「甘言」考

現代 / 「甘言」諸相2014201520162017甘言の修飾語緑のオーナー投資島嶼化する国慰安婦と河野談話安倍さんの甘言蜜語衆参同日選政局温故知新黒猫の縁起日本人のリーダー幼児化する政治軍事費と社会保障費女ブローカーの甘言SEALDsローン詐欺人生最大の買い物冤罪事件特区生みの親教育犯罪創業経営者不倫放火殺人事件座間シリアルキラー男「好きだよ」女「嫌い」と嘘をつく詐欺と甘言アラフォー女の「イタさ」ホステスの心得尻軽女こんな人だと思わなかった別れの美しい物語政治家の実像と未来政治家になる人なれる人甘言の研究金融機関に騙される・・・
昭和時代 / 吉田茂大野伴睦慰安婦の募集方法朝鮮人の日本移入山口二矢東西文明対立史観アメリカの宥和政策今出川のこと田中絹代社会運動歌謡曲に見る昭和の世相昭和史の失敗唐九郎金日成回顧録昭和の犯罪男に貢ぐ女たち高根沢町史「大学は出たけれど」岡田啓介河合栄治郎ワイマール共和国三越の女帝「竹久みち」・・・
大正明治時代 / ボタン産業史熊野網走刑務所惨殺事件大江卓有島武郎今戸心中日本人渡航者日韓併合朝鮮の公娼制相場鹿児島県の移民峠の茶屋岸和田紡績東本願寺句仏事件風営法大正三美人破綻銀行と虚業家大正の事件明治天皇崩御明治の古殿町淀川改修工事琉球函館 とキリスト布教・・・
江戸時代 / 徳川家康労働者派遣江戸時代の雇用忠臣蔵讃岐法難生間流上野国奈良村絵島事件キリスト教禁止前綾衣外記・局外中立と中立解除黒田騒動千姫事件横田騒動二宮翁夜話渋江抽斎江戸末期の快男児有馬晴信桑名はまぐり子どもを拉致した飫肥藩戯曲「ファウスト」・・・
安土桃山・戦国時代 / 島左近大河内源三郎異聞秀吉豊臣秀吉大崎氏の内紛淀殿毛利輝元波川城二箇の相承筑後国人堤豊福城家康の独立姿勢武田家の滅亡郡内小山田氏北条氏康真田幸村安養院池田せん菊池高鑑荒木村重長坂光堅「兵とは詭道なり」文禄慶長の役民話出雲の鷹曽呂利新左衛門政宗の毒殺未遂事件リア王の悲劇・・・
室町・南北朝時代 / 南北朝大田道灌吉田兼好新田義貞薩州動乱古河公方館「通小町」と「痩男」南部信政義経記足利義満魚山参拝南北朝の幕あけ南部政光懐良親王楠木正行大津山氏・・・
鎌倉時代 / 実朝渡宋計画親鸞安田義定源頼義「政治演説」と「ヤジ」熱原法難の龍泉寺壬生狂言岩瀬与一太郎頼基陳状第二の国諌と竜の口法難・・・
平安時代 / 平将門前九年の役平清盛豊田城八幡太郎は恐ろしや常陸金砂城攻め飯を盛る女・・・
奈良・飛鳥時代 / 有間皇子称徳天皇平城天皇端午の節句卑弥呼表と裏蝦夷の馴属と奥羽の拓殖日高見国飛鳥時代古代吉備始皇帝の栄光と蹉跌三国志散所考ギリシャローマ物語浄土三部経神仏・・・

諸話 / 質屋の歴史平野郷鉄の交易資料大正昭和の岸和田沖縄差別の源流モラルなき経済政策文部省の大学入試改悪安倍晋三と慰安婦問題宗教諸話・・「口」と個性
 

雑学の世界・補考

 
 
 
 
■現代

   平成時代 1989〜  

現代の「甘言」諸相
甘言
相手の心をひきつけたりする手段として使う、うまい(聞き手に気持よい)言葉。 / 人の気に入るような口先だけのうまい言葉。甘辞。 / 相手の気持ちをさそうように、うまくいう言葉。 / 人の気に入るような都合のいい話をするさま。相手を言葉を駆使してだますさま。
甘言蜜語
相手の気を引いたり、取り入ったりするための甘い言葉。おせじ。「蜜語」は蜜のように甘い言葉。男女の甘い語らいにもいう。  

敵は恐るるにたらず。甘言を弄する部下を恐れよ。 / 苦言は薬なり、甘言は疾(やまい)なり。 / 長所も短所も一切含めた自分自身を知れ、そうすれば甘言に身を誤らせない。甘言は変じて警告となり、謙遜の勧めとなり、人生の…
「いき」
・・・渋味―甘味は対他性から見た区別で、かつまた、それ自身には何らの価値判断を含んでいない。すなわち、対他性が積極的であるか、消極的であるかの区別が言表されているだけである。渋味は消極的対他性を意味している。柿が肉の中うちに渋味を蔵するのは烏からすに対して自己を保護するのである。栗が渋い内皮をもっているのは昆虫類に対する防禦ぼうぎょである。人間も渋紙で物を包んで水の浸入に備えたり、渋面じゅうめんをして他人との交渉を避けたりする。甘味はその反対に積極的対他性を表わしている。甘える者と甘えられる者との間には、常に積極的な通路が開けている。また、人に取入ろうとする者は甘言を提供し、下心ある者は進んで甘茶を飲ませようとする。
対他性上の区別である渋味と甘味とは、それ自身には何ら一定の価値判断を担になっていない。価値的意味はその場合その場合の背景によって生じて来るのである。「しぶかはにまあだいそれた江戸のみづ」の渋皮は反価値的のものである。それに反して、しぶうるかという場合、うるかは味の渋さを賞するものであるから、渋味は有価値的意味を表現している。甘味についても、たとえば、茶のうちでは玉露に「甘い優美な趣味」があるとか、政まつりごとよろしきを得れば天が甘露を降らすとか、または快く承諾することを甘諾かんだくといったりする時には、甘味は有価値的意味をもっている。しかるに、「あまっちょ」「甘ったるい物の言い方」「甘い文学」などいう場合には、甘味によって明らかに反価値性が言表されている。  
よいしょ
よいしょ(ヨイショ)とは、物を持ち上げるときなどに力をこめるためのかけ声だが、芸人の世界では、パトロンを持ち上げて(おだてて)いい気分にさせる行為をいい、「ヨイショする」と動詞形でも用いられる。芸人がお客をおだてるには口先三寸でなんの力も必要ないように思われるが、実は、心にもないお世辞を無理やりしぼり出し、ふつふつと湧き出るプライドを力づくで抑えこむというパワープレイなのである。
ヨイショは、男芸者ともいわれる太鼓持ちがパトロンを喜ばせるさいに主に用いられる言葉だが、それもそのはずで、色気で迫る女性と違い、男性が男性を喜ばせるには、やはり「ヨイショ」と気合いを入れる力業(ちからわざ)が必要なのである。
太鼓持ち
人にへつらって機嫌を取る人をいうようになったのは、宴席などで席を取り持つ職業の「太鼓持ち」からであるが、太鼓も持たないこの職業が「太鼓持ち」と呼ばれるようになった由来は定かでなく、語源は以下のとおり諸説ある。
太鼓の演奏でうまく調子を取ることと、大尽の調子を取ることを掛けたとする説。
踊りやお囃子などで、鉦を持たない者は太鼓を持っていることから、「鉦」を「金」に掛け、金持ちに合わせて調子を取るところからとする説。
相手をおだてたり褒めたりすることを「持ち上げる」というが、太閤の機嫌を取るためにおだてることを「太閤を持ち上げる」の意味で「太閤持ち」といい、それが「太鼓持ち」になったとする説など。
この職業の正式名称は「幇間(ほうかん)」なので、太鼓持ちの当て字として「幇間」が用いられることもある。
持ち上げる(もちあげる)
荷物・重量物などを持ち上げる / 上げる・引き上げる・(みんなで)押し上げる・(頂上まで)運び上げる・(背に)かつぐ・かつぎ上げる・(包みを)かかえ上げる・(ヘビがカマ首を)もたげる・(景気を)上昇させる
他人の自尊心・優越感情などを持ち上げる / 賞賛する・賞揚する・(高く)評価する・もてはやす・はやす・(盛んに)ほめる・ほめ上げる・ほめそやす・チヤホヤする・ゴマをする・ヨイショする・取り入る・へつらう・(気持ちを)くすぐる・おだてる・機嫌を取る・世辞を言う・甘言を弄する・ご祝儀(相場による〜)・(〜を)特別扱いする・(〜を)“後押し”する・“仲間ぼめ”(に終始する)・(〜には)愛想がよい  
上司への提案
部下の中には「評価される人は上司にゴマをすっている」と考えている人が多いものです。中でも評価されていない部下ほど、そう考えます。
自分に甘言ばかりを述べる部下を取り巻きとして重用し、苦言を述べる部下を遠ざけて冷遇するような上司の職場ならば、そう言われてもしかたがないでしょう。ただ、そういう上司は少ないはずです。それでは、チーム運営がうまくいかず、いずれ実績もあがらなくなり、マネージャーの立場を追われるからです。
ここで取り上げたいのは、誤解されているケース。客観的に評価しているにも関わらず、部下から「ゴマすりで評価が決まっている」と思われている場合です。
この場合の問題は、低評価の部下が自分の評価に納得していないこと。だから、その原因を「ゴマをする、すらない」に求めてしまうのです。
対策は、人事考課の際、個々の部下に「なぜそういう評価なのか」「どうすれば評価が上がるのか」をきちんとフィードバックすることです。
表向き「ゴマすりが評価に影響している」と公言していない部下も、腹の中ではそう思っているかもしれません。考課後のフィードバックをきちんとしましょう。
・多くの部下はゴマすりが評価に影響していると思っている
・人事考課の際、個々に「なぜそういう評価なのか」伝える
・あわせて「どうすれば評価が上がるのか」を伝える  
甘言より諫言
人はとかく己の耳に優しく聞こえる甘言を好みますが、果たしてそれで良いのでしょうか、「良薬は口に苦し」と昔から言うように諫言は耳障りこのうえありません。 古代中国より封建制度華やかりし頃諫言した家臣は首を刎ねられた時代もあり諫言する時は死を覚悟して諫言したと伝え聞きます。歴史とは現代と過去との対話であるが故に現代社会でも上司に面と向かって物申す人間が少なくなり、陰湿な内部告発が流行しているようです。己は正義と思って見てもこんな事で会社組織も国家も一枚岩になれるでしょうか、この難局に立ち向かい乗り切る為にはスピリチュアルな部分まで一つになり難題を共有してこそ乗り切れるのです。人は誰しも自分自身で学び修行し経験したものを絶対だと思いがちですが、それは己自身のみに通ずるもので他人の言葉を軽視している証であり、小さい己を作り出しているだけなのです。部下の諫言に耳を傾け、甘言に惑わされず真言を聞き分ける心(魂)が大切なのです。
「苦言は薬なり甘言は病なり」
耳が痛く聞きづらい言葉は薬なり、取り入ろうとへつらいのことばは、害毒になるということ。「薬」は「やく」とも読む。
聴くと心地よくなく聞くには不愉快、しかし、忠告であり結局は自分のためになる。
甘い言葉は気休めで時には必要、いつもそればっかりでは何の解決にもならない。
我を通して言ってるのか、本当に想って言ってるのか、言いにくいことを言ってくれてるのか、しっかり見極めも必要。
見極める耳と、聞く耳を持てば、苦言に対する感謝の念わき、自身の成長に役立つ。
苦言。
何もいまどき、正面でより、メールなどの言葉として残るもの。
やり取りなど、温度差、経験値、立場の違いなどで、腹立たしい思いの、やたら専門用語や「なぜ」「何のために」等、やたら答えずらいものを要求されたときが、一番「苦言」です。
なぜならば、私は商売をしていて「なぜ」とか「なんのためにとか」、稼ぎながら仕事をしながら、覚えていかなくてはいけないものが、現場であり基本、それが事業の基本だと思います。
今時間かかるかもしれないが、「なぜ」「どうしたい、課題は」など、いちいち応えることや考える時間は、正直「やりながら」ではないと、とても家族を養えません。
再度言いますが、それが現場だと思います。
現場と上層部、関連公的機関など、この隔たりはいったい何なんでしょうか?
お互いにわかりあえる要素はありません。
しかし、わかろうとする努力や、一個一個難しいという割れる、書類や表現を一個一個解決することは可能です。
歩み寄りが自分自身でなくては、何の解決にもなりません。
そう「自分から」変わり歩み寄らねば、解決の糸口はありません。
何事も積極的にです。
苦しいのではなく、頭で考えようとする、クセが人間にはあると思います。
ひとつづ解決してみせる、必ずできるはずです。
時間は気にしないです。
いつか必ずでいいです。
難解、時間がない、どうすればいいか・・・
だけど、食事のときは食事です。
それに負けて、酒におぼれては、また自分を弱くします。
寝るときはぐっすり寝る。
やってもいないこと、なってもいないこと、間に合わないなど、一斉考えないこと。
なるようにしかならないと思います。
腹が立つことほど、怒らず冷静に。
「この怒りを」解決のエネルギーに、解決しましょう。
私は良薬については、少しばかり考えがあります。
「ほめる」ことは、今の時代必要だと思います。
怒られるより「ほめる」「うそいって」って思っても、悪い気持ちはしません。
「ほめらる」ことになんて、慣れてない人が多いのでしょう。
変に疑惑を持たれますが・・・しかし、恨む要素は生まれません。
「甘い」に乗るなは、とても重要です。
トラブルにまかれやすいからです。
多くの人を平気で傷つけるからです。
「甘い」は病気(ケガ、事故、災いのすべて)につながります。ネット社会は特にそうだと思います。
褒められるのはいいが、「甘い」かどうか、ただで食べてみましょう。
ただであげないというなら、話しを聞いてはいけません。
「甘い」話人生勉強に、なるので聞くだけにとどめましょう。
決してついて行ったり、買ったりしませんように。 
苦言薬也
『史記』商君列伝に記載があります。戦国時代、秦の宰相:商鞅(ショウオウ)が趙良(チョウリョウ)と交際しようとして引用した言葉です。商鞅は趙良に、敢て苦言を求めましたが、薬とすることなく、ついには車裂きの刑に処されてしまいました。
商君曰、語有之矣 / 商君曰く、言葉が有るや、
   商君が言いました、いい言葉があります。
貌言華也 / 貌言(ぼうげん)は華(はな)なり
   うわべをかざった誠意のない言葉は花であり
至言実也 / 至言(しげん)は実なり
   最上の言葉は実なり
苦言薬也 / 苦言は薬なり
   厳しい諫めの言葉は薬であり
甘言疾也 / 甘言は疾(やまい)なり
   人の気に入るようなへつらいの言葉は病である
甘言の落ちるところ 
多くは程度の問題なのだが、中にはその程度の度が過ぎて、「もう、いい加減にした方が身のためだし、周囲の人達のためでもあると」と苦言の一つも呈したくなることがある。人当たりはいいし、今風の言い方で言えば空気を読むとでもいうのだろう、周囲の人達への目配りも長けている。ちょっとみれば如才ないことこの上ないと言うより、実に上手な世渡りと感動することすらある。要領がいいといとうのか抜け目がないというのか。頭はいいのだろうが優秀という訳ではない。一緒にしたら、まともな人達が激怒しかねない。一言で言えば精々小利口というところだろう。
全てにおいて、どんなことがあっても自分の責任にはならないように言辞を弄する。言葉は明瞭なのだが、歯切れはお世辞にもいいとは言えない。それでもフツーの人がフツーに聞けば全ての責任をとる意思があると言っているように聞こえる。言葉の意味をきちんと定義して使う習慣のある人が聞けば、言っていることの節々に、そこには取れる条件が整った場合だけという逃げ道が埋め込まれているのがみえる。
人生において最も大事なのは、窮地に陥ることなく常に安全サイドに身を置くことだという信念にも近いものを持って生きているのではないかと思う。まるで、”注意深い”、中国語でいうところの“小心”を座右の銘としているかのようにみえる。実務をしようとはしない。全ての実務は周囲の人、あたかも下々がやることで自分が直接手をかけることでないと思っている。自分で何かをすれば、うまくゆかなかったときに、明らかに自分の責任になって逃げられない。もっとも、何をするにもやり慣れてないので、何かしようとすれば一騒ぎになりかねない。自分では何一つまともにできない。何かの拍子に何かをすることにでもなれば、自分では格好を付けたと思っている誤解と誰も使えない資料と呼べない資料の類くらいが産物として残ることになる。
若い時から実務を避けてきたので、評論家よろしく口ではああだのこうだの言うが、何かをする能力は失せて久しい。あれきた言辞の遭遇する度に、平安時代のお公家さま連中とはこういう人達だったのだろうと思う。そう思うと、あまりにもあたっているだろうという勝手な想像から、妙に納得してしまう。何からなにまで、実務のことは人任せ。それが自分のあるべき姿だと、それ以外のありようはあり得ないと思っている。
そんな御仁が、これだけはと思っていることが一つある。人の和を求めてといえば聞こえがいいが、要は自分の都合のいいように周囲の人を動かすための甘言を振りまく。誰も彼もが甘言にほだされてという状態をつくりあげる労は惜しまない。苦言でですら、甘言にしか聞こえないまでに、言辞能力を芸術の域にまで昇華しようとしているようにすら見える。その言辞能力、もう平安貴族ですら手球にとれる域に達しているかもしれない。
ただ、その言辞能力で人を思いのままに操る術ではどうにもしようのない本質的な問題がある。どれほどの人達をどれほどの間ほだされた状態し得るかで得られる収穫物が決まる。実務に長けた優秀な人達をできる限り長くほだされた状態に縛れれば、得られるところも大きいが、能力の低い人達をいくらほだされた状態に保ったところでたいしたものは得られない。
そのため、実務能力の高い人達をほだすべく言辞能力を研ぎ澄ましてきた。その研ぎ澄ましたのを駆使して、手間暇惜しまず、頻繁に飲みにゆくなどメンテナンスも怠らない。しかし、いくら芸術の域まで高めた言辞能力を最大限駆使しても、実務能力のある人達ほど、ほだされたとしてもその期間が短い。何度かほだされて、さめてを繰り返すと、甘言に対する免疫のようなものができて、手を変え品を変えの甘言も効き目がなくなる。
実務能力に自身のない人達ほど、人間関係にたよる面が多い。その分甘言に乗りやすいし、甘言に過ぎないと薄々感じていても、進んでほだされ、自らほだされた状態を保とうとする傾向にある。ほだされた同士が共鳴しあってほだされた期間を引き延ばすこともあるだろうが、そこには残念ながら能力の低い人達が多い。中には実務能力が高いにもかかわらず世事に疎くほだされやすい人達もいるだろうが、多くはない。
時間の経過とともに落ちるべくして落ちるべくところに落ち着く。能力のある人達は、甘言を駆使した言辞能力でことをなそうとする人からは距離をおくようになる。フツーの人達は、甘言が甘言にすぎないこと、まともに甘言にほだされるということは、ちょうど風邪のような病気にかかるのと似たようなものであることを感じて、自身の精神状態を正常に保ち得る健全な距離を保つようになる。残るのは甘言ほだされやすい、ほだされ続ける人達−実務能力の低い人達になる。ただ、この人達をいくらほだしても、実務をまともに遂行し得る組織にはならない。甘言を弄する人は、最終的には実務能力の低い人達のなかででしか生きられない。
平安貴族の性根を見極めてしまった侍が貴族を見捨てたのと同じようなことが起きる。能力のある人達は離れ、ない人達に囲まれて、できることといえば、言辞を弄して貴族の体面を取り繕うことだけになる。
優秀な人達のなかには、たまには気分転換に甘言の毒素をスパイス代わりに、遊び半分でというのもいるかもしれない。 (2013/10)  
2014

 

日本の歴史学者グループ、安倍首相の歴史認識を真っ向から批判 2014/3
安倍晋三首相の歴史歪曲について、日本の歴史学者たちが正面から反論している。30日の日本・歴史学研究会によると、同研究会は先日声明を発表し、「日本軍が慰安婦の強制連行に深く関与し、実行したことは、揺るぎない事実である」と明らかにした。これは慰安婦動員の強制性を否定する安倍首相への反論といえる。
同研究会は1932年設立され、2100人の会員を持つ日本の代表的な歴史学学術団体で、1980年代から慰安婦問題を研究してきた。「政府首脳と一部マスメディアによる日本軍『慰安婦』問題についての不当な見解を批判する」と題する声明で同研究会は、「安倍首相の見解のとおりに(慰安婦問題を)理解するならば、日本政府の無責任な姿勢を、国際的に発信する愚を犯すことになるであろう」と批判した。
久保亨(61、信州大学人文学部教授)委員長は24日、東京千代田区にある研究会事務所で東亜(トンア)日報のインタビューに応じ、「慰安婦強制連行の事実は、中国山西省の事例などで明らかになった。韓国にも、強制連行されたという慰安婦被害者の証言が多数存在する」と述べた。
さらに、「強制連行は安倍首相の言う『家に乗り込んでいって強引に連れて行ったケース』に限定されるのではなく、甘言や詐欺、脅迫、人身売買など、本人の意思に反した行為も含めると見なすべきだ」と話した。
22日、菅義偉官報長官が「(慰安所内部での強制性についての判断は)歴史学者に任せるべきだ」とコメントしたことについて久保委員長は、「すでに歴史学で確認されたことであり、わざと確認されていないかのように話すのは国民を騙すことだ」と指摘し、「今回の声明に共感する歴史学者が『大多数』であると考えても良い」と付け加えた。  
「軍の関与」は争点ではない 2014/8
最後に、朝日新聞が1面に掲載した「慰安婦問題の本質 直視を」という杉浦信之編集担当役員の記事を検証しよう。朝日としては、あえて吉田清治や女子挺身隊の誤報を認めた上で、「女性の尊厳」などの情緒的な言葉で窮状の打開をはかったのだろうが、この記事は問題を取り違えている。
「日本軍の関与を認めて謝罪した「河野談話」の見直しなどの動きが韓国内の反発を招いています。韓国側も、日本政府がこれまで示してきた反省やおわびの気持ちを受け入れず、かたくなな態度を崩そうとしません。」
ここではもっぱら「軍の関与」を指弾する論調になっているが、河野談話の見直しは「関与」を見直すものではない。「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」という表現で、政府が強制連行したとも解釈できる曖昧な表現を修正しようということだ。
軍の関与を否定する人は、関係者には一人もいない。戦地は危険なので、軍の関与なしに商行為はできない。戦地では売店も床屋も、すべて軍が関与していたのだ。宮沢訪韓のあと、1992年7月に出された加藤官房長官談話では、次のように明言している。
「私から要点をかいつまんで申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の衛生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。」
このころまで、自民党の一部には「慰安婦は民間の商行為で軍はまったく関与していない」という人がいた。この談話は、それを否定して政府の監督責任を認め、「いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」と謝罪した。したがって日本政府は軍の関与を公式に認めており、この話はもう終わっているのだ。杉浦氏は
「見たくない過去から目を背け、感情的対立をあおる内向きの言論が広がっていることを危惧します。戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです。」
とうたい上げるのだが、慰安婦の一部に人身売買があったことは誰もが認めている。これが多くの場合(民間業者の)強制をともなうことも自明だ。しかし人身売買は、内地の娼婦にもあった。吉原では警察や保健所がやっていた娼婦の管理を、戦地では軍がやっていただけのことだ。
慰安婦だけが「女性としての尊厳を踏みにじられた」わけではない。吉原では、10年ぐらいの年季が明けるまでほとんど無給で客を取らされ、年季明けまでに性病で死ぬ遊女が多かったという。慰安婦が悲惨だったのではなく、娼婦という職業が悲惨だったのだ。そして、そういう時代はもう終わった。21世紀に、そんな昔話を蒸し返す意味は何もない。
杉浦氏は経済部出身で、木村伊量社長も政治部出身だから、社会部の左翼軍団に手を焼いている側だろう。先輩から受け継いだ「負の遺産」の始末に困り、ここで一挙に清算しようとしたのかもしれない。誤報を率直に認めた勇気はたたえたいが、もう一歩踏み込んで朝日を呪縛している「加害妄想」を抜本的に見直してはどうだろうか。  
外務省は韓国の情報戦に応戦せよ 2014/9
きのうの朝日の謝罪は、実はコアの部分では降伏していない。産経も伝えるように、木村社長は「われわれはこの問題を、大事な問題、アジアとの和解問題、戦地の中での女性の人権、尊厳の問題として、これからも明確に従来の主張を続けていくことは、いささかも変わりません」と強調している。
これは彼が社内向けメールで表明した「偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らには屈しない」という決意をやわらかく言ったものだろう。朝日新聞の子会社の番組「報道ステーション」では、元外務省欧亜局長の東郷和彦氏が登場し、こう言い放つ。
「この点は、世界の大勢は、狭義の強制性があるかないかについて、ほとんど関心がないという点につきる。アメリカの世論は、今、自分の娘がそういう立場に立たされたらどう考えるか、そして「甘言をもって」つまり「騙されて」連れてこられた人がいたなら、それとトラックにぶち込まれた人と、どこが違うのかという立場に収斂している。」
この事実認識は正しいが、論理的にはナンセンスだ。人身売買は今でも世界中で行なわれているのに、なぜ70年前の日本軍の人身売買だけ問題にするのか、さっぱりわからない。これは「戦争犯罪」だから問題になったので、軍の強制連行を否定した段階で終わっているのだ。
しかし多くの民衆(特にアメリカ人)は、そんな細かいことを知らない。元国務省日本部長のケビン・メア氏も「今さら日本が強制性の有無を論じても勝ち目がない」といっていた。これが最大の壁だ。韓国人も、ここをねらって慰安婦像をアメリカ各地に建てている。東郷氏も、それが誤解であることは知っているのだが、あえて誤解を容認しようというわけだ。
ではどうすれば解決するのか。東郷氏も、かつての朝日のように「償い金を政府予算で拠出」して解決すべきだと、つかみ金を求める。そんなことをしても、また「日本が罪を認めた」と韓国が宣伝するだけだ。ロシアスクールの彼は、日韓の複雑な経緯を知らないのだろう。
ロシアと同じく、中国も韓国も全面的な和解は不可能という前提で交渉するしかない。アジア中部の専制国家の文化的遺伝子は日本とはまったく違い、仲よくできる相手ではない。それが福沢諭吉も内藤湖南も梅棹忠夫も説いたことだ。
こういう場合は、経済的な関係を保ちながら、政治的にはなるべくつきあわないのが最善だが、相手が世界に嘘を広めている場合は、日本もそれを打ち消す事実を伝えるしかない。今まで外務省は「話せばわかる」という方針で韓国外務省とやってきたが、向こうの国民やマスコミは話してもわからない。
アジアと和解できれば結構なことだが、日本政府はその努力は十分やった。そもそも日本は韓国に戦争被害を与えていないのに、日韓条約で5億ドル資金供与し、アジア女性基金という「示談金」まで出した。もう贖罪史観は卒業して韓国の「おねだり」は相手にせず、外交的な情報戦の敵と考えるしかない。
政府が「新談話」を出すべきだという片山さつき氏などの提言を政府は拒否しているが、この騒ぎを盛り上げた朝日新聞が「強制連行」を否定した以上、河野談話を見直し、世界に事実を説明すべきだ。  
人身売買の批判は「非歴史的」である 2014/9
慰安婦問題はかなり煮詰まって、朝日新聞の逃げ場もなくなってきた。彼らが「強制連行はなかった」と認めた以上、残るのは人身売買である。その証拠はたくさんあり、おそらく娼婦の多くは何らかの身売りだったと思われる。これは戦前も違法であり、軍や官憲がそれを仲介した事実はないが、それを黙認していたことは明らかだ。
問題は、それに対して国家責任を認めるのかどうかという点に尽きる。これについて東郷和彦氏は、2007年にカリフォルニア大学サンタバーバラで行なわれた「歴史問題シンポジウム」で、多くのアメリカ人からいわれたことをこう記している(p.163以下)。
1. 日本人の中で、「強制連行」があったか、なかったかについて繰り広げられている議論は、この問題の本質にとって、まったく無意味である。世界の大勢は、だれも関心を持っていない。
2. 性、ジェンダー、女性の権利問題について、アメリカ人はかつてとはまったく違った考えになっている。慰安婦の話を聞いた時彼らが考えるのは、「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という一点のみである。そしてゾッとする。これがこの問題の本質である。
3. ましてや、慰安婦が「甘言をもって」つまり騙されてきたという事例があっただけで、完全アウトである。「強制連行」と「甘言でだまされて」気がついた時には逃げられないのと、どこがちがうのか。
4. これは非歴史的(ahistoric)な議論である。現在の価値観で過去を振り返って議論しているのだ。もしもそういう制度を「昔は仕方がなかった」と言って肯定しようものなら、女性の権利の「否定者」(denier)となり、同盟の担い手として受け入れることなど問題外の国ということになる。
これが慰安婦問題のもっとも厄介な論点である。彼らも認めるように、これは現在の価値観を戦時中に遡及する非歴史的な論理であり、学問的には成り立たないが、大衆レベルでは広く受け入れられている。たとえば「建国のころアメリカは奴隷制を受け入れられていたのだから、歴史的には奴隷制は当然の制度」という議論は、今のアメリカでは受け入れられない。
外交官の世界で日本軍が慰安婦を強制連行したと信じる人はいないが、人身売買があったことは常識だ。問題は、ここから先である。東郷氏は「韓国で生きている約50名の元慰安婦の人たちと和解」するために「アジア女性基金で民間からの拠出によって賄った償い金を、政府予算で拠出」せよというが、それで問題が解決する保証は何もない。
まず必要なのは、現代の立場から人身売買を批判することは非歴史的な価値観の遡及適用だと明確にすることだ。そういう批判は自由だが、国家責任とは別の問題である。日本が慰安婦の人身売買に国家賠償するなら、アメリカ政府も黒人奴隷の子孫に賠償し、イギリス政府もインドの大反乱で虐殺したインド人の子孫に賠償しなければならない。そんな訴訟が成り立たないことは、アメリカ人でもわかるだろう。
その上で重要なのは、人身売買について日本政府はすでに謝罪したと明確にすることだ。1993年に河野談話で一定の責任を認めて政治決着し、アジア女性基金で非公式の賠償をした。いま騒ぎになっているのは、韓国政府が「河野談話で決着していない」と言い始めたからだ。彼らが国際法はおろか当事国の話し合いも無視して国家賠償を求めるから、話が混乱しているのだ。
だからNYTなど「国際社会」の性奴隷(人身売買)批判に対する答は簡単だ:日本政府はすでに道義的責任は認め、非公式の償いもした。韓国政府の「日本軍の強制連行」という宣伝の根拠となっていた朝日新聞の誤報は取り消されたので、政府には道義的責任はあるが法的責任はない。それはアメリカ政府の黒人奴隷に対する責任とまったく同じである。
河野談話の「官憲等が直接これに加担」とは何のことか 2014/10
超こまかい話だが、先日の朝まで生テレビでもスタッフが理解していなかったので、歴史の継承のためにメモしておこう。河野談話でもっとも重要なのは、次の強調部分だ。
「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。」
この「官憲等が直接これに加担」の意味について、このときの記者会見で「強制連行の事実があったという認識なのか」という質問に、河野洋平氏が「そういう事実があったと。結構です」と答えたことが、韓国側が「日本政府は強制連行を認めた」と主張する根拠になっている。これは明らかな事実誤認なので、河野氏は「私の答は誤っていた」と訂正する必要がある。
ただ河野氏は文書の作成にはかかわっておらず、この「加担」の中身は知らなかった。これについて、当時の外務省の記者レクではスマラン事件のことだという説明が行なわれたとされる。1997年の国会答弁でも、内閣外政審議室審議官が「韓国政府が行ったという元慰安婦の証言以外にはバタビア[インドネシア]の事件が1つあっただけだ」と答弁している。
韓国に対する外交文書に、インドネシアの事件を根拠にして「強制性」を書くのはおかしいし、国会でも指摘されたようにスマラン事件は強制連行ではない。これが事実なら、外務省は問題の部分を「インドネシアでは」と修正すべきだ。そうすれば「日本政府は強制連行を認めた」という誤解もなくなる。この点はこまかいが重要なので、国会であらためて検証したほうがいい。  
慰安婦問題 〜 韓国の戦術から日本の対応策を考える 2014/11
朝日新聞の「吉田証言記事」の撤回を受け、自民党議員からは「対外発信をより強化すべきだ」「いわれなき非難には断固として反論を」という発言が多い。自民党の国際情報検討委員会は、決議文書の中で「いわゆる慰安婦の『強制連行』の事実は否定され、性的虐待も否定されたので、世界各地で建設の続く慰安婦像の根拠も全く失われた」とまで書いた。しかし、これまで記事撤回が国際社会に大きなインパクト与えたり、日本とってプラスの影響があったとは言い難い。日本はこれからどう対応していくべきなのか、韓国の戦略と国際社会の人権感覚から考えてみる。
慰安婦像の碑文と韓国の戦略
韓国の団体が慰安婦像や記念碑の建立を世界中で計画し、それに日本人が抗議するという動きは近年ずっと続いている。「明らかな嘘」としてよくやり玉に挙げられるのは、パリセイズパークの碑文
“In memory of the more than 200,000 women and girls who were abducted by the armed forces of the government of Imperial Japan”
(日本帝政国府軍により誘拐された200,000人以上の婦女子をしのんで)
あるいは、グレンデールの慰安婦像の
“I was a sex slave of Japanese military.””Torn hair symbolizes the girl being snatched from her home by the Imperial Japanese Army.”
(私は日本軍の性奴隷でした。乱れた髪型は、この少女が大日本帝国軍によって、彼女の家から連れ去られたことを象徴しています)
である。しかし、これらは「日本軍の要請を受けた業者の甘言によって彼女の故郷(home)から連れ去られた」と考えれば、矛盾はなくなってしまう。「国家による管理売春を追及する」という基本方針は外していないのだ。
「20万人」という数字についても、実際は数万人と言われているが、正確な数字は誰にも分からない。「20万」が多すぎることは確かだろうが、結局、推計の仕方の問題であり、「虚偽」だと解説したところで大した効果は望めない。
「性奴隷(sex slave)」の定義も、人や国によってバラバラだ。wikipediaによると、「年季奉公」の定訳である「indentured servitude」は「奴隷制」の意味が強いらしい。慰安婦が親に年季奉公に出されて1日何回も性交渉させられていたことは事実なのだから、「慰安婦」を「性奴隷」と考える人がいても何ら不思議はない。問題は「なぜ日本にだけ不愉快な言葉を使うのか」である。
「強制連行」という言葉も、本来は「徴用」を指すのだろうが、定義(範囲)や英訳は人により異なっていて、否定しても一体何を否定しているのかすら分かってもらえない。「強制性」「軍によって強制され」などと言い換えられることも頻繁にあり、「スマラン事件や、日本軍の使った業者の甘言も強制的な連行」「軍も移送や管理に携わり、軍による強制性があった」と考えられても仕方ない。
このように、韓国側は、「捏造だ」とは断言できない曖昧な言葉・文章を駆使して「日本人が徴用や慰安婦狩りをして性奴隷にした」かのような印象を与え、日本人を「捏造だ」と反発させて不利な状況に追い込むという、結構高度な戦術を取っているように思える。要するに、「国家による管理売春」という事実に対する追及と「曖昧戦術」の合わせ技である。日本側は「曖昧戦術」によって幻の「事実関係をめぐる論争」で独り相撲を取らされ、「国家による管理売春に対する反省・償いが十分か」という本来の土俵で不利になっているのだ。このような状況下では「本物の嘘」も通りやすくなる。
慰安婦の証言
そして、韓国側の最大の武器は慰安婦の証言である。いろいろと信じがたいようなおぞましい被害証言も存在し、それを基に漫画やらアニメも制作されている。しかし、一つ一つ個別の体験談を虚偽だと証明していくことは難しいし、どうしても被害者の証言の方が信用されがちでもある。
しかし、実は、過去の証言集などでは「業者に〜された」という内容の証言が多い。『ソウル新聞』は、朴裕河教授の『帝国の慰安婦』書評の中で「女性たちをだまして戦地に引っ張っていき虐待と搾取を日常的に行った主体は、大部分が同胞の朝鮮人の民間会社だった事実を慰安婦の証言を通じて明らかにする」と書いている。韓国側は慰安婦証言でも「主語なし曖昧戦術」を取ることで、嘘をつくことなく「日本人が〜した」と世間に思わせている場合が多い。慰安婦像の碑文からしても、「業者の関与」はできるだけ隠したいという韓国側の意図は明白だ。
「日本は何に対して謝罪したのか」を明確にすべき
韓国側が「曖昧戦術」を取っているなら、日本は「はっきりさせる戦術」を取らなければならない。相手の使う曖昧な言葉や文章を否定しても、実際に起こった事実は明確にならない。曖昧さの泥沼に引きずり込まれるばかりである。「じゃあ何で謝罪したんだ」ともなるし、「業者の関与」も明らかにならない。
それに、「軍による強制性を示す資料はなかった」とか「性奴隷ではなかった(大金をもらっていた)」と言うと、どうしても正当化しているようで反感を買ってしまう。大事なことは「〜があった」と言って、「実際にあったこと」「日本は何に対して謝罪したのか」を明確に限定して、それに対する反省、償いを示すことだ。河野談話はこれが限定されていないので、韓国にうまく利用されているように思える。(あるいは、河野談話から「曖昧戦術」を学んだのかもしれない)。
国際社会の人権感覚
近年、国際社会では「女性の人権」への関心はますます高まってきている。現代は、アメリカ国務省も年次報告書で「JKお散歩も新たな人身売買」と言って日本を非難するような時代である(大人たちが女子高生を商品化し、売り買いしているという意味)。欧米では「女性集め」の段階だけでなく「移送・管理」も人身売買と捉えるのがごく一般的だ。「強制連行」していなくても、「移送・管理」に携わった(解放しなかった)時点でほぼ同罪なのである。なので、仮に「徴用」や「慰安婦狩り」がなかったと理解してもらったところで大したインパクトは望めない。だからこそ、朝日新聞は「吉田証言記事」を撤回したと思われる。朝日がわざわざ日本が有利になるようなことをするとは思えない。
実際、東郷和彦氏の『歴史と外交』によると、2007年のワシントンポストの意見広告「The Fact」の「日本軍による強制を示す資料はない」「性奴隷ではなかった(高収入を得ていた)」「証言は信用できない」等の主張や証拠を読んだ友人のアメリカ人は、
「総理の対応がその後抑制的になっていたので、せっかく沈静化してきていたのに、これでまた決議案支持派は息を吹き返すね」
「広告の中には正しいことも書いてある。しかし、一番大事な『日本は反省している』ということがほとんど書かれていない。この広告を見て自分は意見を変えた。やはり決議案は成立させた方がよいと思う」
と語り、実際、下院121号の謝罪要求決議案は可決された。
欧米で慰安婦問題に影響力のある議員や記者クラスの人間となると、日本の左翼並みの人権屋と思ってかかるべきだ。彼らにとっては、日本の保守派の「日本の名誉の回復」しか頭にないような言動は唾棄すべきものと映るだろう。これでは、韓国側が「慰安婦問題は現代にも通じる普遍的な女性の人権問題だ」という主張で有利に立つのも仕方ない。
そういう意味では、外務省がクラマスワミ報告反論書公開について「人権問題に後ろ向きに取られる」と難色を示すのは理解できなくもない。安倍首相もそうだが、「吉田証言」「強制連行」「性奴隷」にこだわっていると、「業者の甘言・人身売買」「国家(組織)による管理売春」という「現代にも通じる普遍的な女性の人権問題」の重大さを認識していない、「戦前と変わらない、人権意識の低い国だ」と受け取られてしまうのだ。人の理解は段階的なものなので、「過去の日本」に対する誤解を解くのは、圧倒的形勢不利の現状をいくらか改善してから、つまり、「現在の日本」が「女性の人権を重視する国、人権意識の高い国」と認めてもらってからにした方がいいかもしれない。
日本の取るべき対応策
そのためには、まず、「日本軍が使った業者が甘言・人身売買を行っていた」「日本軍も移送や管理に携わっていた」「業者が虐待・搾取を行ったり、日本兵が暴力を振るった例もあった」という事実、管理者責任を素直に認めれば反感も買わないし、「強制連行がなかった」ことも、「業者の関与」もはっきりする。そして、河野談話や首相名義のお詫びの手紙、アジア女性基金は、現在の日本が人権問題に非常に前向きである証となる。「首相名義のお詫びの手紙」を「不十分だ」と主張するには相当な理由が必要だ。
「人権問題に前向きだ」とアピールする方が受けが良いのは当然のことである。それに、「日本は確かに悪いことをした。だから十分な対応をした」という前提を明確にして初めて、「他の国もやっていた」「昔は当たり前だった」ということが言える。単なる「お前も同類さ」という論理は国際社会で評価されないので、「日本は使用者責任を認めて償いを行った唯一の国である」という優位性をアピールする必要がある。
韓国の「慰安婦問題は現代にも通じる普遍的な女性の人権の問題だ」という主張は、ある意味ハードルを下げているので、共感は得やすいかもしれないが、ブーメランにもなりやすい。「『女性の人権の問題』と言うなら自分たちのやったことはどうなんだ。日本と違って何の反省も償いもしてないではないか」とも言えるし、「過去の問題を取り上げ対立するよりも、現代の問題を解決すべく国際社会が一致結束すべきだ」とも言える。
慰安婦問題について、韓国側は「被害者側」というアドバンテージを持っている。加えて、国際世論をしっかり意識しているし、多様な攻め方をしてきている。日本国内の議論も観察して戦略を練っているのだろう。それに比べると、日本の政治家は、もろに韓国の戦略の追い風となるような言動も多く、あまりに勉強不足の感は否めない。単純に反論するのではなく、韓国の戦略や国際社会の感覚をしっかり見極めて対応策を考えてほしい。まずは、国際社会において「現在の日本」の人権意識に疑義を持たれないようにして、聞く耳を持ってもらえる状況を作ることが必要ではないだろうか。  
慰安婦問題、中井知之論文で考えたこと 2014/11
中井知之氏がアゴラで「慰安婦問題〜韓国の戦術から日本の対応策を考える」と題する論文を書いている。
「日本を貶める韓国団体のやり方に対して、今までの日本の反論は説得力が乏しく、国際社会の反発を招く。もっと明確な事実を示した有効な対応策が必要だ」という論考で、考え方と方向性について異存はない。ただ、賛成できない点、食い足りない点があるので、そこを論じたい。
中井氏の論点を要約しながら、やや長めに引用すると、こうだ。
<韓国側は、「日本軍の関与」といった曖昧な言葉・文章を駆使して「日本人が徴用や慰安婦狩りをして性奴隷にした」かのような印象を与え、日本人を「捏造だ」と反発させて不利な状況に追い込むという、結構高度な戦術を取っているように思える。……このような状況下では「本物の嘘」も通りやすくなる>
<韓国側が「曖昧戦術」を取っているなら、日本は「はっきりさせる戦術」を取らなければならない。相手の使う曖昧な言葉や文章を否定しても、実際に起こった事実は明確にならない。大事なことは「実際にあったこと」「日本は何に対して謝罪したのか」を明確に限定して、それに対する反省、償いを示すことだ。河野談話はこれが限定されていないので、韓国にうまく利用されているように思える>
<近年、国際社会では「女性の人権」への関心はますます高まってきている。現代は、アメリカ国務省も年次報告書で「JKお散歩も新たな人身売買」と言って日本を非難するような時代である。欧米では(日本軍が──引用者注)移送・管理」に携わった時点でほぼ同罪なのである>
<「過去の日本」に対する誤解を解くのは、圧倒的形勢不利の現状をいくらか改善してから、つまり、「現在の日本」が「女性の人権を重視する国、人権意識の高い国」と認めてもらってからにした方がいいかもしれない>
<「日本軍が使った業者が甘言・人身売買を行っていた」「日本軍も移送や管理に携わっていた」「業者が虐待・搾取を行ったり、日本兵が暴力を振るった例もあった」という事実、管理者責任を素直に認めれば反感も買わないし、「強制連行がなかった」ことも、「業者の関与」もはっきりする。そして、河野談話や首相名義のお詫びの手紙、アジア女性基金は、現在の日本が人権問題に非常に前向きである証となる。「首相名義のお詫びの手紙」を「不十分だ」と主張するには相当な理由が必要だ>
<「日本は確かに悪いことをした。だから十分な対応をした」という前提を明確にして初めて、「他の国もやっていた」「昔は当たり前だった」ということが言える。単なる「お前も同類さ」という論理は国際社会で評価されない。「日本は使用者責任を認めて償いを行った唯一の国である」という優位性をアピールする必要がある>
<韓国の「慰安婦問題は現代にも通じる普遍的な女性の人権の問題だ」という主張は、ある意味ハードルを下げているので、共感は得やすいかもしれないが、ブーメランにもなりやすい。「『女性の人権の問題』と言うなら自分たちのやったことはどうなんだ。日本と違って何の反省も償いもしてないではないか」とも言えるし、「過去の問題を取り上げ対立するよりも、現代の問題を解決すべく国際社会が一致結束すべきだ」とも言える>
<慰安婦問題について、韓国側は「被害者側」というアドバンテージを持っている。加えて、国際世論をしっかり意識しているし、多様な攻め方をしてきている。日本国内の議論も観察して戦略を練っているのだろう。それに比べると、日本の政治家は、もろに韓国の戦略の追い風となるような言動も多く、あまりに勉強不足の感は否めない。単純に反論するのではなく、韓国の戦略や国際社会の感覚をしっかり見極めて対応策を考えてほしい>
以上、基本的に賛成だ。食い足りない点というのは、具体的な反論や政府の対策があまり書かれていないことだ。
例えば『『女性の人権の問題』と言うなら自分たちのやったことはどうなんだ。日本と違って何の反省も償いもしてないではないか」という点である。
韓国は朝鮮戦争の時に、韓国軍と米軍、国連軍に対する慰安所を用意した。ウィキペディア「韓国軍慰安婦」によると、韓国軍は直接慰安所を経営することもあり、部隊長の裁量で周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士達に補給した。補給された女性達は、前線に送られる際、ドラム缶にひとりづつ押し込められた。米兵も利用した韓国軍慰安婦には韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている。相当にひどい人権蹂躙があったわけだ。朝鮮戦争後にも慰安婦制度は続き、その数は30万人余りに達したと推測されている……。
米軍は日本占領時にも日本政府に慰安所を創設を要求している。占領軍の要請は事実上の強制である。さらに当時は、日本女性に対する米兵によるレイプ事件も頻発した。それに対する米政府による日本への謝罪はない。
韓国の慰安婦は今も活動しており、米国はじめ世界に進出している。それを許す韓国政府はどういうつもりか。韓国が「慰安婦問題は現代にも通じる普遍的な女性の人権の問題だ」というなら、まさにブーメランのように、天にツバするように、自らに降りかかる。
日本の外務省はその点を明らかにし、韓国政府や米国政府に厳しく追及すべきだろう。また国連の人権委員会にもその事実を伝え、同委員会で糾弾するようにさせるべきだろう。
また、日本は「業者による慰安婦の人権を踏みにじった当時の事態を反省している。だからアジア女性基金も作った」としたうえで、強制連行はなかったという点は明確にしなければならない。
この点、中井氏が次のように書くのはいただけない。 
<外務省がクラマスワミ報告反論書公開について「人権問題に後ろ向きに取られる」と難色を示すのは理解できなくもない。安倍首相もそうだが、「吉田証言」「強制連行」「性奴隷」にこだわっていると、「業者の甘言・人身売買」「国家(組織)による管理売春」という「現代にも通じる普遍的な女性の人権問題」の重大さを認識していない、「戦前と変わらない、人権意識の低い国だ」と受け取られてしまうのだ>
クラマスワミ報告は朝日新聞の誤報、捏造に基づいた間違った報告書だから反論するのである。中井氏の言うように「曖昧にではなく、具体的に、厳密に、明確に」反論するのである。
でないと、誤解が国際社会に定着してしまう。中井氏は元外交官の東郷和彦氏の意見を次のように、やや肯定的に取り上げている。
<東郷和彦氏の『歴史と外交』によると、2007年のワシントンポストの意見広告「The Fact」の「日本軍による強制を示す資料はない」「性奴隷ではなかった(高収入を得ていた)」「証言は信用できない」等の主張や証拠を読んだ友人のアメリカ人は、「総理の対応がその後抑制的になっていたので、せっかく沈静化してきていたのに、これでまた決議案支持派は息を吹き返すね」「広告の中には正しいことも書いてある。しかし、一番大事な『日本は反省している』ということがほとんど書かれていない。この広告を見て自分は意見を変えた。やはり決議案は成立させた方がよいと思う」と語り、実際、下院121号の謝罪要求決議案は可決された>
「広告」が反省していない印象を与えたのはまずかったかも知れない。だが、私は東郷氏の態度を認めることはできない。いやしくも、国の税金で禄を食む身であろう。真実に基づかない日本が受けた汚名に対しては、心血を注いで反論するのがスジではないか。また、きれいごとをいう米国の友人に対し、戦後、占領中の日本慰安婦に対し、何をしたかを具体的に話し、「まずそれへの謝罪決議をすべきではないか」と詰問すべきではないのか。
実際、日本の外交官がそうした努力をさぼってきたために、米国では日本に対する謝罪要求が行われたのである。
以前このブログで書いたが、産経新聞ワシントン駐在客員特派員の古森義久氏が、その経緯を抉り出している。  
<2007年7月の連邦議会下院での日本非難決議を主唱したマイク・ホンダ議員は審議の過程で第二次大戦後の日本でも占領米軍が日本側に売春施設を開かせたという報道に対し、「日本軍は政策として女性たちを拉致し、セックスを強制したが、米軍は強制連行とはまったく異なる」と強調した>
<同決議案を審議する公聴会の議長を務めたエニ・ファレオマバエンガ議員は「米国も人権侵害は犯してきたが、日本のように軍の政策として強制的に若い女性たちを性の奴隷にしたことはない」と断言していた>
今、朝日の謝罪で、この強制連行はウソとわかったのだから、日本は冤罪に基づく同決議の撤回を米国議会に求めるべきである。議会側は「韓国慰安婦の証言がある」と反論しているようだが、それも覆すだけの材料がある。
中井氏の言うように、女性の尊厳を重んじ、戦前の慰安婦制度に対する反省の姿勢を示すのはいい。だが、その上で「強制連行はしていない、そして女性の人権蹂躙については、米国や韓国は相当にひどい事実があるのだから、反省や謝罪をしてもらいたいと訴えていくべきだろう。  
2015

 

都構想否決について 2015/5
橋ロスが止まらない
私は大阪市民です。橋下さんが、大阪を良くしてくれると、非常に期待して応援していただけに、今回の住民投票の否決で「橋ロス」が止まりません。
私は、橋下さんの一つ下と同世代で、私が育った小学校は、橋下さんが生まれたとされている隣の校区です。性格もよく似ています。ですから、橋下さんが、どんな苦労をして、どんな生き方をしてきたか、聞かなくてもおよそのことは分かります。
大阪を良くして欲しいという思いだけでなく、個人的な肩入れがあったのは事実です。個人的な肩入れがあったからと言って、全部を肯定してきたつもりはなく、批判すべきは批判してきましたが、本心では自分を重ねて(私は小物ですが)観ていたのでしょう。ですから、余計に「橋ロス」が止まらないのです。
しかし、いつまでもそんなことは言ってられないので、実際に市民の立場で都構想を見てきた感想と、分析(本職では、ビッグデータ解析をやっているのですが使いません)をまとめて、「橋ロス」を乗り越えたいと思います。
「私利私欲の独裁者」と思っていた人がくらった肩すかし
私にとって分からないのは、「橋下徹という人間」ではなく、むしろ、橋下さんに対し「独裁者で、私利私欲で動いている」と批判する人たちの方です。都構想が否決され、会見が始まるまでの間、「橋下は辞めないだろう」と、ツィートしている人が非常に多かった。ものすごく勝ち誇り、下世話な言葉で……。
なぜ、そういう風に誤解されて見られていたのか、その辺に深い溝があるということについて、考察してみます。
橋下さんは、どんなに怨まれても、必要と思った改革はやり通す。「怨まれてもやる」ということは、余程の信念がないとできない。「私利私欲」でできるほど軽いことではないのです。
私は小さな会社をやっていましたが、社員には「『社長』じゃなく『生島さん』と呼ぶように」とお願いしていた。
私は、社長がやりたかった訳ではない。やりたいことが社長(起業)しないとできないから起業しただけの話。起業すること(社長になること)は、目的じゃなく手段です。
しかし、あるとき、社長同士の飲み会で、「なぜ、社員に社長と呼ばせないのか?」と聞かれて、そう答えたら「あり得ない、絶対に嫌だ」と言われた。その人は、サラリーマンから出世して社長になった人だった。
サラリーマン社会では、それが一般的なんだろうと思う。私は、頭で理解できても、感覚的に分かってない。組織に入ったことがなかった橋下さんも、恐らく似たような感覚だろう。だから、彼らの恐怖心を、本質的に理解することはできなかった。
私は、起業するとき、「私は社長向きじゃない。調整を重んじるより、正しいことをやりたいから起業するわけなので、社員からも嫌われる。だから、私が社長をやるよりも、嫌われない重しになってくれる人に社長になって欲しい。ナンバー2でいたい。お願いやから社長をやって!」と、何人かにお願いした。全員に、「そんな覚悟のないことでは、会社はできない」と言われ、決断したけれど、やっぱり失敗した(・ω<) てへぺろ 橋下さんは、「怨まれてもいい。今なら民意をつかめる。ふわっとした民意があるうちに改革をやりきろう」と決断したんだと思う。知事を、市長をやりたい人ではなく、やりたいこと(都構想)をやるために市長になった人ですから、否決されてまで、続けるはずはないのです。
怨まれてもやるということ
「怨まれてもいい」というのは、とてつもなく孤独だし、誤解もされる。
橋下さんも(私も)、頭では、「嫌われるやろうなぁ」と分かっていても、肌感覚では、その範囲は「斬った人まで」と思っていたんじゃないか。まさか「助けようとしていた人(女性層)にまで誤解され、後ろから撃たれる」なんて、思いもしてなかったでしょう。
それに途中で気づいたときには、間に合わなかった……。
多くの人は、何かを判断するときに
「嫌われたくない」
「今のポジション・収入を守る」
という項目を、言わずもがなの大前提に置いている。
ですから、サラリーマンから上がった、「社長と呼ばれたい」タイプの人は、「社長(知事・市長)と呼ばれ続けたい」と思うのでしょう。特に営利団体ではない、自治体の長を選ぶような人は、嫌われるようなことは絶対にしない。私企業であれば、多少強引でも利益を出す人に人はついていきますが、自治体ではそうはいきませんから。
人は自然に「成りたかった姿」、態度になっていくものです。「社長と呼ばれたい」「社長になりたい」タイプの人は、長くやって尊大な態度になってしまって嫌われたりするけれど、「ケンカを吹っかける」ような態度は絶対にとらない。成りたかった「社長(知事・市長)」の姿じゃないから(苦笑)
そういった「(将来、可能なら)社長と呼ばれたい」タイプ。そういうサラリーマン的思想が、日本に広く浸透しています。ですから、就活に失敗したぐらいで自殺する人がでしまうのでしょう。そういう人の視線で、いろんな人に、「ケンカを吹っかける」橋下さんを見れば、「市長(知事)になったからって、何をやってもいいと思っているのか(尊大を超えているじゃないか!)」つまり、「やつは、私利私欲の独裁者に違いない」となるのでしょう。
しかし、橋下さんの「成りたかった姿」は、市長でも、知事でもなかった。
「嫌われたくない」
「今のポジション・収入を守る」
という大前提も、最初から持ってなかった。
だから、ああいった態度を取ったのです(これは、他にも理由がありますので、次回以降に)
橋下さんにとっては、知事だろうが、市長だろうが、一市民だろうが良かった。
ただ、「成し遂げたいこと」があっただけです。
それを見て、「私利私欲」と受け取る人が出る。これは、埋めがたい溝。
お互いが理解できない違う人種なんでしょう……。
余談です
そんなに【良いもん】ではないけれど、橋下さんは、古くは三国志の曹操とか、織田信長とかのタイプです。
そういう歴史上の人物でも、いまだに、「私利私欲」という評価をする人と、「前例を壊す改革者」と評価する人が出てしまいます。
橋下さんは、「嫌われ方」を肌感覚では分かってなかったけれど、自分の分析はちゃんとできていた。曹操・信長タイプの人は、ショートリリーフしかできないのです。
世の中は、
「だんだん制度疲労を起こしてくる」
「古い制度を壊して新しい制度を作る」
「新しくできた制度を維持する」
の繰り返しです。
維持するのは、先発完投型(長期安定政権)の橋下さんとは真逆のタイプ、つまり、調整型でトラブルを避ける人の方が向いています。
これをいまだに誤解している人がいますが、自分の向き不向きを橋下さんは理解していたから、壊し終えて新しい種を撒いたら降りる気でした。そう最初から言ってますし、そこに偽りはないですよ。橋下さんが嫌いでも、斬るのは完全に壊してからで良かったのです。
もちろん、ショートリリーフタイプが長期政権を取ったら、イラクのフセインとかになってしまうのですけどね……。選挙でいつでも降ろせる日本では、そんな心配はありません。
更に余談で繰り返しになりますが、橋下さんは地位に拘りはない人です。ですから、政治家に戻るときは、「次の目標」が必要です。
次の目標に成り得るのは、「憲法改正」でしょう。それを次の目標に出る可能性はありますけれど、負けてすぐ、より大きな「憲法改正」ができると考えるほど馬鹿じゃないはずです。
安倍首相に誘われたとしても、【当分】は断るでしょう。
シルバーデモクラシー
人口が多い老人世代の意見が通り易い、シルバーデモクラシーであったと言えなくはないです。しかし、可決されていれば、老人世代は損をする立場でありましたし、老人は変化を好まないのも当然です。
それよりも、(老人が損をするならば、逆に)恩恵を受けるはずの若い世代に、反対票を入れた人が相当数いたことの方が問題です。
その理由について考えてみたい。
議論かケンカか、抗議か圧力か?
『日本人はxxx』というステレオタイプ、レッテル張りは良くないけれど、やはり、独特の国民性を持っている。聖徳太子以来の「和を以て貴しとなす」は、今も、根強く生きているでしょう。
もちろん、「和を以て貴しとなす」ということ自体は、日本の誇るべき文化で壊す必要はありませんが、これを曲解というか、変に刷り込まれている人が大勢いるということに問題があるのです。
その問題が、如実に表れたのは、藤井さんと橋下さんの(議論ではなく)ケンカではないかと思います。
内容的には、藤井さんがウソを含むトホホな反論を発表する。
橋下さんが、「公開討論に出てこい!」といつもの橋下節でわめく。
藤井さんは、出てこない。
橋下さんが、京大に抗議する。
藤井さんが、圧力を掛けられたと抗議をする。……
藤井さんが議論の場に出てこなかった以上、これはケンカでしかありません。
情けないほどの低次元のケンカでしたが、内容の如何にかかわらず、力がある方がファイティングポーズを取ることを【圧力】と捉える考え方。これは、自民党がTV局を呼び出したときにも起きました(民主党時代は、もっと呼び出してましたけどね……)
ウソに対する抗議を【圧力】と言われたら、ウソをつく方が圧倒的に有利になってしまいます。
似たことは、最近も多数起きていました。
上杉、武田、と並べると戦国武将みたいでかっこいいですが、上杉隆や、武田邦彦など原発事故で一山当てた連中は、平気でウソをつき、議論を避け、攻められると「圧力を掛けられたぁ〜」と明後日の方向に逃げ込めば良い、という戦法を取ってきました。
橋下さんは、ちゃんと説明すれば、橋下さんを「独裁者」と見ている層は無理でも、他の市民は「ウソをついて、なんとみっともない!」と見てくれると思っていたかもしれません。しかし、橋下さんを「和を乱す悪い奴(【圧力】を掛けて苛めている悪い奴)」と受け取り、その後の橋下さんの説明を受け付けなかった人たちがいたようです。
揉めている時点でアウトと考える
「橋下は揉め事ばかり起こす」こういう意見が、実際にありました。
例えば、「給食問題でも見てみぃ〜、冷たいもん食わして可哀想や、橋下は何でもせく(急ぐ)からあかんねん」などと言ってる人も、大勢いました。そう言ってたのは一般市民です。大阪では、散々アンフェアな報道が行われていましたから、それに乗せられた部分もあるでしょうが、そういう判断基準の人も多いということです。
常識的に考えて、何十年も給食がない問題を解決する(議会で通し、予算を付けて、指示を出す)ところまでは市長の仕事ですが、「冷たい・不味い」は業者や、担当課長レベルの問題です。全部が市長の責任であったとしても、プラス(メリット)とマイナス(デメリット)を比べれば、比較にならないはずですが……。
プラスは見ないが、トラブっていることだけは見るというタイプの人が、かなりの割合でいるようです。
(そういう考えの人たちのことは、私は全く分からないのですけれど……)そう確信をもって言えるのは、今回の住民投票について、「住民を真っ二つにして和を乱した」という批判をしている人が、評論家から大阪市民に至るまで、かなりの割合で存在するからです。「将来について考え、議論することは悪」という、とても理解しがたい、恐ろしい考え方を持っている人が、少なからず存在する。今回の住民投票で、そういう人が、投票結果を動かすほどもいることが分かった訳です。
「議論を悪(トラブル)」と考え、トップはトラブルを抑えることが仕事である、という考え方は、「老人は変化を嫌う」というある意味当然の結果より、私にとっては衝撃的で恐ろしい結果でした。
55年体制から?
しかし、よくよく考えてみると、実はこの議論を避ける戦法を使ってきたのは、何も左寄りの人たちだけじゃない。例えば、古くは原発問題です。議論をするより「絶対安全です」で押し切って補助金を出しておけば良い、というように、自民党(右寄り保守系)も同じ戦略を取ってきたのでした。
何でも反対、適当に躱して補助金と、お互いに予定調和のプロレスをやっていたのが、いわゆる55年体制です。これらは、「和を以て貴しとなす」が、おかしな方向で刷り込まれている、あるいは、おかしな方向で利用した結果だと思います。
「議論をトラブルと捉え避ける」というおかしなことがまかり通ってきたのは、55年体制ができた(嵌っていた)高度成長期には、衝突を避け、議論を避け、プロレスを見せることで様々な問題を先送りすることが、総合的に見れば合理的に作用していたからでしょう。高度成長期は、たとえ一切の利権を持っていなくても、「努力すれば、今日より良い明日が来るに違いない」と全員が思える時代でしたし、経済成長がその問題を覆い隠してくれていました。
その影響がまだ続いているようです。55年体制は崩れてしまいましたが、「議論を避ける」ことを「正しい」と思っている人たちが、私よりも下の世代にも存在することが、日本の一番の問題ではないかと思います。
しかし、残念なことに、低成長時代、急速な少子高齢化の人口減少時代に入った現在は、衝突を避け、議論を避け、問題を先送りすれば、確実に破綻が待っています。衝突を避けている場合ではないのです。
議論は和を乱すことではない
橋下さんは、「日本の民主主義を相当レベルアップさせたと思う」と仰いましたが、これはウソではありません。今までは、議論する経験すらしてこなかったのですから……。しかし、まだまだ小学生レベル。もっともっとレベルアップしなければなりません。
今回の住民投票を検証する過程で、この議論を悪とする考え方を、一番の問題として、よく考えなければならないと思います。
特に議論をする際、
 「誰が言った言葉か」が重要な人
 議論とケンカの区別がつかない人
 意見・反論とウソの区別がつかない人
 抗議と圧力の区別がつかない人
 利点があっても、トラブル(和を乱す)を異常に恐れ踏み切れない人
 (和を乱す)出る杭を打つ人
などなど、これらの「和を以て貴しとなす」を曲解した人たちが大勢いる。55年体制当時の成功(ではないのですが)を知っている老人に多いのは当然ですが、若い人にも大勢いることが、今の日本の一番の病根でないかと思うのです。
その理由は、恐らく日教組の教育方針に問題があるのでしょうが、橋下さんの作った「徹底的に議論しよう」という流れで、治していかねばならないでしょう。橋下さんが作った流れを絶やしてはいけません。
橋下流ケンカ戦法と議論が成り立たない日本
橋下さんは、議論の場に引き摺り出すために、相手を罵ったりしてきました(私もよくする)。それ自体は、批判されて当然の手法です。
しかし、そうでもしないと議論から逃げられてしまうのが日本の現状です。
罵ったりできるのは、「私利私欲はなく、公的な目的(大阪を良くする)を達成するために、プロレスをやっている時間はない!」という理由なのですけれど、それを見た人の中に、逃げて「圧力を掛けられたぁ〜」と言ってる人を認めてしまう人が、数多く存在する。
それ以前に、「議論を、揉めて(トラブって)いると捉えて、その時点でトップとしてどうか?」というような判断をする人もということが分かりました。これを橋下さんがどこまで理解していたか……。私は、そういう人を理解していませんでしたし、そういう人を「馬鹿なので相手をしない」と切っていました。
国会でも、クイズのような質疑が話題になっています。
牛歩戦術よりかはマシですが、「国の課題」より、
 「自分が目立つこと」
 「与党を陥れること」
 「時間切れにして、核心の議論をさせないこと」
などを目的としているのでしょう。
それに拍手喝さいを送る国民、市民が、選挙結果に影響を与えるほども存在するならば、日本の問題は解決できません。橋下さんは、恐らく、次に「議論をもっと見せる」方向にメスを入れてくるだろと思っています(次回以降に書きます)
衝突、議論を避けて、問題を先送りしている余裕は、今の日本には残っていないのです。
大東亜戦争時のウソ(デマ)
当時の状況を考えれば、すでに日中戦争を始めている状態で、国民が一致団結しなければどうにもならない。戦争とはそういう状態であるので、国民に一致団結を呼びかけるのは間違いとは言い難い。そこで多くのウソがまかり通っていった。このウソが蔓延したことは大本営だけが悪いわけではない。むしろ国民全員が言っていて、訂正できない空気になったことが問題でしょう。
誰かが言ったウソは、尾ひれがついてもっと大きなウソになって返ってきた。訂正することは、国民が一致団結せねばどうにもならない状況において、不合理となってしまった。
最も影響を与えたウソの内容は、「日本は強い(勝てる)」と、「鬼畜米英(開戦時ではないですが……)は恐ろしい」でした。
今となってはその恐怖は理解できないかもしれないけれど、集団自決は、「自決せよと命令された」から起きたのではなく、「鬼畜米英が来れば、死ぬより恐ろしい地獄が待っている」という、ウソによって作られた恐怖から起きた悲劇です。
大本営が「玉砕」の方針を決定したのも、「今更、日本は負けてるし、最初から分かってました」とは言えない。尾ひれのついたウソを大本営ですら覆せない空気になっていたから……。
戦争はウソ(デマ)に騙される人が多いから起きる
古今東西、どんな独裁者も、政治家も、兵士が納得しない戦争を指示すれば、その兵士たちにクーデターを起こされ、無残に殺されることを知っている。つまり、兵士(≒国民)に「戦争もやむなし」の空気がなければ、ヒットラーですら戦争なんて踏み切れないのです。
しかし、ヒットラーは国民世論を演説だけで「戦争やむなし」の方向に持っていくことができた天才でした。
ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていてわざとやられた、という陰謀説(真相は分からないが、悩んでるうちに始まったんじゃないの?)がでるのは、ルーズベルトは戦争に参加したかったのは事実ですけれど、ルーズベルトにはヒットラーほどの能力がなく、「戦争もやむなし」という空気を作ることができなかったからです。
つまり、(防衛戦以外で)戦争になるかどうかは、憲法9条があるかどうかではない。戦争を避けたければ、「国民がウソに騙されない知性を持つこと」が、最も重要な問題で、憲法9条があろうとなかろうと、自衛隊だろうが、国防軍だろうが関係ないのです。
反対派が訴えた無理な甘言
反対派は無理なバラマキを約束しました。(一方で、財政再建も約束しましたが、これは守られないでしょう)大阪が、日本が、このままでは衰退するのは明らかです。つまり、バラマキは続かないことは確定しています。それでも、バラマキを続けることを決めたわけです。
国力の差から考えれば負けることは確定的だった大東亜戦争でも、最初は日本が勝っていました。同じように、大阪市のバラマキもしばらくは続けることが可能でしょう。
大東亜戦争開戦時は、「なかなか開戦に踏み切らない東條英機は腰抜け」というような国民が多くいました。真珠湾攻撃の成功を聞いた国民の多くは、日の丸を掲揚し、万歳し、赤飯を炊いて喜びました。今回の否決は、それと同じような空気を私は感じます。
今回の住民投票で、バラマキを続けることを選ぶというのは、当面は良くても、敗戦のような悲惨な未来を選ぶということですが、若者の中にも、バラマキを選んだ人が大勢いたのは、本当に残念な結果でした。
残念なことに、今回の住民投票で、日ごろ「憲法9条を守れ」という人ほど、ウソ・デマ・甘言に対する耐性が弱く集団で暴走することが、改めて白日の下に晒された結果でもある、と私は思っています。
実に皮肉で恐ろしい結果だと思う。
彼らに、「橋下徹」に変わる、「もっと解りやすい強大な敵」を与えたら、戦争は避けられないのではないでしょうか。  
安倍さんの"甘言蜜語"に騙されたい!の奇妙な心理 2015/6
つい「甘言」を弄してしまう。
若者から相談を受けると、つい「君に合う仕事を見つけよう」なんて言ってしまう。
自分の倅(せがれ)であれば「自分に合った仕事? そんなものあるわけないだろう。仕事は生きるためのもの。好き嫌いなんて言えるか。冗談は一億円ぐらいためてからにしてくれ!」と叱りとばす。が......他人になると「君に合った仕事を探そう」なんて言ってしまう。
悪意はないが、間違いなく「甘言蜜語」である。
蜜のような、誰でも喜ぶような、誰もが飛びつくような言葉。若者はほだされる。
オトナたちは「男女がベッドの中で交わすような甘い言葉」を用意しているものなのだ。

でも最近は、そのオトナたちが甘言に騙(だま)されている。
安全保障法制(実は戦争準備の法案)に「平和」という冠を被せる。「平和」くらい甘い言葉はない。平気で、これを「戦争準備法案」に使う。日本が軍事力を強化すれば、隣国には「脅威」と映り、軍拡競争の口実になってしまう。
どこが「平和」なのか? 
でも、一国のトップがそんなミエミエの「甘言蜜語」を使うわけはない!とオトナたちは思う。
「アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか? ハッキリ申し上げます。絶対にありません」
国民の前で「絶対に」なんて約束する安倍さん。アメリカが「頼む!」と言えば、ハイハイ、地球の果てまでアナタと一緒です!と参戦するための法律なのに。
「絶対に、君に合った仕事があります」と騙しているのと同じである。いやいや、もっと罪深い「甘言蜜語」ではないか。
「今でも自衛隊は危険な任務を担っており、発足以来1800人が殉職した。殉職者が、全く出ない状況を実現したいし、一人でも少ない方がよいが、災害においても、危険は伴う」
自衛隊員の殉職を美化して「戦地で死ぬのは自衛隊員の本望。同盟国アメリカのために死んでもいい」と思わせる。
安倍さんは「甘言蜜語」の達人。嘘(うそ)と詭弁(きべん)のオンパレードだ。

始末が悪いのは、新聞、テレビまで「甘言蜜語」に加担していることである。
「地銀、相次ぎ最高益」という記事を読まされた。
「主要な地方銀行・第二地方銀行30行・グループの2015年3月期決算が出そろった。連結純利益の合計額は前期比6・8%増の7742億5900万円に達し、過去最高益を更新する地銀・地銀グループが相次いだ」というのだ。
これは間違いなく「甘言蜜語」の類いだ。インチキがある。本業の貸し出し業務は、日銀の量的・質的金利低下で"利ざや"が縮小して、収支は悪化している。
株高などを背景に、株式や債券を売却してなんとか凌(しの)いでいるのだ。その実態を書かない。少子高齢化による人口減で、経営環境は今までにないほど厳しいのに......。
この種の「甘言蜜語報道」はとくに経済面で多い。アベノミクスが成果を上げているように報道する。
「知らず知らず」なのか、安倍政権のご命令に従っているのか、記者さんは「偽りの発表」を無批判で流す。
一億総"甘言蜜語"時代ではないか。

オトナが、なぜ、騙されるのか? 原因は、孤独な老人が「オレオレ詐欺」でもいいから、何か話したい!と思う心理に似ている。
大人は薄々「日本の沈没」に気づいている。その「最悪の入り口」から目を覆いたくなっている。嘘でもいいから、良い情報に囲まれたい。騙されてもいい......。そんな気分なのだろう。
国の借金は1981年度に100兆円を超えた。2000年に19年近くかかって500兆円を突破した。1000兆円を超えたのは、その13年後......2000兆円に達するのは......現実を見たくない! それが、日本人が"甘言蜜語"に逃げる理由である。  
愚かな外務官僚 またも韓国に外交敗戦 2015/7
どうして日本の外務官僚はこれほど愚かなのだろう。世界遺産登録をめぐって日本の佐藤ユネスコ大使は「多くの韓国人が”brought against their will”(意に反して連行され)、”forced to work”(強制的に働かされた)」と発言してしまった。
池田信夫氏が詳細に論じている通り、これではいくら日本政府が「強制労働」(forced labor)ではないと言い張ったったところで、韓国どころか世界の政府やマスコミは違いはない」と言うだろう。韓国政府は「しめた!」と思ったに違いない。
つまり、国際社会に「日本は多数の韓国人を強制労働としてこき使った」という認識が広がってしまう。日本政府が自ら、公式の場でそれを認める発言をししたせいで。
それだけではない。ご丁寧にもその公式発言を「理解させる」ために、「情報センターを作る」と約束してしまったのだ。
世界遺産登録した歴史的施設の入り口付近に「この施設は遺憾ながらかつて多数の韓国人を強制的に働かせていました」という解説を書いた案内版を設置することになるのかも知れない。
設置しなければ「約束が違う」と韓国政府が抗議するかも知れない。韓国政府に「強制」される形の「強制労働」ならぬ「強制情報提供」である。
安倍政権は「これで日本の産業の輝かしい世界遺産が登録できた。内外で賞賛され、観光地としても発展するだろう」などと悦に入っているかも知れない。だが、韓国側は、「この世界遺産は多数の韓国人の犠牲の上にできた血塗られた負の遺産なのだ」と世界に喧伝することだろう。
ひさしを貸して母屋をとられるとはこの事だ。韓国は日本の世界遺産登録を逆手にとって、反日外交の格好の材料として活用するわけだ。輝かしい歴史がおどろおどろしい遺産として扱われ、観光地どころではない。日本人も嫌がって目をそむけ、足を向けなくなる事態さえ来ないとは限らない。
私が先日、「日本は安易に韓国に妥協してはならない」とブログで釘を刺したのはこうした事態を恐れてのことだ。
そんな馬鹿なことにはならない、と外務省は思っているだろう。だから「世界遺産登録がうまくなされ、韓国との関係も改善されるならば」と軽い気持ちで、「多くの韓国人がforced to work(強制的に働かされた)」と発言してしまったのだ。
我々は「強制労働」(forced labor)とは認めていない、などと手前勝手の自己弁護を繰り返しながら。そんな言葉のわずかな違いを言い立てる「霞ヶ関文学」は日本の役所内のごく一部でしか通用しない。
これは河野談話の完全な二の舞である。「日本政府(日本軍)は慰安婦の強制連行はしていない。でも、本人の意に反した仕事ではあったし、施設運営や衛生管理が中心ではあるが、日本軍が慰安婦の管理に関与したことは確かだ。またごく一部(インドネシア)ではあったが、日本軍が連行したこともあった」という形で自分を納得させつつ、韓国との関係改善をしたいがために、「河野(官房長官)談話」を出してしまった。
「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、……甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。……いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」
これだけはっきり発言すれば、この英文を読んだ欧米の記者や歴史家に「だって、当時の官房長官が認めているじゃないか」に言われてもやむをえまい。当時の日本と朝鮮半島の事情にうとい海外の記者や歴史家が強制連行の微妙な違いがわかるはずがない。
実際、朝日新聞のキャンペーンもあって日本の悪辣な「慰安婦強制連行」説は世界に広がり、後になっていくら朝日新聞が強制連行を否定しても「日本軍の関与はあった」という形で日本の名誉は踏みつけられたままである。
米国などで歴史教科書にまで堂々と、それも著しく歪められ、誇張された形で掲載されている。それを日本の外務省が抗議すると、「言論弾圧だ!」などと、およそお門違いの逆ねじをくらう始末だ。
外務省は本当に愚昧である。同じ轍を何度も踏んでしまう。愚昧の遺伝子が省内にあるに違いない。
悪評さくさくの「歴史的事実」として今も誤解されている大正時代の対華二十一ヶ条要求も、同様の産物だった。
当時の米外交官ラルフ・タウンゼントが「暗黒大陸 中国の真実」(芙蓉書房出版)の中で、対華二十一ヶ条要求の背景を書いている。
日本側との交渉で中国側代表団は内容には実質的に満足していた。言い換えると、日本側の要求は当時の外交常識から言って、不当なものではなかった。だが、中国側は「内容はこれで結構だが、やむなく調印したという形にしてほしい」と望んだ。「国内向けに通りがいいので日本の『要求』に屈し、不承不承調印したという形にしてくれ」と言ったのである。そこで日本側は「それがいいのなら」と高圧的な態度に出るフリをした。
ところが、中国はこれを材料に「日本に脅迫され、やむなく調印した」と内外に喧伝した。これにアメリカがかみつき、「哀れな中国に、日本は苛酷な要求を突きつけた」という形で世界に悪評が広がったという。
中国への進出をもくろむ米国もうすうす事情を知りながら、日本の悪宣伝を増幅させたのかも知れない。
韓国の労働者問題も「少しだけでいいから、日本が強制したというニュアンスを入れた発言をしてほしい」と韓国の外交当局から頼まれたフシがある。河野談話の時と同じだ。
それで世界遺産登録が円滑に進み、日韓関係が好転すれば、と気軽に応じてしまう脇の甘さ。それが後世までたたり、日本の名誉と安全、さらに経済にまで大きく響くことをまったく予想できない愚鈍さ。
しかし、その外務省を活用しているのは安倍政権である。安倍首相も脇が甘かったと言わざるをえない。  
三バカ責任論 2015/8
今回は、読者の方への反論からいく。「ワシが安倍政権批判で金をもらってる」という「疑惑」や。こういうコメントは大歓迎や。イヤミにしても、ワシの記事に、「安倍反対派が金を出すかもしれない」、という価値を認めてもらったのは、素直に(どこが)喜びたい。
せっかくやから、この「疑惑」に三バカ反論をしてみよう。まず、ブチキレ反論から。「金をもらったという根拠を示してもらいたい。状況によっては法的手段も検討する」というやつ。一番ワシらしくないわな。
ヘリクツ反論。「ネット記事やNSNで安倍批判は大量にあり、大部分はワシのより説得力がある。それらにも報酬が出るとしたら、その財源はどうしているのか……」面倒くさぁ〜。
で、ボケナス反論にしておく「え、金もらえるんですか。そらエエわ。どこ行ったら、なんぼもらえるのか教えてくれ。今後は安倍批判一色で行くでぇ」と言いつつ、全く関係のない記事を書き始める。
という訳で、今回は責任について考える。まず、わかりやすいところで、ボケナス人。基本的に責任論には無縁の連中や。というより、責任という概念が理解できない。ボケナス人にとって、時間とは瞬間のこと。過去は過去、未来は未来でしかなく、現在とは何の関係もない……ことが多い。
ボケナス人と責任について話をするのは、ツバルでアイスホッケーの話をするようなもんや。だから、ボケナス中国人は過去の謝罪よりも、現在の靖国に興味を持つ。ちなみに日本神道という宗教は、過去を水に流す良い意味でのボケナス宗教やと思うが、中途半端に一神教的ヘリクツ要素を取り込んで、機能不全になっているのが靖国神社やと思う。
責任大好き人間と言ってもええのがヘリクツ人。ドイツ人は、人生の3分の1をナチスの責任追及に使い、3分の1を自分の責任の反省に使い、残りの3分の1は責任とは何かを考えている。一種のお家芸や。あまりに粘着質な謝罪に、謝られる方も同じヘリクツ人で無い限り、逆にイヤになる。
そのくせ、本質は微妙にはずれる。なぜホロコーストに関して、ナチスの責任と一般のドイツ人の責任は区別されるのか、ワシ、どうしてもわからん。君ら国民あってのヒットラーやったんやろ。戦後ナチス思想は徹底的に禁止されている。うっかり解禁して、ナチス思想に大したオリジナリティーがないことがわかったら、えらいことになるからやと思う。
ブチキレ人にとって、責任とは相手を攻撃する武器。アメリカの弁護士はそっち方面のプロや。だれも追求しない責任というものは、もともと存在すらしない。広島・長崎、ベトナム戦争、きれいさっぱり忘れている。こういう手合いに、謝罪は無意味や。「『ごめん』で済むなら警察はいらん」という言葉がピッタリくるのもブチキレ人。責任と具体的な賠償は必ずセットになる。
以上まとめると、責任追及に対する謝罪という美しい構図は、ヘリクツ人どうしでしか成立せんことがわかる。同じヘリクツ民族のドイツとユダヤの間で巧くいく謝罪外交を、ブチキレ国やボケナス国が真似すると、まったく機能しなくなる。
典型は、ブチキレ韓国がボケナス日本の責任追及をするケースや。ブチキレ人は見返りがない謝罪など想像すらできんし、ボケナス人は過去のことは水に流すのが当然やと思っているから、そもそも謝罪という感覚が理解できん。
もし韓国人がヘリクツ人やったら、慰安婦問題は最初から実態解明が優先されたはずや。そもそも「慰安婦20万人、大部分が性奴隷」だったら、膨大な数の朝鮮人が自国女性相手に奴隷狩りをしたはずや。まず、その部分を追求して問題の大枠を固め、その中で日本人の関与を調べていくのが、手順というものやろ。
ここをすっ飛ばして、いきなり「日本軍の責任」などと言い出すから、吉田証言の報道にコロッと引っかかる。その一方で、必ずあったはずの、朝鮮人自身による強制性の証拠が出てこないのは、朝鮮人実行者を無視してきたからと違うか。これでは、居たかも知れない日本側の下手人も出てこんわけや。
つまり、「私は、何人もの少女を拉致や甘言で集めて、慰安所に送りました。これは日本軍の指示でした。たいへん申し訳ありません」という朝鮮人「実行犯」が出てこない限り、旧日本軍の管理責任論は始めようがない。
実際は、「私は、何人もの少女を人身売買や甘言で集めて、慰安所に送りました。これは日本軍の指示のふりをしてやりました。たいへん儲かりました。また、やりたいな。」てな話が大部分やと思う。実際、ベトナムでは「また、やって、儲けた」がな。
結局、ブチキレ韓国人が興味を持っているのは、女性の人権でも、元慰安婦の名誉回復でも歴史的事実の解明でもなく攻撃と賠償だけや。もっとも、ボケナス日本相手にこれをやっても、空しいだけやと思う。村山・小泉両元総理と安倍現総理、人柄も政治思想も全くバラバラやけど、「談話に、どこか説得力がない」という点では、よう似ている。ボケナス人の謝罪なんてこんなもん。10年ごとに何回も謝罪するはめになるが、何回やっても同じや。
ところで、韓国朝鮮相手の謝罪がなんで8月15日なんやろ。植民地支配全体(慰安婦問題も含む)をわびる気なら、例の8月15日より35年も前にはじまったことで、交戦国中国相手の謝罪とは全く別の話や。この事情は、池田信夫はんの記事や、長谷川良はんの記事に詳しいから、ワシが再録することもないやろ。
ところが、ワシはやはり8月15日、韓国にわびるべきことがあると思う。よく見落とされる事やが8月15日は敗戦でも終戦でもなく、ポツダム宣言受諾にともなう停戦のはじまった日や。それやのに、あの日、大日本帝国は突然機能停止し、植民地を放り出した。ポツダム宣言で求められたのは、植民地の最終的な放棄であって、無責任な放置ではなかったはずや。
これは結果論に過ぎないとも思うが、玉音放送のあとも日本軍は踏みとどまって、正規の連合軍部隊(実態は米軍)の到着を、治安を守りながら待つべきやったと思う。「終戦」の時点でも、大陸の日本陸軍は戦線を維持できていたことを考えれば、これは不可能な話ではなかったはずや。
こういう敗戦処理をきちんとやっておけば、ソ連による火事場泥棒をかなり防止でき、大陸からの引き上げ日本人の悲劇も大幅に減らせたし、東アジアの冷戦も西側にとってかなり有利に展開できたはずや。そして何よりも、北朝鮮など存在すらしなかった。
そやから、もし8月15日に日本が韓国に謝罪するなら、「敗戦処理の不備により、あなたの国を分断国家にしてしまいました」ということや。もっとも、こういう高度にひねくれたヘリクツ外交を、ワシらボケナス人やブチキレ韓国人に、こなせるはずがないわな。
今日はこれぐらいにしといたるわ。  
安倍首相への期待は、やはり外交 2015/9
自民党総裁選で無投票再選を決めた安倍晋三首相は今月半ばでの安保法案成立にめどをつけ、長期政権をめざす。今後はアベノミクスの建て直しが最大の課題と言われる。
中国経済の減速で輸出や海外事業にかげりが見える中で、2017年4月には消費税率10%への引き上げを余儀なくされているからだ。人口減少、少子高齢化の中で経済成長を維持するのは容易ではない。
だが、成熟社会の今の日本で政府のやれることはほとんどない。むしろ政府はできるだけ何もやらないことが日本のためになる。つまり「小さな政府」に徹し、規制撤廃、行政改革を断行し、多くを民間企業の創意工夫に委ねることだ。
財政悪化のもととなる国土強靭化計画など絶対に推進すべきではない。本四架橋、青函トンネル、東京湾アクアライン、北海道の高速道路などに見るように、すべて赤字を垂れ流す元凶だ。
政治家と役所が土建業界と結託する予算の大盤振る舞いは、国土強靭化ではなく、国費蕩尽化計画なのである。
だが、満州で国土開発計画を推進した岸信介氏を祖父に持つDNAからか、安倍首相は「大きな政府」への傾斜が強いのが玉にキズである。
「民間企業を信頼せよ。自分の手柄と権益拡張をもくろむ陣笠代議士や官僚の甘言に乗ってはいけない」と言いたい。
むしろ安倍首相の長所である政治外交の世界での活躍を期待したい。まずは長年の課題である憲法9条の改正に取り組むこと。簡単にはできないだろうから、同時に外交課題を実現に取り組むことが大事だ。
1つは北方領土問題を軸とするロシアとの外交交渉だ。ウクライナ問題による欧米の経済制裁と原油価格の下落でロシアは経済的に窮迫しており、極東開発で日本の支援を望んでいる。そこを足がかりに北方領土返還交渉を前進させる。
メドベージェフ首相ら閣僚が択捉島に上陸して開発を進めようとするなど、日本人の感情を逆なでする行為に及んでいるが、それは表面的なことであり、日本が支援をほのめかせば、必ず反応するはずだ。
ウクライナ問題を抱える米国と欧州は日本のあからさまな対ロ援助を許容しないだろうが、ここにこそ安倍外交の本領がある。
ホンネでは米欧もあまりロシアを追い込んで対立を深めたくない。ウクライナ侵略を拡大しなければ、雪解けに持って行きたいと考え、落としどころを探っている。その着地点は容易ではないが、もしかすると、雪解け外交の突破口を築くのに最も適しているのは安倍首相かも知れないのだ。
ウクライナ問題と北方領土返還交渉と極東開発をつなげて日ロ米欧全体のウィン―ウィン関係を築く。それができれば世界の外交史に残る偉業となるだろう。
それは日中関係改善のテコともなる。
米中関係は今、凍てつきつつある。習近平国家主席は今月下旬に米国を訪問するが、習氏が希望した米議会での演説は米側が拒否した。4月に熱烈歓迎された安倍首相とは好対照だ。
アラスカの米国領海に中国軍艦5隻が航行するなど中国のあからさまな軍事行動や米国へのサイバー攻撃が目立ち、中国内で人権侵害も続くことから米国では中国非難の大合唱が起こっている。
「国賓待遇をやめろ」、「訪米をキャンセルせよ」、「ハッカーを止めない中国を制裁せよ」という声がメディアや共和党などの間でこだまし、大統領選を控え、オバマ大統領も融和的な態度をとれない。
上海株暴落で米国の株価も下落し、アメリカの個人投資家も中国への不満が高まっている。これまでの中国重視とはすっかり様変わりの状況だ。
ただ、そうは言っても、米国の国債を大量に購入しているのは中国であり、中国経済の失速で国債投資が大幅に減少するのは米国も困る。
中国そのものも経済失速でホンネでは日本の協力を得たい。安倍首相の活躍の余地は大きいのだ。
もっとも外交はリスクと背中合わせ。日本に世界を股にかけた外交ができるなどと、夜郎自大に陥ったらとんでもないしっぺ返しを食らうことだろう。
だが、それだからこそ、これまでの首相にはない優れた外交力を持つ安倍首相への期待も大きいのだ。ぜひチャレンジしてもらいたい。  
地方創生ブームとイケダハヤトは危険ドラッグか 2015/11
長坂さんのでブログ 「まだイケダハヤト消耗してるの?」へのご回答
イケダさんのような生き方は面白いしむしろすごいと認めてるってのは前回のブログで書いてるし!しかし、少なくとも筆者は真似したくない(真似できない)し、実際にそういう人は多かろう。それなのにイケダさんがご自身の経験を一般化して「都市化(アーバナイゼーション)は終わる」なんておっしゃるから、「それは違うよ」と指摘したまでだ。
長坂さんがおっしゃるように、議論空間に区長だからとか議員だからとかブロガーだからとか研究者だからとか一切関係ない。そうした肩書き論で議論を封じてしまうのは議論の参加者にも読み手にも不誠実かなあという気がする。民主主義が成立する要件はメンバーに正しい見識が広く普及していること。データも何もない「都市化は終わる、地方の時代」という甘言が流布され、21世紀の国家・地方のあり方を模索する建設的な議論が害されてしまわぬよう、筆者は反論を試みたい。
長坂さんの前回のブログにおける主張のポイントは
1 イケダさんの言うような「都市集中」は21世紀にストップするという話は「半分正解」。
2 高齢者が激増するのはむしろ東京、大阪などの大都市。「地方創生」は都市高齢者の住み替えをやっていこうとしている。
3 地方創生は地方を「ふるい」にかける最後のチャンス。出生率の向上や移住者の増加などの「成功」をおさめた地域を除いて、限界集落などのある地方を畳む方向で動いていく。
というものだった。これらについて以下に論じる。
世界的に進む「都市化」。イケダ学説は大誤り。
1 については、イケダさんが友達であっても、遠慮せずはっきりと「半分正解」どころか「完全不正解」であると教えてあげた方が良い。人口減少は日本全体を取り巻く現象。都道府県別の人口増減率などをまとめた総務省「人口推計」のうち2003−13年までに人口が増加しているトップ9には、東京の他、神奈川県、愛知県、福岡県、我らが大阪府といった大規模な政令市を含む都道府県が並ぶ。
しかし、国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、2040年には2010年対比で全ての都道府県の人口が減少する。それでもなお、上に挙げた5つの都道府県は全国平均を下回るマイナス6−16%程度の減少率であるのに対して、現時点においても人口減少率のワーストに位置する秋田県、青森県、高知県はその倍近い30%前後。つまり日本全体の人口が減少しても、相対的に都市部に人口が多くなる「都市集中」の構図は全く変わらないのだ。
おまけに言っておくと「都市集中」は世界的現象だ。国連のリポートを見ても20世紀の予測より早いスピードで都市居住者が農村居住者より伸びていっていることがわかる。アジアだけを見てもWWU直後は17%程度だった都市人口比率は2005年に40%に達し、国連人口基金(UNFA)が発行する「State of World Population 2007」によると、2030年にはこの率が55%にまで達すると見込まれている。
世界のマーケットからアジアが注目されている現状において、このような傾向を無視した「都市集中は終わる」なんて時代の読み誤りだけはやめた方が良い。イギリスやアメリカ、ロシアが都市集中に躍起になる中、日本も戦後1950−70年代まで三大都市圏に毎年40−70万人近くの人口集中を果たし、これを原動力として欧米を突き放す10%成長を叩き出してきた。
それを止めてしまったのが62年に閣議決定されたのが「全国総合開発計画」。「国土の均衡的発展」というテーゼだ。前のブログで田中角栄元総理の政策を振り返りながら説明したが、要するに経済成長の果実をすみずみまで「分配」する原理として持ち上がった「均衡的発展」が分配原資たる果実をも減らしてしまった。経済成長は半減してしまったし、今の国地方あわせて1000兆円の国家債務の基礎も出来上がってしまった。
かつての「無理」が「均衡的発展」なら今の「無理」は「地方創生」。私は歴史を繰り返されないよう、警鐘を鳴らしているだけだ。
都市高齢者の地方すみわけは社会主義、計画主義的発想。
2 について、都市高齢者が増加するのは仰るとおり。だからこそ都市部から非都市部への税移転を止めてほしい。福祉施設の用地に限りがあるので、在宅医療・介護も含めて環境整備を進めないといけないから、ゆるキャラとかで「うぇーい」に使っている財源は返還されるべきだろう。そうではなくて逆に都市高齢者を地方に住み分けることに解決策を見出すのは、あまりにも「無理」がある。
都市部は医療機関もコンビニもスーパーも徒歩圏内に充実している。だからこそ、選択の結果多くの高齢者が都市に居住している。そうした都市高齢者の心理を度外視して、「地方で福祉の供給を増やせば住み分けが起こる」と思い込むのは、社会主義、計画主義的極まりない発想だ。
非都市部の地方は国の金に依存せず、一番初めのブログ「地方創生を止めて地方消滅でいこう!」で書いたように、「消滅」に向けた準備を徹底すべきだ。人口には引越しなどで人口が増減する「社会増減」と出生児数と死者数の見合いでみる「自然増減」という概念がある。今非都市部は「社会増減」にばかり目がいっている定住促進など人口の「社会増」というレッドオーシャンに無為無策に突っ込んでも結果は出ない。目を向けるべきは「自然減」だ。今入る限られた住民が安心して余生を送り、世を去っていけるようムダを削減して、歳入の範囲内で安心安全の予算を組む。就労機会やビジネスチャンスを求める若手は、今既にそうであるように近隣への都市移転を進める。この傾向を「年収は『住むところ』で決まる」で話題になった経済学者エンリコ・モレッティが言うように「移転補助金」なりを出して加速させてしまうというのも良い。そうすれば自然と「下からのコンパクトシティ」ができてくる。
今、富山市などで進んでいるのは国家主導の「上からのコンパクトシティ」。中心市街地活性化計画に基づいて中心市街地に公費投入して商業施設をつくったり、LRTを導入した交通ネットワークを整備したりと移行経費が高くつき、地方債発行も増えている。コンパクトシティのために財政が持続的でなくなってしまったら元も子もない。コンパクトシティも非都市部同士が近隣都市部と連携して身の丈にあった形で進めていくべきだろう。
バリバリの外資系企業とかじゃないんで、そう簡単に「ふるい」にかけるとかできません。
3 については・・・なんというか、業界人であればそうもくろみ通りにまっとうに進まないのがこの業界ってことをわかっておいていただきたいなあと思う。「ふるい」にかけた厳選投資でいくなら、初めから一部自治体に絞ってとかでやるべきだった。腹水本に帰らず。しかし「手上げ式」で幅広く予算を配るになってしまった。一度つけた予算で結果が出せないならば、一気に引き上げる。ビジネスでもなかなかない。かつての大銀行も「失われた10年の中」で収益性が下がっている業種からましな業種へのシフトが進まず、その後に顕在化する不良債権の要因となった。この業界だと「しがらみ」はもっと入り組んでいる。誰が誰を制して「ふるい」を持ち出す胆力のある人なんて、果たして今いるのだろうか?
「地方創生」の甘露に誘われ、しゃぶりつく。
最後ボロボロになったら国のせいにする??
はあ??
危険ドラッグにはまる人たちと全く同じです。
今必要なのは、自治体自身が自らで自らの未来を考え、現実的な一手を確実に打つことだ。
そのゆるキャラで地元守れんの?  
2016

 

オリヴィエ・ブランシャール教授の日本財政への警鐘 2016/5
約1か月前、IMFのチーフエコノミストであったオリヴィエ・ブランシャール教授に対する取材記事がネット上で話題となった。
この取材記事で、ブランシャール教授は、以下のような指摘をしている。
・「日銀に対し、国家予算に直接マネー投入を求める政治圧力が益々高まることとなり、そうなった時に、日本は突如としてデフレからインフレへと転換するリスクを冒すこととなる」
・「ある日、財務省から日銀に、『我々のことを考えて欲しい。生きるか死ぬかの問題なのだ。ゼロ金利を維持してくれ。』という電話がかかってきたとしても決して不思議ではない」
・「最終的に高インフレへとつながる財政的支配 (fiscal dominance) のリスクが存在することは確かだ。5年ないし10年以内にそうなったとしても私は驚かない」
上記のシナリオは、一部の財政学者が日本財政の結末として懸念してきたシナリオに近いものであり、ブランシャール教授のような一流の海外の学者がここまで踏み込んだ発言をしたのは初めてであろう。
その際、財政再建の本丸が「社会保障改革」と「増税」であることは明らかだが、日本の政治やマスコミの危機感は弱まっており、いま増税延期ムードが高まりつつある。この背後には、2014年4月の消費税率引き上げの影響に対する評価も関係していると思われるが、日本の財政リスクも視野に、冷静に判断する必要がある。
私の少し前のコラムでも説明したように、やはり、「2014年の増税の影響はニュートラルで、低成長率の主因は潜在成長率の低下である」旨の可能性が高い。
これは最近のデータでも読み取れる。上記コラムで利用したデータは、2016年3月公表の四半期別GDP速報(平成27年10-12月期2次速報値)であるが、先般(5月18日)、新しい四半期別GDP速報(平成28年1-3月期1次速報値)が公表された。
このため、上記コラムの図表1や図表2のリニューを行ったものが、以下の図表1や図表2である。
図表1や図表2をみると、「増税7期後(2016年1−3月)における「実際の実質GDP」は「トレンドの実質GDP」に概ね一致しており、現在のところ、増税の影響はニュートラルである」と判断できる。むしろ現在の低成長は、トレンド成長率(潜在成長率)が年々、低下傾向にあるためであり、成長には「潜在成長率を引き上げる新産業の創出や構造改革が必要」であるという認識を深めることが重要である。
なお、もし2017年4月の増税を先送りすれば、2020年度の基礎的財政収支(PB)赤字幅は拡大し、2020年度のPB黒字化のハードルは一層上昇するため、財政再建計画が破綻してしまう可能性も否定できない。
また、そもそも、増税判断は「増税延期 vs 増税」という二者択一の判断ではない。財政再建目標を堅持しつつ、もし景気循環の先行きにも配慮するならば、数兆円の経済対策とセットで、消費税率を2017年4月、18年4月で1%ずつ引き上げるという方法もある。
責任政党としての自覚や誇りをもち、増税判断にあたっては、以上の事実や、オリヴィエ・ブランシャール教授の警鐘を含め、日本の将来に禍根を残さない政治判断を期待したい。
[オリヴィエ・ブランシャール教授 取材記事の邦訳]
日本の債務スパイラルに醜悪な「最終局面」を予測
世界でも最も影響力の大きいエコノミストの一人が、こう警鐘を鳴らした。国内に投資家がいなくなるにつれて、日本は、本格的な支払不能危機 (solvency crisis)へと向かいつつある。捨て身の最終局面では、インフレによって債務を帳消しにせざるを得なくなるかもしれない。
IMFの元チーフエコノミストのオリヴィエ・ブランシャール教授は、次のように語った。ゼロ金利が、日本の公的債務に内在する危険を覆い隠している。今年、政府債務は、対GDP比250%に達し、持続不可能な軌道を描きながら急上昇する可能性が高い。
「ある日、財務省から日銀に、『我々のことを考えて欲しい。生きるか死ぬかの問題なのだ。ゼロ金利を維持してくれ。』という電話がかかってきたとしても決して不思議ではない。」— オリヴィエ・ブランシャール
「日本人の退職者が、これまでゼロ金利の国債を快く保有してきたことには驚かされたが、限界投資家は、間もなく日本人退職者ではなくなる。」
ブランシャール教授によると、その不足分を埋めようとして、日本の財務当局は、海外ファンドを受け入れざるを得なくなるだろうが、その方が遥かにコストは高くつき、長年懸念されてきた資金調達の危機が現実味を帯びる恐れがあるとしている。
「もしアメリカのヘッジファンドが日本国債の限界投資家となったら、かなりのスプレッドを要求してくるだろう」と、オリヴィエ・ブランシャール教授は、コモ湖畔で開催された世界政策立案者によるアンブロセッティ・フォーラムでTelegraph紙に語った。
アナリストらは、こうした状況が日本の債務ダイナミクスを一変させ、支払能力にまつわる幻想を、恐らく突然、非線形に消滅させるだろうと言っている。

現在、ワシントンのピーターソン国際経済研究所に所属するブランシャール教授は、日銀に対し、国家予算に直接マネー投入を求める政治圧力が益々高まることとなり、そうなった時に、日本は突如としてデフレからインフレへと転換するリスクを冒すこととなる、と語った。
「ある日、財務省から日銀に、『我々のことを考えて欲しい。生きるか死ぬかの問題なのだ。ゼロ金利を維持してくれ。』という電話がかかってきたとしても決して不思議ではない。」
「最終的に高インフレへとつながる財政的支配 (fiscal dominance) のリスクが存在することは確かだ。5年ないし10年以内にそうなったとしても私は驚かない。」
議論の余地はあるかもしれないが、それが既に現実のものとなり始めている。究極の量的緩和策を追求する黒田東彦総裁の下、日銀は、財政赤字を全額引き受けている。
今年2月現在、日銀は、日本国債市場の34.5%を保有しているが、2017年までには、その保有率は50%に達する見通しだ。

大規模な年金基金や生保が市場から撤退していく中で、「アベノミクス」の極めて重要な目的は、債務を引き受けて資金調達の危機を回避することだと、日本当局者らは内々に認めている。もう一つの言外の目標が、債務比率の軌道を「右肩下がり」にするために、名目GDP成長率を5%に押し上げることだが、言うは易し行うは難しである。
ブランシャール教授は、日本の苦悩が世界の金融システムに与える意味合いについて詳しい話はしなかったが、甚大な影響を及ぼすであろうことは確実であり、それが5年以内に起こるのではないかという不安が高まっている。日本は、今現在も、圧倒的に世界第3位の経済大国である。また、程度こそ違えど、我々他の国々が今後直面することになる高齢化危機の世界的な実験場でもある。
日本政府が、インフレという「ステルス・デフォルト」によって、10兆ドルの公的債務の罠から抜け出そうと意図的に画策しているのではないか、と市場が一旦疑い始めたら、瞬く間に制御不能な事態に陥りかねない。
これが、世界の他の地域で、公的債務リスクの再評価を突如として引き起こすかもしれない。日本と同様に、低成長であり、人口動態が不利な状況にある欧州は特に、である。世界中で、おおよそ7兆ドルの債務が、マイナス金利で取り引きされており、債券市場でいつアクシデントが発生してもおかしくはない。
ブランシャール教授は、ユーロ圏にとってのリスクとは、ブラッセル(EUの決定)を無視して成り行き任せで支出する、大衆迎合的な「ならず者政府」 (“rogue governments”) が選出されることだと語った。「そのような国のソブリン債の購入については、投資家は真剣に考えるだろう。」
こうした政府はEUの規則を順守しないため、欧州中央銀行が、金利急騰防止を目的としてバックストップメカニズム(OMT: outright monetary transaction —国債買い入れ策) を発動させることは法的に禁止されるだろう。「非常に多額の債務を抱えている政府もあり、デフォルトは避けられないだろう。」
ブランシャール教授は、その可能性のある政府を名指しすることは拒んだが、共産党が支持する社会党政権と左翼ブロックが、これまでベルギー政府と財政闘争を繰り広げてきたポルトガルが含まれていることは明らかである。昨年の赤字は対GDP比4.2%で、当初の目標である2.7%を大きく上回った。

ポルトガルの公的債務は、対GDP比129%であり、最後の頼みの綱となる貸手を持たない国にとっては危険ラインに近く、10年物国債の金利は、ドイツ国債を325ベーシスポイント上回るまでに高騰した。
スペインも財政政策では図に乗っている。イタリアは、金融危機に直面しており、停滞気味の景気回復は、失速している。イタリア政府は、今年の成長予測を1.2%に引き下げたが、対GDP比132.7%と、依然として足踏み状態が続いている債務比率に何らかの影響を及ぼすには小さ過ぎる。
必要なのは、1970年代から不安視されてきた賃金と物価の悪循環を活性化させることだ— アダム・ポーゼン、オリヴィエ・ブランシャール
何が不安なのかと言うと、財政が既に能力限界の域に達していることを考慮すると、次の世界的な景気低迷が起こった時に、あるいは、原油安と量的緩和の影響が弱まった時に何が起こるかである。
ブランシャール教授が心配していないことが一つある。それは、金融政策の弾が尽きることで、「量的緩和策は、使えば使うほど、より効果的になるという説がある。」と語っている。
中央銀行が国債などの債券を買えば買うほど、最後まで手放そうとしない保有者を納得させて売却させるには、より多く支払わなければならなくなる。「価格への影響が益々強まるのだ。」
ブランシャール教授は、当局は、「奇策」 (“exotic stuff”) を試すよりも、シンプルな量的緩和 (plain vanilla QE) に専念すべきだと語った。
「ヘリコプター・マネー」の議論については、手段の異なる財政拡張策に過ぎないとして軽蔑したかのように一蹴した。金利がゼロであれば、通貨であろうが債券であろうが、支払いに大差はない。

ブランシャール教授は、マイナス金利あるいはマイナス金利政策 (NIRP) には複雑な副作用があり、その金利を預金者に転嫁することができない銀行にダメージを与えるとし、「それでなくとも銀行は、問題でもう手一杯なのだ。」と語った。
ブランシャール教授は、脱EU (Brexit) に関する終末論的大合唱に組することを拒んではいるが、イギリス国民に対して、しっかりと目を見開いてこの未踏の領域に足を踏み出すよう助言している。「離婚」は、短期的なショックの後に、速やかに回復できるようなものとはならないだろう。
「離脱コストは一様ではなく、その後、不確実な状況が非常に長く続くだろう。工場を英国国内に建設するか欧州大陸にするかを決断しようとする企業は、待ちの姿勢に出るだろうし、投資は落ち込むだろう。」
しかし、イギリスの国債市場が崩壊することはないだろう。「EU離脱後は、資金繰りが困難になるのだろうか。英国政府のリスクが高まったと投資家は考えるのだろうか。私は、そうは思わない。」とブランシャール教授は語った。
ブランシャール教授は、過去四半世紀において、世界屈指の理論経済学者であり、同胞のドミニク・ストロス=カーンの甘言に乗せられてIMFに勤務していなければ、ノーベル賞を受賞していたかもしれない。
彼は、IMFを急進的「ケインズ主義」思考 — または厳密には、MITの新ケインズ主義と新古典派総合の派閥— の専門家集団へと変貌させて、ドイツ政府を激怒させた。ドイツ財務省から漏えいした文書には、同組織の名称を「インフレ最大化ファンド」 (‘Inflation Maximizing Fund’) に変更すべきだと書かれている。
そのジョークで最後に笑ったのはブランシャール教授だった。リーマン危機から7年経過し、ユーロ圏は本格的なデフレに陥っており、ドイツ国債10年物は史上最低の0.11%という金利で取り引きされている。一本取られた。 
金融政策で2%のインフレは本当に達成できるのだろうか? 2016/6
昔から良く聞こえてきた話の一つに「物価が下がるのは主婦のお財布にとって良いこと。なんで物価が下がっちゃ、いけないの?」があります。
主婦に物価が下がる弊害を述べてもなかなか理解してもらえないのは「明日の日本より今夜のおかず」だからかもしれません。もう一つはある程度の歳の方は覚えているあの「狂乱物価」の時代には戻りたくないという一種のトラウマもあるのかもしれません。つまり一定年齢以上の方にとって物価が上がることへの抵抗は消費税が2%更に上がるのと同じ意味合いがあるのでしょう。「物価も2%、消費税も2%、合せて4%、国は何を考えているのよ、年金もそれだけ増やしてよ!」という声が聞こえてきそうな気がします。
その日銀が物価2%上昇に向けた対策にほとほと頭を悩ませています。個人的に金融政策だけで物価を動かせると考えること自体がナンセンスだと思っていますが、黒田総裁はブレーキが壊れた機関車のごとく2%を叫びながら次々とサプライズなプレゼントを市場に提供してきました。
ただし、マイナス金利を導入したあたりから雲行きは怪しくなっています。欧州中央銀行(ECB)や欧州の一部の国がマイナス金利を日本に先駆け導入したことで技術的にユーロを売って円を買う動きを誘発し、円高になるバイアスがかかりやすくなりました。黒田総裁は為替は財務省の仕事と言いながらも実は円高を防ぐ方法論の一つに日本もマイナスにしてしまい日本円を買うことに魅力を失くしてしまえば円高は防げる、と考えた節はあります。
マイナス金利の先輩であるECBにおいてその評価についてはどうなのか、といえばマリオ ドラギ総裁から「スーパー」の文字が取れてしまいECBの中で一枚岩になっていない点を指摘しておきましょう。特にドイツ系の委員からはマイナス金利に対して厳しい声が上がり、金融緩和をしても物価は全く上昇気流に乗れていません。つまり、日本でも欧州でも議論されているマイナス金利の効果が今一つ分からないのであります。
特にドラギ総裁については15年10月に「年末にさらなる緩和」を事前アナウンスし、さぞかし素晴らしいクリスマスギフトが貰えると思いきや、「これだけ?」というしょぼい緩和発表となりました。そして今年5月に至るまでこれといったその後のプランが出てきません。「手詰まり感」すらある気がします。
では黒田総裁はどうなのか、といえば今年1月、スイスのダボス会議に出席する前に日銀の企画チームに「緩和プランのオプションを作っておいてくれ」と指示し、帰国後、そのリストを見てマイナス金利しか良いものが見当たらなかったというのが顛末であります。ダボス会議は1月20日から23日、リストを見たのは帰国後、定例政策会議まで数日しかなかったのでかなり短い時間枠の中で無理やり決めたことが見て取れます。
最後に総本山アメリカはどうなのか、ですが、直近の経済指標はあまり芳しくありません。というよりアメリカの景気はピークアウトした感があります。6月6日のイエレン議長のフィラデルフィアでの講演は雇用統計が彼女にとって大きなサプライズだったと同時に上げられない金利にもいらだちを示しています。
日経の「日曜に考える」に債券王のビルグロース氏のインタビュー記事が掲載されています。個人的には氏の視点が私の考えにかなり近いかなという気がしています。記事の中で 「企業が投資をしないのは需要がおぼつかないからだ。お客が製品やサービスを買ってくれなければ、経営者はリスクを取って投資をするわけにいかない。そして、お客が買ってくれない理由は高齢化だ。米国で第2次世界大戦後に生まれた大量のベビーブーマーが引退している。これまでの消費で多額の負債を抱えていることもあり、新たな大型消費には慎重だ。高齢化は欧州や日本でも進んでいる」とありますが、これは実にうまく言い当てています。
インフレはなぜ起きるか、と言えば需要が供給を上回る状態が続き、価格決定権が供給側にあるからであります。総需要不足は依然解消されず、今後も災害、天災、戦争など特殊事象が起きるか、独占や複占など供給側の支配構造が変化しない限り、解消されるとは思いません。インフレが起きなければ金利も上がりません。氏はこうも述べています。「米国は今年、3%の成長が可能という人も多いが、私はせいぜい2%と見ている。同じくユーロ圏は2%ではなく1%にとどまるだろうし、日本はプラスになれば御の字だ。」
目線は6月のFOMCから日銀の政策会議に移っているようですが、中央銀行の政策に期待すること自体がナンセンスになってきた気もします。我々は中銀のポリシーミーティングにあまりにも振り回され、甘言につられたような気がします。 
ヘリコプターマネーの悲劇 2016/9
日銀の黒田総裁は5日の講演で、「例えば国債の引き受けや財政ファイナンスのように、「法律的にできない」あるいは「やるべきではない」という意味での限界は存在します。」といわゆるヘリコプターマネーについて明確に否定している。
また8日のECB理事会では、ヘリコプターマネーや、スイス国立銀行と日本銀行に続いて株式を買い入れる可能性について、25人の理事が意見交換しなかったことを明らかにした。
そもそもヘリコプターマネーと言う言葉を俎上に載せること事態がおかしいと言わざるを得ない。日本史ばかりでなく世界史を見ても、ヘリコプターマネーの悲劇は過去何度も引き起こされている。
9日の日経新聞の経済教室「財政・金融政策の行方(下)破綻回避、魔法のつえなし」では慶應義塾大学の櫻川昌哉教授は18世紀初頭のジョン・ローを引き合いに出して、ブルボン王家の財政危機に自らの貨幣理論を売り込みフランス財政を壊滅的な状態に陥れたことを指摘している。
またジョン・ロー以来「貨幣を刷ればいいんだよ」「国債の元本は支払わなくていいんだよ」と時の権力者にささやく経済顧問がしばしば現れ、権力者もまた錬金術師の甘言にひっかかってきたとの櫻川教授の指摘もあった。
7月のバーナンキ前FRB議長も巻き込んでの日本におけるヘリマネ騒動は権力者にささやく顧問が仕掛けていたのではなかろうか。さすがにその騒動もここにきて下火になったが、当然と言えば当然ではある。それでは櫻川教授が例に出したジョン・ローが行った政策とはどのようなものであったのか。
スコットランド人のジョン・ローは、フランス王立銀行の設立に寄与し、1717年にフランス領ルイジアナミシシッピー金鉱開発を目的としたミシシッピ会社を設立する。その後、フランスの東インド会社や中国会社を併合し、造幣局そして中央銀行の王立銀行までも傘下に収めた。
新会社はルイ14世が生み出した総額15億ルーブルもの政府債務をすべて肩代わりする。新株発行の払込については国債を額面の2割で引き取ると発表し、払込については4回の分割払とし最初の1回だけ現金、残りの3回は手形とした。これらのプロジェクがミシシッピ計画と呼ばれた。 国債そのものや手形で新株が購入され、1720年に政府の全負債はこの会社に移り、フランス国債の保有者はこの会社の株主となった。政府は多額の債務返済を一時的に免れ、債務免除されたような状況になる。
さらに王立銀行の株式払い込み手形を貨幣として機能させ、金貨が紙幣へと置き換えられた。ミシシッピ会社の株が値上がりすると紙幣を増発され、これにより資産バブルが発生、未曾有の投機ブームが起こる。当初500ルーブル以下であった株価は1719年後半には2万ルーブルを上回るまでに上昇した。ところが1720年に入り投資家が売却益を得ようと売りが殺到したことから株価は急落した。さらに払込手形という紙幣を金に替えようと王立銀行に人が殺到した結果、ローは払込手形の金との互換性を失効させる宣言をし、ミシシッピ計画は破綻し、フランス財政を壊滅的な状態に陥れたのである。このミシシッピ計画の破綻はフランス大革命のひとつのきっかけになったとされている。 
「人間的価値」を守る長い闘いが始まる 2016/11
To build may have to be the slow and laborious task of years. To destroy can be the thoughtless act of a single day. (築き上げることは、多年の長く骨の折れる仕事である。
破壊することは、たった一日の思慮なき行為で足る。)
英国の首相でありノーベル文学賞受賞者でもあったウィンストン・チャーチルの言葉です。
これほどの知の巨人をトップリーダーとして掲げたはずの英国が何故!?と頭を抱えたBrexit(英国のEU離脱)から4か月半。
米国は遂にドナルド・トランプ候補を次期大統領として選出しました。20世紀の多くの大戦を経て、人類が学びとり築き上げてきた安定や秩序、寛容や節度といったレガシーが音を立てて瓦解する、私にとってはそんな瞬間でした。
勝利宣言でトランプ氏は「米国を再建し、アメリカンドリームを復活させる」と述べたようですが、特定の人種や宗教あるいは女性に対する差別的発言を繰り返し、偏狭なナショナリズムを下品な罵詈雑言をまくし立てて助長する人物が、超大国アメリカを率いる大統領に選ばれたことは、アメリカンドリームというより「アメリカン・ナイトメア」以外の何物でもありません。
自由で多様な米国、民主主義や人権主義に基づく米国は、おそらく今後急速に変容して行くことでしょう。
こうした動きは米英にとどまりません。反グローバリズム、反移民、反エスタブリッシュメントというポピュリズム(大衆迎合主義)の氾濫は、今、西側諸国の至る所で憂慮すべき事態となっています。
来年の欧州では、フランス、オランダ、ドイツで総選挙が行われますが、いずれも反移民、反EUを掲げる極右政権が躍進し第一党をうかがう勢いすら見せています。他にもベルギー、オーストリア、イタリアなどポピュリズム政権の誕生が危惧される国は枚挙に暇がありません。
しかしその背景には、社会のグローバル化による競争の激化、格差の増大、生活の不安定化という事実があります。米国の景気もリーマン危機後から回復局面が続いてはいるものの、収入が増えたのは2割の家計のみ。上位のたった1%が全米所得の2割弱を独占し、米国内の経済格差は第二次大戦前の水準に逆戻りしています。
ドイツの経済学者マヌエル・フンケ氏の調査結果では、金融危機に襲われた国ではポピュリズム政党や極右政党の得票率が平均3割も増加するそうです。
実際、トランプ氏の経済再生策というのは実に耳に心地の良いものです。金融や環境の規制は取り除き、法人税は大幅に引き下げ、成長率を4%に高める。10年で1兆ドルという史上最大のインフラ投資案も用意され、トランプ勝利とともに関連株は連日の高値更新です。
しかし、こうした処方箋が劇薬であることはいうまでもありません。減税策が功を奏したレーガン政権と政府債務を比較すると、現在その額は20兆ドル弱と当時の20倍に膨張しています。もしトランプ氏の公約通り経済政策が実行されれば、財政悪化で長期金利が8%に急騰すると米国ムーディーズ・アナリティクスは警鐘を鳴らしています。
トランプ氏の経済政策が危機に陥れるのは、米国の財政状況だけはありません。彼が掲げる保護貿易主義は、TPPからの脱退にとどまらず、世界の経済エンジンを止めかねない危険をはらんでいます。
トランプ氏が遊説中に述べていた通り、中国に45%の報復関税を課した場合、中国のGDPは年率3%弱下振れし、一方米国も輸入物価高騰によるインフレのため3年で景気後退に転落すると予測されています。米中という世界経済の二大エンジンが機能不全に陥る危険があるのです。
このように正確なデータに基づいて分析・判断を行えば、トランプ政権の未来が暗澹たるものであることは自明のことであるわけですが、威勢と景気の良い甘言に惑わされ踊らされてしまうほど、今、大衆の心は不満と怒りに席巻されてしまっているということでしょう、
グローバル化による経済格差や移民流入によって日々の生活が危機に瀕している一般庶民の立場や気持ちに立って、各国の政権がもっと現実的で具体的な解決策を迅速に打ち出していかない限り、偏狭なナショナリズムやポピュリズムの進行はもう食い止められないところまで来ています。
一方、日本としてはトランプ政権誕生によるパラダイムシフトを機に、米国追随という外交・安全保障政策を見直す時に来ているとも言えます。
ビジネスマンであるトランプ氏は、高い支出を伴ってまで世界のリーダーという地位に米国があり続けることを望んでいません。
品格や尊敬よりも金銭の多寡に価値を置く人物が米国のトップに就こうとする今は、日米同盟をはじめ安全保障のあり方全般について日本人が主体的に考える良い機会と言えます。
自主防衛や核保有といった好戦派か、あるいは植民地政策の延長の如き米国追随派かという両極端な政策対立には終止符を打ち、今後展開されるであろう世界全体のパラダイムシフトを客観的に俯瞰した上での、現実的な日本の外交・安全保障政策について、国を挙げて議論を深めていくことが急務だと思います。
結びに、もう一つチャーチルの言葉を。
A pessimist sees the difficulty in every opportunity; an optimist sees the opportunity in every difficulty. (悲観主義者はあらゆる機会の中に問題を見出す。楽観主義者はあらゆる問題の中に機会を見出す。)
日頃は何かにつけ悲観主義者の私も、今回の米国大統領選の結果にはさすがに悲観してはいられないと覚悟を決めました。
2016年11月9日は、多様性や人権、寛容や民主主義がエゴイズムや拝金主義に敗北した日ではなく、そうした人間的価値を守っていくための闘いの狼煙(のろし)が上がった日であると認識しています。
すべての試練をチャンスととらえ、自分たちが大切であると思う価値観を守るため、決して諦めることなく挫けることなく命が尽きるその日まで、自分なりの闘いを続けていきたいと思います。 
2017

 

詐欺の二次被害に遭わないために 2017/5
昨今、振り込め詐欺の被害経験者が「被害金を取り戻せる」という甘言に騙されるという二次被害が増えています。詐欺被害者のリストが闇で売買されているのでしょう。
では、一度詐欺被害にあって十分痛い思いをした人が、どうして再度騙されてしまうのでしょうか?彼ら、彼女らには、学習能力が欠如しているのでしょうか?
決してそのようなことはありません。以前ご説明した心理学的作用が働いた結果であると私は考えています。認知不協和を起こした人は、それを解消するために自分の決断を正当化する情報を無意識に集めるという心理作用です。詐欺被害にあった人の多くは、家族などから「どうして騙されたの?」「今度からしっかりしてね!」などと釘を刺されてプライドが傷ついています。自分自身が情けなくなってしまってい、認知不協和を起こすことが多いはずです。
そういう時、「あなたが騙されたのは決してあなたが馬鹿だったからじゃない」「心の優しい人であれば、誰もが同じ行動をとっただろう」などと、被害者の決断を正当化してくれる人がいれば、その人の話を信じたくなりますよね。周りの10人が自分のことを馬鹿にするけど、1人だけは自分の行動を正しく評価してくれると考えて。
このように、第二の犯罪は「騙された人が陥っている認知不協和」に付け込むことから開始されます。耳障りのいい情報をたくさん与えて信頼を勝ち取ったところで「実は取り返す方法があるにはあるのですよ」と持ちかけられれば、10人に2人くらいは依頼してしまうのではないでしょうか?
また、第二の被害に遭う人の多くは仕事をリタイアした高齢者が多いのではないかと私は想像しています。人間というものは、「暇な時ほど」あれこれ不安に苛まれたり過去の怒りがぶり返して不快感を味わったりするものです。人が将来不安を感じたり瑣末なことで悩んだりするのは、たいていは家でゆっくりしている休日です。 そういう意味では、今流行りの「老後破産」だとか「国家衰退」というネガティブな煽り広告は、日曜の朝刊で出すのが最も効果的かもしれません。
なぜ休日に人が悩んでしまうのかという理由は、逆を考えれば容易に理解できます。人間は忙しくしていると悩み続けることができなくなるのです。戦争で心の傷を負った兵士に対して医師たちは「多忙にすること」という指示を与えたそうです。
実際、第二次大戦時の米軍では、心の傷を負った兵士たちに野球やゴルフで忙しくさせる「作業療法」というのが用いられたそうです。ゲームの勝敗に熱中するなど、(憂鬱が忍び込んでこないように)心を多忙にしておくことがポイントです。
リタイアして仕事もなく暇にしていると、騙された悔しさを心の中で何度も何度も反芻しては怒りと屈辱がこみ上げ、自己肯定感を与えてくれる甘い言葉に乗ってしまうのでしょう。
第二の詐欺師は当然それを知っているので、「忙しくない」被害経験者をターゲットにしているのでしょう。何度も反芻して蓄積された怒りや屈辱を上手に受け止めてあげるのでしょうね。
余談ながら、週末や連休前に他人に重い課題や不快な情報を与えるのは極力避けた方がいいでしょう。
あなたも、一度や二度は経験したことがあるでしょう?週末や連休前に「ゆっくり休むぞ!」という気分に浸っている時、気が重くなるような課題を与えられて不愉快な休日を過ごしたことが。特に、やることもなく家でゴロゴロしていると課題のことばかりが気になって、「早く明日になって仕事が始まらないかな〜」と思ったこともあるのではないでしょうか?
もっとも、大嫌いな上司にとても不愉快な週末を過ごさせるために、転職するに際し、わざと退職届を金曜日に提出するという高等技術を駆使する人もいるようですが 
小池百合子主演・民進党解体ショーの見どころ 2017/10
やさしいお姐さんのところにお世話になれてやっと安心と思ったら、お姐さんはオオカミでした、といいたい人も多そうな民進党の断末魔だが、Facebookで書いた話題をいくつか披露しておく。
1 民進党は集団的自衛権反対で政権担当政党としての資格を失い、いずれ劇薬を飲んでリセットせざるを得なかったということではないだろうか。
その劇薬が、怖ーい女主人に生殺与奪権を握られる、ほとんど奴隷みたいなものと揶揄されても仕方ない状況になることだとは意外だったが、自分で考え行動できないならそれも悪くないかも知れない。また、自由の身になるときには、多くを学んで成長しているだろう。だいたい、民進党幹部のほとんどが、集団的自衛権に理解を示してきたのに、憲法違反だとかいう学者の甘言に乗って近視眼的攻撃にのったのが間違いだ。現下の国際情勢をまったく踏まえていなかった。
2 小池百合子さんは日本会議議員懇談会の幹部だったはずだが、これまで、安倍政権は日本会議政権とかいって訳の分からない攻撃をしていた議員はまさか希望の党には入らないのだろうかといいたい。日本会議の活動のなかにかなり右翼的でちょっとどうかと思う要素はあるが、その一方、そういう活動ばかりしているわけではない。
その初代会長は、前原代表もお世話になったはずのワコールの塚本幸一氏だが、愛国的であっても右翼的な人ではなかった。日本を裏で支配する・・・とかいう批判は間違いだと思う。しかし、少なからぬ民進党関係者はそういう批判をしていたと思うし、そのことで、日本が軍国主義化しているというイメージを世界にばらまいて国益を害して来た。
3 元社民党の民進党・阿部知子議員が「選別」されるなら、小池新党に参加しないと言明した。阿部知子氏は、日本未来の党の副代表だったこともあり、嘉田由紀子氏が小沢一郎氏を切ろうとしたときに共同代表にしようとし、分裂時には唯一、嘉田氏と行動をともにした。嘉田由紀子氏は、滋賀1区で希望の党から立候補をする意向らしいが、かつての盟友だった阿部氏が抜けたのち、小沢一郎氏とともに新党に参加するとなると、非常に分かりにくい離合集散になる。なお、阿部氏は猪瀬直樹知事の失脚の原因となった徳州会系病院の幹部医師でもあり、代議士になっても医師としての給与をもらっていたという因縁もある。
4 橋下氏は28日、ツイッターで
「しかし朝日新聞や毎日新聞は酷いな。僕が石原(慎太郎)さんや江田(憲司)さんと組もうとしたときには、重箱の隅を突くような細かな政策の一致やこれまでの言動との整合性を求めた。ところが希望と民進の合流は反安倍でとにかくOKだって。国民はそんなに甘くないし、そんなことやってるからメディアの信頼が落ちる」
と批判した。本当にそうだと思う。左でも右でもいろんな意見があるが、クオリティペーパーを自認するなら最低限の客観性を失わない矜持を持って欲しい。
5 日刊ゲンダイの掲載した排除リストなるもの=下記参照=。当然、民進党をおかしくした張本人で排除されてしかるべき人もいるが、少し骨がある立派な一言居士の名も並んでいる。うるさい奴は嫌だでは安倍一強を批判していたはずがとんでもない独裁体制指向になる。安保などで譲れないものはあると思うが、多様性もしっかり確保すべきだ。
民進党出身者の数を増やしすぎない事も大事だが、女性候補をきちんと出せるかも危惧する。民進党の女性候補などいい人もいる。好き嫌いだけでの判断といわれないようにお願いしたい。 
出るか?選挙を左右する壊滅的スキャンダル! 2017/10
従業員1000人以上の規模の会社(同族企業ではありません)を経営している友人がいます。優れたリーダーシップと豊富な知識を併せ持っており、私が尊敬する経営者の一人です。
先般、彼に今回の選挙について訊ねたら以下のような回答が返ってきました。
「俺は小池さんが好きだ。ただ、内部留保課税は嫌だ」
私は思わず感心しました。
「情と理」もしくは「私と公」が一言に込められています。
「情として私人としては小池氏を支持する」が、「理屈として企業経営者としては内部留保課税という政策には反対だ」ということです。
では、多くの有権者はこの「情と理」を、どのように区別しているのでしょうか?
私は、多くの有権者は身近な「理」は斟酌しても、それ以外は「情」に流されて投票してしまうのではないかと危惧しています。
選挙前の各党や候補者の公約は、すべからく耳障りのいい甘言ばかりなので理性が鈍麻してしまうからです。
斟酌される身近な「理」は、各人各様です。
自衛隊員やその関係者の方々にとっては「自衛隊の憲法への明記」は身近な「理」でしょう。
ただ、多くの有権者にとって身近な「理」は消費税のアップか凍結という問題です。私だって、消費税アップを凍結してくれたほうが個人的には嬉しいです。過去の選挙で政権与党が消費税で辛酸を舐めてきたのは、多くの有権者が身近な「理」に流された結果でしょう。
「情」に流されて投票する契機はたくさんあります。
街頭で握手してもらったから投票するという人や、顔が好みだから投票するという人も案外少なくないと思います。昔の弔い合戦のように「同情票」というのも大いにアリです。
「情」で劣勢に立たされている陣営にとっての最も効果的な攻撃方法は、相手のイメージダウンを図る戦略です。
昨今なら、党首や候補者の過去の不倫などのスキャンダルを暴いたり、捏造することもあるかもしれません。
スキャンダルが最も効果を上げるのは、おそらく投票の前の週でしょう。弁解や反論の時間的余裕を与えず、投票でのインパクトが強いですから。
ということで、月曜日からの各種メディアの報道には個人的にとても関心を抱いています。
当然、各陣営とも、対メディア戦略として周到過ぎるくらい手を回していることでしょう。
既に握りつぶされているスキャンダルもあるのではないでしょうか?
それでも、壊滅的な「隠し玉」が出て来る可能性はゼロではありません。いささか悪趣味な楽しみですが、戦略論として考察するには絶好の機会だと思っています。 
 
「甘言」の修飾語

 

真面目
真剣な顔つきであること。本気であること。誠実であること。まごころがこもっていて、飾りけがないこと。誠意があること。 / うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。また、そのさま。真心のあること。誠実であること。また、そのさま。
○ 真面目に成(な)る 
まじまじとした顔になる。目ばかりぱちぱちさせて、じっとしている。白けた顔になる。しょげる。しゅんとなる。おびえた顔になる。本気になる。真剣になる。
○ 真面目腐る
いかにもまじめな態度をとる。「真面目腐って説教する」 
真剣目・真剣面 まじめ
刀の刃の部分を指し、転じて真っ直ぐでお堅く簡単に切れる人の性格を指す言葉である。
漢字で表すと真剣目もしくは真剣面と書き、元々は打刀や太刀の刃の部分を指した俗称である。厳密には刃を潰してない刀の峰ではない方の面、つまり刃の方の面を指して真剣面とし、特に切っ先の部分のことを真剣目とするが、ほぼ同義であるとして現在は厳密な区別はされていない。
この言葉から転じて、堅い性格でありながら同時に切れる人を指す言葉としても使われている。この場合の切れるは、頭が切れるなどの良い意味ではなく、突然怒り出したり逆上するような、刃物と同じように他人を傷つける種類の切れるである。
また元来の意味から、まじめにやる、まじでやる等の言い方もし、この場合は峰打ちや潰した刃ではなく真剣目で戦うことを意味し、命がけでやる、殺し合いの覚悟でやると言ういい加減さがない態度を示す。
○ 真面目との混同
現在ではまじめは漢字で真面目と書かれることが多い。しかし真面目は元々しんめんもく、もしくはしんめんぼくと読み、面目(表情や意欲)が真であることの意から嘘やいい加減さがない態度を示す言葉である。これが上述の「真剣目にやる」の意味と近しいことと漢字の字面が似ていることから徐々に混同され、現在では同じ言葉として使われている。
しかし、元々の意味するところは違う物であり、誤解が生まれる原因となっている。
「まじめな人だったのに突然切れて」と言う言葉が時折聞かれることがあるが、まじめが真剣目から来ていることを知らないための誤解であり、本来まじめな人は切れるものであり、むしろ切れるからこそまじめな人なのである。まじめな人は切れるものと、あらかじめ心に憶えておいて接する必要がある。
○ まじめな人
先述したように、まじめな人間というのは真っ直ぐな性格でお堅く切れやすい。日本刀は曲がらず折れずと賞されるが、まじめな人も曲がらず折れず決して妥協をしようとしない。周囲の人間が無理矢理考えを曲げさせようとしたり意見を折ろうとすれば、まじめな人が切れてしまうため、むしろ周囲の人々が傷ついてしまう結果となる。むやみに真剣に触れると手を傷つけてしまうのと同じである。
厄介なことに、まじめな人達は、真っ直ぐな性格をしているため、考えていることや言っていることは世間の倫理に適った正しいとされていることなのである。ただし現実の世界は理想通りには行かず、ある程度の汚いことや間違っていることも受け入れなくてはならない。それがまじめな人は受け入れられず衝突してしまう、そして言っていることは一般的に正しいとされていることだから周囲の人は説得に困る事例が多い。「お前の言っていることは正しいが社会じゃ通用しない」と言うと「通用しない社会が間違ってるんだ!」とか「大人は汚い!」とか喚いた挙げ句に影で「俺は間違ってないのに……」と一人泣いてしまい、フォローが必要になることも頻繁に見られる光景である。
ただ、まじめな人は方向性さえ合えば、そのいい加減のなさから与えられた仕事を堅実にこなすことため、まじめな人を上手く収める人が居れば良い結果を残す。しかし、しっかりと反りが合わなければ今度は「裏切られた」と叫びだし、これもまた収める人が傷つくことになるため細心の注意が必要である。
このように面倒な性質を持つため、まじめな人の扱いは一般の人々には困難を伴い、自然とまじめな人の周りからは人が離れていくことになる。よって、多くの場合まじめな人々は孤立しており、これが周りの衝突のなさから真っ直ぐで堅い性格をさらに強固な物にさせることが多い。まじめな人物を家族に持つ人間は、放置をせずに時間を掛けて少しずつ刃を潰していくように丸くさせていくこと根気が必要である。
まじめな人が切れた時の対処法として、真剣が落ちたときと同じように、とっさに手を出して押さえようとすると逆に傷つく恐れがあるため、落ち着くまで放っておいてから動きが収まったところでフォローすれば良い。 
不真面目
まじめでないこと。また、そのさま。 / 物事に対する真摯さが感じられないさま。職務などに真剣に取り組まないさま。 
愚直
知恵がなく正直一途(いちず)で、臨機応変の才がないさま。 / 正直いちずなこと。ばか正直。 / 正直すぎて気のきかない・こと(さま)。馬鹿正直。  / 馬鹿正直なさま・他にぶれず一つのことを行い続ける。

「愚」は「おろか(頭の働きがにぶい・馬鹿げている・考えが足りない)」という意味の漢字です。本来は「動きが悪い動物のような心」を表す漢字です。「直」は「真っ直ぐ・曲がっているものを伸ばす(直す)」などの意味の漢字です。本来は「正しく見る」というような意味の漢字。目の上に呪いの印を付け、正しい気持ちで見るという図です。よって二つを合わせると、「真っ直ぐでしか見れない心」というような意味になります。決して愚かな心で仕事をするのではなく、他のことは考えず一つのことを馬鹿みたいに真剣にやり続ける、そんな気持ちであることを表すために使われます。 
○ 几帳面
角柱の角につけた面の一。角そのものは残すように、両側に段をつけたもの。もと几帳の柱によく用いられたところからいう。細かいところまで、物事をきちんと行うさま。決まりや約束にかなうように正確に処理するさま。
○ 四角四面
真四角であること(「四角四面のやぐら」)。ひどくまじめで堅苦しいこと。非常にかしこまっていること。また、そのさま。
○ 直線的
一定方向をまっすぐ指向するさま。単純であるさま。
○ 直情径行
思ったことをかくさず、そのまま言ったりしたりすること。
○ 率直
飾ったりつくろったりしないこと。また、そのさま。素直でありのままであるさま。
○ 生真面目
非常にまじめなこと。まじめすぎて融通のきかない・こと(さま)。
○ 糞真面目
あきれるほど真面目で、融通がきかないこと。真面目すぎて面白味のないこと。また、そのさま。 
狡猾
ずるく悪賢いこと。また、そのさま。 / 悪賢いこと・ずる賢いこと。 / 自分だけ得しようと、こっそりと卑怯な手段をとること。ずる賢いこと。また、そのさま。 / ずる賢いさま。誠実でない手段で利益を享受しようとするさま。悪い方向に頭がよく回るさま。人の性質が後ろ向きで、正々堂々としていないさま。

「狡」は、はっきりしないものの動物が人から逃げ出そうと体をくねらせる様子を表していると考えられているようで、単体でもずるいという意味を持ちます。その動物の逃げるための作戦がずる賢かったからでしょうか?また、「猾」にもずるいという意味があります。いずれにせよ、昔の人は動物(けもの偏で示すことが多い)は、恐怖の対象でもあったのかもしれません。これもあり、「ずるい」は「狡猾い」、「狡い」または「猾い」と書くそうです。ちなみに、まったく同じ意味で「狡獪」(こうかい)という言葉もあります。 

「狡」は「獣偏」に「交わる」。獣偏は哺乳類一般に使われる漢字ですが、「犯罪」や「狂う」など、人の行い等にも使われます。「獣のような人の行い」という意味で、悪い人という意味の漢字でもあります。「猾」も同じで、動物を表す漢字ではなく、人間を表します。「交」は人間が脚を交差させた図。「骨」はそのまま、骨。それぞれ人を表す漢字で、それに獣偏。どちらも悪い行いをする人間=悪賢いという意味になったのだと思います。
誠実
まじめで、真心があること。 / 私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま。 / 偽りがなく、まじめなこと。真心が感じられるさま。 / 言葉や行動に嘘がなく、心がこもっていること。 / 人や物事に対する姿勢から真心を感じられる事、真面目で偽りがない事。

誠実(せいじつ)は「真心をもって人や物事に対すること」という意味の言葉です。真心(まごころ)は「偽りのない心・真剣な心」という意味の言葉。
例えば「誠実な人」で「嘘をついたり誤魔化したりせずに、何事も真剣に対応する人」という意味になります。「真面目な人」に近いです。
また、誠実は「誠実に対応させていただきます」というように使われることも多いです。よく不祥事を起こした人が記者会見などでこのように言うことがありますが、これは「嘘をついたり誤魔化したりせずに、真剣に対応します」という意味の謝罪コメントです。実際にそう思っているのかどうかは別にして、謝罪の際の責任の取り方については「誠実に対応させていただきます」というのが決まり文句のようになっています。
誠実な人になるのは良いですが、誠実な対応を迫られる事態にはならない方が良いですね。

「誠」は「偽りのない心」という意味の漢字。語源は「神様への祈りが成る」となり、想いが神様に真実と証明されたことを意味します。「実」は「みちる」「本当の」「中身」という意味の漢字。語源は「儀式を行う建物」と「貝(お金)をたばねたもの」の組み合わせ。「お金を供える」というのが本来の意味。次第に「器にお金をみたす」という意味の漢字に変化していき、「中身」「ちゃんとある、本当」という意味になり、「木の実=木にみちるもの」などの意味にもなった。二つを合わせると「中身がしっかりあり偽りがない」という意味になる。
類語 / 篤実(とくじつ) 真摯(しんし) 忠実(ちゅうじつ) 至誠(しせい)  
不誠実
誠実でない・こと(さま)。 / 不正直で真心がないこと。  / 信頼できず、裏切るために不誠実であること。あてにならないか、または詐欺的である。献身または愛情が信頼できない。率直でなく、誠実でない性質。売国奴の特徴、またはその性格を持つ。不正直である性質。誠実さに欠けること。不誠実である性質。誠実さが欠如しているさま。真実でなく不正直に。真実を言い表さない、または真実を言い表さない傾向がある。任務、義務、または約束に忠実でない。  
丁寧
動作・態度などがぞんざいでなく礼儀正しいこと。仕事のやりかたが雑でなく、念入りなこと。 / 注意深く念入りであること。細かい点にまで注意の行き届いていること。また、そのさま。動作や言葉遣いが、礼儀正しく、心がこもっている・こと(さま)。何度も繰り返すこと。特に何度も忠告すること。文法で、話し手が聞き手に対して直接に敬意を表現する言い方。 / 注意深く念入りであること。 / 細かいところまで気を配ること。注意深く念入りであること。言動が礼儀正しく、心がこもっていること。叮嚀。
語源・由来 / 丁寧は、金属製の楽器の名に由来する。昔、中国の軍隊で、警戒や注意を知らせるために鳴らす楽器を「丁寧」といった。そこから、注意深くすることを「丁寧」と言うようになり、細かい点まで注意が行き届いていることや、礼儀正しく手厚いことも意味するようになった。 
丁寧でない
人に対して敬意を示さないさま。 (礼儀がなってない・丁寧でない・無礼だ・礼儀を弁えていない・無礼な・礼儀知らずの・礼儀を知らない・頭が高い・横柄な・横柄だ・失礼な・失礼だ)
物事が細部まで丁寧になされていないさま。 (緻密さに欠ける・緻密でない・粗略な・丁寧でない・粗い・荒い・丁寧さに欠ける・丁寧さがない・お粗末な・いい加減な・中途半端な・荒っぽい・神経が行き届かない・雑な・アバウトな・大雑把な・粗雑な・乱暴な)
人の性格や言動が乱暴で丁寧でないこと。 (いい加減な・ガサツな・粗野な・荒っぽい・粗い・丁寧さがたりない・粗略な・丁寧でない・無作法な・デリカシーがない・無遠慮な・つっけんどんな・配慮の欠けた・野卑な・無神経な・荒々しい・手荒い・野蛮な)
言葉の使い方が粗野であるさま。 (形式ばらない・くだけた・スラングの・スラング風の・若者風の・若者言葉の・丁寧でない・マナーの悪い・荒っぽい・荒々しい・がさつな・マナーのよくない・乱暴な・礼儀を知らない)
言動などが粗野であること。 (ガラッパチ・乱暴・ぶっきらぼう・素っ気ない・丁寧でない・蛮カラ)
ぞんざい
取扱い等が丁寧でなく、なげやりで乱暴なこと。 / いいかげんに物事をするさま。投げやり。粗略。言動が乱暴で礼を失しているさま。不作法。 / いい加減なさま。粗略。言動が乱暴なさま。礼儀にかなっていないさま。無作法。 / 物事を粗略に扱うさま。取り扱いがいいかげんであるさま。言動が乱暴であるさま。不躾なさま。
語源・由来 / ぞんざいの語源には、「そざつ(麁雑・粗雑)」の転とする説と、「存在のまま」を略した「存在」の意味とする説があるが未詳。「ぞん」は「そ(麁・粗)」の意味と考えるのが妥当であるが、「そざつ」が変化したとは思えず、同じ語幹とだけ見る方が良いであろう。「存在のまま」の説は「存在のまま=あるがまま」で、「あるがまま勝手にふるまう」ところから、いい加減なさまを表すようになったというものであるが、強引に意味づけされた感が強いため、あまり良い説とは言えない。現代では「ぞんざいな口をきく」や「ぞんざいに扱う」など、形容動詞として用いられるのが一般的であるが、古くは「ぞんざいして」のようにサ変動詞としても用いられているため、この点でも「存在のまま」から変化したとするのは難しく思える。漢字が無いため「存在」を当てることもあり、夏目漱石も「ぞんざい」に「存在」を用いているが、借字として使用されているだけで語源とは関係ない。「ぞんざい」を強調する語には、接頭語「いけ」を加えた「いけぞんざい」がある。
粗略
杜撰 [注意深い]
不遜 [礼儀正しい] 
謙虚
控え目で、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。また、そのさま。 / ひかえめでつつましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で人に接するさま。 
横柄
態度が大きく無遠慮なこと。 / 偉そうな態度をし、無礼な様子。 / 人を見下したようなえらそうな態度をとるさま。大柄。 / おごり高ぶって人を見下すさま。  / ひどくいばって、人をふみつけにした態度であること。尊大。 / いばって、人を無視した態度をとること。無礼、無遠慮なこと。また、そのさま。大柄。
傲慢
威勢を張って人を侮ること。 / おごりたかぶって人を見くだすこと。また、そのさま。 / 高ぶって人をあなどり見くだす態度であること。 / 「おごりたかぶって人を見下すこと」という意味の言葉です。「おごりたかぶる」は「他人をあなどり、思い上がった態度をとる」という意味の言葉で、漢字で書くと「傲り高ぶる」となります。「傲」は「いい気になる」という意味を持っています。「慢」は「他をみくびっておごる」という意味があります。したがって、「おごりたかぶって人を見下す」という意味になるのです。わかりやすくいえば、「偉そうにして人を馬鹿にするような態度をとること」。
高慢
高ぶって人を侮ること。 / うぬぼれが強く、高ぶっていること。 / 自分が優れていると思って、他をあなどる・こと(さま)。  / 自分は他よりも優れていると感じることで、相手を蔑むさまなどを意味する語。  / 自分の才能・容貌などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと。また、そのさま。 / 自分の才能や容貌等が他の人より優れてると思いあがって人を見下す事。自分が優れていると思って、他をあなどる事。「高」は、人を見下したような態度をとる、尊大にかまえるといった意味があり、「慢」は、自慢していい気になること、おごり高ぶることで、お高くとまって慢心する事で、おごり高ぶって人を見下したような態度をとる事になります。
尊大
必要以上に自己を顕示し、他を見下すような言辞を弄する様子。 / (思いあがって)ひどく偉そうに人を見下した態度であること。 / いばって、他人を見下げるような態度をとること。また、そのさま。高慢。横柄。 / 威張って、いかにも偉そうな態度をとる・こと(さま)。
不遜
思い上がった態度。 / へりくだる気持ちがないこと。思いあがっていること。また、そのさま。 / 思いあがっていること。おごりたかぶっていること。また、そのさま。 / 思い上がっていること・へりくだる気持ちがないこと。「不」は否定を表す言葉。「遜」は「退いて他に譲る」という意味から、「へりくだる」という意味。よって、へりくだることを否定という意味となる。 
 
「緑のオーナー」投資

 

今頃になって、昔の「緑のオーナー」投資の焦げ付きが発覚。そう言えば、何10年か前に、こんなものがあったのを思い出しました。林野庁の甘言に載せられて、ン百万か投資したところ、払い戻しが良くて60%、下手すりゃ20%。確か当時マスコミは、環境に優しい素晴らしい政策などと吹聴しまくっていたのではなかったか。それで集めた金を何に使ったか?が問題。林野工事、つまりかなりの部分が林野談合に消えたのは間違いはないだろう。まさか松岡は、これの発覚を予期して自殺したのではなかろう。しかし、仮に自殺していなくても、この問題が出てくるから国会対応は大変だ。果たして次の安倍内閣で農水相を引き受ける奇特な人はいるでしょうか?  
「緑のオーナー制度 責任はどこに」 2017
一般の人たちから森林に出資してもらい、成長した木材を販売して収益を分けあう林野庁の「緑のオーナー制度」。実に500億円という巨額の資金を集めながら、全国で元本割れが相次いでいます。国の責任を認める判決が最高裁で確定し、今、さらに新たな裁判も始まっています。問題の背景とその影響を考えます。
○ 「緑のオーナー制度」とはどのような内容で何が問題となったのか。
○ 確定した国の責任と、現在新たに起きている裁判について。
○ 最後に国有林野事業の現状と今後を考えます。
緑のオーナー
緑のオーナー制度」は昭和59年に林野庁が始めました。一般の人たちから1口50万円などで、成育途中の国有林に出資してもらいます。自分が希望する地域を選び、基本的に数人から数十人で山林の一定の面積を林野庁と契約します。その後、おおむね20年から30年後に成長した木を競売にかけ、収益を分け合う仕組みです。
当時のチラシやパンフレットです。「資産づくりに最適」「安全確実」「夢とロマン」こうした言葉が並んでいます。各地で説明会が開かれ、全国から出資が相次ぎます。募集を中止した平成11年までに、8万6千人から500億円という巨額の資金を集めました。
ところが、木材の貿易自由化や一時的な円高などいくつかの理由で、国内の木材価格は、下落を続けます。スギは半額以下、ヒノキは3分の1近くになっています。
満期を迎えた支払額の平均です。出資額の50万円を超えたのは最初の年度、平成11年度の54万円の1回だけでした。その後13年度は40万1千円、15年度は36万8千円、20年度は30万1千円、25年度は29万3千円など、ずっと元本割れが続き、平成27年度は、24万7千円まで下落しました。50万円を20年預けて半額以下しか受け取ることができない計算です。
裁判で国の責任が確定
全国の出資者が、国に裁判を起こします。神戸市の石井昌平さん(74)もその1人です。石井さんは、仕事で海外の赴任が長く、故郷の山の保護に関心を持っていました。そこで、昭和63年に出身地の栃木県の緑のオーナーとして50万円を出資します。
「こうした出資は利益が目的だから自己責任だ」という意見もあります。しかし、当時は今よりも高金利で多くの金融商品があった中、あえてこの制度に参加した人たちの中には、石井さんのように制度の理念に共感し、自然保護も目的だった人が少なくありませんでした。しかし、平成21年に受け取ったのは13万円でした。石井さんは「国にだまされた思いだ」と話しています。
裁判所は1、2審とも国の責任を認め、去年、最高裁で確定しました。時間がたって賠償を求めることのできる期間が過ぎている人を除き、84人に1億円近くの支払いを命じました。
裁判所が国に責任があると判断したのは、さきほどのチラシに書かれていた「安全確実」などの表現が不当だったこと、それに平成5年までパンフレットに「元本を保証しない」と書かれていなかったことなどが主な理由でした。国が説明義務に違反していたことが確定しました。
落札できない山林が増加
ところが、4月から、また、新たな裁判が始まっています。原告たちは「契約期間が終わったのに国は木材を販売しなかった」と訴えています。
去年の緑のオーナーの森の入札結果の一部をみると、「不落」という文字が並んでいます。これは「落札できなかった」つまり入札で売却できなかったという意味です。
実はいま、満期になっても予定価格を超える入札がなく、買い手のつかない山林が増えています。弁護団によると落札できない割合は平成27年度で52%。実に半分以上が、売ることもできない事態になっているのです。
この裁判で国は争う姿勢を示す一方、満期を迎えたオーナーが希望すれば、林野庁が決めた金額で買い取る制度を、今年度から拡充しました。
しかし、オーナーからは、少なくとも出資した金額で買い戻すべきと言う声が上がっています。
林野庁によりますと、これまでに契約が終わったオーナーは一昨年度の時点でまだ4割、3万3千人です。5万5千人以上が、これから入札などの時期を迎える計算になります。この問題はむしろ今後、本格化する恐れがあります。
問題の背景は
そもそもどうして、このような制度が始まり、そして歯止めがかけられなかったのでしょうか。背景には国有林野事業が抱えてきた構造的な問題も理由の1つだったのではないかと指摘されています。
戦後、国有林野事業は、木材を売った利益などを主な財源とする特別会計で、経済性を重視し企業のような独立採算制に近い形を求められてきました。
しかし木材価格の低迷で国有林野事業は赤字が膨らみます。「緑のオーナー制度」はこうした中で始まりました。ある専門家は「結果的に制度は国民から資金を得て赤字を減らす手段となった。見通しが甘いままやめられなかったのではないか」と指摘しています。
その後、特別会計は廃止され、平成25年度から国有林野事業は一般会計となります。経済性の重視から環境保護など公益性をより重視した管理経営に転換しました。当時の状況を考えると、木材価格の下落は避けられない側面もあります。しかし、価格が低迷してもなお「緑のオーナー制度」は継続され、今も重い影響を残しているのです。
「国民参加の森づくり」を実現するには
ただ、この制度は、経済的な側面だけではない、大きな役割を果たしてきたことも、確かです。それはトータルで2万4000ヘクタール、東京ドーム5000個分に相当する面積の山林が、整備されてきた事実です。国民の協力で森が育ち、環境の保全や、きれいな水を生み出してきました。これは簡単には金額に換算できませんが、評価できることです。
林野庁は、「国民参加の森づくり」をアピールしています。国有林の整備に協力することが大切なのは確かです。しかし、本当に国民の協力を求めるならば、国はまず、緑のオーナー制度の出資者に理解を得られるよう努力すべきではないでしょうか。
オーナーの多くは、もともと森や自然に理解がありました。本来、「森の応援団」になってくれる人たちが、裁判となり、国有林に背を向ける結果になったことこそ、この問題で最も不幸な事態というほかありません。
すでに裁判で国の違法性が確定している以上、国は責任を認め、少なくとも説明義務違反が認められた時期の契約については、オーナーが納得する形で買い戻すなど、話し合いで解決をめざしてほしいと思います。
また、林野庁は赤字を減らすために職員を大幅に削減し、営林署も減らしてきました。政策を転換したのだから、進めてきた職員の削減も見直し、森を守り、環境を保護するために必要な人材を確保することも、大切だと思います。
国有林は日本の国土のおよそ2割に上ります。また、過疎化と高齢化で、手入れの行き届かない山林が、全国で課題となっています。
森を守るには、都市部を含めた幅広い国民の協力がますます必要になってくるでしょう。そのためにも国はこの「緑のオーナー制度」を解決し、その上で、改めて国民参加の森作りを呼びかける。それが欠かせないのではないでしょうか。
 
「島嶼化する国」日本 2006

 

日本と中国は互いを「永遠のライバル」と位置づけてきた。東アジアの均衡を保つうえでも、このライバル関係の維持は重要な戦略の1つの選択肢である。このポイントを押さえず、「日中友好」という表層の甘言に踊らされ、「謝罪外交」一辺倒の姿勢を続けることは、両国の国民にとっても、決してプラスにはならない。また、「平和幻想」を説く日本の知識人たちも、建設的なライバル関係が成立する外交関係において、「島嶼化」など成立しないことに、早く気付くべきであろう。
ライバルを意識し、切磋琢磨することで、はじめて両国に「建設的な未来」が見えてくる。そして、それこそが両国にとって、真の国益にかなう決断であろう。ためらうことは何も無い。

『日はまた沈む』で日本のバブル崩壊を見事に予言してみせた、英エコノミスト誌編集長ビル・エモット氏は新著「日はまた昇る」の中で、「ゆっくりでも着実に歩む『カメ』の日本は、足の速い『ウサギ』の中国に勝つ 」と大胆な予測をする。
エモット氏の主張はこうだ。「経済力は政治的野心の元となり、アジア諸国は中国と友好関係を求めるしかなくなり、その結果、貿易、投資、環境から安全保障問題に至るまで、中国がアジア地域のルールを決める立場になるかもしれない」。
しかし、この「アジア共同体」実現の最大の壁として、彼は「中国の民主化問題」を挙げる。
「日本が中国との競争で重要なのは、改革のプロセスをこれから10年続けていくこと。たとえゆっくりであっても継続さえしていれば成功する。中国の急速な成長は、不安定な成長になっていく。そして政治(共産党一党独裁)と経済(資本主義)のシステムが両立しなくなる恐れがある」
「2008年の北京五輪に向けて、中国は猛烈な投資を続けるだろう。中国国民は五輪終了までは、不満があっても自制する。しかし五輪後、経済バブル崩壊と同時に政治バブルがはじける(共産党独裁の崩壊)可能性もある」と、エモット氏は指摘する。ところで、この著書は経済本であるにもかかわらず「靖国問題」に多くのページを割いている。「靖国神社に対する公的な支配権を国家が取り戻すべき」といったユニークなアイデアは、国立の宗教施設(教会)をもつ英国人の思想背景から生み出されたものなのだろうが、「靖国問題を将来の日本を語るのに避けられない問題だ」と考えている点は、注目に値する。 
 
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 

 

[1993年8月4日 いわゆる河野談話] 
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。  
慰安婦の「強制連行」は朝日新聞の大誤報   
ところが朝日新聞は金学順が出て来たとき、「戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかった」という植村隆記者の「スクープ」を掲載した。  
続いて朝日新聞は、1992年1月の「慰安所 軍関与示す資料」という記事で日本軍の出した慰安所の管理についての通達を報じた。このとき慰安婦の説明として「女子挺身隊として軍に強制連行された」と書いたため、その直後に訪韓した宮沢喜一首相は韓国の盧泰愚大統領に謝罪した。  
しかしこの通達は「慰安婦を誘拐するな」と業者に命じたものだ。軍が慰安婦を拉致した事実はなく、そういう軍命などの文書もないが、韓国政府が日本政府に賠償を求めたため、政府間の問題になった。
日本政府は1992年に「旧日本軍が慰安所の運営などに直接関与していたが、強制連行の裏づけとなる資料は見つからなかった」とする調査結果を発表したが、韓国の批判が収まらなかったため、1993年に河野談話を発表した。そこでは問題の部分は次のように書かれている。  

慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  
ここで「官憲等が直接これに加担した」という意味不明の言葉を挿入したことが、のちのち問題を残す原因になった。この問題については2007年に安倍内閣の答弁書が閣議決定され、ここでは「調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」と明記されている。  
つまり政府としては「強制連行はなかった」というのが公式見解なのだが、この答弁書で「官房長官談話のとおり」と書いたため、「官憲が加担した」という河野談話を継承する結果になった。このときNYタイムズ紙のノリミツ・オオニシ支局長が慰安婦問題を取り上げて「元慰安婦」の証言を報じ、安倍首相は訪米で謝罪するはめになった。   
 
安倍さんの"甘言蜜語"に騙されたい!の奇妙な心理 2015

 

つい「甘言」を弄してしまう。
若者から相談を受けると、つい「君に合う仕事を見つけよう」なんて言ってしまう。
自分の倅(せがれ)であれば「自分に合った仕事? そんなものあるわけないだろう。仕事は生きるためのもの。好き嫌いなんて言えるか。冗談は一億円ぐらいためてからにしてくれ!」と叱りとばす。が......他人になると「君に合った仕事を探そう」なんて言ってしまう。
悪意はないが、間違いなく「甘言蜜語」である。
蜜のような、誰でも喜ぶような、誰もが飛びつくような言葉。若者はほだされる。
オトナたちは「男女がベッドの中で交わすような甘い言葉」を用意しているものなのだ。

でも最近は、そのオトナたちが甘言に騙(だま)されている。
安全保障法制(実は戦争準備の法案)に「平和」という冠を被せる。「平和」くらい甘い言葉はない。平気で、これを「戦争準備法案」に使う。日本が軍事力を強化すれば、隣国には「脅威」と映り、軍拡競争の口実になってしまう。
どこが「平和」なのか? 
でも、一国のトップがそんなミエミエの「甘言蜜語」を使うわけはない!とオトナたちは思う。
「アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか? ハッキリ申し上げます。絶対にありません」
国民の前で「絶対に」なんて約束する安倍さん。アメリカが「頼む!」と言えば、ハイハイ、地球の果てまでアナタと一緒です!と参戦するための法律なのに。
「絶対に、君に合った仕事があります」と騙しているのと同じである。いやいや、もっと罪深い「甘言蜜語」ではないか。
「今でも自衛隊は危険な任務を担っており、発足以来1800人が殉職した。殉職者が、全く出ない状況を実現したいし、一人でも少ない方がよいが、災害においても、危険は伴う」
自衛隊員の殉職を美化して「戦地で死ぬのは自衛隊員の本望。同盟国アメリカのために死んでもいい」と思わせる。
安倍さんは「甘言蜜語」の達人。嘘と詭弁のオンパレードだ。

始末が悪いのは、新聞、テレビまで「甘言蜜語」に加担していることである。
「地銀、相次ぎ最高益」という記事を読まされた。
「主要な地方銀行・第二地方銀行30行・グループの2015年3月期決算が出そろった。連結純利益の合計額は前期比6・8%増の7742億5900万円に達し、過去最高益を更新する地銀・地銀グループが相次いだ」というのだ。
これは間違いなく「甘言蜜語」の類いだ。インチキがある。本業の貸し出し業務は、日銀の量的・質的金利低下で"利ざや"が縮小して、収支は悪化している。
株高などを背景に、株式や債券を売却してなんとか凌(しの)いでいるのだ。その実態を書かない。少子高齢化による人口減で、経営環境は今までにないほど厳しいのに......。
この種の「甘言蜜語報道」はとくに経済面で多い。アベノミクスが成果を上げているように報道する。
「知らず知らず」なのか、安倍政権のご命令に従っているのか、記者さんは「偽りの発表」を無批判で流す。
一億総"甘言蜜語"時代ではないか。

オトナが、なぜ、騙されるのか? 原因は、孤独な老人が「オレオレ詐欺」でもいいから、何か話したい!と思う心理に似ている。
大人は薄々「日本の沈没」に気づいている。その「最悪の入り口」から目を覆いたくなっている。嘘でもいいから、良い情報に囲まれたい。騙されてもいい......。そんな気分なのだろう。
国の借金は1981年度に100兆円を超えた。2000年に19年近くかかって500兆円を突破した。1000兆円を超えたのは、その13年後......2000兆円に達するのは......現実を見たくない! それが、日本人が"甘言蜜語"に逃げる理由である。    
 
「衆参同日選政局」に物申す 2016/4

 

解散権をもてあそぶな
衆院の解散権をなぜ「伝家の宝刀」というのか。それは、一振りの下に500人近い選良の首を落とすからである。戦国時代にも、これほど切れ味のいい、血なまぐさい魔剣はなかった。だからこそ、その行使は最高法規・憲法で厳格に規定されている。ただ、最近それを安直に振り回す者がいる。周りに抑える者もいない。危険この上ない。
永田町を「衆参同日(ダブル)選」という妖怪が闊歩(かっぽ)している。政権側がその可能性を意図的にリーク、野党がそれに過剰反応し、またメディアが喧伝(けんでん)していくうちに肥大化し、その影がまた永田町の人々を右往左往させる、といった具合で急成長してきた。
同日選の実現性は別にして、妖怪の危険な破壊力と、どう退治するかを考えたい。
何を破壊しているか。「国権の最高機関であって国の唯一の立法機関」(憲法41条)としての国会の権能である。議員たちを浮足立たせ、最高機関の本来の使命として期待された安保法制の是非の再論(廃止法案の議論)、アベノミクス4年目の検証と総括、通商・農業改革に関わる論戦を質量ともに著しく低下させた。
議員たちは国会活動より選挙区入りを優先し、激動する世界で日本がどう生きていくかを考えるより、明日の自分の1票を追い求めている。与党内でも物事の本質に切り込む言論は影を潜め、党公認を得るための追従発言が目立ってきた。この国民的、国益的損失はばかにならない。
憲法7条根拠に慣習化、既得権化
言論の府を正常化させたい。それには首相の解散権を今一度精査する必要がある。
憲法が解散権を規定するのが69条(内閣不信任案可決)である。主権者である国民によって直接選ばれた議会と、議会の首相指名により選ばれた内閣との間で抜き差しならぬ対立が起きた時、権力付与の源泉である国民に対し、対立解消のための選び直しを委ねるのである。これが憲法が本来想定した解散権である。
もう一つは、天皇の国事行為を定めた7条を根拠にした解散権だ。時の内閣が都合のいい時に解散権を行使できる、というものだが、これには歴史的に賛否両論がある。7条は、内閣の助言と承認を得て行う国事行為として「解散」を含め10事例を列記しているが、それは単に象徴天皇の形式的な手続き行為を規定したものにすぎず、壮大な首切り行為である実態的な権力行使としての解散権を定めたものとは読めないからだ。
にもかかわらず、現憲法下の23回の解散のうち19回は7条解散(4回が69条解散)だった。1952年に吉田茂内閣が行った7条解散に対する違憲訴訟で、最高裁が「統治行為論」を使って違憲性の判断を回避(60年)して以降は、慣習化、既得権化した。
消費増税先送り 公約変更は愚劣
ただ、歴史は繰り返す。党利党略性の強い7条解散のたびにその是非が問われてきた。この矛盾をバランスよく解決した先達がいる。保利茂衆院議長である。78年6月、(1)議員は主権者である国民の厳粛な信託を受けており、内閣の都合や判断による一方的な解散は不能(2)7条解散も認められるが、69条と同一視すべき事態の時に限られる−−との見解を作成した(発表は没後の79年3月)。7条解散権の行使を予算案否決や69条相当事態に限定したものだが、一方で選挙前の公約と異なることを選挙後に実施したケースも解散相当とした。
保利見解からすると、今回のダブル選は憲法の許す範囲を逸脱している。予算は順調に成立、政権与党は衆院の3分の2の勢力保持で安定し、69条事態とは正反対だ。
唯一消費増税の再度先送りを公約変更の名分にする、という考えが成り立つ。だが、私はこれほど愚劣なことはない、と思う。増税は誰もが嫌である。だが、国家財政と子々孫々への負担を熟慮した時、政治が負わざるを得ない一つの使命ともいえる。そのリスクを取らず、先送りという甘言で2度も国民のポピュリズムに訴えるやり方は保利見解の取り違えである。
日本と同じ議院内閣制を持つ英独も解散権については限定説である。英国では2011年、議会任期固定法を成立させ首相の解散権を制限、不信任案可決以外は下院議員(日本の衆院議員)は5年の任期が守られることになった。ドイツでも解散権の行使は基本的には不信任案可決の場合とされている。世界を見回しても7条解散的融通無碍(むげ)な魔剣はない、というのが定説だ。
保守の伝統的知恵や世界の大勢に逆行したダブル選騒動。いたずらに空気膨れした妖怪を良識の剣で退治し、最高機関の権能が回復されるよう与野党の覚醒を促したい。
 
温故知新

 

IT時代たけなわ、「IT時代を如何に生きるか」「eビジネスを成功させる方法」など、ITに関する、いわゆるハウツー本が本屋さんの店頭に並ぶ中で、創生期時代を苦労した方々は「原点や基礎を大事に考えよう」と、軽薄な考え、イージーな行動に流れないよう警鐘を鳴らす。一方、後発ながら、少し成功をおさめた方の中には「いけいけどんどん、恐いものなし」と、「何でもあり、早い者勝ち」の如く積極性を提唱している方もおられる。
時代によって、人々の性格も、ビジネスの在り方も、変わるのはやむを得ないと思う。第二次世界大戦後の日本経済が、欧米に見習い、欧米を市場としてここまで来たのは間違いないだろう。しかし、少し遡って江戸時代後半を考えれば、日本経済は、商業資本主義が頂点に達し、金銀両替相場、米相場など世界的にみても引けを取らないレベルの高い経済環境にあったと言える。
当時の商人の参考書になったと言われる「日本永代蔵」を、ここでは採り上げてみたい。学術的な解釈は別にして井原西鶴による「日本永代蔵」が成立した時代は、利発な商人がお客様の好みを嗅ぎ分けて、少ない元手から大きな商いを成功させることで、世間の評判をもらっていた。また、「欲をかいた失敗を真似するのではないよ」と、親たちからの言い伝えで、子供達のさらし者になった商人もいた。世の中は極めて平和であり、商業が栄え、商人がきらびやかさを競い、豪華絢爛たる元禄時代へと進んでいった時代である。
「日本永代蔵」には成功話、失敗話、あるいは一度は失敗したものの復活する話、好運を呼び込んだ話と千差万別であるが、冒頭の話しに出てくる「手遠きねがひを捨てて、近道にそれぞれの家職をはげむべし。福徳は其身の堅固に有り。朝夕油断する事なかれ」と、夢のような絵空事には耳を貸さず、家業をおろそかにすることなく、少し上手くいっても油断することなく励むことが、金銀を蓄えるもっとも良い方法だという締めくくりになっている。
その幾つかを例に挙げる。掛け売りで苦しんでいる他店をよそに現金売りに撤し、しかも商品の品揃えを徹底して、お客様を待たせない商売を考案した九郎衛門の話、日本橋で世の中の動きを観察し、大工の見習い小僧が落としていく檜の木ぎれを拾い集め、末は大材木商にまで登り詰めた鎌倉屋甚兵衛の話などは、その人の持つ才覚が成功を呼んだ話題といえる。
朝早くから恵比寿様の出で立ちで市場に現れ、「えびすの朝茶」として売り出し大繁盛したまではよかったが、欲に目がくらみ良茶に茶殻を混ぜて、最初は客も気づかず成功したものの、お客様から愛想をつかされ狂死した利助の失敗話(巻4−4)。一度は親の財産を遣って勘当されたけれど、木綿を手ぬぐいに切って天神様の手水鉢のそばで売り、成功した大黒屋の話(巻2−3)などなど。また話のあちこちで、成功する手代の、今で言えば出来る社員の心がけや難しい掛け金取り立ての要領なども書き込まれていて面白い。
"First come Take all"と言われてきたIT業界も、今は、考え直され、一段とブラッシュアップされる時期を迎えていると思う。むしろ、起業する人は、先ずは企業家としての心の持ち方を問われているのではないか。IT革命がもたらす便利なもの、便利なことには、また、悪いもの、悪いことがついて回るのは世の常である。甘言には惑わされず、地に足つけて仕事をすること、「温故知新」など今更言うのも恥ずかしいが、「日本永代蔵」や「世間胸算用」を読み返し、ビジネスマンのこれからの在り方を模索するのも一つの方法と思う。 
 
黒猫の縁起

 

昔から、もしかすると今でも黒ネコは縁起が悪いなんて信じていないでしょうか。昔は、黒ネコが道を横切っただけで「今日は良くないことが起きそうだ。不吉の予感がする。」なんて本気で信じていた節があります。
黒ネコは近所に結構いるものです。個人的な話ですが、1日おきに黒ネコと目を合わせています。黒ネコは平気で道を横切りますし、人を見てもすぐに逃げようとはしません。でも、黒ネコに横切られても、特に不吉になってはいませんが・・・
『黒猫は縁起が悪い』って説はどこから来たの?
つぶらな瞳がとても愛くるしい黒ネコちゃんです。ビロードみたいな毛並ですね。
こんなに可愛い黒ネコちゃんの『縁起悪い伝説』の発祥とは?
「15世紀ごろヨーロッパで魔女狩りが盛んだった頃から、縁起が悪いと言われるようになりはじめました。黒猫は魔女の使い魔だと思われていたためです。黒猫は魔女と人間の言葉で会話し、赤ん坊の魂を食べ(当時、中世ヨーロッパでは病気などで死亡する赤ん坊が多かったことから)、老婆に化けて善良な人を甘言で惑わせると信じられていました。なぜ黒猫なのかといえば、当時魔女狩りの標的にされやすかった一人暮らしの老婆は、寂しさを紛らわすためにネコを飼っていることが多かったからだと言われています。また黒は魔女の羽織るマントの色とも通じ、闇夜に目だけが光る不気味さからも、魔女の手先=よくない物といわれるようになったのでしょう。」
日本の「黒猫に前を横切られると不吉」という迷信の根拠は?
「中世のヨーロッパにそのルーツがあります。ある村に住む父親と息子が夕方家路に急ぐ途中、突然息子の前を何か黒いものが横切りました。驚いた息子が石を拾って投げつけると、その石は黒いものに命中し、黒いものは驚いてある一軒の家に逃げ込んで行きました。その家は村の人たちとはあまり仲のよくない、魔女と恐れられている老婆が暮らす家でした。老婆の家の窓から、1匹の黒猫が親子を見つめています。黒猫は右顔面を怪我しており、親子はさっきの黒いものが黒猫だったことを知ります。
次の日、その家に住む老婆は顔を怪我していました。その後親子は次々と不幸な目にあい、最終的には崖から落ちて死んでしまいます。村の人たちは老婆(魔女)が黒猫に化けて村を回っていたのだが、人間に戻るところ(家に逃げ込むところ)を目撃されてしまったから呪いにかかってしまったのだと噂しましたとさ。で、この親子の目の前を横切って黒猫が家に帰っていったことから、黒猫が目の前を横切ると不運って伝承になったみたいですね。(他にも「黒猫はあの世とこの世の境に生きる生物だから、黒猫が目の前を横切るとその奥はあの世に繋がってしまう」という説があります。黒猫は魔女に魂を届けるために誰かが死にかけるとその枕元に座り込んで死ぬのを待つという言い伝えが「黒猫=あの世の境に生きる」と変わっていったのだと思われます)」
黒猫ちゃんを擁護します、 黒猫だって初めから黒い猫に産まれたくて、この世に出てきたわけではありません。「黒猫が横切ったら不吉の予兆」みたいな言い伝えは、100%迷信です。「クロネコヤマトの宅急便」を利用したことない人はいないと思いますが、不吉だったら利用する人は限りなくゼロですよね。
黒猫が幸運の女神って説もたくさんあるんです!
スコットランドでは「黒猫が目の前を横切ると幸運の印」と言われています。
他にも黒猫=幸運という考え方は日本にも古くからあります(黒い招き猫は厄を払う・肺病の患者の傍に黒猫を置くと病気が治る(江戸時代の俗信)など)ですので、一概に「黒猫=縁起が悪い」とは言えるわけがありません。
中国やカンボジアでは黒猫は豊穣の雨をもたらす動物とされ、雨乞いの儀式に黒猫の動作が取り入れられています。
アフリカでは、その器用さ・巧妙さから猫には透視能力(心理学的には読心術?)があると信じられていました。
ツタンカーメン王の墓にも、黒猫や犬の頭部をモチーフとした寝台が多数納められていました。黒猫はその俊敏さを持って敵と戦う人間を助けたと言われます。その為古代エジプトでは黒猫を殺すと死刑に処せられたそうです。
 
日本人のリーダー

 

よく「明治時代の日本人は偉かったが、第二次世界大戦のときはレベルが低下した」とか、「戦後、高度成長したときの日本人は優秀だったが、今の日本人はだめだ」とかいわれる。しかし、本当に一国の国民がその時代、時代によってレベルが上がったり下がったりするものなのだろうか。私はそうは思わない。結論を先にいえばこうである。「ある国の国民が時代によって優秀になったり劣化するなどということはない。変わるのはリーダーの質である」
たとえば、A社とB社の二つの会社があったとする。A社は会社の業績が大変よいが、B社は業績不振で赤字続きである。この場合、その原因は、A社の社員は優秀だが、B社の社員は劣っているからだと考えるだろうか。いや、そんなことはない。A社の社長は優秀だが、B社の社長は能力が劣るからと考えるのが普通だろう。実際、業績不振の会社が経営者が交代したとたんに売上げが飛躍的に伸び、いわゆるV字回復を見せるというのはよくあることである。接客業の場合など、社長が交代しただけで社員の接客態度が全く変わるということもある。野球のチームなどでも、監督が交代したとたんに、万年Bクラスのチームが優勝したりする。それでもスポーツの場合は、チームによる選手の能力の差というものは歴然としてあるが、一国の国民のレベルの平均値というものは、いつの時代も同じようなものである。変わるのは国家のリーダーの質なのである。
では、なぜその時代、時代によって優れたリーダーが現れたり、ボンクラのリーダーが続いたりするのだろうか。そのときたまたまその国にそういう人材が生まれたり、あるいは偶然人材が枯渇こかつしたりするためだろうか。いや、そんなことはない。どの時代にも、必ず傑出した能力を持った優れたリーダーとなるべき人物というのは存在する。ただ、そのような人物が実際にリーダーとなるようなシステムが存在するか否いなかということなのである。たとえば戦国時代や明治維新の頃には優れた国家指導者となった逸材いつざいが次々と現れた。そして、そのような傑出した人物がリーダーとなる機能を果たしたのが戦争である。
戦争というのは、文字通り命がけで、そのリーダーのすべての能力を出し尽くして全身全霊で戦うものである。勝利にはもちろん運も作用するが、基本的には完全な実力勝負。桶狭間おけはざまの戦いで勝利した織田信長のように、能力があれば味方の何倍もの兵力のある敵と戦って勝利することも珍しくない。これは日本にかぎらず、外国でもアレキサンダー大王、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)、諸葛孔明しょかつこうめいなど、数多くの例がある。
では、武将としての能力と、政治的能力とは常に一致するのだろうか。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が国家指導者としても武将としても優れていたように、この二つの能力は一致する場合が多いが、必ずしもイコールではない。上杉謙信は戦争の天才で、その戦術においては、この三人に勝っていたという。しかし、「天下取りの戦略」という意味で政治的センスでは劣っていたため、天下人てんかびとにはなれなかった。また、古代ローマ帝国において、カエサルは政治家としても武将としても天才だったが、彼を継ついだアウグストゥスは政治的には傑出した指導者だったが、病弱であり名将とはいえなかった。しかし、彼の部下で親友でもあったアグリッパという将軍は有能な武将であり、敵のアントニウスと戦って勝利し、アウグストゥスはローマ帝国の初代皇帝となったのである。有能はリーダーは、たとえ本人が軍を指揮する能力に欠けていても、優れた軍人を見いだして使いこなし、結局勝利することもできる。また、その説得力や策謀により多くの人間を味方に付けたりして、不利な戦争も最終的には勝利へともっていくことができるのである(たとえば、関ヶ原の戦いにおける徳川家康のように)。
しかし、戦争というのは、もちろん国民にとって不幸なことだし、平和な環境で有能な人間がリーダーになれればそれに越したことはない。しかし日本というのは、平和時に傑出した人間がリーダーとなるのがきわめて難しい国のようである。スポーツ界のように必然的に「実力主義」とならざるを得ない世界は別として、それ以外の分野では「実力主義」を嫌い、リーダーとしては無能でも家柄のよい人や学歴の高い人間、あるいは調整能力のある人物がリーダーとなりやすい。明治維新の内戦で勝利した倒幕派は大久保利通などの傑出したリーダーを数多く生んだ。しかし、国内での平和が続くと、実力より学歴が重視され、昭和の初期には陸軍士官学校出身などの、超エリートだが無能な指導者たちがリーダーとなってしまった。そして、日本を無謀な戦争と、その結果としての敗戦へと導いたのである。
第二次世界大戦の終結により政治・社会の古いシステムが破壊されると、明治維新以来の実力主義の時代が到来し、政界にも財界にも傑出したリーダーが次々と生まれた。しかし、時が立つにつれ、やはり実力主義はすたれ、政界は家柄、官界は学歴、財界はその両方が重視されるようになった。見回せば、政界も官界も、財界も、マスコミ界も、そして経済学などの学界も、リーダーは三流・四流の人間ばかりである(しかし、財界は実力主義の側面もあるため、一部だが一流の人間もいる)。
象徴的なのは前首相の鳩山由紀夫。家柄も学歴も最高だが、政治家としては無能だった。彼を継いだ菅直人は家柄や学歴で首相になったわけではないが、能力的には会社でいえば「課長クラス」だろう。民主主義というのは、一見、傑出したリーダーを選ぶのに優れたシステムのように思えるが、じつはそうともいえない。たとえば、もし織田信長が現代に現れて新党を結成したとしたら、選挙で勝利することができるだろうか。むしろ「あんな傲慢ごうまんで型破りで危険な人間が作った政党に投票するわけにはいかない」と多くの国民は考えるのではないだろうか。そして、大衆が喜びそうだけど実現不可能、あるいは日本を破滅へと導く政策を並べる「詐欺師さぎし」に投票するのではないだろうか。
仮に詐欺師と天才が戦争をしたなら、まちがいなく天才のほうが勝つ。しかし、民主主義国家の選挙戦ではそうともいえない。というのも、有能な詐欺師というのは、民主主義の選挙において国民を騙だまして票を獲得することに長たけている人間だからである。問題は、小沢一郎のような「詐欺師」と織田信長のような「天才」が紙一重かみひとえにも見えるところだろう。どちらも国民がびっくりするような常識破りの政策を提言したりするが、当然ながら前者は日本を破滅に導き、後者は日本を救う。しかし、「天才」のほうが「常識破り」の程度がはなはだしいため国民には受け入れられず、また、「天才」は多くの国民が反発するような改革も主張するのに対し、「詐欺師」はバラマキ政策のような甘言かんげんを並べる。その結果、国民は「詐欺師」のほうを選んでしまう確率が少なくないのである。かつてドイツの国民がヒットラーという「天才的詐欺師」を選んだように。
「小さな嘘より大きい嘘のほうが人を騙しやすい」というが、小沢一郎が「稀代きたいの詐欺師」といえるのは、「民主党のマニフェスト」という巨大な嘘により何千万もの国民を騙すことに成功したからである。見回せば、日本の各界のリーダーは、不況下で緊縮財政と増税を主張するボンクラや、バラマキを正当化する詐欺師ばかりなり……か。  
 
幼児化する政治とフェアプレイ精神

 

できたばかりの石原慎太郎の太陽の党が解党して、橋下徹の日本維新の会と合流。太陽の党との合流話を一夜で反古にされた河村たかしの減税日本は「減税の看板をはずしたら仲間にいれてやる」と恫喝されて落ち込んでいる。渡辺喜美のみんなの党は維新への離党者が続出しているが生き延びるために維新との選挙協力の方向を探っている。
いわゆる第三極政局は「あの業界」の離合集散劇とよく似ている。
党名を「なんとか組」に替えて、笠原和夫にシナリオを書いてもらったらずいぶん面白い映画ができそうである。
残念なのは、登場人物の中に感情移入できる人物がひとりもいないことである。
状況的には河村たかしと渡辺喜美が『総長賭博』の中井信次(鶴田浩二)や『昭和残侠伝・人斬り唐獅子』における風間重吉(池部良)の役柄に近い「引き裂かれ」状態にある。甘言を弄しあるいは恫喝を加えて縄張りを奪おうとする新興勢力に抗して、なんとか平和裏に組を守ろうとするのだが、うち続くあまりの理不尽な仕打ちにぶち切れて、全員斬り殺して自分も死ぬ・・・という悲劇的役どころは彼らにこそふさわしいのだが、ふたりともそこまでの侠気はなさそうである。
この二人を見ていると、級友にいじめられて、「パン買ってこい」とパシリに使われている中学生が、それでも「オレはいじめられてなんかいないよ。あいつら、オレの友だちなんだから。みんなオレのマブダチなんだ」と言いながら、だんだん目がうつろになって、しだいに狂ってゆく・・・という姿がオーバーラップする。
橋下徹という人はほんとうに「いじめ」の達人だと思う。
どうすれば、人が傷つき、自尊感情を奪われ、生きる意欲を損なわれるか、その方法を熟知している。
ある種の才能というほかない。
減税日本とみんなの党の「いじめ」方をみていると、それがよくわかる。
人をいじめるチャンスがあると、どうしてもそれを見逃すことができないのだ。
たぶんこれがこの人に取り憑いた病なのだろう。
テニスで、相手がすべって転んだときにスマッシュを控えるのは英国紳士的な「フェアプレイ」であり、これができるかどうかで人間の質が判断される。
テニスの場合、強打するか、相手の立ち上がりを待つかの判断はコンマ何秒のうちに下される。政治的思量の暇はない。
フェアプレイ精神が身体化されていない人間にはそういうプレイはしたくてもできない。
だから、英国人は「そこ」を見るのである。
テニス技術の巧拙や勝敗の帰趨よりも、そのふるまいができるかどうかが、そのプレイヤーがリーダーとしてふさわしいかどうかのチェックポイントになるからである。
ジョン・ル・カレの新作『われらが背きしもの』に興味深い場面があった。
オックスフォード大学で文学を教えている青年ペリーはバカンスで訪れたリゾート地の海岸で、ふとしたきっかけからロシアの犯罪組織の大物であるディマとテニスの試合をすることになる。
力量の差に気づいたペリーは少しのんびり試合を進めようとした。一方的な「虐殺」ではなく、家族たちが見守っている前で必死で走り回るディマのプライドを配慮して、ゲームらしいかたちに整えようとしたのである。
「サイドを変えたとき、ディマに腕をつかまれて、怒声を浴びせられた。
『教授、あんたおれをバカにしたな』
『僕が何をしました?』
『さっきのボールはアウトだった。あんた、それがわかっていたのに、わざと手を出した。おれはデブの半年寄りで、半分死にかけているから、手加減してやろうとでも思っているのか?』
『さっきの球は、ラインを割ったか割らないか、ギリギリのところでしたよ』
『教授、おれは賭けでテニスをやるんだ。やる以上、何か賭けよう。おれが勝つ、誰もおれをバカにしない。どうだ、1000ドル賭けないか?試合を面白くしようぜ』
『お断りします』
『5000ドルでどうだ?』
ペリーは笑いながら、首を振った。
『あんた、臆病者だな?だから賭けに乗れないんだな』
『たぶんそういうことですよ』とペリーは認めた。」
そして試合が終わる。ペリーが勝った。ディマはペリーを熱く抱きしめてこう言う。
「『教授、あんたはものすごいフェアプレイ精神のイギリス人だ。絵にかいたようなイギリス紳士だ。おれはあんたが好きだよ。』」(ジョン・ル・カレ、『われらが背きしもの』)
この一言がきっかけでペリーとディマはありえないような不思議な絡み合いの中に引き込まれてゆくのであるが、それはともかく、テニスを通じてイギリスの紳士たちは「勝つこと」だけでなく、「どう勝つか」を学習する。
「敗者を叩き潰す勝ち方」ではなく「敗者に敬意をもたれるような勝ち方」を学ぶことが指導者になるためには必要だからだ。
いまのイギリス人がどうかは知らないが、ジョン・ル・カレが遠い目をして回想する大英帝国の紳士たちはそういう勝ち方をパブリックスクール時代に学んだ。
それは理想主義的ということではない。労働者階級や植民地原住民たちを支配する訓練の一環として学んだのである。
自分が上位者であり、相手の立場が弱いときに、あえて手を差し伸べて、「敵に塩を送って」、ゲームのかたちを整えるというのは、実は非常に費用対効果の高い統治技術であり、ネットワーク形成技術だからである。
倫理的思弁が導いたのではなく、統治の現場で生まれたリアルでクールな知恵である。
ただし、重要なことは、それは政治的オプションとして「選択」することができないということである。
脊髄反射的にできるものでなければ、「フェアプレイ」とは言われない。
熟慮の末に、「こうふるまえば自己利益が増すだろう」と思って選択された「敵に塩」的パフォーマンスはただの「マヌーヴァー」である。
考えている暇がないときにも「フェア」にふるまえるか、「利己的」になるか、その脊髄反射にその人が受けてきた「統治者たるべき訓練」の質が露呈する。
ふりかえってわが国の「ウッドビー統治者」たちのうちに「フェアプレイ」を身体化するような訓練を受けてきた政治家がいるだろうか。
繰り返し言うが、それは「上品な政治家」とか「清廉な政治家」とかいう意味ではぜんぜんない。
統治者としてリアルな力量があるかどうかを「フェアプレイ」を物差しで見ようとしているだけである。
その基準で言えば、「政治的技術としての身体化されたフェアプレイ精神」を示すことのできる政治家はいまの日本にはほとんどいない。
ほんとうを言うと、「ひとりもいない」と書きたいところである。
だが、どこかに「フェアな政治家」がまだ絶滅危惧種的に残存しているかもしれないので、そのわずかな希望を「ほとんど」に託しているのである。
繰り返し書いていることだが、また繰り返す。
今の日本の政治システムが劣化しているのは、システムのせいではない。
人間の質が劣化しているのである。
だから、制度の改変や政策の適否について、百万語を費やしても無駄である。
政治的公約や連帯の約束を一夜にして反古にすること、「勝ち馬に乗る」ことを政治家として生き残るためには「当たり前」のことだと思っているような人間たちばかりが政治家になりたがっている。
統治者になるための訓練を受けたことがない人間たちが統治システムに群がっている。
中学生的な「いじめの政治学」には長けているが、「フェアプレイ精神」については聴いたこともないという「こども」たちが政治の世界に跳梁している。
日本の政治は12月の総選挙で少しは変わるのだろうか? 私にはわからない。これ以上政治が幼児化することがないように祈るだけである。
 
戦前の軍事費と現代の社会保障費

 

・・・いま、我が国の政府債務はとめどなく増え続けている。是清の時代と比べてはるかに複雑になった今日の政府債務を表す数字は色々あるが、財務省理財局国際企画課によれば、平成24年度末見込みの「国債及び借入金現在高」は1086兆円と1000兆円を超える。なぜ、日本の政府債務は増え続けるのだろうか。なぜ、借金を重ねるのだろうか。
まず、二つのグラフを見てもらいたい。一つ目は「平成24年度一般会計予算歳出内訳」の円グラフである。最も多くお金が使われているのはどの分野か。社会保障である。全体の29.2%を占める。次にその歴史的推移を見てみよう。この50年で着実に増えてきているのが社会保障関係費と国債費(国債の償還や利払いに充てる費用)であることは一目瞭然だ。さらに言えば、平成24年度予算における社会保障関係費26.39兆円というのは野党から「粉飾だ」と批判され、後に修正している。どういうことか簡単に説明しよう。我が国の公的年金制度は、現役世代が支払っている年金保険料を高齢者が受け取る年金に充てる賦課方式というやり方を採っている。したがって、急速に進む少子高齢化に伴って、現役世代が負担しなければならない年金保険料はどんどん増えることになってしまう。そこで、現役世代の保険料負担を少しでも軽減しようと、平成21年年4月から基礎年金の国庫負担割合がそれまでの3分の1から2分の1に引き上げられた。つまり、基礎年金の原資は半分が現役世代が払う年金保険料。残りの半分が「国庫負担」となったのである。この「国庫負担」とは何か? 国の金庫の中にそういうお金があるように思うかもしれないが、そうではない。国の収入は税金しかないのだから、これは本来は税金(より具体的に言えば消費税)を指すのである。しかし、政治家にとって「増税」は票につながらないから、消費増税は後回しにされ続け、その間、この「国庫負担」はいわゆる霞が関埋蔵金で手当てされてきた。いわば本当に「国庫負担」されてきたわけだが、24年度は埋蔵金が枯渇したため民主党政権は「年金交付国債」という奇策を考え出した。年金交付国債についての説明は省くが、そのポイントは一般会計に計上しなくて済むという点にあった。そうすれば当然、一般会計の見かけは良くなる。しかし結局、野党からの粉飾批判を浴びて後に一般会計に計上したので、実際には一般会計予算に占める社会保障関係費は3割を超えている。
読者の多くは、「少子高齢化が進んでいるから、社会保障関係費が増えるのは止むを得ない」と思っていることだろう。しかし実は、本来ならば、我が国の社会保障制度においては、人口構成がどうなろうとも、社会保障関係費はそれほど増えるはずはないのである。なぜなら、我が国の社会保障制度の基本は社会保険制度だからである。社会保険制度とは、民間の保険会社の保険と同じように考えていただいてかまわない。保険料を支払う人がいて、給付を受ける人の分はその保険料から支払われる。それを民間企業ではなく国でやっているのが、社会保険制度である。ではなぜ、社会保障関係費が増え続けるのか。次のグラフ「社会保障給付費と社会保険料収入の推移」を見てもらいたい。平成10年あたりから社会保険料収入が全く伸びなくなっているにもかかわらず、社会保障給付費はどんどん増え続けていることが一目瞭然である。ざっくり言えば、この給付費と保険料収入との差額が社会保障関係費として一般会計に回り、それを借金で手当てし続ける構造になってしまったのである。我が国の社会保険制度は平成10年頃からすでに崩壊していると言ってよい。
なぜこんなことになってしまったのだろうか。それは、政治の責任であり、より根源的には我々国民の責任である。政治家は票がもらえなければタダの人になってしまうから、どうしても国民に甘言を弄する。だから、保険料収入が伸び悩むことは自明のことであったにもかかわらず、給付だけはどんどんやる制度を作った。社会保障が専門の鈴木亘学習院大学教授は、このように指摘する。「医療保険だけでなく、年金や介護保険でもこの根拠不明な公費の大盤振る舞いが行なわれています。介護保険に至っては、6割近くが公費。社会保険への公費投入はすでに多くの国民の既得権になっていますから、なかなか一朝一夕にここにメスを入れることは難しいかもしれません」。
戦前、歯止めなく国の借金を膨らませていったのは軍事費であった。今は社会保障関係費である。言わば、戦前の軍部に当たるのが今日においては我々国民なのである。 
 
ドケチ中国人女ブローカーの甘言にハマった

 

困窮日本人夫婦、偽装結婚で得たのはわずか28万円
愛する伴侶(はんりょ)と人生をともに歩む「証し」を犠牲にして得たのは、わずか28万円−。離婚して中国籍の男女と再婚したとする虚偽の婚姻届を役所に提出したとして、30代の日本人夫婦が1月中旬、電磁的公正証書原本不実記録・同供用の疑いで大阪府警に逮捕された。幼い子供を抱えて金銭的に逼迫(ひっぱく)し、中国籍の女ブローカーに誘われて目先の生活費欲しさに手を染めたとみられる。訪日外国人の急増に伴い、中長期的に滞在する外国人も増える中、長期の在留資格を得たい外国人がブローカーに金銭を支払う「偽装結婚」は、憂慮される犯罪の一つだ。大がかりな国際犯罪の「インフラ」となる可能性もはらんでおり、警察当局は警戒を強めている。
「普通の家族」…離婚′繧燗ッ居
「小さいお子さんを連れて仲良く出かけていく姿を何度も見かけた。別々に再婚していたなんて…」
大阪市平野区の住宅街の一角にある築26年の小さなアパート。この一室で暮らしていた31歳の夫と35歳の妻がいずれも偽装結婚していたことを知った近くに住む70代の主婦は、驚きを隠せなかった。
府警によると、2人は約5年前に離婚届を提出。その後、夫は平成23年7月に中国籍の女(36)と、妻は26年8月に同籍の男(27)とそれぞれ「再婚」し、婚姻届を区役所に提出していた。
だが2人は、1月14日に逮捕されるまで変わらず同じアパートに同居。それどころか、離婚後に生まれた1歳の子供や保育園児の子供2人も合わせた「家族5人」で暮らしていた。近所からは、どこにでもいる仲むつまじい「普通の家族」と認識されていたのだ。
実際には、2人の再婚は「日本人の配偶者」の在留資格が欲しい中国人との偽装結婚で、離婚も書類上のものに過ぎなかった。
持ちかけたのは、電磁的公正証書原本不実記録・同供用容疑で逮捕された中国籍の張鳳栄(ジャン・ファンロン)容疑者(46)。通名を名乗って介護福祉士として福祉施設で勤務していたが、府警は夫婦に偽装結婚を持ちかけたブローカーだったとみている。
2人と偽装結婚していた中国籍の男女も同容疑で逮捕されている。
月収10万円「生活が苦しかった」
なぜ日本人夫婦は偽装結婚に手を染めたのか。
関係者によると、夫は警備員のアルバイトをしていたものの、月収は10万円程度。妻も過去に福祉施設職員として働いていたが現在は無職で、家計は厳しかったとみられる。
知人を通じて夫婦と知り合ったという張容疑者は、「お金になる話がある」と言葉巧みに誘い、離婚させた上で中国籍の男女を結婚相手として紹介。2組のカップルは区役所に婚姻届を提出しただけで、一度も一緒に暮らしたことはなかった。
府警によると、張容疑者は中国籍の女から仲介料として約162万円を受け取っていたが、夫婦に対しては夫に一括で約20万円、妻には分割で計約8万8千円を支払っただけだったという。
府警の調べに対し、夫婦は容疑を認め、「生活が苦しかった」と供述。一方、張容疑者は「何のことか分からない」と容疑を否認している。
魅力的な「配偶者」資格
警察庁のまとめによると、偽装結婚の摘発は平成23年の554人をピークに減少傾向にあり、26年は371人だったが、昨年は上半期で183人と前年同期(165人)を上回った。
国別でみると、最も多いのは中国籍(45人)で、次いでフィリピン籍(14人)、韓国籍(11人)。「受け皿」となる日本人の摘発者は103人にのぼる。
偽装結婚の場合、外国人側は多額の手数料をブローカーや結婚相手に支払うケースが多い。捜査関係者は「手数料以上に『日本人の配偶者』の在留資格を手に入れることで得られるメリットが大きい」と話す。
日本に滞在する外国人は、在留資格の種類によって国内で認められる活動が区別される。例えば観光などが目的の「短期滞在」や就学目的の「留学」は、原則として日本での就労が認められていない(留学の場合、資格外活動の許可を得れば原則として1週28時間まで就労可能)。
就労が可能な「技能実習」や「特定活動(ワーキングホリデー)」であっても働く場所や時間を自由に決めることができず、逸脱した形で働けば入管法違反(資格外活動)罪などに問われることになる。
一方で、日本人と結婚することで得られる「日本人の配偶者等」、略して“日配”であれは就労活動に制限がなく、転職や副業も自由。加えて婚姻後に3年以上日本に在留しているなどの要件を満たせば、他の在留資格に比べて比較的早く、在留資格の更新が必要ない「永住者」への変更申請ができるようになる。
捜査関係者は「日配の資格を得てより高賃金の職に就くことができれば、母国で働くよりもはるかに多くの金を得られるという現実がある」と指摘する。
今回の日本人夫婦が関与した事件の場合、妻の相手となった中国籍の男はもともと、技能実習生として来日していた。調べに対し、「本当の結婚だった」と否認しているようだが、府警は、技能実習の在留期間が終わっても日本に残るためだったとみている。
「想定問答」の用意も
在留資格を得たい外国人、戸籍を汚してでも報酬を得たい日本人、手数料狙いのブローカー。三者の利害が一致する偽装結婚は、実態把握の難しさも特徴だ。
結婚の形や家族の関係は実にさまざまで、日本人と外国籍の男女が出会ってすぐ入籍したり、別居のままであったりしても、「それだけで即座に偽装結婚だと断定できない」(捜査関係者)。婚姻届を受け付ける役所では書類の不備がなければ原則そのまま受理するため、行政上の手続きで看破することも困難だ。
とはいえ、関係機関も手をこまねいているわけではない。入国管理局では、日配の在留資格を認定・更新する際に、書類上だけでなく「毎朝何時ごろに起床しているか」「朝食のメニューは何が多いか」といった面接形式の審査を配偶者双方に行うなどして、結婚の真実性を確かめている。
ただ関係者によると、「双方の答えをすりあわせるための『問答集』を事前に用意し、偽装結婚が露見しないよう指南するブローカーもいる」といい、イタチごっこの状態が続いているのが現状だ。
日本政府観光局(JNTO)によると、昨年の訪日外国人客数(推計値)は過去最多の約1974万人。中長期にわたって日本に滞在している在留者数も200万人を超え、増加傾向にある。
ある捜査幹部は「偽装結婚の摘発を契機に、強制的に連れてきた外国人女性を働かせる人身取引や、海外に不正送金する地下銀行などの犯罪が発覚したケースもある。今後も入管当局と連携し、粘り強く摘発していく」と強調している。
 
SEALDsのみなさんへ 一部大人たちの甘言に惑わされるな

 

SEALDs(シールズ : Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)の活動が活発です。
初めに当ブログの立ち位置を明確にしておく必要があると思います。
私は学生の諸君がこの国の政治に関して関心を持ち、合法的な行動を起こすことに、一点の曇りもなく賛成いたします。
デモ活動も含めて合法的な活動である限りそれを認めますし、彼らの主張するところが、ときの政権に対する批判の色を帯びているとしても、むしろそれは成熟した民主主義社会にとり健全なシグナルであろうと肯定いたします。
時の政権の政策が100%正しいことなどはあるはずもなく、その政策に対し理性的かつ論理的に反証をし建設的な対案を示すとすれば、国民にとっても選択肢が提供されるという意味でプラスに作用することでしょう。
世界には中国や北朝鮮など権力批判がまったく許されない非民主的な国家も少なくない中で、この日本では法を犯さない限り、広く言論の自由が認められているわけです。
さてそのうえでですが、SEALDsの諸君には是非感情に流されず理性的に自己主張をしていただきたいとお願いするものであります。
ここにSEALDsのホームページがあります。
「SEALDs 私たちは、自由と民主主義に基づく政治を求めます。」 
このホームページに彼らが掲げる外交・安全保障政策が"NATIONAL SECURITY"と題して掲載されています。
大切な主張なので失礼して全文引用。
「NATIONAL SECURITY  私たちは、対話と協調に基づく平和的な外交・安全保障政策を求めます。現在、日本と近隣諸国との領土問題・歴史認識問題が深刻化しています。平和憲法を持ち、唯一の被爆国でもある日本は、その平和の理念を現実的なヴィジョンとともに発信し、北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮するべきです。私たちは、こうした国際社会への貢献こそが、最も日本の安全に寄与すると考えています。現政権は2年以内の憲法改正を掲げるとともに、集団的自衛権の行使容認、武器輸出政策の緩和、日米新ガイドライン改定など、これまでの安全保障政策の大幅な転換を進めています。しかし、たとえば中国は政治体制こそ日本と大きく異なるものの、重要な経済的パートナーであり、いたずらに緊張関係を煽るべきではありません。さらに靖国参拝については、東アジアからの懸念はもちろん、アメリカ国務省も「失望した」とコメントするなど、外交関係を悪化させています。こうした外交・安全保障政策は、国際連合を中心とした戦争違法化の流れに逆行するものであり、日本に対する国際社会からの信頼を失うきっかけになりかねません。長期的かつ現実的な日本の安全保障の確保のためには、緊張緩和や信頼醸成措置の制度化への粘り強い努力が不可欠です。たとえば、「唯一の被爆国」として核軍縮/廃絶へ向けた世界的な動きのイニシアチブをとることや、環境問題や開発援助、災害支援といった非軍事的な国際協力の推進が考えられます。歴史認識については、当事国と相互の認識を共有することが必要です。先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります。私たちは、対話と協調に基づく平和的かつ現実的な外交・安全保障政策を求めます。」
非常に理性的な文章です。
私とは考え方が一部異なりますが、主張する内容はよく理解できます。
「平和憲法を持ち、唯一の被爆国でもある日本は、その平和の理念を現実的なヴィジョンとともに発信し、北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮するべきです。私たちは、こうした国際社会への貢献こそが、最も日本の安全に寄与すると考えています。」
日本が「北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮するべき」、素晴らしい主張です。
例えば「「唯一の被爆国」として核軍縮/廃絶へ向けた世界的な動きのイニシアチブをとること」や、「環境問題や開発援助、災害支援といった非軍事的な国際協力の推進」、「歴史認識については、当事国と相互の認識を共有すること」などがあげられています。
「日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあり」「対話と協調に基づく平和的かつ現実的な外交・安全保障政策を求め」るとしています。
具体的実現策は弱いですがそこは学生の主張ですから当然でしょう、今後、具体的な行程計画など肉付けを期待しますが個別の政策で理性的に議論することは可能でしょう。
私の主張と隔たりがあるところは一点だけ、現政権への評価と対中国政策であります。
「現政権は2年以内の憲法改正を掲げるとともに、集団的自衛権の行使容認、武器輸出政策の緩和、日米新ガイドライン改定など、これまでの安全保障政策の大幅な転換を進めています。しかし、たとえば中国は政治体制こそ日本と大きく異なるものの、重要な経済的パートナーであり、いたずらに緊張関係を煽るべきではありません。さらに靖国参拝については、東アジアからの懸念はもちろん、アメリカ国務省も「失望した」とコメントするなど、外交関係を悪化させています。こうした外交・安全保障政策は、国際連合を中心とした戦争違法化の流れに逆行するものであり、日本に対する国際社会からの信頼を失うきっかけになりかねません。」
安倍政権の諸政策に関し、中国に対し「いたずらに緊張関係を煽るべきではありません」と批判されていますが、ここ私の考えと因果が逆なのです。
今東アジアで軍事的緊張が高まっている原因は主として中国による一方的な軍事拡張にあります、安倍政権は対抗上日本の安全保障を守るために安保法制などの改正に着手しているだけです、結果です。
ここ20年で日本を取り巻く東アジアの安全保障環境は大きく変貌しました。
中国の著しい軍事的台頭です。
具体的数値で押さえておきます。(略)
平成元(1989)年(グラフの一番左)には 中国18336百万ドル、日本46592百万ドルであった両国の軍事費は平成15(2003)年(グラフ中央あたり)で逆転し、平成26(2014)年(グラフの一番右)では、中国190974百万ドル、日本59033百万ドルと3倍以上の差がついています。
1989、2003、2014各年の日本の軍事費を1としての中国の軍事費の割合を視覚化してみましょう。(略)
過去26年で日中の軍事費は日本:中国で1:0.39と日本のそれが中国の軍事費の2.5倍であった26年前から完全に逆転し、最近では日本:中国で1:3.24と中国の軍事費は日本の3倍以上に膨れ上がっています。
SEALDsのみなさん。
この25年で10.46倍と驚異的なペースで軍事費を拡大している中国ですが、上記グラフで確認できますが、同時期日本の軍事費がほぼ横一線であることと対比すれば、今東アジアの軍事力のパワーバランスが大きく中国寄りに変動していることは明白です。このグラフは、日本が今までのように個別的自衛権のみで平和を守ることは不可能、つまり中国の急速な軍事的膨張を日本一国で対抗する手段は現実としては策がないことを如実に示しています。このグラフは、日本がアメリカやその同盟国との集団的自衛権について、建設的かつ積極的に議論すべき時代が到来したことを、冷徹な国際状況のすべてを物語っているわけです。
関心がある諸君は、ぜひ拙エントリーをお読みください。
「なぜ今この国に安全保障関連法案が必要なのか 」 2015/8/6
いずれにせよ、認識の違いはありましょうが、理性的論理的に議論を深めることは可能です。繰り返しになりますが、SEALDsの諸君には是非感情に流されず理性的に自己主張をしていただきたいとお願いするものであります。
・・・
さて、産経新聞がたいへん残念なニュースを報じています。
『首相に「バカか、お前は」 連合主催集会でシールズメンバー 安保法案反対の具体論語らず 「首相はクーデター」「病院に行って辞めた方がいい」』
「権力者が憲法違反のことをしたらどうなるか。政治家をお辞めになるしかない。それかクーデターだ。そのようなことが起こっている」
「安倍首相がクーデターを起こしている」
「一言でいうと、バカなんじゃないかなと思いながら見ている」
「国会の傍聴には行かない。首相が『どうでもいい』なんてやじを飛ばしたが、ああいうことを見ると、靴でも投げそうになるのでインターネットを通して見るようにする」
「どうでもいいなら首相をやめろ。バカか、お前は」
「『バカか』とかひどいことを言っても、あんまり伝わらない。もうちょっと優しく言えば、僕は首相の体調が非常に心配なので、早く病院に行かれてお辞めになられた方がいい」
このような罵詈雑言を自分たちの批判者に一方的に浴びせかけることは、逆にあなた方の主張を弱めることになりかねないと強く忠告しておきます。公の場で政治的主張をする場合、あくまでも真摯に理性的にその主張を訴えるべきであり、扇情的感情的に相手を罵るような振る舞いは、自らに大きなマイナスとして必ず返ってきます、言論の自由とは一方的に相手に罵詈雑言を浴びせることではないはずです。
あなた方を支持する大人たちの中には、「ふつうの言葉」などという極めてファジー(あいまい)な表現で諸君のラップなどを用いたデモ活動を称えている人たちがいます。
「内田樹 2015/8/23 SEALDsKANSAI京都でのスピーチ」
内田氏は諸君の活動を、「ふつうの言葉」で平和主義と立憲デモクラシーが語られていると絶賛しています。
「僕が一番うれしく思うのは、そのことです。みなさんが語る言葉は政治の言葉ではなく、日常のことば、ふつうの生活実感に裏づけられた、リアルな言葉です。
その「ふつうの言葉」で平和主義と立憲デモクラシーが語られている。これまで、ひとまえで「政治的に正しい言葉」を語る人たちにはつねに、ある種の堅苦しさがありました。なにか、外来の、あるいは上位の「正しい理論」や「正しい政治的立場」を呼び出してきて、それを後ろ盾にして語るということがありました。
でも、SEALDsのみなさんの語る言葉には、そういうところがない。自分たちとは違う、もっと「偉い人の言葉」や「もっと権威のある立場」に頼るところがない。自分たちがふだん学生生活や家庭生活のなかでふつうに口にしている言葉、ふつうに使っているロジック、それにもとづいてものごとの正否を判断している常識、そういう「手元にある道具」を使って、自分たちの政治的意見を述べている。こういう言葉づかいで政治について語る若者が出現したのは、戦後日本においてははじめてのことだと思います。 」
たしかに、「偉い人の言葉」や「もっと権威のある立場」に頼るところがないことは素晴らしいことです。自分たちの言葉で自己主張する、それ自体はよいことでしょう。
しかし安全保障政策を日常の言葉だけで議論することは現実的には困難です、ましてや扇情的感情的な他者批判からは、建設的な議論は決して生まれないでしょう。
SEALDsのみなさん。
あなた方を利用しようとしている一部大人たちの甘言に惑わされてはいけません。
「ふつうの言葉」だけでこの冷徹な21世紀のこの国の安全保障を議論することなど不可能なのです。SEALDsの諸君には是非感情に流されず理性的に自己主張をしていただきたいとお願いするものであります。
 
詐欺師と不動産業者が結託して「ローン詐欺」

 

甘言に乗ってマイホームを手に入れると、自分まで「結果詐欺師」に!
金融機関の「お役所仕事」で、詐欺師が「にんまり」
詐欺被害と聞くと個人を思い浮かべがちだが、狙われているのは法人も同じ事。特に、金融機関は格好のターゲットになっている。
その最大の理由だが、「書式さえ整っていれば」という形式主義・手続き主義、つまるところ私企業でありながらも「お役所仕事臭ぷんぷん」というところにある。
実際の話、すでに公的融資はさんざん詐欺師に食われている。不況対策や貸し渋りに対して行われる行政の制度融資は「審査さえくぐり抜けてしまえばいい」わけで、俗に言う「潜りやすい」ものなのだ。
筆者もこうした詐欺事件を数多く取材しているが、そのほとんどに「コーチ屋」と呼ばれる連中が関わり、「融資を受ける方法」を悪党に教えている。
筆者が取材した中でもっともひどかった沖縄のケースでは、県庁の職員までもが一味に加わっていたのだから、呆れるほかはない。
ヤクザ取材では、山口組系のある親分が「制度融資で数億引っ張った」と嬉しそうに話していた。手続き上は企業を通しているため、彼らは表には出てこない。その企業を実質的に支配しているのがヤクザであったとしても、役所としては「形式さえ整っていればいい」という、典型的ケースだ。
そして公的融資だけでなく、金融機関もまた当然のごとく詐欺師の餌食になっている。以下の報道を見てもらおう。
不動産業者が詐欺を主導
名古屋市千種区の不動産仲介会社「サラダモード」(現カフーレジデンス)が客に無借金や高収入を装わせ、住宅ローンの融資金を詐取したとされる事件で、同社が2006年以降、200数十件の融資を仲介していたことが、愛知県警の調べでわかった。県警は、同社が信用金庫や地方銀行から不正に引き出した融資が70億円を超えるとみている。(中略)
県警によると、花岡容疑者らは、客の借金を隠すために偽装結婚で改姓させたり、同社の関係会社から副収入があるように装う手口で、金融機関の融資審査をパス。2006年以降、東海3県を中心に200数十人の客の融資を仲介し、金融機関から各3000万〜4000万円をだまし取ったとみている。
同社は融資1件につき、客らから数百万円の手数料を受け取っていたという。(毎日新聞・2010年6月30日)
この事件は金融機関が食われる実にわかりやすい例なのだが、その源流は、バブル景気時代にある。
どういうことか。
バブル末期、総量規制が行われたため、土地転がしで肥大した不動産業は、一気に資金繰りが悪化した。なにしろ転売で利益を出しているわけだから、止まってしまったらアウト。しかも資金調達が難しくなった。そこで行われたのが、住宅ローンを利用した資金調達なのである。
バブル末期に「大流行」の「ローン詐欺」
会社が融資を受けることができなくとも、社員が受けることは可能。そう判断した彼らは、次々に住宅ローン契約を結んでいく。筆者は実際にそれを行った人物から取材し「競売妨害」(宝島社新書)でも詳述しているが、要するに給与明細や源泉徴収票などを偽造し、収入を膨らませて審査をクリアする手法なのである。
銀行側は規定どおり書類しか見ないので、数千万円の「焦げ付き必至」ローンが、次々に認められていった。
どうなったか。
結果バブル崩壊により、こうしたローンは軒並み破綻している。銀行のいわゆる「不良資産」というと、塩漬けの不動産ばかりに目が行ってしまう。しかし実際にはこうした「詐欺ローン」による被害も、莫大な金額に上るのである。
さて、今回取り上げた事件は、4年ほど前から行われていることになる。住宅ローン事態は平成6年に金利が自由化されたことで、これまでの固定レートとは違う状況になった。合わせて、政府が住宅購入を推進する方針で、税金などで優遇措置が取られた。これが暫定暫定といいながら、ずっと延長されているのが実態。
不況が続いている状況だが、金融機関にとって住宅ローンは優良融資のひとつだ。対個人でいえば一番かもしれない。いくら金利が下がったとはいえ、住宅ローンは20年以上が当たり前。利息で利益を出すには「もっともいい形」なのである。
加えて、住宅ローンは優先して支払いが行われる。個人にとって人生最大の買い物であると同時に、生活の基盤でありおろそかにはできないからだ。
ローンに行き詰まれば「団体生命保険」という切り札が
もうひとつ言えば、団体生命保険という切り札もある。債務者が死ねば回収できるシステムで、増加している自殺とも無関係とは言えないだろう。
加えて不動産価格は下落が続いている。不動産業を中心に「いまが買い時」と、ここ数年ずっと煽っている状態だ。「低収入でも購入できます」という殺し文句が、現場では当たり前のように飛び交っている。
これらの背景もあって、住宅ローンは「出しやすく受けやすい」融資制度になっているわけだ。そういう状況を巧みに利用したのが、前述の詐欺事件なのである。
ローン審査を受けたことがある人ならよくご存じだと思うが、金融機関は、基本的には収入証明を第一に判断する。継続した収入を得ている人間であり、これまでに支払いを焦げ付かせたり多額の借金を背負っていなければ、まず審査は通る。
となれば、詐欺師がやることはひとつ。
つまり「審査を通る書類を偽造する」ことだけだ。たったそれだけのことで、数千万円の融資を受けられる。
前述の事件では、詐欺師達は「手数料」という形で収入を得ている。
「詐欺師に協力してでも」憧れのマイホームを手にした人の「末路」
ローンを受けることが本当はできない、そういう人間にしてみれば、詐欺師に協力してもらって成功するなら「数百万を払ってもいい」と考えてしまったのだろう。だが、虚偽を承知でローン契約を結べば、結んだ人間自体も当然のことながら罪に問われる。
ローン契約を解消されるのはもちろん、融資金の返済も求められるし、場合によっては違約金などを要求される可能性もあるのだ。
結果として自分も詐欺師になってしまうことも忘れてはいけない。以前も書いた「結果詐欺師」という世界だ。
実はこうした手口が頻発しており、事件化していないだけで、水面下には多くの「詐欺ローン」があると言われている。
悪質な詐欺師になると不動産業者と結託し、銀行から支払われた融資金を直接詐取する。自動車ローンもそうだが、通常ローンで発生する融資金は、債務者に直接支払われることはない。あくまでも業者に支払われるのだ。だからこそ摘発された事件では「手数料」という形を取っていた。仲介業者であれば、当然そうなってしまう。
だが、不動産業者と組めば、融資金そのものを手にすることも可能になる。
実際には不動産売買などせずとも、不動産業者は契約書だけ用意すればいい。融資金を債務者と折半する。あとは債務者が夜逃げでもしてしまえば、それまでのことだ。
あるいは実際に不動産売買をする。そして他の事件でもあったような「偽の死亡診断書」を作り、「団体生命保険でローン残額を支払う」形にしてもいい。これで借りたローン+不動産が、「まるまる」悪党の手に落ちる。その不動産を転売することで、さらなる利益を得ることだってできてしまうのだ。
「銀行が被害者だから関係ない」は、「トンデモない間違い」
こうした詐欺を手がける連中というのは、基本的には「業界内」に存在する。不動産業は言うまでもなく、金融機関側にも存在する。審査が通りやすくなる書類作りを教えてやったり、どこの支店が通りやすいかなど教えれば、それだけで融資実行の可能性が高くなるわけだ。
実際には、不動産や銀行の「現役の人間」が関わっている可能性は低い。だが何も現役である必要はない。過去にそうした審査部門に在籍していれば、手続きの肝を知っているからだ。
書類偽造を利用した詐欺は数多く存在するが、こうした「審査を潜る」ためには、精度が要求される。いくら審査書類を偽造しようとしても、素人ではまず無理。融資側とて、なんでもかんでも通すわけではない。必ずチェックポイントが存在する。逆に言えば、そのポイントさえ押さえておけば、確実に詐取できるわけだ。
金融機関が被害者と聞くと、なんとなく「他人事」あるいは「同情できない」気持ちになる。しかし、実際にはすべての人に関係するのである。
――というのも、保険制度が存在する以上、その損失が薄く広く埋められていくから。つまり結局のところ、発生した被害は我々が気づかぬうちに、我々に本来使われるべき金利や税金から「少しずつ埋める」ことになっているのだ。
「紙切れではなく人間を見る」。当たり前のことを公的融資や金融機関が「やらないツケ」が、我々に回ってくるのだ。
 
人生最大の買い物

 

不動産屋をのぞいてまず「1ストライク」
「人生で一番大きい買い物はマイホーム」などとよくいわれる。『クレヨンしんちゃん』(臼井儀人、双葉社)でよくしんちゃんが「うちは残り32年、ローンが残っているゾ」などと言うが、家を購入するためのローン期間として、実に全体の54・5%もの人が「35年」を設定している。
平均寿命を80歳前後と考えれば、我が国の多くの人は、それこそ人生のおよそ半分、住まいとその支払いに向き合わなければならないといえるだろう。
しかし「年金制度もこの先どうなるか分かりません。老後が心配でしょうし、現役世代は買えるうちに持ち家を」などと甘言をうけてその購入を検討すれば、イヤでも対峙しなければならないのが、不動産業者だ。もし本気で購入する気があるなら、人生でも5本の指に入るであろう大勝負≠ェ、そこから始まる。
しかも、その勝負だけを冷静にながめたなら、あなたはかなりの劣勢で戦いを挑まざるを得ない。そもそも、アマであるあなたとプロである不動産業者では、持っているバックグラウンドや情報量、そして経験に、圧倒的な差があるからだ。何らかの事情で、購入を急いでいるようであれば、心理的にも追い込まれることになり、敗色はさらに濃い。
重いノルマを背負った営業マンの必死かつ研ぎ澄まされたトークの前に思考力は著しく低下。どこかで「だまされてるんじゃないだろうか」「怪しいな」と思いながらも、ここで「1ストライク」を喫する人は少なくない。
マイホームを購入して「2ストライク」
はっきりいって、法律や制度は、21世紀になった今も不動産業者に極めて「甘い」ということは知っておきたい。「無法地帯でやりたい放題」というより、景気対策もあって、むしろ「合法的にやりたい放題」なのだ。
家が一軒売れれば、木材、繊維、石材、金属、電気、ガス、輸送、電機、金融、保険、通信など、ありとあらゆる業界が儲かる。実際、平成25年度には住宅建設に16・5兆円が使われたが、この金額は住宅そのもの以外でさらに15・5兆円の生産を誘発している(『国民経済計算年報』内閣府、『平成17年建設部門分析用産業連関表』一般分類表〔建設部門表〕国土交通省)。だから国は全力で不動産業界を庇護していて、決してあなたの味方ではない。
もし少しでも家を買う気になったなら、有名な住宅ローン控除はもちろん、住宅金融支援機構によるフラット35、贈与の優遇制度など、各種の制度でその売り買いを猛烈に後押しするから、そこでやっぱり買わない、という気持ちになるほうが難しいかもしれない。
しかも、それまで経験したことのないような大きい金額で、長期間の買い物になるので思考は停止。普通なら「必要ないから買わない」「割高だから買わない」と判断できるのに、家については「ムード」や「勢い」に任せて、最後は買ってしまう。人口減少など、日本どころか世界でも経験したことのない時代へ突入しているのに、家の購入ではなぜか親の世代に戻って「マイホームを買って一人前」という時代錯誤な論理がアタマをよぎる。買えば買ったで、外構工事がされていなかったり、ガス管が届いていなかったりと、住むまでに想定もしていなかったような費用がかさみ(しかも業者側は盛り込み済み)、建ったら建ったで、欠陥住宅でなくとも、亀裂が入って、雨漏りがして、また時間と労力がかかる。 だいたい10年経てば、営業マンが「そろそろ修繕しましょう」とやってくることになるが、「たった10年も持たないなんて怪しい」と冷静に思う間もなく、はじめての修繕をよく分からないまま進めることになる。これで「2ストライク」を喫する。
売却して「三振」
昨今、景気が良くなったといわれるものの、すべての人にはいきわたっていない。もし働き手が働けなくなったり、仕事を失ったりすることがあれば、途端にローンが負担となり、売却を検討することもあるだろう。なお、2012年に内閣府が発表した首都直下地震が来る可能性は、今後30年で「70%程度」。東日本大震災で経験したはずの津波や液状化の脅威がいつまたやってくるのか分からないのに、沿岸部で、しかも割高なタワーマンションが飛ぶように売れていた。心理学的にも判明していることだが、人は不都合な記憶を忘却することが得意だ。まるでそんなことがなかったように、好都合な記憶を選んでしまう。
そうこうしてむかえた売却のとき、3度目の試練が訪れたことにようやく気付く。知らないことや、やらないとならないことがたくさんある中、また何かに追い詰められて「売る」という行為をするから、すでに敗色は濃厚だ。しかも再度対峙する不動産屋の鉄則は「いかに安く買いたたくか」。多くの人は物件の悪い点を指摘され、相場をつかめないまま、相手の意見に則って、不利な状況で安く売ってしまう。ちなみに不動産を売るとき、多くは逃げられない状況にあるからこそ、税制も容赦なく牙をむくことは知っておきたい。
極端なことを言うと、不動産屋の生業とは、安く買い、高く転売することで成立する。これこそが業界の分かりやすい仕組みであって、あなたが「三振」を喫するところまでが、実は規定路線。「思ったよりも手残りが少ないな」というレベルで済んだら、まだ御の字。もし目安を誤り、残債が残ることになれば、ローン返済を続けながら、賃貸住宅に住んで賃料も払うことになるだろう。これでは、生き地獄だ。こんなのっぴきならない状況に追い込まれるかどうかは、最初のマイホームの購入次第だった。はっきり言おう。不動産との付き合い方で、人生は決まるのである。
もう誰にもだまされないために
では一体どこが問題だったのだろうか。どうすれば逆転のヒットを放つことができるのか。間違いなく言えるのは二つ。 
一つ目は、情報で負けないということ。インターネットの浸透は、徐々に守られてきた情報を開示する方向に進んでいて、正しい収集方法さえ身に付けておけば、価値ある情報を集めることができつつある。実際、多くの不動産業者は旧態依然のままとはいえ、ベンチャーや別業種からの参入で、確実に変化を求められている。たとえば通販大手のアマゾンがすでにリフォーム分野に入ってきたが、進出する価値を彼らのような外資に見出されてしまえば、いきなり全部をひっくり返される可能性がある業界だといえる。また、少しずつ始まっているが、間に業者を入れずに、売主と買主で直接取引するのが当たり前になる日もおそらくそれほど遠くはないだろう。
二つ目は、自分のアタマで常に考える、ということ。仲介手数料を何も考えずに支払う時代はもう終わった。これから明らかに拡大するであろう中古市場や、進む東京への一極集中、少子高齢化が進む時代に、私たちはどう不動産と向き合うべきか、常に考えをめぐらせなければならない。
そこで、その二つを達成するために、この本を提案したい。「個人間売買」や「シェア」「不動産テック」など、不動産をめぐる事情は、これまでがんじがらめにされていたところと違う角度から、化学反応を起こしはじめている。
さあ、変化の時代を賢く理論武装して迎えよう。だまされて家を売り買いするなんてもってのほか。もしカウントが1ストライク、2ストライクでもまだあきらめてはいけない。勝負はこれからだ。そして家や不動産そのものは、もちろん悪者ではない。付き合い方によってはきっと人生の一部をかけるにふさわしい輝きを、あなたにもたらしてくれるはずである。
紹介が遅れたが、筆者である私は、不動産専門の公認会計士・税理士として渋谷で会計事務所を開いている。そこでは不動産を売り買いする消費者、そして仲介する不動産屋から、年間約1000件にも及ぶ相談を受けている。その中で、消費者と不動産屋との間に横たわる圧倒的な情報の差、そして考え方のズレが生じていることに危機感を感じ、警告を発したいと常々考えてきた。
不動産屋がわざとついた「ウソ」によるトラブルも、残念ながらあることはある。しかし彼らの優しさや正義心、思いやりあふれる言動が、「不動産」というあまりにハードルの高い世界の中で消費者側にきちんと伝わらなかったり、現状の制度下では裏目に出てしまったりすることも少なくない。こうした哀しいギャップが起きる現場を、私は間近でずっと見てきた。第三者の立場だからこそ言えることがあるし、消費者のためにも、そして不動産屋のためにも、その両者の溝を埋める手段として、この本を書いている。
なお、もしあなたがお持ちのニーズが、単純に「不動産業界の裏事情を知りたい」ということなら、ほかの機会を探っていただいたほうがいいだろう。現役の業者が書いた暴露本は、書店にたくさん並んでいるし、そういった話題はインターネットにもあふれている。あくまでこの本はそこで終わるのではなく、不動産に長けた知識を持つ人たちとある程度対等に、ときには渡り合い、一方的にだまされることもなく、価値ある不動産とのお付き合いをしていくためのガイドブックとして著した。
現実として、テクノロジーの進化や消費者のニーズの変化に伴い、今不動産の現場は大きなうねりの中にある。まさに革命前夜であり、その革命が良い方向へ進むことを私は心から願っている。
 
なぜ冤罪事件は起こるの?

