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雑学の世界・補考


     1500  1600  1700  1800
『東方見聞録』マルコポーロ                                            
『書簡』ザビエル                                            
『東洋遍歴記』ピント                                            
『日本巡察記』ヴァリニャーノ                                            
『日本見聞録』ロドリゴ                                            
『金銀島探検報告』ビスカイノ                                            
『日本大王国志』カロン                                            
『江戸参府旅行日記』ケンペル                                            
『ベーリングの大探検』ワクセル                                            
『江戸参府随行記』ツュンベリー                                            
『日本幽囚記』ゴロヴニン                                            
『江戸参府紀行』シーボルト                                            
『フリゲート艦パルラダ号』                                            
『日本遠征記』ペリー                                            
『日本滞在期』ハリス                                            
『長崎海軍伝習所』カッテンディーケ                                            
『大君の都』オールコック                                            
『一外交官の見た明治維新』サトウ                                            
『シュリーマン旅行記 清国・日本』                                            
                                             
『東方見聞録』 マルコ・ポーロ

 
『東方見聞録』 1
マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。
原題は不明である。日本(および韓国)においては一般的に『東方見聞録』という名で知られているが、他国では『世界の記述』("La Description du Monde"、"Le Devisement du monde")、『驚異の書』("Livre des Merveilles")などとも呼ばれる。また、写本名では、『イル・ミリオーネ』("Il Milione"、100万)というタイトルが有名である。諸説あるが、マルコ・ポーロがアジアで見たものの数をいつも「100万」と表現したからとも、100万の嘘が書かれているからとも、マルコ・ポーロの姓"Emilione"に由来するともいう。英語圏やスペイン語圏、中国語圏などでは『マルコ・ポーロ旅行記』("The Travels of Marco Polo"、"Los viajes de Marco Polo"、"馬可・波羅游記")の名でも知られる。
1271年にマルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行へ出発した。1295年に始まったピサとジェノヴァ共和国との戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったルスティケロと同じ牢獄にいた縁で知り合い、この書を口述したという。
内容
東方見聞録は4冊の本からなり、以下のような内容が記述されている。
1冊目 - 中国へ到着するまでの、主に中東から中央アジアで遭遇したことについて。
2冊目 - 中国とクビライの宮廷について。
3冊目 - ジパング(日本)・インド・スリランカ、東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域について。
4冊目 - モンゴルにおける戦争と、ロシアなどの極北地域について。
黄金の国ジパング
日本では、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Cipangu)として紹介したという点で特によく知られている。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。なお、「ジパング」は日本の英名である「ジャパン」(Japan)の語源である。日本国(中国語でジーベングォ)に由来する。
東方見聞録によると、「ジパングは、カタイ(中国北部)(書籍によっては、マンジ(中国南部)と書かれているものもある)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。 また、ジパングには、偶像を崇拝する者(仏教徒)と、そうでない者とがおり、外見がよいこと、また、礼儀正しく穏やかであること、葬儀は火葬か土葬であり、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う習慣がある。」といった記述がある。「莫大な金を産出し」というのは奥州の金産地を指し、「宮殿や民家は黄金でできている」というのは中尊寺金色堂についての話を聞いたものであるとの説もある。
東インド諸島〜インドに関する記述
ジャワ島については、甚だ裕福な島であり、胡椒、ナツメグ、ジャコウ、ガンショウ、バンウコン、クベバ、クローブなど、世界中の香料がここで生産され、極めて多くの船舶と商人がこの島を目指し、大量の商品を仕入れて巨利を得ていると述べられている。 スマトラ島については、キャラ、ガンショウ、その他、ヨーロッパまではもたらされない高価な香料を生産しており、北西部に位置するランブリ王国については、「樟脳、その他の香料を豊富に生産している」と述べられている。 インドについては、「胡椒、シナモン、生姜」またボンベイの近くで生産されていたとされる「褐色の香木」への言及があり、アラビア商人と中国商人とが盛んな取引を見せるマイバール沿岸地帯随一のコイラム港の解説がある。このあたりは、ブラジルスオウ材、インディゴ、胡椒の生産地であり、胡椒木の栽培法、インディゴの凝縮法が詳しく述べられている。当時のインドに存在していたとされるマーバール王国については、胡椒、生姜を大量に産出し、シナモンその他の香料も豊富で医療品の材料になったタービットやインド産各種のナッツ類も出回っており、世界に類を見ない極上品である様々な亜麻布、他にも貴重な物資があふれていると述べられている。 このような記述は、マルコ・ポーロが、こうした東洋との交易における、最も貴重な物質についての知識を蓄えていたことを示していると考えられる。
中国についての記述
中国国内において興味が引かれるであろう建造物や日常生活に関する事象ついては、沈黙している部分が多い。例えば、万里の長城の記述、若い娘の足を堅く縛る纏足、鵜飼の漁の話、印刷術や中国の文字、中国茶、茶店の話が全く述べられておらず、儒教や道教についてのコメントもない。しかし、道教については、「先生」という呼称で道教の修道僧の話が短いながら述べられている。これはマルコ・ポーロが、モンゴルの支配層と極めて強い一体感を持っていたことによる、支配下にある一般民衆の文化もしくは慣習に無関心であったこと、もしくは実際は、中国へ赴いていなかったのではないかという理由が考えられる。
流布
当時のヨーロッパの人々からすると、マルコ・ポーロの言っていた内容はにわかに信じ難く、彼は嘘つき呼ばわりされたのであるが、その後多くの言語に翻訳され、手写本として世に広まっていく。後の大航海時代に大きな影響を与え、またアジアに関する貴重な資料として重宝された。探検家のクリストファー・コロンブスも、1438年から1485年頃に出版された1冊を持っており、書き込みは計366箇所にも亘っており、このことからアジアの富に多大な興味があったと考えられる。
祖本となる系統本は早くから散逸し、各地に断片的写本として流布しており、完全な形で残っていない。こうした写本は、現在138種が確認されている。
影響
1300年頃マルコ・ポーロが本書で「モンゴル帝国」を紹介したように、イブン・バットゥータやルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホも東方の情報を伝えた。
1355年にはイブン・バットゥータの口述をイブン・ジュザイー(英語版)が筆記した「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」でマリーン朝に、ジョチ・ウルス・トゥグルク朝(インド)・サムドラ・パサイ王国(スマトラ)・シュリーヴィジャヤ王国(マラッカ)・マジャパヒト王国(ジャワ)・元(首都の大都、当時世界最大の貿易港の一つ泉州)を紹介した。イブン・バットゥータの翻訳がヨーロッパにもたらされたのは19世紀になってからである。
1406年にはルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホが「ティムール紀行(スペイン語版)」で、モンゴル帝国の後継国家のひとつ「ティムール朝」を紹介した。しかし、1396年に十字軍とオスマン帝国の間で行われたニコポリスの戦いの影響から、同じイスラム国家であるティムールに対するヨーロッパ社会の反応は冷めたもので、東方見聞録に対するような熱狂は起こらなかった。
この後も東方見聞録こそが大航海時代の探検家にとって、アジアを目指す原動力として機能し、コロンブス・コルテス、マゼランらがヨーロッパの白人世界に富をもたらすことになった。
16世紀初頭には、ポルトガル人トメ・ピレス(英語版)が、マラッカに滞在していた時に見聞した情報をまとめた『東方諸国記(ポルトガル語版)』を著した。  
 
マルコ・ポーロ

 

(伊: Marco Polo、1254-1324) ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』)を口述した冒険家でもある。
商取引を父ニッコロー・ポーロ(イタリア語版)と叔父マッフェーオ・ポーロ(英語版)に学んだ。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して3人の子供に恵まれた。1324年に没し、サン・ロレンツォ教会(イタリア語版)に埋葬された。
彼の先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、フラ・マウロの世界図が作成された。またクリストファー・コロンブスなど多くの人物に刺激を与えた。マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港やマルコポーロヒツジ(英語版)にも使われ、彼の生涯をテーマにした小説や映画なども製作された。
幼少時
マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、現代の説明はほとんどが推測である。その中で最も引用される情報は1254年生まれというものである。 生誕地は一般にヴェネツィア共和国だったと受け取られており、これも正しい場所は不明ながら多くの伝記にて同様に書かれている。 生家は代々続く商家で、彼の父親ニコーロは中東貿易に従事する商人として活躍し、財と地位を成しつつあった。 ニコーロとマフェオの兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着いた。 政変が起こると予測した彼らは、1260年に財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かった。『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、クビライとも謁見しているという。 この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育された。マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わったが、ラテン語を履修する機会は持てなかった。

1269年、ニコーロとマフィオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。そして1271年後半に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発した。一行が富と宝を得て戻ってきたのは24年後の1295年、全行程15,000kmの旅であった。
彼らが帰還してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられた。数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサであった。しかしピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えてしまった。この記録は、マルコがアジアを旅したことを記録した『東方見聞録』 (The Travels of Marco Polo) として有名になり、中国、インド、日本を含む極東の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらした。マルコは1299年8月に釈放され、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷「contrada San Giovanni Crisostomo」に戻れた。事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たした。ただし、その後マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はヴェネツィアを離れなかった。1300年、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚し、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれた。
死去
1323年、病気になったマルコ・ポーロは枕も上がらなくなった。翌年1月8日、医師の努力も空しく死期が迫ったマルコは財産分与を認め、亡くなった。遺言の公認を聖プロコロ教会の司祭ジョバンニ・ジュスティニアーニから得た妻と娘たちは正式に共同遺言執行者 (en) となった。遺言に基づいて教会も一部の地権を受け、さらに多くの遺産分与をサン・ロレンツォ教会に行なって遺体を埋葬された。 また、遺言にはマルコがアジアから連れてきたタタール人の奴隷を解放するよう指示されていた]。
マルコは残りの遺産についても、個人や宗教団体、彼が属したギルドや組織などへの配分を決めていた。さらに、彼は義理の姉妹が負っていた300リラの借金や、サン・ジョバンニ修道院、聖ドミニコ修道会のサン・パウロ教会または托鉢修道士 (en) のベンヴェヌートら聖職者が持つ負債の肩代わりもした。ジョバンニ・ジュスティニアーニには公証人役への報酬、また信者からとして200ソリドゥスが贈られた。マルコの署名は無かったが、「signum manus」の規則が適用され有効なものとされた遺言状は、日付が1324年1月9日になっていた。規則により遺言状に触れる者は遺言者だけと決められていたため、マルコの没日は9日ではないかとの疑問も生じたが、当時の1日は日没で日付が変わっていたため、現在で言う8日深夜であった可能性もある。
マルコ・ポーロの旅
マルコ・ポーロの口述を記した原本は早くから失われ、140種類を超える写本間にも有意な差が見られる。初期はフランス語で書かれていたと考えられる本は1477年にドイツ語で初めて活字化され、1488年にはラテン語およびイタリア語で出版された。しかし、これらにおいても、単独の筋書きに拠るもの、複数の版を統合したり、ヘンリー・ユールによる英語翻訳版のように一部を加えたりしたものがある。同じ英語翻訳でもA.C.ムールとポール・ペリオが訳し1938年に出版された本では、1932年にトレド大聖堂で発見されたラテン語本を元にしているが、他の版よりも5割も長い。 このように、さまざまな言語にまたがる異本が知られている。印刷機(en)の発明以前に行なわれた筆写と翻訳に起因して多くの誤りが生じ、版ごとの食い違いが非常に多い。これらのうち、14世紀初頭に作られた、「F写本」と呼ばれるイタリア語の影響が残るフランス語写本が最も原本に近いと思われている。
内容
本は、ニコーロとマフィオがキプチャク・ハン国のベルケ王子が住むボルガール (en)へ向かう旅の記述から始まる。1年後、彼らはウケク (en) に行き、さらにブハラへ向かった。そこでレバントの使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがないクビライと面会する機会を設けた。 これは1266年に大都(現在の北京)で実現した。クビライは兄弟を大いにもてなし、ヨーロッパの法や政治体制について多くの質問を投げ、またローマの教皇や教会についても聞いた。兄弟が質問に答えるとクビライは、リベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた教皇に宛てた書簡を託した。さらにクリスム(Chrism, エルサレムの、イエス・キリスト墓前に灯るランプの油)も持ってくるよう求めた。
ローマ教会では1268年にクレメンス4世が没して以来、使徒座空位にあり、クビライの要請に応える教皇は不在のままだった。ニコーロとマフェオはテオバルド・ヴィスコンティ、次いでエジプト駐留の教皇使節から助言を受け、ヴェネツィアに戻り次期教皇の即位を待つことにした。彼らがヴェネツィアに着いたのは1269年もしくは1270年であり、ここで当時16歳か17歳だったマルコと初めて会うことになった。
次期教皇はなかなか決まらず、1271年にニコーロとマフィオそしてマルコの3人はクビライへの説明のために旅に出発した。彼らが小アルメニアのライアスに到着した時、新教皇決定の知らせが届いた。彼らに、2人の宣教師ニコロ・ディ・ヴィツェンツァとグリエルモ・ディ・トリボリが同行することになったが、宣教師らは旅の困難さに直面し早々に逃亡してしまう。
マルコ一行はまずアッコまで船で往き、ペルシャのホルモズガーン州でラクダに乗り換えた。彼らは船で中国まで行きたかったが当地の船は航海に適さず、パミール高原やゴビ砂漠を越える陸路でクビライの夏の都・上都(現在の張家口市近郊)を目指した。ヴェネツィアを出て3年半後、21歳前後まで成長したマルコを含む一行は目的地に到着し、カーンは彼らを歓迎した。マルコらが到着した正確な日付は不明だが、研究者によると1271年から1275年の間だと見なされている。 宮廷にて、一行はエルサレムから持参した神聖なる油と、教皇からの手紙をクビライに渡した。
一行は元の政治官に任命され、マルコは中国南西部の雲南や蘇州・楊州で徴税実務に就いたり、また使節として帝国の南部や東部、また南の遠方やビルマ、スリランカやチャンパ王国(現在のベトナム)など各所を訪れ、それを記録した。 マルコはイタリア語の他に、フランス語、トルコ語、モンゴル語、中国語の4言語に通じ、一行はクビライにとって有用な知識や経験を数多く持っていたこともあり、マルコの役人登用は不自然ではない。
17年間中国に滞在した マルコら一行は元の政治腐敗を危惧し、中国を去りたいという申し出をしたがクビライは認めなかった。 しかし彼らは、もしクビライが亡くなれば重用された自分たちは政敵に狙われ無事にヨーロッパに戻れなくなるのでは、と危惧していた。1292年、イル・ハン国のアルグン・ハンの妃に内定したコカチンを迎えに来た使節団が、ハイドゥの乱のために陸路を取れず南海航路で帰国することになった際、航路に詳しいマルコらに同行を求めた。この許可を得た一行は同年に泉州市から14隻のジャンク船団を組んで南へ出航した。彼らはシンガポールに寄港し、スマトラ島では5ヶ月風待ちして過ごし、セイロン島を経由してインド南岸を通過し、マラバールや アラビア海を通って1293年2月頃にオルムス(Ormus, ホルムズとも)に至った。2年間にわたる船旅は決して平穏ではなく、水夫を除くと600人いた乗組員は到着時には18人にまで減ったが、コカチンやマルコら3人は無事に生き残った。 オルムスに到着し行われた結婚の祝賀会が終わると、マルコらは出発し、陸路で山を超え黒海の現在ではトラブゾンに当たる港へ向かった。 マルコらがヴェネツィアに戻ったのは1295年、通算24年間の旅を終えた。
評価
マルコには『イル・ミリオーネ(Il Milione、百万男)』というあだ名がついていた。『東方見聞録』でルスティケロは「それらはすべて賢明にして尊敬すべきヴェニスの市民、《ミリオーネ》と称せられたマルコ・ポーロ氏が親しく自ら目睹したところを、彼の語るがままに記述したものである。」と述べている。このあだ名の由来には諸説あるがはっきりしたことは分からない。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたという説、またそれを大風呂敷だとして当時の人がからかい、そのように呼んだという説、またアジアから持ち帰った商品によって「百万長者」になったことを表すという説などがある。
大英図書館中国部主任のフランシス・ウッドは『東方見聞録』には実在した中国風俗の多くが紹介されていないことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示し、彼は黒海近辺で収集した情報を語ったと推測している。
日本のモンゴル史学者の杉山正明はマルコ・ポーロの実在そのものに疑問を投げかけている。その理由として、『東方見聞録』の写本における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なことなどを挙げている。但しモンゴル宮廷についての記述が他の資料と一致する、つまり宮廷内に出入りした人物で無いと描けないということから、マルコ・ポーロらしき人がいたことは否定していない。
2010年1月イランのハミード・バガーイー文化遺産観光庁長官は、国際シルクロード・シンポジウムにてマルコ・ポーロの旅には西洋が東洋の情報を収集して対抗するための諜報活動という側面があったという説を述べた。これは、単に交易の道だけに止まらないシルクロードが持つ機能を端的に表現したもので、この道が古来から文化や社会的な交流を生む場であり、マルコの旅を例に挙げて示したものである。
1981年から1990年まで発行された1000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されていた。
影響
黄金の国ジパング
マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、自らは渡航しなかったが 日本のことをジパング (Zipangu)の名でヨーロッパに初めて紹介した。バデルが校正したB4写本では、三章に亘って日本の地理・民族・宗教を説明しており、それによると中国大陸から1,500海里(約2,500km)に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島があり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを紹介している。1274年、1281年の元寇についても触れているが、史実を反映した部分もあれば、元軍が日本の首都である京都まで攻め込んだという記述や日本兵が武器にしていた奇跡の石など、空想的な箇所もある。
「黄金の国」伝説は、奥州平泉の中尊寺金色堂についての話や遣唐使時代の留学生の持参金および日宋貿易の日本側支払いに金が使われていた事によって、広く「日本は金の国」という認識が中国側にあったとも考えられる。また、イスラム社会にはやはり黄金の国を指す「ワクワク伝説」があり、これも倭国「Wa-quo」が元にあると思われ、マルコ・ポーロの黄金の国はこれら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられる。
日本では、偶像崇拝(仏教)が信仰されていることや、埋葬の風習などに触れているが、これはジパングと周辺の島々について概説的に述べられており、その範囲は中国の南北地域から東南アジアおよびインドまでに及ぶ。また、これらはフリーセックス的な性風俗ともども十字軍遠征以来ヨーロッパ人が持っていた「富」および「グロテスク」という言葉で彩られるアジア観の典型をなぞったものと考えられる。
当時の日中貿易は杭州を拠点に行われていた。しかし1500海里という表現は泉州から九州北部までの距離と符合し、ここからマルコは日本の情報を泉州で得たと想像される。「ジパング」の呼称も中国南部の「日本国」の発音「ji-pen-quo」が由来と思われる点がこれを裏付ける。この泉州は一方でインド航路の起点でもあり、マルコの日本情報はイスラム商人らから聞いたものである可能性が高い。
ユーラシア情報
マルコ・ポーロは旅の往復路や元の使節として訪れた土地の情報を多く記録し、『東方見聞録』は元代の中国に止まらず東方世界の情報を豊富に含み、近代以前のユーラシア大陸の姿を現在に伝える。 それらは異文化の風習を記した単なる見聞に止まらず、重さや寸法または貨幣などの単位、道路や橋などの交通、さらには言語等にも及び、それは社会科学や民俗学的観察に比される。 その中で、マルコはアジアの「富と繁栄」を多く伝えた。世界最大の海港と称賛した泉州や杭州の繁栄ぶりに驚嘆し、大都の都市計画の整然さや庭園なども美しさを記している。また、ヨーロッパには無かった紙幣に驚き、クビライを「錬金術師」と評した。 なお、彼は元の成立をプレスター・ジョンと関連づけた記述を残している。
往路ではシルクロードを通り、伝えた中央アジアの情報について探険家のスヴェン・ヘディンは、その正確さに感嘆した。1271年にパミール高原(かつてはImeon山と呼ばれた)を通過した際に見た大柄なヒツジについても詳細な報告を残しており、この羊には彼の名を取りマルコポーロヒツジとの名称がついた。
復路の船旅についても、南海航路の詳細や東南アジアやインドなどの地方やイスラム文化等の詳細を伝え、さらに中国やアラブの船の構造についても詳細を記した。 1292年にインドを通った時の記録には、聖トマスの墓が当地にあると記している。 また、イスラムの楽器についても記録した。
マルコは宝石の産地を初めて具体的にヨーロッパに知らせた。セイロン島では良質なルビーやサファイアが採れ、またコロマンデル海岸の川では雨の後でダイヤモンドが拾えるが、渓谷に登って採掘するには毒蛇を避けねばならないと記した。
世界観への影響
『東方見聞録』は、中世におけるヨーロッパ人のアジア観に変化を与えた、キリスト教的世界観である普遍史はエルサレムを世界の中心とするマッパ・ムンディで図案化されてきたが、マルコ・ポーロの報告はパクス・モンゴリカの成立によるアジアの新情報ともども変更を迫られた。イシドールスの『語源』以来ヨーロッパ人が持っていた怪物や化け物的人類が闊歩する遠方アジア観「化物世界史」の誤りを数多く指摘した。
マルコ・ポーロ以降も極東の島・日本はまだ見ぬ憧憬の国であり、様々な形で想像され、世界地図に反映されることになった。
マルコの報告が大航海時代を開く端緒のひとつになったという考えもある。1453年に作成されたフラ・マウロの地図en:Fra Mauro mapに対して、ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ(en)は以下のコメントを寄せている。
「この羊皮紙に描かれたすばらしい世界地図は、宇宙誌を学ぼうとする者に偉大なる光を与えたもう僧院のひとつである(ムラーノのサン・ミッシェル、カマルドレセ)修道院の聖歌隊席の横にある大きな飾り棚に見ることができる。克明に写され描かれた至上の美しさといにしえの知を伝える海図と世界地図は、最も高貴なる伝達者マルコ・ポーロとその父がキャセイ(中国)より伝えしものである。 」
持ち帰ったもの
マルコ・ポーロは中国で、住民が細長い食べ物を茹でている光景を見た。この料理の作り方を教わったマルコはイタリアに伝え、これが発達してパスタになったという説がある。この説によると、「スパゲッティ」(Spaghetti)とはマルコに同行していた船乗りの名が由来だという。 別な俗説では、マルコ一行のある船員と恋仲になった中国娘が、帰国の途に就く男との別れに悲しむ余り倒れ、その時に持っていたパンの生地を平らに潰してしまった。この生地がやがて乾いてミェヌ(麺)状になったというものもある。ただし、これには否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国に麺類に関連性は無いとも言われる。
陶磁器も持ち帰った。中国の陶磁器はセラミック・ロードと呼ばれる南海ルートでイスラム商人が8 - 9世紀頃からヨーロッパへ持ち込んでいたが、マルコは製造工程も見聞している。しかし、これは西欧での陶磁器製造には結びつかなかった。
方位磁石もまた、マルコが中国から持ち帰った一品である。これは羅針盤へ発展し、大航海時代を支える道具となった。
中国を目指した他の人々
マルコ・ポーロ以前にヨーロッパ人が中国を旅した他の例にはプラノ・カルピニがいる。しかし、彼の旅行の詳細は一般に広く知られることは無く、この点からマルコが先陣を切ったと思われている。クリストファー・コロンブスはマルコが描写した極東の情報に強く影響を受け、航海に乗り出す動機となった。コロンブスが所蔵した『東方見聞録』が残っており、ここには彼の手書き注釈が加えられている。ベント・デ・ゴイスも「東洋で君臨するキリスト教の王」についてマルコが口述した部分に影響され、中央アジアを3年間かけて4,000kmにわたり旅をした。彼は王国を見つけられなかったが、1605年には万里の長城に至り、マテオ・リッチ(1552年 - 1610年)が呼んだ「China」が、「Cathay」と同一の国家を指していることを立証した。

マルコ・ポーロ『世界の記述』における「ジパング」 1

 

I. 序
日本では『東方見聞録』(1)というタイトルで知られているマルコ・ポーロ Marco Polo の『世界の記述』(2)は、西洋世界に日本の存在を伝えた最初の文献である。本論では、十三世紀末に書かれたこのあまりに有名な「旅行記」の日本に関する記述を、中世の知的伝統の中で蓄積された東洋のイメージと照らし合わせて読解することで、マルコ・ポーロの記述の戦略的性格とその語りの機能について検討する。
本論に入る前にまず簡単にこのテクストの成立について確認しておこう。『世界の記述』の序文によると、マルコ・ポーロは1271年後半に父と伯父とともに旅立ち、1295年にベネチアに帰国している。『世界の記述』はマルコの帰国後間もなく、十三世紀末に口述筆記された。他の大半の中世の作品同様、『世界の記述』もマルコ・ポーロあるいは作品の口述筆記者であるとされるルスティケッロ・ダ・ピーサRustichello da Pisaの手による手写本は残っていない。十四世紀初頭に制作されたイタリア語がかったフランス語で書かれたF写本(Paris, BnF fr. 1116)がオリジナルのテクストに最も近いテクストを提供していると考えられている。ポーロのこの作品は十四世紀中にラテン語をはじめとする各国語に訳され、この作品を記録する写本は140以上確認されている。このうちフランス語の写本は、断片だけのものを含め、18写本が現存している。フランス語写本のうち最も古いものは十四世紀前半に制作され、この写本の祖本はF写本と同じものであると考えられている。
フランス語写本を底本とするエディションのうち、十四世紀前半に制作されたB1写本(Londres, BL Royal 19 D.1)に基づくフィリップ・メナールのエディションが今後フランス語版の『世界の記述』の決定版となることは確かだが、現在全六巻のうち三巻目までしか刊行されていない(3)。このため本論ではバデルが校訂したB4写本(Paris, BnF fr. 5469)に基づくLivre de poche版を引用の際の典拠とした(4)。B4写本は十五世紀半ばの写本で同系統の写本の中では最も完全な記述のテクストを提供している。
II. 史実から伝説へ:「ジパング」の記述の背景
日本(=ジパング)についての記述はバデルのエディションでは、158、159、160(5)の三章に渡っている。ただし160章の見出しは、この版では「カタイとマンジの偶像崇拝のやり方についてここで語る」となっていて「ジパング(このテクストではフランス語読みでシパンギュSypangu)」は見出しの中に含まれていない。しかし各章の見出しは写本によって異同が多く、160章の内容を読めば、この章が日本を含む東・南シナ海の広大な海域に散らばる島々の風俗の描写に充てられていることは明らかである。
日本に関する三章はインドとその周辺地域を扱う部分の最初におかれている。この部分ではポーロが帰国の際に採った、中国からインドを経てペルシャに至る海上ルート上の国と地域の描写に充てられている。
『世界の記述』冒頭で、この書物にはポーロ自身が見た物事だけでなく、他人からの伝聞情報も記述されていることが記されている(6)。ポーロが日本に行っていないことは160章で明示されており(7)、したがって『世界の記述』の日本についての記述は専ら伝聞によるものである。
この三章において「シパンギュ」がどのように書かれているかについて確認しておこう。他の多くの地域の記述同様、マルコ・ポーロは地理、民族、宗教についての簡潔な描写から始める。
「シパンギュは東方の海上にある孤島で、大陸からは1500海里の距離にあります。シパンギュは極めて巨大な島です。住民の肌は白く、美しい姿形をしています。シパンギュ島民は偶像崇拝教徒で、住民自らによって島を統治しております。」
1500海里の距離(約2500km)は、モンゴル軍が上陸を試みた九州北部と、当時の中国の国際貿易港でインド航路への基点となったサイトン(泉州)との距離にほぼ相当する。泉州はポーロがインドに向けて旅立った町でもあった。ただし当時の日中貿易の中国の拠点は、泉州から北に600キロのところにある杭州に限られていた。元冠の際にモンゴル軍が日本に向けて出港したのも杭州である(8)。1500海里という距離が、泉州と九州北部間の距離と符号するという事実は、ポーロが日本についての情報を泉州滞在中に収集したことを示唆している。この推定は「ジパング」という呼称が、当時の中国南部方言での日本国(ji-pen-quo)の発音に由来していると考えられることとも符号する。マルコ・ポーロが『世界の記述』で使っているサイトンという泉州の名称はこの町を貿易活動の拠点としたイスラム商人の間で主に使われていた呼称であることから、ポーロは日本についての情報をイスラム商人から得ていた可能性が高い。
引き続いてマルコ・ポーロはこの島の豊かさについて語り始める。ジパング黄金伝説の始まりである。
「そして量ることができはないほど大量の金をこの島の住民は持っていることを言っておきます。[…]これまでこの島から金を持ち出そうとするものはいませんでした。というのも大陸から遠く離れた場所にあったため、この島に行った大陸の商人はほとんどいなかったからです。[…]この島には非常に大きな宮殿があり、その宮殿は、我々の国の教会が鉛で覆われているようなやり方で、純金で覆われていることを、お知りおき下さい。[…]それだけではありません。この宮殿の床とあらゆる部屋は大きな純金の板でできていて、その金の厚さは指二本分ほどもあるのです。[…]島の住民は宝石を大量に持っていますし、真珠もたくさん持っています。赤い真珠で非常に貴重で、その価値は白い真珠に匹敵します。」
これらの黄金と富に関する記述の内容は明らかに誇張されたものである。十三世紀末当時において日本が世界有数の金産国であったという事実はない。この日本の黄金伝説のソースとして、遣隋使以降日本の中国使節はその滞在費用として砂金を持ってきたこと、中尊寺の金色堂の様子が誇張されて中国に伝わったこと、当時の日中貿易で日本は中国に対して大幅な赤字の状態だったので代金の支払いのため日本から中国にほぼ一方的に砂金や水銀の流入があったこと等の歴史的事実を挙げ、これらを核に日本の黄金伝説が形成されたのではないかという仮説も提示されている(9)。
またイスラム世界では九世紀以来「ワクワク」と呼ばれる黄金の国の伝説が流布していた。「ワクワク」は、日本を示す中国語の名称、「Wa-quo(倭国)」に由来すると考えられている。ポーロがおそらく日本に関する情報の大半を収集した大貿易港、泉州は当時のイスラム商人の貿易基地でもあった。『世界の記述』の黄金伝説は、中国・イスラム商人の想像力によって作り上げられた日本の黄金幻想を反映したものである可能性が高い。
黄金伝説に引き続き、モンゴル軍の日本への侵攻の様子が描写される。モンゴルは1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二回に渡って日本を侵攻しているが、ポーロのここでの記述はその内容から二回目の遠征、弘安の役について書かれたものだと考えられている(11)。『世界の記述』158章に記されている逸話、モンゴル軍兵士が九州沖合の島に置き去りにされたことは、元の史料でも日本の史料でも確認できる。
第159章でも引き続きモンゴル軍と日本軍の戦いについての描写が続く。この章では、小島に置き去りにされたモンゴル兵の日本の首都攻略の様子、首都の攻防戦とモンゴル軍の降伏、戦いから逃げた将軍の処刑、日本の兵士が持っていた奇跡の力を持つ石の逸話が語られている。史実とほぼ矛盾しない前章の記述とは異なり、159章で語られる逸話はほとんどすべて対応する史実のないロマネスクな内容である。
160章はジパング島とその周辺の島々の宗教と風俗について割かれている。
「さてお知りおきください、カタイ(中国北部)、マンジ(中国南部)およびインドの島々で崇拝されている偶像はみな同じ外観を持っています。頭部が牛である偶像神や、頭部が豚、犬、羊あるいは別の動物をかたどったものもございます。それに頭部に四つの顔を持つ神像や、本来あるべき頭に加え、両肩に二つの頭を乗せた三つの頭を持つ神像もあるのです。さらに四本の腕を持つものもあれば、十本あるいは千本の腕を持つ神像もありますが、千本の腕を持つ神像は他の像よりもさらに熱心に信仰されております。」
ポーロはまずこれらの地域で信仰の対象となっている仏像のグロテスクな形態の説明から始めている。他の箇所同様、ポーロは仏教もしくはラマ教を「偶像崇拝」の宗教と呼ぶ。ここでの描写は千手観音や多面観音像を想起させるが、牛や豚や馬の頭部を持つ動物神の描写は仏像よりむしろ当時のインドネシア諸島でも信仰されていたヒンズー教の神像を連想させる。
宗教の説明が終わると、ポーロはこれらの島々で行われている人肉食(カニバリズム)の報告を行う。
「ただ私がしっかりと言っておきたいのは次のことです。この島あるいは他の島々の人々は皆、捕まえた敵の身代金が払われない場合、敵を捕らえた者は親類や友人を呼び集めると、みんなで敵を取り押さえ、殺して、料理した後で、大きな宴会を開いてそれを食べてしまうのです。彼らにとって人肉はこの世で一番のご馳走なのです。」
人肉食の風習の紹介のあと、マルコ・ポーロは「シナ海」(この名称で彼が示す海域は、実際のところ、彼が考えているよりはるかに広大な北太平洋一帯である)の産物について列挙し、この章を終える。以上がマルコ・ポーロの『世界の記述』の中の「ジパング」記述の概要である。
III. 「真実」と「虚構」:東洋記述にみられる語りの戦略
これらの「ジパング」についての記述を、西洋中世の東洋表象の伝統に照らした上で検討してみよう。
まず日本の黄金伝説だが、このソースについては愛宕氏を始めとする東洋史学者が指摘しているように、いくつかの歴史的事実を核に形成されてきた可能性を否定することはできない。しかし実際のところ、マルコ・ポーロの描く日本の富の描写は、中世ヨーロッパで書かれてきた物語、百科事典的著作の中に繰り返し出てくる東洋の豊かさというトポスをなぞっているに過ぎないとも言える。十字軍遠征を背景に十二世紀後半に偽造され、その後のヨーロッパ人によるアジアのイメージ形成に重大な影響あたえた『司祭ヨハネスの手紙』にある司祭の国の宝石の豊かさの描写と、マルコ・ポーロのジパングの黄金の描写の間には本質的な違いはない(12)。「豊かさ」の列挙は東洋を表象するトポスとして多くの中世の作品でなじみの記述であり、ポーロの『世界の記述』の中でもジパングに限らず、このような「富」の描写は、大カーンの都をはじめ、至るところで繰り返されているのである。
ポーロが160章で報告している人肉食の習慣も、東洋世界の描写の付随する慣習的記号の一つに過ぎない。『世界の記述』では、160章以外にも、四ヶ所でポーロは人肉食について報告している(13)。
十三世紀後半に書かれたブルネット・ラティーニBrunetto Latiniの百科事典、『宝典』のインドに関する章では、東方世界への富の描写につづいて、人肉食の描写がみられ、されにはアジアに住む怪物の姿が描写されている。
「インドの外側には二つの島があります。エリル島とアルジット島です。これらの島には巨大な鉱床があり、地面全体が金銀でできていると考える人もいます。
そして御知りおきください、インドおよびその外側の国には、極めて多様な人種が存在するのです。魚だけを食べて生きている人種や、老齢や病気で死んでしまう前に父親を殺し、さらにはそれを食べてしまう人種もいます。これが彼らにとっては大きな哀悼を示すやり方なのです。ナイル川上流に住む人種には足が逆の向きについている、つまり足の裏が上にあって、その指が八本ある人種も住んでいます。また犬の頭を持つ人種や頭がない人種もいます。頭がない人種の場合、その目は両肩についているのです。別の人種は一つ目の一本足で、走るのにたいそう難儀します。八年を越える寿命はないのに、五年の間、身ごもる女もいます。インドに生えている木には葉が生えていません。」
上記引用にあるラティーニのインドの記述は、古代のプリニウス以来の東方世界の記述の伝統に由来する。こうした幻想的東洋世界のイメージは中世の百科事典的著作だけでなく、実際に東洋を訪れたポーロの記述にも大きな影響を与えている。さらには十四世紀後半に既存の書物の記述をつぎはぎして架空の東方旅行記を記したマンデヴィルMandevilleの著作では、古代以来の東方に関する幻想的な民族誌的知識はさらに増幅されている(15)。
結局のところ当時の西洋世界の人間にとって、人間が住むのはキリスト教圏だけであり、それ以外の世界には、人間とは見なしがたい異教徒や、犬頭人、一つ目巨人、頭がなく目が胸についた怪物などが群棲していることになっていたのである。こうした東方についての幻想的イメージは中世だけでなく、その後の時代にも引き継がれる。アメリカ大陸を発見したコロンブスもまたこうした幻想的な東洋のイメージとは無縁でなかった。つまり、大航海時代の人間の多くは、自分で直接見聞した範囲内の土地には人間が住むことを確認したけれども、それ以外の土地には化け物の住む可能性を信じ続けたのである。
中世の西洋人が東方世界に対して抱いた最初の幻想は、豊かな富あふれる世界である。司祭ヨハネスの手紙の中にある、インドにある彼の王国の豊かさの詳細な描写は、こうした伝統的な東方世界のイメージの典型例を示している。そしてさらに東洋は西洋世界と異なる風俗・生活習慣を持つ人々が住まう世界として描かれた。西洋のキリスト教会のモラルとは無縁である東洋は野蛮な奇習の土地でもあった。数ある中世の東方世界記述の中でも(中世に限ったことではないが)、頻繁に報告されるのは食人の風習と性に関する風俗(それもフリー・セックスに関わる幻想)である。ポーロのテクストでも中国辺境の三つの地方で、旅人に妻や娘を家の主人が供する性風俗が記録されている(16)。
こうした東洋にかかわる幻想的記述のステレオタイプは、当時の西洋世界にとってどういう意味・機能を持っていたのだろうか。
中世の西洋人にとって、「富」と「グロテスク」は東洋世界の描写に不可欠な記号だった。こうした記号的描写によってもたらされる類型的なエキゾティスムこそ、当時のヨーロッパ人にとって東方世界の「現実性」réalitéを感じさせるものだったのである。
十三世紀後半から十四世紀前半にかけての強大なモンゴル帝国の成立によってユーラシア大陸に「モンゴルの平和」Pax Mongorianaが到来し、古代以来途絶えていた東西交通が復活した。この期間にモンゴルを訪れた教会人や商人によって、彼らが自分の目で観察した東方世界の報告が数編書き残されている。しかし彼らの観察眼は、古代以来のリブレスクな知的伝統から完全に逃れることはできず、彼らの東方記述は例外なく真と偽、可能と不可能、現実と幻想が同じ次元でいりまじったものになっている。ポーロの『世界の記述』も同様である。この種の幻想的な「驚異」は、東方世界の報告を真実らしくするためには不可欠なものとなっていたのである。当然東方世界の探検者はこうした驚異に関する情報には敏感であったに違いない。
商人であったマルコ・ポーロは極めて冷静な東方世界の観察者ではあったが、中世の伝統の中で形作られてきた幻想的な東洋のイメージから完全に自由だったわけではない。極東の島国「ジパング」のような彼が実際に訪問したわけではない辺境の地域は、こうした東洋に関する古典的な驚異を配置するにはふさわしい場所だったに違いない。
一世紀の大プリニウスの『博物誌』以来、七世紀のセビリアのイシドルスの『語源』を経て、十三世紀のボーヴェのヴァンサンの『世界の鏡』、ブルネット・ラティーニの『宝典』などに至る百科全書的な知の伝統の中で、東洋に関する知識は中世を通じて継承・蓄積されてきた。十二世紀後半以降に相次いで書かれた百科事典的著作では、東方世界に関する記述が増大する傾向にあるのは示唆的である。十三世紀はじめのピエール・ド・ボーヴェの『世界図』は、ホノリウスの著作の翻訳であるが、東洋に関する章は、ソリヌスなど他の著作からも情報を補足することで、ホノリウスの原著より詳細なものになっている。ブルネット・ラティーニの『宝典』の第一の書の第四部は「世界図」に当てられているが、その大半はアジアの描写で占められている。
実際のところ、ポーロの『世界の記述』はその日本語訳タイトルである『東方見聞録』が連想させるような「旅行記」ではない。「序文」の部分を除いて、ポーロ自身のことが語られるのはほんのわずかな場所にすぎず、それもただ単に報告されている事柄の証言者であることを強調する役割でしかない。この著作の本質的性格は、「旅行記」というよりはむしろ、大プリニウスの『博物誌』以来続く中世の百科事典的伝統の延長線上にあるものなのである。
こうした西洋のリブレスクな知的伝統の中でイメージされた東洋は、基本的には地理的な実体ではなく、歴史的・文化的な概念であり、象徴である。「オリエント」は西洋のアイデンティティ確立のための対概念に過ぎない。西洋の世界の対概念としての東洋に関する記述が十二世紀以降、特に充実してきた事実は、この時期の西洋社会の政治・経済面での急速な発展、知的成熟、十字軍などによるイスラム世界との軍事的接触などを挙げることで説明できるだろう。
ヨーロッパは、異文化=他者を「東洋」として意識化することで「西洋」を規定した。十二世紀以降の東洋世界像の再構築は、ヨーロッパの知的自我の確立の一プロセスをなしていたのである。この目的がゆえ、東洋世界は西洋世界にはない驚異の数々を持っていなければならなかったし、ヨーロッパ世界とは異なる世界でなければならなかったのである。
こうした観点から考えると、マルコ・ポーロの『世界の記述』の文体は興味深い。彼の「乾いた」素っ気ない文体は、旅行記というよりはむしろ地誌を我々に連想させるが、こうした「乾いた」文体の選択は、東方世界がマルコや同時代の読者にとって、外側から観察される対象であることを示唆しているように思えるからである。私がこの「旅行記」を読んで奇妙に感じるのは、ポーロは十七年間の長きにわたって中国に滞在したのにも関わらず、記述の中では彼は常に観察者でとどまっていることである。
この著作の序文では、『世界の記述』はマルコ自身が語ったものを、別人が口述筆記したものであることが明らかにされている。
「この本は、ポーロ氏はジェノバの牢獄に投獄されていたおりに、ルスティケッロ・ダ・ピーサ氏に理路整然とした形で書き取らせたものです。ルスティケッロ氏もまたキリストの託身から1298年目の年に、ポーロ氏と同じ牢獄に投獄されていたのでした。」
ポーロが口述したとき、東洋の描写のための約束事はすでに確立していた。ポーロの口述筆記者であるルスティケッロ・ダ・ピーサは、作品の文体選択、構成についてかなり積極的なかたちで関与していたと私は考えている。散文アーサー王物語群の編纂の経験もある職業作家だったルスティケッロ・ダ・ピーサは、単なる口述筆記者ではなかったはずだ。おそらく職業的著述家であったルスティケッロが時代の聴衆の要求に応えるべく、伝統に則ったかたちで、ポーロの話を再構成したのだ。
マルコ・ポーロの『世界の記述』は極めて実証的で冷静な観察に基づく報告をたくさん含んでいるが、その記述の本質は中世の文学伝統の中で蓄積された東方の描写から遠い位置にあるわけではない。しかし数多く含まれる幻想的で不正確な記述にもかかわらず、いやむしろそうした驚異についての記述が含まれているからこそ、ポーロの日本についての記述は、当時期待されていたその文学的機能を完全に果たすことができたのである。
IV. 東方幻想の継承とその実現
ジャン=ポール・ルーは著作の中で「ヨーロッパ中で読まれたマルコ・ポーロのジパングについての記述は、彼の中国についての記述以上に人々を熱狂させた(17)」と記している。またテクストの校訂者であるバデルはその序文で、コロンブスはラテン語版の『世界の記述』の熱心な読者であり、中国とジパングについての記述に想像を膨らませたことが彼の「アメリカ発見」につながったと記している(18)。
ジパングの「黄金伝説」はおそらく十八世紀になってもまだ存続していた。トレブーの百科辞典の日本についての項目には以下のような興味深い記述が含まれている。
「しかし日本諸島でもっとも重要なのは、金と銀の鉱山である。さらに大きな真珠もここで大量に産出される。日本の真珠は赤い色をしており、白い真珠と同じくらい珍重されている。」
金銀の鉱山のみならず、赤い真珠にまでこの項目は言及している。トレブーはこの項目を書くにあたってあたかもポーロの記述を参照したかのようである。
東洋の富に関する記述は伝統的でありふれた文学的トポスに過ぎない。それではなぜ日本の黄金伝説が特に彼らの関心をひいたのだろうか。
それはおそらく日本が東アジアの辺境にあるという地理的条件ゆえである。この地理的条件ゆえ、ジバングの伝説はヨーロッパ人をかくも魅了し続けることができたのだ。日本が発見されるのは1543年、マルコ・ポーロの著作が世に出てからおよそ250年後の話である。ジパングの黄金伝説は中世の西欧世界の想像力が生み出した東洋にまつわるありふれた神話の一つにすぎない。しかしこの神話はヨーロッパに対する日本の地理的条件によって東方世界についての他の類似記述より大きなリアリティを有するようになり、それゆえ大航海時代における新世界発見のモチベーションのひとつとなりえたのである。
新世界およびアジア、アフリカの土地が「発見」される過程で、ヨーロッパがアジアに対する軍事的・知的優越を認識したとき、中世以来の東方世界についての幻想的な民族誌的知識の集積は、ヨーロッパによる他方の世界の支配、東方の未開人への差別的処遇を「科学的」あるいは「倫理的」に正当化する役割を果たしたに違いない。そうした知識の源泉となった百科全書的著作やマルコ・ポーロの『世界の記述』のような地誌的旅行記の記述は、現代のわれわれから見ると荒唐無稽な記述が含まれているにせよ、当時の西欧世界の人間にとっては古代以来の知的伝統に基づく正統的な「学問」的著述であるとみなされていたからである。
ヨーロッパ人はアメリカ大陸を発見し、そこで中世以来の百科事典等に描かれた「怪物」と遭遇し、彼らをインディアンと呼んだ。そしてヨーロッパ人は莫大な金銀の鉱山もその土地で発見するのである。表現上の誇張はあるにせよ、十六世紀のスペイン司教のラス・カサスが告発するようなインディオに対する数々の残虐な行為(19)、あるいはアフリカの黒人奴隷の悲劇は、古代・中世以来の知的伝統によって形成されてきた「キリスト教圏ヨーロッパ対その他の世界」という歪んだ二項対立の世界観によって正当化される余地があったからこそ可能だったのではないだろうか。つまり西欧の人々の間には、非キリスト教圏の世界に住む人間たちを、「良き未開人」bon sauvageという肯定的神話のもとでとらえられるような観方もあった一方、古代以来の幻想的な東方地誌学に基づき「怪物」の類いであるという観方も広く受け入れられていたように思える。そしてサイードの『オリエンタリズム』以降のポスト・コロニアル研究の流れの中で強調されているように、この二項対立の世界観は十六世紀以降も現代に至るまで、より潜在的で根強いかたちでわれわれと関わりを持ち続けている。
ヨーロッパは新大陸だけでなく、アフリカとアジアにも、植民地を獲得し、近代以降の西洋の繁栄はこれらの植民地をもとに築かれた。東洋の富に関する神話はすでに想像上のものではなくなった。東洋の富に関する神話はその後の歴史で、西洋による東洋の搾取という形で実現していったのである。
もしポーロのささやかで誤謬に満ちたジパングに関する寓話的記述が、後の世界史に大きな影響を行使するきっかけとなったのならば、私はそこに歴史の皮肉を見ずにはいられない。

( 1) 代表的な翻訳を記す。愛宕松男訳注、『完訳 東方見聞録』、平凡社(平凡社ライブラリー)、2000年[東洋文庫版、1971年に基づく再版]。青木富太郎訳、『マルコ・ポーロ東方見聞録』、社会思想社、1969年。青木一夫訳、『マルコ・ポーロ東方見聞録』、校倉書房、1960年。
( 2) 写本によってタイトルは異なる。この論文では引用の際の典拠としたバデルのエディションでのタイトル(BADEL (Pierre-Yves), éd. et trad., Marco Polo. La Description du monde, Paris, Livre de Poche, 1998)に従った。
( 3) MÉNARD (Philippe), dir., Marco Polo. Le Devisement du monde, Genève, Droz, 2001-.
( 4) BADEL, op. cit.
( 5) BADEL, ibid., p. 378-389.
( 6) Voir ibid., p. 50.「学識高く、生まれもよいベネチア市民、マルコ・ポーロは、自身でこれら物事(訳者注:世界の驚異)を見たゆえに、語るのです。彼が見ていない物事もこの本には書かれておりますが、それらは誓って信頼できる方からポーロ氏が聞いた話となっています。それに私たちは、私たちの本が正しく真実でいささかの嘘も含まれないように、見たことは見たままに、聞いたことは聞いたままにお伝えするつもりです」(訳は筆者による。以下同).
( 7)「これらの土地は非常に遠くにあり、マルコ氏はそこに行っておりません」。
( 8) 愛宕松男訳注、前掲書、187-188頁。
( 9) 愛宕、同書、188頁。
(10) 宮崎正勝、『ジパング伝説』(中央公論新社、2000年)、138頁。同書第四章(119-176頁)では、当時のイスラム世界における「ワクワク伝説」の形成の背景について解説されている。
(11) 愛宕、前掲書、189頁。
(12) 「(我が王国に)これから挙げるような宝石の数々が大量にあることは本当です。地上にこれ以上価値のあるものは存在しないほど立派で驚くべき宝石であります。価値の高いエメラルド、その名が知れ渡っている本物の碧玉、輝きまばゆいザクロ石、トパーズを我々は大量に持っています。純粋な貴橄欖(かんらん)石に、大量のめのうに緑柱石、紫水晶に赤縞めのう、その他に無数の上質の宝石も。」
(13) 「そしてお知りおきいただきたいことは、この地方[=現在の福建省付近]の住民はあらゆる肉を食べるということ、そしてとりわけ人間の肉を好んで食べるのです。それも自然死ではない死に方をした人間の肉を。殺された者がいると、彼らはたいそう喜んでその屍肉を求め食べます。というのも人間の屍肉を彼らは非常に上質の肉であるとみなしているからでございます。」 「悪天候のためこの島[=スマトラ島]にマルコ・ポーロ氏が滞在した五ヶ月の間に、船の乗員たちは地面に降りると、彼らが滞在するところに木の城塞と要塞を築きました。獣のような島の食人種を恐れたからです。」 「(ダグロイアン島では)死人が出ると、人々は死人を料理し、すべての親戚が集まってきて、その屍肉料理を食べます。」 「ここでお話するのは、このアンガナン島の人間は犬のような頭を持っていて、その歯も目も犬そっくりであるということです。[...]この島の住民で興味深いことは、彼らは捕まえた人間をすべて、それが同種族人でない限り、食べてしまうことです。」
(14) BRUNETTO LATINI, Trésor, éd. PAUPHILET (Albert), in Jeux et Sapience du Moyen Âge, Paris, Gallimard, 1951, p.767-768.
(15) マンデヴィル/福井秀加, 和田章監訳;大手前女子大学英文学研究会[訳]、『マンデヴィルの旅』(東京、英宝社、1997年)。
(16) BADEL, op. cit., chap.LVIII, chap.CXV, CXVI.
(17) ROUX (Jean-Paul), Les Explorateurs au Moyen Âge, Paris, Fayard, 1985, p. 25
(18) BADEL, op.cit., p. 17.
(19) ラス・カサス/染田秀藤訳、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(東京、岩波書店、1976年)[原著:LAS CASAS (Bartolome de), Brevisima relacion de la destruccion de las Indias, 1552]。  
 
東方見聞録 2

 

ヴェネツィアの父と伯父とマルコ・ポーロ。なぜにこの交易商人の3人だけが13世紀の大モンゴル時代のあの危険と交易と戦乱のユーラシアとアジアを越えて二度にわたるフビライ・ハーンとの親しい接触をなしとげられたのだろうか。いまなおその謎はまったく解明されていない。しかし『東方見聞録』の写本群が、それまでのアジア中心世界を100年後に蘇らせ、次の100年でヨーロッパ中心に変えたことだけは、残念ながらはっきりしている。ぼくはあえてマルコ・ポーロの肩をもって、むしろ13世紀のアジア世界にずっと遊んでいたい。
わが愛するイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』は、旅を了えた中年のマルコ・ポーロが大旅行の思い出を記しているのではなく、若いマルコがフビライ・ハーンの求めに応じて、いましがたの数年数カ月にわたって見聞してきたばかりの“ユーラシアン・アジアもどき”に点在していた都市を、ほやほやの口吻で次から次へと語っていくというスタイルになっている。
だから、この作品の舞台はフビライ・ハーン(クビライ・カーン)の大都(いまの北京)の宮廷の謁見の間で、マルコがフビライの前で親しく話しあっている最中であるという設定なのだ。いかにもカルヴィーノだ。ところが、その話というのがまことにとんでもないもので、たとえば、これといった特徴がないのに記憶に残る都市ツォーラ、理想的な金属とガラスでできた都市フェードラ、波打つ高原に無数に集落をちりばめている都市エウトロピア、峨々たる峡谷の懸崖にあたかもクモの巣のように張り渡された都市オッタヴィア、竹馬のように雲の上に飛び出た都市エウドッシア、消滅を恐れるあまり同じ都市模型を地下につくった都市エウサピア‥‥といった55もの幻想都市が、まるでそのサワリだけを歌うカンツォーネのように語られるのだ。しかもこの都市の名前、みんな女性の名前になっている。カルヴィーノがなぜこんなデタラメな見聞記をマルコ・ポーロに語らせたかというに(それがカルヴィーノのいつもの趣味とはいえ)、この天才作家は、「どんな想像力も都市か書物になるために結像を求めるものだ」と言いたかったからだ。それゆえ、そこにそういう物語がありさえすれば、英傑フビライ・ハーンその人ですらその世界の物語を聞いて、それで世界を征服したかと思える世界書物の点景になりうるわけなのだ。
なぜカルヴィーノが嘘八百の幻想都市の見聞を、わざわざマルコ・ポーロに語らせたかについては、それなりの歴史的な理由もある。実は、マルコ・ポーロが24年に及んだ大旅行から帰って人々にその土産話を吹聴したときも、獄中で『東方見聞録』を口述してそれがヴェネツィアで刊行されたときも、世間はその大半をとんでもないホラ話として受け取り、互いに笑いあったものだった。気の毒にもそのころのマルコは、仲間たちから「イル・ミリオーネ」と徒名されていた。これはイタリア語で「百万」という意味で、いつも百万もの嘘っぱちを言っているという徒名だった。植木等ではないが、百万男の嘘っぱちの無責任男、それがマルコ・ポーロに下された当時の容赦ない判定だったのである。しかし、いったい誰がその物語を判定できるのか。それも世界物語を世界書物にしたという、その物語を判定しうるのか? そこでカルヴィーノは、「ときに物語というものは、そのようにすべてが嘘八百になる。まして世界物語というものはね」と言ってみせたのだ。そして「だったらみなさん、私が語る見聞録はどんなふうに思うのかね」と書いてみせたのが、マルコに代わってのカルヴィーノ得意の20世紀社会の噂にしか生きられない読者への挑戦で、それが『見えない都市』というとんでもない作品になったわけだった。この挑戦の意図をカルヴィーノに代わって弁論すれば、(1)そもそも「都市と書物とは同じものだった」、(2)「マルコ・ポーロの体験と想像こそ未来に向かって重なっている」ということだろう。付け加えれば、(3)「ヒストリーはストーリーでしか生まれない」である。
さて、実際の『東方見聞録』のほうは、当時のヨーロッパ人の誰もがなしえなかった13世紀のアジア(およびユーラシアの一部)を記した気宇壮大な旅行記である。読めばすぐわかるように、そうとうに驚くべきものだ。内容はマルコが口述したから原題では「マルコ・ポーロの旅行記」となっているが、大旅行は“ポーロ一族の旅行”というべきもので、序章には、父ニコロとその弟の叔父マテオとがすでにシルクロード越えをしてフビライ・ハーンの宮廷にまで至った出来事のあらましが述べられている。そのうえで、本文紀行の記述に入っていくのだが、その書きっぷりは、ときに地理的、ときに詳細、ときに印象のみ、ときに何かを引用したかのように、ときに冗長、どきに経済核心的、ときにイスラーム賛歌というふうに、刻々と続いている。
大旅行は、1度目がヴェネツィアの交易商人だったニコロ(ニッコロ・ポーロ)とマテオ(マッフェオ・ポーロ)の兄弟が、1253年にコンスタンティノープルに旅立ったところから始まる。この1253年という年は、ちょうど第7回十字軍が敢行されていた時期で、ヴェネツィアが十字軍に武器と食糧を供給して富をきずきはじめていた時期になる。13世紀のヴェネツィアがどういう海洋貿易型の都市国家だったかということは、世界経済史を語るうえでも、ライバルのジェノヴァとの比較をしておくうえでも、きわめて重要なことなのだが、いまはとりあえず、「フラテルナ」とよばれた家族商会が活躍し、「コンメンダ」あるいは「コッレンガツァ」というパートナー投資組合のような協業性が発達しつつあったということだけを、強調しておくことにする。
もうひとつ、ポーロ家にとって重要で、したがってヨーロッパとアジアの交流史としてもはなはだ重要なことは、二人が旅立ったこの年の1年後の1254年におこった。ニコロの子のマルコ・ポーロがヴェネツィアで生まれ、まもなく母が病没したことである。すなわちマルコは、父ニコロがコンスタンティノープルに出発したのちに生まれ、その父が待てど暮らせど帰ってこなかったということなのだ。それというのも、ニコロとマテオはコンスタンティノープルで商売がうまくいったのか、そこで約6年間も滞在し、あげくにそのままモンゴル人の支配する土地へと向かっていったのだ。これが1260年前後のことで、その1260年前後が実は大モンゴル帝国の歴史にとっても結節点になっていることも、あれこれ説明したいのだが、それをするのはちょっとやそっとですまないので、のちにまわすことにする。ともかくもこうして、ニコロとマルコの父と子は、世界家族史上でもきわめて稀なことに、ユーラシアをまたいで“異様な隔離”を受けたわけである。一説には、ポーロ家はクリミア半島のソルダイアの海港に屋敷をもっていて、そこを拠点に動いていたともいう。それでも異国に6年もいたのだから、きっとそろそろヴェネツィアに戻る気もあったのだろうが、そのとき運悪くコンスタンティノープル国境付近でイスラーム勢力とのあいだの争いがおこった。ベルケ・ハーンの黄金軍団とペルシアのイル・ハーンの宮廷を拠点とするフレグとのあいだの争いである(これが1260年前後の大モンゴル帝国の歴史にとっての結節点を示すひとつの事件なのだが、その説明は省略する)。そこで兄弟は、やむなく東へ、東へと動いていったようなのだ。ヴェネツィアの交易商人にとっては、戦争は「儲けるか、避けるか」、その二つにひとつだった。当時の戦争といえば、コンスタンティノープルのビザンティン帝国とイスラーム諸国との、そして十字軍とムスリム勢力との戦争をいう。そこで、ポーロたちはこれを東に向って避けることにした。しかし、その「東へ、東へ」がついにはポーロ一族の未曾有の大旅行のセレンディピティになったのである。そしてヴェネツィアに残されて育った少年マルコの夢を幼児のころより、東方の果てに募らせたのだ。
ニコロとマテオの東方旅行はむろん商売の旅である。当時の交易商人の多くは街道で塩や毛皮や奴隷を主要商品として交換することにしていたはずだが、ポーロ家は村落やイスラーム都市に入り込み、金や宝石や香辛料を交易するのが得意だったようだ。そのほうが陸地を動きまわる商人にとって軽くて捌きやすかったからだろうが、ポーロ兄弟が金や宝石や香辛料を交易していたこととイスラーム経済と肌で接したことには、その後のヨーロッパ人がこの旅行記が語る“東方”の異国を訪れたくなるキラキラとした要素がはらんでいた。かくてポーロ兄弟は東へ向ってベルケ・ハーンが支配するモンゴル帝国の一隅に入っていく。現在のアストラハンのあたりだ。領民たちが夏のあいだに放牧をさせていた。さらにヴォルガ川に近いキャラバン・サライに進むと、そこではモンゴル人の遊牧テントが点々といくつも見られた。ベルケ・ハーンは兄弟をもてなしたため、二人は仕入れた宝石を2倍以上で売ることができた。
1年後、兄弟は現在のウズベキスタンにあたる都のブハラに行っている。ブハラの市場では陶磁器・象牙・絨毯・絹・貴金属・香辛料があふれかえっていた。兄弟はここでなんと3年にわたって商売をする。まったくムスリムを恐れていない。ブハラで知られる商人になっていた兄弟は、あるときベルケ・ハーンの族長の一人から「偉大なるフビライ・ハーンに会いにいかないか」と誘われた。フビライ・ハーンは1260年に大ハーンに選ばれていたのだが、すでにさしもの大モンゴル帝国もこのころは翳りが見えていて、大ハーンはフビライ一人になっていた。その大ハーンがまだ“ラテン人”を一度も見ていないのでぜひとも会いたいと言っているという。聞けば聞くほど、フビライの国には富が唸っていそうだった。二人はよろこび勇んでアジアの果てに挑むことにした。こうして1264年、ポーロ兄弟が中国は元のシャンドゥ(上都)の宮殿でフビライ・ハーンに謁見することになったのである。ヴェネツィア出発からざっと11年がたっていた。
一方、父には会ったこともなく、母もいないマルコのほうは、ヴェネツィアで活発な少年に育っていたようだ。
『東方見聞録』にもその他の史料にも、意図的なのかやむをえなくそうなったのかはわからないが、少年時代のマルコのことはほとんど書いていないので、その実情はまったく知られていない。けれどもおそらくは、少年マルコは元気にカナル・グランデ(大運河)で船を漕ぎ、読み書きや計算の技能を身につけ、祝日にはギルドの行列に加わり、キリスト教会で祈りを捧げ、統治者ドージェ(総督)が赤い船で金の指輪を海に投げてヴェネツィアの栄光を誓っていた儀式に見とれていただろうことなどが、憶測できる。
上都に入ったニコロとマテオはフビライ・ハーンにかなり気にいられたようだ。ハンバリク(大都)の新しい宮殿にも招じ入られ、結局、2年の日々をおくる。ようやくヴェネツィアに戻ることになったとき、フビライは二人に特別のパイザ(牌符)を与え、兄弟が立ち寄る先での安全と食糧を約束した。かなりの厚遇だ。パイザは通行証で、モンゴル独自のジャムチ(駅伝)のパスポートになる。二人が貰ったパイザは特別の金の牌符だったようで、フビライ・ハーンの紋章が刻まれていた。フビライはまた二人にローマ教皇宛の親書をあずけていた。こうしてやっと二人の帰路が始まるのだが、これがまた山越え、谷越え、砂漠と嵐を越えてのこと、ゆうに3年を要した。二人は地中海近くの港町アッコンに着いたところで、教皇クレメンス4世が亡くなったことを知り、これでは親書も渡せないと判断して、そのままローマには行かずにヴェネツィアに戻ることにした。これが1269年のことである。マルコは早くも15歳になっていたことになる。この1269年は日本の事情でいえば、その前年にフビライ・ハーンの使者が太宰府に来着して、国書を北条時宗に渡した年にあたる。時宗はこれを突き返し、それから5年後に文永の蒙古襲来が、その7年後に弘安の蒙古襲来がおこる、というふうになっていく。ということは、わがポーロ一族はそのちょうど十数年のあいだ、アジア・アフラジアを横断し、中国を縦断しつづけていたことになる。黄金のジパングは遠かったのだ。
ところで、フビライ・ハーンはニコロとマテオにとんでもない要求もしていた。親書を渡したら、ついては教皇その人をハンバリク(大都)まで連れてこい、それがダメならキリスト教の聖職者たち100人を連れてこい、待っているぞよというのだ。そのほか、エルサレムで燃えつづけているランプの聖油もほしいと言った。実はフビライの母がネストリウス派のキリスト教徒だった。フビライ自身は仏教徒でもあるのだが、イスラームのシャリーア・コンプライアンスが社会に適用されるのを許容するような、そういう宗教的寛容の持ち主だったので、ことのほか西洋キリスト教社会がどういうものかを、知りたがっていたらしい。そういうフビライからの要求を無視するわけにはいかない。商人は約束を守ってこそ富に近づける。ところが教皇クレメンス4世は亡くなり、次の教皇もなかなか決まらない。ニコロたちは近しいピアチェンツァのテオバルト様が教皇になってくれれば、ひょっとするとフビライ・ハーンの難題に何かいい手を思いついてくれるのではないかと予想したのだが、2年をすぎてもはっきりしないので、ついに意を決し、テオバルトその他の手紙などを携えて、ふたたび大都に向けて旅立つことにした。
1271年、かくしてニコロ・ポーロ、マテオ・ポーロ、そして17歳のマルコ・ポーロの3人がヴェネツィアを出航する。この年はフビライが「元朝」を宣言した年にあたる。いよいよマルコ・ポーロの世界物語の開幕だ。まずは、アッコンからエルサレムに赴き、聖墳墓教会の聖油を手に入れることにした。次に、ふたたびアッコンに到着したところで、テオバルトがやっと教皇に選出され新たにグレゴリウス10世になったことが知らされた。幸先のいいスタートだった。そこで新教皇の親書をもらい、さらに修道士2人を付けてもらい、一行は胸ときめかせて、一路バグダードをめざした。『東方見聞録』はここからがやっと第1章である。それまでは序章になっている。ちなみに教皇が同行させた修道士はこの段階でぶるぶる脅えて、帰ってしまったとある。都市国家の商人は宗教者よりずっと勇敢だったのである。
このあとポーロ一行が通ったルートはだいたいは前半が中東ルート、後半はシルクロードに近い。ざっと紹介すると、最初はヴェネツィア出航に始まって、アドリア海と地中海をわたり、エルサレム→アッコン→小アルメニア→バグダードに入る。ここまでで、マルコはテュルコマニア(今のアルメニア)の絨毯に目を見張り、カフカス山脈の付近でキリスト教・ユダヤ教・イスラーム・仏教などが混在しているのを感じて、びっくりしている。フビライの宗教的寛容がこんなところまで及んでいるのに驚いているのだ。ついで、進路を南にとってクルディスタンからアララト山あたりを過ぎる。ここはノアの洪水伝説があったところで、マルコもそのことに触れているのだが、「方舟を探しには行かなかった」などと訳知りに語っている。「黒い油」の噂もこのへんで聞いた。バクーの油井のことであろう。ここからいまのイラクのモスルをへてバグダード(バウダック)に入った。マルコはここをローマと較べ、その最大にして最美な宮殿都市に感嘆し、学芸・技術から絨毯・宝石にいたる繁栄に感心している。バグダードからは古代ペルシアの領域をななめに下って、バスラ→サヴァ→ケルマン→ホルムズと来て、これでペルシア湾の付け根の港に着く。ケルマンはイル・ハーンの国である。ホルムズには鉄の釘を一本も使っていないダウ船というアラブの船が停泊していた。
ホルムズから今のアフガニスタンを通り抜け、いよいよ西域シルクロードに向かう。途中、パミール高原のあたりでマルコは病気にかかり、ぐずぐずと1年近くを静養している。「谷で病気になったら山に入って治すのだ」という、その地の習慣に従ったらしい。マルコは元気になって、この土地の女が世界で一番美しいと言えるほどになった。
西域シルクロードの旅は、ヒンドゥークシュ山脈からカシミールへ、途中にサマルカンドを遠望しつつカシュガル→ホータン→ロプノールからゴビ砂漠に挑むという未曾有のコースである。ホータンに着いたのが1274年、そこで翡翠が完売できたと言っている。この年はリヨンの公会議で教皇選出の基準が決まり、トマス・アクィナスが没している。ロプは「動く砂漠」の都として(また「沈んだ楼蘭」の都として)著名だが、マルコの一行はこれから渡るゴビ砂漠を前に、ここで気持ちを整えるかのようにしばらく休息をしている。ついでは不毛の荒地に向かっての騎行一カ月、ようやくゴビを渡りきったところで、ヴェネツィアを発ってすでに3年が過ぎていた。それでもそこにフビライ・ハーンの命令によって護衛と迎えの兵士が待ちかまえ、一行を丁重に扱ってくれたことに感動して、一行の意気は倍加する。国境の兵士が宮廷にマルコ一行が砂漠をわたっていることを知らせておいたらしいのだ。かくて1275年3月、ニコロ、マテオ、マルコはフビライの上都の宮殿に初の“ラテン人”として入った。
当時のモンゴル帝国は、4つのハン国になっている。ロシア地方のキプチャク・ハン国、ペルシア地域のイル・ハン国、中央アジアのチャガタイ・ハン国、そして東方のフビライ・ハーンによる元である。元は正式には大元国(大元大モンゴル・ウルス)という。これらの4国でフビライ(忽必烈)が唯一の大ハーンで、そのフビライの領土といったら東は朝鮮半島、北はバイカル湖、西はチベット、南はビルマに及んでいた。宮都は以前の金の都であった中都から大都(トルコ語読みでハンバリク)に移し、ちょうど大建設の真っ最中である。国字としてのパスパ文字も開発されていた。中国史上、新たに国都をつくるのはほとんど非漢民族の王朝であるが、めったに一から造都するのではなく、以前の都市の改造改築にとどまっていた。それがフビライでは、冬の都である大都を古代の理想にもとづいて造営しつつあった。郭守敬らの設計だった。それに夏の都の上都(シャンドゥ)を加え、これを3本の幹線と1本のバイパスで結んだ。上都は広大な庭園に包まれていて、宮殿は巨大なゲル(テント)でできていた。詳しくは陳高華の『元の大都』(中公新書)や杉山正明の『クビライの挑戦』(講談社学術文庫)などを読まれたい。
マルコたちが上都に迎えられたとき、フビライは60歳になっていた。巨大なゲルのまわりには300羽のハヤブサと数えきれない猟犬が飼われていた。12月になると冬の大都に宰相の座が移った。『東方見聞録』には、宮殿がおびただしい彫刻や絵画で飾られ、皇后や私妾たちの部屋が用意されていて、4人の皇后にそれぞれ1万人ほどの召使と300人の侍女がいたなどと書かれている。マルコは、大都の人の多さ、町並みの豪勢、金銀職人から仕立て屋や陶磁器職人たちの多さにも目をまるくしている。ヨーロッパ人が初めて見た大モンゴル帝国の元の中枢部であった。しかし、ポーロ一族はこの異郷の首脳たちにすこぶる好意をもたれたようだ。若いマルコはたちまちこの国の習慣と言葉を習熟したらしく、すぐにフビライのお気にいりになっている。そこでフビライはマルコに領内の情報収集活動をさせることにした。むろんこのお達しは受けざるをえない。よく「マルコ・ポーロはスパイに仕立てられた」という説明があるのだが、『東方見聞録』を読むかぎりはスパイというより、一種の情報文化人類学的な調査活動だったように思われる。マルコが北方中国に出掛けた折りは、その土地で死者が火葬されないうちは、家族や親戚の者たちが遺体の前にテーブルを置き、食べ物や飲み物を山のように積んでときに6カ月ものあいだこれを見守り、腐敗をふせぐために棺には樟脳や香辛料をたっぷり入れているといった報告をしている。宿曜占星術がどのように使われているかという報告もある。
1280年前後には中国の南方や、さらにはチャンパ(ヴェトナム)やビルマ地方に調査に行っている。とくに天上の都市キンサイ(杭州)についてのマルコの驚嘆は、いささか紋切り型ではあるけれど、大いに賛辞を惜しまないものになっている。水都ヴェネツィアと比較しても美しく、いやそれ以上に周囲が160キロもあって石橋が1万を越えているにもかかわらず、その下を大きな船が行き交っていること、職人が1万2000戸の家に住んでいて、一戸あたりに少なくとも12人が働いていること、すべての道路が石畳になっていて下水溝が完備していること、共同浴場が3000カ所にあって住民が月に3回は沐浴していることなど、あれこれ書いている。マルコは1285年にはザイトゥン港からジャンク船に乗りこんで、ジャワからスマトラのバスマ王国に入った。そこで一角獣(ユニコーン)を見たというのだが、これはどうやらアジア・サイだったと考えられている。またスマトラからはさらに船で時をかけて大きな島に行ったとなっているのは、おそらくセイロン(スリランカ)だろうと想定されている。ここでは巨大な神像や、島の王族たちが持っていたこぶしほどもあるルビーを見聞している。フビライからの御用命だったとはいえ、マルコはさらにインドにまで渡って平気の平座なのである。なんという世界病であることか。
こうしてマルコたちは17年間をフビライのもとで仕え、情報活動や交易活動をするにいたったのだ。さすがにそろそろヴェネツィアに帰りたくなっていたが、いっこうにフビライは許可しなかった。しかしもしもフビライが急に亡くなってその恩寵が切れれば、マルコたちを妬む連中からたちまち殺されるかもしれないことも予想できた。そういう時代だ。なんとか帰還のきっかけをつかもうとしていたところへ、フビライの従兄弟の息子で、イル・ハン国を治めていたアルグンの妻のボルガナが病没し、そのあとをフビライに頼んでくるという知らせが入った。フビライはそれなら自分の王女の17歳のコカチン姫をアルグンに嫁がせようと決めるのだが、その道中があまりに危険なので、そこでマルコたちにその助っ人を頼むことにした。そのままヴェネツィアへの帰還を許したのではなく、また大都に戻ってくることを約束させ、金のパイザ(牌符)を与え、おそらく2年はかかるだろう旅程にふさわしい船団も用意して、コカチン姫と3人を送り出したのである。この計画はマルコたちが画策して下準備をしたことでもあったので、一行は意気揚々、4本マストの13隻の船とともにザイトゥン港を出た。船員も250人がいた。2カ月にわたって南シナ海を航海し、ヴェトナム、ジャワを越え、さらにアンダマン諸島を北西に進み、ベンガル湾を横切ってスリランカを経ると、今度はインド沿岸をまわってインド洋を航行してホルムズに到着した。やはり2年がかかった。ほんとうだかどうかはわからないが、すでに船員のほとんどが嵐や事故や病気や海賊襲来で死んでいた。それでもマルコたちと姫とはイル・ハン国に向かえたのだが、そこではすでにアルグン王が亡くなっていたことを知らされる。あまりに多くの予定が狂ってきたため、一行がさてこの先をどうしたものかととまどっているところへ、フビライ・ハーンの死が伝わってきた。79歳である。ここでマルコたちはふっ切れる。ついにヴェネツィアへの帰途につくことになる。数カ月の旅ののち、ヴェネツィアには24年ぶりに戻った。1295年だった。マルコ・ポーロは39歳になっていた。
その後のマルコのことは、またまたよくわからない。しかし1298年のこと、ジェノヴァとヴェネツィアが地中海の交易路をめぐって激越な交戦に入ることになったとき、マルコがヴェネツィアのガレー船を指揮したことでジェノヴァ軍に捕縛され、投獄されたのである。このジェノヴァの獄中に、ピサのルスティケッロという男が同房していた。ルスティケッロ(イタリア語読みならルスカティーノ)の正体はまだ歴史学が十分に証してはいないのだが、どうもアーサー王伝説の簡略版の『メリアドゥス』の著者だったようで、マルコはこの男にポーロ家の大旅行の物語を語り始めることにしたのだった。いったいどのくらいの月日の獄中語りがあったのはわかっていないけれど、こうしてマルコとルスティケッロによって『東方見聞録』が“共同執筆”されたことになる。バーバラ・ヴェーアの推理では、マルコ・ポーロがヴェネティア方言あるいはフランコ・ヴェネティアンで下書きをしたテキストを、ルスティケッロがフランス語ないしはフランコ・イタリアンの騎士道物語ふうに仕立てていったのではないかということになっている。いや、マルコは口述だけだったという説もあるし、もっと根本的な疑問を提出している研究者たちもいる。それは意外にも「マルコ・ポーロは中国に行っていなかった」というものだ。元朝の側の記録に、まったくマルコたちの記録が残っていないというのが最大の理由だ。ハーバート・フランクは「それにしても、どうもいまだ結論が出ない」と告白し、中国学者のフランシス・ウッドはマルコ・ポーロのモンゴル情報と中国情報は別の情報源のものからにちがいないと断言した。ぼくには、そのあたりのことはさっぱり見当がつかないが、獄中から釈放されたマルコがその後、『東方見聞録』を公開したところ、そこへ「嘘八百だろう」という噂が巻きおこったというのは、ほんとうのようだ。それでもマルコはひるまず交易商人を続け、ドナータ・バドエールという裕福な女性と結婚して3人の娘をもうけると、1324年で70歳で亡くなった。臨終のとき、友人たちが「あの本の内容は事実ではないと白状したほうがいい」と進言したのだが、マルコは次のように答えたとも伝わっている、「私はこの目で見たことの半分も語っていないんだよ」。そう、この言葉こそがイタロ・カルヴィーノをして『見えない都市』を書かせたのである。
はたして『東方見聞録』がどこまでホンモノの旅行記であるのか、まだまだ結論は出ていない。ぼくも念のためフランシス・ウッドの話題本『マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか』(草思社)を読んでみたけれど、その否定性にも、あまり説得力を感じなかった。むしろ中世史研究者のジョン・ラーナーの『マルコ・ポーロと世界の発見』(法政大学出版局)の精緻な検討が、マルコ・ポーロ以前と以降のアジア旅行に関する比較をして、しょせん当時の旅行記というものを歴史の証言かどうかに目くじらをたてて議論することに限界があるのではないかという見解を披露していることに、好感がもてた。どうやら多くの研究者たちは、イタロ・カルヴィーノが退(しりぞ)けた「世界書物への反発」に終始していると言わざるをえないのだ。
ともかくも、ぼくはニコロ・ポーロ、マテオ・ポーロ、およびマルコ・ポーロの2度にわたる旅程のルート、および帰還のルートをおおむね信用することにした。途中、いささか曖昧な記述があったり、誰かからの見聞をまぜこんでいたとしても、目をつぶる。いや、あのような世界旅行の物語を編集しえたことこそが、そのまま快挙なのである。なにしろ話は13世紀の世界旅行であって、こんな「世界」をヨーロッパ人はまったく知らなかったのだ。エンリケ航海王子の兄弟やクリストファー・コロンブスたちが、フラ・マロウやトスカネリの地図と『東方見聞録』に夢中になって、当時は漠然と「インド」とよばれていたアジアという「世界」に150年以上もたって探検に出掛けたのは、まさに『東方見聞録』が「ヨーロッパが来たるべき世界が最もほしくなった世界」をみごとに叙述し、いっさいの想像力をかきたてていたという正真正銘の証しなのである。それは黄金のジパングの記述がでたらめであっても、やはり世界にジパングの夢をもたらしたことに変わりないことと同断だ。そして、それよりなにより、このあとでもあきらかにしていくつもりだが、13・14世紀における世界の経済社会文化はその大半をイスラームが仕切り、先頭を切っていたにもかかわらず、それをフェルナン・ブローデルとエマニュエル・ウォーラスティーンの研究以降は、世界経済システムは15世紀に確立し、それが資本主義の大いなる原型となり、そのまま世界経済はその世界システムにもとづいて肥大していったというふうに解釈してきたこと、そのことをこの『東方見聞録』が逆襲しうることのほうに、ぼくは加担したいのだ。世界の経済社会が15世紀や16世紀ではなくて、マルコ・ポーロが訪れた国々の13世紀にすでに確立されていたということ、このことこそは、何がどうであれ、できるだけ早くに納得されなければならないことなのだ。

(1)とりあげたのは平凡社ライブラリーの『東方見聞録』だが、これはもともとは東洋文庫で1970年に初版が出ていたもので、両者はまったく訂正も加筆もされていない。平凡社ライブラリーになって、新たな解説すら付いていないのは平凡社にしては手抜きである。というよりも、もともと愛宕松男の訳業が、たとえば同じ東洋文庫の『アラビアン・ナイト』をめぐっての前嶋信次のすばらしい自己検証にくらべて、あまりにも質素すぎたのである。これはマルコ・ポーロのファンの一人として、今後の改善や充実を望みたい。
(2)とはいえ、『東方見聞録』については日本の研究者たちは全般にみんな腰が引けてきた。たとえば岩村忍の『マルコ・ポーロ』(岩波新書)は、ぼくなども最初に読んだマルコ・ポーロ入門書であって、きっと誰もがそのように読んだだろうと思えるのだが、この一冊をあとに日本では陳舜臣の『小説マルコ・ポーロ』(文春文庫)をのぞいて、ほとんど“マルコ・ポーロもの”が出ていないのだ。これはどうしたことだろう。たとえばオリエンタリズムの詳細を日本で初めて解読してみせた名著『幻想の東洋』(青土社・ちくま学芸文庫)の彌永信美ほどの人が、いつかマルコ・ポーロにとりくんでほしいものなのだ。ちなみに翻訳ものもめっぽう少なくて、ジョン・ラーナーやフランシス・ウッドのもののほか、ヘンリー・ハート『ヴェネツィアの冒険家 マルコ・ポーロ伝』(新評論)があるばかり。ごくごくやさしい入門書には、マイケル・ヤマシタ他の『再見マルコ・ポーロ「東方見聞録」』(日経ナショナルジオグラフッィク社)、ニック・マカーティの『マルコ・ポーロ』(BL出版)がある程度だろうか。
(3)イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』(河出書房新社)は、ほかに池澤夏樹の「個人編集・世界文学全集」(河出書房新社)に、キシュの『庭、灰』とともにやはり米川良夫訳が入っている。なおフビライ・ハーンの元や大都については、直接には上記にも示したように陳高華の『元の大都』(中公新書)や杉山正明の『クビライの挑戦』(講談社学術文庫)が参考になるが、これはモンゴル大帝国史を俯瞰するなかで読んだほうがいいので、いずれそちらの読書案内をしたいと思う。とりあえずは杉山正明の『モンゴル帝国の興亡』上下(講談社現代新書)などを参考にするといいだろう。
(4)ところで、13世紀のマルコ・ポーロ以前の“ラテン人”で、ユーラシアを渡ってアジアに到達した者がいなかったのかというと、そうでもない。実は13世紀以前のヨーロッパには「プレスター・ジョン」の噂が吹き荒れていて、これが“タルタル王”だともくされ、大モンゴル一族とその強大な王たちの情報をなんとか入手しようというもくろみが、何度が試みられていた。そこでベネディクト会の修道士マシュー・パリスはタルタル族(タタール)についての『大年代記』を著わし、ドミニコ会の修道士ロンジュモー・アンドレはアルメニアのタブリーズまで行って、そこからペルシア語の書状を中央アジアのカラコルムにいたチンギス・ハーンのもとに届けようとしたりした。フランチェスコ会の修道士ジョヴァンニ・カルピネはスラブの方へ赴いてヴォルガ河畔のバトゥ・カーンの黄金軍団駐屯地にまで行っている。もう一人、フランチェスコ会の修道士のギョーム・ド・ルブルークもバトゥ・カーンの黄金軍団を訪ね、「プレスター・ジョン」の正体を見きわめ、“サラセン人”や“タタール人”の猛威の実情を報告もした。
とういうわけで、それなりに「東方」に向った者たちはいるにはいたのだが、これらはとうていニコロ・マテオ・マルコのポーロ一族の大旅行には及ぶべくもなく、とくに東アジアと東南アジアを同時に見聞したとなると、これはやっぱり空前の勇敢というべきなのである。 
 
東方見聞録「黄金の国・ジパング」 2

 

かのマルコ・ポーロの口述を書きまとめた『東方見聞録』の中には、日本に関する有名な『黄金の国・ジパング』に関する記述があります。
「ジパングは東方の島で、大洋の中にある。大陸から1500マイル離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では、金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。
この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根をふくように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計りきれないほどである。床も二ドワの厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。」
1 「ジパング」とは実際はどこだったのでしょう?
近年、この「ジパング」について、フィリピンやカンボジア・アンコールワットなどの説が取りざたされているようですが、「ジパング」はやはり日本と考えてよいでしょう。その理由は、マルコ・ポーロが仕えた元王朝時代(1271-1368年)に起こった「元寇」について、「黄金の国・ジパング」の項に続いて『東方見聞録』に詳しく書かれていますが、その記述も、ほぼ正確に主要部分を伝えているからです。 「元寇」とは、マルコ・ポーロが元王朝に仕えていた時代(1271-1295年)に、当時の元王朝のフビライ・ハン(1215-1294年)が、日本の鎌倉時代(1192-1333年)中期に起こした二度にわたる侵攻を指します。1度目は、1274 年の文永の役(ぶんえいのえき)、2度目が1281年の弘安の役(こうあんのえき)です。特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規の規模で、主に九州北部が戦場となったのでした。
2 なぜ、元王朝フビライ・ハンは当時の日本が黄金の国だと知っていたのでしょうか?
それは、平安時代(794-1192 年)中期から鎌倉時代中期の10世紀から13世紀にかけて日本と中国の宋朝(960-1279 年)の間で行われた日宋貿易にその理由を垣間見ることが出来るでしょう。まずは、中国の元の時代に編纂された正史(二十四史)の一つ『宋史・日本国伝』の中に書かれているのです。そこには、「東の奥州に黄金を産し、西の別島(対馬)に白銀を出だし、以って貢賦と為す」との記述があり、当時の宋にとって、日本の奥州から黄金を産出するのだと考えられていたことが分かります。当時、奥州とは藤原の平泉であり、宋とは密接な関係にあったのでした。その関係は、いうまでもなく奥州で産出された砂金によって築かれたといって良いでしょう。そしてそれを媒介したのが、日宋貿易の立役者であった平氏だったのです。砂金とは、砂状に細粒化した自然金のことを指します。山腹に露出した金鉱脈が流水で洗われ下流の川岸の砂礫の間に沈殿します。大がかりな選鉱施設が不要で採取方法が簡単であることから、古くから個人単位での採取が行われてきたのです。
日宋貿易で威力を発揮したのは、なんといってもみちのくの砂金でした。その金は、都の寺院・仏像の荘厳に大量に費やされたほかに、宋にも運ばれたのでした。その証左として、『源平盛衰記』(巻第十一)に興味深い記述があります。平清盛の嫡男で、奥州を知行していた平重盛のもとに、気仙郡から1300両の砂金が進呈されたのですが、重盛は、筑紫(福岡県)にいた妙典という名の唐人に、そのうちの100両の金を贈っていわく、「1200両の金を中国に持ち帰り、200両は阿育王山の僧侶に、1000両は、皇帝に献上して阿育王山に自分の菩提を弔う小堂の建立を願って欲しい」と依頼したのでした。
その旨を知った宋の皇帝は、重盛の深い志に感銘を受けて、御堂を建て、500町の供米田を寄進したと言われています。つまり、宋時代には、既に当時の日本が、大量の金を産出する国であることが認識されていたのです。
3 どこで、それほどの金を産出したのでしょうか?
砂金を産出する気仙郡とは、三陸海岸岩手県南部の旧気仙郡(大船渡市、陸前高田市、住田町)のほか、宮城県北部の旧本吉郡(気仙沼市、南三陸町)を含む、一大金山地帯のことです。そこでは、現在も多くの砂金採取や坑道堀の跡が残っています。
4 誰が、奥州で採れた砂金を京都まで運んだのでしょうか?
平安時代末期には、奥州で産出した金を京で商うことを生業とした商人がいたようです。『平治物語』『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』などに登場する伝説的人物で、その名も、金売吉次(かねうりきちじ)と呼ばれていました。その起源を遡ると、奈良時代、仏教に帰依した聖武天皇が、災害や疫病の続く世をなんとか救いたいと願い、奈良に東大寺と大仏を建立したのでしたが、大仏の表面を覆う金が足りなかったため、全国に鉱物技師を派遣して探したところ、奥州で有力な金山が見つかったとの報せが入り、大喜びしたという話が伝わっているのです。それが宮城県北部の涌谷(わくや)町近辺であり、周辺の北上山地やら、海側の三陸、気仙沼まで、金を続々と産出するようになったのです。 実際、この周辺地域には「金」がついた金山町、金成町、金崋山などの地名が多いのです。金売吉次は、いつも袋に詰めた砂金を大量に持って京都に商売に向かったといいます。
5 東方見聞録に書かれていた「黄金の宮殿」とはどこを指したのでしょう?
これにあたる建造物は、平泉の「金色堂」と言って間違いないでしょう。今までの時代背景からしても明白でしょう。京都の金閣寺のことでは?と考える人もいるかもしれませんが、マルコ・ポーロの時代からさらに100年も後のこと(1398年建立)で、時代が全く合わないのです。
黄金の国・ジパング伝説が世界に与えた影響
この奥州・平泉に起因する「黄金の国・ジパング」伝説は、陸のシルクロード、そして海のシルクロードを通じて、イタリアに伝わっていきました。そして、その後のヨーロッパにおいて、マルコ・ポーロの「東方見聞録」は意外な影響を与えたのです。
この「黄金の国・ジパング」伝説は、ヨーロッパの冒険家の本能をくすぐり、ジパング到達の夢を膨らませたのです。マルコ・ポーロの時代から約200年後の1492年に、ジェノヴァ生まれのコロンブスは、スペインのバロス港から西廻りにインディオスを目指して、大西洋へ向かったのです。
その目的は、とりもなおさず、インディオス=アジアであると信じて、豊かな金と香辛料を求めるための航海だったのであり、その裏付けとなり、コロンブスを荒波に船出させたのは、マルコ・ポーロの「東方見聞録」だったのです。その第一回の航海の日誌には、黄金の記述が多数あり、実に8回も「ジパング」について言及されているのです。コロンブスがアメリカ大陸を発見し、大航海時代の幕開けとなったことは、世界史の観点からも大きな出来事だと言えるでしょう。 
 
黄金の国ジパングは日本ではない・諸話

 

1 黄金の国ジパングはでたらめ
書き残すことの必要性について考察したいと思います。
これまで高木兼寛(栄養学)、北里柴三郎(細菌学)、荻野久作(排卵日の発見)、高峰譲吉(アドレナリンの発見)など、日本人学者について書いてきました。これらの方々に共通するのは論文を西洋言語(英語、ドイツ語)で書いていることです。西洋言語で書かないと世界には広まりません。
当たり前ですが、日本語で書かれた論文や教科書を読む西洋人はきわめて少ないです。「入唐求法巡礼行記:にっとうぐほうじゅんれいこうき」を知っている方は少ないでしょう。これは円仁(後の慈覚大師、伝教大師=最澄の一番弟子です。東北地方の有名なお寺:平泉の中尊寺・毛越寺、松島町の瑞巌寺、山形市の立石寺(山寺)の開祖は全て円仁が開祖です)が、遣唐使で唐の国で仏教を学んだ時に書き残した旅行記です(838年から9年間の記録)。
円仁が実際に行って見て感じたことを書いていますから、資料としては一級資料です。しかし、世上有名なのはマルコポーロの「東方見聞録」です。
「黄金の国ジパング」はでたらめなのに
「東方見聞録」は1300年の頃のアジアの見聞録です。日本の部分が有名ですが(黄金の国ジパング!)、日本に関する記述はすべて「でたらめ」です。行ったことも見たこともない国「ジパング」のことを適当に書いているのです。ちなみに、なぜ「ジパング」かというと、元の時代の中国語では「日本国」を「ジーベングォ」と発音していたからです。現代の北京語では「リ゛ー ベン グゥォ」と読むそうです。この「ジパング」がJAPANの元になっているのですね。
閑話休題、中国に関する部分もかなり怪しく、万里の長城や纏足、印刷術や中国の文字について何も書かれていませんので、実際に中国に行ったかどうかも怪しまれています。
しかし、しつこいようですが知られているのはこちらです。
元は古いフランス語で書かれていました。その後、イタリア語やヨーローッパ諸語に翻訳されたので、世界中に広まりました。コロンブス自身の書き込みのある「東方見聞録」が残っています。「黄金にあふれたジパング」を夢見た人も多かったでしょう。
一方、「入唐求法巡礼行記」は今もほとんどの方は知らないと思います。それは漢文で書かれていた事や、長く門外不出だったからです。平安時代、鎌倉時代までは結構有名だったようです。
明治16年に東寺観智院で写本が発見されます。漢文ですから、なかなか広まりませんでした。しかし、今は世界中で読めるようになりました。それは駐日大使をつとめたライシャワーのおかげです。
ライシャワーはフランスに留学していたとき、指導教授から、この「入唐求法巡礼行記」の研究を進められ、英訳しています。そのおかげで今は英語でも読めます。800年頃の中国(唐の時代)の記録として世界的に評価されていますが、東方見聞録ほど広く知られているわけではありません。ちなみにライシャワーは港区白金生まれです(宣教師の子息だった)。
それはさておき、要するに、西洋言語にして書き残さないとなかなか世界には広がらないといういい見本だと思っています。(注:ライシャワーさんは、日本の医療を変えてもいます。彼が駐日アメリカ大使時代、精神を患った人に大腿部を刺され、輸血を受けます。輸血後に肝炎になり終生苦しめられました。当時、輸血は売血によるものがほとんどでしたがこの事件を契機に献血が広まりました。)
なにも書き残さないよりは書き残したほうが良い
しかし、なにも書き残さないよりは書き残したほうが良いという例をここに挙げます。
埼玉県行田市にある埼玉県立さきたま史跡の博物館に展示してある全長75cmの「鉄剣」のことです。通称、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」、金の象嵌で字が彫られています。 この剣には、「其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加」と書かれてあります。多分「其の児たかりあま?、其の児の名は?? 加利獲居」と読めます。
この剣は431年(推定)に制作されていますが、現代にも通ずる漢字で先祖の名前を書き残しています。それが1600年を経ても読めるのですからすごい話です。この剣を見ていると時間がたつのを忘れてしまいます。
ちなみに、この「漢字」の発見はいわゆる“セレンディピティ”です。1968年に発見されていたのですが、この剣は錆びており、ただの「錆びた剣」として10年間、倉庫の中で放置されていました。しかし、一度この剣のレントゲンを撮ってみようと考えた研究員がいました。レントゲンを撮ったら「漢字」が浮かび上がり「錆」を落としたらこのきれいな金象嵌の文字が現れたのですね。レントゲンを撮ってなかったら今でも「錆びた剣」としてそのままになっていたかもしれません。
今は当然、「国宝」です。この漢字が記された剣があるおかげで、少なくとも1600年前、埼玉県行田市辺りには漢字が伝来し、使われていたことがわかります。書き残すことの重要性がよく分かる一例です。
論文を書いてもそれを理解する頭がないと?
話は全く変わります。日本で初めてノーベル賞をもらったのは湯川秀樹です。彼は若い頃全く論文を書かず、指導教官にこっぴどく怒られています。そのため、その指導教官とは生涯疎遠になります。かなり怒られたのですね。でも、怒られたおかげで英文論文(注:日本で発行されている英文雑誌に掲載、それを世界中の物理学者に送っています。送らなければ、ノーベル賞は貰えなかったと思います。英文雑誌とはいえ、日本の雑誌ですから誰も読まなかったでしょう)を書いて、後にノーベル賞を授賞したのですから恨む理由など無いと思いますが、よほど怒られたのでしょう。
その指導教官は八木秀次です。阪大時代に湯川秀樹の指導教授だったのです。
八木と言っても知らない方が多いかと思いますが、日本を含めて世界中ほとんどの家の屋根に八木が考案した「八木アンテナ」が立っています(した)。日本人としては少し誇らしいですね。デジタル放送がメインになるまでは世界中の屋根にこのアンテナが立っている事と思います。魚の骨に似たアンテナです。八木は東北大学時代にこのアンテナを考案し、このアンテナに関する英文論文!や世界特許!を出しています。
日本では評価されなかったのですが欧米では評価されます。しかし日本軍のレーダーには採用されず!英米のレーダーに採用され、そのために日本軍は大変な目にあっていたのは有名な話です。英米のレーダーの性能は「八木アンテナ」によって飛躍的に高まったのです。日本人が発明したこのアンテナを有効利用したのが英米軍だったのは実に情けない話です。原子爆弾の先端にもこの八木アンテナがついています。スミソニアン博物館に行けば原爆の模型があり、このアンテナがついているのを見ることが出来ます。要するに、論文を書いてもそれを理解する頭がないとダメという悪しき見本ですね。
論文や文章を残すことは必要ですが、嘘はいけません
千円札の肖像で有名な野口英世は、その生涯で約200本の英文医学論文を書き残しています。
だから、世界的にも知られていたのですが、30数年前、Isabel Rosanoff Plesset というアメリカの研究者が「Noguchi and His Patrons」という本を書いて野口の論文のほとんどが間違っていたことを示しています。日本語にも翻訳されています。読むと「アメリカでの野口英世の現在の評価」がわかり、千円札を見ると一寸複雑な気分になります。何れにせよ科学ですから仕方がありません。
論文を書き残すことは必要ですが、「嘘」や「ごまかし」で塗り固められた論文は後にきちんと断罪されます。「背信の科学者たち 論文捏造はなぜ繰り返されるのか? ウイリアム・ブロード (著), ニコラス・ウェイド (著)」という本があり、この本には野口英世も出てきますが、実に多くの科学者が「論文捏造」をしてきたかわかります。それもこれも「論文を書かないと業績にならない」「論文を書いて歴史に名を残そう」などと考えるからこういう捏造論文が出てくるのだと思います。論文や文章を残すことは必要ですが、嘘はいけませんね。
参考文献をいくつか挙げます。
インターネットが普及して色々な論文が読めるようになっていますが、何故か日本人が書いた歴史的論文を読むことは容易ではありません。あまり紹介されていないからです。伝記は沢山書かれているのですが、論文、原典の紹介はあまりというかほとんどなされていません。読むのが面倒、読んでもわからない?どうせ読まないだろう。そういう理由で紹介されていないなら残念です。
コールタールをウサギの耳に塗って世界で初めて発がん実験に成功したドイツ語で書かれた山極、市川論文も見つけられませんでした(世界中で使われている癌の教科書には必ず引用されています)。
北里柴三郎記念館や野口英世記念館のHPからも、彼らの論文は読めません。もうとっくに著作権も切れています。是非、論文をPDFファイルにして広く知らしめた方が良いだろうと思っています。
ちなみに高木兼寛先生の論文は東京慈恵会医科大学のリポジトリーから読むことが出来ます。
欧米では論文は元より、西欧語で書かれた古い本も依頼電子出版形式で安価に読めます。
参考文献5の「医学の古典をインターネットで読もう」には、インターネットで読める古典的、基本的医学西欧語論文が沢山紹介されています。日本も見習うべきです。あの先生はこういう風に偉かったとかこういう生涯だったとか、そういう伝記に私はあまり興味がありません。論文の方を読みたいです。 
2 黄金の島「ジパング」実はフィリピン
マルコ・ポーロの「東方見聞録」に登場することで知られる「ジパング」。欧州の人々のあこがれを集めた黄金の島は日本だとされてきたが、実はフィリピンだったのでは……。古文書や古地図をもとに、こんな新説が現れた。これまでの常識を覆す説で、専門家の間でも賛否の声が交錯している。
新説はスペイン在住の的場節子さんが8月に出版した著書『ジパングと日本』で唱えている。03年に国学院大に提出した博士論文が下敷きだ。
中央アジアや中国を旅したマルコ・ポーロは、その経験を1298年にイタリアのジェノバで口述、それが「東方見聞録」とされている。14世紀以降、欧州の様々な言語に翻訳された。
写本は150点ほど残っているが、「ジパング」という地名は当初、登場しない。的場さんの調べでは、黄金島の表記は様々だったが音はチャンパグやツィパングが目立つ。日本での定番とされる東洋文庫(平凡社)も「チパング」だ。
「ジパング」という音が史料に登場するのは17世紀初め。ポルトガル人イエズス会士のロドリゲスが「日本教会史」の中で、「日本国」の中国語読みの「Jepuencoe」や「Jiponcoe」が転じてZipanguとなったもので、見聞録の黄金島は日本だと主張。的場さんは、この考えがイエズス会歴史家に継承され、西洋で「ジパング=日本」が定着、日本に輸入されたと分析する。
ロドリゲスの「黄金島=日本」説の根拠の一つは、見聞録のモンゴル海軍の記事。大船団が暴風で難破したと記されていて、これが元寇を指すというのだ。だが、史実や実情と合わない点も多い。
的場さんは「モンゴル海軍の遠征はほかにもあり、見聞録は東南アジア遠征の記録では」と指摘する。
では、見聞録の黄金島とはどこなのか。
的場さんは、スペインやポルトガル、イタリアの図書館、修道会などを回り、大航海時代の多数の文書や地図を10年がかりで集めて読み解いた。16世紀のものが中心で、シャンパグなどの名前で黄金島はたびたび登場するが、位置的には熱帯になっていた。
特にスペインが手中にしたフィリピンについては、どこで金が取れるかなどの黄金情報があふれていた。一方日本では金がとれるのかなどの情報は見あたらない。地図を見ると日本はかなり北にあり、島ではなく半島との認識もあったこともわかり、「ジパング」はフィリピンを中心とした多島海地域を指したとの考えに的場さんは至った。
この的場さんの考えに、五野井隆史・東京大名誉教授(日本キリスト教史)は「日本を間違って描いたのではなく、日本ではない場所を紹介したと考えたほうが理解しやすい」と賛同の姿勢。シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア・仏国立高等研究院教授(東アジア史)も「黄金島は本当に日本なの、との疑問は欧州でも以前からあるが、それならどこなのかとの素直な問いに、初めて一つの答えが示された」と評価する。
一方、杉山正明・京都大教授(モンゴル史)は「見聞録の成立は13世紀末ではなく14世紀後半で、マルコ・ポーロの名で多くの人の経験や物語が盛り込まれた。内容に矛盾があるのはそのため」と考えている。
的場説には、「確かにジャワ島遠征の記事が混入している可能性があるが、骨格は弘安の役と合致しており、黄金島が日本であるのは間違いない」と反論。フィリピンを黄金島とする地図や文書については「大航海時代、日本では金がとれなくなっており、新たな黄金島が登場した」と見る。
的場さんは「私の考えではなく、日本で知られていない史料を公開するのが出版の狙い」と話している。
わき起こった論争は簡単には収まりそうにないが、「常識とされる歴史知識が、いかに検証されないまま使われてきたかを教えてくれる」(五野井さん)ことは専門家の間でも異論はないようだ。 
3 マルコ・ポーロが語る黄金の国ジパングは日本ではなかった
日本を英語でジャパン(JAPAN)というが、その語源となったと言われているのが、13世紀のイタリアの旅行家マルコ・ポーロがアジア諸国を旅したことを記した「東方見聞録」に登場する黄金の国ジパングだといわれています。しかし、最近の研究ではそれは間違いだったかもしれないという説があるのです……
そもそも「東方見聞録」は1271年に、17歳のマルコが父のニコーロと叔父のマフィオとアジアへ旅をし、24年後の1925年、マルコたち一行は財産を築いて故郷に戻ってきました。飛行機も長距離列車もない時代に旅したその距離はなんと、15、000q!! 彼が帰国した3年後の1928年、故郷のヴェネツィアはジョノヴァと戦争をはじめてしまい、マルコは志願兵となって参戦。しかし、ジェノヴァ軍に捕まってしまいます。数ヶ月の牢獄生活中に、同じ牢にいた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサにアジア諸国の旅を口述して筆記してもらいました。このピサは、マルコの話の他に自分の知り得るアジアの知識をマルコに無許可につけ加えたともいいます。ヨーロッパの人々は当時誰も行ったことのないインド、中国、日本などのアジア諸国のことを書いた旅行記「東方見聞録」 (The Travels of Marco Polo) に夢中になり、ベストセラーになりました。マルコ・ポーロは1299年に牢獄から解放され、ヴェネツィアに帰り、豪商の一人として有名になりました。
しかしですね……「東方見聞録」を綿密に調べた歴史学者によると、どうにも記述に間違いが多いことが目につくのです。ここでは日本について書かれたことにクローズアップします。マルコ・ポーロ自体は日本へ行っていないので、伝え聞いた話です。
ジパングは「東の彼方、大陸から1500マイルの大洋にある」と記述されています。1500マイルとは約2400キロです。では、実際の日本と大陸の距離とは?一番近い一番近い対馬から約50qで、晴れて空気の澄んだ日だと、対馬から韓国が見えるというくらい近いです。夜にはプサンの夜景が見えるそうです。福岡市からだと250qくらい。山口県からだと300q未満くらい。これでは東方見聞録の記録とずいぶん違いますね……
ほかにも、ジパングには「王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島」があり、「日本は黄金の豊富な国なので,皇帝の宮殿は屋根も床もすべて黄金でできている」、みごとな宝石、赤い真珠などの財宝があったと描写されています。これは時代的に奥州平泉の中尊寺金色堂のことだと考えられています。宝石はヒスイなどでしょうか?真珠の養殖はもっとのちの話です。
ジパングの風習として、偶像崇拝があります。これは、仏教のことでしょう。
さらに「自分たちの仲間ではない人間を捕虜にした場合、殺して料理して、みんなでその肉を食べる。彼らは人肉が他のどの肉よりも美味いと考えている」と、食人の風習があったとあります。戦った相手の首を斬る野蛮な風習はありましたが、さすがに食人は……もっと南方の島の話のようです。
マルコは中国、当時はモンゴルに支配された元のクビライに、豊富な知識を買われて元の役人に登用されたと書いてあります。元寇(1274年、1281年)についての記述もあり、史実に近いこともあれば、元軍が日本の首都・京都まで進撃した記述がありますが、史実では元軍は博多で戦い、一日で撤退しています。さらに日本の兵は奇跡の石を武器にしていたなどとファンタジックな描写もあります。
マルコが日本について聞いた相手はどうも、イスラム人のようであり、イスラム国では「ワクワク伝説」という黄金伝説があって、これは倭国わこくをさすのではないかと考える学者がいます。どうも、ジパングはイスラムや中国がいだく遠方の幻想世界、神仙の住まう国というイメージがつきまとっているようですね。
さらに「ジパングの海域には7448個の島々がある」とあり、「島々では高価な香木、黒胡椒、白胡椒が豊富に採れる」と書かれていて、これらの事から赤道付近の東南アジアの島のことではないかと言われています。なかでも可能性の高い島がボルネオ島だそうです。と、いってもジパングの記述にすべて当てはまるわけではないですが、ジパング日本説よりも可能性が高いようです。
あのコロンブスも東方見聞録の黄金の国ジパングに憧れて、アジアへ行く西廻り航海を着想しました。まあ、東の彼方の黄金の国ジパングは発見できなかったけど、新大陸アメリカを発見することはできましたね。
コロンブスというと、アメリカを発見した偉人という印象がありますよね。しかし、その目的は植民地であり、スペイン軍に従わないインディアンを虐殺なんてしています……コロンブスは日本にこなくて幸いです。 
 
ジパング諸話

 

1 ジパング(Zipangu)
中世・近世ヨーロッパの地誌に現れていた東方の島国、日本のことである。
語源については、「日本国」を中世の中国語で発音した音が語源とされ、ヨーロッパにはマルコ・ポーロが Cipangu(あるいはChipangu)として最初に紹介したと言われる。なお10世紀頃から地理学者イブン・フルダーズ=ビフ Ibn Khurdādh-Bih などをはじめアラビア語・ペルシア語の地理書において、後のジパングにあたると思われる金山を有する島(国)、ワークワーク(الواقواق al‐Wāqwāq, 倭国か)について都度都度言及されている。
現代の多くの言語で日本を意味する Japan(英語「ジャパン」、ドイツ語「ヤーパン」)/Japon, Japón(フランス語「ジャポン」、スペイン語「ハポン」)/Giappone(イタリア語「ジャッポーネ」)/Yaponiya, Япония(ウズベク語「ヤポニヤ」、ロシア語「イポーニヤ」) などの言葉は、一般にジパングが語源とされるが、ポルトガルが到達した16世紀頃の東南アジアで日本のことを中国語からの借用語で Japang と呼んでいたことに由来するという説など、様々な異説もある。現代ポルトガル語での日本の呼称はJapão(ジャポン)である。
日本ではマルコ・ポーロが紹介した事実が非常によく知られており、日本の一種の別名としてとらえられている。
マルコ・ポーロの伝えたジパング
マルコ・ポーロの『東方見聞録』は、以下のように伝えている。
ジパングは、カタイ(中国大陸)の東の海上1500マイルに位置する独立した島国であり、莫大な金を産出すること、また、王の宮殿は金できており、人々は礼儀正しく穏やかであることや、埋葬の方法は火葬か土葬で、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う風習がある、といった記述がみられる 。
モンゴルのクビライがジパングを征服するため軍を送ったが、暴風で船団が壊滅した。生き残り、島に取り残された兵士たちは、ジパングの兵士たちが留守にした隙にジパングの都を占領して抵抗したが、この国で暮らすことを認める条件で和睦して、ジパングに住み着いたという話である。
愛宕松男に依れば、ジャワ島付近の諸島と同じように、ジパング諸島の「偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、もしその捕虜が身代金を支払えなければ、彼らはその友人・親戚のすべてに『どうかおいで下さい。わが家でいっしょに会食しましょう』と招待状を発し、かの捕虜を殺して――むろんそれを料理してであるが――皆でその肉を会食する。彼等は人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのである。。」との記述があるという。
「ジパング」の綴りは『東方見聞録』の写本・刊本によって一定せず、平凡社東洋文庫版(愛宕松男訳)の底本であるアルド・リッチ英訳本では Chipangu 、フランス国立図書館 fr. 1116 写本(14世紀、イタリア語がかった中世フランス語)では Cipngu、グレゴワール本(14世紀、標準フランス語)では Sypangu 、ゼラダ本(1470年頃、ラテン語)では Çipingu 、ラムージオ本(en:Giovanni Battista Ramusio)(1559年、イタリア語)では Zipangu となっている。愛宕訳ではリッチ英訳本に基づいて「チパング」と訳している。
マルコ・ポーロが伝え聞いたジパングの話は、平安時代末期に奥州藤原氏によって平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた奥州平泉の中尊寺金色堂がモデルになっているとされる。当時の奥州は莫大な金を産出し、これらの財力が奥州藤原氏の栄華の源泉となった。 マルコポーロが元王朝に仕えていた13世紀頃、奥州地方の豪族安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていたとされ、そこからこの金色堂の話が伝わったものとされる。
モンゴル帝国時代の「ジパング」
モンゴル帝国時代、大元朝時代の「日本観」についてであるが、大元朝後期に中書右丞相トクトらによって編纂された『宋史』「日本伝」では、「その地東西南北、各々数千里なり。西南は海に至り、東北隅は隔つるに大山を以てす。山外は即ち毛人(蝦夷か)の国なり」とした上で、雍熙元年(984年)に入宋した日本人僧の「然の伝えたところとして、「天御中主」(天御中主尊)から「彦瀲尊」(彦波瀲武盧茲草葺不合尊)までの約23世、「神武天皇」から「守平天皇」(円融天皇)までの約64世を列記し、「国中に五経の書および仏経、『白居易集』七十巻あり、並びに中国より得たり」「土は五穀によろしくして麦少なし」「糸蚕を産し、多く絹を織る、(その布地は)薄緻愛すべし」「四時(春夏秋冬)の寒暑は、大いに中国に類す」と記し、「東の奥洲」で黄金を産出し、対馬のことと思われる「西の別島は白銀を出だし」などと記している。日本の地理などの情報は全体的にほぼ正確に伝えているが、「犀・象多し」など事実と異なった記述も一部ある 。
また、『集史』「クビライ・カアン紀」によると、東南方、「環海中、女直と高麗(جورجه و كولى Jūrja wa Kūlī)地方沿岸近くに大島があり、それはジマングー(جمنكو‎ Jimangū?)という名前である。(女直や高麗の地域から)400ファルサング(約 2,000 km)離れている」とあり、女直、高麗などから東南海上の彼方に大元朝に敵対する地域として「日本国」の音写とおぼしき「جمنكو j-m-n-k-w」と呼ばれる大島についての記述がある 。
異説
地理学者イドリースィーの1154年製作の世界地図。上が南方向となっており、南方全体から東方にかけてをアフリカ大陸が覆う。地図の左端、アフリカ大陸東端に金泥で描かれた山があり、「ワークワーク」(الواق واق al‐Wāq‐Wāq)と書かれている。
上記のごとく、マルコ・ポーロのジパングが日本のことを指すという見方が現在一般的であるが、異説もある。
中世の日本はむしろ金の輸入国であり、黄金島伝説と矛盾する。
マルコ・ポーロの記述やその他の黄金島伝説ではツィパングの場所として(緯度的にも気候的にも)明らかに熱帯を想定しており、実際の日本(温帯に属する)の位置とはかなり異なる。
元が遠征に失敗した国は日本以外にも多数存在する。
などの理由から、ジパングと日本を結びつけたのは16世紀の宣教師の誤解であるとする説もある。またジパングの語源としても、元が遠征した東南アジアの小国家群を示す「諸蕃国」(ツィァパングォ)の訛りであるとする。またイスラーム世界(アラビア語・ペルシア語圏)に伝わった日本の旧称「倭國」に由来するといわれる「ワークワーク(الواقواق al‐Wāqwāq)」ないし「ワクワーク(الوقواق al‐Waqwāq)」は金山を有する土地として知られているが、「ワクワク」に類する地名はアラビア語・ペルシア語による地理書や地図においてアフリカや東南アジアによく見られる地名でもあり、日本のことを指したものではないとする説もある。 
2 ジパングの由来
なぜ「日本」は英語で「Japan(ジャパン)」と呼ばれているのでしょうか
マルコ・ポーロが東方見聞録の中で「Zipangu(ジパング)」として紹介したことにより、日本が西洋に広く知られるようになったというのは周知の通りで、「Japan」はこの「Zipangu」に由来することは容易に想像できますが、「Zipangu」と「にほん」にはまだかなりの隔たりがありますね(因みにマルコ・ポーロはイタリア(ヴェネチア)の人ですが、現在はイタリア語では日本のことを「Giappone(ジャポン)」と言います)。マルコ・ポーロは実際に日本に来たわけではなく、中国(元の時代)の人のから日本のことを伝え聞いたに過ぎません。当然国名は中国語読みだったわけです。現在、中国の標準語(北京で使われている中国語)では「日本」は「ジーベン」と発音されます。「日」が「ジツ」という音読みを持っていることを考えれば納得ですね。今から700年も前のことで、しかも元はモンゴル系の国なので、マルコ・ポーロの聞いた発音はこれとは違っただろうと思われますが、いずれにしても「Zipangu」に近いものだったのでしょう。
「Japan」の由来が分かると、今度はなぜ「中国」は「China(チャイナ)」なのか、という疑問が湧いてきます。当然中国は日本より以前から西洋に知られていたわけで、その名は紀元前の国名「秦[中国統一B.C.221-B.C.206]」に由来します。フランス語では「Chine」と綴って「シン」と発音します。「シナ」という俗称もここから来ていて、「シナ」の東の海が「東シナ海」、「インド」と「シナ」の間にある地域が「インドシナ」というわけです。話はそれますが、フランス語で英語の「Chinese(チャイニーズ=中国の)」にあたる単語は「Chinois(シノワ)」と言います。最近この名をつけているレストランが増えてきたので聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。料理の好きな人ならばご存知のように、この単語にはもう一つ「瀘し器」の意味もあります。これはこの瀘し器が円錐形をしていて、中国人のかぶっている笠に形が似ているからだとか(でも日本人にとっては中国というよりはベトナムの笠といったほうがピンと来ますね)。英語ではこの瀘し器のことを「China cap」と呼びます(「hat」のような気もするけど「cap」なんですね)。因みに香港の航空会社「Cathay Pacific(キャセイ・パシフィック)」の「Cathay」も「中国」の意味ですが、こちらはかつての「契丹[916-1125]」王朝に由来します。 
3 「黄金の国ジパング」日本の金鉱山の歴史を辿る
「黄金の国ジパング」と言う言葉を聞いたことがあると思います。これはマルコポーロの「東方見聞録」で日本のことを表現した言葉です。「金の国日本」ということになりますが、マルコポーロが生きていたのは13世紀の末です。そんな時に日本にたくさん金鉱があったのでしょうか。日本の金採掘はどのような状況で、現在の採掘量はどのくらいなのでしょうか。今回は、日本の金鉱山に焦点を当て、その歴史を辿ってみたいと思います。
「黄金の国ジパング」とは
日本を「黄金の国」と呼んだマルコポーロ。このマルコポーロのことを冒険家と思う人も多いかもしれませんが、彼は実際にはイタリアの貿易商人でした。イタリアのベニスに住んでいて、最初は少年の頃に父親と叔父に連れられて、東方、つまりトルコ、モンゴル、中国方面を旅しながら、自国の物を売り、反対に自国で売れそうなものを買い集め持ち帰りました。2回目には青年になったときに自分で再度東方の旅に出ました。マルコポーロは「東方」には2回も行きましたが、日本には行ったことがなかったのです。「黄金の国ジパング」は、中国人から聞いた話に基づいて、想像を絡めながら執筆したものです。「東方見聞録」の中で、マルコポールは、「ジパングは大量の金を産出し、宮殿などの建物は金でできている」と書いていますが、この金でできた宮殿とは平安時代の1124年に建てられた中尊寺金色堂だと言われています。では、この金色堂で使われていた金はどこから来たのでしょうか。
「中尊寺金色堂」の金箔
昔日本にあった金鉱山では、佐渡島の金鉱山がもっとも大きなものですが、佐渡金山が始まったのは1601年ですから、中尊寺金色堂に使われた金はそれよりも450年以上も前に存在していたことになります。一説では、金色堂で使われた金は朝鮮半島を通って、大陸から持ち込まれたと言われていますが、金についての記録を見てみると、奈良時代に宮城県あたりで、約13kgの金を朝廷に献上したという記録が残っています。実際、当時東北地方には、いくつかの金山がありました。岩手県気仙沼には、玉山(たまやま)金山や茂倉金山という金山があって、中尊寺金色堂に使われた金は、これらの金山から集められたという説が有力です。その後、これらの金山は衰退し1671年に廃山になっています。
「中尊寺金色堂」の金の持つ意味
中尊寺金色堂は、当時「奥州」と呼ばれていた東北地方の統制者だった藤原清衡が建てたものです。金箔をふんだんに使っているため、藤原清衡が自身の豪華絢爛ぶりを誇示するために建てたのではと思われがちですが、実際には、それまでの戦乱の世界を憂い、今後そのような禍がなく平和が続くようにとの願いの下に建てられたと言われています。「金」が放つ柔らかい光が人の心を静めると考えたのでしょう。残念なことには、藤原清衡も源頼朝に倒されてしまい、また、度重なる火災や戦乱により中尊寺の建物は破壊されてしまいましたが、この金色堂だけは覆堂と呼ばれる周りに造られたもう一つの建物により長い間保護されました。これも「金」ゆえの特権なのでしょうか。ただし、現在の金色堂は復元されたものです。
佐渡金山の発見と発展
17世紀の東北地方の金山の廃山と前後して有名になったのが、佐渡金山です。佐渡金山は、1601年に山師により発見されましたが、閉鎖になったのが、1989年ですから、約390年の歴史を持っていることになります。この期間、何度も衰退・閉山の危機に晒されましたが、様々な試みを通して新しい採掘方法を開発し、あきらめなかったことが、佐渡金山の長い歴史につながったと言えます。佐渡金山は、発見直後、徳永家康の命令により幕府の直轄領に置かれ、金の本格的な採掘が始まりましたが、この時は最も簡単な方法である露天掘りにより採掘しました。当時、佐渡金山の最盛期で産出された金は年間400kgでした。佐渡金山での金の採掘は江戸時代の終わりごろまで続き、その約270年間にトータル41トンの金を産出しました。これが徳川幕府の財政を支える大きな収入源になりました。
新しい技術の導入
佐渡金山は江戸の花形金山でしたが、江戸時代の終わりごろから、徐々に衰退の兆しを見せ始めました。そのため、徳川に替わり新しく政権を握った明治政府は、1869年に、西洋の技術を取り入れることにしました。導入した技術の主なものは、西洋式選鉱場と竪坑でした。新しい技術の導入により佐渡金山は、産出量を増やすことができましたが、政府は金本位制による貨幣制度を導入したかったため、金の増産を望み、更に採掘技術を進めようとしました。この目的のために取り入れたのが、北沢浮遊選鉱場の建設と大間港の整備でした。これにはドイツから新しい技術を導入しました。
佐渡金山の衰退と現状
1896年、佐渡金山は、三菱合資会社に払い下げられ、機械化により採掘が行われるようになりました。これにより、明治後期の産出量を江戸最盛期の年間400kgまで戻すことができるようにました。佐渡金山の三菱による操業はその後93年間続きましたが、金の埋蔵量は年々減り衰退を止めることができず1989年に閉鎖を余儀なくされました。その後日本にあった他の金鉱山も徐々に衰退・閉山し、現在残っている主な金山は、鹿児島県にある菱刈金山と串木野金山だけになってしまいました。佐渡金山は、1601年に金脈が発見されてから1989年に閉鎖されるまでの約390年間で金78トンを産出し、まさに日本の有数な金鉱山だったと言えます。特に採掘施設の発展の過程が素晴らしかったため、閉山後は、「史跡佐渡金山」として保存され、ゴールデン佐渡社により運営され一般に公開されています。また、「世界遺産」への登録の申請もしており、登録に向かって様々なキャンペーンが展開されています。
現在の日本の金の採掘量や埋蔵量
前出の通り、現在では鹿児島県にある菱刈金山と串木野金山のみとなっており、既に現在で半分以上採掘されていると言われております。ココでは金だけでは無く銀も採掘されます。推定埋蔵量は2箇所合わせて約260トン。1985年以降、毎年7トン程の金の採掘をしているのを考えると、あと3〜40年で掘り尽くしてしまうのではないでしょうか。金鉱山以外では、日本近海の金鉱床が発見されていますが、技術的な事や莫大なコストの問題で2016年現在では、採算の取れる採掘までは至っておりません。またそれとは別に都市鉱山と言うのがあります。いわゆる家電製品などに使われている金の総称なのですが、これは日本だけで約7000トン、世界の金の埋蔵量の15%前後と言われています。ただコレも同じく回収コストの問題もあり、金のリサイクルのメイン事業に至るまでは来ていないと言えますが、過去の歴史を鑑みると日本人は幾多の技術革新を経て金の採掘を行ってきたと言えますので、近い将来都市鉱山や海の下の金鉱床も利用可能になるのではないでしょうか。
「ジパング」を振り返って
「黄金の国ジパング」と呼ばれた日本。世界的に見ればその金の産出量は、小さなものだったかもしれません。けれども、「金」は様々なものを動かす大きな力として、日本の歴史形成の大事な一役を買ってきたのです。 
4 黄金の国ジパング / 平泉発展へ 東アジアと大船渡
日本最初の金
日本で初めて金が産出されたのは、奈良時代の天平21(西暦749)年、陸奥国小田郡、現在の宮城県遠田郡涌谷町であり、当時の陸奥国主から朝廷へ黄金900両(約13kg)を献上したのが始まりとされる。
折りしも、聖武天皇が東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)の鋳造を開始していた(天平9年)。大仏に塗る金の調達に難儀していた頃であり、陸奥国からの金産出の知らせは、天皇を大いに喜ばせ、年号を「天平感宝」と改めたほどであった。そして、万葉の歌人大伴家持は、「すめろぎ(天皇)の御代栄えむと東なる みちのくの山に くがね(黄金)花咲く」と詠んでいる。
これ以降、みちのくの山々に黄金の花が咲くように、北上高地で次々と砂金鉱床が発見され、その最たる一大産金地が、平泉の東方に位置する三陸沿岸の気仙郡一帯であった。
奥州平泉における藤原氏の栄華
岩手県南部、人口約8500の平泉町。この地には皆金色で覆われた中尊寺金色堂をはじめ、奥州藤原氏の栄華を偲ばせる遺産・遺構が多数存在する。
現在、この「平泉の文化遺産」はユネスコの世界遺産登録へと脚光を浴びている。ここで、平泉を造り上げた奥州藤原氏100年の歴史についてふれたい。
源平の争いが絶えなかった平安時代末期。前九年の役、後三年の役など幾多の戦乱や悲劇を経て、最終的に北東北の支配者となった初代藤原清衡は、壮大にして平和な都市平泉の原形をつくり、奥州藤原氏四代100年の栄華の基礎を築いた。
その中心が中尊寺金色堂である。清衡は、落慶法要の席で「争いのない仏国土を造りたい」という趣旨の中尊寺建立供養願文を読み上げ、平泉にこの世の極楽浄土をつくることをめざした。
その後、二代目藤原基衡は、毛越寺を造営するなど、父清衡が描いた浄土思想を中心として平泉の町づくりに努力した。なお、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、毛越寺はわが国では他に例がないほど立派だと記されている。
三代目藤原秀衡は、無量光院を造営。この頃は奥州藤原氏の絶頂期で、東北一円に支配が及び、京都に次いで、人口約12万の日本第二の巨大都市平泉が完成したともいわれる。
やがて、平和を願う平泉にも、歴史の濁流が容赦なく押し寄せる。源氏の棟梁源頼朝とその弟である義経との対立に端を発した源氏と奥州藤原氏との戦乱の結果、四代目藤原泰衡は討ち取られ、1189年、奥州藤原氏は滅亡。約100年間続いた平泉の隆盛に歴史の幕が降ろされることになる。
平泉の黄金文化と東アジア
ここで平泉の黄金文化の発展と東アジアとのつながりをひも解いてみたい。
皆金色と豪華さで観る者を圧倒する中尊寺金色堂。ここに、8世紀から16世紀まで日本の一大産金地であった気仙郡一帯の金が使用されていたことが、東北地方の歴史学の権威である東北大学名誉教授の高橋富男氏により証明されている。金は、盛浦、現在の大船渡港などから海路石巻を経て、北上川を北上して平泉へ届けられたとされている。
中尊寺金色堂には、金のほか、夜光貝を使った螺鈿やアフリカゾウの象牙など、国内に存在しない装飾品も多く、また、平泉では、中国の宋の陶磁器が出土していることから、当時の国際港であった十三湊(青森県西部)などを拠点とした外国との交易が確立されていたものと推測される。
そして、この豪華絢爛たる輝きが、後世の世界史に大きな影響を与えることになる。
黄金の国ジパングと大航海時代
マルコ= ポーロの「東方見聞録」は、翻訳本の中では、当時、聖書に次ぐ大ベストセラーであった。その中に、「ジパングは、東海にある大きな島で、大陸から2400kmの距離にある。・・(略)・・宮殿の屋根は全部黄金でふかれており、道路の舗装路や宮殿の床は4cmの厚さの純金を敷き詰めている。・・(略)・・」と記されており、まさに、この「宮殿」のモデルが中尊寺金色堂であったといわれている。
後世、この「黄金の国ジパング」伝説が、時の冒険家たちの夢を駆り立て、大航海時代へと突入する。そして、冒険家たちのめざすその先は、平泉の中尊寺金色堂であり、莫大な金を産出していた気仙郡一帯であった。
コロンブスがめざしたのは気仙郡の大船渡
マルコ= ポーロの「東方見聞録」から約200年後の1492年、サンタマリア号でスペインのパロス港を出港したコロンブスは、「新大陸」発見の偉業を成し遂げることになるが、実は、コロンブスの本当の目的は、黄金の国ジパング、つまり日本の豊富な金をめざしていたとされている。突き詰めれば、その金の産出地である三陸沿岸の気仙郡、大船渡であった。
それから120年後の1612年、時は、江戸時代初期。後に「ビスカイノ金銀島探検報告」を著したスペインの商人セバスティアン= ビスカイノが伊達政宗の庇護のもと、大船渡港を探索している。このことは、数年後の支倉常長らの慶長遣欧使節団の派遣へと発展することになるが、このとき、伊達政宗は、天然の良港大船渡港を国際港に位置づけ、外国との交易を行う計画であったとされている。
見果てぬ夢の実現 〜結びに〜
コロンブスは、ジパングに辿りつくことはできなかった。しかし、後世の人たちが、彼の夢を継承し、サンタマリア号を復元して、大船渡港入港を達成した。実に「新大陸」発見から500年後の1992年のことである。この偉業を称え、コロンブスがサンタマリア号で出港したスペインのパロス市と大船渡市との間で姉妹都市締結の調印が実現している。
平泉の黄金文化、大航海時代を導いた黄金の国ジパング・・・。歴史上の重要な分岐点で光彩を放ったのが、気仙の黄金であった。産金地気仙郡に残る金山の遺構、我々気仙・大船渡の誇りと気風が、今も息づいている。 
 
マルコ・ポーロの「ジパング」黄金伝説

 

モンゴル帝国の遠征に必要だったマルコ・ポーロの情報
モンゴル帝国の第5代皇帝フビライ・ハン(在位1260年〜1294年)は、イタリアよりシルクロードを渡ってやってきた冒険家のマルコ・ポーロを情報収集のできる人材として重宝しました。
モンゴル軍の遠征を支えるためには、正確な情報に基づいた敵の分析、作戦の戦略が必要だったからです。
戦いを有利にさせる為の軍の戦略として、外国人の情報提供者の確保にも力を入れていました。
「(モンゴル帝国軍の)実戦においても先鋒隊がさらに前方に斥候や哨戒部隊を進めて敵襲に備えるなど、きわめて情報収集に力がいれられる。また、中央アジア遠征ではあらかじめモンゴルに帰服していた中央アジア出身のムスリム商人、ヨーロッパ遠征では母国を追われて東方に亡命したイングランド貴族が斥候に加わり、情報提供や案内役を務めていたことがわかっている。」
モンゴル帝国第5代皇帝フビライ・ハンにマルコ・ポーロが日本の存在を伝えていた!
シルクロードを渡って来日した人達は古の日本の姿を見てどう思ったのでしょうか。
ジパング(日本)の存在を西洋に伝えた最初の文献は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」です。
マルコ・ポーロは1254年、ヴェネチア共和国の代々商人の家に生まれました。
当時父親は中東貿易ですでに成功していましたが、母親はマルコ・ポーロがまだ10代の頃、一行の東方への旅の途中で亡くなりました。
成長したマルコ・ポーロはヴェネチア商人になり、冒険家としても有名になりました。
「東方見聞録」はマルコ・ポーロが44歳、1298年頃に伝承としてつくられました。
そこに書かれた詳細な情報はモンゴル帝国だけでなく、13世紀〜14世紀のヨーロッパに大きな影響をもたらしました。
そしてその文中で、「豊かな黄金の国としての日本の存在」を西洋に紹介し、後の16世紀のポルトガル(鉄砲伝来)やフランシスコ・ザビエルの来日などに影響しました。
マルコ・ポーロ一行、シルクロードを越えモンゴル帝国にたどり着く!
時は13世紀、ヴェネチア共和国(現イタリアのヴェネチア)。
マルコ・ポーロが育ったヴェネチア共和国は、東地中海貿易が栄えた海洋国家でした。
当時のシルクロードの貿易*では東方の絹、西方のコショウ等が主に取引されました。
特にコショウは貴重で金と同重量で交換されたことからヴェネチア商人に「天国の種子」と呼ばれました。
その他、オリーブオイル、ワイン、綿、羊毛皮類、インディゴ(染料)、武具、木材、奴隷なども盛んに取引されてました。
まさにヴェネチア共和国は、東と西の貿易地点でした。
ヴェネチア共和国は、7世紀末から1797年ナポレオンに降伏するまで、約1000年存続した史上最長の国家としても有名です。
さて時は1271年、当時15歳だったマルコ・ポーロは、ヴェネチア商人の父ニッコロー・ポーロと叔父マッフェーオ・ポーロとともにアジアのシルクロードに向けて出発しました。
父ニッコロー・ポーロは中東貿易で成功し、財を成していました。
その財を宝石に変え、マルコ・ポーロ一行は東を目指し旅立ちました。
文献による、マルコ・ポーロ一行の経由地 (現在の地名)です。
「アークル (アークル、ハイファ北東、イスラエル) エルサレム (エルサレム、イスラエル) ライアス (イスケンデルン、トルコ) カエサリア (カイセリ、トルコ) エルズルム (エルズルム、トルコ) 
トリス (タブリーズ、イラン) カズヴィン (ガズヴィーン、イラン) ヤズド (ヤズド、イラン) ケルマン (ケルマーン、イラン) コルモス (バンダレ・アッバース、イラン) 
サプルガン (シバルガン、アフガニスタン) バルク (バルフ、アフガニスタン)
ホータン (ホータン、中国) チャルチャン (チェルチェン、中国) 敦煌 (敦煌、中国) 寧夏 (インチョワン、中国) シャンドゥ・上都 (内モンゴルにあった元の夏の首都、中国) ハンバリク・大都 (北京、中国) ヤンジュウ (揚州、中国) スージュウ (蘇州、中国) キンサイ (杭州、中国) ザイトゥン (泉州、中国)
ビンディン (ダナン、ベトナム)
ファーレック
コイルム (コーラム、インド) タナ (ムンバイ北方、インド)
トレビゾンド (トラブゾン、トルコ) コンスタンチノープル (イスタンブール、トルコ)」
マルコ・ポーロたちは陸路をとり中央アジアを越えて、ついに1275年、未知の国、元、モンゴル帝国へたどりつきました。
モンゴル帝国第5代皇帝フビライ・ハンの支配
マルコ・ポーロ一行が到着する前、1271年にモンゴル帝国の第5代皇帝フビライ・ハンは南宋を滅ぼし、中国全土を支配し、都を大都(北京)に遷し国号を「元」と改めました。
フビライ・ハンは情報収集や外交にも大変力を入れており、マルコ・ポーロをとても気に入りました。
モンゴルの宮廷に迎え入れ、ハンのもとに留まるよう、マルコ・ポーロ一行を元の政治官に任命しました。
モンゴル軍の遠征支えるためには、敵側の正確な情報に基づいた分析、作戦の戦略が必要でした。
そういう点においても、マルコ・ポーロたちが持ち込んだ生きた情報はモンゴル遠征におけるあらかじめの情報として重要でした。
マルコ・ポーロ一行にとっても未知の東方の情報がつかめるので非常にメリットがあったと思われます。
一行は約17年間、モンゴルにとどまり宮廷に仕えました。
モンゴル帝国の「元寇」の目的は日本の黄金狙い
大陸を支配していたモンゴル帝国は、13世紀の終わりに日本にも戦い「元寇(蒙古襲来)」を挑みにきています。
フビライ・ハンが日本へ関心を抱いたのは、高麗人やマルコ・ポーロより日本の富*を聞かされ興味をもったからだそうです。
元寇の1回目を「文永の役」(1274年)、2回目を「弘安の役」(1281年)と呼びます。
マルコ・ポーロたちは弘安の役の頃にはフビライ・ハンに仕えていました。
「東方見聞録」の中で日本はこう記されています。
「大陸から1500マイル(約2,250km)離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も2ドワ(約4cm)の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した。」
2回目も弘安の役において日本に派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であったと言われています。
マルコ・ポーロのアドバイスだったのかもしれません。
しかし2度の元寇は失敗し日本が勝利します。
マルコ・ポーロは17年間も仕えたのにも関わらず、当時の元の史料にマルコ・ポーロの名が登場していません。
その理由として「東方見聞録」の中で、「外国人を重用したことを公にするわけにはいかないのですべての資料にマルコの名を記さなかった」と書かれているそうです。
もしかしたらマルコ・ポーロはスパイだったのかもしれないとも一部で言われています。
最終的にモンゴル帝国は当時の世界人口の半数以上を統治し、人類史上最大規模の世界帝国となりました。
マルコ・ポーロが体験したモンゴルは、ちょうど最大規模時から晩年のモンゴル帝国でした。
モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カン
マルコ・ポーロを重宝したフビライ・ハンはモンゴル帝国第5代皇帝であり、1206年にモンゴル帝国を建国した初代皇帝チンギス・カンの孫です。
チンギス・カンは大小様々に分かれて抗争していた遊牧民部族をまとめ、イランや東ヨーロッパまで征服しモンゴル帝国の基盤を築きました。
現モンゴル国において、チンギス・カンは神格化され今でも国家創建の英雄として称えられています。
「東方見聞録」によると、チンギス・カンやその一族の埋葬地は重要機密とされ、チンギス・カンの遺体を運ぶ隊列を見たものは秘密保持のため殺されたそうです。
これはチンギス・カンが死ぬ間際に、自分の死が敵国に知られると攻めてこられる可能性があるから死をふせておくようにという遺言を残したそうです。
ちなみに、2004年、英国オクスフォード大学の遺伝学研究チームは興味深い発表をしました。
DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であると。
ケンブリッジ サンガー研究所のカーシム・アユブ博士らは世界の3200万人がチンギス・カンの遺伝子を引き継いでいると結論づけています。
「東方見聞録」の執筆はモンゴル帝国から帰国しヴェネチアで
シルクロードを渡ったマルコ・ポーロ達はモンゴル帝国に約17年間とどまり、1295年にヴェネチアに戻りました。
全行程15、000kmの壮大な旅だったと言われています。
彼らの帰国後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァとの戦いが始まりました。
マルコ・ポーロも従軍しましたが、ジェノヴァ側に捕らえられました。
1298年、数ヶ月の収監中に彼は旅の詳細を口述し、投獄中の職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサがそれを書き起こしました。
その時、ピサが本人自身が聞きかじった逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えたと言われ「東方見聞録」の情報の正確性に疑問視されている一因となっています。
しかしながら、「東方見聞録」の未知の情報は、時の権力者を魅了し後世まで重宝されたといいます。
4冊の本からなる「東方見聞録」は以下のような内容が記述されています。
1冊目 :主に中東から中央アジアで遭遇した話
2冊目:中国に到着後からクビライの宮廷についての話
3冊目:ジパング(日本)、インド、スリランカ、東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域についての話
4冊目:モンゴル帝国、ロシアなどの極北地域について戦争の話など
マルコ・ポーロによって、日本は黄金の国としてヨーロッパに知れ渡りました。
黄金の国伝説、ジパング
マルコ・ポーロの「東方見聞録」によると、「中国のさらに東のはずれにある小さな島国ジパングは建物も、山も、川も、何もかもが黄金で出来ている。」
「シパンギュは東方の海上にある孤島で、大陸からは1500海里の距離にある。
シパンギュは極めて巨大な島です。住民の肌は白く、美しい姿形をしている。
シパ ンギュ島民は偶像崇拝教徒で、住民自らによって島を統治している。」
つまりマルコ•ポーロの記述によるジパングとは、
「カタイ(中国大陸)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国」
「莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている」
財宝や黄金は本当にあったのでしょうか。
黄金伝説の正体は「中尊寺 金色堂」?!
マルコ・ポーロによるジパングの記述の「黄金」とは何を指しているのでしょうか。
日本で初めて金が産出されたのは天平時代、749年(天平21年)頃とされています。
天平時代は、7世紀終わり頃から8世紀の中頃までをいいます。
「宮殿や民家は黄金でできている」
どうもこれは、平安時代末期、奥州藤原氏によって平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた奥州平泉の「中尊寺金色堂(下記写真)」がモデルになっているようです。
12世紀、当時の日本、奥州では莫大な金を産出していました。
それは奥州藤原氏の財力・栄華の源泉でした。
奥州平泉は現在の岩手県平泉町にあたります。
1105年、奥州藤原氏初代清衡公によって中尊寺の造立に着手されました。
清衡公は釈迦如来により説かれた仏教を尊び、平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしました。
そうした極楽浄土を具体的に表現したのが金色堂です。
金色堂はその名のとおり、木の瓦がのった屋根から壁、床から天井、内外共に全て「総金箔貼り」です。
当時の工芸技術が集約されている豪華絢爛な建築です。
内外に金箔の押された「皆金色(かいこんじき)」と呼ばれる金色堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってきた白く光る夜光貝の細工を用いた螺鈿細工です。
そして日本では珍しい象牙や華やかな宝石によって見事に飾られています。
このような豪華な造りのお堂は世界で一つだけで、堂そのものが美術品です。
須弥檀の中心の阿弥陀如来は両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天という珍しい仏像構成となっています。
こうした藤原清衡公が思い描いた極楽浄土、まばゆいばかりの輝きが「黄金の国、ジパング」という伝説をつくったのでしょう。
金色堂中央壇の高欄の角材の辺の部分に線状に切った象牙が使われてあり、それはアジアゾウの牙では無くアフリカゾウの牙と鑑定されています。
このアフリカゾウの牙は、シルクロードを経て遠くアフリカ大陸から日本に輸入されたものと考えられます。
当時の奥州藤原氏の財力と勢力の広さを窺い知ることができます。
平泉の地は藤原氏保護のもと、豊かさと平和を基盤に、壮麗な仏教美術*等がおよそ100年近く繁栄しました。
黄金の平泉文化
奥州藤原氏が都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立した所以は、その莫大な経済力の背景があったということと、兄弟・親子の激しい戦いや殺戮を反省し、戦没者への追善の思いがありました。
造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されています。
その願いの実現には金銀をふんだんに使いました。
「紺紙金銀字交書一切経」(写真上)は、紺色に染めた紙にお経の文句が一行ごとに金字と銀字で交互に書写されています。
金と銀ですので、大変豪華な写経の文字です。
このお経が最初に納められたお寺が平泉の中尊寺と考えられ、通称の名前で「中尊寺経」とも呼ばれています。
「紺紙金銀字交書一切経」とは:
「一切経というのは、経(きょう=仏さまの教えを書いたもの)・律(りつ=信者が守るべき規則)・論(ろん=仏さまの教えを解釈〈かいしゃく〉したもの)など仏教の書物(経典〈きょうてん〉)を集大成(しゅうたいせい)したもので、一セット5400巻近い経典から成り立っています。
全部を書写するのに必要な紙の枚数は約九万枚と考えられますが、それを紺紙に金と銀で書写するとなれば、莫大(ばくだい)なお金と時間、そして人手が必要となります。
このような大事業をおこし、それを行ったのが初代藤原清衡(1056-1128)でした。
実際に書写事業がはじめられたのは、永久(えいきゅう)5年(1117)2月からと考えられますが、9年後の天治(てんじ)3年(1126)3月には完成を見ています。」
金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められています。
金箔の棺、中尊寺の4つのミイラ
金色堂にあるヒバ材でつくらた棺より3体のミイラとミイラ化した首が見つかりました。
棺の内外に金箔が押されていいます。
その金箔は、金色堂の建物自体に使用された金箔と同様、遺体の聖性、清浄性を保つ象徴的意味があると見なされています。
これらの遺体は
• 初代:藤原清衡
• 第2代:藤原基衡
• 第3代:藤原秀衡
• 第4代:藤原泰衡(首級)
藤原家4代にわたった遺体です。
藤原親子同士の戦いで、負けた藤原泰衡の首は切られ祀られました。
泰衡の首の損傷のあとより、八寸釘(約24cm)を使用して釘打ちの刑に処せられたと言われています。
泰衡の首桶からは約100個の蓮の種子が発見され、泰衡没後811年後の2000年にこの種子の発芽に成功しました。
現在では「中尊寺蓮」として栽培されています。
ミイラはエジプトのようになんらかの人口的な保存処置をしミイラにしたのか、自然にミイラになったのが諸説ありました。
1950年3月に、人類学者で東北帝国大学名誉教授だった故長谷部言人を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」によって調査されました。
調査をした結果、故鈴木尚教授(当時、東京大学理学部人類学教室助教授)と故長谷部言人教授は、これらのミイラは人工的ではなく自然にできたミイラだと推定しました。
反対説も唱えられています。
ミイラは人工的につくられたという説を唱えているのは、日本の法医学の草分けで科学捜査の研究に寄与した古畑種基東大名誉教授です。
「古畑種基は人工加工説を唱えている。遺体には内蔵や脳漿が全く無く腹部は湾曲状に切られ、後頭部には穴が開いていた。
裂け目にはネズミの歯形が付いていたが、木棺3個とも後頭部と肛門にあたる底板に穴が開けられており、その穴の切り口は綺麗で汚物が流出した痕跡はなかった。
また、男性生殖器は切除されており、加工の痕跡は歴然であるとした。」
日本人僧の最後の遣唐使、円仁
もともと中尊寺は850年、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師「円仁」によって開かれました。
円仁とは、9世紀の日本人僧で天台宗•最澄に師事し、比叡山興隆の基礎を確立するとともに、遣唐使として晩年の唐に渡り、中国の社会・風習についても記述しました。
その時の旅行記が「入唐求法巡礼行記」で、晩唐の歴史研究の史料として高く評価され、一部ではマルコ・ポーロの記述より勝るとも言われています。
モンゴル帝国に伝わった黄金伝説
マルコ・ポーロがモンゴル帝国のフビライ・ハンに仕えていた13世紀頃、奥州地方の豪族、安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていました。
この中国交易から豪華絢爛な「金色堂」の話が漏れ伝わったとも言われています。
また別説では日本の豊かな稲作、秋の実りの風景を「黄金(金色)」と表現したものではないかという話もあります。
いずれにせよ、東の果てにある国日本に対しての憧れがあったのでしょう。
「東方見聞録」はアジアに関する貴重な資料として、15世紀〜17世紀半ばまで続いた「大航海時代」のヨーロッパ人にも多大な影響を与えました。
イタリアの探検家、クリストファー・コロンブスも、1438年から1485年頃に出版された「東方見聞録」を持ち、計366箇所も書き込みをしていました。
このことからアジアの富や黄金に興味があったと考えられています。
東の果てにある国、憧れの対象の国、日本。
私たちは過去から受け継いだものづくりの文化、財産、正しい歴史を継承していかなければなりません。  
 
大航海時代の駿府の家康

 

国際外交をリードした家康
15世紀の中頃、世界随一の実力を持ったスペインやポルトガルが、新世界へ向かって小さな船と限られた技術を駆使して、イベリア半島の先端から大海原に船出した。こうして地理上の発見が相次ぎ、大航海時代の幕が切って落とされた。その先駆けがコロンブスのアメリカ大陸の発見(1492)や、バスコ・ダ・ガマのインド航路の発見(1494 )である。
この大航海時代(Golden Age of Exploration)の波紋が日本に押し寄せたのは、コロンブスのアメリカ発見から半世紀後の天文12年(1543)である。このときポルトガル人は、日本の九州種子島に上陸して鉄砲を伝えた。徳川家康はその前年、三河で生まれたばかりであった。
種子島に鉄砲を伝えられると、刀を作る優秀な技術を持った日本人は、たちまち模造品を作り、鉄砲はたちまち国内に広がった。戦術も一変し、天正3年(1575)の織田・徳川連合軍が武田勝頼軍を愛知県の長篠(豊川の上流)で撃破したのも、鉄砲の威力だった。鉄砲伝来からわずかに32年後のことである。
鉄砲の次がキリスト教だ。フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは、天文18年(1549)、家康が7歳のときであり、大村純忠や大友義鎮ら九州地方の戦国大名たちが入信した。キリスト教も鉄砲と同様、すばやく日本全国に広まった。以後、日本人の物の考え方や行動も、新しい宗教によって大きく変わった。こうした環境で育った徳川家康は、やがて大航海時代の日本の主役となり、駿府大御所時代に多彩な外交を展開することになる。
幼少年期を今川家の人質として過ごした家康は、織田信長や豊臣秀吉が果たし得なかった天下統一を為し遂げ慶長8年(1603)に江戸幕府を樹立した。その2年後息子秀忠を二代将軍に据えた家康は、駿府を大御所としてから際立った国際外交を活発に開始した。この駿府時代から日本が本格的国際外交をはじめ、ヨーロッパやアジア諸地域を巻き込んで行った。駿府にはヨーロッパ、東南アジア諸地域、東南アジア諸地域朝鮮などから多くの人物が去来し、駿府が重要な国際外交の舞台となった。
そんな駿府から、海外に雄飛した一人に山田長政もいた。山田長政はシャム国(現在のタイ)のソンタム国王に仕え、彼の活動はオランダ人のハンフリートの記録十七世紀に於ける「タイ国革命史話」にも詳しく記されている。一つだけ付け加えて置くと、山田長政がシャムの王様ソンタムに信頼され、軍事顧問となって軍隊を統率していたことは、駿府で徳川家康に仕えて外交顧問となったウイリアム・アダムズに酷似していることである。
家康の駿府大御所時代は、年数から言えばたかだか10年足らずであった。ところがその中身は極めて密度の濃い時代である。具体的にはオランダ・イギリス・スペインの各国王使節が駿府を訪れ、現代の国際外交活動のようにダイナミックであった。この時代(17世紀)の国際外交は、想像を越えたおとぎ話の世界にも匹敵してロマンに満ちている。前述したウイリアム・アダムズ(日本に初めて来たイギリス人)は、「ガリバー旅行記」のモデルともなっていた。
黄金の国ジパングの王様・徳川家康
この時代西洋から見た日本は、島国と言うよりは絶海の孤島として映る幻の空白地域である。彼らは日本を「黄金の国」(ジパング)と呼び、南極や北極と同様に極東と見なして地球上の謎の空白地帯であった。
そんな日本を紹介したのが、マルコ・ポーロの「東方見聞録」だ。東方見聞録ヨーロッパの人々は、黄金の国を探すため先を争って大航海の旅に出た。冒険者たちの終着点は、当然日本であり、日本を支配していた徳川家康の町「駿府」が彼らにとってはジパングの首都だった。マルコ・ポーロは「東方見聞録」でジパングの何を語ってヨーロッパ人に刺激を与えたのか、その本から見てみよう。
「さて、私たちはインドの土地を説明することになった。そこで私はまずジパングの大きな島から始めよう。東方にあるこの島は、マンジ(Mangy)の海岸から1,500マイルの大海中にあり、非常に大きい。住人は色白で、ほどよい背の高さである。彼らは偶像崇拝者であり、彼ら自身の国王を持っており、他国の王に従属していない。そこには莫大な黄金があるが、国王はやすやす黄金を島外へ持ち出すことを許さない。それ故、そこへはほとんど商人が行かないし、同じように、他所の船もまれにしか行かない。その島の国王は大宮殿を所有している。その建物は、私たちの教会が鉛で覆われているように、すべて純金で覆われている。宮殿の窓は金で飾られ、細工が施されている。広間や多くの部屋の床には、黄金の板が敷かれ、その厚さは指二本ほどである。そこには小粒の真珠が豊富にあり、丸くて肉厚で、赤味がかり、値段や価値の点で、白い真珠よりもまさっている。その上に、大量の真珠や宝石がある。このようにジパング島は驚くほど豊かである」と記述し、また次のような恐ろしい記述もある。
「ジパングの住人は外国人を捕らえた場合、もし金銭で身受けされるならば、金銭と交換に彼らを解放する。もし身代金に値する代金が得られない場合は、捕虜を殺し料理して食べてしまう。そしてこの席には親戚や友人を招待し、彼らはそのような肉を非常に喜んで食べる。彼らは、人肉が他の肉よりもすぐれ、はるかに味がよいといっている」(マルコ・ポーロの「東方見聞録」)。
「東方見聞録」に記されたジパング(日本)の情報は、ヨーロッパ人に「日本=黄金の島」として伝えられた。その影響は計り知れない程に幻惑と魅力と謎に満ちていた。実は、「東方見聞録」の黄金伝説以外にも、古代ギリシヤやローマ時代にも東洋に黄金の国があるという伝説があった。その黄金伝説が、具体的な形となって「東方見聞録」で紹介されたのがジパングである。
ジパングを求めて
ジパング(日本)を探すため、1492年(家康が生まれる50年余り前)コロンブスはスペインのフェルナンド国王とイサベル女王を説得し第一回の航海に乗り出した。ヨーロッパ人は未だに地中海世界に留まっていたが、遠い海(大西洋)に向かって行動を開始した。コロンブスがその第一歩を踏み出した。コロンブスが大西洋を横切り、最初に到着した場所はカリブ海の一孤島(注)であった。ところが彼は最後まで「自分は日本(ジパング)の近くに到達した」と頑なに信じたままこの世を去っている。しかしスペインの宮廷にいたイタリア人ピエトロは、地球の大きさから推してもコロンブスがアジアに到着するはずがないと、ローマ教皇に書き送っているのが当時の地球観といえるだろう。
(注)コロンブスが最初に到着した島は、現在のキューバ近くの西インド諸島の一つサン・サルバドル島であった。
コロンブスの探検によって、それまでヨーロッパ世界で地の果として軽視されていたイベリア半島の先端のリスボンの港と日本の駿府はこの時から宿命的に繋がっていたことになる。この間には広大なる新世界(南北アメリカ大陸)と更に世界最大の太平洋があった。それでもヨーロッパの冒険者たちの船出は休むことなく続いた。アメリカ大陸を横切り、太平洋を越えてジパング探しは続いた。地理上の発見も相次ぎ、中米メキシコのマヤやアステカ文化それに南米ペルーのインカ帝国との遭遇もあった。これらの背後には、「黄金の国ジパング」を探すという飽くなき夢があったからと言える。
1519年(日本暦で永正16年)メキシコのアステカ王国を滅ぼしたスペインは、この地域を「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」と呼びスペイン副王をここに置いた。この年は今川義元が生まれた年にあたる。ヌエバ・エスパーニャとは、現在のメキシコである。大御所時代には、「ノビスパン」とか「濃毘数般」また「能比須蛮」などと呼ばれ、家康外交文書もこのように記していた。家康がメキシコとの貿易振興のため、使節をこの国に派遣したのが慶長15年であった。
アダムズに建造させた船スペイン人の日本進出は、メキシコ東海岸のアカプルコとマニラを結ぶ赤道海流を利用しての太平洋航路でつながっていた。家康はなぜか、このメキシコとの貿易に深い関心を示していた。こうした経緯から家康は、アダムズに建造させた船(120トンの小帆船)で慶長15年(1610)太平洋横断に成功した。これが「大御所メキシコ使節」(注)である。日本人が日本人によって造船された船で、太平洋を横断したのはこの時が初めてである。ところが大御所時代の研究が遅れているため、こうした事実はあまり知られていない。
このときの使節が再び駿府に帰国したのは、翌年の慶長16年(1611)であった。「駿府政事録」は次のように記している。
慶長十六年八月廿日
「長崎所司長谷川左兵衛尉藤廣着府大明南蛮異域之商船八十余艘来朝則快為商売之旨言上ス」
慶長十六年九月廿日
「南蛮世界ノ図屏風有御覧而及異国々之御沙汰」
慶長十六年九月廿二日
「去年京都ノ町人田中勝介、後藤少三郎ニ而望渡海ヲ、今夏帰朝ス、数色之羅紗並ニ葡萄酒持来件ノ紫羅紗其一也。海路八九千里ト云々。」
(注)家康はこの船に商人田中勝介以下二十二人をメキシコに渡航させた。このとき鉱山の精錬法をはじめ、スペインの先端技術を駿府に持ち帰ったともつたえられているが定かではない。
「駿府政事録」(慶長16年)8月16日の項に、「長崎所司長谷川左兵衛尉藤廣着府大明南蛮異域之商船八十余艘来朝則快為商売之旨言上ス」(長崎所司の長谷川左兵衛尉藤廣が駿府に来て、大御所に大明国や南蛮その他の異境の商船が八十艘余り日本に来て大変快く商売に精を出していることを言上す)とあり、日本にはたくさんの外国船が長崎方面に来航していることが理解できる。
皇帝と呼ばれた駿府の家康
家康は、将軍職を退いて駿府城に移った。単なる「隠居生活」をしていたと考えたらそれは大きな誤解である。それは、徳川幕府の実力と威信を世間に見せつけるための「幕府の作戦」であった。家康は駿府城を舞台として、徳川幕府の延命作戦を練り実行した。強力な頭脳集団(シンクタンク)と、具体的作戦を実行する行動集団(ドウタンク)からなる強力な「大御所スタッフ」を配置して任務を忠実に遂行させたのである。
諸外国の使節から皇帝と呼ばれた大御所家康を、「隠居」と見ていた外国人は一人もいない。むしろ駿府城で睨みをきかせ、二代将軍秀忠よりも強い権力を持ちながら諸大名や公家をも統制下に置いた。こうした駿府の家康を、諸外国の使節や宣教師それに商人たちは「皇帝・日本皇帝・日本国王・内府様(だいふさま)・大御所・閣下・大皇帝・殿下・上様・天下殿・日本国大君・将軍・大将軍・国王・大王」などと様々に呼んでいる。家康の言動は国内ばかりか、国外に対しても影響を与えた。家康の国際的外交の広がりは、ヨーロッパや東南アジア諸地域に加え、太平洋の彼方のメキシコにまで広がっていた。「駿府大御所時代」の出来事やその実態は、残念ながら現在の私たちの住む静岡の街角からはとても実感として伝わってこない。しかし、ひとたび海外の古記録や宣教師の古記録に目をやると、想像を絶する大きなスケールで大御所時代が光り輝いているから不思議である。
大航海時代を意識した町造り
家康は駿府を大御所の地と決めると、想像を絶する発想で「城」と「城下町」の壮大な計画を持っていた。それは、「大航海時代」を意識した都市計画(設計)で、外国船(ガレオン船)が長崎や平戸だけでなく、ここ駿府城下にも投錨できるよう港を建設することである。家康は「駿府」に大船を接岸させ、ここを日本の国際的外交の拠点にしようと考えた。
このことについては、ウイリアム・アダムズの記録を辿っていくと興味ある指摘と一致する。それは、従来の港(長崎や平戸)よりも、イギリス人のためには関東や浦賀あるいは駿府が候補地になっていたと思われる点である。スペイン人やポルトガル人と競合させない方が得策と考えて関東や東海を意識したことが記されている。また、平戸や長崎では江戸や駿府に来るのには遠くて不便であった。
そのためアダムズは、「国王陛下の城に近い日本の東部、つまり北緯35度10分辺りが良い」と考えイギリス国王の使節セーリスにも商館の設置場所をこちらに薦めていた。江戸の町は北緯36度にあることから、自分の領地のある三浦半島逸見をアダムズは視野に入れていたことになる。駿府では安倍川の脅威によって、家康の計画が変更となったからである。しかし、江尻(清水)ということもアダムズの記録には出てこないのが気にかかる。
家康が夢見た幻の駿府城と駿府城下町とはだいたいこんな計画であったと考えられる。それは安倍川を大改修し、運河で駿府城と城下を結び天守閣の真下にヨーロッパ諸国からの船を着岸させるといった壮大なものであった。それが、幻の「川辺を拠点とした城と城下町の建設構想」であったらしい。しかしながら、安倍川の流れは時として「暴れ水」となり、実現不可能ということで現在の場所となったのが大方の経緯と想像できる。
確かに、大御所時代の諸外国からの外交使節の記録をのぞいて見ても、日本の政治と外交はこの駿府を中心としてシフトしていた。すると「川辺計画」も実現しなかったとはいえ、アダムズや家康の指摘は示唆に富んでいた。アダムズの記録をもう一度正確にみてみよう。
「日本の東部、北緯三十五度十分で、ここに国王陛下の城があります。もし我が国の船がオランダ人のいる平戸に来れば、そこは幕府から二百三十リーグ(一リーグは四・八キロ)も離れており、その間の道は退屈で不潔です。江戸の町は北緯三十六度にあり、この地の東側はいくつかの最良の港があります。沿岸は開けていて、本土から二分の一マイル沖まで浅瀬や岩は一切ありません。
もし船が東のほうの海岸に来れば、私を訪ねてきてください。私は日本語で按針様と呼ばれております。この名前で、私は沿岸の全ての人々に知られております。本土に近付いても心配は全くありません。なぜならあなた方をどこでも好きな場所につれていってくれる水先案内の小帆船がありますから。船がここに来たとき、あなた方の会社の働く人々と混じって、私も皆様の満足のいくようお仕えできることを切望しております」 。
家康の外交文書を作成したソテロ
宣教師ソテロ家康の外交に関与したソテロに大きな仕事が待っていた。慶長14年スペインに帰国するはずのドン・ロドリゴの船が、上総国(千葉県)御宿で難破した。船を失ったスペイン人一行は、家康がアダムズに造船させた船で帰国することとなった。このとき家康がロドリゴに持参させた日本語とスペイン語の協定文の作成は、ソテロが行うことになった。ドン・ロドリゴは、ソテロが作成する文書はスペイン国王に有利なように作成させ、また家康の機嫌を損なうことのないように家康に見せる日本語を用意した。
ソテロは両者を意識し作文した。彼はその文書を伏見の教会で作成した。協定案文ができると、ソテロはそれを慶長15年1月21日に駿府城に持参し家康に見せている。あらかじめドン・ロドリゴと検討した協定文(八項目)は実に細目が多かった。内容は次のようなものである。
1.スペインに関東の港を提供し、江戸に教会を建て宣教師の滞在を許可する
2.スペイン船の安全と厚遇
3.安くスペインに食料を提供する
4.マニラとメキシコの交易を開いたら、スペインの大使を駐留させ居館を与え、随員や司祭を保護し教会を提供し厚遇する
5.精錬技術者のことは、難しいが百名ないし二百名を可能かどうか国王に奏請する。しかし、スペインが発見した場合は半分はスペインの分け前とする
6.キリスト教徒の鉱夫のために司祭を置いてミサを行うこと
7.スペインと交誼を結ぶことは、世界最大の君主と結ぶことを意味する。そのため、オランダ人は追放すること
8.日本の港はことごとく測量する、またスペイン船に被害があったら厚遇すること
以上の条目を明記した書付三通をドン・ロドリゴに携帯させ、スペイン国王と協議した上で二年以内に家康に回答する条件であった。すべてはスペイン国王の決裁を要するとして、ドン・ロドリゴは慎重に対処した。
駿府城で、1609年12月20日伏見においてと原文はなっているが、これは駿府城の間違いである。ソテロの文章は駿府城で家康に提示されると、大御所の役人たちがこれを協議した。どのように最終的になったかわからないが、外交文書をソテロが再び伏見に持ち帰った。それは伏見の教会(ロス・アンヘレス教会)に居たフランシスコ会管区長アロンソ・ムーニョに再度協定文書を確認させ、スペイン語と日本語訳が偽りでないことを添書きしてもらうためである。
アロンソ・ムーニョも、このころソテロと同様に日本語に精通していた。そのため家康が、ソテロの訳文が正しいことをムーニョに確認させる手筈であった。ムーニョも大御所家康の周辺で外交事務に関わった一人である。ところが徳川家康がスペイン国王に宛てた協定文の日本語の原文は日本には伝わっていない。鎖国によって破棄されたのかもしれないが、幸いスペインに残るスペイン語の内容によると、スペイン国王宛ての内容はスペイン側に有利に書かれ、家康への内容は日本側に有利に書かれているという。中でもオランダ人の追放や国内の港湾測量などについてはスペイン国王に有利に書かれていた。
アロンソ・ムーニョはソテロの文書に間違いないことを家康に証明した。いい加減と言えばいい加減である。この外交文書は、ソテロ自身がフェリーペ三世国王の側近レルマ公に届ける予定であった。ところがドン・ロドリゴらがアダムズの船で帰国する際、突然ムーニョを帰国させた。実はドン・ロドリゴは敏腕で小ざかしく動くソテロを嫌っており、スペイン国王に彼を近づけたくなかったためらしい。
さて、出来上がった家康の外交文書は以下の通り(これは協定文ではなく国書である)。 「日本の天下人源家康は、スペインのレルマ公が本状を国王陛下に示されんことを乞う。前ルソン総督は、ヌエバ・エスパーニャの船が日本に来航する件を交渉したが、これは適切であると認められた。それ故日本の如何なる地にその船が到着してもこれを歓迎し、何らの危害も加えず、一切の恩恵と厚遇を与えられるであろう。その他の委細は使節であるこのフライ・ルイス・ソテロが取り扱うであろう。慶長十四年十二月二十八日」 。
ウイリアム・アダムズ
エリザベス朝時代のイギリス
大御所家康の国際外交を支えた人物にウィリアム・アダムズがいた。家康がアダムズと出会うことがなかったら、家康の国際外交は大きく変質していたに違いない。日本とオランダとの国交は慶長14年(1609)のオランダ国王使節の来日に始まる。このきっかけを作ったのはアダムズだ。また日本とイギリス両国の橋渡しをしたのも彼であり、最初のオランダやイギリス外交にアダムズが果たした役割は大きい。ここでは日本に初めて来たイギリス人ウイリアム・アダムズが来日し、家康とかかわった経緯から見てみよう。
彼の出生の記録が、ロンドンから東に約50キロ離れたケント州ジリンガムのマリー・マグダリーン教区教会に残されている。アダムズは1564年9月24日この町で生まれた。シェイクスピアと同じ年の誕生である。16世紀のイギリスは、女帝エリザベスが即位し(1558年)、イギリスの産業や貿易が盛んになり、イギリス海軍が光り輝いたエリザベス朝時代である。イギリスが大英帝国へと進む栄光へのスタートの時代であった。エリザベス女王は、オランダの独立を支援しスペインに反発を深めたため、これに反発したスペインは1588年世界に誇る無敵艦隊をイギリスに進撃させた。
イギリスがこの無敵艦隊を撃破したことによって、イギリスやオランダがスペインの制海権を奪い世界進出に躍り出た。アダムズの生まれたこの時代は、イギリスが世界的規模で世界中に動き出し、スペインとポルトガルに代わって世界に羽ばたいた時代であった。そんなころにアダムズは、リーフデ号で日本に向かった。
家康、アダムズを召喚
リーフデ号は波間に揺れ動く無人船か、それとも幽霊船のようであったという。見慣れぬリーフデ号の漂着は、たちまち噂となって広がり家康の耳にも届くことになる。家康は、早速アダムズを大坂城に呼び寄せ、航海の様子や来日の目的などをいろいろ聞き質(ただ)した。家康にしてみれば、関ヶ原の戦いの間際の忙しいときでもあった。
スペイン人やポルトガル人は、厄介なイギリス人とオランダ人がこのとき初めて来日したことに焦った。イギリスとオランダは、彼らの敵国だったからである。英語やオランダ語を話すものがいないため、結局家康はスペイン人やポルトガル人たちに通訳させた。彼らは正しく通訳するどころか、アダムズたちを海賊としてただちに処罰ないし処刑するよう家康をたきつける始末であった。この結果アダムズは、囚人たちの獄舎に投獄されさんざんな目にあったという。
家康はスペイン人たちの姑息な通訳で、真実が覆い隠されていることを見抜かないはずがなく、正しく通訳することを厳命し再度アダムズに聞き質した。こうして、前後3回アダムズを召喚すると、アダムズの話に興味を示し、家康は彼を解放したばかりか、リーフデ号を堺に呼び寄せ関東にまで回航させた。このとき家康は意外なところに注目した。リーフデ号の積み荷である。500挺の火縄銃、5,000発の砲弾、300発の連鎖弾、それに5,000ポンドの火薬などみな家康の目に止まった。どれも世界最新鋭の軍備を備えていたことを家康は見逃さなかった。
この時期は日本を二分して争う関ヶ原の合戦の前夜だけに、やすやすとスペイン人やポルトガル人の口車にそそのかされて、アダムズを手放すほど単純な家康ではない。家康は関ヶ原の合戦のとき、リーフデ号の先端兵器を活用したという記述もある。アダムズとの会見で家康は、彼の人格と能力を見抜いた。彼がそれまでのスペイン人やポルトガル人とは異なる人種であることや、オランダやイギリスとの外交や貿易の重要性もすでに視野に入れアダムズと接した。
家康の目的はアダムズを徳川政権の枠組みに取り入れ、外交・貿易・技術などの顧問として厚遇し彼のノウハウを生かすことにあった。当時のパイロットと言えば、今日のスペースシャトルの船長に相当する能力の持ち主だ。
アダムズ、造船に着手
家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、駿府で大御所政治を展開する以前からアダムズを積極的に利用した。アダムズは相模国三浦郡逸見(横須賀市)に250石の領地を与えられ、名前も「三浦按針」(按針とは水先案内の意味)を名乗った。アダムズは伊東の海岸で日本最初の洋式船(ガレオン船)を造船させた、その船が立派に完成したためその論功行賞として領地を与えられたものと考えられる。
洋式船の建造は主にリーフデ号の生き残りの一人、ピーター・ヤンツ(オランダ人)が腕前を発揮して完成させた。ヤンツは造船の心得があり、アダムズ自身も造船の作業をしていたことも幸いしたのだろう。造船作業には家康お抱えの船奉行向井将監ら十数名の日本人も参加した。こうして日本最初の80トンの洋式船は完成した。無事進水に成功したことに家康は大変喜び、乗船して江戸湾の浅草川口(現在の隅田川下流)まで船を浮かべて江戸市民に見物させたというから家康も大喜びであったことがわかる
その後に120トンの船も造られた。これも出来栄えは上等で、家康は再び大坂と江戸のあいだを実習航海させている。この船がその後スペイン人のフィリピン総督ドン・ロドリゴをメキシコ西海岸アカプルコメキシコ西海岸アカプルコまで送り届けた船である。家康の狙いはヨーロッパに遅れを取ることなく、自力で航海技術や造船技術を習得することにあった。この造船を契機として日本の造船技術は向上した。それが慶長18年(1613)伊達政宗が幕府の船大工とともに造船した「サン・ファン・デ・バウティスタ号」(日本名不明)の造船で、幕府の造船技術を世界的水準にまで押し上げる基礎となっていたようである。この船は支倉常長の慶長遺欧使節団を乗せた。その後も太平洋を往復した。アダムズの造船に続く本格的西洋船で、スペインのシマンカス文書館の記録によると500トンあったという。スペイン人もこの船には驚き、世界に誇るガレオン船となんら遜色のない立派な出来栄えであったというから家康の力の入れようがわかる。
破格の待遇を受けたアダムズ
アダムズが破格の待遇を受けていたことは、彼が本国に送った書簡の中で次のように述べていることからもわかる。「私は現在皇帝(駿府の家康のこと)のために奉仕し、日々の勤めを果たしているので、彼は私に知行を賜った。それはちょうど英国の大侯にも比すべき、八十人から九十人ほどの農民が私の奴隷か従僕のように私に隷属しているのである。このような支配的地位は、この国ではこれまで外国人に対して与えられたことがなかった。神は私の大きな災厄の後にこれを与えて下さったのである」(「日本に最初に来たイギリス人」より)。
オランダ国王使節が江戸に参府した際、逸見の按針屋敷に宿泊した。そのときの記録にも、「彼(アダムズ)は、この国の領主や王侯たちも、とうてい受けることがないほどの厚遇を皇帝から受けている。彼はすこぶる元気で、また経験に富み、きわめて実直な男だからである。彼はしばしば皇帝(駿府の家康)と言葉を交えるし、いつでもその前に近づくことができる。これほど寵遇をうけている人はごく少ない」とあり、一様にびっくりしていた。アダムズを顧問としたことによって、家康はそれまで以上に遠い海の彼方の国々へと視野を拡大していく。スペインが誇る無敵艦隊がイギリスに敗れたことで世界の権力地図が大きく塗り替えられたことや、イギリスやオランダが新たに東洋を目指して進出していること、それにキリスト教にもカトリックだけでなくプロテスタントの存在があることなど、当時の世界情勢をかなり正確に理解していた。
外国人の大御所詣で - オランダ国王使節の来日まで
国王使節、駿府へ
駿府を舞台にはじまった日蘭の外交と貿易交渉が成立するには、リーフデ号の遭難(1600年)事件にまで話を戻さなければならない。オランダ船籍のリーフデ号は、悲惨な航海の末、豊後国臼杵の海岸(大分県)に漂着した。生存者は船長ヤコブ・クワケルナック、航海長アダムズ、乗員のサントフォールト、それにヤン・ヨースチンなど24名である。
クワケルナック、アダムズ、ヤン・ヨースチン等は、家康が彼らを日本に留め帰国を許されなかった。ところが5年後の1605年、クワケルナックとサントフォールトだけは帰国を許された。平戸城主の新造船で、彼らは東南アジアのパタニ経由で帰国した。帰国に際し家康は、日本がオランダと交易を希望していることを告げる親書を与えた。
4年後の1609年7月1日(慶長14年5月30日)、三隻のオランダ船が平戸に入港した。家康が待っていたオランダ国王使節の来日であった。この船には、リーフデ号の乗組員の一人、サントフォールトが通訳として乗船していた。オランダが、幕府公式の外交記録(「異国日記」)に記載されたのはこの時からである。
使節の中心人物は、アブラハム・ファン・デン・ブルックとニコラース・ポイクである。同年7月27日(和暦6月26日)、平戸を出発して駿府城に皇帝家康を訪問した。オランダ使節は、共和国連邦総督オランニェ公の親書と家康への献上の品を携えて駿府へ向かった。駿府城で締結された日蘭外交交渉によって、家康は正式に平戸にオランダ商館の設置を許した。
これがヨーロッパの国としては、日本がはじめて行った外交交渉の記念すべき第一歩である。ところが日本の記録には、その内容を詳しく記したものが少ないため、不正確な記述が後を絶たなかった。あるとすれば、ニコラース・ポイクが東インド会社に復命した記録が残されているはずであったが、それさえも行方不明であった。
ニコラース・ポイクの記録は、幸いドイツのカールスルーエのバーデン地方図書館に唯一写本として現存することがわかった。これこそ日蘭関係の間の空白を補う貴重な記録だ。正式名は、最初のオランダ遣日使節ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」と題するもので、オランダ国立中央文書館第一部長ルーロフス博士によって明らかとなり、東京大学史料編纂所海外史料部(当時)の金井圓教授らのグループが翻訳したものである。
ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」から
「駿府旅行記」の全文は、金井圓氏が「日蘭交渉史の研究」(思文閣)に紹介した。旅行記の書き出し部分だけ紹介したい。この前文から、大航海時代に家康が諸外国から注目されていたことが理解できる。 金井圓訳ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」前文より
「一六〇九年(慶長十四年)ニフォン、すなわちJAPON(日本)の強大な皇帝(mogende keyser)のもとへの連合会社(generaele compe)の使節としてのロッテルダム出身のニコラース・ポイク氏(Sr.Nicolaes Puyck)により、マヨケ(Mayoque)の地方すなわちセルニガウオ(Sernigauo)の町へ向けて行われた旅行の記録(「駿府旅行記」」。
こうした書き出しで、一行は駿府城に徳川家康を訪問し、アダムズとも出会った。一行の目的は、駿府城の徳川家康に謁見することであり、江戸の将軍秀忠には拝謁していないところをみると、家康が絶大なる権力を持って日本を動かしていたことがわかり、またそれが「駿府大御所政治」の実態とも思える。
「駿府旅行記」の中では、大御所の外交顧問として活躍したアダムズのことが「スヒップ船の舵者」と呼ばれ登場する。ニコラースは、アダムズをこう述べた。
「その者(アダムズ)が、良い暮しをしている男であり、しかも皇帝のもとで大きな尊敬を得、かつ親密な関係にあるからである」(本文)と、アダムズに注目した。さらに、オランダ人が徳川家康との貿易を有利に運ぶためには、アダムズの関心を買う必要を述べている。そのためニコラースたちは、「この舵者を利用することを許されなくてはならない」などといいながらも、徳川家康や本多正純らは逆にアダムズに手綱をつけているためそれは難しいなどと言っている。
オランダ使節は、アダムズの心を捕らえることに腐心したようだ。そんなことからオランダ人たちは、駿府城内でもこれからはじめる商売よりも、アダムズ獲得に火花を散らしていたことが伺える。それだけアダムズは、家康とも近く、彼らが本格的に交易するためにもアダムズの協力を無視できなかったのである。
オランダが日本に使節を派遣したのは、家康がオランダとの交易を希望したためである。これを受けてオランダ国王オラニエ公は、特使アブラハム・フアン・デン・ブルックに親書を持たせ駿府城に家康を訪問した。しかし貿易が優先なのか、親書の交換が優先なのか、この点は今日の外交と違ってかなりルーズであった。政治と商売が渾然としていたためである。
貿易はニコラース・ポイクが担当し、アブラハムやジャックス・ベックなどは外交官のような形で駿府城に家康を訪問した。このためニコラース・ポイクは、アブラハムらのことはあまり記していない。オランダ国宛家康外交朱印状〔複製〕とにかくヨーロッパの国とはじめての交渉は駿府城が舞台であった。無事に駿府城でアブラハムと家康の間で国書が交換されると、彼らは家康の外交文書を携えて帰国した。このとき家康がオランダ国王に贈った外交文書が、今でもハーグ国立公文書館に国宝の扱いで厳重に保存されている。
こうしてオランダは日本に商館を置くことになった。しかしオランダ商館は、最初の数年間は利益を得ることも少なく、また日本からの輸出品もさほど魅力ある物があるわけでもなかった。日本からの輸出品は銀や東南アジア向けの小麦や米、それに武器の類いも含まれていた。オランダが家康の許可を得ていたとしても、それ以前から日本に来ていたポルトガル人やスペイン人たちが、オランダ人の前に立ちはだかっていたためである。また中国人もオランダにとっては強力なライバルであった。そのためにも、なおさらアダムズを味方にしたいのは当然だ。
オランダ人たちは日本からの商品を考えた。それは既存の品物だけでなく、すでにある日本の商品に付加価値を付けることだった。そのために彼らは、日本の漆工芸品にヨーロッパ人好みの絵を描かせたり、蒔絵の図柄も工夫して日本の職人を巻き込んで商品開発をしていた。
その後日本が鎖国状態に入ると、逆にオランダ人はヨーロッパでも一番早く日本と正式に交易を締結した国であると主張し、先の家康の外交朱印状を振りかざし長崎の出島貿易の利権を獲得することができた。それは家康没後ではあったが、オランダにとっては大きな家康からの贈物となったわけである。この意味からも、ハーグ国立公文書館の家康文書が国宝として扱われている理由が理解できる。
外国人の大御所詣で - イギリス国王使節、駿府へ
ジョン・セーリスの来日
イギリス国王使節〔駿府城内で家康に謁見風景〕
イギリスから国王使節が初めて来日したのは慶長18年(1613)のことで、オランダ国王使節の来日から4年後のことである。イギリスとの通商交渉にも、ウィリアム・アダムズが深くかかわっていた。アダムズにしてみれば、オランダばかり支援していたわけではない。彼は自分の身の上に起こった出来事を書簡にまとめ、イギリスに送っていた。その手紙には、皇帝家康がイギリスとの貿易を望んでいることも書きイギリスが日本と交易することを薦めた。
アダムズの手紙は、イギリス国王使節ジョン・セーリスの手元に届くことになる。イギリスでは日本の皇帝のもとで活躍するアダムズの噂が広まり、アダムズの情報をいち速く受理したのがイギリスの東インド会社である。会社の幹部らは、アダムズの助言と応援に期待し日本との取り引きを開始することを決定し、使節を日本に派遣した(「日本に来た最初のイギリス人」)。
イギリス東インド会社艦隊司令官ジョン・セーリスは、国王ジェームズ一世から徳川家康にあてた書簡を持って来日した。日本出発に先立ちセーリスは、東インド会社の幹部から「日本到着後は、全力をあげて安全かつ貿易至便な港を探し出し、生地、鉛、鉄、ならびに、貴殿の視察上もっとも販売可能と思われる我が国の製品を売り込むべし」という特命を受けた。その中には、アダムズは大切な人物なので丁重に接し、帰国の意志があったら特等室を与えて必要な便宜を彼に提供するよう命ぜられていた。
セーリス自身もジャワ島のバンタムでアダムズの手紙を受け取った。書簡は1611年10月23日付で、アダムズが平戸からイギリス人にあてた長文の書簡と思われる。アダムズは日本から出帆する同僚の船舶には、機会あるごとに自分の書簡がイギリスに届くよう託していたと思われる。それが祖国に届き、ついにイギリス国王を動かしたことになる。
セーリスの率いたクローブ号は、こうした経緯から1613年6月12日、イギリス船としては初めて平戸に入港した。「アビラ・ヒロンの日本王国記」には、その時の様子を次のように記している。
「イギリス国王からは、昨年の1613年に、この王国(日本)の国王(家康)への使節を乗せたまことに美しい船が来航した」(「日本王国記」)。スペイン商人である彼にとって、イギリスは敵国である。そのイギリス船を、まことに美しい船が来航したと賛美していることは、明らかにイギリスが日の出の勢いで大航海時代に加わり、スペインやポルトガルに代わって台頭してきたことを暗示した言葉だった。
平戸に入港したセーリスは、平戸藩主松浦鎮信(しげのぶ)を船に招待した。松浦氏は、楽器を奏でる婦人たちを引き連れ、クローブ号に意気揚々と乗り込んで来たという。城主たちはワインやビールで大歓迎されると、約2時間あまり船内のパーティーを楽しんだ。セーリスの日記には、このことも細かく記されている。帰りがけに一行は土産を貰った。そのときセーリスは、イギリス国王の親書を松浦氏に見せようとしたが、松浦氏はアダムズが到着するまでそれを見ることを断った。
セーリスの見た東海道
「道は驚くほど平坦で、それが山に出会うところでは、通路が切り開いてある。この道は全国の主要道路で、大部分は砂か砂利の道である。それがリーグ(一里)に区分され、各リーグの終わりごとに路の両側に一つずつ丘があって、その丘の上には一本のみごとな松木が、東屋の形にまるく手入れをしてある。こんな目標が終わりまで道中に設けてある。それは貸馬車屋とか、貸馬をするものなどが人に不当の賃銭を払わせないためである。その賃銭は一リーグにつき約三ペンスである。街道は往来が非常に多く、いっぱいの人だ。所々、諸君は耕地や、田舎家や、村落や、また往々大都市や、淡水の河の渡し場や、多くのホトケサン、すなわち仏に出会う。これは彼らの殿堂で、小森の中やもっとも景色の良いところに位置し、全国の美観となるものである。そこを番する僧侶が住んでいるのは、昔このイギリスにおいて教団僧が居を占めていたのとほぼ同じである。(中略)この駿河の都市は、郊外いっさいを含んだロンドンの大きさほど十分ある。手工業者は都市の外部及び周辺に住んでいる。なぜならば、上流の者が都市の内部に住んで、職人にはぜひ付き物である、ガタガタの騒音に悩まされまいとするからである」(「セーリス日本渡航記」)。
ジェームズ一世の親書をめぐって
国王ジェームズ一世の親書を携えたジョン・セーリス一行が駿府に到着すると、皇帝徳川家康に献上品を持って謁見した。このときトラブルが発生した。セーリスは国王ジェームズ一世から預かった大切な書簡を、自分で皇帝に手渡すことを主張したからである。ところが日本の慣例ではそのような作法はない。アダムズも聞き入れなかった。結局イギリス人が秘書官と呼んだ本多正純が家康に手渡すことで落着した。これにはセーリスはかなり不満であった。
国王の書簡は当然英文である。これをアダムズが平仮名で日本語に訳し、それを金地院崇伝が見事な和漢混交の文体として家康に上覧させた。「金地院崇伝の異国日記」によると、セーリスの国書奉呈についてこう記されている。
「慶長一八年丑八月四日、インカラテイラ国王の使者、駿府城に於いて申し上げる。王より音信色々進上也。この国よりは初めての使者也。奉書臘紙、ハバ弐尺タテ一尺五寸、三方に縁に絵あり、三つ折、二つ折り返して、紙にて釘綴じのようにして、蝋印あり。文言は南蛮字にて、読まれず故、按針に仮名に書かせ候」。ジェームズ国王の親書の現物はイギリス大英博物館に現存している。もちろんそれは本物の写しである。
駿府城での語らい
駿府城で皇帝家康に拝謁すると、家康はアダムズやセーリスに質問を浴びせている。たとえば、「イギリス商館の設置場所はどこにするのか」についてアダムズは、「私は、種々談話の後、日本にイギリス商館を置く件について述べた。皇帝はそれはどこに置くのかとの質問があったので、それは皇帝の居城(駿府)または国王(秀忠将軍)の居城(江戸城)からあまり遠くない場所を考えていると答えると、皇帝は大いにそれを聞いて喜んだ」。
次に家康の関心事であった「北方航路」の探検のことに話がはずんだ。家康はこれがセーリス来日の本当の目的であろうと考えていたようである。アダムズは、イギリス国王は依然としてその航路発見のためにお金を費やすことは惜しんでいないと家康に伝えると、家康はその航路が存在すればそれは本当に短い航路で日本とイギリスは結ばれるのかと重ねて尋ねた。家康も夢中になり、世界地図を持って来させると、アダムズはその地図を使ってイギリスと日本の距離がはるかに短いことを説明した。家康は逆に、アダムズに対して「日本の北には蝦夷や松前の島があることを知っているか」と質問した。
アダムスの日本地図アダムズは、その地域(現北海道)についてはいかなる地図にも地球儀にも記述はないし、また見たこともない、しかし東インド会社がその探検を望むならば、船を派遣させ、名誉ある探検に参加できればうれしいと家康に説明した。家康は、もしアダムズが蝦夷や松前にでかける場合には、その土地には有力な家臣がいるので探検する前に30日間ばかりその土地の住民と友好を結び、その探検に協力をさせる考えのあることをアダムズに告げた。するとアダムズは、「私の想像では、ここは辺境の地であるので憶測としては、北方航路はさらに奥地に発見されるかも知れない」と夢のある返事をしている(「アダムズの書簡」より)。
イギリス国王への親書
ジョン・セーリスは家康から、正式に商館設置の許可と貿易を許す旨の特許状を受理した。アダムズの勧めもあって、それから一行は将軍秀忠に拝謁することになる。将軍秀忠の歓迎は大変なもので、セーリスはとても満足した模様であった。セーリスは商館設置の許可状を、将軍秀忠に拝謁する以前にすでに受理していた。ということは、家康がすべての采配を握っていたことがこの事実からも明らかである。江戸に将軍を訪問したのは9月19日のことであった。
イギリス国王への国書の押印は、家康の名によって発給されていた。このとき家康がイギリス国王に贈った国書は、現在イギリスのオックスフォード大学日本研究図書館に保存されている。
「日本国の源家康は、イガラテイラ(イギリス)の国王に謹んでご返事いたします。長く困難な海路を航海してきた船の使者からお便りを確かに受け取り、その文面から陛下の政府が正道を御守りになっていることと拝察いたしました。またさまざまなお土産も頂き、大変嬉しく思っております。我が国との友好を深め、お互いに商船を往来させようというご提案に賛成いたします。両国は、潮と雲により、何千里も隔てられていながら、実は密接な間柄になりました。我が国の産物をささやかながら別表のとおりお送りして、お礼の証としたいと思います。時節柄、お身体お大切に。慶長十八年(一六一三年十月四日)」(「日本に来た最初のイギリス人」より)。
歴史上の「日英交渉」は、こうして駿府を舞台に調印された。その功績は、一人アダムズに負うところが大きかった。
外国人の大御所詣で - サン・フランシスコ号の座礁からスペイン国王使節、駿府へ
ドン・ロドリゴの漂着
スペインはコロンブスの新大陸の発見を機に、16世紀にはフェリーペ二世のもとで積極的に海外に進出した。本国以外にもイタリア・ネーデルランド(オランダ)・新大陸と広大な領土を有す世界の最強の国となった。さらに太平洋を越え、マニラ(フィリピン)を占領しアジア進出の拠点とした。そのスペインから大物が来日したのは、1611年(慶長16年)である。きっかけは、この2年前にスペイン領フィリピンの臨時総督であったドン・ロドリゴを乗せた船が、メキシコに帰国する途中で難破し、思いがけなく日本に漂着したからである。
1609年7月25日にマニラのカビテ港を三隻の船が出帆した。三隻の船はメキシコに直接帰る予定であった。途中で暴風雨に遭い、ドン・ロドリゴを乗せたサン・フランシスコ号は現在の千葉県御宿町の沖(北緯35.5度)で難破し、サンタ・アナ号は豊後の海岸に漂着した。サン・アントニオ号だけはそのままアカプルコまで航海を続けた。日本の暦では慶長14年9月のことである。サン・フランシスコ号は、1,000トンもある当時としては巨大な船であったため、難破で約50名(56名とも)が溺死し370人は浮遊物につかまり助かったという。
ドン・ロドリゴ日本見聞録船はマニラからの財宝を大量に載せたまま海底に沈没した。サン・フランシスコ号の積み荷は、宝の山のように散乱し拾い尽くせないほどの品物が安房・上総・常陸・下総辺りの海岸に流れ着いた。江戸にこの噂が広まると、大勢が出掛けて拾い集めたため幕府は高札を立てて漂着物の略奪を禁止した(「慶長見聞集」)。
乗組員たちは、最初難破したその場所が日本とは知らず無人島と思ったという。ところが水田を発見したり、土地の人々と出会ってようやくここが日本であることを知った。ドン・ロドリゴはこのときの様子を次のように記している。
「溺死者五十人に達し、我等は神の御慈悲により救われた者は、ある者は材木にある者は板によって逃れ、その他は船尾の一部の残存するものに留まり陸地に達した。陸に達した者の多くは裸で、航海士によればここは日本ではなく無人島か、また洋中の何処であるか知る者はなかったので、水夫二名に命じて上陸して土地を探検させると、すぐ稲田を発見したため、これによって食料品の保証を得たが、島の住民次第では武器もなく防御の手段もなく我々の生命の安全も難しい」(「ドン・ロドリゴ日本見聞録」)。
ここが日本と分かって安心した一行は、衣服や食料も住民から惜しみなく与えられ、飢えをしのぐことができた。(この事件の記念碑が、御宿の海岸に建てられ、日本とメキシコ友好の碑となっている。エチェベリア・メキシコ大統領もここを訪れている)。 大多喜城主は、駿府の家康に使者を派遣し彼らの扱いについて沙汰を待った。
ドン・ロドリゴ、家康に謁見
家康は一行を駿府城に丁重に連れてくるよう命じた。ドン・ロドリゴ一行は、駿府城に来るまでの東海道の至るところで、外国人の珍しさから見物対象となって、群衆に悩まされた。彼の書物に「市街を通行すること頗(すこぶ)る困難なりき」と記し、いずこもごったがえして動きが取れなかった模様である。途中で一行は江戸城の将軍秀忠を表敬訪問した。ドン・ロドリゴは、江戸城や江戸の街の見事なことに驚愕したばかりか、日本の家は外観はスペインの方が見事だが、家の内部は日本の方がはるかに美しく、しかも清潔だと記している。
駿府城には江戸城を訪問した4日後に到着した。ドン・ロドリゴこそ、家康が以前から会いたがっていたスペインの要人であった。メキシコ西海岸のアカプルコとフィリピンのマニラは、太平洋航路(スペイン人は秘密のルートと呼んだ)でつながっていたことを知っていた大御所家康は、太平洋のはるか彼方のメキシコとの貿易に関心を寄せていた。
ドン・ロドリゴは、家康の要求を知りながらも日本を通り過ぎようとしたわけであった。それが遭難事件によって、図らずも家康と会わなければならない運命となってしまった。
駿府に到着したドン・ロドリゴは、家康に接するための作法などを教えられていよいよ対面することとなった。通訳はイエズス会のファン・ポロタという。通訳を介してドン・ロドリゴは、「予は最近まで、世界中で最も強大なスペイン国王の代表者であった」(「ドン・ロドリゴ日本渡航記」)といい、家康を威嚇(いかく)したと彼の記録に記されている。まず、彼の手記から見てみよう。
「皇帝(家康)はとても大きな部屋にいて、その建物の精巧なことは言語に尽くせず、その中央より向こうに階段があり、そこを上がりきると黄金の綱があった。部屋の両側に沿ってその端、即ち皇帝の居る場所より約四歩の所に(ロドリゴたちは)進んだ。その高さ一・六メートルにして多数の小さな戸があった。家臣等は時々皇帝に招かれこの戸より出入りした」。家康のことについては、「彼は六十歳(正しくは六十七歳)の中背の老人で、尊敬すべく愉快な容貌をしており、太子(秀忠)のように色が黒くなく、また彼より肥満していた。私は、あらかじめ、握手を求めたり手に接吻しないようにと注意を受けていたので、椅子のところに行くと最敬礼をした。彼はそれまで容貌を変えなかったが、少し頭を下げ私に対して大いに好意を示して微笑し、手を挙げて着座せよという合図をした」(「ドン・ロドリゴ日本渡航記」)とある。
ドン・ロドリゴの日本観
ここでドン・ロドリゴの日本観を見てみよう。「皇帝(家康)は世界の裕福な君主の一人で、その宮殿(駿府城)に蔵する金銀は数千万の価ありと伝えられ、諸都市は人口が多く清潔で秩序正しく、ヨーロッパにおいてもそれと比較すべきものを見出すことは困難である。江戸の市政はローマの政治と競うことができ、街路は幅広く長い直線でスペインに優り、何人も踏んだことがないほど清潔である。そこのパンは世界中で最良といっても過言ではない。風土はスペインに似ており、米、麦が多く、狩猟・漁獲物など欠けるものがなく、すべてスペインに優りその量も多い。銀の鉱脈が多く、日本人は銀の精錬技術に熟していないにもかかわらず驚くべきほど産出する。(日本国内で)採取する金もまたその質がひじょうに良く、それで貨幣を造っている。(中略)もしこの野蛮人の間に、(我らの主なる)神が欠けておらず、また、(この国が)我らの国王陛下に従っているならば、私は故郷を捨ててもこの地(日本)を選びたい」(「慶長遺欧使節」)。
ドン・ロドリゴは、1636年に81歳で他界した。その一生は大航海時代の中で輝かしい生き方をした勇気ある人物であったという。
スペイン国王使節ビスカイノ、駿府へ
アダムズ造船の船がメキシコに渡ってから約1年後の慶長16年(1611)スペイン国王フェリーペ三世は、駿府の家康のところにセバスチャン・ビスカイノ大使を正式に外交官として派遣した。ドン・ロドリゴらが日本の船を借り、彼らが無事に帰国できたお礼のためというのが表向きの目的である。探検家でもあったビスカイノは、アカプルコから日本に来る航海で、通常のマニラ経由を選ばず、アカプルコから直接太平洋を横断して関東の浦賀の港に直行し人々を驚かせた。(この時に船はアダムズ造船の船ではなく、アカプルコの極東艦隊の船であった)
田中勝介と22名の日本人も帰国した。ビスカイノの本当の来日の目的は別にあった。それは日本近海にあると伝えられていた「金銀島」の発見や、スペインが将来日本を侵略するために、日本の島や港として使える場所を測量をすることであった。慶長16年5月12日(1611年6月22日)、江戸で将軍秀忠にビスカイノは謁見した。その後の7月4日に駿府に到着し、翌日に家康に謁見した。
ビスカイノと家康との会見は友好的なものであった。ところがこの時期は、キリシタン問題が重大な局面を迎えていた。そのため家康のスペイン人に対する態度は日々冷却していく最中でもあった。ビスカイノが日本に失望してゆく様子を彼の著書「ビスカイノ金銀島探検報告」に書かれている。その前に、家康との会見の様子から見てみよう。
ビスカイノ、家康に謁見
キリシタン問題が不安な要素を持っていたときだけに、ビスカイノ一行が駿府に到着したときには、駿府の信者たちはとても喜んでこれを迎えている。ビスカイノと一緒に帰国した田中勝介もキリシタンの一人で、洗礼名をドン・フランシスコ・デ・ベラスコと名乗った。彼は一足先に駿府に戻り、メキシコからの帰国報告を家康に行った。ビスカイノ一行が駿府城に家康を訪問したのはその直後である。ビスカイノはこのとき、「日本諸国諸州の皇帝閣下」と題する国王の書簡を家康に手渡した。まずビスカイノの記録から見てみよう。
「十時頃、大なる駿河の市(駿府)に着きたり。到着する前、既に貴族となり殿の寵を有するドン・フランシスコ・デ・ベラスコ(田中勝介)が多数の供を連れ、宮中の他の貴族一人と共に大使を出迎へたり。我等は宮殿(駿府城)より遠からざる甚だ好き家屋に宿泊せり。皇帝は直ちに使者を遣わして大使に歓迎の辞を述べ、長途旅行の疲労を休むべく、またその来着を喜び、書記官(本多正純)をして後に通知せしむ旨を大使へしめしたり」(同書)。
重文・スペイン南蛮時計彼の記録によると、田中勝介がビスカイノを迎えるために、駿府の街外れに出向き一行を大歓迎したことが記されている。また、駿府城が優れた名城であると指摘し、駿府城の広さはメキシコ市の住宅地全部の二倍以上だと記した。このことは、おそらく、現在のメキシコ市の中心部にある「ソカロ広場周辺」から想像したものだろうか。 家康との接見の儀式が整うと、彼らは駿府城内の御殿に向かった。ビスカイノは、たくさんの品々を家康に献上した。日本側の記録によれば、時計 ・カッパ上下・反物・ブドウ酒(白ヘレスと赤ブドウ酒)・鷹具・靴・金筋・南蛮絵である(「方物到来目録」)。このときの時計とは、あとで述べる家康の時計で久能山東照宮に現存しているものである。
また南蛮絵とは、国王フェリーペ三世と王妃ならびに皇太子の肖像画三枚で、家康はこの絵をじっと眺めたという。ところがこの南蛮絵は現存していない。面白いことに本多正純は、献上物の「受取状」を発行している。外国人から一切の品物を受け取らなかった本多正純は、このときだけは珍しくビスカイノから「ガラス製品」と「石鹸」をもらい大変喜んで何度も何度もお礼をいって受け取った。フェリーぺ三世しかし彼は、「これは自分がもらうのではなく、大御所様に使用してもらう」と述べたためビスカイノも感心した。
そこでビスカイノは、「彼は潔白且忠実にその職に尽し、君なる国王に仕えて怠ることなく、その扱う所の事務につき、常に偽なく陳述す」(同書)と感銘深く記した。
一方の家康の重臣である後藤庄三郎については対照的である。彼に品を出すと「羅紗その他の品を贈りしが、この人は躊躇することなくこれを受納せり」(同書)と記している。このほかにも後藤庄三郎は、彼がイギリス使節が来たときにも土産を遠慮なくもらっており、同様なことをイギリス王使節のジョン・セーリスも記録していた。後藤庄三郎が欲深なことが、396年以上も経った今でも記録に残ってしまったことになる。
スペイン外交の終焉
ビスカイノは、「事の始は良好なりしが、終は宜しからざりき」(同書)ともいい、また「日本人は世界における最も劣悪な国民」(同書)と厳しい非難を浴びせた。このため慶長17年7月22日付のスペインとの通商に関する書簡は形式的で実態のないものに終わった。ビスカイノは、オランダ人たちが家康の心を引くため贈物攻勢をかけて機嫌を取っていることや、アダムズの中傷も記している。そのためか、家康の面前で再び疑惑を晴らそうと試みるが、弁明の機会すら与えられなかった。結局ビスカイノは、1613年、伊達政宗が支倉常長とソテロを「慶長遺欧使節」としてメキシコに派遣した機会に同じ船で帰国した。
ビスカイノの後にも、スペインからは二人目の大使ディエゴ・デ・サンタを駿府城の家康に派遣したが会見すら実現できずに帰国した。 
 

 

 
フランシスコ・ザビエル 書簡

 

 
フランシスコ・ザビエル
フランシスコ・デ・ザビエル (スペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506-1552) ナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。生家のハビエル城はフランスとの国境に近い北スペインのナバラ王国のハビエルに位置し、バスク語で「新しい家」を意味するエチェベリ(家〈etxe〉+ 新しい〈berria〉)のイベロ・ロマンス風訛りである。フランシスコの姓はこの町に由来する。この姓はChavierやXabierreなどとも綴られることもある。Xavierはポルトガル語であり、発音はシャヴィエル。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで、発音はシャビエルであったと推定される。 現代スペイン語ではJavierであり、発音はハビエル。かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。「サヴェーリョ」がより近い)という呼び名を用いていた。 現在はおもに「ザビエル」が用いられるほか、ザビエルにゆかりのある山口県では「サビエル」と呼ばれる(例: 山口サビエル記念聖堂、サビエル高等学校)。
青年期まで
1506年頃4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で生まれ、地方貴族の家に育った。彼は5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタという名前であった。父はナバラ王フアン3世の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。
1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにフランス出身の若きピエール・ファーヴルと同室になる。のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷痍軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインのアルカラ大学を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。そしてロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、ロヨラ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。これが「モンマルトルの誓い」であり、イエズス会の創立である。この時のミサは、当時唯一司祭となっていたファーブルが執り行った。一同はローマ教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられたので、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。
東洋への出発
当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスとともにポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)とともに1541年4月7日にリスボンを出発した(ちなみにこの日は彼の35歳の誕生日である)。8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月にマラッカ、さらに1546年1月にはモルッカ諸島に赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という日本人であった。
日本へ
1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。
一行は明の上川島(英語版)(広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。
1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。 ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。
1550年(天文19年)8月、ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を行った。同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指し平戸を出立。11月上旬に周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りを買い、同年12月17日に周防を立つ。岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る。
失意の京滞在 山口での宣教
1551(天文20年)年1月、日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。
ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による室町幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。
ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入った。1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった。ザビエルは、初めて日本に眼鏡を持ち込んだといわれる。
これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。
また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師ロレンソ了斎となった。
豊後国での宣教
ザビエルは、豊後国府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での信徒数は約600人を超えていたといわれる)。1551年9月、ザビエルは豊後国に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、宗麟の保護を受けて宣教を行った(これがのちの大友氏瓦解の遠因のひとつとなっている)。また、豊後に眼鏡を伝来させた。
再びインドへ
日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にしていた。そして一旦インドに戻ることを決意。11月15日、日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。1552年2月15日、ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。
中国布教への志しと終焉、死後列聖まで
1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去った。46歳であった。
遺骸は石灰を詰めて納棺し海岸に埋葬された。1553年2月マラッカに移送。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走した。この2本の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移された。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されている。棺の開帳は10年に1度。
右腕下膊は、1614年にローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断された。この時本人の死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血がほとばしり、これをもって「奇跡」とされた。以後、この右腕はローマ・ジェズ教会に安置されている。そしてこの右腕は1949年(ザビエル来朝400年記念)および1999年(同450年記念)に日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示された。
なお右腕上膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はポルトに、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。
ザビエルは1619年10月25日に教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日に盟友イグナチオ・ロヨラとともに教皇グレゴリウス15世によって列聖された。
ザビエルと日本人
日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」と高評価を与えている。
ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた衆道(同性愛又は男色)が日本において公然と行われていたことであった。
布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになった。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになる(インカルチュレーションも参照)。
幕末に滞日したオランダ人医師ポンペはその著書の中で、「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」と言ったザビエルの物語は広く西洋で知られており、これがアメリカ合衆国政府をしてペリー率いるアメリカ艦隊の日本遠征を決心させる原因となったのは明らかである、と述べている。
ザビエルの名を戴くカトリック教会・団体
日本国内の教会
山口サビエル記念聖堂山口サビエル記念聖堂(山口県山口市)
平戸ザビエル記念教会(長崎県平戸市)※教会の保護者は大天使聖ミカエル
鹿児島カテドラルザビエル教会(鹿児島県鹿児島市) 
このほか、日本国内にはザビエルを教会の保護者(保護聖人)として名を戴く聖堂(教会)が33ある。
日本国内の団体
聖ザベリオ宣教会(日本管区・大阪府泉佐野市)
郡山ザベリオ学園小学校・中学校(福島県郡山市)
会津若松ザベリオ学園小学校・中学校・高等学校(福島県会津若松市)
サビエル高等学校(山口県山陽小野田市)
日本国外の教会
スペイン サン・フランシスコ・ハビエル教会(スペイン語版)(カセレス) / サン・フランシスコ・ハビエル教会(スペイン語版)(マドリード州ピント)
フランス サン・フランソワ・グザヴィエ教会(フランス語版)(パリ) - 教会の前に同名の地下鉄の駅がある。
中華人民共和国 董家渡聖フランシスコ・ザビエル教会(上海市黄浦区) / 聖フランシスコ・ザビエル教会(マカオ特別行政区)
フィリピン 聖フランシスコ・ザビエル教会(バタンガス州Nasugbu)
マレーシア 聖フランシスコ・ザビエル教会(マラッカ)
シンガポール 聖フランシスコ・ザビエル教会(英語版)
アメリカ 聖フランシスコ・ザビエル聖堂(英語版)(アイオワ州ダイアーズビル) / サン・ハビエル・デル・バック伝道教会(英語版)(アリゾナ州ツーソン近郊) - 1699年にキノ神父によって設立。
ザビエルゆかりの聖堂、遺物所在地など
日本国内
カトリック神田教会(東京都千代田区)、関町教会(東京都練馬区)、上記の山口サビエル記念聖堂および鹿児島カテドラルザビエル教会には、ザビエルの遺骨が安置されている。
カトリック関口教会(東京都文京区) - ザビエルの胸像型の聖遺物容器が展示されている。
大分トラピスト修道院展示室(大分県速見郡日出町) - 2008年イエズス会ローマ本部より聖フランシスコ・ザビエル右腕の小片(皮膚)が寄贈された。展示室内に常時顕示されている。
日本国外
ザビエル城付属聖堂(スペイン・ナバラ州) - ザビエルの出身地。※「ザビエル」は彼以前からの地名(上記「人名について」参照)。
ボン・ジェズ教会(インド・ゴア) - ザビエルの遺体が安置されている。
ジェズ教会(イタリア・ローマ) - ザビエルの遺体の一部が安置されている。
聖ヨセフ修道院および聖堂(中華人民共和国・マカオ特別行政区) - ザビエルの上腕部の遺骨が安置されている。
ザビエルの銅像・記念碑等
鹿児島県
ザビエル来鹿記念碑(鹿児島市) - 元は記念教会だったが太平洋戦争中に空襲で焼失。1949年(昭和24年)、ザビエル来航400年を記念して教会の廃材を使用し設置。奥にはザビエルの胸像がある。市電「高見馬場」または「天文館通」電停下車、鹿児島カテドラル・ザビエル教会向かいの「ザビエル公園」内。 ザビエル、ヤジロウ、ベルナルドの銅像 - ザビエル来航450周年を記念して、1999年(平成11年)にザビエル公園内に設置。
ザビエル上陸記念碑(鹿児島市) - ザビエル一行が薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に1978年(昭和53年)に設置。かつてこの公園(新祇園之洲)は浅瀬の干潟で1970年代の埋め立てによって作られた土地。実際の上陸地は旧祇園之洲よりもさらに内陸の、稲荷川河口付近であったと考えられる。市バス「祇園之洲公園」バス停下車。
ザビエル会見記念碑(日置市) - 1949年、ザビエル来航400年を記念して、ザビエル一行が島津貴久に謁見したとされる伊集院一宇治城跡に設置。JR伊集院駅下車、または鹿児島市から車で約30分。
長崎県
ザビエル来航記念碑(平戸市) - 1949年、ザビエル来日400年を記念して崎方公園内に建立(ザビエルの平戸訪問は1550年)。
ザビエル記念像(平戸市) - ザビエルの平戸来航を記念して、カトリック平戸教会(現:平戸ザビエル記念教会)前に1971年(昭和46年)建立。これ以降、同教会は「聖フランシスコ・ザビエル記念教会」の通称で呼ばれるようになり、現在は名称も「平戸ザビエル記念教会」に改められている。
このほか、長崎市の日本二十六聖人記念館に『ザヴィエル像』(フレスコ、1966年長谷川路可作)がある。(ザビエル自身は、現在の長崎市を訪れたことはない。)
山口県
聖サビエル記念公園(山口市) - 日本最初の教会跡地にある記念公園。サビエル記念碑も設置されている。また、毎年12月には「日本のクリスマスは山口から」フェスタが開催されている(1997年スタート)。JR上山口駅または日赤口バス停で下車。
「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」の碑(下関市) - 唐戸市場そばにある。1550年11月頃にザビエルが下関に上陸したことを記念している。
大阪府
ザビエル公園(堺市堺区) - 堺の豪商日比屋了慶が邸宅の一部をザビエルに提供した。現在、その場所にある戎公園は、サビエルの功績を顕彰する碑が建てられたことから通称「ザビエル公園」と呼ばれている。
大分県
聖フランシスコ・ザビエル像(大分市大手町) - ザビエルの来航を記念して遊歩公園内に建立。左手に十字架を持ち、右手を掲げたザビエルの像で、彫刻家佐藤忠良による1969年(昭和44年)の作品である。背後には、世界地図のレリーフにザビエルのヨーロッパから日本にいたる航路を描き込んだモニュメントも設置されている。JR大分駅から徒歩約10分。
聖フランシスコ・ザビエル像(大分市要町) - 2015年(平成27年)2月21日にオープンした大分駅府内中央口(北口)駅前広場に、南蛮世界地図を挟んで大友宗麟公像と向き合う形で建立されている。
ザビエルを描いた美術作品
『フランシスコ・ザビエル肖像』(重要文化財)
彼の福者認定(1619年)または列聖(1622年)以降に日本で作成されたと推定される。作者は不明で、落款の壷印(狩野派を示す)と「漁夫」(ペトロを示す)の署名から狩野派の絵師ペトロ狩野(狩野源助)とする説があるが確証はない。大阪府茨木市の隠れキリシタンであった東藤嗣宅に伝わる「開けずの櫃」から1920年に発見された。発見時のモノクロ写真から、保存学者の神庭信幸は、掛け軸だったのが額縁入りに仕立て直されたほか、制作時に使われた真鍮が変色して黒っぽかった頭光が、発見後に黄色に描き足されたと推測している。現在神戸市立博物館蔵。
この頭頂部を刈り取った髪型(トンスラ)の肖像が日本人に大変よく知られている。
その他日本国内
『臨終の聖フランシスコ=ザビエル』、『聖ザビエル日本布教図』(日本画、1949年長谷川路可作) 鹿児島カテドラル ザビエル教会内。
日本国外
日本聖殉教者教会(チヴィタヴェッキア、イタリア) - 『聖フランシスコ・ザビエル』(フレスコ天井画、1954年長谷川路可作)
ウルバノ大学(ローマ) - 『聖ザヴェリオ』(フレスコ、1956年長谷川路可作)
ザビエルにちなんだ修行
聖フランシスコ・ザビエルに対する9日修行がある。3月4日から12日まで行う。9日にわたる修行の形式の起こりは、イエズス・キリストが昇天ののち9日で聖霊降臨したことにある。特に聖人ザビエルに対する祈祷の起源は、イタリアの17世紀の神父フランシスコ・マストリリが発起したことにある。30歳のとき聖母マリアの祝典の際に重傷を負った神父が蘇生する際、ザビエルが旅人の姿で現れ、東洋での宣教を説いたことに基づく。神父は時の教皇ウルバヌス8世の許可を受けてインドのゴア、マカオ、マニラを経て1637年(寛永14年)に来日するにいたった。なお、3月12日は聖ザビエル及び聖イグナチオ・デ・ロヨラの列聖日にも当たる。
ザビエルが守護聖人とされている国・地域
ザビエルはカトリック教会によって日本、インド、インドネシア、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、モンゴル、中華民国や東インド諸島のほか、以下の都市や地域の守護聖人とされている。
その他
ザビエルの兄ミゲルの子孫であるルイス・フォンテスは、ザビエルが日本からパリに送った手紙を少年期に読んで感動し、母国スペインの神学校を卒業後に来日して教師になり、日本に帰化して泉類治と名乗って、宇部市のチャペル付きブライダル施設で司祭として活動をしている。
ザビエルは、下野国足利庄五箇郷村(現・栃木県足利市)にあった学校、「足利学校」を「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、高く評価した。
大友義鎮は、のちに「最初に出会った司祭の名前だから」という理由でフランシスコの洗礼名を選んでいる。
ザビエルの布教計画は、後のイエズス会のそれとは一線を画すものであった。
ザビエルは日本人をヨーロッパに派遣し、キリスト教会の実情とヨーロッパ社会を知らせ、同時にヨーロッパ人に日本人のことを知らせようとした。しかし後続のフランシスコ・カブラルは日本人が外国語を学ぶことを許さなかったし、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが「日本巡察記」に「日本人にキリスト教も仏教と同じくいろいろな宗派に分かれていると知られると布教に悪影響を及ぼす恐れがある」と記したように、ヨーロッパの宗教は統一されていると教えていた。
同僚を通じてスペイン国王に「日本を占領することを企てないように」と進言した。
堺にポルトガル商館を建て、自分がそこの代理人になってもいい、と書簡で書き送った。
 
