びとは、物量で打ちのめされた敗戦のドン底から、ようやく多少の電化製品を入手した「中」の物質的「生活水準」を「中流の生活様式」と錯覚し一億総幻想のオメデタい夢を見続けようと錯覚したのかも。平成の『失われた10年』で総中流の夢消えた日本人はいずこへ? |
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■新中間層 | |
賃金労働者のうち、現業に従事せず、事務・サービス・販売関係業務に従事する者を指す。サラリーマン、ホワイトカラー等とも呼ぶ。
19世紀半ばから後半にかけてのカール・マルクスの予言では、資本主義が発達すればするほど貧富の差が拡大し、階級分化が進むと考えられた。 しかし、19世紀末のドイツ社会民主党の論客エドゥアルト・ベルンシュタインは修正主義理論を発表し、資本主義が発達すればするほど、中産階級が台頭するものと予言した。 地球上で社会主義政権が誕生した地域は、例外なく植民地・従属国であり、先進国革命が実現した例がないことを考えると、ベルンシュタインの予言が正しかったとも言える。植民地・従属国革命は、小作人と大地主・外国資本の対決だった。マルクスは、資本主義の自浄能力に気付いていなかった。 日本における新中間層は、大正時代に成立した。1930年代には、かなりの厚みを増していたが、第二次世界大戦で壊滅し、新中間層の確立は高度経済成長期の1960年代を待たなければならなかった。 なお、社会学の立場では、新中間層に対応する階層は自作農や商店主などの旧中間層である。2000年代初頭の日本の政治状況では、都市部の新中間層が民主党を支持し、農村部の旧中間層が自由民主党を支持しているとも考えられていた。しかし、旧中間層が僅かとは言え生産手段を私有しているのに対し、新中間層は生産手段を私有している資本に雇用されている点に注目しなければならない。 だが、2005年頃から逆1区現象に象徴されるように新自由主義や新保守主義を掲げた自民党を都市部の新中間層が支持し、昔の自民党の体質と旧社会党のコングロマリットと化した民主党を農村部の旧中間層が支持するようになってきた。 その後、2008年に、アメリカ発の金融危機によって自民党の新自由主義経済政策に対する批判が強まると、新中間層・旧中間層共に民主党への支持が高まった。2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙の結果を見ると、自民党の主な支持層は、自民党政権の前身である明治政府を興した薩長土肥藩のあった中国・四国・九州地域に集中しており、日本における政党支持層は社会階層よりも政党と地域の歴史的つながりによって分けられていることが明らかになった。 |
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■エリア変動が生み出す「新中流層」 2007/4 | |
中流社会が崩壊し、階層化、格差化が喧伝されている。「下流」「富裕層」といった議論である。格差の拡大は今後も進むのであろうか。確かに1990年代以降、年功序列、終身雇用といった日本的経営が崩壊し、実力主義賃金体系の導入などによって格差化がすすんだ。しかし、現在は格差拡大に歯止めをかける兆しが出ている。非正規社員の正社員化、長期雇用への回帰、ベースアップ、人づくりへの投資など雇用市場の変化である。これまでよりも格差が縮小し「新中流層」とでも呼べる新たなリーダー層が生まれようとしている。
中流社会が崩壊し、これからどんな社会になっていくのだろうか?長期的な変化の方向を探ってみる。 一億総中流と言われた「だんご型」の中流社会は1980年代以降、価値観の多様化によって「八ヶ岳型」の多様な格差社会を生み出した。さらに1990年代後半以降は日本的経営が崩壊し、収入資産格差が拡大して、「下流」、「富裕層」が注目されるようになった。 これからの社会は、雇用市場の変化を引き金に格差は縮小し、ある程度の上流、下流を残しながらも「おむすび型」ともいえる構造に変化していくとみることができる。そのなかで注目すべきは、中流崩壊のなかで勝ち残り、現在の消費をリードしている「新中流層(中の上)」である。 世間で注目されている「富裕層」は、一般的な定義である金融資産約1億円以上とすると約138万人(メリルリンチ調べ)、人口の1%に過ぎず、マーケティングのターゲットには到底なり えない。「新中流層」の人口は約17%を占め、ターゲットマーケティングを効果的に展開できる規模を有している。我々の調査でも2005年以降、収入ベースでみた下流層拡大に歯止めがかかり、「新中流層」が拡大しつつあることが確認できている。 ■「新中流層」の誕生 この「新中流層」が、エリア変動によって移動している。地域経済格差が人口30万人以上の都市への人口移動を生み、「新中流層」が増加している。そのライフスタイルは、これまでの郊外、ファミリー、核家族といったものとは異なる。「新中流層」には都市型と地方型のふたつのタイプがあり、都市型を先行指標にして、エリアごとに異なるマーケティングアプローチを推進することがポイントとなる。 |
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■伸びる地域と沈む地域
47都道府県や都市などの様々な地域区分でみた収入などの経済格差は拡大している。地域経済の担い手である企業や産業がグローバル競争にさらされ、需要のベースとなる人口が変動しているからである。強い企業や産業がある地域はますます発展し、他地域からの流入によって人口も増え、より豊かになる。逆に、弱い企業や産業の地域はさらに衰退し、人口も自然減少と流出によって減少し、ますます貧しくなる。このエリア格差の拡大は企業にとっては大きなチャンスであり、また、脅威でもある。これをチャンスに変えるには、エリアごとに対応することが必要である。 エリア格差を見極めるポイントは、基本的には地域の企業や産業のグローバル競争力であるが、単純には人口規模である。 現在の日本の人口は約1億2,770万人であり、およそ751の行政区分上の都市に約85%が暮らしている。人口は2030年までに約1,000万人が減少すると推計されている。この人口減少がもっともインパクトを与えるのは全都市数の約90%を占める30万人未満の680都市である。30万人という規模は、医療や教育などの公共サービス、水道や光熱などのインフラ等の最適規模である。従って、人口30万人に満たない都市は、人口の自然減少によって財政破綻などに陥り、公共サービスの提供水準を下げるか、サービス価格を上げるか、税負担を重くしたりするしかない。その結果、地域の厚生水準は低下し、他地域への流出を促進することになる。人口30万人未満の都市は常に人口減少が人口減少を呼ぶ悪循環の危機にさらされている。つまり、人口減少時代に生き残れる必要条件は人口30万以上であり、その数はわずか71都市である。 |
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■格差が生む新しい富裕層と移動
伸びる地域と沈む地域の動向は、様々な統計で知ることができるが、もっとも単純な指標は「富裕層」の分布である。伸びる地域では「富裕層」が誕生し、他地域の「富裕層」が流入してくる。さらに、これらの地域で最初にビジネスチャンスを生むのは、流行や情報に敏感な「富裕層」の人口増減や動向である。 納税額1,000万円以上の推定年収3,500万円以上の「富裕層」の分布を47都道府県で見れば、東京、神奈川、大阪、愛知、埼玉の順である(図表1)。愛知が大阪と肩を並べているのは強い自動車産業などを背景にしているからである。この5都県で約60%を占める。 図表1.都道府県別高額納税者数と預貯金額 東京では、田園調布、成城や世田谷などが「富裕層」の居住地域イメージとしては高かった。しかし、現実に、町丁レベルで見ると、高額納税者がもっとも多いのは、2003年に街開きした「六本木ヒルズ」のある「六本木6丁目」と2002年に完成した「元麻布ヒルズ」のある「元麻布2丁目」の2エリアである。この小さな地域におよそ281人の「富裕層」が居住している。田園調布の倍の人口密度である。しかも、東京の郊外や地方からこのエリアに「富裕層」が集中するようになったのは、街開きや開業年でわかるようにここ数年の出来事である。 同様の変化は全国でも起こっている。地域の経済格差が特定地域への人口移動を生み、「富裕層」が増え、地域経済が活性化される。全国的に見れば、地方から東京への人口移動が起こり、東京内での地域格差が生まれ、地方では人口30万人以上への都市への集中が起こり、地方郊外が衰退していく。こうした変化や移動の先駆けとなっているのが「富裕層」である。 しかし、こうした「富裕層」は人口の1%に過ぎず、マーケティングのターゲットにはなりえない。本当に狙うべきターゲットは、中流の崩壊のなかで勝ち残り、高収入で消費意欲の高い「新中流層」と呼べる消費リーダーである。エリア格差をビジネスチャンスに結びつける鍵はこの層を捉えることにある。 |
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■「新中流層」へのアプローチ
「新中流層」へのアプローチを検討するために、「新中流層」を統計的に把握可能な世帯年収1,000万以上の年収上位17%の層として捉え直してみる。また、この層を、人口30万人を基準にして都市型と地方型に分けてみる。伸びる地域と沈む地域の新中流層のアプローチ上の共通性と違いを明確にするためである(図表2)。 図表2.ふたつの「新中流層」へのアプローチポイント 共通点は、商品サービスの情報ソースが多く、実物接触に重点を置き、マイナス情報も組み込んでいることである。特に、一般層と比較すると、テレビや新聞などのマスメディアの比率が低く、店頭などの実物接触が多く、インターネットを含めて多様な情報ソースを活用している。さらに、説得情報に関しては、売り手の一方的なプラス面だけでなくマイナス面を含む両面情報が重視される。 違いはふたつある。ひとつめは、都市型は、商品サービスそのものの価格だけでなく、入手に必要な手間や時間などの機会コストが強く意識されていることである。年収1,000万円の層は時給が約6,000円になる。希望小売価格1万円程度の欲しい商品サービスの入手に1時間を要するならば、実質の価格は1万6,000円になる。都市型は常にこのコスト意識がつきまとっている。他方で、地方型は、機会コスト意識は低く、実際の購入価格が重視される。このような機会コスト意識の違いは、株などのリスク資産の運用意識の違いを反映している。都市型が、より高いリスク資産の比率が高く、リスクをとることによって短期に収益を上げる時間志向であるのに対し、地方型は、低リスクの預貯金などの資産が多く、リスク回避によって長期に資産を守る安定志向が強いからだ。 ふたつめは、都市型は、新しい機能やスペックを重視し、ブランド志向が高く、百貨店や専門店の利用が多く、宅配ケータリングなどのサービス比重の高いチャネル利用が多い。地方型は、ブランドやヒット商品などの流行に弱く、追随意識が強くみられ、購入は総合スーパーやホームセンターが中心チャネルとなっている。つまり、都市型が新製品やブランドのイノベーターであり、地方型がフォロワーである。 エリア格差をチャンスに変えるには、伸びる地域に密着し、その地域の顕在的及び潜在的な新中流層をターゲットに、ふたつのタイプに分けて、都市型を先行指標にして異なるアプローチをすることが必要である。さらに、コスト意識やリスク意識に応じた説得の方法を開発し、実物接触に重点を置いたメディアミックス、最適なチャネルミックス、そして、これらの統合が、新中流層を攻略するポイントである。 |
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■「一億総中流」が消失した日本 2011/12 | |
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格差の急拡大は社会保障基盤崩壊の元凶
) 所得格差の急激な拡大はすでに世界規模の大問題になっており、かつて「一億層中流」と言われていた日本は比較的平等な社会から格差社会へと大きく様変わりし、また、長年も続いた高度経済成長の中国もあらゆる分野で格差の拡大が顕著に進んでいる。 そうしたなか、所得税制度および社会保障制度の整備と改善により格差の拡大に歯止めをかけることは先進国のみならず発展途上国でも大いに求められている。 所得税制度はさておき、社会保障制度の機能として一般に認識されるのが、所得再分配の機能が備わっている社会保障制度は健全で包括的なものであればあるほど、より大きな所得格差の縮小効果をもたらすということである。言い換えれば、所得格差の拡大にブレーキをかけようとすれば、社会保障制度の整備と健全化を図らなければならないのである。ところが、所得格差の拡大は実は一方で社会保障制度の整備と健全化を大きく妨げるような側面がある。この点は意外と見落とされやすいもので、研究者や政府関係者の間でもほとんど注目されていない。 このシリーズでは、日本と中国を例として、それぞれの格差拡大の実態を明らかにしたうえ、社会保障制度の整備と所得格差の拡大との相関関係を分析することとする。 近年、市場経済システムの広範な浸透、アメリカをはじめ西側諸国に見られる新自由主義の台頭、発展途上国も巻き込まれたグローバリゼーションなどの影響で、所得格差や貧富の差の拡大はすでに世界規模の問題になっており、その深刻さを増すばかりである。 日本の経済情勢もグローバリゼーションの進展とともに急激な変貌を遂げてきており、かつて「一億総中流」と言われていた比較的平等な社会もいつの間にか「格差社会」へと大きく様変わりした。 1992年からのバブル経済の崩壊、1997年のアジア通貨危機(金融危機)に端を発した長引くデフレと景気低迷により、ここ十数年間、日本経済は激動の時代を経験してきた。「失われた10年」、最近は「失われた20年」とも呼ばれる。 一方、同時に世界情勢は大きく変わり、ヒトだけでなく、モノもカネも国境を越えて自由に動けるようなグローバル経済が形成されていったのである。特に中国やインドなどの新興国が自由貿易市場へ参入したことにより、安い人件費で製造された製品を調達することが可能になった。その結果、国際競争は新しい段階を迎え、ますます激しくなっていった。 このような状況の中で、長い間世界市場に君臨していた日本の製造業でも、デザインや性能といった付加価値では競争できない、つまり低価格競争しかできない分野は、国際市場での競争力を急速に失っていった。こうして日本の企業はやむなく工場を海外移転することによってコストダウンで生き残りを図る。そしてその結果、日本国内では産業空洞化が生じ、多くの若者が働く場を失い、またはフリーターなど非正規労働者にならざるをえなくなる。 ところが、製造業と対照的に、日本のサービス産業はここ十数年でむしろ大きく成長した。サービス業は「商品」ではなく「サービス」を売るため、消費者の希望に応じて柔軟に対応しなければならず、必然的にそこで働く人の労働は細切れになる。そのため企業はより柔軟な働き方を求めるようになっていった。こうした産業界の要望が政府の規制緩和策を促す格好となり、その結果、派遣労働の急増をもたらし、現在大きな社会問題になっている「ワーキング・プア」を大量に生み出すことになる。 さらに、1990年代から始まったIT産業の拡大や情報技術の浸透も、学歴が十分でない人たちには不利に働いた。というのは、アイデア、知識、情報技術といった点での能力の差が、これまで以上に就職時に影響を与えるようになったからである。結果、これらの能力で優位に立つ高学歴者の賃金は上昇したが、未熟練労働者の賃金はいっそう引き下げられることになった(駒村康平著『大貧困社会』角川SSコミュニケーションズ2009年、14−16頁)。 非正規労働者とは、雇用期間を定めた短期契約の雇用形態で、パートタイム、アルバイト、契約社員、派遣といった働き方である。 日本では正規労働者の数は徐々に減少し、反対に非正規、派遣の数が増えていった。具体的には、1997年から2006年の間に正規労働者数は472万人減少、逆にアルバイト・パートは176万人、派遣・嘱託その他は335万人増加した。結果、2006年時点で、雇用者5393万人のうち33.6%がパート、10.8%が派遣等となった。 また、非正規労働者数は1984年には604万人、雇用者数に占める割合が14.4%であったのが、2007年には1732万人、31.1%にまで上昇した。つまり、雇用者の3人に1人が非正規労働者となっているということである。なかでも女性労働者の非正規化は著しく、女性雇用者に占める非正規労働者の割合は、1984年の27.9%から2007年には51.3%にまで上昇している。 『平成22年版厚生労働白書』によれば、パートタイム労働者は増加し、2009年には1431万人と雇用者総数の約26.9%にも達し、従来のような補助的な業務ではなく、役職に就くなど職場において基幹的役割を果たす者も増加している。有期契約労働者は、1985年の447万人から2009年には751万人(雇用者総数の13.8%)に増加している。 非正規労働者の雇用条件は劣悪なもので、社会保険や労働法の保護を受けない労働者や、低賃金で働くワーキング・プアの増加という問題に広がっていった。 このように、一部の発展途上国が持続的な高度経済成長を謳歌する時代に、日本において労働者の置かれる環境はむしろどんどん悪化し続け、正規労働と非正規労働、高所得層と低所得層の格差は急速に拡大の一途を辿るようになった。 近年、日本では『不平等社会日本―さよなら総中流』(佐藤俊樹著、中公新書2000年)、『希望格差社会』(山田昌弘著、筑摩書房2004年)、『下流社会―新たな階層集団の出現』(三浦展著、光文社新書2005年)、『ワーキング・プア― いくら働いても報われない時代が来る』(門倉貴史著、宝島社2006年)といった書物やテレビ番組が話題となり、「格差」や階層化が問題として前景化させられていく。 日本の生活水準は第二次世界大戦後の高度経済成長を経て、大幅に向上し貧困は格段に減少した。実際、「一億総中流」とさえ広く言われるようになった。しかし21世紀も最初の10年が過ぎた今日、状況は再び大きく変化し、格差社会の進行という新しい局面を迎えつつある。 朝日新聞社が2005年12月から2006年1月にかけて実施した全国世論調査では、国民の格差をめぐる意識が浮かび上がった。 「所得の格差が広がってきていると思うか」との問いに「広がってきている」と答えた人は74%、「そうは思わない」が18%であった。格差が拡大しているとみる74%の人に「広がっていることをどう思うか」と聞いたところ、69%が「問題がある」と答えた。この結果、全体の51%の人が「所得格差が広がってきており、問題がある」と認識していることが明らかになった。また、世帯収入に満足していない人ほど格差拡大を強く感じている。 厚生労働省の調査では、この10年で1世帯当たりの平均年収は80万円減って580万円になったそうだ。仮に580万円が最多層とすれば、その半分は290万円。「年収300万円」に近いから、食うや食わずの貧民が溢れているという状況ではない。 それにもかかわらず、格差拡大が深刻なテーマとして取り上げられるのは、「一億総中流」を自他ともに認めてきた日本の、格差の小さかった良き社会が崩れてきたことに対する強い危機感が生じたためである(橘木俊詔著『格差社会 何が問題なのか』岩波新書2006年、8頁)。 発展途上国の格差拡大はともかくとして、先進国はアメリカなど一部の国を除いてもともと格差が比較的小さい。日本もかつて平等度の高い国であった。しかし、いまはなぜ先進国でも格差の拡大が進むのか、やはり急速なグローバリゼーションの進展がもたらした結果だと見るべきであろう。 もともと世界経済のグローバリゼーションは、経済成長とともに各国の国内総生産(GDP)を増加させ、国民生活全体を豊かにし、貧困を減らしていくと期待されてきた。しかし現実には必ずしもそういった期待が実ったものばかりではない。逆に、世界のいたるところで、所得と貧富の格差、富の偏在が拡大し、不平等化が進んでいる。 グローバリゼーションはなぜ人々の期待通りにならないのか。それは国々や人々が全地球的規模でより開かれた市場に参入し、そこでの競争に参加することを意味する。そして競争に勝った者は成功者として富を手に入れる。意欲と能力があるだけでなく、チャンスをつかむ能力、広範囲の情報を瞬時に得て利用・活用する力、新しいものを生み出す力などを持つ人やグループは、まさに、成功に導かれより大きな所得を得ることになる。一方で、富の源泉にアクセスできない人々、情報へのアクセスも少なく、社会的仕組みの中で力を十分に発揮できない状況におかれている人々は無情に淘汰されてしまう(西澤信善・北原淳編著『東アジア経済の変容―通貨危機後10年の回顧』晃洋書房2009年、91−92頁)。 所得格差の形態は多種多様であり、それゆえそれぞれをもたらす原因も決して一律ではない。近年の格差拡大の背景には具体的にどのような要因があるのだろうか。それをめぐってはいろいろな指摘があり、議論の分かれるところである。これまでの主な説は渡辺雅男編『中国の格差、日本の格差』(彩流社2009年、37−39頁)によれば、以下の四つであろう。 (1)「脱工業化・ポストフォーディズム」説 フォーディズム(Fordism)とは、大量生産、大量消費を可能にした生産システムのモデルである。現代の資本主義の象徴の一つである。イタリアの思想家アントニオ・グラムシの命名による。また、フォード社の経営理念を指すこともある。一方、ポストフォーディズムは、工場や事務所などで雇用されている賃労働者だけでなく、社会全体を剰余価値生産に総動員させる体制のことである。 本田由紀氏によれば、工業化が進む段階においては、産業の中核を占めていた製造業の比率が低下し、代わってサービス業や金融などの比率が向上していく。それに伴い、労働者に求められる条件も大きく変化する。標準化・規格化された労働に対する適応力が重視されたフォーディズムに対し、ポストフォーディズムの下では、需要の変化に小刻みに対応するため雇用期間の短期化、雇用形態の柔軟化・不安定化が進み、労働組合によって組織化された熟練労働者の数が減少していく。またIT化の進展は業務処理の定型化・大量化を可能にし、事務職などホワイトカラーの減少も引き起こす。その結果、製造業だけでなく、サービス業などの部門も待遇面で専門職とサービス職へと二分化され、格差がますます強まっていく (『多元化する「能力」と日本社会―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』NTT出版2005年)。 (2)「グローバリゼーション」説 前述したよう、グローバリゼーションは1980年代以降、世界市場の統合が一段と進むにつれてますます広範囲に及んだ。厳しい国際競争を強いられた企業は、販路の拡大と生産コストの削減を目指し、厳しい人員削減と雇用のフレキシブル化を進めていく。とりわけ1990年代以降、中国をはじめ多くの発展途上国が世界市場に本格的に組み込まれていった結果、安価な労働力が世界規模で大量に供給されることになり、先進国では賃金抑制に向かう圧力が強まっていった。 (3)「新自由主義」説 国際競争が激化していくなか、企業ばかりでなく政府や地域社会、個人も変化への対応を迫られるようになる。自由な競争の機会を用意することを目指して政府による各種規制が緩和・撤廃されていった結果、労働者の保護、環境の保全、国内産業の保護などを目的とする政策が大きく後退させられる。また、公共政策に市場原理が導入されていくなか、福祉、住宅、医療などの領域から政府が撤退していく傾向が強まる。 (4)「人口構成の変動」説 大竹文雄氏によれば、少子高齢化の急速な進行によって、人口構成全体に占める高齢者の割合が高くなる。高齢者においてはもともと収入格差が大きいため、この層の相対的な増大は人口全体における格差を構造的に拡大していく効果をもつ(『日本の不平等―格差社会の幻想と未来』日本経済新聞社2005年)。 |
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■「一億総活躍社会」安倍政権に破壊のエネルギーはあるか | |
一億総活躍という言葉を最初に耳にしたときの感想は、正直、時代遅れだがまあ日本というのはそういう国なのだろうというあきらめでした。印象論の域をでませんが、大衆デモクラシーの時代の政権の看板政策ですから、イメージも大事です。そして、なぜそういう印象を持ったかというと、昭和の「一億総中流」を彷彿とさせる、古き良き時代への復古がモチーフだからなのです。かつての一億総中流社会に、子育て中の女性や、介護をしている人も参加してもらって、経済成長を実現しようという発想なのだろうと思うのですが、根本的な時代認識が違っています。
昭和の一億総中流社会を支えた牧歌的な経済条件はすでに過去のものです。グローバル経済の下では市場を取り合うだけでなく、資本も、情報も、人材も競争の対象となります。当然、格差が広がる素地があります。日本のような先進国が最も対応に苦しんでいるのは、労働者間の格差です。経済がグローバル経済に組み込まれるにしたがって、日本の労働者は中国やベトナムの労働者との競争に晒されます。かつて存在した国家間の格差が、国内の格差へととって代わったのです。 製造業から始まったグローバル化は、ネット化などの技術革新を媒介としてサービス業へも波及し、ブルーカラーもホワイトカラーもこの構造に直面しています。グローバル経済とのかかわりの中で国富を得て、消費者としても大きな便益を得ている我々には、そこに背を向ける選択肢はありません。 グローバルな競争の下にある企業は労働者への総体としての分配は増やせませんから、結果としてできることは、労働者内の分配を変えることなのです。この再分配は、金持ちから搾り取ろうというレベルの問題ではありません。再分配は、正社員から非正規社員へ、中高年男性から若者と女性へと行われなければならないのです。政権も、自民党も、野党も、この事実と向き合っていません。 一億総活躍社会を本当に築くためにやるべきことは、残された日本的労働環境の残滓を取り払うことなのです。そこでは、同一労働同一賃金の価値観に裏打ちされた制度設計の根本的な改変が必要であり、金銭解雇を認め、労働市場を流動化させる必要があります。一億総活躍社会を築くことは、本来は、破壊をモチーフとするものでなければいけないのです。 問われるべきは、現政権に破壊のエネルギーはあるかということであり、そこが小泉政権時代との最大の違いです。小泉構造改革への評価については諸説あるでしょうが、国民は小泉改革がその本質において破壊であることを理解していました。 一億総活躍社会と、それを支える新三本の矢に対して期待が高まらないのは、元々の三本の矢がどうなったのか総括がない中で、屋上屋を架す形で出てきたからでもあるでしょう。 アベノミクスによって日本経済の雰囲気が変わったことは事実です。国際社会の日本を見る目も、長年の不決断に対してあきれを通り越して無関心というところから、何だか日本経済が熱いらしいというところまで戻しました。新興国経済の冷え込みによって日本のような安定した市場が再評価される気運もあります。 しかし、デフレ脱却が道半ばである中、景気が息切れしてきてしまいました。石油価格の下落など誰にも見通せなかった要素もあるのだから、政策を微修正しながら継続していく他ないでしょう。問題は、第三の矢と言われていた成長戦略が遅々として進んでいないことです。規制改革は政権の一丁目一番地と言っていたのに、どうしてしまったのでしょうか。過去30年間の議論を通じて、農業や医療や労働の分野においてやらなければならない規制改革テーマは出そろっています。 農業でいけば、農業への株式会社の農地取得を自由化して、新しい資本や技術や担い手を市場に参入させることです。農業政策は、GHQの農地改革以来の自作農家族経営主義から転換しなければなりません。農業の主流は、資本と技術と組織に基づく会社が担っていくことになります。 医療でいけば、公的保険の適用範囲を最適化して、混合診療を大幅に認めることです。そうすることで初めて、医療財政を破たんさせずに国民皆保険を守り、同時に新しい医療市場を作っていけるのです。医療政策は、すべての国民が受ける医療の結果の平等を目指すのではなく、国民としてのナショナル・ミニマムを守ることに眼目が移ります。 人口が減少局面入った超高齢化社会の日本はすでに借金漬けです。我々は撤退戦を戦っているのです。撤退戦を戦う中で、国民にとって最も大切な本丸を守るために改革が必要なのです。農業政策であれば一定の食料自給率と国土の保全が本丸であり、医療政策であれば、国民皆保険を守ることでしょう。 日本が迫られている選択肢は甘いものではありません。それを実現する政権には強い意志が必要です。現在の日本政治は、官邸一強と言われています。一億総活躍社会をぶち上げた官邸の狙いが、自民党や霞が関の抵抗勢力を押さえつけ、改革を一気に進めることであってほしいと思います。どうでしょう、希望は失っていませんが、期待が急速に萎んでいく今日この頃です。 |
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■高度経済成長をなさせしめしもの 2004/5 | |
『コミュニティが崩壊しても日本社会が混乱しなかったのは、カイシャが疑似共同体として機能してきたからだった。そして、高度成長を支えてきた日本のカイシャ社会は、大東亜戦争を推進するため、ナチスとソ連社会主義体制をモデルに作られたものだった。冷戦構造の中、アメリカは戦後も日本が戦争推進型のカイシャ社会を温存することを望んでいた。だが、ソ連崩壊はこの戦後構造を一変させる。情報とバイオ産業社会ではなく、ダムに象徴される公共事業へと日本がひた走っていった背景にはアメリカの思惑があった。 | |
■合理的だった日本型雇用システム
終身雇用、年功序列処遇、企業別労働組合の三種の神器。要するに、いったん組織に所属すればよほどのことがない限り、解雇されない。業績は直接処遇に反映させず、年齢とともに右肩あがりで賃金があがっていく。そうした市場原理を無視した家族主義的な雇用形態が日本の特徴だと言われてきた。 だが、終身雇用や年功賃金は、日本だけに見られる制度ではない。国際的に比較した場合、日本の勤続年数はヨーロッパ諸国とほとんど同じだ。そこで、最近は、日本的雇用形態は、情緒的なものではなく、経済的にも合理的だという主張がされるようになった。 スタンフォード大学のエドワード・ラジアー教授は、若い間には安い賃金で我慢するかわりに組織に貯金をし、中年になってから若い時代の貯金を取り崩していくシステムが年功賃金であると解釈した。それは、労働者の勤労意欲を引き出すうえではきわめて有効なシステムである。従業員からすれば、若い間は組織に貯金をしているが、それは長期間働き続けた場合にのみ引き出せる。途中で勤務を怠けて解雇されれば、もともこもなくなるし、企業の業績が悪化すれば支払われなくなる。そこで、貯金を守るために必死で働くことになるからである(5)。 |
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■モラルハザードを発生させない内部競争システム
年功序列や終身雇用で、ある程度の処遇が保証されるとすれば、クビにならない程度にほどほどに働くのがいちばん合理的といえるだろう。組織にただぶら下がろうとする職員が増えるというモラルハザード現象が発生してもおかしくない。 だが、サラリーマン社会で現実に起こっている現象は、まったく逆で過労死が頻発している。なぜ、家族との暮らしを犠牲にしてまで組織に滅私奉公しようとしてしまうのだろうか。 そこには、サラリーマン社会に激しい競争を持ち込むことに成功した日本の組織特有の巧妙な仕掛けが存在した。その仕掛けとは、「小さな格差」を最後まで設けることである。 アメリカでは出世コースをひた走るエリート社員と、出世コースからは外れた一般従業員とが、入社時点か、入社数年後の時点で明確に区別されてしまう。だから、一般従業員はエリートになろうとはせずに普通に働く。 だが、日本の場合は、小さな格差が有効に機能するように、遅い選抜が行われてきた。建前上は誰しもが社長になれる可能性を持っており、明確な白黒評価がなされないままの勤務が、中高年まで続いていく。年収による格差は拡大していくが、40歳になっても、年収格差は上と14%、下と11%の合計25%でしかない。 高い評価を与えれば、評価を受けた労働者のインセンティブは高まる。だが、低い評価を受けた労働者はやる気を失う。組織全員のインセンティブを高めておくには、いつでも「逆転できる」と思わせる小さな格差を設けたほうがいい。 競争激化のための第二の仕掛けは、身近なライバルの設定である。日本組織ではこのライバルに同期を設定する。海外では新規採用従業員の一括採用や一斉配置はほとんどなされない。中途採用も多いし、たいていは通年採用である。日本企業が、一括採用にこだわるのは、競争集団をそこに作るためである。年齢も学歴も近い集団は、小さな格差の競争を続けていく。 最も、格差が小さいといっても、全体から見れば、日本のサラリーマンは平等ではない。98年の労働省の賃金構造基本統計調査によると、40歳の大卒の所得は、上から10%は69万円だが、中位は49万円で、賃金格差は上に40%、下に28%と合計68%もの開きがある。つまり、どの会社に入るかによって、これだけの大きな賃金格差が生まれる。だが、企業内の組織では差がない。この組織内の平等主義こそが日本の年功序列システムの最大の特徴だった(5)。 |
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■高度成長を支えた戦時体制システム
高度成長を支えた日本的経営システムは、日中戦争・太平洋戦争を遂行するため、資源を総力戦に総動員することを目指して企画院によって作られた統制システムを原型にしている。 「戦略的補完性理論」の提唱者、奥野正寛教授と岡崎哲二教授は『現在日本経済システムの源流』の中で、次のように指摘している。 (1)日本的終身雇用制度、間接金融主体の金融システムや下請け制度等、戦後の日本経済を特徴づける様々な経済システムの部品は、そのほとんどが日中戦争の開戦から太平洋戦争の終結までのわずか8年間に、戦時経済システムとして確立された1940年体制を形成する部品だった。 (2)それぞれのシステムは相互に補完しあっているが、それは戦争が作りだしたものであり、決して日本の文化や国民性に根ざしたものではない。 (3)日本的経営システム以外にも日本が選択しうる安定的なシステムがある。 この総力戦体制は、一党独裁下で策定されたナチス・ドイツの戦時経済体制と、計画・指令によって重化学工業化と軍事大国化をめざしたソ連の社会主義的計画経済をモデルにしたものである。社会主義国では、国家計画委員会によって、人、モノ、金というすべての資源が中央集権的に管理・配分される。戦後日本社会がソ連型社会主義システムを模倣したものであれば、企業の雇用管理システムもそのミニチュア版であっても不思議ではない。かくして、年功序列制度の下で強力な所得配分を行い、終身雇用の下で中央集権的な人事資源の配分が行われる社会主義システムと非常によく似た仕組みが作られたのである(5)。 |
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■戦争中からソ連崩壊まで不変だった日本の国家システム
労働力動員、官僚支配など1920年代から進んでいた日本の総力戦のための体制は、敗戦後もなくなることはなく、軍事的な側面が削ぎ落とされることによって、むしろ社会構造としては強化された(1)。 例えば、吉田内閣では、石橋蔵相のもと、経済統制、経済計画の導入がなされる。1946年には、経済安定本部が設置され、傾斜生産方式が導入される。1947年の片山内閣も、物価統制等、統制色の強い政策を実施した。通産省は重点産業を指定し、海外からの貿易を制限し、産業育成を行なう。大蔵省も都市銀行、地方銀行、信用銀行といった金融秩序を作り上げる。 55年体制は、アメリカ型の自由競争市場でも、ヨーロッパ型のケインズ主義でもなく、エリートを中心とした一種の統制経済だった(6)。 国民が貧しく、絶対的な所得水準をあげることが重要な時代には、強力な中央集権政府の指導下に希少な資源配分を計画的かつ効率的に行う必要がある。そのためには、民主的な権利を大幅に制限することもやむを得ない。これが独裁開発主義の考えである。 鉄鋼、化学、家電、半導体など、日本の経済成長を担ってきた大規模産業は、計画経済の中から生まれてきた。そして、この経済政策は、アメリカに留学したテクノクラートと呼ばれるエリートたちが牛耳っていた。戦後の日本はまさに開発独裁国家だった(5)。 では、なぜ、こうした体制ができたのだろうか。それは、戦後日本が、間接的なアメリカの統治下におかれたからである。 1942年頃から、アメリカでは戦後の占領体制についての方針が決められ、そこでは、朝鮮半島、台湾、沖縄、旧満州を日本から切り離すことが決められていた(1)。 はじめアメリカは戦後アジアの安全保障のコアとして、中国を考えていた。だが、1949年に中国に共産主義政権が誕生すると状況が変わる。そして、1948年にソビエトが初めて原爆の実験に成功し、50年からの朝鮮戦争がさらに状況変化を決定的にした(6)。 この冷戦の深刻化で、占領方針は「日本の封じ込め戦略」から「復興支援」に180度転換する(4)。日本をただ民主化するだけでなく、可能なかぎり国際社会に復帰させ、経済復興を支援するようにアメリカの対日本方針が転換するのである(6)。アメリカは40年体制の維持に重点を移し、1948年、バンデンバーグ決議に基づき、交戦権利を剥奪した舌の根も乾かないうちに、再軍備、自衛力の強化を要求した(4)。 そして、西側の世界戦略に日本を組み込むことを決定づけたのが1951年のサンフランシスコ講和条約だった(6)。吉田茂(1878〜1976)は、1948年以降のアメリカからの再軍備要求を拒絶し、基地を提供するかわりに日本を守って欲しいと、日米安保選択した。 「軍事なんてアメリカにやらせておけ、改憲を主張する奴はただの馬鹿だ」。吉田はこう発言している(2)。吉田は一見、対米追従に見える枠組みをあえて採択することで、アメリカのいいなりにならず、国益を増進するというしたたかな計算を持っていた(4)。 一方、アメリカは、敗戦によって傷ついた日本のはけ口を東南アジアに用意した。大東亜共栄圏は政治的には挫折したが、経済的には温存された。国際的な安全・保障や秩序維持のための海外派兵といった政治的な問題をすべてアメリカが担い、経済部分に特化させることが、冷戦時代にフィットしたシステムであった。 マサーセッチュ工科大学の歴史学者、ジョン・ダワー(John Dower 1938〜)は、日本占領研究の第一人者だが、『敗北を抱きしめて』(岩波書店)の中で、日本は社会経済的に見れば、1945年では断続はしておらず、1920〜1989年までひとまとまりの時代として考えられると主張した。そして、連合軍司令部(SCAP)と日本政府とを組みあわせたこの談合体制を「スキャッパニズム」という造語で表現した。つまり、技術力や生産力が優れているために、戦後の日本が経済大国になったというのは、嘘である。日本に優れた技術力があったことは事実だが、日本は国際的な基盤に乗ることで、経済成長することができた。だが、それは経済界ではほとんど意識されることがなかった(1)。 |
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■冷戦後に壊れた日米の甘い関係
サンフランシスコ講和条約と55年体制で、日本は、民主=人民主権=自己決定という通常の国家からはほど遠い体制に陥っていた。だが、この日米安保体制は、次の二条件から当時としては国益を満たしていた。 (1)日本の経済復興が第一である (2)アメリカが日本のために利他的な行動をとる冷戦体制があった。 経済復興が終え、冷戦体制が終わった暁には、日米安保体制はその役割を終え、日本が独自外交に踏み出す時がやって来る。戦後の高度成長を成し遂げた後に最初に首相となったのは、田中角栄である。田中は、対中東、対中国の独自外交を行い、戦後復興体制からの脱却を目指した。また、日本列島恵贈論を唱え、内政面においても、戦後復興体制からの脱却を目指したため、これが、アメリカの不興を買い、田中はロッキード事件を通じて処分された(4)。 |
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■情報とバイテク産業への道を捨て、公共事業へと日本がひた走ったわけ
1980年代に入ると、サッチャーやレーガンによって、グローバル化に対応するための、新自由主義的な改革が行われだす。スキャッパニズム的体制はすでに時代遅れになりつつあった。そして、90年代に入ると、むしろ、スキャッパニズム的体制は構造的な障壁になっていく(1)。 その後、田中の後を継いだ竹下内閣(1987〜89)時代には、日米構造協議がはじまる。アメリカは、膨大な赤字が日本市場の閉鎖性にあるとし、内需拡大と規制緩和を要求した。これは、日本の高度情報化社会への適応を遅らせ、時代遅れの産業構造に縛りつけるために、アメリカが仕組んだものだった。 例えば、情報ハイウェイ構想という80年代末のゴア上院議員(当時)のアイデアは、日本の構想をアメリカがパクったものである。当時、日本は、坂村健東大大学院教授の開発した純国産ОSトロンを持っていた。トロンはマイクロソフトのウィンドゥズを超える能力を持つだけでなく、坂村はこれを無料で配付しようとしてた。このため、アメリカが圧力をかけ、日本は公教育の現場にトロンを配付する支援計画を打ち切った。90年代に世界的な競争力を持っていたコンピューター関連産業は、アメリカの下請けと化し、台湾・韓国に追い上げられ、空洞化していった。 また、バイオテクノロジーの面でもアメリカと肩を並べていたが、これにも圧力をかけられた。 この結果、日本は、アメリカに勝るとも劣らないITとバイオ分野産業から手を引いた。 また、政府は内需拡大を図るため、コンクリートと金を地方にぶち込む公共事業をやれとアメリカから要請され、公共事業中心の経済政策にシフトすることを約束した。また、GEの発電機を買うことを約束した(規制緩和)。日本にはコンクリート型公共事業で利益を得る土建屋それと癒着した官僚・政治家、金融機関の三味一体の構造があったが、この方向を強化したのはアメリカだったのである(4)。 |
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■会社という疑似共同体の崩壊で不安にさらされる会社人間
共同体とは、生活空間や生活時間を共有し、そのこともあって、同じものを同じように体験しているであろうと互いが思いあっている人間の集団である。 日本は、日露戦争後に重化学工業化と都市化の道を歩み始めた。その結果、地域共同体は空洞化・崩壊し続けた(4)。近代化が進む中で、人々の暮らしは目に見えて向上した。だが、同時に、暮らしの内容は画一化し、人々は連帯感も失った。核家族化が進み、その核家族も、離婚、子育ての失敗、家庭内暴力とさらに解体が進んでいる。 だが、それでも社会が崩壊しなかったのには二つ理由がある。 第一は、福祉国家が、共同体の機能をまかなかってきたからだった。バラバラにされた個人は、年金、福祉、育児といった社会制度によって保護されてきたのである。だが、同時にそれは社会制度への依存度を高めることだった(3)。 第二は、大正時代から一部企業の間で、そして敗戦後は、企業全体に広がった終身雇用と年金制度である。勤続20年はしなければ元が取れない賃金体系の下では、長く勤めなければ損をする。そして長く組織に所属し続ける以上は、人間関係を第一に優先した方が得である。こうして「和をもって尊しとなす」という共同体的システムが機能しつづけた。要するに、崩壊する地域共同体のかわりに「企業共同体」が存在し、そこに共同体的なメンタリティを委ねることで、自分の居場所がない、という存在にならないですんできた。 だが、バブル崩壊以降の情報化の進展と平成不況の深刻化によって、企業は共同体的としての組織をコスト的にも維持できなくなってきた。企業の寿命は短くなり、労働市場も流動化していく。所属や肩書きもいつまで保てるかわからない、はかないものとなってしまった。企業共同体といっても機能集団にすぎないことが暴露してしまう。バラバラとなった人々は、未来への夢も希望も持てない閉塞状況に置かれることとなったのである(4)。 |
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■引用文献
(1)姜 尚中、森巣 博『ナショナリズムの克服』(2002)集英社新書 (2)姜 尚中、宮台 真司『挑発する知』(2003)双風舎 (3)篠原一『市民の政治』(2003)岩波新書 (4)宮台 真司『絶望から出発しよう』(2003)ウェイツ (5)森永卓郎『リストラと能力主義』(2000)講談社新書 (6)佐伯啓思『現代民主主義の病理』(1997)NHKブックス 』 |
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■かつて一億総中流社会といわれた日本が向かう未来 | |
■日本が一億総下流社会にならないために!
かつて日本は「一億総中流社会」と言われていました。 多くの家庭が毎日食べる物に困ることはなく贅沢でなくとも、特に不都合なく暮らしていくことができていました。 しかし、やがてバブル経済がはじけ、お金がない状態が続き日本は長い不況のトンネルに入っていきました。 それでも、日本は「一億総中流社会」という刷り込みがあったので、多少生活が苦しくなっても、やはり自分は「中流」だなという意識があったのではないでしょうか。 しかし、改めて「日本が一億総下流社会にむかっている」のではないか、という指摘を受けると、もしかしたら?と思うようになってきたのも事実です。 ■アメリカから中産階級が消えた! 一億総下流社会という表現に最初に気づいたのは、日本のことではなく実はアメリカのことです。 アメリカのウォールストリートで大規模なデモがあり、「ウォールストリートを占拠せよ」というスローガンのもとで行われました。 彼らの主張は「最も裕福な1パーセントが合衆国の全ての資産の34.6パーセントを所有しており、次の19パーセントの人口が50.5パーセントを所有している。」という極端な二極化が起こっているアメリカの実態に対する批判でした。 実際アメリカには多くの失業者が溢れ、日本と違って国民皆保険でもないので病気になったりけがをしたりしても医者に払う高額なお金がなかったら、自力で治すしかないという状況なのです。 そこまで二極分化が広がったのにはいろいろな原因がありますが、アメリカにおいて産業がなくなったのが大きな原因だといわれています。 たくさんの工場を有していたアメリカですが、生産拠点を中国や台湾・メキシコといった人件費の安いアジア圏や中南米に移すことで、アメリカの産業が空洞化されたのです。 2013年7月のデトロイト市の破綻はその典型的な事例です。 かつては「モーター・シティ」として世界中に知られ、古くはヘンリー・フォードのフォード社などがデトロイトの発展を率いていました。しかしアメリカ車の人気不信、日本車の進出、グローバル化の影響などでコストの掛からない他国に生産拠点を移すことによって税収が激減し、デトロイト市は破綻したというのです。 アメリカは金融資本主義がどんどん発展していった反面、工業が衰退していき、それが大きな二極分化を生んでしまったのでしょうね。 ■日本でも進む二極化 そのようなアメリカの二極化現象は、やがて日本にも表れるようになってきます。 日本でも中産階級が減少し、一部の極端なお金持ちと下流層にわかれているのです。 ワーキングプアという言葉も表しているとおり、一所懸命まじめに働きながらも貧困生活から抜け出せない人が急増しています。 正社員の比率も年々最低記録を更新し続け、代わりに派遣労働者やパートタイマーが増えていきます。 シングルマザーも増え、生活の糧を失ってそのしわ寄せが子どもにきてしまっているケースも増えています。 もっと大きいのが「下流老人」と言われる高齢者の増加です。 定年退職後は悠々自適な生活を送る、というのはすでに幻想になりつつあり、定年を過ぎても働かないと生活が維持できない人が増え、また認知症やケガ、過疎地なので働き口がないなどの問題が現在でも増えており、今後高齢者の数が増えるとさらに深刻になっていく可能性も指摘されています。 「下流老人」や「老人漂流社会」という本も出ていますが、近い未来ではなく現実に起きている出来事だということが分かり、少し恐ろしくなってきます。 ■やがて訪れる超高齢化社会 敬老の日の新聞の見出しで、いわゆる2050年問題について取りあげられたことがありました。 2050年問題とは、簡単に言うと「2050年には団塊の世代が2025年頃までに後期高齢者(75歳以上)に達する事により、介護・医療費等社会保障費の 急増が懸念される問題」のことです。 また、その頃には人口も約3,000万人ほど人口が減少してしまう可能性もあり、もしそうなってしまうと、日本の人口が1億人を下まわることになってしまいます。 少子高齢化の傾向はここ数十年続いていますので、この予測はかなり信憑性がありますね。 最近唱えられた説かと思ったら、故ピーター・ドラッカー氏が著書の中で日本の人口が1億人を下まわるのがやはり2050年ごろだと予想していました。 そうなると、当然ですが働き手が減り産業が衰退していき、老老介護などの問題が各地で見られるようになることも考えられます。 医療負担や社会保障コストは跳ね上がり続けるでしょう。 確実に言えることは、だれもが1年経てば確実に1つ歳をとるということです。 ■大量生産大量消費社会の限界 そして、今までの大量生産大量消費社会に限界が見え始めていることも深刻な問題でしょう。 高度経済成長期に、とにかく大量に物をつくることがよしとされましたが、それが環境問題を引き起こしました。そこで現在では適量生産適量消費という考えや、スローライフというものも提唱されつつあります。 コストを安くするのなら中国などに工場を移す企業が増えていますので、日本としては品質を良くすることやオーダーメイドの商品を作るなどをして、作りすぎることへの反省をしなければならないでしょう。 そうすれば「買いすぎ」ということも減らせるようになるかと思います。 ■いくらのお金が必要? 一億総下流社会になる可能性があるということに対し色々と述べてきましたが、ではそもそも「下流」とは何でしょうか? つきつめて言えば、それは人々の考え方だと思います。 家賃の低い家にところせましと家族が固まって住んでいるのを「下流」と言い切れるでしょうか? 毎日笑顔があふれ、とても幸せな一家かもしれません。 反対に豪邸に住んで衣食住何一つの苦労もない人が「上流」でしょうか? 人間関係がどろどろしていて、毎日気が休まらないかもしれません。 収入が少なくなったり、不測の事態が起こったりしても、それに柔軟に対処できれば、「下流」ではないのではないでしょうか。 そして、安定した生活を送るために、下に述べるの6つのポイントをおさえておけば、少なくともお金に困ってどうにもならないということは避けられるでしょう。 1.出て行くお金を徹底的に抑える、倹約を習慣化させること。 一度ぜいたくな生活に慣れてしまうと生活レベルを落としたくないものですが、その生活を続けることが本当に自分らしい人生なのかどうかしっかり考えてみましょう。 2.無料なものを活用し、お金がかからない仕組みを創ること クリス・アンダーソンの著書「FREE」が世界中で読まれましたが、Googleをはじめとして無料で使える便利なものが世界中にあふれていますので、それをできる限り賢く活用することが大事です。 3.インターネットを徹底活用する 2とも関連しますが、無料で大量の情報を得ることができるインターネットを徹底活用すべきですし、Amazonや楽天を利用すれば買い物の手間も省け、高齢者が自宅から出ずに買い物をすることも可能になっています。 4.身の回りのものをお金に換えるチカラを持つ 「開運!なんでも鑑定団」というテレビ番組では家からでてきた物にものすごい高値がついていますが、そこまで極端でなくてもあなたの家の不要な物が他の人にとってはお宝になるということが十分ありえます。 5.稼ぐチカラを身に付ける 稼ぐ=働く、という意識だと、いざ仕事がなくなったり病気などで働けなくなったときに困ります。 子どもの頃から仕事はもちろんお手伝いもせずに育った人は特に要注意です。 6.お金にお金を稼がせる仕組みを理解し、活用する これは少し応用になりますが、自分でビジネスを立ち上げたり、投資をしたりすることで不労所得を得られます。 ■ゆでがえる状態にならないように 徐々に状況が悪くなりながらもそれになかなか気づかずに、気づいたときには手遅れになっていることを「ゆでがえる状態」と言います。 かえるを熱いお湯の中に入れると、びっくりして飛び出し逃げます。 つまり急激な変化には危機意識をもつということです。 ところが最初、水の中にかえるを入れて、それから少しずつ水温を上げていくとかえるはその変化に気づかず、だんだん温かくなっていくお湯の中にとどまり続けます。 そして、死んでしまうほどの熱いお湯に温度が上がってもそのまま逃げることなくかえるは死んでしまうのだそうです。 「かえるだから気づかないだけで、人間だったら簡単に気づくよ」と思われるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか? 会社の業績が徐々に悪くなり、気がついたら倒産するしか道がなくなっていた、とか、夫婦や親友との関係が少しずつぎくしゃくしていて、気がついたら離婚や絶交になってしまった、とか、人間もゆでがえる状態に容易に陥ってしまいます。 とはいえ、慌ててろくに勉強もせずにビジネスや投資に手を出すのは危険です。 まずは、あなたの資産、家族構成、生活に最低限必要な生活費などを冷静に把握することからはじめられてはいかがでしょうか? |
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■日本は「格差社会」である前に「階級社会」だ 2016/2 | |
「階級」を意識しない不毛な教育議論
最近、子供3人を灘高から東大理Vに合格“させた”母親の子育て本が話題になった。私も書店で手にとってみたが、正直「ここまでできるのは凄いなー」と思う。こういう子育てハウツー本や教育方法に関する本は、これまで何度も何度も出版されてきた(百瀬昭次著『受験子育て戦略――わが子を成功型人間に育てるために』〈プレジデント社、1984年〉など)。 学歴なんて関係ない、良い大学を出ても社会で役に立つわけではないと言いながら、自分自身やその子供には可能なかぎり良い学歴を求めるおもしろい国が日本なのだ。本のとおりの子育てをしたって良い子供が育つわけではないと思いつつも、こういった本を手に取る人は多いだろう。 今回も、教育に関して考えていきたい。特に、いまの日本で「教育手法」ばかりが論じられていること、教育に関する議論に社会的な要素、環境面がほとんど出てこないことの問題点を取り上げる。 ■「格差社会」と「階級社会」の違い 少し話が飛んでしまうが、オックスフォード大学の社会学の試験に次のような問題が出題されたことがある。「”格差社会”と”Class Society”の違いを述べよ(日本語訳)」。英語圏で使われる言葉の意味と日本社会において使われる言葉の意味からそれぞれの社会について述べさせる問題である。皆さんにもその違いを考えてほしい(社会学に親しむ人であれば、はじめの話題とこの問題のつながりが見えるかもしれない)。 Class societyを日本語にするなら、適語は「階級(階層)社会」となるだろう。「格差」と「階級」の違いを簡単に説明すると、格差とは社会の中で所得や待遇に差が生じている「結果」に重点を置く言葉で、階級・階層とは育った環境のような「社会的背景」に重きを置いた言葉である。 サッカー選手のデビッド・ベッカム氏が日本に紹介されはじめたころ、しばしば「中流階級出身」という言葉が使われた。ベッカム氏は、結果を基準とする「格差社会」の中では最上位層に位置する一方、「階級社会」の議論では中流出身ということになる。しかし、サッカーを通じて社会階級を乗り越えたベッカム氏の子供は、上流階級の出身ということになるだろう。 日本の状況を述べる前に、まずはイギリス、アメリカの例を紹介しよう。筆者はケンブリッジ大学、オックスフォード大学で学んだが、両校が特殊な大学であることはそこにいる人々を見れば明らかだった。親が著名な学者だったり、政治家、医者、会社役員だったりという学生がとても多かった。そんな学生達と話をした後の帰り道では、ホームレスの人たちが日銭を求めて声をかけてくる。イギリスでは、労働者「階級」と、中流「階級」、資本家「階級」の存在を、日常からも歴史からも感じることができる。着ている服も違うし、話す言葉にも違いがある。 また、アメリカ社会においては人種によって明確に年収に差が出ている。肌の色という明確な違いにより、「階級・階層」はより強く社会の認識を生むのである。 生まれた階級による格差は、世代を越えて影響を及ぼすことが特徴である。そして、それが子供の教育に与える影響が大きいため、1960年代の公教育の量的拡大の頃からイギリス、アメリカでは盛んに議論され、対策が取られてきた。格差と犯罪発生率には相関があること、そして格差の是正に教育が果たす役割が大きいのもひとつの要因である。教育は社会的地位を高める手段として広く考えられているのだ。しかし、両国ともその対策はうまく機能していない。 ■日本は「階級社会」である さて、日本社会ではどうであろうか? 結論から言うと、日本ではイギリス、アメリカと同等かそれ以上に、親の経済力・学歴、出身地(都市のほうが有利)が子供の学歴に影響を与えている(苅谷剛彦著『大衆教育社会のゆくえ』〈中公新書、1995年〉に詳しい)。確かに、大学時代を振り返っても、そうだった。そんな現実の一方で、教育に関する話題の中心は最初に述べたような「子育て論」や「教育方法」ばかりなのである。日本も、出自による格差が強く固定化した「階級・階層社会(Class Society)」化が進んでいるにもかかわらず、結果のみを見た「格差社会」という言葉ばかりが使われているのだ。 この事実を知らないかぎり、日本の学校生活の中で「階層」を感じることはあまりない。制度上、とてもフェアな日本の受験で成功する者は「頭がよく、勤勉で優秀な人」と認識される。そして、その成功の理由が子供の置かれた環境などの社会的要因ではなく、教育によるものだと信じられているから、最初に触れたような本が注目され、売れるのだ。 確かに教育の影響もあるのだが、そもそも書籍で紹介されているほどの労力と時間を子供にかけることのできる家が日本にどれ程あるだろうか? 最近、子供の貧困が話題になっているが、そもそも学歴に対する意識の低い家庭では、経済的な成功に結びつきやすい学歴を求めて努力する姿勢を身につけることすら、難しいだろう(もちろん「高い学歴=よく育っている」ではないが)。 また、相対的に所得の低い「地方」の子供たちが東京の大学に行くには、学費の他に仕送りも必要だ。相対的に所得の高い大都市圏の子供たちは学費のみで済む。筆者はいま、生まれ育った鹿児島で教育に関わる活動をしているが、大きな可能性を感じる生徒に「大学はどこを目指しているの?」と聞いても、「鹿児島から出てはいけないと家族に言われる」「勉強していると、親から嫌な顔をされる」と答える生徒が進学校にさえ相当数いる。この問題については、トップ大学に合格させる方法や主体的に物事を考えさせる方法の本を手に取って読んでも解決しないだろう。高度な教育手法の下で努力することができるという環境も、決して当り前ではないのだ。 ■真の「エリート意識」は階級を自覚したときに芽生える 東大入学者シェアトップ20の高校は、首都圏(90%)か地方の名門私立高校である。そこにいる学生の多くが同じような階層にいることは想像に難くないだろう(もちろん、例外もあり人々に希望を与えている)。しかし、親も子供も階層の意識のない日本社会において、階層から得られた「特権・権利」に気付く機会は少なく、受験の成功者にしても自分の成功については「自分は頑張った!」という感情を持つ者が多くを占める。特権を得た意識がないからこそ、そこから生じる「義務」についても考えが及びにくいだろう。 この連載の第7回ではオックスフォードで出会ったニコラス・デュボアを紹介した。南アフリカに生まれ、人種による階級・階層を目の当たりにして育った彼は、「自分は頑張ったけど、それ以上に”幸運”だった」と語る。「僕は、南アフリカの中では本当に恵まれた環境にいた。幸運だったと思う。南アフリカでいい教育を受けた人の多くは、よりよい収入を求めて国外に出て、いつの間にか故郷を忘れ、時にはさげすむ人もいる。でも、今の僕がいるのは、間違いなく南アフリカのおかげ。これだけいい環境で教育を受けられている。語学が得意だから、いろんな国のいろんな情報を知ることができる。南アフリカには僕にしかできないことがあるはずなんだ」と言っていた。 南アフリカほどではなく目にも見えにくいが、日本でもすでに世代を超える「階級・階層化」が起こっている。それでは、誰がこの問題を解決できるのか? 悪い意味で階級意識のない、日本の学歴エリートたちには“見えない”問題かもしれない。しかし、階級や階層など目を背けたくなるような問題でも、それを事実として受け止めない限り、解決は難しい。これらの問題を事実として受け止めれば、「何のために学ぶのか」の意味もきっと変わってくるだろう。 教育政策・方針の議論が難しい理由は、どの視点に立つかによって答えがさまざまな上、それぞれの立場では「正しい」ことが多い点にある。上位校では、より良い教育の議論になるし、下位層の通う学校では経済面や、不登校や非行に関する議論になりやすい。会社に置き換えてみても、大企業と中小零細企業、業界トップとそれを追う企業では議論のテーマが異なるだろう。それと同じく、学校を一くくりにすることは難しい。 大切なことは、ミクロな視点から出た解答は必ずしもマクロな視点での解答と一致しないということだ。各学校が目の前の生徒を前提に採る教育方針と国全体で行うべき適切な方針は決して同じではない。 私が専門とする物理学では、統計力学の手法によってミクロとマクロの世界を繋ぐことができるのだが、教育の分野でそれを行うのは難しい。だからこそ、感覚的な議論に陥ることなく公教育の大方針とそれを評価・測定する指標を設定し、実態をもとに政策も決定をしていく必要があるのだ(戦後の教育政策では、「教育機会の均等」という方針のもと、地域・学校ごとのカリキュラム、教員の数や免許、学校の設備などがその指標となった。その結果、地域ごとの学力差も小さくなった)。 ■「公」教育の役割とは? 学校の先生と話をすると、教育とは「環境」を作ってあげることだという言葉が出てくる。「環境」には、教育の機会や経済面も含まれる。目が向きがちな「教育手法」も土台となる「環境」が整っていなければ機能しづらい。個人で環境を整えることが難しい場合は、公教育にその「環境」づくりを頼るほかない。私はこの階級・階層化された社会的な環境を、革命を起こしてすぐさま改めよ!!という類の人ではないため、地元鹿児島で可能な限り「環境」を整えようと活動を行っている(具体的に何を行っているかは次回に記す)。 「公」の精神があるといわれる日本社会において、一部しか知られていない「階級・階層化」という事実を、人々が広く認識した上でどのような変化が生まれるのかを見てみたい。何かにつけて「主体的に考える」という言葉を使い、「教育手法」ばかりを主張する日本の「公」教育の役割を、もう一度考えなければならないのだ。 |
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■イギリスに存在する3つの身分制度とは? 日本人が知らない現在の英国階級社会 |
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■イギリスは身分制度社会。現地民が英国階級社会を探る
イギリスには、現在でも階級制度が存在します。存在するとはいっても、この制度が法律で定められているわけではありません。「人々の間に階級意識が浸透している」という方が正しいかもしれません。 イギリス人は、階級によって、英語のアクセント・服装・読んでいる新聞が違います。彼らは、同じ階級同士で交わるのを好み、違う階級の人々を皮肉ります。 階級制度とは、読んで字のごとく、人々に順序を付け、身分を隔てることですが、現代日本には存在しない概念です。日本人の私達には、分かりづらい部分が多く、完全に理解することは難しいでしょう。イギリスの階級制度とは、一体どのようなものなのでしょうか。 ■イギリスの3つの階級 イギリスの階級は、大まかに以下の3つに分けられます。 ○ Upper Class(上流階級) 王室、貴族、地主、資産家など。パブリックスクールからオックスフォード大学やケンブリッジ大学に進学するのが一般的です。 ○ Middle Class(中流階級) ホワイトカラー。大学に進学するのは、一般的にこの階級以上に属する人達であると考えられています。Middle Classは、さらに3つに分かれます。 • Upper Middle Class(上位中流階級) • Middle Middle Class(中位中流階級) • Lower Middle Class(下位中流階級) ○ Working Class(労働者階級) ブルーカラー。この階級に属する人達は、義務教育を終えるとすぐに社会に出るのが一般的で、大学に進学するのは稀です。 ■英国では、「出自」がハッキリと階級の壁を作っている イギリスでは、基本的に自分の出自がそのまま階級を示します。 もちろん、現代社会においては、労働者階級出身者であっても、学業成績次第ではオックスフォード大学やケンブリッジブリッジ大学に入学することができ、それを踏み台に自分の階級を上げていくことができます。 ○ 階級意識が根付いてしまう社会的背景とは しかし、イギリスの社会制度、階級意識が、立身出世を困難なものにしている事実もあります。上流階級、または上位中流階級出身者は、子どもの頃から親元を離れ、授業料の高い私立の寄宿学校に学びます。そこで、上流階級にふさわしい英語のアクセント・立ち振る舞い・ものの考え方を身につけます。 イートン校などの有名パブリックスクールでは、卒業生の子息には、学業成績にかかわらず座席が確保されているといいます。 優秀な成績を修めた公立学校出身の労働者階級出身者が、オックスフォード大学やケンブリッジ大学に進学した場合、階級意識という見えない壁にぶち当たるのは、想像に難くありません。上流階級出身者には、彼らの間にだけ通じる流儀があり、それを身につけていない者は排除されてしまうのです。 階級を上がっていくことは、並大抵のことではありません。 ■話し方で分かる身分階級 階級差は、その人がしゃべる英語のアクセントに現れます。ロンドンの労働者階級の人々は、「コックニー」と呼ばれる強いなまりのある英語を話します。映画「マイ・フェア・レディー」の中で、主人公の花売り娘、イライザが話していた英語がコックニーです。 上流階級の人々は、クイーンズ・イングリッシュを使い、標準とされているのは、BBCイングリッシュです。オックスフォードやケンブリッジなどの有名大学では、独特の言いまわしやアクセントがあり、他と差別化を図っています。 ○ それぞれの階級に流儀がある サッカー選手として大成したデビッド・ベッカムの英語はコックニーです。彼は大金を稼ぎ、豪邸に住んでいますが、労働者階級に属します。 階級とお金の有無は関係ありません。どれだけお金を持っていても、労働者階級の生活習慣を維持する人は多いのです。上流階級にはその流儀があるように、労働者階級にも同じことがいえます。慣れ親しんだアクセント、生活習慣、ものの考え方。 どの階級に属する人々も、自分の階級を誇りに思っているのです。 ■日本人には、階級意識がない 格差社会といわれて久しい日本ですが、我々の社会には、階級意識は存在しません。格差は貧富の差であり、身分を隔てるものではありません。 一億総中流という言葉が存在するように、日本人の多くは、自分が中流階級に属していると考えています。しかし、この中流意識とは、金持ちでもなく貧乏でもなくその中間に位置するという考え方で、イギリス人の考える中流階級とは異なります。 ○ イギリス人は、立身出世物語に興味を示さない 日本では、貧しい家庭に生まれても、努力を重ねれば立身出世を成し遂げることができます。私たちは立身出世を美談として尊びますが、イギリスには、小説の世界にもそのような物語は多くありません。 イギリス人はよく「労働者階級からのし上がるためには、サッカー選手かミュージシャンになるしかない」と言います。この言葉からも分かるように、労働者階級の人々が、社会的上位に登りつめるのは非常に難しいことなのです。イギリス人が、立身出世物語には興味を示さないのにもうなずけます。 ■映画「リトル・ダンサー」に見る階級制度 映画にもなった「リトル・ダンサー」(原題:「ビリー・エリオット」)は、イギリスでは数少ない立身出世物語といえるでしょう。イギリス北部の炭鉱労働者の息子であるビリーは、プロのバレエダンサーを目指してロンドンにあるロイヤル・バレエスクールに学びます。 この物語には、80年代の炭鉱不況にあえぐ労働者階級の人々の苦悩、彼らの世界観が上手に描かれています。労働者階級の男性は、サッカーやボクシングなどの男らしいスポーツを好みます。父親は、ビリーをボクシングジムに通わせましたが、それに反して、ビリーはバレエに夢中になります。 ○ 労働者階級の親は、子どもにバレエを教えたがらない バレエは、一般的に上・中流階級の人々に愛好されており、それを学ぶロイヤル・バレエスクールは名門です。ビリーは、労働者階級出身でありながら、そこで学ぶことを許されました。 当初、父親はビリーがバレエに熱中することを快く思いませんでした。それは、息子が属している世界(階級)からはみ出そうとしていることへの危機感の表れではなかったでしょうか。バレエなどは、上流階級の子女のする女々しいものという考え方が根底にあったのでしょう。 どの階級の人達も、自分の属している階級が一番快適で、そこからはみ出したくないという意識を持っているのです。 ■最近は、階級意識は薄れつつあるけれど… 18世紀に起こった産業革命により、中流階級が出現して以来、イギリスには3つの階級が定まりました。上流階級、中流階級、労働者階級。階級制度という言葉は、各階級間の上下関係を連想させますが、階級に優劣はありません。 1980年代には、労働者階級出身者の大学進学率はごくわずかでしたが、現在では、学業成績が優秀な生徒は、大学まで進学するのは当たり前になりつつあります。それだけ中流階級と労働者階級との境目は、曖昧になってきているということです。 しゃべり方や生活習慣の違いで人を区別する階級制度。時代に逆行する、排他的で差別的ともいえる習慣です。 若い人々の間では、階級意識は薄れつつあります。しかし、自分の生活習慣を大切にする保守的なイギリス人、特にその傾向は労働者階級の人々の間に根強いといえます。彼らにとって、アイデンティティーともいえる階級意識は、完全に消えてしまうことはないでしょう。 |
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■なぜ多くの日本人は中流意識を持ったままか そこから見える日本の貧困の特殊性 |
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なぜ格差が拡大しているのに、日本人の多くは未だに中流意識を持ったままなのか?
数年前、社会学者とされている大学院生・古市憲寿さんの「絶望の国の幸福な若者たち」という本が話題になりました。ベストセラーなので内容をワザワザ取り上げるのも躊躇いますが、いちおう確認しておくと、 「若者は絶望的な社会状況が到来しつつあるけど、別にこの現状に立ち上がったりしない。なぜなら若者は幸せだから!」 というもの。まあ頭がハッピーな内容です。 あの本の主張は根拠としているデータの妥当性から始まって色々とズサンなもの、学術本というよりはエッセイ小説(エッセイをバカにしてるのではないです)といったほうが適切であり、そのまま鵜呑みにするのは実に愚かなような気がしますが、それでも言わんとすることはわからないでもありません。 以前OECDのデータを元に、このまま格差を放置しておくとドエライ状況になるよ、みたいな文章を書きました。 別にこの話にもかかわらず、最近は社会の格差化に関する話はよく聞くところです。それにかかわらず、なぜ多くの人は中流意識を抱えたままなのでしょうか。少し考えてみます。 ■日本人はなぜ中流意識を持ったままなのか 1:「意識が高止まりしたまま、経済状況に追いつけない」説 日本人の中流意識の強さについて、社会学者の盛山和夫さんは「生活水準「中イメージ」の断続的変化説」を唱えています。 それによれば「人々は自らが属する階層への意識を判断する判断基準が大きく変化しないまま高度経済成長によって生活水準が上昇したことにより、実際は低収入のままの人でも中流意識を持てるようになった。その結果、経済的事情と意識の関連の結びつきが弱まり、経済事情が低下しても意識は中流のまま、漂い続けている」とのこと。 2:「日本の格差は見せかけ」説 また日本社会の格差の性質にもその原因があるのかもしれません。日本社会の格差拡大については1980年代ごろから叫ばれはじめていましたが、その主要因として社会科学者の間で指摘されたのは「人口高齢化」でした(例えば大竹文雄「日本の不平等」など)。 例えば大企業社員と中小企業社員の年収差を見ても分かるように、一般的に勤労所得は高齢になるほど差が付いてくるものです。ですから世の中が高齢化すると、それだけで数字上は所得格差が生じてくるようになります。 要するに高齢化が原因での格差拡大は、同一世代内での格差の拡大、あるいはライフサイクルを通じた格差の拡大ではないので、いくら数字の上では格差が広がっているとしても、不平等感の高まり、しいては中流意識の崩壊には結びつきにくいものとなります。 3:「非正規雇用の増大により一部の人間だけが転落」説 ただ、だからといって日本社会の格差が見せかけのものかといえば決してそうではなく、最近では社会科学者からも格差拡大の要因として、高齢化に加えて非正規雇用の増加の影響が指摘されるようになっています。 特に若年世代において非正規雇用が増えることによる低所得者の増加、消費格差の増大、階層移動性の硬直化(一度フリーターになったら2度と正社員になれない、など)の現象が見られ、日本の格差拡大が高齢化や一人暮らしの増加といった数字上の見せかけのものに留まらなくなっています。 ただ、これら非正規雇用の増大による若年世代を中心とした没落にしても、被害を受けている人々は全体の大多数ではなく2割程度。いわばマイノリティーなので、格差拡大にも関わらず、多くの人には関係のない話となります。 よって、さほど没落することのないマジョリティーにとっては相変わらずに中流意識が保たれ、そうして社会全体としても中流意識が保たれるという構図が存在することになります。それゆえ依然として社会に中流意識が根深いのかもしれません。 ■少数者の貧困が保存される日本、変革の可能性があるアメリカ アメリカで数年前「オキュパイ・ウォール・ストリート」という反格差運動が行われ、運動として大きなうねりを獲得したことについては、ご存知の方も多いかと思います。そこでのスローガンは「We are the 99%(われわれは99%だ!)」でした。 日本と同じく格差社会化が進むアメリカですが、格差の中身は日本と異なります。日本の格差が所得下位2、3割の没落である一方で、アメリカのそれは上位1%ないし0.1%の人々が資本所持により特異的に豊かになり、それ以外の人は総じて貧困の憂き目にある点がその特徴です。 最近予備選が伯仲しているアメリカ大統領選においても、どの候補者が貧困層への対策を主張しているのを見てもわかるように、アメリカにおいては格差や貧困対策が主要な政治テーマになっているのは御覧の通り。 一方、日本の場合、貧困や格差は話題に上ることはありますが、アメリカほど主要なテーマにはなっていません。 さきほど”「非正規雇用の増大により一部(2、3割)の人間だけが転落」説”が出てきましたが、結局のところ中、産階級以上の暮らしが出来ている多数の人で構成されている日本においては、貧困が社会の切実な主要な問題になることはないのでしょうか。 そう考えると、アメリカのほうが状況が改善する可能性は高く、その一方で、日本の貧困はいつまでたっても放置され続けるのかもしれません。何しろ99%の人々が貧困に喘いでいる世界と、マイノリティーだけが苦しんでいる世界では、民主主義のシステムの下では前者のほうが世界が変わる見込みが高いことは明白ですから。 |
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■意識変化 | |
■2006 | |
■2007 | |
■格差意識の拡大メカニズム 2007
− 個人化と階層移動の閉鎖化に着目した数理モデル的説明 − ■1 はじめに 総中流意識は崩壊し、近年、格差意識が大きくなっているといわれている。本研究では、この格差意識に注目し、その拡大メカニズムを数理モデルを用いて示す。 ■2 階層帰属意識と格差意識の定義 人々の自分がどの階層に属しているかという主観的な意識を、階層帰属意識という。本研究では、客観的な階層地位における格差そのものではなく、格差意識を問題としており、この階層帰属意識が重要な意味をもつ。実際は上層の階層に属する人が中意識を抱くなど、階層帰属意識は実際に所属している階層に対する客観的な評価と一致するとは限らない。このずれは、実際の階層構造そのものを人々が正しく認識していないためであると考えられる。ファラロはデイヴィスの発見に基づき、人々が次のような3 つの特質を持つ階層のイメージを形成するモデルを作った。 特質1. 階層のイメージは現実の階層構造の分割であり、現実の階層序列はイメージにおいてもそのまま保存される。 特質2. イメージは現実の階層構造において自己が占める位置によって規定される。 特質3. 階層の識別は、相手の所属階層と自己の所属階層の距離が近ければ近いほど細かくなる。 階層帰属意識は、階層構造に対するイメージとイメージ上の自己の階層から決定される。坂は階層帰属意識の分布を問題とし、中意識の肥大化を説明するモデルを作った。本研究ではこれらのモデルをベースとしたモデルをつくり、人々の階層帰属意識を算出した。さらに、人々の階層帰属意識のばらつきが格差意識の形成と関わっていると考え、階層帰属意識の分布の分散が大きいほど格差意識が大きくなると定義した。 ■3 個人化と格差意識拡大 既婚女性の階層帰属意識の規定要因として夫の収入が高い説明力をもつことがある。FK モデルにおいてこれは、自己に対する誤った評価として表現される。女性と男性のように、ある地位変数において差があるような2 つのグループを想定する。さらに片方のグループは誤った評価を行うモデルを考えた。このとき、誤った評価が解消され、正しい評価を行うようになることで、階層帰属意識の分布の分散が大きくなる、つまり格差意識が大きくなることがあることが確認された。 ■4 階層の閉鎖化と格差意識拡大 他の階層からの階層移動が難しい階層を、閉鎖的な階層という。ここでは、現在の階層に加え、将来の階層への期待も階層帰属意識に影響を与えるようにモデルを拡張した。このとき、将来の階層は現在の階層から決まるものとし、さらに、実際に移動したわけではないので将来の階層の評価には現在における階層構造のイメージを用いるものとした。この拡張したモデルは客観的階層帰属意識を計測する時点において客観的な格差が同程度であっても、将来への期待の違いにより格差意識が変化するモデルである。特にこのモデルにおいて、上層の階層が閉鎖的であると人々が考えるときには、そうでないときに比べ格差意識が大きくなることが確認された。 ■5 まとめと今後の課題 格差意識の拡大メカニズムを説明するモデルを2つ提示した。実際、格差意識の拡大と同時に、個人化、階層の閉鎖化も起こっているので、これらのモデルはある程度の説明力をもつ可能性があると思われる。様々な条件下で格差意識を調べること、実際のデータを用いて検証を行うことが今後の課題となる。 |
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■格差問題と国づくり 農林中金 2007/11
つい一昔前迄は、自分は社会の中流階層に属している、即ち、日本は相対的に貧富の差の少ない社会だと考える人が大多数を占める一億総中流意識が支配的だった。特に1960 年代の高度経済成長以降の目覚しい発展の中で、成長の恩恵(パイ)が、大企業のみならず中小企業にも、企業経営者のみならず給与の大幅アップを通じて労働者にも、中央政府から地方政府への交付税や補助金の交付(再配分機能)を通じて地方にも及び、豊かさを誰もが実感できた時代であった。 その後、1990 年代初頭のバブル崩壊とその後の失われた10 年を経て21 世紀に入り、金融機関の不良債権の思い切った処置と構造改革により、経済は、ようやく極端なデフレ状況から脱却し、成長路線をたどるようになったが、最早バブル以前の状況とは程遠く、その改革の過程で格差が急速に拡大した。この間の格差に関連する事項を整理すると次のようになる。 ○@経済成長によりパイは得られるようになったが、成長率は低く、全体を裨益するには不十分 ○Aグローバル化の進展により、米欧、BRICs 諸国等との競争が激化し、国も企業も競争力向上に直結する各般の措置の実施を迫られ、 ア税の累進度の緩和(法人税の基本税率42%→30%、所得税の最高税率75%→37%) イ企業は労働コスト低減のため、賃金水準を抑制し、雇用形態についても賃金の低い非正規労働者(パート、雇用期限付き労働者、派遣労働者、フリーター)を大幅に拡大 ウ企業は得られた利益を、設備投資、株主配当等資本の厚みに優先して振り向ける ○B高コスト体質となっている国内産業の体質強化のための大幅な規制緩和の実施 ○C国も地方も危機的状況にある財政の建て直しに直面し、歳出の大幅カットを迫られ、 ア人口の高齢化に伴う社会保障費の増大を抑制するため、福祉費用の国民への負担転化 イ国から地方政府への公共事業を中心とした交付税、補助金の大幅削減 こうした一連の措置が短期間に急激に採られた結果、所得格差、地域格差、貧困者の増加等の格差問題を一挙に顕在化させ、ジニ係数の国際比較を見ても、日本は先進国の中でかなり不平等度の高い国となっている。 こうした深刻な実態を目の当たりにして、最近、Aのイに関連して、最低賃金や正社員並みパートの賃金引き上げ等従業員の給料や待遇の改善、正社員化、Cのアに関連して、高齢低中所得者の医療費負担増、障害者の負担増、母子家庭の手当て減のそれぞれ回避等社会的弱者への配慮、Cのイに関連して、公共事業依存とは違った形での地方活性化策の検討等が始まっている。厳しい国際競争下で今後とも国として活力を維持していくため、構造改革を着実に実施していくことが必要であることを前提として、こうした格差是正への取組みは評価できる。 何故なら、格差問題は、単なる経済事象ではなく、徹底した自由競争の下での大きな格差を容認する米英型の国づくりを目指すのか、市場原理と競争を受け入れつつも、社会の公平性にも配慮した北欧・欧州型の国づくりを目指すのかに繋がる問題と考えられるからである。 |
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■2008 | |
■中流意識 2008/2
格差が叫ばれてますが、中流意識は皆さんいまも持っておられますか?現在私は36歳、パート勤めをしています。子供は小学校4年と1年(どちらも公立、塾には通わず)夫は単身赴任中(民間企業、社宅)持ち家ローン中。ごく普通の生活で中流かなと思っています。その根拠は、ローン中ではあるけれど貯金できている。パート勤務は扶養範囲。年に二回は家族旅行できてる。月に一回は外食してる。子供達は今は受験対策ではない塾に通っている。上の子はソフトをしている。(学校のクラブなのでそれほど負担金無い)下の子は習字を習っている。私は独身時代から続けている絵付け教室に月に二回通っている。洋服もユニクロもきるけれど。。それなりに大阪の街でも浮いてない。夫も週末月に3回〜4回は帰宅する(2回分のみ会社負担)。 大体こんなもんです。これって、中流でしょうか?そんなこと聞いてどうするの?と言わないで下さい。このくらいの生活の人は沢山いるんですけど。中流の人やっぱり多いですよね。 |
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■2009 | |
■日本人の中流意識は幻想 支配者に詐取される貧乏人 2009/9
いくら働いても、満足感や豊かさが得られない社会と言われて久しいです。これは、人間の欲深さ所以か、心の意識が低いからかとも思いがちですが、これを解明するには、今の資本主義の仕組みを根本的に理解する必要があります。資本主義は、一握りの資本家(支配者)が非支配者層(消費者)から詐取する仕組みであるということを忘れてはなりません。 私たちは、大半の人たちが「中流」であるという意識を持っていると思いますが、これが実は大きな落とし穴。本当のお金持ちというのは、働かずして不労所得、資産収入がどんどん入ってきて、資産がどんどん膨らんでいく人のことを言いますが、中流意識の人たちは少しでもいい生活をしようと、ローンを使ってまで車を買ったり、マンションを購入したり、株式に投資したりして、身の丈にあわない「背伸び」した生活をしています。実は、これが資本家の最大の狙いであり、CM広告で大宣伝して、金融機関や企業を潤していくことになります。 結果として、「中流」の人たちは、借金を抱えて一生、金利の支払いに追われ、資産が増えるということはまずありません。 筆者は何の資産もなく、貯蓄もあまりありませんが、幸いにして借金はありません。ただ、これまでは、自分は「中流」だと思っていました。自分が「貧乏人」であるということを自覚できれば、全ての行動に慎みができて無駄遣いは減り、人生の失敗も少なくなるかもしれません。 逆に言えば、本当のお金持ちほど、無駄遣いは少なく、コップから溢れた分しか使わないといいます。お金持ちを目指すには、資本家、支配者の意図を理解し、自分がまずは資本家から詐取されている最低の貧乏人である、それを解脱するにはどうすればいいかといったことを考えながら、今後いろいろ取組みをしていきたいと思います。 以下、この日記を書くのに参考となったコラムの文章を紹介します。 (以下、引用) 日本国民の多くは、感覚的には「中流」という意識を持ち、この中で平和な生活をしているかのような錯覚に陥っています。今や一億総中流は動かし難い、常識となり、この意識を以て人生を全うしようとしています。 しかし現実はそういう意識とは関係なしに、中産階級層を含めた階層に対して、身包(みぐる)み剥(は)ぎ取り、借金漬けで搾取(さくしゅ)する仕掛けが、すぐ私たちの周りに横たわっていることを忘れてはなりません。 もし、不幸があるとするならば、こうした所に身を潜めて、あなたの躓きに手ぐすねを引いて、破綻を待ち構えているのです。 現代の日本人に、強力に蔓延(はび)こっている意識は、「一億総中流意識」です。しかしこの意識は、単に甘い幻想に過ぎません。そして現実は、日本国民は決して中流に属する階級にランクされないと云う事です。 これを裏付けるのは、日本社会がスーパーリッチに対し、非常に都合の好(い)いような社会構造を成しているからです。本来金持ちと云うのは、働かなくても、金利や不動産収入で自分の資産がどんどん増えていく財閥構造を一族で形成していて、独占的な資本体制を整えた、ひと握りの階級を云います。 今日の世の中において、億単位のお金を所有するスーパーリッチやその子孫は、よほどバカでない限り、自分の財産を目減りさせる事はありません。資産は資産を呼び、益々増えていくばかりなのです。 ところがその裏で、金持ちの犧牲となって、貧乏を強(し)いられる下層階級がいます。この階級は、金持ちが益々資産を増やすのに反比例して、更に、どんどん貧乏になっていきます。これこそが資本主義を形成する日本社会のシステム構造の現実です。 しかしこうした現実に、「何処かで搾取が働いている」という現実を知る日本国民は殆どいません。その自覚症状すらないのです。そして最悪な事は、誰もが「自分は中流である」と思って疑わない事です。 この日本人の意識は、アンケート調査からでも明らかです。しかし、ここにこそ現代日本人の大きな間違いがあります。 果たして、中流と自負するほど、日本人は資産を所有しているのでしょうか。また、その他大勢の日本人の何処が、一体中流なのでしょうか。 多くの勤勉な日本人が一生懸命に働いて、自分の満足するような家すら、自己資金で買えないと言うのが現実であり、喩(たと)え買えたとしても、それは自己資金の全額で賄(まかな)ったものではなく、約90%〜50%については銀行からの住宅ローンの借入金であり、借金によって金利の掛かる負債を手に入れているのです。そして大ローンで買ったマイホームを、自分の資産と思い込んでいる愚かさがあります。 日本のサラリーマンの平均年収は、政府筋の発表で約七百万円と云う事になってます。しかし実質的には五百万円以下であり、手取りとなると四百万円程はないでしょうか。 政府発表で七百万円と云われているのは、三千万円以上の高額所得者や、億単位の資産を所有するスーパーリッチ層がその平均値を引き揚げているからです。 マイホームを所持する場合、無理せずに買える家は、年間所得の約五倍までと言われていますが、喩えば平均的サラリーマンが無理せずに住宅ローンを払っていく限度は、年間所得四百万の人では、25〜30年ローンで二千万円前後までの家しか買えない事になります。そうすると、果たしてこの階層が、中流であると言えるかどうかと云う事は、甚だ疑わしくなります。 即ち、少しでも良いマイホームを持とうとすれば、かなり背伸びをして、夫婦共働きで無理をし、日々倹約を旨とし、節約生活を実行して、お金に縛られる生活を覚悟しなければ、マイホームは買えないと言う事になります。 その上、「自己現実」という恐怖が襲ってきます。自己現実と云うのは、「自分がなりたい人間になる」という事で、その足掛かりとして、「自分がなりたい職業に就く」あるいは「自分が住みたい家に住む」という事ですが、これは心理学上では、人間の欲望の最終段階に来るものであると云われています。 「衣食足りて礼節を知る」と云う言葉がありますが、食糧を確保する生存欲求が満たされると、次は良い服や高級の装飾品を身に付け、性欲を満たす為の行動が起ります。更に性欲が満たされれば、次は外敵から身を護る安全な住まいが欲しくなり、最終的には自己現実に向かう事になります。つまり「自分がなりたい人間になる」という事です。 しかし自己現実は、現実が成就する側と、成就されない側に分かれます。そして成就されなかった場合、人間は絶望感に嘖(さいな)まされます。 また自己現実に向かう途中に、資本主義社会の餌食(えいじき)になるのが、CMに踊らされる下層階級の消費者です。 喩えば、英会話学校等のコマーシャルに見る事が出来ます。若い消費者の多くは、英会話学校のコマーシャルの意味をどれくらい真剣に受け止めているのでしょうか。また、英会話が、実社会でどれくらい役に立つと思い込んでいるのでしょうか。 現実社会の中で、少々の英語の日常会話が出来たくらいでは、決して就職に有利には働きません。就職に有利に働き、企業が求める英会話の量と質は、最低でもビジネス英会話であり、日常会話ではありません。 上級のビジネス会話が出来、同時通訳ができるくらいの語学力がなければ、英語は話せるとは言えません。即ち同時通訳とは、欧米の歴史や文化、地方地方の習慣や方言、更には、通訳するビジネス的な専門知識を徹底的に勉強し、これを修得したひと握りの才能ある人に限られます。(本当に語学に才能のある人は、高額な費用を必要とする英会話学校や語学学校には行かず、安価な学費の大学院のビジネス学科で学んでいる) それを、猫も杓子もと云う感覚で、片手間で、少しくらいの日常会話が出来たとしても、企業が欲しがる人材とは違います。ここに自己現実が崩壊する実情があります。そして多額なローンだけが残ります。 コマーシャルは人間の欲望を擽(くすぐ)り、自己現実の夢に向かって想像力を掻き立てますが、これによって膨らんだ甘い夢は、現実のギャップに、直ぐに打ちのめされてしまいます。そして何よりも恐ろしい事は、自己現実を実現させる為に、大枚の投資を余儀無くされると云う事です。 投資とは、将来を見込んで金銭を投入することを指しますが、元本の保全とそれに対する一定の利回りの保障は何処にもありません。更に、もし自己現実を目的として自分に投資をしたのならば、数年後の将来において、これがどの程度の利回りで回収できるか、その事も考えておかなければなりません。一定期間における実物資本の増加分の見通しを立てる事が出来てこそ、自己現実への投資した意味があり、資本形成を考えておく必要があります。 しかし多くの場合、むしろ無駄金を払った結果に終わり、理想的な自分とは逆方向に向かってしまうのがオチなのです。 資本主義の原理の中では、人間の購買意欲を掻き立てる為に、人間の欲望を擽る様々な仕掛けが、資本家である金持ちの手先の仕掛人によって仕掛けられ、下層階級の消費者をコマーシャルで踊らす流行を続々と打ち出します。そしてこれに踊らされるのは、金持ちではなく、自分が中流と思い込んでいる下層階級の消費者達なのです。 こうした消費者層が、果たして中流であるか否か、それを論ずるまでもありません。 また、エステサロンや美容整形も同じ事です。こうした所で大枚のお金を払う女性の心理としては、「美人になって多くの男を振り向かせたい」あるいは「あわよくば、モデルや芸能タレントに潜り込みたい」という欲望が働いています。 ところがこうした欲望は、自己現実を喰い物にするビジネスの仕掛人達の、恰好の餌食(えじき)となります。 資本主義経済はその構造が「ねずみ講」である為、永遠に新しい流行を作り出して、底辺に波及させて、それを回転させなければなりません。 その「ねずみ講」宣伝の為に、コマーシャルが作り出され、その商品を手に入れた場合に、消費者がどんな素晴らしい日常が訪れるかと言う甘い夢を餌にして踊らせ、商品を数カ月から数年単位の流行に載せて売ろうとする販売システムです。 マイホームにしても、マイカーにしても、総ては購入後、どんなに素晴らしい生活が出来るかという甘い幻想を売り物にしています。つまり中流と思い込んでいる下層階級の消費者から、大ローン契約をさせて、お金を巻き上げる為に作られたものなのです。これによって消費者は永久に、生きている限り、働き続けなければなりません。「働く」あるいは「働き続ける」というのは、良き労働者を指すのですが、換言すれば資本主義体制下の体裁のよい高級奴隷に他なりません。 また、資本主義経済の本質構造は、永遠に「ねずみ講」を動かしていく為に、企業と消費者の、騙すか騙されるかの知恵比べですから、そこには搾取する側と搾取される側の戦いが生じます。 消費者自身に商品の裏側を見抜く知恵がない場合、多額な借金生活に首までドップリ浸かる事になります。コマーシャルの甘い幻想に魅了されるか否かで、あなたの階級意識は決定されてしまうのです。 資本主義社会の金利と言う巧妙なマジックに対する知恵を身に付け、流行に踊らされない、本質を見抜く眼を養っておかなければなりません。 |
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■貧困解決を妨げる「一億総中流幻想」 2009/12
「生活が苦しい」という実感が、政権交代につながった。新政権は「相対的貧困」をみすえた政策を採るべきだ。 ■忘れ去られた「貧困」 経済協力開発機構(OECD)の発表によれば、日本の相対的貧困率は14.9%だという。しかし「7人に1人が貧困」という生活実感があるかというと、「そこまでの実感はない」という人が大半ではないかと思う。なぜ日本社会は、なかなか貧困問題に向き合えないのか。 大きな原因の一つは、日本人の「貧相な貧困観」(阿部彩)に由来している。少なからぬ日本人にとって、「貧困」は極限状態を意味している。「貧困」と言われて思い浮かべるのは、アフリカの難民キャンプに暮らす栄養失調の子どもたちだ。テレビ番組等を通じて、幼いころから「貧困」のイメージは飢餓状態(生存ぎりぎりのライン)に固着していく。 この背景には、戦後日本の高度経済成長がある。1960年代を通じた高度経済成長期に、日本社会は「貧困からの脱却」を経験した。それは、幼少期には七輪で火をおこしていた人がストーブにあたる、かまどにまきをくべていた人が炊飯器でご飯を炊くようになる、という劇的な変化だった。「一身にして二世を経る」という言葉が当てはまるような体験を、その時代を生きた世代が丸ごと通過し、目の前で実現してゆく「文化的な」生活を実感する中で、貧困は取り組むべきものから、述懐するものへと変化した。 その象徴が、65年に打ち切られた低消費世帯実態調査である。その時点で461万世帯が「低消費世帯」と認定されたが、それ以降半世紀の間、貧困調査は行われていない。 「人間裁判」と呼ばれた朝日訴訟(当時の生活保護基準が憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」レベルに達していないとして争われた)の提訴が57年だったことも示唆的だ。「人間裁判」は「人間らしい暮らしとは何か」を問うた。しかし、その後の高度経済成長により問いそのものが失効していく。そんなものは、もうわざわざ問われるに値しないとされた。それは、「貧困」が忘れ去られたということと同義である。 ■難民キャンプと一億総中流幻想 忘れ去られた理由は、単に「世界有数の経済大国でそんなに貧困があるわけがない」という思い込みだけではない。 結局のところ、日本社会は「貧困」という概念自体を容易に受け入れられないのだろうと思う。そこには、貧困とはアフリカの難民キャンプの子どもたちのことだという、「生存ラインぎりぎり」に張り付いた貧困観があり、一方に、それと裏腹の関係にあった「一億総中流幻想」(生活は大変だが、あそこまではひどくないから自分たちも中流だという慰め)がある。この一対のイメージが、「先進国」の貧困を問うOECD基準を、頭では理解できるが実感を伴わないものにしている。日本の貧困概念は、半世紀前の段階で停止しているのだ。 「貧困観」の問題が重要なのは、それが単に「貧困」のとらえ方に限らない広がりを持っているためだ。「何が貧困か」という問いを忘れるということは、「何が人間らしい暮らしか」という問いを忘れるということだ。 OECDの相対的貧困の基準を、2008年の厚生労働省の国民生活基礎調査結果に当てはめてみれば、日本における貧困層は、平均世帯人数2.7人で年収224万円以下世帯となる。具体的なイメージとしては、3人世帯で月収20万円程度ということだ。学齢期の子どもを持つ30〜40代の夫婦の世帯で月収20万円、あるいは年金暮らしの老夫婦と中年層の独身の子1人という世帯で月収20万円。教育や介護に支障をきたす暮らしであることは、容易に想像できる。しかし、それを「貧困」と名指すかと言えば、それに対しては多くの人々が違和感をもつ。この“間隙(かんげき)”が問題だ。 貧困とは生存ラインぎりぎりの飢餓状態のことだ、という(絶対的)貧困観と、「一億総中流幻想」からすれば、上記のような世帯は、それでも「中流」に分類されてしまう。それは、その家庭の困難が社会的に対応されずに放置されることを意味する。「かわいそうだけど、仕方がない」というよく使われる言い方で処理されるということだ。「貧困」は違う。貧困という言葉には「社会的に対処すべきもの」という含意がある。生存ラインぎりぎりに張り付いた「貧相な貧困観」は、現実に生きる、生活の苦しい人たちを社会的・政策的に放置することを正当化する装置として機能してしまう。 今、求められているのは、貧困観を、(相対的)貧困ラインに「引き上げる」ことだ。別の言い方をすれば、「人間らしい暮らし」のラインを設定することを意味する。社会的・政策的に対応すべきラインを、絶対的貧困(生存ぎりぎり)と「一億総中流幻想」の境目に設定するのではなく、相対的貧困と「人間らしい暮らし」の境目に設定し直すことだ。それが「貧相な貧困観」から脱却する、ということだ。 ■新政権は「貧困削減」を迫られている この課題はそのまま、新たな政権党となった民主党の政策運営に直結する、と私は考えている。 厚労省の国民生活基礎調査をみると、年収300万円未満世帯はこの10年間で約370万世帯増加している。年収300万円以上700万円未満世帯(いわゆる中間層)は約60万世帯の減少だ。総世帯数は約300万世帯増えているが、単身化・少人数化すれば世帯内の相互扶助機能が弱まり、生活の現金依存度が高まるのは明らかだ。非正規化が進む労働市場の現状や、日本の年金水準の低さ、そして上がり続ける社会保険料負担などを考えれば、生活に余裕のない世帯は当然増加していく。先の調査において、「生活が苦しい」「どちらかと言えば苦しい」と答えた世帯が過去最高の57%に上っているのは、人々の実感だろう。その実感は「1世帯が2世帯に分解すれば、それぞれの世帯の所得が低くなるのは当然」という“解説”で消せるものではない。 そして、まさにこの実感が、先の衆議院選挙で政権交代を実現させた原動力に他ならない。逆に言えば、その低所得層の生活状況を改善できなければ、「政権交代」という最大のイベントが終了した今、新政権の支持率は下落する。 では、全世帯の30%を超える年収300万円未満世帯の生活状況が短期間で改善される見通しがあるかと言えば、従来の指標を使うかぎり、その可能性は低い。世界経済が厳しい環境下で、経済成長率は伸び悩むだろうし、戦後最高を記録した失業率が改善される見込みも薄い。個人消費も短期で回復するとは考えにくい。 それゆえに、民主党政権も家計の直接支援を図る政策を並べている。「コンクリートからヒトへ」というスローガンはその宣言に他ならない。これまで「経済成長さえすれば大丈夫」と言っていた「成長力底上げ」路線が頓挫した今、当然の方向性ではある。経済成長はもはや人々の暮らしを立て直す十分条件ではない。 そこで私は、家計の可処分所得の増大について、新政権が、経済成長率や失業率のようにわかりやすい指標を採用すべきだと考える。 国民生活基礎調査では、全世帯の平均所得である556万円以下の世帯は60.9%だった。57%が、「生活が苦しい」と感じている。ということは、年収400万〜500万円台の世帯も、大半は苦しんでいる。しかもこうした調査からは、より厳しい若年単身世帯はそもそも漏れている。 こんなに多くの人たちが、生活が苦しいと感じるのは、ぜいたくや謙遜(けんそん)なのか。違うと思う。収入が増えない一方で、世帯による相互扶助機能の弱化や負担増により支出が増えるため、可処分所得が減っているからだ。 だとすれば、民主党政権が生き残る道は、政策効果としての可処分所得の増大を目に見える指標として、人々にアピールすることだ。 ■立ちはだかる「貧相な貧困観」 そのためにもっとも適切な指標が、OECDの(相対的)貧困率である。 3人世帯で月収20万円というのは、余裕のない暮らしの典型だ。自分が病気になっても気軽に病院にかかれない。子どもの塾費用を工面できない。住宅・教育費用に圧迫されて家計のやりくりで神経が磨り減る。老後の不安が付きまとう。ひとことで言えば、病気・失業・家族の不幸・車の故障などなどの「不意の出費」に対応できない世帯だ。生活に追いまくられて一息つくこともできないこの世帯の状況を改善し、一息つける環境を整えること。それが「人間らしい暮らし」の実現ということであり、すべての政治が目標とすべきもののはずだ。当然、欠落を埋めるために必要なお金なのだから、貯め込まれることもなく、積極的に消費にも回る。 ところが、この領域を「貧困問題」として名指した途端に議論の位相が変わってしまう。「貧困問題への対処」と言われても、誰もそれを自分たちの生活が改善していくのだとは感じない。むしろ、自分たちを飛び越して、派遣村に集った人々やホームレス状態にある人たちに過度の手当てがなされるのではないか、自分が苦しみながら納めた税金が垂れ流されるのではないかと想像してしまう。 ここに至って、課題は「貧相な貧困観」に戻る。ここにデッドロックがある。自分たちの生活の苦しさはまぎれもないものと実感されているのだが、その実感に「貧困削減」として応えようとすれば、逆に反発を招きかねない。この実感とイメージ、体と頭の分離。 「貧困」という言葉は、この3年の間にタブーから解き放たれた。それは、日本において高度経済成長期以来ほぼ半世紀ぶりの転換だった。しかし「貧困」という言葉は復活したものの、そのイメージは依然として生存ぎりぎりラインに固着しており、それが貧困問題を正面から認め社会的・政策的に取り組むことを妨げている。その意味で、私たちは依然としてこの半世紀の議論不在のツケに悩まされ続けている。 |
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■2010 | |
■中流階級を破壊したアメリカの暗い未来 2010/2
財政赤字の問題はひとまず脇へ置こう。共和党は不服だろうが、バラク・オバマ大統領に共和党政権「放蕩の10年」を批判された後では、彼らがどんな赤字批判をしてもあまり説得力はない。財政赤字は確かに持続不可能な規模に膨張しているが、深刻な景気後退のなかで編成する11年度(10年10月〜11年9月)予算で打てる手はほとんどない。 より根本的な問題は、11年度とそれ以降の予算で、アメリカの中流階級を再興できるかどうかということだ。いやその前に、果たして今のアメリカにまだ中流階級が残っているのかどうかを問うほうが先だろう。 近年私たちが中流階級と思っていた存在は、ほとんど錯覚だったことが明らかになった。米政府が作り出し、家計の膨大な借金によって支えられてきた幻想だ。クレジット・カード、住宅ローンの借り換え、所得証明もいらない融資──すべては、風と共に去った。残ったのは、資産より大きな負債をかかえているか毎月食いつなぐのがやっとの階級だ。もし新たな中流階級を作り出せなければ、アメリカがこの財政赤字を克服し危機から脱出できる見込みはない。 オバマは1日の予算教書演説で、必要な処方箋を次々と繰り出した。中小企業向けの追加減税。中小企業がすぐに投資を行うよう促す税制優遇。子育て支援を目的とした中流階級向けの減税は規模を倍増させた。教育予算は6%増。「世界トップ水準の教育ほど優れた貧困対策はない」からだ、とオバマは言った。 だがこれらすべてを束にしても、諺に言う「千里の道の一歩」にすぎない。アメリカの所得格差は先進国で最大であるばかりでなく、過去30年間の格差拡大幅も先進国最大だ。つまり、アメリカでは中流階級が徐々に消滅させられていったということだ。ここ数カ月でウォール街の高額報酬に対する世論の怒りが再燃したのも、この国で本当に起こったことの上っ面の現象でしかない。 この大惨事をもたらしたのは、一世代以上にわたって民主党と共和党が犯し続けた失政だ。サプライサイドの経済学が幅を利かせたロナルド・レーガンの時代には、労働組合に敵対的な政策と規制緩和が熱病のように広がった。ビル・クリントンは中流層減税の公約を反故にし、8年の在任期間中ほぼ一貫して債券市場を優遇し、国際金融市場の規制緩和を推進した。ジョージ・W・ブッシュ前大統領は財政的に無責任で、富裕層には免税にも等しいような減税をした。レーガン以降の政権はくる年もくる年もアメリカの中流階級を痛めつけ、ほぼ完全に破壊した。 オバマ政権はジョージ・W・ブッシュにほとんどの責任があると非難している。だが、中流階級が忘れられた存在になったのは、ブッシュよりはるかに以前からのことだ。民主党のクリントン政権も共和党のレーガン政権と同じだった。国際金融市場の乱高下についてできることは何もなく、最終的には市場が自らを修正すると単純に決めつけ、ブッシュに負けないくらい市場を野放しにした。 かつて製造業で生計を立てていた中流階級は経済基盤を失って、それまでの生活水準を維持するために彼らにできる唯一の手段に訴えた。借金だ。 米政府は中流階級に借金を奨励した。アメリカ人の消費で稼いでいた世界の他の国もそれを歓迎した。アメリカは世界の「最後の消費者」であり続けられるふりをしようとした。本当はアメリカ人にもアメリカにもそんな力は残っていなかったのに。日本や中国などの新興国は次々に、アメリカの消費で豊かになった。米政府も調子を合わせた。いつか市場がすべてを解決してくれるだろうと考えて。 そして今、30年間のバカ騒ぎのツケを払うときがきた。そしてそれは、オバマ予算の3兆8000億ドルの歳出規模などよりずっとずっと大きな額だ。一世代以上にわたる過ちをいかに正すか。それこそ私たちが本当に議論しなければならない問題なのに、聞こえてくるのは財政赤字をどう削減するかという話ばかりだ。 |
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■男女を問わず下流は結婚相手として見なされにくい 2010/7
かつて日本の成長力の源泉とされた中間層は消滅したのか? 中間層の二極化の実態をアンケート結果から詳らかにする。 調査概要/平成22年4月23日から27日までインターネット上でアンケート調査を行った。30〜50代を上流・中流・下流の区分に分け各層の人数がほぼ同数となるよう調整。調査実施機関は株式会社インテージ。 上流階級に属する人は、プリウスに乗り、日経新聞を読み、ロレックスをつけて、龍馬伝を見る。一方、下流階級に属する人は、カローラに乗り、新聞を読まず、カシオをつけて、ネプリーグを見る――。 日本が格差社会に突入して久しい。これまでは格差の象徴として、一部の富裕層やワーキングプアといった極端な存在が注目されてきた。しかし、もはや一般のビジネスマンにとっても格差は対岸の火事ではない。 定期昇給が見込めず成果給が幅を利かせるいま、優秀な人はより高収入に、そうでない人はより低収入へと引っ張られている。中間層は、いずれ消えゆく運命だ。一般のビジネスマンの間でも、生活様式や行動形態に一定の違いが出てきていることは想像に難くない。 そこで今回、プレジデント編集部で全国の30〜50代の現役世代1039人を対象にアンケート調査を実施。世帯年収によって上流・中流・下流の3階層に分け、それぞれの実像を探ってみた。各階層の人数は、350人前後とほぼ同数となるよう調整した。男女比も各階層で7対3と揃えた。また、年齢が上がるにつれて所得も増える現状の傾向を踏まえ、今回は各世代の平均所得に見合った基準で階層を定義した(図1)。 その結果、浮かび上がってきたライフスタイルが、冒頭に挙げた上流像・下流像だ。そのほかにも注目すべき傾向がいくつか見て取れた。上流・下流によって、行く店や食べる物、お金の使用法にどのような違いがあるのか。そして、その差を生み出す要因はどこにあり、価値観はどのように異なるのか。さっそく紹介していこう。 上流と下流では既婚率が大きく異なる。上流の既婚者は84.6%であるのに対し、下流は47.2%(図2)。甲南大学の森剛志(たけし)准教授は、「下流の既婚率が低い背景には、自分より高収入の相手を選ぶ“上方婚”志向がある」と指摘する。 「昔から女性は上方婚志向ですが、女性自身の年収が増えたため、上方婚から弾かれた下流男性はますます結婚が難しくなりました。一方、最近は男性側も上方婚志向が強い。本来、経済基盤のある上流男性は、妻が無収入の専業主婦でも構わないはずです。しかし、今回の調査で配偶者の年収について尋ねたところ、上流男性ほど妻の専業主婦=無収入率が低く(下流28.4%、上流18.0%)、高収入の女性と結婚している実態が浮かび上がった。つまり男女限らず、下流は結婚相手として見なされにくいのです」 上流はダブルインカム、下流は独身か、妻が専業主婦となると、世帯収入でも大きな差がつく。世帯収入が少ない下流は支出を削る必要に迫られるせいか、昼食代やタバコ代など日々使う金額は総じて上流より少なかった(図3)。 支出面では、家賃や食費、衣服などで上流と下流に差があったが、なかでも注目すべきは子供の教育費だ。下流は月平均3万6129円だが、上流は月平均7万3760円で、ほぼ倍額を子供に投資している(図4)。これで驚いてはいけない。上流の中には、この金額以外に数字に表れない隠れた教育投資を行う家庭もあるという。 「神戸市東灘区に、灘中学への合格率が抜群に高い公立小学校があります。関西のお金持ちの中には、わざわざその小学校がある校区に引っ越して、子供を通わせる親もいます。これは校区を買うようなものです。上流は大きな家に住むため(図6)、住居取得や賃貸のコストは馬鹿にならない。下流には、とても真似のできない教育投資ですね」(森氏) スキルアップのための支出も上流のほうが上であることを考えると、子供にも自分にも教育熱心な上流の姿が浮かび上がってくる。 住居の大きさは、自動車の所有率にも影響を与える。自宅に車庫があったり、駐車場代を払う余裕のある上流は、9割近くの人が自動車を所有。一方、下流は7割を切った(図7)。当然、自動車関連の支出も上流のほうが高い(図5)。 意外だったのは、ファストファッションやファストフードなど、デフレに強いといわれる店舗の利用頻度だ。高額商品である自動車と対照的に、低価格路線の店舗は下流ほど利用回数が多いと予想していたが、実際は上流ほど足繁く通っている(図8・9・10)。ユニクロ、マクドナルド、サイゼリヤといった、デフレ経済下の代表的な勝ち組企業の店舗により多く足を運んでいるのは、意外にも下流ではなく上流なのだ。今回の調査では、吉野家や餃子の王将でも同様の傾向が見てとれた。電通ソーシャル・プランニング局の袖川芳之氏は、この逆転現象を次のように解説する。 「所得が右肩上がりで増えた時代は、モノを買い続けることが消費の喜びでした。例えば自動車なら、小型自動車から始まり、高級車へ買い替えていくことに幸せを感じていたのです。しかし、最近は上流下流に限らず、消費をコストとして捉えて、自分の興味のあるモノ以外、とくにこだわりをもたない消費者が増えてきた。いわば『〜が欲しい』から『そこそこでいい』への変化です。ファストファッションやファストフードは『そこそこでいい』の典型。ですが、価格だけでなく個性や面白みがプラスアルファされ始めた点が上流に支持されている理由。一方、下流は、ファストファッションやファストフードの価格帯よりももっと消費へのモチベーションが下がっているのでしょう。それがこの逆転現象を生んでいるのだと思います」 下流の貧困ぶりは資産額を見てもよくわかる。預貯金や土地不動産、株式、債券の保有額は、どの世代でも上流が圧倒的に多い(図11・12)。当然、全資産では、上流と下流にかなり大きな差がつくこととなる。ただ、同じ上流でも世代によってポートフォリオが異なり、30代上流は流動性資産の比率が高い。 「アメリカで1929年の世界恐慌を経験した世代は、その後の株式の保有率が著しく低かったという報告があります。上流でも40〜50代の流動性資産比率が低いのは、就労後にバブル崩壊を直接体験したからでしょう」(森氏) 上流は資産額が大きいものの、借金額も大きく、約4割が1000万円以上の住宅ローンを抱えている(図13)。 「銀行が容易にお金を貸さないいま、住宅ローンを組めることこそ上流の証しなのかもしれません。住宅以外の分野では下流のほうが借金は多いのですが(図14)、銀行から相手にしてもらえず、身内や友人、消費者金融に頼らざるをえない状況に追い込まれています(図15)」(森氏) 給料に関する考え方はどうか。成果給の是非について質問したところ、成果給を支持する声は下流が上流をわずかながら上回った(図16)。上流が高収入の源泉である成果給を支持するのは当然として、下流でも支持派が多かったのは、成果給なら逆転の目があると期待した結果なのかもしれない。 ただ、下流でも将来に期待をもてるポジティブな人はまだマシだ。うつ病の経験を尋ねたところ、上流10.8%に対し、下流は18.9%で、倍近い開きがあった。下流でメンタルが弱い人にとっては、まさに生き辛い時代といえるだろう。 |
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■下流は興味の幅が狭く、対人関係が苦手 2010/7
かつて日本の成長力の源泉とされた中間層は消滅したのか? 中間層の二極化の実態をアンケート結果から詳らかにする。 調査概要/平成22年4月23日から27日までインターネット上でアンケート調査を行った。30〜50代を上流・中流・下流の区分に分け各層の人数がほぼ同数となるよう調整。調査実施機関は株式会社インテージ。 上流と下流は、どこで差がついたのか。教育機会の差が年収格差につながることはよく知られているが、今回の調査でも、年収と学歴には強い相関が見られた(図17)。では教育機会の差はどこで生まれるのだろうか。 上流ほど実家はお金持ちという結果(図18)や、前回(>>記事はこちら)紹介した上流下流の子供の教育費(図4)を見ると、裕福な家庭の子供ほど教育機会が多く、高学歴・高収入につながっていることがわかる。逆に親が下流だと教育機会が少なく、子供も低収入になりやすい。いわゆる格差の再生産だ。 「教育機会の問題は、単に学歴が就職時に有利というレベルの話ではなく、じつはもっと根が深い」 と森剛志氏は指摘する。 「教育機会が少ないと、未知の知識に触れる機会も減り、自分の身の回りだけで世界が完結してしまいます。興味の幅が狭くなると、内向的なキャラクターが形成され、それが原因で仕事でも問題を抱えてしまう。下流は対人関係が苦手で、バーチャルな世界で自我を肥大化させる傾向があるといわれますが、それも教育機会と無関係ではないのです」(森氏) 内にこもりがちな下流のキャラクターは、今回の調査でも随所に見て取れた。例えば1日のうち一人で過ごす時間は、下流がもっとも長い。逆に、家族や友人と過ごす時間がもっとも短いのも下流だ(図19)。またテレビの視聴時間も下流ほど長く1日3時間以上という層が4分の1に達した(図20)。袖川芳之氏は、下流のテレビ好きを次のように分析する。 「人は誰かに承認されることで幸せを感じます。ただ、下流の人は人と直接対話することを面倒くさがり、毎朝『おはようございます』と語りかけてくれるキャスターと想像上のコミュニケーションを取ることを選んでしまう。それが長時間の視聴に表れている」 下流はインターネットの利用時間も長く、1日2時間以上のユーザーが半数を超えている。ただ、上流も1日2時間以上のユーザーが4割を超えており、二極化傾向が見られた(図21)。 「上流と下流ではインターネットの利用スタイルが違います。下流はPCではなく携帯のインターネット。利用するサービスも、お金のかからないコミュニティサイトや無料ゲームが中心でしょう。一方、日中仕事に追われている上流は、夜中にPCで仲間とチャットをするほか、平日夜はネットショッピングで、ストレスを解消するのです」(袖川氏) 読書習慣にも大きな違いがある。年間にそれなりの数の本を読む人が大半の上流に対して、下流では5冊未満の人が過半数で1冊も本を読まない人も2割弱いた(図22)。冒頭に述べた新聞も含めて、体系だった知識や情報を提供する媒体への接触回数が所得と関係するのは興味深い。 よく見ているテレビ局でも、上流と下流には顕著な違いがあった(図23)。上流の約3割がNHKと答えたのに対し、下流では同様の約3割がフジテレビを挙げた。冒頭のよく見るテレビ番組の結果も含めて、上流のほうが時事問題など社会全般への関心が強いと言えるかもしれない。 テレビやインターネットへの接触時間に表れた下流のインドア傾向は、趣味に関する質問にも表れている。上流は4割以上の人が趣味にスポーツを挙げたが、下流は3割以下に留まった(図24)。 「仕事で忙しい人ほど健康管理に気を使い、スポーツジムなどで体を動かす一方、下流層は家にこもって高カロリーのジャンクフードで食事を済ませがちです。かつて成人病は贅沢病と言われましたが、最近は逆で、むしろ下流ほど肥満で成人病にかかりやすい。格差のパラドックスですね」(袖川氏) 上流は外向的で、下流は内向的。今回の調査で裏付けられたそれぞれの特性は、幸福感にも影響を与えている。幸福を感じている人は、上流70.7%、下流42.7%で、圧倒的に上流のほうが幸福実感は強い(図25)。ただし、幸福を感じる要因を尋ねると、上流でも「経済的に恵まれているから」という回答は半分以下にすぎず、「家族や友人、恋人などに恵まれているから」が8割だ(図26)。つまり幸福を左右するのはお金より人間関係であり、上流と下流の幸福感の差も、本をただせば対人関係力の有無に原因があると考えられる。 しかし、不幸要因についての質問では、逆の傾向が読み取れる。幸せを感じない要因について尋ねると、どの階層でも人間関係よりお金を挙げた人が多く、とくに下流は8割を超えた(図27)。結局、幸福はお金と切っても切り離せないのか。袖川氏はこう解説する。 「たしかに物質的な豊かさと幸福には強い相関関係があります。しかし、物質的豊かさがある程度満たされると、それ以外の要因が強く影響します。いわばお金は幸福の前提条件。足りなければ不幸の要因になり、ある水準に達すると、幸福にそれ以上寄与しなくなるのです」 そう考えると、生活に困っていない上流が幸福要因として人間関係を挙げ、厳しい生活を強いられている下流が不幸要因としてお金を挙げるのも納得だ。将来への希望・不安に関する質問でも、上流は家族に希望を見いだし、下流は金銭を不安要因として挙げている。生活を安定させて、はじめてお金以外の部分に幸せを感じる心のゆとりをもてるのである。 ただ、いまや世界経済の中で日本は埋没し、生活水準を上げるどころか維持することすら怪しい時代に突入しつつある。現在上流の人でさえ今後も幸せの前提条件を満たし続けることができるとは限らない。そんな時代に、私たちは幸福を得ることができるのか。上流下流が幸福を感じる要因を次回さらに掘り下げてみよう。 |
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■コミュニケーション能力は“幸福になる能力”と同じ 2010/7
かつて日本の成長力の源泉とされた中間層は消滅したのか? 中間層の二極化の実態をアンケート結果から詳らかにする。 調査概要/平成22年4月23日から27日までインターネット上でアンケート調査を行った。30〜50代を上流・中流・下流の区分に分け各層の人数がほぼ同数となるよう調整。調査実施機関は株式会社インテージ。 上流でも自分は不幸だ、と答える人がいる。逆に、下流であっても幸福だ、と感じる人がいる。 アンケートの答えの掛け合わせで、それぞれの価値観を見てみると、所得とは別に幸福を満たすいくつかの要素が表れてくる(図28〜34)。 まず大きな要因として表れたのは結婚の存在だ。上流でも不幸な人の過半数が未婚なのに対し、下流でも幸福な人で未婚者はわずかに4%(図28)。 また同居する家族については、下流でも幸福な人は配偶者と子供のいる人が多く、上流でも不幸な人は独身で親と同居している人が多かった(図29)。結婚、そして子供の存在が、幸福の大きな要因であるようだ。 生活上の習慣で特徴的だったのが、接触するメディアとの相関関係だ。上流でも不幸な人は、テレビとインターネットへの接触時間が長い。下流でも幸福な人は、その逆で、いずれとの接触時間も短かった(図30・31)。すなわち、幸福感の強い人はテレビやネットをあまり見ない、という結果になった。よく見るテレビ番組やテレビ局については、上流でも不幸な人はフジテレビやバラエティ番組と回答した人が多かった。 上流、下流にかかわらず、幸福感の強い人はギャンブルをしない傾向があった(図32)。また上流でも不幸な人は借金をしている人が多く、下流でも幸福な人は借金が少ない。前述のテレビとの関わり方、そしてこれまでのアンケート結果と併せて考えると、上流でも幸福感の少ない人は下流の人が好むものを好む傾向にあり、下流でも幸福な人は上流の人と同じような行動形態であることが見えてくる。 また、上流でも不幸な人は人間関係よりもお金にこだわる傾向にあり、下流でも幸福な人はお金よりも人間関係を重視する結果も出た(図33)。所得にかかわらず、その人の幸福感を決定する重要な要素は、お金以上に家族を含めた周囲との人間関係のようだ。 そのほか、上流でも不幸と答えた人は自らのことを「下流」と見なし、現状に不満が多く将来も悲観している。下流でも幸福と考える人が、全く逆の傾向にあったことを考えると興味深い結果と言えるだろう。現状や将来を悲観しないことが幸福感に直結している、という結果になった。また、信仰のある人のほうが幸福という結果も出ている(図34)。 以上の分析から、お金さえあれば必ず幸せになれるわけではなく、むしろお金がなくてもそれなりの幸福感を得られることがわかった。 袖川芳之氏は、ゼロ成長時代に対応した新しい幸福の物語として、(1)自分を究める物語(こだわりのある分野にお金を使い、自分の成長物語を追求する)、(2)社会に貢献するという物語(社会に貢献することで、自分の生きる意味や手ごたえを見つける)、(3)人間関係の中にある物語(人間関係の中に自分の居場所を確保する)の3つを挙げている。 「将来もモノを買い続けられるという前提が崩れた以上、それを補う新しい幸福の物語が必要です。私は3つの物語が台頭すると考えていますが、とくに注目しているのは人間関係の中にある物語です。調査にも表れたように、たとえ収入が低くても、家族や友人をつくり、その中で存在を認められれば、幸福を感じます。そこで欠かせないのがコミュニケーション能力。コミュニケーション能力はビジネスでも必要ですが、幸福になる能力として、今後さらに重要性が増すはずです」(袖川氏) 今回の調査からわかったように、もともと上流はコミュニケーション能力が高く、下流は対人関係を苦手とする傾向がある。上流は仮に年収が減ることがあっても、人間関係という保険がある。一方、下流は年収と人間関係の両方が危うい。上流と下流の幸福感格差は、今後ますます開いていくのかもしれない。 |
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■なぜお金持ちは紙袋を持つのか? 2010/8
みなさん、お金持ちの男性はどんなバッグを持っていると思いますか? セレブ必携のゴヤール、それともエルメスのオーダー? ある地方都市で、お金持ちの男性にご馳走になる機会があった。資産200億円、地元の名士で上場企業の一族、しかもどこでも顔がきく人。しかし手には紙袋……それも誰かがお土産を入れて持ってきたような、クシャクシャのお菓子の紙袋だ。 後日東京に戻ってその話をしたら、一緒にいた女性たち(バブル世代のキャリアウーマンで、たくさんのお金持ちを知っている)が「そういえば、XXさんも紙袋、○○さんも」と、いかに多くの有名なお金持ちが『紙袋』を愛用しているかが判明したのだ。その後、資産家で有名なお医者さまに会ったら、やはり彼も紙袋。お金持ちはなぜ紙袋を好むのか? 彼らは紙袋で移動してもOKだからだ。運転手付きの車、タクシー移動とドアtoドアで雨にも濡れない。だから紙袋でも平気なのだ。 また飛行機も「お金持ちはエコノミークラスに乗る」。ある資産家男性のグループは海外にもエコノミーで行く。しかし一本何十万のヴィンテージワインをたくさん詰めてきて、同行の人たちに気前よくご馳走してくれるのだそう。 地方の資産家の息子と結婚した女性は、帰省はいつも新幹線の自由席。ときには子連れで立ちっぱなしもあったそう。前述の地方の名士は、以前は「のぞみ」よりも、安い「ひかり」に乗っていたという。本当のお金持ちは時間があるので、のんびり行けばいいのだ。 『ファーストクラスに乗る人のシンプルな習慣』という本にある「ビジネスの成功者」の話でも、本当のお金持ちは実はエコノミークラスや新幹線の自由席にいるのだ。 「海外ではいい時計や靴がセレブの証だ」というけれど、本当のお金持ちにとって、それも無意味らしい。なぜなら予約の際すでに彼らの身分は割れている。お金持ちは決して粗雑に扱われないルートで予約するし、定宿は決まっている。一流ホテルとなれば、常連の顧客の顔を覚えていないわけがない。安い時計にスーパーで買ったシャツでも、彼が歓待されるのはそういうわけがあるのだ。 ファッションからも彼らがお金持ちか否かはわからない。あるとき友人の会社が出店している介護フェアのお手伝いをしていたら、ジャンパー姿に運動靴の60代後半ぐらいの夫婦がやってきた。奥から社長である友人が飛んできて頭を下げている。 「世田谷の大地主で、高級介護施設をいくつも持っている方なのよ」 どこからどう見ても、年金で地味に暮らす普通の老夫婦に見えた。本当にお金持ちは外見ではわからないのだと実感した出来事である。 またお金持ちはブランドショップにもいない。ものを買うなら知り合いから少しでも安くものを買うのが基本だから。ダイヤなら卸元などから直接買う。「大き目の石をルースで買って、自分で指輪にするのが一番投資効率がいい」などという。また高級ブランド店には、店頭にわざわざ出向かなくてもいい裏ルートが必ずある。 さらにお金持ちは「ブラックカード」や「プラチナカード」も持たない。「ゴールド」ですらいらないという。「年会費がバカ高くてもったいない、普通のカードで十分」なのだそうだ。必要な局面ではコネがあるので優遇されるし、不必要な場所で自分がお金持ちであることを、ことさら触れまわるのはリスクが大きい。 なんてケチなのかしら。これを読んで、呆れているかもしれないが、彼らは「お金を使うところ、使わないところのメリハリがはっきりしている」だけなのだ。ブランドバッグは必要なくても、友達を喜ばせるヴィンテージワインを気前よく開ける。ランチは1円まで割り勘でも、慈善事業に多額の寄付をしている。代々資産家の彼らにとってお金はあって当たり前、それに振りまわされない独自の価値観がしっかりあるのだ。そのメリハリを「ケチ」と嫌うようでは、とてもお金持ちの妻にはなれないだろう。 年末のパーティに招かれた友人は、二次会へ近距離移動のときこんな経験をした。 「大丈夫。近くだし。運転手さんお願いしますね」 大きなダイヤを着け、フォーマルドレスとタキシード姿の大人10人がタクシー2台にわかれ、ぎゅうぎゅう詰めになってワンメーターの距離を乗ったのだ。 「さすがに呆れた。でもこれが本当のお金持ち。見習わないとお金なんて貯まらない」 そのとおり。見栄を張るから無駄な出費も多い。本当のお金持ちは絶対に見栄を張らない。なぜなら彼らは「お金持ち」であることを人に知らせる必要がないのだから。 |
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■2011 | |
■2012 | |
■まだ続くの?中流意識 ―NHK世論調査に思う― 2012/1
1月11日の朝、NHK「おはよう日本」を見ていたら、生活程度の意識についての調査結果を発表していた。この調査は、「RDD法」という、コンピューターで無作為に抽出した電話番号に電話をするやり方だ。65%の回答率で1068名が答えたという。 その結果によると、 ・上→1% ・中の上→8% ・中の中→45% ・中の下→30% ・下→11% 合計すると95%なので残りの5%はどうなっているのか疑問だが、仕方がない。 この世論調査の結果を見たとき、中の合計が83%もあるので驚いたのだが、もう一つ分からないのは、中とか中の中とかいうのを何をもとにしていうのかということである。意識調査だから、人によって感じ方が違うので規定できないと言えばそれまでではあるが。 皮肉な符合というべきかどうか、「上」g1%というのは、アメリカで言われているのと一致するので思わずニヤリとしてしまった。5年前より1ポイント減ったそうだ。日本でもおそらくアメリカと同じく、1%程度の大富豪が富を独り占めにしているのであろう。 「下」が11%で5年前よりも3ポイント増えたのは、さもありなんと思う。実際はもっと多いのではと思うぐらいだ。ちなみに中の上は-4、中の中-1、中の下+3だそうだ。 国民の生活程度の調査が始まったのは1958年で、戦後13年目である。 ・上→0.2% ・中の上→3.4% ・中の中→37% ・中の下→32% ・下→7% というのが、第1回調査の結果であった。 その頃は、三種の家電神器と言われた白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫がもてはやされた。1956年には経済白書で「もはや戦後ではない」そ宣言された。神武景気と言われたが、自動車はまだまだであった。 それが1970年に入ると、中流意識が90%になり、その後バブルの崩壊まで続くのだ。そして崩壊後は日本経済長い低迷にに入り、今では失われた20年と言われる。 けれども高度成長期を通じて自動車が普及し、住宅も戸建てやマンションなどよくなった。テレビはカラーテレビになり、パソコンや携帯電話も当たり前になった。 輸入によって食料も豊富になり食品のバラエティにも富んでいる。衣服も中国やベトナムなどで縫製されて大変安く手に入る。 リーマンショック後、世界経済は変調し、さらにEUの金融危機で先行きが不安である。小泉・竹中改革で雇用が不安定になり、正社員が減り、臨時雇用が増加した。そこへ昨年は東日本大震災と大津波が襲った。 先行き不透明な中で何となく不安を抱きながらの生活であるが、それでも生活程度の意識は冒頭のような結果だという。 私はどこに入れるか思案してみたが、中の下かなと思う。先にも書いたように、そもそも中とは何かという基準がないからあくまでも自分の気分である。 オーストラリアやカナダ、はたまた中国の上海などの住宅を見ると、広壮でゆったりとしている。そこへ行くと日本は相変わらずラビットハッチと揶揄された域からそれほど抜け出てはいない。 |
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■働き過ぎ、使い過ぎる、いまだ中流気取りの日本人 2012/1
■景気が悪いのに明るい欧州人、裕福なのに満足しない日本人 ギリシャやイタリア、スペインなど、前回と前々回の2回にわたってご紹介したユーロ危機は、まだまだ危ない経済状況が続いている。世界的な格付会社のスタンダード&プアーズは、欧州の大手金融機関の格付を1〜2段階下げる方向で検討している。 そんな厳しい経済状況の中でも、庶民たちは日々の生活を愉しんでいるようだ。毎日デモが続くギリシャでも、街のカフェをのぞけば、初老のおじさんたちがバックギャモンに乗じてたり、イタリアでも、街の広場にたむろして、カルチョ(サッカー)話に華を咲かせている。どんなに厳しい状況でも、日々の暮らしを愉しもうという彼らの意識は、昔から変わらないようだ。 一方日本では、欧州各国に比べて、格段に裕福な生活を送っているというのに、まだまだ満ち足りず、現状に不満を抱く人も多く、相変わらずバッグや靴など高級ブランド品や高級外車に目がないようだ。 なぜ日本人は、交通手段や住宅もそれなり発達して便利になり、教育や医療などの社会保障も充実して、日々の生活には困らないはずなのに、毎日満ち足りず、もの足りないと思うのだろうか。 それはひとえに、生活は裕福なのに、心に余裕がないからである。現在の日本では、先行き不安になるのは当たり前かもしれない。まだまだ続く福島原発の放射線問題や経済の停滞、そして危機的な国家財政、将来の見えない年金不安など、暗くなるような問題が山積しているからだ。 しかし、ユーロ危機や格差デモを見るまでもなく、それは欧米でも同様で、難問は山積している。 ■いまだに“中流意識”の亡霊に悩まされる日本人 特に欧州では、高い失業率に悩まされ、仕事もお金もない人たちが溢れている。ただ、そんな境遇を嘆いたり悲しんだりしても、何も変わらないということで、すべて受け入れた上で、毎日を楽しく過ごす術を知っているのが、日本人と違うところである。 日本人の“中流意識”はかなり以前になくなったと考えられていたが、じつはまだまだ心の奥底に残っており、周りを見てうらやんだりあせったりすることが多いのである。 もともと欧米では中流層など存在せず、富裕層か庶民層のどちらかで、ほぼ9割以上が後者に属している。したがって夏休みなら、富裕層は高級リゾートへバカンスに、庶民層でも田舎の親戚や友人の別荘に泊まり込んで、長いバカンスをとる習慣が上から下までできあがっているのだ。 ただバカンスだからといって、やみくもにお金を使うのではなく、環境のよい田舎で、仕事抜きで普通の生活をおくり、リフレッシュしてくるのである。それがまた、仕事に対する意欲につながっていくというわけだ。 また毎日の仕事も定時になれば、まっすぐ帰宅して、6時には家族と夕食の団らんを囲むというのが通常だ。もちろん残業は基本的になしで、残業をするには、会社の許可が必要になる。 ということは、残業でもなく家にまっすぐ帰らない人は、まず「亭主失格で、悪い父親」というレッテルを貼られるのだ。日本人ならあり得ないことだが、あのちょいワルのイタリア人モデルのジローラモ氏も、「日本のサラリーマンはうらやましい。夕食までに帰れなくても電話1本しなくていいなんて。イタリア人がそんなことをしたら、1回で大げんか、2回で離婚ですよ……」とこぼしている。 ■まだ実在する! まるでアラブの富豪のような日本の専業主婦 これまで日本人は仕事に生きがいを感じ、家族や趣味は二の次で、定年退職する頃になってやっと、自らの余生をどうやって過ごすか考えるというのが一般的であった。 しかし、経済が停滞して、自分のやりたい職に就けないどころか、職探しに明け暮れる時代に突入する中で、自ずと価値観も変わってきたのではないだろうか。オン(仕事)で苦労する分、オフ(プライベート)で満足するようにしないと、心身のバランスがとれなくなってくる。 バリバリ仕事をしてお金を稼ぐことに集中するより、現在の環境の中でどうやって愉しんで生活していくかを考えれば、心に余裕も生まれてくるのだ。 たとえば『プレジデント』(2011.11.14号)によると、年収が400万円でも、やりくりを上手にすれば、それなりの豊かな生活ができるし、年収1000万円以上でも、散財していれば、金欠でストレスの溜まる生活をおくらなくてはならない。 たとえば、大手マスコミに務めるAさんは、年収1200万円だが、貯金はなんと100万円しかなく、毎月赤字に悩まされているという。 なぜなら、夫婦でカードを持ち、何でも購入するので、毎月の支払が30〜40万円になる。クレジットカードはとても便利な決算手段だが、現金より2割以上多く使ってしまうという傾向があるのだ。 つまり夫婦2人で、現金決済より4割以上多く使ってしまっているということになる。さすがに、これではまずいと考えたAさんは、妻に、「現金を渡すので、カードの使用を控えてほしい」といったところ、「限度を考えながらお金を使いたくない」という理由で拒否されたという。 まるで、アラブの富豪が使うセリフのようだが、最近では「やりくり」や「家計簿」という単語は、もはや死語になりつつある。 ■「貧乏」「低学歴」「病弱」の3大ハンディキャップを抱えて大成功した松下幸之助 「やりくり」や「節約」などという単語は、庶民層のイメージが強いが、じつは富裕層の人たちほど「やりくり」や「節約」に関心が高く、自分なりの金銭感覚をしっかり持っている。そして、その金銭感覚は、自分の生い立ちや親から影響を受けることが多い。 いちばんよい例として、松下幸之助氏があげられる。幸之助氏の成功の秘訣は、3つあげられる。それはまず、貧乏だったこと、次に学歴がなかったこと、最後に体が弱かったことだ。 こういった逆境を克服するために、企業経営でも「やりくり」と「節約」をモットーとして、大成功に導くのである。「貧乏」「低学歴」「病弱」という3大ハンディキャップを抱えて大成功した人は、幸之助氏以外にあまり見当たらないが、つまり、成功してお金持ちになりやすいのは、これまでお金に縁のなかった人たちなのである。 一方、普通の家庭でお金に不自由せずに育った人は、お金持ちにはなれないことが多い。お金に対して攻めの気持ちになれないことで、成功率も少なくなるわけだ。 ただし、幸之助氏のように「大成功」しなくても、「幸せな気持ち」なることはできる。それは、自分の好きなことを見つけて、とことん追求することだ。 お金持ちの共通点としてあげられるのは、自分が大好きなことを、あまりお金にならなくてもやり通すこと。それによっって、満足感や達成感が得られる。結果ばかり気にしていては、そんな気持ちは味わうことができない。 そんな気持ちを続けていけば、人生に余裕ができて、周りの人たちにも応援されて、いつのまにかお金が貯まっているのだ。 ■いちばん危ないのは、年収1000〜2000万円のプチ富裕層 実は逆に、お金持ちは楽しいことしかやっていないからこそ、お金持ちになれたともいえるだろう。必死に頑張らなくても、成功への道が開けるということが理解できて、実践できれば、あなたが大富豪になる日も近いかもしれない。 では、普段からお金に対してどんな気持ちでつき合えばよいのだろうか。ここで、お金に関する多くのベストセラーを著している、本田健氏のアドバイスを紹介しておこう。 お金と人との関係は大きく分けて、3つあるという。それはまず「奴隷関係」。お金に振り回されたりしがみついたり、お金が主人で自分は奴隷に成り下がっている関係だ。こんな人は、どんなに稼ぎかよくても、けっしてお金が貯まらないので、いつも赤字でイライラしていることが多い。 2番目は、「お金の主人になる人」だ。一見お金が貯まって幸せそうに見えるが、実は何でもお金で解決できると思い込んでしまい、周りの人や関連会社との摩擦で、ストレスが溜まっている。 最後は、「お金とよい友人になる人」だ。お金を楽しんで稼いで、楽しんで使えるので、どんどんお金が貯まるようになる。 実はほとんどの人が、はじめにあげた「お金の奴隷」になってしまうので、稼ぎがよくても浪費が多くなり、破綻してしまう人も多い。特に1000万円以上稼いでいる人にありがちだが、仕事で忙しく、時間的に余裕がないので、ストレスが溜まり、どっと大きな浪費をしないと気分が収まらなくなる。取り立てて必要のないブランド品を多く購入したり、高級クラブで遊んだり、高級外車を乗り回したり、散財傾向が強くなる。 実は、本当にお金にゆとりができるのは、3000万円以上稼ぐ人たちで、1000〜2000万円くらいの中途半端な年収では、万年赤字体質で借金を抱えることが多いのだ。 ■大富豪曰く、「日本人は飢え死にを待っているペンギンだ」 1000万円を稼ぐのにあくせくして、ストレスだらけの生活をおくるなら、1000万円以下でもやりくりしながら、好きなことをやって、家族と仲よく暮らすというのが、なによりも幸せだろう。 「お金」の豊かさより、「心」の豊かさを重視することは、実は富裕層の境地と同じなのだ。つまり、お金を持っていなくても、だれでも富裕層の境地に達することができるということが理解できれば、あなたは本当にお金持ちになれるかもしれない。 それには、常に自分自身で「自分にとってお金とは何か?」と問うて、自分なりの答えを出して、それにもとづいて日々の生活をおくっていなければならない。「お金とは?」と聞かれて、即答できることこそ、いちばんの富裕層への近道なのだ。 ここで、ある億万長者からの日本人に向けての箴言を紹介しておこう。 「日本人は、まるでペンギンだ。何でも全員揃って、右へ倣えがモットーでやってきたが、もうだめだ。もともとペンギンはトラウマの生き物で、仲間が海でシャチに喰われても傍観して、自分は陸地で飢え死にしてしまう。いまの日本人は、飢え死にを待っている状態だが、それでいいのか!」 これは元暴走族で、自衛隊にも入隊を断られた札付きのワルだったが、現在はインドネシアのバリ島でいくつもの企業を経営して、優雅な日々を送る大富豪が発したセリフである。さあ、あなたならどう答えるのか? |
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■「10年前と比べて…」米中流意識保有者に見る経済状況の変化 2012/8
今調査のうちPew Research Centerが調べた部分については、同社が2012年7月16日から26日にかけて、RDD方式で選ばれたアメリカ合衆国内に住む18歳以上の男女2508人に対して、電話の音声にて英語・スペイン語を用いて行われたもの。調査結果には国勢調査を基にしたウェイトバックがかけられている。 今項目では厳密には「上流」「中の上流」「中流」「中の下流」「下流」に区分されており、そのうち「上流」「中の上流」を「上流」、「中の下流」「下流」を「下流」にまとめている。 以前【アメリカの中流意識】でも伝えたように、全体では約半数の49%の人が「自分は中流階級にある」という意識を持っていた。「上流」は17%、「下流」は32%となる。今件はこの「中流」を自覚する人たちに対する問いである。 ○ 自分は上流・中流・下流のどの階層にいると思うか(米、2012年) まずは「10年前と比べた、今の自分の経済状態」の安定性。全体では「安定化した」「不安定になった」がほぼ同数。 ○ 10年前と比べて今の自分は経済的に安定しているか(米、2012年)(自分を「中流」と回答した人限定) 男性よりは女性の方が安定感を覚え、学歴ではあまり差異が無い(かろうじて高学歴の方が安定性が高い、ようにも見える)。むしろ目に留まるのは世代別。高年齢層ほど不安定さが増したという回答が多数を占めている。ただし50代以降になれば退職する機会も増えているため、「職についていないので」「再就職したが以前の職よりは給金が低いので」経済的に不安定化したと回答する事例も多分に考えられる。 経済的な面だけでなく、総合的・社会全体として「将来は悲観的である」と考える人は全体で7割。高齢層・低学歴ほど値は高め。 ○ 10年前と比べて今の社会は「将来に対して悲観的」である(米、2012年)(自分を「中流」と回答した人限定) 10年前と比べると将来に悲観的な想いを抱く人が7割もいることに驚くと共に、現状を再認識させられる(ただし今件は「中流」回答者が調査母体であることに注意)。また、高齢層になると8割前後の悲観論を抱いている。若年層の6割台と比べて10ポイント強もの差異がある。 最後は比較対象をもう少し手前、【米リセッション2009年6月終了宣言・期間は戦後最大の長さと確認】でも伝えたように2007年12月-2009年6月までと認定された直近の「リセッション(景気後退期)」以前とした場合の、経済状態の比較。全体では32%が改善化、42%が悪化と回答しており、概して懐具合が悪化しているという認識が強いのが分かる。 ○ 2007年12月から始まったリセッション以前と比べ、自分の世帯の経済状況は良くなったか(米、2012年)(自分を「中流」と回答した人限定) リセッション前後の自前の経済状態については、学歴ではほとんど差が無い。男女別ではやや女性の方が状況の改善が見られる。また世代別では概して「若年層=良好化」「シニア層=変わらず」の動きがあるが(「悪化」はほぼ同じ)、これはこの数年の間に就職・昇進・昇給などの機会が若年層ほど多く到来したと考えれば道理が通る。また、高齢者ほど住宅資産を持ち、その下落の影響を受けているため、なかなか改善化まで到達できないという面もあろう。 今件はあくまでも全体の半数近くを占める「中流階層意識者」によるもの。当然「自分が上流」にあると思う人は「経済的に回復した」と考える人は多く、「自分が下流」と判断している人は「かえって懐周りは悪くなった」と考えている人が多い。 |