 

新聞記事やテレビのニュースなどで、「警察の取り調べで、一度容疑を認めて自白すると、後から『私はやっていない』と言い直しても、聞いてもらえない」というのを見聞きしたことがあります。無実の人が犯罪者になるなんて信じられません。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。
あってはならないことですが、無実の人が有罪判決を受ける、いわゆる「冤罪えんざい事件」がしばしば問題になっています。あなたが新聞やテレビでご覧になられたのも、このような冤罪事件だったのではないでしょうか。
冤罪を生む原因として捜査段階の「密室」状態が挙げられています。例えば、あなたが身に覚えのないことで逮捕されたとしましょう。警察や検察での取り調べには、家族など身内はおろか、弁護士すら立ち会うことができません。そのような「密室」で、捜査官の度重なる威圧的な態度、あるいは甘言を弄した誘導が続いたとします。あなたは最後まで信念を貫けるでしょうか。実際、無実の人が自白に追い込まれたケースがあります。
その人が本当に無実なら、裁判で「取り調べの内容は真実ではない。自分は無実だ」と訴えれば、有罪にはならないと思われるかもしれません。
しかし、自白内容を記した「自白調書」がいったん作成され、裁判で証拠として提出されると、「無実の人がそんなことを言うはずがない」「一度でも自白したのなら、犯人だ」などの考え方から、いくら否認しても裁判官に信用してもらえない可能性があるのです。
裁判員制度導入をきっかけに、捜査段階の自白強要や誘導の有無を後から検証できるよう、取り調べの様子を録音・録画する「可視化」が2006年に始まりました。しかし、事件の内容によっては実施されなかったり、警察と検察で導入状況に差があったりするなど、現時点では自白の強要を完全に防げるのか、という指摘もあります。
今年の国会では、殺人など裁判員裁判の対象事件などを対象に、録音・録画の義務化を盛り込んだ刑事司法改革関連法案が審議される予定で注目が集まります。
冤罪の発生を防ぐためには、調書の作成前に弁護士の適切なアドバイスを受けることが大切です。本人や家族からの依頼によって弁護士が逮捕された方に無料で面会する「当番弁護士」という制度もあります。万が一、そのような事態が生じた場合には、弁護士会に連絡してみてください。
 
「特区の生みの親」竹中平蔵

 

加計学園問題で脚光を浴びる国家戦略特区は別の問題も抱えている。衆議院の地方創生に関する特別委員会は国家戦略特区法の改正案を可決した5月16日、「附帯決議」として次の文言を盛り込んだ。
〈民間議員等が私的な利益の実現を図って議論を誘導し、又は利益相反行為に当たる発言を行うことを防止するため、民間企業の役員等を務め又は大量の株式を保有する議員が、会議に付議される事項について直接の利害関係を有するときは、審議及び議決に参加させないことができるものとする〉
野党議員の念頭にあったのは「国家戦略特区諮問会議」民間議員の竹中平蔵。
与党内にも懸念の声はあった。
そもそも国家戦略特区制度を提唱したのは竹中なのだが、「特区の産みの親」が疑われる原因は特区で優遇される企業との深い関係にある。
特区諮問会議は東京都などで外国人による家事代行を解禁し、参入事業者のひとつにパソナを選定した。
竹中が取締役会長を務めるパソナグループの子会社だ。
兵庫県養父市の農業特区では、竹中が社外取締役を務めるオリックスの子会社を選定している。
附帯決議については雑誌の記者から私も意見を求められたが、不思議なことに、その記者もふくめ関心をもつ人々は「もうひとつの企業」を見落としている。
竹中と森ビルの関係はずいぶん古い。小渕恵三政権の経済戦略会議の委員となった際、同じく委員だった創業家2代目の森稔の知遇を得た。
やがて竹中は森ビルの文化事業を担う「アカデミーヒルズ」の理事長に就任する。森稔の名声を高めた六本木ヒルズが完成したとき、竹中は小泉政権の現職閣僚だったが、上棟式に出席している。
現在はアカデミーヒルズ理事長のほか、森記念財団の理事も務める。
同財団の理事には森ビルの辻慎吾社長が名を連ねる。
竹中は同財団の都市戦略研究所の所長も兼務している。
国家戦略特区制度は「世界一ビジネスのしやすい国際都市づくり」を目的とするので“研究対象”である。
実は、竹中が民間議員を務める特区諮問会議が扱う最大規模の事業が東京都心の再開発だ。
特区で手がける都市再開発事業は30あまりあるが、特区諮問会議はそのうち5つのプロジェクトの事業主体として森ビルを選定した。
森ビルの辻社長は今年2月10日、国家戦略特別区域会議に出席している。司会役は加計学園問題で名前が取り沙汰された藤原豊内閣府審議官(当時)で、森ビルのプロジェクトに関して、着工前の各種行政手続きを大幅に簡素化すること、設備投資減税の措置を講ずることなどを報告。
辻社長は「この国家戦略特区制度と小池(百合子東京都)知事の都市政策のもと、政官民が一体となって異次元のステージとスピードで世界の人々を引きつけるような都市づくりを進めていかなければならない」と語り、「引き続き、ご支援のほどよろしくお願いいたします」と結んだ。
この日の会議に竹中の姿はなかったが、森ビル社長が謝意を伝えるべき相手が「国家戦略特区産みの親」であることは贅言を要しないだろう。
 
教育犯罪

 

・・・(具体性を全く欠く)甘い言葉や意味不明語を多用するのは、犯罪の意図がある証拠だし、この犯意を隠すに有効だからである。「気を付けよう、甘い言葉と暗い道」の標語は、正しい。
だが、世界で日本人だけは、脳天気な民族だからか、甘言や意味不明語という毛鉤に直ぐ喰らいつく。それに加え、日本人は、大正時代以降一貫して、人間として大幅に劣化し続けている。“赤い犯罪者たちの巣窟”文部省は、「日本人は大人ですらこれほど劣化したのだから、次代の日本人の子供たちを更に劣化させうる」と、ますます大犯罪を限度なくエスカレートさせるようになった。
1996年『中教審・答申』が暴く、日本人劣化の犯意を包み隠す文部官僚の甘言「生きる力」 日本の子供たちの生涯が塗炭の絶望と悲惨な人生で終わるよう憎悪の呪いでまとめられた文書である『中教審・第一次答申』は、北朝鮮人と共産党員だけとなった“凶悪な文部官僚たち”の国民騙しの詐言を暴く貴重な犯罪記録である。これを読了しておけば、教育破壊に爆走する文部省が再び、『答申』に甘言で潜ませた犯罪トリックが一目瞭然に見破れる。安倍晋三政権の『2014年答申』は、村山富市政権の『1996年答申』を踏襲したものである。
日本人の学力を大低下させる教育破壊を狙った“世紀の教育犯罪”『1996年答申』は、次のように表現されていた。   
「これからの社会は、変化の激しい、先行き不透明な厳しい時代と考えらます。このような社会では、子供たちに生きる力を育むことが必要です」
意味不明な言葉「生きる力」という用語は、これが我が国で最初の用法。“騙し語”「ゆとり教育」は朝鮮人の造語だが、「生きる力」は共産党の造語である。この犯罪語「生きる力」の真意は、「日本人は人間ではなく、動物化して生きろ!」である。 実際にも、「売春婦として生きる」ことも「暴力団として生きる」ことも「泥棒や強盗として生きる」ことも、すべて「生きる力」。つまり、用語「生きる力」には、“人間とはどう生きるかで人間的でありうる”との教育の根本が全否定されている。
「どう生きるか」を訓育する学校教育は、「倫理道徳的であれとか」「真善美を失うことなかれ」とか「独立自存」の絶対普遍のものから、「○○で一流になりたい」「指導者になりたい」「〇〇の職業に就きたい」の子供たちの希望にできるだけ役に立つ“基礎学力/基礎能力”を培ってあげる場である。学校を「売春婦として生きる」「暴力団として生きる」「泥棒や強盗として生きる」の下層的・動物的・生物的に“ただ生きればいい”を訓練する場にするならば、学校こそ有害。学校の存在理由はない。
だが、この下層的・動物的・生物的な「生きる力」という共産主義ドグマこそ、「ゆとり教育」のイデオロギーであった。そして、目的「生きる力」と手段「ゆとり教育」が目指すものは、日本人の子供たちを共産社会における共産主義的人間への改造であった。2007年、「ゆとり教育」が“悪の教育”として一掃されるのが決定されたとき、共産主義的人間への改造ドグマ「生きる力」も完全に粉砕的に一掃しておくべきだったのに、安倍晋三やその周辺には、このような高度な見識が不在だった。
いや、魔語「生きる力」を見破るのに高度な見識など要らない。平々凡々の常識で十分の筈。なぜなら、「生きる力」など人間は産まれながらに有しており、学校教育とは無関係だからだ。このことは、飛鳥時代や奈良時代には、学校などなく国民のほぼ全員が自分の名前も書けない文盲だったが、全員生きていたし、あれほどの文化文明の構築に参画していた歴史事実を思い出せば、明白ではないか。
「生きる力」とは、例えば、母熊が本能に従って乳ばなれした仔熊に餌のとり方を教えるようなことを指す言語。つまり、自然界の動物の仔育てのことを「生きる力を育んでいる」という。そんな「生きる力」に共産党員文部官僚がこだわる理由は、簡単明瞭。次代の日本人が共産党の独裁者の命じるままに夢遊病者的に“生きる動物”に改造することが、共産革命の成就と考えるからである。
夢遊病者的に“生きる動物”に堕した日本人に、知識は必要か。むろん不必要。むしろ、知識があれば、夢遊病者的に“生きる動物”化改造を拒絶して、この狂気から脱出しようとする。だから、この拒絶や脱出をさせないために、日本人から基礎学力を破壊的に簒奪すべく、その手段として「ゆとり教育」を導入・強制したのである。
「生きる力」を旗幟にした『2014年答申』は、日本人の共産主義人間への改造が主目的
『2014年中教審答申』は、共産党系文部官僚が書いた、共産革命のために日本教育制度をゼロベースで全面破壊するとの宣言書になっている。それはまた、教育制度の崩壊的破壊を通じて、あるべき日本国を(共産社会に改造するためにまず)全面破壊することだから、日本国と日本国民に対する垂直侵略者たちの宣戦布告文となっている。
このことは、『2014年中教審答申』の中で“共産革命ドグマ”「生きる力」が、2頁/6頁/…と執拗に連発されていることで明白。また、全編にわたり、意味不明語や意味不明文ばかりであることでも、共産革命の犯意が潜んでいるのが直ぐ判る。
例えば、『2014年中教審答申』冒頭の文は、カルト宗教団体への露骨な勧誘文となっている。国家の教育制度を論じるものとは程遠い。共産社会は、ルソーとマルクスを教祖とする凶暴な大量殺戮を信仰告白するカルト宗教団体の“妄想上のパラダイス”のことだから、『2014年中教審答申』冒頭の文が、日本の子供たちへの憎悪を燃やすカルト宗教団体への勧誘文なのは当たり前か。   
「新たな時代を見据えた教育改革を進めるに当り重要なことは、子供たち一人ひとりに、それぞれの夢や目標の実現に向けて、自らの人生を切り拓き、他者と助け合いながら、幸せな暮らしを営んでいける力を育むための、初等中等教育から高等教育までを通じた教育の在り方を示すことである。子供たちに育むべき、このような力を、言い換えるならば、それは《豊かな人間性》《健康・体力》《確かな学力》を総合した力である《生きる力》に他ならない」
意味不明語「新たな時代」とは、「日本が共産社会に向かいつつある時代」という意味の隠語だろう。それよりも、この方が悪質。まず、文部省が教育制度をいじくりまわすと、途端に「子供たち一人ひとりの夢や目標が実現する」とは、麻原彰晃などの詐欺師宗教家の騙し文句と同じではないか。次に、文部省が教育制度をいじくりまわすと、「幸せな暮らしを営んでいける力が教育される」とは、「この飲料水を飲むと空を飛べる」と嘘を言い募る狂人詐欺師と同じではないか。  
しかも、この文で明らかだか、「大学教育まで受けないと幸せな暮らしを営んでいける力は育まれない」と断じている。「高卒は不幸だ!」の、高卒者を侮蔑する宣言である。
そもそも、赤い文部省に巣喰う共産党系官僚や北朝鮮人官僚に、「豊かな人間性」などあるのか。彼らは、「豊かな人間性」とは無縁だし、たった四年間で国民人口の四分の一を殺戮したカンボジアのポル=ポトと類似の、次代の日本人を憎悪して不幸と絶望の淵に落しこもうとする非人間性が顕著な人間以下の悪魔的輩である。上級職すれすれ合格者の“赤い落ちこぼれ”が群れる文部官僚で、横田めぐみさんの救出をしようとしたものは一人もいない。日本人の子供たちが北朝鮮人に殺されたら万歳! と快哉する鬼畜が、文部省官僚の大半を占める。
そんな残忍非道な人格異常のものが過半の文部官僚が、行政権限を振りかざして、日本の教育制度を大改悪するため、その有害・有毒のいじくり回しをしている。その結果は、家庭で培われてきた日本の子供たちのもつ「豊かな人間性」まで必ず剥奪され破壊される。「豊かな人間性」「確かな人間性の形成」を学校教育に求めたいなら、絶対に1『2014年中教審答申』を直ちに廃棄することが絶対不可欠。また、2寺脇研のような残忍非道な人格異常のものが過半を占める文部官僚をまず十把ひとからげにいったん分限免職し、人格/人間性の調査のあと一部は再採用してもよいが、全国の公務員の中から“人間性”を精査して入省させる総入替を断行すること。
“教育破壊の権化”『2014年中教審答申』は、人倫的な大欠陥いちじるしい文部官僚が考案したのだから、カルト宗教団への勧誘文となるのは必然。現に、『2014年答申』の副題を読めば、「カルト宗教団体への入信勧誘文」や「暴力バーへの入店勧誘甘言」との類似性がさらに一段と露骨である。この副題、何と「すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」とある。
正常なものなら誰しも失笑する大嘘。だが、失笑している暇はない。「すべての若者の夢や目標が芽吹き、未来に花が開く」など、オウム真理教やその他のいかがわしい宗教団体の入信勧誘と同じく、戦慄すべきパラフレーズ。この副題からでも、『2014年中教審答申』が、日本の子供達の未来を確実に危うくすることは、直ぐに分かる。
『2014年中教審答申』の副題は、プロ野球選手や民放キー局の女性アナになりたいと考えている若者のすべてに、その夢を実現させてあげると言っているのだから、真赤な噓=詐欺師的甘言でなくて何であろう。野球少年が全てプロ野球選手に成れないのは自明。音楽家など芸術家希望の夢がかなうのは、希望する高校生のうち、数百分の一/数千分の一である。  
それなのに、『2014年中教審答申』は、「高校・大学が接続してかなりの大学では大学入試が消え、また、これまでの大学入試が共産党教授や北朝鮮人教授の好むままに恣意的に入学させる制度に変革したら、日本の若者は全員、それぞれの夢がかなう/目標が達成される」と、荒唐無稽を越えて不可能な戯言を豪語する。日本の若者への(ポル=ポト的な殺意もちらつくほどの)最凶の憎悪感情なしには、これほどの大噓甘言は吐けない。『2014年中教審答申』は、次代の日本人の確実な不幸や絶望を祈願し、その人生を絶対に破滅させてやるぞとの“狂気の悪魔性”を基調にまとめられている。この事実は、副題だけでも証明している。
次代の日本人を極限までに劣化させて、日本の高度産業社会を維持できないようにすれば、ブーメラン的に次代の日本人は貧困と破局にあえぐほかないが、文部省はこれを目指して『2014年中教審答申』をまとめたのである。『2014年中教審答申』を全面廃棄に追い込めるか否かが、次代の日本と日本人を救えるか否かの分岐点である。
 
創業経営者

 

日ごろ私が仕事で付き合っている経営者は、5つのタイプに大別される。
一つ目は自分で会社を起業し成長させた経営者、2つ目は創業家で2代目、3代目のようにファミリービジネスを引き継いでいる経営者、3つ目は継続企業で内部から登用された経営者、4つ目は親会社から子会社・グループ会社に派遣された経営者、5つ目は特定・特命のミッションをもって外部から送り込まれた経営者である。最近ではこの5つ目のタイプを「プロ経営者」と呼ぶ場合もある。
5つのタイプを具体的な経営者で紹介てみよう。一つ目の例としては、一代で時価総額1兆円を超えるところまでしたファストリテーリングの柳井社長、ソフトバンクの孫社長、楽天の三木谷社長などがいる。2つの目の代表例としてはユニ・チャームの高原社長、コクヨの黒田社長などがいる。見ようによってはトヨタ自動車の豊田社長もこの例に当てはまる。NTTグループ、総合商社など巨大企業グループを形成している中核企業の経営者は今のことろ、ほぼ3つ目の経営者である。5つ目の「プロ経営者」の例としてはサントリーの新浪社長、資生堂の魚谷社長などが挙げられる。サントリーの新浪社長は、元々は三菱商事からローソンに送られ社長になった4番目の代表的例だった。
経営者は様々な経験を積み、人間性もとても魅力的な方が多い。その中でも、ゼロからビジネスを創り上げてきた創業経営者の面白さ、人間的な魅力は群を抜いている。事業が安定し、経営が仕組化してくると「経営者」になるが、それまでは「起業家」であり「事業家」であった。一歩間違うと「苦労人」で終わり、他己資本での経営に頓挫すると「失敗人」の烙印を押されたかもしれない。そのように起業家を経て経営者になった創業経営者とはどんな特徴を持っているか、少しスポットライトを当ててみたい。
創業経営者の特徴はバラエティに富むが、[1]先を読む目の鋭さ、[2]社会への還元欲、[3]独自の社員モチベーションの仕組み、という3つは共通して持つ独特な特徴だと思われる。
1 先を読む目
良く使われる言葉で表現すると、ビジョナリストの人が多い。将来、世の中がどうなるかを想像する、予想するを超え、妄想するに近い形で考えている。その発想に基づき、白地に絵を描くがごとく事業案を構想し、展開案を考えることを厭わない。先を読む発想法としては、類似性・アナロジーで考えている創業経営者が多いように感じる。他業界で起きていることは当業界にも起きる、アメリカは日本の数年先を行っているから日本でも必ず起きる、お客さんのニーズがこういう方向に変化してきているからこういう商品・サービスが求められる、など。また「今後はこうなる」という思い込みが激しいが、それが事業推進への信念に昇華していく経営者が多いように感じる。「弊社の社長の考えに時代が追いついてきている」というような発言をベンチャー企業の中で聞く場合も少なくない。PayPal社という電子決済の仕組みを提供する会社、テスラという電子自動車の会社、スペースXという宇宙の商用開発をする会社を創っているイーロン・マスクという創業者の思考パターンは将来に必要になるものを利用するのではなく、作り出すという一貫した思考に支えれていると考えらえる。思い込みではなく、先を読む目と、創業経営者がそれを信念をもって切り開き事業化することが世の中の発展に寄与してきている。そういう意味で、会社を設立する話と、事業を創造する話は似て非なるものである。
2 社会への還元欲
どの創業経営者も苦労時期があり、それぞれハードワークによってその苦労を乗り切ってきているが、同様に「周りに助けられた」と口を揃えて言う。事業が軌道に乗るまでに温かく見守ってくれたり、精神的にも応援してくれた人が存在している。創業経営者は私財も出来るようになると、自分が助けてもらったことを他の人にするだけだと、人材を通じた社会への貢献に積極的であるが、謙虚に行っている。寄付やスポンサーシップへの声かけに対し、自分にメリットや会社にシナジーがなかろうと、応援してあげようと思ってくれるのは創業経営者たちが圧倒的に多い。創業経営者が大事にしているのは、人間関係やお付き合いではなく、応援しようと思っている相手が本気であるかどうかにかかっている。創業経営者は組織の中で我慢したわけでもなく、自分が過去、努力した分が返ってきていると信じている。また分野が違っても、本気でぶつかっている人に昔の自分を重ね、懐かしんでいるところもある。創業46年を迎えるミキハウスの木村社長はこれまで累計で少なくとも100人以上のオリンピック参加選手のスポンサーをしている。オリンピックに出るから応援するのではなく、スポンサーした選手から昨年のリオ五輪へは17人が出場した。しかも視聴率がとれるメジャースポーツではなく、マイナー・スポーツに取り組んでいる選手たちである。自ら甲子園球児であったインフォマート社の村上社長(東証一部)は、自然・エコの活動への応援と社会での普及のために私財を投じている。クラシック音楽や伝統文化の継承に資金を投じる創業経営者も少なくない。
3 独自の社員モチベーションの仕組み
業を起こす経営者は事業を見る目も独自であるのと同様、経営システム・経営管理システムの構築にも独自性がある。前述のミキハウスの木村社長は賢島保養所を舞台に、販売現場がステージの高い位置から、ステージ下の商品開発・企画ステージに意見を言わせ風通しを良くしている。またバーベキューやいかだづくりなどの自然を利用したチーム横断的な体験を通じ、しょっちゅうチームビルディングを行っている。インフォマート社では、カラオケボックスでの歌の点数を個人に申告してもらい、トーナメントで勝負し、全国の勝ち抜けを業務外で行っている。年に一度の全社総会の2次会が決勝戦で、この参加者には会社から衣装代・化粧代などを提供し、全社員の場で歌声を披露する社員モチベーションの制度がある。また、社員のほとんどが女性のファンデリー(マザーズ)の阿部社長は、結婚時にいくつかの条件をクリアすると会社が112万2000円をお祝い金として出している。日本M&Aセンター(東証一部)では、年度予算を9か月で達成した営業優秀成績者を、海外視察旅行に連れて行く営業管理制度がある。いずれも過去の踏襲や他社のマネではなく、創業経営者が編み出した独創性なもので、創業者の考えを体現するものとして定着しているある。

最後に、創業経営者は厳しいところがある判明、人付き合いなどにも寛大・寛容なこともある。本業ではない事業投資などの甘言に乗ってしまう場合や、銀行などが持ってくる融資、商品・不動産投資などに無条件で応じてしまう場合がある。お金との付き合い方を間違うか、間違わないか。成功してから周りにいる人に踊らされるか、躍らせられないか。正しい金銭感覚を持ちづけられるか、られないか。たまに成功していた創業経営者が晩節を汚すことになる原因はこの辺に共通点がある。
 
不倫放火殺人事件

 

1993年12月14日、東京都日野市で発生した日本電気(NEC)府中事業場共通ソフトウエア事業部ネットワーク開発部員、北村有紀恵による放火殺人事件であり、不倫相手の上司の幼児2人が焼殺された事件である。
逮捕後の報道
・・・「悲劇のキャリア・ウーマン」――都内にある私立山脇学園高校から、十数年ぶりの合格者として都立大学理学部数学科に入学。卒業後は、NECに入社し、SE(システム・エンジニア)として活躍した才媛だった。北村の起こした凄惨な事件は、マスコミの注目を集めた。
特に月刊「現代」誌上で、弁護士にあてた北村の私信が2回にわたり公表され、話題を呼んだ。記事のなかで、原田が北村に対し、「離婚してキャッシーといっしょにやっていく」「キャッシーは理想の人」などと甘言を弄したことが暴かれた。
しかし、実際には妻・京子に離婚話はおろか、北村の存在すら明かしていなかった。また2度の妊娠中絶を北村に強いながら、平然と妊娠中の妻に引き合わせたなど、不実の一切が仔細に綴られている。
原田は浮気が発覚して、妻からビンタを食わされた時のことを法廷で尋ねられ、「気合を入れてもらっていた」と述べている。優柔不断を絵に描いたような男だった。鹿児島県の農家の出身で、兄4人、姉1人の6人兄姉の末っ子。母親や姉は性格的に強い人だった。
地元商業高校を卒業後、上京して、日本電気ソフトウエアに就職。SEとして働いていた。サラリーマンとしての周囲の評価は、可もなく不可もなくといった程度。性格は温和でおとなしく、子煩悩。生来、口の重いところがあった。
北村は、夫の浮気に逆上した京子が、いまだ中絶の精神的ストレスが癒えない自分に向かって、「子供を抱いた時のあの気持は……」と勝ち誇ったように自慢したうえ、さらに「生きている子供を平気でお腹から掻きだすような人なのよ、あなたは」と侮辱したと主張した。
北村有紀恵と、北村有紀恵の元上司・元不倫交際相手である原田幸広との入社後の関係、北村有紀恵が放火殺人に至るまでの経緯が明らかになると、多くの新聞社・テレビ放送社・出版社・評論家は、この事件は北村有紀恵を騙して、もてあそんで、北村有紀恵の心と体を傷つけた原田幸広と、北村有紀恵に対して厳しい非難と罵倒を繰り返し、北村有紀恵を精神的に不安定にさせ、北村有紀恵が精神的に耐えられなくなって暴発するまで追い込んだ妻・京子に根本的な原因と責任があり、北村有紀恵は被害者であると評価する、北村有紀恵に対して同情的な報道を繰り返した。
その反面、多くの新聞社・テレビ放送社・出版社・評論家は、北村有紀恵が原田幸広・京子夫妻の子供2人と原田夫妻の自宅室内にガソリンを散布して放火し、子供2人を焼殺し、自宅を全焼させたこと、原田夫妻の自宅の周辺家屋にも延焼させたことという、修復不可能または重大な罪に関しては、北村有紀恵が非難されず、成人の男女である原田幸広と北村有紀恵がお互いの身上を認識して不倫関係になり、結果として原田幸広の妻の家庭の平穏を侵害したこと、原田幸広だけでなく北村有紀恵も避妊の努力をしなかったこと、原田幸広に要求されたとしても最終的には北村有紀恵の判断で中絶したことなど、犯行に至るまでの北村有紀恵と原田幸広の不倫関係における北村有紀恵の責任は十分に問うことなく、北村有紀恵に共感・同情の感情移入した報道・評論を繰り返した。
 
優しい声で甘言を弄し 座間シリアルキラー

 

〈首吊りの知識を広めたい 本当につらい方の力になりたい お気軽にDMへ連絡ください〉
神奈川県座間市のシリアルキラー、白石隆浩容疑者(27)は今年8月下旬ごろから、ツイッターで「首吊り士」などと名乗り、自殺願望を持つ若い女性ばかりを“物色”していたという。
「白石容疑者はツイッターや無料通話アプリを使ってやりとりし、食いついてきた相手が若い女性であることを確かめてから『一緒に死のう』などと現場アパートに誘い、凶行に及んだようです」(捜査事情通)
それなのに、白石容疑者とやりとりしていたとみられる女性のツイッターには、白石容疑者の逮捕直後、こんな擁護するメッセージが書き込まれていた。
〈(白石容疑者が)いなくなったら確実に死ねるかわからないじゃん。沢山メールして、私が逝く(死ぬ)まで見届けたいって言ってくれたじゃん。私はまだ死ねないけど貴方がいれば逝けるんだって安心してたのに。助けられていたよ。今までの人達も絶対感謝してるよ。あなたは殺人鬼なんかじゃない〉
座間のシリアルキラーは、これほど女性を“洗脳”していたのだ。
「白石容疑者自身が、幼いころからずっと無口でおとなしく、常に聞き役、影の薄い存在だった。県立高に通っていた頃に自殺騒動を起こしたこともあったらしい。その一方で、パッと見は物静かで穏やか、何より優しい声をしているそうです。生きることに疲れた若い女性に寄り添うふりをして、心の隙につけ入る術に長けていたのでしょう。…
歌舞伎町のスカウトマン時代にも、死にたいと漏らす風俗嬢の相談によく乗っていたらしい」(前出の捜査事情通)
時には「高校時代にいじめに遭った」と自分の暗い過去を語り、自殺をためらう女性には「好きだ」と甘言を弄することも。
そうやって「一緒に死のう」と誘い、少なくとも8人もの女性を手にかけていったのだから、まさに悪魔の所業だ。
「白石容疑者から『お金をくれたら殺してあげる』と全財産を要求され、白石容疑者の“正体”に気づき、難を逃れた女性もいます。白石容疑者は素直にベラベラと供述していましたが、ウソが交じっているから、ほころびが生じてきたのでしょう。最近は、供述もチグハグになってきているらしい。被害者に対する謝罪の言葉は口にしていないようです」(警察関係者)
現場からは女性8人、男性1人の頭部と約240個の骨が見つかったというが、身元の特定には至っていない。はっきりしているのは、この男が大ウソつきの殺人鬼ということだけだ。
 
男は「好きだよ」と嘘をつき、女は「嫌い」と嘘をつく

 

恋愛に悩んだとき、誰かの「言葉」がほしい……、なんなら一喝してほしい! という気持ちになること、ありませんか? そんなあなたにオススメしたいのが『ていうか、男は「すきだよ」と嘘をつき、女は「嫌い」と嘘をつくんです。』。「ていうか」、の前にはあなたの経験やら何やらを当てはめてみれば「なるほど」と、つい膝を打ってしまうはず。同書は、ツイッター界に彗星の如く現れ独自の恋愛観をつぶやく謎の主婦・DJあおい氏の“ピリ辛恋愛格言”と、月間600万PVを誇るブログ『DJあおいのお手をはいしゃく』に寄せられた恋愛に関する“あるある相談”への回答が掲載されているのです。では、毎日約100通送られてくるという「あるある相談」のなかから、ひとつ抜粋させていただきます。
   Q:彼氏がずっとできない。
   A:男ができないのは、あなたが「ブス」だからです!
「そんな、身も蓋もないぞ!」なんて思ったのもつかの間、彼女のいう「ブス」は顔ではありません。ここから、たたみかけるように“ブスの種類”が挙げ連ねられます。
○ でも、だって、どうせ、が口癖な「3Dブス」
○ ろくに挨拶もできない「コミュニケーションブス」
○ 明るい性格と下品を履き違えた「品性崩壊ブス」
○ 陰口悪口を垂れ流す「陰険ブス」
○ 人の幸せを祝福できない「嫉妬ブス」
○ 意味なくオラついている「オラオラブス」
○ 何をやるにもめんどくさがる「堕落ブス」
○ いい男がいないとぼやく「何様ブス」
○ 誰かを好きになることと自信喪失することがワンセットな「卑屈ブス」
○ 寂しいとすぐ次の恋愛をしようとする「公衆便所ブス」
公衆便所ブスの衝撃がかなり大きいですが、以上のブスのうちどれかに当てはまる人もいらっしゃることでしょう。だって、10種類もあるし……。かくいう筆者はこれを読んで、めんどくさがりな「堕落ブス」と「卑屈ブス」のハイブリッドブスを自覚しました。そして、最後の行には「ブスでなければそこそこ幸せです。ブスは今すぐやめましょう」という、処方箋のようなひと言で締めくくられています。はい、今すぐやめます。
そして、第3章では「いい男を見つけるため」と「いい女になるため」のアドバイスが綴られます。あるページでは「いい女あいうえお」を披露。
○ 「あ」愛することを恐れず
○ 「い」癒すことを惜しまず
○ 「う」美しく
○ 「え」笑顔が素敵な
○ 「お」おっぱいがでかい
たしかに、こんな女性がパートナーだったら、浮気もせずに彼女の胸に帰りたくもなります。そう語る一方で「いい女の定義というのは結構曖昧なもの」と、DJあおい氏。“いい女”の定義は、自分で見つけ出すものなのかもしれません。ちなみに、おっぱいの大きさは気にしないでいいそうです。
そのほかにも「ホテルに入るまでが一生懸命なのが、男。ホテルを出てから一生懸命なのが、女。」「品性は、女性の美しさ。ブスな女ほどバカな男にモテる」などなど、男と女の核心を突く言葉が満載! 同書を読めば、男と女の間に横たわる深い溝の淵に触れることができるかも?
 
詐欺や甘言に注意!

 

近所の公園のスピーカーから詐欺に注意の喚起情報がよく流されますが、世の中それだけ詐欺に騙されてしまう人が多いということでしょうね。オレ詐欺、投資詐欺、儲かる詐欺(私はこれで儲けた詐欺)、結婚詐欺、寸借詐欺、クレクレ詐欺、来る来る詐欺、オークション詐欺、誰か買ってくれないと困る詐欺等、さまざまな詐欺が存在しますが、詐欺に引っ掛からないようにするためには、世の中には、楽して儲けたいずる賢い人達がゴマンといるので、楽して儲けたい奴らのカモにはならないことが大切だということです。オレオレ詐欺は別として、ほとんどの詐欺行為が、人の楽して儲けたいという射幸心(一攫千金を夢見る)を煽ることで成り立っているということを覚えておく必要があり、楽して儲けようなんて考えてはいけないと、多くの識者たちが注意を喚起しています。世の中にはおいしい話なんてそうそうないし、そういう美味しい話をやたらと垂れ流す人間たちを、絶対に信じてはいけないということのようです。
1. 儲け話は信じてはいけない
ネット上を見ると、私はこうしてこれだけ儲けたみたいな話で埋もれています。そういうサイトや記事が大量に存在すること自体が、そうした行為が全然儲からないことを如実に物語ってしまっています。つまり、そういうサイトは、それが儲からないから、儲けたいと考えているカモたちが五万といることを知っているわけで、そういう楽して儲けたい人達の射幸心を煽ることで、楽して儲けようと考えていると指摘されています。楽して儲けたい人間達が、楽して儲けたい人間達をカモにしている構図がそこにあるみたいです。多くの嫌儲達が、美味しい話があるから私のサイトをちょっと覗いてってよ的なサイトは、絶対に覗いてはいけないと注意を喚起しています。そういった人間達を楽して儲けさせてはいけないし、楽して儲かれば誰も苦労しないと彼らは訴えています。事の真相はこの際置いておくとして、儲かっている人達がいることも事実で、しかし、忘れてはいけないのが、この国には、毎年1000人単位で、宝くじを買って千万~億単位の利益を得ている人達がいるということです。だからと言って、自分も宝くじを買えば同じ利益が得られるのか?と言えば、絶対にそんなことはないわけで、買わなければ当たらないが、買っても当たらないということを肝に銘じておく必要があります。
2. それでも引っかかる人がいる
嘘を嘘と見抜ける人以外は2chをやってはいけないみたいな事を、かつて2chの管理人が言ったことがありますが、2chに限らずネット上は嘘で溢れ返っているので、信頼のおけるメディアや人間が発信している情報は別として、ネット上に書かれている情報は、そのほとんどが嘘八百と考えてまず間違いないと言われています。特にブロガーの発信する情報は絶対に真に受けてはいけないと、世界中で注意が換気されています。匿名ブログのほとんどが、妄言・虚言・デマ・詐欺・個人の願望で、真実は一切書かれていないようです。特に欧米では、広告収入を得るために作られた、フェイクニュースやクリックベイトと言われるサイトが氾濫し、国際的に大問題になっています。洋の東西を問わず、人の心理につけこんだあざといサイトはクリックしてはいけないと警告されています。ウイルスサイトの可能性もあるし、例え、実害がないとしても、そういった不逞の輩たちを支援することになるので、クリックしたらダメです。
3. 美味しい話は転がっていない
この人の情報を実践したらこんなに儲けられた!みたいな、ねずみ講を彷彿させるような酷いものまであると指摘する人達もいます。高校球児に対して、有名プロ野球選手が高校時代に実践していた練習をすれば、君も将来億り人になれるよと言っているようなもんです。そうなれる球児もいるかもしれませんが、恐らく、0.01%程度の確率なのではないでしょうか。
甘い誘いに乗ってはいけないし、美味しい話も転がってはいません。人間が嘘付きであるという心理学的・科学的事実と、世の中に善人など存在しないと認識する事が、詐欺被害に遭ったり騙されたり、カモられたり、楽して儲けようとする人間達を儲けさせないために、楽して儲けたいと思っている人や一攫千金を夢見る人、欲の皮が突っ張った人達は必要みたいです。
カモネギにならないためには、不労所得を夢見ないことと、特に、高齢者は、資産を増やすとかを考えるより、資産に見合った生活をする必要があるようです。もちろん、余剰資金で投資をするのは大いに結構ですが、なけなしの金を投資に回すのは以ての外だと言われています。

結論としては、世の中には美味しい話などないことを認識することと、あったとしても、宝くじを買えば、千万・億単位の金が転がり込んでくるかもしれないよ~♪、といったようなレベルの話で、買わないと当たらないよ~的な、やたらと射幸心を煽るサイトや甘言、電話・街頭・訪問・DM勧誘には、一切近付かない相手にしないのが懸命だと、多くの人達が言っています。
 
アラフォー女の「イタさ」、30代女の「恐れ」の正体

 

「崖っぷちアラサー女子の婚活」的なフレーズをよく見かけるが、アラサーなど崖っぷちでもなんでもない、本当に崖っぷちなのはアラフォーだ、と河崎さんは指摘する。そもそも「崖」とは何なのか?
「崖っぷち」の“崖”の正体
「何を、アラサー程度でガタガタと……」
当方、今年43歳。マンガ『東京タラレバ娘』のヒット以来だろうか。昨今増えている「崖っぷちアラサー女子の婚活」的なフレーズを見るたびに、もはや“アラのつかないフォー”、あるいは“アラを付けると怒られるフォー”、正真正銘の40代である私はげんなりしていた。「女のアラサーなんて十分需要があるわい。自分たちで言うほど、崖っぷちでもないっつーの」。
30歳前後であれば、せいぜい崖まであと半マイル、ってところでしょう。そういうのは、実際に崖下をのぞき込んでみてから言ってよね。っていうか、崖の正体が何なのか、ご存知? 崖に近づくのを「キャー怖い!」と言いながら、人に同行してもらうか、ハイスペックな王子がひらりと手を取ってくれるのを待ってるようじゃあ(ちなみに王子様は来ないけどね)、まだ先は長いし、どこか余裕があるわけよ。……そんなことを思いながら、記憶力補助、肝機能支援、シミソバカス退治やコラーゲン、その他秘密の効果のサプリをザラザラごっくんとミネラルウォーターで飲みくだす。おお、今日は腰痛も幾分マシなようだ。肩も上がる。よし、今日もどうにか生きていけそうだ。
私を含む団塊ジュニア(今年45歳から42歳になる、第2次ベビーブーム生まれで、団塊世代に次ぐ人口規模の中でひたすら互いに競争し続ける人生を歩んできた人々)は、もう崖から足を滑らせている。絶壁から突き出る枝にかろうじてつかまりながら、峡谷の世界から吹き上げる風、すなわち更年期の予感を嗅いで覚悟を決めている。アラフィフともなればもうどっぷり更年期で、峡谷の世界の新入り住人だ。これまでに鍛えた美意識と年齢相応の財力で小綺麗に整えた部屋に引きこもり、健康法と趣味の世界に生きている。
ここまで読んでくれたあなたに、“崖”の正体を教えよう。それは、卵子カウンターがゼロになる時である。
崖の前で右往左往する、30代後半のアラフォー女たち
いま本当の崖っぷちにいるのは、間違いなくアラフォー世代の女たちである。すでに足を滑らせて落ちていった団塊ジュニア同様に、キャリアはどうするの、結婚するのしないの、産むの産まないの、「進まなきゃ」「でも」「怖い」「でも」と言い続け、「どうしたらいいの」とスピリチュアルに助けを求める。あげく世の中のせいにして社会派に目覚めているうちに、「背中を押してあげようか」「話を聞こうか」と助けてくれる親切な皆さんは「なんだ、狼少女(ババア)か」とさじを投げて立ち去っていった。峡谷を覗き込めば、ただ、体がすくむ。
アラフォー女に近づいてくるのは、甘言を弄して肉体と時間の搾取を企む不倫オヤジか、30代の“お姉さん”にビジネス研修や自己啓発の延長くらいの意識で興味を持つボクたち。思い描いていたようなハイスペック王子は来ない。っていうか生身の現世にそんな相手はハナから存在しない。男も女もお互い様、リアル世間はもっとベトベトでブヨブヨで臭くてネバネバでダメダメなものよ。知ってる、分かってる、でも、体が動かない。
前へ進む意思のある他のアラフォー女たちは、体力が残るうちに上の世代の屍を踏んでさっさと前進した。王子様じゃない現実の男と結婚するのでも、最後の断末魔でとにかくどうにかして産むのでも、なんでも。でも自分には、「これだ」と自分が人生の舵を切るための、納得できる理由も、雷に打たれるような出会いも見つからない。
……いや、だからね。アラフォーにもなって雷に打たれるような出会いがないと動けないなんてのが、そもそも体が動かない理由ですよね、多分。で、それってなぜなんでしょうね?
30代が躊躇している間に、20代が走り出す”理由
アラフォーや30代の女たちが崖の手前で右往左往する様子を後ろから見て、早婚志向を持つ20代がキャリアを継続しながらどんどん結婚し、出産しているのだと指摘する、人気ブロガー“トイアンナ”さんのブログエントリが大評判だ。
“今の20代は年上世代の悲劇を後ろから見ている。半数の企業で総合職女性が10年残らないことも、管理職への出世や結婚がままならないことも。(中略)せめて仕事での成功か結婚のうち2つに1つは欲しい。でも先輩を見ている限りはどちらも手に入りそうにない。だったら結婚くらい先にしておかなくちゃ……というのが20代のマインドセットではないか。対して30代はもう少し悠長である。社会から『一人前』と認められたいけれど、それ以上に遊べなくなったり、妥協してまで相手を選びたくない。”
30代女性の非婚が進む。これを読んで同世代男性や、同世代既婚女性の中には「ざまあみろ」と快哉を叫ぶ者がいるだろうと思った。30代キャリア女性だかアラフォーだか、可愛くないんだよ、と。仕事で頑張ったってたかが知れてるのにお高くとまって、でももうあんたに需要なんかないんだよ、と。
今の30代は超・就職氷河期経験者
お高くとまってなんかいない。でも、そう見えてしまうくらい仕事にこだわり、完成度を追求してしまうのは、彼女たちが就職活動で経験した氷河期のせいなのだろうと思う。「超就職氷河期」と言われた2003年の谷を経験した女子学生たちは、今年まさに36歳になる。嫌という程断られつづけ、自分という人間を欲しいと言ってもらえず、全否定される経験をした世代だ。
その谷よりは手前で就職できた30代後半女性も、後輩となる新卒採用がなくなり、自分は職場の「万年新人」として企業経済がどんどん痩せ細っていくのを、多感な若手時代に間近で見てきた。だから、仕事をしていられる、稼いでいられる状態を手放すなんてことは考えられない。それは「怖いこと」なのだ。ようやくキャリア上の安定へと漕ぎ着けたのに、結婚や出産で、相手の考え方や状況次第では働き続けられなくなるかもしれない、そんな不確定要素が怖くて嫌なのだ。だから「妥協したくない」のだ。
アラフォーは悠長なのではなく、不自由なのではないか。ずっと寒い部屋にいると体が冷え切って動かなくなるように、彼女たちはいざという時のために体力を温存しようとじっとしているうちに、いつしか動けなくなってしまったのではないか。そして景気が回復して後からやってきた世代や、あの氷河期をすっかり忘れたように振る舞う人々に「なぜ結婚しないのか、産まないのか、もうお前に需要なんかないぞ」と後ろ指を指され、責められているように感じてしまうのではないか。
一方、20代女性は、自分の人生が1人で完結するとは毛頭思っていない、思えないという社会状況がある。男女が同じように働き、稼ぐのは当たり前。夫婦どちらかが大きく稼いでどちらかが専業主婦/主夫になるなんて設定こそ夢物語だと思っている。1馬力で1000万稼ぐのではなく、500万ずつ2馬力で寄せ合って暮らすのが人生設計だ。そう考えたら結婚するのは当然のこと、いずれ子どもを持つのなら、キャリアの取り戻しが利くように早いうちがいい。それゆえの早婚志向なのだ。
既に崖から足を滑らせた世代から、崖っぷちアラフォーへ
学生時代、男子も女子も就職するのが当たり前と教えられてきた。でも、どんなにこちらが恋い焦がれようとも、採用の門は狭く、欲しいと言ってもらえなかった。だからせっかく手にした今の仕事を手放したくない――ひょっとすると、今のアラフォー以下30代女性とは、現時点で日本史上最高にキャリアへのこだわりが強くならざるを得ない世代なのかもしれない。
だが女は、望むと望むまいと、卵子の枯渇という肉体的な絶対の現実を前にして、自己査定のやり直し、「性別:女」としての仕切り直しを迫られる。これは“社会的に刷り込まれた価値観”とかなんとかの問題ではない、肉体的な現実だ。年を取れば現実に体は変わり、精神が、思考が、その影響を受ける。先達の女性たちも、皆その道に分け入ったのだ。「産めなくなれば女の価値がないとでも言うのか!」という話ではない。誰もあなたに値付けなんかしていない。あなたに値付けをしているのは、本当はあなた自身だ。
40歳ともなったら、どんな人生の選択をしようともそれは自分のもので、自分の責任。親や社会や男のせいには、もうできない。職業人としての完成度を追求していくのも、あるいは次世代生産にエネルギーを費やすのもいい。しかしどんな道を選んでも、最終的にそれを“幸せ”にするのは自分なのだ。自分自身の女としての機能も含め、自分なりに持てるものを全開で使い切って、倒れこむ。その先にあるものが、後悔であるわけがない。そうは思わないだろうか?
 
ホステスの心得

 

個性
(1) 特別に、絶世の美人でないこと。絶世の美人だと、男性は、かえって近寄り難くて敬遠しがちである。また、美人であることをうぬぼれて、男の甘言や色香に迷い、仕事を怠りがちになる。いわゆるプロ根性に徹し切れない場合が多いからである。
(2) まあまあの美人だから、親近感がある。男性として「オレだって」と思わせることが必要だ。
(3) その人のムードが華やかであること。ただし、店用服装と生活用外出着とは、違うことを知らねばならない。地味すぎて、生活が滲み出てしまってはダメである。毎日、美容院に行くことも大事。
(4) 手が綺麗であること。手入れが悪いと現実の生活が見えてしまう。顔や胸は整形できるが、手はできず、年齢がハッキリ出る所でもある。
(5) 一度見たら忘れられないような、個性的な容貌であること。神秘的であればなお良い。少なくとも所作動作だけでも、そのように振舞うべきである。
(6) 美人には2種類ある。黙っていると美人というタイプと、喋り出すと美人というタイプである。黙っていると美人というタイプは、3回で飽きる。
(7) 性格が誠実で素直でないと、本当の美人には見えない。どんなに顔・形が良くても心の化粧も忘れずに。幾ら整形手術をしても眼に険が表れるからだ。眼の輝きは、整形できない。
(8) オツに澄まして微笑を忘れた美人は、本当の美人ではない。微笑んだ時の美人が本当の美人。笑い顔に険のあるホステスは、要注意。
(9) 下品なコトバを使わぬこと。馴れ馴れしいコトバと、親しいコトバは違う。美人にふさわしい優雅なコトバを使うこと。
(10) 服装には特に気を配ること。下品にならず上品で華やかで、素人とひと味違うセンスの良さであること。少なくとも、毎月1枚または1着新調しよう。服装も給料の中に入っている。
応対
(1) お客様の名前は、一度で覚えること。一度覚えたら、3年間は忘れぬこと。覚える工夫としては、
 a.繰返し名前を言いながら話すこと。
 b.さりげなく名刺を頂くこと。
 c.覚えるまで名刺をしまわないこと。
 d.役職名を間違えぬこと。
(2) 好みのお酒や嫌いなおつまみは忘れぬこと。2度目のご来店の時、注文のお酒の種類を訊くようでは、落第。
(3) 前回ご来店された時の話題と、一緒に来られたお連れ様の名前を覚えていること。
(4) お客様の興味を示す話題に集中し、貴女の興味本位にならぬよう注意すること。
(5) お客様の顔をジロリと見ながら、席の前を通り過ぎないこと。挨拶、または微笑みを添えた会釈をしながら通り過ぎよう。席に座っていても、他席のお客様と視線が合ったら、視線だけで誠実な会釈をするとよい。
(6) ほとんどのお客様には、必ず、お目当てのホステスがいる。そのお目当てが貴女でなかったら、引き立て役に回ること。いつか貴女が引き立ててもらう時もあるのだから。
(7) お客様の服装・持ち物について、正確な値踏みができること。そして、それを少々オーバーに評価してみせること。但し、知ったかぶりをしてはいけない。
(8) お客様とお客様の関係を間違えぬこと。間違えたら、詫びても済まぬ場合が多い。信頼を築くのには時間がかかるが、怒らせるのは一瞬である。
(9) 相手によって応対法を変えよ。賑やかなことが好きな人、静かに話すことが好きな人、黙って触ることの好きな人…色々である。ワンパターンの接待法では、お客様は飽きてしまう。
(10) お客様は、自分の何か(持ち物・人柄・仕事・容貌……その他あらゆるもの) について、それをいち早く認められ、ホステスに誉められたいものである。それが何であるか、早く見つけて、口に出し誉めること。貴女だって、お客様に同じ事をしてほしいではないか。イヤ味の無いお世辞は、人間関係を良くする。
(11) あとから席に着いたホステスに、お客様の名前を紹介すること。紹介されたら、ヘルプでも必ず名前を覚えること。 
飲ませ方
(1) お客様に断らずに、勝手に自分の飲み物を注文しないこと。できればお客様と同じものを飲むのがよい。
(2) お代わりをする時も、謝意を表すこと。お客様は大様に振舞っていても、意外に勘定は細かいものだ。
(3) お客様より先に、おつまみに手を出すな。勧められても、待ってましたという下品な態度をしないこと。
(4) お客様より高いお酒を飲むな。お客様が進んで飲むようにと勧めない限り飲むな。高いお酒を「飲んでもいいですか」と催促できるのは、よほど馴れてから。
(5) 足下がフラついて、立っていられないほど飲まないこと。
(6) 週に1〜2回は禁酒、もしくは節酒日を決めて、体を大切にしよう。休日はできれば禁酒。体を毀しても、誰も助けてはくれない。20代の不摂生は40代になって、てき面に現れる。
(7) お客様の飲み物のお代わりは、お客様の同意を得て早目に注文すること。ただしムリ強いはしない。
(8) お客様のお酒をさげすむな。通ぶるな。たとえば、「ブランデーはストレートが一番よ。アメリカンなんて最低よ」など言うべからず。
(9) 珍しいお酒を、興味本位にあまり注文しないこと。
(10) 酔った女は面白いが、可愛気はない。女は惚れた男の前(二人だけの) 以外は酔わぬのが花。
(11) 酔わなければ接待できないようでは、一人前ではない。世の中には、一滴も飲めないで抜群の売上げを達成しているホステスは、幾らでもいる。むしろ、そういう人の方が、お酒で誤魔化せないだけに真剣である。 
座持ち
(1) 座の白けは、ホステスの責任。ホステスは人形やアクセサリーではない。ホステスは、お客様が遊んでくださるからといって、甘えてはいけない。遊んでくださるなら、お客様にサービス料を払わねばならぬ。ホステスの遊ばせ方がヘタなので、逆に遊んでくださるサービス精神の旺盛なお客様も出てくるのだ。遊んでもらうのは、ホステスの恥だと思うこと。
(2) お客様の話の聞き手に回ろう。聞いている証拠に、積極的に相槌を打て。お客様の顔を見て話を聞くこと。脇見は禁物。お客様は落ち着けない。
(3) 他のお客様の悪口や陰口を言うな。聞いたお客様は、自分も言われると必ず思う。
(4) もっともダメなホステスは、お客様の話の腰を折って、尋ねられもしないのに自分の事ばかり、トウトウと喋りまくるホステスである。雄弁なホステスより、寡黙にして、真剣に話を聞いてくれるホステスをお客様は好む。お客様の話は、顔を正面に向けて聞くのが良い。
(5) 貴女自身の事は、訊かれるまで言うな。特に愚痴話は厳禁。
(6) 席を立って帰られるお客様に「ああ楽しかった、もう一度近いうちに来よう」と思わせて一人前。ホステスは、お客様を機嫌よく帰す責任がある。
(7) お客様の存在を無視して、勝手なことをしないこと。例えばホステス同士で、内輪の話をしないこと。
(8) お客様が「また来ようか」と思われるのは最後の5分間が勝負。席でどんなにふざけても、お見送りの時はケジメをつけて、キチンと丁寧に挨拶すること。お客様が振り返った時、「また来よう」と思わせる殺し文句が言えて一人前。
(9) 自分のセールスポイントは何か、よく心得ておくこと。何もなければ月給泥棒である。 
評判
(1) 陰口を言わぬこと。言えば自分も言われると思え。
(2) 服装・容貌などについて、見下した批評をしないこと。
(3) 金銭・物品の貸し借りをしないこと。貸せば、その友を失うと思え。あげるつもりなら別。
(4) どんな些細なことでも、約束は必ず守ること。だらしのないことの代名詞が「水商売の女のような」であることは恥である。
(5) 私的なことで、強引な誘いをしないこと。相手の立場も考えなければならない。
(6) 誰とでも気軽に話し合い、好き嫌いの感情を露骨に表わさぬこと。
(7) 必要な場合は、イエス・ノーをハッキリさせ、相手に誤解を与えぬこと。
(8) 先輩・後輩の順序を守ること。
(9) 他人の陰口を聞いても、貴女の所で終りとし、他人に伝えないこと。
(10) 誰でも他人に知られたくない秘密はあるもの。その人のために、その秘密を他に洩らさぬこと。知っていても知らぬ振りをすること。
(11) 同僚のお客様のときサービスしておかないと、貴女のお客様のとき助けてもらえない。
(12) 概して、同僚との付き合いは、充分に知り合う迄は深入りしない方が良い。何もかも開けっ広げていると、困ることができてくる。
(13) 孤独に耐える強さがないと、必ず何かで失敗する。誰も頼りにしないというぐらい強いことはない。
(14) お目当てのホステスが欠勤している時の、お客様の失望を考えてみよう。その失望について、貴女は責任を感じているか。「私は売れっ子だから、少々休んでもお客様は必ず来る」と思うのは、自惚れである。そのような自惚れは、必ず自らを不幸にする。 
お客様との交際
(1) お客様の社会的立場を、私的なことに利用しないこと。たとえ、お客様が申し出られても、スグ飛びついて甘えないこと。
(2) 約束した事は、どんな些細な事でも必ず守ること。特に時間は厳重に守ること。気まぐれは厳禁。
(3) 実行できそうもない約束は、初めからしないこと。お客様をスッポかした話を、客席で平気でしている無神経なホステスは最低。
(4) 誘われた時、相手を傷つけることなく断るための理由を、予め幾つか用意しておくこと。
(5) 言いたくない事は言わなくてよい。しかし、ウソはダメ。
(6) お客様のお金だからといって、ムダなお金を平気で使わせないこと。気前のいいところを見せたがるお客様ほど、その使ったお金が幾らだったか覚えておられるものである。使ったお金が多いほど、別れ話はもつれるものだ。気のない相手には、お金を使わせない配慮が必要。
(7) ムヤミにねだらないこと。ねだる以上、それに見合う代償・見返りを期待されると覚悟すること。その気がない客に、ねだらないことが大切。
(8) お客様にお金を使わせた時は、キチンと謝意を表すこと。当り前のような顔はダメ。食事をご馳走されても「ご馳走さま」と言えないホステスがいる。「ありがとうございます」の気持ちを素直に言えないのは、育ちの悪い証拠。
(9) 特定のお客様と親密になったからといって、それを店内で態度に表わしてはいけない。もしお客様が態度を変えたら、たしなめること。たしなめても改められないお客様ならば、親密にならないこと。また、なる値打ちのない男である。
(10) 男の最低の姿を見て、すべてを判断するな。男は、その人が思っているほど立派ではないが、ホステスが考えているよりは高級である。
(11) 自分の彼氏を、客にしないこと。
(12) お客様から法外なチップ、または小遣いをもらう時は、それに相当する期待をお客様はしているものである。何もないのにお金をくれる人はいない。 
私生活
(1) ケジメのある生活をすること。少なくとも「やっぱり水商売の女だ」などと言われぬこと。
(2) 洗濯と掃除、室内の整理整頓はコマメにすること。リズムのある生活の基本である。
(3) 自宅はいつ来客があっても、恥ずかしくないようにしてあること。精神のだらしなさは、部屋の片付け方に現れる。
(4) 衣類の手入れは丹念に怠らぬこと。洋服や着物を何日も、ワードローブに掛けっ放しなどしないこと。
(5) 食事はなるべく店屋物をとらず、手料理で食事をすること。
(6) 毎朝、常に新聞やテレビ、ネット情報を気に掛けておくこと。情報や知識を蓄え、話題を豊富に持つことは、ホステスの義務である。
(7) 食事は時間どおりに食べること。生活のリズムは、起床就寝と食事時間にあり。
(8) 何か将来のために、稽古ごとをすること。リズムのある生活のためにもよい。
(9) 店を一歩外へ出たら、世間一般の常識人として通用する人間であること。一目見てホステスと判るような、派手な服装は好ましくない。生活の区別がつかぬようでは、良い奥さんになれない。
(10) 見栄っ張りな生活をしないこと。高収入は一時だけ、身分相応の暮しをすること。近所付き合いも忘れずに。また近所に迷惑をかけぬように。 
経済生活
(1) 収入に対する支出予算を作り、守ること。
(2) 今の収入は、一時的な特殊条件による異常なものであることを、認識すること。それは主として“若さ”に基因することを忘れないこと。
(3) 毎月、必ず貯金をして、不時の支出に備えること。
(4) 掛け買い、カード使いに気をつけること。買う時は、現金払いに徹するのが最上と心得よう。
(5) 現金がなければ、買えるまで我慢するのがベスト。
(6) 大金を持ち歩かないこと。お金を持っていれば、つい要らぬ物まで買ってしまう。
(7) 見栄っ張りな支出をしないこと。ケチと言われても平気にならねば、金は溜らない。
(8) 家計簿をきっちり付けてみて、その内容を毎月反省してみること。
(9) 商売は派手でも、生活は地味であること。
(10) 貴女が40才になった時どうしているか、想像してみること。そして、その時のための準備を、今から心掛けておくこと。誰の力も借りずにすることも大事。多分、誰も助けてはくれないだろうから。
(11) スポンサーの援助を前提とした生活は、思ったより短く、そして必ず破綻がくる。今の彼氏は、貴女が50才になっても、優しく面倒を見てくれるわけではない。もしそうなら、呆れるほど惚れているか、バカであるか、10万人に1人ぐらいの立派な男である。
(12) 将来の生活設計は、できるだけ具体的に描いてみること。具体的に考えれば考えるほど、今、何をしなければいけないか、ハッキリしてくるものである。 
プロの資格
(1) お客様は、貴女の友達ではない。あくまでお客様である。有名人が気安く話してくださったからといって、あなたが有名人になったわけではない。勝手に友達呼ばわりしないこと。
(2) 店外でお客様と出会った時、相手から声を掛けてこない限り、こちらから声を掛けないこと。視線が合ったら目礼だけすれば良い。特に相手が家族連れの時は、素知らぬ顔をして通り過ぎよ。
(3) ホステスといえども立派な職業。色気は売っても心までは売ってはいけない。
(4) 営業外のときの服装・化粧で、一目見て水商売と判るようでは、一人前ではない。一流のホステスは、素人と区別がつかぬものだ。
(5) ウェイターなど、裏方の人たちに威張らないこと。人間は、自分より立場の弱い人に対する態度で、その人の値打ちが決まる。
(6) チヤホヤされるのは“若さ”と“美しさ”のため。それは10年続くわけではない。
(7) お客様は、世間で言えば常に立派な人たち。軽く扱ってはいけない。
(8) 好意を見せても、ウソはつかぬこと。
(9) 今の収入は、世間的に異常に高いものであることを忘れずに。いつかは下がって正常に戻る時がくる。その時を覚悟しておくことが必要。
(10) ホステスは、お金を貰っているプロであることを忘れないこと。プロとは、甘えを許されない人種である。
(11) いつも、何かにつけて貰ったり、ご馳走になっているためか、何でもタダでしてもらう癖がつき、ホステスは貰い下手が多い。どんなに些細な事にでも、素直に「ありがとうございます」と口に出して謝意を表すること。他人の好意に甘え、必要以上に期待し、そして感謝の気持ちが持てないのは、人間の屑である。 
べからず
(1) 腕を組む。
(2) イスの背に深くもたれる。ふんぞり返る。
(3) くわえ煙草。
(4) ゲップ。
(5) タバコの灰をポンポンとはたいて落す。
(6) タバコをつけっ放しにして、灰皿にいつまでも置く。
(7) 灰皿を取り替えない。
(8) タバコを吸わない人の前で、煙突のごとく吸う。
(9) 音をたてて、飲む、食べる。
(10) マッチの火をそのまま吹き消す。
(11) オードブルの下品なつまみぐい。
(12) 食べ物をほおばって食べながら、喋る。
(13) 時刻の質問に、正確に答えない。
(14) ラスト後に、お客様をアッシーにして負担をかける。
(15) ホステス同士の勝手なお喋り。(お客様の前で)
(16) チップを露骨に欲しがる。
(17) 他の席のお客様の批評をする。
(18) グチ話。
(19) お客様の家庭のことを根掘り葉掘り訊く。
(20) どうせホステスだからと卑下する。
(21) テーブルの上にひじをつく。
(22) 口臭がくさい。
(23) お客様が帰ったあと、そのお客様を笑いものにする。
(24) 席に着きながら、ひとことも喋らない。
(25) 質問をされても答えない。
(26) 返事をしない。あるいは「ハイ」と言わず「ウン」と言う。
(27) 持ち物の値段ばかり並べる。
(28) ウェイターに威張ったり、見下した態度をとる。
(29) お客様の前でコンパクトを開いて鏡を見る。
(30) お客様の身体的欠陥を話題にし、笑いものにする。(例=ハゲ)
(31) お客様が話をしている最中に、脇見ばかりしている。
(32) 客席で髪や服装をやたらに直す。
(33) 政治と宗教を、酒席の話題にする。 
謎かけ言葉
大昔 銀座  店がはね女性を車で送る (飲酒運転・時効)
車の中で  
「どこかで休んでいかない」 
「食事していかない」 
「しばらく温泉に行っていないの」 
到着 
「お茶でも飲んでいかない」
鈍感で何となく聞き流していた 
「それで何もしなかったの」 後で親しい売り上げのお姉さんに大笑いされた
 
尻軽女

 

尻の軽い女。尻軽な女。浮気性な女性をいやしめて言う表現。男性に対しては「尻軽男」という。
尻軽女はどこの国に多い
とても容易に口説ける国はタイやキューバ。とても難しいのはイスラム圏で日本は難しくも容易でもありません・・。
ネット情報会社、ターゲット・マップが「女性の口説きやすさ世界地図」(Easiness of Girls By Country)を発表、色分けされた国別尻軽度が世界の話題に上っています。
女性の口説きやすさを五色で色分け、赤は「とても難しい」、オレンジは「難しい」、黄色は「普通」、黄緑は「簡単」、緑は「とても簡単」とし、地図で示したものです。
それによると、とても簡単に口説ける国(緑色)はタイ、ドミニカ、フィリピン、キューバ、ペルー、ボリビア、ハイチ、タジキスタン。
さらにウガンダ、エチオピア、ガーナ、ケニヤ、タンザニアなどのアフリカ勢。
簡単に口説ける国(黄緑)はウクライナ、コロンビア、コスタリカ、ロシアなどの美人国。     これに続くのがクロアチア、スロバキア、セルビア、チェコ、ハンガリー、ポーランド、モンテネグロ、ルーマニアなどの東欧圏。
中国、南ア、サイプレスの女性も簡単に口説ける組です。
日本の女性は米国とともに口説きに普通(黄色)に反応します。
このグループには西欧の英国、フランス、ドイツ、スイス、アイルランド、ギリシャ。さらにスウエーデンなど北欧三カ国、イスラエル、チリー、ベネズエラ、メキシコ、韓国、台湾なども入っています。
逆にとても口説きにくい国(赤色)は主にイスラム圏。
イエーメン、イラン、イラク、エジプト、カタール、クウエート、サウジ、シリア、スリランカ、ヨルダンで男の甘言にのる女性などいません。
ドンファンの国イタリア、情熱の国スペインは口説きにくい(オレンジ)組とのこと、意外です。
アルメニア、アルゼンチン、北朝鮮、トルコ、パキスタン、リビア、レバノンの女性も同様で、容易に誘いにのりません。
人種、宗教、経済、教育、環境などの相違が女性の尻軽度を左右するとみられています。
男性が「こいつ遊んでるな」と思う女性
男性に「軽そう」なんて思われると、そのイメージを覆すのが大変! 自分の私生活を全部見せる訳にはいかない以上、軽く見られたくないときはどうすればいいの? 社会人男性に女性のどこを見て「遊んでるタイプかどうか」を判断しているか、聞いてみました。
この単語が出てきたら、怪しいと思う
○「クラブって単語が出ただけで遊んでる女だなと思う。クラブはほぼナンパ箱だから」
○「バーベキューなど、夏のイベントの単語がよく出てくると遊んでいるなと感じる」
○「すぐに元カレという単語を話の中に入れてくる女性は遊んでいるなと思います」
男性から軽く思われたくないなら、上記単語をなるべく口に出さないようにするだけでも効果アリかも!? 確かに上記単語がよく出てくると男友だちがたくさんいて、恋愛遍歴も多そう……なんてイメージを勝手に持ってしまいがちですよね。
スマホをいつもいじっていて、予定がパンパン
○「常にスマホをいじっていて、予定をスマホで確認して『あ。その日は予定があるから無理』とか言う子」
○「仕事中に限らず頻繁に携帯で色んな人に連絡を取り合って、合コンなどの予定を決めている」
○「メールの返信が極端に早かったり、また、その内容が短く薄っぺらい。電話をかけても留守電が多い」
男性に言わせると、実は遊んでいる女性ほど暇がなく予定がパンパンな傾向にあるのだそう。そのため連絡してもすぐつながらなかったり、デートの予定がなかなかつけづらかったりするとか。「遊んでる」と思われないためにはマメさが大事かもしれません。
どんな地名を出しても、どんな場所か知っている
○「ノリが軽く、男性の発言には全て乗っかる子や、どこどこと地名を言うたびに、『行ったことある!』と言う」
○「どの地域に行ってもいろいろな地名がよくわかっていて、店もよく知っている子」
また遊んでいる女性はいろんなところに出掛けているため地理にもくわしく、その地域の情報にもくわしいのだとか。「自分の知っている場所の話」になるとつい首を突っ込みたくなりますが、軽く思われたくないならここは我慢どころ!?
男性に質問することがいつも同じ
○「男性との会話に妙に慣れていたり、質問事項が頭の中にリスト化されているように思える会話の人」
○「すぐに『どんなんだった?』『お金持ってた?』『職業は?』などと聞いてくる」
出会いが多いと選ぶのが大変になり、「自分好みのタイプ」かどうかを手っ取り早く把握したくなりますよね。そのため遊んでいる女性は、質問がまるでリストアップされているかのように、要点をまとめて質問してくる特徴があるのだそう。
まとめ
男性から軽いと思われるか、そうでないかの違いは上記のような言動が出ているかどうかの「ちょっとした違い」なのかもしれませんね。一度軽いと思われると、そこから巻き返すのが大変。気になる男性の前では、上記言動は封印した方がいいのかもしれません。
 
「こんな人だと思わなかった」

 

同じことでも「近しい人」にされると嫌な気持ちになるのは
人は、同じイヤなことでも、遠い関係の人なら「そんなこともあるか」で済ませられますが、近しい人がそれをすると「何でアンタがそれをするの!」と腹を立てます。
例えば、ネットショッピングをしただけで、その会社から次から次へとメルマガを送られることがあります。中にはメルマガの解除をしたのに、また送ってくる会社もあります。確かに良い気持ちにはなりませんが、「ゴミ箱フォルダー」へ即入るように設定しておけば、それ以上そう感情は乱されないでしょう。
しかし比較的近しい人が、こちらが許可をしていないのに、同じように次々メルマガを送ってくると、「こんなことをする人だと思わなかった!」と残念に思い、傷つきます。
やっていることは同じなのに、何故より近しい人がすると人は傷つき、腹を立てるのでしょうか・・・?
アブラハム・マスローの欲求段階説
心理学者アブラハム・マスローの欲求段階説というものがあります。
人は低次の、より根源的な欲求を満たし、高次の欲求に移っていくというものです。
○ 生理的欲求・・・食欲、睡眠欲、排泄欲など、体の生理的な欲求
○ 安全・安心の欲求・・・心身の安全を確保したい、危険から身を守りたい欲求
○ 所属と愛の欲求・・・仲間が欲しい、居場所が欲しい、一人ぼっちは嫌だ、という欲求
○ 承認欲求・・・人に認められたい欲求、無視されたり、軽んじられることを辛く感じる欲求
○ 自己実現欲求・・・自分の能力を最大限に生かしたい、最大限の「成り得る自分」になりたい欲求
○ 自己超越欲求・・・自分自身や、自分の利益を超えた平和や神的存在へ心が向かうこと
これらの段階は、「コップに水を満たすのに、下の方からしか満ちていかない。下を飛ばしていきなり上の方に水は満ちない」とイメージしてするとわかりやすいでしょう。
しかしこの欲求段階説にも例外はあります。最高次の「自己超越欲求」を生きている人であっても、当然生理的欲求もあれば安全・安心の欲求もあります。
そしてまた、人からちやほやされたから、承認欲求が満たされたから、自己実現欲求に入るのではなく、むしろその限界に気づいてこそ上の段階に入ります。
生理的欲求や安全・安心の欲求が充分満たされない社会にいても、自分を超えた神的存在のために自分を捧げる生き方をしている人も、古今東西決して少なくありません。
「所属と愛の欲求」は三番目に根源的な欲求
ところで、「所属と愛の欲求」は三番目に根源的なものです。
時折、中学生くらいの子供が、遊び仲間に万引きや売春を強いられていた、という痛ましいニュースがあります。この時必ず決まって、「(遊び仲間に)仲間外れにされたくなかった」という当の子供は話しています。
万引きや売春を強いられる屈辱よりも、仲間外れにされること、つまり「所属と愛の欲求」が満たされないことの方がその子にとっては耐えられなかったのでしょう。
そして、その子にとっての居場所、「所属と愛の欲求」を満たしてくれる場が他にあったなら、このようなことにはならなかったのではないかと思います。
その仲間は、その子を「所属」はさせてくれても「愛」してはいなかったでしょう。しかし人間の脳は、まして子供は、「所属させてくれる=仲間=愛」と歪曲して意味づけしてしまいます。
家庭の中で自分の居場所を感じられない少女が、悪い男の甘言に騙されて体を任せてしまうといったことも、お説教では解決しない理由がここにあります。
その子供、その少女自身が、心の底から「自分には居場所がある」と感じ取っていなければ、また同じことを繰り返してしまいます。
「こんな人だと思わなかった!」の中身とは
先の「近しい人がそれをすると腹が立つ」のは、この「所属と愛の欲求」が脅かされたためと思われます。所属と愛の欲求は三番目に根源的なものですから、これが脅かされるのはどんな人にとっても辛いものです。
つまり孤独に耐えるのは、実は中々難しいのです。孤独とは「一人でいること」ではありません。人は孤独を感じまいとして、一人でいることを選ぶことすらあります。
「こんな人だと思わなかった!」の中身は「あなたは私の『所属と愛の欲求』を満たしてくれる筈だったのに!」ということです。だからこそ、遠い関係性に対する怒りよりも、近しい人への怒りは根深く、また「何で(私の望むように)変わってくれないの!?」と責めてしまいます。「どうでもいい人」には、めったなことでは「何で変わってくれないの!?」と責めたりはしません。
そしてこの心の動きは、潜在意識の中で起こります。ですから、顕在意識の理性を使って、よく振り返ってみる必要があります。
「何で変わってくれないの!?」の中身が、自分の好み、価値観、信念の押し付けになっていないかどうか。こちらが相手の自尊心を傷つけ、はた迷惑なことをやってしまっていることもあります。
また全ての人はプロセスの中にいます。自分は当たり前にできることでも、相手はそうでないこともたくさんあります。そのプロセスを忍耐強く待てないと「何で変わってくれないの?」が顔を出します。
もしくは、言葉を尽くして丁寧に説明すれば、相手はその行動自体を変えてくれるかもしれません。この「言葉を尽くす」コミュニケーションを面倒に思っていると、一足飛びに「何で変わってくれないの!?」になってしまうことがあります。
こうして自分の受け取り方を変えたり、コミュニケーションを根気強く取れば充分に修復できる関係もあります。
「所属」は満たしていても「愛」はない関係性も
しかし先にあげた、万引きや売春を強要する遊び仲間や、甘言を弄して体の関係を持とうとする悪い男など、そもそも自分の忍耐力やコミュニケーションの問題ではないことも現実にはあります。
人間の脳は意味づけをしたがります。一緒にいてくれる=仲間/恋人=愛がある、と現実はそうではないのに、そうした意味づけをしてしまいがちです。
確かに一緒にいてくれれば、「所属」の欲求は満たせたかもしれません。しかしその関係性に「愛」があったかどうか。「所属」は満たしていても「愛」はない関係性も、現実には大変多いです。
寂しさを紛らわせるため、或いは異性としての虚栄心や支配欲を満たすためだけの関係性は、「所属」ではあっても「愛」ではありません。
有力者や有名人の取り巻きもそうです。
facebookなどで相手のことを本当に知りたい、関係を大事にしたいわけではないのに、「有名人だから『友達』になりたがる」「相手を『数』としか見ていない。『友達』の数が多いことがステータスだと思ってる」も、「所属」ではあっても「愛」ではありません。
「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる」(三木清)
人間関係のトラブルの根っこには、多くの場合「孤独に耐えられない」が潜んでいます。お互いを別の人格として、心から尊重し合える人同士であれば、考え方が違うだけでは、後々まで深く心が傷つくようなことにはなりません。
「自分のことしか考えていない」自己中心性は、「他者」を考えていないということです。「他者」を考えるということは、「自分とは違う存在」を考えること、それは孤独にさらされる一面があります。自己中心性とは、「他者を自分の延長だと考える」ことだからです。
人を支配せずにいられない、依存せずにいられない、余計なお節介を焼かずにいられないのは、自分が相手にしがみつこうとしています。「孤独に耐えられない」、「放っておかれることが何より怖い」からです。
「構ってちゃん」、またその裏返しの「構わせてちゃん」はこの恐れを解消するために、他人を利用しています。この他人の筆頭が、しばしば子供や配偶者になります。
しかしそれをされて幸せになる人はこの世にいません。窒息しそうになるだけです。また「構ってもらう」「構わせてもらう」は一時しのぎになっても、結局は回り回って、その人自身をも不幸にします。
大人は「自分で自分を大切にする」ことで「所属と愛の欲求」を自分で満たす
先の中学生の場合は、周囲の大人がその子を大事に愛し、「居場所がある」と心で感じ取ってもらう環境を作る必要があります。これが、大人が子供に対して担う役目でしょう。
しかし大人の場合は、自分で自分にやっていく必要があります。これを放棄すると、上記の「構ってちゃん」「構わせてちゃん」になってしまいます。自分いじめが大好きな人ほど、他人からちやほやされたがり、構ってもらいたがります。
自分のケアを自分ですることと、自分ならではの価値観に沿って生きることで、徐々に自分の居場所が、誰でもない自分の内側にできあがってきます。
大人になっても、ケアと居場所を他人に求め続けていると、「所属」はあっても「愛」はない関係に落ちてしまいかねません。
自分の虚栄心や性欲を満たしたいために、異性に甘言を弄する人や、おべっか使いや、人を利用して平気な人が愛の仮面をかぶって近づいてくることがあります。そして大人は誰も、誰かが自分の代わりに四六時中見張って守ってくれません。
自分と言う人間はこの世でただ一人、それは自分はー人は皆ーかけがえのない存在であり、またどこまで行っても人は孤独だ、ということを承認していくことでもあります。
そしてこの孤独に耐える力を養っている人同士が、真の成熟した愛を育むことが出来るのです。
 
別れを「美しい物語」にする

 

30代女性の青空さん、不倫清算のお悩みです。
○ 数か月前、2年ほど不倫していた彼と別れた。
○ 彼はもともと友人で、数年前にでき婚した。嫁も知っている。
○ 去年の秋頃に「終わりにしよう」と言われたが、数か月経ってまた連絡が来たので会っていた。
○ ただし会うのは30分程度。頻度は週1。
○ また突然「仕事が忙しくなるから終わりにしよう」とメールで言われた。
○ 何かあると思ったが、思いを伝えて円満に別れた。
○ しかし、数日後に嫁との間に新しく子供ができていたことをSNSで知る。
○ 本人の口から聞いてはいなかったが、様子が変わったのでまさかとは思っていた。
○ 彼から子供を望んでいたようには見えなかった。子供を作ったのは、嫁の作戦なのでは。
○ 大事なことはいつも言わない人だった。彼は昔から、想いがあると大事なことは言えなった
○ ちゃんと話ができなかった分、彼の気持ちも知りたかったと毎日葛藤している。
○ なぜ、彼は最後まで言えなかったのか?
○ 自分のことをどう想っていたのか?
数ヶ月前、2年不倫していた彼とお別れしました。彼とは元々友人で、数年前に突然でき婚。その相手も知っている人です。それからは会うこともなかったのですが、2年半前に再会しました・・・

円満に別れることができたのはすばらしい。しかしかなり「美化」モードが入っていますね。彼は、青空さんが思っているほど「君が大事だから何も言えなかった…」というようなハードボイルドな人ではないと思われます。
ただ、人間は過去を清算するために「自分が納得できる物語」を必要とします。青空さんは少なくとも復縁を望んでいるわけではなく「あの人の気持ちが知りたかった」と望んでいる。この前向きな姿勢を応援しまっす!
大事だから言えなかった…というストーリーが欲しい
最初に「過去の改ざんと美化」について考えましょう。青空さんは「あの人は想いがあると大事なことは言えない」とおっしゃっており、ここから「自分はあの人に想われていた、ゆえに大事なことを言われなかった」と納得しようとしている様子が見てとれます。
ですが、この「相手に想われている」を補強するデータが見つかりません。あるのはむしろ、「大事にされていない」事実ばかりです。
○ 突然、終わりにしようと言われる
○ 会うのは30分程度
○ 2回目は会わずに「終わりにしよう」と言われる
どれも、相手に時間と手間を割きたくない、という思いが見える行動です。また、一応子供ができたことで「不倫をやめよう」と思って行動する力はそこそこあるのですが、初回は別れきれずに戻るなど、意思の弱いところが見られます。また、子供ができたことで不倫解消をする男性の多くは「やっぱり家庭が大事」と思ってやめるので、ここでも青空さんは嫁・家族と比べて下位に位置づけられています。
これらの事実を書きながらも最終的に青空さんは「自分はあの人に想われていた、ゆえに大事なことを言われなかった」と思いたがっているように見えます。
人は前を向くために「納得できる物語」を必要とする
もし、これが「あの人に想われているから復縁したい!」というなら「目を覚ませ!!!」と全力でインターネットの肩をガタガタ震わせるところですが、青空さんは復縁を望んでいません。この場合、ある程度は「自分が納得できる物語を用意する」こともしょうがないかな、と思います。
というのも、さっさと納得しないと、いつまでも過去にひきずられて前を向けないからです。過去への執着は、これからある出会いを逃すという大きな機会損失につながるからです。
もともと人間は驚くほど過去のことを覚えていない生き物だからです。心理学者のエリザベス・ロフタスによれば、人間はかなり「偽りの記憶」を本当のことだと思い込んで生きています。どれほど衝撃だったことでも、自分の中で物語を書き換え、記憶を塗り替え、しかもそれが「本当のことだ」と思い込んでいます。
人間は過去を塗り替える。これは努力でどうにかなるものではありません。ならば、それが未来のためになるなら、「納得できる物語」を自分で作るのはある程度はやむなしかな、と思います。
美化をやりすぎると「記憶整形妖怪」になる
ただし、これを本気で「そうだった!」と思い込むと、激しい認知の歪みを起こすので、やはり不都合な事実は事実として認識しておいた方がいいです。彼はコストを青空さんにかけていなかった、という不都合な話を踏まえることが前提です。
記憶の美化をやりすぎると、激しい認知の歪みを引き起こします。青空さんは、「嫁の策略」というあたりでもろダークフォースに飲まれていますが、これは嫁の策略というより、むしろ彼の無計画ゆえのことでしょう。でき婚、不倫、不倫をやめる、でも再開する、という行動を繰り返す男性は「無計画」だからそうなるのです。
彼はピュア、自分もピュア、嫁だけ真っ黒、はフェアではありません。彼の態度という事実、自分がちゃんと聞けなかったという事実があるのだから、そこを無視してはいけません。記憶の美化をやりすぎると「記憶整形妖怪」になります。見た目はきれいそうに繕っているけれど化け物のように見える。そんな風になってはいけません。
結論。自分の物語の穴を自覚し、事実を受け入れよう
「彼は自分のことを想ってくれていた、だから言えなかった」で納得できるならそれを信じればいいですが、どうも納得できていないようなので(穴がありますからしょうがない)、別の方法を考えた方がいいでしょう。「なぜ彼は最後まで言えなかったのか?」という問いは、彼以外に答えを持つ人はいません。本人に聞くか、答えを諦めるか、どちらか選択しましょう。
どちらにせよ、別れて数か月とのことなので、今もまだ混乱している時だと思います。なのでゆっくり休んで現実を受け入れられるよう、足元を安定させましょう。今度また新しい人に出会えたら「前は聞けなかったから今度はちゃんと聞く」とこの痛みを生かせばいいのではないでしょうか。
 
政治家の実像と未来

 

本来、国の政策や方針については
国民に出来るだけ早く易しく透明性をもって説明されなければなりません。もしも秘密裏に事を運ぼうとすることがあれば、国民を裏切ったことになり重大な犯罪行為でしょう。
政治を私物化している小学生程度のお友達内閣や、日本国籍を持っているのか怪しい方達の意向が反映されているとしたら、日本国はこんな人達によって潰されてしまいます。
日本人の一人として決してこれを許しません。日本国民はもっと政治に関心を持ち、積極的に政治に関わりを持ってこそ、このような暴挙を防げるのです。
どうせ世の中は変わりっこないと
「諦めさせられている」人達こそ、頑張らなければなりません。
そうでなければ選挙権を18歳以上の人に与える必要はありません。ヨーロッパなどが実施しているように登録制にすればよいと思います。折角の選挙権を行使しない人には、国は選挙権を取り上げ登録制にしましょう。与党は嫌がるでしょうが・・・?
今や、政治家が清廉な意思をもって
国民のための政治活動をしていると思う事は夢物語です。
様々な悪事が次から次へとマスコミを賑わしているのを見ても十分納得がいきます。長く政治に携わっている政治家の顔が悪人ヅラに変化していくのをみて下さい。
私達は、政治家の甘言に騙される事無く
監視していかなければなりません。政治家が吸っているうまい汁は、基はと言えば国民の税金ですから。
政治は国を良くするためのものです。一部の人たちの金儲けのために使われてはなりません。
これから、少子化・高齢化が進み、人口が減ることが確実な日本で、どうしたら日本人として安穏に生活を続けていけるか、私たちは真剣に考える時期に来ている様に思います。政治は政治家だけに任せてよい時代は過ぎ去ったと思います。
国会議員の数は出来るだけ少なくし、都議会、府議会、県議会議員は要りません。知事との会合は各自治体の長に任せれば不必要な経費の削減にも寄与します。一石二鳥で、削減できたお金は国民、地域住民のために使うことが出来ます。
議員の行動規範を随時国民に開示し、政治で金儲けを企む輩を排除しましょう。
 
政治家になる人・なれる人

 

日本維新の会の支部長として就任して、多くの方々に会いに行けますしご挨拶も出来ます。その中で、とても大切にしたいことがあって…私は「選挙のためのいい顔」はあまりしないようにしようと思っています。
「選挙のプロ」はいい政治が出来ないと思うのです。
多くの人に愛され、多くの人と飲みに行き、選挙の前だけ握手をして愛想笑いをし続ける。
ええ。選挙には強いでしょう。でも、握手している人が政治を動かせるでしょうか。多くの人に「いい人」と言われている人が、日本の霞が関の役人を相手取って大喧嘩して日本を前に進めることが出来るでしょうか?
大阪で大ケンカしながら、誰の力も借りずに戦い続け、大きな改革を成し遂げた男がいます。彼は絶対にお祭りに行って愛想笑いなどはしてきませんでした。その時間があれば少しでも勉強し、改革のためのディスカッションをしてきたからです。
でも、日本には「選挙のための活動」を余念なくしている大政党の政治家が沢山います。
先日、素敵な会に招待していただきました。私はその会の中身と内容に賛同して参加したのですが、その会には千葉市の中小企業の経営者たちが何十人もいらっしゃっていたので、政治家も何人も来ていました。また、政治家になりたがっている人間も多数来ていました。政党を超えていました。
その中で、主催者の方や関係者が挨拶をしている中、その話を聞きもせずに名刺を配り歩いている方がいました。
真剣な思いでやってらっしゃる主催者の方は、その人物にとても嫌な思いをしたようです。注意に行ったら「この会って、そもそも何の会なんですか?」と聞き返されたそうです。
経営者が多く集まるので、名刺配りの場と考えて参加していたようでした。主催者の方はその方に出口を案内し退席してもらったようですが…なんと後日、その退席を命じられた方のブログを見ると、
「○○の会に参加してきました!」
「私もしっかりと取り組んでいかなければいけませんね!」
と、まるで会の賛同者のように堂々とした書き込みがありました。注意を受けて退席を命じられたことなど、おくびにも出さず。
私はその会で名刺配りはしませんでした。せっかくの会だったので、ご一緒したテーブルの方と楽しくお食事を楽しみたかったからです。ですが、微力でもご協力できるように、と詳細やその社会的意義などはコラムにアップし、少しでもその会の皆さんの活動を拡散できるようにご協力することにしました。
もちろん、選挙に勝つのは私のような人間ではなく、上記した「空気など1ミリも読まない方々」なのでしょう。でも、私は私です。
あまり変えずに行きたいと思っています。私の目的は「10年後・20年後の日本を明るくすること」のみ。共感して下さる方はきっと千葉にもいると信じていこうと思っています。
 
甘言の研究

 

滋賀県の嘉田由紀子知事は13日、大津市での後援会新年会で講演し、昨年12月の総選挙に向け日本未来の党結党を表明する3日前の同11月24日に小沢一郎衆院議員と会談し、「時間がない」「国政にかかわり得ない」と難色を示したのに対し「あなたが出てくれたら100人通る(当選する)」と説得され、結党を決断した、と明かした。
嘉田氏は「後から思えば信じるべきではなかったが信じてしまった」と改めて陳謝した。嘉田氏によると、小沢氏とは結党までに3回ほど関西地方で会い、「(嘉田氏が初当選した)2006年の知事選の時に私はあなたを応援したかった」との話を切り出され、結党を促されたという。
嘉田氏は総選挙では未来の候補者の多くが小選挙区で民主党と競合し、原発ゼロが十分争点にならなかったとし、「負けるべくして負けた」と述べた。講演後には記者団に「(結党前に)候補者リストを見ていたら100議席取れるなんて信じない」と話し、競合が多いことが分かっていれば、党の代表に就かなかったとの考えも示した。

これは小沢氏の側からは「言ってない」と否定されるかも知れませんが、いかにも“策士”小沢一郎のやりそうなことです。嘉田氏の方は、「衆院百人の議員を擁する政党の党首」という幻想にまんまと乗せられて、大恥をかくだけではなく、地元での信用さえ失ってしまったのです。小沢氏としては、「未来の候補者の多くが小選挙区で民主党と競合し」と記事にありますが、それは百も承知だったはずで、本気で民主党支持層の票を横取りし、「支持政党なし」層の大部分も吸収して、当選できると踏んでいたのでしょうか。それとも「小沢外し」の憎っくき古巣民主党の票を減らして、そちらの候補者を落としさえすればいいと考えていたのか? 何にせよ、喜んだのは自民党だけだったということになるわけで、「策士、策に溺れる」の言葉どおりになってしまったわけです。
こういうのは「魚心あれば水心」で、想像するに、嘉田氏には昔の西独の「緑の党」がイメージにあったのかも知れません。あれは連立政権の片翼を担い、環境保護立法など、多くの成果を挙げました。日本でも同じことが…と思ったのかも知れません。その弱みを衝かれて、ついつい小沢氏の「おいしすぎる」話に乗せられてしまった。
しかし、「小沢が黒幕」だというので清新のイメージは失われ、前にもここにちょっと書きましたが、小沢案と見られるKYもいいところのおかしな「新・こども手当て」なんかぶち上げるにいたって、自分の側から「争点をぼかす」羽目に陥り、自滅したのです。その果てに、小沢氏とは“離婚”。初めから“結婚”すべき相手ではなかったのです。
このように、人気のある人、大きな権力や財力のある人は、おかしな人間が甘言たっぷり、揉み手をして擦り寄ってくることが多いので、用心しなければなりません。昔は無責任にヨイショをする手合いにはロクなのがいないというのは常識で、まともなオトナでそういうのに引っかかる人は少なかったものですが、今はそうではないようなので、全般にオトナが幼稚になっているのでしょう。やたら「前向き」ぶりたがる、ケーハクな米国式ポジティブ・シンキング(いわゆる「プラス思考」)の悪影響なのかな、とも思いますが…。
人気もなければ、権力・財力もない僕ら庶民はこの点、安心ですが、それでもどんな陥穽が待ち受けているかわからない。僕は昨日、冷たい小雨が降る中、事情があって遅らせていた親子三人での神社への初詣をすませました。それでいつものようにおみくじを引いたのですが、何とその中に「女難の恐れあり」と書かれていたので、一瞬「何?」と思ってしまいました。僕はたぶん女性運はいい方で、若い頃は人並に色々経験しましたが、性悪女に引っかかって苦しめられたというようなことは一度もない。こんな文言のおみくじを引いたのも初めてです。
これをいわゆる「プラス思考」で考えるなら、「まだまだ女性にモテる」ということなので、喜んでいいと思われるのですが、この年で「女難」などというと、それは悲惨なことになるのは明白です。
あのおみくじというやつには、和歌のようなものがついていて、その文句は忘れましたが、「初めはよそさうに見えるが、実はそこに隠れた落とし穴がある」というような意味のことが書かれていました。だから、ホイホイ誘惑に乗って馬鹿を見ないように気をつけろ、ということなのです。
僕はめんどくさいことが嫌いで、めんどくさいことの最たるものの一つは女性問題だということもよく承知しているので、「これはちょっとアブナイな」と感じたときは、いつも身を翻してきたつもりですが、それができないほど魅力的な女性が出現するということなのでしょうか? あまりありそうもない話で、眉間に皺を寄せた父を息子はニヤニヤしながら見ていましたが、「神の警告」ともなれば、あながち無視もできないので、今年は心してかからねばなりません。
それにしても、こういうおみくじ、会社でフリンしているサラリーマンが引き当てたら、かなりぞっとするのではありませんか? 修羅場と、それに続く家庭崩壊が、目の前に大きな口を開けて待ち構えていると警告されるようなものだからです。
皆さん、甘言と誘惑には気をつけましょうね。嘉田氏の「反省」と僕が引き当てたおみくじは、共に「初めはよさそうに見えても、しまいには馬鹿を見る」悪魔の誘惑がそこらじゅうに転がっていることの警告と読めるものだからです。
僕としても、来年ここに「やっぱりあれは当たってました」と書かなくてすむように頑張り(?)たいと思います。「全然そんな気配はありませんでした」と報告するのも何だか情けない気がするのですが…。
 
なぜ国民は金融機関に騙されるのか?

 

年金もらえるかどうか不安ですよね?将来、会社がどうなるかわからないですよね?だからお金に働いてもらいましょう!今すぐ投資を始めるべきです!
国民に元本保証のないリスクのある金融商品を買わせるには、年金不安や将来不安を煽りまくり、「預金だけしかしてないなんてあり得ない、投資をしなければダメだ」と焦らせることが手っ取り早い。
こうしてろくに金融・投資知識のない国民が金融機関に勧められるまま、その場限りの流行り商品、金融機関にとって手数料が高く取れる商品に投資してしまい、だいたい大損して終わるということが繰り返されている。だからこそ金融機関は手を変え品を変え、新たな商品を販売する。
こうした金融機関の甘言に警告を投げかける記事が日経電子版であった。「株高の常套句「持たざるリスク」は大きなお世話」と題する記事だ。
記事の内容はというと、株価が上がり始めると金融機関が、「いま買っておかないと、『持たざるリスク』を負うことになりますよ」と何か金融商品を買わせようとするが、乗り遅れまいと焦って買うと、高値づかみする可能性が高く、ましてや個人投資家は『持たざるリスク』などないから気にする必要はないというもの。実に的確なアドバイスが書かれていた。
それにしても金融機関のスポンサーが多い日経新聞が、よくこんな記事を載せたなと感心するのと同時に、よくこんなストレートな記事を書ける人がいるなと感心していたところ、筆者は、なんと元野村證券出身の方で、退職後、独立し、投資リテラシーの向上に務めている大江英樹さんという方だった。
大江さんがなぜか私のブログを読んで気に入ってくれていて、フェイスブックで知り合ったのを契機に、大江さんに取材し、「金融機関の甘言に騙されない方法」を聞いてみることにした。
1 金融機関の甘言を見破る2つの方法大江さんは投資における絶対の真理が2つあるという。1つは先のことは誰にもわからない。もう1つは、世の中にうまい話はない。という2点だ。
「金融機関のセールストークで上記2つのどちらかに引っかかるような話なら、その商品は買わない方がいい」とアドバイスする。例えば「この先、この商品は上がる」「必ず儲かる」といった、セールストークがあったら危険信号だ。
そんなことは当たり前だと思うのだが、でも意外と騙されてしまう人も多いという。
「いつもは冷静に考えられる人でも、『今回の商品だけは今までと違って儲かるかも』『私だけに特別な話を持ってきてくれたのかも』と思ってしまうのです。でも普通に考えれば、儲け話をあなただけにわざわざお知らせすることはない。本当に儲けられるのならその担当者ががっぽり投資していなければおかしな話。『儲かるならあなたは投資しているのですか?』と聞いてみたらいい」と指摘する。
大江さんいわく「金融知識がなくても上記のような常識的感覚があれば、金融機関に騙されることはなくなるでしょう」と話す。
そういえば秒速1億円稼ぐと豪語していた与沢翼氏が、香港に行って月利5〜10%の海外FXに投資し、秒速で元本の90%を失ったと、信じがたい騙されっぷりに驚いたのだが、そんなに儲かる話など常識的に考えてあるわけないし、本当にそんなに儲かるのであれば、わざわざ日本のブタに教える必要はない。常識的感覚を持っていればこうしたトンデモ投資話に騙されることはなくなるだろう。
2 不安不安っていくら必要なのか計算したことある?今の日本人が簡単に金融機関に騙されて、焦って投資をして失敗してしまうのは、年金不安、将来不安があるからだ。退職間近の世代だけでなく、かなり若い世代でも、「年金はもらえないから投資をしなくては」と思ってしまう。
こうした国民の不安心理につけこみ、老後に夫婦でゆとりある生活をするには1カ月36万円必要で、老後は1億1856万円確保しなければならないという、明らかに過大な統計データを使って国民を脅しまくり、ハイリスクな商品に投資をさせようとしているのが現状だ。
「私は退職しましたが、夫婦二人の生活は月20万円もあれば十分。時々旅行もしたり、外食もしたりしますが、住宅ローンが終わっているので、そのぐらいの支出です。1カ月36万円という数字はかなり贅沢な生活の試算ではないか」と疑問を呈する。
持ち家で住宅ローンがない場合は月36万円は明らかに過大な数字だ。賃貸で家賃がかかるなら多少お金はかかるだろうが、それでも月36万円という数字は多すぎではないか。
「老後が不安というけれど、じゃあいくらあったら不安じゃないのか、ちゃんと試算をしてみればいいんです。月いくらぐらいあれば生活できるのか。もらえないといってもさすがに年金が0円ということは考えにくい。退職金だって0円ということはさすがにない。もらえそうなお金をきちんと計算した上で、老後の生活費に必要な額を算出し、老後に備えるために、このぐらいの金額があればいいと、どのくらい不安なのかを明らかにすれば、やみくもに投資をしなくても、どのぐらいの資金で運用すればいいのかがわかるはず」
不安を漠然としたままにするから、天井知らずの法外な老後生活費試算をうのみにし、必要のない投資までして、高い運用利回りを目指して、結果的には大損してしまう。きちんと自分で計算すれば不安は軽減されるだろう。
3 投資経験のない50〜60代はカモ大江さんは投資自体を否定しているわけではない。うまく活用すれば投資は有用な手段になる。しかし気を付けなければならないのは、投資経験のない50〜60代が金融機関の甘言にのせられ、退職金やまとまった資金をいきなり投資に突っ込んでしまうことだと指摘する。
「投資をするならある程度、少額で慣れてからやった方がよいです。投資経験もないのに、いきなり多額の資金を投資したら、失敗する可能性は高くなってしまいます。若いうちから少額で投資に慣れておけば、いきなりリタイア世代で投資デビューし、金融機関の言うままになってしまうことはなくなるのではないでしょうか。若いうちに投資経験がないのなら、年をとってからでも、まずは少ない金額で投資してみて、練習することが大事です」とアドバイスする。
4 投資をしなくても幸せな人はいっぱいいる投資は有用な手段ではあるが、国や金融機関が煽るように、「貯蓄から投資へ」という大号令を鵜呑みにして、すべての人が投資をする必要はないと大江さんは指摘する。
「投資をしなくても死にはしません。投資しなくても幸せに暮らしている人はいっぱいいます。投資をしなければならないといった義務感や焦りは禁物」と警告する。
また若い人には若いうちから投資に慣れておくに越したことはない、とはいうものの「若ければ投資なんかよりおもしろいことはいっぱいあります。投資なんかよりおもしろいことにお金を使った方がいい場合もあるので、投資をしていないと乗り遅れたなんて気にしなくてもいい」と指摘する。
5 投資家が賢くならなければ、業界は変わらない投資はうまく活用すれば有用な手段になる。しかし残念なことに日本の投資業界の実態は健全ではない。上記のように、金融機関が不安を煽って投資を勧め、新商品や手数料の高い商品ばかり買わせて、自分たちが儲かって、投資家が儲からないという状況が続いている。
とはいえ「金融機関が悪いと批判したところで、投資家が賢くならなければ、金融機関は営利を目的とした民間企業であるがゆえに、賢くない投資家が求める商品を売らざるを得ない」と話す。
「例えば、投資信託の毎月分配型は投資効率が悪く、場合によっては元本から分配金を取り崩しているので、まるで悪の商品のように言う人がいます。でも実際に、毎月分配金を欲しがる投資家がいるからこそ、金融機関は投資効率が悪くても投資家のニーズに合わせて売れる商品を提供する。投資家が賢くなれば、金融機関は変な商品は売らなくなるでしょう。金融機関が悪いと批判することより、投資家教育に力を入れて、投資家が賢くなれば、自然と業界は健全になります」
そこで大江さんは、野村證券を退職した後、独立起業。50〜60代で投資デビューし、運用を失敗しかねないリタイア世代などを対象に、投資リテラシー向上のためのセミナーや執筆活動などを行っている。
そういえば、私がサラ金に入社した時に、先輩からこう教えられた。「無知は罪。知らなかったでは済まされない。知識のある人が儲かり、知識のない人が損をするのは社会では当然のこと。騙されたのではなく、知らなかったことが悪い」
金融機関が悪いとか、金融機関に「騙された」なんていう前に、ちゃんと自分で知識を学び、体験で学習してから投資をすべきだ。知識や経験がないなら、言われるがままに投資をしてはいけないと思う。
国民に投資リテラシーがないと、金融機関は自分たちが儲けるために、いくらでもあの手この手を使ってくるだろう。国民が賢くならない限り、この国はよくならない。
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
■昭和時代

    昭和時代 1926〜1989 

 

吉田茂のことば
「元気そうなのは、外見だけ。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受けつけず、耳ときたら、都合の悪いことはいっさい聞こえません」
吉田茂は、「ワンマン宰相」のアダ名に象徴されるように、我が強く、また同時に群を抜く指導力の持ち主であった。
明治11年(1878)東京生まれ。東京帝国大学卒業後、外務省入りして奉天総領事、駐英大使などを歴任。太平洋戦争末期、近衛文麿らに和平工作を働きかけたことから憲兵隊に検挙され、2か月の刑務所暮らしも経験した。敗戦後は、GHQの最高司令官マッカーサーと渡り合って、「負けっぷり」のよさを前面に出しつつ、日本復興の礎を築いた。
独得の辛辣なユーモアに富む発言でも知られた。掲出のことばは、日米修好100 年祭に招かれ、82歳で渡米した折、外国人記者団を前に語ったもの。記者団は煙に巻かれるしかなかった。
「お顔の色が大変いいようですが、何を召し上がっていらっしゃるのですか」と問われれば、「人を食ってます」という答えが即座に口を突いて出る。この人以外の誰が、こんな台詞を言えるだろう。
もうひとつ、若い頃の吉田茂の名言を紹介しておこう。
大正5年(1916)寺内正毅内閣が発足したときに、総理の寺内が、挨拶にやってきた旧知の吉田茂に向かって、上機嫌で「どうじゃ、総理大臣の秘書官をやらんか?」と水を向けた。すると、吉田はこう答えた。
「総理大臣ならつとまるかもしれませんが、秘書官はとてもつとまりそうもありません」
そして、実際、このことば通り、吉田は総理の椅子に座ることになる。
吉田茂が内閣総理大臣に就任したのは、昭和21年(1946)。戦後の混乱期でもあり、国会議員の身分でないまま、自由党総裁に迎えられることでその座についた。翌年、総選挙に出馬するに当たって選挙区を決める際、父の郷里ということで高知を選んだ。
吉田は神奈川・大磯に住んでいたから、馴染みのある神奈川県から出馬したらいいのではないかと勧める声もあった。だが、「遠い方が選挙民が訪ねてくることもなく、無愛想が目立たなくていい」と助言する者がいて、本人も「もっともだ」とこれに従った。実際のところ、選挙運動中の演説でも吉田はまったく愛想がなかった。日本をどう導いていくかということに腐心していて、地元への利益誘導などという小賢しいことは頭の片隅にもないから、それを匂わせるような甘言も一切口にしないのである。
こんな逸話もある。あるとき、高知市内でコートを着たままぶっきらぼうに演説をしていると、「外套をとれ」という野次が飛んだ。昔は選挙民の前で土下座して票を獲得するような手合いもいたから、コートも脱がないなんて無礼な奴とでも思ったのだろう。しかし、そのとき吉田は顔色ひとつ変えず切り返す。
「外套を着てやるから街頭演説です」
この機知にあふれるひとことには、土佐の人々も大喜び。虚飾のない骨太の人柄もにじみ、吉田の人気が大いに上がったという。 
娘・麻生和子が見た吉田茂の戦後史
吉田茂が最終的に首相の座を退いたのは、昭和二十九(一九五四)年十二月七日であった。五年十カ月に及ぶ在任期間である。もっともその前にも一度、一年間ほど首相の座に就いているから、延べにすると七年近くに及ぶ期間であった。
その吉田にも終焉(しゅうえん)のときが来る。権力の座を離れるのは、やはり辛(つら)く悲しいものらしい。吉田の退任期にもそれが見事なまでに表れていた。
吉田にとってこの年の十二月六日から七日にかけての二日間は、その寂寥(せきりょう)感をたっぷりと味わわなければならなかった。吉田に退任を迫る動きは、とうとうこの二日間に身内の者にまで及んだのだ。たとえば吉田が信頼していた副総理の緒方竹虎や門弟を自負している池田勇人をはじめとする大野伴睦、水田三喜男などの党三役らがこぞって吉田に退陣を促したのである。その吉田の最後の姿には、権力がどれだけ人間の心理を変えるかが窺(うかが)える。国民は自分を批判していると、これらの政治家は語るが、それは次の理由によったと『回想十年』の中で書いている。「徒(いたず)らに政権欲に駆られ、ひたすら私を政治的に傷つけようとする野心から、恐らくすべての事情を承知の上で、誇張歪曲(わいきょく)してこれを利用した一部の政治家」の妄言に踊らされているにすぎない、というのであった。
権力は怖いというのは、こうした心理である。吉田は、国民が怒りや不信を募らせていることをまったく知らなかったのだ。そしてこの二日間の直前には、自分を批判することが英雄視されるのは、日本の民主主義社会が向上する機会を失うことだと発言した。この発言に、新聞は「吉田独裁政権のあがき」とまで酷評した。吉田の時代は終わったというのである。
勢力が弱くなると掌を返す政治家
この二日間に至るプロセスを改めてなぞってみると「首相と世論の関係」、さらには「首相と側近のあり方」などさまざまな論点が浮かんでくる。私がこのことに気づいたのは、麻生和子の取材時に幾つかの発言を聞いて、多くの示唆を得たからだった。
麻生によるなら、吉田は講和条約発効により自らの歴史的使命を果たしたとの強い自覚を持っていたという。同時にこの後の日本社会は、国際社会に約束した道(それは共産主義との対決という意味を含んでいるのだが)を誠実に歩むべきだ、それを私は見届けたい、との思いを意識していた。そのような証言をくり返していたが、これは私の印象だったのだが、麻生や夫の太賀吉(自民党代議士)の目から見れば、政治家の中には権勢をきわめているときは、甘言と追従をくり返し、ひとたびその勢いが弱くなると掌(てのひら)を返すように批判する側に回る政治家に対して怒りの念を持っていることがわかった。
むろんそれは緒方竹虎や池田勇人などの側近ではない。あえていえば、広川弘禅などがそうではなかったかと思う(実際に最終段階で吉田は広川を罷免している)。政治家にとって同志との関係がもっとも難しいのだろう。あえてつけ加えておくが、麻生の取材のあと、私は礼状を出し、ぜひ回想録を出版されて、吉田政治の裏側を歴史に残されたらと書いた。私は聞き役になりたいと申し出た。盛夏で軽井沢に避暑に行かれていたのだろうか、実は今、ある出版社から頼まれて備忘録をもとにまとめている、一歩遅かったですねとの返信の一文に、私は無念の思いがあった。
前述のように十二月六日、七日の二日間に至る吉田退陣の道筋を、吉田を中心に書いておくことにしよう。昭和二十八、二十九年の吉田政治の晩年は、「三つの方向」(拙著『吉田茂という逆説』)から追いこまれた。第一は、保守勢力からの攻撃である。とくに巣鴨プリズンから釈放、公職追放解除後に政界に復帰した岸信介が、吉田を除く保守勢力の結集を呼びかけた。それに呼応する勢力は意外に広まっていた。長期政権への倦(あ)きである。第二は軍事力強化を企図して、社会党との間に亀裂が生じていったことだった。第三は保守勢力を揺るがした造船疑獄事件であった。昭和二十九年一月からのこの事件は、幹事長の佐藤栄作や政調会長の池田勇人にも検察の事情聴取が及んだ。佐藤には検察庁から逮捕状の請求が出された。
吉田は法相の犬養健に指揮権発動(検察庁法第十四条)に基づいての逮捕拒否を命じている。犬養はこのあと辞任を申し出て、吉田との間に距離を置くことになった。汚職事件への強権的態度は、与党の自由党内部に対しても不信感は高まり、『朝日新聞』調査の内閣支持率は23%にまで落ちこんだ。吉田の悪口を言えば政治風刺になると、「吉田は東條に匹敵するファシスト」という声まで広がった。
保守党の枠内に入る改進党は、あからさまに吉田への敵対感情を示した。自由党の緒方副総裁は昭和二十九年に入って改進党との保守合同を進めていた。しかし、しだいに改進党は「吉田抜きならば」との態度を示すに至ったのである。改進党の長老である大麻唯男は、吉田でなく鳩山一郎を党首にしたいと主張していた。
一方で自由党の中にあって政策通として知られている石橋湛山も、この方向での統一を模索しはじめた。なにより吉田にとって衝撃だったのは自由党の代議士が、それぞれの選挙区に戻って国会報告を行うのだが、そんな折にも「吉田首相は来ないでほしい」と言い出したことだ。吉田の政治的人気は急落していった。
吉田の外堀は埋められていた
国会が閉会になったあと、吉田は九月二十六日から十一月十四日までの五十日間、ヨーロッパの七カ国訪問に出発した。これには幹事長の佐藤栄作も同行している。国民世論には佐藤隠しと見られることを懸念すべきだという側近の声にも耳を貸さなかった。訪問国はカナダ、フランス、西ドイツ、イタリア、バチカン、イギリス、アメリカで、講和条約発効後の国際関係で日本の立場を明確にするとの意図があった。加えて自らは西側陣営のリーダーの一人であると内外に認めさせることにあった。むろん国内での批判をこれによって和らげようとの思惑もあっただろう。
実際、吉田は西ドイツではアデナウアー首相と一日に四回も会い、「伝統的友好関係」を深め、経済協力を進めることで一致している。イギリスでもエリザベス女王と面会が整ったし、チャーチル首相とも友好裡に話し合うことができたのである。
こうして外遊関係の日程はとくに問題もなく進んだ。しかし、国内政治の懸案はそれほど簡単に解決するわけではなかった。改進党との統一を含めて保守合同を進め、そこでは鳩山一郎を新総裁に据えるとの動きは着実に進んでいった。そのような勢力を含めて国内政治では、吉田は帰国後に辞任するだろう、外遊中に保守新党をつくるのは吉田に気の毒と、結果的に冷却期間を置こうとの意見が中心になって政局は動いていた。この点では吉田の思惑は成功したのである。
こうした事態を破ったのは、実は当の吉田であった。十月十七日に「朝日」の随行記者が、パリで単独インタビューを行い、それが「朝日」紙上に発表された。そこで次のような発言を行ったのである。「朝日」の記者が、「鳩山さんはいよいよ反吉田新党に踏み切るようですが、吉田から鳩山へといった(禅譲の)コースは薄くなったようですが……」と尋ねた折の答弁である。
「そうでしょう。大体譲るとか、譲らぬとかいうことが間違っている。公事と私事を混同した言い分です。公事は公事、私事は私事です。例えば私が鳩山に譲る。私と鳩山の間はそれでいいかもしれぬが、百年後の歴史から吉田は国家に対して悪いことをした。そういうかもしれぬ。私は鳩山にいってある。ちゃんといってある。体を直して来いと……。お前にとって体を直すことが第一だ。これが第一だとちゃんといってある。(いつの間にか首相は言葉に熱を帯びた)ところがこのごろおかしい。何でもかんでもオレによこせ、そういうことでしょう。病気ですよ。私事は私事公事は公事、やむをえません」
たぶん外遊で一カ月近くも日本を離れていたから、政局への勘が鈍っていたのかもしれない。国内では決して口にしない批判でもあった。のちにこの言は、「鳩山君の病気がすっかりよくなって、国政担当に耐える身体になってほしい」との意味だと弁解したが、それはほとんど受けいれられなかった。
反吉田を旗印にして保守合同を意図していた新党グループ、吉田への反感を募らせていたグループ、そしてメディアを含めて国内世論は「吉田退陣」で歩調が揃(そろ)ったのだ。新党運動は一気に加速した。
この動きを改めて見ると、吉田と鳩山の対立の因に、自由党総裁の座を譲るときの、吉田のいう三条件か鳩山のいう四条件かという問題があることがわかる。連載第一回で紹介したエピソードである。吉田が記者に語った「私事」とはまさにこのことを指しているのではと考えられるほどだ。吉田は首相在任中もこのことをこれほどまでに気にしていたと考えれば、昭和二十年代の吉田政治のもうひとつの面が明らかになってくるといえるのではないか。
吉田は外遊から帰国しての記者会見で、執拗(しつよう)に進退問題が問われると、「私は政権に執着していない。悪い政治家を助けるようなことはしない」と答えた。悪い政治家とは、鳩山を指していることは誰にもわかった。帰国した日の夜に吉田は緒方に会って、適当な時期に辞めること、後任は副総裁(つまり緒方)ということの二点が、自由党の幹部会で申し合わされていると告げられている。外堀は埋められていたのである。
「大磯でゆっくり本でも読むか」
第二十臨時国会は十一月三十日に召集された。吉田内閣の賛否を問うのがこの国会の目的でもあった。十二月六日になって民主党、左派社会党、右派社会党の共同提案による内閣不信任案が提出された。この数二五二人であり、自由党一八五人の中には反吉田が生まれていたことを考えると可決されるのは目に見えていた。そして七日には衆議院に上程され、可決される見通しとなった。
この期の吉田の心中は、可決されることになっても総辞職しないで国会の解散を考えていた。しかしこの解散には、自由党の幹部たちも納得していない。吉田は娘婿の麻生太賀吉や二、三人の腹心だけが自らの味方にすぎないことを知っていったのである。
七日夜、東京・目黒の首相公邸に吉田は緒方を呼んで話し合っている。総辞職を説く緒方に、解散を譲らない吉田、ふたりの間は平行線だった。何度かの話し合いで、解散というなら、私は閣僚として署名しないと緒方は明言した。緒方は自らの日記(緒方竹虎伝記刊行会編『緒方竹虎』)には「私は閣僚として解散書類に署名しません。むしろ政界から引退します。かっこうの悪い西郷になりますよ」「瞬間総理は僕の罷免を決意したるが如し」といった記述が見える。
緒方は、あなたが辞めないなら、私が辞めて故郷(福岡)に帰ります、と強い口調で諭したというのが史実のようであった。
吉田を最後に説得したのはもっとも身近な門弟といわれた池田勇人である。吉田は公邸に池田を呼び、「緒方君を罷免しろ」と命じた。池田は吉田の激高に恐れつつも、「総理にお辞め願うほかありません。緒方さんを罷免されることは総理の不見識を示すことになります。あえて解散すれば、党は二つに分裂するでしょう」と涙声で説得を続けたというのだ。そして池田は退出していった。
麻生和子の証言によれば、吉田は葉巻を吸いながら、しばらくは考えごとをしていたという。「夫から聞いたのですが、しばらくしてからソファから立ちあがり、夫に向かって、では辞めて大磯でゆっくり本でも読むか、とつぶやいたそうです。そして夫に辞任の書類を書かせたと聞いています」と証言していた。娘にすればそういう父の姿は、一人の政治家として自らの哲学にもとづく充足感にあふれていたと想像できたのかもしれない。
吉田は、戦後日本の出発時に多くの業績を残したが、権力という座から離れるにも哲学や歴史観を必要としていると次代に教えているのである。
 
大野伴睦

 

“60年安保騒動”(1960年6月)が混乱のうちに終結し、岸信介首相が退陣を表明。
昭和35年(1960年)7月13日、サンケイ・ホールで自民党の次期総裁を決める総裁選挙が行われることになっていた。
後継の総裁候補として池田勇人、大野伴睦、石井光次郎の三者が名乗りをあげ、候補一本化の話し合いが持たれたが不調に終った。
さらに松村謙三、藤山愛一郎が立候補を表明、党内情勢混乱のまま総裁選に突入するという雲行きであった。
もっとも優勢だったのは池田勇人。
池田派、佐藤派と岸派の大半を味方につけたといわれ、官僚派の代表として出馬した格好。
一方、党の副総裁であった大野伴睦は、官僚政治打破、党人派の糾合を標榜し、幹事長の川島正次郎を「党人派連合」の総参謀に据えて票集めの作戦を練っていた。
7月12日夜11時に赤坂のホテルニュージャパンの大野事務所で行われた記者会見では、伴睦は「決して戦えば断じて勝つということじゃ」と赤い鼻をこすり上げて上機嫌、天下取り目前の表情だった。
ところが、翌13日朝6時、「大野が立候補を取りやめたらしい」という情報が流れる。
大野派作戦本部の部屋から大野と水田三喜男ら大野派の幹部といわれる人々が「オイオイ」と声をあげ、泣きながら出てきた。
ついで、河野一郎(大野の盟友)、永田雅一(大映社長)、萩原吉太郎(北海道炭礦汽船社長)が出てきた。
河野は、なにやらブツブツわめきながら怒っていた。
最後に川島幹事長が姿を現した。
「何か異変でも・・・」の問いに「連合戦線異状ありってとこかなあ」とニヤッと笑い、ヒョウヒョウと口笛を吹いた。
このあと、大野伴睦が記者会見し経緯を明らかにした。
「昨夜までは、第1回投票で池田、大野、石井の順、いずれも票数は過半数割れで、池田、大野の1位、2位決戦となり、大野・石井連合の勝利という票読みだった。ところが、13日未明、石井派から連絡が入り、衆議院の石井派が池田派に切り崩され、池田、大野の決戦となったとき、石井派で大野支持にまとめられるのは、せいぜい25票程度。党人派2位、3位連合の勝利はおぼつかないといってきた。川島君に来てもらって党人派勝利の作戦を練り直した。私が立候補をやめて、党人派を石井で一本化する以外にないという結論になった。“志士仁人は身を殺して仁をなす”、立候補断念は、究極、次善の判断じゃった」
さらに伴睦は、ここまでに立候補した背景として、“岸首相のお墨付き”と政界で騒がれていた内幕の真相を、テレビ生放送のカメラの放列の場で暴露した。
「昭和34年1月、警職法改正問題が行き詰って、池田、三木、灘尾の三閣僚が辞任し、岸内閣は“野たれ死に”寸前の窮地に立った。同月のある夜、帝国ホテル新館『光琳の間』に、岸、大野、河野、岸の実弟・佐藤栄作、それに、岸、河野の仲の良い友人ということで永田雅一、萩原吉太郎、児玉誉士夫の三君が加わって会談した。岸は、両手をついて頭を下げ、『大野さん、岸内閣を救ってくれ。安保改定が終ったら退陣します。後継には大野さんを推します。力を貸して下さい』と、自ら筆をとって大野総理実現の誓約書をしたためた。この文書には、岸、大野、河野、佐藤の4人が連署し、北炭の萩原君が保管している。しかし、今回、岸は大野支持に岸派をまとめてくれなかった。空手形だったわけじゃ。“政権移譲”という岸の甘言に幻惑されて、ガラにもない総裁選立候補を思い立ったワシが愚かじゃった」
政界ナンバーツー、天下の副総裁が公開の場で、声を上げて号泣した。
権謀術数の坩堝るつぼといわれる政界の中枢部に、天衣無縫、天真爛漫の老人がいた。

誓約書問題 / 萩原吉太郎著『一財界人、書き留め置き候』によれば・・・・「この誓約書は岸さんが自ら筆をとって『誓約書、昭和34年1月16日、萩原、永田、児玉、三君立会の下に於いて申合わせたる件については協力一致実現を期すること。右誓約する』と書き、その証文の筆頭に署名し、以下大野さん、河野さん、佐藤さんの順序で連署した。4氏が相談して、この誓約書を私が保管することとなった。文面では何を申し合わせたか判らぬように書かれているが、『安保改定まで岸内閣を支持してくれ』と岸さんと佐藤さんが懇請し、『安保改定後は自分は直ちに引退する。その時は大野さんの総理実現に協力する』との話であった」 
 
慰安婦の募集方法

 

1944年に、当時の朝鮮の最大手の新聞『京城日報』(7月26日付)が「慰安婦至急募集」との紹介業者の広告を掲載。300円(京城帝国大学の卒業生の初任給75円の約4倍に当たる)以上の月収と記載されていた。また 朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』(10月27日付)の「軍慰安婦急募集」との紹介業者の広告では行き先は部隊の慰安所であると明記されている。これらの募集の待遇が非常に好条件であることから、慰安婦が強制連行され、悲惨な生活を強いられたとする主張に疑問を投げかけられており、連絡先に朝鮮人らしき名前も見られることから、朝鮮人自体も慰安婦募集に関わっていたことが指摘されている。
1992年・1993年の宮澤内閣当時の日本政府の調査報告や「河野談話」においては、「軍当局の要請を受けた慰安所の経営者が、斡旋業者に慰安婦の募集を依頼することが多かった、戦争の拡大とともに慰安婦の必要人数が高まり、業者らが甘言や脅迫等によって集めるケースが数多く、官憲等が直接これに荷担するケースもみられた」と報告されている。ただし、「軍ないし官憲などの公権力による強制連行」を示す資料はなかったが、総合的に判断した結果、一定の強制性があるとしたものであることが1997年の国会での政府答弁や河野洋平元官房長官、や石原信雄元官房副長官などによって明らかにされている。
慰安婦問題の研究者秦郁彦は(女衒と呼ばれる)ブローカーが親または本人と話し合い、慰安所の業者に送ったのであり、業者は日本人と朝鮮人が半々だが、ブローカーは100パーセント朝鮮人だと語っている。
海軍省の潜水艦本部勤務を経てペナン島の潜水艦基地司令部に勤務していた井浦祥二郎によれば、軍中央がペナン島に将兵の娯楽ために慰安所を設置することを公然と指示し、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。井浦は「わざわざ女性を戦地にまで連れてきたことをかわいそうだ」と感じ、「そのくらいならば、現地女性を慰安婦として募集した方がよかった」という旨を自著で述べている。
1961年9月14日付け東亜日報には、13日から国連軍相手の慰安婦登録実施と記載されている。
慰安婦募集の「実行犯」 
「強圧」と「甘言」駆使したのは誰か
国民不在のまま、韓国に迎合してつくられた平成5年の河野談話の大きな問題点は、慰安婦募集のあり方について証拠資料も裏付けもないのに「官憲等が直接加担したこともあった」と認めたことにある。
この一文が拡大解釈されて、日本政府が公式に強制連行を認めたと世界に伝えられ、日本は「性奴隷の国」という言われなき汚名を着せられることになった。
それでは、ここで言う「官憲」とは何なのか。内閣外政審議室が河野談話発表時にまとめた記者会見の「想定問答」には、次のように書いてある。
「『官憲等』とは、軍人、巡査、面(当時の村)の職員などを指す。これらの者が慰安婦の募集の際に立ち会うなどして、強圧的な行為に加担するケースがあった」
実際、河野談話の根拠となった韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査では、巡査と面職員の関与に言及している女性がそれぞれ4人ずついた。
そこで当然気になるのが、軍人はともかく当時の巡査、面職員らがどういう人たちだったかである。現代史家の秦郁彦氏によると、戦前・戦中の日本統治下の朝鮮半島の実情はこうだった。
「地方の巡査クラスはほとんど朝鮮人と言っていい。面の職員も当然そうだ」
だとすると、「強圧的な行為」に加担したのは朝鮮人自身でもあることになる。
また、河野談話は慰安婦募集に際し「甘言」が用いられたとも指摘している。当時、朝鮮語で「甘言」を巧みに操ることができる日本人は非常に少なかったことを思うと、これも隠された主語は主に朝鮮人の女衒(ぜげん)や業者ということになろう。
東京都在住の産経新聞の読者、横山博さんが筆者に送ってくれた昭和6年7月の朝鮮総督府の名簿(コピー)によると、当時の面長(村長)は全員が朝鮮人だ。
知事をみても、忠清北道・洪承均▽忠清南道・劉鎮淳▽全羅北道・金瑞圭▽黄海道・韓圭復▽江原道・李範益−とやはりみんな朝鮮人である。
京畿道、全羅北道、慶尚北道、慶尚南道、咸鏡南道の巡査教習所の所長も、それぞれ朝鮮人が務めていた。警察署の署長は日本人が多いが、ナンバー2にはおおむね朝鮮人が配されてもいる。
これが実態だ。現場の官憲はほとんど朝鮮人であり、幹部クラスも別に日本人が独占していたわけでも何でもない。
仮に、証拠が見つかっていない官憲の「直接加担」が万が一あったとしても、その実行の主体は日本で、責任の所在も日本側だけにあるとどうして言えようか。
荒唐無稽であり得ないが、韓国の反日団体が世界で風説を流布しているように、日本が本当に20万人もの少女を朝鮮半島で強制連行していたとしたらどうか。朝鮮人も紛れもない共犯であり、むしろ実行犯であるということになる。
昨年10月、河野談話作成時の事務方トップだった石原信雄元官房副長官にインタビューした際に、「当時の巡査はほとんどが朝鮮人ではないか。その点をどう考えるのか」と聞くと、あっさりとこう語った。
「そうですね。実態はそうだ。韓国側の巡査なんですよ。あの連中はね、自分の立場をよくするために相当なことをやっているわけですよ。向こうの人が」
その上で石原氏は、こう続けた。
「でも、それはわが方(日本側)が言ってもしようがない。(警察は)朝鮮総督府の管轄下にあったわけだから。(日本は)総督府と関係ないとはいえない」
石原氏の言う「相当なこと」が実際どうだったのかはつまびらかではない。ただ、慰安婦問題が相当、ねじれゆがんで伝えられているのは確かだ。
誰が強制したのか?
・・・さて、「女性法廷」は、慰安婦問題は「戦時性暴力」であり、それは「人道に対する罪」にあたると主張している。NHKが強調していたのもこの点である。では、一体「戦時性暴力」、「人道に対する罪」とは何なのか。
「女性法廷」での主張は論理が非常に輻輳しているので、いわゆる「判決」のなかから論理を整理してみたい。
まず「戦時性暴力」とは、戦時下及び占領地域での強姦と「慰安婦制度」という「性奴隷制」の二つを指す言葉だという。では、その「性奴隷制」とは何かというと、「奴隷化とは『人に対して所有権に伴う権能の一部または全部を行使する』ことと定義されている。奴隷には、強制的または詐欺による移送、強制労働その他の人間を所有物として扱うことが含まれる」(法的認定)と言い、具体的には「女性と少女たちは強制または強要され、またしばしば詐欺的甘言によって徴集されこうした施設に入れられた。女性たちの奴隷化には、反復的強姦、身体損傷その他の拷問が含まれていた。女性たちは、不十分な食糧、水、衛生施設や換気の不足など非人道的諸環境にも苦しめられた」(予備的事実認定)。これが「慰安婦制度」という「性奴隷制」だというのである。
要するに、「性奴隷制」などと言葉はおどろおどろしいが、事実関係としては強制連行され、慰安所で虐待など過酷な生活をさせられたという話なのである。
もちろん、日本の官憲による強制連行が行われたという資料は一件も発見されておらず、ほぼ強制連行の有無に関する議論は決着が付いているし、慰安婦の生活が特段制限されていなかったということもかなり明らかになっている。ならば、慰安婦を「性奴隷制」と定義付けることはできないはずなのだが、実は、この「判決」には巧妙なトリックがある。
「判決」を読むと、「強制または強要」によって、また「詐欺的甘言」によって、女性たちを「徴集」したのは誰かという主語が抜け落ちている。また、誰が「非人道的諸環境」を強いたのかという主語もない。
日本の官憲が「強制または強要」したと書けば、その根拠を示せと言われても、元慰安婦の証言以外に提示するものはない。では、事実に基づいて、業者や女衒(ちなみに朝鮮半島の場合はほとんどが朝鮮人であり、インドネシアの場合も現地人である)が「詐欺的甘言」をもって「徴集」したと書くと、それでは日本国家の責任を問えなくなる。そこで、主語が省略されたのではあるまいか。
慰安婦問題の責任を問い、個人を処罰すると言いながら、事実認定において実行行為者については書かれていないのである。にも関わらず、日本国家と昭和天皇は有罪だという。こんな矛盾したことを言うわけである。
 
朝鮮人の日本内地への移入

 

李氏朝鮮時代から貧しかった南朝鮮から多くの朝鮮人が日本に移入した。日本への渡航には渡航証明書が必要だったが、多くの朝鮮人が日本内地へ密航した。多くの密航業者が密航を斡旋し、巨万の富を築いた。2,000人を密航させた密航業者は一万数千円を荒稼ぎして妾を10人抱えるほどであった。密航は1930年代に入ると激増し、毎日のように摘発されるようになった。このため、1934年には岡田内閣は朝鮮人の密航の取り締まりを強化するために「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定したがその後も密航は増加していった。余りの密航の多さに日本政府は渡航制限を緩和したが、渡航条件を満たさないものたちによる密航は止まらなかった。第二次世界大戦中にも密航が行われており、密航朝鮮人が検挙されている。
朝日新聞の取材によって遠賀工業所で雇われていた朝鮮人鉱夫が高待遇で雇用されていたことが明らかにされている。一方で旅費負担や高賃金などを謳った甘言募集に乗せられ、低賃金の中で宿代や食費など様々な名目で天引きされ、実際に自由に使える金額はほとんど無かったとする主張もある。
1944年9月から1945年3月にかけては国民徴用令により徴用された朝鮮人が渡航した。
1951年に講和条約が締結され連合軍による占領が終了すると日本に在留していた朝鮮人は朝鮮籍となり、1948年に建国された韓国の国籍を取得する者もいた。朝鮮から渡航した人々の多くが九州、中国、近畿地方に在留していたため、戦後に韓国から密航した朝鮮人もこれらの地方に住む場合が多かった。これらの朝鮮人は在日韓国・朝鮮人となった。
在日1世2世の中には朝鮮総督府による土地調査事業や日本軍などによる食料の収奪(徴用・供出)などにより生活に困窮し、日本に来たのだと主張する者もいる。  
 
山口二矢の1960年10月12日  

 

山口二矢は1943年2月22日に台東区で生まれた。次男であり、「二の字に縁が多い」と二矢という名がつけられた。父親は防衛庁職員、大衆作家・村上浪六の三女である母親、1歳上がに兄がいる。父親は根っから軍人ではなく、東北帝国大学卒業後、戦後は国税庁勤務など職業をいくつかかえ、警察予備隊ができるとともに入隊。事件当時は一等陸佐の地位についており、幕僚本部の親睦雑誌「修親」の編集業務に携わっていた。兄は早くから右翼思想を持ち、大日本愛国党に入党した。大日本愛国党は赤尾敏が総裁 山口も兄の影響を受けて、そうした思想に共鳴するようになった。  
中学から高校の初めまでは父親の仕事の関係で、札幌で過ごした。だが父親の東京転属で、中野坂上に移り、札幌の光星学園から私立玉川学園高等部に編入した。この頃「右翼野郎」というあだ名をつけられた。体は小さく、普段はおとなしいのだが、政治の話題になると激しくなることがあった。  
自宅から高校までは、都電で新宿まで出て、小田急に乗り換えて通っていたのだが、1959年5月、帰宅途中に山口は新宿駅前である光景を目にした。「大日本愛国党」ののぼりや、日の丸を何本もかかげたトラックの上で、初老の男性が熱弁をふるっていた。この男性は愛国党総裁の赤尾敏である。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に山口は感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、山口はトラックに飛び乗り、「連れて行って欲しい」と頼み込んだ。  
結局、山口は玉川学園を中退し、大日本愛国党に入党。「せめて高校を卒業してからにしては…」と両親も赤尾も説得したが、それも押しのけた。以降、山口は赤尾の演説を野次る者がいると、殴りかかっていくこともまれではなかった。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。入党後半年で、実に10回余りも検挙された。59年12月に保護観察4年の処分を受けた山口だったが、おとなしくはしていなかった。街を行進する反安保デモの中に、たった一人で殴りこんでいった。浅沼、野坂、小林の三氏を狙うようになったのもこの頃だった。  
だが山口は、大勢の民衆に対して、自分たちの行動があまり成果をあげられないことに不満をつのらせはじめた。8月、「一人一殺」の考えをかためた山口は党員2人とともに脱党。「全アジア反共青年連盟」に加盟し、活動を開始した。  
「左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えないが、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできないし、1人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、1人でも多く覚醒してくれればよいと思った。できれば信頼できる同志と決行したいと考えたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました」(山口の供述)  
6月17日、社会党顧問・河上丈太郎が工員に襲撃されるという事件が起こった時、山口は「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と思った。  
10月4日、自宅でアコーディオンを探していたところ偶然脇差をみつけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、山口は「この脇差で殺そう」と決意。その日、明治神宮を参拝し、小林日教組委員長、野坂議長宅に電話、「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、失敗に終わった。  
事件当日朝、山口は新聞記事で三党首立会演説会開催を知った。午前中は新宿のデパートで時間をつぶし(この時に背後関係者と会ったかどうかは不明)、昼ごろ自宅に戻って「学校の講義に出る」と言って再び家を出た。彼は日比谷へ向かい、東京駅中央口から歩いて午後2時50分頃に会場入りした。この頃すでに浅沼委員長の演説は始まっていた。入場券は持っていなかったが、受付の男性が「知らなかった」という山口に同情して提供してくれた。  
山口は通路に立って場内の様子をしばらくさぐっていたが、後ろから「邪魔だ!」と怒鳴られ、正面右の前から6、7列目の通路に座り込んだ。この時の山口に注目した人間はほとんどいなかった。多くの視線は浅沼および、正面左側に陣取って野次をとばす大日本愛国党の赤尾党首らに向けられていたからだ。  
山口は騒ぎのなか最前列まで歩いていった。演説が中断し、アナウンサーが「どうぞ」と演説の再開をうながすと、それが合図だったかのように山口は壇上にあがろうとした。舞台右側の階段には人がいたため、その左側に置いてあった大きな箱に乗って壇上に上がった。走って体ごとぶつかるように浅沼委員長を刺した。2度目に浅沼委員長の左胸を刺した時、取り押さえようとした刑事が刃の部分を握った。山口はその刑事の指が切断されたら今後困るのではないかと思い、手の力を抜いた。そして壇上右側の方に引きずられるようにして取り押さえられた。  
事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述。背後からの指示、教唆は立証できなかった。
 
日本人の陥りやすい「東西文明対立史観」

 

戦前昭和史の悲劇を理解する上において最も重要なポイントは、対支那外交及び満州問題をこじらせたのも、軍の統帥権問題さらには天皇機関説問題を政治問題化したのも、基本的には政治家の責任だったということです。もちろん。この時代を主導したのが軍部だったことは間違いありませんが、政治家が党利党略に走らず、軍におもねらず、国家利益を代表する政治家としての自覚と先見性を持って行動していたら、これらの問題はよりスマートに解決できたはずです。
対支那外交及び満州問題については、幣原の方針の方が正しかったと私は思っています。それは、安易な東西文明対立史観に陥ることなく、アメリカとの関係調整をする方向で進められていたからです。できたら、日英同盟の破棄ではなく、それを日英米同盟に進化させる方向で拡大できていればベストだったわけですが・・・。また、統帥権問題は、政友会の森格等が党略上海軍をたきつけて引き起こしたものであること。天皇機関説問題は貴族院が無責任にも右翼に迎合し、また、政友会がこれを倒閣に利用しようとしたことから政治問題化したものでした。
ところで、天皇機関説問題がなぜ政治問題化したか、ということですが、それは要するに、天皇の位置づけについて、それが法の枠内に止まるものか、それともそれを超えるものかという認識が曖昧だった、ということです。前者は、いうまでもなく明治憲法の規定するところ、後者は教育勅語によるものです。美濃部達吉も検察の取り調べでこのことに気づき、後者は「法を超えたもの」であることを、”汗をふきふき”弁明したといいます。つまり、天皇という存在の「精神的・象徴的」性格と、「法的」性格の違いを、美濃部も思想的・論理的に整理できていなかったのです。
伝統的な天皇制では、前者は政治的独裁者の規定ではなく、日本国民の一種の「無私の精神」を象徴するもの。それ故に国民の尊崇を集めうる(=即民去私)となっていた。後者は、名目は天皇としながら実質的な政治的責任は全て補弼者が負うとするもの。これが伝統的天皇制の日本的二権分立のエッセンスだったわけです。これを、10月事件以降、皇道派が統制派の行動を「天皇大権を私する」ものと非難するようになった。確かにこれはまっとうな批判だったわけです。それと同時に、彼等は軍内の「身分」的人事に強い不満を持っていた。(それが彼等の尊皇思想における「一君万民平等」の意味だった)
そうした主張を実現するのに、彼等は、二・二六事件で、それを「君側の奸」を取り除くということを名目に、政府重臣を暗殺するというクーデター行動に出た。これが理解しにくいところで、つまり、統制派に対する攻撃ということなら、重臣ではなく統制派幕僚を襲うべきだったのに、彼等はリストに上げただけで、ただ片倉衷を偶発的に拳銃で撃っただけだった。そこを石原完爾に乗ぜられ、カウンタークーデターを食らうことになったのです。
また、天皇がどうして皇道派青年将校に同情を寄せなかったか、ということが問題とされますが、天皇にしてみれば、当然のことながら、皇道派が軍の統制を破壊するような行動をエスカレートさせることは認められない。もちろん、それまでの軍の独断行動も苦々しく思っていた。それは統帥権の総覧者としての立場からも当然のことで、また国務の総覧者としての立場からも当然だった。まして、天皇の国務総覧の補弼責任を負う重臣らを暗殺するなどという行為を認めるはずがない。
明治維新の場合は、尊皇派は天皇を”自由”にできたからなんとかなったが、明治憲法下の天皇は統治権を総覧しているのだし、統帥については天皇は彼等の最高指揮官だから、その意思を無視するわけには行かない。このあたりの時代の変化を、皇道派の青年将校たちは全く読めていなかった。北一輝の場合は当然判っていたはずですが、皇道派下級将校の「革命的エネルギー」をバックとしていましたから、彼等を理論通りに動かせなかったのでしょう。その負い目が、彼をして皇道派青年将校に殉じさせる結果になったのだと思います。
つまり、皇道派VS統制派という問題は、まず軍内部の問題としては、実力主義に基づく人材登用ができなかったということにあります。また、幕僚将校らの行動が、特に張作霖爆殺事件、三月事件、満州事変、10月事件において、「天皇大権を私する」ものであったことは事実ですから、これを皇道派が非難するのは決して間違いではありませんでした。統制派はこれを持ち出す皇道派の動きを「利敵行為」であるとして苦々しく思っていましたが、「弱み」でもあったので何とか彼等を懐柔しようとしたのです。
で、なぜ彼等は二・二六事件において、皇道派は統制派を直接の攻撃対象とせず重臣らを襲ったかということですが、その根本的な理由は、その時代認識において統制派と共有するものがあったからです。つまり、政党政治や議会政治否定、「神格化」した天皇の下における、軍主導の一元的国家体制の樹立、資本主義から社会主義的統制経済への移行、自由主義・個人主義の排撃ということでは一致していたということです。だから、資本主義自由主義の現状維持勢力である重臣らを暗殺することで、軍首脳に「取り入ろう」としたのです。
そうした「思惑」のもとで重臣らを暗殺することを、「君側の奸を除く」という思想にもとづいて正当化し、それでも天皇を味方に付けられると思ったところに、彼等の錯誤があったわけです。要するにそういった思想的幻想による自己絶対化に陥ったところに、客観的にものを見る事ができなくなった原因があったのです。
もし、彼等が本当にこうした軍の抱える問題点を解決したかったなら、繰り返しになりますが、重臣暗殺というクーデターに出るべきではなかった。そんな行動にさえ出なければ、彼等の言い分はそれなりの正当性を確保することができたでしょう。あるいは、天皇の同情を買うこともできたかも知れません。といっても、これはいわば「ないもの」ねだりで、先に紹介したような軍内の時代認識を彼等も共有していたことが、彼等の言い分の正当性を全てぶち壊しにしてしまったのです。
その結果、4月には、真崎教育総監が、機関説が国体に違背する旨の訓示を発し、内務省は同博士の『逐条憲法精義』他3冊を発禁処分とするなどしました。さらに、本問題は革新(右翼)団体だけでなく、反政府立場にあった政友会が「国体明徴のための徹底運動」を起こすに至り、ついに政府は、8月3日、国体明徴に関する次のような声明書を出すに至りました。こうして、美濃部博士は起訴猶予処分を受け参議院議員を辞することになりました。また、10月15日には、政府は重ねて「国体明徴声明」を出しました。
この展開はまるで南朝鮮が従軍慰安婦について、能書きを言い出した経緯とよくにています。
従軍慰安婦問題と河野洋平氏の関係については、秦郁彦氏が『慰安婦と戦場の性』で次のような指摘を行っています。
河野談話では、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧等による等、本人の意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等がこれに加担したこともあったことが明らかになった」と「当時の朝鮮半島はわが国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」とが重複する記述になっており、募集段階で官憲が強制連行したかのような印象を与えるものとなっている。
河野談話の問題は、政府の調査報告書では募集の主体を「業者」と明示しているのに、河野談話では消えている――つまり主語が落ちている点だと、秦氏は指摘しています。
当時官房副長官だった石原信夫氏は、「第一次調査では募集の強制性は見つからず、韓国政府も当初はそれほどこの問題に積極的ではなかったため、これで納まると思った」が、「慰安婦の証言」(真偽不明)があり、「関与を認めただけでは決着しないと思った」「彼女たちの名誉が回復されるということで強制性を認めた」「”総じて”というのは河野さんのご意向が文章になった」「事実よりも外交的判断を優先させた」と語っています。
当時の日本政府は「これでおさまる」と考えたわけですが、やがて日本国内の反体制派と呼応して日本に国家賠償を要求する運動になっていったわけで、そうした政治判断が甘かったわけです。その後「女性のためのアジア平和国民基金」が設けられましたが、「韓国では、見舞金を受け取ることに批判的な世論のため、ほとんどの元慰安婦は見舞金を受け取らず、韓国政府が認定した元慰安婦200人中、受け取ったのは7人に止まったまま」(wiki「アジア平和国民基金」)だそうです。
外交問題では、日本的な「相互懺悔告解方式」は通用しないということです。事実論はあくまで事実論として、論理を貫徹させておかなければならない、ということですね。韓国も日本と儒教的伝統において似たところがあると思いますが、その過剰な「大義名分論」からする攻撃精神は、日本人とは相当に違っているようですね。といっても日本にもそれに似た人たちが随分増えているようですが・・・。
皇道派、統制派といった見方とは別のものが必要だと見ていますが、気力がありません。
元に何か別なものがあります。
先に申しました通り、皇道派、統制派というのは実は思想的な対立だったのではなく、士官学校卒業後、陸大に進学し幕僚将校になった者に対する、隊付き将校(陸大を出ない限り出世の道が閉ざされていた)の人事上の不満に端を発する、明治維新の脱藩志士をモデルとした倒「幕僚」運動だったのです。本来なら、軍も学歴に関係なく実力主義に基づく人材登用をすべきだったのです。米国がそれをやったように・・・。当時の軍は極端な学歴主義でその弊害が大きかったのですね。
つまり、先に言及したように、思想的には両者の違いはそれほどなくて、そのことは尊皇思想の理論的指導者であった平泉澄が二・二六事件を全く容認しなかったことでも明白です。平泉はおそらくこのクーデター事件で天皇がそれを支持するとは全く思っていなかったのでしょう。というのは、彼には皇道派青年将校のような統制派に対する被害者意識はありませんでしたから。これが平泉の尊皇思想に対する支持が両派にまたがり得た理由です。といっても、さすがに平泉は二・二六事件後警戒されましたが・・・。
今年の夏、目黒にある大川周明の墓をお参りしました。複雑でしたね。
大川周明については、彼が「東西文明対立史観」に陥ったことが、最大の問題だったと思っています。実は、彼は平泉などと違って、日本歴史の解釈ははるかに実態に即していて、観念的な「現人神」尊皇思想にはほとんど陥っていませんでした。この点は北一輝も同じで、大川の『日本二千六百年史』は大変優れているしおもしろいです。この当時の日本の最高知性を以てしても、この「東西文明対立史観」に陥ってしまったのです。次回これについて詳しく論じたいと思っています。
なお、この問題は、現在問題になっているTPP問題にも影を落としているような気がしますね。先の慰安婦問題で述べたように「事実を事実として押し通す」外交交渉力を持たないと言う事もあるのでしょうし、その反動として、いたずらにアメリカ「陰謀史観」に陥るということもあると思います。戦前の場合、こうした史観に陥りさえしなければ、もっと柔軟かつしたたかに支那問題や満州問題を処理できたはずですが、これは、今日の日本の政治家にも至難なのですから、戦前の日本の政治家にこれを期待するのは”野暮”ということなのかもしれませんね。
 
アメリカの宥和政策

 

ミュンヘン協定を頂点とする対独宥和政策に関して、アメリカ外交政策研究の多くは、アメリカとくにFDR政権レベルでは、早い時期から対独対決の方向への政策転換が試みられたことを強調し、それにも関わらず国内の孤立主義者の力によって抑制されて政策転換の時期が遅れた、という枠組みで論じてきた。早い時期からの政策転換の試みについて、一般に、保守派、共和党系、孤立主義者はそれをアメリカをヨーロッパの戦争に引き込もうとするFDRの危険な性格であると批判し、革新派、民主党系、国際主義者はそれを優れた外交判断であると賞賛する、という評価の違いはあるが、「英仏の対独宥和」とアメリカ外交との違いが前提に置かれてきた。
ハンス・W・ガツケの次のような論調は一般的である。イギリスが対独宥和へ傾いたのは、ベルサイユ条約がドイツにとって不公正な条約だったという罪の意識、反共主義と結びついた平和主義(ヒトラーの対ソ対決の姿勢を信用)、大恐慌の影響もあって軍事力の整備が遅れていたこと、そして、これが最後の要求だというヒトラーの甘言にだまされたこと、などが背景にあったのだが、アメリカが1933年以降のドイツとの経済関係の悪化にも関わらずヨーロッパ問題に関わろうとせず、英仏の宥和を見逃したのは国内での孤立主義の制約があったからだ。
英米関係の中でイギリスの宥和政策を検討したリッチー・オヴァンデイルも、FDRとチェンバレンの両者を高く評価して、「チェンバレンにはボールドウィンには欠けていた目的意識と決断力があった」と述べて、チェンバレンはFDRとアメリカに過度の期待を持ったがゆえに期待が十分にかなえられなくなると失望したのだと言い、「FDRは、A・J・P・テイラーが言うようなオポチュニストではなかった。彼は1937年10月までには、国際情勢の危険性も大衆を教育する必要も認識していた。――彼はイギリスの戦争に対して封鎖で援助したいと思ったが、国内的な危機、議会、大衆によって妨げられてしまったのだ」と、ガツケと同様の結論に至っている。
しかし、FDR政権への賛否の問題を別にして、戦間期アメリカ外交の客観的な解釈の中から「アメリカの対独宥和政策」という視点が確立されてきている。
1930年代のアメリカの対独政策に最初に学問的なレベルで「宥和主義」という定義を与えたのは、アーノルド・A・オフナーだった。彼は、1969年の著作で批判を込めて「アメリカ宥和主義」と呼び、石油禁輸をしてイタリアのエチオピア侵略を阻止していたらその後のラインラント進駐もオーストリア進軍も生じなかっただろうと述べ、米英仏が援助していたらスペイン共和政府は敗北することはなかったと指摘する。彼はそのようなアメリカの政策が生じた原因は、政策決定者とくに国務省の外交官の「判断ミス」、「政治的先見性の欠如」あるいは「政治的洞察力の欠如」にあるという。ハル国務長官については、「彼はいろいろと言ったけれども、彼の言う経済リベラリズムと道徳的説得では、ドイツのいう新秩序と戦うには不十分だということが分かっていなかった」と指摘する。FDRに関しては、「彼は有能で、洞察力に富み、先見の明があったが、エネルギーの大半を国内問題に費やして対外問題には力を入れなかった」として、「彼はしばしばドイツに圧力をかけるためのブロッケイド、ボイコット、経済制裁を口にしたが、本気に考えていたとは思われない。彼が示したのは、第三帝国と国際問題に対する素朴さだけだった」と、政治家としての資質に疑問を投げかけた。
しかし、このオフナーの分析は、アメリカ宥和政策の原因を「国際情勢の判断ミス」におき、判断ミスの原因を政治家の「資質」の問題に収斂させることによって、アメリカにそのような判断をさせた背景にあった当時の国際社会のリアルな構造あるいは当時のアメリカが持っていた「国益」の認識の問題が無視されることになってしまった。
この問題点を打破して「英米関係」という視点を導入することによって「アメリカ宥和主義とイギリス宥和主義」の成立を論じたのが、C・A・マクドナルドである。彼は1979年の著作で、アメリカは1936年末にヨーロッパの宥和を促進するために影響力を行使し始めたと述べ、1930年代アメリカ外交の基本は「平和、安定、そして世界秩序に資する国際貿易と国内経済の拡大」にあり、「国際貿易の自由化」が進めば、列強は新体制に関心を持ち、独伊のような持たざる国々の不満はなくなるだろうからヨーロッパ問題の解決に寄与するという論理に立っていたとする。国際貿易の自由化とは「門戸開放の要求」である。マクドナルドは、ハル国務長官が、大不況のさなかにわずか1年間でアメリカの対イギリス圏輸出を1050万ドルも減少させてしまったオタワ協定の帝国特恵体制を忌み嫌い、英米通商協定によってそれを廃止したいと考えていたことを指摘した上で、「そのような関税障壁による通商制限を廃止することこそアメリカの宥和政策の重要な核心部分だった」と述べている。マクドナルドによると、アメリカが対独宥和政策をとりえたのは、ドイツ国内にもアメリカと同様に門戸開放の経済体制を構築すればドイツが戦争なしに経済苦境を克服できると考える勢力がいるので(中央銀行総裁のシャハトらモデレート派)、経済的に柔軟に対応すればモデレート派の力が拡大してヒトラー路線を抑制できると考えたからだった。
マクドナルドの分析枠組みは、国益認識を踏まえた政策決定者の合理的な政策判断の結果として宥和政策を描き出すことに成功したといえる。彼の枠組には注目すべき視点が含まれている。第1に、アメリカの宥和を「経済的宥和」として打ち出したことである。第2に、それと関わって、従来の対独宥和研究は「英独関係」を軸に分析してきたが、イギリスの宥和政策についてもアメリカの宥和政策についても経済的宥和の本質を強調することを通じて、宥和研究における「英米関係」の重要性を提起したこと。第3点として、1938年ミュンヘン協定以降のアメリカが宥和政策から「封じ込め」( containment )政策へ転換したとする構図を描いていることである。宥和政策が主要に歴史学の対象となっている段階では、宥和の対になる概念には関心が払われてこなかった。彼は、封じ込めという概念に特別の意味をこめてはいないが、のちに検討する「宥和と抑止」と同じ問題意識をここに見ることができる。
マクドナルドは必ずしも指摘してはいないが、とりわけ第2の視点は、1930年代の国際関係の構造の理解に大きく影響してくる。第2次大戦は、「民主主義国とファシズム国との対決」および「英米同盟」という側面を強調して振り返られる傾向が強い。しかし、紛争は常に「現状維持勢力」と「現状変革勢力」との間に生ずるものであり、戦間期において「現状維持勢力」は英仏であり、「現状変革勢力」が独伊日だった。アメリカは、国際連盟に加盟していなかったという形式論からだけではなくて、国際連盟加盟に上院の3分の2の多数を結集できなかった原因である孤立主義の背景からも、現状変革勢力という性格を強くもっていたことを見逃してはならない。英仏主導のベルサイユ体制と特恵関税体制によってアメリカ商品を締め出しているイギリス帝国への不満である。1939年の第2次大戦勃発に際して中立政策を緩和して民主主義国への武器輸出へ道を開く「1939年中立法」が審議された際に、H・W・ジョンソン上院議員は、「アメリカ人は20年前に世界の民主主義を守るために理想主義にかられて戦いそして勝ったが、世界の民主主義は危うくなり、数十万の人々を独裁者のもとの奴隷にしてしまった。
それだけではない。アメリカから数十億ドルの戦費を借りた国々はわれわれを笑い飛ばし、負債の返済を拒否した。戦費はいまやアメリカの納税者の負担に転化されている。われわれは再び幻滅を味わうべきなのか」と英仏への支援につながる中立政策緩和に反対した。1934年に「上院ナイ委員会報告」をまとめて1935年中立法制定の直接の動機を作ったJ・P・ナイ上院議員は「現在のヨーロッパの紛争に民主主義の理想がわずかでも含まれていると考えるような馬鹿げたことはやめよう。そこに含まれている最大の課題は、現在の(英仏の)帝国主義と帝国の維持、そしてそれを危うくするような新たな(独伊の)帝国主義と帝国の建設を阻止することでしかない」と主張して反対論を展開した(Appendix to the Congressional Record 1939)。同じ1939年の9月、孤立主義者として名高かったかつての飛行家C・A・リンドバーグは、「今次の戦争は民主主義のための戦争ではない。それはヨーロッパの勢力均衡をめぐる戦争であって、力を得たいとするドイツの希望と、力を失うのではないかと思う英仏の恐怖とがもたらしたものにすぎない」と批判した(Appendix to the Congressional Record1939)。アメリカは、イギリスが同じようにブロック経済化を進めているドイツと取引をして、アメリカに対して世界の大市場を閉ざすのではないかと恐れており、他方でイギリスのチェンバレンは、「アメリカ人にわれわれのために戦ってほしいとは思わない。もしそうなったら、平時になってそれに対して高いツケを払わなければならなくなるからだ」と書簡で書いている。以上のような事情を勘案すると、通常用いられる米英仏対独という図式ではなくて、現状維持国家(現状満足国家)の英仏と現状変革国家(現状不満国家)のドイツ、アメリカ、ソ連という対置が必要になる。この対置では、アメリカとドイツは門戸開放では本来一致していたはずである。ヨーロッパに限れば、ドイツのアウタルキーに対する自由貿易体制のイギリスという対立の図式が成立するが、世界大に拡大すると、閉鎖的なオタワ体制のイギリス帝国に対する門戸開放志向のアメリカという対立の図式があったのであり、アメリカとドイツはイギリス主導の世界経済体制との関わりでは共通の利害に立っていた。この二重構造の理解が宥和政策理解のカギとなるものであろう。言い換えると、「ヨーロッパ問題の解決」に主眼を置いていたイギリスと「(経済的門戸開放という)世界問題の解決こそヨーロッパ問題解決の前提条件」と考えたアメリカとの相違である。
この観点に立つと、アメリカの対独経済宥和は英仏の対独宥和とは意味が相対的に違うことが明確になる。ハンス・ユルゲン・シュレーダーは、アメリカ国務長官のハルが言った「経済的宥和(economic appeasement)」と英仏の採った「宥和政策(Beschwichtigungspolitik)」との違いを、最恵国待遇をめぐるアメリカの1938年までのドイツへの歩みよりに関わって、次のように指摘している。経済的政治的必要から展開されたアメリカの対外経済理念は、国家社会主義の経済さらには政治イデオロギーの拡張に対抗することを意識して確立されたもので、ラテンアメリカがそのよい例である。幻想に負けたイギリスの宥和政策とは違って、国家社会主義体制の内外政策の急進性を政治経済分野の譲歩によって和らげることができるものだし、ワシントンはその対外経済理念を国家社会主義に対抗するものと考えていたのである。この点で私(シュレーダー)は、アメリカの通商条約政策をアメリカ外交の柱とは見なかったオフナーとは見解が異なる。このようにシュレーダーが経済的宥和の概念を手がかりに英米宥和政策の違いに着目したのに対して、グスタフ・シュミットも同じように経済的宥和という概念を使ったが、彼の主たる関心は「イギリスの経済的宥和」にあった。彼は、イギリスの経済的宥和政策を、第1期の1933〜1936年、第2期の1936〜1937年、第3期の1938〜1939年に分け、第2期がもっとも成功した時期だと指摘して、イギリスはハル国務長官の互恵通商政策路線を「国益重視型の互恵通商政策」とみなして自国と異なる路線だと感じていたことに注目し、そのようなイギリスの経済的宥和は、英独が共通の経済利益をもつと考えていたこと、および、イギリスの軍備増強の立ち遅れを理由として採られた政策だったという。結果的にはG・シュミットも英米の宥和政策の違いに行き着いている。
アメリカの対独宥和政策が持った「アメとムチ」の構造に焦点を当てて、経済的解釈を深めたのがパトリック・J・ハーデンである。彼は1987年の著作で、マクドナルドと反対に、ドイツ中央銀行総裁のシャハトの経済政策の核心は2国間貿易交渉(ドイツに不可欠な原材料の輸入をまかなうための輸出拡大)にあったがゆえに、ハルの互恵通商協定政策のもとで世界的な自由貿易体制の再構築を目指していたアメリカはそれをアメリカの対外的な経済利害に対する脅威と考えたと指摘し、このナチスからの挑戦に対して「アメリカ国務省はドイツがバーター取引や戦争に訴えることなく巨大な都市人口を養うに必要な食糧や鉱物資源を適切に確保できるように、世界的な通商障壁の撤廃への動きを支援しようとした。政府やビジネス界の国際主義者は、ドイツは自国の製品の販路となる外国市場への平等なアクセスが保証されれば、全体主義的な貿易戦術をやめ、そして厳かに作り上げられた軍事機構を解体するのではないかと期待した」と述べて、アメリカ政府の対独基本政策がドイツを再びリベラルな資本主義世界システムに統合することにあったとして、そのための具体的な政策が「経済的宥和」であったとする。アメリカの外交官は、「ヨーロッパの平和はドイツの経済生活を根本的に変革できるか否かにかかっている」と考えたのである。戦争が起これば革命が引き起こされるということが広く信じられていた結果、平和への希求が強まり、ハル国務長官は「互恵通商ネットワークが拡大すればヨーロッパの政治的難問の解決にプラスになる。世界貿易が復活すれば、ドイツの政府当局者は国内の安寧を追求するのに領土の占領ではなくて平和的な商業への参加に頼ることとなろう」と期待した。ハーデンも、英米間の経済協力を難しくしている原因はオタワ体制の帝国特恵システムにあったと言い、それに対して、フランスはドイツ産業の製品の販路を確保するためにアフリカに地域発展のための国際コンソーシャムを作る構想をもち、「レオン・ブルム首相は1936年12月にアメリカのビュリット大使に貿易を振興し軍拡を抑制する協定に基づいてドイツとの和解を図ろうとしているフランスの努力をアメリカとしても支持して欲しい旨を伝えていた」ことに注目している。彼の分析でも、世界的な自由貿易体制の確立がヨーロッパの平和に資すると考えたアメリカに対して、イギリスがヨーロッパ問題の解決を優先させたことに注目して、「イギリスは、ドイツがヨーロッパの国境問題に関して政治的コミットをする意向を示さない限りは貿易障壁の低減や(イギリスの)軍備抑制について考慮する余地はないとした」と述べる。彼の分析枠組みと分析の結果はマクドナルドを超えるものではないが、「アメとムチ」の指摘は、政治の世界では当たり前の事実ではあるとしても政治的視点からの宥和研究にとって重要なものである。彼は、1938年10月以降、アメリカ政府は「物質的誘因と軍事的脅し」という二重外交によって恐ろしいホロコーストを阻止する道に踏み出したとして、FDRと国務省がヨーロッパの戦争の引き金になるようなことをヒトラーに断念させるために大軍拡に乗り出し、かつ、アメリカが第三帝国封じ込めの戦いに参加する国々に武器を供給できるよう中立法を改正する取り組みをはじめるなど、「経済的宥和という人参」と「戦略的優位陣営の構築というムチ」という政策を同時に追求し始めたと指摘している。
なお、シュミッツの編集した本に「アメリカの宥和」というタイトルの巻頭論文を寄せたウェイン・S・コールは、結論として「宥和はヨーロッパの宥和であり、アメリカの宥和ではなかった」として、「ミュンヘン協定が一時的にせよヨーロッパの大戦争を回避させたことで、多くのアメリカ人がほっとしたし、アメリカの孤立主義の力が対外問題でルーズヴェルト大統領に課した警告や抑制があったから、チェンバレンなど英仏の指導者が宥和の努力をするようになったことは確かだが、FDR指導時代の1930年代の対ヨーロッパ政策の主たる目的は決して宥和のためではなかった」と全面的にアメリカ宥和主義という枠組みを否定している。
  
今出川のこと

 

やや古いお話しになりますが、今から150年も前、それまで250年余りも続いた江戸徳川幕府は明治維新という革命ないしはクーデターにより薩摩、長州、土佐、肥前いわゆる薩長土肥の新勢力に取って代わられました。
その間「勝てば官軍」の諺通り旧幕府勢力は賊軍として追われ特に会津藩の如きは腰抜け徳川家の言わば身代わりとして壮絶な戦いをしたものの、最後は悲惨な結末を迎えたことはNHK大河ドラマ「八重の桜」で放映され、またそのストーリーが同志社大学のルーツに関わる歴史ドラマでもあったので、皆さんよくご存知の事ですよね。
尚、その時何故徳川が腰抜けだったのかという疑問を皆さんお持ちだと思うのですが、そもそも尊王攘夷の思想は遠く南宋時代、蒙古(夷)に追われた漢民族が南へ逃れ、南宋を興したのですが、悔しくてたまらず、尊王攘夷(宋の君主を敬い、夷(えびす=蒙古)を打ち払えという思想)を書物に残したのです。それが日本に伝わり、よりによって徳川の親藩である水戸藩がその思想を研究、奨励した(いわゆる朱子学)のですが、維新前夜にはその水戸藩出身の徳川慶喜が江戸幕府の頂点に立った訳です。
皮肉なことに当時幕府は長き鎖国時代を経て、西洋列強国から開国を迫られており、力の差から言って攘夷どころではない状況下にありましたが、倒幕勢力は水戸藩自らが推進した尊王攘夷思想を突き付けて打開を迫った訳で、徳川慶喜としてはその金科玉条に対してすでに腰が引けており、当時圧倒的軍事力を有していたにも拘わらず、大政奉還はもとより、鳥羽伏見の戦いに際しては一夜にして大阪から逃亡し江戸へ逃げ帰ったと言うお粗末な歴史の一ページが生まれたという訳です。でもその身代わりとなった会津藩はたまったものではないですよね。私ならずとも「責任者出て来〜い」と叫びたくなります。
私見ながら、徳川慶喜は維新後も生き長らえたようですが、トップリーダーとしての資質において、たとえ有能だったとしても会津藩をむざむざ維新の生贄にしたその生き様は男の器量として許されるべきものではないと私は今でも思っています。
さてその維新時に越前福井藩は徳川の親藩であったものの一転、官軍に味方したため維新後は波風立てずにすんなり明治政府に溶け込めたのでした。その背景には私の推測ながら、親藩であったにも拘わらず、江戸時代後期には随分幕府からいじめに逢ったようで、その恨みが反幕府へと動く遠因になったのかも知れません。
一方同じ親藩でも伊予松山藩は最後まで抵抗したため一時は土佐藩に占領され惨めな思いをすることになるのですが、旧松山藩の連中はろくな仕事にもありつけない中、今後は子弟の教育によって活路を開くしかないと判断し力を注ぎました。その結果明治期を代表するような3人、即ち近代俳句の祖、正岡子規、及び日露戦争を勝利へと導いた秋山好古、真之兄弟を輩出することになりました。詳しいことは司馬遼太郎さんの小説「坂の上の雲」に書かれていますのでお読み頂きたいと思います。
なぜ長々とこのようなお話をするかと申しますと、明治維新当時、官軍側、賊軍側にしろ世の中がゴロッと変わった訳ですから「文明開化」という新しい国づくりのためにそれこそ熱病にうなされた如く突っ走ったものと思われます。ただ皮肉なことに維新のスローガンは尊王攘夷(西洋を打ち払う)だったのに維新後は逆に西欧化を推し進めたことですが、そうしなければNIPPONは中国同様西欧列強の餌食となっていたでしょう。
時を経て、あの悲惨な太平洋戦争の終結後、滅亡寸前まで追い込まれたNIPPONは「戦後復興」という名のもと明治維新の時と同様、再び熱病にうなされた如く突っ走りやがて奇跡の高度成長期を迎えることになりました。
我々万博世代は多感な時期に東京オリンピック、新幹線、名神高速道路、大阪万博を経験した訳で、高度成長期の申し子と言っても差し支えないと思うのです。しかしその熱病の歪は戦後の団塊世代に表れ、安保闘争以降、全学連とか全共闘とか言った過激な大学生を中心とする若者が社会の改革を訴え、最後は実力行使にて東大を始め京大、同志社等全国の主だった大学を占拠し機能マヒに陥らせたのでした。
私は運の悪いことに大学受験がちょうどその時期昭和44年(1969年)に当たり、入学試験は何とかあったものの入学後は学内封鎖状態の中、期末試験はすべて妨害されレポートで済ませるという異常事態が続きました。今から思うと当時の過激な学生は思想はともかく、具体的な要求と言えば学費値上げ反対とか次元の低いものが多かったような気がします。しかしやがてその騒動も1〜2年で治まり元の学生生活が送れるようになりました。
その間、一般教養課程の授業は行われていて、商学部であった私は平山玄センセの「経済原論」などというカビ臭くアクビを連発しそうな講義に失望し、反面春の入部勧誘時にはそれこそサギのような甘言でフラフラと入部してしまった体育会自動車部というところに身を置き、失望した講義内容への反動もあって以後4年間部活動に邁進することになりました。私は今でも商学部及び自動車部の2つの学部を卒業したと思っています。
それはさておき野尻君のことです。彼は4期後輩に当たりますのでその激しかった大学紛争も沈静化した昭和48年(1973年)、私が卒業するのと入れ替わりに雪深い北ノ庄(福井)から上洛し入学された訳ですが、1期上には同郷の上山君がいて今出川キャンパスでの入部勧誘時に声を掛けたのかどうか、ただ上山青年は生まれてこの方「甘言」というコトバを知りませんので、多分他の誰か「人たらし」部員に言いくるめられて入部されたことと推察します。
恥ずかしながら私は当時、明治期の正岡子規や秋山兄弟がそうであったように、青雲の志とはいかないまでもHONDAオハイオで自分の能力を試してみたいと言う儚い夢がありましたが、田舎で待つ養父母のことを思うとそれも果たせず、先代の友人の広島江田島でご商売をされている店へ丁稚見習いという形で出奔することになり、自動車部とは一旦ご縁が遠くなってしまいました。そのような訳で入れ替わりに入部された野尻君とは全く面識がなかったのです。
 
田中絹代

 


日本映画の歴史のなかで、女優ベストスリーをあげよといわれれば、大半の人が田中絹代を思いだすことでしょう。彼女は少女時代、大阪で大変苦労しながら世に出たすばらしい女性です。絹代は明治43年(1910)山口県の下関に生まれました。父は田中久米吉、母はヤス、豊かな家庭でしたが父が早世して生活は苦しくなります。母のヤスがお人好しですぐ他人の甘言にのせられる。親類筋に悪い奴がいて親切ごかしに近づいてきて、世間知らずの母子にもうけ 話があるとだまし、信用して印をついたのが運のつき、家屋から土地までまきあげられてしまいました。しかたなく母子は夜逃げして大阪へきてひっそりと暮らします。
絹代は幼いころから筑前琵琶(ちくぜんびわ)を習っていました。これは明治20年代に薩摩(さつま)琵琶と三味線を合わせて生まれた楽器で、ふつうの琵琶より小型、女性の演奏者が多く、哀愁をたたえた音色は評判になります。彼女はよほど才能があったのでしょう。お師匠さんから10才で免許皆伝を受けていますから、大したものです。
母ヤスは生活のため、娘の才能を生かす方法はないかとあちこち探し回ったあげく、ようやく楽天地にあった小劇場「月宮殿」で少女琵琶興行をしていた巴家寅子(ともえやとらこ)一座に入れてもらいます。
「楽天地」とは明治45年(1912)いわゆるミナミの大火で歓楽街千日前が焼け野原になったあと、南海電車社長 大塚惟明が興行主 山川吉太郎(本連載171〜174回参照)に頼んで、大正2年(1913)オープンした総合レジャーランドです。1階は洋画大劇場、2階には二つの小劇場があり、東館「朝陽殿」では落語や漫談、浪曲が、西館「月宮殿」では大正時代のクレイジーキャッツといわれる巴家寅子一座の根城でした。
ほかにメリーゴーランドやローラースケート、パチンコにミニ水族館もありますが、人気No.1はなんといっても寅子一座の少女琵琶です。とりわけ淡路航路の汽船から投身した女性(実話)をモデルにドラマ化した「須磨の仇浪(あだなみ)」は大当たり、女性客ばかりではない。作家長谷川幸延は
「子どものころ祖母のお供で3度いったが、3度とも人の頭で舞台が見えなかった」
と語っているぐらいです。絹代はたちまちこの一座のスターになりました。声もいいし演奏も上手。なんといってもとびきりかわいらしかったのです。

大正13年(1924)大阪の楽天地(現・中央区千日前にあった遊園地)にある小劇場「月宮殿」に出演していた少女琵琶劇巴屋寅子(ともえやとらこ)一座のスター田中絹代は、お休みの日にたまたま見た映画(当時の名称は活動大写真。もちろん白黒で無声)の主演女優栗島すみ子の演技にうっとりします。すみ子は詩人与謝野鉄幹の親友で作家の栗島狭衣(さごろも)の娘で、大正10年松竹蒲田(かまた=東京都の南部にあった撮影所)に入り、「船頭小唄」のヒロインを演じて大ヒット、美人女優第1号といわれた女性です。中山晋平(しんぺい)が作曲した「俺は河原の枯れすすき…」との主題歌は、今でも中高年の方の愛唱歌の一つですね。
当時14才だった絹代は、京都の松竹撮影所にすみ子が来るという噂を耳にし、直接お会いして弟子にしてもらおうと出掛けます。ところが警戒が厳重で近寄れません。さすがの少女琵琶スターの絹代も、
「紹介状がないとだめ!」
と、ぴしゃりとはねつけられてしまいます。
うろうろしていると、キミ、なにしてると声をかけてくれたのが、野村芳亭監督です。彼は名前だけは知っており、へえー、寅子とこの絹代がキミか…とジロジロ顔を眺めながら、同情してこういってくれました。
「そんなら俺が使ってやろ。ただし端役(はやく)やぞ。それが勤まらなかったら、活動大写真はあきらめなさい。」
こうして彼女が出演した最初の映画が「元禄女」ですが、端役も端役、お姫様にゾロゾロついて歩く腰元のひとりでした。
もちろん誰の目にもとまらなかったのですが、たまたまニューフェイスを探していた青年監督清水宏があれっと首をかしげ、絹代を呼びだし、
「キミの笑顔がいい。ちょっと笑ってごらん。あかんあかん、口に手をあてたらあかん。大きな目をしてニコッと笑うんや。恥ずかしそうに笑うんや」
と注文をつけ、あごがだるくなるほど笑わせ、じゃあサヨナラ…と去っていきました。
変な人…と思っていた絹代は、半年後、ふたたび宏に呼びだされます。いきなり「村の牧場」という映画の主役に頼まれたのです。さわやかな青春映画ですが、宏の思い入れは格別でした。映画の世界など右も左もわからぬ絹代に文句ばかりつけ、いやになるほど笑わせ、すぐNG(とり直し)をだしました。

端役も端役、お姫さまにゾロゾロついて歩く腰元のひとりだった田中絹代の笑顔がいいと評価し、いきなり「村の牧場」というさわやかな青春映画の主役にしたのが、松竹の青年監督清水宏です。
宏はオロオロする絹代の演技に文句ばかりつけ、泣きべそをかくまで叱りましたので、「こんな人大嫌い」と彼女は恨みます。ところがのちに2人は大恋愛するのですから、清少納言がいうように男女の仲とはふしぎなものですね。「村の牧場」 の興行成績は、全くだめでした。宏は会社からどなりつけられ、しばらくは仕事がもらえなかったほどです。しかしたったひとり、ベテランの監督 五所平之助が絹代に注目します。今度は笑顔ではありません。ひたむきさがいじらしいというのです。このひたむきでいじらしい演技が、やがて絹代を大女優にするのです。いや、演技ではない。彼女の人柄がこうです。
昭和2年(1927)平之助は絹代を主役に、「恥ずかしい夢」 を制作します。若い娘さんのひたむきでいじらしい生き方を、コメディタッチで描いたものです。これが絹代の出世作になりました。
翌3年、松竹は彼女を東京の蒲田撮影所に移し、ヒットメーカーといわれた監督鈴木伝明とコンビにして、「近代武者修業」「彼と田園」「陸の王者」等を制作します。いずれもワンパターンではない。つねに新しいジャンルに挑んだものばかりで、たちまち松竹の看板スターになっていきます。
けれどもこの別れが絹代と宏の慕情をかきたてました。いつしか2人は深く愛しあっていたのです。困ったのは松竹です。純情スターとして売りだしたドル箱が、恋に落ちて世間の噂のタネになれば、ガクンと興行成績がさがる時代でした。
絹代があこがれて映画界に入るきっかけになった日本映画史上美人女優第1号といわれた栗島すみ子も、実は21才のとき監督 池田義信と結婚していますが、会社は12年間もひたかくしにかくし、ようやく公表したのはすみ子が33才で引退したときです。
「宏さんに会えないなら、松竹をやめます。結婚して家庭に入ります」
と泣き顔で訴える絹代を、お前はひとりで売りだしたつもりか、会社がどれほどカネをつぎこんだかわかっているのか、松竹の重役たちはこうつめよりました。

「宏さん(絹代が初めて主演した映画「村の牧場」の監督清水宏のこと)と結婚したい。松竹はやめます」と泣き顔で訴える松竹の看板女優田中絹代に手を焼いた会社は、母のヤスに説得してもらいますが、それでもだめでしたのでとうとう宏に圧力をかけました。
どうしても結婚するならキミの仕事はなくなるよ、この世界から追放されてもよいのかねと脅し、
「な、結婚するなというてるんやない。10年でいい。せめてあと10年のばしてくれとたのんでるんや。このとおりや」
と会社の幹部は頭をさげ、
「それともなにか。キミはあれほどの才能のある子をつぼみのままで終わらせる気か。花を咲かせ実りを待つのが監督たるものの務めやないか」
と弱味をついてきます。ついに宏は降参しました。
「キヌちゃん、ごめん。好きな人ができたんや。キミもいい人をみつけて幸せに暮らしてくれ」
と伝言を残して去っていきます。絹代はこんなみえすいた口実を作る宏が気の毒で、一晩中泣いたといわれます。こうして彼女の初恋は終わりました。
女優としての絹代は順風満帆(まんぱん)です。小津安二郎監督の「大学は出たけれど」「落第はしたけれど」は、昭和初期の経済不況をコメディタッチで吹きとばすほど当たります。
また五所平之助メガホンの「マダムと女房」は、日本では初めてのトーキー映画(音声と画面が同時に出る映画)です。
それまでは画面は動くだけで無声、活動弁士(カツベン)と称する説明者が横に立って画面の内容を説明し、あわせて客席前の楽隊が演奏する仕組みでしたから、
「ひゃあ、画面がモノをいうで」
とみんなびっくりします。このトーキー映画からマスクがいいもののせりふの下手な、あるいは声の悪い女優は消えていきます。
ところが絹代は(一)でのべたように少女琵琶の出身だけに声がいい。まるで鈴をふるような美声で、特色のひたむきでいじらしい演技にぴったりです。
昭和8年(1933)平之助は、この美声をいかそうと初めて文芸映画川端康成作の「伊豆の踊り子」のヒロインに、絹代を起用しました。

昭和8年(1933)映画監督五所平之助は、川端康成の名作「伊豆の踊り子」を映画化し、ヒロインに絹代を起用しました。何度も映画になった作品ですが、踊り子役のNo.1は絹代、No.2は山口百恵だと今もいわれています。絹代からひたむきないじらしさをひっぱりだした平之助は、今度は猛烈な演技指導をします。目の位置から指先の動きまで、そのうるさいこと、やかましいこと。絹代が泣きだしても許してくれません。しかしこれが晩年演技派女優のトップだと評価される彼女の財産になるのです。文芸づいた絹代は、島津保次郎監督の谷崎潤一郎作「お琴と佐助」、野村浩将監督の川口松太郎作「愛染かつら」に主演します。
両作とも若者から年寄りまで魂を奪われた名画ですが、とりわけ白衣の天使(看護師のこと)高石かつ枝に扮した彼女が、若い医師役上原謙と演じた悲恋物語「愛染かつら」は、まさに一世を風靡(ふうび)、続篇・完結篇と続き、空前の興行成績をおさめます。主題歌の「旅の夜風」(花も嵐もふみこえて…)は、ミスコロンビアと霧島昇がデュエットで歌い、今も中高年の皆さんの愛唱歌になっています。文字どおり花も嵐もふみこえて生きたかつ枝の人生は、昭和初期のロマンそのもの、絹代の熱演はむりにひき裂かれた初恋の人清水宏への思いが凝縮し、まさに神がかりでした。
この時代から大日本帝国の中国侵入政策が始まります。昭和11年(1936)の二・二六事件(青年将校らが首相官邸を襲い、大蔵大臣高橋是清らを暗殺した事件)がおこり、社会不安は増大、軍部は力で政治に介入し、翌13年盧溝橋(ろこうきょう)事件(中国で軍事演習中の日本軍が襲撃されたと称し、中国軍や民衆に報復した事件)を皮切りに、日中戦争が勃発します。
「この非常時だというのに、不潔な男女の恋など不謹慎もはなはだしい」
「時代錯誤(さくご)だ。極寒不毛の戦地で戦っている兵士たちに、活動屋(映画関係者)はあいすまぬと思わぬのか」
と圧力をかけられ、愛染かつらはへし折られてしまいました。
それでも絹代の人気は落ちません。この年渋谷実監督の「母と子」や、同19年(敗戦の前年ですよ)の木下恵介メガホンの「陸軍」では、出征するわが子を見送る悲痛な母の気持ちを、絶妙な演技で代弁してくれます。

東京で空襲の始まった年、清純な娘スター田中絹代は、軍国の母役に転じますが、アイドルとしての人気はまだまだ衰えませんでした。しかし人間田中絹代の実生活は、淋しく幸せの薄い毎日だったのです。スターなるがゆえ、会社やファンが要求する虚像を日常生活でも演じなければなりません。もちろん気軽なお喋りのできる友だちは、ひとりもおりません。買物も食事も自由にできず、あいかわらず母娘2人暮らしです。その母ヤスは経済音痴のうえ、無類のお人好しでした。かつて故郷の下関で父久米吉が早世したとき、親切ごかしに寄ってたかって資産をまきあげた親類筋は、貧乏のどん底で母娘が大阪に夜逃げしたとき、鼻もひっかけなかったくせに、絹代の成功を知るや砂糖にたかる蟻のように群がってきます。ヤスは愛想よくすぐにお金を渡しました。
敗戦後絹代は誰もが 目を回すような大変身をとげます。きっかけは昭和23年(1948)溝口健二監督の映画「夜の女たち」に出演したことです。戦争に負けて廃墟と化した大都会の夜には、生きるために転落した夜の女(当時のことばではパンパン)たちが、たむろしていました。
健二は今まで国民が抱いていた絹代のイメージを、徹底的に破壊し、次から次におぞましい演技を要求したのです。彼女はすでに38才になっていましたが、あのとおりの美貌です。美しいだけに凄絶(せいぜつ=むごたらしいほどすさまじい)です。絹代のファンたちは顔をおおい、まともには見られませんでした。しかし評論家たちは絶賛します。
一般にアイドル女優の人気は短いものです。人間誰でも年をとる、いつまでも清純アイドルでおられるはずはない。それでからを破ろうとしますが、今までのイメージと異なりますからファンは横を向きます。名子役といわれた人が消えていくのはこのせいです。百も承知で絹代はなりふりかまわず、汚れ役に挑戦しました。
翌24年、絹代はハリウッドに招かれ渡米します。猫も杓子(しゃくし)も海外に行く現在とはちがいます。あこがれのハワイ航路の時代です。ところが3ヶ月ほどで帰国した彼女に、ファンは仰天しました。まるでマリリンモンローのような厚化粧、サングラス姿で空港におり、イエーッと投げキッスまでしたのです。世間は怒りました。

昭和24年ハリウッドから帰国した絹代の異様な姿に、反米感情が強くなっていた世間は、「アメリカかぶれしやがって」「ハリウッドの物真似するこっけいな女」などと厳しく批判し、彼女の人気はいっぺんに凋落(ちょうらく)していきました。しかし映画監督溝口健二はそうは思いません。彼女のマンネリを嫌う性格を十分に理解していたからです。投げキッスに苦笑していた健二は、なんとアメリカかぶれの絹代を、日本の古典を題材にした文芸映画に起用します。これがふたたび絹代ブームをまき起こした「西鶴一代男」「山椒太夫」、そして亡霊になって夫の帰りを待ちわびたやるせないやさしさにあふれ た上田秋成作「雨月物 語」(ベネチア国際映画 祭受賞作)などです。
新しく開発された絹代の演技力にほれこんだのが名監督木下恵介でした。脚本を見て思わずたじろいだ絹代をどなりつけて製作したのが、女優 田中絹代最大の傑作「楢山節考(ならやまぶしこう)=昭和33年上映」です。
「70才の老婆おりんの住む貧しい農村では、役に立たぬ老人を山奥に捨てるのがしきたりだ。やさしい息子辰平夫婦は捨てるのをいやがるが、おりんは自分で丈夫な前歯を折り、早くわしを捨てんかと催促する。生きているのが恥ずかしいとしがみつかれた辰平は、とうとう泣きながら老母を背負い、楢山の奥に入って放置した。雪のしんしん降るなかに、おりんはひとり凝然(ぎょうぜん)と正座して死を待つ…」というあらすじで、全く無名だったギタリスト深沢七郎の、中央公論新人賞受賞作品の映画化です。
「お姥(んば)捨てるか裏山へ 裏じゃかにでもはってくる…」
こんなことばが物悲しく作曲されてバックに流れる陰惨なクライマックスは、おりんに扮した絹代の鬼気迫る演技力もあって、大変な衝撃を与えました。
小津安二郎の「彼岸花」に主演したあと、熊井啓監督の「サンダカン八番娼婦館・望郷」で、あらゆる演技賞を独占します。これはからゆきさん(戦前海外に出稼ぎにいった貧しい娘たち)の老婆を描いたもので、ベルリン国際映画祭でも最優秀演技賞を受けています。
昭和52年(1977)3月、67才で永眠。今ふりかえると楢山節考のおりん婆さんを演じたときは、48才のはずです。とうてい信じられない姿でした。
 
社会運動の中心地―戦前の野田阪神―

 

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大正から昭和の十年代にかけて野田阪神界隈には総同盟・日本労働組合評議会・日本農民組合・大阪労働学校などが軒を並べ、大阪市史にも「工場と労働者街に囲まれたこの一帯は、あたかも大阪の社会運動の中心の観を呈していた」とある(新修大阪市史・第六巻)。しかしあまり語られていないし、所在場所も 街の変貌とともに不明確になりつつある。
この稿を起こすに当たり正確を期すため、当時の生き証人・羽原正一氏(一九〇二生・九三歳、友愛会にも加入し、大阪労働学校の卒業生でもある。大正時代より農民運動を中心に活動)を二回にわたり訪ね、聞き取り並びに現地案内をお願いした。ここでは大阪労働学校を中心に、当時の諸団体の所在と活動を跡づけてみたい。
産業の急激な発展
なぜこの野田阪神の地にこれだけ大衆団体の事務所が集中したのであろうか。
明治期後半から大正にかけて旧市街地に隣接する福島・野田周辺には工場と住宅の進出がめざましく、両者が混在し、煤煙・騒音の公害騒ぎ、労働争議も頻発するようになる。明治四十五年、硫酸工場煤煙・悪臭の公害にたいして草開町付近住民の工場移転要求町民大会が開かれ、大正二年には住友伸銅・日本紡績などの有毒ガス公害が社会問題化し公害反対運動が。大正四年、汚泥・悪臭・漁獲激減で漁民の公害反対運動も起きている。さらに大正五年には大阪亜鉛工業の有毒ガス被害で、住民はもとより家主までが借家人に逃げられると朝日橋署に工場移転を陳情するなど公害闘争は後を絶たない。産業資本は新天地を求めて、安治川筋を下り此花区の桜島・春日出・酉島へと巨大工場地を出現させていく。一方、港・大正方面にも藤永田・久保田鉄工・中山製鋼所など一大工業地帯が出現する。大勢の労働者がこれらの大工場、中小工場で働き、苛酷な長時間労働と低賃金のもとで自然発生的に労働争議も頻発するようになる。多くの場合、工場主の甘言にのり、あるいは明確な方針のないまま過激な闘争に走り、官憲の弾圧により敗北を繰り返す。
交通網の発展
産業の発展とともに大量の資材や労働者を運ぶ交通手段も急速な発展を遂げて、まず、西成線が明治三十一年四月五日、大阪駅より安治川駅までさらに明治三十八年には桜島まで。阪神本線は明治三十八年四月、阪神北大阪線は大正三年八月に開通する。市電も昭和初期までには此花区の桜島方面から、港・大正方面に開通する。これらの交通機関は、毎日、北から東から西からの大量の労働者を野田阪神を経由して工場に送り込む。国鉄野田駅、野田阪神駅、市電の停留所はこれらの労働者の通過点であり乗換地点であった。

以上二つの条件が相互に作用して労働運動の中心地となる条件が生まれたのであろう。
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大阪労働学校
どこの労働組合も個々に労働講座や講習会を早くから実行していたようだが、包括的な労働講座は大正九年十一月『関西労働組合連合会』の呼びかけで実現した。しかし労働講座は前後七回開かれたが、一年ほどで連合会が解散し、常設の労働学校までには至らなかった。大正十年十一月、賀川豊彦・西尾末広らを中心に大阪労働学校の建設運動が企てられる。設立事務所は友愛会大阪連合会(江成町二九二)に置く。府学務課、警察部保安課への手続きもやっと終わり(「警察は労働運動の一大城砦となることを予測して、なかなか許可しなかった」という)、いざ開校となると肝心の募金が思うように集まらず、途方に暮れる。発起人の一人である賀川豊彦の『死線を越えて』の印税を割愛する申し出によりやっと開校にこぎつける。
○第一次仮校舎
第一期の講座は賀川豊彦のつてで安治川教会(西区安治川通南一丁目)の二階を借りて始める。その開校宣言は「我々は有産階級の独占から教育を解放すべきことを要求する。……学問は大学の専売ではない……教そふる者も教はる者も熟と力がある。我が大阪労働学校こそ真にミネルバの神の嘉し給ふべき唯一の真の学堂なり」と高らかにうたう。第一期は定員五〇名に対し、希望する者が甚だ多く、組合に枠を按分割当てしたほど労働者の期待は大きかった。期間は三カ月をもつて一期(夜間・一日二時間半・三六回・九〇時間)とし前期と後期の二期を終了したものを卒業者とした。第一期の修了者は四七%、中途退学者の退学理由のほとんどは争議のための登校不能であり、なかには学生の全部を馘首した企業もあったという。第五期講座(大正十三年五月) までここで開く。
○第二次仮校舎
大正十三年五月、一年余も家賃を延滞していたため、賀川校長は教会より即時退去を要求される。やむをえず江成町にあった購買組合友愛会(現福島区吉野三丁目二二番二四号・近畿銀行の一画)の二階に引っ越し、第六期、第七期の講座を開く。
○第三次仮校舎
大正十四年一月、購買組合友愛会の都合により再び教室を移転。江成町一一〇番地の大島新一宅の二階六畳二間(福島区吉野三丁目)を借り第八期より第一〇期までの講座を開く。開校から三年間の実績がようやく世間一般に認められるようになり、東京の有島財団より毎月二〇円の補助金を受けることとなり、経営は安定期を迎える。
○大阪労働学校本校舎
故有島武郎の意志に基づいて設立された労働教育会に、吉野町一丁目三六番地(現吉野三丁目)の敷地八四坪余・建物四〇坪余を一万三〇五〇円で大阪労働教育会館として買収してもらい、大正十四年十二月三十日校舎及び事務所の一切を同所に移転する。第一一期より第四二期まで二年間、多くの労働者が巣立っていった。
この間の講師陣は、当時新進気鋭の社会学者で後世にも大きな社会的影響力を及ぼした人々である。その一部を列挙すれば、賀川豊彦・小岩井浄・西尾末廣・杉山元治郎・井上良二・坂本勝・細迫兼光・櫛田民蔵・森戸辰男・河野密・山本宣治・細川嘉六・住谷悦治・林要・大内兵衛・笠信太郎・清瀬一郎・河上丈太郎ほか……。講義の内容は経済学・財政学・哲学・労働組合論・社会運動史・失業問題・文化論・産児制限論・英語・露語など、驚くほど広範囲にわたっている。
『大阪労働学校十年史』によると、創立から一〇年間に学んだ学生は九四一名(修了者六一二名)、年齢は二〇歳未満二一%、二ー歳〜二五歳三九%、二六歳〜三〇歳二六%……。学歴は小学校卒三四%、高等小学校卒四四%、中等学校程度二〇%……。ほとんどが労働組合所属の若い労働者である。
昭和九年、森戸辰男夫人より校舎改築基金として一万円の寄付があり同所に洋式の木造二階建・七〇坪の立派な校舎が実現する。一階には大衆診療所も併設される。
○全労会館へ移転
昭和十二年三月、かつて全国労働組合同盟大阪連合が海老江上一丁目三一番地(現福島区海老江一丁目)に設立していた全労会館へ校舎を移し、第四三期より第四五期の短期講座を開く。しかし、講師派遣の中枢を担っていた大原社会問題研究所が東京に移転し、また日中戦争の勃発、労働運動の衰退など社会的条件も厳しくなるなかで労働教育も衰退の一途をたどってゆき、ついに昭和十二年、十一月十九日森戸講師の「戦争と思想」の講議が最終講座となる。こうして大阪労働学校は一六年の幕を閉じることになる。全労会館は昭和十四年八月より大阪市社会部福利課の授産所として利用される。
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友愛会大阪連合会 総同盟大阪連合会
友愛会は市内に散在していた支部を結集して大正六年五月二十七日友愛会大阪連合会を設立し、本部から派遣された松岡駒吉が責任者となり、事務所を西野田今開五九四番地(現福島区野田二丁目)の松岡宅に層く。その後、江成町二九二番地(現福島区吉野二丁目)に事務所を移す(移転年月日不明)。大正十年、総同盟大阪連合会と改称。
日本農民組合本部
大正十一年四月九日、賀川豊彦・杉山元治郎が中心となり神戸で創立大会を開いた日本農民組合は、本部を江成町一八三(現福島区吉野四丁目)の杉本元治郎宅(現亀岡メリヤスの一角)に置いた。この年に起きた三島郡山田村の大小作争議をはじめ、当時、全国で頻発した多くの小作争議の支援に大きな役割を果たしていた。昭和三年五月、全日本農民組合と合同し全国農民組合を結成し、本部を玉江橋北詰(現福島区福島二丁目一番・関電病院の川べり)に移転する。
日本労働組合評議会本部
大正十四年五月二十四日、日本労働総同盟と決別し神戸で創立大会を開いた評議会は本部を玉川四丁目の長屋の一角(現福島区野田三丁目)、にあった大阪電気労働組合の事務所に置く。国領伍一郎・河田賢治・三田村四郎・鍋山貞親・福本和夫などが出入りしていた。多くの労働者や警察・刑事・新聞記者が度々出入りするので、近所では「人買いのたまり場」と噂されていたという。その後事務所は西区本田へ、さらに東京へと移転する。
全労会館・全国労働組合同盟大阪聯合 (全労)
昭和十年、総同盟より第三次分裂した全国労働組合が、森戸和子氏からの寄付金一万円を基に組合員の拠金で海老江上一丁目三大番地(現福島区海老江一丁目)に全労会館を建設しここに事務所を置く。前述の大阪労働学校の最後の校舎も当会館の二階に置かれる。全労会館はその後、大阪市の授産場となり、現在は児童公園として利用されている。
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産業労働調査所
昭和初年頃(年月不明)江成町一六二番地の長屋の一角(現福島区吉野三丁目)に野坂参三・村山藤四郎(農民運動家)らが産業労働調査所を開設し情報の収集、発信にあたる。大正十五年より日農香川県連合会書記となった羽原正一氏は当時のレポを日本農民組合本部と当調査所の二箇所に送っていたという。三・一五治安維持法事件で関係者が検挙され事実上閉鎖となる。
大衆診療所
無産者診療所 昭和六年二月、大阪で最初の無産者診療所が阪神野田駅前の元高島屋(現大和銀行)すぐ西隣の長屋の一角に開設される(現福島区大開一丁目)。
大衆診療所 昭和九年、吉野町の大阪労働教育会館(前述)一階に、月会費五銭の会員及び労働団体により設立される。診療科目は内科・外科・眼科等七科目に及び広く利用されていたが、昭和二十年三月十五日の空襲により焼失。
浄正橋診療所 市電出入橋停留所の南側に、経営責任者・西尾末廣、会長・賀川豊彦により開設。入会費五銭で普通の半額で診療していた。当時の琺瑯製の看板を羽原氏が保存しておられる。
此花民衆診療所 設立年は定かでないが昭和十年頃、江成町一八三番地(現福島区吉野四丁目九番二二号・亀岡メリヤス)の一角にあった長屋に開設された。責任者大矢省三と書かれた当時の診療所の写真が残っている。

以上、大正から昭和にかけて野田阪神を中心に存在した大衆活動の拠点を列挙したが、街が大きく変貌するなかで永遠に忘れ去られようとしている現状に鑑み、乏しい資料、浅学の身も顧みず敢えて筆を執った。末尾にそれぞれの所在を地図に掲示した。正確を期したつもりだが区の変遷(北区から此花区さらに福島区へ)や町・丁目も度々変わり、更に住居表示となっている。一層の正確さは今後諸兄 の研究に待ちたい。
 
「歌謡曲」に見る戦後・昭和の世相

 

もう一つの昭和史
ドラマの時代設定を視聴者に伝える工夫はいろいろあるけれど、屡々(しばしば)用いられるのはその時代の流行歌をバックに流すという方法である。安易だが手っ取り早いので、私などもよくその手を使ったものだ。
半藤一利著『B面昭和史』にも当時のヒット曲や軍歌が再三登場するので、私たちの世代にとってはただ、懐かしい。また、これらの戦意高揚歌の替え歌までもが記されているのは、さすがB面の面目躍如たるものがあるが、関東と関西では多少の差違があったようである。
例えば「愛国行進曲」の場合――
みよ東条の禿頭/旭日高く輝けば/天地にぴかりと反射する/蠅が止まればつるとすべる……
と元歌の要素をかなりなぞっているけれど、私たちが子供の頃、京都で歌っていた替え歌は次の通り。
みよ東条の禿頭/よくよく見れば毛が三本/頭の上で運動会/つるりと滑って一等賞……
ほかに「湖畔の宿」の替え歌も東西では少しばかり違っていたようだが、それはさて措くとして、この六百ページになんなんとする『B面昭和史』は、B面だけでは始末が付かずにA面が顔を出すと、途端にA面、即ち正史の部分のいやらしさ、いかがわしさが否応もなく際立って、B面の時局に追随迎合する民衆の愚かしさや滑稽と相俟っての二重奏を盛り上げることになる。
しかし、年代を経るに従って昭和19年、20年の第8話『鬼畜米英と神がかり』ともなると、BもAもなく両面が破滅的地獄の様相を呈して、わずかに少年時代の作者に対して「坊」と語りかけるおやじさんとの会話に救われる。
戦争に負けると、男は全員が南の島で一生奴隷に、女はアメ公の妾になるのだと流布されていた。玉音放送の後、作者が父親に真偽のほどを確かめると、「バカもん」と一喝される。
「なにをアホなことを考えているのだ。日本の男を全員南の島に運んでいくのに、いったいどれだけの船がいると思っているのかッ。日本中の女性を全員アメリカ人の妾にしたら、アメリカの女たちはどうするんだ、黙っていると思うか。馬鹿野郎」
「リンゴの唄」への違和感
こうした父子の会話は作中随所に挿入されていて、蚊帳の外に置かれていた当時の民草がせめてこのおやじさんくらいの知恵と懐疑を保っていてくれたらと思わせられる。
しかしながら社会党の浅沼稲次郎にさえ時局を見誤るような言及があったと知れば、仕方がなかったのだろう。
ジャーナリズムが屈してしまえば、今後も日本の民衆は政府の甘言や誤魔化しや危機感を煽る脅しに騙され呑まれて、愚かしさと滑稽を演じることになるのではないかとの疑懼が去らない。

さて、『歌が街を照らした時代』に登場する歌の数々はほとんどが戦後の流行歌である。
著者の久世光彦さんは歌好きを自称するだけあって私の脚本で向田邦子さんの『冬の運動会』を舞台化したときも、ドラマにはなかった挿入歌を十曲ほども流し、かつ主演女優に歌わせたりもした。そんな久世さんが「リンゴの唄」だけはどうしても歌う気がしなかったと言うのである。
「こんなに明るくていいのか、という身も世もない羞恥心」の故で、「天から降ってきた〈自由・平等〉あるいは〈民主主義〉」とも書いているから、昨日まで鬼畜米英を叫んでいた教師たちが終戦を境に民主主義を唱え始めたことへの気恥ずかしさと同質のものを「リンゴの唄」に嗅ぎ取ったということだろう。
好きだったのは重くてデカダンな「悲しき竹笛」「東京の花売娘」「かえり船」「港が見える丘」「妻恋道中」だと聞けば、同世代としては膝を打って共感するというものだ。
あの頃の歌は文語体の歌詞も多かった。本書に取り上げられてある流行歌以外にも西条八十作詞の「お菓子と娘」や淡谷のり子が歌った「おお、去にし春よ……」から始まるマスネーの「エレジー」などは徹頭徹尾文語調で、私たちはこれらの歌詞によって文語表現の機微に馴染んだのだ。

『夢あたたかき―向田邦子との二十年』にも触れられているけれど、久世さんは子供時代を送った昭和10年代にひとかたならぬ執着があって、向田さんとの正月ドラマの舞台、時代背景はすべてこの設定となる。
昭和4年生まれの向田さんならば、10年代を書くのはお茶の子さいさいであるし、おそらく大正時代のことも両親を通じて共有しているから守備範囲としては分厚いものとなる。そんな向田さんが久世さんにとっては脚本家としても先輩としても頼りになる長女としての姉だった。
それにしても向田さんには新しい読者が雨後の竹の子のようにどんどん簇生してきて、テレビの「寺内貫太郎一家」など知らない世代の女子中学生や女子高生が途切れることなく繋がっている。
こんなに息の長い作家はいないと驚倒していた久世さんも10年前に逝ってしまい、昭和全体を体現する知的アイドルとしての向田邦子熱だけは現在も連綿として発酵しているのである。
 
昭和史の失敗から学ぶ

 

失敗とは何か
失敗とは何か、それには失敗の基準をはっきりさせておく必要がある。それには三つの基準がある。
1.戦後民主主義という物差し
これは連合国側の価値観に根ざしている面があり、そこに限界もある。
2.近代化という物差し 
日本の近代化には特異性があるので、それを勘案しなくてはならない。
3.個人的体験という物差し
私は昭和史の真実を知るべく、関係者から聞きとりを行った。実際に戦争に参加した人たちの生の声を聞いた。その個人的体験から抽出されたものも物差しにしたい。
さて、私は昭和史を調べるに際し、まず「東京裁判」に取り組もうと考えた。が、当時は、判事や検事がまだ生存していて、取材するには語学から始めなくてはならず無理だと思った。そこで代案として、東条英機を調べてみようと思いついた。まず東条を知るいろんな人に手紙を出してみた。そのリストは約200名、意外に多くの人が会ってくれた。私に話すことで歴史として残るかも知れないと考えた節があった。
そしてわかったことは 左翼体験だけからみた見方は、無理がある、飛躍がある、現実に即してないということだ。そして戦争の底流には西洋近代に対する攘夷の気持ちが下部構造にあることを感じ取った。
三つの視点
さて、本題の歴史における失敗だが、それを捉えるには3つの視点があると思う。
1.近代化という視点。
2.天皇制の視点。
3.村落共同体、下部構造からの視点である。
国力からして失敗が目に見えてるのに、なぜあんな大国のアメリカと戦争をしたのか。また、戦争をいつ終わらせるかも明確でなく、やみくもに戦争にのめりこんでいったのは何故か。その背景にあるのは、日本の近代化の特異性にあると思う。
近代化には3つのタイプがある。ブルジョア革命(フランスやイギリス、米国)、上からの革命(ドイツ、日本)、共産革命の3つだが、日本はまさに上からの革命の典型である。明治維新以降の近代化、それは国家主導であり、結果的に軍事主導体制につながっていった。そして天皇の名において、上から下へ強圧的に押しつけていった。
具体的にはそれには2つの手段があり、戦時においては恫喝と甘言だった。
そこで当時、天皇はどんな気持ちだったのかを知ることだが、忖度する方法は3つある。
ひとつは御製、公表されているものは800首ある。それを分析していくと、戦争への申し訳ない気持ちがよく現れている。2番目は 側近たちの回想録で、木戸日記、入江日記など天皇は相手によって言葉を使い分けている。第3は記者会見でのお言葉である。
そのなかでたとえば、原爆について「戦時下だからやむをえない」といっている。が、実際には責任にかかわるようなことは触れていない。その意味で天皇は最大の政治家であったと思う。
政策決定集団の責任
問題は軍部を主体とする政策決定集団だが、いかに主体性がなかったかということがわかる。というのは開戦の理由について、「私たちは平和を望んでいるのに、アメリカは拒絶し、中国は耳をかさない。だからやむをえず、戦争するのだ」という姿勢。あくまでも受け身で、意図が妨害されたからやる、我慢に我慢をしたがやむをえずやる。戦争責任はうやむや、相手の責任にしている。昭和16年6月に独ソ戦が始まって、どうするか。結局、南進論がとられる。南の石油をおさえてもアメリカは何もしないだろうという甘い考えでやっている。見通しがいかにもおかしい。
また、戦の大義名分がはっきりしてない。西洋列強の帝国主義によるアジア支配に対抗して歴史的使命として戦うのだと宣言していれば、なんとか説明がたったのに、それもしてない。現実には初戦の勝利で東洋の国々を解放した。でもそれはその瞬間だけで、その後は西洋列強に代わって自らが帝国主義的支配を行った。
それは政策決定集団に、歴史的使命感、理念、思想がなかったからだ。行き当たりばったりの、目先の利害で決めていた。そこに大きな問題がある。
当時の日本にはそれほど人材はいなかったのかといえば、事態のわかっている人材も数多くいた。視野の広い、理念をもった人もいた。たとえば陸士の19期に入った人材たち、その年は一般中学からのみ募集していれたのだが、それは幼年学校から入ってくる連中と違う資質をもっていた。たとえば本間雅晴、今村均はそうした人たちだった。しかし、そういう人材はいずれも軍の中枢から排除されていった。最後は、東条の息のかかったものだけになってしまう。
それまでは天皇機関説が生きていたのだが、それを払拭し崩壊せしめたのは東条である。東条は天皇を神格化し絶対化していく。そして政府大本営連絡会議は20人足らずの要人で構成されるが、重要事項はすべてそこで決定している。その言い分が「事ここにいたって、志に反して、開戦する」というだけで、なんの理念もなく、思想もなく戦争を始めてしまう。当時の指導者には、まったく経綸がない。
東条は「戦争は負けたと思った時が負けなのだ」という考えだ。だから負けたといわないかぎり主体的には負けていない、実際の軍事では2年くらいしか戦っていない。あとは精神だけで戦っている。大本営発表というのを846回行っているが、実際に戦況がよかったのはそのうちわずかの期間だ。その後だんだんウソをつくようになっていく。昭和19年にはウソもつけなくなってきた。その結果、大本営発表は極端に少なくなっている。 そのころ天皇には情報がはいらなくなっている。軍事指導者は都合のいいときだけ報告し、都合のよくないことはいってない。その間、天皇は実は短波を聞いていた、英語の出来る侍従を通じて情報を得ていた。
天皇制と攘夷の精神
明治がつくってきた天皇制システムは明治人の個人的能力に依存していた。しかし昭和という時代には組織が担っている。が、もうそれは機能しなくなっており、やがて解体してしまう。終戦工作にしても日露戦争の時は伊藤博文が開戦と同時に金子堅太郎を米国に派遣して、米の世論を味方につけるように努力し、あわせて終戦工作も始めている。ところが太平洋戦争の場合、やみくもに戦うだけで、どう終結するか考えてない。
それにしても戦争に対し何故あれだけのエネルギーが全国に漲っていったのかは興味ある問題だ。それは攘夷の情念が国民的にあったからではないか。開国以来、攘夷のエネルギーがたまっていた、西洋化に納得していない心情、日本文化となじまない西洋化に違和感があってそれが戦争を支えたのではないか。
近代化とは資本主義のもつ効率的な経済システムや政治的には民主化すること、権利を保証するシステムをつくることだったであろう。が、それが村落共同体や情念的な社会空間では無理があった。西洋的システムに納得してない、文化がなじまないと国民は思っていた、つまり近代の仕組みの中でそうした不満が大衆の中で反発のエネルギーとなっていたのではないか。 そうした近代化を80年くらいでやろうとしたところに無理があった。その意味では失敗というより通過儀礼と言うべき面もあるのではないか。
 
唐九郎の逃避行

 

・・・プロレタリア俳句運動弾圧の黒幕といわれた、一癖も二癖もある寶雲舎(ほううんしゃ)の小野賢一郎(東京日日新聞社会部部長を辞して陶芸関連の出版社「寶雲舎」を興す。食通で古陶愛好家、俳人。今日の陶芸ブームの礎を築く。大正11年、瀬戸で開かれた俳句の会で知り合う。唐九郎より9歳年上)を籠絡して世紀の大企画『陶器大辞典』の実質を乗っ取り(同辞典の巻頭で、唐九郎は小野を持ち上げておきながら、とどのつまりは自分の精密な資料と努力だけでできたと言わんばかりに述べ終えている。自身の回想記『かまぐれ往来』では、病床の小野が「どんなやり方でもいいから、すべてをきみに任せるから早くやってくれと頼むから仕方なくぼくが引き受けることになった」と述べている。自己肯定への欲望が並でない)、「二人で仲よく作陶を」との甘言を以て半泥子に翠松園(すいしょうえん)なる窯場兼住宅を建てさせ、立ち退きでもめると自分が支払ったわけでもない自分宛の領収書を裁判所へ提出して居住権に訴え、これを奪い取り(これがもとで半泥子は唐九郎を絶縁。詳細は川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』)、また支援者の本多や高橋には自分の窯で作ったものを古瀬戸と偽って高く売りつけたことも、すべて彼にかかれば「些末なこと」となり、結局はこの業界独特の価値観「騙されたほうが悪い」という超法規を以て不問に付されてきたのだった。
日本陶磁協会の名古屋支部長で古陶の目利きとして、また紳士として知られた高橋茂などは、唐九郎窯の破片まで「古瀬戸の優品」として買わされ、さまざまな支援を行い名古屋の骨董愛好会(素玄会・そげんかい。本多静雄が世話役。既出)で長い間仲よくしていたにも拘わらず、臼井(高橋とは松本中学の同窓生で大親友)に自分への悪口を書かせたのではと疑うと、唐九郎はたちまち絶交を言い渡す始末。
この件については、常滑市立陶芸研究所顧問の澤田由治が私家版『陶工、二十世紀』(平成6年。前出)の中で、「(高橋と)終生近く深い交際を続けた唐九郎のこの大誤解は、如何にも残念なこと(中略)。私は(高橋からその話を)聴きながら、(唐九郎の態度はあまりにもひどく)、唐九郎は、これでは、地獄行きだと思った」と回想している。
芸術という絶対世界にのみ許される超俗の方程式を自分に都合よく当てはめ、「何が悪い」と傲岸不遜にも理屈を捏ねる。小山冨士夫は唐九郎がパリへ飛んだ翌日に滝本へ当てた手紙の中で「唐九郎という人は洵(まこと)にめづらしい人物で、(中略)やがては松本清張か井上靖あたりが書いたらいゝと思っています」と脳天気なことを述べているが、被害者である小山にしてからがそういう受け止め方だから、なるほど世間は唐九郎の傲慢と破天荒が面白いのだった。
ちなみに骨董の世界にはニセモノを掴(くさ)んでも返品しない文化がある。騙されたほうが悪く、騙した方が勝ち。損害は授業料だと見なされる。騙されたほうは尻尾を巻いて逃げ、騙したほうが威張って「君、骨董に手を出すのは金輪際およしなさい。火傷をするだけだよ」などと馬鹿にすることになっているが、この反社会的感覚は古美術品に対する美学を超えて業界人の私生活や価値観にまで及んでいる。この種の典型といっていい唐九郎の言動については、永仁の壺事件を理解するのにやがて役立つから、その時が来たら改めて詳述することにしよう。
さて瀬戸ではこのような唐九郎の人物像はよく知られていたから、永仁の壺に疑問の目が注がれたとき「あれはニセモノだ」と断じた者たちも、壺が彼と絡んでいるらしいと聞いた途端に関わりを恐れて黙りこくった。そして唐九郎がパリへ発ったと新聞に載るや、「アイツに金などあるはずがない。渡欧と称して、じつは瀬戸の山中に潜んでいる」と噂した。
しかしこれは中傷というより、理屈に適った想像だったというべきだろう。当時の海外旅行は今とは違って莫大な金がかかった。6年前の昭和29年春に北大路魯山人が3か月間の欧米旅行をしたときは、贅沢な美食旅行を兼ねたこともあって、現在の金額にして1億円ちかい旅費を準備している。魯山人はこの借金が払えなくて貧乏暮らしの晩年を余儀なくされたが、当時はそんな時代(ドル解禁、海外旅行の自由化は4年後の昭和39年)だったから、唐九郎が飛行機に乗るところを見なかった瀬戸人たちは「アイツはまた大法螺を吹いて山にかくれた」と考えたのだ。
唐九郎は若いときから行方不明になることしばしばで、数か月してふらりと帰って来る。女のところにいたのかどこにいたのか家人にもわからなかったが、本人はいつも「山で陶土を探しておったんじゃ」と答えるのだった。
長男の嶺男は父親のこの性向について、「十歳の時父に従って瀬戸祖母懐(うばがふところ)に転居。父の研究及び放浪生活により母子六人の生活は最低線をさまよう」(松井覚進『偽作の顛末 永仁の壺』。注 / ここで述べている年齢は数え年。祖母懐はのちに一里塚とも述べられるが同じ場所を指す)と経歴書に書いている。家を顧みることのなかった唐九郎は根っからのヴァガボンドであり、悪くいえば身勝手だが、よくいえば絶対的自由人だった。
 
金日成主席 回顧録

 

・・・我々が日本本土を重視したのは、そこが日本帝国主義植民地支配の牙城であり、本拠であったからです。本拠を揺さぶれば、敵の心臓部を強打し、植民地支配を崩壊させるのにも大きな効果があるのです。
日本在住の朝鮮人、とりわけ強制連行された多くの朝鮮青年を意識化、組織化するのは、対日作戦が目前に迫っていた当時、軍事・政治情報を収集するためにも必要であり、戦争の弾よけになる運命の彼らをファシズム日本の魔手から救い、集団的に革命の側に引き込むためにも必要であったのです。
日本本土の反日勢力は、国内と海外の反日愛国勢力とともに、日本帝国主義を最終的に撃滅する対日作戦にさいして朝鮮人民革命軍の戦いに呼応し積極的に進出できる無視できない勢力でした。
日本の歴代天皇の年号をみると、彼らが他国の人たちに慈愛でもほどこしてくれそうな印象を受けます。「明治」「大正」「昭和」という年号は、どれももっともらしい意味をもっています。ところが、昭和の時代は、日本が近隣諸国を人間屠殺場に変え、国際的な殺人魔として登場して数億の人類に不幸と災厄をもたらした時代であり、明るい政治を標榜した明治天皇は、朝鮮を取れ、東洋を取れ、世界を取れ、あれも取れこれも取れとサムライどもをそそのかしました。清国と戦争をし、ロシアとも戦争をして莫大な権益をせしめたのが、あの明治時代だったのです。その時期に、彼らは白昼、銃剣を振りかざしてわが国を強奪しました。大正時代にも、日本は悪行をほしいままにしました。このように、歴史的に日本帝国主義者は、朝鮮人の生皮をはぎ、膏血をしぼりながら、あらゆる蛮行を働いたのです。
朝鮮人は、日本に連行され、犬畜生のように扱われました。人間を犬や豚、牛や馬のように扱うことにかけては、日本の右に出る国はありませんでした。朝鮮人は、日本に行きたくて行ったのではありません。軍隊や警察が、道行く人たちを捕まえては、荷物のようにトラックに放り込んで連れ去ったのです。夜中に肌着のままで連行され、日本に引かれていった人もいます。強制連行しては、軍隊式に隊伍を組み、わずかな自由も与えませんでした。船や汽車で輸送するときは、便所にまで見張りをつけて監視しました。
日本人は朝鮮に来て、「一視同仁」という言葉をさかんに使いました。いわば、朝鮮人を日本人とまったく同じように見るということです。それは甘言にすぎません。「一視同仁」が日本人の本心なら、どうして自国に引っ張っていった朝鮮人を牛馬のように虐げたのでしょうか。
旧日本を描いた文学作品のなかに「たこ部屋」という言葉が出てきますが、それは「タコつぼ」「タコ穴」といった意味です。タコは、岩礁の穴にすんでいます。北海道の土木労働者は、もやし箱のような宿舎を「たこ部屋」と呼んでいました。「監獄部屋」と呼ぶのは危険なので、遠まわしに「たこ部屋」と言ったのです。朝鮮人労働者の寝起きする飯場は、「半島部屋」と呼ばれました。半島から来た人の寝泊りする部屋という意味ですが、そこは「たこ部屋」よりもっとひどかったといいます。夜は、外から錠をおろし、何匹もの犬がいて、逃亡はおろか、戸外への出入りもできませんでした。一言でも朝鮮語を使おうものなら、竹刀や棍棒で労働者を突いたり殴ったりしました。逃亡をはかると、鼻にひもを通して、あちこち引きずりまわすようなこともしました。日本の請負業者や雇用主は、朝鮮人労働者の背中を刀で割いて、その中に焼いた鉛のかたまりを入れるという拷問まで平気でしたものです。癇にさわると、作業現場で労働者を殴り殺して水の中に投げ捨てたり、コンクリート・モルタルの中へ埋め込んだりさえしました。
民族的自尊心の強い朝鮮人に、そんな虐待や侮辱が甘受できたでしょうか。朝鮮人は、おとなしく、素直ではあっても、負けん気は強いのです。日本に徴用や徴兵で引かれていった人は百数十万にのぼったといいますが、彼らはみな腹に一物もっていたのです。それは何かというと、日本を滅ぼそうという腹でした。抗日遊撃隊が朝鮮に攻め込めば、自分たちもいっせいに立ち上がって日本帝国主義者をうちのめそうという腹だったのです。こういうことを考えていたのは、労働者だけではありません。日本に渡って勉学していた青年学生もみな、そんな考えをいだいていたのです。日本にいる朝鮮人留学生は、1万余にのぼったといわれています。留学生が1万名を越えるというのは少ない数ではありません。
わたしは、日本での朝鮮人の惨状を耳にするたびに、心が痛んでなりませんでした。それにくらべれば、満州にいた朝鮮人はそれでも我々の保護を少しは受けていました。ところが、日本にいる朝鮮人はそんな保護を受けることができませんでした。それで我々は、彼らをなおさら同情したのです。しかし、同情だけで彼らを救えるものではありません。人間が人間に同情するのは、誰にでもできることです。搾取と抑圧に苦しむ人民大衆に、共産主義者がしてやれる贈り物のうちでもっともすばらしいものは組織です。組織だけが人民を破滅から救うことができるのです。・・・ 
 
昭和の犯罪

 

1 商取引をめぐる事犯
訪問販売等の取締り
経済活動の多様化を背景に、訪問販売、通信販売、連鎖販売取引(いわゆるマルチ商法)等が普及しており、消費者保護上問題となっていた。昭和51年12月にこれらを規制する訪問販売法(訪問販売等に関する法律)が施行されたのに伴い、連鎖販売取引等の強力な取締りを行った結果、7連鎖販売業者の違反をはじめ訪問販売法違反302件、303人を検挙した。被害者の多くは主婦、OL等で占められており、警察では、今後とも取締りを強化するとともに被害の未然防止に努めることとしている。
〔事例〕 連鎖販売業者(43)が高級ホテル等に会員勧誘説明会場を設け、会場にムード音楽を流すなどの方法で豪華なふんい気を作り、参加者を握手ぜめにするほか、加盟すれば誰でも高収入が上げられ人生はバラ色に輝くなどと成功談を誇大に披ろうするなどにより、会場のふんい気を異常な状態とし、商取引に無知な婦女子、会社員らを加盟させ、多額の取引料を出させて多数人に損害を与えた(愛知、長野、広島)。
詐欺的商法の取締り
庶民の利殖欲、投機心を利用した業者が、甘言を用いて市民の零細な資金を吸い上げ被害を与えていた預り金の禁止違反、有名な商標を盗用して暴利を上げていた商標法違反等の詐欺的商法を70件検挙した。
〔事例〕 繁華街のビルに商品委託販売展示場を開設した業者(41)が、ドリーム商法と称し、主婦らに対し「会社に現金を預ければ会社が商品を仕入れて販売し、毎月配当金を支払う。」等と大々的に宣伝して多数人から数億円の預り金をしたが、会社経営が行き詰まって多数人に損害を与えた(警視庁)。
2 暴力団 犯罪が生活の糧
暴力団は、あらゆる手段を用いて資金獲得を図っているが、犯罪によるものが中心となっていることはいうまでもない。その種類としては、覚せい剤、ノミ行為、企業恐喝、賭博が多い。昭和52年に検挙された暴力団が犯罪により取得したと推定される金額は、約303億円で、その内訳は図2−11のとおりであるが、このほかにも暴力団へは様々な形で巨額の資金が流れ込んでいるものと思われる。
覚せい剤は最大の資金源
昭和52年に暴力団が覚せい剤事犯によって取得したと推定される資金は、検挙によって判明しただけでも約191億円に上っており、犯罪による取得金推定総額約303億円の63.0%を占めるなど、覚せい剤は暴力団の最大の資金源となっている。また、覚せい剤事犯の全検挙人員に占める暴力団員の割合は、55.6%に上っていることから、覚せい剤のほとんどは暴力団の手によって供給されていることがうかがわれる。
このように、暴力団が覚せい剤に関与する最も大きな理由は、現在使用されている覚せい剤が粉末で、隠匿、運搬が容易であり、しかも、ごく少量の売買でばく大な利益を得ることができるからである。ちなみに、香港ルートの密輸、密売事件からその形態と価格の流れをみると、図2−12のとおりで、末端使用者が密売人から購入する時点では、仕入れ価格の実に40〜50倍もの異常な高値(1g、20〜30万円)で取引され、その利益が暴力団に流れている。
〔事例〕 暴力団清水組幹部(46)は、組織の資金を獲得するため、50年暮れから51年9月ごろまでの間、数回にわたって韓国から覚せい剤約3キログラムを空路密輸入し、組織ぐるみで静岡県内一円に密売し、総額1億円に上る利益を得ていた(静岡)。
ギャンブルに巣食う暴力団
賭博、ノミ行為等は、古くから暴力団との関係が深く、現在でも依然として暴力団の主要な資金源となっている。昭和52年に、暴力団が賭博によって得たと思われる金額は、検挙された者から推定しただけでも約18億円にも上っている。
また、ノミ行為も年ごとに高まるギャンブル熱の影響を受けて暴力団の格好の資金源となっており、検挙人員に占める暴力団員の比率は51.8%と高い。ノミ行為を通じて暴力団へ流れたとみられる金額は約34億円であり、覚せい剤に次いで多い。更に52年中には、暴力団員が公営競技の選手と共謀していわゆる八百長レースを行い、巨額の利益を得ていた事例もみられた。
〔事例1〕 日本国粋会系暴力団首領(64)らは、52年4月ごろから都内の金融業者ら約40人を旅行会名目で賭博に誘い、温泉旅館において賭博を開帳し、約6億円の賭金を動かし、テラ銭として約5,000万円の利益を得ていた(警視庁)。
〔事例2〕 稲川会系暴力団の幹部ら2人は、10月から11月にかけて、中山競馬等に関し、商店主ら多数の賭客を相手に、約1億円の申込みを受けてノミ行為を行い、約2,000万円の収益を上げた(神奈川)。
性を食いものにする暴力団
昭和52年に売春防止法違反で検挙された暴力団員は、275人であるが、売春事犯の中でも最も悪質な管理売春事犯に占める暴力団の比率は高く、売春と暴力団組織との関係が依然として根深いことがうかがわれる。 52年においても、暴力団が女子中学、高校生や主婦、OL等に甘言をもって近づき関係を持った後、暴力を背景にこれら女性を売春婦として働かせたり、ストリップ劇場にあっ旋したりして資金源にしていた事例が少なくなく、安易な享楽的風潮を利用して婦女を食いものにする事例が目立った。
このほか、ブルーフィルムやわいせつ図画等の密造、密売事犯も多く、これらの風俗関係事犯は依然として暴力団の大きな資金源となっている。
〔事例〕 山口組系暴力団幹部(33)らは、知り合いの高校生(16)を通じて公、私立高校の女子高校1年生のグループ計9人を勧誘して、1回3万円から15万円で売春させ、その中から多額のあっ旋料をピンハネしていた(奈良)。
 