フランシスコ・ザビエル 2

 

1506年4月7日、スペイン バスク地方ナヴァーラ王国、ザビエル城で裕福で敬虔な貴族領主の5人の末子として出生。6才の時父を亡くし兄弟も家を出たため孤独な少年期を過ごす。彼の生涯は孤独と劣等感との闘いであった。彼の篤い信仰と神への信頼は強く困難に立ち向かう精神力は持っていた。情熱と喜びをもって旅を続けることが出来たのは幼少期の経験からきたものである。
イエズス会設立者(7人)の内の一人、パリ大学時代に知り合った最良の友人であり、教師でもあった15才年上のイグナチオ・ロヨラから非常に大きな感化をうけた。彼の計画した宣教会をつくるという考えに同調して7人の仲間と1534年(27才)パリ郊外のモンマルトルの丘にあった教会で誓願をたてイエズス会を結成した。1540年教皇から正式に認められ宣教任務を受けると、ポルトガル王の支配する植民地での布教へ向けてリスボンから出航した。1542年(35才)困難を乗り越えてカメリーノ神父、フランシス・マシーニャスを伴いインドのゴアへたどり着いた。ここは当時のポルトガル王国のアジアでキリスト教徒の住む大きな都市として発展し、既に人口は30万に及び東洋での貿易とキリスト教拡大に大きな力を持っていた。
行く先々で住民の風習に習い彼らの中で暮らすなかで宣教した。この10年の間に何千人も改宗させた。さらにザビエルがマラッカで知り合った日本人ヤジローから日本のことを聞きそこへ行きたいとの思いを強く抱く。そしてトルレス神父、フェルナンデス修道士、ヤジローとともにマラッカを船出しモルッカ、モロタイ島を経て日本の鹿児島へ上陸したのは1549年8月15日(42才)であった。この日は丁度被昇天の祝い日にあたり、ザビエルは日本を聖母マリアに奉げた。
鹿児島では島津氏の保護を受け1年ほど滞在したのち平戸、山口をへて京に向った。ザビエルは都に上り天皇から宣教の許可を得、そこを拠点にキリスト教をひろめることが大きな夢であった。しかし荒廃した都では天皇に会うこと叶わず失望し10日あまりの滞在後都を後に引返した。余儀なく当初の計画を変更し、平戸を経由し山口に行き大内義隆から住まいを与えられ布教を始めた。山口では特に上級武士の多くが改宗し、その彼らから協力を得て布教は順調に進んだ。その間700名ほどに洗礼を授けた。
ザビエルがもたらしたキリスト教によって、日本人は唯一絶対なる神の存在、倫理観、霊魂の救いと永遠の生命と云う全く違う価値観と出会った。
ザビエルは日本での滞在中その文化が中国から大きな影響を受けていることを悟り中国行きを考え始めていた。1551年9月ポルトガル船が行き来する豊後(大分)に行く。在日期間2年3カ月の後、準備を整えるため日本を去りいったんゴアまで引き返した後再び中国へ向かおうとするが、外国へのすべての門戸が閉ざされていた中国本土へは上陸が許されず広東の上川島(サンシャン島)に上陸、機会を覗ううち急病にかかり急ごしらえの貧しい小屋で看病を受けるうち1552年12月3日46才で亡くなった。死後遺体は一旦埋葬されるが腐敗することなく残り最終的にゴアへ運ばれた。インドでのイエズス会宣教の中心地であるゴアで新しくボン・ジェズ聖堂がつくられるとそこに安置された。
一人の人間が、1542年5月ゴア出発から1552年12月サンシャンで死すまでの10年間にこれほどの大洋を渡り国々を訪れ、多くの信徒(彼が受洗したもの総数ざっと3万人)をつくったのは全く驚愕に値する偉業であり、神が彼をしてなしたもうた奇跡である。さらにザビエルの人格と知識、宣教師の使命感と広範な行動力によって、その影響力は彼の歩んだ地域全体に及んだ。彼に起った主な奇跡は列聖書類に列挙されているが、 彼はキリスト教の歴史上で最も偉大な宣教師と看做されている。
1622年3月イグナチオと共に教皇グレゴリウス15世から列聖された。
ザビエルの布教史
1506年 4月7日 スペイン バスク地方のナヴァーラ王国 ザビエル城で出生。
1525年 (19才) 初期教育を終えるとパリ大学へ入るためパリへ向かう。
1528年 (22才) 哲学の修士号を得て、4年間教鞭をとりさらに2年間神学を学ぶ。その間イグナチオ・ロヨラに出会う。
1534年 8月 (28才) ロヨラを初め7人の同志とモンマルトルの誓いをたてイエズス会を創設した。
1536年 11月 (30才) 仲間とパリをたちベニスへ、一緒にパレスチナへ向う計画は実現せず。
1537年 6月 (31才) 教皇からイエズス会の修道会として認可を得るためローマへ。教皇パウルス3世は会の認可を与えた。
1537年 6月24日 (31才) ヴェネツィアに赴きアルベの司教から司祭叙階を受けた。
1538年 (32才) イエズス会の正式な承認を教皇から得るためローマへ。承認を得てインドへ出発するまで同会の事務責任者となる。
1539年 (33才) 教皇は正式にイエズス会を承認する。東洋への最初の宣教師として派遣を命じられる。
1540年 3月16日 (34才) ローマ出発 6月にリスボンに着く。ここに9カ月滞在。
1541年 4月7日 (35才) インドへ向けて宣教へ出港 途中のモザンビークで半年過ごす。
1542年 5月6日 (36才) ゴアへ到着。5ヶ月間その地の習慣に従い生活し宣教を始める。
1542年 10月 (36才) インド南端で活動。さらに3年間はインド西部で布教。セイロンへも行く。
1545年 春 (39才) マラッカへ向かい3か月布教。
1546年 1月 (39才) マラッカをたちモルッカ諸島へ、1年半宣教。
1547年 6月 (41才) 再びマラッカへ、ここで日本人ヤジローに会う。日本宣教の念を強く持つ。
1548年 (42才) 後続の宣教師がゴアへ着くと彼らをインド中心地へ派遣。
1549年 6月 (43才) 修道士フアン・フェルナンデス、司祭コスモ・デ・トルレス、ゴアで洗礼を受けたヤジロー(洗礼名パブロ・デ・サンタ・フェ)の3人を伴い日本へ向け出港する。
1549年 8月15日 (43才) 宣教師ザビエル、トルレス、フェルナンデス、ヤジロー鹿児島上陸。 
1550年 8月 (44才) トルレス、フェルナンデスを伴い鹿児島をたち都を目指す。
1550年 12月 (44才) 都に到着。政情不安のため期待した成果えられず。
1551年 (45才) 都を離れ平戸、山口でも伝道する。ゴア目指して豊後から日本をあとにする。トルレスとフェルナンデス修道士は日本に留まる。
1552年 初め (45才) ゴア着、中国への旅の準備に取りかかる。
1552年 秋 (46才) 4月ゴアをたち中国を目前に入国許可が下りずサンシャン島へ上陸急病にかかる。
1552年 12月3日 (46才) 急ごしらえの小屋の中で息を引き取る。
ザビエルの遺体
臨終に立ち会ったのは改宗した中国人アントニーでゴアから同行していた。彼は簡素な葬儀を仕切り、後に遺体を引き取りに来るかもしれないと思い目印を置いて埋葬した。乗って来た船、サンタ・クルス号は翌年の2月までサンシャン島に留まる。船が同島を去るときアントニーは船長に、3か月埋葬されているが遺体の状態を検視されるでしょうかと聞いた。一人の水夫が見たところは棺は石灰で満たされていたが遺体は全く腐敗していない。マラッカへの移送が決定すると棺を乗せ出港し、1553年3月22日マラッカに着、そこで岩に墓穴を掘り土を充たして埋葬された。5か月後ザビエルの友人が夜中に掘り起したところ全く完全な状態を保っていた。これは奇跡だ考えられ、このことがゴアまで聞こえると遺体はゴアに移されることになった。1554年3月16日ゴア着、聖パウロ学院まで行列しそこで3日間展示された。
1605年ゴアにボン・ジェズ教会が建てられると銀の棺に納められた遺体はそこに移され現在も聖堂内に安置されている。
右腕は1614年イエズス会総長の命で、セバスティアン・ゴンザレスにより切断された。死後60年も経過しているにも係わらず血が滴り落ち「奇跡」に違いないと思われた。この右腕はローマのジェズ教会に安置されている。そして1949年(ザビエル伝道400年記念)と1999年(450年記念)の2回、日本キリスト教布教の恩人で保護聖人である国 日本へ運ばれ展示された。
ザビエルの遺体検証
総督ドン・アルフォンソ・デ・ノローニャは遺骸の公式の医学的検証を命じた。コスマス・サラヴィア博士とアンブロージオ・リベイロ博士、大教区長、さらにアントニオ・ディアス修道士が検証した。コスマス・サラヴィア博士は次のように報告している。私は手で遺骸の四肢を押さえてみた。特に腹部に注意した。腸は正常な位置にある。何の防腐処置もされず人工物も使われていない。心臓に近い左胸の傷を観察し、会の二人に傷に指を入れて見るよう言った。血の付いた指を抜き臭いをかぐと何の異常もなかった。手足と他の部分も完全で肉で覆われ、医学的見解によってもフランシスコが1年半も前に死に1年間土の中にあったとは思えなかった。
アンブロージオ・リベイロ博士は次のように報告した。私は自分の指で足から膝まであらゆる部分を触ってみた。どの部分の肉も完全で本来の皮膚で覆われ腐敗もせずしっとりしていた。膝より少し上の左足外側は指の長さの切り傷あるいは怪我があり何かにぶつけたような跡であった。傷全体の周りには何筋かの血が垂れてじくじくして黒くなっていた。心臓に近い左側には小さな穴が開き何かが刺さったようだ。指を差し込むと空洞だった。ただ、遺骸が墓に長い間入っていたため腸のある部分かと思われる僅かなものが乾いたように思われた。顔を遺体に近付けても死体の臭いはなかった。頭部は中国式の模様織りの枕に乗せてあり首の下に足にあるのと同じような色があせて黒く変色したような血のしみのようなものが付いていた。
アントニオ・ディアス修道士はこのように記録している。遺骸を見に来た他のものに手と足それに脚と腕の一部のみを見せた。司祭たちと修道士たちが別の布に包んだ。確かにそれは素晴らしい甘い香りを放っていた。私は自分の手を胃の上に置いてみると窪んではいなかった。死後も内臓は抜き取られなかった。凝固した血の様なものが、柔らかく滑らかで赤みがかっていい匂いのものだった。
上記の双方の記録は日付が1556年で2年半以上検査後である。サライヴァの一番目は1556年11月18日付け、二番目は1556年12月1日付けである。1613年遺骸はイエズス会の本館へ移された。
ザビエルはイグナチオ・ロヨラと共に1622年列聖された。それ以来ザビエルは聖フランシスコ・ザビエルとなりゴアの守護聖人となった。列聖後彼の遺骸は教会の北の翼廊へ移され、霊廟が建設されると現在の場所に安置されている。それはゴアの職人が作った銀の棺に置かれ永久に展示された。三段の台座は1680年に作られ1698年に聖別された。遺骸は絶えず信心深いイエズス会員によって管理され展示されている。
1614年にはイエズス会総長の命によって右腕は切断されローマのイエズス会本部へ運ばれた。 
 
聖フランシスコ・ザビエルの足跡と平戸でのキリスト教の芽生え

 

平戸での2年3か月の布教活動
長崎県の北西部に位置する平戸の歴史は、イエズス会宣教師、聖フランシスコ・ザビエル(ハビエル、1506 – 1552年)が1550年夏に平戸に上陸したことによって大きな歴史的な転機を迎えた。日本ではあまりにも有名なスペイン人ザビエルは1549年、鹿児島に上陸し、やがて平戸を拠点に、日本国内での布教活動を展開した。ザビエルの日本での布教活動は条件付ながら2年3か月に及んだ。
ザビエルは鹿児島で約100人の日本人をキリスト教に改宗させ、キリストの教えと仏教の考え方に共通するものがあることを見出していたと言われている。しかし、1550年6月に平戸にポルトガル船が寄港したと聞いたザビエルは、同年9月にはコスメ・デ・トーレス神父と宣教師フアン・フェルナンデスとともに平戸に移住した。
このため、鹿児島での布教活動は日本初のキリシタンとなったアンジロウ(ヤジロウ、後にはパオロ・デ・サンタフェとしても知られる)に委ねられた。実は、ザビエルの日本上陸のきっけとなったのが、アンジロウだった。ザビエルとアンジロウは、当時の国際交易の重要な要塞都市であったマラッカ(マレーシア)で出会った。アンジロウの生涯について信頼できる資料や証拠はないが、薩摩(鹿児島)で殺人を犯してポルトガル船で海外に逃亡していたと言われている。マラッカでザビエルと出会った後、1549年に鹿児島に戻った。
山口で500人以上を改宗させたザビエル
ザビエルは平戸でのわずか20日間の布教活動で、鹿児島における1年間の布教活動より多くの信者を獲得した。1551年1月には平戸に日本初の教会が建築されたが、その遺構は現在、復元された「オランダ商館」に近い平戸崎方公園に残されている。
さらに、ザビエルは1550年10月、天皇への謁見を願い出て、日本全土での布教活動の許可を求めるために京都に向かった。そのことは、ザビエルの布教活動がうまくいっていたことを示している。ザビエルは宣教師のフェルナンデス、ベルナルドとともに山口経由で京都に入ったが、戦国時代の混乱と戦禍で京都は荒廃、天皇の権威も失墜しており、失望して山口に戻った。この間、平戸での布教活動はコスメ・デ・トーレス神父に任された。
ザビエルは、山口で“空き寺”を与えられ、数か月間の布教活動を許された。歴史資料によれば、1551年3月から半年間で、500人以上の日本人をキリスト教に改宗させたという。この間、ザビエルは同年4月に3度目となる平戸を訪問しているが、それは日本で最初の教会の建設と関連してのことだった。
インドから中国へ、最後は中国で病死
しかし、ザビエルは1551年9月、豊後(大分県)にポルトガル船が寄港すると、インドにおけるイエズス会の布教活動について情報を得るために豊後に向かった。ザビエルは報告を聞くと、「インドの方が日本よりも自分の存在を必要としている」と知り、そのままポルトガル船でインドに渡ってしまう。
ザビエルの日本滞在はそれで終わるが、インド入りしたザビエルは、「中国文化が日本に大きな影響を与えている」として、今度はインドから中国での布教を決意する。しかし、ザビエルは1552年9月に中国の上川島に到着したものの、中国への入境は思うようにいかず、体力、精神ともに消耗し、同年12月3日、上川島で病気のため死去した。46歳だった。
ザビエルとともに日本に来た宣教師らの何人かはその後も日本での普及活動を続けたが、ほどなくしてポルトガル人、スペイン人、キリシタン日本人への迫害、処刑というカトリック教徒の殉教の歴史が始まる。
平戸での殉死した日本初の司祭「セバスティアン・キムラ」
しかし、日本では仏教の影響力が強く、キリスト教の布教活動は壁に突き当たる。やがて、危険な宗教として敵視され、キリシタン信者は迫害された。日本における最初の殉教者は「マリアお仙」という平戸の女性キリシタンである。彼女は、十字架を拝んではいけないという夫の命に従わず、1559年に処刑された。
平戸の殉教者で最もよく知られているのは、日本初の司祭(パードレ)になったセバスティアン・キムラ(1565−1622年)だ。木村家は、ザビエルが1550年に平戸に上陸したとき、時の領主である松浦隆信の命令により自宅でザビエルの面倒を見ている。ザビエルは、鹿児島にいた当時に翻訳した聖書(抜粋)によって、木村家の当主に強い影響を与えた。ザビエルが平戸で洗礼したキリシタン100人の中でも最も早く洗礼を受けのが木村であり、アントニオという洗礼名を授かった。
アントニオ・キムラの子孫は、その後、長崎におけるキリシタンの歴史と密接に関係して行く。アントニオの孫のセバスティアンは1565年生まれで早くして洗礼を受け、12歳で仏教の小僧と同様の仕事をするカトリック司祭の助手になった。
イエズス会は布教を開始した当初、日本人を司祭に任命することに“後ろ向き”であった。しかし、1580年頃から、布教活動に現地人を加えることの重要性を理解した。セバスティアン・キムラは1585年に、19歳でイエズス会に入会した。
豊臣秀吉がバテレン追放令
しかし、豊臣秀吉は1587年7月24日に『伴天連追放令』を発令した。このため、日本におけるキリスト教普及活動は困難に直面し、京都などにいた多くのイエズス会宣教師は、平戸やインドに移らざるを得なかった。長崎にはキリシタン信者が圧倒的に多く、当地の権力者もキリシタン大名となるなど寛容だったことから、長崎や、平戸では追放令の実施を何年か遅らせることができた。
そうした環境の中で、セバスティアン・キムラは宣教師たちが避難した島原、天草などで勉学を続け、1595年に日本人として初めてマカオにあるイエズス会修道所で哲学、神学を学ぶことになった。
1600年、天下分け目の関ケ原の戦いで徳川家康が勝利すると、セバスティアン・キムラは平和が戻ったとしてマカオから長崎に戻った。その後、主に天草や豊後で活躍し、1年後の1601年9月、36歳の時に司祭に任命された。
逮捕のきっかけは女中の密告
彼の司祭としての最初の任地はまさに平戸の河内浦であった。しかし、1614年にはキリスト教の迫害が激しくなり多くの宣教師が国外に追放された。日本人信者により秘密裏に布教活動は続けられたが、1621年6月29日、セバスティアンは朝鮮から奴隷として連れて来られた女中に裏切られた。密告すれば自由が得られると思い込んだ女中がセバスティアンを取締り当局に訴えた。セバスチャン・キムラは他の信者とともに捕えられ、彼らは1622年9月西坂の丘で打ち首や生きたまま焼かれて殉死した。
日本の隠れキリシタンは1865年3月にフランス人司教・ベルナール・プティジャンに再発見されたが、日本で再びキリスト教が布教するのは1871年 まで待たなくてはならなかった。
存在感を示す教会群−「平戸ザビエル記念協会」
キリスト教禁止が明治政府によって正式に解除されたのは1873年だった。しかし、その後数十年間、起伏に富む地形の平戸にカトリック教会が建設されることはなかった。イエズス会も20世紀初めころまで布教のために日本に戻って来ることもなかった。
現在、長崎県には全体で約130の教会が存在するが、その内かなりの数が平戸にある。山林の風景の中で、坂を登りきり、急なカーブを曲がりきらないと見えてこないような場所に立つ教会もある。
その平戸でもっとも有名なのが「平戸ザビエル記念教会」で、1931年に建設された。もともとは、現在「愛の園保育園」のある場所に1913年にカトリック教会としての仮聖堂が建てられたが、献堂40周年の1971年に、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂の脇に建立されたことから「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」とも呼ばれるようになった。2004年に正式名を現在の平戸ザビエル記念教会と改めた。教会の塔は平戸の多くの通りから見えるが、最も有名な景観は光明寺と瑞雲寺の間に塔がそびえている景観である。
現存する最古の教会「宝亀教会」
平戸に現存する最古の教会は「宝亀教会」で、建設は1898年。さらに古い1891年建設の上神崎教会があったが、2014年に建て直しされた。宝亀教会の起源は、1878年に信者たちが現在の場所の西にある京崎地区に最初の御堂を建設したことにある。その後、1898年に現在の赤レンガのファサードと木材の側面壁という日本でも唯一のスタイルの教会が建設された。2003年には長崎県指定有形文化財に指定され、2010年には宝亀地区が国の重要文化的景観に選定され宝亀教会はその重要構成要素となった。
鉄川与助による「カトリック山田教会」と「紐差(ひもさし)教会堂」
平戸の教会で注目されるのは、宗教関連建築の名高い建築家である鉄川与助が1912年に設計・建築した生月島の「カトリック山田教会」だ。生月島は隠れキリシタンの地として知られる。250年間の隠れキリシタンによる信仰もあって、長崎ではいまだに隠れキリシタン独特のスタイルを信奉する人達をもいる。
「紐差(ひもさし)教会堂」も、同じく鉄川与助が1929年に西欧ロマネスク様式を真似て建築した。1945年に原爆で破壊され長崎の浦上天主堂が再建されるまで、長い間、日本最大規模の教会だった。その白いファサードは、紐差の山に近づくとあちこちからかいま見ることができる。鉄川は教会内部に花を題材とした装飾をいろいろと施しているが、これは彼の建築ではよく見られもので、仏教の影響を受けたものと考えられるている。
この他の興味深い教会には、1962年に学校の木造体育館の中に建築された「木ヶ津教会」がある。この教会は小規模で目立たないが、その内部には、長崎の原爆の被爆者で日本のキリスト教現代史の重要人物である故永井隆博士の描いた14枚の絵画『十字架の道行』が飾られている。
平戸は長崎市と並び、建築分野では日本でもっともキリスト教の影響が大きな場所だ。中でも平戸の14の教会は特に歴史的に重要で、「隠れキリシタン再発見」150周年を記念して2015年から同地域のキリスト教・カトリック観光奨励コースに含められた。  
 
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事

 

フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549)8月15日に鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えたポルトガルの宣教師である。
大正8年(1919)に大阪の茨木市の山奥にある千提寺の民家から、教科書でおなじみの聖フランシスコ・ザビエル画像が発見されたことは以前このブログの「隠れ切支丹の里」という記事で書いたことがある。
こんな肖像画が出てきたのだから、ザビエルがこんな山奥にも来て布教していたのかと錯覚してしまうのだが、それはあり得ないことである。
この地域にキリスト教が拡がったのは、切支丹大名として有名な高山右近が高槻城主であった時代なのだが、右近が生まれたのが天文21年頃(1552)で、ザビエルが日本を去った翌年の事である。布教の許可もない中で、この山奥にザビエルが足跡を残すことはありえないことなのだ。この画像は江戸時代の初期に描かれたものと考えられている。
ところでザビエルが日本に滞在した期間は思いのほか短い。
ザビエルが日本を去ったのは天文20年(1551)11月15日で、日本に滞在したのはわずか2年3ヶ月のことだった。
この短い期間で、日本語を学びながら仏教国の日本でこれだけキリスト教を広めたことは凄いことだと思う。
岩波文庫の「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」に、ザビエルが日本に滞在した時の記録が残されている。これ読むと、当時の日本での布教の様子や、当時の日本人をザビエルがどう観察していたかがわかって興味深い。
ザビエルは1549年11月5日付のゴアのイエズス会の会友宛の書簡で、鹿児島に上陸して二ヶ月半の段階で、日本人をこう観察している。
「…今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識る事の出来た日本のことを、貴兄らに報告したい。先ず第一に、私達が今までの接触によって識ることのできた限りに於ては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者はないと考えられる。日本人は総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は、特に強烈で、彼等にとっては、名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は、一人もいない。…」と、日本人の優秀さを絶賛している。
キリスト教を布教するためには、日本人の仏教への信仰をとり崩していかなければならないのだが、ザビエルは当時の仏教の僧侶について、次のように記している。
「私は、一般の住民は、彼らが坊さんと呼ぶ僧侶よりは、悪習に染むこと少なく、理性に従うのを識った。坊さんは、自然が憎む罪を犯すことを好み、又それを自ら認め、否定しない。此のような坊さんの罪は、周知のことであり、また広く行われる習慣になっている故、男女、老若の区別なく、皆これを別に異ともせず、今更嫌悪する者もない。」
「自らが坊さんでない者は、私達が、この憎むべき悪習を、断固として罪だと主張する時、私達の言葉を喜んで聞く。かかる悪習が如何に非道であるか、又それが、如何に神の掟に反するものであるかを、強調する時、人々は皆私達に賛成する。…」
と、この時期の僧侶には戒律を破り堕落している者が少なからずいて、そのことを一般民衆に話すと一般民衆は喜んで聞いたと書いている。
またザビエルは、この日本でキリスト教布教する意気込みと、この布教が成功する可能性が高いことを次のように述べている。
「(僧侶も民衆も)皆、喜んで私と親しくなる。人々が非常に驚くのは私達が此の国民に神のことを告げ、救霊はイエズス・キリストを信ずるにあることを教えんがためにのみ、遥々六千レグア*の波濤を蹴立てて、ポルトガルから来朝したという事実である。私達の来朝は、神の命令に依ることだと私達は説明している。」(*1レグア=約6km)
「私がこれらのことを凡てお知らせするのは、諸兄から我らの主たる神に感謝して頂きたいためであり、更に島国日本は、私達の聖なる信仰の弘布に、非常に優れた条件を具備していることを報告したいからである。若し私達が日本語に堪能であるならば、多数の者が、キリストへの聖教に帰信するようになることは、絶対に疑いをいれない。」
と、日本語さえ習得すればキリスト教を日本に広める事ができると書き、その上で、
「貴兄等は、準備をしていただきたい。二年も経過しないうちに、貴兄等の一団を、日本に招くことは、有り得ることだからである。謙遜の徳を身につけるように、励んで頂きたい。…」
と、二年以内にキリスト教を広めていく自信があることを伝えているのだが、ザビエルはこの手紙を書いた丁度2年後に日本を去っているのだ。これはどう解釈すればいいのだろうか。
ザビエルにとって、この後の布教活動で満足な結果が出せたのだろうか、出せなかったのだろうか。
ザビエル(画像)はゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船に乗ってゴアを出発し、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。そして翌月には薩摩の守護大名・島津貴久(画像)に謁見し、キリスト教宣教の許可を得ている。
前回紹介した書簡ではザビエルが日本の布教が成功することを確信していたような文章であったのは、わずか1ヶ月で薩摩の布教許可が得られたことで自信を深めたものだと考えられるが、その後島津貴久はキリスト教を禁止してしまう。
ザビエルは薩摩がキリスト教を禁止した経緯をこう書いている。この書簡の中のパウロと言う人物はヤジロウのことである。
「…私達は前にも言った通り、先づパウロの故郷に着いた。この国は鹿児島という。パウロが同胞の人々に熱心に語り聞かせたお陰で、殆ど百名にも及ぶ日本人が洗礼を受けた。もし坊さんが邪魔をしなかったら、他の凡ての住民も、信者となったに違いないのである。」
「私達は一年以上もこの地方にいた。…坊さんはこの領主に迫り、若し領民が神の教に服することを許されるならば。領主は神社仏閣や、それに所属する土地や山林を、みな失うようになるだろうと言った。何故かと言えば、神の教は、彼らの教とは正反対であるし、領民が信者となると古来から祖師に捧げられてきた尊敬が、消失するからだという。こうして遂に坊さんは、領主の説得に成功し、その領内に於て、キリスト教に帰依する者は、死罪に処すという規定を作らせた。また領主は、その通りに、誰も信者になってはならぬと命令した。」
「…日本人は特に賢明であり、理性的な国民である。それで彼らが全部信者にならないのは、領主に対する怖れの結果であって、神の教が真理であることの解らないためでもなく、また自分の宗旨の間違っていることに気のつかないためでもない。」
かくしてザビエル一行は一年間活動した鹿児島を去り、1550年8月に肥前平戸に入って宣教活動を行った。そこではわずか二か月で住民の数百名が信者になったので、ここの信者の世話をトーレス神父に託して、別の地域を目指すこととした。
周防山口では大名・大内義隆にも謁見したがその時はさしたる成果がなく、次に都である京都に進んで、インド総督とゴアの司教の親書をもって、全国での宣教の許可を得るために、御奈良天皇に謁見しようと試みたがそれは叶わなかった。
当時の京都は応仁の乱以降打ち続いた戦乱の結果多くが破壊されており、布教する環境にないと判断して、一行は再び山口に入る。
山口でザビエルは、天皇に捧呈しようと用意していた親書のほか、珍しい西洋の文物の献上品を用意して、再び大内義隆(画像)に謁見したという。
大内義隆は大層喜び、お礼のしるしとして金銀をザビエル一行に差し出したが、これをザビエルは受け取らずにキリスト教の布教の許可を願い出たという。
「…私達は、そのもっとも渇望している唯一つのことを願い出た。即ち、私達がこの領内に於て、神の教を公に宣布することと、領主の民の中に、信者になることを望む者があった場合には、自由に信者になれることを、私達に許可して頂きたいというのである。これに就いては、領主は、凡ゆる好意を持って私達に許可を与えた。それから、町の諸所に、領主の名の記された布令を掲出させた。それには、領内に於て神の教の説かれることは、領主の喜びとするところであり、信者になることは、各人の自由たるべきことと書かれていた。同時に領主は、一つの寺院を私たちの住居として与えた。…」
大内義隆がザビエル一行に与えた寺は、当時すでに廃寺となっていた大道寺という寺だそうだが、ザビエルはこの寺で毎日二度の説教を行い、約二か月の宣教で洗礼を受けて信徒となった者は約500人にものぼったそうである。
山口の布教が順調に進んでいる中で、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話があり、豊後の大名である大友義鎮(後の大友宗麟:画像)からザビエルに会いたいとの書状が届き、1551年9月にザビエルは山口の宣教をトーレス神父に託して自分は豊後に向かう。豊後に於いてもキリスト教は宗麟の保護を受けて広まっていった。
岩波文庫の解説によると、ザビエルの2年半日本滞在の間での洗礼者は千名には及ばなかったという。(鹿児島100-150名、市来15-20名、平戸180名、山口に向かう途中で3名、山口500-600名、豊後30-50名)
ザビエルはインドのトラヴァンコル地方に於いては1ヶ月に1万人の信者を作った実績がある。日本での成果はザビエルが当初思い描いていた数字には大きく届かなかったはずだ。
ザビエルは日本全土の布教のためには、日本の文化に大きな影響を与えてきた中国での宣教が不可欠だと考えた。ザビエルは、こう書いている。
「…シナに行くつもりだ。何故なら、これが日本とシナとに於て、我が主の大いなる奉仕になるだろうと思うからである。というのは、シナ人が神の掟を受入れたと識るなら、日本人は自分の宗旨に対する信仰を、間もなく、失ってしまうだろうと考えられるからである。私は、我がイエズス会の努力によって、シナ人も、日本人も、偶像を捨て去り、神であり全人類の救主なるイエズス・キリストを拝するようになるという、大きな希望を持っている。」
1551年11月15日にポルトガル船で日本を離れ、一旦ゴアに帰り自分の代わりに日本で宣教するメンバーの人選をして、自らは中国に向かおうとしたがマラッカで中国への渡航を妨害され、ようやく三州島に着くも、そこでは中国入国の手助けをする船は約束した日には現れなかった。
ザビエルはそこで熱病に罹り、中国本土で布教の夢が果たせぬまま、1552年12月3日に、イエズスの聖名を呼び奉りつつ息絶えたという。
なぜザビエルのような優秀な宣教師をもってしても、日本の布教が遅々として進まなかったのか。当時の日本人はザビエルの話を理解しつつもどうしても納得できないところがあったのではないか。
私は、ザビエル書簡の中でこの部分に注目したい。
「日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼らの悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或いは施與、或いは祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたづねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。」
「この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないように、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの処へは堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲嘆については別に悲しく思わない。しかし、何故神は地獄の人を救うことができないか、とか、なぜいつまでも地獄にいなければならないのか、というような質問が出るので、私は彼等の満足のいくまで答える。彼等は、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しのようのないことについて泣いているのを見て、私も悲しくなってくる。」
当時の日本人が、キリスト教を受け入れがたいと思った重要なポイントがこの辺にあったのではないだろうか。自分の祖先がキリスト教を信じていなかったという理由でみんな地獄へ落ちると言われては、自分の祖先を大切に思う日本人の大半が入信できなかったことは私には当然のことのように思える。
もしザビエルが健康な状態で無事に中国に辿り着き、中国でキリスト教の布教に尽力してある程度の成功を収める事ができたとしよう。その場合にザビエルが再び日本に戻ってキリスト教の布教に成功できたかどうか。 
 
フランシスコ・ザビエルからの手紙

 

1
ここに紹介するヨーロッパのイエズス会員に宛てた手紙は、ザビエルの暖かい人柄、仲間に対する愛、誠実さを物語っているでしょう。
「あなたがたを決して忘れず、絶えず特別に思い起こすために、私の大きな心の平安となるために、親愛なる兄弟たちよ、私にくださった手紙から、あなたがたの署名を切り取って、それを私の盛式修道誓願文といっしょにして、肌身離さず持っていることをお知らせします。あなたがたの名前を身につけていることで、私にこれほどの慰めが与えられるように、神がお取り計らいになったのですから、私はまず第一に主なる神に感謝を捧げ、あなたがた、私の仲間たちに心から感謝申し上げます。やがて私たちはこの地上の生活よりももっと大きな慰めを受けるあの世で再び会うので、これ以上何も言いません。
                アンボンより   1546年5月10日
          あなたがたの小さな兄弟であり、子である、フランシスコ 」
2
この手紙には、ザビエルの日本人に対する高い評価、またザビエルがとらえた日本人の特質、特に名誉を重んじることについて、率直に表現されています。
「日本についてこの地で私たちが経験によって知りえたことを、あなたたちにお知らせします。
第一に、私たちが交際することによって知りえた限りでは、この国の人々は今までに発見された国民の中で、最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。
彼らは、キリスト教の諸地方の人びとが決して持っていないと思われる特質を持っています。それは武士たちがいかに貧しくても、武士以外の人びとがどれほど裕福であっても、たいへん貧しい武士が金持ちと同じように尊敬されていますし、たいへん貧しい武士は、どんなに大きな富を与えられても、武士以外の階級の者とは結婚しません。低い階級の者と結婚すれば、自分の名誉を失うと考えているからです。すなわち、名誉は富よりもずっと大切なものとされているのです。他人との交際はたいへん礼儀正しく、武具を大切にし、たいへん信頼して、武士も低い階級の人たちもすべてが、刀と脇差とをいつも持っています。
日本人は侮辱されたり、軽蔑の言葉を受けて黙って我慢している人びとではありません。また武士はすべて、その地の領主につかえることを大切にし、領主によく臣従しています。彼らが臣従しているのは、もし反対のことをすれば罰を受けるから、というよりも、臣従しなければ自分の名誉を失うことになると考えているためだと思います。
人びとは賭博を一切しません。賭博をする人たちは他人の物を欲しがるので、そのあげく盗人になると考え、たいへん不名誉なことだと思っているからです。」
3
ここに紹介する手紙から、ザビエルが宣教する際に見いだしていた、日本人の宗教性・道徳観をうかがい知ることができます。
「〔日本人は〕宣誓はほとんどしません。そして宣誓する時は、太陽に向かってします。大部分の人は読み書きができますので、祈りや教理を短時間に学ぶのにたいそう役立ちます。彼らは一人の妻しか持ちません。この地方では盗人は少なく、また盗人を見つけると非常に厳しく罰し、誰でも死刑にします。盗みの悪習をたいへん憎んでいます。彼らはたいへん善良な人びとで、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛です。
彼らはたいへん喜んで神のことを聞きます。特にそれを理解した時には、たいへんな喜びようです。過去の生活においていろいろな地方を見てきた限りでは、それがキリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、盗みについてこれほどまでに節操のある人びとを見たことがありません。
彼らは獣の像をした偶像を拝みません。大部分の人たちは大昔の人を信仰しています。私が理解しているところでは、哲学者のように生活した人びと(釈迦や阿弥陀)です。彼らの多くは太陽を拝み(日本古来の神道)、他の人たちは月(須佐之男命)を拝みます。
彼らは道理にかなったことを聞くのを喜びます。彼らのうちで行なわれている悪習や罪について、理由を挙げてそれが悪であることを示しますと、道理にかなったことをすべきであると考えます。」
4
この手紙は、ザビエルが当時の日本人の食生活を見て、感心し、学んだことを伝えています。現代の日本に生きる私たちにとっても、学ぶところがあるのではないでしょうか。
「神は私たちをこの国に導いて、大きな恵みを与えてくださいました。この国では土地が肥えていないので、身体のために贅沢なものを食べようとしても、豊かな暮らしはできません。〔日本では〕飼っている〔家畜〕を殺したり食べたりせず、時どき魚を食べ、少量ですが米と麦とを食べています。彼らが食べる野菜はたくさんあり、少しですが幾種類かの果物もあります。この地の人びとは不思議なほど健康で、老人たちがたくさんいます。たとえ満足ではないとしても、自然のままに、わずかな食物で生きてゆけるものだということが、日本人の生活を見ているとよく分かります。私たちはこの地できわめて健康に暮らしています。願わくは神の思し召しによって、霊魂も健やかでありますことを。」
5
この手紙は、ザビエルが日本で最初に、本格的に宣教を始めることになった、山口での第一歩について伝えています。
「福音を宣べ伝えるためには、都は平和でないことが分かりましたので、再び山口に戻り、持ってきたインド総督と司教の親書と、親善のしるしとして持参した贈り物を、山口候に捧げました。この領主は贈り物や親書を受けてたいそう喜ばれました。領主は私たちにたくさんの物を差し出し、金や銀をいっぱい与えようとされましたが、私たちは何も受け取ろうとしませんでした。それで、もし私たちに何か贈り物をしたいとお思いならば、領内で神の教えを説教する許可、信者になりたいと望む者たちが信者となる許可を与えていただくこと以外に何も望まないと申し上げました。領主は大きな愛情を持って私たちにこの許可を与えてくださり、領内で神の教えを説くことは領主の喜びとするところであり、信者になりたいと望む者には信者になる許可を与えると書き、領主の名を記して街頭におふれを出すことを命じられました。
領主はこれと同時に、学院のような一つの寺院を私たちが住むようにと与えてくださいました。私たちはこの寺院に住むことになり、普通、毎日二回説教しましたが、神の教えの説教を聞きに大勢の人たちがやってきました。そして説教のあとで、いつも長時間にわたって討論しました。質問に答えたり説教したりで、絶えず多忙でした。この説教には大勢の僧侶、尼僧、武士やその他たくさんの人が来ました。家の中はほとんどいつも人がいっぱいで、入りきれない場合がたびたびありました。彼らは私たちにたくさん質問しましたので、私たちはその答えによって彼らが信じている聖人たちの教えは偽りであり、神の教えこそ真理であることを理解させました。幾日間も質問と答弁が続きました。そして幾日か経った後、信者になる人が出始めました。説教においても、討論においても、最も激しく敵対した人たちが一番最初に信者になりました。」
6
この手紙には、ザビエルが山口で宣教し、瞬く間にキリスト教が広がっていった時の様子が描かれています。
「〔日本人には〕地獄に落ちた者になんの救いもないのはたいへん悪いことと思われ、神の教え〔キリスト教〕より、彼らの宗派の方がずっと慈悲に富んでいると言います。このような大切な質問のすべてについて、主なる神の恩恵の助けによって、罪の償いができると説明し、こうして彼等は満足しました。神の慈しみを深く説明するに当たって、日本人はより理性に従う人々であり、これは今まで出会った御信者には決して見られなかったことだと思いました。
〔日本人たちは〕好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛で、質問には限りがありません。また彼らの質問に私たちが答えたことを彼等は互いに質問しあったり、話したりして尽きることがありません。彼らは地球が丸いことを知りませんでしたし、太陽の軌道についても知りませんでした。彼等はこれらのことやその他、たとえば流星、稲妻、降雨や雪など、これに類したことについて質問しました。それらの質問に答え、よく説明しましたところ、たいへん満足して喜び、私たちを学識のあるものだと思ったようです。そのことは私たちの話を信じるために少しは役立っています。
彼等は・・〔略〕・・私たちが日本へ来てからは、自分たちの教えを議論するのをやめ、神の教えについて議論しました。このような大きな町で、すべての家で神の教えについて議論していることは、信じられないほどです。〔略〕
この山口の町で二ヶ月が過ぎ、さまざまな質問を経たのち、500人前後の人達が洗礼を受け、そして今も神の恩恵によって日々洗礼を受けています。大勢の人達がボンズやその宗派の欺瞞を私たちに知らせてくれました。もしも信者たちがいなかったら、日本の偶像崇拝の実体をつかむことはできなかったでしょう。信者になった人たちは非常に深い愛情をもって私たちに接してくれます。彼らこそ真実な意味でキリスト信者であると信じてください。」
7
この手紙では、日本で宣教するイエズス会員にザビエルが求める資質が示されています。
「〔日本では〕さまざまな苦労に〔耐えてゆかねばならない〕ので、年老いた人に適した土地ではありませんし、また〔実社会で〕大いに経験を積んだ者でない限り、若い人には不向きです。なぜなら、他の人びとの霊的な助けとなる代わりに自分自身が滅びてしまうからです。日本の地にはさまざまな罪があって、それに陥る危険があります。〔日本人の行為を〕とがめる〔神父を〕日本人はよく観察していますので、〔神父の〕ごくわずかな〔欠点〕がつまずきとなります。私はこれらのことについてシモン神父、もしも彼が不在の時にはコインブラの院長にあてて詳しく書きます。
もしもあなたがコインブラへ命令して、日本へ派遣を希望する会員たちはまずローマに行って〔あなたに会わ〕なければならないと決めてくださるならば、私にとって大きな喜びとなるでしょう。スペイン語かポルトガル語を知っているフランドル人やドイツ人は日本へ〔派遣するのに〕適していると思います。なぜなら、彼らは身体的ないろいろな苦労に耐えることができますし、また坂東の酷寒をも耐え忍べるからです。スペインやイタリアの学院にはこのような人達がたくさんいると思いますし、またスペインやイタリアで説教するためには言葉が不充分であっても、日本へ行けばたくさんの成果を挙げることができます。」
8
ザビエルが鹿児島からゴアのイエズス会員に向けて書いたこの手紙では、神への奉仕のために諸徳を身につけ、心に霊的なことを味わうことの大切さを説明しています。
「この地方に来る人たちは、能力の限界を十分に試されるだろうということを信じてください。このために、諸徳を身に備えようとどれほど努力しても足りるものではありません。私がこのように言うのは、神に奉仕することは苦労が多いものであるとか、主の軛は負いやすい(マタイ11・3)ものではないなどと言いたいからではありません。なぜなら、もしも人びとが神を探し求めるために必要な手段を取り入れ身につけるならば、神への奉仕はたいへん大きな心地よさと平安とを見出すことができます。また、自分に打ち克つのに、どれほど嫌悪の情を感じるとしても、誘惑に負けぬように努力しなければ、いかに多くの精神的な喜びと満足とを失うかが分かってさえいれば、その嫌悪の情をすべて克服して前進するのは、いともたやすいことでしょう。精神力の弱い人たちは、いつもこの誘惑に負けて、神の全善を知ることができず、苦労の多い生活の中で安心することができません。なぜなら、心のうちに霊的なことを味わうことなしにこの世で生活することは、それは生きるということではなく、死の連続なのですから。」
9
1549年に書かれた以下の二つの手紙には、宣教するにあたって、周囲の人びとにどのような態度で接したら良いか、助言が与えられています。前者はホルムズ(ペルシャ)に向けて出発するバルゼオ神父に宛てて、後者はインドにいるアントニオ・ゴメスに宛てて書いたものです。
「もしもあなたが厳粛で悲痛な顔つきをしていれば、多くの人たちは恐れをなして、あなたに相談することをやめてしまうでしょうから、重苦しく、いかめしい顔をしないで、快活な態度ですべての人たちと交際しなさい。それで、あなたと話をする人たちが恐れを感じたりしないように、愛想良く親切で、特に叱責する場合は、愛情と慈しみをもってするようにしなさい。」
「アントニオ・ゴメスよ、あなたはフランシスコ会やドミニコ会の聖なる修道者に神の愛と友愛、そして人間的な温かい愛情をもって接し、また彼らすべてに愛情を傾けるようにお願いいたします。彼らに対し、つまずきになるようなことがないように気をつけなさい。〔心の内に〕深い謙遜を持って、それをいつも実行するように努め、そして時々彼らを訪問し、あなたが彼らを愛していることを彼らにわかってもらえるようにし、〔他人の〕不和を喜び、好んで〔陰口をきく〕人びとに、あなたがすべての人を愛していることが分かってもらうようにすることを私は望んでいます。
何よりも私があなたにお願いすることは、あなたがすべての人から愛されるようにしていただきたいことです。人びとがあなたがたのうちに深い謙遜があり、あなたがたが互いに愛し合っていることを認めるならば、それはきわめてたやすいことです。できうる限り、そうしてもらいたいとお願いします。そして学院の責任者が兄弟たちに命令することを望むよりも、彼らからより多く愛されるように努めてください。あなたがた全員が準備していてください。もしも日本でインドよりももっと大きな成果をあげることができる状態であると私が判断すれば、すぐにあなたがた全員に手紙を書いて、私がいるところへあなたがたのうちから、大勢の人が来るように最初に知らせますから。」
10
この手紙でザビエルは、神から信仰、希望、信頼の賜物をいただくために、恐怖心をなくす手段として、自分自身に打ち克つ努力の必要性を説いています。
「私は幾度も考えたことですが、イエズス会の学識ある多くの人びとがこの地方に来て、少なからず危険の伴う航海の深刻な苦難を体験すべきであると思います。多くの船が失われてゆく明らかに危険の〔伴う航海を〕あえてすることは、神を試みることであると思われるかもしれません。しかし私たちはそうとは考えません。なぜなら、私たちイエズス会員は学識を信頼するのではなく、主なる神を信頼して〔各自の心のうちに〕住んでおられる聖霊の導きに従うべきだからです。そうでなければ非常に大きな苦労をすることになります。私はいつも目の当たりに聖なるイグナチオ神父を見ながら、〔真実の〕イエズス会員になろうとする者は、自分自身に打ち克ち、神への信仰と希望、信頼を持つ者に妨げとなる恐怖心をなくすために、その手段をとる努力をしなければならないとしばしば聞かされた言葉を思い起こし、考えています。信仰、希望、信頼のすべては神の賜物ですけれど、その賜物は主なる神の思し召す者、通常の場合には、自分自身に打ち克つ努力をして、その手段をとる者にお与えになります。」
11
親戚、友人、知人のない宣教地に赴き、神の敵に囲まれながら生きることについて、ザビエルは次のような手紙を書いています。
「神は私たちにこの未信者たちが住む地方へお導きくださって、私たちが自分をおろそかにしないために、たいへん大きな、そして意義深い恵みを与えてくださいました。なぜなら、ここには親戚も友人も知己もなく、またキリスト教の信心もなく、すべては天と地を創造なさった御者の敵で、すべては偶像崇拝者で、キリストの敵ばかり、神のほかには信頼し希望をおくことのできるものは、何一つとしてないのです。ですから、私たちは、信仰と希望と信頼のすべてを、信仰がないために神の敵になっている人間にではなく、主なるキリストにおかざるをえません。
私たちの創造主、救い主、主なる御者を認めている他の国々では、父、母、親戚、友人や知己の愛情、また祖国愛、健康な時にも、病気に際しても、この世で生活するのに必要なものを補ってくれる現世的な富や、霊的な友人たちがいますから、被造物である人間には、神のみに頼ることをおろそかにする原因となり、信仰の妨げとなります。とりわけ私たちが神に希望を託さずにいられないのは、私たちを霊的に助けてくれる人物が(ここには)いないことです。それゆえ、神を知らない人ばかりの異境におりますと、被造物には神への愛とキリスト教の信仰が全く欠けていますから、彼らは私たちに信仰、希望と信頼のすべてを強制し、助けて、神の全善に頼らざるをえないように仕向けるのです。(こうして)神は大きな恵みを私たちに与えてくださっています。」
12
ザビエルは、自分の個人的な慰めについて語ることはめったにありませんでしたが、1544年にコーチンから出した次の手紙は例外的で貴重なものと言えます。
「異教徒の間にいる人々に神が語りかけられ、キリストの信仰に回心させられることは大きな慰めであり、もしこの世に喜びがあるとすれば、このことがそうなのでしょう。私はこのようなキリスト教信者の一人が次のように言うのを何度も聞いたことがあります。『おお主よ、もう充分です!どうぞこの世でこんなに多くの慰めを与えないでください!あなたはその限りない善さと憐れみから慰めをくださっていますから、私をあなたの聖なる栄光にあずからせてください。あなたが被造物にこれほど内的に語りかけてくださった後で、あなたを見ないで生きることはたいへん苦しいことだからです』」  
 
サビエルの書簡

 

サビエルの見た日本と日本人
1. 日本に行く前に
1548年1月20日(コーチン)
このマラッカの町にいた時、私が大変信頼しているポルトガル商人たちが、重大な情報をもたらしました。それは、つい最近発見された日本と呼ぶたいへん大きな島についてのことです。彼らの考えでは、その島で私たちの信仰を広めれば、日本人はインドの異教徒には見られないほど旺盛な知識欲があるので、インドのどの地域よりも、ずっと良い成果が挙がるだろうとのことです。
1548年1月20日(コーチン)
「日本人は」まず初めに私にいろいろと質問し、私が答えたことと、私にどれほどの知識があるかを観察するだろう。とくに私の生活「態度」が私の話していることと一致しているかどうかを見るだろう。そして、もし私が二つのこと、「すなわち」彼らの質問に良く答えて満足させ、また私の生活態度にとがむべきことをみいださなっかたら、半年ぐらい私を試して見た後で、領主(島津貴久)や貴族(武士)たち、また一般の人々も、キリスト信者になるかどうかを考え判断するだろうと言いました。日本人は理性よってのみ導かれる人々であるとのことです。
1549年1月14日(コーチン)
ゴアの聖信学院には私が帰ってきた時に、1548年にマラッカから来た若い日本人が3人います。彼らは日本についてさまざまな情報を提供してくれます。また彼らはよい習慣を身につけ、才能豊かで、とくにパウロは優れ、あなたにポルトガル語で手紙を書きました。パウロは8ヶ月でポルトガル語を読み、書き、話すことを覚えました。今黙想をしています。「黙想は」彼らを良く助け、内心深く信仰が染み入ると思います。
1549年1月14日(コーチン)
私を助けてくださる主なるイエズス・キリストにおける大きな希望を抱いて、まず日本の国王に会い、次に学問が行われている諸大学へ行く決心です。
2. 日本に行っている間
1549年11月5日(鹿児島)
この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒の間では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほどの名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士もそうでない人々も、貧しいことを不名誉だとは思っていません。
1549年11月5日(鹿児島)
「日本人は」侮辱されたり、軽蔑の言葉を受けて黙って我慢している人々ではありません。武士以外の人たちは武士をたいへん尊敬し、また武士はすべて、その地の領主に仕えることを大切にし、領主によく臣従しています。人々は賭博を一切しません。たいへん不名誉なことだと思っているからです。宣誓はほとんどしません、宣誓する時は、太陽に向かってします。
1549年11月5日(鹿児島)
大部分の人は読み書きが出来ますので、祈りや教理を短時間に学ぶのにたいそう役立ちます。彼らは一.人の妻しか持ちません。この地方では盗人は少なく、また盗人を見つけると非常に厳しく罰し、誰でも死刑にします。盗みの悪習をたいへん憎んでいます。彼らはたいへん善良な人々で、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛です。
1549年11月5日(鹿児島)
彼らはたいへん喜んで神のことを聞きます。とくにそれを理解した時にはたいへんな喜びようです。過去の生活においていろいろな地方を見てきた限りでは、それがキリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、盗みについてこれほど節操のある人々を見たことがありません。
1549年11月5日(鹿児島)
彼らは獣の像をした偶像を拝みません。大部分の人たちは大昔の人を信仰しています、、私が理解しているところでは、哲学者のように生活した人序(釈迦や阿弥陀)です。彼らの多くは太陽を拝み(日本古来の神道)、他の人たちは月(須佐之男命)を拝みます。彼らは道理にかなったことを聞くのを喜びます。彼らのうちで行われている悪習や罪について、理由を挙げてそれが悪であることを示しますと、道理にかなったことをすべきであると考えます。
1549年11月5日(鹿児島)
神は私たちをこの国に導いて、大きな恵みを与えて下さいました。この国では土地が肥えていないので、身体のためにぜいたくなものを食べようとしても、豊かな暮らしはできません。「日本では」飼っている「家畜」を殺したり食べたりせず、時々魚を食べ、少量ですが米と麦とを食べています。彼らが食べる野菜はたくさんあり、少しですが幾種類かの果物もあります。この地の人々は不思議なほど健康で、老人たちがたくさんいます。たとえ満足ではないとしても自然のままに、わずかな食物で生きてゆけるものだということが、日本人の生活を見ているとよく分かります。
3. 日本を去ってから
1552年1月29日(コーチン)
この日本はたいへん大きな島々から成り立っている国です。全国にわたって一つの言葉しかありませんから、日本語を習うのはあまり難しいことではありません。日本の島々は8.9年前にポルトガルによって発見されたものです。
1552年1月29日(コーチン)
日本人は、武器を使うことと馬に乗ることにかけては、自分たちよりも優れている国民は他にないと思っています。「そして」他国人全てを軽蔑しています。武器を尊重し、非常に大切にし、よい武器を持っていることが何よりも自慢で、それに金と銀の飾りを施します。彼らは家にいる時も外出する時も、つねに大刀と小刀とを持っていて、寝ている時には枕元に置いています。
1552年1月29日(コーチン)
私はこれほどまでに武器を大切にする人たちを、いまだかつて見たことがありません。弓術は非常に優れています。この国には馬がいますが「彼らは」徒で戦っています。彼らはお互いに礼儀正しくしていますが、外国人を軽蔑していますので、「私たち外国人に対しては」彼らどうしのようには礼儀正しくしません。
1552年1月29日(コーチン)
財産のすべては衣服と武器と家臣を扶持するために用い、財産を蓄えようとしません。非常に好戦的な国民で、いつも戦をして、もっとも武力の強い者が支配権を握るのです。一人の国王を戴いていますけれど、150年以上にわたって彼に従いません。このために、彼らのあいだで絶えず戦っているのです。
1552年1月29日(コーチン)
それぞれ異なった教義を持つ9つの宗派があって、男も女もめいめい自分の意志に従って好きな宗派を選び、誰も他人にある宗派から他の宗派に改宗するように強制されることはありません。それで、」つの家で夫はある宗派に属し、妻は他の宗派に、そして子供たちは別の宗派こ帰依する場合もあります。このようなことは彼らのあいだでは別に不思議なことではありません。なぜなら、一人びとり自分の意志に従って宗派を選ぶことは「まったく自由だからです」。
1552年1月29日(コーチン)
「日本人たちは」好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛で、質問は限りがありません。また彼らの質問に私たちが答えたことを彼らは互いに質問しあったり、話したりしあって尽きることがありません。彼らは地球が円いことを知りませんでしたし、太陽の軌道についても知りませんでした。彼らはこれらのことやその他、例えば流星、稲妻、降雨や雪、そのほかこれに類したことについて質問しました。それらの質問に私たちが答え、よく説明しましたところ、たいへん満足して喜び、私たちを学識のある者だと思ったようです。そのことは私たちの話を信じるために少しは役立っています。
1552年1月29日(コーチン)
彼らはその宗派のうちでどれがもっとも優れているかをいつも議論していました。私たちが日本へ来てからは、自分たちの教えを議論するのをやめ、神の教えを議論しました。このような大きな町で、すべての家で神の教えについて議論していることは、信じられないほどです。私たちに対する質問の数々についても、書き尽くすことができません。
1552年1月29日(コーチン)
ボンズも世俗の人も、日本人は全部数珠で祈っています。珠の数は180以上です。祈るときには自分が属する宗派の創始者の名を珠ごとに唱えます。ある人は数珠を何回も繰って祈るほど熱心ですが、他の人たちは少ししか祈りません。
1552年1月29日(コーチン)
日本の人々は慎み深く、また才能があり、知識欲が旺盛で、道理に従い、またその他さまざまな優れた資質がありますから、彼らの中で大きな成果を挙げられないことは「絶対に」ありません。ですから主なる神において日本での大きな成果を期待しています。数々の労苦は光彩を放ち、またその光が永遠に輝き続けますように。
サビエルの見た山口
1552年1月29日(コーチン)
ファン・フェルナンデス、「鹿児島で信者になったベルナルド」と私は日本「で最強」の領主(大内義隆。1507〜51年)がいる山口と呼ばれる地へ行きました。この町には1万人以上の人々が住み、家はすべて木造です。この町では武士やそれ以外の人々多数が私たちの説教する教えがどんな内容のものか、知りたがっていました。そこで私は幾日間にもわたって街頭に立ち、毎日二度、持って来た本を朗読し、読んだ本に合わせながら、いくらか話をすることにしました。
1552年1月29日(コーチン)
「山口で」信者になった人は少数でした。活動の成果が挙がらないのを見て、私たちはミヤコと呼ばれる全日本の首都へ行く決心をしました。「平戸から京都へは」2ヶ月間の旅程でした。私たちが通った所でたくさんの戦があったために、途中でいろいろな危険に遭いました。ミヤコ地方のひどい寒さや、途中で出会ったたくさんの盗人のことについては、ここでははなしません。
1552年1月29日(コーチン)
山口の領主から領内で神の教えを説教する許可、信者になりたいと望む者たちが信者となる許可をいただくこと以外何も望まないと申し上げました。領主は大きな愛情を持って私たちにこの許可を与えて下さり、領内で神の教えを説くことは領主の喜びとするところであり、信者になりたいと望む者には信者になる許可を与えると書き、領主の名を記して街頭に布令を出すことを命じられました。
1552年1月29日(コーチン)
学院のような一宇の寺院を私たちが住むようにと与えてくださいました。私たちはこの寺院に住むことになり、普通、毎日二回説教しましたが、神の教えの説教を聞きに大勢の人たちがやって来ました。そして説教の後で、いつも長時間にわたって討論しました。質問に答えたり説教したりで、絶えず多忙でした。この説教には大勢の僧侶、尼僧、武士やその他たくさんの人がいっぱいで、入りきれない場合がたびたびありました。
1552年1月29日(コーチン)
彼らは私たちにたくさん質問しましたので、私たちは、神の教えこそ真理であることを理解させました。幾日間も質問と答弁が続きました。そして幾日かたった後、信者になる人たちが出始めました。説教においても、討論においても、もっとも激しく敵対した人たちが一番最初に信者になりました。
1552年1月29日(コーチン)
この山口の町で2ヶ月が過ぎ、さまざまな質問を経たのち、500人前後の人たちが洗礼を受け、そして今も神の恩恵によって日々洗礼を受けています。
1552年1月29日(コーチン)
信者になった人たちは非常に深い愛情を持って私たちに接してくれます。彼らこそ真実な意味でキリスト信者であると信じて下さい。
1552年1月29日(コーチン)
この町には私たちにたいへん好意を寄せて下さる高貴な方(内藤某)がおられます。とくに奥方は神の教えを広めるために、出来る限りあらゆる援助を与えて下さいました。しかし神の教えが善いものであることをいつも認めながら、決して信者になろうとしません。なぜなら、「今まで」自分の費用でたくさんの寺院を建立し、またボンズの生活費を負担していますので、阿弥陀に願って夫も妻もこの世の生活で悪から守られ、来世では阿弥陀のいる極楽へ導いてもらえると信じきって「満足」しているからです。
1552年4月8日(ゴア)
私はボンズをポルトガルへ送って、日本人がどれほど才能があり、知性に富み、鋭敏であるかをあなた方に知ってもらいたいと思い、彼らの宗派の中で学識のある二人のボンズを日本から連れて来たかったのですが、彼らは衣食に困らなし、また上流階級の人でしたので、来ることを望まなかったのです。
サビエルの信仰・希望・愛
1546年5月10日(アンボン)
私が「モロタイ島」へ行くことをやめさせることができないと分かると、解毒剤をいっぱい私に下さいました。私は彼らの愛情と善意とに感謝しながらも、恐れては降りませんし、私の希望のすべてを神にのみおいています。神への信頼を失いたくありませんでした。それで、これほどの愛情と涙とをもって私に与えられた解毒剤を受け取らず、彼らの祈りのなかでいつも私を臣だして祈って下さることだけをお願いしました。祈りこそ毒に対抗できる最も確かな薬ですから。
1546年5月10日(アンボン)
試練の場合、神の御言葉の真の意味を理解できるのは、学識の深さによるものではなく、主なる神が無限のご慈悲をあたえてくださる人だけが、具体的な事柄のなかで、神がお望みになっていることを理解するにいたるものです。このような場合に私たちの肉体がどれほど弱く、病気にかかっているのも同然だと知るにいたるのです。
1546年5月10日(アンボン)
主なる神はこの危険のうちで、私たちをお試しになり、もしも私たちが自分の力に頼り、被造物に信頼をおいているあいだは、私たちがどれほど小さいものであるかを分からせようとなさいました。そして、このようなはかない希望から離れ、自分を信頼せずに、すべてのことについて創造主に希望を託し、創造主への愛によって危険を受けようとする時に、「神の」御手のうちにあって私たちの力を発揮できるものであることを分からせて下さいました。
1546年5月10日(アンボン)
創造主への愛のみにより危険を受ける者は、危険のさなかにあっても疑うことなく、創造主に従うものであると悟り、死の恐怖の時にあっても大きな慰めを明らかに感じるものです。
1549年11月5日(鹿児島)
この深い謙遜からのみ、神へのより大きな信仰、希望、信頼と愛が、そして隣人への愛が、「心のうちに」増してくるのです。なぜなら、自分自身への不信頼から真実な神への信頼が生まれるからです。そしてこの道によって、内心からの謙遜を得られるでしょう。真の謙遜はいずこにおいても必要ですけれど、この日本においては、あなた方が考えているよりももっと必要とされております。
1549年11月5日(鹿児島)
私はある人を知っています(サビエル自身についていっている)。神はこの人に大きな恵みをお与えになったので、彼は幾度も経験した危険のさなかにおいても平穏な時にも、希望と信頼とのすべてを神に託しています。このことから得られた霊的な利益を書き記すとすれば、大変長くなるでしょう。
サビエルの旅
1542年9月20日(ゴア)
非常に長い航海の苦痛、たくさんの霊的な病への配慮、自分白身の務めを果たしきれないのに、「赤道直下の暑気に加えて」無風地帯に住んでいることなどは非常な苦しみでありますけれど、これは「イエズス・キリストのために、喜んで」忍ばなければならない苦しみである〔と思えば」、心地よい喜びとなり、非常に大きな慰めの泉となります。
1546年5月10日(アンボン)
モロタイ島は非常に危険な土地柄で、人々は陰険も笹だしく、食物や飲物のなかに毒を入れます。このためモロタイの地には信者の世話する者がなく、見捨てられてしまいました。私はモロタイ島の信者に教理を教えねばならず、島民の救霊のために誰かが洗礼を授けなければならないので、また隣人の霊的生命を救うために私の身体的生命をなげうっ必要があると思って、モロタイ島へ行くことを決意しました。
1552年1月29日(コーチン)
コスメ・デ・トーレス神父とファン・フェルナンデスと私とが一緒に山口の町にいた時に、非常に有力な領主である豊後候から、一隻のポルトガル船が豊後の港(洲1の浜)に着き、あることについて私と話したいので、(府内、現在の大分市へ)来てほしいとの手紙が届きました。私は「豊後の領主が」信者になることを望んでいるかどうかを見極めるため、またポルトガル人に会うために(9月中旬)豊後へ行きました。山口にはコスメ・デ・トーレス神父とファン・フェルナンデスとを、すでに「洗礼を受けて」信仰を持っている信者たちとともに残しました。
1552年1月29日(コーチン)
「豊後の」領主は私をたいそう歓待し、また私はその地に到着したポルトガル人たちと話して大いに慰められました。
1552年1月29日(コーチン)
私は豊後から山口へは行かずに、ポルトガル人の船で、インドへ帰ることに決め妻した、、それはインドにいる兄弟たちに会って慰めを得るため、また日本で必要なイエズス会の神父たちを派遣するため、さらにまた、日本の地で不足している必需品をインドから送るためです。
1552年1月29日(コーチン)
私は肉体的にはたいへん元気で日本から帰って来ましたが、精根は尽き果ててしまいました。しかし、主なる神の慈しみに希望し奉り、また主なる神のご死去とご受難の無限のご功徳に希望を託し、きわめて困難な中国への渡航のために私に恩恵をお与えくださるように願っております。私の頭はすでに白髪でおおわれてしまいましたが、体力に関する限り、これまでに経験しなかったほど「の充実感に」満たされています。
ヨーロッパの仲間へ
1546年5月10日(アンボン)
イエズス会員として十分な学識や能力に恵まれていない者であっても、もしもこちらの人びととともに生き、ともに死ぬ覚悟で来る人であればこの地方のために有り余るほどの知識と能力をもっていることになります。
1548年1月20日(コーチン)
聖なるイエズス会について話しはじめますと、心楽しい会話をやめることができませんし、書き尽くすこともできません。しかし、私の意のままに続けようとしても、船が出帆を急いでいますから、書き終えねばなりません。この手紙で書き終えるにあたって、「もしもいつの日か、イエズスの聖名の会を私が忘れることがあるとすれぼ、「私の右の手はきかなくなるがよい」とすべてのイエズス会員に告白する以外に良い言葉を知りません。
1552年1月20日(コーチン)
神は聖なるご慈愛により、苦難に満ちたこの世において、私たちを聖なるイエズス会に結ばせて下さいましたので、この世においては、神への愛のために、互いに遠く離れて生活しておりましても、天国における栄光のイエズス会で私たちを緒ばせて下さいますように主なる神にお願い申しあげます。
1552年1月20日(コーチン)
神は聖なるご慈愛により、苦難に満ちたこの世において、私たちを聖なるイエズス会に結ばせて下さいましたので、この世においては、神への愛のために、互いに遠く離れて生活しておりましても、天国における栄光のイエズス会で私たちを緒ばせて下さいますように主なる神にお願い申しあげます。
1549年6月22日(マラッカ)
私たちは幾度も考えたことですが、イエズス会の学識のある多くの人々が、この地方に来て、少なからず危険の伴う航海の深刻な皆難を体験すべきであると思います。多くの船が失われてゆく明らかに危険の「伴う航海を」あえてすることは、神を試みることであると思われるかもしれません。しかし、私たちはそうは考えません。なぜなら、私たちイエズス会員は学識を信頼するのではなく、主なる神を信頼して「各自の心のうちに」住んでおられる聖霊の導きに従うべきだからです。そうでなければ、非常に大きな苦労をすることになります。
1552年4月7日(ゴア)
親愛なる兄弟よ、実社会で試練を受けた人を派遺して下さい。実社会で「いろいろな」迫害に遭い、神の慈しみによって勝利を収めた人を送って下さるよう特にお願いしたいのです。迫害を受けた経験のない人たちには、大きな仕事を任せることは出来ませんから。
1552年4月9日(ゴア)
日本へ行かなければならない神父には、二つのことが必要です。実社会においてよく試練され、迫害を経験した人たちで、自分自身について内心の認識を「持っている者でなければなりません」。なぜなら、日本においては、ヨーロッパではたぶん受けたことのないような大きな迫害を受けねばならないからです。同本は寒いところで、衣服はほとんどありません。寝台がありませんから、寝台の上に寝られません。食料も豊かではありません。日本人は外国人を軽蔑し、とくに神のことがよく分かるまでは、神の教えを説くためにやって来た人を「軽蔑します」。
1552年4月9日(ゴア)
日本人はいろいろと質問をしてきますので、それに答えるための学識も必要です。神父たちは博学でなければなりませんし、また討論の中で日本人の矛盾をとらえるために弁証法を心得ていれば役に立つでしょう。「また」日本人は、天体の運行、日蝕、月の満ち欠けなどについて知るのをたいへん喜びますし、雨、雪や雹、雷、稲光、彗星やその他の自然現象がどうして起こるか「を知ることに興味を持っていますので」天体の者現象についてある程度知っていなければなりません。
サビエル宣教
1542年1月1日(モザンビーク)
私たちにとって、大きな慰めとなり希望を与えてくれることのひとつは、私たちにはイエズス・キリストの信仰を宣教するために必要なものすべてが欠けているにとを、自分白身で完全に認識できるように主なる神が恩恵をあたえてくださっていることです。
1544年11月10日(マナパル)
私にとって生きているのは苦痛であり、神の教えと信仰を証すために死ぬ方がましであると思います。こんなにひどい神への侮辱を見ながらそれを矯め直すことができないでいるのですから。あなたも知っているように、これほど神を侮辱する人たちを抑えつけなかったこと以外には何も後悔しません。
1549年4月初旬(ゴア)
自分で悟ったことを他の人に伝えることで勇気づけられ、実践するようになります。
1549年4月中旬(ゴア)
私は「死んだ本ではなく生きている生活の実態から学びとる」この規則によって、いつも大切なことを見つけてきました。
1549年4月中旬(ゴア)
私は「難しく」書かれた本を時々読むことが悪いと言っているのではありません。しかし、それよりも、隣人や罪人を救うための手段を、聖書によって根拠づけられる権威を探すために、生きている書物を読むことが大切であると言っているのです。この書例には聖書や聖人たちの模範に基づいたこの世の悪習「がどんなものであるか」を語っています。
1549年6月22日(マラッカ)
私たちとともに日本へ行く兄弟、同伴者である日本人たちが私に話すところによると、もしも私たちが肉や魚を食べるのを見れば、日本人僧侶にはつまずきとなるだろうとのことです。私たちは誰にもつまずきを与えないように、絶対に肉食をしない覚悟で渡航します。
1549年11月5日(鹿児島)
主なる神は私たちが短い期間に「日本話を」覚えるならば、きっとお喜び下さるでしょう。私たちはすでに日本話が好きになりはじめ、40日間で、神の十戒を説明できるくらいは覚えました。私がこのように詳しく報告しますのは、あなた方全員に神に感謝を捧げていただきたいからです。
1549年11月5日(鹿児島)
神は、いかに多くの奉仕を捧げるとしても、奉仕そのものよりも、人々が自身を捧げ、神への愛とその栄光のためにだけ、全生涯を捧げようとする謙遜に満ちた善良な心を、重んじられるのだということをつねに思い起こして下さい。
1549年11月5日(鹿児島)
私たちが神の聖なる信仰を広めるためにこの日本へ来て、神にいくらかでも奉仕するのだと考えていましたけれど、私たちがより深い信仰、希望と信頼を神に持つため、これを妨げる被造物への愛着を断ち切るために、計り知れない大きな恵みをもって、私たちを日本へ導いてくださったのです。今私は「このことを」神の全善によって、明らかに認識し、感得いたしました。
1549年11月5日(鹿児島)
神は信頼する人たちを欺くことなく、むしろ人々が懇願し、望むよりももっと寛大に「お恵みを」お与えくださるものであることを、今あなたがたは「真剣に」考えて下さい。
1549年11月5同(鹿児島)
大天使聖ミカエルの祝日(9月29日)にこの地の領主と会談しました。領主は大変丁重にもてなしてくださり、キリスト教の教理が書かれている本を大切にするように言われました。そしてもしも、イエズス・キリストの教えが真理であり、良いものであれば、悪魔はたいへん苦しむであろうと言われました、数日後、その臣下たちにキリスト信者になりたい者はすべて信者になって良いと評可を与えました。私がこれほど大きな喜びの報告をこの書簡の最後に書いておりますのは、あなた方に心から喜んでいただき、主なる神に感謝を捧げていただきたいからです。
1549年11月5日(鹿児島)
この冬(1549年)は信仰箇条の説明書を日本語に「訳し」、たくさん印刷したいので、多忙であろうと思われます。日本では主だった人たちすベてが読み書きを知っていますし、私たちは全国を回ることが出来ませんので、各地方へ私たちの信仰を広めるため「に印刷するの」です。
1552年1月29日(コーチン)
主なる神は日本人「の救霊に働くこと」によって、わたし白身の限りない惨めさを深く認識する恵みを、あたえてくださったのですから、日本の人たちにどれほど感謝しなければならないか、書き尽くすことはできません。なぜなら、日本において数々の労苦や危険にさらされて自分自身を見つめるまでは、私自身が自分の内心の外にいて自分の中に「どれほど」たくさんの悪がひそんでいたか、認識していなかったからです。
宣教仲間への忠告
1542年9月20日(ゴア)
聖職者は聖書を読み、教える仕事をしながら、読んだことを実行することによって、インドの人びとの心を動かし、神への愛と隣人の救いのために働くようにしなければなりません。なぜなら、人の心を動かすのは、話よりも行いですから。
1544年3月14日(マナバル)
悪い子供に対して善い父親がするようにしていただきたいと切に願っています。たくさんの悪事を見て、あなた白身を疲れさせないようにしてください。なぜなら、神はご白身に対してたいへんな侮辱をする人々を殺すことがおできなのに、殺されませんし、彼らが生きてゆくために必要な物を奪い取ってしまうことが山来るのに、そうはなさらず、そのまま見捨てることもなさらないからです。
1544年3月14日(マナバル)
あなたは自分が考えているよりももっと大きな成果を挙げているのですから、あなた白身を疲れさせないようにして下さい。またもしもしたいと思うことを全部できないとしても、今していることで満足して下さい。あなたのせいではないのですから。
1544年3月20日(マナパル)
霊的に(又、精神的に)弱い人々については、たとえ現在の時点で良くはないとしても、いつかは良くなることを期待して忍耐強く努力し、その負っている荷を軽くしてやることが大切なのだと承知して下さい。
1544年4月8日(マナパル)
健康に注意しなさい。健康であれば、主なる神にたくさんの奉仕をすることができますから。
1544年5月14日(トウテイコリン)
たくさんの仕事があってそのすべてを処理できない時でも、できるだけのことをして心に平安を保っことです。少しゆとりを持ちたいと思っても、さし迫っているたくさんの仕事を放っておくわけには行かず、全力をあげて主なる神への奉仕にいそしむ立場にいるあなたは、どうぞ主なる神に感謝して下さい。
1548年2月(マナパル)
あなたがたにいくたびもお願いすることは、あなた方が訪れるところ、滞在するところ「どこでも」人びとから愛されるように努力したほしいのです。霊的な働きをし、愛情のこもった話し方で誰からも愛されるようにし、嫌われたりすることのないようにしなさい。
1549年1月12日(コーチン)
宣教師は、諸徳を備えていなければなりません。すなわち、従順、謙遜、堅忍不抜、忍耐、隣人愛、そして、罪に陥る数々の機会に負けない堅固な貞潔の徳、また健余な判断力がなければなりません。幾多の苦労を耐え忍んでいくゆくためには体力も必要です。必要なのは堅固な貞潔、謙遜、すなわち、傲慢な態度が少しもない人物です。
1549年4月初旬(ゴア)
謙遜の徳を身につけ進歩するために、低い仕事や卑しい仕事をいつも喜んで引き受けなさい。
1549年4月初旬(ゴア)
一日に二度、あるいは少なくとも一度、特別究明をすることをやめないように注意しなさい。また他人とのことよりも自分の良心について、とくによく考えながら生活しなさい。自分白身に善良でなくて、どうして他の人たちに善くすることができるでしょうか。
1549年4月初旬(ゴア)
もしも時間に余裕があれば、(自分の)ことよりも人を助けるために人々と話すようにしなさい。すべてにわたって個人的なことのために全体のことを決しておろそかにしてはなりません。
1549年4月初旬(ゴア)
もしもなたが厳粛で悲痛な顔着きをしていれば、多くの人たちは恐れをなして、あなたに相談することをやめてしまうでしょうから、重苦しく、いかめしい顔をしないで、快活な態皮ですべての人たちと交際しなさい。それであなたと話をする人たちが恐れを感じたりしないように、愛想よく親切で、とくに叱責する場合は、愛情と慈しみをもってするようにしなさい。
1549年4月初旬(ゴア)
すべてに越えて、あなたの霊的生活を、あなた自身が大切にするようにお願いします。あなたがイエズス会の会員であることを意識していただきたいのです。このように恵識することによって、ホルムズで他のすべてのことが神への奉仕に役に立つものとなります。そちらに滞在していろいろ経験すれば、経験があなたに教えてくれます。経験はすべての母ですから。
1549年6月20日(マラッカ)
何よりも私があなたにお願いすることは、あなたがすべての人から愛されるようにしていただきたいことです。
1549年6月23日(マラッカ)
すべてのことについて自分自身を克服することに務め、つねに自分の欲求や傾きを否定し、もっとも、忌、み嫌い、逃れたいと一題、うことを耐え忍び、受け入れるように努力しなさい。またすべてのことにおいてへりくだり、謙遜となるように努力しなさい。
1549年6月23日(マラッカ)
「イエズス会は」高ぶる人気負った人、自分の判断や名誉に固執する人々には「耐えきれません」。なぜなら、そのような人たちは誰とも一緒に働くことが出来ないからです。
1549年11月5日(鹿児島)
あなた力にお願いすることは、すべてにおいて、自分の能力や知識、あるいは、人々の好意ある評判に依拠「して、それにもとづいて判断」するのではなく、「すべての思いと行いとを」神「への信頼」にもとづかせるようにしてください。「あなたがたがすべてを神にお任せするならば」精神的にも肉体的にも「これから」遭遇する大きな苦難のすべてに対して備えができているものと私は考えております。なぜなら、謙遜な人々、とくに小さなこと、つまらないことにさえもあたかも明らかな鏡に映したように、自分の弱点「と醜さ」を見てとり、よりいっそう謙遜になる者を神は高きに上げ、力づけて下さるからです。
1549年11月5日(鹿児島)
主「イエズス」が仰せられた「たとえ全世界を手に人れても、自分の魂を失ったならば、何の益になろうか」(マタイ16・26)というみ言葉を、いつも心に留めておいていただきたい。
1549年11月5日(鹿児島)
あなたがたが「互いに」真実の愛情を持ち、心のうちに苦々しい感情が起こる二とのないように心から願っています。
1552年2月29日(ゴア)
もしも人々があなたの心のうちに深い謙遜があることを認めるならば、反感をもつこともないでしょう。まず初めこ、まったくつまらない労働やつつましい仕事を一生懸命やりなさい。これによって人々と親しくなり、そして人々の好意を受ければ、あなたの行動をいつも善いほうへと解釈してくれるようになるでしょう。
1552年2月29日(ゴア)
忘れないでいただきたいのは、進歩しなければ後退するということです。
1552年3月22日(ゴア)
イエズス会があなたを必要とするよりももっとあなた自身がイエズス会を必要としていることを考えあわせ、私たちの会において謙遜に生活するようにしなさい。このことをいつも川心し、あなた自身を決して忘れないようにしなさい。なぜなら自分白身のことを忘れるような人は、他の人たちを救うことなどできるはずがないからです。
1552年4月6日(ゴア)
まず第一に、あなた白身を「いつも心にとめて」注意していただきたい。あなたもご存知のように、聖書には「自分に対して厳しすぎる者が、どうして他人に対して親切ができようか」(シラ書14.5)と言っています。
1552年4月6日(ゴア)
イエズス会が必要とするのは、少数で善良な人ですから、大勢の人を入会させないようにしてください。なぜなら、善良でない大勢の人よりも少数で善良な人のほうがよりよい「結果を」もたらし、よく働けるようになることはご覧の「とおり」です。イエズス会では偉大なことをする勇気のある人、才能のある人でなければ必要ではありませんから、才能のない人や気弱な人、役に立たない人は決してイエズス会に入会させてはいけません。
1552年4月6〜14日(ゴア)
怒りに任せて誰をも叱責しないようによく注意しなさい。なぜなら、世間の人たちに絶対よい結果を与えないからです。人間はきわめて不完全ですから、このような叱責を受けると、すべての人々は熱心さのあまり叱るのではなく、叱責する人の性格のせいだと考えるものです。
1552年7月22日(シンガポール)
あなたが「ご自分の」健康と生活に注意していただきたいと切に願っております。またあなたの友であると言いながら「実際にはそうではない」たくさんの人々がおりますので、時の経地につれてさまざま「に変化する」ことを正しく判断し、川心深く対処していただきたいと「切にねがっております」。
1552年10月25日(サンチャン)
私があなたにも、すべての会員にも願っておりますことは、「神が」あなたがたを通じて行われることよりも、神があなたがたを通じて行いたいと思われても「あなたがたが従わないために」やめてしまわれることについて、もっと真剣に考えて欲しいのです。もしあなたがたがそのとおりにしてくださればたいへん嬉しく思います。
生き方
1542年9月20日(ゴア)
主なるキリストの十字架を喜んで負う人びとは、このようなさまざまな苦しみのなかに心の安らぎを感じるもので、この苦しみから逃げたり、苦労なしに生活すれば、生き甲斐を感じられなくなるものと私は信じています。
1542年9月20日(ゴア)
キリストを知っていながら、もしも自分の意見や執着心に従うために、キリストを捨てて生活するとすれば、死ぬ「よりもひどい」心の苦しみのなかで生活しなければならないことでしょう。これに等しい苦しみは他にありません。
1542年9月20日(ゴア)
自分が愛着することに逆らって、イエズス・キリストのほかには自分の利益を求めず、日々死ぬことによって「霊的に」生きることは、どれほど人きな慰めでしょう。
1549年4月初旬(ゴア)
この乱れた世にあって賢明に振る舞い、あなた自身のことを心がけて生活し、神と共に生きることを楽しみ、自分自身をよりいっそう深く知るようにしなさい。
1549年4月初旬(ゴア)
必要なものを誰からも受けないことは大切なことです。なぜなら、他人から物をもらうとその人の虜になってしまいます。
1549年4月初旬(ゴア)
贈り物を受け取らないよりも、人からの好意を受け取る態度を示すほうが、人びとの模範になります。
1552年4月6〜14日(ゴア)
夫であれ、妻であれ、彼らがあなたに言うことをすべて信じてはいけません。どちらのせいであるにせよ、双方の言い分を聞き、どちらか片一方に味方する態度を見せてはなりません。なぜなら、このような場合、たとえ片方がもう一方よりも責任が大きいとしても、つねに双方に責任があるものです。そして過失のある側の告解を時間をかけて聞いてあげなさい。私がこのように言うのは、このようにすればたやすく和解でき、つまずきを避けることができるからです。
1552年11月12日(サンチャン)
私たちは十字架の苦難から逃れて、自由の身となるよりも、ひたすら神の愛を「求めて」捕らわれの身になるほうがよりよいと考え、慰めを感じております。
ザビエルの友人
生い立ち
父母・兄・姉
父ファン・デ・ハッスは、ボロニア大学で法学博士号を取り、ナバラ国王の側近として重要な役目を果たしていましたが、スペイン軍によってナバラ王国が滅ぼされた1515年、心労のために亡くなりました。母マリア・デ・アスピルクエタは、ナバラ王国では最も位の高い貴族の出身で、結婚の時父からもらい受けた、サビエル城を、留守がちだった主人と息子たちに代わって守りました。パリに旅立ったサビエルに再び会うこともなく1529年7月に亡くなりました。長姉マグダレナは修道女となり、次姉のアンナは結婚しました。2人の兄ミゲルとファンは軍人としてナバラ王国復興につとめました。
ロヨラの聖イグナチオ−サビエルの師(1491−1556)
スペイン、バスク地方の貴族出身で13人兄弟の末っ子として誕生。パンプローナ市の士官としてフランス軍と戦った際に重傷を負い、ロヨラ城で療養生活に入りました。その病床で読んだ聖人伝に感動し、軍人生活を捨てて神と共に歩む決心をしました。念願のエルサレム巡礼を果たして帰国後にパリ大学の学生となり、サビエルに出会い、その世俗への野心から回心させました。1534年8月15日パリのモンマルトルで仲間と共に神の栄光と万人の救いのために働くことを誓い。1540年イエズス会の偉大な創立者となりました。
日本への旅の仲間
アヴァン船長
ポルトガル船に代わって、サビエル一行をジャンク船で日本まで送りとどけることを引き受けた中国人の船長。アヴァンとは「海賊」という意味のあだ名。1549年6月24日マラッカを出航。航海中、嵐のために娘が海に落ちて死に、占いによって、これを同じ日に溺死寸前で助かった中国人従僕の身代わりと信じ、サビエル一行と対立しました。中国越冬を企てたりしましたが1549年8月15日被昇天の大祝日に鹿児島に到着しました。
コスメ・デ・トルレス(1510−1570)
スペインのセビリアの宣教師でサビエルと共に来日し、山口で受洗者を二千人まで増やし、大道寺の聖堂の建立などに成果をあげましたが、大内氏の滅亡に先立って本拠を豊後(大分県)に移しました。離日後、サビエルは彼に日本布教を託しました。豊後では大友宗麟の助力助言を得、神父、修道士を指揮して島原、五島、長崎、畿内(京都、大阪、奈良周辺)などを東奔西走し、日本布教の基礎を据えました。大村純忠にも洗礼を授けました。天草の志岐で死ぬ。
フェルナンデス・ジョアン(1525−1567)
スペインのコルドバ生まれのイエズス会修道士(イルマン)。修練中インドに渡航し、ゴアでサビエルと会い、日本への随行を希望して日本語を修学、1549年サビエル、トルレスと共に鹿児島に到着。平戸、山口、後府内、横瀬浦を経て平戸に戻り、博多、にも布教。日本語に巧みなため、宗教書の翻訳、文法書、辞書の編集などにも多くの業績を残しました。平戸で死ぬ。
最初の弟子
パウロ・ヤジロウ(アンジロウ)
日本人最初のキリシタン、鹿児島で生まれ、誤って人を殺したことから海外に脱出。マラッカでサビエルに出会ったことが、サビエルの日本布教のきっかけとなりました。1548年5月インドのゴアの司教から洗礼を受けました。1549年サビエルと鹿児島に帰り、布教に貢献し、歴史上の役割を果たしました。サビエルが日本を離れた以後はっきりしませんが、中国の海岸沿いで死すとされています。
ロレンソ(1526−1592)
日本でのサビエルの受洗者中、最も重要な人物で、もとは肥前白石(平戸)の盲目の琵琶法師。醜い容貌ながら知力弁舌は抜群で、イエズス会の修道士になって説教師兼通訳として宣教師を助けました。高山右近父子等を受洗に導いたことは有名で、織田信長、豊臣秀吉との外交折衝も巧みにこなしました。当時の布教地で足跡の及ばぬ地はなく、特に五畿内(京都、大阪、奈良周辺)での布教の基礎を固めることに多大な貢献をしました。晩年は長崎で布教活動につとめ死ぬ。
ベルナルドとマテオ
ベルナルドは1549年鹿児島で洗礼を受け、平戸、山口、都への旅をサビエルと共にし、インドのゴアに渡った。さらに日本からの最初の留学生としてポルトガルのコインブラ大学に学びました。卒業後ローマへ行きイエズス会の神学生となりましたが、コインブラに戻り病死しました。マテオは山口の人で同じくサビエルに同行した留学生ですがゴアの学院に着いてからわずか数ヶ月で病死しました。いずれも志を遂げられなかったことが惜しまれますが、いちはやく、邦人聖職者養成に取りかかったサビエルの判断力と、行動力は、日本の教会の行く末にまで思いをめぐらしていたサビエルならではのものといえましょう。
日本での保護者
島津貴久(1514−1571)
戦国時代の薩摩・大隈の戦国大名で、通訳者ヤジロウの斡旋で、1549年9月29日(大天使ミカエルの祝日)にサビエルは、謁見を許され、キリスト教を布教する事の許可を得ます。これは島津貴久に目論見があったからです。その目論見とは、ポルトガルの船を平戸や府内から鹿児島に寄港させるということでした。この布教を許された期間に、サビエルはおよそ150人の人たちに洗礼を授けました。 しかし、島津貴久の目論見は、余り功を奏すことがなく、また、僧侶たちの反発が非常に激しくなり、反乱さえも起こすほどの勢いになったために、後に布教を禁止してしまいました。貴久自身は、サビエルに好意的な態度で接したと伝えられています。サビエルは、鹿児島についてほぼ1年後に鹿児島を後にしています。
松浦隆信(道可)(1529−1599)
1550年当時平戸の戦国大名であり、南蛮貿易を開始して鉄砲や大砲を蓄え、貿易により富を築いたと言われています。1550年8月に鹿児島を後にしたサビエルは、平戸に戻りました。この時、松浦隆信は、サビエルを丁重に迎え、キリスト教の布教の許可を与えています。サビエルのこの地の滞在は、わずか2ヶ月でしたが、100人くらいの求道者に洗礼を授けています。平戸滞在2ヵ月後にトルレス神父を残して、京都へ旅立ちました。
大内義隆 (1507−1551)
サビエルは、京都に向かう途中で山口に寄り(1550年11月)ました。この時、大内義隆との謁見しましたが、謁見の際の服装は非常に質素で、話す内容も非常に難解な話に終始し、失敗に終わりました。そして、宣教の許可を貰う事はできませんでした。しかし、2度目の山口の訪問の際(1551年4月)再度、謁見する機会を与えられた時は、1度目の失敗に学んだサビエルは、日本のしきたりに従った礼を持って大内義隆に謁見しました。その礼節に大内義隆は気を良くして、山口でのキリスト教の伝道を許し、それを誰も妨げないように公示を出しました。更に、大道寺という荒れ寺をサビエルたちに与えました。この大道寺こそ、日本で最初のキリスト教の教会となりました。この山口滞在時期には、サビエルは数度大内義隆に謁見し、大名と側近者などとも友情関係を築いたようです。
内藤興盛 (1495−1554)
サビエルは2回にわたり山口を訪れています(1550年11月と1551年4月)。その際に、大内義隆との謁見を斡旋したのが、内藤興盛です。内藤興盛は、大内義隆の重臣を勤めたが、武人であるよりは教養が高く、文化人として信望が厚かったようです。彼は、熱心な仏教徒でしたが、サビエルが2回目に山口を訪れた(1551年4月)数年後に妻と子供二人と共に信者になりました。 大内義隆との謁見は、1度目は失敗に終わりました。しかし、1度目の失敗に学んだサビエルは、日本のしきたりに従った礼を持って大内義隆に謁見しました。
日比屋了珪(日比谷了慶)と小西隆佐(?−1592年)
1550年11月に山口に到着したが、この時は大内義隆の保護を得られず、12月に再び京都へ出立しています。岩国から海路で堺へ着きました。この堺では、堺の有力な商人が、豪商と言われた日比屋了珪(生没不詳)宛ての紹介状を書いてくれました。日比屋了珪はサビエルの保護者となりました。日比屋了珪のことについてはよく分かっていませんが、1564年に受洗し、霊名をディオゴとしました。(この情報は、女子パウロ会の日本キリシタン物語からの抜粋です)。日比屋了珪は、小西隆佐に紹介状を書き、京都での滞在の手助けをしました。小西隆佐も、堺の豪商として、豊臣秀吉に仕えていました。小西行正の子供として生まれ(生誕は不明)、1565年にルイス・フロイスに教えを乞い、京都で最初にキリシタンになった一人で、霊名をジョウチンと名乗りました。正室もキリシタンで小西マグダレーナといわれています。サビエルは、了珪の邸宅の一部を借りて活動を行ったのですが、現在、その場所は、「ザビエル公園」(大阪府堺市)となっているそうです。
大友義鎮(後の宗麟)(1530〜1587)
サビエルは、山口滞在中の1551年8月末にポルトガルの船が府内(大分)に着いたという知らせを聞き、山口を離れることにしました。入れ替わりにトーレス神父が山口教会で活動するために平戸から来ました。平戸から来る時に豊後の大友義鎮とポルトガル船の船長ドゥアルテ・ダ・シルヴァからの手紙を携えてきました。その内容は、可能なかぎり早く府内(大分)を訪れるようにという要請が書いてありました。サビエルは、山口を直ちに出発して府内に行きました。そこで、謁見を許されたのが、当時22歳の大友義鎮でした。義鎮は、サビエルの礼儀正しい態度、親切な態度に感銘を受け、領内でのキリスト教を伝道をすることを許可しました。そして、27年後に洗礼を受けます。サビエルへの敬意のしるしに霊名を「フランシスコ」としました。キリシタン大名として知られています。
サビエルから始まった信仰の証
二十六聖人
 豊臣秀吉は島津征討完了後、「バテレン追放令」を発しました。宣教師たちの慎重な対応により小康状態が保たれていましたが、土佐(高知県)の浦戸で難破したサン・フェリーペ号の事件がきっかけとなり、秀吉は1596年12月8日京都、大阪の宣教師と信者を捕らえるよう命じ、彼らは長崎まで歩かされたうえ、西坂で1597年2月5日、はりつけによる殉教を遂げました。捕らえられた26名は、フランシスコ会の宣教師6名(スペイン人4人、メキシコ1人、ゴアのインド人1名、)イエズス会士は3名、信徒17名(内3人は子供)。日本の最初の殉教者として特別に尊敬され毎年2月5日盛大に記念されます。殉教した長崎の西坂で記念館と祈念碑が建てられています。
熊谷元直とダミアン
熊谷元直は毛利の姻戚で、山口では最も身分の高い切支丹でした。しつこく信仰をすてるように迫られましたが、死を覚悟して応じず、1605年8月15日、その予想の通り、毛利輝元の命によって、萩の邸を突如囲まれて、妻子一党十二人が殺されました。県下最初の殉教者です。
ダミアンは堺出身の盲目の琵琶法師で信仰熱心で意志が強く、そのうえ教理にくわしかったことから、神父不在の山口教会で信徒の世話を託されていました。自身の運命を感じ取った彼は風呂に入り晴れ着を着て逮捕を待ちました。毛利輝元の命により1605年8月18日、山口の湯田一本松の刑場で斬首の後、遺体は寸断され川に捨てられました。その一部は長崎に送られたと伝えられます。
ペトロ・パウロ・ナヴァロ(1560−1622)
イタリア人の神父で、伊予(愛媛県)に入った最初の宣教師。1598年に山口を訪れ、同地で4年間働き、周防、長門で多数の人々を信仰に導きました。毛利輝元の命で山口を去り、豊後(大分県)で12年間活動。宣教師追放令後も潜伏し布教活動を続けましたが。1621年12月に有馬で捕らえられ、1622年11月1日島原で火刑に処せられました。
石田アマドール・アントニオ・ピント(1570−1632)
日本205福者の一人。島原の生まれ。1611年、マカオで勉強してから司祭に叙階され、広島で宣教に従事しました。バテレン追放令後もひそかに中国地方で司牧を続けましたが、広島で逮捕され雲仙地獄での硫黄責めで苦しめられ、1632年9月3日長崎西坂で火刑に処せられ殉教しました。
その遺産を受け継いだ指導者
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539−1606)
イタリア出身のイエズス会巡察師として来日し、日本の風習への適応を強調し、日本事情に即した布教方針を確立しました。邦人聖職者の養成を重視して、一層の強化充実に努めるいっぽう、大友、有馬、大村の切支丹大名による遣欧少年使節を実現して布教地日本を西欧人の目に触れさせ、布教への協力を引き出そうとしました。また、日本に活字印刷機をもたらし、布教発展に寄与したばかりか、日本の古典まで印刷刊行し、一般文化にも貢献しました。日本を去ってからマカオに行き、中国伝道に尽力、内地に入る希望を持っていましたが、1606年1月20日マカオで死ぬ。
リッチ・マテオ(利瑪竇、1552−1610)
上川で病死したサビエルは、中国でキリストの教えを伝えることが出来ませんでした。このサビエルの夢を実現させたのがマテオ・リッチというイタリア人の宣教師です。1558年にマカオに到着し、1601年ついに北京に入ることが出来ました。リッチの書物によって韓国にキリスト教が入り、さらに鎖国時代の日本にも西洋の数学天文学が入りました。
受け継がれた信仰の光は消えず
浦上四番崩れ (4番目の迫害)
長崎の大浦天主堂は、開国後外国人のためのものとして、1865年、フランス人宣教師によって建立されました。しかし、堂内では宣教師と浦上キリシタンが出会い、キリシタンたちはここを拠点に公然と宗教活動を行うようになりました。1867年、幕府はキリシタンたちを捕らえて投獄、明治維新を経て新政府は、3400余名を全員西国諸藩に預ける処置を下しました。、萩に301名と津和野に153名が預けられました。これに対して諸外国が抗議を行い、1873年、政府はやむなく釈放を決めましたが、諸藩に預けられている間の拷問で664名が殉教を遂げました。
ヴィリオン神父(1843−1932)
幕末に来日したパリミッション会の宣教師、1889年山口にに赴任して、山口、津和野、地福、萩の教会を創立し、1924年まで力を尽くしました。その上、大道寺跡を推定して祈念碑を建立。また、長崎の浦上崩れに殉じた萩や津和野の乙女峠の信徒を顕彰しほか、「日本聖人鮮血遺書」など多くの著書をもって殉教者を語り、布教と共に信仰心の昂揚に務めました。  
 
キリシタンの歴史を辿る / 復活期の史料『平戸御水帳』

 

はじめに
2013年の米『タイム(TIME)』誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー(今年の人)」に輝いた教皇フランシスコ、その言動に世界中が注目している。
2014年1月15日、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの32回目の一般謁見が行われた。この中で教皇は、1月8日から開始した「秘跡」に関する連続講話の2回目として、再度「洗礼の秘跡」について、日本のキリスト教共同体の歴史を例にとり解説された。教皇は、洗礼の重要性を説明し、弾圧に耐えたキリシタンの歴史を「信徒の模範」と讃えた(以下、カトリック中央協議会のWebページ「教皇フランシスコの2014年1月15日の一般謁見演説」より)。
「神の民にとっての洗礼の重要性に関して、日本のキリスト教共同体の歴史は模範となります。彼らは17世紀の初めに厳しい迫害に耐えました。多くの殉教者が生まれました。聖職者は追放され、何千人もの信者が殺害されました。日本には一人の司祭も残りませんでした。全員が追放されたからです。そのため共同体は、非合法状態へと退き、密かに信仰と祈りを守りました。子どもが生まれると、父または母がその子に洗礼を授けました。特別な場合に、すべての信者が洗礼を授けることができるからです。約250年後、宣教師が日本に戻り、数万人のキリスト信者が公の場に出て、教会は再び栄えることができました。彼らは洗礼の恵みによって生き伸びたのです。神の民は信仰を伝え、自分の子どもたちに洗礼を授けながら、前進します。このことは偉大です。日本のキリスト教共同体は、隠れていたにもかかわらず、強い共同体的精神を保ちました。洗礼が彼らをキリストのうちに一つのからだとしたからです。彼らは孤立し、隠れていましたが、つねに神の民の一員でした。教会の一員でした。わたしたちはこの歴史から多くのことを学ぶことができるのです」。
今年度、南山大学図書館カトリック文庫では、古い洗礼台帳を購入した。史料そのものに書名は付いておらず、その内容から『平戸御水帳』(「御水帳」については後段で詳述)と呼ぶことにする。今回の紹介では、史料そのものの分析と併せて、キリシタンとその歴史、潜伏キリシタンの地である長崎、その中でも平戸、そして史料に登場する当時の宣教師たちについて考察することとした。当時のキリシタンに思いをはせ、この洗礼台帳『平戸御水帳』を紹介していきたい。
第1章 日本におけるキリスト教の歴史 : 特に長崎、平戸を中心にして
平戸市は、長崎県北西部に位置し、平戸(ひらど)島、生月(いきつき)島、度(たく)島、的山(あづち)大島等にまたがる区域である。地理的に外国船が寄港しやすいことから、江戸時代には貿易港として栄えた。ポルトガルやオランダ等との南蛮貿易はキリスト教の布教を抜きには語れない。貿易と布教の歴史が凝縮されている地域が平戸である。
1. 室町〜安土桃山時代
1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来、1550年にポルトガル商船が平戸に入港し、その船長ペレイラの求めでザビエルが平戸を訪れた。第25代藩主松浦隆信(まつら たかのぶ)はザビエルを厚遇し、領内の布教を許可したことから、約1カ月の布教で100人余に洗礼を授けた。しかし、ザビエルは日本の中心地への布教を考えていたので、コスメ・デ・トルレスを平戸に残し、周防(現在の山口県)から京都へ向かう。周防に滞在した1551年、ザビエルは、大名であった大内義隆から、宿舎を兼ねた説教所として、廃寺になっていた大道寺を与えられた。これが日本最初の教会と言われる。
平戸ではトルレス、バルダザール・ダ・カーゴ、フェルナンデス、ルイス・アルメイダ、ガスパル・ピレラ等の宣教師が布教を続けた。カーゴ神父が、松浦家の一族である籠手田安経(こてだ やすつね)に洗礼を授けたことから、生月、度島、根獅子(ねしこ)の領民の多くがキリスト教に改宗した。
ポルトガルは宣教師の布教を前提に貿易を行うとしていたが、仏教徒との対立、領主の勧商禁教策、日本とポルトガル商人同士の暴動事件(宮の前事件:1561年)の発生等で、状況は悪化していた。領主隆信自身は改宗しなかったが、ポルトガルと貿易の継続を望んでいたため、1564年勝尾岳東麓に東洋風天主堂「天門寺」を建て宣教者たちを常駐させた。しかし、これは功を奏せず、結果的にポルトガル船は、貿易で対立していた大村藩へ移動した。
第26代藩主松浦鎮信(まつら しげのぶ)の子久信は、初のキリシタン大名大村純忠の五女松東院(しょうとういん)メンシアを妻に迎えた。これは政略結婚であり、メンシアは、南蛮貿易を巡って対立していた松浦藩と大村藩の和睦の要として利用されたのであった。しかし、夫の久信の死後、父鎮信が返り咲き、キリシタン弾圧を強行、引き続き鎮信の死後は、洗礼を受けていないメンシアの二男信清が、キリシタン弾圧を続行した。メンシアは、隆信(祖父)と鎮信(父)から何度迫られても棄教しなかった強い信仰心の持ち主だったため、幕府に呼び出され、江戸下谷の広徳寺に隠棲させられることになった。
1587年に秀吉の禁教令が出され、1612年家康の禁教令、1616年秀忠の禁教令と続く中、藩主鎮信が度島のキリシタンを全て処刑、1599年に籠手田一族を生月から追放した。その結果、1600年には平戸にキリシタンは表面上いなくなり、この後は潜伏して信仰を続けることになる。
潜伏キリシタンは、自宅に神棚、仏壇等を置きながら、人目につかない納戸にキリストやマリア等(納戸神)を祀って密かにキリスト教を信仰していた。禁教令が解けた明治以降も一部の信者はこの形の信仰を続けていた。
2. 江戸時代
1609年、後に家康に仕えるウィリアム・アダムズ(三浦按針)が平戸に来て以来、オランダ商館やイギリス商館が設置された。その一方で、生月のキリシタンに対する処罰などの弾圧は続いていた。1622年に、ジョアン坂本左衛門、ダミアン出口、ジョアン次郎右衛門が、平戸本島と生月島の間の無人島中江之島で殉教、カミロ・コンスタンツ神父は田平で火刑になった。
1640年に幕府は「宗門改役」を置き、信仰の調査によるキリシタンの摘発を行った。これを全ての藩に広めることとし、1645年には松浦藩にも置かれた。非常に古い資料であるが、『平戸学術調査報告』の中の「平戸切支丹関係文献資料」に「元禄二巳年肥前平戸領古切支丹之類族存命帳 松浦壱岐守」の記載が写してあり、名前と処罰内容が書かれている。「切支丹本人 新兵衛 斬罪」「次郎右衛門妻 切支丹本人 沈殺」等である。また、収容する牢屋の不足から、大村(大村郡崩れ:1657年)や長崎で捕えられたキリシタンが平戸へ送られ、そのほとんどが斬罪された。囚人の出身地、名前、性別、年齢、処罰の方法が記録されている「大村より参候囚人覚」「平戸へ参候者之覚」「大村牢内御預古切支丹存命並死亡帳」等の資料によれば、両親は20代から30代、子供は1歳から10代が多く、高齢者には60代の者もいた。10歳に満たない子供が多数処罰されており、その悲惨さが伝わってくる。また、踏み絵による取り調べは、踏み絵そのものが失われたことで途絶えていたが、新たに長崎から取り寄せて、再度実施された。こうしてキリシタンへの弾圧は強まり、1644年、最後まで国内に生き残っていた、ただ一人のイエズス会宣教師小西マンショも大阪で殉教した。これ以来、1859年にパリ外国宣教会のジラール神父が再来日するまで、日本には宣教師は不在となる。
3. 江戸後期〜明治時代
1858年、日本は西洋諸国の求めに応じて門戸を開くようになった。翌1859年パリ外国宣教会のジラール神父が開国後初めて横浜に上陸し、1863年同じくパリ外国宣教会のフューレ神父、プティジャン神父が長崎に入る。フューレ神父の設計で始められた大浦天主堂の建設をプティジャン神父が引き継ぎ、天主堂を完成させ初代主任司祭となった。1865年3月17日、大浦天主堂を訪ねた約15名の浦上の潜伏キリシタンをプティジャン神父が発見。この劇的な出会いが「信徒発見」と呼ばれている。翌年プティジャン神父は再宣教後初の日本司教となり、これを機に長崎を中心に潜伏キリシタンが次々と発見されて、神父と密に連絡をとりあうこととなった。
しかし、1868年に明治政府となっても禁教令は継続された。新政府が国民への方針を示した「五榜の掲示」(高札)の第三札に「切支丹・邪宗門厳禁」がある。その後1873年になり、ようやく明治政府が制度としての禁教令を廃止し、1889年の大日本国憲法第28条「信教上の自由権」および1899年の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」でやっとキリスト教が公認された。
今回入手した洗礼台帳『平戸御水帳』の、著名な神父の名前と共に書かれている受洗者の名前を見ると、禁教の暗く長い歴史を経てやっと光を見ることができた人々の喜びが伝わってくるようで感慨深い。
第2章 いわゆる「キリシタン」とは
1.「 キリシタン」の呼称・表記について
キリシタン(ポルトガル語:christã)は、日本の戦国時代から江戸、さらには明治の初めごろまで使われていた言葉(口語)である。そして、厳しい禁教下にもかかわらずキリシタンの信仰活動を維持した人たちの呼称は、一般に流布している「隠れキリシタン」のほかに論者によっていくつかある。ただし、彼ら自身はみずからをそうは呼ばない。これは外部の研究者から与えられた名前にすぎず、当事者のなかには不快感すら示す人もいるという。キリシタンのことは外部には隠してきたため、第三者が聞いてすぐにそれとわかるような呼び方はしなかった。自称を用いることができれば問題はないのであるが、地区によってそれぞれ異なっているため、包括的な外部からの呼称が必要となってくる。
大橋幸泰氏は、「キリシタン」と一口にいっても、その呼称は固定していたのではなく、それを使用する人びとのその対象に対する評価や意識を反映していると考えられると言う(『潜伏キリシタン』p.17)。隠れるように活動していたことは事実なので、江戸時代のキリシタンを“隠れキリシタン”と呼ぶことが直ちに誤りだとはいえないが、明治時代以降、禁教が解除されたにもかかわらず、隠れるように活動していた近現代のキリシタン継承者との差異を意識するため、江戸時代のキリシタンを「潜伏キリシタン」と呼ぶことにしたいと述べている(『同書』p.15)。
宮崎賢太郎氏も、キリシタン禁教令が出されていた江戸時代の信徒を「潜伏キリシタン」、1873年禁教令が撤廃された後も潜伏時代の信仰形態を続けている人々を「カクレキリシタン」と呼んで区別している(『カクレキリシタンの実像』p.40)。「現在、内部者にも外部者にも一般的に用いられているのが『カクレ(隠れ)キリシタン』という名称です。この名称は外部者が勝手につけたもので、けっして最適な名前とはいえませんが、今となっては一定の市民権を得ており、他によりふさわしい呼び方も見当たらない現状では、この呼称を用いるのも致し方ありません」(『同書』p.43)。また、表記については「ポルトガル語のキリシタン(christã)に漢字を当てた『切支丹』は江戸時代において用いられた歴史的当て字であり、明治以降のカクレキリシタンには不適切です。漢字の『隠れ』は表意文字であり、今でも隠れているという誤った印象を与え続けかねません。欧語の『キリシタン』は片仮名で、『かくれ』は平仮名書きして、『かくれキリシタン』と平仮名と片仮名をつなげて一語を作るのもまた不自然です。現在、隠れてもいなければキリスト教徒とも見なすことのできない彼らの信仰のあり方に即して表記するならば、表意文字でない音のみを示す片仮名の『カクレキリシタン』という表記法が最善といえるでしょう」と述べている(『同書』p.44)。
2.「 キリシタン」の見方について
呼称に加え、キリシタンをキリスト教徒とみなすかどうかについても議論の分かれるところである。宗教はある意味では普遍ではない。仏教であれ、キリスト教であれ日本に伝来された時から、時代とともに変化し融合してきた。キリスト教も衝突しつつ日本の風土・文化に融合し、仏教や神道など他の宗教とも融合した。
イタリア国立パビア大学アニバレ・ザンバルビエリ教授(Prof. Annibale Zambarbieri)は、次のように述べている。「今の『キリシタン』をキリスト教徒とみなすか否かについては議論が分かれる。仏教や神道の影響を受けているとされるためだ。だが、私は彼らを『古いキリスト教徒』と呼ぶべきだと考える。地域の文化と混じり合うことはしばしば起きる。法王でさえ、彼らを信徒の模範として語った。彼らをキリスト教徒とみなさない理由はない」(『朝日新聞』2014.3.26)。
他方で、カクレキリシタンはキリスト教とは異なるひとつの土着の民族宗教であると明確に認識しなければならないという議論もある。前出の宮崎氏は、その理由を次のように述べる。「カクレキリシタンにとって大切なのは、先祖が伝えてきたものを、たとえ意味は理解できなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことなのです。それがキリスト教の神に対してというのではなく、先祖に対する子孫としての最大の務めと考えていることから、カクレはキリスト教徒ではなく祖先崇拝教徒と呼んだほうが実態にふさわしいのです」(『前掲書』p.11)。
かれらは、キリスト教徒という意識がないため、明治以後宣教師が村社会のなかに入り教会が建設されるようになっても必ずしも「カトリック」に改宗するわけではなかった。むしろそうでない場合が多かった。大橋氏は、宗教形態としてはおもに、次の三つのパターンに分かれていったという。すなわち、その宣教師の指導のもとに入って教会帰属のキリスト教徒になる場合と、それに違和感を覚えてあくまで先祖伝来のキリシタン信仰を継続しようとする場合と、地域の神仏信仰のほうに身を寄せる場合である。また、宮崎氏は、カクレキリシタンをやめた後、仏教徒となる人が約8割、神道が約2割弱程度で、新宗教という人もいくらかいるが、カトリックは1%もいないだろうと分析する。
第3章 史料『 平戸御水帳』について
1. 史料『平戸御水帳』について
『平戸御水帳』は、市販されたものではなく、冒頭でも述べたとおり標題がある訳でもないので、あくまでも版心(柱)の記載事項から借用した仮題である。「御水帳」とは、いわば洗礼台帳であり、キリシタンの潜伏時代以来の洗礼を御水と言ったことに由来する。本史料は、平戸島における、1878(明治11)年7月28日から1884(明治17)年9月7日までのほぼ6年間、約70名の授洗記録である。
形態としては、縦39.4cm×横14.6cm、和紙の袋綴じ、四つ目綴じ(四針目。綴じ側に四つ孔が穿いたもの)、全182丁の和装本である。長崎出身であり、日本における近代活版印刷の祖とも言われる、本木昌造が鋳造した金属活字(2号活字)による印刷と思われる。ただし、柱の「平戸」の文字だけは木活字であり、各教会で使用できるよう配慮されたものであろう。それゆえ、長崎近辺の古い教会には同様の御水帳が眠っている可能性は容易に想像できる。表紙あとの遊び紙には「弐百板(枚)ひらど」と読める鉛筆による走り書きがあり、木活字部分を「平戸」としたものを200枚印刷したことの証左ともなっている。そして11行の罫があり、必要事項を記入する様式となっているが(37丁目まで記入)、「御出世以来一千八百七十△年△月△日」(△はスペース、以下同じ)と印字されていること、この手の活版印刷は1877年以降のものしか知られていないことから、自ずと1877〜1878年に印刷されたものであると推測できる。
背には「タザキ△シン」、その下に「ヒボサシ△シン」(消線あり)と墨書きされている。「タザキ(タサキ)」は田崎、「ヒボサシ」は紐差(現地では“ヒモサシ”より“ヒボサシ”に近い発音をするらしい)と考えて間違いなかろう。1878年にペルー神父が来島して田崎に仮聖堂を建て、1885年にラゲ神父が近くの紐差に移転させて布教の中心に据えた事実と符合する(詳細は次章)。しかし「シン」については明らかではない。単に信者の意味の頭文字「信(シン)」なのか、それとも1873年の禁教令撤廃以降も潜伏時代の信仰形態を維持し続けた「旧(ふる)キリシタン(カクレキリシタン)」に対して、カトリックに復帰した「新(シン)(復活キリシタン)」なのか(生月島ではカトリックのことを「新方」(しんかた)と表現することもあるという)、あるいは2冊目という意味の「新(シン)」なのか、はたまた別の意味があるのか、定かではない。
2. 本史料の印刷・記入事項について
続いて、印刷・記入されている事柄について詳しく見ていきたい。なお、旧字体表記は新字体に改めた。まず1丁目1行目には、前述の「御出世以来一千八百七十△年△月△日」とあり、その下の欄には「死去」とあって、亡くなった場合の日付等が書き込めるスペースが設けられている。本来はこの上欄に記入日を、後述の授洗日記入欄にその日付を、それぞれ記載する様式だと思われるが、実際には前者はほとんど空欄で、後者の日付が代用されている。次の2行目から4行目にかけては上下2枠に分けられ、上段には右から「実父の名△歳△所△」「実の婚姻の人」「実母の名△歳△所△」とあり、10行目に記入する「児」の実の両親名を記載する様式となっている。さらに、「実の婚姻の人」の下には線が引かれて「此の両人の」とあって、下段4行の「実父の名△所△」「実母の名△所△」「実父の名△所△」「実母の名△所△」につながっており、「児」の父方・母方双方の祖父母の名および所在を書き入れるようになっている。そのあと6行目には「子に御水又仕方を授けた神父の名△一千八百△年△月△日」、7行目には「子に御水を授けた水方の名△所△」、その下欄に「はつこむによ△」、8行目には「抱親の名△所△」(記入欄として印刷されている訳ではないが、「所」を記入した下に、「年○○」と年齢を記載している例がいくつも見られる)、その下欄に「こんひるまさん△」とある。9行目には「帳方の名△所△」、その下欄に「つまの名△帳面の号△番」とあり、10行目には「児の名△」、その下欄に「子の生所△」、「誕生△月△日」と続いている。つまり、「児(子)の」両親はもとより、祖父母、結婚した場合の「つま」(配偶者)、「つま」が記載されている丁箇所まで判別できる仕組みになっており、少なくとも三代以上にわたる系譜を知ることができる。このことは、比較的現存数が多い宗門人別改帳では辿り得ず、それだけでも本史料の重要性が垣間見える。そのあと11行目には、「番△」という記載順番号記入欄があり、その下に「御水帳△」(このスペースには「児の名」が見出しのごとく再度記載されている)、「平戸」と印刷されている。また、袋綴じであるから裏面は全くの左右反対となっている。
印刷面には聞き慣れないことばがいくつか見受けられるが、名称は地方により様々であるものの、おおむね次のように考えられている。すなわち、「帳方」とは、神をお守りし、行事を執行する役であり、「(御)水方」とは、洗礼を授ける役である。「抱(き)親」は「聞役」などとも言い、行事の補佐・連絡・会計係とされている。出生の際の役割としては、「抱親」がその子を預かり、「水方」を訪ね洗礼を受けて「霊名(霊魂の名)」をいただき、「帳方」がこれらを司る、という流れである。「帳方」の“帳”とは狭義には「日繰帳(ひぐりちょう)」と呼ばれる教会暦を指す。そして、この教会暦に基づき行われ、神への公式礼拝である典礼は、神と人間とが出会い、相対する場としてどの宗教にも存在するが、それゆえ各宗教の本質が現れる。カトリック教会でも共同的な各種典礼を必須のものとしている。しかし、典礼の本来の担い手である聖職者は潜伏期には不在であったため、どうしてもその代役が必要となる。それこそが「帳方」であり「水方」である。本史料は復活時の台帳であるから、ほとんどの「神父」欄に記入があって「水方」には無い。なお、生月・平戸地方には「お帳」が無く、「土用中寄り(どよなかより)」という大集会を毎年開いて役職を決定するようであったが、典礼に重きが置かれていることに変わりは無い。また「はつこむによ」は「初聖体拝領」のことであり、「こんひるまさん」は「堅信」のことである。
総じて、カトリックへの復帰を促すためであろうか、潜伏時代のキリシタンのことばを尊重してそのまま用いているところに、カトリック教会側からの寄り添う思いが感じられる。
3. 他の「御水帳」との比較について
現存が確認されている御水帳を示せば、1馬渡島(まだらしま)(佐賀県北部玄界灘)2伊王島(長崎市長崎港外)[長崎県立図書館所蔵]3長崎市蔭ノ尾(かげのお)4五島青方郷大曽(あおかたごうおおそ)[立教大学海老沢有道文庫所蔵]5長崎市大平6褥(しとね)(北松浦地方)7瀬戸脇(五島)8生月島(平戸島の北西)、のものとなる。本学が入手した史料は、少なくとも24とは印刷様式が異なり、17と似ている。実際、木活字部分(本学史料の「平戸」部分)以外は同じ印刷面のように見受けられ、「平戸」の代わりに1は「馬渡島」、7は「五島」と印字されている。さらに4は、『五島青方村天主堂御水帳』としてWebページ上にて全文のPDFファイルが公開されているので、ある程度の比較は可能である。縦35.3cm×横15.2cm、1873年までに刊行されたプティジャン神父ゆかりのプティジャン版と同じ唐紙を用いた和装、石版刷りで、本学の『平戸御水帳』よりも古版である。1872〜1876年頃に印刷されたとされ、1877年9月10日から15日というわずか1週間ほどの間に292名分が記録(100名分を一綴として300名分を1冊に合綴)されている。そして両者の圧倒的な情報量の違いと記録された期間の大きな違いに驚かされる。『平戸御水帳』の受洗者は、1815年生(68歳)の女性と思しき記載もあるが、ほとんどは新生児もしくは幼少の者であるのに比べて、五島のそれは幼児と成人がほぼ同数である。平戸のものは基本的に出生のたびに記入されたものであり、本史料とは別に成人の授洗記録が存在するのかもしれない。五島の方は、過去10余年の受洗者を幼児、成人を問わず短期間に記録したものである。さらに細かく見ていくと、例えば『五島青方村天主堂御水帳』には「霊魂の名」(霊名)と「肉身の名」(俗名)とが明確に区別されているが、『平戸御水帳』はそうではない。また後者に「はつこむによ」「こんひるまさん」というキリシタンの伝統語が見られるのに対して、古版の前者には無い。一時期、カトリックへの復帰をやや強引に進めたとされる点の反省を踏まえた結果であろうか。その一方で、後者にのみ「子に御水又仕方を授けた神父の名」の欄が見えるのは、配慮すべきところは配慮し、押さえるべきところは押さえるという工夫とも受け取れる。
一般的に五島・外海(そとめ)・長崎系と生月・平戸系の2系統に分類されるキリシタンのうち、8以外は五島・外海・長崎系であることに鑑みると、数少ない生月・平戸系の史料がひとつ増えたことは大きな意義があると思われる。生月・平戸系とひとくくりにされるが、生月と平戸とでは大きく異なる点があるので――かつて平戸の御水帳が東京の古書市場に現われたが、一葉ずつのバラであった――、その意味でも、唯一まとまったかたちの平戸のものとして、本学の『平戸御水帳』は貴重である。
4. 今後に期待される研究について
平戸島は土着の信徒もあれば移住者もあったが、その後カトリックに改宗したグループと根獅子のようにカクレキリシタンとして潜伏時代の信仰形態を維持し続けたグループとに分けられる。どちらかと言えば、生月島側(西側)はカクレキリシタンとなった人々が多く、田崎、紐差など(東側)はカトリックへ復帰した割合が多かったようである。これに関連して、カクレキリシタンの、平戸島と上五島(五島列島北東部)とのつながりについて、以前は知られていなかったが近年確認されることとなった。この事実追認と考証において本史料が役立つ可能性もある。
『平戸御水帳』は、記載人数は少ないものの、受洗者本人のみならず「帳方」「水方」「抱親」などの名前を丹念に見て比較すれば、復活時代のカトリック教会の勢力を把握する一助となるだけでなく、人物の確認、さらには受洗年齢や家族関係から婚姻関係や信徒の移動まで、多岐にわたる当時の状況を詳細に知ることができる。他の御水帳と突合わせて調査することで、より詳しい実態が掴めることは言うまでもない。また、明治初期の庶民生活に関する基礎史料としてだけでなく、カトリック教史、民俗学あるいは宗教社会学等々、広範囲な研究にとって有益な史料となり得るであろう。
第4章 『平戸御水帳』に登場する神父たち
『平戸御水帳』(以下、『御水帳』と記す)に名前が記されているのは、ぺルー神父、ソーレ神父、ラゲ神父、ボンヌ神父、フェリエ神父、マタラ神父の6人の神父たち。いずれもパリ外国宣教会の神父である。パリ外国宣教会は、17世紀中頃、海外宣教地で教会を設立し、現地人司祭を育成することを目的に設立されたフランスのカトリック宣教会である。同会は1844年に那覇に上陸したフォルカード神父を先駆けに日本のカトリック宣教にむけて活動を開始し、1859年フランスの外交使節団の通訳として江戸に入った。かつてのイエズス会の活動にはポルトガル国家の支援があったように、パリ外国宣教会の後楯としては、日本との通商を望むフランス政府やフランス軍の姿が見え隠れしていた。明治時代は、日本におけるパリ外国宣教会の活動が本格的に展開し始めた黄金時代であり、1870年代から1900年代初頭にかけて、同会から150名もの若い宣教師が来日し、日本のカトリック教会の礎を築いたとされている。
1. ペルー神父(PELU, Albert-Charles)
6人の神父の中で、最初に来日したのは、ペルー神父で、1872年24歳の時である。1870年に司祭に叙階され、翌年パリ外国宣教会に入会するとすぐに来日し、最初は新潟で宣教活動を始める。1873年にキリシタン禁制の高札が撤去され、浦上のキリシタンが釈放され帰還すると、プティジャン神父から外海・黒島・平戸島、馬渡島の広大な教区の運営を任され、1878年に平戸の田崎に教会堂と司祭館を建てた。『御水帳』の日付は1878年7月28日より始まっている。洗礼を授けた神父の名前の欄に「アルペルツァ ペルサマ」と記されており、まさにこの頃のことである。Webページに掲載されている堂崎天主堂100周年(2008年)のオリビエ・シュガレ師記念講演『下五島で活躍した宣教師』の中では、ペルー神父は次のように語られている。
「文字通り動く宣教師で、いつもじっとしておられない、いつもあちこち走り回って動いていた。彼は本当に頑健な体の持ち主で非常に優れた組織力の持ち主であり、勇敢な船乗りでもあった。彼は海の巡回宣教を日本の歴史の中で初めて行った。巡回の宣教、いつも船に乗って島から島へ、ずっと回っていたわけです。1892年、彼は五島列島全体の責任を任せられて教会の組織化と運営の合理化に力を入れた。せっかちで、彼が何か決めたら皆動かないといけない。強引に人を指導するため文句を言う人もいたようです。しかし教会の立て直しは緊急課題であったためあの頃にはこのような強引さが必要だったかもしれません。ペルー神父は教会をたくさん建て、1908年堂崎の教会を完成させた。彼はこの教会を非常に自慢しており、世界一番の教会だといっていたそうです」。
1900年代に入ると、五島に次々と教会を設計・指導した。長崎県を中心に多くに教会建築を手がけた棟梁である鉄川与助の若き日に、アーチ断面を水平に押し出した天井様式を特徴とするリブ・ヴォールト工法と幾何学を指導した人物としても知られている。
1848年フランスのサルト・フレネーシュルサルトに生まれる/1870年(22歳)司祭に叙階/1871年(23歳)パリ外国宣教会に入会/1872年(24歳)来日/1918年(70歳)逝去、長崎浦上宣教師墓地に眠る
2. ソーレ神父(SAURET, Michel)
ソーレ神父は、生涯にわたって、福岡県の筑後今村と久留米を中心に宣教活動を行った。来日直後はプティジャン神父より日本語を学び、しばらくの間他の神父と共に平戸に行き、平戸からさらに近隣の島にも巡回していたようである。『御水帳』に記載された日付は1880年6月16日および17日の2日間のみ。今村に赴任する直前のことだろうか。『御水帳』には、「みきるそーれ」「ソーレサマ」と記されている。ソーレ神父が平戸から移った今村の地は、長い迫害をくぐり抜け明治までキリシタン信仰を守り続けてきた歴史的にも興味深い土地柄であったようだ。「当時の神父は二代目ソーレ神父だが、初代コール神父と同じく、まるで開拓民のような暮らしだった。宿舎もなく、貧しい農民の家にともに住み、田畑を耕し、農民食を食べ、今村人になりきっての伝道であった。特にソーレ神父は九年近くもこのような今村で暮らしている。今村の人たちが次々と洗礼を受け、後を絶たなかったというのも、このような神父と村人たちの血の通った深い結びつきがあってのことと思われる」(「カトリック愛苦会修道会の歴史的研究T草創期」)。このような活動の中で、今村の村民を集団洗礼に導き、1881年には聖堂を完成させる。その後、久留米に移ったソーレ神父は、復活キリシタンの再教育に力を注ぐ一方で、医療の心得をいかし、「斯道院」と名付けた診療所を開設し、ごく僅かな治療費で貧しい信者の治療にあたっていたらしい。また故国フランスから西洋草花の種子を取り寄せ、地元の園芸家に分け与えたり、トマトや白菜の種を分け与えて栽培法を伝授したりと、久留米特産の基にも貢献したようだ。さらにはソーレ神父が著し、日本語に訳された『万物之本原』(1889年)、『人類之本原 上・下』(1892年)は、その久留米の地で出版され、今なお国立国会図書館に所蔵されている。『万物之本原』は第一節「地球ノ始メハ流動体ナリシ事」で始まり、第十六節「生類自生論ノ事 」で終わっている。ソーレ神父は様々な方面に通じる多彩な人物であったようだ。
1850年フランスのオーヴェルニュ・サンジェルヴェに生まれる/1876年(26際)司祭に叙階、来日/1878年(28歳)パリ外国宣教会に入会/1917年(67歳)逝去、久留米カトリック墓地に眠る
3. ラゲ神父(RAGUET, Emile)
6人の神父の中で、ラゲ神父はただひとり、ベルギー出身である。新約聖書のラゲ訳と仏和大辞典の著者として、後世に名前が知られている神父である。第七高等学校造士館の教授ら日本人同志との協力でできた聖書は、その翻訳の確実さと優れた文体と文脈により、今もなお、高く評価されている。ラゲ神父は1882年頃ペルー神父の後任として黒島、平戸、馬渡の責任者となった。ペルー神父が田崎に建てた教会堂を、1885年に交通の便のよい紐差に移転し、現在に続く紐差教会を発足させた。『御水帳』には1883年の日付で「ダゲサマ」「だげさま」「ラゲサマ」などと記されている。1889年に大日本帝国憲法が発布され、信教の自由が明文化されると福岡、大分、宮崎、鹿児島などに根拠地をつくり、九州に組織的な布教を進めた。『カトリック大辞典』によると「来朝して以来ラゲは毎日を仏和辞典編纂準備に没頭した。しばしば未信者に講演をしたので、正確な或る程度美しい日本語を話せるやうになった。当時の名演説家の言廻しや調子を数多く暗誦するやうに努め、それらを必要な機会に用ふることを心得ていゐた」とある。堪能な日本語をいかして、講演会を開き、場所を借りて人を集め、教えを説き、福岡での3年の間に36名に洗礼を授けたという。宮崎を経て、鹿児島に移ると、「四十歳をこえたラゲ神父は、布教と司牧、建築と翻訳、修道女の指導、まさに八面六ぴのはたらき、外的激務のうちに、内的生活をきらめかした時期である」(『ラゲ神父の面影』p.464)とあり、さらに多忙な日々を送る。1915年には前任者の神父から引き継いだキリシタンの聖地、浦上の地に天主堂を完成させて66歳で引退。人生の最期は、自ら養い育てた修道女たちの手厚い看護の末、永遠の眠りについた。
1854年ベルギーのブレーヌ・ル・コントに生まれる/1877年(23歳)パリ外国宣教会に入会/1879年(25歳)司祭に叙階、来日/1929年(75歳)逝去、東京府中カトリック墓地に眠る
4. ボンヌ神父(BONNE, Francois)
コール神父の後任としてソーレ神父が今村で布教を始めたのと同じ頃、ボンヌ神父は、同じくコール神父の後任として天草で布教活動を始めている。ボンヌ神父は布教活動中に激しい肋膜炎にかかり、これは全快せずに生涯にわたって神父の健康に影響を及ぼしたとされている。そのためか、天草での布教について記された資料はほとんど見られない。『御水帳』には、1880年10月28日の日付で名前が記録されているだけである。天草を中心に布教しているなかで、周辺の地域にも足を運んでいたのだろうか。『福岡教区50年の歩み』には、1880年10月7日に、ボンヌ神父が馬渡島で洗礼を授けた記録が残されている。1882年にプティジャン神父によって新設された長崎神学校の校長に若くして任命された後、29年間の長きにわたって校長の職にあり、浦川和三郎(後の仙台司教)、脇田浅五郎(後の横浜司教)、松岡孫四郎(後の名古屋司教)など、後の日本のカトリック教会を支える日本人神父たちを育て上げた。「復活して間もない日本教会に、期待され、また有為な働き手として歓迎された邦人神父たちのほとんどは、ボンヌ校長の薫陶を大なり小なり受けた人たちであり、その人格と識見の素晴しさは、皆が均しく認め、尊敬していたところである。また、堂々たる体躯の持主であったが、それに相応して度量も広く、新神父たちからは、クザン司教以上に、おそれられていた」(『福音伝道者の苗床』p.51)とある。ちなみに、松岡孫四郎司教は第2代南山学園理事長(理事長職:1942−1948)であり、1964年5月の山里キャンパス(現名古屋キャンパス)の創設時には、カトリック名古屋教区の司教として祝別式、落成式を執り行った人物である。ボンヌ神父は1910年に第3代東京大司教に任命されたが、1911年に以前からの病気が再発し、それから1年もたたずに亡くなっている。
1855年フランスのサヴォワ・サン=クリストフに生まれる/1879年(24歳)司祭に叙階/1880年(25歳)来日/1912年(57歳)逝去、青山霊園外人墓地に眠る
5. フェリエ神父(FERRIE, Joseph-Bernard)
フェリエ神父は最初のペルー神父から遅れること9年、1881年1月15日に来日した。『御水帳』には、来日直後の1881年10月29日の日付で、「ジョゼフ・ベルナルド・ヘレイエ」と一度だけ名前が記されている。来日後は天草に赴任し、困苦欠乏の中で、多数に洗礼を授けたとされている。鹿児島に赴く途中に、皿山(鹿児島県)で島原の乱の落人集落の約90名に洗礼を授け教会を建設、薩摩宣教の基礎を築いた。1891年、「フェリエ神父は、鹿児島で洗礼を受けたと云う一人の貧しい大工から大島の住民がカトリック教を知ろうと望んでいる事を告げられ大島行きを頼まれ」、「鹿児島より、木曽川丸でカトリック宣教師として初めて奄美の福音宣教のため来島、・・・10日間滞在して福音を述べるフェリエ神父の講演に名瀬の殆どの住民が参集し多大の影響を与える」(『カトリック奄美100年』p.53)と始まる奄美大島における宣教により、1916年には信者数は全島で3,000名に達し、フェリエ神父の名は「奄美大島の使途」として知られることになる。また、奄美大島の昆虫や植物を採集し、この地域の昆虫相の解明にも貢献。フェリエ神父の名に由来する「フェリエベニボシカミキリ」という美しい虫が、奄美市指定希少野生動物に指定されている。
1856年フランスのアビロン・ガラゼに生まれる/1877年(21歳)パリ外国宣教会に入会/1880年(24歳)司祭に叙階/1881年(25歳)来日/1919年(63歳)逝去、熊本天主教墓地に眠る
6. マタラ神父(MATRAT, Jean-Francois)
マタラ神父は、フェリエ神父と同い年。ほぼ同時期に来日し、黒島・平戸地区で布教にあたり、平戸を代表する教会の数々を建てた。「八丁櫓をしたてた6尋ばかりの舟に屋根を張った御用船とよばれる舟で、神父様は巡回してまわられた。移住者たちにとって、ラゲ神父様、マタラ神父様は頼れる唯一の指導者であり、一ヶ月に3、4回入港する御用船をたのしみに待ったという」(『上神崎100年史』p.44)とある。『御水帳』には1882年から1884年にかけて「マタラサマ」「まてるさま」などの名前が、ラゲ神父の名前と交互にみられる。ラゲ神父の助任司祭として活動していた頃だろうか。ペルー神父が田崎に建て、ラゲ神父が紐差に移した聖堂は、各所から多数の信徒が訪れ、すぐに手狭となり、1887年にマタラ神父が木造の教会堂を建てる。生涯にわたって平戸に留まり、地元の人とともに布教を行い、死に際しては、愛する田崎の地に埋葬されることを望んだと言われている。マタラ神父の葬儀は、若い時に彼を指導したラゲ神父が執り行った。紐差教会には参列者が入りきらず、木ヶ津湾を見渡す丘の中腹にある墓地まで1,200人が追随し、信者たちが教会から1時間かけて歩いたと伝えられている。その墓碑の傍らには「日本での40年の宣教は偉大であった / 88年たっても慕われ続けている / 心から感謝しています / マタラ神父様に、そしてフランスに。/ 紐差教会歴代の主任司祭」と刻まれている。
1856年フランスのロワール・ファルネイに生まれる/1878年(22歳)パリ外国宣教会に入会/1881年(25歳)司祭に叙階、来日/1921年(65歳)逝去、田崎の墓地に眠る
7. 神父たちの生涯を振り返って
『日本の教会の宣教の光と影』には、当時来日したパリ外国宣教会の神父たちについて、次のように記されている。「司祭になり、旅立ちの時が来ると、仲間と親戚に囲まれて、殉教を賞賛するようなロマンチックな出立式の歌を歌い、祖国に帰らないつもりで、親や兄弟と別れを告げ、長い船旅に出ます。一番遠い国、日本なら、二、三ヶ月後に上陸し、一、二年間、先輩の指導の下に日本語を学ぶ(まだ当時は日本語学校がありませんでしたので)と同時に、宣教の心構えを身につけます。その後、日本人の伝道師とペアーを組んで、任命された地で巡回宣教を始めます。家庭訪問をしたり、カトリック要理を教え、求道者に暗記させます。宣教師として養成するのにふさわしい子がいれば、小神学校を紹介します。その他、土地を買い取って聖堂を建て、場合によっては福祉施設(特に孤児院)を創設し、あるいは死んで行く人(特に老人と子供)に洗礼を授けることによって、天国に送り出します。宣教師たちは比較的に短い一生を全うし、憧れの天国にすべての望みを託して死んでいきます。こうして、おわかりのとおり、明治時代に来た宣教師たちは、例外的に貴族出身の人もいましたが、ほとんどは農村出身で、エリートを対象に知的な活動をするよりも、家庭を中心にした司牧宣教に力を入れていましたし、大きな髭をもって、強い印象を与えていたでしょう。しかも目の奥にやさしさが感じられ、身近で、大変慕われていたような気がします」。
6人の神父たちの写真を見てみると、皆、司祭服に包まれ、立派な髭がたくわえられた顔は深い信仰に支えられてやさしく微笑み、同じような雰囲気を醸し出している。しかしながら、それぞれの人生は故郷を遠く離れて一人ひとり歩む道であり、険しく厳しいものだったろうと想像するに難くない。このたび本学図書館の所蔵資料となった『御水帳』に記された名前から、その道のりの一端を知ることができたことは私たちにとっても大きな喜びである。
おわりに
1865年3月17日大浦天主堂に於ける「信徒発見」から来年(2015年)で150周年となる。今、日本のキリシタンが改めて脚光を浴びている。バチカン図書館で発見されたキリシタン関連資料(約1万点)が国際研究プロジェクトのもとで整理、デジタル化、公開されれば、各分野での研究が一層進むであろう。バチカン図書館と日本の研究機関との交流も深まる。また、今年「世界文化遺産」登録候補として推薦された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が2016年に登録されれば、「人類共通の貴重な財産」として保護すべきものと世界的に認定され、国内外での認知度もさらに高くなるであろう。研究者やキリスト教関係者のみならず一般の人々の関心も高まり、現地を訪れる人々も増えことが予想される。南山大学図書館カトリック文庫もこれらの研究や文化交流に貢献できれば幸いである。  
 
キリシタン神社 / 日本独自の宗教施設

 

10年くらい前に、私はキリシタン神社の歴史と現状について調べたいと思い立ちました。「キリシタン神社」とは通常の神社とは異なり、キリシタンを御神体として祀っている神社のことです。片岡弥吉氏によれば、「キリシタンたる人を祀る神社は、日本に三ヵ所ある」といいます。その三ヵ所は、長崎市下黒崎町の枯松神社、長崎市の桑姫神社、伊豆大島のおたいね大明神です。宮崎賢太郎氏は、片岡説に自らの見解を加え、五島列島若松の山神神社と有福の頭子神社もキリシタン神社にあたるとして、合わせて五ヵ所をキリシタン神社と認めています。しかし、私の調査では、キリシタン神社の総数は八ヵ所になります。この八ヵ所のキリシタン神社を自分の目で観察、確認したとき、私は驚きを隠せませんでした。
日本の潜伏キリシタンたちは二百数十年という長期間にわたり、厳しい弾圧と迫害とに耐えて、自分たちの信仰を守り続けてきました。彼らの子孫はキリスト教が解禁された明治以後、もう隠れる必要はなくなったにもかかわらず、あえて「隠れ」というスタンスを選び、昔の潜伏キリシタンの信仰スタイルをそのまま継承することにしました。キリシタン神社を定義すれば、「キリシタンを祀っている神社」ということになり、これはとりもなおさず、「キリシタンに関わりのある神社」という意味です。これは「キリシタン神社」について考える時、最も本質的かつ重要な概念といえます。
ご存知のように、キリスト教の本来の教えによれば、いかに偉大なキリシタンといえども「祭神」には成り得ません。しかし、日本的風習がそこに入り込み、故人となった人徳の優れたキリシタンたちは人々に崇敬され、いつまでも慕われた結果、彼らのお墓が大切に祀られ、それが「キリシタン神社」を生み出したものと思われます。先祖への尊敬を表すために、当時としてはそれが最も適切な手段であったのでしょう。
さらに、他の重要なこととしては、キリシタン神社について考察する時、一般的にはそれが文化として存在するものと解釈するのですが、神道ともカトリックとも違う要素を含んでいることを見逃すべきではありません。形式面だけを見れば、キリシタン神社の概観はカトリックのイメージとはおよそ結びつかないものであり、むしろ通常の神社に酷似しています。しかし、人々が神社に似せたモニュメントを建立した真意はカモフラージュにあり、通常の「神社」の興りとは似ても似つかないものです。また、キリシタン神社はカトリック教会の聖堂とも全く異なる場所です。カトリック教会の場合、人々は自由に聖堂の中に入って祈ります(典礼行為)。しかし、キリシタン神社の場合、人々は外に立って、神社に向かって礼拝します。
結論として「キリシタン神社」はキリシタンの足跡を残す日本独自の宗教施設であるということです。特に、長崎県に現存するキリシタン神社の重要性は、それらが特定の聖地、精神的拠り所であるだけでなく、地域社会と信仰との融合点なのです。キリシタン神社の祭礼によって宗教的調和が構築されるに至りました。必然的に異宗教間の対話という新たな価値を生み、それは日本人の特性、日常的には神社崇拝などとはほとんど無縁に過ごしているが、何かの折には神社神道のお世話にならないと、なんとなく落ち着きと安らぎが得られないという日本人の精神史のありようを規定していったのではないかと推測します。  
 
聖書に触れた人々

 

森永製菓の創立者 森永太一郎
「キリスト・イエス、罪人を救わんために世に来たりたまえり。」第一テモテ1章15節  
「義は国を高くし、罪は民をはずかしむ」箴言14章34節
聖書の有名な御言葉は101回をもって、先週終了とさせていただきました。記録によりますと、第一回は2005年10月18日の婦人聖研からでしたから、まる6年続いてお話ししたわけです。そこで今度は、聖書の御言葉に強く影響を受けたり、座右の銘としたりした有名な人々を取り上げつつ、聖書の御言葉をお分けしたいと思います。「え、あの人がこんな御言葉を」などと言う驚きがあるのではなないでしょうか。第一回目は、森永製菓の創立者「森永太一郎」です。
森永太一郎(1865-1937)は、佐賀県伊万里で一番の豪商の家に生まれました。しかし、6歳の時に父が死に、母は再婚し、彼は親戚の間を転々とする生活となりました。そのような幼少時代のため、12歳になっても字が読めず、その後、母方の伯母にあたる山崎家の養子となり、学問を修めることができました。19歳で上京し陶器商に勤め、20歳で結婚しました。彼は家族のためにアメリカでも日本の陶器を売ろうと単身で渡米しますが、全く売れず計画は失敗してしまいました。
失敗したまま日本に帰ることも出来ず、ある公園のベンチに暗い思いで座っていたとき、とても上品な感じの婦人からキャンディを頂きました。とたんに太一郎は、洋菓子職人になろうと決心ました。しかし当時は人種差別が強い時代であり、苦労の多いアメリカ生活でした。下男をしながら数軒の家を転々としつつ生活していたある時、オークランドの老夫妻の家に雇われました。そのことが太一郎を変えることになったのです。その老夫婦はクリスチャンで、太一郎を差別することなく家族のように受け入れてくれたのです。その老夫婦の人格に触れ、彼は教会に導かれ、洗礼を受けることになったのです。
すると太一郎は菓子職人になる夢を捨て、キリスト教の伝道者になる夢を抱いて帰国しました。彼は日本に帰ると、即座に親族や兄弟に伝道しました。しかしそのような太一郎を見て、人々は「太一郎はアメリカで頭がおかしくなった」と反対しました。育ててくれた岩崎家からも離縁されてしまいました。彼は伝道者になることにも失望し、再度アメリカに渡り、洋菓子作りの学びを続けました。そして帰国後、マシュマロを作って販売すると、それが大当たりとなりました。それらのお菓子をガラス張りのリヤカーに積んで販売して回りました。そのリヤカーの上には「キリスト・イエス、罪人を救わんために世に来たりたまえり。」(第一テモテ1章15節)。「義は国を高くし、罪は民をはずかしむ」(箴言14章34節)との聖書の言葉が書かれた看板が掲げられていました。そのような彼を町の人たちは「ヤソのお菓子屋さん」と呼ぶようになりました。
やがてあの有名なミルクキャラメルが販売されると、日本中で大ヒットとなりました。昭和の人ならば一度は食べたことのあるキャラメルでしょう。しかし商売の成功と同時に、信仰の面は一時停滞した時があったようです。その信仰も、奥さんの死を契機に復活しました。彼は川のほとりで泣きながら再献身を誓いました。その復活した信仰を証明するようなエピソードがあります。それは1923年の関東大震災の時でした。かれは被災者にお菓子を無料配布したのです。すると森永の幹部達はそれに反対しました。その反対に対して、太一郎は「これは神様とお客様へのお返しだ」と配り続けたのでした。
やがて社長を退いて会長となってからは、全国の教会を伝道講演して回りました。その時の講演題は、判で押したように「我は罪人の頭なり」であったと言います。ちなみに森永のエンジェルマークのTMは、彼の頭文字と言われています。
人は不幸な人生が過去にあっても、恨む必要などありません。神様の導きを信じれば人生は素晴らしい。一時的に信仰が停滞していた時期があつた等と、悩む必要もありません。これからの人生が大切なのです。森永太一郎氏にとって、最初に掲げた御言葉と不信仰が回復して掲げた御言葉が同じであっても、意味においては全くちがったものとなっていたと思います。私達も人生の様々な体験を通して御言葉の深みを知ろうではありませんか。  
ライオンの創立者 小林富次郎
今年の3月18日、日本最古の映像フィルムが国の重要文化財に指定されました。それは「ライオン」の創立者、小林富次郎(西暦1852-1910・ 嘉永5年〜明治43年)の葬儀のフィルムです。神田柳原にあったライオンの前しん「小林富次郎商店」から、告別式の会場になった東京基督教青年会館(YMCA)まで、二頭立ての馬車を中心に歩いていく葬列の様子が約7分間映っています。歯磨や石鹸の製造販売で名の知れた株式会社ライオンの創始者小林富次郎は、とても熱心なクリスチャンでした。「法衣を着た実業家」とか「そろばんを抱いた宗教家」とも言われていた程です。彼は現在の埼玉県さいたま市中央区の出身です。
小林富次郎がキリスト教に出会ったのは36歳の時でした。彼が神戸に住んでいた時のことです。ある劇場でキリスト教の演説会があり、彼は友人を誘って出席しました。すると この演説会を妨害しようとする若者たちが騒ぎ出し、場内は一時騒然となったのです。そこに柔道の教師をしているクリスチャンの大男が控え室から出てきました。きっと腕ずくで暴徒をつまみ出すのではと思って見ていました。ところが、その大男がひたすら頭を下げて「お願いです。静かにして下さい」と懇願し出したのです。これを見て富次郎は深く感動し、熱心に教会に通うようになりました。そしてついに洗礼を受けることになったのです。
その後、富次郎は実業家の道を歩き出しました。全財産をはたいてフランス製の機械を導入し、宮城県石巻に大規模なマッチ製造工場の事業をするために準備を始めました。ところが洪水が起こって、準備した全ての原料と工場の機械を失ってしまいました。彼が途方に暮れ、絶望して北上川に身を投げようとした時、稲妻のように彼の中に御言葉が光ったと言うのです。それは神戸の長田牧師が葉書で彼に贈ってくれた聖書の言葉でした。そこには「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:11) と記されていました。その御言葉によって富次郎は自殺を思い止まり、勇気を奮い起こし、東京の神田に石鹸やマッチの原料の取次店を作ったのです。そして牧師から聞いた歯磨き粉の製造方法をヒントに、これを研究して1893年3月に発売しました。彼は慈善活動にも力を入れ「慈善券付き歯磨」を販売し、岡山孤児院(石井十次)などの施設開設に資金的援助をし続けました。
御言葉は、それを信じる人がどんな窮地にあっても希望と勇気を与える力があります。もし小林富次郎があの北上川に身投げしようとした時、この御言葉がひらめかなかったら、小林富次郎もなかったし、現在のライオングループもなかったことになるのです。彼は59歳でこの世を去りました。
私達もつらい時や苦しい時には、この御言葉を読んで神様からの励ましを頂きましょう。
余談ですが、ライオンと言う社名は、当時洗剤関係にキリンとか象とかという動物の名前が使われていたので、動物の中の王様と言ったらやはりライオンだろうということで、百獣の王ライオンをマークにしたということです。 
ユダヤ人を救った外交官 杉原千畝
杉原千畝(すぎはら ちうね)は、第二次世界大戦を経験したユダヤ人達にとって忘れることのできない日本人です。いまや彼の名前が着けられた道がイスラエルにあるほどなのです。第二次世界大戦中、ナチスによるユダヤ人大虐殺を逃れようとして難民となったユダヤ人の命を救ったのが、杉原千畝なのです。その数は六千人に及びます。その時、杉原千畝はバルト三国の一つ、リトアニアの首都カウナスの日本領事館で代理領事をしていました。 
ナチス・ドイツのヒットラーがユダヤ人狩りを続けていました。1940年7月27日の朝、千畝は物凄い数の人々の声に驚いて目を覚ましました。その声は、ポーランドから歩いて逃げてきたユダヤ人難民の声だったのです。彼らの願いは、ソ連を通り日本を経由して第三国へ移住するための、日本通過ビザの発給を求めてのことでした。既にオランダもフランスもドイツに破れ、逃れる道はシベリアから日本を経由して他国に逃げる道しかなかったのです。
杉原千畝は、さっそく外務省に電報を打って、日本入国許可のビザの発行可否を問い合わせました。しかしそれに対する返事は非常にも「否」でした。当時日本は、イタリヤ・ドイツとの三国同盟を結ぼうとしている時でした。同盟国のドイツの気に食わない事はしたくないと言うのが本音だったのです。迫り来るユダヤ人達の悲痛な姿を見て千畝は悩みました。日本人として国の命令に従うべきか、日本の命令を無視してでも人々の命を守るべきか苦悩しました。彼はついに決断しました。独断でビザに署名し発行することを選んだのです。その時千畝は「ビザを出さなかったら神に背くことだ。私は自分の責任においてビザを発行する」と言ったといわれています。彼は若いころにロシア正教の洗礼を受けたクリスチャンでした。
8月1日、ついにビザ発行の言葉を聞いた瞬間、ユダヤ人たちは抱き合い、躍り上がって喜んだとのことです。8月3日ソ連軍がリトアニアを併合し、外国領事館の退去命令が出されます。杉原は退去期限ぎりぎりまで、朝から晩まで一日中ビザを書き続けました。ついに用紙も無くなり、ついには周りの紙切れに書きました。不眠不休で書いたそうです。9月1日早朝、ついに杉原はリトアニアを離れなければならない時が来ました。彼がベルリン行きの国際列車に乗っても、大勢のユダヤ人が駅のホームまで押し寄せて来ていたと言います。杉原は窓から身を乗り出してビザを書きました。そのビザに救われたユダヤ人は6.000人以上と言われています。1940年10月6日から翌1941年6月までの10ヶ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されています。
終戦後、千畝は日本に帰国しましたが、外務省を退職させられます。彼は黙って外務省を去っていきました。ビザを書いてから28年が経った1968年8月のある日、突然イスラエル大使館から杉原のもとに電話がかかってきました。参事官ニシュリが「会いたい」と言ってきました。杉原が行ってみると、彼は一枚のボロボロになった紙切れを見せて、「あなたが書いて下さったこのビザのお陰で、私は救われたのです。私はあの時、領事館であなたと交渉した5人のうちの一人、ニシュリです」と言ったのです。さらに翌年の1969年、杉原はイスラエルに招待されました。彼を迎えたのは宗教大臣バルハフテイツクでした。彼も杉原に救われた一人だったのです。1985年、イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」を授賞しました。
このことが新聞やテレビで報道され騒がれ始めましたが、彼はただ一言「当然のことをしただけです」と謙遜に語りました。
ルカ17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。  
作曲家 滝廉太郎
作曲家の滝廉太郎がクリスチャンであったことは、日本のクリスチャン達の中でさえ知られていないことが多いのではないでしょうか。しかし彼は間違いなく、明治期のクリスチャンでありました。今日は「クリスチャン滝廉太郎」をクローズアップしてお話ししましょう。
彼は15歳で東京音学学校(現・東京芸大)に入学し、1898年(明治31年)本科を首席で卒業しました。その後、研究科に進み、翌年音楽学校嘱託となります。彼にピアノを教えたのは、ロシア人ケーベル博士で、東京帝国大学で哲学を教えるとともに、ピアニストでもあり、彼のピアノの指導はチャイコフスキーだったといいます。東京音楽学校でも教えていました。そこで、滝廉太郎は彼からピアノを学んだのです。 滝廉太郎は1900年10月7日、つまり東京音楽学校の生徒の時代に、当時麹町にあった博愛教会の元田作之進牧師により洗礼を受けました。廉太郎を博愛教会に導いたのは、東京音楽学校の同級生高木チカという女性でした。「日本聖公会」博愛教会は、世田谷の砧に移り、名前も変わって「聖愛教会」という名前で現在も存在しています。
滝廉太郎の曲で私達に親しみの深い曲のひとつは『荒城の月』でしょう。この曲の歌詞は土井晩翠(つちい ばんすい)によって書かれました。土井晩翠はクリスチャンではありませんでしたが、夫人と娘はクリスチャンでした。東京音楽学校が「中学唱歌」のための曲を懸賞募集しました。それに応募した滝廉太郎作曲の『荒城の月』や『箱根八里』『豊大閣』が入賞しました。その時の賞金は1曲5円で、合計15円を得たと言われています。滝廉太郎はその時代、教会で青年会の副部長をし、礼拝の時にはオルガンで賛美歌の伴奏をしていたそうです。
作曲者の滝廉太郎と作詞者の土井晩翠の『荒城の月』にはちょっとした繋がりがあるようです。前にも話しましたが、土井晩翠はクリスチャンではありませんでしたが、奥さんと娘さんが熱烈なクリスチャンでした。晩翠の娘、照子は27歳の時に結核で亡くなりました。臨終の時に、照子は自分のことで悲しんでいる父に、テニスンの詩を読んでもらったそうです。その詩の言葉を通して、彼女は父に「お父様、私の死を悲しまないでください。私は天国でイエス様にお会いします。そして、そこでお父様のために祈り続けます」と言いたかったのではないかと、大塚野百合氏は著書に書いています。晩翠の歌詞は無常観のみでなく、この世には変わらないものがあると言うことを、『荒城の月』の歌詞の中に書いています。 (注 なお彼の苗字はもともと「つちい」と読むのだが、頻繁に「どい」と誤読されるため、1934年に自ら「どい」と改名することを宣言した。)
滝廉太郎はその後、ドイツのライプチヒ王立音楽院に留学しました。しかし二ヶ月後に肺結核を発病してしまいました。1902(明治35)年の11 月下旬に日本に帰国し、大分の父母のもとで療養しました。しかし1903年6月、彼は23歳10ヶ月という若さで召されました。墓地は大分市内の臨済宗万寿寺境内にあります。肺を病んで終わったことで、葬儀は近親者のみで行われました。しかし参列者の中に、聖公会宣教師ブリベ夫妻の姿が見えたといわれています。
日本の歌の中で、荒城の月は不動の位置を保っている有名な曲です。またそのメロディはロシア正教において認められました。ロシア正教会の修道院の礼拝にふさわしいとされ、修道院は「荒城の月」を聖歌に加えたのです。彼はクリスチャンになってからの生涯が数年だったせいか、一曲の賛美歌も作曲して残してはいません。また彼のクリスチャンとしての記録も、その教会が焼失してしまったので失ってしまいました。また家族が教会員でなかったために、お墓もお寺に作られました。そのようなことが重なって、彼のクリスチャンとしての部分は、歴史から埋もれてしまったように思います。しかしロシアの教会が、彼のメロディは礼拝にふさわしい調べであると、再び彼を教会の祝福の流れに引き戻したのです。彼の感銘を受けた聖書の言葉が何であったのかも、分からなくなっています。
ですから今日は私が彼の生涯を調べながら心に浮かんできた聖書の言葉を、クリスチャン滝廉太郎にまつわる言葉として記させて頂きます。
「 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:38
クリスチャン滝廉太郎の心の奥底からもキリストの生ける水が流れ始め、日本人である私達の心のメロディとなっているだけでなく、ロシアの教会の中にもクリスチャン滝廉太郎のメロディが祈りの歌となって流れ続けています。日本のクリスチャンは滝廉太郎を誇るべきだと思います。  
雨にも負けずのモデルか? 藤宗次郎
宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩は、あまりにも有名です。宮沢賢治はその詩の中で「そういう者に私はなりたい」と記しています。そのモデルとなった人物が今日の斉藤宗次郎だと言われています。それは宮沢賢治と交流があった人物の中で、彼がこの詩の内容に最も近い生活をした人だからでしょう。しかしその真偽の程は私にはわかりません。ただ私も、斉藤宗次郎がこの詩の中の人物に最も近い人物であるという実感を持っています。
斉藤宗次郎は1877年、岩手県花巻で禅宗の寺の三男として生まれました。やがて彼は小学校の教師となり、国粋主義的な思想の持ち主でありました。しかし内村鑑三の本に出会い感動し、聖書を読むようになりました。その後1900年の冬、23歳の時に洗礼を受け、花巻で初めてのクリスチャンになりました。斉藤宗次郎が洗礼を受けたのは、12月の雪の降り積もった寒い朝の6時でした。洗礼の場所になった豊沢川の橋の上には、大勢の人が見物にやって来ました。基督教が「耶蘇(やそ)教」「国賊(こくぞく)」と迫害を受けていた時代だったからです。
(注)「耶蘇」とは中国語で「イエス」と読む字です。日本語聖書がなかった時代、日本人は漢文聖書を読みました。そして「耶蘇=イエス」を「ヤソ」と読んだのです。それが当時はキリスト教への軽蔑語として使われました。
洗礼を受けた斉藤宗次郎に対して、花巻の人々は冷たくあたりました。親からさえも勘当され、生家に立ち入るのを禁止されました。また彼の長女の愛子ちゃんは、学校で耶蘇の子供と呼ばれ腹をけられ、腹膜炎を起こして看病のかいもなく数日後に死亡しました。たった9歳の少女でした。人々に何も悪いことをしたわけではないのに、斉藤家族は迫害されたのです。宗次郎はまた、日露戦争に反対したということで岩手県教育会から追放され、小学校教師の職を追われてしまいました。
教職を追われた後、彼は新聞配達をして生活しました。彼は新聞を配りながら、一軒ごと家の前で立ち止まり、その家の祝福を祈りました。朝3時から夜9時まで働き、その後の夜の時間は聖書を読み、祈る時としました。そのような厳しい生活の結果、ついに結核にかかり幾度も喀血たといいます。しかし不思議と体は支えられ、そのような生活が20年も続きました。朝の新聞配達の仕事が終わる頃、雪が積もると彼は小学校への通路の雪かきをして道をつけました。小さい子どもを見ると、だっこして校門まで走って届けました。彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、地域の人々のために働き続けたのです。新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。
そのような生活の中でも、宮沢賢治と農学校での親しい交流がありました。新聞配達も20年という年月になる頃、内村鑑三の要請を受けて、宗次郎は東京に出る決心をしました。宗次郎は自分を見送ってくれる人は一人もいないだろうと思いつつ駅に向かいました。ところがその駅には、花巻の人達が大勢見送りに来ていたのです。その中には町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、 神社の神主や僧侶までもいました。さらに一般の人たち、生徒たちも来て駅じゅう人々でごったがえしていたというのです。人々は宗次郎がふだんからしてくれていたことを見ていたのです。東京に来て花巻から届いた最初の手紙は、宮沢賢治からのものであったといいます。
斉藤宗次郎は、内村鑑三を師と仰いでいました。当時、内村鑑三を師と慕う人は多数いたのです。しかしまた内村鑑三に師事しながら、彼のもとを離れていった人々も多くありました。内村鑑三は、「聖書の研究」という著の中で「弟子をもつの不幸」という文を書いています。そのような中で、斉藤宗次郎は内村鑑三の臨終に立ち会い、最後まで弟子であり続けた人でした。彼は内村鑑三の死後、内村鑑三の著作を出版することに全力を注ぎました。斉藤宗次郎が宮沢賢治から手紙を受け取った5年後に、「雨にも負けず」の詩が書かれたことが分かっています。この詩は宮沢賢治が病床で書いた詩であり、遺稿と言われているものです。彼の死後、彼のカバンから発見された手帳に書かれていました。
この詩のモデルが斉藤宗次郎であると言うことの決定的証拠はありません。しかし宮沢賢治の周りにいた人物で、この詩の人物にぴったりと当てはまるのは斉藤宗次郎であることも事実です。真偽は別にしても私達は、斉藤宗次郎の生涯から、聖書の「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」(ロマ 12:14) の言葉が聞こえてきます。宮沢賢治は「雨にも負けず」の詩の最後に、「そういう者に私もなりたい」と記しました。イエス様の教えを生き抜いた斉藤宗次郎の生涯に学んで、私達も「そういう者に私もなりたい」と主の前に祈ろうではありませんか。
「雨にも負けず」  宮沢賢治 作
雨にも負けず、風にも負けず、
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、
決して怒らず、いつも静かに笑っている。
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べらゆることを自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり、そして怒らず
野原の松の林の陰の小さな藁ぶきの小屋にいて、
東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、
南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、
日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、
苦にもされず そういう者に私はなりたい  
 

 

白洋舎の創立者 五十嵐健治
白洋舎という有名なクリーニングの会社がありますが、その創立者は五十嵐健治と言う人です。この会社こそ、日本で初めてドライクリーニングを行なった会社です。彼は1877年3月14日新潟県の県会議員の子として生まれました。しかし8ヶ月で両親は離婚し、5歳で五十嵐家の養子となりました。彼は波乱万丈の生涯でしたが、その中でイエス様に出会ってクリスチャンとなり、それからの生涯は、最期まで熱心なクリスチャンとして活躍されました。
五十嵐健治の青年期 彼は一攫千金を夢見て16歳で家を出て、各地を放浪して歩きました。そんな中、上毛孤児院(現、上毛愛隣社)の創立者クリスチャンの宮内文作氏に出会い「貧しい者たちにも食事が与えられるように」「親のない子をお守りください」との祈りに感動しました。しかし信仰はまだ芽生えることはありませんでした。1894年に日清戦争が勃発すると、17歳で軍夫(輸送隊員)を志願して朝鮮半島に従軍します。さらに1895年のロシア ・フランス・ドイツによる三国干渉(清国に遼東半島を返せとせまった)の際には、ロシアに復讐するために北海道からシベリアへの渡航を企てます。ロシア潜入の準備に北海道に渡った健治でしたが、ある人に騙され北海道の原始林開拓の通称タコ部屋(監視付)に送り込まれ、重労動を強いられることになってしまいました。
キリストとの出会い ある朝そのタコ部屋から健治は寝巻一枚で脱走し、18里(約70キロ)の山道を逃げに逃げて小樽まで来ました。しかし彼は人生に絶望して小樽の海で自殺まで考えました。そのような状態で愛用聖書入った小樽の旅人宿で、一人の商人クリスチャンである中島佐一郎氏と出会いました。その宿での中島氏との信仰問答を通して、健治はキリストを信じました。すぐに彼は小樽の町の井戸端で、中島佐一郎氏によって洗礼を受けクリスチャンになりました。健治は、「私は洗礼を受けてから朝起きると先ず神に『今日一日を導いてください』と祈りました。何かあると神に『このことはなすべきでしょうか、なさざるべきでしょうか』と相談しました。」と言っています。
白洋舎の創立 その後、彼は牧師になることを願って上京します。しかし神学校に入ることが出来ず、三井呉服店(現在の三越)に入り、三越の宮内省係となりました。しかしこの仕事では日曜日の礼拝が守られぬと、退社してしまいます。その後1906年(明治39)に白洋舎を創立しました。しかし当時、洗濯屋は人の汚れた着物を扱う職業として低く見られていました。彼は「人の汚れたものを綺麗にしてお返しする、これこそキリスト教徒の仕事にふさわしい」と言って起業したと言われています。その経営方針の第一に「どこまでも信仰を土台として経営すること」を掲げました。翌年、独力で日本初の水を使わないドライクリーニング開発に成功しました。また工場内にも会堂を建て、様々な機会をとらえて社員に福音を伝えました。 
五十嵐健治の晩年 1941年に太平洋戦争が起ると社長の座を譲り、残りの生涯をキリスト教の伝道に費やしました。1956年には、病床にあった堀田綾子(後の三浦綾子)を尋ねています。後に三浦綾子は五十嵐健治の生涯を「夕あり朝あり」と言う題で書いています。1957年頃にはクリーニング業者福音協力会を起しました。五十嵐健治自身が書いた自伝『恩寵の木漏れ日』の中で、かつて白洋舎が危機にさらされた重大事件があったことが書き残されています。社員のMさんという人物が自分の処遇を不満とし、新たなクリーニング店を開業したことに始まります。その時、Mさんは白洋舎の従業員を煽動して、お得意先から預かった洗濯物をわざと破損したり、納期を遅らせたりして、白洋舎の信用を失わせたというのです。その上で、Mさんの新しい店にそのお得意さんを引きつけ、協力した白洋舎の従業員を新しい店に雇い入れることをしたのです。白洋舎の工場はほとんど休止状態に陥りました。当時社長であった五十嵐健治は、憎悪と復讐心で気が狂わんばかりになったといいます。しかし礼拝で祈っていると、イエス・キリストの十字架があざやかに映し出されたのです。「自ら復讐するな、仇を報ゆるは我にあり」「神もしわれらの味方ならば、誰かわれらに敵せんや」という言葉でした。五十嵐さんは何度も何度もこの聖書の言葉を思いめぐらしました。そして神様に信頼する道を選ぶことを決意したのです。一方、反逆したMさんの新しい店は、仲間割れを起こしたあげくに火災を起こし、預かった洗濯物を多数消失して、閉店に追い込まれました。それらの事があった後にMさんは「これも神様の罰であると思ってお詫びを申し上げます」と五十嵐さんに謝罪したと言います。彼の生涯は波乱万丈でした。しかしキリストに捕えられ、キリストと共に生きた素晴らしい人生でありました。私達も彼の竹を割ったような信仰に学ぼうではありませんか。  
野口英世博士
野口英世博士は福島県の生まれです。私も福島県の生まれですが、彼がクリスチャンだったとは全く知りませんでした。今日はそのクリスチャン野口英世のことをお話しいたしましょう。
1876年(明治9年11月)に野口英世(清作)は父・野口佐代助と、母・シカの長男として生まれました。しかし父の佐代助は、酒と博打が好きであまり働きませんでした。 清作が1歳の時でした。母親が裏の畑で仕事をしている時、寝ていたはずの清作が起き出して、火のある囲炉裏に右手を入れてしまったのです。その結果、右手の指が握った形で全部くっついてしまいました。母親は、清作がこのようになったのは自分のせいだと罪責を感じ、「手が利かないのでこの子には農業は出来ない、この子には学問しかない」と、清作を学校に通わせました。当時は小学校にも全員が行けるわけではなかった時代です。貧しい家の子で学校に行っていたのは清作一人でした。その為に母親は働き尽くめで、生活を支えました。そのような母親の姿を見て、清作は猛勉強をしました。清作は、やけどでいじめに遭うことがありました。ある時はその様な自分を悲しみ、指をナイフで切り離そうとした事があったといいます。しかし15歳の時でした。学校の先生や級友が集めてくれたお金で、左手の手術を受け成功したのです。成功したと言っても自由に動くようになったわけではありませんでした。
そのような時、彼の村に牧師の藤生金六が英語塾を開きました。1894年のことです。清作もその英語塾に通うようになりました。そして18歳の4月7日に、キリストを信じ洗礼を受けました。その教会の二人目の洗礼者として、当時の洗礼帳に野口清作の名が記され、今も残っています。その教会は現在の日本基督教団若松栄町教会です。当時、清作はクリスマスの手伝いや、日曜学校のカードを配る奉仕を熱心にしていたという話が伝わっています。彼は医学の道を目指していました。自分の手を手術した医学の力に感動したからです。まず自分の手を手術してくれた医院に住み込みで修業しました。そして1896年(明治29年)19歳の時に医師の資格を修得するために上京を決意しました。その時自分の家の柱に「志を得ざれば、再び此地を踏まず」と刻みました。そこから強い決心の程が読み取れます。東北本線の駅まで40kmの道を歩いて行ったそうです。
東京に来た清作は、いじめに遭いながらも猛烈に勉強し、僅か一年で一回の試験で合格しました。1897年の清作20歳の時です。その後、順天堂医院に勤務。さらに北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務しました。その年22歳で英世と改名しました。23歳でアメリカに渡りました。そこで、フィラデルフィアに住んでいた熱心なクリスチャンのモリス夫妻と出会いました。この夫妻は、日本人留学生の面倒を熱心に見ておられる方で、明治のクリスチャン青年達の内村鑑三、新渡戸稲造、津田梅子らも大変お世話になった夫妻です。人種を越え親切にして下さるクリスチャンの姿を、モリス夫妻の姿から学んだのではないでしょうか。彼はペンシルベニア大学医学部、ロックフェラー医学研究所研究員、細菌学者として、数々の論文を発表し有名になっていきました。ノーベル生理学医学賞候補に3度も選ばれる程でした。そのような時、南米に黄熱病がはやりました。黄熱病は蚊によってウィルスが体の中に入り、高い熱が発生し体が黄色く変色し、やがて死亡する病気でした。野口英世はその黄熱病研究の為に南米のエクアドルに行きました。そこに行ったわずか9日目に、病原体を発見するという偉業を成し遂げました。その後、メキシコ、ペルー、ブラジルへと黄熱病の研究の為に渡りました。
南米で終息した黄熱病は、次にアフリカで猛威を振るうようになりました。野口英世はアフリカ行きを決意します。しかしその時に体調を崩していた彼に、多くの友人がアフリカ行きを反対しました。そのとき野口英世は「人間は、どこで死んでも同じです」という言葉を残して、アフリカのガーナへと向かったのです。そして研究のさなかの翌年、彼自身が黄熱病にかかり、53才で召されました。
1928年のことです。彼の遺体はアメリカに運ばれ葬られました。この時代に伝染病で死んだ者の遺体が、国外に運ばれ葬られることは考えられませんでした。しかし彼の遺体は、アメリカの強い要請によってアメリカに運ばれたのです。彼は日本の誇りであっただけでなく、アメリカの誇りでもあったことが解かります。彼は自分の人生を振り返って「自分が手の火傷をしなかったら、今の自分はなかっただろう」と言っていたそうです。彼の生涯は、青年時にイエス様に出会ったことに裏打ちされているように思います。私は彼の心を表わす聖書の言葉として、次の言葉を記しておきたいと思います。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)  
知的障害児教育の母 石井筆子
人物による婦人聖書研究を開始して8回目になります。今まで7回は男性を取り上げました。日本 のクリスチャンには男性だけでなく、女性にも多くの素晴らしい人がいます。知的障害児教育の創始者となった石井筆子(文久元年(1861年)4月27日〜昭和19年(1944年)1月24 日もそのひとりです。その働きは「滝野川学園」となって続いています。この人は、クリスチャンとして「世の光。地の塩」となって日本の近代化に大きく貢献した人です。その美しい生涯を知って頂きたいと思います。
石井筆子の幼少と勉学 石井筆子は備前国大村藩士の渡辺清・ゲン夫婦の長女として生まれました。現在の岡山県あたりでしょうか。父親は幕末から明治維新にかけての志士で、後に明治政府から男爵にの称号を与えられた人です。非常に裕福で、明治時代においても位の高い家でした。筆子さんは明治4年11歳の時に上京し、翌5年に開設された東京女学校に入学しました。彼女は英語、フランス語、オランダ語が堪能だったと言われています。
石井筆子の留学と結婚 明治13年、皇后の命により、石井筆子は津田梅子や山川捨松らと共に、日本初の女子海外留学生としてヨロッパに渡り、約2年間留学しました。その留学中に「日本女性には教育が必要」と確信するに至りました。日本は男性優位時代であり、女性の教育と言っても「良妻賢母教育」と言うものしかなかったばかりか、むしろ女性が教育を受けることに対して否定的社会だったのです。明治18年に帰国後、津田梅子と共に開いた華族女学校の教授となりました。またその容姿の美しさから、舞踏会等では鹿鳴館の花と言われるほどの華やかな出発でした。その後、明治17年に親の決めたいいなづけと結婚し、その2年後の25歳の時に待望の長女が与えられました。幸せを祈り幸子と命名しました。しかしその長女が知的障害児だったのです。その頃に筆子は子供と一緒に洗礼をうけました。また次女も三女も体が弱く、次女は間もなく死んでしまいました。また夫までも35歳で死んでしまいました。夫も体が弱かったのです。彼女は31歳で未亡人となってしまいました。
石井筆子の障害児教育の目覚め その頃、愛知県と岐阜県にわたって大地震が起こりました。死者7千人、倒壊家屋28万戸の大惨事となりました。するとその大地震に乗じて、孤児となった少女を女郎部屋に売り払う者がいるという噂が起こりました。その震災孤児を救う為に活動していたのがクリスチャンの石井亮一でした。彼は親を失った少女達を集め、親代わりとなって育てていたのです。筆子はその働きに共鳴し、その活動に協力するようになりました。そのようなある時、石井亮一から障害児教育を打ち明けられました。震災孤児の中に一人、知的障害児童いたからでした。筆子には「自分には知的障害児が二人いる」ことを初めて打ち明けました。すると亮一は「私にその子を預けて貰えませんか」と言ったのです。
石井筆子の障害児教育と絶望 その後、知的障害で身体も弱かった三女も7歳で死んでしまいました。筆子は知的障害のある長女と二人だけとなってしまいました。筆子は知的障害のある子を守ろうと、必死で亮一の働きを手伝いました。そして筆子はその亮一と42歳で再婚し、ますます施設の活動に力をこめて行きました。しかし1920年3月24日のことでした。施設に大火災が起り、生徒6人が焼死してしまったのです。それは生徒の火遊びによる火事でした。燃え尽きてしまった施設を前に石井亮一は「神は私達を見放されたのだ、この試練に耐えるだけの信仰の力は私にはない」と叫び、二人は絶望してしまいました。
石井筆子と施設の復活 二人が燃え尽きた施設を前に絶望したその時でした。その時の新聞に施設の焼失の記事が載ったのです。新聞にこの記事が出ると、全国から多くの寄付や励ましの手紙が寄せられてきました。そのことによって、半年後に財団法人の認可を受けて施設の再開が出来たのです。それでも戦争中は「国に役立たないものに食わせるものはない」と言われて差別され、配給の食料を後回しにされたこともありました。戦争も終わりの時期1944年1月24日、石井筆子は82歳で数人の職員に見守られる中、この世を去ったのです。告別式には一人の血縁者もなかったそうです。しかしその一生は、障害児達を愛したクリスチャン石井筆子の素晴らしい生涯でした。次に記す聖書の言葉は、夫の石井亮一のものですが、筆子も同じ使命に生きたクリスチャンですので、筆子の言葉として記します。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」 第一コリント13章4節〜7節
石井筆子らの創立した知的障害児教育施設は、社会福祉法人滝野川学園として、その信仰から湧き出た創立の精神を受け継ぎ大きくなって現代に続いています。
私達も、石井筆子らが目指した差別のない社会を作り続けて行きましょう。  
エリザベス・サンダーズ・ホームの母 澤田美喜
今日は終戦後の日本において、2000人以上の混血孤児の母となった澤田美喜さんを紹介したいと思います。その生涯はまさに孤児達を救う為に、神様に鷲づかみにされたような生涯でした。
澤田美喜は1901年9月19日、三菱財閥の三代目当主・岩崎久弥の長女として生まれました。三菱財閥の創立者・岩崎弥太郎の孫です。彼女の生まれた家は、東京の本郷にありました。当時岩崎家は、全国に多くの所有地を持っていました。かつては駒込の六義園も岩崎家の所有でした。美喜は、御殿のような本郷の家で何不自由のない生活をして育ちました。その家は現在「旧岩崎邸園」となっています。美喜がキリスト教に最初に触れたのは、病気療養のために大磯の別荘にいた時でした。ある夜、お付きの看護師の聖書を読む声が聞こえたのです。その聖書の言葉は「汝の敵を愛せよ」と言う箇所でした。その聖書の言葉が美喜の心を捕え、キリストへと導いたのです。
しかし岩崎家の祖母は、美喜がキリスト教への関心を強く持ったのを警戒して、通っていた学校も友人から聖書をもらったことから、退学させてしまうほどだったのです。(現在の御茶ノ水女子大学の付属高校でした。)美喜が21歳になった時、外交官であった澤田廉三との縁談が起こりました。美喜は、彼の家族がクリスチャンということで結婚を決意しました。それからは大手を振って教会に通うようになりました。美喜は4人の子にも恵まれ、外交官の妻として各国を夫と一緒に渡り歩きました。1931年から2年間ほどイギリスにいた時のことでした。ある老人から勧められて「ドクター・バーナードス・ホーム」という孤児院を訪問しました。その時、彼女は強い衝撃を受けました。そこには孤児と言う暗さがみじんもなく、教会も学校もあり、子供達が明るく生活しているのを見たからです。美喜は、しばらくそのホームでボランティアをさせてもらいました。
イギリスの衝撃から約14年後のことでした。日本は戦争に敗れ、進駐してきた米軍が多くいました。米軍が進駐してその10ヵ月後、混血孤児が捨てられる事件が多発するようになりました。米兵と日本人女性の間に生まれた混血児たちでした。ある時のこと、澤田美喜が汽車で旅行していました。汽車の網棚は、闇などの物資でいっぱいでした。その中のひとつ風呂敷包みが、彼女の膝に落ちてきたのです。それが警察に見つかり、闇物資の疑いをかけられ、開けるよう命じられました。仕方なくしぶしぶ開けると、黒い肌の赤ちゃんの死体がその中から出て来たのです。それを見て警察も周りの乗客も、この子は美喜本人の子ではないかと疑ってかかりました。ようやく自分の子ではないことを知ってもらいましたが、その時美喜は「お前が一時であってもこの子の母親とされたなら、どうして日本国中のこうした子供達の母親となってやれないのか・・・」と神様の声を聞いたと言うのです。美喜は、私はこのような孤児たちを助けなければならないと使命を感じました。夫もそのことを理解してくれたといいます。
美喜の心に、あの大磯の地をその子たちのための土地にしたいという思いが湧き上がりました。しかしその土地は、戦後の財閥解体令よって没収され、進駐軍の物になっていました。米軍に日参して頼み込むと、それなら返しても良いが条件がある!400万で買い取ること。そして、買い取った土地はその後三代にわたって三菱の名義にしてはならないと言うものでした。美喜は自分の家の全てを売り、どうにか買い戻すことが出来ました。しかし建物のお金はありませんでした。その時イギリス人女性のエリザベス・サンダースさんが召され、その遺産をホームに捧げるようにしてあったのです。思わぬ捧げ物がホームの最初の献金となりました。その事を感謝して、ホームの名前も彼女の名前エリザベス・サンダース・ホームにしたのです。その他にも友人達の献金で、孤児院を開始することが出来ました。その時、彼女は46歳でした。
その後も、ホームがスムーズに運営されたわけではありません。日本人からは敵の血を引く子をなぜ育てるのかと言われ、アメリカ側からは「混血孤児達の救済は反米運動につながる」と圧力がかかりました。ある時は、ホームの解散をGHQの将校たちが強く迫ってきました。その時美喜は「一度捨てられた子供を、もう一度捨てろというのか!」と抗議したと言います。そのような苦労の中で貫かれた混血孤児を助ける働きは、ついには2000人以上の子供達を育て上げたのです。まさに信仰の力です。澤田美喜は1980年5月12日、スペインの旅行中に78歳の齢をもって召されて、その生涯を閉じ主のもとへと引き上げられて逝きました。
私達は澤田美喜の大きな働きを知ると同時に、差別と言う人間として最も恥ずべきことを身の回りから無くして行くことに心がけましょう。
今日は澤田美喜の生涯を調べていて私の心に浮かんだ聖書の御言葉を挙げておきます。
「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」   ヤコブ 1:27  
山崎製パンの創業者 飯島藤十郎
飯島藤十郎 (1910年11月7日〜1989年12月4日) は山崎製パン創業者です。なぜ飯島製パンではなく山崎製パンなのでしょうか。それは彼がパンの会社を設立しようとした時、他にもパンに関わる仕事をしていたために飯島名義では許可がもらえず、妹の嫁ぎ先が山崎だったので義弟の姓・山崎で許可を取ったという経緯があったようです。こうしてパン作りが始まりましたが、彼はまだその時クリスチャンではありませんでした。その彼がどのようにしてクリスチャンとなり、どのように生きたかをお話しいたします。
彼はパンの会社を興す前の一時期、新宿中村屋で奉公人として働いていました。そこの社長がクリスチャン事業家の相馬愛蔵でした。相馬愛蔵は、内村鑑三と交流があったクリスチャンでした。飯島藤十郎は洗礼こそ受けていませんでしたが、その相馬愛蔵の影響を強く受けていました。山崎製パンの創業時代は、リヤカーにパンを積んで町を歩きながら売っていたそうです。そのリヤカーの荷台には、パンと一緒に「神は愛なり〜ヨハネの福音書」という看板が掲げられていました。
最初順調だった経営がしばらくして問題が起こりました。籐十郎と弟の一郎の間に、経営方針を巡って激しい対立が起こったといいます。藤十郎の長男が間に入って、なんとか調整しようとしましたがうまくいかず、息子(現社長)までが父と意見の相違で対立してしまう事態になってしまいました。収拾がつかなくなって、それを何とかしようと決心して、その方法として三人で話し合い、三人揃って洗礼を受けたのが飯島藤十郎の洗礼を受けたきっかけでした。その一件落着となった洗礼後の11日目のことでした。主力工場の武蔵野工場が全焼するという大事件が起こってしまったのです。しかしクリスチャンとなっていた彼らは「この時、私たちは『火災は、あまりにも事業本位で仕事を進めてきたことに対する神の戒めだ、これからは神の御心にかなう会社に生まれ変わります』と祈りを捧げました」と現社長の飯島延浩氏が言っています。
父籐十郎の後を継いで社長となった長男の飯島延浩氏も、熱心なクリスチャンです。父と家族が一緒に暮らしていた社長生家の三鷹の土地300坪を教会に寄付しました。その土地には現在教会が建っています。その教会に、毎週現社長の飯島延浩氏が、自宅のある千葉県市川市から三鷹市の教会まで毎週通っています。そればかりでなく、自ら聖書の勉強会を開いて人々を教えています。現在、山崎製パンは日本の輸入小麦の10%を使うと言われ、年商9000億円以上の製パン業会社と言われています。
洗礼を受けたばかりの飯島藤十郎一族に武蔵野工場全焼の火事が起こったように、クリスチャンだからと言って困難に遭わないとは限りません。そのような時にクリスチャンであることの素晴らしいことは、人のせいにしないで神様の前に祈りの時を持てることです。そして新しい心で再出発できること、これは本当のクリスチャンにしか出来ないことです。
どのような時にも、神様の愛がその事をなさったのだと信じることが出来る人は何と幸いでしょう。
今日の御言葉は、飯島藤十郎が掲げていた御言葉ヨハネ3章16節の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」を掲げさせて頂きます。  
 

 

新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵
相馬愛蔵と言えば、この間お話ししました山崎製パンの創業者 飯島藤十郎氏が大きな影響を受けた方です。相馬愛蔵の生涯は、1870年(明治3年)10月25日に信濃国安曇郡白金村(現安曇野市穂高)の農家の三男として始まりました。しかし父は愛蔵が生れた翌年に他界し、母親も愛蔵が6歳の時に亡くなるという不幸にあっています。そういう意味では、親の愛情の必要な時に親がいないという寂しい幼少期を過ごしたと思われます。その相馬愛蔵が新宿中村屋の創業者となるのです。しかし彼は中村屋の創業者と言うだけで偉大なのではありません。創業者であると同時にクリスチャンとして、日本の文化にも多大な影響を与えた人物として偉大なのです。
彼は学業においては数学が得意であったそうです。しかし英語が苦手で、地元の学校を3年で中退してしまいました。その後上京して、20年9月に東京専門学校(現早稲田大学)に入学しました。その17歳の頃、愛蔵は友人に誘われて、牛込市ケ谷の牛込教会へ行くようになりました。そして洗礼を受けクリスチャンとなりました。東京専門学校の卒業後は、人に雇われることを嫌って北海道の札幌農学校へと進み、養蚕学を学びました。
札幌農学校で養蚕を学を学び、一時は北海道で養蚕(ようさん)を夢見るも断念し帰郷しました。故郷で明治24年(1891年)に、蚕種製造を始め、『蚕種製造論』を著しました。22歳の愛蔵は、明治24年12月20日に東穂高禁酒会を創立。最初は11人の出発でしたが、みるみるメンバーが増えていったといいます。また明治27年(1894年)、村に芸妓を置く計画に反対し、廃娼運動も行ないました。さらにはこの時代に、孤児院基金募集のため仙台へ出掛け、仙台藩士の娘でありクリスチャンの星良と知り合い1898年に結婚しました。その式場は牛込市ケ谷の牛込教会でした。その後、故郷において奥様の健康が損なわれ、療養のため上京することになったのです。後に奥様は恩師から付けて頂いた黒光(こっこう)とのペンネームで名のるようになりました。
東京に出て来た愛蔵一家は、明治34年(1901年)東大赤門前のパン屋、本郷中村屋を買い取り、パンの製造を始めました。明治37年(1904年)には、日本で初めてクリームパンを発売しました。さらに明治40年(1907年)に新宿に移転した後、商売は大繁盛するにいたりました。さらに中村屋は日本で初めてインド式カレーライスを販売し、大人気となって行きました。
クリスチャンとしての相馬愛蔵はパン屋としてさることながら、日本文化への大きな寄与もあります。愛蔵は店の裏にアトリエをつくり、多くの芸術家に使わせていました。彫刻家の荻原碌(ろくざん)、画家の中村彝(つね)、彫刻家の中原悌二郎、彫刻家の戸張狐雁など多くの芸術家達です。1915年にインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースがイギリス官憲に追われ日本に亡命して来ましたが、一時日本政府にも追われていた彼をかくまったのが愛蔵一家でした。そのほかにもロシアの無政府主義の盲人詩人のエロシェンコをかくまうなど、自分の身の安全を顧みずに人道的な立場に立って行動したのです。後にボースは相馬夫妻の長女と結婚。大正12年、日本国籍を取得しました。ボースの指導によって中村屋のインドカレーが誕生したのです。
愛蔵の人間愛はさらに続きます。1923年(大正12年)9月1日関東大震災が襲った時でした。中村屋は幸運にも被災は免れました。震災に乗じて全ての食料が軒並み値上がりしました。そうすると愛蔵は、パンや菓子を普段よりも1割ほど安くして販売しました。彼は商人の義務として、中村屋の社員一同毎晩徹夜でパンなどの製造を続けたといいます。平素のお客様本位の考えが、彼を自然とそうさせたのです。その時は『奉仕パン』『地震饅頭』などと名前を付け販売していたそうです。そのような姿勢にお客さんたちが感動し、震災後は大きく売り上げが伸びたといいます。
このようなエピソードもあります。1927年3月に昭和金融恐慌が起こり、銀行に取り付け騒ぎが発生しました。その時、取引先の安田銀行に預金を確保しようとする人の列が出来たそうです。すると愛蔵は部下に金庫の有り金を全て持たせてかけつけさせ、「中村屋ですがお預け!」と大声を出させることによって、群衆のパニックを収めたといいます。相馬愛蔵の愛した聖書の言葉も今では知ることが出来ません。しかしその生涯からは次の御言葉が聞こえてくるようです。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカ6:38
相馬愛蔵は、多くを得て多くを与えた人であると思います。私達の人生もこの人のようでありたいですね。  
母にもまさる母 井深八重
ハンセン病患者達から「母にもまさる母」と慕われた井深八重は、22歳まで最高の学問を与えられた女性でした。彼女は同志社女学校を卒業し、英語教師として長崎県立女学校へ赴任するほどの前途有望な女性でした。しかしその井深八重の人生が思いもよらぬ方向へと急激に動き出すことになるのです。それは神様の彼女に対する御計画でした。
井深八重は、1897(明治30)年10月23日 台湾の台北市で生れました。 彼女の家は旧会津藩家老からの家柄で、国会議員にまでなった井深彦三郎の娘でした。明治学院学長だった父方の叔父、井深梶之助の家に預けられ、英才教育を施されました。1918(大正7)年、同志社女学校英文科卒業と同時に、同年の4月に長崎県高等女学校の英語教師として採用されました。彼女の人生は、順風満帆で計画どおりに進むかに見えました。しかし教師となって約一年後、その事件は起こりました。
その頃すでに井深八重には縁談もありました。そのような年のことです。彼女の体にポツポツと斑点が出て来たのです。医師は診察した後、本人には病名を告げませんでした。その病名は家族に伝えられ、彼女は世間に隠れるようにして神奈川県の神山復生病院に隔離され、そこで病名はハンセン病であると知らされたのでした。彼女は絶望的な状況に陥りました。しかし彼女の病状は、病院の中では比較的軽い方でした。その病院には当時看護師が一人もいなかったため、軽度の患者が重度の患者のお世話をすることが義務となっており、井深八重も重度の人達のお世話をするようなりました。入院から一年が経った頃、彼女の症状は悪化しないばかりか、きれいな肌にさえなって来ました。そのような事から、親戚が開いている病院で診察して頂いたところ、なんと彼女の病気はハンセン病ではなく、一時的な皮膚病だったのです。つまりハンセン病との診断は誤診だったのです。
井深八重が入院していた病院の医師は、フランス人でレゼー神父というお方でした。レゼー神父は「あなたが、ハンセン病でないということがわかった以上、あなたを此処におく理由がなくなりました。どうぞ今後の事は良く考えて、自分の人生を生きて行って下さい。」と言いました。「もし日本が嫌ならばフランスへ行ってはどうか。私の家族があなたを迎えてくれるでしょう」とまで言って下さいました。それはこの時代はまだハンセン病に対する強い差別があり、そこで働く人にまで差別があったからです。しかし井深八重からは予想も出来ない返事が返ってきました。それは「私は看護師の勉強をして資格をとり、この病院の看護師になります」というものでした。彼女は、その病院に医者はレゼー神父ひとり、看護師は皆無で、レゼー神父が必死になって治療をしている姿をずっと見ていたのです。井深八重はその後4年間東京の看護学校で学び、1923年に看護の資格を所得し、病院に戻ってきました。そのことにより彼女は病院初の看護師となったのです。ハンセン病患者にだけではなく、そこで働く人への差別が激しかった時代に、彼女はためらうことなく飛び込んできたのです。
井深八重がクリスチャンになった時のことをお話しましょう。それは絶望しているハンセン病院でのことでした。日曜日に礼拝があり、井深八重も神父から礼拝にさそわれていました。礼拝の時間になると、レゼー神父のもとに礼拝の為に患者さん達が集まってきました。礼拝が始まると、不幸のどん底にいると思われる患者さん達が、讃美歌を歌い、祈りの中では「神様、心からあなたに感謝します」と感謝までしているのを見たのです。八重は驚いて、礼拝のあと神父に「どうして彼らは感謝出来るのですか」と聞きました。すると神父は「彼女達はイエス様を心から信じているので、苦しみと絶望の中にあっても、喜びと感謝をもって生きていくことができるのです。」と言いました。そして彼女は「私もあの人達のようになりたい」と信仰を告白し、洗礼を受けてクリスチャンになりました。
井深八重の生涯の働きは「神山復生病院」での看護師としての働きでした。ついに社会から、彼女の患者達への献身的な看護が認められ、1961(昭和36)年に、看護師たちの最高の賞である「ナイチンゲール記章」を受賞しました。日本からは天皇より黄綬褒章が授与されました。その他にも新聞社からの賞など多数ありました。でも井深八重は患者達から「母にもまさる母、八重さん」と呼ばれるのが一番の賞だったでしょう。井深八重が座右の銘としていた聖書の言葉は「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」ヨハネ12章24節でした。彼女は1989年(平成元年)に天に召されました。92歳の生涯でした。彼女の墓には「一粒の麦」と刻まれています。私達も、彼女の生涯を通してこの御言葉を見つめ直して、実行できる人になりましょう。 
天国を求めた高山右近
日本のキリスト教の草創期に燦然と輝くクリスチャンの一人に、高山右近を挙げなければならないでしょう。彼は戦国の世にその生を受け、クリスチャン高山右近としてその人生を駆け抜けました。その壮絶な人生を知ることは、現代に生きる私達クリスチャンにとっても大きなチャレンジとなるでしょう。高山右近は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国の世に生きたクリスチャン武将です。 (天文21年(1552年)〜慶長20年(1614年)享年63才)
右近の父、高山友照はキリスト教が大嫌いでした。  しかし友照は宣教師と論争しているうちに、キリストの教えに感動しクリスチャンとなりました。その高山友照の子が高山右近でした。右近も父の信仰にならって、12歳で洗礼を受けてクリスチャンになりました。その後、高槻城の城主であった父が隠居し、そのあとを継いで高山右近が城主となりました。それは1573年のことで、右近が21歳の時でした。父の友照は、その後キリスト教伝道に専念するようになりました。
織田信長は高山右近に「開城かそれともキリスト教徒皆殺しか」と迫りました。時は織田信長の時代でした。織田信長の支配下にいた摂津守護・荒木村重が、寝返って毛利方につきました。その間に立って和解させようとしたのが高山右近でした。しかしそれが織田信長の不信をかうことになり、高山右近の高槻城は信長軍に包囲されてしまいました。そして信長が城の明け渡しを要求し「開城しなければキリシタンを皆殺しにし、教会を焼き討ちする」と告げてきました。右近は信長にキリシタン保護の約束をとりつけて高槻城を開渡しました。その結果、信長は彼を信頼するようになり、引き続いて右近が高槻城に住むことを認めました。またキリスト教に対しても好意政策をとるようになりました。この間に右近は伝道を活発化しました。右近は領内には20にも及ぶ教会を建て、神学校も作りました。
高山右近は、キリスト教信仰に基づいて理想国を作ろうとしました。右近は、キリスト教精神にのっとり国造りに全力を注ぎました。また領主とは思えない程の謙遜を示しました。ある時、領内の貧しい民が死んだ時のことです。その棺を担ぎ、そのお墓を自ら掘ったと言われています。このような死者の葬りの準備などは、当時差別された人々の仕事でした。領主がそれをすることなど考えられないことでした。それを見た家臣たちも感激し、率先して一緒に墓を掘ったと言われています。 このようにして、彼の領土内のクリスチャン人口は8割にも達しました。右近はこの頃、茶の湯においても千利休に師事し、利休の7哲と言われ、利休高弟の一人となったと言われています。利休自身クリスチャンであった可能性があり、茶室の狭い入り口、つまりにじり口は聖書の「狭い門から入れ」からヒントを得たとも言われています。
豊臣秀吉が高山右近に迫ったバテレン追放令(1587年) 時は豊臣秀吉が支配する世になりました。秀吉は、高山右近に明石への領地替えを命じます。1585年のことでした。明石においても、右近はキリスト教の布教に力を入れました。しかしその2年後の1587年、秀吉はバテレン(宣教師)追放令を出しました。右近にも使者を送り「キリスト教を捨てるように」と迫りました。しかし右近は「予はキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。どうしても捨てよとの仰せならば、領地、並びに明石の所領を関白殿下(秀吉)に返上する。」と返上してしまいました。その後は加賀の前田家に匿われることになりました。秀吉も、高山右近が領地を信仰の為に返上してくるとは思いもよらなかったと言われています。
徳川幕府が高山右近に迫ったキリスト教禁教令 時は移り変わり、徳川家康の時代になりました。徳川幕府になってからキリスト教への迫害は厳しさを増して来ました。右近を匿っていた前田家も、彼を思って「形だけでいいから棄教せよ」と棄教を迫りました。しかし、右近は棄教することはありませんでした。彼は既に殉教を覚悟していたのです。徳川幕府は彼を捕らえて、フィリピンのマニラへ追放を決定しました。その船には追放された宣教師たち約100人も乗っていました。約一ヶ月にわたるその船旅は、死者も出る程の過酷な旅だったそうです。
高山右近はマニラで天国へ マニラに着くと、高山右近は体調を崩し天に召されて行きました。慶長20年(1614年)のことです。63才の生涯でした。彼はクリスチャン大名として激動する戦国の世に生まれ、クリスチャンとして生きた壮絶な人生でした。一夫一婦制を守り、生涯側室を置くことはありませんでした。また人間はみな神様の前に平等なのだと、死者を葬る準備まで自ら率先して行ないました。彼は信仰を守る為ならば、領土さえも返上してしまいました。彼の心はどこにあったのでしょう。彼の生涯を通して聞こえてくる聖書の言葉があります。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)
私達も高山右近のように、真っ直ぐに信仰に生きる人となりましょう。 
日本のヨセフ おたあ・ジュリア
前回は戦国の世に生まれ、クリスチャンとして壮絶な人生を生きた高山右近について話しましたが、その時代に重なるようにして、クリスチャン生涯を生きた「日本のヨセフ」ともいうべき「おたあ・ジュリア」という女性がいました。日本のヨセフと命名したのは、この人のことを調べていて私の心に浮かび上がってきた人物が、旧約聖書のヨセフであったことによるものです。実は「おたあ」とは朝鮮名です。「ジュリア」は彼女の洗礼名です。
豊臣秀吉は、1592〜93年に朝鮮出兵(朝鮮侵略)を行ないました。その時、現在の北朝鮮の平壌近郊で、両親が日本人に殺され、身寄りをなくした朝鮮の少女を見つけました。キリシタン大名の小西行長が不憫に思い連れ帰り、養女として行長の奥さんに育てさせました。連れて来られた時はわずか5歳だったと言われています。この幼女は後に洗礼を受け「おたあ・ジュリア」と呼ばれるようになりました。やがて豊臣の世が終わり、徳川の世となる頃、彼女は大人となり絶世の美女となったのです。この頃、ジュリアは徳川の大奥の侍女として家康に仕えていました。家康はどこに行くにもジュリアを同伴させました。そして家康から何度も側室になるよう求められますが、彼女は断り続けたそうです。
このように徳川の時代も、最初の頃はキリスト教に対して寛容であったようです。その中でジュリアは一日の仕事を終えると祈り、聖書を読んでは同じ仲間達を信仰に導いていたと言います。しかし1612年(慶長17年)のこと突然、家康はキリシタン禁教令を出し、ジュリアも投獄されてしまうのです。投獄中にジュリアは信仰を捨てるよう迫られました。しかし「信仰を捨てるよりも死を選ぶ」と宣教師に手紙を書いています。
家康は、改宗に応じないジュリアを1612年に伊豆大島に流刑としました。その一ヶ月後、南方の新島に異動させ、さらには神津島へと島流しにしました。そのような度重なる島流しは、家康のジュリアに対して棄教による赦免の姿勢と、それに対してジュリアの拒否という図式が浮かび上がってきます。家康はジュリアの美しさに未練があったのでしょう。ジュリアは3つの島に流されました。しかし、どの島においても不平を言わず、その島の人々や同じ流刑にあった人々に徹底して仕えました。小西行長は、和泉国堺で薬を扱う商家の次男として生まれた、キリシタン大名でした。ジュリアは行長の影響で、薬草の知識を深めたと言われています。ジュリアはその薬草の知識を用いて病気の人々に献身的に奉仕したと言われています。その結果、禁教時における島にもかかわらず、多くの人々がジュリアを通してクリスチャンになったのです。ジュリアのことは、日本に来たマウチス・コーロス宣教師の1613年1月12日の報告書に詳しく報告されているそうです。
現代は不平の多い時代です。私達はこの「おたあ・ジュリア」から、学ばなければなりません。両親を日本人によって殺され、日本に五歳で連れて来られ、挙句の果てには島流しにされたのです。信仰さえ捨てれば、家康の側室になることさえ出来たのです。家康は何度もそのチャンスを彼女に与えたようです。しかし彼女は信仰の道を選択したのです。そればかりか不平ひとつ言わず、流されて行った島々で人々に仕えたのです。その生き方は、旧約聖書に出てくるエジプトに奴隷として売られて行ったあのヨセフをほうふつとさせるものでした。最後の地となった神津島には彼女の墓があり、5月には今も日韓のクリスチャン達によって、合同の慰霊祭「ジュリア祭」が行なわれています。私達も自分の不運に嘆くのではなく、置かれた場所で感謝して神様にお仕えしましょう。
ヨセフが自分の生涯を振り返って、自分を奴隷として売った兄弟達を前にして言った言葉を今日の御言葉としてあげておきます。
「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」 創世記45章8節 
不良少年更生の父 留岡幸助
留岡幸助(とめおかこうすけ)は、明治元年まであと5年の1864年に、吉田万吉とトメの間に6人兄弟の次男として生まれました。生まれて間もなく幸助は、豪商だった米屋の留岡家に養子として出されました。そこで、武士の子供も町人の子供も一緒に学ぶ寺子屋に通い始めました。ある日の帰り道のことです。武士の子供と口論になり、木刀でひどく撲りつけられました。その時、幸助は相手の手首に噛みついて、相手に怪我をさせてしまったのです。その結果、幸助の父はその武士の屋敷に出入りすることを禁じられ、商いに支障を来たすことになってしまいました。怒った父は、幸助を激しく殴りつけました。そして寺子屋の学校を退学させられ、「商人になるようにと」無理強いされました。そのようなことで嫌気が差し、幸助は家出してしまうのです。
キリスト教の「人間はみな平等」との教えに触れ、彼は感動しました。当時はまだ士農工商という階級がしっかりと守られ、幸助は商人の養子でしたから当時の社会の最下層にいました。身分の低い家の彼は、よく武士の子達からいじめを受けていたのです。そのような時代に「人間は皆平等」と説く牧師の話を聞いて、深く感動しました。そして彼は18歳で洗礼を受け、クリスチャンとなったのです。彼は牧師になるために、1885年同志社の神学課程に入学し、その学校の創立者である新島襄の教えを受けました。彼は同志社卒業後の1888年、福知山で教会の牧師となりました。その後1891年、北海道に渡り刑務所の教誨師となります。その時北海道で見たのは、受刑者達のあまりにも過酷な姿でした。網走で受刑者達が重労働を強いられ、死者が続出しました。そして死体は粗末に埋められるだけだったのです。網走刑務所には中央道路工事のため、明治23年1200人もの囚人が送り込まれました。手作業で原生林に道を作るのです。工事中も囚人の逃亡を防ぐために、二人ずつ鉄の鎖でつながれ、鉄球まで付けられたそうです。栄養失調や怪我などで死亡者が続出しました。囚人たちは人間としての扱いを受けていなかったのです。
1894年から1897年にかけてアメリカに留学。彼は理想的監獄の在り方を学ぶために、アメリカに留学しました。そしてコンコールド感化監獄やエルマイラ感化監獄でなどで建学を積みました。彼は留学を終えて帰国後、監獄改善よりもアメリカの福祉を取り入れて、感化教育の活動に力を入れました。まず東京の巣鴨に家庭学校を設立します。次に北海道に男子だけの家庭学校を作りました。広大な農場をもってその教育の場としました。しかし資金においては、いつも苦労の連続だったといいます。
幼いころの家庭教育が大切という思想で、北海道に家庭学校を作る。彼は多くの囚人を見る中で、犯罪の芽は幼少期に発することを知り、幼い頃の家庭教育が大切と気付きました。さらにルソーの著書「エミール」に書かれた『子供を育てるには大自然の中が一番』という説に感銘を受け、北海道に家庭学校を作りました。広大な敷地に農場を作り、罪を犯した子供達と農作業をしながら更生を促したのです。幸助のこの様な働きに献身していったのは、彼の不幸な生い立ちと、聖書の真理に触れたことにあったと思われます。そして神様が彼にこの仕事を与えられたのです。彼の生涯は映画にもなっています。
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)         
 

 