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■2013 | |
■「一億総中流」を支えきれなかった結果としての格差 2013/11
近代日本の礎は終戦から作られたと言っても過言ではないと思います。荒廃した日本に残されたものは生き残るための努力しかありませんでした。人々は協力し、焼け野原でビジネスを始めました。農村でも水や肥やしを皆で分配しました。そこに一億総中流という発想が芽生え始めました。 高度成長期は日本に企業の成長と繁栄をもたらしました。そこで働く人々は組合活動を通じ、ベースアップ、賞与があがるよう戦い、勝ち抜きました。一時期、組合経験者は経営幹部になれる近道とまで言われました。今の若者が1960年安保当時のゼネストの様子を見たらどこの国の光景かと思うでしょう。それぐらい日本人は団結していたのです。だからこそ、同期の給与と100円の差がつくことに異様にライバル心を燃やし、人事に食ってかかったりしたのです。今、そんなことを言ってもはぁ、と言われるのが落ちかもしれません。日本は熱かったのです。 その高揚はバブルでピークを迎え、一気にしぼんでしまいました。「しぼんだ」とは「お前、日本丸から振り落とされるなよ」という相互扶助がワークしなくなったということです。仲間がリストラで一人、またひとりと辞めていく中、助け舟も出せなかったのが実態でした。 日本で富の差が出来た理由は失われた20年に起因すると考えています。一億総中流の枠組みが崩れ、世代替わりにおいて中流意識から下流意識を感じてしまったことが挙げられます。林真理子の「下流の宴」はまさにその代表作であったと言えましょう。よく小泉内閣で非正規雇用が増えたことを格差の理由とする説明も見受けられますが、本質的には日本が一億総中流を支えるだけの経済を維持できなかったと言うことです。維持できないから非正規雇用が生まれ、更にそれが促進されたとみたほうがすっきりします。 もう一つ見逃せないのはリストラの浸透や外資の進出でサラリーマンから起業という流れが出来た点でしょうか? 世の中は廻るという言葉がありますが、終戦直後、バラック小屋の商店が林立したのは食うに困り、商売を始めたからでした。バブル崩壊でリストラされ、食うに困ったから必死で勉強し、起業したとすれば発展的な同様のサイクルがそこに見て取れるのです。この一部の起業家の中から図抜けた才覚を見せた人たちがいます。楽天の三木谷氏をはじめ、名前を挙げればきりがないほどたくさんの成功者を生み出しました。もちろんIPO成金もいます。私ですら何人かそのような方を存じ上げています。 これは日本が再構築期にあるといっても良いでしょう。それは知恵と才覚で采配を振るう者とそれに振り回される者の格差の上に成り立っているともいえます。これが日本の富の格差を生んだシナリオかもしれません。 富の格差について三回に分けて寄稿させていただきました。カナダ編では移民国家が生んだ格差を、アメリカ編ではMBAが生んだチャンスの絞込みが、そして日本では失われた20年で崩れた一億総中流にその原因があるのではないかと指摘させていただきました。 もちろん、富の格差の問題には世界共通の基盤もあります。例えばグローバリゼーションが生んだ価格破壊はもはや当たり前のように思われていますが、その破壊力は強大でした。中国のWHO加盟とそれに伴う衣料のクォータ撤廃による価格破壊はすさまじいものがありました。TPPは同様の結果をもたらすと想像します。つまり、努力だけでなく勝ち抜ける者だけが報われるのです。 更にIT革命は雇用形態にフレキシビリティが少なかった日本や韓国に大きな衝撃を与えました。 富を形成するのに一昔前は努力が評価されていたと思います。しかし今や仁義なき戦いが続き、勝者と言えども常に勝ち続けないことにはいつでも振り落とされる時代になってきたともいえるのかもしれません。1%の人にもそれを維持する苦しさもあるということです。 格差も世界地図を眺めているといろいろなピクチャーが見えて奥深いものだと考えさせられた次第です。 |
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■アジアで拡大する中流階級――空前の繁栄は目前に 2013/12
アジア地域における中流階級の拡大は驚異的だ。世界経済フォーラム(WEF)のグローバル・アジェンダ会議は、アジアでの中流階級の拡大が「2014年の世界の10大トレンド」の1つになると考えている。 アジアの中流階級は現在、5億人規模だが、これが2020年までには17億5000万人と7年間で3倍の規模へと急拡大しそうだ。こういったことはこれまでに例がなく、歴史上、最も大きな地殻変動の1つとなるかもしれない。 アジアの人々が子どもたちの未来を明るいものととらえていることに不思議はない。調査機関ピューによれば、調査を行った中国人の82%は、子どもたちが将来、親世代よりも経済的に恵まれると考えているという。 アジアの地域社会が今、このように成功しつつあるのは、重要な改革について遂に理解し、吸収し、実行し始めたからだ。重要な改革とはすなわち、自由主義経済や科学技術の習得、プラグマティズムの文化であり、実力主義や平和の文化、法の支配、そしてもちろん、教育だ。 アジア全体で急激に生活水準が上がり、いたるところから貧困が消えつつある。例えば、中国では、市場の改革に着手して以来、絶対的貧困から6億人以上の人々が抜け出した。過去数世紀に見られたよりも、はるかに大幅な生活水準の改善がアジア地域で進むだろう。そして、さらに多くの恩恵が生まれるだろう。 こうした変化によって波及する重要な好影響のひとつは地域内の紛争の減少だ。 アジア地域はまだ、西欧が到達した、戦争の可能性がゼロという素晴らしい水準には達していない。しかし、伝統的には戦争の可能性を減らすことにつながる中産階級の拡大によって、そうした方向へ進んでいるといえるだろう。 全てが朗報というわけではない。直面する最大の課題は、これら全てが環境に影響するということだ。 もし、アジアで拡大した中流階級の全員が西欧のモデルを通じ、西欧の生活水準を切望すれば、地球環境にかかる負担は破滅的なものとなるだろう。 米国の電力消費量は2010年に1人当たり1万3395キロワット時に達した一方で、中国とインドはそれぞれ、同2944キロワット時と同626キロワット時だった。中国とインドは現在でも米国の3倍を超える人口を抱えている。しかし、1人当たりの電力消費量はごくわずかだ。 アジアにおける中流階級の拡大を押しとどめることが出来ないのは明白であり、そうであれば、こうした社会が環境に与える影響について、より責任を持つようになることが望まれる。 アジアの指導層は、この領域でなすべきことがあることは理解している。しかし、解決策という意味では、先進国が途上国に対して模範を示して導くことも重要だ。これは、長期的な政策を考える人たちにとって大きな挑戦だ。 もし、中国のような国に、地球環境に対して注意を払う責任ある利害関係者として台頭してきてほしいと望むなら、そのやり方を言葉ではなく行動で示さなくてはならない。 この大きな流れにアジアの中流階級が寄与できるとすれば、その方法のひとつは、科学技術分野に大量の「脳力」を送り込むことだろう。 日本のエネルギー効率の水準は中国の10倍だ。だから、もし中国が教訓から学ぶことが出来れば、拡大する中流階級は環境負荷の少ない科学技術の研究といった分野に貢献できるだろう。資源の利用を抑制しながら、より大きな経済成長を生み出すことにつながるかもしれない。 だから、アドバイスは簡単だ。特にアジアで顕著な中流階級の拡大という世界的な流れを歓迎すべきだ。その大陸に住む人々の生活水準は10年にわたり上昇し、過去何世紀も享受してこなかった水準の平和と繁栄を経験することになるだろう。環境問題などの課題を克服することが出来れば、 繁栄が何年にもわたって続くことに疑問はないだろう。 |
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■2014 | |
■「格差」の戦後史 2014/1
戦後日本は格差の少ない中流社会だった、小泉改革が格差を拡大させた、日本はいまだに苛烈な学歴社会だ。日本の「格差」を象徴するようなこれらの言説は、マスメディアでも繰り返し喧伝され、広く浸透してきた。しかし、「格差が少ない」とは具体的にどのような状態なのか、格差が拡大するとは何が大きくなることを意味するのか。そもそも、「格差」とは何で、どのように分析されるべきものなのか。 著者は、大規模調査による数字をベースに、「格差」にまつわる神話を一つずつ検証していく。また、戦後を以下のように5つの時代に分け、マクロな視点から日本社会がどのように変遷を遂げてきたかを明らかにする。そして最後には、「アンダークラス」という新たな階級が誕生した2000年代が描かれる。 第T期:混乱の続く、戦争直後の5年間 第U期:経済復興とともに格差が拡大した50年代 第V期:高度経済成長を遂げ、格差が縮小した60年代 第W期:一億総中流時代の70年代 第X期:実は、現在へ至る格差拡大が始まった80年代 第Y期:本格的な格差時代へ突入した90年代 定量分析を軸としながらも、その時代を彩った映画、流行歌や漫画などが巧みに引用され、遥か遠くの過去がその臭いとともに浮かび上がってくる。格差を生み出す階級構造は、人々の生活の舞台装置であると著者は説く。暮らしのあらゆるところに、その舞台装置の影響がみてとれる。1946年に連載を開始した『サザエさん』からは戦後のヤミ市の存在の大きさが、70年代の流行歌「木綿のハンカチーフ」からは農村から都市への大規模な人口移動が生み出した無数のドラマがひしひしと伝わってくるのだ。本書を読んでいると、タイムマシンに乗り、駆け足で戦後60年を体験しているような気分になる。 この本は、2009年10月に出版され「根拠のない格差議論に終止符を打った」とも評された同タイトルの増補新版である。細かな部分での修正が施され、3つの補章が追加されている。補章ではそれぞれ、東日本大震災で顕在化した「地域間格差」、世代間格差に直結する「若者の貧困」、そして女性の社会進出と関連して「戦後における主婦」が論じられる。著者は、格差にどのように対処すべきかという政策論を意図的に避け、戦後日本における格差問題の実態を明らかにすることにフォーカスする。本書はこれからも格差論を語るための出発点となるはずだ。 感覚的に理解していることでも、改めて具体的な数字とともにその実態が描き直されると、新たな発見と驚きがある。例えば、45.2%という数字。これは1950年の日本における、有業者全体での農民層の割合である(2010年の国勢調査で第一次産業従事者はわずか4.2%)。この数字だけでも、日本がこの60年でどれだけ劇的に変化したがうかがい知れる。 もちろん、直感や定説を否定する数値も多い。個人間所得の格差を表す数値であるジニ係数(小さいほど格差が小さい)の変遷を見てみると、1952年から2004年の間で最も低い値を示しているのは1952年の0.307であり、最も高い値となっているのは2004年の0.387だ(どちらも再分配所得の数値)。これまで、戦後の数年間は「圧倒的な格差の時代」として語られることが多かった。しかし、ジニ係数によるとこの時期の経済的格差は実は戦後のどのタイミングよりも小さかったということになる。 それではなぜ、戦後直後は「格差の時代」として記憶されてきたのか。それは、当時の人々が、「格差」を現実のものとして体験していたからだと著者はいう。戦争で全てを失った日本は、貧しかった。小さな格差(例えば所持金にして数百円の差)は、強烈な飢えとして、生命を脅かすものとして襲いかかってきたのだ。経済指標だけを見ていても、格差の実態は見えてこない。 格差を考える土台となる階級構造は、カール・マルクスによって階級理論として確立され、多くの社会学者たちによって精緻化されてきた。著者は、日本全体を「資本家階級」、「新中間階級」、「労働者階級」、「旧中間階級」の4階級に分類して、各階級の関係性を分析していく。詳細な定義は本書に譲るが、おおよそ資本家階級は中規模以上の企業の経営者・役員、新中間階級はホワイトカラー、労働者階級はブルーカラー、旧中間階級は零細企業経営者・役員というイメージである。 本書で明らかにされるように、日本の格差は1980年代から一貫して拡大している。そして、90年代以降には男性非正規労働者が激増し、2000年代に入ると4つの階級のどこにも所属しない「アンダークラス」が現れ始める。このアンダークラスに分類される人々は、「極端な低賃金、家族形成と次世代を再生産すること」が困難であるという新たな特徴を持っている。1960年代は貧困層の方が既婚率は高く、「貧しいと結婚できない」という現象は見られなかった。階級間の移動(親世代と異なる階級への所属)も減少傾向にあり、生まれた際の階級が固定される確率が高くなっている。 日本の格差は今後どのように変化していくのか。私たちはどのように格差と向き合うべきなのか。日本を待ちうける未来は、これまで経験してきたどのような過去にも似ていないものになる兆しをみせている。これからの格差を考えるためには先ず過去を見つめ、我々がどのような世界を望むのかを考えなければならない。 |
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■「中流階級を再定義する」 Paul Krugman 2014/2
アメリカにはおかしなことがあれこれある。その1つは、長らく見られる傾向として、自分のことを中流階級だと考えてる人たちがとてつもなく広範囲にまたがっている点だ――そして、彼らは自分を欺いている。国際的な基準にてらせば貧困者ってことになるはずの低賃金労働者たちは、中央値の半分を下回る所得でありながらも、自分たちは中の下にあたる階層だと考えている。その一方で、中央値の4倍や5倍の所得をもつ人たちは、自分たちのことをせいぜい中の上にあたる階層だと考えてたりする。 でも、これはいま変わりつつあるのかもしれない。新しい Pew 調査 (pdf) によれば、下層階級を自認する人たちの数は急増してきてるし、それほど急増ではないまでも、中の下を自認する人たちの数もいくらか増えている。そのため、現時点で、「下層」のいろんな範疇を合計した数字は、いまや人口の過半数に迫っている――正確に言うと、えっとね、47パーセントに近い。 これは、とても大きな変化だとぼくは思う。1970年代以来の貧困の政治は、「貧乏人ってのは『連中』のことだ、俺たち働き者のホンモノのアメリカ人とはちがう」という世間の思い込みに立脚してきた。この思い込みは、数十年にわたって現実との接点をなくしている――ところがいまになって、これが現実味を帯びて来ちゃっているらしい。ただ、このことが意味するのは、「人格の欠陥が貧困の理由だ」「貧困対策プログラムは生活をあまりに安逸にしてしまうのでダメだ」と主張する保守派たちが語りかけている有権者たちは、その多数が、自分もセーフティネットの助けをときに必要とする人間の1人と認識してる『連中とはちがう』さんたちだってことだ。 でも、まだまだ先は長い。86パーセンタイルのアメリカ人のみんなへ:「自分は中の上だ」と思ってるなら、キミはホントに見当違いをやらかしてるからね。 「お金と階級」 上記の議論の発端になったのは、〔読者から寄せられた〕予想どおりの反応だ。そうした反応は2つの項目に分けられる:(1) 「でもあいつらだって携帯もってるじゃん!」派と、(2) 「ふるまい方の問題であって持ち金がいくらあるかって問題じゃないよ」派、この2つ。 どちらに対しても、こう言っておきたい。中流階級であることについて語るときには、その地位の属性で決定的に大事なやつを2つ、念頭に置くべし:安全と機会だ。 ここで言う「安全」とは、人生にありがちな緊急事態がいざ起きてしまってもそれでどん底に転落しなくてすむだけの十分な資源と支えのことだ。つまり、それなりの健康保険にかかっていて、ほどよく安定した雇用があって、さらに、自動車やボイラーの買い換えが危機にならないだけの十分な金融資産をもっているってこと。 また、ここで言う「機会」とは、主に、自分の子供にいい教育を受けさせたり就職の見通しを与えられること、なすべきことをやってあげられないせいで子供たちにドアが閉ざされるような思いをさせないですむことを指す。 こういう安全や機会をもちあわせていないなら、キミがおくってるのは中流の生活じゃあない。車を1台もっていたり、アメリカ人の大半がほんとに中流だった時代には出回ってなかった電子ガジェットをいくらかもっていたりしても、キミのふるまい方がどんなにていねいで厳格で賢明であっても、安全と機会がないなら中流じゃない。 さて、Pew 調査によれば、2008年のはじめ頃には、自分のことを下層階級だと考えるアメリカ人はたった6パーセントしかいなかったし――正式な貧困率をはるかに下回ってる!――それに、上流階級だと考えてたのはたった2パーセントで、「わかりません」は1パーセントだった。つまり、アメリカ人の91パーセントは――大雑把に言って、所得が1万5千ドルから25万ドルのあいだに位置する人たちは――自分のことを中流だと考えていたわけだ。そして、そういう人たちの大半は間違っていた。 健康保険を考えて見るといい:貧困ラインより大幅に上に位置するアメリカ人の多くは、つい最近まで保険未加入だったか、いまも未加入だったりする。それに、保険適用を失うリスクを抱えていた人はもっとたくさんいた。 ということは、ぼくに言わせると、それだけでも彼らは中流じゃないってことになる。低賃金労働者の多く、もしかすると大半は、金融資産なんてほとんど持ち合わせていないし、退職プランその他もない。 じゃあ、機会の方はどうだろう? アメリカの公立学校の品質は低いのから高いのまで幅広い。そして、低所得の家族は、いい学区に住むお金を出せない。公的機関への援助金が減ったことで、大学教育は前よりはるかに受けにくくなっている。家計の所得しだいで、大学を卒業する確率は劇的にちがっている。 なんならもっと続けてもいいけど、これだけ見れば(そして、生活の現実的な諸事情がちょっとでもわかってれば)、もう明らかだよね。多くのアメリカ人は――ほぼ確実に、大多数は――ぼくらみんながよく知ってる中流階級の生活に必要な条件を満たせていない。 要点は、もしぼくらが選択するなら、中流階級のあり方に必要不可欠なものをほぼすべてのアメリカ人に保証できるってことだ。他の先進国がやってるようにね。国民皆健康保険はあって当然だ。その当たり前に向かって、ぼくらはようやくおずおずと一歩進みつつあるけれど、右派はヒステリーを起こしてその動きに対抗してる。他の先進国では、国民みんなにいい基本的教育と無料または安価な大学教育を利用できるようになってる。 悲しいけれど、ぼくらの中流階級崇拝、あたかもぼくらのほぼ全員があの階級の一員であるかのような思い込みこそ、ぼくらの多くが実際には中流じゃなくなってる主な理由なんだ。だからこそ、社会階級の実情が国民のあいだでどんどん認識されるようになってきてるのは、いいことだ。そういう認識が広まることで、いまはまだ見せかけしかない中流社会を実際につくりだすことに着手できる確率が増えるんだ。 |
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■10年後は年収600万円の“新中流階級”が主流に 2014/4
終身雇用制度が崩れ始め、誰もが「自分らしい働き方」を模索する時代がやってきました。私たちの働き方はこれからどのように変わっていくのでしょうか? 毎回、ゲストを迎えながら、現代日本を生きる働く女性の未来を考えます。今回はリクルートキャリア特別研究員の海老原嗣生さんに働き方の未来予測について、話をお聞きしました。 ■ 「私たちの働き方☆未来会議」という連載ですから、まず未来予測の話から始めてみましょう。 10年後の未来――私は「新中流階級」という年収600万円台の層が生き方の一つとして生まれていると思います。「自由なヒラ社員」などと表現してもいいかもしれません。「自由なヒラ」でさびない生き方ができている――そんな生き方・働き方が人々の選択肢の一つになると考えます。 現在の日本の大企業では正社員として働く以上、長時間労働は避けられない状況になっています。そのいわば“代償”として、課長職以上まで出世すると1000万円台の年収が約束されているわけです。ところが最近、一生ヒラ社員の人が増えてきています。大卒50歳〜54歳の男性社員で、部長や課長などの管理職についていない人は次第に増え、係長職などの役職も何もない“生涯ヒラ社員”の人は3割に迫ることが賃金構造基本統計調査のN数から推定できます。 日本の雇用慣行では総合職の人たちの尻を叩き続けます。その結果として、係長くらいで昇進が止まったとしても大手なら800万円以上の年収は保証してもらえますが、反面、こうした忙しい働き方が主流だと、育児や介護のためにキャリアをあきらめざるをえない人々が出てきてしまいます。 正社員だと一律で、ある程度の難易度の業務と長時間労働を強いる代わりにポストや高年収を約束する従来のモデルは、日本経済の成長が停滞する現在、無理がきていると言わざるをえません。 そんな傾向の中で、600万円台くらいの年収で、さほど業務の難易度も上がらず、長時間労働を強いられることもない「新中流階級=一生ヒラ社員」が今後増えていくのではないかと予測できるのです。 600万円台くらいまでの年収であれば、転職市場でも仕事を見つけやすく、流動性が高まります。ビジネスの最前線で実務をやっている人材ですから、どこの会社でも通用するのです。例えば、人材紹介会社で営業をやっていた人が、生保業界や住宅業界で営業として活躍することも可能です。現場で生産技術、品質管理、詳細設計や営業、事務、積算そのほかもろもろの実務をやっていた人たちは即戦力として非常に価値を持ちます。「どこでも通用するハイパーなスキルを持たないといけない」なんてことはありません。 そもそもハイレベルな業務内容になればなるほどキャリアは閉じていくんです。例えば、銀行の業務内容でお話ししましょう。新入社員はまずは個人融資を経験します。その後、キャリアを積んでいくと大企業相手の資金繰りなどを担当するようになるわけです。前者の業務であれば保険業界や自動車業界でも営業職として通用するでしょう。商品知識は半年もあれば身につきますから。後者の業務内容になると、銀行以外ではなかなか汎用性がきかなくなります。 原子力発電所のプラント営業をやっていた商社マンよりも、小麦粉を外食チェーン店に卸していた人のほうが仕事はある。 個人力で勝負するミドルスペシャリストが増えるというのが、未来の働き方を読み解くキーワードの一つになるはずです。 |
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■所得格差の拡大は経済の長期停滞を招く 2014/8
「1億総中流」と言われたように、日本社会では、ほとんどの人が自分の生活は中流であると考えているとされてきた。自分は周囲と同じような生活をしていると考える人が多く、社会から疎外されていると感じている人が少ないということは、日本に社会の安定をもたらしてきた大きな要因だろう。窃盗、強盗、殺人といった凶悪犯罪がないわけではないが、自分の身の回りで、今にも社会への不満から大規模な暴動や革命が起こるかも知れないと心配している日本人はいないのではないか。 ■日本人の中流意識はなお健在だが・・・ 6月の本欄「所得格差が先進国で拡大している理由」でもご紹介したが、先進諸国では所得格差の拡大が起こっており、日本もその例外ではない。 それでも日本の中流意識は健在だ。2013年6月実施の「国民生活に関する世論調査」(内閣府)では、収入・所得については不満も多いものの、9割以上の人が自分の生活は「中」だと感じている。同じ中流でも1960年代半ば頃と現在とを比較すると、「中の下」の割合が3割程度から2割強に低下しており、「中の上」が6〜7%から13%近くに上昇している。 格差の拡大を防止するための累進的な所得課税などは、経済成長を阻害する効果があり、格差の拡大防止と経済成長とは相反する目的であると考えられることが多い。 1980年代後半のバブル景気の頃に比べて、むしろバブル崩壊後の所得低迷の時期の方が、「上」や「中の上」という回答の割合が高くなっていることには少し意外である。今は、生活に不満はあるものの、周囲を見回せば皆似たようなものであり、自分はまだましな方だと感じている、ということなのだろう。バブル景気の頃には、自分も好景気の恩恵を得たものの、もっとうまい汁を吸っている人がたくさんいると感じていたのかもしれない。 格差の拡大は中流意識を破壊してしまい社会を不安定にするという恐れがある。それだけでなく、所得格差の拡大は経済が停滞する原因にもなりうる。実際、『大恐慌のアメリカ』(林敏彦著)に書かれているように、所得格差の拡大は1930年代の大恐慌の原因の一つとも考えられている。 昨年、IMF(国際通貨基金)の会合で、サマーズ元米国財務長官が米国経済が長期停滞に陥っているのではないかという疑念を呈したことは、世界に大きな衝撃を与えた。これが正しければ、バブルのようなことが起きなければ、完全雇用の水準にまで失業率が低下することはなく、経済は安定しないことになる。経済を恒常的な需要不足状態に陥らせているものが所得格差の拡大だとすれば、長期停滞論と格差問題がつながることになる。 ガルブレイスは、『大暴落1929』の中で、大恐慌が長引いたことと関係の深い問題の第一に、所得分配の偏りを挙げている。「(大暴落前の)経済が高レベルの投資か贅沢な消費のどちらか、あるいは両方」に依存していたことを意味していると述べている。所得分配の偏りのために、経済がバブル的な状態でなければバランスしなくなっていたということだろう。 ■格差の拡大により消費の不足が恒常的に発生 需要不足による不況というと、すぐに企業の設備投資が落ち込むことを思い浮かべがちだ。確かに設備投資金額の変動は大きいので、短期的な景気変動の主要な原因と言える。長期に経済の低迷が続く場合にはどうか。例えば企業家のアニマルスピリットの弱まりなどによって設備投資が低水準になることが考えられる。しかし、それだけが原因ではない可能性が大きい。消費の長期的な低迷が、経済の長期停滞が起こる原因の一つなのである。 一時点を取れば所得水準が高い世帯ほど貯蓄率が高い(消費性向は低い)という傾向がある。したがって、貯蓄率の高い高所得者層が受け取る所得の割合が高くなれば、同じ経済活動水準に対して貯蓄過剰となりやすくなると考えられる。OECDが指摘しているように、上位1%の人達が受け取る所得の割合が上昇しているとすると、消費性向が高い比較的所得水準の低い人達の受け取る所得の割合が低下しているので、消費の不足が恒常的に発生するようになっている可能性がある。 ミハウ・カレツキやニコラス・カルドア、ジョーン・ロビンソンといった欧州の経済学者は、資本家と労働者では貯蓄率が大きく違うという視点から、消費不足が起こり経済が停滞するメカニズムを論じていた。労働者の受け取る賃金と資本家の受け取る利潤の割合の変化が、消費需要に影響をあたえる。 このように社会を資本家と労働者に二分するのは、かなり大ざっぱな方法だが、所得格差の影響を分析するには適当なモデルだろう。ポストケインジアンと呼ばれる人達が考えていた経済モデルは、次第に経済学の主流から外れ、最近の経済学の教科書では見かけなくなってしまったが、もう一度見直してみる価値があるのではないか。 一時点で考えれば所得分配の偏りは需要不足をもたらす効果があると考えられるが、現実の経済で起こっているのだろうか? かつて非常に高かった日本の家計貯蓄率は2012年度には1.0%に低下している。2013年度には、株価の上昇などによる資産効果や消費税率引き上げ(2014年4月)前の駆け込み需要などによって民間消費が活発になり、家計貯蓄率はさらに低下(消費性向は上昇)して、マイナス0.5%程度にまで落ち込んだと推計している。現在の日本経済では、格差が拡大するに従って貯蓄率が上昇し、家計消費の低迷が起きているようには見えない。 ■所得が労働者よりも資本家に多く分配されている 経済学の教科書では、企業活動で生まれた所得は一度家計にすべて分配され、企業は投資に必要な資金を再度金融市場で調達するというように書いてあるものが多い。 これだと、企業部門は資金不足になっているはずだが、現実の日本経済では本欄でも何度か指摘しているように大幅な資金余剰だ。リーマンショック後の米国経済や英国経済でも企業部門は資金余剰になる傾向がみられる。この状況を、株主である家計が自分で貯蓄する代わりに、企業に貯蓄させていると考えることもできる。 現実の経済では、教科書に書かれているように企業の利益を家計に配当して再度市場で資金調達を行うと、コストが高い。税負担の点でも企業利益に法人税が課せられる上に、配当には個人の所得税が課税させるから、企業が利益をそのまま再投資した方が圧倒的に税負担が少なくて済む。 企業の投資行動が株主の意向を反映したものだとすると、企業の高い貯蓄率は資本家の高い家計貯蓄率を反映したものだともいえる。 一見すると、高齢化が進む中で日本の家計貯蓄率は低下傾向にあって、消費の不足から経済が低迷するという姿とは大きく異なるように見える。しかし、企業が得た利益が家計に分配されず、しかも投資にも回らずに企業に蓄積されて、企業部門が資金余剰になっているという姿は、労働者に比べて資本家の貯蓄率が高いという状況である。所得がより資本家に多く分配されるという昔のモデルによく似ているではないか。 市場の需給によって、適切な所得分配に導かれると考えるのか、それとも、社会主義の脅威が無くなったことで、雇用者の賃金が抑制され過ぎて、経済は不均衡に至る恐れが拡大していると考えるのか。所得格差拡大の問題は、社会の公平や公正という問題だけではなく、マクロ経済の安定という問題にとっても重要なものだ。格差を巡る議論は、資本主義の限界という古い議論を巻き起こしている。経済学の中でも忘れられていた議論にもう一度光を当てる必要があることを意味しているのではないだろうか。 |
■ポスト1億総中流 2014/10
高度成長時代、日本は「一億総中流社会」と言われた。多くの人が自分も「中流」になれると夢見ることができた。その後の日本は、長い経済の低迷を経て、少子高齢化に直面し、格差の問題がクローズアップされている。戦後社会はどこに行くのか。米国を代表する日本近現代史の研究家、ハーバード大学のアンドルー・ゴードン教授に聞いた。 ――中流社会というのは、戦後の産物なのでしょうか。 「『一億総中流』といわれる力強い中間階級が現れたことは、戦後の特徴です。しかし、中流といわれるライフスタイルは、1910年代から始まっています。都会ではサラリーマンが増え、日曜日にデパートに出かけることが流行し始めました。そうした生活を送る中間階級は、だんだんと広がっていきました。30年代には、後の高度成長を予想させる経済成長もみられます。しかし、『自分が中流だ』と考える人たちの割合は当時、はるかに小さかった」 ――戦前はどういう社会だったのですか。 「戦前の日本には、華族(貴族)がいて、財閥があり、農村には地主がいました。ヒエラルキーのある格差の大きい社会でした。ブルーカラーである職工の賃金は日給で、数日分のボーナスしかもらわない。会社員などのホワイトカラーは月給で、ボーナスも数カ月分。両者は工場の入り口さえも違いました。こういう差別は、戦後はなくなりました。いまでも役職などによるヒエラルキーはありますが、それは絶対的なものではありません。これは非常に大きな社会的変化です」 「経済が成長した50年代から60年代、そして70年代初めにかけて、中流意識がどんどん強まっていきます。すべての人ということではありませんが、調査によっては、9割の人が『中流』と答えています。大多数の日本人が、自分は中流である、あるいは、中流になれると思っていた。現実の日本社会には、高度成長の時代だって、まだ貧富の差は大きかったのです。たとえば、大企業と中小零細企業では、倒産率が違う。都市と農村の間には、道路などの社会資本ではまだ大きな格差があった。それでも人々は、一生懸命働きさえすれば、中流の仲間入りができると信じました」 ――何がその中流意識を支えたのでしょう。 「ひとつには、教育における能力主義がうまく機能していると思われていたからでしょう。これは、60年代の統計ですが、国立大学入学者に占める最も貧しい所得層の学生の比率は、全人口に占めるこの最低所得層の比率とまったく変わらなかった。高等教育へのアクセスが、完全な平等に近い状況だったのです。公立学校の評価がまだ高かった時代です。どんな家庭の子にも道は開かれている。努力さえすれば、良い学校に入り、良い会社に就職ができると信じることができたのです」 ――そういう信仰は、もはやないですね。 「いい学校に行くには塾に行かせねばなりません。親が裕福な方が有利です。所得格差が教育格差につながっています」 ■ ――中流社会は崩れてしまったのでしょうか。格差は広がるばかりですか。 「意識の上では、多くの日本人がそう感じています。しかし、実態は必ずしも極端に格差が広がっているわけではありません。日本でも貧困層は増えていますが、格差という点では、世界的に見れば小さい方です。日本で正規雇用されている労働者の数は、80年代に約3400万人ですが、この数字はいまもあまり変わりません。非正規の数は、その間に約600万人から約2千万人に増えました。その原因は、より多くの高齢者や女性が非正規で働くようになったこと、自営業と家族労働に従事していた人たちが雇用者として働き始めたことにあります。ですから、正規を直接犠牲にして非正規が増えているわけではありません」 「格差の問題には、高齢化の要素もあります。高齢者は所得はありませんが、貯蓄などがあります。所得の分析だけでは、格差の実態を把握できないのです」 ――国際的にはどうなのですか。 「世界的に注目されているフランスの経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本論』という研究があります。これによると、20世紀初頭、欧米先進国も日本も、少数の富裕階級が多くの富を持つ格差の大きい社会でした。2度の世界大戦や大恐慌で資産が喪失したことで、格差が収縮しましたが、これは例外時期であり、80年代から再び格差が拡大しているというのです。ただし英米に比べると、独仏など欧州大陸の国と日本では、格差拡大の幅は大きくない。挑発的な議論ですが、私の研究を補強するところもありますし、グローバルな文脈で日本を考えることを可能にしてくれます」 ――さきほどの話では、高度成長期には、日本人の「中流」意識は実態よりも強かった。今度は、格差を実態より大きく感じているということですが、それはなぜですか。 「中国人や米国人よりも自分たちのほうが格差が小さいと知っても、なぐさめにはなりません。外国との比較ではなく、みんな自分の親の世代と比べます。雇用の安定という問題もあります。様々な要因があって、経済データと人々の意識が対応していない。なぜなのか。今後研究していきたいと考えています」 「意識でいえば、日本経済の実態にしても、日本人の見方は悲観的すぎると思います。中国に国内総生産(GDP)では抜かれましたが、中国の人口は日本の10倍。1人当たりに直すと、日本の経済力の方がまだまだ、はるかに上です。他の先進国と比較しても、1人当たりの成長率は悪い数字ではありません」 ■ ――しかし、実態がそうでも、意識の問題は大きいのでは。かつて戦後日本は「成功物語」として語られました。いまは、戦後は失敗だったという見方も出ています。 「日本人の多くが戦後を失敗だと認識しているとは思いません。たしかに、これまでうまくいっていた戦後システムが今日ではうまく機能していない、という感覚はあるでしょう。でも、現在の政治経済システムが機能していないのは、世界共通の問題です」 「社会の中で楽観論が失われ、悲観主義がひろがるのは、憂慮すべきことです。予言の自己成就という言葉がありますが、そういう悲観は、若い人から挑戦する気概を失わせ、内向きにしてしまいます。また、成功した人々へのねたみから、そういう人々への反感を強めたり、あるいは外国人を攻撃する排外的な言動につながったりする危険があります」 ――どうしたらいいでしょうか。 「発想を変える必要があるでしょう。日本が直面しているのは、低成長の時代に、人口減少、少子高齢化、さらに環境へ配慮するという制約のもとで、どうやって社会を維持するのかという問いです。労働人口の減少に伴う生産力の低下をどう補うのか。原発のあり方も含めてエネルギー不足にどう対処するのか。低成長時代に生活様式をどう改めるのか。課題はたくさんあります」 「強い経済成長が期待できないときに、政治と社会の安定を保つのは容易なことではありません。しかし、世界全体として高い成長は望めないのです。過去には、年率3%から5%の成長はふつうでした。しかし、これから、1%の成長率のもとで、どうやって、品位のある、よい社会を維持するかを考えねばなりません。日本だけの課題ではありません。リーマン・ショック以降に一層明確になりましたが、低成長も少子高齢化も環境の制約も、先進国のすべてが、そしてやがては新興国もみな直面する課題なのです」 ――日本はフロントランナーというわけですか。 「たまたま日本が最初にその壁にぶつかったわけです。しかし、この課題を克服できれば、新しい意味で日本はまたリーダーになれるのではないでしょうか。高齢者へのケア、資源の効率的利用、省エネ技術など、日本が、世界に先駆けて取り組んできた分野があります。その経験を活用して、新しいモデルを示してほしい」 「これは、経済成長を終えた成熟社会の話です。日本にとって、『ポスト戦後(戦後の後)』をどう築くかという挑戦ではないでしょうか」 ■ ■ Andrew Gordon 米ハーバード大学教授 1952年生まれ。著書に「日本の200年 徳川時代から現代まで」「ミシンと日本の近代 消費者の創出」など。 ■取材を終えて 米国の日本を見るまなざしは、時期によって揺れ動く。日本が経済大国へと躍進した70年代末から80年代にかけては、米国が見習うべきモデルとして「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とたたえられた。21世紀になって中国が急速に台頭すると、こんどは「ジャパン・パッシング」(日本軽視)という言葉がよく使われるようになった。そういう中で、ゴードン教授は労使関係を中心に、実証的な社会経済史の研究を積み重ねてきた。資料を探し、関係者にインタビューし、現場に足を運ぶ。日本は「戦後の後」のビジョンを切り開くべきだという提言も、そうした長年の観察に裏打ちされている。 |
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■中国の裕福な中流階級がアベノミクス押し上げ−内需不振補う 2014/11
中国・北京の民間企業に勤める侯京 燕さんが1997年に初来日した時の旅費は宿泊費や食費、交通費に土産代 も含めて1週間で20万円だった。今年、日本を再訪した侯さんは銀座に あるルイ・ヴィトンでほぼ同額のハンドバックを購入した。 侯さん(45)のように中国の裕福な中流階級が休暇を海外で過ごす ようになり、日本の国内消費を下支えしている。円も対ドルで7年ぶり の低い水準となり、日本への観光旅行の魅力は増している。2013年の訪 日外国人は初めて1000万人を突破。観光庁によると今年1月から10月の 累計で約1100万人と早くも前年の記録を塗り替えた。安倍晋三政権は20 年の東京五輪開催までに2000万人にまで倍増させる方針だ。 安倍政権の成長戦略が医療や雇用、農業など岩盤規制の分厚い壁に 阻まれるなか、観光分野の障壁は比較的低い。今年4月の消費増税後の 反動減が予想外に大きく、国内総生産(GDP)は2四半期連続のマイ ナスとなった。安倍首相は18日、個人消費を押し下げ、デフレ脱却を危 うくするとして来年10月からの消費税率2ポイント引き上げの先送りを 決断。外国人旅行者の購買意欲は内需不振を補う切り札だ。 輸出の低迷で経常収支が振るわないなか、海外からの外国人旅行者 と日本からの海外旅行者が使用した金額を差し引きした旅行収支は今年 4月、大阪万博が開催された1970年以来44年ぶりに黒字となり、黒字幅 は177億円と過去最高を記録した。今年上半期では510億円の赤字となっ たが、前年同期の2843億円の赤字から大幅に縮小した。 ■15年は暦年でも黒字化 第一生命経済研究所の高橋大輝副主任エコノミストは、訪日外国人 の数と連動性が高い旅行収支が同様のペースで増加すれば、15年には暦 年でも黒字化すると予想している。高橋氏は「まだまだ伸びしろがあ る。近くに中国をはじめ成長している大きな経済がある。どんどん取り 込むことができれば日本経済に与える影響は大きい」とみる。 侯さんは日本で過ごした10月の1週間で約100万円を使った。その 半分は洋服にアクセサリー、化粧品に子どものためのポケモンのフィギ ュアなどの買い物だ。銀座三越で友人に頼まれたハンドバックや化粧品 を購入した侯さんは「日本には中国にはないスタイリッシュな商品が沢 山ある。化粧品は中国より安いくらい」と語った。 世界観光機関(UNWTO)によると、13年に1290億ドル(約15兆 円)を支出した中国人旅行者が今、世界で一番お金を使っている。観光 庁によると、訪日外国人の旅行消費額は今年9月までに1兆4677億円に 上り、昨年1年間の1兆4167億円を既に超えた。7−9月の旅行消費額 は前年同期比41%増の5505億円と初めて5000億円を超えるなど好調だ。 国別では中国が1847億円と最も多く、全体の34%を占めた。 ■大賑わいの免税店 全国百貨店売上高が今年4月以降、6カ月連続で減少しているな か、伊勢丹三越ホールディングス傘下の銀座三越の売り上げは黒字が続 いている。特に免税販売部門の売上高が約2倍と好調で、今年に入り中 国語や英語ができる免税カウンター対応の店員を6人から21人に増員。 手続き用のパソコンも3台から8台に増やした。 免税販売の好調を受け、同店は来年秋をめどに8階の1フロアを使 って消費税だけでなく関税なども免税となる空港型免税店を展開するこ とを決めた。お客様サービス担当マネジャーの吉田佳代氏は「8階で買 い物をされた方に下の階で足りない商品を買っていただきたい」と、免 税店を訪れた買い物客の「シャワー効果」に期待を掛ける。 外国人観光客の購買力に狙いを定め、政府は今年10月からこれまで 免税対象から除外されていた化粧品や薬品、たばこのほか食料品などの 「消耗品」も免税の対象とした。吉田氏によると消耗品の免税売り上げ のうち9割以上が化粧品で、中国人客を中心に数万円単位でまとめ買い するケースが多いといい、その効果は大きい。 ■地域振興にも期待 外国人旅行客急増の恩恵は安倍政権が重点を置く地域振興にもつな がっている。東京−富士山−京都・大阪を結ぶ日本の代表的な観光コー ス「ゴールデンルート」から大きく外れた人口3万6000人の鳥取県境港 市もその一例。日本海を挟んで中国や韓国に近く、観光船で訪れる外国 人旅行客は今年1年間で1万6000人に達する。 10月のある日、世界最大規模の米国の船会社ロイヤル・カリビア ン・インターナショナルが保有するアジア専用の大型クルーズ船が同港 に入った。旅客数は約3600人でそのほとんどが中国人客。約100台のバ スが用意され、県内や隣接する島根県の観光地に繰り出した。 東京一極集中が進み、地方都市の人口減少が深刻化するなか、地域 経済を下支えするため外国人観光客への期待が高まっている。境港市観 光協会広報担当の古橋剛氏は「人口減少で国内に伸びしろがないなか、 外国人観光客の重要性は増している。国と歩調を合わせてこれからは外 国人観光客に目を向けている」と意欲を示す。 今年に入って同港に入港した客船は13隻。1昨年の5隻に比べて急 増した。境港管理組合は約2年前からクルーズ船の寄航を増やすための 検討会議を立ち上げ、海外の船会社への誘致活動を始めた。大型客船に 対応するため来年度から新しい岸壁の整備もする計画だ。 ■高い宿泊費用 円安によって日本での買い物の割安感が高まる一方で、課題となっ ているのは宿泊費の高さだ。東京や京都で外国人旅行客向け宿泊所9軒 を展開している万両は宿泊代を抑えたい顧客に格安の宿泊施設「ホステ ル」を提供することで解決策を示している。うち3軒はラブホテルを改 装したものだ。東京の浅草にあるホステルは一番安い部屋で1泊2200円 と、5500−1万円のビジネスホテルに比べ格安だ。 同社の小沢弘視社長は「外国人旅行者が多く来ているのに安く泊ま れるゲストハウスの集積がない都市は世界的に珍しい。旅行者数が伸び なくても足りない。需要はある」と述べ、参入障壁となっている旅館業 法や複雑な建築基準法の見直しの必要性を指摘する。 政府は30年までに外国人旅行者を3000万人まで増やす方針だ。 JTB総合研究所の太田正隆主席研究員は「2000万人は達成できるかも しれないが、それ以上増やすには泊る場所、食べ物、エンターテインメ ントすべての中身を改善しなければならない。数の競争ばかりではいけ ない」と述べ、観光大国へ本格的な取り組みの必要性を強調した。 |
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■2015 | |
■「総中流時代」から「格差社会」への実感 2015/2
■日本人の「中流意識」は根強いが・・・ 30年前に「1億総中流」と言われたように、日本の社会では、ほとんどの人が「自分の生活は中流である」と考えているとされてきた。それが今は、日本人の「中流意識」が崩壊し、所得格差が進行、貧富の差が広がり、「格差社会」に変わってきたと言われている。 社会学者である佐藤俊樹東京大学教授は、2000年に出版した著書「不平等社会日本〜さよなら総中流」で、「高度成長期の日本は努力が報われる社会だったが、近年は、子の職業や所得水準が、親のそれによって強く規定されるようになってきた。親と子の地位の継承性が高まったことで、中流の可能性が失われつつある」とデータを用いて解説している。 予備校の受講生の追跡調査では、東大生の親の平均年収はトップクラスであり、すでに生まれながらにして差がついているという。 また、昨年(2014年)厚労省がまとめた「国民生活基礎調査」によると、日本人の「相対的貧困率」は16.1%で日本人の6人に1人が貧困層と発表、近年の所得格差を問題視している。 ■では、本当に日本人の中流意識は崩壊してしまったのだろうか? 内閣府は、1950年代から毎年「国民生活に関する世論調査」で国民の「生活程度」を聞いている。回答者は、自分の生活状況を「上」、「中の上」、「中の中」、「中の下」、「下」の5つの選択肢から選ぶ。 2014年の最新のデータでは、「中の中」が56.6%と最も多く、「上」は1.2%、「下」は4.6%。「中の中」に「中の上」12.4%、「中の下」24.1%を加えると93%強と大半が「中分類⇒中流意識」になる。 ここでは敢えて、「中の中」を中流と仮定し、「中の上」を「上」に、「中の下」を「下」に加えた表を作成した。 表1:中流意識 高度成長期の1975年は、10年前(1965年)から「中の中」が10ポイント余り増加し、6割を超えた。 1979年(昭和54年)の「国民生活白書」では、70年代に国民の中流意識が定着したと評価している。 その後、バブル景気真っ盛りの1985年は「中の中」は減少に転じ、「中の下+下」が多くなる。この時代から、格差が始まってきたといえる。 人や価値観も時代ごとに変わってきているので一概に言えないが、それ以降(1995年から2010年まで)の傾向を見ると、「中の中」は少しずつ減少傾向にあり、その分「中の下+下」と「上+中の上」の比率が伸びていることがわかる。 2014年は、「中の中」がまた増加しているが、「上+中の上」も10%を超え一定の比率を確保するようになっている。日本人は相変わらず中流意識は強いが、中流の中で区分けが形成され、格差・階層化が生まれ始めている。 ■「暮らし向き」の格差の実態 「中流意識」はまだまだ日本人の中では健在であるが、実際の生活はどうなのだろうか。 このコラムでも何回か取り上げたが、日本人の生活意識に関する2つの指標《経済的な余裕度》と《生活の満足度》を重ねて、45歳以上の人々の暮らし向きに関する意識を検証した。(「シニアライフ・センサス2014」より) 「経済的余裕があり生活に満足」⇒「リア充」33.4%、「経済的余裕はないが生活に満足」⇒「プア充」35.1%、「経済的余裕がなく生活に不満」⇒「リア不充」28.6%と3分割。(45歳以上全対象者の数値を掲載) 日本人の「暮らし向き意識」は3層に分化し、中流意識が根強く残るものの、明らかに階層が生まれている。生活意識の上でも 日本人の"階層化(格差)"が進行していることがわかる。 表2:経済的余裕度×生活の満足度(45歳以上) ■経済資源(貯蓄額)の格差を実感する 次にこの3層別にストック(貯蓄額)を見ると、「リア充」の平均貯蓄額は3,431万円で、全体の平均貯蓄額である1,741万円(45歳以上全体:回答拒否を除く)のほぼ倍額。3,000万円以上も全体の4割強を占め、実態としてはかなり潤沢である。 一方「プア充」の平均貯蓄額は959万円、また「プア不充」は757万円と、いずれも「リア充」と比べて、大きく差が開いている。意識の上でも「暮らし向き」の充実度に関しては、ストック(経済資源)が少なからず影響していることがわかる。 ○ 生活の「暮らし向き意識」での階層化が進行と述べたが、実際の「経済資源」においても格差は存在しており、それは、彼らの生活意識、そして消費意識・行動にも大きく関わっている。 図表3:自身・配偶者の貯蓄総額(2014版) 相変わらず自分を中流だと思い続けている日本人が多い中で、経済資源の格差は着実に顕在化しつつある。 1970年、80年代の「総中流時代」までは、昔と比べれば随分豊かになったと「中流」に対してポジティブなイメージを抱けた時代であった。それが幻想であったことに気が付いた。 今は自他の上下関係が見定めやすく、みんなが確信的に自分の階層を理解し、格差を受け入れて生きる時代になったということだろう。 かつて中流意識が強かった頃は、中流を狙うと、「上」も「下」もついてきた。しかし、「階層社会」ではポジティブイメージを失った?「中(流)」を狙っても、誰もついてこない。 今日本は、経済資源の格差だけでなく、多様な生活背景や個人の趣味・嗜好で形成される"多層化社会"になっているから、なおさらである。 当コラムで、シニアで今後「プア充=経済的余裕はないが生活は満足」が増えると指摘したが、「プア充」の増加は、少子高齢化が進行し所得格差が広がる日本社会全体にも当てはまる。 ○ 自身の「負を受け入れる」ことで「生活を充実させて生きよう」という想いで消費を実践する「プア充」の 意識・行動を分析することは、来るべき本格的な「格差社会」の一つの指針になるのではと考えている。 |
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■一億総中流・高度経済成長の秘密 2015/3
大東亜戦争終戦後、焦土から復興に向かった日本は、その後、世界に例のない高度成長成長期に入っていきました。1955年から1973年まで、日本の実質経済成長率は年平均10%を超え、欧米の2〜4倍の値を記録して、遂には世界第二位の経済大国(国民総生産・GNP2位)にまで発展を遂げました。 一方で、国民の大多数が自分を中流階級だと考える「一億総中流」志向に代表されるように、貧富の格差が小さいという奇跡の社会を実現しました。これは、世界一の経済大国アメリカが「国民の3分の1は貧困層で、中産階級が消滅しかけていて、1%の富裕層が国富の23.5%を保持している。」という状況にあることや、共産党国家であるはずの支那が「沿岸の都市部と内陸の農村部、共産党員と非共産党員の間で急速に貧富の差が拡大している。」という実態と比較すればバブル期以前の日本が世界に類のない理想社会であったかがご理解頂けるでしょう。 ■「一億総中流」Wikipedia 『中流』がどの程度の生活レベルなのかの定義もないまま、自分を中流階級、中産階級だと考える横並びな国民意識が広がった要因は、 (1)大量生産によって商品の価格が下がったこと (2)経済成長によって所得が増加したこと (3)終身雇用や雇用保険(1947年〜74年は失業保険)による生活の安定、医療保険における国民皆保険体制の確立(1961年)による健康維持、生命保険の広まりなど、貸し倒れリスクの低下により労働者の中長期的な信用が増大し、信用販売が可能になったこと 等々により、それまで上流階級の者しか持ち得なかった商品が多くの世帯に普及したためと考えられる。一億総中流社会では、マイホームには住宅ローン、自家用車にはオートローン、家庭電化製品には月賦などが普及し、さらに、使用目的を限らないサラリーマン金融も普及して、支払い切る前から物質的な豊かさを国民が享受できる消費社会になった。 ■上記に示した中流意識が広まった要因のうち、青字で示した「終身雇用」「雇用保険(失業保険)」「国民皆保険」「住宅ローン」はNSDAPが行った政策・発明した制度で、NSDAPやソ連式の計画経済体制に影響を受けた革新官僚・統制派が日本に導入したものでした。 ■「社会保険」Wikipedia 1929年に発生した世界恐慌は、ソ連をのぞく世界各国を不況のどん底におとし入れた。結果、国民皆保険制度を世界で最初に導入したのは、国民社会主義を標榜するナチス・ドイツだった。またそれまで社会保険制度に大きな関心を示さなかったアメリカも制度の創設に踏み切らざるをえなくなった。フランクリン・ルーズベルトのとったニューディール政策の一環として、1935年に連邦社会保障法が制定され、失業保険と老齢年金が整備された。ソ連は医療の社会化を進め、1937年に医療を社会保険から外し、無料で全国民が医療を受けられる制度をつくった。 ■このような新自由主義が台頭する前の日本独特の経済思想・体制は「日本型社会主義」と呼ばれました。 ■「日本型社会主義」Wikipedia 『戦後の日本は、独特の分権的な混合経済体制を築き、「世界で最も成功した社会主義国家」と呼ばれる事がある。 ■ 日本では戦時体制により、官僚主導の開発主義体制が形成される。日本の官僚機構は敗戦後の占領下においても存続し、GHQの意向を受けて政教分離、財閥解体、農地改革、シャウプ勧告などの改革を次々と実行し、独占資本や地主階級が一時的にせよ没落し、中産階級が形成された。独占資本はその後メインバンク主導の企業グループという形で復活し、「護送船団方式」と言われる、官僚と財界の協力関係が築かれた。 高度経済成長期には人材確保の理由から、終身雇用制度や企業内組合による労使協調などが広まった。これらは戦前の日本や米英の資本主義でも存在したものではあるが、戦後の日本においては大半の大企業と多くの中小企業に広まり、「日本的経営」などと言われるようになった。この背景には日本社会に残っていた村社会などの共同体志向や平等志向が企業などに持ち込まれたものとも言われる。』 しかし、上の文章には訂正すべき点が一つあります。 それは、日本が高度経済成長を成し遂げつつも、格差を抑えることが出来たのは国民社会主義体制だったからです。 |
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■アメリカの「中産階級」は下位層への転落を心配している(調査結果) 2015/7
2016年のアメリカ大統領選では「中産階級」が議論の一つになりそうだ。 世論調査会社ギャラップの調査によれば、自分自身を「中産階級」ではなく「下層または労働者階級」に属すると考えるアメリカ人が増えつつあるという。 それを反映してか、ニューヨーク・タイムズ紙は、2016年大統領選の候補者の間で「中産階級」という言葉が避けられつつあると伝えている。たとえば、民主党のヒラリー・クリントン氏は「Everyday Americans」(普通のアメリカ人)という表現を、共和党のスコット・ウォーカー氏は「Hard-working Taxpayers」(勤勉な納税者)という言い方を好んで使っている。 この傾向についてシンクタンク「センター・フォー・アメリカン・プログレス」で経済政策担当マネージング・ディレクターを務めるデヴィッド・マッドランド氏は「かつては『中産階級』という言葉がアメリカ人を表す言葉だったが、人々にとってそれはもはや叶わぬ夢のようだ」と指摘している。そのため「政治家たちは、大多数のアメリカ人を表現するのに最適な言葉を探している」という。 はたして本当にアメリカから「中産階級」は消えつつあるのだろうか? ハフポストUS版も市場調査会社の「YouGov」と共同で、中産階級に関する世論調査を実施した。その結果、88%の人たちが未だ自分は中産階級だと考えているということが分かった。一方で、彼らは自分が中産階級から脱落する恐れがあるとも考えていた。また、「中産階級」の定義が、各人の所得によって異なるという興味深い結果も調査から明らかになった。 ■1. 自分の所得階層は? 調査では、自身の年収を「上流階級」「上位中産階級」「中産階級」「下位中産階級」「下層階級」の5段階で評価してもらった。その結果、43%が「中産階級」、12%が「上位中産階級」、33%は「下位中産階級」と答えた(以下のグラフ)。これらを合わせると、88%が「自分は中産階級」と答えたことになる。 ■2.「中産階級」の年収は? 一方で、人々は「中産階級を自分に近い所得範囲に定義する」傾向があるということも分かった。 年収が4万ドル未満の世帯は「中産階級の年収」を3万〜5万ドル、年収が4万〜8万ドルの人は4万〜8万ドルと回答した。 これとは対照的に、年収が8万ドルを超える世帯は中産階級の最低年収を5万ドルと考えており、中には「12万5000ドルの年収があっても中産階級に入る」と答えた人もいた。 ■3. 中産階級の目標は? また、中産階級の「現実的な目標」の定義もさまざまだった。「持ち家」「退職後の蓄え」「借金ゼロ」は、中産階級のすべての所得層の目標だった。しかし中産階級のなかでも、所得が高い層は低い層に比べて「子どもの大学資金を確保すること」が現実的な目標だと答えた人の割合が20ポイント、「毎年休暇を取ること」と答えた人の割合が19ポイント高かった。 ■4. 十分な収入を得ている? 一方で、「自分は、安心して暮らすのに十分な所得を得ている」と答えた人の割合は、自分は中産階級に含まれると回答した人のうちで37%、下位中産階級とした人では15%だった それでも多くの人は、「何とかやっている」と答えたが、下位中産階級の20%は、「何とかやっていけるだけの収入もない」と答えている。 ■5. 将来への心配 さらに、中産階級のほとんどが「この先も中産階級の地位にとどまっていられるかはわからない」と考えており、57%は、「今後数年のうちに、下位の階層に落ちてしまうかもしれない」と心配している。 こうした不安は、特に自分を下位中産階級と回答した人の間で目立っており、彼らの3分の2が、自分が中産階級から完全に脱落してしまうかもしれないと述べている。 ■ こうした将来への不安を背景に、中産階級をめぐる問題は、2016年のアメリカ大統領選挙の大きな争点になっている。 しかし、多くのアメリカ人は、政党や候補に関係なく、大統領候補たちが現状を改善すると期待はしていないようだ。「大統領が、中産階級を拡大させることができる」と考える人は、共和党支持者、民主党支持者、無党派層のいずれにおいても3分の1に満たなかった。全体の36%は「大統領はわずかな変化しかもたらさない」、17%は「何の変化ももたらさない」と答えている。 |
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■もう「下流」なのに「中流」だと言い張る日本人! 2015/10
皆さんは自分自身の生活の程度を他と比較して、「上」「中」「下」で表してみるとどこに当てはまるだろうか。 例えば、上流階級、中流階級、下流階級、どこに位置づくだろうか・・・。 セレブ、庶民、貧民、どの分類だろうか・・・。 実は、平成26年度の内閣府の世論調査によれば、「中」のなかで、「中の上」「中の中」「中の下」に当てはまると答えた人が約90%を超えている。みんな程度の差はあれ、未だに「一億総中流」であると思っているのかもしれない。 皆さんはどうだろうか。 何をもって中流意識なのかと言えば、多くの場合は世帯や自身の所得が多いか少ないかが決定要因になるだろう。 ワークライフバランスなど、働き方が家事や育児をしやすいようになっているか否かも検討事項かもしれない。 十分な余暇があることも要因として大事かもしれない。 いろいろな要素があるだろう。 ここでは実際に分かりやすいように所得のみに絞って見てみたい。 平成25 年の1世帯当たり平均所得金額は、「全世帯」が528 万9 千円となっている。また、「高齢者世帯」が300 万5 千円、「児童のいる世帯」が696 万3 千円となっている。(平成26年国民生活基礎調査 厚生労働省) 上記の所得は目安であり、世帯人員数などを省くが、このあたりは「中の上」か「中の中」あたりの生活と言えるかもしれない。 しかし、全世帯の所得金額階級別世帯数の相対度数分布をみると、「200〜300 万円未満」が14.3%、「100〜200 万円未満」が13.9%及び「300〜400 万円未満」が13.4%と多くなっている。 そして、中央値(所得を低いものから高いものへと順に並べて2等分する境界値)は415 万円であり、平均所得金額(528 万9 千円)以下の割合は61.2%となっている。(平成26年国民生活基礎調査 厚生労働省) 実に平均所得金額(528万9千円)を61.2%の世帯が下回っているのである。 皆さんの世帯の所得は、平均にいかないまでも、中央値の415万円はあるだろうか。 この所得程度である場合、「中の中」「中の下」といえるかもしれないが、さらに所得が低い場合は確実に「下」に当てはまるだろう。 そして、都市部では所得は高いが、地方では所得は低い傾向にある。地方では「下」に当てはまる世帯は都市部よりも多いはずである。 先ほどの生活の程度を聞いた世論調査に戻りたい。 「中」のなかで、「中の上」「中の中」「中の下」に当てはまると答えた人が約90%を超えている。 「下」と答えた人は4%程度しかいない。 他の要素を考えずに所得のみで捉えると、相当数の人が「下」の暮らしを強いられていることが容易に予想される。 それにも関わらず、「下」が4%というのは異常ではないだろうか。 しかし、当人に聞いてみると、おそらく「生活は苦しいけど普通じゃないか」、「大変だけど自分は「中の下」程度ではないか」と答えが返ってくるかもしれない。 この希望的な見解も含んだ”ぼんやりとした中流意識”が何をもたらすかと言えば、現行の社会システムの温存である。 そして、「自分は頑張っているから「中の下」なのだから、頑張らないと「下」になるのは当然だ」というような意識ではないだろうか。 攻撃の矛先はより弱い対象へ向かい、さらなる努力や義務を課すような意見も出てくるはずである。 わたしは社会システムや社会政策が貧困や生活のしづらさを生み出しているにも関わらず、そのシステムの変化を望まない人を見てきた。 さらに、自身の所得が低いにも関わらず、より弱い生活保護利用者や低年金高齢者を「自己責任論」で批判する人を見てきた。 批判する人たちも含め、実は多くの人たちが「下」に至っている社会において、「下」同士で内輪もめしている場合ではないと思う。 皆さんの生活は本当に「中」なのだろうか。3段階でハッキリ区分けしたら「下」にならないだろうか。 ワーキングプア、非正規雇用、長期失業者、引きこもりの若者、低賃金労働者、ブラック企業、長時間労働、母子世帯、下流老人など、生活課題を有する人々は増え続けている。生活に困っている人は相当数に及ぶ。 しかし、それらの人々が”ぼんやりとした中流意識”を持つ限り、社会に変化を求めることはない。この”ぼんやりとした中流意識”を打破しない限り、貧困層や生活課題を持つ人々がまとまり、社会システムを再編していく力にはならないだろう。 厳しいかもしれないが、「下」の生活であることを自覚し、社会や政治を変えるように働きかけてほしいと思っている。 「下流老人」(朝日新聞出版)という用語もあえて、この階層を意識してもらうために用いた言葉である。 もはや多くの人が中流ではないことを知り、中流であるように、あるいは中流であり続けられるような社会システムを構築し直していきたいと思う。 |
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■2016 | |
■一億総中流ニッポン、格差は広がっているのですか? 2016/3
格差社会が問題になっています。1980年代、「一億総中流」幻想にあった日本は考えてみたら、幸せでした。それが2008年のリーマンショックからこのかた、格差がどんどん広がっている実感があります。「子どもの貧困」も問題になっているそうですし、一体どうしてこんなことになってしまったのか、21世紀の資本だとか、資本主義の最終段階とかグローバル化とか言われてもよくわかりません。いま、なにが起きているのでしょうか? ■安倍政権は再分配に興味がない 市場にすべて委ねていれば、所得の不均衡が生じるのは当たり前です。市場ではポジティブ・フィードバックがかかりますから、勝つ者が勝ち続け、負ける者は負け続ける。所得格差の補正を市場が自主的に行うということはありません。でも、市場にすべてを委ねてしまうと、最終的には少数集団に権力と財貨が排他的に集積して、過半が貧困と無権利状態にあえぐということになりかねません。貧困層は結婚もできないし、子どもも育てられないし、教育も受けられない。そんな状態が一世代続けば、集団の生物学的な再生産も知的な再生産も不可能になります。いずれ集団ごと滅びてしまう。ですから、再生産を保障するために国や公的機関が所得の再配分を行う必要があります。これは集団が存続するための必須の政策的配慮です。 でも、今の安倍政権は再分配には興味がない。彼らが信奉しているのはグローバル資本主義の金科玉条である「選択と集中」です。「勝てるセクター」に国民資源を集中する。「勝ち目のないセクター」は淘汰されるに任せる。「勝てるセクター」が勝ち続ければ、もしかするとその余沢が「勝ち目のないセクター」にしがみついていた貧者たちにも滴り落ちるかもしれない(落ちてこないかもしれない)。貧困層はその「トリクルダウン」をぼんやり口を開けて待っていろ、と。それまでは貧困に耐えて、「勝てるセクター」に負担をかけるな、と。要するに「欲しがりません勝つまでは」です。戦時中と同じです。 でも、この「選択と集中」がどうも怪しくなってきた。「勝てる」はずで国民資源を集中したものの、どこのセクターもまるで勝てないからです。 高速増殖炉「もんじゅ」が好個の例です。研究開発で世界をリードするはずで、開発段階から1兆円以上投じていましたけれど、稼働実績はほぼゼロ。廃炉にも3000億円かかると試算されています。でも、これは巨大な利権ですから、それで食っている人たちが何万人もいる。止めたくても止められない。無意味な装置の運営管理に巨額の税金を投じて雇用を確保しているわけですから、これは一種の「生活保護」と呼ぶべきだと僕は思います。でも、社会福祉の「フリーライダー」を口汚く罵る自民党議員たちもなぜか「もんじゅ」が創出し続けている大量の雇用については口を閉ざして語らない。「もんじゅ」の従業員を路頭に迷わせては気の毒だという理由で、廃炉をためらっているというのなら、僕も多少は同情します。でも、どうもそういう理由ではないらしい。 なぜかある種の「ダメな政府事業」については市場原理を適用して淘汰に委ねないで、温情を以て遇して存命させている。政府が温存しているその種の「勝てないセクター」に税金がブラックホールのように吸い込まれている。そのせいで、貧困層への分配の原資が失われている。 ■公的機関が人間の弱みにつけこんでどうする GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)もたちまちのうちにブラックホール化しました。年金を株に注ぎ込んで、あっという間に運用収益の損失は8兆円。わずかな入力変化で株価が乱高下する今の株式市場はほとんど「賭場」です。だから世界中の博打の玄人が集まって熱い博打を打っている。そんなところに年金を注ぎ込んで巨額の損失を出したけれど、誰も責任を取る気はなさそうです。たぶん、そのうち「ばあん」と儲けて、すった分を全部取り返して利息をつけて返してやるから素人は黙って見てろということなんでしょう。それってバブル崩壊のときの銀行が不良債権について述べた言い訳のまんまですね。 新国立競技場でもファンドはtoto(スポーツ振興くじ)の売り上げでカバーする予定だそうです。つまり、国民に「金が要るので、どんどん博打を打ってくれ」とお願いしているわけです。カジノ構想も相変わらず繰り返し甦ってくる。 でも、国民国家の運営のコストを株や公営ギャンブルやカジノのような博打でまかなうという発想はあまりに不健全だと僕は思います。賭博というのは依存症のひとつです。僕もギャンブル依存症の知人がいますからわかりますけれど、あれは病気です。アルコール依存や薬物依存と本質的には変わりません。ありったけの金をここ一番に張り込んで、「これに負けたら一文無し」という崖っぷちに立つと脳内麻薬物質がどかんと出て、極快感を覚える。「これに勝ったら大富豪」ではなく「これに負けたら一文無し」のときに異様に興奮するというところが味噌なんです。だから、ギャンブル依存症の人はより勝ち目の薄い勝負にのめり込んで行く。そして確率通りにいつか全部すってしまう。 市民ひとりひとりが、衣食住の費用として、あるいは教育や医療や老後のために備蓄している資源を国や自治体が「博打で釣って」吸い上げるというのは、あまりに非道なふるまいだと僕は思います。公的機関が人間の弱みにつけこんでどうするんですか。 僕も大人ですから、ギャンブルを止めろというような無法なことは言いません。そういうのが「好きでたまらない」という人がいる限り、彼らが快楽を追求する権利(そして、自滅する権利)は尊重しなければならない。けれども、そういうことはやはりいくぶんかの「疚しさ」を感じつつやるべきことだと思います。お天道さまの下で、胸を張ってやるようなことじゃない。パチンコの景品交換所というのは、だいたい暗い路地のゴミのちらかった奥まったところにあります。別に業界の申し合わせとかではなく、「何となく」そういうふうになっている。あれは、幾分かは利用者たちの「疚しさ」を喚起するための舞台装置だと思います。換金するときは、ちょっと「後ろ暗い」気分を感じてくださいね、一応違法なんだから……と。そういうちょっとした気づかいを僕は感じます。ギャンブルで儲けさせて頂いておいて何だけど、まあ、皆さんもあまりのめり込まないように、ほどほどにね、と。 ■貧富の格差は政策的努力の果実です 「疚しさ」を感じながら、「ちょっと悪いことをする」というのは人間的尺度では許容範囲のことだと僕は思います。でも、今の、政府主導での株式市場やカジノへの国民資源の導入には、そういう「疚しさ」が感じられない。欲に駆られて賭場になけなしの個人資産を投じて、からっけつになっても、それはあんたらの自己責任なんだから、あとになって生活保護とか申請するなよ、と。「リスクは自分で取れ」という言い分は理屈ではわかりますけれど、そういう「リスク」をあちこちに仕掛けている当人が口にするのはことの筋目が通らないと僕は思います。 僕が今の政権に感じるのはこういうところに露呈しているように「人情が薄い(というか、ない)」ということです。人間というのは弱くて、脆くて、壊れやすくて、傷つきやすい生き物だから公的な機関はそれを守ることが最優先の仕事なのだという覚悟がぜんぜん感じられない。むしろ社会を強者を標準にして設計しようとしている。強者がより効率的に権力や財貨や情報を獲得できるように社会の仕組みを作り替えようとしている。そういうふうに「強者に手厚く、弱者に冷たい」社会を作れば、みんな競って努力して、自分の能力を高めて、社会全体が活性化すると彼らはたぶん本気で信じているんでしょう。 今回は格差についてのお訊ねでしたけれど、今の日本社会に際立ってきた貧富の格差は何らかの政策的な失敗の帰結ではなくて、そういうものを創り出そうとしてきた政策的努力の果実です。そのような政策に多くの国民たち自身が賛成してきた。「強者に手厚く、弱者に冷たい」社会の建設に同意し、それこそがフェアな社会のかたちだと信じて、自分自身に不利益をもたらすような制度改革に拍手を送ってきた。 社会制度は弱者ベースで設計されるべきだと僕は思います。弱くて傷つきやすい個人が、自尊感情を失わずに、市民としての権利を行使し、義務を果しながら愉快に暮らせる社会の方が、「勝者が総取りして、弱者が飢える」タフでシビアな社会よりもずっと人間的であるばかりか、長期的には経済的にも豊かな社会になると僕は信じています。少なくとも歴史はそう教えている。「社会制度は弱者ベースで設計されるべき」だという知見が「常識」に登録されるまで、僕はこれからも同じことを言い続けるつもりです。 |
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■「下流老人」問題を考える 2016/4
わたしが所属する「NPO法人ほっとプラス」では、「生活に困っているという方たちの相談は何でも受けよう」ということで日々活動しています。そのため、メールや電話、来所相談など、年間約500件の相談があります。そのうち65歳以上の高齢者が約半数です。 相談内容は、「住宅ローンが返済できない」「家賃を滞納している」「家がぼろぼろになり、ごみ屋敷になっているがリフォーム代が払えない」というものや「医療費が払えない」「3食まともな食事がとれない」というものなどさまざまです。 それから、年金受給日前、つまり偶数月の15日の少し前になると、弁護士から要請があります。月に1〜2件、高齢者が万引きや無銭飲食などをして、生活困窮を理由に「刑務所に入りたい」と言うのです。それは男女の区別なく、70、80代の人も来ます。要するに、生活困窮が原因で犯罪に追い込まれてしまっている高齢者も実際に現れているのです。 相談内容からしても、若者から高齢者まで、本当にいろいろな人たちが生活困窮しているという状況にあります。とくに顕著なのが、「年金を受けていても生活できない」という人たちの姿です。ご夫婦2人で国民年金5万円や厚生年金10万円という低年金では暮らせません。年金だけではセーフティーネットが弱くなってきていて、暮らせなくなっている高齢者がたくさんいます。 以前は、低年金の高齢者を家族が支えてくれていたり、退職金が入ってきたり、そもそも現役時代に働いた預貯金に金利がついて、ある程度、それが老後の資金になっていました。地域のつながりもここまで希薄ではなく、周囲に助けてくれる住民や知り合いもいました。 そうしたいくつも重なっていたセーフティーネットがなくなってきています。さらには、最近は大企業が地元の商店を潰してきているので、国民年金で暮らさざるを得ない元自営業者も含めて、多くの人が生活に困窮しています。 中小、零細、自営業者の老後はかなり困窮していて、さまざまなセーフティーネットが弱まっているし、息子、娘の世代も親を助けられない。現役世代も自らの生活が大変なのです。非正規雇用4割の時代で、非正規雇用の人が大黒柱、家計の主軸になっていると、とても親の面倒まではみられません。正社員であっても子育てをしているなかでお金がかかります。今の家計から親を援助する費用を月額5万円から10万円出せる家庭がどれほどあるでしょうか。みんな一様に自分たちの生活で精一杯なのです。 このような社会の変化によって、多くの人が貧困を経験することは珍しくなくなりました。貧困は社会構造的に生み出されている問題なのです。決して自己責任などではありません。2000年以降、雇用の規制緩和が始まって、非正規雇用も広がって退職金もない、福利厚生も削られてきた中、そのあおりを受けているのが、今の団塊世代から下の世代だと思います。 私たちも相談を受け、家族に連絡したりもしますが、基本的には扶養できないのです。ほとんど生活保護申請せざるを得なかったり、自己破産の手続をします。政府は相互扶助、「家族でお互い支え合ってください」と言っていますが、現場を見る限り、もうそれは限界だと思います。 それから、私が「下流老人」という言葉を作ったのも社会における所得階層を意識してほしいからでした。1970年代に「一億総中流」と言われていましたが、今もその意識が抜けていなくて、うちに相談に来る人は自分を中流だと思っているのです。明らかに下層で、生活自体が成り立たない人たちでも、「何とか2食、3食は食べられているから、まあ、私はまだいいほうですよ」「中流ですよ」とおっしゃるのです。 多くの人に「ぼんやりとした中流意識」があるのです。自分は中流であり、普通でありたいという願望に近いのかもしれません。この意識が様々な政治改革なり、社会保障の充実をとめているのではないかと思っています。支援を求めなければ社会保障は充実しませんし、だからこそ次々に高齢者が貧困に落ちています。 一億総中流というのは、1970年、80年代、政権側の意図ですが、「みんな同じぐらいのレベルで生活しているので、いいのではないか」ということで使われてきました。 本当はそのときに貧困は拡大傾向にあったのですが、それをごまかすために、中流意識を植えつけたのです。この中流意識のメッキを剥がしていかなければいけないと思うのです。「下流」という言葉も、正確に言うと「下層」なのですが、あえて「下流」という言葉を使って、「中流だった人たちがみんな老後になったら突然下流になる」という形で打ち出したのです。幸いにもそれが多くの方に届きました。今、ぼんやりとした中流意識が、少しずつ霧が晴れている感じはします。 日本はこの間ずっと社会保障は、ほとんどあってないようなものでした。家族と企業がいろいろ担ってきたので、社会保障の面だけ見れば、日本は先進諸国と比べるとかなり遅れている、鎖国状態と言っていいと思います。 社会保障については、海外では100年ぐらい前から議論が始まっていて、少子化対策のためにどう再分配するか、住宅、教育にどうやって税金を入れていくかなど、幅広い議論をしています。日本はそうした先進国の議論も取り入れていません。憲法25条における生存権や社会権を行使していない国民が多数出ていても対策をとることはしていません。とことん困窮してから生活保護制度で一部分を捕捉するのみです。 社会保障の議論自体が旧態依然としたもので、家族と企業が良くも悪くも担ってきたので、本質的にこれから社会保障はどうするのかということを考える時期に来ているのだと思います。 高齢化にしても、日本はすでに1970年代に高齢化率が7パーセントを超えていたのに、手を打ってこなかったことが今に影響しています。確かに以前は家族が機能していたので、それほど問題が露呈していなかったことや、40年前と比べてかなり長寿化してはいるということあります。だから当時よりも深刻さを増して貧困が日本を席巻してきました。 相談に来る80代以上の方は、「あと何年生きるのですかね」とよく言われます。健康で、足腰も丈夫、それはいいことなのですが、それを支えていくだけの金銭的なゆとりがないのです。「預貯金を使い果たしたら残りの時間はどうやって暮らしていこう」という高齢者がかなりいると思います。長生きすることがつらくなってくる。それがいまの日本の実態なのです。 では何から始めたらいいのでしょうか。まず対策として、住まいの整備は大変重要だと思います。たくさん公営住宅を建てるには時間も費用もかかって、すぐには整備しきれないかもしれませんが、日本には空き家がたくさんあります。亡くなった高齢者が使っていた空き家などを「見なし公営住宅」に転換して活用する方法があると思います。住宅費さえかからなければ、何とか生活はしていけるという世帯は高齢者に限らず、全世帯で増えています。 空いている賃貸住宅も、空き家にしておくよりは貸したほうがいいということで、フランスなどでは税制を変えるなどして国が活用しています。予算がそれほどなくてもできる政策はたくさんあります。そうした他国の政策を参考にしてほしいと思います。 |
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■一億総中流社会が崩壊した日本で生き残れるのは「中二」だけ!? 2016/6
すべてを「見下す」処世術とは? かつて、タレントの伊集院光氏がラジオで生み出した言葉「中二病」。本来は、思春期特有の背伸びした行動や中学二年生じみた妄想に対して「自分は中二病だ!」という自虐に用いられるが、近年は他人の中二的な発言や行動を揶揄して使うことが増えている。このように、マイナスイメージがある“中二病”だが、サブタイトルに堂々と“「中2」でなければ生き残れない”と掲げているのが、4月末に発売された『見下すことからはじめよう』(山田玲司/ベストセラーズ)だ。 さまざまな年代で流行した漫画や音楽などのコンテンツを主軸に、いかにして現代を生き抜くかを綴った同書。直近の2010年代は、人気漫画家・ONEの作品『ワンパンマン』や『モブサイコ』を例にあげ、漫画に漂う「さとり世代の空気感」について綴っている。 「 ONEの漫画は『絶対的な能力』を持った『普通の人』が主人公だ。彼が作中で伝えようとしているのは『ものすごい力』なんてあったって、人は幸せになれない、ということにつきる。彼はモブサイコの中のセリフで『超能力なんかあってもモテませんよ』と描いている。このセリフは漫画の域を超えて『時代の変わり目』を示す一撃だろう。(中略)10年代を生きる若い世代は現実で一番になることはなくても、ゲームなどのバーチャル世界で『最強になる虚しさ』を何度も感じながら育っているのだ。 そもそも現実ではなれるはずがない『世界最強って何?』という思いと、そんなことより『ちゃんと朝起きてトレーニングしたり、人と話したりする方がすごいことじゃないのか?』という感覚が生まれてきたのが10年代なのだ 」 そして、「最強」を求めなくなった10年代について「『力』があれば幸せになれる、という昔の価値観から距離を置き、『普通に生きる』ことに価値を見出すようになった」とまとめている。 そのほか、60年代には手塚治虫やダースベイダー、70年代は『機動戦士ガンダム』、90年代には『新世紀エヴァンゲリオン』など、各年代の人気コンテンツが写しだしてきた「時代の精神」をひもといた うえで、筆者が処世術として提唱しているのが「自分だけは特別だ」という自意識を持ち続けること、中二でありつづけることなのだ。 一億総中流社会が崩壊した日本では、就職や結婚など、いわゆる“普通”の生活を送ることはできなくなった。これまで「世間のみんな」がすごいと崇めていた場所やモノ、ステータスには何の魅力もなくなったことを意味している。 「 経歴や職業と同様に全てあてにならない。(中略)『中二』と呼ばれる『幼児的万能感』を抱えたまま『自分は特別だ』と根拠なく思っていたほうがいい。 そして、それまで崇められてきた『すべての権威』を見下していい。それが『今』という時代の転換点にすべきことなのだ。 何が大事で何が必要ないのか? どんな人間に価値があって、どんな人間が『ハリボテ』なのか? そのすべてを自分が決めるのだ 」 そして「他者の目に怯えて『思考停止の列』に並ぶくらいなら、僕は『中二』で結構だと思っている」と締めくくっている。自分のなかに価値基準を設けて、自ら生き方を選択していくことが「見下す」ことなのかもしれない。恥ずかしい過去としてあげられることの多い中二病だが、まさかそこに生き残るヒントがあったとは、目からうろこ……! さまざまな時代の人気コンテンツの歴史に触れつつ、後半には「魅力のある人になる方法」やプライドの扱い方など、著者独自の“中二的生き方”が語られている。中二心を忘れ、生きにくさを感じている人にオススメの一冊だ。 |
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■一億総中流の罠 2016/7
「一億総中流」という言葉を知らない世代の方も多いだろう。60-70年代の経済成長と日本の人口1億人をかけ合わせ、多くの国民生活に中流をもたらしたことを言う。この中流は所得と意識の両面であったが、今、所得は再び格差社会となりつつあれども意識だけは中流が残る独特の社会を作り上げた。さて、その罠(わな)とは? 日本のマスコミは舛添都知事のバッシングに忙しい。テレビもネットも舛添さん批判一色である。理由は世論調査で9割が舛添さんに否定的な意見だったとされたからだ。マスコミもビジネス、だから世論と対峙するわけにはいかない。9割がNOと言えばメディアもNOに同調し、盛り上がり、シュプレヒコールする。 こういうスタンスは日本だけではなく、香港でもブラジルでも似たようなことが起きている。だが、日本のそのレベルは時として恐ろしいほどのベクトルが働き、行き過ぎの感すらある。今の都知事の前、猪瀬さんもこっぴどくやられた。私も当時、興味津々に報道を追っていたが猪瀬さんが5000万円のことで追及された際、1枚の紙を高々と掲げ、ほらあるでしょ、借用書!と都民のみならず全国の人にその姿をさらした際にはこちらが恥ずかしくて赤くなってしまった。人間、責められるととんでもない行動に走るものである。 舛添さんも厚顔、よく耐えていると思うが、ここまで全否定されると「やってられないよな」と思っているに違いない。本記事が発刊されるときまで果たして持つのだろうか? いわゆる見せしめとか公開処刑はアジアでは昔から割と多い。日本では江戸時代に獄門というさらし首があったし、戦国時代、武将は相手の首を取ってくるのが勝利宣言でもあった。中国では文革時代に紅衛兵が「造反有理」を叫び、資本主義者をさらし者にしていたし、今でも中国では「引き回し」の事件報道を時折耳にする。 これは国民生活を国家権力や世論統制などを通じて支配するかつての悪習と大して変わらず、主流派以外を打ち消す圧力となる。我々は民主主義の世界にいる。民主主義は誰が何を言っても一定の尊厳があり、それに同調しようが反対しようがそれは個人の自由裁量となるはずだ。 だが、例えばもしも私が「舛添さんは反省しているのだから今回は許してやろう」などというものならば私にはとてつもないバッシングと大炎上が待ち構えることになる。よほどの強心者か、論理的強みがあるか、一蓮托生、俺も燃えるという気がない限りそんなことはせいぜい家族にそっとつぶやく程度に留めておくはずだ。 日本では共同体という意識が非常に強く育まれてきた。農業も漁業も一人ではできない。今でも収穫の時期になれば今日はだれだれの畑、明日はあそこ、という具合に皆で協力し合う。もちろん個人所有の農地に於いてだ。これでは旧ソ連のソホーズ、コルホーズ(=国営農場、集団農場)が今でも日本では脈々と続いていることと同じだ。 「一億総中流の罠」とは中流意識がそこから抜け出せなくなり、発展的思想につながらないことをいう私の造語である。「流動性の罠」という経済用語がある。これは低金利になるとそこから金利があげられなくなるということを意味するのだが、そこから私はこの言葉がふと頭をよぎった。中流意識を持つと他の人との差別化に対して異様に敏感になり、そのわずかの差を埋めるよう行動する。だが、許容される枠を越えると人々は到達できないと感じ、怒りと反発で引きずり下ろす行動にでるというものである。 例えば日本でパンケーキがブームだとすればそのパンケーキを食べ、何処どこのがおいしいという会話をしないと仲間外れになる。今年の流行の服やファッションはしっかり押さえておき、話題になったら欲しくなくても「今度、一緒に買い物に行こう」と誘ってみたりする。子供には塾と習い事をさせ、「お宅はどちら?うちは○○」というお母様同士の激しいバトルがあったりする。 はたまた最近の芸能人の一連の不倫騒動も内心「俺(私)にはできないのになぜ、あの人だけ」というやっかみの気持ちが増長させていることもあろう。 これをお読みの方々の多くは海外在住者であろう。私も24年以上カナダに住んでいる。そこで感じることは個性と主義主張ではないか?自分の色を出さないとなかなか社会に溶け込めなかったり、正当な評価を貰えなかったりする。そのため、多くの日本から来た駐在員も会社に着ていくシャツの色は白から柄物、色物に変わったりする。駐在員同士の付き合い方も日本では口も利かぬライバル同士の会社の相手でも海外に出れば同朋で一緒に酒を飲んだりする仲に変わったりする。 が、残念なことに駐在期間が終わり、本国に帰国した瞬間、「海外ボケ」のリハビリを6か月間させられたとか「だから帰国組は使えない!」という上司のバッシングに悩んでしまった悲惨な話までいろいろと聞く。一億総中流の罠からようやく脱出してもその魔の追っ手は必ず、そこに引きずり戻すようになっているのかもしれない。 実に恐ろしい社会であるとも言える。しかし不思議なもので舛添さんがホテルのスィートルームを使うとコテンパンにやられるのにオバマ大統領がG7で泊まった志摩のホテルのスィートルームは大人気だそうである。ということは日本人にとって「外国人」は別枠だとも言えるのだろう。いやいや、実に難しいのが我々日本人の論理性である。 |
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■ビートたけしがむき出しにした「中流意識」への苛立ち 2016/8
俳優・ビートたけしはこれまで多くの「昭和の大事件」の当事者を演じてきた。大久保清、千石剛賢、田岡一雄、金嬉老、東条英機。さらには、3億円強奪事件の犯人、豊田商事会長刺殺事件の犯人、エホバの証人輸血拒否事件で死亡した男児の父親……。 はたして、たけしの演じた人物と彼自身はいかに重なり合ったのか? あるいは両者のあいだに相違点はないのか? 第2回となる今回は、"ひょうきん族"全盛期のたけしが演じた、連続女性誘拐殺人事件の犯人・大久保清との接点を探る。 ■芝居がうまいだけの役者では無理だった ビートたけし主演の単発ドラマ『昭和四十六年、大久保清の犯罪』がTBS系で放送されたのは、1983年8月29日のことだった。 この数年前のマンザイブームのなか、ツービートの片割れとして頭角を現したたけしは、ラジオの深夜番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』とバラエティ番組『オレたちひょうきん族』が1981年に始まったのを機に単独で活動することが増え、このころには若者を中心に圧倒的な人気を集めていた。俳優としてもこのドラマ放送の3ヵ月前の1983年5月には、出演した大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』が公開され、強い存在感を示した。 ここからシリアスな演技もできる俳優としても注目度が高まっていたからだろう、『昭和四十六年、大久保清の犯罪』は34.0%という高視聴率を記録している。 このドラマを企画したのは、TBSのプロデューサーの八木康夫である。八木はたまたま読んだ筑波昭のノンフィクション『昭和四十六年、群馬の春 大久保清の犯罪』(草思社、1982年)が面白かったので、これをドラマ化しようと思い立つ。 大久保清とは1971年3月から5月にかけて、あいついで若い女性を殺害した犯人である。それ以前より大久保は強姦事件をたびたび起こし、67年からは府中刑務所に服役していた。連続殺人におよんだのは仮出所直後(当時36歳)のことで、その手口は群馬県内をクルマで走り回り、画家や教師などを装いながら女性に声をかけ、ドライブに誘うというものだった。 自供によれば、声をかけたのは127人にのぼり、35人をクルマに連れこんだという。このうち警察に通報するなどと言って抵抗した相手を殴り倒して絞殺し、榛名山中など県内の各所に埋めた。逮捕されたのは5月14日で、その後の自供から8人の遺体が掘り出される。一審で死刑判決を受けた大久保は控訴せず、76年1月、東京拘置所で刑が執行された。 そんな凶悪犯の役には誰がふさわしいか? 八木の頭にひらめいたのが、たけしであった。しかしTBSの社内では、このキャスティングに対する反応はいまひとつだったらしい。 《キャスティングの話題性だけじゃドラマはできないというのがその理由。でも、僕はほかの人では考えられなかった。“たけちゃんマン”全盛の当時のたけしさんっていうのは、大久保清という人物とは対極のところに存在するキャラクターですよね。そのたけしさんの俳優としてはまったく未知数の部分にかけたかったんです》(『ザテレビジョン』1996年9月27日号) 社内ではたけしに芝居ができるのかという反対もあったという。企画段階ではまだ『戦場のメリークリスマス』は公開されておらず、連続ドラマで主演した経験もあったとはいえ(1982年放送の『刑事ヨロシク』)、そこでの役どころはコメディアンと地続きだったから、シリアスな演技が可能か疑問視されたのも無理はない。 テーマについても、いくらサスペンスものでも、婦女暴行犯を主役にした話はだめだという空気もあったようだ。これに対し八木は、お笑い界のスター・たけしを起用すれば、陰惨な事件を中和できるし、なおかつ話題性を持たせられると、社内を説得してまわったという。これはこのドラマで脚本を手がけた池端俊策の証言だ(『キネマ旬報』2016年5月下旬号)。 池端もまた、八木からドラマの脚本を依頼されたとき、一瞬「うーん?」と疑問を抱いたらしい。だが、しだいに、《でも他にじゃ誰がいるかとなると、非常に難しい役だから、既成のただ芝居がうまいだけの役者さんではこの犯罪者はできないなというのがあって、最終的にいいんじゃないかなと》思うようになったという(池端俊策『池端俊策 ベスト・シナリオ セレクションU』三一書房、1998年)。 八木と池端の直感は結果的に的中する。ドラマのなかでたけしは、誘った女性にはあくまで優しく接しながらも、自分の素性を怪しまれたとたん、態度を豹変させ凶暴化する大久保をみごとに演じてみせた。前回書いたとおり、ビートたけしの映像作品での役どころには二面性を持った人物が多いが、大久保清の役はその発端となった。 池端俊策はさらに、たけし演じる大久保清に、またべつの二面性を与えていた。 ■大久保母の「息子殺し」 ドラマ『昭和四十六年、大久保清の犯罪』は、1971年5月、群馬県藤岡市に住む21歳の女性・瀬間宏子(手塚理美)が行方不明となるところから始まる。彼女の兄(辻萬長)は、捜索を頼んでも警察がなかなか動こうとしないため、仲間に呼びかけて私設捜索隊を結成し、手分けして県内を探しまわる。 やがて大久保を発見、犯人として目星をつけると、マツダ・ロータリー・クーペで逃げる彼を数十台のクルマで追いこみ、警察へ突き出した。ここでカーチェイスが繰り広げられるシーンは、この事件がモータリゼーションの到来のなかで起こったものであることを表していた。 このあとドラマでは、佐藤慶演じる黒田警部による取り調べに回想シーンを挟みながら、大久保が仮出所して連続殺人におよぶ経緯、またその生い立ちをたどっていく。殺害されたうち、まず17歳の少女の遺体が発見されてからも、大久保はなかなか口を割らない。ときには虚偽の供述で警察を振りまわしさえした。ようやく逮捕から10日あまりのち、瀬間宏子が抵抗して、自分の父は刑事だと言い出したため殺害におよんだと供述するも、また口を閉ざす。 脚本の池端俊策は、大久保を単なる異常性格者としては描かなかった。池端がとくに注目したのは、大久保と母親との関係だ。母が大久保を「ボクちゃん」と呼んで溺愛していたことは事件当時から報じられ、過保護から大久保は社会に適応できず、犯罪へと走ったとの見方も強かった。 池端はそんな大久保に、どこかたけしと重なり合うものを感じた。その発想は、これ以前に池端がたけし出演のドラマ(1983年6月放送の『みだらな女神たち』)を手がけた際、本人と話をしたことがもとになっている。 このとき池端はたけしから、漫才でのシニカルで攻撃的な物言いとは違い、神経質でナイーブな感じを受けたという。《強い部分と弱い部分が大変面白く共存してる人だな》というのが、その印象であった(『シナリオ』2004年7月号)。また、母親の話を盛んにしていたことから、母親の影響の強い人なのではないかとも感じられた。それゆえ、ドラマの企画時にたけしの名前を出されたとき、なんとなくこの役と縁があるんじゃないかと思ったという(池端、前掲書)。 ドラマでは、なかなか自供しない大久保にたまりかねた黒田が、母親(大塚道子)のもとを訪ね息子に自供をうながすよう説得する。母親は当然「早く自供すれば、早く死刑になるんでしょ。私が、ボクちゃんに早く死ねと言うんですか!」と拒むが、黒田は「あなたが育てた息子です。あなたには、それを言う責任があるのではありませんか」と押し切った。 こうして母親は重い腰をあげて大久保と面会するのだが、彼は自供してくれないかと言われたとたん狂乱状態に陥る。このあと母から見捨てられたとの思いから、すっかり人間不信になった大久保に、黒田は「俺は気持ちのどこかで、おまえの人間性を信じている」と語りかけた。これにやっと心を開いた大久保は、少しずつ供述を始めるのだった。 実際には、面会には母親だけでなく父親が同行しているし、原作を読むかぎり、それを境に大久保が進んで自供するようになったとは言いがたい。むしろ大久保が最後までこだわったのは、仲の悪かった実兄で、彼が死ななければ自供しないとまで言っていた。 しかしドラマでは兄と大久保の関係にはさほど触れられていない。池端はあくまで母親との関係を強調し、そのため彼女との面会後、大久保がすべての犯行を供述し始めるという脚色がなされたのである。 このドラマにおいて、大久保の母親はさんざん甘やかした息子に、最後は自白をうながし、結果的に彼を死に追いやる役回りを演じることになった。池端は、大久保は犯罪者としては憎むべき加害者であったが、母親との関係においては被害者であったと、次のように説明している。 《単なる加害者だったら何の同情ももてないし、何のシンパシーももてないし、主役たり得ない。母親に対して被害者であるというのは、ある普遍性をもてるなと。とくに現代の若者を語るときには、という気がしたんです。そこを軸に話を組み立ててみようかなと思って》(前掲書) ビートたけしが演じた大久保清は、加害者と被害者という二面性をも持ち合わせていたのだ。 ■母の敷いた道から逃げたたけし さて、ここで大久保清とビートたけしの違いについても考えてみたい。池端俊策がたけしと話をしたときに気づいたとおり、たけしも大久保と同様、母親から強い影響を受けていたことは間違いない。本人も《オレくらいのマザコンはいないんじゃないかと思っている》と、女性とつきあうたび、どうしても“母親”というものを見てしまうと語っている。 男のわがままを黙って聞いてくれる、そういうタイプの女性にたけしはいつも頼ってきたというのだ(ビートたけし『愛でもくらえ』祥伝社黄金文庫、2001年)。それだけ現実の母親の存在が大きかったということだろう。 母・北野さきは子供たちの教育に熱心だった。夫(たけしの父・菊次郎)の稼ぎが悪く貧乏生活を送るなか、そこから抜け出すには学歴こそ早道だと骨身にしみていたからだ。ふたりの兄を大学まで進学させた母は、末っ子のたけしにも同じ道を歩ませようとした。学校だけでなく夏期講習に通わせたり、英語や習字をならわせたりと、ほかのことを節約してでも子供の勉強のためにカネを回したという。 終戦直後の1947年生まれのたけしが少年時代をすごしたのは、高度経済成長期に入ったころだ。日本経済を牽引したのは重化学工業だった。それだけに理工系の大学に進んで技術を学び、世間に名の知られた会社に就職するのが花形とされ、母も息子たちにそれを期待した。事実、たけしの19歳上の長兄・重一、5歳上の次兄・大(まさる)は理工系で、それぞれ経営者と研究者になっている。 たけし自身も長じて明治大学の工学部に入学、結果的に母親の敷いた道を歩むことになる。母は息子の進学をものすごく喜び、誇りに思ってくれていたという(北野武、ミシェル・テマン『Kitano par Kitano 北野武による「たけし」』松本百合子訳、ハヤカワ文庫、2012年)。 しかし彼はやがて大学を中退、職を転々とした末に、浅草で芸人修業を始めた。それは大久保清が事件を起こした翌年の1972年、たけしが25歳のときだった。 《うちの家で勉学をやめるってのは、逃亡するのと同じことでさ、おふくろの夢を壊すことでもあったんだよね。はっきり言えば、へその緒を切るみたいなことだけど、つまりは独り立ちしたかったの。勉学をやめて、どっか別のところで生きるために、家族と離れたの。おふくろが俺に対して抱いていた夢を断ち切る必要があったんだ》(前掲書) こうして見ていくと、同じく母親の強い影響のもとで育ちながらも、大久保清とたけしを大きく分けたのは、まず何より、意識的に母親から離れて、独自の道を選んだことだといえる。 ■一億総中流社会のなかで 大久保清事件の同時代性を、評論家の赤塚行雄は、終戦直後に起こった小平事件との対比から指摘した。小平事件とは、小平義雄という男が、1945年から翌年にかけて若い女性10人(当人の自供では7人)にあいついで暴行を加え殺害した事件だ。小平は「米や芋を分けてくれる農家を知っている」と声をかけ、女性を誘い出した。その背景には戦後の深刻な食糧難があった。 これに対して、大久保が女性を誘い出す手口は、先述のとおりクルマに乗って近づき、画家や美術教師などを装いながらモデルになってほしいと誘い出すというものだった。食べ物をダシに用いた小平に対し、いわば女性の虚栄心につけこんだ点で大久保は大きく違った。赤塚は次のように書く。 《高度経済成長の影響がやや遅れて現われた地方都市のつねとして、被害者の側にも、マスコミから流れてくるナウな刺激的な生活様式と実際の日常生活との間に落差があり、「ちょっとその気になりさえすれば、新しい生活の中にもぐりこめる」といった幻想とあせりがなかったか》(赤塚行雄『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』講談社文庫、1985年) 大久保が自らの欲望を満たすためにつけこんだ「幻想とあせり」とは、地方の若い女性ばかりでなく、高度成長を経た大衆が多かれ少なかれ抱いていたものではないか。衣食住にはひとまず困ることのなくなった人々が次に求めたのは、まさに「ちょっとその気になりさえすれば」手に入りそうなワンランク上の暮らしであった。その意味で、大久保の事件は、一億総中流などと呼ばれる社会の到来を告げるものだったともいえる。 当の大久保からして強い虚栄心の持ち主であった。画家を装ったことは、その何よりの証しだ。事件当時、大久保は36歳。いまならともかく、この時代としてはかなりのオッサンである。婦女暴行の前科持ちで、風采の上がらない中年男が若い女性から相手してもらうには、それなりの演出が必要だろう。 その小道具こそクルマであり、ルパシカやベレー帽といった芸術家風の衣裳だった。またクルマの助手席には、埴谷雄高の小説『死霊』や、横文字の目立つ電気工学関係の専門書もさりげなく置かれていたという。大久保の誘いに乗ったなかで殺されたのが、そうした演出をウソと見抜いた女性ばかりだったのは、不幸というしかない。 『昭和四十六年、大久保清の犯罪』でベレー帽をかぶったたけしの姿は、いまにして見るとどうにも滑稽だ。ベレー帽は画家を意味する記号としては、すっかりベタで、うさんくささすら漂うものになってしまった。 芸術家気取りで、いかにもそれっぽい衣裳や小道具、言葉で装い、女にモテようという男の浅はかさ、滑稽さ。考えてみると、そんな人間こそ、芸人・たけしの格好の笑いの対象ではなかったか。たけしが漫才において「ブス」や「田舎者」をしきりにこきおろしたのは、容姿が劣ることや田舎に住んでいることそれ自体をバカにしてではなかったはずだ。 自分の身の丈に合っていない言動、すなわち分不相応こそ、彼のもっとも忌み嫌うものであった。それはインタビューなどでの発言からもうかがえる。たとえば、1984年の筑紫哲也との対談では次のように語っていた。 《若い女なんかでも、俺がポルシェなんて買うのね、金が余ると。そうすると、「ポルシェ、格好いいですね。でも、なぜ足立ナンバーなんですか」なんていうの。品川ナンバーにしろって。「てめえ、俺は足立区に住んでるのに、なんで品川ナンバーつけるんだ。それがダサイっていうんだ」っていうと「なんでえ? わかんなーい」とかいうんだ。/そういう、モノとか、どこに住んでいるとかって、やたらいまの奴いうのね。俺、イライラするの。こういうものに乗って、こういうスタイルをして、こうなってというの。そいつらみんな轢き殺してやろうかなと思う。いちばんダサイ格好して、雪駄履きで、ロールスロイスかなんかでね》(筑紫哲也ほか『若者たちの神々T』新潮文庫、1987年) 1989年、監督第1作『その男、凶暴につき』の公開時に山際淳司から取材を受けたときも、《中流を気どって、物ごとそれでいいんだと思ってるやつらくらい、腹立たしいものはない》と口にした。 《貧乏には貧乏のよさがあるでしょう。中流は中途半端だよ。中途半端な状態が今一番の正統な歩み方だなんていう風潮があるでしょう。それがイライラするんだね。(中略)時代がそういう時代だから、映画っていえば『彼女が水着に着(ママ)がえたら』だとか、そんなのばっかりになっちゃうんでね。少し、ひんしゅくを買うようなやつをやりたいなと思ってた》(山際淳司『ウィニング・ボールを君に』角川e文庫、2013年) 中流意識への苛立ちこそ、たけしをお笑いでスターダムにのし上げ、さらには映画づくりへと駆り立てたものであった。これに対し、一億総中流へとつながる女性の虚栄心をもてあそび、自らもそれに溺れた大久保清。ビートたけしはそんな大久保清的なるもののバカバカしさを笑い飛ばした、最大の否定者でもあった。 |
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■日本では所得格差も貧困意識も拡大していない 2016/9
■日本ではなぜか使われない所得格差の国際的な標準指標 私は常々、日本については、国際的な標準指標で所得格差の拡大が検証されない点に奇妙さを感じている。 所得格差の国際的な標準指標というのは、途上国を含む世界各国の経済統計要覧として国際的に権威のある世界銀行の統計集(World Development Indicators)でも格差の基本指標とされている2つのデータ、すなわち、(1)可処分所得の世帯分布の不平等度を示すジニ係数、(2)高所得世帯と低所得世帯との平均所得倍率である。 ところが、日本で格差拡大が統計指標で示される場合は、基本的には、近年になってにわかに取り上げられるようになった相対的貧困率の指標だけであり、2つのオーソドックスな格差指標はないがしろにされている。 まず、所得格差の基本指標であるジニ係数の推移を日本と主要国について見てみよう。準拠したのは、先進国の統計集としては最も参照されることが多いOECDのデータベースである。OECDでは、データ提供を加盟各国に要請し、定義や指標作成方法を標準化させ、国際比較が可能な指標を整備しており、図はこれを示したものである。 図1 日本と主要国の所得格差の推移 ここで、ジニ係数とは何かについてふれておく。所得が最低の世帯から最高の世帯まで順に並べ、低い方から何等分かに分けた累積所得を求め、完全に平等な所得分布であった場合からの乖離度を面積比率として計算し0〜1の値にまとめた数値をジニ係数という。0で完全平等、1で完全不平等となる。何等分を細かくし、究極的には個別データに至るとより正確な所得の平等度(あるいは不平等度)を表現できることになる。ジニ係数は所得分布を表す定番指標となっているが、実は、土地所有などその他の不平等度を表すためにも広く使用される。 図の中の日本の値は、厚生労働省の国民生活基礎調査の3年毎の大規模調査時のデータにもとづいているが、国内では発表されていない生産年齢人口のジニ係数が掲載されている点に独自の価値がある。高齢化にともなって退職後の所得が相対的に低い世帯が増えるので、ジニ係数も上昇に向けたバイアスがかかる。そこで、高齢者を除いた人口集団でジニ係数を計算すれば、高齢化の要因を取り除いた格差の状況が分かるのである。 なぜか、国内発表では、前々から知りたかった高齢層を除いたジニ係数が提示されていなかったので、私は、たまたま、OECDのデータベースでこれが記載されているのを知って溜飲を下げたことを思い出す。 図を見れば、主要国では、いずれの国でもジニ係数が上昇傾向にある点が明確である。主要国の中でも最もジニ係数が高い米国では、1980年代以降、継続的にジニ係数が上昇している。ドイツやフランス、そして福祉先進国として知られかつては非常にジニ係数が低かったスウェーデンでも、最近は、格差拡大が無視できない状況となっている。 一般には、冷戦終結(1989年)後のグローバリゼーションの進展とともに経済の自由競争が過熱し、その結果、経済格差が拡大しているという見方がああり、移民や難民の増加とともに、こうした国内格差の拡大が、各国でネオナチなどの排外主義的な政治潮流の台頭の背景になっているともいわれる。 日本も同じ道をたどっていると一般には思われているが、果たして、そうであろうか。 ■元々高かった格差水準が最近落ち着いてきている 図中の日本のジニ係数には2つの特徴がある。 まず、水準自体が低くない点が重要である。日本は、従来、平等な国だったが、最近、格差が拡大して住みにくい国になったという論調が一部に見られるが、このデータでは、少なくともバブル経済に突入する以前の1980年代半ばには、すでに、スウェーデンばかりでなく、ドイツやフランスを大きく上回り、米英に次ぐ高いジニ係数の水準となっていた。もし日本の格差水準が高いとしたら、以前から高かったと考えねばならないのである。 また、ジニ係数の動きをよくみると、日本の場合、2000年をピークに、どちらかというとジニ係数は、横ばい、あるいは微減傾向にあると捉えることができる。特に、高齢化要因を除いた生産年齢人口でのジニ係数はこの点がより明確である。他の主要国がジニ係数を上昇させる傾向にあるのとは対照的なのである。 すなわち、日本の場合、低かった格差水準が最近高くなったのではなく、元々高くなっていた格差水準が最近落ち着いてきているのである。この点について、さらに、たんねんに見ていくため、ジニ係数ではなく、所得格差についてのもう1つの指標を、次に、取り上げよう。 その前に、全年齢と生産年齢人口のジニ係数の関係について日本の特徴を整理しておこう。 日本について、全年齢のジニ係数と高齢化要因を取り除いた生産年齢人口(ここでは通常の15歳以上ではなく、18歳以上で65歳未満の人口)のジニ係数の推移を比べると、前者の方が後者をだんだんと上回るようになっており、この差の拡大が高齢化の要因による格差拡大といえよう。 日本以外の国では、日本と異なり、全年齢と生産年齢人口との差はむしろ縮小、あるいは逆転する傾向にある。年金や税制による所得再分配がないとすると高齢者層では働き盛りのときの貯蓄や資産運用の運不運で格差が生産年齢人口より大きくなるのが一般的である。 高齢者層を含めた全年齢のジニ係数が生産年齢人口のジニ係数より上回っている点が明確なのは米国と日本であるが、米国は、機会の平等を重視し、結果の平等は致し方ないとする考え方が根強いからであろう。日本の場合は、アジア的な自助思想の影響のためと、高齢化が急であり、高齢化の程度も尋常ではないため、財政制約もあって、再配分が追いつかないためだろう。日米以外の国ではそれなりに再配分機能が働いているため高齢者を含めた場合でも格差が広がらないのだと考えられる。 ■高所得世帯の平均所得は低所得世帯の何倍か ジニ係数と並んで格差の国際的な標準指標として、高所得世帯の平均所得が低所得世帯の平均所得の何倍になっているかという指標がしばしば使用される。学者的には、中間層まで含めて不平等度分布を正確に表わせないと見なされ、あまり使用されないが、ジニ係数より実感的に理解できる点がメリットとしてあげられる。この2つの指標は、ほぼパラレルに動いているので、実際上は、どちらを使ってもよいのである。 図には、家計調査(総務省統計局)から、所得格差の動きを、所得の上位20%世帯と下位20%世帯の所得倍率で示した。前図の日本のジニ係数とほぼ並行的な動きを示しているが、時系列的には、かなり古くから推移を追える点のメリットがある。二人以上の世帯が対象なので、増加する高齢単身世帯が含まれていない分、高齢化の影響は小さい指標とみなせる。 図2 所得格差と世代間格差の推移 高度成長期さなかの1963年(東京オリンピックの前年)には所得格差は5.65倍と大きかったが、オイルショックで高度成長期が終わりを記した1973年には4.08倍とめざましい低下を見た。経済の高度成長にともない、安定した職を得て従来の貧困層の所得が大きく上昇したのが原因だと考えられる。 その後、じりじりと所得格差は拡大し、バブル期を経て、1999年に4.85倍のピークを記したのち、2003年に急落し、近年は、ピーク時からはかなり低い4.5倍前後の水準でほぼ横ばいに推移している。 図には30代世帯主世帯の所得と50代世帯主世帯の所得との世代間格差の動きをあわせて示しておいたが、高度成長期が終わった頃からは、ほぼ、全体の所得格差とパラレルな動きとなっている。 ■年功序列賃金による世代間格差が日本の格差動向を左右してきた 格差には階級格差と世代間格差とがあり、世代間格差は、若いときに低所得でも壮年期には高所得となるということなので、階級格差と異なり、深刻な社会の亀裂には結びつかないと思われる(生産年齢人口と高齢人口との格差も世代間格差であるが、ここでは生産年齢人口の中での世代間格差を考える)。日本は世代間格差が大きいため、海外と比較して、もともと、ジニ係数や相対的貧困率などの格差指標が高目に出る傾向にある。高度成長期の格差縮小は階級格差の縮小だったが、それ以降の日本の格差の動きは、世代間格差によって影響されている側面が大きいと考えられる。 世代間格差が拡大したのは年功序列賃金が広がったためだと思われる。農業などの自営業分野が縮小し、企業社会が一般化するとともに、従来は大企業だけだった年功序列が中小企業にまで普及し、いわゆる日本型経営が支配的となったことが背景にある。若いうちは少ない給与で働き、経験と技能を高め、企業内の階梯をのぼることで給与が大きく上昇するパターンが、安低成長期の企業成長の中で実現し、若年層と壮年層との世代間格差が拡大したことで、日本の格差が拡大したかのように見えていたのである。 1990年代のバブル崩壊後にも、こうした企業秩序はしばらく失われなかった。というより、しばらくしたら80年代のような経済状況に戻るという、後から考えるとはかない予想の下、不良債権問題の処理を先送りにしながら無理して従来の企業秩序を維持していたともいえる。デフレ経済のもとで実質賃金が上昇し労働分配率が過去最高水準となったのもこの頃である。人数の多い団塊の世代が賃金が最も高くなる50代になったので企業の負担感はピークに達していた。 そして、こうした無理がついに維持できなくなった1990年代末から、大手金融の経営破綻・大型倒産が相次ぐ中、リストラの嵐が吹き荒れ、本当の意味でのバブル崩壊が日本社会を襲った。高止まりしていた壮年層の所得水準はリストラに伴って一挙に崩壊し、世代間格差はバブル期以前の水準まで急低下した。上位20%の高所得世帯の実態は、安定した所得を得ていた壮年層だったため、この層の所得低下で日本の格差は一気に縮小することとなったのである。団塊の世代は浮かれていた時代のツケを支払わされたといえよう。中高年の自殺率は急上昇した。 「改革なくして成長なし」のスローガンとともに小泉政権(2001〜2006年)が登場したのはこの頃である。郵政民営化は、リストラの影響で辛い目にあっていた国民が抱いていた、従来秩序に守られ安穏としていた公的機関への反感を追い風に進められた。2006年の通常国会では、構造改革が社会格差の広がりを生んでいるとする野党の批判に対して、小泉首相は、「格差が出ることが悪いとは思わない」、「勝ち組、負け組というが、負け組に再挑戦するチャンスがある社会が小泉改革の進む道」と反論したため、格差拡大自体は進んでいる印象が国民に広がった。 これまで掲げた2つの図のオーソドックスな指標はともに小泉政権下では格差が縮小していることを示しているが、国民は、小泉政権の改革路線の影響で格差が拡大しつつあると思い込むようになったのである。 海外と異なり、日本では、実態と意識が大きく食い違うこうした皮肉な状況となったのは、日本の格差が世代間格差の動静で大きく影響される特殊な性格をもっているからだと考えられる。小泉路線の影響で非正規雇用が増え、格差が広がっている側面も当然あるのだが、一方で、既得権益の打破で世代間格差を縮小させる側面がそれを打ち消し、結果としては、格差指標が横ばい傾向をたどっていると考えられよう。 いずれにせよ、日本の格差は、この程度のものなので、欧米のような階級対立につながるような格差拡大の動きには、いまのところ至っていないと判断できよう。日本の場合は格差社会と言うよりは格差不安社会が深刻化しているのである。 ■依然として日本は「総中流」 下流意識は広がっていない もしマスコミ報道などで当然視されている日本の格差拡大が本当なら、当然、国民の中には「下流意識」をもつ人が増えている筈である。この点に関するデータがないわけではないが、報道されることがないので、ここで紹介しておくことにする。 データ源は、国民意識の調査としては、無作為抽出によるサンプル数の多さや電話調査でなく訪問調査という調査方法の継続実施などから、もっとも信頼性が高いと見なせる内閣府世論調査である。 かつて高度成長期をへて国民生活が豊かになり、人口も1億人に達した1970年代に、日本社会は「一億総中流化」と特徴づけられるようになった。この時に必ずマスコミによって引用されたのがこの調査である。「お宅の生活程度は」ときかれて、「中の上」「中の中」「中の下」を合わせて「中」と答える者が国民のほとんどを占める結果となっていたことでそう言われたのであった。 近年では、所得や資産の不平等感が増しており、貧富の格差は広がっているとされることが多くなっているが、そうであるならば、この意識調査の結果も、「中」が減って、「下」(あるいは「中の下」)が増えている筈であるが、果たしてそうなっているだろうか。 図3 階層意識の推移 この世論調査の推移は一目瞭然。今でも、総中流化という特徴は変わっていない。また、「中の上」が増え、「中の下」や「下」が減少という傾向が長期的に続いている。さらに、貧困の増大や格差の拡大が進んでいるとされる小泉政権(2000年代前半)以降の時期になっても、にわかに「中の下」や「下」といったいわゆる下流層(あるいは下流層と自認している層)は増えておらず、むしろ、減っている。 最近目立っているとすれば「中の上」(あるいは割合は少ないが「上」)の増加であり、格差が増大しているとすれば、少なくとも意識上は、貧困層の拡大というより、富裕層の拡大だけが進んでいると考えざるを得ない。 1980年代後半のバブル期には富裕層は減り、むしろ下流層が増えていた。これは、世の中に富裕な層が多くなっているという報道に接し、自分は、それほどでもないと感じる者が増えたためだと思われる。このときと全く逆に、最近、富裕だと自認する者が増えているのは、世の中に貧困層が増えているという報道に接し、自分はそれほどではないと感じる者が増えているためであろう。 いずれにせよ、こうした推移を見る限り、深刻な格差拡大が起こっているようには見えない。この調査結果だけでは信じられない人のために、継続的に実施されている日本の代表的な意識調査の結果から、貧困意識、あるいはそれに近い生活不満意識の推移をとりまとめた図を、さらに以下に掲げた。 図4 代表的な意識調査で追った貧困意識の推移 図を見れば、多くを語る必要はないであろう。日本人の中で貧困意識を抱く者は長期的に少なくなってきていることが確実である。格差が拡大しているという常日頃の主張と合わないからといって、有識者や報道機関が、こうした意識調査の結果をすべて無視しているのはフェアな態度とはいえないと思う。 格差社会が深刻化しているというより格差不安社会が到来しているのだと上に述べた。理由を考えてみると、高度成長期や安定成長期と異なり、まじめに働けば誰でも安定的な生活向上が望めるという気持ちを抱けなくなったためであろう。そして、それだけ、貧困状態に陥った者に対して自分のことのように感じる同情心が増したのである。また、生活一般に余裕が生まれ、困っている人に対する人々の福祉思想が上昇しているためでもあろう。 障害者対策に力を入れる方向での国民合意が出来上がったのは障害者が増えているからではなかろう。貧困対策も同じなのである。 |
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■日本人の9割が中流意識を持っている!? 中流でも「貧困」と紙一重! 2016/9
近年、「貧困」という言葉をやけに目にする。結婚は経済的に無理だと話す若者や、6人に1人の子供が貧困であるというデータ。不満や不安はあろうとも、働けば何とかなるだろうと思えるこの日本で、確実に何らかのひずみが生じている。 本書「THIS IS JAPAN 英国保育士が見た日本」は、英国在住の著者が、貧困者支援や非正規労働者支援の現場をていねいに取材してまわった記録であり、自身のイギリス労働者としての視点を交えながら、その現状をわかりやすく伝えている。 エキタスという貧困や格差の問題に特化した運動団体のメンバーで、23歳女性の藤川さんはこんなことを言っている。「考えたら、先を考えたらもう終わってしまうんです。本当は中流じゃなくて貧困なんですけど、貧困っていう現実に向きあうと終わっちゃうから」 長年、貧困支援に携わってきた藤田さんは、貧困当事者が自分を貧困だと認識しておらず中流意識を持っている、と指摘する。「だからみんな保守的になるんですよね、このままでいいと思っているから。貧困と隣り合わせで生きているのに、中ぐらいだと思っている」「非正規でも仕事はあるよと。いや仕事があるだけましか、とか。レベルがそうとう低いんですよね。月収10万円あって良かったとか。けれども、月10万円で健康で文化的な生活なんてできないでしょう」 ここで著者はスペインの失業中の青年が言ったことを思い出す。「僕はまず、政治は貧困と格差を何とかしなければならないと思うし、せめて社会は若者が家庭を持って子供を育てていける場所でなければならないと信じる」 日本の若者が結婚や子育ては普通の人間にはできないぜいたくなことだと言うのに対し、スペインの若者は、結婚や子育てといった普通のことぐらいできる世の中にしろと憤る。この違いは何から生じているのか。 内閣府の調査では、いまだに日本人の9割が中流意識を持っているという結果が出ている。一億総中流主義とでもいえる思想がある。だから、日本で貧困問題が表面化すると必ず「でも日本人はまだ○○ができるんだから豊か」という人が出てくるし、「私は貧困の当事者」という人に対して、「働け! 死ぬ気で働け!」と罵る人がいる。 「日本では権利と義務はセットとして考えられていて、国民は義務を果たしてこそ権利を得るのだということになっています」と自立生活サポートセンター・もやいの大西さんが言うように、日本で「(税金)支払い能力がない人々」に尊厳はない。何より「払えない」本人が誰よりそう強く思っている。これは、「人間はみな生まれながらにして等しく厳かなものを持っており、それを冒されない権利を持っている」と考える欧州との違いだ。 日本には人権政策がほとんどない。生活保護受給者に「フルスペックの人権」を認めてはならず、権利を制限するべきだという主張すらある。だが人権とは、納税額によって決まるのではなく、誰の尊厳も認め、「心配するな。ハッピーでいろ」と言ってくれる相互扶助の社会の仕組みだ。それが確立されていないとすれば、そりゃ「生きづらい」という人が多いのも当然。先行きが不安な時代ほど、その仕組みは必要とされるからである、と著者はコメントしている。 本書は様々な貧困者支援団体への取材や、著者の英国保育士という背景を生かした保育園レポート、労働者から見た英国や欧州の社会・政治分析と日本の対比など、示唆に富んでいる。社会が大きく変わりつつある今こそ、読んでみてほしい。 |
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■"一億総中流"と言う幻想 〜這い寄る"貧困"〜 2016/11
「一億総中流」 1970年代の日本の人口約1億人にかけて、日本国民の大多数が自分を中流階級だと考える「意識」を指す。 ■自分は”中流”にいると言う幻想 内閣府の「国民生活に関する世論調査」の統計を見てもらえれば分かるかとは思いますが、「私は中流である」と思っている人達は数十年前とそう大きく変わっていません。そこで更にもう一つ見てもらいたいのが「国民経済計算年報」の各家庭の貯蓄額を見てみると、昔に比べて徐々に減少しているのが分かるのです。 何が言いたいのかと言うと「自分は中流である」と言う意識は皆に根付いているけれど、実際の統計を見てみると、あらびっくり!中流でもなんでもない。過去と比較した時に相対的に「貧困」に陥っている現状であると言うことを受け入れる必要があると思うんですよね。 特に高度経済成長期のは「終身雇用」「年功序列処遇」「企業別労働組合」のと言うようなGODセーフティーネットがありましたが、それも機能しなくなってきた。ましてや、国の年金などの制度も怪しくなってきています。近頃では「俺、中流って思ってたけど貧しくね?」と違和感を覚える人が出てきたのか「下流老人」と言うような”貧困”を一面に表す言葉が目につくようになりました。 そうした、”幻想”に気づき始めている人達がではじめた。まぁ、早い話が上記に述べた過去のブログと同じく、当事者の時代であると言う意識を皆に持ってほしいって事なんです。 ■”貧困”と言う幻想 数ヶ月前に行われたNHKの貧困報道の特集で出てきた女学生の映像に映っていたモノが値段の張るものが多く「全然貧困じゃねぇ!」とインターネッツメディアでは結構話題になったことは記憶に新しいかと思います。 もちろん、報道のあり方と言うものも考えないといけない問題ではありましたが、それ以上に思うのが皆が抱く貧困像と言うのがあまりにも極端すぎるんじゃないかな〜と感じています。「●●じゃないからコイツは貧困じゃない!」とかもあれば「コイツは生活保護をもらってるから駄目な奴なんだ!」みたいな真逆の事を言う人もいるわけです。このあたりは「鬱は甘え!」とか言う人達と一緒ですね。 私が、これらの問題を通して思ったのが「貧困です!」と当人が言い出しにくい世の中なんじゃないか?と私は感じるのです。もちろん、節度やモラルと言うものは守られるべきものだとは思いますが、それ以上に尊重しないといけないのは”人権”だ。 このあたりの行為が行き過ぎてしまうと、以前に書いた"相模原事件"のようなヘイトクライムとそう何ら変わらないよなって思うんですよね。 時代は変わったのだから、それにあわせて個人の意識を変える必要があると思うのです。「ダイバーシティ&インクルージョン」とか言う意識高い感じの言葉だって耳にすることが増えてきたじゃないですか。それをいい加減、受け入れよう。 ■”貧困”だっていいじゃないか。にんげんだもの 単純に言いましょう。私は”貧困”です!お金ないです!と発言することも許されない世の中って、辛くないですか?そんな”生きづらさ”を皆が抱えて、どうやって世の中が良くなっていくと思えるのでしょう。ぼくにはむつかしいもんだいすぎてわかりません。私は貧困です!お金ないです!それでいい。 皆、違っていて、皆、受け入れる。そういった”生きやすい世の中”を目指しましょうよ。そのためには皆が皆、世の中を変える人間の一人なんだ!って自覚をしていこう。一人でもいい。そう言った人が増えていけばいずれ世の中を動かせる大きな力になるはずなんです。 話は飛んで、小説"1984年"の誰もが恐れた「ビック・ブラザー」たとえ、そんな相手が立ちはだかったとしても、ほんの少しでもいい皆が"自ら変わっていこうと言う意思"と"勇気"があれば、きっと倒す事ができるはずなんですよ。それは、夢物語なのかもしれない。でもそのぐらいの夢をみたっていいじゃないですか。そうじゃないと、あまりにも現実が救われなさすぎる。そんな小さなわがままぐらい言わせてくれよ。 希望さえ失わなければ、皆が笑顔になれるような世の中が作れるはずなんです。 |
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■2017 | |
■自己責任論で若者の未来を奪うな! 2017/3
「一億総中流」と言われていた日本で、「貧困」がじわりと広がっている。 それは、子どもや若者から、将来の夢さえ奪いとっている。希望が持てる日本にするために、私たちは何をすべきか。著書の『下流老人』や『貧困世代』で生活相談の現場から見える日本の貧困問題を問い、「このままでは『一億総貧困社会』になる」と警鐘を鳴らす、NPO法人ほっとプラスの藤田孝典代表理事と、神津会長が語り合った。 ■見えない? 現代の貧困 / 夢を語らない、語れない 平川 『下流老人』『貧困世代』と、「現代の貧困」に焦点を当てた藤田さんの著書が大きな反響を呼んでいますが、日本の貧困の現状をどうみていますか。 藤田 私は、さいたま市で「ほっとプラス」というNPOを運営しています。年間相談件数は約500件。10代の若者から、シングルマザー、お年寄りまで、年齢や性別を問わず、毎日のように相談が寄せられます。家賃を滞納して住居を失った、ブラック企業で酷使され心身を壊してしまった、家族との関係が悪く行き場がない…。困窮の原因は複雑にからみ合っていて、本人の努力だけでは生活再建は困難です。だから生活保護の申請に付き添ったり、低家賃の住宅やシェアハウスを一緒に探したりもしているんですが、最近、さまざまな要因で低所得になる人が増えていると実感します。 そして問題は、その貧困の実態が見えにくいこと。日本に貧困問題があるとは思っていない人はまだまだ多いし、当事者も自覚が乏しい。解決の第一歩として、日々接している人たちの問題を「見える化」したいという思いで、本を書きました。 神津 『下流老人』『貧困世代』は言葉としてもインパクトがありましたね。相談事例もたくさん掲載されていて、こんなふうに解決できたのかとほっとさせられましたが、「ほっとプラス」という名前の由来は? 藤田 市民がほっとできる社会的居場所をつくりたい、孤立して困窮している人たちと出会える場所でありたいと願って名付けました。本を出して相談がものすごく増えましたが、「現代の貧困」を認知してもらう上でも効果があったと思います。 神津 誰にも相談できず、一人で抱え込んでしまう人が多い中で、相談できる場があることを知ってもらうのは大事ですね。 藤田 そうなんです。相談に来た人たちは氷山の一角。おそらく労働組合も同じ課題を抱えていると思うんですが、私たちも、出会っていない人たちに対しての発信がまだまだ弱い。若い人は、ネットニュースやSNSが情報源、高齢世代は新聞や雑誌、テレビが有効です。だから、あらゆる媒体を通じて、存在をアピールし、できるだけ出会える場所を増やしていかなければと思っています。 神津 日本は「一億総中流」と言われた時代があって、その成功体験の前提から抜けきれないことが、問題を深刻化させている面もありますよね。 藤田 はい。政策決定に関わる方たちに、いまだにその幻想を抱えている世代が多すぎて困ります。一億総中流の背景には高度経済成長があって、生活保障は企業の福利厚生や家族に委ねることができた。でも、いまや企業も家族もその役割を果たせなくなっています。若者やシングルマザーなど、既存の福祉制度ではカバーされない人たちも、安心して暮らしていけるシステムを構築する必要がある。 神津 貧困対策には、生活保護などの救貧政策と、貧困の連鎖を防ぐ奨学金制度などの防貧政策がありますが、日本はどちらも弱いですね。生活保護は、不正受給ばかりが注目されますが、本来受給できる人をすべてカバーしているわけではない。子どもたちへの影響が心配です。 藤田 そうなんです。今、子ども食堂や学習支援の現場にも関わっているんですが、子どもたちが夢を語らない、語れない。将来の希望を持たないことが自分を守る道だと思っているんです。そんな子どもたちから、「早く働いてお母さんを楽にさせてあげたい」という言葉が出てくる。いつの時代なんだろうと涙が出てきます。実際に高校生になると、バイトをして家計を助けている。日本の貧困は、戦前の「おしん」の時代と変わらないほど深刻になっているんです。 ■若者の貧困へのアプローチ / 貧困世代の当事者として 平川 藤田さんが相談・支援活動に携わるようになったきっかけは? 藤田 私は、1982年生まれの就職氷河期世代です。学校を卒業したら、普通に働けると思っていたら、まったくそんな状況ではなくなった。学生時代には「ニート」や「フリーター」という言葉が流行語になり、先輩たちがどれだけ頑張っても非正規の就職しかないという状況を目の当たりにし、自分もその当事者なのだと自覚しました。学生時代にホームレスの支援活動を始めたんですが、話を聞いていると、これは自分の将来かもしれないと思えた。だから、自分も含めて若者が将来ホームレスにならないためにはどうすればいいのか、真剣に考えました。そして、社会福祉を学んで社会福祉士の資格を取り、相談・支援活動を始めたんです。私自身、貧困世代の当事者として問題に取り組んでいるんです。 当時、若者の貧困は自己責任だと言われたんですが、後から調べてみると、そうじゃない。1995年に日経連が「新時代の『日本的経営』」というビジョンを出し、非正規雇用が意図的に拡大されることになったと。 神津 「新時代の『日本的経営』」は、日本の雇用社会を壊す大きなきっかけになったと言われています。その後、一気に労働規制緩和が進められ、派遣労働など非正規雇用が拡大していきました。企業の側も、人材育成や技能伝承という面で不安はあったけれども、非正規化は当面のコスト削減効果だけは非常に大きい。一度、使ってしまうと「麻薬」のようなもので抜け出せなくなる。労働規制緩和は、そういう道を拓いてしまった。 藤田 それから20年が経過して、当事者はどうなっているのか。結婚できない、子どもも、マイホームも持てない。少子化に拍車がかかり、個人消費も伸びない。やがて低年金者が大量に生じることになる。労働者の生活を保障しないと、社会が衰退していくことが明らかになっています。 平川 若者の貧困にどうアプローチすればいいのでしょう? 藤田 実は労働問題をきっかけに貧困に至る事例は多いんです。特に、うつ病など精神疾患に罹患する若者がものすごく増えている。協会けんぽの調査では、20年前と比べて6倍にまで増えている。これは、普通に考えると、働く現場で何かが起こっているとしか言いようがない。長時間過重労働やパワハラで若者が使い潰されている。大手広告代理店の新入女性社員の過労自殺も、その氷山の一角だと思います。 ほっとプラスには、すでに休職したり退職して追いつめられた段階で相談がくるんですが、労災申請も雇用保険の手続きもできていない。だから、もう少し手前の段階で、まだ職場にいる段階で支援ができれば、ここまで困窮せずに済むのにと思うケースが多いんです。企業の労働組合にも、職場でそういう問題が起きていないか、過重な負担がかかっている労働者はいないか、目を配ってもらえたらと思います。 神津 この20年、職場に余裕がなくなって、コミュニケーションの質も量も低下するという悪循環が起きています。労働組合としても、新入社員への目配りをはじめ、組合員が気軽に相談できる環境があるのか、謙虚に足元を見つめる必要があると思っています。 平川 奨学金問題については? 藤田 給付型奨学金については、まずは蟻の一穴で、少しずつこじ開けていければと思いますが、それと同時に全体として若者の経済的負担を軽減する政策が不可欠です。学費の他にも、住宅費や通信費などが若者の家計を圧迫している。日本の教育費予算はOECDで最低レベルですが、学費の引き下げ・無償化、住宅の提供などの支出を減らす政策を進めてほしい。離婚率が上昇し、シングルマザーが増えています。働く女性の半数以上は非正規雇用。ひとり親世帯で、大学の学費を捻出するのは厳しい。本人が奨学金を借りて賄うとなると、バイトに明け暮れて学校に行けないという本末転倒の事態に陥ることも少なくない。学生がちゃんと勉強できる環境をつくるという視点からも支援策を考えることが必要です。 ■貧困の連鎖をたち切るために–労働組合の役割- / 連合が動けば社会が動く 平川 貧困の連鎖をたち切るには? 藤田 人々の生活を支える上で、賃金と社会保障は両輪だと思っているんです。春季生活闘争で賃上げを獲得し、最低賃金を引き上げると同時に、これまで企業や家族がやっていた福利厚生を社会化していく必要がある。経団連自身も、企業だけで福利厚生をカバーするのは難しいからと、政府の役割を求めています。 生きていく上では、誰もが失業や病気、事故、介護などのリスクを抱えていますが、現在の日本では、個人や家族の自助努力にゆだねられ、安心はお金で買うしかなくなっている。だから、貧困がここまで拡大しているんです。教育、住宅、医療・介護、保育、そういう最低限必要なサービスは、無料か低負担で利用できるようにしていく。私はこれを「脱商品化」と呼んでいますが、必要なサービスを商品として買わなくてもいいようにしていくことが必要です。そのためには社会保障を充実させるために税金を上げようという合意形成をしていく必要があります。労働組合には、後々ここが転換のきっかけになったと言われるような政策提言をしてほしいと思います。 神津 連合は、「働くことを軸とする安心社会」のビジョンを提起し、その基盤となる「社会保障と税の一体改革」の推進を求めてきました。おっしゃるように、困っている人だけを助けるのではなくて、みんなで負担してみんなで必要なサービスを受けられる社会にしていこうと呼びかけています。 平川 連合に期待することは? 藤田 労働組合って労働者にとって一番身近な存在であってほしいと思っているんです。でも、若者の多くは、助けを求める選択肢としてイメージできない。労働組合がどんな存在で、どんな役割を果たしているのか、どんな活動をしているのかを知れば、もっと身近に感じることができる。だから、労働組合の姿を「見える化」してほしい。労働組合にどんな労働相談がきてどう具体的に解決したのか、その物語を発信してほしい。 神津 連合も、労働相談ダイヤルを開設していて、フリーダイヤル「0120─154─052」にかけると、最寄りの地方連合会につながる仕組みになっているんですが、最近は労働相談の枠にとどまらない支援が必要なケースが増えていると感じています。そこで地方連合会と労福協、ろうきん、全労済などが連携して、労働相談、生活相談、就労相談などができるワンストップサービスに取り組んできたんです。 藤田 実は、連合埼玉とは十数年来のお付き合いなんです。リーマンショックの時に、連合埼玉にも派遣切りの相談が急増して、住まいの確保や生活保護申請、借金の整理、就労支援などでお互いに連携できないかという話が当時の鈴木事務局長からあり、連携して相談活動にあたってきました。連合が呼びかけるとたくさんの団体が集まってくれる。まさに「連合が動けば社会が動く」と実感しました。 最近は、フードバンク事業に乗り出し、学習支援にも積極的に関わってくれています。現場で一緒に動けば、ネガティブなイメージは一掃される。労働組合の人たちは、現場に足を運べば、何とかしなければと思って動いてくれる。 神津 連合埼玉は、県内のさまざまなNPOや市民団体と連携・連帯する、「ネットワークSAITAMA21運動」に取り組み、総合生活支援サービスの拠点として「ライフサポートステーション ネット21」を開設していますね。 藤田 そういう運動も、ぜひツイッターやフェイスブックで発信してください。また、子ども食堂や学習支援の場などに足を運んで、現場の声を拾ってほしいです。 平川 これからの運動のヒントをいただきました。本当にありがとうございました。 |
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■「下流と中流の差」「贅沢とはなにか」 2017/4
1970年代、“1億総中流社会”がはじまった。日本国民の実に9割が「自分を中流」と思っていた。それから数十年経って、「下流社会」という言葉が使われはじめた。はたして私の家庭は、中流なのか、それとも…。 4月1〜3日正午まで、本誌・女性セブンの読者であるセブンズクラブ会員の全国の20〜80代の女性303人にネットでアンケートを行い、それを元に記事を構成した。 あなたの家庭は「上流」、「中流」、「下流」のどれに当てはまる? との質問に、「上流」と答えた人は、2.0%、「中流」は66.0%、「下流」32.0%という結果に。 「周りを見渡すと、みなさん定期的に美容院にも行けてるし、子供も学校へ通わせられてる。私自身も、そうです。だからこれが日本の中流なんだと思います」(50代) 「友人には会社社長とかお医者さんの娘さんとか本当に上流って思う人がたくさんいます。私はそれほどじゃない。でも自分は専業主婦で子供を私立の学校に入れても暮らしていけてるから下流じゃない。だから中流です」(40代) アンケート結果を、社会学者の山田昌弘さんはこう分析する。 「記述式で答える“贅沢とはなんですか?”の回答を見ていると、ポイントは2つあります。 バブル時代のように、人に見せびらかすブランド品などを贅沢というのではなくて、自分のこだわりが強くなっています。例えば、ステーキだったり、温泉旅行だったり。こだわりは人それぞれ違うけど、何より自分がそれに喜びを感じるかどうかが大切になっています。 2つ目は、日常生活にしないことを、たまにすることです。例えば、いつもは発泡酒を飲んでいるけど、たまにはビールとか。 またバブル期と比較しますが、あの頃は、日々の日常生活のグレードをアップさせようという動きがありました。だけど、今は時々でいいから、少しいつもと違うものの消費が、贅沢と捉えられています。 32%が自分を下流と答えています。下流と中流の差は、その贅沢ができるかどうかです。自分がこだわっているちょっとした贅沢を実行できていない人たちが3割いるんでしょう。 現代の下流は、テレビがなかったり冷蔵庫がなかったりする人たちじゃないんですよね。そもそも上流、中流、下流の定義はないわけですが、境目の意識も変わったのだと思います」 芸能レポーターの東海林のり子さんは、自身の体験から、贅沢について語った。 「私は昭和9年に生まれました。20代で結婚しました。新婚旅行は伊豆で、それが最高の贅沢でした。海外に行くという発想がない時代でした。当時は1ドルが360円でしたから、一般的に、海外旅行にお金をかける余裕もありませんでしたね。 その後、一億総中流といわれるような時代が来ました。1970年代ですね。家族で箱根旅行が贅沢でした。バブル時代は、ブランド物の洋服を買ったりバッグを買ったり。あの頃は、ヴィトンが人気でしたね。ハワイに行ってヴィトンを買うという時代でしたからね。 今の贅沢は、孫ができたので、家族全員で旅行に行くことです。こうして考えると、いつの時代もだいたい、旅行ですね。アンケートを見ても旅行というかたが多い。時代を超えて、旅行は贅沢なのだと思います」 |
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■一億総中流が過ぎ去り、結婚の条件は変化したか? 2017/9
「高慢と偏見(Pride and Prejudice)」(ジェイン・オースチン著)は、英国で最も根強い人気を誇る小説です。著者のジェイン・オースチンは、さながら日本の夏目漱石のように国民的な小説家だそうです。 「高慢と偏見」が英国で爆発的な人気を博した背景には、英国の階級制度がありました。上流階級の男性と中流階級の女性の丁々発止のやりとりは、最初は私たち日本人にとって馴染みにくいところがあります。 私も、背景が理解できるようになって、ようやくその醍醐味を味わうことができました。なにせ、当時の英国では「働いて生活している身分の人たち」が軽蔑の対象になり、「働かなくとも生活できる身分の人たち」こそが尊敬の対象だったのですから。親戚に事務弁護士がいると家柄が悪いというくだりもあったように記憶しています。 日本が一億層中流を実現した時代、(私を含めた)当時の若者たちは「見合い結婚」を侮蔑し「恋愛結婚」こそが本当の愛の姿だと思い込んでいた向きがありました。 小説やドラマのヒロインが「私、絶対に見合いなんてしないわよ!」というのがお決まりの台詞でした(「見合い結婚」ではなく、「見合い」すること自体を拒否する風潮だったのです)。ところが、一億層中流が崩れ、「高慢と偏見」の時代とは全く異なった一種の身分(というかグループ)のようなものが、今の日本社会に構築されつつあるように感じます。 米国の同類婚に象徴されるように、育ち、教育、趣味等々、共通項が多い男女の結婚が増えています。高校や大学の同級生同士の結婚が日本でも増えていますよね。 一昔前であれば、日本では職場結婚が多く、結婚した女性は祝福されて寿退社をしました。職場結婚の多くは、決して同類婚ではありません。 総合職の大卒の男性と一般職の高校や短大卒の女性の組み合わせが多く、企業によっては男性社員の花嫁候補として女性社員をすべて縁故採用していたところもありました。つまり、職場結婚の多くのケースでは、学歴も趣味も異なれば家柄も違っていた訳です(女性の家柄の方が高いというケースが多々ありました)。今の同類婚とは全く異なった混在婚とでも呼ぶべきものです。 現在の同類婚の増加は、「高慢と偏見」の時代の英国身分社会に似た構造をつくり出しているような気がします。学歴、趣味、仕事等がある程度共通しているグループ(階級)と、そうでないグループ(階級)に属する男女間の結婚には、同書で描かれているような様々な障害や葛藤が増えてくるように思えるのです。 よくよく考えてみると、私が知っている50歳を超えた非婚女性のほとんどが、一流企業のOLか元OLです。社内結婚華やかなりし頃であればずいぶんモテただろうなと思われる人もいます。それが、いつの間にか同類婚の時代に日本の社会構造が変化した結果、結婚のチャンスが狭まったのでしょう。 逆に、かつて職業だけでチヤホヤされた医師や弁護士といった男性の中には、(女性の家柄や学歴、職業等で譲歩すれば)自分はいつでも結婚できると錯覚している人が多いようです。60歳を過ぎても「30歳までの若い女性が希望」などと宣言してはことごとくチャンスを失っています。 (学歴や趣味、仕事などは自力で築いてきた面が大きいので)身分という表現は適切でないのでグループという表現が適切でしょう。属するグループを超えた男女の結婚に立ちはだかる障害は、今後ますます大きくなると私は考えています。 逆に、同じグループ同士であれば、年齢差や家柄などはあまり障害にならなくなるかもしれません。そうであれば、自分の属するグループを再認識し、もしくは別のグループに転籍することが、結婚とその後の継続的生活を維持する大きな要素になるのではないでしょうか? このように考えれば、「趣味嗜好の合わない相手と結婚するくらいなら独身のままの方がいい」という考えは、今日では至極まっとうな考え方なのかもしれません。あなたはどう思われますか? |