男に貢ぐ女たち 三大銀行横領事件

 

滋賀銀行9億円横領事件
1973年10月21日、滋賀銀行山科支店のベテラン行員・奥村彰子(当時42歳)が横領の容疑で逮捕された。奥村は同年2月までの6年間で、およそ1300回にわたって史上空前の9億円の金を着服、ほとんどを10歳年下の元タクシー運転手・山県元次(当時32歳)に貢いでいた。
奥村は1930年12月に大阪府北河内郡で生まれた。3人姉妹の末っ子である。一家はその後、京都市左京区に移り、奥村は48年3月に市立堀川高女を卒業した。この頃、学制改革があり、奥村は高等学校3年に編入したが、7月で退学している。これは、父親が愛人をつくって家を出ていったことで男性不信になった母親が男女共学に反対したからである。そしてその年の12月、奥村は滋賀銀行京都支店に入行した。「男の人には負けたくない」と熱心に仕事にとりくんだという。一方、恋愛の方はと言うと、男性嫌いの母親のこともあってか、縁談などもなかなかまとまらなかった。
1965年春、北野支店で勤務していた奥村は35歳になっていたが、この頃山県元治(当時25歳)と出会っている。当時、奥村は付き合っていた男性とケンカをして沈んでおり、職場の懇談会のあとタクシーで拾ったのだが、酔っていたこともあって涙を流した。この時、「どうされたのですか」と優しく尋ねてきたこの若い運転手が山県だったのである。2人は話しこみ、奥村の方から「酔って帰ったら母がうるさいからドライブしよう」と誘った。30分ほど京都市内を走ったところで奥村はタクシーを降りたが、別れ際に「××銀行の奥村彰子です」と嘘の銀行の名を言って去った。優しく語りかけてくれる山県は魅力的にうつり、「また会いたい」と思ったが、自分に自信がないことからの嘘だったのだろう。
奥村はこの後、山科支店へ転勤となる。職務は普通預金係だった。66年春、奥村は帰宅途中のバスのなかで、突然「あの時の彰子さんではないですか」と山県に声をかけられた。奥村はすっかり彼のことを忘れていたが、声の調子で思い出したという。山県は琵琶湖競艇の帰りで、負けてきたとのことだった。山県は奥村をお茶に誘い、京阪三条南口の喫茶店で話しこんだ。山県の話によると、小遣いがたくさんあるのでギャンブルで負けても平気とのことで、兄は下関で大きな商売をやっているということだった。山県の話は景気がよくておもしろく、奥村は夢中になりつつあった。定期預金の大募集期間だったこともあって、奥村は「私の銀行に貯金をして欲しい」と頼んだ。奥村はこの日以後、数回山県に電話をしてみたが、その都度断られた。山県にしてみれば、「年上の、あんなきれいな人が電話をくれるなんて、きっとからかわれているだけだ」と思っていたのだが、そうした態度に奥村はさらに積極的になっていった。固いだけの同僚とは全然違う。2人は数回の食事を経て付き合うようになった。
山県は1940年、朝鮮で生まれた。七男五女の五男坊で、父親は警察官をしていた。中学卒業後、豊浦高校に受験失敗。ガラス店で住みこみで働きながら、定時制の商業高校に通い始めるが、この頃友人に誘われて競艇をするようになった。一方で山県には歌手になるという夢があり、鼻を整形手術して、歌声喫茶で歌ったりしていた。おしゃれで、当然女性にもよくモテた。ガラス店に6年勤めた後、山県は独立。陶器店を開いたが、競艇ですぐに店をつぶしタクシーの運転手になった。この後、会社を転々と移っている。売上金の納金をごまかすからである。奥村とバスのなかで再会したのは何社目かをクビになった頃だった。
「ボート(競艇)をやる金がいる」山県がこう言ったのは付き合ってまもなくのことである。当初は5000円、1万円ほど貸していた。その金がたとえ返ってこなくても、奥村はよかった。しかし、要求は何度も続き、ついには自分や家族の貯金を切り崩すほどになっていた。山県はその金で中古のコロナを購入している。奥村はそんな山県に対して愛想を尽かすということはなかった。奥村にとって山県はもはや「最後のチャンス」と言ってもいい男だった。そして、この年下の男をつなぎとめておくだけの金が必要だった。
秋頃、奥村は普通預金係から定期・通知預金係に異動となる。この頃、奥村はバス会社を定年退職したKさんという男性と知り合った。Kさんは奥村に露骨に好意を示しており、奥村が預金勧誘用のパンフレットを見せると、Kさんは早速定期預金の100万円の小切手を届けてきた。奥村が定期の証書と印鑑を渡そうとしたが、Kさんは受け取らず預けたままとした。そんな話を奥村がデート中に山県に言うと、山県は「100万か。その金なんとかならんか。穴埋めは必ずする。アッちゃん頼むよ」と食いついてきた。奥村はこの時ばかりは「人のお金に手をつけることはできん」ときっぱり断った。
「いい車がある。買いたいんや。Kさんの金、なんとかならんか。必ず返すし、ちょっと貸してくれ。40万円でええから」滋賀県の近江八幡市へドライブに行った時、立ち寄った中古車センターで山県はそうねだってきた。奥村は「NO」と言えず、ついに11月8日、奥村はKさんの定期を偽造証書で中途解約し、100万円を引き出した。Kさんの定期は6ヶ月だったが、山県は借りた金を返すそぶりは全然見せなかった。さすがに焦った奥村は催促するが、「競艇で一発当てて返したる」とはぐらかした。
同年暮れ、Kさんは銀行を訪れて、奥村に70万の小切手を預けた。またも証書などは預けたままだった。奥村はKさんに気のある素振りを見せ、その後もせっせと預金をしてもらった。
翌67年5月、奥村、Kさんと肉体関係を持つ。定期を途中解約されては困るという理由からである。山県はそのことを聞かされて、ムッとしたが「やめろ」とは言わなかった。結局、Kさんは計1240万円の金を奥村に預け、それらはすべて山県へと流れることになった。
1968年1月、相変わらず山県の要求は続いていた。仕事始めの日、山県は銀行に電話をかけてきて20万円を要求。この頃にはすでにKさんのお金も底をついており、要求分を捻出するところなどどこにもなかった。困り果てた奥村は銀行の金に手をつけようかと迷い始める。そんな時、自分の預かっていた定期預金元票から20万円1年定期を見つけ、ついに預金証書を偽造した。あとは支店長とその代理の職印が必要だったが、油紙を使って転写、20万円をだましとった。
1度タブーを犯すと罪の意識も薄れたのか、奥村は犯行を重ねた。その手口も次第に大胆になっていく。定期の中途解約では追いつかなくなり、架空名義を作り上げて100万単位で引き出し始めた。1972年10月には定期・通知預金事務決済者を任されるが、このことも拍車をかけることとなった。
1973年2月1日、山科支店から東山支店に移ることになった。「ついにバレる」突然のことに動転した奥村に、下関にいた山県は電話で「睡眠薬を用意しとけ」と言った。奥村は心中を覚悟したという。ところが、8日に京都にやってきた山県は奥村に会うなり、金の催促をした。「一緒に逃げて。一緒に死んで。私死ぬ」奥村は何度もそう言ったが、山県は聞かず、300万円を持って下関へ帰ってしまった。
2月11日と13日、奥村は2度も下関へ出向き、山県に「かくまって欲しい」と哀願したが、断られる。奥村は一旦自宅に戻り、姿を消した。その頃、山科支店では大騒動になった。億を超す巨額金が失踪した奥村によって詐取されていることがわかったからである。2月19日、逮捕状が出され、奥村は全国に指名手配された。
当時、下関の山県は奥村の男友達としてマスコミから注目を浴びていた。定職もないのに、外車、モーターボートを数台づつ持ち、さらには豪邸に住み、ギャンブル遊びでは1000万円すった翌日、再び1000万をつぎこんだりしていた。おまけに山県の兄や母親たちも突然羽振りが良くなっており、どう考えてもおかしかった。
10月15日、山県はついにぞう物収受容疑で逮捕される。あっさりと奥村の所在も供述した。10月21日、滋賀県警は偽名を使って大阪のアパートに潜伏していた奥村を逮捕。指名手配写真は薄化粧の地味な雰囲気の女性だったのだが、この時の奥村は派手な洋服と厚化粧で別人に見えたという。結局、被害額は4億8000万円と見られていたが、2人の供述から7億を越していることがわかり、その後の裁判所の認定では8億9400万円にものぼっている。奥村はその途方もない金額を1300回にわたって引き出していた。
また山県は1970年5月に別の女性と結婚し、長女をもうけていることもわかった。彼女がせっせと「恋人」のために金を引き出している間のことである。
奥村彰子 / バブル景気のはるか以前に発生した事件ですが、この手の犯罪で発覚した最初のケースであったでしょう。 9億円という金も凄いです。たまたま知り合ったタクシー運転手が競輪狂だったことが彼女の不幸の始まりです。 定期預金の支払伝票を偽造することで金を引き出すという単純な手口で5年にわたって詐取するのです。 彼女自体はほとんど金を使っておらず、質素な暮らしをしていることも、これらの事件の共通点です。
滋賀銀行 / 株式会社滋賀銀行(しがぎんこう、英訳名:THE SHIGA BANK,LTD.)は、滋賀県大津市に本店を置く地方銀行。
足利銀行詐欺横領事件
昭和50年7月20日、足利銀行栃木支店の貸付係・大竹章子(当時23歳)が架空の預金証書を使って2億1000万円を引き出していたことが発覚、栃木署は大谷を詐欺および横領容疑で逮捕した。また、横領していた金を貢いでいた相手の石村こと阿部誠行(当時25歳)を同容疑で全国指名手配した。
大竹は2年前の昭和48年夏、友人と東北旅行した際、車中で「国際秘密警察員・石村」と名乗る阿部と知り合った。大竹は《世界中を駆け回り国家のために活動している》阿部に興味と憧れを抱いた。これを見抜いた阿部は、大竹に結婚話で近づき「国際秘密警察を抜けるため」借金を要求した。
これに対して大竹は自分の預金や家族から借金した金を阿部に渡した。味をしめた阿部は益々要求金額をエスカレートさせていった。思い悩んだ大竹は、銀行の金に手をつけるようになった。その手口は幼稚で、融資調査役の検印を隙を見て白地の手形・伝票(複写分含む)に捺して自宅に持ち帰り、自ら金額・定期預金名を書き込み、職場が忙しい時を狙って現金化するというものであった。
大竹は定期預金を担保に貸付する部門を担当。4年間の在職中、勤務態度も良好で真面目な大竹は上司や同僚からの信頼も厚く、このことが犯行の発覚の遅れとなった。一方、阿部は大竹から貢がせた2億1000万円で競馬情報会社やクラブを経営し愛人と派手な生活をおくっていた。
−発覚−横領が発覚したのは、「本店の抜打ち審査」であった。本店の監査人が栃木支店の帳簿を監査したところ次々と不審な担保貸付けの伝票が出てきた。そこで、貸付係の責任者や大竹をはじめ関係者に事情を確認した結果、大竹の犯行が発覚し警察に届け出た。
これを知った阿部は愛人と逃亡した。が、警察は9月17日に金沢で阿部の愛人を逮捕。翌18日、東京・五反田で阿部を逮捕した。大竹は、阿部に関して本名・住所・職業など一切知らなかった。捜査段階で東京・世田谷に住居する自称・会社社長の阿部であることを初めて知るという始末だった。裁判では、阿部に詐欺・有価証券偽造・同行使罪で懲役8年。大竹には懲役3年6ヶ月の実刑が確定した。
大竹章子 / 「国際秘密警察員・石村」と名乗る阿部と知り合った大竹は、結婚話に釣られて要求された借金に、自分の預金や家族から借金した金、やがて銀行の金に手をつけ、 白地の手形・伝票を使って、金を引き出し、数年にわたって貢ぎ続け、逮捕されたときも男の本当の名前も住所も知らない状態で、典型的な詐欺に遭い、それを勤務先から金を引っ張るという形で地獄を見たのです。
足利銀行 / 株式会社足利銀行(あしかがぎんこう、英称:The Ashikaga Bank, Ltd.)は、栃木県宇都宮市に本店を置く地方銀行。「あしぎん」の愛称で親しまれる。
三和銀行詐欺横領事件
現在に機軸を置くとすれば、これほど“時代”を感じさせる女性犯罪者はいない。「三和銀行オンライン詐欺事件」の伊藤素子である。昭和56年(1981年)3月25日、三和銀行(当時)大阪茨木支店において1億8,000万円の架空入金が発覚する。入金オンライン操作をしたのは預貯金係の伊藤素子(当時32歳)。伊藤は当日午前「歯医者に行く」と言い残し銀行から外出、そのまま帰ってくることがなかった。だが当初、上司たちは伊藤が関与したとは思ってもいなかったという。14年間、真面目に働いてきた伊藤は周囲からの信頼が厚かった。だが、端末機や伝票記録を調べたところ、架空入金をしたのは姿を消した伊藤だった。その後、伊藤は1億8,000万円のうち現金5,000万円を引き出しマニラへ逃亡したことが判明、さらに犯行は伊藤の単独ではなく、それを指示した恋人の南敏之(当時35歳)の存在も明らかになっていく。当時マスコミは、連日この事件を大々的に報じていった。それは1億8,000万円という金額だけにあったわけではない。美貌のベテラン行員伊藤素子の“存在”と“犯行の背景”があまりにセンセーショナルだったからだ。ワイドショーをはじめとするマスコミは「美人銀行員のカネと男」などと一斉にこの事件を大きく取り上げていく。
伊藤は昭和23年11月18日京都で生まれた。高校教師の父、茶道や華道を教える母、兄1人、姉3人の末っ子である。幼少期は友人も少なくひとり本を読むことが好きな文学少女だったという。性的にも極端にオクテな女子だった。男の教師が近くにくるだけで、体が震えたり緊張するといった具合に。地元の商業高校に入学してからも、その性格はあまり変らなかった。休日はクラシック音楽を好み、当時流行していたビートルズなどは敬遠していたという。だが実生活がオクテだからこそ、夢想する理想は高かった。当時の日記に伊藤はこう書きつづっている。「理想の男性は目がきれいで背が高く、星の王子様みたいな人」と。かなりのロマンティストであり面食いでもある。昭和42年、伊藤は三和銀行に就職し茨城支店に配属された。昭和42年といえば、時代は高度成長期の真っ只中である。ベトナム特需で日本がGNPで3位になり、ツイッギー来日でミニスカートブームが到来、ゴーゴーバーなど若者文化も華やかなる時代だ。また学生運動も盛んで、ウーマンリブ運動も萌芽を現したこの頃、しかし伊藤はそうした世流とは無縁だった。男性とデートをしたりするよりも、女性同士でピクニックに行く方が楽しいという性格で、高校時代には恋愛経験もなかった。そもそも就職にしても、伊藤自身「なんとなく銀行は好きではなかった」と気乗りしなかったようだが、教師の強い勧めもあり「先生の善意を感じて断れなかった」結果だった。自分の希望というより、世間体や周囲に流される――。これは伊藤というより、当時の時代、女性にある程度共通する意識だったのかもしれない。だが銀行は伊藤にとって適職だった。就職後、伊藤は小遣い帳を購入し、1円単位でも正確に書き込んでいった。お金はなるべく使わず趣味は貯金。金銭に対する細かさは家族に対しても例外ではなかった。「血は繋がっていても金銭的には他人だ」、これが伊藤の座右の銘というから、金銭的な執着と生真面目さを持ち合わせた女性でもあったようだ。社会人になってからもメンクイという“男の好み”は相変わらずだった。頻繁に持ち込まれる見合い。しかし一流企業の社員でも見た目が気に入らないと断り、身長を聞いては断った。もちろんデブは論外だったらしい。伊藤の極端な男の好みに加え、性格の生真面目さ、金銭に対する執着――これらは、その後伊藤が手を染めてしまう事件とは無関係ではない。こうした伊藤の“特性”こそ人生を崩壊させる遠因といってもいいものだった。
そんな伊藤が初めて男性と関係を持ったのは20歳の時だった。相手は銀行に出入りする関係会社のサラリーマンA(当時29歳)だ。しかし半年後、伊藤はAに妻子がいることを知る。だが伊藤はAと別れることはなかった。「(処女を捧げてしまった)この人を失ったら、もう正式な結婚なんかできない」。今から考えればあり得ないことだが、当時の伊藤は不倫よりも処女性を重視したのだ。その後「離婚する」というAの言葉を信じ、2度の中絶をも承諾した。Aとの関係はその後12年間にも及ぶのだが、そんな伊藤の前に現れたのが南敏之だった。JC(青年会議所)メンバーで旅行代理店を経営する南は、最初から妻子がいることを公言し、高級レストランで伊藤を口説いた。煮え切らないAとの不倫でボロボロになっていた伊藤にとって、南の態度は「男らしい」と映った。しかも南は185センチの長身で超ハンサムだ。「中学時代から夢にまで見た理想の男性」が現れたのだ。愛車のキャデラックに乗り、服装など身の回りの物もブランドで固め、財布には常に20〜30万円入っていた。「青年実業家といったタイプで、小遣いも派手に使う。そんなところが好き」。伊藤はすぐに夢中になった。セックスも「自分の体が怖くなる」ほどだった。だが伊藤がお金持ちと信じていた南は、実際には代理店の経営に行き詰まり金策に走り回っている状況だったのだ。肉体関係ができてたった2週間後、南は10万円の借金を伊藤に持ちかけている。伊藤はこれを了承した。すぐに返してもらえると思ったからだ。その後も30万円、50万円とさまざまな理由をつけ借金をせがむ南に、伊藤はお金を渡し続けた。キャッシュカードまで預けたこともあった。お金を無心するのは必ずホテルのベッドの中だったという。しかし次第に伊藤は不安になる。元来「家族でも金銭的には他人」という金銭感覚を持つ伊藤である。だが南は、「まとまった金が入る」など、その都度甘言を弄して伊藤から金を巻き上げていった。そして伊藤の預金がゼロに近づく頃、ついに南は銀行のオンライン詐欺を伊藤に持ちかけるのだ。当初は頑なに拒否していた伊藤だったが、南は「2人でマニラに行って日本料理屋でも開いて暮らそう」と必死に説得した。それでも決心の付かない伊藤に、南は脅しまでかけている。「裏の人間が動いているから引き返せない」「俺が殺されてもいいのか」。しかし、伊藤は南の脅迫や夢物語だけで犯行を決意したわけではない。伊藤の手記にはこんな興味深い下りがある。「彼に貸した750万円のことを思うと、大きな声でなにか叫びたくなるような衝動にかられました」。もし南の言うことを聞かなければ、このまま別れてしまえば貸した金750万円は返ってこない。こんな伊藤の金銭への執着、葛藤が存在したのだ。これまでコツコツ貯めた大切な財産への執着。後に伊藤はこう語っている。「婚期を逃した女の将来を考えると、私の場合お金だった」と。32歳で預金もなくなった伊藤。その上「この男に捨てられたら人生はお終い」と強く感じたことが、犯行を決意する最後の後押しとなった。
犯行当日の3月25日。出社した伊藤はオンラインを操作し、事前に開設しておいた4つの架空口座に計1億8,000万円を入金した。時間にして30分もかからなかった。銀行を出て大阪、東京と移動し、5,000万円の現金を引き出した。そして羽田空港から香港を経由して、マニラへと逃亡。1カ月後に必ずマニラに行く、という南との約束を胸に。この間、南は直接自らの手を汚してはいない。事前に架空口座を作る際も、伊藤に手続きをさせ、自分は通帳に指紋を残さないようにした。犯行当日も、最初の約束の時間に現れなかった南。その理由は自分のアリバイ工作のためだった。伊藤が1人で銀行を回っていた頃、知り合いに頼んだり、代議士に面会したりしてアリバイ作りをしていたのだ。その後伊藤と合流し5,000万円を手にした南は、そのうちの一割にあたる500万円だけを伊藤に渡した。また羽田空港への同行まで拒否している。「一緒に行ったら目立つから」という理由だった。自分だけ逃げられればいい。その証拠に約束の1カ月を過ぎても南はフィリピンに行くことはなかった。6カ月の9月8日、伊藤素子はマニラで、南は日本で拘束された。既に南に裏切られたことを知っている伊藤だったが、マニラで、マスコミの取材に対し「好きな人のためにやりました」と答えたのだ。この事件で浮かび上がってくるのは、男の卑劣さと同時に、時代の価値観に翻弄された1人の女性の姿だろう。
厳格な両親に育てられ、オクテで真面目な少女時代。気が進まない銀行への就職も「教師の善意を断れない」と流されるまま。そして、20歳から12年間のドロ沼のような不倫は、「処女を捧げてしまったからには、この男に捨てられたら今後結婚なんて望めない」という論理が伊藤を支配した。南のケースも同様だ。「貯金がゼロになってしまった。そんな30歳も過ぎた女が今の男に捨てられたら後がない」――。伊藤は本気でそう思った。そして“最後”と信じた男に言われるまま、犯罪行為に走った。それが彼女の生きた時代と境遇だった。しかし伊藤の価値観はなにも特異なものではない。当時の報道からもそれは窺い知れる。「ハイミス」「行き遅れ」「婚期を逸した女」。特にハイミスの使用度は驚くほど高い。「女性の犯罪はハイミスが多い」「ハイミスの欲求不満」――。伊藤の義兄も雑誌の取材に応え、こんなコメントを残している。「婚期が遅れた女性のあさはかさをつくづく感じました」「女の虚栄心から、結局は抜き差しならなぬ犯罪の泥沼に落ち込んでしまった」。法廷での論告求刑でも然り。「婚期を逸し平凡な生活に嫌気がさし、マンネリからくる職場に対する不満があった」。これが当時の30歳を過ぎた未婚女性を取り巻く世情である。昭和57年7月27日、伊藤素子は懲役2年6月の判決を言い渡された。一方主犯とされた南は懲役5年というものだった。2年後の昭和59年8月、伊藤は模範囚として仮出所し、1990年には事件のことを承知しているというサラリーマンと結婚したという。
伊藤素子 / この事件が最もよく知られているのは、朝9時の始業と同時に東京・虎ノ門支店などにオンライン端末を使って1億8万円を架空送金し、直ちに早退、 伊丹空港から空路羽田に向かい、昼過ぎには都内支店で1億3千万円を現金化、待ちかまえた共犯者に手渡して羽田発国際便でマニラに逃亡。 男はやって来ず、マニラで6ヵ月後に逮捕されるのですが、日本のマスコミが殺到し、拘留されている伊藤との面談がワイドショーでTV放映され、 「好きな人のためにやりました」が流行語にもなったのです。今でも話題になるくらい変な人気があります。
三和銀行 / 株式会社三和銀行(さんわぎんこう、英称:The Sanwa Bank, Limited)は、かつて存在した都市銀行。2002年、東海銀行と合併しUFJ銀行となった。なおUFJは、2005年(平成17年)に東京三菱銀行と合併し、現在は三菱東京UFJ銀行となっている。
本店は大阪市中央区に置き、メガバンク再編前、全国銀行協会会長を輪番で担当する大手6行(当行・東京三菱・住友・第一勧業・富士・さくら)の中で唯一、地方銀行の業容が拡大して都市銀行となった銀行であった。
 
高根沢町史 

 

労農運動の芽生え
栃木県の労働運動は明治四〇年の足尾暴動、四一年の大谷石材労働者のストライキ等に始まり、大正デモクラシー運動とロシア革命の影響下、大正七年の米騒動を契機として活発になってきた。その中心は大正九年(一九二〇)に大日本労働総同盟鉱山部の麻生久らの指導で全日本鉱夫総連合を組織した足尾銅山の労働者・可児義雄、石山寅吉たちだった。大正一〇年には団結権、最低賃金一円八〇銭、ヨロケ病対策を要求する争議があり、県下初のメーデーも行われた。このころには足利、小山の織物・製糸工場、藤岡の醬油工場等でも争議が起こされるようになって、各地に労働組合が結成され始めた。組合数は昭和六年の全国労働組合同盟栃木県連合会結成のときには三〇余、組合員八、〇〇〇人を擁するほどになった。
労働運動が盛んになると、地主制と高い小作料に苦しんでいた農民も小作争議を起こすようになり、大正一〇年には県内でも二二件の小作争議が起きている。しかし、小作争議を農民解放と社会変革の手段と考えて取り組む人々が現れるのは大正末期からである。
本県の農民運動には三つの源流がある。その一つで先駆けとなったのは大正九年に小作争議が広がった足利地方で、日本農民組合の結成(大正一一年)をうけて翌大正一二年(一九二三)に日農山辺支部(現足利市)が結成された。ついで日農の第一次分裂後、大正一五年に両毛地方の小作人組合をまとめて足利の成瀬重吉と群馬の坂本利一が日本小作人総同盟(一一支部、組合員一、九八七名、労働総同盟系)を結成した。
県中央部の源となったのは河内郡横川村(現、宇都宮市)に大正一三年に誕生した救農会である。救農会は盛岡高等農林学校で社会政策や社会主義を学んだクリスチャンの大屋政夫が、郷里横川村の小作や零細農民の悲惨な生活をみて、一生を農民の解放に捧げようと決心し、若い小作人たちとつくった会である。大正一五年(一九二六)九月には河内郡小作人組合連合会(組合員二〇〇人)へと発展した。
もう一つの源が左派・共産党系の芳賀農民組合である。この組合をつくったのは真岡クリスチャン教会の若い牧師平賀貞夫、東京・丸善に勤め社会主義を学んできた真岡・田町の本屋・田村豊助、青年友愛会を組織して益子の陶器労働者の生活向上を目指していた磯部常雄らを中心とする青年たちである。彼らは禁酒運動や読書会で同志を集め昭和二年から農民組合を組織しはじめ、同年真岡農民組合を結成、昭和四年には日本大衆党芳南支部、昭和五年(一九三〇)一二月には芳賀農民組合を結成した。そして、翌六年七月には全国農民組合(昭和三年日農と全日本農民組合が合同成立、このころは左派・全国会議派、右派・総本部派に分裂)全国会議派に加盟した。
普選第一回の総選挙(昭和三年)後、県下の労農運動指導者の間には戦線統一への要求が高まり、後述の日本大衆党県連が成立(昭和四年二月)すると、その影響下に一一月に「栃木県農民組合」が結成された。さらに、昭和六年全農が分裂し、右派(総本部派)の主導権が確立すると栃木県農民組合も全農に加盟した。こうして栃木県農民運動は形の上では全農栃木県連合会ながら左派(芳賀)と右派に分裂し互いに競いあいながら昭和九年の統一まで活動する。そして、昭和戦前期に全国的にみても、最も戦闘的な活動を展開したのである。・・・
昭和五年の総選挙
昭和五年二月、普選第二回の総選挙には、一区では定数五に対して前議員五名に政友会の新人船田中、坪山徳弥と麻生が立候補した。塩那地区の票に大部分を依存するのは森と高田耘平(当時農林政務次官)だった。恐慌の波が広がるなかで労働組合、農民組合の運動は上都賀、河内、宇都宮から那須、塩谷へも広がってきた。前回選挙のとき「無産党の演説を聞き大きな感銘をうけて」「献身的な応援」をした阿久津村の二人の青年加藤敏一郎、矢田部広吉(黒沢幸一著『暁の乱鐘』阿久津大騒擾事件の真相)はこの時はすでに村の農民運動の中心で、この選挙にも仲間の小作人たちと応援に活躍した。隣の熟田村には組合幹部の小野久内がいたし、このころ、小作人組合ができていた(『氏家町史』下巻)。西那須野、箒根、川西には栃木県農民組合の支部があり、農民組合と大衆党の力は侮れないものに成長していた。それは昭和四年の市町村議選で塩那で川西村の藤原熊雄が当選、喜連川町の小森谷義夫は惜しくも落選したが、今市で一名、雀宮で一名、宇都宮で大貫大八、黒沢幸一の四名が当選したことにも現れていた。
前回の政友会内閣の下での選挙に対し、今回は民政党内閣の下での選挙なので「農民の神様」といわれる農林政務次官・高田耘平(民政)は森より有利に選挙を戦うと思われていた。しかし、選挙運動のなかで麻生に対する農民の支持が増えていることを知った高田は下野新聞紙上(二月一九日)に「無産党の政策は全農民を滅ぼすものなり、農民代表・高田耘平」と題する広告を乗せ、麻生支持の農民層の切り崩しをはかった。同日の新聞に大衆党=麻生側も「農民を欺く高田耘平の農民政策!見よ!彼の欺瞞と悪辣さを」という題の広告を乗せ「大地主の代表高田耘平か!働く農民の代表麻生久か!」と麻生への支持を訴えた。高田は二月二〇日さらに「大衆党の欺瞞宣伝、欺かるゝこと勿れ、農村の状況を知らぬ甘言、課税の内容を究めぬ空言」という広告を乗せて麻生への攻撃を強めた。この紙上討論に似た広告合戦は選挙後も続き、大衆党県連は三月一四日に公開質問状を出して、高田に立会演説会を申し入れている。
一区の選挙結果は次のとおりだった。
 当選 森恪   (政友) 一万六八五二
 〃  斎藤太兵衛(民政) 一万四九九一
 〃  船田中  (政友) 一万四四四一
 〃  高橋元四郎(民政) 一万三九四三
 〃  高田耘平 (民政) 一万三七一五
 次点 麻生久  (大衆) 一万〇八〇六
麻生の得票は前回より四、四九六票増えたが、その七三パーセント、三二九九票は那須と塩谷であった。後年、選挙事務長だった大貫大八は選挙終盤に塩那地区に重点を置くよう地区責任者から進言されたが、現職の農林次官が弱いとは考えられず作戦を誤ったと後悔している。
この結果は既成の政友、民政両党を十分に恐れさせるものであった。選挙後、県内の労働争議、小作争議は大衆党県連が関係するとより厳しい弾圧に直面するようになった。
 
「大学は出たけれど」

 

「大学は出たけれど」と言う言葉が、初めて流行語になったのは、小津による同名の映画が公開された、1929年つまり昭和4年の事。小津の「大学は出たけれど」は、極初期の作品でありながら、すでに「細やかに生活を描く」という後年の作風の片鱗を見せていてとても興味深いものであると同時に、昭和初年の日本が誇る「軽やかなコメディー」を味わえる小気味のいい名画で、学生諸君にもこの映画を一辺見てみて、「邦画ってすげー」っていう実感を味わってもらいたいんだが、そんな話はさておく。
昭和4年といえば、片岡蔵相の失言と東京渡辺銀行の取付騒動に象徴される昭和金融恐慌が発生してから二年。普通選挙実施の翌年。どうしようもない不況のどん底の中、政府は有効な経済対策を打ち出すことができず、次元の低いポスト争いと普選を意識した国民向けの甘言だらけのパフォーマンスに終始し、ついに「満州某重大事件」の後始末の悪さを天皇に叱責された田中義一内閣が総辞職するという前代未聞の政治喜劇が起きた年。
一説によると昭和4年の大学新卒者の就職率は30%を切ったと言う。氷河期も氷河期。もう、超氷河期だったわけだ。大量の就職浪人が街にあふれた。そんな年の秋、無残にも東北・北海道は100年に一度と言われたほどの深刻な冷害に襲われる。「昭和饑饉」とまで呼ばれた冷害に小作農民たちは為す術もない。家々に「娘売ります」の張り紙が張り出され、東京からやってくる女衒は賓客の扱いを受けたという。
そして昭和4 年の十月。そんな惨状にあえぐ日本を知ってか知らずか、アメリカで株価が暴落する。いわゆる「ブラック・サースデー」ってやつだ。当時からアメリカは日本の最大貿易相手。そのアメリカ経済の急激な冷え込みにより日本の経済は致命的な打撃をうけてしまう。
余談ながら山岡荘八の逸話を思い出した。山岡荘八は1907年生まれで当時22歳。後に国民作家と呼ばれた彼も当時は無職で食うや食わずの生活を強いられていた。そんな窮状を知り合いの年長者に相談したところ、「甘えたことを抜かすな。仕事がなくて時間を持て余しているのなら、毎朝、家の前の掃き掃除でもしろ。毎朝続けてりゃ、『あんな真面目な子なら』と、近所の人がどっか見つけてくれらぁ」と説教をされたらしい。まあ、いつの世も無神経な自己責任厨ってのはいるもんだ。
追いつめられた若者は、新天地に活路を見いだそうと満州に渡ったり、院外団として政治ゴロとなったりとなんとか糊口をしのごうとする。しかし最も刮目すべきなのは、優秀な学生が、非合法化直後の共産党に身を寄せるか、反対に帝大七生社などを経て血盟団などの右翼結社に吸収されていく傾向が強かったということだろう(ちなみに、田中清玄による武装共産党路線も昭和4年。東大新人会と七生社の抗争がピークに達したのも昭和4年)。優秀な若者たちは糊口をしのぐのではなく、社会変革に賭けたのだ。
しかし、みなさんご承知のように、この若者たちによる社会変革運動は、あるいは内部抗争によって、あるいは官憲の白色テロによって、その芽を摘まれてしまう。昇華できない若者たちの変革の叫びは、陰鬱さを帯びはじめ、昭和五年以降の「テロの時代」に突入し、最終的には「権門上に傲れども国を憂ふる誠なし。財閥富を誇れども社稷を思ふ心なし」と嘯く軍部にその活力を吸収され利用されてしまう・・・
 
岡田啓介

 

(二・二六事件のときの総理)
「(岡田は)総理大臣になると、三つのものが見えなくなるといった。三つのものとは、
第一に金。いつも公金を思うように動かし、自分で金を使うことがないからその価値がわからなくなる。
第二は人だ。周囲の取巻きに囲まれて、甘言やら、追従をきくことが多いために、誰が本当の人物か、誰が奸人か、佞人か、その区分けがつかなくなる。
第三は、国民の顔がどちらを向いているのか分からなくなる。この三つが見えなくなくなった時は総理大臣はのたれ死する、と彼は言い切っている」
「(権力者)がこの三つの不明からのがれるために、立派な師をもつこと、争臣(そうしん)(正しいことをあえて主張して上司をいさめる部下)をもつことだというのは、古今の明哲が教えているところだ。国に争臣がいなければ、亡ぶというのはよく知られた言葉である」

「元総理の池田勇人は、よく『自分は身辺に三人の知己をおいてこの意見をきく』と語った。三人とは、一人は一流のジャーナリスト、一人は本物の宗教家、一人は名医だそうである」
 
独立不羈の男・河合栄治郎と東大紛争

 

「迷えるソクラテス」退場
大河内一男といえば、東京大学総長時代の昭和39(1964)年3月の卒業式で「太った豚より痩せたソクラテスになれ」と訓示したとして有名になった。自由主義者、河合栄治郎の直弟子だけあって、大河内は19世紀英国の思想家J・S・ミルの有名な一節を引用しようともくろんだのだろうか。
実際には、予定稿のこの部分を飛ばして読んだといわれている。何を躊躇(ちゅうちょ)したものかは分からない。だが、大河内が『自由論』のミルを語るのは、概してふさわしいとはいえなかった。
大河内は戦前の講師時代に、東京帝大を放逐された恩師、河合を裏切ったうえ、ミルとは対極にあるマルクスの資本論を巧みに体系化した経済学者である。「70年安保」前のこの時、東大総長になっていた大河内は、東大紛争への対処では“迷えるソクラテス”であった。
河合−大河内という師弟関係の顛末(てんまつ)は、平成25(2013)年春、東京・初台の新国立劇場で演じられた福田善之作品『長い墓標の列』を通して概観できる。演出家の宮田慶子は、河合を“揺るがぬ知性”として「どれだけ自分が孤立無援でも、こうなんじゃないのと意見を言った人があの時代にはいたんだということに、今とても勇気をもらえます」と称賛している(新国立劇場の対談)。
脚本家の福田は、東京帝大で起きた河合事件を、重厚な4幕物にまとめて昭和32(1957)年に発表している。河合事件とは平賀譲総長が河合を大学から追放する「平賀粛学」を指している。実在の河合を知る福田が、大河内がモデルの「城崎」をどう描いているかに興味があった。
学者に祖国あり
作者の福田善之は、母子家庭に育って経済的に恵まれなかった。麻布中学の月謝が払えなくなったときに、2年先輩の河合の長男、武の世話で、母の河合国子が救いの手を差し伸べてくれた。
河合は終戦の前年に死去したが、妻の国子は夫が昭和15年2月にわずか10日間で書き上げた名著『学生に与う』の印税を奨学金として福田を支援した。彼はそのまま河合邸に居候して大学生活をおくり、多くの河合人脈を知って『長い墓標の列』を書いた。福田はこの作品で劇作家としての第一歩を踏み出したが、河合栄治郎という人物の存在が、劇作家、福田を世に送り出したともいえる。
河合はマルクス主義に対して理論面から矛盾を突き、軍部が台頭すると今度はファシズムを果敢に批判した。とくに、帝国大学新聞に掲載した「2・26事件の批判」は、左派も尻込みする世情に抗して「日本言論史上の金字塔」を打ち立てた。しかし、自著『ファシズム批判』など4冊が「世を乱すもの」として発禁処分となり、「平賀粛学」で休職処分を受ける。
福田善之の脚本で興味深いのは、劇中の人物が実在の誰であるかが分かることだ。主人公の河合である山名教授のほか、山名を裏切ることになる城崎が後の東大総長、大河内一男である。門弟の安井琢磨、木村健康、新聞記者の土屋清、学生の関嘉彦、猪木正道らも容易に特定できる。
劇中の山名が、右傾化したゼミ学生に問われて「もちろん私は愛国者だ」と叫ぶ場面がある。河合自身も大学を去るときにパスツールの有名な言葉「学問に国境なく、学者に祖国あり」との言葉を残している(扇谷正造「月報8」、『河合栄治郎全集』)。河合は左右の全体主義と戦ったが、日本という祖国を愛することにおいては揺るぎないものがあった。
大河内は河合事件に殉じようと率先して辞表を出しながら、平賀総長の甘言によってすぐに撤回してしまう。河合から「関係を絶つ」と事実上、破門された。劇中の山名と城崎の緊迫したやりとりは、強靱な思考と知性がほとばしるギリシャ悲劇のようであった。
だが、理想と正義と信念が、現実と名誉と地位の前にはなすすべもない。そして山名の下を去っていく城崎−。終幕で山名は、灯火管制の中、身を削りながら自らの思想体系を構築し、倒れる。命は義によりて軽しであった。
アカデミアの天下人
実在の大河内はその後、経済学部長を3度歴任して東大総長にまで上り詰める。しかし、輝かしい道を突き進んだ大河内も、例の「70年安保」直前に、全共闘運動の荒波を受けて昭和43年、安田講堂占拠事件のさなかに辞任に追い込まれる。
「城崎」こと大河内一男が東大総長になって4年ほどたった昭和42(1967)年秋、朝日新聞論説委員だった扇谷正造が、目撃した河合処分の頃の実話を語っている。
「私はまず大河内さんのところに行ってみた。『どうするんです』と聞くと考え込んで答えがない。平賀総長から残れといわれているんです。残って大学の再建に協力してほしいといわれている。一方、自分は河合先生に殉じて辞めるべきではあるまいか、その去就に迷っておられた。ハムレットですな」
「しかし、いまや大河内先生は、東大総長なんです(中略)ご自身の中にあるハムレット的なものをアウフヘーベンなさるべき時ではあるまいか」(扇谷『カイコだけが絹を吐く』)
講演は扇谷らしい皮肉が込められており、関西大学名誉教授の竹内洋にいわせると「アカデミズムの天下人になった人物への痛烈な揶揄(やゆ)」であった。
医学部に端を発して安田講堂が占拠され、大河内は機動隊を導入して排除した。これがかえって全学の学生から反発を受け、東大全共闘が組織されて安田講堂は再びバリケード封鎖された。そのさなかの昭和43年11月、大河内はじめ全学部長が辞任した。
恩師の河合とともに大学を辞し、戦後復職した木村健康は「東大紛争の責任は大河内総長の指導力欠如にある」と厳しく批判し、河合事件のときの彼の身の処し方とを重ね合わせた。

独立不羈(どくりつふき)束縛や制約を受けずに自分の意思に従って自由に行動する。「羈」は馬のたづなの意味。 
 
ワイマール共和国はなぜ亡んだのか

 

ボンはドイツ連邦共和国(西ドイツ)の首都である。連邦共和国は、戦前のドイツ国がヒトラーの無謀な世界戦争の遂行によって全滅した後、戦後の収拾として東西両ドイツに分断され、ソ連の衛星国家としての東のドイツ民主共和国に対して西の自由主義国家たる連邦共和国として再建された国家である。この連邦共和国はドイツ国民の勤勉で堅実な伝統をうけついで、戦後めざましい復興をとげ、今日では西ヨーロッパの指導的な先進国としての地位を占めていることは周知のところである。それでいてドイツの新鋭の歴史学者ハーゲン・シュルツェは最近の大著『ワイマール』で「ワイマールの運命は今日もなお不安を覚えさせる。ボンはおそらくやはりワイマールであるだろうとの予感はなお打ち消されていない」と書いている。
ワイマールは南ドイツにある小都市で、文豪ゲーテと結ばれて古来から文化の都市として有名であるが、第一次大戦後ドイツ革命の終幕として一九一九年二月、このワイマールで国民会議が開かれ、新ドイツ憲法が制定された。憲法第一条にドイツ国は共和国であると規定されているように、ここにドイツ帝国(カイザー・ライヒ) に代ってドイツ共和国が成立した。そこでこの共和国を、人々はワイマール共和国と呼び、制定された憲法をワイマール憲法と呼んだ。
ワイマール共和国はその成立早々から、どえらい苦悩と困難な道を歩まねばならなかった。すでに憲法が制定された国民会議では、ヴェルサイユ平和条約が批准されねばならなかったが、その条約はドイツ人からヴェルサイユの指令と呼ばれるように、連合国から一方的に押し付けられた苛酷極まりないものであった。ドイツ人はこれを国民的名誉が踏みにじられた屈辱と受けとり、またその賠償負担はあまりに巨額で堪えきれないと考えた。共和国最初の内閣は社会民主党の領袖シャイデマンを首班とする内閣であったが、条約案を批准する責任はとれないとして総辞職した。しかし、それでは事は片付かない。次のバウアー内閣の下で国会は、条約案に賛成するものも反対するものも、いずれも祖国愛に出づるものであると、まず決議した上でやっと批准することができたのであった。平和条約は成立したが、しかしその負担は大きかった。賠償支払いはしばしば滞り、一九二三年には業を煮やして仏・ベルギー軍は賠償の担保と称してルールを占領した。ルール地方では住民の激しい抵抗が起こった。これを契機として終戦以来のインフレーションのミ進がいっきに暴発し、マルクの価値は一兆分の一に低下した。ドイツ経済は麻痺し、ワイマール共和国は解体の危機に瀕した。幸いに大インフレーションもレンテンマルクの奇蹟とシャハトの果敢な処置によって収束され、また賠償問題はアメリカの介入によってドウズ・プランの成立をみて一応再び軌道に乗ることができた。ワイマール共和国は小康をえて世界経済の相対的安定期に入ることができた。そして世界の各国は戦後の復興期を迎えることになったが、共和国も外資の流入をうけて目ざましい復興を遂げた。ワイマールは最盛期を迎え、ワイマール文化も多彩な光りを放った。ベルリンは未来の味がするといわれた。しかし、その期間は余りに短く三、四年にとどまり、その復興も第二次世界大戦後のそれとくらべれば力弱いものであった。成長率も四、五%にとどまった。経済成長率が一〇%にも上り、それが五、六年つづいたならワイマール共和国も救われていたかもしれない。
やがて、一九三〇年には世界恐慌が起こり共和国ももろに巻きこまれ、大量の失業者を生み出し、就業者三人につき一人が失業するという状態になった。その大量の失業者や不平不満の若者がナチになだれこみ、ナチス運動は大躍進をとげた。一九三三年一月三十日ついにヒンデンブルク大統領はヒトラーを政権の座につかしめた。ワイマール共和国はここに十四年半の短い生涯を終った。ワイマールの最盛時に留学生活を送って日本に帰っていた私は、それをどんなに哀しんだことか。
それからヒトラー政権の暗い十四年がなおつづいた後、再び西ドイツに連邦共和国がよみがえった。現在のドイツ連邦共和国こそワイマール共和国の後継者である。それだけにボンはワイマールであってはならないという心情が西ドイツの人々の心底にある。なぜワイマールは亡んだのか。この問いに向ってドイツの歴史学者の研究が、今も後を絶たないことはよくわかるところだ。 いな、この問題は、他の国の学者たちの関心をも集めている。西欧型の最も進んだ民主主義国が独裁者の前に亡んだことは看過できないことだからである。
ワイマール共和国はなぜ亡んだか、その問いに私も簡単でも答える義務があるように思う。
その答えとして第一にあげられるべきことはワイマール共和国がいわば即興的に打ち出されたもので、熟慮計画されたものではなかったことである。一九一八年十一月九日、ベルリンにも革命運動が起こって、午後二時ごろには数万の群衆が国会前の広場に集まった。多数派社会民主党の領袖シャイデマンはこの大衆に向って、即興的にドイツ共和国を宣言したのであった。党首エーベルトは、君はそんなことを言う権限はもたないとシャイデマンを叱責した。エーベルトは共和主義者であったが、ドイツの共和制はもっと不利でない時に、そしてもっと不利でない条件のもとに成立することができると信じていた。し かしその日の午後四時ごろベルリンの王宮の前に集まった大群集に対して、独立社会民主党左派のリープクネヒトはドイツ社会主義共和国を宣言した。ここに来てはエーベルトももはや事態の変えようはなかった。即興的に打ち出された共和国どころか、多数派の民主共和国か独立社会民主党の社会主義共和国かの争いに展開し、左右両派の革命の主導権をめぐっての闘争が翌一九年一月までつづく。しかし多数派が主導権を握ることになって、同年二月には憲法制定会議が開かれ、民主共和国が成立することになる。
第二に、その民主主義共和国制は、ドイツの文化イデーの根本に反する国家形態であり、ドイツ民族はこれを国情、民情にそわぬもの、魂にとって反現実的なものとして排斥し攻撃するにちがいないと、トーマス・マンのような文豪が断言している。またマンは、ドイツ民族は政治的デモクラシーを決して好きになれないともいっているが、その言葉に間違いはなかった。ドイツの一般国民は、国家主義者でなくとも、民主主義議会政治に対して一定の距離をおいていた。ワイマール憲法草案を起草したフーゴー・プロイスもそのことを知っていた。プロイスは、ドイツ国民が民主主義的思考方法や態度様式の基本ルールに習熟していないことを忘れてはいなかったが、しかしプロイスは、ドイツ国民の民主主義の将来について楽観的な信念をもっていた。偉大なドイツ国民は、その政治的教育の仕事を自発的に完成することによって、民主主義的国家となることができると考えていた。この期待を無残に打ち砕いたのが、次に述べる第三の事情である。
第三は、ヴェルサイユ平和条約締結の大きな重荷である。ヴェルサイユ条約は、前にも述べたようにドイツ国民にとって堪えがたき屈辱の条約であり、しかも指令として一方的に押しつけられたものである。条約の内容も許し難いが、それを抵抗もなく受容したワイマール政府は国民の敵である。ことに背後からの匕首一撃の伝説が広がるにつれ、十一月革命を起こしてドイツ軍の背後を衝いて敗戦に追いこんだ社会民主党や共和派の人々は、十一月犯罪人として糾弾されねばならぬ。匕首一撃の伝説は全く歴史的事実に反する虚構であるが、保守派の人々や国家主義者は、このような論理をもってワイマール政府を非難攻撃し、大衆を扇動した。ワイマール体制の土台固めは絶えずゆるがされた。
第四に、共和制の樹立が即興的に打ち出されたこともあって、革命後の民主化は進展しなかった。官僚制度も軍隊も司法も大学も、民主化は全く進まなかった。ただ官僚は上級のものが漸次に共和派の人々によっておきかえられていったが、下級には及ばなかった。一般の民衆は民主主義の教化をうける機会をもたなかったどころか、カイザー時代の観念に捕われた意見を吹きこまれることが多かった。世の中が共和制と変った新風は、民衆の間には吹き通らなかった。
第五に、共和制における最高の権威である議会がワイマール末期には遂に機能しなくなった。最初の憲法制定の国民会議では選挙法が改正され、二十歳以上の男女が選挙権をもち、無記名投票のもとに比例制選挙を行った。選挙の結果、予想を裏切って社会民主党は過半数を得ることができなかった。議会における多数を形成するために、このときには社会民主党と、カソリック信者を有権者とする中央党と、自由思想の保持者や進歩的なブルジョアジーから新たに結成されたドイツ民主党との三党の連立ができ、社会民主党のシャイデマンを首相とする政府をつくった。この三党の連立は、爾来、ワイマール連立とよばれワイマール共和国の支持勢力となった。
しかし議会政治に習熟していなかったドイツの政治家は、連立が常に党利党略を押え大局に立つ妥協の政治であることを十分に理解できていなかった。そのため妥協はしばしば不調に終って内閣は容易につぶれた。ワイマール時代の十四年間には、二十の内閣ができてはつぶれている。内閣の平均寿命は八ヵ月半であった。最も長く続いたのは、一九二八年−一九三〇年のヘルマン・ミュラー(社会民主党)内閣の二十一ヵ月である。この内閣は、ワイマール連立にストレーゼセンの率いるドイツ国民党を加えた四党の大連立であった。折柄の世界恐慌の襲来によって増大する失業保険給付を賄うために、折衝に折衝をかさねギリギリの妥協案としての失業保険料〇・二五%の引上げに社会民主党の労働大臣ウィッセルは頑として応じなかった。長くつづいた内閣はこれでつぶれた。新聞は、「四分の一パーセントの危機」として非難した。この四分の一%の危機で辛うじて維持されてきたドイツ民主主義の実験、ワイマール体制は失敗したことが明らかになった。
ヘルマン・ミュラー内閣が倒れた後は、議会における多数派の形成の見込みがたたなくなった。多数派政府が容易に出来ないので、大統領は「強い人」としてのブリューニングを首相にえらび、憲法第四十八条の非常時大権を発動して大統領緊急令をもって政務を取り行わしめた。大統領政府がここに出来する。ブリューニングはそれでも議会との関係を保つように努め、社会民主党も政府に対して寛容政策を打ち出し、曲りなりにも議会政治の形を保っていたが、一九三二年五月、ブリューニングが大統領の信任を失って罷免されるに及んで、議会はもはや機能しなくなり、形骸となった。やがて大統領は側近の甘言に乗せられて政権をヒトラーに渡し、ナチスが天下をとった。ワイマールは亡んだ。
ワイマールは反対派と戦って敗れたのでもなく反対派から撃滅されたのでもなく、これといった最後を飾ることなく亡んでしまった。それでワイマールは自己放棄したという人もいれば、いな自殺したという人さえいる。末期のワイマールを共和派のいない共和国と評する人もいるが、共和派がいなかったわけではない。闘う共和派がいなかったのだ。民主主義はただそのままで自ら存続しうるものではない。民主主義を守る人々によって支えられているのだ。従って民主主義はいつも闘う民主主義でなければならない。ワイマールの哀しい歴史はそのことを教えているのである。
 
三越の女帝「竹久みち」

 

創業三百余年の老舗百貨店を舞台にした“お家騒動”は、人間の傲りが頂点に達し、男女の欲望が暴発した末の悲喜劇だった。
ハデな容姿で「三越」の帝王・岡田茂を籠絡した女帝・竹久みち。主要な商取引に介入し、不正利得を上げていた彼女が、同社に与えた損害は18億7000万円に上った。生業の宝飾デザイナーとしての才能には疑問符がついた彼女だが、その一方で人並み外れた“ある天分”に恵まれていた――。
「なぜだ!」
昭和57年(1982)9月22日、「三越」本社で開かれた取締役会。岡田茂社長の腹心、杉田忠義専務から“社長解任の議案”が発議されると、岡田の顔は硬直し、みるみる血の気が引いていく。これが取締役16人全員の起立で可決されるや、
「何だこれは。おかしいじゃねえか。議長は俺だ」
とべらんめえ調で怒りを露わにしたのである。
この日の取締役会には“政敵”の社外重役、小山五郎・三井銀行相談役が出席するため、岡田は杉田専務と事前にリハーサルを行っていた。竹久絡みの特定納入業者からの仕入れを再検討するという経営再建案も用意して、批判を封じようとしていた。ところが、実際の取締役会で杉田専務が口にしたのは、“岡田解任”の動議だったのだ。
「杉田、どうしてそんなことを言うんだ。理由を言え」
すると、小山が、
「岡田君、どんな役員にも提案権はあるんだよ。君の進退の問題だから、君には議長の資格はない」
解任が議決され、役員らが退室し始めると、尚も岡田は「待て、待て」と皆を呼びとめた。そこで小山が改めて発議すると、取締役全員が再び起立したのである。
「なぜだ! なぜ……」
驚愕の態でそう呻く岡田の声が、虚ろに響いた。
傲りで破滅した岡田は、日常生活の感覚も狂っていたという。元右翼団体幹部で、『右翼な人びと』(イースト・プレス)の著書もある武寛氏はこう述懐する。
「若い頃、僕は無所属の愚連隊みたいなことをしていましてね。ひょんなことから、三越を解任された岡田元社長と愛人の竹久みちの小間使いみたいなことをやるハメになったんです。岡田さんには親近感を持てたが、竹久は絵に描いたような我が儘おばさん。まるで事件の反省がなかった」
武氏は、何十年ぶりかで地下鉄に乗るという岡田を、自宅から駅まで送ったことがある。
「おい、切符を売る駅員はどこにいるんだ」
と彼が聞くので、武氏は、
「社長、今は機械にカネを入れて行き先のボタンを押すんですよ」
と答えた。
「ほーっ、いつからだ」
と驚く岡田。ややあって、
「こんなことだから、俺は駄目なんだ。庶民相手の商売をしていながら、庶民がどういう暮らしをしているかも知らないなんて……」
一方の竹久はといえば……。
「裁判対策の打ちあわせで、竹久は、岡田さんが帰ると、急に弁護士にあれこれ指図する。代官山の彼女の会社では、社員が事件を報じる週刊誌を買っていないと、“買っとけって言ったじゃない。何やってんのよ”と、いつも怒鳴り散らしていました」(武氏)
5億円と言われた目黒区八雲の豪邸と六本木の高級マンションを運転手付外車で往復。渋滞に遭うと、「あんた何とかしなさいよ」と運転手に噛みついた。
共立女子専門学校(現共立女子大)を卒業した後、文化学院デザイン科で学び、宝飾業界で身を立てようとした竹久。彼女が岡田と知り合ったのは、34年のことだった。当時、映画「ソロモンとシバの女王」がヒットしており、三越ではそれに関連した展示会を開催。竹久は、宣伝部長としてそのイベントを仕切っていた岡田に、知人の三越社員を通じて接近を図った。三越の元幹部が語る。
「常にアンテナを張り巡らせ、時代の呼吸を読むのが得意だった岡田と、宝飾業界の情報通だった竹久は妙にウマがあった。彼女は岡田と親しく付き合ううち、“この人こそ、将来の社長になる”と確信したようです」
やがて、2人は肉体関係を持つ。竹久は、岡田が奮い立つように甘言を弄した。
「あなたは絶対、三越の社長になれる人よ」
竹久の読みは的中した。岡田は43年、銀座三越店長に就任。翌年、常務、本店長へと昇進した。そして46年に専務となり、その翌年にはついに念願の社長の座に昇り詰めたのだ。
この出世と軌を一にするように、出入り業者の身でありながら、竹久は三越内で着々と自身の勢力を伸ばしていく。最初は本店1階の売り場にアクセサリーのケースを1台だけ置かせてもらっていた。それが、岡田の威光をバックに売り場面積を増やし、彼女の“テリトリー”は他の支店にも広がっていったのである。
「彼女は、社員の対応が気に入らないと、すぐに岡田さんに告げ口する。2人がただならぬ関係にあることは社内で公然の秘密になっていましたから、幹部も含め、社員は竹久に睨まれるのを怖れるようになり、不承不承、言うことを聞くようになりました。竹久は、寝物語で岡田さんに事業プランや社員の評価を語るようになり、三越の重要な事業計画や人事にまで介入するようになっていた。実際、嫌われた社員が左遷されるなどの憂き目に遭っていたのです。いつしか彼女は、三越内で“女帝”と呼ばれるようになりました」(先の元幹部)
“三越の女帝”の銭ゲバぶりは凄まじく、
「三越に並ぶブランド品の70%が、竹久の経営する『オリエント交易』や『アクセサリーたけひさ』などを通じて入ってくるようになり、仲介手数料が支払われていた。彼女は、オリエント交易では仕入れ値の15%、アクセサリーたけひさでは10%の口銭を取っていたのです。しかも納入商品について、“返品されても困る”と、すべて買い取りを強要。そのため、三越の倉庫は在庫の山でした」(同)
三越で財を成した竹久は副業にも乗り出した。豪華なシャンデリアの照明にバカラのグラスが映える煌びやかな空間。奥の間から、ハデで奇抜なドレスをまとった彼女が登場すると、オープン・パーティーに招かれた参加者らの視線は一斉にそちらに注がれた。その場にいるのは、西武デパートの堤清二などの財界人や、デヴィ夫人ら芸能界のVIPたち。竹久は、六本木に自社ビルを構えるまでになり、その一角にクラブ「クレオパトラ」をオープンした。常連だった外交評論家の加瀬英明氏が言う。
「竹久は、水商売には天性の素質があると思いましたね。森英恵のようなデザイナーという雰囲気はなかったが、人と人を結びつけるのがうまかった。フィクサーのような雰囲気があり、想像を逞しくすると、一代で商社をつくれるようなオーラがあった。彼女は企業にコンプライアンス無き時代の女帝だったと思うね」
もっとも、彼女が肥え太っていく一方で、老舗百貨店の経営状況は悪化。56年度末には店頭価格にすると、1150億円もの在庫を抱えていたという。
しかし57年の株主総会を切り抜け、安心した岡田と竹久は5月、「華麗なるエーゲ海クルージングとヨーロッパ周遊の旅」に出掛けた。千人近い三越関係者と納入業者も参加させられた。
「高級クルーザー『ステラソラリス号』の最上階のデッキのデラックススイートの船室は既に予約済でしたが、竹久は“最上階からの最高の眺めをほしいままにするのは自分だ”と、予約していたツアー参加者にキャンセルするよう強く要求した。もちろん断られていましたがね。栄華を象徴する大名旅行でしたが、その裏で、三越は、経常利益が最盛期の50%近くも落ち込むなど、目を覆うばかりの業績悪化に陥っていたのです。取締役の中には岡田ワンマン体制に危機感を募らせる者が増えていた」(事情通)
常務取締役、経理本部長や仕入れ本部長が「岡田退陣」を計画。同調する幹部は徐々に増え、最終的には杉田専務も加わり、ついに同年9月22日の“岡田解任劇”という波乱の展開となったわけだ。
帝王と女帝が一部上場の老舗百貨店に大損害を与えた三越事件。竹久は岡田による利益供与で、実に13億円もの資産を築き上げたとされる。岡田は特別背任罪に問われ、竹久も54〜56年に約1億6000万円を脱税したとして、特別背任と脱税の容疑で逮捕された。岡田は平成5年、東京高裁で懲役3年の実刑判決を下され、上告するも係争中に、腎不全のため死去(享年80)。竹久は平成9年、最高裁で懲役2年6月、罰金6000万円が確定した。訴追後、気力の失せた岡田に対し、竹久は刑に服した後も「私は潔白」と主張。持ち前の厚顔ぶりを発揮した。しかしその彼女も平成21年、動脈瘤がもとで逝去。79歳だった。
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
■大正・明治時代

   大正時代 1912〜1926
   明治時代 1868〜1912 

 
 

わが国ボタン産業史
・・・農村家内工業としての貝ボタンは原料の前貸制度などがあって、かなりの速度で奈良盆地へ普及していった。大正10年(1921)ごろの調査は、奈良県への移行過程を、つぎのように述べている。やや長文であるが、仲買商の位置がよくわかろう。
「貝釦ハ専業職工以外多数ノ農業者其ノ他都邑附近ノ雑業者ノ内職又ハ副業トシテ盛ニ製作セラレツヽアルモ其始メニ於テ商人ハ是レカ製造ヲ教示開始スルニ当リ利益ヲ誇大ニ吹聴シ甘言ヲ弄シテ其ノ原料及器具ヲ貸与シ専ラ其ノ生産力ノ増加ニ努メシヲ以テ開始当時ニアリテハ其ノ製品ヲ有利ニ取引セラレシカ猥ルヽニ従ヒ漸次悪辣ノ手段ヲ弄シ製品多量トナルニ従ヒ些細ナル点ヲ指摘シテ所謂見倒シ買倒シノ手段ニ出テ更ニ当然買取ルヘキモノヲ委託ノ形式トセシメ原料ト交換スルトキハ原料ノ高価ニ見積リ製品ヲ廉価ニ計算スル等ノ悪手段ヲメクラスカ如キ風潮次第ニ盛トナレリ最近是レカ為大阪府下ノ生産力著シク減退シツヽアルヲ以テ商人ハ和歌山県及奈良県方面ニ漸次生産地ヲ求メ殊ニ奈良県下ハ最モ彼等ノ注目スル処トナリ盛ニ是レカ製作ヲ奨励シツヽアリ如斯シテ不正商人等ハ常ニ新ラシキ方面ノ開拓ニ努力シテ以テ不正ノ利ヲ見ルニ腐心シツヽアルモノヽ如シ」  
 
熊野

 

明治の神仏分離令と神社合祀令は熊野に深い傷跡を残しました。とくに明治39年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令は熊野に壊滅的なまでのダメージを与えました。明治政府は記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々を排滅することによって神道の純化を狙いました。熊野信仰は古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立った、ある意味「何でもあり」の宗教ですから、合祀の対象となりやすかったのでしょう。
高原熊野神社もじつは合祀の対象にされたのですが、あやういところで合祀を免れました。
口熊野、和歌山県田辺市に暮らしていた世界的博物学者である南方熊楠は、強引な神社合祀を目の当たりにし、怒り、神社の森を守ろうと立ち上がり、神社合祀反対運動を行いました。熊楠は、東京帝国大学農学部教授であった白井光太郎に宛てた書簡(『神社合祀に関する意見』)のなかで熊野高原神社について次のように記しています。
「次に熊野第二の宮と呼ばるる高原王子(高原は熊野九十九王子には入れられていませんが、熊楠は高原王子と呼んでいます)は、八百歳という老大樟あり。その木をけずりて(「けず」の部分、原文では漢字です)神体とす。この木を伐らせ、コミッションを得んとする役人ら、毎度合祀を勧めしも、その地に豪傑あり、おもえらく、政府真に合祀を行なわんとならば、兵卒また警吏を派して一切人民の苦情を払い去り、一挙して片端から気に入らぬ神社を潰して可なり。しかるに、迂遠千万にも毎々旅費日当を費やし官公吏を派し、その人々の、あるいは脅迫し、あるいは甘言して請願書に調印を求むること、怪しむに堪えたり。必竟合祠の強行は政府の本意にあらじ、小役人私利のためにするところならんとて、五千円の基本金を一人して受け合う。さてその金の催促に来るごとに、役人を近村の料理屋へ連れ行き乱酔せしめ、日程尽き、役人忙(あわ)て去ること毎度なり。そのうちに基本金多からずとも維持の見込み確かならば合祀に及ばずということで、この社は残る。」
神社合祀令により、熊野の神社の8割から9割が滅却されたといいます。村の小さな神社が廃止されただけでなく、歴代の上皇が熊野御幸の途上に参詣したという歴史のある熊野古道・中辺路の王子社までもが合祀され、廃社となりました。五体王子のひとつとして格別の尊崇を受けた稲葉根王子や発心門王子でさえ合祀されたのです。小さな神社や王子社のほとんどが合祀され、神社林は伐採されました。そうしたなかで、合祀滅却を免れ、神社林の伐採を免れたこの神社はとても貴重です。ここには、熊野を詣でる人々の姿を1000年も前から見守りつづけてきた木々がいまもなお葉を茂らせてそびえています。 
 
網走刑務所

 

教誨師やキリスト教信者により囚人労働の内実が詳らかにされ、やがて囚人虐待と批判を浴びて1894(明治27)年に囚人労働は撤廃されました。しかし、開拓には労働力が不可欠であり、そこで形を変えて生まれたのが「タコ部屋労働」と呼ばれる自由を奪って酷使する「拘禁労働」でした。内地から騙されて連れてこられた若者達は、蛸壺に入ると逃げ出せずに飢えて自らの足を食べて生き延びる「タコ」に例えられ、あるいは他の地域から雇われたことを意味する「他雇」から、「タコ」と蔑まれ、真っ赤な腰巻を着けて過酷な肉体労働に従事しました。タコの語源には、その他、脱走したタコの逃げ足が糸の切れた凧のように速いことなど諸説あります。タコには東北の貧農民が多く、時代が下ると都市の貧困層やお金に困った学生らがポン引きの「日当1〜2円」という甘言に騙されたのです。ところが就労契約が交わされると斡旋屋は鬼畜に変貌し、法外な旅費を請求されて巨額の借金を背負わされました。日給からは食費50銭が天引きされ、飯場が人跡未踏の奥地にあるために親方から定価の数倍で日用品を買わされるためお金が溜まることはありません。また、タコには外出や通信、会話の自由もない生き地獄でした。
彼らの職場は鉄道建設や灌漑現場などでしたが、安全や衛生を無視した長時間に及ぶ劣悪環境での労働でした。飯場は「タコ部屋」または「監獄部屋」と呼ばれ、窓はなく、夜間は戸外から鍵がかけられました。鉄則は、「逃げるなら最初の1週間」。それ以上経てば体力が衰えて肉体的に無理だとの示唆です。そして逃亡者には見せしめに残虐なリンチが待ち受けていました。動けなくなった者は、橋から落とされたり現場で生き埋めにされました。これが 「人柱伝説」になり、十勝沖地震の折、一部が崩壊した石北本線常紋トンネルの壁から頭部に損傷のある人骨が発見されました。常紋トンネル工事の犠牲者は百数十名と伝えられますが、殺人(病死、過労死、虐待死、自殺を含む)が記録に残らない無法地帯ゆえ、実際の数は推して知るべしです。警察も買収されており、取り締まりすらなかったそうです。戦後、GHQによってタコ労働が禁止されましたが、暫くの間完全になくなることはなかったようです。これは、日本労働制度の後進性を示す良い事例と言えます。性懲りもなく、現在もブラック企業によって連綿とこうした過重労働が続けられ、犠牲者が絶えないのは嘆かわしい限りです。 
 
帰順式場に誘き出しての惨殺事件 

 

・・・児玉と後藤の台湾中南部の抗日勢力への対応は、軍警の大規模な「討伐」以外に、投降を呼びかけ、誘き寄せて殺す策略を使った。これがいわゆる「土匪招降帰順政策」であり、画策者は児玉長官、立案参与者は後藤民政長官、総督府事務官阿川光祐、策士は白井新太郎で、中でも雲林の騙し討ちが抗日軍でもっとも人を驚かせる事件だった。1902年、斗六庁長・荒賀直順は警務課長・岩元知と投降を呼びかけて殺戮する計画を密かに画策した。
5月14日、斗六庁長・荒賀と当地の守備隊長、憲兵分隊長は5月25日に帰順式を開いて騙し討ちすることを画策した。5月18日、岩元警務課長は林?埔、?頭?、土庫、他里霧、下湖口の5人の支庁長を招集し、帰順式典を行う真意と段取りを指示し、斗六、林?埔、?頭?、西螺、他里霧、内林の6ヶ所を式場とすることを決定、各市庁長に十分な準備をするよう命じた。
帰順の意思を示した抗日の各リーダーに対しても、表面的には甘言を弄し、彼らの帰順を許したが、内心では徹底的な殲滅を企てていたので、張大猷以下265人の抗日分子をこの年の5月25日に誘い出すことを決め、6ヶ所でそれぞれ帰順式を行うと公言した。すなわち、一.斗六式場60余人、二.林?埔式場63人、三.?頭?式場38人、四.西螺式場30人、五.他里霧式場24人、六.林内式場39人である。その後、機関銃で6ヶ所同時にすべて殺戮した。このような投降を誘い、騙して殺戮した事件に関して、日本人は口実を設け、5月25日、帰順式場での妄動により、一斉に殺戮したと説明しただけであり、騙して殺した事実を隠蔽した。
 
大江卓

 

大江卓は、明治時代の政治家として或は実業家として、相当な活躍をした人であるが、彼の名が今日なおかがやいているのは、彼が我が国の近代的ヒューマニズムの先駆者であったという点である。すなわち、明治4年に賤称廃止に力をつくし、更に奴隷船マリア・ルーズ号事件で清国の労働者232名を救い、晩年は僧籍に入ってもっぱら部落問題ととりくみ、部落解放のためにその一身をささげたことである。その間、維新の志士としてまた自由民権の闘士として、或は政治家、財界人として思う存分の活躍をし、波乱に富んだ生涯を終えたのであるが、今ここにその偉大な彼の一生をふりかえってみることにする。大江卓は幼名を秀馬といい、弘化4年9月25日、土佐の西南端、柏島に生れた。父は大江弘、母は久子といい、宿毛の邑主安東家の家臣で、柏島勤務を命ぜられていた時に生まれたのである。
やがて父は宿毛に帰任し、彼は12才で、安東家の嫡子陽太郎のお伽役となった。元服して名を治一郎と改め、日新館に入り、学問、武術を学んだ。
慶応3年9月、砲術研究のため岩村通俊、高俊兄弟と共に、長崎にわたり、ここで海援隊の中島信行、石田栄吉、長崎商会の岩崎弥太郎等と交わった。
大江はその後岩村高俊、中島信行とともに兵庫を経て京に入り、中岡慎太郎なきあとの陸援隊に入ったが、そこで紀州藩の三浦休太郎が新選組をそそのかせて、坂本、中岡を殺させたのだといううわさを耳にし、大江は、陸奥宗光、岩村高俊ら16名と共に三浦の宿に切り込んだが、三浦も用心のため新選組の土方歳三などをやとっていたので、大乱斗となり、双方に死傷者を出し、三浦に傷を負わせただけで、目的を達せずに引き上げた。
大江たちが三浦を打ち損じた翌日、慶応3年12月8日に山内容堂が入京した。そしてその翌日9日には王政復古の大号令が発せられた。しかしこの時京都に在った会津、桑名の兵は戦意がきわめて旺盛で京都ではいつ戦が始まるかもわからない状態である。万一紀州藩が徳川家に味方して起つということにでもなれば全く大変な事になる。これを押えるには、高野山に兵をあげ牽制するのが一番よいということになった。そして鷲尾侍従が総督としておもむくことになり、大江は岩村たち6、70名と共にこれに従って高野山に向かった。
高野につくと先づ僧徒を説いてこれにしたがわせ、更に和歌山に書を送って軽挙をいましめたが、万一の場合にそなえて是非共錦旗を奉戴していなければならないということになり、帰京して錦旗を奉戴して来る大役が大江に下った。
大江は、12月26日に下山した。京都につくと直ちに正親町卿にそのむねを伝えたが、鳥羽伏見方面はまさに戦火が上ろうとする情勢に加えて、年末年始の多忙な時であったので錦旗下賜が手間どってしまった。明けて慶応4年正月三日、やっと参内して錦旗並びに勅書を賜わったが、その時はすでに伏見鳥羽方面で戦端が開始されていた。
万一にそなえて大江はかねて出入の刀屋の為助をやとっていたので、錦旗と勅書を浅黄の風呂敷に包んで為助に背負わせて従者とし、自分は医者に変装して戦火の中をくぐろうとした。戦場を通り、或は間道を通り、兵士につかまると土佐へ帰る医学生であるといって通してもらい、やっとの思いで6日の早朝高野に安着し、錦旗は高野の山高くひるがえって士気を更に鼓舞した。侍従は深く大江の労を多として感状を与え、更に短刀一振と金一封を贈った。
高野に兵をあげたのは、紀州藩を牽制するのが目的であったが、この際紀州藩を朝廷側に引き入れる必要があり、そのために、侍従はまたも大江を和歌山につかわすことになった。大江は単身和歌山に入り、朝命に従うよう諄々と説き、ついに紀州藩をして朝廷側に引き入れることに成功し、大江は勇躍紀州の兵を率いて大阪に出た。こうして大江の働きにより、紀州藩は、大義を誤ることなく、維新の動乱を切りぬけたが、大江が後年紀州藩と切っても切れぬ因縁を結んだのも、この時の活躍がもとになったのである。
大江は、高野山の義挙によって、兵は組織的な団体訓練を受けたものでなけれぱならないことを痛感した。大江はかって宿毛で洋式部隊を二中隊編成したことがある。この兵を上京させ、鷲尾侍従に統卒させて東征の軍に加わろうと考え、鷲尾卿の賛成を得て後藤象二郎に談判して、高知の重役にあてた依頼状を手にして帰国することになった。
2月15日に高知に着いた。直ちに宿毛邸で竹内綱、林有造等と会議し、更に伊賀陽太郎を説いて皆の賛成を得たが、藩の執政はこれを聞き入れない。仕方なく林と大江は上京して、山内容堂を説き伊賀陽太郎の上京の許可を得た。やがて陽太郎を擁立して東征することも許されたが、その間宿毛兵の出兵は手間どり、東征の軍はどんどん進行して全く手おくれとなった。
そのため大江は東征の軍に従うことを断念し、先づ京阪神で活躍することになった。
やっと宿毛で機勢隊が編成され宿毛を出発したのは7月14日であり、伊賀陽太郎も竹内綱、林有造等をつれて9月には江戸に出、更に荘内に進み、10月26日には再び江戸に帰った。
明治3年、大江は官をやめて、兵庫の湊川付近に住んでいた。その地にフロノ谷というところがあり、他の町々とはまるで様子が違い、ずいぷんみじめな生活であったので、種々様子を聞いてみると、賤民部落であることがわかった。あまりにも悲惨な姿をみて大江は考えた。
彼等とて同じ人間ではないか、同じ同胞ではないか、それが何故に平等な社会生活を営むことができないのであろうか、五ケ条の御誓文にも「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」とあるが、依然として四民平等でないのは旧来の陋習が破られてないのではないか。このような賤民を解放して自由とするのが陛下の大御心ではないか。
こう考え大江は部落解放を決意し、これ建言するために先づ、部落の実態調査をはじめた。これが明治3年8月、大江24才の時である。
大江は岩崎弥太郎の世話で上京して大隈参議邸に入った。大江の賤民平等論に大隈も賛成し、所管の大木喬任文部大輔に取り持ち、大江は大木にあって意見をのべた。大江の意見は
「彼等を平民籍に入れ、荒蕪地に移して開墾させて財産をつくらせ、更に皮革製造の大工業を興して彼等を経済的に自立できるようにしよう。」というのであった。
大江はやがて自ら民部省の役人となり、賤民解放のために専念した。そうしてつい明治4年8月28日
穢多非人ノ称ヲ被廃候条、自今身分職業共平民同様タル可キ事。
という太政官布告が出たのである。ここにはじめて穢多非人の称が廃止され、長い間差別で苦しめられてきた賤民も、平民と同等の権利を獲得するにいたったのであるが、これは全く大江の努力、大木の協力によってなされたものである。後年大江は天也と号して僧籍に入り、なおその生涯を部落問題にうちこんだのであるが部落解放の歴史の上で、忘れてならない大恩人がこの大江卓である。
明治4年10月28日、大江は、神奈川県令陸奥宗光のもとで働くことになり、神奈川県七等出仕に就任した。次いで11月には参事となり、明治5年7月には神奈川県権令に進み、神奈川県政のため存分に腕をふるったが、中でも有名なのが、マリア・ルーズ号事件である。
明治5年6月5日、南米ペルーのマリア・ルーズ号という汽船が、横浜に入港してきた。海上で暴風にあい、鉛を修理するための入港で、船員はペルー人であるが、乗客はすべて清国人であった。ところが、投錨後3日目の6月7日の深夜、やせ衰えた清国人が海中にとびこんで逃亡して、やっと、英国軍艦に泳ぎついた。この男によって容易ならざる大秘密が暴露したのである。
「マリア・ルーズ号には自分と同じような清国人が二百三十余人乗っている。最初我々はペルー人のいうところに従って、労働移民として乗船したのであるが、船中における彼等の態度は、乗船前の甘言とはまるきり異り、虐待に虐待を加えて来た。幸い横浜に入港していることを知り、生死を運にまかせて一身の救助を求めたのであるが、船中に居る不幸な同胞を何とか救っていただきたい。」というのであった。この報はやがて大江にも達した。外務卿副島種臣の指導のもとに大江は徹底的に調査することになり、大江自から特設裁判所の裁判長となって、この事件を裁判することになった。
国内でも、我国と関係のない事件に深入りして対外的に事をかまえるのは得策でないとの意見もあり、更に独、仏、伊、蘭の諸国からも強い干渉があった。大江は人道上の重大問題だとして、これらの圧力をはねかえし、裁判を続行した結果、ついに清国人232名を解放し、無事に清国に送りとどけたのである。
船中ですでに奴隷としての待遇をうけ、ペルーに上陸後は完全に奴隷としての生活をおくらなければならなかった清国人労働者が、大江の力で事無きを得たので、これら清国人は涙を流して彼に感謝したという。清国政府もまた大江に大きな旗を贈って感謝の気持を表わした。この時彼はわずか26才でった。
やがてペルー政府は我が国に損害賠償を求めてきた。我が国はペルーと連署して明治8年にロシヤの皇帝アレキサンドル2世の仲裁裁判を求めたが、露帝は日本の処置を正当と判定を下してこの問題は全く落着したのであった。
また大江は、芸妓や娼妓が奴隷と同じ状態にあることを知り、その解放も行った。
明治6年征韓論は破れ、板垣退助、後藤象二郎、福島種臣、江藤新平、西郷隆盛たちが野に下った。当時大江が最も親しくしていたのは陸奥宗光であり、陸奥と共に大江は非征韓論者であった。明治7年1月、大江は大蔵省に入り、明治8年にはじめて板垣にあって政治意見を交換してより、板垣を先輩として尊敬するようになった。大江は明治8年10月7日に大蔵省をやめたが、これが彼の官吏としての最後であった。官吏としてのきゅうくつさが彼には辛棒できなかったのである。
この年大江は後藤象二郎の二女早苗と結婚した。後藤は同志を集めて蓬萊社を経営し、更に高島炭鉱をも経営していたが、経営は甚だ乱脈を極め、大借金に苦しんでいた。大江は後藤のために、これの整理に当り、やっと後藤の急場をしのぐことができた。
明治7年に江藤新平は佐賀で乱を起し、明治10年になると西郷が鹿児島で兵をあげた。この報をうけて彼は、今こそ政府顚覆の好機であると考え、林有造等と共に同志を糾合して起たんと志した。大江は「これは天与の好機会である、この機会に後藤の窮地を救い、彼をして乾坤一擲の大芝居を打たさなければならない。」と考えたのである。林は銃器、弾薬の入手に着手、大江は、後藤、板垣、陸奥等の間を往来して彼等をこの大芝居の役者たらしめようと奔走した。
その頃陸奥の屋敷が木挽町にあった。そこへ1日同志の板垣、後藤、陸奥、林、大江、岩神昂が集まって協議した。
我々が年来の宿志である民選議員設立の目的を達するには、この期をおいて他にない。そのために、先ず京都において木戸を説き、鹿児島征討の勅命を出させてもらう、この運動は後藤が京都へのりこんで行なう。次に土佐の同志を糾合して実際に軍隊を組織するのは板垣があたり、両者気脈を通じて、時期の至るのを待って事を挙げよう、ということに決まった。
こうして表向きは鹿児島討伐の軍を組織するのであるが、その兵は実際は大阪城と松山城をのっとり、鹿児島軍に呼応して政府に反旗をひるがえし、政府を顚覆させようというのであった。
土佐軍が大阪城を占領すると、紀州、備前、鳥取、加賀の同志も起って兵を挙げる手はずもできていた。
その間大江は、木戸孝允、伊藤博文、鳥尾中将等の行動を調べ、ひそかに官辺の様子をさぐり、土佐軍の大阪突入と同時に、これら重臣を暗殺しようと計画し、岩崎昂、川村矯一郎に説いてその準備をさせたのであった。
熊本城は薩軍に包囲され、まさに落城寸前である。政府はこの苦況をきりぬけるために、土佐兵を募集して鹿児島討伐にむかわせる考えとなり、中島信行、岩村通俊などのあっせんで、いよいよその実行に着手するまでに事が運んだ。大江、板垣たちは、心中ひそかに事をなす時期が来たと喜んでいたが、その頃、官軍はようやく熊本城と連絡がとれ、薩軍はやがて後退をはじめてしまった。官軍の勢が盛んになると土佐募兵の如きは、いつの間にか消えてしまった。
林は3,000挺の銃器購入にその全力を投入していたが、その間土佐の立志社の内部でも、片岡健吉などを中心に、民選議院設立の建白をしようとの動きが強くなってきた。林は依然、挙兵を論じ、銃器購入が間にあわなければ、火縄銃を持ってでも事をあげようと論じた。しかし、立志社員たちは火縄銃では成功しない、上海からの鉄砲3,000挺が来てからでないと挙兵できないと決め、ついに挙兵実行の機会を失ってしまった。
そのうちこの陰謀を政府がかぎつけ、大江、林等立志社の幹部ほとんどが次々と逮捕され、玉乃裁判官のもとで、裁判が行なわれた。林、大江両人は、この事件はどこまでも2人で責任を負い累を後藤、板垣等に及ぼしてはならないと考え、判廷において自分達が中心で事を運んだと極力申し立てた。やがて刑の言渡しがあったが、林有造、大江卓、岩神昂、藤好静が禁獄10年、池田応助、三浦介雄、陸奥宗光が同5年、中村貫一が3年、岡本健三郎が2年、山田平左衛門、林直庸、竹内綱、谷重喜、岩崎長明、佐田家親、弘田伸武、野崎正朝が1年、片岡健吉は100日という判定であった。。
大江に対する申渡しは次の通りである。
   申 渡
高知県土佐国幡多郡宿毛駅六十三番地士族
当時東京府高輪町三十五番地寄留
   弘長男  大江 卓
其方儀明治十年鹿児島賊徒暴挙ノ時ニ際シ林有造岩神昂ト共二政府ヲ顚覆セン量ヲ企テ陸奥宗 光へ牒示シ又川村矯一郎二重臣暗殺ノ事ヲ教唆シ加之林有造力外国商ヨリ銃器弾薬ヲ何時モ取 入ル様差押スル事二立入一少ナカラサル金額ヲ同商二渡シタル科二依リ除族ノ上禁獄終身二処 スヘキ処軽減スヘキ事情アルヲ以テ除族ノ上禁獄十年申付候事
   明治11年8月20日   大審院
こうして林と大江は岩手の監獄に、陸奥と三浦は山形、藤と岩神は秋田、池田と中村は青森の監獄に送られた。
大江は林と共に岩手県の監獄に入り、7年間ここで過ごしたが、その間に父弘、一子真氏、また彼が入獄中に生れた娘於菟三と引続いて3人の近親が病死した。獄窓の大江は全く断腸の思いで日々を過した。
大江の入獄中後藤はその遺族のために月々の生活費を送っていたが、そのうち、大江には何の通知もせず、大江の妻早苗を後藤家に引きとってしまった。大江が罪人であり、その将来に不安を感じたためと思うが、夫に無断で離縁させ、これを引取るとはあまりにもひどい仕打ちである。7年間の獄中生活を終り、明治17年仮出獄を許されて東京へ帰った大江は、ここではじめてこの事を知り、つめたい獄中生活以上に人生の苦痛を味わったのであった。
大江が獄中生活をしている間に、政界の形勢はいちじるしく変っていた。明治14年には自由党が生れ、15年には立憲改進党ができた。政府は集会条令をつくって、これらの政党運動に弾圧を加えたので、各地で騒動が相ついで起った。大江、林は自分等の獄中に居る間にできたこれらの政党を、一旦解散させ、新たに強い組織をつくることを計画した。そうしてこれを板垣や後藤に働きかけついに後藤をして旧政党を合体して大同団結をつくりあげ政府攻撃をはじめようとしたのである。
然し政府は、この攻撃をさけるため強引に後藤をして入閣せしめたので、ついに大同団結は空中分解を起してしまった。
そのうちに明治23年となり、第1回の衆議院議員の選挙がはじまった。大江は岩手の人々に推されて岩手第5区より立候補した。大江が岩手より立候補したのは、7年間岩手の監獄で暮し、岩手県民から少なからぬ信頼と尊敬をうけ、県民の一部から熱心に立侯補をすすめられたからである。大江は
「おれは頭を下げることも下手だし、口先も上手でない、もとより金もない、お前達が当選させてくれれば遊び半分にやってもよい。」というような調子であったが、みごとに当選をかちとった。
衆議院議長には中島信行がなり、大江は予算委員長になった。第1回の国会では予算案をめぐって審議は混乱した。野党はただもの予算案に反対している。当時国内にも国外にも日本で議会はまだ早過ぎるとの意見もあった。ここで決裂してしまっては尚早論に勝利を与えることになり、外国の物笑いとなる。こう考えた大江は悪いところは改めるという、常識をもった審議を提案し、これに同調した土佐派の議員の協力によって、やっと予算案を多少修正して無事通過させることができた。
第2回選挙は明治25年2月に行なわれた。大江はまたも岩手から推されて立候補した。この時も、1回も選挙区へは入らず、理想選挙を主張して実行したが、今回は落選の憂目を見た。しかし彼は決して落胆はしなかったのみならず、むしろ喜んで政界より足を洗い、実業界へ転出を計った。
やがて彼は東京株式取引所の頭取として腕をふるい、更に八重山鉱業株式会社を創立し、鉛管製造事業をもはじめた。また帝国商業銀行や日本興業銀行の創立委員にもなって活躍した。彼はまた東亜の風雲にそなえて製鉄所の設置を主張すると共に朝鮮における京釜鉄道の設立を強く政府に提案した。更にまた巴石油会社をおこし、夕張炭鉱株式会社の創立にも力を尽した。こうしてあらゆる重要事業をおこしたことから考えると彼はどちかといえば、経営の人というより創業設立の人であったようである。
京釜鉄道は明治38年に開通し、日露戦争遂行に重大な役割を果した。その建設の間大江は、竹内綱たちとともに設立委員の1人として、12年もの長い歳月朝鮮にて日夜心血をそそいでその業務に専念した。彼はまた単に鉄道事務のみでなく、韓皇室の顧問となり、水輪院の総裁にも勅任されて、韓国の内治にも少なからぬ力を尽した。
明治41年、彼はラングーンよりビルマを経て、雲南に入り、未開の奥地を視察した。
雲南視察を終えて帰国した彼は老後を社会事業に尽そうと決心したのであったが、その時胸中に浮び上ってきたのが明治4年彼の建白によって賤称を廃止された部落民の救済であった。
大江が晩年の大事業であった帝国公道会の設立に着手したのは大正2年である。公道会というのは「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道・・二基クベシ」より取った名称で、特殊部落の改善融和を目的としたものである。
彼は、この事業に全力をそそぐためには、一切の俗塵をすて、厳粛な法戒をうけ、精進潔斎の心身を以ってせなければならないと考えた。こうして、大正3年2月1日付で、「この度出家して妻子にも別れ、精進潔斎して、身を帝国公道会に委せ、細民千秋の冤をそそぎたい。」という意味の告別状を年来の知友に送り、名も天也と改め、2月8日、曹洞宗管長、素童禅師によって、剃髪の式が行なわれ、老師より法衣を授かって名実共に僧籍に入った。
この時の心情を大江は後に左の如く語っている。「部落民に対してかつて多くの同情者があった。しかしながら、それらの人々は多く被改善者に対する改善者たる地位に立つものであって、優越意識によって、それらの賤民に臨むような態度から離れることができなかった。これとて非難すべきではなく、その心情は美わしいものであったけれども、その効果に至っては未だ甚だ低劣なるものであることを免がれなかった。自分は、かかる階級的意識を捨てることが部落民のために働く者の唯一の道であること考えた。大正3年自分が剃髪して仏道に入り、一切の俗縁を絶ったのは、実にこれがためであった。自分が仏道に帰依したことは、人を説かんがためではなくして、実に自ら心を修せんがためであったのである。かくせざれば多くの人々に向って、何物をも説くことはできなかったのである。」
大江は普通の世捨人とは異り、部落民を救済するため、法衣をまとって野に伏し、山に寝ね、諸国を遍歴する身であった。事実大江は素童禅師よりいただいた法衣をまとって全国を巡回し、またたくまに全国に組織をつくり、四百数十名の会員を集めた。こうして大正3年6月7日、帝国公道会の設立総会を開いたが、大江は座長として経過報告をなし、会長に板垣退助を選んだ。後には会長は大木遠吉となり、大江は副会長として、死にいたるまでこの会のため、部落のために力を尽したのである。大木遠吉は、明治4年大江が賤称廃止を建言した時の大木喬任文部大輔の子息であり、大木も父子2代にわたり部落のために貢献したのである。
大江は幾度となく全国を巡回し、その足跡の印せざる地はないとまでいわれている。その間部落民の北海道移住にも力を入れ、又部落の歴史的研究をもおこたらなかった。この研究は時の学者でさえ驚嘆する程のすばらしいもので、後世、部落史を研究する上にも非常に役立っている。
大正8年6月10日、大江は板垣を訪問した。板垣は病気で寝ていたが、病室での2人は1日中話がとぎれなかった。板垣は、
「白色人種は有色人種を軽蔑している。有色人種といえば劣等人種のように考えて、まさに奴隷あつかいをしている。まことに残念でたまらない。有色人種が優秀な文明を発揮して白色人種と平等な地位に立たねばならぬ。ところで今の東洋の知識や科学の程度ではどうしても駄目である。何といっても教育も低く文明も劣っている。それで自分の考えでは、東洋の中心たる支那に一大学校を建て、印度人でも、南洋人でも蒙古人でも、チベット人やペルシャ人までを一丸として、どんどん教育して、有色人種をして将来世界を支配出来る文明人種に育てあげなければならない。これを行うには日本人が率先して指導せねばならぬ。この話はまだ誰にも話してないが、どうだ一緒に運動しようではないか。」
大江がこの日板垣を訪ねて話そうと思っていた要件も、全くこれと同一意見を実行することにあったので、
「それは不思議である。自分が考えていたことと、今の話とは全く同じことである。自分はユダヤ人の建国を日本政府にやらせて、蒙古の北方にユダヤ国を建設し、支那にアジヤ大学を建て、大いに有色人種の文明を進めようと思い、このことを話すために来たのであった。」こうして2人の考えは全く一致し、2人はともに声が出なくなるまで話しあった。
大江の賤民救済は、国内の賤民だけでなく、世界の賤民ユダヤ人の救済や、差別をうけているアジヤ人の幸福のためにも目をむけたまことに壮大なものであった。
その翌月板垣は逝き、翌大正9年には大江も健康すぐれず令息太氏の邸で養生生活に入った。彼は病気が胃癌であることを知って、自ら身辺の処理を万端おわり大正10年9月12日75才の天寿を完うして、眠るが如く静かに世を去ったのである。
かえりみれば大江の一生は実に多難な一生であった。また波欄万丈の一生でもあった。彼と行をともにした知人、友人は、ほとんど華族に列し、官界、財界で名をなしている。ひとり大江のみ無位無冠、ひたすら法衣をまとって全国を行脚し、部落解放に全力をうちこみ、差別のない、平和な日本を建設しようとしていたのであった。多難な一生ではあったが、また有意義な一生でもあったわけである。
大江は号を揚鶴または元良といった。
南北朝時代の文和年間(1352〜56)、海峰性公尼(かいほうしょうこうに)が四国巡礼の僧泉巌覚雲の助けにより建てた寺で、天文年間(1532〜55)寺を修復した土佐一条氏3代房基は、非常時難所として土塀に3角形の矢狭間を設け軍事的に重視した。
境内には、堅い石垣を構え江戸初期建立の山門を備えており一隅に大江卓の書である「自由の碑」が立っている。
海峯性公尼と覚雲の座像は室町時代の肖像彫刻の傑作とされ、国の重要文化財に指定されている。
第1回帝国議会は明治23年(1890)11月25日に召集された。政府提出の予算案をめぐって当初から与野党が厳しく対立した。これを調整するため議長中島信行、予算委員長大江卓、請願委員長片岡健吉ら9名で予算審査委員会をつくり交渉の結果、妥協案が賛成157、反対125で成立し解散を避けることができた。
山県内閣はこの譲歩によって退陣し、松方正義が新内閣を組織して24年12月21日第2回議会が召集されたが、野党は政府の軍艦・製鋼所設立費の予算を否決し、政府攻撃を強化したので議会は12月25日解散となり、翌25年2月15日に第2回総選挙が施行されることになった。
内務大臣品川弥次郎が中心となり、全国の選挙区で官憲が選挙干渉にのりだし、野党側もこれに対抗したので、いたる所で暴力と暴力の衝突が行われ、遂に各地で死傷者がでて我が国選挙史上に汚点を残した。
高知県では、その干渉が最も露骨になり、自由党と与党である国民党との抗争が激しかった。
各会場の演説会では、ヤジ投石が行われ、23年11月には自由党の杉内清太郎が殺害されたのをはじめ25年の第2回選挙の時には川村勇馬襲撃事件、土居三白襲撃事件、立石治内襲撃事件等が次々に起った。
中村太平寺境内に杉内清太郎を記念する「自由の碑」が建立された。撰文は竹内綱、書は大江卓。碑文には、「生愛自由、死為自由、人貴自由、碑表自由」との言葉が刻まれている。  
 
生と死 有島武郎

 

・・・志賀直哉は有島生馬より一歳年少に過ぎなかったが、文学の面でも美術の面でも自分よりずっと先を行っている生馬に兄事していた。生馬に兄事するだけでなく、同性愛に近い感情で生馬を愛し、彼の名前を書いた紙片を胴着の中にしまい込んでいたほどだった。
志賀は、学生時代のこんな話も書いている。生馬が落第するのではないかと心配した志賀直哉は、生馬のために懸命に祈ったというのだ。その頃の志賀は芝公園の弁財天を信仰していたから、弁財天に願掛けした。
彼は池の中にある祠に向かって祈るよりも、便所の壁にある小さな傷を弁財天と見立てて、これに祈ることの方が多かった。1センチに満たない小さな壁の傷は、人の形をしているように見え、祠に祈るよりも便所の中で祈った方が精神統一が出来たと志賀は書いている。そのお陰か生馬は落第せずに済んだ。
やがて有島生馬は絵の修行のためヨーロッパに旅立つことになる。その直前に彼は志賀と黒木という友人に自分には結婚を約束した女がいると打ち明け、自分の留守中、その女の面倒を見てくれないかと依頼したのだった。
相手の女というのは、今は生馬の屋敷で女中をしているけれども、もともとは電話交換手をしていたのを生馬が見そめ、まず絵のモデルになって貰ったじょせいだった。生馬は、その後に彼女を女中として自宅に迎え入れていたのである。
「友達の外遊中その恋人を託されるということは当時の僕達にとって決して悪い気のすることではなかった」(「蝕まれた友情」)から、志賀と黒木は生馬の頼みを承知した。二人は、女に教養をつけさせるために女中を止めさせて麹町の成女学校に入学させた。二人は、それぞれ小遣い銭を削って、女学校の授業料を出してやった。
滞欧7年で、生馬は帰国してくる。生馬を迎えに駅に出かけた志賀は、生馬の妙に「悠然たる態度」を眼にして百年の恋も冷めるような思いをするのだ。一等車から降り立った生馬は、プラットフォームで待っている出迎えの人々に眼で会釈しただけで、先に下車した樺山海軍大将を追って別れの挨拶し、それから悠然と引き返してきたのである。その後も生馬は、「安っぽい容体ぶった様子」を続け、志賀をガッカリさせる。
生馬が時に思い上がった態度を示すことは、兄の武郎も苦々しく思っていた。札幌農学校に在学していた頃、帰省して実家に戻った武郎は、自分が以前に学んでいた学習院の生徒たちの所作を眺め、嫌悪のあまり吐き気を感じた。彼等は揃って、優柔不断の臆病者の癖に、いやに傲慢なのである。
学習院学生ヲ見ルニ多クハ優柔不断ニシテ軽薄極レルモノ多ク……人ヲシテ嘔吐ヲ催サシムル事アリ。
況ンヤ壬生馬(生馬)ノ如ク倨傲他人ヲ無二スルモノニ於テヲヤ。……浮々泛々人ノ甘言ニ乗リテ事物ノ分別ヲ知ラズ殆ド流行書生ノ風ニ倣フ。
武郎が家族に対してこんなに激しい嫌悪を示した記述は、外にはない。
だが、生馬には特有の魅力があり、滞米中の武郎は弟が絵画修行のために渡欧すると聞いて、実家が彼への送金を増やせるようにと、アルバイトをして自分の生活費を切りつめている。
生馬の弟の里見クは、兄が渡欧するとき中学生だったが、横浜まで見送りに行き、船が埠頭を離れるやいなや声を上げて泣き出し、回りのものがいくら慰めても、どうしても泣きやまなかった。
志賀直哉を更に怒らせたのは、帰国した生馬が7年間待ち続けた婚約者を放置して別の良家の娘を追い回し始めたからだった。生馬は心変わりしたことについて、志賀と黒木に何の説明もしなかった。ほどなく生馬は女との婚約を解消する。だが、生馬はもちろん女の方からも、この件について何の報告もなかった。
志賀も女中と結婚したいと言い出して父親と衝突したことがある。この時には、武郎が乗り出して仲介にあたってくれたが、生馬の婚約者に対しても武郎は陰ながら援助していたのではないかと、志賀は推測している。
生馬は昔のことは口をぬぐって別の女性と結婚した。が、その女性が結婚後に家を飛び出して実家に帰ってしまうという事件が起き、この時にも武郎が乗り出して解決にあたっている。  
 
広津柳浪「今戸心中」論

 

・・・「今戸心中」における善吉の役割を右のように見てくると、作者柳浪にとって善吉なる人物は描くべき内的必然性があったのではないかと思われてくる。同時代評のなかでも特に詳細で適切な八面楼主人「柳浪子の『今戸心中』」(『国民の友』明二九・八)が善吉にふれて「髣髴として同作者の変目伝を想像す」と書いているように、善吉は「変目伝」「亀さん」などの主人公の血脈をひく、柳浪作品中の一典型なのである。とりわけ「変目伝」の主人公は善吉に近い。
洋酒の卸小売店、埼玉屋の主人伝吉は、老母に孝養をつくす商売熱心な男であるが、「身材(せい)いと低くして、且つ肢体(すべて)を小さく生れ付た」小男であり、しかも「左の後眥(めじり)より頬へ掛け、湯傷(やけど)の痕ひつゝりに」なっているため、変目伝と呼ばれ、人々から嘲笑されている。この伝吉が、薬種店仁寿堂の定二郎の甘言に欺かれて店主の妹娘、お浜に想いをかける。その結果、家産を破り殺人の罪を犯して絞罪になるという運命をたどるのだが、死にざまの違いはあれ、伝吉と善吉の設定は酷似している。
いったい何か彼らをしてそのような破局へと向わせるのであろうか。――それは彼ら自身の内部に湧き起った、衝動的な或る強い力である。笠原伸夫氏はこの力を前掲の『美と悪の伝統』のなかで「情念」としてとらえ、中世以降の賎民芸能の流れを汲む「下層民の屈折した情念の行方」を柳浪作品に見出している。
久留米藩士を父にもち、みずからも大学予備門に学んだ柳浪が何故下層階級の人々を好んで作品にとりあげ、悲惨な物語を描いたかという問題はしばらく措くとして、この暗いエネルギーが、周辺の人々に虐げられ、弱者として生きつづけるうちに彼らの内部に欝積したものの噴出したものであることは明らかであろう。伝吉も善吉も一人前の男性として遇されることがなかった。けれども彼らもまたひとりの人間であり、他の人々と同じような夢や願望を抱く。そのねがいは、かなえられそうにないだけにいっそう切実であり、実現を妨げられることによってさらに異様にふくれあがる。彼がその重みに耐えきれなくなって行動を開始したとき、それは常軌を逸した性急なものとなり、破局はすぐさま訪れる。――
およそ情念とは、現実の悲惨さに傷つけられた者がおのれの内部で燃えたぎらせる暗い願望を意味する言葉だろう。その情念が外に向けて噴出したとき必ず招来する悲劇を、柳浪は社会の実相としてとらえ、それを表現したのである。
柳浪作品のもう一つの系譜――個人の生まれつきもっている悪の気質が周囲の者を破局に導くという主題をもつ「黒蜥蜒」「信濃屋」「雨」などの諸作も、同様の認識から来ていると思われる。ひとりの邪悪な人物によって支配され、不当な苦しみを味わなければならぬ人々の情念と破滅を、柳浪は冷徹に描ききっている。
このような柳浪作品の根底にあるのは、人間と社会についての、どうしようもなく暗い認識である。人間の生まれながらにもっている邪悪さ、弱さ、欲望といった諸要素を、柳浪は人間の本質ととらえる。そしてそれが或る一定の外的状況と重なると、屈折した情念となってその人を衝き動かし、それは必ずや破滅的な結末を招くという絶望的な認識を、柳浪はさまざまなヴァリエーションで作品に表現したのである。
人間は遺伝と環境によって支配されるとするゾラの自然主義理論がわが国で或る程度消化され、自覚された理論としてあらわれるのは、明治三十年代の中期である。しかし小杉天外も永井荷風も、それを理論として学んだのであって、みずからの人生体験で発見したのではなかった。柳浪は少なくとも七、八年は早く、ほぼ同様の結論をみずからの眼で確認し、しかも血肉化した思想として作品に描き出しているのである。吉田精一氏は前記の書で「彼の描いた人間は、個性、性格をしばしば欠いてゐる」と述べている。四十年代以降の自然主義の諸作品と比較するとき、この評言はまことに正しい。わが国における自然主義作品が、一平凡人の内面と社会との闘いを追求し、竹中時雄や瀬川丑松といった、それなりの典型を産みだしたことを思えば、柳浪の主人公たちがいささか類型的であることは否めない。特異な状況設定のもとで初めて彼らは生きはじめるからである。
けれども、この考えはあまりに近代的な見方に偏してはいないだろうか。個人や自我といった角度からのみ文学作品を眺めてはいけないだろう。個性や性格以前の、人間の本性といったものに目を向けるとき、柳浪作品はあらたな意味をもって浮び上ってくる。わが国の文学には、近代以前にも滔々たる流れがあり、そこでは人間のもつさまざまな要素がゆたかに追求され、新しい発見と美の造型が繰返されてきた。近世を例にとっても、浄璃瑠や歌舞伎など様式化された総合芸術のなかで、人間のもつ本能的な情念は十分に発掘され、高度な達成を示している。そしてこれらの遺産が近代文学に吸収され再生されたとき、近代文学の流れに豊饒な厚みを加えたことは、永井荷風、谷崎潤一郎らの例を見るまでもなく明らかである。
柳浪の作品もまた、近代的な個性のきわだった以前の、人間の本質と社会構造の悪とを本能的に嗅ぎ出しての世界であった。ここに描きだされた人間の動かしがたい本性は、今日ふたたび光を当てられるべき可能性を多分に有している。「雲中語」が「河内屋」に寄せた評のように、「他人の書かむとも思はざるところ、他人の書かむと思ひても敢て書かざるところ」を凝視した柳浪の作品世界は、現代の文学が切り拓くべきあらたな領域をも示唆していると思われる。  
 
日本人渡航者への影響と明治政府の苦心

 

この中国人排斥法の効果は明らかで、中国人の移民数は減少して行った。その結果、安い労賃で働く労働者を探す雇用主の目は、日本人にも向き始めた。例えば日本の在サンフランシスコ領事は非常な危機感を抱き、明治22(1889)年11月26日付けの本国宛の報告書で、
「日本人は支那人の様に雲集して来航する傾向は無いが、一旦アメリカ移住の利益が分かれば、他のヨーロッパ人と同様の意思を抱くだろう。日本は既に多数の渡航民をハワイに送っている。彼等は文明を理解し他国人と親交するとは言え、良く艱難に耐え低賃金で生活するのは支那人と同様だ。」
と報ずるサンフランシスコの「コール新聞」紙の記事を外務省に報告している。この様に先鋭的に、日本人移民への危機感を煽るメディアも出始めていたから、サンフランシスコ駐在の日本領事は現地新聞の報道に気を使い、不利な報道が出ない様に細部にまで目を光らせ、逐一外務省に報告を上げている。
こんな中での問題の一つは、日本人売春婦がハワイやカナダを経てサンフランシスコにやって来て、新聞に報道されたり、入国を拒否されたりする事も多々あり、現地駐在の日本領事はその取り扱いを廻り、大いに頭を悩ませる状況があった。これは取りも直さず、中国人が排斥されている中で、正規の手続きで来航する通常の日本人、即ち正業に就く日本人にまで排斥機運が広がらない様、現地領事と日本政府の陰の連携努力があったのだ。1891(明治24)年のこんな領事報告の一つに、言語の問題も含め米国入国検査の不十分さを嘆き、
「今日の成り行きに任す時は、日ならず本邦人の醜業者益々増加し、香港、上海、新嘉坡(シンガポール)等の如く、当国至る処日本人遊女店を開設するは必然の勢いにして・・・。サンフランシスコはヨーロッパ人種とアジア人種の接点であり、日本の栄誉を維持するため最も大切な場所である。この地に来る日本人は真に日本国民の気尚(=気質)を代表し、国名を維持するに値する人物でなければならない。」
と日本政府へ、売春婦やいかがわしい人物の規制対策実行を上申している。
また、太平洋を運行する汽船会社の中には定期航路を持たず、熊本、長崎、広島辺りで格安料金で乗客を集め、サンフランシスコに送り込む汽船もあり、アメリカは労賃が高いという甘言に乗せられ、1891(明治24)年の4月、一時に120名もの日本人がサンフランシスコに着くという事件があった。当時アメリカ政府の強化された移民規則は、契約移民は認めず、渡航船賃も自前で支払い、自由意志渡航で一定の現金を持ち、身体健康者で、上陸後に公共費による保護を受けない事などが義務付けられていたから、こんな乗客中にはこの規則に合致せず上陸拒否に遭う人達も居た。更に翌年、サンフランシスコ駐在の日本領事は入国検査官と面談し、明らかな移民規則違反者はともかくも、証拠不十分な場合は上陸許可を出すべきだと交渉し、一旦入国を拒否された日本人・66名もの入国許可が下りたケースも報告された。
こんな報告書に依れば、1892(明治25)年の4月・5月だけでカナダやハワイからの回航組みも含め500名もの日本人移民がサンフランシスコ港に到着したという。これを現地新聞は見逃すはずもなく、上述の様に日本領事が懸命に入国検査官と交渉すればする程、逆に、大量移民を米国に送り込むのが日本政府の国策だと非難する新聞まで現れた。また、「日本人が白人や婢僕(=召し使い)の地位を略奪する」、「支那人の次に入米を拒否すべきは日本人だ」、「日本人の短所」など、日本人を非難する種々の記事が現地新聞に現れ始めた。こんなサンフランシスコ領事の危機感に満ちた報告書は、明治政府外務省より和歌山、広島、大阪、福井、熊本、山口などの知事宛に送られ、日本人が支那人と同一視されアジア人拒否が一層厳しくなっているから、不適格者は勿論、一般人も出来るだけ論止して貰いたい旨通達された。更に追加して榎本外務大臣が各県知事宛に、渡米志望者には米国の移民規則の内容をよく理解させて欲しい旨の通達をも出している。
こんな風に1889(明治22)年頃から、ハワイ経由も含めアメリカ本土へ移民する日本人の数は急速に増え始め、これを政治的に利用しようとする先鋭的な政治家も顕在化した様だ。1891(明治24)年11月、この状況を心配するワシントン駐在の建野公使は榎本外務大臣に宛て、
「合衆国人民の日本人に対する感覚は、相変わらず移住民制限法を施行し、何分かの取締法を執行する方に傾き居り、目今の光景にては、早晩日本人移住制限論者が議場に於いて勝ちを制するに至るべきは必然の事と思われ候。然るに、右は全く政治家が西部の人望を収攬せん為に主張する論にして、言わば一時政略上の必要に他ならず・・・。」
と、米国議会に於ける日本人移住制限論者の台頭を報告した。合わせてアメリカ政府や議会に対し、アメリカが来航日本人を規制するのなら、日本も在日アメリカ人を規制する可能性があると宣言に及ぶ件に付き、日本政府の了解を申請さえしている。実際こんな強硬手段を実行した形跡は無いが、日に日に強まるアメリカ西海岸での日本人への攻撃や、それを政治問題化しようとする一部政治家の動きなどに関し、現地駐在外交官の苦労が分かる事例である。
 
日韓併合

 

「日本近現代史の躓き1」で、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思う最初のポイントとして「日韓併合」をあげました。最近は韓国ドラマなどを通して韓国人の生き方や考え方を知り、韓国文化に不思議な”なつかしさ”や”あこがれ”を感じる人も多くなっています。また、進んでハングルを勉強する人も増えてきていますので、両国国民の相互理解も、徐々に改善の方向に向かうのではないかと期待されます。
しかし、その場合も、こうした日朝間の過去の歴史をしっかり勉強し、それにまつわる事実関係をしっかり把握しておく必要があるのではないかと思います。なにしろ「日韓併合」というのは1910年から1945年までの36年間、韓国民族の独立を奪い日本民族に同化しようとした歴史であり、それだけに、そこに至った政治的理由やこの間に醸成された韓国人に対する差別意識の根源をしっかり見据えておく必要があるからです。
一般的な「日韓併合」を正当化する理由としては、当時の食うか食われるかの帝国主義的時代環境の下で、韓国はその置かれた地政学的位置の故に、清国、ロシア、日本という三強国間の勢力拡大競争に巻き込まれざるを得なかったこと。また、この間、李氏朝鮮が排外的な小中華思想を脱却できず近代化が立ち後れたために、自らの政治的独立を保持し得ず、結局、日清、日露戦争に勝利した日本に併合されることになった、というものです。
この場合、もし日本が日清、日露戦争に勝たなければ、韓国はもちろん日本もソ連邦の解体までかっての東欧諸国と同様、国家としての自由を奪われていたはずだ、といわれます。また、仮に、日清戦争において清(=中国)が日本に勝利したとすれば、いうまでもなく、沖縄やその周辺諸島は清(=中国)のものとなり、また、韓国も、それまでの清露の力関係から考えてソ連による支配を免れなかったと思います。
となると、日本の立場から言えば、日清、日露戦争を勝ち抜き、韓国を日本の勢力下に置くことに成功した後において、なお、「韓国の独立を保全し、日韓の長期的信頼関係を固めるという選択肢」があったかどうか、ということが問題となります。これに対して岡崎久彦氏は「結論から言えば、可能性はほとんどなかったというほかはない」と次のようにいっています。
まず第一に、「当時の日本としては、ロシアの韓国征服の意図を排除したなどととうてい言いうる状況になかった。ロシアの報復戦の恐れは、帝政ロシアが崩壊するまで、あるいはずっと後でスターリンが揚言したように、日露戦争の復讐が完了する第二次世界大戦の敗戦までつねに日本の頭の上に重く蔽い被さっていた。」
第二に、韓国は、日本との過去の歴史的・文化的関係からして「日本とどんな特殊関係―それが友好関係の名の下でも―を持つことも嫌がり、日本が特殊な地位を主張すればするほど、ロシアかシナに頼ってバランスをとろうとしたであろう。それはまた自主の国の外交として当然である。そうなると、いつまたロシアが甘言と脅迫を持って復帰してくるか分からない。・・・そこまで読み切っていた日本が、日露戦争の戦果をむざむざ捨てることは考えられないことであった。」
「つまり、(秀吉による文禄・慶長の役で植え付けられた恐怖心や、日清戦争後に起きた日本公使三浦梧楼等による「閔妃殺害事件」などの)過去の歴史のために、韓国側は猜疑心の下に隠微な抵抗を続け、日本はこれを押さえつけるためにますます脅迫と強引な行動に訴えてさらに韓国人の信頼を失うという悪循環が、そのまままっしぐらに併合の悲劇へと進む勢いとなっていたとしか言いようがない。」というのです。
しかし、そうした状況下にあっても「日本にとって取りえたせめてもの最善の措置は、同化政策などは厳しく自制して、・・・不良日本人の流入を禁止し、韓国内における韓国人の土地や権利を尊重することだった。それでも怨恨と抑圧の悪循環を完全に中断し得たかどうかは分からないが、・・・一般国民や知識層の一部から真の支持が得られる可能性は十分あった。もしそうなっていれば、伊藤(博文)が当初意図していたような保護国統治にとどまり、韓国はエジプトやモロッコなどのように、民族の自治を守りつつ、植民地解放の時代を待つことができたであろう。」といっています。
実際、伊藤博文は、1906年1月初代統監として赴任する前に新聞記者に対して、次のような抱負を語っています。
「従来、韓国におけるわが国民の挙動は大いに非難すべきものがあった。韓国人民に対するや実に陵辱を極め、韓国人民をして、ついに涙を呑んでこれに屈服するのやむなきに至らしめた。・・・かくのごとき非道の挙動はわが国民の態度としてもっとも慎まなければならないところである。・・・韓国人民をして外は屈従を粧い、内に我を怨恨する情に堪えざらしめ、その結果ついに日韓今日の関係に累を及ぼすがごときがあったならば誠に遺憾とするところである。・・・かくのごとき不良の輩は十分に取り締まる所存である。」
(伊藤は統監という危険な職を引き受けるとき、韓国駐屯の日本軍の指揮権を統監に与えることを条件とした。軍の統帥権を盾にとった横暴を押さえようとしたのである。)
「しかし、(その)伊藤の権威を持ってしても、下が小村(寿太郎)のような考え(なるべく多くの本邦人を韓国内に移植し、我が実力の根底を深くするというような考え方)ではこの大勢は止めようがなかった。」
また、伊藤は、併合に反対し、何とか保護国統治に留めようと努力しています。「併合ははなはだ厄介である。韓国は自治せねばならない。しかし日本の指導監督がなければ健全な自治を遂げることはできぬ」(1907年7月ソウルでの公演)「古は人の国を滅ぼしてその国土を奪うことをもって英雄豪傑の目的のごとく考えたものであるが、いまはそうではない。・・・弱国は強国の妨害物である。従って今の強国は弱国を富強に赴かしめ、ともに力を合わして、各々その方面を守らんと努めるのである」
しかし、その伊藤博文も、韓国民の保護国化そのものに対する抵抗運動を抑えることができず(明治40年は323件、翌年には1451件と反乱討伐が5倍に増え)、ついに韓国併合のやむなきことを認めるに至ります。そして、1909年10月、統監の職を降りた後、満州問題についてロシア蔵相ココフツォーフと話し合うためハルピンに立ち寄った時、安重根の凶弾に倒れるのです。
その安重根は、公判の席で次のように、伊藤公暗殺の動機を語っています。
「日露戦争の時(日清戦争の時の誤り=筆者)日本天皇陛下の宣戦詔勅には東洋の平和を維持し、韓国の独立を鞏固にならしむるということから、韓国人は大いに信頼して日本と共に東洋に立たんことを希望して居った。しかるに伊藤公の政策が当を得なかったために、(義兵が大いに起こり)・・・今日迄の間に虐殺された韓国民は十万以上(*)と思います。・・・伊藤は奸雄であります。天皇陛下に対して、韓国の保護は日に月に進みつつあるというように欺いているその罪悪に対して、韓国人民は尠なからず伊藤を憎んでこれを亡きものにしようという敵愾心を起こしたのであります。」
*1907年8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降1910年末までの反日義兵運動による義兵側の死者は17,688名、負傷者3,800名に上る。(『朝鮮暴徒討伐誌』朝鮮駐箚軍司令部編)
伊藤は凶弾を受けたとき「やられた」と一言を発し、「相手は誰だ」と問い、犯人は韓国人であってすでに逮捕せられたことを知らされるや「馬鹿な奴だ」といってしばらく呻吟したのち、目を閉じたといいます。そもそも、伊藤は、維新以来4度も総理を勤めた元勲であり、統監という困難な職を引き受けることはなかったのですが、自らは、先に紹介したように、韓国の自治と近代化を推し進め得るのは自分しかいないとの自負も持っていたのではないでしょうか。(なお、伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、1.伊藤博文に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が持っていたのは拳銃である。2.弾丸は伊藤博文の右上方から左下方へ向けて当たったと証言している。ことなどから、伊藤博文に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説が根強くあります。)
ともあれ、安重根公判におけるこの言葉を聞くと、意外にも彼は、日本の力を借りて独立を達成しようとした金玉均や朴泳孝と同様の考え方を持っていたのではないかということが推測されます。彼らはその後、日本の政策によって裏切られることになるわけですが、「その挙措進退は、ある場合には血気にはやって暴走したことがあっても、その動機においては、一つ一つ全く非難する余地のない愛国者で、日本でいえば明治維新の一流の志士達と肩を並べられる立派な人たちなのですということもできます。」
従って、「もし日本が、韓国の独立と近代化を一貫して支持し、その政策の枠の中で金玉均や朴泳孝(あるいは金玉均)などという立派な人々をもりたてていっていれば、元々近代化の大きな流れが韓国の政治の基調になる条件は十分にあったことですから、韓国の民心が一変して、従来の清国に対する事大思想から、日本と協力しての近代化する方向に流れた可能性は十分あったと思う」と岡崎久彦氏はいっています。
一方、この問題に対して、韓国人である呉善花氏は「李朝―韓国の積極的な改革を推進しなかった政治指導者たちは、一貫して日本の統治下に入らざるを得ない道を自ら大きく開いていったのである。彼らは国内の自主独立への動きを自ら摘み取り、独自の独立国家への道を切り開こうとする理念もなければ指導力もなかった」といい、「韓国独立への道が開かれる可能性は、金玉均らによる甲申政変の時点と、彼らを引き継いだ開化派の残党が甲午改革を自主的・積極的に推進していこうとした時点にあった」と指摘しています。
また、朝鮮と同じように日本による総督府統治を受けた台湾の金美齢氏は「台湾人と朝鮮人が親日と反日に別れたのは、日本の統治政策の差というよりも、それぞれの民族がたどった歴史の違いや、民族固有のメンタリティの違いに原因があるようだ。もし統治政策の差を云々するのであれば、客観的に見て、植民地としては朝鮮の方が台湾よりも一段と格の高い処遇を受けていた(例えば京城大学は併合後14年で創立、台北大学は領有後33年。台湾統治の方が15年も先だったのに、徴兵施行は後まわし、朝鮮人は陸士入学を認められていたが、台湾人はダメ、などなど)」と述べています。
おそらく、台湾と同様、韓国における総督府統治においても、近代化のための経済的・社会的インフラの整備という面では、相当の成果があったことは間違いありません。しかし、帝国主義の時代、日本の安全と独立を守るためには、韓国をその勢力下に置くことが韓国の実情からして避けられなかったとしても、この時代のアジアの植民地主義からの解放・独立、そのための近代化という旗印を、当時、日本は世界に先駆けて持っていたのですから、それを見失わない限り、帝国主義的領土拡張の落とし穴に陥らずに済んだのではないかと思います。
だが、残念ながら日本人は、日清、日露の戦勝に奢って、この旗印を見失ってしましました。韓国の場合はその厄災を韓国人が堪え忍びました。しかし、中国人はついに反抗に立ち上がりました。日中戦争は昭和12年7月7日の廬溝橋事件を発火点としますが、8月13日の上海事変も含めて、それは中国の抗日戦の決意によって進められ、泥沼の持久戦へと発展していくのです。そして、遂に日本は、ファシズム国家と同盟を結ぶことによって、自由と民主主義の敵という烙印を押されることになります。
この間の歴史的経緯を詳しく点検して行くと、確かに、日中戦争も太平洋戦争も中国やアメリカの挑発を受け引きずり込まれた、と言はざるを得ないような局面がしばしばでてきます。しかし、そのもともとの原因をただせば、こんな訳の分からない、勝つ見込みの全くない戦争に引き込まれたのも、日清、日露の奇跡的(あるいは幸運)な勝利に奢り、欲に目がくらみ、そのために、先ほどの旗印を見失い、さらに自分自身をも見失った結果であり、その責任を他に転嫁することは決してできないということが判ってきます。 
 
朝鮮の公娼制

 

李氏朝鮮時代には妓生(きしょう、キーセン)制度という公娼制が存在した。もとは高麗時代(918年-1392年)に中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になったとも、また李氏朝鮮後期の学者丁茶山(1762-1836)の説では妓生は百済遺民柳器匠末裔の楊水尺(賤民)らが流浪しているのを高麗人李義民が男を奴婢に女は妓籍に登録管理したことに由来するともいう。高麗時代の妓生は官妓(女官)として政府直属の掌学院に登録され、歌舞や医療などの技芸を担当したが、次第に官僚や辺境の軍人への性的奉仕も兼ねるようになった。1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された。李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った。朝鮮時代の妓生の多くは官妓だったが、身分は賤民・官卑であった。朝鮮末期には妓生、内人(宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた。性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた。妓生は外交的にも使われることがあり、中国に貢ぎ物として「輸出」されたり、また明や清の外交官に対しても供与されたり、ほか国境守備兵士の慰安婦として、六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣されたりした。
1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった。1881年10月には釜山で「貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が定められ、元山でも「娼妓類似営業の取締」が行われた。翌1882年には釜山領事が「貸座敷及び芸娼妓に関する布達」が発布され、貸座敷業者と芸娼妓には課税され、芸娼妓には営業鑑札(営業許可証)の取得を義務づけた。1885年には京城領事館達「売淫取締規則」が出され、ソウルでの売春業は禁止された。しかし、日清戦争後には料理店での芸妓雇用が公認(営業許可制)され、1902年には釜山と仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦で遊郭が形成された。日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった。 1906年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度が整備されていった。同1906年には龍山に桃山遊廓(のち弥生遊廓)が開設した。 日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された。1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された。
他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった。当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた。第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけて京城の花柳界は全盛を極めた。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している。1918年のソウル本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明のものや、13歳の少女などが検挙されている。1918年6月12日の『京城日報』は「京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた」と報道した。
1910年代の戦争景気以前には、朝鮮人女性の人身売買・誘拐事件は「妻」と詐称して売るものが多かったが、1910年代後半には路上で甘言に騙され、誘拐される事例が増加している。1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった。
 
相場

 

夜、人目をしのんでホタホタと戸を叩く音がする。
常吉はその音を聞いただけで、それが時間はずれの買い物客か、それともあの用かがわかる。「開けてやり」と読み書きそろばんの稽古や片付けにせわしなくしている丁稚に命じ、こればかりは番頭ではなく自分が対応した。
「あの用」とは、借金の申し込みのことで、小さな商いをしている者や、職人が節句や晦日の支払いに詰まって、金を借りにくるのである。もちろん中には裏店でひそかに開かれている賭場の掛け金を借りに来るとび職や大工もあったが、小さい町のこと、どこの誰が来ているか、返す当てがあるかどうかということは親類縁者に至るまでしっかりとわかった上での貸し金であったから、逃げられて貸し倒れになるなどということはない。
常吉は鷹揚に立ち上がると、帳場の少し奥に作った貸し金専用の小引き出しを開け、申し込みに来た者を呼び寄せ、そこから商いの大福帳とはまた違った、懐に入るほどの小さな帳面を出した。その帳面に細い筆で丁寧に名前と日付、金額を書き記し、控えと金を出す。字の満足に読めぬものも多かったから、何日までにいくらいくら持って来ないかんでな、と利子を口頭で伝えるのも忘れなかった。
「じっきに返しに来ますで」と卑屈に腰を折って、滅多に見せぬ笑顔までつけて大事そうに金を懐に入れながら夜道をかけていく人々の姿を見送るとき、わずかな哀れさも心をよぎらぬではなかったが、銀行も個人向けの金融業もない時代にしっかりした商売の店に借りにいくのは当然のことであった。本業の玉繭の製糸は順調でつまり潤沢な資金があるという証明でもある。そこから得られる利子はやがて大きなものとなって行ったし、なにより金が貸せる店という信用は何物にもかえがたく、常吉は一人前の商人としての信頼を得はじめているのであった。
「常吉つぁん、だいぶん、ええらしいね」と商売のことを話しかけられたのは掛け取りから帰る道すがらであった。顔見知りの酒屋の店主であった。木曽のほうでも最近は酒の需要が増えて、なかなか商売になる、といった話を店先で茶を出されながら語っていたが、そのうちちょっと声を落として口元に手を添え、「相場はやらんかね?」と小さく笑いながら言った。「相場?」「米の、な」
聞けば、酒の原料である米の出来不出来はその年の酒の商い全体に直結する、それを最近では相場として、扱っているものがある、とのことであった。何が何やらわからないが、「なに、ちょっとした小遣い稼ぎになるとおもったらええわ。ちょっとの金で始められるしな」と勧められると、そこですっぱり断るのもなんではあるし、と掛け取りで持ち帰る金の一割ほどを渡して、それきりしばらく忘れていた常吉であった。
ひと月ほどしたある夕方、店じまいして表の板戸も一枚を残して立てたあとのこと、酒屋の店主が不意に訪ねて来た。「常吉つぁん、来ましたで」とここではなんだからとわざわざ奥の座敷に案内させ、二人きりになって、膝を寄せるようにする。ぽかんとしていた常吉であったが、ああ、相場か、忘れとった、と言いかけた矢先、店主のふくらんだ腹から出されてざらっと並べられたのは預けた金の十倍にはなろうかという大金であった。思わず息を飲む常吉に、「これが相場や、笑いが止まらんに」と小さくくっくと笑いながらその金を差し出すのであった。

当時の米相場は、いわば金融商品のようなもので、預けた金が天候によって、上がったり下がったりする。どこそこで大雨が降った、あそこじゃ日照りだ、といった短期的な情報で、その時々の米の出来の予想をする。
当然相場は常に乱高下し、賭博の要素も強かった。こづかいをちょっと増やしてやろうかという軽い気持ちで始めた米相場だったが、最初の二度、三度と預けた金が五倍、十倍になったのが不運と言えば不運であった。それまで固い商人としての矜恃を持っていた常吉であったが、こんなにたやすく金が増えれば、面白くて仕方なくなる。「毎日朝から晩まで働きどおしでやっと稼げる金が、こんなに簡単に増えとったら、まあやめれんわ」
毎朝、空を見上げては天気に一喜一憂するようになり、当然、本業への熱意も薄れがちとなっていく。そして賭け事の常として、相場が下がればすぐに「稼いだ」はずの金は消えてなくなる。負ければうなだれてこんなものに大事なおたからをつぎ込むなんて、と思いつつもその負けを取り返さねば、とつい熱くなっているうち、資金を見越した相場師から、信用買いをすすめられた。「なに、これで百倍になるに」と甘言に乗り、ほくそんだのは素人の甘さであった。
明治十四年、全国的な米価の下落があった。当時はまだご維新から日も浅く、近代国家制度をなんとか形作ろうとしていた頃で、政府発行の紙幣の価値はまだ低いものであった。この年の十月に大蔵卿に就任した松方正義は、近代的な貨幣制度を確立するために、庶民には苛烈ともいえる政策を次々と打ち出した。江戸時代は貨幣と同じ意味を持っていた米を、農産物として安定して取り扱うために米価は抑制された。これは貨幣を経済の中心にするための政策であったが、そんなことを知る由もない常吉のような者にとっては、気づけばあっという間に相場は下落しており、手仕舞いに慌てても、すでに時遅く、驚くような額の借金だけが残った。
それでも本業さえあれば、と踏ん張ってはいたが、米価の下落は農村も圧迫し、不景気の風が強く庶民を吹き付けて、安く仕入れていた玉繭も養蚕はやめたという話ばかり、何よりも絹糸が売れない、ということになれば工場を動かすこともままならなくなったのは、明治十五年の秋も終わりの頃であった。
あれほど熱気に満ちていた続き竈に火が入らなくなり、冷たくがらんとした土間には、常吉のため息と赤ん坊の鳴き声だけが響く日々が続いた。相場を当ててからというもの、旦那衆よろしく豪快に買い揃えていた骨董品や家財道具も、かき消すように売り払われ、借金の当てにされた。ぼんやりと着流し一枚で、上がりはなに座り込み、さすがにふんどしとこの擦り切れ着物だけは残しとってくれたわ、と血も涙もとっくに忘れたといったような、渋く固まってしまった顔の借金取りを思い出していた。外には砂ぼこりが風に吹かれて舞っている。
日々が空しく過ぎて行くようで、常吉はたまらなかった。妻のタカと産まれたばかりの長男の悦吉はいったん妻の里に預けて、自分は実家に身を寄せたり、町をうろつく日々を二ヶ月ほど続けていただろうか。実家の大惣の墓参りにふらりと出かけたのは、昨年までは豪勢な正月のために女衆に膳を出して洗い、干し、出入りの大工に欠けた瓦があれば直させ、門松の指示を大声でしていたことをぼんやりと思い出し、さて今年の大晦日はどうやって節句の掛け取りから逃れるかばかりを考える師走のことであった。

うつろな目で墓参りを済ませて、本堂に挨拶に寄ると、住職の僧侶が茶を振舞ってくれた。なんでも本山の修行を終えた僧侶が滞在しているということで、自然と話は三人で始まり、その僧侶の巌のような体躯と、どっしりとしたずっと微笑んでいるような顔に見つめられているうち、どのような境遇に身を置いているかを、常吉はなぜか洗いざらいしゃべってしまった。
しばらく、静かに聞いていたその僧は、「そうか」とつぶやいて静かに茶をひとすすりし、じゅんじゅんと説き始めた。「どうも、聞いていると、大きな山を当てたい、一発どかんと当てたいと走ってしまったのがあんたのいかんとこらしいな。商売人になりたいんやろ?一人前の。ほな、なんにも焦ることはない。頭が働くようやから、まどろっこしいのやろうけどな、商売はコツコツ続けていくもんや。ゆっくり地を固めていくんや。そうしたら、ある日、ほっと大きな御殿が建つだけの基礎ができとる。焦ったらあかん。いいことない。ゆっくりでもいいんや。自分一人儲けたれと思ってもいかん。周りのこともようく見て、商売は人さんに喜ばれてたら長く続くもんやからな。」
かすかな上方訛りの僧侶の言葉は、乾き切り、冷え切っていた常吉の心を温かく濡らす打ち水のようであった。丁寧に頭を下げいとまごいをして、坂を下り中津川宿に連なる家々を見下ろす四つ目川の橋の上に立つころには「おれは偉いさんになりたかった。金を持って尊敬されたかった。でもこの有様や。違ったんやな、何かを間違えたんや。そうしたらもういっぺん最初からやったる。今度こそ一人前の商人になったる。」と再びふつふつと体の中から熱が湧いてくるような気がした。
それ以来、ほそぼそと仕入れさせてもらった乾物を売り歩きながら、常吉は店を繁盛させることだけを考えるようになった。
 
鹿児島県の移民

 

鹿児島県は労働力の移出県で、かつては中学の卒業生が集団就職の列車を仕立てて、労働力が県外に送り出されていた。
同じような状況が海外に向けても見られた。芳即正(かんばしのりまさ)編『鹿児島県民の百年』に引用されている『伊作(いざく)郷土誌』(現、日置市吹上町)には、つぎのような記述がある。
当地方は出稼(でかせぎ)者多し、遠くはアメリカ合衆国より台湾・満州・東京・大阪・鹿児島市等至る処に発展しつつあり、昭和六年初の統計によれば、本町は一万二千九百四十人の人ロなれど、其外に出寄留者一万二千三百二十四人という多数に上れり。とあって、町民の半数が町外に出ていることになる。
このような現象は伊作に限ったことではなく、近代工業の発展、日清・日露戦争などによって領有地域が拡大すると、他府県や海外への人口移動が激しくなってきている。
鹿児島県民の明治・大正期のそのような動向の大略を示すと、別表のようになる。
また、南日本新聞社編『鹿児島百年(下)』によると、カリフォルニアで排日土地法が成立した大正二年当時の外国在留県人は、三千四百五十二人で、アメリカが最多で千四百一人、ついでブラジル・カナダ・ハワイ・アルゼンチン・フィリピンの順となっていた、という。
これらの移民たちが同年中に郷土に送金した額は三十万六千余円、そのうちの半分以上がアメリカからで十七万円弱であった。
しかもこの額は統計上の数字で、帰朝者に委託した分などを加えると、実際はその三倍に相当するという。
当時の県の一年間の教育費が三十五万円弱、土木費が十万五千円弱(大正初期五年間の平均)と比べると、その金額の過大なことが分る。
鹿児島県からの移民は、明治以来、常に広島・和歌山県などと首位を争うほど盛んであった。また、県内での移民の出身地は、川辺・揖宿郡などの南薩地方や、姶良郡や国分などが多く、江戸時代でも西目(にしめ)といわれた、人配(にんべ:にんばい)の対象とされた地域と重なっていた。
いっぽう、大正初年に発行された「鹿児島県入会報」によれば、ロサンゼルス市周辺の移住者の職種は農業が二三で最多であるが、ほかに洗濯屋八、ホテル・食料品がいずれも四、写真・湯屋・洋食堂・玉突屋いずれも三、その他洋服屋・野菜仲買い業・菓子雑貨・肉屋・カマボコ屋・靴屋・花屋・サンゴ採集業・下宿業などの多岐にわたるが、いわば都市型の職種といえそうだ。
一九二四年(大正十三)にアメリカで排日移民法が実施されると、移民の主流は南米へ向かうようになった。とりわけブラジルである。すでに明治中期から、移民を請け負う移民会社が設立されていたが、これらの移民会社はしばしば甘言をもって、移民を仲介していた。その一例を取り上げてみたい。
ブラジルでは以前から日本人の移住者を募っていた。その勤勉さが買われていたようである。一九一三年六月に神戸港を出航した移民船には一行一〇七人が乗っていたが、その半数近い四十一人は鹿児島県人だった。行く先はブラジルの金鉱山で、移民会社の説明によると、報酬は月に四十円(日本円換算)で、五年契約を事前に結ぶことであった。
当時の日本国内では、小学校の教員が月十三円、巡査が月十五円であったから、移民会社への仲介料や旅費を払っても、五年後には莫大な金が残せる計算であった。
ところが、鉱山の現地は深い立て坑で、その底は地獄のような熱気で、たちまち病人が続出したが、病院もなかったから、死者がつぎつぎに出た。また、逃亡者も続出した。その結果、鹿児島県人四十「人のうち、十三人が死亡、十六人が行方不明となって、そのまま消息を絶ったのだった。このような前例があったから、移住先をアメリカからブラジルに変更しても、ブラジルに永住するつもりはなく、最終的にはアメリカ行きを目的としていた。南米行きはその旅費かせぎの手段だったのである。そのような一例を、知覧出身の中渡瀬仙兵衛の経験談から抜き書きしてみたい。
集団移民でペルーに渡ったが、米国が移民法を改正して、以後は合衆国に入れないと聞くと、矢もたてもたまらず、ペルーの農場を抜け出し、チリ・メキシコを経て、米国に密入国した。スペイン語は少しはしゃべれたが、英語はダメ。もちろん米ドルもなかった。メキシコから国境を越える時は、アメリカ人の服装をし、読めぬ英語紙をひろげて移民官の前を押し通った。それからは昼は野宿、夜だけ歩いてロサンゼルスまでたどり着き、そこではじめて日本人の顔を見た時には、果てしなく涙がこぼれた・・・・
いま、アメリカ大統領がメキシコ国境に壁を築いて、メキシコ人の移住を取り締まろうとしてるが、すでに一〇〇年近く前に、日本人は同じ場所でそれを経験していたのである。
 
峠の茶屋、灯明台 百七十年の沿革

 

東伊豆町稲取と、白田の境(正確には東伊豆町白田1731番地ー明治時代は白田1番地地)付近は「休場」と呼ばれて、江戸時代末期から明治、大正、昭和の初期まで、まだ伊豆急行の鉄道も、バスも通らなかった時代、伊豆の東海岸の各村々を結ぶ重要な街道の、峠に位置し、交通量も多く、往来の人々が一息ついて休憩する場所として賑わった所です。もともと人里離れた山の中でしたから、休場と言う名も、茶屋もなくて、文政七年(一八二四年)、幕府の浦奉行、小笠原長保が伊豆巡視の際に綴った「甲申旅日記」の中で「『峠』に平らな土地があって、芝原になっている」と書かれているだけで、特別「休息所」のことなど触れていませんが、この奥に「青鈴ケ地(八丁池)」があることや、菅原頼朝の愛馬「池月」を捕らえた「大網の坂(おがみの坂)」のことなど、当時、稲取から随行した案内人の話などを挿入してあって、百七十年昔の様子が興味深く伺えます。
一、茶屋の創設(天保四年一1833)
この茶屋の前身は、白田浜の薪炭廻船商(江戸、品川宿、白田屋屋号、薪炭問屋の弟店)、品川原治郎兵衛が小田原藩主、大久保氏の要請を受けて、当時各地の交通の難所に設けられていた「接待茶屋」(お肋け小屋)の形で、この地に新設したものです。広さは三間四方(九坪)ほど、茅葺きで床はなく、土間だけの簡素なものですが、その中には湯沸かし、茶わん、薪、提灯、投薬、蓑笠、若干の古い衣料、雪隠、水槽(天水)を備えた、旅人のセルフサービスの休憩所で、無人であった為、時折村人が見回りに、来ていました。
二、茶屋の有人化
天保十四年(1843)、稲取岬に台場(砲台)ができた時、稲取、富戸間の連絡用の狼煙台(のろし)が、このムレ(牟礼)の地に設けられました。村役人の協議により、品川屋治郎兵衛はその次男を、番役としてここに住まわせ、のち、四男の清四郎が、妻とめと共に、ここに住み込みでの番役を勤め、かたわら、菓子、酒なども置いて茶屋としての営業を始めました。この清四郎の代から姓を萩原と名のり、旅人や行き倒れの世話や、困窮者への施し、無縁仏を祀ったり、人の為に尽くした為、「仏清四郎」と呼ばれ敬愛されたそうです。この休場の下の海には、大きな岩礁があり、土地の人々が「白根」とか「神楽岩」「トモロ岩」と呼んで、雨、風、霧の日には、難所とされていた所です。彼の残した大きな足跡は、ここに灯明台を私設し、夜間、海上を通る船に位置を知らせることでした。この灯明台は、一時中断しましたが、後に稲取灯台が新設される、明治四十二年(1909)まで点灯を続けました。茶屋の年手当て八両は支給されていましたが、灯明台の油、灯芯は自己負担でした。又、清四郎は明笛(みんてき)の名手として知られ、白田、稲取、見高、片灘ほか、近村から教えを乞う者が多かったとのことです。安政元年三月十八日(1854)、清四郎が畑仕事の手休めに茶屋に戻った所、白田方面から若いやせた武士が二人、一人は「ヒゼン」がひどく、ボリボリ掻いていたといいますが、縁台に席を求めたので茶を出すと、まだ早いのに握り飯を出して大急ぎで食べ、下田までの道のり、近道を聞いたといいます。後でわかったことですが、この旅人二人が吉田松陰と金子重輔の二人で、前夜の宿泊地大川から、沖行く黒船を追って下田に急行したとのことです。この日、三月十八日、彼の旅は終わっております。のち下田では連合寺と柿崎の間を往復し、密航を企てた罪で捕らえられて、天城を越し江戸へ、そして郷里の萩へ送られ幽囚、松下村塾を設立、再び江戸へ送られて、安政六年(1859)三十才で武蔵野の露と消えました。奇しくも清四郎がふるまった一杯の茶が、先生の短い生涯の中で、最も緊張した一日の憩いの一服であっただろうと思われます。道路には清四郎の祀り始めたという「馬頭観世音」「地蔵菩薩」も残っていますが、灯明台として用いた灯籍は残っておりません。伝える処によれば、安政の地震(1855)で倒壊した折、峠を越える馬子に持ち去られたとも、がけ崩れで落下したとも言われています。休場に残っていた「桜地蔵」さまの本尊は明治二十七年、下半身のみ発掘されて、日の目を見ましたが、上半身は崖崩れで神楽岩の方へ落下したものと推察していますので、そのすぐそばにあった灯明台も同じ運命にあったと思われます。清四郎の「灯明台」がなくなって、その後清四郎が再建したという話もありませんし、記録もありません。稲取村と白田村は、昔から常に争いが絶えませんでした。例えば、稲取材の支配地である海岸には、白田村、片瀬材の人々が自家用の魚介を捕る為に、しばしば潜入することもありました。又、稲散村の漁民は、薪を取る為に白田領の休場下から磯辺あたりまで、これ又、不法侵人しました。特に磯辺は、現在でも漁師に不可欠な簑の子の材料としての篠竹の密生地で、垂誕万丈の地でもあり、当然人目をかすめて侵入する者の絶えないことは、今も昔も変わりありません。文久三年(一八六三)秋、両村民の衝突による流血事件が合いの沢で起きました。この騒動の結末として、稲取向井の成就寺と、白田村東泉院が仲介し、浅間山腹に「合土塚」を作り、「狸鎮山」と名付け、松三十本を海岸に至るまで植え、この松を稲取材と白田村の境としました。その手打ちが行われたのが、画材の境にある峠の、この茶屋です。以後も幾度となくこの協定は破られ、その都度、この茶屋が仲介の地となった為、「手打ち茶屋」とも呼ばれました。
三、茶屋の再度の無人化
清四郎の長男、為次郎が清四郎の後継者となり、片瀬村、森田家からこよを迎え、一男一女をもうけました。明治維新(1868)を迎え、番役手当てもなくなった為、茶屋商売だけでは生計も成り立たず、二児を白田村上手(わで)の山本家に預けて、請われるままに相州小田原、山北、また富士郡柚野村へ炭焼きの指導者として、出稼ぎに出たため、茶屋は再び無人化し、その開白田村の吉問答兵衛が管理することになりました。彼は清四郎の志を受け、峠に灯明台を再建しています。これが稲取灯台の前身、当時としては珍しい、街灯型カーバイト灯で、明治初年から三十年頃まで、青白い焔を出すことで、沖行く船から稲取の灯として区別がついていたらしいのです。このガス灯のスケッチが、芳作(昭和四十六年没)の日記帳に挟んであったことを私は記憶しています。為次郎は明治十年帰村しましたが、その後、妻こよが病に倒れた上に、農作、牛馬の飼育、養鶏のほか、漁期には稲敷で漁師として働くこともあって、茶屋は開店休業が続きました。妻こよは二見を残して明治十七年に実家に帰り、静養に勤めましたが、明治十元年十月、片瀬の実家で三十九才の若さで死去しました。の為次郎は再び柚野村へ出稼ぎへと出ていきました。
四、茶屋の復活と被災
為次郎は柚野村で働く間に、村の旧家、堀之内清家の娘、私の伯父、芳作、母すげの母親である、きよと再婚しました。きよは商才にたけ、体も丈夫でしたので、明治二十一年に茶屋に戻ってきますと、店を広げ、木賃宿も兼ねるほどになりました。しかし明治二十五年の豪雨の際、裏山からの山津波で家屋が半壊し、その修復まで、藁屋根のバラックで茶店を続けなければなりませんでした。翌年5月、為次郎は防災を兼ねて、母の実家、稲取入谷の大久保家から、孟宗竹(モウソウチク)の種竹をもらい受け、裏山に植えつけました。明治二十七年四月、次女すげが生まれた年、山崩れの後から、次男芳作六才と子守に雇っていた白田浜の少女が、下半身だけの一地蔵を発掘したのです。その頃、清四郎の時代に伊豆大島から運んできた大島桜十五本が成長して花をつけるほどになっていたので、この地蔵を「さくら地蔵」と呼ぶようになりました。
五、三度の柚野村出稼ぎ
明治三十年、為次郎一家四人は、三度きよの生れ故郷の柚野村へ出稼ぎに行くことになります。茶屋は以前と同じく、吉間着兵衛の手に委ねられ、以後十年ほど、茶屋経営のかたわら畑作り、牛馬飼育、養鶏などに当たり、灯明番も続けていきます。
六、為次郎の帰宅と茶屋の新築
明治四十三年、為次郎一家は柚野村から帰り、茶屋は再び本格営業を営みました。柚野村在住中に、芳作とすげは柚野村の小学校を卒業し、兄芳作は静岡師範学校へ進み、妹すげは連州浜岡村の親戚に預けられ、和裁の技術を身につけていきました。大正三年、ムレの稲取灯台の看守として、すげが着任しました。日本マ勿勢ての女灯台守の誕生です。その頃、峠の往来者が増え、店も手狭になりました。茶屋を新築することにあたり、大工は白田浜の青木屋、茶屋の顧客が連日手伝いに来て、二階建てのトタン屋根、延べ床二十五坪の新屋は、約一か月余りで完成、縁台二台、ハバカリ(便所)、馬の繋ぎ場三か所など新設されました。
七、茶屋の繁盛と衰退
商売というものには、栄枯盛衰がつきものです。稲取港始まって以来の大盛況、大漁港となった、大正六、七年以降、それに乗じて、峠の茶屋も近隣に知られるほどの盛況を呈しました。この頃は日本各地で農作物(米麦、豆)などが不作で、餓死者まで出るほどでしたが、稲取港は鮪の延縄(はえなわ)釣りが大当たりして、折から造船中の、エンジン付き船による遠洋航海の波に乗り、全国有数の水揚げ量を誇りました。五、六十トンほどの船でも一航海二、三万円の水揚げを続け、萩原家の近親、佐藤家(重内)でも三隻の漁船(いずれも成田丸)の水揚げ記録では,稲取港の首位を争うほどでした。茶屋の顧客は、第一に魚売り(ボテイという女衆)、次に荷物を運ぶ陸送屋(馬方)旅人、芸大衆で、茶菓に酒類、果物(自園の柿、栗、みかん)しいたけなどの林産物まで、毎日品切れが続くほどの盛況ぶりだったと言います。為次郎老夫婦とすげが商売と灯台守に当たり、すげの夫宗吉は、機帆船の操舵手として南洋通いの燐鉱石運搬船サイパン丸で高給を受けていましたので、茶屋の繁盛と共に、祖父以来の公共奉仕なども熱心に行い、村内外の厚い信頼も得ていました。特に春三尺、四月の桜の見頃には、桜茶屋の花見宴など、近隣の人々が集まりバ宴会が毎日のように続き、商売の他、臨時の旅龍(旅館)まで引き受けなければならないほどでした。しかし、茶屋のそんな繁盛はいつまでも続きません。大正十二年九月一日の関東大震災以後、稲取の鮪漁の衰退に歩調を合わせるように、日々に売り上げも減少し、赤字経営となっていきました。悪い時は重なるもので、この頃注目されていた、神楽石(トモロ岬)の根の鉄兵岩(頁岩)の採掘運搬に手を出した為次郎は、海運業者の甘言に乗り、一年足らずの間に、莫大な借財を負うことになってしまいました。大正十三年、為次郎は没し、その負債は、当時教員だった次男の芳作が返済したと、彼の日記に書かれています。昭和四年(一九二九)、伊豆東海岸に新しい県道が出来、峠の下にトンネルが開通しました。交通は便利にはなりましたが、峠を往来する人がいなくなった為、家族は峠から稲取に移往みました。その間も宗吉が、昭和十七年(一九四三)の戦争による灯台の休灯まで、毎日峠に登り、灯をともし続け、清四郎の代からの灯明台は、姿、名前を変えながらも、その任務を果たし終えました。峠が閉ざされて六十余年、今でこそ、度重なる天災で崖崩れ、草茂り、者の街道の面影はありませんが、者と変わらぬ木々を渡る風の中から、往時の人々の、躍動感に満ちた足音が聞こえてくるのは、気のせいでしょうか。 
 
岸和田紡績

 

・・・このような紡績・織布業の発展・隆盛の影には、「女工」と呼ばれた多くの人々の苦難の歴史があったことも事実です。
日本の紡績工場における女性労働者について、『市史』では「人間無視の長時間労働(紡績では昼夜2交代制、12時間労働が標準)、不衛生な寄宿舎、粗悪な食事、肉体消耗的労働、前借制雇用による借金奴隷的性格、残虐な制裁、口入れ業者などの甘言による女性労働者争奪競争、結核を始めとする重病の蔓延、発狂・自殺と、この世の生き地獄であった」と書かれています。
とりわけ、岸和田紡績は朝鮮人女性を多く雇っていたことで知られています。「かつて岸和田紡績で働いていた朝鮮の婦人たちを訪ね歩き、聞き書きを採り、それをつき合わせ、岸和田紡績の朝鮮人女工の状況を明らかに」した『朝鮮人女工のうた』(金賛汀著 岩波書店)には、数々の悲惨な状況や彼女たちが争議に立ち上がった様子が描かれています。
同書では、日本政府が明治43年(1910)に「韓国併合」を行って日本の領土とし、朝鮮総督府をおいて植民地支配を始めたこと、第1次世界大戦期の好景気・労働力不足の頃から紡績工場に働く朝鮮人女工の雇用が急増したこと、社外の「募集人」に委託することも多く、「なかには紡績会社の労務係と結託し、女工の賃金の前借りや旅費のごまかしで女工に借金をつくらせ、その金を持逃げするような者…はては会社に連れていく途中で好色の慰みものにし、その後女郎屋に売りとばすという悪質な募集人もいた」ことなども書かれています。
岸和田紡績は大正7年(1918)から朝鮮に出向き、本格的・計画的に朝鮮人女性を募集。その後、朝鮮人の雇用を増加させます。この動きは泉州の近隣企業でも広がり、岸和田を中心とする泉州一帯は在住朝鮮人女性が多い地域になりました。
そして、岸和田が市となる直前の大正11年(1922)7月、民族差別待遇に反対する岸和田紡績春木分工場の朝鮮人女性労働者のストライキが発生し、8月には本社工場の日本人労働者が待遇改善を要求してストライキを決行しました。この争議は労働者側の惨敗で終りますが、その後も労使対立は激しくなります。
翌年の11月から12月にかけて、寺田紡績工廠、和泉紡績会社、岸和田紡績で争議が同時発生します。この闘いも労働者側の敗北で終りますが、昭和に入っても次々に争議が発生しました。
先述の「女子夜学校」には春木の紡績工場で働く女性も通っていましたが、交代勤務の中では困難だったようです。
なお、争議の内容の詳細は、松下松次氏が『資料 岸和田紡績の争議』としてまとめています。
 
東本願寺大谷家 大谷句仏と句仏事件

 

明治41年、23世大谷光演(彰如)が33歳で、父・光瑩から法主の座を引き継いだ。書や絵画、俳句をたしなむ文化人であり、俳号を句仏(くぶつ)と称した。
河東碧梧桐や高浜虚子が入洛すると、枳殻邸(きこくてい)で句会を開くなど、生涯に約2万句を詠んで、日本俳壇に独自の境地を開いた。
法主就任当時の東本願寺は、明治政府への献金、北海道開拓への巨額の出費、本堂・大師堂の再建など、無理に無理を重ねた結果、また、寺務総長の放漫な財政運営も重なり、多額の負債を抱えていた。
句仏は、宗祖親鸞聖人の650回大遠忌を控えて、就任早々、全国巡教・募財行脚の旅に出かけ、苦労の末、それを完済し、大門や白書院などの名建築も完成させた。
しかし、利権目当ての側近・取り巻きらの甘言に乗せられ、営利事業や、朝鮮での鉱山事業に手を出し、失敗、多額の負債を背負うはめになり、大正14年法主を退いた。
そもそもの動機は、疲弊した寺財政を立て直し、磐石の財政基盤を築こうという純粋なものだったといわれるが、実業に携わるにしては、句仏は余りにも世間知らずであった。
 
風営法

 

江戸時代〜幕府と遊郭
江戸時代の遊郭の存在にもあるように、風俗に対する規制は古くから行われていました。古い時代の男の甲斐性として「飲む、打つ、買う」という言葉がありますが、これに対応して、お酒を飲ませること、賭博をさせること、性的なサービスを提供することは、風俗を害するおそれありとして古来から規制の対象として扱われてきました。
これら「飲む、打つ、買う」を規制しようとする視点は現在の風適法にも存在しています。江戸幕府が江戸市中の性風俗を吉原に集めて公許したといわれるのは元和3年(1617年)のことだそうです。特定の区域に性風俗を限定しようという発想です。遊郭の「郭」とは城の中の独立した防御施設の意味であって、まさに城郭のような堅固な塀によって外部と隔絶され、遊女の出入は禁止されていました。
その後、幕府公認の遊郭以外での性風俗営業(いわゆる私娼)が問題となりましたが、幕府も取り締まりには苦労したようで、一定の条件で飯盛旅籠などが黙認されるようになりました。街道沿いで江戸に近い宿場町では泊り客を引くために、こういった性を売りものにする旅籠が形成されやすかったと思われます。
明治維新〜風俗の一新
娼婦が一箇所に集中せず、街中で散らばって営業する状態を「散娼(さんしょう)」という言い方があります。
行政が売春を厳しく規制した場合には生じやすい現象です。散娼の場合は取り締まりが難しいという短所がありますが、売買春が公認されているわけではないので、近代国家としての対面は保てます。逆に娼婦を一箇所に集めて営業させることを「集娼」(しゅうしょう)と呼ぶそうです。
江戸幕府はこの方法をとったわけですが、取締りがしやすく、とくにに治安維持と性風俗管理の面では合理的でもありました。吉原遊郭では犯罪者情報の提供が義務付けられていたそうです。しかし、集娼は公権力による売春の積極的公認という側面を持ち、近代国家としては体面上の問題がありました。とくに明治期には、遊郭で働く女性が借金の返済を名目に強制的に働かされていたという事実が問題となりました。
明治5年、マリア・ルス号事件における国際裁判の過程において、日本で遊女の人身売買が公認されていることが国際的に注目されたこともあって、同年娼妓解放令が布告され、遊郭における人身売買は法律上禁止されることになりました。ちなみに、この明治初年は日本人の風俗環境が激変した時期です。
日本人の外国への人身売買禁止、帯刀禁止、富くじ興行禁止(明治1年)、混浴禁止、政府批難や風俗紊乱の出版を規制(明治3年)、華族のおはぐろと書き眉を禁止、死体の試し切り禁止、人体売買禁止、服制一新の勅語、賤民の裸体禁止(明治4年)、天皇が牛肉を試食、江戸府庁が淫奔な劇・芝居を禁止、女相撲禁止、神社仏閣の女人禁制廃止、東京府下で裸体・混浴・春画・性具・刺青厳禁の布令(明治5年)、あだ討ち禁止、闘鶏禁止(明治6年)、東京府が道路や車内での頬かぶり・手拭かぶりなどを禁止(明治7年)。
以上の用語はおおむね当時使用されていたままで記載していますが、現代人からは想像のつかないような風俗環境や意識の変化があったようです。このように日本人は、かつて国家権力によって根こそぎといってよいほどの風俗大改造をされた経験があって、風俗行政は現代日本のあり方、日本人の人生観や法価値観にまで深い影響を与えてきたと考えられます。
現代でも日本人が「法律」というものについて、「国民が政府をコントロールする道具」ではなく、「政府が国民を支配するための道具」である、といったような見方をするのは、こういった歴史的な事情を考えなければ説明がつきません。風俗とは、その社会に住む人間を心地よく包み込むものだと思います。それを法律で無理やり変えさせられたのですから、国民が法律に不信を持つのは当然の結果だと思いますし、そのような変化を受け入れてしまった日本人の柔軟性(従順さも含めて)には驚きます。
遊女の解放と廃娼問題
娼妓解放令の発布後、自由の身になった娼妓たちがただちに新たな職につけるとは限らず、女紅場などで女性のための職業訓練が行われたりもしましたが、自由の身に戻ったためにかえって生活に困窮する者も出たようです。
遊女解放令を受けて遊郭は建前上は消滅しましたが、貸座敷という営業形態にカタチを変えて営業の実態は存続し続けました。明治6年、娼妓渡世規則、貸座敷渡世規則が発布され、遊郭や買春宿は営業場所の指定など各種の制限を受けつつも各地域警察等による営業免許を受けて行われつづけました。
貸し座敷営業とは、その名のとおり「座」つまり場所を貸す営業であって、娼妓が自由意志で場所を借りて商売をするという形式です。娼妓解放令は娼妓自体の存在を否定するものではなく、本人の意思により職業選択の自由を与えるという意味でしかなかったので、依然として売春営業は存在しつづけたのです。
また、かつての遊郭以外の業者達も免許を得て営業することができたようで、明治になって貸座敷等の営業はかえって増加したそうです。
売春に対する行政の対応を二つに分けると次のようになります。
○1 売買春行為を一切禁止するタイプ→売買春は地下に潜伏し、結果として散娼になってしまう。
○2 場所など一定の条件で売買春を公認するタイプ→売買春は公的機関によって管理されるが政府の体面上の問題がある。
明治政府は人身売買は禁止しましたが、娼妓の存在については否定せず、一定の地域に限定させたうえで地方警察に監視させる方法をとりました。娼妓営業や貸座敷営業の許可制度は地方行政の中で明治初年から存在してきましたが、1900年に内務省令として娼妓取締り規則が施行され、娼妓は名簿に登録され、より強い警察の監視下に置かれるようになりました。
これをもって公娼制度と呼びますが、モトは欧米で確立された制度を日本に取り入れたものでした。軍隊への性病蔓延の予防のためと言われていますが、この制度は終戦後の1946年まで続きます。結局20世紀になったところで、一定の場所に限定しながら売買春を公認する「A」のタイプへ転換したことになります。
公娼に対して、登録されていない非合法の娼妓は私娼と呼ばれました。私娼は飲み屋や新聞縦覧所などをたくみに利用して営業することがあったようですが、それ以外にも興行場、飲食店、ダンスホールまでもが、売買春に利用される恐れありとして規制の対象となりました。興行場及興行取締規則、特殊飲食店営業取締規則、舞踏教授所及舞踏教師取締規則など、業態ごとの許可制度が設けられました。
このように、本来は性風俗と関係がないはずの場所でこっそり性風俗営業を行う業態が存在し、行政がこれをどうにかして取り締まろうとする関係は、現在の風俗営業許可制度にも影響しています。つまり、本来は性的サービスを行わないはずであるが性的サービスの隠れ蓑になりやすい営業について、健全性を維持するために許可制にするという発想です。
なお現在は健全性を確保するための許可制度ということになっていますが、戦後の混乱期においては、特殊飲食店等は警察が売春営業を積極的に黙認するための便利な道具として存在したこともあったようです。
戦後〜米兵にささげる
終戦直後の都会では、日本の降伏を知るととともに女性たちが地方へ疎開する姿が見られました。占領軍が上陸した際には、日本人の婦女子はみな暴行陵辱されるに違いないと考えられ、行政によって疎開が指示されるとともに、占領軍の性的手当のためとして、直ちに慰安施設設置の準備がすすめられました。
日本では戦争の際には慰安婦を戦場に連れて行くことが公然と行われており、占領軍も同様に日本での性的処置が必要であると想像していたのだそうです。政府の命令で民間に設置されたRAA(Recreation and Amusement Association)が「大和撫子の純潔を守る」という掛け声のもとに集めた慰安婦5万人のうち、およそ3万人以上が、戦中に財産や家族を失って生活の道を立たれた女性たちで、彼女等の中には甘言に惑わされたり、人買いにさらわれたりして慰安婦に身を落とし、苛酷な労働に耐え切れず自殺する女性もいました。
ところが占領軍兵士の間に性病が蔓延したため、GHQは昭和21年1月に公娼廃止を政府に指示し、RAA施設への立ち入り禁止が命じられたため、慰安婦たちは突如街娼として働くはめになり、いっそうの困窮にさいなまれる結果となりました。
同年二月には娼妓取締規則が廃止され、一転して売春営業は警察犯処罰令に規定された密売淫行為として違法となりました。しかし、こういった動きを先読みしていた警視庁は、都下の娼妓営業者に対して特殊飲食店という名目での売春営業を黙認する手配をし、実際には特殊地域における売春営業はGHQの取締りを受けつつも存続しつづけたと言われます。
昭和21年11月14日の事務次官等会議において、「私娼の取締並びに発生の防止及び保護対策」と題する決定があり、売春営業を特殊飲食店として特殊地域に囲い込むという方策が決められました。その際に各地で特殊地域として改めて指定された区域が通称「赤線」と言われる区域です。
一方で、昭和23年5月に警察犯処罰令は廃止され、売春営業を取り締まる根拠法令が消滅しました。つまり、同年9月一日に風俗営業取締法が施行されるまでの間に売春営業を規制する法令の空白期間が生じたのです。
なお、風俗営業取締法は売春自体を直接禁止する仕組みではなく、売春の温床となりえる飲食店等の営業を許可制とする制度です。
○ 純喫茶という名称 / かつて飲食店という建前で売春営業が流行っていた時代には、このような店は「特殊喫茶」とか「社交喫茶」などと呼ばれていました。売春や性的行為に関係の無い喫茶店は、性風俗を行う喫茶店と区別する必要が生じ、「純喫茶」という名称を表示することがあったようです。
○ 戦後の慰安対策の結果として多くの混血児が生まれ、食糧難や差別に苦しみました。多くの混血児達を救ったサンダース・ホームについてご存知でしょうか。
売買春に対する思想
作家の与謝野晶子は、その作品「私娼の撲滅について」の中で、私娼を取り締まるのであれば、私娼を必要とする社会的要因を取り除いてからにするべきであり、公娼を保護した上で私娼を取り締まる内務省の方針に異議をとなえています。
社会的要因とは、男性が複数の女性を求めるという行為が文明社会において肯定され、売春が認められているという日本の文化的実情のことです。
当時の内務省の方針としては、売春は必要悪であるから、これを積極的に容認しつつ特殊地域に隔離し、人権保護や性病予防に国家が関わるという方式(集娼)をとっていました。だから娼妓を名簿に登録し、一定地域で許可された営業所でのみ娼妓営業を認めることにしたのです。
さて、現代では売春防止法によって売春を禁止しつつ、性風俗サービス営業を一定の地域に限って認めるという方法をとっています。そして実際には、これら一定の地域が条例改正によって激減し、売春営業はもちろん、店舗営業で行う性風俗サービス営業は新規開業が法律上ほとんど禁止されたに近い状態になりました。
その影響かどうかはわかりませんが、地域を問わず営業できる無店舗型(派遣先で性的サービスを提供する)営業が流行し、一方では援助交際などの社会問題が起きています。つまり、特殊地域に封印されていた性風俗問題は、パンドラの箱からでてきた魔物のように社会全体に降りかかってきたのです。結果として、集娼から散娼へと移行したと言えます。
「私は公娼よりも私娼を存して置くことにやむをえず寛容を与える者であるが、それには勿論いろいろの条件を附けたい。第一、公衆の目に触れないように場末の地を限って手軽な待合(まちあい)営業を黙認し、その営業の不徳を自覚せしめて、出来るだけ目立たぬよう隠密にそれを営む心掛を徹底させることが必要である。」 (与謝野晶子)
待合のような合法営業を装って売春が密かに行われるようにするべきだと言っているようにも読み取れます。そうすれば売春を社会が容認したことにはならないから、売春を当然だと思う感覚が否定され、社会が売春を悪だとみなす風潮が強まる。 それが徹底されて私娼が社会にとって不要になったときに、はじめて売春が撲滅可能になるだろうと考えていました。
売春を厳しく取りまれば地下に潜伏し、やがて社会全体に影響してしてくることを、ある程度想定していたのかもしれません。
しかし与謝野氏は現代日本の風俗を見たらどう思うでしょうか。自分の考えがちょっと検討はずれだったと思ったのではないでしょうか。
売春は法規制の外に潜伏しましたが、売春を悪だとみなす風潮はかつてより強まったようには見えません。国家的対面を維持できたという面では、行政側にとっては好都合な結果だったかもしれません。
現代において売春を厳しく取り締まるべきと考えている人の多くは、個人の自由の問題を超越して、女性の肉体を売買することを許容する文化そのものの改変を目指そうとする傾向があるように思います。
このような主張は、一見、非論理的に思えますが、かつて一部の女性たちがあまりに無慈悲な社会の対応のために不幸な目に会って来たことを考えると、私も日本文化そのものについて変革をする必要を理解できないでもありません。
これとは逆に、性風俗を実質的に統制するためには性的サービスの需要を現実として受け止め、法制度としてある程度のかざ穴(性的サービスが許容される空間)をつくることが必要であると考える立場からは、風俗や文化の否定というところまで飛躍せず、<現実の取り締まり効果>や<個人の選択の自由の保護>、または<現在の風俗文化の肯定>など重視する傾向があります。

たしかに、現代社会において文化を法制度によって変革するということには、私も多少の無理を感じます。 性風俗を汚らしいものとイメージする風潮は現代でも濃厚にありますが、性に対する価値観には大きな個人差があり、性風俗を規制する方法について国民全体の賛同を得るのは難しいでしょう。
それを許さないほどに価値観の多様化、経済優先主義が進行しています。そもそも、売買春だけを規制しているが、それ以外の性風俗営業はどう考えるのか。女性を道具として扱っているというが、男性が買われることについてはどうなのか。
そのほか援助交際や性的交渉の低年齢化、性的表現の氾濫といった、現代社会特有の論点も生まれてくるものと思います。いずれにしても、価値観がこれほど多様化し、経済活動の自由が優先される社会では、売春そのものを根絶することは不可能でしょう。
かといって性風俗を法律上積極的に容認することも現実には難しいでしょう。
 
大正三美人

 

7月30日は「大正時代」が始まった日だ。今から104年前の1912年7月30日、明治天皇が崩御し皇太子・嘉仁親王が天皇に即位。元号が「大正」となった。大正時代は、明治以降の元号では最も短い15年間だったが、第一次世界大戦、普通選挙法の公布や政党政治の定着(大正デモクラシー)、関東大震災の発生など、その後の日本の趨勢に大きな影響を与えた時代でもあった。そんな激動の大正時代には、「大正三美人」と謳われた女性たちが活躍していた。約100年の時を経た今も、大正ロマンに華を添えた彼女たちは写真の中で輝いている。
九条武子
京都・西本願寺の浄土真宗本願寺派門主の次女として誕生。1909年に五摂家の公爵・九條道孝の息子、九條良致と結婚した。今の京都女子大学の設立に尽力し、関東大震災後には医療・福祉分野の慈善事業でも活躍。1920年に出した歌集「金鈴」も反響を呼んだ。1928年(昭和3年)に40歳の若さで病死。命日の2月7日は「如月忌」と呼ばれる。
柳原白蓮
本名はY子(あきこ)。華族の娘として生まれ、10代で結婚するが破婚。九州の炭坑王・伊藤伝右衛門と再婚、「白蓮」の雅号で短歌を発表し、歌人として活動。30代半ば、編集者で東京帝大生の宮崎龍介と駆け落ちする。夫に対しては新聞紙上で「私は金力を以て女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の袂別を告げます」と公開絶縁状を出した。その後、宮崎と結婚。戦後は平和運動に力を注いだ。1967年(昭和42年)2月22日に81歳で死去。2014年度NHK連続テレビ小説「花子とアン」で仲間由紀恵が演じた葉山蓮子のモデルでもある。
林きむ子
1884年、東京・柳橋で義太夫語りの父母の間に生まれた後、芝の料亭「浜の家」の養女となった。10代で代議士の日向輝武と結婚。豪奢な洋風生活を送り、6人の子供を産む。その傍ら、フランス語・神学・油絵を学び、小説や歌集を刊行し、文壇でも活躍した。しかし、のちに夫は収賄事件で逮捕され発狂、後に死去した。夫の死後、9歳下の薬剤師・林照寿と恋に落ちて再婚。さらに子供を2人産み、以後は日本舞踊家として活動。1967年(昭和42年)に亡くなった。

なお「大正三美人」には諸説あり、林きむ子に代わり江木欣々を数える場合もある。
江木欣々(えぎきんきん) / 1877−1930 明治-大正時代、江木衷(ちゅう)の妻。明治10年生まれ。関新平の次女。東京新橋の芸者。書画、篆刻(てんこく)、謡曲、乗馬などひろい趣味をもち、社交界で名を知られた。大正14年夫と死別。昭和5年2月20日自殺した。54歳。鏑木清方(かぶらき-きよかた)の「築地明石町」のモデルといわれる。名は栄子。
 
大正期破綻銀行のリスク選好と虚業家

 

筆者は近年は主に大正期に取付・破綻した銀行・企業群とその実権者のリスク選好の分析を進めつつあるが、今囘はこれまであまり紹介されてこなかった佐賀貯蓄銀行が対象である。本稿は明治29 年「佐賀財閥」の共同経営の庶民貯蓄機関として設立され、「葉隠武士」で名高い旧佐賀藩主・鍋島家元重臣の旧士族人脈で構成された佐賀貯蓄銀行のビジネス・モデルの変容を取り上げる、当初の[所謂士魂商才と云った様な型」の堅実なビジネス・モデルが、大正初期から次第に破綻に繋がるようなハイリスク・モデルに変容する契機を、 主に田中猪作というハイリスク選好者としての「虚業家1 との抜き難い因縁によって仮説的に説明しようという試論である。田中は政治家を志し、代議士に立候補する一方で、数多くの新設企業の創業に関わる職業的発起人であり、同行とは別に中央生命保険を自己の機関金融機関として収奪しようと乗取りを敢行した「山師」的入物と評されている。旧士族としての教養もあり、「佐賀財閥」の名流に連なる銀行幹部連が揃ってアウトサイダーに取り込まれ、虚偽の預金証書多数を乱発し同行を破綻に陥れる犯罪行為に何故に走ったのかが筆者の主たる関心事である。同時期の地方銀行の不祥事件として大相場師・石井定七に匚額の架空預金証書を提供した高知商業銀行が著名であるが、石井は過去に何度も同行を救済した大株主で重役は石井の無理な要求にも従わざるを得ない因縁にあった。しかし田中は佐賀貯蓄大株主でもなく、とりたてて深い義理も感じられない。「予審決定理由書亅など参照し得た資料の限界から十分に実証するには至らないが、銀行幹部が大戦景気・大正バブルの中で「虚業家」の言葉巧みな甘言に煽られ、 投機的利益を獲得すべく、 新設企業群(結果として泡沫企業) への創業金融という一種の投資銀行的なハイリスク・モデルに自ら転換し、株式担保金融の占率を異常に高めていったのではないかとの現段階での仮説を紹介する。
 
大正の事件

 

大本教取締
大正7年に、大本教の開祖出口ナオは死去、以来娘婿の出口王仁三郎を中心に「大正維新」と称した「立て替え立て直し」「鎮魂帰神法」を中心とした運動を始め、大正9年に大正日日新聞を買収、大々的な宣伝に乗り出しました。
この結果、当局は、「立て替え」時期の宣伝による人身惑乱や、「鎮魂帰神法」の医療妨害的側面から、大正10年に不敬罪と新聞紙法違反の疑いで、王仁三郎ら幹部を検挙し、大本教本部の大捜索が行われました。
この後、幹部が脱退するなどで大本教は分裂しますが、昭和10年に再び大弾圧を受け、大本教は壊滅します。
鬼熊報道
大正末、15年8月に、千葉で起きた、通称、「鬼熊事件」です。
二人の愛人に騙されて別れることになった「熊さん」こと岩淵熊次郎が、その愛人の一人「おけい」を撲殺、その後、「おけい」に熊次郎と別れることを勧めた長老宅に放火、それを止めようとした数人を鍬で殴り倒しました。
さらに、別れ話に関わっていた巡査にも報復の為襲撃し、そこでサーベルを奪うと、別の愛人の別れ話で熊次郎を騙した相手の家を襲撃、サーベルで切り殺しました。この後、この男とぐるになっていた男の家へ向かう途中、追ってきた刑事に重傷を負わせ、山中へ逃走します。
この追跡劇は42日にも及び、連日、その様子が新聞各紙に報道されました。
凶暴な連続殺人、放火事件であるにも関わらず、地元では義侠心に富む男として人気があった熊次郎のその犯行はやむにやまれぬものとして、同情をもって受け止められます。
その為か、記者たちも最初は「殺人鬼熊次郎」を略して「鬼熊」であったのが、後には「熊公」「熊」となり、そして「熊さん」となってしまいます。
この人気は大変なもので、子供達のあいだで「熊ごっこ」なるものまで流行ったといわれています。
また11月には鬼熊事件をドラマ化した映画がすでに上映されていました。
これらの人気は新聞、映画ニュース、赤本などの報道メディアが作り上げたもので、さながら現代のごとく、メディアが作り上げた虚像を商品化、消費する、といった構造が見られ、大正期といえど、「情報の娯楽化」がされる好例であると思われます。
宮中某重大事件
大正9(1920)年に、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が成年式を迎え、久邇宮邦彦王の第一王女良子女王と婚約を結びました。
しかし、これに対して当時主席元老であった山県有朋が、良子女王の家系に色盲の遺伝がある可能性があるとして、婚約辞退を迫りました。
この事件は皇室に関わるゴシップであった為、当時報道管制を敷かれており、「宮中某重大事件」と呼ばれるようになります。
事件は皇室を巻き込み、世間を巻き込み、実際に色覚異常があるかどうかを確認する事態にまで発展します。
事件の裏には、山県が薩摩の血が皇室に入るのを嫌っているとか、薩長の藩閥抗争や、あるいは久邇宮家の皇室への干渉を嫌った動きであるとか様々に言われましたが、世間で右翼の壮士達が「山県、中村(宮省)を暗殺を企んでいる」という流言までがされるようになります。
結局は、病気の大正天皇に代わって実質的に皇室を動かしている貞明皇后、久邇宮家、そして皇太子裕仁親王当人の意思から、婚約辞退は破棄され、そのまま内定しました。
この事件により山県は元老を辞することを表明しましたが留意され、翌年に失意のまま没したと言われています。
また、この事件で当時首相であった原敬は山県側についており、暗殺事件の遠因の一つであるとも言われています。
満州某重大事件
昭和3(1928)年、中国の軍閥の指導者であった張作霖が爆殺された事件のことであり、奉天事件とも呼ばれることがあります。
終戦まで犯人が公表されることが無かったことと、当時、陸軍からの報道管制もあったことがあり、「満州某重大事件」と呼ばれるようになります。
当時、首相であった田中義一(陸軍大将)は張作霖を直接見知っており、今後とも使って蒋介石に対抗させる、という方針を出していたのですが、現地の関東軍にとっては張作霖は満州の実権を握り、言うことを聞かなくなった邪魔な存在となっていました。
そして、陸軍の独自の判断によって、張作霖を除く、という暴挙に出ます。そしてこの事件は、南部側(蒋介石側)がやったというように偽装はされましたが、中国国内でも日本側の仕業ではないか、という疑問が広がり、むしろ抗日運動を激化させるという結果を招きました(その上、中国人の指導者を欠くという状況で)。
ジゴマ
大元はフランスの怪盗ものの小説であり、明治44(1911)年に映画化、同年のうちに日本でも公開されました。
内容は変装の名人、ピストル強盗であるジゴマが強盗、殺人を繰り返すというもので、映画化に辺り、アクションシーンや、撮影を利用したトリック等の先駆的な映画であることもあり、日本で公開されるや否や大ブームとなりました。
この後、全く関係ない女盗賊を主人公にした映画が女ジゴマと称して公開され、これも大ヒット、そしてこれに続けとばかり和製ジゴマ映画まで作られるようになります。
このジゴマブームは映画のみに限った話ではなく、小説でもジゴマのような怪盗小説、あるいは怪盗VS探偵のようなものが多数作られます。この後の探偵小説ブームの走りと言えるかもしれません。
このブームは、当時、ジゴマのやり方、横暴を通す、神出鬼没という意味や、あるいは直接的に強盗や、犯罪に関わるようなことを、「ジゴマ式」とか、「ジゴマる」と言うような表現をすることもあるほど一般に広まり、子供達の間で変装したり、強盗の真似事をする「ジゴマごっこ」が流行るほどでした。
現代でもあることですが、このジゴマに影響されて実際に強盗を働いてみる、という若者(馬鹿者)が逮捕されるような事件も発生し、また、教育上よろしくないという教育側の判断や、新聞の論説もあってか、約1年間に渡って世間を騒がせたジゴマは、大正元(1912)年10月に、警視庁から上映禁止命令が出されます。
警視庁に次いで、内務省警保局から全国に伝わり全国的に禁止されました。そして、これらの動きによって、警察署がばらばらにやっていた映画に対する検閲を、体制側が制度的に行なうようになりました。
この上映禁止に合わせて、小説も制限すべき、という論調もありましたが特に命令等は出なかったようですが、映画が禁止されるや、ブームは下火となり、大正2(1913)年の頃にはすでに小説も無くなっていました。なお、原作の小説はかなり後、昭和12(1937)年に久生十蘭の手で翻訳されましたが、探偵小説として翻案されたものです。
日陰茶屋事件
『日陰茶屋』は、現代では葉山「日影茶屋」として、懐石、フレンチ、スイーツの老舗として有名ですが、大正期でも江戸期より続く伝統ある老舗旅館でした(戦後に旅館は廃止されています)。
大正5(1916)年、11月9日未明、この宿を訪れた神近市子(かみちか・いちこ)が大杉栄を刺傷、世間を騒がせました。この痴情のもつれによる大杉栄の刺傷事件が『日陰茶屋事件』です。
大杉栄は当時、有名な社会主義者であり、アナーキストとしての立場を押し出していた時期で、文筆活動を中心に行なっていました。
この時期、堀保子(ほり・やすこ)と結婚していましたがほぼ別居の状態で、文学者辻潤の妻であった伊藤野枝と同棲関係となり、さらには元々の愛人神近市子ともずるずると関係を続けていたという状態でした。
大杉は「経済的に自立し、別居して、性的自由を保証する」自由恋愛なるものを謳っていましたが、定職に着かず、文筆活動と社会主義者としての活動資金だけで生活をしていた大杉は、妻保子と、神近からの経済的な援助を得て生活が成り立っている、という有様でした(それにも関わらず、野枝と同居する、という状態で…)。
そして、雑誌発行に伴う保証金としてまとまった金を得た大杉は、事件の起こる逗子『日陰茶屋』へ文筆活動の名目で野枝を連れてやってきます。
当初、大杉は神近に「一人で行く」と告げていたところ、この事実を知った神近は短刀を用意して日陰茶屋と乗り込み、大杉の頚部を刺傷、重傷を負わせますが死には至りませんでした。
神近はこの後、入水自殺を図りますが、死に切れずに逗子の交番へ自首しました。
この事件をきっかけに元々孤立しがちだった大杉は完全に社会主義同志の間でも孤立し、全国行脚の旅に出ることになります。
神近市子は東京日日新聞の記者であり、いわゆる職業婦人として知られた才媛であり、『青鞜社』では伊藤と顔を合わせたこともあった仲でした。
神近は2年の服役後、文筆活動を再開し、戦後にはいわゆる左派政治家となり、大杉、伊藤は震災時の『甘粕事件(大杉事件)』で殺害されてしまいます。
小笛事件
小笛事件(こぶえじけん)、あるいは白川四人殺しと呼ばれる、、法医学鑑定が裁判で争われた有名な事件です。
大正15(1926)年、京都市内に在住の平松小笛が、その養女千歳と、小笛の友人の子供喜美代と田鶴子を巻き込んだ無理心中を図りました。
事件後、当時小笛と付き合っていた、広川条太郎が逮捕されました。現場から小笛、広川の連名の遺書や、現場の散乱の具合などから、無理心中に偽装しての殺人と目されていましたが、広川は当初から無罪を訴えました。
状況証拠は広川に不利でしたが、小笛が金に困っていたことや、千歳の心臓が弱いことを悲観していたこと、さらには広川と連名の遺書が筆跡鑑定により小笛単独で書かれたことなどが発覚しました。しかし、小笛の解剖の結果が広川が犯人であることを示唆しているとして、警察は広川による殺害、自殺の偽装を主張し起訴されてしまいました(広川は一貫して公判開始まで無罪を主張しています)。
検察側の解剖結果による主張を覆す為、弁護側が再鑑定を要求した結果、当時の権威である、東京帝国大学教授三田定則博士、大阪医科大学教授中田篤郎博士、九州帝国大学教授高山正雄博士の再鑑定が行なわれました(最初の解剖は、京都帝国大学小南又一郎教授によって行なわれています)。
この結果、中田、高山の鑑定は他殺としましたが、唯一三田だけが自殺と断定しました。当時の権威ある三田の鑑定結果と、裁判官の心証に訴えることで広川は昭和2年の裁判で無罪を勝ち取りますが、検察側が翌日控訴、さらに検察の申請によって、長崎医科大学の浅田一博士と東北帝国大学の石川哲郎博士の再鑑定が行なわれることになります。
(この結果、六大学につき一人ずつ、その道の権威が法医学鑑定を行なうことになります!)
その結果、検察の思惑を裏切り、浅田、石川とも自殺と鑑定、結果的に広川は無罪となります。
猫いらず
明治38(1905)年に発売が開始された、いわゆる殺鼠剤の一つです。
その普及に伴い、これ以外のものもまとめて殺鼠剤=猫いらずという認識になります。
黄燐や亜砒酸を主成分としている為、ネズミ以外にも効き、当然、人間にも効くうえに、入手も簡単である為、自殺や犯罪に使用されました。
大正11(1922)年に13歳の少女が奉公先の朝食の味噌汁にこれを混入し、殺害を謀ったところ燐が燃え、発覚して未然に防がれたという事件が発生しています。
また、大正12年にはこの猫いらずの発売禁止の議題が衆議院にも上がっています。
下谷サドマゾ殺人
大正6(1917)年、東京市下谷区の大工職人の内妻がひどい拷問の末、死亡しました。
死体は警察の解剖の結果、全身が傷だらけであり、背中や腕に焼け火箸、あるいは刃物によって文字が書かれており、また手足の指が複数切断されていました。
当初、この事件は嫉妬深い夫が妻の不始末に折檻を加え、殺してしまった、と報道されていましたが、夫の大工は逮捕当初から「妻がやれといったのでやった」「行為の最中に痛いと言ったことがない」等と供述しており、調べを進めるうちに、これがサディズム、マゾヒズムの性倒錯の末であることが発覚しました。
大工の夫は精神鑑定にも掛けられ、無罪の鑑定が出されましたが、検察側はこれを無視して懲役10年以上を求刑しました。しかし、大工の夫は判決の前に獄中で脳溢血で急死しました。
この事件は、三田定則のあと、法医学教室を担当することとなる古畑種基が内妻の死体解剖に立ち会っています。
説教強盗
大正15(1926)年から昭和4(1929)年にかけて帝都外縁部に出没した怪盗(?)です。
その名前の通り、忍び込んだ家の家人に2,3時間の長時間におよび防犯の心得等を説教することで有名になりました。
(当然、自身で説教強盗と名乗った訳ではなく、新聞での報道での命名です)
おおまかな手口としては、寝静まった家の電話線と電線を切り、忍び込んで家人を起こしたうえで金品を脅し取り、そして説教を懇々と行い、朝方の人ごみに紛れて逃走すると言うものでした。
また、忍び込むのも新興住宅地域で、警察組織等の未整備、住民の関係も希薄といったところを狙いを定めており、なかなか逮捕に至らず、模倣犯まで生み出しました。
この模倣犯は非常に簡単に捕まりましたが、本物はなかなか捕まらず、東京朝日新聞が一千円の懸賞を出すに至ります。
そして昭和4年、特捜班が設置され、過去の事件の記録から意外にあっさりと説教強盗は逮捕されました(懸賞金は警察関係者に慰労金として渡されたそうです)。
記録にあるだけで強盗58件、窃盗29件、強盗傷害2件、婦女暴行1件の罪で、無期懲役となっています。
扶桑劇社の女優詐欺
大正期、活動写真が隆盛を見た中で、現代もあるような「女優にしてあげるよ」という甘言を弄して、歳若い女性を弄ぶ事件が発生しています。
大正7(1918)年、下谷区上根岸に事務所を構えた扶桑劇社は、『地方新聞』に堂々たる広告を打ち女優を募集しました。
応募してきた女性に対して「表情は性を解する者でなくては出来ない」等と称し、暴行を加え、当然、女優にするわけでもなく、銘酒屋や遊郭に売り飛ばしたり、保証金と称して金品を巻き上げたりといった行為を繰り返しました。
これらの地方から出てきた女性の多くが、家出同然であったり、あるいは特に帝都に伝手があった訳ではなかったことが彼女らを泣き寝入りさせ、事件の発覚を遅らせた原因でもあったようです。
大正14年(恐ろしいことに、震災を乗り切ったようです)に事件が発覚、首謀者が逮捕され、7000人余を弄んだと豪語しました。
皇居二重櫓白骨死体事件
二重櫓は江戸城の伏見櫓のことで、元は伏見城にあったものが移設されたものです。
大正14(1925)年、震災によって被害を受けた二重櫓を修復しようと工事をしたところ、その土台部分から21体(16体との記述も)もの白骨死体が発見されました。
死体はそれぞれ立った姿勢で、肩や頭に古銭が乗っていたと言われています。
これらの情報は全て関係者からの伝聞からの新聞での報道であり、正確な情報は基本的に伝わっていません。発見後も、正式な調査等もされずに(果たして、白骨死体は埋め戻されたのか、他所へ埋葬されたのかも不明です)事件は闇に葬られました。
この発見は当時皇居内の出来事でもあり、あまり大きく報道されなかったようですが、民俗学会では天皇家の人柱だ、そうではない、という論争を呼んだようです。
学会の重鎮である柳田やその学派が人柱ではないと主張し、南方熊楠や、柳田と対立する(?)民俗学者からその主張を非難するような論考、言説が発表し、中世でも人柱が行なわれていた証拠と主張しました。
しかし、これらの白骨については江戸城建設時の事故による死者である可能性が高いと見られています。建設当時、相当なハードスケジュールであったとともに、これらの工事に関わった人足達の身分が軽いこともあった為(この重労働から逃亡を図れば即斬殺)、簡易な埋葬として合葬された、と考えるのが自然です。
(もちろん、江戸城建設時のものなので天皇家の人柱、というのもありえない話です)
大正期の銃器、刀剣の規制
明治9(1876)年のいわゆる廃刀令により、大礼服着用時、警察官、軍人以外の帯刀が禁止されました。
帯刀が禁止されたのみで、所持は特に規制されなかったようです。禁止対象は主に腰に挿す刀の類で、腰に挿すことを禁止するような条文であったこともあり、袋に入れて持ち歩くといったことがあったようです。
廃刀令においては、懐に呑むような短刀、匕首の類は禁止されていないか、目こぼしの対象であったようで、大正12年に改めて警視庁から短刀、匕首の類の携帯を禁止する通告が出ています。
廃刀令は一応銃火器の類も規制の対象であり、刀と同じくおおっぴらに持ち歩くことを規制しました。
銃火器の規制は、明治43(1910)年の銃砲火薬類取締法まで廃刀令準拠で、一般人でも普通に所持可能で(要するに、持ち歩かなければ問題なし、ということです)、新聞などにも堂々と銃火器の類の広告が載るほどでした。
しかも、通常の火薬の拳銃の類だけでなく、空気銃や杖銃(いわゆる仕込み銃)、さらには猟銃の類からダイナマイトまで買えると広告にはうたっています。
明治初期から銃火器は国産品が存在しましたが、多くは軍部へ入り、その払い下げという形で一般には出回ったようですが、国産品に比べ輸入品の方が入手が楽で、安価であったこともあり、輸入業を営む商店や、銃火器の専門店もありました。
銃砲火薬類取締法の施行後は、銃火器の所持は登録、許可制となり、基本的には軍人、警察官と言った正統な理由が無ければ所持できなくなりました(当時、軍人や警察官が所持している拳銃の類は私物であり、個人の所有物でした)。
大雑把な所持資格として、満20歳以上、所持証明書を持っている、の2点となります(所持証明書は正規の取り扱いの訓練を受けていることが条件です)。
しかし、予備役や、兵役を終えた後の在郷軍人会に所属している場合や、治安が悪い地域、外国へ行くなど言えば簡単に許可が降りました。
当然、ある程度の身分証明も必要ですが、私立探偵が護身の為に銃を所持していたり、満州などに行く新聞記者などが銃器を所持してもおかしくなかったようです。
また、施行と同時に取り上げられた訳でもないので、それまでに所持していた銃器の類はそのままであったようです。
この銃砲火薬類取締法は刀剣類は規制範囲に入っておらず、相変わらず廃刀令が基準だったようですが、銃砲火薬類取締法によって見る目は厳しくなったようです。この為か、仕込み杖が流行し、昭和3(1928)年には仕込み杖も許可制となります。
華族の駆け落ち、情死、危ない運転手
大正6(1921)年3月に、芳川子爵家の鎌とお抱えの運転手倉持が駆け落ち、情死を試みました。
二人は鉄道自殺を選び千葉で蒸気機関車の前に飛び込んだのですが、倉持の方は躓いて線路の向こうへ跳び出して軽傷、鎌は顔面に重傷を負い、死には至りませんでした。
死に損なった倉持は、この騒ぎに集まってきた人々に驚くとともに、鎌はいずれ死ぬものと思い込んでその場を逃げ出した後、短刀で喉を突いて自殺しました。
ところが、鎌は死に至らず、翌月の4月に千葉の病院を退院、未だに噂は下火にもならず、一旦、鎌を下渋谷、宝泉寺内の貸家へと隠されます(当時、渋谷は田舎なのです)。
その後、鎌の心中を模倣して、現場となった鉄道に飛び込み自殺を図る女性が現れ、噂は一向に衰えることがありません。
芳川家から離籍し、出家生活をするように勧められたのですが、結局は特に入信などもせず、中野町の芳川家の別邸へと隠れ家を移すことになります。
このとき、運転手となったのが出沢で、大正7年10月に、二人はまた駆け落ちをします。4日後、四谷で発見され一旦は引き離されますが、その後、鎌は芳川家を勘当、庶民として出沢と一緒になります(正式な婚姻関係ではなく、内縁でしたが)。
大正9(1920)年に、旧小城藩の子爵鍋島直虎の令嬢とし子が、お抱えの運転手である多田と駆け落ちをします。当時、とし子は学習院女学部の3年生で19歳でした。
この駆け落ちは即座に気が付いた子爵が彼らの乗った列車を突き止め、その停車駅である横浜で車内を捜索、連れ戻すという非常に迅速な動きを見せました。
しかし、新聞にもこの事件は漏れたようで「男は美男にし女蕩し」と報じられ、多田が悪役として事件は収束します。
この後、とし子は毛利家の分家筋の男爵と結婚し、恙ない人生を送ったようです。
人力車の時代において車夫との情死、というものはあまりみられませんでした。
車が密閉空間であることや、車夫とは異なり、洋装で車を運転する姿に魅力を感じるのか、華族の令嬢やらご婦人がお付きの運転手とねんごろになることが多かった(?)ようです。
天国に結ぶ恋、情死にまつわる3つの事件
大正5(1916)年、岩手県二戸において良人に虐待された妻が実家に戻り、縊死を遂げた為に近隣の寺へ埋葬されました。ところがその後、この女の幼馴染であった男が埋葬された死体を掘り出し、その死体と自分を結びつけた後に持参の銃で自殺をするという奇怪な情死を遂げました。
昭和7(1932)年5月、神奈川県大磯で慶大生と若い女性が結婚を反対されたことを儚んで心中を遂げます。
この事件は「坂田山心中」と名付けられ、翌月にははや「天国に結ぶ恋」と題されて映画化されました。同名の主題歌とともに大ヒットします。
暗い世情とも相まってか、映画がヒットすることで自殺が急増し、「天国に結ぶ恋」を映画館で見ながら服毒自殺を図る者が現れたり、この年だけで「坂田山心中」と同じ場所で二十組もの心中が発生しました。
(一部の県ではこの映画の影響を恐れて上映禁止になったほどです)
「天国に結ぶ恋」では、「清い二人は」などとロマンチックな心中ものとして描かれていますが、「坂田山心中」は情死の後、女性の死体を掘り出しこれを持ち去った事件が発生しています。
女性の死体は消失後、2日目に発見されて荼毘に付されましたが犯人は女性を埋葬し、そして火葬した65歳にもなる老人でした。
老人は埋葬人として女性を埋葬した時にこの死美人に魅入られ、その夜に再び掘り起こして死体を持ち去り、新聞に「おぼろ月夜にものすごい死体愛撫」と伝えられるように死体を愛でた後、翌日には消失した死体の捜索に参加、発見後は火葬を行なっていました。
もちろん、「天国に結ぶ恋」ではこれらのグロの部分は全く削除されています。
そして、この事件の一ヶ月前に、「死体と情死」と題された事件が起こっています。横浜の宿屋において、2日の間姿を見せぬ投宿客に不審を抱いた主人がその部屋を覗くと、泥酔した男が死体を抱いて眠っているのを発見しました。この二人は情死を目的にネコイラズを飲んだまでは良かったのですが、女は死亡、男は死なずにそのまま酒浸りで女の死体と共に眠っていたのでした。こちらの事件は横浜の新聞に小さく報道されたのみで、特に世間を騒がせたことも無かったようです。
 
明治天皇崩御

 


ちはやぶる神のひらきし道をまたひらくは人のちからなりけり
明治三十六年の御製である。緊張の連続であった四十五年の御治世を、天皇は終始、御自ら艱難の先に立ち、万里の波濤をひらいて、明治日本の歩みを導き給うた。御製はその千古の道を昭示し給うたものと拝する。
明治九年から三十年間、滞日して日本の医学・医療に力をつくしたドイツ人医師ベルツは、大正二年八月三十日、自分の死期が目前にせまっているのを自覚した病床で、発作を注射で鎮めてから、明治天皇をしのぶ一文の結語を口述して
「天皇は長期にわたる治世中、絶えず有能な相談相手を側近にもつという、まれな幸運にめぐまれた。しかし天皇自身が、これらの人々を過するにふさわしい態度をとり、一度その真価を認めると、どんなに厳しい非難や中傷があっても、その信頼をまげられなかった点は、何といっても御自身の功績である。また外国のもの一切を大あわてに同化しょうとした時代に、いつも用心深く控え目に出られた点も、その功績である。天皇は疑いもなく、心からその国家と国民の繁栄を念じていられた君主であった。」
と誌させた。
山のおく島のはてまで尋ねみむ世にしられざる人もありやと(明治三十七年)
今も世にあらばと思ふ人をしもこの暁の夢に見しかな(同年)
よきをとりあしきをすてて外国におとらぬくにとなすよしもがな(明治四十二年)
明治天皇の御盛徳は、孝明天皇の御庭訓に発し、万世一系の皇位の御自覚に成ったものであった。故によく万民輔弼の道をひらき、多くの賢臣を求め、そしてそれを信任し給うたのであった。明治十年八月、侍補官が設置されて、徳大寺・吉井・土方・元田・高崎以下の面々が任ぜられ、十一年三月、元老院議官佐々木高行も加えられて、君徳補翼に心を削った。
いにしへのふみ見るたびに思ふかなおのがをさむる国はいかにと
きのふけふ長き春日にわれと臣と昔の書のものがたりして
は、この頃の御製である。すでに明治四年八月の宮中改革で、高島靹之助・村田新八・米田虎雄・山岡鉄太郎ら忠誠武骨の面々が、侍従として直接奉仕することになり、積習を破った猛烈な文武の御鍛練が行われたことは余りにも有名である。西郷もこの有様を「実に壮なる御事に御座候」と喜び綴っている。
さらに溯(さかのぼ)れば、御幼少時の田中河内介の赤誠の御輔育あり、維新政府の三条・岩倉・西郷・木戸・大久保らが、先ず君徳の御成就を冀(こいねが)ったことはいうをまたぬ。しかもその御資性の尋常ならざる、かの一世の智恵者勝海舟も「その思想の高調子、その聡明さには到底およばぬ」と推した横井小楠が、明治元年参与として出仕したとき「唯々並々ならぬ御英相にて、誠に非常之御方、恐悦無限之至に奉存候」と家人に書き送っている。大久保も明治元年京都還幸に供奉して「御道中筋日々、御上之御様子奉何候処、誠に御盛んに渉らせ玉ひ且奉感佩候、御嘉言も奉伺実に皇運隆盛之時に被為臨、自然御出あらせ玉ひし御事与、潜に難有奉存候」と感激しているのである。
まごころをこめてならひしわざのみは年を経れどもわすれざりけり(明治四十四年)
若きよにおもひさだめしまごころは年を経れどもまよはざりけり(明治四十五年)
このように輔弼の良臣は多く、天皇は厚くこれを信任し給うたが、それにしても
ひとり身をかへりみるかなまつりごとたすくる人はあまたあれども(明治三十六年)
の御製には、粛としてただ息をのむばかりである。まことに「しきしまのみち」は、御心の友、御心のひとり語り、御心のかがみ、大御心そのものであった。御製総数九万三千三十二首、而して明治三十七年の御製が実に七千五百二十六首。
世の中のことあるときはみな人もまことの歌をよみいでにけり(明治三十七年)
思ふことありのまにまにつらぬるがいとまなき世のなぐさめにして(同年)
天地もうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな(同年)
かくて戦場の艱難に御思をはせ、銃後の辛苦に御想をよせ、御製は限りなく生れた。

日清戦争で大本営を広島にすすめらるるや、御座所も御寝所も御休憩所も同一の部屋であった。日露戦争では東京にとどまられたが、御座所のストーブは二月開戦とともに焚くことをやめ、次の冬も僅かに火鉢と手焙りだけを用い給うた。すべて戦場の艱難、銃後の辛苦を偲ばれてのことである。戦況報告は深夜といえども聞召したが、必ず将兵の損害をお尋ねになり、その多いときの御気色の悲痛はいうまでもなく、敵軍の死傷者の多いことにも、明らかに御心痛のさまが伺われたという。
国のため仇なす仇はくだくともいつくしむべき事な忘れそ(明治三十七年)
明治天皇を奉ずる日本は、世の激変に堪え、非常の建設を成し、そして両度の大戦を勝ち抜くことができた。しかし大戦の後には、常に困難な問題がつきまとう。日清戦争講和成立直後、天皇は特に勅を下して
「朕惟フニ国運ノ進展ハ治平ニヨリテ求ムベク、治平ヲ保持シテ克ク終始アラシムルハ、朕祖宗ニ承クルノ天職ニシテ亦即位以来ノ志業ナリ」
と昭示し、戦勝後の倣りを厳に戒めて
「朕ハ汝有衆卜共ニ、努テ驕綏ヲ戒メ、謙抑ヲ主トシ、益々武備ヲ修メテ武ヲ瀆スコトナク、益々文教ヲ振テ文ニ泥ムコトナク、上下一致各々其ノ事ヲ勉メ其ノ業ヲ励ミ」
と、国民の向うところを掲げ給うた。
日露戦争後の世道人心の動向については、四十一年戊申の歳十月十三日、詔書を下して
「顧ミルニ日進ノ大勢ニ伴ヒ、文明ノ恵沢ヲ共ニセムトスル、固ヨリ内、国運ノ発展ニ須ツ。戦後日尚浅ク、庶政益益更張ヲ要ス。宜ク上下心ヲ一ニシ、忠実業ニ服シ、勤倹産ヲ治メ、惟レ信、惟レ義、醇厚俗ヲ成シ、華ヲ去リ実ニ就キ、荒怠相誡メ自彊息マザルベシ。」
とさとし給うた。拡大する社会の歪みに生ずる困窮者救療のため、恩賜金百五十万円を基に、済生会が生れたのが四十四年二月。この二月に問題となった南北正潤論争に、天皇親ら断を示されたのが七月。
むらぎもの心のかぎりつくしてむわが思ふことなりもならずも(明治四十四年)
思はざることのおこりて世の中は心のやすむ時なかりけり(明治四十五年)
四十五年七月二十日、天皇御重態の発表に国民は驚愕した。否、むしろ呆然として自失した。そして次の瞬間から御平癒祈願の熟禱が始まった。二重橋前の広場には、昼といわず夜といわず老若男女がつめかけ、地方の神社仏閣にも、同じく御平癒祈願の国民が群をなして集った。街々の歌舞音曲も自粛され、宮城附近の交通機関は除行して騒音を避けた。
七月三十日午前零時四十三分、天皇崩御。午前一時十分、宮内省官報号外で告示され、各新聞社は一斉に号外を発行し、悲報は全国津々浦々に伝えられた。国民の悲嘆は限りなく、宮城前広場には涕泣の声が満ちた。そして伝え聞く全世界に大きな衝撃を与えた。
国内新聞は、九月十七日まで全頁を黒枠でかこんで、哀悼の意を表した。外国新聞も「明治天皇の死によって、世界はもっとも偉大なる人物の一人を失った。天皇の治世はおそらく日本の歴史中、もっとも深く記憶すべき時期として永久に伝えられるであろう」(ロンドン・タイムス)といい、「明治天皇の治世における日本の発展は、世界の歴史中その類例を見ないほど急速にして、かつ目ざましいものであった」(モーニングポスト)などと述べた。
国民哀切の念はいうもおろかである。鉱毒問題で天皇に直訴を企てたことのある元代議士田中正造が、天皇の崩御を悼み奉って「あまつ日は雲がくれして民草のなみだのあめのかわくまぞなき」と詠んだのは、いかにも素朴な調べに、国民の真情をそのまま表現している。教育勅語礼拝問題で不敬・退職に問われたキリスト教徒内村鑑三は、「天皇陛下の崩御は哀悼に堪えません。自分の父を喪ひしが如くに感じます」と誌め、「聖書にいう所の『日も月も暗くなり、星もその光明を失う』とは斯かる状を云うのであろうと思います」と述べた。大逆事件被告の減刑を心から冀った徳富蘆花は、崩御の日を「欝陶しい物悲しい日」として「陛下の崩御は明治史の幕を閉じた。明治が大正となって、余は吾半生が中断されたかのように感じた。明治天皇が余の半生を持って往っておしまいになったかのように感じた」と書いている。
教育に軍事に、政治に経済に、輝かしい歩みを刻んだ明治の御代は、かくして終った。

改元されて大正元年の九月十三日午後八時、明治天皇の御霊轜が宮城を出発される号砲を合図に、乃木大将は自宅居室に於て、古法に則って割腹、静子夫人もその傍に端坐し心臓部を刺して見事に自決。大将の奉悼歌及び辞世の歌は
「神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり」
そして夫人の奉悼歌は
「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき」
とあり、遺言条々は
「第一自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ自殺候段恐入候儀其罪ハ不軽存候然ル処明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後死処得度心掛候モ其機ヲ得ス皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立侯時モ無余日候折柄此度ノ御大変何共恐入候次第茲ニ覚悟相定候事ニ候」
に始まって、末条第十で遺骸を医学校の研究に寄附し、結文「伯爵乃木家ハ静子生存中ハ名義可有之候得共呉々モ断絶ノ目的ヲ遂ケ候儀大切ナリ右遺言如此候也」に終る。
明治天皇の崩御が、日本国民の心を重く沈ませていた中で、誰としもなく殉死がささやかれ、現に殉死を企てたものもあり、この風潮を憂い戒むる新聞などの論調は厳しかった。「殉死は東洋的弊風であって、西洋文明国に対して恥かしい野蛮の風」とする論法は多かった。「明治に仕えた赤誠を以て大正に働くべし」というもっともな論法でもあった。そしてこの中で、乃木大将の殉死は敢行された。圧倒的多数は、将軍の忠誠を讃えた。欧米においては、自殺を罪悪視するキリスト教に支配されているが、乃木大将夫妻に対しては讃辞をおしまなかった。自決という行為への不可解な気持もかくさず、しかもなお且つ讃えねばやまぬところに、人の誠の感応を見る。
諸外国の日本観は、日露戦争を境として一変した。抜き難い東洋蔑視はこのあとも長く続くのであるが、少くとも日本に対する識者の眼は違ってきた。岡倉天心や内村鑑三や新渡戸稲造などの、英文をもってする優れた日本紹介も、与って大いに力があった。この固有文化の上にたって、西洋文明の摂取に長足の発を示したことも驚異の的となった。而して決定的なものは、日露戦争における黄色人種の白色人種に対する勝利であり、この戦で示された日本軍の勇気と規律であり、そして銃後国民の団結と志気と努力であった。この戦争の陸戦最大の難関であった旅順攻略の勇将乃木の名は、おなじく日本海海戦圧勝の名将東郷とともに、全世界に喧伝された。その乃木大将の殉死である。世界的衝撃を与えたことは、無理からぬことであった。最近いくつかの論文・小説で乃木将軍がとりあげられ、軍神像を引きおろして矮小化しようとの試みが横行している。論者の卑小さを自証する以外の何ものでもないが、目的は真日本の復活を警戒し、彼らのイデオロギーに基く価値観をおしつけようとするところにある。
将軍に対する批判の一つは、旅順攻略戦の第三軍司令官としての、作戦指導の拙をいうにある。これについては、専門家の教も数々尋ねてみたが、第三軍司令官のせいにするのは甚だ酷のようである。開戦前の要塞戦に対する研究不足、ことに旅順のロシア軍機密保持が極めて厳重でその設備・装備・兵力の見積り甚だ過少、要塞攻撃のための兵器・弾薬の劣弱、バルチック艦隊到着を十二月上旬と考えた判断の誤りに基づく性急な督戦など、皆むしろ軍中央の負うべき責であり、またやむなく戦に突入した日本の国力そのものの不足でこそあった。攻城百五十五日、戦死一万五千四百、戦傷三万四千、その肉弾戦は予想をはるかに上廻る規模のもので、乃木司令官自身また二人の愛児を戦死させて後継者を失った。
なるほど乃木将軍は、いわゆる智将ではなかったであろう。しかしこの惨烈の攻城戦で、第三軍士気の中心に立って指揮し得る、真に得難い名将であったことだけは疑いない。されば明治天皇は、この任を将軍に命じ、且つ最後までその任を解かれなかった。ちなみに一八五五年クリミヤ戦争におけるセバストポール攻略には、十万の戦死者を出し、三百日の時日を要した。第一次大戦のベルダン攻撃は四十五万の死者を出してもなお且つ陥落しなかった。要塞戦とは、由来かくのごときものであった。
三十八年十二月二十九日、法庫門を出発して帰国の途についた乃木将軍に詩あり
「王師百万征強虜  野戦攻城屍作山
 愧我何顔看父老  凱旋今日幾人還」
と。三十九年一月十四日、参内しての復命書もまた、切々自らを責め、部下の死を悼んでやまない。戦果かくのごとく大にして、自責かくのごとく深し。一にこれ明治天皇に対する限りなき忠誠と、天皇のいつくしみ給う国民同胞への謙抑な将軍至情の現れであった。
 
明治の古殿町

 

・・・憲法制定に先立って制定された市制、町村制明治21(1888)年4月17日は初めてわが国に近代的な地方制度を施行したものであり、府県制、郡制(明治23(1890)年)とともに維新以来幾度か変せんしてきた地方制度が一応整備されることとなった。
政府としては立憲政治の実施にそなえて、国民に慣れさせるためと近代文明国の体裁を整えるためであり、従って欧米の模倣的な面とあまくだり的官製的な性格 をもっていたが、自由民権運動の要求した地方自治案よりはるかに完備された形式を備えて成立した。先進国に伍していくために近代国家としての法制の整備が 要請され、今までの国内的白然発生的発展より飛躍して中央集権の補充的位置ではあったが白治制の基底である市町村は法制上公法人格の自治体として明確にされ市町村会の権限も大幅に拡大され、議員と市町村長の公選制が制限された形ではあるが地方白治が確立され、財政的にも予算制度をとり入れ近代的公財政が樹立された。
町村会議員の選挙、被選挙権は地租または直接国税2円以上の納入者であり、町村長、助役等は町村会で選出され、原則として名誉職であり、従って有資産者、地主等の有力者が多くその職についた。
新しい町村は新しい統一的な秩序と組織をもったもので、従来の村落とはことなり、又戸長役場区域のような数個の村落をまとめた連合体でもなかった。しかし村落の共同体としての秩序は温存しているから、これを町村内の行政区として区長をおき町村の事務の補助をさせることになった。従って区長は村落(旧村)に根をおき部落を越えて、新村の体制づくりに協力する立場となった。
町村制の実施(明治22(1889)年4月1日)により町村合併が行なわれ東白川郡には次の一町一二か村が誕生した。
一時新村名を「松山村」とする。
−明治22(1889)年の五ヵ村合併−
鎌田光雄氏保管の文書に、明治22(1889)年の五ヵ村合併の諮問案がある。
この合併諮問はもみにもんで、特に新村名の命名には七日七晩を要し、「一、本村名ハ合併村中大村名ヲ参互折衷セシモノナリ」と注記がある。諮問審議中には、古来竹貫郷十三ヵ村の名があるので、竹貫村を主張するものがあったが、竹貫は五村中論田につぐ。
号外
今般種々ノ甘言ヲ以テ竹貫村ト組合村ヲ謀ルモノ有之、其口実トス処、一ヶ年度ノ経費ノ七百余円ヲ減ルトカノ口実ヲ以テ誘導スルモノト相聞ク
右様の義甚ダ不都合ノ次第二有之、事実、減額ナドトハ経験上ノ至ラザル処ニシテ、組合村等ハ容易不成右様ノ事二心迷シ事不成シテ後二悔ルモ誤リナキ事二候ヘバ目下団体上不都合無之様区内二洩レナク御諭示相成度比段中進候也
官本村長代理
助役大久保小四郎
明治24(1891)年12月6日
第一区長 大竹芳之助殿
弱少貪困の村であるので、これはとり上げられず、最も大きな松川村の松と、山上村の山の字をとって、「松山村」としたが大久田が強硬に反対した。某氏がふと、手習草紙に「伊勢和宮元」とあるのを例にあげ、竹貫一三ヶ村の総鎮守古殿八幡にちなんで、「宮本村の案」が新に提出されて、原案松山村を廃して、宮本村となり、竹貫村宮本村の二村に成立し施行された。
ところが、二村案に反対して、あくまでも一村としようとする一部の者は、経費の節約を第一義にとり上げて、竹貫・宮本組合村を提唱して運動を展開した。これに対して宮本村の首脳は徹底的に阻止しようとした一件の記録がある。
 
淀川改修工事 デ・レーケ 洪水相次ぎ罷免

 

明治8(1875)年6月、若いオランダ人技師デ・レーケたちの監督で、「淀川改修工事」はスタートした。
まず水勢の激しい危険な堤防に護岸工事を、次に水刎(みずはね)(水流をゆるめ流路を整えるための河岸に設置する工作物)と堰堤(えんてい)(ダム)に力を入れる。淀川は土砂堆積(たいせき)がひどく大半の水深は1尺6寸ほど。百石船は名ばかりで実際の積み荷は40石以下、場所によっては澪掘(みおほ)り(数人の作業員が乗り、長柄の鋤(すき)で土砂をさらえること)をしなければ、航行できぬありさまであった。
ショベルカーやダンプカーがあるはずはない。開削工具は貧弱、作業労働者の技術もはるかに劣っていたため、さすがのデ・レーケたちも悪戦苦闘の毎日となる。また公共工事はいつの時代でも、個人の利害と対立するのが宿命だ。住民に犠牲を強いねば成り立たぬ。たとえば江口・小松・大道村(大阪市東淀川区)では、「川敷にかかる田畑の地主は承服なれど、水呑連(みずのみれん)(土地を借りた農民たちをさす当時の言葉)は生活(くらし)失ふとて竹槍(やり)、むしろ旗こそ無けれ激しく苦情鳴らす。理を説き聞かせれば火に油を注ぐ」と堤防拡張工事に反対するありさまが、資料に記されている。
地主もお買い上げを喜ぶ者もいれば、先祖伝来の土地を奪われてなるものかと血相変える者もいる。取水溝を埋めると、田畑を殺す気かと胸ぐらをつかまれる。
おまけにデ・レーケに不運が重なった。翌9年、盟友のエッシェルとテイッセンが東京の治水対策に引き抜かれ、庇護(ひご)者の渡辺昇知事まで元老院(明治政府の立法院)議官に転出させられる。
「我(わが)志の空(むな)しからざるやう一層奮発し、官民一致して計処(はかるところ)後日有すべし(工事完遂せよ)」
知事が最後に残した言葉はこうであった。
食事や言葉に苦しみ、風俗習慣の壁にぶつかりながらデ・レーケは、孤軍奮闘する。しかし、淀川の恐ろしさは彼の努力や情熱をはるかに超えていた。明治9、15、18、22年に荒れ狂い、特に18年の大洪水は空前絶後といわれる大惨事になる。6月18日枚方の淀川堤防が100間余も決壊、茨田(まんだ)、交野(かたの)、西成各郡を水浸しにして、大阪市内に襲い掛かる。派川も壊れて水魔は大暴れ、東区の全域、南区、北区の大半から野田・海老江(福島区)まで冠水、伝法(此花区)は水没、堤防決壊個所49、破損727、流失家屋919、全・半壊家屋1650、死者28、溺者救助数3万7228と記録されている。
しかも堤防決壊・破損個所の多くが、デ・レーケの改修工事中の現場であった。今回の惨事の原因は、無能な彼の工事法がもたらした、税金を使って税金を出した人たちの家屋・田畑を流失させ、命まで奪うとはなにごとじゃ、調子のいいオランダ人の甘言にのせられた府当局も弾劾すべし…との声がちまたにあふれ、渡辺知事の後任5代府知事建野郷三も彼を庇(かば)いきれなくなる。
デ・レーケは「金喰(く)いデ・レーケ」とたたかれるが、それでも淀川に挑戦する。しかし、明治22年の洪水でついに責任を問われ、罷免されて淀川改修工事は中断した。彼の企画は確かに素晴らしかったが、当時の貧弱な土木技術と、基礎工事に用いる岩石類がヨーロッパに比べてはるかに乏しかったのが、致命傷である。
デ・レーケは明治36年帰国するまで日本に滞在し、京都府山城町の不動川工事、福井と岐阜の境にある九頭竜川河口改修工事に成功。木曽川、築後川改修計画案の作成などさまざまな土木工事に貢献した。31歳で来日し30年間も滞在、異国の治水工事に人生を捧(ささ)げた彼に、心から脱帽する。大正2(1913)年71歳没。
 
琉球

 

旧慣温存政策と皇民化教育―制度の特例とその廃止
・・・琉球処分の時に、旧士族の不平士族は日本になることを拒否して中国に助けを求める“脱清行動”を起こしました。明治政府は、琉球処分以降も旧支配層を懐柔する目的で沖縄には旧来の土地制度を残しました。本土では明治6年から地租改正を行い土地制度の近代化を図り、土地所有者・地権者を明確化する地券を発行していましたが、地租改正に当たる沖縄の土地整理事業はずっと遅れて明治32年(1899年)になってからのことです。沖縄では「旧慣温存」政策をとり、土地制度、租税制度、地方制度の古い制度を残したままにしたのです。これによって沖縄には本土から遅れた制度がある時期まで維持され、沖縄の差別の固定化につながったのです。琉球王国時代の古い制度を残したままの地割制度で使用していた農地に農民個人の土地所有権を認め、物納や人頭税を廃止して地価の2.5%を地租として納税させました。これは九州各県に比べて不当に高い地租でした。
さらに第8代の鹿児島出身の奈良原知事の時の官地民木政策により、広大な官有地が設定され、農民に入会権があった杣山が官有地とされたため、農民は生活資源を奪われることとなりました。第一回県費留学生として東大農学部で学び、奈良原県政の中に謝花昇は高等官として入るのですが、杣山の払い下げ問題をめぐり奈良原県政との闘いに苦悶しました。払い下げは不公正に行われ、寄留商人や上級役人、首里・那覇の有力士族などに払い下げられました。
1920年(大正9年)府県制の特例が撤廃された後にも県庁機構に差別は残り、県庁の事務部門はトップから末端までほとんどが長崎県出身者、警察部門は鹿児島出身者で占められ、沖縄県出身者はわずかで、しかも重要な役職には就けませんでした。
地方行政組織が他県と同様の市町村制が実施されることになったのは1921年(大正10年)になってからで、それまで旧来の「間切」とか「間切会」などの行政組織が温存されていました。本土では明治23年に第1回総選挙が実施されますが、沖縄では1912年(大正元年)に衆議院議員の選挙法が実施され、宮古・八重山はもっと遅れて1919年です。そこに離島差別が現れています。府県制、市町村制及び選挙法の特例が撤廃されて名実共に日本の一県となった大正時代のこの段階でようやく本当の意味の「廃藩置県」が完成したことになります。
他府県に遅れていた状態を取り戻そうとして沖縄の支配層や教育者たちは、日本政府が打ち出した<同化政策=沖縄の内地化>を積極的に受容していきました。沖縄の言語、伝統的風俗・習慣を蔑視して皇民化教育に邁進し、標準語教育の徹底を求めていきました。「くしゃみまで他府県と同じように」すべきというようなことが当時の「琉球新報」(現在の「琉球新報」とは無関係。旧支配階級の利益を代弁した明治26年創刊の沖縄最初の新聞。昭和15年の1県1紙制度によって消滅した。)の社説に書かれたりもしました。教育の分野では「廃藩置県」の翌年に師範学校を創設し、他府県よりも早く天皇の「ご真影」が下賜され、天皇神格化教育が推し進められていきました。
標準語励行運動については「方言論争」「方言札」問題があります。やりすぎた標準語励行運動を批判した柳宗悦たち日本民藝協会と沖縄県学務部との間で方言論争が起きました。「方言札」は私の小学生時代の戦後の一時期までも一部の学校で用いられた罰札でした。足を踏まれてアガ!(痛い!という感嘆詞的方言)と発声しただけで、次の方言使用者を発見し彼に方言札を手渡すまで、それを首にぶら下げなければならなかったのです。
徴兵制は、本土では明治の初め(明治6年)に実施されましたが、沖縄では1898年(明治31年)に実施されました。沖縄の旧支配層はこれを機会に本当の「忠良なる日本国民」になるんだという考えを持っていました。しかし一般民衆の中では、徴兵検査の直前で行方不明になったり、指を切り落としたり、目や耳の障害を検査の際に装ったり、海外移民の形をとった徴兵忌避運動が起こりました。1910年(明治43年)には国頭郡本部村で反徴兵暴動が起こり、騒擾罪で21名の村民が懲役5年から罰金刑までの刑を受けた事件(本部事件)が発生しています。
1903年(明治36年)に大阪で第5回内国勧業博覧会が開かれたとき、会場周辺の見世物小屋で「学術人類館」事件が起こりました。台湾原住民、インド人、ジャワ人、トルコ人、アフリカ人、アイヌ人、琉球人などを「学術人類館」という見世物小屋で生きた人間を「陳列」したという事件で、沖縄の知識人は「日本臣民である琉球人と他の民族を同列に置くとはけしからん」と抗議し非難しました。日本人である琉球人と他の民族は違うという主張をしたのです。これこそ「逆差別」ですね。朝鮮人と中国人は抗議によってさすがに「陳列」は取り消されたようですが。「沖縄人」は甘言によって連れてこられた二人のジュリが「琉球の貴婦人」とされて見世物にされました。
 
函館におけるキリスト教の庶民布教

 

函館におけるキリスト教はどんなプロセスを経て市民レベルで受容・伝播していったのであろうか。あるいはどんな宗派形態で市中布教が展開されていたのであろうか。それを垣間見る一素材として、次に明治初年〜明治39年の時期に存在した〈キリスト教諸宗派一覧〉〈キリスト教諸宗派の受洗者数〉を掲げることにする。
上記の〈宗派一覧〉と〈宗派の受洗者数〉から、少なくとも次の特徴点が指摘できよう。
第一は、安政6年のメルメ・デ・カションの来函に始まった天主公教(カトリック教会)の布教が、函館の近代キリスト教界を先導したことであり、その営みは明治6年のキリスト教解禁以前からすでに始動していたのである。ハリストス正教が前の「洋教一件」にみたように捕縛騒動に巻き込まれたのに比して、天主教の方は静かな船出であった。
函館における公然たる布教活動が本格化するのも、やはり明治6年の解禁以後である。近代布教の歩みを通観して、その受洗者数を尺度にして測ってみると、明治9年とその翌年がピークをなしていることに気付くであろう。すなわち、明治9年には天主公教が従前の伝統をベースにして空前の96名もの入信を得ていたし、同10年にもそのキリスト教ブームが続き、日本聖公会においてはアイヌ伝道の師ジョン・バチェラー(Batchelor,J.)の来函もあって一挙に14名の受洗者を出していたのである。
この明治9〜10年=近代キリスト教伝道のピークとすることはほぼ大過なかろうが、それと表裏することではあるが、その宗派の伝道の成否のかなりの部分は−例えば、日本聖公会のジョン・バチェラー、日本基督教会の桜井昭悳のように−伝道者個人の資質・才能に拠っていたことも指摘されていい。この伝道者個人に依拠しながら、明治9〜10年に受洗者数のピークを形成していたことを、函館の近代キリスト教界の第二の特徴点としておきたい。明治9〜10年に受洗者数が、まさに空前絶後の量的達成を示したのは、ある意味では、前の「洋教一件」を遠巻きながら見守ってきた市民のキリスト教に対する理解がより深まった結果なのかも知れない。明治6年のキリスト教解禁を受けて、明治9〜10年に、堰をきったように函館市中にキリスト教信者が輩出したことだけは、揺ぎない歴史的事実である。
そして今一つの特徴点をあげるなら、明治初年〜39年の中で、明治9〜10年は文字通り、突出した信者を獲得したものの、それが以後も平均して増加を続けていったかといえば、決してそうではなく、むしろ、信者の受洗状況は変動の過中にあったことである。言うなれば、キリスト教は函館市中に庶民レベルで受容され定着するには、一定の試行錯誤があったのである。
では、試行錯誤をくり返しながらも、キリスト教が徐々に函館市中に、ひとつの宗教として、あるいはひとつの文化として根付いていく様相を、次に「函館新聞」を素材にして検証してみることにしよう。
キリスト教の流布
明治11年8月14日付で、日本聖公会の宣教師デニング(Dening,W.)氏が早くも日曜日ごとに説教を開始していることを伝えているし、同年11月26日付では、同会の礼拝堂が完成し、その始業式には多くの参詣者があったとも伝えている。ユーモラスなことに、この礼拝堂の釣鐘の声色は、どうも火事の際に打ちならす板鐘と同じであったらしく、函館支庁では慌ててそれを取りはずして別の釣鐘にする一場面もあった(明治12年1月31日付)。
キリスト教の伝道の波は、市中にとどまらずやがて近郊へと及んでいくだろうことは当然のごとく予測される。事実、明治11年5月22日と11月4日付の記事として、上磯〜札苅方面にも相当の帰依者が現われ、神官や僧侶の教導職も、宣教師の施す説教に大きな刺激を受けていたと報じている。
函館においてキリスト教の復活祭が4月13日の宗教行事として初出するのは、どうやら明治12年のようであり、とりわけ天主公教(カトリック天主堂)のそれには市中の多くが参詣に赴いていた(明治12年4月14日)。
当時の耶蘇大祭あるいは基督隆生祝日、今日のクリスマスが初出するのは、明治17年12月25日のことである。それは年とともに、キリスト教が庶民化していく一つのバロメーターを示すかのように市民の心を確実に捕捉していく。その1コマを、明治21年12月25日の「函館新聞」は、時を越えてこうメッセージしている。
「基督隆生祝日ハ近来東京横浜をはじめ之を祝して集会贈物をなすもの年々にさかんなりしが当地にても本日ハ同祝日なりとて居留の英米人の家々ハ素より元町遺愛女学校等にてハ、前夕より賑はしき集会を開き種々の音楽遊戯等を試ミ、又祝ひの松へハ種々の贈品をむすび生徒又ハ懇意の子供達へわかつ抔なか々々面白き光景にてありしといふ」
このように、キリスト教は一歩一歩ここ函館の地に根を下ろしていくのであるが、前の「洋教一件」を想い起こすまでもなく、神仏の世界に住む人々にとっては、このキリスト教が庶民化することは、たとえ信教の自由とはいえ、大いに警戒の念を抱かざるを得ない由々しき事態であったことも、もう一方の事実である。現に、国家神道の成立期とされる明治23〜4年の頃に至ると、「排耶蘇教演説会」が時を置かず頻繁に市中のどこかしこの寺院で実施されるようになる。これは逆からいえば、国家神道の支柱である神仏界が、キリスト教に対して極度なまでの警戒心を抱懐していたことを示しているのである。
その意味で次の明治14年6月9日の新聞に掲載されている神道事務局のキリスト教は甚だ象徴的である。
「各地とも耶蘇教を信する者ハ男子よりも女子の多きは全く婦女子に教育なきゆえ、宣教師の甘言を信じ理非を弁別する能はざるより起こるものならん」
体制を担う側では、このように、この段階におけるキリスト教への入信を、無学の婦女子が宣教師の甘言に乗せられた結果と認識しており、その意味でかなり皮相的なキリスト教観を持っていたと言わなければならない。
それでは、体制の宗教世界を支えていた神社と寺院は、函館の地において具体的にどのような近代の日々を送っていたのであろうか。次に節を改めて、少しく眺めてみることにしよう。
実行寺は再建か廃寺か 
明治初年の神仏分離以後、神道界とともに、体制宗教の一翼として教導職布教や北海道開拓ないしは開教に余念のなかった函館仏教界も、明治12年12月6日、堀江町より出火した思いも寄らぬ大火に巻き込まれ、実行寺・東本願寺(浄玄寺)・称名寺などの名刹が一瞬のうちに灰燼に帰してしまった。
開港後、一時ロシア領事館の開設までの仮止宿所となったりしていた日蓮宗の実行寺は、その大火の直後、廃寺か再建かという重大な岐路に立たされていた。明治14年2月14日付の「函館新聞」には、実行寺住職の松尾日隆が日蓮宗の教導取締を「何故にや今度該務を差免されたり」と報じている。そしてこうした事態を受けて、実行寺の450名もの檀徒が実行寺の再建か廃寺かを賭けて日蓮宗大教院管長に請願書を提出したのは、それから約1か月半後の4月2日のことであった。
彼らの請願の骨子は、「説教所へ寺号ヲ公称セシムルハ六名ノ過チヲ飾ルニ過ギズ、実行寺ニ職ヲ復セザレバ四百五十名ノ者信ズル所ノ宗教ヲ失ハン」、「余等四百余名方向ヲ転セバ数百年伝来セシ実行寺ハ一朝ニシテ廃寺トナラン」というように、表明上は松尾日隆の教導取締の復職にあった。しかし、かれらの請願の中核となっていたのは、6名の者が画策してやまない「説教所の公称」問題の中にあった。つまり、実行寺と袂を分かつ6人組が明治12年の実行寺の焼失を機に、亀若町に日蓮宗説教所を設置し、これを拠点に一気に宗勢の拡張を図ろうとしていたのである。450名の実行寺檀徒にとって、その反乱的行為は当然、黙止し難いものであった。
6人組によるこの画策も、実は大火以前から芽生えていた。すなわち、明治8年中央から派遣されて来た津川日済と内藤日定なる者が地元の大野某と語らい、実行寺の松尾日隆を追放せんとしていたのである。してみれば、実行寺と説教所との反目は、中央と地元における教導職布教をめぐる矛盾に端を発し、それが明治12年の大火を契機にして噴出した一大騒動と見なしていいだろう。教導職布教をめぐる不祥事については、前にも少しく触れたが、このような中央と地方、あるいは本寺と末寺との間の軋轢は、宗派の別を超えてかなり日常茶飯事のように存在していたに相違ない。
廃寺か再建かで揺れた実行寺の騒動も、檀信徒の熱い請願が功を奏し、松尾日隆の復権も叶い、また仮堂建設中に、道路改正が行われて、現在地に替え地が下付されて移動が完了したのは明治14年のことであった。そして同年6月6日と7日の両日、松尾が施主となって旧幕府脱走軍戦死者の13回忌大法会を、谷地頭碧血碑前で執行。同17年に、身延山久遠寺と本末関係を結ぶに至り、以後順調に北海道内にその宗勢を拡げていった。
幕末の安政年間、箱館奉行交代の際の仮本陣やイギリス領事館の開設までの仮止宿所にも当てられていた浄土宗称名寺も、明治12年の大火に見舞われ、現在地に移転したのは実行寺と同様、道路改正による替え地下付後の明治14年のことであった。・・・
 
 

 

 
 
 
 
■江戸時代

   江戸時代 1603〜1868 

 

徳川家康がなぜ天下を取れたのか?
戦国時代を制して平和な江戸時代をもたらした英傑・徳川家康。戦国の世に生まれ、今川義元の人質でありながら、徳川家康はなぜ天下を取り、260年も続いた徳川幕府を開く事ができたのだろうか? そんな、戦国武将・徳川家康が、なぜ天下を取り江戸幕府に安定をもたらすことができたのか? その理由に迫ってみたい。

まず最初に人材である「人」から見てみよう。戦(いくさ)は一人でできものでなく、逆に「人」(家来)を動かす立場となるのが大名や武将と言う立場だ。そのため、武将や大名にとって部下(家臣)が、いかに自分のために働いてくれるかが、一番大きなカギとなる。更には、その家臣の下につく末端の雑兵までが、どれだけ一生懸命戦ってくれるかも重要だ。そのため、人心掌握ができない場合、自分の未来は無いと言っても過言でなく、戦国大名が一番怖いのは、戦に負けると言う事より「家臣の裏切り」になる。室町幕府第13代将軍・足利義輝という時の権力者でも、求心力を失い、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と言った家臣に裏切られて殺害されている。いつ裏切られるかわからない下剋上の世の中であった為、戦国時代にはどんな大名でも家臣には大変気を配っている。
そんな中、のちに天下を取った徳川家康には、古くからの「信頼できる家臣」が最初から充実していたと言えよう。
織田信長の織田家は、元々、尾張守護・斯波義統の家臣に過ぎず、清洲城主の織田家である主家とはまた異なる。このように清洲三奉行として清洲城主・織田家の配下である一族衆であったに過ぎない。すなわち、織田宗家の分家であった3つの織田家の1つの出自であり、立場の弱かった一族が織田家の本家を凌いだだけでなく、主家である斯波家よりも力をつけた訳で、下剋上の成り上がり典型例と言える。もちろん、これは織田信長だけの成果ではなく、祖父や父・織田信秀が勢力拡大することに成功した結果であった。しかし、織田信長の織田家も古くから尾張にて君臨した訳ではなかったので、昔から強力な譜代の家臣が多くいた訳ではない。勢力を拡大しつつ新たに配下に加えた家臣が多かったと言える。そのため、忠誠心には心配な点があり、実際に、一番の重臣となった柴田勝家も一度、織田信長を裏切っている。しかし、強力なリーダーシップにて、尾張を統一したのが織田信長であり、その過程で林秀貞らの甘言により何度も裏切った弟・織田信行を暗殺したり、家臣の統制には苦慮しつつも、家臣には強固に結果を求めることで統率して行った。更には、槍の長さを敵の槍より長い武器に改善したり、城下に軍勢を住まわせるなど革新的なアイデアによって、勢力拡大路線がうまく機能し、家臣も手柄を立てれば領地を増えしてもらえるため、不満もしばらくは収まった。やがて天下が見えてくると、比叡山焼き討ちなど織田信長の残虐さが目立つようになり荒木村重の謀反が起こる。この時、信頼していた部下がなぜ謀反したのか?を良く検証し、自ら悔い改めて寛容な対応をしたり、以降は家臣を大事にすればよかったのだが、その後も林秀貞や佐久間信盛と言った名だたる武将を追放。こうして、結果的に明智光秀による本能寺の変に至った。すなわち簡単に申し上げれば、家臣を大事にしなかったため、裏切られて命を落としたとも言えよう。
豊臣秀吉に関しては、最近は農民ではなかったとする説もあるが、いずれにせよ成り上がりである。そのため、織田信長よりも状況は非常に悪く、自分に忠節に仕えてくれる譜代の家臣が1人もいない。分かり易く言うと、数代に渡って豊臣家に仕えたと言う結束が固い家臣は皆無と言う事だ。これは乱世においては、かなりの条件が悪い中での武将人生スタートと言えるが、それでも、天下を取ったのだからその偉業はスゴすぎる。しかも、豊臣秀吉が追っていた傷は、額(ひたい)の傷だけであったともされ、すなわち若いころはともかく、武将クラスになってからは家臣らを前面で戦わせて、自分は後方指揮に専念し、危険を避けていたとも言える。一番の危機ともいえる、金ヶ崎の戦いにて殿(しんがり)=<しんがりとは、敗走する際に後方で追撃してくる敵の大軍を相手に戦い、主君を逃がすこと>を務めても、傷を負ったという記録すらない。このように自分のために戦ってくれるよう、持ち前の求心力で、出世するに従い有能な家臣をどんどん登用し、自分はより出世するために家臣を大いに働かせたと言える。そのためには、家臣らとの宴会ではその場を盛り上げたり、感謝の言葉を常に述べたりと、信頼関係を築くのに大変気を使ったが、信頼できる譜代家臣がいないのだから、こうするしかなかったとも言えよう。とは言え、竹中半兵衛や黒田官兵衛と言った、優秀な武将はその人柄に惚れて豊臣秀吉の為に働いてくれた。1590年の小田原攻めの際には、箱根湯本の温泉につかりながら、他の武将を動かすと言う「余裕な状況」となっている。そして、臣従した大名の妻を大阪城下に住ませて、事実上の「人質」にとって、裏切りを防止することにした訳だが、実際、これはうまく機能する。このようにして天下を取ったものの、心の底から信頼できる家臣と言う者は最後まで少なく、豊臣秀次など一番信頼できるはずの身内すら信用できず、静粛もしてしまった。それでも、石田三成など、子供の頃から可愛がり成長した武将などは豊臣家の為に忠義を尽くした。しかし、それらの新参家臣は元々武士では無かったりしたので、譜代家臣を持っておらず、末端まで見ると軍勢としては素人集団のようなものと言っても過言ではないだろう。このように、石田三成のように1人頼りになる家臣がいたとしても、その石田三成に仕える石田家臣も新参が多い。有能な部隊長が少なかった石田三成の軍勢は、戦術的にも技術的にも戦闘能力が低い=石田三成には武人としての才能がない(戦がヘタ)と評価されるのも納得が行く話となる。また、強大な豊臣政権を作り上げた豊臣秀吉が亡くなったあと、徳川家康が巧みに天下を狙ったのも、ある意味家臣に裏切られたと言って良いだろう。
徳川家康が生まれた頃の松平家も、家臣に裏切られたり厳しい状況であったが、桶狭間の戦いで今川家が衰退するなど「運」が良かった側面もある。しかし、徳川家康は岡崎城主・松平宗家の第9代目であり、初代・松平親氏は室町時代初期である1400年頃に基礎を築いており、鎌倉期など古くからではないが、家臣との信頼関係がある伝統ある武家と言える。古参の家臣も、約150年も前から譜代の家臣となっており、長年の付き合いで家臣と主君の間の信頼関係も深いものが最初からあった。当然、家臣団も末端に至るまで、戦闘のプロも揃っており、精強で忠誠心が強い「三河武士」と呼ばれる由縁である。そのため、浜松城から無理に出陣した三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた以外、徳川家康は「野戦」では負けたことが無い。このように徳川家康は生まれた時から家臣には大変恵まれていたと言え、この点は豊臣秀吉と異なり大変大きい。もちろん、徳川家康に大将としての魅力と器量があったからこそ、家臣も夢を抱いて必死になって戦ったのだろう。織田信長の死後、甲斐を得る事になった徳川家康は、旧武田家臣をこぞって登用し、有能な武将・井伊直政に預けた。これも、甲斐・信濃の治安安定を目指しただけでなく、経験豊かなプロを敵に回したり、他家に仕官させるのではなく、味方につけて自分に取り込み、より強力な軍事力を得た方が得策だと考えての事だろう。ただし、石川数正のように、徳川家康に見切りをつけた重臣がいたのも事実であり、徳川家康と言えども完全に家臣を掌握できた訳ではない。このように、戦国大名は家臣の裏切りは一番心配な要素であったが、織田信長・豊臣秀吉と比較すると、徳川家康は恵まれていたと言えよう。

次に資金である「財」を見てみよう。どんなに優秀で信頼できる家臣や兵力と言った「人」が揃っていても、それなりの「軍資金」がない事には、鉄砲を購入・生産したり、軍勢を長期間動かす事も出来ない。すなわち、お金がないことには、軍事力を維持できず、攻めてきた敵に屈するだけで終わってしまう。そういう意味では、小田原攻めのあと、徳川家康は先祖伝来の地を失ったが、関東移封にて256万石と言う非常に大きな資金源を得ただけでなく、諸大名が消耗した朝鮮出兵も、九州・名護屋城詰めのみで兵力を温存できたのも大きかっただろう。
豊臣秀吉が莫大な富を得たのは、なんと言っても「太閤検地」だ。それまで、農民が自己申告にて適当に年貢を納めていたのを、山奥の田畑にまで、実際に出向いて、農地の広さを計測すると言う太閤検地を行い、実態に応じた税収を得られるようになった。すなわち、農民に正しい納税を行わせることで、税収増となったのだ。ただし、太閤検地は豊臣秀吉が最初と思われがちだが、実は織田信長が大規模な検地を行ったのが原型であり、豊臣秀吉は真似をしたに過ぎない。そういう意味では、織田信長は当時革新的な考えで天下を目指したのがここでも伺え、その行動を実際に豊臣秀吉は見ていたと言える。
ちなみに、楽市楽座は、1549年に近江の六角定頼が観音寺城で行ったのが始まりであり、これは織田信長が真似たと言える。要するに、織田信長も豊臣秀吉も「良い政策」は真似をしたのだが、これは悪い事では無い。
いずれにせよ、実力をつけてきた徳川家康には豊臣家に次ぐ財力を与え、更に自分の妹や母を人質に出してまで、徳川家を操ろうとした豊臣秀吉であったが、小牧・長久手の戦いで敗れた豊臣秀吉にとって、2度、徳川家に負ける訳にもいかないので、まぁ、これはやむを得ない事情でもあったと感じる。

そして、知力である「智」を見てみよう。徳川家康(松平元康・竹千代)は、幼い頃は今川義元のもとで人質生活をして太原雪斎から学んだが、織田信長の命にて嫡男・松平信康を失うなど、自分よりも強い権力を持つ者には逆らえないと言う、人生を送ってきた。誰にも命令されず、自分で決めたい!!、常々、徳川家康はそのように感じつつも、すぐには行動に移さず、チャンスを伺っていたいたように思える。そして、織田信長や豊臣秀吉の成功例や失敗例もたくさん見て学んできた事は、関ヶ原の戦いに勝利して天下を取ったあと、どうやったら家臣(諸大名)の裏切りを抑える事ができるのか?と知恵を得ることができたと言えよう。今川家の衰退、織田信長の横死、豊臣秀吉の政策など、過去の良い例・悪い例を大いに参考にできたのは幸いであったに違いない。
信頼できない者、古くから臣従していない大名は「外様」として幕府を置いた江戸から遠くに所領を与え、信頼できる者を本拠地・江戸の近くに配置している。特に江戸城から近い関東に、譜代の徳川家家臣を配置して固めたのは、教科書にも記載されている事項だ。諸大名の軍事力、すなわち資金を削らせるため、江戸城の普請などを命じたが、これは豊臣秀吉が伏見城などの普請を諸大名に行わせたことからヒントを得ている。また、大名の妻子を江戸に住まわせたが、これも豊臣秀吉が大阪城下に主だった大名の妻を住まわせていたのを真似た訳だ。なお、江戸には大名の妻子だけでなく、その大名家の重臣からも子供などを人質として江戸に住まわせた事実は余り知られていない。ようするに、諸大名だけでなく、その重臣らに対しても徳川家を裏切って主君をそそのかしたりしないよう、充分な対策を講じたのだ。
そして、天下を取った豊臣秀吉がなしえなかった、害を及ぼしかねない巨大勢力への対策。豊臣家に対しては、神社の再興などにその資金を消費させたが、さすが豊臣秀吉が残した財力は、そんな程度で底を尽く事はなかった。徳川家康は隠居して、将軍を徳川秀忠に譲って世襲させる。それに不満を覚える淀殿の豊臣家が戦を仕掛けてくるか、またはそのまま弱体していくかを狙ったが、お互いに年月だけがたって行く。そうこうするうちに、徳川家康は70歳を過ぎ、余生があるうちに、最大の懸念であった豊臣秀頼の静粛を行う事に決め、大阪の陣にて最大の懸念材料を払拭した。この点も、死ぬ前にやらなければ豊臣秀吉と同じ失敗になると学んだとも言えよう。この時、真田幸村や後藤又兵衛らと言う、徳川家に歯向かう恐れがあった武将も同時に一掃できたのも大きい。しかし、それ以上に、徳川政権下で所領を安堵されている諸大名、例えば伊達政宗や薩摩藩なども誰一人、徳川家を裏切らなかったと言う事が最大の安心材料となり、徳川の天下は固まった。

最後に、生きると言う「生」を考えたい。戦国時代には、討死・殺害など若くして亡くなった武将も多いが、仮にその武将が長生きしたならば、また違った形で名を残していただろうと、つくづく感じることがある。
豊臣秀吉の享年は62、徳川家康の享年は75。歳をとった徳川家康は、自分で薬を作るなどしてとにかく健康維持を欠かさなかった。人間を含む動物は、死んでしまったらそこでおしまいだと言う事を、よく理解していたと言えよう。
徳川家康の健康対策が功を奏したかどうか?は、なんとも言えないが、事実として豊臣秀吉が亡くなった年齢よりも13年間も多く長生きした。これは豊臣秀吉より17%多い長寿であり、そのおかげで最後の集大成となる大阪の陣をなし得たとも言える。もし、豊臣秀吉と同じ年で徳川家康も亡くなっていたら、その年は1603年となる。こうなると、1603年2月12日に征夷大将軍に就任したばかりの徳川秀忠の能力で、徳川政権を維持できたかは、どうしても疑問が生じる。このように、再び世の中は乱れていたかも知れないと考えると、はやり「長く生きた者勝ち」と言う事なのであろう。
時には死ぬ覚悟を持って事に当たる必要があっても、そこで死んでは「夢はなし得ない」と言う事だと感じる。夢をかなえるのには、死んではいけない、生きること、そして徳川家康のように最後まで諦めないことこそが最大の戦略となることが、徳川家康の人生からも学べる。

と言う事で「人財智生」
この4点が備わった事により、徳川家康は天下を取り、安定した江戸時代の祖を築くことができたものと小生は考えるが、皆様はいかがお感じになられるだろうか? 
 