台湾人に尊敬されている人 八田與一
八田與一(はったよいち)は、1886年石川県に生まれました。日本ではその名があまり知られていませんが、台湾においてはとても有名な日本人なのです。彼がクリスチャンであったかどうかは両論あり定かではありません。しかし「聖書に触れた人々」という、この婦人聖研のタイトルからは決して遠く離れている人物ではありません。
私は台湾に7回ほど行っていると思います。今年も行ってきました。台湾の歴史を見ますと、今までに数回他国の支配を受けた歴史を持っています。16世紀初頭、オランダの植民地になってから、明朝、清朝、イギリス、日本と外国の支配を受けました。日本の支配は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)の終戦まで50年に及んだのです。支配された国民は、支配した者への憎悪が続くのが常です。しかし台湾は今もなお親日派が多数なのです。その理由は、日本の台湾支配時代に八田與一さんのような日本人が台湾で活躍したからに他ならないのです。
さて八田與一さんですが、彼は広井勇から土木工学を学びました。広田勇と言えば、新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾らと共に札幌農学校の二期生として学んだクリスチャンです。つまり札幌農学校(現在の北海道大学)の学生達による二期生として、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らと共に「イエスを信じる者の契約」に署名しているのです。その署名には、一期生と二期生合わせて31名が署名しています。広井勇は、クリスチャンとして土木工学の道に進みました。後にアメリカやドイツに留学し、東京帝国大学(現在の東大)の教授として働きました。彼自身「もし工学が唯に人生を煩雑(はんざつ)にするのみのものならば、何の意味もない。工学によって数日を要するところを数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間にとどめ、人をして静かに人生を思惟(しい)せしめ、反省せしめ、神に帰る余裕を与えないものであるならば、われらの工学は全く意味を見出すことはできない」と記しています。少なくとも八田與一は、熱心なクリスチャン土木工学博士の広井勇の弟子なのです。彼は広井教授から土木工学を学びました。
台湾を日本が統治していた時代、台南の北方に塩害で農作には全く適さない荒れ地が広がっていました。塩害でトウモロコシすら育たない土地でした。八田與一は、24歳の時(1910年)その台湾に行きました。そして28歳からその荒れ地を農作地にするために、ダムの建造に取り掛かりました。そして10年の歳月を要し、ダムが完成したのです。そのことにより、ダムの水を利用してその一帯は一変し、台湾随一の大農業地帯となったのです。人々は八田與一の献身的な働きに感動しました。
農民たちは八田與一の功績をたたえて、昭和5年に銅像を作る計画を立てました。しかし彼は嫌がったと言います。それを無理やり説き伏せて、銅像の型作りのために来てもらったそうです。八田は1942年(昭和17年)、第二次世界大戦で徴兵され、フィリピンに向かう途中、アメリカ軍の潜水艦の攻撃により戦死しました。戦争が終わって、蒋介石が中国から台湾に逃げてくると、人々は銅像を蒋介石から隠して保管し続けたと言います。1981年(昭和56年)その銅像は隠しておいた所から出されて、農民たちによって再度建てられました。さらに2001年には現地の人々によって、ダムの放水口のすぐ近くに素晴らしい「八田與一記念室」が完成しました。2011年5月8日には彼の住居が復元され、記念公園がオープンしました。烏山頭水庫入り口から公園に続く道路は「八田路」と改名されたそうです。私は台湾に何度も行っていますが、台南に行ったのは今年が初めてでした。しかしこのダムには行くことができませんでした。是非機会を作って、行ってみたいと思っています。
台湾人は日本人が大好きです。それは日本が台湾を統治した時代であるにも関わらず、台湾のために命をかけて土木事業を行なった八田與一さんのような人がいたからだと思います。日本ではあまり馴染みのない人ですが、私達はこの様な人が台湾と日本の現代に至る架け橋となっていることを覚えておきましょう。56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くしました。
彼がクリスチャンであったかどうかは定かではありません。しかし彼の生涯には、クリスチャンの恩師、広田勇を通して、聖書の真理である「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ 6:38)という御言葉が流れていたと思われます。
今日の聖研の御言葉として「与えなさい、そうすれば与えられます」という御言葉を心に刻んでおきましょう。 
福澤諭吉とその家族
福沢諭吉と言えば慶応義塾大学の創立者として有名であり、現一万円札に肖像画としても有名です。また彼の言葉としては、彼の著書「学問のすすめ」の中に記されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」が有名でしょう。福沢諭吉はクリスチャンであった事実はなく、むしろキリスト教に対しての排撃者としての方が有名かもしれません。しかし私は数年に亘って慶応大学生達への聖書研究会に、毎週一度三田校舎に通ったことがありますが、中央口を登りきった左側の林の中に、教会と見間違う建造物があるのを奇異に感じていました。それは福沢諭吉が建てた演説会堂なのですが、明らかに教会の礼拝堂の影響を受けたであろうと思えるものでした。それからしばらくして、今度は慶応義塾日吉校には教会があるということを知りました。そのようなことから、福沢諭吉とキリスト教という関心が強まってきました。
福沢諭吉は、最初キリスト教を排撃する立場にあった。彼は、天保5年(1835年1月10日)現・大阪府大阪市に生まれました。まだキリスト教禁教の時代です。彼は最初幕府の方針に沿った思想を持ち、キリスト教に対して反対の立場を取っていました。キリスト教伝道者の内村鑑三からは「宗教の大敵」と呼ばれた程でした。最初はそうであったのだと思われます。 
福沢諭吉と宣教師たちの交流 しかしその福沢諭吉が39歳頃から晩年に至るまで、宣教師達との強い交流があったことも明らかになっています。特に英国国教会宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーとの交流は、深く強いものがありました。彼は、構内にあった福沢家の隣に西洋風の牧師館を建ててあげ、彼を住まわせました。そして自分の子供達の家庭教師となって頂いたのです。その交流は強く、お互いにいつでも行き来できるようにと、両家の間には「友の橋」という名の橋が架けられた程なのです。福沢諭吉と宣教師との交流は、ショー宣教師だけにとどまらず、彼の生涯で交流のあった宣教師は19名にも及ぶことが分かっています。
福沢諭吉の周りのキリスト教 そのような福沢諭吉と宣教師達の交流の中で、彼の家族達はキリスト教に触れていきました。姉の中上川婉(えん)も、クリスチャンになりました。末姉の服部鐘も、熱心なクリスチャンになりました。さらに福沢諭吉の長男の太一郎も、クリスチャンとなりました。三女清岡俊(とし)も、クリスチャンになりました。四女の志立滝も、クリスチャンになったのです。特に志立滝は、東京YWCAの会長を20年間も務める熱心なクリスチャンでした。その関係か日吉キャンパス関係には、YMCAの教会があるのです。福沢諭吉は、最初キリスト教排撃論者と言われていましたが、姉達も子ども達もクリスチャンになったのです。さらには慶応義塾の敷地内のショー宣教師館では、明治8年に8人の青年が洗礼を受けました。宣教師ショーといえば、あの長野県軽井沢の名を世界中に有名にした宣教師でもあります。
福沢諭吉の3回にわたる海外視察 第一回目は、25歳の安政6年(1859年)咸臨丸でアメリカに行きました。この咸臨丸には勝海舟も乗っていました。第二回目は、27歳の文久2年(1862年)に英艦・オーディン号で欧州各国へ視察に行きました。福澤も通訳者としてこれに同行したのです。第三回目は、32歳の慶応3年(1867年)に再度アメリカへ行きました。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪問しました。その船には熱心なクリスチャン津田仙も同乗していました。これらのことから、福沢諭吉はキリスト教に否応なく触れていったに違いありません。欧州視察の途中にでは、イギリス聖書協会出版の聖書を一冊ずつプレゼントされたといいます。しかし当時の幕府はキリスト教をまだ禁教としていたため、一行は驚きあわてて、イギリス聖書協会に聖書を返却したといわれています。やがてキリスト教の禁教令が解かれ、福沢諭吉もキリスト教に対して柔軟な姿勢を持つようになったというのが事実のようです。その柔らかくなった福沢諭吉が宣教師達と交流を持つようになり、その寛容の上に、彼の家族達がクリスチャンになっていったのです。
今日の御言葉は「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」マタ 10:42 をあげておきしょう。 
林歌子の生涯
日本の歴史は、自然と現代まで流れて来たと思ってはなりません。特に古い考え方から、現代の日本となる過程においては、多くの人々の血と涙の戦いがあったのです。歴史を変えた人々と言うと、女性達の働きが取り上げられることはあまりありませんでした。しかし日本の歴史を変えた人々の中には、多くの女性達もいたのです。今日はその女性の一人、林歌子の生涯を掘り起こしてお話し致します。
林歌子は、元治元年(1864年)福井県大野市の大野藩士の家に生まれました。藩士の家と言っても下級武士の家だったそうで、経済的にはそう豊かではなかったようです。歌子は、まだ3歳の時に母を失ってしまいました。その後は、義理の母に育てられました。父親は歌子をことのほか可愛がり、歌子がやがて学者になるようにと、貧しいながらも学問に進むようにと教育を与えました。歌子も父の願い通りに福井女子師範学校に進み、師範学校を卒業し、16歳で小学校教師となりました。その後20歳で結婚し一児をもうけましたが、すぐに離婚してしまいました。その後すぐに愛児も失い、失意の中に上京しました。そこで牧師ウィリアムズと出会い、彼の話によって「人権尊重の思想」に触れて、まさに目から鱗が落ちる体験をしました。また歌子は立教女学院教師となり、さらにキリスト教に接し洗礼を受け、クリスチャンとなりました。
歌子は礼拝に通っていた東京神田教会で、信仰の友となる小橋勝之助・実之助兄弟と出会いました。そしてその二人の兄弟の熱い夢に心が動かされました。その夢とは、小橋の故郷に孤児院を創るという夢でした。当時、貧しさゆえに親から捨てられる子供たちがいたのです。林歌子はその小橋兄弟の要請を受けて、明治25年(1892)に、兵庫県の矢野村に行って、孤児院「博愛社」を助けました。「立教女学院教師」の立場を投げうって、孤児達の為に働く仕事を始めるという歌子に、父親は猛烈に反対しました。しかしその決意は変わらず、矢野村で「博愛社」の活動を続けました。しかしまわりの人々からは変人扱いされ、何か隠された思惑があるのだろうと噂を立てられました。その村の小橋兄弟の実家からも反対され、活動は困難を極めました。そのような中で、小橋勝之助が病死してしまいました。間もなく矢野村での活動に終止をうって、大阪に出ました。そこで昼間は畑仕事をし、夜は夜学の教員をして孤児達を育てる活動を開始しました。そして明治32年(1899)大阪の淀川区に博愛社を設立し、多くの孤児達を育てました。
大阪の博愛社の活動が軌道に乗ってきた頃、小橋実之介に嫁さんを迎えました。その夫婦に博愛社をゆだねて歌子は渡米しました。明治38年(1905)のことです。そのアメリカで、歌子はキリスト教の「万国矯風会大会」に参加し、愕然とするのです。それは、アメリカの女性達と日本の女性達の立場が全く異なっていたからです。日本の婦人の立場は、「子供の時は父親に従え、結婚したら夫に従え、歳をとったら子供に従え」と言うものだったからです。夫のどんな暴力にも耐えて従うというのが、当時の女性の姿でした。そのような古い日本の女性観に怒りを感じました。また当時は、政府承認の遊郭が日本中にあり、女性達は親の借金の為にそこに売られたりしたのです。女性はそのような仕打ちを受け、男達は遊郭で遊び、何人もの妾を持つことが男の甲斐性のように言われていた時代なのです。そのような男中心の社会で、女性達はじっと我慢を強いられるような状況に、歌子は納得できませんでした。そのように女性が我慢するしかないのは、女性達に経済力がないからだと考えました。そのような女性達に経済力をつけるために「大阪婦人ホーム」を作り、夫の暴力や、遊郭から逃げてきた女性達をかくまい、職業訓練を与え、職業斡旋まで行ないました。
また歌子は「大阪矯風会」設立しました。そして遊郭廃止運動を開始しました。明治42年7月31日の事です。大阪北部地区に大火がありました。その大火はその地域にあった「曽根崎遊郭」を全焼したのです。その数日後、林歌子は遊郭再建反対運動を立ち上げました。その公演には1000人、2000人と聴衆が集まりました。歌子は売春の非人間性と遊郭業者の非道ぶりを徹底して訴え、人々の共感を得ました。その甲斐もあって、その年の9月1日、ついに大阪府知事は曽根崎遊郭の廃止を発表したのです。歌子達は運動の勝利を喜びました。しかし、裏ではその代替地として、大阪市西成区の「飛田新地」に遊郭が作られることになっていたのです。林歌子達は再び反対運動を展開しました。そして多くの人々の賛同を得たのです。今度も勝利するかに見えました。しかし大阪府知事は遊郭建設を認可し、直ちに辞職してしましました。逃げたのです。その土地は、曽根崎遊郭の三倍もありました。完成直後も、林歌子達はハンドマイクをもって「遊郭ハンタイ、絶対ハンタイ」と叫び、遊郭の周りを回りました。しかしその声は、華やかな遊郭にむなしく響くばかりでした。
林歌子は「飛田新地遊郭反対運動」が失敗に終わったのは、大阪府の議員に遊郭の利権者が多数いたことに原因があると知りました。これではいくら反対運動をしても、どんなに市民の署名を集めても、無駄であることがわかりました。この事を打破するためには、男だけの議会では解決が出来ない事を痛感し、自分達女性が政治と関わらなければならない事に気付きました。そこで今までの戦略を変え、婦人参政権獲得運動へと向かったのです。「遊郭」の「郭」とは高い塀に囲まれた場所を意味する文字で、その文字通りに遊郭は遊女達が逃げられないように、高い塀で囲まれ、厳重な門が設けられ監視されていたのです。そこに入ったら最後、決してそこから出られなかったのです。大正12年に起こった関東大震災の時、東京にあった吉原遊郭の遊女達は、大火に追われて弁天池に飛び込み490人が溺死しました。遊女達が逃げるのを防ぐために、遊郭の門を閉じてしまったからです。また、吉原遊郭の近くの浄閑寺は、投げ込み寺と呼ばれていました。死んだ遊女達が裸で投げ入れられたからです。1664年から遊郭廃止までに、2万人以上の人達が投げ込まれました。遊女達の平均寿命は21.7才であったと言われています。そのことから見ても、そこでの生活は心身共に想像を絶するものであったと思います。
その遊女達は、自分から欲して遊女になった人は一人もいません。貧しい東北の農家からの出身者が多かったのです。借金などで、親に売られてきた人達なのです。そこでひたすら管理され、男のお客を取らなければなりませんでした。なんと残酷なことでしょう。その遊郭での売買春は、昭和32年(1957)まで認められていました。遊郭は政府公認の売春の町だったのです。それは、遠い昔の話ではありません。今からわずか50年あまり前のことであり、戦後12年も続いていたのです。貧しさゆえに孤児にされた子供達の救済と、貧しさゆえに遊郭に売られて来た女性達の救済のために、そして女性達の地位向上のために、命を懸けた女性がいたのです。その人の名が林歌子だったと言うことを覚えておきましょう。そしてそのように林歌子の心に熱い愛を与えたのは、20歳の時に信じたイエス・キリストなのだということも覚えておきましょう。林歌子の自筆で「涙と汗」という字があります。それにちなんで、今日の御言葉はローマ書12章15節の「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」にしましょう。 
会津っぽ 新島八重の生涯
福島県人が会津の人の気質を表わす言葉に「会津っぽ」という言葉があります。それは会津人の一徹さ、頑固さ、一度決めたら揺るがない、そのような気質を一言で表わす言葉です。最近、にわかに新島八重の人気が高まってきました。2013年の大河ドラマの主人公に選ばれたからです。時は江戸末期となった頃の1845年、会津藩の砲術師範、山本権八(ごんぱち)・佐久夫妻の子として、会津若松市に生を受けます。八重は、やがて同志社大学創立者の新島襄と結婚し、新島八重となります。しかし新島襄と結婚する前の事ですが、あの白虎隊で有名な戊辰戦争に、何と男として戦いに加わっていたのです。その新島八重はやがてクリスチャンとなりました。その生涯は会津魂に貫かれた波乱万丈の人生でした。
10数年前、私達夫婦は会津を訪ねたことがあります。そこには、会津の武士の子供達を教育した学校がありました。その子供達への当時の訓戒が残っていました。「女・子供の言うことを聞いてはなりませぬ。」等と言う、現代人がギョッとするような言葉もありました。そのような訓戒の終わりだったと思いますが「ならぬことはならぬものです」とありました。「問答無用。やっていけない事はやっていけないのだ」とでも訳すべきでしょうか。これが会津魂です。そのような風土に八重は生まれたのです。
八重が9歳の頃、1853年アメリカの軍艦「黒船」が開港を迫って浦賀に来ました。そのような激変する日本の1865年(慶応元年)、19歳か20歳の時に川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)と結婚しましたが、その三年後に離婚しています。その時は戊辰戦争真っ只中でした。1867年大政奉還が行なわれ、江戸城を徳川が明け渡すという日本史の大激変が起こりました。しかし会津藩は最後まで徳川幕府に着き、次の年に戊辰戦争を起こして新政府軍と戦いました。その戊辰戦争には、女性も子供も新政府軍と戦いました。女性は薙刀で戦うのが普通でしたが、山本八重は髪を切り、男装し刀を差し、スペンサー銃を手に戦ったのです。しかし、少年達で編制された白虎隊も飯盛山で自害し、会津藩はついに新政府軍に敗れました。戦いに敗れた山本八重が、城を去る時に詠んだという歌があります。「あすの夜はいづくの誰かながむらむ馴れしみ空に残す月影」。戦いに敗れて城を去る八重の無念な思いがこもっています。徳川幕府に仕える幕臣として、最後まで自分を変えないで戦った、それが会津魂を表わしています。
山本八重は失意の中に生き残った家族と共に、京都にいる兄の山本覚馬を頼り、明治4年に京都へと向かいました。八重は、兄の影響で今度は勉学に一生懸命励みました。特に西洋の思想を学ぼうと、英語の学びに力を注いだのです。その英語の学びの為に行っていた医療宣教師ゴードンの家で、最愛の人・新島襄と出会ました。ゴードン宣教師は新島襄がアメリカで学んだ神学校、アーモストカレッジの先輩だったのです。新島襄は、まだ日本が鎖国であった時、日本から密出国してアメリカ留学に行った人です。彼は聖書の創世記を読んで感動し、天地万物の創造者である神を日本の若者達に教えたいとの思いに満ちて帰ってきました。襄と八重は魅かれ合っていきました。明治8年10月15日八重は新島襄と婚約しました。そして翌年の明治9年1月2日京都で洗礼を受け、最初の人となりました。そして洗礼式の翌日に、デビス宣教師の司式で結婚式を挙げました。襄32歳、八重30歳でした。この二人が、京都初のプロテスタントのキリスト教式で結婚式を挙げた人となったのです。二人は力を合わせ、京都の仏教会の猛反対の中、同志社を設立しました。八重の兄、山本覚馬はそのために6000坪の土地を提供しました。
その新島襄も明治23年1月23日、八重に「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」と最期の言葉を残して、47歳の生涯を終えたのでした。わずか14年の結婚生活でした。八重は襄の死後、また新しい分野へと乗り出しました。日本赤十字社の社員となったのです。そして日清戦争が起こると、従軍看護士となって救護活動を開始しました。また日露戦争が起こると、すぐに従軍看護士として活動しました。58歳の頃でした。
また、同志社の学生達を愛し、社会活動も活発にしていました。しかし昭和7年7月15日のこと、急性胆嚢炎がもとで八重は87歳の生涯を終え、天に召されたのでした。このとき八重は全ての財産を同志社に寄付しました。新島襄は、男勝りの八重をクリスチャンとして心から愛おしみ、また八重も新島襄の下でクリスチャンとして会津魂を貫き通した生涯を生きたのでした。会津の武士の子を育てる訓戒の中に、前に話した「ならぬことはならぬものです」という会津人の一徹さを表す言葉があります。それはクリスチャン魂ともそのまま寄り添う言葉でもあります。そこで今日は、U歴代 34:2の「彼は主の目にかなうことを行って、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。」という御言葉をあげておきたいと思います。まっすぐな生き方を八重の生き方と共に、しっかりと心に止めようではありませんか。 
ノリタケの創業者 森村市左衛門
天保10年(1839.12.2)10月27日〜大正8年(1919)9月11日 (6代目)森村市左衛門と聞いて、わかる人は少ないのでしょう。しかし彼の起こした企業名の、ノリタケ、TOTO、日本碍子・INAXなどの社名を聞いて知らない人は少ないでしょう。さらにその起業者である森村市左衛門が熱心なクリスチャンであったということは、クリスチャン達にもあまり知られていないのではないではないでしょうか。私は陶器のオールドノリタケが大好きです。大好きですが、それをひとつも持ってはいません。その理由は高額だからです。でもパソコンなどでオールドノリタケの美しい絵皿などを見ては「何と美しいのだろう」とうっとりしていました。そのノリタケの創業者がクリスチャンであったとは。さて、今日はその森村市左衛門の事をお話し致しましよう。
彼がクリスチャンとしてあまり知られていない理由の一つは、彼がクリスチャンになったのが、召される僅か2年前のことであったからかもしれません。彼は好地由太郎という巡回伝道者の話を好んで聴き、洗礼を受けました。77歳頃のことです。
クリスチャンになる以前の森村市左衛門は、出家を考えたほどの仏教徒だったといわれています。彼は様々な企業を設立し、それで得た多額な利益を用いて、日本の社会に貢献すべく活躍していました。慶応大学校舎建築の為にも、日本女子大学校舎建築の為にも、多額の寄付を行ないました。特に彼は、当時遅れていた女子教育に協力し、多額の寄付をしたようです。ただ企業家として利益を追求するだけでなく、社会貢献を大きな目的としていたようです。
彼は、陶磁器の貿易で海外と接し、アメリカでも販売しました。真偽のほどはわかりませんが、その時のひとつのエピソードが伝わっています。それによると、彼がニューヨーク支店へ出張した時のことでした。そこの支店を視察中に、薄暗い地下室で一生懸命働いている青年社員がいました。荷造りや発送の仕事を一生懸命しているのです。それから一年後、またその支店を訪れると同じ地下室で、その青年社員が同じ仕事を熱心にしていました。感心してその青年社員に話しかけてみると、京都の同志社大卒のクリスチャン青年であることがわかりました。どんな仕事も進んでやるという模範的な青年社員でした。それまで森村社長は仏教の信者でしたが、この青年社員の仕事振りに感動して教会に通うようになったといいます。およそ70歳の時でした。そして77歳の時に洗礼を受け、クリスチャンとなりました。
森村市左衛門は、クリスチャンになってからひたすら伝道活動をしました。日本基督教団西千葉教会の記録には「1918年(大正7年)1月。前年の東京湾台風によって倒壊した建築中の新会堂の献堂式。新渡戸稲造、森村市左衛門、内村鑑三各師、講演」と記されています。またホーリネス教団の創立者である中田重次らと伝道して各地を回りました。そして短いクリスチャン生涯でしたが、世の成功を収めた者がクリスチャンとなり伝道者となったと言うことは、日本のキリスト教史にとって、とても価値のあることであったと思います。人生の目的を追求した森村市左衛門の人生の完成に、キリスト教があったのです。イエス様の言葉に「しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハ 3:21)と言う言葉があります。森村市左衛門の真理を求めた人生の先で、光であられるイエス様に到達したのです。誰でも真理を求め続ける人は、イエス様に到達するのです。そういう意味で今日の御言葉として記します。 
 

 

パイオニアの創立者 松本望氏
松本望は、音響で有名な株式会社パイオニアの創立者です。彼は、1905年(明治38)松本勇治牧師の次男として神戸で生まれました。今日は、そのパイオニアの創立者松本望の生涯をお話し致しましょう。
松本望の生涯を話すにあたって、彼の父親である松本勇治のことを抜きに話すことはできません。彼の父親の生れた時の名字は片柳でした。つまり彼は栃木の片柳家に生まれたのですが、本家の松本家に子供がいなかった為に養子となり、松本姓になったのです。彼は函館商業卒業後、貿易商を夢みてアメリカに渡りました。そこで熱烈なクリスチャン松岡洋右(後の外務大臣)に会いました。その強い影響を受け、聖書の研究に没入し、クリスチャンとなりました。貿易商になるどころか熱心な牧師になった彼は、アメリカにおいても伝道に命をかけました。その後、養父の家がある栃木に帰ってきましたが、即座に養父から「耶蘇バカ」と反対され勘当されてしまいました。それでも栃木で伝道しました。その時の生活は貧しかったようです。その後、役場の書記をしていた菊池ケイという女性を見染め結婚しました。その新婚旅行でさえ徒歩による伝道旅行だったそうです。その「耶蘇バカ夫婦」の次男として、松本望が生まれました。「私は父の信仰をそのまま受け継いだ」ということを松本望が自ら書いています。
松本望が生まれた時 (明治38年5月)には、家族は神戸市三ノ宮に移っていました。神戸に移り住んでからは松本牧師の家はそんなに貧しい状態ではなくなったようです。しかし父勇治は、子供達に「幼いときから勤労の精神を養っておかねばならない」と、小学3年生の頃から新聞配達、夜は床屋の見習い、牛乳配達と仕事をするように申し渡したと言います。しかも家の入口には「牛乳配達所」と看板を掲げて、仕事の責任を教えたそうです。やがて望青年はラジオの製作会社に入社し、10年務めました。彼の趣味は、自分手製のラジオで神戸港に入港している外国船からの無線傍受でした。松本望の幼少から青年期は、父の松本勇治牧師の影響が大きかったようです。松本勇治牧師が洗礼を授けた人達の中には、やがて聖書学者となる黒田幸吉や東大総長となる矢内原忠雄がいました。そういう意味でも、日本のキリスト教歴史にも大きく貢献した人物なのです。
ラジオ製作会社に勤めて10年目ぐらいの時なのでしょうか。あるキリスト教関係の団体から「あなたの人柄を見込んで、独立資金を援助しましょう」という話が来ました。彼は独立を決意しました。会社名を「福音電機製作所」と命名し独立しました。昭和12年のことです。福音とは「キリストのよき知らせ」のことであり、私は音を通して世に貢献するという決意が込められていました。さらに昭和14年東京に進出し、音羽に「福音電機製作所」の看板を掲げました。しかし奥さんが機械のコイールを巻くという家内工業的なものでした。昭和22年には、さらに会社は拡大を続け「福音電機製作所」の名前を変え「福音電気会社」となりました。さらに発展を続け、昭和36年に社名を現代の「パイオニア株式会社」と命名しました。
パイオニアの社名のように、松本望は音の分野の開拓者であることを社訓のひとつとしています。そのことを現すエピソードが残っています。パイオニアがレーザーディスクを世界に先んじて作った時でした。最初その製品は全くと言っていいほど売れなかったそうです。その時の松本望は、弱気になっていた社長や社員に「全くの新製品なのだから、売れなくて当たり前だ。あわてるな!」と言って励ましたと言うのです。今やレーザーディスクの無い家を探すのが難しい程になっていますね。松本望は1994年7月15日、83歳の天寿を全うして召天しました。松本望は、父親のつけてくれた名前がとても気に入っていたようです。「いつも名前の望がどんな時にも一筋の希望を与えた」と言っています。また松本家の墓標には『されど、われわれの国籍は、天にあり』という聖書の御言が刻まれています。
今日の御言は、松本望の名に入っている聖書の御言「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヨハ 15:7)をあげておきましょう。この御言のように、どんな時にも希望を持って生きましょう。 
犯罪者から伝道者になった人 好地由太郎
聖書に触れた人々NO20で、ノリタケ、TOTO、日本碍子・INAXの創業者、森村市左衛門(6代目)の話をしました。彼は晩年に好地由太郎という巡回伝道者の説教を喜んで聞いて、その人から洗礼を受けクリスチャンになったのでした。その好地由太郎こそキリストを信じて重罪犯から伝道者になったという驚くべき変化を体験した人なのです。
好地由太郎(こうちよしたろう)の幼少時 好地由太郎は、慶応元年(1865)5月15日に上総国君津郡(千葉県君津市)金田村に大村八平の三男として生まれました。由太郎の他に兄が2人、姉が1人いました。しかし明治7年(1874)父と母は別れてしまいました。母と由太郎は、住む家も無く物置同然の小屋で雨露をしのぐ生活をしました。その母とも10歳の時に死別してしまいました。育ててくれる人もなく、父親の残していた借金のために同じ村の農家に引き取られ、労働力として4年もの間、奴隷のように働かされました。
好地由太郎の犯罪 14歳になると好地由太郎は上京し、父親を捜しました。父親を探し出すと、父親は荷物船を所有して貨物の運搬業を営んでいました。その父を手伝い働きました。また父親と別れた時、父親に連れられて行った実姉の家も見つけ出し、同居することになりました。父親が死ぬと、姉の夫で新聞記者・好地重兵衛(芝教会役員)の養子となりました。好地由太郎は都会の悪にだんだんと染まって行き、店の金を持ち逃げしたりして職を転々としました。そして最悪の犯罪を起こしてしまうのです。それは明治15年(1882)18歳の時でした。彼は日本橋蛎殻町の店に雇われたのですが、そこの女主人を強姦し放火したのです。彼は強姦と放火と殺人の罪を犯したのです。牢獄の中でも犯罪者達に恐れられ牢名主となって、房内の囚人全体を仕切りました。
好地由太郎のキリスト教との出会い。彼のいる刑務所に一人の青年が入って来ました。牢名主の好地由太郎は、新参者への当然な習慣として「娑婆でどんな事をしてここに来たのか」と聞きました。しかし青年は「私は何もしていません」と言うばかりでした。何もしないでここに来るはずがないと、囚人みんなで青年を袋叩きにました。すると青年は「私は死んでも天国に行くから良いが、あなたがたは地獄に行くから可哀想だ」というではありませんか。騒ぎを聞きつけて看守が入って来て、青年を連れ出しました。その時、好地由太郎は彼の袖をつかみ「どうすれば君のような心になれるのかと」と聞きました。すると「キリスト教の聖書を読みなさい」と一言残して出ていきました。実はこの青年は路傍伝道をしていたところ、警察にやめるように注意されたのですが聞き従わなかったので逮捕され、間違って重犯罪者の房に入れられてしまったのです。そのことが分かり、20分か30分の後に釈放されています。その青年の言葉が気になり、好地由太郎は姉に頼んで聖書を差し入れてもらいました。しかし好地由太郎は、文字が読めなかったのです。自然と聖書から遠ざかってしまいました。
くりかえした脱獄と脱獄計画 彼は死刑の日を待つ身でした。後に無期懲役に減刑されたにも関わらず脱獄を繰り返し、逮捕されては刑務所に逆戻りしました。そのような北海道の刑務所暮らしの中で、不思議な同じ夢を三度もみました。明治2年(1889)1月2日の夜のことでした。子供達が現れて「若者よこの本を食せよ」と語りかけました。しかし彼は文字が読めず、その聖書が読めなかったのです。
文字の勉強と聖書の暗記 彼は文字の勉強をして聖書を読もうと決心しました。すると囚人達の彼に対する迫害が多くなってきました。それでもなんとしても聖書を読もうと勉強を続けました。ついに誰にも邪魔されないように、独房入りを願ったのでした。ついに3年間でほぼ新約聖書を暗記してしまいました。さらに4年間の独房生活で、旧約聖書もほぼ暗記してしまいました。しかし彼には無期懲役に加えて、脱獄等の罪の9年までもある身だったのです。さらに減刑があったようで、出獄の時がやってきました。明治37年(1904)のことです。彼は釈放されました。彼は釈放後、キリスト教伝道者の中田重次らと共に、各地を伝道して回りました。たくさんの人達が彼の伝道によって救われました。その中の一人がノリタケの創業者、森村市左衛門です。彼は好地由太郎のファンでした。洗礼は好地由太郎先生にして頂くと決めて、洗礼を授けて頂いたほどです。 
神様は、文字の読めなかった好地由太郎に聖書を与え、文字を教え、多くの人々の伝道者としました。彼の伝道によって、学者や実業家に至るまで多くの人々が救いに導かれたのです。極悪人・好地由太郎が、聖人・好地由太郎になったのです。人間的に見れば害にしかならないように見える人でも、イエス様は神の人とすることが出来るのです。イエス様の人間を作り変えるお働きは今も続いています。ミッションバラバなどの存在がその良い例でしょう。
今日の話に相応しい聖書の言葉を挙げておきます。
マタイ 3:9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 
日本人最初の聖書の翻訳者 ヤジロウ
今年も、婦人聖研では聖書に触れた人々をお話ししていきたいと思います。さて、キリスト教を日本に最初に伝えたのがフランシスコ・ザビエルであることは、学校の歴史教科書で誰もが習ったことです。しかし、そのザビエルから最初に洗礼を受けた日本人については、あまり知られていません。その人はヤジロウ(矢次郎)と言う人です。彼はインドのゴアで、ザビエルから洗礼を受けました。今日はこの人のことを取り上げてお話ししましょう。私達が持っている日本語訳の聖書にも、歴史があります。フランシスコ・ザビエルが持ってきたであろうヤジロウ訳の「マタイの福音書」こそ、日本語の最初の聖書でした。彼はインドのゴアで日本人のヤジロウという青年に出会い、日本伝道の決意をしました。そして1549年(天文18年)に、マタイの福音書をもって鹿児島に上陸したのです。
ヤジロウは薩摩(鹿児島県)の出身です。その彼がなぜインドにいたのでしょうか。彼の日本での職業は商人でした。日本の士農工商という身分制度の中では、一番身分が低い立場でした。彼は、仕事上のトラブルから仲間と喧嘩となり、その人を殺してしまったのです。殺人という罪を犯してしまった者は、刑罰として死刑になる可能性がありました。そこで彼は、家族と家来を連れてインドへと逃亡したのです。
ヤジロウとザビエルは、1547年の12月にマラッカで出会いました。翌年の1548年5月20日にヤジロウは、家族と家来全員でザビエルから洗礼を受けたのです。その日はペンテコステの日でした。ところはインドのゴア市の大聖堂でした。その後ヤジロウは、ゴアの聖パウロ学院でキリスト神学を学びました。ザビエルはヤジロウにキリスト教を伝え、ヤジロウからは日本の様子を聞きました。その事によって、ザビエルは日本伝道を決意したのです。ヤジロウはザビエルの要請によって和訳聖書の翻訳に協力しました。そうして翻訳されたのは「マタイの福音書」等の部分的なものでした。しかしそのマタイの福音書が、ザビエルの日本伝道に大きく貢献したことは間違いありません。ヤジロウもザビエルと共に帰国し、故郷の薩摩に上陸しました。逃亡から僅か三年後のことでした。ザビエルの日本滞在はわずか2年3カ月でした。しかしその伝道の発展は目覚ましく、山口ではわずか5ヶ月間で500人の信者を得るという驚異的な成果を見たのでした。この様な目覚ましい伝道に、ヤジロウ訳の聖書がどれほど力を発揮したかは計り知れないものだったでしょう。残念なことにヤジロウの訳したその日本語訳聖書は、現在は断片すらも残っておりません。どこかで発見されて欲しいものです。
日本人最初のクリスチャンは、殺人犯のヤジロウという逃亡者であり、最初の日本語聖書「マタイの福音書」の翻訳者も、ヤジロウという人の訳であったことを知りました。その逃亡犯がキリストの福音によって救われ、帰国の危険を顧みず日本人の救いの為に、ザビエルと共に帰国する決意に至ったことを考えると、人間に及ぼすキリストの福音の力は驚くばかりです。ヤジロウは命を顧みず、ザビエルと共に日本伝道に燃えたのです。
ヤジロウの生涯を学び「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ 15:10)の御言が浮かんできました。ヤジロウはキリストの救いに触れた時に、命の為に逃げ回るという逃亡生活に終止符を打ち、命よりも大切なものに命をかけたのです。私達もクリスチャン・ヤジロウに学びましょう。 
ジョン万次郎
昨年の11月に、四国の土佐清水に聖会の奉仕の為に訪れました。その土佐清水には、わが教団の名物竹中通雄牧師がいます。その牧師は、よく郷土の歴史を知っている方で、聖会会場に向かう車の中で行きも帰りも四国や土佐清水の歴史を話して下さいました。四国は坂本竜馬の出身地でもあり、日本の近代化にはなくてはならない人々がたくさん出た所だからです。竜馬があまりにも有名な人物だったために、その陰に隠れてしまっているのがジョン万次郎です。近代日本の夜明けを語るのに、彼のことを話さないわけにはいきません。
中浜万次郎は、土佐清水市中浜の貧しい漁師の家に、文政10年(1827年)の 1月1日に2男3女の次男として生まれました。9歳の時に父親を亡くし、14歳の時には出稼ぎに行っていました。故郷から徒歩一週間もかかる高知の宇佐で漁師として働き、家を支えていたのです。それは、1841年1月5日のことでした。仲間と一緒に足摺岬でアジ、サバの漁中に船が漂流し、万次郎達は遭難してしまったのです。数日間漂流した後、無人島(鳥島)に漂着しました。その島で143日間、過酷な生活をすることになりました。しかしその近くまでクジラを求めてきたアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に発見され、救助されました。
しかし、鎖国であった当時のことです。アメリカの船は日本に近寄れずに、万次郎達は帰国することはできませんでした。彼らはやむなくアメリカへと向かいました。仲間は途中のハワイで降りましたが、万次郎はアメリカ本土へと向かいました。ジョン・ホーランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を大変気に入って、自分の家のあるマサチューセッツ州のフェアヘーブンに連れて行きました。船長は、万次郎を船名にちなんでジョン・マンと名付けました。アメリカで万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、アメリカで学校教育を受けることになりました。日本では寺子屋にさえ行ったことがなく、当時の漁師が皆そうだったように無学でした。しかし彼はアメリカの学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術を学びました。しかも主席に近い成績だったと言います。ジョン万次郎は、アメリカの教会で洗礼を受けクリスチャンとなりました。その後一時は、捕鯨船に乗ってクジラ漁にも出たことがあります。
しかし彼の心には、募る思いがありました。それは日本への思いであり、故郷土佐清水中浜への思いでした。彼はその旅費を作るために、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニアへ移り、金鉱山で働き資金を得ました。それで船を購入し、日本へ向かったのです。途中ハワイに寄り、仲間達と一緒に船に乗り込み日本を目指しました。嘉永4年(1851年)のことです。万次郎達は、薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に上陸しました。その後、沖縄・薩摩藩・長崎奉行所などで長期に渡って取り調べを受けることになりました。その取り調べの資料を用いて、河田小龍によりまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。この書を通して坂本龍馬や多くの幕末志士達がアメリカの様子を知り、海外に目が開かれていったに違いないと言われています。その後スパイの嫌疑がはれて、高知城下の藩校「教授館」の教授になりました。その教授館で岩崎弥太郎等が彼から直接指導を受けたのです。嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港、幕府に条約締結を迫り、ついに同年3月3日、日米和親条約が締結されることとなります。
時代は万延元年(1860年)となり、幕府は日米修好通商条約の締結の為に、アメリカに海外使節団を送りました。万次郎はその通訳として任命されました。その軍艦咸臨丸には、勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物が乗っていたのです。勝海舟は、咸臨丸の艦長でした。しかし酷い船酔いに苦しみ、実質的には万次郎が艦長であったと竹中師は言っていました。アメリカで航海術を学んでいた彼ですからそうだったのではと思います。アメリカに着いた勝海舟や福澤諭吉は、礼儀正しく日本式に頭を下げて挨拶しました。しかし万次郎は、握手とハグで挨拶しました。それを見て勝海舟や福沢諭吉達が「漁民の分際で生意気だ」と、機嫌を悪くしたとのエピソードもあります。時は明治となり、明治政府の命を受け万次郎は開成学校(現東京大学)教師となり、明治3年には教授となりました。しかしその後、彼は世の中の表舞台には出ることなく、71才の生涯を東京で終えました。彼の生涯のある時期には、板垣退助と一緒に四国の村を、万次郎は聖書の話をして、板垣退助は自由民権運動の話をして回ったそうです。 
ジョン万次郎がいなかったならば、坂本竜馬も、勝海舟も、福沢諭吉も、板垣退助も、岩崎弥太郎も歴史的な人物となりえなかったかも知れません。ひいては鎖国を続けて来た日本の夜明けはなかったかもしれません。彼こそ日本の最初の国際人でとなった人でした。遭難と漂流という苦難で始まったジョン万次郎の数奇な人生。しかし近代日本の夜明けの為に、土佐清水の漁師にすぎない万次郎を神様が用いられたのです。
創世記には、自分の兄弟達にエジプトに奴隷として売られるという悲劇的な人が出てきます。エジプトで総理大臣にまでなったヨセフです。数奇な人生をたどりました。しかし彼は後に自分を売った兄弟達と会った時に「私を遣わしたのはあなたがたではなく、実に神なのです。」(創45章8節)と言いました。神様の計画を知ったのです。
私達にも、自分の意に反するような数奇さが人生にはあるのです。しかし神様がそうして下さったと知ることの出来る人は幸いです。私達も神様の計画を感じる人生を生きようではありませんか。 
祖国を失った音吉と和訳聖書
聖書に触れた人々について、3回にわたって海外でクリスチャンになった人々のことを話しました。ひとりは、殺人の罪を犯して海外逃亡したヤジロウでした。彼は1547年の12月に、マラッカで中国伝道を目指していたザビエルに会い、翌年に洗礼を受けました。ヤジロウから日本の状況を聞いたザビエルは、日本伝道を夢見てヤジロウの協力によって和訳のマタイの福音書を完成しました。ザビエルは、それを持って1549年(天文18年)鹿児島に上陸したのです。その時、ヤジロウも一緒でした。
次に話したのが江戸から明治に変わろうとする時代1841年1月5日に、足摺岬でのアジ・サバ漁中に漂流民となってアメリカに渡り、洗礼を受けた漁師ジョン万次郎でした。さらに外国でクリスチャンになった人物で忘れてならない人は、現存する最古の日本語訳聖書翻訳に貢献した岩吉・久吉・音吉の船乗り達のことです。彼らもまた、1832(天保3)年10月11日の航海中に船が操縦不能となり、漂流民となってアメリカに流れ着いた人達でした。
当時、大阪から江戸へ船で物資を輸送することが盛んでした。音吉らの乗る千石船「宝順丸」も、14名の船員を乗せて江戸に向けて出港しました。積み荷は米と陶器類でした。しかし途中で嵐に遭い、舵を失い操縦不能となってしまいました。太平洋を14ヶ月も漂流し、アメリカの西海岸の北方(カナダとの国境付近、フラッタリー岬付近)に漂着しました。漂着した時には、岩吉・久吉・音吉の3人になってしまいました。みな漂流中の船中で病死してしまったのです。そこはインディアンの居住区であり、彼らは原住民の奴隷となってしまいました。そこで1年間程過ごすうち、積み荷の陶器がアメリカで出回り始め、日本の陶器が評判になりました。その事がきっかけで、音吉達の漂着のうわさがハドソン湾会社の支配人のイギリス人ジョン・マクラフリンの耳に入りました。彼は、この人達を助け送り届けることによって、日本との通商の道も開けるのではないかと考えました。彼ら日本人をインディアンの奴隷から救い出し、その地の学校に入学させ、英語とキリスト教を学ばせました。
その後、日本との通商の道を切り開くため日本へと向かいました。まずワシントン州からハワイを経て、イギリスのロンドンへと向かいました。イギリス政府と日本政府との通商の許可を得ようとしたのだと思います。しかし当時のイギリス政府は、日本との交渉に熱心ではありませんでした。やむなくマカオに音吉達を送りました。音吉達にとって、日本を出てから既に三年が経っていました。
彼らは、マカオでドイツ生まれの宣教師、カール・ギュツラフに会いました。ギュツラフは日本の宣教を目指しており、日本語の聖書が必要でした。そのために音吉達は、ヨハネの福音書の翻訳を手伝うことになりました。翻訳している一年の間に、九州の難破船からの4人も送られてきて合流しました。ついに1837年7月30日漂流してから5年ぶりに、音吉達を乗せたモリソン号が江戸湾の浦賀港に近づいたのです。すると幕府軍による問答無用の砲撃を受け、上陸が出来ませんでした。そこでモリソン号は、鹿児島湾に回り上陸しようとしました。しかしそこでも砲撃を受け、上陸できずに祖国を諦め上海へと引き返しました。その後、音吉は結婚して家庭を持ちました。音吉の生涯はそこで終わるわけではありません。1849年には、通訳として中国人(リン・アトウ)と名乗り、イギリスマリナー号で浦賀に上陸しています。また1854年には、日英和親条約締結のためイギリスのスターリング艦隊の通訳として長崎へきました。 
さて彼らの翻訳したヨハネの福音書ですが、翻訳完成の23年後つまり1859年に、プロテスタントの宣教師ヘボンが、その聖書を持って宣教の為に上陸しました。音吉達の協力によって、初めて翻訳された「ヨハネの福音書」を持ってきたのです。このヘボンこそ「ヘボン式ローマ字」を考案した人です。
音吉達の話に戻りますが、彼らは懐かしい日本に帰って来たのに、自分の国の日本からは大砲によって追い返されました。日本の国籍を失ったのです。しかし彼らには、聖書の教える国籍がありました。その御言葉を心に留めましょう。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリ 3:20)。
私達にも天に本当の国籍があるのです。そのことを忘れず、天国を目指しましょう。そこには、大歓迎してくださる神様がおられるからです。 
 

 

殉教者日本二十六聖人の中の二人
長崎には殉教したキリシタン時代の26聖人の像があります。この時代のクリスチャンに、この様な偉大な信仰者たちがいたことを、私は驚きと共に日本人クリスチャンとしての誇りさえ感じました。今日は長崎で殉教した26聖人についてお話致しましょう。
1549年(天文18年)に、フランシスコ・ザビエルによってキリスト信仰が日本に伝えられました。それから48年後、この事件が起こりました。時は西暦1597年2月5日のことです。豊臣秀吉の命令によって、長崎で26人のクリスチャンが処刑されました。日本の最高権力者の命令によってキリシタンが処刑されたのは、初めてのことでした。豊臣秀吉は、宣教師はもちろん国内のすべてのキリシタンを処刑するように命じました。ところが、いざキリシタンの名簿を作り始めると、キリシタンのあまりの数の多さに驚きました。当時のキリシタン人口は30万人を超えていたのです。ちなみにその当時の日本の人口は2000万人くらいでしたから、その人口から見て30万のクリスチャン人口は相当な数だったのです。秀吉は方法を変えました。宣教師と日本人信者を何人か捕らえて処刑し、他の信徒達への見せしめにし、信仰を捨てさせようとしたのです。
豊臣秀吉は、最初キリスト教の伝道を容認していました。しかし突然、禁教へと豹変しました。ついに1596年(慶長元年)12月8日「キリシタン逮捕令」を出しました。その逮捕令によって、京都で24名のキリシタンが逮捕されました。逮捕の目的である人々への見せしめのために、鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛車に乗せられ、引き回わされました。人々はその姿をこぞって見学しました。その後24人は京都から堺・大阪へ、そして長崎の処刑場まで歩かされ、沿道の人々の目にさらされました。人々に「キリスト教を信じたら、お前達も同じ目にあうぞ」という恐怖を植え付けようとしたのです。
しかし殉教者は24人でなく26人でなかったでしょうか。京都で捕えられたのは確かに24人でした。あとの2人は逮捕された人ではなく、途中で自分から願い出て殉教者の隊列に加わった人なのです。ペトロ助四郎とフランシスコ吉の2人でした。フランシスコ吉は、7ヵ月前に洗礼を受けたばかりの大工でした。彼らは約一カ月以上素足で歩かされ、処刑場の長崎にたどり着きました。季節は12月〜2月の真冬でした。そして2月5日に、長崎の西坂の丘で次々に処刑されたのです。その丘には十字架が26本一列に立てられたと言われています。その日は、キリシタンたちの処刑の様子を見ようと多くの人々が集まりました。その中には大の見せしめのために、鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛車に乗せられ、引き回わされました。人々はその姿をこぞって見学しました。その後24人は京都から堺・大阪へ、そして長崎の処刑場まで歩かされ、沿道の人々の目にさらされました。人々に「キリスト教を信じたら、お前達も同じ目にあうぞ」という恐怖を植え付けようとしたのです。その中には大勢のクリスチャンもいました。クリスチャン達は、ある者は賛美歌を歌い、ある者は聖書の言葉を語りながら殺戮されていったと言われています。その時の殉教者は、日本人20名、スペイン人5名、ポルトガル人1名の合計26名でした。
その後も長崎の西坂の丘は、キリシタン処刑の地として続きました。そこで殺害されたクリスチャンは約600人と言われています。まさにキリストの十字架が立てられたゴルゴタの丘のようです。日本のゴルゴタの丘と言うことが出来るでしょう。今そこには(長崎県長崎市西坂町7–8)、26聖人の碑が立てられています。私はまだそこに行ったことはないのですが、そこと五島列島は是非行ってみたい所です。それにしてもこの事件で衝撃的なのは、26人が信仰のゆえに殺害されたことは勿論のこと、捕らえられていなかった二人が、自分から願い出て殺害される隊列に加わったということです。同じ神様を信じていながら、24人の人達は耳も鼻もそぎ落とされ見せしめの為に人々にさらされているのに、自分だけが難を逃れているのが許せなかったのでしょう。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(1コリ12:26) と言う聖書の言葉が浮かんできます。それともう1ヶ所「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙2:10)を今日の御言葉としてあげておきます。 私達は「あの人に躓いた」とか、「あの人と気が合わない」などと言って信仰に躓くことがあります。何と小さな信仰でしょう。私達の先輩である日本人クリスチャン達にも、信仰を捨てるよりも死を選んだ偉大な人達がいたのだと言うことを誇りに思いましょう。そして私達もその信仰に習って、強い信仰者になりましょう。 
細川ガラシャ夫人の一途な信仰
細川ガラシャは、1563(永禄6年)明智光秀の三女として生まれました。名は玉といいました。ガラシャの父は織田信長に仕えていましたが、1582年突然、信長に反旗を翻し、信長が宿泊していた本能寺を襲撃しました。その結果、信長はそこで自殺に追い込まれました。それが「本能寺の変」と言われる事件です。その後、明智光秀は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との山崎の合戦で敗れ戦死すると、その一族も衰退していきました。一方ガラシャは、父の光秀が織田信長に謀反を起こす前、つまり信長に仕えていた時、信長の勧めによって戦国武将の勝龍寺城主細川(ほそかわ)藤(ふじ)孝(たか)の長男、細川(ほそかわ)忠(ただ)興(おき)と結婚しました。ガラシャが16歳の時でした。
主君を本能寺で自殺に追い込んだ明智光秀の娘ガラシャは、丹後(兵庫県北東部)の山奥に幽閉されてしまいました。2年後に豊臣秀吉に赦され、細川忠興家に帰ったのですが、忠興に監禁同然の生活を強いられ、外部との接触を禁止されてしまいました。そのような中で、どのようにしてガラシャはクリスチャンになることが出来たのでしょうか。ガラシャがクリスチャンになるきっかけになったのは、千利休の茶室が一役買っているのではないかと言われています。それは、千利休に選ばれた7哲と言われた7人の弟子の中に、熱心なクリスチャンがいたのです。それは切支丹大名で有名な高山右近でした。また細川忠興もその7人の中の一人だったのです。おそらく高山右近の何らかの影響があったのではないかと言われています。またガラシャにはマリヤという侍女頭がいました。マリヤはクリスチャンで、そのマリヤという名は洗礼名でした。その影響が強くあったと思われます。
ガラシャは監禁同然の生活が続く中、意を決して教会に行ったことがあります。それは1587年のことでした。それは、夫の忠興が秀吉の九州征伐に伴って出陣していた時で夫が留守だったのです。彼女は密かに裏門から出て教会に行きました。初めて教会に行ったその日、教会ではちょうど復活祭の礼拝が行なわれていました。ガラシャは「自分は二度と教会に来られないから、今日洗礼を授けてほしい」と願いました。しかし洗礼は認められませんでした。素性を明かさず洗礼を願い出たガラシャに、教会は洗礼を授けるのをためらったようです。ガラシャが教会に行けたのは、その時一回限りでした。しかし侍女達には、理由を作っては外出させ、教会に行かせました。帰って来た侍女達に教会で聞いた話を、今度はガラシャが聞くという方法で、信仰を培って行ったようです。ガラシャが侍女達を教会に行かせた結果、侍女達16名が洗礼を受けてクリスチャンになりました。ガラシャは、その侍女達と屋敷で神に祈りを捧げていたといいます。
ガラシャが教会に初めて行ったその1587年、豊臣秀吉によるバテレン追放令が出されました。 ガラシャは、宣教師が帰国する前に洗礼を授けてほしいと侍女を通じて願い続けました。しかし、もはや宣教師がガラシャに洗礼を授ける状況ではなくなっていました。宣教師は一案を講じました。それは、ガラシャの侍女の一人に洗礼の仕方を教えたのです。ガラシャはその侍女から洗礼を受けたのです。その時の洗礼名が「ガラシャ」でした。その意味はスペイン語の”gracia”あるいはラテン語の”gratia”であり「恵み」という言葉でした。この頃、先週話した26聖人が長崎で殉教しているのです。
そのようなガラシャにも、この世での最期を迎える時が迫っていました。夫が東軍の徳川方につき、上杉討伐のため戦いに出ている時でした。その隙に敵である西軍の石田三成が細川屋敷を取り囲み、そこにいたガラシャを人質に取ろうとしました。ガラシャは自害しようと決意しますが、自害は神の御心に反するという宣教師の教えに従い、家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて果てたのです。その時、辞世の句としてガラシャが詠んだ「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」という歌があります。何と覚悟に満ちた美しい言葉でしょう。その後、家老の小笠原秀清はガラシャの体が残らないように、屋敷に爆薬を使って火を放ちました。 聖書には女性の名で呼ばれている書が二冊あります。ルツ記とエステル記です。ガラシャの生涯を見て旧約聖書のエステルを思い起こしました。エステルはユダヤ人を虐殺から救うために立ち上がります。その時のエステルの決意が、エステル記4章16節に「私は死ななければならないのでしたら死にます」と記されています。ユダヤ人を虐殺から救うために、信仰によって命をかけた女性なのです。ガラシャも、エステルのように信仰を一途に求め生きたクリスチャンでした。私達も細川ガラシャにならって、信仰に一途さを持ちましょう。 
貧しい人々と共に 賀川豊彦
賀川 豊彦(かがわ とよひこ)1888年7月10日(明治21年)−1960年4月23日(昭和35年)は、大正・昭和におけるキリスト教社会主義運動家でした。彼は海の運送業を営む家に生まれるも、幼少の時に父母とは死別してしまいました。5歳の時に、姉と共に徳島の本家に引き取られました。しかしその本家も、彼が15歳の時に破産してしまい、今度は叔父の森六兵衛の家に引き取られました。彼の幼少期は、そのように大変な体験の時代でありました。
彼は、徳島中学校時代の1904年(明治37年)、日本基督教会徳島教会にて南長老ミッションのH・W・マヤス宣教師より洗礼を受けてクリスチャンとなりました。この頃、様々な本を読みキリスト教社会主義に強く共感しました。またある時はトルストイの反戦論に共鳴し、軍事訓練サボタージュ事件を起こした事もありました。その後、彼はキリスト教の伝道者になろうと、明治学院高等部神学予科と神戸神学校へと進みました。
クリスチャンとしての社会活動を開始するきっかけとなったのは、神戸神学校の時代に「イエス様の精神を発揮してみたい」と神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始したことに始まります。1911(明治44年)に神戸神学校を卒業し、翌年の1912(大正元年)にその新川のスラム街で、一膳飯屋「天国屋」を開業しました。それもその町の人々を助けるためでした。まもなく女工のハルとスラムで出会い、1913年(大正2年)に神戸の教会で簡素な結婚式を挙げました。その結婚式にはスラムの人々を招待し、御馳走をふるまいました。また集まったスラムの人々に、新妻ハルを「私はみなさんの女中をお嫁にもらいました。あなたがたの家がお産や病気で手が足らなくて困った時には、いつでも頼みに来てください。喜んで参ります。」と言ったそうです。
彼は1914年(大正3年)に渡米し、プリストン大学・プリストン神学校に学びました。1919年(大正8年)日本基督教会で牧師の資格を得ました。その次の年1920年に、自伝的小説『死線を越えて』を出版しました。それがベストセラーとなり、賀川豊彦の名を世間に広めるきっかけとなりました。その時の本の印税は全て社会運動のために充てました。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(現在のコープこうべ)を設立し、生活協同組合運動にも取り組んだのです。生協は今日本中に広まっています。
彼はさらに日本農民運動にも取り組みました。1922年(大正11年)に日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組みました。組合は急速に発展し、3年後の1925年(大正14年)末には、組合員数はあっという間に7万人を超えた程でした。その運動は地主から小作人を守るための組合活動でした。
また1923年(大正12年)に関東大震災が起こると、急きょ関東に移って救済活動を行ない、被災者の救済とその子供達を集めて世話をしました。その事がきっかけとなって、社会福祉法人「雲柱社」が創立されました。その法人名になった雲柱とは、イスラエルがエジプトの奴隷から解放されて祖国イスラエルに荒野を通って帰ってくる時、神様が昼は雲の柱、夜は火の柱となって守って下さったという聖書の記事から取られたものです。雲柱社は現在、障害児・障害者支援施設。保育施設。子ども家庭支援センター。児童館・学童クラブなど数多くの施設を運営して、賀川豊彦の意思を実践しています。賀川豊彦の生涯は、キリスト者として貧しい人達に愛と情熱を注いだ生涯でした。ここには書くことが出来なかった彼の働きは、まだまだ多くあるのです。賀川豊彦の生涯を見て、心に浮かんだ聖書の言葉は「へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。(箴言16章19節)です。私達も賀川豊彦先生にならって、貧しい者や弱い者への配慮を忘れないようにしましょう。 
慶長遣欧使節団
今年と来年にかけて日本とスペインは、2010年9月の日本スペイン首脳会談における合意を踏まえ、「日本スペイン交流400周年事業」を行なうことになっています。それは今年が慶長遣欧使節団派遣からちょうど400周年に当たるからです。400年前の1613年は伊達政宗の時代です。その年の10月28日、仙台藩内で造った木帆船の「サン・フアン・バウティスタ号」(洗礼者聖ヨハネという意味)が、宮城県牡鹿郡月ノ浦を出帆しました。それは伊達政宗の命による慶長遣欧使節団でした。団長は支倉常長(はせくら つねなが)。案内役はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロでした。総勢180名の大人数でした。目指すは、スペイン領のメキシコを経由してスペインとローマです。
伊達政宗が「慶長遣欧使節団」を遣わした目的は何だったのでしょうか。その目的は、スペイン国王に会い、当時スペイン領であったメキシコとの直接貿易の許可を得るためでした。またローマ法王に会い、仙台領内での布教のために宣教師の派遣をお願いするためでした。それは策略でもあったという説もあります。その策略とは、伊達政宗がスペインと手を組んで、徳川の支配から独立し欧州国を作ろうと考えていたという説です。当時徳川幕府も、メキシコとの貿易を望んでいました。ですから伊達政宗は、表向きは幕府公認の行動として使節団派遣を送ったのです。しかし事態は急変しました。彼らが3ヶ月後にメキシコに着いた頃には、日本で家康は切支丹禁教令を布いたのです。
日本における切支丹弾圧が開始されたことに起因してか、多くの日本人はメキシコに留まりました。メキシコからスペインまで行った人は僅か30名程にすぎませんでした。メキシコを出てスペインに着いた使節団は、スペインの国を挙げての大歓迎を受けました。スペインにとっても、黄金の国とのうわさの日本と交易することは願ってもないことだったのです。1615年2月17日、団長の常長は、王立女子修道院付属教会において、スペイン国王やフランス王妃たちの列席のもと、洗礼を受けました。またローマ教皇パウロ五世にも会いました。その時の伊達政宗からの親書が、今バチカンにあります。そのローマ訪問の時に、8名の日本人にローマの市公民権が授与されました。
しかし、日本の状況はキリスト教弾圧へと向かっていました。それがスペインにも伝わると、大歓迎だったスペインの熱が冷め始めました。また日本はどうも黄金の国ではないらしいと言う情報も伝わり、通商条約も成立しませんでした。スペインに行った日本人武士たちも、祖国でキリスト教弾圧が始まったことを知らされ、帰国を断念する者も起こりました。幕府の方針に押されて、伊達政宗の率いる仙台藩も、常長の帰国直前に領内にキリシタン禁令を出しました。仙台藩領内でも、1624年にはカルバリオ神父(ポルトガル人宣教師)と仙台のキリシタンが捕えられ処刑されました。広瀬川での水責めによる殉教でした。宣教師を呼ぶために使節団を派遣した政宗も、幕府には従わざるをえない状態となったのです。
1620年9月 常長ら使節団は、同航してくれた宣教師ルイス ソテロをマニラに残し、船便で帰国しました。帰国したのち仙台藩においても冷たく扱われ、2年後には52歳で死去ました。その後、ルイス ソテロ宣教師はマニラから薩摩に密入国しましたが、見つかり逮捕されてしまいました。そして2年後の1624年火炙りの刑が宣告され殉教しました。使節団の中にいたクリスチャンの数名は、キリスト教迫害に舵を切った祖国を捨て、スペインに留まることを決意しました。おそらく6〜8名だったと言われています。スペインには「私は慶長遣欧使節団の子孫」と名乗っている人々の住む村があります。その人達は名字を「ハポン=日本」と呼び、現在約830名がいます。その村では昔から日本式の稲作を行なっています。スペイン人は、出身地を苗字にすることがよくあります。たとえば画家のエル・グレコの名前は、ギリシャ人と言う意味です。そのような習慣で慶長遣欧使節団の子孫として「ハポン=日本」という名前の人がいてもおかしくはないのです。徳川家康も伊達政宗も、自分の領土と繁栄を守るために必死でした。そのためのスペインとの交易交渉でした。しかし両方とも今は過去の人となりました。今日は「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」(Tヨハ 2章17節)という御言を心に留めましょう。徳川家康も伊達政宗も、巨大な力を背景にしてキリスト教徒を迫害しましたが、しかし徳川幕府は倒れ、伊達政宗の権力も現在は微塵も見当たりません。しかし日本においてキリストの教会は、今も生き続けています。最後にもう一つ御言を挙げておきましょう。それは「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(Uコリント4章8〜9節)という御言です。私達一人ひとりは弱いように見えますが、神様を信じる者は実は強いのです。たとえ「倒されても滅びない」のです。 
キリストと農業のために生きた津田仙
津田仙は、天保8年(1837年)に佐倉藩士(千葉県佐倉市)小島家に生まれました。嘉永4年(1851年)元服して桜井家の養子となりました。14歳の時でした。さらに文久元年(1861年)に24歳で津田家の「初子」と結婚し、婿養子となり津田姓となりました。彼は幕府の命令によって様々な学問を学び、語学に長けていました。慶応3年(1867年)には、アメリカへ軍艦引取り交渉のために、通訳として派遣された程です。その時、かの福澤諭吉らも一緒でした。
明治8年(1875年)1月には、米国メソジスト教会のジュリアス・ソーバー宣教師により、妻の初子と共に洗礼を受け、クリスチャンとなりました。津田仙は日本の農学者であり、学農社の創立者であり、青山学院大学の創立に関わり、筑波大学付属盲学校の設立に関わりました。当時は同志社大学の新島襄、東京帝国大学の中村正直らと共に、キリスト教界の三傑と言われたそうです。
津田仙の農学者としての働きは、近代日本の農業に大きな影響を与えました。福澤諭吉らと共に渡米した時、彼は西洋農法に強い感銘を受けて帰国しました。さらには明治6年(1873年)に、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席した時、オランダ人の農学者、ダニエル・ホイブレイクの考えに深く共感しました。そして彼は、日本を西洋式の農業にしようと活躍しました。またウイーン万博から持ち帰ったニセアカシヤの種を発芽させ、その苗を明治8年(1875年)に東京の大手町に植えました。これが東京初の街路樹となりました。また明治9年(1876年)には、アメリカ産のトウモロコシの種を、日本の農家に通信販売を始めました。それが日本での通信販売の最初と言われています。
クリスチャンとしての津田仙の働きは、日本の農業を変えるために設立した農業学校の学農社において、日曜学校を開校し、日曜学校の教師にフルベッキ―(宣教師・法学者・神学者・聖書翻訳者・教育者)やクリスチャンで農学者でもあった内村鑑三を招いたりして、学生達にキリスト教を土台とした教育を授けました。彼はミッションスクールの設立にも協力し、盲人の教育にも力を注ぎました。日本最初の公害問題と言われている足尾銅山の鉱毒問題の田中正造を助け、農民運動にも力を注ぎました。
その他にも彼の活動はたくさんありますが、時間の都合上ここまでにしておきましょう。津田仙には、津田塾大学の創立者である娘の梅子がいます。この人もまた素晴らしい働きをしたクリスチャンで、1871年に僅か6歳で渡米留学しました。翌1872年には、自ら申し出てアメリカでクリスチャンになりました。1882年に18歳で日本に帰国し、皇族立の女学校の教師となりましたが、当時の日本の女子に対する考え方に失望し、再度渡米し学問を積みました。その後、激変する明治の日本において、女性の近代化教育が急務であるとの大きな夢をもって帰国し、「女子英学塾」を設立しました。それが津田塾大学となりました。まさに親子に亘るキリスト者としての働きでした。
津田仙は明治41年(1908年)、東海道本線の車内で脳出血のため召されました。71歳でした。青山学院講堂で行なわれた告別式には、内村鑑三や新渡戸稲造の姿もありました。
津田仙の生涯には「日本で最初の・・・」と言う言葉が幾つもつけられる偉大な生涯でした。その生涯にふさわしい御言葉として、伝道の書11章6節の「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」を上げておきたいと思います。 
井上伊之助と愛
私達の教会のホームページの中には、歴史の中に埋もれていたクリスチャン達を掘り起こした「聖書に触れた人々」というブログがあります。そこにはすでに三十人の人達の名が挙げられています。最近、さらにそこに是非加えるべき人の名が浮かび上がってきました。その人の名は「井上伊之助」(明治十五年〜昭和四十一年)という人物です。彼は高知県の出身ですが、一九〇〇年ごろ、立身出世を願って東京に出て来ました。その東京で内村鑑三の著書を読み、一九〇三年には中田重治から洗礼を受けました。更には伝道者になるために、東洋宣教会の聖書学校に入りました。その二年生の時です。彼の父親が、台湾の花蓮港で樟脳造りの作業中、原住民タイヤル族の襲撃を受け殺されてしまいました。私もタイヤル族の村には七回ほど伝道に行きましたが、非常に勇猛で誇り高い民族です。そのような中、伊之助は聖書学校卒業後、千葉県の佐倉市で伝道しました。しかし一九〇九年の夏のことでした。銚子の犬吠埼で徹夜の祈りをしていると、主から「台湾伝道に行くように」と召命を受けたのです。彼はさっそくその準備に取り掛かりました。その準備とは、伊豆の下田にあった開業医のもとで八カ月間、医学を学ぶというものでした。すでに家族を持っていた伊之助でしたが、単身台湾に渡り原住民伝道を開始したのです。事もあろうに、自分の父親を殺したタイヤル族への伝道です。原住民の居住地に入るには、つい最近まで地元警察の許可書がなければ入っていくことが出来ないような危険地帯でした。神様は、父親を殺したタイヤル族への伝道を伊之助に命じられたのです。「目には目を、歯には歯を」という言葉が旧約聖書にあります。それは復讐の勧めではなく、現代の法律につながっている対等法的な考えです。つまり目を突かれたら、仕返しは最大限、目を突き返すまでにしなさい。歯を折られたら、最大限でも歯を折り返すまでにしなさい。それを越えて命まで取ってはならないという教えです。これが現代の「行なった罪の重さに応じて処罰の量を決める」という法律になっているのです。しかしイエス様はさらに 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」(マタイ五章三八〜三九節)と教えられました。更に「しかし、わたしはあなたがたに言います。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(五章四十四節)と教えられました。伊之助は、イエス様にその実践に遣わされたのです。伊之助が原住民の村に行く直前にも、原住民に日本人が殺されました。伊之助がそのころ書いた物の中に「・・・我も死んだと人に言われん」とあるそうです。死の覚悟で、山深い原住民の村に入って行ったのです。彼は正式な医 者ではありませんでした。僅か八か月、開業医のもとで見習いをしただけの人でした。しかし現地において少しずつ経験を積み、技術も身に着けていきました。ついには、原住民の地域のただ一人の医師として信頼を勝ち取っていったのです。ある時な どは、原住民の家に招かれてそこに泊まることさえありました。ついに、家族を台湾に呼び寄せて活動を続けました。しかし三人の子供たちは、風土病に感染し命を失ってしまいました。しかし伊之助は、原住民の診察を止めずに活動を続けました。ついに、台湾から一九三〇年(昭和三年)に正式な医師免許が与えられました。丁度その年に、原住民による日本人襲撃事件(霧社事件)が起きました。それは、タイヤル族の三百人が起こした抗日反乱事件でした。その時に殺された日本人は、一三四名にも及びました。それは、長期にわたる日本の支配と、その中での原住民達への不当な扱いと搾取が原因でした。その後、原住民の抗日運動は、原住民側の多くの犠牲者を出して鎮圧されました。鎮圧された抗日原住民は、川中島に強制移住させられましたが、そこで原住民にマラリヤが蔓延。そこに駆けつけて治療したのが伊之助でした。そのことが、原住民の中で伊之助が神のように崇められるきっかけになりました。彼は伝道者として台湾に来ましたが、政府によってキリスト教の伝道は許されず、ただ原住民の病気を見るだけの医療活動しか出来ませんでした。彼は戦後、中国国民党によって台湾を追われ、日本に帰国します。台湾に渡って三十年ほどの活動でした。彼の台湾での活動は、本来の目的であるキリスト教の伝道には失敗したかに見えました。しかし伊之助の帰国直後に、大規模な原住民のリバイバル(大勢の人達が一気にキリスト教徒となること)が起こったのです。父親を殺された井上伊之助が、仇に向かって仇で返さずに、キリストの言葉に従い、仇に向かって「愛」で返した生涯が結 んだ実なのです。今も台湾原住民は、日本人に対して非常に友好的です。私も何度も山地のタイヤル族の村々を尋ねましたが、そこには日本文化が根づいていました。最初の訪問の時でしたか、村に近づくとなんと「東京音頭」が流れ、中には浴衣姿で踊っている人までいるではありませんか。まさに井上伊之助の魂と、キリストの愛が原住民の中に生きているのを感じました。キリスト教の伝道は許されないという不自由な中にあっても、キリストの愛を原住民に示し続けた愛の実践者、井上伊之助を決して忘れてはなりません。彼は帰国後、八十四歳で主に召されました。
(注)この文中には「原住民」という言葉が多数使われていますが、この呼び名は原住民自らが選んだ呼び名です。「先住民」ですと、昔はいたが今はいないという響きがあるので、彼らは誇りの為に原住民という言葉を選んだのです。
 
駿府キリシタンの光と影

 

駿府から始まったキリシタン信徒迫害
「キリシタンを迫害する悪皇帝(徳川家康)に相当の報を与え給え。何となれば、彼の政治を行ふ間は善き事を行なふの望みなきが故なり」(「ビスカイノ金銀島探検報告」)このように、スペイン人にうらまれた家康の駿府大御所時代の記録は、残念ながら国内にはあまり存在しない。しかし生死を賭けて来日したキリシタン宣教師らの記録は、海外に数多く残されていることが最近の研究でわかってきた。それらの記録から、「駿府のキリシタン」を取り巻く当時の環境から見てみよう。
駿府にキリシタンの信仰がいつ入って来たかは明らかではない。慶長2年(1597)ごろからはすでに始まっており、駿府市街と安倍川付近に南蛮寺(教会)17世紀の駿府教会地図が2カ所あったといわれている。慶長17年(1612)の「日本全国布教分布図」(山川出版「日本史」所収)によると、駿府の教会設立は江戸より早いことがわかる。駿府におけるキリスト教の布教は、当然それ以前であることは明白だが、資料に登場するのは、慶長12年(1607)閏4月にイエズス会の宣教師パジェス一行が駿府城で家康に拝謁したとき、駿府と江戸での布教を願い出たのが最初である。(「パジェス日本邪蘇教史」)。
しかしこれより先、すでにフランシスコ派のアンジェリスが駿府で開教しており、1カ月に240名余の信者が洗礼を受けていた記録もあるという。
こうした時期に、先に述べたスペイン国王使節セバスチャン・ビスカイノが来日し、駿府城で家康に謁見した。皇帝家康と無事に謁見が済むと、ビスカイノは宿に帰った。遠い異国から来たビスカイノに会うために、キリシタン信者たちだけでなく家康の息子(義直・頼直・頼房)らをはじめ多くが訪れた。連日、異国の話を聞きに来る者が大勢いたという。それは慶長16年(1611)のことで、このとき、駿府のキリシタン信徒たちの熱狂的な歓迎を受けたことが彼の記録に次のように記されている。
「我々は旅館に帰りしが、同所に皇帝の宮中の婢妾女官と称する方可なるジュリアといふキリシタン、大使を訪問し、ミサ聖祭に列せん為め待ちいたり。この婦人を歓待し硝子の玩具その他の品を与へしが、影像珠数その他信心の品に心を寄せたり。彼女は善きキリシタンなりと伝へられしが、その態度これを証明すと思はれたり。(駿府の)日本人のキリシタン多数、大使に面会し、またミサ聖祭に列席し教師等に接して慰安を得ん為めに来り。彼等より好遇せられしこと、及び他の人々が我等の正教の事を聞き、此処に述べず。この事は実に嘆賞すべきことなりき」(「ビスカイノ金銀島探検報告」)。
大奥の侍女でキリシタン信者であるジュリアがビスカイノに、「ミサに同席させて欲しい」旨を願い出たのである。駿府は、この時点では信者にとっても平和な信仰の地でもあったが、やがて迫害の嵐が吹き荒れる前夜でもあった。
岡本大八事件とキリシタン弾圧
徳川家康の「キリシタン禁教令」は、慶長18年(1613)に発布された。正式名は、「伴天連追放之令」という。初めは、駿府より幕府直轄領に布告され禁止されたものであった。京都の教会を破壊させたのもこの時期と一致している。発端は、本多正純の寄力であった洗礼名パウロと呼ばれた岡本大八が、肥前のキリシタン大名有馬晴信を欺くために、大御所家康の朱印状を偽造したことが発覚したことによる。大八は慶長17年(1612)3月、駿府市街を引き回しのうえ、安倍河原で火刑に処せられる前に、拷問に耐えかねて駿府の主なキリシタン信者の名前を白状したため、このときに多くの関係者が捕えられている。有馬晴信も、同年5月に家康の命によって処罰された(「当代記」)。
原主水の銅像〔カトリック静岡教会前〕キリシタン信者の実態調査の命令を受けた駿府町奉行彦坂九兵衛が、さっそく取り調べると、家康の周辺に多くのキリシタンが取り巻いていることが露見した。その中には、家康の鉄砲隊長原主水もいた。のちに捕らえられた原主水は江戸に引き回され、元和9年(1623)12月4日の朝にキリシタン50人とともに処刑された。このとき、諸大名を前にして処刑したのは彼らに対する見せしめのためであった。フランシスコ・ガルベス神父やアンジェリス神父も同時に処刑されたが、彼らの遺骸が信者によって一晩でどこかへ運び去られたことは有名な話である。
アビラ・ヒロンの「日本王国記」から
アビラ・ヒロンは、「日本王国記」の中でキリシタン信徒および宣教師が、徳川家康によってどんなに迫害されたかを記し、ウィリアム・アダムズによって始まったと、次のように厳しく指摘している。「この王国(日本)で難破した船の水先案内であったイギリス人が造った小帆船で、一六一〇年、ドン・ロドリゴはメヒコ(メキシコ)に向け出船した。このイギリス人はアダムズといい、われらの主とキリシタン宗徒たちに不利になるでたらめごとを国王(家康)に告げ口して、われわれをひどい目に合わせたのである」(「日本王国記」)。
アビラ・ヒロンのほかにも、駿府でのキリシタンの平和な時代や、あるいはそれから一転し、迫害へ進んだ事実を目撃した外国人は大勢いた。やがてこの弾圧が、幕府直轄領だけでなく全国的に広がっていったのが翌年慶長18年(1613)であった。このときの「伴天連追放之令」は、金地院崇伝の手によって江戸で一夜のあいだに起草されたものである。
大奥の侍女・ジュリアの信仰と追放
ジュリアのことをアビラ・ヒロンはこう記した。「(駿府城)大奥の侍女ジュリアも追放し、僅かの漁夫しか住まない無人の島、八丈の島に送った。ジュリアは今ではその島で厳しい労働と貧困に耐えている」。駿府城大奥の侍女として仕えたキリシタンの女性の消息を、いち早くキャッチしていたのには驚く。
ジュリアの出生は明らかでない。秀吉の命令で朝鮮に出兵したキリシタン大名小西行長が、戦乱で苦しむ朝鮮貴族の少女(絶世の美女という)を養女として日本に連れて帰ったとする説が有力だ。この少女がどうして大奥の侍女として、特に駿府城内で生活することになったのかは謎である。おそらく関ケ原の合戦で亡びた小西家の養女であったことから、何らかの縁で駿府城大奥の侍女となった可能性は高い。
「日本キリシタン殉教史」もジュリアのことをこう報告している。ジュリアが外国人の記録に初めて登場したのは、ジョアン・ロドリゲスの「日本年報」であった。それによると、「公方様(徳川家康)の大奥に仕えている侍女の中に数人のキリシタンが居て、前にアグスチノ津の守殿(小西摂津守行長)の夫人に仕えていた高麗生まれの人がその中にいる。彼女の信心と熱意とは、たびたびそれを抑制させねばならないほどで、多くの修道女に劣らないものである。(中略)高徳のこの女性は、昼間は、大奥の仕事で忙しく異教徒たちの中にいるので、夜の大部分を霊的読書と信心に励んでいる。(中略)そのため、誰にも知られないようにうまく隠した小さな礼拝堂を持っている。(中略)またたびたび知人を訪問するという口実で許可を得て、教会に来て告白し聖体を拝領する……うら若い女性で、あのような環境の中で、「茨の中のバラ」(讃美歌)のように純潔で、自分の霊魂を損なうよりも命を捨てる決意を固めている」。
この史料からすれば、ジュリアの出自はやはり朝鮮とみて良いであろう。アロンソ・ムーニョも彼女のことをマニラ管区長にこう報告した。「皇帝の宮廷(駿府城)にいる一女性は、キリシタンたちの間でドーニャ・ジュリアと呼ばれ、信仰深く、慈悲の模範になっている。貧しいキリシタンたちを訪ねては多くの人々に食物を施している。たびたび教会に来て熱心に聖体を拝領している。迫害が始まったことを知ると、教会に来て告解と聖体拝領をした。遺言書や必要な準備をし、所持品を貧しいキリシタンに分け与えた。将軍(家康のことか)が欲求のまま呼び出して侍らせる妾ではないかと思われたので、神父は、はじめ聖体を授けようとしなかった。(するとジュリアは)「もしそんなことがあったら、私はそこから容易に逃げ出せます。それができないようだったら死を選びます」と言ったという。この女性は大奥にあって常にキリシタンとしての態度と、信心を保ち、われわれが同宿を必要としているのを知ると、自分が養子にしていた十二歳の少年を同宿として教会に行かせた」(「日本キリシタン殉教史」)。
家康も当然ジュリアが信者であることを知っていた。キリシタン信者の迫害が駿府で始まった時も、家康は彼女を殺さなかった。とかく言われていることは、改宗させて自分の側室にしようとしていたという説もある。余談だが駿府城内の情報や秘密が、宣教師のあいだに広がって国外に流れた可能性もある。事実宣教師たちも、布教と称しては多くの人々に近づき、また城内の者や出入りの商人を入信させては家康の周辺でスパイ行為をさせていたとしても不思議ではない。
こうなると家康も、もはやキリシタン信者を野放しにしておけない。(このころ駿府城内では、原因不明の出火が続いていたが、キリシタンとの関係はわからない)。
大奥の侍女ジュリアも、このころに駿府の町にある教会に通いビスカイノやソテロなど多くの宣教師とも会っている。慶長18年(1613)のキリシタン禁令によって、ジュリアは最初は大島に島流しとなり、さらに伊豆の孤島(神津島)に流された。慶長19年(1614)のキリシタン年報には、セバスチャン・ウィエイラの記録として、ジュリアが神津島に送られた様子が伝えられている。ウィエイラが果たしてジュリアが流された場所まで連絡を取ることができたかどうかは疑問だ。
ウィエイラの記録は殉教を美化した創作という説もある。また「日本殉教者一覧」の中にジュリアの名前はない。彼女がキリシタン信者として処罰されたのではなく、流刑の罪状を「スパイ容疑」として島流しとなったという説もある。巷間では、ジュリアに心を寄せていた家康が、島流しならいずれ改心して駿府に帰って来ることを期待したとする見方である。ところがジュリアは神津島で、心安らかな信仰生活を続けてそこで亡くなった。
イギリス国王使節の見た、駿河の迫害
慶長18年(1613)12月に発布された「伴天連(ばてれん)追放之令」は、キリシタンに決定的な打撃を与えた。この年来日したイギリス国王使節ジョン・セーリスは、駿府郊外の安倍川でむごたらしいキリシタン信者の死体の山を目撃し、その様子をこう記した。
「予らが、ある都市に近づくと、磔殺(たくさつ)された者の死体と十字架とがあるのを見た。なぜならば、磔殺は、ここでは大多数の罪人に対する普通の刑罰であるからである。皇帝の宮廷のある駿府近くに来たとき、予らは処刑されたたくさんの首をのせた断頭台を見た。その傍らには、たくさんの十字架と、なおその上に縛りつけたままの罪人の死体とがあり、また仕置きの後、刀の切れ味を試すために幾度も切られた他の死骸の片々もあった。駿府に入るには、是非その脇をとおらねばならないので、これはみな予らにもっとも不快な通路となった」(「セーリス日本渡航記」村上堅固訳)。
セーリスによると、家康は元来キリシタンは嫌いであった。それ以上にキリシタン大名たちがスペイン国王の勢力と呼応して、徳川幕府に対抗することを何よりも警戒していたと見た。家康はキリシタン信者の迫害を駿府から始めた。陰惨な弾圧と迫害が繰り返され、駿府町奉行彦坂九兵衛らが先頭に立って次々と新しい拷問のやり方が考案された。なかでも「駿河の責め苦」といいう宙釣り状態にした拷問はとくに恐れられていたという。
キリシタン信者の埋葬を許さず、火刑(火あぶり)にした。また埋葬した信者は墓から掘り出して海に捨てたこともあった。家康のキリシタン弾圧は、ローマの皇帝ネロよりも残忍であったかもしれない。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
『東洋遍歴記』 メンデス・ピント

 

 
フェルナン・メンデス・ピント 1
ポルトガル人冒険家、著述家(1509-1583)。かれの業績は死後の1614年に刊行された『遍歴記』 で知られる。ただしこの書物に記載された内容が真実であるかどうか定かではない。確実なのは1537年にリスボンを発ち、1539年にマレー半島のマラッカに行き、現在の東南アジアを見て回り、富を蓄え、中国方面への貿易商を生業としており日本にも渡来していること、1551年フランシスコ・ザビエルに日本に教会を設立する為の資金を提供したこと、その後、ポルトガルに帰ろうと思ってインドのゴアまで戻っていたが、1554年にザビエルのいまだ腐っていなかった(といわれている)遺体を目にして、回心しイエズス会に入会、1556年にルイス・フロイスらと共に日本へ渡ったが、日本でイエズス会を脱退。1558年ゴアへ戻り同じ年にリスボンへ戻ったことなどである。『遍歴記』年代は記されていないが、おそらく1544年あるいは1545年に鉄砲を日本に初めて伝えた人物の一人とされている。しかし、ピントが日本に来たのは1540年代後半か1550年代であることが明らかになっており、鉄砲伝来に関しては不確かである 。
ピントはポルトガルの東アジアにおける植民地主義に対して、キリスト教の布教に見せかけたものとして鋭い評価を『遍歴記』の中で行っている。これは、後世においては一般的な見方となるが、当時においては斬新な見方であったといえる 。
ただし『遍歴記』自体は「13回生け捕られ、17回売り飛ばされた」など、現実としてとらえるには無理があるような記述もあり、古くから嘘つき呼ばわりされた。たとえば、ポルトガル語のだじゃれ遊びには、ピントの名前を、"Fernão, Mentes? Minto!"、(「フェルナン、嘘をついたか? 嘘をついたよ!」)としたものがあり、イギリスの劇作家、ウィリアム・コンクリーブの喜劇Love for Loveには "Ferdinand Mendez Pinto was but a type of thee, thou liar of the first magnitude." (「フェルディナンド・メンデズ・ピントはおまえのようなやつの事で、おまえは第一級の嘘つきだ」)などという記述も登場する。
フェルナン・メンデス・ピントはモンテモル・オ・ヴェリョで1509年(1510年とも)に生まれたと見られている。貧乏な家であり、少なくとも2人の兄弟と、二人の姉妹がいた。なお、ピントをユダヤ人で、マラーノ(新キリスト教徒)とする説もある。ピント一族はもとスペインのマドリッド近郊のピント村出身で、のち迫害をうけ、ポルトガル、モロッコ、カナリア諸島に移住したという。 彼の男兄弟のアルベロは1551年にはマラッカにおり、別の書簡ではピントの兄弟の一人はマラッカで殉教している。また、1557年にはコーチンに裕福な従兄弟フランシスコ・ガルシア・デ・ヴァルガスがいた。
1521年にはリスボンでポルトガル王ジョアン2世の息子でモンテモル・オ・ヴェリョの領主でもあったジョルジ公の元で奉公していたが、2年後、フランシスコ・デ・ファリアに奉公するため、セトゥーバルに向けて出航したが、フランスの海賊船に襲われてアレンテジョの海岸まで連れ去られ放置された。
遍歴
ピントの旅は大まかに3つに分けることができる。最初の旅はポルトガルから西インド海岸のポルトガル植民地への旅であり紅海やアフリカ、ペルシア湾などの地域をめぐっている。その次の旅は、インドに渡った後にマラッカに移り今度はスマトラやシャム、中国、ビルマ、中国、日本などをめぐる旅である。そして、ヨーロッパへ戻る旅である。『遍歴記』の記述の信憑性には疑問があるが、以下ではピントの『遍歴記』にそって話をする。
インドへの旅
ピントの旅行は1537年3月11日のリスボン出航から始まる。その後、ポルトガル領モザンビークに寄港。9月5日にはボンベイの北西にある要塞島であり、さかのぼる事2年前にポルトガルに占領されたばかりのディーウに到着。ピントの記録によれば、このときディーウは東洋における貿易を独占し続けるため、ポルトガル勢力を退けようとしたオスマン帝国スルタン・スレイマン1世の統治を受けていたとされる。
この際、ムスリムの貿易船を襲い、その船員から得た儲け話に魅了され、紅海への偵察隊に加わり再び航海に出た。途中、ピントの言うプレステ・ジョアン(ダウィット2世)の母であるエチオピアのヘレナ(エレニ)によって山中に雇われていたポルトガル人傭兵隊に伝言を伝える為、エチオピアに停泊した。その後、エチオピアの港町マッサワを発った所で、オスマン帝国のガレー船を包囲したが、逆に敗北し、アラビアの南西にあるモカ(アル・ムハ)まで運ばれ、奴隷として売り飛ばされた。ピントはギリシア人ムスリムに買い取られ、残酷に当たられたため何度か自殺を試みたが、そのうち、ナツメヤシと交換でユダヤ人の手に渡された。
そのユダヤ人はピントを連れてオルムス(ホルモズ)へ連れて行き、ポルトガル人の要塞司令官とポルトガル王の命令で来ていた総督によってお金が支払われ引き渡された。
ピントはインドへの旅が自由になった後、ポルトガル植民地であり、オスマン帝国によって陸路が封鎖された後、海路における香辛料貿易を完全に掌握したポルトガル海軍基地のあるゴアに向けて旅立つことになったが、ピントの意に反し、ダブル港に停泊していたオスマン船を拿捕するか破壊する事になった。この後オスマン船との海戦がアラビア海で行われ、その勝利の後、ピントはゴアへ向かった。
マラッカと東アジア地域
1539年以降はピントはマラッカに渡っている。マラッカの司令官であるペロ・デ・ファリアは、東方の未だポルトガルが発見していない地域と外交関係を持とうと、ピントを外交使節として用いた。
マラッカにおける初期の彼の仕事はほとんどが、スマトラ島にある小さな諸王国との交流で、これらの諸王国はアシェン(アチェ王国)と宗教的に対立しておりこれを回避しようとポルトガルと友好関係を結んだものとピントは『遍歴記』に書いている。ピントはこの仕事の合間に、私的な貿易を行い富を増やしたが、仲間達が国王の利益に反する貿易を行っていたのを尻目に、ピントは国王に対しての献金は取っておいた。
パタニ王国
ピントはシャム(アユタヤ王国、現・タイ王国)に囚われているポルトガル人の解放交渉に当たるべく、当時朝貢国であったマレー半島東岸のパタネ王国(パタニ王国、現・タイ、パッターニー)にいくことになる。このとき、シャム近海で貿易活動を行っていた船乗りと一緒に旅立ったが途中で、ムスリムの海賊に襲われ、金目のものを盗まれた。この後、この海賊を追って航海していくうちにアントニオ・デ・ファリアを中心に自ら海賊行為を行うようになった。なおこの、アントニオ・デ・ファリアと言う人物はポルトガルの文学において高名なアンチ・ヒーローと言われる 。
ピントは海賊として1ヶ月過ごした後、トンキン湾や南シナ海においてでも海賊行為をおこない、ピントによればさらに北方まで達し中国や李氏朝鮮を訪れ中国皇帝の陵墓を暴き略奪したという。
そのうちピントはついに難破して、中国人の手に落ち、裁判にかけられ万里長城における強制労働を命じられた。その後、ピント達はタルタリア(タタール)の中国への侵略の際に連れ去られた。ピントやその仲間は砦を攻撃する方法をタタール人に教え、代わりに自由を勝ち取り、外交使節がコーチシナに行く際に、一緒についていくように王に命ぜられた。
この旅の途中ポルトガル人の一行は、ピントが「教皇のような」と表現するヨーロッパ人が未だ見たことのない人物に会っているが、これはダライ・ラマの事かも知れない。広州付近に来たとき、ピントはタタール人の旅行ののろさに苛立って、ピントと2人の仲間は、中国人の率いる海賊船に乗り込んで旅を続けたが、海が荒れて日本に流れ着き、イリヤ・デ・タニシュマつまり種子島に着いた。ピントはこれにより、ヨーロッパ人で最初に日本に入国したと主張した。
日本
数年後、『遍歴記』の前後関係から察するに1544あるいは45年ごろと推測されるが、ピントは日本へ初の渡航をおこない、火縄銃を日本に持ち込んだ。(ただし、鉄砲伝来は種子島氏の鉄砲記によると1543年9月23日とされる。)
この鉄砲伝来は当時内戦状態(戦国時代)にあった日本において急速に普及し、日本の軍事に大きな影響を与えた。ピントはこの後、中国のリャンポー(寧波)に到着したが、その地で、ポルトガル人貿易商達に日本の話をすると、商人達は日本との貿易に関心を持ち、ピントはこの商人達と日本へ向かうこととなった。しかし、ピント達はその航海で難破し、レキオ・グランデすなわち大琉球(現・沖縄島)にたどり着いたが、持っていた交易品によって海賊と思われ、処刑されそうになるが、ある身分の高い女性の取りなしで釈放された。
1549年に鹿児島を発つ際には何らかの理由で追われていたアンジェロともう1人の日本人をマラッカに連れて行きフランシスコ・ザビエルに引き合わせ、キリスト教に改宗させた。(ただし、ザビエルの伝記によると、ヤジロウと会ったのは1547年12月。)この後ザビエルはヤジロウらと共に1549年8月15日に日本に渡りカトリックを日本に伝えた。1551年にピントはザビエルに再会し共同で布教活動を行った。
ピントは1554年、ポルトガルに帰ろうとするが、その前に、ゴアでイエズス会に蓄えた財産を寄付し、入会し、修道士となった。このときにザビエルの遺体をゴアで目撃している。
日本への最後の旅
1554年、大友義鎮からの手紙がゴアに届き、その内容は洗礼を受けたいので宣教師をよこして欲しいとの旨のものであった。ピントは他の聖職者らと日本に同行することになる。このときの訪問では豊後国の大友氏との外交が樹立されたが、大友家の諸事情により義鎮の改宗には失敗した。ただし、この22年後には義鎮は改宗した。
この日本へ1554年〜1556年の旅では、ピントはザビエルの後継者と共にポルトガルの正式な外交使節として豊後国の大名に派遣された。しかし、理由は不明であるが、1557年ピントはイエズス会を脱会する。日本におけるイエズス会の脱会者はピントが初めてであると記録されている。
マルタバン
ピントが最初にマラッカに戻った時には、ペロ・デ・ファリアがおり、彼の命を受けてマルタバン(現・ミャンマー、モッタマ)に外交使節として赴いた。しかし、その時マルタバンはブラマ(ビルマ)と戦争中で、ピントはマルタバンの王を裏切りブラマ王の側に付いたポルトガル人傭兵隊のキャンプに逃げ込む。しかし、そこでポルトガル人に裏切られ、ブラマ王の官吏の捕虜となり今のカラミニャム(現:ラオス・ルアンパバーン)に連れて行かれるが、ビルマがサヴァディ(現・ミャンマー・サンドウェ)を攻撃した際に、どさくさに紛れて逃げ出し、ゴアに向かった。
ジャワ
ゴアに戻ったピントはまた再びペロ・デ・ファリアに出会った。ペロはジャワに中国に売りに行く為の胡椒をピントに買いに行かせた。ジャワのバンタ港(現・インドネシア、バンタム)で40人のポルトガル人の傭兵隊に加わり、デマ王がパルサバンを攻略するのを手伝うが、デマ王が小姓に殺されたのでデマに戻った。
その後、デマでは内乱が起こったので他のポルトガル人と共に逃げたが、シャム湾で倭寇に遭遇し、ジャワに帰らざるを得なくなった。ジャワの近海で船が大破、乗組員同士で殺し合いが起こり、逃げるに逃げ出せず食糧不足で人肉食まで行ったという。その後ジャワ人に自分をマラッカに連れて行って売り払ってくれと言って、奴隷として自らを売った。
その後、ピントはセレブレ人(現・インドネシア・スラウェシ島の原住民)に売られ、その後カラパ(現・インドネシア、ジャカルタ)の王に売り渡され、その王によって、ジャワの元いたところまで送り返された。
ピントは再びジャワを発ち、パタネとシャム行きの船に、知り合いに運賃を払ってもらって乗り込んだ。シャムのオディア(現・タイ、アユタヤ)の王(チャイラーチャー)はシアマイ(現・タイ、チエンマイ)を攻めようと、ポルトガル人を傭兵として雇った。これにより、ピントもシアマイに遠征に行き、勝って帰ってきたが、オディアの国王の王妃(シースダーチャン)が夫の留守中の浮気がばれるのを恐れて国王を毒殺した。その後この妃は自分の息子をも殺し、愛人(ウォーラウォンサー)を王位につけたが、この王も殺された。この政情不安につけ込んだブラマ王(タビンシュエーティー)はアユタヤに攻め入る。
この戦争の記述が本当にピント本人のものかあるいは伝聞によるものなのか不明であるが、ピントの『遍歴記』はこの時代の西洋人によるビルマの一番詳細な史料である。
帰国
1558年9月22日ピントは帰国する。このときピントはイエズス会との書簡が発行されたことによって、すでに西洋世界では名を知られた人物となっていた。その後、ピントは今までの国王への奉仕に対する報償を要求したがピントが死ぬ数ヶ月前まで与えられなかった。
『遍歴記』
1558年の帰国後ピントはマリア・コレイア・デ・ボレットと結婚し、少なくとも二人の娘をもうけたといわれるが、詳しいことは分かっていない。1562年にアルマダの近くにあるプラガルに隠居し農場を経営する傍ら、1569年ごろから書き始めたものと言われている。この本は生前は刊行されず、1583年の彼の死から31年を経て1614年に刊行された。
なお、完全な題名は以下の通りである。
『我々西洋では少ししかあるいはまったく知られていないシナ王国、タタール、通常シャムと言われるソルナウ王国、カラミニャム王国、ペグー王国、マルタバン王国そして東洋の多くの王国とその主達について見聞きした多くの珍しい事、そして、彼や他の人物達、双方に生じた多くの特異な出来事の記録、そして、いくつかのことやその最後には東洋の地で唯一の光であり輝きであり、かの地におけるイエズス会の総長である聖職者フランシスコ・ザビエルの死について簡単な事項について語られたフェルナン・メンデス・ピントの遍歴記。』
なお、出版された本は原稿と同じ内容というわけではなく、ある文は消されており、他は「修正」されている。ピントが積極的にイエズス会に参加していた事が指摘されているにもかかわらず、イエズス会に言及した箇所が削除されており、これは注目する必要がある。
史実性
『遍歴記』の内容は、おそらく彼の記憶に基づく事実によって書かれたものと思われ、必ずしも正確な史料とは言えない。しかし。ヨーロッパ人がアジアに与えた影響、ポルトガル人の東洋における行動を現実的に分析し、記述しているといえる。
一番、疑問が投げかけられているのは、ピントが最初に日本に銃を紹介したと主張している部分である。このような主張はさておき、ピントが日本に降り立った人物であるということに対してはほとんど議論がない。つまり、後世の著述家による記録よりは『遍歴記』はある程度正確なものといえる。
また別の信憑性に関する議論では、彼がジャワでムスリムと戦ったという記述についてである。これは様々な歴史家が分析を行ったが、オランダの歴史学者P. A. Tieleは1880年に、ピント自身はこの戦いに参加しておらず、彼が他人から得た情報で書いた物と推定した。しかし同時に、Tieleはその時代のジャワに関する情報が少ないことから、ピントの記録の重要性は認めている。つまり、ピント著述の正確性に疑問があるとしても、その時代を語る唯一の情報と言うこともある。大英帝国の官僚として東南アジアに20年滞在した現代人モーリス・コリスは、ピントの記録はすべてが信頼できるものではないが、16世紀のヨーロッパで一番完成度の高いアジアの記録であり、基本的な出来事などに関する記述は大まかに信頼できるものとしている。
文学性
この『遍歴記』はアントニオ・サライウヴァというポルトガル人文化史学者によって文学作品として大きく評価され、史実性の議論はともかく、文学としてとらえられる事もある。たとえばアントニオ・デ・ファリアに関する記述はピカレスク小説のようなものと見ることもでき、『遍歴記』に記される現地に住むアジア人から発せられる言葉はポルトガルに対して皮肉めいており、一種の風刺本と見ることもできる。 
 
フェルナォン・メンデス・ピント 2

 

フェルナォン・メンデス・ピント(1510 (?)-1583)は、1510年頃にモンテモール・オ・ヴェーリョに生まれ、「10歳か12歳くらいまでモンテモール・オ・ヴァーリョの村にあった父の貧相な家で極貧の生活を送り…」と述懐しているとおり、そこで幼少期を過ごした。その後時をおかずピントは叔父を介してリスボンへ移り、王ドン・ジョアンII世の息子ジョルジュ公に奉公することとなる。執務室付であった最初の2年を含むジョルジュ公の下での5年の奉仕は、その仕事ぶりが認められ、実際の生活は困窮であったのに反し、ピント家の社会的な境遇を高めることとなった。その後、理由は定かではないが、ピントは1523年にはセトゥーバルに居を移すこととなる。セトゥーバルへ出航中、海賊船に襲撃され、アレンテージョの海岸まで連れ去られる災難にみまわれる。セトゥーバルでは貴族フランシスコ・デ・ファリアに奉仕することとなった。
1537年、27歳のとき、成功を求めてインドへ出航する。東洋でのピントの長期の滞在について「知られている」ことは、ピント本人により伝えられた事柄だけであり、そのことを他の史実に照らして確認することは今となってはほとんど適わない。
20年に亘ってポルトガル人が航海した世界中の航路を巡り、紅海遠征に出航し、オスマントルコとの海戦に出兵した。
捕らえられたピントはギリシア人に買い取られ、さらにはこのギリシア人によりユダヤ人へ売り渡された。このユダヤ人によりオルムスへ連れて行かれたピントは、そこにいた総督などのポルトガル人たちにより身請けられ、囚われの身から解放された。その後、ピントは司令官ペドロ・デ・ファリアに付き従いマカオへ渡り、そこで21年に亘り変転怒涛の冒険と発見をすることとなる。ビルマ、シャム(タイ王国)、スンダ列島、モルッカ諸島、中国、日本を巡り、あたらしい世界を「発見」し、時には召使、商人、時には兵士、果ては海賊にまでなった。ピント曰く、「13回生け捕られ、17回売り飛ばされた」。
1539年、マラッカ隊長の業務に従事することになり、隊長の名の下で同地域の領主との外交交流を樹立することとなる。3年後の1542年、他のポルトガル人とともに初来日する。
1553年、ピントは日本でフランシスコ・ザビエルに出会い、彼の力強さと人柄に魅かれイエズス会に入信し、同地域におけるイエズス会の布教に尽力することになる。日本は、間違いなく、ピントの足跡がはっきりと残っている国のひとつである。イエズス会への入信はピントの人柄に大きな変化をもたらした。かれは自身の奴隷のすべてを解放し、自分の財産を貧者とゴアのイエズス会に分配した。ただし、「一般信徒」としての布教は、1557年、東洋遍歴を終えることを決めた年までだった。この決心は、ピントがイエズス会の修道士そして副王ドン・アフォンソ・デ・ノローニャの使節として1554年に豊後領主の下へ派遣されたことに起因するとされる。イエズス会宣教師のふるまい、イエズス会そのものへの失望は大きく、ピントは1557年、イエズス会を脱会する。
フランシスコ・バレット元インド総督府の支援によりポルトガルへの帰国したピントは、祖国のために自分がいかに奉仕したかを証明する資料をそろえ、報奨の権利を得るが、一度としてそれを受けとることはなかった。1558年、アルマーダのヴァーレ・ド・ロザルの農園に居を構え、そこで1570年から1578年のあいだに、ほかに類を見ない作品『東洋遍歴記』を執筆する。だが、この作品が日の目を見ることとなるのはピントの死後、1614年のことであった。『東洋遍歴記』は、ピントのすべての偉業、冒険さらには苦難を詳細に報告する途方も無い旅行記であり、その内容は、新奇かつ稀有なものである。ピントはこの作品にインド、中国、ビルマ、シャム(タイ王国)そして日本といった遠く離れ、当時は未知であった土地の地理を詳細にあらわし、これら東洋の国々の慣習、信条そして文化伝承を伝えた。ピントは、その作品に史実として疑わしいところが多い著述家かつ冒険家であるとされている。ピントと同時代の人間にはほとんど信用されず、そのためピントの名を「フェルナォン、お前は嘘をついたか(メンテスmentes)?嘘をついたよ(ミントminto)」と揶揄して呼ぶ向きもあり、現在もこの呼称は有名である。
さまざまな歴史家の意見によれば、『遍歴記』の印刷版はピントが当初執筆したものと完全には一致しておらず、作品の一部は削除されたり修正されたりしている。とりわけ、イエズス会に関する言及がまったくなされていないことは奇妙である。それは、当時、イエズス会が東洋においてもっとも活動的な宗教組織のひとつであったことを考えればなおさらである。また加えて、ピントとイエズス会とのあいだに関係があったとする信憑性のある多くの指摘もある。
『東洋遍歴記』はピントの記憶を頼りに書かれており、多くの言説が信憑性の乏しいものであるとされる。だが、『東洋遍歴記』はヨーロッパの人々にとって未知であった東洋文明をきわめて生き生きと、写実的に記録するとともに、とりわけ、東洋にいるポルトガル人の活動についての写実的な考察をおこなった。
『東洋遍歴記』は、これらの人々のふるまい、態度、生活様式に関する実証であり、それゆえに、資料としての計り知れない価値を有しているのである。
フェルナォン・メンデス・ピントはプラガルに所有する農園で1583年7月8日に逝去した。
『東洋遍歴記』 出版年:1614年

『東洋遍歴記』は、ポルトガル文学のなかでもっとも翻訳され、知られている旅行記である。ピントの死後30年経った1614年にペドロ・クラスベークノ印刷機で印刷され出版された。『遍歴記』は、1570年から1578年のあいだに、アルマーダのヴァーレ・デ・ロザルにおいて書かれたとされ、作品のなかでは歴史とファンタジーが混在し、時として、どこで始まりとどこで終わるのかがわからないことがある。伝記的要素と信憑性があり説得力のあるフィクションとが結びつきており、ピントは当時のヨーロッパ人に東洋の慣習と東洋におけるポルトガル人の活動の興味深い証言とが書かれたそれまで見たことのないような面白いルポタージュを提供してくれる。
『東洋遍歴記』を書くに至った動機をピントは三つ挙げている。それは、自分の子供たちにどんな仕事をしたのかを教えること(自伝的機能)、希望を見出せない者たちや困難を抱えた者たちを鼓舞すること(精神的機能)、神に感謝する(宗教的機能)の三つである。だが、『東洋遍歴記』の226章を読むと、ピントにはつねに東洋の地や海にいる多くのポルトガル人の態度への皮肉めいた印象があることがわかる。
この作品のもっとも注意を引くところは、その風変わりな内容である。ピントは、インド、中国、日本の詳細な地理学を−画家だと言われる−を描写し、法律、慣習、道徳、祭り、商い、司法、戦い、葬式等の民族誌学を叙述している。同様に、特筆すべきことは、海洋帝国ポルトガルの瓦解と腐敗を予見していることである。
ポルトガルの散文文学が近代の門をたたいたのは、『東洋遍歴記』であると言われる。じじつ、自然主義的性質、口語体、類まれな可視性はポルトガル文学のロマン主義を開いた作家アルメイダ・ガレットの『故郷紀行Viagens na Minha Terra』に実現されることとなるあらたな文学的方向を示している。
作品について
『東洋遍歴記』はピントが自分の両親の貧相な家から旅立つところからはじまり、その物語は21年後のリスボンへの帰郷まで続く。その物語は、カラベラ船でリスボンからセトゥーバルへ向かう際、ポルトガルの海賊船に捕らえられ強奪され、ポルトガル海岸付近を通過するエピソードから話が広がっていく。のちにピントはインドへ旅立ち、マラバール海岸おいて一連の冒険をすることとなる。それが本当のことなのかピントの想像上の産物にすぎないのかを知る由もないが、のちにアビシニアにおける過去を語っている。ペロ・デ・ファリア司令官に随行しゴアからマラッカへ行き、外交使節、商人、海賊など次々と職を変え、頻繁に出入りしながらも、マラッカに居を構えることとなる。
ピントは、シャム(タイ王国)、カンボジア、コーチシナ、日本でも商業活動をおこなっている。後年、アントーニオ・ファリアに随行しアジアのさまざまな海岸やシナ海にある島々へ出航し、そこで類まれな冒険、たとえば、中国皇帝の陵墓の略奪をおこなっていることについて読者をひきつける語り口で述懐している。
アジアの都市や文明についての叙述と平行してピントは数多くの東洋の地域の民族誌学的様相を備えるファンタジーを書いた。実際、『東洋遍歴記』には海難伝承を、就く、海や「発見された」土地に生きる男たちが遭遇する困難を正確かつ感動的に書きあらわされている。
「シナ海海岸で暴力と強奪を為す」状況を告発している事が示すように、ピントはポルトガル人の威厳を持たない態度を確固たる態度を以って非難している。ジャシント・ド・プラド・コエーリョは「この真実と義憤はわれわれの精神の表現者の一人としてピントを連ねさせる。ピントは、歴史にたいする卑劣な行為を告発し、ポルトガルが非道を黙認しないことを示したのだ」と述べる。
『東洋遍歴記』は「具体的な表現」をその特徴とし、戦いと航海に関する数多くの言及がある。だが、この作品の面白さは、作者の「地域色を豊かなものとし」、「その土着色の強い話し方を再現している」努力にある。 
 
『東洋遍歴記』 メンデス・ピント 1

 

フェルナンド・メンデス・ピント (Fernado Mendes Pinto, 1509?~1583) はポルトガルの商人で、1537年頃からインドを手始めにアジア・アフリカを広く遍歴し、日本を四度訪れた。1551年の三度目の訪日時にフランシスコ・ザビエルと親交を結んだが、その時には相当な財産を蓄えていた。1554年4月に四度目の訪日のためゴアを発ったが、途中マラッカでイエズス会の修道士になった。1556年7月に九州に着き、11月に離日したが、この間にピントはイエズス会を脱会した。1558年にポルトガルに戻り、1578年頃『遍歴記』を書いた。
その寺院というのはすこぶる壮麗・豪華で、彼らの司祭に当たる坊主たちは私たちを手厚く迎えてくれた。この日本の人々はみな生来大変に親切で愛想がいいからである。
したがって、ゼイモトが善意と友情から、また、先に述べたように、ナウタキンから受けた礼遇・恩顧の幾分かに応えるために贈ったわずか一挺の鉄砲が因で、この国は鉄砲に満ちあふれ、どんな寒村でも少なくとも百挺の鉄砲の出ないような村や部落はなく、立派な町や村では何千挺という単位で語られているのである。このことから、この国民がどんな人たちか、生来どんなに武事を好んでいるかがわかるであろう。
そしてこれら日本人というのは世界のどの国民よりも名誉心が強いので、彼は、自分の前に生ずるいかなる不都合も意に介さず、自分の意図を万事において遂行しようと決心した。
この日本人というのは、そのあたりの他のどの異教徒よりも道理に従うものだ、と私が何度も言うのを読者諸氏は聞いてきたのではあるが、坊主たちは他の人々よりも多くのことを知っているという生来の自負心と自惚れのために、一旦自分の言ったことを否定したり、自分の信用に関する議論で他人に譲ることは、たとえそのために千回その生命を危険に曝そうとも、名誉を損なうものと見なすのである。
それは、彼らがそのあたりの他の異教徒よりも元々優れた理解力を持っていることは否定し難い人々だからで、したがって、彼らを信仰へ改宗させるためにに注がれる努力は、コモリンやセイロンのシンガラ人よりは、この人々における方が、より大きな実りを結び、したがって、より効果的であろうと思われる。 
 
『東洋遍歴記』 メンデス・ピント 2

 

フェルナン・メンデス・ピント(Fernão Mendes Pinto, 1509?-1583)は、ポルトガルの旅行家である。1537 年頃東インドに渡航し、マラッカで貿易商人となり、中国やアジア諸国を遍歴し、日本にも数回来航した。
本書の内容のうち、我が国に関する部分はピントらによる所謂「日本発見」の部分と、豊後王国(大分県・大友領のこと)に関する部分、さらに琉球に関する部分である。「日本発見」について、ピントは中国のランパカウ(浪白澳)から彼を含む3 人のポルトガル人が中国の海賊船に乗って航行中、暴風雨にあい、20 日余の漂流ののちタニシュマ(種子島)に着き、ここで領主ナウタキン(種子島時尭)に歓迎され、また3 人の中のディオゴ・ゼイモトが鉄砲を贈ってその製法と使用法を領主に教えた、と本書に記述し、これがヨーロッパ人による初めての日本渡航であると主張している。この問題に関しては、ポルトガル人の種子島漂着の年次を含めて、多くの人々によって考察されてきたが、未だ実証されておらず、現在ではむしろピントが事実をねじ曲げたものと解されている。また、ピントは自分がアンジロウをザビエルに紹介したとしているが、こちらも事実ではない。しかし、ピントが本書で1544(天文13)年、1546(天文15)年、1551(天文20)年、1556(弘治2)年の計4 回日本に渡航したとしていることは確実と見られており、この間の1551 年にはフランシスコ・ザビエルにも面会し、彼とマラッカまで同船している。本書の後半部分ではザビエルについての記述が多く見られ、ピント自身がザビエルの葬儀を見てイエズス会に加入したとも述べられている。実際に彼は同会の修道士として1556 年に来日したが、間もなく脱会し離日している。
本書はピントの晩年に書かれたもので、彼の若き日の東洋放浪について記憶をたどって纏められ、初版は1614 年に刊行された。細かな部分については誤りも多く、前述のようにピント自身の曲筆もあって史料としての限界はあるが、ポルトガル人の東洋植民史や初期の日葡交渉史を研究する上で意義のある書物と言えよう。  
 
ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易

 

はじめに 
十五世紀末にアジア海域に登場したポルトガル人は、一五二年にマラッカを占拠、数年後には中国沿海にも来航した。彼らが日本に到達するのはその約三十年後である。ところがポルトガル人の日本「発見」の年については、一五四二年と一五四三年の両説があり、決着をみていない。ポルトガル人の日本初来航に関する日欧の基本史料とされてきたのは、南浦文之「鉄灼記」と、アントニオ・ガルヴァン『新旧発見記』である。前者は天文十二 (一五四三)年に、後者は一五四二 (天文十一)年にポルトガル人が日本に到達したと記すため、日欧関係史や銃砲史の研究者による論争が続けられてきたのである。
一八九二年の坪井九馬三「鉄砲伝来考」では、「鉄砲記」と『新旧発見記』を紹介したうえで、「鉄砲記」によりポルトガル人の種子島来航を一五四三年とした。その後、日本ではおおむね一五四三年説が普及し、教科書や年表類でも「鉄砲伝来」の年は一五四三年とし、一五四二年説を附記することが多い。しかしポルトガル人初来航=鉄砲伝来に関する専論では、明確に一五四三年説をとる論者は意外に少なく、戦後では有馬成甫氏の著書が目につく程度である。幸田成友氏・洞富雄氏などは、四二年・四三年の両説を併記して断定を避けている。
これに対し、ポルトガル人の日本初来航を一五四二年とする論者は少なくない。早くは岡本良知氏が四二年説をより妥当とし、ついで李献嘩氏も「鉄胞記」 における年次の矛盾を指摘して、ポルトガル人の日本初来を四二年とした。近年では、清水紘一氏が「鉄胞記」には史実の混錯があるとして四二年説を主張した。さらに最近では、村井章介氏・関周一氏が、東アジア海域史の立場から鉄砲伝来を再検討し、ポルトガル人は王直のジャンクにより四二年に種子島に到達したと結論している。また所荘吉氏・的場節子氏も、ポルトガル人の初来航は四二年であったと説くが、彼らが種子島に鉄砲を伝えたのは翌四三年であったとする。総じて近年の日本の研究では、ポルトガル人の日本初来航を一五四二年とする見解が主流となりつつあるといえよう。このほか宇田川武久氏は、種子島に最初に鉄砲が伝来したという「鉄胞記」の記事自体に疑問を呈し、鉄砲はポルトガル人よりもむしろ倭冠的勢力によって、多様な経路から伝来したと論じている。
一方欧米では、伝統的に一五四二年説が一般的であった。しかし一九四六年、ゲオルグ・シュールハンマー氏は、『発見記』の記事は琉球漂着を日本漂着と誤伝したものであるとして、ポルトガル人の日本初来航は「鉄胞記」に記す一五四三年であると論じた。この説は欧米でひろく受容され、C・R・ボクサー氏、ドナルド・F・ラッチジョセフ・ニーダムなどが、いずれも一五四三年説を採用している。しかし最新刊のケネス・チエース氏の著書では、近年の日本の研究に基づき、一五四二年説をとっている。
このようにポルトガル人の日本初来航の年については、百十年あまりにわたって論争が続きながら決着をみていない。近年では一五四二年説が有力になりつつあるが、なお史料解釈上の疑問点も多く残されている。一連の論争の過程では、多くの新史料が紹介され、最近では村井孝介氏などの研究を通じて、ポルトガル人来航をめぐる東アジア海域の全体状況も明らかにされつつある。しかし一方で、諸史料を全体として整合的に定置する作業は、なお十分とはいえないようだ。このため本稿では、先行研究の成果をできるだけ包括的に検討し、そこで提示された日本・西欧・中国などの諸史料を再解釈して、一五四〇年代前半の東アジア海域交易の展開という文脈上に定置することを試みたい。こうした検討は単に西欧人の日本「発見」 の年代考証という問題にとどまらず、ポルトガル人の日本来航を、東アジア海域における「交易の時代」 の序幕という大状況のなかに位置づけるうえでも、有効かつ必要と考えられるのである。
なお行論の過程で、多岐多様な先行研究の論点を、逐一本文で紹介・検討したのではあまりに繁雑である。そこで本文では特に重要な問題を中心に議論を進め、その他の個別的な論点はなるべく註において検討することにしたい。なお筆者はポルトガル語・スペイン語を解さないため、両国語の史料は、和訳または英訳により利用したことをお断りしておきたい。 
一 ふたつの日本側史料  「鉄胞記」と 『種子島家譜』 

 

ポルトガル人の日本初来航に関する日本側の基本史料は、文之玄昌(号は南浦) の「鉄抱記」 である。文之玄昌は、江戸初期に薩摩藩のブレーンとして重用された禅僧であった。慶長十一(一六〇六)年、彼は種子島久時の依頼を受けて「鉄砲記」を代作し、のちこれを『南浦文集』 に収めた。久時は鉄砲伝来の当事者であった時亮の子であり、「鉄胞記」でも、時亮の鉄砲伝来に関する功績が顕彰され、種子島から全国に鉄砲が普及したことが強調されている。以下、その主要部分を書き下しにより引用しよう。
【史料A】文之玄昌「鉄抱記」 (『南浦文集』巻一)
天文発卯(十二年)秋八月二十五丁酉、我が西村の小浦に一大船あり。何れの国より来るかを知らず。船客は百余人、その形は類せず、その語は通ぜず、見る者は以って奇怪となす。その中に大明の儒生一人、五峯と名のる者あり。今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶ま五峯に遇い、杖を以って沙上に書きて云く、「船中の客、何れの国の人なるかを知らず。何ぞその形の異なるや」と。五峯は即ち書きて云く、「これは西南蛮種の雪胡なり。粗ぽ君臣の義を知ると維も、未だ礼貌のその中にあるを知らず。この故に、その飲むや杯飲して杯もてせず、その食らうや手食して箸もてせず。徒だ嗜欲のその情に償うを知りて、文字のその理を通ずるを知らざるなり。所謂「雪胡一処に到れば鞭ち止まる」というは、これその種なり。その有する所を以って、その無き所に易うるのみ。怪しむべき者に非ず」と。ここに於いて織部丞は又た書きて云く、「ここを去ること十又三里にして、一津あり。津を赤尾木と名づく。我が由りて頼むところの宗子、世々居る所の地なり。津の口に数千戸あり。戸は富み家は昌え、南商北酉の往還すること織るが如し。今は船をここに繋ぐと錐も、要津の深くして且つ漣たぎるの愈れるに若ず」と。これを我が祖父の恵時と老父の時亮に告ぐ。時亮は即ちに扁艇数十をしてこれを撃かせ、二十七日己亥に至りて、船を赤尾木津に入らしむ。……(中略)……
貿胡の長二人あり、盲和郎秒針と日い、一を士部朴か針僻部如と日う。手に一物を携う。長きこと二三尺、その体たるや、中は通じ外は直にして、重きを以って質となす。その中は常に通ずと錐も、その底は密塞するを要す。その傍に一穴あり、火を通ずるの路なり。形象は物の比倫すべきなし。その用たるや、妙薬をその中に入れて、添うるに小団鉛を以ってす。先ず一小白を岸畔に置き、親ら一物を手にして、その身を修め、その日を妙にして、その一穴より火を放てば、則ち立ちどころに中らざるはなし。……(中略)……時堯はその価の高くして及び難きを言わず、蛮種の二鉄砲を求めて、以って家珍となす。その妙薬の持節・和合の法は、小臣の篠川小四郎をしてこれを学ばしむ。時亮は朝に磨き有に拝め、勤めて己まず。響の殆ど庶きは、ここに於いて百発百中、一として失するなし。……(中略)……
時堯は把玩の余り、鉄匠数人をして、その形象を熟視せしめ、月鍛季錬し、新たにこれを製らんと欲す。その形制は頗るこれに似たりと錐も、その底のこれを塞ぐ所以を知らず。その翌年、蛮種の貫胡、復た我が島の熊野の一浦に来る。浦を熊野と名づくるは、また小鷹山・小天竺の比いなり。頁胡の中、幸いに一人の鉄匠あり。時亮は以って天の授くる所となし、即ち金兵衛尉措定なる者をして、その底の塞ぐ所を学ばしむ。漸く時月を経て、その巻いてこれを蔵むることを知る。ここに於いて、歳余にして新たに数十の鉄抱を製る。
……(後略)……
以上の要点を整理すると、次のようになる。
(1)天文十二(一五四三)年八月二十五日(太陽暦では九月二十三日)、種子島に百余人の異形の船客を乗せた大船が来航した。
(2)船客のなかに明人の儒生「五峯」がおり、筆談により彼らが「西南蛮種の頁胡」 であることを告げた。
(3)種子島時亮は要胡の長である「牟良叔舎」と 「喜利志多情孟太」から鉄砲を入手し、家臣に模造を命じた。
(4)翌天文十三(一五四四)年、「蛮種の要胡」が再来航し、銃底を塞ぐ技術を伝授した。これにより一年余りで数十挺の鉄砲を製造した。
さらに省略部分では、紀州根来寺の僧兵が鉄砲を求めて種子島を訪れ、時亮が求めに応じて鉄砲を贈り、操作法を伝授したこと、種子島に滞在していた堺の商人が、鉄砲の製法を畿内にも伝えたことなどが記されている。
なお 「鉄胞記」とほぼ共通する内容の関連史料として、『種子島家譜』 (文化二=一八〇五年成立) がある。その原型は、やはり種子島久時の命により編纂された 『種子島譜』、(延宝五=一六七七年成立) であった。鉄砲伝来の記事は、十三代恵時 (時亮の父) と、十四代時亮の項にみえるが、ここではより詳細な前者の記事を紹介しよう。
(天文十二年)八月廿五日、西村浦に一大船漂来せり。何れの国より来るかを知らず。その人、形は類せず、語は通ぜず、見る者は以って奇怪となす。西村の宰に西村織部丞時貫なる者あり、杖を以って沙上に書きて云く、「船客は何れの国の人なるかを知らずや」と。大明の儒生五峯なる者有り、書きて云く、「これは南蛮種の貫人なり。怪しむ可き者に非ず」と。即ちに時貫は人を遣わして恵時に告ぐ。恵時は群臣に命じ、軽舟をしてこれを卸かしめ、廿七日に船を赤尾木津に入らしむ。雪胡の長二人あり、盲牟良叔舎と日い、言責利志多陀孟太と日う。共に手に一物を携う。その体たるや比倫すべきなく、その用たるや奇なり妙なり。名づけて繊胞と日う、恵時・時亮は見て以て兵器の甲なりとなし、蛮種の鉄胞二を求め、家珍となせり。繊匠をしてこれを製らしむるに、形象は頗るこれに似ると錐も、未だ尽くさざる所あり。
(天文十三年)今春、南蛮船熊野浦に漂来す。船客中に一人の繊匠あり、恵時・時亮は以て天の授くる所となし、即ち金兵衛清定なる者を遣わして繊胞を製ることを学ばしむ。暮年にして新たに数十の繊抱を製り、世に流布せり。
「鉄砲記」と共通する修辞表現も多く、『種子島家譜』の編纂時に「鉄胞記」を参照したことは疑いない。ただし『家譜』では、西村織部丞の名を「時貫」、二度目の南蛮船来航の季節を「今春」と明記するなど、「鉄砲記」にない記載もみられる。延宝年間に『種子島譜』を編纂した際には、「御当家の旧記と、遍く聞説する所を以て、更互に演揮してこれを記録」したとされ、おそらく「鉄胞記」と『家譜』双方の史料源となった、種子島家の古記録が存在したのだろう。「鉄胞記」の成立はポルトガル人の来航から六十年あまり後であり、同時代的史料とはいえない。しかし天文十二年の鉄砲伝来を詳記するその内容は、種子島氏に伝わる首時代的記録に基づく可能性が高いのである。  
二 ふたつのヨーロッパ側史料  『新旧発見記』と『東洋遍歴記』 

 

ポルトガル人が一五四二年に日本を「発見」したという説は、ポルトガル人アントニオ・ガルヴァンの『新旧発見記』(以下『発見記』と略称)に由来する。ガルヴァンは一五二七年からアジア海域で活動し、一五三六年から一五四〇年まではモルツカ諸島の総督の任にあった。ポルトガルに帰国後は国王のジョアン三世に冷遇され、一五五七年にリスボンの王立病院で没した。彼は帰国後の生活を、古今の発見航海の記録を編纂することに費やし、その遺稿は彼の友人によって、一五六三年に出版された。これが当室ざ計(論述の普)、つまり『新旧発見記』である。『発見記』は二部からなり、第一部ではギリシア・ローマ以来の地理的発見の歴史が、第二部では一四九二年のコロンブスのアメリカ発見から一五五三年にいたる、スペイン・ポルトガルの発見航海が、年代記風に記録されている。ポルトガルのアジア経営の最前線にあった人物による、古今の地理的発見を概観した書物として重要であるが、彼が帰国してからの記述は、間接的な伝聞に基づいていることに注意しなければならない。
『発見記』 における日本「発見」記事の全文は、次のとおりである。
一五四二年、ディオゴ・デ・フレイタスがシャム国ドドラ市(アユタヤ)に一船のカピタンとしていた時、その船から三人のポルトガル人が、l膿のジャンクに乗って脱走しシナに向かった。その名をアントニオ・
デ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショトという。北方三十度あまりに位置するリヤンポー(舟山列島の双嶼)に入港しょうと航行したところ、後ろから激しい暴風雨が襲来し、彼らを陸から隔ててしまった。こうして数日、東の方三十二度の位置にひとつの島を見た。これが人々がジャポンエスと称し、古書にその財宝について語り伝えるジバンガスのようであった。そしてこの諸島は黄金・銀、その他の財宝を有する。
一六一二年に出版されたディオゴ・デ・コウト(DiOgO de COutO)の『アジア史』第五編でも、『発見記』 の日本発見記事を敷術して継承している。さらに一六二〇年以降に執筆された、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』では、ガルヴァンの記事が種子島への鉄砲伝来と結びつけられた。すなわち「アントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、およびアントニオ・ペイショットが、一五四二年に、シャムからシナへ一隻のジャンクで出かけた。……彼らは不意に暴風雨に襲われた。‥‥‥それから数日後に、日本諸島の問に流された。…‥・この船は薩摩の海上にある一つの島で種子島と呼ばれるところに入港した。そのところでポルトガル人たちは鉄砲の用法を教えたので、その用法がそこから日本中に広まった」というのである。『日本教会史』以降、三人のポルトガル人がシャムから中国に向かう途中、種子島に漂着し鉄砲を伝えたという説は、現在にいたるまで(特に日本では)一般化している。
しかし 『発見記』 と「鉄胞記」 の記述を比較対照してみると、一致しない部分がきわめて多い。
(1)『発見記』では三人のポルトガル人が日本に漂着したとするが、「鉄砲記」では百余人の南蛮人が来航したと記し、「頁胡の長」 二人の名を挙げる。
(2)『発見記』では暴風雨により日本に漂着したと記すが、「鉄砲記」の描写では、暴風雨による漂着という様子はうかがえない 。
(3)『発見記』ではポルトガル人の漂着地を北緯三十二度とするが、「鉄炬記」が来航地とする種子島南端は、北緯三十度二十分に当たる。
(4) 「鉄砲記」 に詳述されている鉄砲伝来に関する記事が、『発見記』 には一切ない。
こうした相違にもかかわらず、「鉄砲記」と『発見記』が、同一事件の記録とみなされてきた主要な根拠は、両ムラ、ンヤクシャ史料に現れる人名の一部が一致するとされたためであった。すなわち牟長叔舎はフランシスコ (ゼイモト) の、(菩利志多)佗孟太は(アントニオ)ダ・モッタの音訳とみなされてきたのである。しかし、牟良叔舎を Francisco の音訳とするのはかなり疑わしい。他方、俺孟太はたしかに da Mota と読める。しかしC・R・ボクサー氏によれば、「ポルトガルにおけるモッタとは、(イギリスにおける) ロビンソンやスミスのようなもの」であり、こうした一般的な姓から同一人物とみなすことは難しいという。(喜利志多)佗孟太はアントニオ・ダ・モッタとは同姓の別人(おそらくクリストヴァン・ダ・モッタ)である可能性も高いのである。とすれば、結局のところ「鉄灼記」と『発見記』 にはほとんど共通点がないことになる。
「鉄胞記」と内容的に共通するヨーロッパ史料は、むしろフエルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』(以下、『遍歴記』と略称)であろう。ピントはポルトガル人の冒険商人で、一五三七年にアジアへ渡航し、一五三九年から一五四三年まではマラッカを拠点に東南アジア各地で活動したようだ。C・R・ボクサー氏は、ピントは一五四一年から四三年にかけてはビルマに滞在し、四三年にゴアからマラッカにいたり、四四年には中国沿岸を経て日本に渡航したと推定している。一五四六年に薩摩に来航したジョルジェ・アルヴァレスにも同行したという。一五五一年、三度目に日本を訪れた際にフランシスコ・ザビエルと知り合い、山口の教会建設のための資金を提供した。一五五四年にはイエズス会に入信、五六年にゴア総督の使節として豊後を訪れたが、同年にイエズス会を離れ、一五五八年にポルトガルに帰った。帰国後は一五八三年に没するまで、自伝的な冒険旅行記である『遍歴記』の執筆に専念した。『遍歴記』の原稿は一五六九年頃にほぼ書き上げられ、没後の一六一四年に出版された。
『遍歴記』はいちおうピントの自伝的冒険記の体裁をとっているものの、実際には事実とフィクションが混交し、極端な誇張や年月の混乱にみち、しばしば他人の事績や伝聞を自らの経験として語っており、歴史史料としてはきわめて厄介である。ただし彼が最初期に日本を訪れたポルトガル人の一人であったことは間違いなく、日本に関する記述には、他の史料に照らして信用すべき内容も少なくない。『遍歴記』では、ピント自身を含む三人のポルトガル人が種子島に来航し鉄砲を伝えたと記すが、上述のように一五四二〜四三年には彼はビルマにいた可能性が高く、信じがたい。そもそも『遍歴記』 では、ピントらの種子島来航の年月も明記されておらず、前後関係からはいちおう一五四五年となるが、『遍歴記』の年月自体が矛盾に満ちているので、鉄砲伝来の年次を考証する手がかりにはならない。
ピントが長々と語る鉄砲伝来の顛末をごく簡略に要約すると、次のようになる。
メンデス・ピント、ディオゴ・ゼイモト、クリストヴァン・ボラリョの三人のポルトガル人は、中国人海賊のジャンクに同乗して広東近海の浪自演(ランバカウ)を出航したが、暴風雨により漂流し、種子島に漂着した。島の前面に投錨したところ、島の住民が船を寄せてきたので、交易の希望を告げた。住民は停泊すべき港を指示したので、辟船に導かれて、大きな集落のある港に入った。すると種子島の領主ナウトキンが銀を詰めた箱を携えて到来し、ポルトガル人を上陸させ、商品を交易し歓待した。ある日、ゼイモトが鉄砲で狩猟をするのを見て、ナウトキンは強い関心を示す。ゼイモトはナウトキンに鉄砲を贈り、その製法を伝授した。ナウトキンは鉄砲の練習に励むとともに、家臣に鉄砲を製造させ、ポルトガル人が五か月半後に種子島を出航したときには、六百挺以上の鉄砲が造られていた。
領主の名ナウトキンは、種子島時亮の初名である直時を指すといわれる。五ケ月半で六百挺もの鉄砲が造られたといった、ピント一流の誇張もあるが、1種子島到着後、辟に引かれ領主の居住地に入港し交易。2領主の前で鉄砲を射撃し、関心を持った領主に鉄砲を贈る。3領主は鉄砲の練習に励み、家臣に鉄砲を模造させる、という大筋は、「鉄砲記」とほとんど共通している。ピントは一五四四年には実際に日本に渡航したと考えられ、当時の航路からみて種子島を訪れた可能性が強い。彼は直前に起きたポルトガル人の種子島来航と鉄砲伝来について詳しく知りうる立場にあり、『遍歴記』ではその情報を自身の経験のように記したのだろう。薩摩とポルトガルでまったく別々に執筆された「鉄砲記」と『遍歴記』の大筋がほぼ一致することから、両者の記述は基本的に実際の事件を踏まえているとみてよいだろう。逆にいえば、ガルヴァンの『発見記』では、日本について漠然と「金銀に富む」と記すだけで、鉄砲伝来などの具体的記述が一切ないのは奇妙に思われる。
『発見記』 の記事と鉄砲伝来を結びつけたのは、上述のようにロドリゲス 『日本教会史』 であった。ロドリゲスは同時に、ピント『遍歴記』 の記事が虚構に満ち信頼できないことも強調しているが、その背景にはイエズス会とピントの複雑な関係がある。ピントは一五五四年にイエズス会に入会して多額の財政的貢献をしたが、二年後に脱会したため、彼の事績はイエズス会の記録からすべて抹消されてしまった。ところが一六一四年に、ピント自身が日本発見と鉄砲伝来の当事者であったと説く『遍歴記』が出版されたため、イエズス会士のロドリゲスはこれを否定するためにも、『発見記』の日本発見記事と、種子島への鉄砲伝来を結びつけたのであろう。しかし史料自体を検討するかぎり、「鉄砲記」と『遍歴記』 の大筋は共通するのに対し、「鉄胞記」と『発見記』 の内容はほとんど一致せず、『発見記』と鉄砲伝来とを結びつける積極的な根拠は見いだせないのである。 
三 ふたつのフレイタス情報   『新旧発見記』 とエスカランテ報告 

 

ガルヴァン『発見記』の日本発見記事と関連して、従来から注目されてきた史料に、スペイン人ガルシア・デ・エスカランテ・アルヴアラードが、一五四八年にメキシコ副王に送った報告書がある。このエスカランテ報告には、ポルトガル人ディオゴ・デ・フレイタスから得た情報が含まれる。『発見記』 でも、フレイタスの船から脱走した三人のポルトガル人が日本を発見したと述べており、エスカランテ報告と 『発見記』 の内容は不可分の関係にある。
一五四二年、メキシコ副王は新大陸とアジアを結ぶ航路の開拓をめざし、ルイ・ロペス・デ・ヴィリヤロボス率いる艦隊を派遣した。エスカランテはこの艦隊の商人頭であった。ヴィラロボス艦隊は一五四三年二月にミンダナオ島に到着、セレベス島を経て一五四四年三月にモルツカ諸島の中心地ティドレ島にいたった。この年、ディオゴ・デ・フレイタスの弟であるジョルダン・デ・フレイタスが、ティドレ島の隣のテルテナ島の守備隊長に任命され、十月に兄とともにテルテナ島に到着した。ジョルダンはヴィラロボス艦隊のティドレ停泊を認め、十二月にはヴィラロボスと会談している。エスカランテが兄のディオゴから情報を得たのもこのころであろう。しかし一五四五年、モルツカ総督はヴィラロボス艦隊の停泊を認めた合意を破棄し、艦隊はメキシコへ帰還する航路を探索したが成功せず、十一月にポルトガルに投降した。この艦隊の乗組員はポルトガルに送還され、一五四八年八月にリスボンに到着した。エスカランテはリスボンで艦隊の遠征記録を報告書にまとめ、メキシコ副王に送ったのである。
ここでは岸野久氏の訳により、フレイタス情報の主要部分を紹介しょう。
大陸にあり、マラッカとテナと呼ばれるところの間にある−−−の 彼﹇フレイタス﹈がシャン (シャム) −町に船を留めていた時、そこへレキオ人たちのジャンクがT隻やってきた。彼はこれらの人々と大いに話を交わした。……(中略)……彼﹇フレイタス﹈は、彼らレキオ人と非常によい友人となり、そこを去ったが、レキオ人は自分の国がどこにあるかを彼に言おうとしなかったのである。
またこのようなことも起った。彼﹇フレイタス﹈ と一緒にそこ ﹇シャム﹈ にいた中の、ポルトガル人二人がテナ沿岸で商売しようと一隻のジャンクで向かったが、彼らは暴風雨にあってレキオスのある島へ漂着した。そこで彼らはその島々の国王から手厚いもてなしを受けた。それは、シャンで交際したことのある﹇レキオ人の﹈友人たちのとりなしによるものであった。彼らは食料を提供され立ち去った。
これらの人々が﹇レキオ人の﹈礼儀正しさや富を目撃したことから、他のポルトガル商人たちもテナのジャンクに乗って再びそこへ行った。彼らはチナ沿岸を東に航海し、さきの島に着いたが、今回は上陸を許されず、持参した商品とその値段の覚書を提出すべきこと、及び代金は直ちに支払われることが申し渡された。ポルトガル人たちはそのとおり提供したので、支払いをすべて銀で受け取り、食料を与えられ、退去を命じられた。
フレイタス情報の要点は次のとおりである。
(1)フレイタスの船がシャムに停泊していた時、レキオ(琉球)人たちが二肢のジャンクで来航し、ポルトガル人と交友をもった。
(2)その後、フレイタスの船にいた二人のポルトガル人が、ジャンクで中国沿岸に向かったが、暴風雨によりレキオス (琉球) に漂着した。
(3)ポルトガル人はシャムで友人となったレキオ人の仲介により、国王に厚遇され、食料を支給され帰航した。
(4)その後、別のポルトガル商人もジャンクで琉球に渡航したが、上陸を許されず、海上で商品と銀を交易し、退去を命じられた。
エスカランテ報告には、二回の琉球渡航の年を記していないが、フレイタスは一五四四年はじめにはシャムを出帆し、マラッカを経てテルテナ島に渡航しているので、第一回目の航海は一五四二年、第二回目の航海は一五四三年と考えられる。エスカランテ報告と、ガルヴァン『発見記』の記事は、「シャムにいたプレイタスの艦船から、ポルトガル人がジャンクに乗って中国沿岸に渡航しょうとしたが、暴風雨にあい未知の土地に漂着した」とが共通しており、同一の事件を伝えていることは疑いない。両者の相違点は次の二つで いう基本的なストーリーある。1『発見記』がポルトガル人の数を三名として、各自の姓名を挙げているが、エスカランテ報告ではポルトガル人の数を二人とし、姓名を記さない。2『発見記』では漂流した地を北緯三十二度の日本とするが、エスカランテ報告ではレキオス (琉球) とする。
エスカランテ報告と『発見記』を比較すれば、一般的にいって前者がはるかに根本的な一次史料である。エスカランテは事件直後の一五四四年末ごろ、フレイタス自身から直接話を聞いて報告書に記している。これに対しガルヴァンは一五四二年当時、すでにリスボンに帰還しており、日本発見の記事は間接的な伝聞に基づいている。とすれば、『発見記』の記事は、実はエスカランテ報告に述べる琉球到達の記事を、誤って(または故意に)日本発見と伝えたもの、という可能性が浮上してくる。そのことを最初に指摘したG・シュールハンマー氏は、次のように結論している。1一五四二年にポルトガル人が到達したのは、『発見記』に記す日本ではなく、エスカランテ報告に記す琉球である。2翌四三年にもポルトガル人はふたたび琉球に渡航した(エスカランテ報告)。3四三年にはポルトガル人が種子島にも来航し、鉄砲を伝えた (「鉄胞記」)。
しかし日本の研究者には、『発見記』の日本漂着記事を琉球漂着の誤伝とみるシュールハンマー説はほとんど受け入れられていない。特にポルトガル人の来航を一五四二年とみなす場合は、シュールハンマー説とは逆に、エスカランテ報告にいうレキオス発見は、実は日本(種子島)発見を意味すると考えなければならない。その論拠として、これまで次の二点が想定されてきた。
(1)エスカランテ報告にいうレキオスは、実は種子島を指す。
(2)エスカランテ報告では政治的理由から日本発見について記さなかった。
ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易
まず(1)の場合は、西欧人にとって琉球と日本の境界は明確でなく、また琉球王国の支配は奄美諸島にまで及んでいたので、その北方の種子島もレキオスとみなされたと考える。そしてエスカランテ報告に記す一五四二年・四三年のレキオス渡航は、実は「鉄砲記」に記すポルトガル人の種子島初来航と、翌年の再来航を示すと考えるのである。ただしその場合、エスカランテ報告には鉄砲伝来を示唆する内容がまったくないという問題点がある。くわえてエスカランテ報告では、レキオスに再渡航したポルトガル人は「上陸を許されず、退去を命じられた」とし、「鉄胞記」では、種子島に再来航したポルトガル人が、銃底をふさぐ技術を伝えたと記すことも矛盾する。
エスカランテ報告のフレイタス情報全体を検討すれば、やはりレキオスは種子島ではなく、琉球王国を指すと考えざるを得ない。エスカランテ報告によれば、レキオスに漂流したポルトガル人は、シャム滞在中に友人となったレキオ人のとりなしにより、国王に厚遇されたという。種子島の住民がシャムに渡航したとは考えられず、このレキオ人は明らかに琉球王国から来航したはずである。『歴代宝案』によれば、琉球国王尚清は、嘉靖十九(一五四〇)年に一般の貿易船(正使毛是以下、乗員百四十一名) を、翌嘉靖二十(一五四一)年にも一腰の貿易船(正使頁満度以下、乗員百五十三名) をシャムに派遣している。フレイタスが「レキオ人たちのジャンクが一隻やってきた」と述べるのは、一五四〇年の貿易船を指す可能性が高く、その乗員がポルトガル人と交友をもったのであろう。彼らは一五四〇年末に琉球を出航し、四一年初頭にはアユタヤに入港したと思われる。アユタヤ滞在中にポルトガル人と知り合い、四一年夏の季節風で琉球に戻ったに違いない。そして四二年に旧知のボルトガル人が琉球に漂着した際、国王と彼らを仲介したのである。
なおエスカランテ報告では、四三年に再渡航したポルトガル人が、上陸を許されず退去を命じられた理由はわからない。しかし四三年の琉球王国には、彼らの入港を認められない事情があった。明朝の『世宗実録』 によれば、これより先、樟州人の陳貴らが密貿易のため琉球に渡航し、潮州の海船と争って殺傷事件を起こした。琉球王府は陳貴らを監禁し商品を没収したが、陳貴らは脱走をはかって捕縛され、その際に多くの仲間が殺された。福建からこの事件の報告を受けた朝廷では、陳貴らは密貿易により厳罰に処すが、琉球が彼ちの密貿易を許したうえ、商品を没収し、監禁・殺害したことはきわめて不遜であり、今後は「軽々しく中国の商民と交通貿易するを得ず」と戒告すべきである、との結論に達した。嘉靖帝もこれを裁可し、一五四二年五月、琉球が今後も密貿易を放任すれば「即ちにその朝貢を絶つ」という厳しい勅旨を下したのである。この勅旨は、年末までには琉球に伝達されたであろう。このため一五四三年には、琉球王府は中国船との貿易にきわめて慎重にならざるを得なかった。この年に琉球に来航したポルトガル人は、華人のジャンクに同乗しているので、入港して貿易すれば嘉靖帝の勅旨に抵触することになる。このため海上に停泊して貿易することは黙認されたものの、入港は許されず、退去が命じられたと考えられるのである。
つづいて仮説(2)を検討してみよう。この場合、エスカランテが政治的理由により、ポルトガル人の種子島漂着を、故意にレキオス漂着として報告したと想定する。スペインとポルトガルは一四九四年のトルデシーリヤス条約によって勢力範囲を二分したが、その後もアジア東部では両国の分界線が確定せず、勢力圏をめぐる競合が続いていた。スペイン艦隊の一員であったエスカランテは、ポルトガル人が日本を発見したと報告して、日本に対する優先権を認めることを避けようとした。そこでエスカランテは、意図的にポルトガル人の漂着地を種子島ではなく「レキオス」とした、というのである。
しかしこの仮説を実証的に裏付ける史料的根拠があるわけではなく、あくまでも状況証拠による推測の域を出るものではない。さらにエスカランテ報告は、一方ではポルトガル人が最初にレキオス (琉球) を「発見」したことを明示する内容になっている。もしエスカランテにポルトガル人の新領土発見を隠す意図があったとすれば、なぜあえて琉球発見を明記したのか理解しがたい。一五一〇年代に、トメ・ビレスがマラッカで遭遇した琉球人について詳しく紹介して以来、琉球の存在はむしろ日本以上によく知られていた。『発見記』の著者ガルヴァンも、ポルトガルに帰国後、カタリナ女王にあてた書簡で次のように述べている。「スマトラからモルツカ (諸島) へは横断して四百レグアはありません。……シナへも同じくらいの里程です。琉球にはそれよりやや多くなります。……また (メェバ・エスパーニャの) フエルナン・コルテス侯、および新たに来任した副王のドン・アントニオ・デ・メンドーサは、シナ・レケオス・モルツカに遣わし、また他の新たな世界を発見するために、ガレオンその他の多数の船の一船隊を作ることを命じました」。メキシコ副王メンドーサが派遣した艦隊とは、エスカランテが参加したヴィラロボス艦隊をさすが、レキオス発見はその主要な使命の一つだったという。さらにいえば、エスカランテ報告書は『発見記』 のような公開を前提とした著作ではなく、メキシコ副王にあてた内部報告書である。この種の報告書で、あえてまったく虚構の報告をする必然性があったとは考えにくいのではないか。
また逆に、ポルトガル人のフレイタスはスペイン人のエスカランテに対して、日本発見の事実を隠して語らなかった、と想定する論者もいる。しかしこの仮説も、フレイタスにポルトガル人の新発見を隠す意図があったならば、なぜ琉球発見をあえて語ったのか、という疑問を避けられない。またポルトガル人の日本発見を伝えれば、むしろポルトガルの日本に対する優先権を主張することにもなり、フレイタスにそれを隠す必然性があったかどうかも疑わしい。フレイタス情報に日本発見の記事がないのは、要するに琉球への漂着者が彼の部下だったのに対し、種子島への渡航者とは特に関係がなく、彼はそのことを語る立場になかったからではないだろうか。
なお上記のガルヴァン書簡では、中国と琉球について言及しながら、日本についてはまったく触れておらず、彼が日本について十分な情報を持っていたとは考えにくい。さらに 『発見記』 では、ポルトガル人の日本発見を記した直後に、次のような記事が続いている。
同じく一五四二年、メェバ・エスパーニャ副王のアントニオ・デ・メンドーサは、艦長と水先案内人を、か
シエラネヴァダってコルテスが訪れたエンガノ岬を発見するため派遣した。彼らは北緯四十度にある雪の山、まで航海した。そこで彼らは、商品を積んだ (複数の)船に出会ったが、その舶先にはアルカトラズと呼ばれるある種の鳥や、他の鳥の金銀でできた像が、意匠か装飾としてつけられ、帆桁は金で、舶先は銀で塗られていた。それらは日本もしくは中国から来たようであった。彼らが言うには、それらの国には三十日以内で航海できるという。
カリフォルニアのシエラネヴァダ山脈付近に、日本や中国の貿易船が来航したという荒唐無稽な説には、北アメリカと東アジアの距離が実際よりかなり近く考えられていたという背景がある。いずれにせよ、『発見記』の日本関係記事には、このような不確実な風聞も含まれていることに注意しなければならない。
モルツカでフレイタスから直接に得た情報に基づくエスカランテ報告と、ガルヴァンがリスボンで間接的に得た伝聞に基づく『発見記』 の史料価値を比べれば、一般的にみて前者の信頼性がはるかに高い。くわえて『発見記』の内容は具体性に乏しく、「鉄砲記」とほとんど一致しないうえ、漂着地を北緯三十二度とするなどの疑問点もある。一方エスカランテ報告のレキオスは明らかに琉球王国を指しており、また政治的理由から日本発見を隠した可能性も低いとすれば、やはりシュールハンマー説のように、一五四二年にポルトガル人が漂着したのは、日本(種子島) ではなく琉球であり、四三年には別のポルトガル人が種子島に渡航して鉄砲を伝えた、と考えるのが妥当ではないだろうか。 
四 ポルトガル人の種子島来航と鉄砲伝来の状況 

 

『発見記』 の日本漂着の記事が、琉球漂着の誤伝であったとすれば、通説的なポルトガル人目本来航の状況自体も再検討する必要がある。「ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲を伝えた」という旧来のイメージに対し、近年では、「王直のジャンク船にポルトガル人が同乗し、種子島に漂着した」という、王直に代表される華人海商の役割を強調する見方が有力である。これは「華人のジャンクに乗ったポルトガル人が日本に漂着した」(『発見記』)、「明人の儒生五峯(=王直)が南蛮船に乗っていた」 (「鉄胞記」)という記述を組みあわせたものだが、『発見記』の記事が種子島漂着を示すものでないとすれば、「ジャンクに乗ったポルトガル人の漂着」という見解にもいくぶん検討の余地がありそうだ。
まず圭直と鉄砲伝来との関係について。いうまでもなく「五峯」は後期倭冠のリーダーであった王直の号である。「鉄胞記」を執筆した南浦文之が、中国海商の代名詞ともいえる五峯の名を拝借した、という可能性も完全には否定できない。しかし一五四三年当時の王直の活動状況からみて、たしかに彼がポルトガル人とともに来日しても不思議ではない。
従来は『日本一鑑』 に、王直は「乙巳歳(嘉靖二十四=一五四五年) に於いて日本に往市し、始めて博多津の倭、助才門等三人を誘いて双嶼に来市す」とあることから、四三年に五峯=王直が種子島に来たとする「鉄砲記」との矛盾が指摘されていた。しかし村井孝介氏が明快に論証するように、王直は一五四〇年代前半から日本にも来航していたと考えられる。『筆海図編』 には「嘉靖十九 (一五四〇)年、時に海禁は尚お弛し。(王)直は葉宗満等と広東に之き、巨艦を造り、将に硝黄・純綿等の違禁物を帯びて、日本・遅羅・西洋等の国に抵り、往来して互市すること五・六年、富を致すこと砦られず。夷人大いにこれに信服し、称して五峯船主と為す」とあり、王直は一五四〇年ごろから、広東を拠点に東南アジアや日本を結ぶ密貿易を展開し、「五峯船主」で通っていたという。西洋(東南アジア西部) の中心港はマラッカやパタニであり、王直は広東・シャム・マラッカ・パタニなどでしばしばポルトガル人と接触したであろう。その後王直は四四年に双嶼の密貿易集団に参入し、四五年には九州に渡航して、その帰途に博多の助才門らを双嶼に引き入れ、四六年にも来日して、日本−双嶼の密貿易を展閲したのである。「鉄胞記」 の記録を信じるかぎり、「五峯」は王直を指すとみてよいだろう。
それではポルトガル人は華人のジャンクに乗って、種子島に来航したのだろうか。『発見記』では、三名のポルトガル人が華人のジャンクで日本に漂着したと説くが、「鉄砲記」では、「船客は百余人、その形は類せず、その語は通ぜず」とあり、百余人の船客は日本人と似た華人ではなく、ポルトガル人や東南アジア人だったように読める。誇張や文飾があったとしても、「頁胡の長」である牟良叔舎と喜利志多佗孟大のほかにも、かなり多くのポルトガル人や東南アジア人が乗っていた可能性がある。一方で船種については、「西村の小浦に一大船あり。何れの国より来るかを知らず」とあるだけで、ポルトガルのナウ船か中国のジャンクか判然としない。ただしポルトガル人が一五一三・一四年に中国に初渡航した際には、マラッカで現地のジャンクをチャータ1しており、一五一七年に広東から琉球発見に向かった際も、ジャンクに乗り華人の水先案内人を雇っている。またエスカランテ報告によれば、一五四二・四三年に琉球に渡航したポルトガル商人も、華人ジャンクを利用していた。さらに一五四四年から連年のように九州に来航した西欧人も、マラッカ・アユタヤ・パタニなどの東南アジアの港市から、華人海商のジャンクによって渡航している。すでに天文九(一五四〇) には、種子島に明船が来航しており、四三年の時点で華人海商は種子島への航路を把握していたであろう。こうした状況からみて、やはりポルトガル商人は華人海商のジャンクに同乗し、華人の水先案内人に導かれて種子島に渡航したとのではないか。むろん王直がそのジャンクの船主であった可能性も高い。
それではこのジャンクは「暴風雨で種子島に漂着」したのだろうか。『発見記』ではポルトガル人が暴風雨により漂流し、偶然に日本を発見したとするが、「鉄砲記」には暴風雨による漂着をうかがわせる描写はまったくない。東南アジアや華南から南西諸島を北上すれば、まず種子島・屋久島などに到着する。また「鉄砲記」に南蛮船の来着地とする種子島南端の西村浦は平坦な砂浜が続き、南方海上から種子島に着岸するにはもっとも適当な地点である。南方から黒潮ルートに乗って日本をめざした場合、まず種子島南端に着岸するのは自然であり、「鉄砲記」の描写からみて、ポルトガル人は暴風雨により漂着したのではなく、はじめから種子島をめざして来航したと考えるべきであろう。
なお王直に代表される華人海商が、ポルトガル人初来日に重要な役割を果たしたことは疑いないが、近年ではさらに、日本に鉄砲を伝えた主体はポルトガル人ではなく、むしろ華人密貿易者が東南アジア式の鉄砲を日本に伝えたという説も提唱されている。その主たる論拠は次の二点である。1一五四〇年代の朝鮮史料に、福建から日本に渡航する密貿易者が、日本に「火胞」を伝えたという記事がある。2日本式火縄銃の形式が、ヨーロッパ式よりも東南アジアのマラッカ式火縄銃に近い。しかしまず1についていえば、関周一氏が指摘するように、朝鮮史料に見える「火砲」とは、火縄銃ではなく伝統的な中国式の火器を指していると考えられる。
また2についても、ポルトガル商人が私用ないし商品として、東南アジアで現地調達した火縄銃を種子島に伝えたとしても不思議ではない。的場節子氏によれば、種子島伝来銃は銃床が頬付け式で、火ばさみが銃口側に倒れる瞬発式火縄銃であり、西欧で十六世紀前半に開発された鳥類狩猟用の火縄銃と特徴が一致するという。的場氏はマラッカ方面で密林での狩猟用にこの種の火縄銃の現地生産が行われ、ポルトガル人がそれを種子島に持ち込んだと推定している。『東洋遍歴記』でも、種子島でポルトガル人が鉄砲で野鳥を狩猟するのを見て、領主が強い関心を示し、その操作と製造法を習ったと述べており、種子島に伝わった火縄銃が狩猟用であった可能性をうかがわせる。
なお『日本一鑑』には、「手銃。初めは仏郎機国に出づ。(仏郎機)国の商人、始めて教え、種島の夷の作る所となる。次いで則ち棒津﹇坊津﹈・平戸・豊後・和泉等の処も、通じてこれを作る」という記事がある。日本・中国・ポルトガルで別々に成立した、「鉄灼記」・『日本一鑑』・『東洋遍歴記』が、いずれもポルトガル人がもたらした鉄砲が、種子島で模造され日本各地へ普及するという、共通するストーリーを伝えているのは偶然ではありえない。また関周一氏が述べるように、天文二十二 (一五五三)年ころ、近衛植家が島津氏を介して、種子島時亮に「南蛮人直令相伝」 の火薬調合法を幕府に伝えるよう依頼しているのも、ポルトガル人が伝えた最初期の鉄砲技術が種子島から畿内に伝えられたことを示している。その後は種子島以外からも別系統の火縄銃が伝来したであろうが、一五四三年に種子島に来航したポルトガル商人が、東南アジアで現地生産された火縄銃を、最初に日本に伝えたことは疑いないだろう。 
五 大友氏の遣明船派遣と種子島 

 

「鉄砲記」の後半部分は、種子島に伝わった鉄砲が、畿内や関東に伝播するプロセスを主題とする。その最後では、種子島を出帆した遣明船が伊豆に漂着したことにより、鉄砲が関東に伝わったと述べている。しかしこの部分には、「鉄砲記」前半部分との間に年代の矛盾があり、それが鉄砲伝来を一五四二年とする説の有力な論拠とされてきた。ここではこの問題を再検討するとともに、問題の遣明船をめぐる諸史料を整理検討して、鉄砲伝来当時の種子島をめぐる海域交易について展望してみたい。
「鉄胞記」によれば、種子島時尭は一五四三年に来航したポルトガル人から鉄砲を入手し、翌一五四四年に再来航したポルトガル人から銃底を塞ぐ技術を伝授され、その後一年あまりで数十挺の鉄砲を製造したという。したがって数十挺の鉄砲が完成したのは、早くとも一五四五年初頭ということになる。ところが「鉄砲記」の後半には、「新貢三大船」 の種子島出航をめぐる次のような記事がある。
我嘗てこれを古老に聞けり。日く、天文壬寅(十一年・一五四二)・発卯(十二年・一五四三) の交、新貢の三大船、将に南のかた大明国に遊ばんとす。:…・船を我が小嶋(種子島) に賎し、既にして天の時を待ちて麿(ともづな)を解き模を斉え、洋を望みて若に向かう。不幸にして狂風は海を推げ、怒涛は雪を捲き、坤軸もまた折けんと欲す。呼、時か命か。一の貢船は椿傾き概堆けて烏有と化し去る。二の貢船は漸くにして大明国の寧波府に達す。三の貢船は乗ることを得ずして我が小嶋に回る。翌年、再びその繚を解いて、南遊の志を遂げ、海貸・蛮珍を飽載して、将に我が朝に帰らんとす。大洋の中、異風忽ち起こって西東を知らず。船は遂に瓢蕩して、東海道伊豆州に達る。州人はその貸を掠め取りて、商客はまたその所を失う。船中に我が僕臣の松下五郎三郎なる者あり。手に鉄炬を携え、既に発してその鵠に中らざることなし。州人は見てこれを奇とし、窺伺・倣慕して、多くこれを学ぶ者あり。玄より以降、関東八州より、率土の演に埜ぶまで、伝えてこれを習わざることなし。
この記事の要点は次の通りである。
(1)一五四二〜四三年、新たに三彼の遣明船派遣が準備され、種子島を出帆した。しかし暴風雨により一責船は沈没、二貢船は寧波に到着したが、三貢船は種子島に引き返した。
(2)翌一五四四年、三貢船は種子島を再出航し、中国で貿易を行って帰航したが、暴風雨により伊豆に漂着した。そこで乗員の松下五郎三郎が住人に鉄砲を伝え、関東にも鉄砲が普及した。
つまり「鉄胞記」は前半で、(T)ポルトガル人が一五四三年に初来航、四四年に再来航し、四五年初頭までに鉄砲の模造に成功したと記す。ところが後半では、(U)一五四四年に種子島を出航した三吉船に、松下五郎三郎が鉄砲を持って乗船していたことになる。したがって(T)か(U)のどちらかの年が誤っていると考えなければならない。もしポルトガル人の初来航を、(T)に記す一五四三年でなく一五四二年であるとすれば、この矛盾は解消する。その場合ポルトガル人の再来航は四三年、鉄砲の模造成功は四四年初めになり、四四年の初夏に出帆したであろう三買船に、松下五郎三郎が鉄砲を持って乗船することは可能になる、というわけである。
この説では「鉄胞記」 のうち、(T)ポルトガル人初来航の年を一年前に修正し、(U)遣明船出帆の年との矛盾を解消するわけだが、当然ながら、(U)遣明船出帆の年を一年後に修正し、(T)ポルトガル人初来航の年との矛盾を解消する、ということも可能である。そして結論から言えば、関連史料の記述からみて、年の誤りは(T)部分ではなく、(U)部分にあると考えられるのである。
まず『種子島家譜』 には、次のような記事がある
天文十三 (一五四四)年甲辰。‥…・四月十四日、渡唐船二合船と号す解纜す。
天文十四 (一五四五) 年乙巳六月十四日、二合船帰朝す。
また『筆海図編』に、嘉靖二十三 (一五四四)年六月、「夷船一隻、使憎寿光等一百五十八人、貢と称す」とあるのも、二貢船(『種子島家譜』では二合船)の寧波到着を指すに違いない。つまり三膿の遣明船のうち、二貢船は一五四四年四月に種子島を出帆し、六月に寧波に到着、翌四五年の六月に種子島に帰着したのである。従って三艘遣明の船が四一一一年に種子島を出帆し、うち二貢船だけが寧波に到着したとする「鉄砲記」 (V)の記事とは一致しない。
ただし寧波に到着した二貢船の朝貢貿易は認められなかった。日本の朝貢は十年一回が定例であり、前回の遣使から五年しかたっておらず、かつ日本国王の表文もないことから、明朝は朝貢を許さなかったのである。この二貢船はその後も寧波近海の双嶼附近にとどまって密貿易を行ったようだ。『箸海図編』に「甲申(嘉靖二十三=一五四四年)自り歳凶にして、双嶼の貨は塗るに、日本の貢便通ま至り、海商は遂に貨を販る」とあるのは、二貢船の双嶼入港を指すに違いない。さらに『世宗実録』嘉靖二十四(一五四五)年四月突巳条には、日本使節の朝貢を許さず帰国を命じたにもかかわらず、「各夷は中国の財物を噂み、相い貿易して、歳余に延ぶに去るを肯ぜず」とあり、二貢船は翌一五四五年の四月まで双嶼に留まっていた。その後ようやく双嶼を出港し、同年六月に種子島に帰着したのである。なお二貢船の帰航に際しては、四四年から双嶼の密貿易集団に参入していた王直が、警護のため哨戒船を率いて同行している。
したがって二貢船の種子島出帆は一五四四年四月、帰着は四五年とみるべきであり、「鉄胞記」(H) の「天文壬寅(一五四二)・突卯(一五四三) の交、新貢の三大船、将に南のかた大明国に遊ばんとす」は、「天文突卯・甲辰(十三=一五四四年) の交」の誤りと考えなければならない。とすれば三貴船が種子島を再出航したのは、二貢船出航の翌年である一五四五年となり、四五年初頭に完成した鉄砲を持って乗り込むのは十分可能になる。「鉄胞記」の (H)部分は、文頭に「我嘗てこれを古老に聞けり」とあるように、古老の伝承に基づいており、種子島家の古記録に基づくと思われる(T)部分よりも、年代の誤りは生じやすいだろう。さらに「三貢船に乗った松下五郎三郎が関東に鉄砲を伝えた」という、(V)部分の主題自体にも疑問が残る。三頁船が漂着した伊豆は後北条氏の領国であるが、宇田川武久氏によれば、後北条氏による鉄砲使用が確認 されるのは一五六〇年以降で、西日本の諸大名はもとより、甲斐の武田氏に比べてもかなり遅れていた。一五四〇年代に伊豆から関東へ鉄砲が広まったとは考えがたいのである。
さて上記の諸史料では、一五四四年に種子島を出帆した遣明船の派遣主体は不明だが、村井章介氏は、ピントの 『遍歴記』 から次のような興味深い一節を紹介している。
さまざまな気晴らしに日を過ごしながら、私たちがのんびりと満ち足りて、この種 子 島に滞在すること二十三日経った時、この港に豊後王国から、多数の商人の乗っている一隻の船が着いた。彼らは上陸すると、習慣になっている進物を携えてすぐにナウタキンを訪問した。……[ナウタキンは] 私たちをそばに呼び、少し離れたところにいた通訳に合図して、彼を通じて言った。「我が友人よ、今渡された、余の主君であり、かつおじである豊後王のこの手紙を読むのを是非聞いて貰いたい……」。
村井氏はこの記事にいう、「豊後から来た、多数の商人の乗った船」こそが、問題の遣明船ではないかと推定している。前述のように、ピントは一五四四年に種子島を訪れたと思われ、おそらく彼が種子島滞在中に豊後から来航した遣明船を実見し、そのことを『遍歴記』 に盛り込んだのだろう。
またこの当時、大友氏が幕府から勘合を入手していたことからも、遣明船の派遣主体が大友氏であったことが推定できる。橋本雄氏が明らかにしたように、大友氏はすでに文亀三 (一五〇三)年に将軍足利義澄から弘治勘合を入手していた。ただし遣明船の派遣にはいたらず、その間に大永三 (一五二三)年の寧波争貢事件を経て、大内氏が細川氏を対明貿易から排除し、天文六 (一五三七)年には独占的に遣明船を派遣した。ところが天文十一(一五四二)年、大内氏は日本国王の書契を偽造して、朝鮮国王に対し、「好濫の臣」が弘治勘合を盗みだして遣明船派遣を図っていると告げ、このことを朝鮮から明朝に伝達してほしいと依頼している。大内氏としては対明貿易の独占を維持するため、大友氏がさきに入手した弘治勘合を利用して遣明船を派遣する前に、機先を制してこの書契を送ったのだろう。ただし朝鮮政府はこの要請を断っており、大友氏は四三年から対明貿易の準備を進め、四四年には三鰹の遣明船が種子島を出帆したのである。
幕府から勘合を入手し、遣明船を送ったのは大友氏だけではなかった。『日本一鑑』には、次のような一連の記事がある。
(1)嘉靖甲辰 (二十三年=一五四四)、夷憎寿光等、一百五十人来貢す。期に及ばざるを以て、これを却く。
(2)嘉靖乙巳(二十四年=一五四五)、夷属の肥後国、勘合を夷王宮に請うを得、僧の脚球を遣わして来貢す。期に及ばざるを以て、これを却く。
(3)嘉靖丙午(二十五年=一五四六)、夷属の豊後国利史源義鑑、勘合を夷王宮に請うを得、僧の梁清等を遣わして来貢す。期に及ばざるを以て、これを却く。
すなわち(1)一五四四年に寿光ら百五十人が来貢した後も、(2)翌四五年には肥後国が、(3)四六年には豊後の大友義鑑が、それぞれ幕府から勘合を得て朝貢したが、いずれも十年一回の朝貢という定例に違反しているため、入貢を認めなかったという。(1)はいうまでもなく、四四年に種子島を出帆した大友氏の二貢船を指す。(2)四五年の肥後国の朝貢船は、相良氏が派遣したと推定されている。そして(3)四六年の大友義鑑の朝貢船こそが、「鉄砲記」に記す「三貢船」だったのではないか。この三貢船は四五年の夏には寧波近海に着いたと思われるが、おそらく寧波には相良氏の遣明船が先に入港していたのであろう。もし寧波で鉢合わせになれば、寧波争貢事件の二の舞である。そこで三貢船はしばらく双嶼あたりで密貿易に従事し、翌四六年に寧波に入港したのではないだろうか。
周知のように、応仁の乱以降、従来の博多−寧波ルートを押さえた大内氏と、堺−土佐−南九州−寧波という南海路による細川氏が、朝貢貿易の実権をめぐって激しく競合した。寧波争貢事件によって細川氏が排除されると、朝貢貿易の実権は大内氏の独占に帰したが、その間隙を縫って、大友氏や相良氏などが勘合を獲得して朝貢を図ったのである。そして大友氏が対明貿易のルートとしたのが、豊後から日向灘を南下して南九州にいたり、種子島から寧波に渡る航路であった。このルートは、豊後から瀬戸内海を経て堺にもつながる。さらに種子島氏と琉球王国の間には貿易船の往来があり、大友氏は種子島氏を通じて琉球や東南アジアの産品の入手も図っていた。特に種子島時亮と大友義鎮(宗鱗、義鑑の子) の政治的関係は密接であり、時亮は豊後を訪れて義鎮と会見し、義鎮の庶子を養子に迎えようとしたこともあった。これに対し、大内氏も対明貿易用の南海産品を調達する必要もあって、日向南部の主要港を押さえた豊州島津家と結んで琉球との通行を図った。一五四二年には、大内氏は琉球王国に対し、那覇に来港した種子島氏の貿易船を拘留し、種子島氏を琉球貿易から排除することを要請している。
種子島は中国東南沿岸から琉球や南西諸島を北上し、南九州から土佐を経て畿内に到る黒潮ルートの本流(南海路)と、日向灘から豊後に北上し、瀬戸内海を経て畿内にいたるその分流との結節点に位置していた。種子島氏はこの両ルートを利用して、琉球・堺・紀州・豊後などの活発な交易や人的交流を展開しており、種子島に伝来した鉄砲技術も、このルートによって普及していったのである。「鉄砲記」が、種子島に来訪した紀州根来寺の僧兵や堺の商人によって、鉄砲が畿内に普及したと説くのは、南海路による鉄砲技術の移転を示している。また種子島時亮が大友義鎮に「南蛮小銃筒」を贈り、義鎮も室町将軍家に「南蛮鉄砲」や「石火矢井種子島筒」を献上しているのは、豊後ルートによる政治的関係を通じた鉄砲普及の例である。
黒潮ルートによって日本をめざした華人やポルトガル人が、まず種子島に来航したのも自然なことであった。一五四三年に種子島に来航したポルトガル人は、おそらく秋冬の季節風で東南アジア方面に帰り、日本「発見」のニュースをもたらしたはずである。これを受けて、翌四四年には西欧人が次々と日本に渡航した。種子島に再来航したポルトガル人には、メンデス・ピントも含まれていた可能性がある。またスペイン商人のベロ・ディアスも、一五四四年に中国沿岸から日本に渡航し、翌四五年末にはテルテナ島でエスカランテに日本情報を提供した。エスカランテ報告書に収められたディアス情報には、ポルトガル人がパタニに住む華人のジャンクで日本に渡航し、ある港で百般以上の華人ジャンクに襲撃されたが、火砲と銃でそれを撃退した、という事件が伝えられている。
ディアスはこの事件が起こった港を明記していないが、大隅半島の禰寝氏の庶流である池端清本が、天文十三(一五四四) 年十一月に作成した譲与文書には、清本の嫡孫が 「小祢寝港に於いて唐人南蛮人と戦える時、手火矢(火縄銃)に中りて討死」したという附記があり。ディアスの伝える事件は、大隅半島東南の小根占港で起こったことがわかる。小根占港は禰寝氏の拠点であり、薩摩の山川とともに九州最南端の主要港であった。百般以上の華人ジャンクという数には誇張があるにしても、相当数の華人密貿易者が、南西諸島や種子島を経て、南九州に来航していたことは疑いない。ディアスによれば、この年には別のポルトガル人も琉球を経て日本に来航したという。さらに翌一五四五年には、やはり華人ジャンクに同乗して、ポルトガル商人ジョルジェ・デ・ファリヤらが豊後府内に入港した。一五四〇年代に来日した華人やポルトガル人が、まず活動の舞台としたのも、種子島から薩摩・大隅・日向を経て豊後に到る、九州東南沿岸だったのである。  
結語 − 東アジア「交易の時代」 の序幕

 

ここではまず、本稿で検討したポルトガル人の日本初来航の経過を、関連する東アジア海域の諸状況も交えて、あらためて簡略に整理しておこう (年月は太陰暦による)。
一五四〇年 (天文九・嘉靖十九年) (六月)種子島に明船来航 (『種子島家譜』)。王直、広東・東南アジアで密貿易開始 (『箸海図編』)。(年末)琉球、シャムに貿易船派遣 (『歴代宝案』)。
一五四一年 (天文十・嘉靖二十年) (年末)琉球、シャムに貿易船派遣。
一五四二年(天文十一・嘉靖二十一年) フレイタス船のポルトガル人二名、シャムから中国に渡航する途中、暴風雨により琉球に漂着(エスカランテ報告)。(八月)明朝、琉球に対し華人との密貿易を厳禁(『世宗実録』)。
一五四三年(天文十二・嘉靖二十二年) ポルトガル人、琉球に再渡航するが、上陸を許されず退去(エスカランテ報告)。(四月)大内氏の偽使、朝鮮に勘合盗難を明朝に伝達することを依頼(『中宗実録』)。(八月)ポルトガル人と明人五峯(=王直)ら、種子島の西村浦に来航、鉄砲を伝える。種子島時亮、鉄砲の模造を命じるが完成せず (「鉄胞記」)。
一五四四年(天文十三・嘉靖二十三年)(春)ポルトガル人、種子島に再渡航、銃底を塞ぐ技術を伝授(「鉄胞 記」)。(四月)大友氏の遣明船、種子島を出帆、二貢船は寧波に到着、三貢船は種子島に戻る(「鉄胞記」)。(八月)二貢船、朝貢貿易を拒否され、双峡で密貿易(『世宗実録』)。王直、双嶼の密貿易集団に参入(『箋海図編』)。
一五四五年(天文十四・嘉靖二十四年)(年初)種子島で数十挺の鉄砲を製造(「鉄砲記」)。(六月)二貢船、 種子島に帰着(『種子島家譜』)、王直、二貢船に同行して来日(『筆海図編』)、帰途、博多の助才門らを双嶼に引き込む (『日本一鑑』)。三貢船、種子島を出帆(「鉄胞記」)、双嶼附近に停泊して密貿易。
一五四六年(天文十五・嘉靖二十五年) 三貢船、寧波での朝貢貿易を拒否され(『日本一鑑』)、帰航の途中、暴風雨により伊豆に漂着(「鉄砲記」)。王直、連年来日して密貿易を展開(『日本一鑑』)。
このように整理してみると、ポルトガル人の日本来航が、東アジア海域での華人密貿易の展開と連動していたことがあらためて確認できる。ポルトガル人は、明朝との公式貿易開始に失敗し、一五二二年に広州湾から駆逐されてからは、樟州近海でわずかに密貿易を続けていた。一五四〇年代に彼らを大規模な密貿易に引き込んだのが、許棟兄弟や王直などの徽州人の密貿易集団であった。まず一五四〇年に、許兄弟がマラッカやパタニから、ポルトガル人を漸江沿岸での密貿易に引き入れた。王直や葉宗満らのグループも、やはり四〇年から広東と東南アジアを結ぶ密貿易を開始しており、シャムやマラッカなどではポルトガル人とも接触したはずである。そして四三年には、許棟兄弟が双嶼を根拠地と定め、そこにポルトガル人を引き入れた。同じ年に、ポルトガル人が明人五峯(王直)とともに種子島に来航したのである。四四年には、王直も双嶼の密貿易集団に参入して、許棟のもとで密貿易の経理責任者となり、許棟も日本に渡航して密貿易を行った。そして四五年、王直は大友氏の朝貢船の帰航に同行して再来日し、双嶼への帰途、博多の助才門らを密貿易に誘い込んだのである。
一五四〇年代前半には、王直や許棟などの徽州グループのほかにも、相当数の華人密貿易者が日本に渡航して(洲) いた。まず一五四〇年、種子島に明船が来航したのを皮切りに、翌四一年には、豊後の神宮寺浦に乗員二百八十名の明船が絹織物を舶載して来航した。四二年には、明の密貿易者八十名が豊前に漂着し、平戸にも明船が入港したという。そして種子島にポルトガル人が来航した四三年には、日向の諸港でも、「唐船十七腹入来故、異国ノ珍物数不知、滴々大ニキワイケリ」といわれ、豊後にも五腹の明船が入港した。おそらく薩摩や大隅などに渡航した明船はいっそう多かっただろう。このように多数の明船が、南九州に陸続と渡航していたのであり、そのうちの (おそらく王直が所有する)一般に、ポルトガル商人が同乗して種子島に到達したのであろう。
ついで一五四四年には、福建泉州から日本に密貿易に向かった百余名の明人が、朝鮮に漂着し、薩摩半島の阿久根にも明船二腹が入港した。また前述のように、この年には小根占にも多数のジャンクが入港し、ポルトガル人襲撃事件を起こしている。翌四五年にも、日本に密貿易に向かった何艘もの明船が朝鮮に漂着し、天草にも明船が入港している。こうした密貿易ブームの動因はいうまでもなく日本銀産出の急増である。一五三〇年代から石見銀山などの銀産量が急増すると、まず大量の銀が朝鮮に輸出され、遼東方面から明朝へも流入した。さらに一五四〇年代に入ると、中国海商が日本銀を求めて密貿易にのりだす。そして日本銀と中国・東南アジア産品密貿易センターとなったのが双嶼であった。
双嶼での密貿易は、嘉靖五 (一五二六)年に福建人によって始められたが、当初は福建の密貿易者が、漸江方面に設けた一基地だったのだろう。嘉靖十八(一五三九)年にいたり、福建人海商が「西番人」 (東南アジア人?)を双嶼に引き入れ、翌四〇年には、許棟兄弟の手引きでマラッカやパタニのポル下ガル人も寄港をはじめた。そして四三年には許棟がポルトガル人とともに本拠を双嶼に定め、四四年には大友氏の遣明船も寄港したことにより、双嶼は中国・東南アジア・ポルトガル・日本海商が集結する密貿易拠点となる。同時にその主導権は、福建の密貿易者から、許棟・王直などの徴州グループに移った。そして四五年には、王直が日本人を博多から双嶼に誘引し、華人密貿易者を中心に、ポルトガル人・日本人・東南アジア人を巻き込んだ、双嶼−九州−東南アジアを結ぶ三角貿易が形成された。ポルトガル人の日本来航は、まさに一五四〇年代前半の東アジア海域における、「交易の時代」 の序幕という全体状況の一環だったのである。

双嶼 (そうしょ)
○ …16世紀の倭寇の構成員は、日本人は10〜20%にすぎず、大部分は中国の浙江・福建地方の密貿易者で、当時東アジアに進出してきたポルトガル人もこれに加わった。密貿易者群の根拠地は、浙江の双嶼(そうしよ)(ポルトガル人はリャンポーといった)と瀝港(列港)(れつこう)であるが、この地が明の官憲の攻撃をうけて掃討されると、密貿易者たちは海寇集団に一転した。首領には王直や徐海らがいた。…
○ …文字の初見は404年の高句麗広開土王碑文にあるものだが、豊臣秀吉の朝鮮出兵も20世紀の日中戦争もひとしく倭寇の文字であらわされた。時期、地域、構成員などを規準につけられた倭寇の称呼には、〈高麗時代の倭寇〉〈朝鮮初期の倭寇〉〈麗末鮮初の倭寇〉〈元代の倭寇〉〈明代の倭寇〉〈嘉靖の大倭寇〉〈万暦の倭寇〉〈二十世紀的倭寇〉〈朝鮮半島の倭寇〉〈山東の倭寇〉〈中国大陸沿岸の倭寇〉〈浙江の倭寇〉〈杭州湾の倭寇〉〈双嶼(そうしよ)の倭寇〉〈瀝港(れつこう)の倭寇〉〈台湾の倭寇〉〈ルソン島の倭寇〉〈南洋の倭寇〉〈シナ人の倭寇〉〈朝鮮人の倭寇〉〈ポルトガル人の倭寇〉〈王直一党の倭寇〉〈徐海一党の倭寇〉〈林鳳一味の倭寇〉などがある。以上の倭寇のうち、最も規模が大きくまた最も広範囲に活動したのは14〜15世紀の倭寇と16世紀の倭寇である。…  
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
『日本巡察記』 ヴァリニャーノ

 

 
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
(ヴァリニャーニ、Alessandro Valignano / Valignani、1539年2月15日 - 1606年1月20日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。
イエズス会入会まで
1539年、イタリアのキエーティで名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、名門パドヴァ大学で法学を学んだ後、キエーティの司教をつとめた関係でヴァリニャーノ家と親交のあった教皇パウルス4世に引き立てられてローマで働くことになった。パウルス4世の後継者ピウス4世もヴャリニャーノの才能を評価し、より重要な任務につかせようとした。ヴァリニャーノはこれに応えて聖職者となることを決意し、パドヴァ大学で神学を学ぶと1566年にイエズス会に入会した。入会後に哲学を深めるため、ローマ学院で学んだが、この時の学友に後のイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ (Claudio Acquaviva) がいた。
1570年、誓願を宣立し、司祭に叙階される。1571年から修練院で教えていたが、教え子の中には後に中国宣教で有名になるマテオ・リッチらがいた。1573年、総長エヴェラルド・メルクリアン(エヴラール・メルキュリアン) (Everard Mercurian) の名代として広大な東洋地域を回る東インド管区の巡察師に大抜擢された。イタリア出身のヴァリニャーノが巡察師という重要なポストに選ばれたのは、当時のイエズス会内の2大勢力であったスペイン・ポルトガルの影響による弊害を緩和するためであったといわれている。彼は1574年3月21日にリスボンを出発し、同年9月にゴアに到着。管区全体をくまなく視察した。インドの視察を終えたヴァリニャーノは1577年9月にゴアを経つと同年10月19日マラッカに入った。
マカオから日本へ
ヴァリニャーノは1578年9月、ポルトガルが居留地を確保していたマカオに到着したが、同地のイエズス会員のだれ一人として中国本土定住が果たせなかったことを知った。彼はイエズス会員が中国に定住し、宣教活動をするためにまず何より中国語を習得することが大切であると考えた。彼はゴアにあった東インド管区本部の上司に手紙を書き、この任務にふさわしい人物としてベルナルディーノ・デ・フェラリス(Bernardino de Ferraris)の派遣を願ったが、フェラリスはコーチのイエズス会修道院の院長として多忙をきわめていたため、代わりにミケーレ・ルッジェーリ (Michele Ruggieri) が派遣されることになった。
ヴァリニャーノは1579年7月、到着したルッジェーリと入れ替わるように日本へ出発した。ヴァリニャーノの指示にしたがってルッジェーリは中国語の学習に取り組み、この任務にふさわしい人材としてマテオ・リッチのマカオへの派遣をヴァリニャーノに依頼、ヴァリニャーノがゴアに派遣を要請したことでリッチがマカオに送られ、ルッジェーリとリッチの二人は1582年8月7日から共同で宣教事業に取り組んだ。
日本訪問
ヴァリニャーノが当時の東インド管区の東端に位置する日本(口ノ津港)にたどり着いたのは1579年(天正7年)7月25日のことであった。この最初の滞在は1582年(天正10年)まで続く。
ヴァリニャーノは日本におけるイエズス会の宣教方針として、後に「適応主義」と呼ばれる方法をとった。それはヨーロッパのキリスト教の習慣にとらわれずに、日本文化に自分たちを適応させるという方法であった。彼のやり方はあくまでヨーロッパのやり方を押し通すフランシスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会の方法論の逆を行くもので、ヴァリニャーノはこれを理由としてイエズス会以外の修道会が日本での宣教を行うことを阻止しようとし、後のイエズス会と托鉢修道会の対立につながる。
1581年(天正9年)、イエズス会員のための宣教のガイドライン、『Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone(日本の風習と流儀に関する注意と助言)』を執筆した。その中で、彼はまず宣教師たちが日本社会のヒエラルキーの中でどう位置づけられるかをはっきりと示した。彼はイエズス会員たちが日本社会でふるまうとき、社会的地位において同等であると見なす高位の僧侶たちのふるまいにならうべきであると考えた。当時の日本社会はヒエラルキーにしたがって服装、食事から振る舞いまで全てが細かく規定されていたのである。具体的にはイエズス会員たちは、高位の僧侶たちのように良い食事を取り、長崎市中を歩く時も彼らにならって従者を従えて歩いた。このようなやり方が「贅沢」であるとして日本のイエズス会員たちはヨーロッパで非難された。そのような非難は托鉢修道会からだけでなく、イエズス会内部でも行われた。
ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見している。1581年、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になっている。
また、この最初の来日では、当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルのアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしていることを見抜き、激しく対立。1582年にカブラルを日本から去らせた。ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価すると共に、カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。それは1580年(天正8年)に肥前有馬(現:長崎県南島原市)と近江安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)に設立された小神学校(セミナリヨ)、1581年に豊後府内(現:大分県大分市)に設けられた大神学校(コレジオ)、そして1580年に豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院(ノビシャド)であった。また、日本布教における財政システムの問題点を修正し、天正遣欧少年使節の企画を発案した。これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。1582年、ヴァリニャーノはインドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。
再来日と晩年
1590年(天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。このときは1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。1598年(慶長3年)、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。
1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬されたが、その後天主堂の焼失・荒廃により地下聖堂ごと所在不明となった。しかし1990年から1995年の発掘により発見され、現在は博物館として観光用に整備されている。

日本巡察記 1

 

日本人について
ヴァリニャーノの経歴 「イタリア出身のイエズス会司祭で、三たび巡察師として来日し、布教事業に指導的役割を果たした。ナポリ王国のキエーティ市の貴族として生まれ、イエズス会員となったが、総長はその非凡の能力を認め、自らの名代ともいうべき巡察師に任命して東インドに派遣した。インドやマカオで仕事を終えてのち、1579年(天正7)に初めて日本に赴き、織田信長からも歓迎され、天正(てんしょう)遣欧少年使節行を立案し実施。90年には帰国する少年使節を伴い、インド副王の使節として来日。この際、一行にヨーロッパから活字印刷機を携えさせ、わが国で最初の活版印刷が始められた(キリシタン版の刊行)。98年(慶長3)から1603年(慶長8)まで3度目の滞日。06年1月20日、マカオで病没した。カトリック教会史上の偉人の1人。 」
そして、『日本巡察記』がどういうものかといえば、「信長・秀吉時代の日本に東洋巡察使として4回来日した著者が、イエズス会本部に書き送った機密報告書。」とあるように、日本にキリスト教を布教するためにはどうしたらいいのか、極東の地においてキリスト教国を作り上げるにはいかにすればいいのかを、イエズス会教師の最高監督者が本国に送った書である。
したがって、「第二十七章 日本における多額の経費、及びそれをまかなう方法。当布教を前進させるに必要な収入」とか「条二十五章 条件が充たされたならば、日本をインドから独立した管区にすべきこと」とか「第十九章日本の上長がその統轄に優れた効果を挙げる為に一般に採るべき方法」などといった、日本をキリスト教国にするための具体的な方策が書かれている。つまりアジアや南米でみられたようなキリスト教による統括・支配(植民地)を日本でも行うための報告書だといってもいいだろう。
その人物が日本人の特性について書いている。それが、すこぶる面白い。
ローマカトリックの内部の文書であるから、日本人に媚びる必要などなく、第三者的目線で書かれていると言ってもいいだろうが(無論、多少の誇張はあるだろうが)、これが面白いほど、日本人をベタ褒めしているのだ。
日本人とは何か、それを考える意味でも重要だと思うので、引いていきます。
■「第一章 日本の風習、性格、その他の記述
わがイエズス会が日本において現在所有し、将来所有すべき、修院、学院、およびその統轄方法を述べるに先立ち、日本における種々の風習や性格について概説する必要があろうと思う。 ……。 (日本人は)人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我らヨーロッパ人よりも優れている。国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供たちは我らの学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供たちよりも、はるかに容易に、かつ短期間に我らの言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我らヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。…(米しか作られない)したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。ただし彼らの間では、貧困は恥辱とは考えられてはいないし、ある場合には、彼らは貧しくとも清潔にして丁重に待遇されるので、貧苦は他人の目につかないのである。貴人は大いに尊敬され、一般にはその身分と地位に従って多数の従者を伴っている。
日本人の家屋は、板や藁で覆われた木造で、はなはだ清潔でゆとりがあり、技術は精巧である。屋内にはどこにもコルクのような畳が敷かれているので、きわめて清潔であり、調和が保てれいる。日本人は、全世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民であると思われる。すなわち、彼らは侮辱的な言辞は言うまでもなく、怒りを含んだ言葉を堪えることができない。したがって、もっとも下級の職人や農夫と語る時でも彼らは礼節を尽くさなければならない。さもなくば、彼らはその無礼な言葉を堪え忍ぶことができず、その職から得られる収入にもかかわらず、その職を放棄するか、さらに不利であっても別の職に就いてしまう。 ・・・(中略)・・・日本人はきわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由を堪え忍ぶ。それは、もっとも身分の高い貴人の場合も同様である。が、幼少の時から、これらあらゆる苦しみを甘受するような習慣づけて育てられるからでしょう。 ・・・(中略) ・・・彼らは信じられないほど忍耐強く、その不幸を堪え忍ぶ。きわめて強大な国王なり領主が、その所有するものをことごとく失って、自国から追放され、はなはだしい惨めさと貧困を堪え忍びながら、あたかも何も失わなかったかのように平静に安穏な生活を営んでいるのにたびたび接することもある。この忍耐力の大部分は、日本では環境の変化が常に生じていることに起因していると思われる。実に日本ほど運命の変転の激しいところは世界中にはないのである。ここでは、何か事があるたびに、取るに足りない人物が権力ある領主となり、逆に強大な人物が家を失い没落してしまう。既述のように、かような現象は、彼らの間ではきわめて通常のことであるから、人々は常にその覚悟をもって生活しているのであり、ひとたび(逆境に)当面すると、当然予期していたもののようにこれに堪えるのである。また彼らは、感情を表すことにははなはだ慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑制しているので、怒りを発することは稀である。したがって彼らのもとでは、他国の人々のように、街路においても、自宅においても、声をあげて人と争うことがない。なぜなら、夫と妻、親と子、主人と使用人は争うことをせず、表面は平静を装って、書状を認(したた)めるか、あるいは洗練された言葉で話合うからである。それ故、その国から追放されたり、殺されたり、家から放逐されても、平然とした態度でこれを甘んじるのである。換言すれば、互いにははなはだ残忍な敵であっても、相互に明るい表情をもって、慣習となっている儀礼を絶対に放棄しない。この点について生じることは吾人には理解できぬし、信じられないばかりである。それは極端であり、誰かに復讐し、彼を殺害しようと決意すると、その仇敵に対してそれまでよりも深い愛情と親睦さを示し、共に笑い共に喜び、状況を窺い、相手がもっとも油断したときに、剃刀のように鋭利で、非常に重い刀に手をかけ、次のような方法で斬りつける。通常は、一撃か二撃で相手を倒し、何事もなかったかのような態度で冷静に平然とふたたび刀を鞘に収め、動揺するでなく、言葉を発するでなく、感情に走って怒りの表情を示しはしない。このような次第であるから、いかなる者も柔和で忍耐強く、秀でた性格を有するように見えるのであり、この点において、日本人が他の人々より優秀であることは否定し得ないところである。彼らは交際において、はなはだ用意周到であり、思慮深い。ヨーロッパ人と異なり、彼らは悲嘆や不平、あるいは窮状を語っても、感情に走らない。すなわち、人を訪ねた時に相手に不愉快なことを言うべきではないと心に期しているので、決して自分の苦労や不幸や悲嘆を口にしない。その理由は、彼らはあらゆる苦しみに堪えることができるし、逆境にあっても大いなる勇気を示すことを信条としているので、苦悩を能うる限り胸中にしまっておくからである。誰かに逢ったり訪問したりする時、彼らは常に強い勇気と明快な表情を示し、自らの苦労について一言も触れないか、あるいは何も感ぜず、少しも気にかけていないかのような態度で、ただ一言それに触れて、あとは一笑に付してしまうだけである。
一切の悪口を嫌悪するので、それを口にしないし、自分たちの主君や領主に対しては不満を抱かず、天候、その他のことを語り、訪問した先方を喜ばせると思われること以外には言及しない。同様の理由から、相談事において感情に走らない為に、重要な問題については、直接面と向かっては話さず、すべて書面によるか、あるいは第三者を通じて行うことが日本での一般の習慣となっている。これは両親と子供、主君と家臣の間はもとより、夫婦の間さえ行われているほどである。それは、憤怒や反駁、異議の生じる恐れがある場合には、第三者を通じて話し合うことが思慮深いと考えられているからである。かくて日本人の間には、よく一致と平穏が保たれる。子供の間にさえ、聞き苦しい言葉は口に出されないし、我らのもとで見られるように、平手や拳で殴り合って争うということはない。きわめて儀礼的な言葉をもって話し合い、子供とは思えない重厚な、大人のような理性と冷静さと落ち着いた(態度)が保たれ、相互に敬意を失うことがない。これはほとんど信じられないほど極端である。服装、食事、その他の仕事のすべてにおいてきわめて清潔であり、美しく調和が保たれており、ことごとくの日本人がまるで同一の学校で教育を受けたかのように見受けられる。次に述べるように、日本人は他のことでは我らに劣るが、結論的に言って日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の点で我らを凌ぐほど優秀であることは否定できないところである。 」
前にも引いたフランソワ・カロンにも子供のことが書かれていたが、子供の時からすでに日本人的大人であったようだ。これはほかの欧州人の日本人の一貫した見方だ。それに、感情に走らない忍耐強さがある一方で、激しい感情も持っている(復讐のところ)など、和辻哲郎の日本人の「しめやかな激情」の説明に似ていると思う。
過去記事 「和辻哲郎「風土」から。 第2回目 日本人特有の性格「しめやかな激情」」
日本人の美点と欠点
■「 (日本人に関する箇所の抜粋)
徳操と学問に必要な能力について語るならば、私は日本人以上に優れた能力のある人々のあることを知らない。日本人は自ら、感情を抑制し、愛情深く、穏和で思慮があり、彼らの事物をよく考慮し、特に慎み深く、厳粛で、外面的教養に心を配り、飢餓や寒気によく堪え、厳しい環境に対してよく修練を積んでいると表明している。国王や大領主でさえも、このことを自ら誇りとしている。彼らは財産の喪失や迫害に際しても忍耐強く、不平や悲嘆を表わさず、それらの場合はもとより、死に際しても偉大で強い勇気と精神を示す。これらは、徳操に対しても、いかに優れた傾向を有するかを示すものであり、東洋の他国民の場合とは異なり、人々が神の御教えに召される時に授け給うごとく、神の御恩寵が日本人の上に下されることは疑い容れない。上述のすべての点において、真実の精神が彼らの心の中に宿るならば、彼らは彼らよりも優れた素質を有すると言いうる。なぜなら、彼らは大いなる努力を必要とするからである。
学問に関しては、ラテン語は彼らにとってきわめて新しく、文がまったく反対であることと、我らの用語と最初の要素(となるもの)の名称が日本語に欠けている為に、我らは非常に敏感で、賢明で遠慮深く、かつよく学ぶことは驚嘆するばかりである。子供でも大人のように三、四時間もその席から離れないで勉強している……(後略)(第十七章)
日本人は我等の聖なる信仰を受け入れる能力があるばかりでなく、我等の科学知識をも容易に受理することができる。(第六章) 」
織田・豊臣時代に日本を訪れたヴァリニャーノは、そこに住まう人々の優秀さに驚嘆した。他のアジアの国々や欧州の国々と決定的に違うのは、底辺の人達であっても、強い向学心を持ち、それに耐えうる高い精神性を備えていた点にある。明治維新でいち早く近代化を成し得たのは、日本人がこうした特性を古代から綿々と持ち続けてきたからだと、こういう文献を読むと分かる。
さて、そんなヴァリニャーノが、日本人の欠点というものを挙げている。それが第二章にある。
■「第二章 日本人の他の新奇な風習
……私が見たあらゆる諸国民の中では、彼らはもっとも道理に従い、道理を容易に納得する国民である。これにより、日本人がいかに良い素質を備え、秀でた天性を有しているかが判るのである。(中略)彼らは真に思慮と道理に従うから、他の国の人々の間に見られるような節度を越えた憎悪や貧欲を持たないのである。
[ と書きながら、続いて欠点を挙げている。まとめると5つ。]
第一の悪は、色欲上の罪に耽ることである。
第二の悪は、主君に対してほとんど忠誠心を欠いていることである。
第三の悪は、異教徒の教義で生活していること。
第四の悪は、残忍であること。間引きなど。
第五の悪は、飲酒と、祝祭、饗宴に耽溺することである。 」
となる。
当時の日本はまだまだ戦国時代であったので各地で戦があり、残忍な場面に出くわしたのであろうと思われる。そういった箇所を例を挙げて説明している。そして、第三の悪では、当時の堕落した仏教を批難し、異教の教義に染まっている民衆を痛烈に批判している。
また庶民に対しては性欲や酒など欲望に溺れやすい点を挙げている。まあ厳格なカトリック教徒だから余計そう見えるだろうが……。ただ、色欲、酒といったものに、いまの日本人が特に寛容であるのは同じだろう。「第五の悪」という説明に、「その為には多くの時間を消費し、幾晩も夜を徹する。この饗宴には、各種の音楽や演劇を伴うが、これらはすべて日本の宗教を日本人に教えた人々が考案したもののように思われる。この飲酒や類似の饗宴、過食は、常に他の多くの堕落を伴うので、これによって日本人の優秀な天性ははなはだしく損なわれている。」とあった。現代日本人の宴席や花見や祭りにそのまま当てはまっているようで面白い。
思わず、過去記事「草薙剛のあの事件」を思い出してしまった。
また日本語について褒めている記述もある。
「日本人の風習に関する消息については、以上で十分であろう。これに関しては述べるべきことがあまりにも多く、わずかな紙数をもってしては尽くすことができない。この儀礼や風習を教える彼らの書籍は無数にあって、それが驚くほど優雅に、散文や韻文をもって書かれている。このことから日本人の天稟(てんぴん:天性、天資)の才能や理解力がいかに大いなるものであるかが解るのである。
(日本語は)きわめて優雅であり豊富であって、話すのと書くのと説教するのとでは、それぞれ言葉が異なるし、貴人と話す場合と下賤者と話す場合では言葉を異にする。このような多様性は、漢字の上にも無数にあって、書くことを学ぶのは不可能であるし、人に見せられるような書物を著すことができるようになることは、我らの何ぴとにも不可能である。 」
当時の宣教師となれば、現代の最高の知識人であり、ヴァリニャーノほどの人物となればノーベル賞級のインテリだと言ってよいだろう。そんな人物から見て日本人とその文化がこれほど優れていたというのだから、やはりスゴイのだろう。では今の日本人がスゴイのかといえば、それはまた別の話だが、そういう資質をもともと日本人は持っているということではないのか……。
日本に魅入られた宣教師たち
本書においてヴァリニャーノが日本人を絶賛し、他の諸外国民よりも抜きん出た存在であるといった記述は、全編を通じて書かれている。それでは、ある程度まとまっている第六章「当布教事業の重要性、及び日本における現在、また将来の大成果」から引いてみましょう。
「日本におけるこの(布教)事業が、東洋の全地方、及び発見されたあらゆる地方において、もっとも重要であり、もっとも有益であることは、多くの理由から疑い容れない。
第一に、日本は既述のように六十六ヵ国から成る広大な地方で、その全土には、きわめて礼儀正しく深い思慮と理解力があり、道理に従う白色人(日本人)が住んでいるのであり、経験によって知りうるように、大いなる成果が期待される。
第二の理由は、東洋のあらゆる人々の中で、日本人のみは道理を納得し、自らの意志で(霊魂の)救済を希望し、キリスト教徒になろうとするのであるが、東洋の他の人々は、すべてむなしい人間的な考慮や利益の為に我らの信仰を受け入れようとするのが常であることは、従来吾人が見てきたところである。日本人は我らの教義を他国人よりはるかに良く受け入れ、教義や秘蹟を受ける能力を短期間に備え、改宗した時は、その偶像崇拝の非を完全に悟るが、東洋の他の人々はみなこれと反対である。
第三の理由は、日本では東洋の他の地方とは異なり、身分の低い下層の人達がキリスト教徒になるのみにならず、武士や身分の高い領主並びに国王さえも同じように我らの聖なる信仰を進んで受け入れる。したがって、日本における成果は比較するものがないほど、大きく容易で価値がある。
第四の理由は、日本人はその天性として、宗教にきわめて関心が深く、これを尊重し、司祭に対して非常に従順であるが、これは日本のあらゆる諸宗派の仏僧を高い地位に置き、その数もはなはだ多く、仏僧らが日本でもっとも良い生活をしていることによっても理解される。日本人が、数多の人々に対してこのようにしているとするならば、真実と教えを受け、超自然的な道理、恩寵、慈愛に授けられている我らに対して、いっそう秀でた態度をとることは疑いの余地がなく、それはすでに我らが改宗した人々について見聞した通りである。
第五の理由は、(従来)キリスト教徒を新たに作り始めた土地では、必要な人手や費用が獲得されたのであるから、日本全国において、聖なる福音と改宗への扉が開かれている(と言えること)である。
司祭たちはその希望する所に住み、思いのままに我らの主の教えを説くことができる。すなわち、自分たちの宗派を保護しようとする仏僧や異教徒らの反対や迫害が決してないわけではないが、我らの主なる神に召し出され、その道を歩むように定められた人々もいるからである。かくして、イエズス会が知られた今日、司祭たちが布教し、定着しようと希望した土地でキリスト教徒を作らないところは日本中のどこにもない。これは東洋の他ではみられぬことである。
第六の理由は、日本人は我らの聖なる信仰を受け入れる能力があるばかりでなく、我らの科学知識をも容易に受理することができる。もっとも重要なことは、彼らが聖職者となって修道会で聖浄な生活をなす能力を十分に備えていることであって、これは短期間に我らが経験で知ったことである。その上また十分注目さるべきは、宣教師となった後は、他の日本人から深い尊敬の念をもって見られることであり、この点は東洋の他のいずれの国においてもまったく反対である。
第七の理由は、人々は道理を重んじてこれに従い、またすべての者は同一の言語を有するので、キリスト教徒になった後は、他のいかなる国におけるよりも、これを育てることが容易である。我らの国民の間に住むよりも、日本人のもとで生活することを比べようもないほどに喜ぶ。それは、日本人のもとでは、自分達の働きに成果を直ちに挙げることができるのに、他国のもとでは、その粗野な性質や、劣った天性の為に、一生涯苦労し続けても、真の効果はほとんど得られないし、得られたとしても、はなはだ遅々としているからである。すなわち、両者の間には、理性ある高尚な人々の中で生活するのと、獣類のように低級な人々の中で生活するのと同じくらい大きな差異が見出されるからである。 」
面映いくらいだが、ヴァリニャーノは別にこれを日本人に媚びへつらって書いているわけではない。彼の最終目的は、イエズス会主導による日本のキリスト教国化にある。日本人は優秀な民族であり、キリスト教(彼ら宣教師が思っている最高の教義=教養)を理解し修得するのは容易いであろうと考えたのであった。そして日本を東洋のキリスト教布教の拠点にしようと彼は思い至ったのだ。
拠点となるからには、その土地の住民が、高い教養を身につけた欧州人(ローマカトリックの教皇たちや、出資者である国王やパトロン)のお眼鏡にかなったものでなければならない。彼らから見て、決してアジア周辺諸国のような野蛮人や土人の類であってはならかったのだ。これは人種差別といった話ではない。現代に例えれば海外進出を図る企業が、それに見合うような国を探すようなものだ。その企業にとって必要なのは大きな利益を得られる国。イエズス会にとって必要なのは布教活動を進めるにあたって得られる大きな成果だ。日本はそれに値する国であった。だがヴァリニャーノにはそれだけではなかった。布教のため諸外国を巡り、多くの民族を見聞した彼であったが、その中でも理性ある高尚な日本人に知ると、たちまち魅入られてしまったのだ。
また、同じような構想を立て、本国に報告した宣教師が同時代いた。それがオルガンティーノだ。彼もまた日本に魅了された一人だった。
オルガンティーノの経歴 「イエズス会士。イタリアのカスト・ディ・バルサビアに生まれ、1556年フェラーラでイエズス会司祭となった。70年(元亀1)6月天草(熊本県)の志岐(しき)に上陸し、同年布教のために京都へ派遣、以後30年以上にわたって京都で活動を続け宇留岸伴天連(ウルガンバテレン)と愛称され親しまれた。織田信長の厚遇を受け、安土(あづち)に土地を得てセミナリオ(小神学校)と司祭館を建て、京都にも南蛮(なんばん)寺(教会)を建築した。日本人の優秀さを認め、日本文化への順応主義を唱え、布教長カブラルと対立した。1605年(慶長10)長崎のコレジオ(大神学校)に移り、09年4月22日、長崎に没した。 」
同書の解題にオルガンティーノの手紙も記載されていたので、これも併せて引いておく。オルガンティーノがフェラーロに宛てた手紙(1577年9月20日付)
「日本人は全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同よりはるかに優っている。我らの主なる神が何を人類に伝え給うかを見たいと思う者は、日本へ来さえすればよい。彼らと交際する方法を知っている者は、彼らを己れの欲するように動かすことができる。それに反し、彼らを正しく把握する方法が解らぬ者は大いに困惑するのである。この国民には、怒りを外に現すことは極度に嫌われる。彼らはそのような人を「キミジカイ」、すなわち我らの言葉で「小心者」と呼ぶ。理性に基づいて行動せぬ者を、彼らは馬鹿者と見なし、日本語で「スマンヒト」、すなわち「澄まぬ人」と称する。彼らほど賢明、無知、邪見を判断する能力を持っている者はないように思われる。彼らは不必要なことは外に現さず、はなはだ忍耐強く大度ある国民で、悔悛にいそしみ、信心、また外的な礼儀に傾くこと多大で、交際においてははなはだ丁重である。彼らは受けた好意に対し、同等の価の感謝をもって報いる極端な習慣を持っている。だが自尊心と大いなることへの欲求は、自らを(超自然的に)昴めるという点で彼らを盲目にする。また彼らは宴会に耽り、自己陶酔を恥としない。なぜなら通常この際、彼らは悪事をなさず、彼らの耳には余り好く聞こえず、快くもない音楽を、ある種の楽器で演奏する。彼らは詩句を作り、はなはだ優美な判じ物を作り、彼らの間におけるように喜劇を演ずる。彼らはきわめて新奇なことを喜ぶ。もし当都地方にエチオピアの奴隷が来るなら、そして彼を見せるために監督がついて来るなら、人はみな彼を見るために金を払うであろうから、その男は短期間に金持ちとなるであろう。
彼らの言葉はひじょうに優美であるが、各人の地位に応じて幾多の異なった表現があるため、学習することはかなり難しい。それらは幾つかの韻を有するが、我らのうちまったく正しく発音できる者は僅かである。
彼らは互いに大いに賞賛し合う。そして通常何ぴとも無愛想な言葉で他人を侮辱しはしない。
彼らは鞭で人を罰することをせず、もし誰か召使いが主人の耐えられないほどの悪事を働く時は、彼は前もって彼らの憎悪や激昂の徴を現すことなく彼を殺してしまう。なぜならば、召使いは嫌疑をかけられると、先に主人を殺すからである。
結局、彼らは、よく知っている者には喜んで交際できる国民であり、我らの聖なる信仰を受け入れようと努力する者を喜ばせるのである」
1577年9月29日付け、イエズス会総長メルクリアン宛書簡
「(前略)
私たちは当都全域の改宗に大いなる期待を寄せており、尊師が私たちのもとへ幾名かの良き人々を派遣して援助されることを望んでいる。なぜなら都こそは、日本においてヨーロッパのローマに当たり、科学、見識、文明はさらに高尚である。尊師、願わくば彼らを野蛮人と見なし給うことなかれ。信仰のことはともかくとして、我らは彼らより顕著に劣っているのである。私は国語を解し始めてより、かくも世界的に聡明で明敏な人々はないと考えるに至った。ひとたび日本人がキリストに従うならば、日本の教会に優る教会はないであろうと思われる。経験により、我らは儀式によってデウスの礼拝を高揚せしめることができれば、日本人は幾百万と改宗するであろう。もし我らが多数の聖歌隊と共にオルガンその他の楽器を有すれば、僅か一年で、都及び堺のすべてを改宗するに至ることはなんら疑いがない。そしてそれらは全日本の二大主要都市であり、その住民が改宗すれば、その他の都市はすべて追随し、私共は支那における計画も立てられようと思う……。 」
1577年10月15日付け、手紙
「私たちが多数の宣教師を持つならば、10年以内に全日本人はキリスト教徒となるであろう。四旬節以来六ヶ月間に、八千人以上の成人に洗礼が授けられた。この国民は野蛮でないことを御記憶下さい。なぜなら信仰のことは別として、私たちは互いに賢明に見えるが、彼らと比較するとはなはだ野蛮であると思う。私は真実のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる。したがって、尊師、願わくは、ヨーロッパで役に立たないと思われる人が私たちのもとで役に立つと想像されること無きように。当地では憂鬱な構想や、架空の執着や、予言や奇蹟に耽る僭越な精神はことに不必要なのである。私たちに必要なのは、大度と慎重さと、聖なる服従に大いに愛着を感ずる人なのである。(後略) ・・・」
この当時の日本人はどれだけ優れていたのか、驚嘆せずにいられないのは現代日本人の方ではなかろうか。
さてさて、彼らイエズス会宣教師たちは、日本をキリスト教国化するために尽力し、熱意をもって本国へ具申した。しかし、それは夢想に終わる。日本は結局、キリスト教国になることはなかった。無論、主因は、秀吉、家康、徳川将軍ら日本の権力者がキリスト教を廃止したことによる。だが、日本人側にキリスト教(的支配)を受け入れない素地があったのだ。それは権力者によるキリスト教廃止というくびきから解かれた明治維新後も大戦後も、キリスト教が広まることはなかったことを見ても分かる。
実は、その理由をヴァリニャーノはここで書いているのだ。
「この国は外国人が支配できる国ではない」
ヴァリニャーノと同時期に日本に来ていたフロイスは「日本史」を書き記した。いまではフロイスの方が有名人となっているが、ヴァリニャーノの方が上官である。本書の解題に分かりやすい説明があった。
『過去の外的事象を詳細を極めて描写することはフロイスがもっとも得意とするところであり、ヴァリニァーノは事物の内面を深く洞察して、将来を企画することをもっとも長所とした。』
フロイスの「日本史」は、当時の日本の事件・人物について事細かく書かれたものであり、いうなれば彼は「新聞記者」「ジャーナリスト」だったといえよう。
一方、ヴァリニャーノの「日本巡察記」は、イエズス会主導のもとでいかに日本をキリスト教化するかを説いた、「企画書」「プランナー」的な書であるといえる。
それは、目次を見れば良く分かるだろう。「第十六章 日本人修道士、及び同宿と、我等ヨーロッパ人宣教師の間に統一を維持するための十分な注意と方法」とか「第二十八章 日本においてキリスト教徒の領主が司祭や教会を維持できない理由と原因」とかいったもので、どのようにすれば日本をキリスト教化(それによる支配)できるか、その方策が細かく繰り返し述べられている。またこの報告がローマカトリック本部のみならず、国王や貴族などパトロン・出資者に向けられていることからおカネに関する記述も多い。「第二十七章 日本における多額の経費、及びそれをまかなう方法。当布教を前進させるに必要な収入」とか「第二十九章 収入を補わなければ日本が陥る大いなる危険、及び収入不足のために失われる成果」といった収支に関わることも多く書かれている。
そして、この報告書は事業推進のものなのに、読めば読むほど、「日本のキリスト教化無理じゃね」と思えてくるから不思議だ。
本書を大雑把にまとめると、日本人は優秀である→キリスト教を理解する能力がある→有能なキリスト教徒を増やせる→日本を東洋のキリスト教布教の拠点にする→カネと人を派遣すべき、という趣旨となっている。
ヴァリニァーノ「日本諸事要録」(一五八〇年ころ)の記述
「支那人は別として、全アジアでもっとも有能で良く教育された国民であり、天賦の才能があるから、教育すれば総じて科学の多くのヨーロッパ人以上に覚えるであろう」
「…とにかく改宗後、インド人と日本人の間には大きい相違がある。すなわち、インドでは各個人は改宗に際して自らの利益を求めた。インドにおける布教活動が通常把握したものは、黒人と無能者であった。したがって彼らはその後、前進し良きキリスト教徒となることが、はなはだ困難である。日本の新しいキリスト教徒の大群衆は、キリスト教の信仰をその領主の強制によって受け入れたのであるが、彼らは教えられたことを良く知っており、良く教育されており、才能があり、外的礼拝を非常に愛好するから、まったく喜んで教会へ説教を聞きに来る。…」
だが、一方ではこういう危険性があることを何度も強く言っている。
簡単に要約してみる。
1 日本人は優秀であるが、ヨーロッパ人とは全く違う思考をもっていて、『日本人は自分たちの風習や儀礼に深くなじんでいるから、彼らはたとえ世界が破滅しようともその日常の態度なり方式を一片すら棄て去りはせぬであろう。(第三章)』とあるように、ヨーロッパ人の風習に馴染もうとはしないだろう、という。日本人は誇り高い人種であるので、土人や野蛮人のように鞭や恫喝で無理やりにキリスト教徒にするということは無理である。この点は何度も書かれている。
2 しかも、『日本人の習慣、食事、対応、言語その他の諸件の相違、また自然の感情においてさえ存在する相違、特に日本人は、彼らが風習を重んじて、これを固執し、ヨーロッパ人がこれに慣れることは非常に困難である。』とあるように、ヨーロッパ人宣教師も日本人化することできない。
3 よって、教会の布教には日本人の聖職者を育てる必要があり、その者たちを彼らの上長に据えることになる。しかしこれには大きな危険を伴う。彼ら日本人の独自の考えで、キリスト教を別のものに作り変えることになるのではないかと懸念している。(また、この上長には領主の類縁などがなれば、権力を持ち、ヨーロッパ人宣教師以上の力を持ってしまうことも危険視している)
4 『日本の風習に合わせて教会を作る他ないが、これはきわめて困難であり、危険であって、大きな誤りを犯しやすい。(第七章)』
仏教や儒教が日本に渡来して広まったが、それは本国にあったものとは全く違ったものになった。つまり何でも日本風にアレンジしてしまうのだ。(これは宗教に限らず、日本は文化も技術も日本独特のものに加工するという特色があるからだ。)
ヴァリニャーノは、キリスト教もそうなるのではないかと恐れた。キリスト教宗派での争いもある中、違う教義のものが布教してしまうことはイエズス会にとっては大変都合が悪いし、キリスト教(植民地)的支配をしていく上でも日本人的独自のキリスト教が生まれてしまうことは統轄の障害になってしまう。日本人が優秀であるがゆえに、逆に懸念されることだった。
それは、以下の一文によく表れている。
「日本は外国人が支配していく基礎を作れるような国家ではない。日本人はそれを耐え忍ぶほど無気力でも無知でもないから、外国人は、日本においていかなる支配権も管轄権も有しないし、将来とも持つこともできない。したがって日本人を教育した後に、日本の協会の統轄を彼ら(日本人)に委ねること以外には考えるべきではない。その為には、彼らに前進する道を与える唯一の修道会があれば十分である。このことは、我らの心を日本人の心に合致させることが大いに困難であることによって、明白に認められ証明されるのである。この困難の原因は、あらゆることにおいて見出される矛盾性である。彼らはこの(種々の)反対の(諸現象)の中に固く腰を据えていて、いかなる点においても、我らの方に向かって順応しようとせず、逆に彼らの方があらゆる点で彼らに順応しなければならぬのである。これは我らにとってはなはだしく苦痛であるが、もし我らが順応しなければ、信用を失い、なんらの成果も収めることができない。(第九章) 」
また解題にはこんな文章もある。
「日本の政治形態は、「世界中でもっとも奇抜な、あるいはより適切に言えば世界中に類似のないもの」であり、日本文化は、「武術を基盤とする封建文化」だと述べている。
1579年12月2日付け書簡において、日本を征服しようとするヨーロッパ植民勢力のあらゆる試みは、「軍事的には不可能」であり、「経済的には利益がない」と総長に報告している。 」
ヴァリニャーノは、日本のキリスト教国化を進めるよう本部に上申しながらも、心の内では、これは成功しないだろうと思っていたのではないだろうか。もちろん、政治的なこと(日本側のキリスト教廃止)や、経済的な面、人材的不足、本国からの遠距離など諸々の諸条件はあっただろう。しかし、日本をキリスト教国化して、ヨーロッパ人の支配下に置くことが出来ない理由は、ヴァリニャーノ自身が列挙した日本人の優秀さにあったのではないか、そう思えてならない。
キリスト教宣教師が最初に乗り込んで布教し、その国の文化を欧州化し、軍事あるいは経済で植民地化するという通常パターンが日本には通じなかった。なぜ通じなかったのか?ヴァリニャーノやオルガンティーノが指摘したように、日本人は、土人や野蛮人といった低能民族(どこの国とはいわないが)ではないからだ。高い文化性と強い精神性を持つ国は、他国からの支配を受けることはない。ヴァリニャーノは、当時の日本を見て、こう確信していた。450年近く前の日本は確かにそうだったに違いない。そう、信長や秀吉といった日本史上でも指折りの傑物を目の当りにすれば、欧州人でもそう思ったに違いない。
では現代の日本は?優秀なリーダーはどこにいる。当時のインテリ欧州人を驚嘆させた高尚な日本人はどこに行ったのだろうか。嘆いてばかりでは仕方ない。自信を持つためにヴァリニャーノの言葉をもう一度書いておきましょう。
「日本は外国人が支配していく基礎を作れるような国家ではない。日本人はそれを耐え忍ぶほど無気力でも無知でもないから、外国人は、日本においていかなる支配権も管轄権も有しないし、将来とも持つこともできない。
日本を征服しようとするヨーロッパ植民勢力のあらゆる試みは、軍事的には不可能・・・」  
 
日本巡察記 2

 