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■米税制改革、全ての中流階級の減税は保証できない=米財務長官 2017/10
ムニューシン米財務長官は1日、トランプ政権による税制改革の目標の1つは中流階級を支援することだが、「個々人に対する課税は異なるため」全ての中流階級における減税は保証できないとの見方を示した。 ABCニュースの政治討論番組で述べた。 長官は「トランプ米大統領の目的は、富裕層に対する減税を行わないこと」と述べ、「税制改革を進めるうえで、米国民にどのように作用するかを説明していく」との方針を示した。 また、個人事業主やパートナーシップなどのいわゆる「パススルー企業」に課す税率を25%にする案が、富裕層による節税手段として悪用されるのではとの問いに対し、長官は抜け穴としての使用を避けるためにパススルー企業に関する規則に「ガードレール」を設ける見通しとした。 長官によるとトランプ政権は今年12月の税制改正法案成立を見込んでいるという。 |
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■「中流階級復活」を目論む30年度税制改正の中身 2017/12
総選挙も終わり、あらためて政府与党を中心とした税制改正に関する議論が活発になってきました。その動向について確認するとともに、私たちの生活にどんな影響が出てきそうなのか考えてみましょう。 ■給与所得控除引き下げで年収800万円超は増税 所得税においては、すべての人に対して基礎控除が適用されています。現在は38万円ですが、これが48万円に引き上げられる予定です。ただし、相当な高額所得者(年収2400万円超)については逆に引き下げるようです。 同時に、給与所得控除については引き下げる方向で話が進んでいます。給与所得控除とはどういったものでしょうか? 給与で生活をしている人は、給与収入そのものに対して課税をされません。実際には「給与収入 − 収入に応じた概算経費」という計算で求められた給与所得に対して課税されます。この概算経費に相当するのが給与所得控除です。概算経費が引き下げられる訳ですから、その分だけ給与所得が増える、つまり増税されます。特に年収800万円超の人は、給与所得控除の金額をより大きく引き下げる方向で検討されています。 この改正から見えるのは、 ・兼業や副業も含めた多様な働き方を支援する ・高額所得者に対しては課税を強化し、格差を是正する という方向性です。例えば年収1200万円の会社員からすると、給与所得控除引き下げの影響が30万円出ることにより、約10万円程度の増税が見込まれます。「会社に雇用されるのが当たり前」という風潮に対して一石を投じる方向の改正だとも言えます。 ■賃金を上げた企業は法人税を減税か 法人税に関しては、減税の話も出ています。ただし、現在のところ対象となるのは「給与の支払いを増やした企業」です。所得拡大促進税制という制度で、基準となる年度と比べて給与の支払総額が増えている企業については、その増えた金額に応じて法人税などが減税されるという制度です。この制度について、拡充をする方向での検討がされています。 先ほど説明した給与所得控除の引き下げと、この所得拡大促進税制拡充を合わせて考えると、いわゆる「中流階級と呼ばれる世帯の復活」を意図していることがよくわかります。高額所得者には増税を、その一方で企業には賃金水準の向上に対する優遇制度を拡充する。このような流れは、給与以外についても読み取ることができます。 ■中小企業の後継者問題を事業継承税制で解決へ 今回、事業承継税制の拡充も実現する方向です。事業承継税制とは、中小企業向けに整備されている税制です。 法人経営の大前提は「出資と経営の分離」です。しかし、中小企業の実態からすると、出資と経営が分離していることは、円滑な経営を進めるためにはあまり好ましいものではありません。経営者がその会社の株式をまとめて保有していることで、大きな企業では実現できないような小回りを実現させているのです。 その一方で、現在多くの中小企業は後継者不足に悩んでいます。単純に後継者のなり手がいないこともありますが、もう1つの要因として「後継者になるために多額の資金を払う必要がある」ということもあります。後継者が自社株式を取得するために、相続なら相続税が、贈与なら贈与税が、購入なら取得するための資金が必要だからです。特にその会社が将来有望な企業である場合、それだけ自社株式の価値も高くなります。結果、その株式を取得するために必要な資金も多くなってしまうのです。 事業承継税制では、相続や贈与により取得した株式に係る税金について、納税が猶予されます。免除されるのではなく猶予されるというのがポイントで、株式を取得した後にその事業について一定水準を維持したまま継続することが必要です。本制度の利用により中小企業の経営基盤を傷つけることなく、世代交代を円滑に進めていこうという狙いがあるのです。 これまでの制度では猶予される税額や株式総数などについて限度が設定されていました。平成30年度の税制改正では、この限度について緩和される方向で検討されているようです。政府としては、国内経済の基盤を担う中小企業の後継者問題への対処を進めることにより、国民所得の底上げを意図しているのでしょう。 ■「租税回避」を許さない相続税の課税強化 今回の税制改正の大きな狙いの一つは、やはり高所得者層に対する課税強化だといえます。給与所得控除の引き下げと同時に、相続税も課税強化される方向です。具体的には、一般社団法人を活用した租税回避を防止するための改正が行われる予定です。 一般社団法人というのは、設立はそれほど難しくありません。個人が所有している各種財産を一般社団法人に移すことで、相続税の課税を逃れながら実質的に財産を支配しつつ、子どもや孫に対して財産を遺す方法が一部で普及していました。相続税の大切な目的である「公平性の実現」を目指すため、このような租税回避行為を許さないための改正が行われるとのことです。 賃金の底上げを意図し、地場産業の維持育成を推進する。一方で高額所得者に対しては定期的な所得や遺産に対する課税を強化する。平成30年度の改正を見渡すと、全般的には格差拡大を是正するための措置が主眼となっているのが読み取れます。 |
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■一億総中流はすでに過去、アベノミクスの陰で日本の格差拡大 2017/12
貧富の差が小さい日本の社会構造を表す「一億総中流」は、格差拡大によって過去となりつつある。 足元、経済成長は続いているが、賃金の上昇はわずかで、果実は平等に配分されていない。収入が増えない中、貧しい人々の子どもを持つ意欲は薄れ、日本の人口問題を悪化させる可能性もある。高齢化社会に備え、増税しようとしている政府の努力も無駄に終わることになる。 安倍晋三政権の恩恵を最も受けているのは東京都民だ。2016年度までの5年間で平均課税対象所得は7%増えた。一方、奈良県と香川県に住む約240万人の所得は減少した。 秋田県民の所得は47都道府県で最も低く、東京の59%にとどまる。福島県民の所得は増えたが、11年の福島第1原発事故の補償と復興に関連したものだ。 ■人口 日本の人口は08年に減少に転じ、そのペースは加速している。収入の少ない地方にとって、高齢化と人口減少は事態をより悪化させる。若者は仕事のある都会に移り、東京や名古屋、福岡は成長し続ける一方、地方は老い、人口が激減している。 地方での生活はますます困難になる。納税者である労働者は大都市に移動し、地方の市町村は残された人々のための医療や行政サービスを維持するのに苦戦している。すでに退職した年金受給者が少なくないからだ。 ■東京 都内では収入格差が広がっており、他の道府県との差よりも大きい。平均課税対象所得が日本で最も多い港区民は、5年にわたって好況の恩恵を享受した。企業収益の増加によって16年の配当収入は12年と比較して251%増加。米グーグルやゴールドマン・サックス証券が現地法人を置く同区の16年の所得は12年比で23%増加し、約1110万円となった。 港区の所得は、増加幅が1桁台にとどまった江東区や大田区の3倍近い水準となる。都心から2時間の距離にある都内西部の檜原村の約900人の納税者の対象所得は、港区民の4分の1。 ■大阪 関西経済の中心、大阪の所得は東京の77%にとどまる。パナソニックやシャープなど製造業の苦戦が都市と住民の収入にも影響を与えている。 収入が増えない人は経済成長の波に乗りきれず、資産を増やす機会を逃した。人々の消費が増えなければ経済は停滞し、税金を払う余裕がなければ国も停滞する。日本は人口減少や財政悪化、デフレなど多くの経済問題を抱えており、格差拡大は対処をより難しくするかもしれない。 |
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■2018 | |
■中流意識を排す 2018/1
つい最近、テレビで中流意識なるものの特集番組を見た。 それによると、現代の日本では、サラリーマンの家庭の約60パーセント以上が、自分の家庭に対して中流意識をもっているという。 もっともこの中流意識は、必ずしも中流の生活という現実とは別のもので、この特集で中流意識をもっているとこたえた サラリーマンや主婦のなかには、現に夫婦共稼ぎのものや、つい最近ローンでマイ・ホームを買ったばかりのものたちがかなりの数にのぼるらしいということで あった。 ところで、この番組を見ていて、私は、おや、と思った。 番組のなかでもいっているように、むかしの中流階級とは自分の家を持ち、それなりの蓄えも持ち、番組のなかで識者が いっているところによれば、その家の当主が事故なり病気なりで突然倒れても、その息子の代、孫の代くらいまでは生活に困難を来すことのない程度の資産を 持っている階級のことをいうのだそうであるが、現にそうした状況からははるかに遠い生活を送っている人々が、何故自分を中流だと思うのか、私にはその辺が 何ともけったいなことに思えたのである。 私は、中流階級が番組のなかで識者がいっている程度の資産を持っている階級である、ということが、果してどのような規準から生まれたのか、それは知らない。 またこの規準からいえば、その番組の対象者のほとんど九割までが中流階級以下の生活水準である、ということも、ここでは度外視しようと思う。 ただ、ここで私が、おや、と思ったことは、彼らが現実に中流であるか否かではなしに、彼らがその中流意識に奇妙な満足感を抱いていることに、奇異な感じを持ったということなのだ。 私たちは、そのむかし、この中産階級のことを、プチ・プルと呼んだものだ。 このプチ・プルは、そのプチさ故に、労働者階級からもどっちつかずの階級と馬鹿にされ、また資本家からも妥協しやすい相手と軽く見られるような、どっちつかずの階級であった。 その軽蔑が、つまり<プチ>という言葉に、もっとも適切に表現されていたわけだ。 このプチは、いわばプチ満足のプチであり、それが私たちには、人間的にいかにも惰弱で、理想も何も持たぬプチ人間のような印象を与えたのだ。 だが、その中流意識が、何でいまの日本にそれほど蔓延したのだろうか。また、どうしてその中流意識に、いまの日本人が嫌悪感をではなく満足を感ずるようになったのか。 おや、と思ったとき、私には正直それが、何とも今の日本の現実を象徴しているような、いや、その現実の深部を思わずのぞかせたような、いやな予感を私に感じさせたのである。 ■ あるいは、人々は、ごく簡単に、この中流意識は日本人の<事なかれ主義>から生まれた、といって片づけてしまうかも知れない。 たしかに、この中流意識は、ある意味では<事なかれ主義>の裏がえしである、ということも出来るだろう。 しかし、必ずしも<事なかれ主義>は、日本の専売特許ではない。 その事なかれ主義の背後には、日本の経済の繁栄や、また科学の進歩という事実もある。 ひとむかし前の生活といまの生活との比較が、中流意識を生むということもあるだろう。 中流意識は、あくまでも中流という生活ではなく、中流という意識の問題であり。それらのものが、よってたかって中流という意識を生む、それは十分にありうることである。 だが、問題は、それだけではない。 問題は、中流意識は、いまの日本の現実のあらゆる分野に、目に見えぬ意識として潜り込んでいる、ということである。 むしろ私には、戦後日本の社会は、政治の分野においても、この意識を養い、造り出すことに汲々として来たようにさえ 見える。経済の繁栄だけが唯一の幸福のようにいう政治がそうであり、会社の繁栄のために公害をかえりみない大企業がそうであり、そしてまた人々の関心のみ を追うジャーナリズムがそうであり、何の理想像を持たぬ教育もまたそうである。 この中流意識とは、必ずしも中産階級の意識ではない。 テレビの特集でもいっているように、それは中産階級の意識ではなく、人並み意識である。 政治は人々に人並み意識を与えることによって、自らの安泰を計る。 経営者もまた労働者に人並み意識を与えることによって、会社大事の精神を計る。 ジャーナリズムが人々に与えるものも、人々の人並みの感覚に対する知識である。そして教育は、人並みの人間を養うことが何よりの目的でもある。 つい最近、先生に叱られ自殺した小学生の記事があった。 この小学生の作文には「人間とは何だろう」という疑問が絶えず顔をのぞかせていた。小学生にこうした疑問を持たせる いまの社会にも問題があるのが、さらに問題なのはこうした「人間とは何だろう」という根源的な問いが、いまの教師の目には子供らしからぬ危険なこととうつ る、そのことの方なのだ。これは必ずしも教師の責任だけではなく、いまの社会においては、根源的な問いは、そのままいまの社会を崩壊させてしまう、という 事実そのものを指し示している。 いまの教育は、人並みでなければ間違ったような意識を人々に与える。 人並みになるために試験地獄がある。エリートということは、つまり人並みへの通行証ということだ。 それは決してむかしのエリートではなく、人よりすぐれた人間になる、ということでもない。 そして、この人並みということは、現実には日本が戦いに敗れ、それまでの理想を失って以来、理想にかわるものとして、日本に培われて来たものなのだ。 「戦後強くなったのは、女と靴下だ」一時、そんなことをいわれた時代がある。その靴下の方は、どういうわけかいまでは余り丈夫でなくなった。 しかし、女の方は、いまではこの中流意識、人並み意識として、いぜん今日の社会に根を張っている。何故かというと、 この中流意識、人並み意識というのは、少くとも戦前では、男の意識ではなく、女の意識にほかならなかったからだ。それは家庭大事の意識、生活大事の意識で あって、むかしの男は、生活をなげうっても、家庭をなげうっても、しなければならぬ理想を持つことが大切だった。 中流であるということ、人並みであるということは、むしろ男の恥であった。 その男の恥が、いつの間にかプチ満足に変わったのは何故だろうか。そしてまた、このプチ満足から何が生まれるのだろうか。 問題は、そこにある。 生まれるのは、自分だけの幸福、自分だけの平和以外の何ものでもないことは、いうまでもない。 ■ 日本の国民ほど暗示にかかり易く、暗示に従順な国民はめったにない。 私はいつか、電車に乗っていて、前に坐っている女性が、みな揃って同じむかしのオシメ・カバーの色をしたルイ・ヴィトンのバックを膝においている壮観にびっくりしたことがある。 私が坐っている席を見ると、そこにも何と、そのバックを持っている女性が何人かいた。最近は、流行に対するこうした感覚は女性ばかりではなく、男性も同じことらしい。 「みな自分と同じものを持っていて、よくいやな感じにならないものだね」 と私がいうと、私の友人の女性は、 「何いっているのよ。みなと同じだから安心出来るんじゃない」といった。 だが、私の経験によると、むかしはおしゃれというものは、自分が他人と異った独特のおしゃれをすることに誇りを持っていたものだ。自分がそれを見つけ出し、創意工夫することに自分の価値があると思っていたのだ。 いまは情報社会というか、流行社会というか、自分がいち早く情報をキャッチ、流行を身につけることが、大切なことだ とだれしもが思っている。だが、情報といい、流行といい、実際には単なる暗示でしかない場合の方がはるかにおおい。ついでにいえば、これに便乗するのが ジャーナリズムであり、そのジャーナリズムは、暗示に弱い日本の国民の性行によって、いまや隆盛を誇っている。 いまジャーナリズムがとりあげるものは、そのほとんどが人並みに対する関心であり、情報社会や流行社会に乗り遅れぬための情報提供であるともいえる。 いまの社会は、ジャーナリズムを利用すれば何でも出来る。 ほとんどそんな印象さえ与えかねないほどだ。 ところで、この変質は、実際には何から生まれたのだろう。 実際には中流でもないのに、意識だけは中流意識という、その意識はどこから生まれたのか。それは必ずしも戦後台頭してきた女性のせいばかりではない。 また、目的を失った男性の生き方が、著しく女性的になったというだけのことでもない。 むしろ私には、その裏にはこの中流意識を造りだして来た、戦後の日本の、あらゆる力が結集しているように思われる。それは、平和というスローガンのかげにかくれた事なかれ主義であり、事なかれ主義のかげにかくれたさまざまの策謀であるともいえる。 それは、この中流意識の蔓延をよろこぶ政治家の策謀であり、大企業の策謀であり、またジャーナリズムそのものの策謀でもある。 人々と同じようであることに満足するということは、人々から真の意味の批判精神を奪うことでもある。 ここで大事なことは、ジャーナリズムもやはり大企業の一つであり、その実体は大企業となに一つ変らないということだ。 例えば、グリコ・森永事件では、新聞はグリコのときよりは森永のときの方が、はるかに人々の森永への同情を盛りたてる。そして、平気で庶民の怒りなどという言葉を使う。果してどれだけの人間を庶民といっているのか、庶民のなかには森永の社員も含まれているのだ。 この雑誌の三月号で、野本三吉氏が氏に送られた手紙の一つで、少くともその庶民の一人であることには間違いのない一文を紹介している。 「かれこれ八年前、私はT県Y市に住んでいましたが、その時、ある友人の紹介で森永砒素ミルク事件の被害者の青年に 会ったことがあります。・・・彼等の会話は誰が死亡したとか、入院したとかいう話ばかりで、その会話の裏には言葉にならない感情が流れているのが、私にも 伝わって来るのでした・・・。その私の友人も三年前に亡くなったと言います。彼も砒素ミルク事件の被害者でした・・・。中略・・・私は、彼等被害者に同情 こそすれ、森永なんぞに同情する気はサラサラありません。それを、あたかも「国民の敵」「子供をまきぞえにしている」などと、くだらないキャンペーンを 張って警察のいうがままに動いているマスコミの気持が、私にはわかりません・・・」 マスコミは、警察のいうがままに動いているのではない。 マスコミ自体が大企業であり、大企業の感覚で動いているのである。 私も実は、この事件では、当時、首相であった中曽根氏が銀行筋に森永を支援するように、という発言をしたという記事 を読んだとき、この首相の思い切った、公私混同の発言にびっくりしたものだ。だが、不思議なことに、この発言に対する批判はどの新聞にものらなかった。恐 らく森永に対する同情をあおっているマスコミにとっては、その発言を批判することは大いに差しつかえがあったのだろう。私の友人で、むかしあるテレビ局の ニュース・キャスターをしていた男が、よく私に向って「ちょっと批判めいたことをいうと、翌日の朝にはすぐ上の方からチェックが入る」とこぼしていたが、 このチェックはもちろん局の上層部だけではなく、局の上層部に対して外部からの圧力のかけられたものであることは、いまさらいうまでもない周知の事実のよ うなことなのである。 ところで、このことは、中流意識について考える上でも、案外重要なことなのだ。もしも国家が国民に対してそれを求 め、大企業もそれを求め、ジャーナリズムもまた然りというならば、それは国を挙げて造り上げて来たものではないだろうか。中流階級ではなく、中流意識を、 である。だとすれば、その反面、国民はうまくその意識にのせられている、ともいえる。つまり国をあげて、国民に向ってプチ満足をPRしているわけだ。そし て、そのプチ満足は、いまや日本の文化のあらゆる分野に行き渡って、その底で真の文化そのものを蝕んでいるのである。さすがの国家そのものが、いまやその 教育を改善しなければならないと思わなければならないほどに・・・。 だが、一方では国民にプチ満足をPRすることによってその安泰を見出している国家が、いったいいかにしてその教育のなかで国民に真の理想像を与えることが出来るだろうか。 この中流意識のなによりの弊害は、なによりも社会に適合することを優先する生活態度にある。人並みであるということ は、この社会にどのような矛盾があろうと、欠陥があろうと、それを追求するかわりにそれを認め、人並みにそれに適合しようとすることだ。これは国家にとっ てはこれほど安泰なことはなく、その結果、国家はますますその権力を強めて行く。いまの自民党に対する支持率は、つまりこの中流意識以外の何ものでもな い。 しかし、その反面、この中流意識は、社会のあらゆる分野において、真実の探求という姿勢を失わせる。現実に適合しな がら真実を探求する、そのようなことはこの世のなかには残念なことにありえないのだ。現実に適合するということはとりもなおさず悪に眼をつむり、真実に眼 をつむるということでもある。その結果は一審で有罪になった男にも、平気で首相自らがその事実に眼をつむる。一審で有罪になっただけではまだ有罪と判断を 下すことが出来ないというのであれば、この世の中でどれだけの有罪になったものたちが控訴を採りあげる、採りあげないは別として、罪からまぬがれることが 出来ることか。首相自らがそうであって、いくら教育審議会など設けても、教育が改まるはずはない。さきの小学生ではないが、いまでは小学生の生徒たちさえ も、大人たちのそうした事実をはっきりと認識しているのだ。教育審議会で審議するものたちも、みな結局はそうした首相たちの仲間でしかないことを・・・。 文部省の役人のかたい頭のなかに一般の市民のやわらかい風を採り入れる前に、現実を糾弾し、真実を探求することを忘れた一般市民の生活態度そのものを再検 討することの方がはるかに先決問題なのである。 私の好きな言葉に、福沢諭吉の 「人生で一番尊いことは、一生を貫く仕事を持つことです」 という言葉がある。 一生を貫く仕事、それは少なくともいまの一般の人々がいう仕事ではない。いまの人々のいう仕事とは、働いて金を得る ことである。働けば当然金になる、それがいまの人々の考え方でもある。いや、いまの人々の考え方では金にならない仕事は働いたということにならないかも知 れない。だが福沢諭吉のこの仕事を、単にサラリーマンの仕事に適合してみたら、この言葉は全く何の意味もない、けったいな言葉になってしまうだろう。 ここでいう一生を貫く仕事、それはいかにいまの社会に適合しなくても、自分が一生を貫いてやるべき仕事、ということである。むかしは「生ごめを齧っても」という言葉があった。事実また、そうした生活を貫いたものたちもあった。 小説家は、みな貧乏なものだと相場は決っていた。絵描きにしても、音楽家にしても、いや、政治家でさえむかしは貧乏だった。 政治家になると貧乏する、いまでは考えられないような、そんな言葉さえむかしはあったのだ。そうして貧乏に耐え、社 会の矛盾に耐え、ある場合には世間の人々の眼に耐えて、むかしは一生を貫く仕事としてあるものは小説家を志し、あるものは学者を志し、政治家を志し、一生 を貫く仕事の喜びを見出したのだ。 いまでは、そういう風潮をただ人は嘲笑う。そして、すべてのジャンルで人々は、ただ社会に適合し、プチ・満足を得る ことだけを考えている。社会に適合したものであれば、多少の悪も人々は大目に見る。プチ・満足は、何かを求めるかわりに、それが壊れることを、まず恐れる のだ。それが例え幻影であっても、その幻影のなかにいつまでも生きることを求めるのだ。そして、こうした風潮は、まるで戦後の貧困の反動のように、戦後 たった数十年の間に、日本の国民の手によって、養われたのである。 ■ 戦後この数十年の間に、たしかに日本の経済は目まぐるしく発達した。生活は向上し、科学もかって歴史に類を見ないほど、華々しい進歩を遂げた。 しかし、科学の進歩は、そのまま人間の進歩ではない。いや、むしろ余りにも著しい科学の進歩は、かえってそれに追い つけない人間を、ただ、同じように均一化するともいえる。中流意識の危険は、この生活の外見向上を、均一化を、政治の勝利と、経済の勝利と考えようとする ところにひそんでいる。だが、現実には、その内部には精神の貧困という、人間の恐るべき腐蝕がひそんでいるのだ。そして中流意識もまた、まぎれもなくその 腐蝕の現れの一端であるともいえる。 いまから数十年前、ローベルト・ムジールは「ぼくの遺稿集」という本のなかで「トリエーダー」と題して、次のような 一文を書いている。トリエーダーとは望遠鏡のことで、ムジールはこの望遠鏡によって社会を巨視的に、あるいは徹底的に見たときのことを比喩的に書いている のだが、それはそのまま今日の中流意識に対する痛烈な皮肉であるともいえる。 「・・・これと関連しているのは、よく笑いの種になる流行の愚かさであり、これは人間を一年間は長くし、別の年には 縮め、でぶにしたり、痩っぽちにしたりし、ある時は上を広く下を狭くし、ある時は上を狭く下を広くし、ある年には人間のすべてを下から上へ整えるかと思う と、あくる年にはまたもやすべてを上から下へ整え、髪を前後に分けたり、左右に分けたりする。もし一切の共感抜きで考察してみるなら、流行は驚くべきほど 僅かな数の幾何学的可能性しか示しておらず、その可能性の間で、きわめて情熱的に取り換えがおこなわれるが、そのくせ何時か伝統を完全に破壊することはな い。似たようなことが当てはまる思考の、感情の、行動の流行をもさらに考慮に入れるならば、われわれの歴史は、鋭敏な眼識の人々には、その僅かな壁の間で 人間の群が無思慮にあちこちに突進する畜舎に他ならないかに見えてくる。しかるに何といそいそとわれわれはその際に、実は当人自身たんに驚いて先に逃げだ したに過ぎない指導者のあとを追いかけることが、われわれが連繋を保ち、すべてのものが昨日とは違ったように見えるときには、何という幸福が、鏡からわれ われに向ってほくそ笑みを洩らすことか。こうした一切のことはどうしてなのか! おそらくわれわれは、もしわれわれの性格を公けに認められている紙袋の中へ突ッこんでおかないと、それが粉末のように飛散しはすまいかと恐れているのであ り、これはいかにも尤もなことといえよう・・・」 そして、ムジールは、この一文をさらにこう結んでいる。 「かくて、こうした仕方で望遠鏡は、個々の人間への理解と同じように、また、人間存在への不可解さを深める上でも寄 与している。それは通常の関連を解体して真の関連を発見することで、実は天才の身代りを勤めるか、あるいは少なくともその予行練習である。おそらくしか し、われわれは、まさにそれ故にこそ、これを推奨しても無駄だろう。だって人間は、劇場ですら望遠鏡を利用するが、それも幻影を高めるためか、あるいは幕 間に、だれがきているかと見渡すためであり、その際に探し求めるのは、見知らぬものではなくして、知り合いの顔なのである」 だとすれば、私もまたこの一文、多分無駄なことを書いたことになろだろう。 |
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■日本人の中流意識 – 転落の恐怖と戦いながらつく嘘 2018/5
安倍政権が嘘をつき続けているのだが野党の支持率は伸びない。これを説明するために「世論調査が操作されている」などという人たちがいる。この説明には無理があるが、認知的な不協和というか居心地の悪さを感じる気持ちはよくわかる。 この認知的な不協和の理由をいろいろと考えてみた。安倍政権が支持されるもっとも多い理由は「他に適当な政権が見当たらないから」であり、一方不支持の理由は「安倍首相が嫌いだから」らしい。このことから日本人が政策ではなく好き嫌いで政権を選んでいるということと、野党に支持が集まっていないことがわかる。 さらに、実際に実名で記事を書いてみると「政権を悪く言う」と支持が集まりにくいという経験がある。このことから<オモテ>では政権や現体制を承認することの方が「普通の態度」と認識されていることがわかる。このブログで反政権的な言論が許されるのはこれが<ウラ>だからだろう。そもそも<ウラ>に何かを書き続けるというのは普通の態度ではない。 安倍政権を叩くニュースは少なくとも<オモテ>で普通の人が見るワイドショーでは飽きられつつあるようだ。ワイドショーが今盛んに扱っているニュースは日大のアメフト問題である。ワイドショーでは内田前監督がしきりに叩かれている。識者が専門的立場から内田前監督を叩き、それを普通の人代表の芸能人が追認するというのが基本フォーマットである。アメリカでは昼間から討論番組をやっていて、個人が意見を戦わせたり勇気ある発言を誉めたたえるのが普通の態度なのだが、日本のワイドショーは普通の人が普通でない人を叩くのが普通お態度であるということがわかる。だが目的はムラから普通でない人を追い落とすことにあるので、叩いても転落しないとなると飽きてしまうのである。 普通の人は体制を承認すべきなのだが、普通の人たちが叩き始めると一転して「首相降ろし」の風に変わる。それを感知した議員たちが騒ぎ始めて内部で総裁が変わるという仕組みになっている。しかし、今回はまだこのような状況にはなっていないようだ。そのうち「少しくらい嘘をついたり友達に口利きしても、贈収賄にならなければいいのだ」という新しいスタンダードが導入されてしまった。もちろん風向きが変われば普通の人たちも安倍首相を叩き始めるだろうが、それまで日本人は口利きやごまかしのある社会を生きてゆくことになった。我々が集中して叩ける素材は限られているので、嘘や不公平が社会に蔓延することになるだろう。 そもそも「普通」とはどんな人たちなのだろうか。興味があって調べてみた。 日本では昔から90%の人が自分は中流であると答えるそうだ。しかし、実際に所得をみると多くの人たちが「下流」に転落しつつある。日本人は中流から脱落しかけている人が多いのだが、それを認められない社会と言える。(もう「下流」なのに「中流」だと言い張る日本人!ー誤った「中流意識」が社会の発展を阻害する!?ー)だが、ここで聞き方を変えて「生活は苦しいか」と聞くと多くの人が「生活は苦しい」と答えるということだ。(もはや日本の「中流」は全体の3分の1) つまり、多くの人が薄々自分は中流ではないとわかっているにもかかわらず、それを認めたがらない社会が出来上がっていると言える。現在では中流の大体の目安であった年収600万円を維持している家庭は少ないそうだ。ところが社会全体が縮小しているためにスタンダードを下げて、かつての下流的な暮らしを「普通だ」と認識しなおすことで現実から目を背けている。さらに全体が地盤沈下しているために自分たちが下流に転落したことがわかりにくい東京に住んでいる一部の人たち以外は転落に気づきにくい。。東京には格差がある。実際に成長している区域があり、ここでは格差が広がっている。 日本人は自分たちが中流から脱落しかけているということを知っていて、それを認めたくない。いったん「普通でない」というレッテルを貼られるといじめて叩いても構わないという社会なので普通から「転落する」のが怖いからである。小学校の段階で「普通学級」にいない生徒はいじめられるし、ワイドショーでも毎日のように普通叩きが行われている。 これまで安倍政権下でなぜ嘘が蔓延するのかということを考え、無理めのゲームに勝ち続けるために嘘をつき続けているのだと結論付けた。確かにそれはその通りなのだが、その背景には「中流から堕ちてゆくのだけどそれを認められない」という有権者たちがいるように思えてならない。その意味では安倍政権は最初から嘘に支えられた政権であり、嘘をついているのは実は政権ではなく有権者である。 日本人は自信を失っており自分たちが状況を変えられるとは思っていない。しかし、下流に転落することは怖いので自分たちは体制側にいるという仮想的な帰属感覚だけを頼りに誰かをアウトカーストに認定して叩いているように思える。もはや普通だという確信が持てない状態では普通から転落した人を叩いているときだけ社会との一体感が得られる。上流にも登れないし中流にいるという確信も持てない。下を見ているときだけ満足感が得られるという社会なのである。 普通から逃れることでより良い社会が作れるかもしれない。かつての日本にはそう考える人がいた。だからこそ勇気を持って「ダメなことはダメなのだ」と言えたのである。しかし、多くの人が転落を予想するようになると、上を目指すのは限られた一部の人たちの特権であると考える人が多くなる。社会変革的な動きが止まってしまったのにはこのような原因もあるのだろう。その証拠に人権について語る場合でも「今あるものがなくなる」ことを恐れる人は多いが、新しい権利を獲得したいと主張する人はほとんどいない。 誰もが普通でいたい社会において、政権を支持することが普通なので、その政権が不正を働いたということはあってはならない。もし不正があったとすると自分たちは偽物の政府を信仰していたということになる。だったら不正はなかったことにしたほうがいいし、欺瞞は見なかったことにしたい。かといって「嘘を容認しますか」と新聞社から聞かれれば、それは道徳に反すると思ってしまう。こう考えると今の世論調査は整合的に解釈できる。 嘘は嘘なのでそのうちに行き詰まるのだろうが、今後どのような展開をたどるのか予測ができないところではあるが、その間にも社会は着実に壊れてゆくように思える。 |
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■2019 | |
■2020 | |
■諸説 | |
■日本における中流意識の歴史的展開 消費史との関係を中心に |
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■T 問題の所在 | |
「中間層とはだれか」という共通論題の問いかけは、生活様式や価値観の問題にまで立ち入った上で、「中間層」と括られる人びとが何者であり、あるいはそうした括り方そのものがいかなる意味で可能であり、またそれがどこまで有効なのかという問題関心に根ざしている。別言すれば、職業や従業上の地位と所得水準を基準に「中間層」を析出することが直接の課題ではない。実際問題としても、アメリカであれ、日本であれ、「分厚い中間層」という言説が、(たとえば職業・従業上の地位・所得水準を基準とした)現実の新中間層をはるかに超えたイメージで通用している以上、その広がりの範囲がどこまで及び、何によって規定されているのか、という問題が焦点になろう。
戦後日本の社会階層をめぐる議論は、「総中流」の成立から「格差社会」への変転に至るプロセスを描いてきたリ、そのなかで、そもそも「総中流」論の起点となったのは、内閣府による「国民生活に関する世論調査」で、「お宅の生活の程度は、世間一般からみて、どうですか」との設問に対し。「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」という選択回答において、「中の上」「中の中」「中の下」の合計、すなわち「中」と回答する割合が、1970年代前半に9割を超えたという事実であった。具体的には、「中」合計の比率が、72.4%(1958年)、75.7%(1960年)、86.5%(1965年)、89.5%(1970年)と増加し、1973年に90.2%とはじめて90%を上回ったのである2)。 1977年には、この事実の解釈をめぐって、「朝日新聞」紙上でいわゆる「新中間階層」論争が巻き起こった。論争は紙上で収まらず、岸本重陳「「巾流」の幻想」(講談社、1978年)、富永健 一編「日本の階層構造」(東京大学出版会、1979年)、村上泰亮「新中間大衆の時代」(中央公論社、1984年)という形で論者による書籍の発刊にまで至ったが、「朝日新聞」紙上の座談会で司会を務めた見田宗介が総括した通り、「一定の生活水準というものを前提にして、極貧でもないし、十分に豊かでもない「中間的」な大多数の幅広い層が日本に存在している、それが外見的には生活様式の 一定の一様性をもっていること」については、論者の間で合意されていた3)。 1950年代半ばから70年代半ばの「総中流」形成プロセスにおける中流意識の基盤については、社会学の分野で検討が進められた。耐久消費財の保有状況が基準になっていたというのがその結論であb¢、職業と従業上の地位に基づく基準と異なっていたばかりか、収入との関係も薄かったとされるj)。「一定の生活水準」あるいは「生活様式の一定の一様性」という先の見田宗介の整理は、より正確には「一定の消費水準」あるいは「消費様式の一定の一様性」と言い換えられなくてはなるまい、問題の焦点は「消費」にある。 さて、以上を踏まえると、「中間層とはだれか」という問いかけに対しては、日本の場合、高度経済成長を通じて広がった中流意識をもつ人びとのことであり、大衆消費社会の成立に際して「消費者」として立ち現れてくる人びとのことである、という答えがまず用意されよう、そして、職業と従業上の地位による区分が意味をもたず、収入によってもうまく規定し切れない、大衆消費の担い手であるという意味では、村上泰亮が創案した「新中間大衆」というラベリングが有効であろう。村上自身はこの語を、管理職・専門職を中心としたいわゆる新中間層だけでなく、ブルーカラー労働者、農民、自営業主をも含む集合と規定した上で、その独特の新しい価値観に即して戦後政治を読み解こうとしたわけだが5)、「新中間大衆」という形で「分厚い中聞層」の形成に至ったことは、比較史的な見地から日本の大きな特徴とみてよいように思われる。 実際に、比較史的な位置づけを試みた服部民夫・船津鶴代・鳥居高編「アジア中間層の生成と特質」において、アジアの中間層は、急速な後発工業化の過程で「階層構造が短い期間に流動化するなかで」生み出されたために、「下層との出自的結びつきや流動性の痕跡を残しつつ⊥「教育や生活レベル」の点では労働者や農民と明確な差異があるという特徴をもち、「階層間の明らかな境界と地位の差が文化にも反映される欧米的階級でもなければ、逆に生活水準の平準化が進み大衆消費社会が成立した日本のように、新旧中間層に農民やブルーカラーを含めた膨大な中流層(「新中間大衆」)をなすわけでもない」と指摘されている7)。 この指摘は、日本を含むアジア中間層の形成パターンを、中産階級と労働者がそれぞれに独白の階級文化を長く育んだ欧米のそれとまず区別した上で、日本と(日本以外の)アジア諸国との差異を、経済発展の速度や構造の違いに即して整序した点で注目される、そして、経済史の枠組みに即して研究史を顧みれば、日本における階級構成や所得格差の実態については、すでに通史的に概観した成果もあり8)、経済構造との関わりについても、戦後改革のインパクトを前提に、内需に軸足を置いた高度経済成長のなかで、工業部門の労働者が耐久消費財の市場的基盤に組み込まれ、あるいは、農業部門からの人口流出が活発な世帯形成につながる一方、兼業化による農家所得の上昇が耐久消費財市場の拡大に寄与した、といった通説的な理解がある9)。 しかしながら、こうした通説的理解によっては、「中間層とはだれか」という問いかけに対し、生活様式や価値観の問題にまで立ち入って回答を与えることは難しい。「新中間大衆」の焦点が消費という領域にあるのに対して、消費史に関わる研究が十分に顧みられてこなかったためである。本稿は、近年進展が著しい消費史研究の成果を組み込むことで、1970年代半ばまでに形成された「新中間大衆」という「分厚い中問層」の広がりと、その広がりを規定していた消費のありようを、より鮮明に浮かび上がらせようとする一つの試みである10)。 その際、特に焦点をあてるのは。商業部門の位置づけと、家族というユニットの意味についてであり、消費史に注目する結果として、商人家族のあり方に議論が収斂していくこととなる、具体的には、アメリカモデルに収斂されない消費パターンの存在が、中小小売商の階層的再生産と所得上昇の機会をもたらし、商人家族を「新中間大衆」に包摂していったが、しかし、家族消費のあり方という点で、それは「中流意識」を満足させるものではあり得ず、中小小売商の階層的再生産に困難を抱え込むことになったことを見通したい。 誤解のないように付け加えておけば、商人家族が特に注目されることの意味は、商人家族が「新中間大衆」のいわばその周縁に位置して、「分厚い中間層」の臨界部分を構成していたがゆえに、その広がりの輪郭と、それを規定していた消費の内実がよく見えてくることにある。つまり、商人家族が「新中間大衆」の典型例だとか、量的に大きなボリュームを占めていたとかということではなく(事実としても全くそうではない)、ここに「中聞層とはだれか」という問いかけの答えに接近する手がかりがあると思われるのである。こうした立論の前提について、次節で中流モデルの成立プロセスを明らかにしながら述べていくこととしたい。 |
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■U 中流モデルの成立 | |
現在、「中流」という言葉からは、「総中流」「中流意識」といった既述の議論を背景として、耐久消費財に象微される消費の豊かさを連想する向きが多いように思われる。そうした用語法は、遅くとも1980年頃までには、学問の場を離れたところでも一般的なものとなっていった。たとえば。「読売新聞」の読者投稿欄「日曜の広場」は、1980年に「中流意識と私」というテーマで投稿を募り、ll件の読者投稿を掲載しているが、その全てが(肯定か否定かのニュアンスの違いはあるものの)消費の豊かさとの関連を前提にした書き方に終始している11)。
具体的に拾うと、「学校を出てから十余年。今でもしがない四畳半暮らしだ。それでもステレオ、テレビに車もある」(会社員・35歳)、「定年を境に中流から下流に転落した。三十年に及ぶサラリーマン時代は、マイカーを乗り回して夏休みには夫婦そろって旅ばかりしていた。/ところが定年後二年の今、それは夢のような昔話になってしまった」(無職・58歳)、「私には中流意識は毛頭ない。四十代のころは電化製品も一応そろえ、年に一。二度家族旅行もした、恵まれた生活だと自分も思い、他人も認めていた。/五十代になって、息子が結婚し、夫婦二人きりになった、そのころから生活態度が変わってきた」(自由業・5S歳)といった記述がみられる。 しかし、「中流」という言葉が、消費の領域に特化したこのような含意をもって受けとめられるようになったのは、まさに高度成長期の「総中流」形成プロセスにおいてであり、もともとは全く異なる含意を帯びて使われていた。たとえば、1955年にはじまった「社会階層と社会移動」調査(SSM調査)の立ち上げを担った尾高邦雄は、自ら行った数々の調査経験を踏まえて、1961年の論文で次のように述べているω、すなわち、「中流階級」や「中流階層」という言葉は、「社会的な地位の高さ」や「社会的な尊敬の度合」、「プレスティージ(威信)の大きさ」などと結びつけられ、具体的には「なまの経済力ではなく、むしろ家柄であるとか、交際範囲であるとか、あるいは学歴、そしてもっとも一般的には、人々の職業と職場のなかで占めている職位」がその尺度になっていたという、ここには、耐久消費財に焦点化されるような消費の問題が全く含まれていない。 また、「新中間階層」論争に参加した岸本重陳は、「「中流」の幻想」において、真の「中流」には「中流」らしい生活文化があるはずだという主張を掲げ、戦前の東京における「山の手の中流階級」がそれに当たるとする13)。それは、「一つのライフ・スタイル、生活様式として、明らかにある要件を満たしていたもの」であり、具体的には、「山の手言葉を話」し、「家は座敷とは別に洋風の応接間を持ち」、「女中を雇う」といった要件が該当するという。それに対して、「新中間階層」論争で議論の的となった人びとは、このような固有の生活文化を形成していないのだから真の「中流」ではない、というのが岸本の主張である。そして、この点では、村上泰亮も認識を共有し、「山の手階級」を「中流階級」の例に挙げて、「新中間大衆」とは区別している14)。 このように、尾高・岸本・村上のいう「中流」は、一定の経済的な基盤を前提としながらも、社会的威信、生活文化交際関係、といった要件も満たすべきものとされていた、こうした意味での「中流」を、「文化的中流」と呼ぶことにするならば、「総中流」の形成プロセスを通じて広まった中流意識は、それとは区別されるところの、もっぱら消費の豊かさを尺度とするような含意を有しており、「消費的中流意識」とでも呼びうるものと規定できよう、このような含意の変化は、高度成長期における大衆消費社会の成立がもたらしたものであろうが、そこには戦前からの前史がある。 「中流階級」という言葉は、「中産階級」「中等社会」などという表現とともに、戦前から広く用いられていた15)。特に、第一次世界大戦期の物価騰貴に際して、俸給生活者の困窮が「中流の生活難」として社会問題化したことを契機に、「中流階級」は「国家及び社会の中軸として最も重要視せられるべきもの」であり、「生活上の危機に瀕せる」現状について、「其の思想上に及ぼす影響」が大きいという認識が広がっていった16)。ここには、「中流階級」の安定が、資本家と労働者との階級対立の先鋭化を防ぐ役割を果たし。社会の安定につながるという考えが示されている、それを踏まえて。「中流階級」を主たる対象に展開したのが、官民さまざまな生活改善運動であった17)。 生活改善運動のキーワードは「合理化」であり、衛生・栄養・健康・能率・科学などに基礎を置く「合理的」な生活像が打ち出されていたが、そこには文化的中流モデルの解。体に向かう志向を見いだすこともできる。たとえば、文部省の外郭団体である生活改善同盟会(1920年設立)が掲げる改善項目のなかは、住宅を「接客本位」から「家族本位」へと改めること、社交儀礼を簡素化すること、女中を廃して主婦自らが家事を担うこと、といった内容が含まれていた18)。社交儀礼の簡素化については、社交そのものを否定するものではなかったがs「虚栄心」と「因襲」に基づく「虚飾」に満ちた「非合理的」な現状を改める必要がある、という主旨で掲げられていた19)、こうした視線の先には、「山の手」の生活文化を「非合理」と捉える発想が広がってくる。 研究史において、戦前期における各種の生活改善運動は、いずれも提示する生活モデルが俸給生活者の経済的基盤に見合っておらず、生活水準の面で実現困難なものであったという評価が定着している。そうした評価自体に異論はないが、衛生・栄養・健康・能率・科学といった近代的な価値観に基づいて「生活」を「改善」する視座を提供したこと、官製運動を通じて国家がそうした価値観に基づく生活像に正当性を与えたこと、という2つの意義は小さくなかったと思われる。他方、両大戦聞期において、俸給生活者の経済的基盤に見合った形で、「合理的」な生活モデルの実現を促したのは、「主婦之友」をはじめとした婦人雑誌であり、その誌Eに溢れる商品文化であった20)。消費的中流モデルの原型は、少なくとも「山の手」の生活文化とは異なる脈絡で、運動・メディア・産業の働きかけによって、すでに両大戦問期に成立をみていたのである。 そして、ここで成立をみた消費的中流モデルは、家族に新たな位置づけを与えるものでもあった。たとえば。生活改善運動にも関わった内務官僚の田子一民は、第一次世界大戦後になると、「家族構成員全員が重視される総力戦体制段階に見合った家族のあり方」として、「子女の養育・教育、家族団欒、消費という機能を担い、「家庭の主宰者」として妻・母を重視する近代家族」のイメージを提示するに至ったが、これは歴史的にみると、「生産を主とする経営体で権威的な家父長に支配されるという従来の家族とは異なる新しい家族像」であった21)。戦間期の婦人雑誌が繰り返し提示したのも、こうした近代家族的な家族像にほかならなかった。 こうして、いわば家事の専従者が主婦という形で家庭に収まるべきものとされたわけだが、そのことは、家事の要求水準の上昇と不可分であり、実際に、戦間期の婦人雑誌には、家事労働の多投によって消費活動を充実させようとする論調が支配的であった。たとえば、「主婦之友」の記事には、勤勉を志向する主婦像が強く見いだされ、家事労働が「際限のない職務」として提示されていた22)、食事を例にとれば、婦人雑誌は「栄養」と「家庭料理イデオロギー」という二つの観念を結びつけて提示し、一家の健康管理者とされたキ婦が「栄養」を気にかけながら、「愛情」をもって手間暇かけて多様なバリエーションの家庭料理をつくるべきものとされた23)、消費的中流モデルは、こうした家族形態の変化と不可分のものとして提示されていたのである。 また、田子がこうした新たな家族形態に着目したきっかけは、1918年に欧米諸国を歴訪し、総力戦として第一次世界大戦を戦った国々の新たな国民統合のあり方を実見したことにあった24)。その意味で、消費的中流モデルの成立プロセスは、「モデルとしてのアメリカ」の受容史よりも広い文脈をもっている。もちろん、たとえばアメリカの中流家庭を描いた漫画「ブロンディ」が好評を博したり25)、TVA(テネシー川流域開発公社)がアメリカ的な民主化と豊かな消費生活に結びつけられて理想化されたり26)といったように、特に第二次世界大戦後はアメリカモデルの影響力が強まっていったが、しかし、高度成長期を通じてみても、アメリカ的な消費生活モデルがそのまま受容されたわけではなく、たとえばモノをどこで買うのかという点でも大きな違いがみられた。 |
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■V 大衆消費の実像と商業部門 | |
第1表は、購入先別にみた消費支出の構成比を示したものである。ここから、衣食住いずれをとっても、購入先の中心となっていたのは一般小売店であったことが読み取れる。スーパーは食料費のなかで20%台を記録する品目を有し、百貨店は和洋服とも30%以上に上っているものの、総じて大規模小売店からの購入は限定的であったといえる、この表が示すig60年代末という時期は、ダイエーをはじめとする総合スーパー大手各社が、それぞれ数十店舗レベルの多店舗展開を遂げていた時期にあたるが27)、購入先別にみたスーパーのシェアは、この程度の水準にとどまっていたのである。スーパーを規制対象とした大店法(大規模小売店舗法)が施行されたのは、1974年のことであったから28)、その要因は大型店規制以外にあったとみなくてはならない。
第1表 購入先別にみた消費支出の構成比(1969年) 流通史の分野で知られている通り、チェーンストア方式とセルフサービス方式を組み合わせたスーパーという業態のなかで、食品スーパーの本格的な成長に先駆けて、衣食住すべてを扱う総合スーパーが発展を遂げた一つの要因は、日本の消費者が生鮮食品を中心とした多頻度小口購入という消費習慣を維持するなかで、生鮮食品の扱いにくさという小売販売上の問題を容易に解決し得なかった点にあった2P)。その結果、1960年代までの間、スーパー各社では、食品部門の粗利益率が伸び悩んだため、衣料品・住居用品に取り扱い品目を拡大して「総合」化を図る形で、企業としての成長を模索していくこととなった30)。 他方、家電製品の分野では、戦前に起源をもつ流通系列化が進展し、大手メーカーは、既存の中小小売商を自己の系列下に収める形で販路を構築していった。1990年代以降は大型量販店の市場シェアが高まっていくが、それまでは、家電製品においても、大規模小売業の影響力は限定的なものにとどまっており、第1表によって、購入先別の消費支出構成比をみても、「一般小売店」が圧倒的なシェアを誇っていたことが確認できる。 こうした家電流通のあり方は、メーカーによる流通支配力だけから説明しきれるものではなかった。高度成長期には、中小小売店が、消費者との関係において固有の積極的な意味をもっていたからである、据え付けや修理需要の多さが、顧客との近接性に基づく「顔の見える関係」の重要性を高めるとともに31)、メーカー系列の販売金融が、系列小売店を通じた割賦販売の展開を支えており32)、当時の代金回収は、顧客が「自宅で集金人に支払う」形態が主流であったため33)、「顔の見える関係」が、割賦販売代金の回収にあたっても大きな意味をもっていたと想定される。 以上のように、高度成長期には、「中小小売立脚型消費」とでも呼ぶべき消費パターンが主軸であり、従業者規模別の小売商店数をみても、零細小売商が明確な減少に転ずるのは、1985年データからのことであって34)、スーパーの展開は、中小零細自営小売商をただちに駆逐するほどのインパクトを持ち得なかった。さらに、高度成長期における小売自営業者の所得は相対的に高く35)、耐久消費財の保有率をみても、商業自営業者は、労働者よりも明確に高い水準にあった36)。「中小小売立脚型消費」パターンの存在は、中小自営小売商の階層的再生産を可能にし、彼らに所得上昇の機会を与え得るものであったと捉えられる。 |
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■IV 消費単位としての家族 | |
第U節でみた通り、両大戦間期に成立した消費的中流モデルは、「近代家族」という新たな家族像と不可分のものであった。通説的には、夫は稼ぎ手で妻は主婦という性別役割分業と、子どもを少なく産んで愛情を注いで育てるという子ども観に基づく、夫婦および親子の情緒的関係に立脚した家族という意味での「近代家族」は、日本においては両大戦間期の新中間層から受容され始め、高度成長期に大衆的な成立をみたとされる。
落合恵美子は、その受容史を跡づけるなかから。女性の主婦化と、「二人っ子革命」を主たる指標として、多産多死から少産少死へと人口転換を遂げた1950年代後半から1970年代半ばに至る時期を、「家族の戦後体制」と呼び、一つの安定した構造のもとにあった時期と捉えた、そして、そこからの構造転換の行く末については、離婚率の上昇婚姻率の低下、(人口置換水準を大きく下回る水準への)出生率のさらなる低下、といった「第二次人口転換」と呼ばれる趨勢を確認した上で、家族でなく「個人を単位とする社会」へ向かうという展望を示した37)。 人口史的にみると、「多産多死」から「少産少死」へという「人口転換」は、日本では遅くともl920年代には死亡率の低下が先行する形で始まり、1950年代における出生率・死亡率双方の急激な低下によって実現した38)、合計特殊出生率は、1949年には4.32であったが、1958年には2.11という水準にまで急減した後39)、1970年代半ばまでこの人口置換水準で安定的に推移し、夫婦と実子2〜3人で構成される家族形態が一般的なものとなっていく。ここには、車なる平均値としての少子化ではなく、みんなが子どもを2〜3人産むという「画一化」がみられ、落合恵美子はこうした規範の広がりを伴う変化を「二人っ子革命」と呼んだ40)。 この変化に至るプロセスは「人ロボーナス」をもたらし、「分厚い中間層」の形成に寄与した。人口転換のプロセスにおいて生じる「多産少死」世代が、生産年齢人口に達したことで、全人口に占めるその比率が1950〜60年代に急上昇し、6年代半ばからは従属人ロ(年少人口+高齢人口)の2倍以上という高水準に到達した41)。これが消費や税収の増加、教育や年金などの負担軽減を通じて、経済成長を後押ししたのであり、よく指摘される杜会保障の低水準についても、需給バランスを加味すれば日本が極端に低保障だったと言えないとする見方も成り立つ42)。 加えて、この世代は「きょうだいが多くて、それがみんな育ち上がった」という、前後にない「人口学的特殊条件」のもとにあって、子育てや老親の介護に関わる負担を、親族ネットワークのなかで分担することができたため43)、前後の世代に比して、被扶養者に関わる家計負担は相対的に小さく、「豊かな生活」の実現に邁進することが可能となった。そして、「二人っ子革命」は。家族計画運動に後押しされて実現することとなったが、その原動力となったのは「豊かな生活」を求める人びとのエネルギーであり、「生活水準の向上や家族の幸福を望む主婦たちから歓迎され」、「自分たち自身の利益や生活の豊かさに結びつくと実感されたから」こそ成果を挙げ得たのであった44)。本稿の表現でいえば「二人っ子革命」の原動力は、消費的中流モデルの実現に向けた生活向上欲求にあったといえよう、それは、家族を消費的中流モデルに適合する形に再編していくという、大きな変化であった。「国勢調査」による1世帯当たりの人員数をみる限り、「二人っ子革命」の展開は、職業の違いを超えて、スムーズに進行していったとみて大過ないと思われる45)。 一方で、高度成長期は、主婦化が進んだ時代でもあり、新中間層がリードし、労働者がそれに続いた46)。大企業は労働者にそうした性別役割分業を定着させる上でも大きな役割を果たし47)、労働者の妻は、家庭の主婦として家事と育児を一手に担うことで、強い労働強度のもとで長時問労働を行う夫を支える存在として措定された、企業の側も、「家族賃金」観念の具現化ともいえる生活給原理を盛り込んだ賃金体系と、社宅、持ち家取得のための住宅ローン、子女の教育や老後の蓄えのための財産形成に向けた取り組みなど、労働者家族のライフコースに応じた企業内福利厚生を整備する形で、近代家族的な性別役割分業をバックアップしていたのである。 本稿の関心から興味深いのは、労働者の間で近代家族モデルが「マイホームやマイカーや多品種の家電製品に取り囲まれた「豊かな暮らし」」を実現する「多消費型家族モデル」として捉えられていた点である48)。消費的中流モデルの実現に向けた生活向上欲求というモチベーションの存在が、ここにも確認できよう。主婦化の動きもまた、家族を消費的中流モデルに沿う形へ再編していくという、大きな変化のひとつであった。 しかしながら、高度成長期、とりわけ1960年代は、主婦化という一色の色で塗りつぶされる時代ではなかった49)、既婚女性の雇用労働者化が、主婦化以。トのテンポで進んでおり、労働市場の「転換点」を迎えて労働力不足に直面した産業界からは。女性の労働力化が強く求められていたのである、しかも、そうした動きは、長期雇用によるフルタイムでの就業を基調とするものであって、低い処遇で短時間労働を行ういわゆる主婦パートタイマーが増大していく1970年代以降とは、一線を画すものであった。その意味で。1960年代は「主婦化と雇用労働者化とのせめぎあい」の時代であったが、なぜ働きに出るのかといえば、耐久消費財の購入と子どもの進学のために。現金収入を必要としていたからだという、世帯内で夫を唯一の稼ぎ手とするブレッドウィナー世帯モデルは、それ自体として強い通用力をもつものではなかったといえよう。 こうしたブレッドウィナー世帯モデルの限界は、自営業者世帯に目を向けると、よりいっそう明らかになる、雇用者化という点では、既婚女性の雇用者化がみられた農林漁業と、雇用者化はむしろ後退して既婚女性が自家の経営内により多く入っていく非農林漁業自営業とで異なるパターンを示しつつも、農家世帯も非農自営業世帯もともに、「女性が家事・育児に専念することなく働き続けることを当然とするパターンに目立った変化はみられなかった」からである5O)。 ただし、雇用労働や自営業に従事していた既婚女性が、主婦役割と全く無縁であったかといえば、決してそうではなかった。新生活運動協会(1955年設立)による新生活運動は、農村女性に主婦役割を求める形で展開されていたし51)、割賦販売によって手に入れたテレビのスイッチを入れれば、その広告コマーシャルにあらわれる既婚女性像は「奥様」としての主婦であった52)、既婚女性には、稼得役割と主婦役割がともに期待されていたのである53)。 そして、このことは、自営業世帯の階層的再生産に影を落とすこととなった、石井淳蔵は、中小小売商が減少していく歴史的背景として、生産のための世帯という伝統的家族から、消費のための世帯という近代家族へという商人家族の変化が、高度成長期から少しずつ進展していったことを挙げている54)、先述したように、高度成長期には、相対的に高所得を実現していたが、それは夫婦ともども長時間労働に従事することと不可分なものであり、家族の余暇を犠牲にするものであった。石井は、ここに「ふつうのサラリーマンのような暮らしをしたい」という商人家族の不満を読み込んでいる、主婦役割の問題においても、同様の不満を募らせていたと考えられる。 すなわち、自営業者世帯は耐久消費財も盛んに購入していったが、それが妻の家事労働の軽減に直結していなかった。1970年に1960年と比較して既婚女性の家事労働時間が45分伸びており、「家電普及で家事が省力化する一方での時間増は、家事水準の底上げを推察させる」というような実態にあったのである55)、そして、谷本雅之によれば56)、世帯員の多就業が小経営を成り立たせる基本的な戦略としての意味をもつなかで、農家世帯では、直系家族形態のもとで世帯内に抱える複数の女性(世帯主の妻と母など)が家事労働へ振り向けられるというパターンが戦前から戦後にも続いたのに対し、そうした条件を欠く都市小経営世帯では、戦間期には家事使用人を雇うことで家事労働の水準を維持していたが、戦後になると家事使用人数が急減してそれも困難になったという。家事省力化を可能にした家電製品の普及が、それを代替する役割を担ったのであろう。そうであるとすれば、都市小経営世帯における家電製品導入の意義は、あくまでも家事使用人を不要にした点にあって57)、妻による家事労働の軽減につながらなかった可能性が高い。 消費的中流モデルには、一家団欒で余暇を満喫し、家事労働を多投して消費活動を充実させるという家族消費への志向が含まれており、余暇時間や家事労働時間を犠牲にした自営業世帯のあり方は、「中流意識」を満たし切るものではなかった。そのため、小売業に即していえば、小売革新の進展などを背景に、ひとたび経営発展の展望が失われると、中小小売商の階層的再生産が困難になっていく。現実には、1980年代半ば以降、中小小売商が急速に没落していくなかで、小売業の世界は、大規模小売企業を中心とする「パート・アルバイトの世界」へと変貌していった58)、小売業は外食産業とともに、主婦パートタイマーの大きな受け皿となってゆき、それのみでは「新中間大衆」を構成し得る稼得が困難な待遇のもとで、主な稼得を夫に依拠しながら、既婚女性が余暇・家事・育児との両立を図りながら働く場となっていったのである。 |
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■X 結びにかえて | |
日本の「総中流」として実現した中流モデルは、いわゆる「山の手」の生活文化とは異なる脈絡において両大戦間期に形づくられた、それは特別な学歴も職位も文化も交際も必要とせず、お金さえ出せば誰にでも実現できる面があり、それゆえに現実の「中流階級」を超えた大衆性を獲得し得るモデルであった。家電製品や自動車といった耐久消費財は、そのモデルを象徴する指標として、人びとの生活向上欲求に方向感を与え、消費的中流意識をわかりやすく枠付けるものであったと位置づけられる。こうした消費的中流意識に基づいて「分厚い中間層」の成立をみたことは。日本の、そしてこの時代の特殊な条件に支えられた特異な出来事であったと考えられる。
敗戦や戦後改革を通じて格差の構造が一変した上で迎えた高度経済成長は。多くの人びとに消費的中流モデルの実現可能性を開き、また、その実現に向けたさまざまな営みが、経済成長を促進するものとなった、1960年代後半には、耐久消費財型の機械工業が基軸産業となり、労働者がその市場的基盤に据え置かれる形で展開していった。農業部門は都市へ労働力を排出して活発な世帯形成を促す一方、保護政策による所得補填や開発政策による就業機会に助けられながら、兼業化を進めて農家所得の上昇を実現していった。商業部門においては、中小小売商がアメリカ・モデルとは異なる消費を支え、割賦販売の担い手にもなって「中流意識」の広がりに寄与するとともに、そうした中小小売立脚型消費パターンに支えられる形で、自らも階層的な再生産と所得上昇の機会をつかみ、アメリカ・モデルとは異質な形で「分厚い中間層」を構成していった。 このような「新中間大衆」の成立に際しては、家族というユニットも固有の意味をもっていた。 「二人っ子革命」の原動力は、多消費型家族モデルとしての消費的中流モデルの実現に向けた、人びとの生活向上欲求にあり、それは職業や従業上の地位を超えた広がりを有していた。「二人っ子革命」を担った世代は、人口学的に特殊な世代でもあり、人ロボーナスをもたらして経済成長を後押しして、その恩恵に蒙ることが可能であった上に、被扶養者に関わる家計負担が小さいという条件に恵まれて、「豊かな生活」の実現に邁進することが可能であった。 また、労働者家族における主婦化の進展は、男性の基幹労働者に強い労働強度のもとで長時間労働を求める大企業によって促進された面があり、生活給的要素を織り込んだ賃金体系と、ライフコースに応じた福利厚生制度のもとで、多消費型家族モデルとしての消費的中流モデルを実現しようとする動きの一つであった。ただし、ブレッドウィナー世帯モデルはそれ自体として有力だったわけではなく、現実には既婚女性の雇用労働者化が主婦化を上回る勢いで進展し、自営業者世帯では妻が経営内に深化していったが、いずれも主婦役割と無縁であったわけではなく。稼得役割との「せめぎあい」のなかで、消費的中流モデルの実現をめざしていった。 しかし、消費的中流モデルは、一家団欒での余暇活動や、家事労働を多投した消費活動の充実といった形で、モノの購入に還元し切れない家族消費への志向を含んでいたため、小売業に即して言えば、夫婦ともに長時間労働を求められていた商人家族にとって、相対的な高所得や耐久消費財の活発な購入のみで「巾流意識」を満たしきることはできなかった。そして、現実に中小小売商が没落するなかで牛まれたのは、他部門に主たる稼得源を抱える夫に依拠しつつ、自らは家事・育児・余暇との両立を図りながら働くギ婦パートタイマーを中心とした、小売業の新たな姿であった。こうした商業部門の変遷は、「新中間大衆」という「分厚い中聞層」の広がりと、その広がりを規定していた消費に基づく階層意識のありようを、くっきりと浮かび上がらせてくれよう。 第T節で述べた通り、このような「分厚い中間層」の成立プロセスは、比較史的な文脈において、日本の大きな特徴であったと捉えられるが、これまでの検討結果を踏まえながら、共通論題の対象国である中国やインドと対照すると、どのような展望が見えてくるだろうか。ここでは、本稿が着目した消費という問題に即して、おおまかな見通しを示しておきたい。 まず、中国については、「特異な高貯蓄・低消費体質」という特徴が指摘される、三浦有史によれば、1人当たりGDPでみると、2012年の中国はおおよそ1970年代半ばの日本と同程度だが、可処分所得ベースの家計貯蓄率を比べると、現在の中国が当時の日本より10%も高い59)、その裏返しとして、GDPに占める家計消費率も低水準かつ低下傾向が顕著であり、インド、インドネシア、日本、タイに比しても「半分程度」と「極端に低」い60)、こうした高貯蓄・低消費の背景には、公的な社会保障水準の低さがあり、将来不安が大きいことが挙げられ、1983年から全面実施された「一人っ子政策」の帰結として生じた少子高齢化の進展がそれを後押ししているという、人口史的な条件が、家族と消費の関係に大きな影を落としていることがみえてこよう。 また、中国に大衆消費社会の成立をみる議論も盛んだが、そこでは、「中国型というべき」特異な大衆消費社会が展望されており、「従来型の大衆消費社会が平準化の道をたどったのに対して。中国でのそれは当面は2極型(bipolar)ないし多極型(multipolar)・多重構造型(multipulex)の消費社会の道を進んでいく」という見通しが示されている61)。中国社会が大きな格差を内包していることは周知の通りだが、それが消費者行動や消費パターンの質的な違いと結びついているというのである。あるいはまた、耐久消費財が(質を問わなければ)広範に普及しているものの、その所有が中流意識と結びついていない状況も観察されている62)。 他方。インドについては、歴史的に形成された二層構造が根強く維持されているという特徴が指摘されている、柳澤悠によれば63)、それは都市中間層社会と、農村一都市インフォマール部門経済圏との二層構造として理解可能なものであり、少数の大地主と多数の農業労働者・小作人からなる農村の土地所有構造に由来するという。そこでは、農村下層階層の自立化に伴う消費拡大が強調され、「品質の保証のない低価格の疑似プランド品」志向が、工業・サービス業のインフォーマル部門の拡大へ結びついたとされている、そして、そうした消費パターンは一面で階層上昇志向の発露ではあるものの、土地所有構造に制約されて貧困層を脱する展望は開けないために、結局、都市中間層社会とは基本的に断絶したままにあるというのである。このことは、一面で、日本における戦後改革(特に農地改革)の意義に改めて目を向けさせてくれよう。 ただし、たとえばインドの小売商業が、露店・行商人からなるインフォーマル部門という性格を色濃くもっていることを鑑みると、土地所有構造の問題だけで日本との違いを理解することはできないように思われる、日本の小売業史においては、明治から昭和初期の問に、行商から店舗小売業への一大転換が生じて、戦前段階で小売商の9割以上が店舗を構えるに至っており64)、昭和初期には「小売商問題」としてその困窮が社会問題化したものの65)、基本的にはインフォーマルセクター的な都市下層社会とは一線を画する、都市小経営の一角を占めていたのである66)。その意味で、戦前期の日本を現代のインドに重ねる見方は、おそらく止しくない。あるいは、木曽順子は、インドについて「近代的小売産業」の発展が「雇用を通じて中間層拡大に貢献している」と評価しているが67)、そうした評価も日本との商業部門の位置づけの違いを感じさせる。 こうした中国・インド両国についての理解が正しいとすれば、やはり日本における中間層の形成に際して、消費というもののインパクトが特異なほどに大きく、かつ、その実現可能性が多くの人びとに開かれ、そして、それゆえにその実現に邁進する家族の営為がさまざまに展開されていったことは、きわめて特殊な条件のもとで生じた、歴史的な出来事であったと言わざるを得ない。別の言い方をすると、「中間層とはだれか」という問いへの答えに接近する上で、消費という領域がこれだけ見晴らしのよい位置を占める例は、他にみられないように思われる。もしそうであるとするならば、先進国で「分厚い中間層の復活」が叫ばれ、新興国中間層の台頭が注目される現状において、「中間層とはだれか」を論じようとする上では、このような日本の歴史的文脈を十分に踏まえておかないと、議論の方向を見誤ってしまうことになりかねないと考えられる。 |
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■注 | |
1) 盛山和夫・原純輔・白波瀬佐和子編「リーデイングス戦後日本の格差と不平等」全3巻(日本図書センター、2008年)、神林博史「「総中流」と不平等をめぐる言説一戦後日本における階層帰属意識に関するノート(3)一」「東北学院大学教養学部論集」161号、2012年3月。
2) 内閣府「国民生活に関する世論調査」による(内閣府HP)。ただし、1961年までは調査員判断によるもの、 3) 「朝日新聞」1977年8月24日付夕刊。 4) 直井道子「階層意識と階級意識」富永健一編「日本の階層構造」1東京大学出版会、1979年、盛山和夫「中意識の意味一階層帰属意識の変化の構造一」「理論と方法」5巻2号、1gge年、神林博史「高度経済成長期の階層帰属意識一戦後H本における階層帰属意識に関するノート(1)一」「東北学院大学教養学部論集」156号、2010年7月。 5) 坂元慶行「「階層帰属意識」の規定要因一その時間的な変化と国際比較の視点から一」「1985年社会階層と社会移動の全国調査報告書 第2巻 階層意識の動態」1988年3月。 6) 村上泰亮「新中間大衆の時代」中央公論社、1984年。 7) 服部民夫・船津鶴代・鳥居高編「アジア中間層の生成と特質」アジァ経済研究所、2002年、266、271頁、 8) 橋本健二「「格差」の戦後史一階級社会日本の履歴書一」河出書房新社、2009年、 9) 武田晴人編「高度成長期の日本経済一高成長実現の条件は何か一」有斐閣、2011年、武田晴人「シリーズ日本近現代史 高度成長」岩波書店。2008年。吉川洋「高度成長一日本を変えた6000ロー」読売新聞社、1997年、暉峻衆三編「日本の農業150年」有斐閣、2003年、橋本寿朗「現代日本経済史」岩波書店、2000年など。 10) 筆者による研究史サーベイについては、満薗勇「消費史研究というフロンティアの可能性一日本近現代史の場合一」「歴史と経済」225号、2014年10月を参照。 11) 「読売新聞」1980年9月14口付。 12) 尾高邦雄「日本の中間階級一その位置づけに関する方法論的覚書一」「日本労働協会雑誌」22号、1961年。引用は、盛山和夫編著「リーディングス戦後日本の格差と不平等1変動する階層構造一1945−1970−」日本図書センター、2008年、210頁。 13) 岸本重陳「「中流」の幻想」講談社。1978年。引用は文庫版(1985年)63−64頁。 14) 村上泰亮、前掲書、引用は文庫版(1987年)187頁。 15) 久井英輔「大正期の生活改善における〈中流〉観の動向とその背景」「広島大学大学院教育学研究科紀要第3部」61号、2012年12月。 16) 「中流階級の生活難」「報知新聞」1919年7月10日付、 17) 研究史整理として。久井英輔「戦前生活改善運動史研究に関する再検討と要望一運動を支えた組織・団体をめぐる論点を中心に一」「兵庫教育大学研究紀要」32巻2008年2月がある。 18) 中川清「生活改善言説の特徴とその変容一生活改善同盟会の改善事項を中心に一」「社会科学」95号、2012年5月。 19) 棚橋源太郎「生活の改善」強化団体連合会、1925年、50−66頁。 20) 満薗勇「日本型大衆消費社会への胎動一戦前期日本の通信販売と月賦販売一」東京大学出版会、2014年、第5章、 21) 加藤千香子「近代日本の国民統合とジェンダー」日本経済評論社、2014年。引用は、132、i36頁。 22) 佐藤裕紀子「大正期における新中間層主婦の時間意識の形成」風間書房、2011年、 23) 斎藤美奈子「戦下のレシピー太平洋戦争下の食を知る一」岩波書店、2002年。 24) 加藤千香子、前掲書、エ22頁。 25) 岩本茂樹「憧れのブロンディー戦後日本のアメリカニゼーションー」新曜社、2007年、 26) 町村敬志編「開発の時間開発の空間一佐久間ダムと地域社会の半世紀一」東京大学出版会2006年。 27) 建野堅誠「わが国におけるスーパーの成長」「長崎県立大学論集」25巻3・4号、1992年3月、124頁。 28) 流通政策史の概観については、関根孝「流通政策一大店法からまちづくりへ一」(石原武政・矢作敏行編「日本の流通100年」有斐閣、2004年〉を参照。 29) 橘川武郎「「消費革命」と「流通革命」一消費と流通のアメリカナイゼーションと日本的変容一」東京大学社会科学研究所編「20世紀システム3 経済成長U一受容と対抗一」東京大学出版会、1998年。 30) 向山雅夫「総合量販店の革新性とその内容」石井淳蔵・向山雅夫編著「シリーズ流通体系1小売業の業態革新」中央経済社、2009年。 31) 並河永「流通系列化と流通サービスーカラーテレビ修理への業界の対応一」「経営史学」34巻4号、2000年3月。 32) 孫一善「高度成長期における流通系列化の形成一松下販社制度の形成を中心に一」「経営史学」29巻3号、1994年。 33) 機械振興協会経済研究所編「割賦代金等の共同回収に関する調査」1966年、165頁。 34) 橘川武郎、前掲論文、114頁。 35) 石井淳蔵「商人家族と市場社会一もうひとつの消費社会論一」有斐閣、1996年、43頁。 36) 「全国消費実態調査報告書 耐久消費財編」総理府統計局、1964年および1969年など。 37) 落合恵美子「21世紀家族へ一家族の戦後体制の見かた・超えかた一〔第3版〕」有斐閣、2004年(初版1994年)。 38) 高岡裕之「人口の動きと社会構想」安田常雄編「シリーズ戦後日本社会の歴史1変わる社会s変わる人びと一二〇世紀のなかの戦後日本一」岩波書店、2012年、44頁。 39) 田間泰子「「近代家族」とボディ・ポリティクス」世界思想社、2006年、8頁。 40) 落合恵美子、前掲書、56−57頁、 41) 高岡裕之、前掲論文。46頁。 42) グレゴリー・J・カザ「国際比較でみる凵本の福祉国家一収斂か分岐か一」堀江孝司訳ミネルヴァ書房、2014年。 43) 落合恵美子、前掲言、90−95貝。 44) 田間泰予、前掲書、荻野美穂「「家族計画」への道一近代日本の生殖をめぐる政治一」岩波書店。2008年。引用は、後者303頁。 45) 1950年から65年までの変化をみると(50年→55年→60年→65年の順)、農業世帯が、5.93→5.92→5.60→5.23、製造業世帯が、4.67→4.74一4.31→3.94、卸売業・小売業世帯が、4.69→4.84→4.37→3.81と推移している。 46) 仁平典宏「三丁目の逆光/四丁日の夕闇一性別役割分業家族の布置と貧困層一」橋本健二編著「家族と格差の戦後史一1960年代円本のリアリティー」青弓社、2010年 47) 以下、特に注記のない限り、大企業と主婦化の関係に関する記述は、木本喜美子「家族・ジェンダー・企業社会一ジェンダー・アプローチの模索一」ミネルヴァ書房、1995年による。 48) 木本喜美子、前掲書、199頁。 49) 以下、女性の雇用労働者化については、宮下さおり・木本喜美子「女性労働者の1960年代一「働き続ける」ことと「家庭」とのせめぎあい一」大門正克ほか編「高度成長の時代1復興と離陸」大月書店、2010年。 50) 同上、238〜239頁。 51) 大門正克編著「新生活運動と日本の戦後一敗戦から1970年代一」日本経済評論社、2012年、 52) 倉敷伸子「【書評】大門正克他編「高度成長の時代」全三巻 新たな高度成長像の可能性一「ジェンダーの視点」を手掛かりとして一」「年報日本現代史」17号、2012年9月、255頁、 53) 倉敷伸子「近代家族規範受容の重層性一専業農家経営解体期の女性就業と主婦・母親役割一」(「年報日本現代史」12号、2007年)は、農家世帯に即してこの問題を批判的に再検討している。 54) 以下。本パラグラフの叙述は、石井淳蔵前掲書、第1章に依拠している。 55) 倉敷伸子「消費社会のなかの家族再編」安田常雄編「シリーズ戦後日本社会の歴史2 社会を消費する人びと一大衆消費社会の編成と変容一」岩波書店、2013年。58頁、 56) 谷本雅之「近代日本の世帯経済と女性労働一「小経営」における「従業」と「家事」一」「大原社会閊題研究所雑誌」635・636号、2Gll年9月。 57) このこと自体が、非血縁者を家族から排除しようとする「近代家族」観念(=プライベート化)の浸透と解釈することも可能であろう、 58) たとえば、イトーヨーカドーの従業員全体に占めるパート・アルバイトの比率(パート・アルバイトは8時間換算による月平均人数)は、27.7%(74年)、51.4%(86年)、59.4%(96年)、75.8%(06年)へと著増している、イトーヨーカ堂編「変化対応一あくなき創造への挑戦一」2007年、巻末資料。 59) 三浦有史「巾国の貯蓄率はなぜ高いのか一中国リスクのもうひとつの見方一」「環太平洋ビジネス情報RIM」14巻53号、2014年。 60) 唐成「中国経済における内需拡大の課題一消費率の低卜要因分析を焦点に一」「桃山学院大学総合研究所紀要」36巻3号、2011年3月、ll5−il6頁。 61) 米谷雅之・李海l筆ll「中国における大衆消費社会の成立と消費者行動」「東亜経済研究」69巻1号、2010年8月、327頁。李海峰「中国の大衆消費社会一市場経済化と消費者行動一」ミネルヴァ岩房、2004年。 62) 姜粉香「中国における大衆消費社会の現状一瀋陽における事例一」「社会学論考」32号、2011年10月。 63) 柳澤悠「現代インド経済一発展の淵源・軌跡・展望一」名古屋大学出版会、2014年。 64) 梅村又次「商業と商業統計」梅村又次ほか「長期経済統計2 労働力」東洋経済新報社、1988年。 65) 満薗勇「昭和初期における中小小売商の所得構造一商外所得に着目して一」「社会経済史学」79巻3号、2013年11月、 66) 谷本雅之「近代日本の都市「小経営」一「東京市市勢調査」を素材として一」中村隆英・藤井信幸編著「都市化と在来産業」日本経済評論社、2002年、同「近代日本の女性労働と「小経営」」氏家幹人・桜井由機・谷本雅之・長野ひろ子編「近代日本国家の成立とジェンダー」柏書房、2003年。 67) 木曽順子「インドの経済発展と人・労働」口本評論社、2012年。 |
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■「総中流」と不平等をめぐる言説 | |
■1. 問題の所在 | |
1970 年代以降、「中流意識」や「一億総中流」(以下、「総中流」と略)が、日本社会を象徴する言葉となった。ここで「中流意識」とは、階層帰属意識または生活程度の「中」回答のことである。「国民生活に関する世論調査」(内閣府)における「お宅の生活の程度は
、世間一般からみて、どうですか。この中から1つお答えください」という質問に「中」と回答する人は、1970 年代の前半に9 割に達した1。この「中」回答が「中流意識」と解釈され
、それが9 割を超えていることが「みんな中流」、「みんな平等」というイメージにつながり、最終的には「総中流」という豊かで平等的な社会像が形成された。
もちろん、多くの研究が指摘するように、この時期の日本社会が完全に平等だったわけではない。中流意識や総中流に対しては批判的な意見も多く、自分の生活程度を「中」と回答する人も 、確信をもってそう答えていたのではなかったかもしれない。とはいえ、「中流意識」や「総中流」が、社会経済的な不平等に関する日本社会のイメージ形成に重大な影響を与えたことは間違いない。 こうした「総中流」イメージも、近年ではかなり揺らぎつつある。1990 年代後半以降、不平等の増大を指摘する声が増えはじめ、2000 年代後半には「格差社会」論ブームとでも呼ぶべき状況が出現した。「中流意識」や「総中流」は 、1970 年代以降、日本社会の不平等を語る際の基本枠組であり続けてきたが、「中流崩壊」や「下流化」が叫ばれる現在、その役目を終えるときがついに訪れたのだろうか。 本稿の目的は、「総中流」以降の日本社会の不平等に関する言説の流れ――「総中流」とされた日本社会における不平等が、どのように語られ、どのように変化してきたのか――を整理することである。この目的のために参照すべき文献は 、新聞・雑誌記事、一般書、学術論文など膨大であり、現時点ではそれらを十分に網羅しているとは言い難いが、ここでは中間報告として、1970 年代から2000 年代までの「総中流」と不平等をめぐる言説の流れの大まかな構図を描いてみたい。 |
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■2. 「総中流」へ至る道 | |
■2.1 中産階級育成論
戦後日本における「総中流」あるいは不平等言説についてはすでにいくつかレビューが存在するが、1970 年代の「総中流」の時代に先立って、1950 年代末から1960 年代初頭に「中流」(厳密には「中産階級」)をめぐる議論が社会的な関心を集めたことが指摘されている(上野1987、高坂2000、森2008 など)。紙幅の都合上 、これについては簡単に紹介するにとどめておこう。 戦後最初の「中流」をめぐる議論は、「中産階級育成論」と呼ばれるものである。これは、1959 年秋の第33 回国会において行われた「日本を中産階級の国家にしなければならぬ」という議論を契機としたものであった2。 中産階級の「育成」が話題になったということは、当然のことながら「日本はまだ中産階級の国家ではない」という認識が人びとに広く共有されていたことを意味する。1950 年代後半は高度経済成長の初期に位置づけられるが 、この時点では中産階級が多数派となる社会は現実ではなく、目指すべき目標にとどまっていたのである。 この翌年に、池田内閣が「国民所得倍増計画」を発表し、日本は本格的な高度経済成長期へと突入してゆく。それから10 数年後に、本格的な「中流」論争が花を開くことになる。 ■2.2 生活程度の「中流意識」解釈の起源 冒頭で述べたように「総中流」の有力な経験的根拠となったのが「国民生活に関する世論調査」(以下、「生活世論調査」と略)における「中」回答である。初期の「社会階層と社会移動全国調査」(以下「SSM 調査」と略)における階層帰属意識の選択肢が「上流」「中流」「下流」となっていたのと異なり 、生活世論調査では上中下の選択肢に「流」はつけられていなかった(神林2010a)。これが「中流」あるいは「中流意識」に読み替えられるようになったのは、いつ頃からだろうか。 筆者が調べた範囲では、1960 年代前半の白書類に、生活程度の「中流」解釈の最も早い例を見ることができる。たとえば、1963 年年度(昭和38 年度)の『国民生活白書』(経済企画庁1963)には 、1958 年と1961 年の生活世論調査の結果が引用されており、生活程度の構成比率を示した表(p.21)では、選択肢のラベルが「上流」「中流の上」「中流の中」「中流の下」「下流」となっている。当時の調査報告書や現在公表されている調査票には「流」はついていないので 、白書の執筆者が「流」をつけたのだろう。また、1964 年度の生活世論調査報告書には、「中流意識の拡大と生活の満足感について」と題された節がある(総理府大臣官房広報室1964)。さらに 、1966 年度(昭和41 年度)の『国民生活白書』では、生活世論調査の結果の引用と共に「中流階級意識の増大」という語が登場する(経済企画庁1966 : 38)。こうした事例が次第に積み重なっていくことで 、生活程度の「中」回答が「中流」意識に読み替えられる素地が形成されていったと考えられる。 1970 年代の初頭には、中流意識という言葉が一般書にも登場している。岩田幸甚の『現代の中流階級』(岩田1971)は、「日本社会は『一億人の中流社会』となった。しかしその実態は……」という形で 、当時の人びとの「意識と生活のギャップを探る」ことをテーマとしている。生活世論調査の「中」回答も「中流意識」と読み替えられて論じられているほか、章・節のタイトルから目につくものを拾ってみると「一流の意識 、三流の生活」、「一億人の中流社会」、「中流意識は幻か」、「イメージと違う中流階級の現実」など、後の「総中流」をめぐる議論で頻出するフレーズや論点がすでに登場している(岩田1971)。その意味でこの書は 、「総中流」社会論の始祖といってもいいかもしれない。 多くの研究が示しているように、ジニ係数に代表される所得の不平等は、高度経済成長期の間は低下を続けていた(原・盛山1999、大竹2005、橋本2009 など)。また 、高度経済成長に伴う労働力の地方から都会への移動や産業化の進展は、表層レベル(各個人の実体験レベル)での社会移動の増加をもたらした(佐藤嘉倫2000)。さらに、高校進学率は1970 年代に90% を越え 、高度経済成長期に憧れの的となっていた耐久消費財の多くも、普及が飽和状態に達した。このように、1970 年代には、社会経済的な不平等が全く消滅したわけではなかったのだが 、日本社会の中流化あるいは平等化を信じさせるだけの基盤は、充分に揃っていたと言える。 |
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■3. 「総中流」社会の誕生: 1970 年代から80 年代の不平等言説 | |
■3.1 「新中間階層」論争
「中流意識」あるいは「総中流」が広く社会的な関心を集めるきっかけとされるのが、『朝日新聞』紙上において展開された「新中間階層」論争である。 端緒となったのは、村上泰亮の「新中間階層の現実性」という論説であった。村上は「中間的な地位に、生活様式や意識の点で均質的な巨大な層が現れ、その層が周辺をさらにとりこんで拡大しつつある」(村上1977)と主張し 、これを「新中間階層」と名付け、その政治的性質を論じた。これに対して、岸本重陳、富永健一、高畠通敏がそれぞれの立場から新中間階層に対して議論を展開した。さらに、この4 人に司会者として見田宗介を加えた座談会も行われている3。 「新中間階層」論争の主な論点となったのは、(1)新中間階層は本当に「均質で巨大な層」として存在するのか、(2)新中間階層(とされるもの)の政治的性格は何か 、の2 点であった。ここで注意が必要なのは、この論争の焦点はあくまでも「新中間階層」という階層であって、中流意識あるいは総中流ではないということである。これらの論争の中では 、生活世論調査の生活程度、あるいはSSM 調査の階層帰属意識における「中」比率の多さが言及されるものの、村上自身はそれを「中流意識」と解釈してはいないし4、「総中流」という言葉も登場しない。 村上の言う「新中間階層」が「均質的で巨大な層」であるか否かについては、2 つの立場からの批判がなされた。1 つめはマルクス主義的階級論からの批判である。岸本重陳は 、新中間層は本当の意味での「中流階級」ではなく、高度経済成長による所得分配の平等化と生活様式の同質化によって豊かな生活が可能になった労働者階級を基盤としていると主張した(岸本1977)。2 つめは社会階層論からの批判である。富永健一は 、1975 年SSM 調査の成果、とくに「地位の非一貫性」につていの分析(今田・原1977)を援用しつつ、巨大で均質な中間層に見えるものは、地位が非一貫的な複数の層の集合体であると指摘した(富永1977)5。 このように、この論争はあくまでも、新中間階層という集団が日本社会に存在するのかをめぐるものであった。しかし、この論争の翌年に出版された岸本重陳『「中流」の幻想』(岸本1978)では 、議論の対象が「新中間階層」から「中流意識」、「一億総中流」へと拡張され、後二者についての検討が中心になっている。また、1978 年の『現代用語の基礎知識』(自由国民社)に 、「中流意識」という項目が初めて登場しており、これ以降「中流意識」「総中流」がさらに一般的に使われるようになったと考えられる。 ■3.2 中流意識・総中流・平等のイメージ連鎖 すでに説明したように、「中流意識」とは階層帰属意識や生活程度における「中」回答のことを指す。しかし、その選択肢は単なる「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」であり 、「流」はついていない。したがって、これを「中流意識」と解釈するのは、厳密には正しくない。 また、ある人が自分の生活程度あるいは帰属階層を「中」と思っているとしても、客観的な社会経済的地位から判断した場合、その人が「中」であるとは限らない。 さらに、通常は「中」と一括りにされる「中の上」「中の中」「中の下」の各カテゴリーは、社会経済的に同質ではない。このことを簡単に確認しておこう。表1 は、1975 年5 月の「国民生活に関する世論調査」における生活程度の回答カテゴリー別に世帯収入(ほぼ等サイズの4 カテゴリーに区分)の構成を比較したものである。生活程度が高いほど高収入層の比率が増える傾向があり 、これは「中」内部にもおいても同様である。つまり、「中」内部にも無視できない上中下の序列構造が存在する。したがって、ラベルが「中」であるからといって、それらを単純に統合してしまうのは 、ある意味で実態を無視した乱暴な処理である。(なお、このような「中」内部の異質性は、関連の程度の変化こそあるものの1970 年代以降も基本的には変わらない。) ところが実際には、「中と回答する人が多い」→「みんな中流意識を持っている」→「みんな中流だ」→「みんな中流ということは、みんな同じくらいということだ」→「日本は平等な社会だ」といった連想の経路を辿って 、いつのまにか中流意識の多さと社会の平等が等価であるかのようなイメージが形成されてしまった。 表1 生活程度回答カテゴリー別世帯収入階層構成(1975 年) こうした連想の過程には、ここまでに指摘しなかったものも含めて、いくつもの論理の飛躍や曲解が存在する。にも関わらず、中流意識、総中流、平等が重なってしまうのは 、トートロジカルではあるが、当時の日本社会における人びとの生活が、それを信じさせる程度には豊かで平等的だったからなのだろう。 ■3.3 「総中流」批判の3 つのタイプ 「中流意識」あるいは「総中流」が人びとの関心を集めるにつれて、それらに対する批判も数多く登場するようになる。こうした「中流」批判は、いくつかのパターンに分類できる。上野千鶴子は 、1970 年代から80 年代にかけての「中流」をめぐる議論を、「日本に中流社会が成立した」説と「日本にはまだ中流社会は成立していない」説の対立の70 年代、「日本の中流社会はもう終わった」説と「日本はまだまだ中流社会だ」説の対立の80 年代 、と整理している(上野1987)。つまり「中流」批判には、「まだ中流社会ではない」説と「もう中流社会は終わった」説の2 種類が存在することになる。これに、「中」意識についての学術的・専門的な観点からの批判を加え 、中流社会批判のタイプを大まかに3 つに分類することができるだろう。以下、これら3 つのタイプについて詳しく検討しよう。 ■(1) 「まだ中流社会は成立していない」説 新中間層論争における岸本重陳のように、主にマルクス主義的階級論に依拠する立場からの批判がこれにあたる(岸本1978、石川他1982 など)。このタイプの議論は 、(1)批判者側が設定した「真の中流階級」の基準――たとえばイギリスの中産階級のライフスタイルや資産運用だけで生活していけるレベルの資産を有していることなど――を持ち出し 、(2)日本社会にはこの基準にあてはまる「中流」層は多くないことを指摘し、(3)ゆえに中流意識を持つ人々の多くは真の中流とは言えず中流意識は幻想である、と断じる構造をもつ。 「中流意識は幻想」と切り捨てるならば、「にもかかわらず、なぜ人びとは中流意識を持つのか」ということを別途説明する必要が生じる。岸本(1978)はこの点で特に優れており 、後の階層帰属意識研究の重要なヒントとなる仮説をいくつか提示している。 ■(2) 「もう中流社会は終わった」説 1980 年代中頃から、マーケティングに関わる人々による消費社会論が関心を集めるようになった。代表的な文献として、『さよなら、大衆。』(藤岡1984)、『「分衆」の誕生』(博報堂生活総合研究所1985)、『新「階層消費」の時代』(小沢1985)をあげることができる。これらに共通しているのは 、「『大衆』による、画一的な大量消費の時代は終わった。かつての大衆は多様で中間的なサブグループに分解し、そうしたサブループによる多様化・個性化した消費が今後の主流になる」という見解である。多様化したサブグループのイメージは 、地位の非一貫性論に通じるものがある6。 これらのサブグループがバラバラのまま存在し続けるのではなく、経済的に豊かな層とそうでない層に分化してゆく――言い換えると、中流層が二極分解してゆく――というのが「もう中流社会は終わった」論の基本的なパターンである7。特に 、小沢(1985)がこの論調を強く打ち出している。 ところで、80 年代消費社会論における「大衆の分解」論は、70 年代から80 年代にかけて見られた階層帰属意識と社会経済的地位の関連の希薄化(吉川1999、神林2010b、神林2011)を考える上で重要なヒントを提供してくれる。たとえば藤岡和賀夫は 、「在来のマーケティングは破産しつつあるんじゃないか」(藤岡[1984]1987 : 20)と述べたあと、次のように続けている。 「 在来のマーケティングというのは、ご存じの、消費者を物理的な属性で区分けすることから始まった。やれ、性別、年齢別、学歴、職業、所得がどうだと、そういう分け方で分けていって 、ある属性に分類された「大衆」は共通の価値観、共通のニーズを持っていると前提を置いた。 「同じ顔の人は同じ欲求を持っている」、これが仮説であり前提だった。「顔」というのはもちろん、容貌のことではなく属性のことです。 実は、これまでの戦後の日本経済拡大の中では、この仮説は疑いようもなく正しかったわけですね。(藤岡[1984]1987 : 20-21) 」 「同じ属性の人は同じ欲求を持っている」ということは、ニーズと属性の対応関係(関連)が強いこと、言い換えれば、ニーズに対する属性の説明力が高いことを意味する。その仮説が1980 年代に至って失効したことは 、階層帰属意識と社会経済的変数の関連の低下に通じるものがある。つまり、1970 年代から1980 年代にかけての階層帰属意識と社会経済的変数の関連の希薄化は、単に階層帰属意識に限ったものではなく 、より幅広い領域にわたる意識と行動の大きな変化の一部であり、同じ現象の異なる側面と考えるべきなのだろう。 ■(3) 「中」意識に関する専門的な見地からの批判 最後に、「中」意識についての専門的な見地からの批判であるが、これはさらに3 つのパターンに分類できる。 1 つめは、「中」意識の「中流」解釈を戒めるものである。すでに述べたように、階層帰属意識や生活程度の質問における選択肢は、単なる「中」に過ぎず、それは必ずしも「中流」を意味するわけではない。濱島(1991)のように 、実際の調査によって「中」選択肢と「中流」選択肢の回答傾向の違いを検討した研究も存在する。 2 つめは、「中」の下位カテゴリーの異質性を示すものである。このことは表1 ですでに確認したが、階層帰属意識における「中」の下位カテゴリーが社会経済的に同質ではないことは 、尾高邦雄がかなり早い時期に指摘していた(尾高1960)。国民世論調査のデータについても、たとえば児島(1979)が、生活満足感から見た場合、「中の下」は「下」に近い傾向を有していることを指摘している。 3 つめは、諸外国における階層帰属意識あるいは生活程度の分布を示し、日本における「中」比率の多さが、日本にのみ特徴的な現象ではないことを指摘するものである(1980 年国際価値会議事務局1980、林1995 など)。日本以外の国 、とりわけ「階級社会」と考えられているヨーロッパやアメリカでも「中」回答が多いのだから、「中」が多いという事実をもって、それを「中流意識」とか「中流社会」と解釈するのは間違いだ 、ということになる。 これらの指摘は、いずれも正しい。そして、中流意識を扱った一般書の中でも、こうした指摘はしばしば紹介されている。にも関わらず、そうした啓蒙によって中流意識あるいは総中流のイメージが改まったとも言い難い。そこに「総中流」の魔力があるのかもしれない。 以上の3 つのタイプのうち、(2)の「もう中流社会は終わった」説は、その後の中流社会批判の主流となり、近年の「格差社会」論に至るまで繰り返し登場することになる。 ■3.4 基礎的平等・不公平感・中流の幻想ゲーム 原純輔と盛山和夫は、社会階層に関わる財――経済的なものだけでなく、教育などの生活上のあらゆる資源やサービスも含む広い意味での財――を「基礎財」と「上級財」に分類している。「豊かさや機会が拡大していくときにより早くから広く普及していく」のが基礎財 、「あとになって階層の高い人びとから徐々に普及していく」のが上級財、そして社会のほとんどすべての人が基礎財を所有できるようになった状態を「基礎的平等」と呼ぶ(原・盛山1999)。「中」意識の拡大をもたらした要因は数多く考えられるが 、おそらく最も重要だったのは耐久消費財の普及であり(直井1979、神林2011)、それは基礎的平等の達成と言い換えることができる。 基礎的平等が達成されれば、未だ不平等が残存する上級財に関心が移るのは当然である。1970 年代から80 年代にかけて、総合雑誌が何度か「中流社会はもう終わった」型の特集を組んでいるが8、これらの記事では上級財の不平等が「中流社会はもう終わった」(終わりつつある)ことを示す事例として取り上げられている。たとえば 、土地や金融資産の不平等、大学進学格差(単なる学歴ではなく、学校歴も含む)、医師や大学教授の世襲、税負担の不公平などである。特に、資産の不平等の拡大は、バブル景気による急激な地価上昇もあって 、1980 年代後半以降、社会的に広く関心を集めるようになる。 1980 年代は、「中流」とともに「不公平」が注目された時期でもある。『朝日新聞』による世論調査では、1982 年から88 年にかけて「今の社会をあらわすのにふさわしい言葉」として「不公平」が選ばれた9。こうした背景もあって 、SSM 調査でも1985 年調査から不公平感の測定が導入された。 理論的には、不公平感とは分配的公正の評価意識である(斎藤1994)。不公平感、とりわけ「一般的にいって、いまの世の中は公平だと思いますか」という質問で測定される「全般的不公平感」10 は 、社会経済的変数との関連が非常に弱いという特徴がある(織田・阿部2000)。これは公平判断の評価基準の多様性など、公平感の形成メカニズムが非常に複雑なためと説明される(斎藤1994、織田・阿部2000 など)。たしかにこの説明は間違っていないだろう。しかし 、野坂昭如が80 年代の不公平感の高まりを「中流意識とは裏腹な、漠然とした不満感の集約」とコメントしたように11、不公平への注目は、単なる分配的公正の問題を越えた 、より広範で漠然とした社会的不満の表明と見た方が適切なようにも思える。基礎的平等化が達成されてなお残る、上級財の不平等に対する不満、怒り、嫉妬といったネガティブな感情の合成物が1980 年代の世論調査における「不公平」の正体であったのではなかろうか。 1970 年代以降に繰り返された総中流についての様々な議論を、今田高俊は「中流の幻想ゲーム」と呼んでいる12。 「 中流の幻想ゲームは、生活水準の上昇による豊かさ実感、および生活機会が平等に開かれているか否か、を確認しあうゲームである。その証拠に、中流論争のさいには 、きまって中流の条件とは何かが問題になる。それは、目標値としての豊かさを、みんなで確認しあう作業である。またこのゲームは、人びとのあいだに潜在化している不満をはきだし 、闘わせることで、それを解消するという神話作用をもつ。(今田 1989 : 27) 」 基礎的平等の概念に引きつけると、中流の幻想ゲームとは、基礎的平等化が達成された社会における新たな階層基準の探求と言い換えることができる。このことは、先に触れた1970・80 年代における階層帰属意識と社会経済的変数との関連の希薄化や 、1980 年代初頭にいくつかの調査で観察された階層帰属意識の若干の下方シフト13、あるいは盛山和夫の言う「生活水準の『中イメージ』の断続的変化」(盛山 1990)とも関連づけられるだろう。 |
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■4. 貧困の忘却とポストモダン社会階層論: 1990 年代前半の不平等言説 | |
■4.1 貧困の忘却
1980 年代の「中流社会はもう終わっている」説は、中流層が富める者と貧しい者に分化してゆくことを予想した。しかしこうした言説は、マルクス主義が描いたような労働者階級の絶対的困窮化を伴う資本家階級と労働者階級への二極化とは異なる不平等化をイメージしていたように思われる。「もう終わっている」説が想定していたのは 、貧しい者はより貧しくなるのではなく同程度の水準にとどまり、富める者だけがさらに豊かになっていくというイメージではなかっただろうか。「いったん達成された基礎的平等が揺らがないまま 、不平等度が上昇してゆく」という仮定が暗黙裡に存在していた、と言い換えてもいい。 1984 年に話題になった『金魂巻』(渡辺他1984)では、様々な職業における豊かな人々(○金)と貧しい人々(○ビ)の差異が戯画的に描かれた14。あるいは 、1985 年の『「分衆」の誕生』(博報堂生活総合研究所)では、消費階層が「ニューリッチ」と「ニュープア」およびその他のグループに分類されている。「○ビ 」や「ニュープア」といったラベルは 、時代状況によっては「貧しい人を馬鹿にしている」と非難されかねないものであるが、この当時の消費的階層論は「微妙な毒を匂わせながらも、遊び気分を濃厚に漂わせていた」(佐藤2002 : 101)。それは 、○ビ やニュープアが、生存を脅かすようなレベルの深刻な貧困を意味しないという共通了解が存在していたからだろう。 こうした見方は、一般の人びとだけではなく、社会階層研究者の間にも存在していた。「いわゆる高い地位になくとも、一応『中』生活は送れる」(原1994 : 162)、「階層論が主として取り組んできた『貧困』という問題が 、先進諸国では実質的に解決されてしまった」(原・盛山1999 : 39)という認識は、少なくとも1990 年代前半あたりまでは、多くの社会階層研究者に共通のものであったろう。 しかし実際には、1980 年代まで減少を続けていた生活保護世帯数は1990 年代に増加に転じた。また、「国民生活基礎調査」データ(厚生労働省)によれば、相対的貧困率は1980 年代以降 、緩やかにではあるが上昇を続けている。つまり1980 年代以降、貧困は潜在的には拡大していたのである。 このような状況にも関わらず、貧困に対する最後の砦である生活保護の対応は十分なものではなかった。生活保護制度の歴史的変遷を検討した岩永理恵によると、1990 年代の生活保護制度は「対応しないという手法」が取られていた時期であったという(岩永2011)。「生活保護は 、国全体、そして社会保障や社会福祉の一連の改革が、構造改革と称した根本的改変を目指した中では、取り残されたといった方が適当である。生活保護の運用上で取られた新たな措置はほとんどなかった。」(岩永2011 : 255)。 なぜ生活保護の改革は放置されたのか。岩永(2011)は、貧困あるいは生活保護への社会的関心の薄さが根底にあると指摘している。この時期、人々は「貧困をきれいさっぱり忘れてしまった」(岩田2007 : 9)のである。 ■4.2 ポストモダン社会階層論と基礎的平等 1990 年代に入りバブル経済が崩壊すると、かつてのバブル期の狂騒の反省からか、「心の豊かさ」への関心が高まってゆく15。1993 年には『「清貧』の思想」(中野1993)がベストセラーとなった。 社会階層研究においても、基礎的平等の達成と心の豊かさへの関心の高まりをふまえて、それまでの研究が暗黙の前提としてきた「近代主義」的価値観――たとえば「高い社会経済的地位を得ることは望ましいことだ」 、「皆が高い地位を目指すべきだ」――を見直す動きが生じた。この代表例が、今田高俊によるポストモダン社会階層論(あるいは、ライフスタイル社会階層論)である。これは1980 年代の「多様な中間層」論の流れに位置づけることができる。今田によれば 、社会経済的な地位達成を重視する従来型の「達成的地位指向」一辺倒の時代が終わり、新たな階層的地位の追求としてライフスタイルの差異化を目指す動きが出現する(今田1989)。身近な人々との関係や社会活動などを重視する脱物質主義的な「関係的地位指向」(今田2000)を持つ人びとの存在が 、その一例である。 こうした議論は、「今の日本社会では基礎的平等が達成され、それはもはや揺るがないので、我々はかつてのように地位獲得や日々の暮らしにあくせくする必要はない」という仮定に強く依拠しているように見える。近年 、ポストモダン社会階層論はあまり顧みられなくなっているようだが、それは1990 年代後半以降に高まった不平等への関心、とりわけ近年の格差社会論に顕著な貧困への関心の増大が 、ポストモダン社会階層論の基盤である「基礎的平等の安定性」に疑問符をつきつけているからかもしれない(貧困とは「基礎的平等が満たされていない状態」と表現してもいいだろう)。ポストモダン社会階層論はかなり贅沢なライフスタイルの話であって 、現状では、そういう贅沢を実践できるだけの余裕のある人が減ってしまったと言うべきだろうか。 |
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■5. 拡大する不平等への関心: 1990 年代後半から2000 年代の不平等言説 | |
■5.1 『日本の経済格差』と『不平等社会日本』
1990 年代の後半から、不平等の拡大あるいは「中流の崩壊」を指摘する声が、しだいに高まりはじめた。 こうした状況の中、今日の格差社会論への先鞭をつけたのが、橘木俊詔『日本の経済格差』(橘木1998)である。橘木は、日本社会がそれまでの通念とは異なり、不平等度の高い社会であることを指摘した。橘木が指摘したジニ係数の増大については 、高齢化の進行の寄与が大きく、不平等の実質的な拡大を示すものではないとの指摘も後になされたが、不平等度の上昇が指摘され、それが社会的な関心を集めたことの意義は大きい。 その2 年後に大きな話題となったのが、佐藤俊樹による『不平等社会日本』(佐藤2000)である。佐藤が指摘したのは、社会移動における機会の不平等、具体的には 、収入と雇用の安定性が高いホワイトカラー雇用上層への移動の閉鎖化であった。この主張は佐藤の分析におけるデータのサンプルサイズが小さいなどいくつかの点で批判を招き 、2005 年SSM 調査データの分析でも否定的な結果が得られている(三輪・石田2008、石田2008)。それを受けて、佐藤自身も「総中流社会の解体」の主張を撤回した(佐藤2009)。 とはいえ、世代間移動の固定化に伴う「努力すればナントカなる」社会から、「努力してもしかたがない社会」そして「努力をする気になれない社会」へ(佐藤2000 : 128)、というテーゼは 、その頃の時代の気分とよく合っていたように思われる。また、学校教育における「意欲格差」(苅谷2001)や若年層の「希望格差」(山田2004)など、同時期に類似した内容の指摘が多方面からなされたことも重要である。 こうした背景もあってか、2000 年には『中央公論』や『文芸春秋』で「中流の崩壊」に関する特集が組まれた16。『中央公論』11 月号では、佐藤俊樹と盛山和夫が『不平等社会日本』で示されたホワイトカラー雇用上層の閉鎖化の主張の妥当性について論争を行っている。本稿との関連で特に興味深いのは 、盛山による「中流崩壊」言説に対する以下の指摘である。これは、1980 年代以降の「中流社会は終わった」説の切れのいい要約となっている。 「 今日、佐藤俊樹氏の『不平等社会日本』(中公新書)のほか、雑誌や新聞で見かけられる議論も、結局はある定型化された「物語」の再演にすぎないように思われる。それらを「物語」だというのは 、その構成プロットの中にはいくつかの新しい事実がちりばめられているものの、物語を真実たらしめるには十分な証拠が欠如しているからである。 (中略)それは三幕からなっている。第一幕は平和で秩序ある人々の生活ではじまる。キーワードは、「平等神話」、「一億総中流」そして「機会均等」。みんなが平等で中流に属しており 、努力すれば望んだ地位につけると誰もが信じている。第二幕では、そこに外部から「市場社会」「グローバリズム」「競争社会」などというイデオロギーが侵入してくる。秩序に亀裂が生じ 、「リストラ」や「失業」の一方で、少数の人びとは巨万の富を手にするようになる。不平等や格差が拡大して、「勝ち組」と「負け組」へと分裂し、中流は崩壊する。第三幕は 、この混乱が新しい階級的な秩序の確立で収拾される。すなわち、エリートの子はエリートに、そして大多数の貧しい者の子はやはり貧しくという、閉鎖的な「新階級社会」が世界を支配するようになって幕は閉じるのである。(盛山2000 : 84-85) 」 盛山の指摘する「物語」は、2000 年代以降も、やはり幾度となく繰り返されることとなる。しかし、2000 年代の議論がそれ以前と異なるのは「物語を真実たらしめる証拠」が 、かなりの程度(あるいは、もう十分に)蓄積されたように見えることである。我々はいまだに「物語」を繰り返しているのだろうか。それとも、「物語」はすでに現実になったのだろうか。 ■5.2 小泉政権がもたらしたもの 2001 年から2006 年まで続いた小泉内閣は、2000 年代の不平等をめぐる言説を検討する上で決して欠くことのできない存在である。 小泉純一郎首相の登場は鮮烈であった。2001 年4 月の内閣発足時には80% 前後の驚異的な支持率を集め、「米百俵」、「聖域なき改革」、「骨太の方針」、「改革の『痛み』」といったキャッチフレーズの数々は 、2001 年の「新語・流行語大賞」に選ばれた。国民の多くは、バブル崩壊以降の経済の長期低迷に倦んでおり、郵政民営化を始めとする構造改革路線を打ち出し、改革の「痛み」に耐えることを率直に要請する政治姿勢に大きな期待を寄せた。 しかし、小泉内閣のもたらした成果に対しては賛否が分かれる。ここでは経済政策のみに限定するが、構造改革・規制緩和路線の進展と在任期間中の景気回復を評価する人びとがいる一方で 、市場競争と経済効率を重視しすぎ、社会的弱者への配慮を欠いていたとの批判も少なくない。こうした経済政策の負の側面、あるいは小泉自身の言動が経済的弱者に厳しい印象を与えるものが多かったせいもあってか 、2000 年代後半の「格差社会」論ブームの中で、小泉内閣は格差拡大の主犯として槍玉にあげられることになる。 しかし、小泉内閣が不平等拡大の原因であるとの主張は必ずしも正しくない。不平等に関する様々な指標、たとえばジニ係数、非正規雇用労働者比率、生活保護世帯数などは小泉内閣以前から同じようなペースで上昇しており 、小泉内閣になって急激に不平等が拡大したわけではないのである(神永2009)。 急激に変化したものがあるとすれば、それは不平等の実態ではなく、むしろ人々の不平等に対する認識であろう。日本経済は、小泉内閣下の2002 年2 月以降、安倍内閣の2008 年2月まで73 ヶ月の長期にわたる景気拡大を果たした。これは 、高度経済成長期の「いざなぎ景気」(1965 年11 月から1970 年7 月までの57 カ月)を越え、戦後最長である。しかし、過去の好況期が労働者の平均賃金の上昇や生活実感の改善を伴っていたのに対し 、この戦後最長の好況期はそうではなかった。この間、企業業績は好調ではあったものの、労働者の平均賃金はむしろ低下し、非正規雇用労働者の増加も止まらなかった17。また 、生活が「苦しい」と回答する人の比率も、相対的貧困率も増加を続けていた。図1 は、「国民生活基礎調査」(厚生労働省)データにおける1990 年代以降の相対的貧困率と生活意識(生活が「非常に苦しい」と回答した人の比率)を示したものである18。不平等拡大の原因を小泉内閣に求める声の根底には 、このような、生活水準の改善を伴わない、過去のイメージからかけ離れた「景気拡大」に対する、人々の幻滅と反発が存在するのかもしれない。 図1 相対的貧困率と生活意識(大変苦しい)の変化 ■5.3 「格差社会」論と貧困の再発見 2005 年頃から「格差社会」という言葉が注目を集めるようになる。図2 は、朝日・毎日・読売の各紙において「格差社会」という言葉が登場する記事数をまとめたものである19。 3 紙とも同じような変化をしており、2006 年以降急激に「格差社会」が使われるようになったことがわかる20。まさに「格差社会」論ブーム、あるいは「爆発する不平等感」(佐藤2007)といっていい。同じ時期に 、NHK が「NHK スペシャル・フリーター漂流」(2005 年2 月5 日放送)、「日本の、これから・格差社会」(2005 年4 月2 日)、「NHK スペシャル・ワーキングプア」(2006 年7 月23 日)といった注目度の高い番組を放映したことも大きいだろう。 図2 朝日・毎日・読売各紙における「格差社会」を含む記事数の変化 格差社会論ブーム以降は、不平等に関するマスコミ報道の数が格段に増えた。出版される書籍の数も一般向け・専門書を問わず膨大であり、その全てをフォローすることは難しい。したがって 、ここで格差社会論の全貌を述べることはできないが、1 点だけ、従来の不平等に関する議論と異なる点を指摘しておこう。それは1990 年代には忘れ去られていた貧困の再発見 、あるいは貧困への関心の高まりである。 近年になって貧困が関心を集めるようになった理由はいくつか考えられる。たとえば、非正規雇用の増大に伴う低収入層の増加と、それに伴うワーキングプアへの関心の増大 、あるいは2006 年に日本の貧困率がOECD 加盟国中、かなり高い水準にあることが報道されたこと、そして実際に「生活が苦しい」と感じる人が増加したことなどである。いずれにせよ 、貧困問題は格差社会論の重要な一角を担っており、貧困を取り上げた書籍は、一般書に限っても非常に多い(岩田2006、湯浅2008、阿部2008 など)。 前に述べたように、貧困とは「基礎的平等が満たされていない状態」と言ってもいい。この点において、近年の格差社会論は、基礎的平等が崩れないことを暗黙の前提としていた従来型の「中流崩壊」言説とは異なる。 ■5.4 『下流社会』と階層帰属意識 2000 年代の不平等に関する文献の中で、階層帰属意識との関連で特に注目すべきなのは、三浦展による『下流社会』(三浦2005)であろう。三浦は、階層帰属意識(生活程度)における「上」「中」「下」の回答に基づいて人びとをグループ化し 、各層の特徴を探る分析を行った。この根底には、「『総中流』であった日本社会が崩壊し、『上』『中』『下』の線引きが明確な社会へと分裂してゆき、それぞれの層に固有の意識・行動パターンや生活様式が生じる 、というイメージ」(神林・星2011 : 32)が存在すると思われる。 本のタイトルである「下流」は、階層帰属意識における「中の下」および「下」を統合したグループである。この層は「コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲 、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低い」(三浦2005 : 7)とされる。「努力しても仕方がない」(佐藤2000)、「意欲格差」(苅谷2001)、「希望格差」(山田2004)とも共通する議論である21。 『下流社会』の冒頭で三浦は、「下流」層、すなわち「中の下」および「下」の増加を強調している。このことは「社会の不平等度が高まれば、それに対応して階層帰属意識の分布が変化する」と三浦が考えている(さらに言えば 、読者もそれを受け入れるであろうと考えている)ことを意味する。三浦は「中流化モデルの無効化」(三浦2005 : 29)を主張しているが、視点を変えると、階層帰属意識を軸として社会の不平等を認識するという「総中流」以降の枠組は 、依然として我々の思考をとらえているとも言える22。 階層帰属意識あるいは生活程度の分布が、社会の不平等化に対して鋭敏に変化するかどうかは疑わしい(神林2011)。実際、生活世論調査における生活程度の分布は 、1980 年以降大きく変化してはいないのである。ただし、生活程度あるいは階層帰属意識と社会経済的変数との関連は強まっている(吉川1999、神林2011)。分布が大きく変化しないのは 、高所得層で階層帰属意識の上方シフトが生じている一方、低所得層で下方シフトが生じ、その結果分布の変化が相殺されるからである(間々田1998、佐藤2007、神林2010b)。この潜在的な関連の上昇が 、『下流社会』にある程度のリアリティを与えているのかもしれない。 |
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■6. 不平等への関心はなぜ高まったのか | |
以上、大まかではあるが、1970 年代から2010 年頃までの不平等言説の流れを確認した。すでに説明したように、不平等への関心は1990 年代後半あたりから高まるのだが
、その原因は何だろうか。理由は様々に考えられるが、ここでは「下り坂の錯覚」説(佐藤2002)、「不平等言説の知的共同体」説(原2005)、「階層基準の共通化」説(数土2010)、そして筆者自身の仮説の4 つを紹介しよう。
■6.1 下り坂の錯覚 佐藤俊樹の「下り坂の錯覚」仮説(佐藤2002)は、社会経済的な不平等の長期的な変化と、それによって生じる認知的な錯覚によって不平等への関心を説明するものである。 「 (前略)七〇年代までの日本は平等化という下り坂を順調に走ってきた。坂道がずっとつづくと、次第に平坦に見えてくる。自動車の運転中によく陥る錯覚である。そのため 、下りの傾斜がゆるやかになっただけで、上り坂になったと判断してしまい、アクセルを踏んでスピードの出しすぎになる。(後略) 同じことが不平等感にもあてはまる。戦後ずっと平等化、つまり格差の縮小が続いたので、いつのまにかそれがあたりまえになっていた。縮小こそが正常になれば、たとえ縮小が止まっただけでも何か異常が起きたように見える。それが強い不平等感につながったのではないか。下り坂に慣れた目には 、平坦な道が上り坂に見える。平等化しなければそれ自体が不平等に思えるわけだ。(佐藤2002 : 104-105) 」 この説明は、戦後日本社会の不平等度の変化と不平等への関心の高まりをうまくリンクさせており、説得力がある。ただしこれは基本的に日本社会についての説明であるから 、日本以外の社会でも同様の現象が生じるかどうかはわからない。もし同じことが他の社会でも生じることが確かめられれば、この説の妥当性はさらに増すことになろう23。 ■6.2 不平等言説の知的共同体 原純輔の「不平等言説の知的共同体」仮説は、不平等への関心の高まりと同時に、不平等言説の内容にも注目したものである。 「 今、あらためて「競争の激化と格差の拡大」ということの影響を一番受けているのは、これまで比較的恵まれていた大企業のホワイトカラーたちである。彼らは上記の本(神林註:「中流崩壊」や「不平等社会」の再来を予見する本)の最大の読者層である。つまり 、大企業のホワイトカラーたちの関心や不安に呼応した議論だといえる。そして『中流崩壊』とか『不平等社会』の再来を予見する研究者と、その議論を広めるジャーナリストと読者である大企業ホワイトカラーは 、出身や境遇が比較的似ているという事実がある。 そこには『不平等言説の知的共同体』ともいうべきものが成立しやすい状況が存在し、この知的共同体の不安を社会に一般化することには、慎重であらねばならないと思う。(原 2005 : 8) 」 この説明は、1990 年年代後半における不平等言説の内容にうまく合致しているように見える。たとえば、この時期によく言及された問題に「日本的雇用慣行の崩壊」すなわち企業における終身雇用制と年功賃金制の撤廃がある。日本的雇用慣行は 、基本的には大企業の男性大卒ホワイトカラー層を囲い込む機能を果たしてきた。それ以外の労働者は、そうした制度的保護を十分に受けていたわけではない。日本的雇用慣行の崩壊をめぐる言説は 、自分たちが制度的に保護された特権的な存在であることに無自覚であった知的共同体──具体的には、大企業のエリートサラリーマンとマスメディア関係者──の狼狽と見ることもできる24。 もう1 つ例をあげよう。当時流行した言葉に「リストラ」がある。バブル崩壊からしばらくの時間をおいて、不良債権問題がきわめて深刻な形で表面化した。1997 年に山一證券が廃業 、翌98 年には北海道拓殖銀行が破綻するなど、それまでの常識では決して潰れないと考えられていた金融機関が破綻に追い込まれた。倒産廃業には至らずとも、多くの企業が不良債権問題に起因・関連する危機によって 、経営体質の見直しを迫られた。その際に取られた方策の1 つがリストラである。リストラの対象となった人びとの属性は様々だが、メディアで特に注目を集めたのは、中高年ホワイトカラーのリストラであった。その理由は 、不平等言説の知的共同体の存在でうまく説明できるように見える。 ■6.3 階層基準の共通化 数土直紀は、格差社会論の隆盛を、人々の階層基準がかつてよりも共通化してきたことに求めている。数土は「総中流」の時代の「中」意識の多さに関する3 つの説明(地位の非一貫性(今田・原1977)、FK モデル(高坂2006)、階層基準の固定性説(盛山1990))を検討し 、これらの共通点を「人びとの間に所属階層を判断するための共通の基準など存在しなかった、そう考えていること」(数土2010 : 197)としている。 高度経済成長がもたらした巨大な変化によって、人びとの所属階層を判断する際の基準はばらばらになった。その結果として「中」回答が増えるわけだが、階層基準が人によってばらばらであるということは 、人びとの社会についてのイメージや情報の共通性が低いことを意味する。したがって、人びとが共通して認識できる「不平等」も見えにくくなる。しかし、急激な経済成長が一段落して社会の変化がゆるやかになれば 、人びとの社会イメージや階層基準は、時間の経過とともに少しづつ明確に(共通性が高く)なってゆく。その結果として、階層帰属意識に対する社会経済的地位の影響力が増大すると共に 、かつては見えなかった不平等や格差が見えてくるようになる(数土2010)。 以上が数土の説明の概要だが、これもうまく事態の変化を説明できているように見える。また、他の仮説に比べ、不平等の関心への高まりと、吉川徹が指摘した階層帰属意識の「静かな変容」(吉川1999)を同時に説明できる点が優れている。 ただし、この説明は因果関係が逆転している可能性がある。階層基準が共通化した結果として不平等が見えるようになったのではなく、何らかの理由で不平等への関心が高まったからこそ社会の実態がよく見えるようになり 、その結果として人びとの階層基準が共通化した、という説明も可能だろう。もっとも「階層基準の共通化→不平等の認識」と「不平等の認識→階層基準の共通化」は、どちらか一方が正しいのではなく 、どちらも正しい双方向因果的な関係になっていると考えるべきなのかもしれないが。 ■6.4 二重の不安: 下降リスクと再上昇の困難性 最後に、厳密なものではないが、筆者自身の仮説を述べておこう。これは「二重の不安」仮説とでも言うべきものである。 バブル崩壊以降の「失われた20 年」と、グローバル化の進展その他の要因により、日本の労働市場で雇用と収入が安定した「普通の仕事」は減少していった。労働者の平均給与は上がらないし 、非正規雇用は増大の一途をたどっている。相対的貧困率や生活保護世帯数で見る限り、貧困層も増大している。日本的雇用慣行によって保護されていた大卒の大企業ホワイトカラーも 、今なお他の層よりはましであるとはいえ、かつてに比べれば失職や減収の可能性は高まっている(と思われている)。つまり、下降移動リスクは、社会のあらゆる層において高まった。 その一方、現在の日本社会は、フォーマル、インフォーマルを問わずセーフティネットが十分に機能しているとは言いがたい状態であるし、しばしば指摘されるように、標準的な生き方や働き方から外れた人に対して厳しい社会である。つまり 、いったん下降移動して「負け組」になったら、そこから再上昇してそれなりの地位と生活を獲得することは、かなり難しいように思える。 こうして人びとの間に、下降移動の不安と再上昇の困難性の不安が同時に生じる。この二重の不安(より切実に恐怖と呼ぶべきかもしれないが)は相互に増幅しあい、さらなる不安に人びとを駆り立てる。その結果として 、ブームや「爆発」と呼べるほどに不平等への関心が高まったのかもしれない。 この説も、「階層基準の共通化」説と同様、因果が逆転している可能性を指摘できる。つまり、不安感が不平等への関心を高めるのではなく、不平等への関心が不安感を高める 、という関係である。これについても、双方向因果を想定するのが適切かもしれない。 ■6.5 不平等への関心の原因・小括 以上4 つの仮説は互いに競合するものではなく、共存可能である(つまり、すべて正しい可能性がある)。ただし、これらの仮説をきちんとした形で検証した研究はいまのところ存在しないので 、現時点では「もっともらしい説明」の域を出るものではない。 |
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■7. おわりに | |
以上のように、1970 年代に成立した「総中流」という社会認識は、紆余曲折を経つつ、近年の格差社会論に至った。その背景には、高度経済成長による基礎的平等化の達成と
、1990 年代以降に生じた基礎的平等への信頼のゆらぎ(たとえば貧困率の上昇)が存在すると思われる。
冷静に考えれてみれば、「総中流」の時代にも様々な不平等は存在していたし、貧困も完全に消滅したわけではなかった。にも関わらず「総中流」が信じられていたということは 、人々は実態以上に「日本社会は平等だ」と信じていたことを意味する(佐藤2003)。 「実態以上に信じている」という点では、近年の状況も同じかもしれない。2011 年時点の日本社会の不平等度は、1970 年代と比べると確かに高い。しかし、その実態を人びとがきちんと理解しているかどうかは微妙である。たとえば小泉内閣以後に不平等度が急激に高まったというイメージを抱いている人は決して珍しくないし(少なくとも 、筆者が授業で教えている学生はそうである)、「格差社会」「中流崩壊」「下流化」といった言葉が一人歩きした結果、不平等の程度が実態以上に大きく見積もられている傾向も否定できない。 つまり、人びとの不平等に関する認識の振れ幅は、平等化と不平等化のどちらについても、実態よりも大きい(大きかった)のだと言える。こうした、実態と認知とのズレがどのように生じるのかを考えることが 、階層帰属意識のみならず不平等に関わる意識を考える上で重要な課題であろう。 たとえば、総中流をめぐる言説においては、「中」回答が多いことに対して「自分の実感からずれている」と表明されることがしばしばある。この時、「実感からずれている」と主張する人は 、自分の実感が社会の実態を正しく反映したものであると確信している。しかし、経済や不平等に関する我々の「実感」なるものは、本当に社会の実態を正しく反映したものなのだろうか。「自分の実感は正しい」という認識は 、どのようにして生じるのだろうか。そもそも「実感」とは何なのだろうか。こうしたことを改めて検討することが、出発点としておそらく重要である。 |
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1 選択肢は「上、中の上、中の中、中の下、下」。「中」回答とは、中の上、中の中、中の下の合計。 2 『朝日新聞』1959 年11 月1 日朝刊。 3 各論説のタイトルおよび掲載日時は以下の通り(いずれも夕刊)。村上「新中間層の可能性」(1977年5 月20 日)、岸本「新中間層論は可能か」(同6 月9 日)、富永「社会階層構造の現状」(同6 月27日)、高畠「“新中間階層” のゆくえ」(同7 月14 日)、討論「新中間階層」(上: 同8 月22 日 、中:同8 月23 日、下: 同8 月24 日)。 4 富永(1977)が1975 年SSM 調査における階層帰属意識の「中」比率を紹介しつつ、それを「圧倒的な中流帰属」と呼んでいる点が興味深い。 5 村上はこの批判を受け入れ、地位の非一貫性を組み込んだ「新中間大衆」概念を後に提唱した(村上1984)。 6 地位の非一貫性の増大は「中」意識の拡大をうまく説明できるかのように考えられていた時期があったが、これは正しくない。富永・友枝(1986)は、1955 年から75 年までのSSM 調査データを用い 、地位の非一貫性の変化を分析した。彼らの分析によれば、地位が非一貫的な層だけでなく、すべての地位が低い「下層一貫階層」においても階層帰属意識の上昇(「中」の増大)が確認できる。したがって「中」意識の拡大は地位の非一貫性の増大だけでは説明できない。「中」意識拡大に対する地位の非一貫性の効果については盛山(1990)も分析を行なっており 、否定的な結論に達している。 7 マーケティング関係者ではないが、犬田(1982)もこの路線に分類できる。余談だが、犬田(1982)の『日本人の階層意識』というタイトルは、筆者が知る限りでは 、タイトルに「階層意識」という言葉を用いた最初の書籍である。(かつて安田三郎は、「階層意識という言葉はふつう用いられない」(安田1973 : 4)と述べていた。)その後 、原(1990)で「階層意識」が用いられ、これ以降「階層意識」は日本の階層研究者の間で一般的に使用されてゆく。 8 『朝日ジャーナル』1979 年3 月9 日号(特集「亀裂する『中流』」)、『中央公論』1985 年5 月号(特集「ゆらぐ中流意識」)、『現代のエスプリ』1987 年5 月号(特集「中流幻想の崩壊」)、『朝日ジャーナル』1989 年4 月7 日号(特集「日本社会の階層変容にせまる」)など。 9 『朝日新聞』1988 年2 月4 日朝刊。 10 選択肢は「公平だ」「だいたい公平だ」「あまり公平でない」「公平でない」の4 カテゴリー。SSM 調査では1985 年、1995 年とも男性の約6 割が「不公平」と回答している。 11 『朝日新聞』1988 年2 月4 日朝刊。 12 後に今田は中流の幻想ゲームを「生活水準の上昇意欲を再確認しあい、豊かさを実現するために引き続き努力を誓いあうゲーム」(今田2000 : 28)と再定義しており 、若干ニュアンスが異なっている。 13 1980 年の「国民生活に関する世論調査」では「中の中」が前年から7 ポイント低下、「中の下」が6ポイント上昇した。また、1981 年の「国民生活選好度調査」(経済企画庁)では 、78 年調査に比べて「中の上」が5 ポイント低下、「中の下」が3 ポイント上昇している(この調査の選択肢は「上の上」「上の下」「中の上」「中の下」「下の上」「下の下」の6 カテゴリー)。これらの調査結果は 、朝日・毎日・読売の各紙でも大きく取り上げられた。 14 この本では、31 の職業(女子大生、主婦、ホモなど職業と言えないものも含まれるが)の職業内格差(職業間格差ではない)が取り上げられている。 15 「国民生活に関する世論調査」の「今後の生活で重視したいこと」という質問では、1980 年から「心の豊かさ」が「物質的なの豊かさ」を上回るようになった。 16 『文芸春秋』2000 年5 月号(「衝撃レポート 新・階級社会ニッポン」)、『中央公論』2000 年5 月号(「特集『中流』崩壊」)、『中央公論』2000 年11 月号(「論争『不平等社会』か日本?」)。なお 、『中央公論』11 月号の盛山と佐藤の論争は、「中央公論」編集部(2001)に再録された。 17 「民間給与実態統計調査」(国税庁)による平均年収(1年を通じて勤務した給与所得者の1人当たりの平均給与)は、小泉内閣発足時の2002 年が447.8 万円 、小泉内閣終了時の2006 年が434.9 万円である。また、「労働力調査」(総務省)による非正規雇用者比率は、2002 年が29.4%(男性=15.0%、女性=49.3%)、2006 年が33.0%(男性=17.9%、女性=52.8%)であった。 18 厚生労働省サイトに掲載のデータより作成。アドレスは以下の通り、(1)相対的貧困率、(2)生活意識(1991 年から2000 年)、(3)生活意識(2001 年から2006 年)、(4)生活意識(2005 年から2010 年)。 いずれも2011 年12 月22 日現在。 19 各社の新聞記事データベースを用いて作成した。数値は2011 年12 月22 日現在調べ。 20 「格差社会」は、2006 年の「新語・流行語大賞」のトップテンに選ばれている(受賞者は山田昌弘)。出典: 各紙記事データベースより作成 21 「消費意欲の低さ」の指摘は、近年ちょっとしたブームとなっている「消費しない若者」論(松田2009、山岡2009 など)の先駆かもしれない。 22 これと関連するが、小泉内閣時代の2006 年1 月の「月例経済報告等に関する関係閣僚会議資料」では、「経済格差の動向」の資料として階層帰属意識(生活程度)の分布が示されている。(2011 年12 月22 日現在) 23 ニューディール政策以降の強力な累進課税と第二次世界大戦後の経済成長により、1950 年代のアメリカは大恐慌前と比べて所得格差が大幅に縮小し、平等度の高い豊かな社会となった(Goldin and Margo 1992、Kruguman 2007)。この時期 、「アメリカは真の無階級社会になった」とか「総中産階級(one vast middle class)になった」といった言説が流行していたようである(Packard 1959)。これは日本における「総中流」言説と内容的にも似ているし 、生活水準の向上と平等化の後にそうした言説が登場したというタイミングも一致する。アメリカにおける不平等言説のその後の展開は現時点ではきちんとフォローできていないが 、興味深い検証材料となるだろう。 24 こうした雇用における中高年層の特権性は、玄田(2001)以降の若年層雇用問題をめぐる議論の中で糾弾されることになる。 |
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■格差問題についての考察 | |
■はじめに
近年頻繁に格差という言葉を耳にする。メディアでは高級車を所有して豪邸に住み、この世を謳歌している富裕層の暮らしぶりが羨望の目を持って映し出される。その反面ホームレスや生活保護を受けてなお憲法で保障されている健康で文化的な最低限度の生活をも困難を極める貧困層の姿も悲壮さを 持って映し出されている。それだけにとどまらず、ニート、パラサイト・シングル等といった問題も世間では溢れている。これらの問題は、概ね格差の拡大と結び付けられて議論されている。国民総中流意識を持つといわれる日本人にとって由々しき問題だというかのように議論が交わされる。このような風潮や主張に対して、私は様々な疑問を持たずにはいられなかった。実際に格差は拡大しているのだろうか。なぜ人々はこれ程までに格差に興味を示、格差に危機感を抱くのか。格差は、どこからともなく湧いて出てきた訳ではない。豊かな者が存在することも貧しい者が存在することも有史以来の大昔からあることである。では、一体何が問題視されているのか。一時のブームのように格差の有無を論じて、警鐘を鳴らすことが本稿の目的ではないことを先に述べておきたい。格差という問題はそれ自体が、様々な切り口の問題を内包している。私は格差の現状を知るとともにこのような問題を整理することで、現代という時代を見つめ直すことができるのではないかと考えてこのテーマを選んだ。本稿を通して格差と意識変化、格差の現状把握、格差と社会構造の変化という三つの観点において格差を展望していきたいと考えている。 第T章では、人々の意識がどのように変化したのかを「国民生活に関する世論調査」及び「国民生活選好度調査」を用いて確かめてみたい。第U章では、橘木俊詔著『格差社会‐何が問題なのか‐』と大竹文雄著『日本の不平等‐格差社会の幻想と未来‐』という二冊の著書に沿って、格差の現状を検証していく。そして、第V章では現在危惧されている問題を追蹤して考察する。このような構成によって、私は現代における格差とは何かを追求しようと考えている。 |
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■第T章人々の意識変化
まず、格差の現状を分析する前に統計では表れてこない中流意識及び格差に対する認識を観察していく。人々の中流意識がどのように変化したのか。また、格差拡大を感じているのかということを探っていき、そこに考察を加えたい。 ■第1節中流意識の変化 1970年代頃から日本人は中流意識を持つといわれて久しいが、現在も人々は中流意識を継続して持ち続けているのだろうか。それとも中流意識はすでに崩壊してしまったのだろうか。はたまた、中流意識自体が幻想であったのだろうか。様々な主張を一度横に置き、1970年代から現在にかけて人々は階級意識をどのように変化させていったのかを検討していく。 図1 中流意識の推移 内閣府「国民生活に関する世論調査」1) 「国民生活に関する世論調査」の設問の中に「お宅の生活の程度は、世間一般からみて、どうですか。」という項目がある。この項目に対する回答として「上」、「中の上」、「中の中」、「中の下」、「下」、「わからない」という六段階の選択肢が用意されている。図1は「中の上」、「中の中」、「中の下」そして、これらの数値を合計した「中」を3年おきにグラフ化したものである。図1の「中の中」という項目を見ると、1975年と1995年に山ができていることがわかる。そして、「中」では、長期的に高い水準を保っていることがわかる。だが、このデータは少し数値が高すぎるのではないだろうか。また、この中流意識自体が尺度として価値を失っていることも考えられる。つまり、長年中流意識を持ち続けた、あるいはそういわれ続けた人々が「中の上」、「中の中」、「中の下」と回答しているのではないだろうか。所得水準が中程度でなくとも、自分達は中流意識を持っていて当たり前という認識を持つために、そのように回答した可能性もある。だが、そういった可能性を差し引いても、人々が中流意識を現在も持ち続けていることは確かであるといえる。 ■第2節格差に対する人々の意識 どうやら中流意識に変化はないようである。では、人々は格差に対してどのような認識持っているのだろうか。図2は「国民生活選好度調査」の「収入や財産の不平等が少ないことが、現在どの程度満たされているか」という質問に対する回答をグラフ化したものである。図2を見てみると「どちらともいえない」が高い比率を占めるが、1978年に比べ2005年では「十分満たされている」と「かなり満たされている」という項目の比率が低下していることがわかる。逆に「ほとんど満たされていない」という項目の割合が増加している。中流意識はいまだ健在であるのに対して、収入や財産の不平等感は年々増しているのだ。特に1980年代半ば以降人々の意識は著しく不平等に傾いている。 図2 収入や財産の不平等感 内閣府「国民生活選好度調査」2) 図1と図2の結果の隔たりには、二つの理由が考えられる。第一の理由として、基となるデータが異なることである。「国民生活に関する世論調査」も「国民生活選好度調査」も内閣府が実施しているものであるが、当然調査目的や実施周期、標本数が異なる。そのため差異が出ても不思議ではない。第二の理由として、中流意識と格差という言葉に対するイメージが異なることが挙げられる。イメージが先行する意識調査では、普段耳にする言葉に反応を示しやすい。よって、あまり聞くことがなくなった中流意識という言葉より格差という言葉が調査に反映されたのではないだろうか。 ■第3節将来の格差の存在 この節では、大竹文雄著『日本の不平等‐格差社会の幻想と未来‐』に記載されている独自アンケート「くらしと社会に関するアンケート」を取り上げる3)。このアンケートは公権力を背景としておらず、公平性の保証もなく、サンプル数、有効回収数ともにデータとしては不十分である。また2002年に実施されたものであり、2005年の意識とは多少のずれが生じている可能性も高い。だが、質問項目の方向性が似通っており、イメージを捉えるには十分であるので、参考として紹介する。 2002年まで過去5年間で所得格差が拡大してきたと認識しているものの比率は、全体の67%で、有職女性、50歳代、60歳代、高学歴、自分ないし家族の失業を予期している人、貧困層の増大を感じている人が回答者であった。これから5年間で所得格差が拡大すると答えたのは75%で、30歳代、50歳代、60歳代、高学歴、金融資産保有者、中間所得層、失業を予期している人、貧困層の増大やホームレスの増大を感じている人、危険回避的な回答者であった。日本の所得格差が拡大することが問題であるか否かについての質問では、全体の7割が問題であると答えている。問題でないと答えたのは、高学歴者、高所得者、高金融資産保有者である。問題であると答えたのは、有職女性、60歳代、危険回避度4)の高いものである5)。 この調査は、所得格差拡大よりも将来の所得格差拡大に対する認識の方が高いという結果が特徴である。統計からは測ることのできない将来における格差の存在を示している。つまり、人々は自らの所得に対する将来不安から格差を明確に感じているのである。この点で、私はこの意識調査は優れていると考える。 |
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■第U章格差の現状