労働者派遣 / 古代から近代(戦国時代以前〜1985年)

 

労働者派遣の歴史を紐解けば、古くは1000年以上前の奈良時代・平安時代まで遡ります。寄口(よりくち)・寄人(よりうど)といった朝廷、幕府といった組織に主従関係をもって仕えた人々から芽生え、戦国時代には血の繋がった親子に準える形で主君に仕える「寄親(よりおや)・寄子(よりこ)」という関係が発展するようになりました。
寄親(よりおや)・寄子(よりこ)
鎌倉時代〜戦国時代の頃には保護する側を寄親(よりおや)、保護される側を寄子(よりこ)と呼びました。
寄親は主のことを指し、頼る相手方のことを意味します。寄子は従者を指し、その庇護の下にある人を意味します。寄親・寄子関係は個別の契約関係に拠り成り立ったようです。
この時期の関係は契約内容によりまちまちであったようで、単純に戦闘行動への協力関係を結ぶだけのものもあれば、寄親が寄子に所領や扶持を与える「給人的寄子」まであったと言われます。かなりの所領を持つ大名に至っては自分の寄子(武士)に所領を与える場合もあったそうです。
江戸時代の経済発展と口入屋(手配師・請負師)の登場
江戸時代においては奉行所などに奉公する与力・同心にこの名が残されました。また、徳川幕府の治世の下で特に大きな戦乱が起きなかった江戸時代においては経済も発展しました。経済の規模が大きくなり職種・遊興・娯楽についても多様化が見られ、それに伴い地域・環境面の事情にもよりますが貧富の格差も拡大するようになってきました。
この時期から人手不足であったり、或いは経済的に苦しい地方から出稼ぎなども多くなり人口の移動も顕著になってきます。そうした状況に併せて、現代の派遣業的な存在である「口入屋(手配師・請負師)」という職業が生まれてきました。
これがやがて現在の日本における派遣業・職業紹介の仕事へと繋がっていきます。
口入屋(手配師・請負師)とは
戦国時代までに培われてきた「寄親・寄子」という主従関係が、江戸時代には一般庶民にも広まっていきます。口入屋(手配師・請負師)というのは、江戸時代から始まった業種の一つで都市部への出稼ぎを希望する者や仕事を求める人の身元引受人となり、人宿(下宿先・タコ部屋)を提供して依頼を受けた仕事を斡旋し従事してもらうのが仕事となります。
最初に始めたのは大和慶安という人物と言われており、元々は医者をやっていたようです。その後、日本で最初の職業紹介事業を始めました。
戦乱の世が終わり、民衆が平和を謳歌していた頃、江戸が経済発展を始めた頃でした。江戸では労働力の需要が大きく生まれる一方、地方の農村で食べていけない人や主君が取り潰しに遭い浪人の身となってしまった人など求職者が溢れかえるようになりました。まさしく時代の流れに乗って職業紹介事業は大人気となり、真似をする他の業者も出てきて現在に至るまでの素地が出来上がったのです。
口入屋は色々と仕事を請け負っており、家事・商業で使用する下男・下女・女中・丁稚などから足軽・中間・参勤交代や大名行列に伴う奉公人の臨時募集なども含めて色々やっていたようです。当然ながら、手数料を依頼主から取り分としていただいていました。手数料を引いたお金を労働者に対して渡す形になります。
この依頼主・口入屋(手配師・請負師)・労働者を結ぶ三角関係が、後の労働者派遣業においても続くことになっていきます。
「雇用促進+経済的困窮者救済」といった面と「経済的搾取+人身売買」という二面性を持つ業者であるため、毀誉褒貶さまざまな評価があります。
(※なお、口入屋・手配師・請負師共に大きな意味での違いはありません。特に手配師・請負師は家や施設を建てたりする普請での人集めをする業者や、遊郭を相手に女性を売る人買い・女衒などの業者を言います。)
明治時代に入り「雇人請宿規則」を公布
やがて徳川幕府が倒れ、明治維新を迎えます。江戸時代が終焉して明治時代に入ると、人々は文明開化を叫び、古い時代の習慣を捨てて新しい生き方をしていこうという流れになります。とはいっても、生活環境すべてがいきなり変わる訳ではないので従来と大して変わらない求人が多かったようです。
1872年(明治5年)10月、当時の東京府が「雇人請宿規則」を公布します。江戸時代から続く慣習による職業紹介には色々と問題があったので、「番組人宿」なる組合が自主統制をしたりしていました。それでも不祥事や問題が後を絶たない事で役所が法整備をすることとなり紹介業者に対して一定の明確なルールを提示したのが、この規則という事になります。この時に決めたことが東京から他の地方へも真似されていき、更に以後の法規制やルールの発展に繋がっていったと言われます。
ここで決められたルールは概ね以下の通りです。
・職業紹介供給を行う業者を「雇人請宿」と呼称する
・営業活動を行うには保証人を立て鑑札を得る必要がある(現在の営業許可証みたいなもの)
・求人、求職者からとれる手数料は給与の5%まで
・請宿主に対して雇人の身元を調査し引き受ける義務を設ける
・逃亡、窃盗など事件、事故があれば損害賠償の責務を負う
現在でも、正社員などでは「身元保証書」を提出する所が多いですよね。身元保証書を企業へ提出するようになったルーツが定まったのは江戸からこの辺りの時期です。
明治に入ってから昭和時代に至るまで、この職業紹介業者が更に暗い影を残していくことになります。
明治時代の職業紹介業者
明治以降は、炭鉱の坑夫・繊維工場の女工など職工を募集することが多くなります。それぞれの労働に対して必要人員を確保し報酬を受けるのが職業紹介業者ですが、地方の農村などで労働者側の無知や貧困等、労働者の弱みにつけ込み賃金や前借金をちょろまかしたり、人身売買を行うような事例が後を絶たなくなります。飢饉に襲われたり、明日をも生きることが厳しいような時期には女性が遊郭などに売られていく「身売り」も発生していました。これは昭和初期まで続くことになっていきます。
「ピンハネ屋」「人身売買」と非難されがちな日本の派遣業界のイメージは、恐らくこの頃の人の弱みにつけ込んで暴利をむさぼっていくようなイメージが大なり小なり残っていて、影響しているのかもしれませんね。。
大正時代以降〜戦後までの職業紹介業者
第一次世界大戦が終わった後、国際労働機関(International Labour Organization・略称ILO)が設立されます。労働条件の改善を通じて世界の恒久平和に寄与しようという目的をもって設立された国際機関ですね。第二次世界大戦終結後の1946年(昭和21年)に国連専門機関となります。
1919年(大正8年)に行われた第1回の会議では失業条約が採択されました。
勧告(第1号)では営利目的の有料職業紹介所の設立について禁止することを勧告しており、条約(第2号)で加盟国に対して無料で利用出来る公的機関の職業紹介所制度を設けることを義務付けました。これは日本国内の労働法政策に非常に大きな影響を与えることになり、1921年(大正10年)4月には職業紹介法が帝国議会において成立しました。
この法律によって職業紹介事業は国家の管理下に置かれることになり、各地方自治体において職業紹介所を設けることになります。これが現代のハローワーク(職業安定所)へと繋がっていきます。取り締まりも厳重に行われるようになり、職業紹介事業者と利用者は大きく減少していきました。
1924年(大正13年)12月には内務省から労働者募集取締令が制定され、職業紹介事業者には厳しい時代がやってきます。従来は各地でバラバラであった労働者募集の業務について、国家が初めて統一的な方針を定めたのです。
背景としては紡績、製糸産業などでの女工の人手不足から各企業共に女工の募集を競い合うことになり甘言を弄し、騙して連れてきたり応募を強要したり日常茶飯事だったことがあります。この省令が労働者募集での問題改善に資する点は多々あったといえます。
1938年(昭和13年)4月には新たに制定された職業紹介法により、職業紹介所は全面的に国営となります。民間の営利業者による職業紹介事業はここで原則として禁止されます。但しこの時点までに事業を行っていた業者は経過措置ということで、地方長官の許可を得ることで事業の存続は出来ました。
そして、戦後の1947年(昭和22年)11月には「職業安定法」が施行され、ここに民間の職業紹介事業が事実上ほぼ禁止されることになります。
職業安定法と運用について
1947年(昭和22年)11月に「職業安定法」が施行され、原則として民間の職業紹介事業が禁止されることになりますが、例外規定がありました。
その例外規定というのは、一言でいえばハローワーク(職業安定所)が手に負えない専門的かつ知識が必要な職種に限って有料職業紹介事業者へやってもらおうということなのです。
主に美術家や音楽家などの芸術・演芸活動家や科学者、医師、薬剤師、弁護士などが対象で、この後も法改正が行われ規制緩和(対象業務拡大)が進みます。
1985年(昭和60年)には、職業紹介事業の例外としての労働者派遣法が制定され、1986年(昭和61年)から施行されることになりました。 
 
江戸時代の雇用

 

奉公の制度
ここで、江戸時代の雇用がどのように行われていたかを見てみよう。
その頃、雇われて働くことを“奉公する”といった。元来奉公とは、封建社会の武士の間で、家来が主君に尽くす勤務の関係をいったものである。それが江戸時代に入って、庶民の間でも雇用されることを奉公といい、奉公する人を奉公人と呼ぶようになった。
当時の奉公の制度を、奉公の期間で分けてみると、次のようになる。
○終身奉公――生涯を通じて奉公する。一般に武家などの世襲の奉公に多い。
○年季奉公――1年を越える年数を決めての奉公。徒弟奉公はその例である。
○出替(でかわり)奉公――1年または半年の期間を決めての奉公。前者を一年季、後者を半季の奉公といい、期限がきて奉公人が入れ替わるのを「出替り」という。
○日傭取り――1日や短期間の就労。現在の日雇労働者といったところである。
江戸時代には、国民の身分は士農工商の四民に分けられ、その四民ごとに奉公の制度があった。
武家の奉公人は、士分とそれ以下の軽輩に分かれる。上級の者は一般に終身の奉公で、旗本や譜代の家臣などがこれに当たる。軽輩は、例えば徒士、足軽、槍持、六尺、草履取り、中間などで、「軽(かろ)き奉公人」と呼ばれた。軽輩の者は、当初は終身や年季の奉公が主であったが、次第に出替奉公に変わっていった。
農家の奉公人は、村方奉公人といい、さまざまな奉公があった。雇用といえる奉公は、一年季や臨時雇いであった。
職人には年季奉公が多く、一人前になるまでの徒弟奉公が主流であった。
商家では、丁稚(でつち)、手代、支配人などの職制があり、若い人の多くは年季奉公である。家事や雑用に使われる者は、主として出替奉公であった。
職人や商家の奉公人を町方奉公人といった。
士農工商の区分は厳しく、身分の交流は禁じられていた。それまで武士は有事の際には戦いに出たが、平時には上級の者を除いて農事に従事したものである。兵農が分離されて、武士は失業しても武士としての身分は変わらず、農民は生涯を農民として送ったわけである。しかし、一部に例外もあった。例えば百姓や町人が武家屋敷に奉公すると、武士に準じた扱いを受け、帯刀も許されることがあった。
奉公の規制と出替り
徳川幕府は奉公について、いろいろな規制を加えた。一年季の奉公の禁止や出替り日の制定はその一例である。
一年季の奉公の禁止は、江戸時代の初期の措置であるが、その理由ははっきりしない。1年限りの雇入れでは軍役に不向きだとか、出替者では奉公が無責任になり、主家への忠義心が薄れるとかの説がある。この禁令は、その後出替奉公が認められて解除された。
出替り日の制定は、奉公人を一斉に就職させ、奉公もしないで無為に過ごす者を江戸から一掃しようとの、治安対策上のねらいが強かった。出替り日は、一年季の奉公は承応2年(1653年)に2月15日と定まり、以後2、3回の改変で3月5日に落ち着き幕末まで続いた。半季の出替り日は、当初3月5日と9月5日とされたのが、何回も改められている。
出替りについては庶民の関心が深く、数多く川柳に取り上げられている。
“五日より五日までなり下女の恋”
3月5日から翌年の3月5日までしか出来ない下女の恋のはかなさ。
“出替りは内儀のくせを云い送り”
やめていく下女が後任者へ口うるさいおかみさんの癖を申し送っている。
“出替りの涙にしてはこぼしすぎ”
やめていく下女は、あるいは旦那とでも仲がよすぎたのではないだろうか。
“出替りの乳母は寝顔にいとまごい”
1年間育ててきた坊やへの愛着は深く、なかなか別れ難い。
“ふしだらけの薪(たきぎ)を残して出て代り”
割りにくい薪を残して下男は出て行く。主家への不満もあったらしい。
“出替りに日和(ひより)のよいのも恥のうち”
下女が日和(ごきげん)よく去って行くようでは、待遇が悪かったためと受け取られ、世間体がよくない。
奉公人の労働条件
武家や商家などの奉公人は、どんな条件で働いていたのであろうか。給金は時代によって変わるが、江戸中期の頃で、男は年3両、女で1両から2両ぐらいだったようである。日雇者も職種にもよるが、日当は大体150文から200文程度。その頃の賃金決定には、技能や能力もさることながら、容貌、体格などが重視されたようである。女の奉公人は顔かたちがよいと年3両、まずければ1両といったぐあい。男でも武家屋敷の六尺(かごかき)は、体格優先である。例えば背が高くがっちりしておれば、日当は200文。貧弱なのは170文にも下がる。主人のお供は、「いやしからぬ男ぶり」であれば優遇された。技能の習得が主眼の徒弟奉公では、給金は払わないのが普通であった。
奉公人には、原則として衣食住が給される。衣はお仕着せといい、1年に夏冬2回の支給で、住は主人の家に同居である。しかし出替奉公人は衣服は自前であったし、商家の番頭のように通勤者もいた。
奉公人の休日は、正月と7月の2回で、各3日間であった。それを藪(やぶ)入りという。自分の家へ帰ったり、帰らなくても自由に遊べる休日であった。そこでこんな川柳が生まれる。
“色白なはず年に2度日に当り”
“年には二度土を踏ませる呉服店”
年季奉公が終わると、商家や職人の奉公人は「お礼奉公」といって、なお数年間無償で奉公するのが例であった。お礼奉公を済ましてから“のれん分け”をしてもらい、独立して商売などを始める。このとき奉公先から、開業資金の一部が出されたものである。
年季奉公人などの雇入れでは、主家の本国や出身地が重要な役割を果たしていた。例えば武家屋敷で奉公人が必要なときは、その藩の本国で年貢(ねんぐ)米が納められない農民を江戸屋敷につれてきた。そこで一定期間働かせて、未納の年貢を弁済させていた例がかなり見られる。そのほか、その藩の御用商人に本国の農民をあっ旋させたり、同藩出入りの人宿から江戸者の世話をさせたりしている。商家などの長期の奉公人も、主人の出身地から呼び寄せるのが堅実な人集め策であった。本国や出身地からの奉公人は、身元もよくわかり、江戸者よりも給金が安くてすむメリットがあったようである。
出稼人と奉公人の出身地
江戸で雇われて働く者には、年季などの一般奉公人のほかに、出稼人があった。主として冬場の農閑期に江戸へ出てくる人達である。天保14年(1843年)の調べでは、総数3万4,000人、うち男は2万5,000人であった。出身地は、江戸周辺の武蔵(東京、埼玉)、下総(千葉、茨城)、相模(神奈川)が主である。信濃(長野)や越後(新潟)など雪の深い地方からも、多くの人が出稼ぎに来ていた。
出稼期は信濃人の場合、10月、11月から、2月、3月頃までが普通だったようである。川柳にこんなのがある。
“雪降れば椋(むく)鳥江戸へ喰いに出る”
江戸へ集団で出稼ぎに来る人たちを椋鳥に見立てた諷刺である。
“食い抜いて来ようと信濃国を立ち”
“人並みに食えば信濃は安いもの”
“食うが大きいと信濃を百ねぎり”
信濃とは信濃人のこと。信濃の出稼人は、江戸では大めし食らいとの評判であった。ふだんから粗食の彼らには江戸の飯はことのほかおいしい。それに出稼人の職場は重労働。これでは信濃人ならずとも大めし食らいになる。もし食べる量が人並みならば、安上がりの計算となるわけである。渋い奉公先では、食いすぎる者の日当をねぎったりするところもあらわれる。
出稼人の出入りが激しくなると、徳川幕府は、中期頃から出稼ぎの規制にのり出した。安永6年(1777年)には、村役人に届けないと出稼ぎができない出稼免許の制がしかれた。その後その規制はさらに厳しくなる。天保14年(1843年)には、江戸への出稼ぎには、出身地の村役人連印の願書にもとづく領主の出稼許可状が必要となった。江戸に着いたら、出稼許可状を町奉行所へ提出しなければならない。こうした手続きをふまないと、江戸では無宿(むしゆく)者として扱われ、見つかれば佐渡の金山へ水替(みずかえ)人足に送られた。
出稼人の就職については、江戸の親せきや知人を頼るか、人宿の世話を受けることになる。求職者を確保したい人宿では、使用人を品川や千住、板橋など街道筋の要所に張り込ませた。そこで江戸へ入る出稼人を見つけると、甘言で誘って人宿につれていくといったことも多かったようである。
その頃、江戸でよくいわれた言葉に、次のようなものがある。
“越後米つき、相模下女”
“越後の米つき、能登の三助”
“越後の米つき、越前の番太”
江戸へ出て働く人の出身地と職業との関係を誇張しての言葉である。米つきは杵(きね)をかついで市中を回り、注文に応じて米をついて報酬を得た。米つきは何も越後人に限ったわけではないが、越後出身者がその代表格といわれたものである。同じように、下女は相模、浴場で働く三助は能登、木戸の番屋につとめる番人は越前といったような相場も出来ていた。江戸でありついた職場で懸命に働く。同郷の先輩を頼ってきた後輩も、同じ職場で同じように働く。こんなことが重なって、そんな言い伝えが生まれたものであろう。ちなみに“近江商人、伊勢商人”とか、“近江泥棒、伊勢乞食(こじき)”というのがある。江戸で大をなした商人に、近江や伊勢の出身者が多い。彼らは利にさとくて泥棒と同じだ、つつましい生活で乞食のようだ、と江戸っ子がやっかみ半分に嘲笑するのである。
人市
人宿などのない農村地方では、職さがし、人さがしの形態の一つとして、「人市(ひといち)」が生まれた。今でいう青空労働市場である。「市」は、自分の生産した農産物等に余剰が出たとき、それを他の人の物資と交換するために、古代の頃から発生した。場所は、人の集まりやすい社寺や交通の要地であった。それは取引の都合もあり、次第に定期的に開かれるようになった。「人市」は、交換するものが物資から労働力に変わるだけで、「市」と似たような段階を経て生まれた。この青空労働市場では、求人者と求職者とが直接に相対し、話し合って雇用関係を結ぶのが普通であった。この人市が、その地域の人たちの職業の確保に大きく貢献したであろうことは想像に難くない。昭和の時代にまで続いた人市に、滝部(たきべ)の奉公市、田島の女中市、横手の若勢市などがある。
滝部の奉公市は、市守(いちもり)神社(山口県豊北町)の周辺で行われた。天和年間(1682年頃)に、この地方で大規模な開墾事業が起こり、物資や労働力の調達に苦労があった。大内氏の旧臣鷲頭自見は、月3回の市日を設け、その労働力の需給調整を図ったという。宝永3年(1706年)彼が死去すると、この地方の人はその徳を慕い、市を守る神として祭ったのが市守神社である。
滝部で市が立ったのは、毎月1日、10日、20日で、人市は3月から6月、8月から10月ごろの間に開かれていた。求人求職双方が相手を物色して話し合い、話がまとまると神前で「奉公約束の証」をとりかわす。そのうえで奉公人は、雇主に伴われそのまますぐに赴任する。職種は、作男や作女の農業労働者、女中、下男下女、子守など。就労期間は長くて1年、短いのは田植、麦刈などの1月未満のものもあった。賃金としては、江戸時代には米に衣類を添えたようで、その米を恩米といった。この奉公市は昭和の初めまで続いた。
田島の女中市は、宗像(むなかた)大社(福岡県宗像市)の秋の大祭の日に開かれた。この日は農具の市が立つが、いつの頃からか、玄海灘にある大島や近辺の漁村の女子を対象に人市が立つ風習が生まれたものである。滝部の奉公市との違いは、秋の大祭日にしか開かれない、職種は女中が主である、「奉公約束の証」のとりかわしはない、などである。出労期間は半年以内が多く、毎年100人前後の就職が決まっていた。この女中市は、昭和26年頃まで続いた。(注)福岡県の職業安定機関が、あらかじめ女中関係の求人を集め、当日、宗像大社の境内で現地職業相談を行い、あっ旋に努めたため、女中市の風習は途絶えた。
若勢(わかせ)市は、横手(秋田県)城外の朝市場で、年末や秋の彼岸頃に行われていた人市である。職種は主に若勢(若者)の農夫や女中で、就労期間は一季や半季の1年未満の労働者が対象であった。年末などには、1日20人以上の契約が出来たそうである。話し合いがまとまると、「手打ち酒」をくみかわした。
お江戸のまん中でも人市が開かれた。12月28日の夜、日本橋の四日市町(江戸橋の近く)に立った才蔵市がそれである。江戸の正月には、三河万歳がおもしろおかしく市中を回った。当初は三河(愛知県)から、太夫、才蔵のコンビで江戸に出てきたらしい。しかし経費がかさむため、太夫ひとりが出てきて、才蔵は江戸で見つける慣習になったようである。
その日、江戸近郷から集まった応募者を太夫がテストして契約を結ぶ。才蔵の賃金は芸のうまさで決まり、毎年100人前後が雇われた。
“三河から江戸橋へ来て供を買い”
“塩引の中で鼓の市も立ち”
この一帯では、ふだんから野菜や乾魚の市が立ち、歳末には正月用品として塩引の鮭なども売られていたのである。
この才蔵市は、仁太夫という非人頭(ひにんがしら)がとりしきり、賃金の1割をあっ旋料として徴収した。雇用期間中に才蔵に不都合なことがあれば、仁太夫がその損害を賠償したという。
日傭座
徳川幕府は寛文5年(1665年)、日傭座を創設した。江戸の日雇者は年を追って増え、1770年頃には1万人を超えていた。江戸に定住していても、あるいは他所から出てきても、働き口がなければ日雇人足でもして食わねばならない。しかし、いつの世でも日雇者は就労の機会が一定せず、生活は不安定である。ともすると、浮浪者、無宿人、無頼の徒になりかねない。そんな者を、将軍家のお膝もとで野放しにするのは禁物である。日傭座は、江戸の治安対策上彼らを掌握し取り締まるために生まれたものであった。
各町々で、名主のもとに日傭人別帳を整えさせる。それを基にして、日傭座は日雇者から月24文の札役銭を集め、日傭札を交付する。日傭札がなければ、江戸では日雇者として働けない。初めは対象を鳶、てこの者などに限っていたが、やがて全日雇者に広げて適用した。
当時日雇者に規定以上の賃金を払うことは禁じられ、その額の決定や監督も日傭座の仕事であった。江戸っ子が江戸の華と自慢したほど江戸には火事が多く、明暦の振袖火事や八百屋お七の火事などはその最たるものであった。罹災後の復興には日雇者の需要も多く、賃金が高騰する。そんなとき日傭座は、日雇賃金を規定額まで引き下げるよう指示し、取り締まったものである。
幕府は、日傭座の仕事を請け負わせるため2人の町人を総元締に選び、札役銭はその収入にした。日傭座は町奉行所の指揮下にあって、株的な性格を持ちながら、行政機関の役割を果たしていたわけである。
日傭座はいろいろな変遷を経て、寛政9年(1797年)に廃止された。組織が弱いため、増える一方の日雇者の取締りが難しい。札役銭の徴収に弊害が多い。などがその主な理由であった。なお、日雇者の就労あっ旋は、日傭座ではなく、人宿の仕事であった。
 
忠臣蔵

 

・・・畳屋万五郎が同業者の仲間達に向かって、「うれしいじゃねぇか。昔なじみの安さん(堀部安兵衛)がよ、俺達みたいな吹けば飛ぶような男に頭を下げて「男と見込んで頼む、明日の朝までに2百の畳替えをしてくれ」ってよ。これがやらずにいられるか!いいか野郎ども、この仕事はな、銭金じゃねぇんだぞ。世の中には、千両二千両積まれても、やりたくねぇ仕事もありゃ、親の死に目に会えなくても、やらなきゃならねぇ仕事があるんだ!わかったか野郎ども!」と言う台詞がありました。 
これは、勅使の接待役を命じられた、浅野内匠頭が本来しなければならない勅使の休憩所の畳替えを、吉良上野介の甘言から畳替えを行わなかった。
これに気づいた浅野内匠頭は激昂するが、間に合わないとあきらめます。しかし、家臣達の強い説得により、職人を集め、あくまでも畳替えをすることになり、この時に登場するのが畳屋万五郎です。晩酌の途中で出てきたのか、酔っぱらいながら、この台詞を吐くのです。
名台詞というほどのものではないのでしょうが、「吹けば飛ぶような男」といいながらも、人情を感じ、やるべきことをきちっとやる畳職人の姿は、とても清々しいものでした。 
 
讃岐法難

 

甲斐(山梨県)在住の大石寺信徒・秋山泰忠は、四国への所領替えとなり、元亨三年(1323)、本六僧の日仙師を開基として讃岐に法華堂(本門寺)を創建しました。
讃岐本門寺は戦国時代、交通の便などから大石寺との交流が希薄になりましたが、江戸時代に至ると諸国の往来も盛んとなり、讃岐から大石寺へ参詣する人も増えていきました。
このようななか、慶長十七年(1612)、讃岐本門寺〔法華堂〕の大弐日円師が大石寺に参詣しての帰途、日興上人の墓参のために北山本門寺に立ち寄った際、北山の日健から甘言をもって「法華寺久遠院日円上人」という 上人号を記した本尊を手渡されました。
それから三十四年後の正保三年(1646)に突然、北山の日優が「讃岐本門寺は北山本門寺の末寺である」と通告してきました。その内容は、慶長十七年の本尊に日円師が北山の日健によって上人に補任(任命)されたことが記されており、さらにまた讃岐本門寺の開基・日仙師は、北山本門寺を開いた 日興上人より依託されて讃岐に赴いたのであるから、讃岐本門寺は北山本門寺の末寺であるというものでした。
これに対し、讃岐本門寺の第十六代日教師が「北山本門寺の主張は不当である」といって服従しなかったので、北山側は同四年(1647)に讃岐本門寺を江戸寺社奉行へ訴え出ました。その結果、讃岐本門寺は不当にも法華寺と改称させられたうえ、北山本門寺の末寺とさせられてしまったのです。
しかし讃岐の僧俗は、この理不尽な判決に従うことなく、本尊・法衣なども大石寺の化儀・化法を貫きました。
これにより、百年を経た宝暦三年(1753)、讃岐法華寺の塔中である中之坊の住職敬慎坊は、当地の庄屋・真鍋三郎左衛門等とともに正義を主張し、北山本門寺を寄りの人々を破折して大石寺への帰依を強く訴えていました。このようなとき、真鍋三郎左衛門が大石寺の日因上人より御本尊を下付されたことが本寺である北山本門寺に背いた罪にあたるとして、敬慎坊と三郎左衛門は同七年(1757)七月に入牢となり、敬慎坊は二十一日間の断食を行うなかで牢死し、同じく三郎左衛門も牢獄の中で命を落としました。
その後も讃岐法華寺は、北山からの不当な本末関係を押しつけられながらも、大石寺への帰依を願い続け、実に三百年を経て、昭和二十一年(1946)の宗教法人令の発令にともない、寺号を「法華寺」から元の「本門寺」へと戻すことが叶い、長年にわたる讃岐僧俗の宿願であった日蓮正宗への帰一が果たされたのでした。  
 
生間流 (いかまりゅう)

 

『生間流式法秘書』によると、貞観元年(859年)に藤原中納言政朝が勅命を奉じ、式包丁なる儀式を定め始祖となったとしてる。この藤原中納言政朝とは藤原山蔭のことである。つまり四條流と同じく、生間流も、その源流を藤原山陰としていると主張しているのである。『生間流式法秘書』には、山陰から続く山蔭流の子孫の名前が記録に連ねられている。山陰→有頼→有衡→國光→忠輔→相継→相國→國重さらに兼廣を経て、その子である兼慶(1196年)が、源頼朝公に仕え、生間の姓と定紋三ツ藤を賜る。この時から生間を名乗り、生間流が始まっているとしている。
・・・
18 正秀 [1681年] 天和元年
19 正長 [1697年] 元禄 9年
20 正重 [1717年] 亨保 2年
21 正次 [1731年] 亨保16年
22 重為 [1764年] 宝暦 5年
23 正封 [1760年] 宝暦10年
24 正鄰 [1823年] 文政 6年
・・・
18代目 生間正秀
『生間流式法秘書』には兼秀の息子、正秀に関する以下のような説明がある。
生間流式法秘書 生間家歴代塁賦
元和九年八月 家康公 将軍宣下ノ祝饌ヲ父 兼秀ト共ニ之ヲ奉仕ス 御祝トシテ白銀二十挺。単服。葛衣十六領ヲ賜ヒ台顔ヲ拝ス
寛永元年 徳川家ノ召ニ應ジ 東武ヘ下リ正月三日 秀忠公 紀伊殿ヘ 同月二十七日 家光公 紀伊殿ヘ 二月六日 秀忠公 水戸殿ヘ 同十日 家光公 水戸殿ヘ 四月五日 家光公 下野殿ヘ 同月十四日 秀忠公 下野殿ヘ 同二年二月五日 秀忠公 甲斐殿ヘ 同月十二日 家光公 甲斐殿ヘ 同月二十七日 家光公 尾張殿ヘ御成ノ節 毎時式法ノ盛饌ヲ調進シ式庖丁ヲ奉仕ス 御褒美トシテ白銀三百十九挺ヲ賜フ
御水尾院八條宮ヘ行幸ノ節 門人十余名ヲ率ヒ御簾外ニ於テ式庖丁ヲ 睿覧ニ供ス
寛永三年九月六日 秀忠公 上洛台命ニヨリ 饗饌ヲ掌ドル 父子へ白銀五十挺ヲ賜フ
後水尾院 二条城へ行幸 大相国“秀忠公”ノ命ニヨリ菊花ヲ剥キ之ヲ白銀ノ手桶三個“ひとつは紋ニ菊水。ひとつは葵丸。一ハ無地一尺五寸廻リ三尺”ニ挿シタルヲ献ゼラレシ所 大ニ 睿感アラセラレタリト伝
寛永二十年 及 明暦元年 朝鮮信使 来朝両度トモ 台命ニ依リ 式法ノ盛饌ヲ掌ル

ここでは18代目の正秀が、父である兼秀ともに家康、秀忠、家光の徳川三代の為の料理を司どったことが記されている。また二条城に徳川秀忠を招いての宴では、菊の花を剥いたが、ひとつは菊、もうひとつは葵と、皇室と徳川家の家紋をあしらった演出で大いに喜ばれたことが記されている。
他に朝鮮からの使節が来た際に、2度もそのための食事を準備したことも特筆すべき業績であろう。以降も生間流にはこうした大役が任されるようになったとみえ、20代目の正長、21代目の正次、23代目の正封が代々、朝鮮からの使節が来た際に饗宴料理を担当している。
お家騒動発生
24代目の正鄰は、父の正封から家元を引き継ぐと、生間流にとって大きな事件が起こる。『生間流式法秘書』に記載されているその事件を引用する。
生間流式法秘書 生間家歴代塁賦
正封ノ手代同様ノモノニ 高橋又市正易トイフ者アリシガ 父正封死去後 屢次るじ 捨置キ難キ不埒アルヲ以テ 巳ヤムナク之ヲ 放逐ス 又市 身ヲ措ク所ナキヨリ 是适密ニ写取置シ生間家ノ式法ト竊取ぬすみとりセシ書類トヲ携ヘ傳ヲ求メ 自ラ生間ト詐称シ 四條家へ行キ甘言ヲ以テ正封以来ノ門人ヲ誘フ 之ニ応ズル者数名 之ヲ生間ノ高弟ト詐リ 四條家へ引入レ 其者等ト協謀シ 生間家ハ元四條隆重ノ門葉ニシテ 生間兼長ハ四條隆益ニ師事シ塩梅調味ノ事ヲ学ビシナド痕跡モナキ事ヲ世間ヘ言触シ 種々ノ悪計ヲ取組 諸国ヲ遍歴シ 生間家傳来ノ式法口傳書等ヲ 所々変造シ 之ニ四條流生間云々ト書セシノミナラズ 我先代ノ兼長ガ四條流ヨリ庖丁ノ免状ヲ受ケ居ル偽リ事ノ軸物ナドヲ拵ヘ 之ヲ巳レ門人ヘ興アタヘ 傳料ヲ取リ糊口ノ資トス 故ニ右等ノ物 今猶いまなお所々ニ散在ス 此ヨリ四條流大ニ世ニ弘マル 宮ニハ臨時ニ生間家ノ掛リヲ設ケラレ 生間ハ秀吉公ヨリ当宮ニ付ケラレシ家ニシテ 鎌倉右府公ヨリ足利。織田。豊臣氏ニ仕ヘ 往来ヨリ由緒アル家ナルニ 四條隆重ノ門葉ニシテ 隆益ニ師事セシナドト 言いうハ以もってノ外ほかノ事也 捨置キ難シトシテ 寛政三年二月 宮ヨリ直ニ四條家へ御取調ニ相成シ所 四條家ヨリ右等ノ事ハ毛頭 之ナシトノ返答ニヨリ事済ト相成タリト雖モ 其後 宮ヨリ一層厳重ニ生間家ノ家業ヲ御保護 相成タリ是ノ 御厚思ハ永世忘却スベカラズ
安永七年十二月十五日 君命ニヨリ鶴ノ庖丁ヲ奉仕ス 御褒美トシテ各種ノ物ヲ賜フ
天明年間 門人 磯部嘉兵衛へ大津。石場。膳所邉ノ門人ノ師範代ヲ申付置キシ所 屢次るじ不都合ノ所為 之アリシユヘ 叚々申聞セタレドモ悛あらためズ 遂ニ生間家ノ式法ヲ破リ 磯部流ト唱ヘ大津。膳所邉ノ門人ヲ押領ス 故ニ巳やムナク之ヲ破門ス 大津ニ於テ磯部流ノ起リシハ此ノ時ヨリ始マル

このような興味深い記録が残されている。要約すると以下のような事件である。
先代の門人のひとりであった 高橋又市正易という者がいたが、問題行動の為、追放したところ、生間家の秘伝を盗み、自ら生間であると偽って数名の門人を誘い、四條家に行ったとある。さらに又市は、諸国を周りもともと生間兼長は四條隆重の門人でしかなく、兼長は四條隆重の息子、四條隆益に師事して調味等を学んだのだという偽りを言い触らしたと記してある。また四條家から免状を生間兼長はもらったいう軸物をこしらえて、それを他の門人にも傳料として金銭を取って与えた事、さらには、こうした偽文書が諸国に広まり、その為に四條流が広まったのであると説明している。
こうした事態を重く見た、生間家の主人である宮家は、1791年2月に四條家に直接、この問題の真偽を問い合わせる。それに対して四條家から出てきた答えは「このような事実は全くない」というものであったので、これで問題は解決したと述べている。
高橋又市の事件が終息した後、正鄰が安政7年(1778年)に鶴の庖丁を行った事が記録されているが、これには深い意味があると考えている。但しこれに関しては、ここでは語らず詳しく後述することにしたい。
こうした大きな騒動のあった生間家の時代であったが、問題はそれだけで終わらなかった。それから数十年後の天保年間(1831年〜1845年)に再び、分派の問題が発生する。
門人で師範代でもあった磯部嘉兵衛が、度々、不都合を起こすので注意を行っていたが改まらず、反って門人を引き連れて生間流を破って新しく磯部流を興したために、破門にしたと述べてある。こうした動きが見られるようになった原因として、高橋又市の問題がまだくすぶっていたのかもしれないし、生間家の方法を問題視する傾向が大きくなってきていたのか、あるいは生間家自体が、その求心力を失ないガバナンスが緩くなっていた為かもしれない。
いずれにせよ24代目の正鄰の時代は、生間流において様々な問題が続いた時期だった。そしてこれは25代目でも同様に起こる問題となった。
お家騒動再び
生間流の25代目は正芳である。父である先代の正鄰が死去して、同じような問題が再び発生する。その事態を引用する。
生間流式法秘書 生間家歴代塁賦
父 正鄰死去セシニ付 正鄰ノ門人 空木和七郎ナルモノ 又市ノ弐ノ舞ヲナサント企テ 四條家へ入込ミ 自ラ生間ト名乗リ 京阪間ニ奔走セシト雖モ 数年ナラズシテ死ス

25代目の時代に、再び空木和七郎という門人が問題を起こしている。この空木和七郎も高橋又市と同様、四條家に入り込んだとしている。まったく同じ事態が起こっていることから構造的な問題は何ら解決されていなかったという事が理解できる。
この高橋又市と空木和七郎が時期を前後して共に、四條家にコンタクトを取り、造反したという所に実は深い訳があるのではないかと考えている。こうなると「宮」が四條家に確認を行ったということも効力が問われるし、そもそもこうした確認が行われたのか、あるいは、確認が行われたとして四條家が本当に「右等ノ事ハ毛頭 之ナシ」という返事が得られたどうかも疑わしく感じられてしまう。
ここまでは生間家の観点から、このお家騒動を見ているが、四條家の観点から、この事件を見ると、また利権が絡んだ深い内情が浮かび上がってくるに違いない。ではこの問題に関して、四條家はどのように述べているのかを次に明らかにしておきたい。
四條家の生間家に対する記述
先ほどは、生間家のサイドから一方的にお家騒動を見てきた。ここでは四條家のサイドから生間家をどのように見ていたのかを述べる。(四條流に関する詳細はこちらから)
四條家の文書として『御家元庖丁道御縁記』という由緒書きが残されている。この文書は宮内庁書陵部蔵『四條家庖丁道入門関係書』のなかにあるとされており、この現代語訳が『宮中のシェフ鶴をさばく』西村慎太郎著に記載されているので、ここで生間流に対する四條家の見方をうかがい知れる。
御家元庖丁道御縁記
代々、高名な庖丁名人があり、数えられない。世間には小笠原流庖丁道があって、中興の名人、細川兵部大輔藤孝は当御殿の御家伝を受けて、その後、小笠原家へ譲り、天正年中(1578年〜1593年)に上原豊前守・岡本信濃守、慶長年中(1596年〜1615年)に園部和泉守・高橋五左衛門などが当御殿に従ってその流法を守り、御免許を授けられた。宝永年中(1704年〜1710年)に岡本三左衛門重憲が岡本流を興した。福田左兵衛清春は福田流を開基した。そのほか、伊勢流、武田流、吉良流、曽我流というけども、みな当御殿の末流である。現在、生間流とあるものは二十六代隆重卿御門人だったが、流法に背いたため、破門させられた。

このように四條流の『御家元庖丁道御縁記』には、各流派の情報が記されており、すべての流派の祖には四條流があると説明している。
ただこの記録には衝撃的な一文がある。そこには「現在、生間流とあるものは二十六代隆重卿御門人だったが、流法に背いたため、破門させられた」とある。これに関して一言意見を言わせて頂くと「生間家の話と、全然、違うじゃねーか!」である。また同時にこれが昔から残されている歴史ある家系の私文を読んでいて、面白くてワクワクする部分でもある。私にとって、こうした記述は、FRIDAYや週刊文春の下世話な芸能記事を読んでいる感すらある。
『生間流式法秘書』では当然ながら生間家サイドのみの意見しか記されていない。生間家の兼長が四條隆重に師事していたこと、さらには四條家から分派したという流言に対して、生間家の主人である宮家が1791年2月に四條家に直接、この問題の真偽を問い合わせた際に、四條家から出てきた回答は「このような事実は全くない」というものであった。
しかし、この四條流サイドから書かれた『御家元庖丁道御縁記』では驚くことに「生間流は四條隆重が破門した」である。両家の意見はまるで逆である。ではなぜこのような事が起こったのか、分析する事としたみたい。
註釈
ちなみにこの時期(1791年2月)生間流が仕えてきた桂宮家は空位であった。さらに『御家元庖丁道御縁記』の中では「宮」としか記されておらず、誰が四條家への確認を問い合わせを行ったかが示されていない。
生間派は豊臣秀吉の命により陽光院皇子八篠に仕え、以来、八条宮家 - 京極宮家 - 桂宮家とこの系統の宮家に仕えてきた。しかし京極宮公仁親王きょうごくのみや きんひとしんのうが明和7年(1770年)に亡くなる。次の桂宮盛仁親王かつらのみや たけひとしんのうが文化7年(1810年)に京極宮を継承するが、その間40年は空位であり1791年2月はその期間中にあたる。ではどの宮家が四條家に確認を行ったのだろうか?
現代の生間派の継承者である「萬亀樓」からの情報によると、有栖川宮家にも仕えたとある。1791年に有栖川宮家の当主は6代目の有栖川宮織仁親王ありすがわのみやおりひとしんのうであり、この空位の時期に有栖川宮家に仕えていたとすると、四條家に対する問い合わせを行ったのはこの人物であったのではないかと考えられる。(本来であれば長年仕えてきた八條桂宮家が、四條家に問い合わせたのであれば、もっと価値が高まったに違いないと思われる)
この明確にされていない「宮」による確認が、私には意図的にぼかされているように感じる。詳しい分析はまた別の機会に譲る事としたい。
四條隆重(しじょうたかしげ)という人物
『御家元庖丁道御縁記』で生間流を破門したとされる四條家の26代目にあたる四條隆重とは一体どのような人物だったのか。『尊卑文脈』によると隆重の生没年は1507年〜1539年である。この時代の日本は正に戦後時代であり、公家の立場も不安定で安泰とは言えない状況にあった。
こうした中、四條隆重は1536年に31歳で駿河の今川義元いまがわよしもとのもとに下向する。この理由は明らかになっていないが戦国乱世による収入激減のため、戦国大名を頼ったものと考えられる。しかし翌年、父の隆永たかながが死去したため、5月に急いで上洛する。しかし都にもどると狂気に陥り出仕できなくなり、1539年11月19日に死亡する。
西村慎太郎は『宮中のシェフ、鶴をさばく』の中で、四條隆重に関して「弱々しい公家が戦国大名を頼って逃れて来て、父親が亡くなってしまったことで、無常観や社会への不安に耐えかね、精神錯乱に陥ってしまったという哀れなイメージが想起されるかもしれない」と述べているが、私も同様のイメージを四條隆重には感じる。
またこの当時、四條隆重が伝授したという『武家調味故実』が残されているが、なぜこの書物の制作に関与し、またなぜ隆重が駿河に下向したかについて西村慎太郎は以下の様に分析している。その部分を同書『宮中のシェフ、鶴をさばく』の中から引用する。
宮中のシェフ、鶴をさばく
四條隆重は先祖の技である庖丁を生かして、各地で営業を展開しようとする。そのためには伝授する秘伝が不可欠であり、『武家調味故実』の原型を作り上げる(そこには本物の庖丁人とのタッグが必要であろう)。秘伝と由緒を創出して、いざ、駿河国へ下向。乱世を「庖丁一本」で渡り歩こうとした。『武家調味故実』が伝来していることから、隆重の思惑は成功したといえよう。ただし、隆重の狂気と急逝によって、若干九歳で四條家を相続した隆益たかますやその養子の隆昌たかまさは「庖丁一本」で生き抜くことはしなかった。その理由は判然とはしないものの、大名領国への下向は多くの危険を伴うことも原因であろうが、やはり家職として意識化されるほどではなかったためであろう。

このように述べて、四條隆重の行動を推測している。西村慎太郎は四條隆重の行おうとしていた事は「家職としての庖丁道、創出と再発見」であるとしている。つまり過去に庖丁で技をもっていた4代目の四條隆成のような祖先がおり(隆成の庖丁の事績は『古今著聞集』六二六段に記されている)こうした記録を見ると、庖丁で身を立てていた先祖が確かに過去にいたという意識が、四條家には代々あったはずであると説明している。
さらに次のようにも述べている。
宮中のシェフ、鶴をさばく
技に対する認識が継承され、秘伝を作り、文書化され、相伝されたものが家職である。しかし、四條家の場合、家職になっているようには思えない(少なくとも、そのような資料は皆無である)。おそらく、鎌倉・室町時代の四條家は大臣を輩出するほどの最高級の貴族であり、技を伝えて身を立てていたわけではなく、あくまで「最も古い時期の祖先が持っていた技」という意識に過ぎなかったものと思われる。しかし自己の存在が脅かされ、何とかして生き抜こうとする時、先祖の技という伝説が役立つなら、使わない手はあるまい。戦国時代真っ只中の四條隆重はそんな状況下にいた。

このように述べて四條隆重の行おうとしていた事は「家職としての庖丁道、創出と再発見」であるとしている。
さてここで、当初の疑問に立ち返ってみたい。つまり「四條隆重が生間流を破門したのは事実かどうか」という問題である。もしそれが事実があるとするならば、これまで積極的に庖丁の技に携わってこなかった四條家が、突然、四條隆重の代になって、庖丁で身を立てようとし始めた事と、この破門の原因に何らかの因果関係があると考えられないだろうか。
その原因として『武家調味故実』の成立が、深く関係しているのではないかと私は考えてる。そもそも『武家調味故実』は、割く事、つまり庖丁使いの技についてだけでなく調味の仕方についても語られている書である。後で引用するが、四條流の秘伝の中には庖丁人と料理人は異なると説明している。つまり庖丁式で鯉や鶴をさばいて見せるのが身分の高い公家などであり、それらが庖丁人であって料理人はそれに含まれないとしてある。そして料理人とは、庖丁人に従い、文字通り調理を行う者たちであるというような事が記されている。
そなると四條隆重が『武家調味故実』を記すことには矛盾が生じることになる。つまり割くこと、切ることにおいては何らかの庖丁人としての秘伝を四條家は有していたかもしれないが、調味に関しては全くの素人であったに違いないからである。それだけでない。四條隆重が庖丁の事で身を立てようとしたのは、乱世を生き抜くため過去の先祖の歴史に乗っかっただけの処世術でしかなかった事は先に明らかにした通りである。そうであるならば一層、『武家調味故実』を記すことなど四條隆重には出来るはずもなかったに違いなく、この記述の作成に当たっては、料理人の誰かが介在していることは間違いないのである。
そこで考えられるのが生間流との関係である。『武家調味故実』の成立の過程において、生間流は四條隆重と何らかの関係を持ち、それ故に、『武家調味故実』が出来上がったと私は考えている。そうなると生間流が、四條隆重に破門されたと考えられる理由は以下の2パターンのどちらかであろう。
1  『武家調味故実』の作成に関与することを断り破門。
2  『武家調味故実』に関与したが、それが原因で四條隆重とトラブルになり破門。
実際はどうだったかは不明であるが、2を前提として破門の原因を推測する事としてみたい。
まず四條家は庖丁人の家系である。つまり庖丁人とは、高橋家や大隅家そして四條家のような庖丁式を執り行う歴史と伝統のある家系に属する者によって占められていた。一方の生間家は、この当時は料理人としての位置づけでしかなく、実際に厨房で料理を作るだけの者であったと考えられる。
もちろん鯉や鶴を使っての式庖丁は行っていない。しかし10代目、兼隆の時代に足利義満の前で鮟鱇釣庖丁を披露したということが記されている。また四條隆重の門人であり、破門されたと考えられる16代目の生間兼長も天正16年に秀吉の前で鮟鱇釣庖丁を披露したとされ、その息子の17代目の兼秀も慶長2年に八條宮智仁親王の前で鮟鱇釣庖丁を披露している。
ここで気になるのは、鮟鱇釣庖丁ばかりを披露しているところである。本来ならば、庖丁式では三鳥五魚と言って 鳥は鶴・雉・雁、そして魚は鯉・鱸・真鰹・鯛・鮒だけが使われることになっている。しかも魚は鯉が最上とされており、一般的に庖丁式では鯉が用いられるのが通常である。しかし、初期の生間家では、鯉の庖丁式ではなく、何度となく鮟鱇釣庖丁の披露を行っているだけなのである。
私は、ここに庖丁における家の格式が出ているのではないかと考えている。つまり生間家は鯉の庖丁式を行わなかったのではなく、行えなかったのではないか。
鮟鱇は非常にグロテスクな外見の魚である。しかも深海魚で骨がないのでブヨブヨしているため、俎板にあげることが出来ないの為に、吊るして口から水を大量に注ぎ込んで安定させてから、吊るし切りにするのである。
この当時、上流階級の食卓には鰯でさえ「いわし」という名前が「卑いやし」に通じるとして敬遠された時代である。鮟鱇釣庖丁はどちらかというと、怖いもの見たさ的なイカモノ料理、あるいは奇妙な見世物的な要素だけが強かったと考えられる。
一方、鯉や鶴の庖丁式は神事として行われ奉納されたり、天皇の前でお祝いの席で行われる技術であった。こうした対比を考えると、庖丁人である四條家と、料理人でしかない生間家の格式には歴然とした開きがあったことは間違いない。いわゆる庖丁式という公的な庖丁の見せ場は、庖丁人と呼ばれる格式の高い家系には許されていたが、単なる料理人でしかない生間家には許されていなかったと推測される。こうした格式の開きのゆえに、鯉や鶴で庖丁の技を披露することが出来なかった彼らが、唯一行うことが出来たのが、下等な魚類とされている鮟鱇を使った釣庖丁だったのではないか。
しかしながら生間家は実際の料理においては、高い技術を有していたであろうことは間違いない。なぜなら時の権力者に代々仕えては、度々、重要な宴席の料理を担当してその都度、褒美を頂いているからである。格式は無いものの料理おける間違いのない技術を有していたと言えるだろう。
四條隆重は、料理に関して、特に調味の事にも触れた『武家調味故実』なる料理書を作り、戦乱の世における収入の立て直しを決めると、まずは生間家を含む料理人に声をかけて協力を要請した可能性が非常に高いと思われる。四條隆重が生間流の秘伝の公開を迫ったか、あるいは勝手に秘伝とされているような情報の一部を勝手に公開してしまい、生間家とゴタゴタがあったかもしれない。もっと酷いことを推測すると、生間家の料理に関する情報を、そっくりそのまま四條家に取り込もうとしたとも考えられなくもない。
この時、四條隆重は必死であったはずである。今まで料理に関してはズブのド素人であるにも関わらず収入激減の為に、背に腹は代えられない状況であったのかもしれない。何とかして見出した家職としての庖丁を、駿河に下向してまで、何としても収入源としなければならなかったのである。四條隆重はその後、狂気に陥ったとあるので、メンタルが弱いタイプの人物であったのかもしれない。このように、当時から何らかの切迫した状況に追い込まれていて、庖丁に関する知識を手段を選ばずに、ものにしなければならない立場に置かれていたのかもしれない。
こうした一連の流れのなかで、何らかのトラブルが起こり、破門という結果に至ったのかもしれない。  
 
上野国上州利根郡奈良村

 

伊奈良村 / 群馬県の南東部、邑楽郡に属していた村。万葉集の東歌の一「上つ毛野伊奈良の沼の大藺草」の伊奈良沼はここに有った伊奈良沼の事。1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、岩田村、板倉村、籾谷村、内蔵新田が合併し伊奈良村が成立する。1955年(昭和30年)2月1日 西谷田村、海老瀬村、大箇野村と合併し板倉町となる。
・・・
1639年〜1656年 / 真田内記信政第4代沼田藩主(内記、大内記)。沼田城下の区画整理・4か村堰(1653年4月完成で、通称伊賀堀とも言うがこれは間違い)などの土木事業を行う。月夜野町もこの時に新たに出来た。(1639年信利5才が移り住んだ小川城跡の新居がある下小川村に後関村・真庭村・政所村を合わせて信利のために信之の意向を入れて作ったという)。この頃「筑地の内の・・某・・伊豆守様の御目掛けに成る。此腹に信州の右衛門様ご誕生。・・・」と名苗顕然記にある(幸道の母は高橋氏ゆえ、幸道の間違いでは無く信之の子道鏡(1642年12月生まれ)と思われる)。
1643年 / 寛永の検地。第4代沼田藩主の真田信政が沼田領を検地し、4万2千石。
1653年 / 下総国佐倉の木内惣五郎が上野寛永寺に参拝の途中の第4代将軍家綱に駕籠直訴、夫婦磔刑、子供4人死罪。
1656年 / 5月信之が幕府に隠居を願い出る。信利(幼名は喜内・兵吉、1647年14才で元服伊賀守信澄、沼田城主となり信利(信俊ともいう)、1673年9月延宝と改元に合わせて信直、と改名した。信吉側室依田氏娘お通の子)が沼田藩主となる。1656年信之隠居のために信政が3万石沼田藩主から10万石松代藩第2代藩主になる、この時沼田藩はまだ松代藩の分地であった。
1656〜1680年真田伊賀守信利が第5代城主。
1662年〜1680年同城主の悪政。
1657年 / 真田信之(剃髪して一当斎と号す、川中島殿)が川中島柴に隠居して信政が7月松代城主として入城。9月25日には信利が小川の館から沼田城に入城。しかし松代城主信政はわずか在城7ヶ月で翌2月に逝去。この頃奈良村で今村助兵衛と石田茂左衛門・桑原杢右衛門との間で公事あり眞田信之の仲裁による裁断があった。
1658年 / 2月5日信政死去で幸道派・信利派の家督騒動が幕府を巻き込んで表面化したため、まだ存命(92才)の信之の裁定で信政の子2才の信房(のちに幸道、右衛門佐幸道と改名、信政側室高橋氏娘の子)を第3代松代藩主とした。信利が起こした家督騒動は信之の迅速な行動で予定通り幕府裁定にて決定。かつ沼田藩はそれまでの真田藩分地から独立立藩となった(信之の迅速な対応が無かったら真田氏は滅亡していたとも言われる。相続争いに破れた信利は松代を見返してやろうとの心が芽生えて無理が始まる)。
10月真田信之93才で大往生(川中島柴に隠居してわずか2年、信政逝去して8ヶ月)。後継争いに敗れた伊賀守信利は松代藩10万石に対抗して沼田藩3万石を増やそうと信利の無理が始まる。父信吉が1627年行った検地では沼田領3万石(利根郡1.8万石+吾妻郡1.1万石+勢多郡7百石)、叔父信政が1643年行った検地では4万2千石であったが、信利が1662年春〜1年半で行った検地では14万石、改易後の見直しで1684年〜2年半かけて行った貞享検地では6万石であった。
1660年 / 藩財政が厳しい中信之の遺金八万両返還申し入れを担当させられた城代家老の根津宮内が失敗を責められて失脚(その後も尾を引き1664年幕府評定所が公事に訴えるとは不届きなりと沼田藩が裁定された)。
もともと沼田藩は信州勢と元北条麾下の沼田勢が拮抗していたが信政が松代へ引き連れて行ってしまったためそのバランスが崩れ、主人に諌言する信之以来の主人思いの重臣を遠ざけて次々に失脚追放・知行召し上げを行い、甘言する家臣を取り立てた信利が自らの身を滅ぼすことになって行く。
1661年 / 奈良村の石田勘解由長男外記・四男源右衛門、繻エ左近大夫長男内蔵助共に同年没。
この年吾妻郡伊勢町の名主青柳源右衛門の倅六郎兵衛が伊賀守に重大な献策をしたという(当領の田畑反歩なく永銭にて石高を記す儀無明に御座候、田畑反別に改め、分米を以て石高記し度く願い奉る)。新たに検地をして永銭で納めていた年貢を米で納めるようにしたいと言う意味で、伊賀守は喜んでこの増税策を採用したという。この後各地で貫文制から急速に石高制に変わっていく。 
 
絵島事件

 

・・・ところで正室熙子はどうであったろう。家継の将軍位就任に賛成したか。形としては家継の母親である。が、家継の父の家宣が次期将軍案としてあのようなことを考えていたことから、反対はしないが危惧するところがあるとは述べたであろう。だが、本当のところは尾張を積極的に押したかったと思う。 
というのは、家継が将軍位就任して2ヵ月後に尾張藩主徳川吉通が薨去するのである。吉通は夕食時に血を吐き悶え苦しんで絶命したという。明らかな毒殺だった。あまりに明白すぎる毒殺からして、プロの手によるものとは思われない。藩主吉通の3歳違いの弟継友の側近の者か奥向き女中の仕業であろう。その者は家宣正室熙子の影響下にあったと推測する。 
近衛家は五摂家筆頭の家である。近衛家の娘が将軍の正室となったのは熙子が初めてだった。御三家や有力大名の正室は宮家や公卿の娘がほとんどで、彼女らは実家の侍女を連れて遠く江戸へ下ってきている。従って江戸では公家出身の女中たちのネットワークが自然発生的に出来上がっていたことであろう。このネットワークの頂点にいたのは当代では熙子であったろうから、熙子付きの奥女中の気配りが過ぎて先走ったことをすれば、その奥女中の指示は熙子からの命令と早とちりする輩もおり、さらなる先走りを生む。こうした連鎖の中で毒殺は行なわれたものと思う。 
吉通の死から3ヵ月して子の五郎太が死ぬ。新たに尾張藩主となるのが、毒殺された吉通と3歳違う継友である。継友は近衛基熙の子家熙の娘と婚約中であった。後に輿入れするから、尾張継友は近衛基熙にとって孫となり、正室熙子には甥にあたる。すでに朝廷では近衛家は第一の実力を持ち、尾張継友が将軍となれば将軍家と2代続きの外戚となり、公家のみならず武家社会においても隠然たる力を発揮できることになる。近衛家の野望、これにて成就す、という次第である。 
しかし、そう巧くはいかなかった。紀伊吉宗の隠密が尾張藩邸に潜入していた。断定してしまったが、おそらく間違いないと思う。後のことであるが、紀伊吉宗が将軍に就任する正徳6年5月に、尾張藩邸や水戸藩邸に薬売りに変装した町人姿の紀伊藩の隠密が出没していたとの記事が、尾張藩士朝日重章(しげあき)が書いた、「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)に載っている。なぜ紀伊藩の隠密と判ったかといえば、尾張藩側にその隠密の顔見知りがいて、声を掛けると逃げたというからである。わざとらしいから陽動作戦で、尾張藩邸を内偵している潜入する内通者を隠すための演技だったと思われる。 
内偵者は忍びの者であろう。数年前に潜入している公算が強い。こちらはプロである。このプロは素人が吉通を毒殺する仕掛けを見ていた、そしてこの素人が正室熙子につながることも判っていた、と推測する。 
なぜそう推測するか。家継が死に次の将軍を誰にするか、候補者4人が選ばれるのだが、その候補者を挙げると尾張継友、水戸綱條(つなえだ)、家宣の弟で館林藩主松平清武、そして紀伊吉宗。この中で血が濃い者、つまり家康から代数を経ていない者は家康3代の水戸綱條(61歳)と、同じく家康3代の紀伊吉宗(33歳)、次に血が濃いのは家康4代の松平清武(54歳)、次が同じく家康4代の尾張継友(25歳)。 
年齢と家格から尾張継友と紀伊吉宗の二人に絞られる。血の濃さと政策手腕では紀伊吉宗だが、若さと家格では尾張継友である。また、血の濃さといっても尾張は2代光友の正室が家光の娘千代姫で、千代姫が産んだ綱誠(つななり)が3代藩主となっており、血の濃さでは吉宗、継友に大差はないといえる。
こうして次期将軍が吉宗、継友の二人に絞られた時、なんと家宣正室熙子が家宣の遺言があるといったのである。紀伊吉宗を後継にという遺言があったというのである。吉宗と熙子の間に何らかの取引があったとしか思えないのだ。熙子に弱みがあり、吉宗がそれを衝きながらも、10年後に将軍位を継友へ譲位するというような脅しと甘言を巧く使った取引が存在したのでは、と怪しむのである。  
ここで振り出しの絵島事件に戻ろう。 
吉宗が生まれたのは貞享元年(1684)である。絵島事件は正徳4年(1714)に起きている。吉宗の年齢は数えで31歳、満で30歳である。30歳を迎える女性の気持ちは判らぬが、男の気持ちは判る。これまで積み重ねてきたことを想い廻らし、30代をどのような実のあるものにするか。吉宗も想い廻らしたであろう。紀伊藩の藩政改革は軌道に乗り、黒字になりつつある。一方幕府の財政を見ると、赤字である。原因は4代家綱の時世から金山・銀山からの産出量が減少してきたことにある。荻原重秀が金銀貨の質を落として出目(差額利益)を出して凌いできた。いまは金銀貨の質を元へ戻した結果、デフレになっている。自分が将軍になれば違った方策で・・・と考えても不思議ではない。 
 
キリスト教禁止の前哨戦(江戸初期)  

 

徳川家康は、当初、キリスト教の布教を黙認しました。家康は貿易の実利は求めましたが、キリスト教には一貫して無関心でした。オランダ船リーフデ号の漂着によりイギリス人航海士ウィリイアム・アダムス(三浦按針)を家臣として最新の欧州事情情報を得ていました。スペイン、ポルトガルの旧強国と新興国のイギリス、オランダが八十年戦争を行い新興国側が勝利し、ポルトガルは斜陽にあることを知っていました。このウィリアム・アダムスはイギリス兵として参戦した実践の経験者であり、詳細な西洋事情に通じていました。
1612年、岡本大八が引き起こした大名・有馬晴信を巻き込む疑獄事件の双方がキリシタンであったことから危険視され、これを契機として、1613年、諸大名や幕臣へのキリスト教の禁止が通達されました。このとき、家康の旗本・原主水が改易処分になっています。
翌1613年には家康側近の「黒衣の宰相」金地院崇伝の手による「排吉支丹文」により、キリスト教禁止の明文化がなされ全国で迫害が頻発しました。1619年京都で52名、1622年長崎で55名、1623年江戸で55名の殉教が知られています。これらより、250年のキリスト教迫害の歴史が刻まれることになりました。
「黒衣の宰相」とは:家康の政治顧問僧です。政治参謀の役割をしました。
「崇伝(本光円照国師)」は室町幕府の有力大名一色家の出身です。
京都五山(1天龍寺2相国寺3建仁寺4東福寺5万寿寺)の上の別格・南禅寺の塔頭・金地院の住職(駿府と江戸にも金地院を創建)を勤め、建長寺と南禅寺の住職を歴任して37歳で臨済宗の頂点に立った高僧です。
家康の下で西笑承兌(相国寺中興の祖、南禅寺住職、秀吉・家康の外交担当僧)に代わり外交顧問を務め、また、朝廷との交渉や寺社行政に関わり「キリスト教の禁止」「寺院制度(寺請制度・寺檀制度)」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」の制定に深く関わりました。
豊臣家との大阪の役の発端となる「方広寺鐘銘事件」で「国家安康」「君臣豊楽」の文句が「徳川家康を二つに切る呪詛で徳川の滅亡と豊臣の繁栄を祈ること」であり、許し難いことであると難癖をつけて強引に開戦の理由にしたのは崇伝と天海の共同謀議であるといわれています。
大阪夏の陣で真田幸村の軍に攻められ自刃を口ばしった家康を止めたのは崇伝であるともいわれています。
ライバルの沢庵宗彰(大徳寺住職・普光国師)が崇伝を天魔外道と評した「紫衣事件」で後水尾天皇の勅許を撤回させたことにより、天皇が退位するという事態を引き起こしました。世間の評価は悪く「大欲山気根院潜山悪国師」と評しています。
なを、京都五山は足利将軍が定めた制度ですが、寺院の格式や上下関係を表すものではありません。例えば、同じ臨済宗の大徳寺や妙心寺は南禅寺に匹敵する本山格を持つ有名な伝統寺院です。
「天海(慈眼大師)」は出自が不明で諸説の取りざたがある不思議な人物です。
川越の喜多院の住職を務め、家康の下で朝廷との交渉役に携わりました。
比叡山探題執行として南光坊に住し、比叡山の再興に尽力しました。
日光輪王寺や東叡山寛永寺を建立して天台宗の総本山とし、天台宗大僧正となりました。
家康の死後、その諡号に「明神」(吉田神道)を推す崇伝と「権現」(山王一実神道)を推す天海の争いとなり、「大権現」が三代将軍家光に採用されました。
崇伝はこれ以降勢力を失っていきます。
天海は「日光の大造替」で東照宮を荘厳して功績を挙げて信頼を得ています。
徳川が滅びた明治になって比叡山は再び総本山となりました。
崇伝も天海も絶大な権力者・徳川三代(家康・秀忠・家光)に深く密着し、徳川家のための支配体制の構築に積極的に関わりすぎました。この制度は露骨な権力基盤の強化策に過ぎず、僧侶が提案する政策ではない、との批判があります。
江戸時代は日本史に前例のない特殊構造の封建社会を強固に構築にしました。
しかも、徳川家の支配権を確立するための異常な政策であるとして、これを評価しない有識者が多くいます。
崇伝と天海は、権力に極端に媚び諂い過ぎた、との批判があります。人々が僧侶に期待する「あるべき姿」とあまりにもかけ離れすぎていて、評価に値しないと考える人々は少なくありません。
岡本大八事件は謀略の匂いがする奇異な事件です。1609年2月、ポルトガル領マカオで有馬晴信の朱印船の水夫が酒場で些細なことからポルトガル船マードレ・デ・デウス号の水夫と乱闘し晴信の水夫60名が殺害され積荷を奪われる事件が発生しました。これを激怒した晴信は報復すべく家康に許可を願い出ました。晴信の報復の許可願いは、これを放置すれば日本国の権威が傷つくと判断した家康に聞き届けられました。1609年12月長崎でマードレ・デ・デウス号を発見した晴信はこれを三日間の包囲攻撃(船長と乗組員は逃亡)により沈没させました。このとき、目付役として同行した者が家康の側近・本多正純の与力であった岡本大八と長崎奉行の長谷川藤広でした。
この報告は、大八を通じて正純の手から家康に伝わり、晴信は家康から激賞を受けました。大八と晴信はともにキリシタンであったので、晴信は大八を饗応したのですが、このとき、大八が晴信に「今は鍋島領になっている旧有馬領の藤津・杵島・彼杵の三郡を恩賞として晴信に与えようと考えているらしい」と虚偽の甘言を弄したとされています。そこで、晴信は、これを実現するために、家康に働きかける運動資金として、金品の提供を正純にすべく大八に渡したのですが、このすべてを大八は自分の懐に入れたばかりか、家康の朱印状を偽造して晴信に渡し、更に6000両の大金を旧領回復の運動資金として詐取したというのです。
1611年の末に至り、待てど暮らせど恩賞の沙汰がなく不信に思った晴信は直接に本多正純に面会し催促しました。正純は驚愕して大八を詰問しましたが大八はシラを切り続けるばかりです。晴信の嫡男・直純の妾が家康の養女・国姫(桑名藩主・本多忠政の娘、家康の長男・松平信康の孫)であるところから家康に申し出て採決を仰ぎました。駿府町奉行の調査により大八は逮捕され極刑を免れなくなりましたが、大八は晴信を一蓮托生の道ずれにするために、晴信が長崎奉行長谷川藤広(家康の愛妾・於奈津の兄)の暗殺を企てたと訴えました。藤広がポルトガル船の包囲攻撃が三日もかかり手ぬるいと批判されたことを根に持った晴信が「ポルトガル船撃沈の次は藤広を海の藻屑にしてやる」と口走ったということでした。
晴信は身の潔白の陳述に努めましたが、度重なる尋問に遂にこれを認める供述をしてしましました。その結果、大八は火刑、晴信は領地(島原藩・4万石、実質石高は半分程度)没収・甲斐に流罪のうえ切腹に処されました。しかし、幕府は晴信の嫡男・直純(15才より駿府城で家康の側近として仕えた)に対し家督と所領の相続を許して、厳しいキリシタンの取り締まりを命じています。この2年後、直純は領民に対する迫害に嫌気がさしたのか幕府に転封と願い出て許され、1614年日向延岡(5万3000石)に加増されて転封になります。これに替わって大和・五条から入国した板倉重政が過酷な年貢の取り立てやキリシタン弾圧を行い島原の乱(1637年)を誘発する原因を作ることになります。当時、島原は晴信の庇護によりキリシタンが多い地域として有名でした。
島原の過酷な「年貢の取り立て」と「キリシタン弾圧」
島原藩は公称4万石ですが、実際の石高は3万石に満たない上げ底の藩でした。
適正な年貢の取り立てでは石高の半分あるかないかです。石高に見合う年貢を取ろうとすると、過酷な取り立てにならざるをえません。
領民を従わせるには残酷な刑罰が考えられます。同時に、キリシタンの弾圧をも行えば、残忍な拷問や処刑に行き着きます。これには、当時の強い反カトリックのオランダ人も辟易しています。
「蓑踊り」は素肌に蓑を着させて火をつける刑ですが、もがき苦しむ様が踊りのように見えることから名ずけられました。
数十年以前に、島原城内の残酷なキリシタン刑罰の数々を再現した展示物を見ましたが、あまりの残虐性に驚き、これは人間のする行為ではない、と思いました。
この事件の顛末は奇異です。岡本大八は莫大な資金を何に使ったのでしょうか。詐欺は収賄の真実は金銭の使途が明白にならないかぎり事件は解決したとは言えません。ましてや謀略の仕事師として定評のある絶対的な権力者・家康とその重臣にして懐刀といわれ吏務と交渉に辣腕を振るった正純(その父は家康の側近の謀略家で重臣の本多正信)が裁定した事件です。岡本大八にこの絶対権力者の名前を騙る意思や、大名を相手に詐欺を仕掛ける度胸があるでしょうか。
もしこれが事実なら、初めから死を覚悟の上で行った犯罪ということになり、無残な結末は目に見えています。事実、この後、正純が裏で糸を引いたのではないかとの風評が流れ、正純は幕閣で孤立して行くことになります。
ともあれ、この事件を契機にしてキリスト教の禁止政策が強化され、キリスト教徒に対する弾圧が各地で頻発することになります。とりわけ、島原地方はその重点施策のターゲットになっていくことは事実です。
プロテスタント国家のオランダが「キリスト教の布教がない貿易も可能」との意向を示したので、宣教師やキリスト教を保護する理由がないことから、幕府はキリスト教禁止のシナリオを具体化させる方針を固めることになります。
1637年残酷な税の取り立てを発端とする「島原の乱」が勃発し、幕府は強い衝撃を受けましたが、これを契機として、乱の終息後、1639年に再度の「寛永の鎖国令」を布告しました。
ポルトガル船は来航禁止となり、オランダ商館も長崎の出島に制限されました。そして「宗門改め制度」や「寺檀制度」の完成とともにキリスト教は禁止されました。
「島原の乱」の衝撃と岡本大八事件は、大名のキリスト教離れを決定的にする政策に利用されたものと考えられます。
後日談があります。幕府が諸外国と結んだ「不平等条約の改正(関税自主権、治外法権)」が明治政府の重い外交課題になりました。
諸国との外交・交渉が遅々として進まない理由の一つに「キリスト教の禁止」が取り沙汰されました。
ヨーロッパでは日本における教会の発展と受難の物語が語り継がれ、多くの人々が日本への再布教の日が来ることを待ち続けた、ということです。
キリスト教徒禁止令が解かれたのは1873年(明治16)のことでした。 
 
綾衣外記

 

天明5年(1785)8月13日に前代未聞の心中事件が起こり世上で大評判になった。それは大身旗本藤枝外記と新吉原大菱屋抱え遊女綾衣の心中であり、後に「君と寝やろか、五千石とろか、何の五千石、君と寝よ」と云う俗謡までが生まれた事件である。この事件は新歌舞伎狂言「箕輪心中」として劇化されている。
この主人公である藤技家は、下世話で云う「女の尻にて家を立てた」典型的な蛍旗本であるが、数多くある蛍旗本の内でも「女の尻にて家を潰した」珍しい家である。この家の初代は弥市郎と云う京都の町人であった。娘お夏が五摂家の鷹司家に仕えていたが、鷹司政信の姫が家光御台所として下向した際に侍女として従い、大奥に入った。やがて家光のお手付きとなり男子(家重)を生んだ。これにより親弥市郎は旗本として召し出され、藤技の家名と三百石の知行を与えられた。家重が長じ甲府家を立てるや、家老として付けられ、三千石を賜った。この家重の嫡子綱豊が、綱吉の後を襲い六代家宣となると将軍家縁戚の家として一千石加増され四千石の大身旗本となった。
六代目までは何事もなく世襲されてきたが、六代目に子供無く、旗本徳山貞明の四男を養子に迎え、旗本山田肥前守利意の娘お光と婚姻させた。この養子外記は生来の放蕩者であったが、生家では厄介介者の部屋住であったので遊び金にも苦慮していた。ところが一躍大身旗本の当主となり、金残に不自由ない身となるや、吉原に入り浸り放蕩の限りを尽くしていた。この放蕩が幕府に知られ厳罰に処されるのを避けるため、親戚一同により座敷牢に監禁された。しかし、甘言にて妻を騙して座敷牢を抜け出した外記は、吉原に赴き馴染の綾衣と心中をしてしまう。
家名大事な藤枝家の姑は、病死と偽り幕府に届けたが、人の口には扉を立てられず外記の遜女との心中は何時しか世上に流れ、幕府の知るところとなった。幕府の手により墓所が暴かれ死体検案の末、病死でないことが判明し、虚偽の申請不届きとされお家断絶の処分を受けた。世の人は四千石の大身であり、‥綾衣に心中する位い惚れていたなら、身請けをして妾として処遇すれば、家を潰さなくてもよかったのにと云い、上記の俗謡が唄われるようになったと云う。
藤枝外記に関係する邦楽は新内節「藤かづら」本名題[藤蔓恋の柵]別称「早衣喜之助」で、初代鶴賀新内が事件直後に作った曲である。 
 
局外中立要請と中立解除要請  

 

徳川慶喜が大政奉還し、その後暫く朝廷から旧来通りの責務を与えられた時も、その後官軍が江戸に向かって進軍を開始し、大阪や兵庫、横浜を通過し各地域をその勢力下においてゆく過程でも、旧幕府と新政府は夫々頻繁に外国公使たちに書簡や通達を出している。こんな風に統制の取れたともいえる外国勢との情報交換は、いわゆる国を二分した内戦状況とは全く違って組織立った行動だった。それだけ外国の動静が、新政府とか旧幕府とかには無関係に、国家としての日本へ強い影響を持っていた証でもある。  
すでに前節の「8、大政奉還と新体制」の最後にも書いた通り、明治1年1月3日、旧幕府老中・板倉勝静(かつきよ)は英、米、仏など6カ国へ向け、薩摩の松平修理大夫を鎮定する武力行使を行うので局外中立を保ってもらいたい旨の通達を出した。またこの後形勢が逆転し旧幕府征討軍が組織されると、新政府外国事務総督・東久世通禧は1月21日、外国公使たちに通達を出し、局外中立を要請し各国公使も直ぐその旨の通達を自国民に出しているが、旧幕府と新政府の双方から中立要請が出されたのだ。旧幕府内には崩壊直前に一時フランスの甘言に乗り、資金援助や軍事援助を受けることを謀った小栗忠順(ただまさ)のような動きもあったが、大勢は双方とも外国に頼ることを潔しとせずに嫌い、国内問題への外国勢の影響力を嫌ったのだ。幕府と朝廷は共に日本の独立を重んじ、植民地化を嫌い、強い懸念を抱く共通の明白な倫理観があったとみてよいだろう。  
そして徳川慶喜は水戸で謹慎することになり、官軍は江戸城を解放したがしかし、まだ東北の鎮定が残っている。そこで佐賀藩は閏4月、横浜でアメリカ蒸気船を雇い、陸奥の松島に兵力の移送を図った。アメリカ船主は雇用されたかったようだがしかし、これを知ったアメリカ公使や海軍将官らが局外中立をたてに許可を出さず、佐賀藩が期待していた兵力移送が出来なくなった。これを知った新政府はあわてて局外中立の解除要請を出す羽目になっているが、各国公使から更に徳川慶喜が天皇の命を受け入れた証拠を見せて欲しいと要求され、徳川慶喜の恭順書写まで送ることになった。これは、外国公使としても新政府が真に日本を代表する政府かを確認する手続きだったが、新政府にとっても、国際公法を遵守する重要性を改めて認識する新しい経験だった。  
しかし現実面では、各国公使が徳川慶喜の恭順書写しを見ても直ぐに中立解除にはなっていない。この年の4月2日、幕府がアメリカに発注していた甲鉄軍艦・ストーンウォールが納入のため横浜に入港したが、アメリカのバン・バルケンバーグ公使は局外中立を理由にその引渡しを拒み、直ちに日本の現状と自分の決定を本国のスーワード国務長官に報告した。アメリカが日本から前金まで受け取ったストーンウォール売却の詳細を知る国務長官の最初の反応は、公使の判断は実際的ではないと不同意だったが、最終的に日本の現状から公使の決定を受け入れている。バン・バルケンバーグ公使の決定で、入港時に日本の国旗を掲揚していたストーンウォールはアメリカ国旗を掲揚しなおし、それ以来アメリカ軍艦として横浜に停泊していた。その頃東北にこもる旧幕府グループには、旧老中・板倉勝静や小笠原長行等も参加しこのストーンウォールを手に入れようと画策し始めた。新政府側は、岩倉具視まで乗り出しての度重なる交渉で、ようやく新政府の日本平定を認め中立が解除されたのは明治1年12月28日(1869年2月9日)になってからだった。
 
黒田騒動 倉八十太夫

 

前に書いたように家柄家老というのは藩主にとってもともと煙たいものだ。藩主の思い通りになるわけではないし、まして罷免や隠居などおいそれとはできない。ましてや大膳は一回りも年長であり、首席家老である。そうなると自分の思い通りになる仕置家老を置きたくなろのが自然で、忠之もそうした。まずは側近グループが形成される。側近グループというと聞こえはいいが、ようは忠之の我儘が何でも通る、追従者の集まりである。その中でも特に忠之の寵愛を受けたのが、倉八十太夫であった。十太夫の父を倉八長四郎といい、黒田家が中津から福岡に入る際に2百石で召抱えられた。十太夫は、はじめ忠之の小姓として上がったが、眉目秀麗であり忠之の男色の相手になった。
このころはまだ戦国の気配が色濃く残り、武士の世界も男色が流行していた。したがって十太夫が男色の相手を勤めるのは異常でもなんでもないが、忠之の傾倒ぶりは異常であった。十太夫が小姓になった頃、倉八家の加増を受けていて千5百石くらい得ていたといわれるが、十太夫が忠之の小姓になると加増に次ぐ加増を受け、最後には9千石にまでなったという。忠之が十太夫をいかに寵愛したかという話が、いくつか伝わっている。十太夫はやがて家老職になるのだが、十太夫が家老になった直後に大膳の父備後が死去した。栗山家には備後が如水から拝領した合子の兜と唐皮威の鎧があった。どちらも如水が着用したもので、如水が死去するときに「この兜と鎧を我と思って長政をよろしく頼む」と付言した由緒あるものであった。
忠之はこの兜と鎧を大膳に返せと言った。黒田家にとって由緒ある宝を備後なき今、他家で私蔵するのは忍びないという理由であった。大膳はおかしいとは思いつつも、忠之の言うことにも一理あるので、これを返した。すると忠之は兜と鎧を十太夫に下賜してしまった。十太夫も家老職にあり9千石の大身であるので、それなりの家宝も必要であるとの理由であった。これを聞いた大膳は激怒した。十太夫の屋敷に自ら乗り込み兜と鎧を奪い返して、本丸の宝物庫に入れてしまった。これだけのことをやるのに大膳は一言も忠之に断らず、事件を聞いて忠之は一言も大膳にこのことを持ち出さなかったという。嵐の前の静けさのようで不気味である。
ただ、十太夫というのは巷間では俗悪な奸臣として描かれているが、事実はそうではなかったらしく、この事件のときも大膳の剣幕に押されたとはいえ拝領した兜や鎧を返しているし、そのことを忠之に恨みがましく訴えた形跡もない。おそらく小姓上がりの小心な人物が思いがけなく出世し、精一杯肩肘を張って生きようしていた程度だろうし、忠之と大膳が自分を巡って対立していく構図に辟易していたに違いない。なお、この事件は俗説黒田騒動では長政の水牛の兜ということになっているが、事実は如水の兜と鎧であった。俗説ではことさら十太夫を悪玉にするために例えば大船鳳凰丸の建造も十太夫の甘言に忠之が乗せられたものとされている。
このころ幕府の許可なく大船を作ることは違法であった。それを敢えてしたというのであるが、このことは許可を受けていたともいうし、よしんば許可を得なかったとしても十太夫ごときの責任ではなく、首席家老たる大膳の責任である。ましてや大船の建造を首席家老が知らないはずはなく、のちに幕府が問題にしていないことから見ても、許可を得ての建造であったのであろう。ただ鳳凰丸というのは藩政には何の役にも立たず、完全に無駄使いであった。その罪を十太夫が着せられた可能性が高い。いずれにしても十太夫は必要以上に悪者にされているのは間違いなく、奢り高ぶったのは事実ではあるがそんなに悪い人物ではなかった。十太夫は騒動が結着して高野山に追放されるが、その後島原の乱の際には高野山を降り黒田家に陣借りしている。このことからも根っからの悪人ではないことがわかる。
黒田騒動
江戸初期、筑前福岡藩黒田家の御家騒動。藩主忠之と家老栗山大膳との確執から、寛永9年(1632)大膳は忠之に謀反心のあることを幕府に出訴。翌年、裁定があって黒田家は存続、大膳は陸奥盛岡藩南部家に預けられた。
 
千姫事件

 

元和元年(1615年)の大坂夏の陣による大坂城落城の際に、直盛は家康の依頼を受け(実際には家康は千姫を助けた者に千姫を与えると述べただけで直盛に依頼したわけではないとされる)、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を大坂城から救出した(実際には千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、とする説が有力)。直盛は火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたことで、千姫奪取計画を立てる事件を起こしたと言われている(ただし火傷に関しては俗説とする説も有力)。
この事件は秀頼死後、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然姫路新田藩主本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てたと言われる。
しかし、計画は幕府に露見した。幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否したため、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したとも伝わる。また、立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとも言われており、柳生家の家紋の柳生笠(二蓋笠)は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている。
一方、当時江戸に滞在していたイギリス商館長リチャード・コックスの日記によれば、
「1616年10月10日夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり。」とある。ともあれこの騒動の結果、大名の坂崎氏は断絶した(中村家などが子孫として続いている)。
関ヶ原の戦いに敗れ、改易された出羽横手城主小野寺義道は、津和野で直盛の庇護を受けていた。直盛の死後、13回忌に義道はその恩義に報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく「坂井出羽守」と書かれている。これは徳川家に「坂崎」の名をはばかったとされる(一説に一時、坂井(酒井)を名乗っていたとも言われる)。
藩政においては、側溝を多く作ったことによる蚊の大量発生に備えて、鯉の養殖を創始したと伝えられる。また、紙の原料であるコウゾの植樹を奨励するなど、のちの津和野藩に与えた影響は大きい。
直盛の性格は、直情的で愚直、偏執気質だった。宇和島藩主で縁戚にあたる富田信高が直盛の家臣を殺した宇喜多左門を匿っていたのを知ると引き渡しを求め、拒否されると武力衝突覚悟で一戦に及ぼうとしたり、引き渡しの一件を家康や秀忠に訴えてまで求めたりするなど、性格にかなりの執拗性が見られる。なお最終的に、幕府は直盛の訴えを受け、富田を改易に処した。
 
横田騒動 中村一忠

 

安土桃山時代から江戸時代前期の大名。伯耆米子藩主。中村一氏の子。徳川秀忠より偏諱を受け、忠一(ただかず)と改名した。
天正18年(1590年)、駿河駿府城主・中村一氏の子として誕生。
豊臣秀吉の死後、徳川派と反徳川派の中、豊臣家の三中老である父・一氏は、嫡子・一忠の将来と中村家の存続を願う家老・横田村詮の意見を聞き、駿府城下の村詮内膳屋敷で徳川家康と会談し、東軍方に加わることを決めた。しかし重い病にかかっていた一氏は、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年7月17日(1600年8月25日)に死去した。
関ヶ原の戦いの後の同年11月、先の会談を踏まえた家康は、11歳の一忠に伯耆一国を与え、米子17万5,000石に移封した。さらに一忠は伯耆守に任じられ国持大名とされた。また、幼少の一忠に叔父の横田村詮を後見役、執政家老として同行させた。
村詮は年少の一忠に替わって藩政に携わり、城下町米子の建設に辣腕を振るった。この村詮の手腕を妬み、出世を目論む一忠の側近・安井清一郎、天野宗杷らは村詮の排除を計画し、一忠に甘言を弄して惑わせた。慶長8年11月14日(1603年12月16日)、一忠は正室浄明院との慶事に託けて責めを負わせて村詮を誅殺した。村詮の子・主馬助、柳生宗章らは飯山に立て篭もったが、一忠は隣国出雲松江藩主・堀尾吉晴の助勢を求め、これを鎮圧した。
後日事件の報告を受けた家康は、自ら任じた村詮の殺害に激怒し、江戸幕府は首謀者の安井、天野を吟味も無く即刻切腹に処した。また、側近の道上長兵衛、道上長衛門にも事件を阻止出来なかった理由により江戸において切腹に処した。一忠には品川宿止めの謹慎に収めお構いなしとした。
慶長13年(1608年)には家康から松平姓を与えられたが、叔父・村詮を殺したこと、また城内外からの陰口妄言に苛まれ、慶長14年(1609年)5月11日、20歳で急死した。小姓の服部若狭邦友、垂井勘解由延正2名が殉死している。
中村家は表向き断絶したことになったが、一忠の側室(梅里と伝える)が男子(一清)を産み、後に因幡鳥取藩主池田光仲に仕え着座(鳥取藩での家老の呼称)池田知利(下池田)の客分となる。禄高100-150石。一清の子孫は藩主の陪臣として明治維新をむかえ、現当主・中村義和は千葉県に在住し、分家の中村忠文(中村家の会会長)は鳥取市で中村歯科医院を開業している。
 
二宮翁夜話 忠諫阿諛の諭し

 

翁又曰く、世に忠諫(かん)と云うもの、おおよそ君の好む処に随(したがい)て甘言を進め、忠言に似せて実は阿諛(あゆ)し、己が寵(ちょう)を取らんが為に君を損(そこ)なう者少からず。主たる者深く察して是を明にせずんば有るぺからず。某藩の老臣某氏曾(かっ)て植木を好んで多く持てり。人あり、某氏に語りて曰く、何某(なにがし)の父植木を好んで、多く植え置きしを、その子漁猟のみを好んで、植木を愛せず、既に抜き取て捨てんとす。予是を惜(お)しんで止たりと、只雑話(ぞうわ)の序(ついで)に語れり。某氏是を聞いて曰く、何某の無情甚いかな。それ樹木の如き植え置くも何の害かあらん。然るを抜て捨るとは如何にも惜き事ならずや。彼捨てば我拾はん。汝宜しく計(はから)えと、終に己が庭に移す。これ何某なりし人、老臣たる人に取り入らん為の謀(はかりごと)にして、某氏その謀計に落し入られたる也。而て某氏何某をして、忠ある者と称し、信ある者と称す。凡そこの如くなれば、節儀の人も、思わず知らず不義に陥るなり。興国安民の法に従事する者恐れざるべけんや。
 
渋江抽斎

 

・・・抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると住宅は悉く傾き倒れてゐた。二階の座敷牢は粉韲(ふんせい粉微塵)せられて迹(あと)だに留めなかつた。対門(たいもん)の小姓組番頭土屋佐渡守邦直(くになほ)の屋敷は火を失してゐた。
地震は其夜歇んでは起り、起つては歇んだ、町筋毎に損害の程度は相殊つてゐたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕なものは少かつた。上野の大仏は首が砕け、谷中天王寺の塔は九輪(くりん塔の頂上)が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾いた。数十箇所から起つた火は、三日の朝辰の刻(午前八時)に至つて始て消された。公に届けられた変死者が四千三百人であつた。
三日以後にも昼夜数度の震動があるので、第宅(ていたく)のあるものは庭に小屋掛をして住み、市民にも露宿(ろしゆく野宿)するものが多かつた。将軍家定は二日の夜吹上の庭にある滝見茶屋に避難したが、本丸の破損が少かつたので翌朝帰つた。
幕府の設けた救小屋は、幸橋(さいはひばし)外に一箇所、上野に二箇所、浅草に一箇所、深川に二箇所であつた。
是年抽斎は五十一歳、五百は四十歳になつて、子供には陸、水木、専六、翠暫の四人がゐた。矢島優善の事は前に言つた。五百の兄広瀬栄次郎が此年四月十八日に病死して、其父の妾牧は抽斎の許に寄寓した。
牧は寛政二年(1790)生で、初五百の祖母が小間使に雇つた女である。それが享和三年(1803)に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になつた。忠兵衛が文化七年(1810)に紙問屋山一の女くみを娶つた時、牧は二十一歳になつてゐた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみは富家の懐子(ふところご箱入り娘)で、性質が温和であつた。後に五百と安とを生んでから、気象の勝つた五百よりは、内気な安の方が、母の性質を承け継いでゐると人に言はれたのに徴(ちよう)しても、くみがどんな女であつたかと言ふことは想ひ遣られる。牧は特に悍(かん)と称すべき女でもなかつたらしいが、兎に角三つの年上であつて、世故(せいこ)にさへ通じてゐたから、くみが啻にこれを制することが難かつたばかりでなく、動もすればこれに制せられようとしたのも、固より怪むに足らない。
既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、次で文化十四年(1817)に次男某を生むに当つて病に罹り、生れた子と倶に世を去つた。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであつたか、重聴(ちようてい)になつた。其時牧がくみの事を度々聾者(つんぼ)と呼んだのを、六歳になつた栄次郎が聞き咎めて、後までも忘れずにゐた。
五百は六、七歳になつてから、兄栄次郎に此事を聞いて、ひどく憤つた。そして兄に謂つた。「さうして見ると、わたし達には親の敵がありますね。いつか兄いさんと一しよに敵を討たうではありませんか」と云つた。其後五百は折々箒(はうき)に塵払(ちりはらひはたき)を結び附けて、双手(さうしゆ両腕)の如くにし、これに衣服を纏つて壁に立て掛け、さてこれを斫(き)る勢をなして、「おのれ、母の敵、思ひ知つたか」などゝ叫ぶことがあつた。父忠兵衛も牧も、少女の意の斥(さ)す所を暁(さと)つてゐたが、父は憚つて肯(あへ)て制せず、牧は懾(おそ)れて咎めることが出来なかつた。
牧は奈何にもして五百の感情を和げようと思つて、甘言を以てこれを誘(いざな)はうとしたが、五百は応ぜなかつた。牧は又忠兵衛に請うて、五百に己を母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知つてゐて、此の如き手段の却つて其反抗心を激成(げきせい激化)するに至らむことを恐れたのである。
五百が早く本丸に入り、又藤堂家に投じて、始終家に遠(とほざ)かつてゐるやうになつたのは、父の希望があり母の遺志があつて出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧と倶に起臥(おきふし)することを快からず思つて、余所へ出て行くことを喜んだためもある。
かう云ふ関係のある牧が、今寄辺を失つて、五百の前に首(かうべ)を屈し、渋江氏の世話を受けることになつたのである。五百は怨(うらみ)に報ゆるに恩を以てして、牧の老(おい)を養ふことを許した。
・・・抽斎の四女陸は此家庭に生長して、当時尚其境遇に甘んじ、毫も婚嫁を急く念が無かつた。それゆゑ嘗て一たび飯田寅之丞に嫁せむことを勧めたものもあつたが、事が調はなかつた。寅之丞は当時近習小姓であつた。天保十三年(1842)壬寅(みづのえとら)に生れたからの名である。即ち今の飯田巽さんで、巽の字は明治二年己巳(つちのとみ)に二十八になつたと云ふ意味で選んだのださうである。陸との縁談は媒(なかうど)が先方に告げずに渋江氏に勧めたのではなからうが、余り古い事なので巽さんは已に忘れてゐるらしい。然るに此度は陸が遂に文一郎の聘を卻くることが出来なくなつた。
文一郎は最初の妻柳が江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附けて里方へ還して置いて弘前へ立つた。弘前に来た直後に、文一郎は二度目の妻を娶つたが、未だ幾ならぬにこれを去つた。此女は西村与三郎の女(むすめ)作であつた。次で箱館から帰つた頃からであらう、陸を娶らうと思ひ立つて、人を遣して請ふこと数度に及んだ。しかし渋江氏では輒ち動かなかつた。陸には旧に依つて婚嫁を急ぐ念が無い。五百は文一郎の好人物なることを熟知してゐたが、これを壻にすることをば望まなかつた。かう云ふ事情の下に、両家の間には稍久しく緊張した関係が続いてゐた。
文一郎は壮年の時パツシヨンの強い性質を有してゐた。その陸に対する要望はこれがために頗る熱烈であつた。渋江氏では、若し其請を納れなかつたら、或は両家の間に事端(じたん)を生じはすまいかと慮(おもんばか)つた。陸が遂に文一郎に嫁したのは、此疑懼の犠牲になつたやうなものである。
此結婚は、名義から云へば、陸が矢川氏に嫁したのであるが、形迹から見れば、文一郎が壻入をしたやうであつた。式を行つた翌日から、夫婦は終日渋江の家にゐて、夜更けて矢川の家へ寝に帰つた。この時文一郎は新に馬廻になつた年で二十九歳、陸は二十三歳であつた。
矢島優善は、陸が文一郎の妻になつた翌月、即ち十月に、土手町に家を持つて、周禎の許にゐた鉄を迎へ入れた。これは行懸りの上から当然の事で、五百は傍(はた)から世話を焼いたのである。しかし二十三歳になつた鉄は、もう昔日の如く夫の甘言に賺(すか)されては居らぬので、此土手町の住ひは優善が身上のクリジス(危機)を起す揚所となつた。
優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、固より予期すべきであつた。しかし啻に愛情が生ぜざるのみではなく、二人は忽ち讐敵(しうてき仇敵)となつた。そしてその争ふには、鉄がいつも攻勢を取り、物質上の利害問題を提(ひつさ)げて夫に当るのであつた。「あなたがいくぢが無いばかりに、あの周禎のやうな男に矢島の家を取られたのです。」此句が幾度となく反復せられる鉄が論難の主眼であつた。優善がこれに答へると、鉄は冷笑する、舌打をする。
此争は週を累ね月を累ねて歇(や)まなかつた。五百等は百方調停を試みたが何の功をも秦せなかつた。
五百は已むことを得ぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取つて貰はうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかつた。渋江氏と周禎が方との間に、幾度となく交換せられた要求と拒絶とは、押問答の姿になつた。
此往反(わうへん往復)の最中に忽ち優善が失踪した。十二月二十八日に土手町の家を出て、それ切帰つて来ぬのである。渋江氏では、優善が悶を排せむがために酒色の境(さかひ)に遁れたのだらうと思つて、手分をして料理屋と妓楼とを捜索させた。しかし優善のありかはどうしても知れなかつた。
 
江戸末期の快男児と現代を生きる我々 

 

時代をつくった龍馬の生涯
今年度開学したグロービスのIMBA(英語MBAプログラム)では、入学時にオリエンテーションを行いました。学生の皆さんに、自己紹介をしてもらいましたが、その中で、自ら尊敬する人物として、龍馬を挙げた学生がたくさんいました。
ご存知のとおり、坂本龍馬は、江戸時代に薩長同盟を成し遂げ、大政奉還の礎を築き、明治という時代を切り拓きました。歴史上の人物として大変な人気があります。閉塞感漂う現代社会にあって、新たな時代を切り拓こうとする学生たちもまた、龍馬の生き様に、強い共感を覚えるのだと思います。
龍馬の名を一躍有名にした司馬遼太郎の名著『竜馬がゆく』(文藝春秋)では、龍馬の一生は、次のように描かれています。
坂本龍馬は、1836年に土佐に生まれます。土佐藩は、武士が上士と下士という二階級に分かれる厳しい階級社会だったようです。龍馬はこの下級武士である郷士の家の出です。幼少の時は泣き虫として有名だった龍馬ですが、17才で江戸に遊学、北辰一刀流剣術を学び、その後免許皆伝となります。さらには、画家河田小龍より西洋事情を学んでいます。
1862年に土佐藩を脱藩し、浪人となると、勝海舟に会い、師事します。勝が神戸海軍操練所を開いた時には、同所の塾頭に就任し、船長になるという一つの夢を果たします。1865年には、長崎で、貿易・用船業を営む亀山社中(後の海援隊)を設立。1866年、永年いがみ合ってきた薩摩と長州の間で薩長同盟を成立させる。藩の代表者である西郷隆盛と桂小五郎(木戸孝允)を一浪人が結びつけたのです。そして1867年、来るべき日本国の誕生を夢見ながら、暗殺により一生を終えました。
龍馬の一生を俯瞰すると、合理主義、自由・平等への希求、民主的な組織運営、師匠との出会い、時機を読む力、自らの使命観といったキーワードが浮かんできます。これらのキーワードは、「氣」との関係性でいうと、とても繋がりが深いのです。
剣術を修め、洋学を学んだ龍馬
まず、氣は練るものです。粘土も然り、パンの生地も然り、練るにはそれ相応の時間やエネルギーが要ります。龍馬は、土佐という厳しい階級社会の中で、何かと制約や決まり事が多い文化・風習にさらされました。抑圧的な環境下で、当時存在しなかった「日本国」という夢へ飛び立つエネルギーを蓄積させたのだと思います。
氣には、タイミングがあります。どんなに努力して、頑張っても、物事の足並みが揃ってこないと実現しない。一方で、心を整え、日頃から準備をしておかないと、いざ物事が揃ってきても、自らその機会を掴まえることができない。いわば、日常の中で、細やかな氣を感じている必要があります。
また、物事の足並みはこちら都合では揃わないので、自己都合ではなく、あくまで社会都合での視野が必要です。剣術を修め、広く洋学を学んでいた龍馬だからこそ、一介の素浪人に過ぎないのに、勝海舟に出会え、西郷隆盛と木戸孝允を結ぶことができたのではないでしょうか。
氣は、段々と集まって収束するが、その後、一気に離散します。そういう意味では、民主主義やパートナーシップによる組織運営は、一人のリーダーによる独裁的な運営よりも組織のエネルギーレベルを高い状態に維持しやすい。これは、組織の中に幾つも中核的な氣を配置し、それらが相互に交流し、順番に輝いていく様に似ている。坂本龍馬が率いた亀山社中(後の海援隊)では、民主主義による組織運営が行われていたといいます。
翻ってみて、現代を生きる我々はどうでしょうか。龍馬のような武芸の鍛錬をしていない。勝海舟のような大人物に出会う機会はまずない。細やかな気遣いを求められる世界とも、縁遠い所で生きている。
このような時代の中で、どうしたら龍馬のような時代観や歴史観を持てるのか。そして、社会のために一命を捧げられるような使命観を持てるのでしょうか。
現代を生きる我々ができること
龍馬が土佐藩で氣を練ったように、我々もまず現在の境遇を受け止め、未来にはもっと大きな世界に行くぞとエネルギーを溜めることが必要でしょう。それには、現在の不満や憤りをしっかり認識し、自分の至らなさを素直に実感し、能力開発を行う。龍馬が北辰流で剣術を稽古し、河田小龍に西洋事情を学んだと同様に、スキルを学び、志を磨く。
次に、氣(タイミング)を感じることを始めましょう。梅雨の中、道端の紫陽花の花が一輪から二輪に増えた。後数秒で、煎れたお茶の香りが最もよく出る。事務局として仕切る会議において、静寂が許されるのは5秒までだから、ここで次の議題に動かす。日常のちょっとした場面でも、氣を感じ取る訓練は出来ます。
そして、これはという人物に会ったら、自ら師事したい(メンターになって欲しい)旨お願いする。こちらからメンター(良き先輩)になってくださいとお願いしない限り、忙しいメンターが我々の面倒を見てくれることはありません。
最後に、良い仲間との出会いも大切です。上下関係ではなく、横の関係、正確に言うと、状況によって上になったり下になったりと、循環する関係を構築する。素晴らしい組織の一部になると同時に、自らエネルギーを伝播し、周りから発せられるエネルギーの供給も受け入れる関係を作っていく。
読者の皆さんやIMBAの学生たちが、龍馬のように「氣」を上手く日常に取り込まれることを期待しながら、第三稿を結びます。
 
キリシタン大名・有馬晴信

 

信仰と江戸幕府、そして領民の板挟みに苦しんだ試練の人生
いつの時代も、一定以上の地位にある人の身の振り方は難しいものです。自らの意思を持つのは大切ですが、周囲を無視したり時勢を読み違えたりすると、たったひとつの失敗で多くの人を巻き込んでしまうのですから。その一例と思われる、とある大名の一生を見ていきましょう。慶長十七年(1612年)5月6日は、九州のキリシタン大名・有馬晴信が処刑された日です。この人の一生を一言でまとめるとしたら、「家を守るために生き、死んだ」というところでしょうか。
龍造寺と島津、そしてイエズス会に囲まれて
晴信の生まれは永禄十年(1567年)。伊達政宗や立花宗茂、真田幸村(異説あり)が生まれた魔の年です。この年に生まれた人の年表作って並べたら面白そうですね。興亡の差が激しそうで。
晴信は次男だったため、本来なら家督を継ぐことはありませんでした。しかし、兄が若くして亡くなり、4歳で家督を継ぐことになります。この流れの時点でもう嫌な予感がしますね。実際に、晴信は生涯「何かと何かの板挟み」という状況に置かれて悩みました。
最初の板挟みは、龍造寺家とイエズス会です。有馬家は龍造寺家と領地を接していましたが、単独で対抗できるほどの力はありませんでした。そこで、西洋の武器と資金的な援助を手に入れるため、イエズス会に接近したのです。もちろん、そのためにはキリシタンになることが不可欠でした。
しかしそれだけでは足りず、次に島津家を頼ります。島津家の動きからすれば、龍造寺家の次は九州全土を手にすべく動くはずなのですが……晴信はその警戒が足らなかったようです。
沖田畷の戦いで島津家と共に龍造寺家を下した後、案の定、有馬家はイエズス会と島津家の板挟みになってしまいました。
イエズス会より先に島津家を頼れば良かったんじゃ・・・という気がしますが、異教の団体と他の大名家と、どっちに頭を下げるのがマシなんですかね。
沖田畷で勝った後、晴信はイエズス会に長崎・浦上の地を与えているくらいですから、心情的にはイエズス会のほうを信じたかったのかもしれません。勝てたおかげで信仰もますます深まり、城下に教会や西洋学校を作り、多くの宣教師や西洋商人を迎え入れていたくらいですから。天正遣欧少年使節のメンバーの中にも、有馬家の領内にあった西洋学校出身の人がいます。
また、海に面した立地を利用して中国とも交易を行い、かなりの利益をあげていたようです。豊かな土地ではないだけに、商売で国を養っていこうとしたのでしょう。
小西行長を頼り、豊臣政権では立場をキープしたものの
かくして島津家との対立が避けられなくなってからは、同じキリシタン大名の小西行長に渡りをつけました。秀吉への便宜を図ってもらい、島津征伐に協力することで、家を守ろうとしたのです。これは成功し、朝鮮出兵にも参加して、秀吉政権での立ち位置は揺るぎないかに見えました。
しかし、秀吉が諸々の理由でバテレン追放令を出したあたりから、少しずつ雲行きが怪しくなってきます。晴信はすぐにキリシタンや宣教師たちを迫害する気になれず、彼らを匿うような行動を続けたのです。さらに、関ヶ原の西軍敗北によって小西行長が処刑されてからは、晴信はキリシタンたちの心の拠り所となっていきました。
キリスト教に傾倒するあまりに寺社を破壊し、そこに使われていた石などを城の階段に使ったらしき遺構があるため、かなり強烈なこともしていたようです。寺社の破壊は、あちこちのキリシタン大名がたびたび行っていますけれども、お寺にあった石をわざわざ踏ませるというのは、何やら偏執的な感がありますね。まあ、後々キリシタンのほうが踏み絵をさせられるんですが。
ポルトガル拠点のマカオで殺傷事件勃発
さて、江戸時代に入ると、キリシタンへの視線は厳しくなるばかり。その矢先に、海外で割と洒落にならない事件が起こります。
はるか彼方のマカオで、晴信の船の乗員とマカオ市民がドンパチをやらかし、日本人の死傷者が多数出たというのです。いくらポルトガル人と同じキリシタンとはいえ、領民を殺されて黙っている領主はそういません。晴信は家康に「これこれの理由でリベンジしたいんですが」(超訳)と許可を取り付け、長崎にいたポルトガル商船を砲撃しました。晴信は船長を捕えるつもりだったようですが、船長は船員を逃がした後に自ら船を爆破し、海の藻屑となっています。
報復としては妥当ですし、家康からも褒められたのですが、当然の事ながらイエズス会との関係が悪化。そりゃ、イエズス会からすれば「今まで俺たちが助けてやったのに!」という気分になるのも当たり前の話ですよね。マカオで先に暴力を振るったのがどちらなのかはわかりませんが……。
さらにここで、幕府から来ていた目付役(大名などが不審な動きをしないか見張る人)の岡本大八という人物が、晴信に甘言します。
「家康様はいたくお喜びですから、今ならこの功績でもって、龍造寺家に奪われていた土地を取り戻せるかもしれませんよ」
「金で大名を釣るとは不届き千万!!」
大名にとって、一度奪われた土地というのは何に替えても取り戻したいものです。そして晴信は、何の裏付けもないこの言葉を信じてしまいました。大八に黄金色のおまんじゅう(婉曲表現)を渡し、便宜を図ってもらおうと試みたのです。
しかし、いつまで経っても有馬家が旧領を回復する見込みはありません。怪しんだ晴信は、大八ではなくその上司の本多正純に直談判します。正純は家康のお気に入りの重臣でしたから、そちらに話を通せばなんとかなると思ったのでしょう。
が、江戸時代初期の武士はささいなミスが文字通りの命取りになります。家康は新政権を自分の存命中にできるだけ安定させるべく、どんなミスでも見逃しませんでした。大八と晴信の直接対決が行われた後、「金で大名を釣るとは不届き千万!!」とばかりに、大八に駿府市中引き回しの上、火炙りの刑に課しました。そして晴信も、贈賄の罪で甲斐に流され、死罪を申し付けられてしまったのです。
息子の直純が徳川家の妻をめとり、譜代大名に昇格
晴信は流罪については受け入れましたが、キリスト教の「自殺をしてはならない」という教義を守り、切腹を拒んで家臣に自らの首を落とさせたといわれています。幕府の記録では切腹したことになっているのですけどね。これはキリシタンとしての信仰を守ったか、武士としての面子を保ったかという違いでしょう。
キリシタン側からすれば「晴信は神の教えを最後まで守り抜きました」としながら、幕府としては「武士の名誉である切腹で死んだ」ことにしておいたほうが都合がいいですし。この流れからすると、やはりキリシタン側の記録のほうが正しそうな気はしますね。
有馬家自体は移封された後、息子の直純が継ぐことを許されました。さらに直純の妻が家康の養女だったことで、後々「願い譜代」という扱いにもなっています。これは、外様大名が譜代大名との縁や功績を利用して、譜代扱いになることです。キリシタンだった直純は棄教を選んで幕府に従ったことで勘弁してもらえたようです。とはいえ、そのために幼い異母弟をブッコロしてしまったりしたので、後年良心の呵責に悩まされたようですが・・・。
そして島原の乱は起こった
一方で領内のキリシタンは見逃してもらえませんでした。
有馬の地は一度天領(幕府直轄領)になった後、松倉重政という大名が入りましたが、あまりに過酷な弾圧を行ったために、島原の乱を招いています。
また、高山右近など他のキリシタン大名などが国外追放になったのも、この事件の後のことでした。
晴信が旧領への欲を捨てていたら、島原の乱は起こらず、長崎周辺のキリシタンは隠れキリシタンへソフトランディングしていったのかもしれません。あるいは、欲を捨てるまではいかないにしても、大八への賄賂ではなく、もっと別の方法で願い出ていれば、また違ってきたでしょう。
板挟みを何とかやり過ごしてきた大名の、残念な失敗。そんな風に考えざるを得ない一生だった気がします。
 
桑名はまぐり

 

「その手は桑名の焼蛤」とは。もともとどういう意味だったのでしょうかとよく人々に聞かれます。
江戸時代旧東海道が繁栄した頃、ここ桑名は伊勢路の玄関口42番目の宿場町として、木曽三川の河口の港町として栄えました。
十返舎一九の東海道中膝栗毛に「・・・お腹がすいて気が晴れて、人にはどんどと笑われて、尻のほこりをふきはらう、その手は桑名の焼蛤」
とあるように、蛤の茶店は旅人人気の的で、なかでも魅力は、茶店の茶屋女にあったようで、茶店の女に甘言でだまされまいというところからこのシャレ文句ができたようです。
広重の描いた七里の渡は最も古い記録で、1544年「宗良日記」に記されており、名古屋の熱田の宮から桑名を結ぶ海上七里の船着場があったところです。
ここは揖斐川、長良川、木曽川の三大河川の合流地点であり、満潮時には伊勢湾からの海水が上流に満ちることで海水と淡水が混ざり合う所で、これによりここ桑名が国内最高の蛤の繁殖生育地となっております。 
 
子どもを拉致した飫肥藩(おびはん)

 

文政13年(1830)日向国飫肥藩(宮崎県)が伊勢参宮の抜け参り途中の子どもを拉致し、藩へ連行途中細島湊(日向市)で発覚するという事件があった。当時、細島は幕府領で冨高代官所が統治していたので、ここで起きた事件は日田を通じての取り調べとなった。概要は次のとおりである。
文政13年6月中旬、細島の町は祇園会で賑わっていた。薩摩屋に子ども二人が参り、あまりにも空腹なのでめしを食べさせてくれと頼むので、どこから来たのか尋ねたところ、一人は江戸牛込の益五郎、もう一人は大坂西宮の勝蔵と言った。
薩摩屋の女房が勝蔵と同じ大坂西宮の生まれということもあり、さらに詳しく尋ねたところ、二人とも人買いに拉致され細島まで連れてこられたが、船頭など殆どが祇園様参拝に上陸したのを幸いに、勝蔵が手水(便所)に行くふりをして益五郎の袖を引き船から逃れた。これから国許に帰るつもりであるという。
亭主夫婦はかわいそうに思い、細島の陣屋へ二人の子どもの事を願い申し上げたら、良き方に取り計らうので罷り出るようにということであった。冨高御陣屋へは細島から3q余り、陣屋には塩谷大四郎手代、志賀高右衛門という者が勤めており、二人の子どもに会い薩摩屋からも聞き取った。状況は大坂から船2艘で出港、乗り組んだのは子ども12人、船頭や水主数人それに飫肥藩士3人、もう一隻は子ども3人、船頭ほかは良く分からないという。しかし今日は祇園祭りに殆どが出かけており、子ども達と2人の船頭、水主が3、4人ばかり船にいると言った。
ただちに船頭2人と水主2人を捕えた。残りの水主と飫肥藩士3人は逃げ失せた。それから15人の子どもと捕られた者は御役所へ連れてこられ、子ども達へは取り調べの結果11人は拉致され4人は売られたことが分かった。
人買いに関わった船は住吉丸といい300石積み、もう一艘は摸稜丸といい1200石積で、日向国飫肥の伊東修理太夫領の船であった。飫肥藩大坂蔵屋敷には30人余の子どもがいたが15人は逃げて乗船しなかったということであった。
大坂の飫肥役人は道頓堀銭屋武平と申す者に相談、武平が書付一通を書いて飫肥役人へ渡した。それは15人の子どもはいずれも孤児で親類もなく武平が引き取っていたが、飫肥へ奉公に差し出すという内容であった。このとき武平が言うには万一どこに尋ねようとも何処にも親類もなにも無いと有りのままに申し上げておるので、子ども達に辛い思いをさせないで欲しいと申したので役人一同も畏まった。また、大坂町奉行所もこれと同じような内容の通達であった。大坂で武平の子ども達に聞いたところは、日向に行って20日間ほど居ればまた故郷に返すといい、大坂に逗留している間は甘いものを食べさせるなど丁寧に扱った。しかし乗船すると船頭は3度の食事は細いにぎりめし1個しか与えず、さらに1日2回しか与えられない事もあった。余りの空腹に耐えられず、密かに俵より生米を掴み出して食べたところ、船頭に見つかり大いに怒られ殴られたということであった。5月から6月までの20日間船中に閉じ込められ、その間のつらく苦しい思いは限りなかった。2隻の船は飫肥近くまで行ったが、それから先へどうしても船が進まず船頭や水主らは精力を尽して働いたが船が後戻りし、仕方なく細島の港に寄港したということであった。
そのまま飫肥領に着けば飫肥藩の人買い目的は果たされたのであろうが、船が引き返されて拉致が発覚、子ども達は口虎から逃れることができたのは、伊勢抜け参りの途中の子どもらをかどわかしたもので、伊勢大神宮のご加護あったからだと評定した次第である。 これらの子どもの内、寅吉、与吉、寅之助、恵ひの四人は宿元から飫肥へ奉公に差し出されたものであった。恵ひは孤児で祖父母に養育されていたのを伯父が強引に奉公に出したということであった。萬吉は抜け参りしているところを名古屋で飫肥役人市井元右衛門という者から大坂へ連れてこられた。元右衛門から「日向というところはとても良いところで、米の飯や菓子、まんじゅうなどを毎日食べさせられ、その上脇差も買って貰えて、更に伊勢参宮もさせて貰えた後は国許に帰される」などと聞かされたということで、他の子どもも大体萬吉が申した内容と同様のものであったようだ。
右の通り分かったので子ども達や船頭、水主ともに細島に連れて来た。子ども達は日田に行くまで手習いなどをした。これまでの経緯を日田陣屋へ報告したところ、江戸表へ窺って指図を受けることになった。11月下旬になって子ども達や船頭、水主いずれも日田へ送られ大坂奉行所へ引き渡されることとなった。その道中には役人を付き添わせ、子ども達はそれぞれ新しい小駕籠に乗せ、宿泊代その他の出費は潤沢に処理された。子ども達は日田陣屋で新しく仕立てられた衣服を着用、船頭や水主らは別宿にし、罪人を乗せる駕籠に乗せられ大坂奉行所に引き渡され、牢屋に入れられた由。子どもの弥吉と松次郎の二人は病気で細島に残り、翌4月中旬病も治り日田に参りそして大坂ヘ参った。道中の状況は他の子ども達と同じであった。
益五郎と勝蔵以外の勾引された者も、生まれ在所から遠く離れた所で、しかも箱根の友蔵は浜松、江戸本所の吉五郎は三島、江戸麻布の萬吉は名古屋、江戸神田の冨吉は荒井(新居)、江戸本所の米吉は宮(熱田)、京都堀町の卯之助は大坂、西宮勝蔵は石部で拘引されている。浜松や三島、名古屋、新居、大坂、石部はいずれも生国と伊勢の間であり、益五郎らと同様抜け参りの途中に拉致されたものであった。
江戸麻布の萬吉は、抜け参りの途中名古屋で飫肥藩の役人市井元右衛門の甘言で誘拐され、他の子供たちも同様の手口で拉致されたのであろう。
この子供らが拉致された文政13年は、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、慶応3年(1867)などとともに抜け参りが起こった年である。
飫肥藩は検地を度々行い生産能力以上の録高を付け出した為、領民は困窮し間引きが行われていた。殖産として植林や製糖など行うが労働力不足は否めず、他所から拘引してきてそれに当てた。ほかにも製糖に従事させられた女二人が逃げて国元へ帰る途中、高千穂で保護された記録もあり人さらいは常習化していたようである。
 
戯曲『ファウスト』 ゲーテ

 

ゲーテの作品の中でも謎めいた戯曲である『ファウスト』は、人類が、原初の時代に始めた進歩の道筋を象徴的に描いた物語と呼ぶことができるでしょう。そして私たち人類の進歩は、この世の体験とそうではない体験のすべてを通して、すべての生き物の究極の目標である〈一なるもの〉へと向かっていきます。神秘学という眺めの良い視点から、ゲーテのさまざまな作品を見ると、『ファウスト博士』という古風な伝説(訳注)から作られたこの戯曲は、「探求」の物語のひとつであるということが分かります。探求の物語とは、失った宝を人類が探し求める旅です。そしてその宝が見つけだされたとき、私たち人類には神聖な力が与えられ、あらゆる逆境を乗り越えて、人生を自在に操ることができるようになります。またそれは、宇宙によって定められた道の案内を探し求める旅でもあります。この道を先に進むには、皆さんもご存じの通り、有形のものも無形なものも含め、周囲のさまざまな世界に知覚の範囲を広げようとする、つね日ごろの努力が必要になります。
(訳注:後述されるように、実在したとされる錬金術師ヨハネス・ファウストについての、16〜17世紀にドイツで流布した伝説が、ゲーテの戯曲『ファウスト』のモチーフとなった。)
『ファウスト』と同じ探求というテーマは、エジプトやギリシャの古代神話の中にも見られます。たとえば、エジプト神話のイシスとオシリスの伝説や、ギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケの話などですが、特に顕著な例は、エレウシス神秘学に見られます。この神秘学の伝承では、大地の女神デメテルが、行方知らずになった愛娘ペルセポネを探します。心理学では、魂や信仰、欲望や愛という観念の起源や、それらの説明となる物質が探されます。また、「聖杯探求」の伝説もあります。バラ十字会では伝統的に、「失われた言葉」を見いだすことが取り上げられています。
これらと同様に、ゲーテの『ファウスト』も、普遍的な調和を人類が探し求めることを象徴的に表しています。この探求の根本にあるのは、「世界を一つにまとめている秘められた力、世界を進むべき方向に導いてくれる秘められた力を見いだしたい」という、私たちに本来備わっている心の促しにほかなりません。ファウスト博士は、この世で重ねる様々な、入り組んだ経験のすべてを通して、自身の内部に現れている、人間の性質の数々の神秘を理解することを学びます。ですから、『ファウスト』は、低いレベルから高いレベルへと意識が果てしなく上昇して行く、一連の入門儀式だとみなすことができます。
ゲーテの作品には深い神秘学的な意味が込められており、神秘学を学ぶ者にとって注意深く検討するに値します。物質主義が圧倒的な支配力をふるっているように思われる現代でさえ、人生の非物質的な面に関する数々の事実を、人々は認識するようになってきました。原因と結果という宇宙の法則の総合的な働きのもとで、このような認識は、物質主義と歩調を合わせるように広がっていくのでしょう。そして、物質の世界と形而上学的世界についての認識の間に調和のとれたバランスが保たれていくのでしょう。このことは、あらゆる生き物が宇宙の完全性に向かって近づいていくために絶対に必要とされる前提条件であり、至高の存在があらかじめ定めたものです。・・・
化学の結婚 (Chymical Wedding)
ゲーテはファウストの望みを叶え、トロイアに連れて行かれたヘレネ(訳注)をメフィストの魔力によって目の前に出現させる場面を設定して、彼をギリシャの文化に触れさせます。ヘレネは、ギリシャ・ローマ時代における女性美と気品の典型とされた女性でした。ファウストがヘレネに熱烈な愛情を注ぎ、二人が結ばれたことを象徴的に描いた場面を通してゲーテが語りかけているのは、"化学の結婚"の神秘学的な意味、すなわち、ユングがしばしば語っている「結合の神秘」(Mysterium Conjunctions)という錬金術上の概念です。ゲーテはそれを、正反対のものの和解、魂の内部で対立しあうものの調和の象徴として描いています。ファウストとヘレネが結ばれた結果、翼を持った息子のオイフォリオンが生まれます。オイフォリオンによって象徴されているのは、完璧な詩作の才能であり、夢や空想への憧れであり、さらに偉業と古典美と、自由という人の尊い権利に対する熱狂的な賛美です。
(訳注:ヘレネ(Helen)はスパルタ王メネラオスの妻であったが、トロイアの王子パリスに連れ去られ、トロイア戦争の原因になった。)
ゲーテが私たちに語りかけているのは、「化学の結婚」の神秘学的な意味です。
オイフォリオンの性格の中には、きわめて望ましいさまざまな美点を見ることができます。これらの美点は、知性と知識と知恵の3つが、美と気高さに対する感覚と結び付き、調和した統一体に至ったときに、人間が手に入れることのできるものです。
別の場面には、ファウストがかつて所有していた実験室で作り出された、ホムンクルスという人造人間が登場します。ホムンクルスは、完全な肉体や世俗の知識や人生の官能的な喜びを求めようとする人間の内的な性質を擬人化したものです。ホムンクルスが魂をまったく持たないことにより、ファウストの深層意識がホムンクルスの性質とは異なることが表されています。ファウストが知らず知らずのうちに、詩や芸術、科学や自然の見事さに美の究極の理想像を求め、あこがれていることが示されているのです。
これらの場面を見ると、ファウストが着実に成長し、メフィストの甘言に乗らなくなったことが分かります。つまり、このような経験によって、人類の幸せと豊かさに積極的に役立ちたいというファウストの願いが、どのように育まれたのかを知ることができます。心の安らぎを見いだした彼は、次に、ある壮大な奉仕の計画に身を投じようとします。その計画には、広大な荒野が必要とされ、それを手に入れるには、まだメフィストの魔力に頼る必要があります。しかし、内部にみなぎる活力に促されて、彼は、手に入れたものに真にふさわしい人間になり、それを本当に所有しようと努力します。「先祖から受け継いだ財産なんぞは借り物にすぎぬ。己の手で掴みなおせ。それでこそ、真の所有と呼べるのだ。」
ファウストは、今や、自身に課したこの教訓に従って行動ができるまでに成長しました。そして、彼の指揮の下に、ある大事業が行われます。彼が手に入れた荒れ地を開拓して、人々が幸せに暮らせる豊かな土地に変えるのです。今のファウストの心にあるのは思いやりだけです。それは、欲求から生まれたわけでも必要に迫られたからでもなく、また、罪の意識にも、もはやさいなまれているわけでもありません。人生の最期に視力を失ってもなお、思いやりの心だけは彼を離れません。それは、他の人々の幸せを願う心です。
こうして、ファウストは地上での生の営みを終えます。メフィストはいまだに、ファウストの魂を手に入れることを望んでいます。しかし、ファウストは自身の内面の進歩を通して、「天上の序曲」の場面で神が予言していた通りの人格を作り上げたのでした。「心清き人間は、どれほど闇に包まれた卑しい野望にとり憑かれようとも、〈ただひとつの正しき道〉を忘れぬものだ」。ファウストは、自分自身の努力によって、貴い愛の力が、数々の地上の誘惑に勝る水準にまで、魂を鍛え上げたのでした。

『ファウスト』 ドイツの文人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの代表作とされる長編の戯曲。全編を通して韻文で書かれている。二部構成で、第一部は1808年、第二部はゲーテの死の翌年1833年に発表された。
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
 
■安土桃山・戦国時代

   安土桃山時代 1573〜1603(1615)
   戦国時代 1493〜1590  

 

島左近の意外と知らない事実
戦国時代の猛将、島左近
左近の正確な生年は不明ですが、『名将言行録』に「当時の人は鬼左近と呼び、1600年に61歳で戦死」と記載されているので、そこから考えると1540年頃の生まれではないかと思われます。最後に仕えた石田三成よりは20歳年上、徳川家康より2歳年上です。
生国は大和国で、本名は清興といいます。まだ若い筒井順慶を支えていた時、同僚の松倉右近勝重とともに「左近、右近」と称せられ、そこから「左近」という通称ができました。
大和国の大名であった筒井家に使え、筒井順慶まではよく仕えたようですが、次の代の定次の時に筒井家を去り、奈良興福寺の塔頭持宝院に寄食していました。その後蒲生氏郷など何人かに仕えた後、石田三成の元で仕えます。
三成は有能な官僚でしたが軍事の才は不足していたので、左近を家臣に加えたかったようです。当時、大変な高禄で左近を迎えたのが話題になりました。
豊臣秀吉没後、次第に勢力を伸ばしてきた家康に危惧を抱きつつ、関ヶ原の戦いの時を迎えます。関ヶ原の戦いでは鬼神の働きぶりで、黒田長政隊と戦いました。しかし銃弾に撃たれ、その後行方がわからず、討死にしたと思われます。また遺体が見つかっていないので、各地に落ち延びたという説が残っています。
島左近にまつわる意外と知らない6つの事実
1 人の使い方が上手だった
左近が浪人していたころ、吉野の親族に借金の無心をしましたが、その男は吝嗇だったため断ってきました。すると彼は弁の立つものを使者にたて、「財宝を人に分け与えれば子孫は繁栄し、悪いことは起こらないが、分かち合えないものには災害が降りかかるだろう。」と伝えさせました。すると親類の男はすぐに金の用立てをしてくれました。
2 豊臣秀吉から羽織をもらった
石田三成が当時所有していた4万石のうち、2万石を出して左近を家臣に迎えたことを聞いた秀吉は、彼を呼び出して「これより三成によく心を合わせよ」(忠誠を尽くせよ)と言い、羽織を渡しました。秀吉も一目置くほどの、破格の評価だったのです。
後に三成が佐和山城19万4千石の大名になった時にも左近の禄を増やそうとしましたが、彼は「これ以上の禄はいりません。ほかの人々に与えてください。」と断りました。
3 領国経営にも携わっていた
彼は軍事だけではなく、三成の領地の年貢徴収もしていました。家老クラスの重臣として、領国経営にも携わっていたのです。
4 家康の懐に飛び込むべしと助言をした
1599年、加藤清正、福島正則ら豊臣恩顧の大名が、積年の恨みを晴らすため石田三成を襲撃しようとしました。それを知った左近は三成に、「家康の懐へ飛び込むべし。」と、敵方の陣営に行くように勧めました。
外聞を気にする家康のもとに行けば、殺すような真似はしないだろうと読んだからです。予想通り、家康は三成に蟄居をさせただけで事をおさめました。
5 鬼左近と呼ばれた
関ヶ原の戦い後、直接対峙した黒田長政の家来たちは、あまりの恐ろしさに誰も当日の彼の軍装を覚えておらず、元石田方の家来に当日の軍装を尋ねたという猛将ぶりがわかる逸話が残っています。
6 滋賀に落ち延びていた?
左近が関ヶ原の戦いで討死せず、滋賀県の奥川並(おくこうなみ)というところに潜伏していたという説があります。その土地では、彼が目の前に現れた雪女に物を投げて撃退した、という昔話もあります。 
 
岩牢に八年以上も幽閉された男・大河内源三郎

 

本日放送の大河ドラマ「軍師官兵衛」は「有岡、最後の日」で、半年間有岡城の土牢に幽閉された黒田官兵衛が救出される回でした。
城の石牢に半年間幽閉された影響で、以後の官兵衛の足は不自由になってしまいます。
その辛酸は凄まじいものであったことは否定できません。
しかしながら、戦国時代の同時期において、官兵衛と同じように城の土牢に幽閉され、また官兵衛以上の8年の長きに渡って幽閉され、救出された武将がおりました。
その名を大河内源三郎。諱は政局(まさちか)三河・遠江国主、徳川家康の家臣だった男です。今日はその男のことを書いてみたいと思います。
1.徳川と武田の密約
西暦1568年(永禄十一年)、甲斐・信濃国主である武田信玄と、三河国主である徳川家康は、今川氏真の支配下にある遠江・駿河国(現在の静岡県)を共同で攻める密約を交わします。信玄が甲州口から駿河国を攻め取り、家康が三河口から遠江国を攻め取るという分割支配です。この結果、家康は三河・遠江の二国の国主となり、拠点を三河の岡崎城から遠江の浜松城に移します。その際、遠江と駿河の境に位置する高天神城(静岡県掛川市下土方)の城主・小笠原氏興は今川を捨て、徳川に味方しました。
2.武田勝頼、高天神城を攻める。
西暦1574年(天正二年)五月、信玄の跡を継いだ武田勝頼は、二万五千兵を率いて高天神城に攻め寄せました。この高天神城は遠江最大の要害で「高天神城を制する者が遠州を制す」とまで言われていました。あの武田信玄も生前どうやっても攻め落とせなかった城がこの高天神城です。高天神城の城主は小笠原氏興の子・小笠原与八郎が務めていました。
信興は、すぐさま浜松城の家康に援軍を求めました。しかし家康の手勢は岡崎、浜松の両城を合わせても九千足らずで、とても武田と戦えるものではなかったため、高天神城に軍監を使わし、盟友である織田信長に援軍を求めました。この時遣わされた軍監が大河内源三郎でした。
源三郎は軍監として「援軍は必ず来る」と言い回って城内の兵の士気の鼓舞に当たりました。しかし、援軍が来ない状況での篭城戦は与八郎に心の隙を与え、そこに武田の調略の手が伸びました。与八郎は城に籠るだけでなく、時々討って出て武田軍を撃退しましたが、その引き上げ時に武田の手の者が雑兵に混じって城内に入り込んでいたのです。
この事実を知った源三郎は、家康に「小笠原与八郎、城内の主戦論者を宥め回っており、厭戦感ひとかたならぬ状況、このままでは些か案じられ候。されど御屋形様の命あるまで城は我が身に代えても守り抜く」という内容の書状を送っています。
同年六月十七日、織田信長の援軍が吉田城(愛知県豊橋市今橋町)に到着。家康もこれに同行し、翌日高天神城に向けて進軍する予定でした。
しかし翌十八日、高天神城は武田の手に落ちてしまいました。与八郎が武田に降伏し、城を開け渡してしまったのです。源三郎は、体を張って最後まで武田への降伏と開城に反対しました。しかし与八郎の意思は変わらず、とうとう源三郎を高天神城の地下の岩牢に幽閉してしまったのです。
勝頼は高天神城を落とした後、浜松まで抜くつもりでしたが、織田信長の援軍到着でそれもならず、やむ得ず、家臣横田伊松を城代として置いた後、甲府に引き上げざるを得ませんでした。この時から源三郎は高天神城の岩牢で苦渋の毎日を送ることになるのですが、横田は源三郎の武士の意地に感嘆し、尊敬の念すら持っていたので、丁重に扱いました。
3.徳川家康、高天神城を攻める。
高天神城の戦いの翌年、長篠設楽原の戦いで、武田は織田・徳川連合軍に大敗しました。徳川は二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)と諏訪原城(静岡県島田市金谷)を攻略して、武田の勢いを削ぎ、大井川流域を支配下においたため、遠江と駿河の境の固めを盤石なものにしました。
しかし、高天神城がいまだ武田の手にある状況では、完璧とは言えませんでした。
西暦1580年(天正八年)秋、徳川家康は五千の兵でついに高天神城を攻めました。しかし力攻めではなく、城の周囲を囲み、支城の連絡を絶つ「兵糧攻め」を仕掛けたのです。
この時の高天神城主は、今川の旧臣・岡部丹後守(元信)。
岡部は勝頼に援軍を求めますが、当時の武田は長篠の戦いからの痛手から回復しておらず、さらに上杉家の御家騒動である「御舘の乱」による失策で、それまで盟友だった北条氏までも敵に回していた為、全く身動きが取れませんでした。
年が明け、西暦1581年(天正九年)三月になると、城内の備蓄食糧も底をつき、勝頼からの援軍が来ない高天神城は、開城するか城を枕に決戦するか二つに一つの選択を迫られました。そこで、岡部は、城の石牢に幽閉されたままになっている大河内源三郎に目を付けます。
岡部は「城を枕に決戦となれば双方共に死者も出る、それよりは城を開くので城兵の命は助けて欲しい」という内容の開城の使者を源三郎に頼みます。しかし源三郎は
「八年の牢暮らしで、足はすっかり萎えており役に立ち申さぬ」と断ります。
岡部はこの不遜な態度に「従わねば斬る」と抜刀しますが
「斬りたければ斬れ」
と源三郎は取り付くしまもありません。岡部も開城の使者の役割は、徳川家家臣だった源三郎しか務まらぬと思っていることから、この場で殺す事に利はありませんでした。
それからというもの、岡部は源三郎に苦渋の拷問をしかけます。その内容というのが
着物をはぎ、直肌に蝋を垂らす。ツメを炙る。髪を槍に結び兵二人で担いで回す。毒入り御前を食わせる。
というもので、まぁ、全体的にキッツイ感じです。これらの拷問に源三郎は一切屈せず、ただひたすら家康が高天神城を攻め落とすことだけを願って耐えていました。
4.大河内源三郎、救出さる。
同年三月二十二日 源三郎を使者に開城することを諦めた岡部は、城内に残った城兵を率いて、徳川軍に討って出ました。討ち入った先は徳川家重臣・大久保七郎右衛門(忠世)の陣。
岡部の相手をしたのは忠世の実弟の大久保彦左衛門と大久保家の家臣・本多主水で、最終的に岡部は本多主水に討ち取られてしまいました。
三日後の三月二十五日、大将のいない高天神城の城兵はすべて討って出て、これを徳川方はほぼすべて討ち取りました。その首は六百以上に及んだといいます。
徳川方は高天神城を接収し、城内巡検の際、巡検使が岩牢の中に一人の穢れた囚われ人を発見しました。
巡検使が
「こなたは誰じゃ」と尋ねると、囚人は「大河内源三郎にござる」と答え、尋ねた巡検使は驚愕して、即座に家康の耳に入れたと言います。
「源三郎が生きていたじゃと?」
今度は家康が驚く番でした。巡検使に案内をさせると、ちょうど板敷に乗せられた源三郎が岩牢から兵たちに運び出されてきたところでした。兵たちは家康の姿を認めると、板敷をその場に下し、そして家康がその板敷に近づきました。板敷の上には、真っ黒にススけた一人の老武者が横たわっていました。
源三郎はゆっくり目を開け「御屋形様か...」とつぶやきました。8年振りの外界の眩さに、源三郎の目は殆ど使い物にならなくなっていました。
「源三郎。儂じゃ。家康じゃ」
家康はそう言うのが精一杯で言葉が続きませんでした。
「その声はまさしく殿......殿、とうとう、この城、落とされましたな。」
源三郎はたどたどしく笑みを浮かべながら言いました。
「源三郎、ただ、殿が来ることだけを信じ、どのような甘言にも乗らず、某(それがし)は某の戦をやっておりました。某もまた勝ちましてござる......」
大河内源三郎は、この戦いの恩賞として、家康より遠江国稗原(静岡県磐田市稗原)の地を宛てがわれ、故郷の津島(愛知県津島市)で静養後、「無為に牢の中にいたのは武士道の穢れだ」と悟り、出家。法名を皆空と名乗りました。しかし後年、家康に呼び出され、小牧・長久手の戦いで討死したと伝えられます。
 
異聞秀吉

 

大地震により壊滅的な被害を受けた焼津、奥津の湊は、穴太衆と田淵衆により岸壁が築かれ、信秀の着任を待ち受けていた。播磨・羽柴家の先遣隊五千は、蒲原の富士川西岸に陣屋を築き、河床の掘削に取り掛かっていた。信秀が率いる本隊五千は、五徳を奥津の清見寺に送り届け、六月五日、由比の陣屋に入った。奈良時代に関聖和尚が創建した清見寺は、東海道の要衝にあり、足利尊氏、今川義元、武田信玄、徳川家康の保護を受けていた。特に徳川家康は人質時代、この清見寺に滞在したことがあり、元服した際に梅ノ木を植え『臥龍梅』と称されていた。境内から清見潟を見下ろすと、右に三保の松原、左に薩陀岬から田子の浦、富士山が眺望でき、遠く伊勢の山並が望める名所であった。
薩陀峠は東海道の難所として知られ、永禄十二年(一五六九)、武田信玄と北条氏康が争った場所であった。更に、大井川を挟んで多くの三河武将たちが、武田勢と戦い血を流していた。それだけに徳川家は、秀吉に従うことを潔しとしない多くの武将が存在している。特に酒井忠次、本多重次、大久保忠世らは、秀吉を主君家康の仇敵として叛意を顕にしていた。こうした反秀吉の気運の高い徳川家にあって、出奔して秀吉の家臣となった石川数正に代わって、榊原康政と本多忠勝の二人は、関白秀吉に敵対する愚を説き、震災の復興に尽力する信秀を助けた。
関白秀吉に臣従せず、独立国の様相を呈していた北条氏は、関東二百八十万石を領有し、難攻不落の小田原城を擁していた。徳川家康の懐刀・本多正信は、家の存続を賭けて権謀の限りを尽くし、関白秀吉と北条氏政を仲介していた。険悪の一途を辿る両国関係を宥和させることが、徳川家の存続に繋がると正信は考え行動した。しかし、北条との盟約を重視し、上方勢に対抗しようとしていた大久保忠隣、井伊直政、本多正純、奥平信昌、成瀬正成らは、信康を切腹に追い込んだ五徳を、別妻として娶った信秀に良い感情を持たなかった。
富士川以東の吉原、原、沼津も徳川家の領地であったが、地震復旧の名目とは云え、ここに信秀が入ると北条家を刺激することになる。見附での五徳と信秀の淫靡な痴態は、駿河、伊豆、相模にまで広がり、富士川で羽音に驚き逃げ出した平家の公達に喩えられ、侮蔑の対象となっていた。傀儡子、香具師らは、意識的に柔弱な信秀像を流して、北条勢の油断を誘っていた。しかし、焼津や江尻の湊は、穴太衆と田淵衆により、石積みの岸壁が普請され、九鬼嘉隆が率いる志摩海賊衆の大安宅や大筒を搭載した関船が接岸していた。更に、大井川には舟橋が架けられ、窮民救済の名目で、大量の米や大豆が焼津に送り込まれていた。富士川沿いに設けられた防諜網は、北条家の乱破の侵入を阻止し、膨大な兵糧の備蓄を北条家に察知されることを防いでいた。
陸奥に潜入した羽柴井頼から、六月五日、伊達政宗が会津に侵入、六月十一日、黒川城を占拠、芦名盛重が常陸に落延びた、との報せを受け、急遽、信秀は帰京した。才蔵、佐助は五徳の警固に残し、単独の帰京であった。信秀は十里を一刻で奔り、半刻休息を取り、再び奔ることを繰り返し、百里の行程を三日間で駆け抜けた。凄まじい信秀の脚力で、京都の聚楽第の羽柴屋敷に到着した時、息に一つの乱れもなかった。屋敷で衣服を改め、聚楽第に上った信秀は、簡明に関東と奥羽の情勢を秀吉に報告した。
伊豆、相模、下総、上総、武蔵、下野、上野、常陸にて二百八十万石を擁する北条氏、北条氏に臣従した唐沢山の佐野氏忠、足利城の長尾顕長、上野金山の由良成繁、容易に北条氏に屈せぬ宇都宮国綱、那須資晴、結城晴朝、里見義頼、北条氏の節度に従わない佐竹義重、関東の総てが北条氏に従ったわけではないが、関東武士の多くは北条氏を頼り、小田原を政治の中心としていた。関東は名馬の産地であり、広大な武蔵野平野は交通も自由であった。人的、物的に恵まれた北条氏であったが、北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と世を歴るに従い、家柄、門閥を尊ぶようになり、天正十七年当時、松田尾張守憲秀と北条陸奥守氏照の両人が専権を振っていた。豊臣家の興隆を聞いても、我執蒙昧な北条氏政は膝を折って、帰順することもなく、唯々、国境の城や砦の防御を固めるだけであった。
奥羽に勃興した伊達政宗は、芦名、石川、須賀川、畠山を滅ぼし、東は三春に及び北は出羽に跨り、南は白河を過ぎ下野の一部まで及び、奥羽の中心を占め二百万石の大大名に成り上がった。北条氏政と伊達政宗は、同盟を結び秀吉に対抗した。概略を報告した信秀は、驚愕すべき事実を秀吉に伝えた。「松田尾張守憲秀を調略致しました」膝を進めた信秀は、秀吉に何やら耳打ちした。
秀吉の双虹の瞳は、煌煌と輝き、「三郎、師の教えを修得できた喃」と、『戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』、実力を行使せず、謀略や外交などの手段によって「戦わずして勝つ」ことが最善の方法とした竹中半兵衛の教えを実践した信秀を褒めた。
「三郎、そなたは真田昌幸と繋ぎを取り、先程の策を実行せよ。それまでは、上杉と最上を伊達に当らせ、北条の目を欺いておく。それにしても、冶部は『天狗の所業』を怒っていたぞ。江北の武将たちは、そなたに負い目があるから、我慢すると思うが、程々にしておけ」「それでは、わたしとお吟殿との関係を、佐吉に気付かれましたか」「いや、気付いてはおらぬ。それどころか、わしがお吟に懸想していると、勘違い致しておる」「利休殿の近頃の振舞、佐吉や玄以殿の振舞、良からぬ噂ばかりでございます」「小一郎が元気であれば、この患いを取り除くであろうが」余人を交えない養父子の密談は数刻に及び、信秀の顔を見たい寧子やお市をやきもきさせた。
しかし、信秀は奥御殿には顔を出さず退出し、屋敷に戻ってしまった。屋敷に戻った信秀は、麻阿から嬉しい報せを聞かされた。「三郎様、ちと高価ではございましたが、黄金三十枚で青鹿毛を求めておきました。山内対馬守様の奥方様は黄金十枚で求められ、家中の評判となりました。これでわたしも佳き妻と評判となります」朗らかに、麻阿はちらっとかわいい舌を出した。そして、悪戯っぽく「尼殿はなりませぬぞ」と、信秀の耳許に囁いた。(才蔵め、麻阿に総て報せておる)「麻阿の許しがなければ、手を出さぬ。それよりも、腹が空いた」「はい、はい、浮気な亭主殿の夕餉は、用意できております」麻阿は賄部屋に信秀を案内し、鮒と野菜の煮付け、蜆の味噌汁、麦飯を乗せた膳を出した。
「これから大坂に下られるのでしょう?優子殿が、お帰りを待ちわびております」「優子ではなく、そなたが買い求めた馬を見たいからである」「まぁ、三郎様を想い続けている女人より、馬のほうが大事か」また、麻阿の平手打ちが、信秀の頬に飛んだ。掌の跡がくっきりと残った頬を、信秀は擦りながら、「そもじが一番である、天地神明に誓って、麻阿の許しがなければ、他の女人には手を出さぬから、今の言葉は優子には内緒にしてくれ」と、ひたすら麻阿に謝った。叩かれた拍子に、信秀の口から数粒の麦飯が飛び出した。それを拾い、麻阿は自分の口に入れながら、「許して上げますが、想い人を悲しませてはなりませぬ」と、にっこり微笑みを浮かべる。老齢の鬼葦毛に代る汗血馬が、英吉利商人から届けられたと聞かされた信秀は、何よりもその駻馬を見たい心が、信秀を逸らせた。
北条勢が伊豆や相模の城を拡張し防御を固めたのに対して、信秀は徳川家康を説き伏せ、境界にある城や砦を破却し、沼川、狩野川の堤防修復に資材を転用した。この信秀の政策は、小田原城の西を守る韮山城主の北条氏規に、好意を持って受け入れられた。北条氏規は、関白秀吉との宥和を図るように、兄の氏政や甥の氏直を説得し、上方との外交使者として、天正十六年八月十五日、聚楽第で秀吉と対面した。そして、上野の沼田城を北条氏が領有することができれば、氏政と氏直の何れかが上洛拝謁する、と申し出た。当時、真田昌幸は上杉景勝に属し、信濃上田と上野沼田を領有していた。秀吉は上野沼田の三分の二は北条に、三分の一は真田に、北条に真田領より割り与えた土地の代りは上杉家から真田に渡すべしと定め、天正十七年七月、富田左近将監、津田隼人正は越後に下り、上杉家に秀吉の裁決を伝えた。上杉景勝は、豊臣家の使者に直江兼続を副えて真田昌幸に伝えた。先祖を供養する名胡桃城が残ったことで、真田昌幸は沼田城を開け、北条氏直に渡した。燻り続けていた上州沼田の問題が、こうも簡単に片付いた背景には、秀吉と信秀、信秀と真田昌幸、それぞれに交わされた謀計が存在していた。
天正十七年七月当時、北条氏は一門衆を主要な城に配置し、関白秀吉に対抗するため戦時体制を強化していた。相模玉縄城主の北条氏勝は伊豆の山中城の防御強化を図り、反秀吉を強硬に主張した北条氏照は居城の八王子城を大改造し、武蔵鉢形城主の北条氏邦は箕輪城に在城し上野の領国化に奔走していた。相模三崎城主の北条氏規は秀吉との外交に努める一方、韮山城に入り、伊豆の諸城を指揮下に置き、防衛体制を強化していた。信秀が謀略の対象として選んだ武将が、北条氏邦の奉行人である猪俣能登守邦憲であった。彼は上野進出を図る北条氏邦の先鋒として、箕輪領の支配を進めていた。天正十八年八月、沼田城に入り、城周辺の年貢督促や地侍たちの所領争いの調停に奔走していた。猪俣邦憲は粗忽のきらいがあったが、武勇に優れ、庶政の能力も高く、北条氏邦が信頼していた武将であった。秀吉の大名統制において、北条二百八十万石、上杉百二十万石、伊達二百万石と云う大封が許されるはずがなく、北条家抹殺の謀計が着々と進められていた。
京都で麻阿とお吟、大坂で優子と束の間の逢瀬を楽しんだ信秀は、駿河に戻り、三保の松原、久能山、浮島ケ原、人穴、白糸滝、田子の浦など、景勝の地に五徳を連れだし、うつけを演じていた。しかし、信秀が駿河に入ってからは、謎の盗賊集団の暗躍が止み、治安の回復が図られていたし、安部金山からの金銀の採掘量が増加、特産品の茶葉も京都の商人が高値で買い取るようになり、徳川家の財政は豊かになってきた。信秀が派遣してきた穴太衆や田淵衆は、大地震で壊れた堤防や水田の用水路を復旧し、稲の作付けを可能としていた。しかし、震災の影響は大きく、駿河の稲の成育は不良であり、徳川家の重臣は年貢の取り立てに苦慮していたが、信秀は三年間の年貢免除を進言し、徳川家には焼津と江尻に備蓄した米を十万石給する方針を明らかにした。
伊勢の角屋七郎次郎、博多の神谷宗湛、京都の角倉了以は、信秀の依頼を受けて、上総、下総、武蔵から高値で五穀を買い求め、伊勢の大湊に移送した。自領内で軍糧を調達すれば物価が高騰し領民に難儀が掛り、攻め入った敵領で兵糧を徴発すれば恨みを買うことになる。進攻する前の謀略の一環として、敵国の領内で五穀を高値で買い求めることは、敵の兵糧確保を妨げ自軍の兵糧を増やす秀吉の常套戦術であった。
一方、秀吉は、北の南部氏から南の島津氏までの諸大名総てに、十一月を期限として上洛を命じた。当然、北条氏直にも上洛を命じる使者が遣わされたが、北条氏照と松田憲秀は『うかと甘言に乗せられて上洛せば、直ちに釜中の魚たらんも知るべからず』として、氏直や氏政の上洛に猛反対した。松田憲秀は豊臣政権の脆さを逐一説き、伊達政宗との連携を強め、難攻不落の小田原城に楯篭れば、同床異夢の上方勢は瓦解すると主張した。北条氏邦は富士川東岸まで兵を進め、地の利を活かした野戦を主張したが、実権を握る北条氏政は小田原城に籠城する方針を固めた。富田左近将監、津田隼人正や徳川家康は、北条氏直か氏政の上洛を説得したが、上杉謙信と武田信玄さえ落せなかった小田原城を頼る氏政の決心を変えることはできなかった。秀吉との宥和を図る北条氏規は、岡部江雪斎を使者として遣わし、北条氏直の上洛の期限を先に延ばすことに成功した。
九州陣の耳川合戦で失態を演じた尾藤甚右衛門は、北条氏を頼り他国衆の一員となっていたが、誼の深い信秀に繋ぎを取ってきた。秀吉の許に帰参を望む尾藤甚右衛門は、信秀の謀略の片棒を担ぐ役割を負わされた。尾藤甚右衛門は知己のある生駒親正や生駒八右衛門を通じて、名胡桃城を北条家に領有させることを秀吉に願い出て、それを認めた朱印状を賜った。信秀が甚右衛門に示唆したことは、「氏直か氏政を上洛させることに成功すれば、そなたの功績は一等である。それには北条が渇望している名胡桃城を、そなたの手で北条のものにすれば、氏政も納得するのではないか」と、上野一国総てを望んでいた北条の希みを叶えることであった。故信長の命令で秀吉と寧子の養子となり、九州陣では本隊の指揮を取った信秀の言葉に、甚右衛門は喜び勇んだ。見慣れた秀吉の直筆の朱印状を手にした尾藤甚右衛門は、その朱印状に奉行衆の添え書きがないことに気がつかず、功を焦ってそのまま沼田城の猪俣邦憲に送った。朱印状を手にした猪俣邦憲は、天正十七年十月晦日、勇躍して城の受け取りに兵二千を名胡桃城に派遣した。名胡桃城を護る鈴木主水は、驚き、怒ったが、多勢に無勢、やむなく信濃の上田城に退却した。この夜、警備が手薄になった沼田城に盗賊が忍び込み、秀吉が発給した朱印状は賊に持ち去られ、結果的には、北条氏が関白秀吉の裁決を無視して、名胡桃城を奪取した事実のみが残った。
真田昌幸は、この件を秀吉に報告すると共に、駿河の信秀にも報せた。聚楽第の秀吉は、糾問使として大谷吉継を北条氏直に遣わし『氏直、氏政は上洛の沙汰なきのみあらず、今度、名胡桃表の振舞、奇怪至極なり。必竟、帝位を軽からしむる罪科少なからず。よって、勅命を奉じ征伐を加えん』と通告した。更に「北条事、近年公儀を蔑如し、上洛能わず、殊に関東において我意に任せ狼藉の条、是非に及ばず」で始まる北条征伐を宣言した書状を、奥羽や関東の大名に送りつけた。この事態の急変に驚いた北条氏直は、名胡桃城の返還と氏直上洛の意思を伝える使者として、石巻下野守を遣わしたが、秀吉は「既に北条征伐と決したれば、その申し訳を聞くに及ばず」として、彼をそのまま追い返してしまった。
うつけと北条勢から侮られていた信秀は、十一月十五日、満月の明りの許、富士川西岸に展開していた一万の兵を沼津の戸倉城と、愛鷹山の長久保城に入れた。駿河湾には九鬼嘉隆率いる志摩海賊衆、加藤嘉明率いる瀬戸内船手警固衆、長曽我部元親率いる土佐海賊衆、新宮行朝率いる熊野海賊衆、大安宅十二隻、安宅数十艘、関船八百艘が配置され、伊豆の各湊を威嚇し始める。大安宅は八十挺櫨、安宅は六十挺櫨、関船は二十挺櫨、南蛮船の様式を取り入れた帆船も混じり、大砲や長鉄砲を備え付けた大戦闘艦隊であった。
人夫に交じり道普請や河川修復を行い、遊山先で五徳との痴態を見せ付け、遠江・駿河総代官の役儀を放擲したような信秀に、北条勢や徳川家臣たちはすっかり騙されていた。掛川城に五千、焼津に三千、由比の横山城に三千、富士川の東岸の吉原に三千、浮島ガ原に三千、長久保城に五千、戸倉城に五千、信秀は徳川家の寝返りを防止する兵力を駿河に展開した。万一の事態に備えて、五徳を大坂に戻らせ、信秀自らは才蔵、佐助のみを連れて、駿府城に入った。
徳川家の大勢は、関白秀吉に従い『北条征伐』を決意していたが、反秀吉を標榜する若手武将たちは、信秀暗殺の機会を狙っていた。この若手武将たち、酒井家次、本多正純、大久保忠隣、井伊直政、鳥居忠政らで、信秀の家臣である本多政重が説得に当ったが、彼らは自説を曲げようとはしなかった。しかし、嫡子秀忠は秀吉への拝謁のため、五徳と共に上洛していたから、これらの武将たちも自重せざるを得なかった。
天正十七年十二月、関白秀吉は、諸国に軍令を発布した。
   来春関東陣御軍役の事
   一、 五畿内半役たるべき事
   一、 西国並びに四国は、四人役たるべき事
   一、 阪より尾州に到り、六人役たるべき事
   一、 北国は六人半たるべき事
   一、 駿遠参甲信、この五ケ国は七人役たるべき事
   右軍役の通り、用意油断あるべからず。来春三月一日、秀吉出陣せしむる者なり。
   天正十七年十二月 日   秀吉(花押)
中山道から上野に攻め入る別働隊は、総大将織田秀信、副大将前田利家と上杉景勝、案内役真田昌幸と定められた。大坂城の留守居は大和大納言秀長と島津義弘、聚楽第に毛利輝元、清洲城に小早川隆景、西国の有力大名を後詰に配置する雄大な戦略であった。これに対して、北条氏政と氏直父子は、堅城小田原城を中心に、関東の九十を超える城に兵糧を運び入れ、籠城の準備を始めた。上野・下野は北条氏邦、武蔵・下総・上総は北条氏照、相模・伊豆は北条氏規が軍事の責任者であり、諸城の防御を固めた。
信秀の諜報能力の凄さは、この北条勢の防衛網の総てを洗い出したことにある。上野の沼田城・松井田城・箕輪城・厩橋城、下野の唐沢山城、武蔵の鉢形城・忍城・松山城・河越城・岩槻城・江戸城・滝山城・八王子城・小机城、下総の栗橋城・関宿城・佐倉城、相模の津久井城・玉縄城・三崎城、伊豆の韮山城と云う主要な城郭、それを支える城や砦の構え、水の手だけでなく、地侍や国人衆の地縁・血縁を調べ上げていた。特に小田原城の重要な防御地点は箱根峠で、韮山城を南端として山中城・塔の峯城・猪鼻の城・足柄城・浜居場城・河村城・新城城が並び、東海道を取り込んだ山中城は北条氏勝と松田康長が楯篭っていた。風魔小太郎が率いる乱破衆は、松田尾張守憲秀が統括し、徳川家の伊賀衆、滝川家の甲賀衆の侵入を完璧に防御していたが、その鉄壁の防諜網を信秀主従は簡単に破った。数年前から甘利新五郎、榛原の五郎兵衛を関八州の裏社会に送り込み、瞽女や傀儡子の助けもあり、信秀は関八州の詳細な情報を入手した。 
 
豊臣秀吉

 

信長の後継者として天下人となった豊臣秀吉は、「太閤検地」という日本初の全国規模の検地を行った。
その土地でどれだけの収穫があるのかを計測し、その収穫高(石高)を基準として税額を決定する方法。なんのために行ったかといえば、一番に税収を増やすため、全国の土地を把握することで、荘園などの私領や未納だった土地からも税を徴収できるようにしたのです。これによって平安時代から続いた荘園制は崩壊し、江戸・幕藩体制に通じる石高制が確立したのです。
石高を測定する際の物差しや枡を統一することで、納税者側が数字をごまかすことができないようにする意図もあり、小田原攻めに20 万もの軍勢を投入できたのも、こうした増税による潤沢な兵糧が確保できていたから。さらに「刀狩り」によって兵農分離を推し進め、主たる納税者たる農民(当時は米が納税の中心)を土地に縛りつけ、税収の基礎を盤石のものとしたのです。
中には、枡を大きくしたり、物差しを長くして多く取り立てた酷税大名もいたのです。
秀吉は、藤吉郎時代、納戸役(庶務係)の時に薪炭の消費を減らすなど手腕を発揮していて、仲々の経済通でもあった。
信長に仕える前諸国を廻って行商をしていったことが経済感覚を養っていったのでありましょう。「刀狩」は僧兵や、農民から武器を没収し、武器を持って僧や百姓が騒動や一揆を起こさせぬようにしたばかりか、朝鮮出兵時の武器調達でもあった。これが我が国の武器所持を取締る「銃刀法」にもつながっているのです。
秀長、兄秀吉を非難しながら病没
秀吉の異父弟で、秀吉の天下取りに助力した大納言秀長は、病に伏せりながら秀吉の行状を心配し、見舞いに訪れた前野但馬守長康(藤吉郎時代から秀吉を支えた)に一命をかけて豊臣家の安泰を図りたいと語ります。
その一、淀君が鶴松(秀頼の兄2 歳で病没)を産んだことにより、豊臣家の将来を危うくする恐れあり、諸将の動向が心配である。後に福島正則はじめ諸将家康に味方し大坂落城。
その二、大徳寺山門の利休木像寄進は、利休一門数千の発願で、利休に異心疑心の疑いをかけるのは非道である。
その三、朝鮮への出兵について。信長公以来の治国、天下平定の念願を果たし応仁以来の乱国は終った。その間、諸将の出費、百姓の苦しみは言語に絶するものがある。異国に出兵すれば、財政疲弊するばかりでなく、異国の百姓まで苦しめるは必定。今は治国泰平を築くべき時で、朝鮮とは交易を図り、両国和楽の道を探すべきである。しかるに兄秀吉の所行は不可解なことが多い。先般、千利休を郡山城へ招き、胸中を披露し、秀吉に忠告してほしい旨を語り、長康にもこのことを伝えてほしいと伝えた。
秀長は52 歳で死去。秀長健在であったなら朝鮮出兵はなかったであろうといわれるのは、秀長のこうした心情からで、利休の切腹もなかったであろう。豊臣家を支えた秀長の死が、秀吉の暴挙となり、心配通り豊臣は没落。トップに諫言できる腹心の部下が、いかに大切であるか。読みの同じ甘言する部下を重用してはいないでしょうね。
故郷優遇税制と牛蒡
一見厳しい秀吉の税制ですが、反面、人情味溢れるエピソードが、牛蒡の逸話です。
秀吉が関白に就任し豊臣姓を名乗るようになると、各国の大名、商人たちがこぞって祝いの品を送る。そこで故郷尾張中村でも、なにか贈り物をしようということになったが寒村のため豪華品は献上できない。相談の結果「特産品の牛蒡を送ろう」ということになり持参するや、秀吉は大喜びし 「お前たちを手ぶらで帰すわけにはいかん。土産に、尾張中村の年貢を永年免除としよう」 この優遇処置によって、故郷の村は大変潤いました。数年後、裕福になった村人たちは秀吉に感謝するため、お金を出しあって豪華な友禅や駿馬、名刀を買い揃えて秀吉のもとへ。するとこの献上品を見た秀吉がかんかんに怒り、「なぜ牛蒡を持ってこないのだ、牛蒡を食べることで自分が農民だった頃を思い出し、民が豊かに暮らせる国を作らねばならんと再確認した。百姓の基本をないがしろにし、お前たちが牛蒡を忘れるような国を作るつもりはない。それほど裕福ならば優遇処置をやめるぞよ」と諭した。中村の百姓も改心し、それからは本来の農業に精を出して牛蒡を献上し続けたといいます。
はじめて城持ちの長浜城主になった時にも、名産の尾張大根を持参するや、歓待され、次々と大根を持参しお土産を頂いた。その後尾張から持参するのは重いからと近くで買って届けたところ追い返えされたという。いかにも庶民派秀吉らしい逸話もあります。「過酷な取立てをすると、民たちは農業をせず博打に走る。かといって国の根幹である税収は確保しなくてはならない」という税制のポイントに名将たちがいかに苦心したかがわかります。  
 
大崎氏の内紛

 

隆継の跡を継いだ吉継(直継)は弾正忠を称した。天文三年の内乱以後、大崎氏家中では権力争いが続き、天正十四年になるとそれが激化した。その争いを決定的なものとしたのは、大崎義隆の寵童である新井田刑部と井場野惣八郎との争いであった。
刑部は義直の寵愛を一身に集めていたが、そこへ惣八郎が現れて義直の寵愛を受けるようになった。刑部は義直の寵愛と実家の武力を背景に傍若無人な振舞が多かったこともあり、惣八郎の控えめな態度が家中には好もしく思われていた。面白くない刑部は、実家に帰り井場野惣八郎を討つ計画を進め、ついでのことに主君義直も詰め腹を切らせようとした。さらに、刑部らは伊達政宗に奉公を誓い援助を頼ったのである。
一方、刑部一党に命を狙われた惣八郎は進退に窮して、氏家弾正吉継を頼った。はからずも弾正は、惣八郎を助けて刑部一党と対抗する形になった。これに対して、義直は調停に苦慮したが、刑部の甘言にのってその身を新井田城に拘束されてしまった。義直を手中のものにした刑部一党は主流派となり、氏家一党を討つべく諸氏に激を飛ばした。
この間、氏家弾正は義直の室や嫡子らを保護するなどし、義直に反抗する気はさらさらなかった。ところが、義直を拉致した刑部一党によって、氏家弾正はいつのまにやら反主流派として攻撃を受ける立場となった。この事態に至って弾正吉継は、片倉景綱を頼り伊達政宗に援助を願い出た。政宗は先に刑部一党から援助を頼まれたが、義直を拉致した刑部一党は心変わりして、政宗との約束を反故にしていた。刑部らの身勝手な仕打ちに怒りを押えかねていた政宗は、弾正吉継一派を援助することにして大崎出兵を決した。
このように、天正十五年(1587)から同十六年にかけての大崎氏の内紛は、新井田・伊場野の小姓二人の確執がそもそもの原因であった。しかし、反主流派の領袖となった弾正吉継が伊達政宗に救援を求めたことで、内訌は伊達氏と大崎氏との合戦にまで連鎖拡大してしまったのである。 
 
淀殿

 

淀殿(浅井茶々)は、浅井長政・市(織田信長の妹)の長女で母と義父柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉の側室となり嫡子秀頼を出産、太閤の遺命を振りかざして徳川家康に楯突き豊臣家を破滅へ導いた戦国時代の幕引き役、妹の初は京極高次の正室、江は徳川秀忠の正室で家光の生母である。浅井長政は信長に滅ぼされたが市と浅井三姉妹は秀吉に近江小谷城から救出され、本能寺事変後の清洲会議で勝家は市を妻にもらい母子は越前北の庄城へ移されたが翌年賤ヶ岳の戦いで勝家が滅亡、市は夫に殉じたが三姉妹は安土城・聚楽第で養われた。19歳の茶々は色魔秀吉の側室にされ、翌年嫡子鶴松を産んで山城淀城主となり(淀殿)北政所や松の丸殿(従姉)との女戦に勝利、鶴松は夭逝したが2年後に拾丸を出産した(豊臣秀頼)。不自然な懐妊で秀吉が別人の胤を植えた可能性が高いが、淀殿は乳母の大蔵卿局とその子大野治長を重用して家政を握り北政所派(武断派)と敵対する石田三成(文治派)に接近、関白豊臣秀次(秀吉の甥)は一族惨殺され弟の秀勝・秀保も相次ぐ不審死、養子の秀秋は小早川隆景の養子に出された。1598年秀吉が死去、徳川家康は武断派など豊臣恩顧大名を取込んで天下獲りに乗出し、1600年失脚した三成は毛利輝元を総大将に担いで家康に宣戦、秀頼が立てば勝機はあったが淀殿は傍観の態を装い統率を欠いた西軍は関ヶ原で完敗し豊臣家は65万石の一大名に没落した。秀吉の追善供養という家康の甘言に釣られた淀殿は寺社修築で財力を削がれ、秀頼の正室に秀忠の娘千姫を迎え二条城会見には応じたが現実を直視せず感情的に臣従を拒んだ。1614年方広寺鐘銘事件の罠に落ちた淀殿は関ヶ原浪人を掻集めて家康に宣戦、愚将大野治長が真田信繁(幸村)ら五人衆の献策を退けて籠城を選択し、砲撃に怯えた淀殿は余力十分ながら不利な講和を強行、大阪城は内堀まで埋められ裸城となった(大坂冬の陣)。翌年浪人退去か移封かを迫られた淀殿が断固拒絶し大坂夏の陣が勃発、大坂方は不利な野戦を強いられたが淀殿は秀頼の出馬を拒絶し幸村の起死回生策も瓦解、大阪城は落城し淀殿の助命嘆願も虚しく秀頼と共に自害に追込まれた。 
 
毛利輝元

 

1553年〜1625年 毛利輝元は、石田三成の甘言に釣られ関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれるも家中すら統率できず小早川秀秋・吉川広家の寝返りで徳川家康に勝利を献上、本領安堵の偽約にすがり鉄壁の大阪城を明け渡すが祖父毛利元就が築いた120万石を長州藩36万石に削られ重臣を誅殺して保身を図った戦国一の馬鹿殿である。父の毛利隆元が早世したため元就から家督を継いだが家政は叔父の吉川元春・小早川隆景に委ねられ(毛利両川)、隆景が豊臣秀吉に臣従して大封を保った。毛利輝元は、安芸の吉田郡山城から広島城へ本拠を移し、隆景と共に五大老に任じられ、1597年隆景の死により名実共に当主となった。翌年秀吉が死に前田利家も病没、天下を狙う徳川家康が三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派大名を取込み三成を失脚に追込むと、復権を期す三成は五大老の宇喜多秀家・上杉景勝と西国大名を誘引し、1600年景勝・直江兼続の挑発に乗った家康が会津征伐を挙行すると毛利輝元を総大将に担ぎ挙兵、西軍は伏見城を落として畿内を制圧し東軍迎撃の拠点美濃大垣城へ進軍、輝元は豊臣秀頼を守って大阪城に陣取り毛利勢は毛利秀元(輝元の養子)・吉川広家(元春の後嗣)・小早川秀秋(秀吉の甥で隆景の養嗣子)・安国寺恵瓊が出陣した。両軍は関ヶ原で激突、真田昌幸が信濃上田城に徳川秀忠隊を釘づけにして東軍兵力を半減させ、布陣有利な西軍は善戦したが、小早川軍が突如西軍に襲い掛かり寝返り続発で西軍は壊滅、吉川広家の妨害で毛利軍は参戦せず、周章狼狽した輝元は立花宗茂や秀元の主戦論を退け鉄壁の大阪城を自ら明渡した。吉川広家は黒田長政・福島正則を通じて本多忠勝・井伊直政から本領安堵の起請文を得ており開城に際しても念押ししたが反故にされた。毛利家は防長36万石へ押込められ、広家は岩国藩3万石を立藩、秀秋は筑前名島30万7千石から岡山藩55万石へ増転封されるが2年後に発狂死し無嗣改易となった。毛利輝元は、楯突く熊谷元直・吉見広長を族滅して保身を図り、大阪陣で内藤元盛を密かに大阪城へ送込み秀頼を支援した事実が露見すると元盛と二児を自害させ隠蔽(佐野道可事件)、自身は73歳の長寿を保った。 
 
波川城

 

所在地:高知県吾川郡いの町波川 / 別名:葛木城・波川玄蕃城 / 築城年:天正初年(1573年)頃 / 築城主:波川玄蕃頭清宗 / 廃城年:不明 / 主な城主:本山氏
城主波川玄蕃は、元親に降伏後は、元親の妹を妻とし重用されていました。元親の伊予大洲城攻めに際し、玄蕃は軍を率い参戦したが、敵小早川方の甘言にのせられ和睦した。ところがこれが元親の怒りに触れ、幡多山地の城は没収され、果ては波川の城に追い戻されるという厳しい処罰をうけた。それにより玄蕃の元親への不満、激憤は日増しに大きくなり遂に捨て身の反抗へと発展する。しかし事は事前に発覚し、天正8年(1580年)裏切りの烙印と共に自刃させられる結果となった。 
 
「二箇の相承」

 

「人は石垣、人は城、情は味方、仇は敵」という有名な歌があるが、史書は勝頼につらく当たっている。二箇相承の紛失は、勝頼に責任なしとは言えぬだろう。
勝頼は味方に背かれて――日殿の呪いの恐ろしさを示すように、日殿憤死後の24日目、勝頼はまず自界叛逆の難に遭遇している。即ち、3月1日には駿河口の主将である江尻の城主・穴山梅雪が家康の甘言に乗って勝頼に背き、梅雪は勝頼の姉婿であるのにかかわらず雨夜に紛れて甲府の妻子を盗み出すということがあり、駿河口は完全に家康の手に堕ちていたのである。江尻は今の静岡市に合併されているが、今でもここから富士河を伝って甲府に行くのである――武士としては情けない山中での自尽は仏罰と言うべきではなかろうか。
勝頼の最期は二箇相承紛失の仏罰とするが、筆者のこじつけと思う読者は以下の文献を読んでいただきたい。即ち勝頼の父武田信玄については大石が原の仏法に敵対する大罪至極なりと、『富士宗学要集』「有師物語聴聞抄佳跡 上」にあるので、ここに引用しておく。

彼の寺(甲州の大泉寺)は武田信玄公の祈願所なり。信玄の本生は曽我五郎時敦の再生である。大泉寺には日蓮大聖人の聖教が多い。これは信玄が身延山より奪ってきて納めたもので、金泥の法華経一部もあった。大泉寺の寺内には池があって富士見の池と言って、常に富士山の影を浮べるので、かく名づけられている。比の池より流れる川水を富士川と言うのである。
信玄は過去には少し親孝の心があって、再び人間に生ると言へども、身に八逆罪を犯した。第一に父信虎公を追い出し、吾が子を殺す。一門を亡し仏神を焼く、なかんずく永禄12年2月7日北山本門寺の堂を焼き、同6月には大石寺の堂閣を焼き僧衆を責めさいなんだ。あまつさえ永禄13年信玄出陣にさいし大石寺の境内を以て陣屋となし、根方興国城を攻めた。然る処、8月12日大風大波立ち寄って原吉原の道で源氏重代の八幡の旗を津波にとられ、軍勢を沢山ながされた。信玄は近習の侍のみとなり、此の大石が原を逃げ帰った。終に甲府に入る後、出づることなくて死去し終はる
されば信玄が本生は、曽我の五郎であって、大石が原で祐経を討って孝の一分に似たれども実の孝に叶はず。故に悪人なる信玄を生ずるに至り、罪障を重ぬ、此の大石が原の仏法(大石寺の正法)に敵対する大罪至極なり、何ぞ浮ぶ時あらんや。後代の為に之を記し置く。異に武田軍記・甲陽軍記・信長軍記等の如し。

とある。
この文によれば、信玄は身延山より大聖人の聖教を奪ったとある。勝頼の名を以て二箇相承を奪うのも偶然ではなく、親の因果が子に報うということであろうか。親子2代に渡って、大石が原の仏法に敵対したことは、恐ろしい結果を招来したと言うべきである。
世は戦国時代で、国を盗ったり、盗られたりした時代である。勝者は敗者を殺す権利を持っていた時代である。品物の所有権は常に勝者にあった。一国の領主が変わると、自分の所有物でも確認して貰わぬば所有権が成立しない。寺の宝物、什物も、領主が変わる度毎に、寺側から宝物什物を書き上げて領主に確認してもらって安堵の胸をなでおろすのである。その公認の文書を「安堵(あんど)下文(くだしぶみ)」というのである。
大石寺の長持にこの下文が十数葉保存されて当時を物語っている。こんな調子であるから、明らかに重須所有の二箇相承であっても、一度それが、たとえ謀略であっても西山の所有に帰すと、これを実力で奪い返す以外には、その手段がなかったのである。故に北山の宗徒が西山本門寺を焼くというような事件も起きたのである。
この辺の事情が納得されると、富士年表に載せる「天正十年十月二十八日 徳川家康の臣・本多作左衛門、武田方押奪の宝物を取り返し、西山本門寺に寄進す」という事項がやや了解されるのである。北山本門寺には宝物を返さないで西山本門寺に寄進というところに着目すると、西山本門寺に実力があったのであろう。本多作左衛門は歴史辞典によると、[本多重次](1529〜96)安土桃山時代の武将、天文4年より徳川清康に仕え後、広思、家康に歴仕、永禄8(1565)年3月7日奉行となり、鬼作左の名を得、諸方に転戦とある人である。 
 
筑後国人・堤

 

1564年宗麟の下田城責めの時、堤貞元は内縁の好うにより蒲池鑑盛に頼み宗麟に降伏を申し入れ許し再び大友幕下になった。命の恩人なんだ。鎮並滅亡の折り蒲池氏に味方した堤氏一族もけっこういたらしい。筑後国人同士何らかの血縁、縁戚関係がそれぞれあって、どうも嫁はんの方の味方するのが普通だったみたい。堤本家の貞元は最初の妻が小田覚派(資光)の娘、後妻が水ガ江3代龍造寺家門の娘で肥前三根郡筑後川沿いの化粧田もって嫁いで来たそうです。小田氏といえば頼朝重臣宇都宮系八田知家の裔で6代あと小田治久が1333年常陸筑波郡小田の城主で3代あと持家の弟、直家が鎮西小田氏の祖で彼は一時、筑後国に住した。子の直光は分家し1427年肥前神崎郡の蓮池から川副郷一帯に小曲城を築く。
下向は元寇が理由だそうです。所領は、佐賀、神崎、三潴で約6000千町余り、以来、少弐氏に加担5代あと政光の子が覚派(資光)で、政光は神代、江上の大軍が龍造寺を責めたとき苦戦を強いられ隆信に応援頼んだが援軍は来ず政光は隆信に恨み残し死んだ。
子の鎮光はかねて大友と親を通じていたので隆信は甘言を妻女に書かせて佐賀にオビキ寄せ騙し討ちされた。1571年の事であった。彼の殺害を知った妻(隆信養女)は利用されたあげく、自害も止められ松浦一党懐柔策として波多鎮の後室に再縁させられる、後世、波多鎮も秀吉にトリツぶされ又も悲劇に政光の子は3男、増光だけ生きのこる。
大領主はつらいのーこの点、小名、堤氏はよかったです、西牟田氏と共に早くから龍家の軍門に降りて協力することにより復活しその命脈を保つことができた。しかし西牟田氏は権中納言藤原家房の子、家直が鎮西に下り西牟田を称してのち蒲池から養子。蒲池氏に恨みあったのかな、終始一貫し、蒲池氏とは別行動、同族なのに、あげくは蒲池征伐の先鋒に。しかし、蒲池氏は筑後他家に養子よく出してますね。菅原系酒見氏にも。堤氏もあのまま蒲池氏が活躍していたら蒲池系堤氏になっていたでしょう。めったにないが堤墓にたまに3つ巴あるのは何か関係あるのかな。なくても嫁さんとかで上筑後衆はそれぞれ婚姻相互に重ねているわけだしとりわけ蒲池氏の影響強く受け、彼らと縁組は必須、生き残るのに。隆信が攻めてくるまで、上筑後が家族的で平和的だったのはみんな親類関係でつながっていたから。犬塚系図にも下田堤氏へ養子ってあったので堤一族の誰かに養子入ってたりしてたんです。
あと蒲池氏を生み出した宇都宮系諸氏の分布、興味あります。北九州の一帯、豊前、筑後、四国の方、肥前の小田、宮村氏まで、それをホームページでそれぞれ著して紹介して、その流れで蒲池氏を紹介するのはいかがでしょう。海鳥社の福岡県の城には宇都宮一族の城のことよくのってますよ。しかし、その広がり伝播はすごいです。菊池一族以上、大友一族以上、確か、宇都宮氏は菊池氏と共に南朝側でしたね。だから九州においてこんなに一族広まったんです。
九州は南朝の天下が長くつづいたし。大友氏と合わして九州三大族ですね。でも九州戦国時代全然、中央、NHKなどでとりあげられないのは寂しいかぎりです。高橋浄運なんてとりあげられないのがおかしいくらい。沖田畷や、今山、田手畷、耳川の戦いも。僕の先祖、堤貞元は有馬、島津連合軍2千5百あまりにやられました。龍造寺3万とも5万とも言われる大軍が直茂が反対したのに大将のワンマンと傲りは恐い。肥陽軍記のあとがきによく載ってます。 
 
豊福城

 

・・・菊池義武のほうは同年八月九日に隈本城を攻め落とされ、再び島原へ逃れた。その後の義武は島原・人吉を往復していたが、しだいに行き場が狭められたようだ。天文二十三年(1554)豊後へ向かう途中、城原(きはら)の法泉庵で自害した。肥後の一時代を築いた男の最期だ。そして、翌天文二十四年(1555)八月十二日相良晴広も死んだ。相良家の家督は嫡男・万満丸(まんみつまる=のちの義陽よしひ)が継ぐのであるが、このとき十二歳であったので、晴広の実父、つまり万満丸の祖父・上村頼興(うえむらよりおき)が後見役となった。頼興は高塚城に攻めよせる阿蘇惟豊への対応、天草で大矢野・栖本氏と戦う上津浦氏の支援など、問題山積の相良家を切り盛りした。弘治二年(1556)六月、相良・阿蘇・名和氏の間で講和が成立。老齢の身には厳しい日々だったのか、翌弘治三年(1557)二月、上村頼興は七十九歳で死去した。万満丸は弘治二年(1556)二月九日に元服し頼房(よりふさ)と名乗っていたが、後見役上村頼興が死ぬと、その子の三人、上村城主の頼孝(よりたか)、豊福城主の頼堅(よりかた)、岡本城主の長蔵(ながくら)が菱刈氏と結び、頼房に叛旗を翻した。これは「三郡雑説(さんぐんぞうせつ)」と呼ばれ、三兄弟は球磨・八代・葦北の三郡を三人で「山分け」にしようと図ったという。頼房は同年三月二十七日から三兄弟に与する久木野城(くぎのじょう)の上村外記(うえむらげき)を攻撃した。また豊福城を東山城守に攻撃させ、六月十二日頼堅を自害させ豊福城を落とした。七月二十五日、久木野城を落とし菱刈左兵衛尉重州は討死した。八月十六日岡本城落城、九月二十日上村城が落城し、頼孝は真幸の北原兼守(きたはらかねもり)を頼って落ち延びた。北原兼守は八月十一日頼孝の上村復帰を画し相良氏領赤池口へ侵攻したが、頼房はこれを撃退した。また、菱刈勢の反撃はなおもこの年(弘治三年1557)いっぱい続いた。家督相続早々、危機を脱した頼房は上村地頭に犬童美作頼安を置いた。討ちもらした上村頼孝・長蔵については、のち永禄三年(1560)十一月甘言を弄して誘い、頼孝を水俣城へ、長蔵を古麓城へ移し、七年後の永禄十年(1567)四月殺した。
話は少し戻って、頼房が叔父の上村頼孝と長蔵を誘い出す少し前、永禄三年(1560)三月十四日、名和氏と相良氏は和平を結んだ。これによって豊福城は名和氏に譲渡されたという。どういう経緯で和平に至ったのか、争奪の的・豊福城を譲り渡すということは相良氏に分の悪い状況があったと推測されるが、よく分からない。ともかく、豊福城は名和氏のものとなった。 
 
秀吉に対し家康の独立姿勢は三河の挿疑心から出ていた

 

地方政権は、たとえ地の利を得て地形を利用し、中央の大軍をひき入れてこれをなやますことがあっても、ついには勝てない。それが数正の計算であった。古来、無数の事例がそう証明していた。数正の弱気では決してない。
(殿も、降伏なさるべきだ)と、織田信雄が秀吉と単独講和してしまったとき、数正もおもった。が、家康はそれをせず、「あのこと、三介(信推)どのがご勝手に羽柴と和睦なされた。祝着であると申しあげはしたが、しかしかといってこの自分が和睦せねばならぬということはない」と、家康はおもい、秀吉には十分のあいさつをして兵を戦場からひきあげ、ふたたび東海の小覇王として独立の姿勢をたもったのである。
家康がとったこの行動の理由は、いくつもあった。そのなかで、もっとも重要な理由は、恐怖であった。
「秀吉は、えたいの知れない調略家だ」ということであり、「和睦して秀吉の陣屋へゆけば、かならず謀殺される」という疑いから家康の感覚は解放されることがない。家康は史上比類のない打算家であったが、その打算の基底にはつねに恐怖心があった。家康でさえそうである以上、摩下の三河衆にいたっては、「秀吉はかならず殿を殺す」という以外の前途を想像する想像力をもたなかった。そのあたりは山三河人たちの気分でできあがっている三河衆たちの世間狭さということもあったであろう。家康が殺されるという想像がひとすじに成立してしまう以上、三河衆にとってこれほどの恐怖はない。家康ひとりを殺せば、家康がきずいた東海の小帝国はたちどころに消えてしまい、士も卒も路頭に投げだされざるをえない。家康をふくめて三河衆のすべてが、他国から支配されることのつらさを、いやというほどに経験してきた。家康が成人するまでのながい期間、三河は隷属の歴史であり、他国人はすべて悪魔であったと三河衆はおもっている。駿河今川氏に領有されていたときは、三河でとれる米は今川氏が持って行ったし、尾張織田氏に隷属一同盟というかたちで−していたときは、戦場ではつねに危険な部署のみがわりあてられた。それほど働きながら、家康の息子の信康が、信長の命で殺された。信長のその理由は、織田家の息子たちが凡庸者ぞろいで、つぎの代になれば信康にしてやられるかもしれないという不安からであり、真偽はどうであれ、すくなくとも三河衆はいまでもそう信じ、故信長に好意はもっていない。ましてその政権を簑奪した秀吉を信ずるはずがなく、秀吉がどういう甘言を用いるにせよ、かれが尾張衆の代表者である以上、奸佞でないはずがない。
「ゆめ、羽柴に乗ぜられまするな」と、三河の老臣というおとなは、家康に対しすがりつくように懇願した。それがこの時期の三河集団というものであり、家康の独立姿勢というものがかならずしもかれのすぐれた打算の能力からのみ割りだされたものではなく、洞穴のなかに入って出てこないけものの挿疑心から出ていた。
 
武田家の滅亡

 

傍らに仕える上揩ヘ短刀でわが喉を突き通し、北の方の足にとりすがって死ぬ。
勝頼は生き残った侍たちとともに湧き出るように数をふやす地下人どもを相手に戦っていたが、織田勢が到着すると力尽きた。
滝川一益の部隊が押し寄せたとき、勝頼は具足櫃に腰をおろしていた。伊藤伊右衛門永光という侍が勝頼に斬りかかると、勝頼は立ちあがり刀を構えようとしたが、疲労困憊しており何のはたらきも見せずに斬られた。
兵粮にも窮し、飢えていたといわれる。
織田信長は三月五日に安土城を進発し、十四日に浪合(長野県下伊那郡浪合村)で田野から届けられた勝頼父子の首級を実検し、翌日飯田の町で梟首した。
彼は十三日に柴田勝家あてに、甲斐の戦闘が終了したと書状で知らせている。
「武田四郎勝頼、武田太郎信勝、長坂釣閑、典厩(武田信豊)、小山田はじめとして、家老の者ことごとく討ち果し、駿、甲、信とどこおりなく一篇に申しつけられ候あいだ、気遣いあるべからず候」
勝頼の従兄弟信豊は虚病をつかい参戦することなく、信州小諸城の城代下曽根某を頼って落ちのびたが、殺された。
小山田信茂も降伏したが斬られた。
信長は四月二日に上諏訪を立ち甲府躑躅ケ崎館に入り七日間滞在ののち、十日に甲府を出立し駿河へむかった。
信長は甲府滞在中に恵林寺を焼き、武田家重臣たちを斬った。「甲陽軍鑑」にはつぎのように記されている。
「信長甲府へ御著あり。春中より計策の廻文題し給う。武田の家の侍大将衆皆御礼を申せとありてふれらるる。
その二月末、三月始時分に、むたと信長父子の文を越し給うに、あるいは甲州一国をくれべき、信濃半国をくれ候わん、あるいは駿河をくれべきなンどとの書状をまことに思い、勝頼公御親類衆をはじめ皆引き籠り給うが、この触れを実と思い御礼に罷りいで、武田方の出頭人の跡部大炊、諏訪にて殺さるる。
遭遥軒は府中立石にて殺さるる。小山田兵衛、武田左衛門佐、小山田八左衛門、小菅五郎兵衝この四人は甲府善光寺にて殺さるる。
一条殿は甲州市川にて家康に仰せつけられ殺さるる。出頭人秋山内記は高遠にて殺さるる。長坂釣閑父子は一条殿御館にて殺さるる。典鹿父子は小室にて殺さるる。大熊も伊奈にて殺さるる。(中略)高坂源五郎も川中島にて殺さるる。山県源四郎も殺さるる。駿河先方衆も勝頼公御ためを一筋に存じたるをば成敗なり。甲信駿河侍大将いずれも家老衆おおかた殺さるる」
信長は二月末から三月初旬にかけ、信忠と連名の書状を武田の重臣たちに送り、内応すれぼ過大な恩賞を与えると調略をおこなっていたのである。
武田の諸侍は信長の甘言を信じこみ、勝頼に背いて破滅させたが、自らもあとを追うこととなった。
扶桑随一といわれる戦力を誇った武田騎馬兵団を率いる勝頼は、織田、徳川、北条を甲信の山岳に迎え撃ち、激戦を展開してしかるべき条件のもとに和睦する機会をえらぶことができたのに、なすところもなく家中が四分五裂して自壊の道を辿るよりほかはなかった。
勝頼の統率力が弱かったために、信虎、信玄以来の家臣団内部の暗闘が、一挙に明るみへ噴き出たための滅亡であった。
勝頼とともに死をえらんだ家来は、「景徳院牌子」によれば僧二人、士三十三人、女子十六人、計五十一人である。
「甲斐国志」では士四十六人、侍婦二十三人等、主従合計七十二人となっており、実数は分らない。
大廈の崩壊はあまりにも脆かったといわざるをえない、武田家の終末であった。
 
郡内小山田氏

 

武田信玄が戦国時代末期に亡くなり、その後を継いだ武田勝頼とほぼ同時期に小山田信茂が織田信長に忙殺されて、両家とも滅亡したと言われていますが、実際は、戦国大名としての武田氏・小山田氏が終わっただけで、家そのものはその後も続いて現代に至っています。
郡内領主小山田氏は、天正10(1582)年春、織田軍が甲斐の国に攻め入って来た時、善光寺への出頭を命じられました。小山田家17代当主信茂は、婿の武田信尭と妻、母、後妻およびその子らを伴って、善光寺に出向き、織田の手によって謀殺されました。出向いた理由は、織田の「武田信尭に武田家の存続を許す」という甘言に一縷の望みを賭けたからです。しかし、出向いた者全員が殺されました。この時、郡内領主としての小山田氏は終わりましたが、小山田氏が滅びてしまったわけではありません。しかし、その後小山田氏がどうなったかについては、あまり知られていないようです。

信茂の謀殺を知った長子・信綱は、直ちに家を継ぎ、北条勢を郡内に招き入れました。こうして、郡内は戦禍にさらされずにすみました。しかし、この年の10月、北条軍の引き上げと共に、小山田一族は、先祖伝来の領地を離れ、北条氏の小田原への移住を余儀なくされました。不運なことに、頼った小田原北条家がわずか8年後に、秀吉に滅ぼされてしまったのです。
北条滅亡後、信綱は一時、弟治輔と共に結城秀康に仕えていました。その後まもなく徳川家に旗本として召し出されましたが、文禄5(1596)年に死亡しました。この時、信綱の子信友は幼少であったので、信綱の弟治輔が家を継ぎました(この時信寿を名乗る)。そして信友を養育し、信友が18歳になった時、徳川旗本として家を継がせました。この時、信友が徳川旗本になれたのは、彼の伯母の口添えによるものでした。この伯母とは、信玄の娘・松姫が八王子に逃れた時に伴われた信茂の養女(孫娘)香具姫です。香具姫は後に家康の下で暮らしていたという縁があったのです。
信友は徳川家旗本として、大番組小頭、布衣(600石)まで進みました。しかし、その子善九郎吉隆が大番組の時、いわゆる忠長卿事件が起きました。その時、吉隆の伯母(信友の妹)が忠長の家老(朝倉氏)に嫁いでいたので、この事件に巻き込まれてしまいました。朝倉家では妻を離縁して、事件に巻き込まれぬように配慮してくれたのですが、以後、吉隆は幕府に対して遠慮することになりました。
一方この頃、陸奥南部藩(十万石)の藩主は、三代重直でした。重直は江戸の生まれで都会育ちだったので、すべてに都会風を好みました。陸奥の人々の風習を厭い、藩士数十人の入れ替えまでしていました。これらの人々に変えて、江戸風の礼儀作法を心得た者達を召し抱えようとしていました。この時、南部藩の出入旗本であった小山田家にも声がかかり、また幕閣からの下命もあって、吉隆(21代)は南部藩に出仕することになりました。この時身分は公知衆格で将軍家お目得の格式をもっていたとされます。この後数代の小山田家当主達が外様の藩士(陪臣)の身分となりましたが、徳川家家臣の娘達や大名家の縁者を妻にしていたのは、このこと(格式)を示しているのかもしれません。ところが、南部藩は、重直が後継ぎを決めないで亡くなったため、藩存亡の危機に陥りました。だが、幕府の英断によって、寛文元年(1661)盛岡藩と八戸藩に分割されて存続することになりました。小山田家は八戸藩に仕えることになりました。それは、内藤忠興の妹が保科正之(徳川家光の弟)に嫁いでいたので、正之の口利きがあったからです。そして、八戸藩二代藩主の直房が元禄九年(1696)死去した折、小山田平八郎(23代)が藩主の遺骨を集灰したことが記録されています。以後代々江戸常府として、江戸留守居役や藩校の学問の御相手などを勤めながら、幕末そして維新の廃藩を経て今日に至っています。
なお、小山田家の家系については、盛岡藩および八戸藩の藩士について記した寛保元年(1741)南部諸士由緒に 「小山田氏本甲州侍也、故地同国郡代々小山田氏領之」 とあります。また、後の南部藩諸士由緒書控(幕末、嘉永以前、1850年頃)に 「小山田氏、本国甲州世々同国郡領主之家也」 とあり、その由緒が示されています。
 
北条氏康

 

愛民は主将の職分
氏康退隠して、国を子息氏政に譲り、試しに政令を任せて様子を見た。その後氏政と対話の際に、氏康は問うた。「国を譲り受け、今、何をもって楽しみとするか」
氏政は答えて、「家臣を能力により選んで適材適所に分けることを最も楽しみとします」
氏康、「よし。しかし主将が家臣を選ぶのは普通のことだが、また、家臣が主将を選ぶということがある。隣国と戦いに及んだ際、日頃家臣を愛さず庶民に恵みを与えていなければ、彼らは国を去り他国に行って、よい主、よい将を求めてこれに仕えることとなる。故に良き臣を愛し、領民を慈しむということは、主将の職分であるから、必ず主将が自らこれを為し、老臣にもこれを任してはならない。富貴の家に生まれ、暖衣飽食に育って下情に通じず、部下が功を積んでもこれを取り立てず、労を尽くしてもこれを賞せず、皆が怨みを抱き人心既に離れている時に、変事が起こった際になって急に甘言を与えても、誰がよろこんでこれに従うだろうか。そうであるから、部下の功績は寸功といえどもこれを忘れずに時々褒賞して励ますようにしなければならない。これを部下の機嫌取りのように考えて嫌う者もあるが、これは大きな心得違いである。」決して部下の功を盗むことがあってはならないと、氏康の平素常々の教えであった。
吏士を愛し、庶民を恵むは主将の職分なれば、主将自ら為して、家の長臣にも必ず任すべからず
寸功をも忘れず一労をも捨てず時々褒美していよいよ励まし進ましむるを事とせよ

部下を愛し、領民を恵むことが、領主の「職分」であって、他の誰にもさせてはならない、というのは、一見すると新鮮な言葉です。しかし深い含蓄があります。
また、組織論においては、リーダーは人事、中でも賞罰権を手放してはならないといいます。マキャベリズムにも言われるこうした教訓を引き合いに出すと、氏康の言葉の血肉が霞む感じがしますが、通底ではこうしたこととも通じ合うものを含んでもいるでしょう。
上司も人間である以上、部下を愛すといっても難しい面も多々あります。性格が合わないこともある、波長、フィーリングが合わないのも致し方ない、仕事をよくする者、できる者は可愛いが、仕事にも抜かりが多いとなると見る目が厳しくもなる。
しかし、公平であることは心掛けることができるものです。上記氏康の話にも、愛とは別に、功を賞するということを述べています。小さかろうとも功績を賞することは公平に行うことができます。
部下を可愛く思う気持ちというのは、上司のキャラクターに依るところも多いでしょうが、しかし、そもそも「愛する」ということは「恋しい」のとは違って、努力できることともいえます。愛とは行為ですから。
また最後にさり気なく述べられている、「部下の功績を盗むな」という言葉も、今日われわれも大いに戒めとすべきことですね。
自ら誇らず
氏康、十六歳に小沢原の初陣より一生の間に勝利すること三十六度、ついに一度も敵に敗けることなく、往々にして自ら敵に当たり、刀槍の傷は全身に七カ所、顔に刀傷二カ所あり、人々は顔の傷を「氏康傷」と言って貴んだ。
常に政治に心をくだき、家臣には源頼朝の故事を講じ、役人は人品能力をよく見て任免した。
かつて氏康が武田晴信(信玄)と会した際、河越の夜軍の折の戦略について晴信が訊ねたことがあった。氏康は、あれは我が功に非ず、左衛門大夫らの忠勇によるところである、と答えた。自らを誇らないこと、かくのごとしであった。
このようであったから家臣領民みな廉潔謙譲を貴び、氏康のために労を惜しまなかったという。氏康が亡くなるに及び、家臣領民、哀慕しないものはいなかった。
旅装の独言
天正の頃、諸国遍歴の僧が小田原城下に来て、立て札の制令を読むと、大いに嘆息して言った。
「さてもさても残念なことだ。北条家も大いに衰えたものだ。これでは遠からずして亡びるだろう」
この独り言を聞きつけた役人が大いに怒り、憎い坊主の言いようであるとしてこれを捕らえ、そのような発言の理由を問うと、僧は答えて言った。
「私は先年にもこの領内を通ったことがあったが、その時には、制札にはわずか一〜二箇条しか記されておらず、国主である氏康公の寛仁大度のほどが世に優れる故と思い、北条家の行く末ますます盛んであろうと感心し、そのことが忘れがたかった。ところが、たまたま今日また御城下を通り過ぎてながら見たところ、制札にある掟の数は、当時の十倍に増え、十二〜三箇条もある。なぜこのように増えたかと考えると、悪事を為す者が御領内に増えたからであろう。そうした者の増えた原因は何であるか。国主が不仁にして驕り高ぶる故、民は苦しみ国は疲弊していると見える。苦しみ、財産もない故に、悪事を為す者が出る。悪事を為す者が出る故に、その悪事を禁ずるため、このように掟の箇条は増えたのだろう。制札の表書きさえこのようであれば、先代の頃より国が衰えたことは、こうして簡単にわかることだ。」
かの役人はこれを聞くと大いに感じ入り、僧を許した。果たして、この僧の言ったとおり、どれほども経たず北条は亡びた。
 
真田信繁(幸村)の名言

 

いざとなれば損得を度外視できるその性根、世のなかに、それを持つ人間ほど怖い相手はない
信繁は恩義のある豊臣家を守るべく大坂の陣の劣勢下でも孤軍奮闘したことは有名です。信繁は寡兵でもって徳川家康の本陣に迫り窮地に立たせます。真田の武名を残したいという信繁の思いが人生の最後に見事な花を咲かせました。損得勘定についての考え方は人それぞれ違います。どんな選択肢を考えますか。
物事を損得で考えてはいけない
損得勘定で得られるものは自分のためだけのものです。損したくない、失敗したくないという気持ちは行動の範囲を狭めて、自分自身のあらゆる可能性を潰していきます。損したくないという不安、不信から行動を起こすことすらできなくなります。目先の損得を考えない選択は、結果的に楽しくて順調に行くことがあります。知識だけで判断や効率を考えて選択するのではなく自然に感じたまま、やりたいこと楽しいかどうかで判断する習慣を意識することで知らず知らずのうちに、本当の自分を生きるようになっています。自分自身の思いに忠実になることで失敗を恐れない思考になっていきます。損得勘定では得られないものこそ人とのつながりです。自分が損をしてでも、誰かが幸せになって、それを見て自分も幸せになる。そんな素敵な関係もあります。人のつながりで損得を意識していると心が疲れ、見返りを期待している行為が、いやらしさを感じさせます。長く付き合える人は自分への見返りやメリットなど考えていません。損得を考えないことが結果的にお互いにとって良い人間関係になります。損得に左右されて一喜一憂し、心をかき乱すべきではないのです。
物事は損得で考え、判断することが正しい
人間関係の本質は「損得」の関係で成り立っています。損得勘定に欠落している人は、損ばかりで得することがありません。損得を勘定する人は「自分や相手にとって何が得か」ということを常に考えて行動しています。損得を計算しないと、合理的に行動の取捨選択ができません。人間関係で損得を考えるときに「これは良い情報か、悪い情報か」「役に立つか、役に立たないか」と計算できる人は、甘言に騙されて悔しい思いをすることもありません。情報を得るときには、日々の生活の損得を理性的に勘定すること。あらゆる損得を考慮して広い視野に立って考えることが必要です。
損得、そんな価値観あっても無くてもいい
何が得で何が損なのかは、その人が自分の意思で決めるものです。得るものがあってもなくても、そういう時期があります。今やれることがあったら、今の自分にできることに全力を尽くす。人生のトータルはトントンです。得することもあれば、損することもあります。
 
安養院 池田せん 

 

織田信長の乳兄弟・池田恒興(いけだ・つねおき)の娘。安養院(あんよういん)の名でも知られる。同じく織田家で「鬼武蔵」の異名をとった森長可(もり・ながよし)に嫁いだ。池田家と森家は親しく、恒興は次男の池田輝政(てるまさ)を、森長可の父と同じ三左衛門(さんざえもん)と名づけている。
真偽の程は怪しいが、せんは賤ヶ岳の戦いで女ばかり200人の鉄砲隊を率い、織田信雄(おだ・のぶかつ)の陣を銃撃したという。だが小牧・長久手の戦いで恒興と兄の池田元助(もとすけ)、夫の長可はそろって討ち死にした。せんと長可の間に子はなく、森家は長可の弟の森忠政(ただまさ)が継いだ。
せんはその後、豊臣家に仕える中村一氏(なかむら・かずうじ)に再嫁した。一氏は甲賀忍者だったという説すらあるほどで出自は判然としないが、前夫の長可に似た勇猛な人物で、駿河14万石の大名となった。また山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いにも出陣しており、山崎では鉄砲隊を率いたと記され、せんが本当に女鉄砲隊を指揮していたとすれば、一氏と共闘したと思われる。
1600年、関ヶ原の戦い直前に一氏が急死し、11歳の嫡子・中村一忠(かずただ)が跡を継いだ。
しかし一忠は甘言に惑わされて後見人の叔父を殺してしまい、その罪悪感と周囲の冷たい視線に耐え切れず、病を得て20歳で没した。中村家はそれにより改易されたが、一忠の遺児は、祖母せんの縁をたどり池田家(輝政の孫)に仕えたという。
また他に二人の男子がおり、三男の中村甚左衛門(じんざえもん)は関ヶ原の戦いに際し、西軍に城を包囲された細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)の密命を帯びて城を脱出したとされるものの、長兄の一忠が当時11歳なのに幼児の彼が細川家に仕えているのは不自然で、ましてや密命を授けられるわけもない。さらに甚左衛門の子孫が「甚左衛門は天文20年(1551年)の生まれと推定され〜〜」などと発言しており、これは同姓同名の別人と考えるべきだろう。
次男とされる中村正吉(まさよし)は肥後中村家を立てるも戦死したというが、これも一氏の弟の系譜との混同が見られ、記述は甚だ怪しい。
 
菊池高鑑

 

[ きくちたかあき 15??-1554 ] 菊池義武の男。官途は備前守。1538年、八代白木社にて元服した。父菊池義武に従い行動し、主家筋の大友家から独立した行動を取ったため、従兄弟である大友義鎮の討伐勢に敗れ、相良家の下へ落延びた。1554年、大友義鎮の甘言によって帰国する途上、父菊池義武とともに誘殺された。

戦国時代の武将。大友氏一族で菊池氏最後(26代)当主菊池義武の嫡男。
天文7年(1538年)8月24日、八代白木社にて元服、肥後菊池氏祖則隆と父重治(義武)よりそれぞれ1字を取り則治と名乗る。後に伯父・大友義鑑の偏諱を賜って、高鑑と称した。父に従い主家筋の大友氏から独立した行動を取ったため、従兄弟である大友義鎮の討伐軍に敗れ、相良氏の下へ落ち延びた。
天文23年(1554年)11月、義鎮の和平を口実にした帰国の誘いに乗った父と共に豊後国へ向かうが、その途上直入郡木原で義鎮の家臣立花道雪とその配下安東家忠、小野信幸の軍勢に包囲され謀殺された。 
 
荒木村重

 