本書は長らくイエズス会機密文書として眠っていたが、1954年に初めて出版された。
人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。
国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。
牧畜も行なわれず、土地を利用するなんらの産業もなく、彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。ただし彼等の間では、貧困は恥辱とは考えられていないし、ある場合には、彼等は貧しくとも清潔にして鄭重に待遇されるので、貧苦は他人の目につかないのである。
日本人の家屋は、板や藁で覆われた木造で、はなはだ清潔でゆとりがあり、技術は精巧である。屋内にはどこもコルクのような畳が敷かれているので、きわめて清潔であり、調和が保たれている。
日本人は、全世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民であると思われる。すなわち、彼等は侮蔑的な言辞は言うまでもなく、怒りを含んだ言葉を堪えることができない。したがって、もっとも下級の職人や農夫と語る時でも我等は礼節を尽くさねばならない。
しかして国王及び領主は、各自の国を能うる限り拡大し、また防禦しようと努めるので、彼等の間には通常戦争が行なわれるが、一統治権のもとにある人々は、相互の間では平穏に暮らしており、我等ヨーロッパにおけるよりもはるかに生活は安寧である。それは彼等の間には、ヨーロッパにおいて習慣となっているような多くの闘争や殺傷がなく、自分の下僕か家臣でない者を殺傷すれば死刑に処されるからである。
日本人はきわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由を堪え忍ぶ。それは、もっとも身分の高い貴人の場合も同様であるが、幼少の時から、これらあらゆる苦しみを甘受するよう習慣づけて育てられるからである。
また彼等は、感情を表すことにははなはだ慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑制しているので、怒りを発することは稀である。
次に述べるように、日本人は他のことでは我等に劣るが、結論的に言って日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の点で我等を凌ぐほど優秀であることは否定できないところである。
彼等の間には、罵倒、呪詛、悪口、非難、侮辱の言葉がなく、また戦争、借用者、海賊の名目をもってなされる場合を除けば、盗みは行なわれず、(窃盗)行為はひどく憎悪され、厳罰に処せられる。
だが彼らに見受けられる第一の悪は色欲上の罪に耽ることであり、これは異教徒には常に見出されるものである。……最悪の罪悪は、この色欲の中でもっとも堕落したものであって、これを口にするには堪えない。彼等はそれを重大なことと考えていないから、若衆達も、関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠蔽しようとはしない。
この国民の第二の悪い点は、その主君に対して、ほとんど忠誠心を欠いていることである。主君の敵方と結託して、都合の良い機会に主君に対し反逆し、自らが主君となる。反転して再びその味方となるかと思うと、さらにまた新たな状況に応じて謀反するという始末であるが、これによって彼等は名誉を失いはしない。
日本人の第三の悪は、異教徒の間には常に一般的なものであるが、彼等は偽りの教義の中で生活し、欺瞞と虚構に満ちており、嘘を言ったり陰険に偽り装うことを怪しまないことである。……既述のように、もしこの思慮深さが道理の限度を超えないならば、日本人のこの性格から、幾多の徳が生まれるであろう。だが日本人はこれを制御することを知らぬから、思慮は悪意となり、その心の中を知るのに、はなはだ困難を感じるほど陰険となる。そして外部に表われた言葉では、胸中で考え企てていることを絶対に知ることはできない。
第四の性格は、はなはだ残忍に、軽々しく人間を殺すことである。些細なことで家臣を殺害し、人間の首を斬り、胴体を二つに断ち切ることは、まるで豚を殺すがごとくであり、これを重大なこととは考えていない。だから自分の刀剣がいかに鋭利であるかを試す目的だけで、自分に危険がない場合には、不運にも出くわした人間を真っ二つに斬る者も多い。……もっとも残忍で自然の秩序に反するのは、しばしば母親が子供を殺すことであり、流産させる為に、薬を腹中に呑みこんだり、あるいは生んだ後に(赤子の)首に足をのせて窒息させたりする。
日本人の第五の悪は、飲酒と、祝祭、饗宴に耽溺することである。その為には多くの時間を消費し、幾晩も夜を徹する。この饗宴には、各種の音楽や演劇が伴うが、これらはすべて日本の宗教を日本人に教えた人々が考案したもののように思われる。この飲酒や類似の饗宴、過食は、常に他の多くの堕落を伴うので、これによって日本人の優秀な天性がはなはだしく損なわれている。
彼等のことごとくは、ある一つの言語を話すが、これは知られている諸言語の中でもっとも優秀で、もっとも優雅、かつ豊富なものである。その理由は、我等のラテン語よりも(語彙が)豊富で、思想をよく表現する(言語だ)からである。
上述のすべての点において、真実の精神が彼等の心の中に宿るならば、彼等は我等よりも優れた素質を有すると言いうる。なぜなら、彼等が天性として有するものに我等が到達する為には、我等は大いなる努力を必要とするからである。
彼等は生来その性格は萎縮的で隠蔽的であるから、心を触れ合おうという気持を起こさせ、納得せしめることが必要である。なぜならば、信仰や真実で堅固な徳操に到達する為、及び心の曇りを除いて不快や誘惑を退ける為には、日本人の天性であり、習性となっているこの萎縮的性癖ほど大きい障害はないからである。
したがってこの報告書の中でたびたび言及したように、我等が習慣や性格のまったく反対である外国人であり、また政治上の統治という問題には触れず、それによって彼等を援助するようなことはまったく無く、かえって既述のように大きい不幸が惹起しているにもかかわらず、我等が日本に居住することを日本人が認めているのは驚嘆に値する。これにより、日本人がいかに道理に従う人々であるかが判明する。  
 
日本巡察記 3

 

戦国時代の日本で布教活動をしていたイタリア人宣教師ヴァリニャーノが本国のイエズス会に向けて書いた報告書。ヴァリニャーノさんは、織田信長といっしょに登場するルイス・フロイスの上司であり、伊東マンショや千々石ミゲルを使節として送り出した人。ちなみに、ルイス・フロイスの書いた報告書(「日本史」)を、ヴァリニャーノは「長い」と却下したとかなんとか・・・
イタリア人宣教師が戦国時代の日本や日本人をどう思ったのかというのはとても興味深くおもしろいが、宣教師なので当然宗教についてもコメントしていて、それもまたおもしろい。
第三章 日本人の宗教とその諸宗派・・・(前略)・・・釈迦は、野心が強く、賢明で邪悪な哲学的な土民である。彼は来世のことに就いてはほとんど無智であったから、現世に於いて地位を得、その名を挙げようとし、浄らかで厳しい苦行の生活を装い、・・・(後略)
この釈迦は、非常に多くの書物を記した。正確に言えば、その弟子達が、彼が民衆に説いた教義をそれ等の書物に記したのである。これ等書物は、我等の間の聖書のように、彼等の間に極めて多大の信頼と権威を遺した。だが釈迦は賢明であったので、自ら企図するところを最もよく達成する為に、その教義を種々に解釈できるように説いた。
キリスト教の宣教師というと、独善的で強引なイメージ(偏見・・・)がありますが、「いかに日本人のやることなすことが奇怪であろうとも、日本では我々が外国人なのだから、彼らの風習に従わなければならない」とか、「これこれの点においては我々ヨーロッパ人より優れている」とかいうような、未開な野蛮人の蒙を啓きに来た人とは思えない発言が多々ある。
日本人は他のことでは我等に劣るが、結論的に言って日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の点で我等を凌ぐほど優秀であることは否定できないところである。(第一章 日本の風習・性格、その他の記述)
ヴァリニャーノさんは冷静で公平で立派な人だ!と思う一方、彼が会った日本人たちは現代人と違ってよほどすばらしい人たちだったのだろうかとも思った。
司祭たちが、弁明して、「日本人(のあなた方)は、私達が異なった風習の中で育ち、日本人の礼法を知らなことを考慮すべきだ」と述べた時に、日本人が度々私に答えたところであるが−彼等は次のように語る。
「このことに就いては、あなた方に同情するし、一年や二年なら我慢するが、幾年も経っているのであるから我慢できない。何故なら、あなた方が日本の風習や礼儀を覚えないのは、それを覚えようともしないし、それがあなた方の気に入らないからである。それは私達に対する侮辱であり、道理にも反する。何故なら、あなた方が日本に来て、その数も少ない以上は、日本の風習に従うべきであり、私達は日本の礼式をやめることはできないし、あなた方の風習に従うべきでもない。あるいはまた、あなた方が日本の風習を覚えないのが、あなた方にその知力と能力が欠けている為であるならば、日本人はそれほど無能なあなた方の教えを受けたりあなた方を師とすべきではない。」(第23章 日本における司祭が修院の内外で守るべき方法)
ぐうの音も出ない感じです。よくよく考えると、彼が会った日本人は、織田信長、大友宗麟、高山右近などの戦国大名たちなわけで、そりゃあ立派に違いない。
「日本人と会うときは、清潔を保ち、感情をあらわにしない重厚で威厳のある態度が必要だ、日本人の風習に従って礼をつくしつくされねば笑われ、馬鹿にされ、軽蔑され、布教に差し支える」というようなことを口をすっぱくして言うので、当時の宣教師は不潔で怒りっぽく軽薄だったのか?ということも疑問だ。カトリックは荘厳な様式美のイメージがあるから・・・
私は、司祭たちの信頼や威厳を失わせるようなこと、思慮や教養、礼儀に欠けた軽率な人間と思われること、人格を下げるような下品なこと、すなわち豚や山羊を飼育し、自ら食べる為に−これは日本人がはなはだしく嫌うことです−殺した牛の皮を売却すること、手に釣竿を持ち、下着で村々を歩くこと、釣針で川で魚を釣りながら時間を浪費すること、その他日本でよく行われる多くの軽率な行動をすることを禁止いたしました。(付録 日本の風習に順応することに関する1586年12月20日付、コチン発信、ヴァリニャーノ書簡)  
 
天正遣欧使節

 

派遣の背景事情
当時の宣教師達間で、日本での布教方針が対立していたと云う。まず、日本人観に於いて食い違っており、ザビエルは日本ないし日本人賛美する親日的な見解を持っていた。イタリア人オルガンティーノも「日本人は、全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同に遥かに優っている」と述べており親日的であった。
これに対して、ポルトガル人カブラルは、「私は、日本人ほど放漫で、貪欲で、不安定で、偽装的な国民を見たことがない」と述べ反日的であった。若くして来日し、豊臣秀吉から家康の時代にかけて政治レベルでの通訳を務めたポルトガル人通事ロドリゲスは、「元来、日本人は、ヨーロッパから来たものに比べて、天武の才に乏しく、徳を全うする能力に欠けるところがある」と反日的であった。イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡は、どの宣教師の事を述べているのか不明であるが、「彼は日本人を下等な人間と呼び、『しょせんお前たちは日本人なのだ』と言うのが常だった」と記している。
その背景には、日本での布教が思わしく進展しないことにあった。そういう事情で、ヴァリニャーノは、押し付けるのではなく、日本人的感覚、習慣に順応しながら布教を進める方針を打ち出すことになった。更に、日本のクリスチャンのうち時代を担う逸材をローマのバチカンに招待し、その信仰体験、西欧見聞を布教に活かせしめようとする計画を抱くようになった。 ヴァリニャーノは、「日本巡察記」の中で次のように記している。
「日本の子供たちの理解力はヨーロッパの子供たちより優れている。彼らには我々の教義を理解する十分な能力がある」。
1583.12.12日(グレゴリオ暦)、ヴァリニャーノは、ゴアで、ヌーノ・ロドリゲス師に使節をヨーロッパへ連れて行くことになった事情の指令書を書き上げている。これは機密文書で最も信憑性が高い。原文はローマのイエズス会文書館に現存している。その使節の企てについて以下のように述べている。
「少年たちが、ポルトガルとローマにおける旅行中に追求すべき目標は二つある。その一は、世俗的にも精神的にも、日本が必要とする救援の手段を獲得することであり、他の一は、日本人に対し、キリスト教の栄光と偉大さ、この教えを信仰する君主と諸侯の威厳、われらの諸国王ならびに諸都市の広大にして富裕なること、さらにわれらの宗教がその間享受する名誉と権威を知らしめることである。
しかしてこれら日本人少年たちは、帰国の後、目撃証人として、また有資格者として、自らの見聞を(同朋たちに)語り得るであろう。かくてこそ、われわれの諸事(万般)にふさわしい信用と権威を日本人(の間)に示し得るのである。事実日本人は今までそれらを見たことがなく、それゆえ今なおそれを信じ得ず、彼らのうち多くの者は従来何も解らぬまま、われら(司祭)は母国では貧しく身分も低い者で、それがために天国のことを説くを口実として、日本で財をなすために来ていると考えているが、かくて(こそ)彼らは司祭たちが日本に赴く目的が何たるかを理解するに至るのである。(右)第一の成果を収めるために必要と思われるのは、少年たちを(ポルトガル国王)陛下、(ローマ)教皇聖下、枢機卿、その他の諸侯に知らしめることである。すなわち(これら高貴の方々が)、少年たちを(その目)で眺め、(実際に)遇することにより、彼ら(少年ら)がいかに優れたものであるかを認識され、(在日)司祭たちが彼ら(日本人)のことについて報じたことが偽りではないことを知らされ、日本(での布教事業)を援助しようと心動かされるに至ることが期待されるのである。そのためには、当該使節(少年ら)は、豊後と有馬の(二人の)国王、ならびにドン・バルトロメウ(大村純忠)から派遣された高貴な身分ある人たちであること、彼らは(上記の)諸王の金(箔)の文箱に入れて持参していること(を人々に知らさねばならない)。またそれがためには、これらの少年たちが(十分それにふさわしい)威厳を備え、そのように(一同から)遇されていることが肝要である。なぜなら(そのようにすれば)彼ら諸貴顕の心をいっそう動かすであろうと思われるからである。だがそれは今の状態では少年たちを高貴な身分の者にふさわしく処遇するよう心得おかるべきである。第二の成果を収めるためには、少年たちが、上記諸貴顕から好遇され、恩恵に浴し、それらの方々の偉大さ、ならびに諸都市の華麗さと富裕、さらにわれわれの宗教がそれらすべての上に有する威信について理解するようにする必要がある。そのためには、国王陛下の宮廷や、ポルトガル、ローマ、その他少年たちが通過する大部分の都市において、大建築、教会、宮殿、庭園、銀製品とか豪華な聖具室といったもの、その他、教化の糧となるような諸物など、高貴で偉大なものばかりを見せ、それに反する概念を抱かせるようなものをいっさい見させてはならない」。
「イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡」は次のように記している。
「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一遇の機会である」。
天正遣欧使節
1582(天正10).2月、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の3人の九州のキリシタン大名が、伊東マンショら4人の少年をローマ教皇のもとに使節として送った。これを「天正遣欧使節」と云う。
この前の経緯を記しておく。織田信長が天下を統一した頃の1580年、日本で最初の西洋式中等教育機関「有馬のセミナリヨ」が、日野江城下に創立された。有馬のセミナリヨでは外国人教師が教べんを取り、ラテン語などの語学教育、宗教、地理学などルネサンス期の西洋の学問が、日本で初めて組織的に教えられていた。
織田信長の晩年のころ、イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した。バリニャーノは、1582(天正10).正月、長崎から離日する直前に、ローマ法王に日本人クリスチャンを紹介して、日本でのキリスト教布教の支援を教皇から得ること、かつ、日本での布教実績を教皇にアピールすることにあった。援助を引き出し、日本布教の財源にすると共に帰国した日本人自身にヨーロッパの「素晴らしさ・偉大さ」を語らせ布教活動を有利に進めようとした。こうして、日本人の若者をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを企画した。「ヴァリニャーノが日本布教事業のために考案した企画」。
ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。
「第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたい」。
1580年、日野江城主有馬晴信はイエズス会の巡察師アレッサンドロ・バリニャーノの教育構想に協力して、日本で初めてのヨーロッパの中等教育機関「有馬のセミナリヨ」を城下に設置した。島原半島の当時の有馬は日本一豪華な教会が建ち、外国人宣教師や海外の商人たちが闊歩する国際交流の最先端の地の一つであった。開校当時は12〜18歳の生徒22名であったが、最大時には130名もの少年たちが、ラテン語、ポルトガル語、日本語や古典の他、音楽、美術、地理学、体育など当時の日本人が想像もできなかったルネサンスを彷彿させるような教育が行われていた。
天正遣欧少年使節として日本で初めてヨーロッパに旅立った4少年は有馬のセミナリヨの卒業生であった。彼らはいずれも14〜16歳の少年であった。正使に大友宗麟の名代として日向伊東氏出身の伊東マンショ、有馬晴信・大村純忠の名代として有馬領千々石(ちぢわ)出身で、有馬晴信の従弟で大村純忠の甥の千々石ミゲル、副使に中浦ジュリアン(現 西海市出身)、原マルチノ(現 波佐見町出身)が選ばれた。他に付き添いとしてコンスタンチーノ・ドラード、アグスチーノという日本人少年がいた。ローマまでの指導者としてメスキータ神父が同行することになった。
正使 / 伊東マンショ / 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
正使 / 千々石ミゲル / 大村純忠の名代。純忠の甥。後に棄教。
副使 / 中浦ジュリアン / 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教。
副使 / 原マルティノ / 後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
千々石ミゲルの「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著)は次のように記している。
「多くの人が長い航海の危険、困難、疑いのない死を示し、我々の心に強い恐怖を植え付けました。しかし我々日本人はヨーロッパの土地から遠く離れたこの島に住んでいてこれらの人々のことを知りません。ぜひともヨーロッパに行ってみたいのです」。
長崎港を出港した少年たちはマカオ、ゴア、喜望峰を迂回してセント・エレナ島に寄港のあと、1584.8月ポルトガルの首都リスボンへ到着した。千々石ミゲルの「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著)は次のように記している。
「私たちは非常に苦しみ、五臓六腑も吐き出されるのではないかと思いました。しかしヴァリニャーノ様が絶えず優しい言葉で我々を元気づけて下さり、意気消沈することはありませんでした」。
当時のポルトガルはスペイン王のフェリペ2世が兼ねていたので、スペインのマドリードに行った。フェリペ2世に謁見を賜り、その援助によって地中海を渡って、イタリアへ向かった。イタリアのトスカナ大公国で大歓迎を受けた。フィレンツェを経由していよいよローマに向った。少年たちの高い知性と礼儀正しさは、アジアに偏見を持っていた西洋の人々を驚嘆させ、その噂は全ヨーロッパへと広がっていった。
1585.3月、3年がかりでローマに着き、3.22日、ローマ教皇グレゴリウス13世にローマ法王庁の「帝王の間」において最高の待遇をもって謁見を受けた。使節は、ローマ教皇に信長からもらった安土城絵屏風を贈っている。美しい衣装を付け、大小の刀を腰に、ふさのある帽子をかぶった純真華麗なマンショたちの姿や堂々とした言動は国々の人々に好印象を与えた。ローマ市民からも大歓迎を受け、5.11日、ローマ市民会より使節にローマ市民権授与決定を受け、ローマの市民権証書を授けられローマ市民権を与えられた。
ローマイエズス会ガスパール・ゴンサルヴェス神父は次のように演説している。
「教皇猊下。知られざる土地・日本は確かに存在します。そしてそこには、ここに見る通り我々にも劣らぬ優れた人々が暮らしています。そして彼らは世界の果てなる日本からはるばる旅をし、猊下のもとにひざまずいたのであります。今日この日、猊下はその目でこの果実を見、その手でこれに触れることができるのです」。
教皇の急逝後、グレゴリオ13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式にも出席した。以後、ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問している。少年たちは語学、古典、科学など、さまざまな教養を猛勉強によって吸収していった。
2003年、ポーランド・クラクフ市のヤギウェオ大学図書館で、銀板のガラスフレームの中に挟まれた文書が発見された。旧約聖書・詩編中のダビデ王の聖歌2節がラテン語と日本語で、「諸人よ、デウスを誉め奉るべし。諸人よ、天の御主は計り給うなり」と記されていた。「ローマ教皇に謁見した時にポーランド人司教が天正遣欧使節の若者たちの誰かに書いてもらったと推測されている」。使節の知性の高さを如何なく立証する新史料となった。
現在は非公開とのことである。しかしこれは奇妙なことになる。「天正遣欧使節」の若者が書いたとされる聖書の一節は、キリスト教のそれではなくユダヤ教の教義の一節を記していることになる。なぜなら、キリスト教の一説であればイエスの珠玉の言葉を記すのが普通であろう。それを何故に「天正遣欧使節」は、「旧約聖書・詩編中のダビデ王の聖歌2節」を記したのか。謎である。
1586.4、リスボンを出発、帰路につく。マカオに着いたところで、日本から豊臣秀吉が伴天連追放令(1587)を発したとの報に接し、一行はインド副王の使節という資格で日本入国を許可され、1590.7.21日(天正18・6)、一行は長崎に帰着した。日本とヨーロッパを結ぶ役割を果たしたことは重要である。厳しい現実が待ち受けていたが、1591.3月、聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏した。
使節団は、西洋の様々な利器を持ち帰っていた。中でも、西洋式活版印のグーテンベルグ印刷機は日本のそれまでの印刷技術を超えており日本における印刷文化に大きく貢献した。ローマ字や和文で綴られた「ドチリーナ・キリシタン」(1592)、「日葡辞書」、「伊曽保物語」など「キリシタン版」と呼ばれる多くの印刷物が刊行された。
1591.7.25日、正副四使節の伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、天草の修練院でイエズス会に入る。キリスト教弾圧が厳しく活動の場はなかった。伊東マンショは司祭となるも、1612年、長崎のコレジオで病死している。千々石ミゲルは主君の大村喜前とともに棄教した。その後、千々石清左衛門と名乗り、家庭を持ったと伝えられる。他の3名は司祭になったが運命を暗転させられている。原マルティノも司祭となるがマカオに追放され、1629年、同地で昇天した。コンスタンチーノ・ドラードはマルティノと一緒にマカオへ追放されるも司祭となり、晩年はセミナリオの院長に就任。1620年、同地で亡くなる。中浦ジュリアンはキリシタン迫害が厳しくなる日本に潜伏。キリシタンたちの面倒を見ていたがついに捕らえられ、1633年、長崎で刑を受け穴吊りの刑により殉教。アグスチーノは他の5人と違い、イエズス会に入らなかったため、記録はもちろん噂のようなものも残っていない。 
    天正遣欧少年使節
    千々石ミゲル
 
宣教師が見た日本

 

一 はじめに
天文一八年(一五四九年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが他の二人の宣教師トルレス、フェルナンデス、日本人アンジローらと鹿児島に上陸、日本でのキリスト教の布教が始った。日本人がはじめて西洋の思想に接したときである。すでに種子島に鉄砲が伝えられ、一六世紀の半ばは、日本人が西洋文化に直に触れたときである。
日本の国際化を考えるとき、日本が外国の文化に大きく洗われる時期を、次の三つに分けると、一回目が奈良・平安時代のとき、二回目が戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン時代、そして三回目が幕末から明治にかけての文明開化の時代になる。本稿であつかうのは二回目のキリシタン時代である。他の二つの国際化は、一回目が中国の文化を取り入れようとした国際化であり、三回目は西洋の文化を取り入れようとした国際化で、いずれも外国の文化が日本の文化より優れていて、それを学び取ろうとした国際化であった。それに対して、この初めての西洋文化との出会いは、あえて言えば、対等の立場で接触したときといえ、これが他の国際化にはない特徴といえるのではないか。
この時代の日本社会は大混乱期にあった。今、手元にある『日本史地図』(吉川弘文館)で「守護大名の抗争」時と「豊臣秀吉の統一」時での大名の配置を見比べると、その顔ぶれはほとんど一新されている。戦乱と飢餓、天災に繰り返し襲われた当時の日本の社会は、その基盤、枠組みが大きく揺さぶられた。その時代を象徴する言葉である「下克上」は、下が上に克つということであるけれど、言い換えれば古い権威が新しい権威にとって変わるということであり、伝統的なものが当世風なものに移り変わるということである。こうした変化が見られるのは、政治の世界だけでなく、文学、芸能の世界に至るまで社会のあらゆる分野で見られた。
宗教の世界も、唐文化の担い手である公家が信仰する天台宗、神道に対して宋文化の担い手である武家が信仰する禅宗、庶民の一向宗、町衆の法華宗が新旧対立の構図を見せていた。そこに来世の救いを説くキリスト教が伝来した。日常的に死と向かい合って暮らしていた武士や農民、その他の人々にとってキリスト教が西洋の宗教といっても、縁遠いものには思えなかったろう。
この時代に来日した宣教師たちが日本で何を見たのか、何に興味を寄せたのか、また日本人が何を考え、どう対応したのかなどについて、宣教師フロイスの書いた『日本史』(全十二巻)を中心に考えてみたい。ルイス・フロイスは一五三二年に生まれ、九七年に長崎で六五才でなくなっている。彼は六三年(永禄六年)に来日し、滞在中に見聞きしたことを、そのなかにはザビエル来日以来のことを含めて、四九年(天文十八年)から九三年(文禄二年)までのことを記録している。
二 宣教師と日本人
日本での布教はどのように行われ、信者を獲得していったのか。フロイスの『日本史』(第六巻)に、鹿児島滞在中のザビエル一行の苦労が書かれている。一番の問題はやり言葉の問題である。「ただちに信仰の最初の基礎づくりを開始したが(日本)語の知識がないため非常な不自由を忍んだ」とある。それでも少しばかり判る日本語で質問に答えたりして説教を開始し、幾人かの人々に洗礼を授け始めている。
その後、周防国の山口に赴いたとき、そこでの街頭の説法の様子が記されている。「修道士がまず(翻訳した)書物から世界の創造(に関する箇条)を読んだ。そして彼はそれを読み終えると、ついで人々に向かい、日本人はことに次の三つの点で何という大きい悪事を行っていることかと大声で説いた」と。その三点というのは、悪魔を祈っていること、男色という忌まわしい罪にふけっていること、そして堕胎のことである。男色と堕胎についてはたびたび『日本史』のなかで日本人の忌まわしい罪として指摘されている。はたして、こうした辻説法でどれほどの人が、キリスト教に興味を持ったのか分からない。ザビエルの命令によって日本で異教徒にキリシタンの教理を教えた方法はつぎの通りという。
引用が長くなるので主な項目だけ紹介すると、まず世界万物の創造主の存在、世界に初めがあり永遠でないこと、太陽や月は神でないこと、霊魂は不滅であることを証明する。ここで日本人からの疑問に答え、自らが信じている宗旨との違いを判らせたのち、三位一体の玄義、世界の創造、ルシフェルの堕落、アダムの罪、デウスの御子の現世への御出現、聖なる御苦難、御死去、御復活、御昇天、十字架の玄義の力、最後の審判、地獄の懲罰と天国に迎えられた人々の幸福について説明する。デウスの掟の十戒、異教的儀式の忌避、主の教えの遵守、自分の罪の悔悟を説いたあと、最初の秘蹟(洗礼のこと)の必要さとその玄義を説いて、以上を理解したうえで洗礼を授ける(第三巻)。
洗礼を授けるまでに、これだけのことを説明しなければならない。『同』(第八巻)には、「誰かがキリシタンになる時には、まず七日間連続して(キリシタン宗門の)説教を聴聞します。次に、生じた疑問を述べ、それらに対して説教師が与える回答を伺います。もしそれでキリシタン(宗門)のことが理解できましたら洗礼を受けるのです」ともある。また、『同』(第七巻)には、アルメイダ修道士が禅僧を相手にして、「七日間非常に苦労しましたが、彼らは霊魂が不滅であることを認めようとはしませんでした」という話がある。『邪教大意』という書にはキリシタン宗の法を説くのに「ひそかに法の要領を説くこと一週間」とある。こうしたことから通常、洗礼までの説法には、おおよそ一週間がかかったとみられる。その一方で、わずか一日半のうち三度説教を聞いただけで洗礼を授けるよう願った、という例も語られている(『同』(第六巻))。
宣教師が日蝕や月蝕、天体の運行などの説明をすると、彼らは深く尊敬され、それをきっかけにして都でキリシタンになった人もいた。(『同』(第三巻))。また同じ都にいた清水リアンという人は、天体の運行を知りたがり、司祭は彼の疑惑を解いた。それによってデウスの教えを聞くようになってキリシタンになった(『同』(第四巻))。あるいは、高山右近が、前田利家に仕えて天体現象に興味を持つ貴人にロドリゲスを引き合わせ、日蝕や中日(昼夜平分時)などの天体現象を話し、続いて万物の創造主、霊魂の不滅性についても説明すると、この貴人は満足し、キリシタンになることを約束したという(『同』(第五巻))。このような科学的知識に基づく話題から相手の信頼を勝ち取り、改宗させていくという例も多かったようだ。宣教師たちは日本人の好奇心の旺盛さに驚いている。
あるいは奇跡まがいのことから簡単に改宗してしまう例もある。伊佐早でのこととして、娘の病気を治すのに仏僧に多額の金を払い、医者にも払ったが、助けにならなかった。たまたまそこにいたリアンという教名のキリシタンが、父親に、デウスにキリシタンになると約束すれば娘は助かると、保証したところ、翌日娘が元気になった。父親も娘も他の家族全員がキリシタンになったという(『同』(第一〇巻))。逆の話として、平戸の母親が仏僧たちに幾多の施しを行っても、その甲斐なく娘は亡くなってしまった。これをきっかけに仏僧たちとの付き合いを絶ち、彼女は一家そろってキリシタンになってしまった(『同』(第九巻))。あるいは司祭の持つ聖水を飲んで病気が治ったことをきっかけに改宗するなど、呪術、迷信の類でキリシタンになる話は多い。
このようなきっかけで改宗した人は、また棄教するのも早い。『同』(第一〇巻)の高来での布教にふれたところで、キリシタンの有馬義貞が亡くなり仏僧たちのキリシタンへの迫害がひどくなり、大勢のキリシタンが棄教してしまったが、その理由を次のように述べている。「彼らはほんの数ヶ月前に洗礼を受けたばかりであり、信仰がまだしっかり根を下ろしていない新しく弱々しい人たちで、デウスのことについてもまだ何もしかと判っていなかった。というのは、受洗者の数が多かったから、当時は、教理を教わった人たちがどれほど十分にそれを理解しているかを吟味する時間的余裕はなかったからである」と。
少し時代が下がるが、一六一九年に来日した宣教師コリャードが日本人キリシタンの告解を記録した『懺悔録』に、「一五年前に洗礼を受けたけれども、それは深い考えもなしに他人並みに受けただけで、これまでキリシタンの教えについて十分な理解がないまま生活してきた」、という告解が載せられている。このような人たちが少なからずいたことは想像できよう。
宣教師にとってみれば、右に述べたような辻説法とか村単位に説法を続け、信者を獲得していくことは宣教師の数も少なく、効率が悪かった。宣教師の数は、一五八二年にイエズス会員は八四ないし八五名、一五九〇年に同会員の数は一四〇人、うち司祭が四七人、修道士が九三人しかいなかった(『同』第一一巻)。
このように効率が悪いと思っていたことは、『同』(第九巻)の次の文から理解できる。「アルメイダ修道士は、新しい土地でデウスの教えを弘めるのに、下層の民衆の間から始めることがどんなにまったく不適当であるかということを豊後における(宗門の)発展から経験的に教えられていたので、彼はまず最初に殿をキリシタンにできるか窺ってみることにした」。アルメイダ修道士が考えたように、宣教師たちは、国主や領主を改宗させる、あるいはキリシタンの理解者にし一気にそこの領民をキリシタンにするという方針を採り、布教活動をおこなっている。フロイスが織田信長に会い美濃から都に戻ったとき(一五六九年)、豊後にいる司祭たちにあてた手紙に以下のようにある。「人々のもとで成果を収め、効果的に(彼ら)の霊魂の改宗のために努めるためには、(中略)まずこの国を統治する国王、諸侯、大身たちの寵を獲得し、それにより、聖福音の説教者が、いかに(彼らから)愛情、尊敬、信望を享受しているかを一同に確認させ判らせるようにすることがもっとも効果的な手段の一つなのです」(『同』第四巻)。
あるいは、大村純忠が領民の改宗を進めようとするとき、フロイスは次のようにも述べている。「身分の高い人たちがひとたび改宗するならば、その他の民衆の(改宗に)はもはや何の支障も生じないからであった」(『同』第九巻)。
そこで、国主や領主といった人々をキリシタンにするために、宣教師が説いたのが、経済的、軍事的な利益であった。例えば、日本で最初のキリシタン大名といわれる大村純忠の場合、横瀬浦にポルトガル船を入港させることを条件に、次のような説得が彼(殿)になされたことが第六巻に記されている。「殿はキリシタンになり、自領でデウスの教えを説くことを許すべきで、そうすることにより、殿には精神的にも物質的にも大きい利益があろう」と。あるいは第九巻に述べられている次のフロイスの見解は、はっきりとその辺の事情を説明するものであろう。「(略)我らの主なるデウスのもとに導くために(我らの同僚たち)が彼らのもとに入り込むには、まず彼らが世俗的な関心(すなわち南蛮貿易という)興味と希望に心を惹かれる(ようにする)ことが必要であった」。軍事的な利益という例では、大友宗麟が硝石の輸入を独占しようとしたことや、ポルトガル人から大砲を入手したことなどが、挙げられる(『同』第七巻)。
とはいっても、宣教師の思うようにならなかった領主もいた。天草の栖本殿は家臣に次のように伝えたという。「予は(略)キリシタンになるとはいえ、予の家臣たちの何びともキリシタンになる義務はないことを知るべきである。なぜならば、宗旨を変えて一つを捨て他を受け入れるといった行為は自発的になすべきであって、予の説得などは必要としないからである。だが汝らにただ一つ注文しておきたいことがある。それは心して(キリシタン宗門の)説教を聴聞し、その後で従来信じていた宗旨と比較してみることだ」(『同』第一一巻)。
このように布教が進められるなかで、一つ指摘しておきたいことがある。人々の改宗の背景には、一向宗とキリスト教の類似も無視できない、ということである。ヴァリニャーノは『日本巡察記』のなかで一向宗とキリスト教の類似性を以下のように指摘している。
日本人の最大の歓心を得て、自らの宗派がもっとも多く迎えられる為に、彼等(仏僧)は、阿弥陀や釈迦が、人々に対していかに大いなる慈愛を示したかを強調し、(人間の)救済は容易なことであるとし、いかに罪を犯そうとも、阿弥陀や釈迦の名を唱え、その功徳を確信しさえすれば、その罪はことごとく浄められる。したがってその他の贖罪(行為)等はなんらする必要がない。それは阿弥陀や釈迦が人間の為におこなった贖罪を侮辱することになると説いている。これはまさしく(マルティン・)ルーテルの説と同じである。
ヴァリニャーノのほかにも、一向宗とキリシタンの共通性を言った人がいる。豊臣秀吉である。『日本史』(第一巻)に、天正一五年、伴天連追放令を出しとき、秀吉は司祭たちに「憎悪と憤怒を持って」次のように言ったとある。「(略)奴らは一面、一向宗(徒)に似ているが、予は奴らのほうがより危険であり有害であると考える」。その理由は、「一向宗は百姓や下賤のものの間に留まるが、(中略)奴ら(伴天連)は、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようと活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である」。
一向宗は、阿弥陀仏を信仰して極楽往生を願う。キリスト教は、イエス・キリストを信仰して魂の救済を願う。この信仰の構造が似ているせいで、一向宗徒にすれば改宗は、阿弥陀仏をイエス・キリストに置き換えるだけのように思えたのではないか。そう考えれば、この時代の日本にはキリスト教を受け入れる素地があったといえるのではないだろうか。
一方、こうした世俗的な利益からキリシタンになるのではなく、教義を理解し、純粋に宗教的な理由から改宗した大名もいた。大友宗麟がキリシタンになるまでに時間がかかった理由を修道士に話している。「(予は)日本の宗教の完全さ、その奥義と知識を、どこまで究め得るか(試み)、あますところなく(それらについて)知りたいとの願いを有したからである。ところで禅宗の教えは、他のすべての(日本の)宗派の論法(の基本)をなすものであるから、(禅宗)をよく弁えれば、いうまでもなく他のすべて(の日本の宗派)について言われていることを知ることができる。(中略)禅宗の奥義に立ち入れば立ち入るほど奥義らしいものはなくなって、底の浅さが見出された(略)」ので、受洗したいと思ったという。そして大友宗麟は土持に移り住むに当たって、そこにキリシタンの教えに基づく理想郷を作ろうとまでした。彼は宣教師カブラルにこう述べた。「(略)豊後から三〇〇名だけ家臣を伴うが、彼らは全てキリシタンでなくてはならない。そしてそこに新たに築かれる都市は、(略)新しい法律と制度によって統治されねばならず、(略)兄弟的な愛と一致(のうち)に生きねばならない」(『同』第七巻)。天正六年(一五七八年)宗麟は洗礼をうけ、彼が乗った土持に向かう船には、「赤い十字架を描き白緞子の金の縁取りを施した四角い旗を掲げた」とある(同)。
キリシタン大名の蒲生氏郷は異教徒の家臣に対し、教理(カテキズモ)から説き始め、(日本の)神仏は何ら(崇拝するに価)せぬものであること、(神とては)御一方デウス様がいますのみであること、霊魂は不滅であること、およびその他これに類したことを語った」(第一二巻)。
フロイスは、自らが「(キリシタンの)教理を実に深く学びかつ実行していたので、日本人修道士のうち、誰一人として彼に優る者はなかった」(第一巻)と語る高山右近について、彼が秀吉から棄教を迫られたときの対応を次のように記している。「(略)キリシタンをやめることに関しては、たとえ全世界を与えられようとも致さぬし、自分の(霊魂の)救済と引き替えることはしない。よって私の身柄、封禄、領地については、殿が気に召すように取り計らわれたい」(同)、と返事して棄教を拒否し、領地を失っても信仰に生きる道を選んだ。小西行長をはじめ他のキリシタン大名が口を濁して秀吉に従う態度を見せたと想像されるなかで、この右近の信仰は特筆すべきものと思われる。
ところで信長がカミになろうとした話は有名である。それは日本の神道の神でもなく仏教の仏でもなく、おそらくキリスト教のデウスに代わるカミのことであっただろうと思われる。フロイスが第五巻に記した信長のカミに対する考え、行動をみてみよう。
・(信長は)神や仏に一片の信心すら持ち合わせないばかりか、仏僧らの苛酷な敵であり、迫害者をもって任じ、その治世中、多数の重立った寺院を破壊し、大勢の仏僧を殺戮し、なお毎日多くの酷い仕打ちを加え、彼らに接することを欲せずに迫害を続けるので、(略)
・仏僧たちが言うことは皆偽りで、来世に関しては伴天連たちの言うことだけが真実と思われると常に話していた。
・彼にはデウスを認めるというもっとも大切なものが欠けていた。
・自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、(略)彼自身が地上で礼拝されることを望み、(略)信長以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うに至った。
・全身に燃え上がったこの悪魔的傲慢さから、突如としてナブコドノゾールの無謀さと不遜に出ることを決め、自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。そしてこの冒瀆的な欲望を実現すべく、自邸に近く城から離れた円い山の上に一寺を建立することを命じ(略)
・信長は、予自らが神体である、と言っていた。
・信長は、(略)デウスにのみ捧げられるべき祭祀と礼拝を横領するほどの途方もなく狂気じみた言行と暴挙に及んだので(略)
・この哀れな人物が、なお己に立ち帰り、なんらかの仕方で、デウスを天地の絶対主として認めることができるようにするためであったが、彼が陥っている闇はあまりに根深く(略)悟りの目を開かせるに足りなかったのである。
・現世のみならず天においても自らを支配するものはいないと考えていた信長も(略)
信長は造物主(ゼウス)を超えた、あるいはそれに取って代わる存在になろうと考えたのであろう。それだから、それに気づいたフロイスは「冒瀆的な」という言葉を使ってこの信長の考えを強く非難したのだろう。ほぼ同時代に生きた、元キリシタンである不干斎ハビアンの書いた『破提宇子』という反キリシタン書の一節に「然ラバジョゼイフヲ父トシ、サンタ‐マリアヲ母トシテ、提宇子ノ本尊ゼズ‐キリシトモ誕生ト云ウ時ハ是コソ人間ノタヾ中ヨ、此方ニハ人ヲ天地ノ主トハセズト云ウ事也」とある。キリスト教では人を神としないといながら、人間を両親として生まれてきたイエス・キリストは人ではないのか、という批判である。人の子が神になれるならば、自分が神になれぬわけはあるまい、と信長は思ったのではないだろうか。そこにキリスト教の影響はなかったのだろうか。ナブコドノゾールは、その注にあるように紀元前六世紀のバビロニア王であるが、ネブカドネザル二世の名のほうが馴染みがある。彼は、ユダ王国を攻め滅ぼしエルサレム宮殿を破壊し、ユダヤの民をバビロンに連れ去る、いわゆるバビロン捕囚を行った王である。比叡山を焼き払い仏教を弾圧した信長は、まさに「日本のナブコドノゾール」と呼ばれるのに最も相応しい人物といえよう。
他方、秀吉が神になろうとしたとき、フロイスはどうみていたのか、やはり第五巻から拾い出してみよう。
・この悪魔のような暴君(秀吉)の希望することは、己を日本の偶像に祭り上げることで、そうすることによって自らの記憶を永久に(地上に)留め(得ると考えています)。
・彼は、今一人の天照大神になろうとし、(まさしく)その偶像崇拝の筆頭(に置かれること)を欲しているからです。
・彼は生前(すでに、神として)礼拝されることを望んでいます。
・太閤様は、自らの名を後世に伝えることを望み、まるでデウスのように崇められることを希望して、(略)
以後は神(略)の列に加えられ、シンハチマン、すなわち新しい八幡と称されることを望みました(第二巻付録「フランシスコ・パシオ師の「太閤秀吉の臨終」についての報告)。
秀吉はあくまで神道の神、新たな八幡大菩薩になろうとしていた。フロイスにとってみれば、それは異教の神であるから、神になろうとすること自体は問題にはならなかったからこそ、信長に対するような非難めいた言葉は使われなかった、と考えられる。古来、日本で神になれるのは、限られていた。「古代における人霊祭祀には制限があり、人霊が神霊に昇格することはほとんどなかった。(略)人霊祭祀は、御霊信仰と天神信仰など、怨霊を鎮めるために祀る形式に限られている。これを大きく転換させたのが吉田兼倶である」(『日本神道史』)。怨霊となる人以外、人が神になることはなかった。それを可能としたのが「吉田神道の創見であり、豊臣秀吉の豊国大明神、徳川家康の東照大権現の創祀にも影響を与えた」(『同』)。
キリスト教が伝来したこの時代に、信長、秀吉が神になろうとしたことは偶然ではないであろう。特に信長の場合にはキリスト教が何らかの役割を果たしていると思われる。
三 宣教師と茶の湯
フロイスの『日本史』の中で茶の湯にふれたところはあまり多くはない。天正一〇年(一五八二年)の本能寺の変で信長の所有する四二の茶の道具が全て灰燼に帰したこと(第五巻)、秀吉の大阪城内にある茶の湯の器や純金製の組み立て茶屋の話など道具の話(第一巻)のほか、日本の建築のすばらしさに触れて、堺でアルメイダ修道士が見た茶室の美しさ、そこで繰り広げられる清潔で秩序整然とした宴席のすばらしさに驚いた次第を書いている(第三巻)。フロイスが茶に関係したことにふれるときは、大体が外見的なことに限られ、その内面性にまで筆が向かうことはないようである。
しかし別の宣教師ジョアン・ロドリーゲスは違って、茶の湯の内面性に関心を寄せている。世俗的な面ではなく聖的な面、いいかえれば宗教的な側面に目を向けていると思われる。彼はフロイスより少し後の時代、一五七七年頃から一六一〇年までの間、日本で布教活動に携わった。日本語が得意で、秀吉や家康とイエズス会との外交折衝の任に当たったりもした。また彼の編纂した語学書『日本大文典』全三巻は当時の日本語の実態を知る貴重な書物となっている。
彼は、マカオに戻ってから、遣欧少年使節の一人である原マルティーノの協力の下、一六二二年に『日本教会史』を著した。そこで彼は茶について四章を割いて述べている。ロドリーゲスは「特に都Miyako や堺Sacay では、この道に丹精をこめて、その習練に専心していた人が多くおり」として、彼らが、「東山殿 Figaxiyamadono の古い様式を部分的に改めて、この茶の湯chanoyu の様式をますます完成してゆき、その結果、現在流行している数寄suky と呼ばれる別の様式を作り上げた。」と、茶の湯の歴史に簡単に触れた後、その内面性について次のように説明する。
ところでこの数寄suky という芸道は禅宗Jenxos と言う宗派に属する孤独の哲人たちにならって、この芸道において最もすぐれた人々によって創り出された、孤独な宗教の一様式であり、この芸道に打ちこんでいる人々にかかわる事柄のすべてにわたって、良い習慣をつくり、節制を保つことをめざしていた。
このように禅と茶の湯の関係を指摘したものの、以下のように付け加えている。
たとえこの道において前述の禅宗Jenxos の宗派を模倣したとはいえ、その宗派に特有ないかなる迷信をも、また宗儀や儀式をもとらなかった。なぜなら、この点についてはそれから一切採り入れないで、ただ隠遁的孤独、公的な交渉の雑事から身をひくことだけを模倣し、また、不熱心、無気力、優柔で女々しいことを去り、万事において意思の果断と敏速さを模倣した。
三畳の茶室という小空間である別世界にはいり、「隠遁的孤独」を経て清々しく爽やかな気分になることは、日常的に戦乱に明け暮れし常に死と隣り合わせに暮らしていた武士にとっては、必要なことであったろうし、万事において「意思の果断さと敏速さ」は武士が身に付けなければならない最低の条件であっただろう。
そして堺において市中の山居xichu no sankio と呼ばれる「都市そのものの中の隠退所」が登場するいきさつを述べて、「外面に現れる外観よりも、実質においてすぐれて」いることを示そうとする数寄の説明をする。さらに足利将軍から信長・秀吉に繋がるいわゆる大名数寄と、村田珠光にはじまり千利休が完成した侘数寄の違いについてもふれている。
ついでながら、唐物荘厳という言葉に象徴されるように高価な掛軸、絵画、茶道具にこだわる大名数寄と、心敬の歌論である「冷え」の美意識に源を持つ侘びをめざした侘茶は全く別物といえ、大名数寄を世俗的なものと侘数寄を聖的なものと、捉えれば、のちに秀吉と利休が対立するのは当然のことであったといえるであろう。
最後の四番目にあたる章は「第三五章 数寄がめざしている目的とそれに伴う効用について」で、数寄の不可欠な三つの要素を挙げている。それは第一が「最上の清潔さ」、第二に「田舎風の孤独と飾り気のなさ」、そして第三に「自然な調和と一致、隠れた微妙な性質に関する知識、および学問」というふうで、まさに茶の湯の真髄である和敬静寂を述べている。
このようにロドリーゲスは茶の湯の精神を正しく理解し、宗教家としてその宗教的な側面を見逃すことはなく、おそらく、そこにキリスト教と共通するものを感じていたのだと思われる。茶室は静かで清々しく、落着いた明るさに包まれた小空間は、キリスト教会の持つ雰囲気に相通ずるものを感じさせていたのだろう。そこは瞑想をするのに適した場所であった。この章の最後は、高山右近のことで結ばれている。以下に引用する。
従って高山ジュストTakayama Justo ―(中略)― はこの芸道で日本における第一人者であり、そのように厚く尊敬されていて、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄suky が道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかった、とよくいっていたが、われわれもそれを時折彼から聞いたのである。それ故、デウスにすがるために一つの肖像をかの小家に置いて、そこに閉じこもったが、そこでは、彼の身に着けていた習慣によって、デウスにすがるために落着いて隠退することができたと語っていた。
利休七哲というのは利休の七人の高弟を指す言い方であるが、その七人は、蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、芝山監物、瀬田掃部、牧村利貞、古田織部である。いずれも武将であり、高山、蒲生、牧村はキリシタンであった。利休の高弟であった人たちが武士であり、多くがキリシタンであったのは、単に偶然ではなく、利休の侘茶に共感できる面を見出したからであろう。ロドリーゲスが記している高山右近の語ったことが、それを証明している。
四 宣教師と食べ物
この当時の日本人はいったい何を食べていたのか。『安土桃山時代の公家と京都 西洞院時慶の日記に見る世相』に「時慶と公家の食生活」としてまとめられているので、それから紹介しよう。なお、西洞院時慶は天文二十一年(一五五二)に生まれた。永禄七年(一五六四)従五位下に叙され寛永元年(一六二四)に参議で致任という経歴を持つ。その間に彼の身の回りに起きた事どもを書き綴った日記が『時慶卿記』とよばれる。
彼の食生活は結構、多彩だ。米飯の類は蓮飯、糯米の上に蓮の葉をのせて蒸し、盆にこれを蓮の葉に盛って仏前に供えたり、知己に配ったりするもので、それの贈答記事がある。餅類では、道明寺だんご、桜餅、つばき餅、饅頭では薄皮饅頭がある。麦、強飯(赤飯)、鮒ずしも登場する。酒類では、南蛮酒、麹酒、ミリン酒、白酒などである。南蛮酒はワインのことなのか不明だ。
野菜の類では、熟瓜(真桑瓜)、白瓜、茄子、款冬(ふき)、苣(ちしゃ、レタスの一種)、つくねいも、慈姑(くわい)、独活、ニラなど。魚類では、鯨、マナ鰹、鯱(しゃち)、鰤(ぶり)、鯛、鱈、鱸(すずき)、鱧(はも)、鮭、鰯糟漬などで、これらの魚は贈答品としても良く使われている。淡水魚では、鮎、鮒、鯉など。そのほかの海産物としては、海老、烏賊、海鼠、牡蠣、栄螺(さざえ)、そして焼蛤もある。
鳥類では、鴨、雁、雉、雲雀などで、雲雀は身近な鳥料理であったという。これに対して高級料理であったのが鶴。青鷺、鶉、鳩、橿鳥(かしわどり)。そのほかに兎が薬用とはいえ挙げられているほか、蛙も食している。
時慶は公家であるから、当時の日本人の食生活の代表例にはならないといわれるかもしれない。そこで一般庶民は何を食べていたのか。それは宣教師フロイスが、『ヨーロッパ文化と日本文化』に書き残してくれている。フロイスは自分たちヨーロッパ人と日本人の食事と飲酒の仕方を比較しており、そこで日本人の様々な食べ物を取り上げている。
彼が書いた順に紹介すると、塩を入れずに煮た米、汁(これがないと食事ができない、とある)、生で食べる魚(焼いた魚、煮た魚より一層よろこぶ、とある)、胡瓜などの果物、塩漬けの葡萄、冷たい水に漬け、極めて長い素麺、この素麺に使う薬味として芥子や唐辛、野犬や鶴、大猿、猫、生の海藻、焼いた鱒、味噌、魚の腐敗した臓物(ししびしおのこと、いわゆる塩辛)、猪の肉(薄く切って生で食べる)など、となる。
現代のわれわれが食べない犬や猿、鶴などがあって、美味な食材として喜ばれていたのだろうかと思う。そもそも日本人が肉を食べないというのは、天武天皇の時代に出された肉食禁止令によるものと思われる。日本書紀天武天皇四年四月一七日の条に「且莫食牛馬犬猨鶏之宍」(宍は肉のこと)とある。この当時も犬を食べる習慣があったことが分かるが、「日本人は古来牛馬は耕作を助ける恩獣として、また鶏は天照大神のお使いに鶏があったというので食わなかった。(江馬)」と『日本教会史』の注にもあるように、牛馬だけでなく鶏も禁止の対象になっており、フロイスは上掲書で、日本人は「僅かに子どもたちを喜ばせるために雄鶏を飼うに過ぎない」と書いている。犬の肉を食べる風習については万里小路時房の『建内記』にも書かれている。
フロイスの『日本史』(第七巻)に、大友宗麟が洗礼を受けた翌日の盛大な宴会の席に、「日頃の習慣に従って獣の肉が供された」とある。また『太平記』(巻三七)には、佐々木道誉が都から落ちるとき、攻め入ってくる楠正儀に「鳥・兎・雉・白鳥、三竿に懸け並べ、三石入りばかりなる大筒に酒をたたえ」と、肉を三本の竿に懸けて酒も用意しておいていく話がある。
キリシタンと言わずポルトガル人(南蛮人)と付き合う日本人の間では、牛の肉を食べることも行われていたらしい。犬の肉を食べられる人が牛の肉は食べられないということはなかったろう。
日本にいる動物と鳥について宣教師のジョアン・ロドリーゲスは次のように記録している。
牝牛が沢山いて、それで耕地を耕し、(中略)一頭だけで耕す。時には土地を耕すのに、牡馬か牝馬かを使う。(中略)家畜では、ただ犬が狩猟のために飼われ、鶏や鴨や家鴨を飼うのはただ娯楽のためであって食用にするためではない。(中略)もっとも、舟や商船で日本に行くポルトガル人との商取引でポルトガル人に売るために、これらの家畜を飼っている。また、すでにこの地の多くの者がこれらのものを食っているのであって、ポルトガル人と取引するために諸地方から集まって来る商人や、一部の領主その他の者が薬だとか珍しい物だとかいう口実の下に食っている。だから、この国では、われわれが牛や家畜、さらに人肉さえも食うといって、われわれの面上に罵詈雑言を投げかけていた最初の頃ほどには、われわれは恐ろしく忌まわしいものではなくなっている。(『日本教会史』)
牛肉を食べたという例はこれだけでない。やはり同書の注に次のように紹介されているが、宣教師ガスパール・ヴィレーラの書簡(一五五七年一〇月二九日付)によると、
豊後の府内で復活祭の翌日、約四百人のキリシタンを食事に招待したが、牝牛一頭を買い求めておき、その肉を米に入れてたいて出したところ、皆の者が食べて非常に満足したという。(土井)
とある。もう一例を挙げると、「秀吉の小田原征伐のとき、高山右近が蒲生氏郷や細川忠興に牛肉を食べさせた(細川家御家譜)」そうである(『日本史』第五巻、注)。宣教師が牛馬を食べることを、秀吉は伴天連追放令の第二条に挙げ、耕作用の牛は、百姓の道具として存在する。それを食することは、大切な助力を奪うことになる、と言って肉食を非難したはずが、第五巻によると、日本人が非常に嫌悪している卵や牛肉料理が日本人の間でとても望まれており、「太閤様までがそれらの食物を好んでいます」とある。
日本人が肉食民族でないというのは一体いつ頃のことを言うのか。犬や鳥の肉を食べ、うまいとなると牛肉も食す。日本人は立派な肉食民族ではないのか。
もともと肉食民族である宣教師にとっては日本の食生活は馴染みにくいものであったろう。ザビエルと一緒に日本に来た宣教師コスモ・デ・トルレスは、ザビエルが一五五一年に帰ったあとも、山口に残り布教活動を続け一五五六年、山口から府内に移った。そこで会ったメストレ・ペルショール師に次のように語ったという。
「山口に残留して六年間その地に居住しました。(その間)トルレスは、いかなる種類の肉もパンも鮮魚も口にせず、日本風に調理された米―それはひどい味で、はなはだしい空腹時か必要に迫られてやっと食べられるようなものであります―と、塩漬けの魚と野菜だけで生きていたのです。(以下略)」(『日本史』第六巻)。
ヨーロッパ人にとって遠い日本に来て、牛肉は懐かしい食べ物であったであろう。しかし日本人はそれを嫌った。牛を食べることが布教の妨げになるならと、後に、イエズス会巡察師であるヴァリニャーノは在日宣教師の肉食を長崎など特定区域に限り、ほとんど全面的に禁じているぐらいだが(第六巻の注)、肉食を嫌った日本人は、彼ら宣教師たちは人肉まで食べる、と悪口を投げつけた。そうした例をいくつか『日本史』から拾い上げてみよう。 
島原の布教に対し、仏僧は次のように批判したという。「殿はどうしてあんなに邪悪極悪の輩を領内にとどめておいてよかろうか。彼らは、人(肉)を食い、その行く先々の地はたちまち破壊されてしまうのだ(以下略)」(第九巻)。あるいは、秀吉の伴天連追放令が出されて山口から宣教師が退去したとき、かれらの家に残された窯から「人肉を焼いた匂いがする。(中略)人肉を食べたに違いない」(第一一巻)と言われた話、「伴天連たちが子供を捕らえて食べてしまった、と仏僧が批難」(第四巻)したという物騒な話など、島原、山口、都と宣教師のいるところでは必ずこの悪口が言われたことが分かる。なかでも都で宣教師が、内裏に都在住の許可を求めたときの回答は強烈だ。内裏は、「まず第一に必要なことは、(中略)伴天連たちは人間を食べぬということを日本の偶像に誓うことである(以下略)」と答えたということである(第四巻)。
それでは、こうした人肉食という恐ろしい悪口を宣教師に浴びせた日本人は、人肉を食べなかったのかと言えば、そうではなかった。天正九年(一五八一年)、秀吉が鳥取城を兵糧攻めにしたとき、城内で飢えた人々が人肉を食べた話が『信長公記』にある。異常時とはいえ、この戦乱に明け暮れた時代に生きている人にとっては、それほど恐ろしい話ではなかった。それだからこそこういう話が悪口になりえたのだろう。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「チバング諸島の偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、(中略)かの捕虜を殺して(略)皆でその肉を会食する。彼等は人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのである」とある。洋の東西を問わず、お互いに相手のことがよく分からないときの悪口は、似たようなものになるのが面白い。
教会のミサで欠かせないのはパンとぶどう酒である。当時の宣教師はこれをどのように手配していたのだろうか。パンについては『日本史』のなかにいくつか記述が見られる。天正一〇年(一五八二年)、ヴァリニャーノが遣欧少年使節を連れて日本を発った後の有馬での話に、「(略)メリケン粉で聖体パンがいろいろ考えて作られ(以下略)」(第一〇巻)とある。言うまでもなく、メリケン粉とは小麦粉のこと。また前述の山口の残された家の窯はパンを焼いた窯である。「台所の近くには以前時々パンを焼いた窯があった」(第一一巻)とある。また次の記述もある。「そこには司祭たちが横瀬浦から携えて来た衣服や食料品が入っていた。それらの品々はポルトガル人が翌年シナから定期船が来るまで司祭たちがそこでその年を過ごせるようにと、彼らに与えた施し物であった」(第九巻)。食料品の中には当然、パンがあっただろう。パンは焼きあがったパンの形で定期船で届けられる場合のほか、右の引用のように窯で焼いているわけだから、小麦粉の形でもたらされる場合もありえた。さらに日本で収穫された小麦から小麦粉をつくりパンを焼いた可能性もある。「米や小麦の貯蔵室」(第一一巻)、「司祭館が必要とした菜園に水をやることができた」(第九巻)などの記述を読むと、宣教師たちは自ら小麦を育てて、小麦粉を手にし、パンを焼いていたかもしれないと思われるが、分からない。
パンが海外から持ち込まれ、貯蔵されたものが必要に応じて使われたように思われるケースが、次の例だ。「ゴンサルヴェス師は、その他の果物など(中略)大変な御馳走だとして私たちのところに二個のパンを持って来てくれましたが、それは誰も割ることができないほど堅く、また重いもので、ひどくかびだらけで食べることができませんでした」(第一〇巻)。
イエズス会は言うまでもなく修道会の一つである。生活に必要なものは出来る限り自給していたはずである。そう考えるとパンを、小麦を育てて作っていたかもしれない。ではぶどう酒はどうであったろうか。修道会とワインの関係について『ワインと修道院』の著者デズモンド・スアードは次のように言っている。
修道会のワインづくりと蒸留酒づくりに対する貢献が、正しく評価されることはほとんどない。蛮族の侵入がローマ帝国を破壊したとき、ブドウ栽培やワインづくりを救ったのは、修道士たちであった。また、暗黒時代を通して、ブドウの質を徐々に、忍耐をもって改良するだけの安全性と資力を確保しえたのは彼らだけであった。(中略)
どの時代であれ、ブドウの栽培が可能な地域にあるときには、修道院は近くにブドウ畑を所有し、栽培を行っていたと確信してもよいだろう。
それでは日本でも栽培していたと確信してよいだろうか。宣教師のジョアン・ロドリーゲスは「シナにも日本にもさらにこの東方には葡萄園がなく、葡萄の実で造った酒もない」(『日本教会史』)という。しかし、日本の野生の植物を説明する箇所で、次のように述べている。「叢林には野生の黒い葡萄の一種があるが、日本人はそれを食べていなかった。もしそれから葡萄酒を造るならば、味にしても発酵の工合にしても、やはり真の野生の葡萄である。また、ローマにおいてこの地に関してみとめられた情報によれば、エウロッパから来る葡萄酒の不足から――これはすでに起こったことであるが――野生のものから造った葡萄酒で弥撤(ミサ)をあげてよいとの判断が下されたのである」(同書)。つまり日本の野生の葡萄からできた葡萄酒をミサに使えるとなれば、日本でワインを造ったのではないかと想像されるが、果たしてできたのか、できなかったのか、これも不明である。
フロイスの『日本史』には次のような話が見られるだけである。ミサ用のぶどう酒について、「この品は、ポルトガルからインドに、インドからシナ(マカオ)へ、そしてマカオから日本にもたらされた」(第一一巻)とあるのと、「司祭は、(中略)ビスケットと塩漬けのマンゴーと少量のぶどう酒で満足していた」(第一〇巻)とあるぐらいで、ワインは貴重品であったろうということと、宣教師たちが日常の生活でワインを飲んでいたことが分かるだけある。貴重品だけに贈り物として使われた話がある(第五巻)。秀吉が博多でフスタ船を見学したときに、帰りにポルトガルの葡萄酒を(土産物として)持ち帰るように言われたことが、記されてもいる(第一巻)。
日本人もワインを飲んでいたのではないかと、思われるのが、すでに紹介した『時慶卿記』に出てくる。時代は少し下るが、元和元年(一六一五年)七月十五日に弥兵衛が南蛮酒を双瓶持参したという記事があるそうだ。
五 宣教師と贈り物
宣教師が日本の社会をみて強く感じたことの一つが、他人の家を訪れるときに贈り物を持参する習慣である。現代でもわれわれが人を訪問するときに何を贈ればよいか頭を悩ます問題で、すでにこのときに手ぶらで人を訪ねないという風習が出来上がっていた。
ヴァリニャーノは第一次の日本巡察を終えインドに戻る直前の一五八一年、日本で布教を進める上で、イエズス会士が心得ておくべき日本の習俗と気質についてまとめた『日本イエズス会士礼法指針』という小冊子を著している。
「日本の習俗と気質に関する注意と助言」と題して七章に分けて記している。その第六章に「使者、または敬意を払う資格のあるその他の人を迎える際にとるべき方法並びに行わなければならない宴会と贈物について」で日本での贈物の習慣について詳しく述べている。その内容をまとめて紹介する。
贈物の種類については、食べ物か、反物か、その他これに類似したものである、としてそれぞれの注意点を述べていく。食べ物は五段階に等級を分けている。一番低いものは、魚とか果物とかいったある種の肴と一緒に四つの瓶の酒、ないし一本の徳利の酒を送ることである。以下、順に四番目までのいわば詰め合わせセットの説明をしている。そして最高級のものは、南蛮のある種の貯蔵食料ないし食べ物であるという。現代と同じで舶来ものが高級なわけである。五等級に分けられた品々は、相手の地位に応じて送るべきだとしている。地位の高い屋形や大領主に贈るときは、彼らに好意を懐かせ、打ち解けさせるために、その人たちの好むもの、信長並びに豊後の王にしているように、南蛮風の何かを贈るのだ、としている。次いで反物の場合では、相手の地位や依頼する用件に応じて贈物の等級を決めろという。そのときも絹の反物や白木綿、陶磁器などの商品と見られるものは贈るなとか、贈物の品数とか、こまごまと注意点を述べている。
では実際、宣教師が誰にどのような贈物をしたのか、フロイスの『日本史』でみてみよう。
山口で布教の許可を得ようとして、ザビエルが大内義隆に送った品々は、精巧に作られた時を告げる時計、三つの砲身を有する高価な燧石の鉄砲、緞子、非常に美しい結晶ガラス、鏡、眼鏡などの一三品目、いずれもこの地方にはない珍しいものばかりである。国主は非常な満足の意を表し、布教の許可は得られた(第六巻)。
大村純忠が宣教師トルレスの家を食事に訪れた際、都にいるヴィレラから彼に送られた金扇を贈っている。この扇にはJESUSの銘とその上に十字架と三本の釘がついていた。純忠がこの銘の意味を聞いたとある(第六巻)。またトルレスが、ポルトガルの総司令官が純忠の改宗を喜んでいることを彼に知らせるために、総司令官に贈らせた物は、金塗りの寝台、琥珀織りの敷布団、ビロードの座布団、ベンガル絹の寝台カバー、ポルトガルの葡萄酒入りの大きい網瓶、愛玩用の子犬などであった。本来はこれらの品々のうち一品か二品を送る予定だったのが、全てを贈ってしまったという(第七巻)。度島の教会が焼けたとき、焼け残った日本の殿たちへの贈物には、国王ドン・ジョアン三世の食器類であった非常に高価なガラス器が半樽分あった(第九巻)。
豊後国主の使者とともにインド副王のもとに赴いて、国主にあてた高価なエスペラ砲を携えてフランシスコ・ペレイラは来ている(第九巻)。
巡察師ヴァリニャーノは、竜造寺氏との戦いで有馬鎮純が困難に陥ったとき、食料、いくらかの銀、鉛と硝石を提供した。イエズス会が国内の戦でキリシタンの側の援助をした例である。またコエリョは有馬鎮純を激励しようと、教皇グレゴリオ一三世が送り届けてきた、金と七宝の最良の聖遺物入れの一つを、聖堂でしかるべき儀式とともに与えている(第一〇巻)。
フロイスが都で信長の許に伺候したとき(一五六九年)の贈物は、非常に大きいヨーロッパの鏡、美しい孔雀の尾、黒いビロードの帽子、ベンガル産の籐杖で、いずれも日本にはない品であった。しかし信長は贈物のうち三つを返し、帽子だけを受け取った。このとき信長はフロイスと直接話すことはなかった。その理由を信長は次のように述べたという。「(略)実は予は、この教えを説くために幾千里もの遠国からはるばる日本に来た異国人をどのようにして迎えてよいか判らなかったからであり、(略)世人は、予自身もキリシタンになることを希望していると考えるかも知れぬと案じたからである」(第四巻)。
都での滞在を許可するという信長の允許状のお礼の際、精巧な小さい目覚まし時計を携行し、信長に見せたところ大いに感嘆し、献上するという申し出には、「予は非常に喜んで受け取りたいが、(受け取っても)予の手元では動かし続けることはむつかしく、駄目になってしまうだろうから、頂戴しないのだ」と言ったそうである(同)。
司祭(フロイス)が公方様を訪問するとき、持参できるものがなかったので、蝋燭の美しい一束を彼に進呈することにした。それは日本にない品だったからだという。しかし引見されないので、和田惟政の勧めで、信長に見せたあの小さな目覚まし時計をとって来させて、公方様に見せると、その説明にお前に召されたという(同)。
フロイスの手元にある、珍しい玩具、撚糸布、緞子、シナやインドからもたらされた他のそうした品々のなかから、いくつかを和田惟政に贈ると、彼は自分には必要ないから、他のだれそれに贈ればいいと教示したという。カブラルから和田惟政に、金の紐がついた緋のビロード帽が贈られ、彼はこの帽子に合わせて作った鉄兜のうえに付け加えていたそうである(同)。元亀四年(一五七三年)、信長と足利義昭の争いの際、フロイスは信長の陣営に小西立佐を通じて、塗金の円楯を献上した。日本では珍奇で、重宝なものであったので信長の満足は格別だったとある。その後、やはり立佐を通じて一瓶の金平糖を贈ったところ、信長は円楯以上の満足を示したという(同)。また信長は地球儀を前にして、司祭のオルガンティーノとロレンソ修道士とキリシタンの掟や彼らの航海について、話しを聞き、彼らの勇気に感嘆の色を見せたという(第五巻)。
ヴァリニャーノが信長を訪問した際(一五八一年)、日本では珍品の金の装飾を施した濃紅色のビロードの椅子を信長に贈る。都での馬揃えのとき、信長はそれを四人に担がせて自分の前を歩かせ、馬から下りて一度、これに座った。それからヴァリニャーノは安土を訪ね、そこを去るとき、信長は屏風を記念に贈った。これは天皇から望まれても譲らなかったほどの信長お気に入りの屏風であった。それは一五八五年、遣欧少年使節から教皇グレゴリオ一三世に献呈された(同)。
天正一四年(一五八六年)、司祭のコエリョが秀吉に謁見する前に関白夫人らに多くのものを贈っているが、ただ一つ、関白夫人へはシナの刺繍した短袴(サーロ)を贈っていることが判る(第一巻)。翌年のフロイスの秀吉への贈物のうち、二本の大きくて太いインド産の伽羅木が気に入られている。九州征伐の際、肥後八代でコエリョとポルトガル人らが謁見したときの贈物は、生糸、絹撚糸、黄金塗りの器物等である(同)。秀吉が、博多でフスタ船から降りる際に、秀吉の帽子があまり上等でないので、コエリョは、金色の紐がつき、ダマスコ織で黄色のビロードの新しい帽子を贈呈した(同)。喜んでさっそく着帽して帰ったというが、そのあとに伴天連追放令が出るとは夢にも思わなかったろう。
天正十九年(一五九一年)にヴァリニャーノはインド副王の使者という資格で、ローマから帰国した遣欧少年使節とともに秀吉に謁見する。このときのヴァリニャーノの通訳を勤めたのが前出のジョアン・ロドリーゲスである。ここで、少年使節が持っていたものは、地図、航海図、地球儀、観象儀、時計、珍しい書籍、少年使節の衣服(教皇からの贈物)である。そして四人の少年使節による楽器の演奏が行われた。楽器はクラヴォ(チェンバロ)、アルバ(ハープ)、ラウデ(リュート)、ラヴェキーニア(ヴァイオリン)で、演奏された曲の一つは「皇帝の歌」という(第二巻の注)。インド副王からの贈物は、ミラノ製の白色の甲冑、すべて銀で一部塗金したすこぶる立派な飾り具付の衝剣、日本では珍稀な鉄砲、トゥラサード、日本では初めて見られる油絵の掛布、アラビア馬、馬具、非常に美しい野戦用の天幕であった。このような遠国からの新奇な贈物に秀吉は絶大な喜悦の程を示したとある(第二巻)。
この頃(一五九三年頃)、ポルトガルの衣類を身に着けるのが流行った。多くの諸侯は、種々のカーバの軍装、肩掛けマント、襞衿衣、半ズボン、縁なし帽などを持っていた。秀吉が都に向かって名護屋を発つとき、名護屋にいる人々は市と政庁を挙げて、ポルトガル風の衣装をまとって彼に随伴したという(第五巻)。
贈物関連の件を列記してきたが、信長や秀吉という大権力者に贈るものであるから、ほとんどが南蛮ものである。南蛮ファッションが流行したそうであるが、ビロード製の赤や、黄色、黒の帽子が好まれたようで、日本にない珍しいものが喜ばれたのは、今と変わらない。
六 おわりに
フロイスは、『日本史』を「(老)関白殿が命じた幾つかのこと 一五九三年」を最終章にして、記述を終えている。その後の日本で起こったキリシタン弾圧に遭遇することなく亡くなったことは、彼にとっては幸せなことであったといえよう。慶長一九年(一六一四年)、日本人キリシタンの数は約三七万人と推定される(『日本キリスト教史』)。当時の人口を約一二〇〇万人とすれば(『人口から読む日本の歴史』)、キリシタンの比率はおおよそ三%になる。現在(平成一九年)は、キリスト教系の信者数が二一四万人強、その比率は約一・七%である(文化庁『宗教年鑑・平成二〇年版)。人口比で現在の二倍弱という布教成果を挙げていた。しかしキリシタン弾圧により多くの人々が棄教し、一部の人は隠れキリシタンとなり、日本の社会からキリスト教は姿を消した。
フロイスをはじめとして日本に来た宣教師たちが眼にした当時の日本人は、現代の日本人によく似ていた。既述のようにポルトガルのファッションが好まれた。キリシタンでないのにロザリオや十字架を欲しがり、ローマ字入りの印章を用いたりして、南蛮文化がもてはやされたという。秀吉(老関白殿)が南蛮の衣服を好んだことは良く知られている。人を訪ねるときには贈物を欠かさず、特に南蛮渡来の珍しい品は珍重され、喜ばれた。一部の人であるけれど牛肉をうまいと食べていたのは、明治初期に牛肉を使ったすき焼きが人気を集め、文明開花の象徴になったことを思い起こさせる。もちろん、このような風俗も弾圧とともに日本の社会から消え去ったことは言うまでもない。
この時代の日本人の国際化を考えるとき、「珍しさ」という言葉が一つのキーワードになるだろう。異国の珍しいことに非常な興味、関心を見せる。宣教師は、ルネッサンスを経たヨーロッパで教育を受けた人々でもあった。合理主義的な考えを持ち、地球が丸いということを理解している人々であった。布教の際、自然科学の知識をもとに彼らが行った天体の運行や自然現象の説明は、当時の日本人を驚かせ感嘆させた。しかし、その説明は珍奇な話であったから、多くの人が聞きたがり、宣教師を質問攻めにしたのであって、恐らく、その内容については表面的な受け止めに終わり、彼らの説明の背後にある科学的なものの見方にまでは、理解が及んでいなかったと思われる。
珍しいから関心を寄せるというのは、逆の言い方をすれば、珍しくなくなれば関心が無くなり、次の珍しいものに関心が移るということになる。
一度消え去ったキリスト教をはじめとする西洋文化と、日本人が本格的な付き合いを再開するのは、フロイスの『日本史』の記述が終ったときからほぼ二七〇年後のこととなる。それから現代まで続く西洋文明の摂取についてみるとき、「珍しさ」が依然キーワードになるものなのかどうか、それはあらためて考えてみたい。 
 
天正少年使節 信仰と政治に翻弄された少年たちの生涯

 

天正少年使節(天正遣欧少年使節)
天正10年(1582)、九州のキリシタン大名である大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年(伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)を中心とした使節団で、日本でのキリスト教布教の支援をローマ教皇から得ることを目的としていた。しかし、出立から8年後、帰国した彼らを待っていたのは、豊臣秀吉による伴天連追放令だった………
信長お気に入りの男・ヴァリニャーノ
天正9年(1581)の『イエズス会日本年報』に信長が安土城の屏風を描かせたという記録がある。
「約1年前日本の最も著名な画工(狩野永徳)に命じて、新京(安土)と其城(そのしろ)の絵を少しも実際と相違なく、湖水(琵琶湖)諸邸宅その他一切を有りのままに描かせた。(中略)完全な作品であり、著名な画工が非常に努力して絵を描いたものである故、信長は大いに満足してこれを珍重した」
狩野永徳に描かせたこの屏風はみごとな出来栄えであったらしく、これを見るために大名や京・堺の人々が続々と安土城を訪れたという。また、朝廷からは、是非ほしいと所望されたが、信長は献上しなかった。そして、誰にもわたさなかったこの屏風を、信長は、イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノにあたえた。
日本に来たヴァリニャーノは、真夜中に床につき、午前3時には床を離れて働きはじめるという旺盛な布教活動をつづけた。若いころ刃物で女性を傷つけたことがあり、以来、厳格に禁欲的な信仰の徒として生きていた。神の存在など信じていたとは思われない信長とは対照的な人物である。
が、信長は、この軀の大きな5歳年下のヴァリニャーノに対して好感を抱いていた気配である。世俗的になりすぎていた日本の仏僧への反発が強かったこともあるが、それ以上に初対面以来ヴァリニャーノの潔癖な生き方に共感と親密感を抱いたように感じられる。
というのも、信長はヴァリニャーノに安土城下にセミナリヨ(小神学校・初等教育機関)と修道院を設立する許可を快くあたえた。その設立に高山右近が協力して開校すると、生徒がたちまちのうちに25名集まった(『日本史』フロイス)といわれる。
また、ヴァリニャーノが日本を離れるときがちょうどお盆で、信長は安土城天守閣を色とりどりの提灯で飾りつけ、松明を持った群衆を整然とならばせておいて城と城下町の灯火をすべて消させ、真の闇をつくり、一斉に火を点じて光のページェントを行った。それはみごとに美しく「司祭、神学校の子供たちが寛ぎながら(神学校の)窓から(祭りの)火を眺めた」という。
セミナリヨは安土城の天守閣のそれとおなじ青い瓦で葺かれた3階建てで、すでに肥前の島原半島に建てられていた有馬晴信の日野江城下(長崎県南島原市北有馬町)のセミナリヨと同じ様式の建物で有馬と同じ規約と規則で運営され、同じ時間割で授業が行われた。
長崎から車で橘湾(千々石湾)に沿って走って愛野、千々石を経て小浜に向かい、さらに海沿いの道を南下して加津佐、口之津へ。
口之津はなんの変哲もない漁港だが、そこはヴァリニャーノが上陸し、日本布教の方針を定めた「口之津会議」が開かれ、南蛮船が往来した国際的なウォーターフロントであったことを知る人は少ない。また、湿地帯や田圃の残る口之津の唐人町がかつて港としてにぎわったことを知る者はさらに少ないだろう。
だが、ここからすぐ近くの、口之津と同じような小さな漁港である加津佐で、日本ではじめての活版印刷が行われ、異国の珍奇な品物やパードレ(神父)が南蛮船で往来していた。
口之津から右手に湯島(談合島)を眺めながら海岸道路を島原市方面に向かうと、間もなく原城である。整備されて公園になっている城跡から眺望できる有明海と天草は美しい。
原城には天草四郎を首領とするキリシタン大名の残党、信徒、女子供など3万7000人が籠城した。寛永14年(1637)の島原の乱である。陸からは幕府軍、海からはオランダの艦船に攻撃され、全員が虐殺された。
原城跡から有馬の日野江城跡へ行く。
北有馬の農家の脇から細い道をのぼって行くと、戦国時代の石畳がそのまま残っていて、やがて畑に出る。僅かだが石垣が残っている。典型的な平山城の跡である。
城主・有馬晴信の居館は、華麗なものであった。
「広間の長さは20バーラ、幅10バーラ(1バーラは84センチ)であった。(中略)床はえんじ色のビロウドの縁をつけた畳がしきつめてあった。天井は白いヒノキで何の飾りもなく、紙のすべり戸(襖)には金色やひどく薄い青色を使って、何千という薔薇の花やまるで本物のような遠景の山。冬をあらわしたものでは、雪をかぶった山脈(中略)池には幾羽かの鴨が泳ぎ、手もとにやってくるほど馴れていた」
いまではこうした栄華の痕跡は残されてはいないが、ここは日本におけるキリスト教史を考えると、きわめて画期的な出来事があった場所なのである。それは、ヴァリニャーノがこの日野江城の城下にもセミナリヨを建てていたということである。
先に述べた通り、このセミナリヨで、生徒たちは次のような時間割に従って学んだ。
   起床と祈り    4時半
   ミサ         5時〜6時
   独習        6時〜7時半
   宿題        7時半〜9時
   食事・休養    9時〜11時
   日本語の読み書き 11時〜2時
   音楽        2時〜3時
   ラテン語      3時〜4時半
   夕食・休養    5時〜7時
   復習        7時〜8時
   反省と就寝    8時〜
高度な学問がまだ幼さを残した少年たちに教えられたのである。16世紀に、すでに彼等はラテン語を話し、オルガンやギターを演奏し、哲学まで論じあっていた。
選ばれた4人の少年
ヴァリニャーノはローマに使節を派遣する計画をたてた。天正少年使節である。
   伊東マンショ(13歳=出発時・以下同じ)
   千々石(ちぢわ)ミゲル(13歳)
   中浦ジュリアン(14歳)
   原マルチノ(13歳)
この4人の少年たちがリスボン港を守るベレンの塔の美しいたたずまいを目にしたのは天正12年(1584)8月10日のことであった。
少年たちは水の流れをさかのぼる船の甲板に立って、目の前に横たわっているヨーロッパの風景を見つめながら、2年半の歳月を思い出さずにはいられなかっただろう。それは、ただの長い海の旅ではなく、神を求める旅であった。日本語のうまいディオゴ・メスキータ神父に引率されていたし、ラテン語もかなり勉強していた。闘志も意欲もあったし、あつい信仰心もあった。しかし、帆柱よりも高い波、焙るような日ざしの下の、油凪に凪いだ海、赤痢、岩礁、風、すべてが凶暴な敵であった。たとえばサルガッソ海では33名の乗組員が病に倒れて亡くなった。旅は神を求める旅であると同時に、皮膚が死とじかに触れあっている旅でもあった。
ポルトガルに到着した少年たちは、イエズス会の取りはからいでリスボンの教会や、美しいシントラの城を訪れ、仮装舞踏会に招かれた。
エヴォラの大聖堂では、マンショとミゲルがパイプオルガンを弾いた。
荘厳なミサと晩餐会、テージョ川の舟遊び、貴族の館で催される歓迎の式典、祈りと石畳を蹴って走る馬車の馬の蹄鉄の音。彼等はグアダルペを訪れ、国境を越えてトレドへ。トレドからマドリッド。マドリッドでは国王フェリペU世に謁見し、駐ローマ・オリバレス大使宛ての「提供さるべきあらゆる事どもに援助せんことを卿に依嘱す」という最大級の礼をつくした親書を得ることもできた。
やがて、スペインの明るい港町アリカンテから5000トンの軍艦でイタリアに向かった少年たちは、天正13年(1585)3月1日にリヴォルノの港に到着した。
4人は下船すると、ひざまずいてイタリアの土に額を近づけた。あこがれのローマに近づいたからである。
ピサ、フィレンツェ、シエナを経由したところで少年たちは教皇グレゴリオ13世から遣わされた約300名の騎兵に迎えられ、彼等に護衛されてビテルボを通過し、カプラロラに着いた。
そして、3月22日の夕刻、ローマに着いてイエズス会本部(ジェス教会・修道院)で旅装を解いた。日本の長崎の大波止を出発してから、実に3年1か月が経っていた。
現代の私たちにはそこはイタリアの首都にすぎないが、少年たちにとっては「至聖の都」であった。
翌23日、少年たちは衣装を整えた。
「使節は各々、臍の辺りまで下がった緊束した有袖短外套を上に羽織り、上部より足にいたるまで皺がよった襞のある寛闊な長袴をはき、これを臍の辺りで堅く結んでいる。この服は、繊細な絹糸をもって織りなし、巧妙な技芸による絹製品で、数多の色で花鳥を現したり、金糸をもって織り出した花枝は、まるで生きているようであり、綺羅を点じ、巧妙を極め、おそらく我が国人の中、何ぴともこのような妙工を想像し得る者はないであろう。なお使節は湾曲した剣と小刀を腰に帯び、頭上には美しい紋飾りの帽子をかぶっている」
その姿は、ヨーロッパ人の目には奇妙に映じたようだ。事実「この衣服は大して立派とは言い得ず、道化役者の服に似ている」と思った者もいた。しかし、そのいでたちで少年たちはバチカンの丘へ向かった。
使節団の経路
1582年(天正10年) 2月20日 長崎港を出港。
      3月 9日 マカオ着。ゴア行きの船に乗換え、風待ちのため滞在。
1583年 12月20日 マラッカを経てゴアに着。
1584年 8月10日 リスボンに到着。サン・ロッケ教会に宿泊。
           リスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿に宮殿で接見。
      11月25日 スペインへ入りマドリードで国王フェリペ2世の歓待を受ける。
1585年 3月 1日 地中海マヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、
           トスカーナ大公国に入る。
      3月 2日 午後1時にピサに到着。
           ピサ宮殿にてトスカーナ大公フランチェスコ1世に謁見。
           その晩、舞踏会に参加。ピサでは斜塔や大聖堂を訪れる。
      3月 6日 サン・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会で聖ステファノ騎士団見学。
           灰の水曜日にあたりトスカーナ大公とともにミサで灰の塗付を受ける。
      3月 7日 フィレンツェに到着。ヴェッキオ宮殿に宿泊。
      3月11日 フィレンツェ近郊にあるプラトリーノの別荘ヴィッラ・デミドフに滞在。
      3月23日 ローマに行き教皇グレゴリウス13世に謁見。
           ローマ市民権を与えられる。
      5月 1日 グレゴリウス13世の後任のシクストゥス5世の戴冠式に出席。
      6月 3日 ローマを出発。ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどを訪問。
1586年 4月13日 リスボンを出発。日本への帰路につく。
1587年 5月29日 ゴアに到着し待受けていた ヴァリニャーノ に再会。
           原マルティノはコレジオで演説をする。
           この年国内で5月に大村純忠、6月には大友宗麟が相次いで死去。
           7月秀吉のバテレン追放令発布とキリスト教に逆風が吹き始める。
1590年 7月21日 使節団帰国。長崎に帰港。
1591年(天正19年) 3月 3日 特別に許可され聚楽第で秀吉と謁見。
           西洋で学んだ ジョスカン・デ・プレの曲 を演奏する。
天正遣欧使節の帰国後の4人
日本人キリシタンのリーダーとして、大勢の信者を導く責任を背負いつつ、秀吉、家康ら権力者による苛烈な弾圧に向き合い続けることになる。途中で不運にも病死する者(伊東マンショ)、教団から去る者(千々石ミゲル)、海外に避難する者(原マルチノ)、最期まで残り続ける者(中浦ジュリアン)、4人の遣欧少年使節たちはその後の人生をひたむきに生きた姿を番組は語ってくれた。
伊東マンショ (1569頃 - 1612)
伊東マンショは大友宗麟の縁戚にあたり、遣欧使節では大友宗麟の名代として主席正使をつとめた。帰国後の天正19年(1591)、マンショら4人は聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたため、それを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。文禄2年(1593)他の3人と共にイエズス会に入会した。
慶長6年(1601)には神学の高等課程を学ぶため、原マルティノ、中浦ジュリアンとともにマカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。彼らが目指したのは「司祭」になることだった。キリスト教では、罪を犯した信者が天国に行くには、自分の犯した罪を告白し、「許しの秘蹟」を受けなければならない。司祭になれば、キリストになり代わって許しの言葉を与える権限を持ち、「許しの秘蹟」をおこなうことができる。慶長13年(1608)、3人はそろって司祭に叙階された。
マンショは小倉を拠点に活動していたが、慶長16年(1611)に領主・細川忠興によって追放され、中津へ移り、さらに追われて長崎へ移った。長崎のコレジオで教えていたが、慶長17年(1612)11月13日、43歳で長崎にて病死した。
伊東マンショの肖像画がミラノのトリヴルツィオ財団に残っている。遣欧使節は天正13年(1585)にヴェネツィア共和国を訪問している。その折、共和国元老院が4人の肖像画をヤコポ・ティントレットに発注した。その息子のドメニコ・ティントレット(1560〜1635)が完成させたものがこの肖像画とみられている。昨年5月、東京国立博物館で世界で初めて公開された。
千々石ミゲル (1569 - 1633)
本名は千々石紀員(ちぢわのりかず)といった。肥前国領主千々石直員の子で、大村純忠の甥、大村喜前(よしあき)及び有馬晴信の従兄弟にあたる。天正8年(1580)にポルトガル船司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として洗礼を受け、千々石ミゲルの洗礼名を名乗る。これを契機に、有馬のセミナリヨ(イエズス会の神学校)で神学教育を受け始める。
遣欧使節の正使としてローマから帰国後、司祭叙任を受けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続け、文禄2年(1593)に他の3人と共にイエズス会に入会した。だが千々石は次第に神学への熱意を失ってか、勉学が振るわなくなり、また元より病弱であったために司祭教育の前提であったマカオ留学も延期を続けるなど、次第に教会と距離を取り始めていた。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。
慶長6年(1601)、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。棄教と同時に洗礼名を捨てて千々石清左衛門と名を改め、伯父の後を継いだ従兄弟の大村喜前が大村藩を立藩すると、藩士として召し出される。大村藩からは伊木力(いきりき、現在の諫早市多良見地区の一部)に600石の領地を与えられる。
千々石は棄教を検討していた大村喜前の前で公然と「日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押ししている。そのため、親キリシタン派からも裏切り者として命を狙われた。彼の晩年は現在も謎に包まれているが、領内で隠棲したものと考えられる。寛永10年(1633)死去。平成15年(2003)、伊木力にて、ミゲルの息子・千々石玄蕃によって立てられた石碑が発見され、それが「ミゲルの墓」ではないかと言われている。
原マルチノ (1569 - 2629)
大村領波佐見出身で、4人の少年の中では最年小だった。両親共にキリスト教徒であり、司祭を志して、有馬のセミナリヨに入った。帰国して、聚楽第で他の3人と秀吉に謁見した後、司祭になる勉強を続けるべく天正19年(1591)に天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。文禄2年(1593)、他の3人と共にイエズス会に入会した。
慶長6年(1601)には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った。慶長13年(1608)長崎で司祭となり、布教活動を行うが、徳川幕府の禁教令によりマカオに脱出。慶長19年(1614)、江戸幕府によるキリシタン追放令を受けて11月7日マカオにむかって出発した。
マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行い、マンショ小西やペトロ岐部らがローマを目指した際には援助した。寛永6年(1629)10月23日、マカオで病死。遺骸は(正面のファサードのみ残る)マカオの大聖堂の地下に生涯の師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られた。
中浦ジュリアン(1568頃 - 1633)
肥前国中浦の領主・中浦甚五郎の子で、司祭を志して有馬のセミナリヨに学んでいたとき、イエズス会の巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノに見いだされ、天正遣欧使節の副使に選ばれた。ローマへ向かった使節たちはローマ教皇・グレゴリウス13世と謁見したが、ジュリアンだけは高熱のために公式の謁見式には臨めなかった。しかし「教皇様に会えば熱もたちどころに治る」と教皇への目通りを切望するジュリアンの願いを聞いたある貴人の計らいで、ジュリアンのみが教皇と非公式の面会を果たした。
帰国後の天正19年(1591)、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。文禄2年(1593)7月25日、他の3人とともにイエズス会に入会した。慶長6年(1601)マカオで神学を学び、慶長9年(1604)長崎に戻る。慶長13年(1608)、司祭となる。
慶長19年(1614)の江戸幕府によるキリシタン追放令の発布時は、殉教覚悟で地下に潜伏することを選び、九州を回りながら、迫害に苦しむキリシタンたちを慰めていた。二十数年にわたって地下活動を続けていたジュリアンであったが、寛永9年(1632)ついに小倉で捕縛され、長崎へ送られた。そして翌寛永10年(1633)10月18日、イエズス会のクリストヴァン・フェレイラ神父らとともに穴吊るしの刑に処せられた。
最初に死んだのは中浦ジュリアンで、穴吊るしにされて4日目の10月21日であった。65歳没。役人に対し毅然として「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と最期に言い残したといわれている。
フェレイラ神父は穴吊るしの刑に耐え切れず棄教して沢野忠庵を名乗り、日本人妻を娶った。以後は他の棄教した聖職者、いわゆる転びバテレンとともにキリシタン取締りに当たった。
 
日本初のグーテンべルク印刷機の歴史的意義

 

1 .グーテンべルク印刷機とは
ドイツで誕生したグーテンベルク印刷機は、1586年に天正遣欧使節団の帰国船にその一台が乗せられて、4 年後、印刷機は日本に荷揚げされた。これは日本に伝来した初めての西洋式印刷機である。
1398年、ヨハネス・ゲンスフライッシュ・グーテンベルクはドイツの古い貴族の家に生まれた。当時、ドイツでは写本による出版を盛んに行っていたが、彼は活字印刷の発明に努力していて、金属製の鋳型やそれに適する油性インクの製作に取り組んでいた。そしてライン地方で用いられた葡萄搾り機にヒントを得て、平圧式印刷機を発明した。グーテンベルクの印刷技術そのものは1440年前後には、かなりいい線までいっていたようである。その後、金属活版印刷術はドイツ国内、そして全ヨーロッパに広まった。初期の印刷機開発者たちはグーテンベルクをはじめ、すべて写本時代のぺんがき手写体文字にそっくりのゴシック体を用いていたが、グーテンベルクの弟子であるニコラス・ジャンソンはベネチアン系ローマン体を発明した。その後(1494年頃)、アルダス・マヌチウスにより、斜めに傾いたイタリック体という書体が発明された。
本章では、日本に持ち込まれたグーテンべルク印刷機を研究対象とし、その購入の背景、日本に到着するまでの過程、そして売却されたところまでの状況を考察する。
2 .グーテンべルク印刷機と天正遣欧使節団
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539−1606)はイタリア人で、1566年にイエズス会に入会した。1573年、彼は東洋地域を回る東インド管区の巡察師に選ばれた。1579年7 月25日に布教状況を視察するため、ヴァリニャーノは日本に到着し、1582年2 月20日にその使命を果たして離日した。これはヴァリニャーノの1 回目の日本巡察であった。この1 回目の大きな成果として、日本の使節団がローマに派遣されることになった。この派遣は日本史上において初めてのヨーロッパ訪問である。
使節団は合わせて10人ぐらいで、使節の中心は4 人の少年であった。その4 人は伊東マンショ(14歳・正使)、千々石ミゲル(13歳・正使)、中浦ジュリアン(14歳・副使)、原マルティノ(12歳・副使)である。4 人とも有馬のセミナリヨで学習し、キリシタン大名の大友宗麟、大村純衷、有馬晴信の親族の出身として使節に選ばれた。使節4 人のことを簡単に表1 でまとめている。
(表1)
 氏名 出身地 没年 没地
 伊東マンショ 日向 1612年 長崎
 千々石ミゲル 千々石 1606年 棄教
 中浦ジュリアン 彼杵 1633年 長崎
 原マルティノ 波佐見 1629年 マカオ
そして、随員は次の通りである。
(表2)
 ジョルジェ・ロヨラ修道士 使節の教育係、日本人。
 コンスタンチノ・ドラード 印刷技術習得要員、日本人少年。
 アグスチーノ 印刷技術習得要員、日本人少年。
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 ローマへ随行するつもりだったが、職務によってゴアにとどまる。
 ヌーノ・ロドリゲス神父 ヴァリニャーノの後をついで一行に従う。
 ディオゴ・メスキータ神父 通訳、イエズス会員。
 ロレンソ・メシア神父
 オリヴィエーロ修道士
1582年2 月20日に天正遣欧使節団はヴァリニャーノ神父と一緒に長崎を出帆したが、1583年11月、一行はインドのゴアに到着した後、ヴァリニャーノは仕事でゴアに留まることになった。そしてディオゴ・メスキータ神父がヴァリニャーノに少年使節の案内を命じられた。
ヴァリニャーノは、日本のコレジヨやセミナリヨには教科書の印刷が必要であると感じ、使節団の派遣とともに印刷機の購入もすでに計画していた。しかし、ゴアに滞在にすることになったため、印刷機の件も使節団と一緒にメスキータ神父に任せた。1584年12月25日、ヴァリニャーノはゴアからメスキータ神父に手紙を送り、印刷機を購入することを命じた。加えて、片仮名と、若干の漢字の字母を造ることを依頼した。その手紙の内容は次の通りである。
「 日本の片仮名と、仮名と一緒に普通用いられる若干の漢字を注文するという考えをまだ持っていられると思います。フランドル地方に、これらの文字を送って注文すれば、容易にできると思います。日本でそれは非常に価値のあることです。難しい本を片仮名で書くことはできなくても、字母があれば、たくさんのものを印刷することができます。それは女子供や、一般民衆のため有益ですが、教会にとっても大いに役立ちます。神父様がこのことを忘れでないなら私はそれらの字母をポルトガルで手に入れて持って来て下さるように希望します。ポルトガルで入手できなければ、フランドル地方で造らせて下さい。その場合、片仮名の写し四、五通と、仮名に混ぜて普通用いられる若干の漢字を世話係の神父様に言付けていただきたいと思います。」
なお、1586年12月22日付のヴァリニャーノ宛ての手紙によると、使節に随行した日本人たちがポルトガルで活字の原型製作の技術を学んでいることが分かる。日本人たちとはおそらく使節の随員のジョルジェ・ロヨラ修道士、コンスタンチノ・ドラード、アグスチーノの3 人のことであろう。彼らは出発前の四ヵ月余りの期間を利用して、ポルトガルのリスボンで活字印刷の技術を学んだ。3 人の中には、特にコンスタンチノ・ドラードはキリシタン版と終始行動を共にした優秀な技術者として名高い。
1586年4 月12日に、遣欧使節団はリスボンを出航し、帰路についた。その船にはメスキータ神父が購入したグーテンべルク印刷機が1 台乗せられていた。
3 .ゴアやマカオにおけるグーテンべルク印刷機
1586年9 月1 日に、遣欧使節団一行はモザンビークに入港、翌年3 月15日に同港をあとにし、5 月29日にゴアに到着した。そこで使節団はヴァリニャーノと再会した。6 月4 日に、原マルティノは皆を代表して、ヴァリニャーノへの感謝も兼ねて、ラテン語でヨーロッパでの旅に関する報告を演説した。その演説原稿はリスボンで購入したグーテンべルク印刷機によって、印刷されたものであり、印刷名義人はコンスタンチノ・ドラードであった。これが日本人の名によって印刷された最初の活版本であると言われている。
ゴアにいる間に、コンスタンチノ・ドラードたちはイルマン・ジョアン・バウティスタという人について技術を勉強し、これによって彼らの印刷技術が一層上がった。
1588年4 月22日に、ヴァリニャーノと使節たちはゴアを出帆し、マラッカを経て、8 月11日に、マカオに到着した。しかし、豊臣秀吉が宣教師の追放令を出したため、使節団はマカオで、約2 年間(1588‒1590)滞在しなければならなかった。その間に、グーテンべルク印刷機によって2 種の本が印刷された。それは『キリスト子弟の教育』(1588)と『遣欧使節対話録』(1590)である。この2 冊はいずれもローマン体のラテン文である。
(表3)
 『キリスト子弟の教育』 ジョアン・ボニファチオが著したものである。ヴァリニャーノに日本のセミナリオの教材として選定された。
 『遣欧使節対話録』 作者はヴァリニャーノである。ラテン語訳はドゥアルテ・デ・サンデによって完成した。ロヨラ修道士はその邦訳を手がけていたらしい。一千部刊行された。
遣欧使節団が持ち込んだ、マカオに滞留したこのグーテンべルク印刷機に関する記述は中国印刷史の研究の中にもある。
「 その2 年間でヨーロッパから運んできたグーテンべルク印刷機がマカオで3 、4 冊の本を印刷した。印刷作業の担当者は日本人である。しかし、これらの本の中には、漢字がまだ使用されていない。このグーテンべルク印刷機は中国に西洋の印刷術と接する機会を与えたが、中国人はこのチャンスを逃して、西洋の印刷術とこの出会いはその影響があまり広がっていないようである。」
このように、マカオに置かれた時、グーテンべルク印刷機に使える漢字の金属活字はまだ製造されていないことが分かる。西洋の印刷技術は中国の印刷術に全く影響を与えなかったのである。なお、残念なことは、1589年9 月16日、印刷技術を学んできた随員のジョルジェ・ロヨラ修道士は病気のためマカオで客死した。彼はその後の日本でのキリシタン版の印刷に貢献できなかったことになる。
4 .グーテンべルク印刷機と天草コレジヨ
1590年6 月23日に、ヴァリニャーノと使節たちはマカオを出帆、同年7 月21日ごろ、使節の帰国船は長崎に入港した。グーテンべルク印刷機も長崎に陸揚げされたけれども、梱包されたまま肥前有馬領の加津佐に送られて、そこにあったコレジヨに据えられた。
1590年8 月13日に、加津佐においてイエズス会総協議会が開催された。協議会では、使節団が持ってきたグーテンべルク印刷機を使い、ローマ字本や国字本を出版することが決議された。加津佐に置かれていた間に、グーテンべルク印刷機により、1 冊の本が出版された。それは『サントスの御作業(諸聖者の御作業)』である。
『サントスの御作業(諸聖者の御作業)』(1591年、ローマン体)は日本語に翻訳されたローマ字綴りの聖人物語である。これは日本の国土で最初の西洋印刷機による金属活字本であり、また洋書翻訳本の嚆矢ともなっている。
加津佐に置かれてから1 年後、イエズス会の潜伏や教育機関の隠匿が秀吉に発覚する恐れがあるので、1591年7 月、天草の領主であるジョアン天草久種の同意を得たうえで、コレジヨは天草の河内浦に移転された。グーテンべルク印刷機はコレジヨの開設と同時にコレジヨの傍らの印刷所に持ち込まれた。少年使節の4 人も天草コレジヨに来て、勉強を続けた。
天草のコレジヨは1591年から1597年にかけて七年間活動し、当時日本においてはただ一つの最高学府であったといわれる。なお、この7 年間、コレジヨの印刷所でグーテンべルク印刷機を使用して出版された本は教科書、辞書や信仰のための本など47種がある。その発行部数は平均1500部、多いときは3000部を数えたと言われている。これらの出版物はその後「キリシタン版天草本」と名づけられ、現在所蔵のある完本として12種が残されている。
(表4)
 ヒデスの導師 1592年刊。国文欧字金属活字本。
 ばうちずもの授けよう 1592年刊。国文国字金属活字本。
 どちりな・きりしたん 1592年刊。国文欧字金属活字本。
 平家物語 1592年刊。国文欧字金属活字本。
 金句集 1593年刊。国文欧字金属活字本。
 伊曾保物語(イソポのファブラス) 1593年刊。国文欧字金属活字本。
 ラテン文典 1594年刊。国文欧字金属活字本。
 ラ=ポ=日対訳辞書(羅葡日対訳辞典) 1595年刊。羅葡日文欧字金属活字本。
 コンチンツス・ムンチ(コンテンプッス・ムンジ) 1596年刊。国文欧字金属活字本。
 精神鍛錬(心霊修業) 1596年刊。ラテン語欧字金属活字本。
 精神修養の提要(精神修養綱要)(コンベンジウム スピリッツチュアル ドチリナ)
       1596年。ラテン文欧字金属活字本。
 マヌアリヌ・ナバラのコンペンジィム(マヌアリヌ・ナバラのコンペンヂィム)
       1597年。ラテン文欧字金属活字本。
そして、以上の印刷物と深く関係して言わねばならぬことは、当時天草コレジヨ印刷所で活躍していた印刷技術者たちの存在であろう。現段階で確認できるのは、主に使節団の随員のコンスタンチノ・ドラード、イタリヤ人のバァティスタ・ぺシェ、日本人のペドロ・竹庵の3 人である。3 人はそれぞれ印刷技能師、欧文印刷技師、日本印刷技術者として天草での印刷出版を支えてきた。この3 人について紹介しておこう。
コンスタンチノ・ドラードは1567年諫早生まれ、長崎出発のときは数え年で16歳であった。ポルトガルで印刷術を勉強し、日本に帰国してから、1595年10月4 日、イエズス会に入会して修道士になった。1614年家康の禁教令で宣教師は追放され、印刷所も閉鎖されたとき、印刷機と一緒にマカオへ追放された。そして1616年から18年までの間に神父になったことが知られている。この人は日本最初の印刷術伝習者としてヨーロッパに行き、記念すべき最初の印刷機と一緒に日本に帰り、そしてまたその印刷機と共に追放されるという運命の人であった。1618年、マカオのセミナリヨの院長になっているが、その後まもなく死んだらしい。
バァティスタ・ぺシェはイタリア人で1556年頃カンタサロに生まれたという。1580年イエズス会修道士となった。少年使節たちが帰国の途についたときに同行し、ゴアでロドリゲス神父について印刷術を勉強した。そして加津佐、天草、長崎と印刷歴は続く。更に「日本耶蘇会目録」に「イルマン・ペトロは日本文字の印刷係と見え、1593年のカタログには日本文書及び活字印刷に就き、イルマン・ジョアン・パブチスタの補助とあって、国字印刷に関係が深かったことを示している。要するに、バァティスタ・ぺシェは欧文も日本文も担当したことが考えられる。
ペドロ・竹庵は1566年頃口ノ津に生まれ、1583年イエズス会に入った。1614年マカオに去り、1623年11月28日同地で死んだ。彼は1591年から1599年まで国字体の印刷係であった。
なお、印刷技術の面においては、天草でイタリック体が製作され、盛んに使われていたことも言及しなければならないことである。1594年、印刷技術師たちの努力の下で、イタリック体の欧文型の鋳造が成功した。同年刊行された『ラテン文典』はすでにイタリック体で印刷されたと言われている。このことに関して、同年10月20日付の長崎発会長宛ての書翰には次のような記述が見られる。
本年は印刷機械の設備やらイタリック文字の製造に追われ、印刷はほとんど進捗しておりません。かかる状態にあっても我々にとってはその必要性は大変なものであります。日本人は今まで父型や母型の製造には全然経験を持ち合わせて居らぬとはいえ、この方面に器用な日本人は短期間に、しかも六ドウカドを超えざる僅少の出費で、印刷に必要なる全てのイタリック文字を製作してくれました。かくして、目下ポルトガル語と日本語で説明を付したマヌエル・アルバレスのラテン文典を印刷中であります。印刷完了次第、如何に美しい文字を作り出したか、御高覧に供したくて、会長様宛てに御送り申し上げます。」
周知の如き、西洋の印刷技術が東アジアに伝来した初期、西洋の印刷機に使える漢字の活字などの製造は容易ではない。それゆえに、前述の12冊の中には、『ばうちずもの授けよう』は西洋の印刷技術による刊行された最初の国文国字金属活字本であることに注意すべきである。しかも、『ばうちずもの授けよう』は草書体の平仮名と漢字で綴ったものである。しかし、果たして正しいものだったか。
前述のように、ヴァリニャーノは少年使節と随行したメスキータ神父に日本語の片仮名、仮名や若干の漢字を注文し、日本に持ち帰ることを頼んだ。これに関して、片岡彌吉は「印刷文化の発祥」(1963)において「メスキータは金属活字の字母を造る代わりに木活字を作らせたのであろう。(中略)ところが、楷書体片仮名印刷は、当時の日本人の好みや習慣に合わなかったようである。ヴァリニャーノがそれを注文したのは、無数といってよいほどの漢字の字母を作ることの困難から、そうした便宜上的手段に過ぎなかったと思われる」と述べている。また片岡はローマ字の本が金属活字で印刷されるとともに、当時の日本人好みと習慣にあう草書漢字と平仮名を用いた本が、木活字で印刷され始めたと考えている。しかし、新井トシが形態についての研究を通じて、キリシタン版の大活字(漢字や仮名−筆者)も、やがて1599年頃長崎本に現れてくる小活字と同様に金属活字に違いないことを論証したのである。このように、2 人の結論が分かれているが、詳しくは次節で述べる。
5 .グーテンべルク印刷機と長崎
1597年、グーテンベルク印刷機は長崎に移転され、そこで約14年間の長期にわたって、キリシタン版の出版に使用された。そして地名にちなんで、これらのキリシタン版は長崎本とも言う。現在所蔵されているのは次の15種である。
(表5)
 サルヴァトール・ムンジ 1598年刊。国文国字金属活字本。
 落葉集 1598年刊。国文国字金属活字本。
 ぎゃどぺかとる 1599年刊。国文国字金属活字本。
 倭漢朗詠集巻の上 1600年刊。国文国字金属活字本。
 ドチリナ・キリシタン 1600年刊。国語ローマ字金属活字本。
 どちりな・きりしたん 1600年刊。国文国字金属活字本。
 おらしよの翻訳 1600年刊。国文国字金属活字本。
 コンフェソールム 1603年刊。ラテン語欧字金属活字本。
 日葡辞典 1603‒04年刊。日葡欧字金属活字本。
 日本文典 1604‒08年刊。日葡欧字金属活字本。
 サカラメンタ提要 1605年刊。羅・葡・日 欧字金属活字本。
 スピリツアル修行(珠冠のまるある) 1607年刊。国語欧字金属活字本。
 フロスクリ 1610年刊。フランス語欧字金属活字本。
 ひですの経 1611年刊。国文国字金属活字本。
 太平記抜書 刊行年、刊行地未詳。国文国字金属活字本。
前節の続きであるが、天草版と比べて、長崎版の中には国字本が多くある。これらの国字本には金属活字を使用しているのかどうかが問題点である。これに関して、『長崎印刷百年史』には次のように述べている。天草で欧字本の黄金期を迎えたと言えよう。だが、国字本はまだ2 種にすぎない。それも木活字で、平仮名を主にしたものであった。画期的な意義をもつ国字本の出現は、長崎移転まで待たねばならなかったのである。つまり、国文活字の鋳造は初めて長崎で実現したのである。なお、『長崎印刷百年史』の記述によると、長崎で出版した漢字仮名交じりの宗門書『サルヴァトール・ムンジ』がキリシタン版最初の国文金属活字であるのが分かる。
以上のように、グーテンベルク印刷機に使える国字の活字がいつごろ鋳造されたのか、また最初の国字金属活字本は天草で現れたのか、それとも長崎で出現したのかはこれまでの先行研究ではまだ明らかにしていない問題である。しかし、グーテンベルク印刷機に使える漢字や仮名の金属活字が確実に鋳造されたことは事実であろう。
6 .グーテンべルク印刷機の終焉
1611年になると、徳川幕府はキリシタンの布教を一層厳しく禁じ、グーテンベルク印刷機による天草での出版はおよそ1612年までに停止となった。1614年に、徳川家康が大追放令を発令したため、イエズス会本部やグーテンベルク印刷機、そして印刷技術者までもがマカオに追放された。これで天正末期の1591年から20余年にわたったキリシタン版の印刷事業は完全に途絶えた。このように、グーテンベルク印刷機は1586年に天正使節団の帰国船に載せられてリスボンを出航してから、ゴア、カカオ、加津佐、天草、長崎を転々と移動しながら、結局マカオに送られたことになった。
このグーテンベルク印刷機を使用して刊行されたキリシタン本は、『長崎印刷百年史』によれば一説には50種とも言われる。現在、数葉の断片まで含めて、その伝本が見られるのは30種となっている。宗門書、辞典、文典、文学など多方面にわたるがこれを活字別に見ると、欧字本18種、国字本12種であると述べている。しかしそれぞれの数字は確定的なものとは言えない。そして、グーテンベルク印刷機による欧字本は言うまでもないが、12種の国字本の中には漢字や仮名の金属活字を使用して、刊行されたものは必ずあると述べた。しかし、印刷機がマカオに送られたことにつれ、漢字や仮名の金属活字を鋳造する西欧式技術もその跡を完全に断ってしまった。その後、日本は西洋印刷機との再会は1848年のことであり、即ち234年の歳月を待たなければならなかった。この長い間に日本では金属活字への動きを見せることもなく、ただただ盛んな木版文化期だったのである。
グーテンベルク印刷機はマカオに送られてから、更に6 年間を経った。その6 年間、グーテンベルク印刷機による印刷や出版はあるかどうかはあまり研究されていないようであるが、しかし、印刷機に使える金属の漢字活字は現れなかったであろう。中国では最初の漢字体の洋式鉛活字の使用例は1814年に出版し始めたモリソンの『英華字典』だと言われている。1620年頃になると、グーテンベルク印刷機はフィリピンのAugustinian Canons に転売され、一応一つの使命を終えた。
以上のように、結局グーテンベルク印刷機は日本の印刷技術にも中国の印刷技術にもあまり影響を与えずに風のように消えた。ただしこの印刷機によって、数十冊の貴重な本が残された。これらの本は東西印刷術の交流の証となり、当時の異文化交流の一風景を未だに物語っている。
 

 

 
 

 

 
『日本見聞録』 ドン・ロドリゴ

 

 
ドン・ロドリゴ(スペイン)
16〜17世紀に入った世界は大航海時代を迎えます。
コロンブスのアメリカ大陸発見などの華々しい事件の陰に、嵐に襲われ、岩に座礁し難破する船も多かったようです。
1609年(慶長14)、房州安房国岩井田村に嵐によってバラバラになって漂着したスペイン船サン・フランシスコ号もそのうちの一隻でした。
陸に上がったものの何処とも知れず絶望の淵へ追いやられた彼らに、やがて暖かい救援の手がさしのべられます。
裸同然で疲れ切った彼らを岩井田村の人々が発見し、村へ案内しました。
船に乗っていたフィリピン臨時総督のドン・ロドリゴ(スペイン)は見聞記の中で、この村はこの島で最も貧しいだけでなく、日本中で最もさびしく貧しい村と思えた。
なぜなら、住民はたった300人しかいないうえ、大多喜の殿様に隷属しているからであると記しています。
しかし、遭難者は同情されるほど貧しい村でしたが、村人は献身的に彼らを助けました。
とりわけ婦人たちは涙を流して同情し、少ない衣料の中から綿入れを彼らに与えました。
ロドリゴは、その情は婦人たちの夫にも通じたからだろう。
男たちからも私や他の者たちに食べ物やいろいろなものを惜しむことなく分け与えてくれたと言っています。
事件は藩主に知らされ、藩主を通して江戸へも伝えられます。
ロドリゴ一行はその後江戸へ向かい将軍秀忠に会い、駿府で家康とも会い、家康の援助で当初の目的地であったアカプルコへ無事帰りつくことになります。
ロドリゴは建設途中の活気あふれる江戸を見たせいか、それとも37日間世話になった岩井田村の温かい思い出があったせいか、こう書いています。
日本人というのはとにかく素晴らしいレベルをもっている。
日本を武力によって制圧することは困難であり不可能である。
日本は住民が多い。しかも勇敢である。死を恐れない。 
 
日本見聞録 1

 

スペインのフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロが執筆した書物。江戸時代初期に遭難して日本に漂着した際の見聞をまとめたものである。
1609年(慶長14年)9月、ロドリゴ・デ・ビベロが帰国のためフィリピンからヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコへ向かう途中、遭難して日本に漂着し、約1年間日本に滞在することになった際の記録である。1857年に初めて公刊された。日本では、『大日本史料』第12編第6冊(慶長14年9月条、658-677頁)と第7冊(慶長15年5月4日条、231-241頁)に原文と村上直次郎による抄訳が抄録されたのち、1929年、村上による完訳が、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』と題して公刊されている。
「万世一系」論
16-17世紀のヨーロッパ人も、中国人と同様、日本人の万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた。『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子は、この日付を初めて定式化した。その日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。
『ドン・ロドリゴ日本見聞録』には、日本人について以下のように記述されている。
「彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が君主制を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。日本がまことにユニークな点は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできたことである。 」
当時の天皇は後水尾天皇である。神武天皇に始まる皇統譜によれば、後水尾天皇はまさしく108代目である。 
 
スペイン人、ドン・ロドリゴの見た駿府城と家康 2

 

ロドリゴは自著「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で貴重な大御所時代の駿府城のことを次のように書いている。
「私は約束の時間に宿舎を出でて、駿府城の第一門に到達したが、そこは(江戸の)太子の門のようには見るべき物は多くない。また家も立派ではない。しかし江戸城内の建物が立派でなければ、ここは立派に見えたであろう。太子はいろんな点で威厳を備ふることが多いが、諸門の守兵及び濠や城壁については江戸も駿府城もあまり相違はない。この帝国は相続によらず、武力によってこれを獲得するために、皇帝の前任者の中には不慮の死に遭った人もいる。皇帝(家康)は、年老いて死を恐れるが故に息子の太子よりも大勢の兵士と武器を備え用心して生活している。この城も江戸城と同じく三つの堅固なる門がある。ここも江戸同様に兵士を備えている。しかしその数は江戸より多い。これらの三つの門を過ぎると宮殿に入る。特に私が注意をひかれたのは、人々の衣服や徽章(きしょう)が、部屋ごとに違っていたことである。
私たちが皇帝の手前の一室に着いた時、書記官が2人出てきた。彼らは日本において最も権威があり皇帝から尊重されている者であり、彼らの随員の数によってそのことを示していた。そこで何人が先に座るべきか暫く譲りあった後、彼らは私たちに上席に座るよう案内した。こうして二人の中で、年長であろう者が長々と挨拶し、私たちが日本の国王のもとに来たことをねぎらい祝ってくれ、私の苦労が慰安され救済された。彼等は大臣としてこの国の最も重要な事務を処理する役人であり、今回の私の事件について望むことがあったら述べるよう言われた。(中略)
皇帝は大変大きな部屋におり、その部屋の精巧なることは言語に尽くされず、その中央より向に階段があって、これを上り終れば黄金の綱がある。部屋の両側に添ってその端、つまり皇帝のいる場所より約四歩の所に達する。その高さ2バラ(1メートル67センチ)であり、多くの小さな戸(襖のこと)がある。家臣たちは時々皇帝に招かれ、この戸より出入りする。彼らは皆ひざまずいて手は床上(畳)に置き、全く沈黙して皇帝に尊敬を表していた。彼ら貴族の両側には、20名の家臣がおり彼ら一同と、皇帝の側に接近できる書記官等は、カルソンのとても長く40センチ余り床上を引きずる物(長袴のこと)を着用していた。このため足を露すことはない。(中略)皇帝は青色の天鳶絨の椅子に座り、その左方約六歩の所に私のために予めこれと異なる椅子が用意されていた。
皇帝の衣服は、青色の光沢のある織物に銀を以て多くの星や半月が刺繍されており、腰には剣を帯し、頭には帽子または他の冠物はなく、髪を組んで色紐で結んでいた。皇帝の歳は60歳くらいで中背の老人であり、尊敬すべき愉快なる容貌で秀忠公より肥満していた」と記したのが、ロドリゴの駿府城と家康自身のその時の風貌を伝えた唯一の史料である。
彼が見た駿府城は、特に内部(謁見の間)の見事な装飾に注目しているここと、さらに警護の兵士が多かったことも知ることができる。この記録は、駿府城内部の御殿を知る数少ない史料の一つでもある。  
 
新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ 3

 

ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーサ(Rodrigo de Vivero y Aberrucia)
通称ドン・ロドリゴ(Don Rodrigo)はヌエバ・エスパーニャ(新スペイン。江戸での呼称はノビスパン。現メキシコ)第2代副王ルイス・デ・ベラスコの甥にあたり、1564年にヌエバ・エスパーニャ、現在のメキシコのプエブラ州テカマチャルコ市に生まれる。母は前夫の広大な領地を引き継いだメルチョーラ・デ・アルベーサ。
12歳になるとスペイン貴族の父ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコはロドリゴを当時のスペイン国王フィリペ2世の第4夫人アナ王妃付の小姓としてスペイン本国へ送り出した。
1584年にロドリゴはヌエバ・エスパーニャに戻り1595年6月にサン・フアン・デ・ウルア要塞の城番、1599年3月にヌエバ・ビスカヤ(フィリピン北部。16世紀の頃よりフィリピンはスペインの植民地となりヌエバ・エスパーニャ副王領として1571年マニラに総督府が置かれた)総督、1600年3月にタスコ鉱山町長官に任じられた。
サン・フランシスコ号の日本漂着
1608年に未着任の総督府長官ドン・フアン・デ・シルバに代わり、44歳のドン・ロドリゴが臨時総督府長官となった。ヌエバ・エスパーニャのアカプルコを出発(1608.3/15)し、三ヵ月後にマニラの南にあるカピテに入港。(6/15着任) 前年マニラで暴動を起こして捕縛されていた日本人達の処罰について、ロドリゴは調査の上で200人の処刑を取下げて追放処分、明らかに海賊行為を行っていた犯人は投獄した。徳川家康宛に暴動者の日本への強制送還と暴動再発防止のための渡航制限(日本から年4艘)を通達をすると返事に異議申立は無かった。翌年ロドリゴは任地での勤めを終え(1609.4)カピテ港から約千tの大型ガレオン船「サン・フランシスコ号」で随伴船の「サン・アントニオ号」「サンタ・アナ号」と共に帰途につくが、出発が遅れて(7/25)航海中に台風の季節となりフィリピン海から東の北西太平洋上で嵐に逢って難航してしまう(8/10)
サンタアナ号は豊後(大分県)白杵港に避難(9/20)、サンアントニオ号は無事にアカプルコへ帰国できた。
慶長14年9月5日(ロドリゴの記述は1609.9/30)夜10時、サンフランシスコ号は33度の計測地(実際は35度。彼らの海図では浦賀にあたる)で座礁。寒い海上で身動きが取れないまま帆船は破損していき、ロドリゴ達は命からがら陸地に泳ぎ着いた。カトリック教徒の日本人同行者に、海辺にいた者との通訳を頼み、漂着地がオンダキ(大多喜/おおたき)藩領のユバンダ(岩和田/いわわだ。現御宿町)であると教わり、海図が間違っていたことに気付かされた。日本漂着は……13年前(慶長元年8月、1596.10)豊臣政権下のに同じように長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の治める土佐国浦戸(高知県高知市浦戸)に漂着したスペイン船サン・フェリペ号は元親に一度は保護されたものの、日本を害するようなキリシタンの弾圧を推し進めていた秀吉が派遣した奉行に積荷を没収され、残留した宣教師が翌年処刑された不幸な事件があり一行は不安であったが、ロドリゴは今の最高権力者がマニラから公式書簡を交わした徳川家にあることを頼み思っていた。
海岸から粗末な道を通り1レグア(4〜6Km。古いスペインでは約4.19m)先の集落を訪れると、乗船員と同じ数程しか住民が居ない小さな村であったが、村民達は遭難者達に心から同情して惜しみなく食物を差し出し綿入りの着物を貸し与えた。乗船者373名のうち56名は溺死し、生存者は317名であった。
村人に救出され、凍死寸前の者は──火に当て急に体温を上げると心臓への負担で死にかねないという海辺の村人の知恵で──村の女達が人肌で温めたという話も伝わっている。上陸地の田尻海岸をはじめ岩和田の浜は殆どが崖のような岩肌の下にあり「岩和田の村人達の食事は主食の米の他は殆ど大根や茄子等の野菜で、魚は時々だった。この海岸では漁獲は用意ではない」旨をロドリゴは記している。
大多喜城主本多忠朝の厚遇
岩和田を領する大多喜城に異国船漂着の知らせが届くと、城主本多忠朝は、外国人の無断入国が許されない時世において一行の処遇を慎重に扱うためにまずは岩和田の浜に家来を視察に出した。豊臣政権時に比べればキリスト教の弾圧は緩められたものの、徳川も寛容とは言えない。江戸幕府に睨まれればお家取り潰しも有り得るため城内での会議では、一行を全て切り捨てる意見が強かった。しかし忠朝は視察が戻るまでは首を縦には振らなかった。そしてロドリゴ達は礼儀正しく、財宝一式流され苦境にあるとの報告を受けた忠朝は、速やかに一行を付近の寺に預けさせ、厚遇するようはからう一方、異国人が無闇に他所へは行かないように命じた。心から温情をよせつつも拙速な行動に出ず適切な処置をとったのだった。
ロドリゴ達が滞在した三嶽山普賢院大宮寺の場所は不明だが、大宮神社付近と推測されている。大宮寺は文永6年(1269)創建といわれ、修験道聖護院の配下であった。大宮神社は日本武尊の東征の折に大物主命を勧請したものと伝わっている。元禄12年(1699)に火災により大宮神社は白髪台に移され、その後も度々類焼し嘉永元年(1848)4月7日に現在の東山に遷座した。現社殿は昭和24年に新築された。
数日後に忠朝は威儀堂々と300人余りの武装した家臣を率いて大宮寺を訪れた。 (この時の南蛮船検使は柳田平兵衛、小鹿主馬、山本忠右衛門、大原惣右衛門) 領主の忠朝を村人達は深い土下座で迎えたが、西洋人のロドリゴは立って敬礼した。忠朝は馬から降りて、自らロドリゴへと近づく。そして、ロドリコの手をとり、接吻をした。村々を領する城主としてはうら若い28歳の忠朝は、ロドリコも「マドリッド市で最も宮中の礼に慣れた者がするような返答」と感嘆するほど完璧に洋式の作法を心得ていたのだ。着席する際も信頼の証にロドリコを左(刀で切りかかりにくい上座)に座らせ細やかな心配りにを見せた。
金糸と絹糸で刺繍を施された見事な緞子(どんす。別色の経糸と緯糸で模様を織った高級織物)の着物4着、刀一口り、地産果物、日本酒、彼らが好む乳を出す牛一頭や鶏数羽までもを贈り、そして江戸幕府への報告を約束し、村に滞在中の乗船員一同の食事も支給された。幕府へは、アントン・ペケニョ(Anton Pequeno)少将とファン・セビコス(Juan Sevicos)船長に書簡を持たせて派遣し、20日以内で迅速に手続きを済ませ秀忠の使者と共に戻った。
大多喜城での歓待
10月13日に江戸へ向かうロドリゴ一行が大多喜の町(『日本見聞録』に人口1万〜1万2千人と記している)の宿に着くと城主忠朝の使者が訪れ、町よりも高い所にある大多喜城へ招かれた。城は堅固な構えで、城兵は礼儀正しくロドリゴを屋敷に案内し、忠朝も20人程の家来と共に屋敷の入口で出迎えた。城主の屋敷の金銀と美しい装飾の部屋の数々を見学し、暖かい歓待を受ける。夕食の時間になると、忠朝は日本で親しい客人にする風習通りにロドリゴのための初めの一皿を持参した。肉、魚、果物他様々な美味が供される。そして忠朝は旅立つロドリゴのために、立派な馬を一頭与えた。
忠朝の温情は自分の領地に居る間だけではなく、この先ロドリゴと再会するまでの六ヶ月間、忠朝は絶えずロドリゴに書簡を送って親しみ続けた。
大多喜に逗留して10日目に、家康の外交顧問である英国人航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針/みうらあんじん。慶長5年リーフデ号漂着時より家康に召抱えられた)から通行証と朱印状を受け取る。家康と秀吉名義の朱印状は以下のことが命じられていた。
○ 海岸に漂着した積荷は全てロドリゴのものとする。
○ ロドリコは将軍徳川秀忠の江戸城と、大御所家康の住む駿府城へ行き謁見すること。
○ 城への道中の領主は歓待し旅程に必要な物資を提供すること。
慣例通りに漂着物を将軍のものとする所を、その貯蔵庫の鍵をロドリコ達に渡して事実上保管物を受取るというはからいとなった。当初の忠朝の指示が家康の意に適っていた明断であったと知らされたロドリゴは、両者に今後の日本とスペインの友好的な外交の可能性を見出した。一方、鍵を渡されたセビコス船長は難破で失った積荷の盗難を疑い、長時間かけての返却により後のマニラでの売却値が半減したことで、損害を日本側の責任としてスペイン王に訴えることになる……
江戸にてロドリゴは将軍徳川秀忠に謁見する
忠朝から馬が送られ、江戸への道中はスペイン国王の使者として歓迎され快適であった。江戸に着くと地位の高い武士達に招きを受けたが、将軍が宿を用意していたので断った。夕方5時に宿につくまで交通整理の人員が必要になるほど人だかりができて休めず、将軍の側近に頼んで宿の門に衛兵を立たせて無断進入不可の禁令の札を掲げて貰う。江戸は人口15万、物価が低く小額で愉快な生活が得られ、市街は美しく清潔で家は木造、二階建ても多く、欧州に比べて外部より内装に美点をおいている等、詳細に江戸風俗や豪華絢爛な江戸城の様子が記されている。
江戸に到着して2日後に将軍は海軍司令官(船手方向井兵庫頭正綱)を通して部下が2度訪れる。午後4時頃に江戸城へ向かい、将軍秀忠に謁見した。ロドリゴが秀忠の手に接吻する間は同行者は控えさせ、ロゴリゴ一人が部屋に通された。秀忠は色黒だが容姿は良く、微笑してロドリゴを励まし、日本に居る間の面倒を見るとして安心させ、また航海と帆船について尋ねた。ロドリゴが駿河行きの許可を願うと、大御所(家康)や道中各所への連絡のため、出発は4日後とした。駿河までは西洋と同じく村々があり、街道は両側に植えられた松並木が心地よい日陰をつくり、2本の樹を植えた小山(一里塚)が正確な距離を示し、絶えず人が行き交っていた。5日後に駿河に着くまでの道中は将軍の連絡が行き届き行く先々で手厚いもてなしを受けた。
駿河にてロドリゴは大御所徳川家康に謁見する
駿河は人口12万で街は江戸並に美しいとは言えなくても気候はとても良い。ここでも見物人に囲まれ難儀したが、宿に着くと家康の家臣が12枚の着物を贈り物として携えて来て、宿泊中も菓子や果物を提供した。6日間滞在し、翌日2時にようやくお目通りとなった。(1609.10/29) 上座を勧められ、家臣から謁見についての長い説明を受け、家臣は大御所に伺いに行く。江戸城ので将軍に謁見した時と違いロドリゴは大御所に触れることは許されず、同行者も大御所の見える場所でひざまずくよう命じられた。家康は60歳程に見え秀忠のように色黒でなく、中背で肥えていて温雅であった。励ましの言葉をかけ帽子を脱ぐよう勧め、感激したロドリゴは家康の手にキスをし感謝の意を示した。
翌日ロドリゴはコウセクンドノ(上野介殿。本多正純)の屋敷を訪れ、日本語に訳した嘆願書を進上した。
1.日本国内の耶蘇教徒を保護し教会堂の自由使用を妨げないこと
2.日本はスペイン国王ドン・フェリペ(フェリペ3世)との親和を保続すべきこと
3.オランダ人は海賊まがいなことをしフェリペ王の敵なので日本から追放すべきこと
翌日10時に上野介殿が贈り物を携え宿に訪れ、嘆願書に対して大御所は宣教師の迫害はせずスペインとの友好も続けるが、オランダ人には渡来免許を既に与えてあるので変更はし難いとの返答を伝えた。そしてアダムスに作らせた西洋船の一艘をロドリゴ達を乗せてヌエバ・エスパーニャに渡航させるので、帰国後にフェリペ王に折り返し銀山技師50人を日本へ派遣して貰えるよう、ロドリゴに仲介を求めた。ロドリゴ自身はサン・フランシスコ号と共に遭難し豊後(大分県)に停泊中の随伴船サンタ・アナ号が乗船出来ない状態なら日本船を利用するとし、西へ向かった。
ロドリゴは京都・大坂を経て九州へ
大御所の保護のもとで快適な旅をしミアコ(都。京都)に立ち寄る。ロドリゴは馬で人口は34万人の大都市街を一周し、所司代の板倉伊賀守勝重の世話になり見聞する。京市中には5千の大きな寺社があり遊里の妓婦の類が5万人になると聞く。3日間かけて万広寺大仏殿や三十三間堂等の名所を見て歩く。太閤(豊臣秀吉)を祀る豊国神社では(生前にキリスト教を弾圧し)地獄に落ちている魂を祀ることに違和感を感じている。
11月24日(1609.12/20)付けで大御所からの鉱夫派遣依頼についての提案──
新スペイン副王に許可を伺うにあたり
○ 銀山を採掘し精錬した鉱石の半分を鉱夫に与え、残りの更に半分をフェリペ王のものとする。各鉱山で聖祭が出来るよう司祭を置く。大使にスペイン人の司法権を与える。
○ オランダ人の日本追放の再検討及びフェリペ王の日本来航時の保護
○ フェリペ王がマニラへ行く際の人員派遣と必要物資の現地価格(関税無し)での提供やそのための事務所や礼拝所の設置許可、関東にスペイン船用の港を開港、駐在者の日本国内での歓待──の協定案を書状にし、パードレのルイス・ソテロに伝達を託した。
28日(12/24)クリスマスイブに伏見のフランシスコ会(カトリックの修道会)のパードレ(司祭)ヌエストラ・セニョラ・デ・ロス・アンヘレスの住院に泊まり教徒達とミサに参加。伏見を後にし、淀川を下って1日で人口20万の大坂に到着。ヌエストラ・セニョラ・デ・ラ・コンセプションの住院に寄宿。大坂からフネア(船)で十数日かけて豊後へ向かう。
12月12日、ロドリゴが豊後滞在中に肥前島原(長崎)のキリシタン大名有馬晴信──2年前に晴信の朱印船の乗組員がポルトガル貿易船マードレ・デ・デウス号の船員と起こした騒動をマカオ総司令官アンドレ・ペソアが鎮圧し日本側に多数の死傷者を出した──が長崎に入港した因縁のデウス号を包囲した。乗船していたペソアは捕われる前にデウス号を爆沈させ自殺に至るという貿易上深刻な事件が起きた。まだ日本での役目を終えていないと考えたロドリゴは、補修後にマニラへ出航するサンタアナ号には同乗を取止めた。日本に批判的なセビコス船長はマニラへ発った。(1610.5/17)
ロドリゴは駿府へ戻り浦賀から帰国する
ロドリゴは再び駿府に戻り、家康の招きを受けて数ヶ月滞在した。ルイス・ソテロに託した協定案についてはオランダ人追放と銀の報酬以外は家康の承認を得られた。フェリペ王と副王に贈り物と親書を携えて派遣する使者はロゴリゴがアロンソ・ムニョスを推薦し、彼に出航の許可証が渡された。
慶長15年6月13日(1610.8/1)ドン・ロドリゴ一行は、アダムスが建造した和製ガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸。120t)で浦賀からヌエバ・エスパーニャへ向けて出航した。家康からは金貨4千ドゥカドが貸与され、按針丸はアカプルコで売却し代金を日本人乗船者の帰国費用にあてるという厚遇を命じられた。この船には京都の御用金匠後藤庄三郎の仲介で京商人田中勝助・朱屋隆成・山田助左衛門他21名の日本人も同乗し、これが日本とメキシコの交通発祥の契機となったと言われている。 一行はマタンチェル(現メキシコ西海岸のナヤリット州サンブラス)を経て(10/27)、アカプルコ港に着いた(11/13)。
余話 / セビコスの日本批判とビスカイノの来日
一方、サンフランシスコ号のセビコス船長は、マニラに着くと日本との友好批判を国王に訴える書簡を出している(1610.6/20)
難破船の漂着物の倉庫の鍵を預かったが、流された財貨は長期間受取れず(ゼビコスは日本人の盗難に遭ったとも主張)売った時には価格が下がってしまい50万ペソの損害で、日本人が難破したサンフランシスコ号の全ての財貨を略奪したものとして大御所に使者を送って訴え、将軍に財貨の返還要求を認められたものの、難破から35日も返されなかったのは日本人の道徳心の欠如である。日本人は宗教の信仰が薄く、宗派争いもしない。専制政治で領民は厳しい生活と立場を強いられること。日本人は勇敢だが両国で海戦になれば航海・造船技術に勝るスペインが勝つ予想。長崎でのポルトガル船焼討事件や、フィリピンでの暴動等日本人の異国に対する悪事等を書き連ねた。
慶長15年11月に使者ムニョスがマドリッドに着き、家康と秀忠の贈り物と書簡を王に捧げた。この時の会議では毎年一隻の商船アカプルコから浦賀へ渡航させることが決議れたがメキシコ総督府は日本貿易に反対し使者を拘留しスペイン本国に再考を求めた。慶長16年2月上旬(1611.3)遭難者達の返礼としてセバスチャン・ビスカイノを大使とする一行がアカプルコを出航し4月29日(6/10)浦賀に入港。ラシャやビロード、葡萄酒等を買入れた日本商人たちも帰国した。ビスカイノは将軍と大御所の許可を得て貿易に先駆け海岸の測量を行い測量図を寄贈した。
慶長17年8月21日(1612.9/16)に帰航するも暴風雨に逢い浦賀に入港する。しかし幕府は不信感をもち──オランダ人からビスカイノの日本近海の金銀島調査隠匿の密告や、カトリック教圏との取引を危険視する英国人アダムスの進言を受けたともされる──ビスカイノの新しい船の建造支援を断った。
※ポルトガル・スペインはカトリック、オランダやイングランドはプロテスタント
この年の3月21日、2年前のポルトガル船爆沈事件に関わる有馬晴信の監視役であったキシリタンの岡本大八(おかもとだいはち。本多正純の家臣)が朱印状の偽造の罪で処刑され、晴信の余罪も発覚した。大八は晴信のようなキリシタン大名と宣教師による領内寺社の抑圧について自白し、幕府はキリシタン大名に対しキリスト教の禁教令を発した。
翌年ビスカイノは仙台藩の藩主伊達政宗の新造船に応じサン・ファン・バウティスタ号で政宗の家臣支倉常長ら遣欧使節(けんおうしせつ。慶長18年派遣)と同乗して月ノ浦(現石巻市)を出航(1613.10/28)し、三ヵ月後アカプルコに到着(1614.1)した。
元和元年(1615)アカプリコから欧州へ向かう政宗の船に、ムニョスの件の使節も同乗したが、日本で強まるキリスト教排斥の影響で親書からは貿易の件は取り消されていた。その後も諸交渉は捗らないまま、日本は鎖国に至る。

1620年ロドリゴはパナマ総督に任命され、1627年3月29日にはバジェ・デ・オリサバ伯爵の称号を授かる。
1635年スペイン王により正式に日本との国交断絶が発せられた。
失意もあってかロドリゴはその翌年の1636年にベラクルス州オリサバにて72歳で亡くなり、遺書により故郷テカマチャルコの聖フランシスコ修道院に眠る。
日本との交易協定は叶わなかったが、ロドリゴは日本の様子を『日本見聞録(La Relación Japón)』として詳らかに書き残している。
明治時代になって欧米を歴訪した岩倉具視等がスペイン船遭難の話を聞き、それが日墨交流の契機となったことが日本でも知られるようになった。
明治21年(1888)11月30日、日本とメキシコは日墨修好通商条約を締結。メキシコにとってアジアの国との初めての条約であり、日本は欧米列強国(アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オランダ)と不平等条約を結んでいた中でアジア以外の国との初の平等条約となった。
明治30年(1897)3月24日元外務大臣榎本武揚はメキシコに36人の殖民団を送る。資金難で数ヵ月に解散となったが、残留した移民は苦心しながら後のメキシコ移住者の基礎を作った。 
 
ロドリゴの日本見聞録 4

 

1609年10月2日にロドリゴは家康と駿府城本丸で正式面談、その翌日翌々日(3,4日)は本多正純と交渉、5日にはおそらくもう一度家康と非公式面談、そして6日付けで家康は「シルバ新マニラ総督宛返信」とノバイスパニアに向かうことを前提に「(ロドリゴ乗船予定の)エスケルラ船長宛chapa」を発行した、とみます。家康は、本多正純を通じ、イスパニア本国との直接貿易・銀鉱山開発協力要請、そしてノバイスパニア渡航に必要なら按針製作の洋船をロドリゴに与えること、を約束したのだとみます。
そしてロドリゴはこの後、京都大坂を経由して豊後臼杵に寄留のサンタアナ号の状況確認に向かいます。
ロドリゴが提案した「銀鉱山開発協力」は以下の条件です、強気ですが、家康は場合によってはそれでも良いとほのめかし実現を優先急がせたようです。
1)水銀(アマルガム)法を知らず金銀の生産性が低かったため、家康は50人のイスパニア鉱山技師派遣を要請、
2)ロドリゴは、新規分ないし増産分の、半分をその鉱山技師らに、1/4をフェリペ3世に、1/4を家康に、配分することを条件とし、かつ、
3)そのためのイスパニア官吏の派遣と彼らのための伴天連派遣、を要求。
ロドリゴは自分でも強気(冒険的)の条件と書いていますが、家康はNOとはいわず、実際やってみて状況を見てから承認するといったらしい。ロドリゴはこれだけで百万ドゥカド規模でイスパニア国庫を潤すと豪語。
さらにロドリゴは「イスパニア帝国のマラッカ・フィリピン用軍船商船の日本での建造と武器火薬食料工具類の提供」を有償で要求。交易に加えて以上の業務のために、イスパニア軍長官や大使の派遣、「大使館」の提供、そして彼らの宗教の自由と独自警察司法権の要求、もした。
結果「オランダ人追放のこと以外は家康はすべてOKした」とロドリゴは書いています。
キリスト教については在留イスパニア人のための伴天連は当然とし、また布教についても「日本には35の宗教宗派がある、2つ3つ増えてもどうということはない」と家康が言ったのも事実らしいし、ロドリゴは「この皇帝が生存していれば布教が続けられたことは確実」とまでいいます、何か感ずるものがあったのでしょう。
そして、
その交渉に向かうため120トンの洋船按針丸の提供と必要装備のため4000ドゥカドを与える、さらに按針丸は新大陸到着次第売却し必要資金に充ててもよい、ロドリゴに任せる、と家康といったらしい。
対して、ロドリゴは、船については豊後の僚船サンタナ号を見たうえで決するといって豊後臼杵に向かいます。その間、関係者で上記に関わる協定書案(条約と言っていいレベルですが)を作り、これはスペイン側に現伝しているらしい。
さてこういう状況下、
10月6日付で、「シルバ新マニラ総督には気のないありきたりの返書」、ロドリゴにはノバイスパニアへサンタアナ号でも按針丸でも可能な船なら何でもいい早く行けという思いで「エスケルラ船長宛chapa」を再発行した、と読みます。
シルバ新マニラ総督宛返信
日本国 源家康 回章(返信)
呂宋国太守(シルバ総督)へ、
お手紙拝受、渡海も無事に、例年の如く数種の土産も届いた。長話も不要、お目にかかっている思いで、四海一家と思う者同士の交情浅からず、疎かに思うことはない。詳細は船長(モリナ)に言付けた。意を尽くせぬが。
慶長14年己酉(1609年)10月6日(和暦)
この時のマニラからの国書は見当たらない、マニラからの進物リストだけは上野介から元佶崇伝が受け取ったが、と「外蕃通書」の注記にあります。進物もさしたるものではなく家康が好きといった葡萄酒2壺がご愛敬です。先方国書は相変わらずで目新しいこともなく紛失する程度の代物、上記返書も広間にて即席で作ったと崇伝はいっている通りありきたりの定型で気合が入ったものではありません。
むしろ注目すべきは、3通発行したというchapaです。

一呂宋船ノバイスパニアへ渡海に当たっては、逆風に遭いいずれの港に入ろうとも、厚遇し相違ないよう保護援助せよ。
慶長14年己酉10月6日
御朱印
セレラ・ジュアン・エスケラ船長宛
ノバイスパニアへ行くべきエスケルラ船長名ほか2船長宛に3通発行した、と明記しています。なんやかやで3隻に分かれて渡海することもありうると、ロドリゴが主張して新たに入手した(朱印状というよりここは)chapaです。再度逆風で押し流され、東北や蝦夷地に緊急避難することを想定している、と読むべきです。
実はこの他2種、エスケルラ船長宛に出したらしい文書が現伝します。

呂宋国商船、至濃毘須蛮国渡海之時、或遭賊船或漂逆風、到日本国裏、則以此書之印、可遁災害者也。聊莫渉猶余、不備。
慶長十四初(判ではないでしょう)冬中浣
御朱印
加比丹、世連郎壽安恵須気羅
[訳]
ルソン国の商船、ノビイスパニアに向かい渡海中、海賊船に遭遇したり逆風に漂流したりして、日本国内に漂着した場合、この書の朱印は災害を逃れるためのものである。聊かも猶予してはならない。十分ではないが。
慶長14年10月中旬(或いは5日か)
御朱印
船長、セレラ・ジュアン・エスケルラ(宛)
もう一度よく見ると、これは正式に発行した文書でなく崇伝あたりの没原稿、でしょう。「商船ではなく官船だ、日本の海域で海賊など出ないはずで穏やかでない、この印で災害を逃れるなどお札じゃない、読み手は日本人だ、わけのわからん漢字でなくひらがなでよかろう」と家康・正純が言って、先の3通は坊主ではなく祐筆某に書かせた、そして発行した、国内向制令の文体、です。崇伝は悔しくて?没原稿だが記録に残した、そんなところでしょう。
もう一通は「慶長年録」にあるらしく、江戸の本多正信名で、同日付です。

今度、到上総国、令着岸船中輩、水主梶取不残、彼加比丹任下知、呂宋江相具可有渡海候、若於難渋者、可及言上候、恐々謹言。
慶長十四年(現伝文は六と)十月六日
本多佐渡守正信、印
世連郎春安恵須気羅(宛)
[訳]
このたび、上総の国に着岸させた船の乗組員、船主や荷舵取り以下残らず、彼の船長エスケルラに命じてルソンへ全員帰国のため渡海させるものだ。何か困ったことが起きれば、(徳川幕府に)言上せよ、(対処する)。恐々謹言。
1609年10月6日
(執政=筆頭老中)本多正信、印
(船長)セレラ・ジュアン・エスケルラ(宛)
ロドリゴは江戸駿府臼杵と日本で交渉を続けていますが、
難破乗組員の大多数3百数十人は上総に残っていたわけで回収できた貨物と共に、マニラに引き返せというのが、ロドリゴ・エスケルラらの指示でした。これを踏まえ、マニラ帰国組のために江戸で正信が用意した、いわば「マニラ新総督宛の(かれら乗組員のための)赦免状」です。確かに難破遭難したのだ、ロドリゴら一部はノバイスパニアに向かう予定だが、その他のものは徳川幕府として帰国を命じた、だから、彼らにはなんら罪科はなく、もし文句があるなら徳川幕府に言ってこいという趣旨です。恐々謹言、とは船長宛ではおかしくむしろマニラ総督への手紙という気持ちでしょう。
この3百数十人は、別に船を立て(スポンサーは後藤庄三郎か鍋島か?)1610年3月に長崎を発ち無事にマニラに帰国できたようです。エスケルラは司令長官格でロドリゴと共に行動したらしく、このマニラ帰国の船長名はフワン・セビコス、とあります(大日本史料第12編の6、657頁以下)。日付は、これが正式に決定されたのが10月6日駿府での家康・ロドリゴ間合意の一環、だからでしょう。また江戸の本多正信名なのは上総やその長崎移送は(駿府ではなく)江戸管轄ということでしょう。
なお付言、
この年1609年はポルトガル・スペインの妨害を撥ね退けて日本との通商開始を企図したオランダ東インド会社船2隻が到来、わずか3か月前の7月には蘭船来日歓迎のchapaを初めて出した(後述)、かつ、上記通り、イスパニア本国との通商交渉もロドリゴのお陰で一挙に進展したわけで、マニラ総督定期船など輝きを失って見えたでしょう。1609年は西回りでオランダと、東回りで新大陸・イスパニア本国と「直接ヨーロッパと交渉の道」が見えた、家康にとって記念すべき年だったはずです。
回り道ついでにここで、難破・江戸・駿府、そして家康との交渉を終えてホッとしたはずの、
ロドリゴの日本旅行をもう少し追っておきます。ロドリゴという人は、当時の他の宣教師・軍人商人・冒険野郎とは一線を画し、育ちのいいインテリ、ヨーロッパも新大陸も東アジアも知っている、その観察は鷹揚で公平、鋭く面白く、「日本と日本人」を語るに落とせない貴重な記録を残してくれた、と思うからです。
時代は家康の晩年1609年、秀頼淀君は大坂城に頑としています、平和の中にも緊張感は続いています、のちの江戸時代の風景とは全く異なり、非公認ながら伴天連は結構いて日本キリシタンは史上最高数、国際貿易も(朝鮮以外)大きく展開し史上最盛期でしょう。他方で、士や土建やは余剰で江戸や駿府や地方都市がどんどん整備されていく、人々は専制下で貧しかったにも関わらず、安土桃山風が残り、清潔で活動的に思われます。
ロドリゴは駿府から京都に向かいます。1609年10月(和暦)です。
ロドリゴ 駿府から京都に向かう
駿府より都まで80レグワ(≒里、4km)、道は平坦で快適だ。
途中数本の水の多い川があったが、一方から他方に曳船で渡った。船は大変大きく旅客の馬も自由に乗れる。旅行者は多いが、途中無人の地で野営する必要などなく泊まるところは必ずある。前述通り(東海道は)1レグワの1/4とて無住の地はない。これほど広大で交通盛んなのに街路や家屋の清潔な町々は世界の外のいずれにもないことは確実だ。この地の旅行は甚だ快適で至る所飲食物多くほとんど無料で提供する。旅館にも事前予告して食物の準備を命ずる必要はない、何となれば日中いつでも求め望むものが得られるからだ。
・・私(らの場合加えて)皇帝家康の命令があったので途中各地の領主や代官は大いに接待饗応してくれた。
・・ある日の午後、都に入った。都は世界でも有名だが、なるほど道理だ。広大な平野にあって住民はかつて80万を超えたこともあるが、いまは30万〜40万という。それでも世界最大の都市だ。その周壁?が10レグワ、朝7時から晩6時まで歩いてみたが家並は続いていた。
曳船で水量多い大川は渡ったといいます。朝鮮使には浮橋(臨時に、舟を並べ板を張り馬や行列を通した)ですが、ここは曳船といい馬も乗れた、といいます。江戸時代の渡河は歩いて・肩車で・輿でなどと聞きますが、
この当時は朝鮮役以来まだ大きな船も多くまた身分高い人の往来も多かったからでしょう、曳船が発達していたようです。
都の人口は大坂・江戸・駿府そして地方都市が整備され減ったのでしょう、それでも3,40万人、ぐるりと一日歩いてみても家並みが途絶えることはなかった、のは事実とみます。
天皇について
内裏(dayre)すなわち王(roy=天皇)はここ都に住んでいる。天皇は日本創始から直系継承するが、日本人は天皇を見ず語ることをしない、以て威厳ありとなす。常に引籠り、日本の統治は権利・理屈としては天皇に属すが、数年前太閤様(秀吉)が武力で諸侯や領主たちを服従せしめて以降はただ名のみの存在となった。
天皇は日本の大官、皇帝(家康)に至るまで称号を授与し任官する、このため毎年決まった日に諸人皆官位はそれを表する身なりで来集する。天皇はまた最高の司祭(神官)で坊主(神官神主の間違いでしょう)という偶像崇拝(ここも間違い)の統領ゆえに彼らに位階を与える。家康は任官するときはやむないがそれ以外の時は来て服従することはない。ただ諸儀式のときは皇帝も内裏に大いなる尊敬を示し天皇に上席を譲る。これ以外に天皇に与えるものは少なく生活していくに足る分を与えるだけだ。(それでも)その住まいは壮麗で江戸や駿府の宮廷に匹敵する。
天皇は都の政治にさえ関与しない。門内内裏を支配するだけだ。
都には、皇帝家康の任命する副王(京都所司代板倉伊豆守勝重)がいる。伏見・堺・大坂など大きな都市が近くにあるがこれらは管轄しない。淀川など運河の範囲内だが、副王は大国の領主と同じで皇帝と同じ権限で都の政治を行う。ただし所司代が外に出ることはなく6人の執政を置いてこの地を治めさせている。
天皇には結局、ロドリゴも会えていません、というより、朝鮮使に対すると同様、家康・江戸幕府は会わせていません。上記も半分は会わせない理由であり半分は
当時の幕府やインテリの天皇位置づけの説明です。それをそのままロドリゴは記録している、と読むべきでしょう。他の部分では西暦より663年(実は660年)古い、60年前まで日本人は中国人以外外国人を知らなかったし書籍儀式なども中国の影響大だから、天皇の祖先は支那の一王、とも記します。要は、神主の親玉で隠れていることで権威を維持し、政治的実権は皆無、任官が唯一の政治的仕事という了解です。
当時の京のようす
京所司代板倉勝重は大いに私を歓待し、イスパニアについて多くの質問をしお返しに↑↓を教えてくれた、といいます。
都には神々の宮5千はある(寺社仏閣の数、神仏を分けて説明した節はありません)、当局が指定した特別区域だけで娼婦は5万いる。
太閤様(秀吉)の墓所・その大仏(方広寺)・三十三間堂を案内させたがこの3か所をみるだけで3日間を費やした。
大仏と称する金属の偶像は世界7大奇観といっていい。ことごとく青銅ででき予想外に大きかった。同行の最も長身のものに命じ大仏に上らせ掌の上でその右親指を両腕で抱えさせたがなお2パルモ(40センチ)足りなかった。まだ建設途中で大工以下10万人が働いており悪魔は皇帝(というより秀頼)の富を消費させている。
太閤の墓所は有名でかつ壮麗だが人の遺骨を崇拝するためとは悲しむべきことだ。この堂の入り口は坂道で400歩、両側に3歩おきに高さ5パラ(40センチ)石灯篭をたて燈明をともし夜も明るい。この参道の終端に第一の階段があり上ると堂がある、堂の手前には女坊主(太閤の妾達か)の僧院があり彼らも祭司として勤行に参加するが他とは隔離されている。
正門は磨いて金銀を飾り構造は巧みで、内部はそれ以上だ、堂の中には頗る大きな柱が並び、柱の間には合唱所(祈祷所?)があって格子や椅子があることは他の大寺院と同じだ。坊主や補助員が一定の時間に読経する。私は聖教に反すると思ったから読経は聞かなかったが、所司代の案内役は私らのことを告げたらしく、補助員4名が私らを出迎えた。彼らの服装は大きな襞がある以外トレドの司祭のものと変わらず、上が広がった頭巾をかぶっていた。彼らは活発に我らと会話し、進んで内部を見せてくれた。多数の灯篭がならびダソダルーベの聖母と似ているがその灯明は(太閤墓所の)3分の一に及ばない。それ以上に驚いたのは、堂内の多数の人の非常な敬虔と沈黙だ(敬虔と沈黙については、他の箇所で、キリスト教徒以上、キリスト教徒は見習うべきだとまで言います)。その奥に、鉄網・銀網・金網で囲まれた蝋燭台が並び太閤遺骨箱がありこれは何人も見れない。人々はみな平伏したが、私にはウソの信心にしか見えず逆に彼らには(私たちは突っ立っており)尊崇の薄さを見たに違いない。
よって早々に立ち去りそのあと、彼らは墓所付属の寺院(方広寺)・林・庭園を案内してくれた。これまたアランスエスの離宮庭園に人工の点では劣るが自然なこと快活なことでは勝っている。高い廊下から下を眺めたが、人が言うには、昼夜人のたえることはなく、彼らの聖水や数珠で釈迦ないし阿弥陀を祈るという。日本には神仏35の宗派があり、霊魂の不滅は信じず多数の神があるとなし四元(五元?)を尊ぶ、何人もこれ(宗教)につき強圧はを加える者はない、という。(キリスト教に対しては)坊主らは団結して伴天連追放を皇帝(家康)に請願し理屈を説いたが、家康は日本に宗派はいくつあるかと聞き彼らは35と答えたので「35あるなら36になって妨げなかろう、あってもいいではないか」といった、と聞いた。
2時間滞在し、さらに1ブロック半隔てた尼院に案内された(当時の高台寺か?)。尼は青と白の絹の法衣、青い紗で頭を覆っていた。尼衣というより晴れ着にふさわしい。長老の尼は大きな部屋にでて私を引見し食事酒で饗応した。彼女が先に杯をあげ同席した10〜12人の尼たちも続いた。次いで鈴を持ち舞を披露し半時間以上に及んだ。私の方から辞退せねばもっと続いたに違いない。
この日はこれで宿舎に引き上げた。
方広寺は秀吉の発願、木製漆膠だったため1596年慶長伏見地震で崩壊、秀吉死後は秀頼が再建、1609年のロドリゴ訪問時には上記通り立派な青銅大仏が完成していたようです。大仏殿は1602年焼けたままで裸だった可能性がある。高さは6丈3尺(19m)で奈良の大仏(5丈)をしのいだと伝わる。豊臣家に散財させるだけさせて開眼直前に家康は方広寺梵鐘銘に難癖をつけ(1614年)大坂の陣から豊臣滅亡へと導いた。この時期は秀吉お墓・大仏・そして秀吉ゆかりの女たちの尼寺等が集中してあったらしくまた人々が次々詣でる京都の新名所だったようです。
キリスト教会
・・都にはコンパニヤ(イエズス会)、サンドミンゴ、サンフランシスコ、三派の僧院がある。住院や会堂は露出することなく、その前面には家があり民家のように見えるけれども、大きな成果を上げており、既に多数のキリスト教徒がいる。
私たちは、降誕祭の前夜(洋暦12月24日、和暦慶長14年11月28日)京を出て伏見に向かった。かつて(秀吉家康の)宮廷があったところだが現皇帝(家康)はこれを駿府に移した。・・私たちはサンフランシスコ派のパードレらの住院に寄宿し、降誕祭の夜は多数の教徒が来集し聖式に参列し祝するのみて、大いに歓喜した。しかも彼らはほとんど皆修業を積んだ修道士のように非常な熱心と涙をもって聖餐を受けた。
淀川を下って大坂に入った。
大坂でも、サンフランシスコ派パードレの住院に寄宿した。この地にはまたコンパニヤおよびサンドミンゴ派の宣教師がいる。
大坂は日本で最も繁盛している都市だろう、人口は20万、海水がその家屋に波打ち、海陸の賜物は潤沢だ。家屋は2階屋が通常で構造は巧みだ。
東国ではキリスト教がさほどではなかったようですが、京から西は各地に古くからのイエズス会、新興のサンドミンゴ、サンフランシスコの宣教師たちがいて布教を継続しそれなりの成果を上げていたようです。家康も結局南方・海外交渉には、通訳代わりに宣教師たちを使わざるをえす、黙認していたことがよく分かります。
大坂から豊後臼杵へ
大坂からこの国の船で豊後に向かった、船はセビーヤ河の川船とほとんど同じ。12〜15日の船旅だが陸沿いにすすみ夜は陸に上がって休むので、船が難破することは殆どない。
豊後について数日後、長崎でのマカオ船焚焼事件(1610年1月10日=慶長14年12月16日)を聞いた。(この事件についてロドリゴとパードレ・ソテロが共同して家康のために協力したとロドリゴは書いています)
ドンロドリゴ艦隊3隻のうち臼杵に避難していた帆船サンタ・アナ号は、臼杵にあり、ドンロドリゴの到着を待っており、彼を乗せてノバイスパニアに帰る予定だったと想像します。しかし、ロドリゴはああでもないこうでもないといって結局乗船せず、駿府・江戸にもどり、家康からもらった按針丸で30名の日本人を伴ってノバイスパニアに向かいます。これが1610年日本船太平洋横断の初めて、船も三浦按針指導によりますが日本人の手になった日本製です、操船も主要なところはロドリゴ部下たちですが技術習得目的の日本人操船者もいたろうと想像します。
ドンロドリゴは臼杵にあって何を思ったのか、彼自身相矛盾するいくつかの記録を残しています。真相はこれらを踏まえ想像するしかありません。

見聞録でロドリゴは帆船サンタアナ号船長(セバスチャン・デ・アギラル)は、私に船を提供したが、船は陸上に乗り上げて三日間あったことかつ(本来)老朽船で安全ではなかった。(私は家康の命でイスパニアとの条約を進めるという重要任務があったため、趣旨)これを受けず、サンタアナ号には修繕させて、ノバイスパニアに先行出発するよう命じた。
[アギラル船長からドンロドリゴ宛1610年4月26日(洋暦)中須浦(博多中州ないし山口県中須?)からの手紙によれば]
ドンロドリゴのようなイスパニア国王の重臣を残しては去れないこと、船長室を提供すること、それでも乗船しないなら自分のために免責状を欲しいことなど、を書き、
対して、ロドリゴは、自分のために他の乗客の迷惑をかけたくない事、オランダ人退去の問題で家康の許に戻る必要があること、船長の好意に感謝しロドリゴが日本に残るのは自分の意志であって船長に責任はないことなど、返事している(同日臼杵発返信)、ようです。
こうして、修理を終えたサンタアナ号は、ロドリゴを乗せずに、1610年5月17日(和暦3月24日)に臼杵を出帆し、10月7日にはアカプルコに入港、無事新大陸に帰任しています。
おそらくはロドリゴに付き従っていた随員の一部もこの船で新大陸に渡ったものとみられます。
しかし最も重要と思われるのは、ロドリゴがグズグズしている(場合によっては日本に数年居続けるつもりさえあったと読みますが)のを知った家康は、ロドリゴとは別に、家康が信頼するルイス・ソテロ(サンフランスシコ会フラーレ、1603年マニラ総督使節の一員で来日、そのまま日本で布教)を使者とし按針号に必要な外人船員を配して、京商人立青や田中勝介ら30数名をイスパニアに派遣することを決定したことをロドリゴが知ったため、と思われます。ロドリゴは自分が中心になりロドリゴが信頼するムニョス(1609年のマニラ総督使節の一員として来日、そのまま滞日)を日本の使者としてノバイスパニア・イスパニア派遣団を構成するつもりだったとみられますが、動きの遅いロドリゴを牽制したのが家康の意図だったと読みます。
いくつも状況証拠はあります。ロドリゴは自分が家康と交渉し各教派のパードレ・フラーレを動員し翻訳していた条約案の日付が慶長15年1月9日付、家康のイスパニア本国レルマ公(フェリペ3世の宰相)宛書簡の日付が慶長14年12月28日付け、であり、これに先立ち、12月27日(1610年1月21日洋暦)ソテロは駿府家康に召されイスパニア行きを命ぜられ同時に船の準備を後藤庄三郎に命じています。レルマ公宛書簡は日本人らしくきわめて簡便ですが詳細は使者ソテロに委ねる↓と家康は明記していますから、家康は主導権をロドリゴに委ねることを警戒したとみて間違いありません。
ドンロドリゴとしては、家康を甘く見て主導権を握ったつもりでテレンコ京大阪見物しながら臼杵に向かったわけですが、おそらくは京都所司代の板倉勝重あたりがその様子を家康に報告、そうならばということで、家康は上記対抗措置を講じた、とみます。
驚いたのはドンロドリゴでしょう、しかも、この情報は家康やムニョスから得た節はなく、長崎経由で知ったらしい。急ぎ家康と再調整する必要を感じた、家康宛にロドリゴは書簡を出します。
ロドリゴ書簡 1610年3月8日付け、駿府の(皇帝)家康宛、ドンロドリゴ、豊後(臼杵?)より
長崎からの知らせで、殿下(家康)が江戸に係留の船(按針丸)をノバイスパニアに派遣することを決定され、これを操船するため航海士ポラニョスや水夫たちに命令されたことを知った。
私は、当地のサンタアナ号に乗船しようとしたが、同船は大きく安全快適だが、
殿下の家臣が新イスパニアで歓待されることを保証する責任が(私に)あると感じ、また、尊敬され威信ある乗組員無しでは疑惑を招く恐れがある。殿下(家康)の名によって彼の地に赴く者に対し、ノバイスパニア総督以下妥当な接遇をなさせるために、特に必要だと思うから、私が同船(按針丸)に乗って殿下のために尽くしたい、そして日本で私に与えられた名誉と厚遇に報いたい。再度駿府江戸に戻るは苦労だけれども・・。
また私が統領として乗船すれば、(随行あるいはサンタアナ号の熟練船員たちも加わり)航海士や水夫たちも迷うことなく航路直帰できよう。
私は従者ひとりを先発させてこのことを(家康に)報ず。
よって当該船(按針丸)は私が乗り込む前に出帆することがないように、4月20日前後には(江戸に)到着しようから、この旨殿下より厳命願いたい。
我等の主、殿下を守り領国の繁栄させることを祈る。
[ これに対し、後藤庄三郎からの返信 ]
後藤庄三郎 返信
後藤庄三郎からロドリゴ宛
貴下の書状に接し、貴下が皇帝(家康)の船(按針丸)に便乗せんと欲することを知り、陛下(家康)は大いに喜ばれ、貴下が駿府に上ることを命令した。
また貴下にはソテロが同船には便乗しないことを承知されたい。
同船(按針丸)渡航のために必要なものは、貴下が臼杵より持参されたし、その選別はお任せする。
なお同船には日本人30人まで日本から乗船させる。もしその余地がないならば、貴下選別にお任せする。
日付は不詳ですが、この家康の意向を確認したうえでロドリゴはサンタアナ号を出航させた、勿論サンタアナ号からは必要な装備備品あるいは熟練船員を譲り受けて、ロドリゴらは駿府・江戸に向かった、とみていい、でしょう。
ソテロとムニョスの関係はよく分かりません。ソテロが家康の意向、ムニョスがロドリゴの意向だったことは疑いません。ソテロは病気になったからムニョス一人がロドリゴと共に発ったとも伝わりますが、もう少し事情があったのではないか?。
5月4日付け秀忠のレルマ公宛書簡です。
秀忠からレルマ公へ
日本国征夷大将軍 源秀忠
ゑすはんや国主とうけい・てい・れるま閣下
のひすはんやより至本邦商船、可令渡海之由、前呂宋国主被申贈候、日域之地、雖為何之津湊、着岸之儀不可有異儀候。随而鎧五領相送之、委曲伴天連ふらい・あろんそ・むにょす、ふらい・るいす・そてろ可申候也。
慶長十五年五月四日  秀忠印
[訳]
日本国征夷大将軍 源秀忠
イスパニア国主 Doque de Lerma(ドケ・デ・レルマ)閣下
ノバイスパニアから本邦に商船を渡海させる予定と、前マニラ総督が言ってくれている。
日域の地、何処の港であれ着岸した際には、間違いなく保護援助する。
証として鎧五領を送る。
詳細は、フライ・アロンゾ・ムニョス、フライ・ルイス・ソテロに述べさせる。
慶長15年5月4日(和暦、1610年6月24日) 秀忠印
ちなみに、上述の、家康がこれに先立って前年12月28日付けイスパニア国レルマ公宛書簡は以下の通り、ここではソテロの名があるだけでムニョスには言及ありません。

ゑすはんや、とふけ・てい・れるま、申給へ
のひすはんやより日本へ黒船可被渡由、前呂宋国主被申越候、於日本、何之湊へ雖着岸、少も疎意在之間敷候、委細伴てれ、ふらい・るいす・そてろ可申候也。
慶長十四年十二月二十八日
家康朱印
[訳]
(イスパニア国王に)Doque de Lerma(ドケ・デ・レルマ)から(家康のために)申し上げ給え、
ノバイスパニアから日本へ黒船を渡海させる予定と、前マニラ総督が言っている。
日本の何処の港であれ着岸した際には疎かにすることなく保護援助する。
詳細は、フライ・ルイス・ソテロに述べさせる。
慶長14年12月28日(和暦、1610年1月22日)
家康朱印
家康信では使者としてソテロの名だけ、秀忠信ではムニョス・ソテロ両者となっています。ここがこの間の修正のポイントです。・・文体はすっきりしメッセージも必要最小限です、いずれも事大坊主崇伝の文章ではなく、正信か祐筆の手、でしょう。ムニョス・ソテロのみならず沢山の伴天連・フラーレが翻訳に当たっていて間違いなさそうですから、これで十分ということです。
こうして、ロドリゴは部下の最小限熟練乗組員と共に、使者ムニョスと日本商人立青・田中勝介ら30人を乗せて、120トンの按針丸(改名してサン・ビエナ・ベンツーラ号)によって太平洋を越えます。1610年8月1日(慶長15年6月13日和暦)江戸(浅草川=隅田川)を発ち10月27日(和暦9月11日)カリフォリニアのマタンチェル港に到達、11月13日アカプルコ港に帰還した。  
 
家康のマニラ総督との交信

 

家康がいつマニラ総督との交渉を始めたか、現伝資料によるかぎり、秀吉死後1年半後、関ケ原戦の半年前の1600年(慶長5年)早々、といっていい。フランシスコ会の「ヘロニモ・デ・ヘスース」(ジェロニモ・デ・ジェズス・デ・カストロ、Jerónimo de Jesús de Castro)を起用します。
ヘスースは朝鮮役最中の1594年に来日、長崎や京都で布教するが、1597年秀吉による二十六聖人殉教事件の後、マニラへ追放。が1598年密かに再来日、秀吉の死後は徳川家康に接近し、1599年には江戸に教会建設を認められ、同時に家康によるマニラとの関係修復・貿易拡大の意向を受け、1600年早々には長崎からマニラに渡ったようです。この時期、島津や加藤清正らも呂宋(マニラ)や明(福建軍閥)とそれぞれ交渉を進めている節があり、他方大坂には秀頼を囲んで三成らが厳然と侍っているわけで、家康も大老として以上に一有力諸侯としての行動だった可能性が強い。それもあってでしょう、ヘスースにどんな書面を持たせ交渉させたかの記録は残っていないようです。
ヘスースは、関ケ原戦のあと、1601年には「マニラ総督書簡」をもって平戸に帰国、5月29日(洋暦)伏見城で家康に報告。マニラ総督信の内容も未発見?のようですが、家康の意に沿うものだったのでしょう、ヘスースは褒美として家康から修道院用地を貰っています(ヴァリニャーノ記録○○)。
この後10月付(和暦)で、家康はその覇権確立に自信があったのでしょう、タイトルなしの個人名=「源家康」名でマニラ総督宛返信した、その記録は残っています。(近藤重蔵「外蕃通書」現代語訳)
家康 マニラ総督へ返信
日本国、源家康、呂宋国(マニラ総督)ドン・フランシスコ・テーリヨ、足下に回章(返事)する。
旧年(過去数年)、貴国海辺において大明および我が国の悪徒や海賊がいたが、刑すべきは刑した。明人は異域の民だからこれを刑するには及ばず、今や本国に帰っていったが、ちゃんと明本国で誅罰されたと聞いている。本邦の方では、去年(1600年)兇徒が反逆をなしたが(関ケ原戦)、わずか一か月でこれを残すところなく誅戮した。
故に(東アジアは)海陸安静、国家康寧、だ。
本朝(我が国)から出発する商船といえとも、そのすべてを用いるべきではなく、その来意(通商なのか海賊なのか、徳川かそうでないか)に従うべきだ。
今後、本邦の船で貴地に到るものは、この書に押してある朱印をもって、信じていいものだと証表する。この朱印以外のものには(通商を)許可しないよう。
わが国は(マニラとの通交は当然として)ノバイスパニア(メキシコ、米新大陸)との通商を欲する。(が、太平洋横断は)海路困難で貴国の協力案内がなければ難しいので、船や船員を時に応じ使わせてほしい。
貴国の進物は納受した、遠路ありがたい、寒さが募る中、ご自愛あれ。
御朱印(家康の)
慶長6年壬丑(1601年)冬10月 日
家康は、明朝鮮での戦争も国内の関ケ原戦も、倭寇の悪徒海賊だったように語ります*。前代の秀吉は倭寇の親玉だった、明側共犯者たる沈惟敬や石星は明で処刑済、小西行長石田三成安国寺らは去年自分が誅殺した、といわんばかりです。そしてここに御朱印(豊臣時代と違う家康の御朱印)の再開を通告しています。このころマニラ側には、海賊か通商かわからない多数の倭船が押し寄せていたということでしょう。
○村上直次郎さんは、かなりローカルな海賊をイメージされていますが、おそらくそうではなく、朝鮮役末期(1597,98年)には明水軍が福建浙江でも動員され朝鮮に派遣されますがこれが戦中戦後あぶれてマニラ海域等にも出没するのだ(もちろん倭の水軍もですが)と想像します。なお近藤重蔵も村上さんも「明人・・今帰于本国」の「今」を「令」と校訂され家康の使役と読まれますが、これもその必要はなく、原文通り「今」でよく「(朝鮮役が終わって明軍も朝鮮からも海上からも自主的に)今や引上げ本国に帰っていった」と読めばいいことと考えます、細かいですが念のため。
家康はこの時点ですでに米新大陸との貿易に言及しています。家康の眼は東アジアだけでなく新大陸をも見ていることは注目すべきです。これについては後述します。
上記家康信と共にマニラ総督に送られたとみられる長崎代官「寺沢広高信」も現伝します。
長崎代官寺沢広高 信
(上記は)内府閣下(Senior Dayfo=家康この時内大臣、ちなみに秀頼は右大臣である)が、昨年(1600年)付の(へスースが持ち届けた)貴信に答えるために、本年したためた一書だ。
これまで日本からの貴地への船が甚だ多いがこれは閣下(マニラ総督)の欲するところでないというが、自分(寺沢)はその理由を知りたい。
もし貴地に赴く船を特定せよという趣旨ならば、これを指定し皇帝の免許状を交付して渡航させることにする。この場合、免許状を持たない船の入港は禁止されよ。
内府閣下(家康)はこれまでも閣下(マニラ総督)に書簡を送られる毎に、必ずノバイスパニア通商の協力を求めたが、一度も返事をもらっていないことを遺憾としている。閣下から返事があれば大いに喜ぶだろう。また(マニラと新大陸の間の日本で寄留すれば)港湾や海上の賊難を防ぐにも役立つだろう。
内府閣下の6年(慶長6年=1601年)10月6日
閣下(マニラ総督)自分(寺沢)に返事されよ。
(発信)肥前国守 寺沢広高
家康を内府とよび、家康はこれまでも何回もマニラ総督宛に通商要請をしたが返事がない、といいます。これまでは、マニラ総督にとって、家康は日本各地の諸侯商人と同じレベルに見えたということでしょう。関ケ原に勝ったので、家康は(豊臣系で長崎代官として国際的にも知られる)寺沢の権威を借りて添え状を書かせた、寺沢の立場では秀頼は右大臣としてまだ内大臣の上にいるわけですから、内府というこれまでなかった書き方で対応した、というところでしょう。ただし内府の6年とこれまた初見の年号を使っています。
さらに家康の打ち手は重厚で、同日付けで、ルソンの難破船乗員に船をつけて返還し、家康の厚意と力を実証します、こちらは「本多正信」名の書簡です。
(上記「外蕃通書」つづき。)
今度上総国大滝に漂流着岸せしめた船の乗組員全員を、住まいは不明だが、船長(カピタン)にルソン(呂宋)に召し具して渡海するよう命じた。もし難渋することがあれば申し出るよう。恐々謹言。
慶長6年(元和2年とあるものを近藤重蔵守重がこの年に校訂)10月6日
(発)本多佐渡守正信、印
(宛)世連郎壽庵安恵須気羅(セレラジュアンエスケラ?=船長、船主)
呂宋の難船者と判断してパスポート・ビザを与えたわけです、隅田川に係留していた唐船を与えて帰還させたといいますから大変政治的で手厚い保護です。・・近藤の校訂が正しいと思うが、上記、寺沢広高信と同日なのは注目していい、家康の支配が西は長崎から東は上総にまで及んでいることを問わず語りに示します。また寺沢広高と本多正信が並んでいるのも興味深い所で、まさに外交業務はこの豊臣時代からの寺沢から家康子飼いの正信正純父子に引き継がれていく。寺沢は肥前国守だが、能吏だったようで朝鮮役も関ヶ原戦も生き延び「長崎代官」を文禄元年(1592年)から慶長7年(1602年)まで務めます。なお、このカピタンはイスパニア人ではなくポルトガル人だったらしい(上記伴天連ヘススも同様)が、1604年には日本に還ってきてまた大儲けしたらしい。
上記の家康信・寺沢信も案外このカピタンがマニラ総督に持ち届けたものかもしれません、当然出航前には同郷同境遇のへスースともよく話した上でのことでしょう。なお書状の日付1601年10月6日(和暦)はへスースが京都で客死した命日でもあるらしく、へスースを悼みその功績を称える思いかもしれません。
前掲の「慶長6年壬丑(1601年)冬10月 日の家康のマニラ総督宛」に対する返信とみられるものがあります。
マニラ総督アクニヤから内府家康宛、1602年6月1日付け(洋暦)
マニラ総督アクニヤから家康へ
(フェリペ3世)国王の命により当ルソンを治める(マニラ総督)ドン・ペドロ・デ・アクニヤ(Don Pedro de Acuna)は本年当地マニラに赴任し閣下(内府家康)の書簡に接した。
1) 閣下が先年当海域を騒擾した日本人・支那人を駆逐処罰したことを聞き満足している。善を賞め悪を罰するのは正道賢明で平和に生きる君主の務め、閣下に期待する。
だが最近も日本船数隻がルソン諸島に襲来し他の船を捕獲し被害を与えた、深く悲しんでいる。これが(家康)閣下の意を受け許可を得たものとは信じない。偉大な君主はこのような下劣な悪事をなさず臣民にも許さないからである。よって、わが艦隊がこれを捕捉すればこれを罰し閣下の手間を省く、もしそうならない場合は閣下が犯人を捜索し処罰し他への戒めとされたい。
2) 日本から当諸島にくる船は、時風期ごとに3隻、毎年6隻と定め、これに閣下の「朱印」を下付されよ。自分(アクニヤ総督)もまた貴地に赴く商船に「渡航許可証」を与える。
こうして閣下が言う通りに船を識別し、当地に来た(朱印)商船は助け厚遇し迫害せず財産を奪われることはない。貴地に赴くイスパニア人にも同様の待遇を望む。
3) 閣下の書簡および前任者の言により、閣下がノバイスパニア(メキシコ、米新大陸)と通商を開くことを望まれていることは承知している。前任者はすでにメキシコ総督を説き国王にこれを奏上することに尽力したと聞いたが、自分(アクニア)はイスパニア人と日本人が親交を増しまた閣下の希望実現のために再びこれを上申する。
4) 閣下が、その地(日本)のパードレ(伴天連)等を厚遇されていることを伝聞し深謝する。彼らは神に仕え謙譲敬虔善行の徒であり、我等はこれを尊崇する。よって閣下がますます彼らを寵愛し必要な援助をあたえることを懇請する。
5) 閣下が、当地の船が(ノバイスパニアへの)航行途上に関東に渡航寄留するよう望んでいることを、パードレらも自分に告げた。よって自分は(関東の港の事前調査のため)船を派遣することを決定した。閣下が早急に(使者としてマニラに来たパードレらの)その帰航を命ぜられたい。
6) またパードレらから、オランダ人数名が、貴地に来航し留まっていることを聞いた。オランダ人はわが国王の臣民だが、悪辣で騒擾を好み謀反海賊を業としている。貴地に来たのも土地港湾を探検し略奪のためだ。閣下が十分警戒され、また彼らを捕縛し最初の船便で当地マニラに送致されたい。
7) 本船に託して鏡その他イスパニアの進物を贈る。閣下への好情の証として納受されよ。もし当地に望まれるものあれば、連絡されよ、喜んで周旋する。神の加護が閣下にあるように。
ドン・ペドロ・デ・アクニヤ
以上、マニラ総督が代わり関ケ原のあとなので家康の権威をようやく認めたのでしょう、内府家康を「皇帝」とよび「年6隻の朱印船」を認めますが、マニラからも「総督許可証」船を通告、がこちらには隻数制限はありません。「ノバイスパニア(北米新大陸)への通商」については本国国王につなぐと時間稼ぎし、「江戸関東への船の派遣」はパードレ帰航と港湾調査を理由に了承します。問題は「伴天連の扱い」で、家康はヘスースが死にその弟子たちをこの機にマニラに使者代わりに追いやった節がありますが、マニラ総督は逆手にとって非イエズス会(マカオ)の伴天連を送る好機とみたらしくフランシスコ・ドミニコ・アウグスチンのマニラ系伴天連を送り込みます。さらにはパードレから聞いたとして「オランダ人」(三浦按針やヤンヨーステンらのことです)については追放を要求します。
アクニヤ・マニラ総督は同じ日付1602年6月1日付で、寺沢広高にも返信しています。
アクニヤ・マニラ総督 寺沢広高に返信
言葉では、「家康の要求には尽く応ずる」といいながらも、実際には
1.家康の朱印船は認めるが、当分、一シーズン3隻で年合計6隻に限定する。
2.フランシスコ・ドミニコ・アウグスチン諸派のパードレ(伴天連)を送る。
この2点を家康とは別に重ねて「長崎奉行寺沢」にも確認通知する一方的なものです。なぜ日本船が多いのを嫌うのかという寺沢の質問には全く答えず無視しています。
家康は前記事アクニヤ総督信を受け取ってすぐに返書を送ったようです。1602年8月(和暦)付け
家康 返書
日本国 源家康(より)、
呂宋国大守(マニラ総督アクニヤ)麾下へ、
遠方からのお手紙に感謝し回答する。
貴国の情勢の説明、さらに鏡など5種の進物をもらい、お眼にかからず言葉を聞いたこともないが、四海一家(地球は狭い)との思いをなすものの交情であり感慨にたえない。
我が国が新大陸ノバスパンと商船を往来させたいというのは、必ずしも我が国のためだけではない。貴邦の人がかつて曰うに「日本東国の関東はまさに止宿するにいいところだ。すなわち、ルソンの船が(ノバスパンに向かう時も)風難を避け関東を経て再出発すればいいことだ、両国(ルソンとノバスパン、あるいは日本とスペイン帝国)にとって都合がよく喜ぶべきことだ、云々」と。ゆえに、貴国ルソンがノバスパンに連絡して(スペイン本国の承認を得るよう)吉報を心待ちにする。
蓋し、当方も貴邦の要望に応じて、本邦より出る海賊船の輩は悉く誅殺する。この旨、域内中、遠島辺境に至るまで厳命徹底する。
またもし貴地に行って暴虐をなすものがあれば(貴方にて)殺戮されて問題ない。本朝の商人で家康朱印を持つものでも非理をなす者は国政に用いるわけにはいかず、その名字を記し連絡いただければその後はその者は渡海させない。
粗品だが本邦武器を別紙目録通り贈呈する、寸忱(=寸志、お金?)別表にしその他のこととともに使者に言付けた。不備(十分でないが)。
慶長第7龍集壬寅8月 日
(発)家康 印
あまり意味のあるメッセージはなく、むしろ「交情作四海一家思者、不勝感荷」が言いたかっただけ:この辺は家康は確かに信長秀吉の大きな気概を継承した人、彼らを越えて四海太平洋の先を相手にしているとの家康らしからぬ自負を感じさせます。詳細は使者に多くを託したのでしょう、これが誰でどういう話をさせたかはもう歴史の闇の中です。
なお、「年号呼称」や「先方への呼び掛け」には西笑承兌あたりが迷った様子の途中経過が見えます、微笑ましいとも事大的愚かさともみます。マニラ側は自国語分は一貫して西暦(AD)・発信者は自署名を使います、今に変わりません。いわゆる「治外法権」関連、近代明治日本外交が苦労する点ですが、絶対王権の暴力と戦った欧州他国王の代理人騎士貴族だから発生し必要だった「外交官特権」であって現代は差別悪用されるマイナスのほうが大きく、この辺は家康の考え方あたりが今や当たり前、という気がします。また、家康自身はずっと「日本国 源家康」と個人名裸で通しているのが今や好感が持てます。
更にわずか一か月後1602年9月(和暦)追っかけて家康は信を送っています。
家康 信
日本国 源家康、謹啓、
呂宋国主足下、
今こちらは壬寅の歳の秋、
貴国マニラの商船がノバスパン(メキシコ、新大陸)に赴く途上、海上風波で遭難、本邦土佐州の海浜に到った*。
ここ数年貴国と隣交を修め遠盟を結びつつあるが、今だ、幸い寡人(自分家康)が国を執った折柄、旅寓商人も船中資財も何ら強奪され大損害受けること無く、(ほぼ無事に済んだのだ。)彼らはかつての(サンフェリペ号)事件の二の舞を畏れて、偶々順風が吹いたので慌てて帰り去ったが、その内数人は上陸し貴邦の産物を寄贈してくれた。その厚意に報いるためにも、
今後はノバイスパンへの航路途中であれ、海賊や逆風で遭難したとえ帆柱が傾き楫(かじ)が砕けようとも我が国に到れば安心安全なること、改めて全日本に厳命することとする。
貴国商人が自分にいうに「毎年、ノバスパンに往来する船は8隻だ。日本国内で(マニラはじめ外国)商船が到る処災害を逃れ(救助協力をえられる)との印書を発行してくれれば呂宋にとっても百世の宝となる。」と。
自分家康は殊に遠方の人を愛憐し土民の賊心から禦(まも)る為、(朱印とは?)別に押印した印書**を8通裁定した。この印書を持てば我が国内津々浦々の町村で安心して休息寄留できるものだ。疑うなかれ。貴国の商人は、縷々説明しなくとも、我が国の(純朴丁重な良き)国風を享受できることになる。
不宣(意を尽くせぬが)。
慶長7稔(=年、1602年)歳舎壬寅秋9月 日
家康印、
偶々この年、マニラからノバスパンにむかうエスプリツ・サント号*が土佐で難船したらしい。秀吉時代のサンフェリペ号事件が思い出されたのでしょう、最大級の援助厚意を示し、かつ、年間8隻はあるというマニラ=ノバスパン間通商船の日本立ち寄りを申し出、そのため日本での「寄留保護証明書」8通を発行し早速これをアクニヤ総督に送ったというわけです。
○ エスプリツ・サント号遭難:1602年7月にマニラ出航、メキシコに向かったが、途中暴風に遭い船体を損傷、荷物の多くは海中投棄した。日本に寄って船体修理食料補充を決意し進路を転じ、9月24日土佐清水港に入港。土佐の山内一豊は長宗我部に代わり掛川から転じたばかりの土佐新米大名で、司令官ウリョの弟や船長ら5人に生糸他進物を持ち家康を訪問するよう助言し、同時に、同船監視を強め港口に材木を投ずるなどして出航を妨げたらしい。恐れ焦ったエスプリ・サント号は10月14日和船と戦闘し港口を強行突破、11月18日マニラに還帰。戦闘の際イスパニア人1、黒奴1死亡、負傷6。山内は人質捕虜となったイスパニア人ら40余名を家康の許に送り顛末を報告した。家康は直ちに彼らを解放し上記手紙と使者と共に日本商船に便乗させマニラに送還したらしい。家康が上記通りわずか1か月後の9月付け(和暦)で重ねてアクニア総督宛に出状した事情がよく分かる・・。
○ 「寄留保護証明書」=chapa:家康がアクニア総督に1602年9月に送ったもの。1603年7月同総督からスペイン国王への報告書にその内容がある、その趣旨は
1) 天候不良や避難のため、外国船はいつでも日本の港に入ることができる。何国船であれその所有物積載物商品を強奪されることはない。
2) その港に滞在することを欲しない場合、その便宜に従い、他の港・都市に移り、その商品を売りまた食料等必要物資買い付けできる。
3) 外国人は日本国内のどこにでも好みに応じて居住できる。ただしその教えを広布することは厳禁する。
慶長7年9月の日付と朱印があったという、これを「chapa」と称し、アクニヤ総督は家康から6通受け取ったとスペイン国王に報告している。大変好意的な内容ですが、キリスト教布教禁止は、この時期でも家康ははっきり主張しています。
家康にしてみれば(家康だけでなく有力諸侯や商人もこの時点では同様ですが)、明朝鮮と直接公的貿易はできなくとも、マカオやマニラやさらに南方との貿易はできている(当時の日本輸入品は生糸絹織物など中国産品が主流でこうした第三国仲介貿易を通して事実上ルートは確保できていた)わけで、家康の関心は「マニラはじめ南方貿易は朱印状によるその独占」とむしろもう一つ先「マニラ=ノバイスパン(北米新大陸)間の通商関与やノバスパン直接貿易」に向かっています。・・しかも以下の諸情報からして家康の企図はそこそこ実現できていたことも間違いなさそうです。
アクニヤ・マニラ総督は早速、前記事の家康の書信と措置を受け入れ、1602年末には関東での港湾調査要員と数人の伴天連を使者名目で派遣した、とみます。以下の1603年(慶長8年正月)秀忠信はこれを証拠付けます。
秀忠 信
日本国大納言源秀忠より、奉復(=お返事する)
呂宋国主(=アクニア・マニラ総督)麾下、へ。
お手紙繰り返し拝見、お土産深謝。万里の波濤山雲を越えて来られた「僧侶」(=パードレ=伴天連)をねぎらう。伴天連から直接遠方の政情を聞きその風俗に親しみ、珍しい産品には深く感銘した。
わが国の国政は内大臣(=内府、父たる家康)が進退を決している。重ねて云うには及ばないが、
貴国とは交盟を結んだことは自分(=家康の後継者で大納言たる秀忠)もまた十分承知している。
今後、商船の往来に当たっては、陸海、遠近問わず、(マニラとの交易船はもちろん、マニラ=ノバイスパニアの交易船の寄留についてもchapa通り、ちゃんと保護する)、疑うなかれ。
粗末なものだが土産として鎧揃い3領を寄贈する、時は春だが残寒厳しい、お国の為にもご自愛あれ。
慶長8年(1603年)、星輯癸卯正月 日
秀忠、印
家康も伴天連を好んでいないことはchapaの最後の文章でも明らかですが、これを分かった上で、伴天連を(寺沢への通告通り)派遣してきた。が同時に、関東での港湾調査やノバスパン貿易関与に進展があったのでしょう。まあ、だから、伴天連派遣への不愉快感を示すため家康本人ではなく秀忠から返事させた、内容は(マニラないしスペイン帝国との)交盟の確認とchapaの有効性(日本での保護)の強調だけで、ここがポイントだったことははっきりします。また家康としては、秀忠が後継者であることを海外に示し、かつ、秀忠にも海外事情を直接勉強把握させその意見も聞いてみたかったのでしょう、秀忠に(も)面談させ、秀忠から返信させたのだ、とみます。なお、家康の将軍任官はこの翌月2月、秀忠は1605年です、この父子の間で政権を継承することはこの時点で既定だったこともよく見えます。
この後は、家康と秀忠が相次いで将軍職に就きその威令は全国にいきわたり、朱印船による南方貿易(=徳川家による管制・徳川の利益の極大化)は順調に回り、かつ、chapaによるマニラ=関東(浦賀以外駿河清水・伊東・江戸両国あたりにも港があった節あり)間交易も軌道に乗った、とみます。ただし、問題は2点残った、一つは伴天連布教の問題、もう一つは、(マニラの航海士や水夫の協力を得ての)徳川家による自前のノバイスパニア貿易、これにスペイン皇帝の許可が下りずなかなか実現しないこと、です。
1604年7月、キリスト教を説いたアクイヤ総督の家康宛書信です。極めて宗教的内容で、おそらく家康のキリスト教嫌いから日本での布教が難航したマニラ系伴天連たちが困り果て総督に口添えを依頼したのだとみます。
アクイヤ総督から家康へ
呂宋国王 ドン・ペドロ・デ・アクニヤ、謹沐頓首、
日本みやこ(名高)の国王陛下(=家康)へ
お返事をいただいてから随分たつ(昔)、感謝申す。
薩摩にいるサントドミンゴ派(山厨羅明敖寺)のパードレ(巴礼)によれば、
都に往って天皇(←聖上?家康)に謁見すると称して(都へ行ったが)、サントドミンゴ派とは別の(マニラ系)パードレが既に都で布教していること、その(人々の?他)人となり聡敏で道を得て美しいことをなすのを好んでいることを知った、といっている。
この教え(キリスト教カソリック)は本国カステリア(干系蝋氏=イスパニア)でも聖なるものと尊崇しており、その無極至尊を名付けてデウス(←寮氏、神)という。すなわち、天地万物の主で卑しい人間が邪を棄て正に帰り暗を破り明を崇える(よう導く)、また昇天の大道、を教えるものだ。イスパニアでは皇帝から諸官長、士庶民に至るまでこれを敬い讃えている。
かくして彼らパードレたちは、貴国(日本)にあって、世間俗世界の金玉を玩好することを否定し欲望を止めさせ、人の霊魂の不滅と昇天を説き永遠の命の幸を教える者たちだ。
陛下(=家康)に直接お目にかかり善を嘉し邪悪を覆すこと(をお伝えしたと聞くが)、こうした教えを敬遠し廃棄されることの無きよう、すなわち、自分(アクニア)からも伏して敢えて忘れることなきようお願いする。
(サントドミンゴ派)以外のパードレたちも貴国に住みここ数年、善の心で布教している。貴国の人民もすでに良く識っている所だ。海空を遠く隔てる(マニラからだ)が、自ら特にこの点を書状にしたため、伏してお願いする。自分が(一人の教徒として、神を)強く讃え敬う気持ちに勝てないからである。
西土1604年7(柒)月28(廿/念、八/捌)日、
ドン・ペドロ・デ・アクニヤ、再頓首
アクニヤ総督自身が敬虔なカソリックだったのでしょう。恐ろしく謙譲丁寧です。当時のカソリックの根本を直接家康に伝えたかった、家康がおそらくあこがれるスペイン帝国はまさにカトリックの帝国、そしてノバイスパニアとの直接交易にはそのカソリックの皇帝や諸官長の許可が必要という家康の状況を踏まえて、口添えしています。カソリックのこと以外なにも話していない、しかも久しぶりの手紙だといっていますから、それほどに気合を込めたものです。・・しかし言葉というものは残念です、こんな変な漢文でどこまで通じたものか、家康は厳しく拒絶したようです。
家康の返信
(1605年家康からアクニヤ総督宛、日付不詳)
総督閣下の書翰2通(漢文とスペイン語の両方があったらしい)と進物を受けとった。なかに葡萄酒があったのは大いにうれしかった。
閣下は、先年(日本からマニラへの朱印船を)6隻といったが昨年(1604年)は追加(←又*)4隻を要請され了承した。がこれにアントニヨの1隻を算入することは好まないところだ。彼(アントニヨ)が自分(家康)の命(朱印?)を待たずに勝手に出航したことは自分を侮辱するものだ。閣下がマニラから日本に派遣する船について自分(閣下自身)の承諾なしではできないことと同じだ。
なお、閣下はマニラから来日している諸宗派について縷々説明され多々希望されていることは承知しているが、自分家康はこれを許さない。
なぜなら、わが国は、神国Xincocoと称し偶像Ydolosは先祖より今に至るまで大いに尊敬しているものだ。自分家康がひとりこれに背き、これを破壊することなどできない。これゆえに、日本では決して貴地の教えを説き広布してはならない。
閣下もし日本国および家康と交誼を保ちたいなら、自分家康が欲することをなし欲さざることは決してなさぬことだ。
また邪悪な日本人で貴地に何年も滞在後に帰ってくるものが多いと聞く。これは自分家康の好まないことだ。だから閣下が許可派遣するマニラ船にこうした日本人を乗り込ませないようにして欲しい。
諸事、思慮を用い自分家康の嫌悪を受けないよう務めてほしい。
○ 通説はこの後のマニラへの朱印状が年4通しか記録されていないことから年6隻が1604年以降4隻に削減されたとよみ、アントニオを1604年以降数年家康朱印状を得た安当仁カルセスに比定されるようですが、より矛盾が少ないrac流文脈読みからして敢えて上記訳のように読んでおきます。なお疑問は残りますが・・。
キリスト教より葡萄酒歓迎ということです。ですが、マニラ総督も諦めることなく、この時期も交易船誘致のためにはキリスト教受け入れも辞さないという、島津薩摩(サントドミンゴ派)や松浦平戸(アウグスト派)を送り続けおそらく京屋大坂の商人たちもそういうノリでもあったのでしょう、キリスト教は人々の間に広がります。家康もマニラ総督には強く言ったもののこうした抜け道があることに気づいたのでしょう、黙認をつづけますので、江戸の町さえ教会が増えたといいます。
マニラ貿易もキリスト教と抱き合わせです。朱印状(海外における安全保証)やchapa(国内における外国船の安全保証)による徳川管制独占を試みますが事はそう簡単ではなかったようで、マニラ総督も島津や平戸他へ伴天連と合わせ交易船派遣を継続していたようです。
マニラでの日本人の数も増える一方だったようで、日本人との摩擦も強まります。1603年の支那人騒擾の時は日本人500人がマニラ総督に協力し鎮圧したといいますが、1606年、1607年、1608年、1609年と毎年のように日本人騒擾が起きその日本人規模は1500人、といいます。伴天連の調停で治まったり(1607年)、マニライスパニア軍に鎮圧されたり(1608年)、支那人と日本人が一緒に暴動を起こしたり(1609年)といいます。この間日本人の勢力が増し他方でマニラ総督府は現地人抵抗の高まり(ホロやマラッカテレナテでの征服戦争継続)・英蘭との対立の中で徐々に力をおとしていく過程での一現象です。
総督アクニヤはこうした中で病死(1606年6月)、後任のドン・ロドリコ・デ・ベベーロ・イ・バエルッサ(Don Rodrigo de Vivero y Aberrucia)が1608年6月、ノバイスパニアからマニラ臨時総督として転任してきます。
新任のドン・ロドリゴ・デ・ビベーロは着任早々、1608年6月家康・秀忠に書簡を送っています。騒乱日本人追放と朱印船は4隻に限定するとの内容です。
ドン・ロドリゴ・デ・ビベーロから家康・秀忠へ
当国呂宋守護(臨時総督)としてイスパニア本国帝王の命令により今度渡海着任した。前々より当総督に懇情をいただいたことを承知しており、今後も我ら総督府に同様に願いたい。たとえ海雲山を遠く隔てようと心中は(相通じており)ますます緊密に連絡(申談)させてほしい。
さて、自分が参着したところ、ここ数年当地では逗留の日本人徒者ともが騒ぎを起こし(困るので)、該当のものどもに一人も残さず帰国を命じた。
しかし、毎年渡海の商人客人は心がけの悪い人達ではないので援助協力を続ける(朱印船の確認)。今後とも問題ない(と信じる)。
当方から例年のごとく黒船を渡海させる、関東に乗り入れるよう航海長(安子=按針)に命じたが、海路意のままにならぬこともあり、日本すべて(家康の)国なので、どの港に入ることになっても構わないとも言ってある(chapaの趣旨の確認)。
また貴国に居住のフラテ(=アウグス・ドミンゴ・フランシスのマニラ系伴天連)には前々の如く哀憫下さるよう、お願いする。
ささやかな進物を目録通り、寸志として。恐惶謹言。
慶長13年(1608年)5月27日(おそらく和暦)
どん・ろちりこ・て・びへいろ、 朱蝋に押印 かつ自署名
謹上、
日本国御主、太御所様
日本人騒擾者に帰国を命じた、と伝えています(事実は牢獄から解放して強制送還したらしい)。秀忠宛にも同日付けほぼ同内容の書簡を出しており(同201コマ中央)、そちらには騒乱日本人には言及無いが、日本からの(家康秀忠)朱印船は「4隻限る」と明記あり、また、フラテ・「伴天連」(並べて書けばこちらはイエズス会マカオ系)両方に哀憫を、とあります。日本人騒擾者の帰国命令とは、ビベーロ臨時総督赴任前でアクイヤ前総督死後の1607年のことですが、この時点で、ドンロドリゴが追認し家康秀忠にも正式に通告したわけです。
なお、年号は慶長と和暦をつかい、署名はひらがなで、朱印を真似て朱蝋押印らしく、漢文も日本人にわかり易いものになっています。ロドリゴという人の率直さであり、かつ総督府の10年近い家康とのコミュの賜物でしょう。
家康は1608年8月6日(和暦)付けドンロドリゴ臨時総督宛返信します。
家康 返書
日本国 源家康、返書。マニラ(臨時)総督宛、
お手紙じっくり拝見。書面にあるようにイスパニア(スペイン帝国)本土からマニラ総督に無事ご赴任とは、珍重、お祝いする。
前々通り(マニラ総督府を)決して粗略にしない。しかも今年は相模浦川(浦賀)に着船した、悦びにたえない。
そもそも貴国は、上下安寧、人民相親しみ、諸国がその恩恵をありがたがる国だが、わが国も法を重視し正義をなす(?)ので、悪逆賊徒はいない。したがい本邦のもので貴地にて無道をなすものは悉く誅戮されてよい。
また渡海した船長や乗組員のことも安心されよ。
貴方土産目録通り納受した、厚意深謝。我が国進物別紙通り(太刀2柄、具足2領)。その他のことは追って。取り急ぎ。
慶長13年(1608年)8月6日  御朱印
家康返信は学校元佶が書き、秀忠名分は崇伝が書いたらしい、
秀忠が8月18日駿府にきて家康がチェックしてた上で秀忠名で出状したとか。どうでしょう、伴天連問題が引っかかりアクイヤ前総督も亡くなってやや止まっていたイスパニア本国との交渉が進むかもという期待が表れています。
秀忠 返書
日本国征夷大将軍源秀忠 呈報(返書)、
呂宋国主 麾下
お手紙繰り返し拝見。
さて黒船一隻海上順風を得て日ならず相模浦川(浦賀)に無事入港したことは祝着、
わが国の風俗は、道に素直を心としもし不正直な者がればこれを戒め刑罰する、
ゆえに市場も交易も相広がり公平そのものだから、心配は不要だ。
先年(昨年?)の来船も海路風静かで本邦の指図に従って(多くの商品をもって)帰国していった。うまくいって大変結構だ。今後ともますます粗略に扱い事ない、商船が年々往来して絶えず、自国他国ともに繁栄する、幸いなことだ。
土産目録通り領納した、当方の粗品(鎧5領、長刀5柄)を別幅通り進呈する。
心にかかっていることは山のようにあるが、すべて船長に事付けた。循時珍嗇(お返事お待ちする?)
慶長13年8月24日(=仲秋念四日)
マニラで日本人勢力を増し騒乱を起こしているのを承知で、家康秀忠父子はひたすら日本人の正直さを強調し平和的な「貿易の振興」強く希望しています。先年も(関東へ)来船あったというのですからマニラ=関東間の交易はこのころ続いていたとみます、1607年朝鮮第一回回答兼刷還使、慶暹らが駿河湾で見た南蛮船=黒船とは前年のマニラからの関東宛定期船だったのでしょう。なお工芸品としても見事なのでしょうが父子で鎧太刀長刀を送っているのは武家政権であることを他方で忘れるな、の心でもありましょう。
追って連絡するとか、詳細船長に事付けたとか、ありますが、この後執政本多正信名で、ルソンでの暴力沙汰を(日本側でも制札で)禁じたとか、日本は治安がいいから安心して商船を送り続けよとか(chapaの確認)、マニラ総督府宛手紙を出しています。秀吉のように恫喝は一切なく、ひたすら徳川管制(管理統制)の下での交易促進を言います。
翌年1609年には家康の呂宋国主宛書簡が見られます。
家康 呂宋国主へ
日本国 源家康、報章
呂宋国主 麾下、
来書喜んで拝見。
本邦の人らがマニラ周辺で非法を行っている旨、確かに聞いた。(日本でも厳罰という法律)制書をお渡しするのでその趣旨で刑罰されるよう任せる、平和安寧が第一だ。
貴国の総督が(臨時のドン・ロドリゴから正式総督ドン・ファン・デ・シルバ=Don Juan de Silvaに、1609年4月着任交代)長くマニラに逗留されるよし、結構なことだ。
例年通り、黒船関東に派遣来着あった、また詳しい話も(この時の使者格は在マニラのルイス西宋真というマニラ商人らしい7月7日に駿河家康を訪問、かな平文(翻訳文?)を失却したといったらしい。本多正純・後藤庄三郎・学校元佶ら同席)聞き承知した。
伴天連の居住の件は粗略に扱わない(安心されよ)。
引き続き連絡を密に。
慶長14年(1609年)7月吉日(蓂)  御朱印
マニラの日本人騒乱はやまず、マニラ総督府で処罰していいと家康は一任しています。フラテ伴天連については居住は粗略にしないといいます(が布教は困るの立場は一貫しています)。が新総督はノバイスパニアとの直接交易の話をしなかったようで、ならこのまま進展はないな、と家康秀忠らは思ったはずです。
このとき、英人三浦按針や蘭人ヤンヨーステンは家康・秀忠の周辺にいたはず、どう思ったものか。なお三浦按針は家康の命で、リーフデ号(300トン)を解体、模して伊東のドッグで80トン(1604年)120トン(1607年)と洋船建造に成功しています。
マニラ発の商船に対して、いつでも関東に寄留してよい、安全保証する、水食糧は提供する、といい続けた家康chapaですが、マニラ=関東間交易は実現したものの(マニラからの黒船は年1隻か、日本からの朱印船で関東からでたものもあったでしょうが)、マニラ=ノバイスパニア間商船についてはその寄留さえ順調でなかったらしい。サンフェリペ号(1596年)やエスプリツサント号(1602年)のように「海難漂着」が記録に残るだけです。家康の夢はあくまで、関東(日本)=ノバイスパニア(新大陸、さらに欧州)との直接交易だったはずですが、それには遠く及びません。
マニラ臨時総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロのノバイスパニアへの帰任時も関東に寄留することは想定せず、1609年7月一挙にアカプルコに向かった。ところが暴風雨に巻き込まれ難破、ロドリゴ乗船の船は房総夷隅にたどり着き、自ら上陸し江戸秀忠・駿河家康に面談、その強い意向を重ねて受けて、関東=ノバイスパニア交易実現に尽力します。ロドリゴの力で、一挙に本国イスパニアとの条約締結話に進みますが、おそらくマニラの既得権益商人らの妨害の故、といってよいでしょう、結局は潰えます。そして家康も死に話は再度伊達支倉の手で継続挑戦されるわけですが・・、
以下、またまた遠回りで趣味的ですが、伊達支倉ほどに有名ではないこの家康ロドリゴ物語のうち、まずは、「1609年夏ロドリゴの冒険譚」をメモっておきます。ドンロドリゴはのちに本国伯爵となる名門、神とフェリペ三世への忠誠が継続できるなら自分は江戸に住みたいとまでいっています。
第一に注目していいのは、ドン・ロドリゴ旗艦サンフランシスコ号のみが難破し「上総夷隅」に流れ着いたことです、船団の2隻のうちサンタアナ号は遠く豊後臼杵に避難入港、もう一隻のサンアントニオ号は航海を続け無事ノバイスパニアに着いています。この時期日本へ漂着したサンフェリペ号もエスプリツサント号も土佐なのに対し、ドンロドリゴのサンフランシスコ号に限って房総に着いたのは奇異といえば奇異です。
この時ドミンゴは難破により200万(ドゥカド、個人としてもダイヤやルビーなど10万)の富と乗員50人を失っており決して故意とは思えませんし本人は専ら海図の誤り(日本を南寄りに誤解)を言いますが、それでも万一避難するなら家康のいる関東へという意識がどこかにあったような気がします。サンフランシスコ号は1000トン大型船で船は座礁して壊れ助かって夷隅岩和田に上陸できたのは370名といいます。
帰りの船についてもやや奇異です。僚船サンタアナ号が臼杵に係留し(chapaを提示し保護厚遇されたようです)船を失った艦隊トップのドンロドリゴの乗船を待っているのですがロドリゴは臼杵までいきながらこれには乗らず、家康が提供してくれた三浦按針製作の洋船120トンをもらってこれで太平洋を渡り帰ります。臼杵からはサンタアナ号も無事ノバイスパニアに戻っており、ここも奇異といえば奇異なのです。
ドン・ロドリゴ・デ・ビベロは当時のノバイスパニア副王の息子とか甥とか、イスパニア本国で教育を受け黄金期のフェリペ2世3世の宮廷に出入りしながらも冒険心の故でしょう父か叔父が副王のノバイスパニアに赴く、そして前任アクイヤの病死で臨時総督として急遽マニラに赴任したわけですが正式後任がすぐきて、結局マニラにあるのは1年程度(1608年6月〜1609年7月)。むしろ漂着しその身分が家康に知れ厚遇されて日本にあること1年近く(1609年9月〜1610年8月、洋暦)です、
マニラに1年、日本に1年というのがドンロドリゴの東アジアでの体験です。当時世界最強のスペイン帝国名門の坊ちゃんで年齢は40そこそこ、怖いものなし好奇心旺盛、どうにもこの人は当時の日本、とりわけ家康秀忠のピカピカの江戸駿河やその新大陸外交、を西洋の眼で見て語るために生まれてきた人ではないか、と思うほどです。
上総夷隅岩和田に上陸した、前マニラ(臨時)総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロは、上陸地から、江戸までは40レグワ(≒里)、江戸から家康のいる駿河まで40レグワ、駿河から京・大坂は100レグワと知ります。当時はchapaの考え方ですから、船の乗組員は丁重に保護されその回収された積荷は厳重に保管され、その鍵はドンロドリゴに渡された、といいます。やがてドンロドリゴはその身分が知られ秀忠の江戸そして家康の駿河を訪問するよう命ぜられこれに応じます。積み荷の鍵は船長に託し然るべくマニラの荷主に返還するよう指示したうえで、30名程度の乗員を引き連れて、江戸へ向かいます。
当時の徳川政府は外交慣れしていますから、各派伴天連たち、ヤンヨーステンはオランダ人ですから接触していないようですが、英人三浦按針はかなり早くにロドリゴと接触した節があります(48日目に英人航海士来訪と)、もちろん、崇伝・元佶・本多正信正純父子・後藤庄三郎(金座銀座の)らも、総動員されたようです。
江戸入りあったりから前掲「ドンロドリゴ日本見聞録」
新生江戸の街のようす
江戸入りまでも沿線各地で歓待優遇された・・江戸入りの日は多数の高官が来たり宿の提供を申し出てくれたがすでに将軍秀忠の命で宿舎は決まっていた。午後5時、外国人を珍しがって出迎える多数の人々の間を宿舎に到着した。到着後8日間は身分有るものが訪れ面談したが平民でも食事の提供などひっきりなしで瞬時も休息できず、ついに接待役は門に番兵を置き私の許可なしには誰も入れないとの高札を出したほどだった。
江戸は人口15万で、他の大都市ほど大きくはないが、海水がその岸をうち、市の中央に水豊かな川が流れ相当大きな船でもこの川に入る。ただし水深が浅いので帆船は入れない。川は分岐して多くの市街を通過し食料の大部分はこの水路によって容易に搬送される。食料の値段は甚だ安く男一人一日半レアルでたっぷり食える。パン(Pan)は果物と同じく日本人常食ではないが、この町で作るパンは世界中で最良といっていい、ただパンを買うものは少ないので値段は殆ど無料に等しい。
この江戸の街はローマに匹敵する。市街は互いに優劣なく皆一様に幅広くまた長く真っ直ぐなのはイスパニアの市街に勝る。家は木造で2階建てもある。外観はわれら(イスパニア)に劣るが、内部の美しさははるかに勝る。また街路は清潔で本当に人が歩くのかと思うほどである。市街は皆門(木戸)があり人と職によって住み分けている。大工なら大工ばかりの街で他職は住まない。履物街、鍛冶(鉄工作)町、縫物屋街、商家街、銀金商街、などで各一画を占有する。
雁・鴨・鶴など猟鳥や家禽(鶏うずら)など沢山の鳥類を売る一画もある。またウサギ・イノシシ・鹿など猟獣も売っている。また魚市場もある、見物せよと言われて訪問したが、海と川の両方の各種が、鮮魚・干し魚・塩魚があり、また大釜には生魚多数あり、買う人の望むにまかせこれらを売っている。魚売りは多いので時に街頭に出て廉売している。青物および果実もまた各々区があり、見る価値がある。そしてその多種、大量、また清潔に陳列されており、買うものの嗜欲を増進する。
旅館ばかりの街が数街あり、馬の賃貸をなす街(馬喰町)あり、旅人は2レグワ(里)ごとに馬を更える習慣(伝馬)で馬の数も甚だ多く旅人が来ると馬を引いてみせるのでどの馬を選ぶか戸惑うほどである。娼婦街は常に街外れにある。
諸侯高官は他の住民とは違う区画に住む。彼らの屋敷は門の上部に紋章を書き外部は金を塗る、中には2万ドカド以上の門がある。
市政は判官(複数)によりその上に長官がいる。各街には出入りに二つの木戸があるが、その町の適任者が名誉ある長=判官となり、民事刑事訴訟事件は一切彼らが処理する。重大事案や困難案件に限り長官に報告し処理を仰ぐ。上官下僚ともに身贔屓しないことをが第一とし判決は正当公平だ。
市街は夜木戸を閉じる、昼夜番兵がいる、犯罪があると木戸は閉じられ罪人はその街内で留められ刑罰されるわけだ。
以上は、江戸市と太子秀忠(皇帝家康、太子秀忠とロドリゴは書いている)宮廷についてだが、諸都市も同様だ。大多数の街は海に面するので魚類が豊富で、肉は猟でとったもの以外は、その教えに背くとして肉食しない。
太子は江戸市内にサンフランシスコ派のフライ僧院を公許しているが国内唯一の例外で、その他はすべて民家の名義で(教会があるだけで)公然たる会堂は一つもない。
以上が江戸の街の様子です、ロドリゴはこの時だけでなくのちにも滞在しますから、まあ正確でしょう。家康秀忠肝いりの新都市です。今よりずっとよく見えます。何より男一日半レアルで食っていけるといいますから、レアル=16分の1エスクード(金貨)の半分、rac試算では現在の300円程度の感覚です(金1匁=1万円、の32分の1)。都市計画され大名屋敷から商家民家まで何もかも新築のはずで清潔だったといいます。築地市場はいまも外人観光名所ですが最初からそうだったようでロドリゴも案内され見せられた(このころは日本橋魚河岸か?)といっています。驚くポイント=多種多様・清潔・場外も今に同じです。
○ この頃、国際貿易銀で、クルザート=ドゥカド=エスクード=銀1両(中国も日本も)=銀10匁(37.5g)=金貨1枚=金1匁≒今の1万円とracは読んできています。大体のところ、信長から秀忠までこのようによんでいい。
江戸城の様子と秀忠との面談
江戸到着2日後に秀忠表敬に城に入った。城および当日の諸侯から兵に至るまで強大だった。大手門から秀忠の居室まで実に2万の人がいた。いずれも俸給を受け各種の任務に就いている役人や兵だ。
外堀の石垣は大きな方形の切り石を石灰その他のものを用いず積み上げたものでその幅は広く所々に大砲を発する穴(狭間)がある、ただし大砲の数は多くない。石垣の下は堀で川水が流れ入る。大手門へはつり橋がありその構造は私が見た最も精巧なものだ。諸門は堅固だが私のために開かれ銃を構えて兵が2列で迎えたが千人はいた。
第2の大門に至ったがわがテンプレン(畳壁)に似た塀がある(白漆喰塀か)。大手門から3百歩だった。ここには長槍4百人の隊がいた。第3の門の石垣は高さ4パラ(3.3m)、銃門が並ぶ、ここには長刀部隊3百人が並んでいた。これら兵の家は3つの門の空き地にあり庭園があり市内を望める窓がある。
第3の門から宮殿となる。一方に厩舎があり2百頭の馬がいた、飼育宜しく肥えていた、イスパニアのように調教者がいれば完璧だ。馬は皆尻を壁に頭を入り口に向け2筋の鎖で繋げていた、これは後ろ足でける危険を避けるためだ。他方に武器庫あり、黄金づくりの鎧鞍や長槍短槍銃刀など10万人分備える。
宮殿の部屋は床も壁も天井も裸ではなく、床には畳(わが莚より良い)を敷き畳の隅は金の織物に花を刺繍した天鵞絨等の飾りあり、方形で机のように並べ合わす精巧なものだ。壁は木と板で金銀絵具で狩猟の絵があり、天井も同じで木地を見ることはできない。第一室でも外国人はこれ以上のものはないと思うが2室、3室と中に進むほどますます巧妙美麗である。各室で多数の高官諸侯が迎えてくれたが、聞いたところでは彼らの権限身分に定めがあり一定の場所があって私を次々と迎え奥に導いた。
1607年朝鮮使慶暹は三重の石垣は建設途上といっていましたがロドリゴの1609年には出来上がっていたようです。石垣の中は親藩譜代の大名たちが住み外様はその外と住みわけも進んだのでしょう。儀仗兵も門を進むごとに武器の種類は違ったといいます。10万の武器とは多すぎる気もしますが、この時期は諸大名から取り上げ江戸城武器庫に集約していたのかもしれません。
堀は東国諸侯に掘らせ城作りは西国諸侯に総動員掛けて作らせたといいます。このころの人は城作り都市づくりに慣れており仕事が早い、今の東京中央の基本を形作るすべてを僅か3,4年で完成したようです。このころには続けて駿府城の大工事もやっています。その後各地方城下町の整備が進むわけで今も同じです(戦争をやめて)土建工事をやっていると日本人は景気がいいように感じ続けたはずです。
江戸城の様子と秀忠との面談(続き)
太子秀忠は大広間で私を待ち受けていた、大広間は3つの段差(階段?)があるが、秀忠は上段の6,8歩先に、畳の上に緋色の天鵞絨に金刺繍の毛氈の上に座し着物は緑色と紅色で、二本の刀をさしていた。色紐で髪を結わえていた。
歳は35(実は31らしい)、色黒で容貌はよく丈高い。
執政は私の同伴者は中段に留まらしめ執政と自分のみ室に入り私を着席させた。その席は太子と同じ上段にあった。彼の左4歩の近さだった。(ロドリゴは「左が日本では上席」と強調し、自分が上席だったと示唆します。ただ日本は謙譲の礼法で「席を譲り合う」と最初から強調してもいます。次の「帽子云々」もそうでしょう。)
太子は私に帽子を被るべしといい、通訳を通して、相知るを喜ぶが遭難には哀愁し痛心しまた身分高き者は自分の責任でない不幸を悲しむべきでないといい、今は彼の領国にいるのだから何事も望むとおりにするから安心せよといった。私は感謝し精一杯よい挨拶を返した。航海および帆船に質問があり半時間私を引き留めた。最後に父なる皇帝(家康)に赴く許可を求めた、かれは翌日は無理だが四日後の出発を認めた、その間通知し接待の準備を命ずるためという。
お城のみならず秀忠のたたずまいも江戸というより安土桃山風です。ドンロドリゴは難破漂着者に過ぎませんが、前年からマニラ総督として家康秀忠と書簡を交わす中であり、自分はスペイン国王に近い身分高きものと漂着最初から巧みに主張し自分にふさわしい礼法を示唆したうえでの上記待遇です。家康と秀忠の関係もよく承知、繰り返しますが、ロドリゴという人はどうにも日本(人)にはマニラ時代から!興味津々、そして気に入ったとしか思えず、家康秀忠の意を汲んでイスパニアとの交易の話を一挙に積極的に進めます。ただし外交話は秀忠はせず、すべて駿府家康です。
4日後江戸を発ち家康の駿府に向かった。途中箱根越えや富士山や駿河湾を見たはずですがロドリゴは自然風景には一切触れません。この間の記事は2点だけ。
駿府に向かう
一つは、江戸から大阪まで、「人家がなかったの(無住の地)は1レグワ(里)の4分の1もなかった」、人通りは絶えず通行中頭を上げれば必ず人の往来があり我がイスパニアの町村と同様多数だった、と記します。
もう一つは「一里塚」。道の両側には松の並木があり、快適な木陰を作り通行者は太陽に苦しめられることは甚だまれだった、さらに里程を人に聞く必要がないように1レグワ(里)ごとに小山と二本の木が置かれていた、一レグワが街中に当たるときは家屋を破壊してこの一里塚が設けられるほど徹底したものだった、と書きます。(慶長9年1604年に日本橋から、36町=一里、1町=100間(6尺)ごとに一里塚制度を開始、ロドリゴのころは家屋が壊されて一里塚になったところもはっきり残っていたのでしょう。)
朝鮮使はまだ富士を愛で駿河湾の風光を賞しますから日本人に近いですがそれでもやはり制度風俗政治を語るウェートが高い。そして、ロドリゴになると自然描写は殆どなく、制度風俗人事社会政治経済ばかりで味気ないほどです。
そして自然より「制度社会をよくできていると賛美する」ことは当時の慶暹・ロドリゴ共通です。
5日間旅して駿河に到着、太子秀忠の予告により各所にて大いに歓待された。
「もしこの野蛮人(日本人)の間に、神デウスがありイスパニア国王の臣下たらば、私は故郷を棄ててこの地を選ぶ」とまで言っています。