第T章では、中流意識に変化は見られなかったが、意識調査からもわかるように格差に対する危機感は増加傾向にあることが観察された。だが、この結論だけでは満足な結果が得られたとはいえないだろう。 本章では、前述した著書を用いて格差の現状を検証していく。橘木俊詔著『格差社会‐何が問題なのか‐』では「所得再分配調査」「家計調査」「全国消費実態調査」を用いて、大竹文雄著『日本の不平等‐格差社会の幻想と未来‐』ではこれらの統計に「国民生活基礎調査」を加えて、社会全体における格差の実態を検証している。本章もこれに倣い現状把握に努めたいと思う。 ■第1節格差拡大の検証 格差を計測する場合に用いるデータとして、所得に関するデータ、消費に関するデータ、資産に関するデータがある。本稿においては、データが豊富でより研究が進んでいる所得データを中心に格差の現状を検証していくことにする。 所得格差を測る場合には、しばしばジニ係数が用いられる。ジニ係数とはイタリアの統計学者コラッド・ジニが考案した係数で、社会における所得分配の不平等さを測る指標として用いられる。値は0から1で示される。人々が完全平等にいる時は0、完全不平等にいる時は1の値を示す6)。 まず、所得格差を測るために使用する四つの統計の特徴を簡単にまとめておく。このようなことが必要である理由は、使用する統計によってジニ係数に差異が生じるためである。統計によりジニ係数の値に違いが出る原因は、所得の定義が異なっていることが挙げられる。また、サンプル数や抽出方法の違いも原因の一つである。そのためこれらの特徴を考慮して、結果を検証していくことが重要である。 「家計調査」は、毎年総務省統計局が約9000世帯の家計につけてもらう家計簿により消費動向を調査する。所得調査は勤労世帯のみであったが、近年は調査対象に単身世帯や農林漁家世帯も含まれるようになった。家計簿をつけてもらうという調査方法を取るため高所得者や低所得者のサンプルが落ちて偏よる可能性がある。所得調査は公的年金を所得として含む7)。 「国民生活基礎調査」は、毎年厚生労働省が実施している。全国の調査対象は世帯及び世帯員であり、単身世帯含んでいる。家計調査よりも豊富なサンプル数が特徴である。家計調査とは異なり、家計簿をつける必要はないため誤差が生じる可能性がある8)。 「所得再分配調査」は、3年周期で厚生労働省が「国民生活基礎調査」から所得再分配の状況を調べるためにより詳細に調査したデータである。調査対象は、全国の世帯及び世帯員であるが、住込み、寮・寄宿舎に居住する単独世帯は除かれている。所得は公的年金の所得を含まず、退職金を含む当初所得を用いる9)。 「全国消費実態調査」は、5年周期で総務省統計局が世帯の消費、所得、資産における水準、構造、分布状況を明らかにするため調査を実施しているものである10)。 図3 世帯所得のジニ係数 内閣府「国民生活選好度調査」2) 厚生労働省「所得再分配調査」総務省「全国消費実態調査」 「家計調査」及び「国民生活基礎調査」は、大竹文雄の数値を使用11) 図3は「所得再分配調査」、「家計調査」、「全国消費実態調査」、「国民生活基礎調査」における世帯所得のジニ係数をまとめたものである。各統計を見ても80年代以降社会全体として所得格差が拡大し続けていることがわかる。「所得再分配調査」のジニ係数水準が高い理由は、当初所得を使用しているためである。では、80年代以降の所得格差拡大要因はどういったものなのだろうか。第2節では、格差拡大の原因追究を試みる。 ■第2節格差拡大の原因 前項では、社会全体として格差が拡大していることが観察された。次節では、格差拡大の原因を現時点で発表されている資料、主張を参考にして紐解いていく。また、同時に私の考察も加えていきたい。 内閣府は1月の月例経済報告で、高齢化と世帯規模の縮小を原因とし、格差は見かけ上のものであるという見解を示している12)。だが、本当に所得格差は高齢化と世帯規模縮小による見かけのものであるのだろうか。この疑問について、まずは考察していく。 大竹氏は第一に同一年齢内所得格差は、高齢になる程拡大する。第二に「全国消費実態調査」では1980年代の年齢内所得格差がほぼ一定であった。第三に年齢による賃金格差が大きい日本では、人口構成の変化が所得格差にも影響を与える。三つの理由を挙げて、人口高齢化によって1980年代における所得格差が引き起こされた可能性を示唆した。加えて「所得再分配調査」、「国民生活基礎調査」を使用し所得不平等度の上昇の人口高齢化効果を計測している。「所得再分配調査」では24%(1980―92年)、「国民生活基礎調査」では年齢階層内の効果のほうが大きいが19%(1989―95年)であると示した。また、年齢層別消費不平等度は、50歳未満グループで上昇傾向にあり、55歳以上のグループでは低下傾向にある。消費不平等度拡大は、現在の所得不平等度ではなく将来所得の拡大を反映したものであるというようにも示した13)。 また、太田氏も年代別に見た「所得のジニ係数」の推移を示し、同年代間の格差が拡大していないことを指摘している。その上で、人口年齢構成において高齢層のシェアが拡大したためであると結論づけた14)。 要約すると、1980年代以降の所得格差は主に人口高齢化によって説明でき、若年層において消費格差は所得拡大よりも急激であるという主張である。 確かに人口の高齢化が所得格差の原因だという説は納得できるものである。年代別に見た「所得のジニ係数」の推移を鑑みれば、より重みもある。そして、若年層における消費格差も将来所得の拡大を見越してのことであるという結論もほとんどにおいて認められるだろう。しかし、これら統計を使用して格差の現状を計測すること自体が困難であると私は考えている。なぜなら、「所得再分配調査」、「家計調査」、「全国消費実態調査」、「国民生活基礎調査」の三つ統計を使用して結果を導き出しているが、これらの統計が社会構造の変化、産業構造の変化、ライフスタイルの変化を柔軟に受け止めて、反映しているとは考えにくいからだ。例えば、住所不定であり、全国に万人存在するとされるホームレスはこれらの統計に含まれていない。その他の統計の特徴も前述した通りである。したがって、これらの統計から社会全体として格差の拡大を大まかに捉えることは可能であっても詳細な原因を突き止めることは不可能である。より緻密に分析が可能な統計の集計を実施するべきと私は主張したい。 今回の格差拡大社会論争は、OECD調査の結果や発行された多数の書籍に端を発するが、この論争の根本的な危機感は別にあるように思われる。第V章では、その危機感をデータや資料の検証ではなく、格差に関する様々な論争から観察していきたい。 |
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■第V章格差を内在させる諸問題
第U章では、社会全体としての格差拡大は認められるが既存の統計で詳細に計測し、格差拡大要因を正確に特定することは困難であるという結論を述べた。では、一体人々はどういったことから格差を感じ取っているのか。日常生活を送る中で、人々が格差を感じる場面が存在するはずである。格差問題は教育格差による階層の固定化、雇用格差、賃金格差等の様々な問題に内在している。これらの問題を追っていくことで、求める解答に多少なりとも近づくことができるかもしれない。そこで、本章ではアプローチを変えて、雇用格差、賃金格差、階層の固定化という問題の中で、人々が置かれている状況について検討する。 ■第1節企業を取り巻く環境の変化 日本の高度経済成長を支えてきたのは、豊富な労働力と生産技術の発展であるといわれる。しかし、どのように有効に働く構造であっても変化の時は必ず来る。日本経済の成熟化、海外への技術移転、人口構造の変化、IT技術の導入が次々と社会経済環境を変化させ、それらに覆いかぶさるように平成不況が日本経済を襲った。構造自体がすでに疲弊し、限界に達していたため急速に変化を始めてしまった。社会構造の変化に伴って、企業も既存の制度、慣行を見直さなければならない時期に突入したのだ。そうした時期に一番歪みを生じやすい。日本の労働形態、賃金形態は現在歪みを伴って変化を始めている。 そこで、雇用形態における格差という観点から正規雇用と非正規雇用の問題について、賃金形態における格差という観点からは日本型賃金慣行について考察を深めることにする。 1雇用形態における格差 グローバル化、規制緩和によって雇用形態の多様化が進行しているといわれる。雇用形態が多様化する中で、正規雇用と非正規雇用の問題が格差として注目を集めている。パートタイマー、雇用期限付労働者、派遣労働者等を総じて非正規社員と呼ぶのだが、格差問題においてはその非正規社員の増加がよく取り上げられる。だが、平田氏の指摘15)にもある通り、総務省のデータでは女性パート労働者はバブル崩壊以前から増加していた。つまり、非正規社員の増加は問題ではない。最大の問題は、正規雇用が非正規雇用に取って代わられているということだ。正社員は努力を怠らず、自らに特化した職能を身につけなければ、非正規社員に取って代わられてしまうという不安を感じて働いているのだ。それならば、非正規社員は優遇されているのか。決してそうではない。非正規社員は労働条件に問題を抱えている。例えば、非正規社員が正社員と同じ仕事をしても同じ賃金が得られない。また、健康保険や年金といった面でも格差があり、労働についても非正規社員のほうがより大きなプレッシャーを抱えて仕事をしている。小野寺氏によれば、正規雇用の男性賃金は348,100円、女性は239,200円であるが、非正規雇用男性の賃金は221,300円、女性は168,400円であるという16)。このように雇用形態の実態とともに格差は語られる。 2賃金形態における格差 賃金形態の変化において論じられる焦点は、年功序列型賃金の終焉、成果能力型賃金の導入そして、労働組合の組織率低下の三点である。日本型賃金慣行は、企業経営をめぐる環境の悪化により役割を果すことができなくなってしまった。そのため次第に日本企業は成果主義へと傾倒していくことなる。しかし、成果主義導入の難しさは富士通のケースから見ても明らかだ17)。成果主義自体が格差の温床として、しばしば語られる。また平成不況において、春闘でのベース・アップ要求が機能不全となり、労働者内で賃金格差拡大及びブルーカラーの賃金低下が生じる結果となった。 ■第2節階層固定化 階層固定化説は収入の格差を背景にして、問題にされている。中でも最も懸念されている問題は、上流と下流への二極分化である。階層固定化現象における二極分化が忌避される最大の原因は、下の階層から上の階層へとシフトすることが不可能となる社会が形成されてしまうことである。「立身出世」という言葉がよく聞かれるが、日本では努力あるいは成功によって高位の所得階層へシフトすることは珍しいことではなく、賞賛されるべきことだった。だが、階層固定化はそうした上方へのシフトを不可能にしてしまう。収入が高い家庭の子どもは進学する可能性が高く、高学歴である。また、収入の多い職業を世襲する傾向にあるともいわれ、格差が再生産されているという主張が広まりつつある。 |
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■おわりに
バブル景気崩壊後、日本経済は長期間にわたり不況を経験することとなった。金融機関の倒産が相次ぎ、企業では賃金カットや大規模なリストラが敢行された。また、人々はこうした世の中の変化に不安を覚え、消費行動を控えていった。全ては悪循環となって、経済を停滞させていった。しかし、ある時を境に循環の流れが変わり始める。まず、2005年5月頃から景気回復への期待感により株価が上昇し始めた。その後10月には大卒内定者が13.3%増という内容が新聞紙面を飾った18)。同じく10月の月例経済報告では基調判断を「景気は、回復している。」19)と維持したことで、「二〇〇二年二月に始まった今の景気拡大が十月で五十七ヶ月目となり、戦後最長のいざなぎ景気(一九六五−七〇年)と並らんだ」と報道された20)。確かに大企業では景気が回復し、2006年度の就職戦線では「売り手市場」であるといわれる程、旺盛な雇用活動を行う企業も出始めている。だが、「失われた十年」を経て、以前とは何かが違うと人々は感じ取っている。すでに社会構造が変化してしまったのか。いまだ知る術を持たないまま議論が紛糾する。新たなステージへの不安と恐れが様々な問題を生み出し、枝のように分かれては交錯する。けれどもまた、変化に恐れを抱くと同時に元に戻ることができないことも潜在的に人々は知っているのだ。そして、これらの問題提起が実は次の社会への推進力にもなっているのではないかと私は想察する。本稿の執筆を通して、格差問題は新たな社会の萌芽ともいえるのではないかという思いを抱いた。 |
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■注
1) 国民生活に関する世論調査、 2006/11/15引用 2) 国民生活選好度調査、 2006/11/15引用 3) 大竹文雄[2]38−59頁参照 4) 危険回避度については、大竹文雄[2]40頁参照 5) 大竹文雄[2]54頁参考 6) ジニ係数に関する資料 橘木俊詔[8]6−7頁参考 尾崎俊治[25]、 2006/11/14参考 浜松誠二[23]ジニ係数、 2006/11/14参考 独立行政法人労働政策研究・研修機構所得の不平等指数、 2006/11/14参考 近藤康之[24]ローレンツ曲線とジニ係数、 2006/11/14参考 7) 朝日新聞経済部[1]28−33頁、山縣裕一郎[15]84−88頁参考 総務省統計局、 2006/11/17参考 8) 大竹文雄[2]4頁参考 厚生労働省、 2006/11/15参考 9) 大竹文雄[2]6―8頁、橘木俊詔[9]5頁参考 厚生労働省、 2006/11/15参考 10) 橘木俊詔[9]6頁参考 総務省統計局、 2006/11/17参考 11) 「所得再分配調査」 所得再分配調査平成14年平成11年平成8年平成5年昭和56年、 2006/11/1引用 「全国消費実態調査」所得分布に関する結果速報、 2006/11/1引用 「家計調査」「国民生活基礎調査」大竹文雄[2]7頁引用 12) 内閣府月例経済報告平成18年1月、 2006/11/16参照 13) 大竹文雄[2]11−35頁参照 14) 原純輔[13]268−269頁参照 15) 原純輔[13]98頁参照 16) 小野寺武[29]参照 17) 城繁幸著[8]参照 18) 日本経済新聞2006年10月15日刊参照 19) 内閣府月例経済報告平成18年10月, 2006/11/14参照 20) 日本経済新聞2006年10月13日刊参照 |
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■消費者意識と購買活動 | |
■消費者意識 | |
■消費者と生活者
消費者を理解するには、消費者を生活者としてとらえ、その意識を把握することが重要だ。 ■消費者とは 「商品やサービスの購入者・購入決定者」または「企業が供給する商品やサービスの、最終的な使用者」を指します。企業が「モノをつくれば売れる」といわれた高度経済成長期やバブル期のような時代には、消費者行動の中心は「欲しいモノを買うこと」や「憧れのブランドを選ぶこと」でした。そのため、この時期のマーケティング戦略は、“先にモノ(商品)ありき”による企業主導のものとなりがちでした。しかし、その後、消費者の物欲が満たされてくると消費欲求は充足し、飽和状態となります。この状態を迎えた次なる消費欲求の中心は、購入した商品を「生活の中でどのように活用するのか」「自分らしさをどのように表現できるのか」という発想に変わってきました。個々人が消費者というよりは生活者として、自らの考え方や意識、価値観を、消費を通じて示していくことになったわけです。 ■生活者を意識したマーケティング 消費者を生活者として認識することは、マーケティング上の価値転換を求めることになりました。生活者としての価値観は、例えば環境問題や人間の身体への影響といった、消費とは直接関係のない分野も含んだ人間生活全般の充実に、その重点が置かれるようになります。その結果、現代マーケティングは、このような生活者としての価値観を最優先しつつ、社会にも貢献しうるような商品・サービスを提供することが必須となってきています。 ■生活者の意識をとらえる マーケティングの基本は“消費者を知る”ことです。そして、消費行動を自分の暮らし方表現の一つとして強く意識している現代の消費者の意識を知るためには、「消費者が欲しいもの(商品)」ではなく、「生活者として、実現したいこと、やってみたいこと」の把握がより重要となってくるのです。 ■5つの消費者カテゴリー 新製品の普及過程は、消費者のイノベーション採用時期により体系化されている。 ■新製品の普及過程 新製品がどのように消費者に受け入れられ、普及していくかは、企業のみでなく社会に大きな影響を与えるという意味で注目すべきテーマです。E・M・ロジャースは、新製品に限らず新たなアイデアやサービス、習慣などを含めた概念を「イノベーション」という言葉で表し、それが消費者に普及し浸透する過程を体系化しています。 ■消費者の分類 ロジャースは、イノベーションの採用時期により、消費者を次の5つのカテゴリーに分類しています。 1イノベーター / 最も早い時期にイノベーションを採用する消費者。新製品への関心が高く、情報感度も高い。 2初期少数採用者 / そこそこ革新的な層であり、社会的には大衆から一目置かれる、高い地位にある人が多い。平均よりも一歩進んだ層であるため、大衆のモデルとしてオピニオンリーダー的な役割を果たす人が多い。 3前期多数採用者 / 社会の平均よりもやや早いタイミングで採用する大衆。採用には比較的慎重に時間をかける。 4後期多数採用者 / 平均的な人が採用した後に行動に出る慎重派。新製品の社会的評価が出るまで採用しない。 5採用遅滞者 / 変化を好まず、新製品に無関心。社会的にも孤立した人が多い。 以上、1〜5の順にイノベーションは採用され、採用遅滞者が最後に採用することによって、一連の普及過程は終了します。それは、次期新商品開発のタイミングを示す市場からのシグナルであり、適切なコミュニケーション戦略の切り替え時を示す指標とみることもできます。 ■マズローの欲求階層説 人間の欲求は5つの段階に分けられ、低次〜高次の欲求へと除々に動機づけられている。 ■欲求階層説とは 人間は常に何らかの欲求を抱えて生きています。マズローは、人間の欲求を以下の5つの段階に分けるとともに、低次の欲求から高次の欲求へと除々に満たされていくよう動機づけられているとしています。 1生理的欲求 食物、睡眠、排泄といった、生存のための欲求。 2安全の欲求 住居、衣服など自分を安全に守る・もしくは安定させることの欲求。 3社会的欲求(所属と愛の欲求) 集団に所属する、仲間に受け入れられる・愛されるといった社会との関係を持つことへの欲求。 4自我・自尊の欲求 他人に尊敬されたい、名声を得たいといった欲求。 5自己実現の欲求 自分の潜在能力を最大限に顕在化し、目標を成就・達成させたいという欲求。 ■マーケティングの視点から見ると マズローの欲求階層説は、多くの示唆を与えてくれます。安定した生活を手に入れ、モノは飽和状態にあるという環境で生活する日本の消費者の場合、最高レベルの「自己実現の欲求」が強まっているといえます。 この消費者の「自己実現欲求」は、生活のあらゆるシーンにおいて顕在化しています。例えば、下位レベルの「生理的欲求」に該当する食品であっても、調理法や盛り付けなどを通して、消費者の「自己実現欲求」が求められてくるのです。そのため、新商品の開発やコミュニケーション手法、販売手法だけでなく、売り場づくり、プロモーション企画などマーケティングのあらゆる分野において、この消費者の「自己実現欲求」に対応した、自分らしさを表現できる仕掛けを用意することが重要となっています。 ■ライフスタイル 生活者を意識や価値観、行動に関するパターンで分類し、きめ細かい戦略立案を可能にする。 ■ライフスタイルの定義 生活者の生活構造、意識、行動に関する社会におけるパターンを表したものを指します。 ライフスタイルを基本としたアプローチは、マーケティング戦略においては極めて重要な発想法であり、ユーザーのセグメンテーションや商品ターゲットの絞り込みなどに活用されています。 生活者を分類する基本的なものとしては、性別・年齢・未既婚・職業などといったデモグラフィック特性が挙げられます。生活者の嗜好や商品の保有率などは、このデモグラフィック特性に大きく影響されます。さらに、このデモグラフィック特性は、データが取りやすく、比較もしやすいという理由から、マーケティングにおいて非常によく使用されています。 しかし、デモグラフィック特性上は同じカテゴリーに属していても、その人々の興味の対象や価値観、行動には異なるパターンがあり、その違いが購買行動や欲求の違いに反映されることも少なくありません。逆に、デモグラフィック特性は異なるのですが、興味の対象や価値観、行動のパターンが同じような人々もいます。こうした異なる価値観や行動様式別に生活者を分類し、特性を把握していくのが、「ライフスタイル分析」です。 ■ライフスタイル分析 ライフスタイルを把握する代表的な考え方として、生活者の活動(Activities)、関心事(Interest)、意見(Opinion)について調査する方法があります。これら3つの次元から多数の質問をアンケート形式で行い、その回答結果によって生活者の分類を実施します。 分類されたクラスターごとに特徴・プロフィールを描き出し、人口統計的に得られる特性と合わせて分析すると、市場細分化やユーザーについて、きめ細かい戦略立案をすることが可能になります。 ■ライフステージ 家族形成時期に焦点をあて、一生を段階的に区分したもの。ほぼ加齢とともに区分が変化する。 ■ライフステージとは 人間の一生を段階的に区分したもので、主に家族形成に焦点をあてた考え方です。 例えば、若い独身者時代、新婚で子供がいない時代、子供誕生直後の育児に追われる時代、子供が中学生以上の時代、子供の成人後などの区分があります。こうした区分の変化は、ほぼ加齢とともに訪れる段階であり、各段階によって経済状況や購買行動は異なります。 そして、ライフステージ特性によって経済状態や製品・サービスに対するニーズは如実に異なることから、マーケティング計画を立てるにあたり、ターゲット市場のライフステージと消費行動をしっかり把握した上で、新商品開発やコミュニケーション戦略、販売手法などを検討することが重要となります。 ■ライフステージと購買行動 人は、独身時代には総じて経済的な負担がなく、ファッションや遊びにお金をかけます。結婚しても子供がいない間は、経済的には楽な時代が続きますが、購買行動の中心は耐久消費財に移行します。さらに子供が産まれ育児に奔走する時期を迎えると、家庭用品の購入がピークとなるほか、子供の玩具や食料品の購入量が増えて、経済的な余裕はなくなります。しかし、子供が小学生くらいに成長する頃には収入も増加し、経済状況は徐々に良好となります。同時に購買の中心は食料品の他、子供の習い事への費用などに移行していきます。 このようにライフステージが上がるにつれて、消費に関する意識は徐々に変化し、そのときの興味の対象や必要性により、買いたいもの、買わねばならないものも変化していくのです。 ■階層意識 誰もが人並み意識を持っていた時代から、資産状況や情報収集意識差による階層化の時代へ。 ■一億総中流意識時代 高度経済成長期以来、日本人の多くは自分を「中流」と考えているといわれてきました。その背景には、誰もが同じような耐久消費財の保有を目指し、教育を受けることが可能であったり、衣服や日用品などの支出の傾向も似通っているという、社会的な特質がありました。このように生活形態が均質化していたことが、「自分は人並みだ」という意識の形成に結び付いてきたのです。 ■消費者の階層化 ところで、この中流意識には分化傾向がみられるようになります。主に地価の高騰や住宅取得費用の高騰に伴い、資産を持つ者と持たない者の間の意識が上下に分化し、消費実態に差がつき始めたのです。資産にゆとりがある者は、より高価なものを所有したいという志向が強まる傾向がみられますが、資産のない者は限定された範囲内で必要なものを購買していくことになり、二者間の購買力や意識に大きな差が生じるわけです。 また、中流意識を持つ層から分化した人々の中には、ニュープアと呼ばれる層があります。この層は、食べるのに困るほどの貧困層ではありませんが、ゆとりある生活をしているわけではありません。ゆとりがないからこそ、商品に関する情報収集は怠らず、良い物を見分ける眼も自分なりに鍛えているのがニュープア層の特徴です。こうした選択眼の有無も階層化の一つの要因となります。 ■情報保有による階層化 最近注目されている階層化要因の一つに、情報保有があります。これはインターネットの普及によって、人々は情報を持つ者、持たざる者≠ノ分化するというもので、「デジタル・デバイド」と呼ばれています。インターネットを使いこなす者ほど、商品・サービスの購入機会が拡大し、さらには、より安く、より良い物を購入できる可能性も高まるとみられるからです。 ■プロシューマー 自分に合ったモノを自分で作ろうとする、生産者と消費者が一体化した新しいタイプの人間像。 ■プロシューマーとは 生産者(Producer)と消費者(Consumer)が一体化した、新しいタイプの人間像を意味しており、A.トフラーが著書『第三の波』で用いた言葉です。 かつての農耕社会では、ほとんどの人間が生きるためにプロシューマーとして自給自足の生活をしていました。現代におけるプロシューマーは、日曜大工や自家農園づくりに代表されるDIY(Do It Yourself)志向を持っており、モノを作る過程に価値を見出し、楽しんでいるという点で、過去のプロシューマーとは大きく性格が異なります。 ■生産者と消費者の距離が短縮 消費者が生活者として自分らしさを表現することを日々追求している今日では、消費者は既存の商品では飽き足らず、自分のニーズを満たすモノを自らの手で作ろうとします。さらに、作ったモノを自分で使うことにより、その改善点が使い手の観点からも把握できます。これからのマーケティングは、これら現代のプロシューマーの視点を積極的に吸収することが重要となっており、結果として、彼らが既存の生産者と消費者との距離を縮める存在となっています。 ■情報化の流れの中で トフラーの言う『第三の波』とは農業化(第一の波)、工業化(第二の波)に続く情報化の波を指しています。パソコンの普及に伴い、消費者が自分の考えや価値観をインターネットを用いて発信(生産)したり、他人の意見に反論することが盛んに行われています。また、ネット上のバーチャル・ショッピングの浸透など、消費者が気軽に売り手サイドに立つことが可能となっています。 双方向的マルチメディアの発展により、一般個人における情報化の浸透は、今後もさらに進むものと考えられます。ネットを通じて情報の生産・消費を積極的に行うプロシューマーは、今後もさらに増加することが予想されます。 ■消費者参加 消費者の欲求をより具体的に、直接的に捉える仕組みづくりが、今後の消費者ニーズ把握の近道。 ■新しい生活スタイルの出現 マーケティングの基本は消費者ニーズへの対応ですが、最近では、こうした概念では把握できないような消費者の動きが顕著となっています。その一つがプロシューマーと呼ばれる生活者の出現です。消費者の中に、自分らしいモノや自分が本当に好きなモノを作り出すことに価値を見出す人が増えつつあります。特にパソコンなどの情報関連やレジャーなどの分野では、プロの手を頼らずに納得のいくモノを作る玄人はだしの人も出現しています。モノづくりにおいては、専門家とアマチュアの境界線が次第にあいまいになっているのが現状なのです。今後、消費者ニーズを把握するときには、このような新しい生活スタイルを志向する生活者の発信情報をいかにキャッチするかも、重要なテーマとなってくるのです。 ■消費者参加の発想 情報化の進展と共に、消費者の意識や行動はより早く、ダイレクトに表面化するようになりました。このような状況下で注目されるのが、消費者欲求を直接的に、具体的に捉える仕組みとしての消費者参加型マーケティングです。 例えば酒類ディスカウント・ストアの某店では、数種類のメニューから顧客が好きなビールを選び、製造に参加できるという商品を販売し始めました。また、車市場ではボディーカラーやオプションを自由に選べるカスタマイズ・サービスが人気です。いずれも消費者参加を意識した仕組みといえます。 ■生産者主導から消費者主導へ モノづくりの基本が消費者ニーズの把握にあることは今も昔も変わりませんが、企業が売りたい商品を押しつけるだけでは、現代の消費者は購入に至りません。消費者を購買行動に駆り立てるには、モノづくりから販売手法やプロモーションまでの様々な段階で消費者参加の仕組みを作り、消費者主導型のモノづくりを心掛けることが重要といえます。 |
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■購買行動 | |
■購買プロセス
購買プロセスの各段階に沿った的確な刺激が、商品購入の促進につながる。 ■購買意思決定の諸段階 消費者が商品の購入を決定するまでには、5つの段階を経るといわれています。具体的には、1問題の認識、2情報の探索、3情報の評価、4購買決定、5購買後の行動という5段階です。この5段階モデルの特徴は、消費者が商品を実際に購入するかなり以前からスタートしていることや、商品の購入後も長期間にわたって影響を及ぼすことを明確にしている点にあります。 ■購買プロセスの内容 それでは、具体的に各プロセスについて見ていきましょう。 1問題の認識 / 消費者が、ある刺激により商品に対するニーズを感じた段階を指します。例えば、友人の新車を見て自分も欲しくなるなどの段階です。 2情報の検索 / ニーズ発生後に、それに関してより詳しく知るために情報集めをする段階です。しかし、ニーズを満たすものがすぐに購入できる場合には、これを行わない場合もあります。 3情報の評価 / 入手した情報について比較検討を行い、代替商品の検討を加える段階です。 4購買決定 / 評価段階を経て、特定商品の購入を決定する段階です。なお購買決定時には、購買者の意志に関わらず他者の態度や事故といった、購買阻害要因の影響を受ける場合があります。 5購買後の行動 / 消費者は、商品購入後に満足か不満足を経験します。満足した場合には次回も同じ商品を購買したり、知人に使用結果を伝えたりしますが、不満の場合には商品の返品、商品価値を高めるための情報収集などの行動に出ます。 ■購買プロセスの把握 マーケティング担当者はこれらのプロセスを把握し、各段階ごとに的確な刺激を与えることにより、商品購入を促進させることが可能です。ただし、衝動買いなど、このモデルでは説明のつかない現象があることにも注意を払う必要があるでしょう。 ■購買履歴 顧客のロイヤルティを高めるためには、購買履歴を分析し、顧客特性を把握することが重要。 ■購買履歴とは 顧客がいつ、どこで、どんな商品を購入したかを継続的に示す情報を意味します。企業は、顧客の購買履歴をデータベース化し有効活用することによって、顧客ニーズに合ったマーケティング戦略を展開することができます。 ■購買履歴の有効活用 消費者ニーズの多様化により、現在のマーケティングはマス・マーケティングからワン・トゥ・ワン・マーケティングへと移行しています。技術革新により、売り手は顧客の個別情報をコンピュータで管理できるようになりました。また、個別の購買履歴を分析することにより、潜在的なニーズの予測が可能となり、各々の顧客に行き届いたサービスを提供できるようになっています。 例えばある広告代理店では、同社のパック旅行利用者に対し、過去利用したツアー代金と同価格帯の商品案内を選択して定期的に送付しています。また、クレジットカード会社からのDMには、旅行の案内や保険の案内、ゴルフ場の案内など、顧客別に含まれる内容が異なっていますが、これは顧客属性と購買履歴を分析した結果によるものといえるでしょう。 ■顧客の差別化への活用 企業にとって、顧客のロイヤルティを高め、定着化を図ることは、新規顧客開拓と並んで重要です。また、ロイヤルティが高い層には特典を与えて差別化し、個別の顧客シェアを高めていくことも必要です。そのための手段としても、購買履歴は重要な要素といえます。例えば百貨店などのポイントカード、航空会社が実施しているマイレージカードは、商品利用を促すための工夫の一環です。また、航空会社における特定顧客への優先的な座席のアップグレードなどは、優良顧客の満足度を高めてシェア増加を狙う差別化戦略の例です。 このように、顧客別に購買履歴を把握することは、企業にとって顧客特性をつかみ、販売戦略を練る上で、今や不可欠な要素といえます。 ■選択的消費 価値観の多様化により、消費者は人に頼らず自分の基準で選択的消費を行っている。 ■消費者の価値観 日本では、バブル崩壊前後から消費者の価値観が多様化し始めました。そして、高価格品が必ずしも自分に相応しい商品とは限らないという認識が急速に浸透した結果、自分が本当に求めるモノやサービスを、自らの基準で選択して購入するという、選択的消費行動をとる人が多数となってきました。 ■選択的消費の理由 選択的消費が消費行動の主流となった理由の第一に、バブル型消費への反省があります。モノやサービスの購入動機を、“皆が買うから”“流行っているから”など他人に依存した形の消費に対する反省です。第二に、将来への漠とした不安の存在があります。これまでのような右肩上がりの所得増加が期待できない不安、情報通信革命といわれるような産業構造の急速な変化からくる将来的な雇用不安などです。第三には、消費者の身の回りがモノで飽和状態になっていることです。そのため、モノの購入にあたり、物理的機能に加えて自分にマッチしているかどうかという情緒的要素に、より一層の価値を見出すようになっています。最後に、モノやサービスに関する豊富な情報の存在が挙げられます。現代は、商品選択に関する様々な情報を、インターネットなどで簡単に集めることが可能です。その結果、消費者は多様な角度からモノやサービスの価値を比較検討することができるのです。 ■選択的消費の特徴 選択的消費には次のような特徴があります。 1特定商品の選択 / 価値観の多様化から、消費者の購買傾向が品種選択から品番選択へと移行していることを指します。 2価値+好みの選択 / 消費者が単純に安いだけのモノには値ごろ感を感じずお金を払わなくなっていることを指します。 3まとめ買いの減少 / 価値観の多様化で、家族も個別化した結果、家族単位のまとめ買いの機会が減少していることを指します。 ■ブランド・ロイヤルティ ブランド・ロイヤルティを高めることが、安定した収益性を確保する第一歩である。 ■消費者のブランド選択 消費者が特定の商品を購入するときの基準の一つとして、ブランドという概念があります。ブランドは、消費者の購買行動において「このブランドなら安心だ」「はずれがない」などの判断を下す一材料として、大変重要な要素です。 ■ブランド・ロイヤルティ 消費者があるブランドを愛好し、忠誠を誓ったように継続して購入し続ける程度のことを、「ブランド・ロイヤルティ」といいます。消費者が特定のブランドに愛着を持ち続ける理由としては、次のようなことが考えられます。 1コストパフォーマンスが優れていること 2デザインやスタイルなど、外観から受けるイメージが良いこと 3メーカーが信頼できること 4信頼できる知人・店舗の勧めがあること 5そのブランドの使用者に親近感や憧れを持っていること 以上のような理由により、消費者が特定ブランドにこだわり、継続してそれのみを購入し続ける状態が「高ロイヤルティ」の状態です。 企業のマーケティング目標の一つが、ブランド・ロイヤルティを高めることです。企業にとって、ブランド・ロイヤルティを高めることが、そのまま安定した収益の確保につながるからです。 さらに、高ロイヤルティ顧客による口コミ効果への期待も大きなものがあります。高ロイヤルティ顧客は、そのブランドの価値を誰よりも評価しており、友人や知人などにそのブランドを推奨する可能性が高いからです。 ■ロイヤルティ分析による戦略立案 企業は、こうしたロイヤルティの傾向を分析することで、自社ブランドの強みと弱みを把握することが可能となり、マーケティング戦略に生かすことができます。例えば、自社の高ロイヤルティ層特性を分析することにより、ターゲット層の絞り込みや広告戦略に役立てることが可能となるのです。 ■感性(記号)消費 好きか嫌いかで消費行動を決定する感性消費。求められるのは、商品の「記号としての価値」。 ■感性消費とは 消費者の人並み意識が薄れ、個性化・多様化・分散化傾向が強まる中、モノを購入する時の判断基準は、その商品が「良いか悪いか」という理性的な基準に基づいて行われないケースが増えています。それよりも、自分がその商品を「好きか嫌いか」という感覚的な価値判断によって、消費行動をとる場合が増えているのです。このように、感覚的な判断基準で購買を決定することを、「感性消費」といいます。 ■記号としての価値 「好きか嫌いか」という軸で消費行動をとる場合、商品に求められるのは機能性だけではなく、シンボル性・記号としての価値が重要となります。高価なブランド品の購入者にとっては、その商品の象徴的な価値や、それを身に付けたりすることによって得られる満足感・優越感を計算に入れると、十分納得のいく合理的な行動となるのです。 ■感性消費の商品ジャンル 感性消費の主な商品ジャンルは、これまでは嗜好性・趣味性が強く、プライベート使用よりも人目に触れる場で使用する機会が多いもの、と考えられてきました。例えば、洋服やカバン、化粧品、食品、腕時計、車などの商品群が該当します。しかし、最近では、寝具や冷蔵庫、タンスといった、これまで感性消費の対象とされにくいといわれてきた商品群においても、生活雑貨的な感覚で購入されるケースが目立ってきました。 ■感性消費の中心層 こうした感性消費を支えているのは、当然のことながら、趣味性、嗜好性、そしてファッション性に富んだ商品に対して敏感な若年層や女性ですが、最近では、中高年層においても同様の傾向が強まっています。マーケティング戦略を立てる際には、特にこうした層への留意・配慮が必要といえます。 ■サービス消費 サービスの差別化が、競争が激化する社会において優位に立つポイントである。 ■サービスの定義 「サービス」とは、特定の人々が利用者に対して提供できる満足や便宜を与える諸活動を意味しており、実質的には無形のものです。人がサービスに対してお金を払えば、それは「サービスを消費した」ことになります。例えば美容院で髪を切る、スポーツを観戦する、銀行に預金するなどは、全てサービスの消費に該当します。 ■サービスの特徴 コトラーは、サービスには以下の4つの特徴があるとしています。 (1)無形性 / サービスは消費以前にどのようなものかを実感することができません。消費者はサービス提供者を信頼するしかないのですが、提供者が提供物をより具体的に示したり、サービス消費によるメリットを強調することは可能です。 (2)非分離性 / サービスの生産と消費は、通常同時に発生するため、必然的に提供できるサービス量に限界が生じてしまいます。対応策としては、一度に多人数の相手ができる工夫をすることや、信頼できる担当者を多数養成することが挙げられます。 (3)多様性 / サービスは、いつ、どこで、誰が提供するかにより、大きく品質が異なります。サービスの提供者は品質を管理するために、1優れた人材の登用と訓練、2業務の標準化、3顧客満足度の測定、この3点に対応する必要があります。 (4)消滅性 / サービスは在庫ができません。よって提供者は、需要が変動する場合に、供給とのバランスを保つための策を練る必要があります。例えば、旅行オフ期の割引価格設定や、混雑緩和のための予約システムの設定などがこれに該当します。 ■サービスの差別化 モノが飽和状態になり、品質面でも均質化が進む現代においては、サービスで差別化を図り、他社より優位に立つことが、競争戦略上、重要なポイントとなっています。 ■計画購買と衝動買い 衝動買いを促進するためには、店頭における購買意欲を刺激する工夫が必要。 ■計画購買と衝動買いの違い 「計画購買」とは、消費者が購入前にブランドや価格等について充分な検討を重ね、来店前に買うことを決めて購入に臨むことを指します。一方「衝動買い」とは、事前の計画がなく、来店してから衝動的に買いたいという意志が働き、購入することです。商品の販売促進戦略を立てる際、計画購買される商品については消費者の購買プロセスを検討し、各段階に合致した戦略をとることが重要となりますが、衝動買いされる商品については、消費者が購買プロセスに沿った思考をしないため、別の手段を講じなければなりません。 ■消費財の分類 消費者が購入する商品を購買習慣に基づいて分析すると、最寄品(もよりひん)、買回品(かいまわりひん)、専門品の三種類に分けることができます。最寄品とは購買頻度が高く、時間をかけず手近で購入できる商品で、日用雑貨や食料品に代表されます。習慣的に購入されるケースが多いために、計画購買型の商品でもありますが、価格や鮮度等によっては衝動買いを引き起こす商品でもあります。買回品は、購入にあたり品質や価格について比較検討を行う商品で、購買頻度は低く、遠方に出かけても手に入れたいという欲求が強い場合が多い商品です。高価格品も多く、計画購買される場合が多いのですが、衣料品などのファッション関連の商品の場合は、衝動買いも多く見られます。専門品とは、消費者が特別の好意を抱く商品群であり、車や貴金属、美術品に代表されます。購買頻度は低く、結果的に高価格のものが多いため、計画的に購買するケースがほとんどです。 ■衝動買いの促進 長引く不況で消費者の財布のヒモは堅いとはいえ、価値観の変化により若年層を中心に買回品が衝動買いされるケースが増えています。衝動買いを促すためには、店頭陳列の工夫や店頭での積極的な商品情報の提供等、店頭における購買意欲を刺激するような仕掛けが重要となります。 ■比較購買 モノが飽和状態になり、多くの情報が飛び交う現代では、比較購買が積極的に行われている。 ■購買経験の蓄積 高度経済成長期以降の長い好景気、バブル期を経て、日本の消費者は多種多様な商品の使用経験を持ち、商品知識を蓄積してきました。そして今、バブル崩壊後の景気低迷下において、消費者の購買行動はより選択的に移行し、売り場に欲しい商品がなければ買わないという、「無の選択」さえもあり得るようになりました。 ■比較購買とは 比較購買とは、消費者が商品を購入する際、複数のメーカーやブランドを比較したり、販売店間のサービスや価格、付加価値を比較した上で購入することを意味しています。多くの情報と多様な選択肢が存在する現状では、比較購買が積極的に行われるようになっています。 モノの購買に関して経験を豊富に積んだ消費者は、どの店にどのような商品があるかを自分なりに理解しており、自分の好みに合った商品を提供してくれるのはどの店舗なのかも把握しています。しかし、次々と新商品が生まれ、新たな販売店も毎日のように誕生している昨今では、消費者も賢くなり、今以上に自分の欲求を満たす販売店を見つけようと、日々情報収集を続けているのです。 ■比較購買の浸透 マイカー利用、海外旅行の増加、インターネットの普及等に伴い、消費者の購買エリアはより広域へと拡大しています。こうした状況下では、より多くのメーカーの商品を比較購買できる店舗のほうが、特定のメーカーの商品しか入手できない店舗よりも、消費者にとっての利便性が高くなります。したがって最近では、競合商品の商品情報が得られ、かつ品数も豊富な量販店で、ワンストップ・ショッピングする傾向が強まっています。 一方こうした比較購買の浸透に対し、単一メーカーの商品しか揃えることのできない直営店や系列店等では、アフターサービスの充実等、サービス面での強化を中心に対抗措置を講じることになります。 ■商品のボーダーレス化 男女の性別役割意識の減少と共に、商品における男性用・女性用の区別がなくなりつつある。 ■薄れる男女の性差意識 昨今、若者の間では急速に男女の性差意識が薄れつつあるといわれます。 その傾向が顕著にいられるのが衣料品の分野で、市場の3割を、男女兼用の“ユニセックス商品”が占めています。こうした現象の背景には、若者が「男らしさ」「女らしさ」を意識しなくなってきており、他人にどう思われるかより、自分の着たいもの、したいことを追求する傾向が強まってきていることがあります。そして、基準としての「男らしさ」「女らしさ」の概念さえも消滅しつつあるのです。 ■商品のボーダーレス化現象 男女の性別役割意識の減少を発端として、商品自体に男性用・女性用といった区別がなくなっている現状−いわば“商品のボーダーレス化現象”−が多様な分野で拡大しています。 まず、衣料品業界では特にカジュアルウェアの分野での浸透が著しく、安価なフリースジャケットやカットソーのような、誰でも着られるシンプルなデザインの商品のその傾向が顕著にみられます。また化粧品業界では、男女兼用にフレグランスや男性がマユを整えるための「アイブローキット」が好調な売行きを示すといった現象がみられています。さらには、男性歓迎のエステサロンや女性の来店を意識した理髪店の出現など、サービス商品の分野でも、ボーダーレス化の傾向がみられています。 ■浸透するボーダーレス化現象 最近では高齢化の進展により、身体的障害や体型に関係なく着ることができ、デザイン面でも優れた洋服が開発されるなど、性差のみならず年齢差等も意識させないような商品づくりが進んでいます。さらに、インターネットの普及による急速な情報化社会の発展は、個々の性別・年齢を表面化させずに物事が進行することを可能にしています。こうして、人間の意識上でのボーダーレス化は、情報化社会が発展するほど、いっそう浸透していくことが予想されます。 |
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■こぼれ話 | |
■マーケティング不信=消費不振
今日の消費不振の背景には、消費者のマーケティング不信が根底にあり、それが消費「不信」を生み、結果として消費「不振」に結びついているのではないかと思われます。 マーケティング不信の第1は、モノづくりに対する不信です。これまでのモノづくりコンセプトが、消費者のより便利で快適な生活の実現に必ずしも結びついていないという不信、つまりメーカーへの不信です。第2はモノの売り方に対する不信です。これは、主に小売業者に向けられたものです。すなわち消費者の購入代理人として、本当に消費者の視点から品揃えを行っているのかという不信です。これに加え、販売スタッフによって価格が異なったり、すぐに価格がディスカウントされるなど、価格の決め方に対する不信もあります。そして第3の不信は、消費するヒト、つまり、消費者自身に向けられた不信です。ある商品を選択し、その商品を購入しようと思ったときに、あまりにもイージーに行動してきたのではないかという、ある種の自己嫌悪です。 しばしば、“賢い消費者”といった表現が使われますが、この言葉の本当の意味は、以上のような不信感を通じて、自己の消費態度を学習した消費者ということになります。 これからのマーケティングは、このような“賢い消費者”が相手となります。だから、これら3つの不信感にしっかりと応えられるような施策でなければなりません。 新しいマーケティングというと、すぐにインターネット・マーケティングが議論の対象になりがちですが、大事なことは、新しい手法が、消費者視点を実現できるものなのかどうかという点です。「知ることと知らせること」というマーケティングの原点に立ち返った上で、このインターネット・マーケティングについての議論がなされるのであれば、それは限りなく新しい可能性を提示してくれることになるでしょう。 ■時代が追いついてきた山村の特産品販売 インターネットの普及でマーケティング・パラダイムが新しい段階に入りました。消費者は、自分だけの「こだわり商品」や「安全で安心な健康商品」を志向するようになりました。企業はこうした一人ひとりの顧客の声に耳を傾け、それぞれの顧客の要求に従ってカスタマイズした商品・サービスを提供する必要があります。これがワン・トゥ・ワン・マーケティングの考え方です。 インターネットやコンピュータの活用により、こうした顧客への個別対応が、大企業はもちろん、小さな企業においても可能となりました。商品コンセプトはすぐれていながら、宣伝力などで大企業に太刀打ちできなかった企業でも、顧客コミュニケーションが可能になったのです。 インターネットに活路を見出しているのは中小企業だけではありません。過疎に悩む山間部の人たちも同じです。 無農薬野菜やそばなど山村の特産品は、まさに自然志向であり、極めて地域性が高く、ほかでは入手できないものがほとんどです。自然志向、こだわり志向の現代人のニーズにマッチしています。しかし、山村の産品は販売・宣伝の面で決定的に弱く、また少量生産で価格も高かったこともあり、販路開拓が大きな課題でした。 インターネットは、企業にとって低コストで、特産品のコンセプトに合った人々とのコミュニケーションを可能にしました。無農薬野菜、ハム、そば、お茶など地域オリジナルの産品が購入できるホームページがたくさん誕生しています。 また、このシステムで、顧客のデータベース化が容易になりました。データベースの活用は、地域活性化イベントの告知などさまざまな活動にもつながり、生産者と消費者が特定できることでお互いの安心感も生んでいます。 インターネットの登場が山村の特産品開発を生き返らせようとしているのです。 ■魔法の消しゴムの価格はいくら? ものの価格を決めるという行為は、マーケティング活動全体の成否に直接大きな影響を与えます。それが売れるかどうかは、「価格をいくらにするか」で決まってしまうと言っても過言ではないのです。 ところが、マーケッターにとって、価格の決定ほど難しいことはありません。 例えば、ある消しゴムの値段について考えてみましょう。A社はその技術力を最大限に発揮して、鉛筆の線だけでなく、どんなインクでもきれいに消すことのできる画期的な消しゴムの開発に成功したとします。しかも製造コストは従来の消しゴムと同じくらいに抑えることができました。ごく一般的な消しゴムの希望小売価格を100円とすると、この“魔法の消しゴム”はいくらにすればいいでしょうか? あるマーケッターは「画期的な商品だから大きな需要が見込める。市場浸透価格政策を採って、一気にシェアを拡大しよう」と、100円の定価設定を主張しました。差別化された機能を考えれば、消費者にとって割安感もある、という考えです。 もうひとりは「いや、これはもう従来の消しゴムの概念では捉えられない。定価200円でもじゅうぶん消費者にその商品価値を訴求することができるはずだ」と断言しました。 さあ、どちらが正しいのでしょう。 残念ながら、この問いに答えはありません。100%成功に導く価格設定の方程式は今のところ、存在しないのです。できる限りの情報と経験を統合し、科学的な判断によって成功の確率を高めるしかありません。それがマーケッターの仕事です。 ひとつだけ、はっきりして言えるのは、商品の適正な価格を決めることができるのは「消費者」という、それ自体が自発性をもった存在だということです。マーケットの動きは宇宙や深海同様、未だ人知の及ばざるナゾに満ちた存在なのです。 “魔法の消しゴム”ができるころには、少しは解明が進んでいるでしょうか。 ■サプライチェーン・マネジメントとは? 「サプライチェーン・マネジメント(Supply Chain Management=SCM)」とは、原材料供給者から消費者までを結ぶ一連の業務のつながりのことです。業務の流れは、 開発→調達→製造→配送→販売 となります。ここに関わるのが、 原材料の供給者→メーカー→卸売業者→小売業者→消費者 です。 これまで、サプライチェーンを構成している各企業は、自社の利益だけを考えて、消費者から見れば納得しがたいことをしていました。例えば、メーカーは大量に商品を売るために卸売業者にリベートを出し、卸売業者は欠品を恐れて余分な在庫を大量に抱え、それらのコストは小売価格に転化する、というようなことです。 このようなムダをなくして、サプライチェーンをひとつの流れと捉え直し、全体の最適化を目指す戦略的な経営管理手法が「サプライチェーン・マネジメント」なのです。 目的は「消費者の利益を実現すること」です。このためには、サプライチェーンに関わるすべての業者が協力し合い、業務を改善し、お互いの利益を生み出すための活動に取り組まなければなりません。 具体的には、非効率的な取引習慣の見直し、小売店での実売情報に基づく正確な需要予測と生産計画の策定、正確かつ迅速な情報伝達のためのネットワークづくりなどが挙げられます。 これらの活動により、ムダな在庫の削減や品揃えの改善が推進され、その結果、よい商品を適切な価格で消費者に提供できるようになるのです。 ■商店街活性化の処方箋 郊外の大型ショッピングセンターやGMS、ディスカウント・ストアの攻勢に青息吐息だった中心市街地の商店街=Bその活性化に少しずつ実績を積んでいるのが「TMO(タウン・マネージメント機関)」です。 TMOは商店街全体をショッピングモールと考え、SCのマネジメント手法も取り入れ、商店街が培ってきた商いのノウハウや伝統・文化などを活性化の源とし、特色のある街づくりを進めるものです。1998年に施行された中心市街地活性化法≠受け、各地の商工会議所と商店街、市民、行政が一体となり、第3セクター方式で進めています。2006年8月現在、425団体がTMOの認定を受け(都市構造研究センター調べ)、街の活性化事業に取り組んでいます。 例えば、古くから酒、酢、醤油づくりで栄えた愛知県半田市では、地元の4つの商店街が、TMO=株式会社タウンマネージメント半田(半田市50%、半田商工会議所15%出資)=と提携しながら、酒、酢、醤油の製造に使われた蔵の修復や、毎週日曜日の朝市の実施、空き店舗の活用など、ハード、ソフトの両面から活性化に取り組んでいます。 ■情報化時代、販促に威力を発揮する「口コミ」 多種多様にある販促手段の中でも、最も原始的なパーソン・トゥ・パーソンのコミュニケーションである「口コミ」が、販売促進では意外にも大きな威力を発揮します。 携帯電話やメール、インターネットの普及で、現代は情報の流通スピードが非常に速い時代です。個人の発信した情報が、ネットワークを介して無数の人にあっという間に伝播します。こうした情報交換は、日本国中(さらには全世界)の至る所で絶えず行われており、個々のネットを合わせれば、マスメディアに負けないくらいのパワーになるでしょう。 一般的に消費者は、その商品やサービスの購買経験を持つ人の意見を求めたがるものなので、口コミ情報は企業側が発信する情報よりも信頼されることが多いといえます。その上、情報機器の普及により、口コミ情報の伝播力には計り知れないものがあります。いまや携帯情報端末を武器にした口コミによる情報伝達を見過ごすことはできません。 ますます高度に情報手段が進化する中、テレビや新聞広告といったマス媒体よりも、口コミによる情報伝達が大きな流れになってくるのではないでしょうか。 ところで、販促手段として口コミを活用する場合、自然に情報が伝播することを期待していても意味がありません。訴求したい対象に向けて、意図的に情報を提供していくことが重要なのです。そのためには、まず口コミの発信源となる対象を明確に設定することです。そして、その対象に効果的に情報を提供することがポイントとなります。 販促手段として口コミを重視する企業では、自社のホームページで消費者グループを形成するなど、消費者間の口コミ効果を誘発する仕組みを独自に作っているところが増えつつあります。 ■人の心理をゆさぶる広告メッセージとは マーケティング諸活動の中で、広告は生活者への重要なコミュニケーション活動であり、広告の累積効果が企業・組織やブランド・イメージに大きく影響していることは周知の事実です。広告表現、広告媒体の両効果は車の両輪にたとえられますが、GRP信仰に代表されるように、広告効果を論じる際、物量的な側面での効果測定に重きが置かれやすいということも事実です。しかし、日々提供されている広告に目を移してみると、出稿量は多くなくともアピール力のある広告は、その効果が十二分に発揮されているというケースも少なくありません。 心理学実験に、人は“目立つ”事象が重なることで、その事象自体を過大評価し、認知的なバイアスをかける傾向があることが実証されています。目立つ広告は、たとえ接触頻度が少なくとも多く接触したような錯覚を覚えるというわけです。また、人間の情報処理過程で情緒的・感情的な処理がどのようになされるかによって、対象に対する態度が異なったものになることも示されています。 ある研究は、広告が接触者を宣伝商品に引き付ける力=広告インパクトバリューは、〈親密感〉〈素直に受容できる・感性にフィットする〉〈統一感・カラーを感じる〉という表現面の3つの潜在因子によって導かれ、広告インパクトの大きさが使用意向率や購入意向率の高低を規定するという因果関係の説明を試みています。中でも、〈素直に受容できる・感性にフィットする〉因子の高さが広告インパクトの強さに最も寄与することを、この研究は示していました。 次々と新しい感性を発信し続ける広告という世界において、質的インパクトの構造自体、常に変化するものとみるべきです。それと同時に、広告に求められる目的も多様化する中、人の心理をゆさぶる広告メッセージは、いつの時代にあっても物理的・客観的な事実をもゆるがすことを踏まえ、広告バリューを再確認する作業が必要であるといえます。 ■今後のモノ選びの基本に? ユニバーサル・デザイン 高齢化社会が進む中、高齢者や障害者にとっての“障害”を取り除くという意味を持つ「バリアフリー」を意識した商品やサービスは、日本で既に定着しています。例えば、住居の段差をなくしたり、駅の階段をスロープ化したり・・・といったことが「バリアフリー」の代表選手といえます。この考えをさらにおしすすめ、どんな人でも常に、支障なく使えることを目指す、「ユニバーサル・デザイン」という概念が、徐々に浸透しつつあります。 この考えは、1970年代ごろから、米国ノースカロライナ州立大学のロン・メイス氏が中心となって提唱してきた概念で、「誰でも公平に使える」「使う上で柔軟に、自由度が高い」「簡単で、直感的に使用方法がわかる」「間違った使い方をしても、大事に至らない」等、7つの原則が設定されています。 こうした流れを受けて、日本でも多くのユニバーサル・デザイン商品が既に誕生しています。例えば、ボトルの側面にギザギザマークを入れることで目が不自由な方や目を閉じた状態でもリンスとの識別を容易にしたシャンプーや、プッシュボタンのサイズを通常より大きめにし、さらに子機の受話音量を4段階に調節可能にした電話機、握力が弱い人でも楽に書くことのできるボールペンなど、分野も多岐に渡って開発されています。 ユニバーサル・デザイン商品の特徴は、その商品やサービスを使用する人が特別視されることなく、一般品として誰もが同じように使用できるところにあります。情報化が急スピードで進み、次々と新製品が発表される今日においては、一個人の情報量やその摂取の仕方に関する個人差は広がる一方です。分厚いマニュアルを読まなければ使い方が理解できなかったり、電子機器に関する基礎知識がなければ使いこなせないような商品が多々ある中で、ユニバーサル・デザイン商品が今後、消費者のモノ選びの基本となる日も、遠くないかもしれません。 ■消費者行動におけるデジタル・デバイド アメリカのインターネット人口は六千万人とも八千万人とも推計されています。また日本のインターネット人口も、二〇〇〇年中には二千万人を超えると予測されています。 パソコンと電話回線(あるいはCATVや通信衛星など)があれば世界とつながるインターネットは、二十世紀最後のエポックメーキングといえましょう。 しかし、最近とみに言われはじめたのが「デジタル・デバイド」という言葉です。一言で表現すれば、「情報格差」ですが、これはすなわち、インターネットに接続可能な消費者(生活者)と接続環境を持たない消費者との入手可能な情報量が幾何級数的な格差となりうることを表現しています。 多国籍な国・アメリカでは、所得格差がパソコン保有格差を生み、ひいてはデジタル・デバイドに発展し、貧富の差をさらに広げていると憂慮されています。 一方、日本は、ことインターネットに関しては発展途上であり、インターネットに接続できないことが情報格差として表面化するのはまだ先のことでしょう。むしろ、高齢化の進む日本においては、キーボード文化から発展したパソコンよりも、もっと簡単に接続できるインターネットとテレビを融合した商品やゲーム機と融合した商品が受け入れやすいと予想されます。また、携帯電話やPDAといった携帯端末がインターネットとの接点となる日も遠くないでしょう。 オープンネットワークという思想は、あらゆる情報を入手できる可能性を秘めています。しかし一方では、逆に情報氾濫によって、消費者にとって本当に必要な情報が探せない、情報の真偽が判別できないなど、日本では消費者行動におけるデジタル・デバイドが、二十一世紀に向かって始まろうとしています。消費者は何を基準にして購買行動をするか、今後もインターネットという巨大な情報媒体は目が離せない存在であることは間違いありません。 ■マーケティング・リサーチャーR氏の2週間+α リサーチャーR氏はある日突然クライアントから一本の電話を受けた。「四月からOAするテレビCMを複数候補から一つに絞り込むためのリサーチをお願いします。二週間以内に結果をください」。 R氏は考えた。まずは5W1Hに沿って現状の整理。「WHO→中・高校生を100名/WHAT&WHY→最も評価の高いTVCMは?/WHERE→中・高校生を集めやすい所/WHEN→直近かつ実施可能な土日(平日は学校)/HOW→調査手法はCLTを選択」。ここまではPLAN段階。次はDO段階だ。CLTを行う会場・対象者リクルーター・会場運営要員・会場で見せる広告・ビデオ等のマテリアルを手配する。並行して質問作成も行う。定量調査をベースに自由回答もいくつか用意しよう。 いよいよ調査当日。会場前を歩く中高校生にリクルーターが声をかける(キャッチセールスではありませんよ)。「OK」の返事をもらった方を会場内に案内。簡単な説明の後、すぐにテレビCMを視聴。評価してもらう。会場内はまさに自転車操業状態だ。これだと100名は集められると、R氏が少し安堵感に包まれた矢先トラブル発生。予定時間をオーバーした対象者からの苦情だ。誠意あるお詫びで、何とか矛を収めて頂いた。対象者の方に時間をさいて頂いていることを忘れてはいけない。集めた100名分のデータをすぐに入力。入力したデータはすぐに使えない。内容の誤り等をチェック・修正した結果、はじめて使えるデータになる。そこから必要な集計を行い、やっとクライアントが望む結果が出てきた。これからこの結果を元に報告会だ。 時は過ぎて、四月に入り調査結果通りのテレビCMがOAされるのを見るR氏。「実際の売り上げはどうなのだろう? 広告の関連性はどの程度なのか? 次のリサーチの必要性がありそうだ」と思うR氏だった。 |
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■格差に関する考察 援助を考える一つの視点として |
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■要旨
資本主義経済は競争原理を土台としており、必然的に格差を生むシステムである。したがって、経済発展を遂げても格差はなくならず、また新たな格差が生じるという問題がある。 わが国は、高度成長の過程で所得の地域格差を縮小し、国民の多くが中流意識をもつ安定した平等社会を構築した。その後、成熟経済を迎えるとともに、社会階層の固定化や資産・所得の格差拡大などを懸念する声が強まっており、新たな課題への対応が必要となっている。 一方、途上国では、それぞれの国の事情と発展段階に応じて、様々な格差問題を抱えており、今後の経済発展の制約要因の一つとなることが予測される。 タイでは、周辺諸国に比べて、地域間の所得格差が大きく、成長の果実を公平に分配する仕組みに問題があることを多くの人が感じている。 中国では、近年の高い成長にもかかわらず、地域間の所得格差は拡大傾向にあり、発展する中国と遅れた中国の二面性が問題視されている。 これらの国では格差是正策を真剣に検討しており、わが国の経験から学ぼうという姿勢を見せている。国によって事情の違う点もあるので、同じパターンをそのまま当てはめることは適当でないが、人的、物的な経済援助を通じ、こうした要請に応えていくことが重要である。 このように、格差は、経済発展、貧困、援助、人間の幸福など、あらゆる角度から取り組む価値のある永遠のテーマであり、その是正のためにあらゆる英知を結集して研究を進める必要がある。 金沢学院大学教授 根本博*1 2003/6 |
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■第1章問題意識 | |
本稿では、格差、とくに所得格差、地域格差について、途上国に対する経済援助との関係を中心に論じてみたい*2。
この地球上には、さまざまな民族があり、多くの国・地域を形成している。しかし、それぞれの国・地域で営まれる生活・文化は異質であり、経済発展の程度にも差がある。同じ人間でありながら、なぜこのような差が生じるのであろうか。和辻哲郎は、地域ごとに異なる人間生活の差の遠因として気候風土を考えた*3。ジャレド・ダイアモンドは、スタートラインにおいて差のなかった人類の間で、その後、格差が広がっていったのは、地理的偶然と生態的偶然のたまものであって、人種的な差によるものではないことを詳しく論証している*4。 格差の生じた要因をつきとめることは非常に重要で魅力あるテーマであるが、いまそこに立ち入る余裕は残念ながらない。とにかく何らかの要因により、格差はさまざまな形で存在する。 従来、格差は国と国との経済的格差として意識されることが多かったと思われる。先進国から途上国への経済援助により、途上国の経済水準の底上げを図るという発想も、援助対象を国という単位で考えたものである。確かに、国と国との格差意識から出発する限り、援助を国のレベルで考えることが基本になる。しかし、途上国の国内状況をみると、地域的に必ずしも均質ではなく、国によって程度の差はあるが、都市と農村など、地域 間の格差が重要な問題であり、政策課題として重視されているのが実状である。 そこで、本稿では、まず途上国について、次のような視点で見てみたい。すなわち、途上国政府は、これまで実際にこの問題をどう理解し、どのような対策を講じてきたのか。また、アカデミズムなど有識者は、どのような分析を行ってきたのか。そして、地域格差や階層間の所得格差は、改善しているのだろうか。先進国が途上国に対して経済援助を実行する際に、国全体の経済水準を引き上げることを念頭に置くのは当然として、途上国の国内格差問題についてはどのように位置付けてきているのだろうか。 また、角度を変えて、次のような観点からも分析することにしたい。すなわち、日本のように、一定の経済発展の過程を経て、先進国としての歩みを続けている国においては、格差問題はどのような変遷をとげてきたのだろうか。そして、現在はどのような問題を抱え、いかなる議論が展開されているのだろうか。日本の経験を、途上国の地域格差是正のために活かすことはできないだろうか。 さらに、個別の国の事情ということではなく、議論を一般化して、格差というものの本質についても、次のような視点から論じてみたい。すなわち、格差を是正することは、本当に人間の幸福に寄与するのだろうか。真の幸せという観点からは、どのようなことを考えるべきなのだろうか、などについてである。 このような問題意識をもって、本稿では、途上国の具体例として、タイおよび中国を取り上げ分析するとともに、先進国としてのわが国の格差問題についても考えてみたい。そうした各国の検討をもとに、最後に格差問題の本質について一般論として検討する。 タイや中国、あるいは日本の格差問題の分析にしても、一般論としての格差論にしても、それぞれ独立した論文で扱うべきテーマかもしれない。しかし、格差という得体の知れないものに近づくためには、これらの問題について、広い視野で論じることが有益かもしれない。そのような趣旨で筆をとったことを、最初に断わっておきたい。 |
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■第2章タイの所得・地域格差 | |
■(1)格差への着眼
アジアのなかで、日本、NIESに次いで目覚しい経済発展を示してきたアセアン諸国のうちタイの存在は、日本との関係、特に経済援助という視点からも重要な位置を占めている。1997年の通貨危機によって大打撃を受けたタイ経済は、その後も厳しい内外環境のもとにあるが、大筋では回復過程にあると考えられる。しかし、ここで取り上げようとしているのは景気の現状や経済の水準についてではない。タイ経済を議論しようとするとき、避けては通れない問題、すなわち所得格差、特に地域格差についてである。 タイの所得・地域格差について問題意識をもったのは、JICA(国際協力事業団)専門家として1988年から2年間、現地に滞在してからである。当時のタイ経済は、高度成長のさなかにあった。首都バンコクは活気にあふれており、日に日に近代化が進められていく様子が動画のように人々の目に焼きついていたことと思われる。そうしたなかで、高度成長にはプラスの面ばかりでなく、陰の部分も存在することが知られるようになった。成長に伴い地域間の所得格差、特に首都バンコクと東北タイなどの地方との間の所得格差が拡大しているので、その是正を図る必要があるとの認識が、政策担当者の間にも、内外の研究者の間にも、相当強く浸透していった。筆者自身は、NESDB(国家経済社会開発庁)の国民所得部に机を置き、タイ側による68SNA(国連が1968年に提唱した国民経済計算体系の推計方式)の導入準備作業に協力していた。そのNESDBが推計した地域所得統計を実際に手にして見て、地域間の所得格差が非常に大きいことに衝撃を受けていた。 帰国後、しばらく日本の地域経済動向の分析に携わってから、旧OECF(海外経済協力基金)で2年間、途上国の経済状況に関する調査などを担当した。そこでは援助という視点から途上国経済を見ていたわけであるが、当時の考え方では、途上国の地域格差は国内問題であり、援助国としてのわが国の立ち入るべき領域ではない、あるいは、地域格差は途上国自身が責任をもって対処すべき課題である、との認識が一般的であったように記憶している。 しかしながら、ある途上国の国内に相当の地域間経済格差が存在しているとすれば、それは国内問題だから援助において考慮する必要はないといって突き放していい問題ではないのではないか、と筆者は考えている。近年、ガバナンス、すなわち途上国における政治状況の安定性を重視し、これを国内問題とみなすことをせず、ドナーとしても積極的に関与していこうとする姿勢が見られるようになった。これと同様に、これからの途上国援助を考える際には、国内格差についても重要な要素となる可能性が大きいのではないだろうか*5。 確かに「政府開発援助大綱」(平成4年6月30日閣議決定)には、政府開発援助の効果的実施のための方策の一つとして、「開発途上国における貧富の格差および地域格差の是正に配慮する」との一項目が明記されている。また、援助に対する基本的な考え方は、最近、かなり変化してきている。しかし、実態はまだ文章ほどには進んでいないと思われるので、本章では、これまでタイ国内や日本において専門家がどのような分析をしてきたのかを概観し、最近までの所得・地域格差の動向と今後の方向性について考えてみたい。あわせて、経済援助において格差是正の視点を具体的に取り入れることについての様々な問題点を議論することにしたい。 |
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■(2)タイの所得・地域格差分析における主要論点
タイの経済発展については、内外の有識者によっても国際機関の調査プロジェクトなどによっても多くの分析がなされている。それらは時期的な区分等で若干の相違はあるが、基本的な考え方においてはそれほど大きなズレはないと言っていいだろう。 Pranee(2002)は、第1次国家経済発展計画(1961〜66年度)から第8次国家経済社会発展計画(1997〜2001年度)まで過去の政府計画について、経済成長率の目標と実績とを対比させ、通貨危機に見舞われた第8次計画期を除いて、ほぼ目標が達成されてきたことを示している。特に、第6次計画期(1987〜91年度)には、目標が5.0%に対して実績が10.9%と大幅に上回った(図表1)。 |
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■図表1 タイの経済社会発展計画における成長率の目標と実績 (年平均伸び率)
成長率目標 実績 第1次国家経済発展計画(1961〜66年度) 8.1% 7.9% 第2次国家経済社会発展計画(1967〜71年度) 7.2% 7.2% 第3次国家経済社会発展計画(1972〜76年度) 7.0% 6.6% 第4次国家経済社会発展計画(1977〜81年度) 7.0% 7.1% 第5次国家経済社会発展計画(1982〜86年度) 6.6% 5.4% 第6次国家経済社会発展計画(1987〜91年度) 5.0% 10.9% 第7次国家経済社会発展計画(1992〜96年度) 8.2% 8.0% 第8次国家経済社会発展計画(1997〜2001年度) N.A 1997年度 −1.4 1998年度 −10.5 1999年度 4.4 2000年度 4.6 2001年度 1.8 第9次国家経済社会発展計画(2002〜2006年度) 4.0〜5.0% 出所)Pranee(2002)p.152 |
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また、末廣・東(2000)は、1972〜99年を次のように7つの時期に区分している。
1] 1972〜78年相対的成長期 2] 1979〜81年低成長期 3] 1982〜84年世界不況と構造調整期 4] 1985〜87年緩やかな経済回復期 5] 1988〜92年経済ブーム期 6] 1993〜96年バブル経済期 7] 1997〜99年通貨危機 72年から経済危機直前の96年までの25年間をならすと実質年平均成長率は7.6%に達し、一人当たりGNPは213ドルから2,964ドルへと14倍近い伸びを実現するなど、タイの経済発展は目覚しいものがあったことが示されている。 池本(1999)は、1950年代以降のタイ経済の特徴を次のような時期区分で表した。 1] 国家主導型輸入代替期(1950年代) 2] 民間主導型輸入代替期(1960年代) 3] 輸入代替から輸出指向への転換(1970年代) 4] 調整期(1980年代前半) 5] 直接投資と輸出主導型成長(1980年代後半) 6] 金融自由化とバブル どの分析も、少なくとも通貨危機の前までは、マクロのタイ経済はほぼ順調な成長軌道を歩んできたことを示している。問題は、その間において所得の格差が、特に地域別にみて、どのように推移したかということである。 所得格差の推移については、以下のように、多くの実証分析がなされている池本(1999)は、タイの所得格差を概観して、次の点を明らかにしている。 1] タイの所得格差(特に農村・都市間、農業・非農業間)は、アジアでも非常に大きい。 2] それは部門間の生産性格差が大きいからである。(農業部門では、労働力シェアの大きさに比べて付加価値シェアが小さい。) 3] 地方別総生産(一人当たり)でみると、バンコクは東北タイの約10倍にも達するが、法人部門の所得や出稼ぎ者の送金を調整した後の生活水準格差(平均世帯所得ベース)は4〜5倍程度となる。 4] 所得格差は農村から都市への労働力移動を生み、理論的には格差は縮小へと向かうはずだが、現実にはそうなっていない。 5] 1997年の通貨危機後、失業の吸収、輸出の伸張などに農村が貢献したことが認められ、その役割が見直されている。 Ikemoto・Uehara(2000)では、さらに分析が進められて、次のような点が指摘されている。 1] 1960年代には、タイの所得格差は他の東南アジア諸国より低かったが、その後拡大し、特に1980年代後半から1992年にかけて、急速に所得格差は拡大した。1992年以降の変化の方向は明らかでない。いろいろな数字があって、区々である。 2] 1990年代初めに、クズネッツの逆U字仮説の転換点に達したとみていいだろう*6。 3] 元来、クズネッツ仮説は、工業化の過程で1回だけ生じるものと考えられた。しかし、経済構造が急激に変化しているときには、所得格差は拡大しがちであり、タイは二度目の転換期を迎えているとみることもできる。(二つのクズネッツ曲線が重なり合うことで、格差の縮小が遅れる可能性がある。) Isra(2000)の基本的認識も、タイは長期にわたり高度成長を達成したが、成長の成果の公平な分配には失敗してきたというものである。具体的な数字の分析で、1988年から1992年にかけて一人当たり家計所得の格差が拡大したが、そののち1996年にかけて縮小に転じたことを示している。ただし、縮小に転じた理由は不明としている。 Pranee(2002)は、所得階層で最上位20%に入る人々の、総所得に対するシェアの推移をみて、1974年(49.24%)から1992年(59.43%)までは一貫して拡大し、その後1998年(56.39%)まで縮小したのち2000年(57.77%)には再びやや拡大したことを示している。また、これまでになされた多くの研究成果(ジニ係数による格差分析)を比較検討し、いずれも1992年に格差のピークがきているという点において共通していることが示されている。 タイの所得格差を分析するうえで、留意すべきことの一つは、基礎統計である。池本(1999)も指摘しているように、NESDBの地域所得統計(Gross Regional and Provincial Products=GRP&GPP)とNSO(National tatistical Office)の家計に関する社会経済調査(Household Socio―Economic Survey=SES)では、格差の程度にかなりの乖離が生じる。これは、前者は、個人間・部門間の所得移転がなされる以前の所得を対象としており、法人部門の所得が含まれるのに対して、後者は、移転所得を含む個人部門に関する最終的な受け取り所得を示すもの、だからである。この点を重視して、筆者がインタビューした、チュラロンコーン大学のIsra準教授やタマサート大学のPranee準教授は、格差の実態を正確に把握するためには、GPPよりSESによって分析するほうがベターであると明言している。 ただ、GPPは県別・ブロック別、名目・実質別に時系列でデータが整備されているので、国民経済計算ベースでマクロ的に分析を行う等の場合には、非常に有用であることは言うまでもない。 これらのほかに、NESDBの南部開発センターによって提示されたデータのなかに、農村地域のみを対象にして内務省が実施している家計所得に関する集計値が含まれている。そのデータの活用については今後の課題となると思われる。 |
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■(3)経済政策における格差是正への取組み
実体経済において、1992年までは所得・地域格差が継続的に拡大傾向を示したことは各種の調査が示すとおりである。その後の傾向については、まだ定説が得られていないが、少なくとも格差がはっきりと縮小傾向に転じたと断言できる材料は示されていない。また、1990年代における格差の程度を他の東南アジア諸国と比べてみると、タイの格差は大きくなっている。(たとえば、Pranee(2002)によれば、所得最下位20%に対する最上位20%の倍率を各国比較してみると、インドネシア5.6倍(1996年)、フィリピン9.7倍(1997年)、マレーシア11.9倍(1995年)に対して、タイは1992年に14.9倍、1998年に13.2倍である。) このような数字の推移をみるかぎり、国としての政策的対応がなされてきたとは判断しがたい状況になっているが、政府の5カ年計画などを見ると、文言上は取組み姿勢が明記されており、まったく政策上の配慮がなされてこなかったわけではない。 Pranee(2002)は、次のように、これまでの国家経済社会発展計画における所得分配に関する政策目標を整理している(図表2)。 |
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■図表2 タイの経済社会発展計画における所得分配に関する目標の推移
計画 所得分配に関する目標 第1次計画(1961-1966) 成長に目標がおかれ、所得分配に関する目標はなし 第2次計画(1967-1971) 成長に目標がおかれ、所得分配に関する目標はなし 第3次計画(1972-1976) 社会的公正、他地域への成長の配分について言及 第4次計画(1977-1981) はじめて所得分配を目標に掲げる 第5次計画(1982-1986) 経済安定を優先、貧困問題に言及 第6次計画(1987-1991) 成長、雇用、農村開発計画、東部臨海開発計画に焦点を当てる 第7次計画(1992-1996) 貧困層を1988年の23.71%から1996年に20%以下とする 第8次計画(1997-2001) 人的資源開発。(しかし、通貨危機の勃発と景気後退。) 第9次計画(2002-2006) 経済安定。貧困層を2006年に12%以下にする 出所)Pranee(2002)p.152 |
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ここにも示されているように、第4次計画からは、所得分配に配慮したり、あるいは貧困層の削減を目標にしたりするなど、何らかの形で所得格差の是正が政策課題に取り入れられている。
NESDBで計画策定等に参画し、1990年代後半には長官(Secretary General)を勤めたWirat Wattanasiritham氏は、第1次〜第6次計画期までを幅広く分析した論文(1988)において、「最も重要な結論は、開発の初期の段階で投資を刺激することによって誘発された高い経済成長が、明らかに現在非常に深刻化しつつある所得の不均衡を生み出していることである。(中略)結局、経済開発は、一方では所得全体を引き上げるという点では成功したものの、もう一方では、社会・経済開発計画は増大した所得をどのように国民のすべてに平等に分配させるかという問題に対して具体的な考え方をまったく欠いているというところに問題の所在がある。」と述べている。ここには、政策に直接携わった担当者としての真摯な態度が反省をこめて吐露されている。 政府に肩入れするわけではないが、現実の経済は計画で意図した通りに推移するとは限らず、むしろ想定していなかった事態が次々に生起するというのが実状かもしれない。あるいはまた、政策的対応がまったくなされていなければ、実際には格差はもっと深刻化していたという解釈がとれるかもしれない。そのあたりを検証することは容易ではない。 この点、アカデミズムは、客観的にタイの経済政策が現実の経済に対してもった効果や影響を位置付けている。末廣・東(2000)に紹介されているように、「タイ政府の政策は、東アジアのような積極的介入型ではなく、マクロ経済の長期の安定をめざす思慮深い政策が主流」であり、「特にセクターレベルでは、政府は何ら積極的な役割を果たしていない」とされる。逆にいえば、タイでは、市場メカニズムが正常に機能したと捉えられており、「タイの経済成長に政府がほとんど積極的な役割を果たしていない」という評価がなされている。 このようなアカデミズムの評価を頭に入れたうえで、現行の第9次計画を読んでみると、なるほどとうなずかれる点が多い。1997年の通貨危機で、貧困率が後戻りしてしまったので、その回復に力点がおかれていることはやむをえないとしても、文章として書かれた内容は素朴な精神主義を基調とする部分も多く、具体的な政策の方向についても重複が多いような印象を受ける。格差や貧困への問題意識は随所に見られるが、これといった具体的戦略は示されていない。 かつての日本の場合も含めて、資本主義国で経済計画をもつ国における、その一般的な役割は次のようなものとなっている。すなわち、一定の目標を掲げて民間経済を誘導するとともに、国として実施すべき政策を体系的に提示し、一国の経済社会を望ましい方向に導こうとするものであり、市場経済を前提に経済運営を行ううえでの指針として策定される。もちろん、民間に対して強制的に政策を押し付けるような性格のものではない。したがって、実体面において成果があらわれるかどうかは、必ずしも保証されているわけではなく、国民に支持されれば、計画に示された目標に向かってみんなで努力しようという、明るいムードが盛り上がることもありうるし、逆に状況次第では、まったく省みられなくなる懸念すら生じるのである。 日本で成功例とされる『国民所得倍増計画』は昭和35年(1960年)にスタートした。岸内閣において日米安全保障条約の改定という政治問題が結着したあと、新しい池田内閣のもとで、経済に主眼を置いた政策スタンスに方向転換したことを明確に示すうえで、この計画の持つ意味は非常に大きかった。時あたかも日本経済は高度成長の真っ只中にあったわけであるが、そのことを必ずしも明確には自覚しないまま、国民は自信と不安を併せ持ちつつ日々の生活・生産に勤しんでいた。そうした状況において、所得倍増という具体的目標を示すことによって、明るい未来を描いてみせた計画のアナウンスメント効果は絶大なものがあったわけである。 タイ政府の政策スタンスは、基本的に上記のような市場原理を尊重する形で組み立てられており、経済社会発展計画も、市場に対する影響力が必ずしも強力であるとは言えないものであったことは過去の計画が示している。しかしながら、計画はこれまで9次にわたって途切れることなく策定・提示されてきたものであり、社会的な認知度の高い存在であることは誰しも認めるところであろう。今後、所得格差、特に地域間の格差が、解決すべき重要な課題として国民のあいだに広く認識されるようになり、そのような国民意識の変化を背景に、今後の新しい計画が、格差の解消を優先課題として高く掲げるようになれば、計画のアナウンスメント効果が実体経済面に浸透し、格差縮小に結びつくことも期待できよう。 そのような状況の変化は、たとえば税制面等の具体的な施策にも影響を及ぼすであろう。これまで、一部の有識者は、所得税課税に累進性が強くないことを格差の縮小を阻む最大の要因として指摘していた。これを是正することに着手できれば、状況は大きく改善することが期待される。あるいはまた、地域住民の意識が高まり、中央に対する地方の影響力が強まる方向で、中央と地方との関係が変化するようなことがあれば、地域格差の改善につながることになるであろう。 |
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■(4)格差是正と経済援助のあり方
これまでの議論で示したように、タイにおいては、所得格差が取り組むべき重要な国家的課題の一つとなっている。この問題については、政策担当者がすでに1970年代から国家計画の目標に掲げるなど、重要な政策的課題として捉えている。アカデミズムをはじめ民間有識者も絶えず問題意識をもって研究に取り組んでいる。そればかりではなく、国連をはじめとする国際機関でも、調査プロジェクトのなかの重要なテーマの一つとして、各国の有識者を動員して研究に取り組んでいる。日本のアカデミズムからも、この分野ですぐれた論文等を書かれている方が多い。 それではなぜ、タイの国内問題であるはずの所得格差というテーマについて、国内ばかりでなく海外からも興味が持たれているのだろうか。そこには第1章でも指摘した、次のような問題意識があるのではないかと考えられる。 従来、途上国についての問題の捉え方は、その国全体としての発展のあり方や国と国との比較を通じて途上国経済の発展の方向を問うものが主流だった。具体的には、それぞれの途上国に関する経済成長の実態、あるいは途上国間での成長格差、さらにはアジアにおける雁行形態による経済発展の実態などが分析対象になっていた。こうした分析に基づき、援助を考える視点も、国全体としての底上げをねらったものになりがちだった。 しかし、途上国が真に離陸するために必要なのは、自立の精神を身につけることであり、そのための前提条件として、まず国内の政治的・経済的基盤を整えることが大切である。すなわち、政治的基盤としてのガバナンスの問題や経済的基盤としての所得格差の問題に適切に対処できるようになってこそ、自立国家としての条件が満たされたと評価できるのではないかと考えられる。したがって、今後、援助の視点として、これまでのような全体のレベルアップの発想とともに、国内の経済基盤の安定化に資すること、すなわち所得・地域格差の是正をサポートするような方向での援助を指向することが必要ではないだろうか。そのことによって、援助の効率性を高めるとともに、途上国の自立をサポートすることができるのではないか、と思われる。 自立のサポートにあたって効果的なのは、アジアのなかで最初に高度成長を経験し、地域格差や分配の公平化の問題に取り組んだわが国が、その経験から得られた教訓を知的貢献として積極的に伝えることである。これまでともすれば途上国の国内問題として位置付けられ、援助政策の埒外に置かれることが多かった所得格差、特に地域格差の問題に正面から取り組み、解決策を途上国自身とともに考えるような方向への発想の転換が必要である。 すでに触れたWirat(1988)によれば、経済成長を刺激するための初期のインフラ投資により、確かに高度成長は実現したが、副産物として所得の不均衡が生じたという。インフラ投資にはODAが深く絡んでいるはずであるから、わが国の援助がタイの所得格差の動向に何らかの影響を与えることも、可能性としては十分にありうるわけである。なぜなら、相手国の要請に応じてという部分があるにしても、援助国は一定の基本方針に沿って援助を実行しているはずだからである。 ただ、ODAによるインフラ整備は、バンコクおよびその周辺ばかりでなく、地方においても相当程度実施されており、今後、しだいに地方の開発に好影響を及ぼしていく可能性が大きいと期待される。(その意味でも、各プロジェクトの事後評価をこれまで通りきちんと行う必要がある*7。) 元来、民間資本は収益性を重視するため、企業行動としては、一定の資本集積のある都市地域への進出を目指す傾向がある。これに対して公的部門やODAによるインフラ投資は、より長期的な視点から行うことが重要であり、各国の特殊事情を念頭に置きつつ、経済の発展段階に応じて機動的に実施することが求められる。 経済発展の過程において、初期の段階では所得の増大(パイを大きくすること)に意識が傾斜しがちである。しかし、一定の発展段階に達すると、国民意識のうえでも強く格差の縮小を求める傾向が出てくるのが通例であると思われる。一般に、パイを大きくしてから分配の公平化を図る方式と、所得の平準化(たとえば貧困撲滅の徹底)を優先し、あとからパイを大きくする方式とを比較すると、理論的には前者が成功する確率が高いとされる。その意味では、後発の開発途上国が所得水準の引き上げに政策努力を傾注することには理由があるが、タイにおいては、現在の発展段階から判断しても、また格差の程度が周辺諸国より大きいという事情からも、格差是正に積極的に取り組むべきであると判断される。 |
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■(5)格差を考えるさまざまな視点
格差を考える際に留意すべき視点として、次の2点を付け加えておきたい。 第1点は、比較の対象を何にするかという問題である。国の政策担当者は国全体を考えるから、タイでは一番所得の高いバンコクと最低の所得レベルにある東北タイとの比較が念頭にあるだろう。 地域レベルでは、違った発想に出会うことになる。タイへの出張で南部、東北部、北部を訪問した際に、各地域の政策担当者から聞いたのは、それぞれの地域内における格差への問題意識である。 南部では、バンコクなどとの地域間格差より、南部のなかでの地域内格差のほうがより重要な問題と考えられている。具体的には、南部で突出した所得水準にあるプーケットとその他の地域の格差、そして中心となるソンクラ(ハジャイを含む)とその周辺地域との格差の是正が課題となっている、との指摘があった。 東北タイにおいても、地域内格差について言及があった。コンケンやナコンラチャシマ(コラート)のように一人当たり年間所得が4万バーツ前後のところもあるが、多くは2万バーツ程度で、なかには2万バーツを下回る県もある、との話だった。 第2点として、格差を考える際には、所得水準だけが万能ではないという事実を忘れてはならないと思う。出張で訪問した各地域事務所の担当者は、口をそろえてその地域の住みやすさを強調していた。確かに、風光明媚な南部、「水に魚あり、田に稲あり」*8と讃えられた中央部の平野地帯、伝統文化の根付く北部といったように、各地の生活ぶりは多彩で奥深いものを感じる。また、都市部が不況で、失業者があふれるような状況になったときに、農村部の懐の深さが国を救うことは、先ごろの通貨危機の際にも証明された。 このように複雑な要素を念頭に置きつつ論じなければならないところに格差問題の難しさがある。しかし、難しいからといって放棄してしまって済むような問題ではないことも明らかである。 池本(2000)は、「所得格差でみたのとは違うタイの地域間格差像」を示している。よく知られているように、アマルティア・センは、人の福祉を所得で測ることに批判的であり、ファンクション(機能)やケイパビリティ(潜在能力)といった観点で見ることを提唱している。こうしたセンの考え方を応用し、貧困度や栄養、教育の普及などで地域間格差をみると、急速に縮小してきていることが指摘されている。このような角度からみると、地域間の所得格差を縮小するという政策は、市場における自由な経済活動を制約して非効率を招くばかりでなく、人々のケイパビリティを制限する懸念が生じる、ということにもなるわけである。所得の次元では格差を縮小させることができたとしても、「移動の自由」などの次元で格差を拡大させている可能性が生じることになる。だから、どの次元の不平等を論じているのかをはっきり認識する必要がある、というのである。確かに、このような点についても十分に留意しなければならないと思われる。 こうした問題に関連して、参考になる論点が原(1992)に整理されている。インドを代表とする南アジア諸国を念頭に置いて論じられたものであるが、そこでの概念規定は普遍性を持つと考えられる。まず貧困層の定義として、ポール・ストリートンの「基本的必要(basic needs)を満たしえないでいる層」、アマルティア・センの「自らの前に開かれた種々の経済的機会を利用しうる潜在的能力(capabilities)が欠如し、普通の人間として社会生活の中で機能する潜在的能力が欠如している層」、バーリンの「最低限の人間生活を送りうるという積極的自由(positive freedom)を持たない層」などに言及している。それらを援用したうえで、労働市場の分析を行い、貧困層を目標とした種々の再分配政策が結果として成長を促進させる可能性が十分にありうることを指摘している。そして貧困層を次のように新たな視点で再定義している。すなわち貧困層とは、「個人の福祉水準を規定している多元的尺度のうちいくつかの次元で低いレベルにあることによって、労働市場での生産的雇用・就業機会に参入しうる能力ないし資格に欠けている層である。」 貧困層をこのように定義すれば、政府のとるべき施策は一定の範囲に限られ、あとは基本的に市場に任せるという態度が合理性を持つことになる。そのことによって、人々の選択の自由は保証され、たとえば高い所得水準を求めて都会に行くことも、より良い環境や地域の歴史・伝統により高い価値を置いて地域にとどまることも、いずれも個人の選択に任されることになる。当該国がどの程度の経済発展段階にあるかが前提条件になることは言うまでもないが、タイの所得格差を考える際には、このような判断基準も十分意味を持つと考えられる。 |
■第3章中国の地域格差 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■(1)日中双方の見解
中国の躍進について多くのことが語られているが、今後の成長を制約する懸念材料として、所得の地域格差について言及する識者が増えてきている。たとえば、次のような考え方である。 「中国の英字紙チャイナデーリーは、日本国内のODA不要論に反論して、『中国では地域間格差が大きく、助けを必要としている貧困者がいる事実を見落としている』と述べている。」*9 「中国は、発展するニューチャイナと、腐敗の浸透や所得格差の拡大などに象徴されるオールドチャイナとの二重構造となっており、これらをバランスよく分析しないと実態を把握できない。」*10 「所得の二極化が進み、失業の増大と農民の貧窮化が社会の不安定要素となりつつある。これらは民需を弱め、デフレが進行する原因となっている。」*11 中国の地域格差問題については筆者自身も興味をもっているが、そのきっかけとなったのは、「日中経済知識交流会」(以下、交流会とする)に参加する機会を得てからである。交流会は、日中両国の官民の代表者によって構成され、主として経済に関する知識の交流を通じての相互啓発を目的として、1980年代の初めから、日本と中国で交互に毎年開催されている*12。 交流会では、毎回テーマを決めて議論が進められ、活発な意見交換が行われている。1989年の第9回会合で、地域格差の問題が論点の一つとして取り上げられてからは、ほとんど毎回のようにこの問題についての議論が行われている。筆者は2001年に神戸で開催された第21回会合に初めて参加し、中国の地域格差を論じる際に参考にしていただくことを目的に、日本における格差問題を整理して報告した。 これまでの交流会で、中国側は、大要、次のような見解を示していた*13。 「1978年の改革開放以来、高度経済成長により、国全体として経済水準がレベルアップした。これによる顕著な成果として、貧困層が激減したことがあげられる。地域別には、東部沿岸地域の発展を重視する政策が打ち出された結果、東部では実際に著しい発展がみられた。しかし、中西部の開発が遅れ、東部との地域格差が拡大したことは問題を残した。今後の展望について、政府は第10次5カ年計画(2001〜2005年)や2010年中長期目標において地域戦略を明示するとともに、西部大開発計画の具体化を進めるなど、意欲的に取り組む方針を打ち出している。ただ、中国は開発途上にあり、東部地域が牽引役とならざるを得ないので、地域格差については縮小するよう努力はするが、実際には実現は困難と思料される。したがって、当面は格差拡大テンポの減速を目標にするのが現実的ではないかと考えられる。」 これに対して、日本側からは、高度成長から安定成長を経て今日にいたるまで、地域格差に関する政策課題は様々に変遷してきたが、格差自体は概ね縮小傾向をたどっていることが紹介された。また、バランスの良い国家経済を築き上げるためには格差の縮小は重要な課題であり、日本の経験は中国の今後の政策のあり方を考えるうえで参考になるのではないか、などの考え方がいろいろな機会に示されてきた。 筆者の報告のなかでも、中国の地域格差問題に対する提案として三点ほどの指摘をした。第一に、正確な現状把握のための統計整備、たとえば地域別の一次所得、物価の地域差、財政による移転所得などのデータが必要であること、第二に、西部大開発の推進にあたっては、行政組織の整備、総合的・体系的な戦略の策定、政府による重点的・効率的な投資の促進、地域金融制度の整備、税制面での優遇措置の導入、地域の特性を活かした産業の振興、環境問題・地域住民の自主性への配慮が必要であること、第三に、投資については、民間資本はどうしても投資効率のいい東部に集中するので、格差を縮小するためには政府が政策対象地域に重点投資する必要があること、である。 これに対する中国側の考え方は、2002年5月に中国雲南省の昆明で開催された第22回会合で、房維中・全国政治協商会議経済委員会主任から次のように示された。 「第8次5カ年計画期間中(1991〜1995)の一人当たり年平均成長率は、東部15%、中部10%余、西部9.8%であった。第9次(1996〜2000)では、東部8.6%、中部9.2%、西部8.1%であり、中部は東部より高い成長率を示した。西部も東部との成長幅の格差を縮小した。しかし、一人当たりGDPの実額でみると、この10年間で格差は約50%拡大しており、絶対額の差をみると東部は西部の5倍以上となっている。都市部、農村部別に各地域を比較しても、東・中・西部の格差は概ね拡大している。 ただ、格差が拡大しているからといって、西部の成長が遅いわけではない。また、たとえ同じ率で成長しても絶対額の差は広がるのである。したがって、格差の縮小とは何をもって言うのかを明確にする必要がある。当面重要なのは、地域間で協調発展の実現を図ることである。西部の発展の隘路を取り除くことは必要であるが、そのために東部の発展が阻害されるようなことがあってはならない。」 また、李泊渓・国務院発展研究中心研究員からは、(日本側の指摘するように)地域間の比較は所得だけではなく、生活の質の面も考慮すべきであること、各国それぞれの事情を勘案しつつ地域格差について議論すべきこと、西部大開発戦略を打ち出したのは、重心を東部から西部に移したということではなく、東部の重要性は変わらないこと、地方への交付金は必要だが限度を越えると国全体の競争力が低下するおそれがあること、など について発言があった。 以上のように、中国側は地域格差が拡大傾向にあることについて数字的に把握しており、格差縮小が政策課題であるとの認識ももっている。したがって中西部への重点投資に配慮するなどの政策は打ち出されているが、国の発展段階からみて、全体のレベルアップのためには今後も東部の牽引力に頼らざるを得ない、というのが本音のようである。 |
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■(2)中国のマクロ経済動向と財政支出
交流会における中国側発言のニュアンスは、中国における財政支出の最近の傾向からも読み取り、確認することができる。 内閣府の『2002年秋世界経済の潮流』(以下、「潮流」とする)は、第部第1章で「中国高成長の要因と今後の展望」について分析している。このなかで、1978年に改革開放政策に転じて以来、高成長を続けてきた中国は、90年代には工業製品の輸出を大幅に伸ばし、ハイテク製品でも世界輸出に占めるシェアを拡大するなど、「世界の工場」へと変貌したこと、その背景として海外からの直接投資が果たした役割が大きいこと、が述べられている。直接投資が拡大した要因として、市場経済的制度を徐々に導入し、各種優遇措置をとるとともに、92年の「南巡講和」を機に、改革開放政策が加速されたことが挙げられている。 今後についても、国際的に安い人件費、農村部の過剰労働力、13億の人口を背景に消費規模の拡大余地が大きいなどの条件が継続することから、経済成長余力があると見込まれている。懸念材料として、国有企業による過剰な生産、過剰な労働力の存在といった供給面を主因として全国的にデフレ傾向が続いていること、WTO加盟に伴い国際競争に晒される国有企業や農業部門から大量の失業者が発生すればデフレ圧力が高まること、などが指摘されている。 そのうえで、「潮流」は、2010年までを展望し、国内投資と直接投資とがどのような傾向を示すかによって、考えられる二つのシナリオを提示している。投資加速シナリオでは、年平均8〜9%の成長が達成可能と見込まれるのに対して、投資停滞シナリオでは、5〜6%の成長にとどまる可能性もあると分析されている。 以上のような論旨が展開される本論とは別に、「潮流」は中国経済に関して5つのトピックを示している。すなわち、国有企業改革、不良債権問題、財政改革、地域間格差、およびWTO加盟の影響という5つの問題が提示されている。このなかで本稿において注目したいのは、地域間格差についてである。 「潮流」は、まず中国における地域間の格差、すなわち経済開発の進んだ東部沿岸地域と遅れた西部・中部内陸地域との経済格差が1990年以降拡大していることを示している(図表3)。 トピックでは、また、財政面から地域格差を見ている。一人当たり歳入額が東部100に対して中部34、西部34となっているが、中央からの財政移転が東部100に対して中部88、西部119となっているため、一人当たり歳出額は東部100、中部26、西部69となり、西部では歳入に比べ歳出の格差は縮小しているが、中部では拡大している。(以上、2001年)これを見る限り、財政移転による格差是正効果はきわめて限られたものとなっており、所得の高い東部に傾斜した財政支出が続けられている。 本節の冒頭で指摘した、財政面から読み取れる事実とは以上の点である。 |
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■図表3 拡大する中国における所得の地域格差(一人当たりGDP)
1990年 1995年 1997年 2000年 2001年 東部 100 100 100 100 100 全国平均 78 68 69 62 59 中部 61 52 57 53 50 西部 52 43 44 41 39 出所)「潮流」の「トピック4―1図」を表に改めた。原図は中国統計年鑑各年版により作成されている。 |
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■(3)中国の地域内格差
中国では、タイの場合と同様、地域間格差のほかに、地域内格差も問題となっている。特に中国は国土面積が広く、省の規模も大きいので、地域内格差はいっそう深刻な問題となっている。 平成14年11月30日〜12月1日に淡路島で開催された「第2回日本広東経済促進会」において、日本と中国広東省との相互経済協力について、様々な観点から活発な議論が行われた*14。 この会議で、筆者は初日の第2分科会で「日本の産業立地政策」について中国側に説明する機会があった。その他、各種のプレゼンテーションがあり、その後の意見交換の中で、中国側の李・元深市長、黄偉鴻・広東省発展計画委員会主任、謝鵬飛・広東省発展研究中心主任などから、次のような発言があった。 「広東省は、中国で最も経済発展の急速な地域の一つで、改革開放以来の年平均成長率は13%を越えている。とりわけ広州、深などの珠江デルタ地域では電子情報産業などの発展が著しく、広東省経済発展の中核地域となっている。しかし、山間部などその他の地域との所得格差は大きく、これが今後の広東省の経済発展の阻害要因となることが懸念される。その意味で、山岳地帯開発は最重要課題であり、日本の地域格差是正策を参考にして、取り組んでいきたい。」 このように、広東省政府においては、省内の地域間格差(中国全体からみれば、広東省という一つの地域における地域内格差)が大きな政策課題となっている。格差を意識しているのは、中央政府ばかりではないことにも留意する必要がある。また、わが国の過去の経験に学びたいとの意向も示されており、このような要請に対応することも重要になるであろう。 |
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■(4)中国における地域格差研究の動向
中国における格差、特に地域格差に関する研究動向を瞥見しておこう。はじめに、主として産業立地面でみた場合に、地域政策が長期的にどのように展開してきたのかを見ておきたい。 中国の国内市場の形成過程を分析した論文で、加藤(2000)は、次のような見解を示している。 中華人民共和国成立(1949年)から間もない1952年における鉱工業生産額をみると、上海(19.3%)、江蘇(8.1%)からなる長江下流地域で27.4%が占められ、東北地域の遼寧(13.0%)、華北の天津(10.0%)と合わせた上位4地域で42.3%に達していた。その後1988年まで、一貫して地域分散が進み、上位4地域の シェアは27.0%にまで低下した。1978年の改革開放以前においては、経済効率がほとんど考慮されず、もっぱら国防上の観点から内陸地域への傾斜的産業立地が行われたために、鉱工業生産額でみた地域分散が進んだ。 改革開放後においては、「長所を伸ばし、短所を避け、各地の比較優位を発揮する」というスローガンに示されるように、経済発展の条件に恵まれた沿岸地域の先行発展を容認し、政策的にも後押しが行われた。広東をはじめとする華南地域が最もその恩恵を受け、圧倒的な海外からの直接投資を背景にシェアを拡大した。こうして1990年代には再び生産の地域集中傾向が見られている。改革開放以降もしばらくは分散が進んだことを数字は示しており、この点は一見奇異な感じがするが、これは、かつての先進地域に改革開放以降の急進地域がキャッチアップする過程で、全体からみれば地域分散が進んだからである。それには、地方政府による地域市場保護政策、すなわち移入制限型および移出制限型の市場封鎖の影響も考えられる。中国政府は、生産の地域集中による所得の地域格差の拡大を懸念し、1996年3月に採択された第9次5カ年計画と2010年長期目標要綱の中で、「地域格差の拡大を防止し、地域協調的発展に資する」ことを目的にして、全国の広い範囲をカバーする「七大経済圏」構想を提起した。 このように、中国では建国後一貫して集中化傾向が存在したわけではなく、一時期、軍事的な理由等により、むしろ分散策がとられた時期があり、その影響は改革解放後もしばらく残った。生産の地域集中が明確に意識されるようになったのは、1990年代になってからであり、再び内陸地域に注目が集まったり、地域格差や所得格差の是正が政策目標に掲げられたりするようになってから日が浅いという事実は記憶しておく必要がある。 地域格差の研究に比べると、中国市場の統合、すなわち地域間の相互依存関係に関する研究はきわめて少なかったが、既存研究のなかでは、世界銀行の主張が多くの人に受け入れられており、中国経済の市場化の進展は国内市場の分断をもたらし、国内市場の統合が進まず、地域間相互依存性が弱められているというのが通説となっている。加藤の説明は以上のとおりである。 これに対して、黄(2000)は、鉄道貨物からみた中国の地域間相互依存性が、85年以降増大し続けたことを根拠に、「経済の市場化過程において、企業への権限委譲や流通活動の自由化など、ミクロレベルの改革ははるかに強力な推進力となって、地域間の相互依存関係が強化され、経済の市場化は基本的に市場の統合をもたらしている」と推論している。 以上のように、地域間の相互依存関係の緊密化を促進する方向のベクトルと、地域市場を分断する方向のベクトルとが複雑に絡みつつ働きあい、分水嶺がいつ頃訪れたのかをめぐって見解が分かれているというのが現状のようである。 一方、所得格差に関しては、佐藤(2000)は、改革後における所得分布変動について、先行の研究成果を取り入れつつ、次のようにまとめている(図表4)。 |
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■図表4 中国における都市・農村別一人当たり所得格差(ジニ係数)
中国・国家統計局 世銀推計 中国・社会科学院 世帯抽出調査 統計局 調整値 経済研究所調査 (公表値) ベース (趙人偉・李実推計) 都市 農村 全国 都市 農村 全国 1981年 0.176 0.242 0.288 ― ― ― ― 1984年 0.16 0.258 0.297 ― ― ― ― 1988年 0.23 0.301 ― ― 0.233 0.338 0.382 1990年 0.23 0.310 0.339 0.406 ― ― ― 1995年 0.275 0.333 0.388 ― 0.286 0.429 0.445 出所)佐藤(2000)p.161による。なお、世銀推計のうち、「調整値」は物価差、帰属家賃等を含めた推計。 |
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第1に、1980年代以降、都市、農村とも所得格差の拡大傾向が見られる。第2に、どの時期も都市より農村の格差の方が大きい。この表では省略しているが、この時期における高度経済成長により所得水準が底上げされたこと、また都市・農村間格差が拡大したことが明らかにされている。
経済研究所調査をベースにして、所得分布について要因分解して調べた結果によれば、次のことが明らかになったとされている。すなわち、都市については、格差を広げる要因として大きいのは、賃金外収入、資産所得、帰属家賃等であり、農村については、賃金、資産所得等である。 また、都市においては学歴と所得の相関が高まったこと、党員身分と単位(企業・行政機関などの職場)幹部身分であることが所得との相関を示していること、などについても分析されている。 改革以降における中国の経済社会変動は、経済発展と体制移行の要素がからみあった複合的な過程として理解される。この過程で労働力の部門間(農業・非農業)移動が、ますます地域間(都市・農村間)移動と重なるようになってきたことが注目される。沿海の高所得地位における出稼ぎ等による労働力の移動は、相対的に下層に位置する世帯に多く発生しており、内陸低所得地域においては、移動費用の高さから出稼ぎはむしろ下層世帯において少なく、こうしたことが内陸地域における地域内格差、および沿岸・内陸の地域間格差の拡大をもたらしたと考えられる、と指摘されている。 いずれにしても、中国の所得分布の変動要因については、経済発展が移行経済過程において生じたことを背景にして、地域内格差と地域間格差、都市・農村間格差、都市内格差と農村内格差、所得の要因別格差、人的資本(学歴)別と政治資本(党員・単位幹部)別格差、労働力の地域間移動の階層的差異と地域的差異による格差の現われ方の相違など、複雑な要素をもっており、これらの様々な要素を個別に分析するとともに、それに基づく総合的な判断が求められ、きわめて複雑な分析対象であることが示されている。 以上のように、中国の格差問題は、国内でも関心の高まりをみせており、中央政府、地方政府、政府機関などによって、それぞれの立場から問題意識が持たれ、一部においては研究・分析も進められている。世銀など国際機関による研究成果も公表されている。日本でも、中国の経済発展に関連して、および援助とのからみで研究対象となっている。本章の第1・3節で紹介したような、日中間の様々な経済交流の場においても、主要な関心事項の一つとなっている。こうした会議で、中国側は、過去の日本政府の政策対応がどのようなものであり、その結果、状況がどのように改善したのか等について、日本側の有識者に対してしばしば質問を寄せている。 わが国としては、中国が今後とも順調な経済発展を遂げ、わが国とともに世界経済の発展に寄与することを期待するものであり、このため中国政府が地域格差など当面する政策課題に適切に対処することが望まれる。日本側のできることは、いま中国がなすべき政策の方向について、日本の過去の経験に照らして、有意義な助言をしたり、格差問題等における研究成果を示したりすることではないかと考えられる。経済援助は、こうした視点に基づいて実施される必要がある。 |
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■第4章日本の格差問題 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■(1)戦後の経済成長と格差
戦後、日本経済は、焦土からの復興、経済の自立、高度成長、石油ショックを契機とする安定成長への成長屈折を経て、1980年代末のバブル経済期まで、半世紀足らずの間に、世界経済における地位を不動のものとするまで一気に上り詰めた。その後、バブルの崩壊とともに、一転して1990年代の失われた10年に直面することとなった。このような時代を総括すれば、多くの局面を経験した、変化に富んだ半世紀だったということができる。 この間に国民の所得水準は急上昇し、GDPの大きさで世界第2の経済大国となり、やがて一人当たり所得でも上位に位置するようになった。その一方で、過密過疎など国土利用の偏在性が問題視され、公害問題のような負の側面が顕在化するなど、多くの問題に直面し、それらを克服するべく努力するなかで、わが国の経済社会は総体として質的変化を遂げていった。 このような半世紀を評価、分析するには多くの手法があると考えられるが、本稿の趣旨に沿い、ここでは格差という物差しで捉えることによって、問題点をまとめてみたい。これまで第2章と第3章とで、タイおよび中国についての、格差の推移と問題点を分析した。先進国である日本において、格差がどのように推移し、国民意識はどう変化したかを分析することは、これらの国を含む途上国の将来の政策課題について考えるうえでも、参考になるのではないかと考えられる。 |
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■(2)地域格差
わが国における地域格差問題には、重要な位置付けが与えられる。 1950〜60年代を中心に20年ほど続いた年平均10%近い日本の高度成長は、アジアにおける雁行形態的発展の先行事例として、国際的には高い評価を得ていた*15。 この時期に、国内において、高度成長を批判する立場から突きつけられた争点の一つが、地域格差の拡大であり、過密・過疎問題であった。マスコミや学界からは、高度成長は成果よりも弊害をより多くもたらしたとする問題提起が盛んになされた。政治的にも、この問題は、当時の野党であった革新政党等がさかんに取り上げ、政府を批判していた。 自治体レベルでは、高度成長の後半の時代に、東京都、京都府、神奈川県、横浜市など、大都市で次々と革新首長が誕生した。福祉を重視し、公害を排除するなどの姿勢に住民が共感した結果であるとされる。一方、大都市とは所得面で大きな地域格差のあった地方圏では、革新首長ブームは生じていない。 その理由としては、次のような背景があると考えられる。高度成長は負の側面として地域格差をもたらしたが、格差を是正すべく、政府により地方交付税による税収の地域間再配分や公共投資の傾斜的配分が行われていた。高度経済成長政策と、その事後的是正策ともいえる財政上の後進地域優遇策との両面を勘案し、地域住民は保守政権支持という立場を選択した。大都市住民からは、選挙制度に対する批判、すなわち衆参両院議員の議席の定数が人口割になっておらず、人口の少ない後進地域に厚くなっていることへの批判が強まった。いわゆる1票の格差問題であり、マスコミ・有識者・革新政党・大都市住民が一体となって定数是正への世論の盛り上がりをみせた。その後、法廷における論争に持ち込まれ、少しずつ格差是正への取組みが具体化されている。この過程で、議論がどことなくすっきりしない面があるのは、論理的には1表の格差を是正すべきことは誰しも認めるところではあるが、趨勢に任せていて、このまま後進地域で過疎化が進み、地域が荒廃したらいったい誰が責任をとるのか、などについての明確な回答が用意されていなかったからである。大都市には過密のマイナスを上回る利便性があり、黙っていても人々は集中するのだから、人口の少ない地域を選挙面や財政面などである程度優遇するのはやむをえないという意識が、国民のあいだに共有されていたと見ることができる。 有識者や革新政党などから、過密・過疎問題や所得の地域格差問題などで批判を受けた政府の側にも、そうした課題に対処しなければならないという意識は明確にあった。政策推進の錦の御旗となった政府の経済計画にも、基本的考え方や政策の方向は明記されている。昭和35年に策定された『国民所得倍増計画』については、投資促進や労働力確保等GDPを増大させるための政策がクローズアップされることが多いが、本来は、過密・過疎や地域格差問題に対する意識をもった計画だった。やがて、経済計画の一部としてではなく、地域問題自体をマクロ計画の一つとして独立して策定する必要性から、昭和37年に、はじめての「全国総合開発計画」が、「国土総合開発法」(昭和25年に制定)に基づいて策定された。高度成長政策を推進するにあたっては、国土の均衡ある発展に配意しなければならない、という考えがこの計画の基本となっていた(図表5)。 |
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■図表5 全国総合開発計画の比較
出所)各計画による。 |
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昭和44年に策定された「新全国総合開発計画」は、基本構想として、苫小牧東部、むつ小川原、志布志湾等の遠隔地大規模開発プロジェクトの実施や全国的な交通通信ネットワークの整備を掲げていた。そうした印象から、高度成長路線を後押しする計画と受け取られることが多かった。その点に関しては激しい論争を巻き起こしたが、過密・過疎を解消し、所得格差の是正をはかることこそ、この計画の大きな目標であったし、公害問題への対処も強く意識されていた。しかし、現実の経済のうねり、すなわち今日の言葉で言えば、市場経済の活力は、こうした政策意図をはるかに越えて強力なものであり、結果的に人口の大都市集中、地方における過疎現象の拡大などをもたらした。公害問題は、ますます深刻化し、いわゆる公害国会を経て、昭和46年には環境庁が設置された。
開発か環境かをめぐって、議論は白熱していたが、昭和47〜48年には田中内閣のもと、新25万都市などのアイディアを盛り込んだ「日本列島改造計画」が提案された。100人を越える専門家や有識者を集めた「日本列島改造問題懇談会」が組織され、委員からの提案が整理され、議論された。しかし、この計画は、折からの過剰流動性の存在から地価高騰を招き、一過性のブームに終わった感がある。やがて、石油ショックの影響を受けて、日本経済は高度成長に別れを告げ、昭和50年代以降は安定成長の時代に入った。 このように成長と格差をめぐって長く論争が続き、政府の対応は、常に批判の対象となっていた。しかし、統計データの検証等により、今日の目で確かめられるのは、長期的には地域間の所得格差は大きく緩和されたという事実である。政府の行ったいくつかの統計や調査が、さまざまな角度から、そうした実態を明らかにしている。 第一は、国民経済計算(SNA)の地域版ともいえる「県民経済計算」(旧・県民所得統計)である。これは、各自治体(都道府県および政令指定都市)による当該地域の推計値を内閣府(2000年まで経済企画庁)で集計・公表しているものである。各年の公表データをみると、変動係数でみた一人当たり県民所得格差は、1960、70年代には大幅に縮小した。1980年代にはやや拡大したが、バブル後は縮小傾向にある。80年代以降の変動は小幅であり、格差が大きかった高度成長初期からみれば、現在は大幅に縮小している。 最近年の県民経済計算統計によれば、一人当たり所得が最大の東京と最小の沖縄との格差は2倍をやや下回る程度で推移しており、高度成長初期に比べると大幅に縮小している。また、この倍率は世界各国に比べても非常に低いものとなっている。 第二は、新国民生活指標(PLI、ゆたかさ指標ともいう)である。これは経済企画庁が国民生活・地域社会を多面的に把握するために1992年から99年まで作成していたものである。全体で150近い各種の個別指標が、「住む」、「費やす」、「働く」、「育てる」、「癒す」、「遊ぶ」、「学ぶ」、「交わる」という8つの活動領域別に合成され、それぞれが偏差値化されて都道府県別に数値で示されていた。この指標の主目的は、領域ごとに地域特性がはっきり表れるのを示すところにあり、地域間の優劣をみるための指標とはみなされていなかった。ところが、指標作成者の意図にはなかったことだが、新聞各社等のマスコミが、すべての領域のランキングを統合し、総合順位を計算してみると、所得の多いところが必ずしも上位にならず、暮らしやすさと所得とは必ずしも直結しないという結果が示された。(この結果に対して埼玉県など、所得面では上位にありながら、豊かさ指標の総合化では下位となる地域から、指標の作成方法等に関して異論が唱えられた。そうした背景もあって、この指標の公表が打ち切られたとみられる。) 第三は、経済白書の地域版ともいえる地域経済レポートである。(1987〜2000年まで経済企画庁、2001年から内閣府で作成。)その1991年版で地域格差について掘り下げた分析を行い、結論として、実質的な格差はほとんどないことを論証している。主要な論点としては、次のようなものが挙げられている。 1] 一人当たりの地域所得格差自体が縮小したこと(県民所得統計をベースにタイル指標を用いて分析)。 2] 所得の低い地域ほど一般物価が低水準であること。 3] 地価水準が地方圏ほど低く、住宅を取得しやすい状況となっていること。 4] 公共投資が地方圏に重点配分されたり、地方交付税による地方圏への財源移転がなされたり、といったように財政による地域間調整がなされていること。 以上のように、確かに所得面ではまだ大都市と地方との間には格差があるが、長期的には是正されているし、実際の生活面からみると、逆に地方の方が有利な面をたくさん持っていることが豊富なデータで示された。したがって、戦後日本の経済成長過程で常に争点となっていた成長と格差との関係は、結果として経済成長により地域格差の縮小という長年の政策課題が実現したことで結着をみたことになる。ただし、そのような結果は多くの要因によってもたらされたものであり、明確にそれぞれの貢献度を示すことは困難である。政策担当者のバランス感覚あるマクロ政策運営が奏効し、地域間の均衡を回復しつつ成長を実現したのか、あるいは高度成長政策に反対する勢力による、政策当局に対する鋭い現状批判が世論を動かし、政策形成に影響を与えたことを評価すべきなのか、あるいはまた市場の見えざる手が、巧まずして成長と格差是正とを同時に導いたのかなど、それぞれの要因がどの程度寄与したのかを正確に推し量ることができない点は遺憾であるが、結果的に格差是正が高度成長の過程で実現したことは評価されるべきではないかと思う。 |
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■(3)階層格差
このように、地域格差が縮小したという事実が明らかになるにつれ、格差意識にも変化が生じ、地域格差が以前のように正面きって論じられることが少なくなってきたように感じられる。ところが、ここ数年、別の角度からの新たな格差論争が学界を中心に沸き起こり、世紀末から新世紀にかけて論争は脚光を浴びつつ続けられている。この論争には、政府関係者の一部が加わっており、雑誌で特集を組むなどの動きも出ているが、今のところ、かつての地域格差論争のように、政治の世界を広範に巻き込んだ形での政策論争にまでは発展していないようである。ただし、論争は経済学の立場だけでなく、社会学や教育、雇用など、広範な領域に及んでいる。 論争の始まりは、橘木(1998)によって、日本の社会・経済は1980年代から多くの分野で不平等が拡大しており、ヨーロッパと比較すれば、北欧ほど平等ではなく、英仏独並みの不平等度になったと主張されてからである。その根拠として掲げられているのは、次のような論点である。 1] 賃金分配の緩やかな不平等化、社会の高齢化、単身家計の増加、一部の資産保有者による金利所得の増加等により、所得分配が不平等化している。 2] 土地や株等の資産分配の不平等化も進んでいる。 3] 職業や教育に関して社会の固定化が進行している。 以上のような橘木の主張に対しては、特にに関して様々な批判が寄せられた。代表的な批判として、大竹(2000)は、日本の不平等度が1980〜90年代を通じて高まったのは、人口が高齢化したことによる見せかけの不平等化であると反論している。すなわち、「不平等になりつつあるようにみえるのは、年をとれば所得に格差がつくという日本の元来の不平等が表にでてきているにすぎない」という解釈である。また、猪木(2001)も、「慎重な所得概念の規定と綿密な計算によって、日本の不平等国転落説は否定されている」と述べて、大竹説を支持した。 わが国の所得・支出に関する統計は各種あり、いずれの統計を根拠としているかによって、主張する内容がかなり影響される点は見逃せない。「家計調査」、「全国消費実態調査」、「賃金構造基本調査」を根拠にする論者は、不平等化がそれほど進行していないと主張している。これに対して、「所得再分配調査」(厚生省)では、所得格差の拡大傾向が示されている。1999年には、再分配の前後とも所得の不平等度(ジニ係数)は1970〜90年代を通じて最高となり、所得格差は過去最高となった*16。厚生労働省は、格差が開いた要因の約3割は65歳以上の高齢者世帯が増えたためであるが、4割強はそれ以外の要因によるとし、サラリーマンの賃金格差の影響が出ている可能性もある、としている。この結果を根拠に、橘木・森(2003)は、貧富の差の拡大を指摘している。また「国民生活基礎調査」(厚生省)の1998年調査結果から、事業所得・財産所得を所得の源泉とする自営業者を中心とする高所得者、借入金比率が高く生活苦にあえぐ中流サラリーマン層、借り入れの余裕すらない低所得者といった具合に階級社会化が進展していることを強調している。 このように、所得分配に関する論争は継続しており、基本的な論点は明確化してきているが、いまだ決着していないのが現状である。 一方、橘木が指摘していた上記の論点に関しては、各分野の専門家から新たに論争が提起された。 まず、社会学の立場からの世代間の地位再生産に関する議論がある。これは主としてSSM調査(社会階層と社会移動全国調査)に基づくもので、原・盛山(1999)は分析の結果、不平等の拡大はなかったと結論付けている。これに対してベストセラーとなって「中流崩壊論争」を盛り上げるきっかけとなった佐藤(2000)では、同じSSM調査をベースにして議論を展開しながら、別の結論を得ている。すなわち、日本の社会では階層(特にエリート層)が世代から世代へ相続される傾向が強まっており、階級社会化が進んでいる。これは、努力が報われる社会から努力をする気になれない社会へと、社会の閉塞化が進んでいることを意味するわけで、過去はともかく、現在を総中流社会というのは幻想であると述べている。 教育学の立場からの踏み込んだ見解は苅谷(2001)に示されている。学力低下問題に取組み、そこから分析を進めた著者は、専門・管理職や高学歴の親を持つ子とそうでない子とでは、やる気や努力する姿勢の差が拡大する傾向が生じていることを論証し、インセンティブ・ディバイド(誘引・意欲の格差拡大)が生じていることを重く見て、「ゆとり教育」が深刻なマイナスの結果を招いていることを指摘・批判している。 雇用問題の視点からも格差が論じられている。玄田(1999)の見解によれば、性・年齢・学歴別にみた多くの階層内部で賃金格差の拡大は見られず、むしろ「賃金の画一化現象」とでも呼ぶべき格差の縮小傾向が生じているとされる。玄田(2001)は、さらに雇用問題を核にして、若者の心理をするどく洞察した分析を行っている。このなかで、現代を象徴する曖昧模糊とした不安の代表例として、格差拡大に対する懸念が挙げられている。統計データ上では、その確かな証拠が必ずしもみられないことが多いにもかかわらず、格差が拡大しているというイメージが社会全体にあり、そこに社会の不安が投影されているというわけである。若者が雇用に対して積極的な姿勢で取り組んでいるかどうかに疑問をもつというのが社会の一般的見方になっているが、著者は、中高年の雇用を維持する代償として、若者の就業機会が減っているという見方を示している。若者がフリーターとなったり、パラサイト・シングル化(なかなか親元を離れて自立しようとしない若者が増えている状況)したりするのは、働く意識が弱まっているからではなく、むしろ若者から働きがいを感じる就業機会が奪われた結果なのだという見解が示されている。 このように、現状において格差をめぐる論争は多くの分野にわたって多彩に繰り広げられている。かつてもっぱら所得の地域間格差をめぐって論じられた日本の格差論争は、いまや様相が一変している。そのような状況については、「均質化ゆえに、残る格差に対して人々はいっそうセンシティブになる」(佐藤(2000))というのも一面の真理かもしれないし、「ほんの少しの移動の減少や不平等の拡大―それも確実ではない―くらいで『階級社会の到来』などと恐れるのは、ススキが揺れるのを見て幽霊に怯えるようなもの」(盛山(2000))との指摘もあるが、現に人々がある種の不安感を感じているとすれば、そこには何らか分析に値する格差の実態が存在するはずではないかと考えられる。 讀賣新聞社が中学生以上の未成年者5千人を対象に実施した「全国青少年アンケート調査」(2002年12月実施)の結果が2003年2月22日に掲載され、「悲観の10代」という見出しが注目を引いた。このなかで、日本の将来は暗い、努力してもムダという回答がそれぞれ75%に達したことが報じられた。この結果からは、「バブル崩壊後の右肩下がりの『時代の子』の横顔がくっきりと浮かび上がってくる」。ここからは格差に関係する情報を直接読み取ることはできないが、努力を評価しないことの背景には、苅谷の指摘する階級の固定化という現実があるのかもしれない。 もともと格差意識というのは複雑なものである。国と国との格差から援助という発想がうまれたこと、途上国では国内格差の是正が課題であること、国内のそれぞれの地域内にも格差があり、地域レベルでの政策課題となっていること、についてはすでに実例を示した。 格差というより地域的な個性の相違から、近い地域同士に感情的なわだかまりが存在するような例は昔から多く語られている。そのような話は、尾張と三河、出雲と石見、摂津と河内、伊賀と甲賀など枚挙にいとまがないほどある。 ここには、具体例として、かつて筆者自身が興味をもって収集したデータの一部を紹介しよう。テーマは、東京における東西の地域特性についてである。昭和30〜40年代まで、下水道普及率など生活環境面で東京都区部の東西格差は歴然としていた。具体的な数字には表れないような地域イメージの差などもあって、アンケート調査によれば、たとえば地方から上京する人の多くが、「できれば西部に住みたい」と答えている。地価においても、同じ通勤時間帯で比較すると、中央線沿線など西部の方が、常磐線や総武線沿線など東部より高水準だった。つまり、西部(山の手)は高級住宅地、東部(下町)は庶民の住む町というイメージが定着していたと思われる。この点を実際に確かめようとしたわけである。そこで、昭和53年当時、総理大臣の諮問機関だった経済審議会の事務局の仕事を担当していたとき、委員・臨時委員等186人(当時は、新しい経済計画を策定するため、増員されていた)について、自宅の住所を地図のうえにプロットし、地域別に分類してみた。結果は通説を裏付けるもので、東京都に住む137人(うち区部107人、市部30人)で隅田川以東のいわゆる墨東地区(墨田区、江東区、江戸川区、葛飾区など)に住む委員は皆無だった。多いのは、世田谷区の38人、杉並区と渋谷区が各15人などで、東京以外では、横浜市の11人、関西の19人などとなっていた(図表6)。 |
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■図表6 経済審議会委員等の住所
練馬区2人 板橋区2人 北区 0人 足立区0人 葛飾区0人 中野区4人 豊島区2人 荒川区0人 墨田区0人 杉並区15人 新宿区2人 文京区4人 台東区0人 江戸川区0人 渋谷区15人 港区 6人 千代田区2人 中央区0人 江東区0人 世田谷区38人 目黒区5人 品川区2人 大田区8人 備考1)昭和53年11月現在の経済審議会委員・臨時委員・専門委員の合計は186人で、そのうち東京23区内に住所のある方107人の分布を示した。 備考2)それ以外では、東京都の市部30人、神奈川県21人、関西19人、その他9人。 |
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昭和56〜58年に第二臨調の事務局に在籍したときに、75人の委員等について同様の調査をしたところ、この傾向はいっそう顕著で、世田谷区(21人)、杉並区(10人)、渋谷区(8人)の上位3区だけで過半数を占めるほどだった。(ただし、土光会長は横浜市で、労働界代表は横浜市や千葉・埼玉両県などの在住者だった。)
同じような傾向は、1980(昭和55年)10月の週刊ダイヤモンドの調査でも示されている。1部上場企業の社長1,018人の現住所を調べると、世田谷区79人、杉並区67人、港区46人、渋谷区45人などとなっており、やはり墨東地区には一人も住んでいないのである。(デン助こと大宮敏光さんが亀有に住み、フーテンの寅さんの舞台が葛飾柴又であったのは、こうした実態と整合的である。) 以上、データが古くて恐縮だが、現在でも状況に大きな変化はないだろう。 なぜこのような例を長々と説明したかというと、なかなか気が付かないことではあるが、日本人の多くが日常生活において、実際は地域的な差を明確に意識しつつ行動していることを理解していただきたかったからである。住居の選定というのは、もっとも生活に密着した行動であり、エスタブリッシュメントの行動パターンが一定の価値判断に基づくものであることは明らかであると思われる。 このような東京における東西の地域差は、一般的には格差と意識される場合が多いかもしれない。たとえば、泉(2001)には、「東京の町は、西高東低の傾向があります」とあり、それがこの本全体のモチーフとなっているくらいである。シアトル生まれの珈琲屋「スターバックス」が急拡張しているが、その立地条件にも地域格差があって、「隅田川以東」は立地が敬遠される街の第一に掲げられる、といった例示にもそうした意識が示されている。 何が、という理由は説明しにくいが、そこに何らかの格差を意識させる要因が存在すると感じる人々もいるらしい。このように格差とは微妙なテーマである。 しかしながら、東京の例は、価値意識に基づく住み分けを示すものであり、東京に東西の地域格差があると指摘するつもりはない。西に住むのも東に住むのも個人の自由意志に基づくものであり、強制されたものではない。エスタブリッシュメントは住みやすいから西に住むのであり、フーテンの寅さんは、柴又の人情を忘れずに東に帰ってくるのである。 |
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■(4)格差意識を超えて
格差を論じる場合に、常に考慮すべき重要なポイントは、機会の格差と結果の格差という視点である。一般的にいって、機会の平等については、これをできるだけ確保することを基本的な条件とすることに異論はないであろう。これに対して、結果の平等については、見解が分かれてくることが予想される。結局、それは人々の価値判断に依存することとなり、米国のように、競争社会であることを活力の源泉としている国では、成功者とそうでない者との間の格差は非常に大きくなるが、それが社会の存立基盤のようなものだから、許容されているという面がある*17。 これに対して、北欧のような福祉社会を志向している国においては、基本的に大きな格差は認められない風潮が根強いことは理解されよう。 それでは、日本の状況はどうなっているのだろうか。重要なのは、戦後における民主主義の浸透が、出発点における平等ばかりでなく、到達点における平等をも重視する意識を育てたことである。高度成長のある時期、ほとんどの国民が自分自身を中流に属すると感じているというアンケート結果が示され、それを知ることがさらにその意識を高めるというメカニズムによって、いわゆる"一億総中流化"が進み、そのことに日本人自身が満足していた。日本人が格差を気にする国民であり、経済成長しつつ格差是正が実現されることを高く評価していたことは、間違いのない事実と思われる。実際、国民のほとんどが同じ階層に属するという意識のもとで、世界有数の経済大国を実現したことは、世界史上稀有の事例といってよい。 もっとも、この時代のシステムがすべて良い方向に機能していたと主張するつもりはない。結果の平等を重視しすぎたための弊害と思われる事例も、いろいろ指摘できる。 たとえば、昭和42年に導入された、東京都の公立高校への入学希望者に対する、いわゆる学校群制度などは、その最たるものであろう。この制度は、受験戦争の過激化を防止するとの理念に基づいて実施されたものだったが、単に都立高校と私立高校との相対的な地位を大きく変化させただけの結果に終わったとの評価が定着している。すなわち都立高校、特にそのなかでも上位校の地盤沈下により、貧しくても努力すれば誰でもいい大学に入れるという可能性を閉ざしてしまった。この制度は、「自分より上にある人間を自分並みの水準に引き下げようとする俗流平等主義に根ざすものであり、日本人の財産だった刻苦勉励のメンタリティ、すなわち努力すれば報われるという可能性を失わせた点において、日本の衰退の一因ともいえる重大な失政だった」との指摘は的を射たものと思われる*18。 また、昭和40年秋に開始されたプロ野球のドラフト制度についても、戦力の均衡化が大義名分だったが、球児たちから希望する球団に入る自由を奪った。球団の経営努力にも水を差すシステムで、競争原理に反する点において、市場経済においては首を傾げざるを得ない仕組みの導入だったのではないかと思われる。 これら2つの制度、すなわち学校群およびドラフト制は、平等主義に根ざすものであり、格差をなくすことに価値が置かれた、昭和40年代前半という時代の空気を映したものだった。しかし、学校間に学力の差があること、球団間に実力の差があることは、是正すべき格差なのであろうか。本稿では、40ページの脚注2で定義したように、政策的な対応によって是正を図るべき社会的、経済的な差を格差と考えることとしている。このような基準に照らして言えば、これらの制度の導入は、平等主義の名のもとに競争を制限し、社会の活力をそぐものであり、むしろ弊害の方が大きいとみなされよう。社会の活力を維持するためには、個人の努力が報いられるような仕組みが社会的に保証されなければならない。 その後、段階を経て、学校群は完全廃止、ドラフト制も大幅見直しとなった。その背景には様々な要因が考えられるが、結局、世論のバランス感覚が時代とともに変わり、平等主義を重視する風潮から競争原理を尊重する世の中へと基調に微妙な変化が生じたことに尽きるのではないかと思われる。 このような基調の変化は実体面に反映し、バブル経済を経て21世紀に至るまで、日本の経済社会に格差という面で構造的な変化をもたらしたのではないだろうか。そのことに有識者たちが気づき、論争となっているのではないかと考えられる。現状は、結果の平等ばかりでなく機会の平等にも黄信号がともっていると多くの識者が感じており、それが格差論争のもととなっている。そして、格差の存在とそれが拡大しているのではないかと感じる心理的な不安は、少子高齢化や景気低迷に由来する将来についての不安とあいまって、一般の人々の心理状態をいっそう不安定にしている。 不安感と格差意識との間の因果関係については、無論、両面があると思われる。明確な格差の存在がやる気をなくさせ、不安感を高めている面が指摘されていることについては、すでに触れている。他方、もし不安な心理状態が格差意識を助長しているとするならば、人々に安心感を与えることが必要になる。長い間、日本では家族、企業、地域社会などが社会保障制度の代替機能を果たしていた。少子高齢化により家族の諸機能が低下し、企業も家族主義を維持できなくなり、地域社会の相互サポート機能にも希薄化が進んでいる現代社会においては、年金や医療など国によるセーフティ・ネットを整備・強化する必要があることはコンセンサスとなっている。そのことによって、人々に安心感を与えることができれば、過度の格差意識は自然に解消することと思われる。 山崎(2000)の指摘するように、「本来、人間はたんに所得によってではなく、他人の認知によって生きがいを覚える動物であった。嫉妬や自己蔑視の原因は、しばしば富の格差よりも、何者かとして他人に認められないことに根ざしていた」という一面があるわけだから、平等を追求するだけでは、人間にとって必要なすべての要素を満たすことはできないことになる。 平等であること、格差を作らないことの重要性を否定するわけではない。しかし、格差を過大に意識することで余分なエネルギーを浪費する愚は、避けなければならない。スタート時点において、機会の平等を保証することは必要である。また、適切なセーフティ・ネットを整備することで、結果の平等にもある程度は配慮する必要がある。そのような条件のもとで、ボランタリーな行動、譲り合いの精神を発揮し、かつてのわが国のような格差意識のない、安心、安全で安定した経済社会を再構築していく覚悟が必要である。人口減少が現実化することは、さまざまな問題を引き起こすことになるが、特定の仕事だけ外国人労働者に依存するような安易な対応は厳に慎まねばならない。社会を維持するために必要な労働は、これを国民が皆で分担するという心構えが必要である。 |
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■第5章格差問題の本質 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■(1)貧困と格差
途上国を訪れたとき考えるのは、われわれが途上国の人々に対して持っている意識と彼ら自身が感じているであろう意識との間のズレについてである。おそらく、われわれが思うほど、途上国の人たちは自分の生活をよりレベルの向上を図るべきものとは認識していないだろう。そういう意味では、「椰子の木の寓話」*19についても、別の解釈が必要になるかもしれない。通常、意識のすれ違いを表したものとされ、援助側が思うほど感謝されないことに対する失望感のようなものを示す話として語られるものと理解しているが、筆者自身はもう少し椰子の木の下で憩う人の気持ちになってみたいと思う。その人にセンの言うケイパビリティがどの程度与えられているかにもよるが、ドナー側の心配は、「余計なお世話」となる要素をもっているのではないか。 だからといって援助を否定しているわけではない。これまで、貧困について多くの関心が寄せられ、貧困撲滅について様々な対策が講じられてきたわけだが、そのときに本当に彼らの気持ちになって考えることができていたのかどうか、が問われなければならないと言っているのである。 それと同様に、格差についても途上国の気持ちで考えるべき段階になっているのではないか、というのが筆者の問題意識である。確かに国内格差はデリケートな問題であり、途上国自身で真剣に取り組むべき課題であることは言うまでもない。しかし、援助国として途上国の経済発展に協力する過程では、直接あるいは間接的に途上国の資源配分に影響を及ぼさざるをえない。そういう意味では、そのことを常に念頭に置きつつ援助を実施する必要がある。途上国政府とともにこの問題に取り組むくらいの気構えで臨まなければならないと思う。タイや中国の格差問題で述べたように、いまやこの問題の解決なくしては、自立した国としての将来方向を明確に論じることができないような状況になっているからである。 |
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■(2)援助と格差