武人としての村重
村重は天文四年(1535)摂津坂根で誕生。堺で天正十四年逝去、堺南宗寺に葬られたとされる。南宗寺には三好一族、利休をはじめ多くの茶人の墓がある。
元亀二年(1571)八月、白井河原合戦(茨木)。村重は茨木佐渡守を、中川瀬兵衛は和田惟政を討ち取る。
元亀四年三月村重は信長入洛時に細川と共に逢坂に迎え、大ごうの御腰物を信長より賜る(『信長公記』)。七月信長は、真木島に将軍義昭を攻め、追放した。村重も参戦。しかし、足利幕府は滅亡していない。
天正二年、村重は伊丹城を攻略して改修し、惣構の城(町ぐるみ城塞)を築き本拠地とし、有岡城と改名した(国指定史跡)。有岡城は中世から近世への移行期の重要な城である。村重の入城以降、百姓や職人の圧倒的動員力に依り大規模に改築された。東に猪名川が流れ、地形上自然の要塞である伊丹段丘の高低差を利用し、城郭は南北1・7`b、東西800bに及ぶ。惣構内部は土塁・堀によって侍町と町屋に分離、町屋地区では町割が整然と行われ、両側町が成立し同職集住。家臣団屋敷を配した内郭、町屋や寺院の並ぶ外郭からなる。市場を取り込み、より強固に商工業者の活動を把握・支配した。
要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦を配置し、有事の際に周辺村落の受け入れ地となる空閑地を有している。摂津のどの城郭の惣構よりも本拠地を広く囲み込み、領主と町に住む民衆との共通意識と、民衆が領主の城を避難所として利用できる構造である。有岡城を中心に同心円的に家臣を配置。港を重視して尼崎城・花隈城を港近くに築城。瀬戸内海を東西に結ぶ。後、瀬戸内海は村重の命を救った。花隈城近くの神戸港は現在も良港として活用されている。
村重は摂津に大規模用水灌漑を取り入れている。猪名川の上流で用水に取り込み、各所に分水堰を設けて田に水を掛け、末流ではそれを集め次の地区に分水する。猪名野台地の全水田に水を掛け流して行く壮大な水利図がある。猪名川の分水水利は有岡城外構えの濠と密接に関係している(鈴木充広島大学名誉教授)。
信長より「摂津国一識」を仰せ付けられた村重が、摂津を独力で統一し、摂津における文書発給を独占。天正四・五年は安堵状や禁制を発行しなくてはならない状況や軍事行動、百姓一揆も摂津では起こっていないことから村重の支配が安定していたことが分かる(『戦国期三好政権の研究』天野忠幸著)。
天正三年八月、信長は越前一向一揆を攻撃、村重も参戦。天正四年村重は石山包囲の目的で摂津十ヶ所に城砦を築く。翌年、村重は信長の泉南、雑賀の一向一揆攻めに従軍、天正六年二月、村重は石山城の顕如のもとへ和睦交渉に出かけるが不首尾に終わる。その上、城中の飢餓に苦しむ顕如から食料を懇望され、断りきれずに兵糧米百石を城内に入れたことが、本願寺と通じていると讒言された。また、上月城での戦意喪失、神吉城攻めでは、和を乞うた神吉藤太夫とは村重が昵懇の者だった故に一命を助けたことなど、それ以後、村重は有岡城に引き籠ってしまった。ついに、村重は天正六年十月本願寺・毛利などと反信長包囲網を形成して信長に反旗を翻したのである。十一月、村重は一万騎で有岡城に籠城。
村重は、信長に従軍するうち、信長の性格の奥に潜む残虐性と狂気に気付き、信長からの決別を図った。『フロイス日本史』の中に家臣たちの望んでいることとして戦争の危険と辛苦に曝されないで放蕩(平和を願う)に身を委ねるとある。村重一派は信長の強引な戦争政策への批判的な立場をとっていた。
信長は村重を優遇していると思っていたので、村重が打算以外の動機での謀叛が信じられなかったのである。村重が反信長包囲網に加わることは、西国進出を企てる信長が不利になる。慌てた信長は使者を有岡城に遣わせて村重の叛意を諌めている。しかし、信長の甘言に乗ってもいずれ滅ぼされることは自明の理であることを村重は感じていた。信長に従軍すれば、先鋒として近隣の武将や本願寺の顕如と戦い、交渉もしなくてはならない。信長家臣団は敵地へ侵略するのだから、武将たちは名を挙げたいと無慈悲な行為が平然とできる。しかし、摂津で生まれ育った村重にとって近隣の本願寺や播磨攻撃は苦痛であった。戦意を失っても無理はない。
しかし、村重の糾問使として有岡城に派遣された信長の重臣たち(松井友閑、明智光秀、万見重元、羽柴秀吉)を殺害することなく信長の元に返している。しかも、信長と戦うに臨んで、村重は敵方となった武将の縁者や人質も殺すことなく全て返している。村重の長男村次の妻明智光秀の長女(細川ガラシャの姉)は親元に帰ると三宅弥平次(後の明智秀満)と結婚し、彼は明智光秀の片腕となって働いている。高山右近が信長へ降伏したことは村重に大打撃を与えたにも拘わらず、右近の嫡男、父、妹も返している。
黒田官兵衛も、城主から殺せとの密命をうけながらも、牢屋に入れたままで殺してない。後に、官兵衛は感謝して、村重の子孫を黒田藩に召し抱えた。荒木家の墓は博多区妙楽寺にある。息女は黒田家臣の間家・田代家の正室として迎えられた。また、息子又兵衛の歌仙絵が福岡若宮八幡宮で発見されたが、その当時は何故福岡にあるのかが分からなかった。
信長の有岡城攻めは天正六年十二月に始まり、有岡城は籠城十ヵ月に及ぶ。その間、籠城に耐えたのは、有岡城が堅固であったからだ。村重は城造りの鬼才といわれている。
近世の伊丹郷町はこの惣構え部分に形成され、落城後も衰退せず、酒造技術で発展、周辺産業も興して経済を支える一方、旦那衆を中心に俳諧などの文学を隆盛にした。江戸時代には江戸積酒造業の中心として繁栄し、日本を代表する酒どころとなった。有岡城は、宣教師ルイス・フロイスが《甚だ壮大にして見事なる城》と書き残したほどの名城。安土城より二年早く築城された。有岡城は「民」と共に生きる目的で築城。街は現存して使われている(信長は自分の権力を誇示するために強固な石垣を廻らせた安土城を築き、絢爛豪華に飾りたてた。安土城は領民を守るためではなく、信長自身を守るための防衛の城)。
『信長公記』巻12 《荒木伊丹、城・妻子捨て忍び出づるの事》、この記載が村重の評価を下げているが、実際は、城・妻子を捨てたのではない。有岡城内の起死回生を求めて、海から、毛利軍や雑賀衆の援軍を呼び寄せ、新たな戦局打開のために嫡子村次が拠る尼崎城へ数人の供と共に移った(『陰徳太平記』には援軍要請のために脱出と記載)。尼崎城には毛利方の桂元将が来ていた(天正七年九月二日)。その直後(九月十一日)に「一刻も早く待ち申し候」と援軍要請の書状を中村左衛門九郎・武田四郎次郎宛(伊丹市立博物館蔵)と乃美宗勝(小早川水軍の主力、隆景の武将として最も活躍)に送っている。反撃の機会を狙っての村重の緊迫した書状が複数発見され、産経新聞(平成16年11月20号)でも大きく報道された。
逃亡説を打ち消し、汚名返上の貴重な書状である。
村重が敵前逃亡したのではなく、住民を見捨てたのでもない。戦闘意欲が十分あったので自害しなかったのである。有岡城落城の後の十二月十三日、村重の居る尼崎城の眼前の七つ松で信長軍は荒木一族郎党を焼き殺し、妻子親族は引き回しの上、六条河原にて斬首。信長の家来太田牛一さえも『信長公記』に詳しく書いているが、処刑は見る人を戦慄させるほどの凄まじさであった。村重が信長の城の明け渡しの説得に応じなかった結果といわれるが、無抵抗な女や子どもを惨殺してよいものであろうか。信長の狂人的な殺戮は見せしめにはなったが、結局、その刃は本能寺の変で信長自身に向ったのである。村重が尼崎から花隈へ移ってからも七ヵ月間、信長軍への抵抗は続いた。住民の参戦が大きかったのである。
戦場と化すと、寺社や家屋は放火され略奪や暴行が横行し、生産破壊により飢餓に陥る。流通が盛んで生産性の高い摂津や播磨の住民は信長軍の侵攻によって自国が戦場化することを避けたかったのだ。
翌年三月村重は毛利を頼って港町尾道へ移った。尾道は来る人を拒まずの治外法権的な街であり文化人を受け入れる風土である。住居は「筒湯山薬師院水之庵」(西郷寺末寺)。村重が茶の湯に用いた井戸は現在蓋がされて残されている。近くには筒湯地蔵尊があり由来板には荒木村重との関係が書かれていた。西郷寺は時宗寺院であり、近くには時宗の常称寺がある。ここは、情報の集まる所であった。
福岡県に在住の荒木家に伝わる「系譜」の巻物には、尾道に居る村重のもとに信長の長男信忠からの書状が送られていたことが記されている。続いて、《光秀信長卿ヲ弑ス 村重是レヲ聞キ哭踊ス》とある。
内閣文庫所蔵『寛永諸家系図伝』―荒木村重の項にも同じ記載がある。
この時代には「忠義」の慨念がなく、武士は自分の信念に基づいて身の振り方を決めていた。当時の武将は『四書五経』を読んでいたといわれている。
茶人としての村重
村重は若い頃から茶の心得があり、信長が所望するほどの茶道具を持っていたが、献上してない。村重は信長に出会う以前の元亀二年二月五日、村重は弥介として池田紀伊守(三好政勝の甥)・岩成主悦助友道(三好三人衆の一人)と茶会に出席した記録が『津田宗及茶湯日記 自会記』にある。この『茶会記』には、本願寺と結ぶ三好氏の登場が目立つ。阿波三好一族は信長の上洛以前、三好長慶の全盛時代には畿内及びその周辺の八カ国を約二十年間支配していた。村重はその当時池田家で重要な地位にあった。
天正二年、信長は蘭奢待切取り。村重は奉行を務める。
天正六年元旦、信長は安土城に於いて朝の茶会を催す。五畿内と周辺諸国の武将十二人出仕。村重も列席している。
落城後の村重は一族郎党の犠牲は慙愧に堪えなかったのか、出家して「道糞」と名乗っていた。本能寺の変後、村重は尾道を出て大坂城の秀吉の相伴衆として仕えた。
天正十一年、その年には村重の歓迎茶会が四日四夜催された。
秀吉は大坂城落成祝いと政権確立の茶会を天正十一年七月七日に催す。参加者は宗易(利休)・宗及・宗久・友閑(松井)・道薫(荒木)・宗二(山上)。『今井宗久茶湯日記抜書』に《七夕御遊アリ、花七度生リ申候》。
この年には特に村重が列席する多くの茶会が催された。
天正十三年、村重所持の兵庫の壺を信長の二男信雄に譲っている。
天正十四年卯月、堺の道薫宅にて松屋久好・草道説二人、二畳半、床に桃尻花入、高麗茶碗。(利休が建てた妙喜庵の待庵は二畳であった)記録に残る村重最後の茶会。
茶会は、何時・何処で・誰と・何を使ったかを追及することに依って見えてくるものが多い。
有岡城跡発掘調査(昭和五十一年)で戦国時代最古の石垣遺構や家城の先駆をなす庭園跡の遺構や本丸跡の土中から、天目茶碗・染付茶碗・香炉・水滴・明三彩の置物が出土。
村重は侘茶を大成した利休七哲の一人といわれ、茶の湯・能・和歌に長けた文化人であった。当時の茶の湯の有様を伝える『茶会記』に村重は多く登場している。
村重は、兵庫壺・寅申壺・荒木高麗・牧渓画遠浦帰帆絵・ももしり・定家の色紙などの名器を持ち、信長から村重の茶の湯は許されていた。
大名物、唐草文染付茶碗、銘荒木(徳川美術館蔵)は高麗茶碗としては一種独特。乳白色の釉がかかり、一面に貫入が入り、コバルトで唐草様が描かれ、ひなびた味いがある。高級な器を重んじていた茶の湯の世界に、村重は、中国では生活雑器の不完全な美の新たな価値観を持ち込んだ。はっきりと見えない文様の味わいに「侘び」を見出したのである。 桃山時代の意識革命を伝えている荒木高麗≠ヘ村重の哲学を如実に物語っている。明時代16世紀。
村重の遺志を継いだ子孫たち
(1) 村重の子岩佐又兵衛は浮世絵の元祖
村重の子又兵衛は、信長の村重一族惨殺の中、乳母の手で救出され、京都の本願寺子院に匿われて育った。武士より得意の絵師となる道を選び、岩佐又兵衛勝以と名乗った。又兵衛の初期の画技の師は、父が村重の家臣であった狩野内膳といわれる。内膳は「豊国祭礼図屏風」を描いたが、又兵衛も同じ構図で祭礼を描く。
しかし、又兵衛は、熱狂的なエネルギーを画面一杯に描き出している。又兵衛作品の大半は独学によるもので、多くの画法を取り入れ、躍動感あふれる又兵衛独自のスタイルを生み出した。流派に属さなかったことは自由な立場で客観的に被写体を焙り出すことができた。
『洛中洛外図屏風 舟木本』は二千六百人を超える人物が描き込まれた六曲一双屏風で、当時の街の様子や人物が描かれていて、歴史的、民俗的意義も大きい。
人物描法の特徴は「豊頬長顎」、表現は個性に溢れ、物語を読み込み、非常に格調高く、日本の古典・和漢故事人物を描いた。反面、伝統的な画題をユーモア溢れた人物表現もある。又兵衛四十歳の時、北の庄(福井)城主松平忠直(家康の孫)に招かれ、厚い庇護のもと多くの作品を生み、天賦の才能を発揮した。細密技法を駆使した長編の絵巻物が工房で次々に生まれた。又兵衛は絵巻物の中に復讐劇を描き、戦国の悲劇と怨念を、見える形で描き表した。さり気なく置かれた茶道具、異様に妖しく絡まる黒髪が、引き裂かれた両親への追慕と平和への願望の叫びを表している。アニメーションの原形といってよい。
六十歳の時、又兵衛の画才は将軍家にも聞こえ、歌仙絵や花嫁道具制作に江戸へ呼ばれた。その道中記〈旅日記〉『廻国道之記』を残している。
また、戦続きの憂世≠平和な浮世≠ヨとの転換を願った絵画を描き浮世絵の元祖≠ニいわれる。多くの絵画が重文に指定されている。その後、浮世絵は多才な絵師たちにより発展した。
日常の印象的な一場面を瞬間的に捉えるのが浮世絵の特徴で、それはそのままヨーロッパの「印象派」の技法にも通じる。パリ万博をきっかけとして巻き起こった日本芸術熱は絵画だけに留まらず、工芸、建築、演劇、ファションなど多方面にまで及ぶようになり、ジャポニズムを生んだ。又兵衛の絵には時代を先取りする斬新さがある。この芸術性は村重のDNAを受け継いだと思われる。
(2) 今に伝わる古武道・荒木流拳法
荒木流は日本の古武道の中でも拳法≠フ名を冠するきわめて珍しい流派。荒木摂津守村重に始まり(荒木流)荒木夢仁斎源秀縄より伝承された。
荒木流拳法は、古くは中国の拳法から発達した実戦体験から武術として伝えられた。原始的要素を多分に持ち、武術が剣術、柔術などに体系づけられる以前のもので、棒、鎖、小具足、長巻、刀術、拳法などが未分化のまま受け継がれている総合武術である。
荒木流拳法は、鍛錬を重ね、礼や節度などを重んじ人格形成にも努め、いわゆる文武両道を本旨としている。日本武道の発展と他国間との国際文化交流に努められている。明治神宮鎮座九十年(平成二十二年)日本古武道大会で第十七代宗家の菊池邦光先生が演じられ、私は上京して見学した。外国の多くの若者が、熱心に見ていたことは印象に残った。村重の従兄弟の荒木元清は馬術に長け、荒木流馬術の祖とされている。
あとがき
戦国時代は面白い。どの武将もそれぞれの目的を持って突き進んだ真剣勝負だった。それも信念に生命をかけた攻めと守りの凌ぎあいだった。特に村重の生涯を観る時、あらゆる感情、喜怒哀楽がないまぜとなった壮烈な人生であった。そこには卑怯者≠ニか冷酷者%凾フ言葉を寄せ付けない気迫がある。村重の実像は卑怯でも冷酷でもない。
村重は戦≠ナは敗者であったが、人間の精神性の視点から観ると勝者≠ナあったと私は考える。畳の上で最期を迎えた戦国武将は少ないといわれる中で、村重は畳の上で穏やかに彼岸へと旅だった。村重が武≠ナ生きる道を断ち、茶道で内省を促された尾道での鎮魂生活は人間性の復活であった。本能寺の変後に秀吉の大坂城で、村重はかつて敵対した武将たちや当代第一級の茶人と茶室で、安息の時間を共有した。
村重は、人生の終焉が見えてきた時、兵庫の壺≠、信長の二男信雄に譲っている。この茶壺は尼崎城へ来ていた毛利軍への援軍依頼の品として伊丹城から持ち出した愛蔵品。村重に歓喜と悲哀を与えた信長に対し、村重は愛惜の念を込めて信長の子息に譲ったのではないだろうか。後年、信雄は、村重の子、若かりし日の又兵衛を手元に置いた。その間の見聞は、又兵衛の描く絵に生かされたようだ。
茶の湯の奥義を極めた村重を利休は慈しみ、参禅していた南宗寺に、多くの茶人の傍らに葬った(村重愛用の茶碗を利休が引き継ぐ)。村重は利休七哲≠フ一人といわれている。
日本人は世界の中でも礼儀正しいといわれる。茶の湯の効用だろう。
村重の反逆は信長の天下布武の目標を遅らせ、信長の怒りを買ったことは当然だが、叛旗を翻す側・翻される側にもそれぞれ言い分がある。信長の独裁的で攻めの強烈な個性と、村重の住民を守る姿勢を表裏一体とすればよかったのではないか。信長の戦略と性格の長所・短所が如実に現れた有岡城の戦いではなかろうか。
村重が生きたから卑怯者≠フ言葉に単に疑問を持ったことから始まった私の追及が、非常に奥深い問題を孕んでいた。敗者は反論出来ないまま勝者の都合の良い理論で終始している。その上、村重の相手が信長であったことは驚異だった。素人が関心を持つにはあまりにも大きな問題であるが、人間の生き方を考えさせられた重要なテーマであった。村重が関係する地に足を運び体感することは時を超えて得ることが大きかった。村重の生涯の興味深さは、人間性豊かな人物が悲劇的状況の中でも健気に生き、応援する人々があったということだ。細川忠興も村重一族の処刑の際、村重の子ども善兵衛を預り育てている。歴史を感情で論じてはいけないと歴史学者はいわれるだろう。しかし、人が一番望むことは、経済などの形のあるものだけでない。安心立命だ。信長は強烈な個性で天下布武に突き進んだ。信長は明国まで攻めるつもりだったそうだ。後年の秀吉の朝鮮出兵に対し抵抗した李舜臣を韓国では現在でも英雄として称えている(韓国の観光バスガイドが説明)。
村重は「真の武士とは常に修羅道を生きるべき」を実践したのである。戦争の直接体験や死に直面したことのない人には、村重の心中を察することはできないだろう。戦争中は、死を覚悟で戦場へ兵士を送るために死を讃美したのだった。その半面、小学生の私たちには生きることを教えたのである。小学生の避難訓練や学童疎開も盛んに実施された。
村重は明治時代の修身の教科書に「朋友を庇う」と載る。
宮本武蔵の人生訓に《生きることとは「自分を生かしてくれる場」を発見することである》とある。また、冨士正晴氏は『歴史展望』の中に《村重などは、信長に敗れたから、価値低くかかれているだけで、実は相当魅力も知能も教養もあった人物ではあるまいか。信長や秀吉にとって師匠であったらしいと感じる》と書いている(『信長公記』天正八年三月三日伊丹城へ御座を移され、荒木摂津守居城の様体御覧じ)。
今の日本再生は愛と絆である。この機に村重の人間性を見直してほしいものである。
 
長坂光堅

 

長坂光堅とは戦国時代から安土桃山時代の武将であり、甲斐武田氏に仕えた譜代家老衆の家臣です。小笠原氏庶流であり、長坂釣閑斎(ちょうかんさい)という出家名でも知られています。
生年1513年(永正10年)-1582年(1582年4月3日)/ 別名 [虎房・頼広・国清・釣閑斎] / 主君 武田信虎―武田信玄―武田勝頼
諏訪郡代として
1513年(永正10年)に、長坂昌房の子として誕生しました。
これより遡ること6年前、1570年(永正4年)に、主家であった甲斐武田氏では武田信虎が当主となって、甲斐国の統一を積極的に進めていました。
光堅の名が史料に見られるようになるのは、信虎から武田信玄へと代替わりした後のことで、信玄が行った信濃侵攻の頃になります。
諏訪氏を滅ぼし、代わりに諏訪郡代となった板垣信方を補佐する上原在城衆となった光堅は、上原城へと入城。
板垣信方が1548年(天文17年)に起きた上田原の戦いにおいて戦死すると、その後任として諏訪郡代となり、翌年の1549年(天文18年)には高島城を諏訪支配の新たな拠点とし、高島城へ入ったとされています。
その後、武田氏は北信濃を巡って越後の上杉氏と対立するようになり、1553年(天文22年)には跡部信秋らと共に、牧之島の国衆・香坂氏の元に派遣され、備えていたいようです。
同じ年には武田家臣である真田幸隆の娘と、光堅の子・昌国との縁組が行われました。
1557年(弘治3年)に勃発した第3次川中島の戦いにおいては、上杉謙信の侵攻に備えた北信濃の探索を命じられていたようで、、また同年には奉行人としての活動も見られているようです。
1559年(永禄2年)、主君・武田晴信(信玄)が出家し、光堅もこれに倣ったようで出家し、釣閑斎と称しました。
長篠の戦い
1573年(元亀4年)、武田信玄が病死。
信玄の死去後、後を継いだ武田勝頼は武田信豊、跡部勝資らと共に光堅を重用したとされています。
そして1575年(天正3年)に、織田・徳川家康連合軍を相手にした長篠の戦いが勃発。
信玄時代からの重臣であった山県昌景、内藤昌豊、馬場信春らは、敵の兵力が予想以上に大きかったことから撤退を進言。しかし光堅はそれらに反して攻撃を勝頼に進言し、これを受けた勝頼は戦闘を開始ししました。
この長篠の戦いは武田軍の惨敗に終わり、武田家臣の多くも討死したとされています。
武田氏衰退の要因ともなった長篠の戦いですが、その惨敗の原因を作った進言を行った人物として、長坂光堅の名が挙げられることになります。
これは『甲陽軍鑑』の記述によるものですが、この史料とは別に長篠の戦いの前日に、「長閑斎」なる人物に宛てた勝頼からの書状が存在し、この長閑斎は武田氏の領国のどこかの城を守備していたようで、長閑斎が釣閑斎と同一人物であるのならば、光堅は長篠の戦いに参陣していないことになります。
つまり『甲陽軍鑑』に誤りがある、ということになります。
ただこの問題について、この「長閑斎」は長坂釣閑斎光堅ではなく、今福長閑斎友清の可能性があるのではないか、との可能性も論じられているようです。
もしその通りであるのならば、やはり光堅は『甲陽軍鑑』にあるように長篠の戦いに参戦して、その敗戦の原因を作った人物になるのかも知れません。
資金横領の件
1578年(天正6年)に上杉謙信が死去し、御館の乱を経て武田勝頼は後を継いだ上杉景勝と同盟。いわゆる甲越同盟を結びます。
この際に武田氏は上杉氏より資金援助を受けたのですが、『甲陽軍鑑』によると、光堅はその金を横領していたという記述がるようです。これを受けて、春日虎綱が勝頼へと光堅を追放するように進言。しかし勝頼は光堅の甘言に惑わされており、聞き入れなかったとされています。
この記述に関しても、当時の武田氏と上杉氏の取次ぎは武田信豊が務めていたため、その記述に信頼性は無いと指摘されているようです。
武田氏滅亡
1582年(天正10年)、織田・徳川連合軍による甲州征伐が開始。武田勝頼は居城であった新府城を放棄して小山田信茂を頼るも裏切られ、天目山にて自害して甲斐武田氏は滅亡しました。
光堅はこの甲州征伐に際して甲府に残留しており、織田氏によって捕縛されて処刑されたと『甲乱記』にはあります。また『甲陽軍鑑』によれば一条信龍の屋敷で処刑されたとされています。
一方で、『信長公記』によれば光堅は勝頼に従って戦い、討死したとあるようです。享年70。
 
「兵とは、詭道なり」と武士道

 

一 いわゆる武士道は戦国武士道と儒教的武士道に大別される 
一口に武士道・士道といっても、その言葉を用いるものが「武士」のどの側面に重きを置くかによって色々な意味に解釈されます。一般的に言えば、甲陽軍鑑に代表される戦国武士道と、山鹿素行あるいは「葉隠れ」に代表される江戸時代の儒教的武士道に大別されます。
二 戦国武士道とは 
戦国武士道は、切り取り強盗は武士の習い、殺戮(さつりく)をこととする戦国の世ゆえに、まさに『兵とは、詭道なり』を地で行く世界であります。しかし、それゆえに、他人に騙されること、(のみならず)自分に騙されることを最大の恥辱と考えて、そうゆう罠に陥らないように日々心掛けて修練し、その策略の上を行くのが戦国武士道の誇りであったわけです。言い換えれば、常に正確な情報を集め、事実を直視し、ことの本質を把握することが必要であり、そのためには、一切の虚飾・虚妄を廃し、常に自分自身と対決しこれを向き合う作業が必要とされたのです。その結果として、まわりに油断をしている(戦国武将らしくない人物の統治する)国があれば、これを侵略して奪い取っても、それは名誉なことではあっても、決して卑怯なことでも恥でも無かったわけであります。逆に言えば、たとえ理不尽に侵略され、敢え無く滅亡したとしても我の油断・不徳を素直に認め「敵ながら天晴れ」と賛辞を贈るしか無いのであります。
三 儒教的武士道とは 
儒教的武士道は、元和偃武(げんなえんぶ)を以てする泰平の世の到来により、いわゆる生産階級たる農・工・商業の民に対する「戦士」たる武士の存在意義が問われていたのであります。言い換えれば、武士の武士たる所以(ゆえん)の軍事力は無用の長物となり、代わって(幕藩体制という)社会秩序の維持が優先された訳であり、(武力をもって立つ)武士が(武力無用の時代に)民をいかに治めるかという問題が提議されたわけであります。そこで彼の山鹿素行は、武士の武士たる所以(ゆえん)は「生まれ」にあるのではなく、真に尊敬される「リーダーとしての思想と行動にある」と断じたわけです。リーダーたるにふさわしい最高の修練を積んでこそ、(生産階級たる)農・工・商の上に立つ武士たるにふさわしい存在であるという訳であります。その極致が責任をとってのいわゆる「ハラキリ」であり、見事に切腹できることが武士の最高の栄誉とされた所以(ゆえん)であります。ここにおいて、外政における権謀術策、すなわち兵の本義たる『兵とは、詭道なり』の思想が片隅に追いやられ、内政における人倫の基本、すなわち「仁・義・礼・智・信」の儒教的精神が中心となっていったのです。言い換えれば、戦国武士道のごとく『兵とは、詭道なり』の考え方を全面的に肯定し、(内面においては)これに負けない人間的修練を積んでその上を行き、(外面においては)その成果を具体的な合戦に持ち込んで敵に勝つことを名誉とした思想は、江戸時代に入って「人として己に克つ」という意志の問題として内面のみに向けられて行ったという訳であります。それとともに孫子の曰う『兵とは、詭道なり』の考え方も泰平の世の危険思想として表舞台から姿を消していったわけであります。戦士から官吏へという支配態様の変化は、時代の変遷に応じてまさに時宜を得た対応ということであります。しかし、孫子の『兵とは、詭道なり』の思想が片隅に追いやられて行ったことについては下記の理由により首肯てきないところであります。
四 孫子の曰う『兵とは、詭道なり』の真意 
まさに平和の時代に移行した武士の戦いが「己との戦い」、言い換えれば「意志の問題」に転化したわけでありますから、この点に限って言えば、孫子の曰う『兵とは、詭道なり』の言はさらに奨励・鼓吹されて然るべきものであったのです。何となれば、人間の内面における戦い、つまり意志の問題は、まさに「いかに自分が(他ならぬ)自分に騙されないようにするか」を真のテーマとするものだからであります。人間が何ごとかを為そうとして果敢に行動を起こしても、それが見事に挫折するのは、基本的には自己の内面からささやく悪魔の声に耳を傾けるからであります。この甘言に酔い痴れる時、人は失敗という名の自己嫌悪への道を歩み始めるのです。その意味で、戦いの本質を喝破する孫子兵法の『兵とは、詭道なり』は、いわゆる「条件づくり」とまさに同根の思想であります。凡そ、人間社会において何ごとかを企図すれば、必ずや「今ある条件」を活用して、「まだ足りない条件」を新たにつくり上げて行くという作業が要求されます。その意味で、通常、戦いの嘘は「武略」と言い、仏の嘘は「方便」というのであります。つまりはそれぞれの目的を達成するための「条件づくり」に他なりません。早い話が、こと男女の恋愛においても、意中の人の心を得ようとすれば、自ずから様々な「条件づくり」を意識するとしないとに関わらず演出するのであります。その事情は、いわゆるビジネス・商売においても同様であります。つまり、人間社会において「条件づくり」は極めて普遍的な事象と言わざるを得ません。その意味で、「条件づくり」とは、いわゆる「お金」と同じく実に中性的なものであり、悪用するか善用するかはその当人の倫理観の問題であり、「条件づくり」そのものに問題があるわけではないのです。孫子は軍事を論じて、勝利するための「条件づくり」をたまたま『詭道』と表現したに過ぎないのであります。逆に言えば、泰平の世にあってもより良く生きるためには当然に様々な「条件づくり」が不可欠の要素となるのであります。江戸時代の儒学者は孫子の『詭道』を評して、凡そ泰平の世に似つかわしくない危険思想であり禁忌すべきものと主張したのでありますが、これは上記の理由により甚(はなは)だしく悪意と偏見に満ちた思想と言わざるを得ません。そもそも「条件づくり」は、目的を達成するために講ずるものゆえに、泰平の世で文字通りの「詭道」をそのまま展開する人がいるとは凡そ考え難いことだからであります。そのゆえに「条件づくり」と同意の『詭道』は、戦国武士道にはもとよりのこと、江戸期の儒教的武士道にも作用するということではあり、況(いわ)んや、個人が個人の「自由意志」で生存のための戦いを思う存分繰り広げることができる現代においておや、ということであります。孫子兵法の巻頭言は、まさに戦いは個人・組織を問わず意志と意志との争いであること、それを解読可能とするものが葛藤・抗争の原理としての戦略的視点であることを明示するものであります。吾人が孫子兵法を学ぶ所以(ゆえん)であります。ご質問にいう「現代において士道を極めんとする者の覚悟」とは、まさに孫子のいうその戦略的視点を用いて自己の向上に邁進する者のことを言うものと愚考いたします。
 
文禄・慶長の役にまつわる民話

 

「島根の伝説」に収録された「大地主さん」という民話。暗いトーンの話で印象に残っていた。
手柄を立てたら三間(約5.5メートル)の梯子に登って見渡す限りの土地をやろうという役人の甘言につられた男が朝鮮の役に渡る。男は無事帰ってくるが、約束通り地主にする訳にもいかず役人は男を殺すことにした。村を見下ろす峠で男は約束を反故にされ役人に斬られてしまう、という話。
文禄の役とされているが、慶長の役の方が厭戦気分が蔓延していそうな気もする。周囲の人間は騙されとると忠告するが大地主さんは耳を貸さずに海を渡ってしまう。
三階町細谷に男を祀ったとされる小さな祠があるらしいが、細谷といっても広いし、どうやって訪ねたものか、市の教育委員会に訊いてみてもいいのかもしれないが、今ひとつ踏み切れない。朝付峠(あさつけたお)と記述があるので、ある程度は絞りこめるが。
三階山周辺を走ってみる。道が細く、対向車が来たらどうしようと思いつつ走る。バス停「朝付峠」から百万騎方面へ進む。名前の通りかなり急な坂であった。周辺には道祖神が多く祀られていた。
朝付峠と道祖神。伝説だと大地主さんはこの辺りで斬られたことになる。
同じく、文禄の役を題材にして、「彦兵衛の石」という民話が益田市に残されている。彦兵衛がわらじに挟まった美しい小石をみつける。うすむらさき色の美しい光を放っているとも。戦が終わって日本に持ち帰ったところ、石が一回り大きくなっていた。そうしたことから「彦兵衛の石」として祀られるようになったという話。
赤雁町の天道山から見た解説に「この地に八幡宮を勧請したのは赤雁(あかがり)益田氏第五代兼豊(かねとよ)であり、豊臣秀吉の朝鮮出兵にあたって、武運の長久を祈って天正15年(1587年・安土桃山時代)10月15日に造営されました」とある。
赤雁は狭姫の伝説が残る地だが、赤雁益田氏の拠点でもあったとのこと。
 
「出雲の鷹」

 

「出雲の鷹」は、すなわち山中鹿之助幸盛である。戦国時代に尼子氏につかえた武将で、鹿之助は鹿之介とも鹿介とも表記する。
尼子氏は、出雲守護代となった持久が富田城を根城に、16世紀初頭には出雲を中心とする11か国を支配下においた。
経久の孫晴久は、1554年、毛利元就の策謀にはまって尼子の精鋭をなす新宮党(一族の国久・誠久)を誅し、自ら勢力を弱めた。大内氏及び大内氏と結んだ毛利元就の圧迫を受けて支配圏が漸減し、晴久の子義久の代に富田城は陥ちた(1566年)。
鹿之助は、囚われの義久救出をはかるが、本人に再起の意欲がなく、断念。国久の遺児勝久を擁して出雲に挙兵したが、敗れて京にのがれた。織田信長をたより、羽柴秀吉の先陣として播磨上月城に籠もったが、1578年、毛利氏の大軍に攻囲されて勝久は自決。鹿之助は、毛利輝元の下へ護送される途中で殺害された。享年34歳。以後、尼子残党の動きはない。
本書は、鹿之助の初陣からその死に至る20年間の光芒を描く。
「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力試さん」
鹿之助は月をあおいでこう詠んだ、と伝説は伝える。この歌は本書には引用されていないが、代わって「願わくは我に七難八苦を隆し給え」がバラッドのルフランのようにくり返される。
げにも苦難の多い、短い人生であった。苦難の最たる理由は、主君に恵まれなかったことだ。最初に仕えた晴久は、家臣よりも金銀を愛し、気まぐれで甘言を愛でた。その子義久は、「荏苒遊惰にして勇力も亦晴久に及ばず」、女色に溺れ、佞臣の妄言におどらされて人心を失った。勝久もまた、謀略にのって忠臣を誅殺している。
勃興する毛利氏に与したならば、別の人生が開けていたかもしれない。権力の移行にあわせて幾たびも主君をとり替えるのは、乱世における常道である。「忠臣は二君に仕えず」の武家倫理は、秩序維持の観点から江戸時代に人為的に創出されたイデオロギーにすぎない。
しかるに、鹿之助の脳裡には尼子の二字しかなかった。目はしのきかない人物なのだ。七難八苦が殺到するのも当然である。自分自身が招き寄せた苦難に同情を寄せるに及ばない。
突きはなして言えば、そういうことだ。
にもかかわらず、この特異な人物にはひとの心を惹きつけるものがある。設定した目標はつまらない。しかし、ひとたび設定した目標を堅持する一貫性、目標達成のためつくす精力に瞠目させられるのである。
クラウゼヴィッツのいうように、戦さは政治の延長であり、政治は結果がすべてである。結果が出なければ歴史の闇に埋もれてしまう。だが、歴史小説という照明弾がうち上げられるとき、闇のうちに忘却された人々がつかの間だけ甦る。「出雲の鷹」のように。
 
曽呂利新左衛門

 

豊臣秀吉のお伽衆(とぎしゅう)の一人。お伽衆とは大名などのそばにいて、話し相手を勤める役をいう。
生没年不明。事歴もはっきりしないため、実在に疑問をもつ人もいるが、それは数々の付会された逸話の主人公に擬したからで、伝承のモデルになった人物が実在したことは確かである。
貞享元(一六八四)年刊の『堺鑑』に、「彼は堺の南荘目口町のさる浄土宗の寺に間借りしていた刀の鞘師(さやし)で、細工が上手。どんな刀でもそろりと鞘に入ったから、曽呂利というあだ名がついた。のちに秀吉に召されお伽を勤めるが話術に長じ、森羅万象にわたる豊富な知識をもとに、軽口・頓知(とんち)・滑稽噺(こっけいばなし)を語って秀吉に気に入られた。彼の逸話は『鼠楼栗(そろり)が咄(はなし)』として世俗にもてはやされている」との内容が出る。
また天保八(一八三七)年刊の『茶人系全集』には、「本名は杉森甚右衛門(あるいは彦右衛門)といい、剃髪(ていはつ)して坂内宗拾と称した。茶道を武野紹〓に学び、秀吉の愛顧を受ける」との意があり、ここでは頓智や滑稽話は全く記されておらず、志野宗心にも香道を学んだ風流人として紹介されている。世俗を超越し秀吉らの権威におもねることなくずばずばと直言したところが、かえって甘言や追従(ついしょう)に慣れた秀吉に好まれたのかもしれない。
世に広まる逸話の一、二を挙げる。秀吉が猿に似ている己の面相に劣等感をもっていると、「いいえ、猿の方が殿様を畏敬(いけい)して似せたのでござる」と笑わせた。秀吉が昼寝をしていると、「大変です。きうりがきうりを食べています」と起こされ、そんなあほなといってみると、木売りが胡瓜(きゅうり)を弁当のおかずに食べていた。ある時、秀吉が「奥山に紅葉ふみわけなく蛍」と詠み、下句をつけよと命じる。曽呂利はすかさず「しかとも見えずともし火のかげ」とやったので、側近たちは感嘆した−などである。
そのほか「秀吉の耳の匂(にお)いをかぐ」「米買いの狂歌を詠む」「大きなもの比べの狂歌合戦」「夢に黄金を見て糞(ふん)する話」「一粒の米の倍増話」「そばかきの狂歌」などが今に伝わるが、以上はすべて一休和尚の頓智話と同じく、出版文化が盛んになった寛文年間(一六六一−七三)以降に創作された話で、新左衛門とは何のかかわりもない。
彼に関する最初の文献は寛永年間(一六二四−四四)刊の『昨日と今日の物語』で、曽呂利は関白豊臣秀次(秀吉の養子)のお伽衆だとし、夢に黄金を拾う話を紹介している。この書物は秀吉没後二十数年だから、この時代にすでに新左衛門は伝承化されていたことが分かる。その次は寛文八(一六六八)年刊の『曽呂利狂歌咄』で、「松の狂歌」「耳嗅ぎ」「ごまもち」「そばがき」「米蔵と紙袋」などの話を載せているが、先記の『堺鑑』の新左衛門経歴部分は、本書からの引用かと思われる。
同十年には『曽呂利物語』と題した仮名草子(かなで書かれた平易な短編小説集)が出るが、これは亡魂・蛇・狐(きつね)・天狗(てんぐ)などを集めた怪談集で、はしがきに、「天正のころ(一五七三−九二)雑談の名人曽呂利新左衛門が秀吉に呼ばれ、おどろしきこと語れと命じられた。博学の彼は毎夜語り続けたが、今では記録が散逸して分からない。編者はわずかに残ったものに多少の潤色(じゅんしょく=面白く作りかえた)を加えて本書を発行する」との内容がある。
この本は『御伽物語』(荻田安静作)に十話ほど引用され、近代怪異小説の源流だと評価される。編者は分からないが、一般に流布している曽呂利話とは異なっていて、恐ろしい話ばかりだ。
その二年後の寛文十二年、有名な学者僧浅井了意は、俳諧狂歌逸話集『曽呂利狂歌咄』を出している。これは在原業平・小野小町から無名の世捨て人まで、和歌・連歌・俳諧に作品を残した人物百六十話を集め、曽呂利逸話を別刷りにしてまとめている。新左衛門が詠んだとされる狂歌を並べ、制作動機や逸話を付けて解説したもので、従来の曽呂利物を参照した点も多いが、なにしろ天下の了意が書いただけに、新左衛門の数々の逸話が事実として世間に定着する原因になったと思われる。『皇都午睡』『半日閑話』『牛馬問』などの江戸時代の随筆書にある曽呂利の話は、すべてこれを脚色している。
堺市堺区中之町東四丁の「妙法寺」に、新左衛門の墓がある。また明治の奇行落語家桂文之助は、二世曽呂利新左衛門を名乗っている。
 
政宗の毒殺未遂事件 

 

・・・『貞山公治家記録』には、保春院が政宗毒殺を謀った背後には最上義光がいたと書かれている。
「御母公今度不義ノ事ヲ企テ玉ヘル由来ハ御弟最上出羽守殿義光ノ奸悪ヨリ起レリ(中略)公會津ヲ攻取リ玉フニ就テ 関白殿御憤リ深シ如何様ニ仰付ラルヘキモ計リ難シ此時節 公ヲ毒害シ小次郎殿ヲ立テ玉ハ﹅上ノ尤メモナク近郡諸将ノ怨モ有ルヘカラス然レハ此計策 御家長久ノ基タルヘシト誘テ實ハ 公ヲ失ヒ其後ハ小次郎殿ヲモ殺害シ又ハ其封内ヲ割取ラン事ヲ計リ内々不義ヲ勸メラル 御母公察シ玉ハスシテ其言ニ惑ヒ玉ヘリト云云」
この文章によると、最上義光は保春院に対し、伊達政宗が会津を攻め取ったことを豊臣秀吉が怒っており、どうするべきか難しい時期ではあるので、政宗を毒殺して、小次郎に家督を継がせることで、惣無事令違反の責をとがめられずに済む、近隣の諸将の怨みも無いであろう、伊達家存続のためだと言ったという。しかし実は政宗を殺害し、そのあとに小次郎も殺害して、伊達領を切り取ろうと謀っていた、と『貞山公治家記録』は述べている。文面を見ると、最上義光は「甘言」をもって、保春院を「誑かし」などと書かれていて、義光に対する評価がとても悪い。表現も歴史の記録書としては大袈裟といえよう。江戸時代の「お家騒動」を思わせる事件内容とストーリー展開ともいえる。ここでは最上義光は「御弟」となっているが、『山形市史』では義姫の兄となっている。
しかし、最上義光にこのようなことをすることができたのであろうか。実は義光自身もこの時に惣無事令違反に問われていたのである。 
 
『リア王の悲劇について』 シェークスピア

 

はじめに
暴君であったリア王は、3人の娘たちにそれぞれ自分に対する忠誠心を語らせ、彼女たちの愛情の度合いに応じて領地を分け与えようと考える。ところがリアは二人の姉の追従を信じ、口先だけの甘言を嫌うコーディーリアの愛情を見損なったために、領地を手にした二人の姉たちに追い出され、地獄のような辛酸を嘗める。リア王に関する評論をあまり読んだことははないので評論の世界でどのような解釈があるのか知らないが、『リア王』のテーマが上に書いたような裏切られた父性愛であるとか、姉たちの追従を見抜けなかったところにリアの悲劇の原因があるといった見方が、よくなされているように思う。ごく表面的に読むと、利己的で追従の上手な姉二人とコーディーリアの対立や、追従を信じ誠実なコーディーリアを斥けたことに対するリアの後悔がこの作品のテーマであるという印象を受けるかもしれない。しかしシェークスピアが描こうとしたテーマはこのような家庭内の悲劇ではなく、その背後にあるもっと巨大な流れであると考える。シェークスピア研究家のモローゾフはシェークスピアの時代背景について次のように述べている。
「数世紀のあいだ永遠にびくともしないとみられていた古い、封建的な世界は、新しい資本主義的諸関係によって、その土台からゆすらぶられはじめていた。」
『リア王』の背景となっているのは、このような急激な社会変革の時代である。この背景のもとに、領地を分割することによってリアが何を望み、その望みがどのように打ち砕かれてゆくのかを考えることが、リアの悲劇の意味を解きあかす契機になると思われる。
リア王
老齢に達したリアは王としての勤めを果たすことが辛くなり、また時代の流れについてゆくだけの力量も失っていた。そこで領地を娘たちに譲りわたし、王の称号だけを手元に残して引退することを決心した。リアのこの決心は側近であるグロスターにとっても「虻にでも刺されたように突飛なこと」(斉藤勇訳)であったと書かれている。このような思い切った王権の譲渡は、誰もが予想しないことであった。
リアは領土を三つにわけ、長女ゴナリルと次女リーガンにはまったく平等なふたつの土地を、もっとも可愛がっていたコーディーリアにはそれより「一段ゆたかな三分の一」(坪内逍遙訳)を分け与えようと考えた。公平な領地の配分によって「永く未来の争根を絶たんがため」(同上)である。当時周辺諸国で実際に生じていたであろう領地をめぐる肉親同士の争いが、リアにこのような方策をとらせたのかもしれなかった。リアは自分の死後娘たちやその婿たちが領地をめぐって醜い争いを起こすことを望まなかった。自分が生きているうちに平等に領地を分け与えることで、一族の平和と安泰が守れると考えていた。
リアは一族の安泰のために領土を平和的に分割する方法を選んだ。しかし国内外の情勢が不安定なこの時代にあって、このやり方は為政者として賢明な方法ではなかった。外国の侵略を防ぎ国力を増すためには、国家のさらなる統一が必要であった。リアのやり方は娘たちに中途半端であてにならない権力を与えることを意味していた。一族の安泰と平穏な余生願うリアの望みと時代の流れがぶつかり、悲劇が生じる最初の結び目がこの時出来上がった。
第一幕の王権譲渡の場面では、露骨な追従を口にする姉たちと誠実なコーディーリアの対比や、リアとコーディーリアの対立が前面にあらわれ、リアをとりまくこのような社会的背景は背後に押しやられている。リアを諌めるケントの忠告も、領土を分割し王権を譲り渡すこと自体に反対しているのか、コーディーリアの勘当に反対しているのかはっきりしない書き方になっている。ところでこの場面でコーディーリアやケントに激しい怒りをあらわすリアは、愚かな暴君のように見える。逍遙が述べているように、リアの振る舞いは頑迷でわがままである。しかしリアの行動を全体として見るとき、その内容は暴君とは言いがたいものであることに注意する必要がある。
リアは一族の結束や愛情を重んじる人間であり、リアのこの価値観をもって考えたとき、三人の娘たちに自分の愛情通りに領地を分け与えてやり、一切の国務執行権を与えてやり、このような娘たちへの愛情に対して当然娘たちの方も自分に対して深い感謝の念と愛情を注ぐであろうと考えることは、リアにとってはごく自然なことであった。リアは自分に対する愛情の度合いによって領地を分け与えようとしたのでも、娘たちの愛情をためそうとしたのでもない。領地を譲渡することも領地の配分の仕方もリアにとってはすでに決定ずみのことであった。ただ、このような巨大な恩恵と娘たちへの愛情に対して、王として長年敬われ続けてきた人間らしく、耳ざわりのよい感謝の言葉を聞きたかっただけである。
この気まぐれはリアにとっては些細なことであり、3人の娘たちは当然自分への愛情を誓うであろうとリアは考えていた。ところがリアの知らないうちに娘たちはリアとはまったく違った価値観を身につけていた。二人の姉たちは一族の結束や愛情といった、リアが全盛の時代には国の安泰とも一致していたであろう価値観よりも、個人の利益の方を重要視するようになっていた。一方のコーディーリアは我が身の利益のためにはおべっかも辞さない姉たちへの批判意識を身につけ、リアと対立してでもその信念を貫こうとした。リアが名実共に王として君臨していたころには表面に現れなかったこういった価値観の対立が、リアの引退を契機にして表面化することになった。
コーディーリアは勘当され、フランス王に嫁いだ。王権の譲渡から幾日もたたないうちに、世間では早くもゴナリルの夫オールバニ公とリーガンの夫コーンウォル公のあいだに戦が始まるという噂が流れていた。楽隠居を決め込んでいたリアの耳には、世間のそんな噂も入らなかった。リアは父親として当然娘たちの手厚い世話を期待していたし、また広大な領地を譲ってやった返礼として自分が余生の慰みに従えている百人の騎士を養うことぐらいはたやすいことだと考えていた。しかし中途半端な権力を与えられ、不安定な地位にいるゴナリルにとって、リアの従える百人の騎士は脅威であり、リアが手元に残している王の称号は目障りであった。
「武士を百人も! 事がありゃ直ぐ役に立つやうに、武士を百人も附けておくといふのは、ほんとに用心のいゝ、聡明な為方です。はい、聡明な為方ですよ。たわいもない邪推や空想や噂や苦情の起るたびに、気に入らんことのあるたびに、あれらを老耄の後押に使はせて、わたしどもに対する生殺与奪の権を握らせておくといふのは・・。」
ゴナリルは騎士の数をめぐってリアと仲違いしたあと、リーガンが自分と同じようにリアを拒絶すればそれでよし、「若しわたしの忠告に関わらず、彼女が父と其百人のお附きとを歓迎するやうなら・・・」と、妹夫婦との衝突をすでに計算に入れている。一方のリーガンは父親と姉のどちらにつく方が得策かをうかがっている。一族の結束を何よりも重んじ、国家の平安もこのような結束の上に築かれると信じてきたリアには、新たな時代の動きの中で生じてきた娘たちのこうした欲望や打算がまったく理解できなかった。騎士の数をめぐって二人の娘たちとリアの間に言い争いが起こったとき、リアは娘たちの態度の中に父親に対する忘恩と裏切りのみを見た。
「こんな晩に閉め出すとは! ・・・おゝ、リーガン! ゴナリル! 汝等の齢を取った、慈愛ぶかい父を、惜気もなく、有ッたけを与れてやったものを……おゝ、そんな風に考へると気が狂ふ。」
娘たちが抱いているさまざまな思惑は、リアにはまったく思い及ばないことだった。誠実なコーディーリアを斥けたという後悔と、巨大な恩恵と愛情を注いでやった娘たちに裏切られたという思いがリアを狂気に陥れる。娘たちの冷淡な仕打ちに苦しみ涙をこぼすリアは、コーディーリアやケントを斥けた高圧的なリアとはイメージが違うように見える。しかしリアが何度も自分のことを「慈父」と言っているように、実際リアは愛情深い父親であり、その愛情に従って行動している。ただリアの価値観からすれば王たる自分への服従と一族の結束や愛情、さらには国家の安泰とは切り離せないものであり、王の命令に従わない人間を見過ごすことはできなかった。リアが王として君臨している間は、その権力を恐れ、あるいは打算から多くの人間がリアに本音を見せなかった。その権力を失ったとき、今まで自分に忠実に見えた態度が実際はみせかけだけの愛情や追従にすぎなかったことを、リアは初めて理解した。
「おゝ、小さい小さい過失が、どうしてコーディーリャの場合には醜悪に見えたぞい! 拷問機械か何ぞのやうに、其小さい過失めが予が本具の性情を正当の位置から捻ぢ曲げ、予の心から悉く慈愛を抜き去り、苦い、酷い心ばかりを附加へをった。おゝ、リーヤ、リーヤ、リーヤ!」
リアは娘たちのために自分の持てるものすべてを投げ出した。リアが権力を娘たちに譲り渡さず、領地を与えることもせず、相続の決定権を死ぬまで手元に残していたら、リアは娘たちにもっと大切にされたかもしれないし、こんな苦しみを嘗めずにすんだかもしれなかった。道化が冗談めかして何度も言っているように、手元に何の保証も残さずすべての権力を娘たちに譲り渡したリアは愚かであった。しかし一族の争いを避けたいというリアの望みに対しては、リアのとった方法が間違っていたとも言えないことに注意する必要がある。リアが権力を持ち続け王として無事余生を全うしたとしても、リアの死後いずれ一族の争いは生じたかもしれなかった。リアはそれを避けるために、自分が生きているうちに領地の分割を遂げようとしたのである。
リアの窮状を救うために、フランスへ嫁いだコーディーリアが軍を率いてブリテンに上陸する。社会の変動は「都会には暴動、地方には騒擾、宮中には謀叛人・・」という状況を生み出しており、この現状に不満を抱く者たちがリアの側につき、乱世の様相が深まる。コーディーリアはこの戦が「功名を目的の慢心なんぞ」の為ではなく老齢のリアを「元の通り、王位にお即け申したいと思ふ」孝行心からであることをはっきりと述べているが、コーディーリアの意図がどうであれフランス軍の侵攻はブリテンの領土を狙う侵略戦争であると見なされる。ゴナリルの夫オールバニ公は歳老いたリアを追い出した妻の所業を憎み、リアに忠義を尽くしたいと考える。しかしフランス軍が国の安泰を脅かしているという事態を前にしては、とりあえず妻たちと手を組んでコーディーリアの軍勢と戦うことを余儀無くされる。リアの嘆いた「運命」の導きによってすべてが争いの中に巻き込まれ、悲劇的な結末へと向かっている。結局リアが避けようとした一族同士の血で血を洗う争いは生じるのであり、オールバニ公が再びブリテンを統一することで「リア王」の悲劇はようやく幕を閉じる。
時代の転換期に生きたリアには家族の愛情のなかで「身になり、静かに死の近づくのを」待つことは許されず、一族や反目する諸侯たちの血みどろの争いを避けることはできなかった。「有ッたけをくれてやった」娘たちに裏切られたという思いがリアを狂気に陥れたが、その裏切りをおぎなってあまりあるコーディーリアの愛情もリアの悲劇の解決にはならない。リアの悲劇を生み出し解消してゆくのは孝心や忠義といった個人的な誠意の手にあまる「運命」の力である。
「どうぞ泣いて下さるな。お前さんが毒を飲めといへば、わしァそれを飲みまする。お前さんはわしを愛してはをらん筈ぢゃ。何故なれば、姉のやつらは、たしか、わしを酷い目に遭はせをったやうに思ふ。お前はわしを憎む理由があるが、あいつらには無いのぢゃ。」
リアにもっとも残酷な苦しみを与えたのは、娘たちの不実と、不実を取り繕う甘言を信用し誠実なコーディーリアを追放したという自らの過ちに対する激しい後悔である。リアがこのことを繰り返し嘆いているために、リアの悲劇の原因は真実の孝心を見抜けず偽りの甘言に乗せられたことにあるように見える。しかしリア自身が次第に自分の悲運はそのような単純な原因だけでは説明できないことに気付いてゆく。リアの運命は過酷であるが、自分の「運命」が何かもっと動かしがたい、大きな流れの中に置かれているということを漠然と感じたとき、リアは心の落ち着きを取り戻す。
「あの金燦爛の蝶々めを笑うたり、憫然な奴輩が来て宮中の噂をするのを聞いては、其相手になって、誰は勝つの、誰は負けるの、誰は盛えるの、誰は衰へるのと、神様の斥候でゝもあるやうに、世の成行の秘密をも予言せう。さうして四方壁の牢屋の中で長生をして、月の光りで満干する頭領連の党派争ひや其衰滅の跡をも見よう」
コーディーリアの介抱で正気を取り戻したあと、捕虜としてブリテンに捕らえられたリアはこのように語っている。ここにはちょっとした行き違いからコーディーリアを追放した頑迷なリア、あるいはわが子の不実を憎み嘆くリアとは違う、自らの「運命」を理解しはじめたリアの新しい姿が浮かびあがっている。
奸計によってコーディーリアが殺され、長年リアに忠義を尽くしたケント伯やグロスター伯も表舞台から消える。リアもまたその過酷な「運命」の中で力尽きる。
「一等齢を取ったお人が一等難儀をなされた。齢の若い吾々は、決してこれほどの難儀もすまいし、又、これほどの長生もすまい。」
若いエドガーの台詞で終わる悲劇の幕切れは、リアの悲劇を経て、新しい時代が到来することを予感させる。

『リア王』 シェイクスピア作の悲劇。5幕で、1604年から1606年頃の作。四大悲劇の一つ。長女と次女に国を譲ったのち2人に事実上追い出されたリア王が、末娘の力を借りて2人と戦うも敗れる。王に従う道化に悲哀を背負わせ、四大悲劇中最も壮大な構成の作品との評もある。
 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
■室町・南北朝時代

   室町時代 1336〜1573
   南北朝時代 1336〜1392  

 

南北朝
・・・源頼朝は、自分に何の権力基盤もないことはよく分かっており、ひたすら関東武士の代弁者としての役割に徹しました。この結果、終に日本の政治は朝廷から独立した、関東の武士を中心とする鎌倉幕府によってとり行われることになったのです。が、これが強力な政体ではなく、無数の武士の寄せ集めに過ぎないことは、その後源氏が三代で絶えて、藤原氏や皇族から将軍が迎えられたことからもわかります。
要は、トップは実権を持たない方が上手く行く。それがこの国の政治の特徴の一つです。こうした無数の武家の集合体である幕府は、一時後醍醐天皇の施政により中断されたましが、源氏の一派である足利氏による室町幕府の時代も継続されました。
しかし、室町幕府は、あまりに配下の武家が力を握りすぎました。幕府に反対する後醍醐天皇と足利氏が擁立した天皇との分裂時代、世に言う南北朝時代。どちらも、自分達の側に武士を惹きつけようと様々な甘言を囁きました。結果、南北朝が統一する頃には、配下の武士たちはそれまでにない権限を得たのでした。
後には守護大名として半ば自立するようになり、さらに応仁の乱を経て幕府の存在は無いも同然の状態となり、戦国乱世と相成りました。しかし、これは平安・鎌倉時代の状態とあまり変わりがないとも言えます。 幕府という重しがなくなっただけで、生き方も戦い方も変わっていません。大名という武士のリーダーは、配下に土地を分け与えて、その多寡に従って兵役を行わせます。戦闘は、基本的にシーズンが決まっていて、農作物の収穫のときなどはパス。  
 
糟屋館 大田道灌

 

上糟屋には当時、扇谷上杉氏の最大拠点、「糟屋館」が栄えていたという。心敬は大田道真・道灌父子と親しく、扇谷氏はその主君なのだから、より安全で閑静な住まいとして、ここを紹介されたのかもしれない。ときおり江戸の連歌会で道灌や品川の鈴木道胤とも再会しているから、仲たがいして隠棲したわけではないらしい。
糟屋館は大田道灌(資長1432-1486)が主君・扇谷定正(1443-1494)に殺された場所としてしられる。扇谷氏は相模守護を世襲し、その守護所となった糟屋館はふるくから栄えた上糟屋のほかに、市役所にちかい下糟屋丸山城址公園付近も有力候補とされる。道灌の墓も両所にあり、上糟屋の方は荼毘に付された「胴塚」、下糟屋のは首を捨てた「首塚」とされ、「首塚」は近年すっかり再整備されている。胴塚の傍らには古い石塔だまりもあるが、これらは後述の極楽寺跡から移設されたものらしい。
   雲もなほさだめある世の時雨かな    心敬
こんな句碑が、胴塚のほとりにたっている。ただし心敬は道灌より先に死んだ1475。やはり道灌と親交のあった詩人・万里集九(1428-1507ころ)による手向けの松が、大正期にはまだ一本だけのこっていたらしい。墓の両脇にいまは切り株となって、六角の笠をかぶせられている。ただその株も、もはやカサカサに風化して無残にくずれてしまっている。万里が道灌を偲んだ自筆の祭文がそばの禅寺・洞昌院に伝わっているが、これは「梅花無尽蔵」によれば江戸で書いたもので、実物なのかは不明。万里は道灌のもとで過ごした江戸の客亭を、この詩集の題名にした。「二千石(*太守。道灌のこと)、余の為に客簷を築く。梅花無尽蔵と号(なづ)く」。
洞昌院は生前の道灌が創建したとつたえ、徳富蘇峰がおとずれたころには単なる農家のようだったというが、いまはそこそこ立派。三徳殿という堂が、道灌をまつる霊廟になっている。正式名を公所寺というのは、上糟屋が相模の守護所であったからという。ちかくにたつ太田神社は、教派神道系の新立神社。早雲が道灌をまつったといわれる五霊神社はすこし離れた、東名のむこうにある。また、上粕屋神社周辺には討ち死にした近臣の墓とされる「七人塚」というのもある。
道灌(55)はなぜ殺されてしまったのか。扇谷定正は「道灌が本家・山内上杉に不忠を働いたため」と言い訳している。道灌は山内上杉から出た謀反人・長尾景春を退治したものの、その勢力圏に進出。鎌倉公方府の滅亡からつづいた享徳の乱の和平交渉1483に乗じて旧敵(公方家)にも接近し、五十子の陣を追われた山内家の不興を買った。いっぽう道灌の快進撃で「焼け太り」が指摘された定正は、お詫びのしるしに味方を殺せば、だれもがきっと喜んでくれる、そう考えたのかもしれない。一説に、首は山内方に送ったともいう。だが扇谷家は、わずか一年後には山内方の攻撃をうけるようになってしまった(長享の乱1487〜)。
そのころ、都では銀閣寺でしられる義政の息子が早世。養子となった堀越公方の息子・義澄(清晃)がまたぞろ内乱のすえに擁立される。伊豆堀越では新将軍義澄の実弟・潤が、廃嫡となっていた異母兄・茶々丸によって母子共に殺害される事件があり、定正は出家した北条早雲を勧めて仇討ちにうごいたらしい。茶々丸が山内方であったからともいう。早雲は新将軍を擁立した伊勢貞宗の縁者(いとこ?)であったらしく、定正は早雲を、将軍家の代官のように思っていたようだ。
定正は早雲や古河公方とともに山内方とたたかうが、やがて不慮の死を遂げる。早雲はその直後、亡き道灌に次ぐ扇谷家の無二の忠臣であった小田原・大森氏頼(?-1494)の孫を襲撃。一転して梟雄としての本性をあらわしてゆく。本家山内への義理だとか、将軍家への忠だとかいった、権威への追従にとらわれてきた定正の判断は、もはや時代遅れであったのだ。
そもそも関東の内乱は、太田道真(道灌の父)らが鎌倉公方成氏を襲撃した江ノ島合戦1450が、引き金のひとつとなった。番頭(管領)を通り越して手代(家宰)が主人(公方)に弓を引く、下剋上はとうにはじまっていた。古河公方と管領上杉による長年の角逐(享徳の乱)も、実質的には道灌と長尾景春による代理戦争が和平への帰趨をもたらしたにすぎず、もともとそこに勝者などありはしなかった。
道灌が主にこのんだ学問は、漢詩や和歌・連歌などだった。万里によれば、11もの自作家集を編んだという。これらはただの趣味ではなく、詩歌を愛好する禅僧や知識人・有徳人をひろく江戸・川越にあつめ、都・諸国の貴重な情報や、直近の民情を探るのに、役立った。
文芸が社会の隅々までひろがり、都鄙貴賎を貫く広範な情報ネットワークを形成していたということは、中世を理解するうえできわめて重要だ。下剋上は文化においてもおきていた。連歌師ら芸能者には僧がおおく、基本的に【無縁】を旨としており、そうでなければ地上の義理人情を超越し、敵味方の領地を横断して旅することなどは不可能であったろう。はたして、山内や扇谷が恐れたのは、どんな事態だったのか。道灌がいきていたら、関東はどうなっていたか。
上糟屋の「上杉館」跡は、いまだはっきりとはしていない。かつては産能大学の東、御伊勢ノ森というあたりがそれとされ、胴塚の裏手にまでつづく図のような広大な空堀がよこたわるといわれてきたが、鈴川の旧河道などの自然地形を「利用した」ともいわれる。航空写真などでもあきらかなように、空堀というにはあまりにも巨大なのだ。
安楽寿院領の荘園として成立した糟屋庄は、「御伽衆」の項でふれた糟屋氏のかつての本拠でもあった。没落後は赤橋・大仏ら北条一門の領地を経て、足利・扇谷上杉へとつたわったらしい。これまで、平安時代から中世にかけての遺物や造作が多少は検出されているが、他の推定地をしりぞけて相模国の守護所・扇谷氏の居館を決定付けるような、大規模遺構は確認されてこなかった。発掘がすすめられてはいるが、考古学ではいまだ縄文・弥生の研究に重きが置かれ、進展は遅々としている。数千年積りかさなった太古と、農耕技術がすすみ、攪乱されやすい中世とでは、遺構の残り方もちがっている。
道灌塚から伊勢原駅ないし日向薬師に向かうバスはほとんどないので、本数がおおい日向道に合流する「高部屋」バス停まで延々とあるくことにした。「高部屋」バス停ちかくにある鎧塚は、古代の古墳に中世「実蒔原合戦1488」の遺骸をあつめたところとされる。長享の乱において、山内家が糟屋館を急襲したさいの戦いである。
高部屋の地名はひろく糟屋庄の古名であるとされ、市役所ちかく、東海大病院前の下糟屋にも、式内高部屋神社がある。ただ、そこは霊地というよりは246(大山道)沿いのありふれた微高地で、同時期に栄えた糟屋館のもうひとつの候補地「丸山城」の郭内でもあった。同社につたわる鎌倉公方二代・氏満時代の鐘銘1386には「糟屋庄惣社八幡宮」「願主平秀憲(*人物未詳)」などとあり、故地はどこかべつにあったのかもしれない。
「高部屋」の手前、上糟屋の秋山・和田内あたりは、第二東名の工事で大規模な発掘がおこなわれている(写真)。広域発掘はこういう機会がないとできないが、調査後は毀されてしまう。高速出口にはたいていラブホテルが建って、環境もまた一変する。ここも上糟屋館の想定最大郭内にあたるらしいが、かながわ考古財団の最近の速報をみるかぎり、結論はまだ先のことになりそうだ。
和田内にあった鎮守熊野社に、鎌倉武士・糟屋有季が付属の氏寺・極楽寺に奉納した小ぶりの鐘1196が、明治の初めころまで残っていた。特異な形状が図絵にえがかれ、「集古十種」に拓本まで採られた相模屈指の古鐘であったが、廃仏運動で鋳潰され、神社そのものも他所へ合祀してしまった1869。
世直しの名のもとに、目先の欲にとりつかれた人々は古金屋の甘言にとびついて、二束三文で売り飛ばしてしまったのだろう。その後、この地は不作にみまわれ、文明開化の狂気を恥じた村人が、跡地に熊野金山神社という、神社というにはあまりにもささやかな祠をたてて今にいたる。ふきんにぽつねんと卵塔があるのが、寺のなごりらしい。最近、湯屋の跡らしいものもみつかったようだ。糟屋一族のものとされる石塔類は、さきにものべたように道灌胴塚のかたわらへと、移設されている。極楽寺は洞昌院の末寺になっていたし、道灌の先祖は糟屋氏の姻戚だったともいう。 
 
吉田兼好のいう「友とするにわろきもの」

 

「友とするにわろきもの七つあり。一つには高くやんごとなき人、二つには若き人、三つには病なく身強き人、四つには酒を好む人、五つにはたけく勇める人、六つには虚言(そらごと)する人、七つには欲深き人。よき友三つあり。一つには物くるる人、二つには医者(くすし)、三つには智恵ある友。」(徒然草)
この文は、現代文に置き換える必要が無いくらい良く分かる。いわゆる“おつきあい御免の7タイプは、「お偉いさん」「青二才」「不死身」「飲んだくれ」「冷血漢」「うそつき」「欲張り」”だ。
これに対して“大歓迎の3タイプは、「援助好き」「医者」「知恵者」”
これは「論語」を下敷きにした友人論なのだそうだ。ちなみに古語を成績の5段階評価とを組み合わせてみると、「よし」〜5点、「よろし」〜4・3点、「わろし」〜3・2点、「あし」〜1点。つまり、ここで言っている「わろき者」とは、好ましくないという意味。一方、「よき友」はベストフレンドということになるそうだ。
ちなみにブッダは、よき友は「(1)助けてくれる人 (2)苦しいときも楽しいときも一様に友である人 (3)ためを思って話してくれる人 (4)同情してくれる人」であり、悪き友は「(1)何ものでも取って行く人 (2)ことばだけの人 (3)甘言(かんげん)を語る人 (4)遊蕩の仲間」だと言う。
でもまあ若い人と違い、我々還暦にもなると、会社関係以外で新しい人と知り合うチャンスはほとんど無く、友人を選ぶなんて、到底縁が無いのが現実。でも2500年前のブッダの時代でも、700年前の吉田兼好の時代でも、人間が考えている事は大して違わないという事か・・・ 
 
鎌倉幕府討滅、最大の功労者新田義貞

 

南北朝の時代、後醍醐天皇を戴いて立ち上がった新田義貞、足利尊氏でしたが、建武の新政が始まると、その対立は激化し、南朝と北朝にわかれて熾烈な戦いをすることになります。もともと源義家の子、義国の二人の息子であった義重と義康の末裔、新田義貞は新田郡を継いだ義重の嫡流で新田氏、足利尊氏は足利荘を継いだ義康の嫡流で足利氏、それぞれその惣領でした。しかし、鎌倉時代末期の新田氏と足利氏を見ると、新田氏は新田荘とその周辺(八幡荘)を所領とする一豪族に過ぎず、足利氏は上総国と三河国の守護職を務め、幕府の要職に在り、加えて北条得宗家との姻戚関係もあり、両氏の間にはその勢力・地位ともに雲泥の差があったのです。
義国の家訓の下、地方政治に生きる
新田義貞のこのような状況を理解するうえで、火山灰地の上に立つ新田荘成立の背景を見ておかなければなりません。
新田氏の祖となる新田義国は、久安6年(1150)、京の都路上で、従三位右近衛大将藤原実能とトラブルを起こし、身分差故の恥辱を受けました。そして、義国の従者が、実能邸焼き払い事件を起こし、勅勘(天皇からの咎め)によって失脚し、下野国足利の別業地(別屋敷)に下ることになるのですが、義国は、この失脚を教訓に、「武士の栄達は望まず、地方経営にいそしむことが安楽の道」を家訓とします。
そして、新田荘の経営を義重(新田家)に、足利荘を義康(足利家)に継がせるのです。新田荘を継いだ義重は、義国の教えを家訓として代々引き継ぐことになります。
なぜ兄の義重に“空閑の郷々”と云われた未開発の新田荘を継がせ、二男の義康にすでに立荘されていた足利荘を継がせたのか、疑問の残るところですが、義国自らが足利の別業地に引きこもったため、長男の義重が父、義国に従ったのではないかと思われます。
そして、この新田荘を継いだ義重は、義国が久安6年の失脚を教訓に残した家訓、「武士の栄達は望まず、地方経営にいそしむことが安楽の道」を、代々引き継いだため一豪族に止まったものと思われます。
なお、この新田荘は、当時、浅間大噴火(1109年)により、火山灰・軽石・岩による荒廃した大原野で、新田郡の西南部に広がる“空閑こかんの郷々”(開発可能な土地の意、且つ、開発によって耕地化された土地を意味する)は、東西4里、南北5里に広がる扇状地を形成していました。
新田庶子との関係でも劣勢下に
このように足利氏に後れを取っていた新田氏ですが、新田宗家の新田義貞は、新田庶氏との関係でも劣勢下に在り、新田氏惣領家としての立場はすこぶる弱いものでした。
新田義重には、惣領家の義兼以外に、義俊(里見家)、義範(山名家)、義季(世良田家)、経義(瀬戸家)がおり、義兼の娘婿に足利氏三代目の義純を迎え、岩松家を名乗っていました。
この岩松家は幕府の地位は新田宗家よりも上で、義純の四代後の経家は、義貞の鎌倉攻めには参画し大功を挙げますが、その後、足利尊氏に味方して、飛騨国守護職に就き、従五位下兵部大輔となっています。
また世良田家は、臨済宗・長楽寺の門前町で、世良田宿の交通の要衝をしめ、当時、北関東一の商業都市の長楽寺の別当として経済的優位を持って世良田の地を仕切っていました。
これら両家は、当時、新田宗家をはるかにしのぐ勢力、財力、地位にありました。義貞は、幕府の楠木正成討伐命令を受け、その戦費調達にはこれら庶氏に頭を下げ、
協力を求めなければならない事情にあったのです。
稲村ケ崎の戦いで劇的な勝利
そして、楠木正成がこもる金剛山の搦め手攻撃に参陣していた義貞は、倒幕の綸旨を密かに取得し、仮病を使って新田荘に帰っていました。
そこに、楠木正成討伐軍費調達のため、有徳錢の徴税使が世良田に入部、義貞は無法な譴責に怒り、この二人を斬首・拘留したのです。
義貞は、ある意味ではこの行為によって退路を断って、倒幕挙兵に踏み切り、黄金づくりの太刀を海に投じた有名な、干潮を利用した稲村ヶ崎の戦いで劇的な勝利を挙げ、遂に鎌倉幕府は堕ちたのです。
しかし、この時、義貞に国の政全体の流れは読めておらず、父祖の怨念を晴らし、上野の国司を目指す程度のものではなかったか、と思われます。
鎌倉幕府討滅の最大の功労者になった義貞でしたが、京の都を抑えた尊氏に対する武士の評価は高かったのです。加えて、二人の地位に歴然とした差がありました。
鎌倉陥落直後に、盟友であった尊氏と勢力を競う形となり、鎌倉での屈辱的な撤退で、義貞は尊氏との対立を深めていくことになります。
結果、南朝の総大将として、鎌倉、京都、播磨、越前と転戦を重ねることになります。後醍醐天皇の野望に振り回された悲劇の生涯ともいえますが、そのクライマックスは、義貞はずしの後醍醐帝と尊氏の和睦と云えるでしょう。しかし、尊氏の甘言にのった後醍醐帝は花山院幽閉の憂き目にあうことになります。
いずれにしても、楠木氏のように天下・国家論を持たない実直な東国武士であった義貞の悲劇と云えるのではないでしょうか。
従四位に処せられるも、武者所に止まる
悲劇のスタートは、建武の新政の際の帝の恩賞に如実に表れています。
足利尊氏は、帝の諱をいただき尊氏と名乗り、従三位鎮守府将軍、常陸・下総・上総・三河の4か国の国司・守護となり、弟の直義も、従五位左馬守となって相模・遠江の2カ国の国司・守護職が与えられました。
一方、義貞は従四位で、上野・播磨の2カ国の国司・守護、息子の義昭は越後の国司、弟の義助は駿河の国司になっています。また、正成は従五位で、河内・和泉の2カ国の国司・守護に、長年は因幡・伯耆の2カ国の国司・守護になりましたが、円心には恩賞はありませんでした。
阿野蓮子・尊氏派に篤く、大塔宮(護良親王)派を冷遇した、分断策とも思えますが、直義当たりの巧妙な根回しがあったのでしょう。
また、大塔宮派でも、新田一族は「武者所」にとどまっていますが、正成らは「恩賞方・記録所」として厚遇を受けています。
そもそも挙兵当時から、中央・幕府開府を目指すという明確な目的を持っていた尊氏と、家訓を守りながら、鎌倉攻めの功が故に、南朝総大将に位置付けられてしまった義貞、この二人の生き方に大きな違いがあったことは明らかです。
北畠親房は、神皇正統記に、「北国ニアリシ義貞モタビタビ召サレシカド、ノボリアヘズ。サセルコトナクシテムナシクサヘナリヌトキコエシカバ、云バカリナシ。」と記していますが、親房にとっての義貞軍は、使い捨ての軍団でしかなかった、と断ずる人さえいます。
人物叢書「新田義貞」峰岸純夫著の結び「新田義貞の史的評価」の一部を紹介します。(写真は同書より転載)
実直な東国武士が、鎌倉幕府討滅の大功績で一躍中央政界に躍り出て、その栄光の重荷を背負い続け、南朝方の総大将に位置付けられての生涯であった。(『尾島町誌』)
義貞は勇将であっても智将ではなく、政治家ではない。(長谷川端)
太平記において、正成は「智謀」と「武略」がことさら虚構・創作されて称揚されるのに比して、義貞は、優柔不断で戦機を逸する武将として描かれる。(中西達治)
歩射隊をともなう集団戦法に不慣れな、あくまでも騎馬隊を主力と考えていたところの、惣領制的武士団を率いる軍団長の最期であった。(佐藤和彦)
建武5年(延元3年1338)7月、黒丸城攻撃赴援のため50騎を率い懸けつける途上、藤島の燈明寺畷において、黒丸城を出撃した300騎と遭遇、歩射隊に深田に追い落とされ、乱射された矢に倒れ、自害した、という偶発的な事件であっけない最期を遂げた義貞。しかし、そこから遡って時代遅れの凡将・愚将との発想をする方法論は如何なものであろうか。(峰岸純夫)
新田殿と称された家康の開府で、一矢
新田義貞が目指した最後の望みは、比叡山における後醍醐帝と義貞の妥協の産物として、恒良親王を擁しての北国管領府の構築ではなかったでしょうか。
北国管領府の夢は、義貞が北国に下った後、勢力を盛り返しつつあった中で、藤島城攻防戦の不慮の事故によってあっけなく潰えました。
が、やがて260年の時が経過して、新田殿と称された家康が幕府をつくり、新田氏復活の物語へと歴史は続きました。江戸幕府の開府は、後世、新田氏が足利氏に決着をつけた一幕ともいえなくはないでしょう。 
 
薩州動乱

 

島津氏は、渡来人の秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として九州に下り、その子の惟宗忠久が、源頼朝から同地の地頭に任じられ、島津を称したのが始まりとされる。いわば鎌倉時代以来続く名流である。しかし義辰、忠平兄弟の登場に至るまでのおよそ一世紀間は島津一族内部での争いが続き、これに国内勢力である在地領主との軋轢が加わり、対立と分裂が続いていた。
島津本家十四代目当主は勝久である。若輩者である勝久は有力分家である伊作島津家の力を頼り、大永六年(一五二六)、伊作島津家当主忠良の長男貴久を養子とした。貴久は義辰、忠平兄弟の実父にあたる人物である。翌年勝久は、守護職の地位を正式に貴久に譲って出家。忠良も同様に僧籍に入り、日新斎と号した。だがこれに異を唱える者がいた。勝久の正妻の兄にあたり、虎視眈々と守護の座を狙っていた島津実久である。
実久の甘言に乗せられた勝久は、貴久に守護を譲ってわずか一ヶ月で還俗。日新斎忠良及び貴久との約定をあっさり反故にしてしまった。目ざわりな忠良父子の勢力を駆逐した実久は、次第に野心を露わにし始める。かくして忠良、貴久父子と実久とによる血みどろの後継者争いが十数年続くのである。結局両勢力の争いは天文八年(一五三九)、忠良父子が勝久を加世田城に追いこみ滅ぼしたことにより事実上終結する。
だが忠良父子と在地勢力の争いは、その後も絶えることなく続き、天文二十三年(一五五四)忠良は六十一歳、貴久は四十歳になろうとしていた。薩摩半島平定、そして薩摩・大隅・日向の三州統一を目指す忠良父子の前に、薩、隅国境にそびえる天然の要塞岩剣城が戦略上の重要拠点として、大きく立ちはだかっていた。岩剣城を巡る攻城戦は義辰、忠平兄弟及び忠平の二つ年下の弟歳久の初陣となるのである。 
 
古河公方館 (こがくぼうやかた)

 

成氏、鎌倉公方へ
鎌倉公方足利持氏の遺児で後に古河公方となる足利成氏は、1440〜41年に起きた結城合戦時、信濃大井氏のもとにいたようだが、成氏の幼少時代は不明な点が多い。
その成氏が鎌倉へ帰り、1449年に鎌倉公方に就任した。当時政治の実権を握っていた関東管領上杉氏は、関東諸将と対立が続いており、成氏を接点にして関東諸将を抱き込もうとしたのである。
鎌倉公方足利成氏の誕生により、関東諸将は鎌倉に集まってきたが、次第に鎌倉公方成氏と、政治の実権を握っている関東管領上杉氏との間に対立が起こってくる。それは当然の成り行きだった。
1450年4月、上杉氏の家臣長尾景仲と太田資清らが、江の島に動座した成氏を襲撃するという事件が起こった(江の島合戦)。成氏方では、宇都宮、小山、千葉、小田氏などが活躍し、長尾氏と太田氏を破った。成氏は長尾氏と太田氏の処分を幕府に願い出たが、幕府はそれを受けつけず、長尾氏と太田氏は赦免され復権した。幕府は従来通りの関東管領と上杉氏による鎌倉府体制を望んでいたのである。
享徳の大乱と都鄙和睦
1454年12月、成氏は関東管領である上杉憲忠を殺害し、上杉氏に大きな打撃を与えた。その後、成氏と上杉氏の間で合戦が繰り広げられるようになる(享徳の大乱)。
上杉憲忠を失った上杉家は、幕府の支持を取りつけた。幕府は後花園天皇から成氏追討の御旗を下賜され、京で奉公していた憲忠の弟房顕を憲忠の後継者として選び関東へ派遣した。越後上杉氏や駿河今川氏などがこれに応じ、成氏は1455年6月下総古河へと本拠を移して「古河公方」と称した。
成氏が古河に移った後、成氏は騎西城に佐々木氏、関宿城に簗田氏、栗橋城に野田氏などを配置して上杉氏に対抗した。一方上杉氏は、前線基地として武蔵五十子に巨大な野戦陣地を構築し、さらに江戸城、岩槻城、河越城を整備した。
1463年に上杉景仲、1466年に関東管領上杉房顕が死去し、やがて上杉軍は古河から成氏を追わせることに成功するのだが、上杉軍には古河を支配下にするだけの力はなく、成氏は翌1472年に再び古河へ戻った。
1473年6月、長尾景信が他界すると、関東管領上杉房顕の跡を継いだ顕定は、景信の後継者に景信の子景春ではなく、景信の弟忠景を選んだ。この決定に不服の景春は、1476年に上杉方の前線基地である五十子の陣を攻撃し、翌1477年1月に陥落させた。つまり、上杉軍の中から反乱者が出たのである。この動きに対し、扇谷上杉氏の家宰太田道潅は、景春に寝返った諸将を次々と滅ぼしていく大活躍を見せるのだが、この活躍が後に道潅を死へと追いやる原因にもなってしまう。
ただ、景春の反乱によって、成氏と上杉氏との間に和睦の動きが見られるようになり、1482年に和睦が成立した。この和睦を都鄙和睦という。
両上杉氏の対立
長尾景春の反乱に際し、太田道潅の勇名は轟いた。道潅の活躍は、扇谷上杉氏の当主定正にとっては不安の種であり(結果、1486年7月に道潅を暗殺する。もっとも、これには山内上杉顕定の甘言が裏にあった)、また、山内上杉氏の当主顕定にとっては扇谷上杉氏の勢力台頭が気にかかっていた。
両上杉氏の対立は表面化して長享の大乱が起こり、扇谷上杉定正は古河公方足利政氏(成氏の子)と結んで山内上杉氏に対抗、各地で戦闘が起こった。
ところが、1494年に扇谷上杉定正が死ぬと、今度は山内上杉氏と古河公方が結びつくようになった。山内上杉顕定は古河公方の「御一家」となり、そのことで扇谷上杉氏に対抗した。山内上杉顕定は古河公方家の権力の一部を担い、そして足利政氏の子(顕実)を後継者として関東管領にすることとなった。
1504年9月、武蔵立河原で古河公方・山内上杉連合軍と扇谷上杉軍が激突し、扇谷上杉軍が後北条氏と駿河今川氏の応援によって勝利したが、翌年には古河公方・山内上杉連合軍が扇谷上杉氏の居城河越城を包囲し、両上杉氏の間に和睦が成った。
この両上杉氏の和睦の裏には、北条早雲の動きがあったことも見逃せない。北条早雲は、1491年に堀越公方足利茶々丸を討って伊豆一国を平定、1495年には相模の小田原城を奪い取っているのである。
政氏、高基、義明
1506年、古河公方足利政氏の嫡子高基は、宇都宮成綱(17代)を頼って古河から宇都宮へ移座した。高基が宇都宮へ行った理由は、父政氏との対立、つまり権力争いであった。
高基と政氏の対立は、高基が1509年に古河へ帰ったことで解決したが、事態はこれでおさまらなかった。
1510年、高基は今度は関宿の簗田高助を頼って関宿城へ移り、さらに独自の勢力を持っていた高基の弟である義明は祗園城に入った。そして成氏、高基、義明の3者の間に対立が起きた。その位置関係は、1511年に上杉顕実(政氏の子、政氏派)が上杉憲房(顕定の養子、高基派)によって鉢形城を追われ、成氏が祗園城へ入り、高基が古河城へ、義明が小山領に入部という具合に変化した。
その後、高基と義明は結びついて父政氏と対立、政氏は1516年に武蔵岩槻城へ移って出家し、その後武蔵久喜(足利政氏館)に移って同地で1531年に没した(ちなみに、1520年に政氏は古河の高基を訪ね、両者の溝は修復している)。
政氏が岩槻、久喜へと移ったことによって、高基は古河公方の権力闘争に勝利し、古河公方となった高基は、上杉顕実追放後、関東管領となった上杉憲房のもとに養子として自分の子(後の憲寛)を送り込んだ。
小弓公方義明
高基が古河公方となると、高基と義明の対立が起こってきた。
義明は下総小弓城に入り、義明は「小弓公方」となった。義明は独自勢力をもって高基と対抗したのであったが、どうやら義明の権力基盤は高基と同じようなものであったらしい。つまり、高基の権力基盤を義明が部分的に奪取して小弓公方が成立したのである。
高基は、義明の追放と上総における高基の基盤を回復するため、1519年に武田氏の椎津城を攻撃した。これに対し義明は、関宿城の攻撃を企て、その企ては今後も続いて行く。
さて、1528年に高基の子晴氏が元服すると、高基と晴氏の間に権力争いが起こるようになった。この争いに敗れた高基は隠居し、1535年に没した。こうして、高基対義明の対立は、晴氏対義明と図式が変わることになった。
古河公方となった晴氏は、北条氏と結び義明に対抗した。晴氏と北条氏との結びつきは結果的に、1538年10月、下総高府台合戦における義明の敗北、そして義明の滅亡へと繋がっていくのである。
古河公方と北条氏の関係
高府台での戦い後、北条氏綱の娘(後の芳春院、以下芳春院と称す)と晴氏との間に婚姻関係ができ(もっとも、これよりも以前から婚姻話はあった)、その後まもなく古河公方5代目となる義氏が生まれた。このことは同時に、北条氏の勢力が古河公方の内部に入ってきたことでもあった。
北条氏の勢いはめざましく、両上杉氏の諸城を次々と攻略していった。扇谷上杉朝定と山内上杉憲政は1545年9月、北条氏に奪われた河越城を攻撃し、上杉氏は晴氏に援軍を要請した。北条氏は晴氏に中立を訴えたが、晴氏は上杉軍を救援して北条氏と敵対した。晴氏にしてみれば、北条氏の圧力からの脱却を図ったのだが、この戦いは北条軍の勝利に終わり、北条氏の圧力がより一層古河公方家に入ってくることになってしまった。
晴氏の嫡子藤氏(晴氏と簗田氏の娘との子)が元服すると、晴氏は藤氏とともに古河公方家を盛り返そうとしたが、北条氏の圧力によって古河公方の地位は晴氏から芳春院を母とする義氏へと譲られた。
この古河公方義氏の成立は、北条氏が古河公方権力を支配下に置いたものとまでは呼べず、古河公方の権力を北条氏は否定したわけではなかった。ただ、古河公方が権力を維持することができたのは背後に北条氏の存在があるからであり、古河公方の存在(公方の「御下知」行為)を使って北条氏の領国支配が展開されるようになっていく。
問題は、北条氏が古河公方の権力をどのようにして支配できるかであった。その役目を担う人物として、芳春院と芳春院周興の存在がある。北条氏はこの2人を媒介することによって、古河公方の権力を支配しようとしていった。
越相同盟
河越合戦において敗れた山内上杉憲政は、謙信の庇護を受けており、謙信は憲政を奉じて関東へ乗り込んだ。
謙信の勢いは凄まじく、1561年3月には小田原城へ達した。謙信は兵糧の都合上から小田原城攻めを諦め、鶴岡八幡宮へ向かい、同地で山内上杉憲政から関東管領職を譲られた。
謙信の関東進出は、簗田氏の立場を反義氏・北条氏へと変え、さらに、新公方擁立の動きが持ち上がった。その新公方に藤氏が迎えられたのである。
1565年、北条氏は岩槻城と江戸城を前線基地として簗田氏がいる関宿城を攻撃した。この攻撃は簗田氏の抵抗にあって失敗する。
1568年頃、北条氏は野田氏の栗橋城を古河公方義氏を通して手に入れ、同城に北条氏照を入れたのである。このことは、簗田氏にとって脅威となり、北条氏は1568年10月に再度関宿城を攻撃した。これに対し簗田氏は、上杉謙信に応援を求めて何とか危機を乗り切った。
1569年閏5月、北条氏と上杉氏との間に同盟(越相同盟)が結ばれた。越相同盟締結に際し、それまで藤氏を公方に立てていた謙信は、藤氏がすでに死去していることから、義氏を公方とすることに妥協した。こうして義氏は正式に古河公方として諸勢力から承認されることになり、当時鎌倉にいた義氏は古河へ移ることとなった。
1574年、北条氏は3回目の関宿城攻撃を実行し、この第三次関宿合戦において簗田氏は降伏した。
第三次関宿合戦後、北条氏は1575年に祗園城を落城させ、1577年には逆井城を築城するなどし、北関東進出への準備を進めていった。それに伴い、古河城も整備されて戦国の城へと姿を変えていき、祗園城の後衛基地としての役割を持つようになった。また、越相同盟や関宿合戦によって、北条氏は古河公方の権力を支配下に置くこととなった。
両足利氏の統一
1582年、古河公方足利義氏は古河城で死去し、義氏の跡を継いだのは、9歳の氏姫であった。
氏姫を支えたのは、「御連判衆」と呼ばれる者達で、その主な人物は、芳春院松嶺、一色氏久、町野義俊、小笠原氏長、高氏師、簗田助実、永仙院昌伊。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏が滅亡する。北条氏滅亡後、氏姫は古河城から鴻巣館(古河公方館)へと移って鴻巣御所と称され、また氏姫には332石が与えられた。
氏姫は、秀吉の処置に対して感謝の意を表するため女房衆を謝礼の使者として送った。その際秀吉は、氏姫の婚姻話を持ち出した。その相手は、古河公方3代目高基の弟で小弓公方と呼ばれた義明の孫国朝。
小弓足利氏は安房里見氏という後ろ盾があったが、里見氏が小田原攻めに遅参したためによりこれを失った。重要な後ろ盾をなくした小弓足利氏は、国朝の姉が秀吉に取り入れられて、国朝は喜連川に所領を得ることとなった。そして氏姫と国朝の婚姻話となり、古河足利氏と小弓足利氏との間で婚姻関係が結ばれたのである。
氏姫と国朝の婚姻によって、古河足利氏と小弓足利氏は統一された。古河足利氏の伝統的な権限であった関東十刹の住職任命権が小弓足利氏に受け継がれることになったように、小弓足利氏が古河足利氏を吸収した形となった。
だが、両足利氏が統一されたというのは表面的なことにすぎず、氏姫は喜連川には行かずに鴻巣館に居続けた。そして間もなく、国朝が朝鮮出兵中に病死すると、秀吉は国朝の弟頼氏と氏姫を再婚させるのだが、氏姫は依然として鴻巣館に居続けた。
やがて、頼氏と氏姫との間に子供(義親)ができたが、義親は古河で一生を過ごし、義親は榊原忠政の娘を娶って尊信が生まれた。氏姫は1620年に死去、義親は1627年に死去、1630年には氏姫の夫である頼氏が死去した。頼氏の死によって、尊信は喜連川へ移ることとなり、こうして両足利氏は事実上統一された。尊氏が喜連川へ移った後、鴻巣館一帯は天領、その後古河藩に吸収された。
ちなみに、小弓足利氏である喜連川氏は5000石であったが、徳川氏と同族であるということから10万石の格式を与えられ、幕府から特別な存在として扱われたのである。  
 
「通小町」と「痩男」

 

幼児体験の名残なのか、地獄絵図の大きな掛け軸を見た恐ろしさを今でも覚えている。その絵図には「血の池地獄」や「針地獄」の模様が描かれている。恐らく祖母に手を曳かれて、お寺のご開帳とか、寺行事に連れられていった折に見せられた、掛軸の記憶だと思う。それは地獄の獄卒や亡者によって討ち叩かれ、血を流しのたうち回っている男女の苦悶が描かれた恐ろしい図柄である。「悪い事をするとこんな目に遭うんだよ・・・」とか云って、悪事のいさめや、恐怖心を植え付けたのかもしれない。
因果応報の論理はまことに判り易いし、平安の貴族仏教でも、その後の大衆化した仏教でも等しく布教に利用されたものだろう。絶対者の支配觀はあらゆる宗教に共通のものなのかも知れない。今日の日本の仏教寺院の活動が、葬儀を除いてどんな状況にあるのか判らないが、おそらく「地獄絵図」などは過去の文化か、美術品としては存在するとしても、布教活動として利用される事はないだろう。現代の子供たちにとっては、この絵よりもっと恐ろしい世界を、バーチャルリアリティとして日常的に体験できる環境が氾濫しているからである。これらが凶悪な子供犯罪が多発している原因だとは思わないが、科学技術の発達や、社会構造の変化が人類の原体験としての恐怖や、応報の想いを消しているのだろうか。恐れは神や霊ではなく「知らない人」だとしたらなんと悲しい事だろう。
能はその歴史を見るまでもなく、原始宗教と歩みを共にしてきた面が無くもない。素朴な自然への畏れ、民俗的な祖霊信仰、地霊神、豊穣の祈りへの参加(又は司祭)、散楽の習俗を絡めたりして、自然発生的な古猿楽・田楽に発展し、やがて寺院の修正会・修二会・追難式の悪魔祓いに於ける法呪師の役の代行としての呪師猿楽などを経て翁猿楽(鎌倉中期)の座となる。その頃は鎌倉後期の田楽の大流行の陰にかくれて、猿楽の存在が薄くなったようだが、それでも多くの寺社体制の中に組み込まれ、やがて大和四座を経て観阿弥に至る。
猿楽が宗教勢力に組み込まれたのは布教の手段としてであるのは自明で、宗教説話+平曲又は、宗教説話+猿楽の形で参加し、觀阿弥時代には寄付金集めの勧進猿楽に至っている。やがて能楽が信仰や教団から解放され、独自の演劇集団として自由な創作活動が確立するには、世阿弥まで待たなければならなかったようである。
観阿弥やそれ以前の猿楽のレパートリーは殆ど判ってないようだが(貞和5年1349春日若宮臨時祭が初記録)、古能として伝えられているものは翁系の祝祷能か鬼の能である。
觀阿弥の生涯やこの時代の能は世阿弥の伝書によって伝えられているが、『花伝』では鬼能を「ことさら大和のものなり」としているし、『談儀』でも円満井座(後の今春座)も鬼を得意としている。さらに祇園の勧進田楽(悪書露顕)にも鬼が演じられている。当時の風潮は民俗的な神能と鬼が主流と云っても良さそうである。「一応世阿弥関係資料から見出せる観阿弥時代の曲は、曲名だけしか判らないものや、散逸曲、断片的謡物を含め50数曲ほどある。しかし、当時の能と同じ傾向で田楽も能を演じていたから、田楽本座の一忠や、新座の亀阿(亀夜叉)、近江猿楽の犬王などの大活躍があったことを考えれば、50数曲は少なすぎる」(竹本幹夫「観阿弥時代の能」)としているが完曲としては、「小町」(後の卒都婆小町)、「四位の少将」(後の通小町)、「自然居士」と「求塚」をあげている。(三道)その他は世阿弥によって解体されたようである。(岩波古典文学大系「謡曲集上」では通盛他11曲が古曲とされ前記4曲は観阿弥作としている)
会報34号「法華か維摩か」で故橋本博夫さんのが多武峰妙泉寺の維摩八講の際に猿楽が参勤した事、その際に「四位の少将」演じられた事を紹介している。『談儀』には「四位の少将は根本山徒唱導師のありしが書きて、今春権守(禅竹の祖父)多武峰にてせしを、後書き直されしなり」とあり、唱導師→?→今春権守?→観阿弥→世阿弥と書き継がれたようである。まさに仏法説話の劇化・芸能化として猿楽があったと見てよかろう。
鬼の解釈は色々有るようだが、観阿弥の言葉を受け継いだとされる『風姿花伝第二物学条々』では「怨霊、憑物などの鬼は面白き所あればよく学べば易し。冥土の鬼よく学べば恐ろしき間、面白き所更になし」と3種類の鬼を上げている。『三道』では怨霊(船弁慶等)、憑物鬼(葵上等)を砕動風鬼(即ち「形鬼心人」、冥土の鬼を力動風鬼即ち「勢形心鬼」と分類(鵜飼や阿漕の類)し、その演じ方を書いている(もっとも同じ力動鬼の項目の最期には、面白い鬼とはよく学べば「巌に花の咲かんが如し」と、殆ど不可能に近いことを言っている)が、『談儀』では「総じて鬼ということをば遂に習わず」としている。もはや世阿弥にとっては父の遺訓(鬼の重要性)にもかかわらず、鬼は旧時代の思想になっていたようである。1400年(花伝前半完成)を分岐点にして時代思潮は大変革をしていたのかもしれない。終戦の1945年と相応すると思うと愉快である。
鬼の曲目としては、「野守」「金札」「国栖」「賀茂」などが力動の鬼で、「通小町」「船橋」「恋重荷」「善知鳥」「藤戸」などが砕動の鬼の代表曲であろう。
力動鬼の曲では「飛出」「癋見」「小癋見」などの唐冠をつけた鬼神面がつかわれる。談儀にはこれらの名称が出ており現在の面と同じである事がわかる。その代表として赤鶴の名が出ており「これ重代の面」としているから観阿弥以前のものである事も判る。
砕動鬼の曲では、黒頭を着ける霊系の面となる。談儀には固有名詞を持った面の名前は無く、「「年寄りたる尉の面」とか「顔細き尉の面」、「女面」、「若男面」、「ちと年寄りたる面」
等という書き方で、面種が固定していなかった事を物語る。従って古曲「通小町」を現代風に改定翻案した世阿弥がどんな面で舞われたかは判っていない。
さて「通小町」はどんな曲だろうか。小町の甘言に百夜通いをした深草の少将は九九夜に悶死してしまう、何ともやりきれない男の物語り。原典は特定できないようだが中世伝説(唱導説話の百夜通)や古歌(小町の髑髏の目に薄が生えた)をベースに作られたようである。唱導師の説話は「今昔物語」や「宇治拾遺物語」に多いというが、手元の資料では見つけ出せなかった。
男女妄執は邪淫戒とされ地獄に落ちて責め苦を受ける。小町は小町伝説のように色好みの美女の驕慢、少将は小町への異常執心。交り合うことの無い不毛の愛欲は仏法説話としては好材料かもしれないが、現代のストーカーには思いも寄らない心情だろう。
何度かの改変を経て今日に残る世阿弥の本曲は、複式夢幻能の形だが前場にはシテがでない。ツレが小町を暗示する。後場の展開に関係無さそうな「木の実尽し」の名調子が初めから出てくる。小町と少将の「受戒争い」、「百夜通い」では「雨夜の伝」の凄惨をみせる。そして突然「ただ一念の悟りにて・・」と成仏してしまう。ドラマの構成は変だが、テーマが身近なだけにイメージが先行してその不自然さを感じさせない。それにしても小町への恋慕の妄執は凄ざましい。
何年か前の京都謡跡紀行での、小町の髑髏の目から薄の穂が出たという場所の記憶や、深草寺の思いを重ねると私の中の小町や少将が生き返ってくる。
少将の顔は青ざめ、頭蓋骨に皮を付けただけのような凄惨な面で、百夜通いの恨みを小町に叩きつける。更に「御身一人仏道成らば、我が思い重きが上の小夜衣・・・お僧の授け給える戒もあるまじ、帰り給えお僧たち」と追い返し、成仏反対を主張する。この強烈な想いは「痩男」という独創的な面をやがて作り出すことになる。
「痩男」の名は室町末期に書かれた『八帖花伝書』が初出のようである。世阿弥死後約130年である。尤も資料が発見されていないだけで、もっと早い時期に有ったかも知れない。「痩男」は氷見(又は日氷)宗忠作であることはよく知られている。『談儀』では伝説的な面打師を含め11人の名が出てくるが氷見の名は無い。後世1797年喜多古能著『仮面譜』では「時代龍右衛門同越中国日氷郡住、一説に法華宗の僧という」とあり、また『大野出目家伝書』には「日氷宗忠、越中日氷郡住。凡420年餘。老女の類、痩男、景清、蛙、惣じて痩せたる面に作あり」と同じ様に書かれている。420年前は1374年にあたり世阿弥10歳の頃であるから、これらの伝書は信頼しがたい。
觀世寿夫は『仮面の演技U』に作家年表を書いているが、殆ど世阿弥関係書からの引用である。此処には氷見の時代を第2期群、15世紀末の作家(根拠不明)としている。世阿弥死後間もない頃と思われる。氷見の作は「痩男」を初め「蛙」「痩女」「二十余」「霊女」など凄愴な面ばかりである。これは彼が寺僧なるが故死人に対面する事が多いからだとの説もあるが、それにしても凄い面だ。
私はこの氷見宗忠には忘れ難い思い出がある。昭和54年ごろ氷見市に出張した折、ホテルの近所を散歩していて、氷見の居た「朝日観音」という古寺に出会ったのである。市の教育委員会の説明板があった。面打ちを始めたのはそれが切っ掛けだったかも知れない。その頃謡の師匠が「謡う時、掛ける面が何であるかを考えるとイメージが取り易い」と言われ能面に関心を深めていたからである。「痩男」や「蛙」「霊女」などぞっとするような面に強い印象を受けていた。それから大分たったが、やっと今回「痩男」を打つ気持になった。
面を打つ前にはその面の使用曲や由来を知らなければならない。前記『八帖花伝書』では「「通小町」「藤戸」「阿漕」「善知鳥」「錦木」何れも霊の痩せ男なり。但し右の内にて「通小町」は、面の心持違い候。その仔細は公卿なり。深草の少将、恋に窶れたる顔なれば、気高きを用いる也。残りは、卑しき猟師などの憂世の業に窶れ死たる顔なれば、面にその心得有るべし。衣装の着様も同前なり」と書いているが、このように役柄や曲の解釈から面を選ぶのは現在も同じようである。四位の位を持つ中将の品位と妄執をどう捉えるか。
手元の明治29年生れの面打作家故入江美法『能面検討』(昭和18年発行)を見ると氷見作の痩男について「この面には氷見の鋭い感性が剃刀の刃の如く冴えている。頬の大胆なえぐりも大胆と言うよりは寧ろ鋭い。刃の冴えにも増した感性の鋭角である。目の肉は抉り取られて瞳孔の深さを秘めている。(中略)氷見―この痩男の死相は常人の感覚で表現出来るものではない。特殊な職業にある者の冷徹と鋭角な感性によってのみ表現し得る枯骨の表情である。私には聞える、吹雪の夜、死人を前に痩男を打つ氷見の激しい鑿の音が、遠い北国の風の中から・・・・」些かオーバーなと思うが、この戦前戦後を代表する著名な面打師の言葉として、重さを感じないわけには行かない。己の感性の乏しきを嘆くのみである。
面打の指導を受けている丁師もこの文章のように、かなり神秘的、精神的な言辞の人だが、作業となると精神論ではすまない。その次にくる指先の仕事の未熟を思うと気が重い。心技一如なんて言葉を思い出す。それにしてもこの面に毎日対峙していると、深草の少将のえも知れぬ心の深淵に目を背けたくなる。どんな痩男が出てくるのか悩ましい。 
 
南部信政

 

今回からは南部政長の子、信政のお話になります。
といっても、信政に関しては政長よりも早死したこともあり、たいして残っていないのが現状のようです。
南部信政は南部政長の子として生まれ、幼名を三郎といいました。
そのころ時代は鎌倉時代の末期、鎌倉幕府の政治は乱れに乱れ、幕府は後醍醐天皇の軍(足利高氏、新田義貞ら)により滅ぼされてしまいます。
その後、後醍醐天皇の命により北畠顕家が奥州に向ったというのはこれまで幾度となく書いてきました。
1335年、足利尊氏は後醍醐天皇の命に背き、北条家の残党討伐のために鎌倉へ向います。
そして乱の鎮定後も鎌倉から京へ戻る気配を見せなかったために反逆者の汚名を着せられ、新田義貞を大将とする討伐軍を差し向けられてしまいました。
尊氏はその討伐軍を撃破、義貞を追って京を目指します。
同じ年の12月22日、奥州にあった北畠顕家は天皇の命令に従い、軍を西上させます。
この時、南部師行は多賀国府の守備を、政長は八戸根城の守りを固め、1回目の西上に同行することはありませんでした。
では、南部軍はその西上軍に参加しなかったかというと、そういうわけではありませんでした。
南部師行の命により、政長の子信政が南部軍の大将となり、その西上軍に従軍していったのです。
当然、足利方もこの西上軍に対して妨害のための軍を出します。
まずは斯波家長、相馬や佐藤(要するに現在の福島県の豪族ですね)らを語らい、顕家らの軍の進路を塞ぎます。
顕家軍は矢築宿において足利方の夜襲軍を撃破、勢いに乗って常陸に入ります。
常陸の国にあるは佐竹貞義、奇しくも(?)南部と同じ甲斐源氏ですね、やはり進路の妨害を図りますが顕家軍の勢いの前に敗れ去ります。
勢いに乗った顕家軍は鎌倉に進撃、同地を陥落させ、さらに西上を続けます。
これらの戦で、南部信政は自慢の騎馬軍を使い、各地で戦功を挙げたようであります。
1336年、顕家は近江まで軍を進め、同地の観音寺城を攻め、同地を守る佐々木氏頼・大館幸氏を討ち取り、琵琶湖を渡り京へ迫ります。
顕家軍は新田義貞軍と合流し、圓城寺を攻め守将細川定禅を敗走させ、さらに高師直軍を関山に破り、京へ入りました。
京では足利軍と激戦を繰り広げ、遂には糺河原の戦において尊氏を破り、尊氏は丹波の篠村に敗走させることに成功しました。
その後、尊氏は兵庫に向かいます。
顕家の軍は新田・楠木らの軍勢と連合し尊氏軍と交戦、6日間の激闘の末尊氏を九州に走らせることに成功します。
1336年2月12日の事でした。
その後顕家は京へ戻り、5月をもって多賀へ戻ることになりました。
その間、南部信政は顕家に常に従い、鎌倉・近江・京・摂津と各地を転戦して戦功を挙げました。
帰路においても、相模片瀬海岸、相馬小高で足利方と戦をし、多賀国府に帰還したとの事です。
帰国後、信政も八戸根城に帰還します。
その後も、南部師行・政長に従い各地を転戦、数々の勲功を挙げます。
特に、曽我氏との戦いにおいては抜群の戦功を挙げたとの記録が残っております。
しかし、その後の信政については詳しく触れられている資料が少ないようです。
特に南部政長が八戸にいる間の南部氏の合戦ではおそらく総大将を務めたであろう戦も数多くあったはずなのですが、それらが資料としてあまり残っていないのは少々解せないです。
ただ、1345年3月26日、北畠顕信の書状によれば、南部信政に対して、長年の軍功を賞し、かつ国司推挙により信政を達智門女院蔵人に任じる、という綸旨が下された、とあります。
達智門女院…、私も詳しくは知りませんが、どうやら後醍醐天皇の皇后であった方のようです。
これがただの名前だけなのか、それとも本当に宮仕えのために吉野へ行ったのか…、それを示す資料を私は見つけることが出来ませんでした。
政長が八戸根城南部の家督を継承した時点で既に奥州の南朝方の要北畠顕家は亡く、奥州各地の南朝方の勢力が衰え始めた頃でありました。
顕家死後の奥州について朝廷は義良親王および宗良親王を奉じ北畠顕信・結城宗広・葛西清貞・伊達行朝らを随行、そしてその後見に北畠親房を立て、体勢を立て直すべく奥州に発進させるが途中船の難破によりあえなく失敗してしまいました。
そんな中、奥州で1人気を吐く南部政長、形勢不利な状況でも勤皇の志をますます固くし、南朝方につくしていくのでありました。
そんな中、足利尊氏はこの南部政長に対して懐柔策をとります。
1339年、尊氏は政長に対し、「旧領安堵および今後の活躍次第での更なる恩賞与える」という書を送り、政長に足利方への帰り忠を勧めます。
政長はこれを一蹴、尊氏の説得工作はあえなく失敗に終わります。
それに反発するかのように、政長は津軽へ出陣、北朝方の曽我貞光を攻めます。
1339年3月、曽我氏の大光寺外楯を攻略、同10月岩楯城を攻城、11月津軽尾崎で合戦と、その年は合戦に明け暮れました。
同じ年、後醍醐天皇が崩御し、後村上天皇が即位、南北朝の歴史が動いた年となりました。
翌1340年、南朝は奥州での劣勢を挽回すべく北畠顕信を鎮守府将軍に任じ、多賀国府奪回を目指します。
顕信は1340年春、宇津峰城に入城し、結城・伊達・葛西そして南部ら南朝方諸氏に書状を送り、多賀国府奪回作戦を立てます。
同年、政長は津軽の諸氏を牽制しつつ、南征の準備を整えます。
そして翌1341年、奥州における南北朝時代最大の合戦、「三迫合戦」を迎える事になります。
その時の模様はコチラの記事を参照してください→三迫合戦
結果として、津軽の安藤氏そして曽我氏が八戸根城を攻めるといった状況が生まれ政長はこの三迫合戦に参戦する事が出来ず、南朝方は敗北してしまいました。
根城襲撃の報を受けた政長は、全てを投げ打ち根城に帰還、防衛に専念する事になりました。
政長の根城防衛戦は困難を極めました。
安藤師季・曽我貞光ら津軽勢はこれまで南朝方から受けてきた仕打ちの恨みを果たすべく精鋭を揃え、根城を攻めます。
また城内から越後光政・成田頼時・瀧瀬政時らの裏切りがあり津軽勢は圧倒的に有利な状況でありました。
しかし、対する政長も根拠地を攻められて黙っているものではありませんでした。
最後は死を覚悟して敵軍に突撃、津軽勢を打ち破ることに成功しました。
このとき、先の裏切り者は全員討ち取り、また津軽勢の大将の1人であった曽我貞光に手傷を負わせ、津軽勢に数百人の犠牲者を出させるまでの戦果を上げ、津軽勢をようやく撤退させる事に成功しました。
この戦は長期間におよび、戦は翌1342年秋まで続いたのでありました。
翌1343年、南朝方の有力武将であった結城親朝が北朝方に降ります。
北畠顕信はこの劣勢を挽回すべく再び兵を集め、北朝勢との決戦を行おうとします。
そして再び南部政長に南征の軍を出すよう命令を出します。
しかし、前年までの長期間にわたる兵力の疲弊、そして津軽安藤勢の動きなど諸事情により遂に兵を動かす事は出来ませんでした。
これにより顕信の再度の決戦は失敗する事になります。
また、この頃から足利方の奥州総大将石搭義房の動きが活発化、南奥州にあった北畠顕信をはじめとする南朝勢は守勢一方となります。
北奥州の南部政長も南からの援軍は期待できない状態に陥り、ほぼ孤立の状態になってしまいますがそれでもなお南朝方のために働くのでありました。
1346年、そんな政長に再び足利尊氏からの誘い状が届きます。
今度は、旧領安堵の他望むままの恩賞を授けるという甘言まで用いて政長を自陣営に誘い込もうとします。
奥州の辺境にあってこの待遇での誘い、根城南部の実力をうかがい知れるような話であります。
しかし政長はこれを拒否します。
南朝側に忠義を尽くす、そういう政長の心意気が伝わってきます。
一方の北朝勢、新たな奥州管領として吉良貞家・畠山国氏を任命、奥州に派遣します。
特に吉良貞家の活躍はめざましく、1347年、伊達家の拠点であった霊山城を下し伊達家を降伏させ、そしてさらに北畠顕信が籠もる宇津峰城を攻略、顕信を出羽・田川郡立谷沢城へ追い落とします。
この翌年、楠木正行が四条畷の合戦で戦死し、高師直ら北朝勢の手によって吉野の御所は焼き討ちにあってしまいます。
また同じ年、共に南朝勢として働いた伊達行朝死去。
伊達家は既に北朝勢に降伏していたとはいえ、この訃報は政長にとってはショックが大きかった…かもしれません。
その間の南部政長、滴石の戸沢家と手を組み、南朝勢の勢力を盛り返さんと働きますが、北朝勢の勢いが強く失敗に終わります。
逆に北朝勢、特に吉良貞家軍の影響が八戸方面まで伸びていきます。
1349年、吉良貞家の軍は八戸方面に攻め入ります。
防衛戦となった政長、吉良貞家自らが出陣していなかったせいもあるかもしれませんが、この吉良軍を散々に打ち破り、自らの存在を世に示します。
しかし、翌1350年8月18日、南部政長死去。
新田義貞の鎌倉幕府討伐から足掛け18年、南朝一筋で戦い抜いた政長はここで生涯を終えたのでした。
政長の跡を継いだのは孫の南部信光であります。
政長の子信政は父が亡くなる以前に既に鬼籍にはいっていたのでありました。
しかしこの信政、南部家の津軽進出の足がかりを築いた人でもあります。 
 
義経記

 

軍記物語。8巻。作者不明。室町初・中期の成立か。『判官(ほうがん)物語』『義経(よしつね)物語』ともいう。源義経の一代を物語にしたもの。
本書の内容は巻4をつなぎとして前後の2部に分けられる。前半は、平治(へいじ)の乱の敗者源義朝(よしとも)の末子として鞍馬(くらま)寺に預けられた牛若(うしわか)が出自に目覚め、金売吉次(かねうりきちじ)に伴われて奥州へ下る途次で盗賊熊坂長範(くまさかちょうはん)を滅ぼすなどの冒険や、弁慶の生い立ちと、牛若が彼を清水(きよみず)寺で圧倒して郎従とする記事など、いわば幼少の雌伏期の物語である。後半は、平家追討後梶原景時(かじわらかげとき)の讒言(ざんげん)で兄頼朝(よりとも)の疑いを受け、討手(うって)土佐坊正尊(しょうぞん)を討ち取り、九州西下の途次で難船し、吉野山へ逃亡して愛人静(しずか)と別離、さらに北陸路を弁慶の活躍で多くの危機を突破しつつ奥州平泉に到着するが、藤原秀衡(ひでひら)死後、頼朝の甘言につられた泰衡(やすひら)に裏切られて、衣川館(ころもがわのたち)で鎌倉方の大軍を相手に弁慶や鈴木兄弟の奮戦むなしく最期を遂げる逆境の時期の物語であり、義経が平家追討の大将として歴史の進行上華やかに登場した時期はほとんど省略された変則的な伝記となっている。その点で語り本『平家物語』と相補関係にある。『義経記』成立期の義経伝説が幼少の貴公子牛若と流離の判官殿に集約されていたことは確かで、おそらく当時の判官びいきの思潮を背景に、並行して各種存在した義経伝説のうちから一種を選んで一代記風にまとめたものであろう。構想上破綻(はたん)もあるが、全体として義経の史実の像とは異質の、室町物語風なロマンに仕立て上げられている。登場人物の造型は行動的で楽天的だが、歴史の進行の必然性への見通しを欠いたものとなっており、当時の京都の都市庶民の生活感覚が反映していると考えられる。他の文学作品への影響は幸若(こうわか)舞曲の判官物からのほうが強く、『義経記』の真の流布は江戸初期の版本刊行以後である。 
 
足利義満 公武に君臨した室町将軍

 

足利義満というと、日明貿易を巡る「屈辱外交」、皇位簒奪計画などなどによりあまり評判の良くない人物です。しかし、中世日本の政治史をみるなかで、彼の存在感は極めて大きいということもまた否定できません。足利義満の朝廷での歩みはその後の足利将軍達もそれに年齢や日程も全く同じように歩んでいくことになり、義満に反発した足利義持ですらそれには従わねばならなかったくらいです。
本書では、足利義満が単なる幕府の将軍という位置づけを越え、公家と武家の両方の勢力に君臨する支配者となっていったことを描いていきます。その際に、有職故実や芸能といったことが取り上げられ、これらの物が政治の場面でも極めて重要な意味を持っていたと言うようなことが述べられていきます。
当時、北朝の朝廷は政務や儀式に対し意欲と仕組みはあるけれど、現実にはそれを執り行う力(財力など)がなく、何かと室町幕府を頼ろうとしていました。しかし義満以前の室町幕府が、朝廷がやるべき事(儀式など)への関わりが極めて消極的でした。そのあたりは鎌倉幕府の頃からあまり違いはなく、尊氏や義詮、さらに義満が若い頃政務を取り仕切った細川頼之も鎌倉幕府以来の武家政権の対応を踏襲していました。
しかし、それが大きく変わり室町幕府の将軍が朝廷に深く関わっていくことになるのが義満の時代でした。朝廷のほうでも二条良基のように武家政権が朝廷の事柄に積極的に関わることを求める人もいました。この二条良基ですが、武家から近衛大将を出そうとしたり義満にたいして積極的に故実を伝授しようとします。煩瑣なことこのうえない朝廷の儀式や故実を身につけることは極めて大変であり、義満以前の人達であれば、尻込みして出てこなくなるところですが、義満は芸事や有職故実を貪欲に身につけていこうとし、実際にそれに成功しています。
それはさておき、二条良基という人物、自分の妄想を書き連ねた「日記」を書いたり、当初は義満に故実をつたえるのは別の人間だったのに、それを押しのけて自ら故実を伝授するなど、なかなか強烈な人物であると思います。しばしばスポーツの世界で「〜は私が育てた」と威張る人がいますが、なんとなくそういう感じがしないでもありません。また、義満も二条良基を利用しているところがあるのではないかと感じるところがありました。
義満というと皇位簒奪とかそういう話が良く出てきますが、そんなものは無理だしあり得ないことだったというのが著者の見解です。後小松天皇の後見として、「治天の君」のような立場につけられたところから色々と勘違いし、人臣でありながら「太上天皇」の尊号を望む義満の要求を、義満の妻への女院号宣下や、息子の義嗣を親王に準じて元服させることでかわそうとしていきます。はじめから人臣である義満に「太上天皇」など与えるつもりはなかったようです。
太上天皇の件に限らず、公家は義満に気に入られないと大変なことになるためおとなしく従っていたが、日記では義満のことを「大ザル」呼ばわりしています。「心にもない甘言をもって不案内者を有頂天にさせ、蔭からひそかに嘲笑するーこれこそ公家の御家芸でなくて何であろう」と著者も書いていますが、まさにその通りですね。いかに故実をみにつけ、様々な芸能、教養をもち、圧倒的な力を持とうとも、所詮は義満は公家社会のよそ者、公家達はとりあえず自分達の社会のしくみを維持するために適当に利用しただけということなのかもしれません。
本書では、義満という人物が室町時代の政治史においてどのような位置づけにあるのかを示していきます。一方で、関東や九州、地方の大名との関係については彼以降の将軍達と同じように対応に苦労しており、そこは彼の限界だったのかなと思います。九州というと、今川了俊のことが良く出てきますが、彼についても応永の乱の際に、あちこちで反乱を煽っていたことがしめされていきます。また、了俊を呼び出した際に大名を招集して同席させたのは、了俊をさらし者にすると言うより、おそわれるのではないかという恐怖からという推測をしています。義満の意外な小心さを表しているというと著者はみています。傲慢で尊大、享楽的で気分屋、冗談や嫌味をよく言うといったことが義満の人柄として語られていますが、物事に対する貪欲さ・積極性というところはプラスの要素のような気がします。 
 
魚山参拝

 

『陳思王の墓を経由して』 南北朝時代・庚肩吾(意訳)
「公子は一人残りて、世間、彼の名を覚ゆ。山上の枯木も消え、畑も荒地となる。酒席で平安歓楽を楽しむも、讒言と甘言は拒否す。早朝、墓参し、話し合うて万事達す。河水は遠く流れ、巨風鳴き、空は共鳴す。雁は雲とありてヨモギを驚かす。枯葉墓に落ち、寒鳥孤城に還る。河の水泣いて曲を歌い、漁陽悲しき鼓声聞こゆ。家を離れれば、また遠来の客来るに心を痛む」  
 
南北朝の幕あけ

 

南北朝時代は後醍醐天皇の元弘元年(一三三一)に、北條氏が持明院統の光厳天皇を擁立したことから始まる。[元弘三年/正慶二年](一三三三)鎌倉幕府が滅ぶと、翌建武元年、建武中興なる公家政治がおこった。そしてこの政治に反対する武家政治は、足利尊氏が[延元三年/暦応元年](一三三八)将軍となって室町幕府を開いて対抗し政権を争うことになった。
[延元元年/建武三年](一三三六)正月、新田義貞は弟の脇屋義助や千葉貞胤らを率いて、鎌倉にいる尊氏を陸奥の北畠顕家等と挾み撃ちしようと出陣したが、箱根附近で破れ京に引き揚げることとなった。これを尊氏は追撃した。ここにおいて、宮方は天皇を比叡山に奉じた。そのうちに北畠顕家の奥州勢が西上し正月二七日から三〇日までの戦に足利勢を西走させている。このころ、正成は一族楠木正家を東下させて那珂、小田、大掾等の兵を集め瓜連(常陸那珂)に築城し、佐竹勢の攻勢を退けている。二月吉野から義良親王を奉じて陸奥大守顕家が再び東下したので、宮方は勢いを盛り返し佐竹勢を圧倒している。しかし、西国では九州に逃れた足利尊氏と弟直義が三月二日、菊池武敏を降し京に向かって上り五月二五日湊川に楠木正成を戦死させた。義貞は後醍醐天皇を比叡山に奉じ、千葉貞胤・宇都宮公綱・菊池武重・名和長年等とともに随行したが、その中に相馬氏があった。相馬忠重は、相模住人の強弓者本間孫四郎資武と共に坂本口で足利勢を撃退したが忠重の郎従には水海道絹西の地侍もいたであろう。『太平記』に、次のように記されている。
「相馬四郎左衛門(忠重)五人張十四束三臥の金磁頭クツ巻テ残ラズ引ツメテ弦音高ク切テ放ツ手答トスガイ拍子ニ聞ヘテ、甲ノ直内ヨリ眉間ノ脳ヲ砕テ鉢着ノ板ノ横継キレテ矢ジリノ見ル許ニ射籠タリケレバアツト云声ト共ニ仆レテ矢庭ニ二人死ニケレバ、跡ニ継タル熊野、此矢ニ筋ヲ見テ前ヘモ不進、後ヘモ不帰、皆背ヲクヾメテゾ立タルケル…中略…跡ナル寄手廿万、又本ノ陣ヘ引返ス」
天皇は尊氏の甘言により一時京都に還られたが、やがて吉野に脱せられた。この間、山門にあった宮方勢は四散してしまった。東国でも宮方は漸次衰えを見せ那珂通辰は佐竹貞義に斬られている。
[延元元年/建武三年](一三三六)正月になってから陸奥の宮方勢は霊山城の天険に拠ったが、吉野や越前の義貞から西上を促されて九月一九日出動し途中で結城直朝と小山朝郷を捕えたが結城宗広の口添えで宥している。一二月一六日、宮方は利根の渡河戦に武家方を破って武蔵府中に屯した。この間、宇都宮氏に内紛があったのを鎮め、新田義興や北條時行(高時の子)の軍を加えて鎌倉を略した。[延元二年/建武四年](一三三七)正月鎌倉を発して和泉国石津に至り、五月下旬顕家は高師直と戦い遂に戦死した。そしてこの年の閏七月、新田義貞が藤島に戦没したことは宮方にとって大打撃であった。 
 
南部政光

 

1376年、南部信光の死去に伴い、八戸根城南部の当主となったのは弟の政光であります。
最初は祖父政長から七戸城を与えられこの地にありましたが、信光の子長経が未だ幼少であったため、信光の後を継いだのでありました。
当時はもはや足利幕府の勢いが強く(といっても内部で権力争いが起こっておりましたが…)、諸国の豪族はほとんど皆これに帰向しておりました。
反対に南朝勢は勢力の衰えが目立ち、組織だった抵抗もなかなか出来ない有様でありました。(もっとも、九州では今川貞世による菊池氏討伐真最中、なかなかの苦戦を強いられていたようですが)
1367年、2代将軍足利義詮が死去、3代将軍として足利義満が将軍の座に就き補佐役として細川頼之が管領に就任し、各地の支配を組織立ったものにしていきます。(ちなみに太平記もこの足利義詮の死去〜細川頼之の管領就任で幕を閉じております)
この仕組みにより、関東ならびに奥州の管轄は鎌倉府と定められ、その支配を鎌倉公方が行う事と定められたのでありました。(もっともその後、幕府本体と鎌倉公方の対立によりこの仕組みもおかしくなっていくのですがこれはまた後日の話ですね)
南朝方に従う南部氏も節を守って志を曲げないながらも、この足利幕府に対して抗する事が難しくなっていったと言うのも事実です。
吉野の南朝勢ももはや吉野を守るので精一杯。
南朝の雄であった北畠氏も伊勢半国を守るので精一杯。
関東では1383年に小山義政が兵を挙げるも足利氏満の武将上杉朝宗により討伐され沈黙。
奥州においても南部政光が同年に沙弥道重と一揆契約を交わして幕府方と一戦を交えようとするも、あえなく失敗。
もはや体勢は如何ともし難い状況になっておりました。
そんな中、遂に南北朝統一の時がやってきます。
1392年、南朝後亀山天皇が北朝後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝は統一されました。いわゆる「明徳の和談」であります。
その頃、南部政光は甲斐の領国にあり、南部守行との会談に臨んでおりました。(実際の時期は少しズレるんでしょうが…)
そのときの政光と守行の会談の模様を以下に記します。
政光は、
「我が家は世々朝恩を蒙る事甚だ優渥なり。父、祖父、志を一つにし、忠勤に励んで以って今日に至っている。今南北朝合一をみたからと言って、頭を垂れて昨日の仇敵に屈するのは忍びない。家を滅ぼし身を喪うにはもとより期するところである。我々は帰降の礼はしない。」
守行は政光の貞節に感じ入り、諭すように言いました。
「こうなれば、甲州の領土を捨てて陸奥に退き、世の耳目に遠ざかり、且つあえて足利氏に抗することなく、以って家を全うするべきである。我々は力を尽くしてあなた方のために謀る準備がある。」
政光はその守行の誠意に感じ入り、
「八戸は北畠顕家から受けた土地である。すなわち天戴の土地である。あなたの言に従って、余生をその地で終えよう。」
1393年、南部政光の一族は甲斐の領地を捨て、八戸に移りました。
これにより、八戸根城南部の一族は根城を完全な本拠としたのでありました。
足利幕府も、抵抗しないものは咎めない、と言う事で八戸根城南部に対する討伐は行いませんでした。
南部守行による裏工作が功を奏したようであります。
南部政光は1419年8月に亡くなりました。
さて、これで南北朝時代における八戸根城南部氏のお話はオシマイであります。 
 
懐良親王を奉じ、大宰府を制圧し、九州統一
  九州南朝の雄、武時・武重・武光の菊池氏三代

 

正成が建武功労一番と評した武時
「菊池氏三代」によると、菊池氏は、菊池郡司でありながら一族が多く府官となり、9世紀中ごろから11世紀前半にかけて本宗が有力府官として活動し、中央政府にも出仕して、ついに対馬守を勝ち取るまでに発展したものということができる、と云う。
南北朝時代に登場する菊池武時は初代、菊池則隆より数えて12代目に当たる。
楠木正成が、建武の中興、功労一番は菊池武時と評価した武時は、元弘元年1333、楠木正成が千早籠城戦を戦っていた時、3月11日、菊池から博多に到着する。
そして、翌日鎮西探題に出仕するが、着到の遅参をなじられ、侍所と口論をする。その翌日、武時は少弐に、宣旨の使いとして使者を立て、「ともに鎮西探題討滅を!」と要請するが、少弐は、その使者を斬って捨てる。
翌3月13日、武時は九州鎮西探題を襲撃し、その子頼隆とともに討死するのである。
「ふるさとに今宵ばかりの命とも知らでや人の我を待つらん」と歌い、武重を博多から肥後に帰した“袖ヶ浦の別れ”は、正成・正行、桜井の別れの3年前の事であった。
では、いったいなぜ、武時は九州の鎮西探題を襲ったのであろうか、背景を見ておこう。
一つには、武時の妹と二条道平(北朝四代の摂政・関白をつとめた二条良基の父)の間に生まれた女子が後醍醐帝の女御(栄子)であるという、後醍醐帝に連なる有力公家との姻戚関係にあったこと。
二つには、源平の兵乱で反平家に立つも、鎮定後は平家についたため、源平の乱終息後、鎌倉幕府源頼朝から領地を没収される(のちに返還される)など、菊池家の歩んだ歴史そのものに反幕府姿勢という背景が読み取れること。加えて、承久の変(1221)では、菊池隆貞が京都大番役として上京中で、上皇方の親衛軍をつとめたことから、北条義時から、本領の一部を没収されるなど、菊池氏の領主的発展に幕府・鎮西探題との衝突は避けて通れなかったのではないか。
菊池千本槍を考案した武重
武時の後を継いだ子、武重は、建武新政権では肥後守に任じられ、武者所に列せられている。
建武2年1335、中先代の乱勃発を契機として足利尊氏が建武政府に反旗を翻すと、後醍醐帝は尊氏討伐軍を出京させるが、武重は新田義貞に従い、箱根竹の下の合戦で足利軍と戦う。
この戦いで、菊池軍は、小刀を青竹の先につけ、にわか作りの槍として、槍隊による槍ふすまを作って進撃し、足利直義の軍に勝つことができたといわれているが、武重の考案で、菊池千本槍のはじまりと伝わる。
そして、翌年2月、弟の武敏は、大宰府を攻撃して少弐貞経を討ち取るが、3月2日、多々良浜の戦いでは破れ、尊氏の大宰府入城を許してしまう。
尊氏が東上を開始すると、5月18日、武重は福山城で防戦するものの、京に逃げ帰ることになる。
そして、正成が散った湊川の戦では、菊池勢から物見として派遣された弟の武吉が、丁度、正成・正季討死の場面に遭遇し、ここで引き返すは武士にあるまじき行為と、この地で討死をしている。
正成が湊川に散り、新田義貞が京に戻ると、後醍醐帝は比叡山に難を避けるが、武重は後醍醐帝に随行し、脇屋義助の下、東坂本に布陣する。
そして、この年10月、後醍醐帝が尊氏の甘言に騙されて京に戻り、花山院に幽閉されるが、武重も後醍醐帝の還幸に従い囚禁される。
この後、後醍醐帝は吉野に逃れるが、武重は、囚禁を脱し、河内を経て、菊池に帰り、挙兵する。この後の恵良惟澄と呼応した武重の挙兵・軍事行動は、懐良親王による九州征西府構築に向けた大きな第一歩となる。
延元3年1338、武重が病死をすると、その弟、武士(たけひと)が菊池家の惣領となるが、軍事的才能や政治的手腕に欠け、弱い気性の武士は、興国5年1344、惣領を辞し、出家する。
楠正行が河内で南朝復権の戦いを黙々と続けていた頃、九州の南朝の主力勢力であった菊池一族は惣領権不安定という九州受難時代であったことが分かる。
そして、九州征西府の構築を目指して吉野を発った懐良親王もまた、四国から九州の薩摩谷山に入ったものの、大宰府を目指すには至らなかったのである。
筑後川の戦いで勝利した武光
武士の跡を継いで菊池の惣領となったのが、武重の弟、武光であった。
興国6年1345、3月、武光は恵良惟澄の支援を得て、深川城を回復すると、以後、同城を確保し、実力によって菊池氏の惣領となるとともに、懐良親王を菊池に迎え、九州統一に向けた快進撃を開始する。
征西府が九州を統一した背景として、懐良親王の政治的権能と武光の軍事的機能の連携がある。
正成・正行は後醍醐帝とのつなぎでもあった盟友、護良親王を早くに亡くしてしまうが、菊池氏はその軍事的機能を背景に、懐良親王の政治的権能をいただいたことで、九州の宮方結集を図ることができたのである。
また、楠氏、菊池氏に共に備わる経済力にも着目をしておかなければならない。
楠氏は、河内・金剛山の辰砂をはじめとする鉱産物やさまざまの手工業製品を扱い、陸運・水運を使った運輸流通によって財を成し、吉野の宮を支える経済力を手にする。そして、菊池氏は、海の支配、とりわけ倭寇の活躍によって莫大な財を成し、軍事力の基礎を築いた。
戦国時代、武士は一日一人一升の飯を食したという。何千、何万という武士をしつらえ、戦いに挑むとき、どれほどの財力が必要であったか、われわれの想像を絶する。もちろん、当時、飛行機もなければ、車もない時代。物資の移動はすべて、船と荷駄であったことを考えると、山城を巡る攻防にどれほどの労力と時間と財力が費やされたことか。
武光は、正平3年1348正月2日、薩摩谷山城を発った懐良親王を宇土港に迎え入れている。そして、1月14日に、懐良親王は菊池に入り、懐良親王の菊池在所時代の14年が始まる。
楠正行が、北畠親房の主戦論に抗しきれず、四條畷の戦いに赴き、討死する、まさに時を同じくして、九州では、菊池一族を中心に大宰府攻略・九州統一が現実のものとなりつつあった。
武光の時代に入ると、九州は、懐良親王の宮方、足利幕府の探題方、そして足利直義が送り込んだ直冬の三分時代に突入する。
そして、正平14年1359、九州の宮方による統一の先駆けとなる戦いが起こる。この年、7月15日、武光は、懐良親王とともに筑後川を渡り、少弐軍と対陣する。
武光は、8月6日、夜襲を決行。少弐軍は不意を突かれ混戦に陥り、激戦となるが、菊池軍の勝利で終わった。太平記によると、宮方4万騎、死傷およそ三千、少弐方6万騎、死傷2万1千とあり、九州第一の合戦といえる。
この戦いは大原合戦ともいわれているが、この地域には今も、大将塚・千人塚・五万騎塚など、戦死者を埋めたと伝わる塚が残っており、武光が血刀を洗ったことから大刀洗川の名も残っている。
懐良親王は、九州征西府の構築を目指して京の都を発って26年目の正平16年1361、悲願の大宰府入りを果たす。しかし、建徳2年1371、九州探題に今川了俊が赴任すると、状況は一変する。
文中元年1372、8月、今川了俊の攻撃を受け、大宰府は落城。武光は高良山に退くが、この年11月16日、戦傷がもとで死去する。
正行の不幸、菊池氏惣領権不安定時代に遭遇
武光死後、菊池家は武政(武光の子)、武朝(同、孫)と続くが、この武政・武朝時代は、今川了俊との壮絶な戦いの連続であった。
そして、正平21年1366、九州に入った良成親王の染土城が陥落、弘和3年1383、懐良親王の死去、元中3年1386、今川了俊による川尻、宇土の陥落と続く。
元中8年1391、南北朝の合一の前年に至り、最後の砦であった八代城が陥落するに及び、良成親王・名和彰興(名和長年の孫)は降伏、武朝は行方をくらましている。
しかし、南北両朝の合一が成ると、武朝は今川了俊と交渉し、肥後守護職に就く。そして、菊池家はその後代々同職につくことになるのである。
帝に義を貫き、正成は建武の新政を、正行は吉野の宮を、それぞれ支え続け、国政に身を投じる一方、懐良親王の下、九州統一を目指した菊池氏は、一時は九州統一に成功し、最後、敗れはしたものの、両朝統一後も家門繁栄を勝ち取る。
九州、地方政治の舞台にとどまった菊池氏と、天下国家の舞台に身を投じた楠氏。政に対する関わり方の違いと、一族結末の差を感じざるを得ない。
そして、何よりも不幸は、正行にとって、菊池氏の惣領権不安定時代に遭遇したこと。菊池氏を含む征西府は、最後まで、京の都には入れなかった。 
 
楠木正行 (くすのき まさつら)

 

南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。初名は正之(まさより、まさこれ)と伝わる。父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦った。
生年については明確な史料が存在しない。『太平記』には父との「桜井の別れ」の当時は11歳であったとあることから嘉暦元年(1326年)とも推測されているが、これは多くの史家が疑問視している。その事由は延元5年/暦応3年(1340年)に正行自身が建水分神社に奉納した扁額に「左衛門少尉」の自筆が記されたことにより、『太平記』の記述を疑って正行の生年をもう少し遡らせ、父の戦死の時点で20歳前後だったという説も古くからあるが、明確な史料が存在しない以上推測の域を出ない。
正成の長男として河内国に生まれた。幼名は多聞丸。幼少の時、河内往生院などで学び武芸を身に付けた。延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いで父の正成が戦死した後、覚悟していたこととはいえ父の首級が届き衝撃のあまり仏間に入り父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしたが、生母に諭され改心したという。
正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として戦った。正成の嫡男だけあって、南朝から期待されていたという。足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破っている。
四條畷の戦い
正平3年/貞和4年(1348年)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦い(四條縄手)において足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害して果てた。嘉暦元年(1326年)生まれだとすれば、享年23。但し、享年に関しては諸説があり、前述の通り、父の戦死時に20歳前後だったとすれば、享年は30歳前後となる。
先に住吉浜にて足利方を打ち破った際に敗走して摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け、手当をし衣服を与えて敵陣へ送り帰した。この事に恩を感じ、この合戦で楠木勢として参戦した者が多かったと伝えられている。
かねてより死を覚悟しており、後村上天皇よりの弁内侍賜嫁を辞退している。そのとき詠んだ歌が 「とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん」 である。
この合戦に赴く際、辞世の句(後述)を吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫ったことも有名である。決戦を前に正行は弟・正時や和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参内、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いた。しかし決死の覚悟は強く参内後に後醍醐天皇の御廟に参り、その時決死の覚悟の一族・郎党143名の名前を如意輪堂の壁板を過去帳に見立てその名を記してその奥に辞世を書き付け自らの遺髪を奉納したという。
「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」
地の利を失っては勝ち目が薄い。家督は弟の正儀が継いだ。
その後
明治維新の尊王思想の模範とされ、その誠忠・純孝・正義によるとして明治9年(1876年)に従三位を追贈された。明治22年(1889年)には殉節地の地元有志等による正行を初め楠木一族を祀る神社創祀の願いが容れられ別格官幣社として社号を与えられ、翌明治23年(1890年)に社殿が竣功し正行を主祭神とする四條畷神社が創建された。さらに明治30年(1897年)には従二位が追贈された。
正行の子 池田教正 池田氏はもともとは紀氏流であるが、池田奉政の孫教依は楠木正行の遺児教正を引き取り育てた。教正は池田を継ぎ、摂津に住した。
池田氏は、楠木帯刀左衛門尉正行 河内の四條縄手の合戦に討死なり。その室は摂州能勢の住人内藤右兵衛尉満幸の娘なり。嫡男多門丸は四歳にて早世する。 正行討死の後、満幸不義のふるまい有るによって、正行弟左馬頭正儀是を憤りて、正行後室を父の満幸許へ送り返す。その時後室は懐胎なり。同国池田九郎教依に結縁し妻と為て、程なく一子を産す。其の後室に子無し、教正池田の家を督く、其子佐正より代々相続き、子孫繁栄す。下略
一説に、後室は、父許で一子を産み、正行の遺児を養子とすることを教依が望み、その縁で再婚したとも伝える。ちなみに、満幸の不義のふるまいとは、南朝に叛旗を翻し、足利に属したことである。
室、菊江姫三浦越中守義勝之女也という説(『長慶天皇略紀』の楠木系図)子はなし
墓所
・京都市右京区の善入山宝筐院に墓(首塚)がある。また正行の敵方であった足利幕府2代将軍・足利義詮は遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の宝筐院)の正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」とあり、遺言どおり正行の墓(五輪石塔)の隣に義詮の墓(宝筐印塔)は建てられた。
・大阪府東大阪市六万寺町の往生院六萬寺にも墓があり、こちらには胴体が葬られている。正行が幼少期の時分に往生院で学んでいたことや、また四條畷の戦いの際に正行が往生院に本陣を置いていた関係のためである。
・大阪府四條畷市雁屋南町にも墓があり、こちらには巨大な楠が植えられている。
・京都府宇治市六地蔵柿ノ木町の正行寺(首塚)
・大阪府東大阪市山手町にも首塚がある。
・鹿児島県薩摩川内市上甑町付近にも甑島墓所がある。 
 
大津山氏

 

中世、肥後と筑後にわたる山中に居をかまえた大津山氏という武家があった。応永二年(1395)に河内国からやって来た家で、いまの熊本県玉名郡南関町を本拠として約三百十二町を領した。一方、大津山氏の出自は、日野大納言資名の子資基が足利尊氏に仕え大津山氏初代となったとする説もある。伝えられる系図では、大津山氏の初代は資基となっている。
大津山氏の所領は、肥後と筑後の山間にまたがり、近世の石(村)高に換算して約一万四千石で、小大名並みの領地を有する国人領主であった。七代資冬の時に大友氏に叛旗を翻し、本城である大津山城は落城し資冬は流浪した。 その後、大友氏の重臣小原鑑元が大津山城に入ったが、鑑元も大友氏に叛旗を翻したため、大津山城の勝手知ったる資冬が落城させ城主に復帰した。
その後、八代家稜(いえひと)のとき、秀吉の九州征伐に遭遇した。家稜は秀吉がやって来たとき城をひらいて筑後境に出迎え、本領を安堵された。そのとき、秀吉は本来ならば国々の小領主は承認しないのが建前だが、わざわざ出迎えて先導をつとめるのは感心だから、城の周囲50町の所領を認めてやろうと言ったという。
ところが佐々成政が肥後の領主となると、大津山氏の土地を取上げて国外に退去させた。このような成政の姿勢に肥後の国人らが反発し、大津山氏は同志を語らって一揆を起し成政に反抗することとなった。このとき北肥後の山中の武士たちは、多くが大津山氏に一味して大いに成政を苦しめた。事態収拾に苦慮した成政は、大津山氏に和議に応ずるなら三千石を与えようという謀略をもって、大津山氏を誘った。これを信じた家稜は、城を出て成政のもとを訪れその場で殺害され、大津山氏は呆気無く没落してしまった。
しかし、成政も国人一揆蜂起の責任を追求され、結局、切腹して滅亡した。そのあとには、加藤清正と小西行長が肥後に入国し、肥後の戦国時代も終わりをつげた。大津山氏の子孫は、柳川立花氏に仕えたと伝えられている。
大津山氏のこと
秀吉が九州征討のため乗り込んで来たとき、やはり肥後と筑後にわたる山中に居をかまえた大津山氏という武家があった。応永二年(1395)に河内国(大阪府中東部)からやって来た家で、いまの熊本県玉名郡南関町を本拠として約三百十二町を領した。秀吉がやって来たとき城をひらいて筑後境に出迎えたが、そのとき、秀吉はこう言った。本来ならば国々の小領主は承認しないのが建前だが、わざわざ出迎えて先導をつとめるのは感心だから、城の周囲50町の所領を認めてやろうと。
ところが佐々成政が肥後の領主となると、大津山氏の土地を取上げて国外に退去させた。そこで大津山氏は心平らかならず、同志を語らって一揆を起し成政に反抗することとなった。このとき北肥後の山中の武士たちは多く一味して成政に叛旗をひるがえし、大いに成政を苦しめたのだが、大津山氏はもし成政と会談して和議に応ずるなら三千石を与えようという甘言に乗せられ、城を出て行って暗殺されてしまった。
大津山氏の所領は、肥後と筑後の山間にまたがり、耕地320町、近世の村高に換算して約一万四千石であった。その中心は累代の家臣六名が各百石ほどの土地を下人に耕作させていた。そのほか有力な武士が三十四人、また若党三十人の計約六十余人が田一町、畠一町程度を耕作し、戦には騎馬ではせ参ずる。そのほかに力と呼ばれて戦場では雑兵として戦う者が約三十名、これらは田五反畠五反ほどを耕作し、その下にさらに下力と呼ばれる田畠三反ほどずつを作る者が数百人あった。これらは農民として名頭と呼ばれる郷民頭六名の支配を受けた。
領民の年貢は田を持つ者は人ごとに三升六合を入れた俵一つを納める。そのほか所持の田一反につき銭百文、畠一反につき銭五十文を税として出したという。もちろん、このほかに戦争には軍役として参加の義務があり、天正十四年(1586)に島津氏に属して筑前勢と戦ったときの大津山軍の勢揃えでは、総数二百五十名、うち騎馬武者七十人、足軽百人であった。後に大津山氏が佐々成政に追われて城を出たときの人数も約二百六十人というから、この人数が大津山領の兵力とみられる。
大津山氏がその東に領土をもつ辺春一族と戦ったとき、その有力武士小野権之丞は23歳の若さで辺春方の鉄抱に胸を打ち抜かれて死んだ。これを聞いた妻は戦死は武士として当然だから悲しくはないが、夫の仇が討てない女の身が残念だといって二十歳で自害した。
辺春氏は筑後八女郡の辺春村(現立花町)が名字の地であつて、而も其領分は今の肥後玉名郡緑村大字山十町・中十町等の村々に及び、国境に近い肥後分の山十町村阪本と云ふ処に居城があつた。辺春氏の親族には和仁某と云ふ家があつた。此家の領地は今の玉名郡春富村大字和仁を中心として、筑後側の八女郡白木村の辺に及んで居た。 
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
■鎌倉時代

   鎌倉時代  1185〜1333  

 

実朝 渡宋計画
建保四年(一二一六)。冬を迎えた由比ヶ浜に、大勢の人が集まっている。この一帯はもともと、漁民が小舟を引き上げて修繕したり、獲った魚や貝を筵に並べて干したり、そのようなのんびりとした光景が繰り返されて来た浜であったのだが、少し前から、そんな穏やかな浜の様子は一変していた。
海岸の一部が人の手で大きくえぐられ掘り起こされて、いわば人工の入り江が作られていた。しかし入り江といっても水はない。出口は土砂でふさがれ、入り江全体がすっかり干上がっていた。そこに大勢の男どもが入り込み、何やら地ならしをしている。向こうでは番匠たちが手に手に斧やちょうなを振るい、丸太から次々と木材を切り出していた。
「一体、何をしておるのかねえ」
先程から少し離れた所に立って男たちの仕事ぶりを見物していた娘が、連れの娘に向かって首をかしげた。朋輩の娘もまた、首をかしげて見せた。二人の周りには他にもぽつぽつと人が立ち、皆それぞれに浜の様子を見守り、そしてそれぞれに不思議がっている。
「聞いて来たが、どうやら船を作るらしいぞ」
後ろから一人の老人が声をかけて来た。
「船? それならば何もわざわざ浜を掘り返さずともよいではありませんか」
「何、わしらが漁に出るようなものとはわけが違う。そうとう大きな代物らしい。何というても海を渡って宋まで行くらしいからな」
「へえ――」
と二人の娘は驚いて見せたが、正直なところ、宋へ行く船と聞いても一体何のことか、まるで分からなかった。やがて足元の背負子を拾い上げて浜を出、市に着く頃には、娘たちの心からは既に宋のことも船のこともきれいに忘れ去られていた。
話は半年ほど前にさかのぼる。
鎌倉に不思議な客人が訪れた。陳和卿(ちんなけい)。その名に大江広元は覚えがあった。宋より渡来した仏師である。大和の僧、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が、源平の合戦で消失した奈良東大寺の再建に尽力していた折に、陳和卿は乞われて大仏殿の盧舎那仏の復元作業に加わった。戦火で熔け落ち、失われていた大仏の頭部の鋳造は彼の手によるものである。修復の終わった大仏の開眼供養に参列した頼朝は仏師の噂を聞き、面会を願ったが、結局叶わなかった。頼朝が、先の戦で殺生を重ねているという理由で、陳和卿が承諾しなかったのである。
「会おう」
頼朝との一件を以前に聞いていた実朝は、取り次いだ広元に向かって即答した。
数日後、陳和卿は御所に招かれ、謁見の間に姿を見せた。肌は、しみが浮いているものの歳に似合わぬ象牙色をしており、そのためか何となく面持ち穏やかな印象を見る者に与える。額や口元の深いしわも、白絹を畳み込んだようであった。
謁見の場に姿を見せた初老の仏師は、実朝を一目見るなり、床に額をつけて実朝を伏し拝んだ。お懐かしうございます。一言述べると袖を顔にあてて泣き出した。人々が驚いて顔を見合わせていると、陳和卿はようやく袖から顔を上げた。
「貴方様は、前世において医王山の座主でございました。そしてその時わたくしもまた、医王山で修行の身であり、貴方様の弟子の列に連なっていたのでございます。長い時を経て師に再びこうしてまみえることが出来たことは、無上の喜びでございます」
医王山とは、宋の寧波にある医王山阿育王寺(あしょかおうじ)を指す。中華五山の一つに数えられ、奈良時代の高僧、鑑真和上や、前述の重源もここを訪れたことがある、名刹であった。
にわかには信じがたい話に、皆は驚きあきれたが、さらに信じがたいことが起こった。じっと耳を傾けていた実朝が顔を上げ、
「そのことならば、存じておる」
そう言ったのだった。五年程以前になるが、実朝は人々に向かって言った。
「わたしの夢枕に尊い仏僧が立ったことがあった。その僧は、まさにその者が今しがた申したとおり、わたしが前の世で阿育王寺を開いた始祖であると告げたのだよ」
「初めて耳に致しますな」
大江広元が困惑したように言うと、実朝は微笑して見せた。
「当然だ。この夢のことは今まで誰にも語ったことがなかったのだから」
あまりに不思議な話に、居並んだ重臣たちは誰一人言葉もなかった。人々の驚きを尻目に、実朝は感激して再び涙にむせび出した陳和卿に、しばらく鎌倉に逗留するようにと言い渡し、座を立った。

それ以来、実朝は、宋や、または前世を過ごした阿育王寺の話を聞きたいと、陳和卿をしばしば御所に召し出すようになった。そのようにして半年ばかりが過ぎた、十一月のことである。実朝は突如信じがたいことを言い出した。件の阿育王寺へ詣で、かつ仏法を学びたい。そのために宋に渡るというのである。
最初、実朝の計画を真に受ける者はなかった。話があまりに突拍子もないためでもあったが、実朝の日頃の様子にも理由があった。この二年ばかり、実朝は心も体も優れず、特に精神的な衰弱と不安定さが目についた。例えば酒宴の席で、何が気に入らぬのか眉を寄せてむっつりと黙り込んでいるかと思うと、急に身振りを交えて楽しげに話を始める。気分の高下は誰にでもあるが、近頃の実朝はその落差があまりにも激しかった。
そのため皆は、前世云々という老仏師の話に感激したあまり、実朝が子供じみた戯言を言って面白がっているのだと、始めは思ったのだった。しかし実朝が造船の段取りを整えるようにとの指示を出し、宋へ共する者の人選を命じ、次々と物事を進め出したのを見て、人々はようやく慌て出した。
義時や広元を始め、周囲は思いとどまるよう繰り返し実朝を諌めた。この頃、確かに日本と宋の間には商船の行き来が盛んになっていた。平清盛の時代に摂津の経が島や、九州大宰府の外港である袖の湊が整備され、宋からの大きな唐船が入ったり日本の船が大陸を目指して出て行く光景は珍しいものではなくなっていたが、しかしそうした状況と、実朝が宋に出かけることは別の話である。
言うまでもなく、将軍は武家を統べる棟梁、政の要である。それが国を放り出して大陸まで出かけて行くなど前代未聞であった。御所に密かに叛意を抱いている者が将軍の留守を突こうと画策したらどうするのか。そして朝廷には何と言い訳するのか。この年、実朝は権中納言に叙任されたばかりなのである。勝手な振る舞いに朝廷の不興を買わないとも限らない。皆は入れ代わり立ち代り説いたが、実朝は巌(いわお)のように頑なであった。
「そなた、なにゆえ真心を尽くしてお諌めせぬ」
政子は怒りをあらわにして義時に詰め寄った。数日前、実朝は恒例の二所詣に出立した。気持ちを向ける対象がいなくなったために、いら立ちが一層つのっているらしく、今にも頭を噛み砕かんばかりの剣幕だった。
「案ずる気持ちはないのかえ。そなたは執権である前に、殿の叔父御ですよ」
怒りに憑かれている時の政子の声は、紙を引きちぎる音に似ていて、耳を刃物でぎりぎりとえぐられるようだった。その不快さから、では姉上は殿の母御でございましょうと思わず言い返しかけて、義時は慌ててそれを飲み込んだ。政子は昔から理性的な人となりを持ち、特に政の場で見せる洞察力、判断力の冷静さは義時もかなわぬところがあったが、その一方で、一旦激情の方に心身が傾くと、炎のように怒りを爆発させる二面性があった。今の姉に反駁(はんばく)したが最後、血の雨が降りかねない。義時は不快をこらえて淑女のようにしおらしく黙り込んだ。
実は先程まで大江広元もいたらしいのである。しかし政子が御所に参上したと聞いた途端、広元は老獪な勘を働かせてすぐさま遁走し、難を逃れた。義時の方は雑用に気を取られて危険の接近を察知するのが遅れたのである。
「先月、殿と共に法華堂にお籠もりをした時のことですけれど」
うなだれて、政子は今度は湿っぽく愚痴った。伏せた目元に浮き上がったしわが痛々しかったが、胸の中に満ちているのが悲嘆ではなく怒りであることは、手にした数珠玉を爪先が神経質にまさぐっている様子が示している。義時はその虫を思わせる爪の動きを横目ではらはらしながら見守った。
頼朝の命日である毎月の十三日に、実朝と政子はそろって法華堂に参籠するのが慣例であった。先月もいつもどおり参籠が行われたのだが、その折、政子は籠もり堂の中で頼朝の夢を見たのだった。これは頼朝が息子の愚行を憂いているのだと判断した政子は、参籠明けを待って実朝に夢のことを話し、亡き父の諌めに耳を貸すようにと、とくとくと説いた。しかし、
「父も含めた祖霊を祀るのが自分の役目であると。その役目を全うするために宋で御仏の教えを学びたいのだから、父上も分かってくださるはずだと、にべもなく……」
「成程、それは正論でございますな。しかしだからこそ、こちらとしても諫止しづらいのですよ。遊山とでも申して下されば扱いやすいのですが」
「扱いやすい、やすくないという話ではない。そなたが腰に帯びているものは、何のためですか」
義時がうっかり反応を間違ったために、とうとう政子の怒りが爆発した。
「殿の御前で腹を斬ってお諌めするのが臣下たるものの務めではないか」
「む、無茶を申されまするな」
実朝が宋へ渡るなどという世迷いごとを言い出したのは、陳和卿に何事か吹き込まれたせいに違いないと政子は思い込んでいた。人も物も膨大に浪費する馬鹿げた計画への怒りもさることながら、陳和卿その人、そして一介の仏師の甘言に乗せられて治世を危うくしかねない愚行を続ける実朝の愚かしさへの怒りが、雅子の中には層を成してうず高く積み上がっている。
理不尽な激高の嵐からようやく義時が解放されたのは、四半刻もあとのことであった。
この一件のせいで、義時はどんな形であれ、渡宋計画に関わるのにすっかり嫌気がさした。渡宋を思いとどまるよう時と言葉を尽くすよりも、義時にはもっとやらねばならぬことがあった。つまり、将軍が本当に宋へ出かけるということになれば、そのあとの政務について今からこまごまと考えておかねばならない。
『本当に宋へ参られたら、お帰りは何年先になるか分からぬからな』
実朝のいない鎌倉、というものを、義時が初めて具体的に思い描くきっかけになったのは、あるいは皮肉であったかもしれなかった。 
 
親鸞 (物語)

 

・・・イエズス会が日本列島に現れたのは、丁度戦国時代の真っ只中です。日本列島は、九州の島津貴久、中国の毛利輝元、四国の長宗我部元親、尾張の織田信長、長野の武田晴信、伊豆の北条氏政、信濃の上杉輝虎達の群雄割拠であったわけです。
これらの武将が表の軍団だとすると、裏の軍団が仏教軍団です。仏教教団は、布施などの集金システムで集めた金を、借上の高利貸しで蓄財し、その財力で僧兵軍団を組織していたのです。戦国時代の主な仏教軍団は三つです。それらは、最大組織の百済京都王朝が支配する比叡山の天台宗の延暦寺と、京の町民が支持する本能寺を砦とする日蓮宗(法華宗)と、そして、賎民を引き入れて軍団を組織した浄土真宗です。それらの三つの仏教軍団が京の都の支配権を争っていたのが、戦国時代であったのです。これらの宗教戦争は、藤原氏、百済皇族、新羅武家源氏の鎌倉時代からの火種が基です。
その宗教戦争に巻き込まれてしまったのが、鎌倉北条政権により、穢多に貶められてしまった、鎌倉武家源氏の残党と秦氏の末裔です。室町時代の武家源氏の世になったのもつかの間、藤原氏は、その流れにある日野家の女を使って、源氏足利氏に食い込むのです。三代将軍足利義満の側室日野業子、四代将軍足利義持の側室日野栄子、六代将軍足利義教の側室日野重子、八代将軍足利義政の側室日野富子など、平安時代での百済京都王朝に藤原の女を側室とする戦術そのままを使うことにより、室町時代の源氏足利氏を、貴族化(藤原氏化)とするのです。
その藤原氏の一族日野有範の子息が、1173年(承安3年)に生まれた親鸞です。親鸞は、法華経布教の元祖比叡山の延暦寺で修学に励むのです。しかし、聖徳太子の夢のお告げを聞き、浄土宗の法然の弟子となったと言うことです。しかし、親鸞の言動は、どうも、ユダヤ教のモーセを思わせます。その浄土真宗の教えは、信心に徹底し、信がさだまったときに必ず仏となる者の仲間に入れる。つまり、浄土教を信ずれば、浄土往生以前にこの世で救いが成就する、と説いたのです。そして、絶対他力の教学を説いたのです。
そして、藤原氏の末裔親鸞が百済京都が支配する比叡山により、過酷な攻撃を受けることにより(敵の敵は味方)、反百済の賎民は、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」のキャッチフレーズにより、浄土真宗は賎民の味方だと惑わされてしまうのです。
江戸時代、この親鸞の一神教のような、百済大乗仏教への排他的思想により、穢多は更なる差別を受けることになるのです。親鸞は、百済仏教に攻撃を仕掛ける武力を得るために、肉食を大悪とする教義で大乗仏教にイジメられている、穢多に甘言を述べるのです。

それは、「唯信鈔文意」で述べるには、
屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり、りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいをふたごころなく信楽すれば摂取のひかりのなかにおさめとらせまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう

この「敵の敵は味方」戦術を、戦国時代の賎民や源氏落武者の末裔は、「救い」と勘違いしてしまうわけです。この親鸞の穢多に布教する戦略を、江戸時代の与力・坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べています。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。

親鸞が唱えた浄土世界を信じた穢多や源氏落武者の末裔は、心をひとつとなし「一向」として、百済貴族や守護大名の領地を攻撃するのです。穢多の多くは、元々鎌倉源氏時代までは武士集団だったので、実践力のない百済兵士や農民兵士の相手ではなかったのです。そして、一向一揆は賎民の自治権を得るため、戦国大名の領地を奪取する目的で、全国に広がっていくのです。
その一向一揆を煽る浄土真宗本願寺の本陣は、源義経が屋島の合戦の時に出陣した渡辺津近くであるわけです。渡辺津は、百済亡命貴族が憎む(663年新羅花郎軍団により本国百済が滅ぼされた。)武家源氏(新羅花郎軍団の末裔)の居住地であったのです。現在の近畿地方での民族差別の元は、約1500年前の朝鮮半島での百済と新羅との闘争であったのです。  
 
頼朝が恐れた武将安田義定

 

頼朝による武家政権革命が、中世の武家社会開幕を告げる画期的な出来事であったことは改めて言うまでもない。その革命の過程は、
(1) 平氏による公家からの政権奪取
(2) 源平合戦による平氏の没落
(3) 源氏による朝廷と政治の分離、と続く
その過程で政治の実権を握った頼朝(と北条時政)による実力者安田義定、あるいは義経、その他多くの功績ある武将たちに対するテロリズムをどう評価するのかは、さまざまな歴史家の見解があろう。
しかし、「革命家頼朝」という観点に立てば、フランス革命、ロシア革命などの例を引くまでもなく、テロリズムあるいは恐怖政治は必然だったとも言える。京を遠く離脱し、鎌倉で完全な武家政権の確立を目指す頼朝にとって、朝廷方の「王政復古」「反革命」への権謀術数こそ、常に厳しく監視し、警戒を緩めてはならないものだった。ところが、官位官職をちらつかされ、やすやすと朝廷の甘言にのってしまう、義経ら有力武将たちの認識不足がまずもって、頼朝の許せない大問題だったと推測できる。「武家政権確立への革命の道筋をどう築いていけばよいのか、それに気づいているのは自分だけである」という気負いもあろう。頼朝が自己の無謬性にとらわれた革命政治家であったことは間違いない。
武家政治を確立することは、それまでの権謀術数にそまった公家政治の術中におちないよう、権力の根源を源氏の統領である自己に集中することである。朝廷の甘言に御家人たちが踊らないようにするためには、頼朝の命令は、無謬性をもって幕府内で絶対視させなければならない。革命政権を守るためには、幕府内の朝廷派をあぶり出し、反革命の動きを未然に封じ込めなければならない。そのために頼朝は手段を選ばなかった。テロによって、自己の地位と政策の無謬性を脅かすと思われる勢力を分断、対立させ、謀殺していった。
その仕組みとして、御家人の中に密告を勧めて御家人をお互いに監視させ、恐怖政治を革命のために正当化したのではないか。これは政治の分野では「分割と統治」と呼ばれる古典的な手法であり、西洋、東洋の古今を問わず、革命政権にありがちなパターンと言える。自らの正当性を主張できるだけの権力基盤があれば、頼朝もこれほど卑劣な手段を執らなかったのであろうが、基盤となるべき領地や郎党を持っていなかった。
この頼朝の非情の論理の前では、残念ながら義経も義定も、政治家ではなく、誠実で実直な武士でしかなかった。しかし、安田義定は、甲斐源氏勃興期の一大英雄であった。その悲劇の最期は義経やその他多くの勇猛果敢な武将たちとともに、鎌倉幕府創立の礎(いしずえ)となったものである。
仮定の話ではあるが、もし安田義定に野心と戦略があれば、平家追討使として、都にあった寿永2年夏の数ヶ月の間に、木曽義仲に取って代わるか、同盟を結んで、甲斐源氏による武家政権を樹立できた可能性は大きい。それだけの勢力を義定は築いていた。それゆえに、頼朝は義定を深く恐れた。
義定の死は、以上のように歴史資料によって多少の相違はあるが、おおよそ悲痛なものであった。安田家の滅亡により、義定親子の遺物はほとんど失われ、安田庄の館跡も今となっては不明となっている。しかし、平氏追討に甲斐源氏の豪勇をうたわれ、最後には悲劇的な死を遂げた義定一族の滅亡は、後に甲斐国を統治した武田一門の追慕するところとなった。
雲光寺古文書には、武田信玄が墓所で法要を行った記録もあるというが、なかでも現存する法筐印塔に関する武田氏の供養の文献はかなり詳しいという。それによると、貞治2年(1363)武田家8代の武田信成が安田一族墓所において、没後174回忌の厚い供養と寄進を行った。安田一族の五輪塔の隣に現存する宝筐印塔がそのとき建立されたものである。
 
源頼義

 

源頼義が陸奥守・鎮守府将軍に着任後、俘囚長安倍頼時は恭順の意を示していた。(俘囚とは、古代、帰順した蝦夷の称)。とこうして頼義の任期最終年である天喜4年(1056)、頼義は交代の庶務手続きを行うため肝沢城に赴く。数十日間の滞在の後、頼義一向は国府への帰路、阿久利川にさしかかった時、権守藤原説貞の息子の野宿が襲われ人馬が殺傷されたとの報を受ける。藤原説貞は、安倍頼時の息子貞任以外に考えられぬと主張する。頼義はこれを真に受け、貞任を処罰しようとしたが、頼時は貞任を庇って衣川関を閉ざす。これに激怒した頼義は安倍一族追討の大軍を発する。後年、世にいう「前九年の役」の勃発である。頼義は先ず頼時の女婿・平永衝を謀殺する。同じく頼時の女婿・藤原経清はこの報を受けて身の危険を感じ、流言を放って頼義の軍を国府に引き帰らせ、自身は安倍氏のもとに走った。これにより頼義は先制攻撃の機会を逸する。とこうするうち頼義の任期満了。後任陸奥守の任命を受けたのは藤原良綱だったが、頼義と頼時の合戦の報を受けて辞退。ここに頼義は陸奥守に再任、天喜4年12月29日のことである。
源頼義は気仙郡司・金為時、下野毛興重らを奥地の俘囚のもとに派遣して抱き込み、背後から安倍一族を攻撃させようと謀る。これに対し安倍頼時も自ら俘囚の説得に赴いたが、逆に伏兵の矢に射られて倒れ鳥海册まで辿り着くものの絶命。(天喜5年7月26日)
しかしその後も安倍貞任、宗任兄弟を中心とする安倍一族の結束は固く、徹底交戦の姿勢を崩すことはなかった。天喜5年11月、黄海で源頼義は安倍貞任と戦い、大敗を喫する。
この後、頼義は力を失い、奥州は安倍氏の支配下するところとなり、前九年の役は長期戦の様相を呈する。
源頼義は戦局の膠着状態を打開するため、出羽国の俘囚長・清原氏に甘言をもって援軍を求める、康平5年(1062)7月、源頼義の求めに応じて清原武則は一万の軍を率いて合流する。この後、戦局は頼義軍の優勢に傾き、康平5年9月7日、安倍氏最後の砦・厨川柵が陥落して安倍貞任は戦死する。藤原経清は捕らえられて斬首、安倍宗任は落ち延びたがその後、投降する。
かくて康平6年(1063)2月27日、奥州合戦の戦功の除目が公表された日が前九年の役の終戦日とされる。頼義は正四位下伊予守、嫡男義家は従五位、次男義綱は左衛門尉に任官。清原武則は従五位下鎮守府将軍となった。在地の豪族、清原氏の鎮守府将軍任官は破格とされる。
安倍富忠
奥六郡北部(青森県東部から岩手県北部の糠部郡)を領有した俘囚長忠世の子。安倍氏棟梁頼時の従兄弟説もある(単なる婚姻関係かも)。前九年の役が勃発した永承七年(1052)当初は頼時と共に頼義軍と戦ったが天喜五年(1057)に甘言に乗って寝返り、説得に向った頼時を仁土呂志(下北半島南部の小川湖付近か)で襲って重傷を負わせた。頼時は平泉に帰る途上で没し、安倍一族は貞任が棟梁を継承した。
長者ヶ原廃寺・渡船場・八日市場・向舘の跡
長者ヶ原廃寺跡は中尊寺の1km北に位置する。地元では秀衡の御用商人・金売吉次の屋敷跡、と伝わっていたが、昭和三十三年から始まった本格的名発掘調査で遺跡を囲む南北100mの強×東西90m弱の築地塀や土塁の跡・礎石、更に本堂・南門・西塔・大溝跡などが確認された。
廃寺敷地の西北端から170m西にある渡船場跡は桟橋の痕跡が確認された遺跡で、砂岩に打ち込まれた直径60cm前後の柱穴が三列・180cm間隔で20ヶ確認された。これは単純に渡し舟が発着した水上交通の痕跡なのか、或いは衣川を利用した水運施設の跡なのかは資料が少なくて判らないらしい。
衣川は少し南で大きく蛇行しているため、接待館付近から長者ヶ原廃寺跡までは船運に比べて距離が半分以下になるから、荷駄で運ぶ方が合理的である。むしろ上流の安倍氏館と長者ヶ原の寺を結ぶ道路が衣川を渡る地点だった可能性が高い、と思う。
八日市場は更に800mほど上流の衣川東岸にあった市場の跡、向舘は安倍一族が住んだ館の一つで、頼時を裏切った安倍富忠の居館、或いは袈裟御前の生母・衣川殿の居館とも伝わっている。 
『陸奥話記』の清原武則
前九年の役(一〇五一〜六二 奥州十二年合戦)、後三年の役(一〇八三〜八七)を経て、源氏は東国武士団と強固に結びつき、武門の棟梁としての地位を固めていった。源頼義・義家父子の時代である。
『陸奥話記』は、その源氏興隆期の前半、奥州の俘囚安倍氏の専横から始まって、源頼義がこれを滅ぼすまでの一連の経緯を扱うものである。安倍頼良(後に頼時と改名)は、父祖の代からの俘囚の長として、奥六郡に勢力を振るい、義務である税も納めず、徭役も勤めなかった。永承年間(一〇四六〜五三)、当時の陸奥守藤原登任の安倍氏討伐失敗を受けて陸奥守に任じられた源頼義は、結果十二年を掛けて、安倍氏一族を滅ぼしたのであった。
『陸奥話記』は、「追討将軍」源頼義の任命から始まり、安倍氏の滅亡を経て、「将軍」頼義ほか官軍の功労者への論功行賞で終わる。この構成は、一見、謀反人追討の物語であるかのような印象を与える。しかし、物語の中に隠されていたのは、頼義が陸奥国に強い執着をもち、例えば国守の任期が切れても陸奥に居座り新任の国司の着任を妨害する等、きわめて強引な手法で安倍氏討伐を強行しようとした事実であった。それでも『陸奥話記』自体は、少々は不手際ながら、頼義の野望を「追討の物語」の枠に押し込めている。この『陸奥話記』における「追討の物語」としての性格は、頼義を一貫して「将軍」という呼称で呼ぶあり方について論じた先考においても確認したところであり、『陸奥話記』はやはり「将軍」源頼義による謀反人安倍氏追討の物語であるといって差し支えないというのが私の考えである。
では、後の史家が認めるように前九年の役が源氏の武士団への成長のきっかけとなったとして、『陸奥話記』は源氏の興隆の物語であるのか、というのが次の課題である。後の多くの軍記物語、たとえば『保元物語』『平治物語』や『平家物語』などは、源氏が平家を討ち滅ぼし鎌倉幕府が成立した後日の視点に立って、特定の出来事を予兆としてとらえる視点が明白に見られるが、『陸奥話記』にはそれが顕著ではない。神意によって示される奇瑞はわずかに八幡神の使者とされる鳩が軍勢の上を翔る場面が二度。一度は出羽国山北の俘囚清原武則が頼義の軍勢に合流し、その武則が天皇家に忠誠を誓い、全軍が気勢を上げる場面において、
 今日有鳩、翔軍上。将軍以下、悉拝之。
鳩が軍勢の上を飛翔し、頼義以下が皆がこれを拝んだとある。もう一カ所は、安倍氏の最後の拠点となった厨川・嫗戸柵の合戦に、苦戦した頼義が皇城を拝し八幡三所に祈願する場面において、
 是時有鳩、翔軍陣上。将軍再拝。
鳩が軍陣の上を飛翔し頼義がこれを再拝している。そして、この時、頼義の祈願通りに「暴風忽起、煙焔如飛」たちまち暴風が起こり炎が敵陣に燃え移ったのであった。鳩の飛翔は奇瑞ではあるが、これは頼義の祈願を八幡神が容れた印であり、後になって、これを「何事かの予兆であった」と解釈しているのではない。『陸奥話記』におけるこのような奇瑞の場面は、後世の視点に立って、騒乱を源氏興隆の基と位置づける視点によるものとは言えない。
そのことは義家の扱いにも現れている。源義家は頼義の長子で、八幡太郎と称され、後には源氏の伝説的な祖先となっていく。したがって、もし仮に『陸奥話記』が将来の源氏の興隆を視点に据えようとするものであるならば、頼義=義家父子の血脈は強調されて然るべきである。しかし、現実には義家の活躍を詳述する場面は意外に少なく、また描写は観念的であり精彩を欠く。
義家の名が『陸奥話記』で最初に現れるのは、安倍氏を討つべく追討将軍に任命された頼義の人となりを、いかにも追討将軍に相応しい人物として紹介する場面においてである。
 上野守平直方朝臣。感其騎射、・・・・則納彼女為妻、令生三男二女。
 長子義家、仲子義綱等也。
頼義の武芸に惚れ込んだ平直方の娘を妻として、儲けた三男二女の長子として義家の名が語られている。
安倍氏を討つべく陸奥守兼鎮守府将軍として赴いた頼義であるが、赴任の当初に恩赦があり、頼義は安倍氏を討つ大義名分を失う。安倍氏もまた恭順の意を示し、頼義の陸奥守任期中の五年間は何事もなく平穏であった。しかし、任期満了間近に阿久利川事件が起きて、両者は対決する。その最初の衝突の場面、また次いで引用される安倍頼時(=頼良)討伐を報告する天喜五年九月の国解に義家の名はない。頼義の近辺にいなかった可能性も皆無ではないが、物語の中で確認できる術はない。遠方にいた義家が父の元に駆けつけた、などの記述はなされていない。
義家が登場するのは、安倍頼時(=頼良)殺害後、続けて安倍一族討伐の戦いを挑んで逆に壊滅的な敗戦を喫した黄海の戦においてである。
 将軍長男義家、驍勇絶倫、騎射如神。冒白刀突重囲、出賊左右。
 以大鏃箭頻射賊師。矢不空発、所中必斃。雷奔風飛、神武命世也。
 夷人靡走。敢無当者。夷人立号曰八幡太郎。
義家の驍勇、神業ともいえる騎射の技で、圧倒的に不利な戦いの中、ただ一騎、安倍氏の軍勢を圧倒しているありさまを描いている。父頼義は騎射の技に優れ、それを見込まれて平直方の女を妻としたのだが、その長子義家も父の血統を受け継ぐものであった。物語は義家の騎射を「神業」という。しかし描写はあくまで「神のようだ」「百発百中」を越えるものではなく、観念的で具体性を欠くものであることは指摘しておきたい。
 この黄海の戦では、頼義の軍勢は僅か七騎にまで討ち尽くされ、頼義・義家の馬も敵の矢に倒れる、という窮地に陥るが、義家らの奮戦ぶりに敵が恐れをなし、彼らは何とか無事に逃れることができたのであった。とはいえ、義家の騎射も他の者の活躍も、
 而義家頻射殺魁師。又光任等数騎殊死而戦。賊類為神、漸引退矣。
とはなはだそっけない描写に尽きるのである。
黄海の戦での大敗後数年に亘って、頼義は安倍貞任らの横行に為す術のない状態が続いた。しかし清原武則の参戦を得て、安倍氏討伐が再開される。その中、小松の柵の合戦で、
 義家・義綱等、虎視、鷹揚。斬将抜旗。
とされる。敵軍を威圧し立ち向かう姿であるが、描写ともいえない観念的叙述である。一連の合戦の中で義家の名が現れるのは、わずかにこれらの部分だけである。
物語の集結部近くに官軍の論功行賞についての叙述がある。
 同二十五日除目之間、賞勲功、拝頼義朝臣為正四位下伊与守。太
 郎義家為従五位下出羽守。次郎義綱為右衛門尉。武則為従五位下
 鎭守府将軍。献首使者藤原季俊為右馬允。物部長頼為陸奥大目。
論功行賞に関わる叙述は以上で全てである。父頼義の「正四位下伊与守」に次いで、義家は「従五位下」の位と「出羽守」の官職を得ている。義家の昇進は父頼義への褒美の一部としての性格も有していよう。しかし実際の戦闘においても、義家は相当の活躍であったことは想像に難くない。黄海においても小松柵においても、一騎当千の活躍をしたに相違ない。しかし、今も述べた通り、物語中の義家の活躍は観念的描写に留まり具体性を欠く。また、「長子」という言葉以外に、頼義の後継者としての性格付けは行われていない。『陸奥話記』に義家を頼義の後継者として称揚し、その立場を明確化しようという視点はないに等しいといえよう。
このように存在感の希薄な義家であるが、具体的な行為の中に射芸を現す場面が『陸奥話記』の中にただ一カ所だけ存在する。
 合戦之際、義家毎射甲士、皆応弦死矣。後日武則語義家曰。僕、
 欲試君弓勢、如何。義家曰、善矣。於是、武則重堅甲三領、懸之樹枝。
 令義家一発、貫甲三領。
合戦の際の義家の一射必殺の騎射を見た清原武則が、後日その弓勢を試したのである。頑丈な鎧を三領重ねて木の枝に掛け、義家に矢を放たせると、その矢は三領重ねた鎧を貫いてしまった。武則は驚愕して、義家を神明の変化かと述べた。そしてそのような騎射の技のために、義家は武士たちの信頼を集めたのだという。義家の神業のごとき射芸が、武則の求めに応じて三領の鎧を射通すという行動を通して表現されている。
鎧は基本的には矢に対する防護具である。後に『保元物語』に登場する源為朝(義家には孫にあたる)もその弓勢で敵を圧倒する。七尺にあまる身長、左手が右手より四寸も長いという「生付タル弓取」としての身体。為朝は「フトサハナガ持朸ノ如」き八尺五寸の弓で、十八束の矢を引くのである。その為朝の弓勢は、白河殿大炊御門西門で先を進む伊藤六の鎧の胸板を貫通し、続いていた伊藤五の射向の袖(鎧の左肩を覆う部分)に裏まで突き通って、清盛配下の武士たちを恐怖させる。この場面で『保元物語』の語り手は、先述の義家の試技を想起している。『陸奥話記』が語る義家の試技は、その弓勢を伝説化した。義家の射芸は、木に掛けた三領の鎧を射通してみせる、という具体像において、初めて「伝説」として語り継がれ始めるのである。そして、それは戦闘の場における義家の活躍そのものではなく、その騎射に驚いた武則が、試技を要請したことにより始まったのであった。
源頼義の安倍氏討伐の合戦に、長子義家の具体像が乏しいことは前述した通りである。たしかに、『陸奥話記』自体が、後の軍記物語とは異なり、合戦に赴く一人一人の武人の人生にまで踏み込んでその生死を賭けた戦闘を描き込むような合戦描写を行っているわけではない。それでも、例えば衣川関の合戦において、一兵士の資質を見込んで特異な命令を下した清原武則と、生命を賭して川を渡り、期待以上の活躍をして勝機を作った「兵士久清」の物語が存在するように、主従の絆も、ひとりひとりの登場人物の活躍も、語り手の目に止まってはいるのだ。
跋文に言う。「今抄国解之文、拾衆口之話、注之一巻」『陸奥話記』の成立に関わって常に引用される一文である。一つは「国解之文」すなわち、乱に関わって国衙から都に送られた文書の類、もう一つは人々の間に語り伝えられたこと、というより戦闘の参加者の体験譚が巷間に広まったもの、『陸奥話記』は二つの構成要素を持つ。義家ほどの武芸の持ち主が活躍しなかったはずはないし、その活躍が人々の耳目を驚かさなかった筈はない。そもそも、義家に試技を求めた清原武則は、『陸奥話記』が義家の騎射が百発百中だったと述べる黄海の戦ではまだ参戦しておらず、その参戦は六年後、頼義が懇切な要請を続けた結果であった。したがって、武則の見た義家の射技は、武則らが援軍として参戦してから安倍氏を討ち滅ぼすまでの短期間に継続された一連の合戦の中のことであったに違いなく、したがって、戦場が多方面に拡大したために『陸奥話記』の情報網から義家の活躍が漏れてしまったとは考えにくい。義家の具体像が乏しいことに対しては、なんらかの理由があるはずである。
清原武則の参戦から後の叙述について考察する。
清原氏は出羽国山北の俘囚(朝廷に従属した蝦夷)である。同じく陸奥国奥六郡の俘囚である安倍氏も、居住する地域こそ違え同じ俘囚である。源頼義の俘囚対策は、奥州俘囚の勢力関係を利用すること、安倍氏討伐に他の俘囚の力を利用するのが作戦であったと目される。安倍頼時(=頼義)殺害に成功したときも、
 使金為時・下毛野興重等甘説奥地俘囚、令与官軍。
と、まず使いを送って「奥地の俘囚」を説得し味方にすることから始めている。使者となった金為時自身も、姓名から判断して俘囚である可能性が強い。説得は功を奏し、
飽屋・仁土呂志・宇曾利、合三郡夷人、安倍富忠為首発兵従為時。と、奥地の俘囚は金為時に従った。安倍頼時は、その奥地の俘囚に対し、自ら少数の配下と共に説得に赴き、戦闘の中で流れ矢に当たって死去したのであった。
黄海の敗戦後、安倍貞任らの専横に為す術のない状況に陥った頼義が、山北の清原氏に助力を求めたのもおなじ流れであろう。「常以甘言、説出羽山北俘囚主。清原真人光頼・舎弟武則等、令与力官軍」とある。今回も俘囚同士の勢力争いを利用し、勝利の暁の利益供与を約束した、と理解できる。しかし清原氏は簡単には動かず、頼義は重ねて様々奇珍な贈り物を続け、漸く光頼・武則の清原氏も頼義に味方することを許諾したのであった。
その清原武則が一門の子弟と一万余の兵を率いて参戦することによって、源頼義の安倍氏討伐の戦は勝利へと導かれる。武則を迎える頼義の軍勢が「三千余人」というから、どれほど強力な助力であったか想像に難くない。この段階で、頼義はすでに二度目の陸奥守の任期が満了している。朝廷は高階経重を新たな陸奥守に任命し、経重は勇んで入国するも、陸奥の人民が従わず、間もなく帰京するという事件が起きる。朝廷ではそのことが問題視されたが、頼義は清原氏に派兵を要請し続けている。
康平五(一〇六二)年秋七月、清原武則は発進、八月九日頼義と武則は栗原郡営岡で出会う。『陸奥話記』には割注があって、次のように記している。
 昔、田村麻呂将軍、征蝦夷之日、於此支整軍士。自其以来、号曰
 営。塹迹猶存。
両者が出会ったこの地は、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に軍士を整えたという故地であったのだ。頼義はこの地に「至(到着した)」、武則は「軍(軍だちした)」というから、どちらが田村麻呂に準えられているか、といえば、武則の方であることは間違いない。その点、思い合わせられるのは、坂上田村麻呂の最初の蝦夷征伐のことである。延暦一三(七九四)年、この時征夷大使は大伴弟麻呂、田村麻呂は副使の一人であったが、『日本紀略』に「副将軍大宿禰田村麿已下征蝦夷」とあるように、戦果はひとり田村麻呂に帰すべき大活躍であったのだ。『陸奥話記』の中で「将軍」は頼義。武則は「副将軍」と称されることはないが、以下に見るとおり、参戦後の武則は、まさに「副将軍」さながらに頼義に従い、軍勢の中で重要性をますます増大させながら、頼義を物心両面で支え続けるのである。
清原武則の率いてきた軍勢は一万余、頼義の軍勢は三千余。新たな軍勢が編成されるが、主要な部分は清原氏の一族が固めることになる。武則は皇城を拝して忠誠を誓う。
 臣既発子弟、応将軍命。志在立節、不顧殺身。若不苟死。必不空生。
 八幡三所、照臣中丹。若惜身命。不致死力者、必中神鏑先死矣。
身命を賭けた活躍を誓い、八幡三所に照覧あれと述べる武則の言葉に、全軍は奮い立つ。その「全軍」とは、清原氏の軍勢がほとんどを占める軍勢であることを忘れてはならない。頼義の軍(= 官軍)に組み込まれ、天皇に忠誠を誓うことが、山北の俘囚たちにとって、軍をあげて発奮するに足る何事かがあるということである。
武則の誓いを神が容れた印として、八幡神の使者である鳩が軍勢の上を翔る。武則の軍勢は、まずは頼義軍(= 官軍)に一体化されたのである。
そのような中で、武則は頼義を支えていく。
最初の軍は小松柵においてである。安倍宗任の叔父僧良昭の守る柵である。日取りが悪く、日も暮れてきたので、頼義軍に攻撃のつもりはなかったが、偵察に出かけた武貞・頼貞の供の歩兵が柵外の小屋に火を放ち、戦闘が始まってしまった。頼義は、予定に反する戦闘の開始に対して、
 但兵待機発、不必撰日時。故宋武帝不避往亡、而功。好見兵機、
 可随早晩矣。
と述べている。宋の武帝が凶日である「往亡」を避けずに戦をして戦効をあげた先例に触れつつ、戦というのは日時の吉凶ではなく機会を選ぶべきあり、機会をよく見てさっさとそれに従うのがいいのだ、というのだ。それに対して、武則は、
 官軍之怒、猶如水火。其鋒不可当。用兵之機、不過此時。
と返答する。官軍の士気の充実ぶりを語り、今が戦の好機であると答える。頼義の言葉を受容し支える発言である。そしてその言葉どおりに武則は騎兵・歩兵を進めたのである。
小松柵は堅固な要塞で武則配下の騎兵・歩兵は難渋したが、同じく武則配下の「兵士深江是則・大伴員季等」が死をも恐れぬ二十余人を引き連れて城内乱入を断行、突破口が開かれた。頼義指揮下の坂東の精兵たちも活躍している。なお、このような一兵士の名が残るのは、武則配下の者に限られる。俘囚の軍勢の結束力の高さ、武則の掌握の度合いの高さを物語るものといえよう。
「官軍」は、兵士の休息、武器の整備のため、あえて追撃をさけたが、それに長雨が重なって停滞の日時がかさみ、糧食が尽きた。安倍氏に指導されて横行するゲリラへの対応、また食料入手のため、半数弱の兵士が陣営を離れて各地に赴いた。陣に残る兵力は六五〇〇人。安倍貞任は「官軍」陣営の警備の手薄を噂に聞き、好機とばかりに八〇〇〇余の大軍を率いて、襲いかかってきた。「玄甲如雲、白刀耀日」とある。貞任軍の兵卒たちの黒い鎧が雲のように押し寄せ、白刃は日に煌めいた。圧倒的、威圧的な様相である。
しかし武則は頼義の前に進みでて、祝福して「貞任失謀。将梟賊首」と述べた。これは貞任の失策である、きっと敵の首を挙げることができるだろう、と。頼義は、貞任は勝利を確信して襲ってきているはずだとして、武則の判断の根拠を尋ねた。武則は答える。官軍は遠くからやってきたもので、戦いを継続する食糧が不足している。一気に戦闘に持ち込んで勝負を決することが望みである。もし安倍氏の軍勢が要害を固めて長期戦を意図するなら、官軍は疲弊して長く戦闘を継続することはできない。それどころか逃散する兵が出れば、却って敵に討たれてしまうであろう。それが官軍の弱点であり、武則が恐れるところである。しかし、貞任は軍を進めてきた。これは天が頼義に幸運をもたらしたものである、と。また、賊軍には「悪い気」が見えるとも言っている。このような武則の見解に、頼義は、「子言是也。吾又知之」と、武則の言葉に同意し、自分もまた承知していると述べる。
最初の小松柵の戦では、予想外の小競り合いから意図せず始まってしまった戦いに、まず頼義が積極的な評価の姿勢を見せ、これに武則が追随していた。今回は武則の方が積極的に状況分析を示し、これに頼義が同意する形であることを確認したい。
ただし、この問答の中で、頼義は武則のことを「子」と呼んでいる。対等あるいはそれ以下のものに対する対称である。武則は頼義のことを「将軍」と呼んでいる。また、頼義の言葉の中に「昔勾踐用范蠡之謀、得雪会稽之恥。今老臣因武則之忠、欲露朝威之厳」というくだりがある。越王勾踐が范蠡の知略によって会稽の恥を雪いだように、自分は武則の忠義によって朝廷の威信を示そうとしている、というのである。ここでは武則が、頼義に従属する立場を堅持しつつも、状況を主導するほどに強力な補佐者となっている様相が見て取れる。
頼義は身命を賭して戦うように命じ、武則は応諾する。武則の忠誠を誓う言葉を受けて頼義は布陣、七・八時間に及ぶ合戦の末、官軍は勝利、貞任らは逃亡。さらに武則は頼義の命によって追撃、貞任の陣中に忍び込んで放火、貞任軍は混乱の中で多くの死傷者を出し、衣川の関に逃げ去った。
衣川関の戦においても、「官軍」の主たる兵力は武則とその一族たちである。衣川関は険阻で、官軍は攻めあぐねた。これを解決したのは武則で、兵士久清に命じて、その身軽さを利用して灌木伝いに川を渡り敵陣に火をかけさせた。久清は期待以上の働きをし、官軍は関を破ることができた。『陸奥話記』はこの武則の指示の言葉や久清の活躍を特筆する。特徴あるとはいえ、このような一兵士すら掌握しているのが武則なのである。
次いで官軍は鳥海柵に入る。鳥海柵は安倍頼義(頼時)が死んだ場所でもある。安倍氏の宗任・常清らは、戦わずして去り厨川柵に移った。ここでも、頼義と武則の応答が記されている。
 頼義は言う。
 頃年、聞鳥海柵名、不能見其体。今日、因卿忠節、初得入之。卿、
 見予顔色如何。
頼義は、名前は聞いても見ることがなかった鳥海柵に自分が入っていることの満足感を表し、それが武則の忠節のお陰であると謝意を伝える。そして、「自分の顔色をどうみるか」と武則に問う。武則に対する対称が、それまでの「子」から「卿」に変化しており、敬意の程度が上がっている。武則の答えは、
 足下多宣為王室立節、櫛風沐雨、甲胄生蟻虱。苦軍旅後、已十余年。
 天地助其忠。軍士感其志。以是、賊衆潰走、如決積水。愚臣、擁
 鞭相従。有何殊功乎。但見将軍形容、白髪返半黒。若破厨川柵得
 貞任首者、鬢髪悉黒、形容肥満矣。
とある。武則は、最初に陸奥守に就任した永承六(一〇五一)年以来の頼義の苦節と忠義を想起する。そして、今賊徒が遁走したのも、天地がその忠義を照覧し、兵士がその志に感服したからである、と手柄を頼義に譲り、自分は頼義に従っただけだ、と、一歩さがる姿勢を見せている。さらに武則は頼義の容貌に関して、白髪だったものが、半分黒く戻っている、厨川の柵を破って貞任の首を得るなら、完全に黒髪に戻り、身体も肥え太るであろう、と述べる。頼義が先に自分の顔色をどう見るかについて尋ねたのは、武則に自分の満足を伝えたかったのであろう。これを受けて武則は、安倍氏討伐まであと一歩に迫った満足が頼義のこれまでの苦労をほとんど吹き飛ばしていること、また、次に控える厨川柵を討ち破り貞任の首をとることで勝利が完璧なものになるだろうと祝福しているのである。
この武則の返事に、頼義は、さらに言葉を重ねて、武則の一族率いての参戦、また戦闘における活躍を指摘し、自分が目的を達することが出来たのは武則のお陰であるから、謙遜して手柄を譲る必要はない、と述べる。そして、「但白髪返黒者、予意然之」白髪が黒く戻ることについては、自分もその通りだと思う、と、武則の祝福を承けて、勝利の確信を口にする。ここでも、先に最後の勝利に言及し予祝するのが武則で、頼義は後からそれに同意している点は興味深い。
九月十六日から始まった厨川・嫗戸柵の攻撃は難渋を極め、頼義軍は多数の死者を出した。翌十七日、村落の屋舎を壊し運んで城の溝に沈め、萱草を刈って川岸に積んで火攻めの準備が始まった。頼義は皇城を拝して八幡三所に祈願し、風を出して敵柵を焼くよう祈った。頼義が自ら神火と称して火を投じたその時、鳩が軍勢の上を飛ぶ。神が祈願を容れた印の奇瑞である。暴風が起こり、煙焔が飛び、形勢は逆転した。しかし、猛火に死にものぐるいとなった敵兵の突撃に、官軍は多数の死傷者を出してしまう。
この時、智恵を見せたのも武則であった。武則は「開囲可出賊」と命ずる。わざと囲みを開いて敵が逃げ出す余地を作ったのである。生き延びられるかな、と思った敵は、たちまち逃走を開始。「官軍」は逃げたい一心で戦意をなくした相手を悉く殺害したのであった。武則は戦闘の最終局面を、的確な判断で乗り切ったのである。ここに厨川柵の戦は終結し、一連の残党刈りを経て安倍氏は滅亡する。武則はその後も貞任の子千代童子を助命しようとする頼義に対し、後の災いの種になるから、と処刑を助言している。
出羽国山北の俘囚清原氏は、安倍氏討伐に苦戦した源頼義に「甘言」とともに援軍を求められ続けていた。戦勝の暁の利益供与が「甘言」の内容だと推定される。清原氏は当初は躊躇していたが、清原武則が一族を率いて参戦する。武則は八幡三所に誓詞をささげ、軍勢は八幡神に認められて「官軍」に一体化する。始めは「将軍」頼義を支える立場だった武則は、徐々に「官軍」の中で占める重要性を増していき、大切な局面で自ら積極的に趨勢を決する力をもつに至る。『陸奥話記』の成立については「抄国解之文、拾衆口之話」とされ、黄海敗戦時の佐伯経範の討ち死ににまつわる話、出家して頼義の遺体を探そうとした藤原茂頼の話、貞任の首級の髪を梳るための自分の垢櫛を使わざるを得ないことを嘆く元従者の話、など多くのエピソードが指摘されている。また、武則自身が当事者の語りをなした(=武則の体験譚が『陸奥話記』の材料の一部になっている)可能性も指摘されている。『陸奥話記』には、文書(「国解の文」など)として引用されている部分以外にも、報告書から抄出されたのではないかと思われる部分が多数存在する。例えば、戦闘の場面で当事者名と結果(これに想像だけで書けるような観念的な描写が加わる)に終始する類である。武則の関わる場面は、抽象的な言辞ではなく、たとえば、ことの手順が描写されたり、一兵士の挙措が記されたりと、生硬ながらも戦語りへのふくらみを感じさせる。義家の弓勢を試みてその神業ともいえる一面を明らかにしたのも武則であった。
戦後行われた論功行賞により、源頼義は正四位下伊豫守になった。太郎義家は従五位下出羽守、次郎義綱は為右衛門尉に昇進した。武則は従五位下鎭守府将軍に任命された。一時は圧倒的に不利な状況にあった安倍氏との戦い、そこに清原氏の援軍を求めた頼義の「甘言」は、安倍氏滅亡後、武則の鎮守府将軍就任によって、完結したと見ることはできないだろうか。「子」から「卿」へ、変わっていく頼義の武則への呼びかけ。頼義を支える立場から先導する立場へと変化する武則の発言。『陸奥話記』が源氏の家の隆盛を見据えた物語になっていないことは冒頭で述べた通りである。『陸奥話記』においては、「将軍」源頼義の安倍氏追討の物語に寄り添うように、清原氏の勢力拡大・武則の鎮守府将軍後継の物語が、成り立っているのではなかろうか。
 
「政治演説」と「ヤジ」

 

北条政子の演説とは
政治的な「演説」と言えば、アリストテレスの『弁論術』があるように、やはり古代ギリシャや古代ローマのものが有名だ。一方、日本における政治的な演説といえば、筆者はまず鎌倉時代の北条政子を想起する。
夫である源頼朝亡き後、鎌倉政権を実質的に差配していたのは北条政子と彼女の姻戚である北条一門だった。1221(承久3)年、後鳥羽上皇は執権の北条義時(政子の弟)を討て、という命令(院宣)を出す。承久の乱だ。
上皇の命令に各地の武士が従おうとするが、政子は御家人らを集めて演説する。「これまで見下されていた武士が人並みに扱われるようになったのは故右大将軍(頼朝)のおかげではないか。上皇は奸臣の甘言に乗せられ、間違った院宣を出しているが、これら奸臣を討ち取って旧恩に報いるべきだろう。だが、上皇にお味方したい者があれば自由にせよ」と。
劇的な場面で出来過ぎかとも思うが、『吾妻鏡』や『承久記』などに同じような描写が書かれているので本当にあったことだろう。彼女の演説により上皇側へ傾いていた有力御家人たちがこぞって鎌倉側へ味方し、承久の乱は鎮圧された。天皇(上皇)の無謬を前提にした日本特有の「君側の奸」理論は、その後もずっと続いている。
政治的道徳倫理と政治的発言の関係
北条政子は御家人たちの倫理観に訴え、源頼朝から受けた恩を返さないのはおかしいと演説したが、道徳や倫理の面から人間の言動を分析した米国の社会心理学者ジョナサン・ハイド(Jonathan Haidt)は、道徳倫理基準には「5つの基盤(支援/害・公平/相互・忠誠/集団・権威/敬意・尊厳/純潔)」があると言う。これらは政治的な思想信条によっても基盤が変わり、リベラル派は5つの基盤のうち支援や公平に重点を置き、保守派は5つそれぞれを均等に重視する傾向にあるのではないか、とハイドは考えた。
こうしたハイドの仮説を、実際の政党政治の現場の発言などから分析した研究もある。東北大学と東京大学の計算社会科学(Computational Social Science)の研究者は、日本と米国の国会議員の発言を議事録などのテキストデータや議会発言の音声データなどから感情表現を分析し、ハイドの理論に沿って道徳と倫理の側面を評価した。
すると、米国の民主党議員は支援/害を重視し、ハイドの仮説と同様の結果になったが、共和党議員は公平/相互を重視し、忠誠/集団にはあまり関心を示さなかった。これはハイドの分析とは異なった結果になる。
また、日本の国会議員について分析してみたところ、これもまたハイドの仮説とは違い、リベラル派の議員は5つの基盤の全てに否定的な懸念を表明してきたようだ。
今回の総選挙における日本の政党で言えば、リベラル派は立憲民主党や共産党、社民党あたりになろうか。保守派は自民党、公明党、希望の党、維新の会あたりになるだろう。ハイドは、政治家の道徳や倫理に関する言葉を「美徳(正)」と「悪徳(否)」の2つに分類し、前者は「優しさ、愛国心、遵法」のような「基本的にポジティブな言葉」を意味し、後者は「破壊、裏切り、侮蔑」などの「基本的にネガティブな言葉」を意味する、としている。
いわゆる「なんでも反対」といった姿勢が、日本のリベラル派の議員の道徳倫理観にうかがえるわけだが、研究者は、これは日本の特殊な政治状況であり、保守派が議会で支配的であってもリベラル派のネガティブな政治的発言がその影響力を中和してきたのではないか、と考えている。
日本で発達した雄弁術
演説の話に戻るが、自由民権運動や大正デモクラシーの頃、日本の政治史でも演説の巧拙、弁論術、というものが一世を風靡する。まだ、ラジオやテレビなどの音声映像メディアが発達せず、実際に目の前で政治家が弁舌を振るう、という手法によってしか市民大衆に訴えかける政治的手段がなかったからだ。
明治期に「雄弁学」を提唱した加藤咄堂は、演説における話法や修辞法、身振り手振りといった身体的な演出などを構築したが、聴衆の心理をどうつかむのかにも腐心したという。ただ、演説の修辞学と心理学を体系的にまとめ上げ、実際の演説に利用できるまでには至っていない。表現や技術を磨くことはできても、聴衆の心理をつかむことはなかなか難しかったようだ。
聴衆を前にした演説というのは、その都度その現場ごとに環境も違えば聴衆の態度も変幻する。ヤジなどのノイズも入るだろう。音楽ライブや舞台表現にも似た難しさがありそうだが、グレン・グールドなら衆目の前での演説など絶対にしなかったはずだ。
技法としての雄弁術はその後、広告心理学を導入するなどしつつ、日本独自の「雄弁学」として大正デモクラシーの中で発達していく。尾崎行雄や永井柳太郎らによって弁論と雄弁の技法が実践的に高められ、最後に軍部独裁と大政翼賛会に抵抗した斎藤隆夫の「粛軍・反軍演説」によって終焉を迎えることになる。
ヤジとヘイトスピーチ
さて、演説にとって厄介なノイズになりかねない「ヤジ」についても、古代ギリシャや古代ローマが本家本元だろう。古代ギリシャの演説者は反対派もいる中で演説をしたから、彼らのヤジや妨害に負けずに演説を続けなければならなかった。
古代ギリシャのサモス島の僭主ポリュクラテスの後任を議論したマイアンドリオスは、演説の最中にヤジを飛ばされた。そして、そのヤジが的を射ていたものだから恥をかいた、とヘロドトスの『歴史』の中にある。これが古今東西の政治的ヤジの最初のようだ。
ただ、マイアンドリオスは単に恥をかいただけではなく、このヤジによって考えを改め、再び僭主としての支配権を確保するために反対派を呼び寄せて彼らを拘禁した。ヤジがマイアンドリオスをしてポピュリズムより僭主のほうがまだましと考えさせたように、ヤジが政治を動かすこともあるのだ。
また、英国の政治集会では、その政党や党派の支持者だけが排他的に集まるのではない。一般大衆や対立する勢力が、ヤジったり演者に質問したりするのが普通だった。英国では、こうしたヤジや対立者を排除することは慣例的に許されなかったのである。
だが、英国のファシスト、オズワルド・モズリー(Sir Oswald Mosley)が英国ファシスト連盟(British Union of Fascists、BUF)を設立して排外的な反ユダヤ主義から集会やデモを繰り返し、それに対する反ファシズム運動の側の反対行動が先鋭化して激しく衝突するようになると、牧歌的とも言える英国政治の状況が変わる。
1936年には公共秩序法(Public Order Act、3ヶ月以下の禁固もしくは50ポンド以下の罰金、またはその両方)が制定された。これは英国における初めてのヘイトスピーチ規制法で、公共の場または公共の集会で、脅迫的で侮辱的な言動を禁止などとする内容だ。差別的でヘイトなヤジは禁止されることになる。
現在の日本の公職選挙法では立会演説会が制度的に廃止(1983年に廃止)され、一部有志などが主宰してインターネット公開討論会などが開かれるようになっている。今回の総選挙は、突然の衆議院の解散によるものだったので、公開討論会の回数が従来よりかなり少ない。また、ネット上の討論会では書き込みコメントこそあれ、候補者に向かって実際にヤジが飛ばされようもない。
ヤジはコミュニケーションか
政治集会などでの演説と選挙の演説では少し事情が違うと思うが、演説にヤジはつきものだ。演説は一方通行であり、特に政治的な演説は一種のパターナリズムで、聴衆に「教え聞かす」ことを目的にしていることも多い。
だが、そこにヤジが入れば、双方向のコミュニケーションが生まれる可能性がある。もちろん、政治演説を妨害することを目的にしたヤジは論外だし、政治演説の場に一定の秩序は必要だろう。また、演説とヤジの間に官憲の介入など当然あってはならない。
だが、選挙演説なら聴衆は主権者だし、選挙のための演説は一過性だ。理想論かもしれないが、せっかくの機会なのだ。演説者と聴衆との間に対話があること自体をおかしいとは思わない。さらに言えば、反対意見との議論で演説者の主張を聴衆に訴えることができれば、より効果を発揮するだろう。
このように、ヤジといえど政治的にはある程度の意味を持つ。そして、それはリアルな政治的現実世界におけるダイナミズムであり、インターネットの中にはない身体性のある行動とも言える。
ところで、自民党や公明党の候補者は、固い支持団体に守られてきたからかヤジに対する耐性がない。一方、旧民主党や共産党の街頭演説などで、ちょっとここでは書けないような卑劣な罵声が飛ぶことは日常茶飯事だ。
組織的なヤジが問題視されることがあるが、野党のほうがそれに慣れている。ちなみに、公職選挙法の第225条では選挙の自由妨害罪を示しているが、過去の判例などにより現状では聴衆が演説を聞き取りづらくなるほどのヤジは違法だが、それほどではない場合は適法、という解釈のようだ。
また「こんな人たち」(安倍晋三)とか「黙っておれ」(二階俊博)とか、思わず本音が口をついて出てくる、というのも街頭演説とヤジの興味深いところだろう。「演じる」ことは現代の政治家にとって必須の資質であり、マキャベリに言わせれば演技の出来ない政治家など二流、ということになる。
どこでカメラに「抜かれ」マイクに「拾われ」ているかわからない。ヤジに過剰に反応し、思わず馬脚を現すようでは、政治家として失格と言わざるを得ない。
主権者大衆は常に「劇場型政治」に喝采をおくる衆愚でもなければ、もちろん無知でもない。政治がレトリック的修飾と密接不可分になっている今日、政治家はその「マスク」を安易に脱いではいけないのだ。  
 
熱原法難の地 龍泉寺

 

熱原法難は、駿河国富士郡下方庄熱原(静岡県富士市)で弘安二(一二七九)年秋に起きた法難。この法難は単なる宗史上の一法難ではなく、宗祖・日蓮大聖人様が出世の本懐、本門戒壇の大御本尊様を御図顕あそばされるという、重大な意義を持つ。さらには、当時の社会の上で身分の低かった農民たちが、命をかけて信仰を貫いた「法華講」の原点であり、以後も数々の法難が惹起するのであった。
もともと滝泉寺(この「滝泉寺」は天台宗の寺とし、「龍泉寺」は現在の日蓮正宗寺院に区別する)は奈良時代の法照寺ののち富士郡下方庄の荘園を管理する寺院として、平安後期よりあったと伝えられている。その寺院に由来は、法照寺が炎上したために火禦(ひぎょ・火を防ぐの意か)の意味で「滝泉寺」と水に因んだ名称と言われている。
付近には実相寺・四十九院など広大で潤井川の河畔の肥沃(ひよく)な荘園を有する寺院がある。
これらの寺院には幕府高官を退いた官僧の、現在で言う天下りの院主がおり、仏道を行ずる寺院というより、本来の寺院の在り方から程遠く、綱紀も乱れ、堂宇も荒廃していた寺院であった。
荘園には大勢の「在家人」という農奴がおり、田畑を耕作し、年貢を納めていた。
日蓮大聖人様に常随給仕されていた第二祖日興上人様は、大聖人様が身延に入山あそばされた文永十一(一二七四)年初秋より、幼少より宿縁深い駿河・富士地方へ折伏に歩き、院主・院主代によって荒廃した寺院の修行僧を破折して改宗し、弟子になっていった。実相寺よりは筑前房・豊前房、四十九院よりは日持・日位、滝泉寺よりは日秀・日弁・日禅等が大聖人様の教えを信じて修行するようになり、寺域内の農民たちや下男下女、付近の住民までが大勢入信し、日に日に「南無妙法蓮華経」の題目の声が盛んになっていくのであった。
日興上人様の「本尊分与張」には何人もの農民や住民に御本尊様が御下付された記録が残っている。
その中、熱原の農民、神四郎・弥五郎・弥六郎の三名は弘安元年に入信し、滝泉寺で日秀・日弁・日禅等の指導を受けて熱心に信心修行し、大折伏を行じられた。
しかし、鎌倉幕府の中心、付近を領有する北条一門は念仏宗であり、幕府を退官し、滝泉寺院主代となった行智という破戒僧らは、このように盛んになっていく大聖人様の教えを信心する集まり「法華講」を快く思わず、荘園を管理する鎌倉幕府の代官やそれに連なる破戒僧や謗法の寺家檀家衆らは弾圧を始めたのである。
まず院主・院主代らは寺院の修行僧に法華経読誦を止めて阿弥陀経の信仰にもどらなければ、寺院より追放するという触れを出した。
しかし、筑前房・豊前房等は日興上人様の「実相寺衆徒状」にあるよう敢然と立ち向かい、他四十九院・滝泉寺でも僧侶は信心強盛に寺院内に止まり折伏の手を止めなかった。法華講信徒農民も寺内で頑張る僧侶を外護(げご)し、ますます強盛に信心していくのであった。
このように緊迫した状況のもと、弘安二(一二七九)年四月になると、三日市浅間神社の祭礼の雑踏のなか四郎と名乗る法華信者が何者かに刃傷の害を被り、同じく八月には、法華信者弥四郎が首を斬られ殺害されるという、法華講員に対する弾圧の事件が惹起したのである。
そして九月二十一日、この日は下野房日秀の田の稲刈りの日で、熱原法華講員衆たちが集まって稲刈りの御奉公をしていた。かねてより法華講弾圧の機会を窺(うかが)っていた院主代行智は、この時ばかり太田親昌・長崎時綱等の武士を催して、院主代分の稲を法華信者が奪うとの理由を付け熱原法華講衆二十名を捕縛し、鎌倉幕府へ送られてしまった。
そこには神四郎・弥五郎・弥六郎の長兄である弥藤次入道の弟たちを罪に陥れる訴状まであった。それは行智の甘言籠絡による狂気の沙汰であり、妻子眷属魔の現れであった。また大進房・三位房らも天魔に魅入られたものか師敵対の大謗法の者となり、太田親昌・長崎時綱等に与(くみ)して法華講衆捕縛に加わっていたのであった。この大謗法者たちは捕縛騒動の中で落馬し、数日後、不可解な最期を遂げるという現証があり、太田親昌・長崎時綱も法華誹謗の現罰がたちどころに現れたのである。
これらの子細は日興上人様が書状で直ちに身延の大聖人様へ報告され、それに対して大聖人様より「伯耆殿並諸人御中」「聖人御難事」「伯耆殿御返事」「滝泉寺申状」「聖人等御返事」等と次々に、捕えられた農民たちを思いやられ、事細かに大慈悲あふれる御指南をなされた。
この御指南を受け、日興上人様を中心に日秀・日弁らと神四郎・弥五郎・弥六郎の三烈士たち熱原の農民たちは、さらに不退転の強盛な信心を貫いていった。
鎌倉に送られた二十名の農民たちを取り調べたのは、大聖人様を佐渡へ流し、長年迫害をしていた平左衛門尉頼綱であった。平左衛門は十月十五日、農民一同に事件の事は少しも触れず「汝等速やかに法華経の題目を捨てて、念仏を称えるとの起請文を書け、さすれば罪を許す、さなくしては重罪に処す(速やかに法華経の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み、念仏を申すべきの由、起請文を書かば、安堵すべきの旨)」と嚇(おどか)したのであった。
しかし、入信してわずか一年足らずの一介の農民たちは、『如説修行抄』そのままを身をもって実践したのだった。「縦ひ頸をばをばのこぎりにて引き切り、どうをばひしほこを以てつゝき、足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんきはゝ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死にゝしぬるならば」必ず成仏できる事を確信し、幕府での威(おど)しに一切怯(ひる)まなかったのである。
この様子に激怒した平左衛門は、子息・飯沼判官資宗に命じて、蟇目矢を散々に浴びせて威嚇したが、三烈士たちの唱題の声はますます高まり、ついに業を煮やした平左衛門は農民たちの中心者であった神四郎・弥五郎・弥六郎の首をはねたのだった。
「彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経と唱へ奉ると云云。偏に只事に非ず。定めて平金吾の身に十羅刹の入り易はりて法華経の行者を試みたまふか」と『聖人等御返事』で大聖人様仰せのように、三烈士の天晴な不退転の信心を称嘆され、法華講員一人ひとりの「一心欲見仏 不自借身命」の実践こそが大聖人様御化導の目的である事は言うまでもありません。
弾圧した平頼綱等父子は、法難の十四年後の永仁元(一二九三)年四月に、謀叛の罪で誅殺された。法華誹謗の現罰以外なにものでもないだろう。
法難の逐一の報告を受けられていた大聖人様は『聖人御難事』に密示された如く、弘安二年十月十二日法難の決定的段階を迎えたとき、一閻浮提総与、本門戒壇の大御本尊様を御図顕あそばされたのである。すなわち、御本仏大聖人様の大慈悲が、当時社会の最下層である農奴の間まで流れ及んだ状況に、本懐成就の時を感じられたのである。
その脇書には「右現当二世の為造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆敬白」と示され、熱原法難を不退の信心で闘っている農民信者をもって「弥四郎国重」と称せられ、末法万年にわたって三大秘法を信行する衆生を「法華講衆」と称せられたのである。

熱原法難の後、滝泉寺は荘園管理の機能を果たせないとして廃寺となり、荘園は富士宮浅間神社本宮他、三日市米之宮の浅間神社の三社に分けられ、その後は「滝泉寺領」として地名のみが浅間神社の記録にその名を留めるだけだった。
熱原の法華講衆も滝泉寺廃寺後は上野殿はじめ窪尼・高橋殿などの所へと散り散りになり、記録もなく場所を特定する事がなかなかできなかった。江戸時代に熱原法難の聖地として供養塔や石碑が建ったのだが、潤井川の氾濫などで流出し、現在ある場所は滝泉寺とは関係のない所にある。
現在ここ龍泉寺の地は、江戸時代、天保年間の古地図に、朱印地(国有地)とあり、墓地として使用されていた。地元の老人は「昔から龍泉寺塚といって、飼い猫や愛犬が死んだら葬っていた地」と言っていた所であった。
日蓮正宗重役妙蓮寺御住職・常健院日勇御能化様と龍泉寺支部講員で郷土史家・山口稔氏(故人)が実地調査をかさね、第六十六世日達上人様も度々この地に立ち、決定され、市有地を払い下げて得た境内地である。
日達上人様は龍泉寺発願のお言葉に、「龍泉寺は、その後、熱原法難事件後跡絶えてしまって、さっぱりその所もはっきり分からなかったのでございますが、今回、その地を発見致しまして、今本山に於いて、龍泉寺を造っている最中でございます。これが出来ますれば、又、あの熱原の法難の遺跡の寺として皆様に参詣して頂きたいと思います」と仰せられ、慶讃文にも「夫(そ)れこの地は弘安の古、宗祖大聖人御在世の砌、日興上人の采配によって日弁・日秀等の盛に毒鼓を叩きたる熱原龍泉寺の跡にして(中略)日達仏恩報謝と並びに三烈士の顕彰のために年来の宿願たる龍泉寺の復興建立を為し、本日茲に入仏落慶の法莚(ほうえん)を敷く」と仰せのように、法華講発祥・三烈士を顕彰し、広宣流布へ法華講二陣三陣と続き大願成就を願われた寺院であります。
熱原法難七百年の御報恩の為に「熱原法難称嘆法要」が昭和四十九年に奉修され、その記念碑が建立された。記念碑には日達上人様の御句が刻まれています。
「法の下種 秋の実りや 来世まで」妙観
と三烈士たち熱原の農民たちが稲刈りに集う心を謳われ、今まさに法華講による大折伏が広宣流布に向かって進む姿こそ日達上人様の御句の意義と存じます。 
熱原法難 2 
竜の口法難は日蓮大聖人が凡身を転じて仏身に成られた重大な法難であったが、熱原法難はその仏様が、いかなる目的で出生されたかを明示する、これまた重大な法難なのである。
前者は宗祖御一人の身に、後者は一農民に起きたもので、どちらも宗学上、たいへん重要な意味をもっている。この二大法難の意義を知らずして“私は日蓮大聖人を信じている”などとはいえない。身延や池上、そして中山の僧侶や信徒は、この二大法難の意義を少しも解っていない。それだから、釈尊の仏像を祭ったり、二箇相承を否定したりするのである。ここでは宗祖大聖人が戒壇の大御本尊を御図顕される契機となった熱原法難の経緯を記してみようと思う。
大石寺を開闢(かいびゃく)された御開山日興上人は寛元四年(一二四六)四月、甲州大井荘の鰍沢(かじかさわ)に出生された。父とは幼少にして死別し、母が再嫁したこともあって、外祖父たる河合の由比入道に養育され、十二歳の時、岩本(駿河)実相寺に剃髪・出家された。
実相寺は一切経を備えており、折しも大聖人が『立正安国論』執筆のため、同寺に泊り仏典を閲覧されていた。朝夕お給仕申し上げていた日興上人は日蓮大聖人の御高徳に触れ、弟子となる決意を固め、名を伯耆(ほうき)房と賜ったのである。
宗祖の弟子となった日興上人は、四十九院や実相寺に住した日位、豊前房、筑前房等を教化し、宗祖の弟子にした。その後、日興上人の布教活動は熱原の地にも広がった。熱原の南部に天台宗の滝泉寺があった。滝泉寺は、現在の富士市伝法町に位置する大寺院であった。日興上人は、その僧侶たる下野房日秀、越後房日弁、少輔房日禅、三河房頼円を折伏して改衣させ、宗祖の弟子にしたのである。日興上人を頂点とする僧侶は実に強靱(きょうじん)な使命に燃え、折伏戦を展開したのであった。
このような状況に対し、滝泉寺院主代・平ノ左近入道行智は激怒し、宗祖の弟子となった信徒に圧力を加えてきた。このため日蓮大聖人は、援軍として弟子の佐土房日向、学静房等を遣わして日興上人の弘教を助けられ、また『異体同心事』なるお手紙を送られて門家の結束を図られたのである。
滝泉寺の「本院主」とはどういう人か、どこにいたのか不明であるが、寺院運営は院主の代行たる行智が一手に掌握していた。行智は大聖人をさんざんな目にあわせた平左衛門尉頼綱の一族であり、教義も解らぬ無慚(むざん)な俗僧であった。
彼の非行ぶりはひどかった。寺内の法華三昧堂の供僧たる蓮海に命じて法華経をバラバラにほぐさせ、渋紙(しぶかみ)をつくってこれを寺院の修理に当てた。お経本を襖(ふすま)に使うなどということは前代未聞のことである。また、日弁が実相寺の修理のためにお上から預かっていた屋根の木端板(こばいた)を行智が横領し、無知、無才で盗人の兵部房静印から過料(罰金)を取って罰を許し、有徳の人材と称して同寺の供僧に抜擢(ばってき)したのである。さらには、あろうことか出家の身でありながら寺院の農民をけしかけて猟をし、鳥、狸、鹿を射殺して寺院で酒盛りをするなど、酔狂の限りを尽くした。はなはだしきは寺内の放生池に毒を入れて魚を殺し、それを農民に売って酒肴代にするほど、悪辣(あくらつ)な売僧(まいす)であった。
教義を抜きにしても、このような悪僧のもとに正常な僧侶が仕えるはずがなく、信徒も帰依するわけがないのである。次第に滝泉寺の主(おも)だつ学匠は念仏を捨て、宗祖の膝下に連なったのである。
こうなると行智はだまっていなかった。にわかに日秀、日弁、日禅、三河房頼円に圧力を加え、改心を迫ってきたのである。「法華経は信用できない教えであるから信仰をやめ、向後は阿弥陀経を読み、南無阿弥陀仏を称えよ。この命令に違背せぬと誓約書を書け。書けば許すが、書かぬ者は寺内から追放する」とおどしてきたのである。
ここに、三河房頼円は臆病にも身の安泰を計り、謝罪して法華信仰を捨棄する誓状を書いて滝泉寺にとどまり、事なきを得たのである。しかし、他の三人はかえって行智を訓戒して正義を主張したが、これがために住坊を奪い取られ無頼の身となったのである。
やむを得ず日禅は生家の河合に帰り、日秀、日弁は行智の統制の及ばない他の坊に移り住んだ。自由の身となった日秀、日弁はますます折伏に精を出し、熱原郷の農民、神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟を初めとして多くの百姓達を入信させたのである。これにより、いよいよ行智は法華宗を憎みだしたのであった。時を同じくして、実相寺の道暁、四十九院院主たる厳誉は法華宗の教勢を恐れ、院主権を濫用(らんよう)して日興上人、日持、日源、日位等を山内から追放したのである。
日興上人は直ちに実相寺、四十九院の邪義、横暴をあばき、『四十九院申状』を作成してお上に訴えたのであったが、何の沙汰もなかった。幸か不幸か、住坊を追われた日興上人は一段と布教に専心し、他宗破折に専念されたのである。ことに、熱原の折伏戦は日興上人を大将に、日秀、日弁が補佐し、大進房、三位房が宗祖の命を受けて援軍に駆けつけ、信徒では南条時光殿が身命を惜しまず奮闘したのである。この「我不愛身命」の戦いによって法華宗とは正反対に、みるみるうちに滝泉寺は衰退し、法論では勝算がないとみた行智は国家権力を利用して、一気に法華宗の勢力を消沈させようと奸策(かんさく)をめぐらしたのである。
この地の下方庄に行政刑罰を務めとする政所(まんどころ)が設けられていた。行智は自分が平左衛門尉頼綱に縁故があるのをよいことに、政所の役人を抱き込み、また、大変な曲者(くせもの)で村のボス的存在として恐れられていた弥藤次入道と結託し、あらゆる手段を用いて信者に圧迫を加えてきた。
手始めに行智等は、法華経信奉者を処罰する旨(むね)の幕府の御教書を二度偽作して、信徒を威嚇(いかく)したのである。だが、宗祖からの激励を受けていた僧俗の固い団結の前には不当な圧力も効果をあげず、ますます法華経の信仰は強まっていったのである。
しかしながら、そのようななかからも執拗(しつよう)な行智の造反工作に乗せられ、信徒では大田次郎兵衛親昌、長崎次郎兵衛時綱が退転し、僧分でも大進房、三位房が師敵対している。特に大進房などは日興上人の先輩に当たる人でありながら、日興上人の人望に嫉妬するなど信心にすきができ、そこを魔神につけ入られて、逆に行智等と手を組んで同志を迫害するように変わっていった。
退転者は所詮、負け犬である。彼等は以後、全く宗教に無関心に生きるか、あるいは己の正当性を主張せんと元同志に悪口雑言(ぞうごん)を吐くかのどちらかである。後者のほうが厄介である。大田親昌、長崎次郎時綱、大進房、三位房等は徒党を組んで魔軍に変じ、信徒の寄り合いをうかがっては駆けつけ、さんぎんに横暴の限りを尽くした。
弘安二年(一二七九)四月八日には、駿河三日市場の大宮浅間神社の分社で流鏑馬(やぶさめ)の神事が行われ、そのさなかに雑踏(ざっとう)にかくれて信徒の四郎を傷害し、さらに八月には弥四郎の首を斬り落とす残酷なことをしている。犯人は、いつも役人が後ろで画策していたから、一向に捕らえられなかった。逆に行智等は「日秀達が殺害した」と訴状に書き付けるほどであった。
五十九世日亨上人は
「神四郎等のように殉難の壮烈を喧伝唱導せられぬのはおおいに気の毒の至りである。此れも殉難者として神四郎等と共に廟食追弔せらるべきである」(熱原法難史)
と、斬首された弥四郎も熱原三烈士とともに顕彰、追弔すべきことを提言されている。
さて、同志の不幸に少しもひるまぬ法華衆に村し、行智は教勢壊滅の機会をうかがっていたのである。弘安二年(一二七九)九月二十一日農民達は稲刈りをしていた。この時とばかり大進房、大田親昌らが下方政所の役人とともに襲いかかり、神四郎以下二十名が捕らわれてしまった。その罪状は、神四郎の実兄・弥藤次の名をもって
「大勢の法華の信徒が弓箭を帯し、日秀の指揮のもと、院主の田に入って稲を盗み刈りし、日秀の住坊に取り入れた」
というもので、全く偽りの訴えである。神四郎以下二十名の信徒は、その日のうちに鎌倉へ引き立てられていった。
日興上人は直ちに事の子細を身延にお住まいの日蓮大聖人に御報告申し上げた。宗祖は十月一日に『聖人御難事』を認(したた)められ、二十人のうちでも信仰に動揺している者や、特に村に残る老若男女に対して門家一同が激励し、援護するように促された。お手紙の内容は
「あの熱原の信仰の弱い者にはよくよく激励して、おどしてはいけません。彼等にはただ一途に決心させなさい。善い結果になるのは不思議であり、悪い結果になるのは当然と思いなさい。空腹にがまんできなかったら、餓鬼道の空腹の苦痛を教えなさい。寒さに耐えられなかったら、八寒地獄の寒さの苦痛を教えなさい。恐ろしいというなら、鷹にねらわれた雉、猫にねらわれた鼠を他人事と思ってはいけないと教えなさい」
という非常に厳しいものであった。
一方、大聖人は鎌倉に捕らわれの身となった無実の罪の信徒を救うために、鎌倉問注所に抗議の訴状を日興上人と共作された。これは『滝泉寺申状』と呼ばれる。すなわち、弥藤次入道が信徒の弓箭(きゅうせん)を帯しての乱暴、狼籍、窃盗を証拠としたのに対し、日興上人は全く事実無根の作り話であると反証した。けれども、裁く役人が竜の口法難で日蓮大聖人を断罪にせんとして失敗した平左衛門尉頼綱であり、それが悲劇であった。問注所へ抗議した十二日の当日、平左衛門は私邸を法廷として、直ちに審議を開始した。審議といっても、事件の核心たる刈田・乱暴・狼籍を通りいっぺん審議するだけで、本音は熱原の信徒の信心捨棄(しゃき)を目的として威嚇するにあった。
神四郎、弥五郎、弥六郎以下二十人を私邸の庭にすえ、平左衛門は宗祖への恨みを檀那に晴らさんとばかり「題目を捨てて念仏を称えよ。そうすれば無罪放免にしてやる」と言って、甘言籠絡(かんげん ろうらく)させようとした。しかし神四郎等は「たとえ重罪に処せられるとも、題目を捨てない」と声強に言った。平左衛門はこの返答に激怒し、自らの生命より題目が大切だなどというのは天魔が乗り移っているからだと思い、十三歳になる子息の飯沼判官資宗に命じ、蟇目(ひきめ)の矢をもって神四郎等を責め立てたのである。
蟇目の矢とは、矢じりがかぶら矢の形をしたもので、中を空洞にし、数個の穴をあけ、放つと音が出るようになっている。当時、これが天魔退散に効果があると信じられていたので、平左衛門はこれを使って魔を調伏しょうとしたのである。矢はヒユーヒユーとうなって恐怖心を与え、当たれば激痛が走る。平左衛門は矢の恐怖で題目を捨てると思ったが、彼らは矢が放たれてもひるむこともなく、一同が題目を唱えて法悦にむせんだ。もはやそこには死を超越し、法に殉ずる金剛不退の信心の姿があった。やむなく平左衛門は中心者の神四郎、弥五郎、弥六郎を処刑した。三兄弟は命のかよわん限り題目を唱えて殉死したのである。他の十七人は罪状も不明のまま放免された。
日興上人はこの日のことを直ちに使いを遣わして大聖人に御報告申し上げた。大聖人もこの報告を受けて深く感嘆され、十七日に『聖人等御返事』を認められた。それには
「今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す、彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、偏に只事に非ず定めて平金吾の身に十羅刹入り易(かわ)りて法華経の行者を試みたもうか、例せば雪山童子・尸毘王(しびおう)等の如し将(は)た又悪鬼其の身に入る者か、釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等・五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり、大論に云く能(よ)く毒を変じて薬と為(な)す、天台云く毒を変じて薬と為す云云、妙の字虚(むな)しからずんば定めて須臾(しゅゆ)に賞罰有らんか」(全集一四五五)
と認められている。
しかして、法難のすべてがこれで終焉(しゅうえん)したわけではない。行智は三烈士の斬首に力を得て、法華信仰の根絶を計っていたのである。偶然に稲刈りに加わっていなかった信徒への圧迫も当然あった。また、信徒の新富地(富士)神社の神主まで捕縛(ほばく)しようとしていたのである。三烈士の殉死から一年も経過していたにもかかわらず、政所の詮議は厳しいものがあった。
このなかで南条時光は、これら信徒をかくまった。そのために租税の賦課が加料されるなど、いつまでも弾圧に苦しめられたのである。それでも献身的な南条時光の貢献に対し、宗祖は「上野賢人」と呼ばれ、めでられている。法難によって日秀、日弁も富士にとどまる所がなく、下総に移り、日興上人も上野に退却を余儀なくされたのである。
以上が熱原法難の経緯であるが、これだけの法難を、上代において当宗を除いた日蓮宗各派が少しも記述していない。熱原という限定された地域のみに起こった法難とはいえ、その意義は重大なものがある。
すなわち、宗祖大聖人は一文不通の農民が妙法のために命を捨てるという、僧俗一体の信行の上に不自惜身命の姿が現実に現れるべきことを観じ給い、ついに御本懐たる大御本尊を、この法難を契機に顕されるのである。それこそが、日興上人以来、当宗に秘伝されている大御本尊である。この御本尊は究意中の究竟(くきょう)であり、御本仏と開顕せられた大聖人の御出現の本懐が、ここに極まるのである。日亨上人は
「将して裁判には負けたが、勝せた平左衛門は間もなく族誅(ぞくちゅう)せられ、其の主人公の北条家も跡形もなく亡び、将軍家も疾(はや)くに権威を失した。況(ま)して行智等は寺と共に消えてしまうた。負けた神四郎の方は永久に其の壮烈を護法の魂と仰がるるので、賞罰明なるものである」
と、三烈士をたたえられている。(熱原法難史)
 