駿府市(静岡市)は人口12万、市街・家屋は江戸に劣るが寺社は多い。私は市内の旅館に案内された。外国人は珍しく群衆は騒がしく追従してくるものが多かった。
皇帝家康から、難破で衣類がよかろうと衣類12枚(金及び絹地、各種の花多数のデザイン、日本の着物)、果実(梨はイスパニア最大のものの2倍とか)や糖菓が届いた。家康に会う前に宮廷で6日間イスパニアやその宮廷他につき質問を受け、ようやく家康と面談した。
宮殿や建物は江戸ほどではないが、諸門・堀・石垣・兵は江戸城にそれほど違わなかった。
この帝国(日本)は相続によらず圧制および武力によりこれを獲得する。前任者に不慮の死にあったもの(信長)あり前任秀吉の子は一大名格に落ちたり、が当然で、家康は秀忠に多数の兵と武器を与え用心しつつその相続を万全たらしめている。
(僧形とは書かずそれまでの登場人物たちとは身なりの違う、お付の多い)二人の書記官(閑室元佶と金地院崇伝でしょう)が登場、席の譲り合いのあと私は上座にあり、格上の方(元佶)が長い演説、歓迎・遭難慰謝のあと重要な事務を担当し外交上の要請をしたいといった。私は慎重を要すると考え通訳によく聞いて正確に訳すよう念押しした。そして自分は遭難者に過ぎないが、個人貴族として遇するか、また本来そういう特命を受けたわけでないがイスパニア国王臣下代表として遇するか、と選択を示したところ、二人の書記官は家康と相談するといって半時間ほどいなくなった。その間隣の2室の品々を観覧して過ごした。
そして家康はなるほどそれなら直接会ってみようということにしたようです。ドン・ロドリゴ・デ・ビベロを招き入れます。
ここでも、手に接吻するしない(秀忠も家康も気味悪がった気配はありますが尊敬の証と知って秀忠は受け家康は安全のため何人も近づけないとなお断ったようです)、帽子を被る被らない(西洋貴族の当然の権利だが日本で非礼と知り彼は脱帽を受ける)、席の同格かどうか、などの議論と配慮(相互尊敬・相互謙譲・合理道理・簡素美的)があったようですが、もちろん家康は前年の彼からの書信に限って慶長年号用いビベーロの名をひらがなで書き朱蝋押印してきた男であったことをも思い出した(数字まで難字を用いる事大愚劣な漢学通訳坊主たちとは違う好奇しなやか合理の精神を)でしょう、

家康は日本においてかつて行われたることのない名誉の待遇を与えるから喜んではいるように伝え、私は広間に進んだ。
・・家康は緑の天鵞絨の丸い椅子に着座し、金繍のタビー織と緑の絹の広き衣服を着て(青い光沢ある織物に銀で多数の星と半月を刺繍した衣服、との異文もある、おそらくロドリゴは家康には少なくとも2度あっています)腰に日本の刀を帯び、頭髪は悉く束ね、歳70余の肥満の堂々たる老人。その席より6,8歩のところにもう一つ椅子があった。・・私は相当な敬礼を行いその椅子に進み起立していたら、家康は着座し帽子を被るよう合図した暫く私を眺めたうえで2回手招きをし・・
(秀忠と同様に)会えてうれしい、遭難に同情し、しかし武士は海上の不幸に気を挫くべからず、要請があれば何でも応じよう、といったので、これに答えて私が起立すると、再び着座するよう命じた。
・・私は家康に求めることが3つあるといい*・・
1) フライ(スペイン系伴天連)・コンパニア(イエズス会伴天連)を虐待せず自由に福音を陳べさせてほしいこと、
2) オランダの海賊ども(ヨーステンらのことではなくこの年6月平戸入港の蘭船2隻のことらしい)の追放、
3) イスパニア皇帝との親交平和が継続するならばマニラからの船を引き続き厚遇すること、
と述べた。家康はよく聴取したうえで、追って回答すると答えた。
なおこの後、一人の殿が進んできて平伏し(のちに2万ドカドの価値があると分かったが)金の延べ棒を乗せた数個の台を(家康に)すすめた。一言もなく下がった。
私の船の船長フワン・エスケルラも同様に(家康に)進物を贈呈し、帰っていった。
更にそのあとに、マニラ(現総督ドン・ファン・デ・シルバ=Don Juan de Silva)**からの進物が、その使者パードレ・フライ・アロン・ムニョスから披露されたが、これまた発言はなかった。
なお家康・ロドリゴ周辺には長袴(足を見せないためと書く)正装の諸侯高官が20名ほど両側にいた、と書きます。
[ 2日後に上野介本多正純がやってきて先の3つについて回答してきた。]
1) 伴天連たちの国内にあるを許し何人も彼らを迫害してはならない、
2) オランダ人は盗賊海賊とは知らず、2年間は居留を許したので、2年後には追放する、
3) イスパニア帝王との親交は持続することは甚だ宜しい、その臣民が往来するなら大いに恩恵を与えよう、さらに(その尽力のため)私が必要なものは何なりと申し出るように。
以上のうち3)は超重要です、マニラとは朱印状やchapaで交易関係にすでにあり、むしろ主題は、ノバイスパニアをも超えて一挙にイスパニア本国との友好交易になっています。微妙な言い方・記録でよくわかりませんが、家康は前マニラ総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロからこれを言わせることに成功したようです。1)2)については事実上ゼロ回答です。
要は家康と前マニラ総督ロドリゴの間ではイスパニア本国との直接友好交易樹立に合意したといっていい。1609年10月5日(和暦)前後とみます。
○ この3点は、この数日かけて本多正純を挟んで行われた可能性もありますが、整理して書けば上記通り(本人に異文あり)。このほか重要なことに銀鉱山開発と按針作120トン洋船提供他があります。
○ 混乱しますが、実は、新マニラ総督のドンファン・デ・シルバの正式使節(船長ジュアン・バプチスタ・モリナが総督書簡進物を進上、ムニョスはこの一員として来日したがおそらくロドリゴに近かったのでしょう、以後ロドリゴといっしょに動く)が、10月2日(和暦)家康に表敬訪問しています。この年はそれまでの関東着ではなく松浦=平戸に入港しており、家康として不愉快だった節があります。よって、関東に好意的なロドリゴ・ビベロを主賓格としモリナら正式使節を軽くあしらったと読みます。ロドリゴが家康に会ったのもおそらく10月2日と思いますが、家康の意図としてはロドリゴをイスパニア本国代表格で迎え在駿府の諸侯らにも披露した、また2万ドカドの金を(家康にロドリゴの前で)進上した金持ちの「殿」とは(記録上は何もありませんが)、イスパニアの窓口役(権)として伊達政宗で、政宗が手をあげこれを家康が認知したのだ、とよみます。(方角からしても熱意からしても、蝦夷は松前、琉球は島津、朝鮮は宗、同様にイスパニアは伊達、という感覚でしょう)
 
日本とメキシコの交流

 

1609年の遭遇
日本と現在のメキシコ、この二つの国の歴史は古くからひとつに絡み合っていたように思われる。二つの国を隔てる広大な 海には激しい海流が流れ、その潮流に翻弄されて二つの国は出会い、建国史の違いや言葉の障壁を超越して両国は交流を始め た。
日本とメキシコ(1521年に先住民のアステカ帝国がエルナン・コルテスに征服されてからスペインの植民地となり、ヌエバ ・エスパーニャNueva España(New Spain)副王領と呼ばれていたが1821年に独立する)の両国の遭遇は、サン・フェリペ・デ ・ヘスス(メキシコの聖人で1597年長崎西坂の丘で礫刑に処せられた26聖人の一人)の日本到着時と同じように、人々の熱意 だけでなく神の摂理、風と海流の力、数々の命運が重なって起こったとも言える。遭遇の背景には、1565年ごろからメキシコ のアカプルコ港とやはりスペイン領であったフィリピンのマニラ港を往来していたガレオン船の一隻が1609年、日本近海まで 航行してきたとき、悪天候にみまわれ正規の航路をはずれて日本の海岸に漂着した事件があった。
江戸幕府開府以前から徳川家康は、早くからスペインと通商関係を結びたいと願っていた。そのため、1599年にはフィリピ ン・ルソン島総督に次の書簡をフランシスコ会修道士ヘロニモ・デ・ヘススを介して送っていた。
「いつの日かスペインの商船が我が国に定期的に寄港するようになれば欣快至極であります」。これに対してフィリピン臨 時総督のロドリゴ・デ・ビベロ1 (ヌエバ・エスパーニャ副王領第2代副王ルイス・デ・ベラスコの甥の子)は1608年、家康 につぎの返書を送っている。
「私がルソン島の総督として着任した時、貴殿がかねてより両国間に友好関係を構築したいとの希望を抱いていることを前 任者から聞いておりました。このたび、当地から日本に派遣する船の船長に私の親書を携行させますから、その者を然るべく 接遇されますように請願します」。
この件についてメキシコ人歴史学者ミゲル・レオン・ポルティージャは、Diario de Chimalpahinというナワトル語(メキ シコ先住民に話されていた言語)で書かれた史料を部分的にスペイン語に訳している著作のなかで、「この手紙のやり取りは 、日本とメキシコの経済連携協定(EPAは2005年締結)への最初の協議をしているようだ」と書いている2。

そんな両国関係は思いがけない方向へと進んだ。一年後の1609年、次期総督と交代するため召還命令を受けたロドリゴ・デ ・ビベロは、三隻からなる船団の旗艦サンフランシスコ号に乗船していた。しかし、マニラを出帆してアカプルコに向う途中 この船は日本近海で難破し、現在の千葉県御宿町の海岸に漂着した。幸い乗組員は地元住民に救助され、373人のうち317人の 命が救われて千葉県の大多喜城に招かれた。この事件は現在考えても目をみはるような海難救助である3。ロドリゴ・デ・ビ ベロは、幕府の外国船到来に対する当時の政策から推察して一時は乗組員全員の死罪を覚悟していたが、上総大多喜藩本多忠 朝藩主の取り次ぎで将軍秀忠に拝謁する。その報告を受けた家康はすでに将軍職は秀忠に譲っていたものの実質的な権限を握 っていたので、ロドリゴ・デ・ビベロとその同行者たちを駿府まで招き歓待したにとどまらず、日本とスペインとの間で交易 をはじめる協議の機会とした。その内容は、メキシコから日本へ50人の水銀アマルガム精錬法に熟達した鉱山技士を派遣する ことを要請し、その見返りとして、日本で発掘された未精錬の銀の半分をメキシコに提供するという寛大な申し出であった。 当時はまだ、水銀アマルガム精錬法は実用化されていなかったが、メキシコやペルーではすでにこの効率的な精錬法は主流と なっていたからである。さらに、江戸でスペイン船籍の船舶を修理し燃料と食料補給のための寄港を許可すること。また、ス ペイン船は日本の港に白由に寄港することを認め、かつ、輸入関税免除で積荷を販売できること。日本国内ではスペイン人に 信教の自由を認め、国内でキリスト教の布教活動も容認すること。そのうえ国内でスペイン人が起訴され訴訟に持ち込まれた 場合の裁判権を保障すること(治外法権)。しかし、家康はロドリゴ・デ・ビベロと協議しているとき、唯一先方の提案を拒 絶したことがあった。オランダ人を日本から追放するという要求であった。その背景には周知のとおり、当時ヨーロッパでカ トリック教国スペインと対抗するプロテスタント教国のオランダやイギリス、フランスなどの存在が顕著で、それらの国は経 済的にも政治的にもスペインとヨーロッパの覇権をかけて競合していた事情があった。日本にとってオランダは交易相手国で キリスト教の布教を目的としない日本への接近策をとっていた。この国には幕府が鎖国政策をとったあとも、船舶の入港と長 崎の出島に限定して特定のオランダ人居留は許容されていた。かくして協議の末、家康とロドリゴ・デ・ビベロは二国間協定 締結に合意し、その協定書の写しはスペイン本国に異なったルートを使って送付された。結果的に協定書は、当時ヨーロッパ を席巻していたプロテスタント教国とカトリック教国の政治的な対立が激化していたことと、日本からの送付されてくる報告 書で知るスペイン各修道会の布教策をめぐる対立を憂慮してスペインはついに協定書を批准しなかった。同時に、日本との通 商活動はすでにフィリピン経由で維持していると判断したとも言える。当時のスペイン国王フェリペ三世は日本と協定を結ぶ 第一の目的は「極東の島国、日本でキリスト教(カトリック教)を布教することだ」と述べていた。この説をとなえるのは、 メキシコ人歴史家のガブリエル・サイードである。幕府にとり、キリスト教は仏教と相容れない宗教だと判断していた。では マニラに滞在中から当時の日本の政策について最新情報を得られる立場にあったロドリゴ・デ・ビベロは、本国政府の意向と 異なりどのような理由で、あえて副王領の利益追求を優先しようと協定書を結ぼうと協議したのか、そんな疑問を投げかけた のはスペイン人歴史学者フアン・ヒルである4。植民地での主要な運営は宗主国が派遣する官僚(ペニンスラール)がその任 務を担当していた。その実態に抵抗して植民地生まれのスペイン人、クリオージョ(スペイン人の両親の子であるが出生地が 植民地であるとの理由で特権階級から除外されていた)は独自の経済運営を推進しようと画策していた背景があった。そのた めロドリゴ・デ・ビベロは日本と植民地メキシコとの直接交易を画策していたのかもしれない。1810年に始まるクリオージョ 階級が中核となったスペインから独立戦争では二つの階層の対立は峻烈極まった。こんな両者の確執を考慮すれば、本国の意 向と異なった政策をあえて画策したのかもしれない。さらに加えて、ロドリゴ・デ・ビベロが乗船していた旗艦と他の二隻が 日本近海で正規の航路をはずれて難破した原因は、本国から遅延してマニラに着任したフアン・デ・シルバ総督が任命した当 時70歳のファン・エスケラ艦隊司令官の航海技術に問題があったからだと本国政府の決定を批判している。その懸念はロドリ ゴ・デ・ビベロがすでにマニラ出航以前から抱いていたことまで報告書に記している。一方、旗艦の船長であったセビーコス は、ロドリゴ・デ・ビベロが主張していたスペインと日本が積極的に交易を開始すべきだとする根拠に同意せず、協定書締結 に消極的であったと独自の見解をロドリゴ・デ・ビベロと異なる書簡送付ルートで本国に報告していた。立場が異なると協定 書にまつわる判断も左右されていた。

一方、家康は帰還する船を失くしたロドリゴ・デ・ビベロー行のためにアカプルコに戻る船の建造を準備させていた。マニ ラを出帆した同じ船団の他の僚船二隻のうちサン・アントニオ号は、航路を逸れずにアカプルコに直行し、サンタアナ号は豊 後(現在の大分県)臼杵に漂着したが修理したあと自力で帰還している。一行のための新造船は、イギリス人ウィリアム・ア ダムスが日本で設計した二隻のうちの一隻であった。彼は1600年にオランダの東洋派遣艦隊の航海士としてオランダ船に乗り 合わせたがその船は豊後に漂着した。その後大坂でアダムスを引見した家康は彼の造船技術と知性を高く評価していた。これ にまつわるエピソードはいくつかの文学作品に描かれているが(ジェームズ・クラベル『将軍』など)、史実は小説よりもっ と複雑なようである。かくして、幕府に公認されて太平洋を初めて横断した日本船籍の船舶はブエナベントゥーラ号(スペイ ン語で幸運という意味)と命名され、イギリス人の設計で浦賀から出帆しアカプルコを目的港とした船であった。したたかな 家康は一隻の難破船の乗組員を救助した機会を巧みに利用してスペインと日本の直接貿易を企て、さらに一行の船には、当時 日本人が熟知していなかった太平洋航路を習得させるために船乗りと商人など日本人21人を乗船させている。その日本人一行 のなかに京都の町人田中勝介なるものが乗船していたが、『慶長年録』によれば田中は水銀を売買していた朱屋隆清と名乗る 人物と同一視する説もある5。朱屋とは水銀などを扱う商人をさした。太平洋航路を学びとろうとする船乗りや水銀技師から 成る「日本人調査隊」が、ロドリゴ・デ・ビベロとともに副王領のアカプルコ港に向けて派遣されたことになる。ロドリゴ・ デ・ビベロは遭難した翌年1610年にメキシコヘ到着した。協定書はついに締結されないままとなり、19世紀になるとメキシコ はスペインから独立を達成し、日本は明治時代をむかえることになった。
ロドリゴ・デ・ビベロは副王領に帰還すると、その後は順調に官吏の道を昇進していった。また、遭難から帰国を待つ間に 日本国内を旅行し、日本と日本人の印象を綴った「日本見聞記」を出版した6。南蛮時代を物語る著作は多くあるが、この見 聞記は格別な位置を占めるかもしれない。というのは著者はスペイン人であるが(ロドリゴ・デ・ビベロ(1564-1636)はメキ シコ市で生まれてオリサバ市で亡くなったクリオージョ)、ルイス・フロイスのように日本に滞在していた宣教師のような教 会関係者ではなく、スペイン政府高官であった7。当然、宣教師とは異なる冷徹な視点で日本を観察したのだろう。スペイン の植民地であったメキシコと日本の通商航海協定締結を模索して日本の事情を西洋に伝える報告書を刊行したことになる。
ロドリゴ・デ・ビベロの日本近海での海難事故は、さらに、1611年、副王領から徳川幕府に派遣された特派使節セバスティ アン・ビスカイーノの来訪へとつながった。一行はロドリゴ・デ・ビベロが副王領に帰還できたことへの謝辞を伝達する目的 であったとされているが、ビスカイーノが日本滞在中、日本領土の沿海を測量して不審な探索をしたことは、オランダなどか ら国際法違反であり偵察行為だと厳しい非難を招いた8。しかしながら、セバスティアン・ビスカイーノがアカプルコから乗 船してきた船で日本へ帰国できたのは前述した田中勝介一行である。ところがビスカイーノが乗船してきた副王領で建造した 船は、日本到着のあと大破してしまったため、一行は仙台藩が月の浦港から1613年に支倉常長慶長遣欧使節を派遣したサンフ アン・バブティスタ号に便乗して帰還している9。こんな奇遇な歴史の連鎖が徳川幕府開府時期にあった。
1841年の出来事
人間の好奇心は大きな力を引き出すものだ。数々の苦難をのり越え海流の力を借りて、二つの国は1609年に結びついたとこ れまで述べてきた。300人以上の当時スペイン植民地であったメキシコ人乗組員を乗せた船は、日本近辺で難破したが日本人 に助けられた。その後、記録にこそとどめないが日本海や太平洋で予想外の航路を航海した船舶があったのかもしれない。 1609年から230年ほど経過した1841年に13人の日本人乗組員を乗せた日本の船が太平洋上で難破した記録がある。鎖国時代の 事件である。その和船は4ヶ月間太平洋上を漂流したあと、アカプルコに向かう一隻のスペイン海賊船エンサーヨ丸(スペイ ン人2人とフィリピン人20人が乗船)に救助されるが、この船上で日本人乗組員は約60日間にわたり奴隷のような労働を強要 されたあと、ついに、乗組員はメキシコ領バハ・カリフォルニア半島沿岸付近の海上で解放される出来事があった。13人のう ち7人はカボ・サンルーカスに、2人はサンホセ・デル・カボに、そして残り4人はグァイマスに漂着した。この日本船は神戸 港を出帆した永住丸(永寿丸もしくは栄寿丸との表記もある)である。岩手県宮古に寄港してそこで積荷の酒や砂糖、木綿を 商いしようとしていたのだが、13人は図らずも太平洋を横断してしまった。

こんどは日本人が、独立国メキシコの領土で太平洋沿岸に面した港で救助され介護されたことになる。13人のうち4人はマ サトランに辿り着き、別の3人はメキシコからチリのバルパライソに向かった者もいた。一行のなかに不明者は1名いたが、 21歳の永住丸船長井上善助をはじめとする5人は、メキシコに2〜3年滞在したあとフィリピン経由で1844年に日本に帰り着い ている。5人は帰国後、奉行所に引見され漂流記やメキシコでの滞在の模様と現地のメキシコ人との体験談を供述した10。そ こからさまざまな記録が生まれている。京都外国語大学付属図書館はこの事件に関する稀觀書の蒐集と関連書籍の蔵書数が 豊富であるため注目されているが、ここでは紙幅の制限からすべてを紹介できない。そのうち日本の絵師が乗組員の陳述する 報告をもとにした空想に富んだ色彩豊かな図像を和紙に描いた、1844年刊の出直之[筆]による「北亜墨利加図巻」は圧巻で ある11。こうして幸いにも今日、私たちは興味深い乗組員の経験した様子とその逸話を推しはかれる。永住丸船員の一人太 吉という者が語った「墨是可新話」は11編からなる逸話で、その一部はスペイン語に訳されている。これらの記録は250年間 の鎖国日本を研究するもう一つの資料ではないだろうか12。本年2月24日に、メキシコ合衆国下院議事堂内で日墨交流400周年 記念式典が挙行されたが、その機会に在メキシコ日本国大使館の要請を受けた本学付属図書館は、つぎの稀覯書を海外展示 した。出展したものは出直之筆『北亜墨利加図巻』天保15年(1844年)、『漂流人善助聞書』弘化2年頃(1845年)、靄湖漁曳撰 『海外異聞』嘉永7年(1854年)で、これらは報道メディアを通じて現地で大きな反響を呼んだことは記念式典に招かれた一人 として筆者は伝えておきたい 。
1874年金星観測隊来日
時代は明治に移った。明治7年(1874年)にメキシコ金星観測隊が横浜に来日している。当時の天文学では地球と太陽の距 離は正確に知られておらず、この年は太陽面を経過する金星を観測することでその距離を測定し、太陽系の規模も判明できる 重要な天体観測年であった14。そのため、イギリス、イタリア、フランス、ロシア、アメリカ合衆国などは最適の観測地をも とめて、日本各地に観測隊を派遣してきたのである。メキシコの天文学者フランシスコ・ディアス・コバルビアスを隊長とす る5人編成のメキシコ金星観測隊も、首都メキシコを発ちベラクルス、ハバナ、ニューヨーク、サンフランシスコを経由して、 太平洋を横断して横浜港に到着した。横浜郊外の二ヶ所に観測基地を設営した。外国人居留地内の「山手丘陵地基地」とディ アス・コバルビアスが居住した「野毛山基地」で、明治政府は観測隊に電信用回線の敷設などの便宜を供与したため、神戸と 長崎で観測していたアメリカ隊やフランス隊と通信連絡も可能であった。観測結果の成果はパリで1875年にいち早く発表し、 1876年にメキシコ国立天文台が創設されたと言われている。
そのころのメキシコの歴史を簡潔にいえば、1876年からメキシコ革命が勃発する1910年までの長期間にわたって独裁制を しく軍人ポルフィリオ・ディアスがまもなく権力を掌握しようとする時期であった。15年間にわたるベニート・フアレス大統 領政権の時代のあとにセバスティアン・レルド・デ・テハダが大統領に就任した頃であった15。観測記録の刊行に引き続き、 翌年76年に観測隊長ディアス・コバルビアスは『メキシコ天体観測隊の日本訪問』をメキシコで出版する16。1978年にロペス ・ポルティージョ大統領が本学を訪問した機会に、大学付属図書館は当時でもメキシコで入手するのが困難であった原著の復 刻版500部を作成して、日本とメキシコ両国の関係機関や研究者に贈呈している。ノーベル賞顕彰記制作者ケルスティン・テ ィニ・ミウラ女史の手になった復刻版特別装丁本の一冊は大統領に贈呈された。また、同書の日本語翻訳本『ディアス・コバ ルビアス日本旅行記』は、欧米を代表する著名な人物、たとえば、ギメ、ゴンチャローフ、ホジソン、シュリーマン、グラン ト将軍など明治日本を訪問した著名人訪問記録叢書シリーズのなかで、ラテンアメリカからの来訪者としてデイアス・コバル ビアスが含まれたこともこの機会に記しておきたい。
科学者として日本で天体観測し、明治日本の政治、社会、経済について意見を述べ、同著で将来メキシコが日本と外交・通 商関係を結ぶ可能性を示唆している。メキシコが独立を達成したあと、近代化政策の策定は専らヨーロッパ諸国を参考にして この国の外交政策に対し、今後はアジア諸国とも外交交渉を始めるべきだと訪日経験から主張している。この提言こそ、数年 後にメキシコが日本と国交樹立をめざして全方位外交政策を採りはじめる伏線となった。一方、横浜滞在中は体調をくずして 観測活動にほとんど従事できなかった観測隊記録担当係のフランシスコ・ブルネスは、日本の風俗習慣や東京近郊の街を散策 して、ディアス・コバルビアスと異なる視点から日本観察記を著述した『北半球一万一千レグアス歴訪の印象』を1875年に刊 行している。デイアス・コバルビアスより冷徹に、日本と日本人について論評している点は私たちの興味を引くところとなっ ている17。
5人のメキシコ人観測隊員のなかに写真係りとしてアグスティン・バローソが来日していた。観測隊が日本に滞在中に明治 政府から通詞として派遣された屋須弘平は、そのとき写真技術を隊員から学ぶ機会に恵まれた。屋須は観測終了後も隊長の ディアス・コバルビアスに同行してパリ経由でメキシコに渡っている。ディアス・コバルビアスが帰国後グアテマラ公使に 任命されたとき屋須も随行して同国を訪れた。同氏と別れたあとはグアテマラの古都、アンティグア市でメキシコ人から学ん だ写真技術を駆使し同地に写真館を開業している18。現在でもアンティグア市を訪問すると歴史資料館で屋須弘平が撮影した 800点以上のガラス版写真原版が残されているので、筆者も同国を訪間したときに整理保存されている実物の原版を見る機会 があった。明治7年にメキシコ金星観測隊は日本を訪問したが、観測隊にまつわるこんな逸話もあり、屋須弘平はアンティグ ア市の貴重な歴史写真を撮影して現在に伝えるような貢献をした。
1888年日墨修好通商航海条約締結
日本とメキシコがまだ国交樹立をしていなかった1883年1月、在アメリカ合衆国日本国臨時公使高平小五郎と在アメリカ合 衆国メキシコ公使マティアス・ロメロはワシントンで日墨修好通商航海条約締結にむけて会談していた。それまで日本が列強 と締結していた条約では国際法上の一般原則を遵守するとともに、相手国政府は対日条約で優遇条項を強いていた。メキシコ 政府はこうした条項を要求しない日墨間の平等関係を前提としていたので、日本政府はそれまで列強と締結した不平等条約の 改正と、それを破棄する交渉過程で先例として役立つだろうと考えていた。メキシコにとっては対アジア外交政策の拡大を意 味し、それまでの欧米偏重外交政策を改善してポルフィリオ・ディアス大統領が外交政策を転換していく時期でもあった。同 条約の締結は日本の主権の行使そのものであった。時の外務大臣は大隈重信である。5年におよぶ会談や交渉、決裂や再協議 をへて1888年11月30日、マティアス・ロメロ公使と陸奥宗光公使がワシントンで「墨西哥合衆国修好通商条約」(当時の日本 側資料による表記)を締結した。
1892年にはメキシコ・シティに日本国領事館が開設され、一方、前年の1891年には横浜にメキシコ領事館が設置されて、 のちに東京に公使館が開設されている。第二次世界大戦が終結し、1952年に現在の在日本メキシコ大使館が設置された19。
2009年の回想
日本とメキシコの国民が接触した経緯を語るには、19世紀の段階で日本は人口過密国と考えられていた狭隘な国であった ことも忘れてはならない。そのため海外への移民政策も推進され、メキシコヘは「榎本殖民団」が1897年に結成されて35名が グアテマラとの国境に近いチアパス州に派遣されている。入植者が現地の気象条件についての情報に疎く、移民の就労適応力 の不足、亜熱帯地域での農耕作業の経験不足などからこの移民政策は失敗した。この移民政策については多くの著作があるが 、このたび榎本殖民について日本語とスペイン語の二つの言語で、上野久著『メキシコ榎本殖民』を底本した漫画本が刊行さ れたのでより多くの人に榎本殖民について理解を促す機会が生まれるだろう20。榎本殖民団のなかには現地に留まった人と、 メキシコ各地に分散して二世や三世として活躍している人たちを確認できることはまさしく、日墨交渉史の一端を回想させる ようである21。同時に、メキシコに魅了されてこの国へやって来た日本人もいる。画家の北川民次、劇作家の佐野碩などはメ キシコでその分野の文化運動を展開した。ユカタン州メリダ市で活躍した黄熱病研究の先駆者、野口英世博士は学術分野で高 く評価されている。そのほか両国には音楽や文学、スポーツなどの交流、交換留学生協定も1972年に締結されている。2005年 に両国政府は新たな国際情勢と経済状況に対応するために日墨経済連携協定(EPA)を締結した。このようにして両国は地理的 条件、文化遺産、固有の資質を生かしこれまで出会いを重ねてきた。 
 
 

 

 
『金銀島探検報告』 セバスティアン・ビスカイノ  

 

 
セバスティアン・ビスカイノ 1
(1548-1624) スペインの探検家。スペインのウエルバに生まれる。1583年にヌエバ・エスパーニャに渡り、1586年から1589年まではマニラ・ガレオンの貿易商人としてフィリピンとヌエバ・エスパーニャの間を往復した。
カリフォルニア探検
1593年、カリフォルニア湾西岸での真珠採取の権利がビスカイノに譲渡された。ビスカイノは3隻の船でバハ・カリフォルニアのラパスまで航行することに成功した。現代のラパスという名前もビスカイノが与えたものである(エルナン・コルテスはサンタクルスと呼んでいた)。ビスカイノはラパスに植民しようとしたが、補給の問題、モラルの低下、火災の発生によって、すぐに撤退することになった。
1601年、ヌエバ・エスパーニャ副王のモンテレイ伯爵は、ビスカイノを第二の探検の長に任命した。今回の探検の目的は、マニラからアカプルコへ帰るスペインのマニラガレオン船のために、アルタ・カリフォルニアの地に安全な港を探すことにあった。また、60年前にフアン・ロドリゲス・カブリリョが探索したカリフォルニアの海岸線を詳細な地図に描くことも要求されていた。1602年5月5日、ビスカイノは3隻の船でアカプルコを出発した。旗艦の名はサンディエゴであり、ほかの2隻の名はサントマスとトレスレイェスであった。
11月10日、ビスカイノはサンディエゴ湾にはいり、その地を命名した。チャンネル諸島のサンタバーバラ島やポイント・コンセプション、サンタ・ルシア山脈、ポイント・ロボス、カーメル川、そしてモントレー湾などの重要な地名はビスカイノの命名に由来する。このため、1542年にカブリリョがつけた名称のいくつかは消え去ることになった。
トレスレイェスの船長であったマルティン・デ・アギラルはビスカイノと別れてさらに北上し、現在のオレゴン州のブランコ岬か、あるいはクーズ湾まで到達した可能性がある。
ビスカイノの航行の結果、モントレーにスペイン人を植民させようという騒ぎがおきたが、間もなくモンテレイ伯爵がペルー副王に転任し、後任者がモントレーに興味をもたなかったため、植民地化にはさらに167年間待たなければならなかった。植民地化のための探検を1607年に行う計画が1606年に許可されたが、延期の後、1608年に放棄された。
日本との関係
1611年(慶長16年)、2年前にフィリピン前総督ドン・ロドリゴ一行(サン・フランシスコ号)が、帰還のためアカプルコへ向けての航海中台風に遭い上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜で難破し救助された事への答礼使として、ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣され、「サン・フランシスコ」で来日した。なおこの人選は、ヨーロッパの鉱山技術に興味があった徳川家康の要請に沿ったもので、同時にエスパーニャ側にも日本の金や銀に興味があったことによるとされ、日本近海にあると言われていた「金銀島」の調査も兼ねていた。
3月22日にヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコを発ち、6月10日浦賀に入港、6月22日に江戸城で徳川秀忠に謁見し、8月27日に駿府城で家康に謁見する。しかし第一に通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教であり、友好については合意したものの、具体的な合意は得られなかった。
家康から日本沿岸の測量についての許可は得られ、11月8日に仙台に着き、11月10日に伊達政宗に謁見、11月27日から奥州沿岸の測量を始める。12月2日、気仙郡越喜来村(現大船渡市)沖を航海中に慶長三陸地震の大津波に遭遇したが、海上にいたため被害はなかった。次いで南下し九州沿岸まで測量を行った。
日本沿岸の測量を終え、1612年(慶長17年)9月16日に家康、秀忠の返書を受け取り、ヌエバ・エスパーニャへの帰途につく。帰途金銀島を探すが発見できず、11月14日暴風雨に遭遇「サンフランシスコ2世号」が破損し浦賀に戻る。
乗船を失ったため、ヌエバ・エスパーニャへ帰るための船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが、日本側の外交政策の変更もあって断わられ、1613年(慶長18年)にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗し帰国した。
仙台城のことを以下のように評した。
「城は日本の最も勝れ、最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワを距てて数レグワの海岸を望むべし」
『金銀島探検報告』
ビスカイノが1614年にヌエバ・エスパーニャ副王に提出した金銀島探検航海の報告書で、1867年に初めて公刊された。正確にはビスカイノ本人の著作ではなく、スペインの歴史学者フアン・ヒル(スペイン語版)は、大部分は書記アロンソ・ガスコン・デ・カルドナ、末尾の部分は書記フランシスコ・ゴルディーリョの執筆と推定している。以下の日本語訳がある。 
金銀島探検
金や銀が豊富に産出されるという、伝説上の「金島」・「銀島」を探し求めて航海・探検に赴くこと。主として近世以前のヨーロッパ人が、アジアに目標を定め、幾度も来訪していた。
伝説の発祥は古代インドとも言われ、1世紀のローマ帝国の地理書には、インダス川の東方に金島・銀島が存在すると記されている。また、金島を「ジャバ・デビバ」とも呼び、現在のジャワ島やスマトラ島にあたると考えられていた。その説は中国に逆輸出され、当時スマトラ島に栄えていた貿易国家・シュリーヴィジャヤ(室利仏逝)がその地にあたると考えられていた。義浄が同国を「金洲」と称したのもその影響とされる。
だが、同地との交流が盛んになり、地勢や鉱産資源が明らかになると、シュリーヴィジャヤを金銀島と見なす考えは衰え、替わりに9世紀のアラビアの地理書に記載される金島・ワクワクの存在が喧伝されるようになる。これは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』の刊行により、倭国・すなわち日本のことだと考えられるようになった(「黄金の島」・ジパング。だが、マルコ・ポーロ自身も日本の実情を把握した上で書いたものであるかは疑問とされている)。
16世紀にポルトガル人が日本に来訪し、実際には金の産出量がそれほどでもないことを知る。そこで石見銀山など、豊富な銀鉱山を有する日本は「銀島」であり、東方の太平洋上に、別に「金島」が存在するという考えが登場するようになった。更に日本が鎖国の体勢に入って貿易が困難となると、別の「銀島」を探す風潮が生まれた。
1612年にスペインのセバスティアン・ビスカイノ、1639年にオランダのマティス・クアスト(英語版)とアベル・タスマン、1643年に同じくオランダのマルチン・ゲルリッツエン・フリースとヘンドリック・スハープ(オランダ語版)、1787年にフランスのラ・ペルーズ伯、1803年にロシアのクルーゼンシュテルンなどが太平洋航海を行って金銀島の捜索を行っているが、太平洋の地理的状況が明らかとなった19世紀初頭には伝説の域に過ぎないと考えられるようになった。  
 
新スペインの使節セバスチャン・ビスカイノ 2

 

日米交流に関しては、セバスチャン・ビスカイノについて次のような情報を付け加える必要がある。
ビスカイノとカリフォルニア沿岸探検
ビスカイノが使節に任じられ日本に来る、およそ9年も前の話である。ビスカイノは3艘の船団を組んで、1602年5月5日、アカプルコで2年も準備したカリフォルニア沿岸の探検・調査に出発した。その目的は、アカプルコから太平洋岸を北上し、主要な入り江や岬、陸地の目標を測量し、航海方法を記述し、木材や水、バラスト石のある場所を特定し、風向を計測し、太陽高度を測定し緯度を計測し、主要な場所に地名を付け、カリフォルニア沿岸の航海地図を作成することであった。おそらく、当時重要だったルソン島(現フィリピン)マニラから新スペイン(現メキシコ)への航路情報としても、領土拡張としても必要だったのだろう。
アカプルコから北上するにしたがって、エンセナダを命名し、サン・ディエゴを命名し、サンタ・バーバラを命名し、モントレーを命名した。これらの地は現在でも良く知られた、現メキシコやアメリカ合衆国カリフォルニア州の湾や港町になっている。更に北進し、サンフランシスコの北300kmほどにある、メンドシノ岬辺りまで到達している。ビスカイノはモントレーやサン・ディエゴを入植地として強く推奨したが、当時最も重要だった太平洋を渡りルソン島マニラからアカプルコに向かうガレオン船航路沿いにあっても、アカプルコから3300kmとあまりにも北にあり、入植に多大な費用がかかりすぎるためか、その後長くスペインから忘れられた存在だった。もっとも1609年頃には、モントレーがガレオン船寄港地として入植地建設の第1候補だったが、対費用効果の観点から、下に書く「金銀島」探検が優先されたようだ。その後1769年、やっとサン・ディエゴに新スペインの砦と伝道所ができ、1771年、モントレーにも砦と伝道所ができ、その後マニラからのガレオン船も帰港したようだが、ビスカイノの探検から167年も後のことである。
ビスカイノの日本沿岸測量と、「金銀島」探検
前ページのごとく、1609(慶長14)年、ルソン島の前総督、ドン・ロドリゴがルソン島から新スペインに帰国する途中船が難破して日本で救助され、徳川家康から帰国資金と三浦按針(ウィリアム・アダムス)の建造した120トンの外洋船・サン・ブエナ・ベンチュラ号(按針丸)の提供を受け、翌年無事新スペインに帰国できた。セバスチャン・ビスカイノは新スペイン総督サリナス候の命で、日本の救助活動への答礼と、ロドリゴが提供を受けた帰国資金を返却するため、1611年3月22日アカプルコを出発し、6月11日浦賀に入港した。この船には、1610年に家康がドン・ロドリゴに随伴させ、新スペインに派遣した22人の日本人使者たちも乗り組み帰国できた。
ビスカイノはこの答礼使節という目的のほかに、スペイン王から新スペイン総督に命じられた、ルソン島から新スペインへ向かう航海ルートで重要地点にあたる日本沿岸の測量と、噂になっている日本の東にあるという 「金銀島」の発見をも命じられていた。
当時スペインが成功させていたルソン島から太平洋を渡り新スペインのアカプルコまでの定期航路は、日本近海で少なくとも北緯30度以北へ、出来たら40度辺りまでにも出来るだけ北上し、貿易風を受けて東進し、メンドシノ岬あたりで北米大陸を認めるや、一気に東南に進路を取り北米大陸沿いにアカプルコへ向かうものだった。これはまた、とりもなおさずルソン島からアカプルコへの航海で、太平洋を渡る大圏航路に近いものだが、ドン・ロドリゴの日本沿岸での遭難に見るように、日本近海の測量は重要になっていた。それと同時に金銀島探検は、モントレーでの入植地建設より優先度の高い大きな目的だった。家康や秀忠は、約束どおり援助資金を返却し、日本人一行を送り返したスペイン王や新スペイン総督の要求を入れ、ビスカイノに沿岸測量を許可している。ビスカイノは浦賀から奥州まで沿岸を測量し、引き返し長崎までも測量した。
三陸沿岸を測量中の1611年12月2日(慶長16年10月28日)、ビスカイノ一行の測量隊は越喜来(おきらい)の村に着いた。現在の岩手県大船渡市三陸町越喜来である。この入り江、越喜来湾に近づくと、村人達がみな山に逃げて行くのを見た。ビスカイノ一行を恐れて逃げるのかと不審に思っていたとき、突然4m.にも及ぶ津波が押し寄せた。三陸地震によるものだった。ビスカイノによれば三回も高波が来たという。この津波は三陸沿岸や北海道東岸に来襲し、伊達藩内で溺死者1,783人、南部・津軽の海岸でも人馬の溺死は3千余り、北海道の南東岸ではアイヌの溺死者が多かったという。
日本の太平洋岸の沿岸測量を終え、やがてアカプルコへの帰りの航海の途中での宝島発見に出航したビスカイノはしかし、「金銀島」を発見できず、嵐で船は壊れ、仕方なくやっと浦賀に帰り着いた。ビスカイノは船を造るために家康の援助を願おうとしたが、フランシスコ派宣教師の妨害に遭い、ついに願いが家康まで届かなかった。滞在費は底をつき、帰る船もないビスカイノに救いの手を差し伸べたのが、新スペインと通商を望んでいる伊達政宗だった。政宗は「伊達丸」即ち、ガレオン船・サン・ファン・バウティスタ号を建造し、支倉常長を新スペイン経由スペインに送り、スペイン国王フェリペ三世から通商の許可を得る目的だった。ビスカイノもまた一緒に、このサン・ファン・バウティスタ号でメキシコ、即ち新スペインに送られたのだ。しかし野心家で日本語のできるスペイン宣教師、ルイス・ソテロの影がちらつき、伊達政宗の命でソテロが長官兼船長に就任し、ビスカイノは一人の船客という待遇だった。
この日本のすぐ近くにあり金銀が大量に産出すると噂される宝島の発見は、スペインのみならずオランダも、1639年から数次に渡りバタビヤから探検隊を出している。特に幕府が嘉永6(1853)年にまとめた外交史料 『通航一覧』にも、こんなオランダ船の1艘(筆者注:ブレスケンス号と言われる)が寛永20(1643)年に陸奥国南部浦に来て、10人が水を取りに上陸し盛岡藩に捕まったがオランダ人と分かり、出島の商館長、カピタン・エンサヽキ(筆者注:エルセラック・Jan van Elseracq / Eserack)に引き渡された記録が載っている。それほどこの金銀島の発見は、当時熱く血を沸き立たせる探検だったようだ。
ビスカイノが命名した、カリフォルニアと日本の「サン・ディエゴ」
前述のごとく、ビスカイノが日本に新スペインの使節として来る以前に、カリフォルニア沿岸をアカプルコから北に探検し、港や補給基地に最適な湾を発見し、「サン・ディエゴ」と命名した。この地は現在、アメリカ合衆国カリフォルニア州サン・ディエゴ市である。ここはしかし、ビスカイノの探検以前に、カブリヨ船長によって「サン・ミグエル」とすでに命名されていたので、後世の歴史家の中にはビスカイノの命名に異議を唱える人もいる。しかし、ビスカイノによって命名されたサン・ディエゴがその後ずっと使われている。
ビスカイノはまた日本で、徳川家康の許可を得て太平洋沿岸を測量し、奥州沿岸の水浜(宮城県石巻市雄勝町水浜)の地は良港になるという報告を伊達政宗に提出し、「サン・ディエゴ」と命名した。この他にもこの近辺で良港になりそうな地を、サン・アントン、サント・トーマス、サント・ドミンゴ、レグスなどと命名し、夫々政宗に報告している。このようにしてビスカイノは、太平洋を挟んだ日本とアメリカの両岸に「サン・ディエゴ」の地名をつけた人物である。もちろん、現在の日本には、もうこの地名はない。  
 
400年前に津波を見たスペイン人 1

 

3月11日、東日本を襲った巨大地震、その後に発生した津波は、東北地方の多くの人々をのみ込み、想像をはるかに超えた爪痕を残していった。
2006年に死去した作家吉村昭の記録文学『三陸海岸大津波』(文藝春秋)が東日本大震災以降、増刷を重ねているという。明治29年、昭和8年、そして昭和35年に三陸沿岸を襲った大津波を題材にした作品だ。しかし、三陸はもっと以前から津波に襲われていた。今から400年前の1611年12月2日、越喜来(おつきらい、現岩手県大船渡市)一帯を大津波が襲っている記録が残されており、それを初代スペイン大使として来日していたセバスティアン・ビスカイノが海上から目撃し、それを自らの記録に残しているのである。
セバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaino)は、1551年にスペインのウエルバ(Huelva)州の州都ウエルバで呱々の声をあげている。1567年にポルトガルの反乱鎮圧の戦に参加した後、ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)に渡り、1586 年から89年まではフィリピンに滞在する。その後、バハ・カリフォルニアの探検に従事した後、1604年にはメキシコからフィリピンに渡航するスペイン艦隊の司令官に任ぜられる。
スペインと日本の出会いはフランシスコ・ザビエルの来日(1549年)に遡るとされるが、両国の間で最初の外交交渉が交わされたのは、1609年のことである。日本は徳川家康の時代、スペインはその植民地を中南米を越えてフィリピンにまで拡張していた。1609年7月25日にフィリピンを出港して、メキシコへの帰国途上にあった臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロ乗船の帆船サン・フランシスコ号は暴風雨のため、9月30日に上総国の岩和田に漂着・難破した。ビベロをはじめ多数の乗員は村人に救助され、ビベロは江戸城で徳川秀忠と、また駿府では家康と謁見し、これがスペインと日本の最初の外交交渉へと展開することになる。
その後、ビベロ一行は、1610年8月1日、ウイリアム・アダムス建造のサン・ブエナベントゥラ号で帰国すると、ヌエバ・エスパニャ第11代副王ドン・ルイス・デ・ベラスコは、ビベロ一行の救助と送還に対する答礼使を、日本近海にあると古くから伝えられていた「金と銀に富んだ島々」の測定を兼ねて派遣することになり、初代スペイン大使としてビスカイノが送り出された。1611年3月22日のことである。
ビスカイノは1611年6月22日に秀忠と、同7月4日には家康に謁見している。そして両者への謁見の間の6月24日、ビスカイノは江戸で伊達政宗と邂逅しており、これが東北訪問の契機となったのである。
ビスカイノの報告によれば、11月8日に仙台に着き、まず政宗を訪れて歓待される。正宗の厚遇を得て、15日から仙台藩の沿岸の測量を開始し、20日間ほどかけて現在の仙台湾、石巻湾、牡鹿半島、雄勝湾、気仙沼湾、そして越喜来まで北上している。
ビスカイノは12月2日に越喜来において大地震と大津波に遭遇したことを記録に残している。それは慶長16年10月28日に陸奥で起こった大地震と大津波のことであり、伊達藩における溺死者は5千人を数えたと伝えられる。
その日のビスカイノの報告は次の通りである。
「金曜日(12月2日)我等は越喜来の村に着きたり。又一の入江を有すれども用をなさず。此処に着く前住民は男も又女も村を捨てて山に逃げ行くのを見たり。是まで他の村々に於いては住民我等を見ん為め海岸に出でしが故に、我等は之を異とし、我等より遁れんとするものと考え待つべしと呼びしが、忽ち其原因は此地に於て一時間継続せし大地震の為め海水は一ピカ(3メートル89センチ)余の高さをなして其堺を超え、異常なる力を以て流出し、村を侵し、家および藁の山は水上に流れ、甚しき混乱を生じたり。海水は此間に三回進退し、土人は其財産を救う能はず、多数の人命を失ひたり。此海岸の水難に依り多数の人溺死し、財産を失ひたることは後に之を述ぶべし。此事は午後五時に起りしが我等は其時海上に在りて激動を感じ、又波濤會流して我等は海中に呑まるべしと考えたり。我等に追随せし舟二艘は沖にて海波に襲はれ、沈没せり。神陛下は我等を此難より救い給ひしが、事終わりて我等は村に着き逃かれたる家に於て厚遇を受けたり。」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)
幸い、ビスカイノ一行は海上にいたおかげで命びろいし、その夜は津波の被害をまぬかれた家に宿泊している。
ところで、伊達政宗はスペイン人との出会いから、メキシコとの直接通商交易に関心を抱き、1613年、日本最初の通商外交を展開するべく、正使のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロと副使の支倉常長とから成る「使節団」をメキシコ経由でスペインに送り出した。同年10月28日、ソテロと支倉に加えて150名の日本人を乗せた「サン・フアン・バウティスタ号」はメキシコに向けて宮城県牡鹿郡月の浦を出帆した。ビスカイノもこの船に便乗してメキシコに帰り、1615年にアカプルコで死亡したといわれる。
月の浦のある石巻市は、1971年にチヴィタ・ヴェキア市と姉妹都市協定を結んだ。市民レベルでの交流が始まり、同市のカラマッタ広場に支倉常長像が建立される中で、サン・フアン・バウティスタ号の復元事業が開始し、同船の復元後の1997年には月の浦に宮城県慶長使節船ミュージアム(通称サン・フアン館)が開館する。同船はサン・フアン館のドックに係留された。2009年までの入館者は130万人を超えたといわれる。
今回の地震と津波によって、ドックは壊滅したが、木造船は幸い一部の損傷だけで救われたという。2013年はサン・フアン・バウティスタ号が使節団を乗せて宮城県を出帆してから400年目の記念の年に当たる。昨年は625頁に及ぶ浩瀚な『仙台市史 特別編8 慶長遣欧州使節』が刊行され、2年後には400周年記念祭が予定されている。サン・フアン・バウティスタ号が東北復興のシンボルとなることを祈りたい。  
 
慶長三陸地震と金銀島 2

 

今から402年前、1611年(慶長16年)の今日12月2日、M8.1の慶長三陸地震が発生した。この地震によって岩手県大船渡などを最高20メートルの津波が襲い、現在の岩手県から宮城県沿岸部では数千人の命が失われた。この慶長三陸地震による大津波を目撃した一人の外国人の話を。その男の名は「セバスチャン・ビスカイノ」スペイン人。
スペインの領有するフィリピンの前総督ドン・ロドリゴが航海中に台風で遭難、上総国(現千葉県)で救助された答礼使として日本に派遣されたが、「答礼使」なんて建前。実は、国王フェリペ3世の命を受けて、『伝説の金銀島』を探しにきたのだ。ヨーロッパでは、すでに紀元1〜2世紀頃から、ギリシャやローマの地理書に「インド洋に金や銀がうなる島がある」と記述され、人々のあくなき欲望を刺激していた。
15世紀になると、マルコ・ポーロの「東方見聞録」で「黄金の島ジバング」として日本は一躍、西洋世界で有名になる。
大航海時代が生まれたのも、半分はこの「黄金島伝説」のおかげだ。その後、「日本の東海上北緯29〜30度に金島、33〜34度に銀島がある」とかなんとか、さまざまな説が流布されて、ビスカイノも「日本の端から150レグア(約840キロ)にある銀島を探索しろ」との命令書を携えていた。ところがそもそも日本の正確な地図がないから、「日本の端から840キロ」と言われてもどこだか分からない。(だとすれば、そもそも『840キロ』という最初の情報そのものが怪しいということになるはずだが) そこで、ビスカイノの重要な使命の一つとして、「日本東海岸の測量」というのがあった。
ビスカイノは徳川家康に謁見して、「航海中の避難場所」とか、「地図の写しは幕府にあげます」とか、調子の良いことを言って、測量作業のOKを取り付け、伊達政宗が領有する三陸海岸へと一路向かうのだった。そしてビスカイノは慶長13年の12月2日、越喜来(おきらい 現岩手県大船渡市)に上陸しようとする船上で、慶長三陸地震の津波に遭遇する。
その時の様子が、ビスカイノの「金銀島探検報告」に記載されている。その要旨を現代語訳風の意訳で……。
「越喜来の入江に入ったが、上陸する前に、男も女も村を捨てて山に逃げていく。これまで他の村では、村人がみんな自分たちを見物するために海岸に出てきたので『変だなあ?』と思った。自分たちから逃げようとしているのだと思って、『ちょっと待ってくれよ!』と呼び止めたが、みんなが逃げているのは、1時間も続いている大地震のためで、海水は1ピカ(3メートル89センチ)あまりの高さで陸との境界を越え、村に流れ込んでいる。家やわらの山は流され、津波は3回襲い、多くの人が溺死した……」
まるで「これはネタか!」と思うほどに、何とも「間抜けな探検家」だが、ビスカイノは大船渡市で測量のための北上を終え、反転して九州沿岸までの測量を行なっている。大船渡市の北緯は39度あたり。それより北には「金銀島はない」という判断だったのだろう。
当然ながら、ビスカイノは「金銀島」を発見することはできない。
だが一方で、ビスカイノらと会って、伊達政宗の中の「海外交易熱」は一気に高まり、ビスカイノと一刻も早い面談を求めていた。
「自ら船を造り、イスパニア(スペイン)国王に進物を贈り、領内でキリスト教を説く宣教師を求めたい」
「下心満々で日本に来たのに、なんだか先方がスペイン熱に盛り上がっている…」
ビスカイノは本心でどう思ったのだろうか?
結局、ビスカイノは翌年にいとまごいをして、帰国の途につく。
帰途でも金銀島を探すが、見つからず、その上、嵐にあって自身の船「サンフランシスコ2世号」は大破、浦賀に舞い戻るはめに。
幕府に「帰国するための船の建造費を用立ててほしい」とお願いするが、幕府はこれを拒絶。
よくよく「ツイてない探検家」だが、最後にラッキーがめぐってきた。
「海外交易熱」に取り憑かれた伊達政宗が支倉常長ら慶長遣欧使節団の派遣を決めた。
船の建造にビスカイノが協力したのは言うまでもない。
結局、ビスカイノは遣欧使節団のサン・ファン・バウティスタ号に同乗して、メキシコ・アカプルコまで送ってもらう。
最後まで「ラテン系な探検家」だった。  
 
スペイン外交と浦賀湊

 

はじめに
近世初頭の関東浦賀湊は、徳川家康の外交政策により東国一の国際貿易港として開かれ、船奉行向井政綱や英人ウイリアム・アダムスのもと、スペイン・オランダ・イギリス人が在留し、我々の想像を遥かに越えた賑わいを見せていた。家康が、未だ公権を確立していない当時、江戸城に近い浦賀を貿易港とすることは、極めて重要な意味を持つものであった。
この頃の日本の貿易商人は、誰ひとり記録を残す者はいなかったが、スペイン・ポルトガルの在日宣教師が、驚くほど詳細に日本の情報を本国に報告している。彼らの記録をそのまま事実として捉える訳にはいかないが、浦賀外交を検証していくためには、彼らの記録と断片的な日本側史料を、丹念に照合していかねば、探求できないのが実状である。
これらの事情を踏まえ、家康が浦賀湊の開港を志向・意図したものは奈辺にあったのか、何故、ウイリアム・アダムスを外交顧問に抱えたのか、そして船奉行向井氏が、どう浦賀貿易に関わったのか述べてみたい。
スペイン人鉱夫招聘の要請
徳川家康は、豊臣秀吉の没後、僅か三か月後の慶長三年(一五九八)十一月、秀吉時代から貿易交渉の経験を持つ、フランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジエズスを招き、浦賀湊にスペイン商船を寄港させるよう交渉した。家康の交渉は、単なる貿易を目的とするものではなく、西班牙(イ スパニヤ)式の造船技師、および鉱山技師の招聘にあった。
この頃、我が国の金銀山の採掘に用いていた金銀製錬法は、たいへん不能率な灰吹法であり、みすみす損失を招いていたが、スペインが、メキシコやペルー(共にスペイン領)で用いていたアマルガム法(混汞法)は、水銀を接触させて金銀を回収する画期的な方法であり、これによりメキシコは多量の金銀を得ていた。家康は経済政策を進めていく上で、この新技術を導入することは極めて重要であった。
造船技術にしても、我が国の大船といえば、秀吉が九鬼水軍に造らせた安宅船くらいであり、これなどは、とても太平洋の荒波に耐える代物ではなかった。それに引きかえスペイン国は、大海原の航海に耐える大型帆船の建造技術を持ち、それは主としてスペイン領マニラで建造されていた。日本国が、東アジアの国々と通商していくためには、大船の造船技術の導入もまた、急務であった。そのため関東布教を黙認した。それは、スペインが商売と布教が一体化した理念を持つ国であったからである。
しかし、ジエズスは、造船・鉱山技師の派遣は自分の権限外であり、本国スペインおよびメキシコ総督の許可を得ねばならぬと回答したのである。
三浦按針の重用
家康の対スペイン交渉の最大のネックは、言語である。家康のブレーンには、事実上の外交担当の老中本多正信や、金座頭の後藤庄三郎がいたが、ラテン語が通じる側近はなく、交渉は遅々として進展しなかった。このような情勢下に、奇しくも家康の面前に現われたのがウイリアム・アダムスである。彼は、大型帆船の造船技術を持ち、航海が堪能で、西洋の政情のみならず、天文学・幾何学・地理学に通じ、イスパニヤ語・ラテン語にも通じた。家康にとって、正に「救いの星」であったに相違ない。
日本史上、為政者が外国人を側近として抱えた例がない中、アダムス(以下三浦按針と記す)を外交顧問として寵遇し、江戸邸のほか、浦賀湊に屋敷を与え、浦賀に近い逸見(へみ)にも屋敷を与えたのは、イギリス・オランダ貿易のためではなく、対スペイン交渉のためである。逸見の采地二二〇石は、その職務を遂行していくための報酬である。でなければ、同じ外交顧問として雇用したヤン・ヨーステンのように、江戸邸のみ与えれば、用は足りたはずであるから。
朱印船制度の創設
この頃の日本人は、東アジアへ自由に渡航し、ヨーロッパ人もまた日本への出入りは自由であった。このような私貿易船は、一見、理想的にも見えるが、彼ら日本人は、八幡大菩薩の船旗を立てて渡航し、利益を得られないと沿岸を略奪し、八幡船と呼ばれ恐れられていた。
徳川家康は、マニラで非義を作る八幡船が後を絶たない報告を受け、フィリピン総督の要請により、慶長六年正月、公貿易船であることを区別するため、マニラ渡海の朱印状を発給した。これが家康の朱印船制度の創設である。つまり、家康の朱印船制度は、対スペイン交渉が契機となって創設されたものであった。 
スペイン船漂着
当時、マニラからメキシコへ向かうガレオン船の出航は、六月下旬に吹き始める初期の南西風に乗って日本近海を東進し、太平洋貿易の拠点アカプルコ港へ向かうのが常であった。しかし、少しでも出航が遅れると、台風に遭遇する危険が甚だ多く、土佐清水港や浦戸港・豊後の港などに漂着したものであった。
マニラからメキシコに赴くスペイン船の関東漂着は、二回ある。一回目は慶長六年八月、上総大多喜浦に漂着したセレラ・ジュアン・エスケラであり(『慶長見聞集』)、二回目は慶長十四年九月、上総岩和田沖で難破した元フィリピン総督ドン・ロドリコ・デ・ビベロである(『増訂異国日記抄』)。
とりわけ、ビベロに対しては、未だ実現していない鉱夫招聘の交渉船として送還させている。このとき、家康が、ビベロらの帰国のため提供した船舶は、二回とも、三浦按針が家康のために建造した洋式小帆船である。家康は、初めて手に入れた太平洋を渡る船を、スペイン鉱夫招聘の交渉のために提供したのである。
本国に送還させたエスケラ、およびビベロの返礼大使は、二回とも家康の要請により浦賀湊に入港している。その浦賀貿易を管轄していたのは船奉行向井政綱・忠勝父子であり、返礼大使が浦賀に着岸する都度、仰せを受けて接待し、自らも商売に携わっていたのである。
三浦按針のマニラ渡海
浦賀湊は慶長九年(一六〇四)、マニラのスペイン商船が入港して以来、毎年、入港し通商が行われていた。しかし、その一方、慶長十一年ポルトガル顧問会議では、マニラが日本と通商することを阻止しようとする提案が出された。この重大問題を解決するため、宣教師ベアト・ルイス・ソテーロは、役立つ交渉人として三浦按針をマニラへ送る案を示唆した。その結果、三浦按針は慶長十三年五月、マニラにおいてフィリピン総督ビベロと会見している(『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』)。総督ビベロは、三浦按針と会見の結果、獄中にあった八幡船の徒者を残らず日本に帰国させ、八幡船問題に終止符を打ち、浦賀貿易を再開することを決し五月二七日、家康に書簡をしたためた。この五月二七日は西暦七月九日にあたり、『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』にある「同年七月九日、家康及び秀忠に書状を認めた」という記述と、日付がピタリと一致する(『増訂異国日記抄』)。
…当所数年逗留之日本人徒者共候而 所之騒ニ罷成候之間 当年者壹人も不相残帰国之儀申付候 …如例年今年も黒船差渡候、則到関東可乗入之旨 安子申付候 併海路不任雅意候へは 日域中者、皆以御国之儀候之間 何所へ成共 風次第可入津之由申付候、此加飛丹同船中者共 御馳走奉仰候…
ビベロは、アクニヤの後を受けてフィリピン総督に就任した旨を述べ、数年来、逗留の日本人徒者を一人残らず帰国させること、以後、紛争が再発せぬことを望むこと、貴国からの商船は毎年四隻に限ること、そして「関東」(浦賀湊)に入港すべき旨「安子」に申付け、「加飛丹」(船長)以下の饗応を求めたのである。右の家康宛の書状「安子」(Ange)は按針のことで、「加飛丹」(蘭語 Capitao)は船長のことである。
このときのサン・イルデフォンソ号の船長は、ファン・ヒルにより(4)、ファン・バウティスタ・デ・モリナで、按針=航海士はファン・バウティスタ・ノレと確定している。ファン・ヒルは、「安子」は単なる航海士のノレとしているが、右の書翰を、はじめて刊行した外交官C・A・レラは、「安子」は、職名の按針=航海士ではなく、三浦按針を指していると推測しており、筆者も、C・A・レラと同意見である。
その理由として、当時、外交文書を掌っていた以心崇伝が翻訳した書翰を通覧すると、航海士=按針を「安子」と翻訳した書翰は、この一通のみであること。ファン・ヒルは、『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』にいう三浦按針のマニラ渡海説について、何ら検証しておらず、家康の使者は誰なのかについても、一切、言及していない。総督ビベロは、船長モリナを「この船と使節の長に定めた」のであり、この日本行きのイルデフォンソ号には、マニラに渡海した家康の使者も同船していたはずであり、総督ビベロが関東入港を指示した「安子」は、船長モリナの指揮下にある単なる職名の按針=航海士ではなく、人名の三浦按針と考えられる。
三浦按針を指した言葉は『異国日記抄』(一五六頁)に「アンジ」、異国御朱印帳の慶長十一年十月十日付、家康のパタニ商館長宛の通行許可証に「安仁」とあり、またセーリスの『日本渡航記』(一〇四頁)には、「アンジ(Ange)」は、土地で、そう呼ばれるアダムス君のことだと記されている。
こうして、豊臣秀吉時代から、フィリピンの近海で恐れられていた八幡船の存在に終止符が打たれた。三浦按針が重用されたのは、もともとスペインとの通商確立のためであり、彼が、外交顧問としてその本領を発揮したのは、正にこのときであろう。
浦賀フランシスコ修道院の建立
慶長十三年七月、浦賀湊における通商が円滑に行われるよう、浦賀住民がスペイン人に対して狼藉を禁ずる高札が立てられた(「御制法」六)。
三浦之内浦賀之津
対呂宋商船狼藉之儀 堅被停止之訖 若於違背之輩者速可処厳科之旨 依仰下知如件
慶長十三年七月日   対馬守(安藤重信)
               大炊助(土井利勝)
また同年、浦賀にフランシスコ修道院が創設された。高札にしても、修道院の創設にしても、三浦按針がマニラで総督ビベロと会見した際、ビべロが求めた必須の条件であったろう。レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史上巻』一六〇八年条に、「…同年、江戸と伏見の修道院が再興された。フランシスコ会の人々は、江戸から十二リュー距った関東の小港浦河(浦賀)に、更にもう一箇所、修道院を建てた…」と記し、「哀れでみすぼらしい」とあるから、僅かに宗教的な趣を漂わせた簡素な建物であったとみられる。おそらく貿易代理店としての役割も兼ねたと推測される。
修道士たちは、浦賀に祈りのための一画を貰い受け、修業生活をしながら布教に励み、その一方、貿易における通訳や商品売買に携わっていたのである。これらフランシスコ会への優遇は、家康の理解に基づくものではなく、鉱山技師招聘の実現のための、やむを得ぬ措置であったことは言うまでもない。
こうして、キリスト教の伝道は、江戸と浦賀のフランシスコ修道院を中心に活発に行われ、街道に沿って広がっていったのである。
オランダ・イギリス通商の成立
イギリス・オランダとの通商は、家康の働きかけによって成立したのではない。両国の東印度会社の使節が日本に派遣され、三浦按針の斡旋により成立した、いわば受け身であり、しかも、オランダとの通商成立は三浦按針の来日から九年後であり、イギリスとのそれは十三年も経てからである。
家康が、浦賀を、単なる貿易港とする目論見であったとすれば、布教が伴う旧教国スペイン国との通商は止め、三浦按針を介し、直ちに、布教をしない理想的なイギリス・オランダ貿易に切り替えたはずである。しかも、家康の力を以ってすれば、浦賀に両国の商館を置くことなど容易であったはずなのに、平戸に両商館を設置する希望を容易に認め、商船の浦賀入港さえ指定していない。浦賀には、僅かに三浦按針の面目を保ち、平戸イギリス商館の浦賀支店が置かれただけであった。
向井氏と渡海朱印状
メキシコ総督は、元フィリピン総督ビべロらを送還した返礼大使として、セバスチャン・ビスカイノを浦賀に派遣した。ビスカイノが浦賀湊に着岸したのは慶長十六年四月で、彼らは「フネアスの司令官」(船奉行向井政綱)、および「司法官と称する其地のトノ」(三浦郡代官頭三代・長谷川長重)に迎えられた(『ビスカイノ金銀島探検報告』)。ビスカイノが関東に滞在中、常に、彼に付き添って必需品を調達し、江戸・駿府に同行したのは向井将監忠勝であった。ビスカイノは向井忠勝を評し「…船舶司令官向井将監殿の手を経て、前期の指令を受くる交渉に着手せり。此人は大なる好意を以て、一切の請願を援助し、直ちに我等の希望を皇太子(秀忠)に通じたれば、皇太子は直ちに国務会議に命じて、司令官が其旅行の為め、要求する所の指令を迅速に与えへしめたり…」と書き残している(『ビスカイノ金銀島探検報告』)。
渡海朱印状というのは、申請すれば誰でも下付されるものではなく、将軍側近の仲介を要した。浦賀湊を出入する商船に発給される朱印状は、常に向井氏の手を経て渡されていた(『増訂異国日記抄』)。向井氏は、彼らに便宜をはかる都度、何らかの報酬を得ていたのであり(『本光国師日記』四巻)、それはスペイン人に限らず、オランダ・イギリス人も同様であり、両国の商館長日記にみるように、彼らは、元和年間まで毎年、向井父子に献上品を贈っている。長崎平戸においても、その土地の領主への贈物は日常的に行われており、非公式ながらも、彼らが外国で商売をしていく上で、強いられた慣行であったのである。
向井忠勝の評価
大使ビスカイノは、関東に滞在中、船奉行向井政綱・忠勝父子と行動を共にすることが多かった。彼は向井父子をよく観察していて、二人に接した感懐をこう記している。
… 将監(向井忠勝)殿の皇太子(秀忠)より寵遇を受くることは非常にして、我等が同市(江戸)に着きし以来、皇太子が狩、猟、其他の為めに外出する時、彼はそばに従はざることなく、当国の貴族などより大に羨望せらる。特に人質として当宮廷に在る王侯の子息及び孫達は、彼の祖父及び先祖の事蹟、身分賤しかりし事、其他を暴露せり。此の信仰なき国民の間に、嫉妬の盛なるを見るは嘆かはしきことなり。然れども、彼は大なる思慮ありて善く之を忍び、或人々に対しては、彼の父並びに彼が、忠誠を以て皇帝並に皇太子に尽したる所は、與へられたる名誉に相当せりと言へり。彼等向井父子は、武器を手にして己の力を以て獲得したるが故に、大にこれを大切に思へり…(『ビスカイノ金銀島探検報告』)
イギリス商館長リチャード・コックスは元和二年(一六一六)九月、将軍秀忠から新通商許可証を給わり、三浦按針の案内で三浦三崎の向井政綱邸(現在の最福寺の地)を表敬訪問した際、向井忠勝の三崎の新邸(現在の三浦市役所の地)を見学し、「この人は、我々が日本に有する最良の友人の一人である」と述べている(『イギリス商館長日記』)。向井忠勝は、コックスからも深い信頼を受けていたことが判る。
向井忠勝と浦賀貿易
向井忠勝は、ビベロが浦賀湊に滞在中、ビベロに随行していた某スペイン商人に日本商品を託し、その売上金を以てスペイン商品を購入し、浦賀に送るよう依頼したことがあった。ところが、これが不履行に終わり大使ビスカイノに訴えた。ビスカイノは、浦賀在住の宣教師や自分たちの待遇は、全く向井氏の掌中にあるので、七百ペソに相当する布地および羅紗を以て弁済したという(『ビスカイノ金銀島探検報告』)。
また、こんなこともあった。西国から多くの商人が浦賀にやって来て、商品売買が盛んに行われていた。そこへ、用人と称する二人の「将軍の買物掛」がやって来て、スペイン商品を買い付けると流言したため、誰も商品を購入する者はなく売れ残った。そこでビスカイノは二人を呼び、ならば将軍の朱印状を見せよと言うと、両人は平伏し、将軍とは無関係であることを白状したという。
この用人が何者なのか不詳だが、ビスカイノは、以後、それまでスムースであった向井忠勝との間に障阻が生じたと述べているから、おそらく向井氏の手の者であろう。このような「将軍の買物掛」という先買特権の行使は、秀吉時代から行われ、家康・秀忠の時代に限ってみえる役職である。慶長十八年のイギリスに対する通商許可証には「船中之荷物之儀ハ 用次第目録ニ而 可召寄事」と書かれ、将軍が優先的に購入できるシステムになっていた。島津家の記録『旧記雑録後編』にも、明船が入港した場合は急ぎ注進し、珍品があれば、その旨を通知するよう指示したことがみえる。イギリスの場合は、特に三浦按針との関係もあって将軍の買上品が多かったようである。
向井忠勝は浦賀貿易の統括者として、イギリス平戸商館長リチャード・コックスと三雲屋との仲を調停し、三雲屋に未払い勘定を清算させ、コックスに贈物をさせ和解させたこともあった(『イギリス商館長日記』)。向井忠勝は、浦賀貿易に関し、トラブルの仲裁にもあたっていたのである。
ビスカイノの金銀島探検
ビスカイノが、メキシコ総督の大使として、その使命を帯びたものは、日本列島の東海岸にあるとされた金銀島の発見である。十三世紀末、マルコ・ポーロが『東方見聞録』に、日本を「黄金の国ジパング」と書いたことは周知の通りであるが、日本が黄金の国ではないことが明らかとなっても、この噂は久しく消えることはなかった。実際、日本では銀が多量に採掘されていたからである。
金銀島にまつわる話が『イギリス商館長日記』にみえる。それには元和二年(一六一六)九月、向井忠勝は三浦按針に向かって、北方に金銀鉱山の富んだ島があり、将軍がその島を征服しようと企てていると聞く、ついては報酬を出すから、水先案内を務めたらどうかと申し出ると、三浦按針は、目下、イギリス商館に雇われる身であるから、任務を捨てて、そこへ行く訳にはいかぬと拒絶したという。この話が事実であれば、向井忠勝もビスカイノのように、日本の北方に金銀島があると本気で信じていたことになる。ところが、三浦按針やコックスの観測では、そんなものはないと理解していたようである。
ビスカイノは向井政綱の取次により、貿易のためと称し日本東西の沿岸測量の朱印状を得ると、慶長十六年(一六一一)九月、江戸を発し、陸奥越喜来から南下しながら測量し、さらに長崎に至り、約半年間で日本沿岸の測量を終え、慶長十七年六月、浦賀湊に戻り、家康・秀忠に海図を一面ずつ進呈した⑻。次いで、船舶を修理し食料を積込むと、これ幸いと、帰国を装って浦賀を出帆し、測量図に従って金銀島の探検に向かうのである。
もとより架空の金銀島を発見できるはずはない。ビスカイノは、再三の暴風雨に遭遇し、船舶は破壊し、止むを得ず浦賀湊に戻り、帰国のための大船建造の援助を家康に請うた。時あたかも、ポルトガル船に関わる岡本大八事件によるキリシタンへの不安が褪めやらぬ、慶長十七年十月であった。ここに至って、家康は、日本沿岸の測量は貿易のためではなく、金銀島探検のためであった事実を知ることになる。
ビスカイノが帰国の術を失ったとき、その頼ったところは初代仙台藩主の伊達政宗である。ビスカイノは奥州の海岸を測量した際、政宗がメキシコと直接通商を開きたいと述べたことを想い起し、政宗に船匠を貸与することを条件に大型帆船の建造を勧め、これが結実し、政宗領内にキリスト教布教を認める条件で遣欧使節船派遣に至るのである。
伊達政宗遣欧船と向井将監
伊達政宗が遣欧使節船の建造を決意したのは、将軍秀忠の使節ソテーロが乗った秀忠の遣欧船サン・セバスチャン号が浦賀湊を出帆し、浦賀水道で擱坐した話をソテーロから聞いたときである。この秀忠船は、ビスカイノの勧めにより、向井忠勝の公儀大工をして伊東で建造させた船で、ビスカイノが浦賀湊を出帆する際、その僚船として出港する予定であったが、造期が遅れて出帆し、その上、積荷過剰のため座礁してしまったのである。
向井忠勝は政宗の要請に応じ、慶長十八年三月、公儀大工の与十郎と水手頭の鹿之助・城之助を派遣し、産物の紅花および菱喰(水草を食べる水鳥)三羽を進呈する用意がある旨を伝えた(「伊達貞山治家記録」)。向井忠勝が政宗の相談にのったのは、ビスカイノの依頼もあったと思われる。
だが、当時、公儀大工といっても、大船の造船技術は未熟であった。浦賀には、後北条氏時代から伊勢水軍出身の船大工がいて、彼らは三浦按針が伊豆で建造した洋式帆船に二度も携わり、秀忠船の建造にも携わり、また日本側が買い取って浦賀湊に放置されていた、ビスカイノの洋式大船サン・フランシスコ号二世の構造を具に見分し、学んだであろう。しかし、秀忠船が浦賀水道で擱座したことにみるように、大型船の建造技術にしても、航海技術にしても、未熟と言わざるを得ない。このことはリチャード・コックスや三浦按針らが口を揃えて言うところである⑾。日本人は、新技術を速やかに学び取り、それを模倣し、改良を加える能力は優れていたが、スペイン人はそれを日本人に伝えることは消極的であり、言語の不通も伴って、細かい部分において学び取ることは、勤勉な日本人であっても、至難の業であったに相違ない。したがって、ビスカイノが政宗と協議して交わした契約書にみるように⑿、すべての指揮権はビスカイノにあり、向井氏の公儀大工はその名を連ねるだけで、造船・艤装の重要な部分を担ったのは、ビスカイノが伴った船匠であり、造船費用から仙台までの旅費、荷物運送費、アカプルコに到着するまでのスペイン人航海士や船員の俸給・食糧などは、すべて政宗の負担という契約であった。こうして、政宗船は牡鹿郡月浦港で建造された。
政宗船の積荷は、政宗・加飛丹の荷物のほか、向井忠勝から商品二、三百梱、世上から四、五百梱が積まれた(『政宗君記録引証記』)。向井忠勝は政宗船に便乗し、家人に日本商品を託し送り込んだ。慶長十八年八月一日には、三浦按針から猩々皮(舶来の毛織物)の合羽一領が献上され、出帆直前の九月六日、向井忠勝から、航海安全を祈る書状および祈祷札が届けられている(『政宗君記録引証記』)。向井忠勝が自ら奥州へ赴いた形跡はないが、政宗遣欧船の件で、終始、指導的立場にあったことは確かである。『古談筆乗』によると、
「自将軍秀忠 有種々土産贈所附船頭焉。支倉六右衛門、横沢将監使とし、艤于牡鹿月浦出也。」
と述べている。秀忠の遣欧船が江戸湾口で座礁した事実をみれば、秀忠が、政宗遣欧船に船頭を付けることはあったかもしれない。
こうして、政宗船はサンファン・バウティスタ号と命名され、九月十五日、奥州月浦港をメキシコのアカプルコへ向け出航した。乗組員は大使ビスカイノをはじめ、政宗の使節支倉六右衛門長経および宣教師ソテーロ、船長の横沢将監吉久、仙台藩士今泉令史ほか五人、雑役九右衛門ほか六人、南蛮人四〇人、将監忠勝の家人一〇名ほど、商人五〇名、外人四〇余名、総じて一八〇余名が乗り込んでいた。
支倉六右衛門が、マニラでジャンク船を新造し、浦賀湊を経由して奥州月浦港に帰国したのは、元和六年(一六二〇)八月である(『伊達貞山治家記録』二八)。それは、奇しくも伊達政宗が禁教の態度を明確にし、公然と禁教の制札を掲げる二日前であった。支倉六右衛門の欧州における七年余の輝かしい事績は、禁教政策の下に消された空しい帰国であった。主君政宗の名誉ある使者として渡海したにも関らず、唯々哀れという外はない。
因みに、支倉六右衛門の実名は『寛政重修諸家譜』に「常長」と記しているが、彼自身がイスパニヤ国王やイルマ公に宛てた書翰、およびベニスの大統領に宛てた正式な書簡には、すべて「長経」と自署されているとおり⒁、「常長」という名は、後世、書き替えた名である。
大使カタリーナ追放と三浦按針
大使ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ一行が、政宗船サンファン・バウティスタ号に乗り「浦川(浦賀)」に着岸したのは、元和元年(一六一五)閏六月二一日である。政宗船の二度目の太平洋横断である。ときに大坂城落城から間もない頃で、カタリーナは、さぞ歓迎されるであろうと踏んでいたが、全く当て外れであった。カタリーナ自身の報告によれば、禁教により二か月もの間、向井忠勝の監視の下で、浦賀の甚だ悪い家に押し込められ、江戸・駿府へ行くことも許されず、この間、信用すべき通訳もないまま、空しく謁見の機会を待っていたと述べている。
向井忠勝の注進により、カタリーナ来日の報に接した家康は、元和元年八月四日大坂を発し、二三日、駿府に戻り、平戸にいる三浦按針に駿府に来るよう指令を出している⒃。日本広しと雖も、カタリーナに国外退去を通告し、政令の趣旨を正確に伝えられる者は三浦按針しかいなかった。カタリーナは、三浦按針を介し国書と献上品を携え、家康の下に赴き国書を提出したが、このときカタリーナが齎したフェリペ三世の書簡には、家康がビスカイノと条約を結んだ鉱夫派遣のことは、一切、触れられておらず、ただ宣教師の優遇を願うのみであった。もはや、家康は一言も発しようとはしなかった(17)。
カタリーナは、再び立ち戻ることのないよう強い布告を受け、元和二年八月、政宗船に乗り逃げるように浦賀湊を出帆した(『日本耶蘇教史』)。これが浦賀からメキシコへ向かう最後の貿易船となった。こうして、マニラ―浦賀―メキシコ間の交易ルートは絶たれ、浦賀外交はスペイン人鉱山技師の招聘を実現することなく、訣別を迎えたのである。
向井忠勝の委託貿易
向井忠勝は、カタリーナらが浦賀を出帆する直前、委託貿易を試み、一年前から入牢していた宣教師ディエゴ・デ・サン・フランシスコの釈放を請い、これが赦された。ディエゴという人物は一六一五年四月、加藤嘉明の訴えにより捕えられ、以来、獄中にあった(『日本切支丹宗門史』上)。巷では、本多正信・正純父子が中心となって全国のキリシタン取締りが行われる中、向井忠勝はメキシコ貿易の巨利にひかれ、カタリーナ追放に便乗して家人をディエゴに託し、最後の貿易船となろう政宗船に、日本商品を積み込んだのである。メキシコに着したディエゴは、副王グワダシャラに対し、向井忠勝との約束について、「…日本の役人向井将監の有利な商業上の遠征を導いたために、イスパニヤが当然、受くべき極刑の免除を請うた…」と奏上したという(『日本切支丹宗門史』中)。
船の出帆を聞いた伊達政宗は元和二年七月、メキシコ総督に宛て書簡をしたため、船長横沢将監に託した。その内容は、先年、政宗遣欧船を渡海させた際、ソテーロより、政宗船をメキシコに渡すよう堅く申入れがあったので、カタリーナらを国外追放する序でに、同船を渡すというもので、「自今已後ハ、季々渡海させ可申候」とあるから(18)政宗は、厳しいキリシタン弾圧下にありながら、なおメキシコに滞在する支倉六右衛門に期待を持ち、再び、メキシコから領内に政宗船を渡海させる夢を膨らませていたことが判る。
メキシコに渡った政宗船は、メキシコ政府の要望により、元和五年、日本人の反対を押し切って廉価をもって買い取られた。
向井忠勝のキリスト教観
「ディエゴ・デ・サン・フランシスコ報告・書簡集」の中に⒇、向井忠勝がディエゴに語った一節がある。忠勝は「…我が一子息をバードレ・ソテーロにお頼みした。その子供は洗礼を受けて死去したが、私がキリシタンにならないのは、この迫害のためである。しかし、真の神を望み、貴殿の教えをその真の神の教えだと信じている。もしも機会があるならば、身を危険にさらすことなく、私もキリシタンになりたい。しかし、今は生命や領地を失わないために、敢えてキリシタンにはなり得ない…」と述べている。
死去した一人の子息とは殉教をいうのであろう。ソテーロという人物は、家康が、貿易のために宣教師の入国を黙認していることなどはサラサラ熟知していて、家康・秀忠をはじめ、幕府の要職にある側近らと巧妙に接し、その周到な態度は人を畏服させたといわれる。そのソテーロが、まず向井氏を入信させることに懸命であったことは想像に難くない。だが、家康が布教を嫌っていることを、ソテーロ以上に熟知していたのは忠勝であり、その忠勝がキリスト教の信奉者であったとは思えない。一子を洗礼させたのは商売目的ではなかったか。生命や領地を失わなければ「私もキリシタンになりたい」という忠勝の言は、家人に託したメキシコ貿易が、ディエゴの口添えにより成功へ導くためのリップサービスと解されるのである。
いずれにしても、このディエゴの報告書は向井忠勝のキリスト教観を窺えるもので、自身がキリシタンではなかったことを明言した、唯一の史料である。
貿易制限令と浦賀湊の閉鎖
家康は浦賀開港を実現させ、十七年という長きに亘ってスペイン人鉱夫の招聘を要請したにもかかわらず、ついに実現には至らなかった。フィリピン総督は、造船技術を日本に伝えることについては、全く受け入れる意思はなかった。なぜならば、これまでフィリピンが日本からの襲撃を受けずに済んだのは、日本がマニラに来襲するような大船の建造技術がなかったからであり、その技術を伝えれば、それに乗って攻めて来いというのと同じである。また新金銀製錬法を伝え、日本に国富を齎(もたら)すような行為など、しようはずはない。この事実をみれば、たとい家康が余命を長くしたとしても、貿易港としての浦賀の生命は、早かれ、遅かれ、同じ道を辿ったであろう。
家康の死から、僅か四か月後の元和二年(一六一六)八月、二代秀忠は海禁政策の強化を露わにし、中国船以外の外国船の来航地を長崎・平戸に限定し、貿易関係者に普く通達し、三浦按針も平戸へ移住を余儀なくされた。これにより、光を放ってきた国際貿易港浦賀の生命は絶たれたのである。
まとめ
家康の浦賀外交を振り返ってみると、浦賀湊へ商船誘致を行ったのは、一貫してスペイン系商船のみであり、おのずと、焦点はスペイン一国に当てられていたことが浮上する。すなわち、当時、画期的な金銀製錬法アマルガム法の導入が、浦賀開港の眼目であったことである。家康はマニラからの要請に応え、日本商船の数を限定し「法律」を定めたが、この法律こそ、家康の公貿易船の証としての朱印船制度の創設である。つまり家康の朱印制度の発祥は浦賀外交にあったといえる。
家康は、秀吉時代から長崎に入港していたポルトガル船を浦賀に招くことは一切なく、イギリス・オランダ商船に対しても、浦賀入港を強要することはなかった。浦賀を単なる国際貿易港とすることが目的であったとすれば、三浦按針を遣って、布教が伴わないイギリス・オランダとの通商に、速やかに切り替えたはずである。
しかし、そうはせず、毎年、派遣されるスペイン人宣教師を黙認し、三浦按針をマニラに渡海させ、中断していたスペイン船の入港を再開し、さらに、スペイン貿易がスムースにいくよう、浦賀住民の濫妨狼藉を禁止する高札を立て、浦賀にフランシスコ修道院の地まで提供した。禁教令発布により、カタリーナに国外退去を通告し政令の趣旨を伝えたのは三浦按針であり、これらの事実をみれば、三浦按針は対スペイン交渉のため重用したと考えてよい。
家康は、スペイン国との親交に力を注ぐ余り、常に宣教師の布教に注意を払い、禁教令は、時には厳しく、時には緩められ慎重に操られてきた。秀吉のごとき強い弾圧を与えなかったのは、スペイン人鉱夫派遣に期待し、政治資金を確保することを優先したからであり、この浦賀外交に家康の鉱山業に対する鋭意を垣間見ることができる。
対スペイン交渉は、その当初から両国の目的に大きなズレがあり、家康の粘り強い交渉にもかかわらず、最後まで折り合うことはなかった。貿易港としての浦賀の生命は、家康の死により、僅か一〇数年で終焉を迎えたが、浦賀を舞台としたメキシコ交渉の失敗が大きな要因となって、鎖国へと導いたことは確かである。
 
 

 

 
『日本大王国志』 フランソア・カロン

 

 
フランソワ・カロン 1
(1600 -1673) オランダに亡命したフランスのユグノー教徒。オランダ東インド会社に30年以上勤務し、最終的にはバタヴィア商務総監(植民地総督の次席)にまで昇進した。後にはフランス東インド会社の長官(1667–1673)を務めた。しばしば、日本に渡来した最初のフランス人とされる。確かに当時南ネーデルラントに属したブリュッセル生まれのフランス系の亡命ユグノー教徒であるが、実際にはフランス国民となったのは、後にフランス東インド会社の社長になることを受諾したときである 。
日本で
通訳
カロンは、料理人として1619年に平戸のオランダ商館に着任した。その後、1641年まで20年以上滞在することとなる。この間に江口十左衛門の姉と結婚し、6人の子供をもうけている。1626年には商館助手に昇進した。日本人と結婚したこともあり、日本語に熟達した。1627年に台湾行政長官のピーテル・ノイツが来日し、台湾での貿易に関して将軍徳川家光に拝謁を求めた際には、通訳として参府している。当時江戸にオランダ語通詞はおらず、ポルトガル語を経由して意思疎通を図っていたが、日本語が話せるカロンは非常に重宝された。結局末次平蔵の妨害により拝謁は実現せず、ノイツは成果無く台湾に戻ることになるが、その際にカロンも同行した。その後、ノイツと平蔵の問題はタイオワン事件へと発展し、平戸商館は4年間閉鎖されたが、ノイツを日本に人質として渡すことで交易は再開された。カロンはこの解決のためにバタヴィアと日本を往復している。
次席
1633年4月9日には次席(ヘルト)となり、1636年2月には館長代理となったが、この年にノイツの釈放に成功している。またこの年に、バタヴィア商務総監のフィリプス・ルカスから日本の事情に関する31問の質問に回答する形で『日本大王国志』を執筆した。当初出版を予定したものではなかったが、1645年に東インド会社の社史の付録として出版され、1661年にはカロン自らが校正した上で単行本として出版された。
1637年9月、長崎奉行榊原職直に対して、日蘭が同盟してマカオ、マニラ、基隆を攻撃することを提案した。その後まもなく長崎代官の末次茂貞(末次平蔵の息子)から、商館長のニコラス・クーケバッケルに対し、翌年にフィリピンを攻撃するため、オランダ艦隊による護衛の要請があった。これに対し、オランダ側はスヒップ船4隻とヤハト船2隻を派遣することとした。しかしながら、翌年に島原の乱が発生したこともあり、フィリピン遠征は実現しなかった 。
商館長
1639年2月12日にはクーケバッケルの後を受けて商館長となった。1627年に続き、1633年、1635年、1636年、1639年、1640年、1641年に江戸に参府している。
島原の乱の後、1639年にポルトガル船の入港が禁止されたが(第5次鎖国令)、それに先立ち幕府はカロンに対してポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している 。
1640年、通商再開を願って来日したポルトガル人が全員死罪となった。これを知ったカロンはオランダに対しても厳しい運命が待っているであろうことを予想した。その予想通り、同年に大目付井上政重と長崎奉行柘植正時が平戸に派遣され、カロンに倉庫の破壊を命じた。理由は、1638年に建設された商館の倉庫に西暦が彫られているというものであった。カロンがこの命令に異議を唱えた場合、カロンをその場で殺害し、平戸オランダ商館は熊本・島原・柳河諸藩により攻撃が加えられることとなっていた。この行為は将軍家光の専断によるものであり、必ずしも幕府全体の意向ではなかった。しかし、滞在20年を超えるカロンは日本の現状を理解しており、命令に従って倉庫を破壊した。
この後、ポルトガル人が追放されて空いていた出島にオランダ商館は移された。カロンのこの対応に感謝する意味もあって、その後井上政重は、オランダ人のために便宜をはかるようになった。
1641年2月10日、商館長の職をマクシミリアン・ル・メールに委ね、2月12日には家族と共にバタヴィアに向けて平戸を出帆した。
カロンが商館長を務めていたときに、商館員のハンス・アンドリースが日本人既婚女性と密通し、両名とも死罪になる事件が発生している。また、幕府の依頼により、部下の鋳物師であるハンス・ヴォルフガング・ブラウンに臼砲の製造を行なわせている(島原の乱の際に、当時の技術では炸裂弾が使えないカノン砲(初速が速いため、対応可能な信管が無かった)があまり役に立たず、幕府は炸裂弾の使用が可能な臼砲(カノン砲より低初速)に目をつけた)。
オランダへの帰国
一端バタヴィアに向かったカロンは、そこでオランダへ向かう船を待った。その間に東インド会社の評議会の一員に選ばれている。1641年12月13日、カロンは商船隊の司令官としてオランダへ向け出帆した。
アジアでの新たな任務
セイロン遠征
会社はカロンの功績に対し、1500ギルダーの株を与えることで報いた。1643年にはアジアでの新たな任務が与えられた。1月25日にオランダを出発し、7月23日にバタヴィアに到着した。到着前にバタヴィアにいたカロンの妻の江口氏は死亡していた。カロンは妻との間にできた6人の子女を「正規の」子女とする手続きを行い、3年後に認められた。
1643年9月、カロンはオリファント号に乗り組み、1700人の遠征隊(内陸兵950人)を率いて、セイロン島のポルトガル軍を攻めるためバタヴィアを出発した。12月20日にセイロンに到着。1月8日からネボンゴ(英語版)の砦近くに上陸し、翌日攻撃を開始した。戦闘は1日で終わりカロンは勝利した。カロンは占領した砦を補強し、守備隊450人を残して4月にバタヴィアに戻った。11月には休戦条約が結ばれ、オランダはセイロンのシナモン産地の割譲を受けた。
台湾行政長官
1644年には台湾行政長官に任命され、7月5日バタヴィアを出発8月10日にはゼーランディア城に着任した。到着後すぐに病気にかかったため、しばらく前任者のル・メールが次席としてカロンを補佐した。1646年まで同地での東インド会社の最高位にあった 。
この間に、カロンは米、砂糖、インディゴ生産の改善、硫黄の採掘、中国の海賊との取引の緩和を行った。1644年には4隻、45年には7隻の貿易船を日本に送り出している。
カロンは1641年から43年までのオランダ滞在時に25歳年下のコンスタンチヤ・バウデーンと知り合っていた。前妻の死亡後、カロンは独身となっていたが、1644年9月に代理人を立ててハーグでコンスタンチヤとの結婚式を行った。1645年6月、コンスタンチヤは姉のスザンヌと共に台湾に到着した。スザンヌはそこでフレデリック・コイエットと結婚している。
カロンはそこでコンスタンチヤに贅沢をさせたようで、それもあってバタヴィアに呼び戻された。
バタヴィア商務総監
バタヴィアに戻ったカロンは、1647年3月9日に植民地総督(Gouverneurs-generaal)の次席にあたる商務総監(Directeur-generaal)の地位についた。1649年、ブレスケンス号事件解決の謝礼を述べるため、日本に特使を派遣することが決まった。このとき、カロンは特使一行に砲術士官のユリアン・スヘーデルと外科医カスパル・シャムベルゲルを加えた。スヘーデルは臼砲の射撃を披露し、その指導は軍学者の北条氏長によって「攻城 阿蘭陀由里安牟相伝」にまとめられた。シャムベルゲルは多くの日本人を治療し、後にカスパル流外科術の祖と見なされるようになった。両人は日本人から非常に歓迎されたが、これは日本人が何を好むかを熟知していたカロンの功績と言える。
1651年、私貿易を行ったとの訴訟を受け、オランダに召喚されたが、勝訴して名誉を保って会社を退職することが出来た。
フランス東インド会社
1664年、フランスの財務総監であったジャン=バティスト・コルベールはルイ14世にフランス東インド会社の設立を進言した。コルベールはカロンに対し、新たに設立された会社の指導的役割を担うよう働きかけ、1665年にカロンはその長官に就任した。これはオランダから見れば反逆行為であり、カロンは故郷への立ち入りを禁止された。
マダガスカル
1664年、カロンはまずマダガスカルに向かった。そこに植民地を設立することはできなかったものの、ブルボン島とイル=ド=フランス島(現在のレユニオンとモーリシャス)に港を建設した。17世紀後半になって、フランスは東海岸に貿易港を建設した。
日本
カロンは日本との貿易も計画したが、他のフランス人と意見が対立し、結局は実現しなかった。しかしながら、この情報は日本のオランダ商館にも伝わり、1667年のオランダ風説書で幕府にも報告されている。
インド
カロンは1669年にインドのスーラトに支店を開設し、さらにペルシア出身のアルメニア商人マルカラ・アヴァンチンツ(英語版)をゴールコンダ王国に派遣して1669年にマチリーパトナムにも支店を開設した。この功績に対し、ルイ14世はカロンを聖ミカエル騎士団(英語版)の一員とした。1668年から1672年まではポンディシェリで長官(Commissaire)を務めた。1673年、フランス東インド会社は、最終的にポンディシェリを貿易の中心地と定めた。
1672年、カロンはセイロンのフランス軍を助け、戦略的に重要な港湾であるトリンコマリーとチェンナイ周辺に位置するマイラーップール(英語版)のサン・トメ要塞(英語版)(São Tomé)を占領した。しかしながら、この軍事的成功は短期間に終わり、カロンがヨーロッパに戻るために出発した後、フランス軍はセイロンから駆逐された 。
1673年4月5日、カロンの乗船していた船はヨーロッパに戻る途中ポルトガル沖で沈没し、カロンも死亡した。  
 
フランソワ・カロン 2

 

 平戸商館長、台湾総督を務めた「国際人」
17世紀前半、東アジアの海では実に多様な出自の人々が行きかっていた。日本や中国の貿易商人は両国の交易ばかりでなく東南アジアにまで進出してそれぞれ拠点をつくっていた。大航海時代を切り開いたポルトガルとスペインの冒険商人や宣教師は中国や日本の門戸を開く。ヨーロッパの新興勢力オランダとイギリスも東アジア交易への参入を図って追いかけてきた。宗教的情熱、一獲千金を夢見る男たちの野心、未知なる世界への憧れ──様々な思惑が交錯する群像の中、オランダの平戸商館長や台湾総督を務めることになるフランソワ・カロン(François Caron、1600〜1673)の姿もあった。
カロンは『日本大王国志』により日本事情をヨーロッパへ伝えている。これは、バタビア商務総監フィリップス・ルカスの質問に対して1636年にカロンが回答したもので、幸田成友による翻訳が平凡社・東洋文庫に収録されている。同書には幸田の筆になる「フランソア・カロンの生涯」も収録されており、これはポルトガルやオランダの海洋交易史で著名なイギリスの歴史学者Charles Ralph Boxer(1904〜2000)の研究に依拠して執筆されたものである。
カロンを「初めて来日したフランス人」と称する人もいるが、事情はなかなか複雑だ。なにしろ、国籍や国境といった近代的観念のまだなかった時代のことなのだから。
1600年、フランソワ・カロンはブリュッセルに生まれた。両親はフランスの新教徒(ユグノー)で、間もなくオランダへ移る。カトリックのプロテスタント弾圧により苛烈な宗教戦争の渦中にあったフランスでは、1598年にアンリ4世が出したナントの勅令でようやく混乱に終止符が打たれたばかりの時期であった。
成長したカロンは1619年に料理人手伝いとしてオランダ東インド会社の船に乗り込み、オランダ商館のある平戸へやって来た。契約終了によるのか、脱走したのかはよく分からないが、いったんオランダ商館を離れ、日本人女性と結婚、1622年には長男ダニエルが生まれている。日本人の中に混じって暮らしながら、流暢な日本語を身につけた。
1626年2月からオランダ商館の助手に採用されたが、翌1627年、台湾総督ピーテル・ヌイツの来日が彼の人生にとって大きな転機となる。当時、オランダは台湾での徴税をめぐって日本の長崎商人と貿易摩擦を起こしていた。ヌイツ総督は将軍と直接交渉するために江戸へ向かい、日本語に堪能なカロンが通訳として同行した。結局、ヌイツは将軍への拝謁がかなわず、失意と怒りを抱えて台湾へ戻る。今後も日本人と交渉を行う上で役立つと思われたのだろうか、カロンも台湾までついていった。
そして1628年に有名な濱田弥兵衛事件が起こる。長崎商人・末次平蔵の意向を受けて台湾へ来航した濱田弥兵衛の一行をヌイツ総督は報復のため抑留した。濱田は帰国の許可を求めてゼーランディア城まで直談判に来たところ、それでもヌイツは許可を出さないため、しびれを切らして飛びかかり、ねじ伏せた。こともあろうに、ヌイツは自らの城内で人質にとられるという大失態を犯してしまった。このとき、濱田とヌイツの間で通訳をしたのがカロンである。
事件解決のための人質交換にあたり、カロンは平戸へ戻る。日本貿易はオランダにとって最大の利益源であったため、東インド会社としては日本との紛争は望ましくない。責任を問われたヌイツは総督を解任されたばかりか、身柄を日本側へ引き渡された。その後、日本事情を熟知したカロンは幕府と粘り強く交渉を行い、ようやくヌイツの釈放に成功する。カロンは幕府の要路へ盛んに贈り物攻勢を仕掛けたが、とりわけ1636年の日光東照宮造営にあたって贈呈した銀製の大燭台を将軍家光が気に入ったことが決め手になったと言われる。こうしたカロンの功績は評価され、1638年には平戸商館長に昇格した。
その頃、キリスト教禁止政策にもかかわらずカトリックの宣教師の密入国が絶えなかったため、江戸幕府は1639年にポルトガル人の追放を決定した(こうした背景にはカロンたちオランダ側の画策もあった)。ただ、オランダはカトリックのイエズス会とは違って布教はしないとアピールしていたものの、幕府からすれば同じキリスト教徒であることへの疑念は消えない。キリシタン弾圧に辣腕をふるった大目付・井上政重(彼も元はキリシタンだったと言われる)が平戸を訪れ、カロンに対して商館倉庫の破壊を命じた。建物に記された西暦の年号がキリスト教に由来するというのが理由である。実はこのとき、井上は近くに手勢を潜ませており、カロンが拒絶すれば攻撃するつもりであった。ところが、案に相違して、カロンが慇懃な態度で快諾したため、井上は驚き、かつ喜び、むしろカロンに対して便宜を図ってやるようになる。日本人の思考方法を理解した上で対応したことが危機回避につながった。
その後、ポルトガル人が退去して空き地となっていた長崎の出島へオランダ商館は移転する。幕府からは商館長の一年交代も求められていたため、カロンは1641年2月に日本を去り、オランダ東インド会社の拠点であるバタビアへ向かった。
カロンは東インド会社の出世頭で、大金持ちになっていた。そこに目を付けたオランダ貴族から若い娘をもらって結婚する。コンスタンチヤという少女だった。日本人妻とは死別したのか、それとも置き去りにしたのか、そのあたりはよく分からない。なお、コンスタンチヤの姉もこの時に同じ船でバタビアまで来航して結婚したのだが、その相手となったフレデリック・コイエット(Fredrik Coyet、1615年頃〜1687)はスウェーデン人で、最後の台湾総督となった。彼は鄭成功の攻撃を防ぎきれずに降伏したため、後に責任を問われることになる。
1644年の夏、カロンは台湾総督となった。すでに1642年には台湾北部の基隆や淡水に拠点を築いていたスペイン人が駆逐され、オランダによる台湾支配が安定し始めていた頃である。カロンは内政に力を入れた。台湾原住民族統治のために地方会議を開催し、これについて幸田成友は次のように記している。
「カロンは会社の支配に服せる七三社の長老を集めて地方議会を開いた。蘭人はこの議会において、各社の頭目を任命し、会社の徽章を彫った銀金具の杖を与えてその司法権を象徴し、政府の指令は六、七種の土語を以てこの議会に報告すること、頭目は伝道師または校長より宗教教育を受け、会堂の諸儀式に出席すること、彼らは社毎に集会を催して諸事を議定し、また自己の意見を台湾長官に上申し得ること、税は将来鹿皮を以て納めること、支那人を社中に住居せしめざること、然れども彼らが従来土人に供給した貨物については、将来差支なきよう取計らうこと、頭目は互に相和し、争闘または首狩を行なわざること等の規約を示し、地方議会を設けた所以は自由に彼らの不平を訴え、忌憚なく彼らの意見を陳述せしめるにありと告げ、会衆一同厚くその趣旨を奉じ、違背せざるべき旨を誓った。」(『日本大王国志』36ページ)
1646年にカロンはバタビアへ呼び戻され、翌1647年にはバタビア商務総監へ出世した。東インド会社ではバタビア総督に次ぐナンバー・ツーの地位である。ところが、己の才覚で自らの道を切り開いてきた独立独歩のカロンは、ヨーロッパから来た働かない自由市民よりも、機敏に働く華僑系移民の方を重用したため、自由市民からの不満が募っていた。そうした不人気のためであろうか、汚職疑惑を繰り返し突かれたため、1651年にオランダ本国へ召還された。そして不遇をかこつ中、長年勤めてきた東インド会社を退職する。
そうしたカロンに目を付けたのがフランスである。当時はルイ14世の時代で、財務総監コルベールは東インド会社を設立して人材を探しているところであった。カロンはコルベールからの招聘を受けると早速パリへと移住、フランスの東アジア進出のためのプランを献策してインドへ赴いた。すでに老境に差し掛かっていたにもかかわらず自ら戦場にも立つなど旺盛な活動力を示したが、同僚の讒言に遭う。フランス本国へ戻る途次、リスボン港で船が沈没してしまい、73歳の生涯をここに終えた。
カロンと台湾の因縁は次の世代にも続いている。彼が日本人女性との間に平戸でもうけた長男ダニエルは1643年に神学生としてライデン大学へ進んだ。その後、一兵士となってバタビアへ来るなど紆余曲折を経るが、1658年に志願して伝道師として台湾へ渡る。当時、台湾のオランダ政権は原住民族への布教による統治の安定を意図しており、ダニエルも蕭壟(スーラン)社の教会学校の副校長になる予定だったらしい。ところが、鄭成功の攻撃を受けたゼーランディア城は1661年に降伏し、オランダ人は殺害されるか追放された。ダニエル・カロンの消息もそのまま途絶えてしまった。あるいは、非業の死を遂げたのかもしれない。  
 
『日本大王国志』

 

フランソワ・カロンが執筆した書物。1620年〜1640年に平戸のオランダ商館に勤務したカロンが、1636年にバタヴィア商務総監のフィリプス・ルカスの質問に対した回答が元になっている。
カロンは、料理人として1619年に平戸のオランダ商館に着任した。その直後に、日本人女性と結婚し、6人の子供をもうけ、日本語に熟達した。1627年には、通訳として参府している。1626年には商館助手に昇進し、1633年4月9日には次席(ヘルト)となり、1636年2月には館長代理となった。
館長代理時代、バタヴィア商務総監のフィリプス・ルカスから日本の事情に関する報告を書くように要請されたが、一般的記事を書くことは断り、1636年にルカスの質問31問に回答する形で執筆された。カロンは本書が出版されることを想定していなかったが、1645年に『オランダ東インド会社の創建ならびに発展誌』の巻末に添付され、翌年には再版が出版された。さらに1661年にはカロン自身が校正を加え、さらに挿絵を付け加えた上で1661年に単行本として出版された。
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著者フランソワ・カロンの出身について詳しいことはわからないが、 彼の名前などからみて、 おそらくフランス系の人であったと思われる。 カロンは最初調理員手伝いとしてオランダ東インド会社にやとわれ、 1619年 (元和5) に日本に渡航して以来引続き20年余り滞在し、 1639年には平戸商館長に任命されている。 彼は長期間にわたった日本生活で、 言語はもとより広く風俗・国情に精通していた。 本書は1636年にバタビア支社に提出した報告にもとづくものであるが、 オランダ人による最初の日本紹介となった。 内容は地理・歴史・政治・宗教など多方面にわたっているが、 1630年代のいわゆる寛永鎖国成立期の頃の日本記事として、 興味深い著作となっている。
子供の教育
第十九問 子供の教育
彼らは子供を注意深くまた柔和に養育する。たとえ終夜喧しく泣いたり叫んだりしても、打擲(ちょうちゃく、意味:なぐること)することはほとんど、あるいは決して無い。辛抱と柔和を以て宥め、打擲したり、悪口したりする気を起こさない。子供の理解はまだ発達していない。理解力は習慣と年齢によって生じるものなるを以て、柔和と良教育とを以て誘導せねばならぬというのが彼らの解釈である。七・八・九・十・十一及び十二歳の子供が賢くかつ温和であるのは驚くべき程で、彼らの知識・言語・対応は(老人の如く)、和蘭(オランダ、注1)では殆ど見られない。丈夫に成長したといっても、七・八・九歳以下の小児は学校へ行かない。この年輩で修学してはならぬという理由で、従って彼らの一群は生徒ではなく、遊戯友達の集会で、これが教育に代わり、彼らは野生的にまた元気一杯になる。学校へ行く年齢に達すると、徐々に読書を始めるが、決して強制的でなく、習字もまた楽しんで習い、嫌々ながら無理にするのではない。常に名誉欲をうえ付け、名誉に関しては他に勝るべしと激励し、短時間に多くを学び、これによって本人及び一族の名誉を高めた他の子供の実例を挙げる。この方法により彼らは鞭撻の苦痛がもたらすよりも、更に多くを学ぶのである。(以下略)
注1 オランダではほとんど見られない。日本の小児の天国であるとは、オランダ人のみならず、ヨーロッパ人の一致して言うところである。 
 

 

 
『江戸参府旅行日記』 ケンペル

 

 
エンゲルベルト・ケンペル
(1651-1716) ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。出島の三学者の一人。
現ノルトライン=ヴェストファーレン州のレムゴーに牧師の息子として生まれる。ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をしている。この2つの経験が、後に平和や安定的秩序を求めるケンペルの精神に繋がったと考えられる。故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、さらにリューネブルク、リューベック、ダンツィヒで哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強を続けた。
1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、彼の推薦でスウェーデン国王カール11世がロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)とペルシアのサファヴィー朝に派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになった。ケンペルの地球を半周する大旅行はここに始まる。
1683年10月2日、使節団はストックホルムを出発し、モスクワを経由して同年11月7日にアストラハンに到着。カスピ海を船で渡ってシルワン(現在のアゼルバイジャン)に到着し、そこで一月を過ごす。ケンペルは、この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した最初のヨーロッパ人になった。さらに南下を続けてペルシアに入り、翌年3月24日に首都イスファハンに到着した。ケンペルは使節団と共にイランで20か月を過ごし、さらに見聞を広めてペルシアやオスマン帝国の風俗、行政組織についての記録を残す。彼はまた、最初にペルセポリスの遺跡について記録したヨーロッパ人の一人でもある。
日本
その頃、ちょうどバンダール・アッバースにオランダの艦隊が入港していた。ケンペルは、その機会を捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務した。その後、東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた時に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうしてケンペルはシャム(タイ)を経由して日本に渡る。1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在した。1691年(元禄4年)と1692年(元禄5年)に連続して、江戸参府を経験し将軍・徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳・今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した。
帰国後
1692年、離日してバタヴィアに戻り、1695年に12年ぶりにヨーロッパに帰還した。オランダのライデン大学で学んで優秀な成績を収め医学博士号を取得。故郷の近くにあるリーメに居を構え医師として開業した。ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛かったが、近くのデトモルトに居館を持つ伯爵の侍医としての仕事などが忙しくなかなかはかどらなかった。1700年には30歳も年下の女性と結婚したが仲がうまくいかず、彼の悩みを増やした。
1712年、ようやく『廻国奇観』(Amoenitates Exoticae)と題する本の出版にこぎつけた。この本についてケンペルは前文の中で、「想像で書いた事は一つもない。ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」と宣言している。この本の大部分はペルシアについて書かれており、日本の記述は一部のみであった。『廻国奇観』の執筆と同時期に『日本誌』の草稿である「今日の日本」(Heutiges Japan)の執筆にも取り組んでいたが、1716年11月2日、ケンペルはその出版を見ることなく死去した。故郷レムゴーには彼を顕彰してその名を冠したギムナジウムがある。
『日本誌』
ケンペルの遺品の多くは遺族により、3代のイギリス国王(アンからジョージ2世)に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた。1727年、遺稿を英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』(The History of Japan)は、フランス語、オランダ語にも訳された。ドイツでは啓蒙思想家ドーム(英語版)が甥ヨハン・ヘルマンによって書かれた草稿を見つけ、1777‐79年にドイツ語版(Geschichte und Beschreibung von Japan)を出版した。『日本誌』は、特にフランス語版(Histoire naturelle, civile, et ecclestiastique de I'empire du Japon)が出版されたことと、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、知識人の間で一世を風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、19世紀のジャポニスムに繋がってゆく。学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きている化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること約140年後に日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響を与えた。シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している。
ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。また、『日本誌』のオランダ語第二版(De Beschryving Van Japan 1733年)を底本として、志筑忠雄は享和元年(1801年)にこの付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、「鎖国論」と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した。
また、1727年の英訳に所収された「シャム王国誌」(A Description of The Kingdom of Siam)は、同時代のタイに関する記録としては珍しく「非カトリック・非フランス的」な視点から描かれており、タイの歴史に関する貴重な情報源となっている。
スローンが購入したケンペルの収集品は大部分が大英博物館に所蔵されている。一方ドイツに残っていた膨大な蔵書類は差し押さえにあい、散逸してしまった。ただし彼のメモや書類はデトモルトに現存する。その原稿の校訂は最近も行われており、『日本誌』は彼の遺稿と英語の初版とではかなりの違いがあることが分かっている。ヴォルフガング・ミヒェル (Wolfgang MICHEL)が中心となって、2001年に原典批判版「今日の日本」(Heutiges Japan)が初めて発表された。この原典批判版を皮切りとしたケンペル全集は全6巻(7冊)刊行された。
今井正による日本語訳はドーム版を底本としており、ケンペルの草稿とは所々でかなり異なっている。よって現在のケンペル研究は、原典批判版をはじめとするケンペル全集や、大英図書館に所蔵された各種ケンペル史料に基づくのが、世界的なスタンダードとなっている。
『日本誌』
エンゲルベルト・ケンペル(エンゲルベアト・ケンプファー)が執筆した書物。17世紀末に日本に渡った際、日本での見聞をまとめたものである。エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。
彼の遺品の多くは遺族により、3代のイギリス国王(アンからジョージ2世)に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた。1727年、遺稿を英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』(The History of Japan)は、フランス語、オランダ語にも訳された。ドイツの啓蒙思想家ドーム(英語版)が、甥ヨハン・ヘルマンによって書かれた草稿を見つけ、1777‐79年にドイツ語版(Geschichte und Beschreibung von Japan)を出版した。『日本誌』は、特にフランス語版(Histoire naturelle, civile, et ecclesiastique de I'empire du Japon)が出版されたことと、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、知識人の間で一世を風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、19世紀のジャポニスムに繋がってゆく。学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きている化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること約140年後に日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響を与えた。シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している。
ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。また、『日本誌』のオランダ語版(De Beschryving Van Japan)を底本として、志筑忠雄は享和元年(1801)にこの付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、『鎖国論』と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した。なお、欧州において、オランダ東インド会社は、1799年に同社を解散するまで、時には日本列島の一部を時には全島を同社のチェーンランド(英;a land chain、蘭;een Land keten)として宣伝していたことが知られている。
また、1727年の英訳に所収された『シャム王国誌』(A Description of The Kingdom of Siam)は同時代のタイに関する記録としては珍しく「非カトリック・非フランス的」な視点から書かれており、タイの歴史に関する貴重な情報源となっている。
スローンが購入したケンペルの収集品は大部分が大英博物館に所蔵されている。一方ドイツに残っていた膨大な蔵書類は差し押さえにあい、散逸してしまった。ただし彼のメモや書類はデトモルトに現存する。その原稿の校訂は最近も行われており、『日本誌』は彼の遺稿と英語の初版とではかなりの違いがあることが分かっている。2001年に彼が残したオリジナル版が初めて発表された。故郷レムゴーには彼を顕彰してその名を冠したギムナジウムがある。
日本語訳としては、今井正編訳『日本誌 日本の歴史と紀行』(上下2巻)が1973年に霞ケ関出版より刊行され、その後、1989年に改訂増補版(上下2巻)、2001年に新版(7分冊)が刊行されている。ただし、これはドーム版に基づいて翻訳されたものであり、ケンペル自筆原稿と内容が異なる。現在では、ヴォルフガング・ミヒェルが中心となって2001年に発表した原典批判版『今日の日本』(Heutiges Japan)、それに加えてケンペル全集や、大英図書館に所蔵された各種ケンペル史料に基づいて研究を進めていくのが、世界的なケンペル研究のスタンダードとなっている。
皇統への言及
16-17世紀に日本を訪れたヨーロッパ人は、「万世一系の皇統とその異例の古さというセオリーを受け入れていた」。江戸時代、『日本書紀』研究者たちは、神武天皇が王朝を創建した年の計算を行っていた。この神話的な日本建国の年代を、ヨーロッパ人たちは西暦に計算しなおして報告していたが、『日本誌』はそれを明治時代に制定された神武天皇即位紀元と同一の紀元前660年とした最初期の例である。『日本誌』では以下のように説明している。
「三番目かつ現在の日本の君主制、すなわち「王代人皇」ないし「祭祀者的世襲皇帝」は、キリスト前660年に始まり、それは中国の皇帝恵王、中国語の発音ではフイワン(周王朝の第17代皇帝である)の治世17年のことである。この時からキリスト紀元1693年まで、すべて同じ一族の114人の皇帝たちが継続して日本の帝位についている。彼らは自分たちが、日本国の最も神聖な創建者である天照大神の一族の最も古い支族であること、そしてその長男の直系であり代々そうである事を極めて重んじている。 」
続いて、「日本で書かれ刊行された2つの年代記を参照して」、歴代天皇の名前と略伝を列記している。ケンペルは天地創造がキリスト紀元前4000年頃の出来事だという計算が信頼されていた時代の人であり、これを古代史の年代計算の妥当性の基準にしていた。『日本誌』の中では、日本のさる歴史家が中国の帝王伏羲の統治開始年をキリスト紀元前21106年と算出していることに触れ、それを棄却しつつ、上記の基準すなわち神による天地創造の以降とされた諸王朝の年代設定には寛容であった。  
 
「江戸参府旅行日記」 ケンペル 1

 

エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempferはドイツの医者・博物学者で、元禄3年(1690年)に来日しています。翌元禄4年と更に5年の2度、商館長に随行して江戸に訪れており、「江戸参府旅行日記」はその際の道中を記録した日記です。なお、道中の様子の記述が詳しいのは初回の往路(第11章「浜松から将軍の居城のある江戸までの旅」)ですので、今回は専らそちらを参照しています。
※Kaempferをドイツ語の音になるべく忠実に記そうとすれば、「ケンプファー」とでも表記することになるのでしょうが、やはりドイツ語特有の「pf」が発音しにくいからか、トゥーンベリの場合と違ってあまり原音に忠実にという動きはない様ですね。ここでも箱根の「ケンペル=バーニー祭」などで広まった「ケンペル」の表記でいきます。なお、「ae」をウムラウト(ä)で表記するものも見かけましたが、ドイツ語のWikipediaのサイトでも絵の画題以外は「Kaempfer」で通していますので、ここではこちらを採用しておきます。
ケンペルはこの日記を西暦(グレゴリオ暦)で記していますので、ここでもそれに従います。これによると、1691年2月13日(和暦では元禄4年正月16日)に出発した一行は1ヶ月近く経った3月10日(同2月11日)に江尻を出発、次の宿泊地である三島へと向かいます。途中吉原を過ぎて元吉原で昼食を摂っていますが、その部分に次の様な記述が見られます。なお、以下引用文中の〔〕は訳者による補注です。

半里に及ぶ砂地に点在している元吉原という貧弱な村は、約三〇〇戸から成り、吉原から半里の所にある。われわれはそこで昼食をとったが、子供たちが、群をなして馬や駕籠に近づいて来て、いつも前方二〇歩か三〇歩の所で、面白いとんぼ返りをしながら、輪を描いて駆け回り、施し物をもらおうとしたので、われわれは子供たちに小銭をたくさん投げてやった。彼らが砂の中でぶつかり合って倒れ、あわてて銭をつかもうとする様子は大へん面白かった。吉原には、小銭を投げてこの貧乏な子供たちを喜ばせるために、いつもたくさん紐に通した銭の束が用意してあった。子供たちは旅行者が幾らかでも小銭を投げてやるまで、時には半里もついて来る。小銭は三グロッシェン貨幣〔昔のドイツの小銀貨で、約三〇分の一ターラー。一ターラーは約二マルク〕の大きさをし、一ヘラー〔昔の銅貨〕に相当する真鍮の平らな硬貨で、真ん中に穴があいていて、そこに紐を通し、馬に結びつけて持って行くことができるのである。

「その7 藤沢〜茅ヶ崎の砂丘と東海道に補足」で、砂丘地帯の茅ヶ崎で子供が旅人の前で宙返りを見せて小遣い稼ぎをしている様子を紹介し、その際にトゥーンベリが吉原と三島の間で子どもたちの宙返りを見たことを記していることを付記しました。このケンペルの記述はそのトゥーンベリの記述とほぼ同じですね。但し、ケンペルの江戸行きはトゥーンベリより85年前ですから、その頃から吉原付近の砂丘地帯で子どもたちの宙返りが既に行われていたことがわかります。一行が対応を心得ていることから、こうした小遣い稼ぎが元禄の頃には既に常態化していたこともわかりますね。
他方、茅ヶ崎周辺ではケンペルは

川を渡って一時間半、いわば砂漠のような地帯(町屋・南湖なんこ・小和田こわだの村々があって、そこの住民たちは街道筋で暮しの道を求めていた)を通って、四谷よつやという大きな村に達した。
※ルビは原文ママですが、これがケンペルの記述をそのまま写したものかどうかは不明です。現在の「茅ヶ崎市南湖」は「なんご」と濁って発音します。

としか記していませんので、恐らくこちらでは子供たちの宙返りを見ることはなかったのでしょう。ほぼ同時期に出版された「東海道分間絵図」で「子供中がへりいたし/申候」と書かれていたり、その様子を菱川師宣が絵に描いたのも専ら茅ヶ崎・牡丹餅茶屋の付近の方だけで、元吉原付近にはその様な表現は一切見られません。こうなると、何故茅ヶ崎の方でだけこの様な様子を特記したのか、遠近道印おちこちどういんらの意図がますます掴み難くなってきます。
翌日、一行は三島から箱根を越えて小田原へと向かいます。トゥーンベリはここで多数の植物標本を採集し、その際に「ハコネサンショウウオ」の標本を入手したことは以前紹介しました。ケンペルの場合はその様な標本採取の目的は持っていませんでしたが、それでも道中で目にした風物を出来るだけ記録しようという意志は持っていた様です。

今日は、小田原の町まで八里の道を箱根の山地を越え、地図に記しておいた幾つかの村村を通って行く。午前中の四里は山の登り道で、そこここにアシやカヤなどが茂った不毛の土地を越えて行った。…山の一番高い所の路傍に境界を示す長い石の標柱が見えた。これは小田原藩領の始まりを示し、同時に伊豆と相模の国境である。ここからわれわれは方向を変えて再び苦労して山を下り、約一〇町すなわち一時間後に峠村とうげむらに着いたが、一般には山の名をとって箱根と呼ばれている。われわれは今日の旅程の半ばを終えて、ここで昼食をとった。地形やその他いろいろの状況、特にすぐ近くにある山の湖は、この土地に大へん特色をもたせているので、私はこのことを少し詳しく述べねばならない。村そのものは約二五〇戸の貧しい家々から成り、大部分は長く弓なりに曲った町筋をなしていて、高い山地の上の、いわば空中にあるような上述の湖の東南岸にある。けれどもこの湖は、ほかの険しい山々に取囲まれているので、氾濫はんらんすることも、流れ出ることもない(山々の間になおひときわ高くそびえ立つ富士の山が、ここからは西北西よりは少し北寄りに見えた)。この湖の広さは東から西まで約半里、南から北まではたっぷり一里はある。私が聞いたところによると、北岸の近くで、金を多量に含んだ鉱石が掘り出されるということである。東岸には先のとがった高い双子ふたご山がそびえ、その麓には元箱根の村があり、これと峠村の間に塔ヶ島がある。湖岸は山地で荒れているために、この湖は恐らく周囲を歩くことはできないので、向う岸ヘ行こうと思う者は、小さい舟を使うしかない。湖水でいろいろな種類の魚類がとれるが、そのうちで名前が言えたのは、サケとニシンだけであった〔恐らくヤマメとウグイかと思われる〕。この湖の成因は確かに地震によるもので、そのために昔この土地が陥没したのである。その証拠として、人々は数え切れない杉の木のことを挙げている。深い湖底には珍しいほどの太さの木が生えていて、藩主の指示や意見で潜水して引きあげ運び出される。そのうえ日本ではこの種の木が〔この箱根ほど〕丈が高く、まっすぐで、見事に、そしてこんなにたくさんある所はほかにない。ここにはハエも蚊もいないから、夏は静養していてもこれらに妨げられることはないが、冬ここに滞在するのは全く快適ではない。外気は非常に寒く、重苦しくガスが立ちこめ、体によくないので、外国人は健康をそこなわずに長期間辛抱することは恐らくできない。前のオランダ東インド会社の氏、フォン・カンプホイゼン氏は、自分は、ほかでもないこの土地のせいで体を悪くした、と私にはっきりと言っていた。

少々長くなりましたが、ここでのケンペルの興味は動植物よりもむしろ地形や地質に向いている様に見えます。金については伝聞としていますので裏がどの程度あるかわかりません(「風土記稿」でも芦ノ湖の項にその様な記載は見えません)が、芦ノ湖底から産出される神代杉の話には地形の成立との関連で注目しているのが目を引きます。
なお、「ヤマメ」を「Google翻訳」で翻訳するとしっかり「Salmon」と表示されます。まぁ、ヤマメは本来サクラマスが海に下らなくなったものを指しますので、確かに類縁ではあるのですが、ケンペルが「サケ」と書いたのはその点ではあながち外れていないというべきなのかも知れません。一方淡水魚の「ウグイ」を海水魚のニシンと見立ててしまったのは、その姿が似て見えたからでしょうか。もっとも、付き添いの通詞がその様に翻訳して伝えた可能性もありそうです。「名前が言えたのも」というのも、地元の漁師がウグイやヤマメ以外の魚についても和名を答えているにも拘らず、通詞がそれをオランダ語に翻訳することが出来なかった事情を指しているのかも知れません。
また、夏場に蚊帳が要らないというのは箱根の夏場の気候を言い表す際に良く言われることですが、これも地元の人から伝え聞いたのでしょう。他方、ケンペル一行の江戸参府も春まだ遠い時期に行われていた訳ですが、箱根の寒さは少々身に沁みていたのかも知れません。前任者からここで酷い目に遭ったとケンペルに言い聞かせているのは、あるいはその時の江戸参府はもっと寒い時期に行われたからだったのかも知れません。
さて、箱根宿を出発して関所を越え、小田原へと下る途上には、ケンペルは次の様なことを書いています。

この土地の草は、医師が特に薬効があると考えて採集するが、これらの中にはアディアントゥム(Adiantum)あるいはヴィーナスの髪という濃い紅色を帯びた黒色の、つやのある茎くきや葉脈のあるものが、たくさん見つかる。他の地方の普通のものより、ずっと効くと思われている。それゆえ家庭薬として貯えておくために、この山を越えて旅する人のうちで、誰一人それを採らないで通り過ぎてしまう者はない。この薬にはほかのものと比べられないすぐれた特性があるので、世間ではハコネグサと呼んでいる。

「箱根草」については、「新編相模国風土記稿」の各郡の産物で「石長生」として紹介されていました。ここでは「元祿の頃紅毛人江戸に來れる時、當所にて此草をとり、婦人產前後に用ゐて、殊に効ある由いへり、」と記していますが、当の「元禄の紅毛人」の医師のひとりであるケンペルがこの様に記しているとなると、それ以前から既に薬効が世間に知られていたものということになり、この記述をどの様に解すべきか、難しくなってきます。
品川宿手前の鈴ヶ森付近で、同地の海苔について触れています。

(四)鈴ヶ森。前の村から一里半の所にある小さな漁村で、そこでわれわれは休息のためしばらく足をとめた。神奈川から江戸までの海底は沼のようで、全く深くない。それで干潮時には水はすっかりひいてしまう所がたくさんある。特にこの村の近くでは、潮のひいた後に残った二枚貝や巻貝や海草などが食用として採れるので、この村は潮干狩りで有名である。私は海苔のりを作っているのを見た。集めてきた貝には二種類の海草が一面に生えていて、一方は緑色で細く、もう一方は少し赤味を帯びていて幅が広い。両方とも貝殻からはぎ取り、別々に分け、それを水桶に入れ、きれいな水をかけてよく洗う。それから緑の方のものは木の板にのせ、大きな包丁で、タバコを刻むように非常に細かく刻み、もう一度水洗いして二フィート四方の木製の篩ふるいの中に満たし、何度も上から水をかけると、海草は互いにしっかりとくっついてしまう。次にそれをアシで作った簾すだれすなわち一種の櫛くし状をしたものの上にあけ、両手でそっと押え、最後に日にあてて乾かす。あまり多くない赤い方の海草は、細かく刻まずに同じような方法で処理し、菓子のような形に仕上げ、乾いたら包装して売りに出すのである。

ケンペル自身が「見た」と書いているので、少なくとも海苔を干している様子は見えたのでしょう。以前も書いた様にこの付近では東海道が海に非常に近い位置を進みますので、ケンペル一行が乗る駕籠の中からでも海苔を干す様子は十分見える位置にあったと思います。
しかし、江戸参府の途上である以上長時間滞在して見学できる状況ではなかったことを考えると、この製造過程をどこまでケンペル自身の目で観察して書けたのかは少々疑問が残ります。この製造方法については通詞経由で聞き書きしているのかも知れないという気もします。また、2フィートというと60cmほどの大きさになりますから、今よりは縦横とも2倍以上の大きさの漉き海苔だったことになります。この一連の製法の記述については裏を取りたいところですが、ケンペルの記述通りなら、元が紙漉きにヒントを得たと言われているだけに、当時の漉き海苔のサイズも紙漉きのサイズと同等だったのかも知れません。もっとも、大きければそれだけ乾燥に時間が掛かったり均質化し難いなど製法上の課題もありそうですし、運搬や調理の際の扱いやすさなどを考えると、早晩このサイズも見直されて縮小されていったのだろうとは思います。
とはいえ、元禄4年(1691年)の江戸行きの途上で同地で海苔を漉いて干しているのをケンペルが目撃しているということは、浅草付近で始まったとされるこの製法が、既にこの頃には品川界隈に伝わっていたことを示していると言えそうです。元禄10年(1697年)刊の「本朝食鑑」(人見必大著)にも「浅草苔ノリ」の項で

苔はあたかも紙を拆すき帛を製つくって水中に投じたさまに似て、浪に泛うかび流れに漂っている。浦人は岸から竹竿を投げ、繫かけて採とり、これを筩おけに入れる。それから児女が箸に掛け、葦箔あしのすだれに攤ひろげて晒乾さらしほす。

と記し、続いて品川付近で製される海苔についても触れていますので、その点は裏付けがあると言えそうです。
もっとも、人見必大の品川の海苔の評価は

生の時は蒼色、乾いた後は紫蒼色のものを上とする。浅草・葛西の苔がこれである。それで、世間ではこの地の苔を賞美している。品川の苔は、生時なまのときも乾後かわいてからも淡うす青黒く、略麁あらくて密でない。それで味もやはり美よくない。甘苔は相州・豆州の海浜に多くある。これも同一の物である。稍やや品川苔に似て紫赤色、やはり粗で密ではない。源頼朝公が毎つねに京城みやこに献上していたのはこれである。

と、あまり芳しいものではありませんでした。品質を上げるだけのノウハウが、元禄の頃の大森ではまだ十分ではなかったのかも知れません。もちろん、「新編武蔵風土記稿」の品川宿」の項に

土產海苔 當所より大森麴谷村邊迄の間海中に生ぜり、其内南品川及獵師町にて採るものを上品とす、味殊に美なり、故に近里の人或は品川海苔と呼で賞翫す、淺草海苔と呼は淺草茶屋町の商四郎左衞門と云ものゝ祖、葛西中川沖の海苔を採淺草にて製せし故なり、其後此邊にて採始めしに、稀なる上品なれば今は淺草にては製せぬ、其地にて鬻けるものも皆當所より出せる物なれど、古名を存して多く淺草海苔と呼り、

と記している様に、後にはこちらが浅草にとって代わる様になります。その過程では必大が記す様な製法上の課題も、時代が下るにつれて克服されて行ったのでしょう。
ところで、「藤沢市資料集」にケンペルの「旅行日記」が採録されなかった理由ですが、あるいはケンペルの鎌倉についての記述をどう扱って良いか判断し切れなかったからなのかも知れません。翻訳者もこの部分を大いに戸惑いながら訳していったことが、間に〔〕で挿入された注から読み取れる様に思います。

四谷(引用者注:藤沢宿西方の、大山道との分岐点)の海から真南に一里離れて鎌倉という悪名の高い盗賊島がある(これは「枕まくらまたはクッション(Kissen)という意味である)〔カとマクラと分けてこのような誤解を生じたものか〕〈英訳本ではこれを「海岸」(Küste)とした〉。この島は見たところ小さく、円形で周囲は一里を越えない。そのうえ樹木が生い茂り、平らであるがかなり高いので、ずっと遠くから見える。この島は不興をこうむった大名たちを追放する場所として使われる〔このような事実はない〕。一度このクッションに坐るようになった者は、一生涯その上で過ごさねばならない。島の岸は八丈島のように岩が多く、急勾配になっているので、登ったり下りたりすることはできない。そこへ送られる人々やその他の必需品は小舟に乗せ、起重機を使って巻き上げ、空になった容器はまた下におろされる〔八丈島の記述と混同したものか〕。四谷の先一里にある藤沢で、われわれは昼食をする宿合に立寄ったが、いつもの宿はいっぱいだったので、他の宿に移った。

御覧の通り明らかな誤解に終始しており、流刑島として記述されていることから、確かに翻訳者の指摘通り八丈島、あるいは同様に江戸時代に流刑島であった新島にいじまなどの話と混線した可能性は高そうです。「見たところ小さく、円形で周囲は一里を越えない」というのは江の島のことを言っているのでしょうか。ちょっと混線度合いが酷くてケンペルが本当は何処の話をしたかったのかを特定するのも困難な程です。
「旅行日記」中で鎌倉について具体的に記述しているのはここだけですが、地名として現れるのは次の章で江戸前の海について書いているところで、

幕府直轄の五つの自由商業都市のうち、江戸は第一の都市で、将軍の住居地である。大規模な御殿があり、また諸国の大名の家族が住んでいるので、全国で最大かつ最重要の都市である。この都市は武蔵国の、(私の観測の結果では)北緯三五度五三分〈英訳本では三二分〉の広大で果てしもない平野にある。町に続いている長い海湾には魚介類がたくさんいる。その海湾の右手には鎌倉や伊豆の国が、左手には、上総かずさと安房あわがあり、海底が沼土のようで非常に浅いから、荷物を運ぶ船は、町から一、二時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。町のくぼんだ海岸線は半月形になっていて、日本人の語るところによると、この湾は長さが七里、幅が五里、周囲は二〇里である。

と、東京湾の続きに相模湾岸の地名が出て来るように書いており、やはりこの辺りの情報は正確には伝えられていなかったことが窺えます。
とは言え、藤沢到着前の箱根権現の記述では同社に伝わる宝物を9点も記載しており(同書163~164ページ)、江戸参府の途上でわざわざ参詣に立ち寄ったと思えない同社についてこの様な情報をケンペルが持っているということから考えると、恐らくは通詞を経由して沿道の風物についてかなりの知識を得ていたのではないかと思われます。その同じ「旅行日記」で、それより遥かに多彩な知識が通詞からもたらされ得たであろう鎌倉について、何故この様な混乱した話だけが記されることになってしまったのか、他の箇所の記述の精度をどう評価するかにもかかってくる気掛かりな問題ではあります。
もっとも、ケンペルの記述の中にはこうした情報を提供する側だった通詞との関係が必ずしも良好ではなかったことを窺わせる一節もあります。大坂に数日滞在後、京都に向けて出発する手筈を整える中で、馬の調達でトラブルになったことが記録されています。

江戸旅行に必要な馬が数頭足りなかったので、われわれは休んでいるより仕方なかった。われわれは、たくさんの馬を要求した通詞たちと、そのことで激しい口論をした末に、およそ四〇頭の馬と四一人の人足を雇った。もし自分勝手な通詞たちが、たくさんの品物やそれに類するものをあつらえ、しかも、われわれの名義を使い、またわれわれの費用で持ってゆかなければ、実際、毎年もっと少ない費用で旅行することができたであろう。夕方われわれは年取った通詞を奉行の所へやった。われわれのために別れの挨拶を行なわせたのだが、彼は奉行から道中恙無くという言葉を受けただけでなく、頼んでおいた通行手形をもらってもどって来た。

この辺りの事情については、ケンペルは第1章で次の様に記しています。

通詞つうじについては、上級および下級の者〔大おお通詞と小こ通詞〕のうちから(それについては前巻で述べたように)おのおの一人が、しかも前年に幕府とわれわれの間で仲介者の役を果たし、なお同僚の中で毎年年番(Nimban)を動めた者がわれわれに配属される。今回はこれら二人のほかに、もう一人の見習い〔稽古けいこ通詞〕が付けられた。これは見聞や体験を通じて早くから将来の職務に習熟させるためである。彼らはめいめい従僕を連れてゆくが、それは仕事をさせるためであり、また見栄のためでもある。付添検使〔原文では奉行〕と大通詞とは、自分が望むだけの下僕を連れ、他の者は、自分の懐具合や地位に応じて、一人ないし二人〈英訳本では、二人ないし三人〉を伴う。オラングのカピタンは下僕を二人連れてゆくことができたが、他のオランダ人は各自一人だけであった。普通、通詞たちはこの機会に、たとえオランダ語ができなくても、自分の気に入りの若者を推薦する。
長崎奉行や通詞の特別な許可や任命によって、わが社〔オランダ東インド会社〕の費用を使って、何の役にも立たずにこの旅行について来る他の多くの人々については、触れずにおきたい。しかし、これらすべての旅行の同伴者は、出発前のしばらくの間、出島のわれわれを訪ね、少しはわれわれと顔見知りになることが許されている。彼らのうちには、われわれともっと親しく自由に過ごそうという決意を持った勇気のある人々がいたが、各人が他の者の密告者となる倒の誓約があって、一方の者の他方に対する懸念から、彼らはわれわれにもっと親切な態度で接することが許されないのである。
さて次には荷物運搬人と馬匹を手配しなければならない。これは旅行の輜重しちょうの世話役で会計係の責任者として、大通詞が行なうが、万事がその手配で非常にうまくいっているので、検使の意にかなえば、旅行は一分も違わずに始められるし、さらに迅速な出発が妨げられることがないように、余分の人足や馬匹も用意してある。

通詞の世代交代なども考えれば見習いを常時付き添わせること自体は必要なことではあったでしょうが、その様な必要業務に直接携わらない随行員の分まで、江戸への往復の必要経費を東インド会社側が負担していたとあれば、不満が募るのは仕方がない面はあったでしょう。この大通詞の指図で一行が停滞したりすることに対して、不満を書いている箇所は他にも幾つか見当たります。
また、こうした状況からは見習いなど通訳としてのスキルが必ずしも十分ではない人間が同行していたことが窺えます。特に通詞の中でも技術の高そうな大通詞は、彼らの江戸参府に際しての宿舎等もろもろの手配まで担当していましたから、四六時中ケンペル一行に道中案内をしているだけの時間的余裕はなかったと思われ、その様な役目がより低位の通詞に振り向けられることになったとしてもおかしくありません。こうした状況が、ケンペルが沿道で直接見たもの以外について、通詞経由で仕入れた情報を混乱させたという可能性はひとつ考えて良さそうです。
もっとも、何をどう伝え損ねれば鎌倉が「悪名高い盗賊島」に化けてしまうのかまではわかりませんが…。「鎌倉」の名が「旅行日記」中に出て来るのはあと1箇所、最初に日本の道中で見られた風俗などについて概略を書いているところで、比丘尼について紹介している箇所です。

さらにわれわれは、街道でその他いろいろな乞食こじき、大部分は若くて頭をきれいに剃そった人たちがいっぱいいるのを見かける。…これらの剃髪ていはつした人々のうちには、比丘尼びくに(Bicku-ni)と呼ばれる若い女性の教団がある。これは鎌倉や京都の尼寺の支配下にあって、その庇護ひごを受けているので、彼女たちはそれらの寺や伊勢と熊野の寺に所得の中から幾らかを毎年寄進しなければならない。彼女たちは熊野やその近国に最も多くいるので、仏教の方の尼僧と区別するために、熊野比丘尼と呼ばれている。

ここでケンペルが鎌倉の尼寺の存在について触れている訳ですから、当然これについても何かしらの情報を彼が得ている筈です。こことの整合性に気付けていれば鎌倉について何か誤認があることに目を向けるチャンスもあったと思うのですが、残念ながらそこまでは至らず鎌倉が「盗賊島」のまま据え置かれる結果になってしまった様です。
まぁ、ケンペル一行は2回の江戸参府の帰途で経由している京都では数日間滞在し、智恩院、清水寺、方広寺、三十三間堂などを見物していっているのに対し、鎌倉は東海道の途上にはないためにわざわざ立ち寄ることもなかったため、こうした情報の齟齬を是正する機会がなかったということもあるでしょう。これは以降のオランダ商館の江戸参府でも同様だったと思われ、トゥーンベリの「江戸参府随行記」やシーボルトの「江戸参府紀行」でも、探してみた限りでは鎌倉に関する記述は見当たりません。トゥーンベリは

我々が進んできた道は、ケンペルの時代の使節が通った道とはんの二、三の場所で異なっているだけであった。

と記していることから、明らかにケンペルの「旅行日記」を読んでおり、この奇妙な「盗賊島」についての記述も目にしていた筈ではありますが…。
通詞とのやり取りの齟齬が原因で生じたと考えられるこの様な誤解は、ケンペルの「旅行日記」には他にも少なからず見られます。例えば、江戸からの帰路途上、箱根では

われわれはこの宿舎から、昼の体みをとる箱根まで駕籠に乗って行った。ここから遠くない所に、元箱根という土地があって、そこで権現神(Kongin kami)が戦いに敗れたということである〔この記述は何をいうのか不明〕。

と記しています。翻訳者は意味不明と注釈していますが、想像力を逞しくするならば、これは恐らく、源頼朝が石橋山の戦いに敗れたあと、箱根権現別当が助けたことを記す「吾妻鑑」の記事が、大きく曲がって伝わったのではないかという気がします。  
 
ケンペルの旅日記 2

 

鎖国の江戸時代に西洋人で、不自由ながらわが国を旅行できたのは、長崎出島に居留していたオランダ商館の人たちである。彼らの残したもっとも古い旅日記はエンゲルベルト・ケンペルのもの。元禄四年(1691)に長崎から江戸幕府への参府のもの。この旅では同僚のヘンリッヒ・フォン・ビューテンヘムと一緒だった。二回目の参府旅行は翌元禄五年(1692)でコルネリウス・アウトホルンに随行した。この二度の日本国内旅行で、感じたこと、見聞したことを彼は克明に記録に残した。彼らは同じ行程で長崎−江戸の間を往復し、東海道の鈴鹿峠−亀山−庄野−石薬師宿の亀山藩領を四回も通過した。一人の外国人が見た元禄時代の日本の様子、彼の日記からそれをつぶさに知ることができる。
参府とは幕府将軍に恭順の意を示す世俗的制度、源頼朝の時代から断続しながら行われたという。旅行には代表の商館長と数名の書記、医者と一群の日本人の護衛がつく。この護衛の真の目的は道中で禁止されているキリスト教の十字架、聖画像、聖書などを、こっそり住民に手渡さないか。外国の品物を日本人に売ったりしないか、または誰かが逃亡して住民の中でキリシタン伝道をしないか…。など一行の行動を監視する役目である。ケンペルらは出発に先立ち、違法行為をしない、旅行中の見聞をすべて報告する旨、血判の誓約書を長崎奉行に提出した。旅行には江戸の将軍、閣僚および江戸、大阪、京都の幕府高官に贈る膨大な贈答品。そして付き添いの奉行並、槍持ち、与力、町役人、大通詞と稽古通詞、護衛、荷物運搬人と馬匹。これだけで参勤交代の中級大名クラスの規模になってしまった。
そして元禄四年(1691)二月十三日、ケンペルたちは長崎を出発した。彼らの行程は長崎−佐賀−小倉と陸路、そこから船で下関に渡り、あとは瀬戸内海を港伝いに大阪へ。大阪に上陸すると大阪城の奉行に挨拶し、陸路で天皇のおわす京都に入る。ケンペルの見た京都の印象は
「京は天皇が住むことから都と呼ばれている。町は山城国の平野にあり、南北の長さが四分の三ドイツマイル。東西の幅は約半マイルである。町は藪と湧き水の多い山に囲まれ、町の東の地区には山地が迫り、そこには沢山の美しい神社仏閣が建っている。市内には三つの川が流れる。最も大きいのは大津の湖水に源を発し、ほかの二つは北の山岳に源を発している。町の中ほどで合流すると、そこが三条大橋という二百歩ほどはある長い橋が架かっている。町の北側には天皇の住む内裏があり、家族や廷臣と住んでいる。西側は石で方形に築かれた二条城がある。この城は内乱のとき身の安全をはかるため、将軍が京都にきたときにここに滞在するのが常である」
さらに商店や手工業の店が連なる中心地の賑わいの様子、神社仏閣の建築物の数と信者の数など、実に詳細な記述がされている。
こうしてケンペルの一行は京都を出て近江に入ったのが元禄四年(1691)三月三日である。
「われわれは、今日非常に多くの男女に出会った。大抵は歩いていたが、馬に乗っている人も少しはあった。時には一頭の馬に二、三人も乗っているのを見かけた。これらの人はみな伊勢参りに出掛けたり、そこから帰ってくる人々である。彼らはしつこく我われに旅費をせがんだ。彼らの被っている日除け笠には、自分の生国や名前、巡礼地が書いてあった。それは彼らが途中で万一災難に出会ったときに知らせるためである。帰途にある者は、日笠の端に免罪の御札を付け、もう一方の端にも紙を巻いた小さな藁束をつけている。…土山宿に泊まる」
元禄四年にすでに伊勢参りは庶民の間に広がっており、彼らの旅の様子がわかる。しかしケンペルに旅費をせがんだというのは、喜捨をすることで功徳を授かるという教えからの行為、だがあまりにもくどいのでうんざり、彼の誤解ももっともである。
菅笠に書かれた名前そして結ばれた御札など、つい最近までの伊勢参りの様子とかわらない。
「三月四日、日曜日。我われは旅館から駕籠に乗って険しい鈴鹿の山地を越えた。曲がりくねった骨の折れる二里の道を坂下の村まで担がれていった。この山岳地帯の所々には泥炭地の不毛の土地だが、そんなところにも幾つかの貧しい小さい村がある。彼らは行き来する旅人相手に生活をする。」
鈴鹿の険を越える様子。八町二十七曲がりといわれる鈴鹿峠道、これは箱根越えと並ぶ東海道の険である。そして山間の貧しい村村は、陽当たりも少なく農耕地も少ない。街道の旅人相手の荷物運びや土産売り、あるいは宿食堂の手伝い、あるいは小銭をせびるなどして生計を立てている。
「廻り階段を下りるように、我われは急勾配の山峡を通り山地を下っていった。その途中から道が分かれ、幅の広い石段が近くにある高い山に続いていた。この山は旅人にとっていわば一種のバロメーターのような役割を果たす。彼らはその山頂に登っていく霧や、峰を覆った雲を見て天気を予測し、それによって旅行を決めるからである」
この記述は三子山のこと。旅人や伊勢の海の漁師が、この山にかかる雲や霧を見て天候判断したというが、ケンペルも土地の人から聞いてちゃんと書いている。三子山の頂に至る石段はいまも残っている。この山には古代人の磐座遺跡がある。
「山中の街道わきに寺院があり、その近くに黄金の仏像を祀る堂がある。二人の僧が仏前で読経していた…。山麓にあるもう一つの社の前まで十五分かかったが、そこには金張りの獅子が置いてあり、その近くに二、三人の神官がいて、旅行者に何か神聖な物を授け、これに接吻させ、それで報酬を得ている。」
黄金の仏像の寺がはっきりしない。ケンペルの記憶違いだろうか。しかしつぎの金張りの獅子の神社は片山神社に違いない。この当時は神主が二、三人もいて賑わっている。いまは無住で火災にもあった。
「坂下村の手前に硬い岩石に刻んだ堂がある。岩屋清滝観音というが、そこではお祈りしている僧侶もいなかった。また他の人々もいなかった。坂下村は約百戸で旅館が沢山あり、大変豊かで伊勢国の最初の村で快適な土地を占めている。」
岩屋清滝観音は砂岩質の巨大な岩に三体の仏像が刻まれ、清冽な滝がいまも流れている。いつも心が洗われる自然の溢れる環境だ。宿場には百戸の家が並び、街道一と言われる大きな旅籠の本陣、大竹屋、小竹屋などがあって、非常に殷賑を極めている。
「ここに開け放しになっているお堂があり、いろんな病気や災難を防ぐのに用いる薄い板切れが用意されている」
このお堂もはっきりしないが、法安寺だろうと推測する学者もいる。
「沓掛という小さな村に着いた。ここでは焼栗と煮たトコロの根を売っていた。」
トコロはこの沓掛あたりの名物。のちに筆捨山を正面に見える鈴鹿川の対岸に藤ノ木茶屋が出来た。この茶屋のトコロ料理が名物になり、司馬江漢や太田蜀山人らも賞味している。ケンペルはまた帰途の日記に
「沓掛村では、盛んにイチジクを売っている。」
とも書いてる。トコロのほかイチジクも名産だったのか…、いまもイチジクは沓掛周辺で沢山見かけられる。
「関の地蔵に着いた。約四百戸の村。ほとんど至るところで皮を剥いたアシから作った松明、草鞋、菅笠その他が作られ、子供たちはそれを持って街道で売る。買ってくれとしきりにせがむので旅行者は迷惑である」
アシとは竹のこと。松明も火縄のことで関宿の名物の竹細工物である。
子供や女たちが旅人にうるさくつきまとって押し売りしている。
これは江戸中期−末期の旅日記にも同じ記述がある、あまりにも押し売りがひどかったらしい。
「われわれは関で昼食をとったが、まだ四里進んだだけなので、六里先の四日市に日のあるうちに着くため、間もなくここを出発した。この関の地蔵から聖地の伊勢へ道が南に通じていて、ここから十三里離れている。一里はこの地方では一時間の行程である。なお京都から三十里ある。」
彼らは早朝に近江土山を出発、関で昼食をとりつぎの宿泊を四日市で宿泊とした。当時としては旅人の標準的な行程、関から伊勢神宮までの距離も合っている。
「我われは亀山に着いた。町は平坦な丘陵の上にあり、私が見渡した限りでは、石垣と門と番所のある整然とした町である。その南側には荒く築き上げた城壁と櫓のある、かなり堅固な城がそびえ立っていた。狭い通りはこの土地の地形のために曲がりくねっているので、我われが第二の番所を通って郊外の外れに行き着くまで、ほとんど一時間を費やしてしまった。」
彼は帰途と翌年の旅でも
「亀山は大きな豊かな町、二つの平な丘の上にあり、真ん中に小さな谷が通っていた。門が一つと土塁と石垣があったが、曲がった肘のようになった道には、郊外の町々の家を除き約二千戸の家があり、街道のそばには堀や土塁や石垣をめぐらした城がある。」
と書いている。亀山の町の入り口に当たる市ケ坂に京口門があり、番所があった。歌川広重の「東海道五十三次、亀山雪晴」にも描かれている。ケンペルもこの門を潜って町に入ったのだろう。そして池の端から見える荒い石垣の上に多門櫓。そして美しい天守閣をもつ胡蝶城と云われた亀山城が彼方に見える。この当時の城主は板倉重冬である。曲がりくねった亀山の町の通り、それはいまも基本的な町並みは同じであろう。
第二の番所とは渋倉町の江戸口門のことかも知れない。いまの亀山の通りとあまり変わりのない風景である。
「一里ほど進み、庄野という大きな村の少し手前の森ノ茶屋という小さな村で、我われは俄か雨に襲われ、一里あまりを家の軒にくっついて雨を避けて進んだ。ここからまた伊勢へ行く道が分かれているが、これは主として東国や北国の人々が利用する」
記述にある庄野の手前の森ノ茶屋は鈴鹿市国府町にあった。ここで雨にあい街道沿いの家々の軒先伝いに進んでいった。
「その後、我われが立ち寄った多くの村々のうち、庄野、石薬師、杖衝、追分、日永がおもな村で、どれも二百戸をくだらず、四日市の手前、半里のところにある最後の日永村は、戸数も二百以上あり、川の向こうにも同じ村の家があった。」
関宿を出発してから四日市までの街道筋の町や村、その多くが二百戸程度の小集落だという。
「我われが今日通った旅路の大部分は、山の多い不毛の土地で、耕作に適した土地はわずかであったが、杖衝坂から四日市までの二、三里の土地は九州肥前のような平坦で肥沃な稲田であった」
いまは山地や丘陵地も開発され、畠や住宅地に変貌しているが、ケンペルの当時は、濃い緑に覆われた山地が多く、開拓が進んでいなかったのだろう。南国の長崎や肥前の沃野をみているので、この地は痩せて貧しい土地と思ったようだ。
杖衝坂は昔、日本武尊が伊吹山の荒ぶる神にやられ、やっと杖を衝いてこの坂を登った。また芭蕉はこの坂を下りるとき落馬した急坂。
坂の上に「坂上」という苗字の家が多く、坂を下ると「坂下」性の家が多い。不思議な坂である。坂を下りきると平野が広がる。いまは市街地になっているが、つい最近までは広い田圃だった。
「宿舎の前で、我われは内裏(京都御所)から急いで帰る将軍の使者が通り過ぎるのに出会った。彼は京都から江戸までを一週間以内に行けるよう、一日の旅程を早くする命令を下していた。彼は立派な人物であった。供揃いは二挺の乗り物、何人かの槍持ち、鞍を置いた一頭の愛馬、馬上の七人の家来と徒歩の従僕から成っていた。」
ケンペルが遭遇したのは吉良上野介義央の行列である。彼は高家筆頭の役職で公家、天皇家と接触し交渉する立場、このときも何らかの用で京都から帰る途中だった。彼が播州赤穂浪士に討たれるのはこの十年後である。
「四日市は千戸以上もある。大きな町である。南の海の入り江に臨み、たくさんのよい旅館があって、他国からの旅行者は、望み通りのもてなしを受けることができる。それは住民たちが特に旅館業を漁業とで暮しを立てているからである。」
「我われが今日道中で出会った巡礼者のうち、絹の着物を着飾り美しく化粧した女性がいるのを見た。珍しくまた不思議な気がした。彼女は盲目の老人を連れていて、その男のために物乞いをしていた。何人かのうら若い比丘尼も旅行者に物乞いし、幾つかの歌を唄って聞かせ、彼らを楽しませようと努めていた。また望まれれば、その旅人の慰みの相手もする。」
ケンペルが旅の途中で出あった美しい比丘尼、よほど印象に残ったらしく、女性の素性などを細かく聞きだして記した。
「彼女は山伏の娘である。上品で小奇麗な身形をして歩き、仏門の生活に身を捧げていることを示す剃った頭を、黒い絹の布で覆い、軽い旅行笠をかぶって太陽の暑さを避けている。彼女からは貧乏とか厚顔とか、軽薄さを思わせるものを、何一つ認めることはできなかった。むしろ礼儀正しく、のびのびした女性で、容姿そのものからも、この地方で出合った中で、もっとも美しい女性であった。」
ケンペルの心をこれほどまで捉えたとは…。よほどすごい美人だったのだろう。
彼らの一行は翌朝、四日市を出発、桑名七里の渡しから海路で名古屋熱田の宮の渡しに向かった。東海道を下って江戸には三月十日着、江戸城で将軍に拝謁したのは三月十九日であった。このとき将軍から直接下問されたのは
「オランダはバタビヤからどれほど離れているか」
「長崎からバタビヤまではどれくらいあるか」
「内科と外科の病気のうちで何が一番重く、危険だと思っているか?」
「中国の医者が数百年来行ってきたように、その方らもまた長寿の薬を探し求めているのではいか」
「人間は高齢になるまでどうしたら健康を保てるか」
など、大変好奇心あふれる質問をしている。そして最新の西洋医学についても質問し、その医薬品を手に入れてほしいとも注文している。
彼らはオランダの踊りや歌も披露したり、絵を描かされたり、衣服を脱いで説明したり。食事をしながら十一時から午後三時まで謁見が続いた。若い将軍と幕府老中たちは、日本に一般庶民と同じくよほど知識欲に飢えていたようだと、ケンペルは書き残している。
彼らは元禄四(1691)年四月五日江戸を出発、長崎への帰途についた。
 
江戸参府旅行日記 ケンペル 3

 

エンゲルベルト・ケンペルの通称『日本誌』を齊藤信が翻訳したもの。ケンペルは1651(慶安四)年ドイツのレムゴー生まれ。オランダ東インド会社の船医として来日したときに見聞した日本の様子が書かれている。その細かいことといったらハンパねえ。解説のケンペル略伝を読むとわかるが(ケンペルwikipedia)ケンペルは勉強家で凝り性で蒐集家で博学、医師である一方博物学者としての顔を持つことからも、その人並み外れた観察眼の鋭さ緻密さを推察できようってもん。読み始めたら面白くて暫し夢中になったが、その記述が詳細になればなるほど専門的になるわけで、例えば船の造りなんぞ読んでも理解できましぇんから、興味のあるところだけを読んだ。第五章の「街道で生計を立てている人々」に書かれている、お伊勢参りの旅をする人々の様子が面白い。

この国の街道には毎日信じられないほどの人間がいる。ケンペルは七つの主要な街道のうち一番主要な東海道を四度も通ったから、その体験からそれを立証できると。ひとつには人口が多いこと、また一つには諸外国と違い日本人は非常によく旅行をするのが原因であると。
大名行列のヘンな歩き方
尻絡げをして褌一丁で下半身を露わにしている姿には笑ってしまう。
近侍や、飾りの付いた槍・日傘雨傘・箱などの担い手が、人々のたくさん住んでいる街筋を通ったり、他の行列のそばを進んだりする時の馬鹿げた歩き方=一歩踏み出すごとに足がほとんど尻届くまで上げ、そして同時に一方の腕をずっと前の方へ突き出すので、まるで空中を泳いでいるように見える。彼らは飾り槍や笠や日傘を二、三回あちこちに動かし、挾箱も肩の上で踊っている。
乗物をかつぐ人は袖口に紐を通して結び、両腕をむき出しにしていた。彼らはある時は乗物を肩でかつぎ、ある時は頭の上の方に高く上げた一方の手にのせ、もう一方の腕は手のひらを水平にして伸ばし、そのうえ狭い歩幅で歩いたり、膝をこわばらせたりして、こっけいな恐ろしさを装ったり用心深い振りをしたりする。
伊勢街道?の物乞い
「檀那様、お伊勢参りの者に路銀を一文お恵み下さい」←ひっきりなしで鬱陶しい。
非行をして罰を受ける前に親の許可なく伊勢へ詣で免罪符をゲットして罪を免れようとする少年もいる。
銭がなくて沢山の人が野宿をしているし、ときには路傍に病み疲れて死んいるのを見ることもある。
一年の大部分をこの街道で物乞いをして過ごす者もいる。
滑稽なやり方で物乞旅行をして伊勢参りをしたり、人々の目を引き容易に金銭を集めることを得意とする者もある。こういう目的のためには通常四人の男がひと組になり、公家の家来のような白麻の装束を身にまとって、二人はゆっくりと祭壇のように設えた屋台を運び、一人はドラ声で歌い、一人は見物に布施を求める。こうして夏の間中旅をして過ごす。
巡礼など
巡礼も方々で見かける。二、三人ずつの組で日本全国あちこちにある三三の寺へ参る。彼らは哀調を込めて戸ごとに観音経を読み、時にはヴァイオリンやツィターを弾くドイツの放浪者のように、楽器を奏でるが、旅行者に布施を求める様な事はしない。服装の記述有。このような信心深い巡礼旅行は多くの人々の気に入っているので、彼らは生涯をこうして過す。
冬でも陰部に藁の房だけを巻きつけて隠している裸の人によく行き合うのは、なんとも奇妙。こうした人々は両親や親友や自分自身の損ねた健康などをこうして治そうとして、寺や仏像にお参りする誓いを立てたのであり、布施を求めず、いつも一人であまり休むこともなく歩き続ける。
街道でその他いろいろな乞食、大部分は若くて頭をきれいに剃った人たちがいっぱいいるのを見かける。聖徳太子と物部守屋対立の話有。太子は守屋に味方する者と区別するため仏教に帰依した全ての男性に頭の半分を剃るように命じ、あわれな子供にも僧侶の様に頭をすっかり剃るようにさせた。それで頭を剃った彼らに物乞いする自由を与えたのであって、この時採り入れた風習が受け継がれて今日に至っている。
熊野比丘尼
これら剃髪した人々の内に比丘尼と呼ばれる若い女性の教団がある。鎌倉や京都の尼寺の支配下にあるので毎年寄進しなければならない。熊野に多くいるので、仏教の方の尼僧と区別するために熊野比丘尼と呼ばれている。
彼女たちは、ほとんどが、われわれが日本を旅行していて姿を見たうちで最も美しい女性である。
善良で魅力的に見えるこれらの貧しく若い女たちは、大した苦労もせずに尼として物乞いする許可を受け、旅行者から思うままに魅惑的な容姿で大変うまく布施をまきあげるすべを身に付けている。
物乞いして歩く山伏は、娘にこの職業をやらせ、また恐らくは比丘尼を自分の妻にする。彼女たちの多くは娼家で躾けられ、そこで年季を終えてから自由の身となり、青春時代の残りを旅で過ごす。
彼女たちは二人または三人がひと組となり、毎日自分の住まいから一、二里の所に出掛け、駕籠や馬に乗って通り過ぎる身分の高い人々を待っている。一人一人相手の所へ近づいて野良の歌をうたい、銭離れのよい人を見つければ、何時間も供をして相手を楽しませる。
この女たちには出家らしさも貧しさも感じられない。なぜなら剃った頭には黒い絹の頭巾を被り、一般の人と同じ着物をこざっぱりと着こなし、手には手甲をはめ、普通は幅の広い日笠をかぶって、おしろいを塗った顔を外気から守っている。短い旅行杖をついているのでロマンティックな羊飼いの女を思い起こさせる。その言葉遣いや身振りには厚かましさも卑屈さも陰険さも気取った風も全然なく、むしろ率直ではあるが幾らか恥じらうことも忘れてはいない。
しかしこの物乞い女たちは、国の風習や宗派の慣例にそむいて(注:英訳本では「この国の風習であるということを口実にして」とあるそうです)、慎み深さということを大して気にも留めず、公けの街道で気前の良い旅行者に自分の胸を差し出す。それゆえ尼僧の様に頭を丸めていても、軽薄で淫らな女性の仲間から彼女たちを除外するわけにはゆかない。
山伏たちが作っているもう一つの托鉢の教団のこと
元来は山の兵士を意味する山武士であり、彼らはいつも太刀を携えているからである。頭髪を剃っておらず、山に登って己の身に難行苦行を与える。
寺の功徳と清浄について誇らしげな表情で(英訳本:強いしわがれ声で)短い法話をし、金剛杖を鳴らすのは話の核心を強調するためで、祈祷代わりの法話の結びに法螺貝を鳴らす。彼らは子供たちにも同じように教団の法衣を着せ頭を剃らせるが、旅行者にとっては道中まとわりつかれて厄介な存在である。
山伏は至る所で比丘尼の群れに混ざってミツバチの大群のように旅行者の周りに集まり、一緒に歌をうたい法螺貝を吹き鳴らし、熱弁をふるい、大声で叫ぶので、うるさくてほとんど聞き取れない。
人々はこの山伏をお祓いや予言に、また未来のことを占うほか、迷信や魔法のために利用するが、寺の用事や世話には決して使わない。
その他の物乞い
外見上は立派な年輩の男たちがあって、出家や仏僧のように頭を剃り法衣をまとっているので、喜捨を受けるのに都合がよい。蛇腹状の法華経を捧げ持ち、ほんとは何が書いてあるかわからないのだけど一部を暗誦していて、まるで読み上げているかのように聞こえる。それで聴衆から沢山の布施を期待している。
施餓鬼
小川のほとりに座っているのは施餓鬼といって死んだ人の霊に対し儀式を行っている。こういう僧は、死んだ人の姓名の書いてある小さい経木を何かの文句を唱えながら煉獄の火を冷ますためにハナシキミの枝に水をつけて洗い清めるが、死者のためのミサに当たる。通りすがりの人々のうちで小川に入って身を清めようとする者は、僧の為に広げてある蓆の上に一個の銭を投げてやるが、僧がそれに対して感謝の念を面上に表さないのは、彼が練達で信心深いからいわば受けるのが当然だということであり、また身分の高い物乞いの場合には、礼を述べる習慣がないからである。施餓鬼の法式を習い覚えた者は、誰でもそれを行うことは自由である。
身分の低い物乞い
物乞いのいろいろな種類のうち最も身分の低い大部分の者は、一人一人ほとんど至る所の路傍で蓆を敷いて坐り、絶えず哀れっぽい声で、なんまんだあを唱えたりしている。これは南無阿弥陀仏を短くしたもので、彼らが死んだ人の霊をとりなす者として阿弥陀に呼びかける時に使う短縮形なのである。彼らは同時に自分の前に置いてある幅の広い臼の形をした小さい鐘を木槌で叩くのであるが、それは鐘の音がよく阿弥陀の耳に届き、通りすがりの旅人にも聞こえる、と信じているからである。
特殊な物乞いの音楽
八打鐘(はっちょうかね)つまり八つの鐘の音楽と呼ばれるもの。道中でこれに行き逢ったが大変珍しいものである。一人の少年が木製の軛(くびきwikipedia)を持ち、その上に一本の綱が付いていて、それを首にかけ、その綱には八つの音色のちがった平らな鐘がそれぞれ一本ずつ特別な紐に付けてある。少年はその軛とともに驚くほどの速さでぐるぐると回るので、両腕で支えている軛は鐘と一緒に水平にあがり、また互いに広くひろがる。少年は回転しながら二本の槌で鐘を打ち鳴らし、粗野なメロディを奏でる。彼の傍に座っている他の二人の仲間がその間に大小の太鼓を打つと、また格別の音が出る。人々は気に入ったことを彼らに示そうとして、幾ばくかの銭を前に投げてやる。
宿場の娼婦・ケンペルは不愉快である
村や町にある大小の旅館・茶屋・小料理屋などには淫らな女たちがいる。彼女たちは昼ごろになると着替え、おしろいを塗って家の前の廊下の所から絶えず旅行者を眺め、一方の女はここで、一方の女はあそこで甘ったるい声を出してせり合い、上っていくように呼び寄せ、彼らの耳元でしきりに喋るのである。
こういう点では何軒もの旅館が並んでいる宿場は特にひどく、例えば近くに並んでいる二つの村、赤坂(愛知県宝飯〔ほい〕郡)と御油(ごゆ・豊川市内)はほとんど旅館ばかりが並んでいて、その家にも三人から七人までの女がいる。それで冗談に、日本の遊女の蔵とか共同の研磨機という異名をちょうだいしたのである。この賤しい女たちと交わりを結ばずにここを通り過ぎる日本人はまれなので、そのため記念の印をちょうだいして我が家に帰る人がよくあって、それで大変腹が立つのである。
カロンが日本についての記述の中で、美しい日本女性の名誉を弁護して(生粋の日本婦人である貞節な彼の妻に対する尊敬の念からと察せられるが)、幾つかの都市の特許を受けた公娼を除けば、こういうやり方で生計を立てることが日本で行われていることを否定しているのは、言い過ぎというものである。日本ではすべての公共の旅館はまた公けの娼家であることは、むしろ否定すべくもない。
一方の宿に客が多過ぎる場合には、他の宿の主人は自分の所の女中(娼婦)を喜んで向こうに貸してやるが、彼らはそれで確実な儲けがあるからである。こうしたことは何も新しいことではなく、すでに古えからの習慣であった。
征夷大将軍で最初の世俗的な皇帝(将軍のこと)源頼朝が、すでに数世紀も前にこれを始めたのである。すなわち彼の兵士たちが長い飽き飽きする遠征の旅路でいら立たず、このようにどこにも見出される女たちを求め、己れの欲求を満たすことができるように、これを認めたのである。だから中国人が日本の国を中国の売春宿と呼んだのは不当ではない。なぜなら中国では娼家と売春とは厳罰を課してこれを禁止しているからである。だから若い中国人は情欲をさまし銭を捨てに、よく日本にやってくるのである。
安倍晴明
(安倍晴明の発見した旅行の凶日の表が挙げられている。何月は何日と何日、という具合。旅に出るのはこの日を避けよ、という意)、この人の父は天皇の息子で安倍保名といい、母は狐であった。保名に命を助けて貰い感謝した狐は保名の前に娘の姿で現れ、その類ない美しさに魅せられた保名は愛情がつのり、自分の妻とした。この女がすばらしく賢い予言の霊力をもつ息子(安倍晴明)を産んだのである。彼女は永い間、夫に気づかれなかったが、とうとう尾がはえ、やがて段々とほかの部分にも毛が生じ、終いには全身が前の姿にもどってしまった。
しかしながら、この晴明は、単に天体の運行や影響からここに挙げた表を作ったばかりではなく、神秘的な努力によってある語句を考え出し、それを歌で表した。災難を防ぐ手段としてこの歌を唱えると、不吉の日の悪い影響を無力にすることができる。そのためこの歌は、主人から命令されれば、この表を目安にすることは許されず、旅に出なければならない哀れな召使や下僕に安心感を与えるのである。その歌は次の通りである。
さだめえし旅立つ日取り良し悪しは 思い立つ日を吉日とせん
大坂
大坂の町は非常に人口が多く、いざという時に防備に役立つ八万の男子がいる。町は有利な土地柄のために、水陸両路を利用して最大の商業が営まれ、それゆえ裕福な市民や、あらゆる種類の工芸家や、製造業者が住んでいる。住民が大変多いにもかかわらず、この土地は非常に物価が安く生活しやすいと同時に、贅沢をしたり、官能的な娯楽をするのに必要なものは何でもある。それゆえ日本人は、大坂をあらゆる歓楽に事欠かない都市だという。
公の劇場でも小屋掛けでも毎日芝居が見られる。商人や香具師が露店を出して大声で客を呼び、奇形児や異国の動物や、芸を仕込んだ動物など珍しいものを少しでも持っている人は、他の地方からここに集まって、銭をとって芸や珍品を見せるのである。
将軍に献上するヒクイドリが長崎奉行の入国審査で拒否され産地に戻されたことがあったが、このとき、ある金持ちの収集家が、許可が得られればその鳥を千両で買い取りたい、大坂では一年も経たぬうちに、その鳥で倍儲かることは確実だと言いきっていた。この大坂では暇な時間をいろいろな娯楽で過ごすことができるので、町には旅行中のたくさんの余所者が逗留しているのは、そういうわけでなんの不思議もない。
品川
品川と江戸は京都と伏見のように続いている。従って本当の(江戸の)郊外の町と思われ、鈴ヶ森の半里の辺りから始まる。品川の手前には刑場があって、通り過ぎる旅行者はそれを目にして、むかつくような気持ちになる。人間の首や手足を切った胴体が、死んだ家畜の腐肉の間に混って横たわっていた。やせた大きな犬が飢えて大口を開け、腐った人間の体を食いまわっていた。なおほかに、たくさんの犬やカラスが、食卓が空いたら腹いっぱい食べようと、いつもそばで待っていた。  
一筋の流れる小川が、この郊外の品川という名になったのである。 
 
「江戸参府旅行日記」 ケンペル 4

 

オランダ人の参府旅行準備
・・・ポルトガル人がそのころこうした儀式(江戸参府)にやむを得ずに従ったように、今またわがオランダ東インド会社の代表たる商館長もそれに従っている。彼は一名ないし二名の書記と一名の外科医をこの旅行に伴うことができるが、そればかりでなく身分や官位の異なる一群の日本人に護衛されるのである。これらの日本人は長崎奉行の支配下にあり、奉行がその役を任命する。このことは、将軍に謁見を願う者に敬意を表するかのようにみえるが、実際この護衛の裏にある意図は全く別で、スパイや捕虜の場合と同じようなものなのである。つまりこれによって、道中でこの国の人々と疑わしい交渉や関係が結ばれないこと、また万一にも十字架・聖画像・聖遺物あるいはその他キリスト教に何らかの関係があるものを、こっそり彼らの手に渡させないこと、外国の物やキリスト教の国々から珍しい品物を持込んで、日本人に売ったり贈ったりしないように、さらに誰かがひそかに逃れて、キリスト教の伝道あるいはそのほかの有害な騒動を国内で起こすために、身を隠したりしないように、防止しようというのである。・・・・
再度私はこういう参府旅行に加わる楽しみを持った。最初は1691(元禄四)年で、ヘンリッヒ・フォン・ビューテンヘム氏と一緒であった。彼は正直で気立てがよく思慮深い人で、日本人の流儀や言葉によく通じていた。そして特に賢明で自分の名誉とオランダ国民の名誉を保持していた。もう一度はその翌年で現バタビア総督の弟コルネリウス・アウトホルン氏に随行した。彼は博識で世故にたけ数カ国語に通じており、その生来の愛想の良さによって、疑念を抱いている日本人にうまく取り入っていたので、それによって会社の利益を非常にあげたのである。・・・
この旅行の準備には次に挙げることが必要である。まず最初に将軍とその閣老および江戸・京都・大阪にいる数人の高官に対する、一定の金額の進物を選ぶことから始まる。次にこれらの進物を分け、どれを誰に贈るかを決め、それから革の袋か行李に入れ、注意深く菰(こも)で包むが、それは贈物が旅行中こわれないためであり、最後に封印をする。贈物の選択は長崎奉行が行い、幕府に喜んで受取ってもらえそうなものの中から決める。彼らはそれらの品を早い時期に商館長を通じて注文するか、あるいは現に倉庫の中にあるものを取出す。・・・
こういう時に若干の珍しい人目をひく品物が、将軍に対する贈物としてヨーロッパから輸入されるが、このことに関する厳しい判定者である奉行が、これを評価しないようなことが本当によく起こるのである。例えば私の時にも最新の発明に係る真鍮製の二台の消防ポンプがそうであった。彼らはそれを実験し、さらに原型を写しとってしまってから、将軍への贈物として受入れようともせず、返上してよこした。またバタビアから進物として持ってきた火喰鳥にも同じようなことがあった。この鳥が大食で利口でないことを知って、将軍に対する贈物としては不向であるとした。
さて、こういうようなわけで贈物の選択と準備に幾ばくかの時日を費やすと、それらの品は他のすべての旅行の必需品と一緒に船に積み込まれ三、四週間かかって海を渡り、(日本島[本州のこと]のはずれにある)下関という小さな町まで先に運び、陸路を行くわれわれの到着を待っている。・・・
(旅行の装備の説明部分)
次は従僕や馬が使う一種の履物のことで、藁で編み藁縄で足にくくりつける。これは日本では全然用いられていないわが方の蹄鉄の代わりになるものである。石があったり滑りやすい道では藁靴[草鞋]はじきにすり切れるので、たびたび新しいのととり替える。・・・
また日本人は旅行中ダブダブのズボンをはいている。それは、ふくらはぎを覆う所で狭くなってさがり、両側が裂けている。それは彼らの長い上衣[着物]をズボンの中にすっかり入れるためで、そうしないと馬に乗ったり歩いたりする時に、上衣が邪魔になるからであろう。このズホンの上に彼らはまた短い外套[羽織]を着る。ある者は長靴下の代わりに幅の広い帯[脚絆]を、ふくらはぎの所に付ける。普通の従者、特に乗物をかついだり槍を持ったりする者はズボンをはかず、いちだんと敏捷に行動できるように、上衣をはしょい裾を帯にはさんでいるので、彼らの下半身は露になっているが、このことを彼らは少しも恥ずかしがらない。
われわれヨーロッパの者は手袋をはめずに外出することは滅多にないが、同じように日本人は男女とも礼儀上扇子を持ってゆく。旅行中彼らは、その上に里程や宿屋や日用品の値段などが印刷してある扇子の一種を持ってゆく。・・・人々がこの国において旅行の準備をするやり方は、こういったところである。・・・・  
元禄時代のオランダ人の旅行
われわれが宿に着くと(道にいる腕白小僧たちが叫び声をあげるので、少しもゆったりした気分になれず)与力に導かれて家の中を通り、われわれの部屋に行くのだが、そこでは小さな裏庭に出ること以外は何一つ許されず、同心たちは田畑や裏通りの見える窓や、そこに通じる戸口などすべてのものに鍵をかけさせ、釘付けにさせる。彼らに言わせれば、盗賊から守るためというのであるが、腹をさぐれば、われわれを盗賊や逃亡者のように見張るためなのである。それでも帰りの旅行の時には、われわれはようやく信用を得たので、こうした彼らの用心は目に見えて少なくなったのに気付いた。検使は、その部屋がどの部分にあっても、われわれの部屋に次ぐ良い部屋を使う。与力・通詞および同心たちは、われわれの一番近くにある次の間をとるが、その目的はわれわれを見張っていて、従僕やよその者が、彼らの知らないうちに、または許しを受けずに、われわれの所に立寄るのを妨げるためである。・・・・
われわれが割当てられた部屋に入ると、宿の主人は、すぐに家族のうちの主立った男たちを連れて姿を見せ、めいめい薄茶をいれた茶碗を持ち、体を非常に低く折曲げ、胸の中からしぼり出したような丁重な声で、アー・アー・アーと言いながら、それを階級順に次々に差出す。主人たちが着ている礼服や腰にさしている短刀は、客が泊っている間は家の中でも脱いだり、とったりはしない。その次には、喫煙具が運ばれる。・・・同時に折板や漆塗りの平らな盆に肴が載せてある。すなわち焼菓子、国内産のイチジクやクルミなどの果実、暖かいまんじゅう、米から作った菓子など、また塩水で煮たいろいろな種類の根菜類とか砂糖菓子といったようなもので、これらは最初に検使の所に、次にわれわれの部屋に出される。
日本人の客に対する給仕は女中が行う。彼女たちは客の所にすべての必要なものを運び、食事時には酒や茶をつぎ、食べ物を出したりし、そうすることで近づきになるための道を拓くのである。オランダ人の場合にはこのような給仕はなく、それだけでなく旅館の主人や番頭たちでさえ、茶を持って来た後は部屋に入ることは全く禁止されており、せいぜい部屋の引戸の前まで来ることが許されているくらいである。というのは、われわれの連れて来た従僕がなんでも必要なことをしてくれるし、われわれに加勢してくれるからである。・・・
同行の日本人は旅行中、毎日三度食事をするが、さらに間食もする。まだ夜明け前、日本人は起き上がって着物を着るとすぐに、従って出発の前に一回目の食事をし、昼にはほかの旅館で二回目を、そして床に就く前に三回目の食事をとるが、それについてはすでに述べたように、日本人のために国内風に調理され大へんおいしい。彼らは食事のあと酒を飲みながら歌をうたったり、あるいは(花札は禁止されているので)ほかの遊びや、順々に謎かけをして暇をつぶすが、そのとき間違ったり負けたりすると、一杯飲まなければならない。これに反してオランダ人は、食事を静かに食べなければならない。オランダ人は自分たちに付いて来た日本人の料理人にヨーロッパ風に調理させ、食卓に運ばせるが、時にはそのほかに宿の主人から日本の料理を出させたり、またヨーロッパのブドウ酒と一緒に、国内産の暖かい米の酒をたっぷりつがせることもある。その他の点ではオランダ人は気分転換に昼間は中庭に出たり、気が向けば夜分に入浴したりするほかには、一歩も外へ出ることは許されず、暇つぶしのために従僕どもの所へ行くことさえできない。・・・
我々の一行が宿舎を立つ場合に、宿の主人には二人の通詞が立会って支払いがなされ、小さな盆の上に載せた金貨(小判)が、われわれの使節(商館長)から主人に渡される。主人は両手と膝をついて恐る恐る這いつくばって進み、地面につくほど額を下げ盆に手をかけ、しきりに例のアー・アー・アーといううめき声を出して礼をのべる。主人は他のオランダ人にも同じやり方で礼を述べようとするが、通詞にさえぎられて思いとどまり、再び四つんばいで引き下がる。昼食をとる旅館では小判二枚を払うが、夕食をとり一泊する所では三枚を支払う。客が宿舎を出る時に、自分のいた部屋の床を急いで従者に掃除させたり、塵を払わせたりするのは、昔からの礼儀であり、感謝のしるしである。・・・・
旅館の主人らの礼儀正しい応対から、日本人の礼儀正しさが推定される。旅行中、突然の訪問の折りにわれわれが気付いたのであるが、世界中のいかなる国民でも、礼儀という点で日本人にまさるものはない。のみならず彼らの行状は、身分の低い百姓から最も身分の高い大名に至るまで大へん礼儀正しいので、われわれは国全体を礼儀作法を教える高等学校と呼んでもよかろう。そして彼らは才気があり、好奇心が強い人たちで、すべて異国の品物を大へん大事にするから、もし許されることなら、われわれを外来者として大切にするだろうと思う。 
将軍[綱吉]に謁見
3月29日木曜日
われわれは呼ばれて、二つの立派な門で閉ざされた枡形を通り、それから一方の門を出た所から幾つかの石段をあがって本丸に案内された。そこから御殿の正面までは、ほんの数歩の距離で、そこに武装した兵士が警備し、役人や近習などがたくさんいた。われわれはなお二段ほど登って御殿に入り、玄関の右手の一番近い部屋に入った。この部屋は、謁見のため将軍や老中などの前に呼び出される者の普通の控えの間で、金張りの柱や壁や襖でみごとに飾り立てられ、また襖を閉めた時には、それに続く右手の家具部屋の、かなり高い所にある欄間を通してほんのわずかな光がさすだけで、大変暗かった。われわれがここでたっぷり一時間ばかり坐っていると、その間に将軍はいつもの座所に着いた。二人の宗門改めと攝津守とが、わが公使つまりカピタンを迎えにやって来た。それから彼を謁見の間に案内して行ったが、われわれはそこに残っていた。彼が謁見の間に入って行ったと思われた時に、間髪を入れず、オランダ・カピタンという大へん大きな声がした。それは彼が近づいて敬意を表わす合図で、それに応じて彼は、献上品がきちんと並べてある場所と、将軍の高い座所との間で、命じられた通りひざまずき、頭を畳にすりつけ手足で這うように進み出て、一言もいわずに全くザリガニと同じように再び引き下がった。いろいろと面倒な手数をかけて準備した拝謁の一切の儀式は、こういうあっけないものであった。
毎年大名たちが行う謁見も同じような経過で、名前を呼ばれ、恭しく敬意を表し、また後ずさりして引下がるのである。謁見の広間は、モンタヌスが想像し紹介していたのとは、ずっと違っていた。ここには高くなった玉座も、そこへ登ってゆく階段も、たれ下がっているゴブランの壁掛けもなく、玉座と広間すなわちその建物に用いてあるという立派な円柱も見当たらない。けれども、すべてが実際に美しく、大へん貴重なものであることは事実である。・・・・
100枚の畳が敷いてある謁見の間は、一方の側が小さな中庭に向って開いていて、そこから光が入る。反対側には同じ中庭に面して二つの部屋が続いていて、最初の部屋はかなり広く、幕府の高官の座所で、比較的小さい大名や公使や使節に謁見する所である。しかし、最後のもう一つの部屋は、大広間よりは狭く、奥深く一段高くなっている。そこはちょうど部屋のすみで、数枚の畳が敷いてある高くなった所に将軍が、体の下に両足を組んで坐っていたが、その姿がよく見られないのは、十分な光がそこまで届かなかったし、また謁見があまりに速く行われ、われわれは頭を下げたまま伺候し、自分の頭をあげて将軍を見ることが許されぬまま、再び引下がらなければならないからである。
広間のはずれや廊下に整然と坐って、老中・若年寄・側衆その他の高官たちが静かに居並ぶ様は、この拝謁に少なからず重みを添えている。昔は拝謁の時、カピタン一人が出頭し、それから二、三日後に彼は面前で法規が読まれるのを拝聴し、オランダ国民の名においてそれを守ることを約束すれば十分で、老中から再び長崎に帰ることが許されたのである。しかし現在、つまりこの20年来は、使節と一緒にやって来たオランダ人たちを、最初の拝謁の後で再び御殿のずっと奥に招じ入れ、娯楽や見物の目的で、将軍の夫人や、そのために招かれている一族の姫や、そのほか大奥の女たちの前に、連れ出すのである。その時、将軍は女たちと一緒に簾の後ろに隠れていたが、老中や拝謁に陪席を命じられた他の高官は、見える所に坐っていた。・・・・
われわれが見物されることになっている部屋に重臣が到着するまで、半時間ほどここで待たされてから、幾つかの薄暗い廊下を通って連れて行かれた。・・・・われわれの所からそんなに離れていない右側の御簾の後ろには、将軍が夫人と共に坐っていた。私が将軍の命令で少しばかり踊っていた間に、御簾が動いて小さなすき間から、私はその夫人の顔を二、三回見たのであるが、ヨーロッパ人のような黒い瞳をした、若々しい褐色がかった円みのある美しい顔立ちであった。・・・
われわれの前方、畳で四枚ばかり離れた、同じように御簾の後ろには、将軍一族の姫たちや、その他大奥の女性たちが招かれて集まっていた。この御簾の合せ目やすき間には紙を挿し込んであり、楽々とのぞけるように、彼女たちは時々そこを開いた。・・・将軍はわれわれに外套、つまり礼装を脱がせ、われわれの顔をよく見ることができるように、上体を起して坐ることを命じた。しかし将軍が要求したことはこれだけではなくて、本当の猿芝居をすることに、われわれは同意せざるを得なかったが、私にはもうすべてのことを思い出すことさえできない。
われわれはある時は立ち上がってあちこちと歩かねばならなかったし、ある時は互いに挨拶し、それから踊ったり、跳ねたり、酔払いの真似をしたり、つかえつかえ日本語を話したり、絵を描き、オランダ語やドイツ語を読んだり、歌をうたったり、外套を着たり脱いだり等々で、私はその時ドイツの恋の歌をうたった。しかし、わが長官の威信が傷付けられてはならないと、高官たちが気付いたので、カピタンは跳ねたりしないで済んだ。しかも彼は真面目で敏感な性格でもあったから、そういうことをやったところで、全くうまくは行かなかったであろう。もちろん先方には少しの悪意もないのだが、絶えず不当な要求に応じながら、二時間にわたり、こういうようにして見物されたのである。それが終ると、坊主たちがわれわれ一人一人の前に日本食の小さな膳を運んできたが、その膳にはナイフとフォークの代わりに、一対の短い棒[箸]が添えてあった。 
各奉行屋敷への訪問
もう午後3時であった。・・・今日にも贈物を携えて、老中と若年寄を儀礼的に訪問しなければならなかった。そこでわれわれは将軍の御殿を離れ、大番所にいた主立った人々に、通り過ぎる時挨拶をし、歩きつづけた。贈物は、一つもわれわれの目につかなかったから、すでにわれわれが行く前に、めいめいの屋敷に書記役が持参し、たぶん特別な部屋に置いてあるのだろう。・・・どの屋敷へ行ってもわれわれは書記役に丁重に迎えられ、短時間なので当然のことであるが、挽茶や煙草や菓子を出してもてなされた。われわれが通された部屋の簾や障子の後ろは、女性の見物人でいっぱいだった。もしわれわれが彼女たちにおどけたしぐさを少しでもやって見せたら、好奇心が強いから、大へん喜んで見物したであろう。しかし備後守の屋敷と、城内の北側にある一番若年の参政官[側用人柳沢出羽守吉保。当時33歳]の屋敷以外では、彼女たちは当てがはずれたであろう。備後守の屋敷では少しばかりダンスをお目にかけ、出羽守の所ではわれわれ一人一人が歌をお聞かせした。・・・
3月30日金曜日
われわれは朝早く、他の役人すなわち二人の江戸町奉行、三人の寺社奉行、外国人や舶来品を監視する二人の宗門改めのところに、われわれの贈物を届けるため、馬で出かけた。その贈物は同じように日本人の書記役が、台に載せてあらかじめ指定された謁見の間にきちんと並べておくのである。・・・一人または二人の家来の案内で幾つかの部屋を通りぬけ、四方八方どこの場所も見物人でぎっしりと詰っている謁見の間に連れて行かれた。席につくと煙草や挽茶が出された。それから間もなく用人か書記役が一人、時には同僚と一緒に出て来て、主人の名において挨拶を受けた。いつもわれわれは目に見えぬ婦人たちの視野の中にあるようになっていた。いろいろな焼菓子や砂糖漬の菓子をわれわれの前に出して、婦人たちのお気に召すように、われわれを引留めようとした。
二人の宗門改めの奉行は、一人は西南で、もう一人は東北と、一里ほど離れたかなり遠い所に住んでいた。われわれが大へん彼らの愛顧をこうむっていたかのように、大仰な出迎えを受けた。すなわち10人ないし20人の武装した堂々たる服装の侍が、頑丈な棒を横に伸ばして町筋に立ちふさがり、詰めかけた群衆を前へ出ないように抑えていた。
われわれが家に入った時の出迎えは、他家の場合と同様であった。われわれは次第に中に進み、一番奥の部屋まで案内された。それはわれわれも、また見物するために姿を見せた婦人たちも、奥へ行くほど妨げられることもなく、また知らない人々の殺到からなるべく遠のいていられるからである。この部屋には襖の代わりに、二間ないしはそれ以上の長さにわたって、われわれの向いに格子柄の簾が下がっていて、化粧した婦人たちが、招かれた女友達や知合いと一緒に、目の前に坐ったり立ったりしていたので、もう坐る席もないくらいであった。われわれが坐り終わると、七人のよい服装をした立派な家来が喫煙具一式を持って来た。次に漆塗りの盆にのせた焼菓子の皿と、それから同じように一切れ一切れを小皿に並べた焼魚、最後には卵焼や殻をむいたゆで卵も出された。そしてその間に燗をした古くて強い酒をすすめられた。
こうして一時間か一時間半が過ぎると、われわれは歌をうたい、次いでダンスをするように言われた。しかしダンスの方は勘弁してもらった。最初の奉行の所では、火酒の代わりに甘い梅酒を、もう一人の奉行の所では、一切れの混ぜ物の入ったパンのようなものを冷たい褐色の汁に浸け、すったカラシと二、三個の大根を添えて出し、最後に柑橘類に砂糖をふりかけた特別な一皿と挽茶を出した。それからわれわれは暇を告げ、夕方5時には再び宿舎にもどった。
3月31日土曜日
朝10時にわれわれは三人の長崎奉行を訪ねるため、馬で出かけた。けれども三人のうち江戸にいたのは一人だけで、他の両人は長崎に行っていたが、向うで彼らもまた定めの贈物をすでに受取っていた。けれどもさし当り、各奉行の所になお一本の赤ブドウ酒を持って行った。江戸にいた摂津守は、大勢の随員を連れて家の前でわれわれを出迎えた。彼は静かに立ち止り、通詞に近くに寄るように言い、「私の所に来て下さって、しばらくお休みいただくのは、大へん嬉しいことです」と、われわれに伝えるように命じた。彼の一人の弟(義弟か?)はわれわれを特に厚くもてなし、身分の高い人々や友人たちと一緒に、大へん丁重な言葉を交わしてわれわれの相手をつとめた。彼はわれわれに庭の散歩や、他の遊びをしきりにすすめたので、まるで江戸の親しい友人の所にいるようで、長崎奉行に呼ばれているような気がしなかった。暖かい食物と濃い茶が出された。
・・・・われわれはここに二時間ほどいて、それから主殿様の屋敷に行った。ここで一番奥の良い部屋に通され、両側にあるかなり幅広い簾の近くに寄るように、二度も頼まれた。その後ろには、これまでどこでもいなかったほど大勢の婦人たちが坐っていた。彼女たちはわれわれの衣服やカピタンの剣や指輪やパイプなどの品々を、珍しげに、しかも礼儀を忘れずに丁重に眺め、すべての品を簾の間や下から渡させた。不在の奉行の名代としてわれわれを出迎えた者も、その他われわれの周囲や近くに居合わせた人々も、大へん分け隔てない態度を示したので、われわれは彼らの好意的なたびたびの乾杯にもあまり困惑することもなかった。われわれ一同は満足している証拠として、一つずつ歌を聞かせた。出された膳を見ると、料理はすべて十分に心を惹きつけるものばかりであった。 
二度目の江戸参府
4月21日
・・・われわれはぬれた靴下や靴をとりかえて、[本丸]御殿に入った。カピタン一人が将軍の座所の前に進み出て、献上品を捧呈したのは12時で、それが終るとすぐにわれわれのいる控えの間に戻ってきた。(長崎奉行の)十兵衛様は、それからわれわれも一緒に拝謁するように言い、献上品が並べてあった左手の広間の所を回って、・・・・拝謁が行われる広間のすぐ近くにある長い次の間に入った。・・・
われわれが坐りきりで長時間待っていて疲れるといけないので、他の廊下にさがらせ、そこで気楽に時を過ごすことができるようにしてくれ、終いには近くにある庭が見えるように戸をあけてくれた。そこで休んでいる間に、身分の高いたくさんの若い人々が現れ、われわれを見て挨拶したが、大へん親しみがこもっていた。宗門改めの奉行はわれわれに、金の輪を見せてくれたが、それには日本の十二の干支のついた磁石がはめこんであったし、またヨーロッパの紋章やその他いろいろな物を見せた。われわれがもとめられて、これらの品について説明しようとしたちょうどその時に、将軍に呼ばれた。・・・・
左には六人の老中・若年寄が、右の廊下には側衆が座に着き、その右手の御簾の向うに将軍が二人の婦人と一緒におられた。その前の所に実力者の側用人備後様が座を占めていた。彼は将軍の名において、よくぞ来られたと挨拶し、それから、正座しなさい、外套を脱ぎなさい、と言い、われわれの氏名や年齢を言わせ、立ちなさい、そこらを歩いてみなさい、向きを変えなさい、舞ってみなさい、などと命令し、特に私には歌え、と言った。われわれは互いにお辞儀をしたり、叱り合ったり、怒ったり、客に何かを勧めたり、いろいろの会話をやらされた。それからわれわれ二人を親友とか、親子とかいうことにし、互いに別れを惜しんだり、訪ねて来たり、互いに出会う二人の友人のしぐさをしたりした。また、一人の男が妻と別れる場面を演じたり、子供を甘やかしたり、腕に抱いたりする真似をした。
その他われわれに向っていろいろな質問が行われた。すなわち私に対しては、其方はどんな職業についているのか、また特に、其方はこれまでに重病を治したことがあるか、と聞かれた。これに対して私は、捕虜と同じような状態にある長崎では、治したことはありませんが、日本以外の所ではあります、と答えた。さらに、われわれの家のことを、また習慣は違っているのか、と尋ねられた。私は、はいと答えた。其方どもの所では葬儀はどのように致すのか。答え。遺体を墓場へ運んでいく日で、それ以外の日には葬儀は行いません。
其方どもの皇子[国王のつもりか]の地位はいかなるものか。バタビアにいる総督は皇子より身分が低く、その下に立っているのか、それとも彼ひとりで国を治めているのか、と聞かれた。其方どもは、ポルトガル人が持っていたような聖像を持ってはいないのか。答え、持っておりません。オランダや他のヨーロッパの国々にも、雷が鳴ったり、地震で揺れたりするのか。落雷が家を焼き、人々を殺すことがあるのか。われわれはものを読むように答えなければならなかった。それから私はたくさんの膏薬の名前を挙げねばならなかった。
またもう一度その後で一緒にダンスをした。それからカピタンは子供のことやその名前を聞かれ、またオランダは長崎からどれくらい離れているか、など尋ねられた。将軍はその時左手の襖を開け、新鮮な空気が入るようにさせた。さて、われわれは帽子を脱ぎ、鬘(かつら)をとったり、また言葉を交わしながら、15分ばかりあちこち歩き回らねばならなかった。私が美しい将軍の御台所の方を何回も見た時に、将軍は日本語で、其方どもは御台の方をじっと見ておるが、その座所を承知しているに相違あるまい、と言われ、それからすぐに、われわれの向いに集まっていた他の婦人たちの方へ席を移された。それで私は御簾の所からもう少し近くに行かされ、鬘をもう一度とり、飛んだり跳ねたり、一緒にダンスしたり、歩き回ったりした。
またカピタンと私に、備後の年は幾つか当ててみよ、と言われ、カピタンは50歳、私は45歳とお答えしたら、みながどっと笑った[備後守は実際には57歳であった]。さらに、われわれは夫が妻に対してどういう風にするのかを、わかりやすくやってみせねばならなかったが、その際不意に接吻してみせたので、婦人たちの所で少なからず笑いが起こった。それから、われわれはまたしても飛び回ったり、最後には身分の低い人が高い人に対する、また王に対するヨーロッパ人の敬意の表し方をやって見せねばならなかった。私は歌をうたうことを求められ、いろいろの歌のうちから二つを歌い終ると、みなからそれ相応の喝采を受けた。
それからわれわれは外套を脱ぎ、次々と将軍に近づいて、ヨーロッパの王の前でするように、てきぱきと別れの挨拶をした。そうすると、みなの顔に楽しげな満足な様子が浮かんだので、われわれはそれを見届けてから、退出の許可を得た。すでに四時であった。われわれは三時間半もここにいたわけである。われわれは宗門改めと十兵衛に暇を告げ、さっき入った時と同じように、二人に案内されて御殿を出ると、備後守の邸に赴き、そこで大層結構なもてなしを受けた。やっとわれわれが宿にもどったのは、日の沈むころであった。 
 
江戸時代、街道を行く旅人のトイレ

 

昔の旅人がどれぐらいの速度で歩いていたかとか、この宿場はどんな所だったのかとか、そんなことは意外と簡単に調べることが出来るんですが、用を足すなどという日常的で当たり前のことは、誰も記録に残していない。広重の浮世絵「東海道五十三次」など見たって、トイレや用を足してるところなんか描かれていませんしね。だから、この調べごとが、結構、厄介なんですよ。
ところが、ところがです。これが当たり前でない人たちがいた。全く異なった文化圏に放り込まれた、あるいは自ら好んでやってきた人たちがいた……「外国人」あるいは「異邦人」と呼ばれる人たちです。彼らは、好奇心満々で、日本人の一挙手一投足に目を光らせました。そして、それを紀行文に書き残したんです。ケンペルしかり、ツンベリーしかり、シーボルトまたしかりです。今ならブログにでも書くんでしょうが……彼らは、それらのことを「江戸参府旅行日記」「江戸参府随行記」「江戸参府紀行」などの日記に書き残した訳です。どれをとっても、彼らのびっくりしたこと、困ったこと、感動したことが、生き生きと書かれています。勿論、旅先のトイレのことや、雨上がりの後のぬかるんだ街道を誰が整備したかまで、事細かに書いているんです。日本人の旅人にとっては、日常的なことで気にかけないことも、彼らにとってはサプライズなことだったのでしょうね。
まずケンペルの「江戸参府旅行日記」を見てみましょう。彼は東海道の状況を、「木陰となる松の木が街道の両脇に狭い間隔で真っ直ぐに植えられてあり、降雨時のための排水口がつくられ、雨水は、低い畑地に流れ込むようになっており、みごとな土堤が築かれている」と、街道の状況を描写しています。このため、「雨天続きの時はぬかるんでいる」が、「普段は、旅行者は良い道を歩くことが出来る」ということも観察し記録ています。また、参勤交代などで、身分の高い人が通る場合は、街道は直前にほうきで掃除され、両側には数日前から砂が運ばれ小さい山がつくられます。万一、到着時に雨が降ったとき、この砂を散布し道を渇かすためだそうです。そればかりではありません。二、三里ごとに路傍に木葉葺きの小屋をつくり、その近くの目立たない側道との間を垣で仕切ります。その小屋は、大名や身分の高い人たちが、休憩したり用便したりするためのものだと言います。
そして、これら道路整備やトイレ小屋の設置を誰がやっているかというと、近在の百姓たちだというわけ。百姓たちは、ボランティアでなく、自分たちの利益につながるとして、この整備をしているとも言います。まず、道路の清掃は、毎日落ちてくる松葉や松かさなど、焚き物として利用され、薪の不足を補い、ところかまわず落とされる馬糞は、百姓の子供が馬のすぐ後を追いかけ、まだ温もりのあるうちにかき集め、自分の畑に運んでいきます。すり切れ捨てられた人馬の草鞋は拾い集められ、ゴミとともに焼かれ、灰=カリ肥料として使われるのだそうです。
ツンベリーは、このことを、より具体的な記事として書いています(「江戸参府随行記」斉藤信訳)。「ここでも他のいくつかの場所でも、街道では子供や老人が、旅の馬が落とす糞をせっせと入念に集めていた。彼らは、柄の先に付けた匙のような貝殻で、かがみこまないで器用に集めていた。そして拾い上げた馬糞は、左手に持った籠のなかに入れた」と……。
さて、大名や高貴な人たちのトイレが、農民たちの手で、二、三里ごとに設けられていることは分かった。では一般庶民のトイレはどうだったのでしょう。ケンペルは、そういった庶民のトイレも百姓たちが自費でつくっていたと言います。それも競って、自分のつくったトイレを旅人に使ってもらおうとしたようです。特に女性用のトイレを小綺麗につくり、女性が安心して入れるトイレづくりを目指しました。女性が安心して使えるようなトイレは、利用者が増えるということらしいのです。当時の旅人の糞尿は、大切な肥料になります。旅人たちは、少なくとも自分たち百姓よりうまいものを食っている。ということは肥料としても価値が高いと言うことになるわけ。この糞尿を少しでも多く集め、灰などと混ぜ合わせて肥料にするという次第です。
しかし、トイレは小綺麗でいいのですが、それを集めて蓄える肥溜めまでは、百姓たちも気がまわらなかったようです。ケンペルは、百姓たちのことを「欲得ずくで不潔なものを利用する」と評し、「田畑や村の便所のそばの、地面と同じ高さに埋め込んだ蓋もなく開け放しの桶の中に、この悪臭を発するものが貯蔵されている。百姓たちが毎日食べる大根の腐ったにおい(タクアンのことか?)がさらに加わるので、新しい道がわれわれの目を楽しませるのに、これとは反対に鼻の方は不快を感ぜずに入られないことを、ご想像いただきたい」と、冗談混じりに訴えています。
これがツンベリーになると、もっと悲惨です。彼は、肥溜めを「穴」と称し、「その穴には農夫が根気よくせっせと集めた糞尿が蓄えられている。農夫は自分の耕地を肥沃にするためにそれを使う。しかしその多くは通行人が吐き気を催すような堪え難い悪臭を発する」と、その臭いに苦しめられ、「鼻に詰め物をしたり、香水を振りまいても、まったく無駄なくらい強烈である」と、ため息をもらしています。
トイレに対する疑問は解決しましたが、話まで臭くなってきてしまいました。
気分直しに、庶民が東海道五十三次を、どのようにして旅したのかを、最後に見ておくことにしましょう。まずは、どんな格好で旅をしていたのかということから。
旅装
1.武士の場合=菅笠(すげがさ)、紋付羽織または野羽織(のばおり)、野袴(のばかま)、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、足袋、草鞋履き。刀には柄袋(つかぶくろ)を掛け、荷物は挟箱(はさみばこ)に入れて家来に担がせた。
2.町人男子の場合=菅笠、着物(歩きやすいように裾をからげます)、手甲、股引(ももひき)、脚絆、足袋、草鞋履き、荷物は平行李(ひらごうり)や風呂敷に入れて振り分け荷物にし、肩に掛けます。道中差(どうちゅうざし)は慣れた人だけが腰に差して歩きました。
3,一般的な男性の携帯荷物=着物、手ぬぐい、股引、脚絆、足袋、甲掛け、下帯、扇、矢立、鼻紙、財布、道中案内書、日記帳、巾着、指刀、耳かき、風呂敷、薬、針、糸、結髪道具、煙草道具、提灯、ろうそく、合羽、平行李、綱三本(宿で塗れた手ぬぐいを干すのに使うそうです)。
4,町人女子=菅笠、着物、着物の上には上っ張りを着ます。着流しの着物の裾はからげます。手甲、脚絆、白足袋、結い付けの草履。
旅の日数
1.徒歩=一日の歩行距離は、男子で平均10里(39.27km)、女子や老人で8里(31.42km)。晴天で川留(雨による増水で渡河禁止になること)なしと仮定して、江戸〜京都間を、男の場合で、13泊14日の旅程が一般的。この旅程での宿泊地は、戸塚、小田原、三島、蒲原、岡部、日坂、浜松、赤坂、宮(熱田)、四日市、亀山、土山、草津が一般的。
江戸と京都間の距離は、126里6町(約496km)になるので、一日の歩行距離は35.4kmとなり、これって結構速い! 僕の場合、朝夕の散歩と日常の歩きで、少ないときで6km、よく歩いたと思うときで10km程度。勿論、比べられはしないが、10km歩いたときなど、脚がだるいと感じるから、昔の旅人というのは、健脚ぞろいだったのかも。
2.駕籠(かご)=全旅程を駕籠というのは考えられないが、早駕籠といって、宿場の人足が、駕籠に急使を乗せて、宿場宿場を引き継ぎながら昼夜兼行で走るというのがある。勿論、公用に限られる訳だが、最高記録は、江戸から赤穂までの170里(約668km)を四日半で走ったというもの。赤穂の名が出て察しがつくように、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の江戸城内刃傷事件を知らせる早飛脚である。 
 