援助を行う場合の視点の一つとして、被援助国の国内格差を考慮するというのはどういうことであろうか。技術協力の場合、相手国の要請に応じて専門家を派遣する要請主義が基本であり、ドナーとしての方針は一見入りにくいように思われる。しかし、実際は相談しながらの案件の選定ということであり、ドナーの意向は十分反映される仕組みになっていると理解される。 インフラ整備などのODA供与の場合はどうであろうか。この場合も案件の選定までにはいろいろな要素が絡んでくるが、どのような形で被援助国の経済発展を支えていくかといった視点に立って、援助国としての基本方針に沿った援助を実施するのが筋である。内政干渉にならないよう配慮することは当然であるが、かといってまったく被援助国の政策体系に影響を与えずに実際問題として援助ができるのかといえば、それは不可能である。どこに、どういった種類の、どの程度の規模のインフラを整備するかを決定するに当たっては、必要性などといった角度からの審査とともに、国内における立地のバランスなども考慮することになり、それは当然地域間格差にも影響するはずである。とすれば、インフラの整備といった基本的な援助案件の立案にあたって、地域格差についても配慮すべきことは当然であり、当該国の経済計画等と整合性のあるものでなければならないことになる。援助に対するわが国の基本方針においても、地域格差に配慮すべきことが明記されていることは、第2章で述べたとおりである。 日本は、すでに述べたように一連の経済発展の過程を経て成熟段階に達している。格差についても、地域間の所得格差が主たる政策課題だった段階を経て、階層格差を中心に多面的に格差が論じられる段階に至っている。こうした経験を生かし、各国の経済発展段階に応じた、あるべき格差への対応方法について、何らかの知的貢献が必要であり、またそれが可能ではないかと思われる。少なくとも、インフラ整備に当たって、一つ一つの案件をそれぞれ切り離して実施するようなことのないよう、すなわち相互の連携と地域間格差に与える影響までを案件審査や実施段階での考慮事項とするよう、十分に留意すべきである。 そもそも所得格差が縮小されるメカニズムとして、国内の地域格差の場合には、財政(地方交付税や公共投資の傾斜的配分など)や税制上の優遇措置、物価(特に地価)の地域差、等があることをわが国の例で説明した。そのほかにも、個人間の所得移転(年金給付や近親者間の仕送りなど)などが大きな影響を与えることになる。 また、国と国との間の格差に影響を与える要素として、ODA、海外直接投資、移民、為替レートなどがあると考えられる。 市場経済は、競争原理によって経済効率を高める面があることは事実であるが、反面、どうしても格差を生む制度であるとの認識が一般化している。そうであるとすれば、とりわけ資本主義国の間では、その格差縮小に寄与するODAという仕組みの存在価値がいっそう明確となる。その際、単に国家間の格差ばかりでなく、再三指摘しているように、もう一歩踏み込んで、途上国に国内格差(地域格差)があれば、ODAを通じ、これを是正するための考慮がなされてもよいのではないか。途上国では、地域格差が、放置するにはあまりに大きい国がある。そして、こうした国では、政府は経済発展が先決で、地域間の格差はわかっていても解決のための方策が講じられない場合が多いように見受けられる。そのような場合に、ODAを通じて途上国の地域格差を是正するよう間接的にでも影響を与えることができれば、ODAの果たす役割が倍加されよう。 |
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■(3)格差と真の幸福
所得格差を中心に、格差について様々な角度から論じてきた。もし是認できないほどの格差があるとすれば、これを是正することは人々の幸せにつながると思われる。ただ、格差は単純に是正すればいいというものではなく、状況に応じた対応が求められるなど、複雑な要素をもっている。そこで、人間にとって何が幸福の尺度かという点について、各種の要素を検討し、格差との相違点について考えてみたい。 まず、経済学が伝統的に最も基本に考えてきたのは所得である。所得が対象となるのは、何といってもデータが入手しやすいという利点があるからである。金額に換算することによって、長期的な推移や国際間の比較が可能となる。また、国や地域の経済発展の段階や人々の生活水準を測る尺度としても、所得という尺度の有用性は高い。個人レベルの所得を推計することによって、購買力がどの程度あり、それによってどのくらいの生活ができるかが判断可能になる。このように、所得が人間の生活レベルを規定する基準になり、幸せの尺度となることは誰しも認めるところであろう。だが、所得がすべてだというのは、もちろん言い過ぎである。人はパンなしでは生きられない。しかし、パンのみで生きるものでもないという言葉は的を射ている。本稿においても、人間の幸せは所得、すなわち収入だけでは判断できないということについて、すでに繰り返し指摘してきた。 所得以外にも、幸せ度を測る基準はいろいろあるだろう。 たとえば、人間にとって自立性、すなわち自分のことを自分でできることが何ものにも代えがたく重要であるのは疑いのない事実である。この点は見過ごされがちであるが、内戦に明け暮れたアフガニスタンにおいて、教育を受ける自由すら奪われていた女性たちが、戦乱終結後、女性が自分で自分の未来を決められる日がやっと訪れたと喜んでいたという報道などに接すると、あらためてその重要性に気づかされる。(下河辺・根本(2002)) 人間は一人では生きていけないわけだから、自分の属する集団との一体感の確保も幸せの基準となるだろう。家族と一緒であること、地域共同体のなかで一定の安定した地位を保っていること、国(民族)を愛し、その国(民族)の一員として認められていること、自分の属する組織(会社、学校等)のなかで一定の役割を演じ、他の成員たちから認められていること、などが個人の日々の生活を営んでいくうえで、精神衛生の面から非常に重要であることは言うまでもない。 人間の幸せの条件として、長寿であることは欠かせない。近代化の過程で、人間生活には様々な進歩がもたらされたが、平均寿命が延びたことほど喜ばしいものはない。近代化はプラス・マイナス両面をもたらしたという立場にたつ場合でも、寿命の延びたことはプラス面に軍配を大きく傾けさせる。日本において、低所得や高失業率にもかかわらず、沖縄が明るいイメージを持つのは、明るい自然とともに、日本一の長寿県であり、人口増加率が高いからではないか。 人の上に立つことについては、これを喜びと感じる人も必ずしもそうでない人もいるだろうが、国家にとって、覇権を行使できる立場であることは、自らの意思を通すことが容易になるという点において自由度が広くなり、通常、その国民の幸福度は増すことになるだろう。古代ローマ帝国の市民たちは、ローマ帝国に属することによって、周辺諸国の人々より幸福感を味わえたのではないかと想像される。現在では国際情勢が複雑化しているため、覇権国家であることによる責任が増大するなど、単純に喜んでばかりいられない面もあるが、アメリカ合衆国国民は、軍事的な意味で覇権国家であり、基軸通貨を保持し、英語という世界言語を有するなど、多くの点で世界をリードしていることに、実際面での利益とともに、意識するか意識しないかは別にして、精神的に優位性を感じていてもおかしくはない。 最近においては、情報化の進展があらゆる面に影響を与えている状況であり、情報を支配するものがすべてを得るといっても過言ではないかもしれない。デジタルディバイド、すなわち情報を持つものと持たないものとの格差、が懸念されるのも、情報が重要であればこそである。 以上に例示したように、幸せの基準は多様であるが、あればあるほど好都合であり、基本的にそれぞれが両立可能なことが特徴ではないかと思われる。すなわち、所得が増え、自立性を確保し、共同体の利益を享受し、長寿を保ち、覇権国家に属し、十分な情報を入手することができるという生活が可能なのである。これらは基本的に経済発展を遂げることによって可能になるものである。 ところが格差というのは、それらとは根本的に異なる性格を持っている。経済の発展段階にかかわらず、ある人と他の人、ある地域と他の地域との間に、格差があったりなかったりすることについての評価が問題の本質であり、問題の設定自体が相対的なものである点が格差の難しさである。したがって、格差を追求していくと、何が幸せかという論点に帰着することになりながら、格差自体は、単純に幸福度の物差しとして適用できるような指標でないことは明らかである。では、格差の本質とは何だろうか。 |
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■(4)格差の本質
援助を考えるとき、この地上から貧困を撲滅したいという意識は必ず根底に存在するに違いない。人は、衣食足りて礼節を知ると言われるように、最低限の生活が保証されてはじめて、人間らしさを発揮できるものとされる。だから、先進国は途上国を援助し、途上国の人々の生活レベルを引き上げるために貢献する義務がある、という考え方が出てくることになる。そのときに意識されるのは、前にも述べたように、途上国の総体としての所得水準の引き上げであり、インフラの建設や技術協力を通じた、経済発展のための基礎的条件の整備である。 しかし、ここで考えなければならないのは、人間の持つ二面性である。すなわち、人は豊かになることを願い、そのことによって人間性を磨いていくことができる。とともに、人間という存在を複雑なものにしているのは、足らざるを憂えず、等しからざるを憂うという側面が同時に存在するという事実である。人間にとって、充足することより他人と同等であることを願う気持ちの方が強いという本質の指摘である。これら背反性のある二つの欲望の充足が課題となるところに人間心理の難しさがある。 通常は、ある段階に到達するまでは、生きるために最低限必要な基本的ニーズを満たすための措置が先行し、格差にまでは目が届かないが、一定の段階に達すると所得の分配が問題になってくるというのが、よくある現象である。 日本でも、戦後復興からしばらくの時期には、食料等の生きるために必要な基本的物資の確保が喫緊の課題であり、格差などは考えるゆとりもなかったはずである。高度成長初期にも、経済成長率こそ高かったが、格差は急激に拡大した。状況に変化が生じたのは高度成長がある程度進んでからである。統計が示すように、昭和30年代後半から40年代にかけて、ジニ係数などでみた所得格差は一気に縮小した。その理由としては、労働力の地方から大都市への移動など、市場の調整機能が働いたことを重視する見解が有力視されている。ただ、政府も、この時期に、経済計画や国土計画で過密過疎を解消し、国土の均衡ある発展を目指す方針を打ち出している。計画の実効性については、これを実証する手立てがないので、はっきりしたことは言えないが、市場も政府も格差の解消の方向に何らかの形で反応したことは事実であろう。 その後、1990年代後半から、新たな課題として階層間格差が論争になり、経済面ばかりでなく、社会的側面や雇用、教育などの観点からも論じられていることは先に述べたとおりである。 それに加えて、地域開発の領域においても新しい動きが現れてきたことに注目したい。従来、日本の後進地域は過疎化が進み、地域としての活力の低下が懸念されることから、格差是正政策の対象として厚い保護が加えられてきた。離島、半島、山村、豪雪地帯などは、それぞれ個別の振興法を持ち、公共事業の補助率嵩上げをはじめとする手厚い保護のもとにあった。こうした政策については、一定の効果があったと評価される面もあるが、国や地方自治体の財政事情の悪化に伴い、見直しを図るべきとの議論がたびたび行われてきた。(第二臨調や行政改革審議会など。) ところが、最近、画期的な状況変化が生じてきた。それは、補助対象となっていた後進地域から自立心の芽生えと見られる動きが出てきたことである。平成14年に改正された「離島振興法」で、かつては国の補助により「本土より隔絶せる離島の後進性を除去」することが目的だったのが、今回、地域の特性を活かすことによって国に貢献することを目指すという点が明記された。地域格差意識の変化を反映し、価値ある地域差を謳うようになったのは、大きな前進である。この域に達するまでに日本では50年を要したということになる*20。 すでに言及したように、タイはアセアンのなかでもマレーシアに次ぐ発展を遂げている。周辺のラオス、カンボジア、ミャンマーからみれば先進地域であり、労働者の流入も見られる。タイ・バーツ圏を形成するほどの勢いのある国である。 中国も、改革開放以来の高度成長が20年にわたって続いている。その経済力は世界の驚異となっている。北京オリンピックや上海博覧会も予定され、一段の飛躍が期待されている。 このように、両国とも、すでに国内格差に目を向けるべき、そしてその方が経済効率も発揮されるであろうような、一定の発展段階に到達していると考えられる。事実、それぞれの国において、政府が国内における所得や地域間の格差を見過ごしにできない課題として認識し、長期計画において解決を目指すべき具体的目標として掲げている。問題は、単なる言葉の羅列に終わらせることなく、格差是正に向けて具体的な政策を実行に移せるかどうかである。 繰り返し強調するが、格差の問題が単純でないのは、パイを大きくしつつ、同時に分配の公平を図らなければならない点である。途上国政府にとってみれば、GDPを最大限拡大しつつ、地域間の公平性を確保しなければならないわけで、いっそうの政策努力が必要である。このようなときにこそ、先進国の知的貢献が求められる。日本のように、高度成長の過程で同時に所得格差の是正を達成した経験をもつ国としては、それを可能にするための条件はなにか、どうすれば次の発展段階へとスムーズに移行することができるのかなど、ノウハウとして伝えるべきではないか。多額のODAを活かすためにも、この点に関してもっと知恵を絞るべきである。 先ほどの幸福論で言えば、幸福を分け合うところに格差是正論の本質があり、合意形成の難しさもそこに起因する。それだけにもっとも高度な政策目標であり、取組み甲斐のあるテーマであることは間違いのないことと思われる。(本稿は、平成15年3月10日に脱稿した。内容は、すべて個人的見解である。) |
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*1 執筆時の所属は、国際協力銀行開発金融研究所客員研究員 *2 論点の明確化を図るため、本稿で議論の対象とする「格差」について、ここで定義をしておきたい。 手がかりに辞書にあたってみよう。念のため、昭和初年に発刊された『大言海』(冨山房)を見てみると、格差という言葉は収録されていない。当時、この言葉は一般的ではなかった可能性がある。 最近の辞書を見ると、どの辞書にも記載がある。たとえば、『広辞苑』(岩波書店)では、次のように説明されている。 かくさ〔格差〕商品の標準品に対する品位の差。また、価格・資格・等級などの差。「賃金―」 かくさ〔較差〕(コウサの慣用読)二つ以上の事物を比較した場合の、相互の差の程度。 また、『日本語大辞典』(講談社)には、次のように説明されている。 かくさ〔格差〕資格・価格・等級などの違い。difference 比較 較差こうさ。用例 経済力の―。 かくさ〔較差〕「こうさ」の慣用読み。 こうさ〔較差〕《「かくさ」は慣用読み。》最高と最低、最大と最小のひらき。range 比較 格差。 「較差」がrangeという英語で示されるように、幅とか開きとかを説明する用語であるのに対し、「格差」はdifference という英語からわかるように、あるものと別のあるものとの違いを意味している。もう少し踏み込んで考えてみると、「格差」には、「賃金格差」や「経済力の格差」などの用例で分かるように、単なる差や相違点というよりも、水準の差、優劣の差を示すニュアンスがあるように思われる。(これに対して、文化や芸術など質の相違を重視するものについては、差はあるが格差はないと考えるべきものであるから、「文化の差」という表現はいいが、「文化の格差」という表現は適切でないということになる。) わが国においては、選挙区の定数をめぐって「1票の格差」が論じられたり、地域政策で「所得格差」が政策課題となったりしたが、こうした文脈では、格差は放置できない水準の差であるから是正されるべきもの、とのニュアンスを含んでいたように思われる。 以上を勘案し、本稿においては、あるものと、別のあるものとの間に水準や優劣の差があり、政策的に是正するべきであると意識されているもの、あるいは少なくとも是正すべきかどうかが議論の対象となるものを『格差』と定義し、こうした意味に限定してこの言葉を用いることにする。すなわち、相違点があっても、個性や主観の差で説明できるものについては、格差という捉え方をせず、是正すべきかどうかが議論の対象となるような社会的、経済的な差を格差として捉え、これを本稿の分析対象としたい。 *3 和辻哲郎『風土―人間学的考察』岩波書店、1935年 *4 ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄(上・下)』草思社、2000年 *5 援助国側は、バンコクの繁栄だけをみて、援助不要論を唱えがちであり、タイ側は、バンコクと東北タイなどとの所得格差の大きさを強調して、援助の必要性を唱えることになりがちである。地域格差を考慮しないことにも、過大視することにも問題があると思われる。 *6 クズネッツの逆U字仮説とは、一般に所得格差は経済発展段階に応じて変化し、はじめは格差が拡大していくが、ある時期がくると反転して格差は縮小に向かう、というもの。縦軸に格差、横軸に年代をとったグラフで、Uの字を逆さにしたようなカーブが描かれるとの説である。実際には国によって区々であるとの説もある。 *7 国際協力事業団(JICA)では、「ODAが開発途上国の国造り・人造りに本当に役に立っているのかという観点」から事後評価に取り組み、その一環として「タイ首都圏と地方との地域間格差是正」報告書(2001年3月)をまとめた。この調査は、東北地方を事例として取り上げ、JICAが過去に実施した協力の効果を評価する手法について研究し、その手法を用いて実際に評価を実施し、今後の協力に対する提言・教訓を抽出することを目的に実施されたものである。調査を受託した国際開発学会は、分野別評価報告のなかで、道路セクターのいくつかの案件に関連して、「本件のようなプロジェクトにおいても、首都圏と地方との所得格差是正という、より大きな政策目標に寄与するような戦略性を備えるべきである」と指摘している。 *8 ラムカムヘン大王(スコータイ朝第3世(在位1277〜1317年))碑文の一部。 *9 2002年8月2日付け、『産経新聞』による。 *10 呉軍華「中国政府が発表する成長率が疑われる理由」(『週刊ダイヤモンド』2002年8月24日号)による。 *11 関志雄「中国経済の成長は続くか―高まる人民元の切上げ圧力、不均衡成長は限界を迎える」(『週刊ダイヤモンド』2002年12月28日・2003年1月4日新春合併号)による。 *12 交流会における日本側の中心メンバーは、大来佐武郎、向坂正男、佐伯喜一、河合良一、篠原三代平、下河辺淳、宮崎勇といった方々によって構成されてきている。また、中国側からは谷牧・国務院副総理(当時)のほか、馬洪、房維中といった国家計画委員会や国務院発展研究中心の幹部たちが参加しており、朱鎔基・前首相も一時期交流会のメンバーとなっていた。 *13 各回の開催報告書による。 *14 日本広東経済促進会における日本側顧問は、宮崎勇元経済企画庁長官、および井戸敏三兵庫県知事。会長は、児玉洋二山九副社長。中国側のメンバーは、広東省政府代表団である。 *15 たとえば、Hugh Patrick & Henry Rosovsky,“Asia’s New Giant”, The Brookings Institution, 1976(金森久雄他監訳、ブルッキングス研究所『アジアの巨人・日本』日本経済新聞社、1978)には、日本の高度成長についての詳細な分析がある。 *16 2002年9月27日付け日本経済新聞による。 *17 たとえばロバート・B・ライシュ著、清家篤訳『勝者の代償』東洋経済新報社、2002年には、「要するに、ニューエコノミーの報酬は、より荒々しく、保障の弱い、経済的に格差の大きな、社会的に階層化された生活という代償とともにもたらされているのだ。」という指摘がある。また、週刊ダイヤモンド2002年9月28日号によれば、「米国企業のCEO(最高経営責任者)の所得は、1965年には平均的労働者の26倍だったが、1989年には72倍、2000年には310倍に跳ね上がった。」とされる。 *18 2003年2月26日付け讀賣新聞の「論点」に投稿された、鹿島茂・共立女子大学教授の意見。 *19 西垣昭・下村恭民著『開発援助の経済学』有斐閣、1993年(7ページ)による。 |
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■「社会階層・意識に関する研究会」報告書 2003/7 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■T.研究会の目的等
日本社会においては、戦前の階層社会から、戦後の高度成長期を経て、個々人の豊かさの拡充を通して、国民の多くが中流意識を持つ「一億総中流社会」になったとまで言われてきました。ところが、バブル期の到来とその崩壊を経て、その後の「失われた10年」と呼称されるような景気停滞が続いた1990年代には、所得格差や不平等という「社会階層」に関連するテーマが取り上げられるようになりました。 そして現在でも、雇用面での終身雇用・年功序列型賃金体系から、実績・能力主義型の賃金体系へのシフト、非正規雇用の増加、企業の倒産等による失業者や若年層のフリーター増加、教育における学力格差、といった「格差拡大、社会の階層化」と関連する事象が指摘されています。 現状において、実際に社会階層分化及び階層の固定化の動きが進んでいるとすれば、日本の社会経済の構造自体の変質を意味するものと思われます。このため、財務総合政策研究所では、「社会階層・意識に関する研究会」(座長:樋口美雄・慶應義塾大学教授)を設け、平成14年11月から平成15年5月にかけて、6回にわたり研究会を開催し、社会階層にかかる現象について、所得格差や資産格差、社会階層の固定化・閉鎖性、教育における階層差、男女間格差、消費行動や意識の変化など、様々な視点から研究を行うことで現状を把握するとともに、今後のわが国の経済社会の在り方について活力、効率性、公平性等の観点から議論を行ってきました。その成果を踏まえ、研究会メンバーによる分担執筆により、報告書を取りまとめました。 |
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■U.報告書の概要
■(1) 経済的格差について 所得格差については、家計調査の課税前年間世帯所得のジニ係数でみると80年代半ばから格差拡大となっている(図表1)。しかし、この主因は人口構成が高齢化した結果であり、同一年齢間での格差の拡大は小さいものとなっている。しかし、生涯所得の格差を代理する消費の格差は所得格差と同程度か、それ以上に拡大している(年齢別では、50歳未満層で拡大、50歳以上では縮小傾向)(図表2)。 図表1 所得不平等度の推移 図表2 年齢階級別消費不平等度の推移 全国消費実態調査(等価消費)の対数分散 資産格差については、日本においても資産(ストック)格差は所得(フロー)格差より大きいが、国際的には小さい方であり(図表3)、バブル期以降の地価の下落もあって土地資産はそのウェイトを減じている。遺産額も少額化して生涯所得に対して大きな金額ではなくなってきている。(太田論文)しかし、50歳未満年齢層の消費格差拡大の要因のひとつとして、少子化による遺産格差の拡大の可能性が挙げられる。 図表3 資産格差の国際比較(ジニ係数) 動態的な所得階層間の流動性(時間の経過とともに所得階層を移動する度合い)については、ここ10年弱の間、経年的に所得階層間の移動確率は低下傾向を示している(図表4)。(樋口他論文) 図表4 夫所得階層間移動確率(全体/コーホート A+B) ■(2) 職業的地位からみた社会階層について 社会階層議論の端緒の一つである、職業的地位からみた社会階層が学歴を媒介として親から子に継承されるという「階層再生産論」について、当該調査(1955年から1995年にかけてのSSM調査データ)においては、全体では階層移動の開放性が高まっていると否定し、唯一閉鎖性が高まったといえる「40歳時・ホワイトカラー雇用上層(W雇上)」(図表5)についても、その原因は学歴媒介性の高まりによるのではなく、むしろ大卒者の間でも自営業出身などで学歴によらない継承性が高まっていたことなどが影響しているとした。 図表5 上位階層の閉鎖性のトレンド(40・50代、対数オッズ比) 1980年代から2001年にかけての、日本とアメリカ、ドイツの国際比較を行った結果、世代間階層移動については、日本ではブルーカラー階層は開放的で、継承性も低いという特徴はあるが、国毎の階層分布の違いを除いた相対的な移動、継承チャンスの格差は各国とも似通ったパターンとなっている(図表6)。階層帰属意識(社会の中でどのような階層に属するのかの主観的な位置付け)では、日本とドイツは「社会階層」(ホワイトカラー、ブルーカラー、自営、農業)が最も大きな影響を与える重要な要素となっているとの成果を得た。 図表6 日米独の相対的継承チャンス(対数オッズ比) ■(3) 教育における格差について 学歴は親から子への階層媒介機能を果たすとされるが、その教育における格差について、生まれた家庭の社会階層差が、文化階層差とあいまって、子供の成績や学習する力に明瞭な影響を与え、しかも、その影響力が強まっているとの実態を指摘している。例えば1979年と1997年とで、社会階層が中学時代の成績に及ぼす影響力の変化を取り出し、比較を試みている。その結果、中学時代の成績の階層差が、この間に拡大していたことが統計的に証明されており、このような学業達成における階層差を踏まえた教育政策が重要であると結論付けている。 ■(4) 自営業の所得低下について 90年代を通じて、自営業は、市場所得(当初所得)と再分配後の所得のいずれでも被雇用者に比べ低下が著しいものとなっており、これが自営業者数減少につながっている。(玄田論文) 実際、90年代に、自営業・自由業の平均年収が減少している動きもみられる。 ■(5) 男女間格差について フルタイム雇用者の男女間賃金格差は改善されたとはいえ、先進諸国にくらべて大きな格差が残され、また、女性雇用者の中でウェイトが高まっているパートタイムの、フルタイムに対する賃金格差は拡大している。 ■(6) 階層と消費行動について 階層差に基づく消費行動についての国際比較では、欧米では階層やエスニシティの影響が消費行動に表れており、これに基づきマーケティング戦略も立てられているほどである。これに対し、日本では性・年代・収入・趣味等で多くを説明でき、収入と生活様式も一致しないので、階層の意味合いが薄い。日本でも生活の場面ごとに階層意識はある(例えば、「住まい」や「住まいのある地域」など)が、生活分野を貫いた形での全体としての階層帰属意識は見えにくい。 ■(7) 若者の階層化と意識変化 所得階層と階層意識という点では、ここ10年弱で人々の生活程度に関する意識(=階層意識)のみならず、満足度も所得階層間でわずかながらも格差を拡大している。 格差を人々が如何に受け止めるか(perceive)は、所得階層とはリニアではない複雑な関係であるが、「国民生活選好度調査」によれば、格差の受け止め方の指標である「満足度」や「やる気」が低下している(猪木論文)ことが見受けられ、階層意識の分化が進んだり、「満足度」、「やる気」という社会の安定性や活力に関する意識が全体として低下するといった兆しがみられている 。 特に若者に焦点を当てると、90年代を通じて、若年層の所得は高齢層に比べた優位性が失われ(高齢者への定年延長や社会保障拡充等に対し、失業率上昇等を背景に若年所得は相対的に劣化)(玄田論文)、ニューエコノミーの進展等による職業の二極化(中核労働者と単純労働者(フリーター等))や雇用の不安定化、そして家族形態多様化(高度成長期では、多くの若者が似たようなライフコースを辿っていたものが、現在ではパラサイトシングル等の家族形態の多様化が見られる。)により、自分の能力・努力とは無関係に生活水準が決定される傾向が強まり、若者の「やる気」が失われる状況が進行している。これを放置すれば、将来社会の不安定要因となる可能性が高い。 ■(8) 「機会の平等」と活力ある社会について 格差論を考える際に重要な「機会の平等」と「結果の平等」の関係と、今後の社会の在り方について、「機会の平等」を確保し、自由競争を促す「規制改革」は、規制に伴う生産者や一部の消費者の既得権を解消させ、経済の効率性だけでなく社会の公平性をも向上させると位置付け、規制改革が公平性を犠牲にするという通説を否定している。代表例として、労働市場や医療・福祉の規制改革は、既得権益を持つ者とそうでない者の格差を是正し、公平を実現するとしている。 男女の「機会の平等」という点では、政策において、「男性稼ぎ型」の補強から、女性の社会参加を支援する「両立支援型」へ転換が図られている点を踏まえ、結果平等を睨みながら男女間の「機会均等」を推進することは、少子化対策等社会的にも意義があるとしている 。(大沢論文) ・ 一方で、機会の平等の結果として表れる格差の受け止め方は、社会安定の重要なポイントであり、格差を「適正」と感じさせ、「嫉妬」に転じさせずに「やる気」につなげるようなシステムを構築することが必要であるとしている。また、「中間層」の存在は社会の安定にとって重要であり、過度の豊かさ、貧しさの二極化は避けるべきとの考えも示された。 ■ 以上、各研究成果を総覧すると、所得格差、社会階層については、全体として、現時点で大きな変化があるとまでは言えない。しかし、静態的な所得格差は、年齢効果を主因に近年わずかな拡大を示し、また、動態的な所得階層間の移動確率は低下し、所得階層が固定化する兆しをみせている。しかも人々の生活程度に関する意識のみならず、満足度も所得階層との関連をわずかながらも強め、意識面においても階層間の差が広がる傾向にある。その要因が日本の経済社会構造の変化によるものなのか、景気停滞によるものなのかはデータの追加等で見極める必要がある。 こうした状況が今後も継続していった場合、低位にある人々のやる気は削がれ、向上心が失われてしまう危険性さえある。社会の活力となる「やる気」を失ってしまう社会階層の二極化、固定化は避けなければならないであろう。結果の平等を達成するだけでは、人々のインセンティブは高まらない。人々のインセンティブを高めていくためには「努力が報われる」仕組みが必要であるが、その結果として表れる格差を、いかに人々が納得できる範囲に抑え、その意識を「嫉妬」に転化させず、「やる気」につなげていけるかが重要である。その大前提として、誰にも公平な機会が与えられ、いつからでも再挑戦のできる、やり直しのきく社会が形成されなければならない。 経済の低迷が長期化し、高齢化が進展すると、どうしても所得格差の拡大・階層の固定化が起こりやすくなる。閉塞感を打破し、活力ある日本社会を築いていくには、これまで以上に機会の均等や再挑戦の可能性を重視した施策が必要となろう。 |
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■V. 各章の要約
■第1章 所得格差の拡大はあったのか 大竹文雄(大阪大学社会経済研究所教授) 本章では、所得格差の拡大は本当にあったのか、あったとすれば、どのようなタイプの所得格差の拡大であったのか、という点について、現在得られるデータをもとに議論した。日本の所得格差の変化の特徴は、所得格差の拡大の主要要因は人口高齢化であり、年齢階層内の所得格差の拡大は小さいことである。しかし、生涯所得の格差を代理する消費の格差の動きは、所得格差の動きとパラレルか、所得格差よりも早いスピードで拡大していることも特徴的である。年齢階層別にみると、消費の格差拡大は、50歳未満の年齢層で観察される。こうした現象を説明する仮説としては、(1)所得階層間移動の可能性が若年層で低下、(2)若年失業率の上昇を通じた生涯所得格差の拡大、(3)消費者信用(金融市場)や家族の所得保証機能の低下、(4)遺産格差を通じた資産格差の拡大、が挙げられる。 ■第2章 日本における資産格差 太田清(政策研究大学院大学教授) 本章では、日本における資産格差の実態をバブル崩壊から10年余りを経て再び眺めてみて、以下の点が明らかとなった。 (1)一般に資産ストックの方が所得フローよりも格差が大きく、日本でもそうである。 (2)バブルの崩壊以降、資産格差は全体として縮小してきている。土地資産がその規模、ウェイトを減じている一方、金融資産は着実に積みあがり、フローの所得に対する倍率も大きくなってきている。欧米では実物資産よりも金融資産の方の格差が問題とされることが多い。日本は実物資産のうち土地資産が大きいことから実物資産の格差が問題とされてきたが、バブル崩壊もあってこの状況は次第に変わりつつある。また、人的資産も含めて考えてみると、これまでは土地資産のようにもともと存在する資産の保有格差に目が向けられていたが、今後は、個人の能力を表し、勤労所得の源泉となる人的資産の格差(及びそれを反映したフローの所得の格差)がより重要になってくるとみられる。(3)国際的に比較してみると、可処分所得格差の大きさでは先進諸国の中で中位くらいにある日本は、資産格差ではより小さい方に位置する。(4)遺産の存在は日本でも資産格差を拡大させているとみられるが、地価の下落もあって遺産額は少額化してきており、平均的にみれば、生涯所得に対して大きな額ではなくなってきている。ただ、今後は少子高齢化の中で、個人の資産形成における遺産のウェイトは高まっていく可能性がある 。 ■第3章 パネルデータにみる所得階層間の流動性と意識変化 樋口美雄 (慶應義塾大学商学部教授) 法專充男・鈴木盛雄・飯島隆介・川出真清(財務総合政策研究所) 坂本和靖 (一橋大学大学院博士課程) 本来、所得分配面における方向性を検証するには、一時点でみたとき人々の所得がどれだけ異なっているかという静態的所得格差と、時間の経過とともに所得階層が固定化する傾向にあるのかどうかという動態的所得変動の二つの尺度が必要である。本章では、(財)家計経済研究所の『消費生活に関するパネル調査』を用いて、90年代に入ってからの静態的所得格差の変化に加え、従来、ほとんど行われてこなかった動態的所得変動の分析、さらには所得格差の意識への影響について分析を行った。分析結果をみると、静態的な所得格差は、年齢効果を主因に近年わずかな拡大を示し、また、動態的な所得階層間の移動確率は低下し、所得階層が固定化する兆しをみせている。夫所得と妻所得の補完関係をみると、夫所得の低い世帯で妻就業率は高いがその賃金は相対的に低い上に、女性就業率の上昇等から「高所得の夫と高所得の妻」が増える兆しがみられる。そして、意識においても、人々の生活程度に関する意識のみならず、満足度も所得階層との関連をわずかながらも強め、意識面においても階層間の差が広がる傾向にある。景気停滞による一過性の現象なのか、それとも日本経済の構造転換に伴う恒常的な動きなのか、今後、新たなデータを追加することによって見極めていかなければならない。活力ある日本社会を築いていくには、これまで以上に機会の均等や再挑戦の可能性に目配りした施策が必要となろう。 ■第4章 階層再生産の神話 盛山和夫(東京大学大学院人文社会系研究科教授) 近年、様々なところで「不平等が拡大しつつある」、「機会が閉鎖化しつつある」あるいは「階級社会が到来しつつある」というような議論が盛んに述べられ、多くの場合は、単なる推測や懸念が語られているだけなのだが、いくつかの議論ではデータも示されている。本稿は、そうした階層再生産拡大説が、基本的に「学歴媒介性が強化されたことによって階層移動の閉鎖性が強まった」と考えていることに注目し、その推論には根拠がなく、次のような理由によって、神話に近いものであることを指摘する。すなわち、第1に、データの大勢は階層移動の開放性が高まったことを示しており、閉鎖性が高まったことを示しているのは、「40歳時ホワイトカラー上層(W雇上)」だけである。第2に、階層間の学歴格差が拡大しているという証拠は何もない。第3に、それが拡大しているという思いこみは、いくつかの統計的錯覚(90年時点で40歳の人が社会人となったのは70年代であり、学歴に関する環境は現在と異なることを認識していないなど)によるものである。そして第4に、「40歳時W雇上」の閉鎖性は、階層間の学歴格差の拡大によってではなく、学歴と本人階層との関連のしかたの階層間での違いが拡大したためである。 ■第5章 社会階層と階層意識の国際比較 石田浩(東京大学社会科学研究所教授) 日本社会において社会階層の持つ意味を検討するため、世代間階層移動のパターンと階層意識の規定要因について、アメリカとドイツとの国際比較の枠組みの中で検証した。親の世代から子どもの世代の間にみられる階層の移動と継承パターンの分析では、日本のブルーカラー階層は(他階層からの流入に対する)閉鎖性や、親階層の(次世代への)継承性が米独に比べ低いことが明らかになった。このことは、日本における労働者階級意識の希薄化と中流意識の拡大と関連していると考えられる。他方、国ごとの階層分布(「周辺分布」)の違いを捨象した、出身階層間の相対的な移動・継承チャンスでみた格差では、日米独の3国できわめて似通ったパターンを示しており、階層構造の閉鎖性・開放性では、日本はアメリカ・ドイツと大きく異なるわけではない。 階層帰属意識(社会の中でどのような階層(上層・下層など)に属するかの主観的位置付け)を規定する要因として、社会階層(ホワイトカラー、ブルーカラー、自営、農業)、学歴、職業的威信、所得という4つの社会・経済的な指標の相対的な重要性を検討したところ、日本とドイツにおいては、社会階層が最も大きな影響力を持つことが明らかとなった。このことは、社会階層が人々の主観的な意識形成についても依然として重要な影響を与えていることを意味している 。 ■第6章 教育における階層格差は拡大しているか −社会的セーフティネットとしての公教育の政策課題− 苅谷剛彦(東京大学大学院教育学研究科教授) この章では、学業達成における階層差の実態と、それが近年拡大している傾向性について、様々なデータを用いて実証的な分析を行った。その結果、中学2年生の数学で成績下位となる可能性は、通塾の有無の強い影響を受けること、家庭の文化的環境と密接な関係のある生徒の基本的生活習慣の影響を受けていること、さらにはこれらの影響が90年代に拡大する傾向が見られることがわかった。また、小学生でも中学生でも、「新しい学力観」でいわれる自分で調べる学習などへのかかわりには家庭の文化的環境による明瞭な格差があることも確認された。さらに、1979年と1997年とで中学時代の成績(自己評価)に及ぼす出身階層の影響を比べると、97年において出身階層の影響が強まっていることも明らかとなった。これらの結果をもとに、学業達成における階層差を無視した教育政策・教育改革の問題点と社会的セーフティネットとしての義務教育における学業達成の格差拡大抑制の必要性について議論を展開した。 ■第7章 劣化する若年と自営業の所得構造 玄田有史(東京大学社会科学研究所助教授) 1990年代を通じて、10代や20代の若年層の所得は60代の高齢層に比べた優位性が失われ、自営業も被雇用者より所得面で劣位となっている。1989年と1998年の旧厚生省「所得再分配調査」から、それらの格差の動向を検討した。 市場経済活動による所得を年齢間で比べると、1989年には60代は20代よりも劣位にあったが、98年に60代と20代の所得差は消失している。市場所得に年金、社会保障、税金等を考慮した公的再分配所得で比べると、89年時点でも60代は20代より高所得だったが98年にその差は拡大した。定年延長等による就業拡大と年金等の社会保障制度の整備は、高齢者の所得状況を改善する一方、若年所得は失業率上昇等の就業機会の悪化を背景として相対的に劣化した。 自営業所得は市場所得と再分配所得のいずれも被雇用者に比べて低下が著しく、自営業減少の一因となった。近年における自営業の所得構造の特徴として、加齢に応じた所得上昇の停滞、雇い人のいる場合の所得低下や、東京を含む南関東圏の高所得傾向の消失等が挙げられる。特に、一定規模以上の事業を展開していた事業主や、バブル経済崩壊後の債務負担。 ■第8章 階層格差が若者の心理・行動に与える影響について 山田昌弘(東京学芸大学教育学部助教授) 階層分析にかかわる枠組みの変更が求められている。従来の階層論では、職業の安定性と家族形態、ライフコースの画一性を前提にした分析が行われていた。それは、男性の職業によって階層を代表させるというモデルであった。それは同時に、男性の能力、努力が生活水準に直接反映されるという「希望」に満ちたモデルであり、経済の高度成長期に最もよく当てはまった。 しかし、ニューエコノミーの進展によって、職業の二極化、リスク化が生じている。また、「パラサイトシングル」など、家族形態が多様化し、ライフコース予測の可能性も低下している。すると、男性の職業では階層が代表できなくなる。そして、男性の収入だけでなく、女性の就労状況や親の支援の有無、家族負担の有無など、自分の能力・努力とは無関係なところで、生活水準が決定される状況が若者において強まっている。 今まで、経済の高度成長と職業・家族の安定によって若者の希望が保たれていた状況が失われつつあり、能力が特段優れない若者のやる気が失われる状況が進行している。これを放置すれば、将来、社会の不安定要因となる可能性が高いため、努力が報われるような仕組み(アルバイトから正社員への登用制度等)が必要である 。 ■第9章 格差/平等論と社会政策改革 −ジェンダーの視点から− 大沢真理(東京大学社会科学研究所教授) 「結果の平等」重視の見直しを求める「公正な格差」論が90年代後半から主流となり、99年2月の経済戦略会議最終答申「日本経済再生への戦略」でも表明されたが、男女間格差、ジェンダーの視点は乏しかった。社会的な格差/平等をめぐる最近の論争も、男性の一部に土俵を局限するものに過ぎず、男女格差の問題意識は薄かった。また、フルタイム雇用者の男女間賃金格差は改善されたとはいえ、先進諸国にくらべて大きな格差が残され、女性雇用者に占める比率が上昇したパートタイムのフルタイムに対する賃金格差は拡大している。 政策については、80年代は強固な「男性稼ぎ主」型システムの補強、90年代も後半では「両立支援」型への動きがみられるものの総じて「失われた10年」だった。それに対し、経済戦略会議の延長線から出発した「骨太方針」、「骨太方針第二弾」では、所得税の配偶者控除や年金制度の見直し等「両立支援」型の政策が明らかにされてきている。 男女賃金格差縮小や雇用機会均等施策という形で、結果平等を睨みながら、機会均等を推進して、女性の経済力をつけることが、財政再建、少子化対策としても有効である。 ■第10章 消費の現場と階層意識 関沢英彦(東京経済大学教授・博報堂生活総合研究所長) 欧米と日本のマーケティングにおいて、階層という考え方がどう把握されているかを中心に見ていくと、欧米では、階層やエスニシティごとに消費行動が異なるため、マーケティング活動においてこれらは重要な要素とされ、市場分析に活用するのも当然とされている。 これに対し、日本では、階層・エスニシティを持ち出さなくても性・年代・収入・個人的趣味嗜好で、市場動向の多くが説明できる。収入と生活様式も一致しないので、階層という概念を使う意味合いが低いとされている。(高級ブランドバックも、階層が異なるというタブーを感じずに購入する) しかし、階層の意識が存在しないわけではない。調査結果では「社会階層差」を高く感じる生活分野があり、「住まい」や「住いのある地域」は社会階層の差異が顕著に表れる。「旅館・ホテル」も階層差意識では上位であるが「一晩単位で借りる住まい」なので、容易に「階層上昇」が可能な点で意識が異なる。「ブランドもののファッション」は「日常の衣生活」に比べて階層の差があると思う率が高い。このように、日本でも、生活の場面ごとには階層を意識されるが、生活分野を貫いた形での全体としての階層帰属意識が見えにくいために、階層概念はマーケティングの現場で使用されないのであろう 。 ■第11章 規制改革を通じた公平性の確保 八代尚宏(日本経済研究センター理事長) 規制改革が公平性を犠牲にするものという通説は誤っている。規制改革は市場競争を制約する規制を撤廃し、規制に伴う生産者や一部の消費者の既得権を解消させるという意味で、自由貿易と共通している。いずれも、経済の効率性だけでなく社会の公平性をも向上させる。労働市場の規制改革で、雇用契約の自由化を図ることは、多様化する労働者の働き方に対応するとともに、正規社員を非正規社員との対等な競争に晒すことで、両者の賃金格差の縮小に貢献する。医療改革の内、保険診療と保険外診療との併用を容認することは、質の高い保険外診療へのアクセスの平等化を図るとともに、利用者主体のサービス産業としての医療を目指す。福祉の規制改革では、限られた利用者だけを対象とした高コスト構造の介護施設や保育所について、施設補助から利用者補助への転換を進めれば、福祉施設を利用できる人々とできない人々との間の格差を是正することができる。多くの利用者にとって効率的な規制は、同時に公平な規制でもある。 ■第12章 なぜ所得格差が問題か−今後のリサーチの方向についての試論− 猪木武徳(国際日本文化研究センター教授) 所得格差の解析は重要だが、その格差を人々が如何に受け止める(perceive)かは、社会の安定性や秩序にかかわるさらに重要な問題で、所得格差とリニアな関係にない複雑な構造となっている。満足度の構造について、アダム・スミスは、(1)他人への意識は、その所得や地位の向上のスピード、努力、運等の違いに依存する(納得できないと嫉妬心が生じる)、(2)大きな差異がないと嫉妬と怨望で不安定化するおそれがある、(3)自分と他人の差異の過大評価は悲惨をもたらす、としている。 人々の意識を表す「国民生活選好度調査」では、格差、機会平等の問題の受け止め方の指標である「満足度」で「不満」増加傾向にあり、一方で「やる気」も低下(経済的な豊かさと情報の高度化が挑戦心を阻害)している。 社会にとって、人々が「やる気」を持てるか、格差を「適正」と感じられるかは重要なポイントで、そのために「機会平等」がもたらす「結果の不平等」が生む嫉妬心を冷やすシステムが必要であり、また、精神的に安定している「中間層」という存在は、「善き社会」にとって重要であり、過度の豊かさ、貧しさの二極化は避けなければならない 。 |
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■生活満足感と中流意識 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■問題設定
主として現在日本の経済社会を環境として、諸個入はどのような社会的存在としての意識と行動をとることになるのかの大きな中心テーマの一つは、社会階級・階解はどのようなものとして実体的に形成されているのかという問題であろう。 ここで取り扱う主題は、この大きなテーマの部分的な一問題である。経済社会体制を所与の環境とするとき、人々の存在は、それに規定され、また反作用する生活者の生活体系として理解する事ができよう。この生活体系は、さまざまなニーズを諸生活活動によって充足する過程を要素とする生活活動のシステムと理解される。これら生活活動は一面で技術的なものであるが、他面で何らかの協働の関係のもとでの協働行動として行なわれている。こうした生活活動は、一方で客観的なものとして分析されると同時に意識としておさえられ、一つの意識的な行動として行なわれているものと分析できよう。これらの意識は幾つかの次元をもつものと考えられるが、ここでの関心は生活意識である。生活意識の中でもニーズ充足活動の結果に伴う意識としての生活満定意識に焦点をおいている。経済社会体制が与えるinpactsや個人の生活体系に配分される不平等なinputsなどが、諸個人の生活構造を何らかの階層的なものとして分化せしめる事になるが、人々はこれを何らかの枠組みで階層として認知し、自己を何らかの階層的地位に帰属するものとして認知している。客観的な地位が異なるに応じて異なる生活構造は生活満足のあり方にも相異をもたらすであろうし、階層的地位への帰属意識とも密接に相関するであろう。こうして、ここでは、幾つかの異なった職業階層に対応する生活満足のあり方と、階層帰属意識がどのような関係にあるのかを検討しつつ、現在の日本において実体的に成立している社会階級・ 階層の一面を明らかにしょうとするものである。 現在、多くの論者が実証的な分析を媒介にして、生活体系の面から階級・階層構造にアプローチしている。ここではその詳細については論ずる事はできないが、そうした論議の中で日本の階級・階層構造が十分に明らかにされたとはいいがたい状況にあろうと思われる。そうした経過の中で多くの人々が、意識と行動の面に関心をもつとき、今日こ中流帰属層こに注目しつつある事が顕著な一動向となっているといえよう。私はそうした関心を共有しつつ、生活満足意識と中流階層帰属意識の関連を調査を通して明らかにする作業を最近試みた。いわゆる中流意識とよばれるものは「くらしがどの程度のものか」の質問に対するものであり、このくらしの程度によって階層帰属を回答してもらっているという内容のものである。しかし、他方で我国における社会階級帰属意識は、現段階において、すぐれて中流意識として存在じているのではないかとも推定される。社会階級として自己を意識し認知するときにその認知的価値標準となるものとしての階級・階層イデオロギーの作用は大きいと思われるが、一方でこ階級意識ぐの内容、定義づけは大きな変化を示しつつも明確に共有される定義づけを形成しえておらず、他方で、中流階層枠組みが、生活福祉を究極的な価値とする動向とも結びつき、わかりやすい社会階層の認知的価値標準として多くの人々に共有されつつあるのではないかとも思われる。こうして、ともあれ、中流意識は今日、社会階級・階層構造の点でも注目されなければならないのであるが、この中流(階層帰楓)意識は、なかんずく、「くらし全体の満足」意識と強い相関をもち、この満足の程度と照応するかのように理解される。この点については、多くのデータが示すところであり、私自身のデータでも常に確認してきたところである。しかし、私は前回の調査論文において、この「くらし全体の満足」は一般に理解されるよりは世帯の収入一消費のレベルという意味での家計レベルの満足に大きなかかわりがあると同時に、それにとどまらず、労働一余暇過程という労働生活レベルの満足もまた大きな関連をもっているのではないかと分析した。(註1>これをうけて、今回の私の調査は、家族生活、職業生活、住民生活の各生活場面の中での生活福祉追求をとりあげ、それらの生活満足が、生活満足全体の中でどのような構造をとっているのかを解明しようと意図してみた。本稿は、階級・階層意識σ)解明にまでこの分析を展開する事は必ずしもできなかったが、生活福祉の労働一生活過程を基軸とした私的追求一満足の文脈で、人々はその生活体系の階層的特性を自己評価し、帰属意識をもつにいたっており、そうした文脈から今日の多数の人々の社会階級・階層としての意識と行動を主として方向づけているのではないかと仮定して、そうした文脈を部分的にでも明らかにする事を願いつつ分析を行なってみたものである。いわゆる1階級意識ことして問題とされてきたものは、私の理解では最広義には生活主体が生活福祉を私的に追求するにとどまらず、社会的主体を形成する方向での営為にかかわるものであり、そうした営為の一つの社会的所産であって、そうした文脈での生活主体の階層としての特性が今日どのようなものとなっているかの実態分析は今後の課題であると考える。ここでの問題はとりあえず生活福祉の私的追求一満足の文脈での階級・階層特性という側面に限定される。 |
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■ケースの属性について
さて、今回私たちの収集したサンプルの属性についてその特性をまず述べておきたい。 私たちは岡山市内の職業科高校および普通科高校のなかから、県立高校のみ選び、職業科高校4校、普通科2校の52年度卒業生名薄よりサンプリングを行ない、その出身階層調査を行なった。調査は昭和58年1月に行なわれた。本稿では、出身階層についての分析を行なうわけではなく、そこに含まれる種々の職業の人々に関して、その生活満足意識と階層帰属意識に関して、意識分析を行なうことを課題としている。さし当って、分析の対象は種々の職業階層の人々であり、岡山市高校生の家族という母集団全体の階層構造を問うわけではない。いわば、286ケースの種々の職業階層に属する人々に関する事例の集計だというべき性質のものである。したがって、ここでは、我々の取り扱った事例がどのような人々からなるのかを示すという意味で、そのサンプルの属性を示しておく。回答者は52年度高校卒業生の家族の世帯主であり、おおむね40代後半から50代の年齢層の男子である。 表1、表2は我々の分析の対象である高校生の世帯主の職業および従業上の地位の構成である。55年度岡山市の「従業上の地位別就業者」構成と比較すると、雇用者が14%少なく、「雇人のない自営業主」が10%多くなっており、岡山市民の構成と比較すると我々のサンプルは自営業者層に偏っているといってよいだろう。 表1 世帯主の従業上の地位 表2 世帯主の職業 表3は前2表を組み合せて近似的な階級・階層構成をえたものであり、職業階層というとき、このコーディングによるものである。各職業階層に含まれるケースとしては、不生産的労働者層が少なく、ほとんど問題にする事ができなかった。 表3 職業階層構成 表4は規模別にみた職業諸階層で、我々の事例では、家族従業者のみでの規模が22.4%、1人〜29人以下零細が、18.5%、計41%を占めている。また30〜1000人が21.6%を占め、1000人以上16%であり、官公庁12.2%と合計すると、28%が規模の大きなところで働いているということになっており、全体として60%が中小・零細規模での就業者であった。しかし、サラリーマン層の6割以上は大企業、官公庁勤務者であり、生産的労働者層の約40%弱は1000人以上・官公庁勤務者であるという点で他の階層に対して特色を示している。また、我々のサンプルに含まれる会社役員・管理職層は、80%が1000入未満規模であり、特に300人未満規模の中小企業で55%を占めている事も注意しておきたい。 表4 規模別職業階層 表5、表6は収入階層と職業階層のクロス表である。収入階層は、ここでは収入満足の程度との照応から4階層に分けておいた。図1によると、あまり明快とはいえないが、375万以下層で基本的に大多数が収入不満であり、675万以上で満足が過半を占めることになっている。 表5 世帯主収入階層別職業階層 表5は世帯主収入による取入階層との対応をみたものである。我々のサンプルの構成からすると.、会社役員・管理職層は、その4割弱が最上屑に属するという点できわだっている。また、会社役員、管理的公務員、専門的・技術的サラリーマンのいわゆる上層サラリーマン層は、その大半が、375万一一675万以上層に属するという点で、それ以外と異なった特色をもつ。自営業層や生産的労働者層は、これに対して、その大半が375万以下層に属する低収入階層である。これに対して、事務従事者は両者の中間に位置する収入階層となっている。農民層は、その6割強が375万以下の低収入層となっている。また、自営業者のうち、販売自営業者層にもっとも低収入の人たちが目につく。 表6 世帯総収入別職業階層 表7の1は、我々のサンプルに含まれる学歴階層にどのような職業階層の人々が多いかを示したものである。旧制度の学校については、新制レベルに対応するものに含めてまとめてある。同じく表7の2は収入階層と学歴との対応をみたものであり、学歴と収入の相関の高さをうかがわしめている。 以上の我々が取扱ったケースの職業階層の属性上の特性の概観を前提として、これら全職業階層を含んだ全体の平均的な生活満足意識を次に記述しておこう。 |
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■生活満足意識の内容の概観
さて、我々はまず生活満足意識について問題にしてみよう。ここでの我々の意図は、まず、生活体系の全体にわたって充足がめざされる様な生活ニーズをできるだけとりあげ、これらの要求充足意識=満足意識を概観し、そうした満足意識が、生活全体の満足意識にどう総括されるかを問題としてみる事にある。図2は、生活要求がどのような要素からなるかの考え方を示したものである。ここで人々の生活の全体は、生活のニーズを生活手段としての諸資源を利用しつつ充足する活動と、一定の社会的諸関係の中で社会的役割としてそれが行なわれるという二側面からなる生活活動の総体としてとらえられる。生活二一ズの充足のための活動過程は、家族、職場、住民というような生活諸関係の中で行なわれており、基本的な生活要求をこれら三つの生活場面の中での基本的要求として列挙した。生活要求は、上記二側面に関して、生活資源満足と生活関係満足に二大別され、それぞれの生活場面について列挙されているので、全体で6グループに分けられるような内容となっている。 図1 収入階層別収入満足 表7の1 学歴別職業階膚 表7の2 学歴別収入階層 我々のアンケート項目は、図2に示されるようなものである。例えば家族生活の場の中で、家族消費生活が営まれ、また、家族関係が編成されているが、この二つの側面についての全体の満足に総括される個別的なニーズ項目に関する満足意識が、それぞれ6つと4つあげられている。同様に、労働生活満足、職場満足に総括されるそれぞれ6つと8っの項目、生活環境満足と市町村満足に総括されると考えられるそれぞれ6つと5つの項目をあげている。これらは、全体として、「生活全体満足」に総括されるだろうと想定された。以上、43の満足意識に関する質問項目が用意され、5段階尺度で画答してもらったものである。図2において、各項目をつなぐ実線は相関の高いものを示している。この相関図は、各項目と、総括する意識と想定された満足項目との相関をみたものであるが、これにより次のようにいってよいだろう。 第一に、三つの生活の場における項目群は相互に独立しており、それぞれ、中間的な総括項目に関連していると思われる。総括項目がどれほど各項目をよく総括しうる項目になりえているかには濃淡があり、今後の検討を要するようだ。 第二に「生活全体の満足」項目は、生活資源満足と生活関係満足全体を総括するものではなく、生活資源満足のみにかかわるものであるということであり、個別的項目については、収入満足ととりわけ強い相関をもつということである。生活関係に関する満足項目全体を代表する質問項目は別途工夫する必要がある。 図2 以上の事から、我々は「生活全体満足」をとりわけ、生活資源満足との関連で特に問題として行きたい。43項目のうち生活関係満足の諸項目の分析は紙数の関係もあって次の機会に譲ることにする。 さて、図3の1〜4は、上記43項目を、満足度の高い順に並べたものである。更に表8は満足の高い項目、不満の強い項目をそれぞれ取り出して示してある。この単純集計でみるかぎり、我々のサンプルにみる全職業階層にわたる生活満足の高い項目は、食住生活、家族関係、近隣関係などであり、特に不満の高い項目は、とりわけ収入であるが、ついで老後および余暇に関して不満が高いといってよいようだ。 |
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■生活満足意識の因子分析
さて、本論に入って行こう。我々の本稿での問題の第一の関心は、現段階において人々の生活の全体満足を構成している満足要因はどのような構造をとっているのか、ということである。生活全体の満足は別稿において述べたように(註2)生活階層帰属意識の指標とでもいうべき位置をしめていたのであるが、本稿では、生活全体の満足がどのような構造をもっているのかをより詳しく調べてみようと考える。そこで上記43項目のうち、生活全体の満足に総括されると思われる生活関係満足項目以外の23項目のみについて、まず因子分析を行なってみよう。これによって三つの生活場面で追求される生活ニーズの満足意識が、どんな潜在的な満足構造を形成しているのかを明らかにしてみたい。一般に、生活に対する満足の意識は、様々な生活要求の何らかの総合の結果と推定されえようが、それを単純な満足量の合計と考えることはできない。そこには、生活要求のあり方、従って、満足のあり方に、幾つかの基本的な構造があると思われる。ある要求は重要かつ切実とされ、他はそうではない。要求項目に対するWeightの相異があるであろうし、また幾つかの項目はとりわけ相互に相関し、他とはあまり相関しないということもありうるであろう。どんな生活満足項目が相互に相関が強く、一つのまとまりをもつだろうか。一つのまとまりと理解できる満足意識群は何らかの共通要求一満足の潜在的因子の現象として解釈できると思われる。こうして我々は、いわゆる因子分析の手法を用いて、23項目について7因子を析出する事ができた。 図3の1〜4 表8 満足を示すグループ 不満を示すグループ どちらともいえないを示すグループ 表9 生活満足意識項目の因子負荷量と固有値、寄与率 表9は各変数の因子負荷量、固有値、寄与率をそれぞれ示してある。因子負荷量はそれぞれの項目の因子に対する関連の強さを表現するものであるが、第一因子は、収入、仕事内容の面白さ、昇進、職場での健康・安全、労働時間の長さ、などの各項目および「仕事上の生活全体」の満足、「生活全体の満足」がきわだって強い相関をもち、生活全体の満足意識を除いてこれらはいずれも労働生活において生活主体が充足をはかる労働の私的動機の満足意識ということができる。23項目のうちでこれらが一つの因子を構成する事はいわば当然であるが、この第一因子の寄与率、即ち、23変数のもつ全体のバラツキを説明する値は、26.6%ともっとも大きい。この因子を我々は「労働生活の私的動機充足の因子」とよぶことができよう。生活全体の満足を構成する因子として労働生活の満足が大きく寄与している事をここでは注目しておきたい。 第一因子を構成する諸項目の満足度の内容は比較的低いといってよいだろう。とりわけ、収入および昇進については満足度は低く、満足している人は24〜26%にすぎず、収入については54%が不満で最も不満の高い項目といえる。職場の安全、労働時間についても満足する人は30数%で不満も同様に高い。この因子を構成する項目のうち、比較的満足度の高く不満の少ない項目は労働生活全体の満足と労働内容の面白さであって、47%が労働内容に満足し、48%が労働生活全体に満足している。労働の私的動機充足のもっとも基本的な軸は収入と昇進であり、管理制度もこれを{ncentiveとして組まれている事はいうまでもないが、この基軸について満足できないにもかかわらず、労働そのものの内容については比較的満足が高く、労働生活全体も満足が高くなっている。労働生活の全体の満足の高さは、満足度の高い職場の人間関係に関する満足などとも関連しており、43項目全体の因子分析を行なうと、職場人間関係満足はこの因子に含まれてくることを追記しておく。要するに、労働生活の私的動機充足の平均的な基本的内容は、基軸的な要求としての収入・昇進について満足できないながらも、仕事自体の面白さや、職場人間関係の満足などによって労働生活の全体に「まあ満足」するというあり方を示している。この他に第一因子には、 「生活全体の満足」が含まれているが、「生活全体の満足」は労働の私的動機満足の因子ともっとも相関が高く、後にみるように因果的関係も強い。しかし、内容的には労働生活の私的動機充足という内容からはずれるものである。なぜこの項目がここに含まれるかは、次の図4によって説明されよう。図4は生活全体満足にとりわけ相関の高い項目の相関図である。「生活全体の満足」は労働生活の私的動機満足の因子と次の第二因子である家族消費生活満足の因子の両方に関連する位置を占めているといってよいが、第一因子との相関の方がやや強く、第一因子に含まれているとみてよいだろう。この労働生活の私的動機の追求と家族生活における消費が、生活体系全体の基軸をなしていることとこの消費意識構造の中軸のあり方とが照応していると思われる。 図4 第二因子は、食住満足と家族消費生活満足からなり、寄与率は14%となっている。この因子の内容はサンプル全体としてみれば、高い満足度を示しているといってよいだろう。食住については70〜80%の入が満足しており、全体としての家族の生活についても55%の人が満足をしている。しかし、家族生活に関する他の因子にみるごとく、家族生活にまったく問題がないわけではなく、家族生活全体の満足は食住の満足度ほど高いとはいえない結果になっているようだ。ともあれ、家族消費の満足は、食住満足とともに第二因子に強く相関して、一つの因子を構成している。 家族生活にかかわる内容をもつ項目で、余暇、家族の健康、子供の教育が上記と区別されて別の因子を構成している。これら三項目は、今日の家族生活にとって重要度を高く与えられ、強い関心をもたれている問題だと考えてよいのではないか。その意味で、「家族の生活課題」の因子とよんでおく。これに加えて、老後生活の問題がつけ加えられると、生活課題が出揃うということになろうが、ここでは、年金制への満足とともに独立の因子として析出されている。これを「老後生活」満足の因子と名づけておく。 余暇については50%が、家族の健康については73%の人が、また子供の教育については58%の人が満足を表明し、「家族の生活課題」の因子は比較的満足度が高い内容をもつものと思われる。 これに対して、老後生活に対する満足は低く、老後の保障については26%が、更に年金制度については16%の人が満足しているにすぎない。いわゆる生活問題として今日人々の意識にのぼっているものは、住宅、教育、老後と物価といわれているが、これらは地域や階層差があるとはいえ、広い諸階層にとっての普遍的な生活問題と考えてよいものであろう。 以上の4因子と区別される3つの因子は、いずれも生活環境資源にかかわるものである。生活環境資源に関する満足意識は、「生活の便利さ」にかかわる買物、教育施設、通勤の便の諸項目、自然・風俗環境と生活環境全体のような、特定の生活空間を共にする人々にとっての一般的な「生活環境の因子」、および、今日もっとも人々の強い関心を向けられつつある「住民の施設環境課題」の因子ともいうべき余暇施設と老人施設の因子に析出された。 「生活の便利さ」の因子は、いずれも満足度は高く、「一般的な生活環境」因子も過半の人が満足を示している。これに対して、「住民の施設環境課題」と考えられる因子は、それぞれ、きわめて満足度は低く、切実度も高いと推定される。 以上、要するに7っの因子が析出されたが、「労働の私的動機充足」とりわけ、収入、昇進の基軸的な項目において、また、「老後生活」の因子、「住民の施設環境課題」の因子が、満足度も低く、満足意識の点でこれらが今日の生活問題をなすものととらえられているのではないかと思われる。これに対して、「家族の消費生活」「環境の便利さ」「一般的生活環境」の満足意識因子は、生活全般を「まあ満足」とする事に貢献する方向で機能しているものといえるだろう。 以上を次のように小括しておこう。 1 生活満足意識の全体は7因子から構成されると分析できる。 2 23項目全体のバラツキに対してもっとも大きな説明力をもつ因子は「労働の私的動機満足」である。労働生活満足がしめる生活満足意識の中でのウェイトの大きさが注目される。 3 労働生活にかかわる満足意識と家族における消費生活の因子が、7因子の中でも中軸的な因子をなし、また相互に高い相関関係をもって、生活全体満足要素を媒介に一群をなしている。これらの2因子のまとまりを労働一生活過程満足ともいうことができるだろう。 4 7因子のうち、「労働の私的動機」満足、とりわけ、収入、昇進についでと、老後生活の因子、および余暇と老後に関する「住民の施設環境課題」の因子が満足度が低く、満足意識の点ではこれらが今日の生活問題と意識されることになろう。 以上とりあげた23の生活満足意識の諸項目の中で、家族消費生活、生活環境、職場生活、生活全体の満足意識項目は、その他の諸項目を総括する位置をしめる事はすでに述べた。これらの総括的意識項目は、相対的に、そこに含まれる諸項目の満足度の如何にかかわらず高い満足度を示す傾向があった。ここで次に取り扱う問題は、それぞれの総括的満足の高さを、これら7因子がどれだけ説明するものであるかを検討する事である。そのために、我々は重回帰分析を利用しよう。重回帰分析はここでいう7因子のような変数間の内部相関を考慮しながら、ここでいう総括的満足意識というような外的基準変数を最も効率的に予測できる重みを求め、それによって予測式を定める方法とされている。 さて、表10〜表14はそのような重回帰分析の結果の表である。 表10は家族生活全体の満足度を従属変数とし、7因子のスコアを独立変数とする重回帰分析の結果である。重相関係数は、重回帰分析によってえられた合成変数9と基準変数yの相関係数であるが、一般に、重相関係数が大きいほど、(1.0に近いほど)重回帰式にくみ入れた変数が全体として、基準変数に対して強い影響力をもつといえる。この表によると、ほぼ0.8の値をもち、7因子は家族生活満足に対してかなりの説明力をもつと推定してよい。ここで寄与率とは、yの全変動のうち、独立変数によって説明される変動の割合いを表わすとされるが、その寄与率は約64%であり、我々の取り扱うような社会現象についてだけ限定すれば、通常かなりの寄与率であると考えてよいであろう。最終ステップのF値をみると、第二因子、ag一一因子の値がさわだって高く、この2因子が説明力に対する貢献度できわだっていることを示している。以上の点から、次のようにまとめることができよう。 表10 家族消費生活満足の重回帰分析 表11 生活環境全体満足の重回帰分析 家族生活全体の満足意識とここでいうものは、家族生活において追求される生活福祉の全体の満足と想定されるが、これを7つの因子に分析される満足のあり方がかなりの因果的な関係で説明している。そして、なかでも重要であるのは、消費満足と労働の私的動機充足の因子であって、この二つの因子がきわだった説明力をもつものといえるだろう。 表11は同様にして、次のような結果を示している。生活環境全体に関する満足意識は、7因子によって同様にほどほどに説明されることができ、54%の変動を説明している。生活環境全体の満足度については、しかし、「一般的生活環境」因子がきわだった説明力を有し、他の二つの生活環境に関する因子は説明力をほとんどもたないといえる。 表12から読みとれる結果は次の通りであろう。労働生活全体の満足度は、7因子によってほとんど説明されるとしてよいが、なかでも「労働生活の私的動機充足」の因子が決定的な説明力を有している。 表13によると、「生活全体の満足」は7因子によって十分に説明されるとしてよいと思われる。この場合、しかし、主要な説明力は「労働生活の私的動機充足」と「家族消費生活」の二因子がもっている。これらに対して、他の5因子の説明力はかなり小さいといえる。この二つの因子は、生活全体がそのニーズを充足する営みの基軸である労働と消費の過程に関する満足因子であるといえ、人々の生活体系の一次元としての生活章識の中心的位置を占めることは十分に首肯できることである。「生活全体の満足Jが、この労働一生活過程にかかわる満足のあり方によって主として説明されるということを確認しておきたい。そうした意味で、従来、「生活全体の満足」がともすれば消費生活の全体満足として理解されがちであったのは不十分というべきであろう。(註3) 表12 労働生活満足の重回帰分析 表13 生活全体の重回帰分析 表14 生活階層帰属意識の重回帰分析 表14は、生活階層帰属意識を従属変数とし、7因子の因子スコアを説明変数とした重回帰分析の結果である。生活階層帰属意識は、くらしのレベルに関して上下の関係をいわば連続的な関係にあるものとみた階層帰属意識であり、5段階尺度でそれを自己評価したものという性質をもっていると考えられる。したがって、我々は生活階層帰属意識を5殺階尺度による変量とみて重回帰分析を行なってみたものである。その結果によると、生活階層帰属意識に対する7因子の説明力は必ずしも高くないことが明らかとなった。しかし、そこには興味深い結果も見出せる。すなわち、生活階層帰属意識に対して、7因子の中で相対的に高い説明力を有する因子は三つある。第一は家族消費生活の因子であり、ついで労働生活の私的動機充足の因子である。この両因子の説明力にほとんど差はない。ついで老後生活の因子が、他の4因子より大きな説明力を有している。この3因子が今日の人々の生活階層帰属意識を主として説明する生活満足意識であるといえる。生活階層帰属意識は生活満足意識のみによって因果的に説明されうるわけではなく、他の意識要素との関連をも問わなければならないことは、この結果より明らかであるが、しかし、とりわけ、「生活全体満足」と強い相関関係にあることは種々の調査の明らかにしていることであり、先にみたように、「生活全体満足」は労働一消費の満足意識によって説明され、また、したがって、生活階層帰属意識もまた、労働一生活過程の満足意識のあり方によって一部説明されるという関連になっていると考えてよいだろう。同時に、今日、老後生活にかかわる因子が生活階層帰属意識にかかわるということも注目すべきことのようだ。 以上の我々の分析の結果、生活満足のあり方を知るに当って、生活満足を単に消費満足ととらえるのでなく、労働生活満足とのかかわりにおいてもとらえるべきである事が事実として明らかにされた。そこで、次に特にこの点について分析を深めるために、労働生活満足のあり方と、現在の職業生活の自己評価との関連をみてみたい。 |
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■現在の職業の自己評価の因子分析
ここで現在の職業の自己評価というのは、表15に示すアンケート項目に対応するものである。これらはいずれも生活主体の労働の私的動機の観点からの評価であるといってよい性質のものである。 表16は、11項目にわたるこれら変量の因子分析の結果を示しているが、4つの因子を析出することができるであろう。第一の因子は、労働の主体的要因というべき項目が相関の強いものとしてまとめられているといってよい。労働そのものが労働主体にとって主体性をどれだけ発揮できるものであるかにかかわる諸項目についての自己評価の因子といってよかろう。 表15 職業の自己評価にかかわる11項目 表16 現在の職業の自己評価一因子分析一 第二因子は、労働時間の長さや、健康を損なわない労働条件や、職業の安定性など、いずれもいわゆる労働条件といわれるものに他ならない。したがって、これを「労働条件」(に対する自己評価)の因子とよぶことにしよう。 第三因子は、他のいずれの諸項目とも独自な因子を構成するものとして、「よい仕事仲間のいる職場」が析出された。 第四因子は収入と昇進との相関が高く、「収入一地位」に対する自己評価の因子とよぶことができよう。 内容的には、単純集計からみると、第一因子を構成する諸項目に関する自己の職業の評価は、いずれも高く、人々はこの労働の主体的要因に関してそれぞれの労働生活を高く評価し肯定していると判断できよう。 第二因子は、これに反して、とりわけ労働時間の長さの点で全体として評価が悪く、忙がしいとしており、また、健康をそこなわない労働環境についても、悪いとする人がかなりいて評価は必ずしもよくはないようである。しかし、失業のおそれのない安定した職業という点では良いとする人が多く、評価は高いといってよい。 第三因子についてはまあ良いとする人がほどほどに多く、悪いとする人は少ない。 第四因子については、悪いとする人が目立ち、昇進については特に良いと評価する人がきわめて少なく、評価が全体として低くなっている因子といってよいだろう。 以上のようにサンプル全体としては、労働の主体的要因や仕事仲間については評価は高く、労働条件、収入、昇進については評価が全体的に低いと概括することができる。 ちなみに表17は、職業の自己評価に当って、どの項目に大きな重要度を与えているかを示している。もっとも重視される点は能力を発揮できる職業という点であり、ついで、健康を損わない労働環境であり、ついで失業のおそれのない安定的な職業ということになっている。収入に関して自己の職業の評価は全体として低いが、評価基準としては4番目であるに対し、満足度の高い「能力発揮」はもっとも重視される基準となっていることは興味深い。 |
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■中流意識と労働一生活過程の満足
さて、以上、我々が接しえたサンプルが全体として共通にもっていると仮定される満足態度、自己の職業に対する生活主体としての評価態度を記述したわけであるが、次に我々は、生活階層帰属意識上のそれぞれの地位とこれらの因子がどのような関連にあるのかを問題としてみたい。 表17 職業の自己評価にあたって重視される項目 図5 まず生活満足の7因子について各サンプルの因子スコアを求め、帰属意識別にその因子スコアの平均値を求めたものが、図5である。これによると、生活階層帰属意識の差異は「労働の私的動機満足」の因子、「消費生活満足」の因子、「老後生活」の因子における満足度の高さの差とよく対応している。ここでは上層についてはケース数が少なすぎるので無視する事にする。「中の上」「中の中」は、正の値をとり、全体の平均(0.0)以下の負の値をとる「中の下」「下」と区別される。4階層が、上記三因子において明確な満足意識の高さにおける差異と照応している。また、ついで生活環境の満足度の差異に.ついても、「中の中」「中の下」のあいだでそれほどの差異を見出しえないにしろ、一応の対応を示しているといってよいだろう。「中の上」は7因子のうち6因子においてもっとも満足意識が高い層であり、この意味で実質的に中流の生活満足をもつ層といえるが、「中の中」層は、前記三因子以外では必ずしも他の下位の層と明白な差異をもたない。いずれにしても、重回帰分析の結果からすると生活階願帰属意識は生1舌満足意識のみによって因果的に説明しえないとはいえ、生活満足意識の高さによって一定の説明が可能である事がわかろう。また、すでに明らかにしたように、労働生活は生活満足の点からも重要なかかわりをもつ。そこでとりわけ、労働生活と生活階層帰屈意識との関連に注目してみるとどうであろうか。 図6 図6は、自己の職業の評価の4因子について、上記と同じ分析を行なった結果である。ここでは、「労働の主体的要因」の評価の因子と、「収入一地位」評価の因子が、帰属意識の差異と照応している事がわかろう。この二つの点での評価の高さは、人々の生活階暦の序列づけと照応するといえる。これに対して、労働条件に関する評価や、職場の仕事仲間に関する評価は、労働の主体性において疎外され、収入一地位において低いと評価する入の中流意識を高めるように作用している。 次に我々は階級帰属意識について同様の分析を試みてみよう。人々がみずからをどのような階級に帰属するとするかは、生活満足のあり方と何らかの関係を有するだろうか? 図7 まず、図7は同様にして階級帰属意識別に因子スコアの平均値を求めたものである。図5の中流階層帰属意識のパターンと比較すると一見じて、図7の階級帰属意識はかなり異なった様相を呈しているようにみえる。しかしよくみると次のようにいえるのではないか。 1 労働一生活過程の基軸にっし・ていえば、資本家階級、中間階級、労働者階級の順に、その満足意識の高さに上下序列がみられる。 2 全体として、5つの因子について、資本家階級は最も満足度が高く、中間階級は5っの因子について労働者階級より満足度が高い。労働者階級は2つの因子で中間階級よりも満足度が高いが、全体として、多くの因子で他の2階級より満足度は低い。 以上からすると、生活満足の高さの序列と階級帰属の差異と一定の関連がみられそうだが、しかし、その差の大きさは明白なものとはいいがたいかもしれない。 図8 図8は、職業の自己評価の4因子について同様の分析を行なったものであるが、これについては明らかに一定のパターンがみてとれる。とりわけ、「労働の主体的要因」と「収入一地位」評価の高さが、階級帰属意識の差異と相関していると考えられよう。いうまでもなく、階級帰属意識はもっぱら職業のこの因子における自己評価によって決まるとは推定できないにしろ、これらの因子は地位、権限の高さの評価とかかわると考えられ、こうした点で、三つの階級が上・下序列として区別され、それぞれ自己を位置づけていると考えられる。 それでは、生活階層帰属意識と階級111}属意識はまったく異なった文脈のもとにあるものと考えてよいだろうか。 図9 図9は両者のクロス集計であるが、これらの図によると、両者に明らかな相関関係があるとみてよいだろう。生活階層の序列によって下に行くほど労働者階級に帰属するとする人が増大し、中間的であるほど中間階級に、また上方に行くほど資本家階級に帰属するとする人の比率が増大してくる。こうした相関関係は何によって説明されるのだろうか。階級帰属意識は生活満足の高さと関連して上下序列の中で意識されるという事はさして明確に推定できそうもなかった。しかるに職業生活の評価、とりわけ、「労働の主体的要因」と「収入一地位」の評価のあり方は、労働における私的動機充足の満足度とかかわり、生活全体の満足度に影響を与え、生活階層上の帰属に影響を与えると同時に、これらの自己評価の高さは階級帰属と関連し、かくして、両者に明白な相関関係を作っているのではないかと思われる。 図9-2 生活階層帰属は生活満足の大きさの差異と相関し、そうした文脈のもとで自己の職業の自己評価が関連してくるのに対し、同じ職業の自己評価は異なった文脈で階級帰属意識に相関するといえそうである。しかし、生活階層が生活満足の上下関係に関連し、必ずしも上・中・下の地位間に対抗的関係や断絶を意識するものではなく、むしろ階層行動としては、この上・下の序列のできるだけ上方に位置しようという志向を特色とするのに対して、この階級帰属意識は、いわゆる「階級意識」を特色としてもつのであるか否かはここでは明らかにしえない。しかしながら、生活階層帰属との相関を考えてみると少なくも、良い職業、悪い職業という意味での上・下の序列的な関係を意識として含んでいるのではないか、と推定されえよう。階級帰属意識は今日一般の階級イメージが多少とも変化し、定義づけが変動し、一般には曖昧になってきていることと関連し、旧来の「紋切り型」の定義づけとして理解する事はできなくなっていると思われるが後日の検討課題としたい。(註4)ともかく、階級帰属意識を階級意識を核として対抗関係にある他と自己を区別する意識とすることを自明とする事はできない現状にあるのではないだろうか。 表18 表18は職業階層と階級帰属の相関をみたものである。ここで中間階級帰属者に注目すると、いわゆる新中間階級といわれるホワイトカラー層に中間階級帰属意識は比較的多くみられる。この同じ中間階級に帰属するとする人たちは典型的に中流意識をもった人々で、図9にみられるようにほとんど「中の中」、「中の上」から構成されている。しかし、逆に中間階級帰属は新中間階層の典型的意識だということはいえそうもない。労働者階級に帰嘱するとする人は、我々のサンプルではほとんどすべての職業階層で多数をしめ、例外は会社役員、管理職層だけである。とりわけ、鉱工運通自営業者および生産的労働者は80%以上が自己を労働者階級に帰楓させている。 |
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〔註1〕拙稿「(続〉恥充階層帰属意識の分析一大学生の出身階層調査を素材として一」岡山大学経済学会雑誌第15巻第1号 〔註2〕拙稿同上 〔註3〕犬田充「日本人の階層意識一中流の読み方・とらえ方一」(PHP研究所昭57年1月)や総理府、経済企画庁などの公式見解は、中流意識のたかまりを、消費生活レベルないしは「くらし」の満足水準のたかまりともっぱら結びつけて理解しているように思われるが、この見解に対して疑問を提示しておきたい。 〔註4〕安田三郎「現代日本の階級意識」(有斐閣)における階級意識の定義は「心入が自分は労働者階級に妬しているという自覚をもち、社会主義社会の実現を目標として、そのために階級連帯の必要性をみとめ議会制民主主義のもとにあっては革新政党(社会党・共産党)を支持する意識」というものである。この定義にもとづいて「階級意識」調査を行えば、安田氏がすでに明らかにした時点よりも、今日、より一層「階級意識」の不存在が立証されるだけであろうと想像する。しかし、生活福祉充足の量的拡大と実質的平等性の実現というようなものを目指しての社会的主体の成熟の問題は、まったく可能性を失なっているわけではないであろうし、その現実の定:量的観察について、異なった工夫も必要であろうと思われる。 |
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■中流家庭の年収の基準は? 中流の暮らしを維持し続けるコツとは? |
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まぁ普通にがんばって働けば、小さくてもマイホーム、車、子どもの教育・習い事、年数回の家族旅行など、そこそこ良い暮らしができる・・ 日本人がもつ「中流家庭」のイメージは、こんな感じだと思います。
かつて、一億総中流と言われた日本ですが、今、中流家庭層の減少が、どんどん進んでいます。 自分自身は「まぁまぁ中流家庭」で育ったけれど、いざ社会に出て自分が世帯や家族を築く番になると、「ぜんぜん中流に手が届かない・・・」という人も多いと思います。 実際のところ、「中流家庭」は、どれくらいの割合なのでしょうか? また、年収いくらくらいが中流と言えるのでしょうか? 厚生省の統計などをもとにして、中流家庭の水準と変化についてみていきたいと思います。 |
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■中流家庭とは? 基準や定義はある?
そもそも、中流家庭の定義とは何でしょうか? 実は、中流家庭の年収や資産について、明確な基準や定義というものはありません。 ただ、イメージとしては、最低限暮らしに不自由は無く、少しだけプラスアルファのことができるような生活水準だと思います。たとえば、次のような感じではないでしょうか? 中流家庭のイメージ ・小さいけどマイホームかマンション購入 ・乗用車(ミニバンなど) ・子どもの習い事 ・子どもは大学か専門学校 ・年数回の家族旅行(たまに海外) こうした、中流家庭の暮らしをするには、年収にしたら、どれくらいの額が必要なのでしょうか? 「中流家庭の年収ってどれくらい?」って疑問は案外多くて、ネット上の質問サイトでも、たくさん話題に出ています。 だいたい世帯年収にして500万〜700万円、とあげている人が多いようですね。 ただ、年収と言っても、あくまでいわゆる「額面」ですので、ここから社会保険や税金を引いた「可処分所得」は、だいぶ変わってきます。 |
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■中流家庭の年収は700万円以上から
可処分所得は、所得税のかかり方が1人あたりのため、単身者のほうが共稼ぎよりも少なくなる傾向にるので、一概には言えず、幅があります。だいたい、以下のような感じで、年収から減っていきます。思った以上に、目減りしますね。 手取り年収はこんなに減ってしまう ・年収500万円→可処分所得400〜460万円 ・年収700万円→可処分所得500〜540万円 ・年収1,000万円→可処分所得700万円前後 さて、中流の年収イメージとして、世帯年収500万〜700万円という声も多いようですが、可処分所得を考えると、中流は、もっと上のランクになるでしょう。 実際のところ、マイホームを手に入れたり、毎年家族で海外旅行を楽しむためには、手取り年収400万円ではた足りません。手取りで500万円は無いと厳しいでしょう。 「中流家庭のイメージ」に近づくには、手取りで世帯年収500万〜700万円、額面年収で700万円〜1000万円が必要だと言えそうです。 |
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■中流家庭の割合はどれくらい?
では、今の日本の家庭が、どれくらいの割合の人が中流だと言えるのでしょうか? 統計を分析しながら見てみましょう。 厚生労働省が毎年実施している「国民生活基礎調査」の平成27年度の調査データをもとに、所得額階層別の分布数と、生活意識のパーセントを重ね合わせたのが、以下の図になります。 図 所得分布と中流意識/平成27年 生活意識の調査結果にもとづいて、黄色〜赤で示したところが「生活が苦しい」、紫〜青が、「普通〜ゆとりがある」というふうに色わけをしています。 この表から見てわかるのは、生活が「普通」と感じている人は、700万円前後から1500万円(可処分所得で500万〜950万円)くらいということです。 このことからも、世帯年収700万円くらいからが、「いわゆる中流家庭」だと言ってよいでしょう。 |
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■日本の平均は、中流ではなく、貧困層
さて、21世紀に入ってから、日本では「中流の崩壊」ということが盛んに言われています。 冒頭にも書いたように、今の、子育て世代は、自分が育った家庭がたとえ中流だったとしても、今後、自分自身が中流家庭を維持して行けるか?といえば、自信がなかなかもてないところだと思います。 でも、そう思ったあなたも、心配しなくても大丈夫(?)です。それが普通だからです。 今の平均的な日本の世帯は、もはや中流ではありません 平均的な世帯は「生活が苦しい」のです。 平成27年度の「国民生活基礎調査」のデータでも、平均年収は542万円となっていて、700万円からが中流だとすると、平均よりも少し上の方からが「中流」ということになります。 さらにいえば、こうしたデータを見る場合、高額所得者が数値を引き上げてしまう平均値ではなく、分布が最も多い中心を見る「中央値」で判断したほうが現実を捉えやすいと言われています。 平成27年度の所得分布の中央値は427万円(可処分所得330万円)しかありません。手取りの年収が330万というのは、単純に12で割れば月に27万円。子育てをしていくには、ギリギリの収入となっています。このクラスの手取り年収で、マイホームや子どもの教育をやっていくのは、そうとう工夫しなければ厳しいでしょう。 実際、意識調査と重ね合わせてみても、平均のところは「やや苦しい」と「普通」のちょうど境目にあります。微妙になんとかなりそうだが、楽観視はまったくできないのが、日本の平均点です。 また中央値で見れば、「やや苦しい」と中央値が重なっています。つまり、現代の日本人の平均的な世帯が「生活がやや苦しい準貧困層」だ、ということが言えるわけです。 このように、「中流家庭になりきれない」のが、今の日本人の平均と考えてよいでしょう。 |
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■過去20年間で、中流家庭は、ほんとうに減ったのか?
ふと気がつくと、すっかり「貧しいギリギリの生活」が、定着している日本社会。昔は、もう少しましだったのに・・・と感じる人が多いと思います。 では、ほんとうに以前の日本は豊だったのでしょうか? 今となっては、幻想だったのではないか?と思ってしまいますよね。 そこで「国民生活基礎調査」を20年前と比較をしてみようと思います。 まず、生活意識のデータです。 図 生活意識調査の平成4年と平成27年の比較 一目瞭然ですが、「中流家庭」といえる「ふつう」の割合が激減しています。 平成4年から平成27年の二十数年間で、ほんとうに、日本人の生活は苦しくなったのですね。 苦しいは9%→29.7% やや苦しいは25.2%→32.7% 「苦しい」と「やや苦しい」合わせた割合は、34%→62%と倍近くに増えているのです。 それに対して「普通」が57%→34%に減少、「ややゆとりがある」と合わせると65%→37%と6割以下に下落しています。 この表からも、ほんとうに日本の「中流家庭」は減っている、ということが見てとれます。 さらに、年収の分布図も平成27年と平成5年で比較してみましょう。 図 年収の階層別分布の平成27年と平成5年の比較 分布が多い山の中央が、平成5年には年収400万円〜500万円あたりにあったのが、平成27年には、200万円〜300万円に、山の中心が動いています。 あきらかに、日本人の年収は下がっているのです。 |
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■中流階級の崩壊は、先進国ではみな起こっていること
○ 先進国で中間層が没落する理由 こうしてグラフで比較してみると、思っている以上に、日本の「中流家庭の消滅」は進んでいるようですね。 こうした「中間層の消滅」は、何も、日本だけに限ったことでなく、先進諸国が同様に直面している問題です。 これは、ひとつに、20世紀に入って、「モノ作り」の中心が中国・東南アジア・南米を中心とする新興国へと移っていったことに原因があります。 同時にインターネットと海上コンテナ輸送などの世界規模の流通インフラが格段に整備されたことで、世界がひとつの市場になっています。 そうなると、より安い労働力で「モノを作る」新興国に先進国が、かなうはずもありません。 先進国の産業は製造業を中心に衰退して、企業も存続するためには、雇用を正社員から非正規雇用に切り替えるしかなく、結果として、先進国を中心に、「中流階級」がどんどん没落していっているのです。 中流家庭に追い打ちをかけるように、今後、世界的な物価上昇が懸念されています。というのも、豊かになりつつある新興国で「中流階級」が急増し、消費力が増しているからです。食糧やエネルギーなどライフラインに関わる物価が先進国で上がっていけば、中流家庭の没落は、ますます加速するでしょう。 こうした動きに対して、先進国の政治や社会システムも対応ができません。米国でトランプ大統領が当選したことが「番狂わせ」だったのも、中間層の崩壊が、思った以上に進んでいることを、世界は捉えきれていなかったことを表しています。 ○ 自由主義と中流崩壊の関係 さて、中間層の崩壊にあわせるかのように、社会の仕組みや風潮が変わってきました。 「一億総中流」と言われていた時代は、脱落しそうな人々にも手を差し伸べて、「みんなで良くなっていこう」という仕組みや社会の風潮がありました。 しかし、20世紀に入り、「中流」を養う経済力が無くなったことで、なんでも「自己責任」でやりましょうという「自由主義」の時代に変わってきました。「自由主義」が、経済だけでなく政治や社会のあり方にまで、浸透してきているのが、今の世の中です。 「自由主義」的な考えやグローバリズムと、中流家庭の消滅は、先進国においては、表裏一体の関係だといえるわけです。 |
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■中流家庭を維持していく方法は?
さて、必然的な流れでは、中流家庭が無くなる方向に進んでいる、今の日本。そんななかで、中流家庭を維持していくにはどうしたらよいでしょうか? 収入に関しては、もちろん仕事次第ですので、現状の勤め先で、将来、順調に年収が上がっていく見込みが無いのであれば、より良いところにキャリアアップしていくしか方法はありません。 しかし転職も、なかなか簡単に行くものではなく、そうなると、あるお金をなんとかやりくりしていくしかありません。 ○ 中流家庭の賢い節約方法 まず節約して貯金を増やすこと。節約はなにも日々の暮らしを極端に倹約したり、ケチることではありません。定期的にかかるライフラインのコストを見直すことで、節約できるものが無いでしょうか? たとえば以下の項目を、きちんと具体的に見直したことがありますか? 中流家庭を維持するための節約ポイント ・スマホをフリーSIMにしないの? ・電力自由化は? ・車はハイクラス軽でもよいのでは? 維持費が超節約できるけど。 ・生命保険・医療保険はほんとに必要? 社会保険の保障とダブってない? これらのことは、生活水準を落とすことなく、節約できる経費です。「正しい情報を、知ってるか?知らないか?」だけの問題です。 中流を維持していきたいなら、賢く節約するべきです。 ○ 中流家庭の資産運用 貯蓄だけではなく、それを殖やしていくことも当然、考えなければなりません。なにしろマイナス金利時代です。メガバンクの定期の預金利子も、ほぼゼロです。 中流家庭の貯蓄を増やすポイント ・年金保険の返戻率をチェックしている? ・NISA(ニーサ)は、はじめてる? ・投資信託と株式どちらがよい? ・今からマンション投資って絶対に無理なの? ・仮想通貨って、ぜんぶ怪しいの? たとえば、このような資産運用にきちんと関心をもっているでしょうか? きちんと最新の情報についていけてるでしょうか? 何から手をつけたら良いかわからない人は、FP(ファイナンシャルプランナー)など専門家に相談するのも手だと思います。たとえば、FPの無料相談などもありますので、生命保険や年金保険の見直しと貯蓄アドバイスなどの無料カウンセリングを受けてみるのもいいかもしれません。 いずれにせよ、積極的に対策をしていくことが中流を維持するための必要条件ですね。自分たちが育った時代のように、ふつうにしていれば、とりあえず「中流」の暮らしが守れる時代は、確実に終っています。 自己責任の社会のなかで、「自己防衛」をはじめることに気づけた人だけが、中流家庭を維持できるのかもしれません。 |
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以上、「中流家庭」と言える基準や年収など、そして、現在の日本で中流家庭がいかに減っているか?について見てきました。 こうした状況を打開するために、ベーシックインカムなど新しい社会システムの導入についても、積極的に議論がはじまっています。 また、一方で、お金に頼らず貧しいなかでも心豊かに暮らしていく生活スタイルも、多くのひ人が模索しはじめています。 いずれにせよ、中流家庭を守っていくには、受け身のままでは、難しい時代です。中流家庭を守っていきたいひとは、積極的に行動を! |
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■1950年前後の日本における都市中流女性の衣服製作・着用をめぐる状況 雑誌「婦人朝日」記事の分析を中心に 2007/12 |
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■1. 緒言 | |||||||||||||||||||||||||||||||
戦時下の日本の衣服の状況については、標準服を取り上げた横田(1999)、国家の衣服政策とそれに対する人々の対応を解明した井上(2001、2003)、人絹とミシンを取り上げた横川(2003) 等によりその実態が明らかにされつつある。 また、いわゆる高度経済成長期以降の日本の衣服の変遷については、家計調査とメーカー・洋裁学校の統計から既製服化を明らかにした奥村(1979)、ストリートファッションの変遷をくわしくたどった渡辺(2005) をはじめとして多くの研究があり明らかにされている。
しかしながら、両者をつなぐ時期、すなわち、敗戦直後の厳しい衣料事情を乗り越えて、流行の衣服を自由に身につけるようになるまでの時期については、体験記の類をのぞいては、「アメリカ化」という観点から敗戦直後の衣生活をとらえた柳(1992)、岐阜・沖縄の古着・既製服流通を中心とする朝岡(2003) などの研究があり、先にあげた渡辺(2005) ほかでも概説はされているが、じゅうぶんに研究されているとは言いがたい。 日々の着る物にも欠く状態と、華やかなファッションが繰り広げられる状態はどのようにして連続することが可能になったのだろうか。 当時、衣服製作の主な担い手であった女性たちは、どのような行動をとり、どのようにして衣服を作り、着る自由を手にしていったのだろうか。 本報告では、朝鮮戦争の軍需物資調達のため日本経済が活性化し、衣料品統制が完全撤廃される1950 年を中心とした時期に焦点を絞り、当時の都市中流女性たちがどのようにして、着る物のない状態から「戦後ファッション」を作り出していったのかを明らかにすることを目的とする。 |
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■2. 方法 | |||||||||||||||||||||||||||||||
1950 年前後における女性たちの衣服に関する行動を知るための方法として、雑誌「婦人朝日」の1947年〜1952 年の記事を分析する。 「婦人朝日」を使用する理由は、主要女性誌「主婦之友」「婦人倶楽部」や、特定のデザイナーの主宰する「それいゆ」「美しい暮しの手帖」(後の「暮しの手帖」) などが、衣服の作り方を教える実用記事や、先進的な衣生活を紹介する啓発記事のどちらかに偏るのに対し、「婦人朝日」はそのような記事だけでなく、読者の投稿や洋裁学校の取材などのルポルタージュが多く、読者である当時の女性の実生活を伝える側面が強いためである。
「婦人朝日」は女性全般を読者に想定した雑誌であり、とくに「都市中流女性」を対象にしているわけではないが、農山漁村の女性についての記事は非常に少なく、東京や大阪などの大都市や地方都市が中心になっていることと、時事問題の記事やそれに関する投稿が多いため、ある程度の知識層を対象にしていると考えられることから、本報告の対象を「都市中流女性」とした。 なお第4章を中心に、「主婦之友」、「婦人民主新聞」など、当時の他の女性誌・新聞も必要に応じて参照した。 また、当時を知る女性へのインタビューも必要に応じて参照した。 「婦人朝日」は、戦前の「婦人」(1924-1937)、「婦人朝日」(1937-1942)、「週刊婦人朝日」(1942-1943)を前身として、1946 年2月に創刊され、1958 年12 月に終刊した月刊誌である。 女性を対象とし、時事問題から衣食住、文化までを幅広くあつかう総合誌である。発行は朝日新聞東京本社のち朝日新聞社、B5判で、文芸誌的性格を強めた最後の2年間はA6判となった。 特集記事のテーマは夫婦・結婚、労働、政治、教育など、グラビアはファッション、労働、美術、有名女性の生活(皇族や旧華族、有名男性の妻ではなく「女優」「女流作家」「女流画家」など自分の仕事で活躍する女性が多い)、連載は小説、衣食住、医学、映画批評などである。 かずかずの投稿募集が特色で、テーマを決めて時事問題への意見を募った「読者批判」にはじまり、「私の作文」、「我が家の工夫」、ルポルタージュなど多岐にわたる。 編集部では採用如何にかかわらず「投稿者カード」をつくり、ときには「読者記者」を派遣、記事依頼をしている。 広告は化粧品が圧倒的に多く、他に、薬品、調味料、電化製品、金融機関などである。 衣服に関する広告については後述するが、全体から見ると少ない。 なお本報告では、引用に当たり、旧漢字・旧かなづかいは当用漢字・現代かなづかいに改めて表記した。 |
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■3. 結果と考察 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■(1) 「婦人朝日」1947〜1952 年の衣服関連グラビア・本文記事・広告
■1) 1947 年 前年の創刊年は58〜62 ページであったが、1947 年は、1 月号78 ページ、2〜4 月62 ページ、5 月以降40ページと、徐々にページ数を減らしている。 他誌でも同様の現象が見られ、用紙不足によるものらしい。 グラビアは2〜3 色刷りで、「巴里のモード」(A。F。P。提供)、「流行をつくるムーヴィ・デザイナー」(ニューヨーク・タイムズ特約) といった華やかな海外情報がある一方、「ドレスメーカー女学院生徒製作」の和服・洋服・ひざ掛けから更生した衣服を紹介する「布を扱う工夫」(八巻千秋)、手持ちの洋服や小物にハギレでイニシャルを縫い付けることを提案する「イニシャルのある部屋で」(花森安治) など、材料のないところから工夫する実用記事が掲載されている。 4 月号の特集は「装い」で、「服飾の流れと方向」(西田千秋)、「新しいエチケット」(GHQ 経済科学局繊維部製品課長ドロシー・エドガース)、柳悦孝と濱徳太郎の対談「きものは含む空間美」、長谷川路可と島村フサノの対談「全体美で着る洋服」、「洋服の移り変わり」(八巻千秋) が掲載されている。 このうち西田の文章は、東京の数寄屋橋あたりを行きかう女性たちのよそ行きの服装について、「世紀の大敗戦」の一年後の人たちとは思えないほど「存外美しい」が、疎開しておいたものをそれぞれ着ているため、「色も柄もスタイルも種々さまざまである」と述べている。 4 月号以外では衣服関連の本文記事は少なく、小さな囲み記事で、「スカウツは極端にいえば一年にウール地のものが一枚あればいい」とする「十月の服装計画」(谷長二)、「衣料はどうなる」(F 記者)、「編物の新傾向」(高木とみ子)、「長くなるスカート」(ニューヨーク・タイムズ特約) などがあった。 衣服関係の広告は、西陣化学研究所製造の染料「みやび染」(洋装女性のイラスト入り)、大阪の美章園服装学校や東京高等技芸学校の洋裁通信教授、東芝電気アイロンが掲載されている。 また、「婦人朝日」編、朝日新聞社発行の「夏のデザインブック」「秋から冬のデザインブック」の広告も掲載されている。 このデザインブックは、「新型デザイン百六十余種発表、全部四色刷り」で、「海外の流行を巧みに採り入れた日本人向きスタイルブックの決定版」である。 「洋装をする人々のために」「色彩の調和」などのタイトルで先述のドロシー・エドガースの談話も掲載している。 グラビアや本文記事だけでなく広告からも、海外情報に触れながら、材料はなく、各自が自分で洋裁技術を学び、手持ちの和服や洋服を染め直したり仕立替えたりする生活であったことがわかる。 またGHQ の幹部が日本人女性に対し、洋服についての助言をしていたことがわかった。 なお「婦人朝日」は朝日新聞社傘下であるためか、同時期の他の女性誌にくらべて海外情報が多い。 ■2) 1948 年 1 月号は50 ページ、2 月以降は前年に引き続き40ページで、衣服に関する記事は少ない。 グラビアでは、「優美さをとりかえしたアメリカの流行」(ニューヨーク・タイムズ特約)、「この夏の海水着」(ロンドン・ディリイ・エキスプレスニュースペーパーズ提供、絵と文・河野鷹思) などの海外情報と、ハギレを縫い合わせて小物やかばんを作る「お手玉のようなアクセサリ」(花森安治) が並列しているのは前年と同様である。 本文では「女流人形作家」の小林通による「和装の楽しみ」が、若い人にもっと着物を着ることをすすめ、「モンペ」については「いま急にすてるのも惜しい」として、通勤や労働の際に、調和を考えてモンペを着用することをすすめている。 少し前になるがモンペについては「婦人民主新聞」1946 年11 月4日号にも「戦時中の流行服であったモンペも、この頃は買出しや闇屋の便利服みたいになり、美しい姿から縁の遠いものになりつつありますが(略) モンペを退蔵させることは再び実用品でない「キモノ」に逆行する不自然な流行を追う恐れがあります(略) モンペは日本の衣服のなかで一番美しい外出着です」と述べられている。 そのほかの記事では「売られ売られた古着の流転記」 (本誌・藤巴記者) が、古着の銘仙がどのように流通 しているかを具体的に追っている。 洋裁学校に取材した「ある日の洋裁学校」という記事もあるが、これについては後述する。 他には囲み記事で、ドロシー・エドガース記者会見による「アメリカ便り新語ニュールック≠フ流行」のほか、「家庭ごとに着物の一覧表」、「型をくずさぬ冬服の手入れ」、「明るい衣料の見通し」など実用記事がある。 前年の「衣料はどうなる」に比べて状況が好転しつつあることがうかがえる。 広告では、前年と同じ「みやび染」、「ナショナル電気アイロン」のほか、「シャープ電気裁縫鏝」、「教育科学社高原社」の「女性教養全書」「裁縫の本」「家事の本」、「高級洋装婦人装身具ニューアメリカンスタイル」の東京・港区「ジャーヂン洋装店」が見られた。東京高等技芸学校は「公認学校の校外生募集」として「独学で正規の本校師範科卒業資格が得られる新制度あり。 日本最初の独学女性出世の門」とうたっている。 ■3) 1949 年 3 月号から58 ページに増やして装丁を新しくし、「読者批判」の募集を開始。 5 月号からは「私の作文」もはじまり、「婦人朝日」が特色を出し充実しはじめるのがこの年である。 10 月号からは84 ページとなっている。 グラビアでは、「一流デザイナーによるパリ直送の今春のモード」(A。F。P。 提供)、「私たちの生活にとり入れ易いアメリカのモード」(ニューヨーク・タイムズ特約) といった海外情報に加えて、10 月からは「一流デザイナー作品集」の連載がはじまる。 これは「家庭で働くきもの」「初春の外出着」など毎回テーマをもうけて8人のデザイナーのデザイン画を掲載するものである。 デザイナーは高澤圭一、花森安治、中原淳一、桑沢洋子、伊東茂平、田中千代、杉野芳子、島村フサノで、連載の途中で伊東茂平が松井直樹に、花森安治が近藤百合子にかわった。 この年、グラビアには更生に関するものがない。 記事では、後述する「洋裁界を眺む」や「今年の衣料はどうなるか」、「着がえの便利なベビー服」(大場真佐子)、「古い絹靴下から代用毛糸」といった実用記事、8 月号〜12 月号には「ふだん著談義」と題する著名女性のふだん着に関するエッセーもある。 また、Y・H (花森安治か) による「服装時評」も不定期に掲載される。 広告は台東区の日本洋裁専門学院の生徒募集、文京区のDSJ 洋裁教室の通信教育、生活研究社の「池田淑子著図解洋裁講座」、「衣料更生の染料はとり染婦人倶楽部特撰」、ナショナル、三菱、シャープのアイロンとなっている。 雑誌のページ数が増えて衣服関連のグラビア・記事ともに充実し、海外情報と更生利用だけではなく、日本人デザイナーによる新しいデザインも続々登場するようになった。 ■4) 1950 年 1 月号から更にページ数を増やし120 ページとなる。 グラビアでは、6 月号まで「一流デザイナー作品集」が続き、7 月号からは「夏を楽しむ浜辺のきもの」(伊東衣服研究所伊東茂平国方澄子) のように、テーマを決めて1〜2 人のデザイナーのデザイン画を掲載する形に変更している。 また、4 月号からは「スタイル実験室」の連載がはじまる。 これは、俳優や画家などの著名女性をモデルにデザイナーが新しい服をデザインして実際に製作し、着用の感想を寄せてもらうものである。 モデルには10 代から50 代まで幅広い年齢層の女性が選ばれている。 「婦人朝日」の読者層の幅広さがうかがわれる。 記事では、衣料品の統制撤廃を予告する1月号の「衣料品急いで買っては大損」、「キモノの流行はだれがつくるか」、「明朗な近代的感覚田中千代さんの「キモノショー」」(木下了子)、「パリ・モードのできるまで」、「分裂したパリ・モード王国一流デザイナーとその作品」などがある。 広告では、はとり染、アイロンのほか、みづほ染料、三菱ミシン、「洋裁知らぬは女の恥!」とする東京・牛込の「日本洋裁教育会」の洋裁講義録、「婦人服のご用命は!デザイナー杉浦和子」と掲げる日本橋三越の「ファッションルーム」がある。 染料、洋裁書、アイロン、ミシン、といった自家裁縫の必要品の広告だけでなく、仕立の広告も登場した。 百貨店での高級婦人服仕立が、従来の顧客だけでなく、「婦人朝日」読者層にも拡大されつつあることがわかる。 グラビアから海外情報がなくなり、本文記事でパリモードの内幕が読み物風に描かれる。 占領後5年にしてアメリカンファッションへの関心は薄らぎつつあるようである。 一方、グラビアは日本人デザイナーの活躍場所となり、洋裁の技術だけでなく洋服のデザインも定着したことがうかがわれる。 ■5) 1951 年 10 月号までは前年に引き続き120 ページだが、11月号からは140 ページになる。 1 月号の巻頭グラビアはカラーの「新進デザイナー三十人集」である。 すでにおなじみのデザイナーたちが、新人デザイナー30 人を選び紹介している。 グラビアのデザインは桑沢洋子が多くなり、記事に作り方がつくようになる。 内容も、下着やレインコート、ウェディングドレス、「我が家はデニム」など、ひろがりを見せている。 また、アップリケやドロンワークなど手芸のページが登場する。 「スタイル実験室」の連載は継続している。 記事では、「純綿キキンは再現するか?」、新繊維の性能を読者が試した「読者の実験報告ビニロン特集」、「既製服店百貨店等からのぞいた街の女性風俗」、「愉しい手製のクリスマスプレゼント」などがある。 桑沢洋子による特集記事「流行をどう着こなすか」では、「あなたは流行色をどう着こなすか」「あなたは流行のスリーヴとカラアをどうとり入れるか」のように、ただ単に流行を追うのではなく、常に「あなた」、すなわち一人一人の女性が、流行を意識しつつも、どのようにして自分に似合う服、動きやすい服を実現するか、という点に重点が置かれている。 広告では、化学繊維の大広告がこの年の特筆すべき点である。 4 月号に「倉敷ビニロン」の大きな1ページ全面広告が載ったのを皮切りに、旭化成のベンベルグ、東洋レーヨンのアミラン、大東紡績のシャインテックスなど、裏表紙や全面を使った派手な広告が次々に出る。 そのほかはカネボウ毛糸やオリオン毛糸、東洋紡コスモ刺繍糸、グンゼ絹靴下などである。 これまでに多かった染料や洋裁学校の広告は見られない。 ■6) 1952 年 1 月号は190 ページ、2 月号以降は約160 ページである。 ページ数は5年の間に約4倍になった。 グラビアは、桑沢洋子のデザイン集が毎号掲載され、記事に作り方もつく。 「ふだん着になるスキー服」や「ウェディングドレスからハウスドレス新婦の衣計画」といった、贅沢なテーマがある一方で、「アメリカの中古服から流行服誕生」、「三反のゆかたで家庭着から外出着まで」のように更生利用も復活している。 また、「生かしたい昔のきものの美しさ」や「私のキモノ」など、これまであまり見られなかった和服関係のグラビアも登場している。 記事では、「婦人朝日服装相談室」と「全国仕事着デザイン・コンクール」がこの年の大きなイベントであるが、これらについては後述する。 そのほか、「家庭で行う染色のはなし」、「これだけは知って置きたい化学繊維の知識」などがあった。 広告は、これまでに引き続きグンゼ絹靴下、各社の化学繊維、ミシンのほか、3 月号にはじめて富士の「電気洗濯機」が登場し、「主婦の生活を楽しくする」とうたっている。 「最高級殿方御婦人用輸入洋服生地」の「エー・ポンピー商会」も登場。 一例ずつであるが、染料と、「洋裁学校は出たけれど…どうもネ…ということでは困ります。 花嫁免状ではなく、実力卒業証書がもらえるよい学校を選びましょう!」という東京の小川文子洋裁学院の小さな広告も見られた。次に、当該期間中の「婦人朝日」に見られた、いくつかのテーマにそって記事をまとめ、考察する。 |
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■(2) 洋裁学校
1948 年6月号に「ある日の洋裁学校」(所武雄) という記事がある。 大阪のある洋裁学校を取材したものである。 「よく雨後の筍のようにと言われる洋裁学校」は急造のバラックが多いが、ここは元軍人が、戦前に建てた洋風邸宅を利用して洋裁学校を開いたものだという。 取材した生徒たちのプロフィールが紹介されているが、年齢層も階層も考え方もまちまちである。 所は「洋裁学校に来ている人の十分比は、五人までが真面目に洋裁を習おうとする娘さん、残り五人のうち三人が奥さんや未亡人、これも真面目なひとです。 あとの二人が遊びなのではないでしょうか」とまとめる。 その後一年半を経過した1949 年1月号には、「洋裁界を眺むその現状・その小歴史・その系統」として座談会「洋裁界の眺めたてからよこから」、「洋装の小歴史」、「洋裁界分布図―源平二派に五摂家など」の三本立て記事がある。 座談会は「文化服装学院宇田川精一、菅谷洋裁専門学院菅谷文子、東京女子高等師範成田順子、ドレスメーカー女学院宮崎直江、花森安治、松井直樹」によるもので、編集部の「一時、洋裁学校が「雨後のタケノコの如く」できたという表現がありましたが、一体全国で何校くらいあるのでしょうか」との問いかけに、菅谷が「認可のあるのは、東京だけで一三六校。 認可のないのはずいぶんでしょう」と答えている。 生徒の目的は「自分の身なりを整えるためというのが三分の一、万が一のとき収入を得られるようにというのが三分の二」、以前は職業目的は少なかったと宮崎は述べている。 また、花森・松井を中心に洋裁学校での技術偏重の教育が批判され、簡単な裁断方法が必要などの提言もされている。 1950 年3月号には「彼女らの東京遊学ルポルタージュ」という記事があり、地方から東京へ出てきて学ぶ女子学生たちを取材している。 女子大学や共学大学に並んで洋裁学校も登場する。 目黒のドレスメーカー女学院でのインタビューで記者は、更生品が多いこと、洋裁学校生の忙しいことに驚いている。 「もし新しい生地ばかりで作るとすれば、四千人の生徒の九割は退学しなければならないわよ」という生徒の言葉が紹介され、「父親の古洋服、タンスの底からひっぱり出されたお召、虫干に見つけた二重廻し、そんなものがここに持込まれると、トタンに裂かれ、染められ、つがれ、切られ、かがられ、まつられて颯そうと校門を出てゆく」と形容される。 授業は隔日だが徹夜することもあり、一年に十二着を作るという。 生徒の多くが卒業後は郷里や東京で洋裁店の経営を考えているようである。 文化とドレメの比較などのあと、「しかし洋裁学校生が共通していうことは、「洋裁、洋裁といって馬鹿にするがこんな実際的な、真面目な、忙しい学校ってないわね」ということであった」と書かれている。洋裁学校に向ける世間の目、それにもかかわらず、苦労して教材の生地を調達しながら洋裁店経営の夢をもつ、いきいきとした女性たちの姿が描かれている。 ところが早くも1950 年9月号「日本の女性はやりものすたりもの華やかなものから地道なものへ」では、「下火の洋裁熱」として、「ダンスについで、戦後猛烈をきわめたのは、若い娘さんたちの洋裁熱(略)最近はこれもどうやら下火」、「水戸市内の某洋裁学校(略) 今年は定員を維持するのでせいいっぱい。 いままで農村の娘さんが七割近くを占めていたが、現在では市街地の娘さんと五分五分になっている」、「卒業生は四分の一ぐらいが、その道の就職希望だが(略) 一ヵ年修業では売れ口が少なく、今年はせいぜい二人か三人(略) それも出来高払いで、夜おそくまで働いて月四千円がやっとだとのことで、洋裁熱はますます低下しつつある」とされている。 一般には、1950 年代が洋裁学校の最盛期とされている(奥村1979、44)。 1948 年から1950 年の記事を読み合わせると、短い間に、とにかく自分や家族の洋服を縫うために様々な年齢層、階層の女性が近くの小さな洋裁学校に詰めかけていた時期から、中等教育を終えた一定年齢の女性たちが都市部の大手の洋裁学校を目指す時期に変わっていったことがわかる。 「下火」というのはおそらく、前者のようなタイプの洋裁学校に当てはまり、都市部の大手の洋裁学校は、1950 年代に最盛期を迎え、以後、一時的なブームではなく日本社会に定着していったのだと考えられる。 広告においても、1947 年〜1949 年の洋裁学校の広告は淡々としているが、1950 年には「洋裁知らぬは女の恥!」、1952 年には「洋裁学校は出たけれど…どうもネ…ということでは困ります」というキャッチコピーが見られる。 洋裁教育の定着と深化がうかがわれる。 |
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■(3) 全国巡回婦人朝日服装相談室
「婦人朝日」は1952 年1月〜10 月に全国各地で「婦人朝日服装相談室」を開催した。 担当は「本誌洋裁顧問」の桑沢洋子である。 桑沢は、戦前より「婦人画報」を中心に編集やデザイン活動をおこない、敗戦後は「婦人民主クラブ」の会員となり、各誌で服装デザインや服装相談を担当していた(常見2001、129)。「婦人朝日」1月号の「おしらせ」には、「流行は、たしかに、わたくしたちの衣生活にとって大きな魅力です。 が、パリやニューヨークの流行にとびつくまえに、わたくしたちの衣生活のうえで解決しなければならない切実な問題がたくさんありはしないでしょうか」とある。 相談方法は、「A デザイン、B 洋裁技術、C 服装計画、D 洋裁家の生活技術」のいずれかに関する相談内容を読者が四百字詰め原稿用紙一枚に書いて「婦人朝日」あてに送り、そのうち「最も共通の問題とおもわれるもの」30 が選ばれ、会場で桑沢が答えるというものである。 さらにそのなかからいくつかが選ばれ、誌上で紹介された。 服装相談室の報告記事は同年3月号から12 月号に掲載されている。 巡回先は、東京、大阪、小倉・博多、名古屋、松山、仙台・高崎、函館・札幌、金沢、静岡、新潟であった。 記事に添えられた写真には満員の会場や、身を乗り出して質問に答える桑沢の姿が見られる。 相談者は10 代から50 代、洋裁家から主婦・学生、洋服ばかりで暮らしている人から和装を洋装に切り替えようとする人まで、多岐にわたる。 相談内容は、体型に合わせたデザイン、似合う色の選び方、化繊の扱い方、服装計画、仕事着の工夫などであるが、桑沢のアドバイスは、単に洋裁技術や流行を教えるだけでなく、まず、その人にどう合わせるか、どうすれば一人一人にふさわしい洋装を確立できるか、に力点が置かれている。 その人にとって、着やすいか動きやすいか、土地の気候や風土に合っているか、手持ちの洋服や和服を有効に使うことができるか、が常に考慮されているのである。 9月号に掲載された相談者の感想には、「貴方にあう色とスタイルはと次々に話して下さるのを伺いながら、私は今までと全く違う新しい自分が、忙しそうに働いている姿を天然色フィルムのようにくるくると思い浮かべていた。 それはついぞ考えたことのない客観視した自分の姿であった」とある。 また8月号には「集まった人々の真面目な様子、つつましやかな服装(略) 良い衣生活とは一部の特別な人々の贅沢にあるのではない。 こうした、つつましい生活に芽生えて初めてすくすく育つことを思われ、各地にこの催を持たれた先生方に何と感謝いたしてよいか解りません」とある。 なかで異色なのが、4 月号に掲載された大阪の「今後の洋裁学校の行き方」である。 相談者は大阪で洋裁を教えているが、生徒は「働く婦人達(夜間) が大部分を占め、地域も北大阪の一隅で知的水準は低い方であるため、難解な製図を避けて経験による改良を加えて平面式を教え」、「経済的にも、いろいろと制約される環境にある生徒なので、私は努めてその人達と生活を共にする心がけで誠実を第一として続けて来」たが、「昨秋ショウをしたグループの人達と共に研究する高度の服装芸術なるものが、前記のような環境にある私の生活にどれだけのプラスになるか?また現在の日本の社会情勢の中の生活芸術としての服飾がどのような方向を行ってよいか? (略) 等々考えて、私は矛盾を感じ、今後洋裁家としての自分のあり方について、ぜひ桑沢先生にご意見を伺い、指導を仰ぎたく筆をとった」という。 つまり、生活に追われるなかで洋裁を習いに来ている人々と、華やかなファッションショーをしている人々との格差に矛盾を感じ、洋裁のありかたはこれでよいのかと疑問をもったのである。 桑沢はこれに対し、「今後の洋裁教育は、一般の家庭裁縫の教育と専門教育にはっきり別けて考えなければならないと思」う、「日本の生活と結びつけた基本的な計画や形を、あなたが親切に生徒に教えてゆく、しかも、いつも新鮮な時代の空気をあなたが一歩さきに吸って、実践してゆきながら、その高い近代生活の方向と感覚を教育の中に、あなたが媒介者となって噛みくだいてわかりやすく説明してゆくことだ」、「ほんとうのきものの『美しさ』『あたらしさ』は、形のうえだけの見世物式のものや、曲がったりくねったりしたものではなくて、生活的に理屈にあったものでなければならない」、「意を強くして、あなたも同僚も生徒も一緒になってゆく勉強会や呼びかけをしてゆかなければなりません」等と、かなりくわしく回答している。 日本の洋裁文化は敗戦後、厳しい衣料事情のなかで生活に密着した技術の習得やデザインを繰り広げてきたが、敗戦から6年を経過したこの時期に一つの曲がり角を迎えていたと考えられる。 指導的立場にある洋裁家のなかには、日々の着る物にも欠く状態を脱し、「デザイナー」としてパリモード追随型の華やかなファッションを繰り広げる人たちもいた。 しかし、都市中流、そして下層の女性のなかにはまだ、生活に追われながら実用的な洋裁技術を身につけようとする人々がいた。両者の不連続をなんとか調整しようとしたのがこのころの桑沢の立場であり、次の「全国仕事着デザイン・コンクール」のような例であると考えられる。 |
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■(4) 全国仕事着デザイン・コンクール
1952 年の「婦人朝日」のもうひとつの大きなイベントは「全国仕事着デザイン・コンクール」である。2 月号に募集記事を出し、6 月号には「第一次入選作品集」として応募作品1、793 点から選ばれた60 点のデザイン画と簡単な説明を掲載、そして7月号には、「機能美を生かした新しい仕事着“全国仕事着デザイン・コンクール”入選作品と審査会風景」と題して、第一次で選ばれた60 点の、実物制作、モデル着用による公開審査の報告がある。 会場は文化服装学院大講堂、入場者は約2、000 名、審査員は伊東茂平、杉野芳子、野口益栄、桑沢洋子、山本松代である。 記事には、すし詰めの会場や後列の座席で椅子の上に立って審査風景を見る人々の写真がある。 また、「地方の無名の人の作品であるにもかかわらず、色彩や形の調和が、実にうまいと思いました。 とくに『職場の仕事着』『農村の仕事着』は、実際から離れず、しかも若々しい飛躍があって、画家の目にも興味がありました」という画家某氏の感想や、「布地の性質を知って、うまく使ってあるのには感心しました。 洋裁熱が一般化するとともに、レベルが全国的に高まっていることが、はっきり判ってうれしかった」という化繊協会の箕浦新吾氏の感想が添えられている。 コンクールは「一般家庭の仕事着」「職場の仕事着」「農山漁村の仕事着」の三部立てで、それぞれに特賞、一等、二等、三等が選ばれた。 「職場の仕事着」の職場には工場、ウェイトレス、車内販売、オフィスなどが含まれる。 家庭内の家事から、第一次・第二次・第三次産業まですべてを含めて「仕事着」というくくりにしているのは、女性の職場進出や女性労働に注目し、なおその「仕事」の範囲が家事までを含めて幅広いという当時の考え方を反映していると考えられる。 入賞者の肩書きは、「洋裁学生」、「洋裁教師」、「主婦」、「商店デザイナー」、「百貨店デザイナー助手」などで、住所は東京、松戸、函館、大分などである。 いわゆるプロもアマチュアも応募している。 この時期の洋裁と、そして女性の仕事への関心の高さがうかがわれるが、「農山漁村の仕事着」であっても、応募者は、都市在住か、都市で洋裁教育を受け、その後、「農山漁村」に里帰りまたは移住した女性であることから、やはりこの時期、洋裁技術の習得や洋裁への関心が大都市や地方都市中心のものであっことを確認できる。 入賞者の感想には「昭和六年デザイナーを夢見てドレスメーカー女学院に入学。 (略) 戦争未亡人となり六年前台北から引き揚げ幼い三人の子供と老母をかかえ、ひたすらデザイナーとして生活が出来るようになる日を念願し(略) 今までにコンクールはあってもいずれも高価な布地を競い、およそ貧しいデザイナーには手の出しようもなく、婦人朝日のこの度のコンクールは私のような境遇にある者には全くめぐまれた条件ぞろいで(略) これを機にますます勇気と希望をもってデザイナー修業の道を歩みつづけて行きたい」、「仕事着のコンクールの社告をみた時、周囲を農村に取りまかれているわたしには、農村の生活がありありと頭に浮かんでまいりました。 東京で洋裁を学んでいたころ四季のファッション・ショーをよくみに行ったものでしたが私の住む農村の人から考えると、それはまるで夢のようなものばかりでした。 だれもが生活をしている以上、それぞれの仕事に応じた能率的で楽に着られる服装をしたいという気持ちは同じです。 そのことから今度の(略) コンクールはわたしにとって、このうえもない喜びでした」とある。 入選作品の写真を現代の私が見ると、ウエストを絞って肩や胸が丸い、当時流行のディオール風でありながら、ゆったりした袖ぐりやズボンなど、見るからに着やすそうで軽快なデザインである。 とくに工場着や農山漁村の仕事着にみられる「つなぎ」は、現代にも通じる新奇性がある。 参考に掲載された審査員の作品のほうが、機能性や新奇性に劣るように見受けられる。後に入選作品は「仕事着のデザイン集」という本にまとめられて朝日新聞社から出版され、好評を博した。また1952 年8月号によると、第三部「農山漁村の仕事着」の入選作品は農林省の生活改善普及員の講習会で取り上げられるなど反響があった(常見2001、130)。このコンクールは、敗戦後の女性たちが、洋裁学校の普及によって洋裁技術を獲得し、自ら働くことを前提とした「仕事着」という分野で、外国の流行を適度に取り入れながら、独自の創造活動をおこなっていたことの、ひとつの証明であると言えよう。 |
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■(5) 読者の生活
1949 年の3月号に「今年の衣料はどうなるか」という座談会が掲載されている。 「政府は悪くなるといい業者は良くなるといっている」という見出しのもと、「商工省藤井淳、主婦連合会川崎澄江、高島屋田村嘉二、伊勢丹大竹幸作、放送局秘書課吉田久乃、本社政経部小坂徳三郎」による座談会の収録である。「国内で生産出来る最大限度を輸出に振向けて、最少限度を民間の衣料にする」という政策のため、配給が足りない、ヤミ物資をどうするのか、という問題について、消費者代表の2人(川崎と吉田) が、政府と業者に詰め寄る形となっている。 実用記事やグラビアにおいても、1949 年までは更生が多い。 派手な柄のひざ掛けをジャケットに転用するなど、材料不足は深刻である。 洋裁学校における更生の様子も先述のとおりである。 ただし、衣料品の統制が完全に撤廃され、合成繊維の華々しい広告が誌面に登場する1951 年以降になると、更生記事も「アメリカの中古服から流行服誕生」、「三反のゆかたで家庭着から外出着まで」のように、既製品や新しい生地を買った場合とどちらが経済的かくらべたり、和服の柄を楽しんだりというように、更生を楽しむような調子に変わってきている。 1951 年7月号の「丸ビル女性五つの断面」という特集記事では、首都の中心である丸ビルのオフィスで働く女性でさえ、「オーヴァ」を「持っていない」5%、「一着」58%、「二着」25%、「三着」5%、「オーヴァ」を「自分の給料でつくる」56%、「親に一部補助してもらう」26%、「全額親に出してもらう」6%、「ブラウス」を「持っていない」3%、「一着」2%、「二着」5%、「三着」14%、「四着」18%、「五着」43%、「ブラウス」を「自分で縫います」48%、「店で買います」7%、「縫うこともあるし買うこともある」45%という状況が紹介されている。 一方、「婦人朝日」読者の生活がうかがえる記事に、1952 年11 月号の「私の作文≠フ記」がある。 投稿欄「私の作文」の入選者を紹介したものである。 入選3回、「会社員妻二九歳」のI さんは、毎月欠かさず投稿しているが、「これまでは家計不如意であまり婦人朝日は買えなかったんですの」、原稿料は女の子2人の「お嫁入り」の費用に当てる予定、と述べる。 写真では、「サザエさん」ふうにパーマをかけた女性が、擦り切れた畳の上に小さな座卓を置き、子どもの宿題を見ている。 服装は白いブラウスに色物のカーディガンをはおっている。 特別募集で最高点を獲得した「会社員妻四一歳」のM さんは、二階家の隅の四畳半を間借りして親子4人で暮らしている。 「戦災以来、家を求めて七年、都営住宅の落選九回」とのことである。「原稿料は、ボロつぎをしている間に、どことなく消えてしまった」、「生活費に追われて、婦人朝日を買うのは時たま、大ていは立読みですます」とある。 写真はブラウスにスカート、カーディガンで、「ボロつぎ」をしている様子である。 そのほか、「農家主婦三〇歳」の囲炉裏端での絣の着物にモンペ姿、一族みな軍人だったという「未亡人六六歳」の質素な部屋で書き物机に向かう羽織姿などが掲載されている。 雑誌に作文を投稿する人たちであるから、ある程度の知識層であろうが、敗戦後7年を経て、なお一般の暮らしぶりは厳しかったことがわかる。 デザイナーの作品を紹介するグラビアは華やかであるが、本文記事には、日々の生活に直結する経済や労働の問題を扱うものも多い。 上記のように、この時期、都市中流女性の生活はなお厳しく、「服装相談室」や「仕事着コンクール」といった企画の盛況も、華やかなファッションと現実生活との懸隔を埋めようとするものであったことによると考えられる。 |
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■4. 結論 | |||||||||||||||||||||||||||||||
以上により、1950 年前後の日本における都市中流女性の衣服製作・着用をめぐる状況として、次の点が明らかになった。
第3章の(1)でおこなった、1947 年〜1952 年の「婦人朝日」の衣服関連記事全般の概観からは、第一に、デザイン面では、1950 年ころから日本人デザイナーの活動が活発になり、海外情報はアメリカ中心からフランス中心に変わり、一方で和服の良さを再認識する傾向が見られること、第二に、材料面では、1951 年以降、化学繊維の出回りとともに生地や用具が豊富になり更生衣料と併行していくことが明らかになった。 第3章の(2)でおこなった洋裁学校関連の記事の考察からは、年齢・階層を問わない洋裁の爆発的なブームは1950 年ころに一段落し、以後は一定年齢の女性が通う都市部の大手洋裁学校が定着していったことがわかった。 第3章の(3)でおこなった「全国巡回婦人朝日服装相談室」と第3章の(4)でおこなった「全国仕事着デザイン・コンクール」の記事の考察からは、敗戦後の労働量の多い生活を背景にした和服から洋服への移行のなかで、一人一人の生活にどのようにして洋装を合わせるかが重視され、家庭内や家庭外での労働に応じた動きやすさ働きやすさが求められたことが明らかになった。 最後に、第3章の(5)でおこなった読者の生活に関する記事の考察からは、敗戦後7年を経てなお厳しい都市中流女性の生活がわかり、グラビアに見られるデザイナーたちの華やかなファッションとの懸隔が明らかになった。 (2)(3)(4)で取り上げた記事は、両者の溝を埋めようとする努力の結果であると考えることもできる。 他の女性誌を参照すると、1949 年秋ごろから洋裁関係の記事が急増する。 「主婦之友」1948 年8月号で戦後はじめて復活した実物大型紙つきの付録も、このころどんどん盛んになっている。 「婦人朝日」では、「一流デザイナー作品集」のはじまったのが、1949 年8月号である。 同時期に和服の良さを再認識しようとする傾向が見られることも各誌に共通しており、「婦人倶楽部」では1949 年12 月号にはじめて、洋裁ではなく和裁の特別付録をつけている。 ただしこの時期の和服への関心は、昔どおりの伝統を守ることではなく、洋服との折衷をこころみながら、当時の生活に適応するように改良を加えようとするものであった。 これらのことから敗戦後の衣生活における豊かさへの変化は、少なくとも女性誌のなかでは、衣料品統制の完全撤廃にさきがけて、1949 年の秋からはじまっていたと考えることができる。 私がおこなったインタビューにおいても、1950 年までに裁縫女学校や専門学校などで裁縫を学んだ方からは、実習で使う生地がなく、家族や親戚から古着を集めるなどたいへん苦労したことを聞いた(長弘と森2003、39;森2006、64)。 そのようななかで更生の楽しみを知り、今もリフォームの衣服作りを楽しんでおられる方もあった(森2006、68)。 また、敗戦をはさんで通学した裁縫女学校では裁縫の基礎を学んだがデザインは教えられず、その後1950 年代に入学した洋裁学校では、基礎よりもデザインが中心であったとの証言も得ている(森2006、62-64)。 女性ばかりの編集委員をもって「婦人解放」を目的に掲げ、1946 年8月に創刊した「婦人民主新聞」第2号には、「女性解放いま一歩」「戦災孤児にローマ字教育を実験」「牛乳の適配、暫くの辛抱」「母子保護法の反響」などの記事と並んで、画家の藤川栄子による「個性を生かす服飾美」というコラムがある。 「街を歩く女性の姿は誰彼の区別がつかないほど同じ髪形で同じ人のように一様に見えるほど服装に独自の個性がない」とした上で、「活動的で合理的な洋服が、和服に比べて生活的であることはいふまでもないことであるが、和服でもなく洋服でもない活動的で美化された、日本女性の美が強調された新しい衣服が創造されなければならない」と提案している。 このころの同紙には、「婦人朝日」の広告と並んで洋裁書の広告が多く、後に「美しい暮しの手帖」で活躍する花森安治の着こなしや裁断の提案も掲載している。 敗戦後、生活物資が不足するなかで、家庭内外での多くの労働をおこないながらも女性たちは、「服飾美」への関心を抱き続けていた。 一方で当時は、日本国憲法の制定にともなう、男女平等への意識や労働者の権利への意識の高まりがあり、「婦人朝日」や「婦人民主新聞」のような女性の労働や女性の主体性を重視する立場のメディアでは、女性の衣服に活動性を求め、家庭着であっても「仕事着」の側面を重視した。 その結果として、モンペや洋服の活動性、そして和服の良さや洋服の魅力を取り入れて総合した新しい衣服の創造が提案されたのである。 「全国仕事着デザイン・コンクール」で見られたのは、そのようなデザインであった。 あわせて、このような敗戦後の衣服文化を支えていたのが、ひとりひとりの女性たちの洋裁技術と洋裁デザイン習得への意欲であったことを、「婦人朝日」を中心とする当時の資料から明らかにすることができた。 1950 年前後の日本における都市中流女性の衣服製作・着用をめぐる状況は、女性たちの洋裁文化習得に対する主体的な意欲と、外国のモードへの関心・和服の再認識と、働きやすさ・暮らしやすさへの希求によって決定されていたと言うことができよう。 |
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■引用・参考文献
朝岡康二(2003) 古着と既製服―駅前広場・三角地など、『衣と風俗の一〇〇年』、ドメス出版、東京、271-296 井上雅人(2001) 『洋服と日本人』、廣済堂出版、東京 井上雅人(2003) 総動員体制下の衣服政策と風俗、『衣と風俗の一〇〇年』、ドメス出版、東京、55-89 森理恵(2006) 被服教育と洋裁文化の体験、『洋裁文化形成に関わった人々とその足跡―インタビュー集その1―』、武庫川女子大学関西文化研究センター、西宮、41-70 長弘真弓、森理恵(2003) 京都府立女子専門学校における裁縫教育の意義、京都府立大学学術報告人間環境学・農学、55、35-48 奥村萬亀子(1979) 服作りと衣生活―婦人服を中心に―、京都府立大学生活文化センター年報、3、33-58 (同(1998) 『京に服飾を読む』、染織と生活社、京都、331-362 に再録) 常見美紀子(2001) 桑沢洋子による「仕事着」デザイン、現代風俗、23、128-141 渡辺明日香(2005) 『ストリートファッションの時代』、明現社、東京 柳洋子(1992) 『衣生活社会史』、ぎょうせい、東京 横川公子(2003) 人絹とミシン、『衣と風俗の一〇〇年』、ドメス出版、東京、22-54 横田尚美(1999) 戦中ファッション再考、ファッション環境、9 (2)、54-59 与那覇恵子、平野晶子(監修) (2002〜2006) 『戦前期四大婦人雑誌目次集成』、ゆまに書房、東京 |
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■婦人と思想 与謝野晶子 | |||||||||||||||||||||||||||||||
行うということ働くということは器械的である。従属的である。それ自身に価値を有もっていない事である。神経の下等中枢で用の足る事である。わたしは人において最も貴いものは想うこと考えることであると信じている。想うことは最も自由であり、また最も楽しい事である。また最も賢かしこく優れた事である。想うという能力に由よって人は理解もし、設計もし、創造もし、批判もし、反省もし、統一もする。想うて行えばこそ初めて行うこと働くことに意義や価値が生ずるのである。人が動物や器械と異る点はこの想うことの能力を有もっているからである。また文明人と野蛮人との区別もこの能力の発達不発達に比例すると思う。