壬生狂言

 

カンカンデンデン、カンデンデン−。単調だが一度聞くと、大きく小さくうねるお囃子の音がなかなか耳から離れない。そんな印象的な春の京都の風物詩が「壬生大念仏会(みぶだいねんぶつえ) 壬生狂言」だ。新撰組でおなじみ、壬生寺に古くから伝わる人気の伝統芸能で、一般によく知られている能狂言とはずいぶん違う。なにしろセリフが一切無い無言劇なのだから。今年から、29日〜5月5日に日程が変わったのでお見逃しなく。
勧善懲悪の無言劇
「壬生狂言」は、寺伝によると鎌倉時代の中興の祖・円覚上人(えんがくしょうにん)が、仏教の教えを庶民にわかりやすく伝えるために創始したという。狂言といっても能狂言のようなセリフはなく、演者は皆、面を付けて演じられる無言劇だ。ユーモラスな演目が多いが、ベースにあるのは念仏の教えである。
「説教を楽しく伝える大衆のためのエンターテインメント。気楽に楽しんでいただければいいと思います」と松浦俊海貫主。
だましだまされ、嫉妬や甘言、人間の智恵と愚かさ…。人の世にあふれる事象を盛り込みながら、結果として人の心を「勧善懲悪」(善事をすすめ悪事をこらしめること)へと導くところが壬生狂言の醍醐味(だいごみ)だ。
ストレス解消にも
構成はいたってシンプルで、お囃子は鉦(かね)・太鼓・笛の楽器3種のみ。演目は現在、30種あり、独自のものから神事や仏事に由来するもの、能や狂言に通じるものまでさまざまだ。2月の節分と春秋の年に3回行われているが、なんといってもこの春の大念仏会が最大。壬生狂言で最も有名な演目「炮烙割(ほうらくわり)」が連日上演されるからである。
《「炮烙割」は、クライマックスで炮烙(素焼きの平たい土鍋。豆などを炒るのに使われた)を舞台から次々と落とし割るシーンが人気の演目。市場への一番乗りを争う炮烙売と羯鼓売(かっこうり、鼓を売る商人)、それを裁く目代(役人)によるドタバタ劇だ》
不正を働こうとした者が最後は懲らしめられる…という結末だが、割られる炮烙にも意味がある。節分の頃に願い事などを書いて同寺に奉納されたもので、炮烙が割れると厄払いになると信じられてきた。ガッシャーン!と音をたて、山と積まれた炮烙が割れるさまを見るのも、ストレス解消になると好評だ。
信仰の姿を今も
壬生狂言の魅力は、庶民の力で伝承されてきたことにある。演者もプロではなく、子供から大人まで、長年受け継いできた地元の人たちだ。今年は目代役の衣装が40年ぶりに新調されて話題だが、同寺に残る古衣装には寄進した人たちの名前が書かれるのが常だった。江戸時代に再建された舞台の大念仏堂(狂言堂、国の重文)も、柱には寄進者の名が刻まれ人々の篤い信仰心が伺える。実は舞台の上にもちゃんと地蔵菩薩がまつられているので探してみてほしい。単なる芸能ではない、宗教の一つの形としての姿がそこにある。
今回も「土蜘蛛(つちぐも)」「道成寺」「桶取(おけとり)」など人気の演目を予定。古来のエンターテインメントを楽しみつつ庶民の信仰心に触れてみてはいかがだろう。
炮烙の和菓子
壬生寺に行ったら、すぐ隣にある新撰組発祥の地「八木邸」(壬生屯所跡)と御菓子司「京都鶴屋」の和菓子を。この時期、炮烙割にちなんだ「壬生炮烙」がある。昔懐かしい味わいで、お土産にも。 
 
岩瀬与一太郎

 

岩瀬与一太郎は、大宮地域下岩瀬(一説には上岩瀬とも)の生誕と伝えられ、のちに源頼朝の御家人として鎌倉に移り住みました。下岩瀬地内には、与一太郎の居館跡といわれる城跡もあります。
岩瀬氏は藤原秀郷5世の孫で太田郷(常陸太田市)に居住した藤原公通の第3子 通近が倭文郷(しどりごう)の岩瀬に住んで岩瀬氏を名乗ったのが始まりといわれています。与一太郎はその子孫で、佐竹3代の秀義に仕えました。
与一太郎については、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』に記された有名な逸話があります。治承4年(1180)11月、頼朝は平氏追討のため伊豆で挙兵しますが、源氏一族でありながら平氏とのつながりの強い佐竹氏は、挙兵に参加せず微妙な立場におかれていました。頼朝は挙兵に従わない佐竹秀義を討伐するため、秀義が立て籠もる難攻不落の金砂山城に兵を向けますが、攻めあぐみ、秀義の叔父に内通して城への間道(市内諸沢からの道)を案内させて落城に追い込みます(金砂山合戦)。
秀義はからくも花園城(北茨城市)に逃れますが、兄の佐竹義政は敵将 上総介平広常(かずさのすけ たいらのひろつね)の甘言に乗り殺害されてしまいます。義政に従っていた与一太郎ら従者は、頼朝軍に捕らえられ、斬首されることが決まります。頼朝は捕縛された者の中に音に聞こえた猛者、岩瀬与一太郎をみると、「武士ならば潔く戦で死ぬべきものを、なぜ今捕まって斬首を待つのか」と問いかけました。与一太郎が答えるには「いま源氏が力を合わせて平氏に対抗しなければいけないときに、同姓の佐竹氏を滅ぼすとはどういう考えか。今はみな頼朝公の威勢を怖れ従っているが、のちに必ず反抗する者が出てくるはずである」と無礼を顧みず答えたといいます。これを聞いて頼朝の重臣たちは憤慨しましたが、頼朝は非常に感じ入って与一太郎を御家人に加えたというものです。
岩瀬の地に生まれた与一太郎は、頼朝の御家人となって知行地を与えられ、鎌倉に住しました。現在もその地には岩瀬という地名が残り、与一太郎が勧請したと伝えられる五社稲荷神社が鎮座しているそうです。  
 
頼基陳状 / 桑ヶ谷問答の発端を述べる

 

去る六月二十三日の御下し文は、島田の左衛門入道殿、山城の民部入道殿、両人のお取り次ぎで、同月二十五日、謹んで拝見しました。
右の仰せ下しの状によると「竜象御房の御説法の場に行かれたときの成り行きは、およそ穏やかでなかったと、見聞していた人々が、みな一同に口を合わせて言っているのを聞いて驚いている。それによると、徒党の者が数人、武装して入り込んできた……」との仰せでした。
このことは、なんの証拠もない虚言(そらごと)です。所詮、誰かがお耳に入れたことでしょうか。哀憐をいただき、その者と召し合わせられ、ことの実否を糾明されるならば最も妥当なことかと思われます。
およそ、この事の根源は、去る六月九日、日蓮聖人の御弟子・三位公が、頼基の宿所に来て言うには「このごろ、竜象房という僧が、京都から、下って来て、大仏殿の門の西側の桑ヶ谷に居住して、日夜に説法している。その竜象房が言うには『現世と来世のために仏法について不審のある人は来て問答されるがよい』と説法している。そのために、鎌倉中の上下万民は、釈尊のように尊んでいる。しかしながら、誰ひとりとして問答をする人はいないと噂にきいている。私(三位公)はそこへ行って問答をし、一切衆生の後生の不審を晴らしたいと思う。ついては同行して、聞かれてはどうか」と勧められたのです。だが、ちょうどその時は、官仕(みやづか)えで隙(ひま)もなかったもので、思い立たずにいましたが、その後法門のことと承ったものですから、たびたび説法の場に出向いては行きましたが、頼基は在家の身分であるから、一言も発言はいたしませんでした。ですから、悪口などを言うことのなかったことは御厳察下さるに足ることと存じます。

○ 御下文(おんくだしぶみ) / 公武の上位者より下す公的文書。内容が要約されており、その形式は頭書に下文を下(くだ)すとあって、次に本文、最後に年月日と連名連署されているのが一般的である。平安時代から鎌倉時代にわたって、諸官庁、諸家、寺社、荘園預所等の文書に広く用いられた。ここでは、四条金吾に下された主君江馬氏からの詰問状をさす。
○ 三位公(さんみこう) / 三位房日行のこと。下総(千葉県)の出身。長く比叡山に遊学していた博学の僧。早くから大聖人の門下となり、宗門内で重きをなし諸宗破折の中心として活躍した。だが、後に自己の才知にうぬぼれ、大聖人より才覚があるとさえ自負するようになった。このため、後年、後輩の日興上人が指揮していた賀島(かしま)、熱原(あつはら)一帯の折伏応援に派遣されたものの、かえって、竜泉寺院主代・行智の甘言に乗り、日興上人に叛旗を翻して、迫害者を煽動した。弘安二年(一二七九年)に変死を遂げている。
○ 桑ヶ谷問答の発端 / 当時の鎌倉の民衆は、北条家の権力争いを直接間接に見、肉親同士の血で血を洗う醜い係争を通して、心ある者は人生の無常を感じていた。また、突然やってくる自然の脅威、外敵来襲の恐怖に眼前の無常を感じながら、現世に幸福を求めることより、死後の世界に成仏を求めようとする諦観の風潮がみられたのである。うした状況下に京都から竜象房がやってきたのである。彼がいつ京都から、鎌倉に来たのかはさだかではない。ただ彼は鎌倉庶民の動揺を的確に捉え、その心を握ってしまったことは事実であり、そのことが彼の名声を上げるきっかけとなったのである。彼は、「現世と未来世の安穏のために仏法を求めなければならない。そこで、もし仏法に不審があるようならば、私のところへ来て問答し、その不審を晴らしなさい」と公言して憚(はばか)らなかったのである。これほどの自信がかえって庶民に頼りがいのある高僧と映ったのであろう。激動の社会で、何を頼りにすべきか、その支えを見失い模索する庶民にとって、京都よりあらわれた僧の高言は、なににもまして力強い支えであり、柱と映ったにちがいない。それゆえ、竜象房のかつて行なった人間としてのあるまじき前歴など調べようとすらせず、たちまち、たぶらかされてしまったのである。こうした風潮に立ち向かったのが三位房である。彼は、日頃問答をよくし、京都鎌倉を往来して大聖人の仏法を説き回っていた。それゆえ、今こそ竜象房の邪義慢心と悪行を暴露し、妙法こそ民衆を救済する大法であり、わが師の振る舞いこそ、庶民を思うやむにやまれぬものであることをわからせるべく、頼基に呼びかけ、桑ヶ谷に出向いたのである。 
 
第二の国諌と竜の口法難

 

文永8年9月10日、日蓮大聖人は奉行所に呼び出された。平左衛門尉直々の取り調べである。だが、逆に裁くものが裁かれるごとく、平左衛門尉は、大聖人に徹底的に破折されてしまった。
「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召し出だされぬ、奉行人の云く上のをほせ・かくのごとしと申せしかば・上件の事・一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり。
詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」
この大聖人の痛烈な破折、至誠の国諌は、満場を圧した。その一言一句に、心打たれる者、うつつをぬかす者、激怒を含む者等々、だがその御境涯は、悠々たる大海原にも似たものであった。
その翌々日、9月12日、逆上した平左衛門尉は、まるで謀反人を捕える以上に、物々しく胴丸を着、烏帽子をかぶり、武装した数百人の武士を引き連れ、松葉ヶ谷の庵室に乱入し、狼藉の限りを尽くした。そして、平左衛門尉の家来の一人、少輔房という人物が、大聖人のもとにつかつかと歩み寄って、法華経の第五の巻で大聖人の顔を三度さいなんだのである。この時、日蓮大聖人は、大音声をもって、平左衛門尉を叱咤された。撰時抄にいわく「去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」
それから、大聖人は、竜の口の処刑場に向かわれる。だが、その夜の不思議な現象に、ついに処刑できず、しばらく相模の国依智にとどまられ、やがて佐渡の国へ流罪と決定されたのである。このときも、鎌倉に火つけや強盗殺人がしきりに起こり、これは大聖人の弟子がやったことだと、とりざたされた。これまた念仏者の謀略であり、その背後に、良観がいたことはいうまでもない。
こうした良観の仕打ちに対し、大聖人は、次のごとく、痛烈な破折を加え、良観の偽善の面をはぎとられている。
「法華本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候聖人を頚をはねらるべき由の申し状を書きて殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ死罪を止て佐渡の島まで遠流せられ候しは良観上人の所行に候はずや・其の訴状は別紙に之れ有り、抑生草をだに伐るべからずと六斎日夜説法に給われながら法華正法を弘むる僧を断罪に行わる可き旨申し立てらるるは自語相違に候はずや如何・此僧豈天魔の入れる僧に候はずや」
以上、良観の行動を中心に、邪宗教の悪侶たちが、いかに権力に取り入り、権力者と緊密なつながりをもっていたが、そして、正法の行者を迫害したかを見てきた。これこそ、仁王経の「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、その王別えずして此の語を信聴し横に法制を作って仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」の文そのものではないか。「諸の悪比丘」とは、当時の念仏者・真言師たちであり、別しては良観である。「名利を求め」とは、まさに、当時の僧侶の実態であり、良観の本質である。「国王・太子・王子」とは、当時の指導者階級であり、その前で「破仏法の因縁・破国の因縁を説かん」とは、まさしく権力者に取り入り大謗法の教えを説き、あまつさえ、大聖人を死へと追いやらんとした、良観の行動どのものではないか。これ、国を滅ぼし、仏法を乱す元凶にあらずして何であろうか。「其の王別えずして此の語を信聴し」とは、当時の幕府の権力者たちが、みな彼らの甘言にだまされて、特に平左衛門尉がなんら思慮分別もなく、大聖人の迫害に狂奔してきたことなど、その典型ではないか。
「横に法制を作って仏戒に依らず」とは、罪なき大聖人をおとしいれんとして、数々の罪状をデッチ上げ、あるいはにせものの御教書を作ったりしたではないか。また熱原の法難に際して多くの罪なき農民を、ありもしない罪状で告発し、理不尽な裁判をもって、ついには、神四郎等の熱原の三烈士の首を刎ねたではないか。
「是を破仏・破国の因縁と為す」とは、その後鎌倉幕府の運命が、これを如実に物語っているではないか。また、その後の日本の運命も、まさに破仏・破国へと向かっていったではないか。これは、すでに前述のごとくであり、まことに、恐るべきは邪宗教であり、最も忌むべきものは、邪宗教と政治権力との結託である。 
   
 
 
 
 
■平安時代

   平安時代  794〜1185 

 

平将門、首塚の呪い
平将門を突き動かしたのは、朝廷への怒り
豊田の里に地方豪族、平良将の跡継ぎとして生を受けた将門。父の死後すぐに親族に領地を狙われ、叔父たちの甘言に乗せられて従弟の貞盛と共に京都へ旅に出ます。
しかし京都では田舎者として扱われ官位ももらえず、12年の歳月を経て失意のまま帰京しました。そんな彼を待っていたのは叔父たちの謀略と襲撃でした。彼は寡兵ながらも窮地を突破し、その勢いに乗って反撃を開始。腐敗しきった時代に、将門の戦いが始まります。 
平将門についての意外な事実
1 平将門は関東を制圧し「新皇」と自ら名乗ったが、わずか2か月で滅ぼされてしまった
関東一円を怒涛の勢いで平定した将門は、940年1月に「新皇」に即位します。しかしそれとほぼ同時期に朝廷では藤原忠文が征夷大将軍に任じられ、すぐに将門討伐に出征。これを聞きつけた将門は兵を集めますが、冬場であったため諸国から招集した兵はほとんど帰国してしまっており、さらに朝廷直属の討伐軍が相手ということもあり逃げ出す兵士も多く、結局は朝廷軍4000人に対して将門側は1000人ほどで迎え撃つことになります。
同年2月1日、ついに開戦し、当初は勢いに勝る将門軍が優勢でしたが、数に押されて徐々に後退を余儀なくされ敗走することに。そして最後の決戦となる2月14日、将門軍は風上に布陣し、追い風を背に弓を射かけて有利に矢戦を展開しますが、途中で風向きが変わり形成は逆転。逆に大量の矢を射かけられてしまいます。
そして将門は撤退に転じるさなかにこめかみに流れ矢を食らい、打ち取られてしまうのです。いくつかの不運が重なったとはいえ、1月に新皇に即位してから2か月も経たないうちに滅ぼされてしまったのでした。
2 平将門の乱と藤原純友の乱はほぼ同時期に起きたが、2人が共謀して起こしたと言われている
関東で起きた平将門の乱と時を同じくして、瀬戸内海近辺では藤原純友が乱を起こしています。純友はもともと海賊で、瀬戸内海を根城に略奪をくり返していました。勢力を強めて備前、淡路、讃岐そしてついには太宰府と、中国、四国、九州地方にまで影響力を及ぼしていた人物です。
朝廷は関東の平将門と瀬戸内海の藤原純友に挟まれた形となり、同時に兵を割く余力もなかったため、当初は純友のほうは放置して、将門の討伐に注力していました。結果として将門があっさり倒されてしまったため、その後すぐに藤原純友討伐軍が組織され、彼も鎮圧されてしまったのです。
この2つの乱をあわせて「承平天慶の乱」と言われ、発生のタイミングが近かった点と、若いころに2人とも京の都で遊学していたことから、平将門と藤原純友は旧知の仲であり、お互い呼応して乱を起こしたのではないかと言われています。
3 将門の首塚に関連した呪いともとれる様々な伝説が残っている
将門の怨霊といえば小学校でも習うほど有名で、2017年現在も東京の大手町に木に囲まれた将門塚があり、たびたび生花が供えられているのを見ることができます。
この首塚は過去に何度も撤去されそうになりながらも、関係者に災いがふりかかったため話が立ち消えになっているのです。もとは神田神社の旧地であり大蔵省の敷地の一角でしたが、関東大震災で被災した際に取り壊されました。
その後大蔵省の仮庁舎が跡地に建てられた際は、大蔵省幹部や工事関係者に病人、怪我人が相次ぎ、さらには数人の死人が出たため急遽仮庁舎は取り壊され、将門鎮魂祭が執り行われました。
また戦後、この付近を整地していた米軍のブルドーザーが地表に出ていた首塚の石碑に接触して横転、下敷きになった人が亡くなるという事故も起こっています。それを知った当時の町内会長は、すぐにGHQに首塚の由来を説明し残すように陳情したことで、現代の首塚に至っています。
4 平将門は日本刀の原型になるものを作った
古代の刀剣は突き刺すことを目的とした幅広の直刀でしたが、反りを持った日本刀の原型を作ったのは平将門だと言われています。
彼は関東という地の利を生かし、当時はほとんど移動手段でしかなかった馬を戦に用いていました。そして馬上から刀を振るうために、切りつけることを目的とした反りをもった日本刀が生まれたのではないかと言われています。現存する最古の反りを持った刀である「小烏丸」は、ちょうど彼が活躍していた時代に製作されたものです。
5 平将門にゆかりのある首塚や神社を地図上で結ぶと、北斗七星の形になる
将門にゆかりのある7つの神社、鳥越神社、兜神社、将門首塚、神田明神、筑土八幡神社、水稲荷神社、鎧神社を線で結ぶと北斗七星の形になるのですが、これにはとある理由があります。
彼は京都にいたころから妙見菩薩を信仰しており、関東を平定した際の神懸かった戦ぶりも妙見菩薩の加護があったからであると噂されていました。 この妙見菩薩こそが、北斗七星を具現化した菩薩なのです。
彼が死んだあともこの話は根強く信じられており、後に徳川家康が江戸の街を作った時に、その側近だった天台宗の高僧天海が将門の怨霊が災いをなさないよう、7つの神社を北斗七星の配置にして結界とし、その御霊を鎮めたと言われています。 
平将門ゆかりの都内七神社
平安時代に東国で独立国家の立ち上げを試み、京の朱雀天皇に対抗して自らを「新皇」と名乗った平将門。しかし朝敵という烙印を押された将門は、新皇に即位してからわずか2ヶ月ほどで藤原秀郷らに討たれ、悲劇の最期を遂げてしまいます。平将門公を巡っては、日本の武士の起源であるといった評価や、反りのある日本刀を日本で最初に造らせた人物と言った話も残っています。
平将門公の鎧が眠るという「鎧神社」
鎧神社には平将門公が使用したという鎧が境内に埋められているという伝説が残ります。江戸時代までは「鎧大明神」と呼ばれ、柏木村の古社として人々から尊崇されていたと言います。この社が鎧神社と名付けられたのは、ヤマトタケルが東征の際、甲冑六具をこの地に奉納したことに由来すると言われています。現在は境内の敷地に保育園も開設されている都内の神社となっています。新宿区北新宿3丁目16-18
平将門調伏のための神社と伝わる「水稲荷神社」
かつて「冨塚稲荷」とも呼ばれていた水稲荷神社は、1702年に水が湧き出たことをきっかけに、現在の名称に改名されたと言います。こちらには水商売、消防、そして眼病の神様が祀られており、基本的に一般客の登拝は行えないものの、7月の海の日と、その前日の「高田富士まつり」の時のみ、一般客の参拝が行えるようになっています。ちなみに隣接する甘泉園公園では、和の趣がある昔ながらの日本庭園が楽しめます。神社を訪れた際には、隣の公園に足を伸ばしてみるのも一興かもしれません。新宿区西早稲田3丁目5-43
平将門の足が祀られた?という風説が残る「筑土八幡神社」
夢の中に出てきた八幡神のお告げを受け、ある老人が神を祀ったのが神社の起源と言われています。西暦850年ごろには、円仁が東国を訪れた際にほこらを建設し、最澄が彫ったと言われる阿弥陀如来像を奉納。それから約600年後、上杉朝興によって社殿が建設されたという歴史を辿っています。尚、戦時中に社殿が消失してしまったため、現在の社殿は飯田橋自治会によって再建されたものとなっています。筑土八幡神社には、江戸時代初期に黒衣の宰相と呼ばれた天海僧正が、平将門公の遺体の一部(足)を祀ったという風説がありますが、正確な事はわかっていません。新宿区筑土八幡町2-1
平将門公が神として祀られる「神田明神」
平将門はいわゆる「平将門の乱」と呼ばれる戦いでその命を落としました。そして将門の首は神田明神の近辺に葬られ、現在その場所は「平将門の首塚」とも呼ばれています。西暦1300年頃、この界隈で疫病が流行した際、人々は「将門の首塚の祟りではないか」と噂をしたと言います。そしてその後、定期的に首塚の供養が行われるようになり、平将門公は神社の主祭神となっています。神田明神で平将門公に祈りを捧げれば、勝負運が上がるという話も伝えられています。千代田区外神田2丁目14-10
日本最大のビジネス街のど真ん中にある「将門の首塚」
文字通り平将門公の首が祀られている場所で「将門塚」とも呼ばれています。言い伝えによると、討たれた将門公の首は平安京まで運ばれ、都大路で晒し首となったものの、それから3日を経た頃に首が飛び上がり、故郷に向かって空を飛んだと言います。残っている伝説では将門公の首は数箇所に落ちたとされ、その全ての場所が首塚とされています。そして最も有名なスポットとなっているのが東京・大手町にあるこちらの首塚です。千代田区大手町1-2-1
平将門公の兜が埋まると伝わる「兜神社」
日本の証券ビジネスの中心地、「兜町」という街の名前の由来にもなっているというのが「兜神社」。ここには平将門公がかつて使用していたという兜が埋まると伝えられています。また、源氏の源義家が戦に出陣する前に、柳川の川辺に兜を埋めて勝利を祈願したという逸話も残ります。こじんまりとした神社ではありますが、オフィス街の中に佇む巨大な石碑は存在感を放っています。中央区日本橋兜町1-12
平将門公の一族が今も宮司を務めるという「鳥越神社」
かつて東征に出たというヤマトタケルを祭神として祀る鳥越神社。こちらは平将門公の首が空を飛んだ際、この地を飛び越して行ったために「飛び越え→鳥越」という地名がついたという逸話が残されています。現在、この鳥越神社の宮司は代々にわたって千葉氏という一族が務めていますが、この千葉氏の祖先を辿ると平将門の叔父にあたる平良文に行き着くとも言われます。台東区鳥越2-4-1  
島広山・石井営所跡
岩井市街地から結城街道を沓掛方面へ向かうと、国王神社手前に信号があります。その交差点を右折し、延命寺に向かう途中の台地を島広山と称します。ここに将門が関東一円を制覇するときに拠点とした石井営所跡があります。
明治期に建てられた石碑の周辺を整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれており、右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられています。
石井営所が『将門記』に現れるのは承平7年(937)のことです。将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が平良兼の甘言につられてスパイとなり、すぐに営所内を調べあげて良兼に知らせます。良兼は好機到来とばかり精兵八十余騎で石井営所に夜襲をかけますが、将門方の郎党の急信により大敗します。
石井営所の周辺には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには2千騎、3千騎が終結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。今の上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられています。
石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまいました。 
北山の決戦 / 将門の最期
その後、貞盛・秀郷らが語らって言うには、「将門も千年の寿命をもっているわけではない。我々も奴もみな一生の身である。それなのに、将門ひとりが人の世にはびこって、おのずと物事の妨げとなっている。国外に出ては乱悪を朝夕に行ない、国内では利得を国や村から吸い上げている。坂東の宏蠹(巨大なキクイムシ)・外地の毒蟒(毒ウワバミ)であっても、これより害があるものはない。昔の話に、霊力の神蛇を斬って九野を鎮め、巨大な怪鯨を斬って四海を清めたという。まさに今、凶賊を殺害してその乱を鎮めなければ、私的なものから公的なものに及んで、(天皇の)大きな徳が損なわれてしまうだろう。『尚書』に、「天下が平穏であったとしても、戦いはしなければならない。甲兵がいくら強くても訓練しなければならない」とある。今回は勝利したといえども、今後の戦いを忘れてはならない。それだけではなく、武王に病があったときに周公がその命に代わろうと祈念したという。貞盛らは公から命を受けて、まさに例の敵を撃とうとしているのである」と。
そこで群衆を集めて甘言をもって誘い、兵を整え、その数を倍増させて、同年2月13日、強賊の地である下総の国境に着いた。新皇は疲れた兵をおびき寄せようとして、兵を率いて幸嶋の広江に隠れた。
このとき貞盛はさまざまなことを行ない、計略を東西にめぐらして、新皇の美しい館から味方のあたりの家までことごとく焼き払った。火の煙は昇って天に届くほど、人の家は尽きて地に住人はない。わずかに残った僧や俗人は家を棄てて山に逃げた。たまたま残っていた身分ある者たちは道に迷って途方に暮れた。人々は、常陸国が貞盛によって荒らされたことを怨むよりも、将門らのために世が治まらないことを嘆いた。
そして貞盛は例の敵を追い求めた。その日は探索したが会えなかった。
その翌朝、将門は身に甲冑を着込んで瓢序のように身を隠す場所を考え、逆悪の心を抱いて衛方のように世を乱そうと考えた(白居易が言うには、瓢序は虚空にたとえたもの。衛方は荊州の人で、生まれつき邪悪なことを好んで、追捕されたときには天に上がり地に隠れた者である)。しかし、いつもの兵士8000余人がまだ集まってきていなかったので、率いていたのはわずか400人余りであった。とりあえず幸嶋郡の北山を背にして、陣を張って待ちかまえた。
貞盛・秀郷らは、子反のような鋭い陣構えを造り、梨老の剣の軍功を上げる策を練った(白居易が言うには、子反・養由の両人は、漢の時代の人。子反は40歳で鉾を投げると15里に及び、養由は70歳で剣を三千里に奪ったという)。
14日未申(午後3時)に、両軍は戦端を開いた。
このとき、新皇は順風を得て、貞盛・秀郷らは不幸にして風下にあっていた。その日、暴風が枝をならし、地のうなりは土塊を運んでいた。新皇の南軍の楯はおのずと前方へ吹き倒され、貞盛の北軍の楯は顔に吹き当てられた。そのため、両軍とも楯を捨てて合戦したが、貞盛の中の陣が討ちかかってきたので、新皇の兵は馬を駆って討った。その場で討ち取った兵は80余人、みな撃退した。ここに新皇の陣が敗走する敵軍を追撃した時、貞盛・秀郷・為憲らの従者2900人がみな逃げ去っていった。残ったのは精兵300人だけである。
これらの者が途方に暮れて逡巡しているうちに、風向きが変わって順風を得た。ときに新皇は本陣に帰る間に風下になった。貞盛・秀郷らは身命を捨てて力の限り合戦する。ここに新皇は甲冑を着て、駿馬を疾駆させて自ら戦った。このとき歴然と天罰があって、馬は風のように飛ぶ歩みを忘れ、人は梨老のような戦いの術を失った。新皇は目に見えない神鏑に当たり、託鹿の野で戦った蚩尤のように地に滅んだ。 
坂東市岩井(旧岩井市)の将門伝説
国王神社
岩井市街から結城街道を沓掛に向かう左側に、杉木立におおわれて「国王神社」があります。祭神は平将門命です。「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、将門最後の合戦の時、三女は奥州恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称しました。将門の死後33年目に郷里に戻り、この地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝して父将門の像を刻み、小祠を建てて安置し、将門大明神と号して祀られました。
御神体の像は、寄木造座像で高さ2尺8寸の衣冠束帯姿で、右手に笏を持っています。像の表情を見ると、目は吊り上り、口は八の字に結び、怒りの形相を表わし、武人の気迫が全身にみなぎっている印象を受けます。彫刻で注目されるのは、本殿向拝に用いる蟇股の?ぎ馬です。江戸期の将門芝居に?ぎ馬の紋所が描かれるのは、この彫刻に由来するようです。将門軍の最大の武器は馬と鉄といわれ、騎馬合戦を最も得意としていました。しかし、乱は終わり、平和な時世には騎馬は不用と馬を?ぎ置き、再び合戦に用いない証明として彫られたものと伝えています。
守大明神
国王神社本殿の左に「守大明神」を祀った祠があります。この社は、郡主の平守明を祀るといいます。守明は猿島姓で将門の後裔を称していました。
首切地蔵
国王神社の東の畑の中に「首切地蔵」があります。ここは将門の首を切ったところ、また、多治良利が切られてその供養をしたところ、さらには、罪人を切ったところなどと伝えられています。延命寺は、国王神社の別当寺として、もとはここにあったといわれています。
石井営所跡(島広山)
国王神社の南に「石井営所跡(島広山)」があります。明治期に建てられた石碑の周辺を整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれており、右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられています。石井営所が『将門記』に現れるのは承平7年(939)のことです。将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が平良兼の甘言につられてスパイとなり、すぐに営所内を調べあげて良兼に知らせます。良兼は好機到来とばかり精兵八十余騎で石井営所に夜襲をかけますが、将門方の郎党の急信により大敗します。
石井営所の周辺には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには2千騎、3千騎が終結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。今の上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられています。石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまいました。
延命寺(島の薬師)
国王神社の交差点を渡り、島広山台地を東に向かうと、四周を田んぼに囲まれた森が現われます。ここが将門ゆかりの寺として知られた「延命寺」です。延命寺は医王山金剛院と称し、真言宗豊山派に属している古刹で、別称として「島の薬師」と呼び親しまれてきました。赤松宗旦の『下総旧事考』によると、「相馬氏の創建、文安2年(1445)僧安成の開く所なり。京都の東寺に属す。寺領20石」とあり、もとは国王神社の隣に寺域を構えていましたが、享保年間(1716〜36)に飯塚氏に神職を譲って、住職は自ら寺域を現在地に移しました。
山門は四脚門の形式で、室町時代の建築様式を遺した茅葺切妻造り、近郊に比類のない造形美を示し、大旦那であった相馬氏の将門に寄せる思いに誇りが感じられます。山門を抜けて石造太鼓橋を渡ると、その先に寝殿造りを模した朱塗りの薬師堂があります。この堂内の厨子殿に奉安する薬師如来像は、将門の守り本尊と称する持護仏で、将門の死後に祀られたものと伝えられています。また、縁起書によると行基の作とあり、高野山の霊木で刻まれた尊像と記され、4月8日の縁日には、広大な境内が参詣人で身動きできないほどの賑わいであったようです。将門の子孫であった相馬氏が、将門ゆかりの寺院や神社の大旦那として尽力したことは、火災を免れた山門の威容、水車の軒丸瓦に九曜紋が用いられていることからもうかがえます。
いじゃり橋
延命寺の東・江川に架かる岩井橋が「いじゃり橋」ではないかと思われます。将門が首を切られたまま、島広山から馬に乗って走ってきて倒れたところだといわれています。
石井の井戸
一言神社の東に「石井の井戸」があります。この井戸は、中根台地の裾辺にある地下水の湧き出し口で、古代人がこの地に来て、湧水近くに居を構えて以来、人々が移り住んだと思われます。奈良時代には、石井郷という行政区域になっていました。平安時代に書かれた『将門記』には、将門の本拠となる石井営所として記述されています。その主人公の将門と石井の井戸との関わりについては、「国王神社縁起演書」に詳しく記されています。
《将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができた。将門は不思議に思い、翁を召して「あなたはどのようなおかたなのでしょうか」と尋ねると、翁はかしこまって一首の歌を詠んだ。
《久方の光の末の景うつる 岩井を守る翁なりけり》
と唱じると姿を消してしまった。将門はこの翁を祀るとともに、この大地に城郭を造ることに決めたのである。》とあります。
また別説としては、「星見の井」や「将門産湯の井」などの諸説があります。いつの世も、人々の定住に欠かせない水の大切さを物語っているといえます。
一言神社
石井営所跡の南に「一言神社」があります。承平五年の創建と伝えられ、石井のところで一言「水」と言った翁を祀り、一言神社と称したといいます。将門の守護神であったとも伝えられています。また、将門の居住した屋敷跡ともいわれています。
九重の桜
石井の井戸から南に向かうと「九重の桜」があります。史跡には、碑とその伝承由来を誌した副碑が建っています。碑文によると、九重の桜は、京都御所の紫宸殿前にある桜を根分けして移植したものと伝えられています。九重というのは皇居、または王宮を表す言葉といい、中国の王城の門を幾重にも造ったことから生まれたと記されています。紫宸殿とは、内裏の正殿にあたり「南殿」または「前殿」とも称しました。もとは日常の政務を行うところであったが、後に正殿をめぐる華やかな儀式や行事の中心的な場となります。東宮(朱雀天皇)の元服の儀が紫宸殿で執り行われ、その恩赦によって将門の帰国が許されました。南庭の左近の桜を株分けして、将門ゆかりの地に移植されたという伝承には、恩赦への感謝の情がくみとれます。
《いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな》
歌人伊勢大輔の歌は、源氏物語の「花宴」を連想させます。八重桜とは八重咲きの里桜のことで、別名は牡丹桜といいます。桜の中では開花が最も遅く、それゆえに愛惜の心が揺らぐことから、願いを託した桜として<九重>の造語が生まれたものと考えられます。
富士見の馬場
岩井一小学校の南に「富士見の馬場」と書かれた石碑があります。今から1100年前の書物『延喜式』によると、諸国の牛馬牧として39牧の名称が記録され、そのうちの18牧が兵部省管轄の官牧でした。下総国には馬牧4、牛牧1が数えられました。平将門の領内には「大結牧」と「長洲牧」があったことから、将門は官牧の牧司を兼ねていたのではないかといわれています。『将門記』には、百騎を超える騎馬隊を組織し、合戦の場で効果的に用いている場面が描かれています。当時は、ほとんどが自然の状態で飼育された野馬でしたので、人が乗り、使役のためには調教する馬場と厩が必要でした。富士見の馬場は、調教を目的に開設され、やがて将門によって軍馬の調練の場として活用されたことは「野馬追い行事」の継承を通して想像することができます。 
平将門
首塚の呪いで畏れられる平将門さんってどんな人?
頼られると人間誰しもうれしいもの。力不足なことまで頼まれてしまうと困りますが、できそうなことだったら引き受けますよね。しかし、それも限度を超えると身を滅ぼすことになったりして……。
天慶二年(939年)の11月21日、平将門の乱が勃発しました。将門というと、東京・大手町の「首塚の呪いでコワイ人」と思いがちですが、実はこの乱自体は将門が積極的に起こしたのではなく、むしろ助っ人として兵を出したものでした。どういうことか、もうちょっと詳しく見てみましょう。
親戚同士のケンカがいつの間にかお上にケンカうっちゃって
将門は桓武天皇の五世孫として生まれました(5世たつと皇族とは認められないのが古代からの日本伝統のルールです。出生地や出生年などは今もはっきりしていませんが、関東であることは確かです。桓武天皇の子孫ということになりますが、この頃には既に中央の政権はすっかり藤原氏に握られていて、都に出ても出世は望めませんでした。
それでも藤原忠平という藤原氏の有力者に個人的に仕えることができ、人柄を認められたため、わずかながらに朝廷とのパイプを持つことに成功します。そのまま京で頑張れれば良かったのですが、関東で叔父の平国香がゴタゴタを起こしてしまったため、急遽戻らざるをえなくなってしまいました。
京から戻ってきた経緯にも諸説あり、はっきりしたことはわかっていません。このあたりの不明確さそのものが将門の身分の低さを表していますね。基本的に、いつの時代もエライ人じゃないと行動がはっきり記録されませんから。
実家のゴタゴタのついでに周辺地域のいざこざも(主に腕力で)片付けた将門でしたが、朝廷からは「個人的なケンカでしょ?片付いたんなら別にいいよ」とお咎めを受けることはありませんでした。朝廷に逆らったわけではないので、中央からすればどうでもよかったんでしょうね。まして関東は当時未開の地にも等しい地域ですから。
が、これが結局将門の命を縮めることにつながります。
その後またも武蔵(現・東京都)でドタバタが起こり、当事者の片方である興世王(おきよおう)が「将門さんちょっと手伝ってくださいよ」と駆け込んでくるのです。こいつはぶっちゃけ不良すぎて都にいられなかった皇族ということでOK。
あっちこっちから頼られることに慣れてしまった将門は、今度も口と兵を出しました。そして首尾よく勝ったはいいものの、そのついでに敵方の常陸国(茨城県)の国守の証・印綬(ハンコ)を奪ってしまったのです。これは朝廷が「こいつがここの正当な国守ですよん」と認めた証になる大変重要なもの。奪い取ることは、その決定に逆らうことを意味しました。若気の至りが反逆にエスカレートしてしまったわけです。
黒王にのった真皇ラオウとでも名乗れば勝ったかもね
この重要さがわかっていなかった将門は、側近に納まっていた興世王の「このついでに関東を全部ウチのシマにしちまいましょう」という甘言にノってしまいます。
そして実際に兵を動かし連戦連勝。
ついには「新皇」を自称して中央から独立する姿勢を見せました。
どうせなら「真皇」とかにしとけば清々しいほど厨二だったのに……おっと誰か来たようだ。しかし、将門の独立計画は風によってあっさり終わりを迎えます。
国香の息子(将門の従兄弟)にあたる平貞盛とその叔父・藤原秀郷(奥州藤原氏の祖先)との戦で、向かい風に視界を遮られた隙に流れ矢に当たって命を落としてしまうのです。
途中までは押したり引いたりの激戦でしたから、さぞ無念だったことでしょう。
 
前九年の役

 

平安時代 1056年(天喜4年)〜1063年(康平6年)、源頼義と安倍頼時、朝廷(源氏)と俘囚(安倍氏)の戦い。混戦の末源氏が勝利する。
陸奥守として源頼義が着任 してから、俘囚長安倍頼時は恭順の意を示していた。鎮守府将軍でもある源頼義は任期の最終年である1056年、交代の庶務を行うため胆沢城に赴いた。数十日間の滞在の後一行は国府への帰路についたが、阿久利川にさしかかった時、権守藤原説貞の子息の野宿が襲われ、人馬が殺傷された。藤原説貞の心当たりによれば、犯人は安倍頼時の子息安倍貞任以外に考えられないとの事であった。これを聞いた源頼義は一方的に貞任を処罰しようとした。しかし頼時は貞任を庇い、衣川関を閉ざしてしまった。この為源頼義は大いに怒り、安倍氏追討の大軍を発した。
しかし、ちょっと考えてみて欲しい。安倍頼時は何故こんな時期に源頼義と戦をしようとしたのだろう? 武勇の誉れの高い源頼義の任期はあと少し。戦をするなら源頼義が帰任してからの方が好都合だろう。視点を少し変えて見てみれば、この戦いは源頼義が自らの貴族社会の中での地歩を固めるのに好都合な事件にしか見えない。武門の棟梁として奥州を自らの版図の中に入れれば、より地盤は固まる。対して安倍頼時がこの時点で叛意を抱く根拠は薄い。阿久利川事件は源氏の自作自演の可能性が高い。
源頼義は安倍頼時の女婿となっていた平永衡を、安倍氏への内通の疑いで謀殺する。この事件を知った藤原経清は、自らも安倍頼時の女婿であったので、身の危険を感じ流言を放って源頼義の軍を国府に引き帰らせ、私兵八百人を率いて安倍氏側に走った。この為源頼義は安倍氏に対する先制攻撃の好機を失った。
そのうちに源頼義の任期は終わった。後任の陸奥守藤原良綱は合戦の報を聞いて辞退した。この為1056年12月29日源頼義が再度陸奥守となる。
源頼義は気仙郡司金為時(こんためとき)、下毛野興重(しもつけのおきしげ)らを遣わして奥地の俘囚を味方につけ、背後から安倍氏を攻撃させようとした。これに対し安倍頼時は自ら、彼らの説得に赴いたが逆に伏兵の矢に倒れ鳥海册に帰って死亡した。(天喜5年7月26日)
しかし、貞任・宗任兄弟らを中心とした安倍氏の結束は固く徹底抗戦のかまえを崩さなかった。
天喜5年11月、黄海で源頼義と安倍貞任が戦い、頼義は大敗を喫した。この敗戦の後頼義は安倍氏を攻める力を失い、奥州は安倍氏が自由に跳梁する場となる。こうして前九年の役は長期戦の様相を呈した。
源頼義は、降着した戦線を打破するため出羽国の俘囚長清原氏に甘言をもって援軍を依頼した。康平5年7月ようやく頼義の求めに応じた清原武則は、一万余りの兵を率いて頼義の軍と合流した。この後戦局は大いに変化し、康平5年9月7日に安倍氏最後の砦である厨川柵が陥落し、貞任は戦死。藤原経清は捕らえられ斬首。宗任は落ち延びたが投降する。
康平6年2月27日奥州合戦の戦功に対する除目が行われ、源頼義が正四位下伊予守、長男の源義家は従五位下出羽守、次男源義綱は左衛門尉に任官した。清原武則は従五位下鎮守府将軍となったが、在地豪族がこの官に任ぜられるのは破格のことであった。
尚、前九年の役の呼称であるが、どのように計算すれば九年になるか様々な説が出されたが、乱の名称から戦闘の期間を導き出すことは適切な方法とは言い難い。ということで決着している。 
 
「陸奥話記」の清原武則
・・・九月十六日から始まった厨川・嫗戸柵の攻撃は難渋を極め、頼義軍は多数の死者を出した。翌十七日、村落の屋舎を壊し運んで城の溝に沈め、萱草を刈って川岸に積んで火攻めの準備が始まった。頼義は皇城を拝して八幡三所に祈願し、風を出して敵柵を焼くよう祈った。頼義が自ら神火と称して火を投じたその時、鳩が軍勢の上を飛ぶ。神が祈願を容れた印の奇瑞である。暴風が起こり、煙焔が飛び、形勢は逆転した。しかし、猛火に死にものぐるいとなった敵兵の突撃に、官軍は多数の死傷者を出してしまう。
この時、智恵を見せたのも武則であった。武則は「開囲可出賊」と命ずる。わざと囲みを開いて敵が逃げ出す余地を作ったのである。生き延びられるかな、と思った敵は、たちまち逃走を開始。「官軍」は逃げたい一心で戦意をなくした相手を悉く殺害したのであった。武則は戦闘の最終局面を、的確な判断で乗り切ったのである。ここに厨川柵の戦は終結し、一連の残党刈りを経て安倍氏は滅亡する。武則はその後も貞任の子千代童子を助命しようとする頼義に対し、後の災いの種になるから、と処刑を助言している。
出羽国山北の俘囚清原氏は、安倍氏討伐に苦戦した源頼義に「甘言」とともに援軍を求められ続けていた。戦勝の暁の利益供与が「甘言」の内容だと推定される。清原氏は当初は躊躇していたが、清原武則が一族を率いて参戦する。武則は八幡三所に誓詞をささげ、軍勢は八幡神に認められて「官軍」に一体化する。始めは「将軍」頼義を支える立場だった武則は、徐々に「官軍」の中で占める重要性を増していき、大切な局面で自ら積極的に趨勢を決する力をもつに至る。『陸奥話記』の成立については「抄国解之文、拾衆口之話」とされ、黄海敗戦時の佐伯経範の討ち死ににまつわる話、出家して頼義の遺体を探そうとした藤原茂頼の話、貞任の首級の髪を梳るための自分の垢櫛を使わざるを得ないことを嘆く元従者の話、など多くのエピソードが指摘されている。また、武則自身が当事者の語りをなした(=武則の体験譚が『陸奥話記』の材料の一部になっている)可能性も指摘されている。『陸奥話記』には、文書(「国解の文」など)として引用されている部分以外にも、報告書から抄出されたのではないかと思われる部分が多数存在する。例えば、戦闘の場面で当事者名と結果(これに想像だけで書けるような観念的な描写が加わる)に終始する類である。武則の関わる場面は、抽象的な言辞ではなく、たとえば、ことの手順が描写されたり、一兵士の挙措が記されたりと、生硬ながらも戦語りへのふくらみを感じさせる。義家の弓勢を試みてその神業ともいえる一面を明らかにしたのも武則であった。
戦後行われた論功行賞により、源頼義は正四位下伊豫守になった。太郎義家は従五位下出羽守、次郎義綱は為右衛門尉に昇進した。武則は従五位下鎭守府将軍に任命された。一時は圧倒的に不利な状況にあった安倍氏との戦い、そこに清原氏の援軍を求めた頼義の「甘言」は、安倍氏滅亡後、武則の鎮守府将軍就任によって、完結したと見ることはできないだろうか。「子」から「卿」へ、変わっていく頼義の武則への呼びかけ。頼義を支える立場から先導する立場へと変化する武則の発言。『陸奥話記』が源氏の家の隆盛を見据えた物語になっていないことは冒頭で述べた通りである。『陸奥話記』においては、「将軍」源頼義の安倍氏追討の物語に寄り添うように、清原氏の勢力拡大・武則の鎮守府将軍後継の物語が、成り立っているのではなかろうか。
清原氏の援軍 2
源頼義は出羽国山北の俘囚長、清原氏の援軍を求めた。それも三顧の礼をつくし、甘言を用いて誘い、さらに鄭重を極めた懇請によって、やっと重い腰をあげて清原武則は参戦した。連合軍の大部分は清原援軍によって占められた。七軍編成中、六軍全員清原勢、頼義の本隊も主力は武則の一族たちであった。
頼義軍三千、清原軍一万余は安倍貞任軍の衣河柵を破り、ついで撤退した鳥飼柵を落とし、最後の拠点厨川を包囲して、打って出た貞任らを捕らえて斬った。そのとき頼義は藤原経清に対し、汝は先祖から相伝の家僕なりとして、鈍刀をもって何回も打倒するように斬りつけて殺したと『陸奥話記』はいう。
前九年の役はこうして終り、論功行賞があった。源頼義は正四位下伊予守、子の義家は従五位下出羽守、その上に清原武則の従五位上鎮守府将軍があった。清原武則は安倍氏追討の第一功労者と認定され、それまでの頼義の官位を継承する扱いがなされた。
清原武則の得たものはそれだけではなかった。安倍頼時の娘で藤原経清の妻だった女子を、経清との間に生まれた清衡を子連れのまま息子武貞の嫁とした。つまり安倍頼時の娘を通して、その旧領の奥六郡をも合わせて手に入れたのである。
時に数え歳十九の義家にとって、従五位下出羽守は不足のあろうはずもない官位であったが、従五位上鎮守府将軍に叙任された清原武則の風下に立つのでは、陸奥国を狙う源氏にとって何の旨味もない。早くも二年後に義家は出羽守を辞した。
こうして陸奥国は清和源氏にとって再び宿怨の地となる。
   
平清盛

 

平重衡の最期
一ノ谷の戦いで捕虜として捕えられた清盛の五男である重衡(しげひら)は、頼朝の本拠である鎌倉に拘留されていました。重衡の南都焼討に対する怒り冷めやらぬ南都衆徒の強い要求もあり、重衡は奈良へ連行されていきます。
その道中、重衡一行は日野(京都市伏見区)に立ち寄りました。日野には彼の妻が滞在していたのです。妻の名は大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね・藤原輔子)。壇ノ浦の戦いで三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を投棄しようとした女性で、源氏軍に捕えられたのち、この地に戻されていました。
束の間の再会を喜ぶふたりでしたが、すぐに別れの時が迫ります。重衡は出家して髪を剃ってその髪を形見にできればと考えますが、そんな時間もありません。やむなく額に垂れた髪を噛みちぎって形見とし、着ていた服も狩衣に着替えて古い服を形見にしました。
「せきかねて涙のかかるから衣後の形見に脱ぎぞ替えぬる」重衡
「ぬぎかふる衣も今は何かせむ今日を限りの形見と思へば」大納言佐局
なまじっか顔を合わせてしまうと、今生の別れの辛さは筆舌に尽くしがたいものがあります。去りゆく重衡の姿に大納言佐局は泣き叫ぶものの、もうどうにもなりません。ただただ地面に崩れ落ちるしかありませんでした。
奈良に到着した重衡は木津(きづ・京都府木津川市)で斬首され、その首は般若寺(はんにゃじ・奈良県奈良市の社寺)の門前に晒されました。その後、首と胴体は日野の大納言佐局のもとに届けられ、火葬。骨は高野山へ送り、日野には墓を立て、大納言佐局は出家してしまうのです。
頼朝と義経の断絶
壇ノ浦の戦いで捕虜になった平家一門は義経によって京へ連行されました。その捕虜のうち、二位尼の弟の時忠(ときただ)は「平氏にあらずんば人にあらず」のセリフを放った人物。妙な悪知恵が働いたのか、義経に取り入ってなんと我が娘を嫁がせてしまいます。これが義経の首を絞める結果を招く引き金になるとも知らず…。
そして関東でも義経に不利に働く動きがありました。後白河法皇が義経の武勲を賞して義経配下の御家人を任官したことに頼朝がイライラ。
おまけに逆櫓論争で義経と言い合った梶原景時(かじわらかげとき)が、ここぞとばかりに義経の悪口を書き連ねた手紙を頼朝に送ります。そしてトドメに平家の娘を娶ったことも知れてしまい、頼朝激昂です。
そのころ捕虜たちに処分が下ります。時忠は流罪。しかし義経は時忠の配流を実行せず京に留め置いていました。それもまた頼朝の逆鱗に触れ、即時の配流実施を命じます。観念した時忠はのちに自ら能登国(石川県)へ下って行くのです。
同じく処分が決定した清盛の三男・宗盛(むねもり)とその子の清宗(きよむね)は、義経が率いて鎌倉へ連行しました。しかし頼朝は義経の鎌倉入りを許しません。宗盛と清宗のみが鎌倉入りし、義経は直訴の手紙(腰越状・こしごえじょう)まで書いたにもかかわらず、足止めを食らったまま再度宗盛親子を連れて京へ戻るしかありませんでした。
腰越状は鎌倉時代に成立した歴史書吾妻鏡(あずまかがみ)に詳しく記述されていますが、情に切々と訴える義経の願いは打ち砕かれ、不仲は決定的なものとなります。
京への帰路、宗盛と清宗は近江国(滋賀県)で斬首されました。また清宗の弟である能宗(よしむね)も京で処刑されてしまいます。
義経の最期
頼朝は義経を追討すべく御家人を京へ派遣。対する義経も後白河法皇に頼朝追討の院宣を出させます。しかし義経に味方する兵は少なく、頼朝軍の兵が上洛する前に義経は負けを悟り、京を脱出。入れ替わりで頼朝軍が京に姿を現すや否や、後白河法皇は義経追討の院宣を出す朝令暮改ぶりを露わにしてしまいます。
さて、船で西へ向かった義経でしたが荒天で座礁してしまったため、やむをえず陸路で吉野(奈良県吉野郡)へ逃れ、さらに東北地方へと逃げのびて行きます。彼を迎え入れたのが奥州藤原氏第3代当主の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)でした。
鎌倉の頼朝とは一線を画していた秀衡でしたが、日増しに強まる頼朝の圧力に加えて義経を匿ったことで、完全に頼朝と敵対することになります。
しかし義経が奥州入りして9か月後、秀衡は病死。さらに子の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は頼朝の圧力に屈し、大軍で義経のいる館に攻め入ったのです。もはやこれまでと察した義経は応戦せず、31歳の若さで自害しました。
建礼門院の出家
清盛の兄弟でただひとり生き残っていたのが頼盛(よりもり)です。 頼盛は源平合戦に参加していません。平家の都落ちの際、京に捨て置かれた存在なのです。後白河法皇や八条院など朝廷に太いパイプがあったことが幸いして頼盛はその後、頼朝と急速に接近しました。京の情勢や内部事情を頼朝が欲しがっていたためです。
のちに壇ノ浦の合戦で平家が全滅すると、頼盛は頼朝に出家を願い出ます。その後は表舞台から遠ざかる生活を送り、文治2年(1186年)に死去しました。
また、重盛の子の忠房(ただふさ)は屋島の戦いののちに、そっと戦線を離脱。一旦紀伊(和歌山県)に身を隠し、壇ノ浦の戦いののちも源氏軍と3カ月に渡る籠城戦を交わします。
ところが頼朝の「投降すれば命は助ける」という甘言にまんまと騙され、最後は斬られてしまうのでした。
壇ノ浦で身を投げたものの救助された建礼門院(けんれいもんいん・徳子・清盛の娘、安徳天皇の母)は、罪に問われることはなく、京で暮らし始めます。文治元年(1185年)5月には出家しますが、全てを失った彼女にはお布施になるものもありません。唯一持っていた我が子・安徳天皇の形見である着衣を泣く泣く布施にして仏門へ入りました。
しばらくしてから建礼門院は京の北東・大原(おおはら)にある寂光院(じゃっこういん)へ移ります。
清盛の娘として生まれ、皇后となり、栄華を極めたその人生からすれば、寂光院の庵での生活はあまりにも寂しいものでした。人の気配しない山奥、訪ねてくるのは鹿ばかりのありさまだと言います。
年が明けて文治2年(1186年)4月、後白河法皇が寂光院をお忍びで訪ねました。法皇と対面した建礼門院は落ちぶれた我が身を晒す恥ずかしさに泣き震えつつも会談し、壇ノ浦で全てを失って京へ戻る途中で入水したはずの二位尼に出会った不思議な話をします。
建礼門院が「ここはどこ」と尋ねると、二位尼は「竜宮城です」と答えました。「竜宮城に苦はないのですか」と重ねて尋ねれば「竜宮経に書かれています」と。
その不思議な体験ゆえに建礼門院は出家し、ここで経を読み、安徳天皇や一族の菩提を弔っているのでした。話を聞いた後白河法皇は「きっと六道(迷える者が輪廻する6種の迷いがある世界)を見たのだろう」と答え、会談は終わります。建礼門院はその後も寂光院で隠遁生活を送りました。
清盛の誕生からその栄華、ひいては平家の滅亡。長きに渡ってつまびらかに語りましたが、それを何よりも端的にかつ的確に表現したのが誰もが知る平家物語の序文でしょう。
 
豊田城

 

これより東南方河川を含む一帯の地
豊田城は、後冷泉天皇の永承年間(一〇四六−一〇五三)、多気太夫常陸大掾平重幹の第二子四郎政幹が豊田郡(石下町、千代川村、下妻市、糸繰川以南、八千代町東南部大半、水海道市大半)を分与されて石毛(若宮戸及び向石下)に住し、石毛荒四郎又は赤須四郎と名乗り、周辺一帯に亘ってその勢威を張っていたが、前九年の役にあたり源頼義、義家父子に一族郷党を率いて、千葉常胤らを共に従い、阿武隈川の先陣を始め得意の騎馬戦法を駆使して数度の大功を立て、安倍頼時、貞任、宗任親子を討って凱旋、天喜二年(一〇五四)重き恩賞の栄に浴して豊田郡(江戸期以降の岡田・豊田両郡)を賜り、鎮守府副将軍に列す。名を豊田四郎政幹(基)と改め豊田、猿島両郡の願主として君臨し、館を若宮戸及び向石下と構えるも、後に子孫居所を変え十一代善基、台豊田(今の上郷)よりこの地に城を築いたのが始まりといわれる。
これよりは豊田氏の勢いは大いに奮い、漸次郭の城を整え本城、中城、東城の三館を以て構成広く常総を圧した。
録するに豊田氏の源平相剋の時代にあって源氏に属し、平氏の栄華を西海に追い、文治五年(一一八九)兵衛尉義幹、常陸守護職八田知家に従い奥陸に藤原泰衡を討ち、建保元年(一二一三)同幹重、泉親平の党上田原親子三人をとりこに、宝治元年(一二四七)三浦泰村の乱に連座し、一時鎌倉の不興を買いしも、武威はいよいよ高揚した。
南北朝時代は南朝に与し、北畠親房、護良親王を小田城、関城に擁して戦い、後に高師冬と和解して足利家に従属する。
戦国時代に入り、各地に群雄が割拠するや常総の風雲も急を告げ、対処するに豊田氏は金村城、長峰城、行田城、下栗城、吉沼城、袋畑城、羽生城、石毛城等の支城及び常楽寺、報恩寺並びに唐崎、長萱、伊古立、小川らの諸将を託したが、結城、佐竹の大勢力に次第に領域を狭められつとに威勢の後退を見るに至った。
二十一代政親、二十二代治親の代に至り、殊に下妻城主多賀谷重政、政経の南侵甚しく小貝、長峰台、蛇沼、加養宿、五家千本木、金村の合戦など戦うこと数十度に及ぶ。
もとより要害堅固の城に、武勇の家柄とて、一ときたりとも敗戦の憂目を喫することはなかったが、天正二年縁戚にして盟主なる小田氏治が佐竹勢の為に土浦城が滅亡するに及び、翌天正二年(一五七五)九月猛将弟石毛次郎政重の城中頓死に相次ぎ、治親自身もまた十月下旬の一夜家臣の謀反に遭って毒殺のあいない最後を遂げ、始祖四郎将軍政幹以来五百二十有余年に亘って栄えた常総の名家豊田氏も遂に戦国の露と消えたのである。
一説に、夫人及び二子は、真菰に身を包み小舟で武蔵草加に遁れたという。
爾来、城は二十余年の間多賀谷重経、三経の居城となったが、慶長六年(一六〇一)二月二十七日、父政経、徳川家康に追放されて廃城となった。
星霜、ここに三百七十余年、土着の縁者数多しと雖も、城址は一面圃場に姿を変じ、不落の要害も河川の改修にその痕跡を断つ。
今はただに往時を偲ぶよすがとて、僅かに御代の宮、鎧八幡、将軍の宮、城地の字名に過ぎず。
全てはこれ天と地と太古悠久たる小貝川の流れが知るのみである。
昭和四十九年十月二十一日 旧石下町
桓武天皇−葛原親王−高見王−平高望−良望(国香)−繁盛−維幹−為幹−
重幹−豊田四郎政幹(初代)−善幹(十一代)−元豊(十七代)−
政親(二十一代)−
・治親(二十二代)−治演 武蔵豊田の祖
・政重(石毛氏の祖)−正家
・政忠(東弘寺忠円)

平将門を倒した平貞盛の子孫で最も著名なのは清盛を輩出した伊勢平氏である。貞盛の弟繁盛の子孫では大掾(だいじょう)氏が知られている。「多気太夫常陸大掾平重幹」までの血脈は同一だが、その子政幹(まさもと)が豊田氏の祖となる。
解説文中の「兵衛尉義幹」は惣領家多気大掾氏6代目の人物、「幹重(もとしげ)」は源頼朝の頃に活躍した御家人で豊田氏4代目の人物である。豊田氏12代目(解説文では11代)の善基(よしもと)が正平年間にこの地に城を築いた。これが豊田城の始まりである。
以来、豊田氏はこの城を本城として戦国の世を渡っていく。最終段階では、小田氏・豊田氏VS佐竹氏・多賀谷氏の構図で対立していたが、豊田氏20代目(解説文では22代)の治親(はるちか)が天正三年(1575、解説文の二年は誤り)に多賀谷氏によって滅ぼされる。
「夫人及び二子は、真菰に身を包み小舟で武蔵草加に遁れた」とのことだが、草加市柿木町の女体神社には次のような伝承がある。
不思議な力で守られながら、豊田氏の一行は柿木に落ちのびてきました。そして、この柿木を安住の地と定めると、自分たち一行を守ってくれた女体神社に感謝し、筑波山の方向に向けて女体神社を建立しました。また豊田氏は、共に逃れてきた家来や領民と力を合わせ、この柿木の開拓の祖となったということです。現在でも柿木では、筑波山に代参を立てています。
「中城土地改良事業竣工記念の碑」
この地は常総の山野に君臨した名門豊田氏の城跡である。十二代善基は、この地一帯に築城して本拠地となし、若宮戸に祈願寺として開基した龍心寺を現在地に建立し隆盛を誇った。
やがて戦国乱世の弱肉強食の時代に至り、新興勢力多賀谷氏の南侵激しく豊田領は風雲急を告げた。しかし豊田城は堅固であり尋常の攻めでは手中に落ちず、多賀谷は偽って和睦を申し入れ、重臣の白井全洞に金村雷神宮百ヶ日参詣を命じた。
社参した全洞は、雷神宮境内に於て豊田老臣飯見大膳を待受け、言葉巧みに近づき茶の接待を受け、大膳の息女を孫嫁に申し入れて親族の盃を交わし、豊田側不利を説き、寝返りの腹をさぐった。
主家の衰微ゆく様を憂い、身の行末を案じていた飯見大膳は、白井全洞の「城主治親を討って返り忠すれば豊田城を分与する」との甘言に乗り、主君虐殺を決意し天正三年九月、十三夜の月見の宴に事よせて主君治親を毒殺せんと私宅に招請した。
豊田氏の守護神金村雷神宮は、吉凶の変事ある場合は必ず鳴動があるといわれ、折も折奥殿に震動が起り、宮司の「凶事の起る恐れあり」との具申があった。まもなく石毛城より城主政重頓死の知らせがあり、月見の宴は中止となったが再び十月下旬に入り、大膳は策をめぐらし私宅にて茶会を催した。
治親夫人は、不吉な予感による胸さわぎのため出向くことをとどまる様懇願したが、「飯見は我が家臣なり、別心あるべからず」と一笑に付し、家臣少数を従え大膳宅におもむき、毒酒を盛られて悲運の最期を遂げ、豊田城は逆臣により乗っ取られた。
豊田の遺臣は石毛城に拠り抗戦するも、逆臣の身柄引き渡しと次郎政重の遺児七歳の太郎正家の助命を条件に下妻に降った。
多賀谷政経は大膳を呼び出し、縄掛けて豊田・石毛勢に引き渡した。豊田・石毛勢は大膳を裸身で金村台に連れ出し、主殺しの大罪人として金村郷士草間伝三郎の造った竹鋸を以って挽き割り、大膳一族三十六人の首をはね主君の無念を晴らした。
[ 善良な主君を謀略によって亡き者にするとは。今に残る無念さが伝わってくるようだ。豊田城が逆臣により乗っ取られた後に、豊田の遺臣が拠って抗戦したのが石毛城だという。] 
 
八幡太郎は恐ろしや

 

応徳三年(1086)夏、家衡は清衡の館を襲撃して妻子眷族を殺し、再び武力対立がはじまった。家衡と清衡は共に安倍氏の女を母とする兄弟であったが、家衡は清原氏、清衡は秀郷流藤原氏と、それぞれ父系を異にしていた。義家は藤原氏の清衡の訴えにより、数千騎を率いて清原家衡の拠点とする出羽国沼柵を攻めた。戦いは数ヶ月におよぶ攻防となり、やがて大雪の季節となり、義家軍は飢えと寒さの中で凍死者が続出した。
この事件は都でも話題になり、朝廷は義家の弟の義綱を派遣して情報を得ようとしたり、合戦停止の官使を派遣したりしており、戦いは義家の私戦と見なされていた。だから義家が俘囚清原氏の国家に対する叛乱と報じ、追討の官符を申請しても朝廷には認められなかった。兵員も武器も私費をもって戦わねばならなかった。
一方、清原家衡は沼柵を棄てて、叔父武衡とともに、より堅固な金沢柵に立てこもった。義家のもとには、当時、都で左兵衛尉の官にあった弟の新羅三郎と呼ばれた源義光が、兄の苦戦を聞いて無許可で参陣してきた。これを美談として戦前の教科書に載せられたが、実際は源氏勢力の拡張に、義光も一枚噛んだということであろう。これに勇気づけられた義家は、翌年の寛治元年(1087)九月、数万の兵を動員して金沢柵を包囲した。
その兵員の大部分は兵站基地の坂東から動員された。それはこの金沢戦争において後世に語り継がれる源氏神話を生んだ。その多くは後に源氏が武家の棟梁としての原点となり、そこに関わったことが、坂東武者の先祖を飾る伝説となった。
しかし現実の金沢柵包囲戦は、源氏にとっての宿怨の地、殺戮の巷となり地獄絵図を展開した。義家の作戦は兵糧攻めで、冬になって飢餓に苦しみ、これに耐えきれずに城内から投降してきた女子供を見せしめに惨殺する。こうすれば柵から出る者もなく、食料も早く尽きるという作戦であった。
睨み合いのなかで言論戦も展開された。籠城中の武衡の郎党千任なる者は、かつて前九年の安倍氏追討のとき、義家の父頼義は清原氏に臣従の礼をとった者の子でありながら、何故に清原氏を攻めるかと、義家軍の兵士に喧伝して牽制する。事実、頼義は臣従したととられても仕方がないほどの甘言と礼をつくして清原武則の援軍を要請した。陸奥国が清和源氏にとって宿怨の地となる因縁もここにあった。
金沢柵が落城したとき、助命を請う武衡を容赦なく斬り殺し、悪口を吐いた千任なる者を連れ出し、歯を金箸で突き破って舌を引っ張り出して切らせ、武衡の首の上にその身を吊るすという冷酷残忍な刑罰を科した。金沢柵に乱れ入った義家軍の兵たちは、清原軍の兵を一人のこさず虐殺、女たちは分捕られて慰みものにされた。
こうして出羽山北の清原氏もまた滅ぼされた。義家が都の貴族から「多くの罪無き人を殺す」と非難され、民衆からは「八幡太郎は恐ろしや」と畏怖されたのも、けだし事実に反する訳ではなかったのである。 
 
常陸金砂城攻め

 

十月になると平家の坂東追討軍が押し寄せたが、甲斐源氏の武田信義・安田義貞兄弟らは頼朝軍と合同して駿河国の富士川で撃退してしまった。この戦いに戦功第一の甲斐源氏は論功行賞において、それぞれ駿河・遠江国守護に任じられた。平氏軍がもろくも敗走したの知った頼朝は、ただちにその後を追って西上、京都を突こうとした。坂東ばかりでなく、全国に反平氏の狼煙があがっていたからだ。
しかし、頼朝挙兵以来の有力者・功労者の千葉介常胤・上総介広常・三浦介義澄らは口をそろえて反対した。かつて流人の頼朝は、今や「鎌倉殿」であったが、彼等にとって頼朝は反平氏の旗印に過ぎない。駿河の平氏軍敗走を知った右大臣の九条兼実は、流人頼朝は昔の平将門のように謀叛しようとしているのであろう、と日記に記している。貴種頼朝を反平氏の旗印に担いだ坂東武者たちの目的は、京都はどうでもよく、将門のように坂東独立国にあった。まず鎌倉に戻り、坂東の地固めに専心することを強く主張した。
とりわけ、下総国の千葉介常胤と上総国の上総介広常は共に秩父平氏流で、かつて房総三国に大規模な叛乱をおこした平忠常の子孫であったが、隣国常陸北部の佐竹氏の侵攻に脅かされていた。千葉氏が将門の遺領を継いだ相馬御厨は、領有をめぐって上総氏と争ったが義朝の介入によって維持されていた。平治の乱で義朝が滅亡すると平氏方の国守藤原親通に没収され、常陸の佐竹氏に譲渡されてしまっていた。だから千葉介常胤は頼朝挙兵と前後して、下総目代を討って公然たる叛乱へ決起したのである。
上総氏は上総国で二万の兵を動員できる大豪族であったが、平治の乱後、上総介広常は平氏に上総権介職を取り上げられそうになり、平氏を怨んでいたという。坂東独立国から平氏政権の一掃が彼等の急務だった。
常陸国の佐竹氏の父系は八幡太郎義家の同母弟、新羅三郎義光の子孫である。義光は五十代後半になってようやく受領にありつき、常陸介に任じられて現地へ赴任した。常陸国には将門を討って武名をとどろかせた平貞盛の子孫、大掾氏が多気郡(筑波山麓)に住して国衙へ出仕していた。義光はこの大掾氏の庶流吉田清幹の娘を嫡男義業の妻に迎えて、久慈郡佐竹郷(常陸太田市佐竹町)に館を構えた。
義光が任期を終えた後、嫡孫の昌義は佐竹冠者と名乗って土着して、常陸南部にある大掾氏の勢力範囲を避け、北方の奥七郡(那珂川以北)を領していた。秀郷流藤原氏の太田氏や天神林氏を追い払い、奥州藤原清衡の女を妻に迎えて北方の備えとした。佐竹氏の相馬御厨の獲得は、常陸から下総へ侵出するための一環だった。
当時、佐竹氏の家督隆義は平氏に従って在京中であり、嫡子秀義が留守をあずかって金砂山城(茨城県常陸太田市)に立籠った。十一月はじめに常陸国府(茨城県石岡市)に入った頼朝はこれを本陣として、まず常陸大掾職の多気義幹を味方につけ、鹿島神宮へ戦勝祈願すると、すかさづ金砂山城の総攻撃にかかった。山城を守っていた佐竹秀義は一族の統制をとれず、上総介広常の甘言に乗った裏切りを出たりして、城を棄てると奥州境の勿来の関に近い花園城へ逃げ込んだ。頼朝軍は深追いせず、常陸国平定はなったとして引き返したが、これが後に禍根をのこすことになる。
 
飯を盛る女

 

高安の女は、当初は「心にく」をつくって「飯を盛る」ことはしなかった。しかし、「今はうちとけて」とあるから、つい油断をしてしまい、いわゆる地が出てしまったのであろう。よくあること―、と言えばそうであろうが、しかし、ここで問題としなければならないのは、「大和」の男は、なぜ高安の女の「飯を盛る」行為を見て「心憂し」という心情になったのか、ということでなくてはなるまい。さらに言えば、この「飯を盛る」行為は、当の高安の女でさえ、最初は注意してその行為は行わなかった、というのであるから、高安の女もまた、これを忌避すべき行為であるということを認識していたのである。
このことは、現代社会に生きる我々からすれば、ピンとこないことではあるが、実は、古代前期の「貴族」という視点から考えれば、意外とわかりやすいことではある。すなわち、「飯を盛る行為」=「給仕」は、貴人に仕える使用人の行為だったからである。
たとえば、長大な貴族の生活を描く『源氏物語』には、具体的な調理や配膳といった場面がないことに気付かされるが、これは、物語の表面に登場する主人公たち(上流貴族)が、まったくそのような行為を行わないからなのである。従って、『源氏物語』には、『伊勢物語』「23段」にある「飯を盛る」行為がまず描かれないのは当然と言えよう。
ところが、『伊勢物語』には、この23段以外にも、女が「飯を盛る」場面が描かれる章段がある。次に「第62段」を掲げてみよう。

昔、年ごろおとづれざりける女、心かしこくやあらざりけむ、はかなき人の言につきて、人の国なりける人に使はれて、もと見し人の前にいで来て、もの食はせなどしけり。 夜さり、「このありつる人たまへ」と、あるじに言ひければ、おこせたりけり。男、「われをば知らずや」とて、
いにしへの にほひはいづら 桜花 こけるからとも なりにけるかな
と言ふを、いと恥づかしと思ひて、いらへもせでゐたるを、「などいらへもせぬ」と言へば、「涙のこぼるるに、目も見えず、ものも言はれず」と言ふ。
これやこの われにあふみを のがれつつ 年月経れど まさり顔なき
と言ひて、衣脱ぎて取らせけれど、捨てて逃げにけり。いづちいぬらむとも知らず。
(昔、男が何年も訪れなかった女は、しっかりした分別もなかったのであろうか、いい加減な男の甘言に乗せられ、地方に住んでいた人に使われて、元の夫の前に出て来て、食事の給仕などをしたのだった。夜になって、男が、「先ほどの女を夜伽によこしてください」と、主人に言ったので、寄こしたのだった。男は、「自分を見忘れたか」と言って
昔のはなやかな美しさはどこに行ったのだ、まるで、桜の花が散り失せてしまってごつごつしごいた幹だけのような有り様だな
と言うが、女は、とても恥ずかしいと思って、返事もしないでいたところ、男は、「どうして返事もしないのだ」と言うと、女は、「涙がこぼれるので、目も見えない、物も言えない」と言う。
これがまあ、あのお前なのか、自分と夫婦の縁を切って逃れながら、年月が経ったけれども、少しも誇り高い顔つきではないことだ)
と言って、男は、自分の着物を脱いで褒美として与えたけれども、女はそれを棄てて逃げて行ってしまった。どこに行ったのかも分からない

この62段は、男が長く通って来なかったことから、別の男の誘惑に簡単に乗ってしまい、しかし、女は地方で使用人に転落してしまったという物語である。少し前の60段の話も、62段と似た構造を持つが、こちらは、地方の役人の妻に収まっている。ただし、どちらの話も、そこへ元の夫(男)が偶然訪ねて再会するという設定は同じものがある。いずれにせよ、これは、『伊勢物語』に取り上げられる男女は、貴族社会の底辺に生きる人間たちが多いということを物語るものと言えるのである。
このことは、この物語に登場する男女の多くが、弱小貴族、もしくは没落貴族であるとする所以でもあるが、62段の女について注目すべきは、「人の国なりける人に使はれて、もと見し人の前にいで来て、もの食はせなどしけり」とあるように、この女が「人に使はれて」、「もの食はせ」という「給仕」の仕事に従事しているということであろう。そして、さらに驚くべきことは、「夜さり」―夜になって、ごく自然の流れで、男に対する「夜の伽」としての奉仕を行うということであろう。おそらくは、客人であった「もと見し人」への「給仕」は、そのまま「夜の伽」へと直結する仕事ではなかったかと推測される。
こういった「給仕」―「飯を盛る」行為が、暗黙の了解のもと、そういう性質を有するものであるならば、おのずと、23段の「高安の郡の女」も、その「飯を盛る」行為が身についている以上、彼女の本来の階層も、実は、そういう出自ではなかったかと思われるのである。
23段の「大和人」からすれば、そういう出自が疑われる「河内国高安郡の女」との婚姻は、自らのその階層への転落を意味することだったのである。
しかし、辛うじて、この大和人は、そういう階層への転落を踏みとどまった、としなくてはなるまい。没落貴族ではあるが、しかし、だからこそ、本来の貴族としての誇りとその精神を忘れまいとする姿勢の表れと言うべきであろう。
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
■奈良・飛鳥時代

   奈良時代   710〜 794
   飛鳥時代   592〜 710
   古墳時代   3世紀中頃〜7世紀頃
   弥生時代   前4世紀(前10世紀)〜後3世紀中頃
   縄文時代   前14000年頃〜前4世紀
   旧石器時代 紀元前14000年頃  

 

有間皇子の結び松
斉明4年(658)、孝徳天皇の皇子 有間皇子が、蘇我赤兄の甘言で謀反の罪に問われ、斉明天皇と中大兄皇子の旅先の紀の湯(白浜湯崎温泉)に護送される途次、岩代で松の枝を引き結んで、
   磐代の浜松が枝を引き結び
   真幸くあらばまた還り見む
   家にあらば笥に盛る飯を草枕
   旅にしあれば椎の葉に盛る (万葉集)
と歌を詠み、岩代の神に自分の平安の無事を祈りました。しかし、皇子は帰途、藤白坂でわずか19歳の若さで絞り首にされました。岩代の地はその後、熊野街道の名所となり、皇子を偲んだ歌が150余の歌集に約200首収められています。 
称徳天皇
略歴(8世紀) 718-戊午-養老02年 生誕
738-戊寅-天平10年01月13日 立太子
749-己丑-天平勝宝01年07月02日 孝謙天皇として即位
758-戊戌-天平宝字02年08月01日 退位して淳仁天皇が即位
764-甲辰-天平宝字08年10月09日 淳仁天皇を廃して称徳天皇として再び即位
766-丙午-天平神護02年10月20日 隅寺毘沙門天像から仏舎利出現により道鏡を法皇とする
769-己酉-神護景雲03年09月25日 道鏡の皇位継承を阻止した和氣清麻呂を大隈国へ配流 宇佐神宮の八幡大神が「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならむ」という神託を下した、という報告が大宰主神(中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)からもたらされた。これはもちろん阿曾麻呂による道鏡への追従であったが道鏡を寵愛する称徳女帝は狂喜し神託の確認のため腹心の女官である法均尼の弟、清麻呂を派遣した。しかし、派遣された清麻呂は道鏡の甘言に屈せず、「我が国家開闢けてより以来、君臣定まりぬ。臣を以て君とすることは、未だ有らず。天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は早に掃ひ除くべし」と、堂々と神託を告げた。清麻呂はそれを排して自ら神託を得たのだろう。激怒した道鏡と称徳天皇は神官たちの得た神託と異なるものを伝えた罪により清麻呂に先に与えた和気の姓を除き、代わりに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)、法均を還俗させ広虫売(ひろむしめ)と改名させてそれぞれ大隅(鹿児島県東部)、備後(広島県東部)に流した。しかし、その一方で神託を改めて問う、ということが何故か行われなかったのは清麻呂の正論を称徳天皇が理解したとみても良いのではないだろうか。
770-庚戌-神護景雲04年08月04日 崩御 
平城天皇
宝亀5年-弘仁15年(774-824) 第51代天皇(在位:延暦25年旧3月17日(806年4月9日) - 大同4年旧4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。
桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。
延暦4年(785年)11月25日、叔父の早良親王に代わり立太子する。しかし病弱だった上に父との関係も微妙であり、『日本後紀』によれば、延暦12年(793年)に春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂されたことや、同24年(805年)に一時重態であった天皇が一時的に回復したために皇太子に対して参内を命じたのにもかかわらず参内せず、藤原緒嗣に催促されて漸く参内したことなどが記されている。また皇太子時代より妃の母である藤原薬子を寵愛して醜聞を招き、父より薬子の追放を命じられている。こうした経緯が即位後の平城天皇による桓武天皇の政策の見直しへと反映されたといわれている。
延暦25年(806年)3月17日に父帝が崩御すると同日践祚。改元して大同元年5月18日即位。これ以降即位に先立って践祚を行ないその後に即位式を行うことが制度化したと考えられている。
即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃合や年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善など政治・経済の立て直しを行い、民力休養に努めた。その一方で藤原薬子を呼び戻し、尚侍に任じて宮廷内部の事を一任し、『続日本紀』から削除した藤原種継の暗殺事件の記述を復活させた。これは薬子が藤原種継の娘であったこともあるが、早良親王廃太子と自分の皇位継承の正当性を示す目的があったとも考えられている(しかしこの件は後に嵯峨天皇によって再度削除されることになる)。大同4年(809年)4月1日、病気のため在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、嵯峨天皇は平城天皇の子の高岳親王を皇太子に立てた。同年12月、平城上皇は旧都である平城京に移り住んだ。
薬子やその兄の藤原仲成の介入により、大同5年(810年)9月6日、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った。しかし嵯峨天皇側に機先を制され、10日には嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪。平城上皇側はこれに応じて翌11日に挙兵し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。高岳親王は皇太子を廃され、大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。これを薬子の変と呼ぶ。
その後も平城上皇は平城京に滞在していたが、「太上天皇」の称号はそのままとされ、嵯峨天皇の朝覲行幸も受けている。また大宰権帥に遷された阿保親王、廃太子高岳親王の2人の皇子にも四品親王の身位を許されるなど、相応の待遇は保障されていたようである。これは後に嵯峨天皇が譲位しようとした時に、藤原冬嗣が譲位後の天皇に平城上皇と同じ待遇を与えれば、費用が嵩んで財政が危機に瀕するとして譲位に反対する意見を述べていることからでも裏付けられる。
諡号・追号・異名
追号の平城天皇は、深い愛着を持った平城京に因むものである。奈良帝(ならのみかど)とも呼ぶ。和風諡号は日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、奈良県奈良市佐紀町にある楊梅陵(やまもものみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。考古学名は市庭古墳。この陵は平城京大極殿跡のすぐ北に位置する。かつては全国最大の円墳と考えられてきたが、昭和37年から38年(1962–63年)にかけてのの発掘調査により前方部が平城京築造の際取り壊された前方後円墳だったことが判明したため、この古墳を平城天皇の墓とするのは無理があると考えられるようになったされる。
また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
平城天皇 2・薬子の変
第五十一代平城(へいぜい)天皇は、平安時代の初期の天皇です。和風諡号01は日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと).。
御父は桓武天皇、御母は藤原の乙弁漏(おとむろ)、桓武天皇擁立に尽力した藤原良継の娘。また歌人で有名な在原業平は孫です。
七七四年、桓武天皇の第一皇子として誕生。御名は小殿(おて)、後の安殿(あて)親王。在位、八0六年から八0九年。
怨霊渦巻く平安京と言われた平安時代は、前例のない事件で井上(いがみ)皇后が廃后となり、その息子の他戸(おさべ)皇太子が廃され、新たに皇太子となった山部(やまべ)親王が桓武天皇になられた後、平安遷都を行って始まりました。しかし、この間に長岡京遷都があり、長岡京造官吏の藤原種継暗殺事件に関与したと皇太子の早良親王(桓武天皇の同母弟)が逮捕され流刑先に移送中に憤死しています。早良親王の廃太子にともなって、皇太子になったのが安殿親王であり、井上親子や早良親王が怨霊となって行ったとされる身の回りの不幸や天変地異がある中で育ちました。元来病弱だったため、早良親王の霊に取り付かれていると言われていたのです。そのためか即位後も体調が優れず、天地療養を試みるも変化がなく、在位三年で弟に譲位(嵯峨天皇)し太上天皇となられました。
しかしその短い在位の間には、勘解由使を廃止して新たに六道観察使を置いています。観察使は東山道を除く六道(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・九州とその周辺の西海道)に設置された参議と並ぶ重要な官職で、観察使による地方行政の観察は厳正に行われました。太上天皇となられてから愛着のある平城京へ移られると、嵯峨天皇との兄弟の意思疎通が難しくなった上、太上天皇が設置した観察使を嵯峨天皇が廃止し参議を復活する詔を発せられ四年で終了させられるようなことが起きました。そして健康を取り戻した太上天皇は「平安京より遷都すべからず」との桓武天皇の勅があるにもかかわらず「平安京を廃止して旧都平城京へ遷都する」という詔勅を発せられ嵯峨天皇を驚かせます。これは後宮にいた藤原薬子やその兄の藤原仲成の重祚を狙った甘言のためといわれ二朝対立状態となりました。この対立が薬子の変に発展していきます(八一0年)。平城天皇は自ら東国に赴き挙兵しようとしましたが、嵯峨天皇に阻止を命じられた坂上田村麻呂の軍勢に捕らえられ帰京し出家しました。また藤原仲成は処刑されましたが、これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰された稀な事例でこれ以降一一五六年の保元の乱まで三四六年間死刑執行が行われませんでした。なお薬子は服毒自殺を遂げています。
八二四年崩御。
旧都平城京への愛着に因み平城天皇と号されました。また崩御の後、既に譲位されていた嵯峨上皇の要望で、時の天皇淳和帝は薬子の変の関係者の赦免の勅令を出されています。
平城天皇の崩御で最後の幕が引かれた薬子の変は、若過ぎる太上天皇と同母弟である天皇の二つの存在が生み出した初の対立ともいえます。これは、明治になって大日本帝国憲法と一緒に皇室典範を作成した際、譲位があることで生まれる混乱を避ける事例の一つとなったことでしょう。これ以前にも譲位後の上皇により政変が起き政情が不安定になったことがありましたし、平安時代には藤原氏や上皇の思惑で譲位を強制された天皇の例がいくつもありましたしそれを要因に大きな争いになることもありました。鎌倉・室町時代になると上皇や幕府の圧力での譲位の例があり、朝廷が二つに分かれ混乱の一因となっていきます。一方江戸時代になると、譲位することを圧力に変えるという例も起きるようになるようなことも起きました。こうした数々の歴史を踏まえ練りに練られた皇室典範であるということを考えると、皇室典範の条項について協議する場合、いかに歴史を知っておくことかはとても重要であります。また現在の状況を考えると、100年先、1000年先の将来までを見据えることも同時に重要であることがわかります。 
平城天皇 3
名を安殿親王といい、桓武天皇の第一皇子。
母は藤原乙牟漏。
785年廃太子の早良親王に代わり立太子した。
806年父桓武天皇の崩御によって即位した。
生来病弱であったといい、藤原帯子の母である藤原薬子らの内部抗争で翻弄されたという。
また度重なる遷都や征夷軍の派遣で疲弊していた財政を引き締めるため、官僚組織の統廃合や地方行政の円滑化を行った。
病身を理由に同母弟、神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり旧都の平城京へ隠棲した。
しかし健康が回復すると国政に関心が戻り、平城遷都の詔を発するなど「二所朝廷」と称される分裂状態となった。
藤原薬子や藤原仲成らの甘言により重祚を望んで挙兵の準備を始めたが、嵯峨天皇が先手を打って藤原仲成を捕らえ(後射殺)し、藤原薬子へ与えた官位を剥奪し(後自殺する)てそれを阻止した。
上皇は東国へ逃れようとしたが坂上田村麻呂の兵により阻止され平城に戻り髪を剃って仏門に入った(「薬子の変」という)。
上皇は824年に崩御し、陵は奈良市佐紀町にある楊梅陵と治定されている。
 
端午の節句と邪気払い

 

端午の「端」は、はしっこ、という意味で、端午は、月の始めの牛(うし)の日ということです。漢代以後に「ご」の音が重なる五月五日になったといわれています。今でこそ、五月五日は端午の節句として子供の成長を祈るお祝いの行事ですが、古代の中国では、五月は悪月とされていました。古代中国では、五月のこの頃は雨が多く、天災や戦乱も重なった時期だったようで、禁忌が多く身を慎む月とされました。それで、五月五日は、無病息災を願う邪気払い、魔除けの行事が色々行われました。
野に出て蓬や菖蒲の葉を摘み、家の門口に飾ったり、龍舟(ドラゴンボート)競争を行ったり、粽(ちまき)を食べたりと、 地方により様々な行事を行ったようです。その中でも、粽やドラゴンボート競走には、ある伝説が語り継がれています。楚の政治家で詩人でもあった屈原は、秦の甘言にそそのかされそうになった楚の懐王を諫めましたが、受け入れられませんでした。その結果、懐王は秦に捕らえられ、楚は秦の手に落ちてしまいます。楚の行く末に絶望した屈原は、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に身を投げたのでした。屈原の霊を鎮め、また亡骸が魚に食われないよう、人々が竹の筒や笹の葉に米を入れて川に投げ込んだことが、現在の粽の元と言われています。又、入水した屈原を助けようと先を争い舟を出したという故事が、ドラゴンボート競走の由来とされています。
日本に端午の節句が伝えられたのは、奈良時代と言われています。宮中では、季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄を避けるために、野に出て草を踏み、持ち帰った蓬や菖蒲で人形を作り、 門戸や軒下に飾ったり、薬草で薬湯に入ったり、薬草酒を飲んだりしました。ところで日本でも古くから、5月は物忌みの月で、「さつき忌み」という風習がありました。この時期、日本では田植えが始まる時期です。田植えをする早乙女と呼ばれる若い女性は、田の神を迎える前に不浄を避け、小屋に籠り、穢れを払う「五月忌み」をする習慣がありました。中国から伝わった端午の「邪気払い」は、日本のこの「五月忌み」と容易に結びつき、行われるようになったと思われます。ということは、日本の端午の節句の由来は女性のものだったということです。
それでは何時それが、男の子の節句に変化したのでしょうか?それは武家が時代の主役となった鎌倉時代からのようです。端午の節句につきものの「菖蒲」は「尚武(武を尊ぶ)」と読めることから、武家社会では端午の節句を男子の節句として行うようになりました。江戸時代になると、五月五日は五節句として式日となり、武家では男子が生まれると門前に幟旗を立て、祝うようになります。この行事は庶民にも広がっていきますが、武家以外には幟旗は許されませんでした。代りに庶民は、中国の故事の「鯉の滝登り」にあやかり、鯉のぼりを立てるようになりました。庶民は武家で飾られる鎧兜や武者人形なども紙で模したりして飾り、それらがのちに現在の五月人形になりました。こうして、本来は邪気払いであり、女性のものであった端午の節句は、男の子の健やかな成長を祈る日になりました。
邪気払いで使われた菖蒲は菖蒲湯に、粽はお祝いのお菓子に、幟旗は鯉のぼりに、実に上手に日本の年中行事に取り入れられています。日本人が外からの文化をいかに柔軟に日本の風習に取り入れているかが、端午の節句には実に豊かに興味深く見られます。  
端午の節句 2 
端午の節句=柏餅=粽=3つのお尻
2つ違いの3人の子供たちが幼い頃、「おやつですよ」と、いくら呼んでも返事がない。子供たちを和室に見つけたときのこと、床の間いっぱいの武者人形や鎧兜の前で剥いた柏餅や粽もどきの皮を元通りにしようと相談中だった。 開けたふすまをそっと閉めて慌ててカメラを取ってきて、3つのお尻を撮った。 こっそり、どきどきが伝わってきて、ニマニマしたのを思い出す。偽物とわかっているけど確かめずにはいられない。だめよ!と言われていることをしてみたかった三人の共犯者は元通りにするためおやつも忘れるほどたんまり時間がかかってしまってとうとうチビが泣き出して発覚。チャンチャン。
中国の端午節は、春秋戦国時代にはじまり2000年の歴史のある習俗で端午の端は開端で初の意、旧暦5月5日は毒日とも呼ばれた。この時季、蚊や蝿などの媒介による発病が多くこれを予防するため薬草を摘み健康を祈願した。
特に蓬や菖蒲は邪気を払う力があるとされ菖蒲酒にしたり蓬人形を飾ったりした。中国に於ける最も早期の衛生防疫節であろう。 蓬はキク科の植物で揮発性の芳香によって駆虫、空気清浄に効果があるので家々の軒に吊るして魔よけと健康を祈願する。(灸のもぐさとして利用されることはよく知られている。)  奈良時代に無病息災を願う行事として日本に伝わり、鎌倉時代以降、菖蒲は尚武に通じる、葉の形が刀に似ていることなどから、武士として大切な武芸で名を挙げ(家名を守るべく立派な後継者を育てていくといった社会の願いが反映され 武家の男子のお祝いとして定着していった。
無病息災を願って風呂に菖蒲の葉を入れる菖蒲湯に入り、武芸を尊ぶため兜や鎧、武者人形を飾り、立身出世の象徴として鯉幟を建てる習慣などが加わり、現在に至っている。が、柏餅は日本のオリジナルで、柏の樹は「新芽が出ないと古い葉が落ちない」と言う特徴があり、そこから家が断絶しないという縁起に結び付けて「柏の葉=子孫繁栄」と言うイメージから徳川十代将軍家治の頃、お菓子として登場、こどもの日に欠かせぬ祝い餅となったようだ。 一方 行事とセットで渡来した粽子に付いてまわる故事来歴は: 司馬遷の≪史記≫によれば 楚の貴族出身で王位継承者の一人である屈原は裕福に育ち若くして高位高官につき法律の制定から王の代理として他国の賓客に接見したりまで着実に仕事をこなす秀才且つ詩人である。このように非凡ゆえ凡人である楚王の王子の嫉妬による誹謗中傷と王の寵妃鄭袖の甘言に苛まれた。秦と友好条約を結ぶことにあくまでも反対した屈原は漢北へとばされた。王の死後、王子があとを継いだ。人気も実力も兼ね備えた屈原を恐れるあまり再度遠方へ追いやる命令を下す。屈原は二度と再び戻らなかった。 紀元前278年、楚は秦に敗れた。これを伝え聞いた屈原は自分の理想とする政治理念の実現の可能性を儚んで“寧ろ、魚の餌食になろうとも屈辱に耐えて生きながらえたくない”と、ベキラ河へ石を抱えて入水自殺する。この日5月5日。人々は屈原を偲んで竹筒に米を入れたものを流して霊を弔った。漢代になって屈原の幽霊が現れ“供物はありがたいが手元に届く前に悪霊にとられるので苦手とするレンジュの葉で包み五色の糸で縛ってほしい。”と頼む。これが粽子の始まりといわれる。
粽子(ちまき)は米を竹等の葉で包み蒸したりゆでたりすることで植物から出る灰汁が防腐剤の役割を果たす保存食で各地方や民族独特の工夫が凝らされ進化した。 中国保健協会食物栄養と安全委員会は 粽子の大部分の成分は炭水化物でカロリーが高いから食べ過ぎないように。一日の穀物摂取量の3分の一を超さないこと。もち米ばかりでなくアワ、小豆、緑豆、はと麦、山芋、里芋などを加えて繊維質を増やし胃腸の負担を抑え消化を助け栄養の均衡を保つように。また、緑黄色野菜や果物を一緒にとりできれば就寝2〜3時間前に食べること。朝やお昼に食べるのが最良だと紹介しているので注意しようと思った。
“こんばんは”とんとん戸を叩く音。 隣人が湯気のたつできたての粽子を持って立っている。しあわせ〜〜〜〜。 今夜は1個だけ戴くことにしよう。
1991年歴史学者 朱大可によって反説がとなえられた。いわく 政治闘争による謀殺である。 1王位継承権をもつ人望厚い屈原の“リベンジ”を恐れ 2太后 鄭袖は屈原の政敵と言われてきたけれど実際は屈原が恋い慕ってきた女性であり 先代の死後 彼女の政治力は失われておらず屈原と手を結ぶ可能性を恐れた。 無能な楚の頃襄王は秦の大将白起に敗れた時、災いの根を早急に絶たんがため一群の刺客を差し向けた。屈原はベキラ河で追手にとらわれ縄で縛った麻袋に入れられ投げ捨てられた。民衆はこれを目の当たりにし怒りを抑えて舟を出し屈原の死体を引き揚げた。今に伝わる賽龍舟(ドラゴンレース)は、」このときの激烈な場面を再現したといわれ、粽の中身の米は肉体を、葉は麻袋を、ぐるぐる縛るのはそのときの縄を象徴するとされる。この謀殺劇こそ 出色の政治家、才気溢れる詩人屈原を葬り去っただけでなく楚の国の命運をも壊滅するに至ったといえる。ベキラ河の近くの山上にある12基の墓は11基は偽物で頃襄王によって壊されることを避けようとしたと言われるが 事ほどさように恐れたのだろう。 
 
卑弥呼と東アジア情勢

 

1 奴国成立以前の倭人社会と外交
「倭国乱」が卑弥呼の「共立」により収拾された2世紀末以前の状況は、中国側の史料によっても、断片的にしか伝わっていない。そのうちの一つである1世紀後半に成立した中国前漢の正史『漢書』地理志には、「それ楽
浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為る、歳時を以って来たりて献見すと云う」とある。これは、紀元前1世紀ころの倭人社会が中国王朝から「国」と認識された百余りの集落連合から構成され、その中には定期的に朝鮮半島の楽浪郡に朝貢していた国も存在したことを示しているが、この段階の「百余国」とは、おそらくは北部九州を中心とした地域であったと想像される。したがって一世紀後半以前の小国分立段階から中国王朝とは朝貢関係を有していたのだが、この段階では「倭人」という人種的表記のみが用いられており、「倭国」というまとまりや国々を束ねる「倭王」の存在はまだ見られない。
2 奴国の出現と後漢王朝とのかかわり
一方、『後漢書』は『三国志』よりも後の5世紀に成立し、多くの記述は『三国志』の要約的記述にすぎないが、『三国志』には見えない独自の記述もある。すなわち、建武中元(57)年のこととして「倭の奴国、貢ぎを奉げて朝賀す。使人は自ら大夫と称う。倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬を以ってす」という記載がある。このうち大夫と極南界についての記載は、『魏志』倭人伝にみえる「古自より以来、其の使いの中国に詣るときは、皆、自ら大夫と称す」「次に奴国有り、此れ女王の境界の尽くる所なり。其の南には狗奴国有り」という文章を下敷きにしているが、建武中元2(57)年、奴国が後漢王朝に冊封され、印綬を与えられたとある部分は『後漢書』のオリジナルの記載である。この時に与えられた印は、天明4(1784)年に福岡県志賀島で発見された「漢/委奴/国王」と彫られた金印(国宝、福岡市博物館蔵)に比定されている。
奴国は、『魏志』倭人伝によると「二万余戸」という卓越した人口を有したとあり、後に「儺県」(『日本書紀』仲哀8年正月己亥条)や「那津」(同宣化元年5月辛丑条)とみられる地で、須玖岡本遺跡(福岡県春日市岡本)を中心とした福岡平野一帯に比定されている。首長墓からは漢代の中国銅鏡など卓越した副葬品が出土し、奴国の王墓に比定されている。また、周辺からは青銅器・鉄器・ガラス製品が生産された大規模な工房群が発見されている。金印の「漢委奴国王」の称号などからすれば、当時の倭国が後漢王朝の支配秩序(天下)に包摂されていたことは明らかであるが、「倭の奴国」の称号からすれば、いまだ倭国全体を統率すべき王号とはなっていない点は重要である。ちなみに、『漢書』王莽伝には、元始5(5)年のこととして「東夷の王、大海を渡りて、国珍を奉ず」とある。不明確な記載だが、仮にこの大海を渡って珍宝をたてまつった「東夷王」が、絶域の倭国からの使者とすれば、すでに前漢末期から北部九州と中国との交渉を想定することができる。
さらに『後漢書』倭伝には、安帝の永初元(107)年のこととして「倭国王の帥升等、生口百六十人を献じ、願いて見えんことを請う」とある。また『魏志』倭人伝には、卑弥呼以前の倭国について「其の国、本亦男子を以って王と為す。住まること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴たり」と記載されている。倭国乱の年代について、『後漢書』倭伝は「桓霊の間」(146〜189年)、『梁書』倭伝は「漢霊帝の光和中」(178〜184年)としており、倭国乱を遡ること七、八十年前の男子を倭国王とした段階は、永初元(107)年の「倭国王帥升」による朝貢を起点としている。少なくとも中国側の意識として、「倭国」および「倭国王」成立の起点としてこの記事は位置付けられている。ここで倭国王が「帥升等」と複数形になっていることが注目され、帥升は単独で中国に朝貢したのではなく、形式的にせよ倭人社会を代表し、有力な国々を束ねる形で王として君臨していたと考えられる。
3 倭国の乱と女王卑弥呼の誕生
2世紀初めまでには、まず北九州において奴国から伊都国への主導権の移動があり、さらに2世紀後半には「倭国乱」と呼ばれる騒乱により、伊都国から邪馬台国への主導権の移動があったと想定される。倭国が長い間乱れて戦乱状態にあったが、卑弥呼を倭国の女王として「共立」することによって、「平和」がもたらされたことになる。
これを裏付ける史料とされるのが、奈良県天理市の東大寺山古墳出土の鉄刀銘である。この古墳からは、「中平」(184 〜189年)という後漢年号を記した鉄剣が出土した。中平年号とは、「倭国乱」があったとされる中国の桓帝と霊帝の間(146〜189年)の年号で、「光和年中」(178〜184年)の直後の年号である。邪馬台国がどこかという議論はさておくとしても、倭国の乱が治まった直後の中平年間に造られた鉄剣が、中国あるいは遼東半島を支配していた公孫氏を経由し、倭国へもたらされたことになる。したがって、「共立」されたばかりの卑弥呼が朝貢して、中国からその地位を承認する意味で剣が与えられたと考えられる。ただし、共立されたばかりの卑弥呼に、後漢から直接与えられたと考えるか、あるいは当時遼東半島を支配していた公孫氏をいったん経由して
もたらされたと考えるかは、時期的に微妙で、判断が難しい。
4 卑弥呼と公孫氏との交渉
公孫氏は後漢末から三国時代に中国東北部で勢力をもった豪族で、卑弥呼が魏へ朝貢する直前の景初2(238)年に滅ぼされているが、後漢末の3世紀初頭に、公孫氏は楽浪郡の南部を分けて帯方郡を設置している。『魏志』韓伝には「建安中、公孫康、屯有県以南の荒地を分かちて帯方郡と為し、公孫模・張敞を遣わして、遺民を収集せしめ、兵を興して韓・ を伐つ。旧民稍出ず。是の後、倭・韓は遂に帯方に属す」とある。つまり、後漢献帝の建安年間(196〜220)に公孫康は、楽浪郡の屯有県より南の荒地を派兵により平定、旧楽浪郡民を奪還し、帯方郡を置いたのである。帯方郡分置の正確な年代は明らかではないが、父の公孫度が建安9(204)年に没しているので、少なくともそれ以降と考えられる。
注目されるのは、立郡以降に倭と韓が帯方郡に所属したと記載されている点である。この記載を卑弥呼によるはじめての遣使と解釈すれば、公孫氏との関係で「中平」鉄刀を与えられた可能性が高いが、単に楽浪郡から帯方郡への所属替えを示すものと解釈し、後漢王朝への倭国王の朝貢は帥升以来連続していたとすれば後漢王朝末期に直接卑弥呼に与えられた可能性が高くなる。しかし、すでに倭国の中国交渉の窓口であった楽浪郡は、2世紀末には高句麗の侵入などもあり衰退し、中国本土も中平元(184)年の黄巾の乱以来、後漢滅亡まで混乱が続いていたので、中平年間に卑弥呼の使者が後漢へ直接朝貢することは容易でなかったことが想定される。一方、2世紀末の段階で倭国乱が卑弥呼の「共立」により収拾されているとすれば、中国正史に記載は欠いているが、卑弥呼と公孫氏が帯方郡を介して交渉していた可能性は高いと考えられる。漢鏡の倭国への流入量が倭国乱の時期に一時的に減少し、帯方郡の成立以後再び増加する傾向を示すという指摘も、公孫氏との交渉を裏付けている。
5 公孫氏の滅亡とその後の外交
従来、景初3(238)年における魏と卑弥呼との交渉は、公孫氏滅亡直後であることから、そのタイムリーな遣使が外交における開明性として評価されてきた傾向がある。しかし、むしろそれ以前における公孫氏との交渉を前提に考えるならば、卑弥呼にとっては公孫氏にかわる新たな後ろ盾を早急に必要としたという、国内事情によるものと位置付けることができる。つまり、卑弥呼の「共立」により保たれた「平和」は、外国の権威と支持により保たれていた極めて危うい秩序であったことになる。
以上のように「中平」年号の鉄剣に注目するならば、魏への朝貢以前に、公孫氏と女王卑弥呼との交渉がすでに存在していた可能性は高い。卑弥呼は帯方郡を介して、公孫氏とどのような政治的関係を維持していたのか。問題は、魏や呉に対する公孫氏の政治的立場が時期により微妙なことである。すなわち、公孫氏は独立的な地位を占めながら、魏王朝から「遼東太守」に任命されるなど、太和4(230)年頃までは良好な関係を維持していた。その一方で、呉ともしばしば交渉し、とりわけ嘉禾2(233)年頃には呉の孫権から公孫淵は「燕王」に冊封され、多大な「金宝珍貨」が送られている。それについて魏側の史料では、公孫氏が逆賊孫権の甘言により交通し貿易していることを非難している。さらに、滅亡直前にも呉王朝に臣従して派兵を願っており、呉の北方派兵も実際に行われている。
こうした魏と呉の対立の最中に、倭国は帯方郡へ遣使し、公孫氏からその地位を承認されていたことになる。したがって、倭国は公孫氏との良好な関係を維持し、「中平」年刀や画文帯神獣鏡に代表される先進文物の導入を安定させるために、一時的にせよ呉王朝との間接的な関係を有した可能性も考えられる。卑弥呼の政治的立場を考える場合には、こうした公孫氏をめぐる複雑な東アジア情勢を考慮する必要がある。 
 
表と裏

 

どちらが表で、裏か
中国地方には山陽と山陰がある。方角から見ると、南側と北側であるから、瀬戸内海側は陽であり、日本海側は陰である。この分け方は古代からあり、山陽道と山陰道、それぞれの呼称があり、古代人もこの呼称になじんでいた。
この呼称は、陽は明るく、陰は暗いイメージと結びつき、さらには陽の地域は文化が開かれ進んでおり、陰の地域は遅れていると思いがちである。
現に山陽の中心である岡山県は巨大古墳が造られており、吉備真備(きびのまきび)や和気(わけ)清麿呂など、中央政府で活躍した人物を生み出している。ところが、山陰はどうであろうか。と、しばらく考えてくると、出雲を中心に、進んだ文化がつぎつぎに浮かんでくる。出雲神話の存在、出雲大社(杵築:きづき神社)の古さ、相次いだ弥生時代の銅製品の大量出土など。
列挙していくと、山陽を上回る。また、山陽・山陰を問わず、中国地方全域を見ても原始・古代から近世にわたって歴史を語るのに欠かすことのできない場所が多い。となると、どちらが表で、どちらが裏か、わからなくなる。
しかし、古代人が名づけた山陽道・山陰道の印象は、現代人の意識の中でも生き続けている。やはり、瀬戸内海側は表であり、日本海側は裏のようである。新幹線は山陽側であり、山陰側ではその計画すら耳にすることがない。そればかりか、在来の山陰線で旅行しようとすると、その列車本数が少なく、企画が立てにくい状況である。
西海道の表と裏
古代人が西海(さいかい)道と名づけた九州はどうであろうか。古代の西海道には、朝廷の出張所ともいうべき大宰府があり、西海道諸国を統轄し、いっぽう朝鮮半島や中国大陸との外交を掌る重要な役割を担っていた。したがって、朝廷では山陽道の延長上に大宰府が立地するとの考え方が根づいていた。
この考え方からすると、大宰府の存在する筑前が九州の入口であり、古代では筑紫(九州)の入口である筑前は、「つくしのみちのくち」と呼ぶ古訓があった。その延長に筑後(つくしのみちのしり)があり、さらに「ひのくに」とつなぐと、九州の表は西側であり、東側は九州の裏である。現在も九州の人びとには、この意識があり、九州の新幹線も、表である西側を走っている。
このような九州の人びとの意識には、文化も九州の西側から流入するとの考え方があって、東側は、遅れている」と思われているふしがある。
ところが、七世紀までの歴史を顧みると、九州北部と九州東部側は看過できない文化要件を備えており、ときには九州東部側の優位性が見られる。
九州東岸を南下するコースをとった古い例は、景行天皇のクマソ征討説話の道筋である。景行天皇の実在は認められないが、その説話には事実の反映が見られる。その一つはこの道筋である。
その道筋をたどってみたい。『日本書紀』によると、景行天皇十二年七月にクマソがそむいて貢物も献上しなかった。そこで天皇は、八月十五日に筑紫に向かって出発した。そして、九月五日に周防(すほう)の娑麼(さば)に到る。現在の山口県防府(ほうふ)市である。
都から約二十日の行程である。ヤマトからの道のりを考えると、ほぼ順当であろう。すべて陸路であったのか、途中から瀬戸内海の海路をとったのかは記していない。どちらにしても大差はないであろう。
ところが、娑麼(さば)からは海路を南へとり、九州に渡っている。豊前(ぶぜん)に上陸して長峡(ながお)から速見(はやみ)、碩田(ほきた:大分)をめぐってから、豊後を経由して日向に入っている。現在の常識では、下関を経由して九州に入ることを考えてしまうが、地図を見ると、下関経由は遠まわりである。
日向からは、クマソの本拠地大隅に入り、クマソ征討後は、子湯(こゆ:児湯)夷守(ひなもり:小林市付近)を経て熊(球磨)へぬけている。ここからは肥後である。熊の中心地は現在の熊本県人吉市一帯であろう。そこからは葦北(あしきた)・八代を経由して北上し、帰路についている。
この景行天皇の征討コースをたどると、九州の東側を南下して、大隅のクマソを討ち、その後は九州の西側へ出て帰路についている。ところが、八世紀に入り、七二〇年に大隅国守殺害を発端とする朝廷の征討軍の主流は大宰府を経由して、九州の西側を南下している。いずれも目的地は大隅であった。
このように見てくると、古くは九州の東側が重視されていたことが想起されてくるようである。その九州の東側にあたらめて視点をあててみたい。
まず、九州の東側は王権の所在地である畿内に近いことである。とりわけ、五世紀の河内(かわち)王権は、瀬戸内海の東に立地しており、いっぽう、瀬戸内海の西は九州の豊前であり豊後であった。
河内王権の時代は、中国の『宋書(そうじょ)』などでも「倭の五王」と記され、強大な権力を誇示した時期であった。大王(天皇)では、応神・仁徳朝から雄略期にわたる時代である。
九州の豊前には渡来人の秦(はた)氏が移住し、勢力を扶植(ふしょく)しつつあった。この地は仏教の伝来も早く、七世紀の寺院の遺構も少なからず発見されており、また宇佐八幡の創祀、八幡に納める銅鏡の製作、その原材料となる銅鉱の遺構も見出されている。このような宗教文化も、渡来人と関わっていたとみられる。
さらに、九州の東側を南下すると、日向には九州最大級の規模をもつ西都原(さいとばる)古墳群があり、五世紀を中心に前方後円墳など約三〇〇基が分布している。また古墳群の南西側には日向で最大勢力をもつ豪族諸県君(もろかたのきみ)が盤踞していた。
その諸県君は応神大王・仁徳大王の二代にわたって娘を妃(きさき)として貢上している。とりわけ、仁徳妃となった諸県君牛諸井(うしもろい)の娘髪長(かみなが)姫所生の二子は、その後それぞれ安康・雄略大王の妃となっており、河内王権との深い結びつきが見られる。
いっぽう、諸県君と同盟関係にあったとみられる大隅直(あたい)は、河内王権にしばしば近習(きんじゅう)を貢上していた。近習は王族に仕えて、側近として護衛役を勤める侍者である。
近習隼人の二話
『古事記』『日本書紀』には近習として出仕した隼人の話が載せられている。近習の一人は、仁徳大王の皇子につかえていた。住吉仲(すみのえなかつ)皇子がその主人である。この皇子の兄弟(兄一人、弟二人)は皆、大王になっている。当時の大王は兄弟で継承することが多く、住吉仲皇子も順当にいけば大王になるはずであった。
ところが、弟の一人に計られて、住吉仲皇子は近習の隼人、刺領巾(さしひれ)によって殺されてしまった。弟の一人は、兄たちが次次に大王位に即けば、自分への大王位が生存中に巡って来ない可能性があり、心中に不安を抱いたものと推測される。
そこで、兄を暗殺する計略をめぐらし、近習の刺領巾を巧みな甘言で誘い、兄を殺害させたのであった。その後、近習の隼人も殺されてしまった。
もう一人の近習の隼人は、雄略大王に仕えていた。この隼人は、主人の雄略大王が亡くなり、葬られると、嘆き悲しみ、ひどく憔悴(しょうすい)した。そのようすを、『古事記』はつぎのようにように伝えている。
隼人、晝夜陵(みさぎ)の側(ほとり)に哀號(おら)ぶ。食(くらひもの)を與(たま)へども喫(くら)はず。七日にして死ぬ。有司(つかさ)、墓を陵の北に造りて、禮(ことわり)を以かくて葬(かく)す。
この記述には。近習隼人が雄略大王とどのような関係にあったのか、その密着度が如実に表現されている。
いま、河内にある雄略大王の陵を訪ね、その北方に歩を進めると、そこに「忠臣隼人の墓」が現存し、宮内庁の管理であることが標示されている。
このように見てくると、日向の豪族諸県君は、河内王権に妃を貢上し、同盟関係にあった大隅直は王権に近習を出仕させるという、いずれも王権に近接した関係にあったことがわかってくる。
その近習を象(かたど)ったのではないかと筆者に想像させる人物埴輪が、近年鹿児島県大崎町の神領古墳(10号墳)から出土している。鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也先生の発掘調査で出土したもので、時期は五世紀前半とみられているので、大隅直が近習を出仕させた時期とほぼ符合している。
また、南部九州各地域の豪族の姓(かばね)は君(きみ)姓が一般的であるが、大隅氏は直(あたい)姓である。直姓は王権から早い時期に賜与された例が見られることから、大隅直が王権に属するようになったのも、他の氏より早かったのではないかとの推定も可能である。
つぎに、大隅直と古墳の分布を概観してみたい。
以前は、志布志湾沿岸の古墳について、もっとも早く築造されたのは、湾の東端近くのダグリ岬にあった飯盛山(いいもりやま)古墳で、五世紀前半ごろと聞かされてきた。しかし、この古墳は国民宿舎の建設によって破壊されていたので、その全容を実見することはできなかった。
その後、築造されたのが横瀬(よこせ)古墳や唐仁(とうじん)大塚古墳などで、鹿児島県内の前方後円墳は、この一帯に多く分布している。いっぽうで、この一帯には地下式横穴墓という地域固有の墓制も、高塚古墳と混在して分布していて、古墳時代の実像の全容が掌握しにくい傾向があった。
ところが、さきの神領古墳をはじめ、一帯の各古墳群の実態解明が漸次進んでくると、その築造時期や前後関係も分かるようになり、それにより、南部九州全体の古墳時代の様相がしだいに明らかになってきつつある。
その様相から古代大隅を推察すると、大隅直の勢力地域に王権のシンボル的文化を示す高塚古墳、とりわけ前方後円墳がその分布を伸張させ、地下式横穴墓と併存するようになったのであろう、と筆者は考えている。
大隅隼人とは、初耳
もう三十年近くも前であったろうか。鹿屋市の歴史同好者の方々によばれて、講演をしたことがあった。国道ぞいの自衛隊近くの会場で、商店の多い所であったせいか、多様な職業の方々が集まっておられ、当時の県議会議長さんも見えていた。
その講演のあとの質問の中でのことである。ある方が、「大隅隼人という言葉は、初耳です。自分は県外に出ると、薩摩隼人です、と名告(なの)っていました。そのほうが、かっこいいですよ」といわれた。それを聞いて、筆者は考えさせられた。
鹿児島では江戸時代以来、鹿児島=薩摩という観念が定着し、大隅はその陰(かげ)で、忘れられている感じである。その背景は、いうまでもなく島津氏の居城が薩摩にあり、「薩摩藩」といわれたり、「薩摩七十七万石」との表現が、ごく自然に通用しているからであろう。
また、薩摩藩の武士も「薩摩隼人」と呼称され、その武勇を誇りにしてきた。しかし、少し冷静に隼人と、それ以後の歴史をふり返ると、「隼人」の呼称は八世紀までの大隅・薩摩両国の住民の称であり、政治的には以後は用いられなかった。
ところが、鎌倉時代以後、この地に移ってきた島津氏を中心とした武士層が、その後は「薩摩隼人」を称するようになった過程をみると、その隼人はまがいものである。
また、「薩摩七十七万石」も薩摩国だけの収入ではなく、大隅国・日向国の諸県地方、さらに琉球国を加えた収入であり、しかも籾(もみ)高であったという。そのような石高をもって、加賀藩に次ぐ大藩とは、その内実を分析すれば、云い難いであろう。
これらは、江戸時代を主にした薩摩藩の実情であるが、明治以後も旧藩の政治拠点がそのまま県庁所在地となり、現在にいたっている。このように歴史的状況を概観してみると、旧大隅国域は陰の存在となってしまう。
しかし、先述してきたように古代の大隅直の活躍や、高塚古墳の分布などを見ると、大隅は表(おもて)の存在であった。
江戸時代でも日向(諸県)や大隅は東目(ひがしめ)といわれ、薩摩(とくに南薩)の西目といわれた地域から住民の移住(人配:にんべ)が行なわれていた。筆者が都城周辺の集落で聞いた話でも、江戸時代に先祖が川辺や加世田から移り住んだ、と語り伝えていた。また、つぎのような歌が残っていた。
行こやはっちっこや庄内(都城)さへ行こや、庄内の茅穂(かやほ)にゃ米がなる。
こんな歌に希望をつないで、東目に移り住んだのであろうか。いっぽう、東目にはそのような移住者を受け入れる余裕があったのであろう。
薩摩藩では各外城(郷)内の農村を門割(かどわり)制によって支配を行なっていたが、その門ごとの農地の収穫高を一覧しても、西目は低く、東目は高いことから、東目の経済的余裕の度合が推察できそうである。
したがって、東目が陰であり、裏であっても、それは経済的側面とは結びつかないようである。まさに、薩摩国を拠点とする武士層は「武士は食わねど高楊子(たかようじ)」の文句通りの薩摩の武士であったようである。
いまは、薩摩・大隅両国での比較を主にしているが、この両国を「本土」と称している、「島」に住む人びとを忘れてはならないであろう。薩摩藩は、とりわけ離島の多い藩である。これら離島に支えられなければ、明治維新前後の薩摩藩の活躍は、おぼつかなかったのではあるまいか。
京都人の語る表意識
筆者は、学生時代に多くの京都在住の友人と接触したが、その中には十数代にわたって京都を離れず、先祖を誇りとして語る数人がいた。
かれらと、ときに酒を酌み交わすと、「東京は田舎だ」と語り、京都は「上方」、あるいは「日本の表(おもて)玄関だ」との話を聞かされた。
その話のいくつかを紹介してみよう。上方は、京都に行くのは、日本のどこからでも「のぼり」を意味したのであり、江戸に行くのは「江戸下向(げこう)」であり、「くだり」を意味する、という。
また、東京の地名は、国会議事堂のある所は永田町であり、ほかも千代田・神田など田んぼじゃないか。そうでなければ、渋谷・日比谷・世田谷など谷であり、神楽(かぐら)坂・赤坂など坂じゃないか、と。
それに比べると、京都はいかにも都の伝統をひく地名が残存している。左京・右京や一条通り・二条通りなど挙げたらきりがない。
こんな話を聞かされていると、「また、始まったか」と思い、ややうんざりしてくる。そこで、それでも天皇は東京に移り、いまでは日本の首府だから、ここでいくら吠えてみても、どうなるものでもないだろう、と少し反論してみると、さらに激高し、つぎは天皇行幸論に及んでくる。
というのは、明治元年から二年の天皇の動向を詳細に調べたらわかるはずだ、という。かれの話だと、この間に天皇は明治新政府の招きを受けて、数度にわたり東京に行幸しているが、その後、行幸したまま、いまだ京都に還幸していない。その事情を調べてみると、江戸城を皇居とし、新政府の人質となってしまった。その元凶は、下級公家から新政府の中心にのしあがった岩倉具視と三条実美である、という。
かれの話は、それなりに一応の筋が通っているので、「なるほど」ということで、その場は切り上げたが、京都人の表意識というか、東京より京都が上位にあるという考え方には根強いものを感じた次第であった。
「東京」は東の京都の意でもあろうから、千年の都を誇る京都人がそれほどムキにならなくても、歴史とその文化の重みは万人がおのずから認めるところであろう、と筆者は思っている。
表日本と裏日本
表日本といえば太平洋側、裏日本側といえば日本海側というのが、一般的な考え方であろう。そのうちの表日本は歴史の舞台としてしばしば登場するが、裏日本は陰の存在である。そこには冬季の天候不順がイメージされていることもあろう。
しかし、加賀百万石といわれる大藩の存在や金山を擁する佐渡、また北前船(きたまえぶね)の寄航する各地の存在を考えると、看過できない要地を列挙できよう。とりわけ指摘したいのは、沿海州に栄えたツングース族の国、渤海(ぼっかい)との交流地となっていたことである。
渤海は、奈良時代から平安時代にかけて三十回以上にわたって使者が来日し、毛皮・薬用人参などをもたらした。また、日本も十数回使者を遣わしていた。とくに、唐の滅亡後も交流があったことは注目されよう。
その使者を接待したのが、越前の松原客院や能登の能登客院であった。筆者もかつて、それらの客院跡を探訪したことがあったが、現地の人にも忘れられた存在で、いずれもその場所を推測するにとどまった経験がある。
このように見てくると、歴史思考における先入観、すなわち表とか裏とか、陰と陽とかの概念は極力排除しなければならないであろう。
それぞれの地域には、それぞれの深い歴史がある。それに虚心で対面し、その地域の歴史を掘り下げるべきである。その際に頼るのは、史料であり、資料である。同時にその史料・資料の信慧性を見極めることが必要であろう。
文献史料であれば、いつ書かれたものか、また、書いた人物はどのような立場の人なのか、ということは十分に承知して判読すべきであろう。
それが考古資料であれば、いつ、だれの手によってどの場所から掘り出されたものかを検討しなければ、その歴史的価値の評価は困難となろう。
そして、できるだけ、その場所に臨んで、その史料・資料の存在した地域の空気を吸ってみることであろう。 
 
蝦夷の馴属と奥羽の拓殖

 

1 第一席講演の概要
前席においては、はじめにまず石器時代の遺跡の研究から、蝦夷人が昔拡がっておった場所の範囲の想定が、ほぼできるであろうという希望を述べまして、それから天孫種族と蝦夷人と接触した当時のの有様、日本武尊征夷の伝説、白河・菊多の関を定めた年代等をほぼ説明し、さらに進んで佐伯部・東人などのことにまで及んでおきました。だんだんと話が枝葉に深入りしまして、「蝦夷の馴服」も「奥羽の拓殖」も、どかかへか行ってしまいそうになりました。
2 参考書
しかし市場に見えておりますこの拓殖の事歴については、一々の事実を、この僅少なる時間内において私が申し述べなくても、大体「大日本史」の「蝦夷伝」をご覧になれば、ほぼ纏まっておりまするし、近年は「古事類苑」の人事部にも蝦夷に関する史料が多く集められており、最近には菊池仁齢氏の「奈良平安時代の奥羽経営」という書も発行になっていることでありますから、それを私がことごとく申し述べる必要は少なかろうと存じます。それで今回の講演には大いに時間を倹約しまして、普通の書でわかる各個の事実はなるべくそれに譲ることにしまして、奈良・平安時代の蝦夷に関する研究の根本ともなるべき夷俘と俘囚とのことをこれから申し述べましょう。なお時間の余裕がありますれば、進んで他の具体的のお話に映りましょう。
3 夷俘囚
夷俘と俘因とは、古代史上にしばしば出て来る名称でありまして、両者同じ意味に使ったところもありますが、また違う意味にも使ってあります。このことを少しくつまびらかに研究してみますると、蝦夷と日本人と接触しました関係がよく分かり、自然に蝦夷の馴服と奥羽の拓殖との事情が明らかになる訳でありますから、私はこの側面から奥羽の事情を申し述べまして、馴服・拓殖そのものの個々の事実は、右申した『大日本史』の「蝦夷伝」、もしくは『故事類苑』人事部の蝦夷の条を御覧を願うと、こういうことに致しましょう。
4 夷俘は夷族
夷俘とはなんであるか、これには異議は少ない。普通に解して蝦夷人の捕虜になった者だという。あるいは蝦夷人の皇化に服して降参した者。降参したのでも、捕らえられたのでも同じ結果でありまして、今日の言葉で言えばもと蝦夷人の俘虜になったものということでありますが、必ずしも俘虜とは限らず、時としては蝦夷そのものをも指して呼ぶこともあります。つまり夷俘と蝦夷と、ほとんど区別がない言葉として使用している場合があります。これを詳しく申しますると面倒なことにもなりますが、だいたい夷俘が蝦夷人であることについては異論はない。
5 俘囚は日本人なりとの説
しかるに俘因の方は、これは近来なかなかむずかしい問題になっている。俘因という名は、ことに古代史上に多く見えております。俘因が京へ来て新年の式に参列したとか、俘因某が親に孝行であったから褒美を貰ったとか、あるいは俘因某が蝦夷地に行って蝦夷を騒がしたから土佐に流されたとか、あるいは俘因何百人をどこそこへ移したとかいうように、その事跡はたくさん古書に見えております。後には俘因の長安倍貞任が謀叛したとか、俘因の長清原武則がどうしたとか、あるいはこの平泉に栄華を極めた藤原清衡・基衡・秀衡らに至るまで、皆俘因であるとかいうように言われている。かく俘因という名は奈良朝から平安朝には明らかに多く見えておりますが、これが鎌倉時代に至ってはほとんど見えない。否、全く消えてしまっております。
6 俘囚と夷俘とは同じの旧説
ところで、その俘因は本来何者であるかという問題が、二、三十年来大変むずかしくなった。近ごろむずかしくなったというとおかしいが、昔はそういうことは問題にならなかった。少なくも平安朝中ごろ以来は、夷俘も俘因も同じ者だという説が一般に信ぜられておった。徳川時代でも『大日本史』には俘因を蝦夷伝中に収めて疑わない。古いところでは菅原道真が編簒されました『類聚国史』。これは『日本紀』『続日本紀』以下、世々の国史を、その記事の事実によって集めたもので、その中に蝦夷の部がありますが、それには蝦夷として記載せられたことを皆集めて、それとは別に俘因の部がある。しかしてその中に夷俘のことも一所に出してありますので、つまり夷俘も俘因も一緒のものとしてあるのです。要するに菅公は、『類聚国史』を編纂するさいに、夷俘と俘因との間に区別を置かなかった。
7 「江次第抄」の説
それから遙か下って、一条関白兼良はその著述の「江次第抄」(正月宴会条)において、こういうことを言っている。「俘囚はもと是れ王民、而して夷の為に略せされ遂に賤隷となる、故に俘囚と云う。あるいは夷俘とも云う。その属陸奥・出羽に在り、後分れて諸国に居る」と。これは夷と俘囚を全然同物異名と見ている。「その族陸奥・出羽にあり」とある。もと陸奥・出羽の住人で、それが後に「諸国に分れ居る」とある通りで、実際夷俘・俘囚はほとんど全国に行き渡っている。九州辺りにも夷俘・俘囚は多かった。貞観年間に新羅の海賊船を追い払わせたり、海岸を守らせたりした蝦夷人とは、畢竟これであります。水戸で「大日本史」が編纂される際にも、やはりこの俘囚を蝦夷の部に入れてあります。そして安倍貞任も、清原武則もことごとく「蝦夷伝」の中に収めてある。
8 「大日本史」と俘囚
これをもって見ますると、少くも「大日本史に至るまでは、夷俘と、たといその間に区別があるとしても、同じく蝦夷人であるということにほとんど異説がなかったのであります。平安朝において菅原道真、室町時代に一条禅閤、徳川時代の「大日本史」、すべて夷俘と俘囚とを同じく蝦夷人と見ております。従って俘囚の長たる安倍貞任・清原武則などは、同じく蝦夷人と見ておったのが古い説であります。
9 俘囚はもと王民との説の解
ところが、明治時代になってだんだん変わった説が出て来た。俘因と夷俘とは違う、夷俘が蝦夷人であるということについては異論はないが、俘因は本来王民で、すなわち日本人だという。これは「俘因はもと是れ王民」という『江次第抄』の語に重きをおいた説です。もっとも一条禅閤の記しおかれたところで見ると、「俘因はもと是れ王民」であるといいながら、「故に或いは夷俘と云ふ」とあって紛らわしい。論者はその前半のみを取っているが、終わりまで見れば、俘因は蝦夷人でないと同時に、夷俘も日本人だという説にならねばならぬのでありますが、そこにはいろいろの理屈もあって、ともかく俘因は夷種ではないという説が現われた。これは一時非常に有力なるものとなって、学会を風靡してしまいました。近年発行されました『古事類苑』の人事部などにも、俘因と夷俘とは違う、夷俘は蝦夷人であるが、俘因は日本人であると、こういう風に書いてある。その理由とするところは、例の一条禅閤の「俘因はもと是れ王民」から出て来る。王民が夷のために略せられて、ついに賤隷となる、ゆえに俘因というとあってみれば、なるほど夷ではないらしい。その末文の「或いは夷俘と云ふ」の句が邪魔になるが、それはしばらく措いて、俘因の説明のみを見ると、いかにももっともな解釈と言わねばならぬ。そこで、何故に「俘因もと是れ王民」ということを一条兼良公が書いたかというと、これは『類聚国史』から『続日本紀』の文を取って書いたので、説明すこぶる不十分と言わねばならぬ。
10 俘囚中の日本人
奈良朝の末期、称徳天皇の神護景雲三年[十一月]に、陸奥の国牡鹿郡の俘因外少初位上勲七等大伴部押人という者が上書きしていうには、「伝へ聞く、押人等はもと是れ紀伊国名草郡片岡里の人なり。昔先祖大伴部直が夷を征する時に、小田郡嶋田村に到つて是に居る。其の後子孫夷の為めに虜とせられ、代を歴て俘となる。幸に聖朝運を撫し、神武辺を威するによりて、彼の虜庭を抜きて久しく化民となる。望み請ふ、俘因の名を除きて、調庸の民とならん」と。これは自分がもと日本人の種であることを言い立てて、俘因の籍より脱し、朝廷に租税、賦役を奉るところの普通の人民の仲間になりたいと願ったのであります。政府ではそれだけ調庸の民が殖えるなだから、さっそくこれを許した。これが例になって、だんだんこれにならうものが出て来た。
11 元王民たりし俘囚
光仁天皇宝亀元年[四月]には、陸奥国黒川・賀美等諸郡の俘因三千九百二十人という多数が、おのれらの父祖は「本是王民」である、それが蝦夷のために略せられて賤隷となった、しかるに今やすでに敵を殺して帰降し、子孫蕃息している、仰ぎ願わくは俘因の籍を脱して調貢を致したいと願い出た。もちろん、これも許された。俘因はもとこれ王民なりとの説はこれらから出ている。一条禅閤は全然この宝亀の場合の文を取って書いているのであります。
12 俘囚と夷俘の区別し
なるほど古書の記事を見ますと、俘囚と夷俘とは明かに区別してある。俘囚某・夷俘某と、その名を列記する場合にも皆区別がしてあります。その人名のごときも、夷俘は夷名を持ち、俘囚は日本人と同様の名を持っている。俘囚清原武則・安倍貞任という類で、名前だけでは普通の日本人と区別が出来ないのが多い。しかるに夷俘の方は、皆蝦夷風の名前で、宇漢米公宇屈波宇というような、一見して蝦夷名であります。また朝廷から彼らに位を授けられるにも、俘囚は普通の人民と同じように、従五位とか正六位とかいうのであるが、夷俘には夷第一等、夷第二等などというような、まるで異なったものである。ことに国史には、この夷俘のことを蝦夷とも書いてある場合がありますが、俘囚のことを蝦夷と書いた例はない。それで夷俘と俘囚は本来違う者で、夷俘は蝦夷種であるが、俘囚はもと日本人が蝦夷のために捕虜になって、ついに夷地に永住し、蝦夷の仲間になったものだろいう説が起こったのであります。しかしこれは無理な考え方であると思う。
13 俘囚は夷種なるの証
かの大伴部押人が神護景雲三年に自分の先祖は紀伊の民であると言ったのは、あるいは事実であったかも知れませぬ。もし然りとすれば彼は日本人である。俘囚たるべからざる日本人である。それが蝦夷のために捕らえられて、間違って俘囚の仲間になっていたから、今や王化に服したので、何とぞ俘囚の名を除いて調庸の民になりたいといったのであるから、これから見ても俘囚は日本人でないという結論になりましょう。もし論者の説のごとく、俘囚そのものがただちに日本人であるならば、ことさらに自己が日本人であることを申し立てて、俘囚の名を除いてもらいたいと願う必要はない。もしまた押人が嘘を言ったものであったならば、ますます俘囚は日本人でないという証拠になりましょう。
当時政府の方針は、なるべく調庸の民を増すにあって、これはその時分の国司に対する奨励法にも見えている。人口が増し租税が多くなるというのが、国司の良政治の一となっている。それでありますから、陸奥において俘囚の籍から脱して調庸の民になろうと願ったものはドシドシ許される。元来俘囚からは租税を取らない。のみならず、俘囚となって帰服してから二代間は、政府より俘囚料の米を賜わる。それほどにも俘囚は優待を受けたもので、つまりかくまでして蝦夷を懐柔しておったものであります。そこへみずから願ってその籍を脱して調庸の民になろうというのであるから、事実の有無はともかく、たちまち一も二もなく許される。間もなく三千九百二十人という多数が願って許されたというのも、同じ意味である。
その三千九百二十人は果して押人同様日本人であったかどうだったか、これは詮索する必要はない。すなわち現にこれまで俘囚に属していた人が、私どもは俘囚であるべからざる者が過って俘囚の仲間に這入っているのであるから、これを除いて調庸の民になりたいという意味ならば、これはかえって俘囚は本来王民と違うものだという方の証拠になるべきものであって、これを日本人だという証拠に使うのは無理であります。
しかし私は、俘囚ら三千九百二十人がもと王民であったと申し出たことについて、別の考えを下してみたいと思う。これは俘囚の中でも、特にこれを願い出た黒川・賀美など諸郡の三千九百二十人という人々のみがもと王民であったといったので、必ずしも俘囚全体のことではない。三千九百二十人といえばいかにも多数ではありますけれども、理屈を言えば五十歩百歩でありましても、嘘でもありましても、政策上から許したのでありますから、道理は一つです。そこでその「王民」という語ですが、これは必ずしも日本人という意味ではない。シナからの帰化人でも、皇化に服してわが国に帰化し、臣ミンの戸籍に編入されて徴庸の民となれば、すなわち王民である。朝鮮人でも、ないし蝦夷人でも同様で、調庸の民となれば、すなわち王民であります。それには明らかな証拠がある。
14 王民の語の解
天平宝字二年(六月)に陸奥の帰降の夷俘が男女合せて一千六百九十余人、これが皇化を慕って賊と戦い、官軍に対して忠義を尽した。そこで彼らに種子を与え、農業に従事をせしめ、永く「王民」となして辺軍に充てたとある。つまり蝦夷人に農業を教え、土着させて王民となしたのであります。蝦夷人も王民になれる。王民必ずしも日本人の種だという証拠にはならぬ。されば右の二つの例について、俘囚大伴部押人は自分を元紀伊の民で、日本人であるというておるけれども、後の三千九百二十人は必ずしも日本人だとはいわぬ。自分らの祖先は元王民となっていたが、それが夷の略するところとなって、いつしか再びその仲間になったといったものであると解したい。すなわち旧縁を尋ねて、自分らも再び王民に戻りたいと願ったのである。こう解すれば、ここに王民というのは、何も日本人だという証拠にはならぬ。それを一条禅閤が軽率に解して、右の三千九百二十人以外にも渉り、俘囚そのものをもって、ただちにもとこれ王民にして、夷のために略せられ、ついに賤隷となったものだといったのは、確かに間違いである。ことに「故に俘囚と云う。或は夷俘と云ふ」とあっては、蝦夷もまたもと王民だということになり、まったく訳のわからぬものになってしまいます。要するにこのことは、俘囚と夷俘とは違う種族であるという証拠には一つもならぬ。
15 夷俘と俘囚とは同種
ことに国史を調べてみますと、明らかに夷俘であったものの子孫で、俘囚になっている例もあります。夷俘が内地に移されて、だんだん年代を経ると、その風俗も改まり。まったく日本風になって、俘囚になってしまう。それで夷俘でいる間は位を授けるにも夷俘の位であるが、その子孫が俘囚となると、今度は従五位下とか従六位とかいう普通のものをくれる。平安朝も次第に下がってまいりますと、内地ではもはや夷俘も皆俘囚になってしまって、夷俘と俘囚との別がなくなった。そこで菅公の「類聚国史」にも、これを一緒にしていることと思われます。
菅公は夷俘と俘囚とを一緒にして、これと別に蝦夷の部を設けてあるのは、蝦夷はいまだ皇化に服しない生蕃で、これに対して当時夷俘は俘囚とともに日本風になってしまっていたためでありましょう。このころの政府の規則たる「延喜式」を見ますと、これにも夷俘という語と俘囚という語とを一緒に使っております。夷俘に与える米を夷俘料といいあるいは俘囚料ともいっている。夷俘は斯々すべしと一方にあるかと思えば、それを一方では俘囚と書いてある。
つまり延喜のころは、夷俘も俘囚も区別のないことになっていたので、菅公もこれを一緒にし、一条禅閤もやはり夷俘といいあるいは俘囚というとも書いたものでありましょう。このほかにも国史に俘囚を蛮といい、異類といえるなど、彼らが夷種なるの証拠はいくらでもあります。
16 夷俘は生蕃、俘囚は熱蕃
しかしながら、これは夷俘が十分熟化した後のことで、奈良朝から平安朝の初期のころは、夷俘と俘囚との間に明らかに区別がありました。で、その区別は何かと申すと、夷俘はすなわち生藩で、俘囚はすなわち熟蕃といったなら、一番早分かりが致しましょう。同じく蝦夷でありましても、早く王化に服して、日本の風俗に従い、日本語を用い、日本の服を着、日本人風名前をつけるようになったもの、これを俘囚というのであります。その夷俘も、俘囚も、内地に移して、主として農業に従事せしめ、日本人と同化せしめる。これが古来わが政府の執り来った方針であります。
17 夷俘の語の前後の相違
それで俘囚と夷俘と、内地にいるものは、いつしか区別がなくなって、蝦夷地に止まっている生蕃のみが、蝦夷の名称をもって呼ばれることとなってしまった。これ「類聚国史」に蝦夷と夷俘・俘囚とを区別した時代の真相で、同じく夷俘という語をもって書いてあっても、平安朝中ごろ以後にいう夷俘と、その以前にいう夷俘とは多少違っている。この点をさえ区別致しますれば、誠に明らかに分かるのであらいまして、要するに俘囚も夷俘も種族においては同じ者である。ただ文化の程度が違い、生蕃と熱蕃との相違があっただけのことであります。
18 俘囚の起源
しからばその生蕃と熱蕃との区別は、いつの時代に始ったか。これはおそらく蝦夷と日本人とが接触した当時からあったことで、神武天皇以後、あるいはさらにその以前から、すでにこの区別はあったでありましょう。斉明天皇の朝に阿部比羅夫が日本海方面の蝦夷を征伐した当時、各地において蝦夷の人口の調査をしました。その時の記事に、蝦夷の人口は何人、虜の人口は何人と、明らかに区別をして、日本紀(斉明五年三月条)に書いてある。
19 虜と俘囚
この虜すなわち「とりこ」で、これすなわち俘囚の意味であります。これを虜といったのは、虜すなわち外夷という次第ではなく、普通の意味によっても、捕虜のことでありましょう。蝦夷が捕虜となり、日本風に化せられる。それで後には捕虜とはならずとも、日本風になった熱蕃を虜といい。同じ意味で俘囚といったものとみえます。
比羅夫遠征の結果として蝦夷が多く服属した。この斉明天皇の御代に、坂合部連石布(いしわき)という人が遣唐使になって唐に行き、蝦夷仁二人を同行して、これを唐の天子に示した。このことは唐の歴史にもちゃんと書いてある。蝦夷の国には海島中にあって、その国の人は大変髭が長い。長さ四尺とあります。非常に弓を射ることが上手で、四十間のかなたに人を立たせ、頭に瓢箪を載せて、これを射るに過ることがないとある。
20 斉明朝ごろの蝦夷の三種
この時の遣唐使坂合部連石布の随行者に、壱岐連博徳(はかとこ)という人があった。その人の日記に、この時の様子が詳しく書いてある。「唐の天子問ひて曰く、此等の蝦夷の国は何方にありや。使人謹みて答ふ。国は東北にあり。天子問ひて曰く、蝦夷は幾種ありや。使人答へて曰く。類に三種あり、遠きを都加留(つがる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近きは熟蝦夷(にぎえみし)。今この熟蝦夷の夷毎本国の朝に入貢す」(斉明紀五年七月条)などと、まだまだ詳しい問答がありますが、要するにこの熟蝦夷がいわゆる虜すなわち俘囚で、今日の語でいえば熟蝦夷と当る。これに対して麁蝦夷が生藩で、いわゆる夷俘に当るのであります。その奧に、さらに都加留というのがいた。都加留はすなわち津軽で、源平時代までも蝦夷地の端だと思っていたみえて、よく悪路・津軽の端(はて)までもなどといってあります。
21 王朝の対夷政策の一
さて、政府の蝦夷に対する扱い方は、どういう風であったと申すに、浮腫なり、夷俘なり、王化に服した者はこれを蝦夷地から離して内地に移す。蝦夷地に置くと、彼らが団結して、同化しにくい。団結して勢力が減じない。そこで政府の政策では、なるべく彼らを団結させないことに終始注意している。
22 以夷制夷
これはシナ伝来の語でありますが、常に夷をもって夷を制(征)するの方法を採っている。蝦夷のある団体を怪獣しては、これをして他の蝦夷の団体を制せしめる。歴代の征夷「詔勅」を見ますると、「夷を以て夷を制するは是古への上計」などと見えております。蝦夷は強い、一もって日本人の百に当るということは、神武天皇の御製以来極った相場である。それが貞観年間になると、一もって千に当るとまで言われている。そこでいつでも蝦夷を征伐する場合には、日本人と蝦夷人との戦争ではなく、うまく蝦夷人を用いて、蝦夷同士の戦争をやらせる。これが古今動かぬ遣り方であった。
23 前九・後三の役と俘囚
かの有名な前九年・後三年の役などもそうで、その長の安倍武則なり、藤原清衡なりが、それ自身蝦夷人であったかどうかということは、これはまず別問題として説明を後に譲りまして、少なくとも彼らの下に付いておった兵隊は、大部分俘囚すなわち日本化したる蝦夷であります。これは当時の記録上、もはや争うべからざることである。その前九年の役において、陸奥守兼鎮守府将軍たる源頼義は、配下の官軍以外、蝦夷人などをも使って貞任を攻めたが、前後十二年を費してまだこれを平げることが出来ない。そこで最後に、出羽仙北の俘囚清原武則を頼んで俘囚同士を戦わせ、やっと勝ったのであります。
24 前九年役はその実十二年役
ここでちょっとお話が脇道に入りますが、奥羽経営至上大切なことでありますから、前九年の役ということを説明したい。この戦争は実は十二年掛かった大戦であります。ゆえに古い書物には、皆これを十二年の役といっておる。この十二年の役を間違えて、前後二つの役に分けて、前九年後三年合して十二年の役だなどといっておりますがこれは大間違いでいわゆる前九年の役なる安倍氏追討だけに、まさに十二年を費している。これは当時陸奥の国史の人気は六年で、その人気は疾くに満ちたけれども安倍氏の勢力は、いっこう衰えない。陸奥守源頼義は任期六年経ってもこれを滅ぼすことが出来なかったから、さらに六年の重任を得て、十二年を費したが強敵貞任はまだ滅びない。
25 前九役と旅純攻囲
今度は三度目の重任という訳にはまいらず、代りの国守は間もなく下向するということになった。是が非でも早く貞任を滅ぼしてしまなければならぬ破目に陥った。これはちょうど乃木大将の二百三高地に対されたと同じことで、ぜひ明治三十七年中に旅順を落としてしまわねばバルチック艦隊は間もなくやって来る、わが海軍はこれを迎えるために、旅順の封鎖を解いて根拠地へ帰り、船の修繕をしなければならぬ、どうでも旅順は陸軍の力によって今年中に落としてしまわねばならぬということになった。頼義のこの場合まさにこの通りである。そこで彼は出羽仙北の俘囚長清原武則を巧く懐柔し、勧むるに甘言をもってし、厚く賄賂を贈り、やっとこれを説き付けて、俘囚と俘囚との戦争をさした訳であります。この時清原武則は、一万の俘囚を率いてやって来た。頼義手を取って喜んで泣いたとある。かくてめでたく貞任を滅ぼすことが出来た。これには清原氏の功が多いので、頼義は武則を推挙して鎮守府将軍とし、もってこれに報いたのである。
26 俘囚安倍に代る俘囚清原
勢いかくのごとくであったから、清原氏は非常な勢いで、ただちに安倍氏に代って奥羽に勢力を占むることとなった。畢竟、前九年の役は、十二年を費して俘囚長安倍氏に代うるに、俘囚長清原氏をもってするの結果となったに過ぎないのである。のみならず、清原氏の方では、頼義が貞任征伐の時に、武則に降参して清原氏の家人になり、それで清原氏がこれを救うてやったくらいに思うておる。後三年の役に当り、清原武衡は源義家に向い、こんなことを言っている。汝の父頼義は、わが父武則の家人になって、助けを得たではないかと。それに対して義家は、果して頼義が汝の父の家人になったならば証拠を示せ、差入れた名簿があるであろうから、それを見せよと言ったとある。これは結局武衡が閉口したのでありますけれども、清原の方では自分の方へ頼義が降参したと思っていたくらいにまで、頼義は手を尽くして武則を懐柔したものであった。
27 蝦夷の敗退は一致の欠乏
この時もし俘囚同士に団結があって、清原氏と安倍氏とが一致するか、少くも清原氏が頼義を助けなかったならば、前九年の役は十二年は愚か、いつまでたっても容易には済まなんだことと思う。鎌倉時代に至っても、やはり奥州の蝦夷人同士喧嘩をして、彼らは次第に弱ってしまったことであった。そういう風で、彼らは仲間同士で戦ってはおのずから弱くなる。彼らの団結をなくして、夷をもって夷を制することは、わが政府の政策として非常に必要な、また非常に悧巧なことでありまして、これで古来着々成功してきたのであります。
28 王朝の対策政策の二
今一つの政策は、蝦夷地に日本の文明を伝え、彼らを同化せしめることであります。蝦夷人の帰服したものは、非常なる優待を与えてだんだんと内地に移す。かくして彼らは、九州の端までも皆行き渡っている。この手段で彼らの勢力を殺ぐと同時に、内地人を続々蝦夷地に移す。なんのことはない、人間の入れ替えをやったのである。奥羽地方には蝦夷人の子孫が多かろう、九州辺りには蝦夷人の血は混っておるまいとは、ちょっと考えられそうでありますが、必ずしもそうではない。九州辺りにも蝦夷人の子孫は多くなければならぬ。移されてかの地へ行ったものは、よほどたくさんあります。これと反対に、奥羽には内地人がたくさん這入っている。
29 「延喜式」の俘囚料
内地に移された俘囚らの数はどのくらいあったということは、今日これをつまびらかに知ることが出来ませぬが、「延喜式」を見ますと、延喜時代の俘囚料の高が出ております。
地方税で支弁するもので、この予算のある国がおよそ三十五カ国。これは蝦夷人を内地に移しますると、二代間は糧量をくれる。その米は一人一日稲二把、十日に二束、一年で稲七十三束の割合になります、しかしてその俘囚料を計上してあります高は、多い国には十数万束にも達している。最も多いのが、肥後で、これは十七万束とある。一束は春いて当時の桝で米五升を得るというのでありますから、十七万束では八千五百石で、これを貸し出してその利息をもって俘囚に給与するのであります。その当時の利息は大変高いもので、三割ないし五割というようなことでありますから、私は今延喜当時果して何割であったか調べかねておりますが、かりにこれを四割と見ると、肥後国において俘囚に給与する高が毎年三千四百石ずつとなり、一人七十三束三石六斗五升として、現に給与を受くる俘囚の数九百三十二弱となる。
この数は精密な計算ではありませぬ。出挙(すいこ)すなわち貸出しの利息をよく研究したうえで定むべきことではありますが、大約まず肥後で一千人、近江で五、六百人ということになる。他にも多い国はいくらもあります。
30 俘囚料と俘囚の数
しかしてこれは諸国にいる蝦夷種の民の実数ではなくて、現に俘囚の名のもとに俘囚料の給与を受けている数でありまう。前申した通り、俘囚は内地へ移ってから二代間給与を受けるが、孫には及ばない。そこで実際蝦夷種でも、古く移ってもはやこの給与にあずからぬものが、ほかにいくらあるかわかりませぬ。かの日向のごときは、「延喜式」では俘囚料一千百束を計上してあるに過ぎませぬが、これより先に尽して、数が減じたためである。しからば、延喜のころには日向に給与を受くる俘囚の数は、少くとも承和十四年、までは十万七千六百束以上を計上しておったもので、それだけの人の子孫はどこかになければならぬはずです。これもって他を類推すべきもので、「延喜式」に計上してある数はただその当時の実数で、その三十五国以外にも、かつて多数の俘囚の移されたところも多かったことでありましょうし、「延喜式」に俘囚料が少くとも、かつては多かった国も少なくないでありましょう。これを通計して考えてみますと、俘囚は全体でどのくらい内地に移されたものか、けだし想像以上の多数に上っておったことでありましょう。
31 夷地における日本人
これと反対に内地人で蝦夷地に移り、盛んに拓殖に従事したことの多かった様子も想像されます。中には内地人で当時俘囚の勢力のもとに属し、その仲間に這入っておった者も多かったに相違ない、かの安倍貞任のごときは非常な勢力を有して、奥州でも目貫きの場所奥六郡を横領し、国史もこれをいかんとも能わず、源平藤橘の名家の姓を唱えるいわゆる王臣子弟の徒までが、その下に属することとなっていた。これは徳川時代においても、日本人でアイヌの養子になったり、アイヌの仲間に這入ったりしたのがあるくらいでありますから、まして俘囚の勢力の盛んな時代には、いっこう珍しくなかったでありましょう。昔も今もそう人情に変わりのあるものではない。
32 遺利を東国に求む
ことに奈良朝以来、日本人が東国に利源を求め、富を得たいという思想は勃々(ぼつぼつ)として禁じることが出来ない有様であった。「万葉集」にこういう歌があります。
鳥が鳴く東を指してふさへしに 行かんと思へど由も実(さね)もなし
鳥が鳴く東の地方に行けば遺利がたくさんありますから、幸いを求めに行こうと思うが、行くべき便りもなければ旅費もないといって述懐した歌です。これは奈良朝時代の人士の思想の一端を示したものでありましょう。奥羽に行けば金がいくらでもそこに転がっているように思うておる。
33 奥州と黄金
天正二十年に奈良で大仏を造った時に、陸奥守百済王敬福じゃ、小田郡に出た黄金を献じた。日本の国内で初めて陸奥に黄金が出て来たのであります。奥州には黄金が多かった。いわゆる黄金花咲く陸奥山で、これはこの中尊寺の金色堂を見てもわかります。藤原清衡の時代に至っても、非常に金がたくさんあって、これを惜し気なく使ってある。基衡が毛越寺を造る時にも非常に金を費やした。本尊薬師仏を造るだけに費やしたのでも大したものであった。これはいずれ他の講師が述べられましょうから略しますが、ともかくこの奥州の砂金というものは非常な数で、金売吉次なども実に平泉の人でありました。マルコポーロの旅行記を見ますと、当時蒙古では日本には黄金がいくらでもあると思っていたようである。これは必ずしも奥州の金のみではありますまいが、昔の人が奥州を見るのは、蒙古人が日本を見たのと同じように考えておったに相違ない。そこで中央において志を得ない有為の人士や、内地の喰い詰め者や、冒険者などが続々奥州に這入ったに相違ない。そういう風にして、人間の入れ替わりがある。日本文化がだんだん辺境に及んで来る。俘囚はもと蝦夷人だといっても、まったく日本人と同じように開けてしまった。否、奥州でも勢力の中心地方のものは、「東路の埴生の小屋のいぶせきに」と歌われた東海道筋などよりも、遙かに開けていたであろうと思われます。
34 安倍氏の俘囚なる証
ここにおいてさらに解決すべき問題は、前に暫時お預りしておいた安倍・清原・藤原ら、いわゆる俘囚の長たるものの種族的研究であります。系図を見ますと、安倍氏は四道将軍大彦命の子孫、清原氏は天武天皇の後裔、それから藤原氏は天児屋根命の子孫で、ことにその清衡は左大臣魚名の後裔たる田原藤太秀郷の子孫だとある。しからばどれも立派な日本の貴族で、もちろん蝦夷ではありません。しかしながらこの系図果たしてことごとく信ずべきか否か。元来俘囚の長は、国史からその国内の俘囚の中で、衆の推すところのものを選んで命ずるものだとある。しからば、俘囚長は同じく俘囚であらねばならぬが、かの蝦夷をもって組織した佐伯部の兵の長たる佐伯宿禰は大友宿禰の一族で、これが佐伯部の長になった例を見ると、日本人で蝦夷を率いることが出来ないという訳はないという理屈もある。
俘囚が蝦夷人たることはすでに証明されても、その俘囚の長が必ずしも同種のものでなければならぬという理由はないから、安倍なり、清原なり、藤原なり、これらの豪族はもと内地から夷地に這入って、蝦夷人を従えたと解することも出来ましょう。けれども、それは唯一つの解釈でありまして、必ずしも証拠はない。多くの場合において、俘囚長はすなわち俘囚の仲間であるというのが事実であります。これは歴史上に晃かなことで、近江国の俘囚長、播磨の国の夷俘長などいくらも例はありますが、これはことごとく蝦夷人であります。系図も実はいろいろありまして、安倍氏の系図のごとき、大彦命の子孫にかけてあるのもありますけれども、現に貞任の子孫と称する秋田氏の系図ではこれを認めず、神武天皇御東征の時の長髄彦の兄の子孫だと入っていることはすでに申した通りであります。
35 安倍氏の由来
また現に奈良朝において、俘囚にして安倍姓を与えられたものがたくさんあるから、貞任の家あるいはその中の一かもしれませぬ。秋田家の系図でも、長髄彦の兄の安日の子孫が後に安倍姓を賜ったとも記してあります。それはまずいずれにしても、少くもその当時の都人士によって、安倍貞任・宗任らは蝦夷人であると看做されておったことは確かであります。これはその当時の「太政官符」にも明かにそう見えている。
36 宗任と俘囚
貞任らが降参した時に、太政官は、貞任らたちまち旧悪を悔い、すでに降虜となるうえは、その情、まことに矜(つつし)むべきものであるから、よろしく彼が同党類に仰せ、相ともに便所(びんじょ)に移住して永く皇民となし、衣糧を支給すべしとの命を下した。安倍宗任らはこれまで皇民ではなかったのである。それを今度降参したについて、同じ仲間の俘囚らとともに都合のよい所へ住ませよとのことであります。
37 前九の役は征夷の軍
それからまた源頼義はこの陸奥十二年の役終って、征夷の功によって伊予守に任ぜられ。その任期満ちて後。さらに重任を願った嘆願書が伝わっておりますが、それにも敵が夷であったことを精しく述べてあります。「爰に奥州のうち東夷帚し、郡県を領して以て胡地となし、人民を駆って以て蛮虜となす。」などと見えております。その当時において前九年の役すなわち奥州十二年の役は征夷の役であり、滅ぼされた安倍氏は夷の頭目であると都人が認めておったことは確かであります。
38 武士と東夷
もっとも後に源頼朝も雲上人から東夷と見られ、また豊壌泰時は「貞永式目」を書いた時に、こういう物を拵(こしら)えて、京辺にては定めて物も知らぬ夷どもの書き集めた物として笑われるだろうと言っている。誰も減じや北条氏などを目して、蝦夷だと言うものはありませぬが、これは別の理由のあることで、安倍氏とは訳が違う。安倍氏た夷裔であった事実は疑いを容れない。
39 俘囚の文化
さてこれらの俘囚は当時いかなる状態であったかというと、それはナカナカ開けておったものである。彼らは即吟に歌を詠ずるまでの文学を有していた。
年を経し糸のみだれの苦しさに衣のたてはほころびにけり
これは貞任が義家から弓をつがえて脅かされた時に即吟して免れたと伝えられるところです。また宗任は捕虜となって京都へ行った時に、大宮人からかの夷荻とうてい梅などは知るまいとのことで、その一枝を示された時に、
我国の梅の花とは思へども大宮人はなにと言ふらん
とさっそくやったので、さすがの大宮人も返歌が出来ず、大いに平行したと伝えられている。これらはむろん作りごとではありましょうが、ともかく彼らはかく開けているものだと信ぜられていたのであります。ことに「陸奥話記」を見ると、安倍貞任が厨川に敵を防いだ時の戦法は、後年楠木正成が千早城において敵を防いだ戦法とほとんど相類する。正成のやったのは、「太平記」の作者がこの厨川の役の記事を潤飾して書いたのではないかと思われるくらいで、それを貞任は確かにやっておったのであります。このほか、つまびらかに「陸奥話記」を読んでみると、当時彼らの開けていたことが重いのほかであることがよくわかる。しかしてそれは貞任一人がかく開けたのではなくて、その時分の奥州の俘囚仲間は直接京都の文明を輸入し、随分開けたものであったのであります。後に藤原三代が平泉を中心として栄えた時代のごときは、日本でもほかの地方よりよほど進んでいたようである。日本文明の第一の中心はむろん京都として、平泉はあるいは第二の文明の中心になっておったかも知れませぬ。ともかく俘囚安倍氏はあく開けておった。
40 清原氏の俘囚の証
次に清原氏もまたいわゆる俘囚の長であって、「陸奥話記」にも明らかにこれを俘囚の長とあり、その「陸奥話記」に一に「奥州合戦記」として「扶桑略記」(康平五年十二月条)に引いてありますが、それを「今昔物語」に引いてあるところを見ますと、この俘囚の長を「夷の長」と書いてあります。
これをもっても彼らを夷と見ていたことは明らかであります。また新羅三郎義光が、兄義家を助けんがために奥州に下ろうと願った言葉の中にも、兄義家、夷のために攻められ云々と言っている。ズッと後になりまして、藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられたが、これはすでに清原武則においても先例のあることで、武則は一万騎の俘囚軍を率いて、前九年の役に頼義を助けた勲功をもって、この栄職に任ぜられた。これについて後に後三年の役に際し、武衡は義家を罵って、汝の父頼義は、わが父武則の援けを借りた家人ならずやと言った時に、義家答えて、戦争の習いとして困った時に援兵を乞うということはこれは普通である。わが父頼義が汝の父武則に助けを借りたことは、これは否定しない。しかしながら、その報として「武則は賤しき夷の名をもって、辱くも鎮守府将軍に任ぜられた、既に恩は充分報いてある」とこう答えている。
清原氏が同じく夷として認められていたことは、これによっても明かであります。  
 
日高見国 (ひたかみのくに)

 

日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。
『釈日本紀』は、日高見国が大祓の祝詞のいう神武東征以前の大和であり、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』での日本武尊東征時の常陸国であることについて、平安時代の日本紀講筵の「公望私記」を引用し、「四望高遠之地、可謂日高見国歟、指似不可言一処之謂耳(四方を望める高台の地で、汎用性のある語)」としているが、この解釈については古来より様々に論じられている。
・・・「古代蝦夷を考える」で高橋富雄は日高見に対する想いを学会に向けて、こうぶつけている。
祝詞日高見国の定説的理解は、日高見国の問題の歴史化の芽を摘んでしまった。日本古代国家成立史上の謎解明の道も塞いでしまった。わたくしはそうおもっている。祝詞の日高見も景行紀のそれも同じものだったはずなのに、祝詞学者たちは両者を別々のものと考える定説をつくりあげてしまった。この人たちは、すべて権威ある国学者たちであった。そのために、この人たちの権威のもとにつくりあげられたオオヤマト国家学説も、権威ある歴史学説として、今なお支配的である。われわれは今その全面的な再検討を迫られている。

問題となったのは「六月晦大祓詞」と「還却崇神詞」の両方に日高見が登場する事からであった。景行紀において、武内宿祢の甘言によって始まった蝦夷討伐の中に日高見国が含まれていた。それは恐らく、陸奥国の日高見国であろうと思われてはいたが「還却崇神詞」にも登場する日高見国の扱いから、まつろわぬ民であり国の総称としての日高見国となってしまった。それは「還却崇神詞」が天照大神の命により、天穂日葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされた話の流れが「還却崇神詞」に記されている為、その舞台が出雲であろう事から、日高見は景行紀の「東夷の中、日高見国あり」の狭まれた中の存在から「大倭という名の日高見国」と漠然とした存在になった事を高橋富雄は嘆いていた。
しかし、この神話の舞台が出雲では無く関東であるならどうなるだろう?話の終わりには、高天原からの返し矢によって死んだ天若日子とそっくりな味耜高彦根が登場し、天若日子とそっくりな事を憤慨している。この物語で注目すべきは、味耜高彦根は天若日子と似て非なる存在であるという事を訴えている。それを考慮して思うに、人だけでなく、その舞台となった地も似て非なる場所では無かったのか?と思うのだ。
誰かの書にて「記紀」に対する疑問を述べていた。日本で一番高い筈の霊峰富士が、何故に「記紀」に登場しないのかと。天智天皇時代に、鹿島神宮の修復に人などを派遣している。また天武天皇時代には、天武天皇が伊豆で発生した大地震をしきりに気にしている。朝廷側が気にする東国の記述が何故少ないのか。ましてや近畿からも遠望できる富士山が登場しないのはおかしいと。高天原は遠い彼方の存在であるが、それは海の彼方であり山の彼方でもある。人がなかなか辿り着けない地を高天原とした可能性から、何故に富士山が除外されているのか。関東には多くの富士見台と呼ばれる地名があるのは、そこから富士山が見えるからだ。古代人の思考からも富士山を高天原と見做さないのは確かに不自然な事でもある。
そしてだ、味耜高彦根を祀る神社の多くは関東にある。また天地開闢の神とも云われる天御中主命を一番多く祀る地は茨城県である。その茨城県の「我国間記」では「天地開闢の地」と記されている。しかし古代史の中心は近畿以南となっており、東国軽視の風潮が蔓延している。その為に「還却崇神詞」の舞台が出雲であるという定説から高橋富雄も嘆いた。しかしその嘆きも「還却崇神詞」の舞台が東国になれば歓喜に変わる事だろう。
鶏が鳴く 東の国に 高山は さほにあれども 二神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山を 冬こもり 時じき時と 見ずて行かば まして恋しみ 雪消する 山道すらを なづみぞ我が来る   「万葉集382」
東の国に高い山は沢山あれど、中でもとりわけ男神と女神のいます貴い山で二つの嶺の並び立つさまが心を惹きつける山とと、神代の昔から人が語り継いで、春ごとに国見の行われてきた筑波の山よ、それなのに今はまだ冬でその時期ではないからと国見をしないで行ってしまったら、これまで以上に恋しく思われるだろうと、雪融けのぬかるんだ山道を苦労しながら、私はやっと今この頂まで登って来た。 
この「万葉集382」をどう解釈するか。筑波の山は筑波山であり、伊弉諾と伊邪那美を祀る山でもある。この筑波山が神代・・・つまり神の時代から語り継がれていたとされた山であった。また謎の境の明神というものがある。筑波山が聳える茨城県側に、伊弉諾が祀られ、福島県側に伊邪那美が祀られている。それがまた、宮城県の多賀城側に伊弉諾が祀られ、それ以北の蝦夷国に伊邪那美が祀られている。火之迦具土神を産んで死んだ伊邪那美は黄泉の国へ行き、黄泉津大神となった。それによって伊弉諾の現世とは、千曳岩によって区切られてしまった。それをそのまま、朝廷の支配側と被支配側にわければ、その境の明神の示すものが何であるか想像がつく。
実際の話、関東近辺に広がる一大古墳郡が発掘されているが、誰も歴史に照らし合わせて説明できていない。実情は関東の古墳群は学会から無視されている形で「記紀」の神代の話が進められている。だが関東の古墳群は、一つの王国の証であるのは間違い無いだろう。神話の舞台を東国に当て嵌めて考えても、なんらおかしくは無いと思えるのだ。
  
飛鳥時代

 

・・・飛鳥時代末期の北九州の倭人は、唐の脅威が北九州に迫っていると感じて危機感を高め、新羅と提携して半島から唐の勢力を駆逐する事を望んでいただろう。関東の革命軍が、壬申の乱の直後に北九州に進駐していれば、新羅に好感を持っていなかった勢力が、新羅の背後に進出した事になるから、新羅が強気になる状況にはならなかった。壬申の乱で畿内と山陰を制圧した甕星の勢力が、一旦山陰で留まったから、その時点では北九州や瀬戸内の倭人勢力は征討されずに残り、彼らが甕星と対立していた状況で、北九州の倭人と新羅が提携した可能性は否定できない。新羅がこの時期に反乱に踏み切った事情から考えれば、その方が合理的な解釈になる。制海権は反革命軍にあったと想定される時期だから、関東勢が海を越えて北九州を征服できたのは、壬申の乱直後ではなかった疑いが濃厚にある。後世の我々には、北九州の倭人の判断は少し無謀に見えるが、戦国時代の歴史を紐解けば、あり得ない話ではないと感じる。
上記の様な事情が進行していたのであれば、新羅の681年の唐への降伏は、新羅の期待を裏切る事態が発生した事になる。北九州が関東の革命軍の攻撃に耐えられず、神籠石(こうごいし)系の諸城が陥落し、関東の革命勢力が北九州を掌握した事が想定される。神籠石系の諸城が比較的内陸に分布している事は、北九州勢力は隼人勢と連携し、防衛線を隼人の地の北端に置いていた事を示唆する。大和政権が隼人にも早々に降伏勧告を出したから、北九州の倭人と隼人が連携したというシナリオは、上記の仮説の適否に拘わらず可能性が高い。唐書にその様な事情が記される可能性は、極めて低いから、上記が事実だった可能性も高い。
上記から想定される壬申の乱後の顛末は、以下だったと想定される。
甕星は、初戦で東鯷人の根拠地だった畿内と出雲を制圧し、東鯷人政権を打倒する事に成功したが、海から難波を攻略する事に失敗し、瀬戸内と九州には倭人勢力が温存された。それによって平安時代末期に、都落ちした平氏と東国や北陸を制圧していた源氏と、似ている勢力分布が生まれた。その後難波は、生駒を超えた革命勢力に制圧され、海上勢力としても次第に優勢になった革命勢力は、吉備を制圧して瀬戸内海も掌握し、681年以前に北九州に上陸し、西の倭人勢力を制圧した。軍事に疎い東鯷人政権を打倒する事は容易だったが、倭人勢力には軍事力があり、特に北九州の倭人は朝鮮半島での戦闘に精通していたから、征討に手間取った様だ。この様な経緯の中で、吉備が両勢力の前線になった時期に、吉備の神社勢が革命軍の甘言に乗せられ、吉備で反乱を起こしながら革命軍を導き入れ、倭人の本拠地に乱入して財宝を強奪したのであれば、桃太郎伝説が生まれた条件が揃う。一方の北九州では、地域の住民にも新羅との一体感があったから、倭人を裏切る風土はなかったと推測され、桃太郎伝説を際立たせた条件が揃う。  
 
古代吉備

 

1 はじめに
岡山市から総社市に点在する吉備の国には、 数多くの大きな古墳がある。晴れの国「岡山」は、古くから稲作や製塩業に恵まれた風土であったばかりでなく、 砂鉄を原料とする「タタラ」製法による製鉄も盛んな地であった。機内と比べて遜色のない古墳群を身近に見ながら育った私には、幼いころからある疑問があった。
・ 古墳はいつごろ造営されたものだろうか。
・ 吉備の国はいつごろ、なぜに衰退していったのだろうか。
この二つの疑問を学生時代に戻って、 解き明かしてみよう。参考にしたのは、 歴史読本で特集された「日本書記」であることを先に述べておく。
2 古墳の造営時期
古墳時代とは、 一般に3世紀半ば過ぎから7世紀末までの約400年間を指すそうだが、 この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立した。有名な「前方後円墳」はヤマト王権が統一政権として確立していく途上で、 各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀の後半に奈良盆地に王墓と見られる前方後円墳が出現し、4世紀中ごろから後半にかけて奈良盆地の北部「佐紀」の地に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれた。その後、河内平野に巨大古墳が約1世紀にわたって築造され、 続く5世紀の半ばにかけて各地に巨大古墳が広がり、6世紀終わりには日本各地ほぼ同時期に突然、 築造されなくなったというのである。
これは、ヤマト王権が確立し、中央から地方へと統治組織を広げ、 より強力な政権へと成長を遂げていった現れだと解されている。
○主な王墓
前期 / 奈良県桜井市、箸墓古墳(ハシハカ)「邪馬台国の女王卑弥呼の墓」
中期 / 大阪府堺市、大仙古墳(ダイセン)「仁徳天皇陵」
後期 / 奈良県橿原市、見瀬丸山古墳「欽明陵」
終末期 / 春日向山古墳「用明天皇陵」
○主な首長墓
前期 / 山梨県甲府市、甲斐銚子塚古墳
中期 / 岡山県岡山市新庄下、造山古墳
中期 / 岡山県総社市三須、作山古墳
終末期 / 奈良県高市郡明日香村島庄、石舞台古墳「蘇我馬子の墓」
3 吉備の国の衰退
造山・作山の両巨大古墳を有する吉備氏と機内王権の関係については、 吉備は機内王権に対する半独立的な勢力とする説と、 吉備氏は婚姻を通じて早くから畿内氏族の一員として、 ヤマト王権を構成した豪族であったとする説があるそうだが、ではなぜ衰退の一途をたどったのだろう。
「日本書記」に次のように記されている。
463(雄略7)年、天皇は吉備の国の動向を調べさせ、天皇に反逆の意があるとの官者の報告に激怒、 ために滅ぼされたという説があるが、 その報告の内容は次のようなものである。
「吉備の国の豪族吉備下道前津屋(キビシモツミチノサキヤ)は、 小女や小鶏を天皇になぞらえ、 自分になぞらえた大女や大鶏と闘わせ勝つことを喜び、希に小女・小鶏が勝つとそれを殺している。」
この吉備下前津屋の滅亡伝承の時期と5世紀前半の古墳以降、 巨大古墳が造営されなくなる時代とが合致しているからおもしろいのだが、こういう説もある。
「478(雄略22)年雄略天皇は、清寧(セイネイ)を皇太子に定め、翌年崩御する。皇太子の異母弟に当たる星川皇子(ホシカワノオウジ)は、母の稚姫(ワカメ)に皇位簒奪の策謀を授けられ、大蔵の官を占拠し、官財を欲しいいままに浪費した。ことは、反逆を知った雄略天皇の臣大伴室屋大連(オオトモノムロヤノオオムラジ)により、 大蔵に火が放たれ、 星川皇子らを焼き殺されて鎮圧されたというものだが、この皇子の母「雅姫」が吉備の国の豪族吉備上道臣(キビノカミミチオミ)の娘というから、 ことはややこしくなる。娘と孫の急を知った吉備上道臣は救援に向かうが間に合わず途中から引き返すが、皇太子清寧は、これを反逆行為として許さず、吉備氏の領有する地を没収した。結果は吉備氏の没落である。」
力をもってきた吉備の国の豪族に対する権力者のおそれが疑いを呼び、 そうした疑心暗鬼の関係が呼び起こした事件とも考えられるが、没後に起こった事件とはいえ、その背後には雄略天皇の影がつきまとう。事実、日本書紀には雄略天皇紀ほど分量の多い天皇はないという。そして、その内容は皇位継承者の殺戮や物部氏の豪族征伐といった冷酷さをにおわせる面と、官の制定や呉国への使者派遣、新羅救援といった広い視野と徳をもって国を治めたとする両面があり、研究者の関心も高いという。衰退の理由は、果たして「事実か、謀略か。」いずれにしても、このころ日本の古代国家が成立したわけである。
権力者の温情は、あくまで従順に「ほどほどの力」に満足して生きる人間にだけ向けられるものかもしれない。力をつけ始めると、 その相手に対する甘言や中傷が不安や脅威を煽り、自らの人間性を狂わせていくものだろうか。
権力が増大すると、それに比例して不安も増す。城の塀が高いのは、不安の裏返しなのかもしれない。徳も信頼も、間にある人々の甘言や中傷に左右されない確固たる関係の中に成立するものであるならば、 何をこそ大切にしなければならないか、 地に足つけてじっくりと考えてみたいものである。 
 
始皇帝の栄光と蹉跌――大敵は「間違った欲」と「甘言」

 

今回は中国の初代皇帝である秦の始皇帝について取り上げます。なぜ初めて天下を統一した英雄の国家が、わずか十数年で瓦解してしまったのでしょうか。
始皇帝は紀元前259年、戦国時代(中国の諸王が群雄割拠していた時代。後に燕、斉、楚、韓、趙、魏、秦の戦国七雄に絞られていく)の中国に、秦の王家の血筋として生まれました。諱(おくりな)は政です。ただ、生まれた時には父は趙に人質としてとられていたため、政もまた少年期を趙で人質として過ごしました。このあたりは、少年期を人質として過ごした徳川家康を彷彿とさせるものがあります。
その後、秦に戻って王の位をついだ政は、秦の国力を上げながら、ライバル諸国を滅ぼし、紀元前221年に初の中国統一国家を作り上げます。始皇帝という名前は、この統一後に名乗った名称です。「皇帝」は王を超越した存在であり、それまでの諸国の王とは別格であるという意味を持ちます。
戦国の七雄の中でも、秦は最も遅れた内陸地域に位置する国でした。現在の中華人民共和国の地図で見ても、最も開発が遅れている地域です。その秦がなぜ文明的には先を行くライバルに勝つことができたのでしょうか。
1つの理由は、いち早く封建主義を捨て、法と官僚制による統治を行うとともに、郡県制を採用したことです。後の科挙の時代(6世紀以降)に先駆け、家柄によらず出世出来るという実力主義に基づいた人材の登用制度と、システム化された官僚制を構築したのです。これが、人治主義で官僚制も未発達、家柄重視のライバル国に対して大きなアドバンテージを持つことになりました。
もう1つは、遅れていたがゆえに、他国の進んだ技術(灌漑技術や鉄器の技術など)を採用しやすかったということがあります。現代でも新興国の方がかえってスマートフォンの普及率が高いということがありますが、まさに秦は弱みをあえて強みに変えたわけです。SWOT分析では、一見W(弱み)に見えることをS(強み)と出来ないか、T(脅威)と思われていることをO(機会)とできないかを考えることが重要とされますが、始皇帝はそれを実践したのです。
天下統一の末に不老不死と神仙を求める
こうして広大な中国を初めて統一した始皇帝でしたが、これは崩壊の始まりでもありました。事実、11年後に始皇帝は亡くなり、そのさらに4年後に秦は滅亡します。秦の崩壊の理由としては、万里の長城や始皇帝稜を始めとする巨大土木事業に力を入れ過ぎるあまり人民が疲弊し、反感を買ったといったことがよく言われます。それも重要な要素ですが、理由はそれだけではありません。
それ以外の重要な理由として、最高の位に上り詰めた始皇帝が、さらなる欲を持ってしまい、政治以上にそれに力を入れ過ぎたことがあります。それは不老不死を手に入れることでした。当時は、中国を統一してしまえば、それ以上に版図を拡大することは考えにくい時代です。版図の拡大は通常、王や皇帝であれば誰しもが持つ欲ですが、それが早々に満たされてしまったのです。
それに代わる欲が不老不死、あるいは神仙の力を手にすることでした。こうして、始皇帝の周りには、不老不死や神仙術を説く怪しげな取り巻きが寄ってくるようになりました。彼らを方士と言います。始皇帝は彼らの声をいれて、しばしば不可解な行動をとるようになっていきます。たとえば、匈奴(きょうど/モンゴルで栄えた遊牧騎馬民族)を過剰に恐れ万里の長城を築くきっかけになったのも、方士からの進言がきっかけと言われています。
ちなみに、始皇帝の巨大な陵墓の近くで発見された「兵馬俑」は等身大の兵士や馬の模型がおよそ1万も並んでいたことで世の中の人を驚かせましたが、この「兵馬俑」は、不老不死が手に入らなかった時のリスクヘッジのために、あの世で始皇帝に仕える軍隊を作ったものだという説もあります。
諌める儒家を抹殺し、後継者の育成にも失敗
もう1つの理由は、始皇帝の側近のパワーバランスの変化です。もともと始皇帝は主に法家(諸子百家の一つで法治主義を説く)で占められる法吏と呼ばれる官僚たちの声だけではなく、儒生と呼ばれる儒家の学者の声もよく聞き、バランスの良い判断を行っていました。しかし、天下統一の過程で法家の声が強くなったこともあり、始皇帝をしばしば諌める儒家の存在を煙たがるようになっていきます。
そうした延長線上で起きたのが有名な焚書坑儒です。書物は焼き捨てられ、儒生の学者たちは生き埋めにされ抹殺されてしまいました。現代でいえば、大統領を支えるブレーンやシンクタンクが偏ってしまった状況です。儒生は歴史に学ぶことを良しとしていましたが、そうした声が入らなくなってしまったのです。この時、方士の多くも同時に生き埋めにされてしまいました。
残ったのは法吏ですが、一般に、官僚は必ずしも主君を諌めることはしません。ましてや、そうした始皇帝の行動を見て、それでも進言する勇気を持つ官僚はほぼ皆無でしょう。こうして始皇帝の独裁はますます強くなっていきます。
始皇帝は、サクセッション・プランにも失敗しました。焚書坑儒に苦言を呈したのは、長子の扶蘇だけだったと言われますが、始皇帝はその扶蘇を疎んじ、北方防衛の仕事に左遷してしまいました。当時、始皇帝は40代でしたが、その頃の40代は現代とは異なり、すでに老人に近い年齢です。本来であれば後継者をしっかり育てておくことが必要だったのですが、その第一候補を辺境の地に追いやってしまったのです。ちなみに扶蘇は、後に弟の胡亥と長年にわたる始皇帝の側近の李斯に謀られ、自死せざるを得なくなったのです。
結局、始皇帝は紀元前215年に49歳でこの世を去りましたが、秦の国はもはやボロボロでした。後を継いだのは20歳の胡亥ですが、求心力は全くありません。一般の民は土木工事で疲弊し、また官僚組織や軍も混乱していました。そうした中、伝記でもお馴染みの項羽や劉邦が反乱をおこし、秦の国は211年に滅んでしまったのです。ただし、秦が採用した郡県制などは、その後、漢(劉邦=高祖が建てた国)にも受け継がれ、中国の政治のベースになっていくのです。

このケースからの示唆としては以下のようなことが言えそうです。
○ トップが間違った方向に欲を持つと組織は崩壊しやすい。健全な志を持ち続けることが重要
○ ブレーンのバランスには細心の注意が必要。一時の感情に任せてそのバランスを崩すと、誤った意思決定をする可能性が高まる
○ 後継者を育てることは、トップの最大の任務の1つである 
 
「三国志」

 

  ・・・などという錚々たる人物があるし、なお、呉懿、費観、彭義、卓膺、費詩、李厳、呉蘭、雷同、張翼、李恢、呂義、霍峻、ケ芝、孟達、楊洪あたりの人々でも、それぞれ有能な人材であり、まさに多士済々の盛観であった。
「自分が国を持ったからには、それらの将軍たちにも、田宅をわけ与えて、その妻子にまで、安住を得させたいが」
ある時、玄徳がこう意中をもらすと、趙雲はそれに反対した。
「いけません、いけません。むかし秦の良臣は、匈奴の滅びざるうちは家を造らず、といいました。蜀外一歩出れば、まだ凶乱を嘯(うそぶく)徒、諸州にみちている今です。何ぞわれら武門、いささかの功に安んじて、今、田宅を求めましょうか。天下の事ことごとく定まる後、初めて郷土に一炉を持ち、百姓とともに耕すこそ身の楽しみ、また本望でなければなりません」
「善い哉かな、趙雲の言」と、孔明もともに云った。
「蜀の民は、久しい悪政と、兵革の乱に、ひどく疲れています。いま田宅を彼らに返し、業を励ませば、たちまち賦税も軽しとし、国のために、いや国のためとも思わず、ただ孜々として稼ぎ働くことを無上の安楽といたしましょう。その帰結が国を強うすること申すまでもありません」
なおこの前後、孔明は、政堂に籠って、新しき蜀の憲法、民法、刑法を起算していた。
その条文は、極めて厳であったので、法正が畏る畏る忠告した。
「せっかく蜀の民は今、仁政をよろこんでいる所ですから、漢中の皇祖のように法は三章に約し、寛大になすってはいかがですか」
孔明は笑って教えた。
「漢王は、その前時代の、秦の商鞅が、苛政、暴政を布しいて、民を苦しめたあとなので、いわゆる三章の寛仁な法をもって、まず民心を馴ずませたのだ。――前蜀の劉璋は、暗弱、紊政。ほとんど威もなく、法もなく、道もなく、かえって良民のあいだには、国家にきびしい法律と威厳のないことが、淋しくもあり悩みでもあったところだ。民が峻厳を求めるとき、為政者が甘言をなすほど愚なる政治はない。仁政と思うは間違いである」・・・
 
散所考

 

日本全国にわたって所々に「散所」という地名の残っている所がある。辞書を繰ってみると「散所」は「算所」の意で、算木(さんぎ)をとって卜筮(ぼくぜい)祈祷をした原始呪術(じゆじゆつ)者の群がいた所と説明している。
散所で有名なのは「玉櫛(たまぐし)の散所」である。ここは河内の国(大阪府)生駒山の山麓(さんろく)て、その近くに玉櫛川が流れておりその河原の小高い所にあるのがその散所である。
散所については前記のよりな説明もあるが、他に年貢を取り立てる対象とならない特異な領地であって、ここに住む者は荘園領主のきびしい年貢の取り立てにたまりかねて逃げ出した農民や、あぶれ者、遊芸人、さすらいの遊行婦女(娼婦)など、いわば社会からはみだした人たちの吹きだまりのような土地だった。
邦光史郎さんは「楠木正成の首」という話の中に、つぎのようなことを書いている。「散所民は年貢のかわりに本所(領主)の駕寵(かご)をかついだり、また荷物を運んだりしてもっぱらおのが労働によって年貢に替え、そうした運送業者が次第に定職化して馬借(ばしやく=荷馬車業者)や車借(しゃしゃく=車業者)などが生まれつつあったのである。そのほか散所には遊民が至って多く、いわば無籍者の入りこみやすい悪所だったのである、玉櫛の散所は楠正成の父正遠が散所の太夫(支配人)を勤めていたこともあって、楠家の財源の一つになっていた所である」と書いている。
ここで読むと、由良の三庄太夫は同じことなんじゃないかと思われるであろう、わたしも確証はないが「由良の三庄太夫」は 「玉櫛の散所太夫」と同じようなものだったんだろうと思つている。
ずっと以前、私が当市の西図書館にいたころ、奈良本辰也先生が見えて、由良の「三庄太夫は散所太夫」とも書いた形跡はないか、と問われたことがあったが、その時先生も同じことを考えていらっしゃったんだなと思った。
「三庄太夫」の話は「人買い」 ということから始まっているので、この「人買い」のことを本郷寅夫氏の考証読物「人買い無惨図絵」を参照しつつ少し述べてみたい。人身売買の歴史は遠く、記録に残っているところでは奈良時代にはじまる。
「天武紀五年(677)五月のところに「下野(しもつけ)の国司奏す、所部の百姓凶年にあい飢亡(きぼう)す、子を売らんと欲す、而(しこう)して朝聴(きこ)さず」とあるのがそれてある。そして人身売買を行なった者は、その軽重によって相当の刑に処せられた。
くだって鎌倉時代の正応三年(1290) には幕府はつぎのような厳命を下している。
人売りを禁制せしむぺきの事
右は人商と称して、その業を専らにする輩多くもってこれにあり、これを停止すべし、違犯の輩は犬印をその面に捺(お)すぺきなり。とあるように犯人はその額に犬のしるしのらく印をおされた。
このように厳しい法令が出されていたにもかかわらず、室町時代になると人身売買はほとんど公然と行なわれるようになっていた。こういうような情勢になったのは足利幕府の威勢が地におちて政治ははなきにひとしく社会の秩序は乱れに乱れ庶民は絶え間ない戦乱とききんのために生活のどん底におり、武人だけが大名と小名をひつくるめて、女狂いをする有様で、ここに目をつけた人買い業者がはびこったということがその最大の原因である。
これらの人買いをそのころ、中媒(ちゆうばい)といった。この中媒実例として「信長公記」はつぎのような記事を掲げている。
「天正七年(1579)九月二十八日、下京馬場町門役(かどやく)仕り候者の女房あまた女をかどわかし、和泉の堺にて日ごる売り申し候、このたび聞き付け村井長春軒召し捕り糺明(きゅうめい)候へば女の身として八十人程売りたる由申し候すなわち成敗せしなり。」
これからさきの女中媒の残酷きわまりない話は読むにたえないし、紙面もないから省略する。
現代になってもこういう残酷物語は後を絶っていない。その一つは「からゆきさん」であった。「からゆきさん」は日清戦争ころから大正へかけて島原や天草列島の娘さんたちが、三池炭坑の石炭といつしょにバタンフイルド号によって、口之津から海外へ運び去られた娘さんたちのことである。そしてこの娘さんたちはホンコン、シンガポール、仏領インドシナ、スマトラ、ジャワなどの南方諸島へ売られて行った大和撫子(なでしこ)なのである。思えば人買いの甘言に乗せられ、海外へ連れ出されて、白人を初め、各種の男たちの相手をざせられ、長い長い苦界のうちに青春もなく一生をすり減らしたのであった。
つぎの歌はずっと前、私が天草に遊んだ時の一連の歌の中の二つ、三つで、史実とは関係のない蛇足であるが、ここに書き添えてこの文の結びとする。
   かなしみははてしもあらずからゆきさんの生れ故郷の天草に来て
   なでしこのつぼみの娘(こ)をさらい行けりバタンフイルド号の鬼畜ら
   大方は責め苦の中にいのち果てきからゆきさんの名を負うむすめら 
 
ギリシャ・ローマ物語

 

ギリシャの哲人・アリストテレスは、民主主義政治を三悪政治と評した
その第1は、愚民政治→愚かなる民が、全体の大半を占めるから多数決となれば、政治の大勢は愚民の意志によって決定する。その第2は堕落政治→愚民の欲望に迎合することが、多数を得る早道となる。愚民より選ばれたいものは、対立候補よりも更に大きく民衆に迎合し、接待合戦や甘言の争ひとなる。その第3は、暴力政治→多数決こそ、全ての民衆の意志と認める。その中身や質を論じても、それは二の次である。
正に今日の世界と日本の政治を予言してゐたかのやうであります。
しかし、たとへさうであっても民主主義といふものが採用され、実施される背景には、全体主義や独裁政権と違って、権力者が民意に反すれば、よりよい政治を期待して代表を交代させることが出来る、救ひと希望の制度であり、また衆愚政治になっても、一体誰が選んだのか、選んだ責任は自分に在ることになります。
故に民主主義は我慢の政治でもあり、納得の政治でもあります。もともと自由社会はすべてが自己判断自己決定であり、自己責任であり、頼りにするのは自分自身であります。今こそ厳しさに立ち向ふ逞しい勇気、雄々しい闘志を持たうではありませんか。  
「遊女の対話」
遊女たちによる会話。遊女とはいっても、古代ギリシャにおける遊女は、結構きちんと認められた存在だったようです。古代ギリシャ時代は、食料品の買い物ですら男性の仕事。一般女性はひたすら家の中にいて、つつましく家庭を守り夫を助けるべき存在。特に年頃の娘の顔などは何かの祭礼の折に垣間見るしかない! そのため、宴会などで場を取り持つのは、もっぱら遊女の仕事。でも男性と対等に会話を交わすためには、相当の才能と知恵と教養が必要となり、次第に男性顔負けの教養を身につけた才気溢れる遊女が登場することに... というと、なんだかまるで江戸時代の花魁みたいですね。で、職業柄卑しめられるどころか、むしろその美貌と才能によって自由に華やかに生きている女性として、もてはやされる存在だったんだとか。
でもこの「遊女たちの会話」に登場しているのは、そこまでの高級遊女ではなくて、もっと一般的な遊女たち。遣り手婆にいいようにされてたり、男どもの甘言に惑わされながらも、逞しく生きていく女性たち。時にはそんな彼女たちを一途に愛する男性もいるんですが、大抵の男たちは彼女たちの手練手管に鼻の下を伸ばし、都合のいいことばかりを言ってるんですね。まあ、女性たちだって、あの手この手で男性をしっかりつかまえておこうとするんだけど。国が違っても、時代が違っても、男女の間のやりとりは同じなんだなあ。心変わりや嫉妬、取った取られた結婚するしないなんて騒ぎとか、自分を魅力的に見せるテクニックや、恋を成就させるためのおまじない。その辺りが可笑しいです。 
アメシスト
バッカスはカドモス王の娘セメレーと、神々の王ゼウスの間に宿りました。2人に嫉妬したゼウスの妻ヘラの陰謀により、セメレーはバッカスを妊娠中に死んでしまいます。
ゼウスはセメレーの胎内から、まだ6ヶ月の未熟児を取り出し、自分の太股に縫い込むのでした。やがて月日が経って無事ゼウスの太股から誕生したその子は、バッカスと名付けられ、のちに酒と豊穣の神になります。
「ゼウスのように誠実さを欠かないように、セメレーのように甘言に惑わされないように」とゼウスの母レアが孫のバッカスにアメシストという紫の石を与えました。(4世紀にローマで書かれた物語) 
堕罪と原福音の預言  (創世記) 
○ 神にとって特別な存在として創造された人間は、神のかたちとして完成されるべく「男と女」とに造られました。男と女、夫と妻、その結び合いはまさに神における愛によるかかわりを現すものでした。ところが、3章では、そのかかわりを破壊する存在によって、人が「善悪を知り」、そのためにエデンの園から追放されるという事件が起きます。罪によって神との交わりから離れるという事態をもたらしました。堕罪です。
○ 創世記3章において、神とそのかたちを映し出す人間、そしてそれを破壊しようとする存在―ここでは「最も狡猾な存在」としての「蛇」―が登場しています。この「蛇」によってバーサールとしての人間の弱さがもろに出る結果となりました。その弱さとは、「あなたがたがそれを食べる時その時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」という「蛇」の甘言に対して、それを信じて受け入れてしまうという弱さです。その結果、自分たちを造った神の御顔を避けて園の木の間に実を隠し、その呼びかけにも対しても、責任を応答する存在ではなく、常に自己弁護する者となってしまったという事実です。
○ 蛇の甘言―「それを食べると、あなたがだが神のようになり、善悪を知るようになる」ということーは真実です。「善悪を知るようになる」とは、自分が善悪の基準となるということです。自分が正しいと思えば正しいのです。自分が悪いと思えば悪いのです。本来、善悪の基準をつけるのは神ですが、その基準を人間が自ら持ってしまったのです。まさにその意味では「神のようになった」のです。そのような人間が、園の中央にあるもうひとつの木、すなわち「いのちの木」からも取って食べることで彼らが永遠に生きることがないように、神は彼らをエデンの園から追放したのでした。追放された人間は、自分で土を耕さなければならなくなりました。人間として最も大きなニーズである生存の保障を自ら得なければならなくなったのです。
○ 神の主権領域である「善悪の知識」を人間が持つことによって、人間がそれまでもっていた神のかたちとしての「交わり」は機能不全となっただけでなく、神のかたちとして与えられたもうひとつの面、つまり、「自由意志」という尊厳も合法的に「最も狡猾な存在」の支配下に置かれることになったのです。本来、人は地にあるすべてのものを支配する権威を与えられたにもかかわらず、その統治権は合法的に「最も狡猾な存在」に剥奪されてしまったのです。
○ マタイ4章では「悪魔」がイエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を一瞬にして見せて、「もしひれ伏して拝むなら、これを全部差し上げましょう」と誘惑していますが、事実、悪魔が「この世の神」として地上の支配権を得たのは、創世記3章に記されているように、本来、地上の支配権を与えられた人間を合法的に従わせて支配することができたからです。神から離れた人間は、この世で「最も狡猾な存在」に対して、全くの無力なのです。
アマゾンの女王ヒッポリュテの腰帯略奪
ヘラクレスはアマゾーンとの戦いになると考え、テーセウスらの勇士を集めて敵地に乗り込みました。
交渉したところ、アマゾン女王ヒッポリュテーは強靭な肉体のヘラクレス達を見て、自分達との間に丈夫な子を作ることを条件に腰帯を渡すことを承諾しました。
ところがヘラがアマゾンの一人に変じて「ヘラクレスが女王を拉致しようとしている」と煽ったため、アマゾン達はヘラクレスを攻撃しました。
ヘラクレスは最初の甘言は罠であったと考え、ヒッポリュテーを殺害して腰帯を持ち帰りました。
「善にさとく 悪には疎く」 聖書(ローマの信徒への手紙)
C.S.ルイスの『悪魔の手紙』は、どうやったら人間を堕落させられるかを悪魔が自分の子分に書き送る、という面白い着想の作品です。その発想で、教会の宣教をいかに妨害するかを考えてみると、ここでパウロが警告していることの重要さがわかります。「サタン」は邪悪な鬼のような姿で伝道者の前に立ち塞がるなんて単純な手を使うよりも、内側に入り込んで内紛を起こし分裂を狙うのです。“本当の悪は善人の顔をしてやってくる”のです。「うまい言葉」(甘言)と「へつらいの言葉」(美辞)を語り、聞く人を気持ちよくさせてくれるヨイヒトとして人々の心をつかむのです。
教会というのは弱そうですが、思ったよりは強いものだと思います。少々激しい議論をしてケンカをしたり、外からいじめられたり、経済的に行き詰ったりしても、倒れそうでドッコイ倒れないという強さを持っています。でも、肝心なところをめぐってずらされてしまうようなことが起ったら非常に脆弱になります。それは真の危機です。
「こういう人々は・・・キリストに仕えないで、自分の腹に仕えている」。どきっとさせられる言葉です。我々はキリストに従いなさいという教えよりも、なんでもOKだよ、心地よくいればいいよ、という甘言に惹かれてはいないだろうか・・・
では、パウロはこの強敵に対してどうせよと言ったのでしょう。彼は「遠ざかりなさい」と言いました。闘いなさいとか、議論して言い負かしなさい、ではありません。離れよ、と言ったのです。パウロにしては随分と消極的と思われるような言葉ですが、今日の箇所全体をみる時に、その意図は明らかになります。「善にさとく、悪には疎くあることを望みます」。これが基本的な考え方なのです。キリストに出会い、キリストに救われ、キリストのものとされた以上、わたしたちは、イエス様がそうであったように、徹底して善いことに生きる。そう覚悟を決める。それでよいのだ、ということです。
“悪いことをも知らなきゃ悪いことには対抗できない”という人は多いでしょう。“自分は今まで悪の世界もよく見てきたからこそ、悪の悪さがよくわかるんだ”と誇る人もいます。でももういいのです。これからは善いこと、神のみこころに従うことの専門家になりましょう。悪については「よく知らない」でよしとするのです。ワイドショーの評論家でなく、言葉と行動で良きもの、人間らしいものを生み出していく人間をこそ今の社会は必要としています。
「悪に抗する」といって論戦や競争に夢中になっていく時、いつの間にか悪(神を無視する世界)と同じ原理に陥ります。(もしイエス様が律法学者やファリサイ派との議論に夢中になって、議論で勝つことを追い求めていたら、十字架には行かなかったでしょう。)それに、「平和の源である神(「平和の神」)はまもなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれる」のです。神にかわって敵を征伐せよ、ではありません。平和の神がすべてを支配されます。善にさとく悪には疎く、でいきましょう。 
聖書のおんな
女は「おとこ」から造られたので「おなご」だし、ONOKOから造られたのでONNAと呼ばれる。従って、「おのこ」は男性語尾KOで終わり、「おんな」は女性語尾NAで終わることが理解できるであろう。
というのは Dr. Marks の冗談だから、本気にしてはいけない。いや、もともと本気にはしないのであろうが、聖書に書いてあれば信用する人もいる。その聖書にはこのように書いてあるからだ。「これこそ女(イシャー)と呼ぼう。まさに男(イシュ)から取られたものだから。」
男から取られたとは、どういうことかというと、神が男の寝ている間に男のあばら骨の一部を抜き取って、その骨で女を造ったからである。つまり、イシュからイシャーを取るという語呂合わせになっている。女は男から造られたのであるから二人は一体であるということになる。
さて、女は男から造られたわけだが、あばら骨の一部を取られた男は、実は男でなくて「人」と呼ばれている。それでは人(男)はどこから造られたのかというと、人(アダム)は土(アダマ)から造られたなどと書かれている。ここから、アダムという名前が出てくることになる。
どうです。聖書がそんな駄洒落を言うのであれば、Dr. Marks の冗談だって一理あるじゃありませんか。何? Dr. Marks には権威がない? あなたも、おっしゃいますなあ。
以上は、旧約聖書の創世記という巻の2章に書かれていることだ。人類最初の男の名がアダムということはわかったが、女の名前は出てこない。初めて出てくるのは次の3章だ。その名前は? Dr. Marks 何言ってんだい、自分で「イヴ」って書いてんじゃないか。確かにそのとおり。しかし、日本語聖書では「エバ」ちゃんですよ。どちらもヘブル語の「ハヴァ」という言葉を発音しやすく言い換えただけであり、イヴでもエバでも結構。意味は「命」ということでなかなか趣がありますなあ。
ところで、このイヴはどのような女であったかというと、それほど詳らかではない。3章の中で蛇にだまされて神が食べてはならないと命じた園の中央にある木のうち善悪を知る木(他に命の木がある)の実を食べた女、あるいは誘惑に負けた女として描かれているのがほとんど唯一の手がかりである。旧約聖書のほかの箇所には直後の4章以外には登場しない。
新約聖書にはパウロの口から彼女の名が出てくるが、いずれも(第二コリント、第一テモテ)好意的ではなく、ほとんど罵倒といってもいい。やれ、女は男より後にできたんだから、男の後ろに控えていろだの、アダムはだまされなかったのにイブが誘惑されたなどと糾弾している。ホントにパウロは嫌な奴。Gynocentrismも困るがこれほどあからさまなandrocentrism(male chauvinism)も困ったものだ。(パウロだって、女にやさしい面もあることはあるのだが、イエスより明らかに男性中心主義者だな。)
しかし、3章をよく見ると、イヴは神に対して蛇に唆されて食べたと事実を述べたが、アダムはイヴが木から取って自分に与えたので食べたと弁明している。アダムの返答も事実といえば事実だが、取ったのは自分ではないという弁解があるし、そもそも食べてはならないことを知っているのに食べたことに対する釈明が一切欠けている。
さあ、ここで思案だが、アダムは命令違反であると知りながらなぜ食べたのか。昔から、イヴは単純に蛇の甘言に誘惑されたが、アダムは積極的に神に対する不服従を実行したなどと解釈する人も多い。うん。少なくともこの解釈ならば、パウロ先生よりも公平な見方かもしれない。つまり、イヴは無邪気に誘惑に遭っただけだが、アダムは自覚的犯行だというのである。
もっとひねくれて考えると、初めから二人とも善悪など知らない状態、すなわち園の中央の木の実は食べていない状態だったのだから悪いことをしているという自覚はないので両人とも無罪というやつだ。似たような議論はパウロにもあるね(律法によらなければ私は罪を知らなかった―ロマ書の議論を参照)。
しかし、アダムはイヴから木の実を手渡されたとき、イヴと同じ動機と誘惑で、つまり本当に食べてみたくて食べたのであろうか。その可能性はもちろん排除できない。しかし、もう一度、創世記3章6節の問題の箇所をよく見ると、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆」かされているのはイヴであって、アダムの心の状態ではない。
神から禁止されていることを知りながら、アダムはイヴから渡されたから食べたのである。その際、イヴが熱心にアダムを説得して食べさせたということの記述はない。主婦が夕餉を整えて、夫がそれを食べるような機械的な(というか日常的な)一連の動きだろうか。そうは思えない。禁止されたことを破ってまですることだから、一大事である自覚はあったはずである。
さあ、結論だ。心やさしい男は据え膳を断れない、往々にしてだ。(だから、同じ旧約聖書の箴言では繰り返して、据え膳を受け入れてはならぬと戒めているだろう。)自分がいとおしいと思うイヴが差し出すものを断りきれないのだ。イヴの歓心を買ったのだよ。代金は木の実を食べるという神への不服従だった。イヴは人類史上初めて買われた女、人類史上初めての娼婦だ。
あーあ、終わりまで読んで損をした。Dr. Marks の出鱈目とこじつけだー。
いや、そうでもないんだよ。娼婦というのは確かにこじつけだが、魅力ある「おんな」の歓心を買うためなら何でもしてしまうのは「おとこ」の原初からの習性なのさ。
イヴはアダムとともにお揃い(togetherness)かどうかは知らないが、神から皮の衣を着せてもらってエデンを旅立ち、アダムの子、カイン、アベルを産んだ。これは間違いなくイヴの子たちである。多分、アダムの3人目の男の子セトもイヴの子であろう。アダムはセトの後にも(何しろ930年も生きたのだから)息子や娘をもうけたと創世記5章に記されているが、その子たちの母親もイヴであったかどうかは明らかではない。
その理由は、彼女の名前が4章1節を最後に途絶えるからだが、これから始まる「聖書のおんな」も、それらの女に関わる男もみな、彼女から生まれたのである。従って、イヴの物語は今も続いているといっていいだろう。 
最後の勧告
待降節(アドヴェント)第一週主日の礼拝を捧げます。アドヴェントゥス(ラテン語)は、古代に皇帝など支配者が征服した町に入るときに行った儀式。入城式(考キリストのエルサレム入城)。ヘブル書記者は「神は、昔(旧約の時代)、預言者たちを通して・・・・・・語られましたが、この終りの時(新約の時代)には、御子によって語られました」と記します。キリストの降誕は「終わりの時代」の始まりであり、再(降)臨はその終わりのときです。アドヴェントを迎え、私たちは初臨の主イエスを記念しつつ、再臨のキリストを待望するのです。
パウロはローマにいる神に愛され、召されたすべての聖徒たちへの手紙≠フ筆を置く前に兄弟たち、あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒し、彼らから遠ざかりなさい。そして、善にはさとく、悪には疎くありなさい≠ニ最後の勧告をいたします。
教会は常に分裂とつまずきを引き起こす人々≠フ攻撃に曝されます。それは「あなたがたが学んだ教え」即ち「聖徒に一度伝えられた信仰」、霊感された聖書、十字架と復活のキリストの福音に「背いて、分裂とつまずきを引き起こす人たち」がいるからです。このような人たちは、僕として主キリストに奉仕せず、自分の腹・欲望を神として、それに仕えるのです。このような人たちの特徴は「なめらかな言葉とへつらいの言葉」です。「なめらかな/うまい/美しい言葉と媚へつらいの/甘い言葉」、即ち美辞と甘言≠ナキリストに仕えるふりをしながら、教会に分裂を引き起こし「純朴な(混ぜ物のない、清い)人たち」の心を惑わせ、つまずかせ、自分の欲のため、勢力を張ろうとすることです。パウロはこういう人たちを警戒し、遠ざかるように勧め、全教会に聞こえている人々の信仰の従順を喜びつつ、「善にはさとく、悪には疎くあってほしい」と願います。
「平和の神は、速やかにサタンをあなたがたの足の下で踏み砕かれます」。分裂が不和を生み、純朴な人々を躓かせることを憎まれる「平和の神」が、私たちの足の下でそうした肉の行いを謀る人々・サタンに勝利してくださり、教会に、あなたに、平和と一致を賜わるのです。またこの聖句は「わたしはお前(蛇・サタン)と女(エバ)との間に、お前の子孫と女の子孫の間に敵意を置く。彼はお前の頭を踏み砕き、お前は彼のかかとに咬みつく」を思い起こさせます。この預言は、神の定めの時が来、神がご自分の御子を、女(エバ)の子孫(全人類・人間)として、女から生まれさせ、イエス・キリストが、十字架に死に、復活することにより、律法の下に罪に死んでいる私たちを贖い、神の子としてくださることによって成就しました。しかし、私たちが罪と死から完全に解放され、御国を相続するのは、キリストが再び来り給う(アドヴェント)ときです。その日を待ち望みつつ、この年のクリスマスを迎え、祝いましょう。

善にさとく、悪には、うとく 
さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。 なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。 あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。 平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。
どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
審判に当たって、判断力が問われます。しっかり自分で決断する癖をつけることです。
神様は、愛に酔って億千万代を生きられるように人間を造られました。それで、人が老いることは怨讐ではあり ません。人は愛から始まり、愛をもって生活し、愛の実として収められます。死ぬことが愛の実を収めることです。
私たちが父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛し生きたので、神様の愛、内的な愛の世界に蒔いたすべてのものを、生涯を経て実を結び、これを収めてからあの世に行くのです。
神様は、真の愛の土台の上で生命を備え、真の愛の土台の上で全知全能でなければなりません。それでこそ神様 は、私たち人間にとって歴史を超越した立場に立った理想的主体になれるのであって、生命の力だけで主体的立場に立てば、すべての万物が一つにならないようにするのです。ごく小さな動物も、植物も、すべて愛の主人が自分を育ててくれることを願い、愛のみ手が来るのを喜ぶというのです。「誰よりも私が強い。あなたは私の思いどおりにしなければならない、こいつ」と、このように言ってはいけません。愛が 内包された、そこに生命が動くのです。 命の根源は愛です。神様が存続し始 た起源は、生命ではなく、愛なのです。 (ローマ人への手紙16章17節)  
セイレーンたちと馬身ケンタウロスたち
預言者イザヤは、「悪霊たちやセイレーンたちやハリネズミたちがバビュロンのなかで踊るであろう」〔イザヤ、第13章21-22〕と告げた。自然窮理家はセイレーンたちや馬身ケンタウロスたちについて言った。セイレーンたちといわれるのは海にいる動物であるが、芸神(Mousa)たちと同じく、節よき声で歌い、近くを航行する者たちが、彼女らの歌を耳にすると、海の中に身投げをして、亡くなる。また、臍に至るまでの半身は人間の姿をしているが、それ以外の半身はガチョウの姿をしている。同様に馬身ケンタウロスたちも、半身は人間の姿をしているが、胸から下の半身は馬の形をしている。
かくのごとくありとある二心ある男も、その生活の全般にわたって安定なき存在である〔ヤコブ、第1章8〕。教会に集まる連中も何人かはいるが、外見は敬虔な様子をしていても、その〔敬虔さの〕力は否定し〔第二テモテ、第3章5〕、教会の中では人間であっても、ひとたび教会に別れを告げるや、獣になるのである。されば、こういった連中は、セイレーンたちや馬身ケンタウロスたちといった敵対者たち — わたしが言うのは、権力者たちや異端的な嘲笑者たちということ — の顔つきをしているのである。なぜなら、自分たちの甘言や美辞によって、あたかもセイレーンたちのように、純朴な人たちの心を欺くからである〔ロマ、第16章18〕。「悪しき交わりは、有用なならわしを損なう」〔第一コリント、15章33〕。
かく美しく、自然窮理家はセイレーンたちや馬身ケンタウロスについて言った。

「悪しき交わりは、美しきならわしを損なう」と、神の使徒は主張する。自然窮理家はこう言った、 — 牡・牝、ある動物がいると言われる。牡は臍に至るまでが人間だが、残りは馬である。同様に牝も、臍に至るまでは女に似ているが、残りはガチョウの外見をしていて、これはセイレーンと言われる、と。「歌はセイレーンたちのもの」とヨブは主張する〔出典不明〕。
これこそが、敵対者たる権力者たちや神を知らない者たちや異端的なペテン師たちの顔つきをしている所以である。というのは、偽善に満たされたような者たちや、ペテン師たちや誘惑者たちがいて、彼らは神の教会に潜り込み、自分たちの甘言でもって純朴な人たちの心を惑わすような連中だからである。むしろ、わたしたちは連中の偽りの教えに欺かれないよう、連中を避けよう。というのも、これらは動物であると言われているが、じつはさにあらず、悪霊の精神の幻影にすぎず、同様にペテン師たちや偽キリストたちの虚言も欺瞞にすぎないからである。すなわち、外見は敬虔な様子をしているが、その力は否定するのである。 
火から救い出す神
「わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます」。 
1.ネブカデネザル王に見るこの世
ネブカデネザル王は、ダニエルによって、夢を解き明かされて、一時的には、ダニエルとダニエルの信じる神を認めたようでした。しかし、この王は、この世の本質をあらわしています。この世はしたたかで、信仰者を悩まします。
(1)この世の魅力は、この世の繁栄です。王はこの世の繁栄の頂点を経験した王です。この世の繁栄をもって、悪魔は主イエスを誘惑しました。しかし、この王も4章では、神によって、その繁栄と力を剥奪されます。この世の繁栄の誘惑は信仰者をも襲ってきます。
(2)この世は神にどこまでも逆らいます。王はダニエルによって助けられたにもかからず、自分が神となり、偶像を造ります。この世はどこまでも、自分を神としなければ納得しません。悪魔は天使が神になろうとして、神にさばかれた存在です。この世の本質は悪魔と同じで、最後は、「自分が神」であり、けっして「神を神とする」ことをしません。悪魔の最後はけっして悔い改めないので、さばきしかありません。しかし、人は聖霊によって悔い改めることができます。
(3)神と神を信じる者を排除する。王は列席者の手前、自分が寛大な王であることを見せようとして、「ただちに拝むならば、それでよい」と言っています。この世はある時には、甘言と懐柔をもって、神に逆らいます。しかし、三青年が妥協しないので、激怒して、火の燃える炉に投げ込むことを命じます。
2.三青年の信仰
「わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉からわたしたちを救い出すことができます」の言葉に、彼らの信仰を見ることができます。
(1)「仕える神」とは、彼らが生涯にて神に仕えてきたことをあらわしている言葉です。この危機の時、あわてて、神を信じ始めたのではありません。平穏無事な時こそ、信仰を確認し、信仰を育てる大切な時です。彼らには一貫した振れない信仰姿勢を見ることができます。
(2)「わたしたちを救い出すことができます。たとえそうでなくても…」とは、自分の勇気や力ではなく、どこまでも神に委ねる信仰です。彼らは人間的な英雄ではありません。静かに穏やかに神により頼んでいるだけです。彼らは、どんなにこの世と人が力を持っていたとしても、人の限界と神の権威を知っていたのです。
「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」。
神は真実な方で、必ず約束を守ります。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
3.火から救い出す神
燃える火の中に、「神の子のよう」な者がいました。これは受肉以前のイエス・キリストとみることができます。神ご自身が守ってくださったのです。神は遠くで見ておられるのではなく、火のような試練の中に共にいてくださるのです。「あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない」。
「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」。火のような試練は、わたしたちの信仰を成長させ、この世ではなく、永遠の希望に目を向けさせるものです。
「火のにおいもこれにつかなかった」とは、世の人も認める神の御業です。そして神はこの世の罪や汚れ、傲慢の影響力からも完全に守ってくださるのです。 
「主なる神を信じて」
人は、誰に学び、誰により頼むかによって、その人の道は定まると言っても過言ではないでしょう。
ヒゼキヤは南ユダ王国の王子として生まれましたが、状況は大変厳しく、悲しいものでした。それは、国が主なる神の怒りを招く状況にあったからです。主の神殿の扉は閉じられる一方、国中に偶像が満ちていました。父アハズ王は死んだ時、「アハズは先祖と共に眠りにつき、エルサレムの都に葬られた。しかし、その遺体はイスラエルの王の墓には入れられなかった。」と記されるほど、主なる神の目にかなう正しいことを行わず、南ユダ王国最悪の王でありました。北イスラエル王国との関係も悪く、近隣諸国とも戦いがありました。窮地を免れようと大国アッシリアの援助を求めましたが、アッシリアは援助するどころか、かえって、攻めて来て、南ユダ王国は属国とされました。「アッシリアの王ティグラト・ピレセルはアハズを援助するどころか、攻めて来て、彼を苦しめた。」そして、毎年、貢物を献上しなければならなかったのです。また、北イスラエル王国も風前の灯でした。「アッシリアの王はこの国のすべての地に攻め上って来た。彼はサマリアに攻め上って来て、3年間これを包囲し、ホシェアの治世第9年にサマリアを占領した。」この北イスラエル王国の滅亡は、ヒゼキヤが南ユダの王となって6年目でありました。
このような過酷な状況下で王となったヒゼキヤは、「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラの像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。」ヒゼキヤの偶像排除の徹底振りは、ネホシタン(出エジプトの荒野で、不信仰に陥ったイスラエルの民に裁きの災いが起こった。悔い改め、モーセが執り成しの祈りを捧げたとき、神が命じたとおりに造られた青銅の蛇。これがいつしか偶像となっていた。)をさえ壊すほど激しいものであった。そして神殿を清め、過越の祭りを復活させました。そして「彼はイスラエルの神、主により頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。」と記されるほど、最も優れた王、信仰者となりました。ヒゼキヤがこのようになり得たのは、主なる神により頼み、その御旨を求め、預言者イザヤの声に聞き従ったからです。
アッシリアがセンナケリブ王に代わった時、ヒゼキヤはアッシリアへの朝貢を廃止しました。それを怒り、センナケリブは南ユダ王国を攻撃してきました。戦いはできるだけ負傷者、戦死者等の損失を少なくするため、心理作戦を展開します。それは民の戦意を削ぐことでした。アッシリアの将ラブ・シャケは「ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない。…わたしと和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆、自分のぶどうといちじくを食べ、…やがては、お前たちをお前たちの地と同じような地、穀物と新しいぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブと新鮮な油と蜜の地に連れて行く。こうしてお前たちは命を得、死なずに済む。」と、脅しと甘言をもって降伏を迫りました。しかし、民はヒゼキヤ王を信頼し、「押し黙ってひと言も答えなかった。」これは賢明な選択です。アダムとエバが罪に陥り、神から離れたのも、誘惑の言葉に対応し、言い逆らうつもりが逆に罠に落ちたのでした。人は自分の力を過信するとき、サタンの罠に陥るのです。
ラブ・シャケの言葉を聞いたヒゼキヤ王は「衣を裂き、粗布を身にまとって(この行為は、心が張り裂けるほどの苦渋の現れです。そして、苦しみ、悔い改めの心をもって)主の神殿に行った。」そして王の側近たちも預言者イザヤの祈りと主の託宣を求めました。これが大事です。ここにこそ唯一の、決定的な祝福の道があります。
ラブ・シャケの「諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリアの王の手から救い出すことができたであろうか。…サマリアをわたしの手から救い出した神があっただろうか。国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか。」との言葉は正しい。確かにアッシリアは強く、サマリアも含め他の国々を征服しました。しかし、イザヤは「アッシリアの王の従者たちがわたしを冒瀆する言葉を聞いても、恐れてはならない。」と言います。なぜなら「その神々を火に投げ込みましたが、それは神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎません。彼らはこれを滅ぼしてしまいました。」とあるごとく、偶像の神々には、救う力はないのです。
しかし私たちの神・主は全てのものを造り、保持しておられるお方です。主なる神はアッシリアを退け、地上の全ての国民に栄光を現されました。 
アルゴ座の神話
ギリシア東部テッサイアのイオルコス王国、この国の国王アイソンは、弟ペリアスの裏切りによって王位を奪われる。さらに身の危険を感じたアイソンは息子のイアソンの命だけでも助けようと、イアソンをケンタウルスの賢者ケイロンに託した。
ケイロンの元で修行をしながら育ったイアソンは成人したときに、ケイロンから自らが正式な王位継承者だという事を知らされる。そこでイアソンは王位を譲り受けようと王国へと向かった。ペリアスはまさかイアソンが生きているとは思っていなかったため、大変驚いたが、悪知恵をはたらかせイアソンに難題を押し付け、それをクリアする中でイアソンが死ねばいいと考えた。
その難題とは、黒海東岸のコルキス王国のアレスの森にある空飛ぶ黄金の羊の毛皮を取ってくるというものであった。イアソンはこの甘言に乗ってしまう。
まずイアソンはギリシア全土から英雄を募った、集まった英雄はヘラクレス、カストル、ポルックス、オルフェウス、ネレウスなど、有名な者ばかりで、まさにギリシア神話オールキャストと言った感じであった。彼らはアルゴナウテスと呼ばれることとなる。
次に船を作ろうと考えたイアソンは、ギリシア一の大工と言われていたアルゴスに船の建造を依頼した。アルゴスが船の建造をしていると戦神アテナが現れ、船の舳先に付けるようにと一本のアテナの予言の力を込めた樫材を渡した。アルゴスは、神の祝福が得られたと大喜びでその樫材を彫刻し舳先につけた。
「ここで出航となるわけなのですが、この航海あまりにも長いためいろいろなエピソードがありすぎて間延びしてしまうので箇条書きで簡単に説明を・・・」
○ 男のいないレムルス島で多くの子孫を残す。
○ ドリオニアで大歓迎を受け出航するが嵐に巻き込まれ戻ったときに襲撃と間違われ国王を殺してしまう。
○ ヘラクレスの従者がエルフに捕われる
○ アミュコスVSポルックス水をかけたボクシング対決!!
○ サルミュデッソス国での怪鳥退治
○ ボスポラス海峡の岩
そんなこんなで、黒海の果てコルキス王国にたどり着いたアルゴナウテスたち、国王アイエオスと対面するが、アイエオスはイアソンたちが国を奪いに来たのだと思い試練を成し遂げたら黄金の羊の毛皮を渡そうと言った。それはアレスより贈られた火炎を吹く二匹の牡牛にくびきをつけ大地を耕し、そこにアレスの泉の竜の歯を蒔き、そこから誕生した兵士たちを退治しろというものであった。
この難題をどうやってこなそうかと困っていたイアソンの前にアフロディテによって恋心を吹き込まれたアイエオスの娘メディアが来て、竜の炎ですら焼けつく事のない香油を渡し、兵士たちとの戦い方を教えた。翌日炎を吐く牡牛を押さえつけ、その首にくびきをつけ大地を耕し、王より渡された竜の歯を撒きそこから誕生した兵をメディアに教わったとおりに兵の中心に大きな石を投げ込み同士討ちをさせて全滅させた。こうして試練をこなしたイアソンであったが、アイエオスは夜に船を襲って皆殺しにしようとする。
メディアは結婚を条件に金羊の毛皮の場所を教え、メディアの魔法で毛皮を守る竜を眠らせ金羊の毛皮を手に入れた。
この後イアソンとメディアは、メディアの弟アプシュルメスと艫に国から逃げ出したが、国王は我が子が誘拐されたと思い追いかけた。追いつかれそうになったためメディアは弟の体を父の船団の前でばらばらにして殺し、アイエオスがその身体を拾っている間にイアソン達は逃亡する。
無事に逃亡に成功したアルゴー号であったが、船には呪いが掛けられていた。イアソンがアルゴー号の舳先に尋ねてみると、アプシュルメスを殺したイアソンとメディアに大神ゼウスが怒っており、呪いをかけたため、二人とも魔女キルケに呪いを解いてもらう必要があるということだった。そこでアルゴー号はキルケの住むティレニア海へと進路を変えキルケに会い呪いを解いてもらった、しかしキルケは二人の罪を聞くとその残酷さに怒り、二人を島から追い出した。
この後も多々の困難を乗り越えアルゴー号は、イオルコス王国へと戻ってくる。しかしイアソンが戻ってくるとは考えていなかったぺリアスはイアソンの両親を殺していた。イアソンはメディアに相談しペリアスの娘たちに土産の若返りの薬と言って毒薬を飲ませ殺す。ペリアスにもこの毒を盛り殺害した。しかし、この行為はイアソンを信じアルゴー号に乗り込んだペリアスの息子アカストス激怒させた。航海中からイアソンの残虐さに疑問を抱いていたアカストスは、父ペリアスに変わりイオルコス王となり、市民の力を得てイアソンとメディアを国から追放した。 
 