風待ち湊

 

伍代夏子の「風待ち湊」のカセットを買った。NHK「コメディー・お江戸でござる」のオリジナル・ソングである。初めて聞いたときから気に入った。特に出だしのメロディーに哀愁が隠っているのが良い。しかしカセットを買う気にさせたのは、それだけではない。歌詞が良かったのである。舞台は江戸時代の瀬戸内海に浮かぶ小島の遊郭で、女郎の悲恋を唄う。演歌の見せ場の一つは、義理人情恩義で縛られた、ままならぬ人生を唄うときであるが、法制上も慣習上も道義上も自由平等になって、殆どが縛られぬ人生を謳歌できる今日では、その舞台は一段と狭まってしまった。だから舞台を江戸時代に取ったのは賢明である。
私が風待ち湊の遊郭に注意しだしたのは、NHKドラマ早坂暁脚本「花へんろ−風の昭和日記」を見てからであった。その主舞台は伊予北条で、長い間その町を迂回する国道の脇に「花へんろの町−北条」と書いた大きな看板が立っていた。ドラマは主役桃井かおりの名演技でたいそうな評判を取った。昭和60年頃から3シリーズが放映された。その第1シリーズの中で、おこうという沖合の島の遊郭を足抜けした女郎が町を裸足で逃げてくるシーンがある。島の遊郭は、瀬戸内海を行き交う帆船の風待ち湊として繁盛していたが、漸く機械船が増え陰りが見え始めていたと言う設定だった。昭和の初めである。おこうは町の靴屋の義侠心にもかかわらず、年季が明けていないと云う理由で、結局島のやくざに連れ戻される。
「風待ち湊」の、音戸の瀬戸が東に望める遊郭も、「花へんろ」の沖合の島の遊郭も実は所在を確定できない。渡辺憲司著「江戸遊里盛衰記」によると、この近隣の大崎下島には御手洗という大遊女町があった。人口の2割が遊女だったという。御手洗は歴史に名を留めたが、中小の船宿町も遊女を多数抱えていた筈である。ただ町としては恥部に属する話であるので、語り部の死と共に、その歴史は大半は闇に埋もれてしまったであろう。女郎を船に配達するルーム・サービスのようなシステムがあって、そのお女郎舟を訛っておチョロ舟と言ったと「花へんろ」では語っていた。画面では、それが佐渡ヶ島の海女が使うような独り乗りのたらい舟だったが、「江戸遊里盛衰記」ではちゃんとした漕ぎ手の付いた和船であった。「花へんろ」の作者は伊予出身だそうだから、モデルがあったとすれば、沖合の島とは御手洗と別個の存在だったのだろう。
御手洗はケンペルの「江戸参府旅行日記」に初めて記録されたと「江戸遊里盛衰記」が指摘している。彼は1692年3月9日に第2回江戸参府旅行の往路で立ち寄り、娼婦2人をのせたおチョロ舟を見ている。彼はヨーロッパに比べて日本では旅する人の数がたいそう多いと感嘆している。だけど日本の旅日記には、島の遊女町の記録など残らなかった。どこにでも当たり前にある風景だからであろう。外国人の記録には、今では当たり前でなくなった当時の当たり前の風俗が、しっかり書き連ねてあって貴重である。ことに第5章は売春の慣習をも纏めていて面白い。旅籠、茶屋、小料理屋などに淫らな女が待機している様を描写している。旅人の慰みの相手もする比丘尼の話も出ている。長崎の丸山遊郭は、彼が丸山を遊郭の代名詞と誤解したほどインターナショナルな歓楽街で、中国人の渡楼も多かったらしく、中国人が日本の国を中国の売春宿と呼んでいることを紹介している。中国人が、何かと尊大ぶって他国を見下ろす姿勢を示したがるのは、この頃も同じであったらしい。おかげで古来は日本になかった性病が丸山から発信された。
鎖国で厳しく密貿易を取り締まる一方で、長崎に外国との窓口を開いておく。不義密通は云うに及ばず、男女の交際まで御法度なのに、公娼私娼は居るところにはいる。非人、部落民を拵えて農工商の闘争意欲を萎えさせる。守る方も攻める方も、1ヶ所逃げ道あるいは抜け道になる弱点を作り、相手をそこに誘導して殲滅を計ろうとする。これらの話はどこか互いに似ている。統治に合戦に、わが国でしばしば使われた伝統の戦略である。名を捨てて実を取るときには、用心せねばならぬ戦略である。 
 
音戸の瀬戸 (おんどのせと) 1  
広島県呉市にある本州と倉橋島の間に存在する海峡のことである。この瀬戸とは海峡を意味する。瀬戸内銀座と称される瀬戸内海有数の航路、平清盛が開削したという伝説、風光明媚な観光地として知られている。
隠渡
音戸という地名の由来の一つに「隠渡」がある。これはこの海峡を干潮時に歩いて渡ることができたことから隠渡と呼ぶようになったという。伝承によれば音戸には、奈良時代には人が住んでいたと伝えられている。当時海岸はすべて砂浜で、警固屋と幅3尺(約0.9m)の砂州でつながっていた。その付近の集落を“隠れて渡る”から隠渡あるいは隠戸と呼んだ。そしてここを通行していた大阪商人が書きやすいようにと隠渡・隠戸から音戸を用いだしたのがこの名の始まりであるという。その他にも、平家の落人が渡ったことから、あるいは海賊が渡ったことから、呼ばれだしたという伝承もある。瀬戸内海を横切る主要航路は、朝廷によって難波津から大宰府を繋ぐものとして整備された。古来の倉橋島南側の倉橋町は「長門島」と呼ばれその主要航路で”潮待ちの港”が存在し、更に遣唐使船がこの島で作られたと推察されているほど古来から造船の島であった。音戸北側に渡子という地名があり、これは7世紀から9世紀に交通の要所の置かれた公設渡船の“渡し守“に由来することから、古来からこの海峡には渡船があったと推定されている。つまり、遅くとも奈良時代には倉橋島の南を通るルート、そして北であるこの海峡を通るルートが成立していたと考えられている。
清盛伝説
戦前の県史跡「伝清盛塚」。伝承では1184年(元暦元年)建立されたと言われている。中の宝篋印塔は高さ2.05mで室町時代の作なのは確定している。塚内のクロマツは「音戸の清盛松」と呼ばれ、伝承では枯死したものを1719年(享保4年)植え替えたと言われている。現在は護岸と接しているが、かつてはこのように独立した小島であった。
□伝承
この海峡で有名なのは永万元年(1165年)旧暦7月10日に完成した平清盛が開削したとする伝説である。この海峡はつながっていて、開削するに至った理由は、厳島神社参詣航路の整備として、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など諸説言われている。
「 この地に着いた時、短気な清盛は倉橋島を大回りするのをバカバカしく思いここを開削すると下知した。家臣は人力では無理ですと答えた。清盛は「なに人力に及ばすとや、天魔をも駆るべく、鬼神をも役すべし、天下何物か人力に依りて成らざるものあらんや、いでいで清盛が見事切り開いて見すべきぞ」と工事を決行した。」
亀山神社が代拝し、後に清盛により厳島神社とともに再建されたという。工事には連日数千人規模で行われ莫大な費用を要した。工事は思ったように進まなかった。
「 工事はあと少しで完成しようとしていたが、日は沈み観音山の影に隠れた。そこで清盛は山の小岩の上に立ち金扇を広げ「かえせ、もどせ」と叫ぶと日は再び昇った。これで工事は完成した。沈む夕日を呼び戻し、1日で開削したとする伝説もある。・・・清盛の日招き伝説・・・清盛は厳島神社の巫女に恋慕していた。巫女は神社繁栄のため清盛に、瀬戸を開削したら意に従う、と思わせぶりな返答をした。清盛は完成にこぎつけたが、巫女は体を大蛇に変えこの瀬戸を逃げた。清盛は舟で追ったが逆潮で進まなかった。怒った清盛は船の舳先に立って海を睨みつけると潮の流れが変わり船を進めた。 ・・・清盛のにらみ潮伝説」
工事安全祈願のために人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈めたと言われ、その地に石塔を建立、これが清盛塚である。音戸とはこの清盛の御塔が由来とも言われている。他にも、警固屋(けごや)はこの工事の際に飯炊き小屋=食小屋が置かれたことから、音戸町引地は小淵を掘削土で埋めた場所、と言われている。
清盛は1181年(治承5年)に死ぬが、日招きが災いしたとも言われている。
□真偽
この話は古くから真偽は疑われている。大きな要因として、当時の朝廷の記録および清盛の記録にこの工事のことが全く記されていないためである。
清盛が安芸守であったこと、厳島神社を造営したこと、大輪田泊(現神戸港)や瀬戸内の航路を整備した事実があり、この海峡両岸一帯の荘園“安摩荘”は清盛の弟である平頼盛が領主であったことから、この海峡に清盛の何らかの影響があった可能性は高い。記録がないのは、源氏による鎌倉幕府が成立して以降平氏の歴史が消去されていったためと推察されている。地元呉市ではこの伝説は事実として語られている。
一方で、偽説であるとする根拠はいくつかある。上記の通り、地理学的に考察するとそもそもつながっていなかったとする説がある。日本全国に点在する日招き伝説の起源は劉安『淮南子』内の説話で、そこから広まったことが定説となっている。にらみ潮も『淮南子』の中に同じような話がある。人柱の代わりに小石に一切経を書いたという伝承は、『平家物語』では経が島のことである。
文献で見ると、1389年(康応元年)今川貞世『鹿苑院殿厳島詣記』にはこの海峡を通過した情景は書かれているが清盛のことは一切書かれておらず、現在もこの地に残る清盛塚にある宝篋印塔が室町時代の作であることから、この伝説が単なる作り話であるならば室町ごろに成立したものと考えられている。時代が下ると、1580年(天正8年)厳島神社神官棚守房顕『房顕覚書』に「清盛福原ヨリ月詣テ在、音渡瀬戸其砌被掘」、安土桃山時代に書かれた平佐就言『輝元公御上洛日記』には「清盛ノ石塔」が書かれている。この話が広く流布したのは江戸時代後期のことで、評判の悪かった清盛が儒学者によって再評価される流れとなったことと寺社参詣の旅行ブームの中でのことである。中国山地壬生の花田植にこの伝説の田植え歌があることからかなり広い範囲で伝播していたことがわかっている。この地の地名起源と清盛(平家)伝説とが結びついた話はこうした中で文化人や地元民が創作したものと推定されている。ただ近代では、清盛伝説は大衆文化での人気題材にはならなかったこと、代わって軍人など新たなヒーローが好まれたことなどから、この伝説は全国には伝播しなかった。
中世の勢力
中世、瀬戸内海の島々は荘園化が進められ、畿内に租税が船で運ばれていった。航路の難所では、航行の安全を確保するとして水先人が登場しそして警固料(通行料)を取るようになった。これが警固衆(水軍)の起こりである。
南北朝時代、警固屋は警固屋氏が支配し、周辺の豪族とで呉衆と呼ばれた連合組織を形成していた。呉衆は周防守護大内氏の傘下にあり大内水軍として各地を転戦している 。ただ『芸藩通志』には警固屋の城は宮原隼人の居城であると示されていることから、警固屋氏は没落したことになる。
『鹿苑院殿厳島詣記』には、音戸の瀬戸に入った足利義満の前に大内氏傘下多賀谷氏の某が来て大内義弘が遅参している理由を義満に弁明したことが書かれている。
一方で倉橋島北側の音戸町は当時「波多見島」と呼ばれ、矢野城(現広島市安芸区)を根城とした大内氏傘下野間氏が支配し、瀬戸城(あるいは波多見城)をその拠点とした。1421年(応永28年)野間氏は竹原小早川氏と縁組を結び、嫁がせた娘の扶養料として一代限りの期限付きで島を譲渡した。のちに野間氏は援助の見返りとして小早川氏に島を永久譲渡した。上記の清盛塚にある宝篋印塔が室町時代の作であること、塚がある地は建立当時友好関係にあった野間氏と小早川氏に関係する縄張りであることから、その建立に2者が関わっていると推定されている。
1466年(文正元年)小早川氏は乃美氏に波多見島を守らせ瀬戸城主とし、乃美氏は瀬戸姓を名乗るようになる。同年、野間氏は約定を破り波多見島へ出兵、これにより小早川氏との対立が明確なものとなった。2者は共に大内氏傘下の関係にあり、2者の対立を大内氏が治めたが、応仁の乱のどさくさに紛れ野間氏は出兵し瀬戸城を占拠する。小早川氏が奪い返した後、大内氏はこの紛争に介入し波多見島は2者による分割統治という妥協案を飲ませた。
1523年(大永3年)大内氏と対立していた出雲尼子氏が安芸に侵攻してくると、再び野間氏と小早川氏との抗争が活発化した。1525年(大永5年)小早川氏の瀬戸賢勝(乃美賢勝)が野間氏を呉から追い出し、これ以降波多見島は小早川水軍の拠点の一つとなった。
伝承によると、清盛塚の周りの石垣は小早川隆景が整備したと言われており、そのことを記した碑が塚内に建っている。
近代
近代に入ると、旧海軍により呉鎮守府設置が決まると軍港として大きく発展した。近代において、この地は軍港の南側の入口であり、舟場であり漁師町であり、商家の土蔵や料理屋が並び賑やかな港町を形成していた。そして呉鎮や当時東洋最大規模となった呉海軍工廠が置かれた呉市へ、倉橋島の住民は出稼ぎに出るためここを渡船している。昭和初期、倉橋島の北側である渡子島村では2割が交通業(渡船の操船など)に従事していた記録が残る。
また、警固屋の南側にある標高218mの高烏山には、1901年(明治34年)軍港を守る目的として旧陸軍により呉要塞(広島湾要塞)「高烏砲台」が設置された。のちに旧海軍に移管され、28センチ榴弾砲6門が装備された。呉軍港空襲の最終局面では、航行が難しくなった旧海軍の艦艇が浮き砲台として周辺海域に配置され、アメリカ軍はそれを目標に攻撃している。
文化
音戸の舟唄
日本の著名な舟唄の一つ。いつごろからか船頭の舟唄が作られた。江戸時代には歌われていたとされ、渡船の近代化により歌われなくなっていったが、昭和30年代に高山訓昌が編曲したものが今日の音戸の舟唄となり、昭和39年保存会を設立し、歌い継がれている。
   船頭可愛や音戸の瀬戸は 一丈五尺の艪がしわる
   船頭可愛いと沖行く船に 瀬戸の女郎衆が袖濡らす
   泣いてくれるな出船の時にゃ 沖で艪櫂の手が渋る
   浮いた鴎の夫婦の仲を 情け知らずの伝馬船
   安芸の宮島廻れば七里 浦は七浦七恵比寿
   ここは音戸の瀬戸清盛塚の 岩に渦潮ドンとぶち当たる
音戸清盛祭
5年あるいは6年に1度旧暦3月3日に開催。清盛を偲んで行われていた念仏踊りが祭りの起こりと言われている。これが天保年間(1830年から1844年)に時代行列へと変わった。現存最古の記録は天保5年(1834年)旧暦7月16日・17日に行われたものになる。戦後のことである1952年から開催費用が原因でしばらく休止し、1979年呉市無形文化財に指定、1991年に祭りとして復活した。太鼓を鳴らしながら、毛槍の”投げ奴”、開削工事者に扮した”瀬堀”、大名の所持品を運ぶ”挟箱”、道中奴や道化踊りを交えた約500人が音戸の瀬戸沿いの道をねり歩く。
文学
今川貞世は1389年(康応元年)『鹿苑院殿厳島詣記』にて一句詠んでいる。
   船玉の ぬさも取あへず おち滝つ 早きしほせを 過にける哉
頼山陽は漢詩を残している。これは現在、おんど観光文化会館うずしおに掲げられている。
   舟宿暗門 憶曾随家君泊此 今十一年矣
    篷窓月暗樹如烟
    拍岸波声驚客眠
    黙数浮沈十年事
    平公塔下両維船
吉川英治は『新・平家物語』を書くにあたり当地を取材に訪れ、瀬戸を見おろす丘に立ち一言残している。 音戸の瀬戸公園にこれが吉川直筆で書かれている「吉川英治石碑」が建立されている。
   君よ 今昔之感 如何
山口誓子の方は句集『青銅』の中にあるもので、現在の音戸の瀬戸公園付近から対岸の倉橋島を見て詠んだ。山口の弟子にあたる橋本多佳子のものは呉港を見て詠んだもの。共に音戸の瀬戸公園に句碑が建立されている。
   天耕の 峯に達して 峯を越す — 山口誓子
   寒港を 見るや軍港 下敷に — 橋本多佳子
葛原繁歌碑も音戸の瀬戸公園に建立されている。
   夕空のもともろともにしづまれり瀬戸に見さくるにし東の海
   瀬戸いでて落ちあふ潮は夕凪の海にうごきて渦ひろげゆく 
 
平清盛公と音戸の瀬戸 2  
音戸の瀬戸
急流と渦潮で名高い音戸の瀬戸に架かる真紅のアーチ式の大橋が、山の緑、海と空の青さに浮かぶ風光明媚なこの地の本土側の丘に、「吉川英治文学碑」が瀬戸を見下すように建てられている。
吉川氏が「新平家物語」の史跡取材のため音戸の瀬戸を訪れ、今から800年余り前、全盛を誇り、この瀬戸を切り開いたという平清盛公を偲び対岸の清盛塚に向かって、清盛クン、どおかね、「君よ、今昔の感如何」と言われたのを記念して碑が建立された。
“船頭いや音戸の瀬戸で、一丈五尺の櫓がしわる“の名句で歌われ親しまれている広島県呉市音戸町「音戸の瀬戸」は、幅が狭く、そのため潮の流れが早く、岩礁があり、ゴーゴーと渦巻き、瀬戸内海交通の難所の一つである。
「音戸の瀬戸」は、その昔、平清盛公が開削したと言い伝えられている。
平正盛(清盛も祖父)忠盛(父)が瀬戸内海の海賊追討などをして、平氏は、瀬戸内海に深い関係をもつようになり、殊に1146年(久安3年)清盛公、安芸守に任ぜられ、以後十年間国司として、安芸の国との関係を持ち続ける。 これを機会として、安芸国宮島に鎮座する厳島神社への信仰がはじまる。
厳島神社は、祖父以来関係が深い瀬戸内海の霊島である。 安芸寺時代の清盛は、軍事力、財政力は有しつつも、中央政界で伸びていなかった。 そこで、清盛公が霊験あらたかな厳島神社に今後の栄達、繁栄を祈願するようになったと思われる。
かくて、清盛公は熱心に厳島神社を崇拝し、華麗なる社殿を建立し平家の氏神として敬い数回参詣している。 清盛公の音戸の瀬戸開削と厳島詣との関係の一考を要す。
音戸の瀬戸開削のことを、厳島神社に残る「史徴墨宝考証」のなかに「清盛音戸をして芸海の航路を便にし厳島詣に託して促す」と記している。
「日招き」伝説
1164年(長寛ニ)清盛公は音戸の瀬戸開削工事に着手(壮年説、安芸守説もあり)し、竣工まで十ヶ月を要して、さすがの難工事も完成の日戸なった翌、永久元年七月十六日引き潮を見はからって作業が行なわれることになった。
この時を期して是が非でも完成させねがならず、清盛公の激励、役人、人夫の血のにじむような努力が続けられたが、すでに夕日は西の空に傾き、長い夏の太陽の光りも、はや、足もとも暗くなりはじめた。
今ひと時の陽があればと、さすがに権勢を誇る清盛公もいらだち、遂に立ち上がり、急ぎ日迎山の岩頭に立ち、今や西に沈まんとする真赤な太陽に向い、右手に金扇をかざし、日輪をさし招き「返せ、戻せ」とさけんだ。 すると不思議なことに日輪はまい戻った。 「それ、陽はあるぞ。」と必死の努力により、ついに音戸の瀬戸の開削工事は見事に成就した。
ときに清盛公、四十ハ歳であったと伝えられている。
この伝説にもとづき、昭和四十ニ年瀬戸内開削八百年を記念して、当時の英姿をゆかりの地、本土側の日迎山高烏山銅像を建立してその偉徳を偲ぶ。
清盛
音戸の瀬戸開削の恩人清盛公は、当時、このような難工事には人柱をたてて工事の完成を祈願していたが、人命を尊び、人柱の擬製に代えて一切経の経文一字一石、心をこめて書いた経石を沈めて工事を完成させた。
清盛公の死後、1184年(元暦元)村民は、この地に清盛公の功績をたたえ、塚として石塔(宝篋印塔)を建てた。 これが、「清盛塚」である。
塚の中央に高さ2mの古色蒼然たる宝篋印塔が一基あり、その側に枝ぶりも見事な「清盛松」がその影を美しく瀬戸の渦潮にうつしている。
「芸藩通志」に『相伝ふ(略)の口に石をたたみて、上に石塔を建つ世に相国(清盛)の塚といふ』とあり。
念仏踊
清盛公の死後、村民たちは瀬戸開削の大事業を仰ぎ、その功徳を慕い、日毎、夕日に映える(日招岩)を眺めては、しばしば哀愁にひたっていた。
その頃、たそがれ時になると「日招岩」の辺から、数羽の白鷺が翔び来てば、ゴーゴーと渦巻く瀬戸にあわれな鳴声を流していた。 村人はこの姿を見ればみるほど、いたたましく哀傷の念にうたれていた。
ある日、お寺の僧がその様子を見て「日蓮が母を追慕した古事にしたがって供養せよ」と論した。
このことについて、「芸藩通志」の中の遊長門島記に『七月二十七日の孟蘭盆の節、楷子を舟のようにして、瀬戸掘切の時、人夫を激励のために打ち出した太鼓の音頭拍子に合わせて念仏を唱え、月明かり夜を踊あかすようになった』と記され、これが「念仏踊」である。
清盛祭
「念仏踊」からはじまった「清盛祭」はいつの頃か、「大名行列」を行うようになった。 藩で不用となった参勤交代の道具を払い下げてもらい、「百万石の格式」を誇る大名行列となった。
旧暦三月三日(一年中で潮が最も干く)瀬戸掘切のために際、人夫激励のために打ちならしたという太鼓を合図に「大名行列」がつづく。 勇壮な手やり投げの「道中奴」、お籠や馬も登場す。 見事な芸を見せる「草鞋とり」などの行列が延々五百米、五百数十人にのぼり、華麗な行列絵巻が繰り広げられた。
この行列には、清盛公瀬戸開削にまつわる出し物が特色で、この際の模擬として、歌に合わせて土砂を掘ったり運ぶ動作をして道中を練り歩く「瀬掘り」また、清盛公、瀬戸検聞の折御座舟(おふね)に乗った時のことを模擬した「おふね」を造り、ゆっくりとした調子で打つ太鼓の音に合わせて、独特の節で古老が美声で歌う。
この祭典は明治中頃まで大体毎年執行されたが多大な経費を要するので隔年になったり四年に一度になるなどして、戦時中は中断され戦後昭和二十七に復活し、その後三回行われた。
最後に思うことは瀬戸開削を指揮したのは清盛公であるが、開削の功は、これに従事した名もない多くの人々の尊い血と汗の結晶であったことを忘れてはならない。
なお、瀬戸開削の伝説や文献は書かれているが、平氏が敗者の故か敗者の故か歴史事実となっていないのが惜しまれる。  
 
『ベーリングの大探検』 S・ワクセル

 

 
ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング 1
(1681-1741) デンマーク生まれのロシア帝国の航海士、探検家。1725年から1730年まで、また1733年から1741年まで、2回のカムチャツカ探検を率いて、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを確認した。また、アラスカに到達し、アリューシャン列島(アレウト諸島)の一部を発見した。ベーリングの名にちなんだものに、ベーリング海、ベーリング海峡、ベーリング島、ベーリング地峡などがある。
1681年、デンマークのホーセンスに生まれる。1703年にアムステルダムの学校を卒業し、東インドへの旅の後、同年、ロシア海軍に入隊。大北方戦争ではバルチック艦隊の一員として戦った。1710年から1712年にかけて大尉としてアゾフ艦隊に所属し、オスマン帝国と戦う。1712年より再びバルト艦隊に所属。ロシア人女性と結婚した後、1715年に一度故郷に戻るが、以後、再び故郷を訪れることはなかった。
最初の探検
1725年1月、ピョートル大帝の命令により、カムチャツカ、オホーツクへの探険隊を率いてサンクトペテルブルクを出発。陸路でシベリアを横断した後、1727年1月にオホーツクに到着する。そこで冬を越した後、カムチャツカ半島に渡り、1728年夏までに聖ガヴリール号を建造。
1728年夏、カムチャツカ半島東岸から北に向けて出発し、その途上で、カラギン湾、カラギン島、クレスタ湾、アナディル湾、聖ラヴレンチイ島などを発見する。船はそのまま北上し、ユーラシア大陸とアメリカ大陸とのあいだの海峡(ベーリング海峡)を通過してチュクチ海に入った。アジアとアメリカが陸続きではないことを確認する任務を果たした一行はそこで引き返す。
1729年、一行はカムチャツカ半島の南部を回り、カムチャツカ湾、アヴァチャ湾を発見。それから、オホーツクを経由して、1730年夏、ベーリングは重い病気に冒されながらもペテルブルクに帰還した。
2度目の探検
1733年、ベーリングはアレクセイ・チリコフとともに、アメリカ大陸北部沿岸の調査のために2度目の探検に出発。千島列島の地図の作成と日本への海路の探索の任務を受けたマルティン・シュパンベルクも一緒であった。
1734年、トボリスクからヤクーツクへ出発。探検の準備のため、ヤクーツクに3年間留まった。1740年秋、オホーツクより、2隻の船、聖ピョートル号(聖ペトロ号)と聖パーヴェル号(聖パウロ号)に乗ってカムチャツカ半島東岸に向かう。探検隊はアヴァチャ湾の奥にキャンプを設営し、冬を越した。この場所が現在のペトロパヴロフスク・カムチャツキーである。
1741年6月4日、ベーリングの率いる聖ピョートル号と、チリコフの率いる聖パーヴェル号がアメリカ大陸を目指してカムチャツカを出発。1741年6月20日、深い霧と嵐のために2隻の船はお互いを見失った。7月17日、聖ピョートル号はアラスカ南岸に到達。一方、聖パーヴェル号は今日のアラスカ州最南部、アレキサンダー諸島にたどり着いていた。
聖ピョートル号はさらに南西に向かい、アリューシャン列島の一部の島々を発見。1741年8月末、アリューシャン列島の一部を成す、現在のシュマージン諸島の島の一つに上陸。そこで一週間を過ごし、土地の住民のアレウト人とはじめて遭遇する。また、壊血病で命を落とした船員シュマギンを島に葬る。船員の名にちなんで、ベーリングはその島をシュマギン島(シュマージン島)と名づけた。
1741年9月6日、船はアリューシャン列島を離れて西に向かうが、嵐に遭い、漂流の末、11月にコマンドル諸島の無人島にたどり着く。そこで越冬するが、その間に多くの船員が壊血病で次々と亡くなり、続いてベーリング自身も1741年12月6日に息を引き取った。このときの様子は、探検に加わっていたドイツ人の医師であり博物学者のゲオルク・ヴィルヘルム・シュテラーが記録に残している。後に、この島はベーリング島と名づけられた。
生き残った船員たちは、大破した聖ピョートル号の残骸で小型の船をつくって脱出し、1742年8月26日にペトロパヴロフスク・カムチャツキーにたどり着いた。結局、聖ピョートル号に乗り組んだ77人の探検隊員のうち、ペテルブルクに生還したのは45人であった。
1991年8月、ロシア・デンマーク合同調査団によってベーリングと5人の船員の墓が発見された。遺体はモスクワに移されて検査され、その結果、死因が壊血病ではなかった可能性がしめされている。また遺骨から推定されるところでは、体つきは頑健で背が高く、顔の輪郭は角張っており、広く流布しているベーリングの肖像画に見られる丸顔とは大きく異なっている。それらの肖像画はベーリングの叔父で作家のヴィトゥス・ペデーセン・ベーリング (Vitus Pedersen Bering) をモデルとしている可能性が考えられている。
その後、翌1992年9月に彼らの遺骨はベーリング島に再埋葬された。
網地島
宮城県石巻市の沖合いに浮かぶ島。牡鹿半島の先端近く、半島の南の沖にある。同じくらいの大きさの島として、北西近くに田代島、東にやや離れて金華山がある。本土側にある鮎川との関係が強く、1889年の町村制施行以後は同じ自治体(牡鹿町および石巻市)に属してきた。島には、北側の網地と南側の長渡(ふたわたし)の2つの集落があり、昔からライバル意識が強く、現在でもその傾向は幾分残っている。田代島と同じく、猫が多く住む島でもある。三陸復興国立公園に指定されている。
歴史
江戸時代は仙台藩領の一部で、金華山、半島先端部とともに牡鹿郡の浜方十八成組という地区に属し、網地浜、長渡浜という二つの漁村に分けられた。浜は漁村の意で、現代的には網地村・長渡村となるべきところ、当時は浜という単位で呼んでいた。
住民は漁に出るかたわら、畑を作って農業にも従事したが、食糧を自給するには足りず、外から買い入れていたと推定される。それもあって、天保の大飢饉のような時期に食糧の買い入れが途絶すると、悲惨な人口減少をきたした。
また江戸時代には浪入田金山があって採掘された。隣の田代島とともに流刑地でもあった。重罪人が流された江島に対し、網地島と田代島は近流に処せられたものが流された。気候が温暖で地形がなだらか、農業にも漁業にも適した土地であったので、罪人の中には、仙台から妻子を呼び寄せて、そのまま土着した者もいたという。
1739年(元文4年)6月20日、網地島付近にティン・スパンベアが率いるロシア帝国の第2次北太平洋大探検隊が来航する(元文の黒船)。ベーリング海峡の語源となったヴィトゥス・ベーリングが遣わした隊であり、ヨーロッパ大陸からベーリング海峡、千島列島を経て日本との通商ルートを開拓するために来航したものであった。この探検隊は、10日ほどを過ごして付近の測量などを行った。網地島の白浜海水浴場には、ベーリングの銅像が建立されている。
元文の黒船
日本の江戸時代中頃の元文4年(1739年)夏、牡鹿半島、房総半島、および伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航した事件である。アメリカ合衆国の黒船(米国東インド艦隊ペリー提督)による、嘉永期の黒船来航に114年先立つ、いわゆる「鎖国」期における、江戸幕府とロシア帝国との初めての接触であった。
ロシアの東方伸張とベーリング探検隊
ロシア帝国は16世紀末のロマノフ朝成立前後から、盛んに東方への勢力伸張を図り、シベリア以東方面へ進出した。ピョートル大帝は日本へも大いに関心を持ち、1695年にカムチャツカに漂流した日本人伝兵衛に謁見を許し、1705年には首都サンクトペテルブルクに日本語学校を開設して、伝兵衛をその教師とした。またピョートルの命によりデンマーク出身でロシア海軍大尉ヴィトゥス・ベーリング率いる探検隊が組織され、ピョートル没後の1727年にオホーツクに到着、翌年夏カムチャツカ半島から北上し、ユーラシア大陸とアメリカ大陸との間の海峡(ベーリング海峡)を通過して、陸続きではないことを確認するなどの成果を挙げていた。
1733年にはベーリングは第二次探検隊を組織。北平(北京)経由で日本へ交通路を開くための地図を作成する計画を立案する。日本への航路の探検および日本の調査のため、分遣隊長として同じくデンマーク出身のマルティン・シュパンベルクを任命した。
1738年6月18日(日本では元文3年5月13日)シュパンベルクはミハイル号、ナデジダ号、ガブリイル号の3隻150人から成る船団でオホーツクから出港したが、食糧不足により、いったん8月17日にカムチャツカ半島西岸のボリシェレツクへ引き返した。翌年改めて日本への探検を主目的とした第二次航海が行われることになり、1隻を追加して5月21日(日本では元文4年4月25日)にボリシェレツクを出港。南へ進路を取り、4日後には千島列島(クリル諸島)を通過。その後も南下を継続するが、6月14日に濃霧によりガブリイル号が船団から離れ、またウォールトン大尉率いるナデジダ号も何らかの理由によって別行動をとることになる。
日本側の異国船対策
寛永年間のいわゆる「鎖国体制」の完成により、長崎・対馬・薩摩・松前の「四つの口」を通じて行う明(後に清)・オランダ・李氏朝鮮・琉球との交渉を例外として、日本は外国と通交することはなくなり、日本人・外国人ともに出入国に厳しい制限が設けられた。当初は必ずしも永続的な法制として整備された訳ではないが、鎖国開始以来約1世紀を経た18世紀前半には、体制の常態化により「鎖国=祖法」観が形成され、異国情勢に関する情報もオランダ風説書等、江戸幕府上層部のみが得る限られたもののみとなっていた。18世紀初頭に来日したイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチを審問した新井白石の『西洋紀聞』もほとんど流布することはなかった。
しかし、紀州藩主から8代将軍に就任し享保の改革を行った徳川吉宗は、異国情報にも大きな関心を持ち、また実学を尊重する気風から、漢訳洋書の輸入禁止を緩和して、西洋情報の入手を積極的に行った。これが後に蘭学の発展に繋がっている。一方、日本近海に出没する異国船に関しては、享保2年12月1日(1718年1月2日)に黒田宣政(福岡藩主)・小笠原忠雄(小倉藩主)・毛利元矩(長府藩主)に領海内での異国船を追捕したことを賞し、引きつづき警戒を続けるよう命じ、同月末には異国船と日本商人との密貿易を断固阻止するよう命ずるなど、異国船追捕の方針を採った。土井利実(唐津藩主)・松平忠雄(島原藩主)・松浦篤信(平戸藩主)など他の北部九州諸藩にも同様の通達を行っていた。
元文の黒船来航
元文4年5月19日(ロシア暦1739年6月18日)、仙台藩領の陸奥国気仙沼で異国船の目撃情報があった。さらに4日後の23日に牡鹿半島沖の仙台湾に浮かぶ網地島にも2隻の異国船が出現した。これが上記のシュパンベルク船隊である。25日にははぐれていたガブリイル号と合流し、亘理荒浜で3隻が目撃されている。また同日には仙台藩領から遠く離れた幕府直轄地安房国天津村(現千葉県鴨川市)にも異国船が現れた。これは別行動をとっていたナデジダ号であった。ロシア船員はそれぞれ上陸し、住民との間で銀貨と野菜や魚、タバコなどを交換した。同月28日には伊豆国下田でも異国船が目撃された。その後ロシア船団は北緯33度30分まで南下し(紀伊半島潮岬に該当する)、ボリシェレツクへ帰投した。別働隊のウォールトン船も8月21日(日本では7月21日)にオホーツクへ到着。シュパンベルク隊による日本探検はひとまず終了した。この間の両国接触に関しては、ロシア側の航海日誌に詳細な記述が残され、また日本側の史料としては当時の雑説をまとめた『元文世説雑録』に収められている。
日本側では来航した異国船に対して、従来吉宗が定めていた強硬手段をとらず、まずその正体を探ることを優先した。幕府は異国船が去った後、現地住民が船員から入手した銀貨・紙札(トランプのカード)を長崎出島のカピタン(オランダ商館長)に照会した。その結果、紙札は賭け事に用いるカルタであること、および銀貨がロシア帝国の通貨であることが確認され、先の黒船がロシアによるものであることが判明した。これが日本政府がロシア帝国の存在を公的に認識した初例であり、後の嘉永年間にそれまでの外交文書をまとめた書である『通航一覧』(林健・復斎兄弟などの編纂)では「魯西亜国の事、我国において初めて聞こえしは元文四年乙未、房州奥州の瀕海へムスコウビヤ(モスクワ)の船往来し、土民へ銀銭を与へしを以て初とすべきか」とある。
その後の日露関係
元文の黒船騒動で初めての接触を経た日露両国であったが、その後樺太(サハリン)・千島のアイヌ居住地をロシア側の商人・海軍がじわじわとその勢力を伸張していった。1753年には日本語学校の日本人教授を大幅に増やしてイルクーツクに移転。これらの動きは蝦夷地(北海道)アイヌに影響を持っていた松前藩の警戒を招いた。しかし、蝦夷地収益の独占を図る松前藩は、道外や和人地からの蝦夷地への訪問を制限しており、日本人にとって蝦夷・ロシアに関する知識は極めて限られたものとなった。このような中、仙台藩の藩医工藤平助がロシア研究書である『赤蝦夷風説考』を著述(赤蝦夷はロシア人のこと)。時の政治改革を主導していた田沼意次も関心を抱き、蝦夷地調査などを開始したが、まもなく田沼が失脚したため、尻すぼみとなった。1793年のエカチェリーナ2世の時代には、日本人漂流者でロシアで保護されていた大黒屋光太夫ら3名の送還と通商開始交渉のため、アダム・ラクスマンの使節が根室に来航したが、田沼の後政権を握った松平定信らは漂流民の受け取りのみで通商は頑なに拒否して長崎回航を指示したため、ラクスマンはそのままオホーツクへ帰港した。その後も1804年にニコライ・レザノフが同様に漂流者津太夫ら4名の送還のため長崎へ来航したのち、樺太と択捉島を襲撃する事件、1811年にはゴローニン事件が起きるなど正式な国交がないまま両国は緊張を続けた。1853年の米国による嘉永の黒船来航と同時期にエフィム・プチャーチン率いるロシア使節が日本へ来航。交渉の末、1855年日露和親条約が締結され、ようやく国交が成立する。1858年の日露修好通商条約、1875年の樺太・千島交換条約により、両国関係はようやく安定することとなった。
セミョーン・イワノヴィチ・デジニョフ
(1605-1673) ロシア帝国の探検家。1648年にシベリア東部への探検隊を率い、ユーラシア大陸の東端となる岬を回航して、アジアとアラスカが陸続きでないことを発見した。これは、ヴィトゥス・ベーリングの探検に約一世紀先立つものであった。
シベリアや北極海沿岸での交易
デジニョフの生涯については1638年から1671年の間の功績しか知られておらず明らかでない部分も多いが、17世紀初頭に北ロシアの河港・ヴェリキイ・ウスチュグの農家に生まれたと伝記作者らは結論づけている。当時ロシアの北部に生まれて野心を持ったポモールの人々同様、彼も富を求めてシベリアに向かい、トボリスクとエニセイスクで働き、1638年にエニセイスクからさらに東のヤクーツクへ向かった。ヤクーツクを拠点とした20年間はデジニョフにとって厳しい時期であり、先住民から毛皮を取り立てながら北極圏の大河流域を休みなく旅する生活を送り、何度も先住民に襲われた。
1641年には15人を率いてヤナ川流域で毛皮を集めてヤクーツクに生還し、1642年にはスタドゥヒン(Семён Ива́нович Стадухин)らとともにインディギルカ川流域で税として毛皮を取り立てる旅に出た。3年にわたる任務でスタドゥヒンらはヤクーツクに戻ったが、デジニョフはそのままインディギルカ川を下り北極海に出てコリマ川河口に至った。
北極海航海
1647年、デジニョフと同じく北ロシア(現在のアルハンゲリスク州ホルモゴルイ)出身でヤクーツクを拠点とする商人フェドット・アレクセイエフ(フェドット・アレクシーヴ)・ポポフ(Попов, Федот Алексеевич)は、コリマ川河口から北極海沿いに東へ向かう航海を組織した。前年の1646年、イグナチェフ(Семён Ива́нович Игнатьев)という人物がコリマ川河口周辺の航海を行いセイウチのキバやクジラのヒゲなどの貴重な品を持ち帰っていたため、さらに東へ向かいこれらの産品を持ち帰ることを意図していた。この時デジニョフはポポフに誘われ、鉱夫や先住民からの税の取り立てを行うためにポポフの航海に同行した。彼らの目的地はおそらくはるか東のアナディリ川だったと考えられるが、海氷が行く手を阻み航海途中で引き返すことになった。
デジニョフやポポフはあきらめず、翌1648年も同じ航路に挑戦した。彼らは90人から105人ほどの探検隊を組み7隻の船に分乗してアナディリ川を目指した。彼らは10週間の航海の後にアナディリ川河口にたどり着いた。これはアジア大陸の東端を周り、ベーリング海峡を南北に通過したことを意味する。フェドット・アレクシーヴの航海の足取りは現在でも判明しているが、航海中のデジニョフの役割は記録に残っていない。デジニョフはアナディリ川を遡りアナディルスキー・オストログ(アナディリ砦)を築き地図を作製した。同年、デジニョフはアジア大陸先端の北岸に沿って航海し、アジアとアラスカの間の「アニアン海峡」(当時アジア大陸とアメリカ大陸の間にあると想像された海峡で、北西航路や北東航路などヨーロッパからアジアへの最短航路を構成すると考えられていた)を発見したと記録に残した。彼は海岸沿いにチュクチ半島を回航し、古代の地図作者が想像した伝説の「タビンの岬」(Tabin Promontorium)の詳細を記録している。またチュクチ人("Ostrova zubatykh")の住む二つの島を記録しているが、これはベーリング海峡中央に浮かぶダイオミード諸島を構成する二つの島と考えられる。彼はチュクチの人々("zubatiye")について、下唇をセイウチの牙のかけらや石や骨で飾ることを記録している。一方でポポフはこの年の秋にアナディリ湾沿岸で没している。デジニョフがどの港に戻ったかは不明である。彼は1664年にコサック隊長の称号を受けた。
晩年と業績再発見
1670年、ヤクーツクの領主ボルヤティンスキー公爵はデジニョフにモスクワへ向かいクロテンの毛皮や書類を運ぶ任務を与えた。デジニョフは1年5カ月をかけてモスクワへ到着した。彼は当時60歳を超え、辺境での生活で負った古傷と長年の疲労のため健康を害しており、1673年にモスクワで没した。
これらの探検の報告は長い間公文書館に埋もれており、19世紀の末に再発見された。これを受けてロシア地理学会はユーラシア大陸東端の岬をデジニョフ岬と名付けるよう請願を行った。
デジニョフの生涯や探検についてはなお明らかでない部分が多い。彼は探検の途中でアラスカに達しアメリカ大陸の西端を発見した可能性や、そこに砦を築いた可能性すらもあるが、それを行ったのはデジニョフより後のロシアの探検家とする見方が多い。  
 
ベーリング 2

 

17世紀前半、ロシアのピョートル1世の命令でシベリア探検を行う。ベーリング海峡に達した。
ピョートル1世がベーリングにシベリア奥地の探検を命じたのは、科学者ライプニッツとの約束があったからであった。ライプニッツは1713年、ピルモントでピョートル1世と生活を共にし、アジア大陸とアメリカ大陸がつながっているのかどうかの疑問を解決できるのは皇帝をおいていない、と進言してた。その約束を思い出したピョートル大帝は、死の3週間前にシベリア奥地探検を命じる署名をした。
第1次カムチャツカ探検
隊長に選ばれたベーリングはデンマーク生まれで海員となりインド航海などで名を挙げ、皇帝によってロシア海軍に採用されていた。1725年2月ペテルブルグを出発、3年以上の日時をかけてニジネ・カムチャツカに着き、そこで探検船聖ガブリール号を建造し、1728年8月15日に北緯67度18分に達し船首を南に転じた。ベーリングはこれで海峡の存在は明らかになったと考えたが、アメリカ大陸を確認することなく帰路に着き、1730年3月1日にペテルブルグに帰還した。
第2次カムチャツカ探検
第1次探検では海峡を発見したが、アメリカ大陸を確認することができなかったので、再度探検隊を派遣することとなり、再びベーリングが指揮を執ることになり、他に多数の学者が同行、学術探検隊の様相を呈した。第2次探検隊は当時のロシアの総力を挙げたもので大北方探検と言われ、600人が参加し、1733〜43年の10年間を要する大事業であった。その任務の一つには、カムチャツカから日本までの距離を測定することも含まれていた。
1733年、第2次探検隊はペテルブルクを出発、ヤクーツクに補給基地を設けるなどの準備をしながら3年すごし、37年にオホーツク海に面したオホーツクに到達、そこで探検用の船舶の建造にさらに3年を要し、ようやく1740年、2隻の探検船が出航した。嵐のオホーツク海を横断してカムチャツカ半島南端をまわり、良港を見つけてペトロパブロフスクと命名して越冬した。当時、カムチャツカ半島の対岸には「ガマの陸地」あるいは「エゾ」と言われる陸地があるという説があったので、それを確かめるべく、東方の大海に乗り出したが、陸地は見つからなかった。途中濃霧のため二隻は離れ離れになり、ベーリングの乗った船はさらに北東に進んだところ、7月16日に陸地を発見し、はるかかなたに「高い山」がみえた。現在の北米の最高のセント・エリアス山である。
探検隊のアラスカ上陸
1741年7月20日に上陸したのは現在のアラスカの南岸にあるカヤク島であった。60歳を過ぎていたベーリング自身は陸地を発見しただけで満足し上陸せず、すぐ引き返すことを命じたが、同行した学者のステラーは強硬に上陸を主張し、数人の士官とともに上陸し、原住民の生活の痕跡を見つけたが、ベーリングから短時間の上陸しか認められていなかったので、やむなく原住民と接触することをあきらめ、船にかえった。ともかくもこれが、ロシアの探検隊が北米大陸、アラスカに上陸した第一歩だった。年老いて体調の思わしくなかったベーリングは帰還を急がせた。しかし台風に襲われ、また病人のつぎつぎと出て高校が難しくなり、途中の無人島に上陸した。現在のアリューシャン列島のいずれかの島であったが、どこかは判らない。ベーリングも上陸したが、すでに体力を消耗しており、12月8日に死亡した。探検隊はその後も嵐に悩まされながらペトロパブロフスクに帰還し、1743年にペテルスブルクに戻った。<加藤九祚『シベリアに憑かれた人々』岩波新書 P.31-101>
砂に埋もれて死んだベーリング
アリューシャン列島の無人島で死んだベーリングの最後は、先任士官のワクセルが次のように伝えている。
(引用)隊長ベーリングは12月8日に死亡した。彼の遺骸は板にしばりつけられ、土に埋められた。他の死亡者はすべて板なしで葬られた。隊長ベーリングの最後の悲惨な状況については記述するにしのびない。彼の体の半分は、その生涯の最後の日にすでに半分埋められていた。言うまでもなく、こうした状態における彼を援助する方法はあったが、土中に深くかくされた体の部分は暖かいが、表面に出ている部分はひどく冷たいと言って、助けを望まなかった。彼は、ひとりだけ別に小さな砂の穴――地下小屋に横たわっていた。その穴の壁からは絶えず砂が少しずつくずれ落ち、穴を半分ほども埋めていた。彼は穴の中央にねていたので、体の半分が砂に埋まることになったのである。
ベーリングの墓は正確には不明である。後にロシア領アメリカ会社によって、彼の墓と推定される場所に木の十字架が立てられ、1944年コンクリートの基台と金属製の十字架に代えられた。  
 
ベーリング探検隊と元文の黒船 1

 

1738年、ロシア第二次ベーリング探検隊日本分遣隊が、陸奥・安房に上陸して立ち去るという事件がありました。仙台藩においては出陣するまでの大騒動となり、現在日本において「元文の黒船」と呼ばれています。
江戸時代の日本はいわゆる鎖国状態でしたが、日本近海は多くの外国船が航行していました。長大な沿岸線を持つ日本列島ですので、全域を鎖で閉じれるわけもなく、あちこちで偶発的にも意図的にも外国船との違法な交流が行われていたものと思います。しかし違法行為を公の記録に残すわけもないため、知りたくても日本の文献からはなかなか交流の記録が見つけられません。
そんな中にあって、日本側の史料も見つけやすく、外国船側も国家の任務を帯びて日本に接近しているので、文献や航海日誌などから時期や場所が特定しやすい「元文の黒船」について調べてみました。日本側と外国船側の史料を対比してみるにはとてもいい事例ですので、どのように記述が違うか対比してみたいと思います。
「元文の黒船」事件を、第二次ベーリング探検隊日本分遣隊を派遣したロシア側の概況と、日本における「元文の黒船」騒動の詳細に分けて書きたいと思います。とりあえず、今回はロシアが日本に探検隊を派遣した経緯について書きます。
第一次ベーリング探検隊
モンゴルの支配から独立したロシアは、ヨーロッパとアジアの境であるウラル山脈を越えて東へと進み、17世紀中ごろには極東沿海州に到達していました。
世界中の海が探検され世界地図が作成されつつあった17〜18世紀において、唯一未確認の空白地帯であった北太平洋地域まで進出したロシアに、ヨーロッパの学者たちは地図上の空白地域の探検調査を期待しました。
微分積分法で有名な哲学者ライプニッツなどは再三にわたって、ロシア高官へ探検調査の必要性を説いています。その期待に応えるかたちで、ピョートル大帝は「北平洋から中国・インドへいたるルートの発見」を目的とした探検隊組織の勅命を下しました。
探検隊の隊長はベーリング海峡の名にもなったデンマーク人ベーリングでした。ベーリングは目的としていたアジアとアメリカを隔てる海峡(ベーリング海峡)を通過していましたが、それを確認することができる地点まで到達できなかったのでそのことに気付かず、新たな探検計画を提出しました。
第二次ベーリング探検隊
ベーリングの新たな探検計画は、ロシアの国家プロジェクト「大北方探検」の一部に組み込まれました。「学術探検」「第二次カムチャッカ探検」ともいわれる「大北方探検」は、それまでのヨーロッパ諸国が組織したいかなる調査隊と比較しても類のない大規模なもので「白海のアルハンゲリスクからユーラシア大陸北辺沿岸を経て極東地域、日本に到るまでの広範囲な地域を、学際的(博物・天文・地理・動物・歴史など)に研究する」というものでした。この「大北方探検」の海路の探検隊として、第二次ベーリング探検隊は組織されました。
探検隊はアメリカ沿岸調査隊、日本分遣隊、シベリア北岸調査隊に分けられていました。ちなみにアメリカ沿岸調査隊がベーリングの本隊であり、べーリングも含む多くの死亡者を出しながらもアメリカ大陸に到達してアラスカ・アリューシャン列島の探検調査に成功しました。
日本分遣隊
1733年、日本分遣隊隊長にはシパンベルグが就任し、
◾ 千島列島を南下して日本への航路を発見すること。
◾ 日本に到達しその政府と港湾施設を研究し、住民と友好親善し交易を試みること。
◾ カムチャッカにて日本人漂流民がいる場合はこれを日本へ送還し親睦の証とすること。
が、任務とされました。日本分遣隊は1734年にオホーツクへ到着。そこで三年をかけ三隻の船をつくり探検準備を整えました。北方領土付近まで南下する予行演習ともいえる航海を行い、1738年カムチャッカ半島西岸の港へ入港しました。ここで一隻の船を加えて日本分遣隊は四隻からなる探検隊となりました。
1739年5月上旬、カムチャッカ半島西岸を出発した日本分遣隊は、一隻がはぐれてしまいましたが、三隻と一隻で個別に日本を目指し南下しました。6月下旬には、三隻が宮城県沖に、一隻が房総沖、伊豆沖、紀伊半島沖に到達することになります。
ながながと書かせて頂きましたが、ロシアはヨーロッパにおける地理的空白地帯解消の欲求と自国の極東経営のため、大規模な探検調査を計画し実行しました。その調査隊の一部が日本に来た「元文の黒船」になります。ロシア艦隊の担い手は、艦隊長のベーリング(デンマーク人)をはじめほとんどが外国人でした。まだ未成熟であったロシアに独力で大探検をおこなう力がなかったことがわかります。しかしロシアはこの時期を経て大国へと移行していきます。 
 
ベーリング物語 2

 

デンマーク生まれのロシアの探検家・航海家ベーリング船長は2度にわたって極東シベリア海域の探検隊の指揮をとり、1728年ベーリング海峡の西端デジネフ岬を回航、アジアとアメリカの間が海で隔てられていることを発見し、1741年の第2回目の探検航海ではアラスカを視認・上陸。その後、病に倒れて、コマンドル諸島の無人島で亡くなり、ベーリング島と名付けられたその島に葬られました。
ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング (1681/8/12〜1741/12/19)
   Vitus Jonassen Bering
   大北方探検隊(ベーリング探検隊)隊長
   ロシア帝国海軍大尉
   デンマーク人 ホルセンス生、ベーリング島:60才没
ベーリング船長はデンマークのユトランド半島の町ホルセンス(Horsens Jutland Denmark)で子だくさんの家に生まれ、兄弟達と同じように、早くから海に出ました。アムステルダムで勉学したという説もありますが、東インド航路の帆船で働きました。ちょうどその頃、ロシアはピョートル大帝がスウェーデンと大北方戦争(1700-21)を戦っており、1703年22才でロシア海軍に士官(sublieutenant 少尉)で入隊し、バルチック艦隊の所属となってスウェーデン海軍と戦いました。1710〜1712年の間は大尉(Captain)でアゾフ艦隊(Azov Sea Fleet)に転属して、オスマン帝国との戦い(Russo-Turkish War)のタガンログ(Taganrog)の戦いとプルート川の戦い(Pruth River Campaign 1710-1711)に従軍しました。1712年に再びバルチック艦隊に転属になりました。1715年にベーリング大尉がコペンハーゲンでブルロ号を購入してクロンシュタット軍港に運んだことや、アルハゲリンスク港で建造されたセロフィル号をノルウェイに回航させたことなどがドルゴスキー公爵の目にとまって、ピョートル大帝に手紙で報告されていました。
1721年に大北方戦争がロシアの勝利で終結すると、ロシアはニシュタット条約(Treaty of Nystad 1721/9/10)でバルチック海のへの進出を果たし海港を確保(覇権を取得)して、多くの軍人が昇進しましたが、ベーリング大尉には昇進の沙汰がありませんでしたので、ロシア人女性アンナ・マトヴェエヴナ夫人と子供を連れて、一度故郷に戻ろうと思って、1724/8/7に国境通過の許可を取り付けました。ところが故郷を離れて20年以上も経て、何の縁故もないので今更どうしょうもないと考え直して、ロシア海軍に復帰できるように運動しました。大北方戦争で活躍したノーム・セニャーヴィン提督(Naum Akimovich Senyavin 1738-1727、セニャーヴィン提督の大叔父)などの支持をとりつけ、バルチック艦隊に復帰し、43才(1724/8/14)で大尉(1等大尉)に任官して分遣艦隊司令官(captain-commander)に任命されました。1725/1月にピョートル大帝はシベリアとアメリカの関係を明瞭にするための探検隊を組織し、44才のベーリングを隊長に任命し、アジアと新大陸くとの関係を明らかにし、ホーマンの地図にある北方へ伸びている陸地「ガマの陸地」(Joao-da-Gama-Land)が不明な新大陸アメリカなのかどうかを調査することを命じました。ベーリングはピョートル大帝没後に重臣アプラクシンの手によって、2/3頃に極東シベリア探検命令書を受領しました。
・ピョートル大帝の極東シベリア探検命令書
 (皇帝の自書といわれている)1725/1/18署名
(1)カムチャッカまたはその地域で1〜2隻の甲板を有する船を造ること。
(2)その船で北方へ伸びている陸地沿いに航海すること。その陸地はアメリカの一部と考えられる。
(3)その陸地がアメリカに接続する地点、あるいはヨーロッパ領の植民都市まで航海せよ。もしヨーロッパの船に出会えば、彼らからその海岸の名称を聞き、それを書きとめ、自らも上陸してさらに詳しい情報を入手し、地図に書き込んで帰還すること。
■第1回探検航海
第1回航海はセミョン・デジニョフ船長の航海から80年後の1725年から1730年にかけて、ベーリング隊長がオホーツク(Okhotsk)、カムチャツカ(Kamchatsk)への遠征探険隊を指揮して、サンクト・ぺテルブルグ(レニングラード)を出発。1万kmの悪路を陸路でヨーロッパからシベリアを横断した後、オホーツクまでの旅はレナ川(Lena 4,400km)と支流アルダン川(Aldan 2,273km)を通ってジュグジュル山脈(Mt.Dzhugdzhur 最高地点:トプコ山(Tonko)1,906m)を越え、約19ヵ月後の1726/10/1に太平洋への出口オホーツク海々岸オホーツクに辿り着き、そこで越冬しました。そこで遠征隊はカムチャッカを目指すべく、ホーツク港で建造中のシーチク(Shitik 10mx4mくり抜いた太い丸太の両側に側板張の無甲板平底船)2隻を仕上げて、フォルトゥーナ号(Fortuna boat-shitik=フォーチュン:Fortune)と名付け、カムチャッカ半島西岸のポルシュレック(Bolsheretky 集落14戸)へ海路で到達。そこから陸路で半島を900kmも川沿いに横断してニジニ・カムチャッカ(Yujin-Kamchatsky 集落50戸)に到達。そこでサンクト(聖)ガヴリール号(Sviatoy Gavriil)を建造。1728/7/14にベーリング船長はサンクト・ガヴリール号に乗船して、第1回の探検航海に出帆。デジニョフ船長とは逆向きに、1728年夏にカムチャツカ半島東岸から北に向けて出帆し「ガマの陸地」の発見を目指しました。その途上でアナディル湾、8/10にサンクト・ラヴレンチイ島(St. Lavrentij island=現在のセントローレンス島)などを発見。船はそのまま北上し、1728/8/14にはロシア名「デジネフ岬」(東岬)を回航後にチュクチ海(Chukchi Sea)に突入して、アジア大陸が終焉している(海峡となっている)と信じ、デジニョフ船長が確認していた海峡中央部の島もベーリング船長が、1728/8/16に再発見してダイオミード諸島(Diomede Islands)と名づけました。また荒涼と凍結する未知の海岸での越冬を避けるため「北緯67度18分」の地点で引き返して、1729年一行はカムチャツカ湾に帰港・越冬。翌年夏にカムチャツカ半島の南端のロパトカ岬(Cape Lopatka)を回り、オホーツクを経由して、1730/3月にベーリング船長は重い病気に冒されながらもサンクト・ペテルブルグに帰還しました。東方の陸地の存在を確認することなく帰路に着いたので、その結果が不十分で勇気に欠けるとの非難を受けました。1732年には再度の探検を要請しました。
第1回探検隊の主な参加者
・海軍大尉ヴィトゥス・ベーリング隊長(総司令官)
・海軍中尉アレクセイ・チリコフ副隊長(副司令官)
・海軍中尉マルティン・シュパンベルグ (Martin Spangberg ?-1761)技師長(造船・操船術)、デンマーク生
・海軍少尉候補生ピョートル・チャプリン (midshipman Piotr Chaplin)1725/1/25出発〜1730/3/1帰還
・ツングース族 (Tungus、シベリアで現地徴発の犬ソリ隊)〜途中で逃亡
・カムチャダル族 (Kamchadal、シベリアで現地徴発の犬ソリ隊)〜途中で逃亡、など
第1回探検航海(1725-1730)
1725年
01/18、ベーリング船長が極東カムチャッカ探検隊々長に任命される。その後、チリコフ中尉が副隊長に指名され、シュパンベルグ中尉が技師長(造船・操船術)に指名される。
01/25、チリコフ中尉とチャプリン候補生とが25人と資材をサンクト・ペテルスブルグから先発。
02/14、ベーリング隊長とシュパンベルグ中尉など5人がヴォログダ州ヴォログダ(Vologda)でチリコフ隊に合流、そこからオホーツク港まで9000kmを陸路踏破することになる。
馬車は西シベリアのチュメニ州トポリスク(Tobolsk Tyumen)迄、現地調達不可資材は大砲、弾丸、弾薬、帆、柵具、錨、鎖造船用の釘など馬車33台分、マコスキー棚柵からエニセイ川河畔エニセイスク(Yeniseysk)迄の運搬に馬160頭をチャプリン候補生が発注して馬匹の荷駄(@80kg)とし、雪上は橇(@100kg)を人が引く。
1726年 バイカル湖北のイルクーツク着
06/01、ベーリングがサハ国(Sakha Republic)のレナ川河畔ヤクーツク(Yakutsk)着。
10/01、ハバロフスク地方オホーツク(集落10戸)に到着、宿営用の小屋を建設。
10/18、ヤクーツクから送られた663頭の荷駄の内、396頭の荷駄がオホーツクに着く(他は途中で喪失)。
1927年
01/31、主力資材運搬のシュパンベルグ隊がホーツクに到着、食料不足で徴発のツングース族は犬を連れて途中逃亡、ホーツク港で建造中のシーチク(平底船10mx4m)2隻を発見、完成、進水させて1隻をフォルトゥーナ号(フォーチュン)と命名。
06/30、シュパンベルグ中尉がフォルトゥーナ号ともう1隻で資材食料をカムチャッカ半島西岸のポリシャヤ川(Bolshaya 297km)河口のポルシュレック(Bolsherechye)へ海路輸送。
07/03、ベーリング船長がフォルトゥーナ号ともう1隻で資材食料をポルシュレックへ海路輸送。
09/03、副長のチリコフ中尉隊も合流して、全隊員がポルシュレックに到着、船が小さいので、ベーリング隊長はカムチャッカ南端のロパトカ岬の回航を採用せず、陸路900kmを横断、東岸のニジニ・カムチャッカへ踏破、行程は氷結前にポリシャヤ川を遡上後、最上流から犬橇で分水嶺を越え、カムチャッカ川(758km)を東へ下る、夜間は雪洞でブルガ吹雪を避けて野営、カムチャダル族は賃金無し同然の上に、狩はできず、犬全滅で大被害で逃亡。
1728年
03/11、ペテルスブルグから3年以上かかって、ニジニ・カムチャッカ到達
04/04、小型帆船コッチのサンクト・ガブリール号の建造を始める(Saint Gabriel、長さ18.3m 幅6.1m 吃水下2.3m)。
06/09、サンクト・ガブリール号が進水、40人分の食料1年分を船積み
07/14、ベーリング、チリコフ、シュパンベルグ、チャプリンら士官など44人で、ニジニ・カムチャッカを出帆、北へ航海、ホーマン地図にある「ガマの陸地」は不明のまま航海を続行、カラギン湾(Karaginsky Gulf)沖を航行カラギン島(Karaginskiy Island)沖を航行、カムチャッカ半島東岸と同島の間の海峡を後にリュトケ船長が探検、リュトケ海峡と命名。
07/29、当時知られていたアジア最東端のアナディル川河口(Anadyr River)沖を航海、アナディル湾(Anadyr bay)沖を航行、クレスタ湾(Kresta Bay)沖を航行。
08/10、聖ローレンスの日にセントローレンス島(St. Lawrence Island)を発見・命名。
08/14、ロシア名デジニョフ岬(East Cape)を回航、(ベーリング海峡を突破)34日間の航海で2377kmを帆走、チュクチ海へ突入 デジニョフ東岬と氷海。
08/15、士官会議でシュパンベルグ中尉は「今日を限度で帰還」と主張、副長のチリコフ中尉は「北極海のコリマ川(Kolyma 2,129km)河口行き」を提案するも、濃霧の中で、ベーリング司令官は海峡となっていることを信じて安全策の採用を決定。
08/16、濃霧の中で、”北緯67度18分”から南へ転舵、帰路につく。そこが後にベーリング海峡と命名される、ロシア正教タルソスの聖ディオメデス祝日(英:聖ダイオミード、8/16)に1648年のデジニョフ報告によるダイオミード諸島(Diomede Islands)を再発見、命名。
09/01、カムチャッカ川河口に帰港、ニジニ・カムチャッカで越冬。
1729年
07/23、オホーツク着、イルクーツク着。
08/29、ヤクーツク着。
1730年
03/01、ペテルスブルグに帰着
04月、海軍省に詳細な探検報告書を提出。元老院が濃霧で”アラスカを視認”していないとして、探検の不十分さを非難しました。
第1回探検の行程
陸路:ペテルスブルグ〜ヴォログダ州〜チュメニ州〜タタールスタン国〜クラスノヤルスク地方〜イルクーツク州〜サハ国〜ハバロフスク地方オホーツク到着
航海:オホーツク出帆〜カムチャッカ半島西岸ポルシュレック〜
陸路:カムチャッカを横断〜東岸ニジニ・カムチャッカ到着、探検船2隻を建造
航海:ニジニ・カムチャッカ出帆〜カラギン湾〜アナディル湾〜クレスタ湾〜セントローレンス島〜デジニョフ岬〜ベーリング海峡〜チュクチ海〜ベーリング海峡〜ダイオミード諸島〜ニジニ・カムチャッカ帰港〜オホーツクへ航海
帰路:オホーツク〜ヤクーツク〜イルクーツク〜ペテルスブルグに帰着
■第2回探検航海
第2回カムチャツカ探検(大北方探検)は1733〜1743年にかけて行われました。隊長ベーリング船長と副隊長チリコフ船長は2隻の帆船でアメリカ大陸を目指しましたが、2隻は嵐ではぐれ別行動をとり、サンクト・ピョートル号のベーリング船長達はアラスカ南岸を視認した最初のヨーロッパ人となり、サンクト・パーヴェル号のチリコフ船長達はアラスカ南岸に上陸した最初のヨーロッパ人となりました。チリコフ船長はロシアに帰還するも、ベーリング船長は途中で帰らぬ人となりました。
1733年にロシア政府は多くの専門家を動員した大規模な第2次カムチャッカ遠征隊(大北方探検隊1733-1742)を編制し、隊長(総司令官)にベーリング船長を指名しました。ベーリング船長は北平(北京)経由で日本へ交通路を開くための地図を作成する計画を立案していたともいわれています。1733/4月にベーリング船長は副隊長のチリコフ船長と、日本クリル探検支隊(日本とクリル列島(Kuril Islands 千島列島)への海路探索の地図作成)の任務を受けたマルティン・シュパンベルク達と共に、ロシアとアメリカ大陸北部沿岸の調査のために2度目の探検にぺテルブルグを出発。ベーリング船長は心を許せない士官、手に負えない人夫達、命令を聞かない科学者の集団を抱えてのシベリア横断で悪夢のような3年間を過ごしたと伝えられています。1741/6月にオホーツクで建造した2隻の船隊、サンクト・ピョートル号(聖ペトロ号)とサンクト・パーヴェル号(聖パウロ号)を指揮してオホーツク港を出帆し、海路でカムチャッカ半島東岸に向いました。1740年にベーリング探検隊はカムチャツカ半島の太平洋岸を調査し、アバチャ湾(Avacha Bay)に到達・発見しました。そのアバチャ湾奥に上陸した所を、その時の2隻の探検調査帆船サンクト・ピョ−トル号(Saint Peter:聖使徒ペトロ号(Saint Peter the Apostle):スヴャトーイ・アポーストル・ピョートル)と僚船サンクト・パーヴェル号(Saint Paul:聖使徒パウロ号(Paul the Apostle):スヴャトーイ・アポーストル・パーヴェル)に因み、”ペトロバブロフスク”(Petropavlovsk)と名付けました。それが現在のペトロパブロフスク・カムチャツキーの起源になりました。
1741/7/4にベーリング船長の率いる2隻の船隊、サンクト・ピョートル号と、チリコフ船長の率いる僚船サンクト・パーヴェル号がアメリカ大陸を目指してペトロバブロフスクを出帆。1741/6/20に深い霧と嵐のために2隻の船はお互いを見失い、2隻は離れ離れになりました。サンクト・ピョートル号はアラスカ南岸に到達、1741/7/16アラスカの陸影を視認。数日後アラスカのカヤック島に上陸(1741/7/17説有)。その後、カムチャッカに向かい、発見した陸地を海図に記入しながら南西方向へ航海を続けましたが、ベーリング船長は1741/8月末に発病し船室から出られなくなりました。サンクト・ピョートル号はさらに南西に向かい、アリューシャン列島の一部の島々を発見し、1741/8月末にシュマージン諸島の島の一つに上陸。そこで一週間を過ごし、土地の住民のアレウト人とはじめて遭遇しました。また、壊血病で命を落とした乗組員のシュマギンを島に葬り、その名にちなんで、その島をシュマギン島(現:シュマージン諸島 Shumagin Islands)と名づけました。大嵐に見舞われて、1741/11/4にコマンドルスキー諸島の無人島の海岸線を視認後に漂着。破損した乗船と多くの病人を抱え、ベーリング船長自身も重い病いのなか、その島に上陸しました。その島にいた海牛(巨大ジュゴン)を獲って飢えをしのぎながら越冬しましたが、ベーリング船長は1741/12/8に60才で亡くなり、その島に葬られました。後にその島がベーリング島と名付けられました。
一方、チリコフ船長のサンクト・パーヴェル号はアラスカ州最南部、アレキサンダー諸島の現在のシトカ市付近に、1741/7/15に到達しました。ベーリング隊は船医の博物学者ステラー博士とワクセル中尉に率いられて、生きのびた乗組員がカムチャッカへ戻りました。ステラー博士は途中で亡くなりましたが、ワクセル中尉と生存者達がアザラシやラッコなどの毛皮を持ってペテルブルグに生還しました。ベーリング探検隊の探検によって、北アメリカのアラスカ南岸方面が世界でもまれに見る良質の毛皮の産地であることが分かり、ロシア人は早速アザラシやラッコの漁を始め、アラスカ沿岸に植民しました。ベーリング島の海牛はステラー博士の研究報告でステラーカイギュウと名付けられましたが、乱獲によって間もなく絶滅しました。ベーリング船長の第2回カムチャツカ探検隊にはセミョン・チェリュスキン達のシベリア最北端探検への分遣隊も参加していました。
第2回探検隊の主な参加者
大尉ヴィトゥス・ベーリング船長(隊長・総司令官)、デンマーク人〜サンクト・ピョートル号
・アンナ夫人はヤクーツクから、ペテルブルグへ(1734/10)戻る
・博物学者ゲオルグ・ステラー博士(Georg Wilhelm Steller 1709-1746)、ドイツ人
・中尉スヴェン・ワクセル(Sven Larsson Waxell 1701-1762)、スウェーデン人
サンクト・ピョートル号の先任士官
・チハチョフ(Tsjichatsjov)、ブラウチン(Brouchin)、ヒトロヴォ(Khitrovo)など
・大尉アレクセイ・チリコフ船長副隊長(副司令官)〜サンクト・パーヴェル号の探検航海
日本クリル探検支隊
・大尉シュパンベルク船長、デンマーク人〜アルハンゲル・ミハイル号の探検航海
・シェルチェング船長〜ナデジダ号
・中尉ワルトン船長〜聖ガヴリール号の探検航海
別動隊 〜博物学者など科学者グル―プ
分遣隊 〜セミョン・チェリュスキン〜タイミル半島と北極海岸探検
第2回探検航海(1733-1742)
1733年、第2次大北方探検隊(Great Northern Expeditions of Vitus Bering)を組織。
03/06、第1班、第2班がサンクト・ペテルスブルグを出発。
03/07、第3班、第4班がペテルスブルグを出発、いづれも馬橇を引いて陸路でシベリアへ向う。
04/18、ベーリング船長と夫人アンナがペテルスブルグ出発。
05/03、トヴェリ着、ノヴゴロド(Novgorod)着。
07/14、カザン(Kasan)着。
08/08、別動隊の科学者達がペテルスブルグを出発。
11月、エカチェリングブルグ(Jekaterinburg)着。
12月、チュメニ(Tyumen)着。
1734年
01月、シベリアの中心都市トポリスク(Tobolsk)着、ベーリング隊はヤクーツクへ出発、別動隊の科学者達は清国との国境の街キャフタ(Kyakhta)へ向う。
1735年、別動隊がイルクーツク(Irkutsk)着。
10月、ベーリング隊がレナ河畔ヤクーツク(Yakutsk)着、別動隊の到着を待つ、ヤクーツクを基地として資材を集結、鉄工所を建設、探検準備でヤクーツクに3年間滞在。
1736年
09月、別動隊がヤクーツク着。
1737年
ベーリング船長がオホーツクへと出発、アンナ夫人はペテルブルグへの帰路に着く。
09月、ベーリング隊がオホーツク着、シュパンベルグ大尉の監督で
・アルハンゲル・ミハイル号(1本マスト長さ18.3m)を建造
・ナジェジダ号(3本マスト長さ21.3m)を建造
・フォルトゥーナ号(第1回使用の1本マスト古い船(平底船シーチク:10mx4m)を修理
・聖ガヴリール号(第1回使用の1本マスト古い船(コッチ船:長さ18.3m)を修理
シュパンベルグ大尉隊が食料不足で出帆出来ず。
10/4、フォルトゥーナ号がカムチャッカからの食料受け取りにボルシェレックへと出帆。ボルシェレック(Ust Bolsheretky)付近でフォルトゥーナ号が嵐に遭遇、岩に激突・沈没。
1738年
07/13、日本クリル探検支隊のシュパンベルグ船隊がオホーツクを出帆。
・日本クリル探検支隊の航海 / 〜1738/7/13〜1739/8/29
 日本側の目撃情報が1739(元文4)年の「元文の黒船」として有
1739年
08/22、日本クリル探検支隊の聖ガヴリール号ワルトン船長がオホーツクに帰港。
08/29、日本クリル探検支隊のシュパンベルグ船隊3隻がオホーツクに帰港。
11/19、シュパンベルグ船隊の「日本航海の報告書」をロシア政府へ発送。
1740年
ステラー博士がオホーツク着。
06月、同型船の2隻が完成、進水。
・サンクト・ピョートル号(Saint Peter:聖使徒ペテロ号〜ベーリング船長 スヴャトーイ・ピョートル・アポーストル:Sviatoi Piotr the Apostle)
・サンクト・パーヴェル号(Saint Paul:聖使徒パウロ号〜チリコフ船長 スヴャトーイ・パーヴェル・アポーストル:Sviatoi Pavel the Apostle)
装備:3本マスト、長さ24.4m、排水量約100屯、
装備:小型砲14門のパケット船 packet boat サンクト・ピョートル号
09/06、ベーリング船長がサンクト・ピョートル号、先任士官スヴェン・ワクセルとステラー博士乗船。チリコフ船長がサンクト・パーヴェル号で、それぞれ1隻の補給船を随伴してオホーツクを出帆、カムチャツカ半島最南端のロバトカ岬を回航してカムチャツカ半島東岸を北上航海。
10/06、嵐をついてアバチャ湾(Avacha Bay)に到着、前年夏先発のイワン・ニコラギンが出迎え、探検隊はアヴァチャ湾の奥にキャンプを設営し、静かな天然の良港に感動して乗船に因んで、ペトロバブロフスクと命名その場所が現在のペトロパヴロフスク・カムチャツキーの起源となる。ペトロパブロフスクで越冬してポルシェレックから食料などを輸送。
1741年
04/18、「ベーリング探検隊の活動報告書」をロシア政府宛に発送、ベーリング、チリコフ、チハチョフ、ワクセル、ブラウチン、ヒトロヴォの署名を付ける。
05/04、士官会議で航海方針を決定、北緯46度まで東南東(East by South East)へ航海、幻の陸地(ガマの陸地)を目指す、無ければ東北へ航海することを目論む。
06/04、サンクト・ピョートル号は、77人と6ヵ月分の食料で、サンクト・パーヴェル号は、75人と6ヵ月分の食料でペトロパブロフスク港を出帆。
06/12、北緯46度の「幻の陸地」の予想場所に到着するも陸影は無く、北へ航海、東経178度付近で濃霧が発生して両船は共に船影を見失い別々に東へ航海。
07/16、北緯58度17分東経142度10分でアラスカの陸影を視認、高山(セント・エリアス山 5,489.1m)を望見。
07/17、サンクト・ピョートル号はアラスカ南岸に到達。
07/17、ペトロパブロフスク出帆後、2950kmの航海で北緯58度44分の陸地、アラスカ南部のカヤック島(Kayak Island)南西端に水汲みと偵察に上陸、同島の南西端の岬をセント・エリアス岬(Cape Saint Elias)と命名、サックリング岬(Cape Suckling)に上陸。
07/20、ステラー博士が調査のため当番兵1人と上陸、植物標本を採取。
07/21、カヤック島を出帆、帰途に着く、ベーリング船長が発病し体調が悪くなる。
08/30、シュマージン諸島で飲料水補給に上陸、自然と住民の観察調査。
08/31、サンクト・ピョートル号乗組員ニキータ・シュマージン(Nikita Shumagin)が壊血病で亡くなったので、シュマージン諸島のナガイ島(Nagai Island)に埋葬して、諸島の名前をシュマージン諸島と命名。ベーリング船長の病状が悪化して船室から出られなくなる。
09/04、シュマージン諸島最南端の島でアレウト族がバイダルカ(皮船、シーカヤック)で近づいてくる、6艘のボートで上陸。
09/06、船はアリューシャン列島を離れて西に向かって航海を続ける。
第2回探検の行程
ベーリング隊はトボリスクからヤクーツクへ
陸路:ペテルスブルグ〜トヴェリ〜ノヴゴロド〜カザン〜エカチェリングブルグ〜チュメニ〜トポリスク〜ヤクーツク〜3年間滞在〜オホーツク到着〜探検2隻を建造
航海:オホーツク出帆〜ロバトカ岬〜アバチャ湾〜越冬〜ペトロパブロフスク命名 ペトロパブロフスク出帆〜北緯46度東経178度付近で濃霧〜カヤック島〜シュマージン諸島ナガイ島〜アリューシャン列島を離れて西に向かって航海
別動隊(科学者)
陸路:トポリスク〜セミパラチンスク〜クズネツク〜エニセイスク〜クラスノヤルスク〜ウディンスク〜イルクーツク〜バイカル湖〜キャフタ〜アルグン〜イルクーツク〜ヤクーツク
分遣隊 〜北極探検隊
サンクト・ピョートル号
スヴャトーイ・ピョートル・アポーストル:Sviatoi Piotr the Apostle)、1740
船 型  パケット船改良型探検船(packet boat for expdition)
帆 柱  3本マスト
長 さ  24.4m
排水量  約100屯
武 装  砲14門
乗 員  77人
積載物資  食料6ヵ月分
別動隊 (博物学者など科学者グル―プ)
1734年
01月、別動隊の科学者達はトポリスクから清国との国境の街キャフタ(Kyakhta)へ向い、セミパラチンスク(Semipalatinsk)へ行き、トモスク(Tomsk)近郷のクズネツク(Kusnezk、現在のノヴォクズネツク:Novokuznetsk)、エニセイスク(Yeniseysk)、クラスノヤルスク(Krasnoyarsk)、イルクーツク州のウディンスク(Udinsk)着。
1735年
03月、別動隊がイルクーツク州のイルクーツク(Irkutsk)着、バイカル湖(Lake Baikal)を回って清国との交易を学びにバイカル湖の東ザバイカルからキャフタ着。チェチェン国(Chechen)のアルグン(Argun)からイルクーツクへ出発。
■遭難 ベーリング島に漂着
第2回カムチャツカ探検(大北方探検)でサンクト・ピョートル号はアラスカを視認(セント・エリアス山)後、カヤック島に上陸。1741/9/6にアリューシャン列島を離れて西に航海するも、大嵐に遭い漂流の末、11月にコマンドルスキー諸島の無人島に流れ着きました。船は帆が痛み、乗組員達は壊血病に苦しむなかで、一行は船を放棄してそこで越冬しました。その間に多くの乗組員が壊血病で次々と亡くなり、またベーリング船長自身も壊血病で亡くなり、帰らぬ人となって島に葬られました。後に、この島は船長に因んでベーリング島と名づけられました。
ベーリング船長達がベーリング島に上陸した時には、あまり木や潅木の類は見られなかったと伝えられています。キツネやライチョウの他に大型哺乳類の海牛(ジュゴン)、後にステラー博士の研究報告でステラーカイギュウ(Steller's Sea Cow)と命名された巨大海獣が生息していて、天敵のいない海牛の繁殖地の動物天国でした。乗組員達は、この怪獣を食料として越冬しました。生き残った乗組員達は座礁、大破したサンクト・ピョートル号の残骸の廃材で小型の船を造って聖ピョートル号と名付けました。1742/8/13に生存者が島を脱出のために出帆。14日後にペトロパブロフスクに到着・帰港しました。なお、同年サンクト・ピョートル号乗組みの探検隊員77人の内、45人がペテルブルグへの帰還を果たしました。
1741年
09/06、サンクト・ピョートル号がアリューシャン列島を離れて西に向かう。
09/25、大暴風雨に遭遇、漂流を始める。
10/13、病人が21人となる。
10/14、病人が24人となる。
10/16、病人が28人となる。
10/18、病人が32人となる。
10/25、ベーリング船長がキスカ島(Kiska Island、別名:鳴神島)を発見。
11/05、病人が49人となる。
11/07、サンクト・ピョートル号がベーリング島に漂着、その無人島に上陸。島には樹木は無くキツネと海牛(巨大ジュゴン)の繁殖地で動物天国。重病者から先に島に上陸。次のボートで上陸してみると、病気で死にかかっている水夫仲間を襲っているキツネを目撃、追い散らす、キツネは動けない病人を絶好の餌食とみなしていた。
11/22、最後の病人を島へ降ろす、屋根が帆布の地下小屋で暮らす。
11/28、サンクト・ピョートル号が沈没。
12/08、ベーリング島でベーリング船長が壊血病で亡くなり、ステラー博士が隊長代行に、スウェーデン人ワクセル中尉が船長代行となる。
1742年
01/08、31人が亡くなり、生存者が46人となる。
08/10、サンクト・ピョートル号の廃材で新造の聖ピョートル号(boat St. Peter、12m)が進水。
08/13、無人島をベーリング島(Bering Island)と命名後、生存者が聖ピョートル号で出帆。
08/27、聖ピョートル号がペトロパブロフスク港に帰港。
1743年
09/26、ロシア元老院の命令でベーリングの第2回カムチャツカ探検が終結。
第2回探検その後の行程
航海:アリューシャン列島を西へ航海〜漂流〜キスカ島〜漂流〜コマンドルスキー諸島の無人島ベーリング島に漂着、上陸〜ベーリング船長没〜越冬〜生存者がベーリング島を出帆〜ペトロパブロフスク港に到着
僚船サンクト・パーヴェル号の動静
1741年、チリコフ船長のサンクト・パーヴェル号がアラスカに到達後、ペトロパブロフスク港に帰港。
10/12、ベーリング隊の捜索に再出帆、アッツ島を望見後、嵐に遭遇。
1742年
07/01、サンクト・パーヴェル号が空しくペトロパブロフスク港に帰港。
日本クリル探検支隊の航海
第2回探検でオフォーツクに到着すると、ベーリング隊長は日本への航路の探検のため、分遣隊長としてデンマーク出身のマルティン・シュパンベルク大尉を任命して、日本の調査に出帆させました。1738/7/13シュパンベルク大尉はアルハンゲル・ミハイル号、ナデジダ号、聖ガヴリール号の3隻に150人から成る船隊でオホーツクから出帆。食糧不足により、いったん8/17にカムチャツカ半島西岸のボリシェレツクへ引き返し、翌年改めて日本への探検を主目的とした第2次航海が行われることになりました。1隻を追加して5/21(日本では元文4/4/25)にボリシェレツクを出帆。南へ進路を取り、4日後には千島列島(クリル諸島)を通過。その後も南下を継続、6/14に濃霧でワルトン中尉率いる聖ガヴリール号が船隊から離れ別行動になりました。
シュパンベルグ船隊の航海
1738年
07/13、シュパンベルグ船隊、150人が
・アルハンゲル・ミハイル号(Archangel Michael、大天使ミカエル)(1本マスト 長さ18.3m)
・ナジェジダ号(Nadezhda、希望)(3本マスト 長さ21.3m)
・聖ガヴリール号(Sviatoy Gavriil=Saint Gabriel、聖使徒ガブリエル)(1本マスト 長さ18.3m 幅6.1m 吃水下2.3m)
の3隻で日本への航路と千島列島の探検にオホーツクを出帆、ボルシェレックから南へと航海。嵐で船隊がバラバラとなりシェルチェング船長のナジェジダ号はボルシェレックに帰港。シュパンベルグ大尉のアルハンゲル・ミハイル号は千島列島を南下して32島を望見後、食糧不足で北緯45度(根室近海)で戻って、ボルシェレックに帰港。ワルトン中尉の聖ガヴリール号は千島列島を南下して26島を望見後、食糧不足で43度20分(根室近海)で戻って、08/17、ボルシェレックに帰港、越冬。
1739年
越冬中にポリシャ川河口でボルシェレック号を建造して、
05/21、シュパンベルグ船隊4隻、
・ボルシェレック号
・アルハンゲル・ミハイル号
・ナジェジダ号
・聖ガヴリール号
がボルシェレックを出帆。
05/25、千島列島(クリル諸島)を通過。
06/14、船隊は北緯39度29分でワルトン中尉の聖ガヴリール号を見失う、シュパンベルグ船隊の3隻は南下。
07/03、北緯44度24分付近で3島を発見。
07/07、ゼリョスイ島と名付けた島をを発見。
07/08、ヌツカム島と名付けた島を発見、クリル族のバイダル(皮船)に出会う(バイダル=バイダルカ、Baidarka、英:Kayak:カヤック)。
07/24、日本の陸地を発見、松前島で多くの日本人に出会うも、乗組員は疲労し病人20人余発生で帰途に着く。
08/29、シュパンベルグ船隊3隻が乗組員13人を失って、オホーツクに帰港。
ワルトン中尉の聖ガヴリール号の航海
1739年
06/14、北緯39度29分でワルトン中尉の聖ガヴリール号は船隊から離れ単独で南下。
06/16、聖ガヴリール号が北緯38度29分で日本を望見、南下。
06/19、18人乗り小舟が接近、カジミロフ航海士とチェルカシェニン給食員と兵6人で上陸。飲料水1樽半分を持ち帰り、酒食で歓待されたと報告、150艘以上もの小舟が取巻いたので、出帆して帰路に着く。
06/22、北緯37度30分で海岸の沖合に投錨、岸から日本人が小船で来船、物々交換で交流10-12人乗りの小船79艘が船を取巻いたので、上陸は中止して帰路に着く。
06/23、北緯33度28分付近で小島に上陸、薬学生が薬草を採取。
07/23、ワルトン中尉の聖ガヴリール号がボルシェレックに帰港。
08/22、聖ガヴリール号がオホーツクに帰港。
1739年
11/19、シュパンベルグ船隊の「日本航海の報告書」をロシア政府へ発送。日本側の目撃情報が1739(元文4)年の「元文の黒船」として有。
元文の黒船 (日本側の目撃情報)
元文(げんぶん)の黒船は、日本の江戸時代中頃の元文4年(1739)夏に牡鹿半島、房総半島、伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航しました。アメリカ合衆国の黒船(米国東インド艦隊ペリー提督)による、嘉永期の黒船来航に先立つこと114年前の「鎖国」期におけるロシア帝国と日本の江戸幕府との初めての接触でした。
元文4/5/19(ロシア暦1739/6/18)に仙台藩領の陸奥国気仙沼で異国船の目撃情報がありました。さらに4日後の23日に牡鹿半島沖の仙台湾にある網地島にも2隻の異国船が出現。これが上記のシュパンベルク船隊でした。25日にははぐれていたナジェジダ号と合流し、亘理荒浜で3隻が目撃されました。また同日には仙台藩領から遠く離れた幕府直轄地安房国天津村(現千葉県鴨川市)にも異国船が出現。これは別行動をとっていた聖ガヴリール号でした。それぞれのロシア船乗組員が上陸し、住民との間で銀貨と野菜や魚、タバコなどを交換しました。5/28には伊豆国下田でも異国船が目撃されました。その後ロシア船隊は北緯33度30分まで南下(紀伊半島の潮岬に該当)して、ボリシェレツクへ帰港しました。別行動のワルトン中尉の聖ガヴリール号も8/22(日本では7/22)にオホーツクに帰港。シュパンベルク船隊による日本探検は終了しました。この間の両国接触に関しては、ロシア側の航海日誌に詳細な記述が残され、また日本側の史料としては当時の雑説をまとめた「元文世説雑録」に収められました。
北極(シベリア最北端)への探検
チェリュスキン探検隊
ベーリング隊長とチリコフ副隊長とは別に、第2回カムチャツカ探検には他のロシア帝国海軍軍人も参加していました。セミョン・チェリュスキン(Semyon Ivanovich Chelyuskin 1700-1764)達が陸路でタイミル半島(Taymyr Peninsula)の海岸を調査し、1742/5月にタイミル半島の最北端の岬に到達しました。この岬がユーラシア大陸の最北端で、北極点から約1,230kmに有って、北東航路の最北端でもありました。彼はそこを北東岬(Cape East-Northern)と名付けました。
チェリュスキンは1701年にピョートル大帝が設立したモスクワ航海技術学校(Moscow School of Mathematics and Navigation)を卒業して、1726年にバルチック艦隊で副航海士(deputy navigator)として働きました。1733年に航海長(navigator)に昇進しました。1739年ベーリングの第2回カムチャツカ探検隊(1739-1742)に参加し、北極探検分遣隊のワシリー・プロンチスチェフ(Vasili Vasilyevich Pronchishchev 1702-1736)、ハリトン・ラプテフ(Khariton Prokofievich Laptev 1700-1763)の探検に、チェレキン(N. Chekin)、メドヴェデフ(G. Medvedev)と行を共にしました。1741年春にハタンガ川(Khatanga River 227km)を航海して、ピャシナ川(Pyasina River 818km)を陸路で探検。タイミル半島のミデンソフ湾(Middendorff Bay)の西岸を探検。ピャシナ川(Pyasina)の河口からエニセイ川(Yenisei 5,539 km)の河口へと探検。1741年から1742年の冬にかけて、ツルカンスク(Turukhansk)からハタンガ川の河口へと探検。ファディ岬(Cape Faddey)からタイミル半島北の海岸線を東から西へとタイミル川(Taimyra River)河口を探検し、アジアの最北端を発見して北東岬と命名しました。そして、1760年にバルチック艦隊で艦長になり、64才で亡くなりました。
チェリュスキン岬   Chelyuskin Peninsula
チェリュスキン岬はタイミル半島の最北端(北緯77度43分)にある。タイミル半島(Taymyr Peninsula)はシベリア北部にある北極海に突き出た半島。西はカラ海(Kara Sea)に注ぐエニセイ川(Yenisei 5,539 km)が河口で形成するエニセイ湾、東はラプテフ海(Laptev Sea)に注ぐハタンガ川(Khatanga 227km)とハタンガ湾、半島の中央部を高さ1,000mほどのビルランガ山脈(Byrranga Mts)が走り、山脈の南麓にタイミル湖がある。1878/8/18にスウェーデンのアドルフ・エリク・ノルデンショルド船長(Baron Adolf Erik Nordenskiold 1832-1901)が北東航路探検で航海した時に、チェリュスキン岬(Cape Chelyuskin)と命名しました。
セント・エリアス山  Mount Saint Elias Alaska、5,489.1m
エリアス山は米国アラスカ州にある山で、カナダのユーコン準州(Yukon)との国境に聳えています。セント・エリアス山脈(Saint Elias Mountains)は米国側とカナダ側に山脈を構成しています。米国ではウランゲル・セントエリアス国立公園保護区(Wrangell-St. Elias National Park & Preserve、Wrangell Mountains 4,996m)に指定されており、カナダではクルエーン国立公園保護区(Kluane National Park & Reserve)に指定され、ローガン山(Mount Logan 5,959m)があります。エリアス山は、1741/7/16にロシアのベーリング船長がヨーロッパ人として最初に望見しました。
カヤック島   Kayak Island
カヤック島はアラスカ南岸コルドヴァ(Cordova)の南東100kmの沖合にある北緯59度56分、西経144度22分にある島で、面積:73.695kuの無人島。
1741年、ベーリング船長が同島の南西端の岬を望見して、7/20の聖エライアスの日だったので、サンクト・エライアス岬(Cape Saint Elias)と命名。ステラー博士が調査に上陸。
1778年、クック船長がカイェの島(Kaye's Island)と命名。
1794年、ヴァンクーバー船長がセント・エリアス岬をハモンド・ポイント(Hamond Point)と命名。
1826年、ロシアのセリチェフ船長(Lt. Sarichef)が島の形がカヤックに似ていることからカヤック島(Kayak Island)と命名。
ベーリング海峡
ベーリング海峡は、アジア大陸東端のチュクチ半島(Chukchi Peninsula)デジニョフ岬(Cape Dezhnev)と北アメリカ西端セワード半島(Seward Peninsula)のプリンス・オブ・ウェールス岬(Cape Prince of Wales)の間にある海峡で、北極海と太平洋(ベーリング海)とをつないでいます。両大陸の一番狭い所の距離は85kmで、最深部は42mです。10月から8月までは流氷群に覆われます。海峡中央部にダイオミード(Diomede)諸島(ラトマノフ島ともいう)があり、西の大ダイオミード島(面積10ku)はロシア領、東の小ダイオミード島(7.3ku)はアメリカ領です。1648年デジニョフ(I.Dezhnov)とアレクセ−エフ(F.Alekseev)が、この海峡を通過し、ベーリング船長の探検隊は1728年に海峡であることを確認しました。海峡の中央に 日付変更線が設定されていて、距離的には直ぐ近くなのに、その東西では日付が異なります。氷河時代にはベーリング陸橋と呼ばれる陸地で、アラスカとシベリアが陸続きになっていたと言われています。動植物の分布がそれを証明しています。
1648年、デジニョフがベーリング海峡を探検航海。
1728年、ベーリング船長がベーリング海峡を探検航海。
1778年、クック船長がベーリング海峡を探検航海。
1779年、ジェームス・キング艦長がクック船長の没後に海峡を探検航海。
1815年、ロシア最初の世界1周航海でクルーゼンシュテルン提督がベーリング海峡を探検調査しました。ベーリング海峡の中間にある諸島でアメリカ合衆国アラスカ領のリトルダイオミード島(Little Diomede Island)は、ロシア語ではクルーゼンシュテルン島(Krusenstern Island)といって、提督の名に因んで名づけられています。
1816年、ロシアのコツェブー船長が極東アジア探検航海の途上、海峡を通過・調査しました。
1827年、ロシアのリュトケ提督が極東アジア探検航海の途上、海峡を通過・調査しました。
ベーリング海   Bering Sea
ベーリング海は、アレウト列島とコマンドル諸島で仕切られた太平洋最北端の海です。ベーリング海峡を経て北極海につながっています。その面積は日本海の2.2倍あります。アラスカ側は広い大陸棚となっており、ベニザケ、カニ、底魚等の水産資源が豊富で、オットセイやセイウチなどの海獣や海鳥が多く生息しています。西側のシべリヤ沿岸の大陸棚は狭く、南西部は3000m〜4000mの海盆となっています。アラスカ湾から西に流れる温暖な海流が有ります。日本漁船はスケトウダラ、カレイ、ギンダラなどの底魚やサケ、マスを漁獲しています。  
 

 

 
『江戸参府随行記』 C・P・ツュンベリー

 

 
C・P・ツュンベリー  / カール・ペーテル・ツンベルク
(1743-1828) スウェーデンの植物学者、博物学者、医学者。カール・フォン・リンネの弟子として分類学において大きな功績を残した。また出島商館付医師として鎖国期の日本に1年滞在し、日本における植物学や蘭学、西洋における東洋学の発展に寄与した。出島の三学者の一人。
日本語での姓の表記が一定せず、ツンベルク、ツンベルグ、ツンベリ、ツンベリー、トインベルゲ、ツーンベリ、ツュンベリー、ツューンベリ、チュンベリー、ツェンベリー、トゥーンベルイなどがある。スウェーデン語に近い発音表記は、トゥーンベリである。
1743年11月11日、スウェーデンのヨンショーピング(Jönköping)に生まれる。
ウプサラ大学のカール・フォン・リンネに師事して植物学、医学を修めた。フランス留学を経て、1771年オランダ東インド会社に入社した。これは日本を含む世界各地の動植物を分類させるためにリンネが弟子のツンベルクを派遣したという説がある。
まずツンベルクはケープ植民地でオランダ語を身につけるとともに、3年かけて喜望峰周辺を探検した。後年"Flora capensis"、『喜望峰植物誌』をまとめ、喜望峰周辺の固有の生態系を報告した。
その後セイロン、ジャワを経て、1775年(安永4年)8月にオランダ商館付医師として出島に赴任した。当初は出島から出ることを許されなかったため、出島へ運びこまれる飼料から植物や昆虫を採取した。医師としては、梅毒に対して昇汞(しょうこう、塩化水銀(II)のこと)を処方する水銀療法を行った。劇的な治療効果を挙げ、長崎で多くの患者が治療を受けた。この療法は通詞の吉雄耕牛らにも伝授された。
翌1776年4月、商館長に従って江戸参府を果たし、徳川家治に謁見した。ツンベルクにとって出島・長崎を離れての旅は日本の文化・生物相等を調査する大きなチャンスであり、道中では箱根などで多くの植物標本を収集した。江戸滞在中には桂川甫周、中川淳庵らの蘭学者を指導した。日本語、特にオランダからの外来語も観察している。長崎への帰途では大坂の植木屋でも多くの植物を買いこんだ。
しかしその年のうちに日本を離れ、バタヴィアに戻った。商館長からはさらなる滞在を要請されたが、行動が制限されて研究が進まないために見切りをつけたとされている。
1779年には祖国のスウェーデンに戻り、母校ウプサラ大学の植物学教授を経て1781年にウプサラ大学学長に就任した。大学では後に博物学者となるキリル・ラクスマンらを指導した。
在日中に箱根を中心に採集した植物800余種の標本は今もウプサラ大学に保存されている。 
ツュンベリーの江戸参府随行記 1

 

ツンベルク日本紀行の訳者である山田珠樹氏は久しく泰西の図書に親しみ、欧州への旅を重ねられた結果、かえって古い日本を知りたいという欲求にかられ、日本の古い本を読まれたがどうしてもしっくりしなかった。それが1775年に来日したスウェーデン人(身分はオランダ使節の医官)ツュンベリーの旅行記を読んで、
「初めて自分の血のなかに流れている、日本人の姿を掴むことが出来たような気がした。誠にお恥ずかしい話ながら、私はこれを読みながら、死んだ祖父にでもめぐり合ったような気がしてきて、思わず目頭が熱くなったこともある」という。
ツュンベリーの序文
日本帝国は、多くの点で独特の国であり、風習および制度においては、ヨーロッパや世界のほとんどの国とまったく異なっている。そのため常に脅威の目でみられ、時に賞賛され、また時には非難されてきた。
地球上の三代部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。しかし、多くの点でヨーロッパ人に遅れをとっていると言わざるを得ない。だが他方では、非常に公正にみてヨーロッパ人のうえをいっているということができよう。
他の国と同様この国においても、役に立つ制度と害をおよぼす制度、または理にかなった法令と不適正な法令の両者が共存していると言える。しかしなお、その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行に見られる不変性、有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして100を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。
このように、あまねくかつ深く祖国を、お上を、そして互いを愛しているこんなにも多数の国民がいるということ、自国民は誰一人国外へ出ることができず、外国人は誰一人許可なしには入国できず、あたかも密閉されたような国であること、法律は何千年も改正されたことがなく、法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行われるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、君主も臣民も等しく独特の民族衣装をまとっていること、他国の様式がとりいれられることはなく、国内に新しいものが創り出されることもないこと、何世紀ものあいだ外国から戦争をしかけられたことはなく、かつ国内の不穏は永久に防がれていること、種々の宗教宗派が平和的に共存していること、飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。
私は日本国民について、あるがままに記述するようにつとめ、おおげさにその長所をほめたり、ことさらにその欠点をあげつらったりはしなかった。その日その日に、私の見聞したことを書き留めた。さらに彼らの家政、言語、統治、宗教等々、いくつかの事柄は後にまとめて記述することにし、一か所でそれらを論じ、折にふれて断片的に記すことは避けた。
日本のように変化の少ない国は、世界のどこにも類をみないであろう。この点については、博識なるケンペル博士が日本誌のなかで、適切かつ詳細に書いている。それでもなお、この100年近い間に、私は多少の変化を発見し、いずれにせよ些細な事柄であったが、書き記した。
そうしたなかで、自然誌は特に私が重視するところなので、この国の鉱物、動物、植物の収集につとめるだけでなく、それらがヨーロッパや私の母国にいくらかでも役立ち利用されるように記した。自らの願望であるこの目的が多少ともかなえらえるならば、うぬぼれなしに、私の喜びはまたとなく大きなものとなろう。

筆者はこのツュンベリーの旅行記を読み、目頭を熱くしなかったものの、ツュンベリーと一緒に1775年から翌年にかけて江戸時代の日本を旅行しているような気分に浸った。久しぶりに、本に惹き込まれ、本をむさぼり読むという感覚を味わうことができた。
ツュンベリーの江戸参府随行記には所々に勘違いがあるものの、筆者が読了して痛感したことは、やはり今日の日本の美風、日本人の長所の多くは、封建時代それも江戸時代の遺産であり、かつ今日の日本の諸問題は、その遺産が失われてしまった部分から生じているということである。
第五章の「日本および日本人」は法学徒および歴史学徒にとって必読箇所である。一部を以下に引用する。

一般的に言えば、国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、率直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である。
日本では学問はまだ発達をみていないが、そのわりに国民は、どんな仕事においてもその賢明さと着実さを証明している。日本人を野蛮と称する民族のなかに入れることはできない。いや、むしろ最も礼儀をわきまえた民族といえよう。
彼らの現在の統治の仕方、外国人との貿易方法、工芸品、あふれるほどにあるあらゆる必需品等々は、この国民の賢さ、着実さ、そして恐れを知らない勇気を如実に物語っている。
自由は日本人の生命である。それは我儘や放縦へと流れることなく、法律に準拠した自由である。法律はきわめて厳しく、一般の日本人は専制政治下における奴隷そのものであると信じられてきたようである。しかし作男は自分の主人に一年間雇われているだけで奴隷ではない。またもっと厳しい状況にある武士は、自分の上司の命令に服従しなければならないが、一定期間、たいていは何年かを勤めるのであり、従って奴隷ではない。
日本人はオランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている。身分の高低を問わず、法律によって自由と権利は守られており、しかもその法律の異常なまでの厳しさとその正しい履行は、各人を自分にふさわしい領域に留めている。
この広範なる全インドで、この国ほど外国人に関して自国の自由を守っている国はないし、他国からの侵害、詐欺、圧迫、暴力のない国もない。この点に関し、日本人が講じた措置は、地球上にその例を見ない。
この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族の群を抜いている。彼らの銅や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。農夫が自分の土地にかける熱心さと、そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい(日本人の国民性)。
法学についても広範囲な研究はなされていない。こんなにも法令集が薄っぺらで、裁判官の数が少ない国はない。法解釈や弁護士といった概念はまったくない。それにもかかわらず、法が身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は他にはない。法律は厳しいが、手続きは簡潔である。
道徳はいやに難しいものではなく、素朴にして理に適った学問である。日本人は高潔な生活を実践することで、それを自分の生活態度のなかに追求している。あらゆる宗教宗派によって道徳は主張されており、神学そのものと決して相反するものではなく、むしろ密接な関連がある。
東洋人の軍事科学は、極めて単純である。通例の戦術では欠けているものを、ここでは男らしい勇気と堅固なる意志、そして愛国心によって補うというのである。そして日本人はこの力量をもって常に勝利し、決して敵に屈しない。
子供たちに読み書きを教える公の学校が、何か所にか設けられている。そこでは子供ら全員が声高に本を読むので、まとまってものすごい騒音となる。一般に子供らは、懲罰を加えられたり殴打されたりすることなしに育てられる。低学年のうちは、過去の英雄の徳や勇気にあやかるよう、勇気づけるような歌がうたわれる。青年期になると、教える側も熱心になり、彼らには適切な手本が示される(学問)。
日本の法律は厳しいものである。そして警察がそれに見合った厳重な警戒をしており、秩序や習慣も十分に守られている。その結果は大いに注目すべきであり、重要なことである。なぜなら日本ほど放埓なことが少ない国は、他にほとんどないからである。さらに人物の如何を問わない。法律は古くから変わっていない。
説明や解釈などなくても、国民は幼児から何をなし何をなさざるべきかについて、確かな知識を身に付ける。そればかりでなく、高齢者の見本や正しい行動を見ながら成長する。
国の神聖なる法律を犯し正義を侮った者に対しては、罪の大小にかかわらず、大部分に死刑を科す。法律や正義は、神学と並んでこの国における最も神聖なるものと見なされている。ここでは金銭をもって償う罰金は、正義にも道理にも反するものと見なされる。罰金を支払うことで、金持ちがすべての罰から開放されるのは、あまりにも不合理だと考えているのである。
殺人を犯した者は死刑に処される。そしてもしどこかの町や路上でそのようなことがあったとすれば、犯人が処せられるのみならず、時には肉親、縁者または隣人までもが程度に応じて罰せられる。それは、多かれ少なかれその犯人に罪を犯させる原因をつくったとか、防げる犯罪を防がなかったとかいったことによる。人に対して刀剣を抜くことは、命がけである。
密輸入者はもちろん、それにかかわった密輸品の販売者・購入者までことごとく、容赦なく死刑に処せられる。すべての死刑執行礼状は、執行前にあらかじめ江戸の幕閣により署名される。そして常に、事前に所轄の法廷で訊問が行われ、目撃者の証言が聴取されたあとに執行されるのである(法律と警察)。

法律および法律の執行が頗る峻厳であるから、日本国内の治安は良好にして平穏である。説明や解釈などなくても、日本人は幼児から何をなし何をなさざるべきかについて、確かな知識を身に付け、高齢者の見本や正しい行動を見ながら成長し、高潔な生活を実践することで、道徳を自分の生活態度のなかに追求しているから、法令集が薄っぺらで、裁判官の数が僅少ですむ。
かくして日本人は法律に準拠する自由を謳歌し(海外渡航の自由はないが)、自由(国家権力に干渉介入されないこと)は我儘や放縦へと流れることなく日本人の生命となる…か。
もしイギリスのエドマンド・バークが来日していたら、バークの自由哲学(フランス革命の省察1790年)を既に実践していた日本人を見て、やはりツュンベリー同様に驚嘆したのではないだろうか。
道徳教育の再興と死刑制度の存続に反対する意見が主に日本の伝統文化歴史に敵意を抱く左翼全体主義勢力から出ていることは、決して偶然ではないのである。 
 
「江戸参府随行記」 ツュンベリー 2

 

「序」
日本帝国は、多くの点で独特の国であり、風習および制度においては、ヨーロッパや世界のほとんどの国とまったく異なっている。そのため常に驚異の目でみられ、時に賞讃され、また時には非難されてきた。地球上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。しかし、多くの点でヨーロッパ人に遅れをとっていると言わざるを得ない。だが他方では、非常に公正にみてヨーロッパ人のうえをいっているということができよう。
他の国と同様この国においても、役に立つ制度と害をおよぼす制度、または理にかなった法令と不適正な法令の両者が共存していると言える。しかしなお、その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして百を越すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。
このように、あまねくかつ深く祖国を、お上を、そして互いを愛しているこんなにも多数の国民がいるということ、自国民は誰一人外国へ出ることができず、外国人は誰一人許可なしには入国できず、あたかも密閉されたような国であること、法律は何千年も改正されたことがなく、また法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行われるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、君主も臣民も等しく独特の民族衣装をまとっていること、他国の様式がとりいれられることはなく、国内に新しいものが創り出されることもないこと、何世紀ものあいだ外国から戦争がしかけられたことはなく、かつ国内の不穏は永久に防がれていること、種々の宗教宗派が平和的に共存していること、飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。私は日本国民について、あるがままに記述するようつとめ、おおげさにその長所をほめたり、ことさらにその欠点をあげつらったりはしなかった。その日その日に、私の見聞したことを書き留めた。
日本到着
(1775年)8月13日早朝、高く切り立った山がある女島ガ見えた。午後には日本の陸地が見え、九時に長崎港の入口に投錨した。・・・・・幕府は、周辺の山々にいくつかの遠見番を設け、そこに望遠鏡を備え、遠くに船を発見するや、直ちに長崎奉行にその到着を知らせるようにしていた。これら遠見番から、今、たくさんの狼煙があげられた。この日、船員らは所有している祈祷書や聖書を集め、一つの箱に入れ、その箱を釘付けにした。次いで箱は日本人に渡され、帰航まで保管される。帰航時には各人、自分の本を返してもらう。このようにするのは、キリスト教新教やカトリック教の本を国内へ持ち込まないようにするためである。
甲板にカーテンなしの天蓋つき寝台席が設けられた。船にやってくる日本の上級役人が坐るためである。乗組員およそ110人と奴隷総勢34人からなる全員の名簿ができあがった。名簿には各人の年齢も書き込まれており、日本人に提出される。しかし出身地は書かれない。本来何人かはスウェーデン、デンマーク、ドイツ、ポルトガルそしてスペインの出身であるが、全員がオランダ人と見なされているからである。入港するとすぐに、全乗組員はこの名簿に従って日本人の点呼を受ける。・・・・・
その時、陸から小舟が一艘こちらへ近付いてくるのが見えた。すると船長は、銀モールの縁どりがある絹の青い上着をはおった。それは非常にゆったりとして幅広く、腹部あたりに大きなクッションが付いていた。商館長と船長だけが検閲を免れていたので、この上着は長いあいだ、密輸品をこっそり持ち込むために常用されていた。船長は上着を一杯にふくらませて、船から商館へ日に三往復するのが常であった。そしてあまりに重い物を持って頻繁に上陸するので、船員二人が両腕を支えねばならないほどであった。このやり方で船長は、自分の品物と一緒に士官らの品物も――現金報酬とひきかえに――持ち込んだり持ち出したりして、年間相当の収益をあげており、その額は数千レイクスダールにも達していたといえよう。・・・・・
長い入り組んだ港内を航行している間、我々は周囲の丘陵や山々が織りなす世界一美しい眺望に接した。そこは頂上にいたるまで耕作されているのが見られた。このような光景は他の国ではほとんど見られない。・・・
新しい通達を受取った今、我々は決して愉快な気分にはなれなかった。幕府から、今後すべての密貿易を禁止するという、次のような大変に厳しい命令が伝えられたからである。
一、船長ならびに商館長は今後、他の全乗組員と同様に区別なく、従来は行われていなかった検閲を受けるものとする。
二、船長は今後、他の乗組員と同じ衣服を着るものとする。従来着用されてきた不正をはたらくための上着は禁止する。
三、船長は常時、船に留まるかあるいは上陸するかし、もし上陸を希望するときは全滞在期間中,二回以上船に行くことは許されないものとする。・・・・
もっと以前には、船長は先述の幅広い上着をはおるだけでなく、幅太の大きなズボンをはき、そのなかに様々の禁制品を入れて持ち込んだ。しかしこのズボンは怪しまれて、禁じられた。そして今や憤懣やるかたないおもいで、最後のよるべである上着を脱がざるを得ないのである。何も知らない大勢の日本人ガ、今年の中肉の船長を見て、ただ驚いている様子は少なからず滑稽であった。日本人はこの時まで、いつも見てきたように船長はでっぷりとした肥満体であると思い込んでいたからである。  
長崎から小倉の江戸時代日本観察
1776年3月4日、使節一行は出島を発って江戸参府の旅に向った。・・・この旅に参加するオランダ人は三名だけであった。それは、商館長として大使のフェイト氏、医師つまり商館付医師としての私、そして書記官のケーレル氏である。それ以外のおよそ二百人にも達する相当な数の随員[この人数は疑わしい。通常は60名ほどという]は、すべてが日本人であり、役人、通詞、従僕、召使いであった。・・・・・商館長の食卓に並べるオランダ人用の料理をつくるため、商館から日本の料理人二人が同行した。・・・・料理人は全行程にわたっていつも一足先に発った。それゆえ我々が昼食をとりに宿に到着するころには、料理はすっかり調っているのである。・・・
商館長はもちろん、その医師と書記官も大きく立派な漆塗りの乗物(のりもん)にのり、旅をした。・・・・・この乗物という人の力で運ばれる乗り物は、薄い板と竹竿から出来ており、長方形で前面と両側面に窓がついている。・・・・茶は進行中も沸かされ、欲しくなればいつでも飲めるようになっている。しかしヨーロッパ人が、胃の緊張を解くこの飲み物をのむことはほとんどない。それよりは一杯の赤ワインかオランダのビールを好んで、乗り物にそれらの各瓶を用意し、細長いサンドイッチを二重に入れた長方形の漆器の小箱と一緒に前方の足元に置いた。・・・・
身分の異なるさまざまな人々が、それぞれに異なる手段で進行しているこの大行列全体は初めて見る者には、立派にして秩序ある光景に映った。そして我々は至る所で、その地の藩主と同じような名誉と尊敬をもって遇された。その上、万が一にも我々の身に危害が加わることのないよう厳重に警護され、さらに母親の胸に抱かれた幼児のごとく、心配することは何もないほど行き届いた面倒をみてもらった。これは我々ヨーロッパ人にとって、この上ない大きな喜びであった。我々がやることは、食べ、飲み、自らの慰めに読み書き、眠り、衣服を着け、そして運ばれるだけであった。
初日は、長崎から二里で日見を通過し、さらに一里離れた矢上へ、そこからなお四里の諫早へ到着し、そこで最初の宿を取った。我々は矢上で昼食をとった。そこでは宿の主人から、かつて私が世界のいくつかの場所で遇されてきたより以上に、親切で慇懃なあつかいを受けた。・・・・用意された部屋に案内されると、食卓はすでに調えられており、そこで食前酒、昼食、コーヒーをとった。・・・・3月7日、この地方の首府である佐賀には藩主の住む城がある。城は濠と城壁に囲まれ、そして城門のそばには番人がいる。ほとんどの町がそうであるように、この町もきちんと整っており、真っすぐに広い道路が通っている。また何本かの運河に水を導き、町中を流している。・・・・
3月8日、道中、大小いくつかの村々やかなり高い山々を越えて、十里先の飯塚まで進んだ。・・・・筑前地方の旅を続けたこの日は、藩主の遣わした役人一人が我々に随行した。彼は我々の無事の到着を祝し、藩内の道中はずっと付き添った。オランダ商館ではヨーロッパ人は日本人に軽蔑され、一般的にも日本人はすべての外国人を卑しいと見ているのだが、参府の旅の往復だけは特別である。我々はどこでも最高の礼をもって手厚く遇されるのみならず、日本人は毎年行われる参府の旅で、藩主に示すのと同じようなお辞儀をして我々に敬意を表する。
我々がある地方の境界まで来ると、そこの藩主が遣わした役人が常に我々を出迎え、藩主の名において、人手、馬、船その他のあらゆる必要な援助を申し出るだけでなく、次の境界まで付き添う。そこで役人は別れを告げ、次の者と交替する。身分の低い者は藩主に対すると同じように、卑屈なほどの敬意を我々に見せる。そして彼らのような卑しい者は、我々を正視できないほど非常に偉いと思っていることを示すため、額を地につけてお辞儀をし、また背を向けている者もいる。
この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている。そしてオランダ人の参府の旅と同様、毎年、藩主たちが参府の旅を行わざるを得ないこの時期は、とくに良好な状態に保たれている。道に砂がまかれるだけでなく、旅人の到着前には箒で掃いて、すべての汚物や馬糞を念入りに取り払い、そして埃に悩まされる暑い時期には、水を撒き散らす。さらにきちんとした秩序や旅人の便宜のために、上り旅をする者は左側を、下りの旅をする者は右側を行く。つまり旅人がすれ違うさいに、一方がもう一方を不安がらせたり、邪魔したり、または害を与えたりすることがないよう、配慮するまでに及んでいるのである。
このような状況は、本来は開化されているヨーロッパでより必要なものであろう。ヨーロッパでは道を旅する人は行儀をわきまえず、気配りを欠くことがしばしばである。日本では、道をだいなしにする車輪の乗り物がないので、道路は大変に良好な状態で、より長期間保たれる。さらに道路をもっと快適にするために、道の両側に潅木がよく植えられている。このような生け垣に使われるのが茶の潅木であることは、以前から気付いていた。・・・・
里程を示す杭が至る所に立てられ、どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、道がどのように続いているかを記している。この種の杭は道路の分岐点にも立っており、旅する者がそう道に迷うようなことはない。このような状況に、私は驚嘆の眼を瞠った。野蛮とは言わぬまでも、少なくとも洗練されてはいないと我々が考えている国民が、ことごとく理にかなった考えや、すくせれた規則に従っている様子を見せてくれるのである。一方、開化されているヨーロッパでは、旅人の移動や便宜をはかるほとんどの設備が、まだ多くの場所においてまったく不十分なのである。ここでは、自慢も無駄も華美もなく、すべてが有益な目標をめざしている。それはどの里程標にも、それを立てさせたその地方の領主の名前がないことからもわかる。そんなものは旅人にとって何の役にも立たない。距離はすべて、この国の一点から起算されている。その起点はすなわち首府江戸にある日本橋という橋である。  
江戸時代の旅人、小倉の宿と下関
郵便車は国中どこにも見られないし、またほかに旅人を乗せる車輪の乗り物もない。したがって、貧しい者は徒歩で旅をし、そして車代を払える者は馬に乗って行くか、または駕籠か乗物(のりもん)で運ばれる。徒歩で行く者は草鞋を履いている。それは上革のない靴底のようなものであり、脱げ落ちないよう藁を編んだ紐で固く結ぶ。脚には脚絆をつけており、ふくらはぎの後部でボタンを掛けるか、または上部を紐で固く結ぶ。彼らはまた裾の長い着物の代わりに、上着[羽織]か、ふくらはぎまである亜麻仁のズボン[袴]を着用することがよくある。そして徒歩で行く武士は、この袴を腿の真ん中まで結び上げる。馬に乗って行く者は、始終、おかしな格好である。一頭の馬に何人も、たいていの場合家族全員が乗っているのをよく見かける。その場合は、主人が鞍の真ん中に乗り、足を馬の首の前まで伸ばす。鞍に取り付けられた片方の籠には妻が、そしてもう片方の籠に一人または何人かの子供が乗っている。そのような時は特定の人[馬子]がいつも馬の手綱を取って、前を歩いている。富裕な人は乗り物で運ばれるが、各人の階級によりその大きさと華麗さが異なり、したがって費用もまちまちである。最低のものは小型で、足を折って坐らざるを得ない。そして四方は開いており、小さな天井がついていて、二人の男が運ぶ。通常は「カゴ」と呼ばれる駕籠は、屋根がありそして四方は閉じられるようになっているが、ほとんど四辺形であり立派とは言えない。一番大きくかつ豪華なものは「ノリモン」と呼ばれ、長方形で、身分の高い役人が乗り、何人もで担ぐ。・・・・
3月9日・・・・小倉は、国のなかでも大きな町に数えられ、広く貿易を営んでいる。・・・我々は小倉に到着する手前で、若君の名のもとに城からの使者二人の出迎えを受け、その後、町を通って宿屋へ着くまで付き添ってもらった。我々はここで丁寧に遇され、翌日の午後まで留まった。・・・・ここでも他のどこの宿でも、我々はその家の奥の部屋を割り当てられた。そこは最も住み心地がよく、かつ一番立派な場所であり、常にたくさんの樹木、潅木、草本そして鉢植えの花のある大小の庭を望むことができるし、そこへの出口もある。またその端には客人用の小さな風呂場があって、好きな時に使える。・・・・・
この国の建築様式は独特で変わっている。各家は相当に広く、木材、竹の木摺そして粘土からなる木骨造りなので、外部は石の家にかなり似ている。そして屋根には、相当に重くて厚い瓦が葺いてある。家は一つの部屋からなっていて、必要に応じまた好みに合わせて、いくつかの小さい部屋に仕切ることができる。それには、木枠に厚く不透明な紙を貼り付けた軽い仕切り[襖]が使われており、それを、その目的で彫られた床と梁に相当する天井の溝にはめると、らくらくとしかもぴったりと据えられる。旅のあいだこのような部屋は、我々や随員のためによくつくられた。そして食堂や他の目的にもっと大きな部屋が必要なときは、この仕切りはまたたく間に取り払われる。隣接する部屋の様子は見えないが、話していることはしばしば聞えてくる。
日本人の家には家具がまったくなく、従ってもちろん寝台はないので、我々はマットレスや布団を、畳の上に直に敷いた。日本人随員も同じようにして休んだが、しかし枕はなく代わりに細長い漆塗りの木片を耳のあたりの頭の下に置く。彼らには椅子や机もないので、臀部の下に足を置いて柔らかい畳の上に坐る。また食事時には、蓋つきの漆椀に盛られた各人の料理は、専用の四角の小型木製の低い食卓[膳]に載せて指しだされる。このような姿勢で眠るので、日本人は髪が乱れることがなく、一瞬にして起き、そして一瞬にして衣服を身につける。すぐに着て帯を結べるのは、着物を掛け布団にしているからである。この町に滞在している間、我々は町の様子をもっとよく見たいと思ったが、町中を歩きまわる許可を得ることはできなかった。
3月11日夕方、我々は帆掛舟で湾をわたり、三里離れた下関に着き、そこで一夜の宿をとった。・・・・・国中のあらゆる地域から、ここに集まってくる大勢の人々の群れからみて、当地での商取引や貿易の規模は非常に大きいと思われる。従ってまたここには、他地域から運ばれてきた数多くの品物が見られる。・・・・この町は、日本諸島の最大の島であり、首府が二つある日本[本州]の一端に位置している。また江戸までの街道も敷かれていたが、厄介な上に山道であるので、我々は利用しなかった。・・・・玉という長さ二ファムンもある紐のような物が丸く巻かれて、この国のほとんど何処でも売られていた。それは小麦粉または蕎麦粉から作られており、目方で売られる。蕎麦を原料としたものを、日本人は蕎麦切と呼んでいた。この紐は長短の長さに切って、汁につけて食べると味が良く、ねばねばしていて、完全に溶けることはない。そして満腹になる。汁のなかにこれと葱と魚のすり味[蒲鉾]を入れて煮た料理を煮麺[ニュウメン]と言う。そしてとうがらしと醤油を混ぜた汁につけて食べるものを素麺と呼ぶ。・・・
3月12日、長さ90フィートの大きな和船に乗船した。この船は我々を兵庫まで運ぶために、オランダ東インド会社が毎年、四百八十レイクスダールを支払って借りているのであり、約百三十小海里の航海を、順風であれば時には八日間でなし遂げる。もう一艘の同じような船が、荷物の一部と我々の随員を運ぶために、我々の船に従った。・・・・投錨すると必ず、日本人はしきりに陸に上がって入浴したがった。この国民は絶えず清潔を心がけており、家でも旅先でも自分の体を洗わずに過ごす日はない。そのため、あらゆる町や村のすべての宿屋や個人の家には、常に小さな風呂小屋が備えられ、旅人その他の便宜をはかっている。・・・・他の村々と同様、ここでも非常に子供が多くて、我々が数回陸に上がったさいには背後で叫び声をあげた。注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。まったく嘆かわしいことに、もっと教養があって洗練されているはずの民族に、そうした行為がよく見られる。学校では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。  
江戸時代の大阪から京都、東海地方へ
4月9日、大阪と都[京都]間の行程は十三里もあったので、我々は未明のうちに出発しなければならなかった。したがって我々は夜明け前、早々に起された。コーヒーを一杯のみ、朝食にサンドイッチを準備して旅を続けた。旅の間、先に立つ日本人はほとんど間断なく歌をうたい、たくさんの松明で朝まだきの暗さを照らした。ようやく二里進み、守口という大きな村に到着して、我々と運搬人はしばし休憩した。その後三里進んでもっと大きな村、枚方で再び休み、そして軽い飲食物をとった。その後一里先の休憩所の淀まで行き、さらに一里進んで伏見で遅い昼食をとった。淀は小さいがきれいな町で、この上なく水か豊かである。・・・・伏見は一村落に過ぎないといえようが、長さは三里にも及んで幕府の首府、都[京都]にまで達しており、そのため都の郊外とみなすことができよう。
その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ちよい旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない。そして我々は長い旅を通していくつかの村を通過したが、村は尽きることなく、一つの村が終わると、そこでもう一つの村が始まるのであり、また村々は街道に沿っていた。今日、私は初めて道路でいくつかの車を見ることができた。それは都とその周辺で使われている唯一の車輪の乗り物で、それ以外の地方では使われていない。この車は低い小さな三輪車であった。二つの車輪は通常の位置に、そしてあとの一つは前方についていた。その車輪は全片、木を切って作ったものである。車輪の摩滅を防ぐために、縁の周囲を綱またはそれに類したもので巻いてあった。町近くまたは町中では、車はもっと大きく不恰好で、時に二輪の車もあり、その前方を牛が曳いていた。またいくつかの車は、ヨーロッパのものと同様、轂(こしき)とスポークを備えていたが、留め金はなくもろかった。この車は道路の片側しか通行を許されていない。そのため、その側にはたくさんの車が往来しているのが見られた。またそこでぶつかり合わないように、午前中に町を出て行き、午後に町へ帰ってくるという順序になっていた。
どの村のどの宿屋でも、米粉を煮て作った緑色や白色の小さな菓子が売られていた。旅人やとくに乗り物の運搬人はそれを買って、お茶を飲みながら食べた。お茶はどこでも旅人のために準備されている。・・・私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。このありさまでは、旅人は日本には雑草は生えないのだと容易に想像してしまうであろう。しかし実際は、最も炯眼な植物学者ですら、よく耕作された畑に未知の草類を見出せないほどに、農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。・・・・・
都は国の最古の首府であるのみならず、最大の商業都市でもある。これは国のほぼ中央に位置していることによるもので、そのことは他にもいくつかの利点をもたらしている。町は一ドイツマイルほどの長さと半マイルほどの幅の平野に広がっている。ここには、最も主要な商人とならんで、大多数のそして最高の職人、製造人、名匠らが居を構えている。したがってここでは人が望むほとんどすべての物が販売されている。とくに漆器製品、金糸、銀糸を織りこんだビロードや絹織物、金製品、銀製品、銅製品ならびに赤銅製品、衣服や見事な武器である。日本の名高い銅は、鉱山で焼かれて溶融されたあと、当地で精製されて良質な銅になる。硬貨はすべてここで鋳造され、刻印を押される。・・・・・
旅する者にとって、履物ほど何足も使い減らすものはない。その履物は稲藁を編んだものであり、丈夫ではない。価格もまたごく僅かで、銅貨(銭)数枚で買える。従って、一般に旅人が通り過ぎるような町や村は、たとえどんなに小さな村でもすべてこれを売っている。最もよく利用されている履物、もっと正確に言えば、藁のスリッパは、紐がない。しかし旅人が利用するものには、撚った二本の藁紐が付いているので足にしっかりと結ぶことができ、容易にぬげるようなことはない(草鞋)。そして足の甲がこの紐で擦れないよう、その上にリンネルの布が巻かれているものもある。街道では、旅人が擦りきれてずたずたになったとき履き代えるために、一足または何足かの草鞋を携帯しているのをよく見かける。・・・・馬用に小さい草鞋、すなわち藁のスリッパが、蹄鉄の代わりにどこでも使われていた。この草鞋は、馬が石で足を傷めたり、また滑り易い道で足を踏みはずすことのないよう、藁紐で足首にしっかりと結んである。・・・
大井川は大きくかつ最も危険な川の一つである。この川は、他の川と同じく雨期には水嵩が増すが、それだけでなく海への流れが度を越して速い。そしてその時たびたび川底は、急流が山から運んでくる大きな石でいっぱいになる。幕府は、橋を架けることができないすべての大きな川では、旅人が小舟かまたは運搬人によって安全に渡ることができるよう配慮している。橋の利用も船の使用も不可能なこの危険な場所では、この配慮が倍加されている。そのためここには、川底を十分にかつ正確に知っているのみならず、旅人を安全に渡せるよう経験を積んだ大勢の男たちが、料金をとってその仕事にあたっている。料金は水嵩によって、いうなれば危険度そのものによって異なる。・・・・
今日、水嵩は特に多くはなく、運搬人の膝上に達する程度に過ぎなかったが、それでも我々を乗り物にのせたままで運ぶという段取りは、ぞっとするほど恐ろしいものであった。何人かの男が、我々の乗り物の両側を支え持ち、そして他の者らは川の急激な流れで男たちが押し流されないよう、脇について介助しているのである。馬も同じようなやり方で、両側に何人かの男がついて運び、また我々の他の荷物もすべて同じように運ばれた。  
参府団江戸到着・江戸時代中期の江戸
品川と高輪は、将軍の住んでいる江戸の町の二つの近郊地である。前者は、その起点(日本橋)からまるまる二里はあり、海岸に沿っている。我々は品川で一時間たっぷり休み、軽く飲食物をとって元気を回復し、美しい眺望を楽しんだ。江戸はこの国最大の、そしておそらく地球上最大の町であり、またきれいな港があった。港は非常に浅くなっており、泥土に覆われている。最大の船舶は、しばしば町から五里離れた所に投錨する。そんなに大きくない船舶は二里の距離に、そして小船舶ならびに小舟は何百艘にものぼり、それぞれの大きさや重量によって互いに町の方へ何列にも並んでいる。このようにして町は、他の地域から当地へ輸送される商品の通路を完全に遮断することなしに、海からの敵の襲撃に十分備えているのである。
我々は、町や港やその周辺を非常に物珍しく眺めたが、同じように日本人は我々を物珍しく眺めたのであった。彼らは噂を聞いてここにどっと集まり、我々の乗り物のまわりを囲んだ。これら日本人のなかには、何人かの身分の高い婦人がいたが、彼女らはその乗り物をここへ運ばせたのである。そして我々が何回か簾を降ろすと、婦人たちはかなり苛立つように思われた。この我々のまわりを囲んでいる地上に置かれた乗り物は、それだけで小さな村を作っているようであったが、この移動式の小さな家は、その後しばらくすると消えていった。
ただ一本の通りからなる近郊地、品川や高輪を通り過ぎて,番人がいること、住民の数が増えたこと、そして運搬人の沈黙や一層しっかりした足取りから、私は首府に到着したことを感じた。まもなく長さ四十ファムン(約七十一メートル)ほどの橋、日本橋に着いた。国中の地方につながる街道は、ここを起点に測られている。町の入口にあるいくつかの番所を通過して、一時間あまり広い大通りを進み、我々外国人の定宿に到着した。そこは裏門から入り、狭い道を通って家の反対側の端に案内された。この宿泊所に初めて入った印象は、それが大きいとも快適であるとも思えるようなものではなかった。しかし一階上がって通された我々の部屋は、かなりこざっぱりとしたものであった。だが、はるか遠隔の大陸からやってきた使節の一人として私が期待していたほどには、立派ではなかった。
広い一部屋が、客間、謁見の間そして食堂にあてられた。商館長には特に一部屋が、そして仕切ることができるもう一部屋が医師と書記官に当てられ、また小さな部屋が風呂と他のすべての個人的な便宜をまかなうものとして当てられた。当地滞在中、我々はここで満足せざるを得なかった。狭い道路に面した外の眺めにはたいてい男の子がおり、我々の姿をちょっとでも捕らえると、とたんにきまって叫びをあげた。そして我々を見ようと、向かい側の家の塀の上によじ登っていることも時々あった。・・・・
街道では、いくつかの財政豊かな大きな藩や小さな藩の藩主らが、相応の随員を伴って幕府への毎年の旅をするさまを、実際に見ることができた。我々が出会ったうち、若干はすでにこの時期帰路に就いていたが、大部分は我々を通り越して行くものであった。前もってどこかの宿屋に到着し終えていない限り、我々は行列が通過している間、非常に身分の高い彼らを前にして立ち止まらざるを得なかった。そして随員が大勢いる行列と――とくにちっぽけな村しかなくて――そもそもそれほど快適ではない宿屋でくつろぐしかないような地点で出会うと、うんざりするような事態に巻き込まれてしまう。それは一度だけであったが、すでに部屋に入っていた宿屋を出て、町はずれの寺院に移らざるを得なかった。・・・・・
この藩主の随員は、しばしば何百人の、最高千人から二千人の男からなり、彼らはきちんと秩序を保って行進する。その大量の荷物は、携帯するか馬の背に乗せて運ぶ。ある者は乗り物のずっと前を、またある者はすぐ前を、藩主の紋章と印を持って運ぶ。また通常は一、二頭のきれいな引き馬が前を行き、そして数人の者は、足に鎖を繋ぎ腕に乗せた狩猟用の鷹を一羽以上連れている。・・・行列が進んで行く所には、深い沈黙が広がり、街道の人々は敬意を表して、地べたに頭をつけてひれ伏す。乗り物の運搬人は、主家を示すそろいの衣服を着ており、他のすべての物には主人の紋章がついている。彼らが我々を通り越して行くときは、通常は乗り物の簾が降ろされているが、一人か二人は、礼儀正しくそれを開けており、また通過するさい我々に挨拶までした。そして何人かの藩主は、自分の随員を遣わして我々の旅の無事を祈った。・・・・
我々が通過してきたそれぞれの地方では、その境界近くになると、迎えの者が丁重に我々を出迎えて挨拶の言葉を述べた。しかし藩主の住居がある町を通り過ぎているにもかかわらず、この藩主を訪問するという許可を我々は持っていなかったし、また藩主が我々を訪ねることもなかった。・・・・すなわち、オランダ人がその地方の藩主と親交を結ぶことは、一、二の点で悪影響を及ぼすかも知れないということで禁じられていた。・・・・・しかし、予期しない極く珍しいことが起った。ある晩遅く、ある藩主が二人のお供だけで、まったくおしのびで我々の宿屋に訪ねてきた。そして十分に時間をとって、夜遅くまでいろいろな事柄について我々と話し合った。この人は礼儀正しくかつ非常に友好的であったが、同様にまた大変に好奇心に富んでいるようであった。我々が携帯し使用している家具のすべてを、非常に注意深く極めて入念に眺めた。そして話題はたんに日本に関することだけでなく、ヨーロッパのいろいろな事柄にも及んだ。
この時期、雨天の日は数回あったが、しかしそう頻繁ということはなく、寒さは何とか我慢できた。・・・・だが素足やむきだしの頭をした日本人たちは、まったく無情な雨よりはむしろ寒さに強かった。雨が激しいときは、外へ出たがらなかった。さもなければ、旅では傘、笠そして雨合羽を身に付けた。雨よけには油を塗った紙が使われるが、そのような紙は、普通中国から当地へ持ち込まれる。帽子は円く鐘形状で、細い草を撚って作ってあり、極く薄く軽いもので,顎の下に紐で結ぶ。油紙の雨合羽はどんな雨もはじき、このうえなく軽く、ヨーロッパ人の衣服のように、雨で重くなるようなことはない。このような合羽を買うことができない貧しい人々は,一片の藁むしろ(蓑)を背中にかけている。それには表面が平らなものや、また毛のように藁の端がつき出てぶら下がっているものがある。  
日本人の外見
日本人は体格がよく柔軟で、強靭な四肢を有している。しかし彼らの体力は、北ヨーロッパ人のそれには及ばない。男性は中背で、一般にはあまり太っていないが、何回かはよく太った人を見た。肌の色は体じゅう黄色で、時には茶色になったり、白くなったりもする。身分の低い人々は、夏期に上半身裸で仕事をするので日焼けして一層茶色になる。上流の婦人は、外出するさいは大抵何かで覆うので真白である。この国民の眼は、中国人と同様に広く知られている。それは他民族のように円形ではなく、楕円形で細く、ずっと深く窪んでおり、ほとんど目を細めているように見える。他の点では、瞳は褐色というよりはむしろ黒色で、瞼は大きな目尻ぎわに深い線をかたち造っていて目つきが鋭くなり、他民族とはっきり区別できる独特な風貌を持っている。眉毛はいくぶん高いところにある。ほとんどの人は頭が大きく、首は短く、髪の毛は黒くふさふさして油で光っている。鼻は低いとは言えないがしかし太くて短い。
日本人の国民性
一般的に言えば、国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、素直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である。
日本では学問はまだ発達をみていないが、そのかわりに国民は、どんな仕事においてもその賢明さと着実さを証明している。日本人を野蛮と称する民族のなかに入れることはできない。いや、むしろ最も礼儀をわきまえた民族といえよう。
彼らの現在の統治の仕方、外国人との貿易方法、工芸品、あふれるほどにあるあらゆる必需品等々は、この国民の賢さ、着実さ、そして恐れを知らない勇気を如実に物語っている。貝殻、ガラス真珠、きらきらする金属片等で身を飾るような、他のアジアやアフリカ民族にはごく普通にみられる虚栄を、この国で目にすることは決してない。また目先がきらきらするだけで何の役にも立たないヨーロッパ人の派手な金や銀の飾り物、宝石類やその種の物はここでは珍重されず、彼らはきちんとした衣服、おいしい食物、そしてすぐれた武器を国内で製造することに努めている。
自由は日本人の生命である。それは、我儘や放縦へと流れることなく、法律に準拠した自由である。法律はきわめて厳しく、一般の日本人は専制政治下における奴隷そのものであると信じられてきたようである。しかし、作男は自分の主人に一年間雇われているだけで奴隷ではない。またもっと厳しい状況にある武士は、自分の上司の命令に服従しなければならないが、一定期間、たいていは何年間かを勤めるのであり、従って奴隷ではない。
日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている。身分の高低を問わず、法律によって自由と権利は守られており、しかもその法律の異常なまでの厳しさとその正しい履行は、各人を自分にふさわしい領域に留めている。この広範なる全インドで、この国ほど外国人に関して自国の自由を守っている国はないし、他国からの侵略、詐欺、圧迫、暴力のない国もない。この点に関し、日本人が講じた措置は、地球上にその例を見ない。というのは、全国民が国外へ出ることを禁じられて以来、今では誰一人この国の沿岸から出帆することはできないし、もし禁を犯せば死刑に処せられる。また少数のオランダ人と中国人を除いて、外国人は誰も入国の許可を得ることができないのである。そしてオランダ人と中国人は、滞日期間中、捕虜のように監視される。身分の高い人や富裕な人は、大勢の従僕を雇っている。さらにほとんどの家には召使いがいて、家の主人が外出する時はコート、履物、雨傘、行灯やその他必要になるかも知れない品物を持って従う。
礼儀正しいことと服従することにおいて、日本人に比肩するものはほとんどいない。お上に対する服従と両親への従順は、幼児からすでにうえつけられる。そしてどの階層の子供も、それらについての手本を年配者から教授される。その結果、子供が叱られたり、文句を言われたり打たれたりすることは滅多にない。身分の低い者は、身分の高い者や目上に対して深々とお辞儀をし、盲目的に無条件に従う。身分の等しい者に対しては、出会った時も別れる時もいつも慇懃な挨拶を交わす。一般には背中を曲げて頭を下げ、両手を膝か脚にそって膝下に当てるが、手が足先まで届くこともある。それは表明すべき敬意の大小による。尊敬の念が深ければ深いほど、より深く頭を下げなければならない。
目上の人に話しかけたり、または何かを渡さなければならない時は、いつもこのようなお辞儀をする。身分の低い者が道で身分の高い者に出会うと、前者は後者が通り過ぎるまで上述の姿勢のままでいるのである。身分の等しい者が出会えば、両人は立ち止まって挨拶を交わし、軽く頭を下げたままで通り過ぎる。家を訪問した時は膝を曲げて坐り、多かれ少なかれ頭を下げてお辞儀をする。そして帰るさいには、立ち上がる前に再び同じようなお辞儀をする。  
日本人の好奇心、親切、正義心
この国民の好奇心の強さは、他の多くの民族と同様に旺盛である。彼らはヨーロッパ人が持ってきた物や所有している物ならなんでも、じっくりと熟視する。そしてあらゆる事柄について知りたがり、オランダ人に尋ねる。それはしばしば苦痛を覚えるほどである。当地へやってきた商人のなかでは、とくに商館付き医師が唯一の博識者だと日本人は考えている。そこで出島の商館でもそうだったが、とくに幕府への途次や首府滞在時は、医師はいつも賢人であり、日本人はあらゆる事柄、とりわけ数学・地理学・物理学・薬学・動物学・植物学・医学について教えてもらうことができると信じている。
謁見では、我々は将軍の宮殿で老中や他の幕府高官に頭のてっぺんから足先まで熟視された。それは我々の帽子、剣、衣服、ボタン、飾り紐、時計、杖、指輪等々にまで及んだ。さらに我々の書式や文字を見せるために、彼らの面前で字をしたためざるを得なかった。この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族の群を抜いている。彼らの銅や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。農夫が自分の土地にかける熱心さと、そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい。節約は日本では最も尊重されることである。それは将軍の宮殿だろうと粗末な小屋のなかだろうと、変わらず愛すべき美徳なのである。節約というものは、貧しい者には自分の所有するわずかな物で満足を与え、富める者にはその富を度外れに派手に浪費させない。節約のおかげで、他の国々に見られる飢餓や物価暴騰と称する現象は見られず、またこんなにも人口の多い国でありながら、どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない。一般大衆は富に対して貪欲でも強欲でもなく、また常に大食いや大酒飲みに対して嫌悪を抱く。清潔さは、彼らの身体や衣服、家、飲食物、容器等から一目瞭然である。彼らが風呂に入って身体を洗うのは、週一回などというものではなく、毎日熱い湯に入るのである。その湯はそれぞれの家に用意されており、また旅人のためにどの宿屋にも安い料金で用意されている。
日本人の親切なことと善良なる気質については、私はいろいろな例について驚きをもって見ることがしばしばあった。それは日本で商取引をしているヨーロッパ人の汚いやり方やその欺瞞に対して、思いつく限りの侮り、憎悪そして警戒心を抱くのが当然だと思われる現在でさえも変わらない。国民は大変に寛容でしかも善良である。やさしさや親切をもってすれば、国民を指導し動かすことができるが、脅迫や頑固さをもって彼らを動かすことはまったくできない。
正義は広く国中で遵守されている。君主が隣国に不正を働いたことはないし、古今の歴史において、君主が他国に対して野望や欲求を抱いた例は見いだせない。この国の歴史は、外国からの暴力や国内の反乱から自国を守った勇士の偉業に満ちている。しかし他国やその所有物を侵害したことについては、一度も書かれていない。日本人は他国を征服するという行動をおこしたことはないし、一方で自国が奪い取られるのを許したこともない。彼らは常に祖先の慣習に従い、また現在も従っており、他民族の慣習を受け入れることはない。裁判所ではいつも正義が守られ、訴えは迅速にかつ策略なしに裁決される。有罪については、どこにも釈明の余地はないし、人物によって左右されることもない。また慈悲を願い出る者はいない。正義は外国人に対しても侵すべからざるものとされている。いったん契約が結ばれれば、ヨーロッパ人自身がその原因を作らない限り、取り消されたり、一字といえども変更されたりすることはない。
正直と忠実は、国中に見られる。そしてこの国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。強奪はまったくない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない。だが、こうした一方で、少なくともオランダ商館に働く底辺の民衆は、桟橋からまたは桟橋への商品の荷揚げまたは荷積みのさいに、特に砂糖や銅をオランダ人からすくねることを罪とは思っていないのである。
この国民がいつの時代にも猜疑心が強かったとはまったく信じ難い。おそらくそれは、過去に人々の動揺や内乱によってもたらされたものであろう。しかしそれより大きいのがヨーロッパ人の欺瞞で、それが日本人にこの害をうえつけ、つのらせてきた。それは今では、少なくともオランダ人と中国人との貿易においては際限ないほどになっている。迷信は他の国民に比して、この国民の間により広くより深く行き渡っている。それは彼らがほとんど学問を知らないことと、異教の神学や無知な僧侶らがこの国民に教え込んだ誤った原理によるものである。このような迷信は祭り、神事、神聖なる約束事、ある種の治療法、吉凶による日取りの決め方等々に見られる。・・・・・・  
日本語
日本語は、多くの点でヨーロッパの言語と大きく異なっているので、その習得は大変に難しい。中国語と同様に上から下へ縦に書く。・・・・このような困難にもかかわらず、私は昨年の秋から冬の間とそれ以降も、最良の友人である通詞から教わって日本語を理解し、多少は話し、そして書くことにも非常な努力をした。しかしこうしたことは、彼らの無事と私自身の安全のために極秘のうちに行われねばならなかった。この目的をうまく果たすために、私はその時々に学んだ言葉や先述の語彙集をもとに、ヨーロッパではほとんど知られていない言葉についての単語集を作成した。・・・・
衣服
衣服こそ、日本における国民特有のものであるというにふさわしい。なぜなら、それはあらゆる他民族のものと異なるのみならず、また君主から貧民に至るまですべて同一で、男女とも同じく、そしてまったく信じられないことに2500年間も変わっていないのである。それは国中どこでも、長い幅広の着物であり、身分や年齢に関係なく、一枚から何枚かを重ねて身に付ける。身分の高い人々や富裕な人々は上等な絹地の着物を、そして貧しい人々は木綿地のものを着る。女性は普通、その裾がつま先までくるし、身分の高い女性はしばしば裾をひきずり、そして男性は踵までくる。また旅人、武士、そして労働者は裾をまくり上げたり、膝までになるよう引き上げたりする。男性は無地の着物が多いが、女性はばら色の布地に花を金糸で織り込んでいるのがほとんどである。
夏は単衣か薄い裏地がついているだけである。冬は防寒のために、木綿綿や真綿をぎっしりと厚く詰める。男性が何枚もの着物を重ね着することは滅多にないが、女性は三十から五十枚またはそれ以上を重ね着することがたびたびあり、みなごく薄いので合わせてせいぜい四ないし五スコールプンド(1700ないし2125グラム)にも満たない。一番下の着物は下着の役割をしており、したがって白または青っぽい地で、たいていは薄くすきとおるようである。これらの着物はすべて、腰のまわりに帯をぐるりと巻いて固定する。帯は男性では手の幅ほどで、女性ではおよそ半アールン(約30センチ)幅であり、腰の回りに少なくとも二回巻いたあとに大きな蝶結びと結び輪が十分に作れるほどの長さがある。
男性はこの帯に刀、扇子、煙管、煙草入れ、印籠を差しこんだり、入れたりする。着物はいつも首のまわりを囲み、衿はなく、前開きである。そして首はむきだしのままで、衿巻や幅の広い布等で覆ったりすることはない。
袖はいつも不恰好で極端に広い。その幅は半アールン以上あり、袖口は開いていてその半分は縫い合わされているので、その底の方は袋のようなものであり、寒い時はそこに両手を差し込むことができるし、またポケットの代わりに紙類や他の物を入れることもできる。若い娘は、とくに着物の袖が長いので地面にまで達することがたびたびある。
この衣服はゆったりしていて、着衣が素早くできる。また脱ぐ時は帯を解き、袖をはずすだけで十分で、そうすれは着物はひとりでに脱げ落ちていく。・・・・しかしなお、それには性別、年齢、身分そして生活のありさまにより多少の違いがある。だから労働者、漁夫や船員のような身分の高くない人々が衣服を脱いで働いているのをよく目にする。 その時は着物の上半身を脱いで帯だけでささえて下に垂らしているか、またはまったく裸で腰のまわりに一本の帯状のものをまとい、それで前面を包んで自然の部分を覆った後、股間から後方にまわし背後で固定している(褌)。
身分のある男性が外出する時は、この長い着物のほかに短い半長の着物(羽織)と、ある種のズボン(袴)を身につける。羽織は上に羽織るのであり、紗のような薄い布地で作られている。衿と袖は着物と同じであるが、しかし長さは腰のあたりまでで、そこに帯を巻きつけるのではなく、前面の上方を一本の紐で結び合わせる。通常、色は黒だが、緑色のこともある。帰宅した時や自分の職務室で上位の役人がいない時は、羽織を脱いできちんとたたんでおく。
袴は独特の布地でできており、薄地に見えても繊維はかなり密で、絹でも木綿でもなくある種の麻から作られている。どちらかといえば、袴は女性のスカートに似ており、下方は足と足の間が縫いつけられている。・・・肌につける股引は、旅人や武士以外は滅多に用いない。彼らは敏捷に歩いたり走ったりするために、着物を短く端折って裾をまくり上げている。
日本である種の礼服と称される儀礼用の衣服(裃)は、身分の低い者が上司を訪問したり、また人々が幕府へ参上したりするような儀式ばった機会にだけ使用される。・・・・先述の羽織とそれほど異なってはいない。しかしうしろで肩を両側に引張っているので、これを着ると日本人は肩幅が大変広く見える。・・・・
着物はつま先へとどく長さなので脚は暖かく、靴下は履く必要もなければ国中どこにも履いている人はいない。旅をしている身分の高くない大衆や武士は、それほど長い着物はきていないが、木綿地の半長の脚絆を脚に巻いているのを見た。また長崎では厳冬下に寒さから足を守るため、何人かが木綿地の底で麻の短い靴下(足袋)を履いているのを見た。これは足首でしっかりし留められており、親指は別に縫いわけられていて草履をはくこともできるようになっている。  
 
江戸参府随行記 ツュンベリー 3

 

ツュンベリーはスウェーデンの医学や植物学の学者で、1743年生まれ。リンネなどに師事して医学博士となりました。オランダ船の船医となって世界一周旅行をし、1775年8月に長崎に着いて、その翌年オランダ商館長フェイトの侍医という名目で江戸参府旅行に随行し、その年の3月4日(日本暦の一月)に江戸に向け出発し、6月30日に長崎に戻りました。品川着が4月27日で、江戸発が5月25日ですから、ほぼ一ヶ月江戸に滞在したことになります。また、往路に二ヶ月近く、帰路は一月強かかっていたことがわかります。
ツュンベリーはその年の12月に長崎を離れ、のちに旅行記を書いて出版しました。この旅行記の中では、日本に関する部分がいちばん資料的に充実しているといわれます。それは、日本人が提供する資料がそれだけ多く、きちんとしていた事を意味しています。そのため、江戸中期の日本人の様子が、じつによくわかるのです。
「地球上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。・・・その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして百を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。・・・また法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行われるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、・・・飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの(ヨーロッパの)人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。私は日本国民について、あるがままを記述するようにつとめ、おおげさにその長所をほめたり、ことさらその欠点をあげつらったりはしなかった。」
「このように極端な検査(長崎での持ち物検査)が行われるようになった原因は、オランダ人自身にある。・・・原因にはその上に、数人の愚かな士官が軽率にも日本人に示した無礼な反発、軽蔑、笑いや蔑みといった高慢な態度があげられよう。それによって、日本人はオランダ人に対して憎悪と軽蔑の念を抱くようになり・・・その検閲はより入念により厳格になってきた」
「日本は一夫一婦制である。また中国のように夫人を家に閉じこめておくようなことはなく、男性と同席したり自由に外出することができるので、路上や家のなかでこの国の女性を観察することは、私にとって難しいことではなかった」
「そこでは宿の主人から、かつて私が世界のいくつかの場所で遇されてきたより以上に、親切で慇懃なあつかいを受けた」
「この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排水の溝をそなえている。・・・上りの旅をする者は左側を、下りの旅をする者は(上りから見て)右側を行く。つまり旅人がすれ違うさいに、一方がもう一方を不安がらせたり、邪魔したり、または害を与えたりすることがないよう、配慮が及んでいるのである。このような状況は、本来は開化されているヨーロッパでより必要なものであろう。ヨーロッパでは道を旅する人は行儀をわきまえず、気配りを欠くことがしばしばある。・・・さらに道路をもっと快適にするために、道の両側に灌木がよく植えられている」
「里程を示す杭が至る所に立てられ、どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、道がどのように続いているかを記している。この種の杭は道路の分岐点にも立っており、旅する者がそう道に迷うようなことはない。このような状況に、私は驚嘆の眼を瞠った。野蛮とは言わぬまでも、少なくとも洗練されてはいないと我々が考えている国民が、ことごとく理にかなった考えや、すぐれた規則に従っている様子を見せてくれるのである。一方、開化されているヨーロッパでは、旅人の移動や便宜をはかるほとんどの施設が、まだ多くの場所においてまったく不十分なのである。ここでは、自慢も無駄も華美もなく、すべてが有益な目標をめざしている。それはどの里程標にも、それを立てさせたその地方の領主の名前がないことからもわかる。そんなものは旅人にとって何の役にも立たない」
「(瀬戸内を船で通ったときの描写)投錨するとかならず、日本人はしきりに陸に上がって入浴したがった。この国民は絶えず清潔を心がけており、家でも旅先でも自分の体を洗わずに過ごす日はない」
「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。まったく嘆かわしいことに、もっと教養があって洗練されているはずの民族に、そうした行為がよく見られる。学校では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。・・・」
「海岸に臨みかつ国のほぼ中央に位置した大阪は、地の利を得て国の最大の貿易都市の一つになっている。国中のあらゆる地方からあらゆる物が信じ難いほど大量に供給されるので、ここでは食料品類が安く購入でき、また富裕な画家や商人が当地に住みついている」
「その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ち良い旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない」
「(大阪から京都への道の感想)私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。・・・農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。雑草と同様に柵もまたこの国ではほとんど見られず、この点では名状し難いほどに幸運なる国である」
「天皇は町なかに自分の宮廷と城を有し、特別な一区画のように濠と石壁をめぐらし、そこだけでも立派な町をなしている。・・・軍の大将である将軍は、最高権力を奪取した後もなお、天皇には最大の敬意を表していた」
「そして国のアカデミーのように、印刷物はすべて天皇の宮廷にだけ保管されるので、すべての本はまた当地の印刷機で印刷されるのである」
「(江戸について二人の医師と接触して)二人とも言い表せないほどにうちとけ、進んで協力し、学ぶことに熱中した。そして前任者にはなかった知識を私が持っていたことから、次々と質問を浴びせてきた。・・・彼らの熱心さに疲れ切ってしまうことがよくあったが、彼らと一緒に楽しくかつ有益な多くの時を過ごしたことは否めない」
「日本のすべての町には、火災やその他の事故に備えて行き届いた配慮がなされている。寝ずの番をする十分な数の確かな見張り番が、あらゆる地点に置かれており、暗くなると夕方早々から外を廻りはじめる」
「江戸の家屋はその他の点では、他の町と同じく屋根瓦で覆われた二階屋であり、その二階に住むことはほとんどない」
「私はまた、日本の魚類についての彩色図を載せた、大きな四つ折りの二巻からなる印刷本も買うことができた。これは、この国で出版された最高に美しい本の一つであり、その図はヨーロッパで素晴らしい賛辞を得るに違いないと思えるほどに、うまく彫版で印刷され、かつきれいに彩色されている」
「(一行のなかの)日本人は自分たちの通常の食事様式を守っていた。一日三回食事をし、そしてたいていは魚と葱を入れて煮た味噌汁を食べる」
「鳥通りという通りにいる多数の鳥類を見た。あらゆる地域からここへ集められたものであり、有料で見せたり、また販売したりしている。町中にはまた、かなり上手に造られた庭園があり、温室はないがいろいろな種類の植物、樹木、そして灌木がある。それらは他からここへ運ばれ、手入れされ、栽培され、そしてまた販売もされている。ここで私は使えるかぎりの金で、鉢植えのごく珍しい灌木や樹木を選んで購入することにした」
「(日本人の)国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、率直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である」
「日本人を野蛮と称する民族のなかに入れることはできない。いや、むしろ最も礼儀をわきまえた民族といえよう」
「自由は日本人の生命である。それは、我儘や放縦へと流れることなく、法律に準拠した自由である」
「日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている。身分の高低を問わず、法律によって自由と権利は守られており・・・」
「この国民の好奇心の強さは、他の多くの民族と同様に旺盛である。彼らはヨーロッパ人が持ってきた物や所有している物ならなんでも、じっくりと熟視する。そしてあらゆる事柄について知りたがり、オランダ人に尋ねる。それはしばしば苦痛を覚えるほどである」
「この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族に群を抜いている。彼らの銅や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。農夫が自分の土地にかける熱心さと、そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい」
「節約は日本では最も尊重されることである。それは将軍の宮殿だろうと粗末な小屋のなかだろうと、変わらず愛すべき美徳なのである」
「またこんなにも人口の多い国でありながら、どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない。一般大衆は富に対して貪欲でも強欲でもなく、また常に大食いや大酒飲みに対して嫌悪を抱く」
「清潔さは、彼らの身体や衣服、家、飲食物、容器等から一目瞭然である。彼らが風呂に入って身体を洗うのは、週一回などというものではなく、毎日熱い湯に入るのである」
「日本人の親切なことと善良なる気質については、私はいろいろな例について驚きをもって見ることがしばしばあった」
「国民は大変に寛容でしかも善良である。やさしさや親切をもってすれば、国民を指導し動かすことができるが、脅迫や頑固さをもって彼らを動かすことはまったくできない」
「正義は広く国中で遵守されている。・・・裁判所ではいつも正義が守られ、訴えは迅速にかつ策略なしに裁決される。有罪については、どこにも釈明の余地はないし、人物によって左右されることもない。また慈悲を願い出る者はいない」
「(外国人に対しても)・・・いったん契約が結ばれれば、ヨーロッパ人自身がその原因をつくらない限り、取り消されたり、一字といえども変更されたりすることはない」
「正直と忠実は、国中に見られる。そしてこの国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。強奪はまったくない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない」
「国民の内裏に対する尊敬の念は、神そのものに対する崇敬の念に近い」
「道路は広く、かつ極めて保存状態が良い。そしてこの国では、旅人は通常、駕籠にのるか徒歩なので、道路が車輪で傷つくことはない。そのさい、旅人や通行人は常に道の左側を行くという良くできた規則がつくられている。その結果、大小の旅の集団が出会っても、一方がもう一方を邪魔することなく互いにうまく通り過ぎるのである。この規則は、他に身勝手な国々にとって大いに注目に値する。なにせそれらの国では、地方のみならず都市の公道においても、毎年、年齢性別を問わず――とくに老人や子供は――軽率なる平和破壊者の乗り物にひかれたり、ぶつけられてひっくり返り、身体に損害を負うのが珍しいことではないのだから」
「刃は比類ないほどに良質で、特に古いものは値打ちがある。それはヨーロッパで有名なスペインの刃を、遙かに凌ぐものである」
「私は、神道信奉者らが祭日や他の日にどのような心境でこの社にやってくるかということが漸次わかってきたが、そのさい非常に驚くことが多かった。彼らは何かの汚れがある時は、決して己れの神社に近付かない」
「なかでもこの国の二、三の寺社は特に注目されており、あたかもイスラム教徒がいつもメッカを訪ねるように、国のあらゆる地方からそこへ向けて遍路の旅が行われる。特に伊勢神宮はその一つであり、この国最古の神、すなわち天の最高の神天照大神を祭っている、社は国中で最も古くかつ最もみすぼらしく、今ではいろいろ手を尽くしても修復できないほどに古びて朽ちている。なかには鏡が一つあるだけであり、まわりの壁には白い紙片がかけられている。・・・老若男女を問わずすべての信者は、少なくとも一生に一度はここへの旅をする義務があり、そして多くの信者は毎年ここに来る」
「寺社の聖職者以外にも二、三の異なる聖職がある。なかでも盲目の聖職は最も特殊なものの一つと言えよう。それは盲人だけからなっており、他には類を見ないものであるが、国中にある」
「この国の男性が娶れる婦人は一人だけで、何人も娶ることはない。夫人は自由に外出できるし、人々の仲間にはいることもできる。隣国のように隔離された部屋に閉じこめられていることはない」
「国史は、他のほとんどの国より確かなものであろうとされ、家政学とともに誰彼の区別なくあらゆる人々によって学ばれる」
「法学についても広範囲な研究はなされていない。こんなにも法令集が薄っぺらで、裁判官の数が少ない国はない。法解釈や弁護士といった概念はまったくない。それにもかかわらず、法が人の身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は他にない。法律は厳しいが手続きは簡潔である」
「測量術については、かなり詳しい。したがって一般的な国とそれぞれの町に関する正確な地図を持っている。一般的な国の地図の他に、私は江戸、都、大阪、長崎の地図を見た。さらにたいへんな危険をおかして、禁制品であるそれらを国外へ持ち出すこともできた」
「子供たちに読み書きを教える公の学校が、何か所かに設けられている」
「工芸は国をあげて非常に盛んである。工芸品のいくつかは完璧なまでに仕上がっており、ヨーロッパの芸術品を凌駕している」
「紙は国中で大量に製造される。書くという目的の他、印刷、壁紙、ちり紙、衣服、包装用等々であり、その大きさや紙質はまちまちである」
「日本で製造される漆器製品は、中国やシャム、その他世界のどの製品をも凌駕する」
「日本人が家で使う家具は、台所や食事のさいに使う物を除けば、他は極めて少ない。しかし衣服その他の必需品は、どの町や村でも、信じられないほど多数の物が商店で売られている」
「日本の法律は厳しいものである。そして警察がそれに見合った厳重な警戒をしており、秩序や習慣も十分に守られている。その結果は大いに注目すべきであり、重要なことである。なぜなら日本ほど放埒なことが少ない国は、他にほとんどないからである。さらに人物の如何を問わない。また法律は古くから変わっていない。説明や解釈などなくても、国民は幼時から何をなし何をなさざるかについて、確かな知識を身に付ける。そればかりでなく、高齢者の見本や正しい行動を見ながら成長する」
「ここでは金銭をもって償う罰金は、正義にも道理にも反するものと見なされる。罰金を支払うことで、金持ちがすべての罰から解放されるのは、あまりにも不合理だと考えているのである」
「日中は、寺男が寺院の鐘をついて時刻を知らせる。また、茶屋や宿屋はどこも非常になごやかな雰囲気で、喧嘩や酔っぱらいには滅多にお目にかからない。それに比べて北欧の西部地方は、それらがあまりにも日常的で、まったく恥ずべきことである」
「当地では犯罪の発生もその処罰も、人口の多い他の国に比して確かにずっと少ないといえよう」
「日本では農民が最も有益なる市民とみなされている。このような国では農作物についての報酬や奨励は必要ない。そして日本の農民は、他の国々で農業の発達を今も昔も妨げているさまざまな強制に苦しめられるようなことはない。農民が作物で納める年貢は、たしかに非常大きい。しかしとにかく彼らはスウェーデンの荘園主に比べれば、自由に自分の土地を使える。(スウェーデンの農民が農業以外の苦役に従事しなければならない例をいくつかひいて)日本の農民は、こうしたこと一切から解放されている。彼らは騎兵や兵隊の生活と装備のために生じる障害や困難については、まったく知らない。そんなことを心配する必要は一切ないのだ」
「農民の根気よい草むしりによって、畑にはまったく雑草がはびこる余地はなく、炯眼なる植物学者ですら農作物の間に未知の草を一本たりとも発見できないのである」
「日本には外国人が有するその他の物――食物やら衣服やら便利さゆえに必要な他のすべての物――はあり余るほどにあるということは、既に述べたことから十分にお分かりいただけよう。そして他のほとんどの国々において、しばしば多かれ少なかれ、その年の凶作や深刻な飢饉が嘆かれている時でも、人口の多いのにもかかわらず、日本で同じようなことがあったという話はほとんど聞かない」
「商業は、国内のさまざまな町や港で営まれており、また外国人との間にも営まれる。国内の商取引は繁栄をきわめている。そして関税により制限されたり、多くの特殊な地域間での輸送が断絶されるようなことはなく、すべての点で自由に行われている。どの港も大小の船舶で埋まり、街道は旅人や商品の運搬でひしめき、どの商店も国の隅々から集まる商品でいっぱいである」 
 

 

 
『日本幽囚記』 ゴロヴニン 

 

 
ヴァシーリー・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン
(1776-1831) ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、探検家、学者。ゴロヴニン、ゴローヴニン、あるいはワシーリー・ゴローニンとも。
1807年から1809年にかけディアナ号で世界一周航海に出て、クリル諸島の測量を行なう。1811年、軍により千島列島の測量を命じられ、自らが艦長を務めるディアナ号で択捉島・国後島を訪れる。しかし国後島にて幕府役人調役奈佐瀬左衛門に捕縛され、箱館で幽閉される。ゴロヴニーンは幽閉中に間宮林蔵に会見し、村上貞助や上原熊次郎にロシア語を教えたりもした。
1813年、ディアナ号副艦長ピョートル・リコルド(ロシア語版)の尽力により、ロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えにゴロヴニーンは解放された(ゴローニン事件)。帰国後の1816年に日本での幽閉生活を『日本幽囚記』という本にまとめた、この本は欧州広範囲で読まれた。1825年には日本でもオランダ本から訳された「遭厄日本紀」が出版された。同書は、ニコライ・カサートキンが日本への正教伝道を決意するきっかけとなったことが知られる。1817年から1819年にかけてカムチャツカ号で再度世界一周航海に出た。
1823年、海軍主計総監に任命され海軍中将に就任。ロシア初の蒸気船を含む200以上の船舶を造り、フェルディナント・フォン・ウランゲルなどを教えた。
1831年、コレラで死去。
ゴロヴニンによる二つの航海誌
ロシア海軍士官ワシーリイ・ミハイロヴィッチ・ゴロヴニン(1776-1831)は2回の大航海を成し遂げた。[航海誌 『1807、1808、1809年ロシア帝室ディアナ号によるクロンシュタットからカムチャッカまでの旅』(1819)及び『勅命を受け、1817、1818、1819年カムチャッカ号による世界一周旅行』(1822) ]
ゴロヴニンは1807年から1809年にディアナ号で航海した後、クリル諸島の地図を完成させた。1811年にはディアナ号で千島海域の水路測量中、国後島で日本人に捕えられた。この2年3ヶ月の抑留生活の記録を、帰国後『日本幽囚記』(1816)として著した。そしてカムチャッカ号艦長に任命された。
カムチャッカ号には3つの任務が与えられていた。まずカムチャッカ半島・オホーツク海域に海具や軍備品など必要な物資の輸送すること、次に露米会社 の植民地を視察、及び原住民に対する会社員の態度調査すること、そしてロシア領下にある島・土地の地理的位置を測定することであった。これらの任務を受けて、1817年8月26日カムチャッカ号はクロンシュタットを出港した。
1741年ベーリングのアラスカ発見以来、アラスカ、アリューシャン列島、北アメリカ北西岸は「ルースカヤ・アメリカ」と呼ばれ、多くのロシア人企業主や船乗りが海を渡った。1799年千島列島を含めたこの領地の開拓を目的に露米会社が設立された頃には、すでに最初の遺日使節ラクスマンも根室に派遣され、カムチャッカを拠点にロシアの関心は日本にも向けられていた。
カムチャッカ号の航海誌は幅広い読者層を想定して2部形式をとり、第1巻は航海日誌と寄港都市についての観察記録、第2巻は前巻で省いた航海知識・技術についての日誌から成る。ゴロヴニンは序文で、世界のあらゆる土地は先駆者たちに発見されその旅行記によってすでに周知されているため、同じ内容では読者を満足させられない、しかし人間の住む社会は絶え間なく変化するので、それぞれの旅が新しい興味深い情報を提供することができる、と語る。水夫の他にティハーノフという画家も乗船した。ゴロヴニンは、世界の果てにあるたくさんの物はそのサンプルを持ち帰ることはできず、それらの詳細な記述だけでは然るべき概念を伝えることはできないので、画家は重要であると述べている。巻末には、後に東シベリア海を探検したウランゲリの名前も載っているの乗船者名簿や、ある地点間の毎日の緯度・経度、方角、速度の表と、湾の地図、島の外観を描いた線画などが付けられている。  
 
ゴローニン事件 1

 

1811年(文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルドと、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。ゴローニンが帰国後に執筆した『日本幽囚記』により広く知られる。
事件までの経緯
東方へ領土を拡張していたロシア帝国は、18世紀に入るとオホーツクやペトロパブロフスクを拠点に、千島アイヌへのキリスト教布教や毛皮税(ヤサーク)の徴収を行い、得撫島に移民団を送るなど千島列島へ進出するようになった。一方、日本も松前藩が1754年(宝暦4年)に、国後場所を設置しアイヌとの交易を開始した。そして1759年(宝暦9年)に、松前藩士が厚岸で、択捉島および国後島のアイヌから、北千島に赤衣を着た外国人が番所を構えて居住しているという報告を受け、日本側もロシア人の千島列島への進出を認識するようになった。
1778年(安永7年)、イルクーツク商人のシャバリンが蝦夷地のノッカマップ(現在の根室市)に上陸し交易を求めた。応対した松前藩士が来年返答すると伝え、翌1779年(安永8年)、厚岸に来航。松前藩は幕府に報告せず独断で、交易は長崎のみであり、蝦夷地に来ても無駄であることを伝え引き取らせた。一方、日本側も老中・田沼意次の時代に幕府が蝦夷地探検隊を派遣、1786年(天明6年)に最上徳内が幕吏として初めて択捉島へ渡り、同島北東端のシャルシャムでロシア人と遭遇するなど両国の接触が増えていった。
1792年(寛政4年)、アダム・ラクスマンが神昌丸漂流民の大黒屋光太夫らを伴い、シベリア総督の親書を所持した使節として蝦夷地に来航。ラクスマンは江戸での通商交渉を求めたが謝絶され、代わりに長崎入港を認める「信牌」を渡され帰国した。
露米会社を設立したニコライ・レザノフは、若宮丸漂流民の津太夫一行を送還するとともに通商を求めるため、皇帝・アレクサンドル1世の親書およびラクスマンが入手した信牌を所持した使節として、1804年(文化元年)9月に長崎へ来航した。しかし、半年以上半軟禁状態に置かれた後、翌1805年(文化2年)3月に長崎奉行所で目付・遠山景晋から通商を拒絶された。レザノフは漂流民を引渡して長崎を去ったが、ロシアに帰国した後、武力を用いれば日本は開国すると考え、皇帝に上奏するとともに、部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)らに日本への武力行使を命令した。レザノフはフヴォストフに計画を変更して、亜庭湾の偵察を行いアメリカに向かえ、という命令を残してサンクトペテルブルグへ向かったが、先の命令は撤回されていないと考えたフヴォストフは1806年(文化3年)から1807年(文化4年)にかけて、択捉島や樺太、利尻島で略奪や放火などを行った。
幕府は、1806年1月にロシアの漂着船は食糧等を支給して速やかに帰帆させる「ロシア船撫恤令」を出していたが、フヴォストフの襲撃を受けて東北諸藩に出兵を命じ蝦夷地沿岸の警備を強化するとともに、1807年12月に、ロシア船は厳重に打払い、近づいた者は逮捕もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視するという「ロシア船打払令」を出した。また、1808年(文化5年)には長崎でフェートン号事件も起きており、日本の対外姿勢は硬化していた。そうした状況下で発生したのがゴローニン事件であった。
ゴローニンの捕縛
1811年(文化8年)、ペトロパブロフスクに寄港していたスループ船・ディアナ号の艦長ゴローニン海軍大尉は千島列島南部の測量任務を命じられ、ディアナ号で千島列島を南下。5月に択捉島の北端に上陸、そこで千島アイヌ漂流民の護送を行っていた松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会った。ゴローニンが薪水の補給を求めたところ、石坂は同島の振別(ふれべつ)会所に行くよう指示し、会所宛の手紙を渡した。しかし、逆風に遭遇したことに加えて、当時のヨーロッパにおいて未探索地域であった根室海峡に関心を持ち、同海峡を通過して北上しオホーツクへ向かう計画であったゴローニンは振別に向かわず、穏やかな入り江がある国後島の南部に向かった。そして5月27日、泊湾に入港した。湾に面した国後陣屋にいた松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門が警固の南部藩兵に砲撃させると、ゴローニンは補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送り、日本側と接触した。
6月3日、海岸で武装した日本側の役人と面会、日本側から陣屋に赴くよう要請される。6月4日、ゴローニン、ムール少尉、フレブニコフ航海士、水夫4名(シーモノフ、マカロフ、シカーエフ、ワシリーエフ)と千島アイヌのアレキセイは陣屋を訪問。食事の接待を受けた後、補給して良いか松前奉行の許可を得るまで人質を残してほしいという日本側の要求を拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛された。この「騙し討ち」を見て、ロシア人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになった]。
ディアナ号副艦長のリコルドは、ゴローニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行ったが、大した損害を与えることができず、そして攻撃を続けるとゴローニン達の身が危うくなる懸念があることから、彼らの私物を海岸に残して、一旦オホーツクへ撤退した。オホーツクに着いたリコルドは、この事件を海軍大臣に報告しゴローニン救出の遠征隊派遣を要請するため、9月にサンクトペテルブルクへ出発した。途中、イルクーツク県知事トレスキン(ロシア語版)を訪問したところ、既に遠征隊派遣を願い出ているとの説明を受けたことからイルクーツクに滞在したが、ヨーロッパ情勢の緊迫化のため日本への遠征隊派遣は却下となり、リコルドは文化露寇の際に捕虜となりロシアに連行されていた良左衛門を連れてオホーツクへ戻った。
抑留生活
国後島からディアナ号が去ると、ゴローニンらは縄で縛られたまま徒歩で陸路を護送され、7月2日、箱館に到着。そこで箱館詰吟味役・大島栄次郎の予備尋問を受けた後、8月25日に松前に移され監禁された。
8月27日から松前奉行・荒尾成章の取り調べが行われた。荒尾は、フボォストフの襲撃がロシア政府の命令に基づくものではなく、ゴローニンもフボォストフとは関係ないという主張を受け入れ、ゴローニンらを釈放するよう11月江戸に上申したが、幕閣は釈放を拒否した。
脱走
1812年(文化9年)春、監視付の散歩が許されるようになり、また牢獄から城下の武家屋敷への転居が行われたが、このまま解放される見込みがないと懸念したゴローニンらは、脱獄して小舟を奪い、カムチャツカか沿海州方面へ向かうことを密かに企てた。当初はムールやアレクセイも賛同したが、ムールは翻意。3月25日にムールとアレクセイを除く6名が脱走。松前から徒歩で北に向かって山中を逃げたが、4月4日、木ノ子村(現在の上ノ国町)で飢えて疲労困憊となっているところを村人に発見され捕まった。松前に護送され、奉行の尋問を受けた後、徳山大神宮の奥にあるバッコ沢(現在の松前町字神内)の牢獄に入れられた。
通訳教育、間宮林蔵の来訪
幕府はゴローニンらに通訳へのロシア語教育を求め、上原熊次郎、村上貞助(むらかみ・ていすけ)、馬場貞由、足立信頭らがロシア語を学んだ。
そのほか学者などが獄中のゴローニンらを訪問しているが、その中に間宮林蔵もいた。林蔵は、壊血病予防の薬としてレモンやみかん、薬草を手土産に、六分儀や天体観測儀、作図用具などを持ち込んで、その使用方法を教えるよう求めた。また、林蔵は毎日、朝から晩まで通っては鍋や酒を振る舞い、自分の探検や文化露寇の際の武勇談を自慢して、ゴローニンに「彼の虚栄心は大変なもの」と評された。なお林蔵はロシア人を疑っており、ゴローニンらをスパイであると奉行に進言し江戸に報告書を送っていたと、ゴローニンは記している。
高田屋嘉兵衛の拿捕
オホーツクに戻ったリコルドは、ゴローニン救出の交渉材料とするため、良左衛門や1810年(文化7年)にカムチャツカ半島に漂着した歓喜丸の漂流民を伴ない、ディアナ号と補給船・ゾーチック号の2隻で1812年夏に国後島へ向かった。8月3日に泊に到着、国後陣屋でゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、松前奉行調役並・太田彦助は漂流民を受け取るものの、ゴローニンらの解放については既に処刑したと偽り拒絶した。リコルドはゴローニンの処刑を信じず、更なる情報を入手するため、8月14日早朝、国後島沖で高田屋嘉兵衛の手船・観世丸を拿捕。乗船していた嘉兵衛と水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治・アイヌ出身のシトカの計6名をペトロパブロフスクへ連行した。
ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだ]。嘉兵衛らの行動は自由であり、新年には現地の人々に日本酒を振る舞い親交を深めた。また、当時のペトロパブロフスクは貿易港として各国の商船が出入りしており、嘉兵衛も諸外国の商人と交流している。12月8日(和暦)、嘉兵衛は寝ているリコルドを揺り起こし、事件解決の方策を話し合いたいと声をかけた。嘉兵衛はゴローニンが捕縛されたのは、フヴォストフが暴虐の限りを尽くしたからで、日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと説得した。翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが病死。嘉兵衛はキリスト教の葬式を行うというロシア側の申出を断り、自ら仏教、アイヌそれぞれの様式で3人の葬式を行った。その後、みずからの健康を不安に感じた嘉兵衛は情緒が不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドはこのときカムチャツカの長官に任命されていたが、嘉兵衛の提言に従い、みずからの官職をもってカムチャツカ長官名義の謝罪文を書き上げ、自ら日露交渉に赴くこととした。
事件解決
幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがフボォストフの襲撃は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴローニンを釈放することとした。これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、ゴローニンに翻訳させ、ロシア船の来航に備えた。この幕府の事件解決方針は、まさに嘉兵衛の予想と合致するものだった。
1813年(文化10年)5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かった。5月26日に泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送った。次いで嘉兵衛が陣屋に赴き、それまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。嘉兵衛はディアナ号に戻り、上述の「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに手渡した。
ディアナ号国後島到着の知らせを受けた松前奉行は、吟味役・高橋重賢、柑本兵五郎を国後島に送った。二人はシーモノフとアレクセイを連れて国後島に向かい、6月19日に到着。しかしながらリコルドが日本側に提出した謝罪文は、リコルドが嘉兵衛を捕らえた当人であったという理由から幕府が採用するところとならず、リコルドは他のロシア政府高官による公式の釈明書を提出するよう求められた。
日本側の要求を承諾したリコルドは、6月24日、釈明書を取りにオホーツクへ向け国後島を出発。一方、高橋と嘉兵衛らは6月29日に国後島を出発、7月19日に松前に着いた高橋は松前奉行・服部貞勝に交渉内容を報告。そして8月13日にゴローニンらは牢から出され、引渡地である箱館へ移送された。
リコルドはオホーツクに入港すると、イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を入手。そして、若宮丸の漂流民でロシアに帰化していた通訳のキセリョフ善六と歓喜丸漂流民の久蔵を乗せて、7月28日にオホーツクを出港した。20日後には蝦夷地を肉眼で確認できる位置まで南下し、8月28日に内浦湾に接近した。しかし暴風雨に遭遇、リコルドは一旦ハワイ諸島に避難することも検討したが、暴風雨がおさまったため、9月11日に絵鞆(現在の室蘭市)に入港した。そこで水先案内のため待機していた嘉兵衛の手下・平蔵がディアナ号に乗り込み、9月16日夜に箱館に到着した。入港直後には嘉兵衛が小舟に乗ってディアナ号を訪問し、リコルドとの再会を喜び合った。
9月18日朝、嘉兵衛がディアナ号を訪問、リコルドはオホーツク長官の釈明書を手渡した。
9月19日正午、リコルドと士官2人、水兵10人、善六が上陸、沖の口番所で高橋重賢らと会見し、イルクーツク県知事の釈明書を手渡した。なお、この会談で善六はリコルドの最初の挨拶を翻訳したが、以後の通訳は日本側の通訳・村上貞助が行った。松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、9月26日にゴローニンらを解放し久蔵を引き取ったが、通商開始については拒絶した。
任務を終えたディアナ号は9月29日に箱館を出港し、10月23日にペトロパブロフスクに帰着した。
その後
ペトロパブロフスクに帰還したゴローニンは、同年の冬にリコルドとともにサンクトペテルブルクへ出発した。1814年夏にサンクトペテルブルクに到着、両名とも飛び級で海軍中佐に昇進し、年間1,500ルーブルの終身年金を与えられた。
一方嘉兵衛は、リコルドを迎えるため松前から箱館に戻った9月15日から称名寺に収容され監視を受けることとなり、ディアナ号の箱館出港後も解放されなかったが、体調不良のため自宅療養を願い出て、10月1日からは自宅で謹慎した。後にゴローニン事件解決の褒美として、幕府から金5両を下賜された]。
幻の国境画定交渉
リコルドは、イルクーツク県知事から国境画定と国交樹立の命令を受けていたが、日本側の姿勢を判断するに交渉は容易ではなく、箱館での越冬を余儀なくされ、レザノフの二の舞になる懸念があることから、ゴローニンと相談し日本側への打診を中止した。ただし、箱館を去る際、日本側の役人に、国境画定と国交樹立を希望し、翌年6-7月に択捉島で交渉したい旨の文書を手渡した]。
幕府は国交樹立は拒否し、国境画定に関してのみ交渉に応ずることとした。そして、択捉島までを日本領、シモシリ島(新知島)までをロシア領として、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て、1814年春、高橋重賢を択捉島に送った。しかし、高橋が6月8日に到着した時には、ロシア船は去った後であった。このため国境画定は幕末のプチャーチン来航まで持ち越されることとなった。
日本幽囚記
ゴローニンは帰国後、日本での捕囚生活に関する手記を執筆し、1816年に官費で出版された。三部構成で、第1部・第2部が日本における捕囚生活の記録、第3部が日本および日本人に関する論評である。
幕末にロシア正教会の司祭として来日したニコライ・カサートキンが同書を読んで日本への関心を高めたと伝えられている。そして同書は各国語に翻訳され、日本に関する最も信頼のおける史料として評価された。日本でもドイツ語版を重訳したオランダ語版(第1部・第2部のみ)が1821年にオランダ商館長により江戸にもたらされ、翌年から馬場貞由(翻訳中に死去)、杉田立卿、青地林宗が翻訳、高橋景保が校訂し、1825年(文政8年)に『遭厄日本記事』として出版された。同書は淡路島に帰っていた高田屋嘉兵衛も入手し読んでいたことが判明している。 
 
日本幽囚記 2

 

『日本幽囚記(にほんゆうしゅうき)』は、文化8年(1811年)、地理調査のためにクナシリ島に来航したロシア皇帝艦のゴロヴニン艦長が、日本に捕らえられ幽囚されてから、帰国するまでの2年3ヶ月にわたる日本での出来事を記録した手記です。「蘇我の歴史」を調べていたら、江戸時代の諸事件の記録が載っていました。ロシア皇帝艦のゴロヴニン艦長が、日本に捕らえられ幽囚されたニュースは、江戸時代、大きな話題になったのだと思います。
『日本幽囚記』は、上、中、下の三冊になります。上・中は、ゴロヴニン艦長が日本に捕われてからのことが、細やかに書かれています。下は、ゴロヴニン艦長、外国人からみた、日本国、日本人のことが書かれていました。
江戸時代の、日本人の生き方がよくわかり、あらためて日本人を見直すことができる本です。本書の中でゴロヴニン艦長は、日本人を「世界で最も聡明な民族」であり、「勤勉で万事に長けた国民」と言っています。現代でも、 「 おもてなし 」の精神につながっている、原点ではないでしょうか。
日本幽囚記より
日本人は自分の子弟を立派に薫育(くんいく)する能力を持ってゐる。ごく幼い頃から讀み書き、法制、國史、地理などをヘへ、大きくなると武術をヘへる。しかし一等大切な點(てん)は、日本人が幼年時代から子弟に忍耐、質素、禮儀(れいぎ)を極めて巧みに教へこむことである。われわれは實地(じっち)にこの賞讃すべき日本人の素質を何度もためす機會(きかい)を得た。私はこの幽囚記(ゆうしゅうき)の中で述べて置いたやうに、日本側は實(じつ)に忍耐づよく、冷静に、しかも優しくわれわれを待遇し、また正直に云って彼らの立場がわれわれより正當(せいとう)であったにも 拘(かか)はらず、よくわれわれの論證(ろんしょう)を聽取(ちょうしゅ)し、瘻々(ろうろう)非難や罵詈雜言(ばりぞうごん)にも耳を傾けたのである。
日本では熱烈に論爭(ろんそう)することは、大變(たいへん)に非禮(ひれい)で粗暴なことと認められてゐる。彼らは常にいろいろと申譯(もうしわけ)をつけて、自分の意見を禮儀正しく述べ、しかも自分自身の判斷を信じてゐないやうな素振りまで見せる。
また反駁(はんばく)する時には決して眞正面から切り返して來ないで、必ず遠廻はしに、しかも多くは例を舉げたり、比較をとったりしてやつて來る。これについて私はわれわれと日本人との議論の例を二三あげて置かう。
われわれは他國との交渉を一切さけようとする日本側の政策を非難して、ヨーロッパ人が相互の交渉から受けてゐる利益をさまざまに説明した。
「わが國は外國で行はれた發明發見を利用し、外國でこちらの發明發見を利用してゐるのです。またわが國の産物は外國に出し、外國からもこちらの必要とする産物を買つてゐるのです。そのため皆は仕事にはげみ、營業(えいぎょう)は盛大になつて、ヨーロッパ人は多大の満足と快適を味つてゐるのです。ところがもしヨーロッパ各國の王様たちが日本政府の眞似をして、外國との交際を一切斷絶してゐたら、こんな満足はヨーロッパ人も知ることが出來なかつたでせう」
と云った具合に、ヨーロッパの制度をほめ、日本の政策を非難して、われわれは本で讀んだり、人から聞いたりしたこの問題の知識を、頭に浮ぶまゝに述べ立てたのである。
日本人たちはじつとその話を傾聽し、ヨーロッパ各國政府の頭のよさと先見の明をほめた。そして如何(いか)にもわれわれの強力な論據に説服されて、一から十までわれわれに同意したかに見えた。ところが次第に話題を轉(てん)じ、目立たぬやうに話頭(わとう)を戰爭の方へ持って行って、不意にかうたづねた。
「ヨーロッパでは戰爭のないのは五年とは續かず、また二ケ国が爭ひを起こすと他國も澤山その爭ひに割り込んで來て、ヨーロッパ全體(ぜんたい)の戰爭になるやうですが、一體(いったい)その原因は何です」
「それはね」 とわれわれは話して聞かせた、
「隣合つて生活し、絶えず交渉を持ってゐるために、不和のきつかけが出來るのです。さうして不和は、必らず圓滿(えんまん)にまとなるとはきまつてゐないのです。ことに個人的な利害と名譽心が混つて來ると、なほさら友好的に解決できません。さてある國が他國と戰爭して大いに優勢となり、強大になつて來るとします。すると別の國々まで、その國が自國のために危險な國となることを許さずに、弱い國の肩を持って、強い國と戰ふのです。強い國の方でも、もちろん同盟國を求めるのです。かうして戰爭は殆んど全般的なものとなつて行くのです」
日本人たちはこの話を聽いて、ヨーロッパ各國王の賢明さを賞賛し、それから 「 西洋には強國が幾つありますか 」 とたづねた。
そこにヨーロッパ列強の名をあげて、その數(かず)をヘへてやると、向ふではかうたづねた。
「かりに日本と支那じが西洋諸國と國交をひらき交際するやうになり、さらに西洋の制度をまねるやうになつたら、人間同士の戰爭は一廥(いっそう)頻繁に起り、人間の血は一段と澤山流れるのではありますまいか 」
「さうです。それはさう成るかも知りません」 とわれわれは答へた。
「もしさうだとすれば 」 と日本人たちは續けた、
「さつき、二時間ほど前にいろいろとヨーロッパと交際したほうがよいと御説明いただきましたが、やつぱり日本としては西洋と交際するよりも、古來の立場を守つた方が、各國民の不幸を少くする意味で却つてよいのではありますまいか 」
私としてはこんな風に遠廻はして持つて來た思ひがけもない反駁(はんばく)をうけると、正直なところ云ふところを知らなかったのである。
仕方がないので、
「もつと日本語が上手になつたら、この問題について僕の意見の正しいことを證明できるのですが 」
と云っては置いたが、心の中では(たとひ日本の演説家となつても、僕はこの眞理をくつがへすことは難かしからう)と考へたものである。
またある時は、ヨーロッパ人は日本人にくらべて非常に優越を享有し、日本では知りもしない満足を澤山味はつていると話すと、日本人たちは 「 ヨーロッパに何年か行きたいものだ 」 と希望をもらした。
それから次第に話頭を彼らの祖國のことに向けて行つて、かう云った。
「日本には隣合はせて大小二つの町があります。」
とその町の名をあげ、それから
「大きい方の町の住民はお金持ちで、必要品はもちろん、贅澤品も澤山持つています。ところが不幸なことには、この町の住民は年がら年中、喧嘩ばかりしているし、また無ョ渶(ぶらいえい)も多くて夜歩きは危い程なのです。しかるに小さい町にはごくごく必要な物しかないのですが、その代りに、住民はお互いに兄弟のやうに仲よく暮らし、内輪喧嘩などありません」 と云った。
そしてわれわれが、「大きな町より小さな町の方がよい」 と云ふと、日本人たちは早速この二つの町をヨーロッパと日本にたとへて終わった。これも相當な根據がなくはないと思はれる。
 
ゴローニンの『日本幽囚記』 3

 

わたしの手元にゴロヴニン『日本幽囚記』の下巻がある(他の巻はない。井上 滿訳、岩波文庫)。奥付に昭和二十一年六月十日第一刷発行、定價拾圓(税共)とある。父が買ったものだろうか、昭和廿一年九月十日と購入日(多分)がインクで書かれている。戦争直後の事情を反映して、紙の質は極めて悪い。
さて、ゴローニン(と書き改めます)は19世紀前半のロシア海軍の軍人でディアナ号の艦長だった。1811年6月4日に千島列島南部の測量を行っている時、松前奉行所の役人に捕まり、2年3ヶ月間松前に抑留された。ロシア側は対抗措置?として、日本人の廻船業者・高田屋嘉兵衛を捕縛した。結局、これが功を奏し、嘉兵衛らの尽力で、1913年9月26日にゴローニンは釈放されることになった。『日本幽囚記』は抑留されたときの記録で、1816年に3巻本として出版された。この本はヨーロッパ各国で翻訳されたようだが、1821年にはオランダ語訳が日本にもたらされ、1825年には邦訳が出版された。高田屋嘉兵衛も訳書を読んだという。鎖国中の日本であったが、原著出版から10年を経ずして翻訳本が出ていたとは驚きである。ゴローニンは、幕府の閣僚や学者がオランダや清を通じて、欧州諸国の情報を入手し勉強していると認識している。
手元の『日本幽囚記』下巻は、内容からして、原書の第3巻に当たるようだ。そこには日本や日本人に関する記述がある。ここでは興味を引いた点を取り上げる。ゴローニンは書く。日本人は全体として、天下を通じて最も教育の進んだ国民である。日本には読み書きのできない人間はいないし、国の法律を知らないものはいない。法律の要点は町や村の適当な場所に掲示されている。ゴローニンが接触したのは役人が多かっただろうから、読み書きはできただろう。日本人全員が読み書きができるということはなかったはずだ。ただ、法律の要点が掲示されていることは、読めることを前提にしているので、識字率は高かっただろう。松前のような辺境の地でゴローニンがこういう感想を持ったことは心に留めておいていい。ゴローニンは、日本には偉大な科学者がいないという批判に対して、欧州にはその代わり読み書きができない人々が大量にいる、と反論している。確かに、江戸時代後期(幕末を含む1800年以降)の日本の識字率は、世界的に見ても、とても高かったようだ。キチンとした調査や統計がなかった時代なので、正確な率を出すことは難しいだろう。寺子屋の数や、そこで学んでいた子どもの数を推測し、識字率を出しているようだ。もう一つは、江戸時代に日本に来た外国人が書き残した書物など記録が手掛かりを与えてくれる。ゴローニンのこの著書もその一つだろう。高い識字率は日本の発展に大きく寄与しただろう。
ゴローニンは書く。幕府の方針で、欧州の地理、社会、政治、軍事、科学、産業などに関する知識を一般の日本人は知らない。しかし、日用品の制作に関する産業は欧州並みに発達しているし、地球の形状や測量法など、科学技術に関する知識を持っている。もし、人口が多く、聡明犀利で、模倣力があり、忍耐強く、仕事好きで、何でもできる国民が、必要に迫られて国を開き、欧州の文明、科学技術を取り入れようと決意したら、日本は瞬く間にそれを成し遂げ、アジアに君臨することになるだろう。清など日本の周辺諸国もそれに倣い、世界に影響を与えるだろう。以上、ゴローニンの記述を表現を多少変えながら、紹介した。これは明治維新の50年前の記述である。日本に関して言えば、歴史はゴローニンが予見した通りに進んだ。日本の辺境の地における二年三ヶ月の見聞でこれだけの予見ができるとは、すばらしいことだ。
幽囚の身であるにもかかわらず、ゴローニンの日本に対する過分の評価はいささか面映ゆい。ただ、これらの点は今も聞かれるような気がする。国民性といったものだろうか。 
 

 

 
『江戸参府紀行』 シーボルト  

 

 
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト 1
(1796-1866) ドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語での発音は「ズィーボルト」だが、日本では「シーボルト」で知られている。出島の三学者の一人。
神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現バイエルン州北西部)に生まれる。シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師であり、医学界の名門だった。父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルト、母はマリア・アポロニア・ヨゼファ。シーボルトという姓の前にフォン (von) が添えられているが、これは貴族階級を意味し、シーボルト家はフィリップが20歳になった1816年にバイエルン王国の貴族階級に登録された。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。
父親ヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で死去した。妻マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に2男1女を儲けるが、長男と長女は幼年に死去し、次男のフィリップだけが成人した。父の死は1歳1ヶ月のときである。以後、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられる。
大学時代
フィリップが9歳になったとき、母はヴュルツブルクからマイン川を半時間ほど遡ったハイディングフェルトに移住し、14歳でヴュルツブルクの高校に入学するまでここで育った。12歳からは、地元の司祭となった叔父から個人授業を受けるほか、教会のラテン語学校に通う。1815年にヴュルツブルク大学の哲学科に入学するも、家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことになる。大学在学中は解剖学の教授のイグナーツ・デリンガー(ドイツ語版)家に寄寓した。医学をはじめ、動物、植物、地理などを学ぶ。
一方で、大学在学中のフィリップは、自分が名門の出身という誇りと自尊心が高かった。またメナニア団という一種の同郷会に属し議長に選ばれ、乗馬の奨励をしたり、当時決闘は常識だったとはいえ、33回もの決闘をして顔に傷も作った。江戸参府のときに商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチューレルが学術調査に非協力的だとの理由で彼に決闘を申し入れている。
植物学との出会い
デリンガー教授宅に寄宿し、植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の知遇を得たことが彼を植物に目覚めさせた。ヴュルツベルク大学は思弁的医学から、臨床での正確な観察、記述及び比較する経験主義の医学への移行を重視していた。シーボルトの家系の人たちはこの経験主義の医学の『シーボルト学会』の組織までしていた。各恩師も皆医学で学位をとり、植物学に強い関心をもっていた。エーゼンベック教授、デリンガー教授がそうであり、エーゼンベックはコケ植物、菌類、ノギク属植物等についてエーゼンベックは『植物学便覧』という著作を残している。1822年にはゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命され、フランクフルトに新設の博物館用の標本見本の収集を依頼される。
1820年に卒業したシーボルトは国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業する。しかし既に述べたように名門貴族出身だという誇りと自尊心が強く町医師で終わることを選ばなかった。
東洋学研究を志したシーボルトは、1822年にオランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医から斡旋を受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる。近年の調査により、バタヴィアの蘭印政庁総督に宛てたシーボルトの書簡に「外科少佐及び調査任務付き」の署名があることや、江戸城本丸詳細図面や樺太測量図、武器・武具解説図など軍事的政治的資料も発見されたことから、単なる医師・学術研究者ではなかったと見られている。
日本へ
9月にロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して1823年3月にバタヴィア近郊のヴェルテフレーデン(ジャカルタ市内)の第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任するも滞在中にオランダ領東インド総督に日本研究の希望を述べ認められる。6月末にバタヴィアを出て8月に来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確であり、怪しまれたが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」「山オランダ人」と偽って、その場を切り抜けた。本来は干拓によってできた国であるオランダに山地は無いが、そのような事情を知らない日本人にはこの言い訳で通用した。エンゲルベルト・ケンペルとカール・ツンベルグとの3人を「出島三学者」などと呼ぶことがあるが、全員オランダ人ではなかった。来日した年の秋には『日本博物誌』を脱稿。
出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した。また、日本茶の種子をジャワに送ったことにより同島で茶栽培が始まった。
日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。
1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭する。地理や植生、気候や天文などを調査する。1826年には将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても学者らと交友し、蝦夷地や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友した。この年、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送る。
徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられた。
来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを1827年にもうける。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksaと命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測している。
1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。
帰国
1830年、オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る。滞在中のアントワープで東洋学者のヨハン・ヨーゼフ・ホフマンと会い、以後協力者となる。翌1831年にはオランダ政府から叙勲の知らせが届き、ウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる。同年、蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。1832年にライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設。ルートヴィヒ1世からもバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。
日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請する。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。
48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族(爵位は持っていない、戦前の日本であれば華族ではなく士族相当の層)出身の女性、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚。3男2女をもうける。
再来日とその後
1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す。江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される。また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就任させる。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。
1863年、オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される。日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高価を理由に拒否される。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される。1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められるも三宅の手元には3箱しか送られてこなかった。バイエルン国王のルートヴィヒ2世にコレクションの売却を提案するも叶わず。ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催、1866年にはミュンヘンでも開く。再度日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した。70歳没。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地 (Alter Münchner Südfriedhof) にある。
日本学における貢献
シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送した。シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などを持ち帰った。この資料の一部はシーボルト自身によりヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、シーボルトの研究継続を経済的に助けた。こうした資料はライデン、ミュンヘン、ウィーンに残されている。また、当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に生物や風俗の絵図を多数描かせ、薬剤師として来日していたハインリヒ・ビュルゲルには、自身が追放された後も同様の調査を続行するよう依頼した。これらは西洋における日本学の発展に大きく寄与した。日本語に関しては記述は少なく、助手だったヨハン・ヨーゼフ・ホフマンが多く書いている。
生物学
生物標本、またはそれに付随した絵図は、当時ほとんど知られていなかった日本の生物について重要な研究資料となり、模式標本となったものも多い。これらの多くはライデン王立自然史博物館に保管されている。
植物の押し葉標本は12,000点、それを基にヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニと共著で『日本植物誌』を刊行した。その中で記載した種は2300種になる。植物の学名で命名者がSieb. et Zucc.とあるのは、彼らが命名し現在も名前が使われている種である。アジサイなどヨーロッパの園芸界に広まったものもある。
動物の標本は、当時のライデン王立自然史博物館の動物学者だったテミンク(初代館長)、シュレーゲル、デ・ハーンらによって研究され、『日本動物誌』として刊行された。日本では馴染み深いスズキ、マダイ、イセエビなども、日本動物誌で初めて学名が確定している。
シーボルト事件
江戸時代後期の1828年に起きた事件。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。
文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった)。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。
樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、その代わりに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとした。
シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図を見せられた。地図は禁制品扱いであったが、高橋は学者らしい単純さでシーボルトのために写しを同意した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。
シーボルトらが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、この旅行で1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できたが、日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送ったが、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出した。
高橋景保と間宮林蔵のあいだには確執があったといわれる。間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端となり、多くの日本人と高橋景保は捕らえられ取調べを受けることになり、日本地図の返還を拒否したためシーボルト自身も処分の決定を待つことになってしまった。
長崎市鳴滝にあるシーボルト記念館の研究報告書である『鳴滝紀要』第六号(1996年)発表の梶輝行の論文「蘭船コルネリウス・ハウトマン号とシーボルト事件」で、これまで通説だった暴風雨で座礁した船中から地図等のご禁制の品々が発見されたという説が後日の創作であることが判明した。コルネリウス・デ・ハウトマン号は1828年10月に出航を予定していたが、同年9月17日夜半から18日未明に西日本を襲った猛烈な台風(いわゆるシーボルト台風)で座礁し、同年12月まで離礁できなかったのである。従来の説は壊滅的な被害を受けて座礁した船の中から、禁制品の地図類や三つ葉葵の紋付帷子などが見つかっていたことになっていたが、座礁した船の臨検もなくそのままにされ、船に積み込まれていたのは船体の安定を保つためのバラスト用の銅500ピコルだけだった。
江戸で高橋景保が逮捕され、これを受けてシーボルトへ高橋より送った「日本地図其の他、シーボルト所持致し居り候」ため、シーボルトの所持する日本地図を押収する内命が長崎奉行所にもたらされ、出島のシーボルトは訊問と家宅捜索をうけた。軟禁状態のシーボルトは研究と植物の乾燥や動物の剥製つくりをしてすごしたが、今までの収集品が無事オランダやバタヴィアに搬出できるかどうか心配であり、コレクションの中には個人的に蒐集していた標本や絵画も所有しており、これが彼一人の自由には出来なくなっていた。
シーボルトは訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと彼らに罪を負わせることを拒絶した。自ら日本の民になり、残りの人生を日本に留まることで人質となることさえ申し出た。高橋は1829年3月獄死し、自分の身も危ぶまれたが、シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救ったといわれている。しかし、日本の地図を持ち出すことは禁制だと彼自身知っていたはずであり、日本近海の海底の深度測定など、スパイの疑惑が晴れたわけではない。
シーボルトは高野長英から、医師以外の肩書は何か、と問われて、「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」とラテン語で答えたと渡辺崋山が書いているが、これは「コレスポンデントヴェルデ」であり、内情探索官と訳すべきものである。
なお、シーボルトは安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約の締結により追放が解除となり、翌安政6年(1859年)に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっている。
2度目の来日中の文久2年(1862年)にも、秘書役であった三瀬諸淵が、シーボルトのために日本の歴史書を翻訳した罪で捕らえられるという事件が起きている。一方、シーボルトの孫娘にあたる三瀬諸淵の妻楠本高子の手記によると、原因は他のところにあったとされている。 
 
シーボルト 2
日本に魅せられた男
シーボルトといえば、日本では近代西洋医学を伝えたことやシーボルト事件、日本人女性タキとのロマンスなどで有名ですが、日本の自然や文化に魅了され、ヨーロッパに日本の実像を知らせることに生涯を捧げた人物であったことは意外に知られていません。
日本研究
1823年(文政6)にオランダ領東インド政庁の長崎出島商館付医師として来日したシーボルトは、日本に関する総合的な調査研究を行いました。シーボルトに教えを乞うべく、当時の最新の西洋医学を学びに集まった日本人医師や蘭学者、オランダ通詞らの協力を得て、膨大な情報や資料を収集し、ヨーロッパへ持ち帰ります。その成果はヨーロッパで出版された三部作『日本植物誌』『日本動物誌』『日本』などにまとめられました。
日本展示と民族学博物館構想
ヨーロッパに戻ってからのシーボルトが、出版のほかに精力を傾けて取り組んだのは、日本展覧会の開催でした。日本博物館の構想を胸に、自らのコレクションによる展示を、ライデン、アムステルダム、ヴュルツブルク、ミュンヘンの各都市において実現します。これらの展示を通じてシーボルトは、極東の未知の国に過ぎなかった日本の文化を初めて本格的にヨーロッパに紹介し、同時に民族学の発展に寄与しました。
日本博物館
シーボルトは、自らのコレクションによる日本展示を、しばしば「日本博物館」と呼んでいます。シーボルトの日本博物館設立の構想は、当時、原材料や産業製品を求めて積極的に海外貿易を行っていたヨーロッパにおいて、実利的な知識が提供される時代の要請に応えるものでした。また、民族文化の本質を客観的な比較によって総合的に理解し、異文化への誤った考え方を是正するという、学術的な目的も有していたのです。
最期
1823年(文政6)、27歳の若さで長崎に赴いたシーボルトは、以後43年間、「約束の地」日本の研究と紹介に心血を注ぎ続けました。シーボルトの日本博物館設立の構想は個人の力では限界を超える壮大なものであったといえます。膨大な著作ばかりでなく、コレクションの形成と展示という新しい手法で多面的に表現しようという、きわめて斬新なものでありました。自らの研究を完成させるために再度の訪日を熱望し、フランス政府や幕府に働きかけを行いましたが受け入れられず、3度目の来日は見果てぬ夢に終わります。1866年10月18日、シーボルトはミュンヘンで70年の生涯を閉じました。
 
シーボルト 3
日本に西洋医学を伝えた医師の第一人者は、シーボルトと言っていいだろう。彼は文政6年(1823)、長崎出島のオランダ商館付き医師(オランダ人)として日本にやって来た。
鎖国下にあった日本は、原則この出島だけに外国との交流窓口があり、オランダ人の逗留だけが許されていた。とは言っても、自由に出島と長崎市中の往来は許されなかった。それでもなぜかシーボルトだけは例外で、自由に出島を出入りしている。それはきっと、通訳ができたことに加え、長崎奉行(幕府側)も安全な人物として認めていたからだろう。外国の情報を欲しかったという事情もあったし、ひょっとして病気のお役人などは進んだ西洋の医学に基づいた治療を受けたかったのかもしれない。
シーボルトは長崎郊外で「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を開き、診療をしながら医学や蘭学を教えた。門下には高野長英がいる。日本人妻との間に生まれた「いね」は産科を父シーボルトから学び、日本の女医さんの第一号となった人として有名である。後に彼女は明治に入ってから、宮内省の医師となったほどの人物である。
オランダ商館長(カピタン)は、将軍に挨拶することが義務付けられていた。これを「江戸参府」と言う。大名の「参勤交代」のようなものだ。出島での通商のお礼のための将軍への謁見で、舶来の珍しい物を献上した。一行にはオランダ人医師としてシーボルトも加わった。長崎から江戸までの旅は、地元の医師の相談にのりながら見聞を広めた。江戸滞在中は日本橋の長崎屋に宿を定められ、そこには多くの医師や蘭学者が訪れてシーボルトから教えを受けている。文政11年 (1828)、「シーボルト事件」が起こる。これは彼が日本地図を海外へ持ち出そうとしたことが発覚した事件だ。軍事上の理由から、日本の地図を海外に持ち出すことを幕府は禁じていたからである。彼は地理や民俗学、動植物学など多分野にわたる研究者でもあった。この研究には当然地図は不可欠なものだった。後年『日本植物誌』を著している。
シーボルトは実はドイツ人の医師だった。つまり、オランダ人になりすまして日本に来たことになる。当時の日本人にその違いなど分からなかっただろうが、オランダ人は当然知っていたはずだ。では、なぜ彼をつれてきたのだろう。それは、西洋でドイツがもっとも医学が進んでいたからにほかならない。西洋医学は蘭学として日本に入ってきたが、その多くはもともとドイツ語の医書をオランダ語に訳した本だったというウラの事情があったからである。
 
シーボルト その光と影・文化

 