なぜわたしがかような解り切った事を書き出したかというと、日本人にはまだ考えるということが甚はなはだしく欠けている。特ことに日本婦人にはその欠点が著しく感ぜられる。わたしはそれを警告して自他の反省資料としたいのである。例えば現今の男子は皆金銭を欲して物質的の利を得ることに努力している。それがために沢山の営利事業が起り、幾多の資本家を富ましめ、多数の労働者が働いてはいるが、さて何故なにゆえに金銭を要するかという根本問題について考えている人は極めて少いのである。唯盲目的に金銭の前に手足を動かしているに過ぎない。従って今の富といい経済というものは人生の最も有用なる目的のために運用せられずに、皮相的、虚飾的、有害的な方面に蓄積し交換せられる結果となり、これを蓄積し交換する手段方法においても、罪悪と不良行為とを敢あえてして愧はじず、いわゆる経済学とか社会学とか商業道徳とかいう事は講壇の空文たるに留とどまって毫ごうも実際生活に行われていないのである。 また日露の大戦争において敵味方とも多くの生霊と財力とを失ったという如き目前の大事実についても、日本の男子は唯その勝利を見て、かの戦争に如何いかなる意義があったか、如何なる効果をかの戦争の犠牲に由って持ち来きたしたか、戦争の名は如何様いかように美くしかったにせよ、真実をいえば世界の文明の中心理想に縁遠い野蛮性の発揮ではなかったか、というような細心の反省と批判とを徐おもむろに考える人は少いのである。専制時代、神権万能時代にあっては、我我は少数の先覚者や権力者に屈従し、その命令のままに器械の如く働けばよかったのであるが、思想言論の自由を許されたる今日に、各個の人が自己の権利を正当に使用しないのは文明人の心掛に背そむいたことである。 考えるという事を働くという事よりも卑しい事とし、または協立しがたき事のように思い、甚しきは有害なりとして排斥しようとする風は、今の官憲にも教育者にも父兄の間にも行われている。「広く智識を世界に求め云云うんぬん」と仰せられた維新の御誓文を拝したる以後の国民は、何よりも思想を重んずべきはずであるのに、今なおそのような蛮風の遺のこっているのは困ったものである。近頃聞く所に由ると、社会主義者の中に或る大逆罪の犯人を発見するに及んで、政府の高官らは慌あわてて欧洲の書籍を研究し、初めて社会主義と無政府主義との区別を知ったという事である。また一冊の新刊小説をも読むことなくして現代文学を排斥する官憲や教育家の多いことは現に見受ける所である。また山形県酒田さかたの富豪本間ほんま氏がその子弟の教育を小学程度に止とどめてそれ以上を学ばしめざるのみか、氏一家の反対に由って今なお中学の設置を酒田町に見ざる類の、非文明的な父兄も各地に多いのである。わたしはそういう保守頑冥がんめいな階級に対しては唯ただ困ったものだと思うのみで最早どうしようという見込も考もないが、願ねがわくば新しい思想を尊び新しい活動を実現しようとする進歩主義の人人の驥尾きびに従い、胸の鼓動をそれらの人人の調子と一つに揃そろえて意義ある自分の生活を続けたいと思っている。 わたしはいろんな事を考える。それを文学的に述作することもあり、また手足の労働に実現することもある。また単に感想として他人に聞いてもらうこともある。また考えただけで直ぐにも永久にも実現することの出来ない感想もあって、人には知れない事であるが、そういう感想は手近く実現し得る感想よりも自分にはかえって興味が深い場合もある。とにかく考えること想うことはそれ自身に自足飽満の悦びがある。他人に発表せずとも十分に目的を果し得るものである。冥想とか静思とかの楽みを知っている人の一生は非常に幸福だと思う。またちょっとした事でも真面目まじめに考える習慣を作ると感情的にのみ行動する事がなくなり、理智の眼が開いて、反省し、批判し、理解する力が鋭敏になり、それを拡充すれば自己の思想、感情、行為に統一が出来て、破綻はたんが減って行く。自己を理解すれば他人の思想をも理解が出来て、其処に正しい譲歩が双方の非を抛なげうつことに由って成り立つ。そうして自己を提ひっさげて社会に順応し活動するに必要な自然の規律が完成されて行く。即ち考えるという事は保守主義者の憂惧ゆうぐする所と反対の結果を来きたして甚しく倫理的な人格が出来上るのである。 わたしはこういう自信の上から一般の婦人に思想という事を奨すすめたい。我ら婦人は久しく考えるという能力を抛棄ほうきしていた。頭脳のない手足ばかり口ばかりの女であった。手足の労働においては都会の婦人の一部を除く外、今日もなお男子を凌しのいで重い苦しい負担を果している。山へ行っても、海岸へ行っても、市街の各工場を覗のぞいても、最も低額な報酬を受けつつ最も苦痛の多い労役に服しているのは婦人である。それにかかわらず男子より軽侮せられ従属者を以もって冷遇されているのは、唯手足のみを器械的に働かして頭脳を働かさないからである。そういう下層の労役に服している婦人は姑しばらく措おくとするも、明治の教育を受けたという中流婦人の多数がやはり首なし女である。何らの思想をも持たないのである。 身体の装飾、煮物の加減、裁縫手芸、良人おっとの選択、これらは山出しの女中もまた思う事であり、また能よくする所である。良人の機嫌を取るという事も、現在の程度では狭斜きょうしゃの女の嬌態きょうたいを学ぼうとして及ばざる位のものである。男子が教育ある婦人を目もくして心私ひそかに高等下女の観をなすのは甚しく不当の評価でない。一般男子の思想に比すれば婦人は何事をも考えていない、何らの立派な感想をも持っていないといってよいのである。 近年婦人解放という問題が出ている。しかしそれは婦人自身が言い出したのでなく、物好きな一部の男子側、議論ばかりで実際にその妻女を解放しそうにない男子側から出た問題である。婦人にも少しは人並の量見を持たせてやってもよいという、特に男子側から御慈悲を掛けて御世辞半分に言い出された問題である。そうしてこの問題は格別婦人側の注意を惹ひかなかった。近頃はまたこの問題の反動として、多数の男子側から女子実用問題が唱えられて来た。即ち女子に高等教育は不必要だ、手芸教育が必要だ、女子は柔順に教育しなければならぬというのである。女子に高等教育を授ける弊害としては、折から英国に勢力を得て来た女子参政権運動を例に引いている。女子は永久に男子に隷属すべきものだ、解放などは以もっての外ほかだという権幕である。例の保守的思想が時を得顔えがおに跋扈ばっこするのであるからかような議論は毫ごうも驚くに足らないわけであるが、そういう男子が自分らだけは昔から自由を享得していたような態度であるから滑稽こっけいである。日本の男子は維新の御誓文と憲法発布とに由って初めて人並に解放せられたのではないか。自分らの解放せられた喜びを忘れて婦人の解放を押え、剰あまつさえ昔の五障三従ごしょうさんしょうや七去説しちきょせつの縄目なわめよりも更に苛酷かこくな百種の勿なかれ主義を以て取締ろうというのは笑うべき事である。しかしかような目前の問題に対しても我国の中流婦人は何事をも知らないのである。 男子側から如何に多くの婦人問題を出されても、婦人自身に目を覚さまさねばこの問題の正しい解決は著つかないであろう。いやしくも在来の如き高等下女の位地に甘んぜざる限り、中流婦人が率先して自己の目を覚し、自己を改造して婦人問題の解決者たる新資格を作らねばならぬ。それには何よりも先ず想う婦人、考える婦人、頭脳の婦人となり、兼ねて働く婦人、行う婦人、手の婦人となることが急務である。「我は何者であるか。」「我は人である。男女の性の区別はあっても、人としての価値は対等である。」「我は人間を本位として万物を見ると共に、また万物乃至ないし生物の一として我を見ることが出来る。」「我は世界人の一人であると共に、日本人の一人である。」「我は何の目的にて生れたるかを知らず。宇宙の目的の不可知なる如くに。」「我には生きたいという欲がある。」「なるべく完全に豊富に生きたいという欲がある。」「人は孤独にて生きることは出来ない。協同生活が必要である。」「男女は協同生活の基点である。此処に夫婦が成り立つ。次いで父母子弟乃至社会。」「社会があれば当然社会の協同生活を円滑にするために治者被治者の組織が生ずる。また社会の基点たる個人の天分と教育とに由って智識、感情、意志の差と職業の別とを生ずる」「個人としても社会人としても人はあらゆる幸福を享得せねばならぬ。幸福の最上なるものは個性を発揮して我が可能を尽すと共に、互に他の個性を理解し合い鑑賞し合うことである。」かようなる問題は古往今来の大問題であって容易に解決しがたい事ではあるが、今日世界の文明人は皆この問題に触れて、或者は懐疑に陥り、或者は解決の曙光しょこうを認めたといっている。これは冷たい学究の哲学問題ではなくて、御互自身の上に切実な根本問題である。 こういう問題は遽にわかに解決を得なくてもよい。婦人の頭脳がかかる根本問題に注意し、折に触れて識者に質ただし、父母、良人、兄弟、友人とこれについて研究し合うという程度に達すれば、自然読書の習慣も生じ、智識も聡明となり、感情も豊潤を増し、在来の婦人の悪習たる猜疑嫉妬さいぎしっとの小感情や、低い物欲や、虚飾に浮身をやつす心も一洗せられ、良人の機嫌を取ったり台所の用事にかまけたりして貴重なる一生を空費するような事がなくなり、初めて文明男子の伴侶はんりょとして対等なる文明婦人の資格を作ることが出来ようと思う。そうして男子より軽侮せらるる事なく互に尊敬し合う位地に上ったならば、諸種の婦人問題は自然に解決が附くであろうと思う。 男子側の保守主義者は英国婦人の参政権問題の運動を伝聞して婦人の覚醒を怖おそれるようであるが、我国の婦人にはまだ容易にそういう突飛な運動は起らないであろう。なぜならば我国の青年には男子にさえ政治熱は皆無なのであるから、凡すべての学芸すべての社会問題に冷淡なる日本の女子が一躍そういう極端な新運動を試みようとは想われない。またそういう女壮士の殺風景な政治運動は故中島俊子なかじまとしこ女史の娘時代や近年の故奥村五百子刀自おくむらいおことじの実例に見て、さまでなつかしい性質のものでないことは明瞭めいりょうであるから、今後幾年かの後に我国の婦人が覚醒するとしても、政治には向わないで、学問、芸術、教育などの方面に向って男子と競争の態度を取るであろうと想われる。殊ことに文学において日本婦人は侮あなどりがたい技倆ぎりょうを古代においてしばしば実現しているから相当の自信を持ってよかろうと思う。 わたしが此処ここに想うこと考うることを奨すすめたのは、決して行うこと働くことを斥しりぞけよというのではない。漫然と手のみを働かすよりは、頭脳を働かしてその順序立った思想の方針に由って手を働かしたならば、無意義の労働を省いて益々ますます有効に労働する事も出来、これまで手足の労働にのみ使用した時間を割さいて、もっと幸福な生活――精神生活をも営み得ると思うのである。トルストイは「自己を改善するという事が人生の最も優れた行為だ」といった。我我日本婦人は特に急いで自己を賢くし、鋭敏にし、溌溂はつらつたる「一人」にする事が必要である。 あながち前に挙げたような宇宙人生の根本問題について最初から考えるに及ばない。とにかく何彼なにかにつけて疑問を出いだし理智を磨く習慣を作るのがよい。仏教で「智慧の光明」という事を説く。婦人に全く欠けているのは自己の無明闇夜むみょうあんやを照す智慧の光明である。理智を磨くには数学とか、進化論とか、動植物学とか、心理学とか、法律学経済学とかの書物を読む習慣を作るのもよい。読書をすれば自然心の天地が広くなって愚痴ぐちを破り、情念が高尚になって卑近な物質欲などで煩悩ぼんのうの火を焚たく事も減じて行き、日常の談話も上品になり、美貌びぼうならぬ婦人も自然その風采が美くしくなるものである。天照大神てんしょうだいじんを礼拝する国の婦人は凡てに卑屈なる旧習を脱し、我より文明婦人の範を示すほどの自負が欲しいと思う。 (『太陽』1911年1月) |
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■大正期婦人雑誌における女性・消費イメージの変遷 『婦人世界』を中心に |
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■はじめに 消費・情報・メディア | |||||||||||||||||||||||||||||||
今日、エコロジー問題の浮上とともに「どれだけ消費すれば満足なのか」1と問われるようになり、物質的消費の限界が意識されている。見田宗介は資源/環境の臨界問題、域外/域内の貧困問題をうみだしている現在の「消費社会」の構造を転換し、「方法としての消費社会」を構想した。それは、実際のモノではなく、「絵画や詩の美しさ」といったイメージの消費を重視する社会である2。例えば、食品としての機能性ではなく「パフ」というネーミングがもたらす「美味」イメージによって購入される「ココアパフ」という嗜好品は、人間の「マテリアルな消費に依存する幸福のイメージ」という、あらゆる効用と手段主義的な思考を転換された商品の一つである。実際のモノではなくイメージの消費へと人々を解放するという消費コンセプトの転換を見田は提唱するからである。.そのために必要とされているのが情報である。ある物質がその機能よりも色彩やデザインという例えば「美」という情報に欲望が促され、消費されれるようなら結果的にモノへの消費は抑制されることになる。こうした非物質的なものの空間へと欲望を解放する可能性をもっているのが情報化社会であるとして、これからの「ゆたかな社会」は何らかの情報が需要を生み出し、人々の欲求を無限空間へと解放することが求められる。こうして消費社会のシステムは、有限な物質に囲まれて生きる人間でありながら新たなかたちでの幸福の創造を可能にすることになる。
だが、今後の情報のあり方と消費社会の転換とを考えてみるまえに、これまでの日本における消費文化を振り返ってみると、そうしたモノを消費させず、人々のイメージを膨らませる情報を提供するメディアについて1922(大正11)年に山川菊栄が次のように論じている。 精神上の糧を新聞雑誌から得ている女性読者の知識、中でも「雑誌界を風靡する婦人雑誌」を読むことで得られている情報は、栄養価を無視した、ただ舌ざわりをよくするサッカリンを大量につかった料理を食べさせられているのに似ているという。なぜなら、「無用の好物として、それを嗜んで飽かずに居る」のに、結局女性の「精神は栄養不良に苦し」んでいるからである3。社会主義者である山川はそこに婦人の精神を犠牲にして金儲けをする婦人雑誌経営者の露骨な商業主義を見出すわけだが、と同時に「舌ざわりのいい」婦人雑誌の情報のあり方を批判していることがみてとれる。山川は、「読者は年中同じ廃物利用のサッカリン料理を宛がはれて山海の珍味も叶はぬ高い税をとられてゐる」と述べ、婦人雑誌読者が女性の成長につながらないような舌触りの良い情報を高い料金で購入することを問題視していた。しかし見田の観点からみると、女性読者が婦人雑誌の情報を購入することで、高い満足を得ていたとみることができる。 本稿では、明治から大正期に数多く発刊され、そして昭和から現代にいたるまで女性の情報源として存在している雑誌の情報のあり方について考察する。特に明治末年から戦時期に入るまでを「豊かで退屈な時代としての大正時代」と呼び、「日露戦争の終結と、その条約に反対する日比谷焼き討ちの大暴動の波がひいてから、日本の軍人が満州事変を起こして第二次世界大戦へのさきがけをなすまで、年代でいいなおせば、1905(明治38)年から1931(昭和6)年まで四分の一世紀つづいた。」4と規定した鶴見俊輔のいう広義の「大正」時代に発展した婦人雑誌を取り上げる。「大正」時代に多数の読者を開拓した婦人雑誌伸長の社会的背景には、この時期に台頭した中産階級の存在がある。山川が「サッカリン料理」と呼んだように誰にも好かれる味付けの婦人雑誌はそれ自体を商品として購入され、不特定多数を消費者=読者として獲得しひとつの読者層として形成され、「大正」文化のひとつの有力な担い手として存在することになった。 そこで本稿が特に注目するのが、日露戦争後の1906(明治39)年、実業之日本社から創刊された婦人雑誌『婦人世界』である。『婦人世界』はその後の婦人雑誌の原型ともなったといわれる雑誌で、当時売れたといっても7、8千から1万部の時代に30万部の発行部数ほこり、実業之日本社の至宝と呼ばれた5。『婦人世界』は明治、大正、昭和にまたがって出版されており、満州事変の1931(昭和6)年に発行元を婦人世界社に移し、2年後には廃刊することになるが、約30年の歴史をもつ。つまり、鶴見のいう「大正」の婦人雑誌であり、時代と共に変化する情報提供のあり方を通史的にみることができる。 以下、第1章では、これまでの婦人雑誌研究をふりかえり、『婦人世界』を扱う意義を明らかにする。第2章では、『婦人世界』が創刊され、大正に入り雑誌として成功していくまでの時期に誌面で提供された情報について考察する。第3章では、大正期の代表的婦人雑誌となった『婦人世界』の誌面をみていく。第4章では、大正時代に成功した婦人雑誌でありながら、昭和にはいりしだいに凋落していく『婦人世界』が雑誌として生命力を失っていくなかで読者の獲得のためにどのような誌面を形成しようとしたかについてみていきたい。 |
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■1 婦人雑誌と消費 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1-1 『主婦之友』『婦人公論』から『婦人世界』へ
一般に「大正」婦人雑誌が提供した情報の特徴としてまず挙げられるのがその「実用性」である。読者が生活において実際に用いることができる情報を雑誌が提供したことをさす。植田康夫は1916(大正7)年創刊の『主婦之友』に見られる実用性に注目し、日本に浸透したモダニズムをみている6。婦人雑誌の実用記事に見られる「便利性」「能率性」「経済性」という言葉には近代的合理主義が見出せるからである。こうした実用記事が読者に受容されることは、「西欧的合理主義や感覚の面でのモダニティの移入」と考えられた。こうした、主婦が実際に読んで役立てられるという実用情報を婦人雑誌が提供することは、日本の近代化を推進したとみることができるわけである。経済的料理がつくれる、便利な衣服がつくれる、効率的に家計を管理する、といった実用的情報を参考に家庭運営を行うイメージが婦人雑誌読者には存在している。 合理的精神を家庭に反映させる女性を中心的読者とするとされる実用的「婦人雑誌」の歴史は、植田がとりあげている『主婦之友』を中心に考えられてきた。婦人雑誌として昭和に入りはじめて百万部を達成したこともあり、『主婦之友』は戦前の婦人雑誌の代表的存在として、また実用的主婦向け雑誌としてよく知られているわけである。 そして、実用とは異なる情報提供を行った例外的婦人雑誌として「教養派」と呼ばれた『青轄』や『婦人公論』が挙げられる7。この教養派の雑誌も女性が読むことでまた女性が自らの生き方を考えるうえで「役に立つ」わけだが、その情報が実用派のそれとは異なるという意味で注目されてきた。なぜなら『主婦之友』のような実用的情報は日本の近代化の過程で性役割が意識されるのと平行して、私的な「家庭」へと女性読者を導くのに対し、『婦人公論』の情報は公的な「社会」問題へと導くと考えられるからである8。 しかし教養派と呼ばれ、実用記事とは無縁であるかのような『婦人公論』も実用記事をまったく掲載していなかった訳ではない。創刊号には多くの婦人論に混じって、「最近流行界の趨勢」(むらさき)や「女性容色美発揮術」(伊賀とら)が掲載されている9。1916(大正5)年に発刊された『婦人公論』には、料理情報などは昭和に入ってから取り入れるようになると少し遅いが、流行や女性美に関する情報が創刊時から取り入れていたのである。 「女性美」や流行消費はいわゆる「伝統から解放された女性」「自由を謳歌する女性」を意味しているとして『婦人公論』読者にふさわしい消費として積極的に評価できるかもしれない。だが、女性の経済的自立を説く社会主義者の山川菊栄や、女性の内面の充実を重視する「新しい女」の一人である平塚らいてうらは外見ばかりを気にして無駄な「享楽的消費」にはしる女性を批判している。従来の図式でいえば「女性美」や「流行」に関する情報はむしろ実用派雑誌にふさわしく、教養ある女性を読者として想定していた『婦人公論』は、それを厳しく批判していたように思われる10。 こうして『主婦之友』や『婦人公論』を見てみると、従来の実用/教養の分類に基づいて婦人雑誌の内容が分けられるというわけではない状況があった。『婦人公論』に実用的ともいえる「女性容色美発揮術」がある一方で、山川菊栄が婦人雑誌を「サッカリン料理」に例えたように、実用派婦人雑誌の実用的記事が実際は役にたたないという点で指摘されていたのである11。 つまり、「大正」婦人雑誌のどのような内容が女性読者にとって役に立つと考えられ、そうでない情報であったかは渾然としていた部分がある。また、明治から続く女性の啓蒙メディアとしての歴史をもち、また大正にはいり「中等階級」文化のひとつとなる婦人雑誌は女性読者を情報の受け手としてどのように位置づけていくかにおいての葛藤が見られる。そうした誌面づくりの変遷について具体的にみていきたい。 ■1-2 婦人雑誌史における『婦人世界』の位置づけ 内容の検討に入る前に、『婦人世界』を明治から大正、昭和にかけて支持した読者についてみてみよう。永嶺重敏の戦前の女性読者調査をもとにした考察によると、婦人雑誌読者の中核層は職業婦人や女学生であり、女工がその周辺的読者として存在していたという。女学生については彼女たちが最初に手にするであろうと思われる少女雑誌が婦人雑誌の入門案内的機能を果たしていた12。『婦人世界』も姉妹誌として1908(明治41)年に創刊の少女雑誌『少女之友』を有し、執筆人を共有していた。大正から昭和にかけての『少女之友』も人気を博しており、そこで獲得された読者もまた『婦人世界』へ水路づけられていたと考えられ、ひとつの支持基盤をなしていたとみることができる。 大正8年〜 大正10年にかけての雑誌購読者状況をみてみると、調査対象の属性は「女工」ではあるものの、『婦人世界』は上位に位置づけられている。大正8年に東京でおこなわれた「製糸工場に於ける女工事情」の読物調査の結果では、270の回答うち、第1位の『婦人世界』が101人の読者なのに対し、第2位の『婦女界』は66人となっているB。大正10年の東京市社会局による「女工に関する調査概況」掲載の「購読雑誌」調査では、722の回答のうち201人が『婦人世界』と答えて第1位となっており、第2位の『主婦の友』96人とは大きく差が開いている。 しかし、昭和にはいっておこなわれた読書調査では、『婦人世界』は『主婦の友』『婦女界』『婦人公論』といった雑誌につぐ4番手、5番手の婦人雑誌となっている14。こうした「大正」婦人雑誌の再編過程は『婦人公論』(大正5年)、『主婦之友』(大正6年)、『婦人倶楽部』(大正g年)の伸張と読者獲得のための附録合戦や賞金競争の応酬とともにすすんだことがうかがえる。つまり、『婦人世界』は大正中期過ぎまでは最も成功した婦人雑誌としての地位を保っていたが、その後大正期創刊の婦人雑誌ととともに激しい販売競争を繰り広げるなかで、昭和に入り読者の支持は後退して行ったと考えられる。 だが前田愛が論じているように、大正期は基本的に「婦人雑誌の急激なる発展」時代であった15。1930年前後から婦人雑誌の売上がそれほど急激な伸びをみせなくなり、婦人雑誌全体での獲得できる読者が頭打ちの状態になるまでは婦人雑誌はもっとも大衆的メディアであった16。そうした婦人雑誌を大宅壮一は「文化的植民地」と呼ぶほどであった。女子教育の普及と新中間層の拡大に支えられ、婦人雑誌が新たな読者を開拓しつづけたからである17。昭和に低迷したと言われる『婦人世界』も当時60万部という大部数を発行したこともあり、1931(昭和6)年に婦人世界社に編集元を移籍し、実際に廃刊を迎えるまでの1933(昭和8)年まで「大正」の婦人雑誌として日本の「中等階級」文化のひとつでありつづけていた。 前田愛によると、この時代に登場してくる婦人雑誌を購読可能な新中間層である「中等階級」の年収はおよそ800円前後であるという。1903(明治36)年には年収500から5000円の「中等階級」は全世帯の2.38パーセントにすぎなかったが、1917(大正6)年には5パーセントに達し、1922(大正11)年には11.5パーセントにまで伸びていた。大正末年ごろまでにそうした家庭は修養のための書籍以外に地方新聞1紙、主人の雑誌を2誌、そして主婦向けの雑誌を1誌、を定期購読できるまでになっていたと考えられるわけである18。 「中等階級」文化のひとつとなっていった婦人雑誌のなかで『婦人世界』は明治から大正、昭和にかけての約30年、どのような情報提供をおこない、女性読者にとっての文化を形成したのだろうか。女性文化の一つでありながら、と同時に他誌と読者獲得競争をくりひろげる商品でもある婦人雑誌の誌面には、多くの婦人雑誌なかから一誌を選択し、購読する読者の気を引きつける必要がある一方で、「中等階級」の「婦人たち」にとって受容するにふさわしい内容とは何かについての検討まで幅広い、時には矛盾する情報で彩られている。 ■1-3 女性がおこなう批評 『婦人世界』が創刊された日露戦争後は、出版史においてはじめての量産、量販時代として位置づけられている。とくに出版の量産・量販システムを牽引したのが雑誌販売における委託性(返品可能)の導入である。当時、雑誌販売は買い切り制(返品不能)であった。その委託制を雑誌にいち早く1909(明治42)に導入し、売上の増加に成功したのが『婦人世界』であった。飛躍的に売上部数増加を実現した『婦人世界』の成功で、実業之日本社はその後全雑誌の「オール委託・返品無制限自由制度」を発表し、雑誌販売量を伸張させた19。その結果、雑誌出版は量産・量販される大衆文化のひとつとなる基盤をっくった。 日本初のマス・マガジンといえば1925(大正14)年に創刊され百万部を達成する大日本雄弁会講談社の『キング』が一般的あげられる20。その講談社社長の野間清治は実業之日本社の成功をみてこのシステムを自社の出版物にも導入し、雑誌王国を築くことになる。雑誌の大量販売システムの口火は婦人雑誌である『婦人世界』が切り、娯楽雑誌『キング』においてその成果は達成されたともいえる。そしてこの大衆出版システムにおいてのみならず、一見異なる婦人雑誌と娯楽雑誌はそのほかの点でも共通点が多いことを戸坂潤は次のように指摘している。 「(婦人雑誌の娯楽的要素と娯楽雑誌の)この二つは他の雑誌に比べて見れば、ほぼ同じジャンルにぞくするものだといふこと、これは大して変な見方ではないやうだ。風俗、映画、風俗写真、エロティックな記事、かうしたものが共通なのだ。実際多くの婦人雑誌は娯楽雑誌みたいなものであり、又多くの娯楽雑誌は婦人雑誌のやうなものとも考へられるではないか」21。 娯楽雑誌と婦人雑誌の共通点を指摘する戸坂潤は、生活が通俗的であることを強要されてきた婦人の道徳に存在する独自の「批評」を指摘する。道徳的である婦人たちが社会生活に必要とするのが個人の心境をあらわす「批評」であり、この批評は人の衣装、そして流行に向かうと論じられている。「女は風俗批評の選手である、而も極めて道徳的で常識的な保守的な批評家なのである。だがこの批評の選手が、やがて「衣装」の問題から、眼を「人の噂」にまで転じるのを注意しなければならない。いや衣装の批評、品定め、も実は人物の品定めの一環だったのである」22。 つまり、他人の「衣装」批評からはじまり、婦人雑誌や娯楽雑誌における性的なものと私的秘密において満たされる女性のゴシップ好きは非難されるが、彼女たちはゴシップを通じてしか娯楽を見出せずにいるのであり、その背景として日本婦人の社会的地位の低さを戸坂は見出すのである。婦人雑誌の不健全さ、娯楽雑誌の低級さもそれを表すというわけである。 女性の外見への関心の高さは雑誌の購読を通じて形成された独自の人物判断であると戸坂潤は考えている。より「衣装」を重視する傾向につながる女性の批評は、婦人雑誌や娯楽雑誌によってより強められているというわけである。 そうした婦人雑誌が提供する「批評」の価値基準、「批評」すべき対象物は時代によって異なる。『婦人世界』をみてみると、創刊時からしばらくはそうした他者への「批評」はあまり見られない。そうした傾向は大正中期から現れてくる。『婦人世界』において女性に対して行われた「批評」、および女性がおこなった「批評」を中心に、具体的に誌面をみていくことにする。 |
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■2 『婦人世界』からみる「大正」女性・消費 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■2-1 国民流行としての「中流階級」消費の時代・『婦人世界』1906-1913
■『婦人世界』の創刊 1906(明治39)年創刊の『婦人世界』は日露戦争の影響を強く受けて出版された。発刊の辞である「『婦人世界』は何が為に生まれたる乎」をみてみると「激烈なる世界の競争場裡に上れる帝国の進軍に鑑みて、其家庭、国家、社会に対する責任を自覚し、男子と協識してまつ家庭の改良を期図して、併せて国家社会の福利を増進する」ことを目的とするとあり、日本国民の一員であるという高い意識をもとに出版されたことがわかる。 『婦人世界』は、女性読者を「日本婦人」と呼び、その理想、自覚、独立を促して、実際的婦人となるよう求める。日露戦争後の日本婦人を主役として用意された舞台を「新家庭」と呼ぶ『婦人世界』では、これまでの女学校教育を批判的に再考し、家庭・学校・社会それぞれにおこなわれていた女子教育の統一が新たにはかられている。そのための知識を読者に提供することで女性の地位を社会的に確認させ、新たな家庭経営を創出しようとており、「新家庭」を強調することには、一方で「家庭」と切り離されたこれまでの女子教育を批判する意図があり、また一方で女性の社会的地位を見直す意図がこめられていた。 さらに、婦人雑誌がその元祖である『女学雑誌』を筆頭に、女子教育との関係で出版されてきたことを考えると、単に女子教育だけでなくそれまでの婦人雑誌への批判も含まれていた。創刊号に掲載された編集主筆の高信峡水による「婦人と雑誌」には、 「今日の如くに女子教育の盛んになって参りましたのは、誠に結構なことでございます。教育は人を輝かせるものでございますから、何人にも必要なものでございますが、然し、学校教育には暖かい情と美はしい感じとを欠くことは免れぬことで、人が若し学校教育のみ頼って居りますならば、偏狭と冷酷の人に成りをはる恐れがあります。殊さらに、心優しくなければならぬ筈の婦人に取りましては猶更のことでございます。(中略)『婦人世界』は学校教育の欠陥を補ふために力を尽しますは勿論、従来の婦人雑誌と家庭雑誌とを併せまして、学生の方々にも、家庭の方々にも、総て婦人と申す婦人には悉く新しい趣味と智識とをお授けしたいと思ひます。」 とあり、『婦人世界』がこれまでの婦人雑誌の発展型であると同時に今後の女子教育を補う機能を果たすことが明示されている。そこで「日本婦人」に役に立つ雑誌を目指す『婦人世界』は「新しい趣味と智識」の提供を試みるわけだが、そのために実業之日本社社長・増田義一が編集顧問として迎えたのが村井弦斎であった23。 ■趣味としての消費 1903(明治36)年に「役に立つ小説」として当時有名になった「食道楽」を『報知新聞』紙上で連載した村井は、明治中期に『報知新聞』の編集総務を務めた一方で、数々の家庭小説を書いた人気作家であった。その彼が明治39年以後『婦人世界』を中心に執筆するようになる。 編集顧問となった村井弦斎が読者にひろめようとした「新しい趣味と智識」が消費であった。自ら買い物にでかける消費者となり、その心得を身につけ、家庭内消費の中心的存在となることを村井は提唱した。なかでも食材の買出しにおける食品の選択眼を養うことを読者に要求しており、料理が家族の健康管理につながるとして重視された。 この代表的寄稿者である村井弦斎の趣味としての「消費」論は、第一次世界大戦までの『婦人世界』の中心的言説でもある。消費知識の普及を目指す村井弦斎は、『味の素』を筆頭とするさまざまな食品や薬品、家庭用品等の商品の有効性を保証するシンボルとして広告にも頻繁に登場する存在でもあった。この時期の『婦人世界』において役に立っとされたのは、女性読者が消費者となるうえで必要な情報のことであった。ある特定のモノが「流行する」とは良い商品が不特定多数の消費者に選ばれた結果であるとされた。 国民規模で売る意味での「流行」分析をおこなった泉俊秀は、「流行は国民の実生活とは種々の意味で交渉を有って居るものである。而して流行が多くの場合に、供給によって起こってくる事実を知るとき、供給者たる製造販売業者は、優良なる流行を起すべく対社会的の責任を忘れてはならぬ事そ震憾するものである。」と述べている。流行とは国民と切り離せない消費を意味するだけに、供給者側の責任が問われる24。そのため、流行は社会との関係において「国民の生活に何等かの利益を与えるもの」であり、国民的規模で有益と認識されたものとしてその意義が論じられた"。国民的流行を可能にする供給者は、良い品を国民的規模で行き渡らせることができる手腕をもった人物と考えられ、高く評価される。消費の演出にたずさわる人間は、他者の利益になる仕事を担っており、社会的責任がある存在と見なされた。 ■割烹着と婦人の衣装 そうした例のひとつに、明治時代に普及が促された割烹着の存在がある。創刊号には『婦人世界』における最初の服装広告である「弦斎式料理服」と名づけられた割烹着の広告がある。これは、加藤時次郎博士の「外科服」からヒントを得た「村井弦斎夫人」村井多嘉子が考案したとされ、前掛けにかわる「新しい」料理服と考えられている。この服の長所とは、「この服の長所は、一.樫を用ゐる世話がなく、二.衣服の汚れる事がなく、三.起居が楽である事、等」であった26。 この衣服はすべての国民に有効とされた。なぜなら、これを着用した料理人が衛生面に気を配り料理することで、家族の、そして国民の健康が守られることにつながるからである。村井にとって「消費」趣味の拡大は、「料理」知識を普及することでもあった。女性読者には、家族の健康を考えて料理するうえで重要なのは、より良い食品を求めて自ら買い出しに行くことが奨められた。 こうした意識の背景として近代家族の登場があげられる。母であり妻である女性に、家庭での消費における主導権をにぎり、衣食住を担うことがその役割として求められるようになったからである。だが、出産という女性の生産性よりも、再生産を促す消費者としての役割に主眼がおかれていた。 創刊から9号目で登場する「弦斎夫人の料理談」27は、弦斎夫人である多嘉子が料理法を紹介する、昭和まで続いた『婦人世界』の定番記事であった。料理は消費と関連づけられ、女性の役割として重視された。その意味でそうした婦人雑誌の創刊号に掲載された「衣装」記事が割烹着の作り方であったことは象徴的であったわけである。 ■流行品のすすめ 1907年の増刊号「衣装かゴみ」をみてみると、やはり衣装に関する「流行」は積極的に評価されている。重要とされたのは衣装を着るその「目的」である。「衣装美と快感」では、「流行」はつぎのように論じられる。「自分で快感を得るためでは無く、他人に快感を与ふるためであるとすれば、自分の好みによって品を選むよりは、世間の流行に随って選択しなければなりません」28。この「流行」観には、個人による商品の選択は「固有の性癖」に左右されてしまうことがあるため、むしろ他人も認めた「流行」ならば一人よがりな衣装にはしることはないと考えられている。 そのため、買い物に出るなどの外出用衣装は「実用一方の衣装」よりも「縞柄も、色合も、流行を追うて、それぞれ自分の年格好に適当するやうに注意し、つまり実用を離れないで、而して流行にも後れないやうなのを選定しなければいけません」とあり、品質の選定とあわせてむしろ流行に敏感であることが奨められていた29。「東京女学生間の流行」との取材記事が特に批判されることもなく掲載されることもあった30。女学生の髪型や髪飾り、衣装や装飾品の流行が紹介され、「新流行」として袴の需要が分析されている。そこには特に後にセンセーショナリズムと呼ばれるような過激な風俗紹介は見られない。 ■西洋からみる日本の消費 また、「西欧の中流社会」をモデルとして、理想的女性消費者が語られた記事も多い。この時期、読者はまず消費者になることを奨められた。 渡米経験もある村井弦斎は「料理」に関してだけではなく、「西洋の中流社会」の紹介者の一人であった。村井は、1906年の「実際生活」のなかで洋行帰りの人が用いるようになることが多い「羽枕」、「脳が悪くつて平生頭部を冷すの必要がある人」が使用する「舶来のゴムの湯たんぽ」を使った水枕、また「西洋で大流行」となっている松葉入り枕、西洋で「中流社会の人が平生用ゆる寝巻」といった商品を日本の寝床の改良を論じつつ「健康」の観点から商品の紹介を行なっている31。衛生的にも考えられた西洋の商品紹介は婦人の健康に役立つからだが、結果的にそうした商品の宣伝にもなっていた。 「婦人の日常生活法」における、婦人美は家庭を楽しくするので「わが国の婦人も西洋風に家の中で晴衣を着る様な習慣にしたい」との主張では、西洋「中流社会の習慣」を説明しながら婦人の衣服にどのようなものがあるかについての案内となっている32。他にも「婦人一代の生活法一娘の巻」では、「フランネルは舶来だと云っても英国製のフランネルと独逸製とは大層な相違がありますし、このサラダ油は西洋のだと云っても米国のものと仏国のものとは品質に差等があります。針を一つ買っても糸を一巻き買っても今では西洋の物を使ひますから婦人は一通り西洋の事情を知って居なければなりません。」と女性の商品知識を向上させようとしている33。 「化粧かゴみ」では、「世界中最も巧妙にして精緻なる仏国上流及び中流婦人の化粧法」である「仏国婦人の化粧法」、「斬新なる美術法、精妙なる美顔法」の「米国式化粧法」、「学理と実際とを併用せる」「独逸婦人の血色好き所以」、そして「英国婦人間に流行する瀟洒なる顔と形のつくり方」として「英国婦人の化粧法」が紹介された。以上、各国との比較から、日本婦人に対して化粧の心得が説かれると同時に、和洋とりそろえた「化粧品案内」が7頁にわたって掲載された34。 『婦人世界』がこうした商品案内や流行をむしろ積極的にとりいれようとしているのは、女性読者に家庭の改良の意志をもった消費者としての日本婦人を見出していたからであろう。そこには、強い自分らしさをもった消費者・女性像がみてとれる。その理念は西洋の家庭をきりまわす中流階級の婦人が参考とされ、商品案内は主体性のある女性の選択肢を増やし、女性自身の批評眼が養われるために掲載されたとみることもできる。しかし、あまり女性が各自その個性を発揮することを危惧したことから、むしろ「流行」に敏感であったほうがよいとされていた。「流行」は良い品が出回ることであり、そうしたものを取り入れて周りへと配慮することが大切とされたからである。 以上の観点から批判された女性というのは、まず自分自身で選択しない、つまり買い物にいかない女性であった。さらに、品物の好し悪しの見極めができても、現在の自分の状況や周囲との調和を考えず買い物をしてしまうことも批判の対象となった35。 |
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■2-2 奢修批判にみる女性「批評」の確立期一『婦人世界』1914-1926
■主婦規範としての実用記事 だが、そうした消費観も第一次世界大戦の物価騰貴をへて、「節約」「倹約」の消費が女性役割として強く意識されるようになる頃には変化をとげる。『婦人世界』の消費経済に関する掲載記事には、良い消費/悪い消費に関する言説がみられるようになる。 これまでの『婦人世界』では女性読者にまず消費者になるようにと説いていたが、物価騰貴の時代になって、「良い」消費者になることを求めるようになっていった。そこで、消費行動の捉えられ方も異なってくる。 特に第一次世界大戦後、物価が騰貴するなかで家計管理の重要性が女性に説かれた。そこでは、いかに節約を行うかという記事とともに、「節約」や「倹約」は女性に元来備わった能力の一つとみなされるようになっている。 例えば、1918年10月の「節約生活号」では、女性がいかに倹約精神に富んだ存在であるかが論じられている。渋沢栄一は、「婦人の性質は節約生活に適す」とある36。また常磐松女学校長の三角錫子は過剰な節約をいさめるとともに、「主婦時代は婦人の檜舞台」であるとして、物価騰貴の時代だからこそ、女性の能力は発揮されると説いている37。 消費能力は女性のパーソナリティとみなされており、女性は自らの能力を自覚するようにうながされている。そうした言説は女中を廃止せよとの声を生んでいる。女中をおかずその分を主婦が働くことは、節約以上に主婦の手腕が示されたことにつながるからである。女中にまかせるのではなく、各家庭の女性がさらに能力を発揮すれば、女中にかかる経費の削減だけでなく、さらなる倹約が可能になる。厳しい時代にこそ家の購入を実現するのが主婦なのである38。女中の廃止だけでなく、簡易生活を実践して旅費を準備し、旅行用品をそろえた「1週間の家族旅行」といった記事もある39。こうした家庭内の消費に自ら工夫をこらして、経済的に成功する女性の物語が誌面にたびたび登場している。こうして倹約は実用記事の目玉として、附録「家計簿」とともに婦人雑誌の主要な記事となっていった40。 村井弦斎は、女性読者に消費者としての役割を求めた。女性が消費者となることで、「自分の家族のため」でありながら国民の一員として家族の健康と家庭経済のバランスを考えるようになるからである。女性は消費の重要性を「家族」を通じて学んでいたともいえる。 だが、この時期の誌面に登場する消費論をみてみると、消費と家族という結びつきが女性のなかで希薄化していく側面がある。家族を念頭におこなわれていないわけではないが、物価騰貴のなかで消費は女性のひとつのやりがいとなり、どれだけ倹約に成功したかが女性の能力を示すひとつの指標となっているのである。 例えば1918年「下駄と鼻緒の徳用調べ」では、女性にはいかに「徳用」商品の知識を必要とするかが説かれている41。さらに、生活改善が婦人の社会参加と考えられるようになったことも、消費生活に取り組むことは女性の義務であるとの雰囲気に拍車をかけている。だが、そうした活動に取り組む女性に注目が集まれば、そこに参加しない女性は能力的に劣っているとして批判的視線が注がれることになる。 ■分類される女性 編集主筆であった高信峡水は女性を2つに分類する。「世を挙げて浮華虚栄に流れてゐる今の時に」、一方に、「世の風潮に染まず」「自分の信ずるところに向って進む」「真に気高い賢女といふべき」女性があり、もう一方に「自分の身分を忘れて、人がああいう服装をしてゐるから、自分もかふしなければといふやうな、世間への体裁ばかり繕ってゐる弱い婦人は人生の劣敗者として家庭の幸福の破壊者としてこの世の中から葬り去られるべき」女性がある。高信峡水が世の女性を二分する基準として設けたのが消費のあり方にあった。女性の地位向上の道を考える高信は、世間の風潮に流されて買い物するのではなく、「賢女」として健全な消費をおこなう婦人の団結を求める。編集主筆である高信が目指すのは真の「女性」に役立つ雑誌として『婦人世界』の編集に取り組み、そうした女性のための情報提供を行うことであった42。 家庭の消費者として女性読者の団結を促す言説には、「何のための消費か」という視点から見た場合、消費は女性同士で取り組むべき社会的に要請された問題であり、真の「女性」になるための手段であるかのようである。こうした消費行動が「家庭」の女性化をすすめ、「主婦」の意識向上に寄与し、女性の意識的連帯が指摘できる43。その一方で、そのために女性間の分裂もまた生じており、そこに「真面目」とされた女性消費者と「享楽的」とされた女性消費者とを断絶している。そして消費行為が「享楽」または「虚栄」であると批判された女性のパーソナリティが「流行」に敏感であることであった。 ■批判される「流行」 下田歌子は、多くの婦人が流行を気にかけずにはいられない状況にあることを指摘する44。 「どのやうな美しい着物でも、髪飾りでも、それが流行遅れだとなると、振向いてもみないといふ有様です。また如何ほど沢山の持物があつても、商人などから『これは今日の最新形で、目下大流行です』といはれると、丁度催眠術をかけられたものが、術者の暗示でも受けたやうに、欲しくて欲しくて、矢も楯もたまらなくなる人が多いやうであります。婦人が時の流行に服従する様は、宛も専制国の人民が、暴君のもとに膝を屈してゐるやうなものです。これは悪いことだ、流行を追ふなどといふことはあるまじいことだと思つても、その暴威に反抗して起つことのできないほどに圧制されてゐるのです」。 こうした状況は「その人の修養」、そして「その人本来の性質」から生じていることもあり、「若い婦人」は流行を気にしないという性質だというだけで「稀有」な存在として位置づけられる。こうして導かれる結論が「流行を追ふ人に信用なし」というわけだが、「一種の群集心理の作用」である流行には、「よほど冷静にならなければ、これに感染しないわけにはまゐりません」とされ、流行は女性を苦労させる現象とされている。流行に左右されるという点では日本も西洋も同様であり、「卑俗な華美な流行」にはしって各国の文化の質が下落していると流行は批判されたのだった。 他にも、佐方鎮子は「流行を追うて贅沢品を求める」ことについて45、また四方田柳子は「他人の真似をしたがる人」にっいて46、さらに棚橋絢子は「着物に大騒ぎして、流行ばかり追つてゐるやうでは、第一に不経済でもありますし、それと同時に、その人の人格までも疑はれます」といった流行批判がおこなわれている47。 ■中流婦人の能力 実業之日本社は『婦人世界』に『食道楽』を著した村井弦斎を編集顧問に迎え、その後「弦斎婦人の料理談」を看板記事にして家庭内消費に関する情報提供を行った。大正にはいってからは各種家庭叢書を何万部という単位で売るほど成功していた出版社でもある48。「家庭」の女性を重視するからこそ1918(大正7)年の米騒動では、それが「台所の必要に迫られ起こったもの」であり、教育ある婦人が引き起こすことはないとして「中流階級」の雑誌であることを意識しながらも、「台所を司ってゐる婦人のうちには、この富山県の婦人連に同情する人たちも少なくないでせう」として米騒動を女性の運動としてとらえ同情を寄せている49。 「家庭」に基づく女性の積極的な行動は、第1次大戦期には男子と同等の能力を発揮する各国の女性が紹介されるとともに、女性の能力として認識されるようになっている。「交戦国婦人の労働と権力」として紹介される女性には、「男子と同等の能力を認む」として、「今や世界各国の婦人は男子と同じ職業に従事して、立派にやって退ける能力があることを証明したやうなものです」と述べられている50。 また、かつて模範となるべき「中流階級」は海外に見出されいてたが、日本国内の「中流階級」婦人に道徳の模範としての期待が寄せられるようになっている。「頼もしいのは中流階級」とされ、米騒動の原因ともなった貧富の差の象徴でもある富豪は「徒に五欲を恣にし、自動車を駆って成金風を吹かせてゐるだけで、人間の品位を保たうといふ考へは少しも」ない、反対に労働者階級も安楽に流れている。つまり頼みになるのは「真面目で品位を保たうとしてゐる」中流階級であり、というわけであり、「中流階級以上の婦人は、真正なる日本国民として日本国家を維持してゐる」とされた51。そして、この成金の欲望をむき出しにした品位がない様子、そして労働者の安楽に流れる状態への批判は「流行」を追う女性の消費行動にも見出されるものとされた。 嘉悦孝子は、「中流階級の生活は決して安楽なものではありません。一家の経済を司る主婦のうちには随分苦しい思ひをしてゐる人もありませう。しかし、これは主婦の心懸け一つでどうにでもなることと思ひます。」と述べ、「物質上の不幸」は中流階級の主婦からみれば問題ではないと考えている52。こうしてみると、『婦人世界』で鼓吹された「節約生活」とはただ倹約するのではなく、中流社会の婦人として他者の模範として家庭の能率を増進し、モノを無駄に消費しなくても家庭に幸福をもたらすことができる女性の能力による産物と考えられていたことがわかる。 万引きも女性の消費との関係で論じられると、普通の窃盗とは異なることが指摘される。呉服店の万引きを例として、「近来婦人の万引のうちには、相当の教育のある人や、身分のある人が殖えて」きたが、これは「婦人の虚栄心のため」であり、店の美しい品物に目がくらんだためとされている53。 この時期の『婦人世界』への寄稿者には女性教育家が多く、15周年記念号では「女子教育家の表彰」をおこなうほどであった。そうした能力のある女性からみれば「流行に流される」ことは女性としてあまりにも意志薄弱であり、「虚栄」にはしるのは「中流婦人」としてふさわしい行動ではないといって女性啓蒙の重要性を感じさせる出来事であった。婦人雑誌を読むことも「婦人を虚栄に走らしむ」原因の一つ考えられる場合もあり、「流行批判」に影響を与えている54。と同時に「虚栄」に走らせない婦人雑誌としての位置づけを『婦人世界』が確保する上で強調されたのが「家庭」なのであった。中流婦人の消費能力は家庭内においてのみ発揮される必要があるとされたのである。 |
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■2-3 軽やかな婦人消費の時代.『婦人世界』1927-1931
■昭和の婦人雑誌編集 大正期を通じて他の婦人雑誌と競合してきた『婦人世界』も大正末年あたりから、その人気において他の婦人雑誌に溝をあけられるようになる。 1923(大正12)年には、長年『婦人世界』の編集長を務めた高信峡水を欧米外遊へと派遣され、『婦人世界』の編集は小倉秀道に引きつがれた55。しかし、1年後には『少女の友』の主筆であった岩下小葉がその任につく。小倉は辞任するにあたり、「岩下君は人格高潔の方です。私が『実業之日本』の畑から出たのと違つて、多年家庭ものの畑に居られた方です、私より、より以上に諸姉に合致して居られます。私よりもっと適任です」と述べている56。それを受けて岩下は婦人雑誌経験は少ないが、元『少女の友』編集主筆だけに「婦人といふものは、少女の延長であり、少女の大きくなられたのが、御婦人であり、のみならず、婦人の中には、多分の少女を含んでゐるといふことが、三日三晩の後、やうやく分かりました」と語った57。 かつて『婦女界』の編集をつとめた都河龍は、「私が、最初即ち大正二年の一月号かあら婦女界の編集に従事した時には、その編集の目標は、当時最も大衆向の婦人雑誌として歓迎されてゐた婦人世界と、稽高級向の婦人雑誌として認められてゐた婦人之友との中間においたのであった。それは婦人世界の読まれる層と、婦人之友の読まれる層との中間に、更に一つの読物を要求する層のあることを、ハッキリと見出すことが出来たからであった」58と述べ、雑誌の創刊における編集側の読者イメージの重要性を説いている。またその後発刊された『主婦之友』も、編集長の石川武美は雑誌名に「主婦」を冠し、「ヌカミソくさい」イメージはあるが、生活における知識を特に必要とする中流以下あたりの「主婦」という限定された読者層を意識したうえで発刊したことも有名である。 女性の階層をある程度限定したうえで、どれだけ多くの読者を獲得するかが求めれれる雑誌の編集において、従来の編集者から元『実業之日本社』、そして元『少女の友』編集者へとその権利が移動した『婦人世界』には、雑誌自身が消費されるための誌面作りにおいて暗中模索の時代に入っていく様子がうかがえる。 昭和に入り『婦人公論』も編集方針を大胆に変更し、商業的路線を採用した。その『婦人公論』に1928(昭和3)年から新たに迎えられた編集長がかつて『婦人世界』の編集主筆であった高信峡水であった。より、一般的女性向けに誌面作りをおこなおうとした『婦人公論』が迎えたのが商業的婦人雑誌の一角を担っていた『婦人世界』の元編集長だったわけである。『婦人公論』も新たな女性読者を見出そうとしていた。昭和前後は婦人雑誌の編集路線の改編期であった。 ■昭和の『婦人世界』 各婦人雑誌の凋落と伸展が明瞭になってくる、昭和の『婦人世界』と大正期の頁数を比較してみると、1920(大正9)年5月1日号(第15巻第5号)が160頁であったのに対し、5年後の1925(大正14)年5月1日号(第20巻第5号)は328頁、発行元が移動する前年の1930(昭和5)年5月1日号(第25巻第5号)は360頁もあり、およそ2倍の厚さになっていた。 昭和に入っての誌面をみてみると文学者が巻頭を飾ることが多くなる。それにともない男性執筆者の寄稿が増加している。そして、かつてと異なり「流行」に対する批判は影をひそめ、むしろ積極的に称揚されるようになっていた。 薩川忠雄は新聞雑誌が生み出す流行について、「日本には未だ服装専門の雑誌はありませんが、それがアメリカ等では素晴らしい勢力で発達して居ります」と述べ、メディアの報道によって海外の流行が国内にも影響を及ぼし、特に写真入りの記事が国際的流行を左右する力を持つことを指摘した59。『婦人世界』の印刷をおこなっていた秀英舎が新たに原色グラビア技術を導入し、その写真をはじめて口絵に掲載したのが昭和4年の『婦人世界』4月号である。『婦人世界』ではしだいに全身が写された女性写真が増加し、写真入の海外情報も増えてくる。 特に全身が描かれた、もしくは写された女性に「美」のイメージが付与された記事が見られる。「女性美」が消費されるようになったこの傾向に、活字の多い「婦人雑誌」という呼称よりも、現代的な写真が中心の「女性雑誌」という呼びかたがふさわしい誌面となっているようにも見うけられる。 1927(昭和2)年には、「米国で大流行の少女の外出着です。何と美しい色と形ではございませんか。今年はきっと日本にもかうしたのが流行するでせう」との言葉とともに、少女の衣服紹介のための全身写真が掲載されている60。 流行案内や商品広告の写真やイラストがこれまでのように商品のみを紹介するのではなく、商品を実際に身につけた女性や子供モデルの全身を掲載されるようになっている。つまり、化粧や体型をも含むトータル・コーディネイトとしての消費案内や広告へと変わっていく。特に女性においては、それが女性特有の美として紹介されるようになっている。 1926(昭和元)年の「モダンガールの姿態」には、洋装、和装の女性7人の全身および半身の写真が掲載されている6且。それぞれの写真には、「初恋の気分、レストランの気分、デパートメントの気分」を表す女性、「大股で来る、交さ点で、デパートで、丸ビルで、笑ひあふ」を表す女性、といったキャプションがつけられ、それぞれに「モダン」な美のイメージを伝えようとしている。 どのように実用的であるかを文章で説明してきた広告が読者の消費欲望を喚起するにあたり言葉がその中心的役割を担っていたことが近藤蕉雨の編集による『社会萬般番付大集』をみるうかがえる。というのも、「当世欺隔嘘競べ番付」において消費に関連する言葉が数多く含まれているのである62。最上位の東の大関は「宮内省買上」であり、西の大関は「通信販売」であった。前頭には「破格の大安売」「広告の名文句」「最新流行」「原価提供」等が「欺隔嘘」の代表としてあげられている。売ろううとするために掲げられる誘い文句には、どこか虚偽的イメージがつきまとっていたことがうかがえるが、いかにそうした言葉によって広告が流通していたかが見てとれる。 言葉にまつわる虚偽的消費イメージを「軽快な美しさ」や「女性美」が謳われた写真つき記事や広告が視覚的にリアリティのある消費イメージへと転換しようとしていた。「『はたちの頃』のページ」と題されたイラストには断髪洋装の女性が描かれ、「美は真なり、真は美なり」という言葉のイメージを、女性の髪飾り、コート、靴、かばん、手袋が演出している63。 1932(昭和7)年、長田幹彦によるデパートが「現代を写す大きな鏡」であり、商品を「巧みに売りさばくショップガール諸嬢」が研究対象として取り上げられる必要を意識した、ショップガールのルポルタージュである。現代を「日本では既に『女優』の時代が去り、『女給』の時代が去り、今日から以後はたしかに巷に充ち溢れたショップガールの時代に転向していく」時代と呼ばれる。そして彼女たちは「最もスマートな戦士」とされたのである64。 |
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■おわりに 女性消費イメージの転換にむけて | |||||||||||||||||||||||||||||||
1906年から1933年までの「大正」期に発行された『婦人世界』の創刊から廃刊までの約30年の流れをみてきた。家族の再生産にたずさわる消費を重視する明治の『婦人世界』から、消費のあり方をめぐって女性の社会的位置づけを模索する大正の『婦人世界』、そして「女性美」のイメージで消費に軽やかさを加えた昭和の『婦人世界』であったわけだが、『婦人世界』は時期によって女性にたいして異なる消費者イメージを付与していた。そこで展開された「いかに消費するか」といった言説が、『婦人世界』の誌面をひとつ特徴づけてきたわけである。
とくに、「流行」にどのような意味づけをおこなうかによって、女性の消費行動には違った価値が与えられていた。そこに戸坂が述べたような女性の「批評」も生まれたと考えられる。大正期の女性たちによる「流行」への批判を通じて形成された、「中流階級婦人」への厳しいまなざしが、昭和にはいり、自らの女性美をより楽しもうとする女性消費者の「美」への関心を育てたのではないだろうか。そこに「大正」の「婦人」を読者とする『婦人世界』の役割が存在していた。 そんな『婦人世界』も昭和に入り総頁数においては増加の一途をたどるも1931(昭和6)年の第26巻第12号から発行元を実業之日本社から婦人世界社に移し、2年後には廃刊する65。多数の婦人雑誌が競合する時代にあって、かつて「日本婦人」を読者として想定し、「家庭」を重視した『婦人世界』は戦時期を前にしてその役目を終えたのである。 『婦人世界』を失った実業之日本社が1937(昭和12)年新たに創刊した婦人雑誌が少女よりも少し年上の若い女性というより狭い範囲を読者として想定した『新女苑』であった66。すべての日本「婦人」を読者とした『婦人世界』とは異なり、これからの時代を担う若い「新女」たちが読者として見出そうとした『新女苑』が創刊されたわけである。昭和に入り婦人雑誌全体での売上部数はほぼ頭打ちの状態であった。1930年前後からそれほど婦人雑誌全体の売上は伸びていない67。そうした流れをうけて婦人雑誌は、昭和に入ってからより女性読者の関心を意識し、それに対応することで多様化する方向に進んでいこうとしていた。だが、逆に戦争の影響により婦人雑誌は統合化されることになる。若い未婚女性をターゲットに創刊した『新女苑』も戦時期の雑誌統合のなかで「知識婦人層向け雑誌」に統合され、『主婦之友』『婦人倶楽部』とともに戦時中も発行されることになった。そのため、1937年に考案された独自の路線は、統合による婦人雑誌間の競争解消、非常時による軍部の編集介入等により霧消することになったのである68。 |
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■注
1 アラン・ダーニング『どれだけ消費すれば満足なのか一消費社会と地球の未来』(山崎泰訳)ダイヤモンド社、1996。 2 見田宗介『現代社会の理論』岩波新書、1996。 3 山川菊栄「サッカリン料理の婦人雑誌」『改造』10月号、1922。 4 鶴見俊輔「大正期の文化」『岩波講座日本歴史1g現代(2)』岩波書店、1968。 5 山崎康夫『日本雑誌物語』アジア出版社、1959、51-53頁。 6 植田康夫「女性雑誌がみたモダニズム」南博編『日本のモダニズム』ブレーン出版、1982所収、116頁。 7 岡光男『婦人雑誌ジャーナリズム』現代ジャーナリズム出版会、1981。 8 『主婦之友』の情報様式については北田暁大「〈私的な公共圏〉をめぐって九二〇〜 三〇年代「婦人雑誌」の読書空間一」『東京大学社会情報研究所紀要』56号、1998を参照。 9 『婦人公論』の流行案内を女性美へのまなざしというジェンダーの視点から考察したものとして、村上擁子「女性美と近代一『婦人公論』における女性風俗記事」近代女性文化史研究会編『婦人雑誌にみる大正期一『婦人公論』を中心に』1995所収を参照。 10 山川菊栄「景品つきの特価品としての女」『婦人公論』1月号、1928。平塚らいてう「かくあるべきモダンガール」『平塚らいてう著作集4』大月書店、1926。 11 山川菊栄は1930(昭和5)年にも婦人雑誌を「最も安価な教育と慰籍の機関」として、本願寺に例える。「簡単な記事一っよめばどんな醜婦も美人になり、どんな商売も大繁昌し、どんな不器用な主婦も忽ち料理上手になれるといふやうな奇蹟を婦人雑誌は公然と約束する。それは丁度弥陀の尊号を口にすれば忽ち成仏を遂げるといふのと同じ策法である」。山川菊栄「現代婦人雑誌論」『経済往来』11月号、1930。 12 永嶺重敏『雑誌と読者の近代』日本エディタースクール出版部、1997、173頁。 13 『社会政策時報』5号、1911.1、79-83頁。永嶺、前掲書、176頁 14 永嶺、前掲書、176-179頁。 15 前田愛「大正後期通俗小説の展開」『近代読者の成立』岩波現代文庫、2001。 16 三鬼浩子「戦時下の女性雑誌」近代女性文化史研究会編『戦争と女性雑誌』ドメス出版、2001、18頁。 17 大宅壮一「婦人雑誌の出版革命」『大宅壮一選集7』筑摩書房、1959年、193頁。 18 前田、前掲論文、217-219頁。 19 清水文吉『本は流れる』日本エディタースクール出版部、1991。 20 『キング』については佐藤卓己「キングの時代」『近代日本文化論7大衆文化とマスメディア』岩波書店、1999を参照。 21 戸坂潤「婦人雑誌に於ける娯楽と秘事」『日本評論』5月号、1937、345頁。 22 戸坂、前掲論文、346頁。 23 村井弦斎については、拙稿「『食道楽』作家・村井弦斎にみる消費者教育」『京都社会学年報』第8号、2000を参照。 24 泉俊秀「自序」『流行商品変遷の研究』文雅堂、1922。 25 泉、前掲書、16-18頁。 26 『婦人世界』第1巻第1号、1906、111頁。 27 『婦人世界』第1巻第9号、1906。 28 『婦人世界』臨時増刊号、第2巻第12号、1907、92頁。 29 同上、66頁。 30 『婦人世界』第2巻第6号、1907。 31 村井弦斎「実際生活」『婦人世界』第1巻第11号、1906。 32 村井弦斎「婦人の日常生活法」『婦人世界』第1巻第9号、1906、3頁。 33 村井弦斎「婦人一代の生活法」『婦人世界』第2巻第6号、1907、12頁。 34 『婦人世界』臨時増刊号、第2巻第5号、1907。 35 星常子「買物は如何になすべきか」『婦人世界』第1巻第12号、1906、27-33頁。 36 渋沢栄一「節約生活は婦人の務め」『婦人世界』第13巻第12号、1918。 37 三角錫子「意味を穿き違へた節約生活」『婦人世界』第13巻第12号、1918。 38 例えば、鈴木貞子「官吏の妻が女中を廃して子供の別荘を作るまで」『婦人世界』第13巻第8号、1918、43.47頁。この記事によると、夫は中学校長で「年棒1300円ぐらいの収入で、しかも家族は大人二人に子供3人という可なりな人数」の家族である。「海岸に別荘を建てましたと申せば、『何処からそんな金が手にはいつたらう(略)』とお思いになる方もあるかも知れませんが、天地に傭仰して恥ちないお金で、しかも主婦の腕で建てました。」とある。 39 渡邊花子「一週間の家族旅行一旅費は簡易生活法の産物」『婦人世界』第13巻第9号、1918、62・64頁。この記事には「一週間の旅費明細表」が掲載されている。大人一人、子供二人による東北地方への旅費は31円89銭であり、みやげ物に3円使ったという。この費用は1年間の生活を簡潔にして、1年分の古新聞、古雑誌等を売って出来た4円11銭を加えた金額であった。 40 家計簿については、中里英樹「主婦の役割と家計簿」『近代日本文化論8女の文化』岩波書店、2000を参照。 41 『婦人世界』第13巻第6号、1918。 42 高信峡水「盛装に凝せる貧窮者」第13巻第13号、1918。 43 木村涼子「婦人雑誌の情報空間と女性大衆読者層の成立一一近代日本における主婦役割の形成との関連で」『思想』β12、1992。 44 下田歌子「流行追うて走る婦人」『婦人世界』第9巻第5号、1914、12・19頁。 45 「佐方鎮子「細かい点に注して働け」『婦人世界』第13巻第8号、1918、6-8頁。 46 四方田柳子「恐ろしい賛沢の世の中」『婦人世界』第13巻第10号、1918、97-99頁。 47 棚橋絢子「芸者のやうな服装をする奥様」『婦人世界』第8巻第7号、1913、36-40頁。 48 都倉義一「婦人家庭図書の出版観」『綜合ジャーナリズム講座第9巻』内外社、1931、251-252頁。 49 遠藤隆吉「中流の婦人の生活難と不平」『婦人世界』第13巻第11号、1918、13-17頁。 50 「交戦国婦人の労働と権力」『婦人世界』第13巻第11号、1918、12頁。 51 遠藤、前掲文、16-17頁。 52 嘉悦孝子「冷たい家庭に泣く主婦の煩悶」第12巻第12号、1917、44,47頁。 53 「婦人と万引」『婦人世界』第7巻第14号、1912、82頁。 54 「健全なる婦人雑誌」及び奥田義人「婦人雑誌記者に望む」『婦入世界』第8巻第7号、1913、2-7頁。 55 「再生の歓び」『婦人世界』第18巻第4号、1923。 56 小倉秀道「新しき立場へ」『婦人世界』第19巻第5号、1924。 57 岩下小葉「御挨拶」『婦人世界』第19巻第6号、1924、16頁。 58 都河龍「婦人雑誌の編輯」『講座ジャーナリズム第10巻』内外社、1931、215頁。 59 薩川忠雄『現代商業流行の見方と流行品の買い方』日本評論社、1924。 60 『婦人世界』第22巻第3号、1927。 61 「モダンガールの姿態」『婦人世界』第21巻第3号、1926。 62 近藤蕉雨『社会萬般番付大集』大日本雄弁会、1926。 63 「『はたちの頃』のページ」『婦人世界』第22巻第2号、1927。 64 長田幹彦「ショップガール評判記百貨店に咲く女性近代色一一銀座松屋の巻」『婦人世界』第27巻第2号、1932、62・69頁。 65 婦人世界社での責任編集者は改造社の山本重彦であった。 66 入江寿賀子「『新女苑』考一1937-1945」近代女性文化史研究会、前掲書、2001、84頁。 67 三鬼、前掲論文、18頁。 68 入江、前掲論文、98-99頁。 |
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■都会に於ける中流婦人の生活 | |||||||||||||||||||||||||||||||
都会に於ける中流婦人の生活ほど惨めなものはない。彼女等の生活は萎微沈滞しきっている。――勿論茲に云うのは、既婚の中流婦人の大多数、僅かな例外を除いた全部を指すのである。
下流の婦人等の生活はまだそう悪くはない。少くとも彼女等は働いている。何かしら糊口のために仕事をしている。如何なる粗食と粗服と陋屋とを余儀なくされても、なおその生活には張があり力がある。朗かさや明るみには欠けていても、鈍重な活力を失わないでいる。 何かの仕事をするということは、働くということは、人の精神にも肉体にも、健かな光と力とを与えるものである。生きてる――生活してる――という意識は、ただ働くことから得られる。働くことを知っている者は、如何なる困苦の中にあっても、常に活力を失わない。この意味で、下流の婦人等の生活は全然救われざるものではない。 上流の婦人等の生活はまだそう悪くはない。少くとも彼女等は生を享楽している。何かしら楽しんでいる。虚偽や虚飾や中身の空疎などはあろうとも、なおその生活には晴々とした明るさがある。 生の安楽ということは、明るい光を失わない限り、そう郤けるべきものではない。日の光の中に咲き匂ってる花は、あのままでよいではないか。人生からあらゆる楽しみを取去って、苦しみだけを残す必要はない。偸安がいけないことであると同様に、偸苦もいけないことである。自由な安楽は、人に若さと活気とを与える。この意味で、上流の婦人等の生活も全然排し去るべきものではない。 ただ不正なのは、下流の生活と上流の生活と、両者が同時に存在してるからである。一方が苦しみ一方が楽しんでるからである。もし両者全部が苦しみもしくは楽しんでる場合には、不正は成立しない。両者の比較からのみ問題は生じてくる。 そういう問題を今私は取扱ってるのではない。個々のものそれ自身について云ってるのである。 さて、中流の婦人等の生活は如何なるものであるか。其処には、下流の生活に見るような鈍重な活力もなければ、上流の生活に見るような溌剌たる明るさもない。凡て萎微し沈滞しきって陰鬱である。 朝起きると、室の掃除やこまこました片付物などをし、女中が拵えてくれた食物を食べ、良人や子供達の服装の世話をし、良人を――或は子供をも――外に送り出し、それから髪を結い、再び顔を洗って化粧をし、着物を着直し、新聞などに眼を通してるうちに、もう正午となる。そこでひどい粗食をこそこそと済す。子供の面倒をみる。押入や戸棚の中を掻き廻す。時には裁縫の道具を手にする。それから夕食の料理に頭を悩ます。良人の帰りを待つ。だらしのない長時間の夕食をする。気乗りのしないぼやけた心で、良人の無駄話に耳をかす。子供の世話をやく。退屈になって、うとうと居眠りをしたり、ぼんやり雑誌をめくったりする。時間がいつのまにかたって、もう寝なければならない。――そういう日々が、その他いろんなこまかなことのごたごたした日々が、同じように無際限に繰返される。 そういう彼女等のこまかな、ごたごたした仕事を概約すれば、家政と育児との二つになる。 然るに、彼女等の家政なるものは、全くの機械的な働きに過ぎなくなっている。幾許かの材料の配合と調理の仕方とを、永久に繰返す料理、四季の変化は多少あっても、毎日殆んど同じような掃除や買物、そしてそれらのことが、良人から与えられる毎月一定の金額から、少しもはみ出してはいけないのである。結婚当初こそ多少の興味はそそられても、やがては無味乾燥な機械的な働きに堕してしまう。一定の範囲内に於ける永久の繰返し、宛も瓶の中をぐるぐる飛び廻る蝿のようなものである。 彼女等の育児もまた、最初の子供のそれを除けば、殆んど機械的な働きに過ぎなくなる。多産なる彼女等は、二年か三年毎に一人ずつ子を設ける。そして赤児から三歳ぐらいまでの保育が、幾回となく繰返される。三歳以上になると、次の児が出来るので、重に女中の手に任せられる。少しずつ個性が出来かけて、溌剌とした心身の営みを示してくる、三歳以上の子の生長を、彼女等は落付いてゆっくり見守る隙がない。渾沌とした幼児の煩雑な世話に、彼女等の心は疲れきっており、粗食をしながら乳を授けるために、彼女等の身体は衰えきっている。そしてそういうことが、二三年を一期として、幾回となく繰返される。 而も彼女等のそういう生活には、余りに空気と日の光とが欠けている。たまの買物や訪問に出かけたりすること以外には、狭い日蔭の室内で、朝から晩までぐずぐずしている。戸外の大気を吸い打晴れた日光に浴する機会は、ごく稀にしかない。そして何かの機会で、思うさま外気を吸えば風邪を引くし、長く日光に浴していれば眩暈を起す。それほど彼女等は衰微してデリケートになっているのである。 単に身体のみではない。精神的にも彼女等は萎微しきっている。娘時代の奔放な幻想が、結婚後の狭苦しい生活のために窒息してしまって、而もそれに代るべき何物も生じてはいない。其処にはただ空しい場所が残される。そしてその空しい場所に、日々のなまぬるい生活の滓が堆く積ってくる。稀には自由なのびのびとした気息が、その下から燃え出すことはあっても、すぐにぷすぷすとくすぶって、秩序とか経験とかいうものの重みの下に、押しつぶされ消し止められてしまう。書物を読もうとしても、読む隙がない――否、隙はあってもそれを利用することが出来ないし、また読むだけの気力もない。 斯くして彼女等は、肉体的にも精神的にも、次第に活力を失ってくる。機械的な繰返しの生を営んで、その中に淫し溺れて、その日その日の安穏無事から、一歩も外に出ようとはしない。自由なのびのびとした気魄は、その影だに止めない。そして彼女等の幸福は、良人から月々与えられる金額とか、子供達の健康とか、良人の品行とか、女中の人柄とか、そんな風なつまらない事柄にばかり懸っている。そのうちに年老いてしまうのだ。 勿論私は、凡ての中流婦人がそうだというのではない。多少の例外を除いた残りの全部が、現在ではそうだというのである。 これを救うにはどうしたらよいか? 現在の経済的組織や社会的組織や政治的組織や家庭的組織を改変することは、その最も根本的なものであろう。然しこれには多大の年月と犠牲とを要する。そして時代は――人間全体は――その方へ歩みを進めている。 先ずそれまでのうちに、直接現在にどうしたらよいか? 生活を改善し簡易にすることも、その一であろう。家庭を食堂と寝室とだけにするのも面白いかも知れない。 産児を制限することも、その一であろう。一度に所要の子供数を拵えるとか、一定の期間に一人ずつ拵えるとか、そんな風な規則も面白いかも知れない。 生活に高尚な趣味を漲らすのも、その一であろう。家庭を美術館や音楽堂や動物園など、そんな風なものにしてしまうのも面白いかもしれない。 婦人デーと云ったようなものを作って、男が留守をして女が必ず出歩くというようにしてもよいだろう。凡ての主婦達が一斉に羽を拡げて飛び廻ったら、天下の奇観で面白いかも知れない。 然し何よりも、彼女等の生活に一定の方向――目的――を与えることが必要である。彼女等の生活の萎微沈滞は、その生活に一の方向とか目的とかがない所から、最も多く原因している。方向や目的のない生活には、発展がない。発展のない生活は、機械的な繰返しに過ぎなくなる。もはやそれは生活ではない。生活とか活力とかいう言葉は、機械的な繰返しと全然相反するもので、それ自身一の発展を含有してるものである。 彼女等の生活が一の方向――目的――を得るためには、彼女等が良人に従属もしくは隷属して生きるのではなくて、良人と共に生きなければいけない。共に生きるとは、一緒に仕事をし一緒に思考してるという意識を失わないことを指す。現在の中流の婦人で、良人が如何なる仕事をし如何なることを考えてるか、それを本当に知ってる者は極めて少い。 巷説伝うる所に依れば、昔板倉伊賀守が京都所司代に任ぜられる時、自分の仕事には一切口出しをしないと奥方に誓わしてから、初めて安心してその役に就いたという。それを一世の亀鑑として賞せられる伝統が、未だになお残っている世の中である。男の方もよくないが、女の方もよくない。 勿論、女が男と共に仕事をし共に思考するというまでには、女の人間的な進歩を俟ってでなければ不可能である。然し女は直接その衝に当るのではない。それだけの意識を失わない生活をすればよい。家政や育児の仕事が如何に労多いものであるかを、私は知らないではないが、また私は、中流の婦人に右の意識を持つだけの余裕があることをも、知らないではない。 良人と共に仕事をし共に思考してるという意識を持つとき、そして実際にそういう生き方をする時、女の家庭生活にも初めて、一定の方向――目的――が生じてくる。広々とした眼界が開けてくる。精神的に窒息しないだけの、充分の空気と光とがさし込んでくる。そして生活に張りと力とが生じてくる。張りのある力強い生活さえしていれば、吾が中流の婦人にとっては、家政や育児の業は比較的容易になし遂げられて、なお余裕綽々たるものがあるだろう。 昭和42年(1967) |
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■「生活改善」のメディアとしての婦人雑誌と〈中流〉をめぐる言説・実践 ー大正・昭和初期における変容の構図ー |
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■はじめに ー社会教育における〈中流〉の「不在/希薄化」をめぐってー | |||||||||||||||||||||||||||||||
今日において「中流の崩壊」「分厚い中間層の形成」といった、所得や生活水準の観点からの〈中流〉についての語りを目にすることは少なくない。一九七0年代から八0年代にかけては日本社会の特質としての「一億総中流」が語られ、他万二000年代に入ってからは「中流の崩壊」が語られてきた。それらが社会階層の実態やそれに対する意識をどれだけ存観的に把握して展開された議論であったのかはともかくとしても、日本社会における何がしかの「本質」を語ろうとするときの鍵概念として、「中流」という語、あるいは「中流」「中間」「中産」といった語で示される思念された社会層は一定の重みを持ってきた。このような〈中流〉をめぐる語りは、日本の近代化初期においては、社会教育のあり万とも強く結びついていた。「中等社会」「中産階級」「中流階級」といった語で一ぶされる存在はもともと、社会において健全なる中核をなし、社会の進歩を主導する存在として、理念的な形で語られてきた。また、明治末から大正期にかけては、その存在の閉落あるいは没落を防ぐための社会教育が、とくに「生活改善」をめぐって新聞・雑誌メディアや官民の団体によって提唱され、実践されてきた。しかし、そのような〈中流〉のための社会教育を語る視点は、現在においてはほとんど残っていない。むしろ〈中流〉に関する語りは、戦後の社会教育あるいは生涯学習振興をめぐる議論と関わりが希薄であり続けてきた。このことは、社会教育学における「階級」「階層」の視点の重要性が指摘されながらも、比較的近年まで実質的・具体的な研究が乏しかったことと無縁ではない。いずれにせよ、あるべき〈中流〉についての人々の認識はどこかの時点で、社会教育、あるいは近代的啓蒙の論理と交わりを希薄化させるという変容を遂げたのである。
本稿では、その変容を捉える一つの手がかりとして、大正期から昭和初期において進んだ婦人雑誌の大衆化という現象をとりあげる。特に当時の婦人雑誌における「生活改善」に関わる誌面の特徴や出版社のとりくみの推移に注目し、その中で〈中流〉の捉え方がいかに変容していったかを検討する。 |
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■一 価値付けられた〈中流〉と近代日本の社会教育 −本稿の問題設定ー | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1.婦人雑誌の歴史研究と本稿の視点
日本における婦人雑誌の歴史に関しては、第二次世界大戦以前の展開に限っても多くの先行研究が存在する。その本格的な晴矢となる岡満男の研究や、関連する基本的史実を明らかにしていった近代女性文化史研究会による研究の基軸は、女性の権利・解放という価値との関係・距離を重視しつつ婦人雑誌の歴史をあとづけたものといえる。また牟田和恵は、ジエンダl秩序と結びついた「家庭」という価値観が明治中期以降、婦人雑誌を通じて広められていった過程を論じている。さらにそれらの先行研究を踏まえた木村涼子による考察は、大正期以降における婦人雑誌による近代的なジエンダl秩序の形成が、読者からの能動的な参加を不可欠な要素として展開したことを明らかにしている。 これらの先行研究の中でも、婦人雑誌が大正期に喧伝された「生活改善」のメディアとしての役割を担ったことについてはある程度示されているが、それをより明確に指摘しているのは小山静子の考察である。また、生活知識・技術に関する婦人雑誌の具体的な記事の傾向を検討したものとしては寺出浩司の考察が、また同じく記事の具体的な検討を通じて、大正期の生活改善運動を主導した生活改善同盟会との関連を指摘したものとしては、竹田喜美子・加藤久絵、大橋若奈・夫馬佳代子の考察がそれぞれ挙げられる。 これらの研究において共通しているのが、生活改善のメディアとしての婦人雑誌の読み手の中核が、当時急速に拡大しつつあった都市新中間層であったことを指摘している点である。またこれらの議論が示唆しているのは、戦後の都市生活の基本的枠組みを先駆的に実現しつつあったとされる都市新中間層にとって、その生活構造の形成に必要な知識・技術を供給する役割を果たした婦人雑誌、という位置づけである。この把握自体は首肯できるものである。しかし、このような捉え方においては、当時の婦人雑誌の生活関連記事・論説においてしばしば用いられた「中流」「中産」という語の役割についての理解が平板になっていることも否めない。つまり、生活モデルという実態だけを論じるのでなく、生活を営む人々の類型を象徴的に表していた〈中流〉をめぐる言説が、生活改善に関わる当時のメディアとしての婦人雑誌の中でどのような位置づけを占めていたかも同時に論じなければ、この時期に進行した戦後都市生活の枠組みの形成を十分に論じたことにならないのではないかということである。 これに関連して、〈中流〉をめぐる言説と婦人雑誌との関わりを扱った鹿野政直の考察が注目される。鹿野は、戦間期において拡大した都市新中間層の女性は「家」の束縛からの解放のイメージとして「中流の家庭」を捉えていたが、実際の新中間層の生活は経済的に不安定なものであり、そこにはいわば「中流幻想」が年まれていた、と論じている。当時の〈中流〉一今日説と婦人雑誌との関連を構造的に説明したものとして、鹿野の議論は興味深い。しかし鹿野の議論では、明治期からすでに展開していた〈中流〉をめぐる一一一日説との関連が明確ではなく、従って大正期以降になって〈中流〉のイメージが突如生み出されると同時にそれが「幻想」となる、という論理構成を取ってしまっている。 以上を踏まえて本稿の作業のフレームを示すならば、生活改釜円運動の対象として当時のメディア上でしばしば示されていた〈中流〉に付与されていた意味、またこの言表と「生活」との関連が、大正から昭和初期へと下るにつれて見せた変化を明らかにしていく作業ということになる。本稿ではこのことを、当時の人々(女性だけでなく男性にとっても)の社会教育のメディアとして大きな役割を実質的に果たしていた婦人雑誌の動向を確認することによって、検証していきたい。 ただしそのためには、具体的事例の検討に入る前にまず、本稿の問題設定がより広い文脈において有する位置づけを簡潔に示す必要がある。そのため次項では、近代以降の〈中流〉一三口説を巡る動向、及、び、戦間期の生活改善運動に関わる経緯を簡単におさえ、本稿の作業との関連を論じることとしたい。 なお本稿では、「中流階級」「中産階級」等、社会の中間層として想定され・語られた概念を包括的に、〈中流〉と〈 〉で括って表すこととする。「中流」「中産」といった語、また「階級」「階層」といった語の違いにそれぞれ込められた社会観や文脈、また「新中間層」「山中間層」などの社会学的分析概念を踏まえれば、〈中流〉言説とい、つ捉え方に暖昧さがあることは免れ得ない。しかし、実際には当時の一般向けの活字メディアでは、そのような厳密な意味の違いが明確に意識されずにこれらの語が使われていることが多い。従って本稿では、表記にある程度のぶれを見せつつ一定の意味を指し示している一三一口表を表すために〈中流〉という語を用い、その〈中流〉に何らかの意味を付与させている語りに見い出される論理を〈中流〉言説、として用いることとする。 |
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■2.近代日本における〈中流〉言説の展開と生活改善、社会教育
日本の近代化初期において〈中流〉とされる社会層は、欧米社会におけるミドルクラスを参照しつつ、社会を主導し、牽引する健全であるべき存在として価値付けられていた。もちろん、欧米の近代社会の歴史的展開を前提として形成されてきたミドルクラスが、明治維新直後のH本において存在しえようはずもない。ミドルクラスを翻案した明治期の「中等社会」「中等階級」といった語は、単なる記述概念ではなく、それ自体が文明化・近代化と価値的に結びつけられていた。従って、〈中流〉という存在は、その現実的対応物が日本社会に欠如しているのなら、代替物を探し出さねばならない、あるいは、新たに育て上げなければならない、と当時の知識人や政治的指導者層をして思考せしめるものであった。だからこそ、その価値を担うべきとされる社会層が明治期においてさまざまに構想されていったのである。 当初、現実的な対応物が明確でなかった〈中流〉であるが、明治後期になるといわゆる都市新中間層の存在(「中流階級」「中産階級」)が、それに該当するものの一つとして浮かび上がってくる。ただし、当時の「中流階級」は同時代の生活水準の中で相対的に見れば、現代における「中流」「中間層」の語感とはかけ離れていた。大正期における新中間層上層と実質的に重なる明治期の「中流階級」の生活水準は、同時期の他の都市諸階層とは隔絶した相当富裕な、特権的なものでさえあった。 また、〈中流〉をめぐって展開された明治後期の言説もまた、〈中流〉という存在に明らかに特権的な位置づけを付与するものであった。「上流社会の衰滅を補充するものハ中等社会なり。﹇・:﹈されパ、全社会の原動力たる者を間へパ即ち中等社会なり」、「今日の日本で最も健全な思想を抱き、最も着実な生活をなして居るものはいふまでもなく中流社会である。中流社会は実に日本の中堅である」、といった「社会の中核・主導者」としての〈中流〉観は、明治後期の新聞・雑誌の論説においては枚挙に暇がない。 そのあり方が変化を示し始めるのは、明治末から大正期にかけての新中間層の下方拡大によってである。大正・昭和初期の都市新中間層は、一部の上層と、大部分の中・下層からなり、相対的に所得の低い巾・下層は明治末から急速に増大した、とされている。上層と中・下層の間に横たわっていた格差は、単に所得水準の違いだけではなかった。新中間層上層、すなわち明治期以来の「中流階級」を形成するのは、大企業や官公庁に所属する専門職・管理職に就く人々とその世帯であり、大学や高等専門学校などの高い学歴を背景としていた。これに対し中・下層は、大企業事務職、中小企業勤務者、官公庁事務職(教員含む)から主に構成され、教員を除けば前期中等教育卒レベルの学歴を背景とする者が多かった。このように職種、学歴といった面で新中間層の内部構造はさらに階層化されており、それにともなって収入・生活水準も明確に違いを見せていた。 このような都市新中間層の下方拡大は、近代化初期に〈中流〉に付与されていた社会の主導層としての意味づけにも大きな影響を与えるようになった。その変有の過程を記述する上での重要な要素として、「社会教育」と「生活改善」を位置づけることが出来る。 明治中期以降、各地で散発的に展開され始めた社会教育(通俗教育)の事業は、基本的に学校教育普及の補完としての役割を果たすものであり、人々の生活に関わる問題を直接扱う性格は弱かった。明治後期になると、人々の「生活」が通俗教育の目的として焦点化されはじめたが、それは基本的には、倹約・簡素化のモiドによって支配されていた。例えば、都市新中間層対象に一九00年代初頭に展開された「簡易生活」の呼びかけや、日露戦後の農村部において内務行政の推進により展開された地方改良運動は、個々の思想的系譜はさまざまにあれども、大まかにいえばいずれも通俗道徳的な生活観の延長根上に行われた社会教育の営みであった。 しかし大正期に入ると、通俗道徳的な論理にのみ限定されない、豊かさ・便利さ・快適さを肯定する生活モダニズムに基づく生活改善の思想が住宅など個別領域で展開し、民間企業による展覧会や婦人雑誌での生活記事にも波及していく。生活モダニズムに基づく生活改善の動きは、第一次世界大戦に伴う物価高騰による生活難の問題を経験することで、質素倹約を旨とした通俗道徳的な生活改善の動きと混交しつつ、生活全般の改善を目指す官民の社会教育事業の展開へとつながっていく。官製の団体としては文部省が後援した生活改善同盟会(一九二〇年発足)や、農商務省が後援した世帯の会(一九二一年発足)の活動、民間団体としては、経済学者・森本厚吉が主宰した文化生活研究会(一九二〇年発足)や文化普及会(一九二二年発足)の活動などが代表的である。生活モダニズムが優位に立ちつつあった「生活改善」の動向は、H中・太平洋戦争および戦後初期の極端な物資不足という、外交・政治的要因によって引き起こされた生活環境・経済環境の激変により、一時中断を余儀なくされる。しかし、高度成長期における家庭生活の実態及び生活意識の大きな変化の土壌/祖型は、すでにこの一九三0年代半ばまでに形成されていたといえる。 このような〈中流〉言説と生活改善、社会教育をめぐる構図の中で、大正・昭和初期は重要な転換期を形成している。既に冒頭で述べたように、戦後日本社会を説明する語として大きな重みを持っていた〈中流〉に関する語りは、戦後の社会教育をめぐる議論と関わりが希薄であり続けてきたが、翻って大正期の生活改善運動に代表されるように、(用語が公式のものとして一般に使用されるようになったという意味での)勃興期の「社会教育」は、明治後期から引き続き、〈中流〉と強く結びついていた。それは特に、階層格差が判然とする「生活」/「生活改益己の領域に強く結びつけられて語られた。 例えば、社会行政の確立、社会事業論の体系化に大きな足跡を残した内務官僚・因子一民は、一九一九年に「生活維新」という概念を提唱しているが、この担い手について彼は「生活そのものを明細に研究し、学理的、合理的見地によって、此生活維新を完全に導いて行くこと」が「有識階級の妻たり、母たる婦人」の重大な責任であり、そのためには「都市を初め郡村に於ても、中流以上の主婦が、下層の婦人を善導し、是等に適当な途を示すこと」が最重要であると、「生活維新」のための主導的な担い手としての〈中流〉に注目している。同じく内務官僚の山県治郎は、文部省が展開した生活改蓋円運動に関連して、「文明の進歩国家の進運」を真剣に考えているのは「智識階級」「中産階級」であり、その階級の生活難を何としても救済する必要がある、と強調している。また民間運動として生活改善運動を担った経済学者・森本厚吉は、「中流階級」やその中核にある「知識階級」(ここでは概ね新中間層を指している)が、容修的消費に流れる「上流階級」の反省を促し、他方で「下流階級」の生活改善の指針となってその生活を引きあげる義務を有している、というように〈中流〉の社会的役割を明確に論じている。 このように〈中流〉は大正期においては、生活をめぐる社会教育の対象として、あるいは(他の「階級」を導くべき)社会教育の担い千として、明示的に語られる存在であった。しかしこのような〈中流〉と社会教育との関わりはその後、昭和初期に入ると明らかに希薄化していった。この変化について筆者はこれまで、生活改葬同盟会、文化生活研究会(及びこの凶体から分立した文化普及会)、世帯の会、といった非営利的な事業体による生活改善運動を事例として論じてきた。これらの同体は昭和初期までには、〈中流〉を事業の核に位置付く存在として提示することはなくなった(あるいはそれ以前に活動自体が終息した)が、翻って、生活改蕎に深く関わる社会教育のメディアとしての機能を有しつつも、商業的に展開することが強く求められる同時代の婦人雑誌では、〈中流〉をめぐる言説やそれを想定した実践はどのように変化し、また非営利的な事業体のそれとどのような違いを見せていたのだろうか。その変容の過程と特質とを、以下では検討していきたい。 |
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■二 婦人雑誌と生活改善運動 ー構図の概観ー | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1.「先駆」と「補完/普及」 ー婦人雑誌が生活改善に果たした役割ー
生活改善運動が、第一次世界大戦後になってから非営利的な事業体によって「生活」全般を包括した社会教育事業として展開される以前から、婦人雑誌は包括的な生活改善のメディアとしての役割をすでに担いつつあった。例えば「婦人之友』(一九〇八年10前身の『家庭の友』は一九〇三年1)は、創始者・羽仁もと子の思想に基づき、早くから実用的な生活知識に関する記事をふんだんに取り入れた婦人雑誌としてその地歩を固めつつあった。また『主婦之友』(一九一七〜二〇〇八年)は、第一次世界大戦時の物価高騰による生活難という背景を踏まえ、具体的であるだけでなく安価・平易を円とした生活知識の普及を前面に押し出した婦人雑誌として大衆的な人気を獲得した。 これらの婦人雑誌はさらに、生活改善に関わる非営利的な事業体の提示した改善事項を参照し、より広い読者層へ生活知識・技術を普及させるという役割をも結果として担うこととなった。例えば竹田喜美子と加藤久絵は「婦人之友』について、大橋若奈と夫馬佳代子は『主婦之友』についてそれぞれ、生活改善同盟会の提示した生活モデルを普及させる機能を実質的に果たしていたことを明らかにしている。また、『女性』(一九一一一一1一九二八年)のように、東京中心に展開されていた官民の生活改善運動を、関西地方で補完する立ち位置にある婦人雑誌も存在していた。『女性』誌は、化粧品販売を手がける中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)が設立した出版社であるプラトン杜が刊行した婦人雑誌である。中山太陽堂の堂主(社長)・中山豊三は、設立初期の生活改善同盟会が機関誌を発刊する上で必要な寄付を行い、また一九二三年七月には科学的知識の理解に基づいた生活改善をめざす中山文化研究所を設立するなど、生活改善運動に強い関心をもっていた。このような経緯で発刊された『女性』誌は、当時においてリテラシlの高い読者を想定した高級雑誌としての評価のあった『婦人公論』(一九一六年1)を意識した上で、それよりも保守的な論陣を張るという差異化を図りつつ、「二重生活の改義己「能率増進」など当時の生活改善運動にしばしば見られる主張を多く掲載していた。 このように、大正期の婦人雑誌は、非営利的に展開された生活改善の運動体の活動と直接の連携を行っていたわけではないものの、それらの運動体が提示した生活改善に関する知識・技術の普及を担う機能を果たしていたといえる。 |
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■2.「教養派」/「実用派」という区分をめぐって
他万で、大正期の婦人雑誌においては、岡満男が「教養派」「実用派」とそれぞれ呼称する二つの路線の差異が表れていた。岡は、前者が女性の権利拡張、社会的地位向上をめざし、守旧的な思想を廃そうとする社会派路線であり、他方後者は、男尊女卑の生活秩序という現状を基本的に肯定した上での、徹底した実用主義、わかりやすさ、を心掛けた路線である、という位置づけを示している。ただし、前出の「女性』のような雑誌の京ち位置も踏まえて考えるならば、この二つの路線は、同のようなジエンダ!と関わる政治的イデオロギーによって灰分するよりも、新中間層上層を主対象としてやや高度なリテラシlを−要求する「教養派」、新中間層中・下層あるいはその他のより所得・生活水準の低い社会階層をも視野に入れて、わかりやすさ、実生活との密接な関連を売りとした「実用派」、と区分している木村涼子の用法の方がより適切であろう。 この区分を生活というキーワードと関連づけて含めてやや図式的に示せば、「教養派」は新中間層上層を主対象とし、社会の主導層としての〈中流〉を残存させた、具体的な生活に関する記事を重視しない路線として位置づけられる。他方、「実用派」は、新中間層の中・下層やさらに広がりを持った諸階層を視野に入れ、社会と結びつく価値を欠落させた私的な生活の豊かさとしての〈中流〉を意識し、積極的に平易・具体・実用的な生活記事を取りあげる路線として位置づけられる。前者は『婦人公論』、『女性改造』(一九二二1一九三同年)、「女性』、後者は『主婦之友』「婦人くらぶ』(のち、『婦人倶楽部」に改題。一九二01一九八八年)などがあてはまろう。ちなみに「婦人之友』は、前者に足場を置きつつも、後者の傾向もある程度見られる中間的な立ち位置といえる。 このような「教養派」「実用派」という婦人雑誌の区分は、大正期における婦人雑誌とその読者の階層性を捉えるうえで有効な視点といえる。しかし他方でこの区分は、婦人雑誌における「生活改善」と〈中流〉との関係が、どのような動態的な特徴を持っていたかを覆い隠してしまう危うさも持っている。以下、本稿では「教養派」「実用派」という区分を前提として、それぞれの路線の代表であり、当時の婦人雑誌の性格の両極を体現しているとみなされる『婦人公論』『主婦之友」を事例として取り上げるが、このこ誌を中心に分析することによって、その相違を踏まえつつも、むしろ二種類の婦人雑誌による〈中流〉の生活の描かれ万やその生活を想定した事業の性格がいかに近接していったかを描くこととしたい。 |
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■三 婦人雑誌における〈中流〉の位置づけとその変容 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1.活字メディアの大衆化と「教養派」/「実用派」
『婦人公論』は、『中央公論』で「婦人問題」を扱った臨時増刊号が好評を博したことが契機となって、一九一六年に中央公論社から刊行された婦人雑誌であり、「自由主義」「女権拡張」というスタンスを当初から明確にしていた。その内容は、編集主幹の嶋中雄作が執筆を依頼する際、「中央公論』の寄稿者から多く選んだということも手伝い、「総合雑誌婦人版」ともいうべき難解さが特徴であった。『婦人公論』の翌年に石川武美によって創刊された『主婦之友』が、徹底した「実用本位」「わかりやすさ」の立場に立っていたこととは対照的であった。 しかし、一九二八年七月に嶋中が中央公論社の社長に就任する前後から、『婦人公論」の誌面はにわかに大きな変化を見せ始めていた。その変化の意図を明示しているのが、同誌第一一一巻一〇号(一九二七年)の編集者欄での以下のような嶋中の記述である。 「 私に惟ひますに、従来の婦人公論にはその一つの欠点として幾分高踏的であったことを免れません。それは吾々も認めます。といふのは、平ったく言へば余りに自らを持りすぎてゐたといふことです。その結果は随いて来る者は随いて来るがい、が、随いて来ない者は米なくてもい、といふ風の態度で、自分一人がズン/\先きへ立つて歩いて行かうとした傾きがあるといふことです。ワ:﹈昭和三年度の新年号よりは目醒ましい革命を誌上に捲起して、一般日本婦人の伴侶として一日も欠くべからざる底のものたらしめゃうと思ってゐます。誌面をもう少し我読者のためにも開放し広く人才を、未知の世界に求めようとも思ってゐます。 」 その後、代理部広告の掲載開始(第一三巻六号(一九二八年))、口絵のグラビア印刷化(第一四巻五号(一九二九年))、定価七〇銭から五〇銭への値下げ(第一五巻一〇号(一九三〇年))、といった一連の大衆化路線が次々と繰り出されることとなる。 『婦人公論』が編集方針の転換を意図した一九二0年代後半は、一九二五年の国民的大衆雑誌『キング』(大日本雄弁会講談社刊)の刊行開始、一九二六年以降の各出版社による「円本」と呼ばれる全集物の刊行ブlムなど、活字メディア全体の大衆化と商業主義の顕著な浸透が進行した時期であった。この動向は、一九二五年に成立した普通選挙法とのアナロジーで捉えられることも当時多かった。この大衆化路線、商業主義的手法をいち早く実践していたのが、『主婦之友』などの「実用派」婦人雑誌であった。「実用派」の子法は、量的に拡大しつつあった、ある程度のリテラシーを有しかつ「家事」という概ね共通の課題を有していた都市新中間層の女性を広く引き付けるという点で戦術的に有効であり、活字メディアの大衆化の口火を切る役割を果たしていた。この経緯からみても、当時において各婦人雑誌の間で激しい販売競争が展開されていくのは自然の勢いであった。 このような状況下で、〈中流〉や「生活」に関する「教養派」「実用派」の境界は次第に揺らいでいく。より正確にいえば、「教養派」とされていた雑誌に「実用派」の要素が次第に浸透していったのである。以下では、『婦人公論』と「実用派」の代表である『主婦之友』とを対比しつつ、その変化を具体的に確認する。なお、争開戦以降は両誌ともに戦時色が濃厚になり、本稿の論旨から見たときそれ以前の誌面の傾向と連続的に論じることが適切ではないと考えられる。そのため以下では、大正期のそれぞれの雑誌の刊行開始時から一九三七年までの動向を中心に検討することとした。 |
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■2.婦人雑誌上の〈中流〉言説とその変容
すでにみたように、都市新中間層は、大正・昭和初期の婦人雑誌の読者層を象徴する存在であった。都市部中心に発展しつつあった近代セクターに職を得た者とその家族であるため、旧来の共同体における生活知識・技術の世代間継承のシステムから切り離され、それらの知識・技術を近代的メディアに多く頼るようになったこと、またある程度の学歴を獲得してその職業上の地位を得ているがゆえ(その配偶者も含めて)、書物の情報を享受する一定のリテラシーを有していた、とい、つことが、当時のマスメディアと新中間層とを結びつける要因となってきた。新中間層に強く結びつけられた当時のメディアの一つとして婦人雑誌も位置づけられる。もちろん、婦人雑誌には新中間層以外もターゲットとした側面も少なからず見られるのであり、社会階層との対応関係は単純なものではない。そのような留意点も踏まえつつ、「教養派」「実用派」それぞれの婦人雑誌が、自らの主要な読者層とされる〈中流〉をどのように誌上で扱っていたのかを検討したい。ここでは、当時において新中間層と概ね代替的に使われていた「中流(階級)」「中産(階級)」という語に注目して検討を進める。 まず、『婦人公論』『主婦之友』それぞれにおける記事・論説のタイトルで「中流(階級)」「中産(階級)」という語が使用された頻度にまず注目する。両誌において、これらの語を含む記事題名を全て抜き出したのが表I、表2である。圧倒的に『主婦之友」の方が「中流」の出現度は高い(因みに「中産」という語は大正期の「婦人公論』において数例が見られるのみである)。 表1 「中流」「中産jの語を含む『婦人公論』の論説・記事題名(1916〜1937年) 表2 「中流J「中産」の語を含む『主婦之友』の論説・記事題名(1917〜1937年) 記事・論説の内容にも注目すると、「主婦之友』では当初から「中流住宅」「中流家庭にふさはしい料理」などのように、家庭生活の個別具体的な領域と結びつけた実用的な記事・論説数がほとんどを占める。それに対し「婦人公論』では、大正年間においては経済的困難を背景としての「中流/中産階級」の没落について論じる論説が、記事・論説の主流である。また、『主婦之友』でも、記事数全体から見れば少数ではあるが、〈中流〉の生活難を論じることが主眼となっている記事はある程度存在する。 例として、『婦人公論』第四巻一号(一九一九年)に掲載された馬場孤蝶「中流階級の悩み」を見ると、当時の物価高騰について、月収一〇〇円程度の俸給生活者であっても暮らし向きは楽ではなく、まして月収五〇〜六〇円の者にとっては「その困難は察するに余りある」と述べられている。馬場が重視する「巾流階級の悩み」は、単に経済的岡難だけでなく、「中流階級」が有するべきとされる「学問」が、経済的困窮に陥らないため職業にありつく手段としての「技芸」の習得に成り下がっている、という点にまで及んでいる。 「 中流の子弟の多数が赴く法律、政治、経済等の各学校に於ては、真の学理を忌樟なく学生に講ずることは、その受持教授が真の学理を重んずる良心従ってきういふ勇気を持って居るという場合次第のことである。元来過去及び現在の制度に対する合理的なる考察及び批評の標準たるべき法学的学理をば、唯だ現在の制度の弁護の資料にのみ用ゐんとする努力が最も為政者の意に適するといふのでは、五口邦の文明の進歩の為めには、痛嘆の外は無い。 」 「 目先の応用をのみ主眼として授くる学校教育に依って養成せられたる若き人々が、社会の実相に面してからの疑惑は実に甚しきものがあるであらうと考へられる。﹇・:﹈理性の上に於ても、情操の上に於ても、何等安んじて拠るべきものを持つことの能きぬのが、今の中流階級の若き人々の悩みである。 」 このように、実用性を超えた「学問」によって高度の理性と情操を保つべき〈中流〉が消滅しかかっていることを「文明の進歩」に照らして馬場は嘆くのである。また、「中流(中産)階級」の語を題目に含む論説ではないが、〈中流〉の存在やその生活が、社会全体、他の「階級」に好影響を与える(べき)ものであるとする記述も一九一0年代の『婦人公論』には度々見られる。大橋広(後に日本女子大学学長などを務める)は、「中流社会」の主婦が「簡易生活」を営む必要を論じ、その成果が社会全体に影響を及ぼすと述べている。 「 要するに簡易生活の必要は意義なき生活の複雑から意義ある生活の複雑に進入せんがためで御座います。最も家庭生活を意義あらしめ、引いて岡剥制斜叫削剥州制割剖別刷U剖川がためわい御座います。(傍線引用者) 」 加藤時次郎(平民病院院長)は、簡易生活が栄養学的観点からみて問題をはらんでいることを指摘する論説の冒頭で、「国家の中堅」としての「中産階級」という明治末にもよく見られた定式を述べている。 「 近来、国家の中堅とも称すべき中産階級の疲弊がH立って来た為めに、識者は盛んに経済的生活を唱道してゐる。(傍線引用者) 」 もっとも、このように社会の主導層に相応しい存在として〈中流〉を明示した記述のみが、「〈中流〉の没落」を論じる記事・論説を支配していたわけではない。『主婦之友』だけでなく『婦人公論』においても、むしろ多くの記事・論説は、労働者階級と差のなくなりつつある新中間層の中・下層の生活を踏まえて経済面での没落を嘆き、そこからの何らかの脱出手段を講ずるという構造を取っている。例えば、「下流階級」に比して「中産階級」の貧困への救済措置が足りない状況を指弾し、宗教施設や富裕層による社会的奉仕を求める記事や、「お菜はもう胡麻塩で我慢する」「吐息は禁物」と節約・忍耐をひたすら説く記事などが挙げられる。これらの記事は確かに、「労働者階級とは区別されるような、没落する以前の〈中流〉が存在していた」という前提の下に述べられたものであり、社会の中核層・主導層としての〈中流〉の残響がうかがえる。しかし他方でこのような「没落」が、社会に位置づけられた〈中流〉の課題としてよりもむしろ、〈中流〉を構成する個々の生活の課題として描かれる傾向も生まれていたのである。一九一九年に『婦人公論』上に掲載された、徳永寿美子「減ほされてゐる中流階級の主婦」では、生活難によって〈中流〉に相応しい教養を磨く余裕をもてない新中間層下層の主婦の現状への切実な嘆きが綴られている。 「 自分自身の才能を伸ばすためには、名上の講演も聴きに行きたいし、書物も読みたいし、音楽をも聴きたいし、絵両をも見に行きたいし、と忠ふばかりで少しもそれを実現することが出来ません。全く情けないことに思ひます。 」 この記述にしても、教養への切実な願いを社会の主導層に相応しい〈中流〉のあり方への希求として解釈するよりも、「一個の人間としても価値のある、生き甲斐のある生活を送りたい」といういわば「私化」された生活の豊かさを願う意識として解釈した方がよいように思われる。 その後昭和初期になると、『婦人公論』の誌面においても、『主婦之友』と大差のない個別旦ハ体的・実用的な意味で「中流」の語が使われるようになっていく。特に、「中流」と「住宅」の結びつきは顕著である。これは、前述の通り生活改蓋円運動の中では住宅改善の分野が先行しており、その活動の中で「中流住宅」の語がしばしばっかわれ、「中流」を冠する用語の中でも特に人口に謄来した表現となっていたことが影響している。表1、表2から分かるとおり、「中流住宅」という語が使用される際には、「理想的な」「閑雅な」「便利な」「明朗な」「気持のよい」「住心地よい」といった、生活者にとっての快適さを強調する形容語が添えられることも多かった。個々の家庭の私生活の豊かさと「中流」の語の結びつきが、住宅という具体的な生活領域を通じて繰り返し語られることにより、「社会の主導層」とは異なる意味での〈中流〉が、当時の読者の意識の中に徐々に浸透していったことは想像に難くない。 大正期に見られる「中流階級」の苦悩や没落を題材とする論説は、「本来、〈中流〉は安定的な生活を営み、社会の主導・中核層であったはずだ」という前提があるからこそ、成立可能となるものであった。実際にそのような生活難に面していたのは、特に新中間層の中・下層であったが、他方で、大正期の「〈中流〉の没落」を語る言説において暗示的に前提とされていたのは、明治期における「中流階級」(大正期でいえば新中間層上層の位置づけにある生活水準の階層)であった。すでに見たように、その〈中流〉の生活難を訴える大正期の記事は、〈中流〉を個々人・個々の家庭の生活の安定のみで捉える兆しをも見せていた。また、「中流住宅」「中流向」といった題目の厄大な記事で示されていたのは、「一般的な俸給生活者の所得に応じた快適さ」であった。そこでも、〈中流〉という概念で括って示される情報は、あくまで個々人・個々の家庭に基本的に属する「生活」の実用に資するための知識・技術として位置づけられていた。 実際の社会階層との対応関係という点で図式的に示すならば、婦人雑誌における〈中流〉把握は、新中間層上層を意識していた把握から、下方拡大した新中間層全体を視野に入れた把握へと、明らかにシフトを見せていた。それが創刊当初から明確に表れていたのが、『主婦之友』であった。「主婦之友』を創刊した石川武美が当時における「中流の下」をターゲットとして『主婦之友」を創刊したことは既に多くの論者が指摘しているが、明治期からすでに〈中流〉として扱われてきた新中間層上層と、明治末から大正期にかけて急速に拡大した新中間層中・下層との聞の「裂け目」を石川がいち早く敏感に感じ取っていたからこそ、中核性・主導性という価値から解き放たれ、生活と密接に結びついた〈中流〉を大々的に紙面で取りあげることに彼は跨陪がなかったのである。 それまでの雑誌イメージの蓄積と一定の固定的な読者層が存在したため、「教養派」の代表格であった『婦人公論』が、『主婦之友』のような「実用派」へと完全にシフトすることはなかった。しかし、『婦人公論』の大衆化路線、「実用派」婦人雑誌への一定程度の近接化は、すでに『主婦之友」で先行して現れていた、社会を主導する存在としての〈中流〉の意味の希薄化が、大正期から昭和初期へと時代が推移するにつれて確実に進行したことを示していた。 |
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■3.「実用派」への近接 −生活関連記事と相談欄ー
次に、当時の婦人雑誌の誌面における実用的な生活知識・技術の扱われ万の変化を確認したい。 まず、「主婦之友』と「婦人公論』の日常生活に関する実用記事について、大正期から日中戦争の始まる一九三七年までの推移を以下に見てみよう。図lは、両雑誌を五年おきに取りあげ、該当する年の全ての号の本丈ページ数のうち、衣料、食事、住居、医療・健康、育児・教育、美谷などの家庭生活に関する具体的・実用的な内容の記事のページ数の割合を計測したものである。ここで用いた「スペース測定」の子法は、木村涼子が二つの雑誌の性格の違いを明示するために用いたものである。木村は、生活上の「実用」に対するスタンスの明らかな違いが両雑誌の間にあったことを確認している。 しかしここで時系列を取り入れた分析を加えると、また違った側面も見いだせる。確かに、『主婦之友』が『婦人公論』より一貫して実用記事が多いことは一目瞭然であり、「教養派」/「実用派」のスタンスの違いは基本的には保持されている。しかし他万で『婦人公論』は昭和初期に「実用」へのシフトを明確に見せている。補足として、「婦人公論」において衣・食・住生活それぞれに関わる実用記事の絶対数が各年でどのように推移したかを示したのが図2である。一九二0年代半ばまではこの種の記事がほとんど皆無であったのが、一九二八年以降急激に増加していることが分かる。もちろん、『主婦之友』の記事数(図3)や割合と比較すれば、両誌の違いは蔽うべくもなく明らかであるが、ここではそのような差異よりも、「教養派」が編集方針において「実用派」への一定の歩み寄りを見せざるを得なかった、という傾向の方に着目したい。 図1 f婦人公論j. r主婦之友J本文頁数における生活関連実用記事ページ数の割合比較(5年おき) 図2 『婦人公論Jにおける衣・食・住生活関連実用記事数の推移(1916〜1937年) 図3 『主婦之友』における衣・食・住生活関連実用記事数の推移(1917〜1937年) 「教養派」が「実用派」へと近接していく過程を、「家計」に関する記事の動向からより具体的に見てみよう。「主婦之友」の創刊当初、実際の家計の事例を扱った家計記事は、同誌の重要なセールスポイントの一つであった。例えば創刊直後の第一巻二号(一九一七年四月)では、「月収廿六円の小学教師の家計」「月収廿七円の陸軍々人の家計」「月給叶五円の地方官吏の生活」「月給五十五円の中等教員の家計」といった新中間層中・下層の家計の具体的な事例が紹介されている。その後、一九二0年代半ばには一時この種の家計記事が見られなくなるが、二0年代末からはまた散見されるようになる。 他方、「婦人公論』は発刊当初、この種の家計記事をほとんど掲載していなかった。当時「生活」の一請を冠する記事には、不必要に多忙になりがちな日常生活を改めるため、日常生活を対象とした学術的研究が必要であるとするものや、「人間の本性」「愛」を生活の原理として論ずるものなど、具体的ノウハウよりも理念的な提唱を行う論説が多く見られた。しかし一九二0年代後半からは実用的な家計記事も、『主婦之友』と比較すれば数は少ないものの少しずつではあるが見られるようになっていく。その実際の内容も、収入の低い事例になると、「五十五円のモダン簡易生活」(第一五巻九号、一九二一〇年)「サラリーマンの妻の不安月収三十円の生活苦」(一六巻九号、一九二二年)、「六十五円の月給で家を建てる」(第一七巻一一号、一九三二年)、「三十五円で出来る生活」(同)、といったように明らかに新中間層上層の例ではない記事も少なからず見られる。 具体的な生活知識・技術について読者との問答形式で紹介する相談欄についても、同様の傾向が見られる。『主婦之友』は創刊当初から、「美容理装問答(相談)」(第一巻八号〜第一同巻九号(一九一七〜一九三〇年))、「家庭衛生問答(相談)」(第二巻五号〜第一四巻一〇号(一九一八〜一九三〇年このように相談欄を掲載し、一九二0年代にはその数も徐々に増やしていった。他方、『婦人公論』ではこの種の相談欄は、一九二九年以降になってはじめて多数設けられるようになる。具体的には、「洋装相談」(第一四巻五号〜第二二巻一二号(一九二九〜一九三七年))、「美容相談」(第一四巻二号〜第一一一一巻一一一号(一九二九〜一九三七年))、「婦人公論病院」(第一六巻三号〜第二四巻一一一号(一九三一〜一九三九年))等が挙げられる。 このように、実用的な生活知識・技術を具一体的に提示する傾向は、昭和初期には「教養派」婦人雑誌にも浸透しつつあった。それは、誌面において〈中流〉が私生活における具体的・実用的知識と結びつけて提示されるようになる変化と、需接に関連していたといえる。 |
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■4.読者との交流/読者の共同性 ー読者系列化事業ー
当時の婦人雑誌による生活改善に関わるとりくみとしては、誌面だけでなく、講演会、講習会、展覧会などの開催ゃ、座談会による読者と編集者との交流、読者グループ結成への支援、といったさまざまな形で「読者系列化」の事業が実施され、読者獲得競争が繰り広げられていたことにも注目する必要がある。以下、誌面の言説分析への補助線として、二つの婦人雑誌の出版社が具体的に取り組んだ実践としての読者系列化事業の性格を検討したい。 このとりくみで先行した『主婦之友』についてまず見てみよう。一九二二年初頭に同誌の月二回刊行の試みが失敗した直後の三月、主婦之友社は新たな試みとして文化事業部を設置した。この文化事業部は、教養文化的な講演会、音楽会と、家庭生活に即した実用性を重視した展覧会、講習会とを実施していった。このうち、主婦之友社が開催した実用的な内容に関わる展覧会、講羽円会を示すと、表3、表4の通りである。特に展覧会は文化事業部設置以降、頻繁に開催されていた。 これに対して、『婦人公論』読者向けに開催された中央公論社主催の実用的な展覧会、講習会の数はかなり少なく、一九三七年まででは、「手芸展覧会」(一九二九年一一月、一九三一年一一月)、「浅岡式自在型紙実演講習会」(一九三二年九月)、「夏の簡単服大展覧会」(一九三四年五月)、「実習細君学校講座」(一九三五年八月)などに留まる。このように、『婦人公論』が読者系列事業に踏み込んだのは、誌面の大衆化路線と同様、一九二〇年代末になってからであった。 表3 主婦之友社の主催した実用的内容の展覧会(1917〜1937年) 表4 主婦之友社の主催した実用的内容の講習会(1917〜1937年) 『婦人公論』の場合、読者系列化事業の中でも特に盛大に催されたのは、展覧会、講習会ではなく、国内(植民地含む)各地を編集者や講師が巡回して講演会、座談会を実施する愛読者訪問旅行であった。もっとも、このような各地の読者訪問や交流を試みる事業自体、『婦女界』誌によってすでに一九二四年頃から試みられていた手法であり、『婦人公論」は婦人雑誌全体の大衆化プロセスを最後尾から追いかけていたといえる。 むしろ『婦人公論』についてここで注目したいのは、この訪問旅行と並行して取り組みが開始された、読者グループ(「婦人公論グループ」)結成に向けた動きである。最初にこの事業について誌上で触れられたのは一九二二年六月であり、次いで同年八月号の紙面では「結成はいつも力です。われわれはその組織に包まれて新しき飛躍に旅立つ。さあ肩を組んで、友よ歩み出さうではないか!」と読者グループの結成が読者に呼びかけられている。読者グループの結成は、原則、同一都市内の一〇名以上の読者によって中央公論社に申込み、それを中央公論社が認定するものとされた。その後、東京だけでなく、横浜、名古屋、神戸など各地の主要都市に読者グループが設立され、その活動は、一九二二年一一月から誌上に設けられた専用の通信欄によって読者全体に伝えられていった。誌上で確認される読者グループは三九にのぼり、それらのグループが主催した講習会、講演会の様子も誌上で紹介された。その記事の内容からは、既婚・未婚を問わず、幅広い年齢層の女性読者が集って、各地でグループの活動が展開されていったことが看取される。 表5 1932年中の各地「婦人公論グループ」の活動 表6 各地「婦人公論グループ」の実用的内容に関わる活動(1931〜1937年) これらの『婦人公論』の読者グループの活動は、例えば表5で示した一九三二年の活動状況にみるように、必ずしも実用的な生活知識に関する内容は多くなかった。むしろ、教養、芸術、時事問題を扱ったり、慈善活動を実際に行う、といったケlスが多かった。もっとも、読者グループが実用的な生活知識に関する活動を全く行っていなかったわけではない。例えば表6に挙げるように、実用的な生活知識・技術に関する講習会などの活動がある程度は行われ、そのような「生活」に直結した学びが少しずつ広がっていったことも見てとれる。しかし、全体としては、『婦人公論』の読者グループの活動は、文芸・芸術や社会・時事問題の学びの場としての傾向が強かった。またそのことは、読者の女性たちの中でも家庭生活におけるある程度の余裕を持った層が、このようなグループ活動に多く参加していたということを示唆している。 なお、このような読者グループの活動を推進する理念として、『婦人公論』誌では「新生活運動」という語が一時期盛んに用いられた。ここで用いられた「新生活運動」という語は、同時期の中国国民党政府で蒋介石が中心となって唱導していた「新生活運動」が多分に影響しているとみられも)一九三四年には『婦人公論」誌上で新生活運動に関する座談会が組まれ、中央公論社社長・嶋中雄作の主張を記した読者向けのパンフレット『新生活運動について」が別途作成されていもここでの新生活運動の理念を端的に要約すれば、「婦人」の適性を正しく認識した上での「婦人」の自由・権利の主張であり、そこでは、「婦人」は「家庭」領域に適性を持つ点は前提とされつつも、その「持場」を科学的に改善していく志向を持つべきこと、「婦人」の適性を生かして「職業婦人」としての地歩を築き、それをもって「自由」と「権利」を獲得するべきこと、などが誕われていた。これらの理念(「新しい生活感」)を伴った生活改善運動こそが、単に技術的・技能的・形式的に生活を改善する旧来の取り組みとは異なる新しい運動、すなわち「新生活運動」であるとされたのである。 このような「新生活運動」という理念を「婦人公論』が打ち出した意凶として、一九二0年代末以来の大衆化路線がかえって同誌の独自性を失わせかねないという認識があったことも見逃せない。例えば上記のパンフレットの末尾には、以下のような編集部の意図が綴られている。 「 婦人公論は値下げ以後ひどく通俗化したといふやうな噂もき、ますけれども、これでさへも未だ食ひっけない多くの婦人が居ります。さうした人々のためには未だ片\通俗化し、大衆化しなくてはならないのでありますけれども、そして率直に申し上げればさうすることが雑誌経営には楽でもあり、又その方法を知らない訳でもないのでありますけれども、それではミイラ採りがミイラになるの類で、婦人公論の特異性を失ふことにもなりますの でこれ以上大衆化することは、私共の編輯的良心が許しませぬ。 」 このように、この「新生活運動」には、「教養派」と「実用派」の二つの路線の聞を取り持つ「婦人大衆教化」としての役割が嶋中や編集部によって期待されていたのである。しかしこの呼びかけを実際に受け止めて、具体的なグループ活動として展開し得たのは、既に上に見たように、新中間層の中でも比較的余裕のある層の女性であったと考えられる。また、「生活」と密接に結びつけて「自由」「権利」の獲得を誕いあげる理念は、必ずしも実際の読者グループの活動に忠実に反映されていたわけではなく、日常的な「生活」の側面がそぎ落とされた学宵活動となっているケースも少なくなかったのである。 実は、「実用派」の代表である『主婦之友』も、このような読者グループの結成に無関心ではなかった。『婦人公論』の動きよりも遥かに遡った一九二二年九月、『主婦之友』の誌面に読者グループとしての「主婦の会」の設立を呼びかける社告が掲載された。その中では、真に自らを成長させるのは「不消化な思想の注入」や「徒らに高速な思想」ではなく、「自分の心の内から生まれ出た、自分にとって一番親しいものを育て培ってゆくこと」であるとして、以下のような呼びかけが読者に対してなされている。 「 それで私共は、私達お互の生命の成長のため、真の幸福を得るため、趣味なり思想なり生活なりが、いかほどか共鳴するところがあり、事情の許すコ一人なり五人なりが集まって、『主婦の会』とでもいふべきものを作り、まづ本当の自分達の考から、湧き出たもの、体験から得た実生活の相、それは岩石の聞から流れ出づる清水が細い滴りであっても至純なものであるやうに、自分の考や経験が小さく力弱いものでも、自分にとっては一番大切な尊いものであることを、お互に考へ合ひ、育であって行くやうな集りを日本全国に百一つて聞きたいと思ひます。まづ「主婦之友」を中心として、『主婦之友』によってつながれる幾十万の主婦の方々が、率先してかういふ会を聞いて下さることを希望します。 」 しかしこの呼びかけの後、その後の誌面において見るべき展開はほとんど確認されない。大々的に打ち出したはずのこの「主婦の会」構想は、五〇周年の社史(『主婦の友社の五十年」)でも取り上げられていない。『主婦之友』が売りとした実用的でわかりやすい内容は、その生活知識・技術を個々人・個々の家庭で享受し消費する大量の読者を生み出したものの、生活知識・技術をめぐって教え合い、学び合う読者聞の関係性の土壌を作り出すには至らなかった。講演会、展覧会などの催しの後で茶話会、懇談会が行われ、そこでのつながりを元に読者により婦人会が結成されるという単発的な事例も存在はしたが、『主婦之友』が作り出した共同性のほとんどは、誌面(読者投稿欄)でのバーチャルなそれに留まっていた。これと同じ一九二二年に主婦之友社は、文化事業部の設置によって膨大な数の講演会、音楽会、展覧会を開催していくが、そこで生まれた関係性も、あくまで個々の読者と催事とが向き合うという形のつながりだったのである。 |
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■おわりに −〈中流〉の生活と「公」・「私」・「共」/残された課題ー | |||||||||||||||||||||||||||||||
ここまで、戦前における主に二つの婦人雑誌の検討を通して、「教養派」が「実用派」へと近接していく過程をたどってきた。この過程で、「教養派」での「牛,活」の論じられ方は明らかに、抽象から具体へとシフトしていった。また、「教養派」の誌而で語られる〈中流〉ですらも、社会における主導的な地位としての価値が付与された語ではなく、私的な個別の生活の豊かさを享受できる中位程度の所得・生活水準、という意味の形容語として使用されるようになっていくのである。もちろん、双克の編集スタンスの違い、読者の階層的な違いが完全に消失することはなかったものの、そこで扱われる〈中流〉の生活をめぐる一三口説は、社会の主導層としての意味を消失させた〈中流〉を対象とした、生活の旦ハ体的局面を論じるものへと、明らかに移行していった。生活改善運動に携わる同時期の非営利的な事業体が、昭和初期にはそもそも〈中流〉を語ることから遠ざかっていったのに対し、商業的な婦人雑誌においては、私的な個別の生活の豊かさを象徴する〈中流〉への言及が確実に浸透していったのである。
他方、このような動きの中で、〈中流〉とされる人々の聞に生活をめぐる「共同性」を、「読者グループ」とい、っ形で婦人雑誌の編集者が積極的に作り出そうとしていたことは興味深い。『婦人公論」・『主婦之友』双方とも、読者、特に都市新中間層の「生活」と「共同性を基盤とした学習・活動」とを接続させる契機を、読者グループの結成という手法に見いだそうとしていたのである。当時の婦人雑誌は、共同性を喪失した都市新中間層を前提とした知識提供をしていただけでなく、読者獲得・保持という商業的な背景を多分に有するものであったにせよ、喪失した共同性を再構築する役割をも担おうとしていたと捉えられるのである。 しかしその取り組みはすでに見たようにいずれも、編集側の意図したような「生活」と「共同牲を基盤とした学習・活動」の結びつきを十分に体現するものではなかった。一方はその学びは高踏的な活動に片寄る傾向が強く、他方はそもそもそのような小集団を形成する余力を読者が持たなかった。それだけ、新中間層の存立様式を規定している「個別化された家庭」の生活と共同の学びの聞には、スムーズに結びつきにくい相性の悪さが存在していた(いる)のかもしれない。とはいえ、『婦人公論』の読者グループの事例に見るように、「生活」と「共同性を基盤とした学習・活動」が全く成立しなかったというわけではない。ともあれ、「生活」と「共同性を基盤とした学習・活動」との接点は、戦後社会教育実践史にもつながる重要な論点であるが、本稿はたかだか二つの婦人雑誌の動向を確認したに過ぎず、結論は暫定的にならざるを得ない。ここではその接点の有していた可能性とともに、少なくとも戦前においてはその接点の成立慕盤には無視できない脆弱性も存在していた、ということを指摘しておきたい。 このように、戦間期日本の婦人雑誌においては、かつては社会を主導する存在として「公的」な位置づけをされてきた〈中流〉が「私的」な生活をめぐる存在へと位置づけられる過程が進行してきた。しかしそれと同時に(あるいはそのような動きが進んだからこそ)「私」への偏りを補正しようとする、いわば「共同的」なありょうを求める動きもまた、反作用的に生じていたのである。 本稿で十分に展開できなかった論点は、多々存在する。中でも全く未消化の課題として挙げられるのは第一に、〈中流〉をめぐる言説に史的唯物論が与えた影響についての検討である。例えば『婦人公論』では、明らかに書き手・読み手の中心が新中間層でありながら、書き手・読み手を「プロレタリア」「無産者」と呼称する論説・投稿が数多く見られる。これは単に「婦人公論」という雑誌の特質にのみ帰されることではない。そもそも「〈中流〉の没落」自体が、労資両階級の対立の先鋭化という文脈で語られることが当時は多く見られた。当時における〈中流〉をめぐる言説の変質と、史的唯物論に基づく階級論の広まりとを、生活をめぐる啓蒙の歴史の一側面として整序して捉えることが求められる。また第二に本稿では、戦間期に進行した戦後都市生活の枠組みの形成を言説の面から捉えることを目的としながらも、戦間期と戦後をつなぐ戦時期における〈中流〉の生活をめぐる言説の動向をどのように位置づけるか、という課題を意図的に回避した。戦時期においては、総力戦を支えるためのさまざまな政策的介入により生活水準・環境の激変がもたらされた。いわば、〈中流〉に付与された「個別の生活の豊かさ」という価値とはまさに正反対の生活のあり方が、理念としても実態としても支配的となった時期である。この時期を考察に合めるには、戦間期と戦後とに挟まれた単なる「断絶」と捉えるべきか否か、また、それに生活をめぐる啓蒙としての社会教育がどのように関わっていたか、について整理された構同を提示する必要がある。以上を、特に今後検討されるべき課題として最後に提示しておきたい。 |
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■『論争・中流崩壊』 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■T.はじめに―本レポートの目的 | |||||||||||||||||||||||||||||||
私は、今学期小熊研究会において現代日本の失業問題をテーマとして中公新書ラクレ『論争・中流崩壊』の発表を行った。本レポートでは、中論争の議論を整理・要約し、さらに現代日本の中で中流崩壊が議論されることそれ自体の意味を考察することを目指す。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■U.本論―論争の中身の整理 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■(1)「中流崩壊」の流れ、議論の軸
まず、『論争・中流崩壊』の中で定義されている「中流崩壊」論争の全体像について整理する。論争の発端となったのは、1998年に出版された橘木俊詔京大教授の『日本の経済格差―所得と資産から考える』である。同著の中で橘木は、ジニ係数を用いた経済学的分析によって日本社会の不平等度が高まっているという実証分析を紹介した。橘木の説は、後に大竹文雄大阪大学助教授らによって批判を受けているが、不平等が印象論で語られる中でデータを用いた実証分析を行っている点で、大きなインパクトを与えたといえる。この所得を用いた分析は、中崩壊論争の中で中心的な論点の一つとなる。続いて1999年に刈谷剛彦東京大学教授は、高校生を対象とした調査をもとに、親の学歴によってこの学歴が影響を受け学歴が再生産されていると指摘した。また、SSM調査(社会階層と社会移動全国調査)を用いた社会学的調査を行ったのが原純輔や佐藤俊樹である。東京大学助教授の佐藤は、2000年に『不平等社会日本』を出版し世代間で階級の再生産が進んでいることを指摘した。これに対しては、盛山和雄東大教授によって「中流崩壊『物語』にすぎない」という反論が行われ佐藤氏はこれに応えている。 不平等化が提示され、日本社会の不平等化に対する現状認識に対して議論が交わされる中で、所得・地位の不平等化を問題視し格差を是正して「活力ある日本社会」を目指す論者がいる一方で名目的な「平等」、モラルのない画一的な競争を批判し「社会的責任を自覚した」エリート層を生み出すべき、とする論者が表れた。櫻田淳の「今こそ『階級社会』擁護論」はその代表である。このように階層分化を 以上が、論争の大まかな論点である。以下では、経済学的現状分析と階層分化を廻るモラル論を軸としてその議論の詳細を整理する。 ・補足:「中流崩壊」と「不平等の拡大」の使われ方に対する留意 論争の中で使われている「中流」とは、70年代後半から80年代初めにかけて行われた「中」論争の中で登場した村上泰亮の新中間大衆論をもとにしている。高度成長期に「みんなが中間階級」という議論が登場し、異論を受けながらもそれに変わる概念は提示されることがなかったことで日本社会が「平等」社会であると一般に思われてきたという点に関しては、どの論者も一致しているといっていいだろう。議論の中では、「中流崩壊」や「中流層の崩壊」、「階層分化」、「階級社会化」、「不平等化」、「不平等度の拡大」といった言葉が各論者によって微妙にニュアンスを変えて使われている。言葉の使われ方によって、議論がかみ合っていない部分も見受けられるためこれら言葉の指す意味には留意を必要とすることを指摘しておく。 |
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■(2)論争の中身
■@)現状認識―経済学的分析、社会学的分析 前項で整理したように、日本社会に対する現状認識に関しては経済学的、社会学的な統計を用いて議論がなされた。ここでは、それぞれの主張と反論を整理する。 所得再分配の不平等化に関しては、京都大学教授の橘木俊詔がジニ係数を用いた経済学分析によって実証している。ジニ係数とは、所得分配の不平等度を表す指標である。0から1の値をとり、完全平等の時に0、一人が全所得を占めるような不平等の時に1となる。ジニ係数を用いた国際比較では、アメリカが最も不平等、ヨーロッパの大国(イギリス、フランス、ドイツ)がそれに続き、最も平等なのが北欧や中欧の小国であるとされる。橘木の説では、日本は戦後20〜30年の間北欧並の平等度を保ち、特に高度成長期に関しては平等度と経済大国としての効率性が共存するという特徴をもっていた(橘木はこれをもって「平等神話」とする)。それが、1980年頃から不平等度が拡大し今ではヨーロッパの大国並の「普通の国」になった、ということである。それに対して反論したのが、大竹文雄大阪大学助教授である。大竹の反論の柱は、ジニ係数の不平等化を日本の人口高齢化による名目的なものとしていることである。日本の年齢内賃金格差は、年齢層が若いほど小さく、高くなるにつれて高まる特徴を持っている。これは、初任給の格差は少ないが、年齢を経るにしたがって、昇進格差・査定による格差・企業規模格差などが広がるからである。大竹は、斎藤誠大阪大学助教授と共に厚生省の『所得再分配調査』をもとに行った分析により、80年代の不平等度上昇の30%程度を人口高齢化によって説明できたとする。また、分析に用いる所得の定義についても議論となっている。大竹は、橘木が日本のジニ係数計算に用いた『所得再分配調査』の当初所得が公的年金の受け取りを含まないが退職金や保険金のを含むことを指摘し、アメリカの課税前所得との比較にバイアスが生じるとする。それに対して橘木は、自分が重視するのは社会保障の貢献分を考慮した再分配所得なので比較に問題はないとして譲らない。このように、データの使い方、分析の面で両者は議論を戦わすが大竹の論旨は、中流の「崩壊」といった表現や「アメリカ以上の不平等」という現状認識が大げさであり冷静さを欠くということであり、そもそも趨勢としての不平等化自体を否定しているわけではない。そして、これは橘木の「日本はアメリカに次ぐヨーロッパの大国並の不平等度になった」という主張と矛盾するわけではない。橘木と大竹の議論は、趨勢としての不平等化を社会構造自体の危機と捉えるか否かの違いなのではないだろうか。 次に、地位の世代間再生産についての細目を整理する。そこで用いられるデータは、SSM調査(社会階層と社会移動全国調査)である。SSM調査とは、1955年以来10年おきに社会学者たちによって共同で調査され、日本全国の20〜69歳の人を対象に、その職業キャリア、学歴、社会的地位、両親の職業や学歴など、かいそうにかかわるさまざまなデータを集めたものである。佐藤俊樹は、村上泰亮の新中間大衆論を70年代以降日本の「中流」に対するデファクト・スタンダードとして、日本が「がんばればみんなが中流になれる」社会であったとする。佐藤の論では、従来の「中流」意識が実体として「みんなが中流」なのではなく「みんなが中流になりうる」可能性が社会に広く共有されている状態と定義づける所に特徴がある。「中流になりうる」可能性が共有されている状態とは、言い代えると「よい学校をでてよい仕事につく」ことが目標として多くの人に共有されていた状態である。佐藤は、SSM調査の分析にあたって、人々の目標としての「よい仕事」として企業の管理職、専門職(分類上は、ホワイトカラー被雇用上層と呼ぶ、以下略してW雇上)設定し父親がW雇上である人がどれだけW雇上になりやすいか(この割合をオッズ比という、0〜10の値をとり数値が高いほどなりやすい)に注目して分析を行った。このオッズ比を調査時点での調査対象本人の現職に関して見ると、1955年調査の10近い数値が順調に低下し75年以降は4付近で安定しており、W雇上になれる可能性が多くの階層出身者に開かれてきたと見ることが出来る。しかし、佐藤がここで本人の現職ではなく40歳時点での職業に関して同様の分析を行ったところ、85年調査の時点で40歳台である1926〜45年生まれまでは順調にオッズ比が低下しているものの、1995年調査の時点で40〜59歳である1936〜55年生まれの人では反転してほぼ8まで上昇している。佐藤によると、この結果が示すものは、「中流」階層の実体化である。戦後、経済的理由からの教育機会の格差が小さくなり誰もが学歴によって中流になる「可能性」を共有した。しかし、機会の平等のもと行われた競争の結果、「中流」に実際に「なれた」人が確定しそれが固定化され始めたということである。佐藤は、この他に選抜システムへの評価として「いまの世の中は公平だと思いますか」という質問への回答結果を提示する。そこでは、父がW雇上でない人の方がそうである人に比べて不公平感を持っている結果が示されている。佐藤の論旨は、上昇への可能性の共有が崩壊しつつある現状は「自由で活力ある競争社会」にとって危機である、ということである。 これに対しては、盛山和夫東京大学教授が「中流」崩壊は、十分な証拠のない「物語」に過ぎないとして反論している。盛山は、まず佐藤とは階層区分、本人職の測定時点を変えた分析によって階層閉鎖化傾向を否定する。また、サンプル数の少なさから佐藤の分析の有意性に疑問を投げかける。盛山は、SSM調査は全体としては十分なサンプル数を確保しているが、佐藤の分析のように年齢を限定して特殊な分析をしようとすると極端に少なくなってしまうという。実際に、40歳時職が分かっていて、しかも父階層がW雇上である40,50歳代のサンプルは、85年で68名、95年で42名に過ぎないという事実を提示する。ただし、「中流崩壊は『物語』にすぎない」で述べられているように、盛山の主張は、佐藤の分析の正否を問うているのではなく、佐藤の分析結果がSSM調査のデータからは判断できない、というものである。むしろ、盛山の論旨の中心は、村上泰亮の呼んだ「新中間大衆」がいつのまにか「中流」と呼びかえられ、安易に「階級社会化」が語られる状況に対する批判である。「階級社会化」の是非に関しては次項で詳しく整理する。 以上のような、佐藤の指摘した社会階層の固定化は、実証的なレベルでの正否とは別の部分で、エリート擁護論者などによって日本社会の「階級論」を含め、競争社会そのものを問い直す議論を誘発する結果となった。 ■A)モラル論―「社会の固定化」「階層分化」「階級社会化」 現状認識として、日本社会の不平等化が進んだか否かについては上で整理したような議論が存在する一方、それと平行して日本社会のあり方として階層分化を容認する立場と認めない立場の論者が存在する。 前項で登場した盛山和雄は、「中流崩壊は『物語』にすぎない」の中で「階級社会にはなりえない」という項を設け、不平等化による階層分化によって日本が「階級社会化」する可能性を否定する。盛山は、まず階級を以下のように定義づける、「階級は、1職業を中心とする社会経済的な地位の区分が、主要な政治的な利害の対立を構成し、政治的変革を志向した集団を構成する基盤をなしていて、2それぞれに「ふさわしい」生活様式や生活機会の違いがあり、その違いが規範的に広く人々によって認められているときに表れる。」。そして、戦後の日本社会がこのような身分制や階級社会性を徹底的に消滅させて発展してきた背景を語る。そのように極端に身分的閉鎖性のない日本においてデータの上で相対的に「閉鎖性が増した」としても、絶対的な水準ではとても「閉鎖的」とは言えない、というのが階級化に関する盛山の論旨である。その上で、盛山は今後の動向として、これまで年功序列と終身雇用によって保護されてきた大卒男子サラリーマンが競争化されることによって日本社会は流動性を増すだろうとし、そのような社会に必要なのは「若い世代により多くの機会と希望とを与えることができるような未来を構想することだろう。」として締めている。最後の言葉に示されているのは、不平等の拡大を「希望(がんばる意義)」を与え「機会(自由競争の前提)」を与え競争によって流動化を図る、というのは、いわばこれまでの経済成長の図式を効率化によって再び活性化させるという方向性である。多くの論者は、現状認識の立場によらずこの前提にたっているといえる。佐藤俊樹は、階層固定化の実証の中で「自由で活力ある社会」という言葉を使い社会の流動化を志向する。精神科医の和田秀樹と東大教授の野口悠紀夫の対談では、世代間の資産継承を廃して自由競争を促進する手段として相続税の強化を議論している。橘木俊詔は、競争社会の激化に対応したセーフティー・ネットの整備を訴えている。 上に述べた、競争社会という枠組みを前提とした論者に対して、競争におけるモラルの欠如という観点から社会に責任を負うエリート層を求める論者もいる。特に、正面から階級社会化を指向する論者として、評論家の櫻田淳がいる。櫻井は、「中流階級」を「富を獲得する欲求」と「現有する富が失われることへの恐怖」の双方を持つ階級、と定義している。つまり、どれだけの所得を得ているか、や社会的地位の区分ではなく、「富」に向かっていく姿勢を指すことになる。この定義は、そのまま新中間大衆の特性と合致するといえる。つまり、共通の目的としての「中流」「よい仕事」を目指し同じ選抜システムの中で「競争」し合うという特性である。この前提にたって桜田は、現在日本に進行しているのは「中流の崩壊」ではなく「中流の飽和」である、と表現する。つまり、同じパイを廻って競争してきた「中流」層が経済不況などによってパイの拡大が止まったことによって、いわゆる「もてるもの、もたざるもの」が区別されるようになった状態である。櫻田にとって何よりも問題なのは、「中流階級」は「富」を渇望するが、実際に富を得て社会の上位層に入れたとき(櫻田はこれを「努力してナンとかなった後にどうするのか」と表現している)にその地位において社会に果たすべき責任意識(モラル)を持っていない、ということである。富に対するモラルの不在がもたらす弊害を端的に表す例として、櫻田は「バブル狂乱」の時期にある製紙会社会長がゴッホの絵画を私的に購入し「死んだら棺桶の中に一緒に入れてほしい」と語ったエピソードを挙げている。櫻田は、「中流階級」が社会の中で優勢な位置を占め続ける限り「富・金銭を超える価値」が全面に浮上するのは、難しいと考える。このような認識にたつと、経済再生によるパイ自体の拡大や効率化、相続税制による社会の流動化策によって自由競争を促進し所得の不平等化や地位の再生産を是正することは、モラルの不在という根本問題は解決できないことになる。そこで、櫻田は「社会に規範を示す責任を担う」「エリート」や「選良」を意図的に育成し、日本に真の「階級社会」を復権させるべきであるという論を唱える。櫻田の階級社会論は、大胆で社会のあるべき姿自体を問い直している点で興味深いが、競争社会を階級社会化へ向かわせる動機付けやエリートの持つべき「規範」がいかなるものであるのか、という点がはっきりしないという意味で現実性が低い議論といえるかもしれない。 |
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■V.考察―論争の社会的意味とは何か? | |||||||||||||||||||||||||||||||
前項までで本書における論点を整理した。では、そこから中流崩壊論争そのものの社会的な意味付け、また現代の日本社会における労働の意義をどのように考えることが出来るだろうか。
佐藤俊樹は、「それでも進む『不平等社会化』」の中で、「機会の平等度は、ある不平等要因が働いたかどうか、でしか図れない」と述べている。同じように、どのような社会においても完全な「平等」という状態は、存在しないといえる。「平等」度は、その社会の中で「不公平感」を感じる人がどれほどいるかによって決まる、といってもそれ程的外れではないのではないだろうか。戦後日本においても、機会の平等と結果の平等を標榜し誰もが上昇を目指してがんばるというコンセンサスが得られていたとしても、つねにそこには実体としての格差は存在してきたはずである。実際、橘木俊詔は高度成長期の日本の実体としての平等度に疑問を投げかけている。佐藤は、「透明な他者のあとで」の中で赤坂真理の「皮膚感覚としての階級感」という言葉を引用しているが、現在日本社会の中で人々が直面しているのはこのような捉えどころのない、感覚的な、しかし、実感としての格差なのではないだろうか。その原因は、盛山和雄の言葉を借りると「ここ数年の不景気と将来に対する不安」にあるではないだろうか。佐藤や橘木は、この実体のない不安を理論付けようと、説明を与えようとする人たちなのではないかと感じられる。私は、大竹や盛山よりも、佐藤・橘木により共感する。それは、私自身が格差を「皮膚感覚」で感じているからなのかもしれない。社会の固定化の是非に対する唯一の「答え」は、結局論争では提示されていない。しかし、論争は日本社会に生きる成員に競争を生み出す仕掛けを暴いて見せた(実際は、先に出てきた現象を説明したのだが)といえるのではないか。各論者の挙げる具体的な政策を見ると、今後も「富」を求めて競争を続けるシステムを延命させることは、十分可能であるように思われる。しかし、個人の幸福や、生きがいを考えたときにはそのシステムから降りることも、「選択」の問題となるのかもしれない。ダメ連の存在などは、その可能性を示唆している。本書の最後に掲載されている山崎正和の「平等感のある社会へ」の中では、「本来、人間はたんに所得によってではなく、他人の認知によって生きがいを覚える動物であった」と書かれている。このような考え方、「競争をおりる」人たちのよりどころは、いわば「心の」セーフティネットとして常に必要とされていくだろう。 |
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■厚生労働省記録・社会保障 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■第1部 社会保障の検証と展望 〜国民皆保険・皆年金制度実現から半世紀〜
第1部は、おおむね2011(平成23)年6月末までの動きについて記述している。 |
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■はじめに | |||||||||||||||||||||||||||||||
少子高齢化の進行をはじめ社会経済状況が大きく変化する中、国民の自立を支え、安心して生活ができる社会基盤として、社会保障制度の機能強化を確実に実施し、同時に社会保障全体の持続可能性を確保することが必要である。そして、改革の実現のためには、立場を超えた幅広い議論の上に立った国民の理解と協力を得る必要がある。