[浄土三部経] 三法忍を得て不退転に住す 

 

註釈版
微風やうやく動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す。その声流布して諸仏の国に遍す。その音を聞くものは、深法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもつて縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、六根は清徹にしてもろもろの悩患なし。阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と。
現代語版
そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる。その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる。その声を聞くものは、無生法忍[むしょうぽうにん]を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を想[おも]い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転[ふたいてん]の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。
阿難[あなん]よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍[おんこうにん]・柔順忍[にゅうじゅんにん]・無生法忍[むしょうぽうにん]が得られる。それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願[がんまんぞく]・明了願[みょうりょうがん]・堅固願[けんごがん]・究竟願[くっきょうがん]と呼ばれる本願の力とによるのである」
<微風やうやく動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す>
(そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる)
「微風」は{「極楽の余り風」の本当の意味}にも書きましたが、気象の風ではなく人生に吹く風です。また人生に吹く風はそよ風ばかりではなく、熱風も寒風・暴風もあるでしょう。ところが浄土では「地獄の猛火風と変じて涼し」で、恐ろしい人生顛倒[てんとう]の熱風・寒風・暴風が涼風に転じられていきます。なぜなら浄土は真実願土であり真実報土でありますから、あらゆる苦難が真実人生成就の大切な縁に転じられてゆくのです。
「枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる」というのは、仏教は論理の積み重ねで成り立っているのではない、ということを言います。苦悩の現実を歩む中で教えが語られているのです。「無量の妙法の音声」は名号・念仏の徳によることは言うまでもありませんが、ただ南無阿弥陀仏という六字だけではなく、南無阿弥陀仏の内容が様々な言葉や行動を生み出して教えとなることを言います。
<その声流布して諸仏の国に遍す>
(その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる)
阿弥陀仏は一切諸仏・諸菩薩を生み出す根本主体でありますから、阿弥陀仏が永劫の修行をしたことが展開して一切諸仏の国に遍満[へんまん]することは当然のことです。
しかしこれを私の側から申しますと、私は自らの国を成就する修行≠ノ勤めている、この過程一々において、私が直面する苦難は古今東西誰も遭遇したことのない苦難であります。しかも自分自身で乗り越えることが不可能な苦難ばかりが襲い掛かってきます。
そこで阿弥陀仏の修行は諸仏の修行に超えて浄土の四徳をあらわし、なおかつ現実の五悪趣の真っ只中で修行をしてこれを成就する。この阿弥陀仏の修行の成果が全て私一人に回向されてくる。もちろん功徳は一切衆生に回施されるのですが、私はその中の一部を得るのではありません。一切衆生ひとり一人に阿弥陀仏の功徳全てが回施されるのです。こうした仏の一切の徳を宿した内容が「名号」なのでありますが、受領[じゅりょう]する衆生の側から言えば「念仏」となります。名号と念仏は本質は同じですが、仏と衆生の立場の違いから言葉を変えるのです。
<その音を聞くものは、深法忍[じんぽうにん]を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもつて縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、六根は清徹にしてもろもろの悩患なし。阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり>
(その声を聞くものは、無生法忍[むしょうぽうにん]を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を想[おも]い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転[ふたいてん]の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。
阿難[あなん]よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍[おんこうにん]・柔順忍[にゅうじゅんにん]・無生法忍[むしょうぽうにん]が得られる。)
要約すれば、浄土の道場樹より発せられた念仏は、念仏者に「深法忍[じんぽうにん]を得て不退転に住す」功徳を与え、六根清浄[ろっこんしょうじょう]をかなえて、やがて仏道を完全に成就せしめてゆく≠ニいうのですが、まずは一つひとつ言葉の解釈をします。
深法忍[じんぽうにん]は、三法忍(音響忍[おんこうにん]・柔順忍[にゅうじゅんにん]・無生法忍[むしょうぽうにん])を代表してた無生法忍と解釈されています。四十八願で言えば、{得三法忍の願}の成就であります。
注釈版
たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍に至ることを得ず、もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ。
現代語版
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「忍」は智慧とほぼ同じ内容ですが、経験智とか体験智という実生活に即した内容となっています。私たちは日々人生を積み重ねつつ今を生きるのですが、この人生は限りない宝を宿すがゆえに、限りなくその宝を尋ねてゆくことになります。
「智」は「あれはあれ、これはこれと分別すること、また決断に名づく」ですから、青蓮華のように分明で物事の千差万別を見分けることができ、また善悪を決して行動することをかなえます。
「慧」は、「空、無我に名づく、不動に名づく」と解説されていますから、「智」に先立ち、先入観や我執を離れ、なおかつ衆生の本心や真心を見ることができ、甘言や脅しに崩されず、腹が据わって困難に耐えてゆくことをかなえます。
「忍」は「推求に名づく」ですから、先の「智慧」が体験智となり、自分の生き方はこれで良いのだろうか≠ニ、常に問いを持って人生を歩むことを言います。問いを持つことは、迷いの人生から抜け出す第一歩であり、人生成就の要めであります。仏道は問いに始まり問いに終わる。問いを無くした仏道はもはや仏道ではありません。ジャン・エラクル師は「人の究極的真実への真摯な求道はその人を必然的に目的へと運んでゆくのです」(十字架から芬陀利華へ)と仰いましたが、人の究極的真実への真摯な求道≠ヘ必然的に真心の問いを生むことになり、真心の問いがあるからこそ覚りに至る門も開かれるのです。
「音響忍[おんこうにん]」は、音と響きを聞き分けてその矛盾と同一を知ること、と言われています。たとえば「諸行は無常である」と聞いて肯く、しかしそう私に肯かせたのは無常ならざる世界からの呼びさましです。穢土を穢土と知らしめて浄土があり、浄土を浄土と願わしめて穢土があります。先に申しました「浄土の四つの徳」は全て矛盾と同一の両面がある内容ですし、人生に関する課題は全てこの矛盾と同一を含んだ内容です。
身近な例で言えば、「これは問題だ」と指摘される事があった時、つい問題を指摘されること自体を無くすことを考えがちですが、道場樹の念仏は問題があるから良いのだ=A問題を指摘されることが良いのだ≠ニ私を導きます。
また自分自身を「罪悪深重[ざいあくじんじゅう]・煩悩熾盛[ぼんのうしじょう]の衆生」と内省し懺悔する、しかしこのことによって自分に絶望するのではなく、むしろこれが「一切衆生悉有仏性[いっさいしゅじょうしつうぶっしょう]」の歴史を自らの身心で証明していることになる。懺悔せしめるはたらきが自分のバックボーンとして身に満ちていることを証明するのです。
さらには、音としての言葉や意識の奥に、響きとして言葉や意識を超えた内容が受け取れるのも音響忍のはたらきでしょう。これによって、個々の人間の存在や言動の奥に、その人間や言動を成り立たせている無限の歴史や環境が解るのです。
「柔順忍[にゅうじゅんにん]」は、物事や人生の流れに身も心も柔らかく順じてゆく智慧のことです。先の「音響忍」で心が静まり、宿業と浄土の矛盾と同一が見えることによって日常生活や行動が素直になるのです。頑[かたく]なに自説に執着し、様々な苦難から逃避し宿命に反抗ばかりしていた私が、受けねばならぬ宿命は引き受けてゆこう≠ニ現実に根を張り、結果を柔らかく受け入れて苦難を乗り越えてゆく、こうした智慧を柔順忍といいます。三十二大人相(仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴)の一つに手足柔軟相[しゅそくにゅうなんそう]が数えられていますが、これは柔順忍の果報を言うのでしょう。
こうした柔順な智慧に対して、「これだ」とつかんでしまったもの、これは信心であれ覚りであれ抜け殻であり、かたくなな執着に過ぎません。人間が陥りやすいのはこうした「つかんだもの」への執着であり、特に「思想」は総じて執着性を持っているので危険なのです。本当は、昨日「これだ」と讃じたとしても、今日ここで私に間に合わなければ捨てても構わないのです。ただし、こうしてあっさり捨てながらも、単に思想を使い捨てにするのではありません。思想や方向を取捨選択せしめた柔軟な智慧が浄土の道場樹より回施されてくるのです。
「無生法忍[むしょうぽうにん]」は三法忍を代表し、しかも「菩薩の無生法忍、もろもろの深総持[じんそうじ]を得」た智慧ですから、一切諸仏の音響忍・柔順忍を内包した智慧であり、人生や社会現実の根底にあって全てを支えている智慧であり、虚ろで渾然[こんぜん]と見える現象の背後にあって虚ろではない厳然とした法則の裏づけを得た智慧、ということです。また深総持[じんそうじ]とは陀羅尼[だらに]のことであり、「一語の中に無量の義を有っている」言葉ですから、「諸の深総持」を得た智慧というのは、一語一語の中に込められた数多くの本音や本質を聞き分ける智慧であり、さらには言葉だけではなく、現実に起こる一々の体験や見聞きしたことをきっかけに、その背後に潜んでいる文化や文明の本質を知ってゆく。小さな人生の機微[きび]を知ると同時に、そこに全世界を支え保つ基軸を見出してゆく智慧が菩薩の無生法忍でしょう。
「不退転[ふたいてん]に住す」ということは、浄土の仏地に足がついて迷いの世界に退転しないことをいい、覚りの側から言えば、必ず仏に成る位ということで「正定聚[しょうじょうじゅ]」ともいいます。これは道心が定まって退転しない位、という意味です。正定聚に住していない人は、道を求めながらもまだ暗中模索状態で、迷いの中にいて、きっかけがあると一気に底に沈む可能性があるので「退転の菩薩」といい、覚りの側から言えばまだ「不定聚・邪定聚」で、成仏が定まっていない段階なのです。
不退転の菩薩の特徴は、阿弥陀仏の浄土に往生したいと願う(既に即得往生した菩薩がその真価を発揮したいと願う)だけではなく、菩薩が自らの国を発見し、往覲偈にあるように「自分の国も阿弥陀仏の浄土のような素晴らしい国土にしたい」と願いを起こしていることです。この願いがあるからこそ次の六根清浄も適うのです。
「六根清浄[ろっこんしょうじょう]」というのは、目耳鼻舌身意の感覚・認識作用が清らかなことを言います。しかし正定聚に達していない衆生の眼には依怙贔屓[えこひいき]の色眼鏡がかかっていたり、先入観から物事をあるがまま見ることができず、耳も、口さがない人びとの虚言[きょげん]に汚され、相手の真意を聞き逃したり、歪曲[わいきょく]して聞いてしまいます。このような邪見や曲解などのない六根清浄を得るには、どうしても浄土の道場樹より発せられる念仏に遇わなければ適いません。
なぜならば、阿弥陀仏の浄土にあこがれ、真意を回向され、自らの国もかくあらん≠ニ願うことによってのみ浄土の存在意義を認めることができるのであり、これによって本心一途な願いが私の身心に満ちるとともに、これを阻害[そがい]している宿業の頑迷[がんめい]さを同時に領解することができからです。南無阿弥陀仏の名号は単なる文字ではありません。因位における本願と永劫にわたる修行一切の徳がその名に込められていますので、これを信じ名号を褒め称えれば、その道場樹一切の徳が私にはたらき、清浄なる六根を通した念仏となって私の人生一切に顕現[けんげん]してくるのです。
<これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と>
(それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願[がんまんぞく]・明了願[みょうりょうがん]・堅固願[けんごがん]・究竟願[くっきょうがん]と呼ばれる本願の力とによるのである)
念仏者はみな三法忍を得、不退転を得、仏道成就まで六根清浄の功徳を身に満たしていくのですが、これらは念仏者ひとりの力に依るものではありません。すべて法蔵菩薩の願力と阿弥陀仏の仏力のおかげであり、この根本主体の寿命を自らの寿命と引き受け展開した先人たちの遺徳のたまものでしょう。
「威神力[いじんりき]」については「仏説無量寿経」の後半に――
世間かくのごとし。仏みなこれを哀れみたまひて、威神力をもつて衆悪を摧滅してことごとく善に就かしめたまふ。所思を棄捐し、経戒を奉持し、道法を受行して違失するところなくは、つひに度世・泥オンの道を得ん。
「仏説無量寿経」40(巻下・正宗分・釈迦指勧・五善五悪)
世の人々がこういうありさまであるから、仏がたはみなこれを哀れみ、すぐれた神通力によりさまざまな悪を砕き、すべてのものを善い行いに向かわせてくださるのである。誤った思いを捨てて仏の戒めを守り、教えを受けて修行し、途中で教えに背いたりやめたりしないなら、必ず迷いの世界を離れてさとりを得ることができるであろう。
と説明があります。また本願力以下については「述文讃」に――
〈本願力故〉といふは、[すなはち往くこと誓願の力なり。]〈満足願故〉といふは、[願として欠くることなきがゆゑに。]〈明了願故〉といふは、[これを求むるに虚しからざるがゆゑに。]〈堅固願故〉といふは、[縁として壊ることあたはざるがゆゑに。]〈究竟願故〉といふは、[かならず果し遂ぐるがゆゑに]
〈本願力の故[ゆえ]に〉とあるのは、わたしたちが往生するのは阿弥陀仏の本願のはたらきによるということである。〈満足願の故に〉とあるのは、衆生を救う願いが欠けることなく成就されているということである。〈明了願[みょうりょうがん]の故に〉とあるのは、阿弥陀仏の願い求められることには決して間違いがないということである。〈堅固願の故に〉とあるのは、本願はどのような縁にも破られることがないということである。〈究竟願[くきょうがん]の故に〉とあるのは、阿弥陀仏の願いは必ず果しとげられるということである。 
 
神仏 

 

観音経
若有百千萬億衆生 為求金・銀・瑠璃・蝦蛄*・瑪瑙・珊瑚・琥珀・真珠等寶 入於大海假使黒風 吹其船舫 飄堕羅刹鬼国 其中若有乃至一人称観世音菩薩名者 是諸人等 皆得解脱羅刹之難 以是因縁名観世音
書き下し / 若し百千萬億の衆生有って 金・銀・瑠璃・蝦蛄・瑪瑙・琥珀・真珠等の寶を求め 大海に入る 假使黒風 其の船舫に吹き 羅刹鬼国に飄堕す 其の中に若し乃至一人観世音菩薩の名を称する者 是の諸人等 皆羅刹之難を解脱するを得 是の因縁を以って観世音と名す。
「もし、多くの貿易商人がいて、金銀や瑠璃、シャコ、瑪瑙、琥珀、真珠などの財宝を求めて大海原を航海しているとき、たとえば、暴風が吹き荒れ、その船を悪鬼羅刹の住む島へ漂着させたとしても、その漂着した人々の中に、観世音菩薩の名を唱えるものが一人でもいたならば、漂着した彼等は、みな羅刹の島から脱出できるであろう。このような因縁から観世音と言う名があるのです。」

この場合の「百千萬億の衆生」とは、内容から、貿易商の人々を意味しています。お釈迦様がいらした当時のインドでは、すでに貿易船による商売が成立していました。インドやその周辺国の商人は、金や銀などの様々な宝石類を求め、海へと乗り出していたのです。ここで登場する宝石類は、皆さんご存知でしょう。わかりにくいのは、シャコですね。これは貝の一種だそうで、装飾品に使われたそうです。瑠璃は紫がかった紺色の珠のことです。瑠璃石のことですね。
こうした財宝や、絹や珍しい食料品などを求めて、貿易が盛んに行われていたのですよ。インドは文明が進んでいたのです。海に出ればやはり暴風雨に遭うこともあります。本文中の「黒風」とは「暴風雨」のことです。この「黒風」の前の「假使」は、「仮令(たとえ)」のことで、意味は「たとえ〜であっても」という言葉です。ですので、ここでは、「たとえ暴風雨に遭って、羅刹鬼の国に流されようとも」となるのです。
羅刹(らせつ)とは、インドの言葉で「ラークシャサ」と言います。これの音写ですね。悪鬼(あっき)と訳されます。じゃあ、鬼って何だ、となりますが、それについて話をすると、大変長くなりますので、省略します。一応、羅刹の説明だけをしておきましょう。羅刹とは、妙な力を使って人を誘惑し、食べてしまうという魔物のことです。鬼というより、魔物と言ったほうがわかりやすいですね。今の世の中にも、羅刹のようなものはいます。甘い言葉で誘惑し、金を巻き上げてしまうような悪者。いますよね、そういう輩が。そういうものは、現代の羅刹といえましょう。羅刹は、後に、お釈迦様に諭され、仏教の守護神になります。お釈迦様は、羅刹のような悪者でも、罪を悔い改めれば、それを許し、役立たせようとします。その許容力、懐の深さが仏教の特徴でもありますね。
そういう羅刹の国に流されても、その貿易商人の中のたった一人が観音様の名を唱え、助けてくれと願えば、その羅刹の国から脱出できるようになるのです。とんでもない目にあって、そこから脱出するような映画のようですね。そういう映画でもよく神に助けを祈るシーンが出てきますが、まさにそれです。
つまり、この文は、冒険ものの映画を想像して頂ければ理解できるでしょう。大海原に財宝を求めて旅立った貿易商人たち。ところが途中、大嵐に遭い、悪者が住まう島に流されてしまいます。さあ、大変です。手に入れた財宝は盗まれてしまう。それどころか、その島の悪者は人を食べてしまう未知の生物であった! 果たして脱出はできるのか?、悪魔の手から逃れられるのか?。そんな中、貿易商人たちの一人が観世音菩薩に救いを祈り始めます。熱心に、熱心に・・・・。すると・・・・。空中に観世音菩薩が現れ、災難にあっている貿易商の人々を脱出路に導いてくれるのです。こうして、貿易商の人々は、船を取り返し、海へと逃げ出すことに成功するのです・・・。
現代風に当てはめれば、悪者の甘言によって、多くの人々が高い契約をしてしまった。おかげで大金を払う羽目に・・・。さて、お金を取り戻すことはできるのか?。ここで、被害者たちの中の一人が、観世音菩薩に必死に祈ります。何とか、お金が取り戻せますように・・・と。すると、犯人たちは捕まり、お金は無事被害者の下へ・・・。といった感じでしょうか。
深読みして、羅刹は心に救う魔であるとしてもいいです。自らの心にすくう魔の迷いから救って下さる・・と読んでもいいですね。
このように、観世音菩薩・・・観音様は、人々の必死の救いの声を聞いて、観じて、助けに来てくださるんですね。だから、観世音菩薩、というのです。 
琴の音色とスジャータ
「琴の音は、強くしめれば糸が切れ、弱くても音が悪い。琴は糸を中ほどに締めて初めて音色がよい。・・・」と考えながら歩き続ける釈迦は、牛の乳搾りをしていた村の娘”スジャータ”に出会う。
そこに座り込んでしまった釈迦に「尊いお方。どうぞこの乳をおのみ下さい。」とすすめた・・・。
・・・が、・・・・「乳を飲んだら、今までの苦行のすべてが消えてしまう。」と、躊躇(ちゅうちょ)する。
スジャータは、「一度嫁したが何かの事情で実家に戻った女性だった」と、ある調査では語られていた。 ここでは、「乳」であるが、乳粥であったとの説もある。釈迦が疲れ果てて背にもたれた樹は、村の民たちが食事などを捧げる”聖なる樹”であったという。・・・
しかし、このときに釈迦は”琴の糸”のことを想う。・・・・。そして、勧められるまま素直に乳を飲む。
釈迦は、中道の道を選んだ。
快楽にも耽らない。
苦行も極端である。しかし、極端な道を歩んだのでは、絶対真理は得られないであろう。と・・・。
中道という概念は、人類の歴史の中で釈迦が初めてたどり着いた概念である。
○ 5人の仲間は、見ていた。そして、彼らは、これを「釈迦は修行半ばで”堕落”した」と観た。彼らは失望し、釈迦に向かって非難の声を浴びせて、やがてその場を立ち去った。
○ 釈迦は、菩提樹に向かって歩む。東に向かって座る。真理を悟るまでは、このまま動かなかった。「苦」はどこから生まれるのか? そんな釈迦に、これまでに克服したはずの様々な煩悩が襲った。
○ 悪魔の誘惑 3人の美女( 愛欲  快楽  嫌悪 )3人の美女を送る。 ・・・・ 心が完全に透明で柔軟な状況に至った釈迦は、「これらの悪魔には実体が無く ただ己の心の内を映し出しているに過ぎない」と、いうことを完璧に見抜いていた。
しかし、尚、甘言や暴力で迫る悪魔。
「悪魔よ止めるが良い。私はすでに生死の彼岸にいる。悪魔よ。汝は破れたり。」
やがて夜明けになって、釈迦はゆっくり目を開けた。
その眼は、在るがままに観て、在るがままにとらえる眼であった。35才。「観自在」
ここで、釈迦は成道する。ブッダガヤの地であった。
○ はじめの7日間 悟りの 満足感に浸る。気が楽になったから、入滅しようと考えていた。   
そして、 「 みんなに楽になってもらおう。」との、慈悲心を起こす。
釈迦:「我、法を説かん」
○ 最古のヒンズー教の最大聖地 ベナレス ガンジスで沐浴
当時も、多くの宗教家が集まるところであった。ここで、また、5人の仲間と出会う。仲間は、怪訝な顔で観る。釈迦は、不思議な尊厳に満ちていた。仏陀となった釈迦がそこにいた。彼らに悟りを語る。 
神様の言の葉
「威而不猛(いじふもう)」論語
意味=威(い)ありて、而(しか)も、猛(たけ)からず。と読みます。
威厳がありながら、猛々しいところがない。という意味で、孟子のことを弟子たちが評した一説です。
威厳があるということは、往々にして恐ろしく怒られそうなイメージが先行します。しかし怖さだけでは、威厳があるとはとは言えません。怖さがなくても威厳があるという人物は、かなり立派な人物です。人を恐怖や甘言で従えずに、自らの内面から出る風格で人を従えましょう。
「やってみなはれ!やらなわからしまへんで!」鳥井信治郎
意味=サントリー創業者の鳥井氏は、洋酒を日本独自のものにすることで日本に洋酒文化を根付かせ大成功を果たした人物です。しかしその人生は、決して成功の連続だけではありません。むしろ常にチャレンジと研究の連続でした。いつでもその立場に胡座をかくことなく、常に周りを見渡すことが大切です。これと思うものがあれば、机上の空論に振り回されず、自らがチャレンジしていってください。
「寝床につくときに、翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である」カール・ヒルティ
意味=明日の楽しみを持ちなさい。今日の失敗を反省することは大切だが、悔悟の念を持ち越すことは何も生み出しません。今日の失敗を生かせるという、明日の楽しみをもつという前向きな姿勢が幸福を呼ぶのです。明日という日を、楽しみにできるようにしましょう。幸福な気持でありましょう。

神様の言の葉を心に置いて、こころを浄く明るく正しく直くして生きられる糧にしてください。 
輪廻転生
神から人へ。神から人へ、教えて残せよ。多少なるとも。残さぬ教えは間違いのみの、偽り宗教、汚れしことばの、人の心をかどわかす、甘言(かんげん)ばかりの戯言(たわごと)のみなり。さにて本日何を問いたし。
(人間が作られた時にすでに持っていた汚れ、つまり人類全てが持っている汚れ、また生まれたときに持って生まれ、行によって禊がれる汚れについてもお教え下さい)
では答えん。汚(けが)れというは、人の全ての、生まれ落ちなんその前からの、現世、前世、前々世、この世に人の生まれしときより、人類全てが身につけしもの。それぞれ個々に異なれど、前世、来世とつながるなれば、人は己の生のあるうちに、積み越し過(あやま)ち、罪科(つみとが)を、まずは償(つぐな)う、そが務め。さにて残せし罪科が、来世に汚れと持ち越されん。あるいはまた、現世に課されし神のみ役を、怠(おこた)り怠(なま)けて神を忘れ、物質文明に心奪われ、神のお邪魔をせし者も、同じ汚れを残すものなり。
始めの汚れは禊がれど、新たに作りし罪科あり。神を信じぬ心の汚れ、そが最大の汚れならん。神を信じぬことの罪は、己の生を賜りし恩、この世に生きて長らう事の、何に感謝を捧ぐべきかを忘れ、高ぶる傲慢不遜(ごうまんふそん)。
神への感謝をあとにして、物質文明、金銭に、感謝し執着、目をくらませり。
何ゆえ曇りを深めるや。神を失い、迷いし目には、何も見えぬや。心の汚れを恐れよ、人よ。体を損なうことのみ気使い、心をなくしてよきものかは。
許されし、行(ぎょう)をば打ち捨てて、禁じられし業(わざ)のみ喜ぶ。
逆さまならずや。
神の心に適(かな)うこと、易きことなれ、振り向きもせで、あだに求むる、汚れの道を。金銭、富が、さほどに尊く、ありがたかるや、至高のものか。
神の与える恵みを見忘れ、肉体のみの快楽に、魂捨てしか、交換せしか。
神の嘆きは、汚れにあらず。心の弱き人間たちの、哀れな末路を憂(うれ)うるばかり。神の作りし、始めの清き、無垢なる魂、そを懐かしむ。
汚れを浄める、そもまた行なれ、この世にあるうち、よく働けよ。さにて償え、己の汚れを。

あの世の禊ぎにては、神のみ役も果たされぬなり。この世に積みし汚れ罪科、そもまた禊ぎは充分ならず。再度生まれて、試されざれば、いかに人は昇華すべきや。前世、来生と汚れは残り、軽くなる者、幸いなるらん。
多くは貯めて、さらに増やして同じ過(あやま)ち、繰り返しぬる。いかに禊ぎて浄めども、神との縁を結べぬ限りは、汚れは消えざる。減りもせぬ。
なれば神とのご縁を結びて、神のみ役を果たせることこそ、人には至高の幸いならずや。神のことばを解し得る者、神の光を受ける者は、さらに喜び働けよ。

人の全ての努力と、一人一人の努力にて、汚れし罪も浄められ、残る汚れもわずかとなるらん。苦しき道にも光はあるらん。憩い与える木陰もあるらん。
神への感謝を忘るな、人よ。そのみが救われ、助かる道なり。
神への祈りを怠るなかれ。己の汚れを浄める上にも、さらなる昇華を賜るためなれ。神は人へと託せしを。この世に楽園作れよと。この世に神の国立てよ、神の住む国、降りる地なれと。なれど汚れは蔓延しぬる。人の欲望、執着、増悪。それらがはびこり、行き渡りぬる。
神の降り得ぬ地となれば、人は浄めよ、祈りのことばで、光で、文字で、音で、絵で。神の許せし人の救いは、ただひたすらに神との縁を結び、神への感謝を甦らすこと。そのみが人の可能な行い。あとは委ねよ、神の御心。
おのが慢心狂信は、かえりて邪魔なり。神にも救えぬ魂あれば、そもまたやむなし。仕方なし。汚れは体の奥底から、魂、心を蝕(むしば)むように、知らずに汚してゆくものなれば、人はよくよく精進されよ。誰も汚れはあるものなれば、なしと思いしそのときこそ、己を戒(いまし)め、気を引き締めよ。
さにて汚れも取れやすく、神とのご縁も強まらん。汚れなき心ほど、素直に信じる心となるらん。汚れを認めて向き合えわば、恐ろしくもなし、心の垢(あか)なれ。うまずたゆまず、浄めればよし。そのためなれよ人生は。

汚れの深く曇りし者にも、いかに結ぶか、神とのご縁を。禊(みそ)ぎと奇跡と共に見て、尚信じぬが、人の心よ。神の仕組みを素直に観じて、人知の限界、無駄なあがきを、やめし時こそ、悟りを得なん。浄めて浄めず、禊ぎて禊げず、人間心の解釈ならば、いつまで待ちても低き行い。
無欲になりて行いし時、真の昇華は許されぬるを。さにてこれより、さらに高めよ。神への信と、感謝の念を。謙虚に向かえよ、己のみ役に。
おごり、不遜は、厳に戒め、素直に無心に、一途に行え。さにて。 

輪廻転生 / 死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。ヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ(オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン)など世界の各地に見られる。輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は輪廻転生の考え方を持つ。  
 

 

 
 

 

 
 

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■諸話

 

質屋の歴史平野郷鉄の交易資料大正昭和の岸和田沖縄差別の源流モラルなき経済政策文部省の大学入試改悪安倍晋三と慰安婦問題宗教諸話・・「口」と個性
 
 
「質屋」の歴史
「質屋」と聞いて思い浮かべるのは、玄関に、瓦屋根に青い暖簾なんかがかかっている、土蔵造りのちょっと物々しい佇まいの建物。勝手なイメージとして、店内は薄暗く、無愛想な店主がドーンと構えてそうである。それに、どんなことをしているのかも謎である。
テレビや漫画で得た知識で、“ブランド品や貴金属などを預けて、お金を借りることができる”ということは何となく知っている。それが余計に、アンダーグラウンドっぽさを高めてしまう。しかし、存在しているからにはそれなりに需要があり、商売として成り立っているということだ。私は質屋という職業の謎に迫ってみることにした。
そもそも質屋って何?
質屋とは、少額の資金を融通する金融機関である。貴金属やブランド品など、消費者の家財を担保に資金を貸し付けする。基本的に担保の価値以上の融資をすることはないので、通常の融資には必要な審査はない。預かり金額(融資金額)は、品物の価値に応じて決まる。質屋の「質」とは、借金の担保として物を預ける行為、品物のことを指し、預けた家財は質草・質種と呼ばれる。融資の際には法律に基づいた利息が発生し、平年年利109.5%と高額だ。これは基本的に少額融資であることや、鑑定・保管の手間などを考慮した上での金利設定である。
また、返済期限の代わりに「流質期限」が設定されている。だいたい3ヶ月以内に借入金額と利息を返済しなければ、質草は質屋のものとなって、契約は終了する。
これを「質流れ」という。流れた質草は、店頭販売されるほか、各地域の質屋協同組合が運営する古物市場に売却される。
質草となる品物には、貴金属・カメラなどの家電製品・ゲーム機・高級ブランド品などがある。昭和40年代には呉服・洋服などの衣類や、布団・鍋などの生活用品も財産に当てはまっていたが、近代に入って生活が豊かになったことで扱われなくなった。また、現代では融資だけではなく持ち込み品の買い取り・販売も行っている。
質屋の始まり
質屋が誕生したのは今から700年以上前、貨幣経済が発達してきた鎌倉時代だと言われている。地方の有力者や名主が、領民相手に担保をとった貸付を行っており、これが原型だと考えられる。当時は質屋という呼び名はまだなく、「土倉」(とくら)と呼ばれていた。これは、担保を保管するための土蔵を建てたことに由来している。その後、貨幣経済の普及とともに質屋も発達していく。室町時代には庶民の金融機関としての役割を持つようになり、そして江戸時代に土倉は爆発的に増加。「質屋取締令」という法令も施行され、土倉は質屋という呼び名に変わる。質屋は江戸時代の落語や時代劇によく登場することからも、庶民にとって身近な存在だったことが分かる。
江戸時代に質草となったものに、衣類・キセル・財布・火鉢・大工道具などが挙げられる。衣類は着物は高級品だった。また、鎧兜などの武具類や、将軍家の家紋が入った品物を質草にすることは厳禁だったが、実際は見逃されており、預ける人も多かったという。
また、当時の質屋も土蔵造りの重厚な建物が多いが、これは火事の多い江戸で、質草となる財産を保管するのに、火に強い堅固な倉庫を設ける必要があったためである。現在も蔵を持つ店は多いが、革製品などのデリケートな品物を保管するため、温度・湿度管理に配慮されている。
質屋はどうやって利益を出しているの?
基本的に質屋は質草の価値以下のお金しか貸さないので、返済されれば利子で儲かり、返済されず質流れになっても、質草を売れば利益が出る仕組みとなっている。買い取りする場合も、きちんと利益が出るように買い取り価格を提示する。
また、客が品物を取りに来ないことが続くなどして、在庫が溜まってきたら、店頭販売のほかに質屋専門のセリでも売却する。東京の場合は、東京質屋協同組合が主催となり、都内の質屋同士が持ち寄ってセリを行う。
客が持ち込んだ品物の査定価格は、市場価値に応じて変化するため、中古品市場で相場を常にチェックしておかなければならない。中古品市場とは、買い取り業者の提示価格や、ネットオークションの落札価格などのことである。質屋組合からも随時相場表が発表され、それらを参考にしながら仕入れる商品、融資・買い取り金額を決定する。良質な商品をどんどん販売して利益を上げるためにも、家電・貴金属・ブランド品と、あらゆる品物の相場・鑑定眼に通じておかなければならない。
そのほか、不動産などを持っており、商売以外の収入を得ている場合も多い。
また、小さな店舗の場合は人件費・光熱費があまりかからないので、出費が少なく赤字になりにくいという点も、質屋が長く続いている理由だといえる。質屋はこのように、利益を上げるための色々な仕組みや、経営手腕がある。鎌倉時代から続く、700年の歴史は伊達ではないということだろう。
最近の質屋はどんなことをしているの?
質屋は昭和中期ごろまで、質預かりによって生じた利子が主な収入源だったが、高度経済成長期を迎えた1960年代から斜陽化が始まり、70年頃には店舗数が激減してしまう。そこで生まれたのが、店頭にウインドウを作り、質流れ商品を小売する手法だった。
80年代には本格的に小売部門に乗り出し、(株)大黒屋のようなディスカウントタイプの店舗を持つところが増えていった。実際、現在のディスカウントストアは質屋から転業した店舗が多く、東京都台東区の「多慶屋」なども前身は質屋だった。質屋のディスカウントストア化が進むにつれ、消費者からの商品買い取りも積極的に行うようになる。
近年ではネット通販や、ネットオークションに出品する質屋も目立っている。ネット販売のメリットに、仕入れた商品をすぐに販売できること、多くの人の目に触れるので高額商品でも売れやすいことなどが挙げられる。人件費や店舗費用、宣伝費がかからないので大幅にコストカットができるのも利点だ。このように、時代変化に対応していくためにも、さまざまな工夫を行っている。…
「街の質屋」に隠された人情
私も貧乏だった学生時代、都内の質屋に質草を預けたことがあるが、どの店も暗い雰囲気はなく、仕組みや利用方法などを丁寧に教えてくれた。それ以来、質屋に対する怖いイメージはなくなった。まあ、しょっちゅう品物を預けるのは褒められたことではないが、一時的にお金に困ったときには利用してみるのも、消費者金融などのお世話になるよりかは安心なのかな、と思う。
質草を預ける人の中には、色々な事情から質屋を最後の頼りにしてくる人も多い。質屋のなかにも、お客さんが本当にお金に困っているようだったら、値段のつかない品物でも最低限の金額で預かったり、本来の融資金額よりも多めに渡す店もあるそうだ。(もちろん、無理を言うのは禁物だが) 高金利だからこそできる行為ではあるが、これは江戸時代、本来は禁止だった武具や、家紋入りの道具を預かっていた実情にも共通する優しさだとも思える。
預かってもらう以外にも、使ってない品物を買い取ってもらって、そのお金で何か欲しい物を買うのも良いだろう。質屋には、“その道のプロ”が仕入れた状態の良いブランド品や、人気のデジカメなどが安く売られていることが多く、本当に掘り出し物の宝庫だ。中古品に抵抗のない人は、是非とも質屋の店頭や、通販サイトを覗いてみて欲しい。
お金がなくて年を越せない!という人、年末の大掃除で使わないものを大量に発掘してしまった人、そんな人は是非とも質屋を利用して、豊かな年越し&スッキリとした新年を迎えましょう! 
 
 
平野郷 (大阪市平野区の旧本郷七町と周辺の町)

 

豊臣・徳川時代の初期
平野商人(政商)の誕生と光と影
坂上七名家で野堂家の血筋から、「末吉(すえよし)」の姓を名乗る者が現れ、やがて末吉家は、末吉藤右衛門行増の代に5名の男子がいて、長男は「末吉藤左衛門増久」を名乗って東家に、次男は、「末吉勘兵衛利方」と名乗って西家の家系に分かれた。
末吉の東西両家は、ともに時の権力者と巧みに結びついた政商となって、平野郷の歴史に大きな影響を与えた。しかし、大坂の役(おおさかのえき)で、豊臣方についた東家と、徳川方についた西家では、江戸時代になってから明暗がハッキリと分かれてしまったようだ。
先ず、西家の末吉勘兵衛利方は、堺の北の庄と南の庄で、天正11年(1583年)に馬座の権利を取得し、馬の売買と馬を使って運送をする独占権を得て、行商に乗り出した。東家の末吉藤左衛門増久の次男・増重は天正11年(1583年)に秀吉から越前にあった北袋銀山の採掘権を所得し、文禄2年(1593年)に秀吉から朱印状を受けて鉱山採掘を行った。
豊臣・徳川時代は現代と違って、他国(外国ではなくて、今で言うと他の都道府県のこと)へ旅行するのは制限されていた。また、他国で商売するには、藩主発行の商用ビザが必要だったのだ。
現代では大阪から東京まで商用で出張するには、乗車券と座席指定の特急券を買って東海道新幹線に乗れば、東京までパーッと行けるが、豊臣・徳川時代の日本は、通行手形という身分証明証(摂津国の代官が発行:今なら平野区役所発行の住民票に相当)と、出張先の国の藩主の朱印状または黒印状(江戸城主の発行:今なら東京都知事の営業許可証に相当)が必要だったわけである。
だから、非常に面倒くさい。徳川時代の東海道には箱根に関所があって、ここで通行手形の検札があった。 今でも江戸幕府が続き、そのような規則や制度があれば、上下の「のぞみ」は「三島駅」で30分停車して、沼津奉行(今なら沼津署)の署員が車内に乗り込んできて、乗客の通行手形を検札するとなると、日本の経済に大きな支障が出る。やはり、日本は封建主義時代には戻らない方がいいね。
平野郷は摂津国にあり、豊臣・徳川時代の平野商人は畿内(きない:山城国、大和国、摂津国、河内国、和泉国の五国)の往還は自由であったが、畿外に出て商いを行うには、諸国往還の許可証と商売保護の保証の二通が必要であった。
東家の末吉藤左衛門増久の次男・増重は、天正16年(1588年)に、秀吉から諸国往還の朱印状を受け、最上藩(もがみはん:山形県)から藩内の通関往来の黒印状を得た。西家の末吉勘兵衛利方は、天正16年(1588年)に、岡崎城主であった家康から免船六隻分の国内港湾の出入りを許され、後に家康が関八州を領有したことで、大坂〜岡崎〜関東間の廻船業に弾みがつくようになった。
豊臣時代の平野荘は、秀吉の正室「おね、又は、ねね。高台院)」の領地になり、勘兵衛利方は、家康とも親しかった高台院を通じて、家康に便宜を図って貰ったものと思われる。
慶長3年(1598年)に秀吉は伏見城にて病死した。秀吉が命じた朝鮮出兵は依然として継続しており、豊臣家臣の中で出兵継続派と撤退派の抗争が起って、豊臣政権は盤石(ばんじゃく:強固)なものでは無くなっていた。弟の秀長の死により、豊臣政権の行方に不安を感じていた晩年の秀吉は、亡くなる前に「五大老・五奉行」の制度を設けて、筆頭大老の家康に実子「秀頼(ひでより:側室・淀との子」の後見人に任命して臣従を誓わせていた。
しかし、秀吉の死後間もなく豊臣政権は脆くも崩れ出し、慶長5年9月(1600年10月)に家康と石田三成がそれぞれの派閥大名を巻き込んで争う、天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」が起こった。結局、家康が関ヶ原の合戦に勝利し、家康は慶長8年(1603年)に伏見城で「征夷大将軍」を宣言し、同年より江戸城で徳川家による「江戸幕府」を開いた。恩賞のあった外様大名は石高が加増されたが、家康に背いたので江戸より遠い西の国へ移封となった。外様の扱いに家康らしい慎重さがみられるが、豊臣家の処遇が難題になった。
秀吉の実子・秀頼を改易(かいえき:財産と地位を没収して平民にする)してしまうと、秀頼の後見人であった家康は諸大名から信用を失い兼ねないので、家康は秀吉との約束を守って、三男秀忠(ひでただ)の娘「千姫(せんひめ:側室の西郷局との子)」を秀頼に嫁がせた。そして、慶長10年(1605年)に征夷大将軍の地位を秀忠に譲って、秀頼を徳川秀忠に臣従させるように高台院に申し入れたが、秀頼の母・淀君(よどぎみ)が認めなかったので、徳川家と豊臣家の関係がギクシャクし出したのであった。
慶長19年(1614年)、そんな折りに豊臣家が五年もかけて、秀吉の供養のために建てていた方広寺で「鐘銘事件」がおこり、梵鐘に彫られた「国家安康君臣豊楽」の銘文が問題になった。この銘文は、大坂奉行の片桐且元が南禅寺の僧に選定させて鐘に彫らせたものだが、この銘文を家康が側近の僧や学者に解読させたところ、国家安康は、家と康を分断(徳川家を分断)し、君臣豊楽は、臣と豊が逆にくっついて豊臣家の再起繁栄を願っているとして、徳川家にとっては不吉な銘文であるとして家康を立腹させた。家康は方広寺での秀吉の供養を延期させ、梵鐘を撞くのを禁止させたのである。
豊臣家は、奉行の片桐且元ほか数名を家康の居城・駿府城に遣わせたが、話がまとまらず、上げた拳を下ろすには、家康が納得するような豊臣側の譲歩が必要であった。片桐且元は、家康のほとぼりが冷めるまで秀頼を大坂城から退去させれば解決できるとしたが、関ヶ原合戦の仕返しを果たしたいと思っていた強硬派の家臣は、方広寺の一件は家康の挑発だとして弱腰の奉行を追放し、合戦準備に入ったのである。家康の方も融和に応じない淀君の態度を察して合戦準備を密かに進めていた。これが大坂の役(おおさかのえき)の原因である。
関ヶ原の戦いでは、平野郷は兵火に遭わなかったが、大坂の役では、再三に渡って兵火を受けた。慶長19年(1614年)、家康と秀忠は、二条城に末吉孫左衛門吉安(西家)を召して、平野郷の安堵の朱印状を与えた。同じくして、豊臣方からも末吉家の東家に、豊臣方に忠誠であるなら平野郷安堵の褒美を与えるという秀頼の黒印状が届けられたそうだ。
平野郷では、どっちにつくか、東西の末吉家が中心となって七名家で話し合いが長引いたが、結果として徳川側に味方することになった。再び末吉孫左衛門吉安(以下吉安と記述)は、京の二条城で指揮を執る家康に召され、「平野郷は大坂城兵の出陣が予測され、先に徳川方の兵を平野郷の警備につけるので、河内に向かっている三将の軍の道案内をせよ」との命令が下った。吉安は京から下って、枚方(ひらかた)で陣を張っていた三将に会って平野まで道案内して、加美の鞍作(くらつくり)村まで来たところ、豊臣方の城兵が先に平野郷へ入って年寄(としより:平野郷町の責任者)5名を捕らえて、町内に放火した直後であった。
吉安も急いで帰郷して消火にあたり、徳川軍は、大坂城兵が襲ってこないように頑丈な門を設置して平野郷に守備兵を残して大坂城方面に向かった。家康・秀忠も平野郷を通って、家康は茶臼山(現在は天王寺公園内)に、秀忠は岡山(現在の生野区勝山)に陣を張って大坂城本丸への攻撃態勢に入った。
家康と秀忠が率いる徳川軍は、朝鮮の役より4万人多い20万人の軍勢で大坂城を囲み、じりじりと近寄って、大砲300門で大坂城天守閣に向かって集中砲撃し、何発かは天守に着弾したので、籠城して家臣を指揮していた淀君は、和議に応じることになった。
しかし、翌年の慶長20年(元和元年:1615年)に再び合戦が起こった。壕が埋められて丸腰になった大坂城での戦いが不利とみた豊臣方は、城外に出撃する作戦を立て、真田左衛門尉幸村と後藤又兵衛基次の軍勢は、大坂城から道明寺へ、長曽我部盛親の軍勢は八尾へ、木村重成の軍勢は、若江へ進軍した。
これに対し、徳川軍の主力は道明寺から平野を経由して大坂城へ進軍し、八尾街道が通る平野は、両軍の往来が激しかったので、平野郷の近くで壮絶な白兵戦が多く、両軍に死傷者が続出した。二度の役で平野郷でも大念仏寺の本堂や伽藍が焼かれ、かなりの町家(商家)や民家が兵火に見舞われたようだ。
大坂の役が終わって翌年の元和2年(1616年)に、幕府は吉安に平野郷の町制を行うように命じ、碁盤の目のような町割になるように道路を整備させた。これは、大坂の役の時に実際に家康と秀忠という二人の徳川家の将軍が平野郷を訪れており、兵火によって半ば焦土と化した平野郷の再生には、この際、町割をスッキリさせた方が町の美観と保安上において都合が良いと判断したからだろう。
さらに家康は吉安を二条城に召し、平野郷及び畿内五郡の代官に任ずるという恩賞を与え、吉安は志紀郡と河内郡の代官になった。一方、東家の末吉藤左衛門増重は秀吉の正室・高台院の台所(だいどころ:金庫番・会計係)に命じられており、豊臣色が強かったので徳川家からは疎遠にされたようだ。
平野商人による銀座の設立と朱印船貿易
さて、末吉の西家が隆盛を極めたのは、銀座(銀行)の設立と朱印船事業(貿易事業)であった。先述したように、吉安の父・利方の代から、家康の領地に免船6隻分の港湾出入りが許されて、太平洋沿岸航路の廻船業が始まっていた。
秀吉と家康の共通しているところは、外国文化に対する旺盛な興味であった。秀吉は日本独特の封建主義体制に合わない天主教(てんしゅきょう:キリスト教)を禁じ、伴天連(バテレン:宣教師・ポルトガル語のPadreに由来)を国外に追放したが、南蛮貿易に関しては国益になるとして、航海の安全を期すために西国諸藩に和冦(わこう:日本の海賊)退治を行わせ、文禄元年(1592年)に、長崎・堺・京の商人に朱印状を与え、8商人から9隻の朱印船が長崎から出航した。
秀吉の狙いは、唐船(東南アジアと通商)・蘭船(西欧と通商)による、外国人の貿易独占を日本の商人たちにも門戸を広げたかったからである。平野の末吉家(西家)が朱印船貿易に加わるのは徳川の時代で、慶長9年(1604年)〜慶長15年まで呂宋(ルソン:フィリピンのルソン島)に航海したことが記録されており、京の清水寺に奉納された末吉家の絵馬には、寛永9年〜11年の朱印船の絵馬がある。(※平野区役所の1階ロビーにも複製を展示)
末吉家(西家)の朱印船貿易は父の利方、子の吉安、孫の長方、曾孫の長明の4代まで続き、寛永13年(1636年)の鎖国実施(邦人の海外渡航禁止令)の時まで貿易事業が続けられていたようだ。
一方、銀座の方だが、銀座というのは今でいうと日本銀行や造幣局みたいなものである。品質の一定した品位の高い貨幣を鋳造して、貨幣経済の利便性を高めるため、国内市場に流通させる必要がある。家康は、関ヶ原合戦後に、豊臣家から佐渡金山などを手に入れたことにより、金・銀・銭(せん・銅銭)の三種の貨幣制度を設け、中でも純度84%の金貨・慶長大判は有名で、小判や一分金も鋳造された。
しかし、銀貨に関しては「秤量貨幣(ひょうりょうかへい)といって、形の不揃いな丁銀・豆板銀が発行され、銀貨の重さで金貨と換金された。このため両替商なる商売が生まれた。銭に関しては、室町時代の頃に、明のから大量に輸入した「永楽通宝(永楽帝時代の通貨)」という銅貨が国内で一文銭(いちもんせん)として流通していた。一文銭は、今の1円玉よりは値打ちがあったと思う。銅貨やからね。それに、今の1円では何も買えない。あんパン買うのに1円玉が80枚〜100枚も要る。
慶長6年(1601年)末吉勘兵衛利方は伏見城にいた家康に召された。この時、「願いあらば申せ、聞こう」との有難い仰せに、利方は、国内通貨を一定にして商いの利便を図り、とくに銀貨の品位を高め、極印(ごくいん:保証印)を打って通貨としての信用を維持したいことを述べた。家康は快諾し、利方と後藤庄三郎の両名を頭取として伏見に銀座を設置した。
銀貨の鋳造は、既に伏見鋳造所が3年前に出来ていて、堺の銀吹き商人・湯浅作兵衛常是(大黒常是:だいこくじょうぜ)によって、大黒印を打った銀貨が製造されていたが、家康公認の銀座の設置によって、常是の鋳造所は伏見銀座の銀吹所となった。
大黒常是の方は、幕府に命じられて江戸にも銀座を開いた。銀座は東京が発祥と誤解している方が大変多いが、実は京都の伏見が始まりでなのである。銅貨に関しては、寛永3年(1626年)に水戸の豪商が「寛永通宝」が鋳造し、出来が良かったことから、幕府は公用通貨として輸入銅貨の永楽通宝を廃し、寛永13年から幕府の鋳造所で寛永通宝の製造が本格化した。寛永通宝は、明治維新頃まで流通したそうだ。
このように末吉家(西家)は隆盛を極め、大坂の横堀川に私財を投じて橋を架けた。その名は「末吉橋(昔は孫左衛門橋)」である。※末吉橋は大阪市営地下鉄の鶴見緑地線の松屋町駅出口の傍にある。末吉橋は明治43年まで木橋であったそうだが、やがて大阪市電の鉄橋になり、現在は鉄筋コンクリート製の橋である。何度も架け替えられているため、往時のイメージは全くない。
平野郷の町割の完成
元和2年(1616年)に、江戸幕府は代官で平野商人の末吉孫左衛門吉安に命じて、大坂の役で兵火に遇った平野郷の修復工事を命じた。その後約150年経った宝暦13年(1763年)に製作された絵地図「摂州平野大絵図」を見ると、昔は平野郷町の市街地の外に二重の環壕(かんごう)が掘ってあったようだ。奈良街道(今の国道25号線)は、江戸時代から平野郷を横切っており、その他の街道の出入口にも、合計十三カ所に木戸口(扉のある惣門)があって、木戸口の傍に遠見櫓(とおみやぐら)や門番屋敷・地蔵堂があって、門番が街道に出入りする通行人から荷物の点検などを行っていたらしい。
平野郷の環壕は、昭和初期の地図を見ると、阪堺電気軌道が大正3年4月(1914年)に今池〜平野間が開通し、それから10年経った頃でも環壕は未だかなり残っていた。但し、平野郷十三口の惣門は、明治15年(1883年)のコレラ流行の2年後に撤去されたようだ。
阪堺電気軌道の平野線は、地下鉄谷町線と路線が競合することから、昭和55年11月(1980年)に廃線になり、66年間も平野郷町の人々に親しまれた八角形の平野駅の駅舎とチンチン電車が平野区から消えた。また、環壕も殆ど埋め立てられて、古(いにしえ)の面影はない。
平野郷は、江戸時代初期にできた碁盤の目のような町割に、今でも築150年ぐらいの町家(商家)や土蔵、民家が所々に残っているところである。平野郷だけでなく、その周辺の喜連4丁目周辺にも、レトロチックな街並みが残っている。これは、太平洋戦争末期の頃、平野区(戦時中は東住吉区)がB-29による大空襲の攻撃目標から外され、平野付近が殆ど被弾しなかったことによる。
現在でも見られる平野郷の環壕跡は、平野郷の氏神神社である「杭全神社(くまたじんじゃ)」の東側に残っている。神社の東側は「柏原船(かしわらせん)」などの船着き場(お茶池)を埋め立てた、桜の名所・杭全公園があって、公園の北側に鯉を放流した環壕の名残が見られる。
明治時代以降の平野郷
明治維新後の廃藩置県で、摂津・河内・和泉の三国は合併して大阪府(一時、大阪府の名が消えて堺県大坂三郷になったこともある)になり、明治22年(1889年)になって大阪市が誕生した。この時の大阪市は、大坂三郷(北組・天満組・南組)を4区制にし、東区・西区・南区・北区でスタートした。大阪府知事と大阪市市長が兼任し、庁舎も兼用であった。
明治22年(1889年)の平野郷町と喜連村は、大阪府住吉郡に編入。瓜破村と長吉村は丹北郡へ、加美村は渋川郡へ編入された。明治29年(1896年)に住吉郡と東成郡が合併して東成郡へ、丹北郡と渋川郡が合併して、中河内郡になる。大正14年(1925年)に東成郡の平野郷町と喜連村は大阪市住吉区に編入。昭和18年(1943年)に住吉区から、住吉区・阿倍野区・東住吉区が分区し、大阪市は22区になる。旧平野郷各町と喜連は大阪市東住吉区に編入。昭和30年(1955年)に中河内郡の瓜破村・長吉村・加美村が東住吉区に編入。昭和49年(1974年)に東住吉区から平野区が分区。平野(旧郷町)・喜連・瓜破・長吉・加美は平野区へ編入。
平野郷と綿業
さて、日本人はいつ頃から綿布で作った衣服を着るようになったのか?ぼくは、このエッセイを書くまで、殆ど知らなかった。弥生時代の遺跡発掘などの出土品から、当時の日本人はすでに麻布の衣類を着ていたと考えられているが、綿で織った衣類は中世の頃まで無かったらしい。
綿の種子が日本に渡来したことが文献で明らかになったのは平安時代の初期で、三河国幡豆郡(はずぐん)天竹村(てんじくむら)に漂着した崑崙人(こんろんじん:インド人)だとされている。この人物の名前は言葉が通じず不明だったが、この崑崙人は綿の種子を入れた壷を持っており、三河の国司は崑崙人が三河に渡来した報告と、崑崙人が持参していた種を蒔いて良いかどうかを使いを通じて桓武天皇に上奏した。桓武帝は大変お慶びになり、崑崙人が持っていた種子は各国の国司に分配され、畿内五国や三河で綿の種が蒔かれたが、日本の風土に合わず、うまく育たなかったらしい。
15世紀の室町時代にも綿の種子が渡来人によって持ち込まれ、綿の栽培が実験的に行われていたが、良質の実に育てるのが難しくて、綿布は中国や朝鮮からの輸入品に頼っていた。
綿が本格的に栽培されるようになったのは、16世紀の初めで、綿布の需要が急増した戦国時代の頃になる。この頃になって、ようやく綿の栽培が上手くいくようになり、摂津国・河内国・和泉国で綿花の栽培が急増し、三河国や伊勢国にも栽培が広がっていった。16世紀中期には、実綿問屋(綿の実の集荷を専業とする)、繰綿問屋(実綿から不純物を除去した加工品と綿糸を扱う)、綿織物(綿布を扱う)の問屋ができて、分業システムが成立した。
江戸時代になると江戸に近い三河木綿は、江戸や関東方面へ送られ、三河の名は木綿の産地として全国的に有名になった。明治16年、愛知県幡豆郡天竹村(現在は愛知県西尾市)に「天竹神社(てんじくじんじゃ:天竺神社とわれる)」が創建され、平安時代初期に渡来した崑崙人を日本に綿を伝えた始祖として祀られているらしい。
摂津国の平野郷も、江戸時代には繰綿業が盛んになり、宝暦13年(1763年)に刊行された摂州平野大絵図には、平野産物として、平野繰綿(ひらのくりめん)と平野錘(ひらのつむ)が書かれており、平野繰綿には、「摂・河・泉ノ綿ヲ繰出シ、諸国ニ商フ」、平野錘には「女工(ジョコウ)車ニ懸(カケ)テ、糸ヲ牽クノ具(道具)也」と注釈が添えられている。
因みに平野区の花は「綿の花」になっているが、戦後生まれの殆どの方は綿の実をご覧になったことはないと思う。ぼくは中学生の頃に、祖母が自宅の庭で綿の木(植物学的には草)を数本育てていた思い出がある。大正時代の初期、祖母も結婚するまでは、和歌山の紡績工場で働いていたと話していた。だから、ぼくの母は、大正5年に和歌山県の海南市で生まれ、祖父は紡績会社の技師として働いていた。
大阪市内で、綿の花や綿の実を見たい方は、平野区瓜破東6丁目(うりわりひがし:瓜破霊園の南端)に、小学生の教材用に一反(300坪;990平米)ほどの「区民わた畑」があって、外から見えるし、平野区役所に頼めばカギを開けて、開花や実ができる頃に見学ができる。平野区の喜連や瓜破の小学校では綿摘みの実習や綿糸作りの実習が行われている。綿は、アオイ科ワタ属の多年草の植物で7〜8月に開花し、8月下旬には綿の実が出来て、やがて実がはじけて綿が飛び出し、それを摘むことが出来る。
宝永2年(1705年)の平野郷町は戸数2,625軒、人口10,686人に対し、職人が1,212人もいた。平野郷町の代官所の調べでは、この内、綿実買32人、木綿繰屋166人で、繰綿買問屋9人、繰綿売問屋8人、問屋の場合は兼業もあるので、綿に携わる職人が207人もいた。
これは、宝永元年(1704年)大和川の川違(たが)えによって、大和川の流路が柏原から西進して堺港の北に流れ、長年に亘って水害に苦しめられていた中河内郡の農民は、水害の被害が解消したので、新田開発に奮闘することになった。
平野川の水源は、新大和川が出来るまでは、南河内郡の狭山池を水源としていたが、川違えによって、東除川との接続が途切れ、平野川の上流は、柏原付近の樋門から大和川の水を引くことになり、人工の水路が開削され、舟が往来出来るようにされた。 
中河内の土壌は、過去の水害の影響で石の混じった土砂が多く、稲作よりも綿の栽培に適し、また綿が米よりも高く取引されるようになっていたので、新田では綿を栽培する農家が急増したのである。柏原(かしわら)村で集荷される原綿は、柏原の古町から原綿20石(こく:米20石なら3トン)積みの「柏原船」に積み、弓削(現在は八尾飛行場で分断)を通って、八尾の亀井で平野川に入って杭全神社の隣にあった港に荷揚げされていたらしい。
原綿は、平野郷町にある木綿繰屋(もめんくりや)で繰綿や綿糸に加工していた。綿繰りは女性の仕事で、行程は「綿くり」、「綿打ち」、「糸くり」の順で行い、1日のノルマは50匁(もんめ)であった。5匁の糸を10袋分作って1日の作業が終了。それ以上の分は職人の「へそくり」になっていたようだ。へそくりの語源は糸くりにあったのか! ※へそくりは、お腹にある臍には関係なく、綜麻(へそ)という紡いだ麻を巻き付けた糸巻きを意味する。
明治になると、明治政府は産業の近代化に力を入れ、手作業から機械化を奨励し、綿布を大量に生産するために綿糸の需要が急増した。河内綿は繊維が太く短かったので、蒸気機関を応用した動力織機による綿糸や綿布の大量生産には向かず、明治政府は関税を撤廃して価格の安い外国綿の使用を認めたので、河内綿の生産農家は、輸入原綿との価格競争に太刀打ち出来ず、次々と廃業に追い込まれたようだ。
大阪では大阪市ができる1年前(明治21年)に、財閥の鴻池善右衛門氏の他に19名の有志が発起人となって、大阪電灯(関西電力の前身)が創立された。明治15年に東洋一の大阪紡績(後に東洋紡)が出来たので、明治22年から、大阪紡績に電灯用電気を供給して、12時間勤務の昼夜二交代制で、綿糸や綿布の製造が行われるようになった。その当時の大阪人の殆どは、江戸時代と変わらない、菜種油のランプの明かりで晩御飯を食べていた。だから、夜は真っ暗。提灯を持って外出した。
明治22年(1889年)に、大阪市4区(北区・東区・南区・西区)が発足。大阪市のキタの顔である梅田は、まだ大阪市域には入らず、大阪府西成郡曽根崎村梅田のままで、堂島は大阪市北区に編入。明治7年に大阪〜神戸間が開通した官営鉄道(工部省鉄道寮)の大阪停車場があった。大阪市のミナミの顔である難波(なんば)も、大阪府西成郡難波村のままであったが、明治18年に開業した民営鉄道の阪堺鉄道(南海)の難波停車場があった。駅の周りはネギ畑であった。しかし、島之内は大阪市南区に編入された。天王寺も、大阪府西成郡天王寺村であって、田圃に囲まれた民営の大阪鉄道(後に関西鉄道〜国鉄へ)の天王寺停車場があった。
なぜ、主要な駅が大阪市外になったのかというと、利権が絡んでいる。明治22年当時の大阪の鉄道は、馬車鉄道を除いて、政府の官営鉄道も民鉄も汽車鉄道だったので、当時の汽車は、煙突から火の粉が飛び散ると役人が信じていて、当時の大阪市内は殆ど木造建築だったので、大阪市の防火対策として、大阪市内の住宅密集地に鉄道の線路を敷いたり駅を造ってはダメという決まりがあったのだ。
明治36年には大阪市電が走るようになったが、大阪市側は、市内の道路は大阪市の経営による市電(昭和になって地下鉄も)を走らすため、市内に大阪市営以外の鉄道敷設の免許を与えなかった。また、2万人が就業する人力車組合が、市街地に鉄道が走ると、客が汽車に取られて営業妨害だと反対した。今では信じられない理由である。
「平野駅」が出来る大阪鉄道(初代の大阪鉄道、後に関西鉄道と合併)が開業することを年頭に置いて、平野郷の坂上七名家で宗家筋に当たる末吉家が有力商人を集めて発起人とし、明治20年(1887年)に平野紡績を大阪府住吉郡平野郷町大字泥堂(現在は大阪市平野区平野元町)に創立した。資本金は50万円(発行株数は20,000株)であった。
因みに明治22年(1889年)の50万円を現在の貨幣価値に換算すると、当時の尋常小学校の教員の初任給が5円なので、現在が20万円だとすると、40,000倍だから、120億円ぐらいになるようだ。
末吉家が中心になって経営する平野紡績は、英語の堪能な工学博士・菊池恭三氏を大阪造幣局から引き抜いて工務長として採用し、渡航滞在費や研修費に4000円(今なら1億6千万円)という大金を渡して英国へ派遣させて、当時は紡績技術面において世界最先端であったマンチェスターで紡績技術を学ばせるなどして、平野紡績は平野郷を代表する会社になっていた。
しかし、帰国数年後に工務長の菊池氏はライバルの尼崎紡績に引き抜かれ、末吉家は会社経営から退き、その後の平野紡績は筆頭株主の金沢仁兵衛氏が社長になった。金沢氏は北浜銀行の経営にも参加するほどの人物であったが、本業の業績が次第に悪化して明治35年に平野紡績は摂津紡績に吸収されたのであった。平野紡績は、菊池氏に払った4000円の研修費を尼崎紡績が負担すべしと、研修費の返還を求めたが、聞き入れられなかった。
やがて、摂津紡績は尼崎紡績と合併して大正7年(1918年)に大日本紡績になった。社長には、元平野紡績の工務長であった菊池恭三氏が就任した。ということは、これでチャラになったのかなぁ。ところで、綿紡産業というのは、ぼくには理解しがたいが、販売収益が内外の景気に左右されやすく、そのため、まだ、産業ロボットを駆使したオートメーションの時代ではないので、手作業の製造コストを下げるのが事業経営の要になっていた。
その皺寄せは、労働者を低賃金で長時間働かすことを意味する。1910年に大日本帝国政府は大韓帝国を合併吸収し、そのメリットを活かすため、日本国内の諸産業は、朝鮮半島から人件費の安い労働者を大量に雇用することになった。
大正11年(1922年)に、尼崎汽船が大阪港と済州島(チェジュド)を結ぶ定期航路が開業して「第一 ・君が代丸(1922〜1945)」と「臨時便の第二・ 君が代丸」の貨客船が定期就航して、乗客の大半は、済州島で募集した大勢の朝鮮人出稼ぎ労働者だった。(これが太平洋戦争前まで続いたので、従軍慰安婦の強制連行だと捏造されている)
出稼ぎの多くは、貧しい家庭の未成年で、10才〜19才の女子が70%ぐらい。当時は労働基準法という法律がなかったのか?昼夜二交代制の12時間勤務で25日も働いて、日給が1円(月給で25円)。因みに1922年当時の大卒公務員の初任給が1日8時間の20日勤務で80円だったらしいので、日給が4円だ。参考に当時のカレーライスが、25銭であった。
出稼ぎ労働者には、仕事着や寮費と食事代は紡績会社負担なので、親元は、口減らしのために、賃金が安くても出稼ぎに出したものと思われる。当時の大阪には、大阪紡績、摂津紡績、尼崎紡績、平野紡績など、十数社の紡績会社があって、朝鮮からの出稼ぎ女性を女工として雇った。男子の織工は女子の5分の1の比率だった。彼女らは大阪に住み着き、伴侶を見つけて大阪で所帯を持ち、やがて、住みやすい大阪に同化して、生野区鶴橋のようなコリアンタウンを形成した。
当時の済州島には、乗客定員350名、700トンの船が入港できるような港はなく、「君が代丸」は済州島を一周して十数カ所の沖合に投錨し、艀(はしけ)を使って乗客や貨物を運んだ。大阪への出稼ぎ希望者が多く、定員の2倍の乗客を運んでいたらしい。出稼ぎの目的は、大阪の紡績会社で働くことだが、中には給料が安くてキツイ女工の仕事ではなく、女衒(ぜげん)の甘言に乗り、風俗で働いて金を貯め、故郷の父母をラクにさせたい夢を見て、辛酸を嘗めた子も少なくないと思われる。
平野紡績が前身の大日本紡績は、戦後になってニチボーと社名が変わり、1964年の東京オリンピックでニチボー貝塚をコアとした女子バレーチームが、強敵のソ連チームを破って「金メダル」を獲得。ニチボーの名を日本全国に広めたが、ニチボーとニチレ(日本レイヨン)が合併した「ユニチカ」は、価格の安い新興国で生産される繊維製品の輸出攻勢で、国内の紡績産業は次第に低迷し、平野工場を売却し、その跡地には、スーパーの「イズミヤ」やマンションが建っている。
ところで、平野には清酒の「平野酒」があると聞いて街中を探したが、見つからなかった。現在の平野には造り酒屋はないようだ。織田信長の時代には、そのような地酒があったそうだが・・・。OEM生産の平野酒は平野の一部の酒屋で販売されているが、ぼくは、日本酒にこだわりがあって、特定メーカーさんの「純米吟醸酒」しか飲まないので、パスしている。
平野に長くお住まいの方々にお訊きすると、杭全神社の夏祭り(平野郷の夏祭り)は、だんじり宮入の時は国道25号線を自動車通行止めにして、大鳥居前でだんじりを激しく揺らす「舞え舞え」のパフォーマンスが行われ、岸和田祭礼のカンカン場に劣らない盛り上がりがあるそうだ。宵宮や本宮には、露店も沢山出店する。(※1:野堂町だけは、北組・東組・南組が独立して、それぞれにだんじりを保有している)
また、平野郷の北北東にある、加美正覚寺(かみしょうかくじ)の町内にも、最近になって泉州型の下だんじりが新調されて旭神社に宮入する。ここのだんじりは「やりまわし」を行うらしい。 
 
 
鉄の交易資料とその問題点

 

古代から、環シナ海の交易は活発だった。民間貿易は古代から連綿と続き、平安時代の対宋貿易は隆盛を極めた。然し、日本の歴史を紐解く時、倭国・日本の交易を詳しく記述した資料はほとんどない。遣隋使、遣唐使、室町の勘合貿易を表層的に述べるに止まっている。日本の交易の実態は朝鮮、及び支那の史書に求める以外に道がないのが現状である。日本に文字が入ってきたのが五世紀中葉としても、その後の日本史の記録、なかんずく交易の記録は余りに少なすぎる。記録魔の国・支那とは対照的であり、為政者、民族性の相違であろうか。
本項のテーマである「鉄」に関しても、鉄の輸入について記述した日本側資料は皆無に等しい。明朝の甘言によって王直が帰国し、嘉靖38年(1559年)12月、王直は斬首された。王直とその一党が滅んだ後も倭寇の活動は続いた。明の隆慶元年(1567年)、倭寇の跳梁を促した海禁令の弊害もあって、明の初頭以来200年間続いた海禁令が解除された。只、この海禁解除は南海方面(シャム等)だけで、日本への渡航は禁止されていた。輸出品も「硝石・硫黄・銅・鉄など」は輸出禁制品のままだった。
禁制品とは、国内産で希少な物か、国防上で相手国の武力を強化する物が対象となる。明は特に倭寇を生んだ日本を警戒した。硫黄は南部支那で僅かに産出するが、日本・琉球からの輸入に頼る希少品だった。硝石・鉄は豊富に産出されるが、相手の武力に関係し、且、相手が欲しがる物である。相手国が必要としない物であれば禁制品にする必要など無いからである。
「籌海図編」・「虔台倭纂」でも明らかなように、倭寇は鍋などの鉄製品を欲しがった。「籌海図編」・「日本図纂」・「日本風土記」の「倭好」22品目に「鉄鍋・鉄錬」はあるが、何故か「鉄」が載っていない。然し、「日本一鑑」では「鉄・硝石」が和寇の重要な需要品と述べられている。鄭若曽の偏見による品目の疎漏と見られている。これは鄭若曽の関心が珍品・高級品(公家・上級武家・禅僧向け)に重きが置かれ、その他の商品に関心がなかった為である。実際、輸入が大量に確認されている安価な支那製陶磁器、硝石なども「倭好」に載っていない。「鉄」もその範疇であった。又、鄭若曽は、茶壷を懸ける鉄錬(くさり)や大型の鉄鍋を茶の湯の道具(珍品)と推定し、「倭好」の研究者・田中健夫氏もこれを肯定しているが、これは間違った解釈であろう。庶民の日用品の鍋に比べて、「茶の湯」用の鍋などはたかが知れている。鉄鍋は、古くから回船鋳物師(かいせんいもじ)が全国を廻って供給し、決して珍しい希少な商品ではなかった。謝杰は「鉄鍋であれば大小を問わず争って買った」と述べている。鉄鍋としての需要ではなく、潰して銑鉄素材として供給したと見るのが自然である。
禁制品ほど利益は大きい。ここに密貿易が継続する背景があった。日本はシャム、福建から盛んに鉄を密輸入した(「日本一鑑」)。支那の福建・広東(かんとん)は鉄の一大産地である。シャム鉄とは、福建・広東の鉄を一旦シャムに持ち出し、迂回して日本に持ち込んだか、シャムへの輸出と偽り、福建を出港して直接日本に持ち込んだものと思われる。これらはやがてポルトガル商人による「南蛮貿易」の南蛮鉄に包含される。
十三世紀中葉から始まった倭寇は、朝鮮半島の高麗を、中〜後期倭寇は大国の明を揺るがす程の強大な密貿易を展開した。十六世紀中葉の貿易回数は538回に及ぶ。当時の帆船が日・明間を運航できるのは偏西風の関係で春・秋の僅かな期間しかない。密貿易は一回の運航で、数十隻〜数百隻の船団を組んだ。倭寇が扱う物量は膨大なものだった。「倭寇と勘合貿易」倭寇は物品に止まらず、多数の被虜人(捕虜)と商人を連れてきた。各地に残る「唐人町」の地名はその名残である。

日本では、平安時代初期の高僧・空海が「性霊集」に「支那」と記述している。これは多分にインドの仏教用語に影響されていた。以来、日本では、大陸で興亡した国家、及びその地域を指して「支那」と呼称して来た。1548年ニコラオ・ランチロットの「第二日本情報」での呼称は「チナ」、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」での呼称は「シナ」 
 
 
大正・昭和時代の岸和田

 

今年は、平塚らいてうが「元始、女性は太陽であった」と宣言した『青鞜』(せいとう)が発刊されて100年目。各地で『青鞜』発刊100周年を記念する催しが展開されています。また、連続テレビ小説「カーネーション」のモデルとなる小篠綾子さんは、その2年後の大正2年に生まれ、大正・昭和の時代を生き抜いてこられました。そこで、『岸和田再発見コ−ナー』は、「大正・昭和時代の岸和田」をテーマに、当時の女性が置かれていた状況や女性運動に焦点を当て、関連図書を紹介しながら皆さんの「岸和田再発見」のお手伝いをしたいと考えています。
「元始、女性は太陽であった」―今年は『青鞜』発刊100周年
明治44年(1911)、日本初の女性雑誌『青鞜』の発刊に際して、平塚らいてうは「元始、女性は太陽であった。真性の人であった」と高らかに宣言しました。そして、今の女性は「他によって生き、他の光によって輝く月」であり、「かくされたわが太陽を、いま、とりもどさなければならない」と力強く述べました。
らいてうは本名平塚明(はる)、明治19年(1886)生まれで石川啄木と同年です。その巻頭詩は、与謝野晶子が「山の動く日来る かく云えども人われを信ぜじ」と送り、表紙絵は、後の高村光太郎夫人(長沼智恵子)が描きました。
その前年に幸徳秋水らへの弾圧(大逆事件)があったばかりで、 社会主義運動が「冬の時代」を迎え、啄木が「時代閉塞の現状をいかにせむ 秋に入りてことに斯く思うかな」と嘆いていた頃です。
『大正時代−現代を読みとく大正の事件簿』は、「そんな折りであるだけに、物おじしない品のいいお嬢さん集団のはつらつとした”ことあげ”は、よけい明るく新鮮な印象を与えた。封建的家族制度と政治的後進性の幾重もの網にからめとられてきた女性は、明治の文明開化からすこしずつものを思い、声をあげはじめる。ここにきて『青鞜』は、はっきり女性の自我の確立、ひいては家族制度への容赦ない批判に踏み切る」と評しています。
『青鞜』は、何回か発禁処分を受けます。しかし、女だけで自由奔放に家族制度や性問題、女性の権利、女性解放を叫ぶ彼女たちの存在は、ジャーナリズムから「新しい女」とからかわれながらも、それが流行語になるなど、世の女性たちの注目を集めます。
今年は『青鞜』発刊100周年。図書館にも『青鞜の時代−平塚らいてうと新しい女たち』『平塚らいてう−愛と反逆の青春』『平塚らいてうーわたしの歩いた道』『平塚らいてう−女性が輝く時代を拓く』『陽の輝き−平塚らいてう・その戦後』『虹を架けた女たち−平塚らいてうと市川房江』などの本があります。
なぜ、男の人だけが好き勝手にできるんや
「男性が何もかも決めて、女性がそれについていくというのが当時の一般家庭の姿ではなかったでしょうか。…でも私だけは素直にうなずけない子でした。『なぜ男の人だけが好き勝手にできるんや』…私は大変なお転婆で、大阪でいう『やんちゃくれ』というやつで、まるで男の子のような女の子でした…」(『やんちゃくれ』)
小篠綾子さんの著書でも、女性の権利が奪われていた当時の様子が描かれています。綾子さんが生まれた頃は、女性には参政権がなく、政治演説会に行くことさえ禁じられた時代でした。女性が職業を持って自立して生きていくには、現代では想像できない困難があったことでしょう。
図書館では、上記の本以外にも『糸とはさみと大阪と』『ファッション好きやねん』『アヤコのだんじり人生』など、小篠綾子さんの著書を揃えていますので、どれか一冊でも読んでみてください。
新島襄による最初の女性解放の叫びは岸和田で…
岸和田に於ける女性運動はどうだったのでしょうか。少し時代を遡って探ってみましょう。
同志社の創立者として有名な新島襄は、明治11年(1875)に岸和田を訪れ、泉州の地に初めてのプロテスタント伝道を始めました。その様子は『新島襄と山岡家の人々』に詳しく紹介されています。
同書の中で、萩原俊彦氏は、「新島は男子の集会のみでなく、女子を対象とした伝道を重視した。日本の女性を奴隷状態から解放し、高い教養をもつ女性が育成されれば、男性以上に働き、社会は浄化されるであろうと主張する。…新島襄による最初の女性解放の叫びは、ここ岸和田でなされたのであった」と書いています。
最後の岸和田藩主・岡部長職が新島襄に依頼
新島襄に「岸和田に来て伝道してほしい」と依頼したのは、最後の岸和田藩主・岡部長職(ながもと)です。岡部長職は明治元年(1868)に15歳で藩主になりますが、明治2年の版籍奉還で藩知事に、同4年の廃藩置県で東京移住を命じられて岸和田を去り、その4年後に米国に留学しマサチューセッツ州スプリングフィールドに滞在。その地で異文化に触れ基督教信仰を深めることになります。新島襄はその2年前に同地のアンドーバー神学校を卒業しています。
そして、長職は明治11年(1878)5月、新島襄に「岸和田の人々に基督教を伝道してほしい。そのために、岸和田の山岡尹方(ただかた)という人に連絡してほしい」という手紙を書きます。この書簡を読んだ新島は同年7月に岸和田を訪問し伝道を開始したのです。そのいきさつについては、『評伝 岡部長職』(小川原正道著 慶應義塾大学出版会)にも紹介されています。
山岡尹方は「岸煉」を創設、同志社女学校に「岸煉」製の煉瓦を使用
山岡家は岸和田藩の上級藩士家。尹方は1840年生まれ、山岡家の家督を相続し、廃藩置県後も岸和田県大参事などを歴任する一方、旧士族による結社「時習社」を結成しています。この「時習社」が、やがて新島襄や同志社学生らの伝道活動を支援する中心的組織となるのです。
また、尹方は明治7年(1874)に煉瓦製造を開始(失敗に終わる)、同11年(1878)には国立五十一銀行創立委員になるなど、近代産業育成にも活躍しました。そのような折、新島襄と出会い、やがて基督教に傾倒していきます。明治20年(1887)には、寺田甚与茂(じんよも)らによって設立された岸和田煉瓦株式会社(以下「岸煉」)の初代社長に就任。その社章は十字架で、全ての製品に十字架の刻印が押され、同志社女学校静和館(大正元年竣工)には、「岸煉」製の煉瓦が使用されています。
2013年のNHK大河ドラマは、新島襄の妻、新島八重が主人公
NHKは、東日本大震災関連のプロジェクトの一環として、2013年の大河ドラマの主人公を福島県出身の新島八重に決定しました。八重は、兵学をもって会津藩に仕えた家に生まれ、戊辰戦争では自ら銃を取って戦い、「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれたそうです。
維新後は京都に移って教育に従事し、襄と結婚。もちろん、岸和田への伝道活動にも参加。泉南高等女学校(後の和泉高校)でも講演しています。新島襄の死後も新島八重や同志社関係者と山岡家の交流は長く続けられました。『新島襄と山岡家の人々』には、大正6年(1917)に八重から山岡邦三郎に宛てた手紙も掲載されています。大河ドラマで「岸和田への伝道の場面も取り上げてくれたらいいのになあ」と思いますね。
山岡春と岸和田の女性運動〜「母心」で家庭や社会の改善に努力
大正時代に入って、岸和田の女性運動の歴史に大きな足跡を残したのは、山岡尹方の長男である邦三郎と結婚した山岡春(1866〜1964)です。
春は、筑後柳川藩士北住福松・重の次女として生まれました。父は幼いうちに亡くなり、母は大阪に出て針仕事で生計を立てつつキリスト教に接近。春を創立間もない梅花女学校(現、梅花学園)に入学させます。春は明治18年(1885)に全科第1回卒業生になり、同20年、デフォレスト牧師夫妻について仙台へ。その地で、牧師として来ていた山岡邦三郎と出会い結婚します。
その前年には岸和田でも米騒動が起きています。社会動向への関心も高まってきたのでしょうか。「母の会」は、「自分よりも弱者の位置にある婦人の境遇に同情し、その向上進歩に努め、その幸福を図る」趣旨で、会員の家庭で働いている「女中」などを対象に修養会(講話や慰安運動会)を開いています。
大正8年(1919)には大阪朝日新聞社が関西以西の婦人団体を中之島中央公会堂に集め「婦人会関西連合大会」を開催。山岡春はその発起人会の座長を務めました。
「母の会」は、その後大正10年(1921)に泉南愛国婦人修養会と合併して泉南婦徳会になり、大正11年(1922)11月の岸和田市制施行に伴って、再度、愛国婦人会と分離し、大正12年1月に「岸和田婦人会」になります。
廃娼運動と山岡春
日本では昭和32年(1957)まで売買春が認められていたことを知っていますか。廃娼運動は、基督教婦人矯風会(以下、矯風会)や廓清会などを中心に取り組まれ、大阪では、廃業しようとする女性をかくまったり、職業紹介をする「婦人ホーム」を運営していた矯風会の林歌子を中心に活発に行われました。大正5年(1916)には飛田遊郭設置許可反対運動を展開しますが、敗北します。
山岡春は矯風会大阪支部の会員として運動に参加しています。また、大正12年(1923)、関東大震災で東京の遊郭地「吉原」が焼け、多くの女性が閉じ込められたまま焼死する痛ましい事件があった時、矯風会はいち早く再興反対の声をあげ、春は国会への請願運動や地元選出代議士への訪問活動にも積極的に取り組みます。この運動は92名の代議士の賛同を得て上程されますが、時間切れで閉会。目的を達することはできませんでした。
その後、政府が廃娼方針を打ち出した時期もありましたが、戦局の悪化の中、軍隊の増強に合わせて遊郭地の認可は増加していったようです。戦後も多くの女性団体によって売買春をなくそうと運動が展開されますが容易ではなく、ようやく昭和32年(1957)になって売春防止法が施行されます。
社会的視野を広げながら活動した岸和田婦人会
『市民がつづった女性史 きしわだの女たち』(岸和田市立女性センター、きしわだの女性史編纂委員会編著 ドメス出版) は、明治・大正・昭和の岸和田の女性の状況や動きが様々な角度から描かれた貴重な好著。「岸和田婦人会は1926年5月、女子夜学校を発足させた。週1回月曜日、学科は生け花・裁縫・編み物・国語・珠算の5科目、講師は会員で行うことにした。…会場は公会堂会議室を利用した。維持費は幹事が毎月50銭醸出し、女中や労働者は無料にした」など、同書でも山岡春らの岸和田婦人会の活動が詳しく紹介され、「地域に根ざしたさまざまな活動を展開してきた岸和田の女性たちは、多くの団体が参加した関西婦人連合会や基督教婦人矯風会につながることで、社会的視野を広げ、課題を捉え実行する力を身につけてきた」様子がよくわかります。
同書には、佐藤満寿(山岡尹方の4女)が、岸和田城の南の一角で鳩巣園(きゅうそうえん)という幼稚園を開き、優れた教育実践を行っていたことや、義姉の山岡春と共に岸和田婦人会に参加し、女子夜学校でも教師の一人として活躍してきたことなども紹介されています。
紡績・織物業が発展〜岡部時代から寺田時代へ
「大阪はご承知のように、「糸偏」で栄えた土地です。…紡績工場、家内工業の機屋、呉服商……さまざまな糸偏産業があり、国内はもとより海外との取引も盛んでした。わたしはそんな織り屋どころの真っただ中で生まれ、そだったのです」(『糸とはさみと大阪と』)
岸和田は綿紡績・綿織物業を中心に発展しますが、その中で、寺田甚与茂・元吉・利吉らの寺田家一族が極めて大きな役割を果たします。高林半二氏(元市会議員)は、「その時代(市制施行時)は、寺田財閥の勃興時代で、寺田さんのご勢力の議員さんが多かった。…何というても岡部時代から寺田時代を迎えたというわけです」(『岸和田市制50周年記念誌』)と語っています。
寺田財閥については、『岸和田市史第4巻』(以下、『市史』)に詳しく書かれています。
寺田甚与茂(1852〜1931)は、明治11年(1878)に第五十一国立銀行に支配人として参画。同25年(1894)に岸和田紡績株式会社を設立し取締役社長に、同30年(1897)には寺田家の機関銀行となる和泉貯金銀行を創設し頭取に就任しています。これら企業群には弟の元吉(1855〜1920)も参画し、寺田家直系の事業として成長させました。また、異父弟となる寺田利吉(1857〜1918)もこれら企業の役員に就任します。
『市史』では、「寺田一族の企業活動は甚与茂を中心に展開…資産の絶対額でも甚与茂系が早くから大規模であった。…ほとんど寺田系諸家が関わった銀行・会社が岸和田地方で圧倒的な大きさを誇っていた」と書いています。
甚与茂・元吉は、連携して寺田家の事業を支えますが、元吉の長子元之助が日露戦争後から企業活動を始め、佐野紡績所を発足させるなど少し異なった分野での活動も目立ってきます。利吉系では、2代目利吉が甚与茂との意見の相違から岸和田紡績を退き、寺田紡績工廠を創業。寺田銀行も設立するなど、独立して企業経営するケースも見られたようです。
寺田家の活躍の様子は、『昭和に輝く』(原静村著 南海新聞社)、『元朝 寺田元吉』(中澤米太郎著 寺田元吉翁銅像建設委員会)、『寺田甚與茂翁小伝』(岸和田紡績株式会社社友会)、『元睦寺田翁』(熊澤安定著 市立商業学校編)、『茅淳の海から』(林幸司編集・文責)などでも知ることができます。
隆盛を誇った岸和田紡績、政府の国防強化策の中で大日本紡績に合併
「見本を抱えて、岸和田の春木橋界隈に今も残る、いくつかの紡績工場に通いました。こうして21歳の私は、初めて自分の足で歩き始めたのです。…仕事は順調でした。最初は紡績工場の診療所の看護婦さんたちに始まって、新しいお客さんも少しずつ増えていきます…」(『糸とはさみと大阪と』)
綾子さんが、ようやく一人立ちできるようになり、近隣の紡績会社にも注文を取りに出かけるようになった頃、岸和田紡績は最盛期を迎えます。
岸和田紡績は創業以来常に「高率配当」を維持し続けるとともに、比較的豊富な資金力を背景に、現金取引で綿の買入れを値切り、先物売りもほとんど行わない会社でした。創業者の寺田甚与茂は昭和6年(1931)に亡くなりますが、同年12月に寺田甚吉が社長に就任して以来、岸和田紡績の機械設備の更新、社内機構の刷新、堺工場の廃止・売却と新体制を進め、昭和9年には大阪市内に営業所を開設し、社長以下本店幹部全員をここに移します。この移転を契機に寺田甚吉社長は南海電鉄株式会社の社長も兼ねるなど、関西財界に進出する基盤を作り、さらに中国の天津にも工場を建設し昭和15年に操業を開始しています。(『市史』)
しかし、政府の国防国家体制強化による企業統合政策の中で、岸和田紡績は昭和16年(1941)に大日本紡績株式会社(日紡、後のユニチカ)に吸収合併されることになります。その機会に編纂された『岸和田紡績株式会社50年史』には、創業時から合併に至るまでの経過が記されています。
次々に争議が発生、朝鮮人女性を多く雇用した岸和田紡績
このような紡績・織布業の発展・隆盛の影には、「女工」と呼ばれた多くの人々の苦難の歴史があったことも事実です。
日本の紡績工場における女性労働者について、『市史』では「人間無視の長時間労働(紡績では昼夜2交代制、12時間労働が標準)、不衛生な寄宿舎、粗悪な食事、肉体消耗的労働、前借制雇用による借金奴隷的性格、残虐な制裁、口入れ業者などの甘言による女性労働者争奪競争、結核を始めとする重病の蔓延、発狂・自殺と、この世の生き地獄であった」と書かれています。
とりわけ、岸和田紡績は朝鮮人女性を多く雇っていたことで知られています。「かつて岸和田紡績で働いていた朝鮮の婦人たちを訪ね歩き、聞き書きを採り、それをつき合わせ、岸和田紡績の朝鮮人女工の状況を明らかに」した『朝鮮人女工のうた』(金賛汀著 岩波書店)には、数々の悲惨な状況や彼女たちが争議に立ち上がった様子が描かれています。
同書では、日本政府が明治43年(1910)に「韓国併合」を行って日本の領土とし、朝鮮総督府をおいて植民地支配を始めたこと、第1次世界大戦期の好景気・労働力不足の頃から紡績工場に働く朝鮮人女工の雇用が急増したこと、社外の「募集人」に委託することも多く、「なかには紡績会社の労務係と結託し、女工の賃金の前借りや旅費のごまかしで女工に借金をつくらせ、その金を持逃げするような者…はては会社に連れていく途中で好色の慰みものにし、その後女郎屋に売りとばすという悪質な募集人もいた」ことなども書かれています。
岸和田紡績は大正7年(1918)から朝鮮に出向き、本格的・計画的に朝鮮人女性を募集。その後、朝鮮人の雇用を増加させます。この動きは泉州の近隣企業でも広がり、岸和田を中心とする泉州一帯は在住朝鮮人女性が多い地域になりました。
そして、岸和田が市となる直前の大正11年(1922)7月、民族差別待遇に反対する岸和田紡績春木分工場の朝鮮人女性労働者のストライキが発生し、8月には本社工場の日本人労働者が待遇改善を要求してストライキを決行しました。この争議は労働者側の惨敗で終りますが、その後も労使対立は激しくなります。
翌年の11月から12月にかけて、寺田紡績工廠、和泉紡績会社、岸和田紡績で争議が同時発生します。この闘いも労働者側の敗北で終りますが、昭和に入っても次々に争議が発生しました。
先述の「女子夜学校」には春木の紡績工場で働く女性も通っていましたが、交代勤務の中では困難だったようです。
なお、争議の内容の詳細は、松下松次氏が『資料 岸和田紡績の争議』としてまとめています。
城下町の町並みに近代建築物が溶け込む岸和田のまち
『市史』には、「市政が実施された大正11年には岸和田市には第五十一銀行をはじめ、本店を置く銀行が6行、支店を開設した銀行は2行を数えた。さらに明治44年(1911)には、岸和田市を南北に貫通した南海鉄道が難波―和歌山間の全線電化を完成していた。こうしたなかで、紡績工場、煉瓦工場、銀行、鉄道の駅舎や学校、官衙(かんが)で近代洋風建築を採用する場合が多くなった」と書かれています。
また、成協信用組合岸和田支店(魚屋町、旧四十三銀行岸和田支店)、近畿大阪銀行岸和田支店(宮本町、旧交野無尽)、キシレン本社ビル(並松町、旧岸和田煉瓦綿業)、市立中央小学校(堺町)など、多くの近代洋風建築物も残されています。
五風荘(南木荘)は、江戸時代の新御茶屋跡に寺田利吉(寺田紡績社長)が10年もの歳月を費やし完成させた近代数寄屋風の伝統的和風建築です。そのような近代建築物がまだかなり保存活用され、城下町としての歴史的街並の中で、「その景観にうまく溶け込み快いアクセント」(『市史』)を与えていることが岸和田市の大きな特色ではないでしょうか。岸和田美術の会が2007年に発行した『景観ルネサンス』の作品集を見ると、そのことがさらに実感されるでしょう。
関西初の普選による選挙として注目を集めた岸和田市議会選挙
「大正」は、岸和田にとっても重要な節目となる時代です。明治45年(1912)に岸和田町・岸和田浜町・岸和田村・沼野村の2町2村が合併し、岸和田町が発足。大正11年(1922)11月には岸和田市になります。そして、来年は市制施行90周年を迎えます。
全国的に重要な政治課題であった普通選挙法は大正14年(1925)に成立・公布されます。これにより納税要件は撤廃され25歳以上の男子に選挙権が与えられますが、女性は除外されました。
大正9年(1920)にらいてうや市川房江を中心に結成した「新婦人協会」などが婦人参政権獲得運動を展開していましたが、それが実現したのは終戦(1945年)後になってからです。
昭和2年(1927)に執行された岸和田市議員選挙は、関西で最初の普選による選挙として大きな注目を集めました。「全有権者向けの宣伝ビラ配布、講演会開催…投票当日、大部分の工場が休業して労働者の便宜を図った。…これら幾多の努力が実って、棄権率がわずか7.3パーセントという好成績」(『市史』)でした。
また、在日朝鮮人男性が選挙権を行使したことも注目されました。
「何でもあった」大正時代
「大正デモクラシー」は、政治的には憲政擁護運動や普通選挙法の実現を求める運動を軸に展開され、吉野作造は「民本主義」を掲げ、美濃部達吉は「天皇機関説」を論じます。
紹介した女性運動以外でも、文学の世界では、明治43年に武者小路実篤や志賀直哉を中心に、雑誌『白樺』が創刊され、全人間的な自我を主張します。白樺派には個性豊かな人々が集まり、岸田劉生・高村光太郎・梅原龍三郎らの美術家も集まります。武者小路は理想郷(ユートピア)をつくろうと計画を立て、大正7年(1918)に「新しき村」の建設を始めます。
同年には、童話雑誌『赤い鳥』が鈴木三重吉によって創刊。日本初の子どものための文学運動が始まります。「かなりあ」「あわて床屋」など子どものために新しい童話や童謡が生まれました。
野球は明治時代から始まりますが、大正4年から夏の全国中等学校野球大会が始まり、春の選抜野球は大正13年から始まります。
『もう一度読む山川日本史』を開くと、「1912(大正元)年労資協調的な労働者の組織として鈴木文治を中心に発足した友愛会は、大戦後、会員の数を増すとともに急速に急進化し、1921(大正10)年には日本労働総同盟と改称して、労働争議や労働組合の組織化を指導した。1920(大正9)年には日本で最初のメーデーもおこなわれた。農村でも小作争議がしだいに増加し、1922(大正11)年には日本農民組合が結成された。…被差別部落の人々がみずから行動をおこして、社会的差別からの解放を求める部落解放運動もさかんになり、1922(大正11)年にはその全国組織である全国水平社が創立され、その後、1955(昭和30)年の部落解放同盟に発展した」など、第一次世界大戦中のロシア革命(1917年)や米騒動(1918年)に刺激され、労働運動や社会運動も活発になった様子が紹介されています。
永沢道雄氏は前掲書『大正時代』の「あとがき」で、昭和20年代に母が語った「(大正時代には―引用者注)何でもあったのよ」という言葉を思い出しながら、「昭和の敗戦後にアメリカのデモクラシー、カルチャーを押しつけられた時、他国の人々が感嘆するほどに柔軟に、すばやくそれを受け入れて我がものとした。…私たちの大正時代の発明を思いだせばよかったのです」と語っています。
確かに、戦後民主主義の原点を大正時代に見出そうとする見解にも説得力があるように思えますが、皆さんはどう思われますか。
女性こそ岸和田の発展を支えてきた影の主人公
今回は、新しい時代を切り開くために活躍してきた女性たちを中心に見てきました。小林登美枝氏は著書『陽の輝き―平塚らいてう・その戦後』の「おわりに」の中で「最晩年のあるとき、らいてうがふと『わたしは早く生まれすぎたようね』と、呟くようにいったことがある」と書いています。
その真意はわかりませんが、らいてうが後年に生まれ活躍したとしても、これほど歴史に刻まれたでしょうか。先駆者・先覚者はその時代や周囲に受け入れられずイバラの道を歩むことが常です。しかし、だからこそ光り輝き、後世に道を切り拓きます。
岸和田をはじめ泉州地域の経済発展は、紡績・織物など綿工業によってリードされてきました。その意味で「寺田家」が果たした役割は絶大ですが、その生産を中心に担ってきたのは「女工」と呼ばれた人たちでした。彼女たちは社会制度や労働運動の分野でも勇気をもって新しい時代を創り出します。
時代を遡れば、江戸時代から明治初期も、糸紡ぎや木綿織りに従事し、その後の繊維産業の礎を築いてきたのは主に女性たちです。その意味では、女性たちこそ「岸和田の発展を支え続けてきた影の主人公」と言えるのではないでしょうか。
洋装は、自覚した女性のたたかい? 「月」から「太陽」へ
「大正時代の大阪の郊外のことですから、実際に洋服を着ている人などほとんどいません。子供たちの通学服も、たいていは着物です」(『糸とはさみと大阪と』)
「当時は女性の仕事といえば男性のリードでやらされる仕事しかなく、女性が仕事を切り盛りするなんてことはほとんどなかった時代なのでした。男性社会ですから、女性が経営できるような職種も少なかったのです」(『やんちゃくれ』)
泉南高等女学校の場合、洋服が制服に定められたのは昭和2年(1927)、その形式は決められなかったようです。(『きしわだの女たち』参照)
『日本の歴史6』では、「大多数の女性は、工場で働く女工さんも、都会の職場で働く職業婦人もふくめて、和服を着ているのがふつう」であり、「この状況を大きくかえたのが大正デモクラシーの時代」であったことや、女性の社会的進出が広がるに伴って活動に便利な簡素なスタイルの洋服を着用する者が多くなってきたことを紹介しています。
しかし、昭和の時代になっても、女性の洋装に対する世間の目は冷たく、「洋装婦人の増加は『流行』に乗ってというよりも、むしろ世間の冷たい目とたたかいながら進められてきた」「自覚した婦人が勇気をふるって洋服を着用し、女性の“衣生活”を変革する道を開いた」ことも指摘しています。
小篠綾子さんは、このような厳しい時代に、女性の洋服という新しいジャンルに挑戦し新たな分野を切り開きました。それも、父が亡くなり夫が戦死してからは「一家の大黒柱」として、「他によって生き、他の光によって輝く月」ではなく、まさに自らの力で光輝き、3人の娘も「自らの力で光り輝く」世界的なファッションデザイナーに育てました。その意味で、小篠さんは「太陽」として生き抜いた数少ない女性の一人と言えるでしょう。
小篠さんをモデルとした小原さんの家族が、「カーネーション」の中でどのように描かれるのか、楽しみですね。
 
 
沖縄差別の源流

 

差別とは何か、差別と天皇制、近世幕藩体制と天皇制
差別というものは、いつでも、世界中どこでも、中央と辺境というか中心と周辺部分という関係の中から生じていることは自明のことです。例えば、かのナポレオンはコルシカ島の出身であることから受けた劣等感をばねにして軍隊で力を付け権力への道を辿ったということもあります。
差別というものには、本当はなんの正当な理由もないわけですが、個人や団体に対して不利益な状態を作り出します。社会不安や挫折感がいっぱい充満しているような時代・社会にはその層にいる人たちは“はけ口”を求めて自分以外のところへ攻撃の対象を向けるように支配者側に巧妙に操作されるわけです。今のヘイトの人たちもそういう部類の人たちでしょう。
日本の差別問題のひとつである部落差別は、関西、関東など日本の中にありますが、沖縄には部落差別というものはありません。沖縄ではかつて離島差別ともいうべきものはありました。今月12日に亡くなられた大田昌秀元県知事は久米島という離島の出身です。現在ではむしろ離島から優秀な人物が現れているような状況があります。
「沖縄差別」という言葉は復帰運動の時点では全然なかったのです。シュプレヒコールでも現在のように“沖縄差別を許すな”というようなことは聞いたことがありません。主流的な復帰運動の思想は沖縄と本土は同一民族だという前提に立っていたわけですから、あの時の運動の構造からは「沖縄差別」という意識は出てきようがないわけです。
差別の構造というのは、日本では、その頂点に差別の典型としての天皇制に表現されていると思います。幕藩体制の下で武家勢力は秩序の正当化のために天皇の権威を使って自己の権力を補強しました。秀吉は関白、家康は征夷大将軍という天皇から与えられた位(称号)を使って自分の権力を天皇の権威で補強していたわけです。ところが琉球王国というのは幕藩体制の中に一旦は組み込まれはしましたが、唯一天皇制とは無関係な存在でした。
琉球王国の王統史
首里城ができたのは14世紀の察度王統の頃といわれています。最初の天孫氏王統と次の舜天王統などはほとんど神話の世界でありますが、最後の第二尚氏王統まで6つの王統が廃藩置県まで続きます。
首里王府の公式の歴史書の中に書かれているのですが、12世紀、保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島に流されて、そこを脱出したが漂流して沖縄の今帰仁の港に漂着した。その時、「運を天」に任せてたどり着いたといわれているところが現在の今帰仁の「運天港」だということになっています。日本全国どこにもある為朝伝説の類でしょうが、首里王府の摂政羽地朝秀が17世紀半ばに編纂した王府の正史である「中山世鑑」に書かれています。羽地朝秀の「日本と琉球は同祖である」という日琉同祖論は、薩摩の島津氏が源氏の系統であることもあって、為朝伝説が薩摩侵入後に利用されたのでしょう。為朝は、その後大里按司の妹と結婚しその間に生まれたのが舜天だとされ、そこから舜天王統が始まったことになっています。舜天王統は1187年から73年間3代続いたことになっています。舜天の後には浦添から英祖が出て、13世紀半ばから14世紀中ごろまで5代90年の英祖王統が続きます。英祖王統4代の王・玉城は酒色におぼれて政治を顧みなかったので、国が乱れ、琉球は北山、中山、南山の三山の勢力が争う三山分立の時代になるが、玉城王は察度という人に打たれます。察度は貧農の出身で民衆に推挙されたと言われ、察度王統は2代56年続きますが、この察度王統の二代目武寧王も酒食に溺れ政治を怠り、南山の佐敷按司であった尚巴志がこれを倒し、結局、尚巴志が1429年に琉球統一を果たしたことになっています。これが15世紀の初めから15世紀後半まで7代64年続く第一尚氏王統です。尚巴志が統一する前の琉球というのは城(グスク)時代とも呼ばれる農耕社会でした。各地に割拠していた部族の首長である按司が争い、北山、中山、南山という三つの地域勢力が三山時代を形成し、その分裂を尚巴志が統一したわけです。尚巴志の名は現在でも沖縄南部で「尚巴志マラソン」などとして使われています。
この第一尚氏王統7代の尚徳王は奄美大島の喜界島に遠征したり、暴君とされていますが、その尚徳王が病気で亡くなったとき、家臣団がそろって、「物呉ゆすど我御主」(ものくゆすどわーおしゅう)“施しができる者が私の王”であると叫んで一種のクーデターを起こし、先代の尚泰久王の家臣である金丸を王としました。その金丸が1470年尚円王となり1879年廃藩置県の時の第19代の尚泰王まで410年間の第二尚氏王統が続きました。「物呉ゆすど我御主」という方言で沖縄に伝わる俚諺は、沖縄人の「事大主義」や「御都合主義」を表現するものとされますが、人民の生活や権利を守らない支配者は追放してもよいとの近代の民衆思想の先駆とも言えます。
琉球王国とはどんな国であったのか―冊封体制
琉球王国は、国王が死亡した場合、中国皇帝が新たな王を琉球国中山王に封ずる(冊封)中国の明・清代の冊封体制の中にありました。冊封(さっぽう)は、1404年に察度王統2代目武寧から始まり、1866年最後の尚泰に至るまで22回の冊封が行われました。これにより中国への進貢貿易や留学生(官生)の派遣が認められたわけです。冊封を宣する使者である冊封使が400名ほどの兵役や船員や諸種の技術者・各役を率いてやってきて半年ぐらい琉球に滞在し、その間中、定期的に宴会を開きます。宴会で冊封使たちを楽しませるために琉球側は“御冠船踊り”という踊りでもてなします。そのために首里王府には「踊り奉行」という役所までありました。新たな琉球王の冠(かんむり)を運んでくる中国の船のことを「御冠船」と呼んだわけですが、この“御冠船踊り”が今日の琉球舞踊の源になっているといわれています。当時の明国には自分たちがアジアの中心だという華夷思想の考え方があり、1372年に琉球に明の使者がやってきて朝貢を促し、1380年南山の入貢以来、中国皇帝に貢物を送るシステムが最後の国王尚泰の時代まで500年間も続くわけです。
琉球は、薩摩・島津氏や高麗、さらにはシャム、ジャワ、マラッカ王国にまで交易圏を拡大し、15世紀から16世紀半ばにかけて東アジア世界で中継貿易国として栄えました。琉球の交易には久米36姓といわれる琉球に住み着いて中国人が交易の通訳などをやって、王国の繁栄に貢献しました。その子孫は沖縄ではいまなお「クニンダー(久米人)」と呼ばれ、誇り高い人脈が形作っています。
琉球は幕藩制国家の中に一時的に組み込まれてはいたが、幕末時代に琉球王国とペリーとの間で琉米条約(1854年)、フランスとは琉仏条約(1855年)、オランダとは琉蘭条約(1859年)を結んでいました。これらの事実は琉球が独立国であったことを証明するものです。その条約原本は現在、外務省に存在しています。その条約原本が数年前浦添市美術館で展示され観覧したことがあります。実に見事なものでした。
薩摩の侵入と統治
このように独立した国家であった琉球王国に1609年に薩摩が侵入してきます。薩摩・島津氏は、朝鮮出兵や関ケ原の戦いなどで財政が破綻していて奄美大島の支配で藩財政を立て直そうとしていましたが、そのような財政破綻の打開のために琉球に侵略してきたのです。徳川幕府は明との貿易交渉に琉球を利用するために島津氏の琉球侵攻を許可しました。島津軍は、1609年3月4日、鉄砲隊約3000人、100隻の軍勢で山川港から出陣、途中奄美大島・徳之島を攻めて南下し3月25日沖縄北部の今帰仁の運天港に上陸し、今帰仁城を陥落させ、4月1日に首里城が攻略されます。このとき首里王府は抵抗することもなく開城させられました。それは琉球が王国として一番栄えていた第二尚氏三代目の尚真王の時代から武器を持たない「非武の国」だったからです。そのことが空手が沖縄で発展した歴史的背景だと言われています。
薩摩軍が鉄砲を放ったのを見た琉球人は「棒の先から火が出た」と表現したぐらいでした。7代の尚寧王と重臣ら100名余は薩摩に拉致され、尚寧は2年間抑留されました。薩摩の琉球統治は過酷なものでありました。「薩摩の琉球征討は、理由のないものではなく、琉球が幕府や島津氏に対する義務を怠ったことに対する懲罰であった。そのために琉球は一旦滅んだが、島津氏の恩情により旧琉球国の中から沖縄諸島以南を知行地として与えられた。このご恩は子々孫々に至るまで忘れることはない」という誓約書(起請文)を尚寧・三司官に出させます。署名を拒否した三司官のひとりであった謝名親方は死刑になります。その謝名親方の苦悶は沖縄芝居の十八番です。さらに、一般の人に対しては薩摩の命令なしで唐に貢物を送ってはいけないとか、年貢は薩摩奉行が定めたとおりに収納せよとか、琉球から他領に貿易船を出してはいけないなどを定めた「掟15か条」を強制しました。その中には「喧嘩口論をしてはならない」など日常的な馬鹿げた掟もあります。
琉球征服の恩賞として徳川家康から琉球を与えられた島津氏は、琉球を薩摩の附庸国として、検地をおこない、奄美から与論島までの5島を島津領とし沖縄諸島以南を琉球王府の領土とした。総石高8万3000石中5万石が王家、残りは家臣の知行として配分、島津への貢物(仕上世・しのぼせ)として年貢米9000石、芭蕉布3000反、琉球上布6000反などを収めさせました。 
琉球社会には身分制度もありました。1689年に王府に系図座を設置されますが、士(サムレー)は系図持ち、百姓は無系で転居の自由はなく、履物を履くことや傘をさすことさえ許されませんでした。農村の二極分解が進み富農層と貧農層に分かれ、貧農層は男は糸満の漁師の下に身売りされ、女性はジュリ(尾類)(遊郭で働く遊女)として遊郭に売られるという悲惨な格差社会でありました。
琉球処分とそれ以後
1871年(明治4年)、年貢を先島から那覇に運んで那覇からの帰途にあった宮古の漁船が台風により遭難し台湾に漂着し、乗組員66人中54人が台湾住民に殺害される「琉球人遭難事件」が発生しました。明治政府は早速この事件を利用し、1874年に陸軍中将・西郷従道以下3600余名を台湾に派兵し、“日本国属民である琉球人”を殺害したとして清国に50万両の賠償金を支払わせました。これは琉球人が日本人、琉球が日本領土であることを清国に認めさせたことになります。それにダメ押しとしてやったのが「琉球処分」にほかなりません。
琉球処分を実行したのは大久利通でありましたが、大久保が暗殺された後は伊藤博文が松田道之に琉球の処分方法を研究させました。そして松田は明治8年7月、12年1月の二度にわたって琉球を訪れ、「明治政府は、台湾で殺された琉球人54名の遺族に対して米30石宛、また生きて帰った者12名にも米10石を与え、船も一艘与える。そういうことを政府がやろうとしているのだから、琉球は中国との冊封体制、朝貢を廃止せよ」と要請していたのです。しかし琉球王府は面従腹背の姿勢で松田のいうことに従いませんでした。
それで三度目に、陸軍歩兵400余人、警官・随行官吏60人を率いて首里城
に乗り込んで「首里城明け渡し」を要求。「藩王尚泰の上京」「土地・人民の引き渡し」などを命ずる「令達」を朗読しこれを交付しました。それでも王府は清国に使者を送って救援を求め抵抗したのです。それが明治政府としては許せないこととなり、「琉球処分」に踏み切ったということですが、明治政府は初めから琉球に対する蔑視の感情を持っていました。
さらに重要なことは、琉球処分から5か月後、アメリカのグラント前大統領の仲介によって明治政府と李鴻章の間で沖縄の帰属問題・「分島案」に関する交渉が進んでいました。その交渉の中身は、日清修好条規を改正して日本が欧米並みの特権を獲得するという最恵国待遇国にすることを条件に、宮古・八重山諸島は中国に割譲し、沖縄島以北を日本領土とするという提案でありました。これは宮古・八重山は日本ではないことを認めることであり、琉球民族は日本人と同一民族ではないということを語っていることに他なりません。清国は宮古・八重山の領土的価値を認めておらず、この「分島案」は清の駐日公使何如璋から李鴻章への台湾朝鮮への日本の進出を恐れた内容の書簡を受けた李鴻章が皇帝に裁可延期を上申したり、幸地親方が天津で李鴻章に会って救援を乞い、分島・増約案に抗議して脱清人林世功が北京で自決するなど清国に向けた琉球の救国運動もあって、調印は棚上げになって終わったのです。
旧慣温存政策と皇民化教育―制度の特例とその廃止
琉球処分の時に、旧士族の不平士族は日本になることを拒否して中国に助けを求める“脱清行動”を起こしました。明治政府は、琉球処分以降も旧支配層を懐柔する目的で沖縄には旧来の土地制度を残しました。本土では明治6年から地租改正を行い土地制度の近代化を図り、土地所有者・地権者を明確化する地券を発行していましたが、地租改正に当たる沖縄の土地整理事業はずっと遅れて明治32年(1899年)になってからのことです。沖縄では「旧慣温存」政策をとり、土地制度、租税制度、地方制度の古い制度を残したままにしたのです。これによって沖縄には本土から遅れた制度がある時期まで維持され、沖縄の差別の固定化につながったのです。琉球王国時代の古い制度を残したままの地割制度で使用していた農地に農民個人の土地所有権を認め、物納や人頭税を廃止して地価の2.5%を地租として納税させました。これは九州各県に比べて不当に高い地租でした。
さらに第8代の鹿児島出身の奈良原知事の時の官地民木政策により、広大な官有地が設定され、農民に入会権があった杣山が官有地とされたため、農民は生活資源を奪われることとなりました。第一回県費留学生として東大農学部で学び、奈良原県政の中に謝花昇は高等官として入るのですが、杣山の払い下げ問題をめぐり奈良原県政との闘いに苦悶しました。払い下げは不公正に行われ、寄留商人や上級役人、首里・那覇の有力士族などに払い下げられました。
1920年(大正9年)府県制の特例が撤廃された後にも県庁機構に差別は残り、県庁の事務部門はトップから末端までほとんどが長崎県出身者、警察部門は鹿児島出身者で占められ、沖縄県出身者はわずかで、しかも重要な役職には就けませんでした。
地方行政組織が他県と同様の市町村制が実施されることになったのは1921年(大正10年)になってからで、それまで旧来の「間切」とか「間切会」などの行政組織が温存されていました。本土では明治23年に第1回総選挙が実施されますが、沖縄では1912年(大正元年)に衆議院議員の選挙法が実施され、宮古・八重山はもっと遅れて1919年です。そこに離島差別が現れています。府県制、市町村制及び選挙法の特例が撤廃されて名実共に日本の一県となった大正時代のこの段階でようやく本当の意味の「廃藩置県」が完成したことになります。
他府県に遅れていた状態を取り戻そうとして沖縄の支配層や教育者たちは、日本政府が打ち出した<同化政策=沖縄の内地化>を積極的に受容していきました。沖縄の言語、伝統的風俗・習慣を蔑視して皇民化教育に邁進し、標準語教育の徹底を求めていきました。「くしゃみまで他府県と同じように」すべきというようなことが当時の「琉球新報」(現在の「琉球新報」とは無関係。旧支配階級の利益を代弁した明治26年創刊の沖縄最初の新聞。昭和15年の1県1紙制度によって消滅した。)の社説に書かれたりもしました。教育の分野では「廃藩置県」の翌年に師範学校を創設し、他府県よりも早く天皇の「ご真影」が下賜され、天皇神格化教育が推し進められていきました。
標準語励行運動については「方言論争」「方言札」問題があります。やりすぎた標準語励行運動を批判した柳宗悦たち日本民藝協会と沖縄県学務部との間で方言論争が起きました。「方言札」は私の小学生時代の戦後の一時期までも一部の学校で用いられた罰札でした。足を踏まれてアガ!(痛い!という感嘆詞的方言)と発声しただけで、次の方言使用者を発見し彼に方言札を手渡すまで、それを首にぶら下げなければならなかったのです。
徴兵制は、本土では明治の初め(明治6年)に実施されましたが、沖縄では1898年(明治31年)に実施されました。沖縄の旧支配層はこれを機会に本当の「忠良なる日本国民」になるんだという考えを持っていました。しかし一般民衆の中では、徴兵検査の直前で行方不明になったり、指を切り落としたり、目や耳の障害を検査の際に装ったり、海外移民の形をとった徴兵忌避運動が起こりました。1910年(明治43年)には国頭郡本部村で反徴兵暴動が起こり、騒擾罪で21名の村民が懲役5年から罰金刑までの刑を受けた事件(本部事件)が発生しています。
1903年(明治36年)に大阪で第5回内国勧業博覧会が開かれたとき、会場周辺の見世物小屋で「学術人類館」事件が起こりました。台湾原住民、インド人、ジャワ人、トルコ人、アフリカ人、アイヌ人、琉球人などを「学術人類館」という見世物小屋で生きた人間を「陳列」したという事件で、沖縄の知識人は「日本臣民である琉球人と他の民族を同列に置くとはけしからん」と抗議し非難しました。日本人である琉球人と他の民族は違うという主張をしたのです。これこそ「逆差別」ですね。朝鮮人と中国人は抗議によってさすがに「陳列」は取り消されたようですが。「沖縄人」は甘言によって連れてこられた二人のジュリが「琉球の貴婦人」とされて見世物にされました。
ソテツ地獄と出稼ぎ・海外移民
第一次世界大戦後は好景気で砂糖の価格が上がり、「砂糖成金」も出たほどでしたが、戦後ヨーロッパ経済の復興で糖価が暴落、おまけに1923年の関東大震災、29年の世界恐慌(昭和恐慌)で窮乏化が進み、沖縄は有毒な部分を含むソテツしか食べるものがないという状態(ソテツ地獄)に陥入りました。そのために阪神、京浜、中京地方などへ若い女性を中心に製糸・紡績業へ年間2万人を超える県民が出稼ぎに出ました。そこでも劣悪な労働条件の下で、「琉球人」と呼ばれて差別されることが多かった。
さらに海外への移民も増えていきました。海外移民の中には徴兵拒否者や自由民権運動に敗北して新天地を海外に求めた者もいました。沖縄からの最初の海外移民は明治32年にハワイへの26名が最初で、謝花昇らとの民権運動で挫折した当山久三が送り出しました。
以後ハワイ、フィリッピン、ブラジル、ペルーなどへ年間4000人以上の県民が移民するようになりました。第一次世界大戦後、ベルサイユ条約でドイツ領だった南洋諸島は日本の委任統治領となり、南洋諸島(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)に移民した日本人13万5000人のうち約6割が沖縄県民でありました。マリアナ諸島のサイパン、テニアン、ロタは主として農業移民、カロリン諸島のパナぺ、トラック、パラオは漁業中心の移民でしたが、沖縄の移民の約1万3000人が太平洋戦争で死亡しました。生存者は戦後全員沖縄に引き上げてきました。
 
 
モラルなき経済政策は間違いなく国を崩壊させる

 命懸けで健全財政を守ろうとした高橋是清

 

金融緩和はお札を刷ることではない
・・・しかし、金融緩和とか日銀云々と言われても、大半の国民はその意味がよくわからないのではないだろうか。基本的なところから、できるだけわかりやすく解説していこう。
まず、金融緩和とは何か、である。経済が停滞している時にはどういう政策を打てばよいか。先に安倍首相の発言「やるべき公共事業をやって」を取り上げたが、今その是非は置くとして、経済が停滞して仕事がない時、公共事業をやれば仕事が生まれる。より経済学的に言えば、今は需給ギャップ(経済の供給力と現実の需要との差)が大きく、平成24年11月15日の内閣府の発表でも需要不足額は年換算で15兆円にもなるとのことであるから、公共事業をやって官が需要を作れば需要不足を埋めることができる。こういう政策を財政政策と言う。一方で、「このニュータウンは魅力的なので出店したい。そのためのお金を借りたい」と思っている人がいたとする。これが実現すれば、経済は活性化される。ところが、もし金利が10%もしていたら、とても借りることはできない。そこで、経済が停滞している時には、できるだけ金利を下げてお金の流れを活発にしたい。そのために金利(特に短期金利)を下げるのが、金融緩和政策である。
しかし、多くの読者の印象としては、「金利は十分に低い」というものではなかろうか。そうなのである。今の日本はいわゆる「ゼロ金利」状態にある。したがって、これ以上、下げようにも下げられない。そこで、金利を下げるのではない形での金融政策が模索される。それが「非伝統的金融政策」と呼ばれるものである。非伝統的とは、従来やったことがないということで、当然やってみるまで効果のほどはわからない。非伝統的金融政策には、「量的緩和」「信用緩和」、それを合わせた「包括緩和」などがある。安倍首相が述べたマイナス金利というのも非伝統的金融政策に該当する。量的緩和とは、文字どおり日銀の調節目標を金利からお金の量に変える方法で、日銀は平成13年3月から平成18年3月までこの政策を行なった。信用緩和とは、日銀が従来買わなかったリスクの高い資産を買って資金供給をする政策であり、日銀は平成22年10月から、この信用緩和に加え量的拡大の側面も持つ包括緩和策を採っている。
そう聞いても、何を言っているのかよくわからないとおっしゃる方もあるだろう。そこで、まず量的緩和の対象となる「お金の量」から説明していこう。「お金の量」というとお札の量、日本銀行券の量と思う方が多いだろうが、そうではない。ついでに言えば、よく金融緩和のことを指して「日銀が輪転機を回してどんどんお札を刷ること」と表現することがあるが、これも正しくない。お札=日本銀行券は、日銀が日銀券の需要に関する先行きの想定等を元に、国立印刷局に製造を発注する。日銀券の需要とは、例えば年単位で見ると、冬季ボーナスと年末年始の資金手当が重なる12月には日銀券の需要は通常月の2倍程度まで増加し、その翌月には大幅に減って日銀券は日銀に還流する。また、平成14年のペイオフ部分解禁は、銀行に預けておくより引き出して手元に置こうという国民心理を誘発し、日銀券の需要を高めた。日銀はこのような日銀券に対する需要を想定して日銀券の印刷発注をかけるわけで、当たり前の話であるがむやみに印刷発注をしているわけではない。刷り上がった日銀券は日銀本支店の金庫に保管されるが、この段階ではまだ世に出ていない。別の言い方をすれば、まだ発行されていない。日銀券が世の中に出るのは、一般の市中銀行を通じてだ。市中銀行は日銀に当座預金(以下、「日銀当預」)を持っている。この当座預金は、一般の銀行の当座預金と同様に捉えていただいてかまわない。基本的に無利子の決済用口座である。市中の銀行は個人や企業といった顧客への支払いに必要となる日銀券を日銀当預から引き出して、日銀本支店の窓口で受け取る。こうして初めて日銀券は世に出るのであるが、これを指して日本銀行券の発行と言う。ここまでの説明でおわかりのとおり、日銀券は世の中一般の日銀券に対する需要に合わせて発行されるものであって、金融緩和とは「日銀が輪転機を回してお札を刷る」という話ではまったくないのである。ちなみに、平成24年11月30日現在での日銀券発行高は81兆7300億円。我が国は小口決済における現金使用率が高いことや治安の良さ等の理由から、他の先進諸国より対GDP比での銀行券発行高は高い。
量的緩和でかえって銀行貸出は大幅に減った
では、量的緩和の対象となる「お金の量」とは、何を指すのであろうか。「マネタリーベース(「ベースマネー」「ハイパワードマネー」と呼ぶこともある)」である。マネタリーベースとは、「日銀券発行高」+「貨幣流通高」+「日銀当座預金」のことをいう。このうち日銀券発行高については既に述べた。貨幣流通高というのは500円・100円・50円といった硬貨のことで、この二つを合わせて「現金通貨」という。もちろんその大半は日銀券発行高であり、現金通貨の95%を占める。次は日銀当預である。実は平成13年から行なわれた量的緩和のターゲットは、この日銀当預だったのである。
日銀当預についての説明に入る前に、先に「マネタリーベース」と「マネーサプライ」との関係について述べておこう。簡単に言うと“中央銀行が供給した通貨の総量”がマネタリーベース、“世の中に出回っているお金の総量”がマネーサプライである。つまり、マネーサプライとは、金融機関を除く民間保有の預金と現金の和であり、日銀も含めた金融機関全体から経済に供給される通貨である。こういう教科書的説明では何がポイントかわからないので、ズバリ、わかりやすくポイントを述べよう。マネタリーベースになくてマネーサプライにあるものがある。それこそが、金融緩和政策のポイントである。それは、民間保有の預金である。そして、これを生みだすのは日銀ではない。市中の銀行なのである。市中銀行は預金者から現金で銀行に預けられる預金(「本源的預金」と言う)を元手に貸し出しを行ない、それにより新たな預金(「派生的預金」と言う)を生み出す。それがまた新たな貸し出しにつながるというふうにして経済全体の通貨量を拡大していく。これを信用創造と言う。このように民間で資金需要が生まれ、貸し出しが増え、お金が動くようにならなければ、結局意味はないのである。
話をマネタリーベースの日銀当預に戻そう。日銀当預の大部分は準備預金と呼ばれるものである。市中銀行は預っている預金の一定比率(準備率)以上の金額を、日銀に預け入れることが義務付けられており、それを準備預金と言う。この準備預金には利子が付かない(ただし法定準備預金額を超えた超過準備に対しては、平成20年11月から0.1%の付利あり)。したがって、市中銀行は儲からない日銀当預にお金が積み上がれば、その分をどこかに貸し付けて稼がなくてはいけなくなる。そこで日銀は、日銀当預に法定準備を大幅に上回る目標金額を設定して、市中銀行が貸し出しを増やさざるを得ないように仕向けたのである(具体的な手段としては、その目標金額に向けて市中の銀行から大量に国債等を買って、その代金を日銀当預に払い込む)。
さて、結果として量的緩和によって市中銀行の貸し出しは増えたのか。確かにマネタリーベースは大幅に増えた。量的緩和前の平成13年2月のマネタリーベース平均残高は64兆7866億円、日銀当預は4兆2336億円であったのに対し、平成18年2月はそれぞれ111兆4431億円、33兆879億円。読者は特に日銀当預のケタ違いの増え方に驚いたのではないだろうか。では、銀行貸し出しはどうなったか。平成12年12月末の全国銀行貸出金残高は462兆7505億円。量的緩和を続けた5年後の平成17年12月末は406兆8389億円。貸し出しは増えなかったどころか、大幅に減少したのである。その状況を、内閣府経済社会総合研究所の研究官・青木大樹氏は、当時に次のように総括している。
「日本銀行は、このデフレーションに対し、短期のコールレートを実質ゼロに引き下げ、さらには預金準備残高に照準を置いた量的緩和政策を実行した。しかし、それでも効果はあまり見られず、最近は物価に目標を定めたインフレターゲティング政策など、従来の金融政策の枠組みを超えた対応が強く求められるようになっている。しかし、流動性の罠(筆者注:名目金利がこれ以上下がらない下限に到達してしまい、金融政策の有効性が失われてしまった状態のこと)と呼ばれる状況の中で、追加的な金融緩和の効果は望めないという意見は多い。実際、日本銀行による度重なる量的緩和政策により多額のマネタリーベースを供給しているにもかかわらず、マネーサプライ増加率は上昇していない。将来の増税や社会保障政策の持続可能性、資産価格の下落などに対して人々は大きな不安を抱いているため、貨幣を消費することよりも保有することを選好してしまう。貨幣を市場に流通させるためには、将来のインフレ期待を醸成する金融政策とともに、人々の不安を取り除く政策を補完的に推進していくことが重要である」。
妥当な総括であろう。将来不安があるので、国民は消費を抑え、お金を借りて投資することも控えているのである。本章冒頭で「このニュータウンは魅力的なので出店したい。そのためのお金を借りたい」と思っている人という例を挙げたが、今はそういう人がいなくなってしまったのだ。ニュータウンは高齢化によりオールドタウンとなり、ゴーストタウン化が懸念されるようになっているのが昨今である。いくら日銀当預を積み上げて銀行に貸し出すように促しても、借りたい人がいないのだから、貸し出しが増えないのは当然である。ことわざにある「馬を水飲み場まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」という状態なのだ。そして、この状態は今もまったく同じである。だから、銀行に預金はどんどん集まるが貸し出しは減っていく。先に述べたように、平成12年12月末時点での全国銀行貸出金残高は462兆円であったのだが、それに対し預金残高の方は475兆円であった。それが平成23年12月末時点になると、預金残高は584兆円と大きく伸びたのに対し、貸出金残高は421兆円。集まる預金の貸出先がないのである。
マイナス金利で貸し出しは増えるか?
先に日銀当預のうち超過準備には0.1%の金利が付いていると述べた。マイナス金利を説く論者は「これでは、カネは市中に回るはずがない。しきりに金融緩和を言いながら、実はカネを留め置くという欺瞞ぶりがはなはだしい」などと口を極めて攻撃するが、いかがなものだろうか。たかが0.1%の金利がゼロになったら、銀行は貸し出しを増やすようになるのだろうか。そもそも、元々日銀当預は無利子であった。利息が付けられるようになったのは、リーマン・ショック後の平成20年11月からである。これは、金融危機対策とともに前述のように資金運用難に陥った状態が続く銀行経営を支える意味合いから行なった措置であるが、それはともかく、その前後での貸出金残高を見てみよう。日銀当預が無利子だった平成19年12月末の全国銀行貸出金残高は415兆円。0.1%の金利を付けた後の平成20年12月末の貸出金残高は434兆円。むしろ増えているのである。0.1%をゼロやマイナスにしたら銀行の民間への貸し出しが増えるというのは、この事実を見てもあやしいと言うほかない。要は民間で投資をしよう、お金を借りようという資金需要が盛り上がるかどうかなのである。
また、マイナス金利論者は、2012年7月にマイナス金利を採用したデンマークの例を取り上げ、「9月には貸し出しが4%伸びた」などと述べるのだが、そんな短期間で何がわかるものでもなかろう。「デンマークの中央銀行は、マイナス金利を実施した時に何か起きるのかという小さな実験を手がける初のケースだ」(世界最大級の債券投資会社ピムコの欧州外国為替責任者、トーマス・クレッシン氏)。マイナス金利という実験は、デンマークという小国でまだ始まったばかりなのだ。
さらに言えば、そもそもなぜデンマークがマイナス金利を導入したのか、その意図をまず確認しておく必要がある。デンマーク国立銀行のバーンスタイン総裁は、マイナス金利採用の理由をこのように明確に述べている。
「デンマークは30年前からドイツマルクとの為替レートを一定の幅で固定し、1999年からはユーロと固定してきた。欧州政府債務危機の後、クローネ高が進んだため、ECBより政策金利を低く設定していた。2012年7月にECBが(政策金利と同様に為替に影響を与える)預金金利をゼロに下げたため、マイナス金利を初めて導入した。為替レートを固定し、クローネを守るためだ」。
明確な為替政策である。
為替市場という制空権は米国に握られている
話は本題から少し外れるが、しばしば「金融緩和によって円安になる。安倍発言だけで円安になった」と言われるが、為替政策の世界はそんな甘いものではない。平成24年(2012年)12月に、スイスの大手金融機関であるUBSやクレディ・スイスがマイナス金利を導入したことが話題になった。UBSやクレディ・スイスは民間金融機関であるので、これは国や中央銀行の政策ではないが、これら民間金融機関がマイナス金利を導入することになった元には、スイスの為替政策がある。スイスは平成23年(2011年)9月から1ユーロ=1.2スイスフランを上限とする無制限為替介入を行なうとともに、ゼロ金利政策を採用している。したがって、民間銀行は運用できないため、マイナス金利という異例の措置を採ることにしたのである。デンマークの「為替レートを固定」。スイスの「1.2スイスフランを上限に無制限介入」。為替政策はこれくらい明確に断固として行なうものなのである。我が国でしばしば言われる口先だけの「断固たる措置」とはまるで次元が違う。
そもそも前著『日中開戦(下)』でも述べたが、我が国は為替市場という制空権を米国に握られている。だから、主体的な為替政策を採ることなどできないのだ。この点について、今一度簡単に説明しておこう。戦後、高度成長を続けてきた我が国は、1980年代になると経済的には米国に敵対する存在になってきた。そこで米国は、米国にとって障害となる日本経済の問題点の変革を企図するようになった。「日米構造協議」や今に続く「年次改革要望書」「日米経済調和対話」などと呼ばれているものによってそれを実現させているのであるが、これらの英語原文にはいずれも「イニシアティブ」という言葉が用いられていて、米国がイニシアティブを取って日本の変革をしていくというのが現実なのである。決して「協議」や「調和対話」などではない。そして、この米国主導で経済敵国・日本を変革していくメカニズムのルーツが、1984年の「日米円ドル委員会」である。日米円ドル委員会では、為替先物取引における実需原則の撤廃など、「金融自由化」の美名の下で我が国金融制度の大改造が行なわれた。そして、日米円ドル委員会の仕掛け人の一人が、小松製作所と競合するキャタピラー・トラクター社のモーガン会長であった。モーガン会長は、「日本との競争に勝つためには、日本の金融市場を開放させ、アメリカが日本の金利や為替レートに影響を与えて円高になるよう操作できるような構造に変えるべきだ」とホワイトハウスや財務省に陳情していたのだ。今、ドル・円市場はまさにそうなっている。
金融自由化によって、今ドル・円市場は、とんでもなく膨れ上がった。みずほコーポレート銀行の唐鎌大輔氏によると、投機を含めた東京市場でのドル・円取引は1日平均で約11.5兆円にものぼり、2012年1月〜10月までの実需マネー(3.7兆円の円売り)の約3倍にも及んでいる。この膨れ上がった為替市場のマネーは儲かる方向にポジションを取る。力に付くということだ。したがって、市場は日本政府の意向など顧みることはない。注意しているのは米国の国策である。今、多少の円安が進んでいるのは、米国が容認しているからであって、どこかで米国高官がそれを難じる発言をすれば、市場の向きは必ず変わる。「過去40年を振り返り、なかでも実務家の立場で30年余り、為替市場を見続けた立場として抱く『実感』は、為替の大きなトレンドはすべて米国サイドで決まっていたことだった」「米国の本音がドル安にあるとしたら、日本サイドで少々のことをしたくらいで2007年以降の大きなトレンドが変わるとは思えない」(高田創みずほ総合研究所チーフエコノミスト)。「市場は米当局の意向に敬意と警戒を示し続けている」(石田護元伊藤忠ファイナンス会長)。これら為替市場の実務家の人達の目はさすがに鋭い。金融緩和で円安がくるなどというのは、国家の為替政策の厳しさや市場の現実が理解できていないあまりに能天気な言説であると言えよう。
その点では、安倍政権の経済ブレーンの中で、「官民協調外債ファンド」を提唱している岩田一政日本経済研究センター理事長は、さすがに日銀副総裁も務めたことがあるだけに、為替市場の現実を理解している。曰く「日銀が円資金を供給し、財務省が国際金融市場を安定させるため、欧州安定メカニズム(ESM)が発行する債券など外債を買えば、円高是正が進みやすくなる。国際金融システムの安定という目的で基金を設けるなら、国際的にも理解を得やすいだろう」。国際的な理解が得られなければ、円高是正などできないということがわかっているのである(だからと言って、岩田氏の言うように、国際的理解がたやすく得られるとは思えないが)。逆に言えば、スイスやデンマークのように、自国の決断一つで、自国通貨高を是正する為替政策を採ることはできないということである。それくらい円の為替市場は手に負えないくらい膨れ上がってしまった。米国主導の「金融自由化」の美名によって。
本来なら、妥当でない水準にある円相場を安定した妥当水準に是正するのが、まず第一であろう(購買力平価では1ドル=106.8円。2011年・OECD発表)。後述するが、大恐慌時に蔵相の座に就いた高橋是清が最初に行なったのも、妥当でない円高を是正して低位安定させることであった。一時的な円安では意味がない。仮に安定的に1ドル=100円〜110円くらいの水準が可能になれば(スイスやデンマークのように)、製造業は安心して日本に帰って来て国内の設備投資が伸びる。国際競争力も再び高まり、国民心理も盛り上がること間違いない。しかし、先に述べたとおり、それは不可能になってしまっている。日米円ドル委員会に始まる経済構造変革の内政干渉を許し続けてきたのは、自民党政権である(民主党政権の外交はそれと比較にならないくらいハチャメチャであったが)。だから、自民党政権でこの問題に抜本的メスを入れることは不可能であろう。
かくして、超円高水準を強いられ続けた我が国産業界が衰退の一途を辿っていることは、今さら言うまでもない。国際競争力はどんどん低下していっている。国際競争力が低下していくと、円相場はどうなるのか。もっとシビアにグローバル経済下の為替政策の観点から考えてみよう。米国や韓国など諸外国の為替政策から考えて、円高(自国通貨安)の必要性はどうなるのか。どんどんその必要性は薄れていく。つまり、円は放っておいても円安に向かっていくのである。我が国企業が海外に出て行った後で。
モラルなき財政ファイナンス
話を非伝統的金融政策に戻そう。今まで見てきたように、量的緩和にしろマイナス金利にしろ、非伝統的金融政策はやったことがないのだから、それが本当に国民経済を活性化させるものになるかについては、何の実証もない。にもかかわらず、なぜこれほど日銀が叩かれて、次から次へと新たな非伝統的金融政策が持ち出されるかというと、それくらい打つ手がないからである。10年前は「失われた10年」と言われていた。その後、自民党政権も民主党政権も色々なことをやってはきたのだが効果はなく、「失われた20年」になってしまった。そうなると、今までやったことがなかったことに賭けるしかない。
それに、政治は常に敵の存在を必要とする。先に述べたとおり、本当の手強い敵は、例えば日本国民の目には見えない内政干渉を続けているアメリカなのであるが、政治家はそれは言えない。対米関係が最も大事という事情もあるし、何より内政干渉を許し続けていること自体があまりにも大きな政治の失態であるからである。そこで、格好のスケープゴートにされたのが日銀なのだ。
かくして、効果の程はわからないにもかかわらず日銀を叩いて国債を買わせ、“高度成長期の夢よもう一度”とばかりに200兆円の公共事業を打ち出しているのであるが、これは極めて危険な経済政策である。なぜなら、モラルがないからである。
「財政ファイナンス」という言葉がある。中央銀行が財政赤字を埋めるために国債を買うことを意味する。ところで先に、日銀が市中銀行から大量に国債を買ってその代金を日銀当預に払い込んで積み上げる「量的緩和」政策について述べた。中銀が国債を購入しているという点では、財政ファイナンスも量的緩和も同じように見える。しかし、慶応義塾大学教授の池尾和人氏は、中央銀行が国債購入を増加させることを前提として、政府が財政赤字を拡大させるような政策を採る場合、中銀による国債購入は国の財政赤字を中央銀行が穴埋めする財政ファイナンスあるいは国債のマネタリゼーション(貨幣化)だとして、その危険性を指摘している。量的緩和政策の効果の程はともかく、国債残高が増えていない状況下で中央銀行が国債を買うのであれば、それは単なる量的緩和政策だと言えよう。しかし、我が国の借金はとめどなく膨張を続けている。その国債を日銀が買う。これは明らかに、モラルなき財政ファイナンスだと見なければならない。
是清が一番にやったことは断固たる円安政策
金融緩和と積極財政を主張するいわゆるリフレ派は、しばしば「高橋是清に学べ」と言う。是清に学ぶ――そのこと自体には私にも異論はない。しかし、正しく学ばなければならない。
例えば、リフレ派の中には「高橋是清が最初にやったのは金本位制からの離脱です。金本位制から脱却することで無制限にお金を刷れるようになりました」などと言う者もいるが、これは事実ではない。確かに是清は日銀の保証発行限度を大幅に拡張して10億円としたが、無制限にしたわけではない。まずは、そのような歴史的事実から検証しなければならないし、さらに踏み込んで高橋是清が行なった金本位制離脱政策の実相を理解する必要があろう。また、リフレ派は高橋財政のことを「積極財政」と呼ぶが、実は当時高橋財政は「積極財政」ではなく「健全財政」と呼ばれていた。このあたりの検証も大切だ。
まず、金本位制離脱について説明していこう。金本位制とは、一国の通貨価値に金の裏付けを持たせた制度である。その国の通貨は一定量の金の重さで表すことができ、通貨と金との交換は保証される。金本位制は19世紀末に国際的に確立し、我が国も明治30年(1897年)に金本位制を導入した(1円=純金750ミリグラム)。第一次世界大戦によって各国政府とも一旦金本位制を中断して管理通貨制度に移行するが、大戦が終わると再び金本位制に復帰していった。我が国でも昭和3年(1928年)頃から金本位制復帰論が台頭してくる。その主目的は、「為替の安定」にあった。我が国は昭和5年(1930年)1月に金本位制に復帰するが、それを断行した井上準之助蔵相(高橋是清の前任蔵相)は次のように語っていた。「為替相場の動揺のために物価が動揺することは、商売社会の最も好ましからざることであり、財界の不安この上もないことであります。何となれば、為替の見通しのごときは最も困難なことで、常に商売人に累を来たすものであります。しかるに解禁(筆者注:金本位制復帰)後は為替相場はほとんど一定不動のものとなりますから、以前と比較し商売が非常にしよくなることは確かであります」。しかし、結果的にこの井上による金本位制復帰は、「暴風に向かって窓を開けた」と言われることとなる。暴風とは何か。1929年(昭和4年)10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌である。
そもそも、この金本位制復帰に当たっては、「旧平価」でやるべきか「新平価」でやるべきかという論争があった。「旧平価」とは先に述べた明治30年(1897年)に定められた1円=純金750ミリグラムである。「新平価」論者は、この水準は昭和にあっては円高であり、もっと円安水準で金本位制に復帰すべきだと説いた。しかし井上は、あえて厳しい「旧平価」を選択することで企業体質を強化して国際競争力を高め、国家の威信を示すためにという理由で、「旧平価」での金本位制復帰を断行したのである。
ところが、世界恐慌、今とは比較にならない大デフレの時代である。どういうことになったか。まず我が国のデフレ状況である。東京卸売物価指数を見てみると、昭和4年6月には174.5であったものが、昭和5年12月末には127.9と、わずか1年半の間に3割近くも下落している。今のデフレの比ではない。ところが、欧米のデフレはさらにすさまじかった。4〜5割も下落したのである。その結果、元々円高水準で金本位制に復帰したところへもってきて、諸外国の方が物価下落が激しかったため日本製品は一段と割高となり、輸出は激減することになったのである。ここで登場するのが高橋是清である。
昭和6年(1931年)12月13日、井上に代わって蔵相の座に就いた高橋是清は、当日に金本位制から離脱し円の切り下げを図る。井上時代、100円=49ドル台だったものが、昭和6年12月末には早くも34ドル台となり、翌昭和7年になると年平均28.12ドルとなる。さらに是清は、昭和8年3月には一層の円の低位安定を図り、1円=1シリング2ペンスで円を英ポンドと固定(ペッグ)させた。その結果、円は100円=20ドル前後に落ち着くことになる。100円=50ドル近かったものが、20ドルになった。今の表現方法に換算すれば、1ドル=2円の円高を1ドル=5円の円安に是正(しかも安定的に)したのである。この円安の効果は絶大で、日本の総輸出は井上時代の最後である昭和6年の11.5億円から高橋時代の昭和10年には25億円へと、わずか4年で2倍以上になったのである。金本位制からの離脱によって是清がやったことは、為替の低位安定化による輸出振興だったのである。
「健全財政」と呼ばれていた高橋財政
高橋財政と言えば、「積極財政」というイメージが固まっている。しかし、実は当時高橋財政は「健全財政」と呼ばれていた。それは、高橋財政の一般会計歳出額の推移を見てもよくわかる。昭和8年から昭和11年まで、一般会計歳出額は約22億円で横ばいである。それだけ見ても、歳出を膨張させていなかったことはわかるが、その中身を見てみるとさらに厳しく歳出を抑えていたことがよくわかる。というのは、この一般会計歳出の中で軍事費だけは経済成長率並みの伸びを認めていたのである(先に述べた輸出振興策により、高橋時代、経済は安定成長し、実質成長率は年7.2%であった)。逆に言えば、軍事費と3年間で8億円を投じた農村不況対策費以外の歳出は実質的にマイナスであったのである。
また是清は、「公債漸減主義」さえ唱えるに至っている。昭和10年11月26日に行なわれた昭和11年度予算閣議で、是清は次のような演説を行なった。「予算も国民の所得に応じたものを作らねばならぬ。財政上の信用というものは無形のものである。その信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに専念して、悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するがごときことがあっては、国防も決して安固とはなり得ない」。先に述べたように、是清は決して軍事費拡大に絶対的に反対していた訳ではない。むしろ、例外的に経済成長率並みの拡大を認めてきたのである。しかし、財政規律の観点から限度というものがある。是清は、この演説の翌年、昭和11年の二・二六事件で非業の死を遂げる。まさに命がけで健全財政を守ろうとしたのであった。ちなみに、二・二六事件を起こした皇道派の重鎮・荒木貞夫は、昭和6年12月、是清の蔵相就任とともに陸相となったが、当時このように語っていたという。「今の内閣で真個に国家のために思ってゐるのは、高橋ぐらゐなものである」。
「常識で考えても、借金政策は永続しない」
こうした事実にもかかわらず、高橋財政が積極財政と誤解、あるいは曲解されているのは、国債の日銀直接引き受けを行なったことと、“芸者遊び”発言によるものであろう。ここで、その真相を見ていくことにする。
まず、国債の日銀引き受けであるが、興味深いのは、日銀理事も務めた経済評論家・吉野俊彦の指摘である。吉野は、高橋是清が行なった国債の日銀直接引き受けは、日清戦争の戦費調達のために川田日銀総裁が行なった手法と同様のもので特に独創的なものではなかったとしている。川田総裁は、まず日銀が戦費に必要な資金の貸し付けを行ない、それによって市中銀行の預金が増大したところで後から国債を公募して消化させるという手法であったのに対し、是清が行なったのは、まず日銀に国債を直接引き受けさせて、後から売りオペレーションで市中銀行に売却するということで、それは後先が逆になっているだけだというのである。実際、是清の蔵相在任期間中に発行された国債39億円のうち86%が日銀引き受けされたが、そのうち91%は後で市中消化されている。つまり、是清が行なった国債の日銀引き受け策は、「一旦」引き受け策とでも言うべきもので、したがって高橋財政時代のインフレ率も年2%と極めて安定していた。また、是清は昭和7年7月には、金融機関の保有する国債の評価を商法の時価主義の特例として帳簿価格とすることとした。これは、市中銀行が保有する国債の評価損がなくなることを意味するので、市中銀行の国債保有を促進することとなる。他にも是清は様々な措置を取って、国債の市中消化を図っている。是清はただ無暗やたらに国債の日銀引き受けを行なったのではないのである。昨今の粗雑なリフレ派は、とにかく「日銀が国債を買え」と叫ぶばかりであるが、国債をいかに安定的に消化させるか、その是清の苦心と政策をこそ学んでもらいたいものだ。
二つ目の“芸者遊び”発言とは、昭和4年11月に行なったこの演説のことだ。
「仮にある人が待合へ行って、芸者を招(よ)んだり、 贅沢な料理を食べたりして二千円を費消したとする。これは風紀道徳の上から云へば、そうした使い方をして貰い度(た)くは無いけれども、仮に使ったとして、この使われた金はどういう風に散らばって行くかというのに、料理代となった部分は料理人等の給料の一部分となり、また料理に使われた魚類、肉類、野菜類、調味品等の代価及びそれらの運搬費並びに商人の稼ぎ料として支払われる。この分は、即ちそれだけ、農業者、漁業者その他の生産業者の懐を潤すものである。而してこれらの代金を受け取りたる農業者や、漁業者、商人等は、それを以て各自の衣食住その他の費用に充てる。それから芸者代として支払われた金は、その一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、その他の代償として支出せられる。即ち今この人が待合へ行くことを止めて、二千円を節約したとすれば、この人個人にとっては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであらうが、その金の効果は二千円を出ない。しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く。故に、個人経済から云へば、二千円の節約をする事は、その人にとって、誠に結構であるが、国の経済から云へば、同一の金が二十倍にも三十倍にもなって働くのであるか十倍にもなって働くのであるから、寧(むし)ろその方が望ましい訳である。茲(ここ)が個人経済と、国の経済との異なって居る所である」。
この発言を取り上げて、「是清は何でもいいからお金を使うことが国の経済にとっては良いことだと説いた日本のケインズだ」と言う向きがある。しかし、まず時代背景としてこの演説は井上デフレ時代に行なわれたものであることを抑えておく必要があるだろう。それとともに、是清は借金に関してはこのように述べている。昭和10年の朝日新聞への寄稿だ。「常識で考えても、国家その他の公共団体の経済たると個人経済たるとを問わず、借金政策の永続すべからざることは当然である。公債増発に伴って利払費は漸増し、租税その他の収入もその利払に追われる結果となるであろう」。個人も国家もこと借金に関しては同じで、借金を増やし続けていけば首が回らなくなることは、常識で考えてもわかると説いているのだ。
国のため健全財政を守ろうと命懸けで闘ったこの是清の真の姿は、今日、歪められて伝わっている。これは泉下の是清にとって無念であるだけでなく、我が国にとって極めて危険なことである。
是清が携わった最後の予算である昭和11年度予算は、形の上では是清が訴えた赤字公債漸減をほぼ達成するものであった。しかしその実態は、軍事関係の新規継続費を約5億円から11億円へと倍以上に積み増し、また会計上の「無理算段」(高橋是清)を重ねてのものであった。「会計上の無理算段」。これは、詳しくは後述するが、毎年基礎年金の国庫負担に四苦八苦し、何とか埋蔵金で取り繕っている、今の我が国財政を彷彿とさせはしまいか。
当時、軍部は財源を求め、国債増発に関する研究に力を入れるようになっていた。その中でこのような論が唱えられていた。「国債は国民の債務なると共にその債権なるを以て、国債の増発も国民全体としては財の増減が無い故に、内国債である限り国債の増加も国民全負担の増加にあらず、何等恐るるに足らず」。これまた、今日の一部リフレ派が主張していることとぴったり重なるではないか。
我が国の政府債務は、満州事変が勃発した昭和6年度(1931年度)末には70億5300万円であったが、戦線の拡大とともに増加の一途をたどる。そして、敗戦の年、昭和20年度(1945年度)末には実に1994億5400万円にまで膨らんでいた。その結末がハイパーインフレであったことは、言を俟たない。もちろん、敗戦により国土が焦土と化し、供給力が壊滅的に低下していたことがハイパーインフレの需給面からの要因であり、本章冒頭で述べたように需要不足が大きい今の我が国において、日銀が国債を買ったからといってすぐにハイパーインフレになる訳ではない。しかし、財政規律というモラルが崩れていけば、そこから国が崩壊していくことは間違いないのである。
戦前の軍事費=現代の社会保障費
いま、我が国の政府債務はとめどなく増え続けている。是清の時代と比べてはるかに複雑になった今日の政府債務を表す数字は色々あるが、財務省理財局国際企画課によれば、平成24年度末見込みの「国債及び借入金現在高」は1086兆円と1000兆円を超える。なぜ、日本の政府債務は増え続けるのだろうか。なぜ、借金を重ねるのだろうか。
まず、二つのグラフを見てもらいたい。一つ目は「平成24年度一般会計予算歳出内訳」の円グラフである。最も多くお金が使われているのはどの分野か。社会保障である。全体の29.2%を占める。次にその歴史的推移を見てみよう。この50年で着実に増えてきているのが社会保障関係費と国債費(国債の償還や利払いに充てる費用)であることは一目瞭然だ。さらに言えば、平成24年度予算における社会保障関係費26.39兆円というのは野党から「粉飾だ」と批判され、後に修正している。どういうことか簡単に説明しよう。我が国の公的年金制度は、現役世代が支払っている年金保険料を高齢者が受け取る年金に充てる賦課方式というやり方を採っている。したがって、急速に進む少子高齢化に伴って、現役世代が負担しなければならない年金保険料はどんどん増えることになってしまう。そこで、現役世代の保険料負担を少しでも軽減しようと、平成21年年4月から基礎年金の国庫負担割合がそれまでの3分の1から2分の1に引き上げられた。つまり、基礎年金の原資は半分が現役世代が払う年金保険料。残りの半分が「国庫負担」となったのである。この「国庫負担」とは何か? 国の金庫の中にそういうお金があるように思うかもしれないが、そうではない。国の収入は税金しかないのだから、これは本来は税金(より具体的に言えば消費税)を指すのである。しかし、政治家にとって「増税」は票につながらないから、消費増税は後回しにされ続け、その間、この「国庫負担」はいわゆる霞が関埋蔵金で手当てされてきた。いわば本当に「国庫負担」されてきたわけだが、24年度は埋蔵金が枯渇したため民主党政権は「年金交付国債」という奇策を考え出した。年金交付国債についての説明は省くが、そのポイントは一般会計に計上しなくて済むという点にあった。そうすれば当然、一般会計の見かけは良くなる。しかし結局、野党からの粉飾批判を浴びて後に一般会計に計上したので、実際には一般会計予算に占める社会保障関係費は3割を超えている。
読者の多くは、「少子高齢化が進んでいるから、社会保障関係費が増えるのは止むを得ない」と思っていることだろう。しかし実は、本来ならば、我が国の社会保障制度においては、人口構成がどうなろうとも、社会保障関係費はそれほど増えるはずはないのである。なぜなら、我が国の社会保障制度の基本は社会保険制度だからである。社会保険制度とは、民間の保険会社の保険と同じように考えていただいてかまわない。保険料を支払う人がいて、給付を受ける人の分はその保険料から支払われる。それを民間企業ではなく国でやっているのが、社会保険制度である。ではなぜ、社会保障関係費が増え続けるのか。次のグラフ「社会保障給付費と社会保険料収入の推移」を見てもらいたい。平成10年あたりから社会保険料収入が全く伸びなくなっているにもかかわらず、社会保障給付費はどんどん増え続けていることが一目瞭然である。ざっくり言えば、この給付費と保険料収入との差額が社会保障関係費として一般会計に回り、それを借金で手当てし続ける構造になってしまったのである。我が国の社会保険制度は平成10年頃からすでに崩壊していると言ってよい。
なぜこんなことになってしまったのだろうか。それは、政治の責任であり、より根源的には我々国民の責任である。政治家は票がもらえなければタダの人になってしまうから、どうしても国民に甘言を弄する。だから、保険料収入が伸び悩むことは自明のことであったにもかかわらず、給付だけはどんどんやる制度を作った。社会保障が専門の鈴木亘学習院大学教授は、このように指摘する。「医療保険だけでなく、年金や介護保険でもこの根拠不明な公費の大盤振る舞いが行なわれています。介護保険に至っては、6割近くが公費。社会保険への公費投入はすでに多くの国民の既得権になっていますから、なかなか一朝一夕にここにメスを入れることは難しいかもしれません」。
戦前、歯止めなく国の借金を膨らませていったのは軍事費であった。今は社会保障関係費である。言わば、戦前の軍部に当たるのが今日においては我々国民なのである。
リフレ派が国民を愚民にし国を崩壊させる
「年金を払う金がなかったら、日銀に紙幣を刷らせて受給者に渡せばいい。ただそれだけである。これはおそらく、誰も反論できないはずである」。某リフレ派のこの言葉ほど、昨今のモラルなき「何でも日銀論」を象徴するものはないであろう。これは、「反論できない」ではなく、日本経済についてまじめに考えようとしている人間なら開いた口がふさがらないと言うほかない。前述したとおり、年金問題の本質は少子高齢化時代の世代間扶養の問題である。誰がどのように負担するのか、給付はどのように削減すべきなのか。誰かのプラスになれば誰かのマイナスになる簡単な解のないこの難問に道筋をつけることこそ、政治の責務ではないか。それを避けていては、将来不安はいつまでも解消されず、日本経済再生などあり得ない。
さらに言えば、安倍首相は「強い経済の回復」と言うが、その言葉自体が「高度経済成長期の夢よもう一度」というイメージで、厳しい現実を国民に伝えることを避けている感じがしてならない。その象徴が10年間で総額200兆円を投じるという国土強靱化計画だ。筆者は必要な公共事業があることはまったく否定しない。しかしそれは、高度成長期のように新しいハコモノをどんどん造ることではない。高度成長期から1990年代にかけて造られた膨大なインフラの更新投資だ。笹子トンネル事故で明らかなように、我が国のインフラは更新投資の時期を迎えている。その必要額は今後ますます増えると予想され、平成21年度国土交通白書では次のような恐るべき試算さえ出されている。公共投資額が平成22年度以降横ばいと仮定し、一定の条件で維持管理費と更新投資を推計した時、維持管理費と更新投資を合わせた必要投資額が総投資額に占める比率は、平成22年度は約50%だが、平成49年度には100%を上回るという。つまりこのまま推移すれば、20数年後の平成49年度以降は、新規の公共投資を行なうことは不可能となるばかりか、必要な維持補修・更新投資さえままならなくなるということである。ということは、維持できずに捨てざるを得ないインフラが出てくるということだ。インフラの取捨選択、集中。今まで問われることのなかったこのような観点を踏まえた政策が求められてきているのである。もちろん、国土強靭化計画にも更新投資は含まれている。しかし、この計画の主旨が、既存インフラの維持すらままならないという厳しい現実をどう乗り越えていくかにあるのではなく、高度成長期と同じ「公共事業ありき」の発想にあるのは明らかである。
今は高度成長時代ではない。少子高齢化で高度成長期に作った社会保障制度が揺らぎ、従来のインフラをどう安全に維持していくかが問われている時代なのだ。一国のリーダーには、その厳しい現実を国民に伝え、国を支える国民としての自覚を促し、その現実に立ち向かう政策を実行する責任がある。今の日本人は「国民の暮らしに国は責任を持つべき」と思っている人の率が76.4%と世界でもトップクラスに高い。国はやってくれて当たり前という甘えた愚民ばかりになってしまっているのだ。国のトップがそんな愚民のウケを狙う政策ばかりを唱えるようになれば、間違いなく国家は崩壊に向かう。社会保障制度の抜本的改革はいつまでも先送りされ続け、更新投資の問題からは目を背けて目先の公共投資で一時的な需要増を図り、国の借金は規律をなし崩しにして増え続け、いつかは虎視眈々と儲けを狙う海外ヘッジファンドや日本国債売買を武器として使う中国の売り攻勢によって国債は暴落することになるであろう。
最後に、ルソーの言葉を引用して、本章の終わりとしたい。「臣民の義務を果たそうともしないで、市民の権利を享受するような不正が進めば、共同体の破滅を招くだろう」。
 
 
文部省の大学入試改悪

 

日本の教育を破壊し劣化させているのは、GHQが去った1952年から今に至る戦後六十年間、一貫して文部省と朝日新聞が共同正犯である。また、日本の学校教育を“赤化教育手段”に公然と悪用する主犯は文部省であったし、これを応援的に煽動するのが朝日新聞であった。
学校を赤化教育の手段とする日本固有の問題について言えば、日本とは、“二十一世紀世界の奇観”というべき、かつてのソ連のピオネールそのものに、文部省が国家権力をもって、平成時代の今もなお小学校から大学までの学校教育を“共産主義を洗脳する宗教道場”化を過激に推進している。一方、一般の日本人はことごとく、祖国に対しても自分たちの子孫に対してもアパシー(無気力)を濃くして、当然、教育に全くの無関心となった。だから、文部省の官僚のほぼ全員が教育問題不適格者と共産革命運動家ばかりとなった事態に、危機感ひとつ感じない。
2・26事件(=レーニン型暴力共産革命)の失敗から、帝国陸軍という日本最大の共産勢力と一体化した文部省は、翌1937年春、洗脳型革命に変更し、マルクス・レーニン主義を巧妙に「皇国史観」の名前で粉飾した『国体の本義』を出版し、全国の小学校にこれを強制し洗脳した。皇国史観『国体の本義』は、記紀神話における天孫降臨の神勅を押し頂いた右翼民族主義に一見みえるが、スターリンを崇拝する「偽装右翼」民族主義者のイデオロギーとして、ヘーゲル哲学を基調にスターリン著『レーニン主義の諸問題』などを国産極左思想の水戸学でブレンドしたものだった。
この話はここまで。文科省のうち旧文部省と朝日新聞とが、現在、日本の教育制度を徹底的に破壊し、次代の日本人の学力低下をさらに加速する“祖国叛逆の反・教育行政”を論じる。 
第一節 教育を破壊し人格を歪める推薦制度は、生徒への“抑圧”装置
赤い教師の管理教育を増長させる高校入試・大学入試の学校推薦は、全廃せよ!  
中学三年生が、高校入試のための学校推薦制度によって(2015年12月に)自殺した事件は、去る3月に日本の新聞テレビを賑わしたから(2016年3月9日付けの各紙)、記憶にまだ新しかろう。しかし、新聞・テレビ報道も(当該事件を直接に責任を負う)広島県府中町教育員会も、お門違いのミクロ問題に話を逸らし、問題の重大な根幹部分、つまり真の核心をいっさい言及しなかった。  
確かに、悲しい本件自殺事件は、他の生徒の万引き行為を間違って誤記録したのをそのまま信じた担任教師が、これをもって「校長推薦状が出せない」と誤った進路指導をしたことが原因である。だが、この自殺事件の責任追及を、誤記録問題や(判断力やコミュニケ―ション力に欠陥ある)担任教師の人格的資質問題に終わらせていいのか。
“問題の中の問題”は、私立高校入試ごときに中学校長の推薦状を必要とするような、極度に馬鹿げた制度の方ではないか。「ナンセンスを越える恐るべき校長推薦制度がなければ、この中学三年生の自殺はなかった」事が唯一の論点・争点であろう。
だからか、こんな馬鹿げた制度を導入させた文科省は、責任逃れのため、この推薦状制度の問題につき一言も発せず沈黙に徹した。受験競争を悪だと、正邪逆の“逆立ち教育”を信仰して、“反教育”イデオロギーで教育行政を牛耳る文部省(現・文科省だが、教育問題なので「文部省」とする)は、日本人の学力大低下を狙って、有害無益な推薦状制度の導入を考え付いた。そして、全国の教育委員会に強制した。
今般の広島の中三自殺事件の元凶は、あくまでも赤い文部省にある。アホ馬鹿の担任女性教師の責任は逃れられないが、文部省こそがこの無能女性教師の万倍も百万倍も厳しく断罪されてしかるべきだろう。  
受験競争こそは、学校教育制度の神聖な原点である。入試には、一回のペーパーテストこそ公正だし、これ以上の公正な方法は他にない。また、一回のペーパーテストとそのための受験競争こそが、子供の学力を最も向上させる最良の方法である。
だが、文部官僚とは、上級職をやっと合格した最下位の劣等生だけが行く“落ちこぼれ六流官僚の群れ”。これらの吹き溜まりが文部省。だから、文部官僚は、現状を破壊し悪化させることはできるが、日本の教育制度を向上させる知恵も知識も精神もスッカラカンで欠落したまま。その上、彼らは共産党系と(北朝鮮人が多い)中核派がほとんど。日本を衰退・滅亡させるべく、日本人をどう劣化させるかの“反教育”もしくは“教育制度の破壊”にしか関心がない。  
要は、「広島県府中町の中学三年生自殺の元凶は、“反教育”や“教育制度の破壊”の一環として、文部省が押し付けた不必要を極める“有害無益な推薦状制度”にある」と、正しく認識すること。この問題の最核心から目を逸らすならば、自殺した中三男子生徒の魂は浮かばれまい。
大川小学校の悲劇は、日本の学校教師が推薦状を書く以前の“馬鹿&白痴”の証拠
宮城県石巻市は、学童74名を津波で「殺害」した、“トンデモ馬鹿&白痴教師十名”による過失殺人犯罪が行われた“悲劇の大川小学校”を、震災遺構として保存すると決定した(2016年3月末)。ただ、大川小学校の保存の是非は地元関係者が決定する問題なので、これにはコメントしない。  
が、大川小学校を、「追悼や祈りのための震災遺構として残す」とした石巻市長・亀山紘の、奇怪というか狡猾というか、この事件の本質を逸らす妄言には「異議あり!」と申し上げたい。そうしなければ、児童74名の魂が浮かばれない。なぜなら、この事件は、震災による死亡ではないからだ。正確には、無能教師による過失殺人の人災である。
思い出しても見よ。大川小学校の学童74名は、この学校校舎の中にいて突然の津波で死んだのではない。避難のため校庭に集合させられてから、(一名の教師だけは正常で山に逃げたが、残る)十名の教師がどこに逃げようかと、この校庭でペチャクチャ井戸端会議を50分という長時間にわたってやっていた結果として発生した事件である。故意ではないが、この十名の教師による明らかな過失致死の七四名児童殺人事件である。
つまり、この事件を警察と検察が、被疑者死亡だから逮捕はできないが、過失致死による七四名殺人事件として十名の教師を司法処理していないのは重大な過誤といえる。ただ、この大川小学校74名殺人事件の問題は、裁判の判決に譲り、本論に戻る。  
大川小学校の教訓とは、津波の恐ろしさではない。教訓の第一は、日本全体が、学校教師とは一般的には人間的成長に問題がある「水準以下」という事実を忘失していること。教訓の第二は、この世で恐ろしいのは、レベルの低い無能人間や(人格や思想において)狂った人間に権限を与えること。大川小学校の教頭以下の無能教師に児童避難権限を与えたことが74名死亡の主因だと、事柄の本質を直截的に直視することが、74名児童殺人事件の教訓である。
だが、保存を決めた亀山・石巻市長は、この教員資質問題であり過失致死殺人事件である“大川小学校の悲劇”を、震災遺構にすると政府から金が出る利権欲しさの正当化の理屈に悪用するだけで、74名児童への哀悼の愛情は一欠けらもない。  
学校教師とは、小学校から大学まで、知識や学問の伝授に関して、それに専念すべきものであって、「それ以外」に期待すること自体が基本的に間違い。現実に、この「それ以外」を身に着けている者など教師全体の一割に満たない。大阪市の寺井壽男・中学校長のような“賢者の教育者”はごく少数どころか、例外的な存在。
要するに、共産党員の大学教師が牛耳っている日本の大学の教育学部で教育された公立の小中学校の教師の大半は「人間的には無能、思想的には赤化」しており、「それ以外」を期待すれば子供たちは不健全に育つということだ。  
さて、本論。入試用の推薦状制度とは、このような人格的・人間的欠陥が顕著で社会的常識が「水準以下」ばかりが過半を占める、そのような学校教師に推薦状を書かせる制度である。そもそも生徒の知識習得レベルは、上級校が行う一回の入試テストで十分かつ客観的・公正にわかるから、推薦状など全く不必要なこと。
また、このような「水準以下」が過半の学校教師には、児童生徒の(その人格や人間性を含めた)学業以外の能力を判断する力はなく、実際にはチンプンカンプンで皆目わからない。だから、日本の学校教師が書く推薦状は、必ず「出鱈目」か「偏向する」か「不公平」かのいずれかとなる。(小学校から大学まで)学校教師は、そもそも人格/人間/社会的判断力を査定され評価されて、その資格を得たのではない。推薦状を書く以前のレベルしかない彼らに、推薦状を書かせてはならない。
では、入試用の推薦状制度を、文部省は、何のために創ったのか。日教組や高教組と裏でベタベタに繋がっている“赤い共産革命官庁”文部省は、トンデモ教師のめちゃくちゃ授業や授業外行動を勇気あるトップ生徒に批判されないよう、逆にそのようなトップ生徒を脅迫できる手段を教師側に与えたのである。推薦制度とは、生徒への“抑圧”装置である。日本の学校教育制度における推薦状は、“反教育の中の反教育”の極みでなくて何であろう。
トンデモ教師のトンデモを批判したら「推薦状を書かない/悪く書いてやるぞ」と脅す、トンデモ教師は主に三グループ、共産党系教師、朝鮮人系教師、無能教師に分類できる。
そして、これら“欠陥教師”“問題教師”や“犯罪者教師”の群れに、生徒の方がビクつく/オドオドする現実情況が日本の教育現場。つまり、日本の教育を改善するにはまず、“欠陥教師”“問題教師”“犯罪者教師”群の一掃など現実的には無理で困難だから、せめて、これら“欠陥教師”“問題教師”“犯罪者教師”群から生徒の自由を擁護する制度にしてあげることである。この方法の第一歩は、生徒を推薦状恐怖から解放し自由を回復してあげること。それにはまず、生徒に突き付けるジャックナイフのような脅迫手段というべき推薦状制度の廃止は、直ちに断行されねばならない。
推薦枠25%を20%に減らした東京都よ! さらに0%にする真の改善を断行せよ。
話を、中三が自殺した広島県府中町立府中緑が丘中学校の実情解剖に戻すとしよう。この学校は、2015年11月に、私立高校受験の校長推薦の選考基準の厳格化を決定した。ところが、その後の12月に自殺事件が起きるや、この中学校のトンデモ校長・坂元弘は、この選考基準を撤回した。わずか一ヶ月間に「従来の基準→厳格化→従来の基準」と二転三転したことは、推薦選考基準は基準でなく、単なる校長と三年生担任教師団の談合的な“恣意”だったことを明らかにしている。  
更に、この推薦の可否を決めるに当り、このトンデモ女性教師は廊下で立ち話的に自殺生徒に「万引きしましたよね」と、唐突・突然に「確認した」のであって、面談室で十分に反論・説明の機会を与えたのではない。このトンデモ女性教師の実名が新聞報道されていないのは、明らかに不自然で腑に落ちない。「共産党員の赤い教師」もしくは「日教組系の活動家教師」だからなのか。広島県の公立中学校の教師の過半は共産党員とも言われるから、そう断定して間違いないだろう。  
そもそも、高校入試に推薦制度を導入するならば、それは1都道府県単位の統一されたものでなければならないし、この2推薦選考基準は公表されていなければならない。なのに、どうして推薦基準が中学校ごとに恣意的に定められる“無法基準”制度なのか。
中学校ごとに基準が異なる推薦状だから、高校側にとって公正な判断材料になり得ない。自明ではないか。入試実施の高校は、これを“合否=差別化”の判断に公正に活用することなど万が一にも不可能である。
かくも公正を欠如した無法基準が横行しているのが、日本における「入試に送り出す中学校→入試を実施する高等学校」の実情。ならば、日本の子供たちは教師や学校(=大人)に対して(漠然としたものであろうが)不信感を必ず募らせる。これは教育ではなく、反教育・逆教育の極みに他ならない。
しかも、広島県の県教育委員会は、推薦状入試が、どのように使用されているかを調査したこともない“スーパ−無責任”に徹する堕落と腐敗の役所。広島県の県教育委員会は、「広島県立高校は、多いところでは五割を推薦で合格させ、少ないところでは二割を推薦で合格させているようだ」としか掌握していない。日本の高校入試は、推薦制度という悪の教育制度によって、「中学校の推薦も恣意、高校の合否判定も恣意」の、不正と同質の“反・公平&恣意”という無法が入試基準である。
赤い文部省が、日本人の学力低下を狙って、「受験競争をなくす」と言う“反・教育”を旗幟に導入を強制した推薦制度は、日本の学校界を“世界一の腐敗の巷”に堕落させるのに成功した。
推薦制度の反教育性を少しほど実感した東京都教育委員会は、2013年度から、都立高校入試における、それまでの推薦枠25%を20%に減らした。だが、これでも不公正と恣意は排除できない。東京都は、直ちに推薦枠を0%にして、最も公正な入試方法「一回の筆記試験制度」に回帰しなければならない。公明正大と公正な試験こそは、教育界・教育者が命を捨てても守らねばならない。 
第二節 日本人の学力低下を目論む“赤い落ち毀れ官僚の魔窟”文部省
日本が直面する喫緊の教育問題には、二つある。換言すれば、この二つ以外の教育問題をさも最重大な教育問題であるかに吹聴する者は、他意のある“反・教育”の煽動者(デマゴーグ)だから、日本から排斥すべき危険分子といえる。
特に、猿回しの文部省に操られる“痴愚的な猿”が集まる中央教育審議会(以下「中教審」)とは、この二つの最重要問題以外の教育制度の改悪ばかりに専念するから、最も「排斥されねばならない」“反・教育”の行政機構。中教審の廃止こそ、日本の教育制度を守るために急がねばならない。
東大はなぜ23位から43位に転落したか──文部省の教育改悪の当然の成果!
ともあれ、日本が直面する喫緊の二つの教育問題とは、次の二つ。
第一;日本の教育の質が戦後一貫して自壊的状況をひどくし、劣化の一途を辿っていること。
第二;日本が、人的劣化とエリート不在によって、国家的な大衰退を自ら加速させていること。
第一の問題は、英国の教育専門誌『TIMES HIGHER EDUCATION』の世界大学ランキングで、東大が23位から43位に転落した事実において、象徴的に証明されていよう。東大は今や、アジア域ですらシンガポール大学や北京大学の後塵を拝して第3位というお粗末さ。これらの順位は、日本という国家全体が腐敗と堕落を恣にし、赤い狂気の文部省が狂奔する教育制度改悪(いじくりまわし)がもたらす巨大な弊害を阻止しようともしない、昨今の日本人アパシーのひどさにおいて当然の結果。また、日本の教育水準がこれからもっと大転落するが、「第43位」はこの始まりの象徴ともいえよう。  
実際に、理Tに入学した東大生の数学ができないこと目を覆う惨状が現実である。理T入学者のほとんどは、北京大学に入学できないレベルになった。この現実は、あと二十年も経たず、日本は輸出産業が完全に自滅的事態に至るということ。それなのに、これを憂える日本人はゼロ。共産党員と北朝鮮人と朝日新聞だけは、この東大すら大劣化した問題に満面の笑みを浮かべているのに、この問題に恐怖して直視する真に愛国心ある日本人の方はゼロ。もう日本全国、どこにもいない。  
かくも、東大を始め、日本の高等教育機関が軒並み劣化の一途をたどるのは、中等学校での教育の劣化が大きな原因である。そして、この「中等学校での教育の劣化」は、日本の大学教師とくに文系教師の質的劣化が急降下したことと連動している。とりわけ、日本の文系学部では、大学教授の水準にない者が教授となっている。共産党系朝鮮人であるというだけで東大教授になった姜尚中は、その氷山の一角に過ぎない。大学教授レベルにない“似非”大学教授が、文系学部の9割を占める日本の大学の異常さは、世界に類例がない。
また、学問業績ゼロの文筆家に過ぎない姜尚中が共産党系朝鮮人である理由で東大教授になったのを問題視しないほど、日本人は自分たちの子孫の教育にいっさいの関心も責任も感じなくなった。病気の治療が医者や病院で決まるように、教育は教師で決まる。「姜尚中を東大から追放しろ!」の運動も声すらもなかった日本とは、教育に真剣な日本国民が一人もいない教育無関心国。日本はすでに国家であることを放棄した。
国際競争力27位に転落した日本──文部省が劣化させた初等中等教育の成果!  
第二の問題は、2015年6月、スイスの国際経営開発研究所IMDが発表した世界競争力ランキングで27位と、この転落が止まらない日本の順位が冷静に物語っていよう。
また、国民一人当たりのGDP(2014年)は、「米国4位」に比べはるか後塵を拝して、OECD34ヶ国中18位となったことも、第二の問題を象徴する。具体的な購買平価換算USドルで表せば、米国の「5万4千ドル」に対し日本はたったの「3万6千ドル」。つまり、米国の三分の二しかない。
1970年前後、日本は「英国病!」として英国を軽蔑するほど、第二次世界大戦の戦勝国・英国をはるかに抜いていたが、今では英国より下である。英国は「3万9千ドル」で、今では日本よりはるかに豊かである。近く伊勢志摩サミットがあるが、このサミット(主要先進7ヶ国)の順位を言えば、「米国、ドイツ、カナダ、英国、フランス、日本、イタリア」で、日本はビリから二番目。日本がG7から自然的に脱落する日は近い。  
労働生産性も、日本は34ヶ国のうち21位である。この労働生産性を、「世界6位」の米国と比較すると日本の衰退はさらに歴然としてくる。米国の年金平均労働時間は1789時間と、日本の1729時間より長いのに加え、労働生産性は日本よりはるかに高く1.6倍。要するに、日本人は勤勉を喪失した上に経済効率性も悪く、「米国人の6割にしか相当しない」のである。  
日本の経済は完全にガタを来している。日本人の質的向上を大幅にアップさせ、同時に勤勉の回復を図らない限り、日本経済の未来は絶望的で衰落一直線は免れない。
後者の勤勉の問題について言えば、国民の休日を半減し月曜日振替を中止することからまず断行しなければならない。安倍晋三のアベノミクスは、何から何まで、日本人の堕落を促進し日本経済の衰退を加速するキワモノの“反・経済”。だが、そんな経済政策に恍惚となって自分の名前を冠する“お馬鹿”総理大臣しか日本にはいない。このような安倍やその他の政治家を育てたことに着目するだけでも、永年、日本の教育が逆走教育をし続けている事は端的に証明されている。
初等中等局/高等局の文部省官僚の学歴と上級職合格順位の公開を義務化せよ  
これほど日本の国家の先行きが、日本人の新生児数激減と人的劣化によって、不安などでは済まない惨憺たる方向に転落しているのに、これを挽回する基盤である教育は、文部省によってさらに破壊的な大改悪ばかりが遂行されている。現に、日本人の学力向上や日本の国際競争力/世界水準維持などを考えている文部官僚など一人もいない。文部官僚は、教育問題不適格者ばかりとなった。  
その上、この劣悪を極めて“悪の反・教育”しか考えないトンデモ文部官僚が、面白半分に選択する中央教育審議会の委員は、クズ人間か、二、三人を除いて超劣悪な教育ド素人ばかり。実態的には、猿回しの赤い文部官僚に芋につられて芸をする“日光猿軍団の猿の群れ”の三十名。中教審の全面廃止は、日本の教育再生でまず決行すべき前提条件である。
日本には正しい教育を考える行政組織は、明治時代をもって消えた。今ではどこにも存在しない。それどころか、教育改悪・教育劣化を促進する“反教育の行政組織”文部省が、隠れ蓑の中教審を操ってやりたい放題の強権力を振るう惨状が、日本である。占領軍のGHQですら、文部省のような強権力は振るわなかったし、文部省のような「反日」一色ではなく、「親日」「愛日」が半ばはあった。
この“反教育の行政組織”の毒を少しでも薄める方法を今すぐに実行しないと、日本は危うい。手始めは、共産党員と北朝鮮人ばかりの、文部省の初等中等教育局と高等教育局の上級職官僚に対し、その学歴と上級職合格時の順位を公開させる立法をする事。そうすれば国民の目に、彼らが入試制度や教育制度をいじくりまわすレベルにない事実が一目瞭然に暴露される。水準以下の彼等が、お門違いの文部省に入省した事実がバレ、その暴走的な教育改悪が自制される。
この学歴公開の義務は、中央教育審議会のメンバー30名についても当然に適用される。いや、中央教育審議会こそ、率先して自らの学歴を詳細に国民に開示しなくてはならない。教育は学歴と不可分であり、現状の中央教育審議会メンバーの学歴秘匿は、中教審設置の目的に違背する重大な瑕疵で犯罪ともいえる。現状の学歴非公開は、許されない。
中教審メンバーの学歴公開は、政令である中央教育審議会令(平成12年6月7日付け)の「第3条 委員の任期等」の第5項の次に「第6項 委員、臨時委員、専門委員の学歴は、詳細に公開されるものとする」を付加すれば済む。国会での法律改正などの厄介な手続きは不要である。 
第三節 「エリート教育」を破壊し尽した日本は、“不可逆の亡国”一直線
養老孟司の著書に、タイトル『死の壁』というエセー風の軽い読み物がある。その中に、常識的な常識が書かれている。それをここに引用する。理由は、凡庸なイロハ的事実指摘に過ぎないが、日本の教育制度の大欠陥を指し示しているからだ。このイロハを日本人が脳裏からすっかり消したからだ。   
「日本の場合、平等主義が至る所に蔓延してしまった。そのために、エリート教育というものも無くなった。そしてエリートが背負う重さというものがなくなってしまった。エリートという形骸化した地位だけが残った」
養老孟司が指摘するこの常識的事実は、例えば、日本におけるエリートの地位総理大臣の椅子に座る政治家を見るだけでも、明らかに正確で真実である。現在のそれは安倍晋三。彼は、集団的自衛権の解釈変更を含め憲法第九条問題には(祖父・岸信介の遺言履行として)いたくご執心なのに、具体的な軍事国防となると、とたんに嫌悪して拒絶する。安倍晋三は人間としてエリートには育っていないし、エリート教育など受けていないからである。  
自衛隊の超貧弱な軍事国防力のままでは、尖閣諸島だけでなく宮古島・石垣島もいずれ一瞬のうちに中共の餌食になる。そのとき、これらの島々では数百名/数千名の住民は陰惨に殺害されるだろう。しかも、その多くは、今は、乳幼児であり小学生であり若年層の人々である。さらに、未生の子孫たちである。  
同じことは、北海道にも起きる。ロシアの侵略で、五百万人道民の多くがロシア兵に殺されるのは火を見るより明らか。だが、安倍晋三は、そのような近未来の現実は見えない。エリートでないからで ある。この沖縄南部と北海道の近未来のケースが明らかにするのは、エリート不在の政治は基本的には“反・国政”にしかならないということである。この「エリート不在の政治は基本的には“反・国政” にしかならない」という原理原則は、逆に、国家の政治エリートとはどのような資質を持たなければならないかのエリートの要件を示唆している。  
エリートの要件の第一;国家に襲う/発生する現実の近未来が正確に予見できること。第二;国民に降りかかる惨劇や絶望自体を未然に防止しなければならないという国民への義務duty意識。この二つを併せて言えば、「国家の安泰を図ること」の一語になる。“エリートとは未来を含めた国家への義務意識をもつ者“と定義される。一般に、エリートのことを“(民族や国家において)義務に生きる少数しかいない人々”などと称すが、間違ってはいない。
国家の教育システムは、エリート教育と大衆教育(ボトムアップ教育)の複線が根幹
日本では死語になり定義すらも誰も知らない「エリート」の基本要件を思い出した所で、ではどうすれば、このようなエリートを育成できるかの問題に移るとしよう。日本では完全に死滅した「エリート教育」のことで、エリート教育の復権/エリート教育の再生をどうするかの問題である。
エリート教育の復権/エリート教育の再生には、ダブル・トラック二重路線の対策が不可欠である。第一の路線は、エリート教育を憎悪し破壊する平等主義とその淵源イデオロギーであるルソー教と共産主義思想に対して、殲滅を目指す保守側からのイデオロギー闘争を展開すること。第二の路線は、マルクス・レーニン主義(共産主義)からの妨害を排除しつつ、正しいエリート教育の制度化を考案し実践する事である。  
「プロレタリアート万歳!」と一体化していた日本の過激平等主義が、戦後僅かには残っていたエリート層を完全に粉砕しきったのは、1960年代末であった。この日本の過激平等主義を、反転的に、殲滅・粉砕・除染する問題(第一の路線)については、本稿では紙幅の関係から論じない。以下は、エリ―ト教育制度をどう再生的に創りあげるかを、概略的だがほんの少し論じておきたい。  
国家の教育システムは、学校教育後の実社会におけるエリ−トの扱いと組み合わされて、各国それぞれの歴史的経過の伝統を踏まえつつ整備されている。英国のオックスフォード大学/ケンブリッジ大学やそれに至るパブリック・スクールの中等教育制度は、日本人にもよく知られていよう。今に続く中等学校修了証書=大学受験資格である、フランスのバカロレアやドイツのアビトゥアの制度は、大学が無制限に大衆化してエリート教育が消滅する教育劣化を防止している。
米国は、一見すると“大衆教育の国”のように見えるが、実は、その大衆教育の森の中に、巨木のような“英国型のエリート教育制度”の大きな柱を何本も聳え立たせている。このように、欧米諸国では、大衆社会化した現代において、主権国家の維持/国家の未来への安泰に欠かせない、中世封建体制時代の古き良きエリート教育制度が堂々とビルトインされている。
だが、世界で日本だけ、狂人ルソーの『人間不平等起源論』を経典に押し頂いて、日本国を、エリート不在の「メダカの学校」的 “動物へと退化した人間の単なる集合体=下等社会”に改造する事ばかりに専念している。平等主義の行き着く社会は、暗黒の全体主義体制か、それに至る前に起きる“ruleなき無法のアナーキー的な社会”である。広島県府中町の中三自殺事件は、日本が“ruleなき無法のアナーキー的な社会”と化したことを示す由々しき事件であった。
大衆ボトムアップ教育から超然する、エリート育成という差別化教育制度の重視  
英国のエリート教育の巨木は、オックスフォード大学とケンブリッジ大学を頂点に、その中核的な大学生を養成するパブリック・スクール(伝統ある名門私立中等学校)が幹になっている。世界大学ランキングでは、オックスフォード大学が2位、ケンブリッジ大学が4位である。  
余りにみじめすぎる東大の43位は、日本の未来が次第に暗くなっていることの信号。一方、世界トップ水準を維持するオックスフォード大/ケンブリッジ大の基盤は、英国におけるパブリック・スクールという群を抜く優秀な中等教育にあり、日本にはこれが欠けて存在しない。
パブリック・スクールには、日本人にもなじみのあるイートン校/ハロー校/ラクビ―校のほか、ウィンチェスター校/チェルトナム校/チャーターハウス校/セントポール校/ウェストミンスター校などがあり、全体でこれらを含む上位22〜3校の出身者が「オックスブリッジ」の供給源となり、英国を牽引する層を形成する。「オックスブリッジ」とは、オックスフォード大学とケンブリッジ大学の総称略語。ロンドンにあるセントポール校やチャーターハウス校を除けば、これらのパブリック・スクールは全寮制。
この英国パブリック・スクールが、米国のエリート育成ハイスクール「ボーディング・スクール」に引き継がれている。一方、日本の灘や開成などの中等学校は、全寮制ではないことと、エリート教育ではなく受験教育のみが目的となっていることで、英国のパブリック・スクールとは際立つ差異がある。むろん、受験競争は学的知識を増大化させて知の基盤をつくるのに欠かせず、受験教育は重要視されねばならない。
すなわち、国家を担う少数精鋭を育てる中等教育のトップ校の役割は、英米独仏における「エリート教育+大学受験教育」の二本柱が正しく、日本の「大学受験教育」一本柱では、まさしく片手落ち。日本では、東大/京大に合格することだけでburnoutする学生が多く、世界に伍していくものが少ないのは、エリート教育の欠如による。
「エリート」とは、たゆまず向上することを自らに課すのであり、人生の途次において、精神の虚脱や満足とは無縁でなければならない。しかも、人生を自らのためではなく、国家社会への義務感において歩んでいく。このようなエリートの精神と思考とは、小学生から「ティーンteen」の中等学校時代までに形成されて、大学においてではない。
つまり、東大がエリートをつくるのでなく、東大はエリートを磨く場である。英国でも米国でも上流階級が存在し、そこでは小学生の頃から、英国では(貴族やgentry層における)家庭教師などにより、米国では教育ママなどにより、徹底的に勉学やスポーツを含む習い事が叩き込まれる。だが、日本には多少の金持ちはいるが、上流階級が存在しない。英米の上流階級の家に行くと、その図書館の豪華さと蔵書の多さには驚かされる。しかし、日本には、(学者以外で)図書館を完備している個人の家など、一度としてお目にかかったことがない。
それ以前に、エリート教育を授けうる専門の教師が、日本にはおらず、不在という体たらく情況。この情況は、エリート教育の方法に関する知識が日本から完全に消滅したことを意味する。
ここで、エリート教育はどうすべきか、「古典、歴史、数学は絶対である」等、どんなカリキュラムであるべきか、などを論じる紙幅はなく割愛する。が、本稿は、「文科省は、日本から消滅した“エリート教育”をどう再生するかの教育課題は断固として排斥しつつ、わずかに残る“大学受験教育”まで破壊しようとしている」問題の方を言及する。
英米では「エリート教育+大学受験教育」を両輪とするが、日本では「大学受験教育」の片輪だけがかろうじて存在している。正常な教育行政ならば、日本にも「エリート教育」を再生的に導入しようとなる。ところが、文部省は、半分しか残っていない「大学受験教育」まで破壊し、日本から一掃しようと企てている。片足しかないスポーツ選手に義足をつけるのではなく、残る健常な足を切断しようとするのと同じ蛮行。が、現在の文部省は、この“狂気の蛮行”反・教育だけを極限に推し進めている。
“虚像のアメリカ入試制度”を捏造する、日本人の学力劣化を狙う朝日新聞  
劣化し続ける日本人の総知識量をかろうじて維持しているのは、灘や開成などの私立中等学校であり、林修氏で有名になった東進スクールなどの“予備校” である。文部省が破壊と全面解体を狙う標的は、これら一流私立中等学校と有名予備校で、それらの存在を無意味化することにある。それによって、日本の大学の水準はさらに下落し、日本人全体の知識総量がさらに下降し激減するからである。これについては、次節で論じる。ここではまず、“日本をぶっ殺す”犯罪者しかいない文部省の初等中等教育局と高等教育局を全面応援している朝日新聞の噓事実報道を垣間見ておく。  
文部省の初等中等教育局と高等教育局の上級職官僚のほぼ100%は、今では共産党員と北朝鮮人になっている。朝日新聞編集局と同じである。朝日新聞と文部省(初等中等教育局と高等教育局)とは一心同体なのは、いずれも日本国民でない者が集まり、宗教セクトと人種が同じだからである。  
教育問題に関する朝日新聞の噓報道の一つは、米国の大学入試。例えば、別刷りの『The Globe』2016年3月6日付けの内容は、腰を抜かすほどトンデモ捏造。このことは、タイトル『人で入るか? 点で入るか』やキャプション「日本の大学入試制度を改革する動きが始まった。点数だけを物差しとする従来のやり方から、米国流の人物をみるシステムへの移行を目指す」だけでも明らか。  
米国は、点数絶対主義(過激数字主義)の競争社会である。日本のように、点数絶対主義から“落ちこぼれた”者を何らかの形で救済しようなどの敗者同情主義など存在しない社会。つまり、朝日新聞は、文部省が狙う「受験教育」を廃止して、知識ゼロの“アホ馬鹿”日本人に改造するための大学無試験化という“世紀の大犯罪”を応援すべく、米国の大学入試に関する真赤な非事実(噓)をでっちあげた報道をなしたのである。ハーバード大学やスタンフォード大学など米国の超一流私立大学は、「点数絶対主義+親の学歴と収入と社会的地位+人物」で合格者を決めており、「点か、人か」ではなく、「点も、人も」が入試の合否を決定する。  
ところが、虚偽報道を社是とする朝日新聞は、ハーバード大学を取材し、ハーバード大学が「点数絶対+親の学歴と収入と社会的地位+人物」で合否判定する事実のうち、この「点数絶対」の方を全く消し去る改竄をしている。報道記事の本文を読めば、日本では考えられない「親の学歴と収入と社会的地位」も合否に影響するとしているが、タイトルとキャプションからだとそのようなものがないとしか読めない。朝日新聞の捏造記事は何時もながら実に恐ろしい。
米国の一流大学はレベルが高く、東大の非ではない。東大なんか生まれながらの秀才にとっていっさい受験勉強せずとも簡単に入学できるが、米国の一流私立大学はそうはいかない。私の学歴は「東大理T/工学部(備考)→スタンフォード大学大学院」だから、東大の教師・学生のレベルが、スタンフォード大学の足下に及ばないことを冷静に観察できた。世界ランクの、スタンフォード大学が「世界3位」に対し東大が今や「43位」は、納得できる。
備考;私が東大に入学したのは、(理Vは関東圏の医者の息子が行く地方大学。文Tだと頭が悪いかに誤解されるので嫌厭し、全国のトップ秀才は猫も杓子もまだ理Tに行く時代だった)1963年。それでも、スタンフォード大学の法科大学院や工学部のレベルの高さには驚愕した。それから五十年、東大の質は上がるどころか、一ランク下の別大学となり下降の一途を辿っている。
さて、体験に基づくエピソードをひとつ。
スタンフォード大では私は大学院生だったが、ロシア語を習得すべく学部一年生のクラスに潜り込んだ。吃驚したのはクラスメイトの年齢。スタンフォード大学では語学クラスは「13名以下」と定まっており、内訳は私を除くと「16歳が8名、17歳が3名、18歳が1名」だった。つまり、ハイスクールを2年飛び級して卒業した者が8名だから、13名中の60%。18歳で入学した大柄の穏やかな女子学生が何時も一人ぽつんで“おばさん”に見えた。
要するに、ほぼ全員が、よほどの著名ハイスクールでない、普通のハイスクールならその学年の一番。また、SAT(大学進学適性試験)の成績は、数学などは、CIT/MITと同じくスタンフォード大学の入学者のほぼ全員が満点。また、米国には、全国のすべてのハイスクールのレベルを相対評価したデータがあり、学年の一番同士の場合には上位校の方からの受験生が合格している。このように、米国では一流校に合格したいのであれば、飛び級の事実や数字化された点数は絶対だから、何が何でも秀才を示す事実と数字化された点数で抜きんでていることは最低条件。米国は、何でもかんでも数字化して序列表/順位表をつくっている。
ハーバード大学の入学受験を例としている、朝日新聞『The Globe』は、なんでも数字化する文化を持つ米国の数字化された点数絶対主義につき、全体の文脈ではさも関係がないかに歪曲・捏造している。そして、入試願書に添付する小論文だけで合格するかに作為している。
ハーバード大学の小論文は、合否と無関係ではないが、合否への影響率は5%以下の微々たるもの。スタンフォード大学であれ、ハーバード大学であれ、合否を決定的に左右するのは(SATや高校の成績・順位などの他は)小論文などよりも、両親の学歴・年収・社会的地位。これこそ、文部省は最も真剣に考慮すべきものではないか。例えば、有名ハイスクールの順位や数字化された点数絶対主義での合格者を入学定員の三分の二とすれば、あとの三分の一は親の学歴と収入と社会的地位を考慮して決定する米国の一流私立大学入試のやり方は、間違っていない。
実際にも、日本でも、父親が出世をした東大卒の子弟は、全員ではないがほとんどが優秀。少なくとも、東大以外の大卒の父親の子弟とは、平均すれば格段に顕著な差異がある。スタンフォード大学/ハーバード大学/イエール大学などでは、父親が同窓で高所得の場合は、親のキャリアーを合否にかなり露骨に考慮する。このこと自体、依怙贔屓の不公平とは言えず、統計学的にも合理的な判断基準である。
日本の社会は超平等主義だから、米国の一流大学の、親の学歴や所得の調査・考慮を、依怙贔屓だと勘違いする。親の知的能力は遺伝する。親の高度な社会的知見もその子弟は家庭にいて自然に身に着ける。子供が優秀な人材か否かは、親を見れば、当たり外れがなく無難な判断ができる。
米国のエリート教育──ボーディング・スクール  
犯罪的捏造記事を書く朝日新聞の報道問題で道草を食ってしまった。話を、英国のイートン校/ハロー校/ラグビー校などを真似て設立された米国の“エリート教育”「ボーディング・スクール」に戻す。米国の教養ある豊かな家族の子弟が入学する「ボ―ディング・スクール」について、日本でもこの頃では馴染みが出たようだ。アグネス・チャンの長男/次男/三男は、『スタンフォード大に三人の息子を合格させた50の教育法』(朝日新聞出版)によると、揃って「サッチャー・スクール→スタンフォード大学」に進んでいる。  
サッチャー・スクールは、米国ボーディング・スクールの中でベスト10位の名門。加州にある。が、多くの有名ボーディング・スクールは、英国からの有力入植者の子弟が多かった東海岸にある。  
なお、ボーディング・スクールとはプレップ・スクールのうち寄宿制のを指すが、ここではほとんど同義に用いる。プレップ・スクールとは、Preparatory Schoolの邦訳語。米国最初のボーディング・スクールは、フィリップス・アンドーバー・アカデミーで1778年創立。米国が建国される1789年より十一年前であった。現在「全米一」と評価されているフィリップス・エクセター・アカデミーは、同じフィリップス親族が設立したもの。
これらのプレップは、東部のアイビー・リーグ大学などに入学することを前提とし、その名前の通り大学教育への準備をする中等学校である。と同時に、英国のパブリック・スクールを継承し、国家のエリート/指導層を担う人材の育成という精神や人格の鍛錬も重視されている。
日本の教育制度との大きな相違は、なんといっても1授業料の高さであり、2猛勉強のすごさであり、3テューターのレベルの高さである。フィリップス・エクセター・アカデミーの授業料と寄宿料は、年4万7千ドル。むろん、様々な奨学金制度が充実しているので低所得層の子弟も入学しているが、富裕層の子弟がやはり中核。これは差別ではなく、エリートを輩出する確率は富裕層の子弟の方が圧倒的に高い以上、理論的にも現実的にも合理性は十分に高い。
だからと言って米国は、家が貧しい秀才生徒に対しては愛情を惜しまない。例えば、フィリップス・エクセター・アカデミーは、親の所得が7万5千ドル以下だが抜きん出た生徒を見つけると授業料免除で入学させている。エリート育成を米国国民の義務だと考えるからで、この義務意識が米国の一流大学/一流プレップに共通して漲っている。
日本は、ジェラシーが大手を振るう歪さが罷り通る国で、目立つような秀才に敬意を払わないし、むしろ排除する傾向が強い。中学校・高校における無法化した推薦状制度も、元とはと言えば、筆記試験の優等生への卑しいジェラシーが原点。日本社会の癌である、秀才をつぶしたいジェラシーの横行は、“赤い落ちこぼれ”の文部官僚を筆頭に、下等な感情を排除しないゲス野郎が日本に多いからである。そして、このさもしく下劣なジェラシーをさも教育的視点の一つかに屁理屈で正当化して有害な推薦状を制度化した。
米国の教育文化の偉大さは、英国のような生まれによるエリートを生産する階級である貴族やジェントリー層をもたないが、この英国型エリート教育を基本的には継承しようとの伝統的智慧への尊敬を基軸に、米国独自のものを発展させる賢慮から逸脱していないことにあろう。だから、日本の文部省の赤い官僚が、ルソーやフーコーに心酔しては妄想(思い付き)で教育制度をいじくりまわす、ゴロツキ/ならず者的な破壊主義教育論など、米国には片鱗もない。米国のプレップ・スクールや英国のパブリック・スクールについては、参考書を注2に紹介しておく。 
第四節 日本衰落・崩壊を目指す“悪の教育破壊”一色の文部省『答申』
以上の一〜三節は、実は、イントロ。これからの第4節と第5節が本論。この本論を理解するに基礎知見が必要だと考え、第一〜三節に記述した。
本稿のモチーフ第一は、安倍政権が誕生して二年が経った2014年12月22日、中央教育審議会が文科大臣に答申した『新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について』を解剖するのと同時に全否定し、良識ある国民が安倍晋三に、この『答申』の全面撤回を要求する運動を起こしてほしいとの願いを出発点としている。
なぜなら、この『答申』とは、中央「反教育」審議会と正しく名称変更すべき中教審が、日本の教育を徹底破壊せんとする“日本破壊革命”のため、教育制度の大改悪を宣言したもの。安倍晋三内閣になってから、霞が関の共産党系官僚は、水を得た魚のごとく、やりたい放題に非暴力の共産革命に熱をあげているが、この中教審『答申』もその一つ。
特に、赤い文部省は、安倍晋三が肝いりで創った「教育再生実行会議」に便乗して、“教育破壊”や“教育改革にかこつけた日本共産社会化革命”に暴走している。本ブログの読者は、答申『新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について』、並びに、これ以上に危険で“反日犯罪性”が露な“安倍晋三の反・教育推進機関”「教育再生実行会議」とに、徹底した監視と批判の眼を注いでいただきたい。そして、本稿の第二目的も、百害あって一利なき「安倍晋三・教育再生実行会議」を即座に廃止させることにある。
1、「ゆとり教育」推進部局の廃止処罰なしが、文部省の教育破壊犯罪を暴走助長
1996年7月19日、文部省は、中教審第一次答申の名で、「“ゆとり重視”だと詐称して、学習指導要領の改悪を決定」した。これが、日本の教育を公然と破壊する、文部省主導の“反日革命”「ゆとり教育」の始まりだった。「ゆとり教育」は、共産党員官僚と北朝鮮人官僚が跋扈する“赤い文部省”が期待する通り、大学生に至るまで日本の子供たちの学力を大幅に低下させた。これを是正したのが第一次安倍晋三内閣で、安倍の「教育再生会議」だった(2007年)。また、主要国立大学の共産党系教授たちが寝返って「ゆとり教育」に反旗を翻したことが、“ゆとり教育つぶし”の決定打になった。
ところが第二次安倍晋三内閣は、“反・教育”「ゆとり教育」をつぶした過去の栄光に慢心して、「教育再生会議」の後継組織である「教育再生実行会議」を文部省に丸投げしてしまった。これが、「ゆとり教育」の百倍も千倍も過激な“反・教育”を、文部省が次から次に導入する、現在の恐ろしい“教育破壊のチェーン”が暴走する情況を呈するようになった。
1990年代以降、特に現在の自民党議員は、政治家しか経験のない者が多く、吉田茂や岸信介・佐藤栄作のように、官僚機構に精通している者はほとんどいない。だから、「ゆとり教育」という文部省の犯罪に対して、表向き目立つように行動した寺脇研だけを“トカゲの尻尾切り”よろしく左遷し/省外に追放しただけで、文部省を何のお咎めなし処罰なしにした。安倍晋三は、「ゆとり教育」の廃止と同時に、「ゆとり教育」を立案・推進した関係部局をすべて廃止する文部省設置法改正という対文部省処罰を断行すべきだった。この文部省への処罰なしは、いったん決めた方針は手を変え品を変えて貫く官僚機構の怖さに無知すぎだし、甘ちゃんに舐めすぎである。
すなわち安倍が、文部省から巨大癌を切除する処断をしなかった事が、この「ゆとり教育」を導入した犯罪官僚たちをして、新たな装いで「ゆとり教育」よりはるかに毒性の強い、日本人の学力をすべて“中学校を小学校の劣等生レベル”“大学を高等学校の劣等生レベル”に落す学制改悪(=小中一貫校制度と高校・大学接続)を次々に考案・実行させることに繋がった。
【閑話休題】 日本人を劣化・動物化させ、日本国を破綻的な衰落に至らしめる《ゆとり教育》を考案したオリジナルの「反日」勢力は、社会党左派の社会主義協会系の学者と朝鮮総連系の学校教員たちであった。“奇怪な珍語”「ゆとり教育」を日教組が1972年に初めて使用したのは、この理由による。共産党の造語ではない。 そして、この日教組と、「連動・連携している」というより完全に一体化している文部省は、日教組の要望に沿って「ゆとり教育」導入の好機と方法の模索をすぐさま開始した。成功した1996年から振り返ると、日本人の学力低下のための犯罪「ゆとり教育」実行に、文部省は二十四年をかけている。文部省と日教組の対立の構図は1960年代末で消滅していた。
話を戻す。“中学校を小学校の劣等生レベル”“大学を高等学校の劣等生レベル”に落す学制改悪を実行するための行政機構上の決定を、文部省は、中教審だけでなく、安倍晋三の「教育再生実行会議」も悪用している。これほどまでの文部省官僚の狡猾な悪の凄腕には唸るほかないが、赤い文部官僚に容易く騙される“お馬鹿”安倍晋三の極度の愚鈍さにも唖然として絶句するほかない。
ともあれ、以下、赤い文部省が企てている、日本国の破綻と衰落を必然に招く日本人劣化のための、日本の教育制度の徹底破壊の三つの制度改悪を、俎上に載せる。
2、“教育犯罪”日本人劣化を潜行隠蔽して推進する“共産革命ドグマ”「生きる力」
(具体性を全く欠く)甘い言葉や意味不明語を多用するのは、犯罪の意図がある証拠だし、この犯意を隠すに有効だからである。「気を付けよう、甘い言葉と暗い道」の標語は、正しい。
だが、世界で日本人だけは、脳天気な民族だからか、甘言や意味不明語という毛鉤に直ぐ喰らいつく。それに加え、日本人は、大正時代以降一貫して、人間として大幅に劣化し続けている。“赤い犯罪者たちの巣窟”文部省は、「日本人は大人ですらこれほど劣化したのだから、次代の日本人の子供たちを更に劣化させうる」と、ますます大犯罪を限度なくエスカレートさせるようになった。
1996年『中教審・答申』が暴く、日本人劣化の犯意を包み隠す文部官僚の甘言「生きる力」 日本の子供たちの生涯が塗炭の絶望と悲惨な人生で終わるよう憎悪の呪いでまとめられた文書である『中教審・第一次答申』は、北朝鮮人と共産党員だけとなった“凶悪な文部官僚たち”の国民騙しの詐言を暴く貴重な犯罪記録である。これを読了しておけば、教育破壊に爆走する文部省が再び、『答申』に甘言で潜ませた犯罪トリックが一目瞭然に見破れる。安倍晋三政権の『2014年答申』は、村山富市政権の『1996年答申』を踏襲したものである。
日本人の学力を大低下させる教育破壊を狙った“世紀の教育犯罪”『1996年答申』は、次のように表現されていた。   
「これからの社会は、変化の激しい、先行き不透明な厳しい時代と考えらます。このような社会では、子供たちに生きる力を育むことが必要です」
意味不明な言葉「生きる力」という用語は、これが我が国で最初の用法。“騙し語”「ゆとり教育」は朝鮮人の造語だが、「生きる力」は共産党の造語である。この犯罪語「生きる力」の真意は、「日本人は人間ではなく、動物化して生きろ!」である。 実際にも、「売春婦として生きる」ことも「暴力団として生きる」ことも「泥棒や強盗として生きる」ことも、すべて「生きる力」。つまり、用語「生きる力」には、“人間とはどう生きるかで人間的でありうる”との教育の根本が全否定されている。
「どう生きるか」を訓育する学校教育は、「倫理道徳的であれとか」「真善美を失うことなかれ」とか「独立自存」の絶対普遍のものから、「○○で一流になりたい」「指導者になりたい」「〇〇の職業に就きたい」の子供たちの希望にできるだけ役に立つ“基礎学力/基礎能力”を培ってあげる場である。学校を「売春婦として生きる」「暴力団として生きる」「泥棒や強盗として生きる」の下層的・動物的・生物的に“ただ生きればいい”を訓練する場にするならば、学校こそ有害。学校の存在理由はない。
だが、この下層的・動物的・生物的な「生きる力」という共産主義ドグマこそ、「ゆとり教育」のイデオロギーであった。そして、目的「生きる力」と手段「ゆとり教育」が目指すものは、日本人の子供たちを共産社会における共産主義的人間への改造であった。2007年、「ゆとり教育」が“悪の教育”として一掃されるのが決定されたとき、共産主義的人間への改造ドグマ「生きる力」も完全に粉砕的に一掃しておくべきだったのに、安倍晋三やその周辺には、このような高度な見識が不在だった。
いや、魔語「生きる力」を見破るのに高度な見識など要らない。平々凡々の常識で十分の筈。なぜなら、「生きる力」など人間は産まれながらに有しており、学校教育とは無関係だからだ。このことは、飛鳥時代や奈良時代には、学校などなく国民のほぼ全員が自分の名前も書けない文盲だったが、全員生きていたし、あれほどの文化文明の構築に参画していた歴史事実を思い出せば、明白ではないか。
「生きる力」とは、例えば、母熊が本能に従って乳ばなれした仔熊に餌のとり方を教えるようなことを指す言語。つまり、自然界の動物の仔育てのことを「生きる力を育んでいる」という。そんな「生きる力」に共産党員文部官僚がこだわる理由は、簡単明瞭。次代の日本人が共産党の独裁者の命じるままに夢遊病者的に“生きる動物”に改造することが、共産革命の成就と考えるからである。
夢遊病者的に“生きる動物”に堕した日本人に、知識は必要か。むろん不必要。むしろ、知識があれば、夢遊病者的に“生きる動物”化改造を拒絶して、この狂気から脱出しようとする。だから、この拒絶や脱出をさせないために、日本人から基礎学力を破壊的に簒奪すべく、その手段として「ゆとり教育」を導入・強制したのである。
「生きる力」を旗幟にした『2014年答申』は、日本人の共産主義人間への改造が主目的
『2014年中教審答申』は、共産党系文部官僚が書いた、共産革命のために日本教育制度をゼロベースで全面破壊するとの宣言書になっている。それはまた、教育制度の崩壊的破壊を通じて、あるべき日本国を(共産社会に改造するためにまず)全面破壊することだから、日本国と日本国民に対する垂直侵略者たちの宣戦布告文となっている。
このことは、『2014年中教審答申』の中で“共産革命ドグマ”「生きる力」が、2頁/6頁/…と執拗に連発されていることで明白。また、全編にわたり、意味不明語や意味不明文ばかりであることでも、共産革命の犯意が潜んでいるのが直ぐ判る。
例えば、『2014年中教審答申』冒頭の文は、カルト宗教団体への露骨な勧誘文となっている。国家の教育制度を論じるものとは程遠い。共産社会は、ルソーとマルクスを教祖とする凶暴な大量殺戮を信仰告白するカルト宗教団体の“妄想上のパラダイス”のことだから、『2014年中教審答申』冒頭の文が、日本の子供たちへの憎悪を燃やすカルト宗教団体への勧誘文なのは当たり前か。   
「新たな時代を見据えた教育改革を進めるに当り重要なことは、子供たち一人ひとりに、それぞれの夢や目標の実現に向けて、自らの人生を切り拓き、他者と助け合いながら、幸せな暮らしを営んでいける力を育むための、初等中等教育から高等教育までを通じた教育の在り方を示すことである。子供たちに育むべき、このような力を、言い換えるならば、それは《豊かな人間性》《健康・体力》《確かな学力》を総合した力である《生きる力》に他ならない」
意味不明語「新たな時代」とは、「日本が共産社会に向かいつつある時代」という意味の隠語だろう。それよりも、この方が悪質。まず、文部省が教育制度をいじくりまわすと、途端に「子供たち一人ひとりの夢や目標が実現する」とは、麻原彰晃などの詐欺師宗教家の騙し文句と同じではないか。次に、文部省が教育制度をいじくりまわすと、「幸せな暮らしを営んでいける力が教育される」とは、「この飲料水を飲むと空を飛べる」と嘘を言い募る狂人詐欺師と同じではないか。  
しかも、この文で明らかだか、「大学教育まで受けないと幸せな暮らしを営んでいける力は育まれない」と断じている。「高卒は不幸だ!」の、高卒者を侮蔑する宣言である。
そもそも、赤い文部省に巣喰う共産党系官僚や北朝鮮人官僚に、「豊かな人間性」などあるのか。彼らは、「豊かな人間性」とは無縁だし、たった四年間で国民人口の四分の一を殺戮したカンボジアのポル=ポトと類似の、次代の日本人を憎悪して不幸と絶望の淵に落しこもうとする非人間性が顕著な人間以下の悪魔的輩である。上級職すれすれ合格者の“赤い落ちこぼれ”が群れる文部官僚で、横田めぐみさんの救出をしようとしたものは一人もいない。日本人の子供たちが北朝鮮人に殺されたら万歳! と快哉する鬼畜が、文部省官僚の大半を占める。
そんな残忍非道な人格異常のものが過半の文部官僚が、行政権限を振りかざして、日本の教育制度を大改悪するため、その有害・有毒のいじくり回しをしている。その結果は、家庭で培われてきた日本の子供たちのもつ「豊かな人間性」まで必ず剥奪され破壊される。「豊かな人間性」「確かな人間性の形成」を学校教育に求めたいなら、絶対に1『2014年中教審答申』を直ちに廃棄することが絶対不可欠。また、2寺脇研のような残忍非道な人格異常のものが過半を占める文部官僚をまず十把ひとからげにいったん分限免職し、人格/人間性の調査のあと一部は再採用してもよいが、全国の公務員の中から“人間性”を精査して入省させる総入替を断行すること。
“教育破壊の権化”『2014年中教審答申』は、人倫的な大欠陥いちじるしい文部官僚が考案したのだから、カルト宗教団への勧誘文となるのは必然。現に、『2014年答申』の副題を読めば、「カルト宗教団体への入信勧誘文」や「暴力バーへの入店勧誘甘言」との類似性がさらに一段と露骨である。この副題、何と「すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」とある。
正常なものなら誰しも失笑する大嘘。だが、失笑している暇はない。「すべての若者の夢や目標が芽吹き、未来に花が開く」など、オウム真理教やその他のいかがわしい宗教団体の入信勧誘と同じく、戦慄すべきパラフレーズ。この副題からでも、『2014年中教審答申』が、日本の子供達の未来を確実に危うくすることは、直ぐに分かる。
『2014年中教審答申』の副題は、プロ野球選手や民放キー局の女性アナになりたいと考えている若者のすべてに、その夢を実現させてあげると言っているのだから、真赤な噓=詐欺師的甘言でなくて何であろう。野球少年が全てプロ野球選手に成れないのは自明。音楽家など芸術家希望の夢がかなうのは、希望する高校生のうち、数百分の一/数千分の一である。  
それなのに、『2014年中教審答申』は、「高校・大学が接続してかなりの大学では大学入試が消え、また、これまでの大学入試が共産党教授や北朝鮮人教授の好むままに恣意的に入学させる制度に変革したら、日本の若者は全員、それぞれの夢がかなう/目標が達成される」と、荒唐無稽を越えて不可能な戯言を豪語する。日本の若者への(ポル=ポト的な殺意もちらつくほどの)最凶の憎悪感情なしには、これほどの大噓甘言は吐けない。『2014年中教審答申』は、次代の日本人の確実な不幸や絶望を祈願し、その人生を絶対に破滅させてやるぞとの“狂気の悪魔性”を基調にまとめられている。この事実は、副題だけでも証明している。
次代の日本人を極限までに劣化させて、日本の高度産業社会を維持できないようにすれば、ブーメラン的に次代の日本人は貧困と破局にあえぐほかないが、文部省はこれを目指して『2014年中教審答申』をまとめたのである。『2014年中教審答申』を全面廃棄に追い込めるか否かが、次代の日本と日本人を救えるか否かの分岐点である。
3、 日本の大学をさらに劣化させる決定打が、文部省の狂気の“大学入試の大改悪”
『2014年中教審答申』という隠れ蓑で、文部省は、大学入試に関し、次のような大改悪を決定した。その理由は、一見では意味不明。だが、紙背に目を通せば、国際標準においては劣化し続ける、日本の大学教師の顕著な水準落下や日本人入学学生の学力レベルの大幅低落問題など日本の大学が現実に直面している諸問題の方は「看過せよ」との悪意が貫かれている。そればかりか、新しい致死性の癌細胞を注入して日本の大学を完全な死に体(「痴者・愚者の楽園」)に追い込む“教育破壊の完全犯罪”計画書=『2014年・中教審答申』になっている。まず、次の文言を読んでみよ。
「何よりも重要なことは、個別選抜を、画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を評価に偏ったものとしたり、入学者の数の確保のための手段に陥らせたりすることなく、【人が人を選ぶ】個別選別を確立していく」。  
【人が人を選ぶ】は、現実にどういうことを惹起せしめるのか。主要な国立大学では、優秀な本物の大学教授は自分の研究と子弟の教育で手いっぱいである。入試作業に進んで手を挙げる教授や准教授は、決まって、学問業績もない研究能力・意欲もない最低の劣等教官たちである。また、政治活動/学内政治ばかりに熱心な共産党系教官や北朝鮮人系教官がほとんどである。  
つまり、【人が人を選ぶ】の、前者の「人」とは、“学問業績もない研究能力・意欲もない最低の劣等教官か、政治活動/学内政治ばかりに熱心な共産党系教官や北朝鮮人系教官”のことを指す。文部省は、国立大学のこの実情・実態を十分に熟知している。
だから、国立大学を完全な共産党支配にすべく、入学する大学生をことごとく共産党員の子弟もしくは党活動家だけにできると判断して、【人が人を選ぶ】入試制度を導入するのである。ありていに言えば、“共産党の学生組織”SEALDsの高校生活動家をすべて東大に合格入学できるようにするのが文部省の狙い。噓だというのであれば、現実の例をあげよう。私が筑波大学に在勤中、OA入学者はほぼ全員、共産党員の子弟か、もしくは高校生共産党活動家であった。  
そもそも、政治でも、古代と近代の相違は、「人による政治」から「法(一般rule)による政治」への発展であった。つまり、人の恣意を排除する「一般rule」において、人類は自由の保障を拡大してきた。大学入試も同じである。あくまでも「一般rule」で合否を判定すべきで、これ以外の方法はない。合否の判定に関するオープンの基準を明示できないのは、不正と無法で合否を決める制度だからだ。こんな不正と無法の大学入試制度に改悪すれば、高校生は誰も学業をしなくなる。そして、共産党の政治活動に精を出すだろう。その方が確実に東大や他の主要国立大学に入学できるからだ。  
ハーバード大学やスタンフォード大など米国の大学入試を日本人は「神話」信仰レベルで誤解している。米国は成績/数量化絶対優先主義の国柄だし、“法の支配”の哲人コークを建国の元祖とする国柄であるので「一般rule」に厳しく自己規制する。
例えば、ハーバード大学には学部入学判定を専業する四十名ほどの(教員ではない)専門職員がおり、“大学教官だけでの入学合否判定”する日本とは全く異なる。そして、これら四十名は、強烈な愛校心と愛国心をもって、伝統的な入学判定の「一般rule」に従い、絶えず「これからのハーバード大学の百年の栄光と祖国への貢献」をモットーに、全米から優秀な高校生──ほとんどは有名ハイスクール卒業生か飛び級者──を見出すのに精力的に働いている。
ハーバード大学の入学競争率は二十倍だから、応募した高校生のトップ5%の選抜作業ということ。赤い大学教授がOA入試委員となり、共産党活動家高校生ばかりを恣意的に合格させている日本の国立大学とは天と地ほどの差。だから、米国のトップ高校生は、寝食を忘れた猛勉強に明け暮れる。一方、日本では、米国のような受験競争は、全国すべての高校から火が消えたように消滅した。日本の衰退と次代の日本の絶望の人生は確実に到来する。これは、すでに世界が嘲笑する常識。
「思考力・判断力・表現力」を判定できる大学教師など、一人も存在しない
さて、“大学入試選抜の無法化”を企図して、日本の大学教育を根底から全面破壊するのを目論む“悪魔の反・教育宣言書”『2014年・中教審答申』につき、次に進もう。
A「知識・技能だけでは全く不十分であり、【主体性・多様性・協働性】や【思考力・判断力・表現力】を含む【確かな学力】を、高い水準で評価する個別選抜を推進することによって、」
B「年齢、性別、国籍、文化、障碍の有無、地域の違い、家庭環境、等に関らず、多様な背景を持った学生の確保に努める必要がある」(12頁)。
AとBの連続した一文を読んで、具体的な入試選抜方法を思いつくものは、大学教師側にも高校教師側にもいないだろう。Aについての選抜方法など世界中のどこにもない。そもそも【主体性・多様性・協働性】と【確かな学力】は意味不明・内容不明。「高い水準で評価する」も隠された犯罪的な無法化の意図は滲み出ているが基本的には意味不明。  
だが、「意味不明」だと感じた者は、正常な日本人の証拠である。この意味が分かったものは、共産党員か北朝鮮人である証拠である。
なぜなら、Bとは、共産党と在日朝鮮人が目指している“日本の多民族共生社会”のことで、また“ジェンダーフリーの男女共同社会”のことで、フーコーが目指す“精神障碍者が支配する狂人崇拝社会”のことだから、そのような「狂気の異常な社会」をイメージしたその実験社会のようなものに、なぜ「学問と研究をする大学」を改造しなければならないか、正常な常識人であれば考えもつかないのが、普通である。  
つまり、この長い一文の前半分Aは枕言葉である。敢えて意味を探れば「入試をするな」という意味。すなわち、「大学は入試などせずに、“日本の多民族共生社会”のミニ実験社会に大学を改造しなさい」「“ジェンダーフリーの男女共同社会”のミニ実験社会に大学を改造しなさい」ということ。そして、「高い水準で評価する個別選抜を推進すること」とは、この「Aの紙背に隠された共産党文部官僚の犯意を汲み取れ」という意味。  
序に、【主体性・多様性・協働性】【思考力・判断力・表現力】【確かな学力】につき、少し解剖しておこう。まず、【主体性・多様性・協働性】については、評価基準など存在しない。が、例えば、「SEALDsのメンバーになり、激しく安保法反対の高校生部隊のデモを指揮していたら、【主体性・多様性・協働性】が満点だ」にできる。要するに、高校生の共産党活動家を、東大はじめ主要国立大学に優先的に入学させる基準のことを指している。  
だが、例えば、世界的な音楽家/デザイナーなどの芸術家/建築家あるいは発明的な高級技術者を希望する者には、あくまでも個人の才能をみずから伸ばす克己と努力が重要であり、【主体性・多様性・協働性】など不要である。また、発明的な高級技術者の資質には、数学と物理学と化学の知識量が絶対で、【主体性・多様性・協働性】などあろうとなかろうと価値がない。すなわち、『2014年中教審答申』は、「これからの日本は、世界的な音楽家/デザイナーなどの芸術家/建築家あるいは発明的な高級技術者については完全ゼロとする。絶滅させる」との、日本を未開発の野蛮国に退化させるとの、日本国の崩壊的劣化・退化宣言書である。  
『2014年中教審答申』の「【思考力・判断力・表現力】で評価しろ」の方は、もっとひどい反教育丸出し。なぜなら、それは「入試は一切の基準などあってはならず、ただ無基準の無法に徹して、入試委員となった大学教師の個人的な裁量・恣意で行え」と言う意味だからだ。
理由の第一。劣化著しい現在の日本の高校生の学力において、【思考力・判断力・表現力】を持つものなどほとんどいない。存在しない中から「選抜せよ」とは一体どういうことだ。魚が一匹も泳いでいない大海原で「30p以上の大物の鯛だけを釣り上げよ」という狂気の命令が、『2014年中教審答申』の「【思考力・判断力・表現力】で評価しろ」である。  
理由の第二。現実とはかけ離れた話だが、日本の高校生の中に【思考力・判断力・表現力】を持つ者が仮に一万人いたと仮定し、この一万人が全員東大を受験したとする。この中から三千人を選抜する東大教師に、「【思考力・判断力・表現力】を評価できる者」など存在するのか。東大でもほぼいない。つまり、東大以外では、この評価ができる大学教師が完全にゼロだということ。
実際にも、文系の大学教師は、学問業績がない者が多く、東大で3割、筑波大学で7割が学問業績ゼロである。その他の地方国立大学などでは、9割以上の大学教師に学問業績がない。学問業績ゼロの大学教師に、【思考力・判断力・表現力】など存在しない。それが、どうやって高校生の【思考力・判断力・表現力】を評価するのか。
日本の大学問題は、文系大学教師の水準が、灘高校や開成高校の高校生の知的思考力の水準にすら及ばない問題だが、これを解決しないで、“馬鹿アホ間抜け大学教師”が、高校生の【思考力・判断力・表現力】を評価し序列化の判定をするなど、悪ふざけの何物でもなかろう。
【思考力・判断力・表現力】を有さない“馬鹿アホ間抜け大学教師”に、「【思考力・判断力・表現力】を判断しろ」とは、ピアノも弾けない者にピアノ・リサイタルをすると称して多額のチケットを販売させる詐欺の勧めと同じで、これが『2014年中教審答申』の正体である。 
理由の第三。【思考力・判断力・表現力】の評価と序列化判定を、仮にその方法が発見できたとしても、それを完遂するには少なくとも受験生一人当たりに五時間はかけねばならない。なぜなら、病院における精密検査と同じになる筈だからだ。
受験生1万人なら5万時間。百名の入試教官で手分けして行っても教官側一人当たり500時間で、一日10時間をぶっ続けてこの評価にかかりっきりでも50日は必要である。こんな入試など現実には可能か。つまり、狂気の『2014年中教審答申』を振りかざす共産党文部官僚は、受験生一人当たり5分で「【思考力・判断力・表現力】を評価せよ」と、大学側に命令している筈。
どうやら、『2014年中教審答申』の秘めた犯意が見えてきた。「共産主義者か否か」「日本を憎悪する北朝鮮人か否か」なら五分間でチェックできるから、共産党員を合格させろ、北朝鮮人を合格させろ、ということ。ゲイやレズは優先合格させろ、精神障碍者を優先合格させろ、ということ。
ところで、忘れてはならないことがある。国家・国民に対するこれほどの犯罪というべき大学入試の大改悪を敢行している“赤い文部官僚”たちの頭には「【思考力・判断力・表現力】がある」のか、という問題。文部官僚の頭は、かち割ったら真赤な汁が腐臭とともに流れ出る腐った西瓜そのものなのはわかるが、【思考力・判断力・表現力】が不在というより狂っている。狂った【思考力・判断力・表現力】を排除することが、日本が緊要としている課題である。
これら凶暴と残忍非道さを剝きだす赤い文部官僚は、簡単な上級職試験をやっとこ通過した“落ちこぼれ六流官僚”に過ぎないのに、上級職の一発試験に合格しただけで、国家の教育制度を根底から破壊できる権力を振り回す輩である。狂った【思考力・判断力・表現力】しかない赤い革命狂徒が、【思考力・判断力・表現力】を絶対価値だと、大学教師や受験生に強要するのは、これら“赤い文部官僚”に、謙虚とか自制とか中庸とかの道徳が完全に欠落した人格欠陥の非人間だからである。日本の学校教育が改善すべきは、教育破壊の制度改悪をする暴力団以上に悪の“赤い文部官僚”を殲滅できない事、これに凝集されている。
文部省は文系学部の廃止的削減をまず断行せよ!
序に言っておこう。日本の教育制度が限界を超えて破断寸前となったのは、学問業績ゼロのトンデモ文系教師が、全国に雨後の筍のごとくに文部省が利権目当てで創った「大学」と詐称する大学の、その文系学部で“痴者の楽園”“愚者の楽園”と化す先導者になっているからである。
日本が直面する“大学を国際標準への改革”問題は深刻で、それにはまず文系学部を全国平均で七〜八割廃止することが緊要。だが、赤い文部省は、これを断行する気配すらみせない。代わりに入試改悪を強行する。この理由は、日本の大学教育を腐蝕する“病気”で“元凶”である文系学部が、“大学を多民族共生ごっこの実験社会に改造する”犯罪に最も協力するからである。
この問題を含め、日本の教育破壊を狙う“犯罪企画書”『答申』が打ち上げた“大学入試の大改悪”問題、どうやら一冊の本に纏めて出版する必要がありそうだ。
4、“大学劣化・大学崩壊の劇薬効果抜群”「高大接続」  
『2014年中教審答申』が潜ませる教育制度改悪という犯罪は、このほかも多々あるが、紙幅がすでにオーバーした。もう一つの大学劣化/大学解体の特効薬「高校・大学接続」問題だけはどうしても簡単に触れておきたかったが、残念ながら、紙幅がない。第四節は、無念だが、ここで閉じる。 
第五節 安倍晋三は、「教育再生実行会議」を“赤い文科省”に丸投げした
安倍晋三は、政権発足と同時に、安倍晋三・総理大臣みずからが主宰する「教育再生実行会議」をスタートさせた(2013年1月、閣議決定)。だが、安倍晋三肝いりの「教育再生実行会議」の実態は、完全な“教育破壊実行会議”。安倍晋三とは、“教育問題への無関心・無気力”というより、“教育問題白痴”を持病とする政治家である。  
その上に安倍には、“公約は履行すべきだ”という、人間が持つべき誠実さが全くない。際立つほど道徳をいっさい欠く人間。例えば、大声で発した(自民党の選挙公約ではなく、総理大臣になったらこうしますの個人的)公約すら、使い捨て肩こり膏薬ぐらいにしか考えない。だから、安倍晋三は、党公約より重い「個人公約」を次から次にゴミ箱にポイ捨てする。安倍晋三とは道徳心を欠如する無道徳者。
安倍晋三の公約ポイ捨ては、“拉致被害者の奪還”公約の放念、「七十年安倍談話」での「村山五十年談話の否定」公約を逆走して村山談話を継承、“靖国神社参拝毎年履行”公約の不履行、従軍慰安婦問題で“歴史の真実”「帝国陸軍は、徴募に無関与」を死守するとの公約の放棄、など。思い出せばきりがないほど多い。
この「教育再生実行会議」に関しても、「道徳」の教科化以外は、すべてが「教育破壊実行会議」へと変貌しているのに、安倍晋三はこれを放置。これもまた、「教育再生」という公約のポイ捨て。
「道徳」の教科化(=学習指導要領の改正)以外は、前節で述べた『答申』と同じ、トンデモ制度の小中一貫教育制度とか、共産党が運営するフリー・スクールへの国家支援とか、職業訓練学校の大学化など、文部省の赤化教育と日本の教育制度の根底からの破壊ばかりが取り組まれている。
安倍晋三の頭が水準以下なのは、“教育の再生”は文部省には任せられないから総理官邸主導でやりたいと「教育再生実行会議」を作っておきながら、その事務局も運営も文部省に丸投げしたことで明らか。しかも、安倍晋三が主導したのは、「道徳」の教科化一つだけ。ならば、これをもって「教育再生実行会議」を閉店すれば害を最小限度に抑え得たのに、「教育再生実行会議」を赤い文部省に簒奪させ、逆に「教育再生実行会議」に教育破壊を進めさせている。
尚、「道徳」の教科化を、朝日新聞や共産党の猛反対の中で、これとつるんでいる文部省が安倍の指導を飲んだのは、安倍に与したのではない。一般通念上の“道徳”とは似て非なる、マルクスの道徳一掃/道徳破壊主義に合致する“非道徳の道徳”を「道徳」教科にする予定だからである。
道徳と言えば、通常の教養ある日本人は、サミュエル・スマイルズの道徳四部作『自助』『品格』『義務』『節倹』や孔子の『論語』をイメージするが、文部省は“全体主主義体制下の自由喪失人間が従うべき(刑務所の囚人用の)規律こそ「道徳」だ”と詭弁するデュルケームの『道徳教育論』などを下敷きに教科書づくりをする予定である。デュルケームの「狂った道徳」ならば“反・道徳”だから、共産党も朝日新聞も大歓迎である。だが、無学・無教養な“お馬鹿さん”安倍晋三は、1960年代から自民党の悲願だった「道徳の教科化」を俺様がついに成功させたと自惚れている。
「教育再生実行会議」が、その文字通り誠実に、日本の教育を“再生”したいならば、1“教育破壊の病原体”文部省をまず解体的に大縮小すべきである。次に、2日本人の学力を欧米やアジアのトップ水準に戻すべく、“大学受験競争の復権”と“大学受験科目七科目以上への知識量重視”への回帰。第三が3エリート教育制度の導入である。この三つを行わない「教育の再生」など、ペテン師の騙し以上に有害である。安倍晋三は、せめて「教育再生」一つぐらい、公約を履行し実現させたらどうなのか。
共産党の革命活動拠点「フリー・スクール」への税金投入による革命運動助成  
安倍晋三が進める「教育破壊実行会議」の二大教育破壊は、二つある。第一は、かつての“貧しいルンペン・プロレタリアート”を集めての暴力革命集団と同種である、劣等生以下の不登校児を集めた“共産党の革命団体”フリー・スクールに国の助成金をたんまりつぎ込ませる「義務教育」との同列化。おかしいではないか。無償の義務教育は公立小学校で提供されているのに、それを自ら勝手に拒否したのである。公立小・中学校に行かない自由は十分に尊重されているから、それ以上のことを国家がするのは、“不登校の自由”に対する侵害で、過剰な国家権力の介入である。
すなわち、フリー・スクールや不登校児側も、尊重されている“自由の選択”において、国家からのいかなる助成やいかなる資格(=小学校卒の証書)を拒絶するのが筋だろう。だが、安倍晋三の「教育破壊実行会議」は、一般児童の学力を不登校児並みに大低下させるべく、逆さにも義務教育制度の破壊に他ならない「フリー・スクールと不登校児を称賛する」。こんな逆立ち行政は、背後に、狂気“日本国の破壊”なしには行われえない。安倍晋三「教育破壊実行会議」が進める“教育の逆走”フリー・スクール法案はすでに策定され、議員立法として国会に上程される直前にある。
尚、この“天下の悪法”フリー・スクール法案にいたくご執心なのが文科大臣の馳浩である。共産党系朝鮮人の馳浩は、不登校児という、劣等生以下の「落ちこぼれ」のレベルに、普通もしくは優等生を引き下げて平準化する逆教育を進めている。次代の日本の子供たちを愛せず、「劣化させてやれ」との憎悪を剥き出しの“日本憎悪狂”の外国人(非国民)が、馳浩の正体である。
いじめとレイプが多発する“暗黒と恐怖の小中一貫校”
安倍晋三の「教育破壊実行会議」が進めた第二の教育破壊は、“トンデモ学制”「小中一貫校」制度であろう。この教育破壊は、2015年6月17日、学校教育法が改悪され、合法化された。この改悪学校教育法で、小学校と中学校とを合体させた“九年制の義務教育校”が、共産党が強い地方自治体で2016年4月から正式に開校した。
この“悪の教育制度”「小中一貫校」導入の表向きの理由は、「中一ギャップ解消」だという。これが仮に本当ならば、小学校の“落ちこぼれ児童”を神棚に押し頂き、他の一学年百万人生徒の中学校教育を犠牲にする下降化推進教育である。しかも、実際の目的は、東京都品川区の教育長で共産党員・若月秀夫らが実践していたように、義務教育を“無秩序と無法のミニ共産社会ごっこ”の場に革命・改造するのが目的である。
朝日新聞は、共産革命がついに義務教育まで支配できた事に歓喜して、このトンデモ教育破壊「小中一貫校」を大称讃する煽動/宣伝記事を書いている(注1)。だが、この「中1ギャップ」を解消するなら、中学一年生をクラス分けして、“落ちこぼれ中一”だけのクラスをつくり補習すれば解決するものではないか。これを小中一貫校にすれば、逆に“落ちこぼれ”は発見されず、救済されない。
即ち、共産党と共産党系文部官僚が、小中一貫校を推進する理由は「中一ギャップ解消」とは無関係。全く別の他意が隠されている。この悪の他意を隠蔽するため、「中一ギャップ解消」というもっともらしい屁理屈が、国民騙しのために考案され喧伝されたのである。さて、この他意とは何か。
第一の目的は、日本の中学生を小学校レベルに落とすこと。高校受験がある中学生とそれとは無関係の小学生との間には共通項は一切ない。教育内容や教育方法にも共通性がない。だから、世界中、日本も含め、小学校と中学校とを分離してきたのである。ともあれ、日本の中学生の学業レベルを小学校レベルに落とすべく、中学校と小学校の教員免許状の差異をうやむやにすることが、すでに進められている。
第二の目的は、中学生による小学生に対するいじめを激増させ、上級生への恐怖から不登校する児童を増やし、教育現場を大混乱させること。いじめをなくすのではなく、いじめ増加が目的の小中一貫校制度は、反・教育の極み。
第三の目的は、中学校の男子生徒による女子児童へのレイプを頻発させること。小中一貫校主義者はすべて性的変質者である。だから、この教育現場にあってはならない事態を目的にできる。
菅直人首相など共産党系政治家が赤い文部省と組んで推進してきた“反・教育”小中一貫校制度については、いずれ稿を改めて論じたい。日本人の学力低下を阻止し健全な学校教育を保全すべく、2015年6月の改悪学校教育法を旧に戻し、小中一貫校を絶滅しなければならないからだ。
日本が改善すべきは、堕落と安逸で薄っぺらになった“小学校教育の強化と再建”  
日本の重大な教育欠陥は、幼児教育の欠如と小学校における古典読書教育の欠如である。この問題を詳しく論じる紙幅がないので、二ケースの紹介に留める。赤い「反日」文部省の凶悪な反・教育に消されているが、それにめげず家庭で正しい教育を実行している事例の一つは、本田真凛と本田望結の素晴らしい姉妹を含めて5名の子育てに全力投球する本田竜一氏ご夫婦。  
本田家の五姉兄妹のうち四名は、岡本康裕氏が主宰する京都の私塾「七田チャイルド・アカデミー・六地蔵教室」にゼロ歳から通っている。この塾では、1記憶力を高めるために“右脳教育”を重視している。方法は、1杜甫の漢詩「春望」や孔子の『論語』や清少納言の「枕草紙」など古典をゼロ歳から聞かせ、素読させる。2吉田松陰/東郷平八郎/明治天皇/乃木希典/ナイチンゲールなどの偉人の物語を紙芝居にして読み聞かせる(注2)。  
この本田家の教育方法こそ、日本全国の幼稚園と小学校とが模倣し導入すべき正しい初等教育である。もう一例は、リオ・オリンピックにバタフライ100メートルで出場する池江璃花子選手。自宅に雲梯を設置しゼロ歳から雲梯にぶら下がらせた。一歳六ヶ月で鉄棒の逆上がりができるようになり、水泳の世界的才能の開花の基礎をつくっている。そればかりか、本田家と同じく「七田チャイルド・アカデミー」に生後二ヶ月のゼロ歳から通い、抜群の暗記力の持ち主になっている。暗記力のない者は基本的にバカにしかなれず、思考力ゼロの“お馬鹿”の道しかない。  
だが、文部省と中教審『答申』は、小学校における古典と歴史の、暗記、暗記、暗記なしには思考力を培えないのを知って居て、この暗記を学校教育から排除する強権力をふるう。次代の日本人から思考力を剥奪して、日本人全員を“お馬鹿”にするのが目的だからである。 
結語 国防と教育に全く無関心の、“未来と子孫への責任喪失の日本人”  
“国防は放念し、教育は赤い文科省の破壊するままに任せる”。これこそが、小学校卒の田中角栄が総理大臣になった1972年以降の、五十年に及ぶ日本の実態である。国防と教育と年・新生児数(家族の重視)の三つは、保育園とか地震復興とか、現時点対問題対応のその日暮らし政治/枝葉末節の政治とは次元を異にする、国政の中核である。国家が存立するための基盤三要素、国土/人材/人口だからである。まさに、国防と教育と新生児数(家族の重視)は、近未来/未来の日本のために今、日本国民がこぞって眦を決し精励すべき、最優先政治の三大要諦である。  
ところが、一億日本人は、日本の未来を左右する国家が存立するための基盤三要素、すなわち国防と教育と年・新生児数(家族の重視)にいっさいの関心がない。一億日本人は国挙げて、完全に愛国心を失った。「愛国心」という三文字を、教育基本法に書けば愛国心が芽生えるなどと考える痴呆的無責任な投げやりさこそ、日本人から愛国心が消えた証左である。  
実際にも安倍晋三を例とすれば、安倍は国防を嫌悪して空母も海兵隊もつくらない。安倍は教育破壊を推し進める赤い文部省と意気投合し一緒になっている。この事実において、安倍晋三を “愛国心なき総理大臣”と断定するのに、僅かの間違いもない。
そして問題は、安倍晋三の愛国心ゼロなど、実はマイナー。メジャーな問題は、あくまでも一億日本人が愛国心を失い、祖国日本の三大国政、国防と教育と家族の重視(年・新生児数)にいっさいの関心を喪失したことである。つまり日本国それ自体の未来が消えたことが、日本国が直面する最大の国家的問題である。「ここ三十年を経ずしての日本の亡国が確実となった」こと自体が、問題の核心である。
この国を滅ぼしてはならない。そのための日本最後の“保守する精神”の灯は、どんなにか細くとも、消してはならない。
 