表の顔と裏の顔
1823年日本に着いたシーボルトは、27歳と若かった。オランダ領東インド政庁の商館付き医師として長崎・出島に赴任。滞在の約6年間、診療所兼私塾「鳴滝塾」で多くの蘭学者を育てる傍ら、日本の動植物の研究に没頭した。一方、日蘭貿易に役立つ市場調査を行い、オランダ政府から「日本の政治・軍事情報を収集せよ」との特命を受けた。表の顔は医師と博物学者、裏の顔は市場調査員だった。
ドイツの名門貴族に生まれたシーボルトは医学の道を選んだ。ヴュルツブルク大学卒業後は開業医となったが、当時、政情不安定、経済低迷に陥っていた母国を離れ、外国で活躍したいと考える。その頃オランダ政府は、貿易会社設立のために新しい医者を探す一方、貿易を独占していた日本で、植物から生活、文化、国勢、軍事に関する情報を収集する調査も計画。ドイツ連邦を構成するバイエルン王国のシーボルトが抜擢(ばってき)されることになった。
オランダ人に成り済ます
ドイツ語の方言は低地ドイツ語と高地ドイツ語。かつてのオランダでは低地ドイツ語が話されたが、シーボルトの育ったドイツでは高地ドイツ語が母語で、低地ドイツ語は得意ではなかった。入国審査に立ち会った日本人通詞(つうじ)が不審に思い、彼に出身地を尋ねた。この時、そばにいたオランダ人商館長が機転を利かせて、「彼は山オランダ人(山地のオランダ人)なので、方言でしゃべっている」と指摘し、入国審査をパスしたという。
1824年、シーボルトは長崎奉行の許可を得て、長崎郊外の鳴滝に日本人のオランダ通詞から敷地と別荘を譲り受け、来日外国人として初めて学塾を開いた。彼の名はすぐに全国の蘭学者の間に広まった。こうして最新の西洋近代医学を学びたいという医師や蘭学者が長崎に集まり、彼の講義に熱心に耳を傾けた。鳴滝塾は木造2階建てで、庭園にはシーボルトや門人が日本各地で採集した薬草類を移植・栽培した。
またシーボルトは、塾生自身に分野ごとのテーマを与え、オランダ語によるリポート提出を課した。塾頭・美馬順三は賀川玄悦の『産論』や、養子の玄迪の『産論翼』を論文にまとめるとともに、塾生の戸塚静海、石井宗謙とともに、4部に分かれた『灸法略説』の訳文を寄せた。この塾で学んだ日本人の多くが、日本における西洋近代医学や自然科学のパイオニアとなっていった。
国際調査の拠点・鳴滝塾
シーボルトは全国から集まった塾生を使ってさまざまな調査を行い、日本に関する膨大な資料を収集した。鳴滝塾は、シーボルトの日本における情報収集活動の拠点でもあった。
治療に当たり一切金銭を受け取らなかったため、患者たちが感謝の気持ちを込めて、美術品や工芸品などを置いていった。オランダ国王は、日本の美術工芸品を収集する費用として、事前に1万2000ギルダー(現在の日本円に換算して約2億5000万円)をシーボルトに支払う約束をしていたという。彼は国王直属のバイヤーでもあったのだ。
江戸参府を利用して情報を入手
オランダ商館長が江戸城へ出向いて将軍に贈り物を差し出し、忠誠を誓う「江戸参府」はシーボルトにとって江戸を知る千載一遇のチャンスだった。当時の幕府は、外国人が国内を自由に旅することを禁じていた。1826年の商館長スチューレルの江戸参府に同行。日本人通詞のほか、シーボルトの私的な使用人として塾生の湊長安、高野長英、二宮敬作らも加わった。また、風景や風俗の記録係として絵師の川原慶賀も一緒だった。
江戸の定宿は日本橋本石町の長崎屋。ここでさまざまな人物と会ったが、中でも国情に詳しい最上徳内に会うことは重要だった。最上は北方探検家・間宮林蔵の上司だったからだ。シーボルトは「あなたの作成した蝦夷(北海道)、樺太(サハリン)の地図をお譲りくださらぬか」と聞いた。樺太が「島」かどうか確認したかった。日本地図を異国人に与えることは国禁だったので、最上は低い声で言った。「お譲りするわけにはゆきませぬが、一度お貸ししましょう。ただし、このことは絶対に他言しませぬように…」
この宿にはシーボルトに会いたい人物も多数訪れた。幕府の御書物奉行、高橋作左衛門景保は、何度も長崎屋に出向いた。伊能忠敬らが作成した日本地図の北部海岸に不明な個所があったからだ。それをシーボルトの持つクルーゼンシュテルンの『世界一周記』で確認したかった。高橋は「『世界一周記』をお譲り下されば、日本地図を模写してお渡ししましょう」と答えた。その地図は、北方は樺太、千島にまで及ぶ日本沿海の測量図だった。
日本初の女医となった娘イネ
其扇(そのおおぎ)は本名を「たき」という。先祖は長崎から西南方向に長く突き出た半島の先端に位置した「野母」(のも)の人で、その後、代々銅座跡に住居を構えていた。父が31歳、母が25歳の年に、たきは4番目の娘として生まれた。
父の佐兵衛は銅座跡でこんにゃく商を広く営み、奉公人も数多く使っていたが、数年前手違いが生じて借財をし、商売も思わしくなく、家も人手に渡る悲運に見舞われた。万策尽きた佐兵衛は長女つねを遊女奉公に出した。
「つねは美しい女であったが、たきは、さらに美しかった。少女の頃から近隣でも評判で、丸山の遊女屋の中で最も格式の高い引田屋から奉公に出るよう強い勧めがあった。たきもつねに次いで遊女になり、引田屋抱えになった。たきは15歳の歳で、其扇という源氏名が付けられた」(吉村昭著『ふぉん・しいほるとの娘』上)。
シーボルトが彼女に強い関心を持ち、なじみになるまでに時間はかからなかった。其扇が第一子を身ごもったのは1825年、19歳のときだった。この子の名前をイネと呼ぶ。イネはその後、日本初の女性産科医になった。
シーボルト事件の内幕
1828年、「シーボルト事件」が起こった。インドネシアに向けて出港しようとしていたオランダ商船が暴風雨にさらされ、座礁。彼が帰国する際、船に積まれた荷物の中から、国外への持ち出しが禁じられていた日本地図や江戸城の見取図、樺太計測地図の写しなどが発見された。シーボルトは江戸に参府した際、さまざまな手段でこれらを入手していた。中でも高橋からもらった樺太の詳細な地図の写しが問題となった。
高橋に疑惑の目が及ぶ。シーボルトに日本地図を複写して贈った行為が国禁に触れる大罪に当たると承知していたものの、「それはわが国に利益を与える」とみていた。高橋が国禁を破ったのは確信犯に近かった。
禁制地図の管理者だった高橋は逮捕され、シーボルトに禁制品を渡したことを自白。シーボルトは、「あくまで自然科学調査の一環だった」としてスパイ容疑を否認した。高橋は処分され、シーボルトのコレクションは没収。シーボルトは尋問の後、国外追放処分を受けた。
ペリーvsシーボルト
1830年にシーボルトは帰国、オランダ・ライデンに居住した。持ち帰った膨大な資料を基に、32年には大著『日本』を著す一方、日本の動植物に関する書籍もまとめた。『日本植物誌』にはアジサイが好きだったシーボルトが鳴滝塾周辺に咲く花を、妻の名前をとって学名「オタクサ」と命名したことが記されている。ヨーロッパでは既に化石動物と見られていた「オオサンショウウオ」が初めて紹介され、人気を博したと『日本動物誌』には記録されている。これらはシーボルト3部作として有名だ。
一方、米海軍東インド艦隊司令官のペリーが大統領フィルモアの親書を胸に浦賀に姿を見せたのは53年のことだった。ペリーにとってシーボルトの日本情報は有意義だったものの、シーボルトの背後に控えたオランダに対する強い警戒感があった。そのため彼は、オランダの助力を全て排し、自国の力だけで日本に開国を迫ろうと決意していた。
小林淳一は、「ペリーはシーボルトを知っていたが、彼のやり方を参考にせず、武力を背景に開国を迫った。その結果、幕府が折れて鎖国が解かれることになった。同じ対日政策でもシーボルトの方は貿易の振興によって開国しようとするものだった」と指摘する。
シーボルトは開国という点でペリーに敗北したものの、西洋に日本学を誕生させるという学術的な意味でははるかに大きな歴史的功績を残した。1900年に開催されたパリの万国博覧会における日本紹介や、その後のジャポニズムによる日本趣味に先駆けて、日本博物館を設立した上で幅広く日本を紹介しようとし、日本の西洋学と西洋の日本学双方の発展に貢献したということは決して忘れてはならない。 
 
江戸参府したシーボルトの狙い

 

1823(文政6)年8月、ドイツ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダ商館付医官として、オランダ国王ウィレム1世の命を受けて、蘭領インドのバタビア(現在のインドネシア・ジャカルタ)経由で長崎出島に入港した。この時、シーボルトは27歳で、東洋研究の野望に燃えた血気盛んな青年だった。
ドイツの医学界の名門に生まれたシーボルトは医学のほか、動植物学・地理学・民族学など多方面に精通していた。長崎赴任から1年後、長崎奉行・高橋越前守重賢(しげかた)の理解を得て、長崎の郊外、鳴滝に西洋医学診療所兼学塾を開き、全国から馳せ参じた好学に燃える若者の指導にあたった。3年後の1826(文政9)年の1月9日(旧暦)、シーボルトはオランダ商館長ヨハン・ウィルヘルム・ド・ステュルレル(1776‐1855)と助手ビュルガーと共に恒例の江戸参府に長崎出島を出立した。
江戸参府とは、オランダ商館の一行が将軍への献上品を持って、江戸城に入り、将軍を表敬訪問するもので、1609(慶長14)年に始められ、1633(寛永10)年から毎年行われる行事となったが、1790(寛政2)年以降は4年に1度に改められた。シーボルトが江戸参府をした時の記録が、『江戸参府紀行』として、現在オランダ・ライデンにあるオランダ国立民族学博物館所蔵のシーボルト著『日本』(1832年=天保3年刊)の第1分冊に残されている。
日本国内の情報を収集するため人脈を広げる
『江戸参府紀行』には、1826(文政9年)2月5日、シーボルト一行が長崎出島を出発、7月7日に長崎へ戻るまでの半年間の出来事を事細かく記されている。シーボルトは江戸参府を行った期間に、将軍御典医・桂川甫賢、植物学や化学に詳しい宇田川榕庵、蘭学大名・元薩摩藩主島津重豪(しげひで)、その息子で中津藩に養子に入った奥平昌高、長崎奉行・高橋越前守の紹介による蝦夷探検家・最上徳内、天文方兼書物奉行・高橋作左衛門景保(かげやす)らの人物と出会い、地図・動植物・美術・民俗的道具や、日本国内の情報を収集するための人脈を広げていった。
シーボルトは、いまだ未知である北方樺太辺りの動向や日本の将軍や幕閣のいる江戸城内部、防備に必要な武器・武具などの情報を入手し、実情を調査する必要からそれを調達できる人物に的を絞って近づいてゆく。
長崎奉行・高橋越前守の紹介で最上徳内の知遇を得、樺太とアジア大陸の間に海峡が存在すること、その海峡の発見者は徳内の部下の間宮林蔵であることなどを知らされたのである。なんとしても、千島樺太の地図を手に入れたいとシーボルトは思った。
江戸天文方兼書物奉行だった高橋作左衛門景保も、長崎奉行より紹介を受け、たびたび手紙をやり取りする仲だった。景保はオランダ人から海外の情報を入手する役割を担っていたからシーボルトと会うことは仕事上の役割でもあった。2人の感激の対面の後、シーボルトは江戸城にある紅葉山文庫(将軍のコレクションを保管)を見せてもらいたいと要求した。景保は渋ったが、考えあぐねた末、5月1日、当番の役人がいないところを見計らって、シーボルトを文庫に案内した。そこには「江戸御城内御住居之図」(ライデン大学図書館蔵)、「江戸御見附略図」「武器・武具図帖」(オランダ国立民族学博物館蔵)があった。シーボルトはそれらの写しを要求し、さらに伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」より琉球から樺太まで入っている地図も懇望した。代わりに、シーボルトは高橋作左衛門が欲しがっていたロシア探検家クルーゼンシュテルンの『世界周航記』をはじめ、「蘭領印度の地図」、『オランダ地理書』を手渡すという条件も取り付けた。
5月18日、長崎へ戻るシーボルトに、見送りに来た最上徳内が、間宮林蔵によって描かれた樺太計測地図「黒龍江中之洲并天度(こくりゅうこうなかのすならびにてんど)」の写し(ライデン大学図書館蔵)を手渡した。この地図はシーボルト著『日本』に掲載されている。
日本国の中枢を知り、秘密にされていた絵図・地図類をシーボルトは次々と手に入れていった。 
 
「江戸参府紀行」の見聞

 

長崎街道とオランダ参府紀行
参府とは、オランダ商館長一行が江戸に上って将軍に拝謁し貿易に対する謝意を表するものであり、「風説書」と云われる1年間の出来事等を記した書類を提出しなければ馬りませんでした。その中には、当時は勿論アメリカのペリーはまだ来てませんでしたが、いずれ、そういう事も起きるであろうという事も書いてあったそうです。しかしながら、折角提出されたレポートも江戸城奥深く仕舞われて読まれた様子もなかったようです。
ここで面白いのは、幕府からオランダが朱印状を貰った時は、未だオランダは独立してない時であったという事です。独立したのは1648年です。従って、朱印状には「オランダの船が我が国の津々浦々に・・・」という文は、ケンペルによれば、「ドイツの船が我が国・・」になっています。鎖国というのが、あまり厳然としたものではなかったのでしょう。
寛永10年(1633)から恒例のものでした。嘉永3年(1850)までに116回の参府が行われた。
当時、オランダ船は4,5月頃やってきて、出島の沖に停泊し小舟で荷を出島へ運んだ。
長崎港 船でやってきた人全てが絶賛したのは、長崎の港の入り江であるという。入り江に連なる緑と家と美しい風景、まるで絵のようだといわれた。
参府は、最初の頃は前年の冬に長崎を出発し、正月頃に将軍に拝謁していたが、後には、寛文元年(1661)からは正月に長崎を出発し、春に将軍に拝謁するようになった。
「阿蘭陀も 花に来にけり 馬に鞍」 芭蕉
長崎ー下関は陸路、下関ー兵庫は海路、兵庫と江戸は陸路とされ、下関では伊藤家・佐田家、京では海老屋、江戸では長崎屋が定宿であった。往復の日数は、長い時は142日、短い時は67日、大体平均90日かかった。
一行の明細は、商館長の他医者・書記、それに阿蘭陀通詞や長崎奉行所の役人が随行した。20,30人くらい。この一行の中に、シーボルト、ケンペル、ツンベリーなども入り旅をして、それぞれ紀行文・日記を書いて、当時の状況を伝えています。ケンペル「江戸参府旅行日記」、ツンベリーの「江戸参府随行記」、シーボルト「江戸参府紀行」などがある。
ケンペルは本の中で、日本を次のように紹介している。比較は彼の故郷である中部ヨーロパとのものである。まず、道路を褒めている。道が真ん中高くなって端が低いので水溜りが出来ない。ヨーロッパの場合は、馬車が通るので、道の真ん中が凹んで、ドロドロになってしまう。一番感心したのは、もし、道に水溜りが出来た場合は、それを直す責任者の家が一定の距離毎に決められていたことです。
もう一つ、感心しているのが、女性が一人で旅をしていることです。この当時、ヨーロッパは山賊が跳梁していて危険であり考えられなかったことで、しかも、街道は絶えず整備され安全で、しかも賑やかで、混乱が無いということであったことです。
そして、ケンペルが、旅で出会った人で一番多いのは神社仏閣のお参りの人が多く、その次に山伏、次にお寺の改増築の資金を集めるため勧進帳を持って回っている人、と、書いてあります。
それから、ケンペルも他のオランダ人も共通して書いていることがあります。それは、子供です。一行が旅をしていると、必ず子供が寄り添って付いてくるそうです。どの外国人には非常に珍しかったらしく、記されています。
そして、シーボルトもケンペルも共通して絶賛しているのは日本の婦人の美しさです。ケンペルは、肥前で見た婦人を「その姿形、甚だ見よく、挙止動作極めて淑やか」
更に、冷水峠を越えて村名の無い村に入ると、(村民悉く美貌にして姿良く、その会話と動作の上品にして丁寧なる、恰も貴族の家庭に育てられたものの如く」と絶賛し、「住民は、身の丈甚だ矮小なれど姿良し。就中、婦人の美しく姿良きは、余が見たるアジア諸国の中で一頭地を抜けている」。シーボルトも負けずに「女性は大変優美で、顔色は綺麗で白く、顔は生き生きとして赤みを帯び・・・・」と、ヨーロッパ世界に伝えている。
勿論、観察は多岐に亘っています。ケンペルは、長崎街道の大村湾に近い時津付近の数多くの地蔵、同湾の真珠貝の採取、嬉野の温泉噴出、塩田の陶器製作に深い興味を示し、小田では、「豊沃なる田地と美しき稲の野」を世界最たるものとして感動している。
野田日記
ここに貴重な資料が有ります。佐賀の西に牛津宿が有ります。そこに野田家という質屋さんが有りました。街道に面していて、毎日通りを見て座っているのですが、其の野田家が3代に亘って日記を書いています。
内容は、帳場に毎日座っているので、前の街道を只管見て、細かく書き残しているものです。安永元年ですから井伊直弼が暗殺される2年前から幕末までに至る後半の記述は特に詳細を極めている。
街道ですから、長崎奉行、大名その他の人が通過するわけですが、その中で、特に多い記述がオランダ人、朝鮮人です。オランダ人は10年で16回、1回の人数が20人あまりの行列です。
文政5年(1822)の記述には、1月12日の行列には、羊ヒツジがいたというのです。或いは、天保9年(1838)1月12日には、「オランダ人江戸上がり2人なり」と、このうち一人は、カピタン(商館長)で、駕籠かき8人であったという。相当の大男だったのでしょう。
そして、記述を見てると、このオランダ人の一行が通るのは、必ず1月12日に野田家の前を通っています。ドイツ人医師のシーボルトも当然ここを通り「参府紀行」を書いています。その中で、牛津宿の事を「牛津で昼食」「6町の小さな町」、「馬馬で田を梳いている」と書いてあり。野田氏の日記にと合致します。勿論、野田さんはシーボルトを見てるでしょう。
ドイツ人のシーボルトは文政6年(1823)にオランダ商館医として長崎の出島に赴任します。翌年の文政7年(1824)には鳴滝塾開設し、そこで高野長英や二宮敬作などが学びました。その後楠本タキとの間に生まれたイネは、後に大村益次郎を蘭学の師とし、女医を目指した彼女は、大村益次郎の最期を看取るという運命をたどります。
そして同じように、朝鮮人に関するの記述も多いです。20年で31回、324名を数えます。この時代、歩くルートは決まっていて、この街道は含まれていません。果たして、この一行はどこへいったのでしょうか?判りません。
もうひとつ面白いことが発見されます。それは、大村藩の行列です。享保13年ですから吉宗の時代です。このころから、9月28日になると、計ったように野田家の前を通過して行きます。幕末までの約140年間、大村の殿様は判で押したように一日も変わることなくこの日に野田家の前を通って行きました。この生真面目さは何と表現すればいいのでしょうか。
実は、是は大村藩の長崎警備に関連するものでした。幕府は寛永10年(1633)鎖国令を出します。ここで大村藩の長崎警備が終了し、その六日後の9月26日を、享保13年(1728)から江戸参府への出発日として決めたからです。26日に大村を出ると、三日行程の牛津宿には28日に通過します。しかし、140年間も守り続けるという、愚直なというか江戸時代の雰囲気が感じさせる出来事です。
オランダ人の江戸での滞在期間は、2,3週間くらい、将軍や老中、若年寄に拝謁したが、それは先例に基ずくものばかりで、窮屈なものであった。
又、江戸や京に滞在中は、旅館に新知識を求めて大名や蘭学者が間断なく訪問し、阿蘭陀人にとっては、煩いものだけであった。訪れる人の目的は、もう一つあってオランダの物品を求める事でした。カピタンは、幕府に献上する品を持っていましたが、それは必ず、2組あったそうです。その一組を購入したいが為に殺到するわけです。
しかし、この煩い訪問者たちのお蔭で、空前の蘭学ブームが起こったのであり、日本の近代化を促進したのである。
ただ、誤解の無いように説明しますが、確かに、長崎から色々なものが外国から入ってきました。しかし、日本から運ばれたものは、多種にわたりヨーロッパの人に大きく貢献したものが多いという事です。茶もそうですし、絵もそうです。例えば、陶磁器です。この当時、ヨーロッパは金持ちは皿は金属であるとか木を使っていました。しかし、庶民は洗う事も出来ないような陶磁器です。そこに、日本の陶磁器が安く入って来て、洗うことが出来て、清潔な生活が可能になりました。
そして、ヨーロッパの人を癒したのは、日本の植物です。例えば、シーボルトは銀杏、桜、百合、躑躅、菖蒲、紫陽花などを持ち帰り、植栽されてヨーロッパの人の憩いになりました。これら植物はロンドンの大きな植物園にあります。
有名なのでは、スェーデン人のツンベリーです。彼は、日本の植物のそのもの、種、標本を持ち帰りました。椿も4本持ち帰りました。その内の1本はまだ残っています。それぞれロンドン・ウィーン・ドイツに植えられました。3本はもう残っていませんが、ドイツのドレスデンの椿は今も健在です。樹齢300年以上と云われています。
シーボルトは日本に非常に興味があったらしく、日本の家とか全ての物の模型を作らせ、今も残っています。又、浮世絵の葛飾北斎に、オランダの良い紙を提供して、画を描いてもらっています。今も、オランダやフランスに残っているそうです。  
佐賀・嬉野温泉 (うれしのおんせん)
シーボルトをはじめ、多くの外国人が立ち寄った藩営浴場
嬉野の起こりは昔、神功皇后が三韓出兵の帰りに傷ついた兵士を入湯させ、傷が癒えたのを見て「あな、うれしの」と言ったことに由来するといわれている。神功皇后は実在の人物かどうか不明であり、これはあくまで伝説である。しかし、温泉の歴史が古いのは確かで、8世紀の文献『肥前風土記』に「塩田川岸、東の辺に湯の泉涌出して人の病を癒す」との記述がある。
戦国時代には、肥前佐賀の大名・龍造寺隆信が弟の長信に、嬉野へ傷の治療に行くように勧めている。「うれしのへ ゆくませられ候て 養生肝要に候」(多久家文書)。元亀元年(1570)頃の書状だが、嬉野の湯が将兵の傷療養に利用されていたことは間違いない。その後、龍造寺氏に代わって肥前を治めた佐賀初代藩主・鍋島勝茂は、子の直澄(蓮池藩主)に嬉野を与えた。嬉野には、当時すでに共同浴場があったが、以後『藩営浴場』として管理されることになった。現在の『古湯温泉』がそれである(上写真。平成16年6月現在、老朽化により閉鎖中)。
歴代藩主の中でも、4代鍋島吉茂はとくに温泉好きで、毎年のように入湯に訪れた記録がある。また、6代宗教の時代(1763年)には、小野原次郎平という男が浴場の改修を命ぜられている。設備が不自由なために客数が減ったことがその理由だったらしい。改修の甲斐あってか、天明8年(1788)頃には湯治客も増え、長崎に近いせいもあって外国人が多く訪れた。オランダ商館長の江戸参府に随行した幕臣の記録には「嬉野に着くや、オランダ人はこぞって湯見物に出かけた」とある。
文政9年(1826)、来日中だったシーボルトが、オランダ商館長の将軍謁見に随行。『江戸参府紀行』の中で、嬉野に立ち寄ったことを詳しく書いている。シーボルトが嬉野に到着したのは2月17日。有名な温泉であり、湯の色がきれいで透明なこと、臭いは弱いが硫黄を含んでいること、湯温が90度を超え、卵が数分で固くゆで上がったことなどを記述している。浴場については「大変質素な柿葺き2階建ての建物に、3つの広間がある。広間には全部で7つの浴室があって、それぞれに2つの浴槽が置かれている。浴槽の長さは6フィート(約183cm)、幅はその半分。普段はただ熱い湯が満たしてあるが、入浴客は自分の好きな温度にうめて入ることができる。浴場の入口には番人小屋や休憩室がある。1回5文〜10文と安いから、裕福でない人でも容易に利用できる」。シーボルトも入湯したようだが、学者らしく湯の感想よりも、客観的・科学的な記述が目立つのが面白い。
同行の絵師(川原慶賀)が湯屋の様子を描いており、その絵には小さな湯屋のそばに大きな楠木が描かれている。この木は大正11年(1922)の大火で焼失したが、燃え残った木片で薬師如来像を彫り、「お湯の神様」として薬師堂の中に置かれた。現在の大楠は2代目だが、静かな路地裏にあり、わずかに往時の面影を感じさせる。
幕末のイギリス外交官で、日本公使となったオールコックも、文久元年(1861)6月1日に嬉野を訪れている。彼が目にしたのは、街路から丸見えで屋根だけがついた簡素な浴場だった。「我々が近づいたときに、中年の婦人が温泉の淵へ上がってきた。非常に多くの男女が、温泉の中で楽しんでいた。身にまとうものがなくても恥ずかしさを感じないとは、大いなる無知」と、当時の日本人の入浴習慣を目の当たりにして驚いた様子を書いている。
オランダ人宣教師・フルベッキは、「温泉を利用し、保養地しての設備を整え、大々的に宣伝して外国人まで呼び込めば、嬉野は今よりもっと発展するであろう」と言った。しかし、当時は鎖国の只中だったから、その声を理解できる者は少なかった。現在の温泉街の中心、嬉野商店街は坂本竜馬も通った旧・長崎街道である。しかし、有名な割に今では人通りも少なく、静かな町並みが広がる。老朽化、経営難で長らく閉鎖中だった公衆浴場は、ようやく町が買い取って再生を始めたが、嬉野が湯治客でにぎわった往時の光景を取り戻す日は来るのだろうか。
広島県福山・鞆の浦(とものうら)・鞆港寄港
江戸時代、オランダ商館長の江戸参府に同行したドイツ人医師シーボルトが鞆港に立ち寄ったことを記した史料が発見された。
「たいへんきれいな町並みで船の出入りがあり活気にあふれた町である」
「…正午ごろ上陸。たいへんきれいな町並みで、船の出入りがあり、活気にあふれた町である。…(略)…手入れの行き届いた住居は裕福なことを物語っており、住民は数千にのぼるようである。われわれは何軒かの家を訪ねたが、心から迎えてくれた。…(略)…」  
瀬戸内の風景
瀬戸内海の多島美が称賛されるようになったのは、意外にも近代になってから。なかでも、オランダ商館付医師シーボルト(1796年‐1866年)を嚆矢とする、欧米人による瀬戸内の風景の称賛は、富士山に次ぐ(並ぶ)日本の名勝地としての評判を国際的に広めました。
「この内海の航海をはじめて以来、われわれは日本におけるこれまでの滞在中もっとも楽しみの多い日々を送った。船が向きを変えるたびに魅するように美しい島々の眺めがあらわれ、島や岩島の間に見えかくれする日本(注−本州のこと)と四国の海岸の景色は驚くばかりで、――ある時は緑の畑と黄金色の花咲くアブラナ畑の低い丘に農家や漁村が活気を与え、ある時は切り立った岩壁に滝がかかり、また常緑の森のかなたに大名の城の天守閣がそびえ、その地方に飾る無数の神社仏閣が見える。はるかかなたには南と北に山が天界との境をえがいている。隆起した円い頂の峯、それをしのぐ錐形の山、きざきざの裂けたような山頂が見え、――峯や谷は雪におおわれている。われわれのすぐ近くを過ぎてゆくいくつかの島は少なからず目をひく光景を呈している。木のない不毛の岩塊は赤味を帯びた粗い粒の花崗岩で、白く輝く石英やぎらぎらする片麻岩の脈が、その岩を貫いている。また生い茂った森のあるなだらかな丘をなし、またその姿は裂けた渓谷の壁にも似て、その麓をたくさんのバラバラした石塊がおおっている。これらの島の多くは険しい岸で特色づけられ、海面下に連なっている山脈の頂上と思われ、その方向は概して東北をさし、山脈の性質は火山活動による成立を物語っている。それは有史以前の地殻変動の舞台であるが、温和な島国の気候と千年の努力が、これを野趣の溢れたロマンチックな庭園に作り変えたのである。(中略)常緑の葉をもった樹木の多数の種類、ことにスギ、マツなどのすばらしい松柏類は日本の特徴ある植物であり、早く花を開く樹木や灌木はこの地方に常春の外観を与えている。(中略)この海上の活溌な船の行き来は美しい自然に劣らぬほどわれわれを楽しませてくれた。数百の商船にわれわれは出会ったし、数え切れない漁船は、昼間は楽しげな舟歌で活気をみなぎらせ、夜は漁火で海を照らしていた。われわれの船の上でも随行の日本人はいつも上機嫌だった。」
静岡・宇津ノ谷峠
「今や路は狭くなり、険しき密林に覆われた山にかかる。宇津ノ谷峠といふ。それ以来余の知りたる稀なる花弁はそこに豊かに満々たり。山胡椒、青筏葉、烏樟及び是まで見ざりし種類は余の研究材料となり。狸の一別種もここにて手に入り・・・」
シーボルトは、科学者として宇津ノ谷峠で、植物採集や動物観察をしたのである。

静岡県内の東海道を旅する人たちにとって、この感激と別世界をあじわえる三つの峠があった。東からみると、由比町から清水市興津へ抜ける「薩h峠(さったとうげ)」、静岡市丸子から岡部町に通じる「宇津ノ谷峠」、金谷町から掛川市日坂にでる「小夜(さよ)の中山峠」である。「薩h峠」は、海食崖をなし東海道の難所「親知らずの道」とよばれ、崩れやすい地質などから、道の変遷をくりかえてきた。また東西の接点として戦場にもなった。
箱根関所
シーボルトは文政9年(1826)に長崎から江戸に向かいました。このときの様子が「江戸参府紀行」という本にまとめられています。シーボルトが箱根関所を通ったのは、行きが4月7日、帰りは5月21日でした。
(4月7日)…箱根村のすぐ近くにはこの山の交通を遮断して有名な関所がある。将軍の居住地に対する軍事上の重要地点として、ここに設けられていて、「南の国々から江戸へ行く者は誰でもこの隘路を通らねばならないことになっている。使節の一行三人を除いてみな駕籠を降り、歩いて番所を通らねばならなかった。周囲も頑丈な石垣で防護した塁壁の中にはいると、従者がわれわれの乗物の左の扉を開けた。これは婦人や武器がこっそり運びこまれないことを見張りの役人が確かめるためにするのである。われわれは諸侯と同様に取り扱われた。」 
生麦村・熊茶屋  関口日記に見る熊茶屋の顛末
東海道生麦村の街道沿いには立場茶屋が軒を並べていたが、どの茶屋もあれこれ工夫を凝らし、客寄せに懸命であったようすがうかがわれる。 文化・文政のころ、鶴見と生麦の境、生麦北町に、月の輪熊を飼いならし、店先につないで見せ物にしていた熊茶屋五右衛門の茶屋があった。この茶屋では、文化7年頃から飼っていた牝熊が芸達者だったので、人気を呼び繁昌していた。その後、文政7年ごろからやはり生麦の忠左衛門方で白熊(白子)を飼い始め、店の客寄せに利用しはじめた。
ちょうどそのころ、文政9年(1826年)、長崎のオランダ商館長に従って江戸に出たシーボルト(1796〜1866年、ドイツ人、医師)は、その往復の道で、生麦のこの2頭の熊を見て、その著「江戸参府気候」に熊茶屋の熊について次のように記している。
「1826年(文政9年)4月9日、一頭のよく慣れた熊を見る。頭は小さくてとがり、頭のてっぺんにそって深く溝があり、鼻づらは短く、先が細くなっていてその両側は茶色味を帯びていた。この動物は長さ4フィート、無格好に太り、18才で捕らえられて17年経つ。よく慣れていていろいろな芸をした」
その後、シーボルトはオランダに帰国したが、1833年に発行された「日本動物誌」に、日本で見聞した動物について紹介し、その中で生麦村で見た熊のことを詳細に報告している。これは日本の「熊」について海外に紹介した最初であるといわれる。以下少し長文にわたるが、その一部を抜粋して記すことにする。
「日本動物誌」シーボルト著
「チベット熊(学名 ラルスース、チペタヌス)
この種類の熊は、インドの山地にごく一般に棲息しており、中国にもいるが、日本にもたくさん棲んでいる。日本では、クマまたはツキンシバ・クマ−三日月状の斑点をもつ熊(月の輪熊)の意である、−と呼ばれている。この熊は、この列島のそれぞれの島の山地一帯に広く棲息している。その習性はヨーロッパ種の熊の習性とほとんど同じである。すなわち、木に登り、冬季は自分の掘った穴の中に引きこもる。食料とするのは、果実、木の根等、植物性のものがもっとも普通である。これを捕らえたときには、さつまいも、煮た米その他の穀類あるいは澱粉質の果実などを与える。檻に入れられ、あるいは鎖につながれている若い熊がしばしば見られるが、これらは3〜4才まではおとなしく扱いやすい。しかし、この時期を過ぎると、どう猛になり、手放さざるを得なくなる。日本の興行師はこれらの熊に芸をしこみ、人びとの集まる場所で見世物に供する。
シーボルト氏は、この国の首都を訪問したおりに、江戸から数里、川崎にほど近い生麦村で、18年前に捕らえられたというこの種類の熊を見た。その体長は1メートル30センチほどでいくつかの芸ができた。シーボルト氏はまた、江戸で(生麦の誤り)全身が真っ白な熊を見た。それは日本の北部で捕らえられた白子であった。この熊には、そら豆の莢その他が餌として与えられていた。日本人はこの熊の肉をひじょうに珍重し、皮は輸出する。脂肪はさまざまに利用され、高く売られる。肝は薬用に供される。
博物館に、比較に用いることのできるインド産のウルスース、チベタヌス(チベット熊)の個体がないので、日本のこの熊がインドの熊と全く同種であると断定することはできない。しかし、日本のこの熊の見事な2枚の皮とその頭蓋を見た限りでは、インドのチベタヌス(チベット熊)に関して描写されているところとの間に違いはまったく見られない。この対比較によれば、両者が同一種であることには、まったく疑問の余地がないとわれわれの目には見えた。」

街道の茶屋で見世物になった熊の評判は、やがて江戸にも伝わり、次第に有名になっていった。文政5年4月6日、徳川御三卿の田安右衛門督が川崎の大師河原(川崎大師参詣か)まで来た折に、熊茶屋の熊を見たいと、大森の御鳥見役を通して知らせがあった。このため、川崎堀之内の叶屋権左衛門方まで名主藤右衛門の代理として享二(藤右衛門の子息)が出迎え出ることになっていたが、急に日延べになった。5日後の11日再び田安右衛門督が大師河原に来て、今度は目的通り熊を見ることができた。「関口日記」には次のように記している。

文政五年四月六日庚戌朝曇り
田安右衛門督様大師河原御成ニ付、熊茶屋之熊御覧被遊候由ニ而、大森御鳥見高倉庄九郎様ヨリ昨日御状到来ニ付、今日川崎裏堀之内叶屋権左衛門方迄ニ同道御請ニ参ル、然所延引ニ相成候。
文政五年四月十一日乙卯晴天
田安様今日大師河原江御出ニ付、熊御覧被遊候。

名物になっていた熊茶屋五左衛門の熊も文政9年4月22日に死んだ。シーボルトが見たのは同年の4月9日だから、13日後であった。同日熊茶屋五左衛門は、名主藤右衛門へ熊の戒名を頼みにいった。「馴余変猛牝熊胎子」と戒名がつけられた。翌日には熊の法事を執り行い、線香代として金50文が名主から熊茶屋に届けられている。

文政九年四月廿二日癸酉曇リ
昨日熊茶屋五左衛門来リ熊死去イタシ候ニ付法名頼候ニ付、
馴余変猛牝熊胎子ト附遺候。
文政九年四月廿三日甲戌晴天
一、五拾文 
熊茶屋法事ニ付線香代 
享二被招候。

熊が死んだ翌年8月、熊茶屋では蕎麦屋を店開きしている。熊が死んで商売の方針を変えたものであろうか。

文政十年八月十五日戌子雨天
熊茶屋ニ而蕎麦見世開キ致候由ニ而貰。

五左衛門の熊が死んで、忠左衛門の白熊(北極熊でなく、月の輪熊の白子と思われる)が人気を呼んでいたが、この熊は、文政11年(1828)4月26日急にあばれだし、危険になったので打殺してくれるよう町内に申し入れた。
同日、町内の者が集まり、マングワや鳶口、竹ヤリ、め突きなどをもって白熊を鉄のクサリに結びつけ、人々を熊から離れさせた。一方牛久保村(現在、横浜市港北区牛久保町)へ使いを出し、鉄砲で熊を打殺してくれるよう頼んだ。もし殺し損じて逃がすようなことがあって近在の村に迷惑をかけ、怪我などをさせては申し訳ないと思ったからだ。用心のため鉄砲を撃つ手はずだったが、使わずに打殺すことができた。

文政十一年四月廿六日巳丑曇リ
忠左衛門飼置候白熊昨日マデ荒レ候段承候間可打殺段町内江申付候。
今昼前町内之者寄合馬鍬鳶口竹鑓見突等之品々ニ而、右白熊鉄クサリ片々結付片々相離レ罷在候ニ付昨夜小前之者共遠在牛久保村江罷越百姓相頼来リ若殺損取逃候ハ、近村江罷越怪我等為致候而ハ不相済事ニ付為用心鉄砲打相頼置候得共右之品ハ不相用打殺候ニ付当人江書付差入相帰申候段無相違御座候。

地元生麦に、熊を飼っていた茶屋についての記録らしきものは、何もない。が、わずかに慶岸寺にある五左衛門の墓石に、「熊茶屋」の刻銘が残っている。また、白熊茶屋の跡地に葬られた白熊は、後に白熊神社として碑が建てられ、その子孫によって、今も欠かさず香華が手向けられている。 
 
シーボルトを支えた日本人 川原慶賀

 

文政11年(1828)9月、長崎出島オランダ商館の医師シーボルトは帰国することになっていた。帰路の船コルネリウス・ホウトマン号には、滞日5年の間に彼が収集した貴重な多くの資料が既に積み込まれていた。8月10日に襲った台風は、この船を稲佐海岸近くに吹き寄せ、積荷を流出させた。その中から禁制の日本地図などが現われ、シーボルトの帰国禁止、関係者の処分が行われた。いわゆるシーボルト事件の発生である。
この事件に長崎の一人の画家が巻き込まれ、歴史の片隅に名を留めることになった。
長崎奉行所文政一三寅年犯科帳に、
「一、今下町出嶋出入絵師 登与助 子一二月廿五日入牢 丑正月廿八日出牢之上町預 寅閏三月廿五日伺之上叱」
とあり、続けて大略次のような理由を付している。オランダ人の拝礼参府に道行し、医師シーボルトのために薬草の絵図等を描いたが、シーボルトに治療を受けた者や教えを受けた者が彼に禁則の品を渡しているのを知りながら黙っていたことは不埒である、と。
この登与助が川原慶賀(1786〜1860以後)に他ならない。犯科帳には「出嶋出入絵師」とあるが、これは特定の職種を指すものではなく、出島に出入りすることを許されていた画家、といった意味合である。鎖国時、公的に出島に出入りできる画家は、長崎奉行所の役職唐絵目利に限られていた。慶賀は唐絵目利ではなく、町絵師であったが、おそらく唐絵目利役の中でも大御所的存在であった石崎融思の計らいであろう。シーボルト来日以前から出島出入りを許されていた。そして彼の器用な画才は出島のオランダ人たちに重宝がられたとみえて、例えば商館長ドゥーフ(1803〜1817滞日)の肖像を描いたり、ブロンホフ(1817〜1823滞日)やフィッセル(1820〜1829滞日)のために日本の風物を描いている。また、彼が出島内で見たオランダ人の生活や見せられた絵画などから題材を得て作画し、好奇心の強い日本人に売り、結構商売上手であったようである。
右のような状況からみて、来日早々シーボルトが川原慶賀に出会ったのは自然の成行きであったと言えよう。周知のように、シーボルトは商館医としての仕事の他に、総合的な日本研究という使命を持って着任した。それはオランダ本国の意志とシーボルト自身の学問的野心とが一体となったもので、それ故大著『日本』に見られるような成果を得ることができたのである。シーボルトが日本研究を進めて行く上で、自分の意のままに作画をしてくれる画家が必要であった。いわば現代の記録写真家を必要とした。『シーボルト江戸参府紀行』中にも「晩に余の日本画師登与助帰り来れり。余が下関の西部の景色を写すことを頼みしなり」など、随所に慶賀の作画活動のことが記されている。このことは、慶賀がシーボルトの日本の地理的研究に大いに貢献していたことを物語り、事実これらの日本風景は『日本』の挿絵原画として用いられている。また、シーボルトが当時のライデン国立自然科学博物館館長テミンクへ宛てた手紙に「…私には一人の日本人の画家がおり、既に百枚以上の植物の図を顕微鏡図と共に画いています。…」とあり、慶賀がシーボルトの植物学的研究にも貢献していることが分る。その他、現場ライデン国立民族学博物館所蔵のシーボルト・コレクションの中には、慶賀の作になる日本の風俗行事の絵が多数含まれている。
これらの事実から、慶賀はシーボルトの総合的日本研究に一体となって協力していたことが分る。では何故一介の町絵師でしかない慶賀がこのように熱心になり得たのか。それは彼がシーボルトの人問的魅力に触れ、単に雇い主と雇われた者との関係以上の感情を抱くようになったからだと思われる。つまり、シーボルトの純粋な研究者としての態度、そして彼の許を訪れる日本人学者たちの旺盛な研究心などに直に触れ、自身の仕事の意味を自覚したものと考えられる。シーボルトが日本を去った後も、数年の問はなお甲殻類の標本図などを、日本に留まった助手ビュルゲルを通して送り続けていることなども、その表われである。
このような仕事を続けているうちに、慶賀自身いろいろの知識を身につけていったらしく、例えばシーボルト事件の10年後、天保7年(1836)に浪華書林積玉圃より『慶賀写真草』上・下を出版している。上冊には草の類27種、下冊には木の類29種が収載され、その図には花・果及びその解剖を載せ、薬用効果の説明まで付している。慶賀がかなりの植物学的知識を有するようになっていたことを示すものであろう。
確かに慶賀はシーボルトの仕事を契機に徐々に新しい広い世界に眼を開かれていった。シーボルトの絵師になった当初、犯科帳の罪状に記されたように、監視役という別命があったのかもしれない。しかし、彼はそのような閉された世界とは違った別の世界に目覚めて行き、別命には熱心になれなかったのであろう。
鎖国時において西洋の絵画に関心を持った画家は多数いた。中でも司馬江漢は最も熱心に西洋画を、理論的にも実践的にも研究した人である。長崎の画人の中に、若杉五十八や荒木如元など、西洋画と取り組んだ人を挙げることができる。そして、これらの画家たちに共通して言えることは、いかに西洋画的なものを摂取するか、あるいは模倣するかということにあったと言えよう。つまり、一方的に西洋的なものを摂り入れるということであった。ところが、同じ画家であり、日本における西洋との接点の最前線にあった慶賀は、これらの画家たちとはかなり異なった関わり方をした。確かに彼の絵画作品の中には、西洋画から直接的に借用したものや部分的に洋画的手法を用いたものもあるが、西洋画そのものを純粋に絵画的に追求した形跡は見られない。そのような画家が、結果的には西洋の科学的研究の一助をなしたということに大変興味をひかれる。つまり、彼は自己の画技をもって、西洋に日本というものを知らしめた最初の人と言えるのではないか。それはもちろん主体的にではなく、シーボルトの手助けという形ではあったにせよ、現実には彼自らが描いた絵によって西洋の人々に日本を知らしめたのである。
川原慶賀が「出島出入絵師」という特権を得た当初は、おそらく町絵師としての商売上、好条件を得たことで単純に喜んだであろう。しかし、それを契機としてシーボルトという稀有の人格に触れることになり、結果として西洋の日本理解のために一寄与をなすことになったのである。
シーボルトと慶賀の出会いは、双方にとって幸運であったと言えるであろう。慶賀なしにシーボルトの実りある日本研究はあり得なかったであろうし、また慶賀もシーボルトに出会わなければ、その存在すら知られぬままに終ったかもしれないからである。
慶賀の見たオランダの日々 蘭船荷揚図
出島は在留していたポルトガル人を住まわせるために、寛永11年(1634)に造成に着手し、同13年(1636)5月に完成した人工島である。面積約4,000坪(約13,000平方メートル)であった。その後寛永18年(1641)よりは、この地にオランダ人が居住することになった。(現在復元整備実測14,878平方メートル)  長崎港外の高鉾沖に到着したオランダ船は帆をおろし、多数の曳舟で出島沖まで曳入れられた。この時、港口で蘭船は礼砲を発射し、出島沖に投錨すると、火薬類は稲佐の塩硝蔵(後に馬込に移る)に保管された。
出島沖に碇泊したオランダ船の荷物は、出島の水門(二ノ門)に小舟で運ばれ、陸あげされ本方荷物と脇荷物とに分けられた。前者はオランダ商館の会計に属するもので、貿易の主体をなすものであり、後者は会社の会計外で、商館長以下の私有の荷物で、一定額までの貿易が認められていた。
慶賀の見たオランダの日々 商品入札図
当初は自由貿易であった日蘭貿易も、日中貿易と同じように次第に統制が加えられ、貿易額は、だんだんと縮小されていった。  図は出島乙名の立合のもとに、日本商人が貿易品の入札をしているところである。出島乙名は総町乙名の中より2名程度が選ばれた。出島に出入りする商人達は、この出島乙名の発行する門鑑(通行許可証)を携帯し、表門では門番による厳重な身体検査がなされた。
出島には、様々な織物が舶載された。それにはアジア産とヨーロッパ産のものとがあった。アジア産にはインドの木綿や絹、ベトナム方面の絹などがあり、ヨーロッパ産には羅紗・羅背板・「へるへとわん」などの毛織物があった。 
 
日本とオランダ

 

オランダはイギリスやフランスなどにずいぶんいじめられながら、一生懸命生き、自らの独立を保った国です。そしておそらく次の世紀では、ECの中でたいへん重要な役割を果たす国だと思います。あれやこれやを考えてみて、オランダを見る上で重要なことは、つねに主人顔をしないということです。
優れた国
私事ですが、私は学校の中途でにわかに卒業証書だけを貰い、軍隊に取られた世代です。敗戦まで―23歳になるまで軍隊におりました。その間じゅう、自分の戦車(私は戦車兵でした)と敵の戦車の比較ということをいやでも考えさせられました。こちらの戦車はいかにも小さな大砲を積み、薄い鉄板を貼ってあります。私が考えたのは、この程度の軍備(四捨五入して言えば、とても近代的な軍隊とは言えません)を持った国が、なぜこんなに大きな戦争を始めたのか、始めた人はよほど馬鹿な人か、真に国家を愛しない人々か、ともかくも正気でない人々だったろうということでした。ともかくも、自己や自国についてのこの程度の認識を持っている人々によって、日本はつぶされてしまったのです。
しかし、どうも明治の人とか、もっと前の日本人はもうすこし立派だったように思えました。立派というのは自己認識がしっかりしていたということです。…これは昭和になってから日本人が変わったのに違いない、と思い続けました。極端に言いますと、自分は馬鹿な国に生まれてしまったものだという感じを持ったのです。そのことが、私に歴史への関心を抱かせるきっかけになったと思います。その後、小説を書くようになっても、私は「日本人とはなにか」ということばかりを書き続けて来たように思います。また、これは23歳の時の私が読者なのでありまして、23歳の私に手紙を書き続けているような小説なのです。私と歴史、小説との関係は、そんなことであります。
ところでオランダという国のことですが、これは世界でいちばん立派な国なのではないかと思ったりします。「世界は神様が創ったかも知れないが、オランダだけはオランダ人が創った」と、よく言われますが、オランダの立派さはこのひとことで尽きるのではないでしょうか。もともと海であったところをダムでふさぎ、干拓しては国土を広げて行った国なのです。
私はオランダのライデンという町に行ったことがあります。古い大学を中心にした、落ち着いたいい町ですが、道がアスファルトなどではなく割り石で舗装してあります。
「オランダには石がないはずなのに、これはどこから持ってきたのですか」と、案内の人に尋ねましたら、
「外国から買ったんです」
「それはいつごろ?」
「さあ、300年ほどまえでしょうか」
「その頃いくらしたのでしょう」
「うーん、いまの値段で100円くらいかなあ…」
まあ、この値段はいいかげんなものですが…(笑い)。安くはなかったということでしょう。輸送費や手間などを考えるとこれはたいへんなことだったでしょう。干拓用の巨大なダムも石を積んで造っています。その石ももちろん外国から買っているわけです。ご存じのようにオランダのダムはたいへんしっかりしておりますが、日本のようにコンクリートでは造りません。人類の経験の中でもっとも手堅い材料である自然の石を沈め、その上に柳の枝を束ねたものをクッションとして置いては、さらに石を乗せて行くという方法で、オランダのダムというダムが造られ、いまもその方法で造られつづけています。持続こそ文化なのです。
我々がオランダ人と付き合いはじめたのは、380年前の4月のことです。もし神様がいらっしゃるとすれば、これはまさしく神様がオランダ人を日本によこして下さったのだろうと思う…(笑い)。有名なリーフデ号という船が、別府湾に漂着したのが1600年4月18日のことでした。ちょうどその年の秋、関が原の合戦があり、その結果江戸時代が始まります。
ところで、このオランダ人との付き合いがなければ、今の日本史は少なくとも全く違ったものになっていたろうと私は思います。私は三度オランダに行きましてぶらぶら歩きましたが、オランダを歩いていると絶えず日本のことを考えます。不思議なことにフランスあたりを歩いても日本のことをあまり考えません。それはなぜかということが私のこの話のテーマです。
オランダ語読みのオランダ知らず
山がまったくない、九州をまっ平らにしたくらいのオランダの土地を歩いてひとつ思い出したことがあります。江戸末期ころ来日して、日本に強い影響を与えたフォン・シーボルトのことですが、彼はじつはドイツ人でした。
当時の日本にはヨーロッパ人ではオランダ人しか来られないことになっていました。ですからシーボルトさんは国籍を偽って入ったわけです。なぜそれほどまでにしてシーボルトさんが日本に来たかったかと言えば、博物学的野心でした。当時の欧州で博物学は大流行しており、遠い国でヨーロッパでは知られていない動物や植物を“発見”して、学界に紹介すると英雄扱いされていたのです。ドイツ大学の医学部を出たばかりのシーボルトさんも、日本という珍しい国で、珍しい事物を集めて見たいという野望を持ちました。
シーボルト家は医学の名門でした。おじさんの一人がオランダ王室の医師をしていたので、その人にたのみこんでオランダの海軍軍医ということにしてもらったのです。船旅は時間がかかるので、その途中でシーボルトさんはオランダ語を勉強したようです。まあドイツ語とオランダ語の間の開きは、日本の津軽弁と薩摩弁の間の開きよりずっと小さいのではないでしょうか。ですからシーボルトさんはオランダ語の習得に1か月くらいしかかからなかったでしょう。
長崎には長崎通詞という役人がおります。幕府の人事というのはなかなか面白く出来ていて、長官である奉行は江戸からやって来ますが、下級の役人や通詞などの技官は「地役人」と言いまして土地の人です。待遇は幕臣というようなことですが、ほんものの幕臣とは言えません。通詞は通訳を御家の芸として世襲してまいります。なかにはいいかげんな人もいましたろうが、なにしろそれで飯を食うわけですから、優秀な達人もいます。
その通詞たちが、
「どうもおかしい」
と、首をひねるのです。シーボルト先生としゃべっていると、しょっちゅうアクセントが違ったり、発音が違ったりする。そこで、
「先生のお言葉は、私達の家で学びましたオランダ語とずいぶん違うように思いますが…」
こう尋ねますと、シーボルトは国籍がばれると国外追放になってしまうので、こうごまかしました。
「私のは、山オランダ語です」ご存じのようにオランダには山などありはしません(笑い)。
シーボルトは、魅力的な人でした。しかし、言われるほどに大きな影響を与えたとは思われません。確かに医学は教えてくれたし、化学も教えてくれました。しかしそれは、日本人の好奇心に合わせただけの教えかたです。医学や化学の基礎をきちんと教えたわけではありません。この物質とこの物質を合わせると、こんな化学反応が起こる。どうだ、面白いだろう…それをこのように使うとマッチが出来、シュッと擦ると、ほら、火が出た…という程度のサイエンスです。その程度で日本人は十分喜んだ。
これは別に日本人をばかにしていたわけではありません。全く別の、強烈な文明との最初の接触というのはそんなものなのです。シーボルトさんの医学も、まあおできを切る程度のものでした(笑い)。いや、今ではできものなどはなんでもありませんが、江戸時代ではできもので死んだりいたします。私の子供の頃でも、どうかすると命取りのことだったのです。戦後、抗生物質が出回って初めて、腫物はなんでもなくなったのです。シーボルトさんはその切開法を教えました。これは大きい功績でした。それともうひとつ、眼科の薬で、瞳をパッと開く薬、これを持って来ました。この薬は今の眼薬にも入っております。
まあこのようにシーボルトさんは日本人の好奇心を刺激はしたけれど、それ以上のことではありませんでした。日本に体系的な医学を伝えたのは、オランダ人、ポンペでした。
世界最初の市民社会の形成
少し話を戻します。やってきたリーフデ号のことです。船長のウィリアム・アダムスはイギリス人でしたが、オランダに雇われていました。航海士はオランダ人のヤン・ヨーステン。この二人はともに家康に仕えて幕臣になり、家康の外交顧問という役どころをひきうけます。ウィリアム・アダムスが三浦按針と名乗ったことは御存じの通りです。また、ヤン・ヨーステンの屋敷が今の東京駅八重洲口のあたりにあったこともよく知られています。ヤン・ヨーステンがヤヨスと訛り、やがてヤエスになったと言われています。
三浦按針が日本で活躍していた頃、イギリスの船も日本にやって来はじめました。いわゆる大航海時代が幕をとじ、スペインとポルトガルの時代は終わりつつあったのです。カトリックの時代が終わったと言いかえてもいいでしょう。その頃のカトリックは実に堕落していまして、神を教会が独占販売し、ふつうの人々はただひたすらに教会に隷属することを強いられていましたが、商業の発達などによって人の智恵はひらけてきたのです。カトリックヘの批判として生まれたのがプロテスタントでした。プロテスタントは、一般の人々が教会に依存することなく自分で神を知り、自分で神と約束して倫理を定め、個人個人としてきちっと生きて行こうとする宗旨です。オランダはそういうプロテスタントのいわば先端的な国でした。当然ながらヨーロッパ第一等の自由もありました。ついでながら、イギリスもオランダとはいきさつが違ったとはいえ、やはりカトリック批判のキリスト教を作り出した国です。
プロテスタントというのは自律的な習慣を持っているのでビジネスが出来る……。商人が持つ積極的・能動的なものを受け継いだと言ってもいいかも知れません。商人というのは、ものごとを数量化する能力を持っています。しかも決断力を必要とします。さらに約束を重んじなければいけない…。プロテスタントの人は義務ということをきわめて大切に考えますね。これは、それまでのカトリック的ヨーロッパにはあまりなかった倫理でした。この義務を大事にするということは、大きなビジネス的組識に入って仕事をする場合にたいへん必要なことです。
日本という遠く見知らぬ国に来て、商売をすることが、会社という組織に属する自分というものの義務であると考える。オランダ人もイギリス人もこのように考え、それぞれ国立の東インド会社という組織を作って商売を始めたのです。しかしその初期、1600年ころには、商売ではオランダ人の方がイギリス人より断然優秀だったようですね。
ちょっと余談になりますが、関が原合戦前後に、リチャード・コックスというイギリス人が平戸に商館を開きました。これは今もその跡が残っております。さらに彼は大阪にも江戸にも商館を作ったそうです。しかし結局彼は日本における商売に失敗して、インドに撤退する途中で病死してしまうのです。失敗の原因はラシャを売り損なったことでした。ラシャというのは当時の日本の風土にはなかなか合いにくい織物です。陣羽織などには使われましたが、一般的に喜ばれる織物ではありません。それをなにを思ったかコックスは、日本人に是非着せようと、大量に持って来ました。それもまるでカナリアのように黄色いラシャでした(笑い)。三浦按針は、本来はイギリス人でしたから、コックスの商売をなんとか助けたいと思ったようです。コックスに、
「もっと市場調査をして、日本人に向いたものをお売りなさい」
と、アドバイスしたようでもあります。が、コックスは聞き入れなかったのです。このため商館の倉庫にカナリア色のラシャを一杯積み上げて、売りさばきにかかりました。しかし、当時の日本人の色彩感覚というものは、今の日本人よりはずっといいのです(笑い)。売れるわけがない…。とうとうリチャード・コックス以下平戸商館のイギリス人たちが宣伝のために、そのカナリア色のラシャでマントを作って着て、ひらひらさせながら歩きまわった(笑い)と言うのですが、想像するさえおかしい風景です。市場調査を十分にするオランダ人はそんな馬鹿なことはいたしません(笑い)。
当時のオランダの人口はせいぜい百万か二百万でしたろう。すくないですね。しかしその国がヨーロッパを代表する力を持っていたのです。造船、航海、科学・技術の先端的な能力を発揮していました。哲学においても優れていた、というのは、オランダがさきにのべたように世界最初の自由な市民社会というものを形成していたからです。
当時の船の船首船尾には飾りの彫像がついていますね。たいがい女神かなにかですが、リーフデ号の船尾のそれはちょっと変わっておりまして、カトリック教会を罵倒し抜いたオランダ人哲学者、エラスムスでした。この人は、ただカトリック教会のただれた部分を勇敢にえぐりだしただけではありません。その表現が哲学的にも文学的にも優れていました。彼の『痴愚神礼賛』は、現在でも人類文化の大きな遺産の一つです。オランダ人はこのエラスムスをたいへん尊敬しました。この人こそカトリック教会のくびきから我々市民を解き放ってくれる人だと信じました。だからこそ外洋航海の守り神と考えたのでしょう。
このエラスムス像は、今も日本に残っています。神父さんのような帽子をかぶり、ローブを身にまとったこの像は、長いあいだ“鈩狄(かてき)尊者”と呼ばれて、武蔵あたりの寺に祭られていました。なにか西洋風のお地蔵さんのように思われていたのかも知れません。いまは確か東京国立博物館にあるはずです。
まあ、我々の祖先は、このエラスムスの哲学こそ知らなかったのですが、この像がそんなかたちで今も伝えられているということは、日本に対する近世西欧の刺激の歴史的遺産のような気がいたします。
貨幣・商品経済始まる
刺激。これは、歴史を見る上で重要な要素の1つです。オランダ人がもし鎌倉時代に来たとしたら、日本人はそんなに刺激を受けなかったでしょう。また、もしもっと時代が下がっていたとしたら、イギリス人の力の方が強くなっており、プロテスタント世界と日本の接触は別の形になっていたと思われます。オランダがプロテスタントの代表選手だったのは、まさに17世紀初頭のことだったからです。
家康という人はあくまで三河の山奥出の人であって、百姓の親玉みたいな人でした。秀吉から受け継いだ日本に、彼が付け加えたものは、ほとんど何もなかったのではないでしょうか。困ったことに家康は、この近世という時代にあってなお、米でもって日本を統一しようとしました。つまり、百姓が作る水田の上に武士・大名が乗っかり、その上に将軍が乗っかるという支配の形です。武士の人口比率は、7パーセントくらいでしたでしょう。その7パーセントがお百姓に米を作らせては取り上げ、養われることで、世の中はうまく行くと考えたのです。ところが江戸時代に入ると、家康などが思いもよらなかったことが、つぎつぎと起こって来るのです。ひとつにはそれは秀吉ののこした貨幣という制度のおかげです。
ヨーロッパの場合、貨幣はギリシャ・ローマなどキリスト以前からあります。しかしその時代、ヨーロッパの片すみ、例えばドイツの片いなかまで貨幣が通用したかというと、そうは参りません。そこはやはり物々交換の世界でした。全域的に貨幣が通用する社会になるには、ヨーロッパでもずいぶん時間がかかりました。日本の場合、そういう状況になるのは、江戸幕府が開かれてから以後のことです。秀吉は金貨も銀貨もつくりましたが、補助貨幣はあまり重視しませんでした。江戸幕府はさまざまな種類の補助貨幣を作り、これが、貨幣経済を活発化させるきっかけになったと思われます。家康は貨幣経済など重視していませんでしたから、これは大きな思惑違いだったと思います。
もちろん貨幣単独では、貨幣経済になりません。裏付けになる商品経済の発展が必要です。例えば蠟というものがあります。これは蠟燭の原料でもありますが、女の人や武士たちが髪を光らせて、美容や威儀を整える整髪料としても必要なものでした。江戸期、蠟は、きわめて需要の大きい、活発に動く商品となりました。蠟そのものは四国とか中国・九州地方で作られますが、これが東北にも松前にも運ばれることになります。こうなると海運の発達を促すわけです。
また、江戸初期、木綿という大きな商品が生まれます。木綿というのはそれまで日本にはなかったものでした。秀吉の時代に初めて登場したものであり、初めは絹より高価な贅沢品だったのです。大名達が自慢して着ていたといいます。では庶民は木綿以前何を着ていたかというと、麻とか葛布とか、およそ保温には向かないものばかりでした。ですから、ずいぶん風邪を引き、肺炎を起こして死んだと思います。江戸中期ごろ、木綿が普及して、庶民はやっと暖かく暮らせるようになるのです(笑い)。
綿はもともとエジプトのナイル・デルタあたりで栽培されていたものです。ですから暑い土地のものですし、肥沃な土地でないと出来ません。日本で木綿を作るとなると、この作物を日本の気候風土に合わせなくてはなりません。また、大量の肥料を必要としました。にもかかわらず、江戸時代は木綿の時代と言っていいほど、ひたすらに木綿を作っていたのです。
初めは大阪湾周辺の土地で作ったようです。河内木綿と言われるものです。大阪湾で取れる小さなジャコを干して肥料とし、土に入れました。船場の隣、いま靱公園という公園になっているあたりに肥料問屋が集まっており、そういう金肥を買っては木綿畑に入れたのです。しかしもっと優秀な肥料が着目されます。北海道のニシンでした。たちまち北海道に行く船が増えてまいります。ニシンを大量に運んで来ては木綿をまた大量に運ぶ。こうして日本中を大きな船がぐるぐると廻るという経済構造になります。いろいろな地方のいろいろな特産品が、日本中に商品として出回るという、江戸中期の大規模商品流通の時代が来たわけです。そして、その流通を支えているのが貨幣だったわけです。
商品の流通が盛んになったことの結果として、いちばん大きいことは、文化が1つになるということです。例えば四国の人の服装と、東北の人の服装が同じ物になって行く。もうひとつの特徴は前資本主義とでも言うべきものが始まるということです。人々の考えかたが合理的になる。つまり数量でものを計り、また商品の質で判断するようになります。良い商品はどこで作られるかを見きわめるようになった…。女の人が使う紅の原料は、山形あたりのものがいちばんいい。しかし商品としての紅作りがいちばん上手なのは京都です。そして運ぶのは船乗りですね。ですから山形と京都の双方に大きな問屋が出来、また回漕業者の問屋も出来るのです。まあこれがプレ資本主義です。
かつては宗教的なドグマが人間を支配し、社会を支配していました。しかし商品経済が活発になりますと、人は自分の乾いた目で合理的に物事を見ます。その合理性によって、学問や思想の面では自然科学、人文科学が盛んになるわけです。これは商品経済発展の当然の帰結ですが、しかし日本の場合、オランダ人という刺激がなかったとすれば、なかなかそこに達し得なかったかもしれません。
合理主義思想を裏書するもの
江戸時代の初期を過ぎた頃、日本には思想的に面白い人がたくさん出てまいります。荻生徂徠もその一人でしょう。荻生徂徠は中国の儒教を勉強した人です。つまり最初は朱子学の徒だったのですが、彼はそこから離れてしまいます。朱子学とは何かということは、なかなか一口では言えませんが、思い切って簡単に言えば「これはこのようにあるべきだ」という“イデオロギーの学問”であります。荻生徂徠は既に商品経済の中の人でしたから、朱子学の原理性を抜け出て、合理主義で儒学を組みなおしたのです。幕府は朱子学をもって正式の学問としていたわけですから、徂徠としては勇気のいることでしたろう。しかし、この場合、幕府はこうした別の考えかたも咎めはしませんでした。むしろ彼を幕府に近付けております。10年ほど前に吉川幸次郎さんとラジオで話しあった時、話題がたまたま徂徠に及びました。
「彼は一人であの学問を創ったのでしょうか」と私が言いましたら、吉川さんは勇敢にも、
「オランダの影響でしょう」
とおっしゃった…。しかし、荻生徂徠の履歴の中にはオランダ人との接触は出て参りません。ですからもし影響があったとすれば、間接的なものということになります。オランダでは物事をきわめて合理的に考えるということが確立しているということを、彼は長崎を通じて知ったということかも知れません。徂徠は長崎には一度行っております。これは中国語を学ぶために行っているのです。しかし長崎に行けばオランダ的なものの考えかたに触れるということもあり得たでしょう。
例えば、長崎には化学の実験の大好きなお寺の坊さんなどもいたといったぐあいで、いわゆる蘭癖の町でもありました。日本には昔から物好きがいて、一種の文化を形成しています。物好きは奇人扱いされますが、日本人は本来、奇人というものを尊敬するのです。荻生徂徠はそういう奇人たちを通じてオランダの匂い―オランダの科学や技術、オランダの合理主義や人文科学の片鱗を感じ取ったのかも知れません。
江戸も中期からちょっと後期にさしかかる頃、エラスムスほどではないにしても、ややエラスムスに似た感じの思想の持ち主が現れました。大坂船場の醤油問屋の息子で、富永仲基という人です。この人は日本の仏教の基礎となっている大乗仏教の経典は全部偽経であるということを、学問的に論証いたします。つまりそれら大乗仏典は釈迦自身の言葉ではなく、仏教が伝来して行く途中、4、5世紀あたりにシルクロードのあちこちで作られたものだと言うのです。つまりそれは釈迦が亡くなられてから何百年か経ってからのものだというわけです。仏教の僧侶の側にはこの論証を覆せる人がひとりもいません。富永仲基の論証は、学問として何百年もの歳月になお耐えております。この人は30歳で亡くなりましたが、よほど天才的な人だったように思います。時代が生んだ思想でもあります。
また山片蟠桃という学者がおりました。この人も商人でした。仙台藩に金を貸している銀行のような店の番頭さんをしていました。ですから学者としての名前もバントウなのです(笑い)。この人は実に明快な無神論を展開しております。神も仏もない。霊魂もなければもちろん幽霊もない、という。
この二人は別にアウトサイダーだったわけではありません。むしろ社会の内部できちんと仕事をし、暮らしていた人です。山片蟠桃などは武士にも見られないほどの忠誠心を自分が勤めている商家に捧げていました。いうなれば、ヨーロッパにおけるプロテスタント的な自律精神の持ちぬしでした。それにしても今まで人々が堅く信じていたこと、それも高踏的な問題についてではなく、神仏への信仰というような庶民の生活の隅々まで染み込んでいることをひっくりかえすというのは、たいへんなことです。エラスムスから200年ほど後、日本にもそういう存在が生まれたのです。
この二人はオランダ語こそ出来ませんでしたが、オランダの学問にはたいへん興味を持っていました。山片はオランダの天文学の本をよく読んでいる人から詳しい話を聞いており、その他にもオランダのことをよく知っていたと思われます。そして、自分達の思想が、その頃の日本の常識には合わないにしても、オランダという国であれば、十分通用するものだと思っていたのではないでしょうか。つまり自分達の考えを裏書してくれる存在としてオランダ文化というものを考えていたと思います。
このように商品経済の発展に伴って合理主義思想が生まれるのですが、もうひとつ生まれて来るべきものは、自由と個人ということでした。ただ、自由ということは、日本ではあまり育ちませんでした。ヨーロッパにおいては、自由は確かに商品経済が生んだ長男であります。次男は、個人の確立ということです。個人がなぜそこから生まれるかと言うと、商品経済というものは端的に言うと「私が金を貸したのはあなたなのだから、あなたが私に金を返しなさい」ということだからです。これが例えば200年くらい前の中国ですと、ある人に金を貸しても、戻って来るのはその人の兄弟からだったりする。人間がひとかたまりのファミリーとしてカズノコのようにくっついていた時代から、一粒一粒の個人の時代になるのは、商品経済、あるいは資本主義が始まってからのことです。
ところで山片蟠桃や富永仲基が、自由や個人の尊厳というようなことを唱えたかというと、それはしていません。彼等はただ合理主義だけを言いました。しかしそれを表明するだけでも大きな勇気のいることだったのです。もっともこの場合も彼等が幕府から咎められることは幸いにもありませんでした。当時保守的な政治家だった松平定信も、山片の著作を読んで面白がっていたそうです。
これも山片蟠桃と同じ頃の人に海保青陵という人がおります。相場論を立てた人です。この世でいちばん不思議なものは相場だという…。だれが操作するでもなく動き、大政治家や大学者でもコントロール出来ません。これはひょっとすると神のような力を持っているのではないかというので、相場論というものを綿密に論じております。この人は武士の出ですが、君臣の間もいわば商取引のようなものだと、そこまで合理主義的に人間関係を考えました。この人もオランダのものの考えかたの影響を受けているようです。
こうした合理思想を生んだのは、日本国内で異常なほどの速さで発展して行った商品経済には違いないのですが、思想誕生にあたって、オランダ―ヨーロッパ文明を代表する存在そのものが、化学で言う触媒のような刺激を与える役割を果たしたことは間違いありません。そして、もしその刺激がなかったならば、江戸時代の文化―学問や思想のある面は成立しなかったのではないかと思います。
近化市民社会と個人
江戸時代の末期、幕府はペリー・ショックによって自分の時代がやがて終わることを漠然と意識したようです。しかしなおその時期、幕府は自己改造することにより自らのヨーロッパ化を試みます。こうしてオランダ人が幕府の要請により、今度は正式に医学や科学・技術を教えてくれるということが起こりました。
長年の友誼に応えて、オランダは海軍軍人による教師団を二度にわたって長崎に派遣してくれます。メンバーはいずれも錚々たる人でしたが、とりわけカッテンディーケという海軍少佐は、後にオランダの海軍大臣や外務大臣を務めるような優秀な人でした。
この教師団は、海軍の技術を教えるために来たのですが、それと別に医学講座も持とうというので、普通我々がポンペ先生と呼んでいる人が参ります。実はポンペというのはファースト・ネームです。ファミリー・ネームはとても長い…。私は何度かポンペ先生のことを書いておりますが、どうも覚えられないほどです。だから当時の日本人も先生を姓では呼ばずに名前の方で呼んでいます。
そのポンペ先生が、組織的な医学を長崎において初めて講義するのです。また、正式なヨーロッパの科学・技術についての考えかたも、日本人はこの時初めて受け取ります。まだ科学そのものの本質を理解することは出来なかったでしょうが、技術の勉強にはすぐにも参加出来たでしょう。
カッテンディーケは回想録を書いております。ヨーロッパ人は、地球上の他の場所で自分だけが体験出来たことを、文章にして世の中に還元し、共通の知識とすることを義務と考えていたようです。カッテンディーケさんは観察の細かい、文章のうまい人でして、この回想録は『長崎海軍伝習所の日々』という
タイトルで訳され、平凡社の「東洋文庫」に入っています。実に面白い本で私は何度か読みましたが、その中でいつも気になっているのは勝海舟についてのくだりです。
勝海舟はご存じのように非常に身分の低い幕臣の生まれでした。ペリー・ショックの後は、オランダ語を勉強すると出世の早道だということになりました。オランダ語は当時でも幕府のいわば公用外国語でした。アメリカ人が来てもイギリス人が来ても、日本人はオランダ語一本槍で話すのです。幕府は既に東京大学の前身である教育機関を作っており、そこでオランダの学問をオランダ語を通じて習得させていました。勝はそこで一生懸命勉強してオランダ語をマスターし、長崎の海軍伝習所に派遣されて、そこでは生徒の代表者という資格で、海軍技術を学んだのです。生徒代表ですから、カッテンディーケさんと生徒たちの間に立ち、しょっちゅうカッテンディーケさんに接触するわけです。練習航海の時には勝は艦長代理を務めました。
カッテンディーケさんは、勝という人が賢くて親切で、たいへん便利な存在だというので、まず好意を抱くのですが、深く付き合って行くうち、勝という人がたいへんな憂国の士であり、また、世の中をひっくりかえすような革新の士でもあると思うようになるのです。この“革新の士”だというカッテンディーケの評価は、その回想録の中で非常に重要な部分だと私は思っています。勝海舟という人はたしかに優秀な人で、またいい人ですが、ちょっと困ったことに恨みっぽい人です(笑い)。自分は頭が良くて技術を持っている、しかし身分が低いので抑圧されているという意識が抜けません。またそのことについて諦めようとはしませんから、いい階級にある仲間を罵るところがあるのです。それからさらに、ひいては幕府などは破壊しなくてはいけないと思うようになるのでしょう。将軍は残したとしても、政府はオランダのようにしなくてはいけないと考えたようです。それがカッテンディーケさんの言う“革新の士”という評価でしょう。
カッテンディーケさんが長崎でいちばんびっくりしたのは、一人の商人と話をしていて「この町は小銃を持った水兵が4、50人もいれば占領出来る。そんなことになったらあなたはどうするのか」
とカッテンディーケさんが尋ねると、その商人が、
「そんなことは幕府が対処なさるべきことで、私たちには関係ありません」
と答えたことでした。これはオランダ人の感覚からすると、考えられないような答えだったのです。つまり封建日本には7パーセントの武士がいて、彼等だけはちょっぴり天下国家を思っているようだけれど、後の人々は国がどうなってもまったくかまわないと思っているらしいということです。
1868年(明治元年)。戊辰戦争が起こり、新政府軍が会津を攻めます。しかしこの戦いに、会津の百姓たちはまるで関係していません。むしろ新政府軍にたのまれて道案内をしたりしています。こんな戦争は、武士だけがやっていることだと思っていた……。この考えかたを広げて行けば、長崎が外国軍に占領されたとしても、商人は平気で占領軍の御用を務めるということにもなりかねません。
私はここでレンブラントの「夜警」という絵を思い出すのです。レンブラントは17世紀の人です。優れた画家というのはどこの国にも、いつの時代にもいますが、世界一の天才を挙げよと言われたら、私はレンブラントを挙げます。近世においての最大の天才はと言えばゴッホでしょう。二人ともオランダ人です。「夜警」という絵は、長年画集で見て来たのですが、本物を見て本当にびっくりしました。
画題としても実に面白いですね。要するに町の人たち…八百屋のおじさんとか大工さんとかが、町の警備の当番として、武装してパトロールしているという絵です。レンブラントの頃のオランダは平和でしたから、これは形式化していたかも知れません。しかし、ともかく自分の町は自分で守る、自分の国は市民である皆が守るということがテーマなのです。つまりそこには既に市民国家が出来上がっていたということです。これは世界でもっとも古く成立した市民社会であり、市民国家でしょう。国民国家といってもよろしい。
国民国家というのはナポレオンが発明したことになっています。これはオランダよりだいぶ後です。確かに世界にこれをはやらせたのはナポレオンかもしれません。しかし国民国家の元祖は実はオランダなのです。国民国家というのは、国民一人一人がその国を代表しているということです。家にいても外国に行っても、自分が今その国を代表していると思い込んでいる人たちで構成される国家をいうのです。
カッテンディーケが長崎にいた頃、日本はもちろん国民国家などではなく、封建国家でした。だからこれを一階級の国にしなければだめだというようなことが、勝海舟とカッテンディーケとの間の話には出たろうと思います。勝は、カッテンディーケにオランダという国の本質は何かということを尋ねたに違いない。
まもなく勝は徳川幕府の“葬儀委員長”になり、江戸を無血開城させます。そして将軍が持っていた権限や権利、権威の総てを捨てさせます。重要なことは、勝はそのことについて、生涯何も後ろめたさを感じていなかったということです。封建的なモラルからすると、自分が仕えていた主家を売ったことになるわけですが、勝はそんなことは意に介していません。むしろ国民国家を自分が創ったのだという意識を持ち続けました。もっとも、勝という人は、よくものを書いた人ですが、このことについては書いていません。カッテンディーケさんとそんなことを話したというようなことも、書いてはいません。これは総て私の想像です。しかし勝をずっと見ていますと、また、カッテンディーケさんの国を見ていますと、そういうことだったのだろうと思われて来るのです。
17世紀から18世紀にかけては、オランダがヨーロッパでいちばん国民所得の多い国でした。オランダはイギリスやフランスなどにずいぶんいじめられながら、一生懸命生き、自らの独立を保った国です。そしておそらく次の世紀では、ECの中でたいへん重要な役割を果たす国だと思います。あれやこれやを考えてみて、オランダを見る上で重要なことは、つねに主人顔をしないということです。例えばイギリス人は19世紀、まるで世界の主人のような顔をしていました。アメリカ人は今、そんな顔をしています。オランダ人はそんなことは全くしませんでした。我々は江戸時代に多くのことをオランダ人から教えられたのですが、オランダから学ぶべきことは、これからの時代の方が多いような気がいたします。 
 
日本初の女医・楠本イネ (父はオランダ人医師・シーボルト)

 

最近日本人と外国人の間に生まれた方の呼び名について、ちょっとした議論が起きることがあるのをご存知でしょうか。
従来は「ハーフ」と呼んでいましたが、外国の方からすると「半分ってどういうことだよ!」と感じるのだそうで。そのため、二つの民族の血が入っているということで「ダブル」と呼ぶべきだとする人がちょくちょくいるようです。
色鉛筆や絵の具の「肌色」が「ペールオレンジ」と言い換えられたように、いずれ「ダブル」のほうが主流になるのかもしれませんね。
しかし、そういった概念がない頃に「ダブル」として生まれた人々は、時代の流れに加えてさらに苦労を重ねていたようです。いじめにあったり、何の根拠もなく「体が弱い」と決め付けられたり……鎖国状態にあったからとはいえ、思い込みとは恐ろしいものですね。
むろん、そうした逆境を乗り越えて後世に名を残した人もおります。
前置きが長くなりましたが、本日はそのお一人……いや、お二人をご紹介しましょう。
母の瀧は出島に出入りしていた遊女だった
文政十年(1827年)5月6日は、後に日本初の女医となる楠本イネが誕生した日です。
「どう見ても日本人の名前じゃねーか」と、思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、そこはそれ、日本人として生きていくために母親が融通を利かせたのでしょう。
外国と交流をほぼ絶っていた江戸時代の日本で、なぜイネが「ダブル」として生まれたのかというと、理由はいたって単純でした。彼女の生地は長崎。そして母・滝は、出島に出入りしていた遊女だったのです。おそらくイネの他にも、同じような出自の子供はいたでしょうね。
しかし、イネの場合は父親の職業がその後の運命に大きく影響しました。なぜなら、その父とはフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト、すなわち「鳴滝塾」を作ったあのシーボルトだったからです。
父・シーボルトは地図の持ち出しがバレて…
シーボルトは当時長崎のオランダ商館所属の医師として働いており、そこで滝と出会っていろいろあった結果イネが生まれたのでした。
シーボルトは滝やイネをそのまま放り出したりはせず、自分の家に引き取っていたので、きちんと家族として認めていたようです。しかし、イネが物心つく前、2歳のときに悲劇が起きます。一時帰国の際、日本の地図を持ち出そうとしたのが幕府にバレ、再入国禁止処分になってしまったのです。
なんで地図を持ち出すとマズイのかというと、国防上の理由です。
戦争をするとき、地形というのは非常に重要になってきます。中国の儒学者・孟子も「天の時、地の利、人の和」が重要であると説いていますね。「日頃の行いが正しければ
自然と国は治まるモンだから、戦なんてする必要ないんだけどね」(超訳)とも言っていますが、まあその話は置いておきましょう。大きな山を回りこむように動けば敵に悟られずに背後を突くことも可能ですし、海でもまた同じようなことがいえます。というわけで、そもそも国防のために鎖国状態を続けていた幕府としては、外国人による地図の持ち出しというのは厳罰にすべき事柄だったのです。シーボルトは「そんなつもりじゃなかったんです。日本がどんな国なのか、故郷の人にも広めたくて」と言いましたが、そんな言い訳は通用しませんでした。
混血児ゆえに普通の幸せは望めない!?
そうしたシャレにならないうっかりのせいで、イネは父としばらくの間別れ別れになります。ですが幼い娘と情を交わした相手のことは気がかりだったらしく、医学の弟子達に二人の生活を面倒見てくれるように頼んでから日本を後にしました。帰国後もたびたび滝とイネへ文物を送っているので、いつか再会するつもりもあったのでしょう。その中にはオランダ語の教本や医学書も含まれていました。
もしかするとそれらは弟子達に宛てて送ったものだったのかもしれませんが、これがイネの人生を決めるきっかけになります。混血児ゆえに周囲から冷たい視線を浴びることもあったイネは、「普通の女性と同じように、結婚したり家庭を持つことはできない」と考えたようで、こうした本から医学やオランダ語を学び始めたのです。
それまでも女性の助産師(いわば”産婆さん”)はいましたが、解剖学まで学んだのはイネが日本で初めてだといわれています。師の一人には、大村益次郎(過去記事:靖国神社に銅像となっている大村益次郎って何者なのさ【その日、歴史が動いた】)もいました。シーボルトの門下生の一人が宇和島藩の人で、藩主伊達宗城の覚えもめでたく、その縁で益次郎とも知り合ったようです。さらに宗城はイネ本人のことも引き立ててくれ、足場が固まり始めます。そんなこんなで女医としての知識を深めていったのですが、ここで思わぬ事件が起きてしまいます。
タダで授かった娘だから、名前は「タダ」って……
イネは上記の通り普通の女性として生きることはできないと思っていたので、結婚するつもりはありませんでした。おそらく恋愛すらあきらめていたでしょう。それなのに、子供を授かってしまったのです。お相手は医学の師といわれていますが、詳しい成り行きはわかっていません。イネは相手のことをひどく嫌っていたそうなので、まあ、なんというか、その……あまり深く考えないようにしておきましょう。良い子も悪い大人も真似しちゃいけませんよ。意味がわからない方はそのままでいてください。
生まれた女の子は「タダで授かった子だから」というヒドイ理由で「タダ」と名付けました。が、これは宗城に「それじゃあんまりにもかわいそうだろう(´・ω・`)」と言われて「高」と名前を変えています。話が前後しますが、宗城はイネが元々名乗っていた「失本」という名字についても「縁起が良くないから変えなさい」と言っています。その後は「楠本伊篤(いとく)」と名乗るようになったそうなのですが、この記事では「イネ」で統一しますね。個人的にはイネ=稲=縁起物ということで、そう悪い名前でもないと思いますし。
都内に診療所を開設 福沢諭吉のススメで宮内庁へ
デカすぎるアクシデントも乗り越え、その後もイネは懸命に医学の道を歩みます。それが神様のお眼鏡に叶ったのか、31歳のとき父・シーボルトと再会することができました。別れたのが2歳のときですから、記憶はなかったでしょうけども。しかもこのトーチャン、滝とイネの家にいた家政婦に手を出して子供を作っちゃったものですから、ものの見事に娘から軽蔑されます。感動の再会が台無しだよ! 上記の件といい、これでは男性に対して完全に夢を持てなくなったのも無理はありません。
とはいえ医師としては順調で、明治に入る頃には師匠からも認められていました。益次郎が刺客に襲撃されたときにも治療にあたっています。益次郎は現在でも処置が遅れれば助からないような”敗血症”という状態になっていたため、残念ながら助けることはできませんでしたが……かつて縁のあった人が力を尽くしてくれただけでも気持ち的には充分だったかもしれませんね。
その後はお雇い外国人として来日していた異母兄弟の支援で、東京に診療所を開きました。そして福沢諭吉と知り合ったことで宮内庁へ推薦され、明治天皇の女官の一人が出産する際にも世話役を任されています。残念ながら死産だった上に、その女官自身も亡くなってしまいましたが、それまでずっと逆境で暮らしてきたイネにとっては、身に余る光栄だったことでしょう。
しかしその後医師が免許制になると、既に歳を取っている自分では無理だと考え、助産師として新たなスタートを切りました。62歳で廃業した後は、異母弟・ハインリッヒのもとに身を寄せ、76歳まで生きました。死因は食中毒だったそうなので、もしそれがなければもっと長生きしていたかもしれませんね。 
 
ケンペル・トゥーンベリ・シーボルトと「梅」

 

1. ケンペルに振る舞われた「梅酒」
ケンペルの「江戸参府旅行日記」では「梅干」は出て来ませんでしたが、2回の江戸滞在中にはいずれも「梅酒」と思われるものを振る舞われています。
(注:元禄4年・1691年3月30日)最初の奉行の所では、火酒の代りに甘い梅酒を、もう一人の奉行の所では、一切れの混ぜ物の入ったバンのようなものを冷たい禍色の汁に浸け、すったカラシと二、三個の大根を添えて出し、最後に柑橘類に砂糖をふりかけた特別な一皿と挽茶を出した。
(注:元禄5年・1692年4月22日)(八)砂糖をかけた柑橘類二切れ。一皿の料理が出る間に一杯の酒を飲んだが、私がこれまで口にしたうちではうまい方であった。またブランデーの壺に入れた一種の梅酒が二回出されたが、大へんよい味であった。食事には御飯は出なかったが、すべては非常に風変りでおいしく調理してあった。
原書(原稿はドイツ語、右の扉は1733年刊オランダ語翻訳本)で何と書かれてあったのか確認出来ていませんが、国立国会図書館デジタルコレクション所収の国民書院版の翻訳(「長崎より江戸まで」衛藤利夫訳 1915年)では「甘き梅の實より造れるスープ」と訳しています。恐らく原書の表記もこちらに近く、東洋文庫版はこれを意訳しているのでしょう。なお、国民書院版では2年めの奉行所訪問の際に出されたものについては8項目中の5項目目までしか含まれていません。英訳本では、この箇所では「wine」「liquor」とアルコールであることを示す表現になっています。
江戸時代当時の梅の実を使った汁物の料理として「甘い」味付けのものは他に思い当たるものもなさそうですし、2年目には「酒」であると書いている訳ですから、1年目の「soop」も「梅酒」と訳すのは妥当なところだと思います。ヨーロッパには古くからリキュールがありましたから、ケンペルがそれを知っていれば「梅で作ったリキュール」辺りの表現もあり得たと思いますし、酒がスープと表現されているというのは何だか妙ですが、ケンペルがアルコール度数が妙に低いと感じ取った故でしょうか。通詞がケンペル一行にこれを何と説明したのかも気になります。
梅酒は人見必大の「本朝食鑑」(元禄10年・1697年)の穀部之二・造醸類十五にも
梅酒うめしゆ。痰(水毒の一種)を消し渇を止め、食を進め、毒を解し、咽痛を留める。半熟の生梅の大ならず小ならず中くらいのを、早稲草わせわらの灰汁あくに一晩浸し、取り出して紙で拭い浄め、再び酒で洗ったものを二升用意する。これに好い古酒五升・白砂糖七斤を合わせ拌勻かきまぜ、甕に収蔵おさめる。二十余日を過ぎて梅を取り出し、酒を飲む。あるいは、梅を取り出さずに用いる場合もある。年を経たものが最も佳い。梅を取り、酒を取り出して、互いにどちらも利用する。
と、その製法が他の果実酒と共に載せられており、食を進める作用があると紹介されています。従って、確かにケンペルが江戸に滞在していた頃に梅酒が出て来る可能性はあったと言って良いでしょう。ただ、当時はまだ貴重だった砂糖が大量に必要になることなどから、武士などの一部の階級で嗜まれていたものの様で、ケンペルの時も何れも奉行所でこれを出されています。つまり、そういう希少なものを振る舞われて歓待を受けたということになる訳ですね。東洋文庫版では「火酒の代りに」ですが、英訳本では「brandy」とあり、国民書院版もそれに倣って「ブランデー」の代わりと訳されています。当時は「王侯の酒」とされていたブランデーと並べていることから、ケンペル一行もこの「梅酒」を歓待のしるしとして受け取ったのだろうと思われます。
※最近のケンペル研究ではオリジナルの遺稿の整理が進んできているとのことで、そちらに従った場合はこの辺りの記述もまた変わって来るのかも知れません。今のところ新訳は未見であることは申し添えておきます。また、「跡見群芳譜」の「ウメ」の項ではケンペルがウメをヨーロッパに紹介したとされていますが、今回は典拠を確認出来ませんでした。
2. トゥーンベリが見た「梅干」と「奈良漬け」
トゥーンベリの「江戸参府随行記」では、瀬戸内海公開中に逆風に遭い、風待ちで3週間ほど滞在することになった上関(現:山口県上関町)で見た梅干と梅や白瓜の奈良漬けを記録しています。梅の実の一連の記述から、トゥーンベリには梅がまだ馴染みのない植物であったことがわかります。
(注:安永5年・1776年3月頃)乾燥したり酒粕に漬けたりするこの国特有のいくつかの果実を、私は観察することができた。このような方法は、日本と中国だけにあるそうである。スモモかその同種の果物を乾燥したものは、梅干しと呼ばれていた。そして漬けてあるのは奈良漬けと言われ、まるごとか大きすぎるときはいくつかに切ってある。これには酒または酢の醸造後に樽のなかに得られる酒粕が利用される。その酸が果実に浸透してある種の味を作り、また一年中あるいはそれ以上も貯蔵できるようにする。「ウメ」はこの国の言葉で梅という植物の果実を意味する。「奈良ナラ」は、果実を一般にこのような方法で酒粕に漬けている日本の地方を表わしており、そして「ツケ」は漬けることを意味する。白瓜は一種の大きな瓜で、一般にこの方法で漬け、四分の一の大きさの樽に入れて他の地域に輸送する。胡瓜漬け〔ピクルス〕のように、ステーキまたは他の料理と一緒に食べる。奈良漬けの味は胡瓜漬けとよく似ている。
この箇所の記述を他の翻訳と比較して表記を確認しようと思ったのですが、「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている翻訳(「ツンベルグ日本紀行」山田珠樹 訳註 1941年 奥川書房)の上関滞在中の箇所にはこの記述がなく、適切な比較の出来そうなものを見つけることが出来ませんでした。底本の相違によるものか、あるいは訳者や編者が適宜省略を加えた結果なのかは不明です。原著はスウェーデン語で、仏訳本は見つかったものの英訳本を見つけることが出来なかったので、こちらは他言語の訳本を確認するのは断念しました。
この中でも梅干と共に粕漬けが紹介されており、どちらも一般的に漬けられていることが窺えます。「他の地域に輸送する」とあるものの、これらの漬物が当時どの程度遠方まで運ばれていたか、関連しそうな資料を見つけられませんでした。既に大坂周辺からも江戸に向けて梅干が送られていた時代ですので、かなりの長距離を移動した可能性もありますが、梅の産地が全国に拡大する中でそれぞれの産地がどの程度の販路の拡がりを持ち得たか、機会があれば追ってみたいところです。
最後の「ステーキまたは〜」は当時この様な肉食の風習がなかった筈の日本の記述としては変ですが、これも通詞が膳の添え物として説明したものをトゥーンベリなりに表現した故でしょうか。「味は胡瓜漬けとよく似ている」と書いているということは当然これらの漬物を口にしてみた筈ですが、彼が果たして梅干も味わってみたかどうかは気になるところです。
後にトゥーンベリはこの日本滞在中に収集した標本を元にして「日本植物誌(Flora Iaponica)」を著していますが、これをシーボルトが来日した際に日本に持ち込み、ここに記されている学名に対応する和名を書き並べたものが「泰西本草名疏草稿」(伊藤舜民(圭介)訳 文政11〜12年)として残されています。この中では「Amygdalus persica モモ 桃」に続いて「Amygdalus nana」に一旦「ムメ 梅」と記された後、上から縦線で消されています。実際、この学名で知られる植物は現在は「Prunus tenella」と命名されており、梅とは違うものです。訳者も後からその点に気付いて訂正したものの様ですが、この本の何処かには「梅」の項目がある筈だと考えた故の取り違えでしょうか。サクラ属Prunusが並ぶページ中にも梅と思しき項目がなく、やはりトゥーンベリのこの本では梅は採り上げられなかった様です。
上記の様に、少なくとも上関で梅の実の漬物を介してウメに関しての知見を得ており、1年以上日本に滞在していれば恐らく梅の花を目にする機会もあったであろうトゥーンベリが、何故「日本植物誌」にウメを含めなかったのかは良くわかりません。GoogleBooksがデジタイズした「Flora Iaponica」を検索してみると、「PLANTAE OBSCURAE」と題されている章の中に「104. Prunus floribus plenis, umbellis pedunclatis」とあり、その「Iaponice」の項目に「Niwa Ume(庭梅?)」とあるのがどうも関係ありそうですが、如何せん相手がラテン語なので私にはこれ以上の判断が出来ません。Google翻訳に「Plantae obscurae」を入れてみると「無名の植物」と出て来ますので、あるいはトゥーンベリが梅について充分記述できず保留したのでしょうか。
3. シーボルトの標本図と「梅干」処方箋
シーボルトについては「梅干について:「新編相模国風土記稿」から(その1)」でも掲げた「日本植物誌」中の梅の標本図から話を始めるべきでしょう。梅の学名の「Prunus mume」もこのシーボルトとズッカニーニの命名によるもので、現在までこの学名が維持されています。そのラテン語の表記の中に「むめ」という日本語の古い表記を含むことが、彼らの採取した標本が日本に由来することを示しています。
標本図には白梅と紅梅の2種類の花をつけた枝が示され(紅梅の方は八重に描かれている)、それらとは別に葉と実をつけた枝が描かれています。そして、その実の断面、中の種とその断面までが図示されています。Wikimedia Commonsに掲載されている画像は画質改善処理が施されていて、後背に未彩色の枝がもう1本描かれているのが良く見えませんが、京都大学理学部植物学教室所蔵 『Flora Japonica』の画像では、紅梅の枝の背景に葉を付けた枝が線画でもう1本描かれているのが確認出来ます。
私は未見ですが、これらの絵図は長崎・出島で雇った数名の絵師たちの手による絵が元になっている様です。それを「日本植物誌」の刊行にあたってドイツ人の画家が標本図へとまとめ上げている訳です。同じ木に白梅と紅梅が同時に咲くことは稀ですし、梅の葉が出るのは花が終わってからですから、この標本図に描かれているのは時期の異なる複数の梅の木のものであることになります。梅に関してはかなり豊富に観察を繰り返し、絵師に複数枚の絵を描かせたことが窺えます。それぞれの枝が別々に描かれているのは梅のこうした生態からは正しいと言えますが、紅梅の背景がそれほど広く空いている訳ではないのに、敢えて葉の付いた枝が線画で描かれているところを見ると、ドイツ人の絵師にはそういう梅の生態についてまでは知らされなかったのかも知れません。
シーボルトらが学名を確定したという点は、トゥーンベリが「日本植物誌」にウメを含めなかった点とは辻褄が合います。前回紹介した伊藤舜民の訳本にはシーボルトの書き込みもあり、シーボルトが日本に持って来たこの本を伊藤が翻訳するのを、シーボルトも直接手伝っていたことがわかります。日本で既に一般的に植えられる様になっていたこの木の記述が「日本植物誌」に欠けていることにシーボルトが気付いたために、その標本を隈なく集め、その学名の制定に力を注いだということは充分に考えられます。
ただ、そうなると気になるのがケンペルの記述です。前回「跡見群芳譜」の「ウメ」の項ではケンペルがウメをヨーロッパに紹介したとされていることを余談に記しましたが、そうだとするとトゥーンベリはそのケンペルの知見を引き継げていなかったことになります。少なくともトゥーンベリはヨーロッパの「Plum」と日本の「梅」が違うものであることに上関で初めて気付いたことになるのですが、ケンペルが果たして梅についてどの様にヨーロッパに紹介していたのか、またそれがどの程度共有されていたのかが気になるところです。
また、まだ充分にヨーロッパ側の知見が固まらない中で、通詞が「梅」の訳語をどうやって選び取ったのかも気になります。トゥーンベリの記述からは割と早い時期から「Plum」という訳語を通詞が使っていた可能性が浮かび上がりますが、トゥーンベリは現物を見てそれがヨーロッパで「Plum」として知られている植物のものとは違うことに気付いている訳です。一方のケンペルは、江戸の奉行所で盃に注がれた梅酒は目にしていても、必ずしも梅の実の実物を見ているとは限りません(仮に盃の中に梅の実を入れてあったとしても、漬けられた後の実からは樹上にある時の様子までは分かり難いと思います)。ですから、もし通詞がこの時も「Plum」という訳語を使っていたとしたら、ケンペルはじめ当時のオランダ商館一行にはそれがヨーロッパの「Plum」とは違うものであることがわかっていなかったのかも知れません。彼らが味わった「梅酒」について通詞から説明を受けた時には、それが「(ヨーロッパの)Plumで出来たお酒」と受け取られていたのかも知れず、「梅酒」の意訳はそういう知見の差を上手く伝えていない点には注意すべきなのかも知れません。
最近になってケンペルの草稿が全集にまとめられ、その内容が当初刊行されたものと色々と異なっているということもある様ですので、その点も含めてケンペルが梅についてどの様な知見を持っていたのか、もう少し掘り下げてみる必要があるのかも知れません。
※もっとも、東洋文庫版がこの箇所を「梅酒」と訳してくれていなかったら、私もこの記述を見落としていたと思います。わかりやすさ、伝わりやすさを考慮するのであればこうした意訳は必要なものとも言え、この辺のバランスはなかなか難しい問題なのだと思います。
トゥーンベリもそうでしたが、シーボルトも日本滞在中に植物標本を多数集め、絵師による絵図などと共にヨーロッパに持ち帰りました。江戸への参府の途上でも街道沿いの植物を観察する眼差しを強く持っていたのは当然のことでしょう。トゥーンベリの「江戸参府随行記」でも道中で見かけた植物の記述はありましたが、シーボルトの「江戸参府紀行」に比べると比較的文量が少なく、大まかな紹介に留められていました。それに比べると、シーボルトの記述はかなり微細にわたっています。
シーボルトがオランダ商館の一員として江戸へ向けて長崎を出発したのは新暦で2月15日(旧暦1月9日)、丁度梅の咲く頃ですから、道中でもしばしば梅の花を見る機会があった様です。例えば、途上の下関で数日滞在している際の記述でも、梅の咲く早春の様子が描写されています。
(注:文政9年・1826年2月25日〔旧1月19日〕)日本人は広々とした自然にひたって楽しむことを心から愛していて、冬の衣をまとっていても自然は彼らの活発な空想力に活気を与えるだけの充分な魅力をもっている。また同時に彼らは、小旅行の最中でも自然の喜びを宗教的な信心や歴史的回想によって深めるどんな機会をも利用せずにはおかない。仕事が終わったので、われわれは小川の傍にある心地よい漁師の小屋の前に腰をおろした。早春のことで、そこかしこにもう人々好むウメの花が咲き、ヤマツパキもすでにかたい蕾つぼみをほころばせていた。われわれの向いの流れの速い海峡の対岸には神社のある前山がそびえ、右手の突き出た岩山には赤間関の城趾と亀山八幡宮の社殿、そのすぐ傍に阿弥陀寺が見えた。こんな荘厳な自然の眺めのまっただ中でこのような記念物に取り囲まれて、情味ある日本人は友人と酒を汲み交わし、自然や祖国や友達に対する心情を語らないではいられないのである。
また、室(現・兵庫県御津町室津)を出発した辺りでの記述でも、道沿いの様々な植物を自らの足で歩きながら観察しており、その中にも梅の花が咲いていたことが記されています。
(注:同年3月9日〔旧2月1日〕)人足や駄獣にとって同じように骨の折れるけわしい岩の道が谷に下ってゆく。私の駕籠かきはとにかく重荷を負わなかった。それは何かを調べたり見つけたりしたところでは、私は徒歩で進んだからで、駕籠の中にはいくつかの機具と本を残しておいたに過ぎなかったからである。山の斜面の植物はきわめて少なかった。数本のモミ・ネズ、さらにヒサカキ・ツツジ・モチノキ・背の低いタケの茂み、バラが大きな岩石や雲母片岩におおわれたやせた草地から顔を出している。湿った岩の壁には空色のキランソウの花が、そして道に沿って日本種のホトケノザやタンポポの花が咲き、またそこここにはウメの花が開いていた。われわれはこれらの春の植物の走りがすでに以前日本の南部で花を咲かせているのを見て来た。
上記の下関の風景の描写からは2週間近く過ぎていることになりますが、その間に季節が進んだことを示す様に、花を咲かせている植物が多彩になってきています。梅の記述が登場するのは大坂に到着するまでの区間で、その後は見られなくなります。これも勿論道中の季節の移り変わりと関係があるでしょう。
その一方で、私が探した限りでは、「江戸参府紀行」中には梅干やその他梅の加工食品に関して直接記した箇所を見つけることは出来ませんでした。強いて言えば、江戸滞在中の5月2日(旧暦3月26日)の町奉行訪問時の記述に
気分転換に二、三品の暖い皿がでて、茶の代りに酒とリキュールでもてなされた。
とあるのは、ケンペルの記述も合わせて考えると、梅酒のことをリキュールと表現している可能性を考えても良いかも知れません。もっとも、「本朝食鑑」には梅酒以外にも蜜柑酒などの記述もありますので、「リキュール」と呼ばれそうな混成酒が当時の日本に1つしかなかったとも言い難い点は念頭に置く必要はあります。
※シーボルト一行が4月11日(旧暦2月5日)に江戸に到着した直後、一行を迎えた江戸在勤長崎奉行の使者をもてなす際にもリキュールを振る舞ったことが記されていますが(同書189ページ)、こちらは字義通りにオランダ商館から持って来た舶来のリキュールだったのでしょう。
一方、シーボルトが日本滞在中に書いた処方箋が全部で16枚残っていますが、そのうちの1枚に梅干を処方したものが含まれています。
   • 梅干(ムメボシ) 1オンス半(46.7g)
   • センナ末 1ドラム半(5.83g)
   • 酒石クリーム 1ドラム(3.89g)
   • 蜂蜜 半オンス(15.6g)
日本では未知の処方を知っているかも知れない舶来の医師が近傍にいるとなれば、その噂を聞き付けてシーボルトの元を訪れようとする患者や医師が少なくなかった様です。「江戸参府紀行」の上記の下関滞在中の引用の少し前にも、同じ日の早朝に診察を行ったことが記されています。
二月二五日〔旧一月一九日〕早朝、私の門人とこの地方出身のほかの医師たちが患者を連れてきて助言と助力を求めた。いつものように慢性病・治療せずに放っておいたものや不治の病気であって、詳しい診察には多くの時間と忍耐を必要とした。私は門人たちのためにできるだけのことをしたが、門人らが私にみてもらう希望を持たせて慰め、ときには遠い土地からここへ連れて来た患者が、もし力になってもらえずに再び引き上げて行ったとしたら、門人たちはそのために評判をおとしたことだろう。そこで私はときどきは意志に反してホラを吹かざるをえなかった。
「江戸参府紀行」にはこの他にも、道中や長崎滞在中に診察を行った旨の記述が幾つか含まれており、その中には長崎滞在中に診察した「薩摩の老公(島津重豪しげひで)」と江戸で再会する、といった話もあります(「江戸参府紀行」193〜194ページ)。現在まで伝えられているシーボルトの処方箋はこの様な形でシーボルトを頼ってきた患者のために切られたものであることは確かでしょう。
勿論シーボルトは自ら日本語を書くことは出来なかった筈ですから、処方の部分は第三者に何らかの方法で指示して書き取らせた上で、自身の指示であることを証明するために自署を添えたのでしょう。上記ページにある様に、シーボルトも日本にあらゆる薬を持ち込んでいた訳ではありませんから、患者に処方できる薬に制約がある中では、現地の療法なども参考にして入手できるものの中で処方箋を書くことになったものと思います。そういう中に、梅干について民間に伝わる効能を参考にしたと思われる処方が含まれているのはなかなか興味深いことです。お腹を壊した時にお粥に梅干を添えたりするのは割と良く聞かれる民間療法の1つでしょう。
以前ケンペルの「江戸参府旅行日記」中の「箱根草」に関する記述を紹介しましたが、後に日本ではケンペルがこの草の薬効を知らしめたとする様になるのに対して、ケンペル自身は地元で薬効が知られているものとしていました。ケンペルが何処でその知識を得たのかはわかりませんが、東アジアにしか分布しない植物の薬効を、来日して日の浅いヨーロッパ人が知っていて日本には知る人がいなかったとするのも不自然ですから、ケンペル自身が何処かで日本の民間に伝わる用法を入手して処方したと解する方が実情に合っていそうです。
シーボルトやケンペルに限らず、恐らくはオランダ商館に赴任した歴代の医師も、同様に日本の患者を診て欲しいという要望を受けることが多かったのでしょう。そこで、オランダ商館の歴代の医師も日本で利用可能な処方について常々学ばざるを得ない状況に置かれていたということなのかも知れません。 
 
紫陽花

 

紫陽花の時期になってきました。もうぼちぼち花盛りですね。先日京都に行った際も祇園でそれはもう綺麗な額紫陽花が咲いているのを見ました。藍に近いような淡い青。和む。
紫陽花といって思い出すのは私の場合はシーボルトです。シーボルトは江戸後期に来日したお医者。医者とだけ言い切るにはやや抵抗がありますな。医者にして博物学者という方が相応しいのかもしれません。
江戸時代、日本が鎖国して以降長崎の出島が西洋世界に対する唯一の窓口になったことはよく知られています。そこに駐在するのは、カピタンと呼ばれる商館長を初めとするオランダ人の面々であり、その中にシーボルトは混じっていました。彼が日本にやってきたのは文政6年、1823年。明治維新が1868年ですので、45年程前の話です。やってきた際、一番初めに現地役人である通詞(通訳の事です)と挨拶を交わすのですが、その時に彼は非常に怪しまれたそうです。何故かと言うに、シーボルトのオランダ語の発音がおかしかったから。
実はシーボルトはオランダ人ではありませんでした。ドイツ人なのです。名家の出身。若い頃に様々な学問を修め、そうする内に日本という国の存在と、国名以外殆ど何も知られていないという事を知って「どんな国なのだろう」と興味を持った。それが日本に来た第一の理由だったようです。
大学を卒業するとオランダ領東インドに渡りそこで陸軍少佐の地位を得ました。オランダ領東インドと言うのがいかにも狙って行ったという感じがしますね〜 なぜかというに、出島に来ているのはオランダ東インド会社の社員達なのです。そこに潜り混んでしまえば、日本に行くのだって夢ではない。シーボルトは東インドへ向うべくして向ったといえるのかもしれません。
一方オランダ東インド会社にとっても、シーボルトはめっけもんだったようです。貿易会社であるのに、社員は出島を一歩も出られない。日本の経済の実態どころか、どんな国かも分からない。マーケティングしようにも、リサーチも何もあったもんじゃない。これでは貿易を改善しようにも打つ手立ても分からず、どうしようかと悩んでいた時に飛び込んできたのが、日本の事を知りたくてしょうがないシーボルトでした。
しかも幸いな事にシーボルトは優秀な医師でもありました。医師であった。これが採用された最大のポイント。国策で幕府が西洋文化を忌避していたとはいえ、この頃になると西洋医学は一目二目置かれる存在になっていたからです。彼の存在は、うってつけと言えば打ってつけだった。
現に長崎には蘭学を学びたいと全国から向学の士が集まってきており、そういった人間の対応に奉行所としても困っていたこともあり。そしてシーボルトの来日を受けて、オランダ商館から
・ シーボルトの医術を有意の蘭方医に伝授したい
・ 困っている病人を助けたい
という申し入れがあり。それも無料で。
日本側とオランダ側、両者の利害が一致したと言う所でしょうか。シーボルトは長崎奉行の許しを得て、出島から程近い鳴滝に診療所兼学塾を設けることになります。それが鳴滝塾。
さて。冒頭に「オランダ語の発音がおかしかったから」シーボルトは怪しまれた、と書きましたが、発音が変と言い出したのは勿論日本側のお役人です。
先ほども書いた、通詞(通訳)なのですが… 実は彼ら、通訳とはいうもののオランダ語の読み書きが殆ど出来なかった。代々世襲なのですが、親がオランダ人と話すのを傍で聞いて、耳でオランダ語を覚えていたといいます。故に耳から入るオランダ語には非常に敏感だったそうです。シーボルトが来る以前、ベルギー人か誰かがオランダ人にまぎれてやって来たことがあったそうですが、即座に見破られ、そのまま強制送還になったそうな。
…ですからシーボルトも発音を怪しまれた時点で、そのまま強制送還の可能性があったわけですが…
焦った彼はこう言い放ちました。
「私はオランダの高地人です。訛っているのはその為です」
お役人達は、怪しみながらもそれで納得したのですが、傍にいたオランダ人達はそらーもー気が気じゃなかったなかったのではないかと。なぜならば
オランダには高地も山岳もありません。
オランダ語でオランダをネーデルランドといいます。この意味、「低地にある国」…国土の4分の1が海面より低く、居住地の多くが干拓地になっている。それを言うに事欠いて高地人 シーボルト、一応地理学者でもあるんですがね。どうしたんでしょうね一体。
先程遠くはるばる日本に来ても、オランダ人は一歩も出島の外には出られなかったと書きました。原則として一歩もというのが正確でしょうか。「カピタンの江戸参府」といって、年に1度江戸に上る機会がありました。これは時期により年に1度〜4年に1度と温度差があるのですが。兎に角、カピタンと他数名が江戸まで将軍に謁見に行く。オランダ人にとっては出島から江戸へのこの大旅行… 日本の風俗や風景を知るのに、これ以上の好機はなかったことでしょう。それ位厳しい規制があった。それは出島に出入りする日本人にとっても同じでした。原則、一般市民は立ち入り禁止。オランダ人との接触も禁止。
なのですが… そのような環境の中で、オランダ人たちといち早く接触できる女性達がいました。まァ言うも野暮な感じでありますが、遊女です。シーボルトも来日後初めて接触した日本人女性は、恐らく長崎の遊女達だっただろうと。その中に彼の愛を一身に受けた遊女・其扇がいました。 其扇、そのおおぎ、または、そのぎ、と読みます。これは源氏名で、本名はお滝。シーボルトと出逢った時彼女は17歳でした。黎明の幕末史や、産科、女医の歴史に興味がある方はシーボルト・おイネ(オランダおイネ、楠本イネ)という名前を聞いたことがあるのではないのでしょうか。おイネちゃんはシーボルトとこのお滝さんの一人娘であります。日本で初めての女医といわれています。
シーボルトはこのお滝さんを非常に熱愛しました。5年に亘る滞在の後、止むに止まれぬ事情からシーボルトは国外退去となるのですが、その時に鳴滝に開いた塾の土地も家屋も、財産全てをお滝さん名義に書き換えて、残される彼女の負担を少しでも軽くしようとしてから日本を去った。その一事でもなるほどな〜…と頷けるのですが… 一番「本当に好きだったのだな」と思うのは、ものの名前にお滝さんの名を冠しているところです。物凄く有名な話だと思うのですが…
ハイドランジア・オタクサという花をご存知でしょうか。というか、聞くも愚かなり〜 これは学名で、普通は紫陽花といわれる花のこと。
シーボルトは成程医者でありましたが、先日も紹介しましたように博物学者でもありました。修めた学問は物理学、地理学、植物学、生理学、解剖学…相当数に登ります。日本に滞在する傍ら、日本に関する物を相当数収集し、研究し、鳴滝塾の塾生に論文を書かせたり…植物の標本なんかも作っていたようです。その中のひとつに紫陽花が混じっている。
オタクサ と言うのは元々 オタクサン 。コレ、多分訛ってます。オタキサン、というのが紫陽花の学名になっているのです。
素敵じゃないですか。愛する人の名前を花の名前に、だなんて。
でも思うんですよ。シーボルトは、日本にいるときもっと他にも植物を見ただろうと。紫陽花よりも色鮮やかで、はかなくて、可憐で… そんな花、もっと沢山あったんじゃないのかと。なんで紫陽花だったのかな。
お滝さんが紫陽花を特別に好きだったのか
シーボルトが雨に負けずに咲く紫陽花をお滝さんに重ねたのか
何かしら強い理由というか、思い入れがあったのかな。な〜んて。本当の所はさっぱり私には分かりませんが、この時期になって紫陽花を見ると 「あーオタクサ咲いてるわ」 と思うのです。そしてシーボルトを思い出す。 
 

 

 
『フリゲート艦パルラダ号』 ゴンチャロフ

 

 
ゴンチャロフ
イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフ(1812-1891) ロシアの作家。代表作は小説『オブローモフ』。
1812年にシンビルスク(現在のウリヤノフスク)に生まれる。父親は裕福な穀物商であった。1834年にモスクワ大学を卒業した後、30年間、政府の役人として働いた。
1834年、貴族層と商人層との対立を描いた最初の小説『平凡な話(ロシア語版、英語版)』が出版される。1848年、自然主義的な心理描写『イワン・サヴィチ・ポジャブリン』を発表。1852年から1855年まで、イギリス・アフリカ・日本に旅し(1853年に長崎に来航)、プチャーチン提督の秘書官としてシベリアを経由して帰国。1858年にその紀行文『フリゲート艦パルラダ号』を刊行。
1859年、ペテルブルクに暮らす無為徒食の独身貴族、余計者のオブローモフの生涯を描いた小説『オブローモフ』を発表。フョードル・ドストエフスキーに高く評価されるなど、大きな反響を呼び、代表作となった。
1869年、謎の女に恋した3人の男を描いた最後の小説『断崖』を発表。
晩年、多くの短編・批評・随筆などを書いたが、それらの多くは死後1919年に刊行された。
1891年にペテルブルクで肺炎を患い、死去。生涯独身であった。

[生]1812.6.18. シンビルスク - [没]1891.9.27. ペテルブルグ
ロシアの小説家。商人の子として生れ、モスクワ大学卒業後、大蔵省貿易局などを振出しに、30年余にわたる官吏生活をおくった。勤務のかたわら創作の筆をとり、1847年に長編『平凡物語』 Obyknovennaya istoriyaを発表して注目され、さらに 10年の歳月をかけて完成した『オブローモフ』によってロシア文学史上その名を不朽のものとした。主人公オブローモフは典型的な「余計者」的存在で、以後この名は無為徒食漢の代名詞となった。ほかに『フリゲート艦パラーダ号』 Fregat Pallada (1858) 、長編『断崖』 Obryv (69) などがある。

1812−1891 ロシアの作家。
1812年6月18日生まれ。遣日使節プチャーチンの秘書官として、嘉永(かえい)6年(1853)長崎に来航。幕府全権川路聖謨(としあきら)らとの交渉を記録した「フレガート・パルラダ」(「日本渡航記」)で知られる。1891年9月27日死去。79歳。シンビルスク(現ウリヤノフスク)出身。モスクワ大卒。

没年:露暦1891.9.15(1891.9.27) - 生年:露暦1812.6.6(1812.6.18)
幕末のロシアの小説家。シンビルスク市に商人の子として生まれる。1834年モスクワ大学文学部卒業、大蔵省外国貿易局に勤める。文芸サークルに参加して文学活動をはじめ、47年、最初の作品『平凡な物語』を発表した。52年10月、ロシアの第3回遣日使節プチャーチンの特別秘書官として旗艦パルラダ号に乗船し、翌年7月18日(8月22日)長崎に来航。和親条約、国境画定、貿易などについての日露会談の模様を作品『日本におけるロシア人』(1855)、のち改訂版『フレガート=パルラダ』(1857)に結実した。54年5月、一行は沿海州インペラートル湾に入港、ゴンチャロフはこのとき陸路シベリア経由で帰国した。

1812‐91 / ロシアの小説家。ボルガ河畔のシンビルスク(現、ウリヤノフスク)市の富裕な穀物商の次男に生まれる。モスクワ商業学校退学後、1831年モスクワ大学文学部に入学。このころプーシキンに多大の感銘を受ける。卒業後故郷の県知事秘書となった後、35年に上京して大蔵省外国貿易局に翻訳官として就職。画家のN.マイコフ家と知己になり、子どもの家庭教師を務めるかたわら、その文学サロンに出入りして回覧雑誌に習作を発表した。

(1812―1891) / ロシアの作家。ボルガ河畔のシンビルスク市の富裕な穀物商の次男に生まれる。7歳のとき父が他界し、以後元海軍軍人トレグーボフの薫陶を受けて、生家から商人階級の実践性を賦与される一方、この進歩的教養人から貴族階級の理想主義をも継承した。ボルガ対岸の私塾、モスクワ商業学校で学んだあと、1831年モスクワ大学文学部に入学。このころプーシキンに多大の感銘を受けた。34年に卒業して半年間故郷の県知事秘書を務めたあと、翌春ペテルブルグへ赴いて、大蔵省外国貿易局に翻訳官として就職。まもなく画家のマイコフ一家と知己を結び、同家の子供アポロンとバレリアンの家庭教師を務めるかたわら、その文学サロンに出入りして、回覧雑誌に詩や短編を発表した。47年に『平凡物語』で文壇にデビュー。空想家の甥(おい)と実際家の叔父を対置し、前者が後者のような人間へと変貌(へんぼう)してゆく過程を描いたこの長編小説を、ベリンスキーは「ロマン主義打倒の作」と称揚した。1852〜55年に遣日使節プチャーチン提督の秘書官として世界周航に加わり、53年(嘉永6)に長崎に来航した。この体験は旅行記『フリゲート艦パルラダ号』(1858)にまとめられ、その日本関係の箇所は明治以来繰り返し邦訳されて、日露関係史研究の貴重な史料となってきた。56年に検閲官に就任し、62年に内務省の機関紙『北方の郵便』の編集長、65年には出版事務総局局員(高級検閲官)となり、67年に四等官の位で退官した。これより前の59年に『オブローモフ』を発表。農奴制批判の意義を指摘されて、作者の名を一躍高からしめる代表作となった。第三の長編『断崖(だんがい)』(1869)は、ニヒリストを戯画化し、また長期にわたる執筆のため構成の不統一をきたして不評を買った。のちに作者は三部作の内的関連を強調し、農奴解放前のロシアの生活の「夢」と「覚醒(かくせい)」の情景を表現したものと述懐している。晩年は評論や回想記にのみ手を染め、なかでもグリボエードフの喜劇『知恵の悲しみ』を論じた『百万の呵責(かしゃく)』(1872)がもっとも優れている。91年に肺炎を発してペテルブルグで他界。わが国では明治期に二葉亭四迷と嵯峨の屋(さがのや)お室(むろ)、大正から昭和初期にかけて山内封介(やまのうちほうすけ)、そののち井上満(みつる)によって紹介された。二葉亭の小説『浮雲』には、文体、思想の両面で『断崖』の影響がうかがわれる。

…19世紀前半には、日本との通商関係を求めた航海者I.F.クルーゼンシテルンの《ナジェジダ号とネバ号による世界周航の旅》(1809‐12)、V.M.ゴロブニンの《日本幽囚記》(1816)などロシア側から見た日本研究書が現れた。さらに、日露和親条約(1855)の交渉のために日本を訪れた提督E.V.プチャーチンの秘書官を務めた作家I.A.ゴンチャロフの航海記《フリゲート艦パルラダ号》(1858)も重要文献としてヨーロッパ諸語に翻訳された。 日本との国交樹立後のロシアの日本研究は、ペテルブルグ大学とウラジオストクの東方研究所(1899創設)が中心となった。… 
 
ゴンチャローフと二人の日本人

 

はじめに
周知のように、ゴンチャローフは日本と関わりの深いロシア作家である。彼は、1853(嘉永6)年に日本の鎖国を開放する使命を帯びたロシアの 第三回遣日使節E.V.プチャーチン提督の秘書官として長崎に来航したし、また小説『断崖』は、日本近代文学の嚆矢とされる二葉亭四迷の小説『浮雲』に多 大の影響を及ぼした。だがペテルブルグでの作家と日本人たちの交渉についてはあまり知られていない。本稿ではゴンチャローフと確実に交渉のあった二人の日 本人を取り上げる。
1. 市川文吉のロシア行
市川文吉は1847年8月3日、 蕃書調所 教授職市川兼恭(1818 -1899)の長子として江戸に生まれた。文吉は1860(万延元)年、13歳の時に蕃書調所でフランス語学習の命を受けてこれを学び始め、1864(元 治元)年には開成所の教授手伝並当分助に任ぜられた。
1865(慶応元)年、幕府が本邦初のプロのロシア語通詞志賀親朋と箱館駐在の露国領事I.A.ゴシケーヴィチの勧請を容れて、初めてロシアへ留学生を派 遣することになった。留学期間は5年の予定で、ゴシケーヴィチは日本政府からの借金を、留学生のロシア滞在経費と相殺しようとしたのである。市川文吉は、 従来ロシアとロシア語に深い関心を持っていた父兼恭の推薦によって留学生に選ばれた。兼恭は当時開成所で次席の地位を占める教授で、幕末ドイツ学の第一人 者だった。当時の開成所の学科目は次のとおりである。
和蘭学、英吉利学、仏蘭西学、独乙学、魯西亜学、天文学、地理学、窮理学[物理学−沢田]、数学、物産学、精煉 学、器械学、画学、活字 しかしながら「魯西亜学」の教員はまだいなかった。兼恭は息子をその教員にしようとしたのだろう。文吉はこの時18歳、開成所仏学稽古人世話心得 の身分だった。 
他に選ばれたのは幕臣の子弟で開成所の生徒4名、緒方城次郎(英学稽古人世話心得、21歳)、大築彦五郎(独乙学稽古人世話心得、15歳)、田中次郎 (14歳)、小沢清次郎(蘭学稽古人世話心得、12歳)と、箱館奉行支配調役並の山内作左衛門(29歳)である。志賀の留学は出発直前に取り消しとなった。家格の高い市川が一行の組頭 になったが、留学生取締役には年長の山内が任命された。この不自然な人事が、後にロシアでの市川と山内の対立を引き起こすこととなる。
市川の壮行会が下谷の「松本屋」で催され、そこには開成所の教授職31名が出席し、芸者100名が侍ったという。父の兼恭は開成所の同僚や部下 に、息子 に対する壮行文を依頼した。これが『幕末洋学者欧文集』 である。執筆者は計35人。内訳は蘭文18人、独文5人、仏文4人、英文8人である。送別文の大半の主旨は、父祖の国日本の洪恩を忘れず、学業に精を出 し、健康に留意せよ、といったものである。兼恭は「越後屋」呉服店(後の「三越」百貨店)で文吉に燕尾服風の洋服をあつらえてやり、洋学者柳河春三宅で家 族全員の記念写真を撮った。さて留学生一行は箱館に集合し、1865年9月16日(陰暦7月27日)にロシアの軍艦「ポカテール」 号で箱館を出帆した。長崎、香港、シンガポール、バタビア(現ジャカルタ)、ケープタウン、セント・ヘレナ、イギリスのプリマス経由で、フランスのシェル ブールに上陸した。この間彼らは慣れない洋食、艦の揺れと船酔い、焼け付くような暑さと寒気、便秘に苦しめられた。プリマスで初めて劇場やホテルといった 西洋文明の粋にふれた。シェルブールからは汽車でパリ、ベルリンを経由し、翌1866年4月1日(陰暦慶応2年2月16日)にペテルブルグに到着した。都 合214日の旅だった。
2. 遣露留学生の顛末
到着2日後に留学生たちはロシア外務省アジア局に出頭し、そこで橘耕斎という日本人に引き合わされた。周知のように、1854年にプチャーチン提 督が 下田に来航した時、ディアーナ号は津波で損傷を受けて沈没してしまったので、戸田村でロシア人は日本人の協力のもとにスクーナー船「戸田」号を建造して、 プチャーチンはこれに乗って帰国した。この折り橘は、ゴシケーヴィチらとともにプロシアの商船グレタ号で日本を密出国した。後にゴシケーヴィチは橘の協力 のもとに『和魯通言比考』(1857年)を編纂した。橘はロシア名を「ウラヂーミル・ヨーシフォヴィチ・ヤマートフ」 と名乗り、ゴシケーヴィチの推挙でアジア局に九等官通訳として就職した。1870年にはペテルブルグ大学東洋語学部の初代日本語講師となった。彼は 1874年に日本に戻ったが、帰国に際して在露18年間の功業に報いるためスタニスラフ三等勲章と年金1000ルーブルをロシア皇帝より下賜された。橘が ゴンチャローフと知己を結んでいた可能性は高いが、それを裏づける資料は今のところ発見されていない。
さて留学生はゴシケーヴィチや橘、そしてペテルブルグ大学東洋語学部長で中国学者ワシーリエフ教授の尽力でロシア語を学んだ。彼らは露都到着4日 後から 借家で女中二人と下男一人を雇って共同生活を送っていた。山内の両親宛の手紙に、「吾等の家は川[ネヴァ川−沢 田]より西にして川東に帝宮あり」 とあるので、借家はワシーリエフスキイ島にあったのだろう。そこにゴシケーヴィチがやって来てロシア語を教えてくれた。ゴシケーヴィチは知人宛の手紙にこ う書いている。
「 毎朝9時から12時まで(すくなくても11時30分まで)きちんと授業しています。みんな熱心に勉強してお り、一人だ けの ぞいてみんな才能のある青年たちです。この冬までにはみんなロシア語がわかるように教えこみ、あとは新しい先生がたに引き継ぎたいと思っています。   だがゴシケーヴィチの来訪は非定期的で、教え方も非体系的だった。山内の手紙にこうある。  右之人[ゴシケーヴィチ−沢田]を師にいたし学ひ居候所、中々稽古にも相越不申、〈中略〉コシケウヰチもよろしく候へ共、なにこともとんちやく致さぬ人 故、学問筋もよく厳重にをしへ申所には至不申候、依てこまり入申候。」
ゴシケーヴィチの面倒見はあまりよくなかったようだ。また橘もロシア語の先生としては力不足だった。山内は橘の語学力について手紙にこう書いてい る。  
「 魯学は不学のよし出来不申候、しかし十年も居り候間言葉数を多く覚え居、とうやらこうやら通弁いたし居申候よし 」
露都到着1カ月後に、和服を着、腰に大小をたばねた姿で撮影した留学生たちの写真が残っている。取締り役の山内はその余白にロシア文で決 意のほどを認めた。
ウラヂヴォストークの極東大学日本語科教授スパルヴィンによる和訳を 次に示す。
「 普通の力にて足らざる場合には技術を以てす。今実行為し難き事は遠い将来にまで注意を中止せず。之が西洋の卓越 せる点 なり。異国人は之を学ぶべく努力せざるべからず。ロシアは我々の隣国にして、また親善国なり。その影響を受けざるべけんや。然るに日本は世界の開闢以来既に一万有余年を経たるにも拘わらず、その生徒を此処に派遣せるは今始めてなり。泰山の如き恩恵に対し木葉の如き軽き身を以て何を為しえんや。只己が無能を恥ぢて之を紙面に記すのみ。一千八百六十六年、日本の慶応帝の治世二年三月、ロシアの都ペテルブルクに於て日本人山内この書を謹みて認む。」
スパルヴィンによると、このロシア文は16箇所の文法的誤りが認められるものの、当時の諸事情を勘案すればよく書けているという。山内は日本出発 前に 箱館でロシア語を少し学んでいたし、ロシアで一番よく勉強したのも彼だった。従ってこの文章は、この時点での留学生たちのロシア語力を推し量るひとつの目 処となる。他の5人は恐らくこれ以上の力は身に付けておらず、ロシア文法の難解さに辟易していたものと思われる。山内は両親宛の手紙にこう書いている。  
「 ことに魯はからんまちかと申もの、外国よりはよほとむつかしく候<中略>当地に相越既に一年に候へ共、中 々十分に口も通し不申、学問進み方至て遅く… 」
薩摩藩士で後に明治政府の初代文部大臣になる森有礼が当時英国留学中だったが、彼は同じ薩摩藩士の松村淳蔵とともに1866年夏に 11 日間ペテルブル グを訪問し、幕府の留学生たちとも親しく交わった。森もその日記『航魯紀行』にこう記している。
「 魯国之国語ハ欧羅巴ニおひて学ふニ最も六ケ敷と聞けり、尤文典の動詞の変化や形様詞等至而混雑と、幕生緒方(此 人和 蘭と 英とを先達而学へり)といふ人の話也」
その後留学生は各自専修したい学科目を選定した。田中、市川は鉱山学、小沢は器械学、大築は医術、緒方は精密術を選び、山内は大学で 歴 史、窮理、地理、 文法、法度などを学ぶことにした。 1868年、即ち彼らがペテルブルグに来て3年目に、ロシアの雑誌『現代の記録』第3号に「ロシアの寄宿学校で学ぶ日本人たち」と題する次のような記事が 掲載された。
「 『ロシア報知』のペテルブルグ通信員が伝えるところによれば、ペテルブルグのツェロフスキイ男子寄宿学校で 5人の日 本人 が注目を集めている。彼らはきわめて高貴な家柄の出で、もう3年間この学校で学んでいる。彼らの最年長は22歳で、この人物は妻帯しているが、妻は日本に いる。彼らは全員賄い付きの下宿生活で、生活費と聴講料として各自1500ルーブルずつを支払っている。通信員の言葉によれば、3年間に日本人たちはめざ ましい進歩を遂げて、もうきわめて自由にロシア語で意思の疎通ができ、諸科学への高度の適応能力を発揮している。彼らはとりわけ博物学のすべての分野に関 わる科目を好んでいる。彼らはわがロシアの専門教育施設に入学するための準備中である。彼らのうちのある者は外科医学専門学校、ある者は鉱山大学、またあ る者は交通路技師専門学校、というように。」
この記事から、留学生たちが賄い付きの寄宿学校に入っていたこと、そこで各自目標をもって熱心に勉強し、ロシア語も上達していたことが分かる。人 数が 5人とあるのは山内がこの時点で既に帰国していたからであり、妻帯者とは緒方城次郎のことだろう。鉱山大学入学を目指していたのが市川である。
しかしながら、留学生の努力は実を結ばず、ロシアの大学、専門学校入学の夢はとどのつまり実現しなかった。その理由としては、第一に彼らの多くが ロシ アという国に失望したからである。山内は手紙のなかで、「都は江口三分の一たらすに可有之候、中々英仏両国之繁栄には及び不申すへて汚穢に有之候」、住民 は愚鈍怠惰、「よほと外欧羅巴人に比し候へはするく実田舎ものに候」と極言し、「風雪凝凍更に春色も無之土地に遷滴いたし、一同あきれはて居申候」と書い ている。また学生の風紀廃頽に関しては、「初る日頃よりみな学校之方に稽古に相越させて学校中入仕候はよろしく候へ共、学校中稽古人みなあしく候間よき事 は覚え申間敷、旁々学校之師之傍に栖居候方よろしからんとの事に御座候。いまて日合も有之決意不仕候。」 と述べている。森も『航魯紀行』で、ロシアがヨーロッパの後進国であることを指摘し、ロシア語の学習が困難にもかかわらずその効用が少ないため、「幕生衆 も魯渡の事を甚た悔めり」 と書いている。山内は既に帰国前に、「帰国の上はいつれ早々英学にても相始申度」 と両親に打ち明けているほどだ。
また一行の半数は年齢が若すぎたこと、前述のような留学生同士の不和を引き起こす人選の拙さ、講義を聴いて理解するほどロシア語の力がついていな かっ たことも理由に挙げられよう。森の『航魯紀行』に、「市川、緒方ハ以上[御目見以上−沢田]の格とそ、山之内氏ハ以下なれとも齢も長し、学文もあつて、諸 事両士より遥ニ勝さらん、餘は乳児也」 とある。山内によれば、小沢、田中の二人は「日本国」の字も読めなかったという。1867年3月に山内が病気を理由に帰国し、次い で徳川幕府の倒壊とともに1868(明治元)年5月に4名が帰国した。かくしてロシアへの留学生派遣はほとんど実を結ぶことはなかった。
3. 市川のペテルブルグ滞在
だが市川文吉だけは単身ペテルブルグに残留し、プチャーチンのもとに引き取られた。住所はキーロチナヤ通り(現サルティコーフ=シ チェドリーン通り)18番地である。 プチャーチンは1855年の日露通好条約締結の功績により伯爵に叙せられ、次いで1861年6月には文相に任ぜられた。だが厳しい文教政策をとったために 大規模な大学紛争を惹起し、半年後には辞任のやむなきに至った。当時は比較的閑暇な生活を送っていた時期である。
市川がプチャーチン宅に仮寓するにいたった理由は明らかではないが、プチャーチンは市川の父兼恭と面識があった。1853年のロシア使節長崎来航 の折 りに天文台蕃書和解御用 出役だった兼恭は、江戸でプチャーチンの書簡をオランダ語から翻訳した。この書簡はロシア使節が長崎で日本の応接掛に提出 したもので、交渉で約束した樺太境界検分のため出張する幕吏の取り扱いを、あらかじめ同地駐屯の露国守備隊長に指令したものである。これは高須松亭、高松 譲菴との共訳である。 また1858年にプチャーチンが日露通商条約締結のためアスコリド号で神奈川に来航した時には、兼恭は翻訳係として繰り返しその乗艦を訪問して提督と顔な じみになり、彼から染皮二枚を贈られたのである。このような関係が、プチャーチンをして日本の知人の長男を庇護させることになったのだろう。周知のように、川路聖謨は日本側全権員の一人として長崎でプ チャーチンと交渉し、『フリゲート艦パルラダ号』にも度々登場するが、その孫にあたる川路太郎が当時イギリスに留学中だった。彼はその『滞英日記』にこう 書いている。 
「 慶応三年正月二十日[新暦1867年2月24日−沢田]、曇甚冷。頃日露西亜よりの書状を一覧するに、日本より の留学 生之の内市川某と申者はプチヤーチンの家に遇宿して彼誠によく世話をなしたる由なり。他日我輩学校の休日に魯西亜に赴き、プチヤーチンの家を訪ひ、昔年老 大人[川路聖謨のこと−沢田]の彼れと熱熟親をなせることを告げんことを望む 」
この時イギリスには川路太郎らとともに市川文吉の弟盛三郎も留学していた。盛三郎は後に明治日本の物理学・化学の指導者となる。彼は留学中に一度 ロシ アの兄のもとを訪ねた。
さて市川文吉は露都でゴンチャローフ外3名からロシア語、歴史、数学を学んだ。市川を作家に引き合わせたのはプチャーチン、ある いはゴシケーヴィチあたりか。ちなみに父兼恭を通じて文吉にロシア語学習を勧めたのは、前開成所頭取の古賀謹一郎である。1853年のプチャーチン来航時 に、当代随一の儒学者古賀は日本側全権員の一人として長崎でロシア使節団と対面した。彼も『フリゲート艦パルラダ号』に登場する。
四番目は中年男で、まるでシャベルのように無表情な平々凡々とした顔の持主であった。こうした顔を見ていると、彼 が、 日常茶飯事以外にはあまり物を考えないことが、すぐさま読みとれる。
一方古賀もその日記中でゴンチャローフの印象を、「大腹夷名艮茶呂、謀主也、腹大以呼」 と書き留めている。このあたりに歴史の見えない糸が感じられる。市川とゴンチャローフの交遊は、ゴンチャローフが20年をかけて書き上げた長編小説『断 崖』が批評界で不評を買い、作家が絶望に陥って一時は文筆を捨てようとした時期に当たる。ロシア作家と日本人留学生ははたしてどのような会話を交わしたの だろうか。
市川はロシアの上流社会にも出入りした。彼は山内とは逆に親露感を抱いていた。それには彼のフランス語の知識も一役買ったことだろう。市川はその 後恐ら くプチャーチン宅を出て、ロシア人女性「シユヴヰロフ」 と同棲し、1870年に男子をもうけた。この子供アレクサンドル・ワシーリエヴィチ・シユヴヰロフ(シェヴィリョーフ)は後に外交官になり、アフガニスタ ンもしくはペルシャ方面の総領事をつとめた。 1869年8月に市川は、加藤弘之の尽力により明治新政府の外務省留学生の身分を獲得した。加藤は市川の父兼恭の蕃書調所時代以来の同僚で、兼恭の養女を めとっていた。後の東京帝国大学総長、帝国学士院院長である。1870年の年末に西徳二郎と小野寺魯一が留学生としてペテルブルグにやってきた。市川は橘 とともに二人の面倒を見てやった。
4. 市川の帰国と後半生
1873年3月末に明治政府の岩倉具視遣欧使節団がペテルブルグを訪れた。4月1日付で市川は使節団の随員に加えられ、使節のアレクサンドル二世 謁見 の折りの通訳をつとめた。 そしてこの年の9月13日に市川は使節団とともに8年2カ月ぶりに帰国した。約8年間ロシアに滞在したことになる。シユヴヰロ ワ(シェヴィリョーワ)母子との別れを、後に『東京日日新聞』は思い入れたっぷりにこう描写している。 
「 雪の降る夜ストーブの前で、愛する女と、愛する児のためにその金髪を撫でゝ再会の日を約して互に終夜を泣き明か した」
帰国の翌月、市川は文部省七等出仕となり、12月に4カ月前に開設されたばかりの東京外国語学校魯語科教員に任ぜられた。これで彼は所期の目的、 少なくとも周囲の人々のそれを達したことになる。この年に市川は遠縁の娘と結婚し、後に二女をもうけた。翌1874年2月に外務省二等書記官に任命され、 翌月海軍中将兼特命全権公使榎本武揚に随行してペテルブルグへ赴任した。露都の日本公使館はネヴァ河岸のビビコフの大邸宅 を借りたもので、在勤員は6人。このうち榎本以下5人がここに同居していた。市川の主な仕事は、会談の際の通訳や外交文書の翻 訳だった。とりわけ千島樺太交換条約の交渉に与っては、志賀親朋、西徳二郎とともに通訳として大いに力を発揮し、この条約は1875年5月7日(ロシア暦 4月25日)に調印された。この折り彼は条約の参考資料として、ポロンスキーの『千島列島』(1871年)を日本語に翻訳した。この間シユヴヰロワ (シェヴィリョーワ)母子とは何らかの交渉があったものと思われる。1878年7月から9月にかけて、帰国の際に市川は榎本らとともに4頭立てのタランタ ス(4輪有蓋の旅行用馬車)2台でペテルブルグからウラヂヴォストークまで1万500キロメートルのシベリア横断旅行を66日間で敢行した。
翌1879年1月に市川は外務省御用掛兼文部省御用掛となり、再び東京外国語学校魯語科で教鞭を執った。その生徒たちのなかに嵯峨の屋お室(本名矢崎鎮四 郎)や二葉亭四迷(長谷川辰之助)がいた。そしてこの、ゴンチャローフの「孫弟子」二葉亭が、わが国最初のゴンチャローフ文学の紹介者となったのである。 奇しき縁といえよう。二葉亭の愛読書のひとつは『断崖』だったから、彼は市川からゴンチャローフのことを聞いていたに ちがいない。但し前記鈴木要三郎の回想によると、市川は長期ロシア滞在のため日本語がよくできず、ロシア語の方も単語を知っているばかりで、学術的素養と いうものは持ち合わせていなかった。例えばゴンチャローフと交際しながら、『オブローモフ』を読んだことはなかったという。榎本も市川を高く買って はいなかった。妻への手紙で榎本が駐露公使の後任について述べたくだりにこうある。 
「 市川はロシア語は勿論仏語も下(ママ)通りは出来れども、結構人にて学問も見識もなく、其上日本文字がまるで出 来ず (余リ長クナルカラ此話ハヨシニ致シマショー) 」
但し市川のために一言弁明すると、当時の「学術的素養」、「学問」とは即ち漢学を意味した。一方彼の学歴を見る限り、父親が西洋指向型 だった影響もあ るのだろう、漢学はあまり勉強しなかったようだ。この点は差し引いて考えてやらねばなるまい。
1879年に父兼恭は文吉に財産を、翌年には家督を譲った。1885年に東京外国語学校が廃止になると、翌年 6月、黒田清隆のシベリア経由欧米巡遊に市川は非職外務省御用掛の身分で随行し、露都でのアレクサンドル三世との会見に通訳の役目 を果たした。1887年4月に帰国。この年に文部省編纂局が『露和字彙』を刊行した。活字になったわが国最初のロシア語辞典である。上・下巻合わせて 2878頁、語彙数は十数万語という巨大なものだが、これに市川は編者のひとりとして参加した。
その後市川は、黒田、榎本など顕官に知己が多かったにもかかわらず、官途への望みを一切絶って、熱海、鎌倉、小田原、次いで伊東で後半生の40年 ちか い歳月を隠遁のうちに送った。幕臣である市川は、明治新政府の高官たちに対して口に云えない憤りと蔑みの念を抱いていたのかもしれないし、また19世紀後 半のペテルブルグの社交界を垣間見てきた彼には、明治の日本など立身出世に価しない社会と映ったのかもしれない。市川の妹はこう述懐している。
「 文吉は父斎宮[兼恭の通称−沢田]に輪をかけたやうな無口で非社交的な変人で、家族のものともあまり打ち解けて 話をす るやうなこともなく、外国へ行く時でも当日まで何もいはないでゐて、トランク一つ持つて隣町へでも行くやうに無雑作に出かけた。」
ロシアに残してきた「妻」はまもなく亡くなったようだが、息子アレクサンドルには仕送りを続けた。アレクサンドルは1914(大正3)年頃と、市 川が亡 くなる一月前の二度来日して父に面会した。市川の喜びが筆舌に尽くしがたいものだったことは想像に難くない。また1887年にプチャーチンの長女で皇后付 女官オリガが病気療養のため来日した際は、市川は東京神田三崎町1丁目12番地の自分の屋敷内に二階家を建てて、そこに住まわせた。晩年は、帰国した橘耕斎 や東京外国語学校の元教師アンドレイ・コレンコとは親密に交際し、彼らの不遇な晩年の生活に対して種々の援助を惜しまなかった。またロシア革命後は銀座街 頭で亡命ロシア人に金品を恵み与えていたという。 市川文吉は1927(昭和2)年7月30日に死去した。享年81歳。墓碑は東京都内の雑司ヶ谷霊園にある。ロシア滞在時に購入したと思しき彼のロシア語蔵 書は、1924年に東京外国語学校に寄贈され、現在も東京外国語大学図書館に保管されている。
5. ゴンチャローフの未刊行書簡
ロシアの代表的なゴンチャローフ研究者のひとりである国立ウリヤーノフスク工科大学教授メーリニク氏は、1984年に論文「忘れ得ぬ『パルラダ』 号」 を発表した。その後半部分は、長崎でのゴンチャローフと川路聖謨の交わり、日出づる国への作家の尽きざる関心、そして彼と交流のあった可能性のある日本人 の記述に捧げられている。そこでメーリニク氏は1887年8月14日付のA.F.コーニ宛のゴンチャローフの未刊の手紙 を紹介し、「アンドウ」なる日本人が作家と交流があった事実をつきとめている。これは一つの発見である。
アナトーリイ・フョードロヴィチ・コーニ(1844−1927)は著名な法律家、社会活動家、法制審議会会員、アカデミー名誉会員(1900年よ り)で あり、文学者でもあって、19世紀のロシア作家について数多くの回想録を著した。1871年以来ゴンチャローフが亡くなるまで、彼のもっとも親しい知己の ひとりであって、作家はコーニを遺言執行者に指定しているほどだ。二人は32歳という年齢差にもかかわらず、ともに ロシア・リベラリズムの典型的な代表者であり、アレクサンドル二世の改革の心からの信奉者だった。コーニの5巻本の回想記『人生の途上にて』には、 晩年のゴンチャローフに関する詳しく、興味深い回想が含まれている。そこでは作家の創作の主観性、彼の極度に神経質な性格、人ぎらい、ツルゲーネフとの剽 窃問題に代表される猜疑心の強さが見事に浮き彫りにされている。コーニを文学活動の舞台に導き入れたのは、ほかならぬゴンチャローフだった。
「プーシキン館」のゴンチャローフ・グループの前秘書ロマーノワ女史が、この手紙の写しを送付してくださったので、以下にそれを訳出する。作家が 夏の休 暇をとっていたグンゲルブルグ(ウスチ=ナルワ)から書き送ったものである。 
「 日本人公使ならば、わが国に来た者は全員存じております。うち一人は、そのご夫人とも知り合いになりました。こ れはす べてポシェート家でのことです。公使館員の一人に、優美流暢に、洗練されたロシア語をしゃべるアンドウ=サン(わが国風に言えば、ゴスポヂン・アンドウ) という人がいますが、彼が向こう一年帰国する際、邦訳を出すため『フリゲート艦パルラダ号』を持ち帰っています。もちろん、私は日本人と近づきになりた く、喜んであなたの所へおうかがいいたします。」
若干補足説明を加えると、まずポシェートは、1853年にプチャーチン提督付副官兼オランダ語通訳官として長崎に来航した海軍少佐で、後に運輸大 臣や 参議院議員を歴任した人物である。 
グンゲルブルグ即ちウスチ=ナルワは、エストリャンド県ヴェゼンベルグ郡の、チュード湖から流れ出たナルワ川がフィンランド湾に流れ込むその左岸 に位 置する保養地である。砂丘の松林に建てた別荘が数多くあり、夏にはペテルブルグの住民が多数押し寄せた。今世紀初めのデータで、住人は約3000人だが、 夏期には1万人を超えたという。 現エストニア共和国領にある。
この時ゴンチャローフは75歳で、亡くなった使用人トレイグートの妻と子供たちと一緒に暮らしていた。ゴンチャローフが滞在していた別荘は、家財 道具 一式付きの条件で300ルーブルで借用したものである。彼は1887年6月5日にこの地に来て8月21日まで滞在し、スケッチ『昔の召使いた ち』の続きと回想記『故郷にて』の執筆に取り組んだ。コーニもまもなくここに来て、8月10日まで作家と一緒に過ごした。従って上に引いた作家の 手紙は、若い親友が去った4日後に書かれたことになる。コーニの回想によれば、「陰気な人ぎらい」のゴンチャローフも、自分と二人きりか、もっとも近しい 人々の小人数の集まりの場では活気づいたという。
リガの浜辺やウスチ=ナロワの海岸を長時間散歩した時などがそうで、そんな時には彼[ゴンチャローフ−沢田]の鮮 明な 思い出話や物語に道連れは疲労を忘れてしまうのだった。こういった思い出話のなかには、『フリゲート艦パルラダ号』に収められなかった多くのものがあった。
上引書簡は、そのような散歩中の作家の思い出話の続きかもしれない。
さてまず書簡中の、「日本人公使ならば、わが国に来た者は全員存じております。」というくだりが興味深い。メーリニク氏も書いているように、この 場合 の「日本人公使」とは、1862年に樺太国境問題でペテルブルグを訪れた幕府使節竹内下野守保徳、同じ目的で1867年に露都を訪問した箱館奉行小出大和 守秀実と目付石川駿河守、1873年の岩倉具視、そして榎本武揚などを意味しているのかもしれない。残念ながら、これを立証する史料はまだ見つかっていな い。
メーリニク氏は論文の末尾で、「翻訳を引き受けたこのアンドウ=サンとは何者であったのか、また、何ゆえそれを果たせなかったのか」 と問いかけている。以下がこの問いに対する筆者の返答である。
6. 安藤謙介のロシア滞在
「アンドウ=サン」、即ち安藤謙介は1854年1月1日に土佐国安芸郡羽根村に土佐藩士の長男として生まれた。彼は1869年から藩の漢学塾「致 道 館」で学び、講師兼塾頭をつとめた。1872年に上京したが職を得られず、日本ハリストス正教会神学校に入学し、ロシア語を学び始めた。まもなく東京外国語学校 魯語科の外国教諭トラクテンベルグが、魯語科の生徒が少数のため神学校の生徒を分けてくれるよう頼んできたので、1874年9月に安藤は約40人の生徒と ともに東京外国語学校に移った。外語のクラスは上等6級、下等6級に分かれており、彼は下等第二級に入って、メーチニコフなどからロシア語を学んだ。だが 早くも翌年に安藤は同校をやめた。教科書として使っていた代数の原書が学校に二冊しかなく、しかもそのうち一冊は教師用だから生徒に貸し出せないと言われ て、彼は生徒総代となって校長、幹事と対立し、文部省を訪問中に放校となったのである。この時市川文吉はロシア滞在中で、外語では安藤と はすれ違いに終わった。その後安藤は同郷の中江兆民のもとでフランス語を学んだ。
この頃安藤は勝海舟と知り合った。これは安藤の生涯において大きな意味を持つ。『海舟日記』の1875年から1892年までの17年間に安藤の名 は、筆 者の計算によれば都合89回登場し、 また勝の『会計荒増』にも5回言及がある。市川文吉が榎本武揚派だとすれば、安藤は勝派といえようか。『海舟日記』に安藤の名が初めて現れるのは1875 年10月20日のことで、「高知県平民、安藤謙介。」 とある。恐らくこの日初めて安藤は勝のもとに伺候したのだろう。翌1876年初めに安藤は勝に就職の斡旋を依頼し、勝はそれに応えている。そのかいあって同年4月 に安藤は外務省に出仕し、サハリンのコルサコフ領事館に書記一等見習として勤務することとなった。勝の4月29日の日記に、「安藤謙介、カラフト詰 め一等書記官見習い拝命の礼申し聞く。」 とある。
1878年には同じく書記一等見習としてペテルブルグ公使館勤務に転じた。安藤のロシア行きの話が勝の日記に初めて出てくるのは前年11月26日 のこ とで、それが正式に決定したのは1878年2月のことのようだ。1880年の『官員録』に安藤の身分は「三等書記 生」、1883年のそれには「書記生」、1886年の『職員録(甲)』には「属 判任官二等」と記されている。彼は勤務のかたわらペテルブルグ大学で聴講生とし て行政学と法学を学んだ。ロシア語は確かによくできたようで、『帝室ペテルブルグ大学教授・教官伝記事典 1869−1894年』第一巻にも次のようにあ り、前引のゴンチャローフの言葉を裏書きしている。 
彼[安藤−沢田]はロシア語を見事に習得しており、まったくもって自由に、優美といっていいくらいにロシア語で 話 し、書いた。
その後日本公使館の定員削減のため、安藤は一時公使館を解雇された。これは、上記履歴からして1881−1882年頃のことか。だが彼は帰国せず に法 学を学び続けた。ゴンチャローフが名だたる法律家であるコーニ宛の手紙で安藤に言及した理由の一つは、恐らく作家がこの日本人の専攻科目を知っていたから だろう。1881年から前記ワシーリエフ教授の招きで、彼は同学部で定員外教官として日本語と書道を教えた。これは橘耕斎、西徳二郎に次いで同大学の三代 目の日本人講師ということになる。 1883年に再び日本公使館に書記生として採用されたが、安藤はこの後1884年末まで2年間ペテルブルグ大学で無償で教鞭を執り続けた。これによりロシ ア帝国からスタニスラフ二等勲章を授与された。以上より安藤がゴンチャローフと交わったのは、1878年初頭から1885年初頭の帰国までの間のいずれか の時期ということになる。
彼がロシア時代にロシア語で著した業績としては、次のようなものがある。
1 論文「日本の資料による朝鮮概説」『海事集録』1882年6月号、第6号、75-91頁
2 翻訳『日本の刑法と訴訟手続きの歴史概要』ペテルブルグ、A.M.ブォリフ石版印刷所、1885年、全42頁
3 かたかな表記の『日本語選文集』全紙1枚とテクスト(V.P.ワシーリエフ教授の『中国語選文集』第一巻に所収)
1は序論、「国家機構について」、「言語、教育、宗教」、「朝鮮人の生活習慣、風俗、慣習」の4章から成る、かなり詳しい朝鮮論である。この論考 は 1882年に発表されたが、これはこの年の朝鮮が政情不安定で、壬牛事変が発生したことと恐らく無関係ではあるまい。2は当時在ペテルブルグ日本公使だっ た花房義質の命により出版されたものである。冒頭の「訳者より」によると、日本の法務省で作成されペテルブルグの日本公使館に送付された原本を、安藤がロ シア語に訳出したものだという。ともに日本人が書いたとは信じられないほど正確で、自然なロシア語である。3は筆者未見。
7. 安藤の帰国後の活動
1885年2月に安藤は7年ぶりに帰朝した。同月24日の勝海舟の日記に、「安藤謙介、七ケ年前、旅費遣わし世話いたし者なり。」とある。勝の安藤に対する財政的 援助はこの時のみにとどまらず、これ以後も繰り返し安藤は勝から借金、もしくは第三者からの借金の立て替え、あるいは保証人を依頼している。その額は 100円から千円までと多額に上っている。
1887年7月に勝から法務大臣芳川顕正への推挙によって、安藤は司法省の検事に転じた。出だしは名古屋控訴院詰で、次いで1890年に岐阜 始審裁判所詰めとなった。翌年前橋地方裁判所検事正に進み、以後、熊本、横浜の地方裁判所検事正を歴任した。
1895年、横浜検事正時代に朝鮮王妃殺害事件が起こった。これは同年10月8日早朝、李氏朝鮮王朝の国都漢陽(現ソウル)の景福宮に日本の軍隊 や大 陸浪人が乱入し、高宗の王妃閔妃を殺害した事件である。日清戦争後の三国干渉をきっかけに、閔妃らが推進した排日政策の転換を狙って日本公使三浦梧楼が指 揮を執り、朝鮮人のクーデターに仕立てようとしたが真相が発覚した。安藤はこの事件の調査のため朝鮮に派遣され、広島 裁判所で審理を行った。 結果は三浦ら全員が免訴となり、朝鮮での反日機運を激化させることとなった。
1896年4月、安藤は第二次伊藤博文内閣のもとで第五代富山県知事になり、初めて地方行政に関与することになった。彼の立場は政友会系である。一年後に非職となった が、1898年1月に第三次伊藤内閣のもとで第八代千葉県知事に就任した。憲政党内閣が成立すると、同年8月に再び非職とな り、成田火災保険会社社長、植田無烟炭坑会社社長に就任した。
1902年9月に東京築地3丁目の同気倶楽部で日露協会が創立された。これは、日露戦争直前の危機的な時期に「日露両国 民の意思を疎通し、其他通商貿易の発達を計るを以て目的」 としたものである。会頭に榎本武揚が就任し、安藤は創立委員、次いで相談役の一人になった。翌年の第8回衆議院議員選挙に富山県高岡市より無 所属で出馬して当選。1904年3月の第9回総選挙にも立候補したが、今度は落選した。同年11月から安藤は第十三代愛媛県知事をつとめ た。彼は県会で多数派を擁していた政友会とはかって、県立松山病院を閉鎖し全財産を売却、その財源を三津浜築港、その他の大土木事業にあて、党勢の拡張を 図ろうとした。だが築港費問題が発覚し、愛媛県政史上空前の政争史を生むこととなった。第一次西園寺内閣から立憲同志会の第二次桂内閣へ の交替により、1909年7月にまたまた休職となった。1910年に安藤は韓海漁業会社を創立して社長に就任した。翌年9月、第二次西園寺内閣の下で第十六代長崎県 知事に返り咲く。 政友会のリーダー原敬は、安藤の愛媛県知事時代の悪評に触れて日記にこう書いている。 
「 安藤が左までの悪政をなしたるにも非らず又品性は決して醜汚の點なし、只辯口常に人の非難を招く次第なるも用ゆ べから ざる人物にあらず、故に斷然人言を排して之を登用したり 」
1912年12月に第三次桂内閣に替わって安藤は休職命令を受ける。1913年3月からは第十五代新潟県知事をつとめた。原敬は安藤の新潟県知事 就任前日の日記にこう記している。 
「 安藤謙介を招き新潟県知事たらん事の内意を傳へたるに、彼何んと考たるにや貴族院に入るるの条件にても望ましき 口気な るに付、好まざれば往かずして可なりと云ひたれば彼れ快諾せり。」
1914年4月に安藤は大隈内閣成立により再び休職になった。政友会系の旗印が明瞭だったために、政権交代時には非職、再任を繰り返す こととなったわけである。同年7月に安藤は第七代横浜市長に就任した。1918年7月で任期満了になると、11月か ら1920年12月まで第六代京都市長をつとめた。 1924年7月30日に東京で没。奇しくも市川文吉と同じ命日である。享年71歳。正四位勲二等を授けられた。
8. 安藤とロシア
かくして安藤謙介は、かつてペテルブルグ大学で学んだ法学と行政学の知識を日本で活用したわけだが、他方『フリゲート艦パルラダ号』の邦訳を出版 する というゴンチャローフとの約束は、遺憾ながら果たさなかった。この作品中の「日本におけるロシア人」2章からの断片的な日本語訳が初めて発表されたのは 1898年10〜12月のことであり、 これら2章と終章「20年を経て」の全訳は1930年のことである。
『フリゲート艦パルラダ号』の完訳はわが国で はまだ出ていない。とどのつまり安藤は、本作品の訳者としては不適当な人物だったといわざるをえない。確かに彼はロシア語がよくできたが、その関心の対象 は法律と政治であって、文学ではなかったのである。
但し、彼のために少しばかり弁護しておく。1882年、有栖川宮熾仁親王が明治天皇の名代としてアレクサンドル三世の戴冠式に参列した際、ペテル ブル グ大学で日本語が教えられていることを知り、同宮家蔵書中の約3500巻を同大学に寄贈した。日本語の授業のことを宮に伝えたのは安藤である。この有栖川文庫が糧 となって、後にコンラッド、ネフスキーといった世界的日本学者が輩出した。
また安藤は前述のように1904年11月から4年7カ月の間愛媛県知事をつとめた。これは、当時同県松山市の収容所に日露戦争のロシア人俘虜が収 容さ れ、ロシア通の安藤が特に任じられたのである。 彼がロシア通であることはよく知られていた。 ロシア人俘虜は日本全国29の収容所にのべ7万2408人が収容されたが、そのうち松山収容所はのべ6019人にのぼり、これは当時の松山市の人口の六分 の一にあたる。
1899年、オランダでロシア、日本を含む約30カ国の間でハーグ条約が採択された。この条約は戦争時の俘虜の人道的取り扱いをうたっており、日 露戦争の ロシア人俘虜収容は本条約が適用される最初のケースだった。日本国はこの条約を忠実に守り、俘虜を人道的に扱った。このために安藤が知事として起用された のである。内務大臣から俘虜の取り扱いは日本国の品位を落とさぬようにとの内訓を受けると、安藤は次のような訓告を各方面に発した。
「 彼ラノ祖国ノタメニ戦ッタ心情ハ、マコトニ同情スベキデアル、ソノ捕虜ノ出入リ通過ニ際シテハ、群衆ガ雑踏シ一 時的ナ 敵愾心ニカラレテ侮辱スルヨウナ言動ガアッテハ、一視同仁ノ天皇陛下ノ御心ニソムクダケデハナク、日本人トシテノ面目ヲケガスコトニナルカラツツシマネバ ナラヌ 」
ロシア人俘虜は度々慰問を受け、かなりの自由を享受した。彼らは観光に出かけたり、収容所内で靴、錠前製造などの労役に就き、学校を開 いて俘虜の士卒 が同じ俘虜にロシア語やポーランド語を教えた。 俘虜と日本人女性の間に恋が芽生えることもあった。
最後にゴンチャローフの未刊の書簡の今ひとつの点、即ち作家が「そのご夫人とも知り合いになった日本人公使」 とは、西徳二郎のことではないだろうか。この書簡は1887年8月に書かれたが、西はその2カ月前に日本公使としてペテルブルグに赴任した。彼にとっては 三度目の訪露で、今回は妻子を連れての赴任だった。西は職務の余暇に絵画を学び、劇場や舞踏会をよく訪れ、ロシアの貴顕や朝野の名士、各国公使等と親睦を 深め、露都の社交界で信用と徳望を博した。そしてそのような場には常に妻のミネを同行したのである。しかしながら、筆者のこの推測を裏付けるよう な資料は、残念ながら見つかっていない。 
 
幕末期日露交流の一面
 ゴンチャロフが見た日本人と日本人の見たゴンチャロフ

 

1 作家の宿願
エフィーミイ・プウチャーチン提督のひきいるロシア使節団が19世紀50年代の前半に日本をおとずれた。鎖国政策をとっているこの国を開くことがその目的であった。この使節団の中に作家のイワン・ゴンチャロフが含まれていた。彼は大蔵省の官吏でありながらすでに長編小説『平凡物語』の作者として世に知られていたが、彼自身の希望により、使節の秘書としてこの大遠訪隊に加わったのである。
日本にとって、ロシアとアメリカの使節団のほとんど同時の来航は驚天動地ともいうべき事件であった。鎖国政策はすでに2世紀以上もつづいていた。その間、オランダと中国の商船だけが唯一の開かれた港長崎でごく限られた量の交易を行なうことが許されていた。日本人が外国に出ることは死刑をもって禁じられていた。
ロシア使節団と日本人の出会いは二つの全く異質な文化、すなわちヨーロッパ文化と日本文化の衝突であった。それぞれの文化は固有の価値観にもとづいていた。よく知られているように、プウチャーチン使節は「温厚、丁重、強硬」をモットーとするねばりづよい交渉の末に、当時の日本の政府たる幕府と友好通商条約を締結することに成功した。しかし本稿の目的はその交渉の過程を跡づけることではなく、ロシア人が日本人をどのように観察し、逆に日本人が、ロシア人に対してどのような態度をとったかを、日露双方の資料から眺めることである。この目的のために最も役立つのがゴンチャロフの有名な記録『フリゲート艦パルラダ号』であり、さらに日本側の全権たちのつけていた日記である。
作家は別のフリゲート艦ディアナ号によるプウチャーチン提督の二度目の訪日には加わらなかった。パルラダ号をおりるとただちにシベリア経由で帰国したからである。読者の立場からは、彼がディアナ号の悲劇的な運命と使節の英雄的な功業に立ち会う機会を逸したことは惜しまれる。もっとも、ゴンチャロフはそれを埋め合わせるかのように、のちに「20年後」という補足記事を『フリゲート艦パルラダ号』に付録の形で書き加えたのであった。
2 ゴンチャロフの目に映じた日本人
ゴンチャロフは日本を「3の9倍の国のかなたの、3の10倍目の国」、つまりひじょうに遠隔の地をあらわすロシア昔話特有の表現で呼ぴ、この国を鍵が失われた玉手箱にたとえている。それは当時の欧米人の標準的な日本観であった。
しかし、それは日本に関する文献が彼らのもとに皆無であったことを意味しない。まず第一に、16世紀の中葉からほとんど1世紀にわたって日本で布教活動を行なったカトリックの司祭や修道僧たちの手になる一群の著述があった。第二には、鎖国時代オランダ商館で働いたヨーロッパ人の手になる記録が知られていた。ドイツ人博物学者E.ケンペル、スウェーデン人学者C.ツンベルク、ドイツ人医師P.シーボルトらがそれである。とりわけシーボルトはまだ存命中だった。彼は50年代の初めにロシアをおとずれており、日本に関する彼の著述はロシアでもよく知られていた。第三には、18世紀の末以来日本を訪れる機会をもったロシア人たちが興味ぶかい記録をのこしていた。A.ラクスマン、1.クルゼンシュテルン、V.ゴロヴニンらの著述がそれである。ロシア使節団は文献的に交渉相手について可能なかぎりの準備をととのえており、ゴンチャロフはその『フリゲート艦パルラダ号』の中でこれらの三つのグループの文献にしぱしば言及している。
けれども作家は、書物による知識にたよることなく、自分自身の体験にもとづいて独自の判断を形成することに努めている。その結果得られた彼の日本人についての観念はきわめてアンビヴァレントなものであった。
まず日本人の外見はゴンチャロフに否定的な印象を喚起した。とりわけ男子の髪型は彼にとって珍妙に感じられた。
「 二人の日本人は貧しい服装をしていた。広い袖のついた青い上着と、腰回りと両脚にぴったりと合った下衣を着ていた。下衣は幅の広い帯で締められていた。そのほかは? 何にも着けていない、ズボンも何もかも……履物は、上の方をボタンで留めた青色の短い脚絆であった。親指とつぎの指の問に細紐を通して、藁製の履物の底を足に縛りつけていた。これは富んだ者も、貧しい者も同一であった。頭は顔と同じようにすっかり剃っていたが、後頭部の髪だけを上にまとめあげて、削いだような短く狭い髭を結ぴ、脳天に固定している。こんな珍妙で、ぶざまな髪型に、一体どれほど腐心していることか!…… ただが同時に、あの柔和で平べったい、色白の柔弱な顔や、狡狗そうな表情や、チョン髭や、脆坐している有様を眺めて微笑を禁じ得なかった。…… ただ、衣服と例の実際に馬鹿らしい髪型が目ざわりなだけである。…… おおむね利口そうな顔やずるそうな顔は多いが、男らしい精力的な顔つきはほとんど見られなかった。また、かりにあったとしても、こんな具合に後ろから上の方へ結ぴ束ねた髭や、なめらかに剃り上げた顔のために、男らしくなくなっている。」
しかし、はじめて接する異邦人の衣服や髪が奇異に感じられるのは普遍的現象である。たとえば、ロシアの画家レーピンによって描かれたサポロージエのコサックの髪型は、奇妙さの点でチョンマゲにひけをとらなかったであろう。衣服と髪型同様、日本人の表情の乏しさもロシアの作家を驚かせた。
「 何か彼らの注意を惹くようなことがあれば目をみはり、耳をそばだてるが、またすぐにもとの無関心に落ち込んでしまうのだ。……活発なまなざし、勇敢な表情、生き生きとした好奇心、すばしこさ……こうしたヨーロッパ人が自覚して身につけているすべてのものが、何一つないのである。 ようやくにして、立派な身なりをした老人が眠そうなまなざしで現われ、その後に供の者が従った。老人は私たちの前で歩みを止めて、ものうげに私たちを眺めた。彼らがこの無表情な目つきで威厳を示そうとしているのかどうか、私は知らぬ。 これが果たして兵卒なのだろうか? 見たまえ、何ということだ。背丈の低い、徴集された日本人たちは小さな漏斗状の漆塗りの帽子をかぶり、眠そうな目つきで立っていた。 広間ごとに奥の方には、立派な衣装を着けた人影が数列になって狭苦しく居並び、喜劇的な威厳を見せていた。眉一つ動かさず、視線一つ流さなかった。これらの人影は、呼吸しているのか瞬きしているのか、彼らが生きているのやら死んでいるのやら、人声もせず、はっきりしなかった。」
確実なことは、ゴンチャロフは封建時代の日本人が個人的感情を顔に出すことを極端に嫌ったということを知らなかったのである。「男は三年に一回片頬で笑えば足りる」というのが当時の日本の社会通念だった。
いずれにしても、いくつかの単純な描線で個々の日本人をスケッチしてそれぞれの特徴を提示する点で、ゴンチャロフは真に芸術家的手腕を発揮している。以下は日本側の四人の全権の第一印象である。
「 最初に現れたのは、やや膝の曲がった老人であった。彼の口は老齢のためにいつも少し開いていた。続く一人は、年のころ45歳ぐらいの大き存褐色の目をした聡明機敏な面構えの男であった。三番目は非常な老人で、やせて浅黒く、一生を隠遁の内に過ごした人のように視線を伏せて、その顔は幾分小鳥に似ていた。四番目は中年男で、まるでシャベルのように無表情で平々凡々とした顔の持主であった。こうした顔を見ていると、彼が日常茶飯事以外あまり物を考えないことがすぐに読みとれる。」
興味ぶかいことに、ゴンチャロフは日本人通詞の中に「手前は何もせずに臥せているのが好きでござる」と告白してまるで自分の小説の主人公オブロ一モフを連想させるような人物に出会うが、彼に対していかなる共感も示さない。彼が好意を寄せるのは、当時の日本人の間には稀であったシュトリツ的タイプの進取の気象に富む人間だった。『オブロ一モフ』の作者は怠け者を愛していたわけではない。ゴンチャロフは日本人が気力を失ってしまった原因を、長年にわたる鎖国の結果であると見ている。
「 彼らはみずからそうした制度を立てているので、たとえ拒絶したくなくとも、また一般に前例のないことをしたくとも、たとえそれがよいことであろうと、そうはできない。たとえば、彼らが200年も前に定めた「西洋人は有害だ、彼らとは何一つ共にすることはまかりならぬ」という掟を、今もなお改められないでいるのである。だが、もちろん彼らはすでに、ことに最近は、外国人を通すならば、彼らから多くのことを学ぴ得て、生活も向上し、またすべてに練達して、さらに富み、かつ強くなることを認めている。幕府はそれを知っているが、古風な戒めにしたがって、キリスト教は彼らの法と権力にとって有害だと危惧している。よしんば幕府が、そうした迷妄を捨てて、ふたたび外国人と親しくする必要があると腹を決めても、一体どのようにして誰が着手し、誰が提唱するのであろうか。 対外親近に対してあらゆる方策が講じられているので、この国民に私たちの生活を知らせて、ヨーロッパ人の味方に引き込むことは容易ではない。誘惑もなければ迷いもないというが、当局はこれをよく承知していて、いっさいの贅沢な品物、わけても新奇な品の輸入を厳禁している。」
ゴンチャロフは日本が鎖国するにいたった歴史的経緯をよく知っていた。
「 彼らにとって一切が新奇である場合には、彼らは逡巡し、詮索し、待機し、策をめぐらすのである。彼らはあう程度まで正しいのではないだろうか。彼らは、従来ヨーロッパ人からよい面よりも悪い面を多く見せつけられてきたのである。とすれぱ、彼らの排外思想そのものも論理的であるといえよう。ポルトガルの宣教師たちがもたらした宗教を、多くの日本人は信頼して受入れ、そして広めてきた。だが、ロヨラ神父の弟子どもは人間の慾の皮までもいっしょに伝来したのであった。つまり、傲慢さ、権力や金銀への愛着、彼らが途方もなく大量に輸出した見事な日本産の銅に対する欲望、その他キリスト教の愛以外のあらゆる愛慾をもたらしたのである。あげくの果てには、ご承知の通り、日本におけるバルトロメオの夜一つまりキリスト教の大虐殺を招来して、鎖国となったわけである。」
日本のこの祖法のおかげでロシアの使節団は長崎入港以来長崎の奉行に会見するまでに1月間も待機を余儀なくされたし、江戸の中央政府から派遣された全権団と交渉を開始するためには奉行との会見からさらに100日以上を空費しなけれぱならなかった。ロシア人は散歩用の上陸地すら与えられなかった。日本政府は、ロシア人が待つことに退屈して長崎から立ち去るのではないかとすら期待していた。ゴンチャロフの手記にしばしば退屈という文字を見出すのは故なきことではない。
「 私にとっては、もはやこの極東はさしあたり極端な退屈以外の何ものでもない。私たちは江戸からの返事を待ちわびていた。仕事をしても退屈だったし、仕事をしなくても一やっぱり退屈であった。」
クリミア戦争がすでにはじまっており、ロシアの艦隊はトルコの同盟者たる英仏の強力な艦隊と極東水域で遭遇する危険にさらされていたことも考慮に入れる必要がある。しかしこのような困難な状況にあっても、ゴンチャロフは日本人に対して公平であろうと努めていたのだった。
「 日本人と事をなす場合には、一応ヨーロッパ風の論理を離れて、ここは極東であるということを念頭におかねぱなるまい。前にものべたように、日本の民衆は頑迷固随で見込みのない国民ではない。それどころか、論理的で分別があり、必 要と認めた場合には、他人の意見でも進んで取り入れる国民である。 日本人の考え方や、言葉使いや、作法が何となく粗野で、風変りで、ヨーロッパ人を驚かせるようなものだ、などとは考えないでいただきたい。……日本人でもいっこうに変ったところはない。ただ、衣服と例の実際に馬鹿らしい髪型が目ざわりなだけである。そのほかのすべての点では、この民族はヨーロッパ人と比較しなければ、かなり進歩していて、応対も気楽で気持よく、また独特の教養はきわめて注目すべきものがある。 まず目についたのは、中庭や、ござを敷きつめた木造の階段や、それから当の日本人たちのなみはずれた清潔さであった。この点については公平に感服せざるを得ない。彼らはすべて身体も衣服もまことに清潔で、小ざっぱりしている。 ・・役人たちは申すに及ばず、さっぱりして風趣に富んでいる。身分の低い者を見ても、裸体や、破れた衣類であるが、汚点やよごれはないのだ。彼らのこの無感動の底には、どれほどの生命が、どれほどの陽気さや茶目っ気が隠されていることか! 才能と天分の豊かさは、ささいなことにも、会話のやりとりにも見受けられる。……日本人はとても活発で素朴である。……彼らは何事によらず詮索し、何でも問い糺し、そしてあらゆることを書きとめる。だがしかし、上司に対する彼らの尊敬ぶりには、恐れや卑屈さは見られなかった。彼らの作法はもっと素朴で誠意に満ち、温かさや、ほとんど愛情ともいえるものを伴っているので、見ていて悪い感じはしない。」
3 二つの文化の衝突
二つの異なった文化の衝突はロシア使節と長崎奉行の対面の儀式をめぐって最も典型的に顕在化した。
「 9月の5、6、7日と毎日のように御検使が私たちを訪ねてきて、こちらの訪問の儀式について打合わせるのであった。こういう場合、ヨーロッパでは行くか行かないかということが問題になるだろうが、私たちは坐るか坐らないか、立つか立たないか、さらにどんなふうにして何の上に坐るかなどということを一日中論じるのだ。」
当時の日本人は、儀式にかぎらずあらゆる出会いの場で、高貴な人の前では立ったまま話をすることを非常な失礼にあたると考えていた。作家がイソップ寓話の鶴と狐の話を思い出したのは適切だった。このときの儀式は結局、双方の側がおのれの流儀にしたがって、つまり、ロシア側は椅子に腰をおろし(そのために軍艦から水兵たちがわざわざアームチェアをはこんできた)、日本側はたたみの上にすわって会見することで折合いがついた。全権たちとの初対面の儀式はゴンチャロフにとって幻想的なものであった。
「 四名の全権たちはみな幅のある上着を着ていた……四人の全員が奉行たちと同じように頭の上に黒い小さな刻面の冠を逆さまに載せていた。この小さな冠は西洋の婦人用の縫物籠か、まあロシアの百姓女が茸狩りに持ち歩く手籠にそっくりの形をしていた。……この程度ならまだ大したことはないが、第三席の全権と二名の奉行ともう一人の役人は、足の先から一アルシンも引きずった絹の長袴をはいていた。したがって奉行たちは苦労して足を上げながら歩くのである。……例の上衣を着て、額には小箱のような冠をいただき、限りもない長袴をはいて、やや傭向き加減に立っている日本人の晴姿を見つめていると、われ知らず、これは、どこかの道化の神が、歩いたり走ったりすることはおろか、身動きもならないように、なるべく不便な装いを人間にさせてやろうという使命感を抱いたのではないかと思われる。」
ゴンチャロフはたくまずしていわゆる「異化」の手法を多用している。このときの日本側の高位の役人たちの服装はすでに千年以上も古くから宮廷の儀式のために様式化されたものだった。あらゆる社会的慣習の中で儀式が一番保守的な性格をもつものらしい。しかし国際的な儀礼に関するかぎり、古来の風習は開国とともにはじまった急速な西洋化を生きのぴることはできなかった。
とはいえ日本においてはまだたたみの上の生活が完全にはすたれていない。公の領分ではヨーロッパ的風習がとり入れられているけれども、生活の私的な面では古い様式が保持されているのである。衣服髪型がその一つの例であって、さすがにチョン髭と腰の刀は明治維新後姿を消したけれども、キモノが完全に消滅したわけではない。日本人の生活は物質的にも精神的にも今なお和洋折衷なのである。
4 日本人の目に映じたゴンチャロフ
日本の政府はプウチャーチン使節のもたらしたロシアの国書を受け取ると、使節との会談のために四人の全権委員を任命した。筒井肥前守政憲、川路左衛門尉聖護、荒尾土佐守成允、古賀謹一郎増がそれである。(ゴンチャロフによる第一印象にもとづく彼らのスケッチはすでに紹介した。)このうち荒尾はいわば監査役であり、儒者の古賀は学術顧問の資格であったから、実質の全権は筒井と川路の土人であった。しかも前者はすでに75歳であったことを考えれば、52歳の川路が日本側の立役者と見てよかった。四人の全権のうち、日記をつけゴンチャロフにも言及しているのは川路と古賀である。
古賀はもともと独占的な権威をもつ幕府付属の学校の教師の家に生まれ育った学者であった。それに対して、川路の経歴は身分が固定化していた当時としてはきわめて注目すべきものであった。彼は最下級のきわめて貧しい武士の子として生まれ、幼いとき幕府直属の微禄の武士の家の養子となった。そして生来の素質と努力によって中央政府の役人の階段を急速にかけのぼり、51歳のときには行政事務官の最高位である勘定奉行に就任した。この役職はその名称から判断すれば財務長官であるが、実質的には司法行政をも兼ねていた。彼より上には名門の世襲的封建大貴族たる老中がいるだけだった。
川路は文学的な教養を身につけており、公務で出張したり首都をはなれて地方で勤務するさい、つねに丹念に日記をつけていた。彼には素人ながら日本語に関する言語学的な論文すらあった。彼の死後その著述は8巻からなる書物として刊行された。ちなみに近代日本の最も有名な詩人の一人たる川路柳紅は彼の曽孫にあたっている。
川路は1853年の秋、40日かかって江戸から1500キロはなれた長崎に到着した。彼の日記によれば、道中の川路は20首以上の和歌を詠み、10篇を越える漢詩をつくっている。和歌は日本古来の短詩であり、日本人にとっての漢詩はヨーロッパ人にとってのラテン語詩に似かよっている。公平に見て川路の詩作品は文学的価値が高いとは思えないが、念のために、漢詩を一つだけ挙げておこう。
   羽書頻りに報ず虜船の来るを
   笑って旅床に臥し軒雷の若し
   奈んともする無し官途輿論の鴛しきを
   星奔暁を侵して現崖に向かう
この詩の中で彼は未曾有の国家的大事を前にして自分がいかに平静であるか強調している。ゴンチャロフは明らかに日本人に対して優越感をいだいていたが、川路もまたヨーロッパ人一般に対してあまり根拠があるとは思えない優越感をいだいていたことがこの詩から明らかである。
川路は当時の幕吏の中で最も賢明な人物とみなされていた。しかし、それでも彼は200年つづいた鎖国政策を撤廃することは時期尚早と考えていた。将来は不可避としても、まだこの段階では、自分が生きているうちに諸外国と貿易をはじめるぺきであるとは思わなかったのである。
さりとてヨーロッパ列強に武力をもって対抗することも不可能なので、外交上の話合いで交際を拒否する以外に途はないと考えた。それは同時に日本政府の方針でもあった。彼はこの政策にそってプウチャーチンと会談を行ない、さしあたっては、最恵国待遇の約束を与えただけで、ロシア使節を長崎から退去させることに成功するのである。
川路はゴンチャロフに次のような印象を与えた。
「 この川路を私たちは皆気に入った……川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、なおこの人物を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが一すべて良識と、機智と、燗眼と、練達を顕わしていた。叡智はどこへ行っても同じことである。民族、衣装、言語、宗教を異にし、人生観まで違うにせよ、聡明な人々には共通した特徴がある。愚者には愚者の共通点があるように。」
一方、ゴンチャロフを含むロシア人たちは川路の目に次のように映じた。
「 使節プーチャーチン、この人第一の人にて、眼ざしただならず。よほどの者也。船将ウンコーフスキ、これは至て穏当なる人にて、いつも笑い居る也。懸合事に少も拘らず。船将次官ポスシェット、これは蘭語に通じて、今般の通弁みないたし、諸懸合引受け也。一通りの極才子也。ゴンチャロフ、此人無官なれど、セキレターリスのことをなす、公用方取扱というがごとし。常に使節の脇に居て、口出しをするもの也。謀主という躰にみゆ。ポスシェット、ゴンチャロフはわれに船中にて酒の酌などをし、食物もちはこぴて、取もちたるもの也。」
これに反して、川路の同僚の古賀はその日記の中でゴンチャロフを一再ならず「大腹夷」と呼んでいるが(9}、この作家の外面的な描写にとどまっている。長崎からロシアの友人に送った手紙によって、ゴンチャロフが航海中肥満になやまされたことがわかっている(ゆ。運動不足の結果にちがいない。
ロシア使節と日本側全権との最初の出会いは奉行所で行なわれた。二度目は、相互性という外交上の慣習にしたがい、ロシア側が日本の全権団をパルラダ号に招いた。日本の役人にとって外国の軍艦に乗りこむのは最初の体験であった。彼らはパルラダ号がそのまま出帆して自分たちを外国へ連れ去るのではないかと心配した。そのため決死の覚悟をきめて招待に応じたことをロシア人たちは知らなかった。
川路はこのときある冗談をいった。ゴンチャロフはそれについてこう書いている。
「 何やらクリームのような軟らかい生菓子が、ビスケットといっしょに出された。彼はそれを食ぺてみて、定めしお気に召したのであろう、挟から紙を一枚取り出して皿に残ったものを全部それに移し、一捻りして懐中にしまいこむのであった。「手前がこれをどこかの美人に持参すると思召さるな」と彼はいい添えた。「いや、これは家来どもに取らせるのでござる」これをきっかけに、話は自然と女性談義に移った。日本人たちは軽いシニズムに陥りそうなところまでいった。彼らはあらゆるアジア民族と同様に官能に耽って、その弱点を隠そうともせず、また責めようともしないのである。」
川路自身は自分の冗談のことを日記にこう記している。
「 もてなしぶりの上手なること、実に驚きたり。異国人、妻のことを云えば泣いて喜ぶという故に、左衛門尉妻は江戸にて一、二を争う美人也。夫を置きて来りたる故か、おりおりおもい出し候。忘るる法はあるまじやといいたるに、大いに喜び笑いて、使節も遠く来り、久しく妻に逢わざること、左衛門尉が如きにあらず、左衛門尉のこころを以て考えくれ給え、と申したり。
これにつづいて川路はこう書いている。ロシアの軍艦を訪問して酒宴で気がなごみ、自信をつけたにちがいない。
「 詞通ぜねど、三十日も一所に居るならば、大抵には参るぺし、人情すこしも変らず候。」
彼はこのとき国際理解についてかくも楽観的になったけれども、鎖国の方針をあらためるところまではすすまなかった。彼のような明晰な頭脳の持主にとってすら、因襲の力はそれほど大きかったのである。
ロシア側は一連の会談を終えて長崎を出航する前、再び日本全権団を軍艦に招待して饗応した。その席で次のような出来事があった。まずゴンチャロフの記録を見よう。
「 食事の途中で、私は川路の手からちょっと扇子を借りて見せてもらった。それは、椋欄の木でつくって紙を貼った簡素なものだった。私が扇子を返そうとすると、彼は納めてくれと身振りで示した。「記念のために」と栄之助〔通詞〕が彼の言葉を通訳した。私は謝辞を述べた。しかし、もらい放しにしたくなかったので、自分の時計についている金鎖をはずして川路に贈った。彼はちょっとためらったが、通訳の言葉を聞いてから、礼を述べて私の贈物を収めた。……提督は会食後に川路に金時計を贈って、「先程差し上げた鎖につけるために」といい添えた。川路は大喜ぴであった。彼は会議中でも、こんな贈物を頂きたいとでもいいたそうに、しきりに自分の厚い不格好な銀時計を見せつけるのであった。それは、ロシアではもはや、村の寺男でも持っていないような代物であった。」
川路は同じことを自分の日記にこう書いている。
「 軍師わが扇子を見て称める故に、汝に与えんといいたるに、通詞を以て、常に御手にふれられ候品を下され、恭なく候由を申し、頓て懐をかかぐりて、トケイを出し、其くさりを取りてわれにくれたり。いかに断りても聞かず。よりてもらいたるに、わがトケイをみせよという故に、麓物赤面なれどみせたるに、其くさりをわがトケイにつけてくれたり。其体をみて、わがトケイを使節見て、時少々違えりとて、ケンを直しくれ、うらを開き、と斥と見て返したりしが、頓てくさり有ればトケイなくてはいかが也、奉るらんとて、ベッコウの箱に入れたる、至てうすきトケイくれたり。この事、興に出たるに似て、左にあらず。扇をくれよかしに申してもらい、その返礼にくさりをくれ、夫よりおもいつきてトケイをくれたれど、帰りて箱を見れば、川路左衛門尉様と申す札を入れて有り。……申合せてかくははからいたる也。恐るべき夷なり。」
それから三日後に日本側が送別の宴をはった。川路はその席でゴンチャロフを次のように描写している。
「 軍師〔ゴンチャロフ〕はよほどシャレものというがごとき風なる男なるが、いささか酒きげん体にて、彩しく頂戴、という手まねをなしたり。其さま、咽の所へ手やり、又頭へ手をやり、やがて頭上へ高く手をさし上げて、うなずきたり。これ、咽までつまりたるにあらず、頭までつまりたり、かしらまでつまりたるにあらず、頭の上へつみあげるがごとくになれり、ということ也。おもわず、其体にみなドッと笑を催したり。」
川路自身は封建的道徳の体現者であった。1868年徳川将軍家の没落のさい、武士道の作法にかなった自裁をして主家の運命に殉じたのである。
 注
もともとはロシア中世文学の研究者であるが、広い視野と深い見識をもって知られるドミトリイロリハチョフ博士の生誕80年を記念して、モスクワで論文集が編まれた。《Lit・erature and Art in Culture System》の表題をもつ書物が出版されたのは、予定より2年おくれた1988年である。ここに掲げる拙論は「日本人のもとにおけるイワン・ゴンチャロフ」の題目でこの論文集にロシア語で発表したものである。今回、字句の訂正は最少限度にとどめた。日本人読者のためには別の書き方がふさわしいことはわかっているが、わざとスタイルを改めなかった。いずれにしても、本来は外国人のために書いた文章であることは覆いつくせないと考えたからである。
なお、長崎へ来航したゴンチャロフについての日本人の所見に関しては、拙論でとり上げた以外に、新しい史料が最近になって次々と発見されている。「窪田茂遂『長崎日記』について」(『共同研究 ロシアと日本』第2集、1990)をはじめとする沢田和彦氏による諸論文を参照されたい。またプウチャーチン使節団に関する和田春樹氏の著書『開国一日露国境交渉』(日本放送出版協会、1991)は拙論で扱ったテーマにもふれていて、非常にすぐれた労作である。 
 

 

 
『日本遠征記』 M・C・ペリー

 

 
マシュー・カルブレイス・ペリー
(Matthew Calbraith Perry, 1794–1858) アメリカ海軍の軍人。エリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた。
日本来航まで
ロードアイランド州ニューポートでアメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間に三男として生まれる。兄はクリストファー・レイモンド・ペリー、オリバー・ハザード・ペリー。1809年にわずか14歳9か月で海軍士官候補生の事例を受け、自身も海軍に入り、1812年からの米英戦争に2人の兄とともに参加する。1833年にブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年にアメリカ海軍2隻目の蒸気フリゲートフルトン号を建造し、同年海軍大佐に昇進した。1840年6月には同海軍工廠の司令官となり、代将の地位を得る。
1846年に米墨戦争が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令として参加、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮、後には本国艦隊の司令官に昇進した。
蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)とたたえられ、海軍教育の先駆者とされている。
日本開国任務
1852年11月に東インド艦隊司令長官に就任、日本開国へ向けて交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられた。同年11月、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由した。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀に入港した。7月14日(6月9日)、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。
太平天国の乱が起こり、アメリカでの極東事情が変化する中、1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求め、3月31日(3月3日)に神奈川で日米和親条約を調印した。またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。
晩年
帰国した後は遠征記などを記す。晩年は鬘を着用していた。また、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていた。1858年3月4日ニューヨークで死去、63歳だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあり、娘アンナとともに納められている。
人物
○ 奴隷の帰国事業に尽力し、リベリアでは著名である。
○ ペリーを実見した菅野八郎は、身長を六尺四〜五寸(約192~195cm)と記録している。
○ 大変家族思いで、子どもたちが兄弟喧嘩をしないよう強く戒める手紙を書き残している。
○ 水兵や海兵隊員、他の士官たちからペリーの威張った態度、挨拶や合図の声が熊のように大声で聞こえるので「熊おやじ」(Old Bruin)と隠れてあだ名されていた。
○ 1819年にはニューヨーク市にてフリーメイソンに加入した。
○ ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた。そこでは、以下のように述べている。
 ○ 任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
 ○ 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
 ○ 中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
 ○ オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。
遺産
○ ペリーが江戸幕府に献上したエンボッシングモールス電信機。逓信総合博物館の展示(展示はレプリカ)。重要文化財。ペリー上陸の地である神奈川県横須賀市久里浜の「ペリー公園」には「上陸記念碑」と「ペリー記念館」が建てられている。
○ ペリーは、和親条約を締結後、安政元年(1854年)に、開港される函館港に下検分のためとして来航した。来航150年を前に、函館に「ペリー提督来航記念碑」が立てられた。
○ 浦賀来航(西暦1853年)の際に幕府に旗を2本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明である。ペリーの交渉態度が高圧的かつ恫喝的と見られたせいか、砲艦外交と呼ばれる。
○ 幕府へ電信機と模型機関車を献上した。
 ○ 4分の1の大きさの蒸気機関車の模型は、円形のレールの上を実際に走らせ、人々を驚かせた[6]。同模型は、1872年(明治5年)に工部少輔の山尾庸三が京都博覧会で展示するため、正院に払い下げを求め、調査の結果、幕府海軍所が保存していた時代に火災によって失われたことが判ったという。
 ○ 電信機の電線を1km程引き、公開実験を行った。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。針金を通して一瞬にして言葉を送る機械に、当時の人たちは大変驚いた。このエンボッシングモールス電信機は逓信総合博物館に伝わる。
ペリー艦隊
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の軍艦。日本人はこれを「黒船」と呼んだ。
一般には「東インド艦隊」と呼ばれるが、「フリート」 (fleet) ではなく「スコードロン」 (squadron) であるため、現代の軍事用語では「小艦隊(または戦隊)」に該当する。但し、当時のアメリカ海軍にはフリートは存在せず、軍艦の集団としてはスコードロンが最大の単位であった。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」と狂歌に詠まれたが、来航した黒船4隻のうち蒸気船は2隻のみであった。
○ 旗艦:「サスケハナ」(USS Susquehanna) 1850年12月24日フィラデルフィア海軍工廠で竣工 / 外輪式フリゲート:水線長76メートル、満載排水量3,824トン、乗員300名。 / 装備 10インチ砲3門、8インチ砲6門
○ 「ミシシッピ」(USS Mississippi)  / 外輪式フリゲート:水線長70メートル、満載排水量3,230トン / 装備 10インチ砲2門、8インチ砲8門
○ 「プリマス」(USS Plymouth)  / 帆船:水線長45メートル、満載排水量889トン / 装備 8インチ砲8門、32ポンド砲18門
○ 「サラトガ」(USS Saratoga)  / 帆船:水線長45メートル、満載排水量896トン / 装備 8インチ砲4門、32ポンド砲18門
階級に関して
ペリーの訪日当時の階級は“Commodore”である。古来の欧州の海軍においては、個々の戦闘艦の指揮官であるCaptain(艦長 / 大佐)が平時の最上位であり、戦時に複数の戦闘艦が集められて艦隊が編成された場合の司令官としてAdmiralが任命されていた。その後Admiralは階級として固定され、臨時に複数の戦闘艦の指揮官が必要になる場合には、艦長のうち最先任の者がCommodore(代将)としてこれを率いていた。そして、19世紀当時にはCommodoreも階級となっていた。一方、欧州の海軍とは異なり、アメリカ海軍においては設立以来1人のAdmiralも誕生していなかった。制度としては存在していたものの、Admiralに昇進するには議会の承認が必要であり、現実に最初のAdmiralが認められたのは南北戦争中の1862年であった(この時点ではペリーはすでに死亡している)。したがって、ペリーの肩書きもCommodore(代将)であり、Admiralではなかった。アメリカ海軍においても代将は一時的な肩書きに過ぎず、ペリーは東インド艦隊の指揮をとるために代将に任命されたもので、任務が完了した後は正規の階級である大佐に戻っている。
大統領の親書には、ペリーはアメリカ海軍の最高位の軍人であると記載されていた。当時の日本の文献では「水師提督マツテウセベルリ」との記載がある(合衆國水師提督口上書)。提督は、清朝の最高位の武官の官職名であり、水師提督は海軍の最高位の軍人である事を意味する。ペリーの肩書きを表すのに、同じ外国である清朝の武官名を借用したのである。これ以降提督は海軍の最高位を示し、現代では英語の「Commodore」、「Flag officer」及び敬称としての「admiral」の和訳語となっている。
艦名
兄のオリバーの名前は、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートのネームシップとなるなど、これまで6隻に使われたが、最近までアメリカ海軍にはマシュー・ペリーの名前を持つ艦はなかった。しかし、2010年に就役したルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦の9番艦がマシュー・ペリーと命名された。同艦は2011年の東北地方太平洋沖地震の救援活動に参加した。  
 
「ペルリ提督 日本遠征記」 序文 1

 

思い返せば弘化から嘉永にかけ全国に外国船が頻繁に出没し、ようやく開国の気運が熟した。とはいえ、本当に和親と通商を目的に、平和と親交で我々に臨んだアメリカ合衆国のような国が、他にあっただろうか。恐ろしいことに、もし敵意をもった他国がやってきて、初めて我が国の鎖国の鍵に手を触れたとしたら、事態は急変し武力によって、ついには望まぬ條件で開国していただろう。しかしそのような事態にならなかったことで、浦賀の砲声は、日本開国の第一祝砲となり神奈川条約(※編注:日米和親条約)の先駆となった。これにより西洋の文物が次々と我が国に入り、ついには今日の隆盛の素因となったことについて、我ら日本国民は合衆国に少なからず負うところがある。
往年、我が海軍省より合衆国へ軍艦笠置と千歳を注文した際、私は監督官として彼の地に行き、そこで史料を探した。米艦来航の事情、両国委員折衝の状況、いわゆる黒船艦隊とはどのような艦船だったのかなどについて、公務の暇に収集につとめたところ、ワシントンのアメリカ海軍省には、予想通り日本にやってきた軍艦の図面及び写真が保存されていた。私はこれを贈られ、さらに艦隊の引率者にして特命全権使節であったペリー提督の報告書だという日本遠征記三巻も手に入れた。それらを見ると、記録は精細で観察は周到、外交の詳しい点まで述べており、あるいは風俗を記し、あるいは人情を批評し、時に図なども用いて実情を示している。彼らの目に珍奇に写った諸々は、一種の感想を添えてそのまま書き表している。知りたかったこと、知るべきことが次々に現れ、実に面白く、一気に読み上げてしまった。
数年前、これらの書画をスライドに写し、開国のいきさつをしばしば話すことがあった。するとたまたまそこへ来た鈴木氏から、この書を抄訳したいと求められた。私はすぐ快諾し、出来上がった翻訳を見たところ、独自に編が設けられていて読みやすく、しかも適切な取捨によって原書の真意を損ねることなく伝ていた。これは鈴木氏の尽力の結果である。
明治四十五年五月 海軍造船大監工学博士 櫻井省三

まずは櫻井省三による序文。同名の軍人が帝国陸軍にいたが、それとは別の工学博士である。東京帝大の教授、海軍の造船大佐なども務めた人物で、日本の化学の先駆者櫻井錠二の兄にあたる。造船の専門家として、アメリカのユニオン鉄工所に発注された笠置 (防護巡洋艦)と千歳 (防護巡洋艦)の建造監督に現地へ赴き、その際に原書や図等を手に入れた、とある。
省三は「卷を措く能はざるものありき」などと表現するほど、一気に読んでしまったようだ。ペリー来航から100年にもならない明治の末年、新興国として欧米列強に並ぼうという日本で海軍の要職に就く人物。その彼にとって、激動の100年の端緒となった黒船来航を、ペリーの側から記した史料は、実に面白かっただろう。まして当時のアメリカとの関係は実に良好で、前述の通り軍艦を発注し幹部を派遣するほどだ。
ペリーによる黒船来航は、一般に武力を示して開国を迫ったと語られる。省三がこの序を書いた当時も、同じような認識だったのかもしれない。だからこそ、「平和と新厚とを以て我に臨みし北米合衆國のごときもの他に其の國ありしか」、「浦賀の砲聲は日本開國の第一祝砲となり」などと、「開国を迫ったのがアメリカで幸運だったのだ」という一文を序に掲げたのだろうか。あるいは、原著を英語を読めるのだから、元々新英米の気のある人物だったのかもしれない。
いずれにせよ、この本が出版された明治45年、明治天皇が崩御し、劇的な変化の明治という時代が終わる。その明治の末年に、その根を掘り起こす史料が、抄訳とはいえ出版されたことそのものが、実に興味深い。  
 
ペリー提督「日本遠征記」 2

 

米国議会の命令で発刊されたペリー提督率いる米国艦隊の日本遠征記(Narrative of the expedition of an American squadron to the China Seas and Japan, By Francis. L. Hawks 1856) は、当時の、米国艦隊側から見た日米交渉、日本国内の様々な様子、地理、風俗などを知る上で、大変興味深いものです。ペリー来航当時の日米間の交渉、時代背景などについては、すでに日本側で多くの研究がなされ、色々な書物も出ています。ここでは、この日本遠征記の中から興味深いものをいくつか取り出して、ご紹介したいと思います。 これは米国艦隊側の当時の見方であり、日本側の事情、事実関係が必ずしも反映されたものではありません。
1. 密航を企てた吉田松陰への高い評価
吉田松陰といえば、その後の日本の歴史を知る現在の私たちにとっては余りにも有名な人物です。兵学者であった松陰は、欧米列強に対抗できる日本国家をいかにつくるかを探求し、その目的のために命を賭して密航を企て、その結果、1859年、29歳の若さで刑場の露と消えました。当時ほとんど無名と言って良い、ましてや偽名を使って密航を企てた吉田松陰を当時の米国艦隊関係者がどのように見ていたか、この遠征記は非常に興味深い記述をしています。
1854年、日米和親条約を締結したペリー提督は下田に回航し、同地組頭黒川嘉兵衛と条約をどのように実施していくか具体的な事項の交渉を行っていました。そのような中で、この密航事件が発生しました。
(以下、遠征記訳文から引用、なお、小見出は当館で付したもの)
歴史的な接触
艦隊乗組員の一団が下田の郊外を越して田舎に入り込んだ。その時、二人の日本人がついて来るのを発見した。最初は密偵が監視しているのだろうと想像したので、注意を払わなかった。しかし、その二人は密かに近寄ってくる様子で、話しをする機会を求めている様子だったので、アメリカの士官達は二人が近づいてくるのを待った。話をしてみるとその日本人が地位と身分とのある者であることが分かった。二人とも相当の身分を表す二本の刀を帯び、立派な金襴の袴をはいていたからである。彼らの態度には上流階級特有の慇懃(いんぎん)な洗練さがあったが、明らかに安心しきっていないような、何かやましいことを行おうとしているような人がもつ気後れの様子が見てとれた。彼らはあたかも、自分たちの行動を見張っている同胞が近くにいないか確かめるように、密かに目をあちこちに配り、それから士官のひとりに近づき、その時計の鎖をほめるような振りをして、畳んだ紙を上着のポケットに滑り込ませた。彼らは意味ありげに唇に手をあてて、秘密にしてくれと懇願し、急いで立ち去った。 
松陰の手紙
松陰の渡した手紙は艦隊のウィリアムス通訳により逐語的に翻訳されました。その内容は、概略次のようなものでした。
自分たちは江戸の学者である。自分たちの学識は乏しく、・・・・武器の使用に熟練せず、兵法、軍律を議論することもできない。自分たちは様々な書物を読み、噂により欧米の習慣と教育とを多少知っており、長年の間、五大陸を周遊したいと望んでいたが、外国との交流を禁ずる法律のためこのような希望は叶えられていない。幸いにも、貴下の艦隊が来航し、長期間滞在しているので、自分たちは・・・入念に調査する機会を得、あなた達の親切と寛仁とを十分確かめ、他人に対するあなた達の顧慮をもよく確かめ、長年の思いが再び燃え上がった。だから、艦隊が出航する際には、我々もいっしょに連れて行って欲しいとの密かな自分たちの願いをあなたに伝えたい。(略)もし、あなたが私たちの願いを検討してくれるならば感謝を忘れない。いずれにしても、鎖国の禁令は未だに存在しており、今回の企てが漏れてしまえば、捕えられ即刻死刑に処されてしまう。このような結果は、あなた達が持つ深い人道と親切の心とを大いに悲しませるものとなろう。(略)したがってこのような重大なる生命の危険を避けるために、出航するまでは、自分たちがこのような過ちを犯すことを、口外しないで欲しい。
決行
手紙を受け取った翌夜午前二時頃、ミシシッピー号の当直士官は、舷側についたボートからの声に驚かされた。舷門に行ってみるとすでに船側の梯子を登った二人の日本人を発見した。話しかけると乗船を許可して欲しいと手真似をした。
彼らは、この船に留めて欲しいと強く望んでいるらしく、乗ってきた小舟がどうなるかも構わず、それを投げ捨てるつもりとの意志を示し、海岸に帰らないという決心をはっきりと示した。ミシシッピー号の艦長は、旗艦に行くようにと指示した。彼らは小舟に引き返して直ちに旗艦へと漕ぎ去った。港内の波が高かったために、多少の困難をしながら旗艦に到着した後、梯子を登るか登らない内に、彼らの小舟は漂い去った。
士官は彼らが現れたことを提督に報告した。提督は、両人と相談させるため、そして訪問の目的を知るために、通訳を派遣した。彼らは率直に、自分たちの目的は合衆国に連れて行って欲しいということ、世界を旅行し見聞をしたいということだと打ち明けた。 そのためこの二人が海岸で士官に手紙を渡した者であると分かった。小舟に乗ってきたため、ひどく疲れ切っているようであった。彼らが立派な地位の 日本の紳士であることは明らかだが、その衣服は旅にやつれたような風に見えた。二人とも二本の刀を帯びる資格がある者で、一人はその時まだ刀を一本帯びていたが、他の三本は小舟の中に残してきたのであり、小舟と一緒に漂流していった。
提督の拒絶
彼らは教養ある人達で、漢文を流暢に書き、その態度も丁重で極めて洗練されていた。提督は来艦の目的を知ると、自分は日本人を合衆国に連れて行きたいと切に思うが、二人を迎えることができないのは残念であると答えた。
提督は、彼らが政府からの許可を受けるまで拒絶せざるを得ないが、艦隊は暫く下田に滞在している予定なので、許可を求める十分な機会があると伝えた。二人は提督の回答を聞いて大いに困惑し、陸に帰れば斬首されると断言し、船に留めてくれと熱心に懇願した。しかしこの懇願は拒絶された。長い間議論が行われた。その間彼らはあらん限りの有利な議論をし、アメリカ人の人道心に訴え続けた。結局、一隻のボートが下ろされ、送り返されることになった。彼らはそれを少しばかり穏やかに拒んだが、自分たちの運命を悲しみつつ悄然と艦をおり、そして陸に送り返された。
拒絶の理由
提督が自由に自分の感情にしたがって行動していたら、好奇心からこの日本人を喜んで艦内にかくまったことだろう。しかし、曖昧な人道心以上に他の重要な点を考慮する必要があった。日本人の逃亡を黙認することは、日本の法律に反することであり、嫌々ながらも既に多くの重大な譲歩をした日本の諸規定に対して、あらゆる考慮を払って従うことが(米国艦隊側の)唯一の真実の政策であった。日本は、その国民が外国に出国することを死刑をもって禁じている。艦内に逃れてきた二人は、アメリカ人から見れば罪のない者と思われようと、彼ら自身の法律から見れば罪人であった。
二人が述べたことを疑う理由がないとしても、彼らのいう動機とは別の不純な動機に動かされたのだということもあり得ることだった。アメリカ人の節義を試す謀略であったかも知れないし、そう信じた人もいた。
(二人が日本側に捕らわれた後)提督は、自分がその犯行をいかに些細なものと考えているかを役人達に印象づけようと注意深く努力をして、その犯行に課せられる刑罰が軽くなるよう願った。
アメリカ人が吉田松陰にみた日本の前途
この事件は、日本の厳重な法律を破り、知識を得るために命を賭けた二人の教養ある日本人の烈しい知識欲を示すもので、興味深いことであった。日本人は疑いなく研究好きな国民で、彼らの道徳的、知的能力を増大させる機会は、これを喜んで迎えるのが常である。この不幸な二人の行動は、日本人の特質より出たものであったと信じる。国民の抱いている烈しい好奇心をこれ以上によく示すものはない。日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の前途は何と実のあるものであるか、その前途は何と有望であることか。
捕らわれた二人の日本人
数日後、士官の一隊が郊外を散歩しているとき、偶然町の牢獄の前に出た。そこにはあの不幸な二人の日本人が、甚だ狭い一種の檻の中に拘禁されているのを認めた。哀れな二人は、艦隊訪問が露見するや直ちに追跡され、二、三日後には捕らえられて獄に投ぜられたのである。彼らは自分達の不運を、非常に平然と耐え忍んでいるらしく、アメリカ士官達の訪問を大いに喜んでいるようであった。アメリカ士官達の眼から見ると、彼等は明らかにうまく脱獄したいと思っているようだった。来訪者の一人がその檻に近づくと、日本人は板切れに次のようなことを書いて渡した。それはいかなる冷静さをもってしてさえも動揺せざるを得ないこのような場合に際して、哲学的安心立命の境地にある非凡な例であるから、ここに掲載する価値がある。
(以下板切れの文の訳) 
「英雄一度その目的を失えば、その行為は、悪漢、盗賊の行為と考えられる。吾等は衆人の目前において捕らえられ、縛められて、永く拘禁されている。村の長老、役頭等の吾等を遇することや侮辱的にして、その圧制は実にはげしい。されど吾等自ら顧みて内に一の疚しきところなき故、今や実に英雄果たして英雄たるや否やを試すべき時である。六十余州を踏破するの自由だけでは吾等の志を満足させることができない故、吾等は五大州の周遊を企図した。これ吾等が多年の心願であった。吾等が企図は突如としてつまずき、狭苦しい檻中に入れられ、飲食、休息、座臥、睡眠も困難である。吾等如何にしてこの中より脱出し得べきか。泣かんか、愚人の如く、笑わんか、悪漢の如し。ああ吾等沈黙し得るのみ。 Kwansuchi Manji(吉田松陰の偽名) Isagi Kooda(金子重輔の偽名)
ペリーの気持ち 
提督は二人の日本人が投獄されているとの報を受けると直ぐ、司令官副官を陸上に派遣して、二人が来館した者と同一人物かどうかを非公式に確かめさせた。しかし、牢番達によると、その朝、二人は江戸からの命令により江戸に送られたとのことだった。二人はアメリカ艦隊に出掛けたために拘禁され、組頭はこの事件を処分する権限がなかったので、直ちに幕府に報告し、幕府は囚人を迎えに寄越したもので、二人はその裁きの下にあった。哀れな二人の運命がどうなったかはまったく確かめることができなかったが、当局が寛大であり、二人の首をはねるという極刑を与えないことを望む。なぜなら、それは矯激にして残忍な日本の法律によれば大きな罪であっても、我々にとってはただ自由にして大いに讃えるべき好奇心の発露にすぎないように見えるからである。また、付言すべき喜ぶべきことは、提督が質問した時、当局者は、重大な結末を懸念する必要がないという保証を与えてくれたことである。
(注)下田獄の後、松陰は、江戸、萩(謹慎処分)、江戸と牢獄を転々として、1859年、処刑されました。この間、萩では近隣の青少年の教育をはじめました。これが松下村塾です。
2.ペリー提督が見た日本女性
1854年4月、日米和親条約調印を終わったペリー提督は士官を伴って横浜周辺に上陸して、土地の視察を行いました。その際、初めて見る日本の女性について、彼等の興味深い印象を遠征記に書き記しているので、次に取りあげてみます。
嫌われた日本女性の<おはぐろ>
(ペリーが横浜の町役人宅を訪問した際の印象・・・)
穏やかに微笑してルビーのような唇が開いていたので、ひどく腐食された歯茎に生えている一列の黒い歯が見えた。日本の既婚婦人だけが、歯を染める特権をもっており、染めるにはおはぐろという鉄の粉と酒とを含んだ汚い成分の混合物を用いる。この混合物は、その成分から当然に推察されるように心地よい香りもないし、衛生的でもない。それは非常な腐食性のもので、それを歯につけるときには、歯茎や唇などの柔らかい組織を何かで覆う必要がある。さもなくば、ちょっとでも肉にふれると直ぐにただれて、紫色の斑点が出来てしまう。いくら注意しても、歯茎は腐って赤い色と活力を失う。
この習慣は、夫婦間の幸福を導くことがほとんど無いと考えるべきであろう。また、当然、求婚時代の夢中なときに接吻してしまわなければならないことも推測されるだろう。しかし、未来の花婿は往々にしてこの報酬さえ失ってしまう。なぜなら、ある若い婦人たちは、縁談を申し込まれたときに、このお歯黒をはじめることも珍しくないからである。
この厭うべき習慣は、他の習慣、即ち紅で唇を染めることで一層明らかになる。赤くした口は、黒い歯と著しい対照をなすからである。「べに」と呼ばれる日本の化粧品は、紅花でつくられ、陶器の盃に入れてある。薄く一塗りすると鮮やかな赤色となるが、厚く塗ると暗紫色となる。この暗紫色が一番いいとされている。
客を迎える日本女性の様子
(町役人宅の)妻や妹は、外国人の前ではいつも膝をついたままであった。このような不体裁な恰好をしていても、女たちは自分達の働きを妨げられるようでもなかった。なぜなら、銀の徳利をもって、非常に敏速に走り回っていたからである。盃が小さいため、酒を注ぐことがたえず必要であった。二人の婦人はいつまでも慇懃(いんぎん)で、玩具の首振り人形のようにたえず頭を下げた。また、たえず賓客に微笑をもって挨拶していたが、微笑しない方がよかったと思う。唇を動かすたびに、嫌な黒い歯と色のあせた歯茎が見えたからである。
女性の地位
日本の社会には、他の東洋諸国民に勝る日本人の美徳を明らかに示している一つの特質がある。それは、女が伴侶と認められていて、単なる奴隷として待遇されてはいないことである。女の地位が、キリスト教教義の影響下にある諸国におけると同様な高さではないことは確かだが、日本の母、妻、娘は、中国の女のように家畜でも家内奴隷でもなく、トルコのハーレムにおける女のように浮気な淫楽のために買い入れられたものでもない。一夫多妻制が存在しないという事実は、日本があらゆる東洋諸国民のうちで、最も道徳的であり、洗練されている国民であるという勝れた特性を現す著しい特徴である。この恥ずべき習慣がないことは、単に婦人の優れた性質のうちに現れているばかりでなく、家庭内の道徳が大いに一般化しているという当然の結果の中にも現れている。
尊敬を受ける日本の女性
既婚女性が常に厭わしい歯黒をしていることを除けば、日本女性の容姿は悪くない。若い娘はよい姿をして、どちらかといえば美しく、立ち振る舞いは大いに活発であり、自主的である。それは、彼女たちが比較的高い尊敬を受けているために生ずる品位の自覚から来るものである。日常相互の友人同士、家族同士の交際には、女性も加わるのであって、相互の訪問、茶会は、合衆国におけると同じように日本でも盛んに行われている。
提督とその一行の面前に平伏した女たちのとった態度は、彼女たちが隷属的であるという証拠ではなく、むしろ外国人に対する尊敬のしるしと考えるべきだろう。日本の大きな町々や都会には、大いに淫楽が行われているものと当然想像される、なぜならばこのようなことは、不幸にも、すべての大都会における普遍的な法則だからである。しかし、日本女性の名誉のために言わなければならないことは、艦隊が江戸湾にある間、時々、種々の海員たちと女性たちが交渉を持ったときにも、普通の放逸淫蕩なようすが少しもなかったのである。
3.軽く見られた1854年の江戸の防衛
日米和親条約調印を終え神奈川沖に停泊していたペリー提督は、1854年4月、日本側の強硬な反対と抗議にも拘わらず、水深の許す限り江戸に接近しようと艦隊を移動させました。その時の模様について遠征記は次のように記しています。
蒸汽艦2、3隻もあれば破壊可能!
江戸の町の前方の海辺全般にわたって、一列の高い柵があるらしく、それは短艇や小舟を通すために時々開くのである。これらの柵が、洗い流す波から上陸所を保護するために設けられたのか、または攻撃から江戸を防護するために設けられたのかを判断することは不可能だった。しかし、恐らくは我が艦隊来訪の結果設けられたもので、アメリカ人たちが無理矢理に上陸しようとする場合に、武装した短艇が近づくのを防ぐためのものであったろう。
しかしながら、次の一事だけは全く確かだと思われた。即ち、甚だ喫水の浅い、そして最大の口径をもつ大砲を搭載した蒸汽艦2、3隻をもってすれば、江戸の町を破壊することができる一事である。  
「お台場」は黒船への防衛対策
今東京の人気スポットとなっているお台場、実は1853年の黒船来航後、幕府が江戸防衛用に品川沖に急造した大砲用の台場(砲台跡)が起源となっています。老中阿部伊豆守はじめ台場建造に携わった幕府の関係者の内の誰が、今日の「お台場」の賑わいを予想したでしょうか。
4.150年前の予言:最高水準の機械工業国となる!
遠征記は日本の生活、風俗、習慣、地理、植物、気象などあらゆる分野について専門家による観察結果を記していますが、ここでは日本の技術力に関しての面白い評価をご紹介します。
卓越した日本人の技術水準
実用的、機械的技術において、日本人は非常な精巧さと緻密さを示している。そして彼等の道具の粗末さ、機械に対する知識の不完全さを考慮するとき、彼等の手工業上の技術の完全なことはすばらしいもののようである。日本の手工業者は世界におけるいかなる手工業者にも劣らず熟練して精通しており、国民の発明力をもっと自由に発達させるならば、日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう。他の国民の物質的進歩の成果を学ぶ彼等の好奇心、それらを自らの使用にあてる敏速さによって、日本国民と他国民との交通から孤立させている政府の排外政策の程度が緩和されるならば、彼等はまもなく最も発達した国々の水準まで達するだろう。日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう。
5.函館港は東洋のジブラルタルなり!
ペリー提督は、1984年5月、下田から函館に向かいました。提督は函館港について次のように記して絶賛しています。
その入港しやすいことと、その安全さとにおいて世界最良の港の一つたる広い美しい函館湾は、日本列島を蝦夷と日本に分かっている津軽海峡の北側に横たわり、日本本島の北東端尻屋崎と松前市との大体中間に横たわる。
(略)艦隊内にあってジブラルタルを訪れたことのある者はことごとく、その位置といい概観といい函館がかの有名なジブラルタルの軍港町と似ているので驚いた。孤立した丘があって、その麓や斜面には家屋が建っており、ジブラルタルの岩山のようであった。彼方の高地と続いている低い地峡は、イギリスの軍港とスペイン領とを分かっている中立地のようであった。
函館の背後にある田園や周囲の広い湾はジブラルタルにあるものと同じようで、両者の類似を一層強めるものであった。更に、津軽海峡に臨むこの日本の町函館の位置は、日本本島上の高地や町の見える「せい」と「みまが」の二つの町と相まって、大西洋と地中海を繋ぐ狭い水道を俯瞰し、対岸アフリカの高い海岸を見下ろし、その丘の上にはタンジールやセウタの町が位置しているジブラルタルの位置と似ていて、両者が同様な特徴を持っている。旅行の経験があって両者を比較できる人は誰でも両港が非常によく似ているという印象を受けた。
6.ワシントン記念塔と日本の石
ワシントンD.C.を訪問された方ならホワイトハウス、リンカーン記念堂、連邦議会などアメリカの歴史的な建物が建ち並ぶ一画で、ひときわ高いオベリスク様式のワシントン・モニュメント(記念塔)をご覧にならない人はいないと思います。そして、エレベーターで展望室まで上られた方も多いのではないかと思います。しかし、あの塔の中にペリー艦隊が日本から持ち帰った石がはめ込まれていることをご存じの方はあまりいないと思います。
函館、下田、沖縄の石
遠征記によるとアメリカ艦隊が函館を去る際、日米間で贈り物の交換が行われましたが、日本側の贈り物の中にワシントン記念塔のための花崗岩石材があり、下田でも日本側から同記念塔用に石材を贈呈されています。更に、沖縄では執政からも石材がペリー提督に贈られています。
ペリー艦隊が日本に来た頃、アメリカでは初代大統領ジョージ・ワシントンの偉業をたたえるための記念塔が建設中で、記念塔の吹き抜け部分の内部の壁には世界中から贈られた石がはめ込まれることになっていたようです。
下田の石がはめ込まれる
その後の関係者の調査では、実際にはめ込まれたのは下田の石だけだったようです。この石は、約90センチ四方で、記念塔の西面、下から65メートルの位置にあり、「嘉永甲寅のとし五月伊豆の国下田より出す」と刻まれ、いまでも見られます(静岡県立図書館調べ)。
100年後にはめ込まれた琉球のトラバーチン
記念塔の建設は政治的な問題と南北戦争のために20年間も中断しました。1876年に建設が再開され、1888年に完成し一般公開されましたが、琉球から贈られた石は、記念塔にははめ込まれていませんでした。琉球の石は、アメリカの人々の興味を引く面白い石だったために、2、3年間スミソニアン博物館に展示した後に、記念塔にはめ込まれることになっていましたが、博物館が石を返そうとした時、当時の記念塔管理者がそれを拒否しました。琉球から贈られた石がその後どうなったかは不明のようです。そのような歴史の中、1989年、記念塔公開から約百年の後、沖縄から琉球トラバーチンの石が献呈され、記念塔にはめ込まれました(沖縄県立開邦高校の仲吉訓子教諭の報告より)。
残念ながら、函館から持ち帰られた石の行方についての情報はありません。
7.確執! シーボルトとペリー
江戸末期、出島のオランダ商務官医として1823年から6年間、日本に滞在し、日本に近代西洋医学を伝え、日本の近代化、ヨーロッパにおける日本文化の紹介に貢献したシーボルト(現在のドイツのバイエルン州生まれ)の名を知る人は、日本には大変多いと思います。しかし、この日本で広く知られた二人、シーボルト医師とペリー提督との間に日本訪問を巡って存在した確執を知る人は、あまりいないのではないでしょうか。
(注)シーボルトは国外持出禁止の日本地図を受け取った罪で、日本を追放されました。
シーボルトの日本追放
遠征記は、シーボルト博士が日本滞在中の観察結果を基に日本についての著述をしたこと、それが彼の先輩たちのものを全部束ねたものより大きなものであったことを述べた後、次のように記しています。
シーボルトは出島のオランダ商館長と共に江戸に赴いた。日本の天文学者高橋作左衛門が法律を犯し、その当時日本で製作された地図の写しをシーボルトに提供した。(略)シーボルトがオランダ生まれではなかったという事実から、この出島の医者はロシアのスパイではないかという疑いが生じた。この結果、調査は一層厳重となり厳格な処置が執られそうであった。シーボルトと友人であり、接触した人は全部投獄された。ただ一人例外があった。この例外の人物は、政府の証人とされた。この人は、友情のため証人としての誓約を破って、シーボルトに何が起ころうとしてるかシーボルトに密かに知らせた。この警告があったため、シーボルトは書き付けが押収され身柄が拘束される前に、その内の最も重要な文書を無事隠すことができ、その写しをつくって政府役人の使用に供するとが出来た。(略)調査は約一年続き、シーボルトは日本を追放された。この物語が詳細まで真実であるか否かは別として、少なくともこのことはヨーロッパ大陸に流布し、我が遠征隊の出帆以前に右のような形で合衆国に達していたのであった。
シーボルトの遠征艦隊への参加を拒否
ペリー提督が司令官に任命された後、シーボルトは同遠征隊の一員として雇われたいと申し出た。彼は非常に日本に行きたかったので、自分の望みを達するために非常に大きな影響力を有する人物を動かした。ペリー提督は、いくつかの理由から、特に追放されたと一般に信じられている人を日本に連れ帰ったために自分自身が累を及ぼされたくないし、自分の使命の成功を危うくしたくなかったので、あらゆる影響力を持つ人、最高の権勢家からの推挙も拒絶し、シーボルトを同艦隊中のどの舟にも乗り込ますことを積極的に拒絶しつ続けた。
シーボルトへのペリー艦隊の強い反発
日米和親条約が締結されたことが世界に報告された数ヶ月後、シーボルトはボンで「あらゆる国民の航海と通商とのために日本を開国させようとしたオランダとロシアの努力に関する信頼すべき記録」を発表しました。これに対して、遠征記は次の通り記しています。
我々はシーボルトのためにその公刊を惜しむのである。それは何ら科学的な目的に役立たないものであり、著者が以前に発表した価値ある文書において知らせていること以上には、日本について何一つ新しい事実さえも記していない。それは、明らかに抑えに抑えた苛立たしい虚栄心の産物であり、また、明らかに二つの目的を目指したものである。一つは、著者自らに栄誉を与えることであり、他の一つは、合衆国並びに日本遠征隊を非難することである。吾々は、フォン・シーボルト博士の日本に関する優れた著書を高く評価しながらも、最初の目的を達成するために行われた利己主義的、虚栄心、自尊の現れを大いに遺憾とするところである。また、第二の目的を達成する際になされた詭弁と無礼を非難せずに見逃すことはできない。その著書全体にわたる主旨と精神は、その冒頭に見いだすことができる。即ち、その書物の第三項に次のような記述があるからである。「さて、我々は、日本を開国させたことに対し、アメリカ人にではなくロシア人に感謝しなければならない」と。極めて最近までロシアが日本と条約を締結できなかったということを思い出すとき、読者は多分次のように信じたに違いない。即ち、鋭敏な日本人が、シーボルトをロシアのスパイであると疑って追放したのは、当たらずとも遠からずであろうと。
8.幕府の対応次第では、沖縄はアメリカの管理下に!
幕府が条約締結を拒絶するか、米船舶への港の開放を拒否した場合、ペリー提督は沖縄をアメリカの管理下におこうと考えていました。アメリカ側の要求を日本側に認めさせるための最終的手段として、ペリー提督の方針の中に軍事力の行使が想定されたことが分かります。遠征記は以下のように記しています。
ペリー提督の使命と目的
提督は事故によって日本の海岸に漂着したアメリカ市民の待遇に関して日本政府の釈明を要求し、合衆国政府はもはやかかる行為に耐えることが出来ないと声明し、アメリカの船舶のために少なくとも一あるいはそれ以上の日本の港を開港させることに努力し、もし可能ならば公正にして平等なる基礎に基づいて、日本と条約を協定し、また、一般条約を結べない時は、通商を行うことが出来るような条約を結ぶはずであった。勿論、この点に関しては使命が成功に終わるか否かについて多大の不安があった。そして、提督は、合衆国の当然なすべきことを断固として主張し、祖国の利害にとって望ましいと思われる関係の確立を慎重に主張することで、自分の権限内にあるすべてのことを行おうと決心した。
提督は日本に適当な釈明と弁明をさせ、今後日本に漂着する外国人に対して親切な待遇をおこなう保証を得て、そして日本の諸港に停泊する捕鯨船を親切に迎え、その必要な物資を供給する保証を得ることは、あまり困難でないだろうと考えた。
他の一つの目的の成就については、武力に訴えざる限りは、多少疑問であった。けれどもこの武力策は日本政府側が何らかの明白な悪行又は無礼な行いをなすときにのみ正当とされる手段であって、勿論それは予期されないことであった。
沖縄の占領の用意
提督は、アメリカ市民に対する酷い待遇を改めるよう要求するとの自分の使命が容易に達せられると信じたが、それにもかかわらず、いかなる失敗をも防ぐ準備を行った。沖縄(琉球)をアメリカ国旗の管理下におこうと用意していた。もしそれが必要ならば、アメリカ市民に対して行った周知の無礼陵辱への抗議を理由として、このことを行う筈であった。  
 