社会保障制度改革の議論が行われている現在すなわち2011(平成23)年のちょうど半世紀前に、日本では「国民皆保険・皆年金」が実現した。この「国民皆保険・皆年金」は国民誰もが医療保険や年金の保障を受けるというものであり、日本の社会保障制度を特徴付ける世界的に冠たる制度である。日本の社会保障はこの「国民皆保険・皆年金」を軸に展開されてきたと言っても過言ではない。 そこで、平成23年版厚生労働白書第1部は「社会保障の検証と展望 〜国民皆保険・皆年金制度実現から半世紀〜」と銘打ち、社会保障制度改革を議論する前提として、「国民皆保険・皆年金」の実現とその変遷を中心に、日本の社会保障制度のこの半世紀を客観的なデータを基に振り返ってみることとした。 国民皆保険・皆年金が実現した1960年代の社会経済環境は、「貧しくとも『希望』が持てた時代」であったといえよう。 1960年代は、欧米を中心に福祉国家が黄金期を迎え、「経済成長と所得再分配の幸せな結婚の時代」と指摘*1 されている。経済成長によるパイの拡大は社会保障給付の充実を可能とし、他方、社会保障給付には経済政策的な意義もあった。 この時期、戦争の混乱が終わり、世界的に経済は拡大基調にあった。日本でも、戦後復興の時期を経て、高度成長が軌道に乗り、ついに日本は世界第2位の経済大国となった。日本人の努力・勤勉さ、技術革新、1ドル=360円の固定相場制、積極的経済政策などと並んで、大きな背景としては、ベビーブーム等による人口増、さらには人口ボーナスもあるという日本の人口構成の若さがあった。 各国で、福祉国家の思想に基づく社会保障制度の拡充が進められ、日本でもこうした潮流に乗って、画期的な国民皆保険・皆年金の実現を果たし、更にその充実を進めた。 企業は右肩上がりの経済成長を前提に経営を拡大した。そのため、不足しがちな労働力を確保すべく、終身雇用や年功序列賃金といった日本型雇用慣行が定着していった。企業は福利厚生を充実させ、企業別労働組合に象徴されるように労働者も企業への帰属意識を強めていった。 高度経済成長が始まった当時は、労働者にとっては、賃金水準も低く、労働時間も長く、衣食住にわたって生活水準も低かった。しかしながら、戦争も終わって平和になり、賃金も年々上昇し、「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や「新・三種の神器」(カラーテレビ、クーラー、車。「3C」とも称された)に象徴されるように生活水準も向上し、いわば「明日への希望が持てる」時代であった。男性は希望すればほぼ正社員として就職することができたし、就職すれば定年まで勤めることが期待できた。賃金も年功と経済成長によって上昇していくことが期待できた。富の配分の多少の不公平感があっても、多くの人は「中流意識」を持つようになっていった。 女性も結婚することが当然の時代であり、血縁、地縁、職縁など様々なつながりの中、結婚の紹介があった。また、ひとたび正社員の男性と結婚すれば、その生活は保障され、家事、子育てに専念することが期待されていた。 こうした時代は、オイルショックの発生を契機に変化していく。 欧州各国では、経済の低成長に悩み、経済成長と福祉国家は両立せず、社会保障は経済成長の足枷だとして「小さな政府」を志向する考え方、「新自由主義」が強くなっていく。アメリカにおけるレーガノミクス、英国におけるサッチャリズムがこれに当たる。こうした国においては、新自由主義的な考え方に基づいて社会保障の給付切り下げ、公の役割の民間移譲等が行われていった。 日本でも、オイルショックによる影響があり、その後、社会保障も将来の高齢化の進展等を見通して、見直しの時期に入っていった。ただし、日本は、二度のオイルショックからは比較的早く立ち直り、安定成長へと移行した。欧米ほどには失業率も上昇せず、また、生産年齢人口が全人口に占める割合は比較的維持されていた。しかしながら、1990年代に入ると人口高齢化が急速に進展し、生産年齢人口の割合が低下を始め、問題が一気に顕在化することになった。 そして、今日の日本を取り巻く社会経済環境は、「豊かになったが『不安』を抱えている時代」といえよう。 国民皆保険・皆年金が実現した半世紀前に比べ国民の生活は、物質的には明らかに豊かになった。しかしながら、半世紀を経て、日本を取り巻く経済社会情勢は全く異なるものとなっている。 東西冷戦の終結に伴う新しい世界経済の情勢のなか、資本の流動化、グローバリズムが進展していった。アジア、南米の新興経済国・地域の発展、経済的躍進があり、企業は厳しい経済環境の下、世界的規模での競争を強いられることとなった。IT革命等の言葉に象徴されるように、産業構造変化のスピードも格段に速くなった。 日本では、バブル経済崩壊後、「失われた10年」とも称される低迷の時代が続き、現在でもデフレ基調が続いている。企業は、厳しい国際競争やデフレ経済下での価格競争を余儀なくされ、リストラに迫られ、人件費削減の一環として、正社員の数を減らして、パートタイム労働者や派遣労働者等の非正規労働者の活用にシフトするようになった。労働者の賃金は減少の一途をたどり、失業率は4〜5%から下がらなくなった。 また、日本では、特に地方においては、公共事業が一定の雇用確保の役割も果たしていたが、国・地方の厳しい財政状況を反映して、公共事業も年々減少している。 さらに、急速な少子化の進展により、総人口が減少するといった人口減少社会を迎えようとしている。人口減少は、端的に消費の減少等による国内経済の縮小をもたらすものであり、高度成長期にあった人口ボーナスの裏返しである人口オーナス(高齢者人口の増大により生産年齢人口の割合が低下すること。「オーナス」は負担、重荷の意。)が生じて、現役世代の負担は重くなる。 高度成長期を担ったいわゆる団塊の世代の年齢が上昇するに従い、経済の停滞と相俟って、終身雇用や年功序列賃金を維持することは困難になった。終身雇用や年功序列賃金あるいは充実した企業の福利厚生は、かつては正社員を定着させるメリットとみられていたが、いまやコスト増の要因とみる向きもある。 こうした中、企業への正社員としての就職がかつてより厳しくなってきた。これまでは、学卒者を正社員として一括採用し、採用後に社員教育などのOJTを通じて労働者の技能を蓄積させ、そうした技能の活用により高い生産性を確保する仕組みであった。しかし、グローバル化した経済の下では、企業からもそのような余裕は失われ、非正規雇用の拡大につながった。 こうした結果、国民の間に、「負け組」と称されるような格差の存在が意識されるようになり、主に低賃金の非正規労働者を指す「ワーキングプア」という言葉も生まれた。 家庭の形も変化した。まず、そもそも結婚をしない人が増えた。結婚しないという生き方が社会的にも許容され、結婚を希望してもかつての血縁、地縁、職縁による紹介は減り、恋愛も自由競争となって格差が生じているといわれている。経済のサービス化とも言われる産業構造の変化等によって女性の経済的自立が進み、あえて結婚しないという選択も増えた。また、非正規就労といった不安定な就労は、結婚、そして、子どもを持つことを躊躇させている。かつての夫と専業主婦に子ども2人という「標準世帯」はいまや多数派ではなく、共働き世帯、単身世帯が増加し続けている。また、これまでの核家族化の帰結として、高齢者夫婦のみ世帯、更には高齢者の単身世帯も増加している。 地域のつながりも衰退した。地域での活動の主力であった職住近接の自営業者・農家や専業主婦は減少している。自治会の役員や民生委員を引き受けてくれる人を見つけることも難しくなっている。地域との関わりを避ける住民が増え、住民同士の近所付き合いも減少している。都会ではもともと地縁もなく親族も近くにいないという人も多い。高齢化が進む地方では、商店街にシャッター通りが出現し、コミュニティの維持自体が困難となるような限界集落も発生している。 この企業、家族、地域の変容は、将来の生活への不安に加え、個々人の帰属意識、言い換えれば自らの「居場所」や「こころの拠り所」があるという安心感の動揺をももたらしている。職が安定せず、家族も持たず、死を看取ってくれる人もいないという人が増えている。ストレスの増大から、うつ病等の精神疾患にかかる人も多く、自殺者は1998(平成10)年以来年3万人を超えている。格差の拡大が言われ、「中流意識」は揺らいでいる。 マクロ的に見ても、世界経済における日本の地位は低下しつつあり、経済もかつての右肩上がりの時代ではなく、今日より明日が豊かであるという保障はない。国力の源である人口の減少は止まらず、高齢者の割合は3割から4割に上昇すると予想されている。国・地方を通じた公債発行残高は900兆円を超えて1,000兆円に達しようとしており、この返済は次の世代が行わなければならないことも暗い影を落としている。 日本の社会には閉塞感が漂っており、将来に不安を抱える国民が増えている。日本はいまや「不安社会」となったということができる。 社会保障の役割や機能は人口、雇用・経済状況、社会生活の変化に密接に関係している。過去に社会保障のための制度が創設、改正された際にも、その時点での現状及び将来見通しを前提として検討されている。 こうした経済社会の状況の変化の中で、現行の社会保障の制度がどのような時代背景で設けられ、そしてどのように変遷してきたのか、を振り返ることは未来への出発点である。 そうした問題意識から、まず、第1章ではどのような時代背景だったのかということを客観的な統計データで概観し、第2章では国民皆保険・皆年金を軸にどのように日本の社会保障制度が発展したのかを振り返り、第3章では半世紀間の皆保険、皆年金を中心とした社会保障の成果を検証する。その上で、第4章では現在、議論されている社会保障制度改革について紹介しつつ、今後の社会保障を展望する。 社会保障制度は広く国民生活全般に関わるものであり、国民相互の支え合いが基本となっている。国民各層において、社会保障制度がこれまで果たしてきた役割をその背景となる社会経済状況とともに理解し、新たな状況の下、日本がどのような社会を目指し、そのためにどのような社会保障であるべきかといった国民的な議論のプラットホームとして本書が活用されることを願っている。 |
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*1 神野直彦 『「分かち合い」の経済学』 岩波書店 2010年
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■第1章 どのような時代背景だったのか | |||||||||||||||||||||||||||||||
国民皆保険・皆年金を達成する前後から現在に至るまでの間に、人口、雇用をめぐる情勢、経済状況、家族形態、社会生活は大きく変化している。社会保障制度に求められる役割や機能、社会保障が前提としている経済、社会の状況もこの間大きく変化した。
○ 1 経済や働き方はどうだったのか −生活水準は向上したが雇用の不安は増大− 第2次世界大戦で壊滅的打撃を受けた経済は、国民皆保険・皆年金を実現した昭和30年代には高度成長期を迎えた。この高度経済成長は日本の産業構造を第1次産業中心から第2次産業、第3次産業にシフトさせ、就業構造の変化をもたらした。 多くの世帯ではかつては農林漁業などで自営という形で生計を立てていたが、工業化の進展等とともに、高等学校や大学を卒業し、企業に正社員として雇用され、賃金で家族ともども生計を立たせることが一般的となった。 一方、企業も優秀で必要な労働力を確保するために「終身雇用」「年功序列賃金」「企業別組合」といった日本型雇用慣行により主として男性労働者を正社員として処遇してきた。 そして、日本は「一億総中流」という言葉に代表されるように、生活水準は向上した。家庭で子育てや家事に専念していた専業主婦は子どもの養育費など家計の補助のためにパートやアルバイトをするようになった。 しかし、バブル経済崩壊後のグローバル経済により、企業は競争に生き残るために人件費削減も含めたリストラに追いこまれ、福利厚生も含め労働者の処遇を見直してきた。そうした結果、日本型雇用慣行が変容してきた。近年は、女性労働者の半数以上は非正規雇用となり、非正規の男性労働者の割合も増加してきた。 ○ 2 家族はどうだったか −大家族から単身世帯の増加− 工場が大都市を中心に立地されたこと等から、大都市への人口集中が加速し、家族の在り方も変容してきた。 昭和20〜30年代は3世代世帯も多く、子どもの数も3人以上というのは珍しくなかった。しかし、高校や大学を卒業後、大都市で就職し、結婚するケースが多くなった結果、核家族化が進んだ。 また、最近は平均初婚年齢が上昇し、晩婚化が進行している。生涯未婚率も上昇しており、今後もさらに上昇が予測されている。さらに、離婚件数も上昇傾向にあり、親が離婚した未成年の子どもの数も増加している。 今後は単身世帯の増加が予測され、特に高齢者の単身世帯の増加が予測されている。こうした家族の在り方の変容は地域におけるつながりの希薄化の一つの大きな要因となった。 ○ 3 人口増加社会から人口減少社会へ −現役世代の減少− 第2次世界大戦後、総人口は2度のベビーブームを経て、一貫して増加し、そうした人口増加により高度経済成長は支えられてきた。また、衛生水準の向上や医学の進歩等により平均寿命は昭和20年代前半では50歳代であったが、今や80歳前後まで上がってきており、死因も感染症から生活習慣病を原因とするものに変化してきた。 平均寿命の上昇により、1970(昭和45)年に総人口に占める65歳人口の割合が7%を超える高齢化社会に、その24年後の1994(平成6)年には14%を超え高齢社会に、さらに21%を超える超高齢社会を迎えた。 その一方で、多産多死から少産少子に変化していく中で出生数の低下が続き、平成になると少子社会への本格的な対応が求められるようになり、総人口が減少するといった人口減少社会を迎えようとしている。 ○ 4 人生80年時代になったが、不安は増大 −不安社会の到来− 統計でみた平均的なライフスタイルは、夫妻の子どもの数は減ったが、女性の平均寿命は80歳を超え、夫の引退してからの老後の期間は長くなっている。 しかし、悩みや不安を感じている人は多くなってきており、今や約7割が何らかの悩みを抱えている。その内容をみると、「老後の生活設計について」「自分の健康について」「今後の収入や資産の見通しについて」といったものが多い。 図 時代背景 |
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■第1節 経済や働き方はどうだったのか −生活水準は向上しつつも雇用不安は近年増大− |
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■1 経済成長の変化
実質国内総生産(実質GDP)成長率は、高度経済成長期に6〜10%超であったが、第1次オイルショックを契機に低下した。バブル期には6%程度の成長を記録したが、その後は3%を超えることはなく、マイナス成長の年もあった。 また、対前年比の物価上昇率をみると、1960年代以降は5%前後で推移してきており、第1次オイルショック以降の1973〜1975年は10%を越えていた。バブル崩壊後は0%前後で、デフレ基調で推移している。 さらに、現金給与総額の増減率をみると、1966年から1974年の第1次オイルショックまでは10%を超えており、物価上昇率を上回っていた。しかし、第1次オイルショック以降は増減率が減少してきており、バブル崩壊の1990年代半ば以降はおおむねマイナスで推移するようになり、物価が下がる以上に給与が下がっている状況であった(図表1-1-1)。 図表1-1-1 実質GDP成長率、物価上昇率、現金給与総額の増減率 国民皆保険・皆年金の実現した1961(昭和36)年当時は高度経済成長期に当たり、第1次オイルショックまでは経済も右肩上がりの時代であった。しかし、第1次オイルショックにより物価が高騰し、社会保障もその対応に取り組まねばならなかった。 バブル崩壊以降は平均給与が下落する中で、非正規労働者の増加などにより現役世代の収入格差も問題視されるようになり、そうした問題に対しては社会保障のセーフティネット機能が問われる時代となった。 |
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■2 完全失業率、有効求人倍率の変化
完全失業率は高度経済成長期から1970年代まで1%前後で推移していたが、1980年代は2%台、1990年代で4%台まで上昇し、2000年代は5%台まで上昇した。 一方、有効求人倍率は景気循環に応じて上昇・低下を繰り返している(図表1-1-2)。国民皆保険・皆年金制度が実現した1961(昭和36)年から1970年代までは、完全失業者が100人に1人という状況であり、就職を希望していた者は、条件を問わなければほぼ就職ができた時代であった。 こうした就業の長期的安定状況の中で、日本型雇用慣行の三種の神器と称される「終身雇用」「年功序列賃金」「企業別労働組合」といったものが普及・定着した。 図表1-1-2 完全失業率と有効求人倍率の推移 |
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■3 産業別就業者数の変化
産業構造の変化に伴い、各産業に就業している者の比率も大きく変化している。昭和30年代(1961年)では農林漁業の第1次産業に就業者のおよそ3分の1が従事していたが、2010(平成22)年では5%を下回っている。第2次産業従事者は、1961(昭和36)年の29.4%から、1982(昭和57)年には、34.3%まで増加しているが、2010年には24.8%に減少している。 一方、サービス業などの第3次産業に就業している者は1961年では約4割であったが、2010年では約7割を占めている。中でも、医療・福祉に就業している者は10.4%を占め、今後の伸びも見込まれている(図表1-1-3)。 図表1-1-3 産業別就業者数の変化 |
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■4 進学率の変化
1961(昭和36)年には、高等学校等進学率が男女とも60%超であった。大学進学率は、男性が15%程度、女性は3%程度であった。 高等学校等進学率は1970年代には男女ともに90%を超えていた。現在、男女ともに95%以上であり、高校等はほぼすべての者が進学する国民的な教育機関となっている。大学進学率は1950 年代には男性が10% 台、女性が2% 台であったが、2010( 平成22) 年には男性が56.4%、女性が45.2%と大きく増加しており、高学歴化が進んでいる。 また女性の短期大学への進学者を含めれば、半数以上の者が大学・短期大学に進学しており、大学・短期大学に進学することが珍しくなくなってきている。 なお、最近は大学院進学率も上昇し、2010(平成22)年には男性で17.4%になった(図表1-1-4)。 図表1-1-4 進学率の推移 |
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■5 職業別就業者数、雇用形態別雇用者数の変化
産業構造の変化により第1次産業の就業者が減少してきた。1961年には農林業者をはじめとする自営業者は就業者のうち21.9%であったが、2010年には9.3%という状況である。家族従業者も同様に1961年には23.0%であったが、2010年には3.0%にしかすぎない。その一方で、雇用者は1961年には5割強であったが、1980年には7割を超え、2010年には働いている人のうち、およそ9割が雇用されて働いている(図表1-1-5)。 日本の医療保険は、大きく労働者を対象とする被用者保険と農家や自営業者等を対象とする地域保険に分かれて発展してきたが、こうした就業構造の変化は、特に地域保険である国民健康保険に大きな影響を与えてきた。 図表1-1-5 就業者の変化 その一方、雇用者の変化の状況をみると、これまで男性の正社員が中心であったが、特に、女性の社会進出等により女性が増加している。男性と女性の雇用者の比率は、1959(昭和34)年には男性雇用者が女性の2.5倍程度であったが、2007(平成19)年には男性は女性の1.3倍程度になっている。しかしながら、女性の雇用者については、派遣社員、契約社員、パート、アルバイト等の非正規雇用を中心に増加している。2007年には女性の雇用者のうち非正規雇用が過半数を占めている。 1982(昭和57)年から2007年の間の変化をみると、正規の職員従業員の数はあまり増加しておらず、男女とも被用者の増加分はほとんど派遣社員、契約社員、パート、アルバイト等の非正規雇用となっている(図表1-1-6)。 社会保障制度においても、男性が正規職員として安定的に就業しているという前提は、見直さざるを得なくなっている。 図表1-1-6 雇用形態別雇用者の変化 |
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■6 共働き世帯の増加
社会保障制度は、専業主婦世帯が一般的であることを想定して構築されてきた部分がある。また、企業の賃金制度も男性労働者が家族を養うことを前提に、各種の福利厚生制度が構築されてきた。 1980(昭和55)年には、男性世帯雇用者と無業の妻(いわゆる専業主婦)からなる世帯が1,114万世帯であったのに対して、雇用者の共働き世帯が614万世帯であった。しかしながら、雇用者の共働き世帯は増加を続ける一方、男性雇用者と無業の妻からなる世帯は減少を続け、1990年代に雇用者の共働き世帯が男性雇用者と無業の妻からなる世帯を上回った(図表1-1-7)。 子育てや介護あるいは様々な地域活動は専業主婦に期待されるところが大きかったが、子育て支援や介護ニーズに社会的にどう対応するかが大きな課題となっていった。 図表1-1-7 専業主婦世帯と共働き世帯の推移 |
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■7 家計の変化
1961(昭和36)年、1985(昭和60)年、2009(平成21)年の家計の状況を比較すると、実収入に占める税や社会保険料等の非消費支出の割合は1961年では7.4%であったが、2009年では17.4%まで上昇した。 消費支出に占める割合をみると、1961年は食費、住居費、光熱費、被服費で約65%であったが、2009 年では40%を下回っている。また、食費の割合(エンゲル係数)は、1961 年の37.6%から、1985年には25.7%、2009年には22.0%と低下している。その一方で、家計の実収入に占める黒字の割合は1961年の10.1%から、1985年には18.9%、2009年には21.0%となっており、将来不安から貯蓄に回しているという面があるとしても、総体として家計に余裕があることがうかがえる(図表1-1-8)。 また、高齢者世帯(65歳以上の者のみで構成するか、またはこれに18歳未満の未婚の者が加わった世帯)の所得内訳をみると、公的年金・恩給が占める割合は1978(昭和53)年で34.1%、1993(平成5)年で54.8%、2008年で70.6%となっており、高齢者世帯の所得のうち公的年金・恩給が占める割合が増加している。 一方、全世帯の平均所得を100 にした場合、1978 年では高齢者世帯は45.7 であったが、2008年では高齢者世帯は54.2となっており、格差も小さくなってきている。ただし、高齢者間の所得や資産の格差が生じているという指摘もある(参照 図表3-1-5 高齢者世帯の所得の経年変化)。 図表1-1-8 家計状況の推移 |
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■第2節 家族はどうだったのか −大家族から単身世帯の増加− | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 都市部への人口集中
日本の市部人口と郡部人口を比較してみると、市部人口が増加を続け、高度経済成長期に入ったところで市部人口が郡部人口を逆転し、その後もその差は拡大している(図表1-2-1)。地方から都市への人口移動に加え、職住が近接している農家や自営業者の減少、専業主婦の減少により、人々の意識の変化と相まって、地域社会での人々の結びつきは弱くなっている。 なお、都市部への人口移動の結果、現在では地方部での高齢化が比較的問題にされているが、近い将来には都市部に集中した人口が一気に高齢化することから、その対応が大きな課題となっている。 図表1-2-1 市部・郡部人口割合の推移 |
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■2 世帯構成の変化
世帯構成の変化をみると、高度経済成長期には「夫婦と子」の世帯の割合が大きく、夫婦子ども2人の世帯が「標準的な世帯」とされた。しかし、近年では、単身世帯の割合が増加し、夫婦と子どもの世帯、3世代同居などの「その他」世帯の割合が大幅に低下している。 1960(昭和35)年には、夫婦と子の世帯が43.4%、三世帯同居等を含む「その他」世帯が35.1%であり、両者でほぼ8割を占めていた。また、平均世帯人員は1960年では4.47人となっていた。 1960年当時、4.7%にすぎなかった単身世帯が2005年には29.5%に増加し、夫婦のみ世帯も8.3%から19.6%に増加した。1960年はあわせて約13%であったが、2005(平成17)年には、ほぼ5割に達した。他方、夫婦と子ども世帯とその他世帯は、8割程度からほぼ半減し、両者あわせて4割程度となった。 2005年では、世帯規模も2.56人と大きく減少しており、1960年のほぼ半分となった(図表1-2-2)。 三世代同居の減少は、扶養意識等の変化とともに、年金や介護等の高齢者福祉へのニーズを高めていった。また、子育て支援を家庭外に求めることがより必要になっていった。 近年では特に単身世帯の増加が著しい。これは、死別、非婚者の増加、三世代同居の減少等が背景にあると考えられる。今後も単身世帯は増加が予測されている。2030(平成42)年には4割弱が単身世帯となる。そうした中で高齢者の単身世帯も増加が予測されており、地域での支え合いが課題となっている(図表1-2-3)。 図表1-2-2 家族類型別一般世帯数と平均世帯人員の推移 図表1-2-3 単身世帯(高齢者単身世帯)、三世代同居の推移 |
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■3 合計特殊出生率の低下と晩婚化傾向
出生者数は、1947(昭和22)年から1949(昭和24)年の第一次ベビーブームと1971(昭和46)年から1974(昭和49)年の第二次ベビーブームに200万人を超えているが、それを除いて減少傾向にあった。1989(平成元)年以降は120万人前後で推移したがその後減少し、2010(平成22)年は概数で107万人であった(図表1-2-4)。 合計特殊出生率(15歳から49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもので、一人の女性がその年齢別出生率で一生の間に生むとしたときの子どもの数に相当)が低下しており、1956(昭和31)年に人口置換水準*1 を下回り、1989年には「ひのえうま*2」であった1966(昭和41)年を下回る1.57となり、「1.57ショック」として社会的に注目された。その一方で、1970年代半ば以降、合計特殊出生率は低下傾向が続いていたが、2006(平成18)年以降やや改善している。しかしながら、出生率の低下傾向が変化したとまでは、いうことはできない。 平均初婚年齢が上昇しており、晩婚化が進行している。男性、女性とも国民皆保険・皆年金が成立した1961(昭和36)年当時と比較すると、男性は27.3歳から30.5歳に、女性は24.5歳から28.8歳になり、男性は3.2歳、女性は4.3歳それぞれ上昇した(図表1-2-5)。 図表1-2-4 出生者数の推移 図表1-2-5 平均初婚年齢と合計特殊出生率の推移 生涯未婚率も上昇している。男性の出生数が女性より多いことなどもあり、特に男性の生涯未婚率が上昇していくことが見込まれている。2030(平成42)年には、およそ男性の10人のうち3人、女性の10人のうち2人が生涯未婚であると予測されている(図表1-2-6)。 一方、夫婦の間に生まれる子ども数(完結出生児数)は、2005(平成17)年で2.09であり若干の減少傾向が見られるが、1972(昭和47)年から2.2前後で比較的安定して推移してきている。したがって、近年の出生率の低下は、晩婚化や結婚しない人の増加が主因ということができる(図表1-2-7)。 しかし、若年世代では、子どものいない夫婦や子どもが一人の夫婦が増加しており、今後、夫婦の間に生まれる子ども数は更に減少することも予測される。 少子化が社会経済、特に社会保障制度に与える影響は非常に大きく、子ども・子育て支援の重要性が高まっている。 図表1-2-6 生涯未婚率の推移 図表1-2-7 実際の子ども数 |
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■2種類ある合計特殊出生率
少子化の状況を表す指標としてよく用いられるのが「合計特殊出生率」である。これは、15〜49歳の女性の年齢別の出生率を合計したものであるが、年齢構成が異なる地域ごとの出生の状況を比較するときに用いる指標である。 ここでいう合計特殊出生率は「期間合計特殊出生率」といい、このほかに「1人の女性が一生の間に生む子どもの数に相当するもの」として同一世代生まれの女性の年齢別出生率を過去から積み上げた「コーホート合計特殊出生率」がある。仮に「期間合計特殊出生率」が上昇しても、1人の女性が一生の間に生む子ども数(コーホート合計特殊出生率)が必ずしも上昇するわけではないことに留意する必要がある。 |
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■4 離婚件数の増加と親が離婚した未成年の子どもの増加
離婚件数は上昇傾向にある。1950年代は、離婚件数は8万組程度であったが、1970年代以降離婚件数が増加し、2000(平成12)年には26万件に達している。それに伴い、親が離婚した未成年の子どもの数も増加している。1950年は夫が親権を行う場合がおよそ半数であったが、2009(平成21)年は妻が親権を行う場合が8割以上となっている(図表1-2-8)。 1950年以降の59歳までの年齢の年齢階級別有配偶離婚率についても、夫婦ともにどの年齢階級も上昇傾向で推移している。夫は19歳以下と20〜24歳が交互に高くなっており、妻は19歳以下が最も高くなっている。 人口千人あたりの離婚率は、2010(平成22)年では人口千人当たり1.99人(概数値)となっている。大正期から昭和初期にかけて、人口千人当たり1人を下回っていたが、その後、上昇傾向で推移している(図表1-2-9)。 家族形態が変化する中で、親との死別も含め、ひとり親家庭への支援ニーズが高まっている。 図表1-2-8 離婚件数と親が離婚した未成年の子の数の推移 図表1-2-9 夫妻の同居をやめたときの59歳までの年齢(5歳階級)別にみた有配偶離婚率(人口千対、同年別居)の年次推移 |
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■5 近所付き合いの程度
1975(昭和50)年、1986(昭和61)年、1997(平成9)年において、大都市、町村、雇用者、自営業者のいずれでも近所付き合いの程度について「親しく付き合っている」と回答した人の割合は3割以上であった。一方、2002(平成14)年、2004(平成16)年、2011(平成23)年には「よく付き合っている」と回答した割合が大都市や雇用者では1割強であった。こうしたことから、単純には比較できないが、近所付き合いの程度は低下していると考えられる(図表1-2-10)。 図表1-2-10 近所付き合いの程度 |
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*1 合計特殊出生率がこの水準以下になると人口が減少することになる水準のことを言う。おおむね2.1だが年によって変動がある。
*2 1966(昭和41)年は、干支の一つの「丙午(ひのえうま)」の年。「ひのえうま」に関する迷信が、この年の出生率に影響を与えたものと考えられている。 |
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■第3節 人口増加社会から人口減少社会への転換 −現役世代の減少− | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 人口構造の変化
第2次世界大戦後、日本の総人口は一貫して増加してきたが、2000年代に入ると伸びが鈍化し、今後、人口の減少が見込まれている。 1960年の日本の人口構成は、第1次ベビーブーム(1947〜1949年生まれ)の層が広がった山のような形をしており、多産多死社会の特徴を有していた。当時の人口に占める65歳以上の者の割合は、6%程度にすぎなかった。その後、多産少死社会、さらには、少産少子社会へと移行していった。 その結果、現在、日本の人口構成は、人口停滞社会の特徴である釣り鐘のような形から、徐々に人口減少社会の特徴である壺のような形へと移行しつつある。また、第1次ベビーブーム世代と第2次ベビーブーム世代(1971〜1974年生まれ)の人口が多いことから、ひょうたんのような形と表現することもできる(図表1-3-1)。 図表1-3-1 人口構造の変化 人口の年齢構成をみると、若年人口(14歳以下人口)は減少傾向が続いており、生産年齢人口(15〜64歳人口)も1990年代以降減少傾向となっている。その中、高齢者人口(65歳以上人口)だけは、今世紀前半も増加傾向が続くと予測されている。 人口に占める65歳以上の者の割合は、1950年代の5%程度から2005年に20%程度まで上昇している。今後、2055(平成67)年には、その傾向が更に進むことが予想されている。人口のうち、65歳以上の者の割合が40.5%に及び、生産年齢人口に迫る勢いである。 1人の65歳以上の方を何人の現役世代(20〜64歳人口)で支えているのかをみると、1950(昭和25)年では10.0人の現役世代で支えていたが、40年後の1990(平成2)年は、そのおよそ半分にあたる5.1人の現役世代で支えることになった。特に、1990年代に入ってからは、高齢者人口は増加する一方、生産年齢人口は減少したことから高齢化のスピードは早まっており、わずか20年後の2010(平成22)年では、1990年のおよそ半分に当たる2.6人の現役世代で支えることになる。 つまり、1990年代から、超高齢社会に向かってのきつい上り坂にさしかかっているということができる。2020年以降も高齢化の進行は引き続くものの、高齢化のスピードは若干遅くなり、2050(平成62)年に2010年のおよそ半分に当たる1.2人の現役世代で支えることが予測されている(図表1-3-2)。 高度経済成長期の日本は、人口構成割合でみれば、いわば若い国であり、経済のパイも拡大し、社会保障給付の拡充も比較的容易であった。その後、日本は成熟した国に変化しつつあり、社会保障制度の持続可能性が課題となっている。 図表1-3-2 総人口の推移 |
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■2 平均余命の変化
第2次世界大戦が終了した直後の平均寿命は、男女とも50歳代であった。若年で死亡する者も多く、老後の期間は誰にでも訪れるものではなかった。また、国民皆保険・皆年金を実現した1961(昭和36)年当時、平均寿命は男性で66.03 年、女性で70.79 年であった。60 歳で引退*1したとしても、平均余命までの期間は、男性が6年程度、女性が10年程度にすぎなかった。また、60歳代では病気や障害で長期間療養することも比較的少なかった。直近の2009(平成21)年では、医療の進歩などにより、平均寿命(0歳時の平均余命)は男性で79.59歳と世界第5位、女性で86.44歳と世界第1位の長寿社会となったが、男女平均では世界第1位である。仮に年金支給開始年齢の65歳で引退したとしても、平均余命まで男性が14年、女性は21年もある(図表1-3-3)。人々は、引退後も長い老後を過ごす時代となっている。高齢になると、病気や障害をかかえる可能性が高まるが、2004(平成16)年のWHOデータによれば、日本人の健康寿命は男性72.3歳、女性77.7歳であり、世界第1位である。また、2005(平成17)年の65歳になってからの平均余命は男性18.13歳、女性は23.19歳である。そのうち、介護等を受けずに生活できる自立期間の平均は、男性が16.66年、女性が20.13年であり、平均して男性は1.45年、女性は3.03年介護等を受けている。*2 平均余命の伸長は、年金のニーズを高め、給付の増大につながっていく。 図表1-3-3 平均寿命の推移 |
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■3 疾病構造の変化
死因別の死亡率をみると、国民病といわれた結核を医学の進歩等により克服してきた。1947(昭和22)年では1位結核、2位肺炎、3位脳卒中であったが、国民皆保険が実現した1961(昭和36)年では1位脳卒中、2位がん、3位心臓病であった。結核は1961年には6位と順位は下がったものの、その死亡率は10万人あたり29.6人と依然高かった。直近の2010(平成22)年では、1位がん、2位心臓病、3位脳卒中となっており、結核の死亡者は10万人あたり1.7人にまで低下しており、国民の主な死因は感染症から生活習慣病へと変化している(図表1-3-4)。 年齢調整後の死亡率は、ほとんどの病気で減少傾向である。しかしながら、高齢化の進行に伴って死亡率は上昇傾向にある。これはがんの死亡率が大きく上昇しているほか、高齢化の影響で心臓病、肺炎の死亡率も上昇しているためである。 慢性疾患の増大という疾病構造の変化は、特に医療制度に大きな影響を与えた。 図表1-3-4 死因で見た死亡率の推移 |
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■4 少子高齢化の進行
諸外国に比べても日本は少子化が急速に進行しており、高齢化も急速に進行している(図表1-3-5)。日本では1990(平成2)年の高齢化率12.0%から、2020(平成32)年の29.2%まで、わずか30年間で17.2ポイント増加し、約2.4倍となると予測されている。フランス、スウェーデン、アメリカなどは、1950(昭和25)年から2050(平成62)年の間でも13〜15ポイント程度しか増加しない(図表1-3-6)。これだけ短期間に急激に高齢化するのは、先進諸国でも日本が最初であり、これまで人類がほとんど経験していない急激な変化である。 日本は、こうした急激な変化に対応するため、社会保障分野の制度面、サービス基盤の整備等を短期間で行うことが求められることとなる。 今後、出生率が急激に低下したアジア諸国でも同様の急激な高齢化を経験することが見込まれ、日本の経験はその先例となる。 図表1-3-5 合計特殊出生率の推移(諸外国のなかの日本) 図表1-3-6 高齢化率の推移 |
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*1 当時の一般的な定年は55歳であるが、就業人口の約3分の1を農家等の第1次産業従事者が占めていたこと等も考慮した。
*2 平成20年3月健康寿命の地域指標算定の標準化に関する研究班「平均自立期間の算定方法の指針」 |
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■第4節 人生80年時代になったが、不安は増大 −不安社会の到来− | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 統計でみた平均的なライフスタイル
国民の平均的なライフスタイルについて、大正期から現在までの変化をみると、平均初婚年齢は上昇し、夫婦で出生する子どもの数は減少している。その間の平均寿命は上昇しており、夫引退からの老後の期間も長くなってきている。 結婚年齢は上昇傾向である。1961(昭和36)年と2009(平成21)年を比較すると、男性では27.3歳から30.4歳になった。子どもの数も3名から2名に減少している。さらに、結婚しない人、結婚しても子どもを持たない人も増加している。 子育ての手間がかかる幼児期間は11年から8.6年に減少した。他方、子どもに対する経済的な扶養を継続する期間は、23年と24.6年でほぼ一緒である。高学歴化等に伴って、経済的な負担は増加した。 他方、老後の期間は、著しく長くなった。1961年には、60歳に達した後の男性の老後期間は12.4年であったのが、2009年には65歳に達した後の老後期間が15.8年になった。 また、夫が亡くなる年齢が69.2歳であれば、独居であったとしても介護等が問題となりにくいが、夫が亡くなる年齢が79歳であれば、介護等が問題となる。3世代同居が減少した現状をあわせて考えると切実な問題である(図表1-4-1)。 図表1-4-1 統計でみた平均的なライフサイクル |
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■2 日常生活での悩みや不安
「悩みや不安を感じている」と回答している割合は1958 年では3 割程度であったが、1959(昭和34)年から1964(昭和39)年、1981(昭和56)年から1985(昭和60)年までおおむね55%程度であった。1980年代後半から1990年代前半のいわゆるバブル経済期には、「悩みや不安を感じている」と回答している割合は40%台まで低下し、「悩みや不安を感じていない」と回答する人の方が割合が高い年もあった。 1995(平成7)年以降「悩みや不安を感じている」と回答している割合は上昇傾向を示し、近年では7割程度まで上昇している。他方、「悩みや不安を感じていない」と回答する人の方が割合は低下傾向を示しており、おおむね3割程度となっている(図表1-4-2)。 国民はどのようなことに悩みや不安を感じているのだろうか。内閣府「国民生活に関する世論調査」により1981(昭和56)年から2010(平成22)年までの悩みや不安の内容の推移をみると、1990(平成2)年までは「自分の健康」「家族の健康」といった健康問題を挙げる者が最も多かったが、80年代から90年代にかけて「老後の生活設計」を挙げる者が急上昇し、2003年以降「自分の健康」に替わり第1位を占めるようになった。また、1998(平成10)年以降「今後の収入や資産の見通し」が急上昇し、2010(平成22)年も約4割の人が不安に感じている。 このように、国民の悩みや不安については、健康問題や老後の生活設計を挙げるものが上位を占めているが、「今後の収入や資産の見通し」が90年代後半以降上昇していることから、急速な高齢化等を背景に、将来の生活設計に不安を抱える国民が増えていることが窺える(図表1-4-3)。 図表1-4-2 日常生活での悩みや不安 図表1-4-3 悩みや不安の内容 |
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■第2章 時代のニーズに対応した社会保障制度の発展を振り返る | |||||||||||||||||||||||||||||||
日本の社会保障制度は、医療保険や年金保険に代表される保険の仕組みを用いた社会保険方式と、生活保護等に代表される公費財源による公的扶助方式とに大別できるが、生活困窮対策が中心であった戦後復興期の一時期を除けば社会保険方式を中核として発展を遂げ、今から50年前の1961(昭和36)年にすべての国民が医療保険及び年金による保障を受けられるという画期的な「国民皆保険・皆年金」を実現した。国民皆保険・皆年金を中核とする日本の社会保障制度は高度経済成長を背景に拡充を続け、1973(昭和48)年の「福祉元年」を迎えた。しかし、同年の第1次オイルショック以降今日まで、人口の高齢化等に対応すべく、国民皆保険・皆年金体制を維持するための様々な改革が行われてきた。
ここでは、「1 国民皆保険・皆年金実現以前の社会保障制度」「2 国民皆保険・皆年金の実現」「3 制度の見直し期(昭和50年代から60年代)」「4 少子・高齢社会への対応」「5 経済構造改革と社会保障」「6 政権交代と社会保障」の6つの時代に区切って日本の社会保障制度の変遷を、その背景となる社会経済の状況等とともに解説する。 「1 国民皆保険・皆年金実現以前の社会保障制度」では、日本の社会保険の萌芽期を解説している。1942(昭和17)年の英国のベヴァリッジ報告は社会保障制度の主要手段として社会保険を位置づけ、欧米諸国の福祉国家の考えの基礎となった。日本でも、日本国憲法の制定により社会保障に対する国の責務が規定され、社会保障制度審議会も1950(昭和25)年の「社会保障制度に関する勧告」において社会保険を中核に社会保障制度を構築すべきとした。 ただし、医療保険も年金も、戦前から、工業化の進展に伴う労働問題の発生等に対応して、被用者保険を中心に制度化の動きが進んでいた。終戦直後は、生活困窮者への生活援護施策や感染症対策が中心となった。 「2 国民皆保険・皆年金の実現」の時代は、高度経済成長期を背景に社会保障の重点が「救貧」から「防貧」に移り、国民皆保険・皆年金を中心に日本の社会保障制度体系が整備された時代であった。また、この時期に大企業を中心に日本型雇用慣行が普及・定着し、日本の社会保障制度の前提と位置づけられるようになった。 昭和30年代の初めには被用者保険の整備は進んでいたが、農家や自営業者などを中心に国民の多くが医療保険制度や年金制度の対象ではなかった。そこで、1961(昭和36)年に地域保険である国民健康保険、国民年金にこれらの者を加入させることで国民皆保険・皆年金が実現し、以後、国民皆保険・皆年金は日本の社会保障の中核として発展していった。 高度経済成長期を通じ、医療保険、年金ともに給付が改善されるとともに、1971(昭和46)年には児童手当法が制定され、また1973(昭和48)年の「福祉元年」には、老人医療費の無料化のほか医療保険における高額療養費制度や年金の物価スライド制などが導入された。 「3 制度の見直し期(昭和50年代から60年代)」の時代においては、2度のオイルショックにより高度経済成長が終焉し、経済が安定成長に移行するといった経済社会の状況変化や、「増税なき財政再建」に対応することが課題であった。また、将来の高齢社会の到来に対応するために全面的な社会保障制度の見直しが行われた時期であった。 一連の見直しの中で、老人保健制度の創設、医療保険制度の被用者本人の1割自己負担の導入や退職者医療制度の創設、医療計画の制度化、全国民共通の基礎年金制度の導入などの見直しが進められた。 「4 少子・高齢社会への対応」の時代には、日本ではバブル経済が崩壊し、以降、経済の低成長基調が明瞭になった。国際的には、経済のグローバル化が進行し、企業経営は厳しさを増した。非正規労働者の割合が上昇し、日本の社会保障の前提となっていた日本型雇用慣行にも変化がみられるようになった。 この時期、高齢化が急速に進行し、「1.57ショック」により少子化に対する関心が強まった。こうした状況に対応して、ゴールドプランの策定、介護保険制度の創設、多様な働き方に対応した法整備、年金支給開始年齢の引上げと定年延長に向けた施策、エンゼルプランの策定等が進められた。 「5 経済構造改革と社会保障」の時代には、急速な少子高齢化の進展により、総人口の伸びは鈍化し、超高齢社会が到来した。本格的な経済グローバル化の進展などに対応すべく、規制改革等の構造改革が推進されたが、他方、格差の拡大やセーフティネット機能の低下も指摘され、リーマンショックに際しては、「派遣切り」といった非正規労働者の解雇、雇い止め等が社会問題化した。 また、発行済国債残高がGDPを大きく上回るなど国の財政は危機的状況となり、毎年1兆円を超える自然増が発生する社会保障関連の予算編成は一層厳しい状況に陥った。「歳入・歳出一体改革」では、2007年度からの5年間で1.1兆円(毎年2,200億円)の削減が求められた。 こうした中で、社会保障制度の持続可能性の確保を図るため、年金における保険料水準固定方式及びマクロ経済スライドの導入、医療保険における本人負担分の引上げ及び後期高齢者医療制度の創設などの制度の見直しが進められた。 「6 政権交代と社会保障」では、社会保障費の自然増から毎年2,200億円を削減するとした方針が完全に変更され、診療報酬本体について10年ぶりのプラス改定の実施や子ども手当の支給等が行われた。 第2章では、第2次世界大戦前後から現在までをこの6つの時代に区切り、社会保障がどのような時代背景の中で発展してきたのか、とりわけ「国民皆保険・皆年金」といった社会保険制度を中心とした社会保障制度がどのような観点で見直されてきたのかをみていくことにより、社会保障制度が人口、雇用・経済状況、社会生活に密接に関係している姿を明らかにする。 |
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■第1節 国民皆保険・皆年金実現以前の社会保障制度 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 第2次世界大戦以前の社会保障制度
(第2次世界大戦以前の社会情勢) 世界初の社会保険は、ドイツで誕生した。当時のドイツでは、資本主義経済の発達に伴って深刻化した労働問題や労働運動に対処するため、1883(明治16)年に医療保険に相当する疾病保険法、翌1884(明治17)年には労災保険に相当する災害保険法を公布した。 一方、日本では、第1次世界大戦(1914年〜1918年)をきっかけに空前の好景気を迎え、重化学工業を中心に急速に工業化が進展し、労働者数は大幅に増加した。一方で、急激なインフレで労働者の実質賃金は低下したほか、米価の急上昇により全国で米騒動が発生した。また、第1次世界大戦後は一転して「戦後恐慌」と呼ばれる不況となり、大量の失業者が発生した。このため、賃金引上げや解雇反対等を求める労働争議が頻発し、労働運動が激化した。 (日本最初の医療保険の誕生) こうした中で、政府は、労使関係の対立緩和、社会不安の沈静化を図る観点から、ドイツに倣い労働者を対象とする疾病保険制度の検討を開始し、1922(大正11)年に「健康保険法」を制定した。しかしながら、その翌年に関東大震災が発生したことから、法施行は1927(昭和2)年まで延期された。 健康保険法の内容は、1工場法や鉱業法の適用を受ける10人以上*1 の従業員を持つ事業所を適用事業所とし、被保険者はその従業員で報酬が年間1,200円未満の肉体労働者(ブルーカラー)としたこと、2保険者は政府または法人とし、前者の場合は政府管掌健康保険*2、後者の場合は組合管掌健康保険としたこと、3保険給付は、被保険者の業務上*3、あるいは業務外の疾病負傷、死亡または分娩に対して行われたこと、4保険料を労使折半としたこと、5国庫は保険給付費の10%を負担すること等であった。制度発足時の被保険者数は、1926(昭和元)年末で政府管掌健康保険が約100万人、組合管掌健康保険が約80万人であった。 その後、常時10人以上を使用する会社や銀行、商店等で働く「職員」(ホワイトカラー)を被保険者とする職員健康保険法が1939(昭和14)年に制定されたが、1942(昭和17)年の健康保険法改正で同法と統合され、家族給付等が法定化されたほか、診療報酬支払点数単価方式が導入された。 なお、後述のとおり、船員については1939(昭和14)年に医療保険を含む総合保険である船員保険制度が創設された。 (国民健康保険法の制定と厚生省の発足) 大正時代末期の戦後恐慌に引き続き、昭和に入ってからも1927(昭和2)年の金融恐慌、1929(昭和4)年に始まる世界恐慌の影響を受けて昭和恐慌が相次いで発生した。また、東北地方を中心に大凶作等が発生し、農村を中心とする地域社会を不安に陥れた。困窮に陥った農家では欠食児童や婦女子の身売りが続出し、大きな社会問題となった。農家は赤字が続き、負債の多くを医療費が占めていた。 そこで、当時社会保険を所管した内務省*4 は、農村における貧困と疾病の連鎖を切断し、併せて医療の確保や医療費軽減を図るため、農民等を被保険者とする国民健康保険制度の創設を検討した。その後、1938(昭和13)年1月に厚生省が発足し、同年4月には「国民健康保険法」が制定され、同法は同年7月に施行された。 国民健康保険の保険者は、組合(普通国民健康保険組合・特別国民健康保険組合)単位で設立することができたが、その設立も加入も基本的に任意であった。また、保険給付には療養、助産・葬祭給付があり、その種類や範囲は組合で決めることができるとされた。 国民健康保険は、先進国に前例のある被用者保険と異なり、日本特有の地域保険としての性格を有していた。国民健康保険の誕生は、日本の医療保険が労働保険の域を脱し国民全般をも対象に含むこととなり、戦後の国民皆保険制度展開の基礎が戦前のこの時期に作り上げられたことを意味した。 (戦前における国民皆保険運動の展開) 日本はその後、戦時体制に突入することとなるが、健兵健民政策*5 を推進する厚生省は、「国保なくして健民なし」として同制度の一層の普及を図ることとした。このため、1942(昭和17)年には、地方長官の権限による国民健康保険組合の強制設立や、組合員加入義務の強化などを内容とする国民健康保険法の改正が行われた。これを機に国民健康保険の一大普及計画が全国で実施され、その結果、1943(昭和18)年度末には、市町村の95%に国民健康保険組合が設立された。1945(昭和20)年には組合数10,345、被保険者数4,092万人となったが、組合数の量的拡大は必ずしも質を伴うものでなく、戦局悪化のため皆保険計画は目標どおりには進まなかった。また、療養の給付についても、医薬品や医師の不足により十分には行われなくなった。 (日本最初の公的年金制度の創設) 日本における最初の社会保険が健康保険制度であるのに対し、年金制度の源流は、軍人や官吏を対象とする恩給制度*6 から始まった。1875(明治8)年に「陸軍武官傷痍扶助及ヒ死亡ノ者祭粢並ニ其家族扶助概則」及び「海軍退隠令」、1884(明治17)年に「官吏恩給令」が公布され、1890(明治23)年にはそれぞれ「軍人恩給法」「官吏恩給法」に発展した。また、教職員や警察官等についても、明治中期から後期にかけて恩給制度が設けられた。これらの恩給制度は、1923(大正12)年に「恩給法」に統一された。このほか現業に携わる公務員に対しては、明治末期から共済組合制度が次々に創設された。 その後、戦時体制下になり、国防上の観点で物資の海上輸送を担う船員の確保が急務であったこと等から、船員を対象とする「船員保険制度」が1939(昭和14)年に創設された。 船員保険制度は、政府を保険者、船員法に定める船員を被保険者とし、療養の給付、傷病手当金、養老年金、廃疾年金*7、廃疾手当金、脱退手当金等を給付する制度で、年金保険制度のほか医療保険制度等を兼ねた総合保険制度であった。船員保険制度における養老年金及び廃疾年金は、社会保険方式による日本最初の公的年金制度となった。 (厚生年金保険制度の創設) 船員保険制度の創設を受けて、船員を除く被用者に対する公的年金制度の創設が検討され、1941(昭和16)年に工場で働く男子労働者を対象とした「労働者年金保険法」*8が公布された。労働者年金保険の内容は、1健康保険法の適用を受けた従業員10人以上の工業、鉱業及び運輸業の事業所で働く男子労働者を被保険者としたほか、2保険事故は、老齢、廃疾、死亡及び脱退とし、それぞれに対し養老年金(資格期間20年で支給開始55歳*9)、廃疾年金、廃疾手当金、遺族年金及び脱退手当金の5種類が給付された。保険料は、健康保険と同様労使折半で負担することとされた。 その後、労働者年金保険は、戦局悪化に伴う雇用構造の変化に伴い、1944(昭和19)年に女子や事務職員、適用事業所規模も従業員5人以上に適用対象が拡大され、 名称も「厚生年金保険」と改められた。 このように公的年金制度が設けられるに至った理由としては、資本主義の発展に伴い労働力を合理的に保全するため、健康保険制度の創設等に続き、長期保険による労働者保護を行うことが必要と認められてきたことがあげられる。また、当時の時代背景として「一台でも多くの機械を、一かけでも多くの石炭を増産してもらいたい」といった戦時体制下における生産力の拡充、労働力の増強確保を行うための措置の一環としての要請があった。さらに、インフレ防止の見地等からの保険料を納付させることによる強制貯蓄的機能が期待されていた。 |
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■2 第2次世界大戦後の復興と生活困窮者対策
(終戦直後の情勢) 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、日本は壊滅的な状態にあった。戦災により都市住宅の3分の1を焼失し、日本全体では、工場設備や建物、家具・家財など実物資産の4分の1を失った。主要経済指標について戦前期と終戦直後を比べてみると、一人当たり実質個人消費は6割弱に低下し、一人当たり実質国民総生産も6割程度にすぎなかった(図表2-1-1)。 図表2-1-1 終戦直後の日本経済 とりわけ終戦直後は失業問題が極めて深刻であり、1945年11月の復員及び失業者数の推計は1,342万人で、これは、全労働力の30〜40%に当たる人数であった。加えて、同年11月には連合国軍総司令部(以下「GHQ」という。)の軍人恩給停止命令*10 が発せられ、生活困窮者が増大した。 こうした中、GHQは労働の民主化を推し進め、これを受けて1945(昭和20)年に労働者の団結権、団体交渉権、争議権を保障した「労働組合法」が、1946(昭和21)年に労働争議の調整手法などを定めた「労働関係調整法」が制定された。また、日本国憲法第27条第2項で「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」と明記されたことを踏まえ、1947(昭和22)年4月には、最低労働条件を定めた「労働基準法」が制定され、同年9月には労働省が設立された。さらに、労働基準法の制定を契機として、同年に「労働者災害補償保険法」が制定され、労働者災害補償保険制度が創設された。この結果、業務上災害の保険事故が健康保険法の対象から除外されることとなった。 一方、終戦直後の混乱の中で、国民の生活環境及び衛生状態は良好な状態でなく、また生活水準も低く栄養状態も悪かったため、結核等の感染症の蔓延が国民の健康を著しくむしばんでいた。こうした中、1948(昭和23)年の予防接種法に続き、ストレプトマイシン等化学療法の出現を背景として、1951(昭和26)年には新結核予防法が制定される等、医学の進歩を踏まえた感染症の予防対策が推進された。 (公的扶助三原則と旧生活保護法) 終戦を機として社会経済情勢が一変し、特に戦災、引き揚げ、失業、インフレ、食糧危機等によって救済を要する国民が急激に増加した。このような事態に対し、戦前期に創設された当時の公的扶助制度は、救護の程度、方法が各法制度によって異なっており、強力な救済措置が望めない状況であった。 そこで政府は「生活困窮者緊急生活援護要綱」(援護要綱)を1945年12月に閣議決定し、応急的な救貧措置を実施した。また、GHQによる国家責任の原則、無差別平等の原則、最低生活保障の原則という「公的扶助三原則」の指令を受け、援護要綱に代わる恒久的な措置として、旧「生活保護法」が1946(昭和21)年に制定された。一方、救護法、母子保護法等の公的扶助法は、旧生活保護法に一本化される形でいずれも廃止された。 (日本国憲法の制定と福祉三法体制の整備) 1946(昭和21)年11月に日本国憲法が公布された。憲法では第11条に基本的人権の尊重が、第13条に幸福追求権が規定されるとともに、第25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とする「生存権」が初めて規定された。また、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と国の責務が同条に明記されたことから、生存権の理念に基づき新たな制度が整備されていくこととなった。 憲法第25条や公的扶助三原則との関係で、旧生活保護法の欠格条項*11 の存在や、国家の責任で行うべき生活保護法の適用に関して、当時、民間の篤志家である民生委員の活用を前提としていたことがGHQより問題視された。このため、旧生活保護法は廃止となり、代わって新「生活保護法」(1950年 以下「新生活保護法」という。)が制定された。また、新生活保護法に基づき、民生委員に代わり有給の公務員である社会福祉主事が設置された。 また、戦災孤児や傷痍軍人等の増大を受けて、「児童福祉法」(1948年)、「身体障害者福祉法」(1949年)が制定された。また、「社会福祉事業法」(1951年)*12 の制定により、公的な社会福祉事業と民間の福祉事業との関係性が明確にされたほか、憲法第89条(公の財産の支出又は利用の制限)に対応して社会福祉法人制度が創設され、社会福祉の第一線機関として福祉事務所が設置されることとなった。 新生活保護法と児童福祉法、身体障害者福祉法の三法を「福祉三法」と呼ぶが、福祉三法と社会福祉事業法の制定によって、福祉三法体制が整備された。 (失業保険制度の創設) 新生活保護法では、労働能力の有無を問わず適用を認めたことから、失業者の多くが法の適用を受けることにより、財政問題の発生や、新生活保護制度の悪用が懸念された。また、ドッジライン*13 による緊縮財政で失業者の大量発生が予測された。こうしたことを踏まえ、1947(昭和22)年に「失業保険法」が制定され、日本初の失業保険制度が創設されることとなった。 失業保険制度が創設された結果、失業者の生活が単に公的扶助制度だけでなく、失業保険という労働保険制度を通しても保障されることとなった。その後、1949(昭和24)年5月には日雇労働者にも適用が拡大された。 (社会保障制度審議会「社会保障制度に関する勧告」) 1947(昭和22)年、GHQの招聘により来日したワンデル博士を団長とするアメリカ社会保障制度調査団の調査報告書に基づき、1948(昭和23)年12月に社会保障制度審議会が設立された。社会保障制度審議会は首相の直轄とされ、国会議員、学識経験者、関係諸団体代表及び関係各省事務次官40名で構成された。 同審議会は1950(昭和25)年に「社会保障制度に関する勧告」を発表した。この勧告の内容は、1各種の社会保険、公的扶助、社会福祉、児童福祉等の諸制度の総合的な運用、2被用者関係の社会保険制度の統合、適用拡大、給付改善などであった。 同勧告は、日本の社会保障の青写真を提示し、「国民健康保険制度の全国民への適用」、いわゆる「国民皆保険」を提唱した。また、社会保障の中心を社会保険方式によることを主導した。 |
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■社会保障制度に関する勧告に影響を与えたベヴァリッジ報告
第2次世界大戦後の英国の社会保障制度の設計ばかりでなく、広く欧米諸国の福祉国家の考えの基礎となった英国の「ベヴァリッジ報告」(1942年)では、職域や地域を問わない全国民による均一の保険料拠出・均一の給付という社会保険(後に国民保険法として制度化が図られる)を社会保障の主要手段として、国民扶助(生活保護)と任意保険を補助的手段とする旨を提唱した。これは、資力調査があり、スティグマ(汚名)がつきまとう社会扶助よりも、一定の拠出を要件として普遍的な性格を持つ社会保険の方が自立した自由な個人にふさわしいと考えたからであった。 1950年の社会保障制度審議会「社会保障制度に関する勧告」も、「ベヴァリッジ報告」を踏まえ「国家が(中略)国民の自主的責任の観念を害することがあってはならない。その意味においては、社会保障の中心をなすものは自らをしてそれに必要な経費を醵出きょしゅつ*せしめるところの社会保険制度でなければならない」と、社会保険中心主義を提唱した。 現在では、社会保障給付費の約9割を社会保険制度による給付が占め、社会保険制度は社会保障制度の中核となって現在に至っている。(* 現在では「拠出」と標記する。) |
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(国民健康保険の財政基盤の確保)
戦後復興期の医療保険をめぐる状況は、終戦直後の急激なインフレ等によって保険診療が敬遠され、国民健康保険は制度破綻の危機に直面していた。戦後の社会的、経済的混乱により、国民健康保険を休止又は廃止する組合が続出し、終戦2 年目の1947(昭和22)年には、組合数5,619、被保険者数2,786万人と1945年に比べ約半減した。 このため、国民健康保険の財政基盤を強化する観点から、1948(昭和23)年に国民健康保険法が改正された。主な改正点は、1国民健康保険制度の実施主体を従来の国民健康保険組合から原則として市町村としたこと(市町村公営の原則)、2いったん設立された場合は、その市町村の住民の加入は強制とされたこと(被保険者の強制加入制)等である。 また、1951(昭和26)年にも国民健康保険法の改正により、国民健康保険税*14が創設され、保険料でなく税で徴収することも可能となり財政基盤が強化された。その後、日本経済の復活等も加わり、保険診療が急速に増加するに至ったことから再び保険財政の立て直しが急務となったが、1953年の国民健康保険法の改正によって助成交付金の名で事実上の国民健康保険に対する国庫補助が実現し、1955(昭和30)年には国庫補助が法制化された。 (新厚生年金の創設) 終戦直後の経済混乱の中、急激なインフレによって労働者の生活は苦しくなり、厚生年金保険料の負担も困難となった。また、積立金の実質的な価値が減少し、将来の給付のための財源とならなくなってしまうなどの問題が生じていた。このため、1948(昭和23)年の厚生年金保険法の改正では、保険料率を約3分の1に引下げる等の暫定的な措置がとられた。 また、1954(昭和29)年の同法改正においては、前年12月に戦時加算のある坑内員の養老年金受給権が発生することに備え、年金の体系について全面的な改正が行われた。それまで報酬比例部分のみであった養老年金を定額部分と報酬比例部分の二階建ての老齢年金とし、男子の支給開始年齢を55歳から60歳に段階的に引上げることとした。加えて、急激な保険料の増加を避けるため、平準保険料率よりも低い保険料率を設定し、その際、保険料率を段階的に引上げる将来の見通しも作成することとした。これらの改正は、現在の厚生年金制度の基本体系となるもので、当時は「新厚生年金制度」といわれた。 さらに、財政方式を積立方式から修正積立方式*15 に変更し、国庫負担を導入した。その際、「保険料率は、保険給付に要する費用の予想額並びに予定運用収入及び国庫負担の額に照らし、将来にわたって、財政の均衡を保つことができるものでなければならず、且つ、少なくとも5年ごとに、この基準に従って再計算されるべきものとする」との規定が盛り込まれ、5年に1回は財政再計算を行うことが制度化された。 |
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■日本の年金制度が創設時に積立方式を採用した理由
日本の年金制度の財政運営方式は、現在では修正積立方式を採用しているが、制度創設時は「積立方式」*を採用していた。では、なぜ積立方式を採用したのか。『昭和34年度版厚生白書』は次のように説明している。 「年金の財政運営方式としては、このほか(引用者注:積立方式のほか)に年年必要な給付額をその年度に徴収する『賦課方式』があるが、これによるときは、国の財政規模という観点からの影響を受けやすいため、将来において年金給付が不安定となるおそれがあり、他方、現在のわが国のように、老齢人口の占める比率が急速に高まりつつある国においては、将来の生産年齢人口の負担が重くなるという不合理も生ずるので、積立方式を採用して制度の安定と確立を期したわけである。」 しかしながら、積立方式は、物価や賃金の変動への対応が困難という課題も有している。このため、高齢者の生活を保障できる実質的価値のある年金を支給するという観点から、その時代の生産活動に従事する現役世代が収入を失った高齢世代を支えるという、世代間扶養の考え方を基本に置いた賦課方式の要素の強い財政運営方式に改められた形となって現在に至っている。(* 将来の年金給付に必要な原資をあらかじめ保険料で積み立てていく財政方式。) |
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*1 1934年の健康保険法改正で、常時5人以上の労働者を使用する工場、事業場に適用対象が拡大された。
*2 政府管掌健康保険方式の採用は、日本の健康保険制度の特徴の一つである。 *3 当時は、傷病の業務上、業務外を判別することが困難であると考えられた。 *4 当初、疾病保険制度の所管は農商務省であったが、1922年1月に内務省社会局が発足し、同年11月に農商務省から移管した。 *5 人口増加・健康増進を目的として1942年から行われた官製国民運動。 *6 一定年限公務に従事して退役した軍人や官吏に対する国の恩恵的給与(賜金、報償的給付)という性格を有し、厳密にいえば公的年金制度とは性格が異なる。 *7 現在の障害年金に相当する。 *8 制定当時、「産業戦士の恩給制度」とも呼ばれていた。 *9 被保険者期間20年以上(坑内夫は戦時加算により15年以上又は同一事業所に継続勤務した場合等で12年)を要した。 *10 傷病者は除外された。なお、恩給停止命令は、1953年4月に解除された。 *11 同法2条において「能力があるにもかかわらず、勤労の意思のない者、勤労を怠る者その他生計の維持に努めない者」及び「素行不良な者」を欠格条項と定めていた。 *12 2000(平成12)年に「社会福祉法」に改称された。 *13 GHQ財政顧問ジョセフ・ドッジによって実施された財政金融引き締め政策。 *14 保険料よりも税の方が徴収しやすく、財政計画が明確に立てられると考えられた。 *15 労使の急激な負担増を避けるため、当面保険料を据え置き、積立不足分を後代の被保険者の負担とする財政方式。従来の完全積立方式から賦課方式の方向に修正される形となった。 |
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■第2節 国民皆保険・皆年金の実現 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 高度経済成長下での社会保障の課題
(高度経済成長の実現と社会の変化) 日本経済は、1955(昭和30)年頃に始まった「神武景気」により本格的な経済成長過程に入り、以後急速な勢いで成長を遂げ、国民の生活水準も向上していった。 1960(昭和35)年12月に閣議決定された「国民所得倍増計画」では、計画期間中の年平均成長率を7.2%とし、10年後には国民総生産を2.7倍、一人当たり国民所得を2.4倍とすることを目標としたが、実際には、ほぼ年平均10%成長を実現した。また、所得倍増の目標は7年で達成し、最終的には、1955年から第1次オイルショック(石油危機)により戦後初めて経済成長がマイナスとなった1974(昭和49)年までの約20年間に、年平均9.2%の実質経済成長率という極めて高い率で経済発展を遂げた。 1956(昭和31)年版経済白書は、前年の国民総生産(GNP)が戦前*1 のピークを越えたことを踏まえて「もはや戦後ではない」と宣言を行った。一方、同年に初めて出された厚生白書では、「果して戦後は終わったか」の主題の下、国民生活の面ではなお復興に取り残された分野の多いことや、復興の背後に1,000万人に上る生活保護すれすれの状態にある低所得者が存在していることを指摘し、社会保障政策について、経済成長のための施策と併行した社会保障政策の充実を訴えた。 当時は、人口構成において生産年齢人口の割合が高い、いわゆる「人口ボーナス」が生じていた時期であったが、「国民皆保険・皆年金」は人口ボーナス等に支えられた高度経済成長の時代の波に乗って実現し、社会保障の重点も「救貧」から「防貧」に移行し各種給付の充実・改善も図られていった。1973(昭和48)年2月の「経済社会基本計画」では、日本列島改造による均衡ある発展と活力ある福祉社会の実現が国の政策目標として掲げられ、同年は「福祉元年」と呼ばれた。 高度経済成長は産業構造の急速な変化をもたらした。都市部などでは労働力不足、求人難の声が高まり、農村部から都市部へ人口が流入する都市化が急速に進展した。労働力不足、求人難により新規学校卒業者への企業の求人も急増した。1950年代後半には中学卒業者に対する求人が年々増加し、1960年代後半になると中学卒業者の進学率が急速に高まり、それとともに新規学校卒業者の主力は高校卒業者に移っていった。新規高卒者の求人倍率でみると、国民皆保険・皆年金を実現する1961(昭和36)年に2倍を超え、1970(昭和45)年には7倍に達した。企業にとって労働力の確保・定着を図ることが重要な課題であり、賃金を地位や年齢の上昇に応じて労働者に分配し、年功序列により地位や賃金を保障することとした。これにより、労働者は子どもの教育費などで生計費が年々増大していったとしても対応することが可能となった。また、新規学校卒業者を一括採用し、長期雇用(終身雇用)を前提として企業内訓練による人的資本形成を行い、企業固有の技術を持つ熟練労働者を確保する仕組みである「日本型雇用慣行」が大企業を中心に普及・定着した。 加えて、企業は労働力の確保・定着を図る観点から、若年層を中心として社宅や各種手当等の法定外福利厚生を充実させたことが、企業内福祉の充実につながった。 日本型雇用慣行は、既に第2次世界大戦以前にもその萌芽がみられたが、日本型雇用慣行の普及・定着により、世帯構成についてはサラリーマンとして働く夫とそれを支える専業主婦が一般化し、世帯単位も夫婦と子どもから成る世帯が標準的なものとみなされるようになった。国民の間に「中流意識」が普遍化するのもこの頃からである。 |
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■2 国民皆保険の実現
(国民皆保険計画の策定) 高度経済成長が始まった当初、社会保障関係では、医療保険制度の未適用者が1956(昭和31)年3月末の時点で約2,871万人、総人口の約32%存在し、大企業労働者と零細企業労働者、国民健康保険を設立している市町村とそれ以外の市町村住民間の「二重構造」が問題視された。また、1960(昭和35)年度に生活保護を受けた世帯のうち55.4%は世帯主又は世帯員の病気が原因であった。こうした状況下で、医療保険未適用者の防貧対策として、国民皆保険の実現が強く求められるようになった。 (国民皆保険に対する期待感) 国民皆保険実現に当たっては、国民の強い支持が後押しした形となった。全国市長会、町村会、全国国民健康保険団体中央会*2 等は新国民健康保険法案の速やかな成立を要望し、世論もそれを期待した。1958(昭和33)年に内閣総理大臣官房審議室(当時)が行った「社会保障に関する世論調査」によると、医療保険既加入者の圧倒的多数(健康保険加入者の93%、国民健康保険加入者の82%)が「引き続き入っていたい」という希望を表明した。これについて、『昭和33年度版厚生白書』は「医療保険に対する支持がこのように強固であることは、疾病による生活不安の深刻さと、その解決策としての医療保険への信頼に現れる国民の生活体験に根をおいた知恵を物語るもの」と指摘した(図表2-2-1)。 図表2-2-1 社会保障に関する世論調査結果(1958年3月) (新国民健康保険法の制定) 政府は1955年12月「経済自立5カ年計画」を策定し、「社会保障の強化」等を提唱した。また、翌1956(昭和31)年1月、「全国民を包含する総合的な医療保障を達成することを目標に計画を進めていく」という国民皆保険構想を政府の方針として初めて公式に明らかにした。同年11月に発表された社会保障制度審議会「医療保障制度に関する勧告」等を契機として、政府は1957(昭和32)年4月、厚生省に国民皆保険推進本部を設置し、1957年度を初年度とする「国民健康保険全国普及4カ年計画」(以下「国民皆保険計画」という。)に着手することになった。健康保険の対象とならないすべての国民を国民健康保険に加入させることで、国民皆保険を実現しようとしたのである。 国民皆保険計画に着手したものの、当初、大都市での国民健康保険の普及が予定どおりには進まなかった。これは、被保険者の資格認定が困難であったこと、事務費の国庫補助が低額であり、人件費の高い大都市では国庫補助では足りず、財政を圧迫したこと等が原因であった。 政府は、国民皆保険の基盤を確立するため、国民健康保険制度を強化すべく1958(昭和33)年3月、11961(昭和36)年4月から全市町村に事業の実施を義務づけること、2同一疾病についての給付期間を3年とすること、3給付の範囲を健康保険と同等以上とすること、4給付割合を5割以上とすること、5国の助成を拡充すること、等を内容とする「新国民健康保険法」案を提出した。 この法案は、同年12月に国会を通過し、翌1959(昭和34)年1月から施行されることとなった。1959年は就業者に占める雇用者割合がはじめて5割を超えた年でもあった。戦後の国民健康保険は、サラリーマン化が進む中で産声を上げたことになる。 こうして、日本の国民皆保険体制は、1961年4月1日までの期限付きで全市町村への事業の実施を義務づける形で法律的に裏付けられることになり、市町村に住所を有する者は、被用者保険加入者等でない限り、強制加入とされた。スタートでやや立ち遅れた6大都市*3 でも、日本一の被保険者数を擁する東京23区において1959年12月に国民健康保険を実施し、神戸市がこれに続いた。結局、他の都市も1961年4月からの実施となり、ここに計画どおり国民皆保険体制*4が実現した。 (制限診療の撤廃と診療報酬の地域差撤廃) 国民皆保険の実現に先立ち、1958(昭和33)年6月には、現行の診療報酬体系の骨格となる診療報酬点数表が告示され、同年10月から実施された。また、国民皆保険後の保険医療では、1962(昭和37)年に保険診療において抗生物質、抗がん剤、副腎皮質ホルモン等の使用を認可するなど、いわゆる制限診療の撤廃が行われた。 さらに、当時は地域による医療費の格差があり、保険診療費もこれを助長するような甲地*5、乙地によって異なる医療費体系となっていた。1963(昭和38)年にこの地域差が乙地を甲地なみに引上げることによって全面的に撤廃され、全国一律に同一の医療行為に対しては、同額の診療報酬が支払われることとなった。 (健康保険と国民健康保険の制度間格差) 当時、国民健康保険の医療給付については、その給付範囲、給付率とも健康保険などの被用者保険と比べて水準が低かった。まず、給付の範囲については、往診、歯科診療における補てつ*6、入院の際の給食、寝具設備の給付は、当分の間、行わなくてよいとされていたため、これらの給付の制限を行っている保険者が少なくなかった。1961(昭和36)年4月1日現在における給付範囲の制限の状況を保険者が市町村であるものについてみると、まったく制限をつけていないものは2,381で全体の68.0%、全部制限しているものは86で全体の2.5%であり、3割強の市町村で何らかの制限が設けられていた(図表2-2-2)。また、給付率の状況は、市町村が保険者である場合についてみると、給付率が最低の50%であるものが全体の93.5%を占め、本人給付率が100%である保険者が半数を超える被用者保険との差は大きかった(図表2-2-3)。 このため、国民健康保険の給付率について被用者保険の水準にできるだけ近づけることが要請され、1961(昭和36)年の国民健康保険法改正により世帯主の結核性疾病又は精神障害について同年10月より給付率が5割から7割に引上げられ、1963(昭和38)年の同法改正によって世帯主の全疾病について原則として給付率が7割に引上げられた。その後、1966(昭和41)年の同法改正によって世帯員に対する法定給付割合が5割から7割に引上げられることが決定し、1968(昭和43)年1月より実施された。 図表2-2-2 給付範囲の制限の状況(1961年4月1日現在) 図表2-2-3 医療給付の給付率の状況(1961年4月1日現在) |
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■3 医療提供体制の整備
(公的病院・民間病院の整備・充実) 国民皆保険は、医療を提供する体制が整備されて初めて意味を持つものであり、医療施設整備、医療従事者の確保も進められていった。また、国民皆保険の実現がこうした医療提供体制の整備を促進したともいえるのであって、両者は表裏一体の関係にあった。 1945(昭和20)年にGHQから旧日本軍の陸海軍病院等が返還され、国立病院、国立療養所として国民一般に開放されることとなった。都道府県が設置する公立病院については、医療水準の確保を図るため、病院の施設基準等を定めた1948(昭和23)年公布の「医療法」の中で、その設置に要する費用に対して国庫補助を可能とする規定が設けられ、公的医療機関の復興が進んだ。 一方、民間病院については、施設基準を満たせばどこでも自由に開業ができる自由開業医制がとられた。また、1950(昭和25)年に医療法が改正され、医療法人制度が設けられた。医療法人制度の創設によって、医療事業主体が非営利の法人となることができ、資金の集積を容易にするとともに、経営の安定化が図られるようになった。その後、民間医療機関の整備は加速し、民間を中心とした医療機関の整備が日本の医療提供体制における特色の一つとなった。 (一県一医大構想と医師の養成) 1961(昭和36)年に実現した国民皆保険体制下では、種々の医師、歯科医師確保対策が講じられることとなった。 医師確保対策としては、昭和30 年代に医学部入学定員が約3,000 人から約3,500 人へと約500人増加したものの、病院の著しい増加、高度な医療技術の普及、国民皆保険の実現等が原因となって、昭和40年代に入ると医師不足が痛感されるようになった。このため、1966(昭和41)年度、1967(昭和42)年度、1970(昭和45)年度の三度にわたり、厚生省から文部省に対し医学部入学定員の増加が要請された。 また、厚生省は、1970(昭和45)年7月、今後計画的に医師・歯科医師を確保するため当面の行政目標として、11985(昭和60)年までに人口10万人に対し最小限150人の医師を確保すること、21985年までに人口10万人に対し歯科医師50人を確保すること、を決定した。 こうして、1970年度には戦後初めて医学部の新設(秋田大学医学部等4医学部)が認められ、翌年度には2校、1972(昭和47)年度には自治医科大学等7校が新設された。また、1973(昭和48)年2月に閣議決定された「経済社会基本計画−活力ある福祉社会のために−」において、無医大県の解消(いわゆる一県一医大構想)が盛り込まれ、1979(昭和54)年10月の琉球大学医学部設置をもって解消が実現した。 このような医師、歯科医師確保対策が功を奏し、1984(昭和59)年には、1985年までに人口10万対最小限150人の医師及び50人の歯科医師を確保するという目標は達成された。 (へき地医療政策の展開) 国民皆保険が実現し、国民のすべてが保険によって医療の給付を受けられる体制が確立したものの、医療機関が都市部に偏在し、医師・歯科医師が周囲にまったく存在しないいわゆる「無医(無歯科医)地区」の解消が課題として残っていた。 このうちの無医地区対策は、既に1950年の社会保障制度審議会の勧告(「社会保障制度に関する勧告」)においても取り上げられていた。1961(昭和36)年8 月、厚生省の医療保障委員*7 の発表した中間報告では、国の予算の重点的な配分によって、無医地区の着実な解消を図ることを要望するとともに、無医地区における医療機関の運営費の赤字について大幅な国庫補助を行うべきであると述べられていた。同年5月現在の無医町村は165、また、人口、面積、地理的状況から無医町村に準ずる無医地区が728に上っていた(図表2-2-4)。 図表2-2-4 無医村・無医地区の年次推移(皆保険実現以前の状況) このような医療を受ける機会の不均衡を是正するための一環として、厚生省はへき地医療対策を1961年度から年次計画を立て積極的に推進した。しかし、折からの高度経済成長に伴う都市化現象により、増加した都市における医療ニーズを満たすため医師の都市集中も著しく、へき地における診療所の整備に見合った医師の確保が困難な場合が多かった。このため、へき地診療所に医師を派遣する親元病院への助成や地域内の保健所、医療機関、市町村等の有機的連携を図るためのへき地医療地域連携対策等が講じられた。 |
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■4 国民皆年金の実現
(国民皆年金の実現) 厚生年金保険法が全面改正された1954(昭和29)年当時、厚生年金の給付水準は年に1,200円、月にすると100円程度でしかなかった。こうした中、政府は厚生年金の適用業種を拡大し、被保険者数の拡大を図ったものの、特定職域を単位とするグループの厚生年金保険から分離・独立(1954年の私立学校教職員共済組合、1956年の公共企業体職員等共済組合*8、1959年の農林漁業団体職員共済組合)の動きに歯止めをかけることはできなかった。 一方、公務員については、新しい共済組合が発足(1955年の市町村共済組合、1959年の国家公務員共済組合、1962年の地方公務員等共済組合)した(図表2-2-5)。 図表2-2-5 公的年金制度の変遷 こうした分立する公的年金制度は、いずれも一定規模以上の事業所や工場で働く被用者、公務員等を対象とする制度であり、農民や自営業者、零細な事業所の被用者などには何の年金制度もなかった。年金制度によってカバーされている人数も全体で約1,250万人であり、全就業者人口約4,000万人の3分の1程度、全被用者人口約1,800万人の約70%程度にすぎなかった。医療保険が農民や自営業者を含め、既に全国民の3分の2をカバーしていたのに比べ、年金制度は立ち後れていた。 こうした中で、「老齢人口が絶対数においても、総人口に対する比率においても次第に増加していく傾向にあって、親族扶養の無力化の傾向と相まって、老齢者の生活保障を国が真剣に考えざるを得なくなったこと」(『昭和32年度版厚生白書』)や、「年金制度とともに社会保障制度の車の両輪とされている医療保障制度が、(中略)国民皆保険を達成するという具体的な目標のもとに、現に拡大整備されつつあるという事実は、残された問題としての年金制度に、いわば自然のなりゆきとして論議を集中させ」(同)、既存の年金制度でカバーされないすべての国民を対象とする国民年金制度創設の機運が高まった。当時は既に核家族化が進行しており、家族制度の廃止で子の親に対する扶養意識の減退が指摘されていたが、このほかにも、軍人恩給増額の動きや、地方自治体で先行した敬老年金の実施が、国民年金導入の世論を盛り上げた。 このような情勢を踏まえ、厚生省は、1957(昭和32)年に5人の有識者で構成する国民年金委員会を設置し、翌1958(昭和33)年には国民年金準備委員会を設置して検討に当たった。また、同年に社会保障制度審議会は「国民年金制度に関する基本方策について」の答申を行った。 こうして「国民年金法」が1959年に制定され、無拠出制の福祉年金は翌1960(昭和35)年3月から支給されることとなったほか、拠出制*9 国民年金は1961(昭和36)年4月から保険料の徴収が開始されることとなり、ここにすべての国民がいずれかの公的年金制度の対象となる「国民皆年金」が国民皆保険と同時に実現することとなった。 国民年金は、20歳以上60歳未満の日本国民*10 で、厚生年金や共済年金の対象となる被用者以外のすべての者(農林水産業従事者、商店主等*11)を被保険者(加入者)とする社会保険方式による年金制度であった。保険料は定額(月100円、35歳以降150円*12)で、年金給付については、65歳から月額2,000円(25年以上拠出)、最高3,500円(40年拠出)の老齢年金等を支給することとなった。また、被用者年金のように事業主負担分に相当する部分がないことに加え、国民年金の加入者には低所得者が多かったことを考慮し、3分の1の国庫負担を行うこととなった。さらに、高齢のため受給に必要な加入期間を満たせない人や、既に障害を有する人に対して、無拠出の老齢福祉年金、障害福祉年金及び母子福祉年金等を支給することとなり、その費用は全額国庫で負担することとなった。 (拠出制国民年金の実施) 国民年金法の制定に当たっては、大きな反対があったことも事実である。『昭和36年度版厚生白書』によると、「35年夏頃からの(中略)拠出制国民年金の実施に対する反対又は実施延期の運動は、給付額が低すぎること、保険料が高額*13 だったこと、拠出期間*14 が長きに失することなどを挙げて、適用開始時期を中心に激しい動きを示し、大都市においては、地域住民が地域行政とのつながりをほとんど失っていることと絡み合って、ことに激しく、制度の実施に暗い影を投げかけた。」と当時の状況を説明している。 また、国民年金に対する国民の理解も十分とはいえなかった。前出「社会保障に関する世論調査」によると、「国民年金制度という言葉を何かで見たり聞いたりしたことがありますか。」という質問に対して、過半数の53%が「ない」と回答した。さらに、1958(昭和33)年8月に行われた全国社会福祉協議会の調査で国民年金に対する理解度を職業別にみると、国民年金の適用対象となる農林業、漁業を職業とする者では、特に関心が低いことが判明した(図表2-2-6)。このため、政府は同年8月に「国民年金制度周知月間」を設定し、様々な啓蒙活動を行うなどして、一般の協力を求めようとした。しかしながら、老齢年金が25年以上の拠出で月額2,000円という給付水準では魅力も薄く、特に大都市における制度の滑り出しは順調ではなかった。 図表2-2-6 国民年金に関する理解の状況(1958年8月) |
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■国際的にみた日本の国民皆保険・皆年金の特徴
日本は世界で4 番目に皆保険を、12 番目に皆年金を達成したとされているが、既存の職域の医療保険に新しい医療保険を追加する形で適用を全国民にまで拡大したのは、日本が最初であった。また、国民皆保険・皆年金の実現時期が1961年という早い段階であったことにも特徴があった。ヨーロッパでも1960(昭和35)年までに人口の9割以上を対象とする医療保障を達成していたのはスウェーデン、アイスランド、ノルウェーの4か国だけであり1、日本の国民健康保険のような地域保険方式をとる国は存在しなかった。 一方、1960年までに国民皆年金を実現した国は、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランドの北欧4 国のほか、ニュージーランド、アイスランド、英国、スイス、カナダ、イスラエル、オランダの11か国であった*。 高度経済成長がはじまったばかりという、まだ国が貧しい段階で全国民に等しく社会保険制度を適用し、不安のない社会をつくるべく国民皆保険・皆年金を実現したことは、当時の施政者の英断といえるだろう。 国民皆保険・皆年金は、実現後この章で述べる様々な制度見直しを図りながらも日本の社会保障制度の中核として現在に至っている。(* 横山和彦 『社会保障論』 有斐閣 1978年) |
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(通算年金制度の創設)
国民皆年金の実現により、すべての国民は分立したいずれかの公的年金制度の適用を受けることとなった(前出 図表2-2-5)。しかしながら、各公的年金制度は大部分が相互に関係なく創設され、しかも、老齢年金や退職年金を受けるには相当長期間*15 同一制度に加入していることが要件であったため、職場を移動して一つの年金制度から離脱した者には、その制度からの脱退に伴う一時金の給付が行われるにとどまっていた。 このため、国民年金制度制定の準備作業に並行して、各制度間の通算方法についての検討が進められた結果、1961年11月、「通算年金通則法」*16が公布施行され、同年4月に遡及適用となった。 これにより、多数の公的年金制度相互間で加入期間を「数珠つなぎ」方式で通算する老齢年金(退職年金)に関する通算措置が実施される運びとなった。 |
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■1961年はこんな年
国民皆保険・皆年金が実現した1961年はどんな時代だったのか。特徴的なものをまとめてみた。 (人気テレビ番組)・「 夢で逢いましょう」「七人の刑事」「シャボン玉ホリデー」 (ベストセラー)・小田実『何でもみてやろう』(ヒットソング)・ 植木等『スーダラ節』、石原裕次郎・牧村旬子『銀座の恋の物語』 (初登場)・NHK朝の連続テレビ小説『娘と私』 (物価)・理髪(1回)200円・映画鑑賞料 140円 (全産業労働者の平均現金給与総額)・ 2万6,626円(労働省毎月勤労統計調査) (サラリーマンの平均月収)・4万5,000円(総務庁家計調査) なお、高度経済成長期を象徴する国家的プロジェクトである東海道新幹線の開通及び東京オリンピックの開催は、国民皆年金・皆保険実現から3年後の1964(昭和39)年であった。 |
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■5 給付改善と「福祉元年」
(老人医療費支給制度の創設) 65歳以上人口が少なかった頃の老人施策については、生活保護法による養老施設への保護と国民年金法による福祉年金給付などが主なものであった。しかしながら、核家族化の傾向が顕著となり、また、老人に対する扶養意識の減退がみられるようになったことが、独り暮らし老人や寝たきり老人の問題を顕在化させることになった。このように高齢者に対する福祉施策の需要が高まってきたことを受けて、1963(昭和38)年に福祉六法*17 の一つである「老人福祉法」が制定され、老人ホームへの入所、老人家庭奉仕員の派遣等の福祉サービスの実施とともに、高齢者に対する保健指導等が実施された。当時、老人福祉法は世界で初めての老人関係法といわれた。 その後、1970(昭和45)年になると、日本は65歳以上人口(当時は「老年人口」)比率が7.1%となり、国連の定義*18にいう高齢化社会に入った。翌1971(昭和46)年に総理府(当時)が行った「老人問題に関する世論調査」によると、高齢者(当時は「老人」)の生活と健康を守るために、国の施策として一番力を入れて欲しいものについて、「老人医療費無料化」が44.0%と最も多く、次いで「老齢福祉年金の増額」(17.4%)、「老人無料検診」(10.0%)と老人医療費の無料化を求める世論がもっとも大きかった(図表2-2-7)。一般に高齢者は低収入で、当時年金制度も未成熟であったこと、当時の医療保険の家族給付率が5割であったこと等から、高齢者は医療費負担のために受療を敬遠し、必要な医療が受けられない恐れがあると指摘されていた。 図表2-2-7 老人医療費無料化を求める世論調査結果 一方、1970年代前半になると、経済成長の成果を国民福祉の充実に還元しようとする動きが高まった。既に、老人医療費の一部負担金(患者負担)を公費により肩替わりする制度は、東京都や秋田県など一部地方自治体において実施されていたが、その後全国の多くの地方自治体に広がっていった。こうした状況を受けて国も1972(昭和47)年の老人福祉法の一部改正により、「福祉元年」とよばれた翌1973年1月から国の制度として老人医療費支給制度が実施された。 この老人医療費支給制度により、70歳以上の高齢者が医療保険で医療を受けた場合の自己負担費用が全額公費で負担されることとなり、高齢者の医療費負担が無料化された。後に無料化に伴う病院のサロン化や過剰診療等が問題となるが、その当時から老人医療をこのような形で無料化することについては反対論ないし慎重論もあった*19。しかしながら、当時は層の厚い生産年齢人口に支えられており、かつ右肩上がりの高度経済成長が見込まれる中での制度創設となったことから、最終的には実施に移された。当時の危惧はやがて現実のものとなり、老人保健制度の創設へとつながっていった。 (7割給付の実現と高額療養費制度の創設) 「福祉元年」の1973(昭和48)年、医療保険制度では、健康保険の家族給付率の引上げ(5割から7割)や高額療養費制度*20 の創設などが行われた。特に、「医療内容の高度化傾向にかんがみ、高額医療に対する格段の配慮が切望される」(1972年12月「社会保険審議会意見」)として、月3 万円(当時)を超える自己負担分を医療保険制度から支給するという高額療養費制度*21 が創設されたことによって、医療費に占める患者負担の割合は低下し、医療機関を利用しやすい環境が整備された。同制度は、1975(昭和50)年に国民健康保険にも導入された。 (年金給付水準の改善と物価スライド制の導入) 年金制度においても給付水準の改善が図られ、厚生年金では1965(昭和40)年に、当時の平均的な標準報酬月額25,000円の人が20年加入*22した場合の標準的な年金額が1万円となる「1万円年金」*23 が実現し、1969(昭和44)年には「2 万円年金」が実現した。国民年金でも、1966(昭和41)年に「夫婦1万円年金」が、1969(昭和44)年には「夫婦2万円年金」が実現した。 また、1973年の改正で、物価の変動に合わせて年金額を改定する物価スライド制が導入されるとともに、厚生年金では現役男子の平均月収の6割程度を目安とし、過去の標準報酬を現在の価格に評価し直して計算する標準報酬の再評価(賃金スライド)を行ったことにより、「5万円年金」*24 が実現した。また、国民年金でも「夫婦5万円年金」が実現した。この物価スライド制の導入により、年金制度は、この直後の第一次オイルショックによるインフレにも対応でき、老後の所得保障の中核を担う制度になっていった。 その後もオイルショックに対応し老後生活の安定を図るため、2 年繰り上げて1976(昭和51)年に財政再計算を行い、厚生年金の老齢給付の水準として、標準的な男子の受ける老齢年金の額が直近男子の平均標準報酬の60%程度を確保するよう引上げられるなどの給付の拡大が図られた。 年金給付水準の拡大の背景には、当時の日本は人口の高齢化が進んでおらず、欧米先進国よりも年金制度は未成熟ということがあった。これは、当時は老齢年金受給者が少なく、支給されている年金額も少なかったためであった。厚生年金については退職後の所得保障を行うものとして、制度発足時は在職中に年金を支給されなかったことも受給者が少ない理由であった。このため、高齢者は低賃金の場合が多いという実態にかんがみ、在職者にも支給される特別な年金として1965(昭和40)年に在職老齢年金が創設された。しかしながら、当時の成熟度(老齢年金受給者数/被保険者数)は、西ドイツ28.0%(1976年)、フランス24.5%(75年)、英国32.5%(74年)、スウェーデン28.4%(75年)、アメリカ21.4%(76年)と20%を超える率であったのに対し、日本は18.4%(78年)であった。日本の場合、福祉年金受給者を除くと成熟度はさらに11.1%へと下がり、成熟度の低さが目立っていた。 (児童手当制度の創設) 児童手当については、既に1947(昭和22)年において、社会保険制度調査会*25 で「児童手当金」という形で老齢年金に次いで実施すべきであるとの勧告がなされていた。しかしながら、1日本の場合、児童の扶養はすべて親の責任とする考え方が強かったこと、2多くの企業で日本型雇用の特徴である年功序列型賃金あるいは生活給的性格の強い賃金体系が採用されており、その中に扶養家族手当が含まれていたこと等から、家族手当(児童手当)制度として導入に至らなかった。 その後、国民皆保険・皆年金が実現すると、先進諸国の社会保障制度のうち、児童手当制度が日本に唯一欠けていることが認識されたこともあり、児童手当制度をめぐる議論が活発となった。 昭和40年代に入ると、社会保障制度の充実が多くの国民の要求するところとなり、一方、経済的にも高度経済成長により財政的余裕ができたこと、また、高齢化現象が進むにつれて次代を担う児童の健全育成、資質の向上についての必要性の認識も生じたことなどが、児童手当制度の創設を促進する上で大きな役割を果たすようになった。その結果、児童憲章制定20周年に当たる1971(昭和46)年5月には「児童手当法」が制定*26 され、翌1972(昭和47)年1月に施行された。 |
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*1 1934〜1936年の水準との比較
*2 1959年に現在の国民健康保険中央会に名称を変更した。 *3 東京都区部(23区)、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市 *4 保険料を納付できない公的扶助対象者は、後に国民健康保険法の適用除外とされ、生活保護制度の医療扶助でカバーすることとなった。 *5 1948 年以降、特定の大都市(甲地)とその他の地域(乙地)に分けられていた。 *6 歯の欠損部を義歯で補ったり、金属冠をかぶせて機能を保たせること。 *7 同年7月に厚生大臣の顧問として設置。5人の委員で構成されたことから「五人委員会」と呼ばれた。同委員会は中間報告として、1無医地区対策の推進、2国民健康保険を中心とする疾病保険の普及強化、3結核対策の強化の3点を要望した。 *8 日本専売公社、日本電信電話公社及び日本国有鉄道職員を対象とした。 *9 年金制度の掛金(保険料)の一部を加入者が負担する制度。導入当初は、保険料を印紙で納付した。 *10 1982年の「難民の地位に関する条約」(難民条約)加入により国籍要件が撤廃され、現在は、日本に居住するすべての人が対象になっている。 *11 無業者も含む。 *12 年齢によって差があるのは、一般的に年齢が高くなるほど負担能力が増え、拠出意欲が増すと考えられたためである。 *13 対象者の多数を占めた低所得者からすれば負担能力からみた場合、「高額」と指摘された。 *14 老齢年金は保険料納付期間が25年以上ある者に対し、65歳から支給するとされた。 *15 被用者保険では船員保険を除き20年、国民年金では25年であったが、基礎年金の創設で25年に統一された。 *16 この法律は、基礎年金を導入した1985年度改正の際に廃止された。 *17 老人福祉法のほか精神障害者福祉法(1998年に「知的障害者福祉法」に改称)、母子福祉法(1981年に「母子及び寡婦福祉法」に改称)と「福祉三法」(生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法)を総称して「福祉六法」と呼んだ。 *18 総人口に占める65歳以上の人口が7%を超えると、当時は「老人国」といわれた。 *19 吉原健二 『老人保健法の解説』 中央法規出版 1983年。 *20 月3万円を超える自己負担分については医療保険制度から支給。 *21 現在の同制度については、第2部を参照。 *22 当時、厚生年金の受給資格要件は被保険者期間20年以上であった。 *23 この額は、被保険者の平均標準報酬月額2万5,000円の40%に当たり、現役労働者の賃金の40%を保障するというILO102号条約基準を満たす水準であった。 *24 この額は、被保険者の平均標準報酬の6 割に相当する額であり、ボーナスを含めた報酬額に対する比率では約45% となり、ILO128号条約に定める基準に達する給付水準であった。 *25 1946年厚生省に設置。社会保障制度審議会の設置に伴い廃止された。 *26 制度発足当初は、義務教育終了前の第3 子以降の児童を対象として、子育て世帯に月額3,000 円が支給された。また、支給に当たっては年収200万円未満に限定する所得制限があった。 |
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■第3節 度の見直し期(昭和50年代から60年代) | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 オイルショックと社会保障の見直し
医療保険、年金制度等の大幅な給付改善が行われ、「福祉元年」と呼ばれた1973(昭和48)年秋に安価な石油に依存してきた経済社会に大きな転換を促す第1次オイルショック(石油危機)が勃発した。石油価格の高騰は「狂乱物価」と呼ばれたインフレをもたらし、企業収益を圧迫した。 高度経済成長の時代は第1次オイルショックをもって終わりを告げ、安定成長の時代に突入した。同年度の実質経済成長率は、戦後初めてのマイナス(マイナス0.2%)を記録した。 社会保障制度では、医療保険の診療報酬、生活保護制度の生活扶助費などについてインフレに給付水準を対応させていくために、1974(昭和49)年度の診療報酬改定では36%の引上げ、生活扶助基準では20%引上げ等の高率の改定が行われた。また、年金については、既に述べたとおりオイルショックに対応した給付改定が行われた。その結果、これらの財源となる社会保障関係費が急増した。 一方、大阪で日本万国博覧会が開催された1970(昭和45)年に日本は高齢化社会の仲間入りを果たしたが、1955年頃まで横ばいで推移していた高齢化率は、この年を境に上昇に転じた。また、世帯構成比率をみると、3世帯同居を含む「その他世帯」が2割を下回ったのもこの年であった。さらに、1970年代以降、専業主婦の割合が低下し、代わって共働き世帯が増加した。こうした高齢化の進展や世帯構造の変化等に伴い、家庭が担っていた扶養能力の低下がますます顕著となり、社会保障需要は一層増大する形となった。 このような社会保障需要の拡大にもかかわらず、経済不況により税収の伸びは鈍化し、一方で内需拡大のための経済対策が必要になり、財政支出が大幅に拡大された。そのため、1975(昭和50)年度補正予算において初めて特例公債*1 が発行されることとなった。その後、財政赤字が拡大し、第2次オイルショックが勃発する年である1979(昭和54)年度予算では、国債依存度が約40%と過去最高となった。 1980(昭和55)年になると、「増税なき財政再建」を掲げた第2次臨時行政調査会(第二臨調)が設置*2 され、行財政改革の検討が鋭意進められた。同調査会の答申等に基づき、歳出の削減・合理化が進められた。行政機構や補助金の見直し、国鉄等の3公社の民営化等とともに、1982(昭和57)年度予算では「ゼロ・シーリング」、1983(昭和58)年度予算では「マイナス・シーリング」が採用されるなど、社会保障関係予算についても厳しい歳出抑制が図られた。 このため「福祉元年」で充実が図られた医療保険、年金制度や老人医療費支給制度などの見直しも進められることになった。特に、第1次産業や自営業者が減少するという産業構造の変化等を受けた国民健康保険や国民年金の取扱いをめぐり、日本の社会保障は、制度間調整の時代を迎えることとなった。 1973年の第1次オイルショック(石油危機)以降、高度成長型経済から安定成長型経済への移行に伴って、雇用失業情勢にも困難な事態が生じることが予想され、労働者の雇用の安定と失業の予防を図ることが重要な課題となった。このため、1974(昭和49)年に雇用の質的改善に積極的に応えられる機能を持った失業保険制度に代わる雇用保険法が制定され、失業給付が見直された。また、翌1975(昭和50)年には雇用調整給付金(1981年から雇用調整助成金)が創設され、景気の変動・産業構造の変動に対応し雇用の維持に重点を置いた雇用対策が講じられた。 |
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■2 老人保健制度の創設、医療保険制度の大改正
(老人保健制度の創設) 1973(昭和48)年1月に実施された老人医療費支給制度により、従前と比べて高齢者は医療機関にかかりやすくなり、老人医療費が急増することとなった(図表2-3-1)。また、年齢階級別に受療率をみると、1960(昭和35)年当時、65歳以上の者の受療率*3 は現役世代のそれを下回っていたが、その後現役世代を大きく上回るようになった。また、70歳以上の者の受療率は、1970(昭和45)年から1975(昭和50)年までの5年間で約1.7倍に上昇した(図表2-3-2)。 このため、同制度については、高齢者の健康に対する自覚を弱め行き過ぎた受診を招き、その結果、高齢者人口の増加と相まって老人医療費の急増を招いているとして、病院の待合室に高齢者がつめかける「病院のサロン化」や「過剰受診・過剰診療」などの問題が指摘されるようになった。また、高齢者福祉施設が量的に不十分であったことや世間体を気にして老人ホームへの入所を避ける層の存在から、病院に入院する高齢者の患者が増加し、いわゆる「老人病院」の増加や、必ずしも入院治療を要しないが、寝たきり等の事情で入院を継続するという「社会的入院」の現象が現れ始めた。 また、被用者人口の増大や人口の都市集中などにより、国民皆保険実現当時に半数弱を占めていた農家等の家族従業者や自営業主が減少し、一方で被用者保険の加入者が退職後に国民健康保険に移行したため、国民健康保険は高齢者の加入率が被用者保険に比べて高くなっていた。そこへ老人医療費急増の直撃を受けて国民健康保険の財政状況は非常に厳しくなった。 さらに、日本人の疾病構造が、高血圧、脳血管疾患、心臓病などの生活習慣病*4 中心に変化してきている中で、高齢者の健康という観点からは、壮年期からの生活習慣病の予防や早期発見のための対策が重要であった。このような老人医療に関わる様々な問題に対応するため、1982(昭和57)年8月に「老人保健法」*5が制定され、翌年2月から施行された。 老人保健法は、1老人医療費支給制度を廃止し、高齢者*6 にも一部負担*7 を求めることとしたこと、2老人医療費に要する費用について国、地方公共団体が3割(国20%、都道府県5%、市町村5%)を負担し、各保険者が7割を拠出することにより全国民が公平に負担することとし、国民健康保険財政の救済策を講じたこと、3疾病予防や健康づくりを含む総合的な老人保健医療対策を盛り込むことなど、負担の公平、健康への自覚や適正な受診を促すという趣旨の法律であった。これにより、老人福祉法に基づく老人医療費支給制度は、1983(昭和58)年1月をもって終了した。 図表2-3-1 国民医療費及び老人医療費の年次推移(1973年度を100とした場合) 図表2-3-2 年齢階級別に見た受療率(人口10万対)の年次推移(入院・外来) (老人保健制度における老人加入者按分率の拡大) 老人保健制度創設の主な目的の一つは、国民健康保険財政の負担軽減であった。そのため、老人保健制度は各医療保険者の共同事業として構成され、各保険者からの拠出金については加入者調整率、すなわちどの保険者も老人加入率が全国平均並みであったとすれば、どのくらいの医療費を負担することになるかという要素を取り入れて拠出額を計算することとしていた。 当初は実際にかかった老人医療費の額に応じて算定される医療費按分(医療費按分率)に係る部分と加入者数に応じて算定される加入者按分(加入者按分率)に係る部分は2分の1ずつであったが、1986(昭和61)年の老人保健法改正により、加入者按分率は100%となった。老人一人当たりの医療費が保険者によって異なるのに全部を加入者按分してしまうのは、保険者の経営努力を考慮しないものであり、負担の公平に反するとの批判があったが*8、按分率拡大の背景には、なおも厳しい財政状況に苦しむ国民健康保険の負担軽減の必要性があった。 (被保険者本人1割負担の導入・退職者医療制度の導入) 経済成長が鈍化する一方で、医療費は経済成長率や国民所得の伸びを上回る形で増加傾向を示し、医療費と国民の負担能力との間のかい離が拡大するおそれが生じた。このため、1984(昭和59)年に健康保険法が改正*9 され、サラリーマンである被保険者本人に1割の自己負担*10 を求めることとなった。また、サラリーマンが定年退職し、医療の必要が大きくなった時期に給付率が低下するという問題を解決し、生涯を通じてサラリーマンの給付と負担の公平を確保するため、「退職者医療制度」が創設された。 退職者医療制度は、1退職して厚生年金や共済組合などの老齢年金、退職年金等を受給している国民健康保険の被保険者を対象として、従来、本人、家族ともに7割給付であったものを、老人保健制度が適用されるまでの間、本人には8割給付、家族には入院について8割給付(外来は7割給付)を行うこと、2退職者の医療費は退職者本人が支払う保険料に加え、被用者保険各制度からの拠出金でまかなうことをその内容とした。すなわち、退職者医療制度は、現役サラリーマンと事業主の保険料を主な財源として退職者等の医療費をカバーし、これによって退職後給付率が大幅に低下することを緩和するとともに、国民健康保険の他の加入者の負担を軽減することを意図した。 併せて、老人保健制度や退職者医療制度の導入により、国民健康保険の財政負担が軽減されることを踏まえ、国庫負担割合の見直しが行われた。しかしながら、国民健康保険財政は再び窮迫し、前述の老人保健制度における加入者按分率の引上げにつながった。 (特定療養費制度の創設) 1984(昭和59)年の健康保険法の改正において、新しい医療技術の出現や患者のニーズの多様化に適切に対応すべく特定療養費制度*11 が導入された。特定療養費制度は、高度先進医療や特別の療養環境の提供について、一定のルールの下で保険診療と保険外診療との併用を認める制度であった。その内容は、1高度で先進的な医療技術の技術料相当部分に係る費用や、2いわゆる差額ベッド代や予約診療など特に定められたサービスのほか、一定の歯科材料に係る費用について自己負担としつつ、入院・検査費用などの本来保険給付の対象となる基礎的部分について、療養費の給付を行うというものであった。 (老人保健施設の創設) 1982年に制定された老人保健法の目的の一つに、「社会的入院の解消」があった。当時、高齢者に必要のない医療を行って医療費をかせぐ老人病院の存在が医療保険財政の観点からも問題とされ、そのような病院が出現した背景に「社会的入院」があるとされた。そのため、昭和58年診療報酬改定時には、診療報酬を入院期間の長さに応じて逓減させる仕組みを強化した。 その後、1986(昭和61)年の老人保健法改正では、加入者按分率を100%に引上げるとともに老人保健施設が創設された。同施設は、病院におけるケアが必ずしも要介護老人の多様なニーズに十分対応していない面があったという反省から、病状が安定して病院での入院治療よりも、リハビリテーションや看護、介護に重点を置いたケアを必要とする老人を対象に、必要な医療ケアと生活の実態に即した日常生活サービスを併せて提供するとともに、要介護老人の心身の自立を支援し、家庭への復帰を目指すものであった。老人保健施設は、医療施設と福祉施設及び医療施設と家庭、それぞれの中間的性格を有することから「中間施設」として構想され、制度化に当たって老人保健施設という名称となった。 また、 同施設におけるサービスについては、老人保健制度から給付を行い、一方、在宅で生活する者とのバランスから、食事や個人の選択に係るサービスについては、利用者負担とされた。 |
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■3 医療提供体制の見直しと「医療計画」の策定
いわゆる一県一医大構想等に基づき、医師の養成が図られた結果、1984(昭和59)年には、医師の総数が約18万人、人口10万人当たり150.6人と、1985(昭和60)年までに150人という目標を達成し、将来は逆に医師の過剰が憂慮されるに至った。 高齢となった医師の引退を見込んでも、年に約6千人の医師が増え、当時の推計では既に医師が過剰で定年制などを実施している西ドイツ(当時)の水準(人口10万人当たり232人)に近づくと予測された。また、歯科医師の数も、1984(昭和59)年に人口10万対52.5人で1985年を待たずに目標を上回っており、このまま推移すれば年に約2,500人の増加が見込まれた。 このようなことから、厚生省に設置された「将来の医師需給に関する検討委員会」及び「将来の歯科医師需給に関する検討委員会」は、1986(昭和61)年3月、1995を目途に医師及び歯科医師の新規参入を、医師については10%、歯科医師は20%削減することが至当との意見をまとめ、それ以降大学の医・歯学部の定員削減が進められることとなった(図表2-3-3)。 図表2-3-3 医師・歯科医師数の年次推移 一方、医療供給体制は、人口増に加え、国民の所得水準の向上、医療保険制度の充実等による医療需要の著しい増嵩に伴って、医療施設の整備及び医師等医療従事者の確保が促進された。この結果、医療供給体制は量的には相当程度整備された。昭和50年代後半に入ると、医療機関の地域的偏在等の問題が指摘され、地域によっては病院病床が必要以上に存在したり、各医療施設の医療機能の分担も不明確であった。 そこで、1985年には医療法が改正され、都道府県が地域の実情に応じて定めた「医療計画」に沿って、二次医療圏*12 単位で必要病床数を設定し、それを上回る病床数が存在する病床過剰地域においては都道府県知事に病院の開設等について勧告を行う権限を与えることにより、自由開業医制に一定の制約が課されることとなった。病院病床数は、同法改正施行前のいわゆる「駆け込み増床」等により1990年にかけて増加傾向が続いたが、その後はほぼ横ばいに転じている。(図表2-3-4)。 図表2-3-4 病床数の年次推移 |
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■4 基礎年金の創設
(基礎年金の創設) 公的年金制度は大きく3種7制度*13 に分立(前出 図表2-2-5)して存在した結果、給付と負担の両面で制度間の格差などが生じるとともに、産業構造の変化等によって、特に農民、自営業者等を被保険者とする国民年金の財政基盤が不安定になるという問題が生じていた。また、制度間の格差については、年金の官民格差問題も指摘されていた。 このため、国民年金法が1985(昭和60)年に改正され、国民年金は全国民を対象とする基礎年金制度に改められ、厚生年金や共済年金等の被用者年金は基礎年金に上乗せする2階部分の報酬比例年金として再編成された(図表2-3-5)。この結果、基礎年金の部分については、給付の面でも負担の面でもすべて同じ条件*14 で扱われることになり、制度間の整合性と公平性が確保された。また、基礎年金の費用は、税財源による国庫負担と各制度が加入者の頭割りで持ち寄る拠出金により、全国民が公平に負担することになり、制度の基盤の安定が図られた。 図表2-3-5 基礎年金の概念図 (年金給付水準の適正化) 基礎年金の導入と合わせて、将来に向けての年金給付水準の適正化も図られた。1986(昭和61)年の改正法施行時の標準的な年金額については、加入期間が32年、男子の平均標準報酬月額が25万4,000円として月額17万3,100円となり、これは平均標準報酬の68%であった。しかしながら、平均加入期間が40年になると、標準的な年金額は21万1,100円となり、これは男子の平均標準報酬月額の83%にも達することが明らかとなった。また、厚生年金の保険料率も38.8%と現在の4倍近い率となることが分かった。 このため、厚生年金の年金額の算定方法を改め、定額部分の単価を2,400円から1,250円に、報酬比例の乗率を1000分の10から1000分の7.5に徐々に逓減させ、加入期間が40年になっても給付水準がこれまでとほぼ同額の月額17万6,200円、平均標準報酬に対して69%にとどまるようにされた。これによってピーク時の最終保険料率も30%以下の28.9%にとどまることとなった。国民年金の1か月当たりの単価も2,000円から1,250円に徐々に引下げ、ピーク時の保険料の月額は1万9,500円から1万3,000円にとどまることとなった。 こうして日本の年金政策は、前述の基礎年金創設と併せ、制度の分立と給付の拡大から、制度の統合と給付水準の適正化へ大きく方向転換されることとなった。 (専業主婦の基礎年金) 1985年の国民年金法改正では、民間サラリーマン等の妻(専業主婦)にも自分名義の基礎年金を保障した。それまでの制度では、専業主婦は夫の被用者年金(配偶者加給年金等)で保障することとされ、また、国民年金に任意で加入することができた。しかし、国民年金に任意加入しない妻が離婚したり、障害者になった場合には年金が受給できないという問題や任意加入した、しないによって世帯としての年金額の水準に差が生じるという問題があった。 このような問題を解決するため、専業主婦も国民年金に加入を義務づけ(第3 号被保険者)*15、加入者一人一人に自分名義の基礎年金を支給することとした。また、その保険料負担については専業主婦には通常、独自の所得がないことから、医療保険同様、個別に負担することは求めず、夫の加入する被用者年金制度で負担することとした。 (障害基礎年金制度の創設) 基礎年金の導入とともに、国民年金に加入する20歳前に障害者となった者にも障害福祉年金でなく障害基礎年金が支給され、国民年金に加入した後に障害となった場合には、3分の1以上の期間の保険料の滞納がない限り、障害基礎年金が支給されるなど、障害者に対する給付が大幅に改善された。また、年金とは別に、20歳以上で精神又は身体の重度の障害により日常生活において常時特別の介護が必要な在宅の障害者には、月額2万円の特別障害者手当も支給されることになった。 このように障害者に対する給付が大幅に改善されたのは、1981(昭和56)年の「国際障害者年」を契機に、社会が連帯して障害者が自立できる基盤を形成し、所得保障をはじめ障害者に対する総合対策を進めるべきであるという認識が高まったことも背景にあった。 (船員保険の厚生年金への統合) 年金制度が長期にわたり安定して運営されるためには、制度の基盤となる集団が長期的に安定していることが必要だが、職域保険の1つであり船員を対象とした日本唯一の総合保険である船員保険制度については、被保険者の減少や著しい高齢化等により年金財政が悪化し、船員保険集団のみでは制度の存続が困難な事態に陥った。 このため、基礎年金導入を契機として、船員保険の職務外年金部門は厚生年金と完全に統合され、負担の面で若干の違いが残ったものの、船員保険の給付は2階部分まで給付体系、給付水準、支給開始年齢などが厚生年金とほぼ同じとなった。 |
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*1 「 公債の発行の特例に関する法律」に基づいて発行される公債。別名「赤字国債」。
*2 第1次臨時行政調査会は1964年に設置。 *3 ある時点で疾病治療のために医療施設で受療した患者数の人口10万人に対する比率をいう。また、その経年変化については、一般的な健康状況の推移のほかに、医療保険制度の変更による影響も考えられることに留意する必要がある。 *4 当時は「成人病」と呼ばれていた。 *5 2008年4月に「高齢者の医療の確保に関する法律」と改称された。 *6 老人保健法による医療等は、70歳以上の者及び65歳以上70歳未満の者で一定の障害を有することを市町村長により認定された者を対象として行われた。 *7 老人医療費について、一定額を受給者本人が自己負担(外来通院1か月400円、入院1日300円(2か月を限度))することとなった。 *8 吉原健二 『老人保健法の解説』 中央法規出版 1983年。 *9 同法改正により、サービス業など従来非適用業種であった業種の常時5人以上の従業員を使用する法人の事業所は、1986年4月1日から強制適用となった。また、常時5人未満の従業員を使用する法人の事業所については、1989年4月1日から全面強制適用されることになった。 *10 1947年6月より本人の自己負担は廃止されていた。 *11 本制度は、2006年10月1日以降、「評価療養」と「選定療養」に再編成されている。 *12 病院の病床及び診療所の病床の整備を図るべき地域的単位として区分する区域をいう。 *13 当時の公的年金制度は、1)一般の被用者を対象とする厚生年金保険及び船員保険、2)公務員等を対象とする5つの共済組合(国家公務員等共済組合、地方公務員等共済組合、私立学校教職員共済組合、農林漁業団体職員共済組合)、3)農民、自営業者等を対象とする国民年金の3種7制度から構成。 *14 老齢基礎年金の額は、被保険者期間(第1号被保険者については保険料納付済期間と保険料免除期間を合算した期間)が25年以上である者に対し、65歳から支給することとされた。 *15 第1号被保険者は自営業者、農林漁業者、学生(1991年4月より20歳以上の者)等、第2号被保険者は被用者を対象とした。 |
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■第4節 少子・高齢社会への対応 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 バブル経済の崩壊と社会保障体制の再構築
日本経済は、1985(昭和60)年9月のプラザ合意により円高が急速に進行したが、「円高不況」を避けるために低金利政策を継続的に採用した結果、株価、地価などの資産価格が異常に値上がりするバブル経済の時代を迎えた。日本の財政状況は好調な税収に支えられて好転し、国債残高も対GDP比では下落した。しかしながら、バブル経済の時代は長くは続かず、1990年代初頭には事実上崩壊し、安定成長の時代は終焉を迎えた。 バブル経済の崩壊以降、日本経済は低成長、マイナス成長時代に移行したが、一方で経済のグローバル化が進展し、企業活動における国際競争が激化した。企業活動では、経営の不確実性が増大し予測が困難な状況の中で、急激な変化に柔軟に対応するためにパートタイム労働者や派遣労働者といった非正規労働者の活用を図るようになった。こうした結果、雇用者数に占める非正規労働者の割合が上昇した。また、世帯構成については、1990年代以降、共働き世帯が専業主婦世帯を上回るようになった。こうして従前の男性を中心とした正規労働者の長期勤続を前提とした日本型雇用慣行に変化がみられるようになった。 バブル経済下の1989(平成元)年には、高齢化社会に対応するための財源確保の観点から消費税が導入され、バブル経済崩壊後の1997(平成9)年には税率が3%から5%に引上げられた。その際、消費税の使途として、予算本則で年金、高齢者医療、介護等に充てられることが予算総則に盛り込まれることとなった。 1990年代に入り、日本の人口構造は生産年齢人口がそれまでの横ばいから減少に転じ、現役世代の負担感が急増する時期を迎えたが、1994(平成6)年の65歳以上人口比率は14.5%を超え、国連の定義にいう「高齢社会」が到来した。7%の高齢化社会入りからわずか24年で14%の高齢社会に到達したわけであり、この時期にはそれ以前に増して急速なスピードで人口の高齢化が進んでいった。また、1990(平成2)年には「1.57」ショックにより少子化対策が重要な政策課題として急浮上した。 一方、21世紀を目前に控えたこの時期に、「20世紀末の状況を見据え、21世紀の社会保障のあるべき姿を構想し、今後我が国社会保障体制の進むべき途」を設定しようとする動きが始まった。社会保障制度審議会では、1991(平成3)年から社会保障将来像委員会を設けて、21世紀に向けての社会保障の基本的在り方や各制度の具体的見直し等について審議を行い、同委員会第1次報告「社会保障の理念等の見直しについて」(1993年)の中で、社会保障について、「国民の生活の安定が損なわれた場合に、国民にすこやかで安心できる生活を保障することを目的として、公的責任で生活を支える給付を行うもの」と定義した。 社会保障制度審議会では、この報告等を基にして、1995(平成7)年7月に「社会保障体制の再構築(勧告)〜安心して暮らせる21世紀の社会をめざして」を取りまとめた。その中で、1950(昭和25)年の勧告(40ぺージ参照)当時は社会保障の理念は最低限度の生活の保障であったが、1995年の勧告では「広く国民にすこやかで安心できる生活を保障すること」が社会保障の基本的な理念であるとし、国民の自立と社会連帯の考えが社会保障制度を支える基盤となることを強調した。勧告の中で示された普遍性・公平性・総合性・権利性・有効性という社会保障推進の5原則とそこに示された基本的考え方の多くは、社会保障体制の再構築を求めるものであり、後の介護保険制度の法制化等に結びついた。 |
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■2 共働き世帯の増加に対応した環境整備
共働き世帯の増加にみられたように、女性労働者は着実に増加し、女性の職業に対する意識が高まった。一方で、昭和50年代頃までは、多くの職場において女性を単純、補助的な業務に限定し男性とは異なる取扱いを行うなど、企業の対応は必ずしも女性の能力発揮を可能とするような環境が整えられているとはいえない状況にあり、こうした環境を整備することが大きな課題となっていた。 このような状況を踏まえ、「国際婦人の10年」の最後の年である1985(昭和60)年に「男女雇用機会均等法」*1 が制定された。同法の施行により、企業における女性活用の意欲が高まるとともに、女性の社会進出が一層進む形となった。 1990年代以降、雇用者の共働き世帯が男性雇用者と無業の妻からなる世帯を上回ったが、一方で、当時女性が仕事を続ける上で最も困難な障害として育児が挙げられており、育児と仕事の両立のための支援対策の充実が急務となった。 こうした状況の中で、労働者が仕事も家庭も充実した生活を送ることができる働きやすい環境づくりを進めるため、1991(平成3)年に「育児休業等に関する法律」(育児休業法)が制定され(1992年施行)、1歳に満たない子を養育する労働者について、育児休業を取得することができる権利が明確化された。 また、1995(平成7)年より、雇用保険の被保険者が育児休業を取得した場合に育児休業給付金という形で休業前賃金の25%相当額(養育する子が1歳に達するまで)を支給されることとなった。 一方、核家族化や共働き世帯の増加の一方で高齢化が進行したため、家族による介護が容易でなくなってきた。このため、1999(平成11)年に施行された「育児・介護休業法」*2に基づき、介護休業制度が義務化された。また、同年より、雇用保険の被保険者が介護休業を取得した場合に、介護休業給付金として3か月を限度に休業前賃金の25%相当額を支給されることとなった。 |
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■3 ゴールドプランから介護保険制度の創設
(ゴールドプランの策定と福祉八法の改正) 「寝たきり老人」が社会問題化*3 する1968(昭和43)年以降、低所得者の独居老人世帯を対象に家事・介護サービスを提供する老人家庭奉仕員派遣事業が全国的に実施されたが、必ずしも要介護老人のケアに重点が置かれていたわけではなく、施設整備を補完するものでしかなかった。 しかしながら、老後も可能な限り住み慣れた地域社会で暮らしたいという高齢者の希望を尊重すべく、1975(昭和50)年以降在宅での福祉が推進されるようになった。このため、1978(昭和53)年以降からは、ショートステイ(寝たきり老人短期保護事業)やデイサービス(通所サービス事業)*4が国の補助事業となった。 在宅での福祉が推進されていく中で、在宅介護サービスの質を向上し、民間部門を中心に供給主体を多元化して必要なサービス量を確保していくため、その担い手として質の良い人材を確保していくことが課題となった。このため、1987(昭和62)年に「社会福祉士及び介護福祉士法」が制定され、福祉専門職が制度化された。 1989(平成元)年には、高齢者に対する保健福祉サービスを一層充実すべきとの声が高まる中、消費税導入の趣旨を踏まえ、高齢者の在宅福祉や施設福祉などの基盤整備を促進することとされた。このため、20世紀中に実現を図るべき10か年の目標を掲げた「高齢者保健福祉推進10か年戦略(ゴールドプラン)」が厚生・大蔵・自治の3大臣の合意により策定され、サービス基盤の計画的整備が図られることになった。このゴールドプランにより、2000(平成12)年までにホームヘルパー10万人、デイサービス1万か所、ショートステイ5万床と在宅福祉対策を飛躍的に拡充することとしたほか、特別養護老人ホーム24万床、老人保健施設28万床に増設する等の大幅な拡充が目標とされた。同プランは、1994(平成6)年に全面的に見直され、当面緊急に行うべき高齢者介護サービス基盤の整備目標の引上げを図り、今後取り組むべき施策の基本的枠組みを示した「新ゴールドプラン」が同じく3大臣の合意により策定された。これにより、地方の需要を踏まえた更なる高齢者介護対策の充実が図られることとなった。(図表2-4-1) 図表2-4-1 新ゴールドプランの概要 一方、1990(平成2)年には、ゴールドプランを実施するための体制づくりを図る等の観点から、福祉関係八法(老人福祉法、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、児童福祉法、母子及び寡婦福祉法、社会福祉事業法、老人保健法、社会福祉・医療事業団法*5)の改正が行われた。このうち、改正老人福祉法においては、1在宅福祉サービスの積極的な推進、2在宅・施設サービスの実施に係る権限の市町村への一元化、3各地方自治体における老人保健福祉計画策定の義務づけ等が図られた。 (介護保険制度の創設) 増大する介護需要に対して新ゴールドプランが策定されたものの、施設の整備だけでなく要介護高齢者本人の意思を尊重し、本人の自立にとって最適のサービスを提供できる体制の確保が必要と考えられた。また、バブル経済崩壊後の経済情勢や国の財政収支の悪化を踏まえ、一般財源だけでは高齢者のケアをまかなうのは難しいとの政策判断から、1994(平成6)年末には介護保険の構想が提示された。 その後、高齢者の介護の問題を一部の限られた問題としてとらえるのではなく、高齢者を等しく社会の構成員としてとらえながら、国民皆で高齢者の介護の問題を支える仕組みとして1997(平成9)年に介護保険法が成立し、2000(平成12)年4月から施行された。介護保険制度の創設により、要介護認定を受ければ、原則として65歳以上の高齢者*6 は費用の1割の自己負担*7で介護サービスを受けられるようになった。 介護保険制度においては、要介護度に応じた給付の上限が設けられ、原則として介護支援専門員(ケアマネジャー)の作成するサービス計画(ケアプラン)に従って介護サービスが提供されることを要するものとされた。これは、医療と異なり、介護サービスの場合はサービス量が多ければ多いほど利便性が高まるため、負担と給付のバランスを考慮し、保険で対応する範囲を限定したものであった。また、介護保険の保険者は市町村とされ、保険料は65歳以上の者(第1号被保険者)と40歳以上65歳未満の医療保険加入者(第2号被保険者)によって負担されることとなった。 さらに、特別養護老人ホームへの入所については、行政による福祉の措置ではなく、入所者と施設の直接契約により行われることとなった。 新たな社会保険制度の創設は国民皆保険・皆年金実現以来のことであり、世界的にもドイツ*8に続くものであった。介護保険制度の創設により、医療保険制度が担っていた高齢者医療のうち、介護的色彩の強い部分が介護保険に移行することとなった。 |
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■4 年金支給開始年齢の引上げと定年延長に向けた施策の展開
(老齢年金の支給開始年齢の引上げ) 年金支給開始年齢の引上げについては、高齢化が本格的に進行した1970年代後半以降、本格的に検討されるようになった。政府は、年金支給開始年齢の引上げに当たり、企業の定年延長や高年齢者の雇用確保策との連携方策について検討し、1980(昭和55)年に厚生年金の支給開始年齢を60歳から65歳に段階的に引上げる案を各審議会に諮問した。政府の厚生年金保険法改正案には、老齢年金の支給開始年齢について次回の財政再計算で所要の措置が講ぜられるべき旨の規定が盛り込まれていた。しかしながら、当時は多くの企業で定年が55歳であったこともあり、同規定は国会の修正により削除*9された。 国民の平均寿命が伸びていく中で年金支給開始年齢のかい離が増大し、1990(平成2)年の平均寿命は男子が75.92歳、女子が81.90歳に達した。これは、厚生年金の男子の支給開始年齢が55歳から60歳に引上げられた1954(昭和29)年当時より男子は約13年、女子は約14年伸びており、60歳以降の平均余命も男子は約20年、女子は約24年に達していた。こうした平均寿命、平均余命の伸びに対応した年金支給開始年齢の引上げについて、年金制度の観点からだけではなく、超高齢社会、人生80年時代における人の生き方、働き方はどうあるべきかという観点から政府において検討が行われた。その結果、1994(平成6)年に国民年金法及び厚生年金保険法の改正が行われ、厚生年金の支給開始年齢が男子の定額部分(1階部分)については、2001(平成13)年度より3年ごとに1歳ずつ引上げられ、2013(平成25)年に65歳とされることとなった(女子は5 年遅れで実施)。男子の報酬比例部分(2 階部分)についても、2000(平成12)年の厚生年金保険法の改正により、2013(平成25)年度から2025(平成37年)度にかけて60歳から65歳に引上げることとなった(女子は5年遅れで実施)(図表2-4-2)。 図表2-4-2 年金支給開始年齢の引上げ (定年延長に向けた施策の展開) 年金引上げに伴い、60歳から65歳までの高齢者の雇用促進と所得補填が一層重要な政策課題となり、年金法の改正と合わせて「高年齢者雇用安定法」*10 の改正が行われた。また、厚生年金の定額部分の支給開始年齢が段階的に65歳まで引上げられるのに合わせるため、2004(平成16)年に高年齢者雇用安定法が改正され、2006(平成18)年4月から、1定年の引上げ、2継続雇用制度の導入、3定年の定めの廃止のうちいずれかの措置(高年齢者雇用確保措置)を講じることが事業主に義務づけられた。 60歳代前半の在職者を対象とした在職老齢年金についても、働くことを希望する65歳までのすべての者に働く場を提供することを目指す雇用政策との連携の取れた年金制度にする観点から、在職者であっても年金を支給することを原則とした上で、60歳代前半の在職老齢年金について賃金の増加に応じて賃金と年金の合計額が増加する仕組みに改められた。 |
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■5 1.57ショックへの対応
(エンゼルプランの策定) 1990(平成2)年には、前年(1989年)における合計特殊出生率が1.57となったことが公表され(いわゆる1.57ショック)、この頃から少子化の問題が社会的にも認識されるようになった。当時は、結婚年齢の上昇に伴うものであり、出生率はやがて回復すると予測されていたが、現実には出生率は一段と減少していった。 1.57ショック当時には、少子化の進行に懸念を示し出生率回復に向けて本格的な取組みを求める声が出る一方、人口減少という視点からの主張に対しては結婚・出産は優れて個人の問題であり過剰な反応に危惧する声があった。もとより個人の人生の選択に社会、まして行政が介入すべきでないことは当然であるが、各人の希望を実現するため「健やかに子どもを生み育てる環境づくり」を行うことは社会的に重要なこととされ、ともすれば「社会保障=高齢化対策」と受け止められがちであった中、少子化の進行を踏まえた総合的な取組みが政府部内で本格的に取り上げられることとなった。 少子化対策として取り組まれる施策の多くは、結婚・出産という「出生」行為自体の変化に即効性を持つものではなく、中長期にわたって子どもを生み育てることに優しい社会を作っていくものであるが、子育てに対する社会的支援を企業や地域社会を含めた社会全体として取り組むべき課題と位置づけるとともに、保育、雇用、教育、住宅など各般にわたり、複数の省庁における横断的な施策として、総合的かつ計画的に施策を推進していく必要性が強調されるに至った。 このため、1994(平成6)年12月、文部、厚生、労働、建設の4大臣合意による「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について」(エンゼルプラン)が策定され、今後おおむね10年間を目途として取り組むべき施策について、基本的方向と重点施策が盛り込まれた。このエンゼルプランは、1安心して出産や育児ができる環境を整える、2家庭における子育てを基本とした「子育て支援社会」を構築する、3子どもの利益が最大限尊重されるよう配慮する、という3つを基本的視点とするものであった。その上で基本的方向として、1子育てと仕事の両立支援の推進、2家庭における子育て支援、3子育てのための住宅および生活環境の整備、4ゆとりある教育の実現と健全育成の推進、5子育てコストの軽減 の5項目を掲げ、各分野での重点施策が推進されることとなった。 (保育サービスの拡充等子育て支援策の充実) エンゼルプランの中心となったのは、保育サービスの拡充であった。保育サービスについては、女性の社会進出などに伴う保育ニーズの多様化などに対応して、大蔵、厚生、自治の3大臣合意により、1994(平成6)年12月に「当面の緊急保育対策等を推進するための基本的考え方」(緊急保育対策等5か年事業)が策定され、低年齢児保育の待機の解消や延長保育の拡大などが図られた。この計画はゴールドプランと同様に財政的な裏付けを持って1995(平成7)年度から5か年の保育サービス整備の目標を定めたもので、計画によりサービスの整備が進められた。しかしながら、利用希望者が都市部を中心に増加し、依然として保育所における待機児童問題はなかなか解消されなかった。 一方、1994年6月に成立した健康保険法等の改正及び同年11月に成立した国民年金法等の改正により、育児休業期間中の厚生年金保険料や健康保険料等の本人負担額が免除されるとともに、医療保険制度において従来の分娩費と育児手当金を統合し、出産育児一時金として充実する措置が講じられた。 |
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*1 「 雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」(1972年法律第113号)
*2 「 育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」(1991年法律第76号) *3 1968年9月の全国社会福祉協議会「居宅ねたきり老人実態調査」結果公表が契機となった。 *4 特別養護老人ホーム等に併設されるデイサービス施設に週一、二回通い、入浴、食事、生活指導、日常動作訓練等の各種サービスを受けられるようにし、併せて、家族に対する介護教育も行うもの。 *5 「 独立行政法人福祉医療機構法」(2002年法律第166号)制定に伴い廃止。 *6 介護保険制度においては、40歳以上65歳未満の人についても、初老期における認知症、脳血管疾患等の老化に起因する疾病等の場合には必要なサービスを受けることができることとなった。 *7 低所得者に対しては、一定の負担軽減策がある。 *8 1994年4月にドイツで介護保険法が成立した。 *9 1989年の改正案では、厚生年金の支給開始年齢を60歳から65歳に段階的に引上げることとし、その施行日は別に法律で定めることとしたが、これらの規定も国会修正で削除された。 *10 「 高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」(1971年法律第68号) |
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■第5節 経済構造改革と社会保障 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 経済基調の変化と構造改革路線の展開
バブル経済の崩壊で低迷した日本経済は、1990年代の後半には設備投資が大幅に増加し個人消費も堅調な増加を続けたことから、自律的回復軌道に乗ったかと思われた。しかしながら、戦後50年間日本を支えてきた経済社会システムが、かえって日本の活力ある発展を妨げている状況が生じているとして、世界の潮流を先取りする新しい経済社会システムを創造するためには、一体的な改革が必要であるとされた。 このため、1997(平成9)年以降、行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融システム改革及び教育改革の「6つの改革」が推進された。 このうち行政改革では「中央省庁等改革基本法」に基づき中央省庁の再編が進められ、その結果、厚生省と労働省は統合し、2001(平成13)年1月に厚生労働省が誕生した。また、総理府に置かれていた社会保障制度審議会は廃止*1となり、内閣府に経済財政諮問会議が設置された。また、社会保障改革については、社会保障構造改革の第一歩として介護保険制度の実施に加え、後述のとおり医療保険制度の改革に取り組むこととされた。 当時、悪化しつつあった財政状況を改善するための財政構造改革については、1997(平成9)年12月に「財政構造改革の推進に関する特別措置法」(財政構造改革法)*2 が成立し、当面の目標として2003(平成15)年度までに、1国及び地方公共団体の財政赤字の対GDP比を3%以下にすること、22003年度までに特例公債依存から脱却すること、32003年度の公債依存度を1997年度に比べて引下げることを定め、歳出の改革と縮減のための具体的方策と枠組みを一体的に打ち出した。 しかしながら、財政構造改革法制定と同時期に金融機関の破綻が相次いだことから金融情勢が不安定になるとともに、企業・家計の不安感は急に高まり、経済活動を収縮させた。翌1998(平成10)年度もマイナス成長が続き、デフレ・スパイラルが懸念されるようになった。財政再建策はいったん棚上げされ、景気刺激策がとられたものの、景気は回復せず、日本の財政赤字はますます悪化することとなった。 このため、「構造改革なくして成長なし」との考え方の下に、構造改革と財政健全化が進められた。2006(平成18)年7月に閣議決定された「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2006」において、2011(平成23)年度に国・地方の基礎的財政収支を黒字化するとの目標を掲げ、そのために「優先度を明確化し、聖域なく歳出削減を行う」「将来世代に負担を先送りしない社会保障制度を確立する」等の原則を打ち出された。そして、目標達成のために必要となる対応額を16.5兆円と試算し、このうち社会保障で1.1兆円を2007(平成19)年度からの5年間で削減*3することを求められた。 一方、経済のグローバル化はその後も進展し、企業にとって人件費負担が重くのしかかるようになったことから、パートタイム労働者や派遣労働者の活用を一層図るようになった。こうした中、1999(平成11)年には、厳しい雇用失業情勢や働き方の多様化を背景として労働力需給のミスマッチの解消を図り、多様なニーズに応えていくために労働者派遣法*4 が改正され、労働者派遣を認める業務が原則自由化(ネガティブリスト化)された。また、2003(平成15)年の同法改正によって、2004(平成16)年3月から製造業務への派遣も解禁された。人件費負担に悩む企業は、正規労働者を抱えず非正規労働者に代替する動きを進めた結果、雇用者比率に占める非正規労働者の比率が3分の1に達し、社会保障の枠組みからはずれる層の問題が顕在化した。また、国民の間に生じた格差の拡大傾向、若年失業の増大等を背景に、多くの国民が将来の生活に強い不安を抱くようになった。その後、日本経済は、2008(平成20)年9月に発生したリーマン・ショック等により低迷し、財政構造の悪化が更に進行した。 こうした経済社会状況を踏まえ、「国民の安心・安全を確保するために社会保障の必要な修復をするなど安心と活力の両立を目指して(中略)必要な対応等を行う」(2009年6月23日閣議決定「経済財政改革の基本方針2009 〜安心・活力・責任〜」)こととされ、社会保障費削減の方針は最終年度を待たずに転換されることとなった。 この時期、少子高齢化は更に進展し、日本は総人口が減少するといった人口減少社会を迎えようとしている。また、高齢化や未婚化により単身世帯が目立って増加していった。 |
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■2 産業構造等の変化や人口構成の変化に対応した年金改革