 
安倍晋三と「慰安婦」問題

 

序章
日本が戦後70年の「節目」を迎えようとしている現在、最も問われているのは、1945年8月15日以降、この国において旧大日本帝国に対する制度的・理念的決別の意志と、それを具体化するための措置がいかなるものであったのか、という総括であろう。だが今日、総括どころか、決別する努力を押し戻し、非難さえする勢力の根強さを日々見せつけられているように思える。
そもそも戦後とは、同じ敗戦国ながら「過去の克服」を掲げ続けているドイツと異なり、大日本帝国が国内外で手を染めた数々の犯罪行為に対し、反省と被害者への謝罪・賠償、責任者の追及、そして次世代への歴史教育実施等の措置を不十分に終わらせ、故意の怠慢を重ねてきた年月ではなかったのか。それは、対外的には朝鮮半島等の植民地支配、南京大虐殺に見られる中国大陸を始めとしたアジア太平洋戦争での占領地域における戦争犯罪、さらに日本軍「慰安婦」といった個別の具体的事例に戦後どのように向き合ってきたのかを検証すれば、より如実となる。
そして90年代初頭から公然化した比較的新しい歴史的課題であるこの「慰安婦」問題の経緯を考察して気付くのは、最初から現在までそうした「捏造」呼ばわりして貶める策動を一人の政治家が中心的に担い、継続し、現在もその言動によって内外に波紋を及ぼし続けているという特異性に他ならない。言うまでもなく、安倍晋三を指す。
安倍は、最初から「都合の悪い事実は認めたくない」「事実はこうであってほしい」という主観的願望を優先するあまり、他者と事実を基に理詰めで論議する姿勢に欠け、そこでは常に逃げ口上が用意されている。こうした人物が最高権力者に収まったがゆえに、過去の戦争責任についての重要なテーマの一つである「慰安婦」問題の解決が妨げられるのみか、心ない放言によって「慰安婦」にされた被害者が繰り返し傷つけられているのではないのか。
しかしながら、「慰安婦」の問題は、2014年8月の『朝日新聞』「誤報」騒動を契機に、それがあたかも「捏造」であったかのような政府・右派メディア一体となった虚偽宣伝が、戦後類例を見ないほどの激しさで今日も続いている。そのために、安倍のこれまでの言動が問題視されにくいような気運が生まれているのではないか。この論文では安倍の「慰安婦」に関する言動を追跡し、その歪曲の手口を検証する。こうした人物が「首相」であること自体、戦後70年にしてこの国がたどり着いた先に広がる限りなく貧しい政治光景を象徴していよう。
1 「キーセン」への固執と最初の攻撃
安倍が三代目の世襲政治家として初当選したのは、1993年7月18日に実施された総選挙であったが、同選挙で非自民の7党連立による細川政権が発足した5日前の8月4日、奇しくも「河野談話」(宮沢内閣での「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」)が発表された。そして安倍は、96年10月20日の次の総選挙で「二年生議員」となって以降、河野談話への攻撃を開始していく。この時期に「慰安婦」問題についての安倍の認識のゆがみが形成、固定化され、後に多くの指摘がありながら、今日に至ってもそれが解消される可能性はほぼ皆無となっている。その歪みとは、そもそも「慰安婦」とは「売春婦」であるという強い思い込みに他ならない。その例が、97年12月に刊行された『歴史教科書への疑問』(展転社)なる本に記載された以下の安倍の発言であろう。

「実態は強制的に連れていかれたということになると、本人だけではなくて、その両親、そのきょうだい、隣近所がその事実を知っているわけですね。強制的にある日、突然、拉致されてしまうわけですから。(略)そうすると、周りがそれを知っているわけですね。その人たちにとっては、その人たちが慰安婦的行為をするわけではなくて、何の恥でもないわけですから、なぜその人たちが、日韓基本条約を結ぶときに、あれだけ激しいやりとりがあって、いろいろなことをどんどん、どんどん要求する中で、そのことを誰もが一言も口にしなかったかというのは、極めて大きな疑問であると言わざるを得ない。かつまた、今回、そういう話であれば極めて勇気がいる。とすると、絶対一〇〇%慰安婦として行為をしていた人以外が手を挙げることは考えられないわけでありますが、そうではなくて、私は慰安婦だったと言って要求をしている人たちの中には、富山県に出ていたというようなことを言う人だっています。富山には慰安所も何もなかった。明らかに嘘をついている人たちがかなり多くいるわけです。そうすると、ああ、これはちょっとおかしいな、とわれわれも思わざるを得ないんです。ですから、もしそれが儒教的な中で五十年間黙っていざるを得なかったという、本当にそういう社会なのかどうかと。実態は韓国にはキーセン・ハウスがあって、そういうことをたくさんの人たちが日常どんどんやっているわけですね。ですから、それはとんでもない行為ではなくて、かなり生活の中に溶け込んでいるのではないかとすら私は思っているんですけれども(略)」

ここで示されているのは、1「慰安婦」として名乗り出た女性たちは「明らかに噓をついている人たちがかなり多くいる」2「慰安婦」は、「慰安所」での行為と本質的に同じことを「日常どんどんやっている」「キーセン・ハウス」が韓国にあることからも、「売春婦」に等しい―という認識だろう。さらにそこから、3「売春婦」であるなら「自らの意思」で金銭と引き替えに、それを生業とする場(「慰安所」)に赴くから、決して「強制」されたのではない。4実際「日韓条約を結ぶときに」誰も「強制」されたと「一言も口にしなかった」のは、「強制」がなかったため―という結論が導き出される。安倍が「慰安婦」問題で一にも二にも「強制」という用語に異常にこだわるのは、「慰安婦」を「商売女」呼ばわりした奥野誠亮や板垣正ら、安倍が早くから気脈を通じていた当時の自民党の極右議員らと共通する歪んだ思い込みに起因するのは疑いない。「強制性」が否定されたなら、即「慰安婦」が「女性の商行為」の一種である証明につながり、「商行為」である以上は国家の責任問題にはならない――という論法なのだ。仮に「売春婦」であったとしたら、「強制的な状況下での痛ましい」「生活」(河野談話)を余儀なくされても、それは気に留めるほどの問題ではないと本音では見なしている。こうした思考体質の者たちに、「慰安婦」問題を人権の問題として受け止める余地がどれだけあるのだろうか。安倍は1997年5月27日の衆議院決算委員会で質問に立ち、河野談話を攻撃した。そこでの題材は、中学校用教科書の「慰安婦」記述であった。要は、「いわゆる従軍慰安婦というもの、この強制という側面がなければ特記する必要はない」にもかかわらず、「ほとんどの教科書」が「強制性をかなり疑っている、強く示唆している」からけしからん、という的外れの「国会質問」に過ぎない。安倍のこうした無理解が、以前から長らく矯正されないまま今日まで固定化されているのを雄弁に示しているが、以下はその抜粋だ。

そもそも、この従軍慰安婦につきましては、吉田清治なる詐欺師に近い人物が本を出した。この内容がもう既にめちゃくちゃであるということは、従軍慰安婦の記述をすべきだという中央大学の吉見教授すら、その内容は全く根拠がないということを認めております。しかし、この彼の本あるいは証言、テレビでも彼は証言しました。テレビ朝日あるいはTBSにおいてたびたび登場してきて証言をいたしました。(略)・・・しかし、今は全くそれがうそであったということがはっきりとしているわけであります。この彼の証言によって、クマラスワミは国連の人権委員会に報告書を出した。ほとんどの根拠は、この吉田清治なる人物の本あるいは証言によっているということであります。その根拠が既に崩れているにもかかわらず、官房長官談話は生き、そしてさらに教科書に記述が載ってしまった。これは大変大きな問題である、こういうふうに思っております

この発言に見られる誤認点を整理してみたい。
例によって「強制性」を取り上げているが、意図的か知力の不足によるものか不明だが、最初から問題を歪曲している。ある意味で、「慰安婦」=「売春婦」の思い込みと同様、この「強制」という意味の無理解は、安倍の「慰安婦」問題をめぐる誤認の二大要因を構成している。
河野談話には、「強制」という語が一ヵ所だけ登場する。すなわち、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」という記述だ。これは、「慰安婦」が置かれていた「痛ましい」「状況」、すなわち彼女たちが追い込まれた「慰安所」での環境がいかなるものであったのかを示す。
ところが安倍は、この「強制」を論じる際に、必ず故吉田清治の「証言」を持ち出す。なぜなら安倍によれば、吉田「証言」とは「日本兵が、人さらいのように人の家に入っていって子どもをさらって慰安婦にした」(2014年9月14日に放映されたNHK番組での発言)」という内容に他ならない。この「人さらい」云々の行為を含め、「慰安婦」にされるまでの形態だけを問題にし、そこで「強制」(あるいは「強制連行)があったか否かだけに焦点を置くるのだ。
その上で、「人さらい」のように「強制連行」して「慰安婦」にしたという吉田「証言」が「うそであった」以上、「慰安婦」という問題が存在するかどうか疑わしい―とする主張になる。しかしこのレトリックの欠陥は、河野談話で触れられている「強制的」とは、どのようにして「慰安婦」にされたのかという形態ではなく、「慰安婦」にされてからの状態を示している事実を勝手に無視している点にある。
つまり「人さらい」だろうが「甘言」だろうが、あるいは被害者が安倍のイメージするような「売春婦」だろうが本質的問題ではなく、河野談話は結果的に「本人たちの意思に反して集められ」、そこで「強制的な状況」下に置かれたことが、問題の本質であると見なす。これを無視し、勝手に「人さらい」をイメージさせる「強制連行」の有無に議論を矮小化するのだ。
だが、河野談話のこうした視座は、世界的にも国連や多くの各国政府、国際NGO等に共有されており、その埒外にあるのは安倍と安倍に代表される自民党や極右、及び彼らを有力顧客とする右派メディアだけであろう。したがって吉田「証言」が「うそであった」としても、それによって河野談話の「根拠が既に崩れている」という結論が導かれようがなく(後述するように河野談話の作成過程で、吉田「証言」は一切使われていない)、これほど幼稚なレトリックを今でも振りかざしているところを見ると、そもそも安倍は本当に河野談話を読んでいるのかという疑惑すら湧く。
百歩譲って安倍が主張するように「慰安婦」にされた過程が問題だとしても、「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた」という事実を認めるのであれば、それこそ「強制」ではないのか。加えて吉田「証言」が「うそ」であったとしても、それは1943年の済州島に限定された「証言」に過ぎず、中国大陸から東南アジアまでの全域で生じた「慰安婦」の悲劇をすべて代表しているのではない。
この「強制」のウソは、次から次へと新たなウソを生む。「(吉田)証言によって、クマラスワミは国連の人権委員会に報告書を出した」などという安倍の発言もその典型で、おそらく一度たりとも読んでいないことの確実性では、河野談話よりもクマラスワミの「報告書」のほうがはるかに高そうだ。
なぜなら、日本も1996年に採択に加わったクマラスワミの「報告書」、すなわち「日本軍性奴隷制度報告書」で言及している吉田「証言」は、わずか4行足らず。しかも、安倍の覚えめでたく、以前は「(慰安婦の)七〜八割は強制連行に近い形で徴集された朝鮮出身の女性」(1985年刊『日本陸軍の本』より)と書きながら、今では「慰安婦」を「商売女」呼ばわりしている「歴史学者」秦郁彦の吉田「証言」に対する反論が、その何倍ものボリュームで並記されているからだ。
そもそもこの「報告書」が最も注目しているのは、「女性被害者は、戦時の強制売春及び性的隷従と虐待の期間中、連日の度重なる強姦と激しい身体的虐待に耐えなければならなかった」という、「慰安所」における「軍事的性奴隷」としての悲惨極まる実態である。したがって、安倍のように「慰安婦」にされた過程が「強制連行」かどうかなどと問題視する発想は皆無だ。にもかかわらず、なぜ吉田「証言」によって「クマラスワミは国連の人権委員会に報告書を出した」といった作り話が可能となるのか。
ちなみに、安倍は「ほとんどの根拠は、この吉田清治なる人物の本あるいは証言によっている」と述べているが、これがクマラスワミの「報告書」のことなのか、あるいは他の全般的な報道や国連機関の「報告書」等も含んだ「慰安婦」問題の言及の「根拠」という意味なのか、定かではない。だが、安倍の持論は、「『慰安婦』問題は『朝日』による吉田『証言』の誤報から生まれた」というものである以上、後者の可能性もある。もしそうであれば、妄想も極まれり、だろう。
吉田「証言」については改めて後述し、こうした安倍のような発想が根本的に誤りである所以を端的に示す次の一文だけを紹介するに留めたい。
『産経』に代表される「慰安婦」問題否認勢力によれば、「慰安婦」問題とは『朝日新聞』(以下『朝日』)が吉田「証言」などを利用して“捏造”したものなのだ、とされている。
先の記事(注=『産経』2014年5月21日付「歴史戦」「「第2部 慰安婦問題の原点2」のこと)は「朝日は慰安婦問題が注目されるようになった〔平成〕3年半ばからの1年間に、吉田を4回も紙面に登場させている」と、あたかも『朝日』が大キャンペーンを展開したかのように書き立てているが、朝日新聞社のインターネット・データベース「聞蔵IIビジュアル」で検索可能な一九八五年から今日までに「吉田清治 慰安婦」をキーワードとして検索したところ該当する記事はわずか一〇件にすぎない(ちなみに『産経』のデータベース「The Sankei Archives」では同様の条件で三八件が該当する)。そのうち氏の「証言」を詳しく紹介しているのは九一年の二つの記事であり、それ以外のものには氏の訪韓や講演活動を知らせるだけのものが含まれている。その程度のことであれば、例えば九二年八月一五日の『読売新聞』(以下『読売』)夕刊が、大阪で開かれた市民集会で吉田氏が「証言」したことを伝えている(読売新聞社のデータベース「ヨミダス」による)。そして九三年以降『朝日』が吉田氏の「証言」に依拠した記事を掲載したことはない。吉見義明・中央大学教授らの研究者も彼の「証言」を資料としては用いていない。九一年八月に元「慰安婦」の金学順さんが名乗り出たのを機に文字通り桁違いに増えた「慰安婦」報道のなかでは、吉田「証言」の重要性は極めて低い」
2 第一次安倍政権の破綻の始まり
2006年9月26日に首相に選出された安倍は、翌年の9月12日、国会での所信表明演説後に各党の代表質問を受ける当日になって、突然政権を投げ出すという異例の形で、一期目を終えた。そもそも安倍のような「極右政治家」が首相になること自体、近隣諸国との関係を阻害する結果しかもたらさないのは最初から自明であったろうが、任期中に見せつけた一連の「慰安婦」をめぐる混迷や失言、言動不一致が、政権投げ出しに劣らずこの政治家の本質を明白に示していただろう。おそらく首相になった安倍が、気楽に「極右政治家」気取りのままではいられないという現実を知らされたのは、06年10月6日に開かれた衆議院予算委員会で、共産党の志位和夫議員の舌鋒鋭い質問を浴びた際ではなかったか。志位議員は冒頭、安倍の当選以来の歴史修正主義的言動を、実例を挙げながら取り上げたが、安倍は「歴史認識については、政治家が語るということは、それはある意味、政治的、外交的な意味を生じる」という不可解な逃げ口上を使い、「そういうことを語ることについては謙虚でなければならない」などと答弁した。これに対し志位議員が、「首相は、首相になってからの答弁では、歴史観を語らない方が謙虚なんだ、政治家は歴史観を余り語るべきじゃないんだということをおっしゃるけれども、首相になるまでは、さんざん、それこそ、植民地支配、侵略的な行為、それを言うこと自身が自虐史観であり、歴史観をゆがめる、そういう立場で行動してきたじゃないか。これは説明がつかない矛盾じゃありませんか」と追及した。だが、安倍は「今急に、随分昔の議員連盟で出した文書を出されても、私も何とも答えようがない」などと、苦しい言い訳で逃げの一手に終始する。それに対し志位議員は、たたみかけるように「慰安婦」問題に触れていく。以下、そのやり取りを紹介しよう。

志位 私が本会議質問でこの問題をただしたのに対して、首相は、いわゆる従軍慰安婦問題についての政府の基本的立場は河野官房長官談話を受け継いでいると答弁されました。しかし、河野談話を受け継ぐと言うのなら、首相の過去の行動について、どうしても私はただしておきたい問題があります。ここに、1997年5月27日の本院決算委員会第二分科会での議事録がございます。安倍議員の発言が載っております。「ことし、中学の教科書、七社の教科書すべてにいわゆる従軍慰安婦の記述が載るわけであります。」「この従軍慰安婦の記述については余りにも大きな問題をはらんでいるのではないか」「いわゆる従軍慰安婦というもの、この強制という側面がなければ特記する必要はないわけでありますが、この強制性については全くそれを検証する文書が出てきていない」、こう述べられております。そして、結局、これは、教科書から従軍慰安婦の記述を削除せよという要求です。さらに、教科書にこうした記述が載るような根拠になったのは河野官房長官の談話だとして、談話の根拠が崩れている、談話の前提は崩れていると河野談話を攻撃しています。河野談話を受け継ぐと言うのだったら、私は、首相がかつてみずからこうやって河野談話を攻撃してきた、この言動の誤りははっきりお認めになった方がいい、このように考えますが、いかがでしょうか。
安倍 この河野談話の骨子としては、慰安所の設置や慰安婦の募集に国の関与があったということと、慰安婦に対し政府がおわびと反省の気持ちを表明、そして三番目に、どのようにおわびと反省の気持ちを表するか今後検討する、こういうことでございます。当時、私が質問をいたしましたのは、中学生の教科書に、まず、いわゆる従軍慰安婦という記述を載せるべきかどうか。これは、例えば子供の発達状況をまず見なければならないのではないだろうか、そしてまた、この事実について、いわゆる強制性、狭義の意味での強制性があったかなかったかということは重要ではないかということの事実の確認について、議論があるのであれば、それは教科書に載せるということについては考えるべきではないかということを申し上げたわけであります。これは、今に至っても、この狭義の強制性については事実を裏づけるものは出てきていなかったのではないか。また、私が議論をいたしましたときには、吉田清治という人だったでしょうか、いわゆる慰安婦狩りをしたという人物がいて、この人がいろいろなところに話を書いていたのでありますが、この人は実は全く関係ない人物だったということが後日わかったということもあったわけでありまして、そういう点等を私は指摘したのでございます。
志位 今、狭義の強制性については今でも根拠がないということをおっしゃいましたね。あなたが言う狭義の強制性というのは、いわゆる連行における強制の問題を指していると思います。しかし、河野談話では、「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、」とあるんですよ。政府が自分の調査によってはっきり認めているんです、あなたの言う狭義の強制性も含めて。これを否定するんですか。本人たちの意思に反して集められたというのは強制そのものじゃありませんか。これを否定するんですか、河野談話のこの一節を。
安倍 ですから、いわゆる狭義の強制性と広義の強制性があるであろう。つまり、家に乗り込んでいって強引に連れていったのか、また、そうではなくて、これは自分としては行きたくないけれどもそういう環境の中にあった、結果としてそういうことになったことについての関連があったということがいわば広義の強制性ではないか、こう考えております。
志位 今になって狭義、広義と言われておりますけれども、この議事録には狭義も広義も一切区別なく、あなたは強制性一般を否定しているんですよ。そして、河野談話の根拠が崩れている、前提が崩れている、だから改めろ、こう言っているわけですよ。ですから、これも、河野談話を認めると言うんだったら、あなたのこの行いについて反省が必要だと言っているんです。いかがですか。広義も狭義も書いてないです、そんなこと。あなたが今になって言い出したことです。
安倍 当時私が申し上げましたのは、いわば教科書に載せることが、中学生の教科書に載せることが適切かどうかということを申し上げたわけであります。 そして、私が累次申し上げておりますように、私は、今内閣総理大臣の立場としてこの河野談話を継承している、このように思います。
志位 今の総理の答弁は全く不誠実です。中学生の教科書に載せることだけを問題にしたんじゃない。強制性がないと言ったんですよ。これだけ反省すべきだと言ったのに、あなたは答えない。強制性の問題については、先ほど言ったように、その核心は慰安所における生活にある。慰安所における生活が、強制的な状況のもとで、痛ましいものであった、これは河野談話で認定しています。これを裏づける材料は、旧日本軍の文献の中にたくさんあります。・・・(略)・・・あなたは、政府の基本的立場は河野官房長官談話を受け継ぐとはっきりおっしゃったんですよ。ならば、あなたは、これまで河野談話を根拠が崩れていると攻撃して、歴史教科書から従軍慰安婦の記述を削除するように要求してきたみずからの行動を反省すべきではないか。そして、この非人間的な犯罪行為によって犠牲となったアジアの方々、とりわけ直接被害に遭われた方々に対して謝罪されるべきではないかと私は思います。もう一度答弁をお願いします。
安倍 ですから、私が先ほど来申し上げておりますように、河野官房長官談話の骨子としては、いろいろな苦しみの中にあった慰安婦の方々に対しておわびと反省の気持ちを表明しているわけでありまして、私の内閣でもそれは継承しているということでございます。
志位 河野談話を継承すると言いながら、みずからの誤りについての反省を言わない。これでは、心では継承しないということになりますよ。

一読して理解できるように、安倍の「答弁」はまったく答弁になっていない。「慰安婦」問題の国会答弁はすべてこの調子だ。無論、「反省」などせず、自身が今になって「心」とは裏腹に、河野談話を「受け継ぐ」と表明する自己矛盾についても、認めようとはしない。このような権力者に「おわびと反省」などと口にされること自体、「慰安婦」にされた被害者女性らにとっては最大級の侮辱に等しいだろう。そもそも、彼女らが仮に「家に乗り込んでいって強引に連れてい」かれたのではないとしても、あるいはその「証拠」がなかったとしても、それが何だというのか。結果として「慰安婦」にされ、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」という事実認定以外の何が必要なのか。この点を「核心」とする河野談話を「受け継ぐ」と表明したなら、「狭義の強制性と広義の強制性があるであろう」などという、被害者の側からすればまったくの無意味で、セカンドレイプそのものの言動が生まれる余地はあるはずもない。したがって、安倍にとって河野談話とは、それを公の場で「受け継ぐ」などと、思ってもいないことを公言することで、自身の二枚舌を証明する格好の題材になっている。のみならずそれは、「歴史認識については、政治家が語るということは」云々の妄言と同様、「慰安婦」問題を追及され、あるいは何かの言質を取られそうになった際に、「受け継ぐと言っているのだからそれ以外の話はいいだろう」とばかりに用いる、下手な逃げ口上の方便にもなっていよう。第一、「受け継ぐ」つもりなら、河野談話の「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」というくだりはどうするつもりなのか。本人も認めたように、吉田「証言」がどうのこうのと、先頭に立って「慰安婦」の「歴史教育」を妨害してきたのは安倍自身ではないか。自分で真逆のことをやってきておいて突如「受け継ぐ」だの「おわびと反省」だのと言い出しても、自身の二枚舌を如実に証明するだけの話だ。
3 繰り返される迷走劇
翌2007年、安倍は9月の退場まで「慰安婦」問題をめぐり失点に次ぐ失点を重ねる。そこでは、自身の「持論」が米国から何らかの好ましくない反響を呼ぶといったんは「謙虚」さを装うものの、ほとぼりが冷めたと判断したかあるいは情勢を見誤ってか、また「持論」を公にし、再度米国から何らかの反響があると、同じようにあわてて言動を改める――というパターンが見受けられる。こうした米国への卑屈さは、明らかに「戦後レジームからの脱却」などと大それたことを公言する「政治家」として矛盾していようが、安倍の「政治信条」らしきものとは、最初からその程度なのだろう。当時、安倍にとって懸念事項となったのは、1月31日に米国議会下院外交委員会に「慰安婦」問題について謝罪を求める決議(121号決議)案が提出され、これに内外の関心が高まったことにあった。一方で前年の2006年には、4月から使用される中学校教科書本文から「慰安婦」の記述が一掃され、10月25日には官房副長官の下村博文(現文部科学大臣)が河野談話の見直しを言及。さらに、かつて安倍が事務局長を務めた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を母体とする「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が、やはり見直しに向けて動き出している。
「自民党の議員連盟『日本の前途と歴史教育を考える議員の会』(会長・中山成彬元文科相)が13日、1年ぶりに活動を再開した。……当面のテーマは、慰安婦問題に関する平成5年の河野洋平官房長官談話。首相も今国会の答弁で旧日本軍によるいわゆる「狭義の強制性」を否定していることを受け、議連内に小委員会を設置し、見直しを念頭に研究を進めることを決めた」(『産経』06年12月14日付)
安倍の「お仲間」の歴史修正主義者たちのこうした動向が米国でも警戒され、121号決議案が提出されたのは想像に難くない。だが、「お仲間」たちの動きに刺激されてか、前述のように志位議員の追及には逃げ回りながらも、安倍は07年3月1日に「持論」をつい口にしてしまう。

「安倍晋三首相は1日、慰安婦への旧日本軍関与の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話について、『強制性を証明する証言や裏付けるものはなかった。だからその定義については大きく変わったということを前提に考えなければならない』と述べ、談話見直しに着手する考えを示唆した。首相官邸で記者団の質問に答えた。首相は昨年10月の衆院予算委員会で、旧日本軍による直接の連行などいわゆる『狭義の強制性』について『いろいろな疑問点があるのではないか』などと答弁し、否定する立場を表明してきた。ただ、『政府の基本的立場として受け継いでいる』とするなど河野談話の見直しには慎重な意向も示していた」(『産経』07年3月3日)

安倍の特徴は、国会で「持論」を正面から反駁されると、逃げ口上を乱発してすぐ支離滅裂になるくせに、後になるとまた同じ「持論」を平気で繰り返す点にある。しかも、果たして自身が自身の言動をどこまで理解しているのかどうかさえ疑わしい場合があり、とりわけ「強制性」と「強制連行」の意味の違いに関してそのような疑念が湧く。それを示しているのが、07年3月5日に開かれた、参議院予算委員会における民主党の小川敏夫議員との質疑応答だろう。以下はその抜粋だ。

小川 この三月一日に強制はなかったというような趣旨の発言をされたんじゃないですか、総理。
安倍 ですから、この強制性ということについて、何をもって強制性ということを議論しているかということでございますが、言わば、官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかったということではないかと、こういうことでございます。そもそも、この問題の発端として、これはたしか朝日新聞だったと思いますが、吉田清治という人が慰安婦狩りをしたという証言をしたわけでありますが、この証言は全く、後にでっち上げだったことが分かったわけでございます。つまり、発端はこの人がそういう証言をしたわけでございますが、今申し上げましたようなてんまつになったということについて、その後、言わば、このように慰安婦狩りのような強制性、官憲による強制連行的なものがあったということを証明する証言はないということでございます。
(略)
小川 一度確認しますが、そうすると、家に乗り込んで無理やり連れてきてしまったような強制はなかったと。じゃ、どういう強制はあったと総理は認識されているんですか。
安倍 この国会の場でこういう議論を延々とするのが私は余り生産的だとは思いませんけれども、あえて申し上げますが、言わば、これは昨年の国会でも申し上げましたように、そのときの経済状況というものがあったわけでございます。御本人が進んでそういう道に進もうと思った方は恐らくおられなかったんだろうと、このように思います。また、間に入った業者が事実上強制をしていたというケースもあったということでございます。そういう意味において、広義の解釈においての強制性があったということではないでしょうか。
小川 それは、業者が強制したんであって国が強制したんではないという総理の御認識ですか。
安倍 これについては、先ほど申し上げましたように、言わば、乗り込んでいって人を人さらいのように連れてくるというような強制はなかったということではないかと、このように思います。
小川 だから、総理、私は聞いているじゃないですか。家に乗り込んで連れていってしまうような強制はなかったと。じゃ、どういう強制があったんですかと聞いているわけですよ。
安倍 もう既にそれは河野談話に書いてあるとおりであります。それを何回も、小川委員がどういう思惑があってここでそれを取り上げられているかということは私はよく分からないわけでありますが、今正にアメリカでそういう決議が話題になっているわけでございますが、そこにはやはり事実誤認があるというのが私どもの立場でございます。
小川 アメリカの下院で我が国が謝罪しろというような決議がされるということは、我が国の国際信用を大きく損なう大変に重要な外交案件だと思うんです。それで、事実誤認だから、じゃ、そういう決議案をもしアメリカ下院がすれば、事実誤認の証言に基づいて決議をしたアメリカ下院が悪いんだと、だから日本は一切謝罪することもないし、そんな決議は無視する、無視していいんだと、これが総理のお考えですか。
安倍 これは、別に決議があったからといって我々は謝罪するということはないということは、まず申し上げておかなければいけないと思います。この決議案は客観的な事実に基づいていません。また、日本政府のこれまでの対応も踏まえていないということであります。もしかしたら委員は逆のお考えを持っているのかもしれませんが、こうした米議会内の一部議員の動きを受け、政府としては、引き続き我が国の立場について理解を得るための努力を今行っているところでございます。
小川 河野談話は、単に業者が強制しただけでなくて、慰安所の設置や管理、慰安婦の移送に対する軍の関与を認定したと言っておるわけです。このことについて総理は認めるんですか、認めないんですか。
安倍 ですから、先ほど来申し上げておりますように、書いてあるとおりであります。
小川 書いてあるとおりは、書いてあるのは事実ですよ、書いてあるのは。総理がそれをそういうふうに思っていますかと聞いているんです。
安倍 ですから、書いてあるとおりでありまして、それを読んでいただければ、それが政府の今の立場であります。
小川 私は、この問題についての国際感覚あるいは人権感覚といいますか、全く総理のその対応について、私は寂しい限り、むしろ日本の国際的な信用を損なうことになっているんじゃないかと思いますが。すなわち、下院において、そこで慰安婦の方が証言された、それが事実誤認だからもういいんだと言って通るほど、この国際環境は甘くはないと思います。むしろ、こうした人権侵害についてきちんとした謝罪なり対応をしないということのこの人権感覚、あるいは過去に日本が起こした戦争についての真摯な反省がやはりまだまだ足らないんではないかという、この国際評価を招く、こうした結果になっているんではないでしょうか。どうですか、総理。
安倍 私は全くそうは思いません。小川議員とは全く私は立場が違うんだろうと思いますね。戦後60 年、日本は自由と民主主義、基本的な人権を守って歩んでまいりました。そのことは国際社会から高く私は評価されているところであろうと、このように思います。これからもその姿勢は変わることはないということを私はもう今まで繰り返し述べてきたところでございます。小川委員は殊更そういう日本の歩みをおとしめようとしているんではないかと、このようにも感じるわけでございます。
小川 大変な暴言でありまして、私は、アメリカの下院でそうした決議が出ると、出るかもしれない、既に委員会では決議が出ているわけで、今度は下院、院全体で決議が出るかもしれないと。そのことによって生ずる我が国のこの国際的な評価、これが低下することを憂えて言っているんですよ。

小川議員の、最後に出てくる「既に委員会では決議が出ている」という発言は、下院外交委員会が同決議案を採択したのは同年6月26日だから正確ではないが、安倍の答弁はいい加減すぎる。河野談話を「受け継ぐ」とは一言も述べない代わりに、1「どういう強制があったのか」、2「業者が事実上強制をしていた」のが「広義の強制性」なら「軍の関与を認めるのか」、という肝心の点については、今度は「河野談話に書いてあるとおり」としか答えない。
1 については、河野談話に沿って「本人の意思に反して」、「強制的な状況の下での痛ましいものであった」とされる「慰安所における生活」を強いられたのが「強制」の実態であるという模範回答をすれば、最初から「強制」が「狭義」であったか「広義」だったかなどとこだわる愚かさを認めねばならないから、これは言えない。
2 は、河野談話が「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」と書いてある程度は知っているだろうから、記述自体が感情的に面白くないので自分の口からはこれも言いたくないのだろう。
もっとも、河野談話をまともに読んではいないと十分に推認される安倍のことだ。捨て台詞的に「書いてあるとおり」と逃げただけという可能性も否定できない。それにしても、堂々と「決議案は客観的な事実に基づいていません」と公言しておきながら、翌月に訪米してわざわざ議会関係者と会見した際に、「日本政府のこれまでの対応も踏まえていない」といった種の発言を一言も述べた形跡がまるで見当たらないのはなぜなのだろう。無論、安倍が米国には卑屈で、従属体質丸出しの政治家だからにほかならないが、小川議員とのやり取りがあった4日後の3月9日、安倍は参議院予算委員会では、一転して「慰安婦の問題につきましては、慰安婦の方々が極めてこれは苦しい状況に置かれた、辛酸をなめられたということについては本当に我々としては心から同情し、また既におわびも申し上げているところであると、このように思うわけでございます」と答弁している。小川議員が「過去に日本が起こした戦争についての真摯な反省がやはりまだ足らないんではないか」と質しただけで、むきになって「日本の歩みをおとしめようとしている」などと見当外れの反発を示した姿勢とはかなり様相が違う。この理由については、一連の「強制はなかった」という類いの安倍の発言が、米国メディアの相次ぐ反発を呼んだ点と無縁ではないだろう。例えば3月6日には、『ニューヨーク・タイムズ』がコラム、7日には『ロサンゼルス・タイムズ』が論文と社説、そして8日には『ニューヨーク・タイムズ』が長文の記事を掲載した。そのうち、「日本は恥を免れることはできない」(Japan can’t dodge this shame)と題した『ロサンゼルス・タイムズ』の社説は、次のように安倍を手厳しく批判している。

「欧州諸国では、ホロコーストの否定は罰せられるべき犯罪だ。ところが日本ではこれとは対照的に、戦争犯罪は決して十分には訴追もされなかったし、そのようなものとして認識もされず、大半の犠牲者は救済されはしなかった。先週、日本の安倍晋三首相はこうした無責任さを利用する形で、第二次世界大戦中に日本軍にサービスするため、女性たちが性的に束縛されるのを強制されたという「証拠」はないなどと断言した。このことは実際には、こうした(「慰安婦」という)憎むべき行為による何千もの犠牲者を、売春婦、あるいは噓つきであるとレッテルを貼っているのだ。それによって国際的な怒りが生じた後、安倍は姿勢を後退させたが、動かしがたい歴史的事実を否定することにより、生き残った被害者女性たちは、もう一度(日本の)犠牲になったのである」

ここで安倍が実質的に同一視されていると見ていい「ホロコーストの否定」論者が、欧米で極度に否定的な評価を下されているかを考慮すると、当時の安倍に対する米国の不信と嫌悪がどれほどであったか容易に想像がつく。米国の歓心を買うことに汲汲とする自民党の歴代首相の一人として、さすがの安倍もこうした報道を無視するわけにはいかなかったのだろう。そのことと、かつて「噓つき」呼ばわりした「慰安婦」に対し、「心から同情し、また既におわびも申し上げている」などと神妙めいた姿勢に転じたのは、無関係ではあるまい。さらに、そのような発言があった3月9日、安倍はジョン・トーマス・シーファー米駐日大使(当時)から、「日本が河野談話から後退していると米国で受け止められると破壊的な影響がある」(『産経』2007年3月10日付)と警告されたという。以下は、当時の米国内の雰囲気を伝える記事(『朝日』2007年3月9日付)の抜粋だ。

米国内で、従軍慰安婦問題をめぐる波紋の広がりが止まらない。ニューヨーク・タイムズ紙など主要紙が相次いで日本政府を批判する社説や記事を掲載しているほか、震源地の米下院でも日本に謝罪を求める決議案に対して支持が広がっているという。こうした状況に米国の知日派の間では危機感が広がっており、安倍政権に何らかの対応を求める声が出ている。8日付のニューヨーク・タイムズ紙は、1面に「日本の性の奴隷問題、『否定』で古傷が開く」と見出しのついた記事を載せた。中面に続く長いもので、安倍首相の強制性を否定する発言が元従軍慰安婦の怒りを改めてかっている様子を伝えた。同紙は6日にも、安倍発言を批判し、日本の国会に「率直な謝罪と十分な補償」を表明するよう求める社説を掲げたばかりだ。(略)・・・今回の慰安婦問題浮上の直接のきっかけとなった米下院外交委員会の決議案をめぐっては、安倍首相が1日「強制性を裏付ける証拠はなかった」と発言したのを受けて支持が広がっている。05年末までホワイトハウスでアジア問題を扱っていたグリーン前国家安全保障会議上級アジア部長は、「先週、何人かの下院議員に働きかけ決議案反対の合意を取り付けたが、(安倍発言の後)今週になったら全員が賛成に回ってしまった」と語る。米国務省も今週に入り、議員に対し日本の取り組みを説明するのをやめたという。6日に日本から戻ったばかりのキャンベル元国防次官補代理は、「米国内のジャパン・ウオッチャーや日本支持者は落胆するとともに困惑している」と語る。「日本が(河野談話など)様々な声明を過去に出したことは評価するが、問題は中国や韓国など、日本に批判的な国々の間で、日本の取り組みに対する疑問が出ていることだ」と指摘。「このまま行けば、米国内での日本に対する支持は後退していく」と警告する。現在日本に滞在中のグリーン氏も「強制されたかどうかは関係ない。日本以外では誰もその点に関心はない。問題は慰安婦たちが悲惨な目に遭ったということであり、永田町の政治家たちは、この基本的な事実を忘れている」と指摘した。

名だたるジャパン・ハンドラーズの一員であるグリーンでさえ、「慰安婦」問題のポイントは外してはいないが、安倍は米国からの批判を気に留めた形跡はあるのに、この程度の認識にすら至らなかったようだ。それどころか、さらに混乱に拍車をかけるような行為に打って出る。本人が今でも誇らしげにしている、3月16日の閣議決定なるものだ。
4 虚構の「閣議決定」
閣議決定と言っても、毎年国会議員から膨大に提出される質問主意書に対し、基本的に政府が答弁書を作成し、回答するだけ。安倍内閣は07年3月16日、民主党の辻元清美議員が同月8日に提出した「安倍首相の『慰安婦』問題への認識に関する質問主意書」に対し、答弁書で回答しているが、安倍はこの質問書について、首相一期目における「慰安婦」問題についての、最大の獲得ポイントであるかのように今日まで吹聴し続けている。まず辻元議員の質問主意書を、要点だけ紹介しよう。そこでは冒頭、次のように一連の安倍の発言とそれに関連する動きを列挙している。

米国議会下院で、「慰安婦」問題に関して日本政府に謝罪を求める決議案(以下決議案)が準備されている。これに対し安倍首相が総裁を務める自民党内部から「河野官房長官談話」見直しの動きがあり、また首相自ら「米決議があったから、我々が謝罪するということはない。決議案は客観的な事実に基づいていない」「当初、定義されていた強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではないかと思う」と述べ、談話見直しの必要性については「定義が変わったということを前提に考えなければならないと思う」と述べたことから、米国内やアジア各国首脳から不快感を示す声があがっている。

その上で、以下の質問に続く。

一 《安倍首相の発言》について
1 「定義が変わったことを前提に」と安倍首相は発言しているが、何の定義が、いつ、どこで、どのように変わった事実があるのか。変わった理由は何か。具体的に明らかにされたい。
2 「当初、定義されていた強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではないかと思う」と安倍首相は発言しているが、政府は首相が「なかったのは事実」と断定するに足る「証拠」の所在調査をいつ、どのような方法で行ったのか。予算を含めた調査結果の詳細を明らかにされたい。
3 安倍首相は、どのような資料があれば、「当初、定義されていた強制性を裏付ける証拠」になるという認識か。
・・・(略)・・・

そして、これに対する以下の答弁書の傍線が、安倍の言う閣議決定となる。

一の1から3までについて
お尋ねは、「強制性」の定義に関連するものであるが、慰安婦問題については、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、同月四日の内閣官房長官談話(以下「官房長官談話」という。)のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである。 調査結果の詳細については、「いわゆる従軍慰安婦問題について」(平成五年八月四日内閣官房内閣外政審議室)において既に公表しているところであるが、調査に関する予算の執行に関する資料については、その保存期間が経過していることから保存されておらず、これについてお答えすることは困難である。
・・・(略)・・・

この答弁書の「一の1から3までについて」は、明らかに辻元議員の質問趣意書の回答にはなっていない。安倍が今でも吹聴する閣議決定とは、「強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかった」という安倍の発言に対し、そう「断定するに足る『証拠』の所在調査をいつ、どのような方法で行ったのか」といった質問への回答だが、内容は、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」などと、質問の一部を同義反復しているだけに過ぎない。
ところが後になって、2012年9月14日に行われた自民党総裁選立候補者の共同記者会見の席上、安倍は「河野談話の核心をなすところは強制連行。朝鮮半島において家に乗り込んで強制的に女性を人さらいのように連れて行く、そんなことは事実上証明する資料はなかった。子孫の代に不名誉を背負わせるわけにはいかない。新たな談話を出すべきではないか」とした上で、「(第一次)安倍政権のときに、『強制性はなかった』という閣議決定をしたが、多くの人は知らない。河野談話を修正したことを、もう一度確定する必要がある」(『朝日』2012年9月16日付朝刊)と述べている。
もし総裁選で安倍が述べたように2007年3月、河野談話を「修正」する閣議決定をしたなら、実に驚くべきことだ。同年の4月、つまり翌月の米国メディアの取材、及び続く訪米時に、「河野談話を受け継ぐ」と何度も明言しているのだから。
ならば安倍は、首相になった時点で「受け継ぐ」と表明した河野談話を07年3月の閣議決定で突然「修正」し、かつ翌月になってまた方針転換して、米国人の前で「受け継ぐ」と述べて歓心を買った、ということなのか。
無論、いくら安倍の思考が支離滅裂であっても、そのような真似をしたのではない。なぜなら肝心の閣議決定には、何と最後の方で「政府の基本的立場は、官房長官談話を継承しているというものであり、その内容を閣議決定することは考えていない」と明記してあるからだ。閣議決定の「修正」が、「継承」と相容れるはずがない。
安倍の「歴史修正主義」とはこの程度で、事実認識の客観性など二の次であり、自分の主観的願望、またはそれからくる偏見の類いが即事実だと思い込む。その証拠に、河野談話のどこをどう読めば、「核心をなすところは強制連行」などという解釈が成り立つのか。いくら安倍が自慢げに「家に乗り込んで強制的に女性を人さらいのように連れて行く、そんなことは事実上証明する資料はなかった」などと述べようが、そのことと「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と認めている河野談話は、何の直接的関係もない。
である以上、そうした閣議決定なるものが、河野談話の価値をいささかなりとも左右するものではないはずだが、なぜ安倍はそれほど吹聴できる内容であるかのように誇らしげでいられるのだろう。
さらに、安倍は自民党総裁選に勝利し、総選挙を控えた2012年11月30日に開催された日本記者クラブ主催の党首討論会に臨んだ際、以下のような発言をしている。

河野談話についてはですね、これは閣議決定されたものではありません。安倍政権において「それを証明する事実はなかった」という事は閣議決定しています。そもそも、まぁ朝日新聞の星さんの(笑)朝日新聞の誤報による、吉田清治という、まぁ詐欺師のような男が作った本がまるで事実かのように、これは日本中に伝わっていった事でこの問題がどんどん大きくなっていきました。その中で、果たして人を人さらいのように連れてきた事実があったかどうかという事については、それは証明されていない。という事を閣議決定しています。ただそのことが内外にしっかりと伝わっていないという事をどう対応していくか。ただこれも対応の仕方によっては真実如何とは別に、残念ながら外交問題になってしまうんですよ。

ストレートに「河野談話についてはですね……、これは閣議決定されたものではありません。安倍政権において『それを証明する事実はなかった』という事は閣議決定しています」という箇所を読めば、河野談話とは、後の「閣議決定」によって「証明」不能と談じられた欠陥品ということになる。
いずれにせよ、河野談話憎しのあまりか、あるいはそれまで「受け継ぐ」などと心にもない誓約を言い続けざるを得なかった反動からか、いくら事実に反していようが自身が「河野談話を修正した」かのような強い願望に由来する妄想を膨らませ、そうした仮想現実の中に浸って一人悦に入るという、文字通りの自慰的行為を繰り返しているだけなのだ。
おそらく、河野談話を持ち出す際に、始終吉田「証言」に触れるのは、「証言」が「めちゃくちゃ」であるとの評価である以上、それによって河野談話を葬れると勝手に思い込んでいるからだろう。だが、安倍は公式に河野談話を見直するような度胸は持ち合わせていない。だからこそ、「強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」という記述を閣議決定に盛り込ませて、繰り返すように河野談話を自分が膨らませた夢想の中で「修正」した気になっているだけなのだ。
それでも、こうした夢想癖は形式上、現実に引き戻されたような結末にはなっている。なぜなら2007年4月20日のそれこそ閣議決定で、安倍は「持論」の「狭義の強制性」を何と事実上撤回しているのだ。
それに先立つ4月10日、辻元議員は再び質問主意書を提出し、安倍が鬼の首を取ったかのように自慢しているその1ヶ月前の3月の答弁書、つまり閣議決定がまったく質問には回答していない内容であったため、以下の項目を再度盛り込んだ。

「1 安倍首相のいう『狭義の強制性』とは、どのような定義によるものか。『家に乗り込んでいって強引に連れていった』以外にどのようなケースがあるのか。具体的に示されたい。
2 安倍首相のいう『狭義の強制性』以外は、すべて『広義の強制性』になるのか。安倍首相の見解を示されたい」

そして4月20日に閣議決定された答弁書には、以下のように記されていた。

平成五年八月四日の内閣官房長官談話は、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、当該談話の内容となったものであり、強制性に関する政府の基本的立場は、当該談話のとおりである。

そもそも、安倍が3月の閣議決定で明確に「河野談話を受け継ぐ」としたのだから、本来、翌4月20日の閣議決定以外の答弁はありえないはずだ。すると、談話の「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」という事実こそ「強制性」の実態であって、安倍がこだわる「軍や官憲によるいわゆる強制連行」、つまり「慰安婦」にされるまでの形態については、当然にも何の意味も持たなくなる。同時に、それを「直接示すような記述」の有無についても同じことだ。であれば、4月20日にこのような閣議決定をするくらいなら、最初から「広義」だの「狭義」だの、「人さらい」がどうのこうのと繰り返す必要は、まったくなかった。にもかかわらず、安倍は現在もこの3月の方の閣議決定だけをあたかも何か自分の得点であったかのように思い込んでいるのには、呆れるのを通り越してもはや不気味な印象さえ受ける。もともと、「歴史認識は専門家に任せるべき」などという逃げ口上を使うことに躊躇しないぐらいだから、最初から理論的整合性などまるで通用しないのだろう。だが、安倍が2007年3月の閣議決定に現在も固執している以上、あえてそれがまともな評価に堪えないという理由をさらに追加せねばならない。つまり、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」という記述は、実は以前から歴代政権によって何度も繰り返し述べられてきた認識なのだ。この事実を、辻元議員は2013年3月8日の衆議院予算委員会で、次のように追及した。

この十年前、政府はどのような答弁をしていたかというのが(提出した資料の)左にございます。これは片山虎之助委員に対する政府の答弁です。
「政府といたしましては、二度にわたり調査をしました。一部資料、一部証言ということでございますが、先生の御指摘の強制性の問題でございますが、政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見当たりません。総合的に判断した結果、一定の強制性があるということで判断した」
(略)要するに、河野官房長官談話を出した前提を、歴代の内閣は同じように答弁してきたんですよ。強制的に集めるとか、通達を、強制的に出せとかはないけれども、証言や総合的に資料を考えて河野官房長官談話を出しましたという。

つまり辻元議員は、2007年の閣議決定なるものは「十年前」の政府答弁と同一であり、あたかもそれと違った内容を閣議決定したかのような安倍の発言は、「矛盾しているんじゃないですか」と質した。さらに同議員は、安倍が2012年の自民党総裁選時に「修正」したと発言したことに対し、「河野談話を修正したことをもう一度確定する必要がある。修正されたんですか。どうですか」と詰め寄った。これに対し安倍は最初の質問について、「質問主意書というのは、皆さんが出されるのは重たいんですよ、閣議決定しますから。閣議決定、全員の閣僚のいわば花押を押すという閣議決定なんです。(略)そこで、いわばその重たい閣議決定をしたのは初めてであります」とし、「何の矛盾もしていないということは、はっきりと申し上げておきたいと思います」と答弁している。だが、すぐ後で述べるようにこれもウソであり、同じ閣議決定は以前にもあった。そして形式はともかく、一般の国会答弁と閣議決定が同じ内容である以上、「初めて」であろうがなかろうが、後者が何か特別の意味を持っているかのような安倍の主張は「矛盾」と見なして差し支えあるまい。しかも安倍は、河野談話を「修正されたんですか」という最も肝心な質問には返答せず、無視を決め込んでいる。当然だろう。河野談話の閣議決定による「修正」とは、安倍がふける夢想の世界の架空話でしかないからだ。そもそも、閣議決定がそれほど「重たい」のであれば、2007年4月の閣議決定について、以後まったく安倍による言及がないのはなぜだろう。それとも、閣議決定とはその都度、重さが異なるというのか。なお、この2007年3月の閣議決定が特段の新味はないという主張は、辻元議員が2013年5月23日に自身のブログに掲載した「橋下徹大阪市長の慰安婦を巡る発言の背景となった安倍首相の『閣議決定』に関する発言について」という一文で、仔細に埋設している。以下、その抜粋。
<歴代の内閣の答弁>
E)片山虎之助委員の質問に対する平林博官房外政審議室長による政府答弁(1997年1月30日参議院予算委員会)
「政府といたしましては、二度にわたりまして調査をいたしました。一部資料、一部証言ということでございますが、先生の今御指摘の強制性の問題でございますが、政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せませんでした。ただ、総合的に判断した結果、一定の強制性があるということで先ほど御指摘のような官房長官の談話の表現になったと、そういうことでございます。」
F)板垣正委員の質問に対する村岡官房長官の政府答弁(1998年4月7日総務委員会)
「第一点は、先生今御指摘になられましたように、政府が発見した資料、公的な資料の中には軍や官憲による組織的な強制連行を直接示すような記述は見出せなかったと。第二点目は、その他のいろいろな調査、この中には、おっしゃったような韓国における元慰安婦からの証言の聴取もありますし、各種の証言集における記述もありますし、また日本の当時の関係者からの証言もございますが、そういうものをあわせまして総合的に判断した結果一定の強制性が認められた、こういう心証に基づいて官房長官談話が作成されたと、こういうことでございます。」
さらに、安倍首相は「いわばその重たい閣議決定をしたのは初めてであります」(2013年3月8日の辻元の予算委員会質問に対する答弁)と、歴代内閣で初めて、「強制連行を直接示す記述はなかった」ことを閣議決定したと答弁している。ところが、これも虚偽答弁である。すでに1997年11月21日、高市早苗議員の提出した質問主意書に同じ内容の答弁(G)が橋本内閣によって閣議決定されている。
G)高市早苗議員の質問主意書「慰安婦」問題の教科書掲載に関する再質問主意書(1997年11月21日)に対する答弁書
「いわゆる従軍慰安婦問題に関する政府調査においては、発見された公文書等には、軍や官憲による慰安婦の強制連行を直接的に示すような記述は見られなかった。他方、調査に当たっては、各種の証言集における記述、大韓民国における元慰安婦に対する証言聴取の結果等も参考としており、これらを総合的に判断した結果、政府調査結果の内容となったものである」
上記のように、河野官房長官談話について、第一次安倍内閣で新しい内容の閣議決定をしたわけではない。第一次安倍内閣は、歴代の内閣と同じ答弁や閣議決定を繰り返したに過ぎないのであって、河野官房長官談話を見直す根拠は存在しない。
にも関わらず、第一次安倍内閣であたかも新しい認識を示したかのような答弁を繰り返し、河野官房長官談話を見直す根拠にしようとする安倍首相の姿勢は、国民をあざむこうとしていると言わざるを得ない。
つまり2007年3月の閣議決定とは、いくら安倍が「重たい」だの「初めて」だのとウソを並べても、内容的には過去の政府の国会答弁、及び閣議決定と何も変わりはしない。ただそれが一点だけ違うのは、他の答弁・国会決議で記述されていた「総合的に判断した結果一定の強制性が認められた」という趣旨の表現を、安倍は削っているだけなのだ。つまり、吉田「証言」→「めちゃくちゃ」→強制連行→ウソ→「慰安婦」問題→捏造、というありもしない六段論法を自分だけの夢想で固定化している安倍は、それがゆえに吉田「証言」にも通じると思い込んでいる「強制連行を直接的に示すような記述は見られなかった」という記述だけに飛びついて、河野談話の攻撃に使えると思い込んでいるのだろう。だからこそ、自分の気にくわない肝心の「総合的に判断した結果一定の強制性が認められた」という結論を勝手に除外し、その重要な結論を除外するならば無意味となる「記述は見られなかった」という類いの箇所だけを、意識的にか、無意識的にか振りかざしているに過ぎない。
5 米国への卑屈と「謝罪」
それでも結果的にこの3月の閣議決定は、再び各国から懸念材料と見なされてしまう。韓国の外交通商部は17日、「非常に遺憾」と表明。また『ワシントン・ポスト』は24日付けで「安倍晋三のダブルトーク」と題した論評を掲載し、以下のように断じた。

安倍氏は女性を『慰安婦』にしたことについて日本政府が直接に関与したことを否定するのが、北朝鮮に対し(拉致問題の)回答を要求する上で道徳的な権威を強化するのではと考えているのかもしれない。だが、それは逆だ。安倍氏が日本の拉致された市民の悲運を知った国際的な支援を求めるなら、日本自身の犯罪の責任を率直に認め、日本が(強制性を否定することで)中傷した犠牲者に謝罪すべきである。

安倍にとり、訪米も迫ってきたため以後さすがに不用意な発言は控えるようになる。また、民主党の小川議員に示したような挑戦的姿勢も同様だ。その典型が、3月26日の参議院予算委員会における共産党の吉川春子議員に対する対応だろう。逃げ口上、あるいは捨て台詞的な性格は変わらないにせよ、安倍は一人の議員の答弁時に、河野談話の「継承」、あるいは「河野談話で申し上げている」といった類の発言を実に12回も口にしている。少なくともこの数字だけ見るならば、1993年に河野談話が発表されて以降の歴代首相で、安倍ほど河野談話に限りなく忠実たらんとする姿勢を示した首相は存在しない。なお、AFPの4月4日ワシントン発の記事は、「ジョージ・W・ブッシュ大統領は3日、旧日本軍によるいわゆる従軍慰安婦問題で、安倍晋三首相が謝罪したことについて評価した。国家安全保障会議(NSC)のゴードン・ジョンドロー報道官によると、2人はこの日、電話で会談した。ブッシュ大統領は、安倍首相が『旧日本軍が強制的に連行した証拠はない』との認識を示した自身の発言に対し前月の参議院予算委員会で謝罪したことについて、満足感を示し、『今の日本は第2次大戦時の日本ではない』とコメントしたという」と報じている。だが、前述の安倍による吉川議員への答弁で、「旧日本軍が強制的に連行した証拠はない」との発言を「謝罪」したというのは、正確ではない。以下の答弁を読んでも、それは明らかだ。

吉川 安倍総理に慰安婦問題についてお伺いいたします。安倍総理は、3月1日の夜、官邸で記者団の質問に答えて、93年の河野官房長官談話について、当初定義されていた強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実だと語られました。そうですか。
安倍 既に今まで何回か答弁を申し上げているわけでございますが、私は河野官房長官談話を継承していくということを申し上げているわけでございまして、そしてまた慰安婦の方々に対しまして御同情を申し上げますし、またそういう立場に置かれたことについてはおわびも申し上げてきたとおりでありまして、今まで答弁してきたとおりであります。
吉川 当初定義されていた強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実だと、このようにおっしゃったんですか、おっしゃらないんですか。
安倍 私は、今まで累次この場においてもまた本会議の場においても答弁をしてきたとおりでございまして、それを見ていただければ分かるとおりであります。
吉川 そういう発言はなかったと、取り消されるんですね。
安倍 累次、今まで答弁してきたとおりでございます。ですから、今、吉川議員がおっしゃったことも私は答弁をしてきた中の中身でございます。
吉川 総理が記者会見で官邸でおっしゃったかどうかだけを私伺っているんですけれども。
安倍 強制性について私が申し上げたことは、記者会見で申し上げたことはすべてこれはニュースにもなっておりますから、それはそのとおりであります。
吉川 官房長官談話では、広範な地域に慰安所が設置された、慰安所は軍の要請によって設置された、慰安所の管理運営、慰安婦の移送について旧日本軍が直接又は間接に関与したとしております。これはお認めになるんですね。
安倍 先ほど答弁をいたしましたように、河野官房長官談話を継承しているということは、この官房長官談話を正に引き継いでいるわけでありますから、その中身も、それを引き継いでいるということでございます。
吉川 さらに談話では、慰安婦の募集について、本人の意思に反して集められた、官憲が直接これに加担したこともあった、慰安所の生活は強制的状況で痛ましいものであったと言っていますが、これもお認めになりますか。
安倍 河野官房長官談話を継承すると、このように申し上げております。
吉川 お認めになるんですね、今言ったこと。
安倍 そうです。
吉川 河野談話の内容と、それから首相官邸での記者会見の強制性はないという発言は矛盾すると思いますが、談話を受け継ぐとおっしゃるならば、この発言は取り消されたらいいと思うんです。いかがでしょう。
安倍 そうした発言も含めて今私は答弁をしているわけでございますが、この河野官房長官談話を継承していくということでございます。

言ったのか言わなかったのか、あるいは認めるのか認めないのかという単純な質問さえ、答弁したなら面白くない気分になるためなのか、いつまでもグズグズして明言しない。安倍の性格が如実に現れているが、肝心の「強制性を裏付ける証拠がなかった」という発言が、河野談話の「慰安所の生活は強制的状況で痛ましいものであった」との認識と矛盾するという指摘についても、またもや河野談話を逃げ口上に使い、回答不明のままにしている。これをどう解釈すれば、3月1日の発言の「謝罪」になるのか。最初から「謝罪」などする気などなく、だからこそ今に至るまで「強制」の証拠がどうのこうのという例の3月の閣議決定を得意げに吹聴しているのだろう。また、「慰安婦の方々に対しまして御同情を申し上げます」云々のくだりが「謝罪」だとしたなら、すぐにでも隣国に出向き、被害者女性の前で同じ台詞を言うのが道理だ。しかし、そんなことを金輪際するはずもない。口先だけで、本心では「謝罪」の気持ちなどはなから皆無だからだ。それが証拠に、安倍は首相を辞めた途端、河野談話を再び口汚く罵り始めている(後述)。こうした二枚舌に加え、「ナショナリスト」に特有な米国への卑屈さが加わったのが、2007年4月の訪米を前後する一連の恭順劇に他ならない。その第一弾が、米『Newsweek』誌へのインタビューであった。同誌のインタビューが行われたのは、訪米前の4月17日で、4月30日号に掲載。安倍はそこで、「戦時慰安婦として徴用された方たちに、心の底からの同情の意を表さなくてはなりません。一人の人間として私は同情の意を表したいと思います。そしてまた日本国の総理大臣として、慰安婦の方たちに謝罪する必要があります」と述べている。さらに、「日本軍がこの女性たちをそのような状況に強制したのだと信じてるか」という質問には、「戦時慰安婦の問題に関しましては、私の政権は河野談話を守り続けると一貫して申し上げております。私たちは、当時の状況下で慰安婦としての苦難と苦しみを味わうように、これらの女性たちを強制したことに責任を感じています(We feel responsible for having forced these women to go through that hardship and pain as comfort women under the circumstances at the time)」という回答だ。無論そこでは、1ヶ月少し前の米下院議会決議案に対する批判など、おくびにも出していない。そして安倍が、「慰安婦」問題で「女性たちを強制した」と明言した例は、おそらくこれ以外にないであろう。さすがに、『産経』は4月27日付の「正論」欄で、西尾幹二の全体としてはピント外れながら、読んだ安倍が頭を抱えたに違いない以下のような指摘が一部ある論説を掲載している。

「狭義の強制と広義の強制の区別」というような、再び国内向けにしか通じない用語を用い、「米議会で決議がなされても謝罪はしない」などと強がったかと思うと、翌日には「謝罪」の意を表明するなど、オドオド右顧左眄(さべん)する姿勢は国民としては見るに耐えられなかった。そしてついに訪米前の4月21日に米誌「ニューズウィーク」のインタビューに答えて、首相は河野談話よりむしろはっきり軍の関与を含め日本に強制した責任があった、と後戻りできない謝罪発言まで公言した。とりあえず頭を下げておけば何とかなるという日本的な事なかれ主義はもう国際社会で通らないことをこの「保守の星」が知らなかったというのだろうか。

大変な「保守の星」がいたものだが、米国に気に入られるためなら自身の言動といかに矛盾し、整合性を失おうが、そして本心で思っていようがいまいが、さらにはそうした態度が客観的にはどれだけ見苦しいかどうかはお構いなしに、米国に気に入られるためだけのことをペラペラと口にする。これが、首相第一期目で安倍が「慰安婦」問題で演じた迷走劇の結末であるといって過言ではない。実際、安倍が4月26日に訪米し、大統領のブッシュとの首脳会談、及びブッシュと並んでの共同記者会見で示したパーフォーマンスは、「保守の星」への期待者をさらに失望させる内容だったのは間違いない。外務省のHPにある「日米首脳会談の概要」(27日)によると、「慰安婦問題については、安倍総理からの説明に対し、ブッシュ大統領より安倍総理の発言は非常に率直かつ誠意があり、その発言を評価するとの発言があった」とだけ書かれてある。さらに、その直後に開かれた日米首脳の共同記者会見では、「慰安婦」の関連では以下のやり取りがあった(首相官邸のHPより)。

(安倍総理に対し)慰安婦問題について、ブッシュ大統領に説明したのか。またこの問題について改めて調査を行ったり、謝罪をするつもりはあるのか、また(ブッシュ大統領に対し)人権問題について、またアジアの歴史認識についての貴大統領のお考えをお聞かせ願いたい、との問いに対し)
(安倍総理)慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした。自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と述べた。またこのような話を本日、ブッシュ大統領にも話した。
(ブッシュ大統領)慰安婦の問題は、歴史における、残念な一章である。私は安倍総理の謝罪を受け入れる。自分は、河野談話と安倍総理の数々の演説は非常に率直で、誠意があったと思う。私は安倍総理と共に日米両国を率いていくことを楽しみにしている。安倍総理は安倍総理の思うところを率直に語ってくれた。その率直さを私は評価する。我々の仕事は、過去から教訓を得て、将来に生かすということである、そしてそれは正に安倍総理がしっかりとなさっていることである。

日米首脳会談でのやり取りは、性格上、内容がそのまま公表されることはない。だが外務省のHPによれば、少なくとも安倍が切り出して「説明」し、そこで安倍がブッシュに対し「謝罪」を口にしたことは間違いないだろう。また、「同情」は日本でも発言していたが、外国で「極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ない」とは、見方によっては政府の責任を認めたに等しい。無論、繰り返すように、米国の世論を意識してジグザグを繰り替えしながらも軌道修正し、そのまま米国で神妙顔しても、すべては二枚舌に過ぎない。責任意識など、本来は皆無だろう。実際、この訪米は後日談があり、安倍は6年後になって、驚くべきことに07年4月の日米首脳会談で「慰安婦」の話は「まったく出てなかった」と言い出した。『産経』2011年11月23日付のインタビュー記事によると、「(平成)19年4月の日米首脳会談で、慰安婦問題でブッシュ大統領に謝罪されたとされたが」という問いに対し、安倍は「ブッシュ氏が記者会見でそう述べたが、会談ではその話はまったく出ていなかった。そもそも日本が(当事国でもない)米国に謝罪する筋合いの話ではない」と返答している。これについては、2013年3月8日に開かれた衆議院予算委員会で、辻元議員から以下のように追及されている。

辻元 アメリカに行かれて、前回のとき、ブッシュ大統領に対してこの問題で釈明をしたということを、ブッシュ大統領みずからがそのときの記者会見でおっしゃいましたよね、安倍から釈明があったということを。(略)
安倍 今、事実関係において間違いを述べられたので、ちょうどいい機会ですから、ここではっきり述べさせていただきたいと思いますが、ブッシュ大統領との間の日米首脳会談においては、この問題は全く出ておりません。ブッシュ大統領が答えられたのは、その前に私が既に述べている慰安婦についての考え方として、いわば、二十世紀においては戦争や、人権が著しく侵害された時代であった、そして女性の人権も侵害された、残念ながらその中において日本も無関係ではなかった、二十一世紀においてはそういう時代ではない、人権がしっかりと守られていく、女性の人権も守られていく時代にしていきたいということを述べていたことについての評価として述べたわけでありまして、その事実関係が違うということだけははっきりと申し上げておきたいと思います。

おかしな答弁だ。辻元議員が、6年前の訪米時の「記者会見」で、ブッシュが安倍の「釈明」があったと述べたのではないかとだけ念を押したのに、安倍は「日米首脳会談」で「慰安婦」問題は「出ておりません」と答弁している。辻元議員の質問と合致しないまま、『産経』でのインタビューを繰り返しているだけだ。しかし、いくら「事実関係が違う」などと高飛車に出ても、外務省のHPには「慰安婦問題については、安倍総理からの説明に対し」云々とが明記されている。またも安倍は、「この問題は全く出ておりません」などとウソをついたのだ。事実、この問題はいとも簡単に終息する。辻元議員は質問主意書(2013年5月8日)で、外務書のHPに登場する2007年訪米時の「日米首脳会談の概要」を取り上げ、「安倍首相からブッシュ前大統領に対して慰安婦問題に関する何らかの説明があったことを意味するか。また安倍首相から説明があったのは、日米首脳会談での席上ということでよいか」と質した。率直に「意味する」「よい」と答弁すればいいものを、これに対する政府答弁書(同年5月17日)では、いかにも尊大風に「事実関係」を認めている。

御指摘の外務省ホームページの記述及び当該記述中のジョージ・W・ブッシュ米国大統領(当時。以下「ブッシュ大統領」という。)の発言に関する記述は、いずれも平成十九年四月二十七日(現地時間)に行われた日米首脳会談及びその後の昼食会における安倍晋三内閣総理大臣(当時)の説明及びブッシュ大統領の発言を踏まえたものである。

なぜ安倍は、これほど幼稚なウソをついたのか。おそらくいかに米国には卑屈であっても、訪米時に二枚舌で意に反して心にもないことを口にした以上、本人には面白からぬ気持ちが残っていたのだろう。特に、共同記者会見では「申し訳ないという気持ちでいっぱい」などと、一番口にしたくないことを言わざるを得ず、それに先立つ首脳会談でも当然同じような発言をしなかったはずはない。ブッシュの「安倍総理の謝罪を受け入れる」というコメントがあったのも、そのためだ。安倍がいくら「ブッシュ氏」の記憶違いのような言い訳をしても、説得力はない。そして、人前で「謝罪した」と明らかにされたことが、安倍には感情的に不愉快であり、いっそのこと首脳会談で「慰安婦」問題自体が出なかったという設定にしたかったのだろう。安倍にとっては、自分の感情に好都合で、自分だけの夢想で「そうであってほしい」という願望だけが事実なのだから。そのため、「その事実関係が違う」という国会答弁も、確信的虚言というよりは、本気でそう考えていた可能性を排除できないかもしれない。いずれにせよ、この訪米から5ヵ月足らずで安倍は首相の座を投げ出し、「慰安婦」問題をめぐる迷走劇はいったん終息する。野党の一員になった安倍は、二枚舌を使う必要性からもはや解放された。だが、今度は首相時代の発言と正反対の発言を再び繰り返すことで、改めて二枚舌の本性を自ら立証することになる。
6 再びの「極右」・「歴史修正主義者」と白旗
すでに、2007年3月の閣議決定に関する安倍の野党時代の発言を紹介したが、この時期に自身の本音を最も雄弁に語ったのは、2010年10月8日に公開された動画であろう。以下は、それを文字に起こしたものだ。共に登場している新藤義孝は、超党派の極右議員集団「創生『日本』」の副幹事長である自民党衆議院議員。安倍は2009年11月からこの集団の会長になっているが、集団自体は2012年9月以降休眠状態になっている。

安倍 日韓併合100年を迎えて、今、政府は、2つのとんでもないことを企んでいます。1つは、併合100年を迎えて、菅総理の談話を出そうとしているということ。これは、村山談話、河野談話のような、歴史認識を示そうということなんですね。村山談話あるいは河野談話とおそらく相通じているのはですね、日本という国を貶めてみせて、そして、自分は良心があるんですよと、自分の良心を示そうとする、これは極めて卑劣で、そして、国益を損なう行為ですね。自分が、何か、良心のある、優しい人間ですよ、ということを示して、自己満足に浸る。一方、国や私たちの先人たちを、まさに命を賭して守ろうとしたこの国を貶め、その行為すら貶めることにつながるんですね。歴史認識、過去の歴史についての評価は、これは歴史家に任せるべきなんですよ。政府が歴史認識を示そうとして声明を出そうとすればですね、これは政治の場ですから、どうしても政治的・外交的配慮をせざるを得ない。事実の探求よりも政治的あるいは外交的配慮に重点を置かざるを得ないというのが、これが自明の理なんですね。かつ、そうした配慮を行ったところでですね、村山談話、河野談話が結果として示しているように、問題の解決にはまったくならないと。
新藤 日本のためには何も変わっていない。
安倍 何も変わっていない、むしろ・・・
新藤 むしろ手足を縛られてしまった。
安倍 特に河野談話はそうでしたね。日本というのは、従軍慰安婦を性奴隷として、いわば、女性を貶めたと、とんでもない国だということを認めてしまったことになったんですよ。で、これはですね、じゃあ、事実そうじゃないですよということを説明しようとしても、これを払拭するのは大変でした。私が総理の時にもそういう問題があった。これは、強制連行という事実はありませんよと、国会で答弁しただけでですね、アメリカでも大変話題になった。
新藤 従軍ではなかった。
安倍 ええ、ええ。
新藤 それは、確か、歴史教科書を考える若手議員の会、私も幹事を務めておりましたし、幹事長でいらっしゃいましたね。
安倍 あの時ですね、7社の教科書全部に従軍慰安婦の記述が載りましたね。これはおかしい。我々は事実を冷静にみんなで勉強しましたね。その結果、強制連行を示す資料はまったくなかった。
新藤 しかも、証言者は嘘をついていた。
安倍 嘘をついていたということも明らかになった。あれを取りまとめた石原副官房長官はね、私の前で涙を見せましたね。まさか教科書に載るとは思わなかった、間違っていたと、忸怩たる思いがあると、こうおっしゃったんですね。
新藤 それから、河野官房長官は、我々がお尋ねしたらば、事実の確認はしていなかったと、しかし、客観的な全体の状況から事実と推測したというお話しでしたね。
安倍 あれ、唖然としました。私も総理の時に、いわば強制連行、狭義の意味、狭義の意味というのは正確な意味ということで使ったんですが、それを示す事実はないということを答弁もさせていただいた。まあ、それが反響を呼んでしまったんですが。それと同じようなことをですね、今、菅政権はやろうとしている。しかも、それはまさに左翼政権がやろうとしているわけですから、国益ではないんですよ。自分たちの心情を満たそうとしているだけですね。
新藤 ですから、安倍会長がおっしゃるように、歴史の評価は歴史家に任せるべきだと。
安倍 ええ。
新藤 しかも、政府の歴史認識に関わるものは、既に今までもう出してきていて、なぜ今回。日韓の併合100年というのは、韓国側にとっては重要かもしれませんが、我々にとっては、これを積極的にコメントするようなものではないわけだから、だから今回新たに談話を出す必要は、我が国にとってはないじゃないかと、こういう整理でございますか。
安倍 基本的にそうですね。ですから、我々は、この談話発出を阻止したいと、谷垣総裁にも、ぜひ菅さんにそう言っていただきたいと、党として声明を出してもらいたいと申し上げました。

この安倍の発言を知ったら、「慰安婦」にされた犠牲者たちはどう思うだろう。彼女たちはウソつき呼ばわりされており、彼女たちに「数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」(河野談話)と謝罪する行為は、「自己満足」どころか、「極めて卑劣」とまで罵られる。ならば、彼女たちはそもそも最初から謝罪を受ける対象ですらないのか。そして彼女たちは、いったい何をしたからといって、これほどまでに口汚いセカンドレイプを受けねばならないのか。安倍や、傍で嬉嬉として相づちを打っている新藤ら自民党を始めとしたこの国の保守、極右の人格の崩れ方は、ここまですさまじい。しかも彼らのような連中が、あろうことか権力の座にいるのだ。そして、国家の外交とは、多かれ少なかれまずは隣国と正常な関係を構築することに優先順位を置く。だがこの国では、隣国が忘れようとしても忘れられないほどの多大の苦痛と屈辱をもたらされた記憶が鮮明に蘇る節目に、それをもたらした側として「コメントするようなものではない」と平気で言い放つような人物が、最高権力者に収まっている。他者の痛みがわからず、わかろうともせず、あるいはわかり、わかろうとするのは人間性の不可欠の構成要素であるという意識すらないのは、歴史修正主義者の宿痾の一つだが、いまや日本の政治(及びそこに参与している有権者)自体も同じ宿痾を抱えているということなのか。
そもそも「歴史の評価は歴史家に任せるべき」というなら、なぜ安倍らはかくも執拗に「慰安婦」の問題で「事実そうじゃないですよ」などとばかりに介入し続けるのか。まともな歴史家なら「従軍慰安婦を性奴隷として」扱ったというのを定説と見なすが、では安倍はこうした歴史家の判断に「任せる」とでもいうのか。政権を投げ出した後、ほとぼりが冷めたのを見計らったようにまた「持論」を言いたくなったのだろが、これでは以前に一国の首相としての公の発言が、ほぼすべてウソだったと自分で吹聴しているに等しい。わざわざ米国くんだりで述べた、「元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情する」というのもウソ。河野談話を「受け継ぐ」というのも、まったくの口先だけ。当然だろう。あれほど何度もこの種の答弁をしたのだから、本人の言い分に即したら、当の自分自身こそが「卑劣」になってしまう。だが、公人としてこうしたウソを限りなく繰り返す行為こそ、社会常識では「極めて卑劣」と呼ぶのだ。
それにしても、安倍の学習能力のなさはもはや治癒不能なのだろうか。まだ、「狭義」だの「広義」だのにこだわりたいのだろうが、繰り返すように安倍が「強制連行という事実はありませんよと、国会で答弁」しようがしまいが、「性奴隷として、いわば、女性を貶めた」事実の否定には何らならない。「甘言」で「慰安婦」にされた被害者の存在を裏付ける資料も、多く存在する。無論、安倍の言動とは正反対に、旧日本軍が「強制連行」で女性を「慰安婦」にした事実を裏付ける資料・証言も数多く存在する。占領下のインドネシアで1944年に起きたオランダ人女性35人に対する強制連行・強制売春事件を裁いた、オランダ軍のバタビア臨時軍法会議資料、及びこの事件のオランダ政府調査報告書は、その典型だろう。
第一、2007年4月の、「強制性に関する政府の基本的立場は、当該談話のとおりである」という「重い」はずの閣議決定は、どうなったのか。「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」(河野談話)という事実をそれこそ改めて閣議決定したのなら、今さら「強制連行」がどうのこうのと言い出す必要性はない。
それでも、安倍は2012年12月の総選挙後に再び総理の座につく。そして、また一期目のパターンを性懲りもなく繰り返す。「慰安婦」問題で「持論」を述べ、米国などから反発を受けたり、国会で厳しく批判されるとすぐ引っ込めるというパターンだ。最初の威勢の良さは、『産経』の2012年12月31日付に掲載された「日本は今、多くの国から侮られている」というタイトルのインタビュー記事で示されている。
そこで安倍は、「慰安婦」問題について「平成5年の河野洋平官房長官談話は官房長官談話であり、閣議決定していない談話だ。19年3月には前回の安倍政権が慰安婦問題について『政府が発見した資料の中には軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった』との答弁書を閣議決定している。この内容も加味して内閣の方針は官房長官が外に対して示していくことになる」と述べている。
いまさら「閣議決定していない」と言われても、それがどうしたという話だが、2007年4月の閣議決定があるなら、いったい何を「加味」することになるのか。しかも、性懲りもなく河野談話の「修正」の意図を公言した後、外国から例によってまた批判され、警戒の目で見られると、いつものように腰砕けになった。
まず、『ニューヨーク・タイムズ』が2013年1月2日付で、「日本の歴史を否定するさらなる試み」(Another Attempt to Deny Japan’s History)というタイトルで、安倍を「朝鮮半島や他の地域の女性を性奴隷としたことを含む第二次世界大戦中の侵略に対する謝罪を修正しようとしているようだ」と批判。「過去の犯罪を否定し、謝罪を弱めようとしているいかなる試みも、野蛮な戦時中の支配下で惨禍を被った中国やフィリピン、韓国の怒りを買うだろう」と警告している。
さらに、『日経』は1月6日付朝刊で、「オバマ米政権が日本政府に対し、旧日本軍の従軍慰安婦の強制連行を事実上認めた『河野談話』など過去の歴史認識の見直しに関して慎重な対応を求めていたことが分かった。見直しは韓国や中国など近隣諸国と日本の関係の深刻な悪化につながりかねず、オバマ政権が重視するアジア太平洋地域の安定などにも悪影響を与えるとみているためだ」と、ワシントンにおける安倍への懸念を報道。
また、同記事は「米側は昨年末、複数の日本政府高官にこうした意向を伝えた。オバマ政権高官は日本経済新聞の取材に『特に“河野談話”を見直すことになれば米政府として何らかの具体的な対応をせざるをえない』と述べ、正式な懸念を示す声明の発出などの可能性に言及。談話の見直しの動きを強くけん制した格好だ」と伝えている。
1月13日には、シドニーで開かれた日本・オーストラリア外相共同記者会見で、ボブ・カー外相は「慰安婦」問題について触れ、この問題は「近代史で最も暗い出来事の一つ」とした上で、「河野談話の再検討は誰の利益にもならない」と安倍を牽制。
続いて米ニューヨーク州上院議会は1月29日、日本軍「慰安婦」は犯罪であり、第2次世界大戦当時20万人の女性が慰安婦として強制動員されたという事実を確認し、前年6月に建てられたニューヨーク州内の「慰安婦」碑は、「慰安婦」の苦痛を象徴し、人間性に反する犯罪行為を想起させる象徴となったとする内容の決議を採択した。
こうした一連の動きは、それまで河野談話見直しを含む好き放題の発言を繰り返してきた安倍に対するプレッシャーとして働く。少なくとも以降、急速に河野談話の「見直し」という課題は現実性を失い、結局安倍はまたも白旗を掲げる結果になる。そうした安倍の迷走ぶりを追及したのが、2月7日の衆議院予算委員会における民主党の前原誠治議員の質問であった。

前原 先般、一月三十一日の衆議院の本会議で、共産党の志位委員長の質問に対して答えられた安倍総理の答弁、非常に奇異に感じました。どういうものであったかということでありますけれども、志位委員長が、河野談話、従軍慰安婦に関する質問をされたわけでありますけれども、それに対して安倍総理は、いわゆる河野談話は当時の官房長官によって表明されたものであり、総理である私からこれ以上申し上げることは差し控え、官房長官による対応が適当であると考えます。むちゃくちゃおかしい答弁なんですよ。つまり、誰が談話を出したかということで、官房長官が談話を出したわけであって、菅さんがこの問題に対してずっと関心を持たれていたという記憶は全くありません。菅さんのいろいろな議事録を読ませていただいたって、官房長官がこの問題に関心を持っておられたということはない。総理である安倍総理が、御自身が、このことはまさにみずからの政治信念としてやってこられた問題ではないですか。したがって、このことを聞かれたら、談話を出したのは官房長官だから官房長官に答えさせるということではなくて、御自身が答えられることが当たり前のことではないですか。
安倍 いわゆる河野官房長官談話でありますが、この官房長官談話は閣議決定されたものではなく、当時の河野官房長官が、官房長官の談話として出されたものであります。この談話については、とかく、日本と韓国の外交問題に発展をしていくことにつながっていくわけであります。そこで、私としては、また政府としては、この問題についていたずらに外交問題、政治問題にするべきではない、こう考えております。その観点から、官房長官の談話でありますので、安倍政権においては菅官房長官がこの問題についてはお話をさせていただく、お答えをするということを決めたところであります。
前原 今までの総理の発言をちょっと御紹介しましょうか。今の答弁は国民に対して全く説得力のないものだということがわかると思います。ある意味では、これは政治家安倍晋三という方がライフワークで取り組んできているテーマなんですよ。平成9年5月27日、総理を二回やられているお方が決算委員会の分科会でこのことをやられている。一年生のときだと思います。主張は一貫しているんですよ、今まで、総理のおっしゃっていることについては。それは申し上げます。例えば、この5月27日の決算委員会の分科会でいうと、いわゆる従軍慰安婦の強制性について質問されているんですね。河野談話の前提となっているものが、いわゆる16人の慰安婦の方々の聞き取りになっている、あるいはほかの方々の証言になっているけれども、そのほかの方々の証言がうそであった、でっち上げであったということをまさにおっしゃった上で、この河野談話はそういったものを前提としているので見直すべきだということをおっしゃっているんです。そのとおりですよね、今まで総理がおっしゃってきたことは。それで、予算委員にもおられますけれども、辻元清美代議士が質問主意書を出されている。先ほどの河野談話というのは閣議決定されていません、おっしゃるとおり。閣議決定されていませんけれども、辻元さんの質問主意書に対する政府答弁、これは閣議決定ですね。これについては、河野官房長官談話に関連して、政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかったということを書いてあるわけです。これは閣議決定されている。この二つをもって、後でまた聞きますけれども、政治問題化、外交問題化するとおっしゃっているのであれば、これは自己矛盾になるわけでありますけれども、総理は、一回目の総理をやめられて、そしてその後もこの問題については何度も何度も発言されているんです。去年の5月12日、産経新聞の「単刀直言」というインタビュー。かつて自民党は歴代政府の政府答弁や法解釈などをずっと引きずってきたが、政権復帰したらそんなしがらみを捨てて再スタートできる。もう村山談話や河野談話に縛られることもない。これは大きいですよ。これは総理がおっしゃっているんです。去年の5月ですよ。これは一議員であったということを酌量したとしても、次以降は自民党の総裁選挙のときにおっしゃっている。申し上げましょうか。去年の9月12日、自民党総裁選挙立候補表明。強制性があったという誤解を解くべく、新たな談話を出す必要があると御自身がおっしゃっている。菅さんがおっしゃっているんじゃない、御自身が総裁選挙でおっしゃっている。総裁になれば政権交代で総理になる、そういう心構えで総裁選挙に出た総理がおっしゃっている、御自身が。そして、討論会、9月16日。河野洋平官房長官談話によって、強制的に軍が家に入り込み女性を人さらいのように連れていって慰安婦にしたという不名誉を日本は背負っている、安倍政権のときに強制性はなかったという閣議決定をしたが、多くの人たちは知らない、河野談話を修正したことをもう一度確定する必要がある、孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない。総裁選挙の討論会でおっしゃっている。これは御自身の発言ですよね。
安倍 ただいま前原議員が紹介された発言は全て私の発言であります。そして、今の立場として、私は日本国の総理大臣であります。私の発言そのものが、事実とは別の観点から政治問題化、外交問題化をしていくということも当然配慮していくべきだろうと思います。それが国家を担う者の責任なんだろうと私は思います。一方、歴史において、事実、ファクトというものがあります。ファクトについては、これはやはり学者がしっかりと検討していくものであろう、こう申し上げているわけであります。そして、その中におきまして、例として挙げられました、辻元議員の質問主意書に対して当時の安倍内閣において閣議決定をしたものについては、裏づけとなるものはなかったということであります。いわば強制連行の裏づけとなるものはなかった。でも、残念ながら、この閣議決定をしたこと自体を多くの方々は御存じないんだろう、このように思います。ですから、そのことも踏まえて、いわば歴史家がこれを踏まえてどう判断をしていくかということは、私は必要なことではないだろうか、こう思うわけであります。しかし、それを総理大臣である私自身がこれ以上踏み込んでいくことは、外交問題、政治問題に発展をしていくだろう。だからこそ、官房長官が、もう既に記者会見等で述べておりますが、歴史家、専門家等の話を聞いてみよう、こういうことであります。私は、これが常識的なとるべき道であろう、このように考えております。
前原 幾つかおかしな点がありますね。総理は、一度総理をやられた方なんですよ。総理をやった重みの中で、自分の御発言というものがどういう外交問題、政治問題化するということはわかられた上で総理をやられたんでしょう。そういう意味においては、総理をやられた方というのは、安倍さん、一度やられた方が言っている言葉というのは、今の答弁では通用しませんよ。だって、あなたは総理をやられたんだから。そして、この間の総裁選挙で、まさに、自分が総理になって、日本国の総理大臣に再びなるんだという思いの中で発言をされていることなんですよ。発言をして、総理になったら、総理になったから外交問題、政治問題になるからやめますというのは、自己矛盾じゃないですか。そうじゃないですか。しかも、言ってみれば、この発言というものが外交問題、政治問題化するということをみずから認めているようなものじゃないですか。一回総理をやって重みを知っている方が、総裁選挙でこのことについて言及して、ここまで言っているんですよ、孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかないということを総裁選挙のときにおっしゃっているんですよ。それで総理になったんじゃないですか。総理になったら政治問題化、外交問題化する、そんなことをわからずに、あなたは総裁選挙のときに発言したということになりますよ。
安倍 大分私の意図をねじ曲げて御発言をされているんだと思いますよ。整理をいたしますと、まずは、さきの第一次安倍内閣のときにおいて、質問主意書に対して答弁書を出しています。これは安倍内閣として閣議決定したものですね。つまりそれは、強制連行を示す証拠はなかったということです。つまり、人さらいのように、人の家に入っていってさらってきて、いわば慰安婦にしてしまったということは、それを示すものはなかったということを明らかにしたわけであります。しかし、それまでは、そうだったと言われていたわけですよ。そうだったと言われていたものを、それを示す証拠はなかったということを、安倍内閣においてこれは明らかにしたんです。しかし、それはなかなか、多くの人たちはその認識を共有していませんね。ただ、もちろん、私が言おうとしていることは、20世紀というのは多くの女性が人権を侵害された時代でありました。日本においてもそうだったと思いますよ。21世紀はそういう時代にしないという決意を持って、我々は今政治の場にいるわけであります。女性の人権がしっかりと守られる世紀にしていきたい、これは不動の信念で前に進んでいきたいと思っています。そのことはまず申し上げなければいけないし、そしてまた、慰安婦の方々が非常に苦しい状況に置かれていたことも事実であります。心からそういう方々に対してお見舞いを申し上げたいと思う、この気持ちにおいては歴代の内閣と変わりはない。しかし、今の事実については、そうではない、それを証明するものはなかったということをはっきりと示したわけであります。そして、私がずっと言い続けてきたことは、これは違うという事実があるのであれば、それはある程度アカデミックな世界においてもちゃんと議論をしてもらいたいということであります。しかし、今、私が総理大臣として正面からこの問題について、先ほど申し上げましたような言いぶりになることによって、結果として外交問題になっていくんですよ。ずっとそうだったじゃないですか。それはとるべき道ではなくて、これは私は何もやらないとかそういうことではなくて、官房長官において、安倍内閣の官房長官ですよ、安倍内閣の官房長官において、どう対応していくかということについて検討していくということ。官房長官が勝手にやるわけではないですから、私のもとで官房長官が対応していく。これは総理大臣の口から発信するべきことではなくて官房長官から発信すべきものだという仕分けを、この安倍政権においては行ったということであります。
前原 ねじ曲げていないんですよ。先ほどから申し上げているように、総理の主張はずっと一貫しているんですよ、このことについては。つまりは、河野談話の前提となったものについての、その強制性、広義、狭義の議論がありましたけれども、狭義のという意味においては、それは証拠がなかったと。そして、辻元議員の質問主意書にお答えになって、そういう軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接、記述は見当たらなかったと閣議決定したんだ、だから、総裁選挙のときにも、みずからが、そういう事実を知らない方が多いから新たな談話を出す必要があるんだということの中でこの議論になっているんでしょう。だから、そのことを私は、その前提で談話をつくる、先ほど少し違った答弁をされました。安倍内閣の考え方として、いわゆる談話を出すのは菅さんであって、安倍総理の、安倍内閣の考え方を踏まえたものなんだ、その前提は、今まで主張されたように、今までの河野談話、そして辻元議員に対する閣議決定、これを踏まえたものということで、あとは学者に議論してくれという前提でいいんですね。(略)確認します。河野談話プラス閣議決定というものを踏まえた談話ということを指示されているということでいいですね。それを、学識経験者も踏まえて、新たな談話をということでいいですね。
安倍 それが談話という形がいいのかどうかということも含めて、まずは学識経験者の方々からいろいろなお話を伺わなければならないということです。つまり、河野談話がありました。そして、この河野談話に対して安倍政権のときの閣議決定がありました。これをあわせたものとしてどう考えていくかということについて、有識者の方々のまずはお話を伺っていくということになっていきます。
前原 先ほど申し上げましたように、繰り返しになりますけれども、自民党総裁選挙で、政権交代がかなり確実視されている総裁選挙でおっしゃっていることについてですから、そこは、もし確信犯で信念を持ってやってこられたのであれば、堂々と私は答弁されるべきだと思いますよ。そのことだけ申し上げておきます。

しかし、よくもこれだけ極度に説得力が乏しい逃げ口上を次々に思いつくものだ。「信念」などなく、外圧があるとすぐ白旗を揚げる一方で、妄言を繰り返しているだけの人物だからこそ、逃げ口上は不可欠となるのだろう。だが、「談話は当時の官房長官によって表明されたもの」だから「官房長官による対応が適当」だの、「総理大臣として踏み込んでいくこと外交問題、政治問題に発展をしていく」から「歴史家、専門家等の話を聞いてみよう」だのといった言い訳が、まがりなりにも議会制民主主義を制度化したどの国で通用するだろうか。
河野談話とは官房長官の一存ではなく、当時の内閣全体の責任で発表した以上、それは外交上の公約に等しい。それを「受け継ぐ」と言明した以上、河野談話をめぐる諸問題は当然内閣の最高責任者である首相の責務に帰するのだ。だからこそ安倍は、2007年3月の河野談話についての閣議決定を、自分の手柄のように吹聴できているのではないのか。
しかも、安倍がそれほど「外交問題、政治問題に発展」するのを忌避したいのであれば、なぜ韓国側の反発が容易に予測可能な2007年3月の無意味な閣議決定に手を染め、それを二期目になっても吹聴するのか。
2015年1月29日の衆院予算員会で、安倍は米国教科書の「慰安婦」記述について、「がくぜんとした」だの「訂正すべきことは訂正すべきだと発言してこなかった結果、米国でこのような教科書が使われている」などと発言。教科書を発行した米マグロウヒル・エデュケーション社に外務省を使って是正するよう抗議させているが、これこそ「外交問題、政治問題に発展」させる行為ではなかったのではなかったか。
その前年の10月には、日本自身が賛成した1996年採択の「日本軍性奴隷制度報告書」(クマラスワミ報告)に関し、『朝日』が吉田「証言」を「修正」したという理由にもならない理由で、安倍はあろうことか外務省に報告作成者のクマラスワミ弁護士本人へ「修正」を要求させたが、同じようにこれによって「外交問題、政治問題に発展」させたのではなかったのか。
一事が万事この調子で、信憑性や合理性、真実性、誠実さがすべて極度に乏しい安倍の公的発言についていちいち指摘するのも空しくなるが、「女性が人権を侵害された」などということだけは軽々しく口にしない方がいい。「軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけ」、「従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」という「官房長官」の談話に対し、「国を貶め」るだの、「極めて卑劣」だのと陰口をたたいたのが安倍ではないか。当の安倍にそんなことをしたり顔で言われたら、戦時中に人権を侵害された当の女性たちがどれほどいたたまれない気持ちになるか、想像するのは困難ではないからだ。
7 「追い風」の中で
安倍は、「安倍政権においては菅官房長官がこの問題についてはお話をさせていただく」どころか、自身の「ライフワーク」である河野談話の毀損、あるいは見直しの意図を第二期目のスタートから隠してはいなかった。前述の2012年末の『産経』でのインタビューでは、早々と「専門家の意見などを聞き、官房長官レベルで検討したい」と述べ、事実上、何らかの形で無傷にしてはおかないと宣言している。無論、繰り返すように本気で見直すほどの度胸はないから、二期目では迂回的な手段を選択した。すなわち、「検証」である。前述の前原議員による質問の際、安倍の腹心の官房長官である菅義偉は、「前回の安倍内閣でこの問題について閣議決定をした。そうした経緯も踏まえて、内外の有識者だとか歴史学者、そうした人たちが今研究をしているわけでありますから、これは当然、学術的観点からもさらなる検討を重ねていく必要があるだろう、これが今の私たち安倍内閣の立場であります」と述べている。菅は、安倍が会長の「創生『日本』」副会長、安倍が特別顧問の「日本会議国会議員懇談会」副会長、安倍が事務局長をしていた旧「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が改名した「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」のメンバーであり、同じ極右議員として、安倍と「慰安婦」問題の認識は同一と見なしていい。こうした安倍や菅が称する「検証」が、最初から「学術的観点」に留まるはずもなかった。2014年6月20日、安倍内閣は河野談話の「検証結果」と称し、「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯:河野談話作成からアジア女性基金まで」と題した「報告書」を公表した。検討委員を務めた5人のうち、「歴史学者」とみなされたのは前述の秦郁彦であり、最初から何らかの「結論ありき」と見なされた。そしてそのいかがわしさは、「報告書」の冒頭に登場する以下の記述で早くも証明されていただろう。

河野談話については2014年2月20日の衆議院予算委員会において、石原元官房副長官より、1.河野談話の根拠とされる元慰安婦の聞き取り調査結果について、裏付け調査は行っていない、2.河野談話の作成過程で韓国側との意見のすり合わせがあった可能性がある、3.河野談話の発表により、いったん決着した日韓間の過去の問題が最近になり再び韓国政府から提起される状況を見て、当時の日本政府の善意が活かされておらず非常に残念である旨の証言があった。

これだと、あたかも韓国側の事情のせいで「検証」が余儀なくされたかのような表現だが、こんな言いがかりめいた主張を振りかざして、隣国の反応がどのようなものになるのか少しは考慮する余地もなかったのか。何よりも河野談話によって「いったん決着した日韓間の過去の問題」を20年近くに渡って蒸し返し続け、韓国の被害者を侮辱し、かつ一貫して「歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ」(河野談話)るのを、教科書からの「慰安婦」記述削除等、妨害し続けているのは安倍と自民党(及びその片割れの公明党)だ。いったい何のいわれがあって、日本の極右勢力が策動し続けている河野談話の毀損の一環に他ならない「検証」の理由を、被害国である韓国の側に押しつけるのか。そもそも河野談話は学術論文でなく、日韓の本来公表はされない実務者同士の外交交渉を不可避とした以上、一方的に当事国が「検証」と称して「すりあわせ」がどうのこうのと内情を公表するなどというのは、外交上、韓国側の信頼を損ねる行為だろう。ここでは、「報告書」の内容については以下の点だけを指摘するのに留める。
1、以前から『産経』等の右派メディアが主張していた、虚偽宣伝が破綻した。特に『産経』は、河野談話が吉田「証言」を「下敷き」にしている(2014年5月21日)などというまったくのデマを口実に河野談話を攻撃してきたが、報告書では、吉田「証言」が談話の作成には何ら使われなかった事実が示されている。
2、これも『産経』の報道に見られる「談話は裏づけされていない『慰安婦』の証言を使用している」「『すりあわせ』で韓国側の意向が無理に談話に反映されている」といった虚偽宣伝が、すべて破綻した。前者については、証言の聞き取りが行われたのは談話がほぼ完成をみた後であり、後者については韓国側に対し「歴史的事実を曲げた結論を出すことはできない」と日本側が言明していた。つまり安倍は、「藪をつついて蛇を出す」式のヘマをやらかしたといえ、逆に河野談話見直しを主張する従来から繰り返されてきた言い分を自ら、つぶした形となった。だが一方で、本人が溜飲をさげたであろう以下のような側面もあったのは否定できない。
3、「一連の調査を通じて得られた認識は、いわゆる『強制連行』は確認できないというものであった」という、安倍好みの河野談話の本質とは関係のない無意味な記述が盛り込まれている。
4、 本来は公表しない日韓の交渉過程に登場する「(韓国側が)金銭的な補償は求めない方針だ」という相手側の姿勢を暴露し、韓国政府をけん制する形になった。かつそうした裏事情を細かく列挙することで、「河野談話の内容が事実に基づいたというよりは外交交渉の結果であった」ような印象を与え、「談話の意義を低めようという意図」(『ハンギョレ』電子版2014年6月20日)がある程度実現した面は否定できないだろう。
だが、そもそも「報告書」では、「日韓間でこのような事前のやりとりを行ったことについては、……マスコミに一切出さないようにすべき」と日本側から提起があったと明記されている。もはや安倍がやらせたこのような「検証」とは、もはや修復できないほどの決定的な不信感と不快感を韓国側に与える結果になったのは想像に難くない。いったい隣国に対し、そうした挑発的な態度を取ることが、日本にとって何のメリットになるのか。一方で、安倍が仕組んだ河野談話「検証」が疑いの余地なく演じた役割は、皮肉にも他ならぬ安倍自身の「卑劣」ぶりを万天下に証明したという点であったろう。つまり前出の1とは、『産経』等の右派メディアだけではなく他ならぬ安倍自身にも向けられていたにもかかわらず、その事実を指摘されると、またも不可解な言動に終始する結果となった。以下、2014年10月3日に開かれた、衆議院予算委員会における、辻元議員との「検証」をめぐるやり取りの抜粋。

辻元 総理にお伺いしたいんですが、総理はかつて、この問題、何回も国会で発言をされ、また、決算委員会でこういう発言をされているんですね。「この河野談話について、ほとんどの根拠は、この吉田清治なる人物の本あるいは証言によっているということであります、その根拠が既に崩れているにもかかわらず、官房長官談話は生き、そしてさらに教科書に載ってしまった、これは大きな問題である」要するに、河野談話は吉田清治なる人の証言が根拠で既に崩れているけれども、官房長官談話は生きているというのは問題だというように御指摘をなさっているんです。今回、総理みずからが調査された結果、この吉田清治なる人物の証言、河野談話に何か影響を及ぼしているわけではないということですから、この当時の総理の御認識は間違いというか、違っていたということになりますが、いかがでしょうか。
安倍 まず、そのときの発言は、私、まだ、質問通告がございませんから、わからないのでお答えをしようがございませんが、しかし、河野談話について、そこでは、強制性については事実上認めていない、こちら側は。韓国側とのやりとりの中でそうなのでありますが。河野洋平官房長官がいわば記者会見の中でそれを事実上お認めになったということであります。そして、それとの、河野官房長官談話と河野官房長官のお答えが合わさって、いわばイメージがつくり上げられているのは事実であります。それに吉田証言がどのようにかかわっていたかはわかりませんが……(辻元議員「わかりませんというのは、何で」と呼ぶ)いや、吉田証言が河野官房長官のお答えにどのようにかかわっていたかはわかりませんが、吉田証言自体が強制連行の大きな根拠になっていたのは事実ではないか、このように思うわけであります。
辻元 もう一回申し上げますけれども、正式の国会の場で総理は、この吉田証言を根拠にしている河野談話、これは問題だという趣旨の発言をされているので、(略)ですから、関係がなかったということは、これをお取り消しになる、この認識は違っていたということかと聞いているんですよ。これは、韓国も含めて、世界じゅう見ていますよ。はっきりおっしゃった方がいいですよ、今まで間違っていたということを。河野談話は吉田証言が根拠で崩れていると既に国会でおっしゃっているわけですよ。いかがでしょうか。(略)御自分の認識違い、今回の検証で明らかになったじゃないですか。認められたらどうですか。
安倍 私、まだその発言自体を精査はしておりません。いずれにせよ、今申し上げましたように、河野談話、プラス、いわばそのときの長官の記者会見における発言により、強制連行というイメージが世界に流布されたわけであります。つまり、その中において、河野談話自体が、事実上、いわば強制連行を認めたものとして認識されているのは事実でありますが、文書自体はそうではない。いわば、河野談話それ自体について今回検証したわけでありますし、我々は、河野談話については継承するというふうに申し上げているところでございます。

相変わらず、安倍が「私、まだその発言自体を精査はしておりません」といった理解不能な言葉を並べながら虚言を繰り返す以上、こちらも逐次指摘せざるをえないが、「検証」対象となった河野談話が吉田「証言」と無関係であると判明した以上、返答に窮したのだろう、今度は河野官房長官の、当時の「記者会見」を持ち出した。
この「記者会見」とは、「今年6月に政府が発表した河野談話の検証報告によると、河野氏は93年8月4日の談話発表時の会見で、強制連行があったのかと記者に問われ、『そういう事実があったと。結構です』と述べていた。一方で河野氏はこの時、別の質問に『強制ということの中には、物理的な強制もあるし、精神的な強制というものもある』『ご本人の意思に反して、連れられたという事例が数多くある』などと答え、日本の植民地だった朝鮮半島などで、慰安婦が意思に反して「強制」的に集められた例があるとの認識を示していた」(『朝日』2014年10月21日付)という。
そもそも安倍が「河野談話について、そこでは、強制性については事実上認めていない」などとウソをつき、最初から共通した事実関係の認識に立とうとしない以上、何を質問してもまともな答弁を期待しようがないが、安倍が言うように「河野官房長官談話と河野官房長官のお答えが合わさって、(強制連行の)いわばイメージがつくり上げられ」たのではなく、「記者会見」での発言のみが「イメージ」に関連した問題となろう。もし「河野談話自体が、事実上、いわば強制連行を認めたものとして認識されているのは事実でありますが、文書自体はそうではない」としたら、なおのことだ。
である以上、「河野談話、プラス、いわばそのときの長官の記者会見における発言により、強制連行というイメージが世界に流布された」のなどという事実無根の話が、なぜ河野談話は吉田「証言」を「根拠」としたかのような安倍の説に対する、辻元議員の疑問への回答になるのか。
結局安倍は、無意味で不正確な発言を羅列することで時間切れに持ち込み、吉田「証言」が「河野談話に何か影響を及ぼしているわけではない」という「検証」でも実証された事実を認めることから逃亡したに等しい。だが、「検証」の後に安倍が表明せざるをえなかったのは、改めての「河野談話の継承」であった。
これでは、いったい何のための「検証」であったのか理由が判然としなくなり、しかも客観的には、長年の吉田「証言」を河野談話否定の根拠とする論法がもはや常識的に考えれば使えなくなった以上、安倍にとっては自分で自分の首を絞める結果になった面があるのは否定できまい。だが、安倍は、結果として2014年夏以降の右派メディアのすさまじい規模の大宣伝で救われる。あるいはその渦中でなされた上記答弁は、こうした大宣伝に気を良くして居直った面も濃厚であったかもしれない。
『朝日』は2014年8月5、6日付で、「慰安婦問題を考える」と題した検証記事を特集し、「吉田(清治)氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します」と訂正した。これを期に、『産経』や『読売』を筆頭に、『夕刊フジ』、『週刊新潮』、『週刊文春』、『週刊ポスト』、『SAPIO』、『Will』、『正論』、『Voice』といった媒体が一団となり、戦後の言論史上、一新聞社に加えられた攻撃としては空前の規模に達し、異様なボルテージの高さで「国を貶めた」だの「反日」「売国」といった前時代的な罵声を『朝日』に浴びせた。
こうしたメディアの主張が基本的に安倍の夢想と次元を同じくしている以上、いかに虚偽に満ち、事実よりむき出しの悪意が支配していようが、流出する情報量で圧倒したことで、安倍にとっては自身の論理破綻を見えなくする絶大な援護射撃となったのは間違いない。そのような数々の記事は、「書き得」にしないためにもその悪質さの再検証がなんとしても必要だろうが、ここでは余裕はないので割愛する。それでも、共通する見当違いだけは指摘しておく。その典型が『産経』の同年8月6日付「主張」で、吉田「証言」が『朝日』も認めたように虚偽であった以上、「河野洋平官房長官談話などにおける、慰安婦が強制連行されたとの主張の根幹は、もはや崩れた」のだそうだ。
いったい、多くはない本文量の河野談話のどこに「慰安婦が強制連行された」などと書かれてあるのか。談話が示すように、「本人たちの意思に反して集められた」のなら「強制連行」と解釈される余地は十分あるが、右派メディアは安倍と同様、吉田「証言」がイメージするような「人さらい」の如き形態以外、そのようには解釈しない。河野談話に書かれてもいない「主張」をいくら吉田「証言」を持ち出して「崩れた」などと断定しても、書かれていない以上、「崩れ」ようがない。
しかもそのつい数ヶ月前、安倍自身がわざわざ「検証」して、最終的に河野談話が吉田「証言」と何の関連性もない事実をせっかく明らかにしてくれたのに、その労を無駄にするような真似をすべきではない。そんなことでは、安倍の御用新聞というせっかくの役割も果たせないではないか。もっとも御用新聞だから、「証言」が「虚偽」だったから談話も「崩れ」たなどとおかしな断定をするのかもしれない。そんな論法は吉田「証言」以上の虚偽であって、「崩れた」のは河野談話の「主張」ではなく、『産経』の「主張」自身だろう。
他の右派メディアも多かれ少なかれこの調子で、肝心の『朝日』は腰砕けになって言われ放題に甘んじた。それでも、『朝日』の「慰安婦」報道について検証する「第三者委員会」は2014年12月22日、「報告書」を発表したが、東京大学大学院情報環境教授の林香里委員がそれとは別個に独自発表したレポート「データから見る『慰安婦』問題の国際報道状況」は、一連の右派メディアの度が過ぎた『朝日』バッシングを、根底から覆す力を秘めていたように思える。
このレポートは、1990年以降の米・英・仏・独・韓5カ国の新聞の「慰安婦」報道を検証した前例のない緻密さが特徴の労作であるが、ここでは結語の、以下の部分だけの紹介に留める。

この国際報道調査のもっとも端的な結論は「朝日新聞による吉田証言の報道、および慰安婦報道は、国際社会に対してあまり影響がなかった」ということになるかもしれない。可能な限りの客観的データを示したつもりであるが、慰安婦問題をここまで混迷させ、国内社会及び国際社会を分断しかねない状況に追い込んでしまったのは、朝日新聞のせいだという声も、依然あるだろうと思う。しかし、こうした慰安婦問題への朝日の報道の影響の存否をめぐる議論は、慰安婦問題の一部でしかない。調査者としては、朝日新聞の報道の影響が限定的であったという結論を出したことは、すなわち、慰安婦問題の解決に向けて、私たちが再びスタート地点に立ったことを意味するのではないかと考えている。

国民に対し、『朝日』は「国賊」であり、「国を貶めた」とあらん限りの罵声を上げて憎悪を扇動した以上、これらの右派メディアは、林教授のこのレポートに対し「客観的データ」に拠って反論する道義的責務を負う。このレポートの結語を認めるのであれば、彼らはおそらくは国民を欺くデマのプロパガンダに血道を上げるという、悪質極まる行為に手を染めた事実を認めねばならなくなるからだ。無論、そうした責務すら彼らが意識すらするはずがないのは、『産経』や『読売』を筆頭にしたこれらメディアの今日の紙(誌)面が、雄弁に示している。だが、それ以上に指弾されるべきは、「慰安婦」問題があたかも「捏造」されたかのような右派メディアのデマに悪乗りして、それを自己正当化の手段にし始めた安倍の所業だろう。
終章 悪行の栄え
安倍は前出の辻元議員が登壇した同じ2014年10月3日の衆議院予算委員会で、自民党の「お仲間」である稲田朋美と以下のようなやり取りを交わしている。

稲田 私は、弁護士時代からこだわってきたことがあって、それは、日本の名誉を守るということであります。それは、殊さら、日本がよいことをしたとか、日本はすぐれた国であるということを言うのではなくて、いわれなき非難に対しては断固反論をするという当たり前のことを言ってきたわけであります。ことしの八月五日、慰安婦問題について、朝日新聞が三十二年たって誤りを認め、謝罪をいたしました。これにより、慰安婦を奴隷狩りのように強制連行したという吉田清治氏の証言が虚偽であって、さらには、慰安婦と挺身隊を混同したということは誤りだったということが認められたわけであります。・・・(略)・・・しかし、現在、国際的に慰安婦問題は非常に憂慮すべき事態になっております。国連勧告やらアメリカの非難決議、そして、慰安婦の碑、慰安婦の像が建てられています。そこで何が言われているかといいますと、戦時中の日本が二十万人の若い女性を強制連行して、性奴隷にして監禁をした。さらには、あげくの果てに殺害までしたという、あたかも日本が誘拐監禁、強姦致死の犯罪集団であるという汚名を広められているわけですが、それは全くの虚偽であるということであります。この吉田証言の虚偽を根拠として、日本の名誉は地落ちていると言ってもいいと思います。・・・(略)・・・このように世界じゅうで広まっている、日本に対するいわれなき不名誉な汚名を不作為によってそのままにしておくことは、私は、将来に禍根を残すというふうに思っております。総理は、若手議員のころから、教科書から慰安婦の記載を削除して日本の名誉を回復するために尽力をされていたわけですけれども、今回の慰安婦問題をめぐる状況、そして、世界じゅうで地に落ちているこの日本の名誉を回復するために、政府としてどのように取組まれるのか、お伺いをいたします。
安倍 本来、個別の報道についてコメントすべきでないと思っておりますが、しかし、慰安婦問題については、この誤報によって多くの人々が傷つき、悲しみ、苦しみ、そして怒りを覚えたのは事実でありますし、ただいま委員が指摘をされたように、日本のイメージは大きく傷ついたわけであります。日本が国ぐるみで性奴隷にした、いわれなき中傷が今世界で行われているのも事実であります。この誤報によってそういう状況がつくり出された、生み出されたのも事実である、このように言えますし、かつては、こうした報道に疑義を差し挟むことで大変なバッシングを受けました。

いくら「身内同士」の気軽さがあるといっても、不規則発言を連発するのは控えるべきだ。米国詣でで、「辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱい」なとど神妙顔をした安倍が、今度は「多くの人々が傷つき、悲しみ、苦しみ、そして怒りを覚えた」のは日本人自身だと言い出したことに、整合性を見出すのはほぼ不可能だろう。加害と被害の関係性が明白な「慰安婦」問題で、両者が共に「傷つき、悲し」むなどということはあり得ない。
安倍のこうした発言に象徴される「人間として、また総理として」の致命的な欠落部分は、あたかも自分たちこそ被害者であるかのようなふりをする言動に接したなら、「慰安婦」にされた被害者がいったいどのような思いに至るかという想像力すら微塵も持ち合わせていない点にある。彼女らの存在も眼中にないかのようなそうした言動は、戦後70年を前にして、この国のモラルハザードが究極まで進行した現実を物語っていたのではないか。
しかも、安倍の発言には、事実関係が何ら反映されていない。吉田清治著『私の戦争犯罪』が出版されたのは1983年だが、そのことによって「慰安婦」問題が社会的に大きな反響を呼んだ形跡はない。『朝日』は1992年8月以降、吉田「証言」を取り上げず、1997年3月31日付で、吉田「証言」を「真偽は確認できない」として訂正記事を出す。
『産経』の大阪社会部が『人権考−心開くとき』という本を刊行し、その中で「終わらぬ謝罪行脚」というタイトルで、「1992年(平成4年)8月、ソウル市内で開かれた集会。元従軍慰安婦、金学順さん(69)の前で、深々と頭を下げる日本人がいた。『申し訳ありませんでした……』太平洋戦争中、山口県労務報国会下関支部の動員部長だった吉田清治さん(79)だった」云々と、吉田「証言」を肯定的に紹介した単行本を出版したのは、1994年の5月だ。二言目に『朝日』の誤報を強調する『産経』ですら97年3月になっても、「傷つき、悲しみ、苦し」んだ形跡はこれもないから、また安倍が妄想を稲田に吐き出しただけだろう。
事実関係として、国内外で「慰安婦」問題が衝撃をもたらしたのは、 1991年8月に韓国で金学順さんが元「慰安婦」として名乗り出し、同年12月に金さんを含む三人の元「慰安婦」の女性が日本政府を相手取って賠償を要求する訴訟を起こしたのがきっかけだ。
吉田「証言」はその頃には専門家から資料価値も否定されており、別に吉田「証言」によって「日本のイメージは大きく傷ついた」とか、「言われなき中傷」が世界ではびこるといった「状況がつくり出された、生み出された」というのは、断じて「事実」でも何でもない。もし、『朝日』の「この誤報によって多くの人々が傷つき、悲しみ、苦しみ、そして怒りを覚えた」というのが、昨年8月の『朝日』の「訂正」によってだとしたら、それは「多くの人々」が右派メディアに扇動されての結果だろう。
前出の林委員の「レポート」でも、興味深い結論が示されている。

吉田証言の欧米各紙への影響を探るため、キーワード検索で「Seiji Yoshida」を検索した。その結果、調査期間全体で7回出現し、記事にして6本に引用および言及が見つかった。しかし、6本のうち、3本は、2014年8月の朝日新聞の吉田証言記事取り消しに関するものだったので、これまでの慰安婦問題のイメージ形成に関して限定するならば、3本のみ該当することになる。これらの記事のうち、目立ったものは、1992年8月8日付ニューヨーク・タイムズの吉田清治氏への単独インタビューであった。このインタビューでは、吉田氏に「強制連行」の様子を聞くとともに、後半部分では秦郁彦氏の反論、済州島での調査も併記しつつ、当時の日本の慰安婦問題の当時の全容を詳しく記述している。
つぎに、吉田証言を多く引用しているG.HicksのThe Comfort Women. Japan’s Brutal Regime of Enforced Prostitution in the Second World Warの言及回数を調べたが、こちらも4回のみで、直接大きな影響を与えたという認定はできなかった。
他方で、欧米の慰安婦報道の一連の記事を確認していくと、「吉田清治」という名が出ておらず、Hicksの著作が引用されていない場合でも、日本軍による慰安婦の「強制連行」のイメージは繰り返し登場する。こうしたイメージは、表II-10 で見たように、朝鮮半島以外で被害に遭った慰安婦が一定の割合で引用されていることを考え合わせると、日本軍の強制性のイメージは、20年のなかで輻輳的につくられていったと考えられる。したがって、今日、欧米のメディアの中にある「慰安婦」というイメージが、朝日新聞の報道によるものか、他の情報源によるものかというメディア効果論からの実証的な追跡は、いまとなってはほぼ不可能である。
・・・(略)・・・
(米韓の国際関係に影響力をもつ専門家である)彼女/彼らの言葉によると、米国の場合、
吉田清治氏による強制連行の話は、日本のイメージにほとんど影響ないとする一方、慰安婦問題は一定の悪影響を与えているとする意見が多く見られた。つまり、彼女/彼らが「慰安婦問題が日本のイメージを傷つける」というとき、吉田清治氏に代表される「強制連行」のイメージが響いているのではなく、日本の保守政治家や有識者たちがこの「強制性」の中身にこだわったり、河野談話について疑義を呈するような行動をとったりすることのほうが、日本のイメージ低下につながると話している

もう、事実は明らかだ。吉田「証言」、及び『朝日』のそれについての報道で、「日本のイメージは大きく傷ついた」という安倍の断定は、何の事実の裏付けもない。それどころか「大きく傷ついた」としたなら、皮肉にもその原因は他ならぬ安倍や稲田、菅のような「日本の保守政治家や有識者たちがこの「強制性」の中身にこだわったり、河野談話について疑義を呈するような行動をとったりする」ことの影響が、はるかに大であるということだ。
では、「かつて1人の男の作り話が、これほど日本の国際イメージを損ない、隣国との関係を悪化させたことがあっただろうか。朝鮮半島で女性を強制連行したと偽証した自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治のことだ。吉田の虚言を朝日新聞などメディアが無批判に内外で拡散し、国際社会で『性奴隷の国、日本』という誤った認識が定着していった」(『産経』2014年9月8日付)などという、それこそ文字通りの完全な「作り話」が、なぜここまで肥大化したのだろうか。
それは、別に『朝日』のせいでも何でもない。安倍や極右議員が事実関係を無視し、吉田「証言」で河野談話を葬り、あるいは貶めることができると勝手に思い違いして、事あるごとに吉田「証言」を不正確に取り上げ、『産経』ら右派メディアがそれを援護射撃したからだ。
例えば、1985年から1992年までの国会で、「吉田」証言を取り上げた発言は3回あるが、いずれも好意的評価をしている。だが『朝日』が1997年3月31日付で吉田「証言」の訂正記事を出すと、途端に安倍を先頭にしてそれを取り上げる自民党や民主党の「慰安婦」問題否定論者が急増。2007年までにその数は13回にのぼっている(以上の指摘は、ブログ「誰かの妄想・はてな版」の記事「1992年以降に吉田証言に現給油しているのは否認論者ばかりなんですけどね」に依る。
その結果、『朝日』が2014年8月に吉田「証言」の「訂正」記事を出した結果、「吉田『証言』の誤報」という一点だけで、「慰安婦」問題は最初から真摯に検討するには値せず、問題自体が「捏造」の類いであって、国家責任が問われるどころか、それを主張するのは言いがかりに等しいかのように見なす思考・態度が全肯定されるかのような雰囲気が拡散された。これが、安倍への追い風になったのは言うまでもない。
気を良くした安倍は、さらに妄想をたくましくした放言を重ねていく。中でも噴飯物であったのは、2014年9月14日に放映されたNHKの番組で、「日本兵が、人さらいのように人の家に入っていって子どもをさらって慰安婦にしたという、そういう記事だった。世界中でそれを事実だと思って、非難するいろんな碑が出来ているのも事実だ」(『朝日』2014年9月15日)と発言したという。
ところが、米ュージャージー州のパリセイズ・パークで初めて「慰安婦」の碑が建てられたのは、吉田著『私の戦争犯罪』が出版されてから実に27年もたった目の2010年10月だ。当然だろう。最初から米国を始め各国では吉田「証言」などほとんど知られておらず、安倍流の吉田「証言」=「強制連行」=「人さらいのように人の家に入っていって子どもをさらって慰安婦にした」という妄想とは縁がないからだ。
しかも碑の建立は日本への「非難」というよりも、人権侵害の歴史を忘却せぬためという意味が大きい。「慰安婦」がらみの数々の問題を、安易にすべて吉田「証言」と『朝日』のせいにするのは、安倍のような夢想癖にはうってつけだろうが。
ただ、「朝日新聞が取り消した証言について、事実として報道された事によって(日韓の)2国間関係に大きな影響を与えたわけです」(『産経』2014年8月9日)というくだりは、いくら妄想であっても笑い話ですみはしないだろう。まったくの虚偽であるどころか、安倍が自身の責任を厚顔にも『朝日』にすり替えているからだ。「事実」は、他ならぬ『朝日』2014年8月28日付の次の記事の方が、はるかに正確に伝えている。

韓国では,長く続いた軍事独裁政権が終わり,社会の民主化が進んだ1990年代にはいって,慰安婦問題に光があたり始めた。その大きな転機となったのは,1990年1月に尹 貞玉(ユン・ジョンオク)梨花女子大教授(当時)が日本や東南アジアを訪ね,韓国紙ハンギョレ新聞に連載した「挺身隊『怨念の足跡』取材記」だった。同年6月,参院予算委員会で当時の社会党議員が,慰安婦問題を調査するよう政府に質問したのに対し,旧労働省の局長が「民間業者が軍とともに連れて歩いている状況のようで,実態を調査することはできかねる」と述べ,韓国で強い批判の声が上がった。この答弁に反発した金 学順さんが翌1991年8月,初めて実名で「慰安婦だった」と認めると,その後,つぎつぎに元慰安婦が名乗り出始めた。これを受けて,韓国政府は1992年2月から元慰安婦の申告を受け付け,聞きとり調査に着手した。また,支援団体の「韓国挺身隊問題対策協議会」も1993年2月,約40人の元慰安婦のなかから信憑性が高いとみた19人の聞きとりを編んだ証言集を刊行した。女性たちは集められ方にかかわらず,戦場で軍隊のために自由を奪われて性行為を強いられ,暴力や爆撃におびえ,性病,不妊などの後遺症に苦しんだ経験を語った。現役の韓国政府関係者によると,朝日新聞の特集記事が出たのち,吉田氏はなんと証言したのかとの問い合わせが韓国人記者から寄せられるなど,証言そのものは韓国では一般的にしられているとはいえないという。1980年代半ばから1990年代前半にかけて,韓国外交当局で日韓関係を担当した元外交官は「韓国政府が慰安婦問題の強制性の最大の根拠としてきたのは元慰安婦の生の証言であり,それはいまも変わっていない。吉田氏の証言が問題の本質ではありえない」と話す。

寡聞にして、安倍がこれと異なる事実関係を提示し、吉田「証言」が対韓関係に「多大きな影響を与えた」という主張を立証した例を、右派メディアの記事も含めてお目にかかったことがない。前述の林委員の分析によっても、吉田「証言」の「影響」が対韓関係に与えた影響はほぼ皆無と見なしうる。
逆に「多大な(悪)影響を与えた」のは、韓国側も是とした河野談話を攻撃し続け、「広義の強制」だの「狭義の強制」だのと言辞を弄して被害者を怒らせ、「検証」と称して本来外交上の秘匿事項にすべき「慰安婦」問題の協議事項を一方的に公表し、挙げ句の果てに「傷ついた」のはあろうことか日本人であるかのように居直った安倍ではないか。だからこそ今に至るまで、韓国とのまともな首脳会談すら実現していないのだ。
愚かにも安倍は、2014年9月14日に放映されたMHKの番組で、「朝日新聞が世界に向かってしっかりと(吉田「証言」を)取り消す努力が求められている」と述べたという。だが、『朝日』」がいくら「しっかりと」「努力」しようがしまいが、隣国を含め「世界」は吉田「証言」など最初からほとんど知らず、問題にもしていない。ましてや「慰安婦」問題の認識形成上、参考とされるべき重要な対象とされた形跡も乏しい。むしろ「取り消す努力が求められている」のは、その数多さから困難は予測されようが、安倍自身の膨大な妄言の数々だろう。
だが、一連のかくも厚かましく、デマそのものの妄言が、白昼堂々、公共放送によって格別の抗議も疑念の提示も見られないまま国民の間に伝播している様は、『朝日』攻撃が始まった2014年8月以降の、この国の理性の究極的な崩壊状況を見事に象徴していよう。なおかつそうした現実は、この瞬間にあっても好転した兆しをいささかも見せてはいない。
 
 
宗教諸話

 

■神秘宗教の台頭は王朝末期の印?
12月20日に中国・広州市の繁華街を歩いていると、学生らしい女の子が花束を売っていた。中国の繁華街で花売り娘は珍しくもないが、面白いな、と思ったのは、「“末日”に大事な人に花束を買って告白しましょう」という呼びかけだった。末日というのは、マヤ暦でいう世界終末の日、人類の3分の2が死滅するそうで、2013年12月21日の冬至の日がそれに当たるそうだ。
中国ではこの数年、オカルトブームで、UFO(未確認飛行物体)やUMA(未確認動物)の話題がけっこう地方ゴシップ紙をにぎわせていたりする。日本でも確か1970年代くらいに、ユリ・ゲラーやネッシーやサスクワッチや宇宙人にさらわれて人体実験された人の証言やミステリーサークルといった神秘現象をテーマにしたテレビ番組などの全盛期があった。70年代日本と現代中国はちょっと世相が似ているところもあるが、こういう神秘ブームもその1つのような気がする。
神秘ブームも娯楽や商売に利用される程度はご愛嬌。だが中国当局としては、どうしても見逃せない部分がある。それは宗教の流行である。マヤ暦末日説を掲げる宗教組織、全能神に対して最近、中国各地で一斉摘発が展開され、信者ら1000人近くが拘束された。河南省光山県の小学校を刃物をもって襲撃し23人に切り付けた事件(12月17日)の犯人が全能神の末日思想に侵されていた、という報道もあり、邪教に対する社会の警戒心喚起に必死だ。全能神に限らず、今中国の農村ではかなりの非公認宗教が広がっている。それが共産党中国にとっては大きな脅威となっているようだ。
共産党を敵視する新興宗教、全能神
全能神は、私もあまり詳しく知らなかった。中国では1990年代に河南省を中心に存在感を増し、邪教として取り締まりの対象になっている神秘宗教だ。70年代に米国で誕生したキリスト教をベースにした新興宗教のようだが中国に渡り農村を中心に広がっていた。2010年ごろからマヤ暦終末説を取り入れ、信徒にならなければ2012年12月21日に閃光に打たれて死ぬという予言を言い、恐れる人々を信者にしているという。実際神、東方閃光とも呼ばれている。
教祖は趙維山という黒竜江省出身の元物理教師で、2000年に米国に亡命している。教祖とは別に巫女のような女性・楊向彬が女キリストとして信仰の対象となっている。彼女は山西省大同市出身、大学受験に失敗したあと、趙維山の愛人となり、女キリストに仕立て上げられたという。彼女のもとに7人の幹部・七長老がおり、チベット地域を除く30省・自治区を9つの教区にわけて支配されている。信徒は数十の階層に分かれ、厳しいヒエラルキーをもって統率されているとか。かなり政治色の強い宗教で、中国共産党を「大紅龍」と呼び敵視し、信徒を率いてこの「大紅龍」を倒し、全能神が統治する国を築くのが教義という。
米国の趙維山からインターネットを通じて指令を受け、幹部たちはお互いをコードネームで呼び合い、ネット技術や暗号を駆使して警察の目を欺きながら活動してきた。暴力と美女とのセックス、甘言で無知な農民らを洗脳し、信者になれば、最初に2000元の献納をさせられ、その後も多額の献納を要求される。幹部には信者獲得ノルマを課し、成功すれば賞金を与えたという。別の宗教の幹部の洗脳に成功すれば賞金は2万元にも上った。
潤沢な活動資金を擁し、2011年に河南省地元警察が活動拠点を奇襲したときは、黄金9キロを押収したという話もある。2007年の段階で信徒は全国に300万人と言われていた。その後、徹底的な取り締まりが行われたが、今なお100万人以上の信徒がいるとも。趙維山は今年12月7日に全国の信徒に対し世界末日前の活動再開を指示。この情報をキャッチした公安当局が、全方位的な摘発作戦を展開したという。
非公認宗教はキリスト教系だけで1億人超
以上、人民ネットはじめ中国メディアを参考にしたあらましだが、それを見る限りでは全能神は典型的なカルト教団といえよう。信徒の中で教義に疑問を持ったものに対しては、内ゲバのような暴力をふるったという話も報じられている。
もっとも、これら報道は中国が宗教に対するネガティブイメージを喧伝するための作り話かもしれない。中国では1999年以降の法輪功弾圧はじめ、非公認宗教組織に対しては、やりすぎではないか、と言えるまでの徹底的な排除を行ってきた。
日本にもオウム真理教事件の例があるので、カルトに対する警戒感はあるものの、新興宗教組織の動きが活発になるには、それなりの社会背景、世相がある。なぜ、そういう宗教が今の中国で広がっているのか、そこを考えないと、おそらく、再び神秘宗教は台頭してくるだろう。
冒頭で触れたように、私の個人的な所感ではこの10年、中国は空前の宗教ブームだと思う。いわゆる共産党が認めていない非公認宗教の信者はキリスト教系だけで1億人を超えるとも言われている。
その代表の1つはプロテスタント系の「家庭教会」だろう。今年初め、米国に亡命した作家の余傑さんが家庭教会の敬虔な信者であった。私はそれなりに「家庭教会」を取材してきた。北京で家庭教会を信仰する人は、医師や教師など比較的知識階級の人が多く、入信の理由も、人間関係や出世競争に疲れた、物欲・金銭欲ばかりの社会に愛想が尽きたといった「都会人的憂鬱」からくるものが多かった。
家庭教会は、いわゆる教会を持たず、自宅で祈るだけで信仰が保て、信者同士が友人の家庭に集い、牧師が悩みや懺悔を聞き、聖書を読み讃美歌を歌って祈るという穏やかな宗教で、邪教のイメージとは程遠い。
だが、当局の弾圧は非常に厳しく、家庭教会信者たちは執拗な嫌がらせを受けていた。余傑さんが激しい拷問をうけて米国亡命を余儀なくされたのは、劉暁波氏の伝記を書こうとしたからという表向きの理由が伝えられているが、私は彼が当時8000万人という共産党員に匹敵する信者を擁するとされた家庭教会の顔役であったことが本当の理由であったのではないかと疑っている。
「家庭教会」は本来、魂の救済という伝統的なキリスト教に近いものだが、農村に行くとより現世利益的、神秘的なキリスト教というものが流行している。ちなみに全能神も「家庭教会東方閃光派」という呼ばれ方をしており、農村の神秘主義的キリスト教を含めて「家庭教会」は非公認キリスト教の総称として使われている。これは都市民の間の家庭教会に邪教の印象を与える当局の宣伝工作ではなないか、と私は疑っている。非公認キリスト教は宗派によってかなり質や教義が違い、家庭教会全体をカルトとするのは正しくないだろう。
先行きの不安や現実社会への不満
農村の現世利益を約束する神秘宗教にはどんなものかあるか。2006〜2007年に私は友人とともにしばしば河南の鄭州郊外にある農村の宗教状況を取材にいった。ある村を車で通りかかったとき、農村には不似合いな立派な教会があったので立ち寄ってみると、カトリック系の非公認教会だった。村にはポールやマリアといった洗礼名を持つ信者がたくさんいたが、なぜ信者になったかと尋ねれば「病気の治療」「出産の無事を求めて」といった答えがかえってきた。「私は天使を見た」と証言する信者もいた。教会は農民たちがなけなしの財を寄進して建てたものだった。
鄭州郊外に土地開発に失敗しゴーストタウン化した別荘地があり、そこに医者から見放された末期がん患者らが、医師とともに共同生活をする宗教村もあった。この医師は、かつてはがん手術の名医で、「昔は袖の下を受け取って金持ちの手術ばかりしてきた」と告白した。彼は金持ちにはなったが、家庭がうまくいかず酒におぼれて荒れていたときに、友人に誘われて家庭教会のミサに行き、宗教に目覚め、その後は貧しいがん患者を救おうと決意したという。実はそこでかなり衛生的に問題のある違法手術が行われていたのだが、すべてに見放された貧しい農村のがん患者にとって、その医師は神に等しい救いのようでもあった。
地方から北京に地元政府の圧政を陳情にくる農民にも非公認キリスト教の信者は多かった。五輪前、北京当局の陳情者に対する対応は極めて冷淡だったが、彼らは木の枝で作った簡素な十字架を首にかけて神に祈りながら辛抱強く何日も何カ月も市内に野宿しながら陳情局に通っていた。神が最後には必ず願いを聞き届けていると彼らは信じていた。
ちょうど五輪前後の時期、北京および河南や河北周辺でそういう宗教ブームが起きていると私は感じていた。浙江省など経済発展した地域でも非公認宗教がブームになっていた。温州郊外では金を持っている温州商人が教会を建て、それを当局がブルドーザーで撤去してもすぐに、また教会が建てられるという状況もあった。
奇跡的な経済発展を遂げ、五輪を開催するほど大国化し、国際社会における影響力も強くなった中国だが、実は多くの人たちいまだがどこかに先行きの不安や現実社会への不満を感じそこに宗教が拡大する隙間ができているのではないか、と感じていた。そして今なお、中国で人々が半分は娯楽や商売のため、半分はやや心配してマヤ暦の「世界末日説」をささやくのを見ると、不安や先行きの見えない社会の空気はだんだん濃くなっている。
弾圧によって反共産党色を濃くなる
中国は共産党統治になってから宗教や迷信は基本的に否定しているが、中国人は本来、宗教や迷信を信じやすい人たちだ。農村には今なお呪術医もおれば、幽鬼や神秘を信じる心も強い。北京北部のかつて女真族や満州族が支配していた地域では「シャーマン(薩満)」が存在する。河南省の農村出身の友人の叔母は幽鬼と会話しながら村民の病気の原因を探し当て、治療する呪術医だった。それどころか元国家主席だった江沢民氏は時間を見つけて道教寺院めぐりをし、中国屈指の道士のアドバイスを受けていたとも聞く。道教寺院の名道士の発言は今も中南海の方針に暗然と影響を与えている、という噂もある。
そして、そういうもともとある神秘主義、あるいは神秘主義的宗教はある周期で突然台頭してくる。つまり王朝の変わり目である。後漢末期の太平道教、元末、明末の白蓮教、清末の太平天国の乱を起こした拝上帝会、あるいは義和団のような神秘宗教的性格を帯びた秘密結社が、王朝の変わり目に台頭し農民反乱を引き起こしてきた歴史がある。
今の「共産党王朝」が「やりすぎ」と言われるまで「邪教狩り」に必死なのは、神秘宗教が農民反乱を起こしてきた歴史の繰り返しを恐れているからだ、と見られている。チベット仏教やイスラム教の信仰を必要以上に抑えつけるのも、同じ理由だと言われている。
中国の世界最大級の治安維持力をもってすれば、確かに一時的に「邪教の台頭」は抑えきることができるかもしれない。しかし、一見唯物的で金さえあれば満足しているように見える中国人でも、何か足りないと感じ、実は魂の救済を求めている人も大勢いる。そういう人たちから信仰を奪おうと躍起になるほど、信仰は地下にもぐり神秘化し共産党中国を恨むようになるだろう。医療制度の整っていない地域で流行した健康法の一種だった法輪功を今のような「反共産党組織」に成長させたのは1999年以降の執拗な弾圧だ。全能神も弾圧されるたびに反共産的性格を濃くし生き延びつづけている。
人はパンのみに生きるにあらず。人間に本当に必要なものは金銭・物質だけではないということ、政治思想は信仰の対象になり替われるものではないということに中国共産党自身が気づかない限り、「共産党王朝」を脅かす第二、第三の「邪教」はこれからも登場してくるのではないだろうか。  
■信仰は宗教に依存しない
この瞬間、今ここに自分自身が存在する「世界」が在るという事実。
ここに自分が居るという状況そのものが奇跡的であることを理解し、想像もつかないほどの過ぎ去った過去に生じた時の始まり以降、決して知りえぬほどの遠い遠い未来への時間の流れという、理解しがたい長さのタイムスパンの中で、自分が「今」ここに居て活動しているという事実の不思議さを思い、ここまで命を繋いで来てくれた全ての命の連鎖と、その数多の命を支えてきた風土・文化・環境に思いを巡らせ、そういった全ての存在について大切さを判り感謝する気持ちが持てれば、我が身一つの信仰としては、その「ありがとう」と念じる心のみで充分であろう。
そうした感謝の気持ちに根ざした信仰を前にしたとき、宗教・宗派の違いなど何程のことがあろうか。
他者の信仰を改めさせようとしたり、「我を崇めよ奉れ」や「我を信じよ」と言い張って他人に強いる宗教があるなら、それらは全てニセモノでありカルトである。
また現実世界のご利益を唱える宗派もまた然り。
現状が辛い・苦しいといって逃げ出そうとし、自分自身もまた現実の一部で在るにも関わらず、その現実を受け入れる事を否定しておいて、違う現実があるかのような甘言に釣られて結果だけを神頼みで求めていても、時間とお布施が無駄になるだけだ。
漱石の草枕に書いてることと全く同じ。 人が作った世の中が気に入らないからといって出て行こうとしても、人が作ったのが気に入らないなら「人でなし」が作った世の中しかない。 カルトという人でなし集団が作った狭い村社会の中は、さぞかし人でなしの暮らしをしている事だろう。
それが嫌なら、世界のあり様と、そこに居る自分自身と、その状況を受け入れた上で、その中で自らが出来ることを模索し、自らの為すべきことを行うからこそ結果が出せるというものだろう。
いずれにせよ、現実と言う確固たる土台に支点を据えなければ、如何な力を掛けようと、見掛け倒しの空回り、暖簾に腕押しなだけで何の作用も生じない。
支点・力点・作用点やら作用・反作用といった、物理の基礎というより理科レベルの話であろうか。
ともあれ、宗教の話に戻ると、人は未だに人の意志・人の技のみで命を生み出すことは出来ず、現在および過去のどのような人もそこに存在する限り、人の意志を越えた何か、それこそ「神」とでも言うべき「何か」の結果である。
この結果を齎した「何か」を、自然の摂理と呼んでも良いし、「仏の御心」あるいは「偶然」と言っても良いかもしれないが、いずれにせよ、そのときその場に居た人が、全てをコントロールして作り出してきた訳では無い。
命のみならず、あらゆる物も同じく、いかなる人も「無」から「有」を作ることは出来ない。
どんな微小な質量さえも、E=mc^2の公式の通り、莫大なエネルギーを投入しなければ何一つとして生成することは出来ず、そのエネルギーもまた人の技では「無」から作り出すことは出来ない。
すなわち、全ての物は人間の力と技のみでは行い得ない、人知を超えた何かの結果故に存在するのであり、人の存在もまた同じく人を超える何かによって齎された結果である。
よって、その「何か」の前には等しく「ヒト」でしかない人間同士の間で「誰か」を崇め奉ったり、自身の意志を放棄して「誰かの唱える何か」を盲信することは、ドングリの背比べにも似た愚かな事と言うより他なかろう。
先人たちや国事を執り行ってきた方々に対して感謝の念を持って敬う事と、「神の声」を自称する誰かを妄信することは、決してイコールではないのだ。
信仰とは、「何か」によって創られた、この世界が存在することの奇跡に感謝し、「何か」が作ったこの世界をあるがままに受け入れ、その世界の一部として存在している自ら自身もまた信じて日々を生きる事であろう。
その「何か」を器に入れ、カタチを与えたものが「宗教」であり、与えた器によってカタチが違うだけなのだから、宗教・宗派の違いなど、コップと湯呑の違いのようなものと言っても良いのではないか。
また、様々な疑問を抱く自分自身でさえも「何か」の結果として今現在ここに存在するならば、自らの今の疑問や悩み、欲望さえも否定することはない。
その「疑問」や「悩み」、「不安」といった感情もまた自らの一部であり、「何か」によって齎された自分そのものであり、この世界を構築する一部でさえある。
ならば、その悩みも苦悩も、自己の存在までも否定された挙句に何かを盲信することを強いられるような、洗脳的な手法を用いる新興宗教などに何の意味も無く、信じるべきかどうかを検討する価値さえ無いだろう。 
■外道 (げどう)
「外道」という言葉は、一般にはきわめて強い軽蔑をあらわす言葉として「この外道め!」というように用いられています。外道とは「道の外」、道に外れたものを意味し、仏教では仏教以外の宗教をいうときに用いられました。
インドではお釈迦さまの時代に前後して数多くの思想家が現れ、彼らのほとんどは極端な教説を唱え、普偏的な思想というには程遠いものでした。そこで仏教以外の教説を信じる者のことを「外道」というようになったものです。
今日でも「この宗教に入信すれば、病気が治ります」とか「災難から逃れることができます」などと言って、人を惑わせたり、甘言や虚言で金銭を巻き上げるようなニセ宗教は、外道以外の何ものでもありません。
「溺れる者はワラをもつかむ」といいますが、外道に入信する人も実に多い世の中です。しかし、真の宗教には迷信や非科学性は決してあり得ないことを心すべきです。 
■ウソとマコト
念法の信徒はウソとマコトを見分ける智慧を養うことが大切や。
一寸(ちょっと)、他人(ひと)が口上手(くちじょうず)に持ちかけてきたら、ウソのことでも、それを本当のことのように思いこんでしまい、一生けんめいにおしえと取りくんでいる人の悪口を言う。
陰でこの人を操(あやつ)っている悪人は“うまくいった”とほくそ笑(え)んでいるのを知らんと・・・・・・。
それで、他人(ひと)から甘言(かんげん)をもって話を持ちかけられたら、「この人は信用できる人かどうか」をよく考えてみることや。それには、平素の言動を見ること。いつもウソを言うたり、つくりごとを言うたりする人は信用したらあかん。
こんな人ほど口は上手で、うまいこと言うから、コロッとだまされる。
こういう人間は、どこにも居るから、こういう人にだまされないように、念法の同信(なかま)は気をつけることや。
熱心に念法寺へ参って来るからというて信用していたら、寺の中をかきまわされたりするから、よくよく心くばりすることが肝心や。
念法には仏さんが応現(でて)おられるということをこの人間は知らんねん。自分の智恵才覚(ちえさいかく)を過信(かしん)して因果応報(おうほう)ということを信じてないのや。昔の人が“天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず”と教えている。
大自然の網、因果応報の網は、まばらのように見えていて、なかなか善因善果、悪因悪果の姿があらわれてこないように見えるけれども、天地の法則の網はキチッとしていて、この網に漏れるというものは1つもない。いつか必ず、自分の行なったことの報いは受けねばならなくなる、ということなのや。
だから、お互いに念法の仏さんひとつを見つめて、ウソはウソ、マコトはマコトとよく見分けて、他人の甘言に乗ることなく、低い心で周囲(まわり)の人と仲よく助け合って、自分の足もとにお浄土をつくってもらいますように、おたのみ申します――。 
■恐るべき邪宗教の害毒
邪宗教のもたらす害毒とは、いったい、どのようなものなのか、以下に少々述べることにいたします。
そもそも、邪宗教に入信・入会するのは、うわべの甘言や善言にたぼらかされたり、通力などによる奇跡に目がくらんだ人々がほとんどです。
その人々は、最初のうちこそ、それまで経験したことのない世界を知った喜びや、一時の小利益を得た感激に酔いしれますが、それで、いよいよ熱心にのめり込んでいくにつれて、邪な本尊と強く感応し、次第に、性格破綻、病気、家庭不和、貧苦と、現実の生活は文字どおり地獄のような境涯に落ち込んでいきます。
それでいて、人間としての正常な精神感覚が、邪な本尊の影響ですっかり麻痺させられるため、不幸も不幸と感じられなくなってしまうのです。
こうして、邪宗教の餌食となった信者こそ哀れ、というべきでありましょう。猟師し狙われた鹿か、猫に狙われた鼠のように、「これで救われる」などと欺かれて、ついには田畠(でんばた)財産まで布施として搾取され、実際には救われるどころか、一生の間にさまざまな不幸を招き寄せ、それにも気付かぬまま、末路は悲惨な地獄の姿となっていくわけですから。
現に、よくよく周囲を見わたしてみてください。神札を家中に貼り、邪宗教の檀家総代などを代々熱心に続けてきたような家ほど、不慮の災難、病気、自殺、家庭不和、身体障害等々の、深刻な苦悩にあえいでいるではありませんか。これこそ、邪宗教のもたらした、恐るべき害毒なのであります。
また、一口で邪宗教の害毒といいましても、それぞれの宗旨によって、立てる教えと本尊が異なっておりますから、そこから受ける害毒の内容も微妙に異なり、それぞれの宗旨なりの特徴が顕われている、というのが実態のようです。
宗旨害毒の特徴
浄土宗や浄土真宗などの「念仏信仰」の教えというのは、
「この現実社会は汚れた世の中であるから、この世に生きているうちは、苦しみがあってもしかたがない。しかし、西方十万憶土の彼方に、阿弥陀仏の住む極楽浄土という世界がある。この阿弥陀仏にすがって、一心に阿弥陀仏の名(念仏)を称えてさえいれば、死んでから極楽に行き、幸せになれる」
というものです。
こうした教えですから、これを信仰しますと、すぐに現実を逃避したがる、諦めの強い、退廃的で優柔不断な性格、生き方になってしまうのであります。
ことに浄土真宗などは、この教えをさらに一歩進めて、
「念仏を称えて死ねば極楽に行けるのだから、いつ死んでも不安はない。いつでも死ねる明るい心(?)で生きることが大事である」
などと立てていますから、これを信仰する人は、何か問題にぶつかると、「死んでもいい、どうなってもいい」といって、破壊的な発想や行動に走りがちです。また、こうした、破壊的で自暴自棄な心の故に、性格が非常に攻撃的でひねくれたものとなり、他人の粗を捜しては批判することが得意になるようです。
ともあれ、念仏信仰の教えに共通した特徴は、現実を逃避する厭世主義でありますから、これを熱心に信仰していくと、ついには自殺にまで走る例が多く出てくるのであります。
次に、曹洞宗や臨済宗などの「禅宗」の場合ですが、この教えは、端的にいって、
「座禅を組んでいる自分自身こそが、仏であり、絶対者である。したがって、もはや仏教典も不要である」
というものです。
これを信仰するならば、なるほど、自分の力だだけで生きていく、という強さだけは身についてくるように見えますが、反面、迷いと苦しみの中にある自分をそのまま仏であるとする傲慢な教えでありますから、たいへん思い上がりが強くなり、自分が他の人々より勝っているかのような、また、すべてを悟っているかのような、分を弁えぬ心が起きてきます。
そして、そのような心のために、他の人達と心から通じ合えない、相容れないことになって、自分自身が孤独になっていってしまうのであります。
また、「真言宗」の場合には、本来、仏教典はすべて釈尊が説いたものであるにも拘わらず、
「大日経という経典は大日如来が説いたものである」
などという真っ赤な嘘を並べ、あげくは
「大日如来にくらべれば、釈尊などは草履取りにも劣る」
といって、仏教を説いた教主たる釈尊を押し倒し、架空の大日如来を本尊に立てております。
この、虚飾に満ちた、本来の柱を倒すような教えを信仰いたしますと、個人においては、自ずから嘘と誇張の多い人間となり、また家においては、柱であるべき主人・長男が立たないーーつまり主人・長男が、早死にしたり、病弱だったり、精神障害でまともな生活が送れなかったり、という形が顕われてきて、そのぶん女性の気性が強くなったり、女系家族になっているという例が非常に多く見られます。
さらに、この教えが一国に弘まったときには、歴史上にみる承久の乱のように、下克上が起こって、国家社会の柱が倒れるのであります。
なおまた、いわゆる「日蓮宗」に属する宗教においては、前に述べたように、正当なる相伝を無視・歪曲して、勝手に宗旨を立てています。その説くところは、日蓮大聖人の教えであると称していながら、じつは、まったくの偽物でありますから、真実の教えに似せたぶんだけ、他の邪宗教より質(たち)が悪く、罪も重いといわねばなりません。いわば、世人を迷わす邪宗の中の邪宗、最悪の邪宗教であります。
これを信仰いたしますと、そのつど、考えること、いうことが全く一変してしまう、というような精神の異常が顕われたり、頑迷で歪んだ人格が形成されたり、また、業病、不慮の災難、一家離散等々の、悲惨な現象が顕われてくることが、じつに多いのであります。 
■悲しみのマリアの島 
・・・カトリック信者にとって、ミサや、聖体、告解などの秘蹟の授け手である司祭の有無は、信仰生活の維持にかかわる問題である。だからこそ、かのキリシタン迫害時代、あるいはメキシコ革命下にあって、司祭は生命を賭けて信者を訪ね、秘蹟を執行したのであった。
弾圧者の脅しと、ある意味では甘言に乗せられて、島から司祭を一人残らず失ってしまった奄美大島の信者たちの宗教的苦悩は、弾圧に耐える苦しさ以上のものであったはずである。
本土の教会上層部がこの引き揚げを決定したのは、要塞地帯のこの離島で問題をこれ以上悪化させないことが、島はもちろんだが、それ以上に日本の教会ぜんたいの利益のためであると判断したからであろう。そして、さらに外国人宣教師に代わる日本人司祭の派遣も、結局は断念した底流には、ぎりぎちの判断としてやはり同じ配慮が働いていたに違いない。いや、このときはもう、念頭にあったのは「日本の教会ぜんたい」だけだった。
個々人の日本人司祭の中には、進んで奄美大島への挺身を名乗り出た人は、松下や梅木以外にもいたらしい。しかし、教会当局としては、梅木の場合を特別の例外としたほかは、最終的にはそれをとらなかった。繰り返し言うが、奄美大島の事態をこれ以上こじらせることは、日本の教会ぜんたいのためにならなかったのである。
それにしても、これがもし本土の一部の地域、たとえば長崎の五島ででも起きたことだったら、はたして同じような処置で終わったものかどうか、多分に疑問が残る。もっと日本の全教会あげての、ねばり強い、断固とした交渉ないし抵抗がつづけられたのではないか、という気がしてならない。
奄美大島のカトリック信者は、二重に裏切られたわけである。まず、外国人宣教師を追放することが弾圧の目的であるとうそぶいた軍部から、そして、外国人宣教師を引き揚げさせることは島の状況から適切だったとしても、意図はともあれ、現実にはその「穴」を埋めえなかった教会上層部からも・・・。
当時、信者数、10万の日本ぜんたいの教会のために、3500人の奄美大島の信者が犠牲にされたということになる。昭和10年から敗戦までの10年間、奄美大島3500人・・・弾圧下での棄教者もふくめて・・・のカトリック信者は、司祭も秘蹟もなしに、つまりは実際問題として教会なしに放置された。放置したのはいったいだれだったのか?
戦争激化とともに、本土でもキリスト教にたいする風圧は強くなっていったが、それでも、すくなくとも表面上は、「大政翼賛」とやらの波に巧みに乗ることによって、大勢としてはことなく切り抜けてきた。だが、それはヤマト(本土)の教会だけであって、そこにはもうシマの教会はふくまれていなかった。シマはいつもヤマトのつごうしだいで、簡単にヤマトから切り捨てられる。
思えば、この島はこれまでどれほどヤマトの犠牲になってきたことだろう。薩摩の財政をうるおし、明治維新の大事業を完遂させたのは、この島の資源と労働力であったし、そのあくなき搾取が、形こそ変えても、明治になっても改められなかったことは、すでに見てきた通りである。近くは敗戦にさいして、本土は沖縄とともにこの島を切り捨てたのであった。
・・・
私はそのとき、ああ自分はヤマトの人間、島の人々がいう「ヤマトンチュ」なのだと、つくづく痛感した。しかし、すでに島へ数度足を運んでいた私の頭からは、以前には持っていなかったかもしれない「ヤマト即日本」いいかえれば「ヤマト以外は日本ではない」という考えは払拭されていたようである。私がつぎに抱いたのは「日本って広いんだなあ」という感慨だったから・・・。「ヤマトだけではない日本」という広がりをもって自分の国を見直すことができたのは、島尾敏雄氏(大戦末期、加計呂麻島の震洋特攻隊の一隊長であったことが氏と奄美とのかかわりのはじめであった)の奄美にかんする数冊の著書に負うところが大きかった。いずれにせよ、私の奄美体験は、むしろ日本というものを私にとって痛快、爽快なまでに拡大してくれたのだった。
私のわずかな体験と印象からだが、私は妙に南の古仁屋という町に心ひかれる。かつて軍人相手の花街として栄え、昭和のはかない「栄光」とともにそれに終止符を打って、戦後はひっそりと、しかし、貧しいながらもおのれを持して生きているといった風情が、とりわけ旅人の感傷をそそるのかもしれない。
また、この町は大正年間に過激な反軍運動を生んだように、奄美における進歩思想の濫觴の地でもあった。当時、長髪のいわゆるアナーキストの志士たちがふところ手で闊歩する姿が、見られたものだそうである。
小1時間もあれば隅から隅まで歩き回れる小さな町である。そのどの町角、どの路地で出会う人々にも、やさしさ、なつかしさが感じられた。これも旅情のなせるわざか。
しかし、私はジェローム神父の「古仁屋は世界でいちばん住みよいところ」という言葉に、彼の実感としてすこしも誇張はないと思った。
そのジェロームも、主任司祭時代をふくめて、古仁屋に住んでもう10年近くになる。老境に手の届いた年齢だが、元気に大股で町を歩く長身の姿に、幼稚園帰りの子どもたちが、「神父様、神父様」と、甘えるように大きな声をかけていた。
・・・
二人はそれぞれの家から、薄暗いあぜ道を、懐中電灯で照らして教会にやってくる。晴れた日は、満天に星がちりばめられている。どの家々も、深い眠りの中である。波の音が教会の祈りの席まで伝わってくる。
平和な集落である。巡査も隣村まで行かなければいけないが、犯罪など起こったことはない。隠居老人の集落の観があると書いたが、最近、すこしずつ若者のUターン現象も見られるという。それにしても、僻地の小さな小さな集落・・・。
「みんなが協力しなければ、とても成り立たない。宗教のことで喧嘩なんかしていたら、やっていけませんよ」と人々は実感こめて語っていた。それぞれの宗教の自由を確認し合ったあの集落の常会も、その共通の認識の所産なのである。
しかし、じつはこのことは何も「小さな集落」にかぎったことではあるまい。人間の共同体というものをどんなに大きく、地球大にまで拡大しても、原則は同じではないだろうか。
宗教の違いとそれに伴う誤解や偏見が生んだ「交際絶交」や「排撃」がどのような不幸な結果をもたらすか、奄美大島の人々は高価な代償を支払って学んだのである。しかも、ことは単純に「加害者」を責めるだけですむ問題ではなかったと思う。もちろん、意図的な宗教弾圧を進めた軍部の場合は論外だが・・・その無法と恐ろしさについては、もうここで繰り返す必要はないだろう・・・彼らにそそのかされて直接の「加害者」となった素朴な島民たちにたいしては、「被害者」もまた負うべき一端の責任を有していた。まして、彼らが信仰者、宗教者であればなおさらである。宗教は人間の平和と一致と幸福のために存するのであって、断じてその逆ではないのだから・・・。 
■アメリカの大統領選挙
『いま、NHK-TVでアメリカの福音派とブッシュについてやっています。「聖戦」集会だって、スタジアムで集会やって、ある人は両腕を天に向けて広げて涙を流し、讚美歌に合わせて体を揺らし、インタビューでは、彼(ブッシュ)のやる事は全て支持します。 神の意志で彼は選ばれたのだから…と、まるでオームや、統一原理と変わらない雰囲気です。 盲目的な信仰?は本当に危険だなと感じます。自ら考える事を放棄して、全てを神の名の元に行動してしまうなんて、大戦中の日本みたいな危険を感じます。 余りにもゾッとしたのでメールしてみました。』 伝道者の長男、茨城の精神科のクリニックで働く野村眞理さんからの感想です。
音声を消して画面だけを眺めてみれば、それは確かに福音派原理主義者たちの集まりにも見えるし、オウムの集会とも統一原理の異常な集会とも見えるのです。
信仰とは信じる個人と信じる対象の神なり仏との一対一の関係な筈です。しかしそのような信じる個人個人が集まり始めますと、そこには個人の信仰を越えた宗教というものが生まれ、宗教集団が生まれて来ます。そうなりますとその宗教集団は宗教儀式を守り始め、職業的宗教指導者層を求めるようになるのが普通です。 各自はめいめいの信仰を堅く守るということを放棄するようになり、職業的宗教指導者たちの言うが儘に盲目的に従うという状態が普通となり、それが最初に信じた信仰とは別のものであるということを問わなくなります。烏合の衆と化した各信者は宗教集団に呑みこまれて主体性を放棄してゆくのです。
宗教集団は、職業的宗教指導者層の指揮下に在って、その宗教的集団が置かれている場所で一番大きくて強い権力集団の猿真似をするようになるのが普通です。ローマにあった教会は強大なローマ帝国の真似を始めました。 そしてローマ帝国滅亡後も、こん日に到る迄、大きな勢力として全世界に厳然と君臨しています。教会史を学ぶ折りに、個人個人の信仰者→宗教組織化→政治軍事経済的権力集団化という傾向をほとんどの場合たどるのが必然だと学ぶのです。オウムもそのような誘惑に陥り軍事武装闘争を試みて失敗ました。統一原理協会・勝共連盟も必然的に似たような経路を辿っています。 創価学会は公明党を生み、積極的に与党側に寄生しています。 立正佼成会も、たとえば学校経営などにも手を出し、事業化し、そしてある種の政治圧力団体となっているように思えます。隣村から起ったと言われている真如苑という宗教団体も立川市の泉体育館横に目を見張るような絢爛豪華な建物を最近完成させました。 次には政治的団体に変身する可能性がないとも言えないでしょう。 それが宗教団体の持つ弱点の一つです。
ブッシュ政権を支えているアメリカ原理主義福音派のキリスト教も全く歴史的には同じ傾向を踏み、下記の「宗教酒」の臭いと勢力を強くしているように思えます。信仰とはあくまでも個人的なものである筈です。 他者と神に仕えるというイェスの姿勢を求める信仰生活を、生涯を賭けて求道巡礼者でありたいと願う生活態度を、いつの間にか忘れると、それは恐ろしい結果を招くだけなのです。
以非エセ宗教・擬似宗教が提供する特徴のある銘柄に「宗教酒」があります。エペソ書5章18節で、邦語訳聖書はただ単に「乱行・放蕩」としか訳してないのですが、原文のハソティア 'asotia、乱痴気騒ぎ wantonness = debaucheryという単語が使われています。 その意味することは「抑制出来ない過度のふざけ」を意味し、そのような恐ろしい状態を招き導く悪質な「宗教酒」ゆえの警告なのです。
一方、19節〜21節には恐ろしい「宗教酒」がもたらすことができない信仰の具体的な内容が説明されています。 ガラテヤ書5章22節〜23節に通じるものがあります。
今回のテレビ放映は正しくそういった宗教酒によるハソティア=乱痴気騒ぎを如実に証明していたのではないでしょうか?イスラム教徒の過激派がアッラーと神の名を叫んでテロ行為を正当化しているのと少しも変わりがありません。 放浪日本青年が抑留され生命が危ないようですし…
また更にテレビの音声を消して画像だけを眺めてみますと、ナチス党がヒットラーを絶賛しているのと同じに見えます。 宮城前広場に集まって日の丸の小旗を振った嘗ての東京市民の姿と同じにも見えます。 ルーマニアのチャウシスク軍事独裁政権時に動員された群衆や、中国共産党支配下で起った紅衛兵旋風時の大行進も、現在の北朝鮮平壌に見る金日成・金正日万歳行進も、ブッシ政権を支えている米国原理主義福音派右翼キリスト教徒の常軌を逸した行動も、みんな同じように見えるのです。
2001年9月11日のニュー・ヨーク同時多発テロ事件を起こした張本人とされているオサマ・ビン・ラデンを捜索するという大義名分を掲げてアフガニスタン侵略攻撃を開始したブッシュ政権を熱狂的に支持して God Bless America! と絶叫し続けた米国原理主義福音派のキリスト教会にとっての神と、イスラム過激派が言うアッラーの神も、私たち部外者にとっては共にどっちも「ちっぽけな安っぽい神」であり、人間の欲望の手段・道具としての神にしか過ぎないと思えます。 自分の腹、欲望が神なのです。 『自分の腹に仕え、甘言と美辞を持って純朴な人々の心を欺く者ども』とはそのような乱痴気騒ぎ宗教集団とその指導者たちへのロマ書16章18節の警告です。
アフガニスタンでどれほど多くの罪のない婦女子が殺戮され、どれだけ多くの子供が劣化ウラン弾の犠牲になり、どれだけ多くの子供や兄弟姉妹や両親が地雷で手足を失ったというのでしょうか? 精神に異常を招いてしまった人々も多いでしょう。
それにも懲りず、次には大量破壊兵器が隠匿されていると、有りもしなかった武器を世界の恐怖として煽り揚げ、国連の同意を得ずに、一方的に世界最新最強の兵器を動員してイラク侵略を命令したブッシュ政権を、米国原理主義福音派教会は圧倒的に盲目的に支持し続けているのです。 恐ろしいのは「宗教酒に酔う」ことです。
どれだけ多くの婦女子が再び犠牲になっても、それら右翼政治圧力団体化している原理主義福音派キリスト教会とその信者たちはイラクの人々の悲鳴を聴くことも現実を直視しようともしないのです。 相変わらず God Bless America! を絶叫し続けているのです。 あと数日で米国と世界の今後が決まる選挙が始まります。 主の祈りの『御国を来たらせ給え。 御心を行わせ給え!』と祈らざるを得ません。
彼らの信じている筈のイェスが『剣で立つ者は剣で滅びる』と警告されても一向に聴く耳を持たない乱痴気騒ぎ状態に陥っているのです。 恐ろしいのは宗教酒です。敵を愛すること、赦すこと、弱者を顧みること、これらはイェスの教えの筈です。米国兵士も多く戦場に散り、その家族もどれほど嘆いていることでしょうか?ホワイト・ハウスやペンタゴンに住み戦争を指揮する「お偉がた」が傷つくことはないのです。 戦争をするごとに儲ける一握りの人間がその後ろには居るのです。
『鳩の如く柔和で、蛇の如く聡くあれ』(マタイ伝10章16節)と言われたイェスの言葉をブッシュ大万万歳!を絶叫し God Bless America! を唱える教会とその信者らはどのように捉えているのでしょうか? 「宗教酒に酔う」ことは恐ろしいです。
みずからが自分のイェスに対する信仰を確かなものとする必要があるのです。「アーメン・ソーメン・ハレルヤ狂(教)の教会ゴッゴ」が提供する「宗教酒」は極めて危険であるとことを各自がしっかりと肝に銘じておきたいものです。 
■政治と宗教について考える
1.認識のギャップ
政治と宗教について考えてみたい。
宗教の定義について、WEB辞書で引くと次のようになっている。
・しゅうきょう [宗教]
神仏を信仰し,幸福を求めようとする教え. (派)(〜)的
・しゅうきょう ―けう [宗教]
(1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
(2)〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。
要は、目に見えず、理解の外にある存在、いわゆる、神様的存在に価値を見出し、信じることで安らぎを得、幸福を求める体系のこと、となっている。
これは、非常にこの世的というか、無神論的立場でみた定義にも見えなくはないのだけれど、今回はこの定義から話を進めてみたい。
宗教というと、よくカルトであるとか、自分は信じてないから、とかいう人も多いけれど、おそらくは、その人の宗教に対する感覚は、「宗教をやっている人は、神様だの、仏様だの、目に見えないものを信じることで、心のやすらぎを「勝手に」得て満足しているだけだ。そうした人が入信するのが「宗教」なのだ。」というものではないかと思う。あんなのは、心の弱い人がすがるものなのだ、と。
ところが、敬虔な宗教信者にしてみれば、「本物の信仰によって、真に心が解放され、魂は救済されるのです。貴方達は、思い通りに勝手に生きているように思っているかもしれませんが、その信仰なき生は、地獄の門の前に立っているということを知らなければなりません。」という具合に見えているのではないかと思う。つまり、救われるべきは、信仰なき貴方達の方なのだ、と。
この時点で、既に双方の認識が随分と異なっている。
したがって、政治と宗教を考えるにあたって、日本に限ってみれば、宗教を信仰する人とそうでない人の間には、こうした深い認識のギャップがあると予想される所から出発しなきゃいけない。
2.政治家と預言者
宗教が実際に、何を教えているのかといえば、新興宗教は兎も角として、伝統的宗教、たとえば、仏教であれば、執着を去って、煩悩を滅却する教えであったり、キリスト教であれば、信仰と愛の教えであったり、多少、教えに違いはあるにせよ、大枠でみれば、善悪を教えて、心を正し、魂を救済する教えであるように見える。
そして、実際にそういう認識である人は多いと思う。政治と宗教は別だ、という考えの根拠もこの辺りにあると思われる。つまり、宗教は人の心を癒してさえいれば良いのだ、現実社会には口を出すべきではない、と。
だけど、政治的指導者でありながら、宗教家でもあった例は歴史上存在している。
たとえば、モーゼとか、マホメットだとかはそう。モーゼはエジプトの奴隷を解放してカナンの地に向かったし、マホメットは幾多の戦闘の後に、一度は脱出したメッカを奪回した。
だから、この世的に見ても、モーゼやマホメットは、政治家であるようにも見える。少なくとも政治家的側面、軍事的資質を持っていたことは確か。当時のエジプトの王から見れば、モーゼはイスラエル人の指導者だし、当時のメッカを支配する人たちからみれば、マホメットは反乱軍の首領。
ところが、モーゼはシナイ山で神から十戒を授けられているし、マホメットはアラーの神から啓示を受けた。そして、それに基づいて神の教えを説いている。
だから、神の言葉を預かる人、所謂、預言者を宗教家の範疇に含めていいのであれば、政治家と宗教家が同一人物になることは、十分在り得る話。
もしも、そうした人物が、一国の王であったり、大統領であった場合は、政教一致、祭政一致の政治が行われることになる。
要は、政治家が神の啓示を受けて預言者となった場合、それでもなお政治家として認めて国政を委ねるかどうかが、祭政一致を是とするかどうかの分かれ目になる、ということ。
もしも、それを是とするならば、政治的指導者が、何某かの啓示を受けて預言者となった場合には、マホメットの例を取るまでもなく、神の教えに従って、具体的にこの世を改革して、世直しを行ってゆく可能性は極めて高い。
そして、その人物は、魂だけでなく、この世の生命をも救済していくことになる。
だけど、そこには大切な観点がある、それは、その神から預かった言葉に従って、世の中を変革してゆく場合に、その預言が、真に神のものであるか、そうでないかは、余人にはなかなか分からない、ということ。
イエスでさえ、当時の律法学者と度々論争している。当時は律法こそが守るべき戒律で正しい道だった。律法学者を公然と批難したイエスは、当時の権威に対する挑戦者だった。
預かった言葉が、本当に神からのもので、それに従って社会をつくることで人々が幸せになるのであれば、それで良いのかもしれないけれど、そうでなかった場合は悲惨なことになる。
彼の預言は、神の言葉かもしれないけれど、そうでないかもしれない。そのようなリスク込みで預言者でもある政治家に国政を委ねるのかどうかという問題がそこにはある。
3.正義と正義のぶつかり合い
神の言葉であれ、そうでないものであれ、それに基づいて、現体制から変革を行った場合、その是非の結論がでるまでは、ある程度、時間がかかる。それは正義の決まり方に起因している。
何某かの主張同士がぶつかるとき、どちらに正義があるかなんて、その場ではなかなか分からない。どちらも自分こそが正義だと主張しているし、どちらの言い分にもそれなりの理があるように思えるもの。
そうして主義と主義がぶつかりあい、やがて、力と力のぶつかりあいになって、最後には力の強い方が勝利を収めることになる。
だけど、その勝った方が正義であるかどうかは、やはりある程度の時間が必要で、その後に、そこに顕れてくる世界、そこに住む人々がその世界に納得し、満足し、結果として幸せを得たかどうかに大きく左右される。その後の世界が幸福であれば、あれは正義だったとなるし、そうでなければ、その逆に傾いてゆく。
たとえば、明治維新なんかは、幕府側からみれば、下級武士のクーデターであって、当然鎮圧の対象だった。新撰組はせっせと反幕府勢力を取り締まっていた。
当時は勤皇だ、左幕だ、いやいや開国だ、とかいろんな主張が交わされていて、どれが正しい道だったかどうかなんて、なかなか分からなかっただろうと思う。
だけど、結局、幕府は倒れ、明治新政府が出来て日本は開国した。
今では、明治維新は正義ではない、と主張する人はほとんど見かけない。それは明治維新によって、その後の日本が発展し、結果として人々が幸せに暮らせるようになったから。
もし、明治維新後の日本が悲惨なものだったとしたら、幕府再興運動かなんか起きていたかもしれない。
今だったら、たとえば、イラク戦争なんかはそうかもしれない。イスラム社会では、コーランがそのまま憲法にもなり、社会秩序を規定するものだから、民主国家と比べてもずっと、祭政一致、政教一体の社会になっている。それに対して、アメリカはイラク戦争を行なって、民主主義という楔を打ち込んだ。
現実には、石油利権の絡みがあって、ドル基軸体制の維持のため、というこの世的な理由があったにせよ、思想的にみれば、預言者兼政治家が、神の教えに従って作った社会に対して、そうではないと民主主義が戦いを挑んだ姿のように見える。預言者が政治を司ることを是とする正義と、民主的に選ばれたものが政治を司るべきだ、という正義同士がぶつかった構図がそこにある。
まだ、戦闘が終わってからそれほど時間がたっていないから、あの戦争のどちらに正義があったのかどうかはっきりとは分からない。現時点で、はっきりしているのは、フセイン大統領を除いて暫定政権を経て、イラク人による新政府が発足したこと。この政府がどういう政治を行うか、アメリカが置いて行った民主主義の考えがイラクの人々に幸福をもたらすかによって、あの戦争が正義だったのかどうか、時とともに見えてくるようになるのだろう。
そして、その時には、預言者兼政治家による政治と、民主主義による政治のどちらが良いのかの判定が下されることになる。
4.権力を与えるもの
預言者は神が選ぶけれど、民主国家では、政治家は民衆が選ぶ。
王侯貴族などのように生まれながらにして、神から王権を授かった人物が権力を握る社会と、民衆一人一人の総意によって権力を与える社会とでは、その権力を与える主体が異なっている。
この権力を与える主体が誰になるか、という一点が、権力の専横を許すか許さないかを分ける鍵になる。
その国の権力、すなわち王である権利は神が授けるものである、とする政体は、いわば預言者が政治家になるようなもので、その政治家に逆らうことは神への反逆になる。確かに、その政治家が真に神の代理人であり、神の声を預かるような人であれば、それこそ、素晴らしい政治をするだろうと予想される。
だけど、暗愚な君主で側近に操られ利用されたり、暴君であったりした場合には、最悪の治世となることは火を見るより明らか。だから、権力を与える主体が、極々一部の者しか持っていない社会は、そうしたリスクを抱えている。
そのようなリスクを回避する手立てを、システムとして持たせたのが民主主義。民主国家では、政治家は民衆が選ぶから、多数の民衆の人心を掴んだものしか、政治家として選出されることはない。
民衆は数も多くて、いろいろな考えを持っているものだから、その意見は互いに牽制され、総体としてみれば、大抵は、最上ではないにせよ、最悪ではないところに落ち着いてゆく。
だから、たとえ、民主選挙における候補者が、何某かの宗教信者だったり、宗教家だったとしても、それとは関係のない人も含めた、大多数の民衆の支持を集めないかぎり、絶対に当選できないシステムになっている。
つまり、民主国家では、宗教が政治に直接参加したくても、その宗教自身が、多数の国民の支持を集めるものでない限り、それは不可能である、ということ。
もちろん、政治家たちに多くの献金をすることで、間接的に政治に大きな影響力を発揮することは可能なのだけれど、それとて、その肝心の献金をするためには、多くの浄財なり布施なりを集めなければいけないから、多くの信者やシンパが必要になる。つまるところ、大多数の民衆の支持が必要になることに変わりはない。
5.信教の自由と政教分離の原則
世の中一般に通用している正義と宗教の説く正義がぶつかるとき、その場での勝敗は何某かの結果となって現われる。
この世において、権力と権威が戦えば、普通は権力側が勝つことになっている。武力を掌握しているのは権力側だから、当然そうなる。
民主国家においては、法の下の平等、すなわち国民の自由意思は、最大限尊重されなければならない。故に、「信教の自由」が保障されているのだけれど、その自由は当然、他の何物にも侵害されることはあってはいけない。
むろん、その自由が他人の自由を脅かすものであれば、それは当然制約の対象になる。国民一人一人の自由意思を互いに尊重し合うのが前提での話。
本当は、他人の心は自由にできないものだから、「信教の自由」そのものを侵害することはできない筈なのだけれど、権力が「信教の自由」の表明を出来なくさせることはできる。
たとえば、国家権力か何かで、ある特定の宗教を弾圧してしまえば、社会的にその宗教は抹殺できるし、その宗教の信者を片っ端から捕まえてしまえば、社会的にその宗教に対する信仰の表明はできなくなる。
要は、「信教の自由」といっても、権力なり武力によって、特定の団体なり宗教なりを、いつでも社会的に抹殺できてしまう危険があるということ。
中国共産党が、法輪功に対してやっていることは、正にこれ。
これを許してしまっては、民主国家は成り立たない。だから、民主国家には、国家権力がいかなる宗教・宗派を弾圧したり、特定の宗教や団体を強要または規制してはならない、という取り決めが必要になる。それが、いわゆる「政教分離の原則」と呼ばれるもの。
今の民主国家の多くは、権力が宗教を押しつぶすことを防ぐ為に、法律としてそれを禁止している。
戦前の日本では、神道を国家神道にして、廃仏毀釈をしたことがあるけれど、今の憲法では、それは禁止されている。
逆にいえば、個人が自主的に何かの宗教を信仰するのは、その限りではないし、その宗教団体が政治的主張をするのも別に構わない。「信教の自由」と「表現の自由」、そして、「思想結社の自由」によって、それは保障されている。
政教分離の原則に従えば、仮にどこかの宗教政党が第一党になって国政担ったとしても、自分の宗教以外の宗教を弾圧することはあってはならない。それが守られる限り、民主国家は成立する。
宗教政党が国政に参加するとなった途端に、全体主義に陥る危険がある、と警戒する人は、おそらく、この点を気にしているものと思われる。
6.カルトが嫌われる理由
今の日本で、いわゆるカルト教団が嫌われる理由は、その偏狭性にある。自分以外は信じてはならない、とか、自分達だけが正しくて、他は皆間違っているのだ、とかいう心の狭さと、自分の教団に次々と信者を引っ張りこもうという姿勢が嫌われている。
民主国家の前提である、法の下の平等を基準にすれば、いかなる教団であれ「来るものは拒まず、去るものは追わず」でないといけない。でないと、個人の自由意思を尊重していることにはならない。
ところがカルトは、来たくない者でも引きずり込み、去る者は、地の果てまで追いかける。こうした態度が応々にして見受けられるし、実際そう思われている。そこが嫌われている理由。
要は、自分の意思と関係なく、何かの主張なり思想なりを押し付けられることを警戒し、拒絶する気持ち。それがカルトが忌避される根本にある。
だけど、この「思想の押し付け」という行為は、政教分離規定で禁止されているところの、国家による何某かの信仰の押し付け、または弾圧と構造的にはなんら変わらない。
だから、個人の自由意思の尊重、「信教の自由」という規定が、いかに民主国家としての根本を支えているかということを、国民一人一人が、しっかりと自覚しなきゃいけない。「信教の自由」に対する理解が広がれば広がるほど、権力の専横を防いでゆく力になるから。
したがって、民主国家においては、カルト教団が自らの教えを布教すればするほど、自らの在り方を変えざるを得なくなる。カルトはカルトであるが故に、ごく一部の人達の支持しか集めることしかできないから、そのままでは、国民全部を信者にするのは難しい。他人の自由意志を尊重すればするほど、自らの偏狭性を捨てなくてはならなくなる。
カルトが自身の偏狭性を捨て去れば、それは、もはやカルトでは無くなってくる。更に、その教えに普遍性があれば、時代を超えて教えが伝えられ、広がり、やがて世界宗教へと成長してゆくことも在り得る。
だから、民主国家において、もし何かの宗教政党が第一党になるくらい支持を集めることがあるとしたら、もうそれは、かなりの部分はカルトではない、と考えてもいいのではないかと思う。
下駄の雪な政党が、結党以来40年以上たっても未だに第一党になれない現状を考えると、日本において、ある特定の思想団体が、いくら多くの日本人の支持を集めようと試みたとしても、それがどれほど困難な事であるのか良く分かる。
7.政治の役目
政治の役目は、なんといっても国民の命を安んずること。国民の生命および財産を守ることを第一の使命とする。そうして国を定めた上で、その土台の上に、経済・教育・文化がある。
だけど、民主国家が、その国の繁栄を築く上において、民主であるが故に重要となる条件がある。教育の問題がそれ。
読み書き・算盤といった基本的な教育は兎も角として、躾を含めて、教育というものを行う限り、何某かの価値観を教え、伝えることになるのは殆ど避けられない。
普通、国家によって教育される価値観は、その国の伝統であったり、今の世の中で通用し、常識とされているものになるのだけれど、その肝心の価値観そのものが、民主国家の行く末を決めてゆく。なぜなら、教育を受けた青少年はやがて、成人して選挙権を持ち、各々一票を与えられることになるから。
国家が何某かの主義を下に国民に教育を行なうと、何年、何十年後にはその影響が社会全般に出てきて、政治にも反映されるようになる。
だから、国家における教育というものは、もちろん、その時、その社会において、最も正しいだろう、と思われるものについて慎重に精査して教えることにならざるを得ない。それは教育の目的にも依るのだけれど、基本的に、教育は、その社会で自立して、独力で生きていく力を身につけさせる、という目的で行われるものだから、その時、その社会に一番適合する価値観を教えるのは必然だといえる。
だけど、思想・主義において、一番の問題は、その正しいだろう、という思想や主義が未来永劫に渡って「正しい」とされるとは限らないということ。その主義・思想が、何処まで、何時まで正しいのか、という中身は、国家を大きく左右する。
これは、正義の問題とも絡んでくるのだけれど、この世における「正しさ」自体が、時代の趨勢や国際環境の影響を受けて、圧力を受けたり、変化したりすることに起因している。
ここ百年くらいを眺めてみても、植民地を是とした正義があり、共産主義が良しとされた時代があり、今や、資本主義に疑念が持たれ、保護主義的考え方が勢力を増しつつある。正義なんて時代ごとにコロコロ代わってる。
だから、国家は、国民に基本的なことを教えたら、後は、本人が独力で考えを修正したり、転向したりできるような「材料や環境」を出来る限り整えておくことが望ましい。
仮に、マルクス主義思想を持っていた人であっても、それを否定せず、また、いつでも転向できるように、本なり、教育機関なりで、自由主義の考えを学習できる機会を提供したりできていれば、「正しさ」自体が時代とともに変遷しても、個人レベルで思想の修正をしていくことが可能になる。
何某かの教育に対して反対できる人がいるということは、そうではない教育を受けているか、そうではない情報を得て、自らの考えを変えることができる環境があるということを意味してる。
特亜のプロパガンダを受けて育ったけれど、ネットの情報やその他の本を読んで洗脳が解けたという人だって沢山いる。
カルト教団に入っている人を称して「洗脳されている」とは、まま言われることでもあるけれど、穿った見方をすれば、教育だって洗脳の一種だ、といえなくもない。戦前・戦中派の人たちが、戦後教育で、大きなショックを受けたというのも、戦前教育の洗脳が解けただけなのだという解釈だってできるし、隣国の反日教育なんかは、日本から見れば、それこそ「洗脳している」ように見える。
だから、その国の教育を正しいものにできるかどうかは、つまるところ、宗教なり思想や主義なりが乱立していたとしても、それを無闇に否定したり弾圧したりせずに、むしろ切磋琢磨させてゆく中で、より正しい考えを内包していって、また同時に、そうしたものに触れられる機会をどこまで提供できるか、という問題に帰着するのだと思う。
これも、結局は、「信教の自由」を如何に保障してゆくかという問題と軌を一にする。
8.政治と宗教の役割分担
昔は、宗教が政治の代わりをしていた部分があった。インフラが整備されていなかったり、教育機関や医療が十分でなかったり、つまり政治の力が国中に行きとどかなかった時代には、僧侶や寺院がその役目の一部を担っていた。
弘法大師は「満濃池」と呼ばれる日本最大の溜池を修築しているし、寺子屋では読み書き・算盤を教えていた。
なぜそんなことができたかと言えば、宗教は、教団という独自の組織を持ち、布施や浄財を集めることができたから。ある意味、民主組織の草分けだといえるのかもしれない。
だけど、時代が下って、世の中が発達してくると、世の中が専門分化して、より複雑になっていって、世の中を支えるために、専門家が沢山必要とされるようになってきた。
また経済の発達によって、政治の力でインフラや教育制度が整うようになってくると、そうしたこの世的な、肉体生命を維持する部分は、どんどん政治が面倒を見るようになって、宗教は、心の教えだけを説けるようになってきた。ある意味において、政治と宗教の役割分担が明確になってきたとも言える。
だから、政治が本当の意味でしっかりしていて、国民が安心して暮らせる社会が出来ていると、宗教は、別に政治に口出しなんかせずに、安心して心の教えだけを説いていればいい。
尤も、現代のように科学技術や社会システムが進んで、専門分化して高度化してしまった社会に対して、宗教が政治的な提言を行うことは、なかなか出来ない事も事実。宗教が各分野の専門家を、信者として大量に抱えることがなければ、提言一つとて難しい。
もしも、宗教が政治に口出ししなければならず、しかも、それが「的を得ている」というようなことがあったとするならば、それはよほど政治の力が落ちていることに他ならず、政治家としては非常に情けない状態にある、と思わなくてはいけない。なぜかといえば、世にある識者を、政治がそれだけ掬い上げていないことを意味するから。
政治の力が落ちてくると、当然、国は乱れ、国家運営はうまくいかなくなってゆく。畢竟、国防力の低下や治安の悪化、さらには経済も停滞又は後退して、人心も乱れていって統制が取れなくなってくる。
そんなときに選挙が行なわれると、どうなるか。
政治家は自分が当選するために、その乱れた人心のご機嫌を取るようになってくる。平たくいえば、バラマキをしてみせたり、政治改革をして、この国を生まれ変わらせます、とか絶叫して人心をひき付けて票稼ぎに走るようになる。
悪くいえば、ポピュリズムに近づいてゆく。そんなとき、国民の価値観がしっかりしていれば、そんな甘言に惑わされることなく、本当に必要なことを求めるから、たとえば、不況下において、「米百俵の精神」を言われても、それを支持したりすることもできる。
だから、そうした国民の考え方や価値観を間違えない為には、常に「正しさ」を追求して止まない教育や、様々な考えを許容して内包できる社会がそこにないといけない。
9.健全な民主国家の条件
宗教は、自分のところの教えはこうだ、と全面に押し出して布教活動しているから、信者以外の人でもこの宗教は、こういう考えなのだな、こういう価値観を教えているのだな、と分かる。そして、それがその通りかどうかは、その教団なり信者なりの言動をみれば大体判定できる。
教え自体は立派そうなことを言っているのに、教団や信者が立派な立ち振る舞いをしていないのであれば、実は、教えが立派ではないか、教団や信者が教えを誤解しているか又は理解していないかのどれか。そんな教団を母体とする政党があれば、その政党の信頼性や支持はその分だけ落ちることになる。
宗教はそんな風にある程度チェックができるのだけれど、同じように、政党や各種団体についても価値観のチェックは出来なきゃいけない。
政党は選挙にあたって、公約を国民に示して、何をやらんとするか示すし、個々の議員にしても、その人となりや普段の活動に触れて知っている人にとっては、如何なる価値観に基づいているかどうかのチェックはできる。それはその他の団体に関しても同じ。
だけど、その団体なり、政党なりに特に興味がなくて、普段会うことがない人にとっては、その価値観をチェックする機会そのものが殆どない。
必然的に、その相手の価値観に対して、適切な判断をすることは難しくなる。それでも、民主国家では、誰であっても平等に一票を与えられている。
だから、特に選挙においてそうなのだけれど、政治に興味がある人ない人関わりなく、広く情報を伝達して、大衆に価値判断の材料を提供できる手段を持たなければ、民主国家は十全に機能しない。
つまり、マスコミの健全性がポイントになる、ということ。
仮に、マスコミが、ストローの様に、全ての情報に一切手を加えることなく大衆に伝達できればいいのだけれど、紙面の都合や、放送枠の関係で、流す情報に取捨選択を加えざるを得ない場合が殆ど。いきおい、何を報道して、何を報道しないか、という価値判断がそこに加わることになる。
事実を伝えるだけでも、取捨選択という価値判断が加わるのに、伝える情報そのものを操作したり、捏造しようものなら、大衆が正しい判断をすることは著しく困難になる。
だから、マスコミはせめて、自身がどのような価値観で持って記事を選び出し、乗せているかの広報をするべきであって、公正中立を装って、特定の個人、団体の後押しをするような報道は、大衆をミスリードすることになりかねない。
広く一般大衆に、思想なり情報なりを伝えるという意味では、宗教団体もマスコミも変わらない。であるならば、マスコミも、如何なる思想信条に基づいて、これを報道している、という看板を掲げるべきであって、それすらないのであれば、マスコミは、自らの教えを高く掲げる宗教以下の存在であることを、自ら宣言していることになる。
別に、今のマスコミ全てに対して愛国心を持てとは言わない。だけど、反日思想を持っているのなら、自分は反日なのだ、とはっきり宣言してから、そうした記事を出すべきであるとは思う。
そうすれば、読むほうも、そうだと覚悟してから読むし、最初から読む価値がないと判断することもできる。売買の時点でそうした判断が入るから、必然的に市場原理が働くことになる。
その意味において、宗教や各種教育制度、そしてマスコミがしっかりとして在って、それらが常に正しさを追求しながら、お互いに切磋琢磨できる社会であることが、民主国家にとっては何よりも大切なこと。
民主国家は、政治だけでなく、宗教やマスコミなどの価値観や情報の大衆普及手段が、共に正しく機能して始めて、健全な国家を構築することが可能になる。
10.経済大国の責任
政府が弾圧などの強権を発動しなくても、信教の自由、表現の自由に制約を課すことは簡単にできる。宗教法人税や電波利用料を引き上げてしまえばいい。
宗教法人を含む公益法人は、一般事業が利益を獲得する活動とは異なるという趣旨から、収益事業にのみ課税し、その税率も、一般事業の税率より低く設定されている。また、電波利用料に関しても、2007年時点の調査だけど、電波使用料収入総額に対して、テレビ局の占める割合が僅か1%強しかないことから、安すぎるのではないか、と非難の声も上がってる。
確かに、普通の企業と比べて随分優遇されている。もしこれが、普通の企業並みに引き上げたら、相当数の宗教団体が無くなるだろうし、放送局もいくつか姿を消すだろう。税金を普通の企業並みにする、ということは、普通の企業並みの利益を出さないと、教団や放送局を維持できなくなるということを意味する。
そうなると、必然的に「布施や浄財を沢山集めることができる」宗教や「人気があって、視聴率の取れる番組」だけを流す放送局しか残らなくなってしまう。
だけど、お金を沢山集められる宗教や、視聴率だけあるテレビ局が、いつも「正しい」とは限らない。
「正しい」考えや優れた見識は、「価値」を生む。
正しい考えに基づいた企業活動は、その社会のトレンドや正義に合致しているから、安定した利益を生みだすし、優れた見識を取り入れた政治は、道を誤ることがない。
もちろん、その「正しさ」自体は、時代によって変遷するから、今、利益を生んでいても、未来永劫それで利益が得られるとは限らない。企業経営者が口を酸っぱくして、イノベーションと言い続けるのも、価値を生む考え方が次々と考えだされ、市場を創り、リードしてゆくから。
だけど、イノベーションを伴う斬新な考えは、世の中一般に「正しい」とされる考えに逆らうことが多いから、風当たりが強くなるのが普通。
だけど、もし、その新しい考えが次の時代を予期させ、先取りするようなものであれば、やがて、世の中が認め、それが当たり前になってゆく。時代の先駆者はいつもそうした風当たりをものともせずに改革をしていったことも事実。
次の時代の萌芽は、現在ただ今の中にある、とは良く言われることだけれど、萌芽の段階では、ほとんどの人はそれに気付かない。
そうしたとき、その萌芽を含んだ考えに基づいた公益団体なり、何なりに重税を課せば、簡単に潰れてしまう。萌芽の段階でそれに気づく人が少ないが故に、その団体を経済的に支える力は弱いから。
そうした「考え」を打ち出す最たるものが、宗教団体とか、報道機関。尤も、宗教団体と報道機関の打ちだす考えには、少しその性格に違いがある。
宗教団体は過去に説かれ、時代の波に揉まれながらも、今に伝わる伝統的価値や、新興宗教に見られるように、現代にマッチして未来に繋がる価値、つまり時間軸方向に過去や未来に伸びる価値を打ち出す傾向が強い。一方、報道機関は世の中を広くサーチしながら、一般的な報道もする一方、普段はなかなか陽の当らない対象を見出し、クローズアップしたりするという空間軸方向で価値を探し出して報道する特徴がある。
宗教団体でも、報道機関でも、そうした、「考え」を見出し、広く普及させるが故に「公益」があるとみなされるのだろう。だから、「考え」に重税を課すということは、そうした小さな芽を次々と摘み取ってしまうことに成りかねない。
要は、「考え」にお金を払ってくれるという、存在なり、パトロンなりがいないと、未来の可能性を潰すことに繋がる、ということ。これは、文化でも同じ。
もちろん、その低率な税という特権を逆手にとって、間違った考えや報道を普及させてしまうことで、世の中を間違った方向に導くことも在り得る。「表現の自由」は自由として、保証されているものだけれど、その自由の行使にあたって、責任が付随することは至極当然のこと。
つまり、間違った事を表現し、それによって誰かに迷惑を掛けた場合には、当然、それ相応の罰則なりなんなり、しかるべき処置を甘受しなきゃいけない。
これまでのように、間違った報道に関して、形ばかりの訂正記事を隅っこに出してハイおしまい、といったやり方はもう通用しなくなってきている。昨年の毎日新聞WaiWai問題がそれを物語っている。
証券会社がインサイダー取引かなにかで行政指導をうけて、何日間かの業務停止命令を受けたりすることがあるように、間違った報道には、放送停止命令を出して、一週間かそこら放送できないようにするとかしないと、もはや世間は納得しないのではないかと思う。そんな放送局には、いずれスポンサーも離れてゆくだろうし、それこそ市場原理が強力に働く。
だけど、「考え」は目に見えないし、手に取ることも、食べることもできない。「考え」だけでは空腹は満たせない。
だから、「考え」にお金を払うことができる、という国は、普通は経済的に豊かな大国が中心になる。
だけど、もし、その経済大国で生まれた文化なり、考えや思想なりが、その後の何十年、何百年をリードするものであったとしたら、その芽を摘んでしまうことの損失は計り知れない。
何がしかの「考え」が、その後の世界を支える原動力になる程のものであったとしたら、その「考え」を有する国は、かけがえのない宝、全人類を照らす光を持っているということになる。
つまり、現在ただ今の、経済大国には、それだけの責任があるということ。経済大国は、その国ただ一国の国益だけでなくて、世界全体をも潤す価値を生む可能性がある。
それが、経済大国が経済大国として存在することを許される条件なのではないかとさえ。
「考え」が価値を生む、ということに賛同できるのであれば、例えそれが乱立であったとしても「考え」を守り、競争させ、それらを互いに磨いてゆくことが大切。それが未来への国力の源泉となる。そして、それは世界を支える力へと飛翔する。 
■イスラームにおける結婚
結婚は、イスラームが強調する関係の内、最も偉大なものです。
イスラームは結婚を、使徒たちの習いとしました。イスラームは結婚の決まりを始め、以下の詳細を示すことに関心を払っています。結婚の礼節。結婚関係を継続的で安定したものとして保つ、夫婦の諸権利。そこにおいて子供が、心理的安定・宗教的確立・人生におけるあらゆる分野における卓越と共に育つような、成功にあふれた家族の形成。
これらの結婚の決まりには、以下のようなものがあります。イスラームは結婚が正しいものとなるべく、夫婦それぞれに幾つかの条件と義務を課しています。
イスラームにおける妻の条件
1. 女性が、自分の宗教を信じるムスリマ(ムスリムの女性形)、あるいは啓典の民(ユダヤ教徒・キリスト教徒)であること。ただしイスラームは、私たちが宗教的なムスリマを妻として選ぶよう、励行しています。なぜなら妻は、あなたの子供の母親・養育者となり、あなたに対する善と宗教的な確固さへの助っ人となるからです。預言者rは、こう仰りました。「宗教的な女性を勝ち取るがよい。(もしこれに背くのなら、)あなたは苦労するであろう。」
2. 貞淑で、貞操を守る女性であること。卑猥な物事や姦淫で知られた女性は、結婚を禁じられます。アッラーは仰せられました。『また、女性の信仰者たちの内、貞淑な女性と、啓典の民の女性の内、淑貞な女性(が、あなた方に許されている)。』
3. 女性が、結婚することを永久的に禁じられているマフラムではないこと。これは既に説明した通りです。なお、女性と、その姉妹/その父方の叔(伯)母/母方の叔(伯)母を同時に娶ることは出来ません。
イスラームにおける夫の条件
夫は、ムスリムであることが条件づけられます。イスラームにおいては、ムスリマが非ムスリム‐彼が啓典の民かどうかは、関係ありません‐と結婚することは禁じられています。そして男性が以下の2つの特徴を備えていたら、結婚の申し込みを受け入れることを強く奨めています:
• 宗教における確立。
• よき品性。
預言者rは仰りました。「あなた方がその宗教と品性において満足のいくような男性が、(あなた方の後見下にある女性に) 結婚の申し込みをしてきたら、彼に結婚させよ。」
夫婦の諸権利
アッラーは夫婦のいずれにも、いくつかの権利を定められました。そして彼らを、夫婦間の関係の改善と、その保護に関係する全てのことへと、励行しています。ゆえに責任は夫婦いずれにも課せられているのであり、夫婦は相手が出来ないようなことを要求するべきでもありません。アッラーは、こう仰せられました。『また彼女たちには、彼女たちに義務づけられているようなことを、適切な形で享受する権利がある。』ゆえに人生というサイクルが前進し、尊厳にあふれた家族が築かれるよう、寛容さと寄与の精神が必要となってくるのです。
妻の諸権利
・・・甘言と辛抱
男性の性質とは違う女性の性質への配慮と、あらゆる側面から人生を観察する努力は必要不可欠です。間違いを犯さない者などはいませんから、私たちは忍耐し、ポジティブな観点を持たなければなりません。アッラーは、夫婦に対してポジティブな側面を見るよう促し、こう仰せられました。『また、あなた方の間の徳を忘れてはならない。』また 預言者は、こう仰りました。「男性の信仰者が、女性の信仰者を嫌うようなことがあってはならない。もし彼女のある品性を嫌ったとしても、別の面において彼女を気に入るのだ。」
また預言者は、女性の心理的・感情的性質が男性とは異なる一方で、この相違が家族にとっての補足的な役割を果たしていること、そしてその相違が別離や離婚の原因となるべきではないことを指摘した上で、女性への気づかいと、善と適切な方法をもって彼女たちと付き合うことを強調しました。彼rは、こう仰ります。「女性たちに関する助言を受け入れよ。実に女性は肋骨から創られたのであり、1つのやり方において、あなたに従順になることがない。それで彼女を楽しむのなら、彼女に屈折があるまま楽しむのだ。そして、もし彼女を矯正しようとすれば、あなたは彼女を折ってしまうだろう。彼女を折るということは、彼女を離婚することなのだ。」 
■宗教の狂気
メキシコはジェルバ・ブエナスという小さな村で、その宗教は興った。1963年、エルナンデスという詐欺師の兄弟が、この無知で純朴な村人達を騙そうと思いついたのが事の起こりである。彼らはその甘言で村人に、「山に住むインカの神に仕える者は、富と平安とを得る」と信じ込ませ、インカの高僧になりすますことに成功した(もちろんインカ帝国はペルーにあったのであり、この言葉はエルナンデス兄弟のでたらめである)。エルナンデス兄弟の弟はホモセクシュアル、兄はヘテロセクシュアルであり、彼らは2人とも、村人から金を吸い上げるとともにセックスの奉仕も強要した。しかし「ご利益」があまりに遅いことに不平をもった村人が出はじめたため、彼らはこのインチキ宗教をもっと大掛かりなものにすることに決めた。それには自分達2人きりでは心もとない。彼らは町へ下り、協力者を得た。それがマグダレーナ・ソリスと、エリーザの兄妹であった。妹マグダレーナは売春婦、兄エリーザはその斡旋をして暮らしている。エルナンデス兄と同性愛関係にあったエリーザは、「インカの神様の役をやってくれ」と持ちかけられ、田舎者を騙すのはちょろい詐欺だと思って妹を伴い、ジェルバ・ブエナス村へ入った。彼らの演出した派手な儀式に、村人達は幻惑され、ただちに騙された。ソリス兄妹は美貌であり、彼らがもうもうたる煙の中から現れると、村人はその神々しさにすぐさま聖者であると信じたという。美しい兄妹によって怪しげな洗礼を受けた村人たちは、いったんは納得し、満足した。
ブエナス村には、セリーナという一際目立つ美少女がいた。エルナンデス兄がすでに目を付け、「侍女」という名の愛人にしていたあとであったが、レズビアンであったマグダレーナはセリーナに目を付けた。他にもいくらでも相手を見つけることのできたエルナンデス兄はセリーナに特に執着がなかったらしく、彼女をすぐにマグダレーナに謙譲した。一方、ホモセクシュアルであるエルナンデス弟とエリーザは、美少年や若い農夫を「儀式によって、清める」という名目で体を弄んでいた。この時期、ルビオという村人が彼らを怪しんで接触したが、じきに仲間に引きずりこまれ、甘い汁の分け前をありつくようになっている。
しかしじきにまた村人たちから不満が出はじめた。エルナンデス兄弟とソリス兄妹はそれを抑えるため、「ご利益がないのは、村人の中に我らを信じぬ不心得者がおり、神々がそれを怒っているからだ。不信心者を生贄に出さなければならない」と言った。直ちに該当すると思われる村人二名が選出されて撲殺され、血を抜き取られた。その血は鶏の血と混ぜ合わされ、信者たちの杯に注がれ飲まれたという。その後2ヶ月の間に、さらに六名の村人がこの儀式によって殺された。
が、マグダレーナの愛人にされたセリーナはもともと同性愛嗜好の気が薄かったようで、そのうちにまたエルナンデス兄の方へ、マグダレーナの目を盗んで「身を捧げ」はじめた。マグダレーナはこれを知り、激昂した。一般に、ホモセクシュアルよりはレズビアンの方が嫉妬心が旺盛であると言われる。少なくともマグダレーナはそうだったようで、この怒りは殺意へと変わった。1963年5月、マグダレーナは儀式の生贄にセリーナを選び、彼女を祭壇の十字架に縛りつけた挙句、意識を失うまでその体を蹴り、踏みにじって鬱憤を晴らした。セリーナはその後、信者たちによって嬲り殺された。セリーナの死体に火が放たれ、ほとんど興奮でトランス状態になったマグダレーナが次の不信心者を声高に名指す。するとその男はたちまち、周囲の信者たちに斧で殴り殺された。だが、この異様な光景を盗み見ていた者がいた。彼はセバスチャンという14歳の少年で、この狂信集団にはそれまで関わりがなかったので激しいショックを受け、すぐさま町の警察署に駆け込んでこれを知らせた。しかし、セバスチャンと、彼が助けを要請したはずの警官はいつまでたっても帰ってはこなかった。彼ら2人が行方不明になったとの報せを受け、警官隊がジェルバ・ブエナス村へ急行してみると、そこには切り刻まれた2人の死体が転がっていた。警官の大きく切り開かれた胸部からは、心臓が掴み出されていた。この後、警官隊と狂信集団との銃撃戦が起こる。が、やがて警官隊によって制圧された。警官が踏み込んでみるとエルナンデス兄は銃撃で死亡しており、弟は、その地位にとってかわろうとしていた村人ルビオによってすでに殺害されていた。信者たちは彼らの死を、「インカの神々を冒涜したための報いだ」と言った。その「インカの神々」ことソリス兄妹は、捜索の結果、マリファナで眠っているところを逮捕された。
1963年6月13日、ソリス兄妹と、他12名の信者はそれぞれ懲役30年の形を受け、刑に服した。 
■『第一政治書簡』
ユダヤ人が今日わが民族に対して持っている危険は、我が民族の大部分が抱く抜きがたい嫌悪感のうちに表現されているが、この嫌悪感は、ユダヤ人が意識的無意識的に我が民族に及ぼす計画的かつ有害な作用を明確に認識した結果生まれたのではなく、個人的な交際を通じてユダヤ人が個人として残す、ほとんどつねに不愉快な印象に大部分としては基づいているのである。そのため、反セム主義はしばしば感情的現象の性格を帯びることになる。しかし、これは全くの誤りである。政治運動としての反セム主義は、感情的要因によって規定されてはならないし、むしろ事実の認識によって規定されるべきである。その事実とは次のごときものである:
第一にユダヤ人は、疑問の余地なく一つの人種であって、宗教的共同体ではない。さらに、ユダヤ人は自らを、決してユダヤ系ドイツ人、ユダヤ系ポーランド人、あるいはユダヤ系アメリカ人としてではなく、常にドイツ系、ポーランド系、アメリカ系ユダヤ人として描写する。ユダヤ人は、彼らがその直中に生活している外国の人民から、彼らの言語よりも多くを、吸収したことは一度もない。フランスにおいてフランス語を、イタリアにおいてイタリア語を、および支那において支那語を使用せざるをえないドイツ人が、それによってフランス人にも、イタリア人にも、ましてや支那人になることもないし、我々の中に偶然居住していてドイツ語を使用せざるをえないユダヤ人をドイツ人と呼ぶこともまたできない。寄せ集めの信仰さえが、その人種の保存のためにはいかに重要であろうと、誰がユダヤ人で誰がユダヤ人でないのかを決定するための単一の基準にはなりえない。全成員が皆単一の宗教に属している人種は、世界にほとんど存在しない。
数千年にわたる同族結婚、しばしばごく狭いサークル内での同族結婚によって、ユダヤ人は彼らがその中で生きた数多くの他民族よりも、全体としてはその種族とその特質を厳しく保持してきたのである。かくて、我々の中に一つの非ドイツ的な外国人種が生息するという事実が生じたのである。彼らは、自己の民族的特性を犠牲にするつもりはなく、彼ら自身の感情、思考、努力を捨てる気もないのだが、にもかかわらず我々と同様に政治的権利の全てを所有しているのである。ユダヤ人は感情からしてすでに純粋に物質的に動いているが、その思考と努力は一層然りなのである。我々の内的感情から見れば、黄金の仔牛の周りを巡る踊りは、決してこの地上における至高のものではなく、また努力に値する唯一のものではありえないのであるが、彼らユダヤ人は、かかる財宝をめぐって仮借なき闘争を続けている。
個々人の価値はもはや性格や、全体に対する行為の意義によっては決められず、財産や所持する金銭の多寡によってのみ決められるようになる。国民の高貴さは、もはやその倫理的・精神的力の総量によって測られるべきではなく、ただその物質的財産の豊かさによってのみ測られている。
かくして、かの金銭を求める思想、金銭を求める努力が生まれる。この思想、努力を擁護する力は、財産の選択においてユダヤ人を良心なきものとし、この目的のために財産を消費することにおいて仮借なき態度をとらせる。ユダヤ人たちは専制支配の国家の中において、王侯たちの「尊厳」の恩寵を求めて集まり、それを諸民族へ憑く蛭として悪用する。
彼らは民主主義の下では大衆の恩寵を切に求め「民族の尊厳」の前で這いつくばり、しかも金銭の尊厳をのみ知っている。
ユダヤ人はビザンツ風の甘言により統治者の品位を、欺瞞と非行への恥知らずな誘惑とにより民族的誇りおよび民族の強さを、徐々に弱らせた。ユダヤ人が選んだ武器は、新聞により歪められた輿論である。ユダヤ人の権力は、利子の形でかくもたやすくそして果てしなく蓄積する金銭の権力であり、それによって彼は、その煌びやかな装い、その直接的な結果においてさらに凶悪な支配を、民族の上に課すのだ。人民により大いなる物を得るべく奮起させるものはすべて、宗教、社会主義、あるいは民主政治だろうと、権力を求める貪欲さと渇望とを満足させる手段としてユダヤ人の役に立つだけである。ユダヤ人の活動はその結果において、諸民族の人種的肺病となる。「ユダヤ人の劣等で犯罪的な性格は、彼らの人種としての特性に基づくものであるから、我々が外部からどのように努力してみても改善させることは不可能である。彼らは金銭を得るために手段を選ばないし、その金銭の利子によって諸民族を抑えつけている。」
そしてそこから次のことが結果する。すなわち、純粋に感情的な諸理由からの反ユダヤ主義はその究極の表現をユダヤ人迫害のうちに見出すであろう。しかし理性の反ユダヤ主義は、ユダヤ人が他の、我々の間で生活している他の外国人と違って所有している特権を、計画的・合法的に駆除・除去することを目指さねばならない(外国人法制定)。しかし、反ユダヤ主義の究極の目標は、断固としてユダヤ人そのものを除去することにあらねばならない。この2つのことを成すには、国民的力を持った政府だけができうるのであり、国民的無力の政府は何もできないのである。
共和国はその誕生を、我らが国民の統一された意志にではなく、一連の状況の内密の利用に負っており、それらは深い不満の中に自らを表現した。これらの状況は政治構造とは独立に生じたのであり、今日でさえも作用中である。実に今は、かつてよりもそうである。この理由により我れらが国民の大部分は、国家構造それ自体を換えることによってではなく、国民の道徳的および精神的力を再生させることによってのみ、我々の地位は改善されうるのだと認識するようになった。
そしてこの再興は、党の教義、国際主義のキャッチフレーズ、あるいは無責任な新聞のスローガンの影響を受けた無責任な議会多数派の指導下では準備されない。内なる責任感を備えた民族気質の指導者たちの、断固たる行動によってのみ可能である。
まさにこの事実が、いかなる国家もがひどく必要としている精神力の内面的支持を共和国から奪うことに奉仕している。かくして、国家の形態を変えることにより受益してきたし、そして受益し続け、また、まさにその理由から革命の背後で駆動力となった人々――ユダヤ人たち――による支持を、国家の現在の指導者たちは求めざるを得ない。ユダヤ人の危険は今日の指導者たちによってさえ疑いなく認識されているのだが、それを顧慮することなく、これらの男たちは私的特権のため、ユダヤ人たちによる支持を受け入れざるをえず、また、これらの支持に報いざるを得ない。これらの支持への返礼は、あらゆるユダヤ人の要求を満たすことのみならず、とりわけ、反セム主義運動を妨害することにより、詐欺師たち[ユダヤ人]に対する人民の闘争を防止することを含む。
   敬具  アドルフ・ヒトラー  
 

 

 
 
「口」から読める個性

 

口が大きい ○
 ○ 事業主やエンターテイナー等に多い口の大きな人は、細かい事は気にならない人が
   多いようです。
 ○ 器量が大きく、独立心が旺盛。
 ○ 人相学的に一言で言えば「監督タイプ」といえます。
口が小さい
 ○ 口の小さな人は、細やかな性格なので、職人的な仕事を粘り強くこなすのが得意です。
 ○ 内省的、頭脳派。
 ○ 思い切りはよくないため、独立開業などには不向きです、自己アピールも得意でなく
   意思も強い方ではないでしょう、人相学的に一言で言うと「コーチタイプ」といえます。

クチビルの厚さは愛情のバロメーターです。
上クチビルは人につくす愛情を示し、下クチビルは自分本位の愛情を表わします。
上クチビルが厚い人は、恋人に対しても家族に対しても愛情が深くこまやかです。
この相に理性が伴わないと、異性の誘惑にもろく、愛欲にふける危険性がありますが、結婚すれぱよい家庭人になります。
この相の人は男女とも味覚が発達しており、板前やコックなど、腕がよいといわれる人はたいていこの相を持っています。
上クチビルが薄いのは、愛情があっさりしていることを示します。この相の人は、恋愛や愛欲には関心が薄く学問・宗教・思想問題などに熱心です。
女で上クチビルの薄い人は、見合い結婚が多く、結婚してからも愛情の表わし方がたりなくて、夫との仲がしっくりいかない場合がよくあるようです。
 唇が厚い
 ○ 唇が厚い人は、情が深く常に温かい真心で他人に接する人が多いようです。
 ○ 人情味が豊か。
 ○ 特に縦じわの多い人は顔相人相学的に、誰にでも優しいといわれています。
 唇が薄い
 ○ アドバイザーや参謀役に向いているといわれているのがこのタイプ、情は浅い方で
   計算高いのでリーダーの器はありませんが、淡白であっさり、頭の回転がとても早い
   です。
 ○ 薄情、口達者。
 ○ 気の利いた事をよく言う口が達者な面もあるようです。