(被用者年金の厚生年金への統合) 被用者年金について、特定の産業や職種のみを対象とした制度が分立した状況下において、産業構造や就業構造の変化に伴い現役世代が減少する制度では、現役世代の保険料負担は過大となって年金制度の維持が困難になるとともに、費用負担の面での制度間における現役世代の不公平が一層拡大していくことにならざるを得なくなった。 特に、旧国鉄職員を対象とする日本鉄道共済組合などにおいては、加入者数の減少により年金保険料を納める現役世代と年金を受給するOB世代とのバランスが崩れ、急速に財政状況が悪化した。また、このほかにも各制度の成熟度の違いを反映して、各制度間の保険料負担に生じた大きな格差が問題となった。 このような状況を踏まえ、被用者年金制度の再編成の第一段階として、1986(昭和61)年の船員保険(職務外年金部門)に続き、1997(平成9)年4月、日本鉄道共済、日本たばこ産業共済、日本電信電話共済の3 共済組合が厚生年金保険制度に統合された。また、2002(平成14)年4月には農林漁業団体職員共済組合が厚生年金に統合された。 (保険料水準固定方式とマクロ経済スライドの導入) 公的年金制度については、将来の現役世代の負担が過重なものとならないようにするとともに、社会経済と調和した持続可能な制度にしていく必要があるが、少子高齢化が急速に進む中で、将来の保険料が際限なく上昇してしまうのではないかといった懸念の声があった。 こうした中、将来の現役世代の過重な負担を回避するため、2004(平成16)年の改正によって、最終的な保険料水準を厚生年金で18.30%、国民年金で1万6,900円(2004年度価格)に固定する(保険料水準固定方式の導入)とともに、被保険者数の減少などに応じ給付水準を自動的に調整する仕組み(マクロ経済スライド)を導入した(図表2-5-1)。これにより、標準的な年金の給付水準は年金を受給し始める時点(65歳)で現役サラリーマン世帯の平均的所得の59.3%から、2023(平成35)年には50.2%になるものと見込まれる形となった。 図表2-5-1 マクロ経済スライドの概念図 また、基礎年金の国庫負担の割合については、2004(平成16)年の年金制度改正において従来の3分の1から2分の1に引上げる道筋が示され、この道筋を踏まえ、2009(平成21)年通常国会において、2009年度からの基礎年金国庫負担割合2分の1を実現するための「国民年金法等の一部を改正する法律等の一部を改正する法律」が成立し、同年6月に施行された。 |
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■マクロ経済スライド
通常の場合、年金を初めて受給するとき(65歳時点)には、1人当たり手取り賃金の伸びを反映して年金額が算定され、受給後は、物価の伸びで改定されるが、最終的に固定した保険料負担の範囲でバランスが取れるようになるまでは、年金額の計算に当たって賃金や物価の伸びをそのまま使用せず、年金額の伸びを自動的に調整する仕組みがマクロ経済スライドである。マクロ経済スライドは、年金額の調整を行う期間において年金制度を支える力を表す被保険者数の減少率や平均余命の伸び等を勘案した一定率を年金額の改定に反映させ、改定率を1人当たり手取り賃金や物価の伸びよりも抑制する手法を採っている。 ただし、この仕組みが導入されて以降、経済はデフレ基調が続き、賃金や物価が下落していることから、2004 年の制度導入から2011(平成23)年7月現在まで発動されたことはない。 |
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■3 後期高齢者医療制度の創設等の医療制度改革
(自己負担の段階的引上げと医療制度の抜本改革) バブル経済崩壊後の経済状況の悪化等もあり保険料収入が伸び悩む一方、高齢化等に伴い医療給付費が伸びたことから、医療保険財政は大幅に悪化した。このため、1997(平成9)年に被用者保険における本人負担を1割から2割に引上げる等を内容とする健康保険法の改正が行われた。その際、2000(平成12)年度までに医療制度の抜本改革を行うことが政府の公約とされ、1診療報酬の見直し、2薬価基準の見直し、3高齢者医療制度の見直し、4医療提供体制の見直しの4本柱を内容とする抜本改革の検討が進められた。 このうち2000年度の診療報酬改定では、基本診療料、手術料を中心に体系的な見直しに着手し、包括払いの拡大*5 が進められた。また、医療提供体制についても医療法が改正され、病床区分が曖昧であった「その他病床」をそれぞれ急性期、慢性期患者への対応を想定した一般病床と療養病床に区分する制度改正が行われた。 2002(平成14)年度には、サラリーマンの本人自己負担は3割に引上げられ(翌2003年4月実施)、国民健康保険と同じ給付率となった。他方、少子化対策の観点から国民健康保険の3歳以下(2008年に小学校就学未満児に引上げ)の子どもについては2割負担に引下げた。また、診療報酬において薬価を除く本体で初のマイナス改定*6が行われた。 一方、高齢者医療制度については、高齢者の自己負担を1割、現役並み所得の場合は2割とした(2008年に3割に引上げ)上で、老人保健法の対象年齢を70歳から75歳に引上げ、公費負担割合を3割から5割に引上げた。老人医療費が無料化されてから、1割負担に至るまで約30年を要したことになる。 また、改正法の附則において、1保険者の再編・統合を含む医療保険制度体系の在り方、2新しい高齢者医療制度の創設、3診療報酬体系の見直しに関し2002年度中に「基本方針」を策定することが盛り込まれた。これを受けて、2003年3月に「医療保険制度体系及び診療報酬体系に関する基本方針」が閣議決定された。 (新しい高齢者医療制度の創設) 老人保健制度は、その医療費を各保険者からの拠出金と公費、老人の患者自己負担で賄い、市町村が運営する方式を採っていたが、1拠出金の中で現役世代の保険料と高齢者の保険料が区分されておらず、現役世代と高齢世代の費用負担関係が不明確であること、2保険料の決定・徴収主体と給付主体が別であり、財政運営の責任が不明確であること等が問題点として指摘されていた。 このため、老人保健制度と同様に75歳以上(「後期高齢者」)の者等*7 を対象とする一方で、現役世代と高齢者の費用負担のルール(給付費の約5割を公費、約4割を現役世代からの支援金、約1割を高齢者の保険料)を明確化するとともに、都道府県単位ですべての市町村が加入する広域連合(後期高齢者医療広域連合)を運営主体とすることにより、運営責任の明確化及び財政の安定化を図る観点から、2006(平成18)年に成立した「健康保険法等の一部を改正する法律」により、2008年4 月から老人保健制度に代わる後期高齢者医療制度が実施された(図表2-5-2)。 図表2-5-2 後期高齢者医療制度の概念図 後期高齢者医療制度は、従来の老人保健制度が保険者間の共同事業であったのに対し、後期高齢者を被保険者として保険料を徴収し、医療給付を行う仕組みとなっており、独立した医療保険制度となった。また、後期高齢者医療広域連合は、保険料の決定、医療給付等の事務を処理し、財政責任を持つ運営主体となるため、後期高齢者医療の保険者として位置づけられることとなった。 また、65歳から74歳の「前期高齢者」の医療費については、国民健康保険及び被用者保険の各保険者の75歳未満の加入者数に応じて財政調整を行うこととなった。 なお、前期高齢者の財政調整制度の創設に伴い、退職者医療制度は廃止されることとなったが、団塊世代が退職年齢に差し掛かり、65歳未満の退職者が大量に発生することが見込まれることから、現行制度からの円滑な移行や市町村国保の財政基盤の安定を図る観点から、2014(平成26)年までの間に退職した者が65歳に達するまでの間は、経過措置として存続することとなった。 (医療費適正化の取組み) 急速な高齢化の進展等により2006(平成18)年当時国民医療費の約3分の1を75歳以上の老人医療費が占めるようになり、2025(平成37)年には国民医療費の半分弱を占めるまでになると予測された。こうした中で、患者自己負担の見直しや、診療報酬改定といった医療費適正化のための短期的な取組みと併せて、中長期的に医療費適正化を図る観点から、2006年の医療保険制度改革においては、医療費の伸びの構造的要因に着目した適正化、効率化を推進していく必要があるとされた。 このため、短期的な取組みを織り込みつつ、中長期的な医療費適正化対策として生活習慣病の予防や平均在院日数の短縮(長期入院の是正のための療養病床の再編成等)の取組みを計画的に進めることで、医療費適正化の総合的な推進を図ることとなった。 また、医療費適正化を計画的に進めていくに当たっては、都道府県ごとに医療費の地域差があることから、地域の医療提供体制に責任を有する都道府県にも関与してもらうことが必要であり、国の責任の下、国と都道府県がともに協力しながら取り組んでいく必要があった。こうしたことから、国は医療費適正化基本方針を定め、この基本方針に基づき、国と都道府県は「医療費適正化計画」(5 か年計画)を策定することとなった。全国医療費適正化計画は、2012(平成24)年度までに達成する目標として、1国民(住民)の健康の保持の推進に関する目標(生活習慣病対策に対応)、2医療の効率的な提供の推進に関する目標(平均在院日数の短縮に対応)を掲げた。 |
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■4 介護保険制度の見直し
2000(平成12)年に介護保険がスタートした後の5年間で、要介護認定、要支援認定*8 を受けた者の数は約218万人から約411万人と2倍近くに伸びたが、特に要支援・要介護1といった軽度者が約2.4倍と大幅に伸びており、要介護認定者全体のおよそ半数を占めるに至った。こうした軽度者は、効果的なサービスを提供することにより、状態が維持・改善する可能性が高いと考えられていたが、従来のサービスでは、こうした軽度者の状態の改善・悪化防止に必ずしもつながっていないとの指摘がなされていた。また、一人暮らし高齢者や認知症高齢者の増加により、こうした者を地域で支える必要性も高まってきた。 このため、2005(平成17)年6月に成立した介護保険法改正法においては、新予防給付や地域支援事業*9が創設された(図表2-5-3)。 図表2-5-3 介護保険制度の見直し このうち新予防給付については、状態の維持・改善の可能性が高い軽度者に対する給付(予防給付)の内容や提供方法を見直し、介護予防ケアマネジメントは地域包括支援センター*10 が行うこととし、通所系サービス(通所介護・通所リハビリテーション)において、運動器の機能向上、栄養改善、口腔機能向上など新たなメニューとして位置づけるなどの見直しが行われた。 一方、地域支援事業については、要支援・要介護になる前の段階からの介護予防を推進するため、ハイリスク・アプローチ*11 の観点から、要支援・要介護になるおそれの高い65歳以上の者を二次予防事業*12の対象者とし、介護予防事業を実施した。 また、新たな介護サービス体系として、地域密着型サービスを創設し、身近な地域で地域の特性に応じた多様で柔軟なサービス提供を目指し、小規模多機能型居宅介護や夜間対応型訪問介護等を制度化した。 さらに、同法改正では、施設における食費・居住費について在宅と施設の利用者負担の公平性の観点から、介護保険給付の対象外とした。 |
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■5 障害者福祉の改革
(支援費制度の導入) 1997(平成5)年11月に厚生省は、中央社会福祉審議会に社会福祉構造改革分科会を設置し、社会福祉事業を取り巻く環境の変化や、少子高齢社会において増大・多様化する福祉需要に対応し、利用者の信頼と納得が得られる福祉サービスが効率的に提供されるよう、社会福祉サービスの利用方法や社会福祉法人の在り方、利用者の権利擁護の方策など社会福祉制度全般に通じる事項の改革を内容とする社会福祉基礎構造改革についての検討を始め、その結果を踏まえて「社会福祉の増進のための社会福祉事業法等の一部を改正する法律案」(社会福祉事業法等改正一括法案)を国会に上程、2000(平成12)年5月の通常国会で成立・公布をみた。 この改革の中で、障害者福祉サービスについては、より利用者の立場に立った制度を構築するため、従来の行政処分によりサービス内容を決定する福祉サービスの利用方式(措置制度)を改め、利用者が事業者と対等な関係に基づきサービスを選択する利用方式(支援費制度)を導入し、利用者保護と権利擁護、福祉サービスの評価システムや情報公開などによる福祉の質の向上と、事業の透明性の確保、都道府県地域福祉支援計画、市町村地域福祉計画の策定などによる地域福祉の推進を目指した。 (障害者自立支援法の制定) 支援費制度導入以降、在宅サービスを中心に予想を上回るサービス利用の拡大が行われたものの、地域によるばらつきや未実施の市町村が見られたほか、精神障害者に対する福祉サービスの立ち遅れが指摘された。また、長年にわたり障害福祉サービスを支えてきた現行の施設や事業体系については、利用者の入所期間の長期化等により、その本来の機能と利用者の実態がかい離する等の状況にあったほか、「地域生活移行」や「就労支援」といった新たな課題への対応が求められた。さらに、在宅サービスの費用について安定的な財源が確保される仕組みになっていない等の問題もあった。 このため、当面する支援費制度が抱える問題に対応するだけでなく、これまでの障害者福祉の課題について、障害者の自立支援という観点から総合的に見直すことを目的として、2005(平成17)年に「障害者自立支援法」が制定された(図表2-5-4)。 図表2-5-4 障害者自立支援法の概要 障害者自立支援法では、それまで分かれていた身体・知的・精神の3障害の制度を一元化し、日中活動支援と夜間の居住支援を分離させ、また、市町村に実施主体を一元化した。33種類に分かれた施設体系を6つの事業に再編するとともに、新たに就労支援事業等を創設した。また、支援の必要度を判定する障害程度区分を導入するとともに、安定的に財源を確保するため、国の費用負担を義務化し、利用者にも応分の負担を求めることとした。 |
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■6 本格的な少子社会への対応
(少子化傾向の定着と少子化対策の推進) 「エンゼルプラン」策定後も少子化が更に進行したことから、新たな対策が求められた。少子化進行の主な要因としては、晩婚化・非婚化の進行等による未婚率の上昇が挙げられた。また、その背景として固定的な性別役割分業を前提とした職場優先の企業風土、核家族化や都市化の進行等により、仕事と子育ての両立の負担感が増大していることや、子育てそのものの負担感が増大していることがあると考えられた。このため、仕事と子育ての両立に係る負担感や子育ての負担感を緩和・除去し、安心して子育てができるような環境整備を図るため、1999(平成11)年12月に「少子化対策推進基本方針」(少子化対策推進関係閣僚会議)が策定され、この基本方針に基づき同月に「重点的に推進すべき少子化対策の具体的実施計画について」(新エンゼルプラン)が策定された。さらに、2002(平成14)年、少子化対策の一層の充実に関する提案として「少子化対策プラスワン」が取りまとめられ、「子育てと仕事の両立支援」が中心であった従前の対策に加え、「男性を含めた働き方の見直し」、「地域における子育て支援」、「社会保障における次世代支援」、「子どもの社会性の向上や自立の促進」が方向として示された。同プランでは、社会全体での次世代の育成を支援することを表すため、「次世代育成支援」という言葉が政府の公式文書として初めて使用された。 「少子化対策プラスワン」を踏まえて、2003(平成15)年には「次世代育成支援対策推進法」が制定され、次代の社会を担う子どもが健やかに生まれ、かつ育成される環境の整備を図るため、次世代育成支援対策についての基本理念が定められた。同時に、地方公共団体と合わせて事業主に対して次世代育成支援に向けた具体的な行動計画の策定が義務づけられた。また、同年には「少子化社会対策基本法」が成立し、2004(平成16)年12月に「子ども・子育て応援プラン」が策定された。 |
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■7 安心して働くことができる環境整備と雇用のセーフティネットの強化
2008(平成20)年のリーマン・ショック前後の厳しい経済状況の中で、フルタイムで働いても生活保護の水準にも達しない収入しか得られない「ワーキングプア」の増大や「派遣切り」に象徴される非正規労働者の雇止めなどが社会問題となった。 こうした状況に対応するため、雇用調整助成金等の拡充のほか、2009(平成21)年に雇用保険法が改正され、雇用保険の適用範囲の拡大や受給資格要件の緩和等を行い、セーフティネット(安全網)機能の強化を図られた。 一方、就業形態が多様化したことにより、労働者の労働条件が個別に決定・変更されるようになり、個別労働紛争が増大した。このため、2007(平成19)年に「労働契約法」が制定され、労働契約についての基本的なルールが明確化された。 |
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*1 経済財政諮問会議と厚生労働省に新設された社会保障審議会に引き継がれた。
*2 同法は、1998年に凍結された。 *3 各年度1兆円程度の自然増が見込まれる中で2,200億円の削減を図ることとされた。 *4 労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律(1985年法律第88号) *5 2003年4月から、全国82の特定機能病院(大学病院本院、国立がんセンター中央、国立循環器病センター)を対象に、定額算定方式として在院日数に応じた1 日当たり定額報酬を算定するDPC/PDPS(Diagnosis Procedure Combination / Per-Diem Payment System)が導入された。その後段階的に拡大され、2010年には全一般病床(約91万床)の過半数を占めるに至っている。 *6 2002年に続き、2006年にもマイナス改定が行われた。 *7 65歳から74歳の一定の障害の状態にある旨を後期高齢者医療広域連合により認定された者も対象とされた。 *8 介護保険の給付を受けるためには、寝たきりや認知症などサービスが必要な状態かどうかの認定(要介護認定または要支援認定)を受けることが必要となる。 *9 2006(平成18)年度から、要介護・要支援状態になる前からの介護予防を推進するとともに、地域における包括的・継続的なマネジメント機能を強化する観点から市町村が実施する地域支援事業を創設し、1)介護予防事業、2)包括的支援事業、3)任意事業を行うものとしている。 *10 地域支援事業の拠点として、介護予防プランの策定等介護予防事業等を提供する施設。 *11 疾病について発生しやすい高いリスクを持った人を対象に絞り込んで対処する方法。 *12 二次予防事業とは、要介護・要支援状態となる可能性の高い65歳以上の者を対象として、状態の維持改善、悪化防止のため、運動・栄養・口腔等のプログラムを実施する事業。2010(平成22)年7月まで、「特定高齢者施策」と称した。 |
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■第6節 政権交代と社会保障 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 政権交代後における社会保障制度見直しの主な動き
2009(平成21)年8月に実施された総選挙の結果、9月に政権が交代した。新政権下では、社会保障費の自然増から毎年2,200億円を削減するとした方針は廃止され、診療報酬本体について10年ぶりのプラス改定の実施や子ども手当の支給、前政権下で廃止された生活保護における母子加算の復活等が行われた。 また、第4章で述べるように、2010(平成22)年10月以降、社会保障・税一体改革の議論が進められ、2011(平成23)年6月末には「社会保障・税一体改革成案」が取りまとめられた。 |
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■2 診療報酬プラス改定と新たな高齢者医療制度の検討
(診療報酬本体のプラス改定) 2010(平成22)年度の診療報酬改定では、厳しい経済状況や保険財政の下ではあるものの、日本の置かれている医療の危機的な状況を解消し、国民に安心感を与える医療を実現していくとの認識の下、 2000(平成12)年度以来10年ぶりのネットプラス改定(0.19%)、診療報酬本体についていえば、前回改定の4倍以上のプラス改定(0.38%→1.55%)を行った。 この改定率の下で、救急、産科、小児科、外科等の医療の再建や病院勤務医の負担軽減を重点課題とし、救命患者の受け入れ体制が充実している救命救急センターの評価の引上げ、緊急搬送された妊産婦を受け入れた場合の評価の引上げ、多職種からなるチームによる取組みの評価等を行った。 さらに、75歳以上という年齢に着目した後期高齢者に関連する診療報酬(終末期相談支援料等)については、後期高齢者医療制度本体の廃止に先行して廃止した*1。 (新たな高齢者医療制度の検討) 後期高齢者医療制度については、75歳以上の高齢者を年齢到達でそれまでの保険制度から分離・区分すること、75歳以上の被用者の方は傷病手当金等を受けられず、保険料も全額自己負担となったこと、被扶養者であった方も保険料を負担することとなったこと等について、国民の十分な理解を得ることができなかった。 こうしたことから、後期高齢者医療制度に代わる新たな制度の具体的な在り方を検討するため、2009(平成21)年11月から厚生労働大臣主宰の「高齢者医療制度改革会議」が開催され、制度廃止に向け2010年12月に最終的な取りまとめが行われた。 改革会議で取りまとめられた新たな制度案では、1加入する制度を年齢で区分せず、75歳以上の高齢者の方も現役世代と同様に国民健康保険か被用者保険に加入することとした上で、2約8割の高齢者が加入することとなる国民健康保険の財政運営について、段階的に都道府県単位化を図り、国民皆保険の基盤である国民健康保険の安定的な運営を確保することとしており、厚生労働省としては、この最終取りまとめを踏まえ、制度改革の実現に向けて取り組んでいくこととなった*2。 |
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■3 子ども手当の支給と子ども・子育て新システムの検討
(子ども手当の創設) 日本の総人口は横ばいであり、減少局面を迎えているが、国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来人口(2006年12月推計)」によれば、今後、一層少子高齢化が進行し、本格的な人口減少社会になることが示された。2010(平成22)年の合計特殊出生率は1.39(概数値)で前年を上回ったが、少子化の流れを変えるためには、安心して子どもを産み育てることができる環境整備が求められている。特に子育て世帯からは、子育てや教育費等への経済的支援を求める声が強かった。また、他の先進諸国と比べ、子育てに係る経済支援の手薄さが問題視された。こうした中、2010年1月に少子化社会対策基本法に基づく施策の新しい大綱として、「子ども・子育てビジョン」が閣議決定された。 その後、子育て負担の軽減を図りつつ、次世代を担う子どもを社会全体で支える観点から、中学校修了までの児童を対象として新たに「子ども手当」の支給が、同年6月より始まった。 (幼保一体化を含む子ども・子育て支援のための包括的・一元的な制度の構築) 「明日の安心と成長のための緊急経済対策」(2009年12月8日閣議決定)に基づき、幼保一体化を含む新たな次世代育成支援のための包括的・一元的なシステムの構築について検討を行うため、2010(平成22)年1月に関係閣僚で構成する「子ども・子育て新システム検討会議」が開催され、同年6月には同検討会議で取りまとめられた「子ども・子育て新システムの基本制度案要綱」が、全閣僚で構成する少子化社会対策会議において決定された*3。 (ひとり親家庭に対する支援制度の見直し) 生活保護の母子加算(月額23,260円(子一人、居宅【1級地】))については、一般母子世帯と生活保護を受給している被保護母子世帯との消費水準の均衡を図ることを目的として段階的に縮減し、2009年3月31日をもって廃止された。しかし、生活保護を受給している世帯の子どもは、特に教育等の面で不利な状況に置かれており、子どもの貧困解消を図ることにより、子どもの教育機会を確保し、貧困の連鎖を防止できるよう、2009年12月に復活したところであり、2010年度においても引き続き支給することとなった*4。 また、ひとり親家庭の自立支援の拡充を図るため、これまで児童扶養手当の支給対象でなかった父子家庭にも児童扶養手当を支給することを内容とする「児童扶養手当法の一部を改正する法律」が2010(平成22)年5月に制定され、同年8月1日から施行された*5。 |
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■4 年金記録問題への取組みと無年金・低年金問題への対応
年金記録の誤りによって、本来受給できるはずの年金額が支給されないといった「消えた年金問題」については、2007(平成19)年以降大きく報道され、関連した個々の問題が明らかになるごとに国民から極めて大きな批判が起きた。 こうした年金記録問題については、「国家プロジェクト」として、2010(平成22)年度、2011(平成23)年度の2年間に集中的に取り組み、2013(平成25)年度までの4年間にできる限りの取組みを進めているところであり、これまでに約1,600万件(1,584万件:2011年6月末現在)の記録を基礎年金番号に統合したほか、記録回復後に年金を支払うまでの期間を短縮するなどの実績をあげている。 また、2010年10月からは検索システムを用いた紙台帳等とコンピュター記録の突き合わせを開始し、2011年1月には全国29のすべての作業拠点で記録の確認作業を行っている。 さらに、同年2月末には、インターネットを利用して、いつでも手軽に自分自身の年金記録を確認することができる「ねんきんネット」がスタートしたところであり、これらの取組みを通じて、引き続き年金記録の回復に努めている*6。 一方、無年金・低年金問題への対応も重要な問題になっていることを踏まえ、将来の無年金・低年金の発生を防止し、国民の高齢期における所得の確保をより一層支援する観点から、国民年金保険料の納付期間を2年から10年に延長する(3年間の時限措置)等の措置を行うことを盛り込んだ「国民年金及び企業年金等による高齢期における所得の確保を支援するための国民年金法等の一部を改正する法律」(年金確保支援法)が第177回国会において成立した。 |
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■5 介護サービスの基盤強化のための介護保険法の改正
介護保険制度については、2005(平成17)年の介護保険法改正において予防重視型システムへの転換、地域を中心とした新たなサービス体系としての地域密着型サービスの導入、地域包括支援センターの創設等、地域包括ケアシステム(日常生活圏域において、医療、介護、予防、住まい、生活支援サービスが切れ目なく継続的かつ一体的に提供される体制の整備)の確立に向けてその一歩を踏み出した。 一方、今後、高齢化が一層進展していく中で、介護費用の増大とそれに伴う介護保険料の上昇、都市部等の急速な高齢化の進展、認知症を有する人や単身・高齢者のみの世帯の増加、介護人材の確保などに更に取り組む必要がある。 このような状況を踏まえ、高齢者が住み慣れた地域で自立して暮らすことを支援し、将来にわたって持続可能な介護保険制度を構築するため、2010(平成22)年5月から、社会保障審議会介護保険部会において議論が行われた。ここでの議論を踏まえ、地域包括ケアの推進と、2012(平成24)年度から始まる第5期介護保険事業計画に向けた必要な見直しを盛り込んだ「介護サービスの基盤強化のための介護保険法等の一部を改正する法律」が第177回国会において成立し、2012(平成24)年4月1日に施行(一部は公布日である2011年6月22日に施行)されることとなった*7。 |
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■6 障害者制度改革の検討
障害者の権利に関する条約(仮称)の締結に必要な制度改革を行うため、2009(平成21)年12月8日に閣議決定により「障がい者制度改革推進本部」が内閣に設置された。また、同本部の下で2010(平成22)年1月から、障害者等を中心に構成された「障がい者制度改革推進会議」(以下「推進会議」という。)において、障害者に係る制度の改革についての議論が行われた。 推進会議での議論を踏まえて2010年6月29日に閣議決定された「障害者制度改革の推進のための基本的な方向について」において、応益負担を原則とする現行の障害者自立支援法を廃止し、制度の谷間のない支援の提供、個々のニーズに基づいた地域生活支援体系の整備等を内容とする「障害者総合福祉法」(仮称)を制定することとされた*8。 |
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■7 自殺・うつ病等対策
自殺者数は1998(平成10)年以降、13年連続で年間3万人を超える深刻な状況であり、警察庁の統計によると、2010(平成22)年の自殺者数は31,690人で、前年に比べ1,155人(3.5%)減少した。 自殺の背景には多様かつ複合的要因が関連するが、特に、うつ病等の精神疾患が関連することが多い。例えば警察庁の統計によれば、2010年における自殺者について、自殺の原因・動機が特定された者のうち、うつ病への罹患が自殺の原因・動機の一つとして推定できる者は約3割に及んでいる。 うつ病等の気分障害患者数は100万人を超え、うつ病はもはや国民病ともいえる状況であることも踏まえ、自殺対策の推進に当たっては、うつ病等の状態にある者へ適切な支援を行う取組みが重要であるといえる。 従前からも厚生労働省として各般の対策に取り組んでいたが、2010年1月には、厚生労働省において「自殺・うつ病等対策プロジェクトチーム」を開催し、同年5月に、悩みがある人を早く的確に支援につなぐゲートキーパー機能の充実や、職場のメンタルヘルス対策など、厚生労働分野において今後重点的に講ずべき対策をとりまとめた。続いて、同年7月より、プロジェクトチームにおいて、向精神薬の処方の在り方等について検討を進め、同年9月に、薬剤師の活用やガイドラインの作成等、過量服薬の課題の解決に向けて実施する取組みをとりまとめた*9。 |
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■8 求職者支援制度の創設
短期に離職することにより、雇用保険の受給資格を満たさない者、受給期間が終了しても再就職できない者、週20時間未満の短時間労働者、自営廃業者等雇用保険を受給できない者等に対するセーフティネットとして緊急人材育成支援事業*10 が創設され、職業訓練、再就職、生活への総合的な支援を図ったが、雇用保険を受給できない方々に対する支援については、公労使の三者構成による審議会(労働政策審議会職業安定分科会雇用保部会及び職業能力開発分科会)において、「緊急人材育成支援事業」の実施状況等を踏まえて検討が行われた。 検討の結果、恒久的な制度として雇用保険を受給できない求職者に対し、職業訓練を実施するとともに、職業訓練期間中の生活を支援し、職業訓練を受けることを容易にするための給付金を支給すること等を通じ、その就職を支援するための求職者支援制度を創設するための「職業訓練の実施等による特定求職者の就職の支援に関する法律」が2011年5月13日に成立し、同年10月1日より施行されることとなった*11。 |
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*1 「平成22年版厚生労働白書」239ページ参照
*2 「平成23年版厚生労働白書」第2部239ページ参照 *3 「平成23年版厚生労働白書」第2部173ページ参照 *4 「平成22年版厚生労働白書」335ページ参照 *5 「平成22年版厚生労働白書」187ページ参照 *6 「平成23年版厚生労働白書」第2部228ページ参照 *7 「平成23年版厚生労働白書」第2部312ページ参照 *8 「平成23年版厚生労働白書」第2部319ページ参照 *9 「平成23年版厚生労働白書」第2部359ページ参照 *10 雇用保険を受給できない者に対する職業訓練(「基金訓練」)と生活保障のための給付制度(「訓練・生活支援給付金」)及び融資制度(「訓練・生活支援資金融資」)が創設された。 *11 「平成23年版厚生労働白書」第2部192ページ参照 |
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■第3章 半世紀間の皆保険・皆年金を中心とした社会保障の成果を検証する | |||||||||||||||||||||||||||||||
第3章では、「1 これまでの社会保障の充実」「2 サービスを提供する基盤の整備」「3 社会保障を取り巻く環境の変化への対応」「4 保険料や公費の負担」の4つの視点から、半世紀間の皆保険・皆年金を中心とした社会保障の成果を検証する。
■ 1 これまでの社会保障の充実 ・ 日本の社会保障は社会保険を中心に拡充。年金、介護などで「家族間の私的扶養」から「社会全体で負担」という姿に。 ・ 国民皆保険の実現により、死亡率は低下し、平均寿命は世界最高水準に到達。 ・ 年金の給付額も改善を重ね、高齢者世帯の経済状態は改善。 ・ 介護保険は利用者の選択により保健、医療、福祉にわたる総合的なサービスを実現。 2 サービスを提供する基盤の整備 ・ 国民皆保険により医療施設数や従事者数は増加。特に、「自由開業医制」、保険証1枚でどの医療機関にもかかれる「フリーアクセス」、「診療報酬出来高払制」は民間医療機関の整備を促した。 ・ 一方、「社会的入院」「3時間待ちの3分診療」などが問題になった。また、近年は地方を中心に医師不足が叫ばれ、特に小児医、産科医等は需要に対応できていない。医療施設の機能分化と相互連携での推進で対応。 ・ 介護保険により介護職員が増加し、特定非営利活動法人や株式会社など様々な主体が参入。 3 社会保障を取り巻く環境の変化への対応 ・ 経済状況の変化に加え、急速な高齢化の中で、社会保障も給付改善一辺倒を見直す。 ・ 産業構造の変化への対応が必要に。当初、国民健康保険、国民年金の加入者の多くは農林水産業、自営業者。しかし、今や国民健康保険の加入者の多くは高齢者と低所得者となり、見直しが必要に。 ・ 疾病構造の変化、死亡者に占める高齢者の割合の高まりに、在宅医療の充実などの対応が必要に。 ・生活水準、権利意識の向上への対応も必要に。 4 保険料や公費の負担 ・ 給付改善や高齢化に伴う給付増加等を背景に、年金では賦課方式への接近、医療保険では高齢者医療を支える制度間調整のための拠出金負担により、現役世代の保険料が引上げられてきた。 ・ 一方、国民健康保険、国民年金の保険料収納率は長期漸減傾向に。 ・ 各保険制度の財政力の違い、保険料引上げ抑制への対応のため、公費を順次拡充。社会保障関係費は、今後、毎年1兆円を超える自然増の見込。 |
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■1 これまでの社会保障の充実
社会保険制度は給付と負担の関係が明確で、権利性、普遍性という観点からメリットがあり、日本の社会保障は社会保険制度を中心に拡充されてきた。年金、介護など、従来、家族間の私的扶養により負担されていたものが外部化され、社会全体で負担されるようになった。 戦後の衛生水準の向上、栄養の改善等に加え、国民皆保険の実現及びその後の給付の拡大による受療率の伸長もあって、死亡率が低下し、平均寿命は世界最高水準になった。 年金の給付額も当初は低かったが、改善を重ねるとともに、物価スライド制の導入によりオイルショック等のインフレ時も実質的な給付の維持が可能となった。また、賃金スライドにより経済成長の成果を高齢者にも及ぼすことができた。こうした公的年金制度の成熟により、高齢者世帯の家計が支えられ、高齢者世帯の経済状況は改善されてきた。 介護保険制度は、社会保険方式の採用により、社会全体で介護を支える新たな仕組みとして創設された。利用者の選択により保健、医療、福祉にわたる介護サービスが総合的に利用できるようになり、受給者数は増加していった。 ■2 サービスを提供する基盤の整備 国民皆保険の実現は、医療施設数や医療従事者の増加という点でも成果をあげた。国民皆保険に加えて、施設基準を満たせばどこでも自由に開業ができる自由開業医制、保険証1枚でどの医療機関にもかかれるフリーアクセス、個々の診療行為に価格をつけてその合計で報酬を支払う診療報酬出来高払制といった特徴は、特に個人、医療法人という民間医療施設の整備を促し、医療従事者も大幅に増加した。国民皆保険導入時に大きな問題であった無医地区の問題も解消されていった。 また、日本の医療はOECD加盟国の中でも、GDP比、一人当たりの医療費いずれでも比較的低い費用で医療を提供している。 医療上の必要性がないのに入院している「社会的入院」や患者の大病院志向、専門医志向による「3時間待ちの3分診療」などの問題には、医療施設の機能分化と相互連携の推進などの対応が行われた。 介護サービスについても、社会福祉法人、医療法人等を中心に施設ケアが進められてきたが、1990年代以降、在宅サービスの強化、在宅と施設の連携等が積極的に進められた。特に介護保険制度の実施以降は、介護サービス施設・事業所数や介護職員数が増加し、特定非営利活動法人や株式会社など様々な主体が介護サービスに参入してきた。 ■3 社会保障を取り巻く環境の変化への対応 日本経済は、第1次オイルショックを契機に高度成長から安定成長に移行し、バブル経済とその崩壊を経て、低成長、マイナス成長の時代に移行した。こうした経済状況に加え、急速に進展する高齢化の中で、社会保障も給付改善一辺倒という状況ではなくなった。 国民皆保険・皆年金実現当初の国民健康保険、国民年金の対象者の多くは農業、自営業等であった。しかし、現在では国民健康保険をみると、産業構造の変化により農業、自営業等が減少し、高齢者と低所得者の保険としての性格が強まっている。こうした変化への対応のために医療保険、年金制度の見直しも進められた。 また、疾病構造の変化や死亡者に占める高齢者の割合が高まったことに対応して、医療施設の急性期、回復期、慢性期の機能分化と各施設の連携、在宅医療の充実等が図られ、介護保険制度も創設された。生活習慣病の予防対策も強化された。医学、医療技術の進歩に対応して、新しい技術や医薬品が順次医療保険の適用対象となり、多くの国民がその恩恵を享受できた。 さらに、国民の生活水準の向上に対応した医療保険、介護保険における療養環境への配慮、国民の権利意識の高まりに対応したインフォームド・コンセントの考え方の普及や福祉における利用者とサービス提供者間での契約への変更などが行われた。個人の意識の変化に対応し、介護保険等のように世帯ではなく、個人単位で保険料を納付し保険給付がなされるという仕組みも広がってきた。 ■4 保険料や公費の負担 給付の改善や高齢化に伴う給付増加等を背景に、特に年金では賦課方式への接近、医療保険では高齢者医療を支える制度間調整のための拠出金負担により、現役世代の保険料は引上げられている。 国民健康保険、国民年金の保険料収納率は長期漸減傾向にある。国民年金は平成12年の法改正による年金事務の国への引上げに伴い更に低下した。 各保険制度の財政力の違いへの対応、保険料引上げの抑制等のために国費を中心に公費負担が行われている。国民年金、国民健康保険、協会けんぽ(旧政府管掌健康保険)についても公費が順次拡充されてきた。社会保障関係費は、今後、毎年1兆円を超える自然増が見込まれている。 |
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■第1節 これまでの社会保障の充実 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 社会保険制度を中心とした社会保障の拡充
国民皆保険・皆年金の実現により、日本の社会保障の根幹は社会保険であることが明確となった。その後50年にわたり、国民皆保険・皆年金は、傷病や老齢、障害といった国民が生きていく上でのリスクをカバーし、国民の生活の安定、更には社会、経済の発展に大きく貢献してきている。今や国民皆保険・皆年金は日本の基礎的な社会インフラとなっている。 国民皆保険・皆年金の実現は、日本の社会保障が貧困者を支援する救貧から、貧困に陥ることを防止する防貧へと展開した大きなエポックであった。各人の自立・自助を国民相互の共助・連帯の仕組みを通じて支援することを基本とし、しかもそれは全国民に参加を求め、給付と負担の公平を追求するものであった。 高度経済成長を背景に社会保険給付は拡充されていった。高度経済成長終焉後も、人口構造、産業構造の変化等に対応し、日本社会に欠くことのできない国民皆保険・皆年金を維持していくため、様々な改革が行われてきた。 日本の社会保障は、国民皆保険・皆年金の実現以降、社会保険制度を中心に、順次給付内容を改善してきた。また、社会保障制度の中心は、生活保護や失業対策から、年金、医療へと変遷していった。社会保障給付費は大きく伸びて、1961(昭和36)年には0.8兆円であったものが、2008(平成20)年には94.1兆円まで増大している(図表3-1-1)。 図表3-1-1 社会保障給付費の推移 社会保険を中心とする社会保障制度には、病気、失業、高齢・障害による稼得能力の喪失、要介護状態等の事態に対応する機能がある。具体的には、1生活の安定を損なう事態に対して、生活の安定を図り、安心をもたらすための社会的な安定装置(社会的セーフティネット)としての機能、2市場経済では社会的公正が確保されない事態に対して、所得を個人間や世帯間で移転させることにより、所得格差の是正や低所得者の生活の安定を図る所得再配分の機能、3自立した個人が自己責任の下に行動することを原則としつつも、疾病、事故、失業等個人の力では対応しがたい事態等の生活上の不測の事態(リスク)を社会全体で分散する機能、4個々人の生活に安心感を与え、困窮した場合に救済し、所得格差を解消する等により、社会や政治を安定させ、経済の安定、成長に資する機能がある。 その中でも、社会保険制度は、公的扶助等の税財源で賄われる給付と比較すると、1保険料の対価としての給付であることから、サービスの受け手に権利性が認められること、2制度全体では給付水準と保険料負担が連動することから、負担についての納得が得られやすいこと、3個々人への給付が所得の多寡にかかわらずニーズに基づいて行われる普遍性などのメリットがある。 社会保険制度は、戦後の混乱期を乗り越えて、国民生活が向上し、経済成長も進展する中で救貧から防貧へと変化した社会保障のニーズを満たすのに適した方式であった。 また、年金、介護保険といった社会保険制度の導入により、これまで家族間の私的扶養により負担されていたものが外部化され、社会全体で負担されるようになったという側面もあった。これにより、従来、家族内で子どもから親に対してなされていた支援が、社会全体で現役世代から高齢者世代への支援という形で支えられるようになり、実際に家族や子どもがいなくても、高齢期に安心して暮らせるようになった。 国民皆保険・皆年金は、被用者保険と被用者以外の者をカバーする保険(国民健康保険、国民年金)により成立した。高度経済成長等を背景に、社会保険制度の充実は、財政が比較的安定している被用者保険、被用者年金が基本的に先行し、これを国民健康保険、国民年金が後追いする形で進められていった。 |
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■2 医療保険制度の充実
戦後、死亡率は低下し、平均寿命は世界最高水準になった。2009(平成21)年に産まれた子どもが75歳まで生きる可能性は、男は71.9%、女は86.5%に達している。また、保健医療水準を示す指標としてよく用いられる乳児死亡率も大幅に低下した。 戦後直後の1947(昭和22)年には、出生後1年未満で死亡する乳児は、出生千人当たり70人を超えており、1960(昭和35)年に入っても出生千人当たり30.7 人程度であったのが、2010(平成22)年には2.3人(概数値)まで下がっている(図表3-1-2)。 図表3-1-2 乳児死亡率の年次推移 これらは、戦後の衛生水準の向上、栄養の改善等に加え、国民皆保険制度の実現の大きな成果である。国民皆保険制度の実現によって、誰もが公的な医療保険に加入するようになり、保険証1枚でどの医療機関でも受療できるようになった。これは、フリーアクセスとも呼ばれる日本の医療保険制度の大きな特徴の一つであり、後述する自由開業医制、診療報酬出来高払制と合わせ、必要な医療が国民に対してより円滑に提供されるようになっていった。 保険制度からの給付割合は、国民皆保険成立時には、国民健康保険は5割給付(5割自己負担)が多かったが、1963(昭和38)年には世帯主の7割給付が、1968(昭和43)年から家族の7割給付が実現した。被用者保険においても、本人は10割給付であったが、1973(昭和48)年には家族給付が7割に引上げられ、1981(昭和56)年には入院時の家族給付が8割に引上げられた。また、1973(昭和48)年には老人医療費支給制度により老人医療費無料化が実現した。 当初、療養の給付期間(保険診療を受けることのできる期間)は3年間に制限されていたが、1963(昭和38)年にはこの制限が撤廃され、転帰(治癒、死亡又は治療の中断)まで給付されることになった。療養の給付範囲の制限も撤廃され、往診等が給付対象となった。その後、高価な抗生物質、抗がん剤の保険適用なども行われた。 1973(昭和48)年の高額療養費制度の導入により、一部負担が高額になる場合にも負担の上限が設定され、安心して医療を受けられるようになった。入院患者を悩ませていた付添看護等についても、1994(平成6)年には病院の責任において管理を行う制度に改められ、これに対する保険外の負担も解消されている。また、在宅療養のための医療行為や訪問看護も保険給付に含められた。 このような医療保険制度の充実により、国民の受療率も高齢者を中心に伸長していった。現在、後期高齢者*1(※)以外の一人当たり診療費は18.2万円かかっており、年間8.1件受療している。他方、後期高齢者は一人当たり85.2万円の医療費がかかっており、年間18.8件受療している(図表3-1-3)。 図表3-1-3 高齢者と高齢者以外の比較 しかしながら、第2章で述べたとおり、第1次オイルショック以降、経済成長の鈍化や人口高齢化の進展等を受け、医療保険制度にも様々な調整の必要性が生じてきた。被用者保険の本人給付をみても、1984(昭和59)年には9割に、1997(平成9)年には8割に、2002(平成14)年には7割に引下げられ、ここに至って、被用者保険と国民健康保険の給付率が一致することとなった。老人医療費支給制度も老人保健制度、後期高齢者医療制度と変遷している。 |
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■3 年金制度の充実
平均余命の伸長により老後の生活は著しく長くなったが、他方、核家族化の進行に伴う高齢者との同居の減少、扶養意識の変化、定年のない第1次産業従事者の減少、経済成長に伴う若年層の地方から都市への移動等により、老後を私的扶養に頼ることは困難となっていった。こうした中で老後の生活を支える柱となったのが公的年金制度である。 日本の公的年金は、全国民が加入する皆年金制度であり、当初は被用者用の厚生年金や共済年金とそれ以外の者を対象とする国民年金に分かれていたが、現在では全国民共通の基礎年金と被用者等の上乗せ年金からなる二階建ての構造で、終身給付を行っている。 国民年金の給付額は当初低かったが、順次引上げられていった。物価スライド制の導入により、オイルショック等のインフレ時も実質的な給付が維持された。被用者年金も、物価スライド制に加え、賃金スライドの実施により、経済成長の成果を既に退職していた高齢者にも及ぼすことができた。これは、公的年金制度の大きな成果である。 現在では、被用者年金は、現役時代の収入のおおむね6割程度の水準を維持するというモデルが設定されている。これは現役世代の実質賃金の動向、労働力人口の減少といった要因により給付水準を変動させることとされており、2004(平成16)年の改正時には、2023(平成35)年には50.2%になるものと見込まれた。また、基礎年金は、老後の基礎的な支出をまかなうという考え方で給付水準が設定されている。 国民皆年金実現当初は、給付額の低い無拠出制の福祉年金の受給者が多かったが、制度の成熟に伴って受給額も増加している。2010(平成22)年3月現在、年金受給者数は、国民年金では2,765万人であり、その平均受給額は5.4万円、被用者年金では1,646万人で平均的受給額は厚生年金の場合で15.7万円となっている。なお、2010(平成22)年の初任給は、大学卒業者が月額19.7万円、高校卒業者が15.8万円である(図表3-1-4)。 図表3-1-4 日本の公的年金給付の現状 日本の公的年金に対する支出はGDPの8.7%であり、OECD平均の7.2%を上回っている。これは、65歳以上人口の生産年齢人口に対する比率が34.4%であり、OECD平均の23.8%を大幅に超えていることも影響している。 高齢者の家計をみると、年金が所得の70.6%を占めている。経年的にみても、1978年には34.1%であったのが、公的年金制度の成熟等にともない、1993年には54.8%に増加している。一方で、稼働所得は1978年の42.7%から17.7%まで下降している。また、全世帯所得を100としたときの高齢者世帯の所得は1978年には45.7%であったのが、1993年には48.7%となり、2008年には54.2%となっている。公的年金制度の成熟により、高齢者世帯の家計が支えられ、高齢者世帯の経済状況が全世帯平均としてはかなり改善していることがわかる(図表3-1-5)。 図表3-1-5 高齢者世帯の所得の経年変化 2010(平成22)年に実施された内閣府「第7回高齢者の生活と意識に関する国際比較調査」によれば、日本の60歳以上の高齢者は、「経済的に日々の暮らしに困っているか」という質問に「困っていない」という回答が55.5%、「あまり困っていない」が27.3%であり、アメリカ(「困っていない」、「あまり困っていない」が、それぞれ31.2%、31.7%)、韓国(同11.2%、36.2%)、ドイツ(同38.4%、37.3%)、スウェーデン(58.4%、30.5%)と比してスウェーデンに次いで高くなっており、比較的生活が安定していると考えていることが示唆される(図表3-1-6)。 図表3-1-6 第7回高齢者の生活と意識に関する国際比較調査の結果 このように大きな成果を上げている公的年金制度であるが、急速な少子高齢化の進展等を受けて、年金支給開始年齢の引上げ、保険料水準固定方式、マクロ経済スライドの導入など様々な調整が行われてきた。 また、被保険者が死亡した場合に、死亡した者によって生計を維持されていた子のある妻、子を対象として遺族基礎年金、生計を維持されていた妻、子に遺族厚生年金が支給されるほか、被保険者が障害となった場合には、障害基礎年金、障害厚生年金が支給される。 また、20歳前に障害を負った場合にも障害基礎年金が支給される。 |
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■4 介護保険制度
2000(平成12)年には老人福祉と老人保健の両制度が再編され、介護保険制度がスタートした。介護保険制度は、給付と負担の関係が明確な社会保険方式により、社会全体で介護を支える新たな仕組みを創設し、利用者の選択により保健、医療、福祉にわたる介護サービスを総合的に利用できるようにしたものである。原則として65歳以上の者が要介護状態になった場合等にサービスが提供され、65歳以上の被保険者数は、2000年の2,165万人から2010(平成22)年には2,895万人に増加している(図表3-1-7)。要介護認定者は、218万人から2010年には487万人に増加しており、特に要支援・要介護1といった軽度者がより多く増加している(図表3-1-8)。サービス受給者も2000年の149万人から2010年には403万人へと増加しており、2009(平成21)年4月現在、294万人が在宅サービスを、25万人が地域密着型サービスを、84万人が施設サービスを受給しているところである(図表3-1-9)。介護保険の総費用は、2000年度の3.6兆円から2011(平成23)年度には8.3兆円(予算額)となっている。 介護保険制度は、制度スタートから11年を経た今日、既に社会に完全に定着している。加えて、地域包括支援の考え方や、予防給付、地域密着型サービスなど、住み慣れた地域で暮らし続けることを支援するためのスキームを加えるなど、発展を続けており、国民の老後の要介護リスクを大きくカバーしている。 図表3-1-7 介護保険制度の実施状況 図表3-1-8 要介護度別認定者数の推移 図表3-1-9 介護サービス受給者数の推移 |
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*1 75歳以上の方及び一定程度の障害を有するとの認定を受けた65歳以上75歳未満の方 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■第2節 サービスを提供する基盤の整備 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 医療提供体制の整備
国民皆保険の実現は、医療施設数及び医療従事者の大幅な増加という点でも大きな成果を上げた。日本の医療制度においては、国民皆保険に加えて、保険証1枚でどの医療機関にもかかれるフリーアクセス、施設基準を満たせばどこでも自由に開業ができる自由開業医制、検査、投薬、処置といった個々の診療行為に価格を付けてその合計で報酬を支払う診療報酬出来高払制といった特徴があり、これらが特に個人、医療法人という民間医療施設の整備を促した。 病院の病床数は、1952(昭和27)年には40万床以下であったのが、1965(昭和40)年には80万床を超え、2009(平成21)年の調査では160万床を超えている。公的医療機関の整備も進められたが、医療法人制度が創設された1950(昭和25)年以降民間病院の増加が著しく、1955(昭和30)年の19万8千床から、10年間で42万4千床と約2倍に増加している。医学部定員も1961(昭和36)年時点では2,840人であったが、現在8,900人程度まで拡大されている。医師数も1970年代は10万人程度であったのが、2008(平成20)年には28万7千人に増加した。人口10万人あたりの医師も100人程度から225人程度に増加している。 このほか、2008年の医師・歯科医師・薬剤師調査では、歯科医師9万9千人、薬剤師26万8千人、2008年の衛生行政報告例では、看護師87万7千人、助産師2万8千人、保健師4万3千人等となっており、絶対数でも対人口比でも、医療従事者数は大幅に増加した。 国民皆保険導入時に「保険あって医療なし」とされた無医地区問題も、国民皆保険制度の実現等を一つの契機に大幅に解消されてきた。1956(昭和31)年当時の無医町村は165あったが、これらは解消した。また、これに準じる無医地区が728あったが、離島をはじめとした僻地医療の問題はなお存在しつつも、交通事情がよくなったこと等により、当時と比べれば状況は格段に良くなっている。 日本の医療は、諸外国と比して、平均余命、アクセスの良さ等で高い実績を残す一方、医療費という面ではより少ない医療費で賄われている。日本の保健医療支出はGDPの8.1%であり、OECD平均の9.0%より低い。また、一人当たり保健医療支出は、2,729ドルとなっており、OECD平均の3,060ドルより安い。特に、日本が他国と比して高齢化が進展している影響も考慮すれば、日本はGDP比、一人当たり医療費いずれでみても比較的低い費用で医療を提供できているということができる(図表3-2-1)。 図表3-2-1 OECD加盟国の医療費の状況(2008年) また、日本では、医療従事者数でも諸外国と比して遜色ない水準を達成している。医師数は、人口千人当たり2.2人とやや低いが、看護師数は9.5人となっている。 1985(昭和60)年の医療法改正による医療計画の導入は、医療施設の整備を量から質に転換するひとつの契機であった。医療従事者数では遜色なくとも、病床数が他国と比較して圧倒的に多いため、病床100床当たり医師数、看護職員数は医師で3分の1から5分の1程度、看護師で2分の1から5分の1程度になっている。また、平均在院日数は他国の3倍から5倍となっている(図表3-2-2)。長期入院患者については、医療上の必要性がないのに入院している「社会的入院」の存在が指摘されるなど、入院患者にとって相応しい療養環境の確保や医療資源の効率的な活用の必要性が指摘されていた。また、患者の大病院志向・専門医志向は、大学病院等の比較的規模の大きな医療機関において「3時間待ちの3分診療」と称されるような外来患者の集中を招き、他方では、1人で担当する病床の多さと相俟って、病院従事者の疲弊を招いているといわれている。近年では、地方を中心に医師の不足が叫ばれ、特に、小児医療、産科医等は需要に対応できていない傾向にあり、救急医療でも問題が指摘されている(図表3-2-3)。 図表3-2-2 医療提供体制の各国比較 図表3-2-3 救急出動件数及び搬送人員の推移 このような医療提供体制に関わる問題については、制度的には特定機能病院や急性期病院、長期療養型の病院といった病院の機能分化が進められるとともに、病院と診療所の機能分化及び連携確保や在宅医療を推進することなどで対応が図られてきている。また、診療報酬体系については、急性期入院医療に対して疾病の特性及び重症度を反映した包括評価(DPC/PDPS 診断群分類に基づく1日あたり定額報酬算定制度)や慢性期入院医療に対して病態、日常生活動作能力(ADL)、看護の必要度等に応じた包括評価が導入された。大病院への外来集中の是正についても、フリーアクセスの原則を維持しつつ、患者の選択により200床以上の病院で初診を受けた場合に追加的な料金を徴収することを可能とすること(選定療養)など診療報酬上も、病院と診 療所の機能分化を図っている。「社会的入院」対策としては老人保健施設が制度化され、医療保険財源を用いつつ医療ニーズと福祉ニーズを併せ持つ高齢者のニーズに対応することとされ、さらには介護保険が制度化されることになった。 |
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■2 介護サービス提供の促進
2000(平成12)年に制度化された介護保険制度も、医療保険制度の場合と同様に、介護サービス施設・事業所数を増加させるという効果をもたらした(図表3-2-4)。高齢者の介護サービスについては、一般の医療機関が受け皿となるという実態もあったが、まずは社会福祉法人等により運営される特別養護老人ホーム、後には医療法人等により運営される老人保健施設や療養型病床群が加わった施設ケアが中心となってきた。1990年代以降、在宅サービスの強化、在宅と施設の連携等が積極的に進められ、介護保険制度の導入後には、特定非営利活動法人や株式会社等様々な主体が介護サービスに参入するようになった。 図表3-2-4 介護施設数、介護職員等の推移 2008(平成20)年10月の介護サービス事業所は、訪問介護が2万事業所、通所介護が2万2千事業所等となっている。また、介護老人福祉施設が6,015施設、介護老人保健施設が3,500施設、介護療養型医療施設が2,252施設となっている。居宅介護事業所の設置主体については、営利企業が37.2%、社会福祉法人が30.7%等となっており、比率では営利企業が社会福祉法人を上回っている。介護老人福祉施設は社会福祉法人が91.5%、介護老人保健施設及び介護療養型医療施設では、医療法人がそれぞれ73.6%及び80.3%となっている。また、介護職員は、2000年の約55万人から、2006(平成18)年には約117万人まで増加している。 |
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■第3節 社会保障を取り巻く環境の変化への対応 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 経済基調の変化、産業構造の変化への対応
国民皆保険・皆年金が実施された当初には、実は右肩上がりの経済成長、多産多死社会から少産少死社会に移行する際に生じる人口ボーナス(生産年齢人口比率が高いこと)という給付改善を図っていく上での恵まれた状況があった。しかし、経済状況は、第1次オイルショックを契機として高度経済成長から安定成長に移行し、バブル経済とその崩壊を経て、低成長、マイナス成長の時代へと移行した。さらには、急速に高齢化が進展するなかで、社会保障も給付改善一辺倒ではいけなくなった。 国民皆保険・皆年金が実現できたのは、被用者保険の被保険者以外のすべての国民を国民健康保険、国民年金の対象としたことによる。これらの制度の当初の対象者の多くは、農業、自営業者等であった。国民健康保険の被保険者の状況をみると、 1965(昭和40)年には、農林水産業38.9%、自営業23.5%であり、無職は6.1%にすぎなかった。その後、産業構造の変化に伴い、2009(平成21)年には無職者が36.7%、被用者(被用者保険の適用を受けないパートタイム労働者等)が32.4%となった(図表3-3-1)。また、高齢化に伴い被保険者の年齢も上昇し、被保険者のうち65歳以上の加入者が31.4%であった。その結果、低所得者と高齢者の保険としての性格が強まっている。 図表3-3-1 国民健康保険の加入者の職業別構成割合 1981(昭和56)年に第2次臨時行政調査会が発足し、行政改革が各分野で進められるようになって以降、現在に至るまで、社会保障の各制度についても様々な調整が行われた。全体として、給付の合理化、適正化が進められ、保険料、一部自己負担の引上げが行われたが、特に、国民健康保険、国民年金をどう維持していくかは、国民皆保険・皆年金体制を維持していくための大きな課題であり続けた。 このため、医療保険においては、数次にわたって、自己負担割合の引上げが行われたほか、老人保健制度や後期高齢者医療制度等への拠出金を通じた被用者保険と国民健康保険の制度間調整が強化されていった。年金制度においては、国民年金を被用者を含めた全国民共通の基礎年金制度とした上で国庫負担を基礎年金部分に集中させることとし、併せて、給付水準の適正化がなされ、さらにその後、支給開始年齢の引上げ、保険料水準固定方式、マクロ経済スライドの導入等が行われた。 |
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■2 疾病構造の変化、科学技術の進歩への対応
結核をはじめとする感染症は、衛生水準の向上や抗生物質による治療が行きわたることでかなり克服され、かつて国民病とまでいわれた結核による死亡者数は大幅に低下した。疾病構造は急性疾患から慢性疾患へと大きく変化したのである。脳血管疾患による死亡も大幅に低下してきている。年齢調整後の死亡率をみると、結核、脳血管疾患を中心に大きく低下してきていることがわかる。他方、高齢化に伴って、死亡数そのものは上昇傾向にある。特に、がんの死亡数が上昇しており、心臓病、肺炎も高齢化の影響で死亡数が上昇している(図表3-3-2)。 図表3-3-2 主要死因別にみた年齢調整後死亡率 また、人口構成の反映でもあるが、死亡者数のうち75歳以上の高齢者の占める割合が上昇し、14歳以下は大幅に減少している。1947(昭和22)年には14歳以下の死亡者数が37.5万人、15歳から64歳が46.3万人であり、1961(昭和36)年にはそれぞれ7.2万人、25.4万人であったが、2010(平成22)年には0.4万人、17.21万人(ともに概数)まで減少した。他方、80歳以上の死亡が1947 年には6.24 万人であり1961 年には11.9 万人であったのが、2010 年には66.3万人まで上昇しており、死亡者数の過半数を占めるに至っている。死亡率も1982(昭和57)年6.0 まで低下したが、その後高齢化の影響で2010 年には9.5 まで上昇している(図表3-3-3)。 図表3-3-3 年齢階級別に見た死亡者数の推移 高齢者は、複数の疾患をもつことが多く、その多くは、かつては成人病と呼ばれ、今日では生活習慣病と呼ばれる慢性疾患である。脳血管疾患による死亡自体は医療技術の進歩等により大きく減少したが、脳血管疾患をきっかけに要介護状態となるなど、慢性疾患が悪化した場合には介護等が必要となる場合も多く、入院期間も長期化しやすい傾向がある。 こうした情勢に対応して、既に述べたとおり、医療施設の急性期、回復期、慢性期の機能分化と各施設の連携、在宅医療の充実等が図られ、さらには、老人保健施設が制度化され、介護保険制度が創設された。また、老人保健法に基づく健康診査や、近年では医療保険の保険者にメタボリックシンドロームに該当する被保険者に対する生活習慣改善のための保健指導を義務付けるなど、生活習慣病の予防対策も強化されてきた。 第2次世界大戦後、医学、医療技術や新薬の開発が急速に進展し、新しい診断法、治療法が次々に導入された。感染症に対する抗生物質治療は結核克服に大きな役割を果たし、外科における全身麻酔は様々な疾病の治癒に貢献した。1970年代以降には、CT、MRIなどの診断技術が進歩し、治療技術もカテーテルや内視鏡等を使って行う、より高度な非開胸や非開腹の手術などが盛んに行われるようになった。また、各種抗がん剤等の画期的な新薬も登場した。 こうした新しい医薬品や医療技術は、順次医療保険の適用対象となり、多くの国民がその恩恵を享受することができたことは、国民皆保険の大きな成果の1つである。さらに、最先端医療をいち早く医療現場に導入するための高度医療、先進医療の仕組みも設けられている。他方、最先端医療では、高価な医療機器、医薬品を用いることが多く、医療費増大の一因になっているとの指摘もなされている。 |
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■3 生活水準、権利意識の向上、家族関係の変化への対応
国民皆保険・皆年金の実現は画期的なものであったが、普及、定着するに従っていわば当たり前のこととなり、様々な改善が求められることとなる。高度経済成長に乗って国民の生活水準は向上し、社会保障給付にもそれに対応した改善が求められた。年金支給額の改善については既に述べたとおりであるが、現物給付が原則である医療保険、事実上の現物給付である介護保険に対しては、診療あるいは介護自体の質の確保はもとより、より良い療養環境を望む者が増加し、病床1床当たりの面積を増加させた療養病床の制度化、介護施設における相部屋から個室への移行、さらにはユニットケアの導入*1など、療養環境への配慮も行われた。 国民の権利意識の向上への対応も求められた。医療機関への受診は当初から患者と医療機関の契約ではあったが、インフォームド・コンセント(医療従事者による適切な説明と患者の理解に基づいた医療)の考え方が普及するに従い、医師から患者への診療内容の説明と患者の同意が重視されるようになった。福祉分野では、かつては行政庁が必要な措置をするという仕組みであったが、利用者とサービス提供者間での契約という仕組みに変わっていき、介護保険制度で定着したといえる。また、介護保険では、ケアマネジャーが本人の意向を確認しながらサービスをコーディネートするという利用者本位の仕組みが整えられた。 戦前の家制度がなくなり、家族関係も、個人の意識も変化した。年金制度、介護保険制度はいうまでもなく、医療保険制度も、従来私的に行われてきた高齢者扶養を社会化したという面があり、これは、国民皆保険・皆年金の実現以来今日まで加速度的に進んでいる。 個人ということでは、社会保障制度においても、個人単位で保険料を納付し、保険給付を受けるという制度が広がった。国民健康保険制度においては、世帯主が全員分の保険料を納付する義務を負い、現金給付等の支払いも世帯主が受け、被用者の医療保険でも加入者本人と扶養親族という世帯を前提とした仕組みになっている。しかし、2000(平成12)年、2008(平成20)年にそれぞれ施行された介護保険制度、後期高齢者医療制度においては一人ひとりが被保険者とされ、保険料納付も、受給も個人の権利、義務となっている。また、様々なライフステージを経ることが多い女性の年金については、専業主婦にも本人名義の基礎年金が保障され、離婚時の厚生年金の分割が制度化された。 国際化に伴い、海外に居住する日本人も、日本国内に居住する外国人も増加した。1982(昭和57)年の難民条約加入に伴い、原則として、外国人に対しても社会保障が適用されることとなった。他方、転勤等で海外に居住する日本人については、年金保険料支払や年金加入期間の問題が生じるが、これについては、社会保障協定による加入関係の整理、給付期間の通算等が行われている。2010(平成22)年末現在、ドイツ、英国、韓国、アメリカ、ベルギー、フランス、カナダ、オーストラリア、オランダ、チェコ、スペイン、アイルランドの12カ国と協定が締結されている。 |
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*1 在宅に近い居住環境で、利用者一人ひとりの個性や生活のリズムに沿い、他人との人間関係を築きながら日常生活を営めるように介護を行うこと。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■第4節 保険料や公費の負担 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 保険料
社会保障給付を行うためには、そのための財源が必要であり、社会保険制度の場合には基本的には保険料収入によることとなる。日本では何らかの形で公費が投入されていることが多く、その分保険料負担が低く抑えられているが、保険料を負担してはじめて給付を受けられることが原則である。これまでみてきたように、社会保障給付は様々な点で改善・拡充されてきており、加えて、人口高齢化の進展により、社会保障給付の受給者自体が増大している。社会保障給付費の総額は一貫して増大を続け、2010(平成22)年には100兆円を超えている。 社会保険制度を支える保険料の多くを負担しているのが現役世代である。公的年金制度が成熟するに従い、満額に近い金額を受給する高齢者は増加の一途をたどっているが、同時に、日本の公的年金制度の姿は、いわゆる賦課方式に近づいており、給付に必要な金額をその時点の20歳〜60歳の現役世代が負担するものとなっている。医療保険、介護保険の保険料は高齢者も負担しているが、高齢者の医療を支える拠出金負担もあって、現役世代の負担は大きくなっている。加えて、高齢化の進展で高齢者数に対する現役世代の比率が低下していることから、現役世代一人ひとりの保険料率は更に引上げられている。 国民年金の保険料は、1961(昭和36)年度の月額150円(35歳以上)から、2010年度の月額1万5,100円まで引上げられている。厚生年金については、1961年の3.5%(月収ベース)から2010年9月の16.058%(総報酬ベース)まで引上げられている(図表3-4-1)。政府管掌健康保険(現 協会けんぽ)の保険料率は、1969(昭和44)年の7.0%(月収ベース)から9.50%(総報酬ベース、全国平均)まで引上げられている(図表3-4-2)。 図表3-4-1 年金保険料の変遷 図表3-4-2 医療保険料の変遷 特に、医療保険においては、健康保険組合や協会けんぽ(旧政府管掌健康保険)の義務的支出に占める高齢者医療への支援金等の割合は、増加傾向にある(図表3-4-3)。 図表3-4-3 支援金等の推移(健保組合) 保険とは、本来、リスクに備えて共同で支払った保険料をプールしておき、リスクが顕在化したときに給付を行うという性格のものであるが、社会保険である医療保険、年金ともに世代間の所得移転の仕組みとしての性格がより強まってきている。 |
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■2 保険料収納率
被用者保険の保険料は給与天引きであることから収納率は基本的に100%であるが、国民年金、国民健康保険については収納率が問題となる。社会保険制度は社会連帯の仕組みであり、強制加入が原則であることから、低い収納率は制度の根幹に関わる問題となる。国民年金、国民健康保険の保険料の収納率は、経済状況の好転、制度の定着等に伴って、昭和50年代くらいまで上昇した。国民健康保険については、1961(昭和36)年当時は92.85%であったのが、1973(昭和48)年には96.47%まで上昇した。その後、バブル期をのぞいて長期漸減傾向にある*1。国民年金についても、1961年に73.9%であったものが、昭和40年代後半から昭和50年代にかけておおむね95%程度まで上昇した。その後、制度変更による適用拡大があったことなどもあり、平成に入ってからはおおむね85%程度であったが、その後、経済の低成長等の影響もあり、漸減した(図表3-4-4)。 図表3-4-4 国民健康保険、国民年金の収納率の推移 特に、国民年金については、現実の老齢年金受給は将来のものであり、国民健康保険のように直ちに医療を受けることが困難になるというものではないことなどから、納付率が低かったが、2000(平成12)年の法改正による年金事務の国への引き揚げに伴って更に低下した。若い世代を中心に年金制度への信頼が揺らいでいるとの指摘もあり、旧社会保険庁における年金記録問題が影響しているところもあるが、保険料の納付は、マクロ的な財政上の影響はともかく、制度の根幹に関わる問題であり、引き続き、年金記録問題等に誠実に取り組むことで年金制度に対する信頼を確固としたものとするとともに、収納対策の向上に向けた取組みを強化している。 |
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■3 公費負担
社会保険制度は保険料により運営されることが基本であるが、支払能力のない者には保険料納付の免除や軽減を行う必要がある。保険者によって財政力の違いがあり、こうした財政力の格差を考慮することにより、特定の保険者やその加入者に過重な負担が生じないようにすることにより、社会保険制度の持続可能性を担保する必要もある。そして、保険料の上昇を抑制するために公費による補助が行われることもある。 こうしたことから、医療、年金、介護等の各社会保険制度では、保険者の財政力の違い等に着目し、国費を中心とした公費負担割合が原則として5割を超えない範囲で行われてきている。経年的にみても、第2次臨時行政調査会・臨時行政改革推進審議会の時代に国庫負担率が下げられたこともあったが、国民年金、国民健康保険、協会けんぽ(旧政府管掌健康保険)についても公費が順次拡充されてきた(図表3-4-5)。 図表3-4-5 社会保障財源の推移 給付の一定割合という形で公費負担を導入した場合には、給付の増大に対応して公費を増額していくことが必要になる。しかしながら、税収が基本的に経済の成長に対応して伸びるのに対し、社会保障給付の伸びには様々な要因があり、高度経済成長終焉後には、急速な人口高齢化等の影響を受け、社会保障給付が経済成長率を上回って伸びていった。 社会保障給付費をみると、様々な制度改正が行われた1980年代から90年代にかけて公費負担割合が下がったが、その後は上昇傾向を示している。平成23年度予算の一般歳出をみると全体の53.1%、金額にして28.7兆円が社会保障関係費である。社会保障関係費は、今後、毎年1兆円を超える自然増が見込まれているが、一方で、日本の財政状況が非常に厳しい状況にあることから、次章に述べるとおり、社会保障と税の一体改革が検討されることとなった。 |
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■第4章 これからの社会保障を展望する | |||||||||||||||||||||||||||||||
第4章では、社会保障のかかえる課題を俯瞰した上で、現在、議論されている社会保障制度改革について紹介しつつ、今後の社会保障を展望する。
社会保障制度の見直しは累次にわたって行われ、今日に至っている。 最近においても、社会構造の変化、経済・財政状況、少子化・高齢化の進展などに対応するため、社会保障国民会議(2008(平成20)年11月)、安心社会実現会議(2009(平成21)年6月)等において、今後必要となる社会保障制度の機能強化や改革等に関する提言が行われてきた。 こうした中で、近年では、第2章でみたように、年金については支給開始年齢引上げ、保険料水準固定方式やマクロ経済スライドの導入等、医療については新しい高齢者医療制度の創設等、介護については介護保険制度の創設、予防重視型システムの導入等、子育てについては保育所の基盤整備等、各分野で様々な見直しが行われてきた。 もっとも、厳しい財政事情、今後の中長期的な経済見通し、社会構造の急激な変化等を踏まえると、それでもなお、社会保障制度の安定性と持続可能性の観点から、さらなる改革が必要な状況である。 こうした経緯や実情を継承しつつ、2010(平成22)年10月に内閣総理大臣を本部長とする政府・与党社会保障改革検討本部が設置された。厚生労働省は、社会保障改革について基本的な考え方と個別分野の方向性を提示した「社会保障制度改革の方向性と具体策−『世代間公平』と『共助』を柱とする持続可能性の高い社会保障制度−」を2011(平成23)年5月12日に公表した。 さらに、6月30日に政府・与党社会保障改革検討本部において「社会保障・税一体改革成案」を決定し、7月1日に閣議報告した。 |
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■第1節 今後の社会保障に求められるもの | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 現役世代における社会保障ニーズが高まっている
1995(平成7)年の社会保障制度審議会の勧告においては、社会保障の役割として、「広く国民に健やかで安心できる生活を保障すること」を挙げている。「安心」の源の重要な1つは、安定した雇用により所得が得られるということであるが、完全雇用に近い状況下で日本型雇用(終身雇用、年功序列賃金)が確固として存在していた時期には、この面における社会保障の役割は大きなものではなかった。高度成長期における「安心」は、多くの人にとって、男性を中心とした正社員が日本型雇用により所得を保障され、専業主婦をはじめとした家族による子育て、介護が期待できていたところにあったということができる。医療保険における被扶養配偶者、年金における遺族年金・基礎年金の保障、所得税における配偶者控除あるいは給与における配偶者手当など専業主婦には制度的・経済的な支援もあった。この「安心」を疾病、老齢、障害、失業というリスク対応によって補完するという形で日本の社会保障が発展していった。また、家族、地域のつながりはより密接であり、子育て等に互助が期待できるところも大きかった。 日本の社会保障が医療、年金を中心に発展したのはこのためであり、高齢者の介護が家庭のみでは支えきれなくなると、介護保険の制度化によりこれに対応することとなった。日本で児童手当等の家族給付が欧米より遅れたのも、多くの企業の賃金に配偶者や子どもの扶養手当が設けられていたという点が大きい。 ところが、現在では日本型雇用が揺らぎ、雇用情勢の変化により、現役世代の間にも貧困問題が大きく顕在化している。既にみた雇用情勢の厳しさから、若年者を中心に失業者が増え、就業していても、派遣労働、パートタイム労働等の非正規労働に従事する者が増加している。これらの者は、ワーキングプア、派遣切り等の現象にみられるように、これまでの日本型雇用による生活の保障を受けられず、社会的な地位も確保できない。その上、相対的に給付が手厚い被用者年金、被用者保険の対象から外れることもある。雇い止め等により職を失う可能性がより高いにもかかわらず、失業給付、職業訓練給付等については、すべてが適用されるわけではなく、されても給付水準は正規労働者の場合に比して低くなっている。 現役世代は子育て世代でもある。母子家庭など子どもの貧困の問題も注目されており、子育て世帯への経済的支援を望む声も多い。また、保育所等の現物による子育て支援ニーズは格段に高まっている。現在では夫婦共働き世帯数は専業主婦世帯数を逆転しており、産業構造の変化によって知的労働やサービス業が増加し、更には、人口が減少していくという状況下で、女性労働力への期待は高まりこそすれ減少することはない。日本型雇用の揺らぎや昨今の経済状況により、夫婦揃って働くことが必須となる世帯も増加しているとみられる。単身世帯や共働き世帯の増加のほか、きょうだい数の減少による親族間の支援の低下もある。地域社会での結びつきも薄まっており、結果として、子育て支援という社会保障ニーズが従来にも増して顕在化してきている。 少子化の進行については様々な弊害が指摘されているが、社会保障という観点からは、その将来を担う現役世代の縮小という根幹に関わるものとなる。いわゆる1.57ショックを契機として、少子化への懸念が浸透し、ライフスタイルの問題に踏み込まない前提で、仕事との両立、乳児保育等多様な保育サービスの提供、育児休業制度や子どもを産み育てやすい環境の整備も大きな政策課題になった。保育所の整備は進んでいるが、景気の悪化もあって、都市部を中心に保育所の供給は需要に追いついておらず、待機児童の問題が生じている(図表4-1-1)。また、専業主婦の子育てもそもそも乳幼児に触れた経験がなかったり、地域のつながりが薄れるなか、十分なサポートができているとは言い難い状況である。 図表4-1-1 待機児童数の推移 このように、今日では、若い世代の社会保障に対するニーズがより顕在化してきている。しかしながら、社会保障の機能の一つである所得の再配分機能をみても、子育て世帯の相対的貧困率が再配分後で増加するなど、社会保障機能の再配分機能が高齢世代への移転に偏りすぎ、若年の貧困世帯に及んでいないという指摘もある(図表4-1-2)(図表4-1-3)(図表4-1-4)(図表4-1-5)。 図表4-1-2 子ども貧困率、当初所得と再配分後の比較 図表4-1-3 所得再分配調査(年齢別当初所得と再配分後所得) 図表4-1-4 各国の家族関係社会支出の対GDP比の比較(2007年) 図表4-1-5 所得第1五分位の世帯可処分所得に占める公的移転と税・社会保険料負担の割合 |
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■2 生活上の困難は複雑化・複合化している
第2章で見てきたように、日本の社会保障制度は国民皆保険・皆年金を中核として各時代のニーズに対応すべく改善を図ってきた。そして、各制度の改善の多くは、それぞれの制度ごとの改正の中で行われてきた。 しかし、複雑化した現代社会では、国民が生活困窮に陥る事情は様々であり、1つの制度の1つの支援メニューのみで問題が解決するとは限らない。 要介護高齢者については、かつて「社会的入院」が問題とされたが、これは福祉施設の不足のみから発生したわけではない。要介護の高齢者の相当数は、入院治療までが必要かどうかはともかくとして、介護ニーズと医療ニーズを併せ持っていた。従って、老人保健施設が制度化され、さらには医療保険給付の一部を取り込んで介護保険制度が創設された。介護保険制度の大きな柱はケアマネジャーによるケアプランの導入であり、個々の高齢者のニーズと意向に応じたサービス提供が行われるようになった。 現在ではさらに介護の枠を超えた対応が求められている。これまで、高齢化問題は若年人口が流出した地方部においてより深刻に考えられてきたが、今後はかつて都市部に流入してきた層が順次高齢者層に達する。いわゆる団塊の世代はその絶対数も多く、膨大な数の高齢者が都市部に出現することになる。これに伴って要介護の高齢者も非常に数多く出現することが見込まれる。しかしながら、土地代をはじめホテルコストの高い都市部において従前のタイプの介護施設のサービスで対応することは極めて困難であると予想される。こうした状況において、介護、医療の垣根を越え、居宅系あるいは居住系の包括的なケアをどのように提供し、これを地域で支える仕組みをどう作るのかは大きな課題となってくる。 要介護状態にまで至らずとも、高齢になれば、日常的な作業、例えば電球の交換にも不便を感じるようになるし、悪徳商法や振り込め詐欺等に備える必要もある。介護保険から生まれた地域包括ケアの考え方の必要性は広く介護の範囲を超え、地域社会の在り方にまで進んでいく。 これは高齢者の問題だけでないことはいうまでもない。 現役世代の間にも社会保障ニーズが顕在化していることは既に述べたが、貧困問題であれば、生活保護等による当面の生活支援と就職先の確保や職業訓練を連携させ、経済的な自立を目指す必要がある。この「福祉から就労へ」という流れは欧米諸国でも広まりつつある。長期の失業により社会から長く孤立してしまっていれば、社会参加への支援も必要である。そもそも貧困に陥る原因は様々であり、本人又は家族が病気や障害を抱えていたり、母子家庭だったような場合には、さらに別の支援が必要かもしれない。生活保護、就労支援、障害者支援、母子家庭支援は、それぞれの根拠法に基づく確固とした制度であるが、ここで、必要なのは個々人の状況や過去の経歴等に応じた個別かつ包括的な支援なのである。 自殺の原因ともなる多重債務者についても支援の仕方は難しい。どう債務を解消させるのか、今後の生活をどうするのかはもちろん、債務を作った原因がどこにあってそれをどう改善させるのかが重要となる。関わってくる専門家や行政窓口は複数あるし、本人に調整する能力は必ずしもない。このような場合には、定型的な支援こそむしろ考えにくく、個別かつ包括的な支援でなければならないということになる。 もちろん、様々な生活支援ニーズがあるのは現代に限ったことではないが、かつては親族が同居、近居していたり、親族の数自体が多かったこともあって、親族内でまさに包括的に対応されることが多く、地域からの支援もそれなりにあったものと思われる。しかし、現在では、家庭や地域が変質し、そのような機能が弱くなっている。 包括的な支援がなければ本人が自ら多くの制度を調べ、窓口を訪れなければならないが、これもそう簡単ではない。 そもそも、社会保障は時代のニーズに対応するため各種の制度改正を重ねてきたが、利用者である国民目線で見た場合、複雑、かつ難解なものと思われていないだろうか。その結果、社会保障との間に距離が生じていないだろうか。 今回実施した「社会保障に関するアンケート調査」の中では、社会保障制度の認知度を、単に制度の名称を聞いたことがあるというレベルではなく、より深く知っているか否かを、受給のための手続きをどの程度認識しているかで調査した(図表4-1-6)。 図表4-1-6 社会保障制度の認知度と利用経験 その結果は、 1 医療保険制度利用における健康保険証提示の必要性については、「前から知っていた」が93.7%と高い認知度を示したものの、年金受給における請求書提出の必要性や、要介護認定における申請の必要性については、それぞれ61.8%、59.4%と半数をやや超える程度の認知度に留まっている。 2 制度の利用の有無別にみると、実際に利用したことのない者については、あまり認知されていない結果となっている。 一方で、社会保障サービスの提供に当たっては、専門的な知識や経験をもった職員が対応することが利用者にとっての効果的かつ効率的なサービス提供に必要不可欠であることから、社会保障に関する各種の相談窓口等を整備し、専門職員を配置してきた。 しかし、「社会保障に関するアンケート調査」をみると、知っている社会保障の窓口と利用したことがある窓口を尋ねると、利用した社会保障の窓口については知っているという一般的傾向があり、それ以外については、国民生活に直結する年金を扱う年金事務所(旧社会保険事務所)、仕事探しや雇用保険の受給などを扱う公共職業安定所(ハローワーク)、国民健康保険や国民年金等で訪れる市区町村の社会福祉部署などの窓口については認知度が高いが、現在大きな課題となっている児童虐待を扱う児童相談所や不払い残業や職場のいじめ問題などを扱う労働関係の専門的な機関については認知度が高いとは言いがたい(図表4-1-7)。 図表4-1-7 知っている社会保障の窓口と利用したことがある窓口 充実した社会保障を制度として担保したとしても、制度の趣旨に即して活用されることが重要であるが、サービスを必要とする場合にどこに行けばどのような社会保障のサービスが受けられるのかといったことが正確に知られていない状況が垣間見える。 いわば、社会保障の各種制度とそのサービスを必要としている方々にかい離があるともいえる。こうしたかい離も、社会保障に対する信認の低下をもたらし、包括的支援の必要性を裏付けているといえるのではないか。 |
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■3 「救貧」、「防貧」から「参加型」へ
国民皆保険・皆年金の実現は日本の社会保障が「救貧」から「防貧」へと展開した大きなエポックであった。国民皆保険は日本人の平均寿命の伸びに大きく貢献し、国民皆年金は長くなった老後生活の支えとなった。しかしながら、病気になっても治療を受けることができ、基礎的な生活費も保障されているという状況にあっても、それだけで幸福を感じるということになるだろうか。 高齢者の福祉サービスが施設サービス中心から在宅サービスを重視する方向に変わり、在宅医療が推進されてきたのは、既に述べたように、老後も住み慣れた地域社会で、親族や知人とともに暮らし続けることを可能とするためであった。障害者福祉でも日中の活動支援と夜間の居住支援を分離し、精神科医療でも入院を前提と考えるのではなく地域での生活を支えるためのものとする考え方が示されている。 他方、日本の職場、家庭、地域社会は大きく変容している。雇用は不安定化し、単身世帯が増大し、地域の結びつきは希薄化している。このため、将来の生活への不安に加え、個々人の帰属意識、言いかえれば自らの「居場所」や「こころの拠り所」があるという安心感の動揺をもたらしている。だれにも看取られずに亡くなる孤独死の増大は結びつきの希薄化の典型であろう。 職場、家庭、地域社会の変容は、産業構造の変化や地方部から都市部への人口移動、近年では経済のグローバル化などから生じたものであり、その意味では必然的なものである。 しかし、多くの国民が将来の生活に不安を抱いている現在、今後の社会保障に求められる役割は、社会に安心を取り戻すことにある。様々な不安要因、生活していく上での不安が現実に発生した時のための備えが社会保障制度であり、備えが的確になされ、国民がそれを認識していれば、一人ひとりが安心して暮らせる社会を実現することができる。国民の不安が不安定な雇用や経済情勢、止まらない少子高齢化に加え、家族や社会とのつながりの希薄さや孤立感などに由来しているものであれば、社会保障改革の方向性はそれらを克服することを目指すものでなければならない。 すなわち、社会保障の役割として、「救貧」、「防貧」だけでは十分ではないということになる。これらに加え、すべての人に社会への参加を保障する参加型社会保障(ポジティブ・ウェルフェア)を目指すことが必要なのである。就労あるいは社会参加を通じて、国民が自らの可能性を引き出し、発揮することを支援する。失業によって貧困に陥った人にも単に金銭給付を行うのみではなく、就労支援を併せて行って再就労に結びつけるというトランポリン型の支援が求められている。「福祉から就労へ」という考え方は参加型社会保障の大きな柱の1つということができる。 就労以外の社会参加も重要である。かつての地域活動の主役は職住近接の農家や自営業者、専業主婦等であったが、産業構造の変化や共働き世帯や単身世帯の増加で、こうした人たちは減少している。他方、仕事に没頭してきたサラリーマンの中には、定年退職後に地域とのつながりが持てないでいるというケースもある。地域でのボランティア活動でも趣味のサークルでも、できれば現役のうちから、自分の居場所を地域に見つけられることが重要であり、そのための支援が必要である。そして、こうしたことで、従来支えられる側とされていた高齢者等が支える側にも回ることができれば、新しい形で地域での支え合いが復活することになる。 |
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■4 現役世代は社会保障の負担と給付に納得していない
少子高齢化の進展に伴う人口構成の変化により、世代間で社会保障の給付と負担との間にアンバランスが生じている。年金についていえば、1940年生まれの人は保険料納付額の現在価値の6.3倍の給付を受けているが、これが、1960年生まれでは2.9倍、1980年生まれでは2.3倍となるものと見込まれている(図表4-1-8)。日本の年金制度は積立方式でスタートしたが、実質的な賦課方式に移行している。これによって給付金額の物価スライド、賃金スライドが可能となって、大きな成果を挙げたことは既に述べたとおりであるが、その反面、この方式には人口構成が変化した場合には世代によって負担が増減するというマイナス面もある。マクロ経済スライドの導入等はこうした現役世代の負担の伸びを調整するものであった。 図表4-1-8 年金世代間会計 医療保険制度や介護保険制度は基本的に短期保険であり、各年の保険料が各年の給付財源となるが、今後更に増大する高齢者世代が給付の多くを受けることから、人口が減少する現役世代ではひとり一人の負担が重くなり、世代間での給付と負担のバランスが更に悪化する可能性がある。社会保障全体を通じて、現在の高齢者は、現役時代に比較的低い保険料等を負担し、高齢期に入って充実した給付を受けている傾向にある。 加えて、現在、日本の公債残高は、総額約900兆円、一世帯でみると4,585万円程度である。これを現役世代の人口が減少する中、現在及び将来の現役世代か中心となって返済することになる。 もちろん、現在の高齢者は、更に前の世代を扶養しつつ保険料も負担してきたという面があり、単純に得をしているということはできないし、所得水準が低く、実質的な負担能力が違っていたということもできる。また、年金制度には現に積立金も残っており、そもそも社会連帯の仕組みである社会保険について損得を論ずるのは必ずしも適当ではない。しかしながら、今後を担う若年層の間に制度への不信感・不公平感が強く現れた場合には制度の持続可能性自体が揺らぐことにもなりかねず、今後の社会保障制度の在り方を考える際には留意すべき点の1つではある。 前出の「社会保障に関するアンケート調査」結果によると、「あなたの一生涯における社会保障の給付と負担」について、40歳代以下では、50%以上の者が「自分が一生涯で負担した分よりもかなり少ない給付しか受けないと思う」と回答しており、25%以上の者が「自分が一生涯で負担した分よりやや少ない給付しか受けないと思う」と回答しているのに対して、70歳代では、「自分で負担した分よりもかなり多くの給付を受けると思う」が10%以上、「やや多くの給付を受けると思う」との回答が30%程度おり、年代が下がるにつれて、給付より負担が多くなると感じている傾向が現れている(図表4-1-9)。 図表4-1-9 一生涯における給付と負担のバランスに関する各世代の意識 また、「緊急に見直しが必要だと思われる分野」(複数回答)としては「年金制度」を挙げた者の割合が最も高いが、その中でも、20歳代から50歳代までは「年金制度」を挙げた者が70%を超えているのに対して、60歳以上では60%以下となっており、現役世代の意識がうかがえる結果となっている(図表4-1-10)。 図表4-1-10 緊急に見直しが必要だと思われる分野(複数回答) 世代間だけでなく、同じ世代内でもバランスが取れていないとの指摘もある。子どもの有無等のライフスタイルの選択に対して社会保障制度が中立的になっていないのではないかという問題である。年金、介護保険等は現役世代からその親世代への仕送りや介護という形での私的扶養を外部化し、現役世代を中心に社会全体で支えることとしたという面がある。言い換えれば、現在支える側となっている世代も、いずれは支えられる側となるのである。他方、子育ては次の現役世代を育てるという社会保障のみならず、国の存続にとって重要な活動であるが、私的に行われている部分が大きく、高齢世代に対する扶養ほどには社会化されていない。子育てをした者もしなかった者も、いずれは次の現役世代が負担する社会保障給付を等しく受けるのであるが、子育てに対する社会的対応をみると、私的扶養で賄われている部分が多い。社会保険及び保育、教育サービスに関する給付と負担をみると、すべての者は子どもの時に学校教育等の給付を受けているが、次の現役世代を育てるのにかかる負担は、基本的には、子どもを持つ者のみが負担している(図表4-1-11)。さらに、私的負担が子ども一人あたり2002(平成14)年度で1727.8万円という試算もある。 図表4-1-11 ライフサイクルでみた社会保障 |
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■5 膨張する社会保障給付費と悪化する国の財政
国民皆保険・皆年金が実現した当時の社会経済状況は、既にみたように、経済の右肩上がりの成長が期待できたこと、人口ボーナスによって全人口に占める現役世代の割合が高いというものであった。したがって、この時期には、経済規模、国民の所得、国の財政規模がともに拡大しており、他方では社会保障給付を受給する人口の割合は小さかったので、国全体としても国民一人ひとりにとっても比較的少ない負担で社会保障給付の充実、拡大を行うことができた。 しかしながら、日本の経済は安定成長から低成長、マイナス成長の時代に入り、社会保障制度を支える現役世代の収入の伸びは期待できなくなった。他方、急速な少子高齢化の進行による高齢者数の増加、年金制度の成熟、医療技術の進歩等により、医療、年金、介護等の社会保障給付は大幅に増加し、これを支える現役世代の負担も大きくなっている。今後は、高齢者世代内での高齢化の進展(後期高齢者の増加)で医療、介護を中心に給付が更に増大すると予想される一方、少子化の進行で人口全体が減少するのみならず、現役世代の総数及び人口に占める割合が減少していくと予想され、社会保障給付に要する費用の負担の在り方が大きな課題となっている。 社会保障給付費総額は、平成23年度当初予算で107.8兆円(保険料59.6兆円、国庫負担29.4兆円、地方負担10.1兆円等)となっている(図表4-1-12)。これを国民負担ということでみると、諸外国と比較した場合、日本の国民負担は、英国とアメリカの中間くらいの比較的低い水準にある。しかしながら、財政赤字を考慮に入れた場合には英国、ドイツと同程度となり、スウェーデン、フランスよりは若干低くなる(図表4-1-13)。すなわち、国の債務まで考慮すると日本にも諸外国並みの負担があることになり、かつ国債部分はその負担を後代に先送りしていることになるのである。 図表4-1-12 社会保障の給付と負担の現状 図表4-1-13 国民負担率等の国際比較 現役世代の保険料負担の上昇抑制については、既にみたように、原則として2分の1を超えない範囲での公費負担をはじめ、年金制度における保険料水準の固定やマクロ経済スライドの導入、後期高齢者医療制度の実施といった対応が行われている。 公費負担については、国、地方ともに財政状況が厳しい中で、増大する社会保障給付にどう対応するかが大きな問題になっている。国の予算についてみると、社会保障関係費は、平成23年度当初予算で28.7兆円であり、国債費を除いた一般歳出の50%程度を占めている。また、この金額は、毎年、高齢化の進展等にともなって国費ベースで1兆円程度増加すると見込まれている。国の歳入面では、税収が公債の発行高を21年度決算額、22年度補正後予算額、23年度当初予算額と、既に3年連続で下回っている状態にある(図表4-1-14)。1年の税収が年間の公債発行高を下回るのは、終戦直後の1946(昭和21)年以来の極めて異例のことである。社会保障関係費が50%程度を占めているので、現在の社会保障給付に要する費用の相当部分が後の世代の負担で支えられていることになる。予算総則においては、消費税の使途として、年金、高齢者医療、介護等に充てるものとされているが、国の23年度当初予算歳入中の消費税額は10.2兆円であり、見合ったものとはなっていない。 図表4-1-14 日本の財政状況 今回、厚生労働省が行った「社会保障に関するアンケート調査」でも、現在の社会保障の給付内容について「現状は維持できない」と回答した者が61.3%に及び、「現状はなんとか維持できる」(22.0%)、「現状は維持できる」(3.7%)、分からない(12.4%)を大きく引き離しており、特に、若い世代で「現状は維持できない」と回答する傾向がある。現役世代の負担は限界に近づきつつあり、国の財政も厳しい状況にあることについて国民が認識していることがうかがえる(図表4-1-15)。 図表4-1-15 今後の社会保障の給付内容について思うこと |
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■6 今後の社会保障のあるべき姿
ここまでみてきたように、現在の社会保障は、1現役世代・子育て世代を中心とする社会保障ニーズの顕在化、2縦割りの各制度下における個々人の状況等に応じた個別的かつ包括的な支援の必要性、3社会への参加を保障し、国民が自らの可能性を引き出し、発揮することを支援する参加型社会保障(ポジティブ・ウェルフェア)の実現、4世代間及び世代内の給付と負担のアンバランス、5膨張する給付と悪化する財政という課題を抱えている。 こうした状況の中で、今後の社会保障の役割としては何が求められているのであろうか。 まず、現役世代を中心とする新たな社会保障ニーズについてはしっかりとした対応が必要である。日本型雇用の動揺等によって現役世代にも貧困リスクが増大している以上、その安心を確保していく必要がある。現役世代が安心して生活を営み、仕事に励み、消費を行うということでなければ社会は成り立っていかないし、経済も成長していくことはできない。リスクが顕在化し、貧困に陥ってしまった場合に、的確な支援を行うことで再び自立してもらうことは本人のためであることはもちろん、社会保障を支える側に復帰してもらうという意味でも重要である。この場合の支援が個別的かつ包括的な支援であり、かつ参加型社会保障の考え方によるべきことはもちろんである。具体的には、職業訓練と訓練期間中の生活を支援し、訓練受講を容易にするための給付を行う求職者支援制度(2011(平成23)年10月1日施行)の実施や、生活保護受給者等への「福祉から就労へ」の一貫した支援である。非正規労働者など従来の社会保障のセーフティネットから抜け落ちていた人を含め、すべての人が社会保障の受益者であることを実感できるようにしていくことが必要である。 子育て支援についても、「子ども・子育て新システム」(第2部第1章第4節参照)を実現し、すべての子どもへの良質な成育環境を保障し、子ども・子育てを社会全体で支援する必要がある。子どもや子育て家庭のためであることはもちろん、次世代育成支援は、日本社会の持続のためにも不可欠であり、また、世代間及び世代内の給付と負担のアンバランスについての不満を緩和することもできる。 個別的かつ包括的な支援の必要性と参加型社会保障の考え方は、現役世代のみならず、すべての世代、あるいは健常者・障害者を問わないすべての人への支援に通じるものとしなければならない。そして、このような支援は、例えば中学校区といった地域レベルで行われる必要があり、地方自治体のみならず特定非営利活動法人、社会的企業、そして地域住民自らの参加と活躍が期待される。包括的な支援を行うためにはコーディネート能力を有する人材の確保が必要であり、各支援を提供する者との円滑な連携のためのシステムづくりが欠かせない。支援を必要とする人の立場に立った、包括的な支援体制が構築できれば、国民の間にも、より社会保障による保障が実感されるだろう。そして、地域住民のひとりとして何らかの形でこれに関わることで自らの地域における「居場所」を見つけることができるだろうし、社会保障への理解も更に進むことが期待できる。 このように社会保障には新たな役割が期待されているが、他方、いうまでもなく、医療・介護の保障や老後の所得保障等は引き続き重要な社会保障の機能である。国民皆保険・皆年金は日本の社会保障の根幹としてこの50年間様々な工夫を積み重ねて維持されてきたが、今後とも堅持していかなければならない。 そして、国民皆保険・皆年金を堅持することを含め、社会保障制度を持続させ、かつ、新たなニーズに対応していくためには、必要な機能の充実とともに、給付の重点化、制度運営の効率化が必要である。少子高齢化の進展、経済状況の変化、危機的な国家財政という状況の下では、単に給付を充実、拡大すればよいということにはならない。真に必要な給付を確保しつつ、負担の最適化を図り、国民の信頼に応え得る、中長期的に持続可能な制度としていかなければならないのである。 中長期的に持続可能な制度としていくためには、給付の重点化、制度運営の効率化とともに、安定的財源の確保が必須である。既にみたように社会保障給付のかなりの部分は、赤字公債の発行を通じ、将来世代の負担で賄われている。これでは制度が中長期的に持続可能ということはできず、また、このことは世代間の負担のアンバランスの大きな要因の1つともなり、若年層の社会保障制度への不信を高める一因となっていると考えられる。 国民皆保険・皆年金を中心とする日本の社会保障制度はこの50年間にわたり国民生活の安定に大きく寄与してきたが、現在、日本の社会保障制度については、以上のような考え方に立ち、必要な機能強化を確実に実施し、同時に社会保障全体の持続可能性の確保を図るため、制度全般にわたる改革を行うことが必要となっている。 |
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■第2節 現在の社会保障改革の議論 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 社会保障改革に向けた検討
これまでみてきたように、50年前に国民皆保険・皆年金が実現して以来、日本の社会、経済は様々な変化を経て、社会保障制度もその時代時代の要請に対応してきている。そして、今日では、社会経済情勢が大きく変動しており、日本の社会保障制度全体を見渡した社会保障改革のための検討が行われている。 前政権下では、少子化の急速な進行を受けて、2007(平成19)年の「子どもと家族を応援する日本」重点戦略会議を開催し、少子化対策に必要となる社会的コストを明らかにし、2008(平成20)年、前政権下で内閣総理大臣の下に設置された「社会保障国民会議」では、医療・介護費用のシミュレーション、公的年金制度に関する定量的なシミュレーションの結果を明らかにした上で、社会保障の機能強化について具体的な提言を行った。また、翌2009(平成21)年の「安心社会実現会議」は、社会保障、雇用、教育の連携を踏まえて安心社会への道筋を展望した。 政権交代後の2010(平成22)年10月、内閣総理大臣を本部長とする政府・与党社会保障改革検討本部が設置された。同本部のもとで、「社会保障改革に関する有識者検討会」が開催され、同年12月、同検討会報告「安心と活力への社会保障ビジョン」がまとめられた。これと平行して、民主党内には「税と社会保障の抜本改革調査会」が設置され、同調査会は、同年12月、「中間整理」をまとめた。そして、政府・与党社会保障改革検討本部は、この2つの報告を受けて、12月10日、「社会保障改革の推進について」を決定し、その中で社会保障改革に係る基本方針を明らかにした。また、「社会保障改革の推進について」は同月14日に閣議決定された。 この基本方針においては、「少子高齢化が進む中、国民の安心を実現するためには、『社会保障の機能強化』とそれを支える『財政の健全化』を同時に達成することが不可欠であり、それが国民生活の安定や雇用・消費の拡大を通じて経済成長につながっていく」とした。その上で、「社会保障の安定・強化のための具体的な制度改革案とその必要財源を明らかにするとともに、必要財源の安定的確保と財政健全化を同時に達成するための税制改革について一体的に検討を進め、その実現に向けた工程表とあわせ、23年半ばまでに成案を得、国民的な合意を得た上でその実現を図る」とされた。 厚生労働省では、この閣議決定「社会保障改革の推進について」を踏まえ、2010年12月27日に、厚生労働省社会保障検討本部を設置した。同本部は、厚生労働大臣を本部長とし、社会保障の安定強化のための具体的な制度改革案等について検討することとなった。 また、翌2011(平成23)年2月、社会保障・税一体改革の検討を集中的に行うとともに、国民的な議論をオープンに進めていくため、政府・与党社会保障改革検討本部の下に、内閣総理大臣を議長とする社会保障改革に関する集中検討会議が設置された。同会議では、社会保障改革の考え方等の総論的事項や個別分野に関する論点について、経済・労働団体や新聞各社、各分野の有識者等から幅広く意見を伺う公開ヒアリング等を実施した。5月には、厚生労働省が、厚生労働省社会保障検討本部において取りまとめた「社会保障制度改革の方向性と具体策−『世代間公平』と『共助』を柱とする持続可能性の高い社会保障制度−」を報告した。それをたたき台として、引き続き議論が進められ、6月2日には「社会保障改革案」が取りまとめられた。 「社会保障改革案」は、6月3日の政府・与党社会保障改革検討本部に報告され、同本部の下に設置された「成案決定会合」において、社会保障・税一体改革の成案の作成に向け、議論を進めることとされた。その後、税制調査会が取りまとめた意見、与党における議論等を踏まえ、6月30日に政府・与党社会保障改革検討本部において「社会保障・税一体改革成案」が決定され、翌7月1日には閣議報告が行われた。 |
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■2 社会保障改革案
「社会保障・税一体改革成案」で示された社会保障改革の基本的な考え方として、1全世代を通じた安心の確保を図り、かつ、国民一人ひとりの安心感を高め、すべての人が社会保障の受益者であることを実感できるようにし、また、生き方や働き方に中立的で選択できる社会、参加が保障される社会を目指すこと、2より公平・公正で自助・共助・公助のバランスにより支えられる社会保障制度に改革するため、サービスの不足、就職難、ワーキングプア、社会的疎外、虐待などの国民が直面する現実の課題へ対応するとともに、包括的支援体制を構築すること、3給付と負担のバランスを前提として、それぞれOECD先進諸国の水準を踏まえた制度設計を行い、中規模・高機能な社会保障体制を目指すとされた。 こうした社会保障改革の基本的考え方は、社会保障改革に関する有識者検討会報告「安心と活力への社会保障ビジョン」や与党における議論などを踏まえたものである。まず、有識者検討会報告では、社会保障改革の「3つの理念」と「5つの原則」を提示した。 「3つの理念」とは、1参加保障、2普遍主義、3安心に基づく活力の3つである。 1「参加保障」の理念は、国民の社会参加を保障し、社会的な包摂を強めていくことを目指すということである。現役世代が減少する少子高齢社会にあっては、社会を持続させるために、国民一人ひとりがその持てる力を十二分に発揮していくことが要請される。国民すべてに、雇用を中心に能力を形成し、発揮する機会を拡げ、そのことを通して社会の分断や貧困を解消し、予防していく。働くことは収入を得るだけでなく、働く人が「居場所」を得、社会とつながりを持つことによって、安心をもたらすのである。 2「普遍主義」の理念は、すべての国民を対象とした普遍主義的な保障の実現を目指すということである。国民はすべて人生の様々な局面で多用な形の支援や協力を必要とし、国民相互の協力を実現し、国民自らの選択に応じた支援を提供していくことが社会保障の責務となる。さらに国・自治体のみならず特定非営利活動法人、協同組合、民間企業等を含めた社会的企業もそれぞれの役割と責任を発揮することが大切である。 3「安心に基づく活力」の理念は、社会保障と経済成長の好循環を目指すということである。雇用と消費の拡大、国民の能力開発、相互信頼(社会関係資本)の増大などが進めば社会保障は経済の成長と財政基盤の安定に連動する。とくに子育て支援、介護、医療などのサービス給付については、能動的な安心の形成を支えるだけでなく、それ自体が新しい雇用の場となり、地域の経済に活力をもたらすのである。 「5つの原則」とは、1切れ目なく全世代を対象とした社会保障、2未来への投資としての社会保障、3地方自治体が担う支援型のサービス給付とその分権的・多元的な供給体制(現物給付)、4縦割りの制度を越えた、国民一人ひとりの事情に即しての包括的な支援、5次世代に負担を先送りしない、安定的財源に基づく社会保障の5つである。 1「切れ目なく全世代を対象とした社会保障」の原則は、主に高齢者を給付対象とする社会保障から全世代対応型の保障へと転換させるということである。既にみたように、企業、家庭、地域の変容から、若年層を中心に新たな社会保障ニーズが顕在化している。全世代対応型の保障への転換は、現役世代が高齢世代を支える力を強め、高齢世代が社会参加を通して幸福感を高める条件を拡げる。 2「未来への投資としての社会保障」の原則は、子ども・子育て支援や若年層の就労・能力開発支援を中心に、社会保障の未来への投資という性格を強めていくということである。次世代が生まれ育っていくことは日本社会の持続可能性を高める上で不可欠であり、次世代の能力が高まりその貧困リスクが減少することは未来への投資としても大きな意味がある。 3「地方自治体が担う支援型のサービス給付とその分権的、多元的な供給体制(現物給付)」の原則は、社会的包摂のため、支援型のサービス給付の役割を重視し、自治体が、住民の声に耳を傾けつつ、サービスを自ら設計し提供できる条件を確保するということである。また、サービスの担い手として、特定非営利活動法人、協同組合、民間企業を含めた社会的企業が活躍しやすい環境を整備する。 4「縦割りの制度を越えた、国民一人ひとりの事情に即しての包括的な支援」の原則は、国民の生活を現金給付のみで保障するのではなく、その参加や就労を促そうとするならば、社会保障の在り方は、一人ひとりの個別の事情に即しての包括的支援でなければならないということである。このためには、縦割りの制度を越えた、ワンストップサービス、パーソナルサポート、互いに支え合う場を提供する共生型の支援が大事となる。 5「次世代に負担を先送りしない、安定的財源に基づく社会保障」の原則は、未来への投資である社会保障のコストを将来世代に先送りすることは許されず、安定的財源の確保抜きに、新しい社会保障の理念と原則は実現しないということである。既にみたように、現在の世代が享受する給付費の多くを赤字国債という形で後代の負担につけ回ししている現状は長く維持できるはずもない。給付に必要な費用を安定的に確保し、現役世代にも支援を振り向け、現役世代が安心に基づく活力を発揮することで、社会保険料収入、税収が更に安定するという好循環を実現していかなければならない。社会保障強化だけを追求すれば、いずれ機能停止することとなり、他方、財政健全化のみを目的に社会保障の質を犠牲にすれば社会の活力を引き出せない。したがって、社会保障強化と財政健全化の同時達成が必要なのである。 こうした「3つの理念」と「5つの原則」を踏まえ、厚生労働省の「社会保障制度改革の方向性と具体策−『世代間公平』と『共助』を柱とする持続可能性の高い社会保障制度−」では、年金、医療、介護、福祉など、個別分野の改革の「横串し」となる基本的方向性(「4つの基本的方向性」)を示している。 第1は「全世代対応型・未来への投資―「世代間公平」を企図する社会保障制度―」である。これは、社会保障を「未来への投資」と位置づけて、高齢世代のみならず、現役世代や将来世代にも配慮した内容とすることにより、あらゆる世代が信頼感と納得感を得ることができる社会保障改革とすることである。特に、将来を担う中核となる若者の就業、自立支援を強化し、「雇用の拡大」と「働きがいのある人間らしい仕事」(ディーセント・ワーク)を実現すること、すべての子どもに良質な生育環境を保障すること、子どもと子育てを社会全体で支援することの重要性を指摘している。 第2は「参加保障・包括的支援」である。これは、「全ての人が参加できる社会」を実現することである。社会の分断や二極化をもたらす貧困、格差問題やその再生産を解消するために、社会全体で支え合う仕組みが必要である。「第一のセーフティネット」と呼ばれる国民皆保険・皆年金の「綻び」を是正することが急務であり、その上で「トランポリン型社会」を支える「第二のセーフティネット」を強化することが必要である。さらに、「最後のセーフティネット」としての生活保護制度の見直しを行い、「重層的なセーフティネット」を整備することが大切である。具体的には、パートタイム労働者など非正規労働者への社会保険の適用拡大、職業訓練と訓練期間中の生活支援を組み合わせた求職者支援制度、生活から就労までの一貫した伴走型支援(パーソナルサポート)などを実施することが重要である。 第3は「普遍主義、分権的・多元的なサービス供給体制」である。特定非営利活動法人などを含む「新しい公共」によって、住み慣れた地域で必要な医療・介護サービスを継続的・一体的に受けられる「地域包括ケアシステム」を実現することが重要である。その際、利用者の納得と満足のためには、サービスの質と効率性の両立が大切であり、急性期医療へのリソースの集中投下、それに伴う入院期間短縮や早期復帰の実現、在宅医療・介護の充実、医療や介護の人材確保などに取り組む。 第4は「安心に基づく活力―新成長戦略の実現による経済成長との好循環―」である。医療、介護、雇用は現内閣の「新成長戦略」の柱であり、需要面と供給面の双方から日本経済の成長に寄与することが期待される。一方、日本経済の成長は、社会保険料や税収の安定的確保を通じた社会保障の機能強化の前提でもある。「強い経済」「強い財政」「強い社会保障」が好循環を生むためには、例えば、日本初の革新的な医薬品や医療機器の開発と実用化、「医療イノベーション」の推進によって、日本の医療が世界の医療需要を吸収することが求められる。また、医療、介護、子育て分野は地域の雇用拡大に寄与し、消費の底上げ効果を通じ、経済成長と好循環につながる。 また、この改革案の検討中に発生した東日本大震災によって、日本の直面する課題は一段と認識せざるを得ない状況になったとして、社会保障制度改革と財政健全化を同時に実現することの重要性はむしろ高まっているとした。 こうした基本的考え方を基に、「社会保障・税一体改革成案」においては、「必要な社会保障の機能強化を確実に実施し、同時に社会保障全体の持続可能性の確保を図るため」に、制度全般にわたる改革を行うこととしている。その際の留意点として、次の5つを挙げている。 1自助・共助・公助の最適バランスに留意し、個人の尊厳の保持、自立・自助を国民相互の共助・連帯の仕組みを通じて支援していくことを基本に、格差・貧困の拡大や社会的排除を回避し、国民一人一人がその能力を最大限発揮し、積極的に社会に参加して「居場所と出番」を持ち、社会経済を支えていくことのできる制度を構築する。 2必要な機能の充実と徹底した給付の重点化・制度運営の効率化を同時に行い、真に必要な給付を確実に確保しつつ負担の最適化を図り、国民の信頼に応え得る高機能で中長期的に持続可能な制度を実現する。 3給付・負担両面で、世代間のみならず世代内での公平を重視した改革を行う。 4社会保障・財政・経済の相互関係に留意し、社会保障改革と財政健全化の同時達成、社会保障改革と経済成長との好循環を実現する。 5国民の視点で、地方単独事業を含む社会保障給付の全体像を整理するとともに、地域や個人の多様なニーズに的確に対応できるよう、地方の現場における経験や創意を取り入れ、各種サービスのワンストップ化をはじめ制度の簡素化や質の向上を推進する。 個別分野における具体的な改革項目はおおむね厚生労働省が5月に公表した「社会保障制度改革の方向性と具体策」を踏まえており、社会保障の機能強化(充実と重点化・効率化の同時実施)による追加所要額(公費)を2015年度において約2.7兆円程度と見込んでいる。 その上で、消費税収(国・地方)を主たる財源とする社会保障安定財源の確保など社会保障の安定財源確保の基本的枠組みを示し、財政健全化との同時達成を実現するとした。 また、「社会保障・税一体改革成案」では、真に手を差し伸べるべき人に対する社会保障を充実させ、効率的かつ適切に提供することを目的に、「社会保障・税に関わる番号制度」の導入を目指すとしている。「社会保障・税に関わる番号制度」の導入により、国民の負担の公平性を確保するととともに、国民の利便性の更なる向上を図ることが可能となるほか、行政の効率化・スリム化も可能となるとしている。 社会保障・税に関わる番号制度については、閣議決定「社会保障改革の推進について」において、「国民的な議論を経て、来秋以降、可能な限り早期に関連法案を国会に提出できるよう取り組む」こととされたことを踏まえ、社会保障・税一体改革担当大臣を議長とし、関係各府省の副大臣等をメンバーとする「社会保障・税に関わる番号制度に関する実務検討会」を中心として検討が進められた。2011年1月には「社会保障・税に関わる番号制度についての基本方針」を政府・与党社会保障改革検討本部で決定した後、4月には「社会保障・税番号要綱」を策定、6月には「社会保障・税番号大綱」を同本部で決定した。なお、社会保障・税に関わる番号の名称については、一般公募を経て、「マイナンバー」とすることが決定された。 |
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■おわりに | |||||||||||||||||||||||||||||||
平成23年版厚生労働白書第1部では「社会保障の検証と展望 〜国民皆保険・皆年金実現から半世紀〜」と銘打ち、第1章では統計データにより、日本における経済や働き方、家族関係、総人口の動向等を俯瞰し、社会保障制度の前提や社会保障に対するニーズが変化している状況をみてきた。第2章ではそうした時代の変化に社会保障制度がこれまでどのように対応してきたのかといった視点で振り返った。その上で、第3章では、これまで社会保険制度を中心とする社会保障制度についてどのような成果を挙げたのかを検証した。そして、第4章では、社会経済状況の変化に伴う社会保障へのニーズが変化する一方で、国の財政状況の悪化などの環境変化に、どのように対応しようとしているのか、といった将来への展望を記述してきた。
社会保障制度は広く国民生活に関わるものであり、「国民の政府に対する要望」の中でも「医療・年金等の社会保障の整備」が一位であり、さらに社会保障の射程範囲である「高齢社会対策」「雇用・労働問題への対応」「少子化対策」といったものも上位を占めている。 図表 政府に対する要望 言うまでもなく、社会保障は国民相互の支え合いが基本であり、今後の社会保障制度のあり方を決定していく上では、その給付の在り方、費用負担の在り方等が人々の生活に大きな影響を与えることから、客観的なデータや正確な知識に基づいて国民的な議論を行うことが必要である。 その一方で、若い世代において社会保障に対する関心が低い状況にある。これまで社会保障の知識を得た手段を尋ねたところ、20歳代では「調べたことがない」とする者が13.0%もいる。 図表 これまで社会保障の知識を得た手段(複数回答) 今後、社会保障制度改革の議論を進めていくためには、まず、当事者である国民に各社会保障制度の趣旨目的と現在の状況を正確に認識してもらうことが必要である。もちろん、社会保障制度に関する国民の理解が進めば、給付を確実に受けられるようになるだけではなく、保険料納付等の義務を果たす意識も高まることも予想できる。 さらに、国民各層において、社会保障制度がこれまで果たしてきた役割をその背景となる社会経済状況とともに理解し、新たな状況の下、日本がどのような社会を目指し、そのためにどのような社会保障給付を行うべきなのか、そのために必要な費用は誰がどのように負担すべきなのかといった社会保障改革についての議論が一層深められることが望まれる。その上で、社会保障改革の実現のためには、立場を超えた幅広い議論の上に立った国民の理解と協力を得ることが必要である。 |
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参考資料1 2011(平成23)年5月12日に厚生労働省が公表した社会保障制度改革の方向性と具体策
参考資料2 2011(平成23)年6月30日に政府・与党社会保障改革検討本部で決定した「社会保障・税一体改革成案」の概要 参考資料3 2011(平成23)年6月30日に政府・与党社会保障改革検討本部で決定した「社会保障・税一体改革成案」で示された社会保障改革の具体策、工程及び費用試算 |
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■厚生労働省記録・政策課題 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■第2部 現下の政策課題への対応 | |||||||||||||||||||||||||||||||
※第2部は、おおむね2011(平成23)年6月末までの動きについて記述している。
第2部では、厚生労働省が現下の様々な政策課題に対応している状況を図表やグラフ等を用いて分かりやすく示すようにした。 冒頭では2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災への厚生労働省の対応状況を特集として取り上げることとし、特集の後に厚生労働行政年次報告として2010(平成22)年度における厚生労働省の個々の政策課題への対応の状況について記述する。 |
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■第1章 安心して子どもを産み育てることができる環境の整備 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■第1節 少子社会の現状 | |||||||||||||||||||||||||||||||
我が国の合計特殊出生率は、2005(平成17)年には1.26と過去最低を更新するとともに、人口も2000年代に入ると伸びが鈍化し、今後は人口の減少が見込まれている。
2006(平成18)年〜2008(平成20)年の合計特殊出生率は、前年を上回っていたが、2009(平成21)年は前年と同様1.37と横ばいとなり、2010(平成22)年は概数値で1.39と前年を上回ったが、依然として低い水準にあり、長期的な少子化の傾向が継続している。 また、2006 年末に発表された国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口(平成18 年12 月推計)」によると、現在の傾向が続けば、50 年後(2055(平成67)年)には我が国の人口は9千万人を割り込み、1年間に生まれる子どもの数が現在の半分以下の50 万人を割り、高齢化率は40%を超えるという厳しい見通しが示されている(図表1-1-1)。 図表1-1-1 人口ピラミッドの変化(1990、2010、2030、2055)-平成18年中位推計- さらに、ライフスタイルが従来とは異なるものになってきている。例えば、2030(平成42)年には生涯未婚率が男性で約30%、女性では約23%になるものと見込まれている(図表1-1-2)ほか、共働き世帯と専業主婦世帯(男性雇用者と無業の妻からなる世帯)とを比べると、1997(平成9)年には既に前者の数が後者の数を上回っている状況にも配慮する必要がある(図表1-1-3)。また、子どもがいる世帯のうち3世帯に1世帯がひとり親世帯になるものと見込まれている状況がある(図表1-1-4)。 図表1-1-2 生涯未婚率の推移 図表1-1-3 共働き等世帯数の推移 図表1-1-4 世帯構成の推移と見直し こうした状況に加え、多くの国民が結婚したい、子どもを生み育てたい、結婚しても子どもを持って働きたいと希望しているにもかかわらず*1、その希望がかなえられず、結果として少子化が進んでしまっているものと考えられることなどを踏まえ、国民が希望する結婚や出産を実現できる環境を整備することが重要となる。 |
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*1 第13回出生動向基本調査(2005年 独身者調査)によると、結婚する意思をもつ未婚者は約9割となっており、希望子ども数も男女とも2人以上となっている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■第2節 子ども手当 | |||||||||||||||||||||||||||||||
子ども手当については、「平成22 年度における子ども手当の支給に関する法律案」を第174回通常国会に提出し、2010(平成22)年3月に成立、同年4月1日から施行することとなった。
子育てを未来への投資として、次代を担う子どもの育ちを個人の問題とするのではなく、社会全体で応援するという観点から実施するものであり、2010年度においては、中学校修了前までの子ども1人につき月額1万3千円の子ども手当を、その父母等に支給することとした。 また、「国民生活等の混乱を回避するための平成22年度における子ども手当の支給に関する法律の一部を改正する法律」が2011(平成23)年3月に成立、同年4月1日に施行された。 これにより、2011年4月〜9月までの6か月間についても、これまでと同じ月額1万3千円の子ども手当が引き続き支給されることとなった。 図表1-2-1 平成22年度等における子ども手当の支給に関する法律の概要 |
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■第3節 待機児童の解消に向けた保育サービスと放課後児童対策等の充実 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 待機児童解消に向けた保育サービスの充実と総合的な放課後児童対策の推進
保育所への入所を希望しながら保育所に入所することができない「待機児童」を解消するため、2002(平成14)年度からの「待機児童ゼロ作戦」等に基づき、保育所の受入れ人数を引上げる等の取組みを進めてきた。 しかし、都市部を中心として、依然として待機児童が多く生じており、その数は2010(平成22)年4月現在、約2万6千人となるなど、保育所の定員増にもかかわらず、3年連続で増加している。 図表1-3-1 保育所待機児童の現状 こうした中、2010年1月29日に策定した「子ども・子育てビジョン」では、保育サービスの定員を2009(平成21)年度の215万人から2014(平成26)年度に241万人とする目標を掲げ、待機児童解消に向けた取り組みを進めている。 具体的には、保育所の整備等を更に促進させることを目的として、平成20年度第2次補正予算において都道府県に創設された「安心こども基金」を平成21年度第1次・第2次補正予算、平成22年度補正予算において、増額するとともに、平成22年度末までとしていた事業実施期間を、平成23年度末まで延長した。この「安心こども基金」を始めとして、保育サービス等の充実・拡充、地域の余裕スペース(学校、公営住宅、公民館等)を活用した認可保育所の分園等設置促進、家庭的保育の拡充を図るなどにより、待機児童解消に向けた保育サービスの充実に努めている。加えて、2010年11月29日に取りまとめられた「国と自治体が一体的に取り組む待機児童解消「先取り」プロジェクト」により、質の確保された認可外保育施設への助成や、複数の家庭的保育者(保育ママ)が同一の場所で実施する家庭的保育事業などをすすめていくこととしている。 今後、「子ども・子育てビジョン」で掲げる目標の実現に向け、待機児童解消策の一層の取組みを推進する。 |
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■2 すべての子育て家庭への支援
少子化や核家族化の進行、地域のつながりの希薄化など、社会環境が変化する中で、身近な地域に相談できる相手がいないなど、子育てが孤立化することにより、その負担感が増大している。とりわけ、3歳未満の子どもを持つ女性の約8割は家庭で育児をしており、社会からの孤立感や疎外感を持つ者も少なくない。 このようなことから、身近な場所に子育て親子が気軽に集まって相談や交流を行う「地域子育て支援拠点事業」の設置を促進しており、1子育て親子の交流の場の提供と交流の促進、2子育て等に関する相談・援助の実施、3地域の子育て関連情報の提供、4子育て及び子育て支援に関する講習を基本事業として推進している。具体的には、公共施設の空きスペースや商店街の空き店舗等において実施する『ひろば型』、保育所等において実施する『センター型』、民営児童館において実施する『児童館型』の三つの類型により事業展開を図っており、それぞれ特色を生かした取り組みを行っている。特に、『ひろば型』においては、基本事業に加えて機能の拡充を図っており、一時預かりや放課後児童クラブなど多様な子育て支援活動を実施することで、『ひろば型』の施設を中心とした関係機関とのネットワーク化を図り、子育て家庭によりきめ細かな支援を行うこととしている。 このような地域における子育て支援の拠点については、量的な拡充とともに、当事者自身が共に支え合い、情報交換をし、学び合う地域子育て支援活動の原点に根ざした活動を広げていくことが重要な課題である。このような認識から、「NPO法人子育てひろば全国連絡協議会」が組織され、子育て支援者の資質向上に向け、各種セミナーや研修会の開催などを行っている。 また、保護者の通院や社会参加活動、又は育児に伴う心理的・身体的負担の軽減のため、保育所や駅前等利便性の高い場所で就学前の児童を一時的に預かる「一時預かり事業」、すべての乳児のいる家庭を訪問することにより、子育て支援に関する情報提供や養育環境の把握を行い、必要な支援につなげる「乳児家庭全戸訪問事業(こんにちは赤ちゃん事業)」、特に支援が必要な妊婦や子どものいる家庭を訪問し、養育に関する相談、指導等の支援を行う「養育支援訪問事業」、乳幼児や小学生等の児童を有する子育て中の労働者や主婦等を会員として、児童の預かり等の援助を受けることを希望する者と当該援助を行うことを希望する者との相互援助活動を行う「ファミリー・サポート・センター事業」、保護者の通院や社会参加活動、又は育児に伴う心理的・身体的負担の軽減のため、保育所や駅前等利便性の高い場所で就学前の児童を一時的に預かる「一時預かり事業」、児童養護施設等において親の残業や病気などの際にその家庭の児童を預かる「子育て短期支援事業」等を展開し、地域の子育て支援機能の強化を図っている。 |
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■第4節 新たな子ども・子育て支援の施策の充実 | |||||||||||||||||||||||||||||||
子どもと子育てを応援する社会の実現に向けて、2010(平成22)年1月に、子ども・子育て支援の総合的な対策である「子ども・子育てビジョン」が策定された(図表1-4-1)。この「子ども・子育てビジョン」では、子どもが主人公(チルドレン・ファースト)であると位置づけ、「少子化対策」から「子ども・子育て支援」へ考え方を転換しており、社会全体で子どもと子育てを応援する社会の実現を目指し、2010 年度から2014(平成26)年度までの5 年間で目指すべき施策内容と具体的な数値目標(図表1-4-2)を掲げ、保育サービスの充実やワーク・ライフ・バランスの推進など、子どもの育ちを社会全体で支え合う環境づくりに取り組んでいる。
図表1-4-1 子ども・子育てビジョン 図表1-4-2 主な数値目標等 また、幼保一体化を含む新たな子ども・子育て支援のための包括的・一元的な制度の構築について検討を行うため、2010年1月に関係閣僚で構成する「子ども・子育て新システム検討会議」が開催され、同年6月には、同検討会議で取りまとめられた「子ども・子育て新システムの基本制度案要綱」が、全閣僚で構成する少子化社会対策会議において決定された。 その後、子ども・子育て新システムの制度設計については、関係府省の副大臣、政務官からなる「子ども・子育て新システム検討会議作業グループ」の下に置かれた基本制度ワーキングチーム、幼保一体化ワーキングチーム、こども指針(仮称)ワーキングチームにおいて、有識者、保育・幼稚園関係者、地方団体、労使代表、子育て当事者などの関係者の参画を得て、内閣府を中心とした関係府省が連携し、具体的な制度の検討を進め、2011(平成23)年7月の基本制度ワーキングチームにおいて、「子ども・子育て新システムに関する中間とりまとめ」が取りまとめられるに至った。 また、「社会保障・税一体改革成案」(2011年6月30日政府・与党社会保障改革検討本部決定)の工程表において、税制抜本改革とともに、早急に法案提出することとされている。今後は、実施主体である地方公共団体など関係者と十分に意見交換を行い、税制抜本改革とともに、早急に法案提出ができるよう、残された検討課題について、できる限り速やかに検討を再開することとしている。 |
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■第5節 母子保健医療対策の充実 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 「健やか親子21」の推進
21世紀の母子保健分野の国民運動計画である「健やか親子21」については、2009(平成21)年度に、「『健やか親子21』の評価等に関する検討会」において第2回中間評価を行い、過去4年間の成果を踏まえつつ、今後重点的に取り組む方向性等を示したところである。 |
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■2 子どもの心の健康支援
様々な子どもの心の問題、児童虐待や発達障害に対応するため、都道府県における拠点病院を中核とし、各医療機関や保健福祉機関等と連携した支援体制の構築を図るための事業を2008(平成20)年度より3か年のモデル事業として実施してきたところであり、2011(平成23)年度においては、本モデル事業の成果を踏まえ、事業の本格実施を行うこととしている。 |
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■3 妊婦健診や出産に係る経済的負担の軽減
妊婦の健康管理の充実と経済的負担の軽減を図るため、平成20年度第2次補正予算において、妊婦健診を必要な回数(14回程度)受けられるよう、それまで地方財政措置されていなかった9 回分について、支援の拡充を図っており(すべての市区町村で14 回以上の公費助成を実施(2010(平成22)年4月現在))、平成22年度補正予算において、2011(平成23)年度についても、公費助成を継続することとしたところである。 また、妊娠の早期届出(それに伴う母子健康手帳の早期交付)及び妊婦健診の適正な受診について、政府広報、リーフレットの作成・配布等を通じて広く国民に周知を図っている。 加えて、2011年4月以降の出産育児一時金制度については、引き続き、支給額を原則42万円とするとともに、出産育児一時金等を医療保険者から医療機関等に直接支給する直接支払制度については、医療機関等への支払いの早期化や、医療機関等における事務手続きの簡素化などの改善を図ったところである。 さらに、直接支払制度への対応が困難と考えられる小規模施設等については、受取代理の仕組みを制度化したところである。 |
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■4 不妊に悩む夫婦への支援
■(1) 不妊専門相談センター 不妊症の検査・治療等に関する情報提供や相談体制を強化するため、地域において中核的な役割を担う保健医療施設などにおいて、専門医等が、1不妊に関する医学的な相談や、2不妊による心の悩みの相談などを行う「不妊専門相談センター事業」を実施している(2010(平成22)年度:61か所)。 ■(2) 不妊治療に係る経済的負担の軽減等 体外受精及び顕微授精は経済的な負担が大きいことから、2004(平成16)年度から、次世代育成支援の一環として、配偶者間のこれらの不妊治療に要する費用の一部を助成し、経済的負担の軽減を図っている。 2007(平成19)年度から、給付額を拡大し(治療1回につき上限額10万円、年2回、通算5年まで)、所得制限を緩和(夫婦合算所得730万円まで)しているが、さらに、2009(平成21)年度より給付額を治療1回につき上限額15万円まで拡大しているところである(2009年度支給実績:84,395件)。2011(平成23)年度においては、1年度目は年3回まで対象回数を拡大(通算5年、通算10回を超えない)することとしている。 |
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■第6節 ひとり親家庭の総合的な自立支援の推進 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 ひとり親家庭を取り巻く状況
母子世帯数(未婚、死別又は離別の女親と、その未婚の20歳未満の子どものみからなる一般世帯(他の世帯員のいないもの))は、2005(平成17)年で749,048世帯となっており、父子世帯数(未婚、死別又は離別の男親と、その未婚の20歳未満の子どものみからなる一般世帯(他の世帯員のいないもの))は、同年で92,285世帯となっている(総務省「国勢調査」2005(平成17)年)。 母子世帯となった理由別にみると、死別世帯が9.7%、生別世帯が89.6%となっている(厚生労働省「全国母子世帯等調査」2006(平成18)年)。 就業の状況については、2006年で、母子家庭の母の84.5%が就業しており、就業している者のうち、常用雇用者が42.5%、臨時・パートが43.6%となっている。一方、父子家庭の父は97.5%が就業しており、このうち常用雇用者が72.2%、事業主が16.5%、臨時・パートが3.6%となっている(厚生労働省「全国母子世帯等調査」2006年)。 母子世帯の1世帯当たり平均所得金額は231万4千円であり、児童のいる世帯の1世帯当たり平均所得金額688万5千円と比べて低い水準となっている(厚生労働省「平成21年国民生活基礎調査」)。一方、父子世帯の平均年間収入は421万円であり、母子世帯より高い水準にあるが、300万円未満の世帯も約37%となっている(厚生労働省「全国母子世帯等調査」2006年)。 |
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■2 ひとり親家庭の自立支援の取組み
母子家庭等に対する支援については、「母子及び寡婦福祉法」等に基づき、1保育所の優先入所等の子育て・生活支援策、2母子家庭自立支援給付金等の就業支援策、3養育費相談支援センターの設置等の養育費の確保策、4児童扶養手当の支給等の経済的支援策といった総合的な自立支援策を展開している(図表1-6-1)。 図表1-6-1 母子家庭の自立支援策の概要 特に、母子家庭の母については、就業経験が少なかったり、結婚・出産等により就業が中断することにより、就職に困難を伴うことが多く、就職しても不安定な雇用条件にあることが多いことから、自立に向けた就業支援がとりわけ重要である。 このため、2011(平成23)年度においては、 1 マザーズハローワークを始め、全国のハローワークにおけるきめ細かな職業相談・職業紹介や、地方自治体が設置する母子家庭等就業・自立支援センターにおける就業相談・講習会・就業情報の提供等の実施 2 ハローワークと地方自治体が締結した協定に基づき、ハローワークと福祉事務所等の担当者からなる「就労支援チーム」を結成し、対象者のニーズ、経験及び適性等を的確に把握し、対象者の状況に応じて、個別求人開拓や就職支援ナビゲーターによるマンツーマン支援等の就労支援を行う「「福祉から就労」支援事業」の実施 3 就労経験が乏しい母子家庭の母等の職業的自立を促進するため、就職の準備段階としての準備講習と、実際の就職に必要な技能・知識を習得させるための職業訓練をセットにした「準備講習付き職業訓練」の実施 4 看護師等の就業に結びつきやすい資格取得のために養成機関に通う際の生活費の負担軽減のための高等技能訓練促進費等の支給期間の延長や、在宅就業の環境整備への支援の実施 5 企業における母子家庭の母の雇い入れを促進するため、トライアル雇用を実施した事業所に対する試行雇用奨励金の支給や、継続して雇用する労働者として雇い入れた場合の特定求職者雇用開発助成金の支給 などの取組みを推進している。 また、母子家庭等に対する経済的支援として、 1児童扶養手当の支給 2母子寡婦福祉貸付金による生活費や子どもの修学費等に対する貸付けを実施しているが、児童扶養手当については、2010年8月より父子家庭も支給対象とし、同年12月から支給を開始したところである。 |
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■第7節 児童虐待への対応など要保護児童対策等の充実 | |||||||||||||||||||||||||||||||
■1 児童虐待への取組みの推進
■(1) 児童虐待への現状 児童虐待への対応については、2000(平成12)年11 月に施行 |