有田焼

 

『ペリー提督日本遠征記』より
「日本人はきわめて勤勉かつ器用な民族であり、製造業の中には、他国の追随を許さないほど優れたものもある。」
「磁器―日本人は磁器製造を得意とし、中国製のものより優れているという人もいる。」
「ともかくわれわれが見たことのある日本製の磁器は非常に繊細で美しいものである。」

1853年、黒船でやってきたアメリカ合衆国海軍提督マシュー・ペリー。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌は、当時の人々が受けた衝撃を物語っています。ペリーは帰国後、歴史家F・L・ホークスに、日本への遠征記の編纂を依頼しました。ペリーとその秘書官や士官らの航海日誌のほか、特殊任務についた専門家たちの報告書をもとにまとめられたのが、『ペリー提督日本遠征記』です。
本書を紐解くと、ペリーらが、実に入念に日本のことを調べ上げていたことがわかります。文献だけでも、13世紀のヴェネツィア商人マルコ・ポーロが記録した中国人からの伝聞から、当時としては最新の長崎・出島に滞在したドイツ人医師シーボルトの報告書までを網羅し、内容は日本の統治機構や階級制度、法律やコミュニティのあり方、宗教、文化、言語、植生から技術力まで多岐にわたっています。
オランダ貿易商や長崎・出島滞在経験者からの報告、そして日本からの輸出品を手にしながら、製造技術についての情報も集め、評価しています。「磁器」とだけ書かれており、産地まで特定されてはいないものの、ペリー艦隊の航路から考えて、有田焼を手にしたことはほぼ間違いありません。
ペリー艦隊は、1852年11月、アメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークを出航し、大西洋を渡り、ポルトガル領マデイラ島から南アフリカ・ケープタウンへと南下、インド洋を渡ってシンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由して1853年7月に浦賀に入港しました。当時のアメリカはまだ西部開拓が始まったばかりで、大型の蒸気船の造船所や港は東海岸にしかなく、南米最南端の難所ホーン岬を通る太平洋航路よりも大西洋・インド洋航路のほうが安全だったためと考えられます。また、毎年6〜7月(旧暦)に長崎に入るオランダの貿易船と同時期に同じように主要な貿易港に寄港することで、日本に関する情報収集には大いに役立ったはずです。

日本に開国を迫るという、失敗の許されない大統領命令を帯びたペリー艦隊。その乗組員たちにとって、7カ月あまりの日本への航海はどんなものだったのでしょうか。
ときに冷淡なまでに簡潔明瞭な報告のなかで、磁器に関しては「非常に繊細で美しい」という賛辞が贈られています。楽しみの少ない船上生活において、日本製の磁器の白い輝きは、ペリーや船員たちに束の間の安らぎをもたらしたことでしょう。
と同時に、2000年以上もの歴史※3をもつ日本という国と、独立してからわずか76年のアメリカ合衆国との違いに、さまざまな思いを巡らせたはずです。古から独自の文明を築き、宝石にも匹敵する美しい器をつくる国=日本と、広大な大陸の開拓にまい進する国=アメリカ、その違いを前に、この二カ国の交易の扉を押し開く任務の大きさに武者震いを覚えていたかもしれません。
この頃の有田焼の流通には大きな変化が起きており、それは日本の近代化を牽引することになります。
佐賀藩10代藩主鍋島直正は、1841年から久富与次兵衛に、長崎で直接オランダ貿易商に有田焼を販売することを許し、さらに1848年からは藩直轄の佐嘉商会※4を設立し、有田焼の輸出に力を入れています。この頃有田皿山は、壊滅的な被害をもたらした文政の大火からの復興期にあり、多くの名陶家を輩出※5しており、ペリーらがオランダ貿易船の寄港地で手にした有田焼も佐嘉商会・オランダ貿易商を通じて海外にわたった名品であった可能性が高いのです。
日本はいまだ開国前夜、有田焼はすでに海を越えていました。そして、その貿易で得た利益は幕末佐賀藩の蒸気船をはじめとする技術開発に投資されていきます。2015年7月に、「明治日本の産業革命遺産〜製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとして世界文化遺産に登録された三重津海軍所跡から発掘された磁器の「灘越蝶文(なだごしちょうもん)」は、激動の時代、佐賀藩の技術革新にかける意気込みを物語っているのです。
同時に、その文様は、鎖国という制約さえも乗り越えて海を渡っていった有田焼の大航海を映し出しているようにも感じられます。もしかすると、ペリーは有田焼に、大海原を越えて新たな交易の時代を開こうとする自分自身の姿を重ね合わせて見ていたのでは…?そんな想像さえかき立てられるのです。
  
銭湯

 

1854年3月、相模の国、横浜村で、米国東インド艦隊司令長官マシュ−・カルブレイス・ペリーと日本全権林大学頭との間で、日米和親条約が締結された。この条約により下田は外国船の補給港として開港され、外国人が上陸し、通りを自由に歩くことを公式に認められた日本最初の町となった。そして外国人が一般民衆と接触することを許された下田の町では、いたるところで異文化接触が起こり、双方の異文化コミュニケーション能力の不足から、異文化に対するさまざまな誤解と偏見が生まれた。
ペリー艦隊は1854年4月から6月まで約2ヶ月間、下田に停泊し、上陸しているが、その間のアメリカ側の記録はアメリカ合衆国議会に提出された『ペリー艦隊日本遠征記』に、克明に記されている。その中に「下田の公衆浴場」と題された石版画がある。それは男女混浴の浴場で、現在でも湯治場などでは見かける風景である。現代の日本人がこれを見ても、猥褻性を感じるようなことはないようなものであり、まして当時の日本人にとって、(特に下田の住民にとっては)ごく当たり前の光景であったと思われる。ところがこの絵はペリーを初めとするアメリカ人にとっては「許し難い」「恥知らずの」光景であるとして、日本人の民族としての放蕩性を示す資料とされてしまった。そのためこの絵は『遠征記』の第2版である普及版では本から削除されてしまうのである。『遠征記』では次のように述べられている。「裸でも気にせずに男女混浴をしている公衆浴場を目のあたりにすると、アメリカ人には(下田の)住民の道徳性について、さほど良い印象は持てないだろう。」この記述はかなり控えめであるが、艦隊の士官の記述では嫌悪感を直接的に表現し、「みだらで」「吐き気を催すような」光景であると酷評している。そしてこの記述により「日本人は混浴が好き」と言う情報は、日本人のステレオタイプを形作り、世界中に広まった。そのため、ペリーの後から来日した外国の使節の報告書にも「日本の混浴の風習」に対する記述がたびたび登場するようになる。
たとえば、ペリーの直後に日本を含む北太平洋に遠征したリングゴールド提督率いるアメリカの艦隊の一員であるハーバーシャムが出版した『北太平洋岸調査航海記』では下田の公衆浴場の混浴について「ふしだらで」「堕落した」風習であり、日本人の「放蕩性」「わいせつ性」「道徳性の欠如」を表すものであると述べている。
この「日本人=混浴=淫蕩」という図式は、当時日本社会に広まっていた浮世絵の春画が外国人の目に触れることによって一層増幅された。18世紀後半から19世紀前半にかけての日本では男女の色事を描写した枕絵と呼ばれる浮世絵木版画が流行した。元禄時代の江戸を中心に庶民文化が花開き、「性」を美的に表現する枕絵をほとんどの浮世絵師が描いたと言われている。その流れはペリーの来航した嘉永年間まで続いていた。その枕絵がペリー艦隊の乗組員の手に渡り、「インテリ・アメリカ人」が日本人の非道徳性を糾弾する際の格好の材料とされた。
このような混浴や浮世絵についてのアメリカ人の価値判断に対し、日本人はどのように応えていたのであろうか。伝えられるところでは、混浴の風習についてアメリカ人から尋ねられた時日本の役人は「このような混浴の風習は下田のような田舎で見られるが、江戸のような都会では見られない。」と説明したという。つまり下田という町を日本の中で特殊化し、一般の日本人から切り離したのである。そしてそれによって「日本人=混浴=淫蕩」という図式の中から「日本人」を取ろうとしたのである。しかし「混浴=淫蕩」については何も言っていない。このように文化的な価値判断を避け、事実をうやむやにして言いぬけようとする態度は現代の日本人にも通じるものがあるが、いずれにしても異文化コミュニケーションという点では好ましいやり方ではない。逆に相手の誤解を正当化し、増幅させるだけである。相手に文化的な差異を意識させなければ異文化の間でコミュニケーションは成立しない。しかし、たとえ日本人と文化について議論をしたとしても、19世紀アメリカの「ビクトリア朝式」の表面的な道徳主義にどっぷりと浸っていたペリーを初めとする米海軍インテリにとって、自文化の価値に疑問を持つなど考えられないことであったろう。ましてペリーに対し弱い立場にある当時の日本の役人が自文化の価値観を主張するのは難しかったろう。
当時の欧米諸国には、西欧近代中心主義的な近代科学思想に対する絶対的な自信から、文化を超えたあらゆる事物の説明・解釈ができるという思い込みがあった。そして経済的に貧しい国に「未開発」「後進国」「非文明国」というレッテルを貼り、欧米的価値の無条件的な受け入れによる「近代化」を絶対善とした。このヨーロッパの文明人対アジアの野蛮人という二極構造からなる欧米の自文化中心主義はペリーにもよく見られる。ペリーは日本人に対する記述の中で、「子供のように」という表現をよく使う。これは欧米人を大人に見立てていることが前提となっている。つまり子供である日本人は大人である欧米人からものを学ばねばならないということである。軍人にありがちな文化的植民地主義がペリーを初めとする艦隊兵員にもしみついていたのであろう。
これに対し、幕末に来日したスイス全権大使のアンベールでは、異文化に対する姿勢がだいぶ異なってくる。アンベールは1863年(文久3年)、スイスの対日修好通商条約の首席全権として来日し、約10ヶ月間日本に滞在した。そしてその間の日本観察記録として1870年にパリで『幕末日本風俗図絵』を発刊した。この本に見られるアンベールの日本の風俗・社会に対する観察眼は客観的で、その時代の日本を鮮明に伝えている。その本の中で混浴の風習について次のように言及している。「このような(混浴の)風習がわれわれにとってどんなに奇異なものと思われても、ヨーロッパ人が到来する以前には、日本人は自分達の風習に非難されるべき一面があるなどとは、明らかに誰一人疑っていなかった。それどころか、それが家庭生活の慣例と完全に調和を保っており、その上、身体を清めるという宗教的・衛生的義務と関係ない、あらゆる偏見を排除し、道徳的見地からしても申し分のないものと思っていたに相違ない。一方、ヨーロッパ人は、日本人が自負している偏見のない現実と事象を抽象的に考える能力が日本人にあることを信じたくはなかったのである。」アンベールの場合、日本文化に対する感情移入の強さから、全体的に日本の風俗を尊重する記述が多い。外国の風俗・習慣を自国の文化のそれと対比させながら、その違いを認め、それぞれの相対的な価値を認めて行こうとするのは西欧の自文化中心主義から脱却しようとした試みであった。それは文化相対主義と呼ばれ、文化人類学の学問分野の発達の中で高い評価を受けた。
アンベールの日本文化に対する態度も、この文化相対主義の範疇に入るものである。混浴という風習を日本文化の枠組みの中で捕らえ、その中での意味を認めようとした態度は、自文化の価値観に何の疑問も差し挟まなかったペリーからすると、かなり進んだものといえるのではないだろうか。
ただし、アンベールの文化相対主義は、理想ではあるが、自文化絶対主義に対した時、相手の自文化絶対主義を受け入れることが、自らの文化相対主義を守ることになるという矛盾を持っている。19世紀、民族文化間の距離が保たれていた時は、その矛盾が表面化してこなかったが、地球上のすべてがつながっている現代社会では、自文化絶対主義は争いに、文化相対主義は孤立に直結する。そのような多文化共存を模索する中で出てきたのが、「多様性における一体性の追求」である。すなわち、世界中を行き交う情報の天文学的な増大がそれらを整理することのできる一元的な価値を要求する。それに対して、固有性を評価しようとする動きが生まれる。相互に刺激を与えあうような異文化コミュニケーションの中で、一元性と多様性を求める相反する力が作用しあうのが、現代における異文化接触の理想とされてきている。コミュニケーションが、連続的で相互作用に基づくものであることを考えれば、それは当然のことなのであるが、そうご理解への努力と年対を要することから、近年まで誰も積極的に主張しなかったのである。特に日本人にはもっとも不得手な分野であった。ペリー来航から1世紀半、そろそろ多様性と一元性のバランスのとれた異文化コミュニケーション能力を確立し、自己主張することが日本人に要求されているのである。  
 
「琉球は中国ではなく日本」

 

琉球が中国なのか日本なのかという議論について、ペリーが黒船で江戸にやってきたとき、琉球を経由し滞在はしている。「ペリー提督日本遠征記」 ペリーが依頼しホークスという歴史家が編纂しているが、一応はペリーの著作である。ペリーは琉球は日本だと認識している。

琉球で数年間生活したベッテルハイム博士は、いくつかの理由から、次のように信じている。 「この国はある程度は独立しているが(琉球の支配者は北京に対する貢納とひきかえに、王という尊称を帯びることを許されている)、結局のところ日本の一部である」  その理由を要約すると次のとおりである。  
一、「那覇に日本の守備兵が駐屯している」。しかし、この駐屯兵が公然と姿を現すことはないことを、知っておかなければならない。なぜならば、琉球人は武器その他の軍備を持たない戦争嫌いな国民をよそおっているからである。しかし、ベッテルハイム博士はたまたま駐屯兵の一隊が武器を手入れしているのを見かけている。
二、琉球の貿易はすべて日本とのものである。琉球が中国の属領ならこのようなことはないはずである。日本は年間約四五〇トンの船を三、四十艘、琉球に派遣しているが、毎年中国に行く琉球船は一艘にすぎない。一年おきに、一艘以上の船で中国に貢物を運んでいると言われているが、那覇に入港を許された中国船は一艘もない。
三、琉球には多数の日本人がいて、現地人と変わりなくたえず出歩いている。日本人は琉球人と結婚し、土地を耕し、那覇に住居を建て、要するに、日本にいるときとまったく同じように暮らしているようだ。しかし、中国人はほかの外国人と同じように追いまわされ、密偵につきまとわれ、ののしられ、侮辱されている。このことは、わが士官のひとりの日記からはっきりと確認できる。この士官は自分が目撃したいくつかの事実に基づいて次のように述べている。「宗教、文学、風俗習慣が、同一ではないにせよ、類似しているにもかかわらず、彼ら(琉球人)が、ほかのすべての国民と同様に、中国人との交際を固くこばんでいるのはまったく明らかである。実際は、琉球は事実上も法律上も日本の一部なのであり、そのモットーは『全世界と絶対に交際しないこと』なのである」。
四、ベッテルハイム博士が琉球当局者と接触するときには、いかなる場合にも常に少なくとも二人の人物が姿を見せた。この人物が会合をとりしきり、琉球の役人を操っていたのは明らかである。彼らは日本の監察官であると、博士は推測した。
五、琉球の言語、服装、習慣、道徳、悪習は日本のそれと一致しているので、両国の明白な関係が確認できる。言語は人類学者にとって最も確実な証拠となるものである。この点に関しては、わが士官の調査結果を、適当な場所でさらに詳しく説明することにしよう。

ペリーが黒船でやってきた出来事は、日本史でかなり重要な部分である。この当時の日本の領土問題について語るのに、これほど権威のある人物はいないであろう。琉球は中国に貢ぎ物をしていたにもかかわらず、ペリーが琉球を日本だと認識していたのは、説得力のある証拠だと思われる。 
 
酒宴

 

1853年7月12日
1853年7月8日、ペリー艦隊は浦賀沖に姿をあらわし、米フィルモア大統領から将軍に宛てた親書の受け取りを求めた。これに対し日本側は、かねてから黒船来航の情報を元に準備していた通り浦賀での受け取りを拒否、長崎への移動を求めるが、ペリーはこれを拒否して、現在地浦賀での授受を求めた。その交渉にあたったのが浦賀奉行所与力香山栄左衛門である。香山は浦賀の総督(Governor)=奉行を詐称したが、対等な交渉相手を求めていたペリーにもとっても好都合で、相互のやりとりを経て幕府も長崎での授受を諦め、香山を通じて、浦賀に応接所を設けてしかるべき地位の者が親書を受け取る旨通知した。
最初の飲み会は浦賀での親書授受が決定した7月12日、サスケハナ号上でのことである。日本側は香山栄左衛門と通訳堀達之助・立石得十郎の三名。米側はサスケハナ号艦長フランクリン・ブキャナン中佐、艦隊参謀長ヘンリー・A・アダムズ中佐、旗艦付副官コンティ大尉と通訳のウィリアムズ、ポートマン。

「香山栄左衛門とその随員はたいそう上機嫌で、サスケハナ号の士官たちの提供するもてなしを快く受け入れ、きわめて洗練された風儀でそれに応対した。主人側のもてなしを受けるときは自由に飲み食いし、饗応の一部をなしていたウィスキーとブランデーがとくにお気に召したらしい。なかでも奉行のお気に入りは外国製のリキュールのようで、とくに砂糖を混ぜたものを賞味して、舌鼓を大きく打ちながら、甘美な酒を一滴も残さずに飲み乾かした。通訳たちも楽しい宴席に次第にうちとけて、酔っ払った奉行をからかい、笑いながら『お顔がもう真っ赤になっていますよ』と、栄左衛門が飲み過ぎないよう注意した。
これらの日本の高官たちは、紳士らしい泰然とした物腰と高い教養を物語る洗練された容儀を崩さなかったが、つとめて社交的にふるまい、気さくに会話を交わした。彼らの知識や一般的な情報も、優雅で愛想のよいマナーに劣らず優れていた。身だしなみだけでなく、教養もなかなかのもので、オランダ語、中国語、日本語に堪能で、科学の一般原理や世界地理の諸事実にも無知ではなかった。地球儀を前において、合衆国の地図に注意を促すと、すぐさまワシントンとニューヨークに指をおいた。一方がわが国の首都で、もう一方が商業の中心地であるという事実を知り尽くしているかのように。彼らはまた同じようにすばやく、イギリス、フランス、デンマークその他のヨーロッパの諸王国を指さした。」

後半部分はおそらく通訳たちの知識であろう。十九世紀初頭、特にロシアの脅威が明らかになってくると幕府も知識人も海外情報のキャッチに積極的になり、英国の中国進出以後はその勢いは増す一方で、通訳をこなすような知識人なら知っていても驚きではない。黒船来航時の対応策を巡ってもかなりの確度の情報に基づく的確な献策が次々なされている。
また、交渉担当者を務めた香山栄左衛門はこの後もペリーからそのふるまいの見事さを激賞されていて、再来航時も彼を窓口にとペリーが求めているほど。日米和親条約が確かに一部不平等な条項もあるにはあるが当時としてはかなりフェアな内容で締結できたことに大きく貢献した。幕府でもこの人への評価はとても高くて、かねてからもし黒船が来たら交渉窓口は香山で、というのが既定路線だった。この人の伝記の一つもあって良いレベルなのだが、根強く残る黒船で右往左往する幕府という根拠の無い幕府無能史観のおかげで、未だに彼の認知度は低く、黒船交渉史に少し登場する程度だ。また、その後の報われなさというのもあるのだろう。条約締結後、彼は外国との関係についてあらぬ疑いをかけられて左遷され、結局再び表舞台に出ること無く生涯を終えた。
1853年7月14日
この日、久里浜で無事親書の授受が完了し、その返答は来春まで待つとペリーは言い残して一旦日本を離れることになったが、ペリー艦隊はその日の停泊地として現在の横浜市金沢区、小柴沖に針路をとった。この地は後に再来航時にも停泊しアメリカ停泊地と呼ばれるが、ここでペリー艦隊は測量探査を開始、これに敏感に反応したのが日本側で、香山栄左衛門と通訳堀達之助がペリー艦隊に接近、測量を巡るやりとりが行われ、測量調査について相互の理解を得て一段落した。その後、あらためて香山らは米士官たちと軽食をともにしている。

「彼と彼の同行者は軽い食事でもどうかと勧められると、すぐに承諾し、やがて旺盛な食欲で、出された食事の賞味にとりかかった。このとき、政府船がもう一艘横づけされているとの報告があったので、その船に乗り込んでいた日本の役人もさっそく招かれて、船室での歓待に加わった。こうして、まことに陽気な場面が現出し、そこではハム、堅パンなどの食べ物がふんだんに供され、ウィスキーも飲み放題で、たちまち皿も瓶も空になっていった。このご馳走が大いに気に入ったらしく、通訳たちは大変な喜びようで、この愉快な宴の価値多い記念品を持って帰りたいと頼み、腹はいっぱいなのに大きな袖にパンやハムを入れて持って帰った。それによって思い出と味覚を新たにしようというわけである。夜が近づいていたので、日本人たちは艦隊の饗応に対する満足の意を丁重に表しながら艦を去っていった。」

7月17日、ペリー艦隊は日本を離れた。
1854年3月8日
1854年2月8日、ペリー艦隊が再来。幕府とペリー艦隊は会見場所を巡って交渉を行い、2月25日、横浜に応接所を設けて条約についての交渉を開始することとした。横浜応接所は3月6日に完成、3月7日、翌8日にペリー一行が上陸することが通達され、あわただしく準備が始められる。一行はペリー側の記録では五百、日本側の記録では446人であったという。日本側は全権として林大學頭、以下、江戸町奉行井戸対馬守覚弘、浦賀奉行伊澤美作守政義、目付鵜殿民部少輔長鋭、儒者松崎満太郎の五人と司会兼通訳として森山栄之助他随行員多数。3月8日の横浜応接所での交渉は前年の親書への返答、通商の可否、条約内容などについて激しく議論が交わされた。
ひとまずこの日の初交渉が終わり、日本側はペリー一行に酒と食事を振舞っている。詳しいメニューなどはペリー艦隊日本遠征記には無いが、日本側には記録が残っているので、加藤祐三「幕末外交と開国」から簡単に紹介する。

「幕府は昼食に三百人前の献立を用意した。林は退席し、井戸、伊澤、鵜殿、松崎がともに会食した。めいめいの膳には、酒と吸い物と肴(松葉スルメ、長芋、サザエ、車海老、白魚・・・と五十種類ほど)併せて二汁五菜。それからが本膳で、一の膳、二の膳とつづき、全てを合わせて百種類をゆうに超えた。最後が菓子で、海老膳などの名がある。」

これを請け負ったのが幕府御用達の日本橋の料理屋百川であったとも、その百川で修行した浦賀宮ノ下の岩井屋であったとも言われる。何にしろ相当な量をかなり急なスケジュールで、かつ最高の状態で出すことになったわけで、請け負った料理人たちにも相当なドラマがあっただろうが、詳細はわからない。
ところで、加藤著ではこれが3月8日のものとしているが、もしかすると後述する3月31日の饗宴のものではないだろうか。加藤は「ペリー側には物足りなかったという記述もある」(加藤P182)としているのだが、ペリー艦隊遠征記で物足りなかったと書かれているのが3月31日の饗宴のことであるのと、料理のメニューも3月31日のものとよくマッチしていることなどから、一応、疑問を呈しておくに留める。
ペリー艦隊日本遠征記の記述は以下のとおり。

「彼らは席を立つときに、提督と部下の士官に軽食をとるように勧め、酒、果物、菓子、スープ、魚からなる食事がすぐに出てきた。アメリカ人はこの接待に応じたが、委員諸卿が提督や士官たちと会食してくださるなら、アメリカ人が抱く歓待の観念にもっと調和するだろう、食事をともにすることは、合衆国ではほかの多くの国々と同じく、友情の証と考えられているからである、と告げた。日本人はそれに答えて、外国の習慣には不案内だが、喜んで相伴しようと言った。彼らはそれから退席したが、まもなく第二位と第三位の委員が戻ってきて、すでに並べられていた食事に親しく加わった。高官のひとりはすぐに酒盃を満たし、一滴残さず飲み干すと、盃をさかさにした。そして、賓客のためにまず乾杯するのが日本の習慣であると言った。」

文中の第二委員は井戸、第三委員は伊澤で、彼らに続いて、ペリー艦隊記録では委員全員が再び席に付いたとある。食事をしながら、あらためて交渉時の議題の一つだった死亡した海兵隊員の埋葬について、話し合ったという。
1854年3月27日
以後、熾烈な駆け引きを経て双方とも譲歩しつつ交渉が進み、条約案がほぼまとめられる。細部の詰めを残して3月31日の調印を前に3月27日、旗艦ボーハタン号上でペリーの招待によって酒宴が催された。

「提督は艦隊の四人の艦長、通訳ウィリアムズ氏と自分の秘書を招いて委員たちと食卓をともにした。日本の通訳栄之助は上司の特別のはからいで、この部屋の隅のテーブルに着くことを許された。そんな下座にいても、栄之助は平静さも食欲も失う気配はなかった。常に荘重にして威厳のある態度を保持している林は、控えめに飲食していたが、すべての料理を賞味し、あらゆる種類のワインをすすった。他の委員たちはすばらしい大食漢ぶりを発揮して、首席委員よりも腹いっぱいに饗宴を楽しんだ。松崎[満太郎]がこの席の中心になり、たちまちアメリカ料理について明快な食通ぶりを示し、ことにシャンペン酒を愛好したが、他の酒類もけっして嫌っているわけではなかった。リキュール類、とりわけマラスキーノ酒が日本人の嗜好にぴたりと合うらしく、何杯も何杯も飲んだ。松崎は愉快な男で、大量の献酒の効果がすぐ表れ、ことのほか良い気分になった。林は謹厳な殿様で、飲んだくれの同僚が浮かれて楽しんでいる無礼講の酒盛りでも、彼ひとりが素面のままでいられたのは確かだった。
甲板の日本人一行は、各艦船から集まった大勢の士官に歓待され、シャンペン酒、マデイラ酒、パンチを浴びるほどふるまわれて、すっかりにぎやかになった。彼らはこれらの酒が大いに気に入ったようだった。日本人たちは率先して健康を祝う乾杯の音頭をとり、斗酒なお辞せずに飲み干した。彼らの張り上げる声のけたたましさたるや、勇壮で軽快な曲を奏で続けて宴を盛り上げている軍楽隊の音楽もかき消してしまうほどだった。要するに、それはにぎやかな歓楽の光景であり、お客に大いに楽しんでもらえたということだ。食べ物も飲み物と同じく日本人の口に合うらしく、テーブルに満載した大量の珍味佳肴がたちまち消えてなくなるのには、いちばん大食いのアメリカ人でさえびっくり仰天させられた。日本人の猛烈な食欲にあっては、料理の選択やコースの順序などおかまいなしで、魚と獣肉と鶏肉、スープとシロップ、果物とフリカッセ、焼き肉と煮た肉、漬物とジャムをごたまぜにして、食通があっと驚く邪道ぶりを示した。
(中略)
さて、日が暮れると、日本人は飲めるだけの酒をしたたか飲んで、退艦の用意にかかった。陽気な松崎は両手を提督の首にまわし、よろよろしながら抱きしめて、提督の新しい肩章を押しつぶしながら、涙ながらに日本語で、英語に直せば『Nippon and America , all the same heart』[日本とアメリカの心はひとつ]という意味の言葉を繰り返した。それから彼は自分より多少はしっかりしている同僚に助けられて、ふらふらしながら舟に乗り込んだ。まもなく上機嫌の一行は艦を離れ、すばやく岸に向かっていった。最後の舟がボーハタン号を離れるとき、サラトガ号は一七発の礼砲を放った。」

ペリーの副官は、松崎がペリーの首に腕を巻きつけたことについて、提督が嫌がるのではないかと気遣ったが、のちにペリーは「彼が条約に調印するなら『キスさせても良かった』」(加藤P207)と語っていたという。ただの面倒臭い酔っぱらいと化した松崎満太郎を始め日本側はかなり羽目を外していたようだが、文中にもある通り、米側も「お客に大いに楽しんでもらえた」と全く意に介していない。
また、中略部分は日本人が余った料理を袖の中に入れて大量に持ち帰っていたこと、また出された料理を持ち帰ることこそが礼儀と考えていたこと、黒人音楽ショーを楽しんだことなどが書かれている。
ところで、羽目を外した松崎だが、松崎に対するアメリカ人の第一印象は「不快」であったから米側の印象が最初とこの饗宴とで大きく変わっているのも面白い。松崎は代表団第五位の地位を与えられて臨席し交渉の経緯を配下に記録させていたのだが、何者か米側には掴みづらかったらしく、最初の交渉時の記録には「ひょっとしたら皇帝本人であったのかもしれない」(下P156)などと書かれてもいる。まぁただの陽気なおじさんであることがわかって好印象に変わったようだ。ペリーも「外見はいかめしく無愛想だが、彼はむしろ、この世の華やかで善なるものを好むようである」(加藤P204)と書いている。
1854年3月31日
この日、日米和親条約が締結され函館・下田の開港と両港での補給、漂流民の救助、アメリカへの最恵国待遇付与、十八ヶ月後の米領事駐在の許可などが定められた。日本は開国に向けて大きく舵を切ったのである。この条約締結後、日本側主催による饗宴が行われている。

「全員が席に着くと、給仕がすばやく次々と料理を運んできた。献立は主に濃いスープというよりはシチューに近いもので、たいていは鮮魚が中心だった。料理は小さな土製の鉢または椀に入れて出され、四方約一四インチ[約三五センチメートル]、高さ一〇インチ[約二五センチメートル]の漆塗りの大に載せて運ばれ、賓客のひとりひとりの前の食卓に置かれた。料理ごとに醤油その他の調味料が添えられ、食事中を通して独特の瓶に入った日本の国民的リキュールであるサキ[酒]、すなわち米から蒸留した一種のウィスキーが大量に出された。いろいろな甘い糖菓や多種多様なケーキ類が、ひときわふんだんに食卓のここかしこにおかれていた。宴会が終わりに近づくと、焼いた伊勢エビが入った皿、魚の揚げ物、ゆでたエビ二、三尾と白いゼリーを固めたような小さな四角いプディングが各人の前におかれ、これは賓客が帰還したあとで艦に届けられるはずだと告げられた。確かにあとで送られてきたので、しかるべく受け取った。」

「その優雅で行き届いた心遣いは、礼儀のうえで欠けるところがなかった」「日本人のもてなしは、大変手厚いもの」と大変な好印象だったようだが、食事の量の少なさや「料理の技術については好ましからざる印象」だったとも書かれている。とはいえ、それらは些細な問題で米側は「この宴会を楽しく陽気に過ごし」たと書かれている。ちなみに日本側が「神奈川では最高の品を手に入れるのが困難なので、食事がみすぼらしいものになってしまったと陳謝」している。双方の相手を思いやる配慮が光っていた。前述の通り、このような記述から3月8日のところで紹介した記述は3月31日のものではないのかな。加藤著の記述の元になっている史料がよくわからないので一応疑問だけ。
というわけで、日本を揺るがせた黒船来航は日米和親条約の締結によって一区切りし、時代は幕末へと突入する。次の日米修好通商条約によって定められた様々な不平等条約が幕藩体制を揺るがし列強の進出、攘夷運動、志士たちの活躍、大政奉還、戊辰戦争、明治維新へと激動していくことになるが、最初の黒船来航をソフトランディングさせることができた要因の一つに、このような飲みニケーションがあったということで。 
 
箱館開港 [函館]

 

[ 室町時代の1454年(享徳3年)、津軽の豪族河野政通が宇須岸(ウスケシ、アイヌ語で「湾の端」という意味)に館を築き、形が箱に似ていることから「箱館」と呼ばれるようになった。1869年(明治2年)に蝦夷地が北海道となり箱館も「函館」と改称された。明治2年に箱館を函館と改めたとの説があるが、函館市史では、明治9年に至っても太政官日誌が箱館と函館を混用していた・・・。 ]
アメリカ大統領の親書
嘉永6(1853)年6月9日、ペリーは、浦賀の久里浜に急設された応接所で、浦賀奉行に「日本皇帝」(将軍)宛のフィルモア大統領の親書を提出したが、同親書には、アメリカ西部のオレゴン準州とカリフォルニア州は日本の対岸にあり、「わが国の蒸気船舶は、カリフォルニアから日本へは一八日間で行くことができる」との文言の他に、ペリーを日本へ派遣した目的として、(1)日米両国の「利益」のため両国間における自由貿易を許可すること、ただし、もし日本が「外国貿易を禁止している古来の諸法律を廃止すること」が安全でないと判断した場合には、5年ないし10年間試験的に実施し、「利益」がないことが判れば、「古来の諸法律」に復することができること、(2)「わが国の船舶は毎年カリフォルニアからシナへと通過しており」、しかも、多数のアメリカ人が「日本近海で捕鯨業を営んでいる」ので、難破船員を「親切に待遇」し、彼等の財産を保護すること、(3)「わが国の蒸気船舶は、大洋を横断するのに大量の石炭を焚」くが、石炭を「全航路にわたりアメリカからもって行くこと」は不便なので、「わが国の蒸気船舶やその他の船舶が日本に停泊して、石炭、食料及び水の補給を受けること」を許可すること、またそのための船舶の停泊港として、「帝国南部の地」に「一港」を指定すること、などが記されていた(ピノオ編・金井圓訳『ペリー日本遠征日記』付録A、以下『遠征日記』と略す)。
つまり大統領の親書は、文章は丁重な表現になっているものの、アメリカは日本の対岸にあり、しかも対岸のカリフォルニアから日本へは蒸気船で僅か18日で行けると記していることからも窺えるように、アメリカの軍事力を誇示しつつ(ペリーの率いる巨大な4艘の軍艦は、まさにそのシンボルとして機能した)、日米両国間の自由貿易、難破船員の人道的取扱いとその財産の保護、船舶に対する石炭・食料・水の供給とそのための一港の開港を日本に強く要求したものであった。しかも大統領の信任状には、日本の全権と交渉し、両国間における友好・通商及び航海の協約または条約を締結する全権をペリーに付与する旨記されていたのである(『遠征日記』)。
こうした事態の発生が幕府のみならず、当時の日本の社会全体にはかりしれない程の大きなショックを与えたことはいうまでもない。ただ開港場とのかかわりでいえば、この段階では、日本「南部の地」に1港を要求したのみで、具体的地名は未だ何一つ示されていなかった点は注目されてよい。これには色々な理由があるが、その最大の理由は、当時アメリカ側(ぺリー)は、日本の諸港湾に関する詳細な情報を未だ持っていなかったこと、さらに久里浜での会見は、ペリーの巨大な4艘の軍艦(内2艘が蒸気船のフリゲート艦)を背景にした強い要求により、幕府がやむなく大統領の親書を受取るのみという条件付きでペリーの要求を一部呑む形で実現したものであり、そのため日米両国全権の会見とはいっても、単に大統領の親書他2、3の文書の授受を行なったのみで、外交上の具体的な交渉は何一つ行なわれなかったこと、しかし、この会見が双方とも「目礼計ニて、一言も不二相交一、直に退散」(『幕外』1−121)するような会見だったにせよ、アメリカがその「力においても影響力においても日本にまさっていること」を日本に認識させ、従来の日本の対外関係のあり方を打破して、長崎ではなく江戸湾で日本の「最高の地位にある高官」(内実は戸田氏栄、井戸弘道の両浦賀奉行)と正式に会見し、大統領の親書を直接手渡すことができただけでなく、江戸湾内の測量をもすることができ、これにより以後日本と懸案事項を交渉するための有力な足掛りを築くことができたという点でペリーの所期の目的は達成されたこと(『遠征日記』)、の3点にあったようである。
こうしたこともあって、ペリーは、会見当日、大統領の親書に対する幕府の回答書の受領と懸案事項を協議するため、明年3月再度艦隊を率いて江戸湾に渡来する旨の将軍宛書簡(『幕外』1−28)を提出し、日本の全権より大統領親書の受領書を受けとったあと、翌10日、旗艦サスケハナ号からミシシッピー号(ともに巨大なフリゲート艦)に移乗して浦賀より20(または10)マイル北上し、江戸より7マイル以内の海上まで迫るという大デモンストレーションを行なったうえで、6月12日4艘の軍艦を率いて浦賀を出帆し、琉球(那覇)に向った(ホークス編、土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』、以下『遠征記』と略す。『遠征日記』)。  
日米和親条約締結
嘉永6(1853)年6月3日、アメリカ合衆国水師提督ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航、和親通商を求める国書を置いて抜錨したが、安政元(1854)年1月、再び軍艦8隻をもって浦賀に来り、更に進んで神奈川沖に入泊し、前年提出の国書に対する回答を要望した。幕府は儒者林大学頭および町奉行井戸対馬守らに命じて、神奈川においてこれを応接させた。アメリカの要望するところは、(1)日本沿岸において遭難した合衆国船舶の乗組員の生命財産を保護すること。(2)合衆国の船舶に薪水食料の補給ならびに修理のため数港を開くこと。(3)合衆国船舶との交易のため数港を開くこと。の3箇条であった。そこで幕府は第3の交易を拒否するほかは、その要求を入れることを決し、港は長崎1港に限ろうとしたが、ペリーは、長崎がアメリカの航路に当たらないので、その代わり神奈川もしくは浦賀をもってし、更に琉球・松前の3港の開港を求めた。しかし幕府は琉球・松前は遠隔の地で監督が困難なばかりか、その地には、いずれも領主があり、その意向をたださねばならず、また浦賀・神奈川は内国船舶輻輳(ふくそう)の地という理由で、いずれも拒んだ。ペリーは、琉球は断念しても、松前には自ら赴いて領主に談判すると主張して譲らなかったので、相互譲歩の結果、ついに松前の代わりに箱館を、浦賀の代わりに下田を開港することに決した。彼らが本道1港の開港を重要視した理由としては、当時ロシアがクリミア戦争などによって北太平洋勢力が一時後退しつつあった折柄、その間隙を縫うように英仏が進出して来たこともあり、加えて今まで北大西洋にあった米国捕鯨の中心が北太平洋に移ったことや、更にアメリカの開拓勢力がすでに太平洋岸に達していたことなどが挙げられる。従って、米国捕鯨船が北海道近海において活動するためにも、薪水補給や人命救助等の基地を必要としていたのである。
こうして同年3月3日12箇条からなる和親条約が調印され、箱館港は翌安政2(1855)年3月から開港されることになった。すなわち、
第二箇条
一 伊豆下田、松前地箱館の両港は日本政府に於て、亜墨利加船、薪水食料石炭欠乏の品を、日本にて調候丈は給候為め、渡来の儀差免し候、尤下田港は条約書面調印の上、即時にも相開き箱館は来年二月より相始候事。
等の外、日本近海に漂流する船舶はこれを扶助し、漂民を開港場に送り帰国させることなどの条約が締結された。
諸外国がこれを黙過するはずはなく、同年8月23日には、クリミア戦争のため一足おくれたイギリスとの間に和親条約が結ばれて、長崎・箱館を開港、同じく9月2日オランダにも下田・箱館の開港を許可した。
ロシア使節との応接
これよりさき、嘉永6年、長崎に来港して開国を要求していたロシア使節プチャーチンは、クリミヤ戦争の勃発を聞き、英仏艦隊を避けて一旦帰国し、ニコライエフスクに越冬してこの方面の防備に当たっていたが、アメリカと日本との条約締結を知り、安政元年8月、英仏艦隊が冬の結氷期を避けて南下したのに乗じ、ニコライエフスクを出帆して同月30日箱館に来港した。プチャーチンは、箱館で薪水を求め、かつ奉行に面接して江戸に呈する封書を提出した。更にプチャーチンは、これから大坂に行くが、もし江戸で応接するならば、その旨大坂で通告されたいと述べ、9月7日大坂に向け出帆したが、大坂において下田で応接すべき旨の通告を受け、10月15日下田に到着した。
幕府は、大目付筒井肥前守、勘定奉行川路左衛門尉および浦賀奉行伊沢美作守に命じて応接に当らせ、また、たまたま蝦夷地から帰省した村垣与三郎範正をもこれに加えた。かくして11月1日プチャーチンを福泉寺に引見、会談は同月3日から開かれたが、翌4日はからずも大津波が起こり、停泊中のロシア軍艦ディアナ号が破損するという事件が起きた。
このようなことがあって、両国全権の正式会談が再開されたのは11月13日で、場所は下田の玉泉寺に移された。
なお破損したディアナ号は、君沢郡戸田(へだ)村で修理することになったが、同地に回航中再び暴風雨に遭い沈没してしまった。そこで戸田村で新船を建造することになったが、当時この造船を助けたわが船匠は、これによって初めて洋式造船を習得し、その郡名をとって、この時造ったスクーネル型の船型を君沢形と称した。
日露国境問題
日露和親条約は、すでにアメリカやイギリス、オランダとの間に締結された後なので、これを拒む理由はなかったが、ただロシアとの間には懸案として、国境問題が横たわっていた。従って論議はこれに集中され、その交渉の過程において千島方面では、ロシア側は、択捉島は元来ロシア領であるのに、日本人が占有しているのだといってその領有を主張し、日本側は、千島全島は日本領であるのに、ロシア人がその北部を侵しているといって譲らなかった。この結果、ロシア側は、交易が許されるならば択捉島までは譲歩するということになったが、北蝦夷地(樺太)はアニワ湾を除くほかは、南の果てまでロシア領であると主張して譲らず、日本側は、あくまで北緯50度線を固持して譲らなかった。しかし、プチャーチンは不時の災厄に艦船を失い、帰国さえも危惧(ぐ)されたので強く自説を主張することができず、ついに従来のごとく国境をおかず共同管理にまかせることになった。かくして12月21日、日露和親条約9箇条の調印をみたが、国境問題については次の通り決定された。
第二条
今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫より北の方クリル諸島は魯西亜に属す、カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国の間において、界を分たず、是迄仕来の通たるべし。
ここにおいて、多年日露両国間の問題となっていた、千島列島における国境は確定されたのである。現在わが国が南千島領土の返還を主張しているのは、まさにこの条約に基づくものである。
松前藩への通達
日米和親条約を締結すると、ペリーは開港に先立って下田・箱館両港の視察を申し出た。慕府はこれを許したが、当時、箱館は再直轄前で、まだ松前藩領であったので、林大学頭らは松前藩主崇広にその旨を通告し、海防掛勘定奉行からは松前藩老に対し、次のような心得方を達した。
   御達書
亜墨利加食料薪水等闕乏の品、下田、箱館にて相願候為め、箱館湊船懸等の様子見置くため罷越候儀に付、測量等致し候とも相制し候に及ばず候事。
一 今度湊え渡来の節、食料薪水等相願候はば、相応に相与へ、右代品差出候とも一と通り相断り、請取らざる方に候得共、謝物のため強て差出度き旨申出候はば、当否に拘らず請置候儀は苦しからず候。尤食料等遣し候品並に謝義として異人より差出候品共、委細書面を以て申立、追て其品をも江戸え相廻し、差出候様致さる可き事。
一 上陸は致さざる筈に候得共、上陸の程も計難く、余り猥りの義も候はば、通詞を以て隠便に申断り申す可き事。
一 其節若し地所借受其外の儀申出候とも、都て伊豆守より江戸表え伺の上ならでは、何れととも挨拶及び難き旨申断り申す可き事。
一 右船渡来中の始末、洩れざる様相認め、日記をも相添、退帆後委細申立つ可く候事。
松前藩江戸藩邸からの通報と、右の達書を受けた国元福山の驚きはひとかたならず、その応接掛として家老松前勘解由、用人遠藤又左衛門以下属吏数人、その警備として番頭(ばんがしら)佐藤大庫以下一隊の兵を箱館に派遣した。3月22日勘解由らは箱館に着き、4月5日箱館市在の住民に対し、次のような米艦渡来の際の心得を布達し、諸種の準備を撃えたのである。
市在住民への触書
この時布達した触書は、極めて長文なものであるが、当時の状況をよくあらわしているので、その全文を掲げると次の通りのものであった。
   触書
先頃武州神奈川沖え渡来の亜墨利加船、箱館湊見置度き旨申立これ有り候由、右に付いては近々入津の程も計難く候。依て心得向兼て申渡候間、急度相守り申す可く候。
一 亜暴利加船当沖合に相見え候御合図承り次第、町々在々人足共、早々役所並びに銘々承りの場所え駈付申す可く候。
但、風筋に寄り、御合図届兼候向もこれ有る可く候間、市中に受継、盤木を打、端々迄告げ申す可き事。
一 異国船渡来の節、浜辺へ罷出、或は屋根上等へ登り、見物致し候儀、堅く相成らざる旨、兼て仰出されこれ有、一同心得居候筈に候えども、亜墨利加船の儀は別段の儀抔と心得違いたし、見物に出候ては、以ての外の事に候。若し右様不埒の者これ有り候に於いては、申開の有無に拘わらず、取押え、入牢申付く可く候。
一 亜墨利加船滞留中は、人夫相勤め候ものの外、商用たりとも小船にて乗出し候儀は勿論、海辺へ罷出徘徊いたし候儀、堅く御制止仰せ出され候。若し心得違の着これ有るに於いては、仮令異船へ近寄り申さず候とも、見当り次第取押え、入牢申付く可く候。
一 当澗居合の船は大小とも此節より残らず沖の口役所より内澗の方へ繰入、相互にもやひを取、並能く船繋いたし居、沖合へ異船相見え候合図次第、船頭共は船中を取締らせ、銘々元船え乗組居り、若し余儀なき用事これ有り、橋船にて陸地へ往復の節は、船宿より沖の口役所へ届出申す可く候。近々入津の船にも、右の振合にいたし申す可く候。自分勝手に碇を入れ、振り掛りなど致し候儀相成らず、勿論、異船退帆これなき内は、出入堅く相成らず候間、自他の船頭共え、船主、船宿共より急度申渡す可く候。万一異国人共澗懸の船へ漕寄せ候儀これ有り候とも、決して取合わず、早々元船へ乗帰り候様、手真似にて相諭し、近付け申す間敷は勿論、此方より橋船にて異船へ近寄らざる様、下手の者共へ厳敷申付く可く候。若し心得達の者これ有るに於いては、早々取押え、入牢申付く可く候。
一 亜墨利加船下田へ相越候節も、上陸の儀決して相成らざる旨、公辺より仰渡されこれ有り、彼等も上陸致さざる趣申立候由に候得共、下田滞船中は度々上陸いたし、尤も乱妨は致さず候えども、所々徘徊いたし、猥りに人家へ立入り、食物等乞求め、或は婦女に目を掛け、小児を愛し、寺院抔には長坐いたし候由相聞え候得ば、当湊え入船の上は上陸も致すべき哉。一体亜墨利加の者共は、婦人を目がけ、其上欲心深く候由に候間、万一上陸の上は、不法の儀これ有る可き哉も計り難く、殊に至て短気の生れ付にて、聊にても彼等の意にさからい候へば、立腹いたし候由、万々一右等の所より争端を聞き(開き)候様の儀これ有り候ては、公辺より厚く仰せ達せられ候御趣意に相振れ、恐入事に候間、如何様の儀これ有り候とも、穏やかに申宥め、さからい申す間敷候。右に付仰出され候通、町々婦人、小児の儀は、大野、市の渡最寄在々にて親類、身寄これ有る向は、早々引移し申す可き筈に候得ども、左候節は数多の御百姓、格別混雑いたし、一方ならず難渋に至り候間、立退の儀は御猶予成し下され候はば、老若に拘わらず、婦人共は一切外出致させず、急度取締り候様取計らい申し度き段、町年寄共申立の趣、余儀無く相聞え候に付、願の通り仰出され候条、銘々厚く心得、不束の儀これ無き様、厳敷申付く可く候。万一御手数の品出来候節は、重き御咎め仰付けらる可く候。
一 山背泊近辺、築島、桝形、其外亀田浜、七重浜等は、場末にて何分不安堵にもこれ有り、且つ人家も少なく候得ば、夜分抔密に上陸の程も計り難く候間、婦女子の分は老若とも残らず、男子にても十二、三歳以上の者は、最寄山の手辺へ所縁を求め、近々の内、早々立退かせ申す可く候。尤難渋の者えは、相応の御手当下し置かる可く候間、町役人共より申立つ可く候。
一 御城下並在々、江差辺又は他国より相越逗留致し居り候者共、取調の上、早々用事相片付けさせ、帰郷致させ申す可く候。別して遊民体の者は、早々立払わせ申す可く候。
一 異船滞留中は、牛飼の者共、箱館市中並びに海岸辺の村方へ、牛にて諸荷物運送致す間敷候は勿論、浜辺近き野山へ放し候儀堅く相成らず候。
一 炭、薪、青物類は、日用品の事故、近在より馬にて附出し候儀は苦しからず候得共、異人共、馬の蔭を見掛候はば、直様村方まで附纏い、如何の儀これ有り候ては宜しからず候に付、異人共上陸の様子承り候はば、馬士並びに在々の者共は、途中より早々引返し申す可く、又用済にて帰村の人馬も、同様相心得、申達候迄は市中に控居り申す可く候。
一 酒の儀は、異人共殊の外好物の由、聊にても呑ませ候得ば、手荒の儀これ有る由に候間、一切目にかからぬ様悉く蔵入いたし、聊にても店先へ差置申間敷、尤も売買の節は、蔵内にて取扱申す可く候。
但滞船中は、居酒屋一切停止の事。
一 呉服店、小間物店等は、取片付置き申す可く、尤も餅、菓子、其外草履、草鞋等の売物は、店先へ差置候ても苦しからず候得ども、彼等の望候を与えず候得ば、不本意に存じ、自然角立ち候様の儀これ有り候ては、以ての外の事に候間、食物に限らず、差支これ無き品は、無心いたし候はば、相与え申す可く、若し返礼品差出候とも、一応は差戻し、強て差出候様子に候はば、其品預り置き、早々町役所へ差出し申す可く候。遣わしがたき大切の品は、急度隠し置き申す可く候。
一 異国船湊出入の節、土地の様子を試候ため抔に発砲いたし候儀もこれ有る趣に付ては、亜墨利加船とても同様発砲いたし候の儀にこれ有る可く候間、此段兼て心得居り、万一右様の儀これ有り候とも、一同しづまり居り申す可く、若し心得違いたし、騒立候者これ無き様、下々の者共まで能々相諭し申す可く候。
一 市中端々に至る迄、海面見渡しの住居向は、何れも戸障子へ急度締りを付け、建合の処へは目張等致し置き、決して覗き見いたす間敷候。若し万一心得違いたし、二階、格子、煙出し等より、沖合又は異人上陸致し候節差覗き候者これ有るに於ては、召捕、入牢申付く可く候。
一 火の元の儀は、触達候迄もこれなく、何れも心を用い候儀には候得ども、猶又一際念入れ申す可く、且つ夜分は無提灯にて往来相成らず候間、小前下々へも申付、異船滞留中は別して取締向行届き候様致すべく候。
一 年回仏事等相当り候とも、異船滞留中は差延べ申す可く、且つ万一新喪これ有る節は、葬具等格別手軽に致し、男子計にて夜分物静に墓所へ葬送致す可く候。追善も右に準じ、穏便に相営み申す可く候。
一 異船滞留中は、観音、薬師、愛宕、七面等の山々にこれ有り候神仏への参詣致し候儀、堅く御差止仰せ出され候。
一 音曲所作に致し候者にても、異船滞留中は、堅く御差止仰せ出され候。
一 異船滞留中、市中に於いて取留めざる風説等、堅く致す間敷候。
右の通仰せ出され候条、堅く相守り、下々に至る迄、相諭し申す可く候。若し心得違の者これ有るに於いては、当人は申すに及ばず、名主、年寄、町代、親類、組合迄、急度御咎仰せ付けられ候間、其旨心得、厳敷申付く可く候。
右の趣、在町洩れざる様相触れらるべく候。
   寅四月
この触書によると、アメリカ人を多欲、短気な者とし、外国船の滞泊中は婦女子の外出を禁じ、場末にあっては婦女、小児を近くの山の手辺に避難させ、牛、酒、呉服、小間物その他大切な物は目にふれないようにし、港には小船の往来を禁じ、陸には馬の出入りをやめ、見物はもちろん海に面した戸や障子は、ことごとく目張りさせてのぞき見を禁じ、箱館山における神仏参詣や年回仏事を制止し、葬儀は夜間物静かに行わせるなどすこぶる詳細にわたったもので、当時のアメリカ人に対する一般の認識、ならびに松前藩の態度を知ることができる。
箱館では山背泊から町端の桝形辺まで、海上から市中を見通しまたは上陸出来ないよう、一面高さ7、8尺(約2メートル余)の板塀を建て、沖ノ口前と秋田屋という町家の前だけを明けておき、町ごとに木戸を設けて施錠し、社寺は貴重品を隠し、鐘を鳴らさず、婦女や小児を大野村やその他の地に避難させる者もあって混雑を極め、有川、戸切地(へきりち)、三谷(みつや)、富川などの諸村では、婦女、小児をすべて山手に隠した。
アメリカ艦隊の入港
こうした市中の恐怖と動揺のなかに、いよいよ米艦が入港したのは4月15日で、まず同日は帆船マセドニヤン号、パンダリヤ号、サウザンプトン号の3隻が入港した。このときの状況について、松前藩の応接記録である『亜国来使記』によれば、次の通りである。
四月十五日 晴 (新暦五月十一日)
一 今朝五ツ半(午前九時)過、立待台場より辰巳の方沖合、凡五里程相隔て異国船二艘相見得、巳午の風にて酉戌の万へ向け船参り候得共、船嵩帆数等の儀は聢と見定め兼ね候段、同所詰遠見番の者より注進これあり候趣、工藤茂五郎申し達し候。
これに依て兼て相違し置候通、勘解由始め一同野袴割羽織にて持場え相詰、所々台場其外海岸警衛向厳重申し達し候処、又候前同様異国船一艘相見得、船嵩帆数等相分り申さず候得共、二艘の船より二里程相隔て船参り候趣、前同所より注進の旨茂五郎申し達しに候。
一 右注進これあり候異国船追々地方へ向け船参り、尤船嵩凡そ三千石積位にて、檣三本帆数数多掛居候旨、詰所遠見番の者共より申し出候処、前二艘の異船は昼四ツ半時(午前十一時)過、山背泊台場沖八、九町程相隔て碇泊致し候に付、兼て申達し置き候応接掛り代島剛平、蛯子次郎、稲川仁平外足軽共、橋船にて罷越し候処程なく罷帰り、左の通申達し候段、遠藤又左衛門、石塚官蔵申達し、猶異国船より請取参り候書状差出し候に付、同人共並びに茂五郎立会いの上開封いたし候処
   左の通
手紙を以て啓達せしめ候。然らば当三月十三日武州神奈川出帆同州小柴沖碇泊、同月廿一日同所出帆、是迄豆州下田港滞留の亜墨利加船、箱館湊一見の儀、神奈川に於いて相願い候に付、林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、鵜殿民部少輔より亜墨利加人え相渡し、貴様方へ差進め候書面の通り御心得、穏便に御取斗らいこれあり候様存じ候。此段拙者共よりも御意を得、斯くの如くに候。以上
   寅四月九日
   御徒目付 中台信太郎   下田奉行支配組頭 黒川嘉兵衛
   松前伊豆守殿 御家来中
異国船は、予期した通り、持参の書状によってアメリカ船であることが確認された。また別書によってその模様を見ると、「十五日昼八ツ時(午後二時)過より七ツ時(午後四時)までに異国船三艘乗込み、先船一艘は弁天沖に掛り、あと二艘は山瀬泊地蔵堂沖辺まで、順々に碇をおろし申し候。但し先船は長さ二十間余、後は余程大きく相見得、中の一艘は取分け大きく長さ四、五十間程もこれあり、外廻り模様なども立派に相見得申し候。右は大将分乗船にもこれあるべきや、と申すことに御座候。大砲は前書二十間程の船にて片々に三、四挺づつ、大船にて片々十一、二挺づつ何れも筒先三尺程づつ外に出し居り、右三艘共にみよしの方にタタラようの仕懸これあり、大勢にて踏居候処、如何なる仕懸に候哉、自然と碇巻上り、それより元船相進め、先船は沖ノ口役所前十町余隔て澗懸り、二、三の船は西の方へ順々に相並び澗懸り仕候。」(東大史料編集所蔵『松前箱館雑記』)とあって、箱館市中ならびに海岸の警備取締は一層に厳重にし、近郷についても「亀田詰佐藤大庫へ飛札をもって申達す。有川詰太田脩三、種田徳右衛門、茂辺地詰近藤族、泉沢詰駒木根徳兵衛へは、遠藤又左衛門、石塚官蔵より前段の通り相違させ候。」(『亜国来使記』)というように亀田から上磯、木古内に至るまできびしい警戒をとっている。
艦隊の動静
その後のアメリカ艦隊の動静には夜中は何事もなかったが、16日の午前10時ころから3隻のボートをもって湾内の測量をはじめ、更に正午ころ2隻のボートに小旗を立て、多数乗組み山背泊台場へ漕ぎ寄せ、上陸しそうな様子なので、かねて配置されていた警固の人数が出て、手真似で上陸を制止したところ、直ちに2隻とも沖の方に漕ぎ出し弁天崎の方へ向った。そこで遠藤又左衛門、藤原主馬の両人が、弁天崎に至って見分していると、ここには寄らず、内澗の方に乗入れたので、注進によって石塚官蔵、関央ら応接方が沖ノ口役所に詰合っていたところ、やがて同所へ漕ぎ寄せ警衛の制止も聞かずに上陸した。やむなく代島剛平が沖ノ口役所へ案内したが、上陸したのは4人で、その内3人は船長らしい異人で、紺羅紗の頭巾(帽子)に筒袖同股引(洋服)を着用、両肩先に金で房様のもの(肩章)を掛け剣を帯びていた。外に、着服は同じだが肩飾りも剣も持たない従者1人であった。着座をすすめたが腰掛を貸してくれという仕方をしたので、有り合わせの机に毛氈をかけて差出し、干菓子、茶、煙草盆などを出した。応接の者が出て、上陸の理由を尋ねるため従者と筆墨をもってしばらく筆談に及んだが、はっきりしたことはわからなかったけれども、鮮魚、野菜類などの供給を求めていることがわかり、承知の旨を答えると異人たちは至極平穏に午後2時ころ元船へ帰った。
そのほか、18日には異人15、6人がボートに乗組んで、亀田浜に上陸して引網漁をしたり、19日には、亀田浜、七重浜、有川辺へ上陸、制止も聞かず引網したり小銃で野鳥をとったりしているばかりか、高橋七郎左衛門の報告によると、同日午後2時ころ、5、6人の者が七重浜に上陸し、持参した徳利を出して談笑して飲み合っていた。そのうち1人がその徳利を下げて有川付近まできて、日本語でサケ、サケとしきりに求めるので、警固の足軽共は手真似で酒は一切ないと断ったが、何分にも聞入れず、だんだん村内に入ってくる様子に、まず平穏に処理することが然るべきと考え、有り合わせの「にごり酒」を少々その徳利に入れてやった。ところがその答礼のつもりか銀銭一枚を差出し、手真似でいくら断っても無理に置いたまま本船に帰った、ということなどもあった。
もちろん、彼らアメリカ船の要請については、これまですでに薪4,000本、水180荷、鮮100本、鰊2,500尾、その他卵、鶏、野菜等はそれぞれ提供し、ひたすら穏便にすまそうと努力した姿がみられる。またアメリカ側からも答礼品として、亜国酒12陶、羅背板5切1袋、煉煙草12枚1包、茶木綿袋入1袋など贈られているが、これらの品物はすべて長持に入れて封印して保管した。
このように連日連夜緊張した警備に忙殺される日々が続いたが、警固の侍も少なく、そのため「沖ノ口役所夜中高張を灯(とも)しおき、その外町には休息所番屋を建て、一夜代り大勢不寝番拍子木打ち夜廻り仕り、夜中上陸これなきよう用心の趣に御座候。但町により十人より十四人位、組頭相立おき候分、此節残らず帯刀致させ、町代附添い沖ノ口へ相詰め、又は昼夜市中相廻り、其外重立者へ申付け、一人づつ帯刀致させ夫々召使い候由。」(『松前箱館雑記』)とあって、松前藩吏の苦心はひとかたならぬものがあった。
旗艦ポーハタン号の入港
提督ペリーの座乗するポーハタン号と、ミシシッピー号の2艦が入港したのは4月21日であった。すなわち、『亜国来使記』によれば、
   四月廿一日
一 朝五ツ時(午前八時)頃、立待台場遠沖え異国船二艘相見得候旨、遠見の者より注進これあり、右船は昨夜戸井沖に汐懸りいたし候異国船にて、二艘共今朝六ツ半時(午前七時)頃同所出し、石崎沖にて発砲いたし、追々地方へ向け参り候趣、汐首遠見の者より注進これあり候。右は兼て異人共申聞け候火輪船にて、暫時当澗内へ入、昼四ツ半時(午前十一時)頃、一艘は沖之口役所十二、三町程沖合亥子(北北西)の方え碇を入れ、跡一艘は前同様九丁程隔て子(北)の方え碇を入れ澗懸りいたし、般嵩凡そ五千石積位に相見得候。右に付、応接方藤原主馬、関央、代島剛平、蛯子次郎橋船にて、前段蒸気船へ差遣し候処、年頃四十歳位に相見得候異人罷出で、日本通辞三畏衛廉士ウリヤムスと認め候手札差出し品々申聞け候上、去る十五日二番入津の異船え同伴いたし、兼て御達しこれあり候浦賀表よりの御書翰一通相渡し候に付、受取罷帰り候趣、遠藤又左衛門、石塚官蔵申達。
とあり、この浦賀表からの書翰は林大学頭らの署名のあるもので、前の下田からの書状の内容に加えて、「格別上陸は相成らざる趣き申し渡し置き候得共、異人の事故強て上陸いたし、且つ測量などいたし申すべくも計りがたく候。右の節は何事も穏便に取はからい申さる可く候。」とある。事実4月15日入港の船からは、連日のように橋船をおろし、弁天崎沖から七重浜方面に至る海面を測量し、あるいは亀田浜、七重浜、有川方面に上陸して引網したり、小銃で鳥類を捕ったりしていたことは、前述の通りである。
さて、この日の応接方藤原主馬らのアメリカ艦中における応接の次第を、『ペルリ提督日本遠征記』には、次のように記されている。
汽船が投錨してから僅(わず)か二三時間すると、一般の小舟が静かに旗艦に近づいて来た。艫(とも)にある例の黒縞の旗と紋章のついている大旗から推して、それは政府の御用船であることが知られた。その構造は、他の地で見た小舟と甚だよく似ていたけれども、ずっと重々しくつくられた不恰好な型のものであった。八人の漕手は揃いの着物−暗青色と白色との−を着、背には自分達の仕へている役人の紋章がついていた。彼等の小舟は櫓(ろ)で漕がれずに櫂(かい)で漕がれ、日本の政府御用船の普通速力よりも遙かに遅かった。パウアタン号の舷側に到着するや否や、数人の日本役人が乗込んで来た。彼等が到着した時、日本委員から提督が受取った手紙と支那語で書いた条約の写し一通とを彼等に提出した。彼等の述べるところによると、アメリカ人と箱館で会見するために選ばれた役人は、江戸からまだ到着していないとのことであり、又人民達も我が艦隊が今回の来訪について予め何も知らなかったし、条約の事又は下田開港のことをも聞いていないので、艦隊の到着に大いに恐駭(がい)しているとのことであった。それから日本の役人達に対して、提督は明日士官の一人を選んで上陸せしめ、当局と協議させようと思うと伝えた。
この応接で松前藩吏が、箱館で会見する役人が江戸から到着していないと述べたことは事実であったが、アメリカ艦隊の箱館来訪については、藩主や藩老への通達によって、すでに承知していたことである。それをあえて知らなかったとするのは、おそらく松前藩がこの国際的な応接に、責任ある応答を出来るだけ回避する意図から出たものであろう。
なお、蝦夷地検分のため北上中であった目付堀利熙、勘定吟味役村垣範正が、松前藩の依頼によりペリー応接のため、属僚安間純之進、平山謙次郎らを派遣し、安間らが箱館に着いたのは5月5日のことで、そのことについては後述する。
アメリカ士官との応接 
前日艦上での約束に基づき、アメリカ士官との応接は翌日22日で、昼四ツ半時(午前11時)ころ、アメリカ士官側は提督副官べンテ、通訳官ウイリアムズ、主計官ヒリ、和蘭語通訳官ポルテマン、司画官ホロン、支那語通訳羅森の6人が上陸、かねて手配の通り、それぞれ応接所へ案内したところ、彼らは6人の手札を差出した上、今日応対の日本側の名前を尋ねたので、用人遠藤又左衛門、町奉行石塚官蔵、箱館奉行工藤茂五郎、応接方藤原主馬、関央、代島剛平、蛯子次郎の名前書を提出し、有り合わせの菓子、茶、煙草盆などを差出して一同着席した。そしてまず通辞ウイリアムズは、日本語で箱館来航の理由や横浜、下田停泊中のことなどを述べた。よくわかりかねるところもあったので、程よく挨拶をしていたところ、アメリカ紙に認めた持参の書面によって横浜約定の経過を説明した。しかしこれに対し又左衛門は、いまだ江戸から何の通達もなく、かつ応接掛の幕吏も到着していないので、確たる回答もできないし、ただ今差出された書面をとくと見た上、書面によって回答する旨を述べた。この結果、彼らは提督も多用のため長期間滞船はできないが、江戸からの役人も到着していない由ならば、明朝まで待つから当所役人の相応の返事を得たい。そして明朝五ツ半時(午前9時)ころまでに、返書を受取に来る旨を述べて会談は終った。なお、退去の際、大町通を一覧したいという希望があったので、途中警衛の者が付添って案内し、弁天社から高龍寺、実行寺などを一巡し、直ちに本船へ引取った。この会談は沖ノ口役所が手狭のため、かねての手配通り山田屋寿兵衛宅で行われた。
一方、この状況を、アメリカ通訳官ウィリアムズ著の『ペリー日本遠征日誌』(馬場脩訳)によって見ると次の通りである。
五月十八日(木曜日) (陰暦四月二十二日)
今朝私ども四、五名は上陸して浜の上の公の接見場のようなところで、いかめかしい接待を受けた。接見場への入口は石の防波堤の階段によって構内へ登り、ボートの内から営兵所によって隠されて見えなかった。構内を横切る道には茣蓙(ござ)がしかれて、私どもの入場に敬意を表するために、青脚胖(きゃはん)に帯刀して正装した十二名の衛兵どもが起立していた。私どもを迎えた役人どもは、昨日会ったあの四名であった。彼らはねんごろに私どもに赤いフイールトの敷いてある四角な物に腰かけるよう促して、茶やキセルを手渡した。−中略−私どもの姓名と位階が誌された後で、あの三人の役人どもが入ってきて、協議が始まった。
いろいろと貿易の利益や、陸上の家や、散歩の自由や、下田において許されたものはなんでも、すべて要点がくり返された。そしてこの地の役人どもに条約の準備に応ずるように同じく要求した。江戸からの使節の未到着は幕府の見解を彼らは確かめ得なかったので、彼らは私どもの要望と提案を考慮するための時間を願い出たので、これには明朝九時までと同意して、彼らが強く禁止を言及した書類の他のすべての書類を置いてきた。私は口述を信頼したくなかったので、主として支那語で書かれていたために会談はむしろあきあきした。明日の提督とこの地の最高の役人との会談の時間を決定した後で、私どもは散歩を申し出たが、これには心よく同意した。
また『ペルリ提督日本遠征記』には、
朝(五月十八日)、指定の通り司令官副官が二人のアメリカ通訳、即ちウイリアムズ氏とポートマン氏及び提督の秘書を伴って奉行を訪問した。彼等が政庁に到着すると、奉行遠藤松(又)左衛門が幕僚中の主なる人物二人、即ち伊坂健蔵?と工藤茂五郎?を伴って現われた。アメリカ人達は例の如き形式張った儀礼で迎えられて、日本室にありきたりの設備をした立派な広間に着席するや、すぐに事務を行う用意が整えられた。奉行は中年の男で甚だ慈悲深い表情をし、独特の穏和さと鄭重な態度とをもっていた。同伴の二人は上役の面前で卑屈だったが、矢張り甚だ立派な日本紳士であった。協議の広間は大きく、広い出入口を通って狭い中庭から入れるのであった。その中庭には木彫の蛇腹をつけた色々な入口や、この建物内にある他の部屋部星に通ずる階段を見ることができた。吾が国のものと同じようなつくりの窓や明り取りであるが、紙を張ったものからその広間に光が導かれ、又立派な畳が床の上に敷かれていた。ところが家具は僅かに普通のものが少しあるだけで、床几も六つあるだけに過ぎなかった。この部屋の一端には浅い壁凹があって、縁側には優美な彫刻のある繰り形がついて居り、その中には普通の安楽椅子と彫像とがあって、歓待の儀式と祖先を祭るためとにあてられることを示している。従者が茶・菓子・糠菓・煙草をもって屡(しば)々出入し、又奉行と同僚の二人とは決して主人側としての務めを忘れず、絶えず鄭重に賓客達へ茶菓をすすめてくれた。
さてアメリカの士官達は訪問の条的を説明し、又次のように述べた。即ち提督は三月三十一日に協定された合衆国と日本との条約諸条款を行わんがために艦隊を率いて箱館に来たのであること、及び蝦夷当局者側が該条約の精神及び文字から逸(そ)れると重大な結果を惹起(じゃっき)するだろうと云うことである。それからアメリカ人に対し任意に、即ち町でも田舎でも店舗や公共の建築物内へでも入る特権を確保せしめるような取きめを、下田に於けると同様に箱館に於ても結んでくれるようにと要求した。それから更に、店をもつ商人及び市場の商人にその商品の売却を許すべきこと、売買者相互の便利のために仮りに通貨を定めることを要求し、当局は提督、士官達、遠征隊中の画家者に対して、宿舎として各々異る家三軒又は寺院をあてること、同国の提供し得る物資を一定の価格表によって艦隊に提供すること、且又アメリカで好奇心と興味の対象になると思われる蝦夷の産物と博物の標本をも提供することを要求し、それに対しては正当な価格を支払うと語った。奉行はこれらの要求を聞くや、委員達から任命された役人達−提督は到着していることと思うと語った−が、江戸からの指令をもって到達するまでの猶予を願った。奉行は日本役人の到着が遅延している理由は、箱館から首府までの距離が遠いためであるといい、冬には三十七日、夏には三十日を要する旅であると語った。彼は又、提督の提出した手紙に書いてあること以外には、何等特別な命令をうけていないと断言した。その手紙にはアメリカ人に対して普通の歓迎と好遇とを与えることと、艦隊に食料と水とを供給することを当局者に命じているに過ぎなかった。暫くの間論議をし、その間にアメリカ士官達は要求を繰り返し、奉行は反対を繰り返したが、結局は箱館当局者の意見を文書に記して、翌日提督の考慮に供するため差出すことを協定した。
と、その接見の内容を記している。しかしこの最初の会談においては、いずれもアメリカ側の要望を聞いただけで、何らの決定も見られなかったし、また松前藩の応接方には決定する何らの権限もなかったのが事実である。
士官らの市中見物
こうして会談を終え、前述のごとく、士官らの市中見学の申入れを承諾したので、一行は接見場を出た。彼らの眼に映じた当時の箱館は、
この館(やかた、注・山田屋宅)の側の小路を通り抜けると(中略)、この通りは二十フィートないしそれ以上の幅で、一部は割石の舗道で挨は丁度掃かれておった。先達等は先に人々を並べるために派遣されたというのは、私どもが通った時には通りの両側に、人々は幾列にもなってひざまついていた。店も家もすべて戸を閉めていたが、これは全然私どものせいではなく、彼らを暖かくするためらしかった。のべつに紙張窓の続いているのは、通りを陰うつにしていた。家は皆、通りに向って入口があった。この入口の背後に、地上から三十フィートの屋根の端に切妻が立っていた。家根はぎっしりと丸石がのせられ、各棟木には内に火叩きをいれた水槽が備えていて、これは道路の他の水槽と共に防火用であった。群衆の中には一人も女や子どもは見られなかったし、大した人数でもなく騒々しくもなかった。
散歩中私どもは護国の丘と称せられる大きな寺に行った。これは私どもが以前見たよりも、もっと立派な日本建築術を示していた。瓦のしかれた屋根は地面から優に六十フィートの急勾配に聳えていて、塗った大柱の上に胴輪と小柱が倚(よ)りかけてあるこみいった方式によって支えられていた。彫刻と金ぱくの塗り方は以前見た何物よりも立派で(中略)、一般の配置は以前に見たものと似ていたが、入口の傍の小さな祠の内に安置された六個の石仏の上に、支那風の頭巾をあたかも暖めているようにかぶせてあって、私どもに笑いを催うさす程すこぶるこっけいに見えた。別な仏寺にも行った。これは非常に破損していて、先の大きな寺のように堂内に扁額がなかった。二、三の寺の内には銅の光輪を背にした像と、あたかも聖母の模倣のように童子を抱えた女像が安置されていた。私どもの散歩は二、三の通りを通り抜けて乗艦するために桟橋へ戻った。概してこの接待には満足した。(『ペリー日本遠征日誌』)
とあって、ウイリアムズら一行は弁天社から高龍寺や実行寺辺を歩いたらしく、文中に「護国の丘」とあるのは、あるいは国華山高龍寺の国華山を護国山の意味に誤解したのではないかと、『ペリー日本遠征日誌』の訳者は言っている。
更に夕刻、外の数名の士官らも同様に散歩しているが、この一行は、『亜墨利加一条写』によれば、
又々山田より出かけ、弁天町、大町、内澗町と段々見廻り、夫より鎮守八幡宮へ参詣いたし、同宮神官宅前通りかかり、大工町辺え通り、大三の坂下り内澗町へ戻り、□店へ立寄莨一、二服呑む程間取。其時兼ねて御触出し法度の酒樽これ有候趣。然れ共彼等望ミこれ無き候由。夫より御役所ノ坂より上り、寺町通り見廻し、山之上町□上田屋稲蔵宅え立寄、住吉屋前通り相掛り、山背泊御台場え参り候趣。夫より山田屋へ帰り元舟え戻り、其時の警固御足軽、町名主両人、村田林八様、代嶋剛平様、高橋七郎左衛門様其外町々締方五、六人
とあって、途中一行は役人や町民の歓待を受けて、二、三の民家にも案内されたりして喜んで帰っている。
松前藩の回答書
4月23日、前日の接見における約定により、文書による回答を受取るため、提督副官べンテ、通訳官ウイリアムズらが来たのは午前9時ごろであった。これに対し遠藤又左衛門、石塚官蔵が応接し、その回答書を提出した。その内容は次のようなものであった。
(前略)昨日貴下等は吾々と友交関係を維持せんことにつき語られたり。而してそのうちには、両者共に相互に権利を守る義務、親愛の惜を害することを行わざるべき義務を包含さるるや確実なり。余等はまぬかれ得ざる主要任務として、公共の建物を監視し、人民を支配するためにこの地に配置され居るなり。而して貴下らの欲するが如く建物を提供するは、貴下らにとりて快きことなりとも、その結果は吾々にとって甚だ重く且つ大にして、人民は何人を支配者と見るべきかを殆んど知らざるに至らん。もし貴下らが、かかるまでにこのことを強制し、三軒の家屋を強請するとせば、貴下らの友交的声明に相反することにならざるか。
昨日貴下等が交誼に関するいくつかの細目を明らかにしたが、即ち三月三十一日横浜において、両国高官との間に一条約が締結され、それに基づいて下田においてなされたと同様、通商や休息、絵画を作成するための家屋三軒を入手することを実現するため、箱館に来りしことを説明せり。
横浜にて条約締結されたる後、それについて何等の命令も文書もなく、また貴下が浦賀からもたらした余等への通牒については、余等がいま初めて貴下等自身より知りたるもので、これらの点につき何等の証明も説明していないことは、余等の大いに不審とするところであり、しかも朝廷より何の指令を受けざる前に自ら行動を起すことは、甚だ重大なる事と断言すべきである。何ぜならば、わが封領全体に亘(わた)って苟(いやし)くもせざる慣例によれば、先ずその命令を待つべきで、余等がそれを犯す得べきことにあらず、問題の重要と否とを問わず、事国家に関することは藩公に照介し、藩公はこれを朝廷に具申し特別な命令を受けたる後に行動すべきである。貴下等は横浜および下田においてのあらゆる経験に徴し、右の如きこの国の慣例ならびに法律なることを知り居るに相違なし。されど余等が持ち居る食料品、即ち卵・鶏・鰊魚・鴨その他の商品は、たとえそれが下等品であっても、当座の供給に応じ、同様に郊外への散策、村や市場や店舗への立寄りを認めるなど、貴下等の希望する要求も許容しているではないか。云々、(『ペルリ提督日本遠征記』)
このなかで、松前藩が問題としているのは、アメリカ側が、3軒の家屋を要求したことであった。
そこで副官らは問題となっている建物について熟談の結果、この家屋の要求については、それは漢文が使われているため、官邸や役所の意味に受取った誤解によるものであることがわかった。副官らは、提督の要望が一般の宿泊者に与えられている寺院の一部を、当座の休息場として使用することを希望するだけであり、宗教上の設備を占有するものではなく、また、国民的信仰を妨げる意図のないことを明らかにしたので、日本側は、ようやく了解し安堵した。そして遠藤又左衛門から後刻松前藩公の一族である高官、松前勘解由が提督を訪問する意向を伝えたので、アメリカ副官らは別れを告げて帰艦した。
勘解由の米艦訪問 
松前勘解由が遠藤又左衛門、石塚官蔵、関央、蛯子次郎、金田善右衛門の幕僚を従えて、アメリカ艦隊を訪問したのは同日正午過ぎであった。旗艦旗が一時ミシシッピー号に移されたので、同艦に漕ぎ寄せると、べンテやウイリアムズの案内で一同乗込み、船室に至るとペリー提督自ら入口まで出迎えた。通弁をもって一応の挨拶を交わした後着座したが、提督をはじめベンテ、ペリー(息子で提督秘書官)、ウイリアムズが列席して菓子、酒肴等の饗応があり、その饗応中提督は、すでに和親条約が締結されたのであるから、藩公自らこの地に出張して然るべきなのに、それがなければ提督は松前表に赴かなければならないと不満の意を表した。これに対し、勘解由は、藩公自身松前を離れることが不可能なので、自分が代理人として全権をもって臨んでいると答えると共に、条約によれば明年でなければ効力を発生しないのに、アメリカ側は条約にない条項を要求していると抗議した。すると提督は、条約締結後高官らと取決めたものであるから、もし勘解由に全権があるなら、今回の来訪に際してこれを締結したい希望であると説明した。しかし勘解由は、自分はこの地方の全権は委(ゆだ)ねられているが、自分も藩公も共に宮廷の指令なくして、アメリカ側との交渉の範囲を決定しかねる旨を答えて会談は終った。
折柄、風は非常に強く吹きはじめ、湾内は大時化となったので、日本人一行は、提督がポーハタン号へ退去した後も居残り、機関、大砲、錨鎖、船室等の装備などを参観して午後4時ころ帰った。
ペリー提督上陸会談
ペリー提督が会談のため上陸したのは、それから3日後の4月26日であるが、その前日、提督の使として通訳羅森が来て、明日昼四ツ半時(午前11時)ころ、提督が上陸し一同と会見したいとの申入れがあったので、早速その応接の準備にかかっているが、さきに勘解由がミシシッピー号訪問の節、酒肴等の饗応もあったから、当方でも酒肴を調えなければならないなどと、大変な気のつかいかたをしている。
こうして当日午前11時約定通り上陸してきたので、手配の通り応接所(山田屋寿兵衛宅)に案内すると、彼らはまず出席者名簿を提出して着座した。これに対し当方からは松前勘解由をはじめ遠藤又左衛門、石塚官蔵その他が列席すると、ウイリアムズは書面をもって全権勘解由の信任状の被見を求めた。そこで又左衛門は前月20日松前伊豆守から勘解由に申付られた手控書、
今般神奈川表え渡来の亜墨利加船箱館湊見置のため渡来いたし候旨、公辺より御達これあり候に付、其方儀右取扱いとして差遣し候条粗忽の儀これなき様万事平穏に取斗らい申すべく候。
を示し、そして彼らの要望でそれを漢文に書き改めて渡した。この信任状を見て安心したらしく、いよいよ会談に入ったが、最も問題となったのは、彼らの箱館における遊歩区域である。すなわち、神奈川条約第5箇条では、
一 合衆国の漂民其他の者共、当分下田・箱館逗留中、長崎に於て、唐 和蘭人同様閉籠め窮屈の取扱いこれなく、下田港内の小島周り凡七里の内は勝手に徘徊いたし、箱館港の儀は追て取極め候事。
とあって、この問題は懸案事項としてとり残されていたのである。これにつき彼らは箱館視察の結果、その限界として10里を示したが、この距離は対岸(津軽領)にも達するので応じがたいことを知り、下田におけると同様7里以内をもって決定するべく提案された。もちろんこの問題は、はるかに勘解由の権限外の問題として、1時間余にわたって会談を続けたが遅々として進行しないので、提督は勘解由に対し、夕方まで回答を求めると同時に、市中見学を申入れ、実行寺、称名寺、浄玄寺、八幡社付近まで回り、午後2時過ぎ本船に帰還した。
なお、午後4時ころベンテ、ウイリアムズ、羅森らが回答書を求めて訪れたが、その回答は結論として遊歩境界の決定を拒否したものであった。
しかし、すでにこれまで彼らの上陸をはじめ、休息所の設置、あるいは需用品の販売などにつき、ある程度の取決めがあったので、アメリカ人は連日上陸して市中を横行し、なかには寺院において賭博を行い、家屋や境内へ闖(ちん)入するため塀を乗越え、商店から物品を持出すなど不当な振舞いもあったと伝えられている。
幕吏の来箱
さて、勘解由らは、この会談後の記録によると、「今日提督上陸いたし追々申聞け候次第、容易ならざる儀にもこれあり、横浜に於いて何様の御約定これあり候儀に候哉、相分り兼ね候得共、万一異人共江府へ罷越し候はば、如何様の儀申出べき哉も計り難く、左候節は一通りならざる儀にも及び申すべく、兼ねて御達これあり候には万事平穏に取斗らい申すべき旨御達に付、是迄取扱い来り候得共、横浜表の儀は何分承知仕らず候得ば、真偽の程ははかり難く候得共、万一御約条に相触れ候儀等これあり、彼是申立候様にては以ての外の儀に付、一同深く心痛致し候。」(『亜国来使記』)と、その苦心の程をしたためている。
折から、前述したように、目付掘利熙、勘定吟味役村垣範正が、蝦夷地検分のため対岸の三厩まで来ていたので、松前藩では使を遣わして事情を訴えた。堀らの任務は蝦夷地検分にあり、ペリー応接は本務とするところではなかったが、2人は、松前藩の要請により、属僚の支配勘定安間純之進、徒目付平山謙次郎、勘定吟味方下役吉見健之丞、小人目付吉岡元平、蘭学者武田斐三郎らを箱館に派遣した。安間らの属僚は5月5日朝箱館に到着し、ペリー提督らと会見、アメリカ例の書面を受取り、翌日返書を届けたのである。結局、箱館港に関する細部にわたる取り決めは、後日下田において林大学頭らと協議すべきであるとし、箱館訪問は単に視察であるという、神奈川での彼らの言明をたてに、アメリカ側の要求は不当であることを指摘し、ペリー提督もまた一応箱館調査の目的を達し、箱館が良港であることも確かめ得たので、これ以上争うことなく、かつ下田での会見の予定日が切迫していた関係もあり、5月8日箱館を退出したのである。
噴火湾及び室蘭港調査  
この間、4月28日、サウザンプトン号が箱館港を出帆、5月1日噴火湾に入り、山越内沖から絵鞆澗内に入り、いまの室蘭港近海を調査している。
二水兵の埋葬 
また、停泊中不幸にも2名の水兵が、この異境の地に死亡するという出来事もあった。すなわち、4月29日アメリカ側から「ハンテリヤ船(バンダリア号)の水主、長々病気の処、昨夜病死致し候に付、当所において葬り度く候間、いづれにても宜敷く候間、都合よろしき寺院差図に及び呉候様申聞候由。」(『亜国来使記』)の申出があった。これはバンダリア号の乗組水兵で、ジェームズ・G・ウォルフ(55歳)のことである。
松前藩吏にとっては、全く異例のことではあるが、下田・横浜でも前例があるということなので、その要請に応じて埋葬の場所を指図した。埋葬は4月30日に行われたが、当日は「昼四ツ時(午前十時)頃、異人共棺箱乗せ候橋舟、高龍寺下浜手に漕付け同所より上陸、山背泊火葬場へ葬送致し候に付、途中夫々警固致させ、且見届のため遠藤又左衛門、藤原主馬、代島剛平、蛯子次郎差遣わし候処、程なく罷帰り別段怪敷儀もこれなく、異人共三十七人上陸にて夫々取片付、一同引取候旨申達」(『亜国来使記』)ということになった。
この日正午ごろウイリアムズが応接所に来て、又左衛門に会い、「今朝葬り候場所え石塔取建て、且つ廻りえ木にて柵を立度く候間、取斗らい呉候様申出供に付、」(同前)、早速あり合わせの石塔1本を贈り、かつ、柵を建てることも承知したところ、1枚の書面を差出し、これを石塔に彫りつけてくれるよう依頼した。
ところが5月2日になって、またウイリアムズが来て、昨夜またもやバンダリヤ号の水兵1人が病死したので、先日の場所に葬らせてほしいとの願いがあった。これは19歳の若さで命をおとした、G・W・レミックである。この連絡を受けた又左衛門は、「故国を遠くはるかにした、若者の死に暖かい同情を示して、提督邸の丁度上の新桟橋にあげるよう指示し」(『ペリー日本遠征日誌』)、前例に従いこの日の夕刻72人の兵士に送られて埋葬された。この2基の墓は、現在船見町の外人墓地の最も道路ぎわに海の方を向いて建てられている。
なお、当時バンダリヤ号の水兵たちが出発にあたって、この遠い異国の浜辺の丘に眠る2人の友を弔うため記念碑を設け、彼らの作った碑文を刻むよう頼んでいった。しかしこれは当時直ちに実現されなかったが、昭和29年7月17日、ペリー来港100年記念式当日ようやくこれが実現し、2基の墓のかたわらに建設された。
箱館住民との接触  
前にも若干述べたが、アメリカ艦隊の来舶中、その要請によって食料および薪水等をしばしば提供し、またアメリカ側からも若干の贈物を受けている。ことに乗組員の上陸見学などは比較的自由に行われ、問題とされた要望の建物についても、ホロン、ハイネなど司画官のためには、実行寺の一部を開放して提供している。その他、湾内の測量をはじめ、あるいは沿岸に上陸し引網を行い、時には当別村へ行き、村内を歩きまわり、名主の家へあがり込んで戸棚をあけ、茶や梨などを無心して銀銭を置いていったり、亀田村から赤川村まで行って名主宅で食事をしたり、かなり気ままな振舞もあったようである。
ペリーは、はじめは彼我の折衝がうまく運ばないことに不満の意をもらしたこともあったが、しかし調査の結果、箱館港が予想以上の良港であることに満足し、特に2水兵の死に対し、礼を尽した便宜にも好感を持ち、感謝の意を表して箱館を去った。
アメリカ人の見た箱館 
アメリカ人の目に映った箱館の景観もさまざまである。まず箱館市街の状況を「商業都市に普通な慌しい活動の様子がない。乗用車も荷車も道を通らず、商品を買うようすすめる商人の喧(やかま)しい叫声もなく、行商人が品物を叫んで売り歩くこともなく、一般の平和と静けさを破る騒々しい群集もいない。殆んどどこもかしこも静けさが街を支配し、ただ時々少年馬方が強情な運搬獣、即ち手に合わない馬や鈍重な牛に向ってわめき立てている叫声及び大官の侍者が主人の来る前に人民を平伏させようとする叫び声、又は多分附近の或る鍛冶場で働いている労働者の鉄槌の響などで破られるだけである。それでも尚荷をつけた馬が時々ゆっくりと街上を駆られて歩き、数百の舟が港内に投錨し、無数の小舟が同湾を勢速く滑って行き、二本の刀を佩(は)いた多くの立派な日本紳士及び役人が尊大に歩き廻ったり、立派な馬具をつけた馬に乗っているのを見る時、外国人は箱館が繁栄している町だという印象をうける。」(『ペルリ提督日本遠征記』)といい、「下田で見たような丸裸の男や、ふしだらな身なりをした女よりきちんとした人々を見ることは、さらに感じがよい。」(『ペリー日本遠征日誌』)ともいっている。しかも一方には、4月22日山背泊台場でのことであるが、彼らはその「大砲を見てはなはだ嘲弄し、両手を少しく開いて日本ポンといいて笑い、また両手を大いにひろげてアメリカドヲンといいて、鼻をつまみ面(つら)をしかめて驚畏の身ぶりし、又わが大砲一たび放さば箱館忽ち徴塵になるべき手真似をし、この大砲を指して小鳥をおとすによかるべきなどと手業(てわざ)して侮弄(ろう)−(中略)−さまざま手真似、身振り等して日本をさすは取る事易しという様子なり。」(平尾魯僊『箱館夷人談』)などのこともあった。
外人の見た箱館
家屋。函館内の建物は大部分は一階建で、色々な高さの屋根裏部屋をもっている。階上の部分は往々居心地よい部屋になっているが、普通は貨物や材木を蔵っておく暗い部屋又は召使の寝所に過ぎない。屋根の高さは地上二十五呎以上のものは稀である。屋根は頂点から次第に下って軒は壁よりも突き出ており、接手(ジョイン卜)と繋梁で支えられ、大低は手の大きさ位の小さい屋根板で葺かれている。その屋根板は竹釘で打ちつけられているか、竹釘の代りに長い板片で押えその上に動かないように、何列もの丸石がおいてあったりする。……上流の家屋二、三及び寺院は樋形に仕上げをされた褐色の土瓦で小ざっぱりと葺かれている。より貧しい人々は僅かに草葺の小屋で満足せざるを得ない。その草葺の上に屡々野菜や雑草が豊かに生えている。その種子はうろつき廻る鳥が蒔いたものである。一般に建物の壁は、内側や外側に塗った松坂を縦に打ちつけてつくられ、すばらしい巧さで組立てた骨組になっている。家の前面や背後の板は雨戸(シャッター)のように、閾(しきい)の溝を水平に滑るようになっている。夜になるとしっかりと閂(かんぬき)がかけられ、昼間は全部それを取り除けて、その背(うら)にある障子から光が自由に入り込むようにつくられている。………家の前の方は貨物の陳列に、後の方は色々な家内作業を行うのに使用されている。日本の木造建築物は決して塗っていない。……そのために建物は平凡な全くみすぼらしい様子をしている。……家を建てる前には地面を叩いて平にし約二呎の高さの床(ゆか)を設け、家の前面と片側には空地を残しておく、その上には屋根がつき出して雨風を防いでいるので、その空地は家の背後に通ずる路に使用されたり、重い品物を蔵っておく場所として役立つ。……店舗では前の方全部が店の物を陳列するために取っておかれるが、住居や手工業者の建物では通りすがりに屋内のものが見られないように、竹を横に並べてつくった粗格子をとりつけてあるのが普通である。……床の上には、藁で裏付けして厚く柔くした白い畳が敷いてある。……人々はこの畳の上に座って食事をし商品を売り、煙草を吸い友達と語り、夜寝るのである。……屡々観察したところによると、一般に油紙の窓が明りとりになっている。
日本家屋の家具は特に貧弱で、いづれも畳と台所の道具以外には何もない。台所道具も数が少なく簡単である。腰を掛けないで坐るのが殆んど一般の習慣だから、椅子の必要な場合はないようである。但し椅子も往々見たのであるが何時でも儀式の際に供せられたのであった。これらの椅子は粗末な革の座布団をとりつけた不恰好な構造のもので、使はない時はたやすく畳んでおける普通の天幕(キャンプ)椅子のような組立である。……日本においてはあらゆる階級が休憩する時の国民特有の姿勢は、膝をつくか又は脚を組み臀をついて蹲るのである……一般にテーブルは使用されていないが、アメリカ人が饗応された公の宴会の際には、赤い縮緬で覆われた細長い腰掛を御馳走を並べるのに用い、御馳走は高さ一呎、十四吋四方ある普通の漆塗の台に載せて、賓客にふさわしい高さにされていた。日本人は畳の上に坐りながら、これ等の高い盆から食事をするので、従って自分の食事を各自別々にするために非社交的な習慣になるのである。……普通彼等は汁の上に浮んでいる魚切れを、はしではさんだ後、饑えた子供のやるように直接椀からスープを飲む。
……函館では、人々は冬の天候のために大いに悩まされているらしかった。貧乏な階級は大低家の中に閉じ籠もり、茅舎の中で乏しい火のまわりに集っていた。その小屋には煙突もなく、紙の窓から僅かの光のさし込むだけでひどく寒く、陰欝で気持が悪かった。
函館の店舗は一般に貧しい人々の限られた必要を充すべき低廉な種類の貨物を売っている。在庫品は粗末な厚い木綿、下等な絹、普通の陶磁器、漆を塗った椀、コップ、台、箸、安い刃物類、既成品の衣服等種々雑多なものである。毛皮、毛氈、ガラス器又は銅製品を見ることは稀であり、書籍及び文房具も普通は余りない。食料品店には米、小麦、大麦、豆類、乾魚、海草、塩、砂糖、酒、醤油、木炭、甘薯、小麦粉、その他より必要でない品物があり、いづれも非常にたくさんあるように見える。町には公設市場がなく、又牛肉、豚肉又は羊肉はなく、鶏肉は極めて少しばかりある。野菜や大豆と米粉でつくったチーズのような固形物は路上を触れ売りされ、人々の主なる食料となっている。……店員達は甚だ内気で最初アメリカ人に品物を売ろうとは殆んどしなかったけれども、外国人とやや親しくなり始めると、商人独特の熱心さが自ら極度に現われ、函館の商人も……商売には抜目ないことを示した。  
写真撮影 
また、箱館の人々を驚かせたものに、黒人と写真がある。すなわち、4月26日「二、三名の黒人どもは、店の近くに立っていて、遠藤(又左衛門)を驚かした。彼はクロンボはどんなものであるか知らなかったので、顔を塗っているのではないかと、幾度も尋ねた。」と、『ペリー日本遠征日誌』に記され、写真については4月28日、「朝に遠藤と石塚官蔵は肖像写真をとってもらった。彼らは彼ら自身と、背後に槍を持ち、帽子をかぶり、特殊な鎧を着た家来どもをしたがえている乾板を見て非常に喜こんだ。写真術について今まで聞いたことのあるものは、この地に誰もいなかった。珍らしさと驚嘆と喜びは、彼らの態度と問答の中に等しくあらわれていた。」(前同)とあるが、これはペリーに随行したブラウンが撮影したもので、現存するものでは、この2人の外に松前勘解由とその従者で撮ったものがある。
このほか写真については、「廿三、四日(四月)頃より、実行寺へ上陸のもの両三人これあり、このもの等絵図面方と見得たり。すべて絵図面取候には鏡を立候得ば、其鏡に絵図面人物に拘らず、鏡に其侭相移(写)り、其場より鏡取候ても移(写)り候もの鏡より取れず候由、若し哉、魔術かとの市中の噂。人物移(写)され候御方、御城下御役人両三人、御当所御役人一両人、山之上町上田屋稲蔵娘一人、小住と申す茶屋の婦人一人、同職の婦人一人、都合三人、外に移(写)され候ものこれあり候由にて候得共、名前存ぜず。」(『亜墨利加一条写』)というようにかなり多くの写真が撮られているらしく、まさに魔法使いのような驚異に目をみはっている。
松前藩役人に対する批判 
ことにアメリカ側は松前藩の役人に対し、「勘解由は明らかに無気力の男で、なにか責任をとることを恐れているにもかかわらず、すべての拒否を、穏便にあたかも私どもに同意さすことを望んでいたらしかった。」(『ペリー日本遠征日誌』)と、極めて厳しい批判をしている。
艦隊の抜錨 
以上のようにしてアメリカ艦隊は、5月8日午前6時過ぎ、箱館港を抜錨して下田に向かった。思えば実18日間の長きにわたり、異人や異船の見物も禁止されていた市民も、長々の憂いが晴れた思いで、高みや山背泊まで見物に出かけた者もあり、また、これまで隠れていた婦人や子供なども、ようよう蔵や家々の奥から出られて安堵の思いをするとともに、商家もそれぞれ店開きしたと伝えられている。
遊歩区域の確定と批准 
なお、ペリー提督が下田において再び林大学頭らと会談した結果、5月22日和親条約付録を締結し、その第11条によって箱館における遊歩区域は、半径5里に制限して定められたが、この決定に当たっては両者の間にしばしば大論争がみられたという。本条約の批准交換は、翌安政2(1855)年使節アダムスが来朝して、正月5日下田で完了した。 
 
開国・開港の幕末

 

異国船来航
寛永16年(1639)にポルトガル船の来航を禁じて以来、オランダ、中国、朝鮮、琉球以外に国を鎖していた江戸時代の日本に最初に開国通商を迫ってきたのは、南下政策によって貿易の拡大と領土の拡張を図っていたロシアでした。第1回の遣日使節は、寛政4年(1792)9月に根室に来航したラクスマン。ラクスマンは江戸に直航して通商を促す国書を幕府に直接手渡したいと申し出ましたが、幕府の当局者は長崎以外に異国船の入港は認められないとしてこれを拒み、ラクスマンに対して長崎入港の許可書(信牌)を交付しました。
ラクスマンはしかし結局長崎へは向わず、大黒屋光太夫らロシアから伴ってきた漂流者を箱館で引き渡して帰国しました。それから12年後、文化元年(1804)9月に、ラクスマンに与えられた信牌の写しとロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を帯びたレザーノフ(第2回遣日使節)一行が長崎に到着します。翌年3月まで滞在して交渉を求めた甲斐なく親書も受理されず退去を命じられたレザーノフは、帰国の途中、部下に樺太・択捉(えとろふ)島・礼文(れぶん)島などの日本人入植地への攻撃を命じ、幕府の危機感をいっそう高める結果になりました。
環海異聞 (かんかいいぶん)
『環海異聞』は、レザーノフ来航の際に帰国した津太夫(つだゆう)ほか漂流者の見聞を蘭学者の大槻茂質(おおつきしげかた 通称は玄沢(げんたく))がまとめたもの。文化4年(1807)成立。全16冊。
寛政5年(1793)11月に石巻港(宮城県石巻市)を出た津太夫の船は、翌年アリューシャン列島の島に漂着。ロシアに8ヶ年滞留したのち、ロシア残留を希望する6名を除く津太夫ら4名が、レザーノフに伴われて、世界周航をめざすクルーゼンシュテルン提督の船に乗り込みました。聖ペテルスブルグの外港を出帆した船は、大西洋を横断し、マゼラン海峡、ハワイ、カムチャッカを経て長崎に至りました。津太夫らは世界を船で一周したことになり、書名もこれに由来しています。本書はロシアの社会や風俗等を絵入りで紹介するほか、長崎における日露間のやりとりについても記しています。
通航一覧 (つうこういちらん)
レザーノフが徳川将軍に捧呈しようとしたロシア皇帝の親書の日本語訳が、「オロシヤ国王より之呈書」の「和解」として、幕府が編纂した対外関係史料集『通航一覧』の「魯西亜国部」に収録されています。
ロシア側はロシア語、満州語、日本語の3種の親書の写しを用意していましたがいずれも理解困難。このため長崎のオランダ語通詞(つうじ)がレザーノフ一行のうちオランダ語を解するロシア人に親書の内容を尋ね、日本語に訳したものが、公文書として採用されました。このなかでロシア皇帝は、「大日本国王」(徳川将軍)に対して12年前にラクスマンが長崎への入港を許可する信牌を授けられた礼を述べると共に、ぜひ両国の間に「交易之道」を開きたいと、通商の希望を丁重に述べています。
『通航一覧』は、西欧諸国との応対が多端になるなか、対外交渉の先例や史料を容易に検索できるよう、嘉永3年(1850)に林大学頭(はやしだいがくのかみ)健や林式部少輔(はやししきぶのしょうあきら)らに編纂を命じたもので、嘉永6年(1853)に完成。続輯は安政3年(1856)頃に完成したと思われます。正編・続輯とも浄書本は、「琉球国部」の26冊を除き明治6年(1873)5月の皇居炎上の折に焼失。資料は浄書以前の稿本で、多数の切り貼りや添削箇所があり編集の過程がうかがえます。全414冊。
北夷談 (ほくいだん)
ラクスマンの来航(1792年)以後、幕府は蝦夷地の直轄化を進め、箱館奉行を設置し、あるいは近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)に択捉島を視察させるなど、蝦夷地の経営と防備に積極的に取り組みました。ロシアの脅威は、文化3年(1806)から翌年にかけて、レザーノフの部下たちが樺太・択捉島ほかの日本人居住地を襲撃したことでさらに差し迫ったものとなり、文化4年(1807)末、幕府はロシア船の打払(うちはらい)(撃退)を命じると共に、南部・津軽・会津・仙台の各藩を動員して蝦夷地の防備の充実を図りました。
ロシアに対する緊迫感が継続するなか、文化8年(1811)6月、ロシア船ディアナ号の艦長ゴロウニンらが測量中に国後(くなしり)島で日本側(松前奉行支配調役 奈佐政辰(なさまさとき))に捕らえられる事件が起きます。これに対抗してロシア側は、蝦夷地の開発と交易を手がけていた豪商高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ 1769-1827)を捕らえてカムチャッカヘ連行、両国の緊張関係は極に達しましたが、嘉兵衛の尽力もあってやがて和解が成立し、文化10年(1813)に双方の捕虜の交換が実現しました。松前と箱館で2年3ヶ月もの間監禁されたゴロウニンの手記は『日本幽囚記』として出版され、わが国でも、そのオランダ語訳本が『遭厄日本紀事(そうやくにほんきじ)』の題で和訳されています(1825年)。
『北夷談』は、文化5年(1808)に間宮林蔵(まみやりんぞう)と樺太を探検し樺太が島であることを確認したことで知られる幕臣松田伝十郎(まつだでんじゅうろう 1769-1843)が、北方探検の体験やアイヌの風俗慣習等を絵入りで紹介した書。伝十郎は文化10年8月にロシアに引き渡されるゴロウニンを松前から箱館まで護送する役を務めており、『北夷談』にはその折の様子が詳しく記録されています。全7冊。
視聴草 (みききぐさ)
間宮林蔵と松田伝十郎が樺太を探検した文化5年(1808)、長崎ではイギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を偽装して不法入港し、ヨーロッパにおけるナポレオン戦争で敵対関係にあったオランダ商館員を捕らえ、食料や水、燃料を強請する事件が勃発しました(フェートン号事件)。フェートン号は2日後に姿を消しましたが、時の長崎奉行松平康英(まつだいらやすひで)は自ら腹を切り、幕府は新たにイギリスの脅威を実感することになります。
事件後、イギリス船は日本近海に頻繁に姿を見せるようになり、『通航一覧』編纂の実務を担当した旗本宮崎成身の雑録『視聴草』にも、関連記事が彩色図を添えて収録されています。
『視聴草』二集の六に記されているのは、文政元年(1818)5月13日に浦賀に現れたイギリス船の記事。番所の役人が事情を尋ねたが言葉が通じない。江戸から天文方の足立左内(あだちさない 信頭(のぶあきら))・馬場佐十郎(ばばさじゅうろう 貞由)が派遣され、来航の経緯を聴取したということです。異国船現る!の報が達すると、この地で海岸防備に当たっていた会津藩兵が抜き身の槍を持って出動し、兵船で取り囲むなど緊張が高まりましたが、イギリス船はインドからロシアヘ向かう途中の商船で、交易は不可、即刻退去するように勧告すると、静かに姿を消したと書かれています。通訳を務めた足立左内と馬場佐十郎は、オランダ語を解したうえ、共にゴロウニンの一件で松前に出張してロシア語を学んでおり、当時最も外国語に通じた幕臣でしたが、英語の理解力は不十分だったようです。
『視聴草』続二集の六には、文政5年(1822)4月29日、再びイギリスの船が浦賀に来航したときのことが記されています。またしても足立・馬場の両名が派遣され、オランダ語を解する乗務員から、同船が2年前に本国を出航した捕鯨船で、水、食料、薪を補給するために立ち寄ったことを聴き取ります。幕府の警戒は厳しく、白河、小田原、川越各藩に出動を命じ、多数の船で捕鯨船を囲みましたが、船内には鯨油のほか荷物はなく、薪水と食料そして「敗血病」治療用の「山土」(病んだ足を土中に漬けると快方に向かうというのです)など希望の品が手に入ると、捕鯨船は5月8日に浦賀を去りました。『視聴草』には、船内の捕鯨道具や乗組員の食器等の図のほか、「諳厄利亜人言語之大概(あんげりあじんげんごのたいがい)」と題してさまざまな英単語が紹介されています。
浦賀に来航したイギリス船は事なく去りましたが、その後、文政7年(1824)にイギリスの捕鯨船員が水戸藩領大津浜(茨城県北茨城市)や薩摩の宝島に不法上陸する事件があり、翌文政8年(1825)、幕府は、異国船は打ち払うべしとする異国船打払令(無二念打払令とも)を出し、異国船排除の姿勢を明確に打ち出しました。『視聴草』は全176冊。
御備一件諸絵図 (おそなえいっけんしょえず)
レザーノフの来航(1804年)と相次ぐ異国船の接近、そしてなによりフェートン号事件(1808年)の衝撃は、幕府に長崎港の防備体制強化の緊急性を痛感させました。
『御備一件諸絵図』には、長崎奉行から老中に差し出した港内防備の図(「湊内固場絵図」)や新設された砲台の図(「新規台場取立場所絵図」)など、文化4年(1807)から同6年にかけて作成された長崎港防備の関係絵図が収録されています。全1帖。
アヘン戦争の戦慄
オランダを除く西欧諸国に対する徹底排除の政策がとられるなか、漂流民の送還を機に通商を求めて浦賀沖に現れたアメリカ船モリソン号が砲撃を受けて退去を余儀なくされ(1837年 モリソン号事件)、このような幕府の姿勢を批判した高野長英(たかのちょうえい)・渡辺崋山(わたなべかざん)らもまた罰せられました(1839年 蛮社の獄)。幕府は江戸近海の防備体制を再検討し、長崎の町年寄で洋式砲術を学んだ高島秋帆(たかしましゅうはん)に徳丸が原(東京都板橋区高島平)で演習を行わせるなど海防と軍事力の充実を図りますが、特段の成果を見ないまま、「アヘン戦争の衝撃」によって、政策の変更を迫られることになります。
アへン戦争は、アへンの密輸を禁じる清国政府がイギリス商人が持ち込む大量のアヘンを焼却したことに対してイギリスが反発、強大な軍事力を行使した戦争(1840-42)。惨敗した清国は、1842年、巨額の賠償金や香港の割譲、領事裁判権等を内容とする南京条約を締結して中国半植民地化への道を開きましたが、このようなイギリスの圧倒的軍事力は、日本の幕府当局者や全国の知識人に大きな衝撃を与えました。天保13年(1842)7月、幕府は異国船打払令をより穏便な薪水給与令に改め、異国船来航の折は薪(燃料)や食料、水を与えて引き取らせることとしました。
視聴草 (みききぐさ)
天保15年(1844)7月、オランダ国王ウィレム2世の「日本国王」(徳川将軍)あての手紙(国書)を携えて、特使コープスが長崎に来航します。手紙には、蒸気船の発達で通商がますます盛んになっている昨今、日本がこのまま鎖国を続ければ西欧諸国と摩擦が生じ、アヘン戦争で惨敗した清国のようになる恐れがあると書かれていました。開国の勧告。しかし幕府はオランダ国王の勧告に従う意志のない旨を回答しました。
『視聴草』続八集の四は、「甲辰阿蘭舟到来(きのえたつおらんだせんとうらい)」と題してオランダ国王の開国勧告の記事を載せ、特使の肖像やオランダ船の図なども添えています。
阿片招禍録 (あへんしょうかろく)
幕府は、オランダに風説書(ふうせつがき)の提出を義務付け国際情報を得ていましたが、アへン戦争が起きると、これとは別により詳細な情報(別段風説書)を入手しようとしました。『阿片招禍録』は、1840年(天保11)から1843年(天保14)まで、出島のオランダ商館長から提出された4通の別段風説書の日本語訳をまとめたもの。風説書には「唐国にてエケレス人阿片商法停止ニ付記録致候事」等の表題が付けられ、戦争の経済的背景と戦闘の具体的様相、締結された条約の内容まで、アヘン戦争の一部始終が詳しく報告されています。
翻訳は長崎のオランダ通詞の担当でしたが、アへン戦争情報は通常のものと比べ訳が難しく、幕府当局からの催促も急で(しかも極秘事項なので担当者は少人数)、日本語訳の完成は困難を極めたようです。全1冊。
諳厄利亜人性情志 (あんげりあじんせいじょうし)
砲台(台場)を新設して沿岸防備を固めるだけでなく、より正確な海外情報を収集することで国防の資料にしようとする動きも、幕府天文方(てんもんかた)の高橋景保(たかはしかげやす 1785-1829)を中心に顕著になりました。
景保は伊能忠敬(いのうただたか)による日本全国の測量作業を監督する一方で、『新訂万国全図』(世界地図)を作製。また文化8年(1811)、天文方に蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)の局を開設し、オランダ通詞の馬場佐十郎や蘭学者の大槻玄沢らを招いて、フランス人ショメールの家庭用百科事典をオランダ語訳版から日本語訳することを企てました(後に『厚生新編(こうせいしんぺん)』として完成)。このほか景保は、レザーノフを乗せて長崎に来航した(1804年)ロシアの海軍提督クルーゼンシュテルンの『世界周航誌』の一部を『奉使日本紀行(ほうしにほんきこう)』として、ゴロウニンの『日本幽囚記』を『遭厄日本紀事』として、それぞれ馬場佐十郎と青地林宗に日本語訳させています。いずれもオランダ語版からの重訳ですが、共に原書(ロシア語版)が出版されてから10年足らずで翻訳が完成しており、海外情報の収集が加速している様子がうかがえます。
景保はその後、洋書と交換にシーボルトに海外持ち出し禁止の地図等を提供した事実が発覚して捕らえられ(シーボルト事件)、文政12年(1829)、45歳で獄死しました。
『諳厄利亜人性情志』は、高橋景保が吉雄忠次郎(よしおちゅうじろう 名は永宜。1787-1833)に訳させたイギリスの歴史と国民性に関する書。文政8年(1825)に書かれた序文で、景保は、イギリス人は「死を軽んじ己が為さんと欲する所誓て必果し」(目的のためには死をものともしない闘争的な)気性であると同時に、古くから国王たりとも背けぬ法典を整備し、「君臣上下の別ありと雖(いえど)も其(そ)の実は無か如(ごとく)」(身分階級の別は、あって無きがごとし)と、その国民性を要約しています。景保は何故このような書を和訳させたのか。理由は、当時頻繁に出没するイギリス船に対する危機感にほかなりませんでした。イギリスの脅威に対処するためには、まず彼らの国民性を知らなければ、というのです。
翻訳者の吉雄忠次郎は長崎のオランダ通詞で、オランダ語・ロシア語を学んだのち天文方に出向、文政7年(1824)にイギリスの捕鯨船員12人が水戸藩領大津浜に上陸した際に幕府調査団の通訳を務め、またシーボルトと景保の連絡役でもありました。シーボルト事件に連座して米沢藩にお預けになり、天保4年(1833)、同地で没。享年47歳。全1冊。
海防臆測 (かいぼうおくそく)
異国船の来航とアへン戦争の衝撃は、攘夷の風潮を促し、海防強化の緊急性を認識させると同時に、さまざまな知識人にそれぞれの対応策を考案させました。
幕府の従来の外交方針に疑問を抱いたのは、蘭学者や攘夷思想家たちばかりではありません。「寛政の三博士」の一人古賀精里(こがせいり)の三男で幕府の儒者を務めた古賀侗庵(こがどうあん 名はU(いく)。1788-1847)もまた、渡辺崋山や高野長英らとの交際を通じて知見を深め、独自の開国論を展開しています。
『海防臆測』で侗庵は、国土が狭いイギリスが、海軍力によって世界の強国になりアジアの大国清を蹂躙した事実に注目し、イギリスを範とし清国を反面教師にせよと論じています。またキリスト教を恐れるあまり鎖国政策を続けるのは時代遅れで、日本はむしろ海軍力を強化して積極的に海外に乗り出し、貿易で国を富ますべきであるとも述べています。天保9年(1838)成立。全2冊。
.海防彙議・同続編 (かいぼういぎ)
医師として幕府に仕えた塩田順庵(しおだじゅんあん 名は泰。1805-71)も、長年にわたって海防を研究し、『海防彙議』を編纂しました。本書は、序文で「冤罪や人に貶られ零落した人々の著述も収録した」(意訳)と述べているように、幕政を批判した罪で入獄した高野長英の「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」等、多彩な論文を載せた海防論集です。続編・補遺を合わせ全52冊。
続編の別本(全3冊)には、嘉永2年(1849)閏4月に浦賀・下田に来航し、測量を行ったイギリスの軍艦マリナー号を描いた彩色図も見えます。
万国旗章図譜 (ばんこくきしょうずふ)
水戸の鱸奉卿(鈴木重時)が、清国から米利堅(アメリカ)まで、各国の国旗や艦船の旗など291種を彩色で示した図譜。嘉永5年(1852)序。各国の旗章を図示した当時もっとも詳細な刊行物で、著者はアへン戦争の情報に接して危機感をふくらませ、この図譜の作成を思い立ったということです。旗を見ただけでどこの国の船か即座に確認できる便利な1冊。水戸弘道館教官の森庸軒(もりようけん)は、後序で、本図譜を全国の海岸防備担当者必携の書であると推奨しています。全1冊。
海国図志 (かいこくずし)
『海国図志』は、清の道光22年(1842)、南京条約が締結された年の12月に、イギリスに対する清朝の降伏を憤り民族的危機を感じた魏源(ぎげん 1794-1856)が、19世紀前半の西洋諸国の情勢を説き、近代的軍備と殖産興業等による中国の富国強兵を訴えた実用の地理書です。魏源は実学を重視した学者で、アへン戦争では、浙江方面(長江下流平野の南部)で実際にイギリス軍と交戦した人でもありました。
『海国図志』は、当時の世界情勢を知ろうとする人々にとってバイブル的役割を果たし、海防と開国の難問に直面するわが国にも最新かつ豊富な情報をもたらしました。外交問題に対する判断に及ぼした影響も少なくありません。吉田松陰(よしだしょういん)や橋本左内(はしもとさない)など幕末の志士に深い感銘を与えたことでも有名ですが、幕府もまた、アメリカの情勢等をより正確に把握するために本書を活用しています。資料は光緒2年(1876)刊。全24冊。
外蕃容貌図画 (がいばんようぼうずえ)
当時のわが国では、容貌や衣装から外国人の国籍を判別するなど思いも寄らないことでした。蒸気船で世界中を航海し各地の人種や風俗に通じている西欧の人々と比べ、島国に安閑と引きこもる日本人の海外知識のなんと貧しいことか。著者は未詳ですが(田川春道とも)、外国人を見れば中国人も西洋人もおしなべて「唐人(とうじん)」と呼ぶ日本人を啓蒙しようというのが『外蕃容貌図画』執筆の動機だったということです。亜細亜・欧邏巴(ヨーロッパ)・亜仏利加(アフリカ)そして南北亜墨利加(南北アメリカ)、五大州各地の人々の姿が、それぞれの国民性や気候等を記した解説を添えて描かれています。
嘉永7年(1854)刊。全2冊。フランス、イタリア国民が平服の男女の姿で描かれているのに対して、ロシア人やアメリカ人が軍服姿なのは、刊行当時の事情を反映したものでしょうか。
黒船と開国
アヘン戦争後、清国と通商条約(1844年の望廈(ぼうか)条約)を結んだアメリカ合衆国では、中国貿易の拡大が予想され、加えてメキシコから資源豊かなカリフォルニアを手にいれた(1848年)結果、太平洋岸における商業活動の飛躍的な成長が期待されていました。このようなアメリカにとって、アメリカと中国を蒸気船で結ぶ太平洋航路の開設は最大の関心事であり、そのためにも石炭等を補給する中継地は不可欠でした。あわせて日本近海で操業する捕鯨船などの安全(避難港の確保等)を期し、合衆国政府はペリー(1794-1858)を東インド艦隊司令長官に任命。わが国に派遣して「開国」を求めました。
1852年11月、ミシシッピー号で本国を出航したペリーは、途中、琉球と小笠原に立ち寄ったのち、嘉永6年(1853)6月3日、サスケハナ号、ミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号の4隻で浦賀沖に姿を現します。浦賀奉行所与力の中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)らが応対し、交渉は長崎で行うよう告げましたがペリーはこれを拒否。アメリカ国書(親交と通商の開始を求める合衆国大統領フィルモアの書簡)を受け取るよう強く求めて艦船を江戸湾内へ乗り入れたため、幕府も要求を受け入れ、6月9日(1853年7月14日)、久里浜(神奈川県横須賀市)に設けられた応接所で、日本側の代表である浦賀奉行戸田氏栄・井戸弘道に国書が渡されました。
日米初度応接之図説 (にちべいしょどおうせつのずせつ)
『日米初度応接之図説』は、嘉永6年6月9日の久里浜の様子を再現した図。国書の授受がなされた応接所とアメリカの艦船、それぞれの持ち場で彦根、川越、会津、忍(おし)藩の士が警備に当たっているところが描かれています。明治25年(1892)刊。絵図の編集兼発行人の高野吉五郎は、当日彦根藩の警備隊の一員として出張していた人で、その時の印象をこう述べています。―自分が出張したのは彦根藩が浦賀奉行所から引き受けた砲台だったが、台場の築造の具合から弾薬に至るまでお粗末そのもので、幕府の末路が思いやられたものだ―。全1枚。
江戸湾御固絵図 (えどわんおかためえず)
久里浜で国書を渡したのち、ペリーの艦隊は江戸湾内に侵入して測量を行い、幕府を動揺させます。このことに強く抗議すると、艦隊は猿島(神奈川県横須賀市)付近まで戻りますが、なおも湾内の測量を続け、日本側に十分脅威をあたえたことを確認して、6月12日、日本を離れ琉球に向かいました。ペリーは、琉球でも石炭貯蔵庫の設置を強引に承諾させています。
『江戸湾御固絵図』は、猿島付近で進路を変えて南下するペリー艦隊と、沿岸の台場や各藩の警備の布陣を描いた絵図。絵図内にはまた、わが国の「国法」を犯して江戸湾内深く砲艦を進めたアメリカ側が、抗議に対して「われわれは再び来航するときのために湾内を測量しただけである。貴国の国法だと言っても、海はここからアメリカまで続いているのだから、当方が従わなくてはならない理由はない」(意訳)と回答したと記されています。全1枚。
浦賀与力より之聞書 (うらがよりきよりのききがき)
『浦賀与力より之聞書』は、嘉永6年6月のペリー来航の際に応接その他の実務に奔走した香山栄左衛門(かやまえいざえもん)ほか浦賀奉行所与力5人の聞書きを記録した書。ペリーの離日からわずか1月余りのちに書写されたものだけに、与力たちが語った率直な感想や印象がいきいきと記されています。
たとえば与力の一人は、アメリカが石炭貯蔵地の確保と通商の開始を求めて特使を派遣する情報を、すでに一昨年オランダ人から得ていながら、幕府の上層部がこれを秘してしかるべき対策を講じなかったこと。昨年の春ようやくこのことが浦賀奉行に通達されたが、奉行はこれを与力に伝えなかったこと等を批判して、「乍恐(おそれながら)当時ノ御役人ハ異船何程(なにほど)来ルトモ、日本鉄炮ヲ出シ示サハ直ニ迯返(にげかえ)ルヘキ位ノ腹合(はらあい)ナルカ」(アメリカの軍艦が何隻やってこようと、鉄砲を見せれば怖がって逃げ帰るとでも思っていらっしゃるのだろうか)と幕府上層の危機感の薄さと秘密主義を慨嘆しています。全1冊。
ペリー提督日本遠征記 (ぺりーていとくにほんえんせいき)
アメリカ合衆国政府が、ペリーの監修の下、ペリー自身の日記やノート、公文書および豊富な文献資料に基づいて編集した書。原書名は、Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy, by order of the Government of the United States. 1856年刊。本書は、日米交渉史の基本史料として貴重なばかりでなく、研究心旺盛なペリーのすぐれた観察眼を通して、当時の日本の風俗慣習が詳しく紹介されています。全1冊。
本書は、万延元年(1860)の遣米使節団の一員である軍艦奉行木村摂津守(きむらせっつのかみ 喜毅(よしたけ))が持ち帰り、大槻磐渓(おおつきばんけい)に贈呈。仙台藩主伊達慶邦(だてよしくに)から翻訳を命じられた大槻は、佐倉藩の手塚節蔵と津軽藩の工藤岩次に依頼し、文久2年(1862)、『彼理日本紀行(ぺるりにほんきこう)』の書名で日本語訳が完成しました。
日本行記 (にほんこうき)
浦賀沖に現れたペリーの艦隊には、のちにその作品が『ペルリ提督日本遠征記』の挿絵に採用されることになる一人の青年画家が随行していました。青年の名はハイネ(1825-85)。ドレスデン生まれのドイツ系アメリカ人でこのとき26歳。彼はケープタウン、シンガポール、香港、下田など、ペリー艦隊が寄港した各地でスケッチを描きながら、祖国ドイツの肉親にあてた手紙の形式で折々の印象や体験を文章にしました。これらの原稿をまとめた『世界周航日本への旅』がライプチヒで刊行されると(1856年)、その評判はヨーロッパ中に広がり、フランス語版やオランダ語版も出版されました。
資料の『日本行記』はハイネの 『世界周航日本への旅』の日本語訳。オランダ語版を手に入れた幕府が、情報収集のため蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(資料27参照)に命じて翻訳させたものです。全5冊。
文鳳堂雑纂 (ぶんぽうどうざっさん)
嘉永7年(1854)1月、国書への回答を求めて再びペリーの艦隊が来航すると、彦根・会津・岡山・熊本ほか各藩が江戸湾の海岸警備に出動し、江戸の町にも衝撃がはしりました。そんななか、黒船と台場の大砲をオモチャ仕立てにした一枚刷りが作られ、大ヒットしました。江戸で本屋を営む山城屋忠兵衛(やましろやちゅうべえ)が珍しい話や資料を集めた『文鳳堂雑纂』に、その実物が貼り付けられ、仕掛けなどが記されています。
本所表町達磨横町の住人甚兵衛(じんべえ)が工夫(考案)したその仕掛けとは・・・。半紙の四つ切に黒船と台場の大砲が印刷され、大砲の口に線香で火をつけると、火は白漆が塗られた弾道を通って黒船に至る。すると船に貼られたドンドロ(音を出す花火)が「パッチリ」と音を出す、というもの。これは面白いと大名屋敷で売れ始め、やがて江戸中で評判になり、1日で4,000枚も売れたとか。元値(原価)は2文。これを10文で卸し16文で小売されたということです。『文鳳堂雑纂』は全117冊。
五ヶ国条約并税則 (ごかこくじょうやくならびにぜいそく)
再来したペリーは、条約の草案を渡し回答を求めました。幕府は回答を引き延ばそうとしましたが、合衆国艦隊を背景に交渉するペリーの前に、ついに開国を決断し、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、横浜の応接所(現在の横浜開港資料館のあたり)で、日米和親条約(神奈川条約)が締結されました。条約は全12条。日米両国の永久の和親と下田・箱館の開港、米国船遭難者の保護などが定められましたが、両国の通商についてはまだ条項が設けられていません。
通商条約は、初代駐日総領事ハリス(1804-78)のとき実現されます。安政3年8月(1856年9月)に下田に着任したハリスは、通商に後ろ向きな幕府側に、国際情勢の変化や貿易による日本の利益を説いて交渉を続け、その結果、安政5年6月19日(1858年7月29日)、江戸湾小柴沖に浮かぶ合衆国軍艦ポーハタン号上で、日米修好通商条約と貿易章程が締結され、その後、年内にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約が結ばれました(アメリカとあわせて五ヶ国条約と総称)。日米修好通商条約は全14条。下田と箱館のほか、期限付きで神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港し、江戸・大坂を開市すること。関税や領事裁判権等が定められています。
資料の『五ヶ国条約并税則』は、安政6年(1859)に刊行された五ヶ国条約の日本語の条文。幕府の各機関で条約の正確な内容を知る必要があり、その条文が印刷頒布されたものと思われます。全5冊。
環海航路日記 (かんかいこうろにっき)
安政の五ヶ国条約は、関税自主権がない上に領事裁判権の条項を含む不平等条約でしたが、条約で通貨は同種同量のものと交換すると定められたことも、わが国の政治経済に大きな混乱をもたらしました。条約の規定では、日本の銀貨は同じ重さの外国銀貨と交換できるというのですが、当時日本国内では金と銀の価値の比率(金銀比価)が国際相場と著しく異なっていたため(国際相場では金の価値は銀の15倍なのに対し、日本では6倍ほど)、貿易が始まると外国人は競って日本で外国銀貨を日本金貨に換えて海外に持ち出し、大量の金が国外に流出することになったのです。
金の流出を防ごうと、幕府は金含有量3分の1の小判を発行して銀に対する金の価値を上げますが、その結果物価が高騰し、人々の生活を圧迫。幕府に対する批判を煽り、同時に外国人排撃(攘夷)の動きを促しました。
『環海航路日記』は、安政7年(万延元年 1860)に日米修好通商条約の批准書交換のための遣米団に医師として随行した広瀬保庵(ひろせほあん 1808-65)の日記。
安政7年1月22日にポーハタン号で日本をあとにした保庵は、途中ハワイで風呂を浴びた時、その料金が日本の通貨に換算したとき異常に高いことに気がつきます。日本では一分銀(いちぶぎん 1分は1両の4分の1)3枚で1ドル銀貨と交換されていたのですが、この同種同量の原則だと、日本の通貨の価値が適正に評価されないことを、彼は海外で肌で感じたのでした。万延元年刊。全2冊。
小笠原回収
幕末の日本は、海外から鎖国の戸を押し開けられただけではなく、みずから軍艦を派遣して平和的に領土を回収しています。1856年(安政3年)にワシントンで出版された『ペリー提督日本遠征記』をいち早く入手した幕府は、そこに記された当時「無人島」の名で呼ばれていた小笠原の開発プラン(小笠原への入植と捕鯨基地化)に注目し、領有を主張できる歴史的実績を背景に、同島を回収し、実効支配することを決定しました。それはたんに領土を確保するためではなく、捕鯨事業等によって国益増進を図ろうとする安藤信正(あんどうのぶまさ)・久世広周(くぜひろちか)ら幕府首脳の開明的な政策の一環だったと言われています。
文久元年12月4日(1862年1月4日)、外国奉行水野忠徳(みずのただのり 1815-68)以下百余名が咸臨丸(かんりんまる)に乗って品川沖を出航。一行のなかには、艦長で明治の鉄道建設に貢献した小野友五郎(おのともごろう 1817-98)、通訳の中浜万次郎(なかはままんじろう ジョン万次郎 1827-98)そして維新後に『幕末外交談』を著した田辺太一(たなべたいち 1831-1915)など錚々たる顔ぶれが揃っていました。咸臨丸は12月19日に小笠原諸島の父島に着き、水野らは入植者のアメリカ人セボリー、イギリス人ホートン、ウェッブらと会談して日本領であることを宣言し、さまざまな調査と測量を行ったのち、翌年1月、島民を集めて今後の島の規則を読み上げ、その英文と和文各1通を渡しました。
小笠原島日記 (おがさわらじまにっき)
『小笠原島日記』には、文久元年12月から翌年2月にかけて行われた、島の住人たちと幕府側の対話の内容が記されています。通訳を務めたのは中浜万次郎。島民との対話といっても、それはいわゆる役人の聴取ではありません。水野はイギリス人ウェッブに、本国における家柄と出世の関係や不倫を犯した夫婦の罪などを問い、またウェッブの蔵書のなかにイギリスの刑法の本はないかと尋ねています。全3冊。
小笠原島風土略記 (おがさわらじまふうどりゃっき)
水野忠徳ら一行は、島民の抵抗にも遭わず予想以上の成果を挙げて文久2年(1862)3月9日に帰途につきますが、小花作之助(おばなさくのすけ 1829-1901)は同3年5月まで島に残り、島長として八丈島島民の小笠原入植の世話や島内の治安の維持に多忙な日々を過ごしました。
『小笠原島風土略記』は、小花が、「ボナナ」「パイナープル」ほか島の産物を紹介した書。あわせて中浜万次郎や平野廉蔵(越後の廻船問屋)を中心に小笠原近海で行われた洋式捕鯨についても触れられています。
小花が文久3年(1863)5月に島を去ったのは、前年8月に起きた生麦事件(島津久光の従者の薩摩藩士が行列を乱したとしてイギリス商人リチャードソンらを殺傷した事件)の影響で、幕府がイギリス艦隊による攻撃を恐れて、日本人島民の引き上げを決定したため。維新の混乱が収まったのち明治8年11月に小笠原が再回収されると、翌年、小花は小笠原出張所長として同島に赴任しています。全1冊。
小笠原島総図 (おがさわらじまそうず)
小笠原回収団に絵師兼医師として参加した宮本元道(みやもとげんどう 1824-?)が現地で描いた図をまとめたもの。水野忠徳は回収団の人選に当たって漢方医と蘭方医各1名の随行を希望しましたが、蘭方医として選ばれたのが、美濃大垣藩士で安政6年(1859)から絵図調出役として蕃書調所に出仕していた宮本でした。宮本は、小笠原の自然や島民の生活の様子、野宿しながら島内の測量や調査に当たる水野忠徳以下一行の姿を彩色図に描いています。彼の絵は『小笠原島真景図』と呼ばれ、資料はその模写と忠われます。全2帖。
語学熱と海外情報の収集
イギリスの軍艦が長崎に不法入港したフェートン号事件(1808年)以後、オランダ通詞の英語学習が始まり、嘉永6年(1853)にペリーが初来航した際にもオランダ通詞の堀達之助(ほりたつのすけ 1823-94)が日本側の通訳を務めました。しかしペリーの旗艦サスケハナ号に番船を横付けした堀が発した第一声は、「アイ キャン スピーク ダッチ」(私はオランダ語を話すことができる)。その後の交渉も主にオランダ語で行われました。
翌年ペリーが再来航し日米和親条約を結んだ際の通訳は森山栄之助(もりやまえいのすけ 多吉郎  1820-71)。森山は英語に堪能でしたが、交渉の場ではやはりオランダ語が用いられたようです。当時はアメリカから帰国した中浜万次郎も幕府のために英文の翻訳等を行っていましたが、彼の英語習得は漂流という特殊な事情によるもので、英語のみならずわが国における西洋の言葉の学習は、オランダ語を除いてまだ「夜明け前」でした。
そんな状態を決定的に変えたのが安政五ヶ国条約(1858年)です。条約締結の5年後には5ヶ国とそれぞれの国語で交渉するよう迫られた幕府は、各国語の通訳の早期育成を図らなくてはなりませんでした。英語・フランス語の伝習は、まず江戸の英米仏各公使の宿所の寺で行われ、慶応元年(1865)、幕府は横浜に寄宿舎付きのフランス語学伝習所(語学所)を開設します。やがて同所では英語の伝習も行うようになりました。
漢学と洋学
西洋の学術や制度の研究が急速にすすんだ幕末は、同時に漢詩文、書画といった文人の活動が盛んな時代でもありました。漢詩で折々の心境を詠み、漢文で思想を述べ、書画を鑑賞し合う旧来の知識人の文化は、外国語学習等の西洋研究と必ずしも対立することなく、漢学者の中からも西洋の文化に通じた人物が輩出します。
テロの時代
開国開港かそれとも攘夷(じょうい)か。アヘン戦争ショックと西洋列国の強力な艦隊によって鎖国の扉をこじ開けられてからも、幕府内の意見は、さまざまな問題が複雑にからんで一定せず、各藩内でも党派の争いが後を絶ちませんでした。政治の混迷。加えて開港による経済の混乱は物価の高騰を招き、外国人排撃の動きに油を注ぐことになります。尊王攘夷派を弾圧した安政の大獄(1858年)とその報復としての桜田門外の変。度重なる外国人殺傷事件・・・。暗殺と報復を繰り返したテロの時代は、文久3年(1863)以降になると、さらに大きな破壊と犠牲を伴う内乱の時代の様相を呈し始めます。
歩兵と造船所
開国の衝撃は、軍備の速やかな近代化と軍制大改革の課題を幕府に突きつけました。文久2年(1862)の改革で、陸軍は歩兵・騎兵・砲兵の「三兵(さんぺい)」に編成されて将軍直属の常備軍となり、慶応2年(1866)には横浜に調練場(三兵伝習所)を開設。翌年フランスから招かれた教官たちの指導の下、大規模な陸軍演習が行われました。その後、三兵伝習所は横浜から江戸に移され、江戸の各所に歩兵・騎兵・砲兵の屯所が設けられました。
海軍を持たなかった幕府にとって、海軍力の整備はさらに緊急の課題でした。ペリーの来航から3ヶ月後の嘉永6年(1853)9月に大船建造の禁を解き、石川島の造船所で水戸藩に西洋式大型帆船「旭日丸(あさひまる)」を造らせ、安政元年(1854)には浦賀の造船所で「鳳凰丸(ほうおうまる)」を起工。その後オランダ・イギリス・アメリカ等から船舶を購入して海軍力の充実を図りました。その一方で、オランダ政府の発案で長崎に設けられた海軍伝習所(1855-59)に伝習生を派遣して航海技術や科学知識を習得させ、安政4年(1857)には江戸に軍艦教授所(後に軍艦操練所、海軍所と改称)を開設し、海軍教育の充実を期しました。
海軍の近代化、ひいては日本の近代化には工業技術の向上が不可欠であるという見地から、歩兵奉行・軍艦奉行・勘定奉行等を歴任し、文久の軍制改革にも参画した小栗忠順(おぐりただまさ 1827-68)は、製鉄所(造船所)の建設を積極的に推し進めます。フランスから技師ヴェルニーを招き、慶応元年(1865)に横須賀の地で起工。その完成を見ずに幕府は倒れ、小栗は斬首されますが、造船所の建設は新政府に受け継がれ、横須賀造船所、横須賀海軍工廠へと発展しました。  
 
ペリー艦隊の対中・日・琉関係の認識

 

はじめに
「ペリー艦隊日本遠征記』(Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan)は、アメリカ海軍の東インド艦隊、すなわちペリー艦隊がアメリカに戻った後で提出された公式報告書である。ペリーの来航や日本開国などを研究する際よくこの報告書が利用されている。また、「日本遠征記jの中、琉球に関する記載もあり、それらのは19世紀後半の琉球王国を研究する上で貴重な史料である。
これまで、琉球開国及び当時の日琉・日薩関係についての研究成果は少なくない。加藤祐三氏「黒船異変一ぺり一の挑戦』(岩波新書1988年)と『幕末外国と開国』(ちくま新書2004年)、紙屋敦之氏『歴史のはざまを読む薩摩と琉球」(椿樹書林2009)と「東アジアのなかの琉球と薩摩藩」(校倉書房1990年)、真栄平房昭氏「16-17世紀における琉球海域と幕藩制支配」(「日本史研究」第500号)、横山伊徳氏「日本の開国と琉球」(「東洋学報』76−3,4)などが挙げられる。特に、西里喜行氏は「清末中琉日関係史の研究』(京都大学学術出版会2005年)において、日本開国前後の琉球「所属」論争をめぐる幕府と薩摩の対応を分析し、「琉球王国は日清両属の状態に加えて更に新たな国際秩序の中へ編入され、国際法の下における‘所属’問題の決着を先延ばしにされたまま、なお国際秩序再編成の渦中で‘主権,保持の努力を継続する」と指摘した。学者達は当時の琉球王国の対外関係に関する研究する際、「日本遠征記』を含めて関係資料を利用したが、ペリー艦隊の「認識」(欧米人の目で見た)の視角から琉球・日本(薩摩)・中国の関係を考察し、琉球の国際的位置づけを明らかにしようとする研究はまだ見られない。これが本論文の意図である。
「日本遠征記jにおける記載から、琉球がその東アジア封貢体制における属国としての地位を極力保持し、朝貢貿易と冊封を受け入れることによって中国と密接な関係を保ちつつ、地位とアイデンティティーを維持しようとしたことがうかがえる。一方で、琉球は日本の薩摩藩による搾取と支配に耐えることを余儀なくされ、よりいっそう、対外的にはなお独立国家としての姿の維持に努める必要があった。ペリー艦隊の観察、叙述から次の二点がうかがえる。一点目は、当時、琉球の「主権」(支配権)は中国にあり、「実質的支配」は日本にあった−しかし中国のこの「主権」とは封貢体制に特有の、宗主国が藩属国に対する象徴的な意味合いの強い権利であり、一方で、日本の「実質的支配」とは、幕藩体制下の薩摩藩を通じた琉球における「日本領事」、「駐留軍」といった直接制御によって強固に実現していたものである。二点目として、琉球の国家意識と自らの位置づけとは、即ち琉球は中国の「外藩」であり、日本は琉球の「近隣」であるというものであった。しかし、前者はより文化と価値についての自覚認識であるのに対し、後者はというと対外的に示された、やむを得ない、虚偽の「認知」なのである。このことから、琉球の中国および日本との間における不自然な「両属」関係は、当時における琉球の地位の実態ではあるが、「両属」の性質は全く異なるものであったことが分かる。
1 実像と虚像:琉球に対するペリー艦隊の初歩的認識
1853年7月8日、アメリカ海軍提督ペリーが艦隊を率いて江戸湾に侵入し、徳川幕府に開港するよう要求した。これは日本の歴史上有名な「黒船事件」である。1854年2月13日、ペリーが再び艦隊を日本に押し寄せ、幕府はやむなく開国の要求を受諾した。日米両国は3月31日、横浜で「日米和親条約」を調印した。これによって、日本の鎖国状態は終わりを告げ、幕藩体制は瓦解の一途を辿っていった。日本の歴史も近代へと歩み始めたのである。ペリー艦隊がアメリカに引き上げた後、米国国会に『日本遠征記」と題する公式な報告書を提出した。この報告書はペリー艦隊や日本の開国事情などを研究する重要な資料となり、また琉球王国に関する貴重な歴史記録ともなった。
実際、1852年11月、ペリー艦隊がアメリカ本土を出発した後、大西洋、インド洋、シンガポール、中国の広東省.上海、琉球、小笠原諸島などを経由して、ようやく日本に到着したのである。1853年5月26日、ペリー艦隊が初めて琉球の那覇に上陸し、当地で薪水の補給を受けた。その間、船員たちは各種の実地調査を行ったばかりでなく、ペリー自身も琉球王国の王宮首里城を訪れた。これを最初に、ペリー艦隊が琉球に訪れたことは合わせて5回である。艦隊が琉球で石炭の補給地を設置したり、食糧を受けたりした。即ち琉球はペリー艦隊の補給基地となったのである。徳川幕府と条約締結した後、ペリー艦隊が帰国の途中、那覇に停泊した最後の一回は、琉球王国と「琉米修好条約」を調印した。その後、那覇は通商都市として門戸を開放したが、琉球の運命もこれで大きな転換を迎えることになった。
ペリー艦隊が琉球に何回も駐留した間、ペリーとその随員たちは琉球の風土、人文、自然、地理、及び琉球王国の内政外交、わけても琉球と中国、日本の関係などの調査を行い、西洋人の立場からリアルな記録を残している。これらの記録は「日本遠征記」に詳録されたか、或いは別の題名で出版された。いずれも19世紀後半の変動期に置かれた琉球王国を知るための貴重な資料である。
ペリー来航に先んじて現れた琉球の航海記録に関する著書は主に二つある。一つはイギリスの航海者ホール船長が1816年に琉球に来航した時の見聞をもとに書いた"Account of a Voyage of Discovery to the West Coast of Corea and the Great Loo-Choo lsland in the Japan Sea"である。日本語に訳せば、「朝鮮西海岸及び大琉球島航海探検記』である。この本は1818年にロンドンで出版され、西洋世界で琉球諸島と朝鮮半島を詳細に記述する最初の著作であるといわれる。出版後2年間も経たないうちに、オランダ語、ドイツ語、イタリア語などに翻訳された。英語版も幾度となく再出版を重ねた。琉球に対する西洋人の認知はこの本から得たものが多く、ペリー艦隊も例外ではない。
もう一つ、ペリー艦隊が事前に琉球に関する知識を得たのは、時間的にもっと近い“Lewchew and the Lewchewans, being a Narrative of a Visit to Lewchew, or Loo-choo in October, 1850 “からであり、日本語に訳すと、『琉球と琉球人-1850年10月の琉球探検』になる。この本の作者スミスはイギリス聖公会の宣教師として中国に来て、香港で長い間宣教活動を行った。ペリー艦隊が琉球に対し使った呼称“Lewchew”は今挙げた二冊の著書と同じく広東方言のアクセントから来たものであり、このことからペリー艦隊が琉球と中国、日本の関係についてどのような初歩的認知を持っていたかが分かる。そして、ペリー艦隊が広東、上海を経由して琉球に向かったが、広東沿岸に到着した際、香港、マカオ、広州などの地域で一時的に滞在していた。中・琉・日関係に関する調査はすでにこの時から始まったのである。ペリー艦隊が琉球に到着する前、以上のルートを通して入手した琉球の情報の中に正確なもの(実像)もあれば、間違ったもの(虚像)もある。「日本遠征記』の中では、スミスが述べた琉球と中国、日本の関係は次のように引用されている。

大局的には、琉球は日本から移住者によって植民されたという意見が、最も蓋然‘性が高いように思われる。日本人と琉球人とは、人相、言語、習‘慣において、密接な類縁関係にある。一方、琉球人は一部の文明や文学において、日本よりはるかに中国から重要な影響を受けていることも確かである。琉球の政体は、直接日本に従属している文官が行う過酷な寡頭政治であるようだ。この文官たちは日本国を非常に恐れていて、いざという時には中国ではなく日本に保護を求める。二、三百年前の明朝時代、日本と中国の間に戦争が起きた。このとき中国は琉球を日本から離反させようとして、威厳ある独立王国に昇格させたという歴史上の伝説がある。中国の封臣のしるしとして、新しく即位した琉球王はいずれも。特命を帯びて福州から派遣された中国の役人から公式の封爵を受けるのである。琉球からはこの福州へも二年に一度朝貢船が派遣される。約二○○年前タタール人(満州族)が中国に侵入し、現在の外国人王朝(清)を創設したとき、タタール式の服装と支配に従うことを嫌った中国の約三六の家族が琉球に移住し、その子孫が琉球の啓蒙者となって、国民と融合していった。

スミスの記述の中に種々の間違いがあることは言うまでもない。明代万暦年間に起きた中日戦争の起因を間違えたり、「閏人三十六姓」が琉球に到来した時間と理由も間違えた。しかし、スミスが琉球と中国の朝貢関係や文化的影響を比較的正確に記述したのは確かであり、これは西洋人の最初の認識である。琉球に対するペリー艦隊の認知にも影響した。
ホールの「朝鮮西海岸及び大琉球島航海探検記」がペリー艦隊に与えた影響は一番大きい。したがって、ペリーを含めた多数の執筆者は「日本遠征記」の中で、よく琉球王国の実情を「朝鮮西海岸及び大琉球島航海探検記』の記述と比較検討していた。その結果、この本は真実と嘘が混在し、間違いが決して少なくないことが分かった。いかなる理由によるか分からないが、ホールは大いに美化した手法で琉球を描いた。山口栄鉄氏によれば、ホールは琉球をこの世のエデンの園に職えた。琉球の住民は子供のように無邪気で、見知らぬ外国人を素直な心でもてなし、うそつきや詐欺などは一切しない。だから、金にかかわる闘争や犯罪行為は彼らとは無縁だと説いた。1817年、ホールは大西洋のセントヘレナを経由した時、現地に追放された元フランス帝国の皇帝ナポレオンに訪ねたというOホールが平和を愛するという琉球人の'性格をナポレオンに話すと、ナポレオンは鷲いて肩をすくめ、「戦争がない、そんなことはありえない」と述べたという○このことに対し、ペリー艦隊は同様の疑念を持っていた。彼らは琉球諸島を実際に調査した後、「日本遠征記」の中で「ホール大佐は琉球人に関する興味深いが、あまり信頼できない記録」と批判した。なぜなら、彼らは島内で三山時代のグスく遺跡を発見したばかりでなく、琉球人が日本の火器にかなり詳しいことを知ることができたし、島内に日本駐留軍があることさえ聞いたからである。
このように、ペリーが琉球に到着する前、西洋の航海者たちとりわけイギリス人はすでに琉球に関する航海記録を残している。豊かな内容こそあるが、真実でないところがまったくないのではない。ペリー艦隊が琉球に来る前に、これら従来の航海記録の中にある背景知識を念頭に入れながら、実地調査を行うことによって、より客観的で正確な琉球認知を獲得しえたと考えられる。
2 「日本領事」と「日本駐留軍」 ペリー艦隊から見た琉日(薩)関係
1.「日本領事」
1853年5月26日、ペリー艦隊が那覇に到着した時、琉球と中国、日本の関係を「日本遠征記」の中で次のように客観的な記述をしている。

琉球がどの国に属するかについては、今なお議論が続いている。日本の薩摩侯の属領だと言うものもあれば、中国の属領ではないかと言うものもある。日本国に属しているのはほぼ確実らしいが、中国に貢物をおさめていることにも疑い余地はないため、いくらかは中国にも従属しているのだろうと思われる。言語、習‘慣、法律、服装、道徳、風習及び通商関係などから見ても、やはりこの見解に落ち着く。しかし、この問題についてはまたあとで述べることにする。

ペリー艦隊が琉球に滞在した間に、十分な証拠を収集した。琉球が中国文化の影響を強く受けていると信じる一方、日本からの統制も受けているという形跡も察した。艦隊が琉球に到着した翌日の5月27日、船員は那覇から北へ向かって出航していく何隻かの船を発見した。これらの船がペリー艦隊が通過した時、近いところからアメリカの軍艦を観察していた。これらの船は報告のために日本へ派遣されるものであるとペリー艦隊は確信していた。
5月30日、ペリー艦隊は将校4名に船員4名と中国人役夫4名を随行させ、12人からなる調査チームに武器を持参させながら琉球に上陸させ、島内部に深く徒歩調査を行わせようとした。琉球政府は官員を同行させたが、実は道案内を名目に監視役に当たらせたのである。調査チームは島で一か所の立派な家屋を見つけた。すると、家の主人は丁寧に調査員たちを屋内に招き入れ、お茶をもてなした。言葉が通じないため、双方はそれほどの会話ができなかった。しばらく休んだ後、調査チームは再び出発した。それでチームの中の中国人役夫はアメリカ将校たちに「あの家の持ち主は実は「日本領事」だ」と教えた'0)。「日本遠征記jの原文では「Japanese Consul」と記されている。この言葉に、アメリカ人がこの主人の身分をどのように理解したかが反映されているのであろう。このいわゆる「日本領事」は薩摩藩が琉球に派遣した「在藩奉行」にほかならないと考えられている。
1609年薩摩が琉球を侵略した。薩摩軍が引き揚げる時、鎮守として留った本田親政と蒲地休右衛門が奉行の始まりであった。1631年に、正式に那覇で「在藩奉行」を派遣し、その任期を三年とした。在藩奉行の邸宅は「仮屋」と呼ばれる。ペリー艦隊の調査チームが招き入れられた立派な家屋はまさにこの「仮屋」であろう。「在藩奉行」について日本の学者宮城栄昌氏は「在藩奉行の職務中、内政・外交監視と進貢貿易の督励とは最も重要であった」と指摘している。
日本の史料によると、ペリー艦隊が琉球に滞在していた間、琉球駐在の薩摩藩の在藩奉行はその責任を忠実に履行したという。薩摩藩在藩奉行郷田中兵衛、谷川次郎兵衛と警備川上式部は嘉永六年六月十二日(1853年7月6日)から薩摩藩へ報告書を送り始め、琉球におけるペリー艦隊のすべての動向を詳しく報告した。これらの報告書は目を見張るほど詳細なものであり、ペリー艦隊の人員、装備や、毎日の立ち居振る舞いなど、一々正確に記録しただけでなく、琉球側が艦隊に提供した石炭、家畜、食糧、野菜などの補給物までにおよんでいた。ペリー艦隊から琉球側に送られた贈り物も言うまでもなく在藩奉行の報告書の中に余すところなく記入された。ペリー艦隊と琉球側の間で行われた交渉についての詳しい内容も、在藩奉行の報告書の中に完壁に見て取れる。
ペリーがアメリカの特命全権大使と艦隊司令官の身分で首里王宮に訪ねたいと琉球官員に願い出たことがあるが、その際琉球官員は「国王はまだ幼少で、王太后も重い病気にかかったので、驚かされてはならない」ことを理由にごまかそうとした。このような交渉の細部も薩摩在藩奉行によってそのまま報告書に記入された。また琉球側からペリー艦隊に送られた公式な書状に対するペリー艦隊側の返信までもなんと報告書にそのまま記録されている。さらに、ペリー艦隊の第五回目の琉球訪問の間、一つの悪質な事件が起きた。ある米軍水兵が飲みすぎ、那覇の町中で暴れ回って、民家に不法侵入して琉球人の婦人に暴行しようとしたところ、怒りに燃えた琉球庶民に殴られ、慌てて逃げたあげく川に落ちて溺死した。この事件をめぐってペリー艦隊は琉球政府と複雑な交渉と外交文書のやりとりを交わしたが、結局は琉球地元の法律に基づいた裁判が行われ、ペリー艦隊びいきの立場から処理された。この過程中に交わされた一連の文書は一つ残さず薩摩在藩奉行の報告書に記入された。
ペリー艦隊の五回目の琉球訪問中、在藩奉行の報告書は大体十日間に一回の頻度で出され、対米交渉の参考情報として薩摩藩に提出されていたのである。これらの報告書は情報の出所について言及せず、また在藩奉行とペリー艦隊の直接な交渉ぶりについても記述していなかった。しかし、ペリー艦隊と琉球王国の往来情報をこれほど効率的で正確に収集しえたと考えれば、琉球政府の周密な監視や命令による情報収集活動がなければ到底できなかったはずであろう。
したがって、例の那覇から日本へ報告に出向いた船は、おそらくこの「在藩奉行」が派遣したものであろうと想定される◎彼が調査チームのメンバーたちにお茶のもてなしをしたのも、礼儀によるものだけではないに相違ない。この実際の面会から、彼はいったいペリー艦隊のメンバーたちから何を知りえたか、知る由はないが、日本と琉球の関係、正確に言えば薩摩藩がどれほど琉球を支配していたかは、この出来事からうかがい知ることができるのではないか。
2.「日本駐留軍」
当時、ペリー艦隊の調査チームは二つのグループに分けて、それぞれ調査を行った。また、両チームは調査が完成したら、島のあるところで合流しようと約束した。一グループは少し早めに合流場所に着いたが、もう一つのチームに方角を指し示すために、隊長のアメリカ将校は空に向けて発砲した。百人余りの琉球住民はその場面を見て驚くばかりか、面白そうに感じた。琉球人はアメリカ人将校が使った武器にたいへん面白がって、それは彼らが今まで日本の鉄砲しか見たことがなく、もっと近代的な西洋式武器を目にしたことがなかったからである。アメリカ式のライフル銃は元込め式のもので、先込め式の日本火縄銃しか見たことがない琉球人の興味を大いにそそったのである。また、アメリカの調査員たちは新しい発見をした。

彼らは火薬の‘性質や短剣の使い方を知っているようでだったが、この探検の間、武器はいっさい見かけなかった。那覇と首里には日本の守備隊が屯駐しているということだったが、もしいたとすれば、われわれを警戒して避けていたのだろう。
 
琉球で武器が見つからなかった理由に、薩摩藩が琉球人の武器保有資格に厳重な取り締まりを行ったことが挙げられる。事実、早くも1522年、尚真王は「刀狩令」を打ち出し、琉球全国の武器を没収した。このため、琉球王国の武備は遅れを取ることになった。にもかかわらず、薩摩人が琉球での帯刀はごく普通なことのようである。例えば1576年冊封使として琉球に派遣された請崇業は「琉球に日本館があり、そこに集まる人何百人、冊封使の船を待っている。これと商売を行った。その人たちが出入りする時皆刃物を携帯し、琉球の人々はこれを非常に恐れた'4)」と言った。また1606年に夏子陽が使者として琉球に行ってきたが、「千人に上る日本人が刃物を持って市に現れたのを見て、琉球はすでに日本に屈服しただろう」と報告した'5)。1609年に薩摩藩は琉球に侵攻した後、琉球の武器を点検したところ、弓500本、銃300挺、甲胃300具と若干の刀や矛しかないことに気付いた。1611年9月、薩摩藩は捕虜にした尚寧王の送還を承諾したが、その際、薩摩藩への臣服を認める誓約書と琉球国の守るべき「徒十五条」を尚寧王に押し付けたことがある。これによって、薩摩藩は官員の派遣、田地の測量・分配、国境線の画定、税金政策の制定、薩摩藩への朝貢など一連の要求を琉球側に受諾させた。また、薩摩藩は琉球人の武器や生活の営みに必要な鉄器も没収し、厳重な取り締まりを行った。1613年9月24日、薩摩藩はさらに琉球で「兵具改め」を断行し、武器の統制によって、琉球人の武器保有資格を厳しく制限した。これについて、真栄平房昭は「日本社会と比べて、琉球の武士たちは刃物を持たない。このような非武装的な特徴の背後には薩摩藩による強力な武器統制政策という根本的な原因がある。この特徴はのちほどペリー提督の注意も喚起した」と指摘している。
「日本遠征記lの中に琉球で長年生活していたイギリス人宣教医ベッテルハイム'7)の追想談があるが、これによって、琉球での薩摩藩軍隊の駐在状況が窺える。
1845年9月9日、ベッテルハイムはイギリス海軍艦隊に付いてポーツマスから出発し、翌年の1月に香港に到着、4月30日に琉球の那覇に上陸した後、護国寺で宣教活動を展開した。琉球滞在の八年間、ベッテルハイムは医療事業に取り組んだり、琉球人に種痘の方法を教えたり、「聖書』を琉球語に訳したりした。1847年10月、ベッテルハイムが尚育王の葬式に参加した時、フランス人宣教師と争いを起こして殴り合ったため、琉球政府の監視下に置かれるようになった。ペリー艦隊が琉球に到来し、政府と開港通商の談判を行った時、ベッテルハイムも参与した。「日本遠征記』の中にこのことに関する記述は何か所もある。その後、彼はペリー艦隊と一緒に琉球を離れ、アメリカに住みつくようになった。琉球での生活が長かったので、彼は琉球の事情に非常に詳しい人となった。「日本遠征記」は次のように記されている。

(ベッテルハイムが言う)「那覇に日本の守備軍が屯駐している」。しかし、この屯駐兵が公然と姿を現すことはないことを、知っておかなければならない。なぜならば、琉球人は武器そのほかの軍備を持たない戦争嫌いな国民をよそおっているからである。しかし、ベッテルハイム博士はたまたま屯駐兵の一隊が武器の手入れしているのを見かけている。
 
日本駐留軍が自らの存在を隠す目的は明白である。薩摩藩は琉球侵攻後、中琉貿易の中から利益を獲得するために、琉球に対して実質的に支配していることを意図的に隠蔽しようとした。例えば、中国の冊封使が琉球にやってくる度に、琉球にいるすべての日本人は外出など目を引くような活動は一切禁止されることになる。日本の年号等付いているものはしまわなければならない。東恩納寛惇氏が述べたように、薩摩は琉球をどこまでも中国の附庸として擬装する必要があったので、苗字、衣服ともすべて、やまとめきたるものを禁止し、薩摩との関係を極秘にする方針を堅持しながら物心両面にわたって、薩摩から離れていかないように厳重監視したという。『日本遠征記』に次の記述がある。

ベッテルハイム博士が琉球当局と接触するときには、いかなる場合にも常に少なくとも二人の人物が姿を見せた。この人物が会合をとりしきり、琉球の役人を操っていたのは明らかである。彼らは日本の監察官であると、博士は推測した。
 
このように、「日本遠征記」の記述は薩摩藩の琉球駐留軍の実態を反映するばかりでなく、琉球と日本の裏関係も窺い知らせてくれるものと言えよう。
3 「主権」と「実質的支配」 琉球の位置づけに関するペリー艦隊の認識
1.「主権」、「実質的支配」と「外藩」、「近隣」
上述したように、琉球に到着した以前に、ペリー艦隊は琉球と中国の関係に対し、すでにある程度の認知を持っていた。「日本遠征記』は比較的正確で簡潔に琉球の歴史を記述した資料であると考えられる。天孫時代から三山時代まで、どれも余すところがない。また同書はこれら記述の出所一‘Chow-Hwang'の著書にも言及している。
‘Chow-Hwang,とは清国の琉球冊封使周煙のことである。使者として現地にいた間、彼は地元の逸話に留意し、見聞したことを随時に記録に残した。帰国後は大量の文献を参考にしながら、著書を整理編集した。出来上がり次第、これを乾隆帝に呈上した。これが即ち「琉球国志略』である。「琉球国志略」は清代の内府が収蔵する写本のほか、刻本も何種類かある。ペリー艦隊が中国広東省や上海に滞在した時に入手したものか、或いは現地で雇った中国人が持っていたものであろう。ペリーらが琉球の歴史及び中琉関係を知るうえで、重要な情報源となっていた。
「琉球国志略』などの書物を元に、またペリー艦隊が琉球へ行った実地調査などと合わせて、「日本遠征記」は琉球と中国の関係について、自らの見地を提起している。

すでに述べたように周煙は、現在同島の支配権が中国の皇帝にある、と主張している。だが、この問題を決定するのをむずかしくしていると思われる諸点のひとつは、琉球が中国と日本の双方と密接な関係にあることだった。毎年貢物が中国船で琉球から中国に送られているのは確かな事実らしい。しかも琉球の役人は中国人のようには見えず、教養ある琉球人には中国語を理解し話す者もいるとはいえ、琉球の日用語は中国帝国のとは違う。日本が琉球に対して有するなんらかの権利に関してわれわれは言えるのは、のちに条約の案件を協議するためペリー提督が日本委員と会見したとき、日本側が「琉球は遠隔の属領であり、(日本)皇帝の支配は限られている」と通告してきたことのみである。琉球のほとんどが日本船で行われているのも確かである。琉球人自身の証言は、那覇の役人がペリー提督に宛てて送った書簡から引用した次の一文に語られている。「明朝の時代から中国の外藩のひとつに列せられていることは、われらが大いに誇りとするところである。また、中国は久しく我が国王に王位を授与し、われらはそれに報いて調達できるものを持って中国に朝貢してきた。我が国に関わる重大事が発生すれば、それはことごとく中国皇帝に報告されている。貢物を送る時期が来るたびに、われらIまかの地(中国)で我が国のしかるべき官服と冠を作るための絹や繭紬を購入し、高位者用の薬などの物品を選んでいる。それらが我が国の使用に十分でない場合は、吐鳴卿の島を経て親しい近隣の国家と交通し、黒砂糖、酒、芭蕉布そのほかの貢物として中国に送っている国産品と交換する」oここで言及されている親しい隣国とは日本のことである。

この記述から見て、次のようなことが考えられる。まず、琉球の位置づけについては、東アジア封貢体制における「中国帝国」の外藩属国であり、海の上にある離れ島として、中国やほかの国々と海上貿易を行うことで生存発展を維持していく存在であるといえよう。薩摩にどの程度の依存があろうとしても、琉球がこのような位置づけを明確に主張していたことが分かる。ペリー艦隊の観察によると、中国が琉球の内政に直接な干渉をしていないが、琉球は中国の影響を深く受けている。ペリーに送られた那覇官員の書状の中で、次の点は繰り返し強調されている。つまり琉球は長年中国と朝貢関係を維持しており、朝貢貿易は朝貢関係の一部分ということである。琉球と日本の貿易関係に至っては、「近隣」国間の貿易としか位置づけられていない。こうして見れば、琉球は自分と日本の関係が国家間の平等関係であることを主張していた。一方、中国との関係は東アジア封貢体制における「属国」と「宗主国」の関係であるとみなしていた。
これを元にして、「日本遠征記』は、琉球は「主権」(支配権)が「中国の皇帝」に属していながら、日本からある程度の「実質的支配」を受けていたと説いている。つまり、「主権」と「実質的支配」の飛離という矛盾した状態があったのである。
次に、日本は琉球における利益を放棄したがらないことである。ペリー艦隊が徳川幕府と交渉を行って、那覇の開港を要求すると、日本が示した反応はやむを得ないものであった。日本が「統治権は限定的なものだ」とあやふやな表現でごまかそうとしたのは、実はアメリカ人の要求を黙認したのと同じ意味である。にもかかわらず、日本は「属国」の名目で琉球における利益を維持することを忘れなかった。「日本遠征記」の原文に‘That Lew Chew was a distant dependency, over which the crown(of Japan)had limited control.,‘‘Dependency‘は英語で「属地」、「従属」の意味だが、私たちはこれを「属国」と訳している。日本がそうしたのは、琉球は遠い島だが、日本の支配下にあることに変わりはないことを強調したいからである。つまり、アメリカが琉球から利益を獲得してもいいが、日本「属国」の琉球を放棄してはならないという思惑である。
2.琉球の国家意識:中国に対する「認識」と自分に対する「認識」
ペリーはその日記「ペリー日本遠征日記』の中で、琉球の位置づけに関して、自分の観察と考えを述べている。

宮古島群島は大琉球の王及び評議会が指名した役人たちによって統治されており、そして、彼ら役人たちは、日本およびその属領中にあまねく行われている陰険で油断のない政策に従ってしばしば更迭されていることを、われわれは知っています。またこれらの島々は琉球の支配下にあって、年々に税を琉球政府に払っていることも知っております。さらに聞くところによると、琉球は日本のある王族の領土であるとのことですが、しかし著述家たちのなかには、琉球は薩摩の大名にだけ忠誠を誓っていると主張するものが何人かあります。大島とその隣辺のおそらく属島と思われる徳島、ラトナ島(加計呂麻島)及び喜界島の住民と政治に関しては、いままでのところすこししかわれわれにはわかっていませんが、しかし彼らもまた大琉球の支配下にあって大琉球政府は彼らと日本帝国、あるいはたぶん薩摩の大名との間の仲介的統治権を行使しているものと推論することが公平であります。

1854年7月8日、日本との調印に成功したペリー艦隊は帰国の途中で最後の琉球訪問をした◎ペリーは副官ベントと艦隊の通訳ウイリアムズに上陸を命じ、琉球政府と米琉条約の協議草案についての談判に当たらせた。談判のプロセスについて、「日本遠征記Iは興味深い記述を残している。
 
(協議の)その前文には、琉球を独立国として認めていた。この認定に摂政27)は反対し、琉球は中国に服従する義務を負っているため、このような不遜なことをすれば、中国との間に紛争が起きかねないと述べた。協議の諸条項については喜んで同意し、また忠実にそれを履行し、ためらうことなくこの協議書に調印もするが、あからさまに完全な独立を求めるような主張やそぶりは避けたほうがよいだろうということだった。
 
同様、ウイリアムズも彼の「ペリー日本遠征随行記』の中で自分が見た談判状況を次のように記している。
 
午後の会議では、条約の諸点についての意見の交換が行われた。彼ら注意深く文書に見入っていた。驚いたことには、彼らが最大な難色を示したのは全文についてであった。これには、沖縄とアメリカ合衆国とは友好条約を締結するに至ったと調ってあった。この点が忠節を誓っている中国皇帝の感'情を害するのではなかろうか、この前文で主張しているように、われわれが独立国としての立場を装うと、皇帝の激怒を買うのではなかろうかというのであった。
 
これらの記述の中で「独立」という言葉は何か所で使われたが、意味はそれぞれ大いに違う。一方、琉球は「独立」国家としての地位を拒否したのは、中琉関係への配慮があったからである。琉球側から見れば、自分が中国王朝の「属国」である前提は変えることはできない。ペリーを代表とするアメリカ側との交渉もこの点を前提としなければならない。他方、実際には、琉球は対外関係では「独立」国家としての権利を行使できることも期待している。
琉球は東アジア封貢体制の一員として、中国に対する義務と義理をつけられている。「普天の下、王土に非ざる莫<、率土の漬、王臣に非ざる莫し30)」と言われるように、琉球がほかの国と単独で条約を結ぶ場合は、琉球が「王土」であり「王臣」であるという身分を否定し、「天朝王国」とのつながりを断ち切ってはならない。したがって、この前提を抜きにした「独立」は琉球が認めるわけがない。しかし、宗主国とのつながりは比較的道義的に言う概念であり、実際の国家生存とは関係が薄いといえる。周知のとおり、東アジア封貢体制の中では、中国が属国の内政外交を直接に管理することはほとんどなく、属国は自国の管理権を「独立的」に行使することができる。だが、1609年の薩摩藩による琉球侵攻以降、琉球は新たに薩摩藩の支配下に組み入れられ、自分が付属国になった事実を隠蔽しなければならず、対外的には自分が独立した内政外交権を保持しているかのように見せかけることによって、朝貢貿易を維持しなければならなかった。そのため、ペリー艦隊の開港要求をやむなく受け入れ、「琉米修好条約」を調印した際に出し得た唯一の条件は、表面的に独立するという偽りの姿を保持し、中国、日本との関係を維持することであった。当時琉球王国が置かれた悲しい境遇そのものである。
ウィリアムスはまたその随行記の中でこう書いている。

吐鳴卿(薩摩)や日本に関しては、薩摩との貿易は主として、北京へ進貢する際に中国へ持っていく逸品や見事な品物を手に入れる目的で続けているのである、と彼らはいった。彼らは薩摩との貿易については何も語りたがらず、私が鹿児島Kagosimaへも進貢しているのかどうかと尋ねても、答えようとしなかった。この中国への進貢を許されていることについては、彼らは屈辱を感じるどころか、喜んでいるふしさえ見られた。どうも彼らの薩摩に対する忠誠の義務の実態は、ひどい隷属であり、かつ、重い負担であるに違いない。
 
「日本遠征記」はさらにこう記述している。
 
琉球は数世紀前に日本の薩摩のある大名に征服されたらしく、この大名の後継者に朝貢しているものと思われる。中国ともなんらかの関係があるようだが、よくわからない。
 
ウイリアムスは薩摩藩に支配されていた琉球の状況を正確に記録している。アメリカ人に「理解しがたい関係」というのは、まさに中国と琉球の封貢関係のことである。このような関係は琉球王国が何百年にわたって国際社会を生き残って法的地位を獲得できた礎石の働きをしていた。これについて、ペリー艦隊はよく知っていた。だが、アメリカ人である彼らは、見‘慣れぬ東洋の文化と東アジア特有の国際秩序に困惑を感じなくもなかった。ペリーたちの「困惑」をもたらした原因は、彼らが知っていた近代西洋における国際関係を処理する時に使われる条約体系は西洋社会が準拠する国際秩序の原理に過ぎず、未だ東アジアに及んでいないし、この地域を規定する国際秩序は中国を中心とする東アジア封貢体制であり、中にある宗主国と藩属国の関係、属国と他国の関係は複雑で弾力'性に富むものであることにある。ここで準拠されるのは伝統的な華夷秩序であり、人倫・君臣の道が何よりも重視されていた。西洋勢力の侵入によってもたらされた二つの体系の衝突は、近代東アジアに今までない大きな変化が起きたという結果を招く主な原因である。
4 おわりに
「日本遠征記」に見られるように、19世紀後半の琉球は「両属」という苦しい窮地に置かれていたにもかかわらず、東アジア朝貢体制における外藩属国という身分を必死に守ることによって、朝貢貿易の形で中国と密接な関係を維持しようとした。また、中国文化を積極的に受容・継承することによって独自の帰属感と自己同一性を保持することができた。
同時に、琉球は薩摩藩の残酷な搾取と支配に耐えることを余儀なくされながら、対外的には自国が依然として「独立国家」であるという偽りの姿を見せなければならなかった。このことに対し、「日本遠征記』がたくさんの記述をしているだけでなく、ペリー艦隊の船員たちも各自の著書の中で様々な言及をしている。例えば、ペリー艦隊の通訳ウイリアムスは次のように言っている。

私は沖縄を十七世紀、一六○九年これを完全に征服した薩摩の属領(日本に従属するというよりも)と考えている。薩摩は沖縄の貿易を独占し、その内政と外交を統御している。利益のあがる貿易を続け、また島民の間に名ばかりでも独立国の体面を維持させるために、福州(Fuhchau)への進貢船の派遣を許しているのである。
 
ペリーの『日本遠征記jの執筆人となった作家のハークスもこう書いている。
 
琉球の人たちは言うまでもなく東洋諸民族の中でも最も知能の勝れた民族である。しかしながら、一般の人たちは通常支配者によって無教育の状態に置かれたままとなっている。身分の高いものは、漢学をよくし、支那へは知識人や専門家、特に医者たちがその教育技術の修得のために送られる。彼らの有するものでいわゆる文学と呼び得るものはすべて支那そして日本よりもたらされたものである。より高い文化への志向'性という琉球人の好ましい傾向、そして絶対的支配者による専制統治に対し彼らが内に抱く心情などといったことから考えて、日本人による専制独裁と快を分かった独立国の政治形態に置かれるのを琉球の人たちが最も好むところであろうとするのはあながち不当な憶測でもあるまい。
 
ペリー艦隊の認識は、琉球と日本特に薩摩との関係、琉球と中国の関係を分析する上で、または歴史上における琉球の位置づけを理解する上で、我々に貴重な手がかりを提供してくれることは疑いえないのである。  
 
ペリー提督「日本遠征記」ともうひとつの遠征記録

 

本年は、幕末の1853 年7 月に、ペリー提督が第1 回目の国交交渉で浦賀を訪れてから150 周年の年にあたり、各地で記念行事が行われています。ここ北陸の地、金沢でも、北陸日米文化協会主催による日米交流150 周年記念講演会「開国と加賀藩の対応」(講師:徳田寿秋石川県立歴史博物館長)が7 月12 日(土)に開催されました。この講演会場で、本学が所蔵するペリー提督の『日本遠征記』初版本の第1 巻と第2 巻をご覧いただく機会があり、多くの方々が関心をもってみておられ、好評であったことを関係者の方から伺っています。
本学の『日本遠征記』初版本が、ペリー提督自筆署名入りのものであることは、すでにご存知の方もおられることと思います。なぜ、本学にペリー提督の自筆署名入りの『日本遠征記』が所蔵されているのか、詳しくは本館報128 号(1998年1 月10 日)に橋本前附属図書館長が詳細に紹介されているのでご参照いただき、ここでは、本学所蔵の『日本遠征記』初版本とはどのようなものであるかを書誌学的な観点から紹介し、またこの『日本遠征記』に先立ち刊行された、本学が所蔵するもうひとつの遠征記録についてご紹介いたします。
本学所蔵のペリー提督『日本遠征記』は完本か否か
『日本遠征記』の原本は次のような長い書名の付いた書物です。
Narrative of the expedition of an American squadron to the China Seas and Japan: performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the command of Commodore M. C. Perry, United States Navy, by order of the Government of the United States, compiled from the original notes and journals of Commodore Perry and his officers, at his request, and under his supervision, by Francis L. Hawks.
この書名は、正確には第1 巻目(本文)の書名であり、2 巻目(博物学関係等)、3 巻目(天体観測図)はそれぞれ異なる書名をもっていますが、米国議会の公式文書(上院では79 号、下院では97 号)として刊行されたフォリオ版全3 巻本を示しています。
先の橋本前附属図書館長の解説にあるように、『日本遠征記』はいくつかの版があり、岩波文庫に収載されている土屋・玉城訳の『ペルリ提督日本遠征記』のはしがきに本当の意味での初版本は仮とじ4 巻本で構成され、数十部しか印刷されず、これ以外はすべて3 巻本であることが述べられています。しかし、米国議会図書館、米国の歴史ある大学、国内の大学の図書目録を紐解いても4 巻本の所蔵記録の確認が得られません。不思議なことにお膝元の議会図書館にも所蔵されていないのです。実は、第1 巻目(実際には巻数表示がない。)の序文の末尾の注記に、この1 巻に続いて、付録として3 冊、第1 巻は博物学関係報告、第2 巻は天体観測図、第3 巻は水路誌、の刊行を準備していると記述されています。このことから、4 巻本があるのではと推測されてしまったとも考えられます。あるいは仮綴じということなので、ペリー提督の報告書が、上院に印刷原稿で提出され、上院の出版委員会のメンバーのみに最初の1 巻目と、予定している付録としての3 冊が配布されたのではないか、そして実際の刊行時には全3 巻本となったのではと想像することもできますが、これも推測の域をでません。
この『日本遠征記』は、米国議会の上院、下院でそれぞれ印刷・刊行が承認され、かつ各院で印刷部数まで議会承認を得ている資料です。当時の議会上院の印刷所として、Beverley Tucker、下院にはA.O.P. Nicholson があり、刊行部数は、上院が5000 部の印刷(後に海軍用として500 部追加が認められている。)、下院が10500 部の印刷が承認され、各院からそれぞれ500 部、合計1000 部がペリーに贈呈されています。特に上院の議事録では、追加で5000 部と記述されているので、4 巻本の存在もあるのではと思われますが、この印刷・刊行が承認されたのは、ペリー提督が帰国した直後のことで、この段階では、原稿も完成していなかった時期ですから、印刷前の原稿が提出されたとは考えにくいのです。残念ながら仮綴じ4 巻本の存在を確認する術がみつかりません。
本学が所蔵する『日本遠征記』は、明らかに議会からペリー提督に贈られた1000 冊のなかの1 冊です。しかし、自筆署名入りの第1 巻が下院版ですが、第2 巻、第3 巻は上院版となっていて、惜しむらくは版が揃っていないことが多少悔やまれます。(上院版も下院版も同じ版を用いており、実質的には、米国政府印刷所として刊行されたものに違いはないのですが。)
我が国に所蔵している『日本遠征記』は、数多くありますが、ほぼ上院版、下院版共に同じく、すべて3 巻本であり、4 巻本の存在をみることはありません。たまたま、国立情報学研究所の全国オンライン目録(Webcat)で、書誌を確認しているときに、東大経済学部の図書館に4 巻本で所蔵されている記録があったので、現物確認をしてもらったところ、過去に間違いであることが確認されていて、書誌
を修正したが、修正前の記録がそのまま残っていたということでした。やはり3 巻本であり、そのときに4 冊目の資料は、後述する資料であることが判明しました。少なくとも、当初予定していた前述の付録3 巻目の水路誌は、3 巻本では、第2 巻の後半部分に以下の報告書名で収載され、水路図も14 枚合綴
されています。
Sailing directions and nautical remarks: by officers of the late U. S. Naval expedition to Japan, under the command of Commodore M. C. Perry
なみにこの水路誌は、A.O.P. Nicholson から1857 年に単独で刊行されていることも分かっています。このように単独で報告書が印刷・刊行されているケースは、このほか日本近海の魚類図の報告などにもみられます。
当時、ペリー提督の『日本遠征記』は、議会印刷所から刊行された以外にN. Y. のAppleton 社という出版社から刊行された普及版もあり、諸外国に門戸を閉ざし、東洋の神秘の国であった島国日本に開国をせまり、和親条約を締結したことで反響を呼び、今で言うベストセラー本となったようです。そのことにより、『日本遠征記』のなかの幾つかの報告が単独で印刷・刊行されたものと思われます。
もうひとつの遠征記録
本学が所蔵しているペリー提督のもうひとつの遠征記録(以下『遠征記録』という。)は、下記の書名で1855 年2 月に米国第33 回議会第2 会期の上院行政文書34 号として上院で承認を受け、同時に5000 部の印刷・刊行が許可されています。先の『日本遠征記』同様、ペリー提督にもそのうち250部が贈呈されています。背表紙には、Japan /Perry と二段に分けて表示され、全195 頁、B5版サイズで刊行されています。
Message of the President of the United States, transmitting A report of the Secretary of the Navy, in compliance with a resolution of the Senate of December 6, 1854, calling for correspondence, &c., relative to the naval expedition to Japan.(Senate. 33d Congress, 2d Session. Ex. Doc. No.34)1855
これは、標題にも記述されているように、日本遠征に関わる海軍省の訓令、ペリー提督の通信書簡、条約締結の経緯などを上院に報告せよという決議に対して、時の大統領ピアースがその決議に応えたもので、『日本遠征記』の刊行に先立つ1 年前ということになります。実はつきあわせてみるとよくわかるのですが、『日本遠征記』の第1 巻の大部分は、この『遠征記録』のなかにある書簡、報告からまとめられています。
『遠征記録』は、1852 年11 月5 日付けのコンラッド国務長官代行からケネディ海軍長官へ宛てた大統領の日本遠征に関するペリー提督への指示内容の書簡と、それを受けた11 月13 日付け海軍長官ケネディからペリー提督に対する指示の書簡に始まり、1855 年1 月20 日付けのペリー提督から将軍宛書簡の再送付に関する書簡に至るまでの海軍とペリー提督との通信記録、ペリー提督自身の2度にわたる日本来航の交渉の経緯が収載されています。
『日本遠征記』は、 歴史家ホークス(F. L. Hawks)がペリー提督から依頼され、編集・執筆していますが、この『遠征記録』のなかの多くの書簡、記録類はペリー提督からホークスに渡されています。しかし、『日本遠征記』に採録されている書簡もあれば、ホ−クスの言葉に置き換えられてしまって、書簡そのものが採録されずにまとめられたものも数多くあります。『遠征記録』は、国内では数冊程度の所蔵を確認できますが、絶対数が少なく、歴史資料の観点から、また『日本遠征記』を補完するという意味でも大変重要な資料であることが分かります。また歴史に関心のある方にとっては、この両者を比
較しながら読むと、結構おもしろい読みものになるのではないかと思います。
ペリー提督の“白旗書簡”はありやなしや
皆さん、ペリー提督の“白旗書簡”という論争をご存知でしょうか。日米和親条約は友好的な状況下で結ばれた条約ということでしたが、本当のところこの条約は名実共にペリー提督の“白旗書簡”に象徴される砲艦外交の結果に基づく条約であるという説があります。それは、ペリー提督の個人日記が100 年以上経った1968 年に初めて公刊され、その翻訳が『ペリー日本遠征日記』(金井訳)(以下『遠征日記』という。)として1985 年に雄松堂から出版されました。その『遠征日記』と『日本遠征記』に記述されているペリー提督の将軍宛書簡の数の違いにより、以前から日本側に残っていたペリー提督の白旗に関する翻訳書簡の真偽論争が盛り上がった事件でありました(松本健一:白旗伝説、講談社、1998 年)。
実は、『遠征日記』の国交交渉に関わる部分は、『日本遠征記』同様、すでにここに紹介する1855年に刊行された『遠征記録』に収録されています。将軍宛ペリー提督書簡の数の違いも、『遠征日記』に記述されている内容とも合致しており、『日本遠征記』との違いは、およそ150 年前の刊行当初からあり、『遠征日記』が初出ではなく、この『遠征記録』のうえでも確認されたことなのです。
『遠征記録』では、ペリー提督第1 回目の来航の折、将軍宛に大統領の親書、信任状のほか、本人から将軍あての書簡が3 通、併せて5 通幕府側浦賀奉行戸田伊豆守に渡されたことになっています。そのペリー提督の書簡のひとつが、有り体に言えば、“通商を拒否したければ、干戈を交えてもよい、和睦を乞う場合には、白旗を掲げよ”という内容の書簡で、併せてそのときに白旗を二旒贈ったという記録が日本側に残されていることが判明しています(東京帝国大学史料編纂掛編「大日本古文書 幕末外国関係文書之一」1910 年)。
しかし、国内からはそれは偽文書であるとの声もあり、米国側にもそのような書簡が残されていないことになっていて、未だに真偽が明らかになっていません。『日本遠征記』にはペリー提督から将軍あての書簡は2 通と記載され、そのうえで第3 の書簡はすでに紹介しているという表現で、3通あるような書き方をしていますが、第3 の書簡というのは、『遠征記録』では、1853 年7 月14 日の会談の前々日7 月12 日に浦賀奉行所役人香山栄左衛門を介して渡したもので、幕府要人との会談日取りの要請書簡です。それとは別に7 月14 日の記録の箇所では、当日の会談の席上で自身の書簡を3 通渡したことを本人が書いています。従って、7 月12 日と7 月14 日に渡した書簡は計4 通となりますが、7 月14 日に渡した3 通のうちの2 通は、内容が判明しています。ひとつは、7 月5 日の日付で、開国の必要性と大統領親書の受諾を要請した書簡であり、ふたつ目は、7 月14 日の日付で、大統領親書に対する回答を翌春に受けとるという内容の書簡です。残りの1 通が内容不明となっていて、これが前述した日本側に残された翻訳の“白旗書簡”ではないかという説が囁かれているのです。
ペリー提督が間違えたのか、ホークスがペリー提督の指示により修正したものか、今もって不明です。常識的には、three をtwoと間違えるとは考えにくいのですが。しかも、この『遠征記録』では、ペリー提督が遠征後ヨーロッパを回って帰国した直後の1855 年1 月20 日付けで、“説明のつかない理由で送付されなかった書簡2 通を今ここに提出する”という海軍省宛の書簡があえて収録されていて、3 通のうち、前述の2 通の内容を収載しています。しかし、この書簡は、7 月14 日に渡した書簡が2 通だったことを殊更強調しているようで、何らかの作為が感じられます。
もしペリー提督の“白旗書簡”が存在したとするならば、日本との友好的な国交を望んでいたフィルモア大統領の意に反する行為とみなされ、それを恐れて海軍省が内密に隠蔽してしまったのではないでしょうか。最後の再送付の書簡は“白旗書簡”存在の隠蔽を傍証する行動のように映ります。
この『遠征記録』には、ペリー提督が海軍省に送ったすべての通信文が収録されているのではありません。通信記録の一連の番号からみて収載されていないものも数多くあります。その多くは、7 月14 日の第一回来訪後の10 月頃から次の訪問に向けて準備をしていた期間、翌年1 月にかけた4ヶ月間に集中しています。ここに謎が残されているのかも知れません。
例えば、1853 年11 月14 日付けのドビン海軍長官の書簡が掲載されているページの欄外に議会に提出されていないペリー提督の極秘通信文からの抜粋であることを注記している件があります。そこには、日本には、高度な農工技術があり、新しい砲台がたくさん作られ、水域には大きな船が何隻も浮かび、翌春の来訪に備えている兆候があるので、あらたに蒸気艦船バーモント号を支配下に置きたい旨の希望が海軍省に寄せられています。これに対して、ドビン海軍長官は友好目的の来訪であり、防衛のためにはペリー提督の指揮下にある現艦船で十分であり、戦争宣言は議会のみが決定されるものであると回答している文書もあります。
ペリー提督の一部の通信文・書簡は、機密文書の扱いとされ、“白旗書簡”の真相は海軍省の軍事機密文書のなかに隠されているのか、関係者のみの知るところで永遠に地上から十字架の墓下に埋葬されてしまったのか、それとも最初から存在せず、あくまで日本側の作為による偽翻訳書簡なのか、真相解明は、今後の研究、新たな資料発掘に期待したいと思います。 
 
下田港

 

開港の歴史
私たちの下田市は、全国に、その名を知られています。これは、下田が、江戸時代の終わり、今から140年ほど前に、日本での最初の開港場、つまり、外国船の出入りしてもよい港となったからです。徳川の幕府は、外国とつき合いをしない方針「鎖国」を長い間とってきました。しかし、このころ海外に進出したヨーロッパの強い国々や、アメリカ合衆国勢力がアジアまでのびてきて、日本の近海にも、外国船が、たびたびあらわれるようになりました。この下田港に、外国船が、初めて、姿をあらわしたのは、1849年(嘉永2年)の4月、イギリスの軍艦マリーナ号が入港したときのことでした。1外国船が、日本近海に現れて間もない、1853年(嘉永6年)に、アメリカ合衆国の国書をもった、ペリーが、艦隊をひきい、神奈川県の浦賀(横須賀市)に来航して、正式に開港を求めました。鎖国を続けたい幕府は、返事にこまり、来年を約束して、返しました。ペリーは、次の年1854年(安政元年)、ふたたび艦隊をひきいて、神奈川県(横浜)の海に、いかりをおろし、約束の返事をせまりました。幕府は、ついに、鎖国をやめて、「日米和親条約」という条約を結び、この下田港と、北海道の函館港の2つを開港場とし、外国船の出入りをゆるしました。条約ができると、ペリーは、艦隊をひきいて、下田港にきました。7隻の軍艦は、いぬばし島とみさご島との間に、いかりをおろしました。そして、開港場としての下田を調べるとともに、「下田条約」とよばれる日米和親条約の細かなとりきめを、日本の代表との間に、結びました。また、この艦隊が港に、停泊しているとき、吉田松陰と金子重輔が、アメリカ合衆国に渡ろうとした事件が、おこりました。かねてから、外国で勉強したいと考えていた、吉田松陰は、黒船が下田に入港したことを知り、金子重輔とともに、下田に来ました。そのころ、外国に行くことは堅くとめられていたので、柿崎の弁天島に隠れ、夜ひそかに小舟で、軍艦ポーハタン号に乗りつけ、アメリカ合衆国まで、乗せて行くようにたのみましたが、ことわられ、幕府の役人にとらえられてしまったのです。(吉田松陰拘禁の跡)
日本が、アメリカ合衆国に開港すると、その年に、ロシアも開港をせまって、プチャーチンを、日本に使いとしてよこしました。プチャーチンは、軍艦ディアナ号で下田にきて、市内三丁目にある長楽寺で、幕府と日露和親条約を結びました。この軍艦ディアナ号が、下田港にいかりをおろしていた、1854年(安政元年)11月4日に、下田に大津波がおしよせました。波は、本郷から中村にまでおしよせ、下田の町は、ほとんど全滅するほどの被害を受けました。ディアナ号も、このはのように、ゆり動かされて、大損害をこうむりました。開港場となって間もない安政3年、アメリカ合衆国から、タウウゼント・ハリスが、総領事として、下田にきました。そして、柿崎の玉泉寺が、ハリスの事務をとる、領事館となりました。日米和親条約は、貿易(商品の売り買い)をみとめなかったので、開港場といっても、ただ外国船に出入りをゆるして、航海に必要な、まきや炭、その他、水や食料などの買い入れを許しただけでした。しかし、航海に必要な者のほかに、みやげ物なども売られていたようです。ペリーの書いた本に、「江戸、その他から、美しい品物が、いっぱいもちこまれた。」とあるのは、その事実をものがったています。このように、下田が開港場として、さかえたのは短く、1859年(安政6年)日米通商条約が結ばれて、横浜が貿易港として、開港されるまでの、わずか5年間でした。江戸に遠く、けわしい天城山をひかえて、貿易港としては不便だったためでしょう。(下田教育研究会編「しもだ」より引用)
港町下田
江戸時代、下田は諸国の運搬船の寄港地として栄えました。毎年、3千艘もの千石船が出入りしたといいます。
玉泉寺
玉泉寺(ぎょくせんじ)は、ハリスが初の領事館を開いたお寺です。ハリスとお吉の「黒船哀話」もここで生まれました。境内には、初代総領事館タウンゼント・ハリスの記念館(8:00〜17:00)があり、彼の遺品や当時の記録が陳列されています。また境内の墓地には、5人のアメリカと3人のロシア水兵の墓があります。日本に、はじめて牛乳が伝えられたことから「牛乳の碑」もここにあります。
○ 縁起
曹洞宗瑞龍山玉泉寺は、天正以前は真言宗の草庵であったのを、天正の初め(1580年代)開山一嶺俊栄和尚の来錫によって曹洞宗に改宗され、現在に及ぶこと26世400年の歴史を有する古刹であります。嘉永元年(1848年)3月当山20世翠岩眉毛和尚の代に現在の本堂が落成しております。嘉永7年3月日米和親条約の締結により、下田が開港され同年5月付録下田条約が結ばれると、玉泉寺は米人の休息所、埋葬所に指定されました。その2年後、安政3年(1856年)タウンゼント・ハリス総領事は、通訳官ヒュースケンを伴い、米艦サンジャシント号で下田に着任しました。ハリスは玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設。庭前に星条旗が掲揚され、以来2年10ヶ月、この玉泉寺は幕末開国の歴史の中心舞台となりました。又、それ以前、日露和親条約の交渉の場となり、ロシア、ディアナ号高官の滞在や、ドイツ商人ルドルフの約半年に及ぶ滞在等々、開国の歴史を彩る貴重な寺歴があります。尚、境内には、黒船(ペリー艦隊)の乗員5名の墓地とディアナ号乗員3名、アスコルド号乗員1名の墓地があります。
○ 米国総領事館
安政3年8月5日(1856.9.3)ハリスは、この日よりサンジャシント号をはなれ玉泉寺に入る。ここに我が国に於ける最初の米国総領事館が開設された。8月6日、玉泉寺境内に米国領事旗(アメリカ国旗)が掲揚される。この日の日記にハリスは次のように記している。「・・・旗棹が立った。水兵たちがそれを廻って輪形をつくる。そしてこの日の午後2時半に、この帝国におけるこれまでの『最初の領事旗』を私は掲揚する。厳粛な反省一変化の前兆一疑いもなく新しい時代がはじまる。敢て問う、真の日本の幸福になるだろうか?」ハリスのあらゆる苦心はこの日から始まったのである。
長楽寺
1854年、ここでロシア使節プチャーチンとの日露和親条約が調印され、翌年、日米和親条約の批書交換が行われたお寺です。お吉観音を祀る宝物館や悲恋のおすみ弁天があります。伊豆の七福神めぐりの1つのお寺でもあります。
ペリー黒船艦隊来航と日本開国
幕末・黒船来航時の時代背景
幕末期、日本が鎖国政策をとっている間、欧米諸国は近代国家への歩みを進めていきました。
イギリスにおける18世紀から19世紀前半にかけての産業革命が、他のヨーロッパ諸国やアメリカにも及び、列強各国は植民地の獲得競争に乗り出し、その矛先はアジアにも向けられました。
18世紀末から19世紀はじめにかけて、ロシア船やイギリス船が、日本近海に来航し、鎖国の扉を叩こうとしましたが、幕府は頑なに鎖国政策を堅持します。しかし、清国がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを聞くと、異国船打払を緩和し、薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出し、漂着した外国船には薪水・食料を与えることとしました。
しかしながら、鎖国を守る姿勢は変わらず、弘化元年(1844)、オランダ国王が親書をもって開国を奨めますが、幕府はこれを拒絶して、鎖国体制を守り抜こうとしました。弘化3年(1846)、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し開国を幕府に交渉した際にも幕府はこれを拒絶し、ビッドルは目的を果たさないで帰国しました。
日米和親条約の締結
嘉永6年(1853)6月、アメリカの東インド艦隊司令長官兼米使提督マシュー・ペリーは軍艦4隻を率いて大西洋を横断、喜望峰をまわり、インド、中国、琉球を経て浦賀に来航、開国を要求する大統領の国書を幕府に受け取らせます。その圧力に負けた幕府は、一旦ペリーを退去させて翌年まで回答を延期させます。
約束の嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港、幕府を威圧して条約締結を迫り、ついに同年3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が締結されることとなります。
条約の内容は
(1)アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給すること
(2)下田、箱館の2港を開き(下田は即時、箱館は1年の後)、下田への領事の駐在を認めること
(3)アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること。
等、計12条でした。これにより、イギリス(嘉永7年8月)、ロシア(安政元年12月)、オランダ(安政2年12月)とも同様に条約を結ぶこととなり、200年以上続いた鎖国政策は崩れ去ることになりました。
ペリーの下田来航
日米和親条約(神奈川条約)を締結したペリー艦隊は嘉永7年(1854)3月18日から21日にかけて、下田に順次来航します。
3月18日 2隻
   サザンプトン 帆船  567トン 艦長 ボイル大尉
   サプライ 帆船  547トン 艦長 シンクレア大尉
3月20日 2隻
   レキシントン 帆船  691トン 艦長 グラソン大尉
   バンダリア 帆船  700トン 艦長 ホープ中佐
3月21日 2隻
   ポーハタン 蒸気船  2,415トン 艦長 マックラニー大佐 ペリー搭乗
   ミシシッピー 蒸気船  1,692トン 艦長 リー中佐
4月6日 1隻
   マセドニアン 帆船  1,341トン 艦長 アボット大佐
   (小笠原へ食糧調達に行っていたため、マセドニアンは遅れて入港)
浦賀に来たペリー艦隊9隻のうち、サスケハナ号は中国へ、サラトガ号は本国へ条約を携えて行ったため、下田には7隻が来航しました。
ペリー艦隊の最初の上陸は非公式でしたが、浦賀奉行所の支配組頭である黒川嘉兵衛が応接し、3月24日群集が見物する中、了仙寺で饗応が行われました。幕府は急遽、嘉永7年3月24日下田奉行に伊沢美作守(いざわみまかさのかみ)を任命し(着任は5月8日、その間は黒川が応接)、ペリー艦隊の応接に当たらせました。ペリー艦隊の下田滞在は約70日を数え、そのうち約1ヶ月は翌年3月開港となる箱館の調査でした。
日米和親条約付録 下田条約
日米和親条約では、薪、水、食料、石炭等航海に必要な欠乏品を日本幕府が供給することを決めました。また漂流民の保護、下田湾内の小島(犬走島(いぬばしりじま))を中心として周辺七里内(約28km)の遊歩権を保障することなどが決められていました。 嘉永7年5月、箱館の見分から下田に帰港したペリーとの間に、日米和親条約付録下田条約の交渉が了仙寺で開始されます。
付録条約の交渉は、日本側全権・林大学頭(はやしだいがくのかみ)、江戸町奉行・井戸対馬守(いどつしまのかみ)、下田奉行・伊沢美作守(いざわみまさかのかみ)、都築駿河守(つづきするがのかみ)らとペリー提督の間で行われました。
5月13日、両者会見の日ペリー一行は祝砲を轟かせ、大砲4門を先頭に曳き、軍楽隊演奏にのって300人もの水兵が剣付き鉄砲を肩にかけて、了仙寺まで堂々と行進し、下田の人々を驚かせました。
5月22日、了仙寺本堂で条約が調印され、25日に条約書の交換が行われます。調印式においては、日本側は畳を積み重ねた上に正座して、イスに着席した米国側と目線を合わせたといわれています。この付録条約13ケ条(下田条約)の内容の中には、米船員の上陸場所(下田、柿崎その他)、欠乏品供給所、異人休息所(了仙寺、玉泉寺)、洗濯場、立入許可区域、鳥獣の捕獲禁止、商品取引の管理、死亡者の埋葬(玉泉寺)、港内水先案内人の設置等々の細目が決められました。
目的を果たしたペリー艦隊は嘉永7年(1854)6月1日帰国のため、下田港を出港しました。
プチャーチンによるディアナ号来航と「安政の大津波」
プチャーチンの来航
ロシア使節の提督プチャーチンは嘉永6年(1853)、日本の開港と北方領土の画定を求めて長崎に来航しますが交渉は実らず、一旦日本を離れます。
ペリー艦隊が嘉永7年(1854)6月に帰国して4カ月後の10月15日、プチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って、下田に来航します。
ディアナ号は3本マスト、2,000トン、52門の大砲と488名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦であり、日米和親条約の締結を聞き、再び国境画定を含む日露和親条約の締結を目的として開国の町下田に来航したのです。1週間ほど遅れて、日本側全権大目付・筒井政憲(つつい まさのり)と勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)が、応接係として急遽下田に派遣されてきます。
ロシア側との事前交渉がもたれた後に第1回日露交渉が11月3日福泉寺(ふくせんじ)にて開かれます。
安政の大津波
第2回目の日露交渉を約束して別れた次の日、嘉永7年(1854)11月4目午前10時ころ、突然大地震とともに大津波が下田湾を襲います。地震は2回、津波は幾度となく押し寄せ、町内の家屋はほとんど流失倒壊し、溺死者等122人、戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事の家はわずかに4戸しか残りませんでした。また、波が下田富士の中腹まで駆け上がり、大船が「本郷たんぼ」まで押し流されたとも言われています。
この津波により下田の町は壊滅状態の大惨事でした。湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、42回転したとも伝えられています。
マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状でした。このような災害の中、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出ています。この厚意に応接係・村垣範正(むらがき のりまさ)はいたく感服したと伝えられています。
日露和親条約
津波後3日目の嘉永7年(1854)11月7日から、プチャーチンは、副官ポシェートに長楽寺で事務折衝を始めさせます。13、14両日玉泉寺で全権交渉を行い、それから条約草案の事務折衝を続けます。
14日から長楽寺で全権との交渉が続き、安政元年(1855)12月21日、日露和親条約9ヶ条と同付録4ヶ条がロシア使節プチャーチンと日本側全権・筒井政憲(つつい まさのり)、川路聖謨(かわじ としあきら)、下田奉行・伊沢政義(いざわ まさよし)とのあいだで締結されます。
この条約の第2条では、両国の国境が「今より後、日本国と露西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。(中略)カラフト島に至りては、日本国と露西亜国の間において、界を分たず是迄仕来りの通りたるべし。」と初めて定められました。
昭和56年(1981)、日本政府は閣議了解をもって、国境条項を含むこの条約が、平和的に調印されたこの日を「2月7日 北方領土の日」とすることを定めました。(安政元年12月21日。この日は西暦で1855年2月7日にあたります。)
ディアナ号の沈没とヘダ号の建造
嘉永7年(1854)11月4日、M8.4にも及ぶ地震に伴う大津波により、大破して遠洋航海が不能になったディアナ号は、修理港と決まった伊豆西海岸の戸田へと向かいますが、激しい波風に押し流されて駿河湾の奥深く、富士郡宮島村沖に錨をおろします。
ここで装備や積荷のほとんどをおろしたディアナ号は、地元漁民の決死の協力で再び航行を試みますが、艦は浸水激しく失敗して駿河湾で沈没を余儀なくされます。
乗員およそ500人は全員救出されて無事戸田に収容されました。乗艦を失ったプチャーチンは、直ちに帰国用の代船の建造を幕府に願い出て、幕府もこれを許可、修理する予定だった戸田で代船の建造が決定されます。天城山の木材を使用し、近郷の船大工を集めて日露共同で日本最初の洋式造船が始まったのです。
完成した船は「ヘダ号」と名づけられ、建造に参加した船大工は洋式造船の技術を習得する絶好の機会に恵まれます。プチャーチンはディアナ号の遭難にもめげず、下田にとって帰り、日露会談を続行させました。
ロシア使節団の帰国
帰国する艦船を失ったプチャーチン一行は三陣に別れて帰国しています。第一陣は安故2年(1855)2月米国の商船フート号を雇い、159人を乗船させ帰国の途につきました。
第二陣は戸田で建造された新造船「ヘダ号」で、同年3月プチャーチン以下48名が乗船して、故国に向かって出帆します。残りの第三陣270人余は、米国船のグレタ号を傭船して同年6月戸田港を出帆しました。しかし、グレタ号はオホーツク海でイギリスの軍艦に発見され、全員捕虜として捕らえられます(クリミア戦争の最中で、ロシアとイギリスが対立していたため)。その後、香港、英国本土へ移され、ロシアに送還されたのは、クリミア戦争が終結し、講和した後でした。
ペリー艦隊来航記念碑
下田ゆかりの人物、ペリー
下田湾に注ぐ稲生沢川(いのうざわがわ)の、河口近くの下田内港に、ハリスと共に下田にゆかりのある人物として知られる、「マシュー・カルブレース・ペリー」に纏わる一つの胸像が建てられています。
マシュー・カルブレース・ペリーペリーについては、学生時代より教科書をはじめとした書籍やテレビなどを通じて、様々な角度から、折に触れその人物像について学んできたつもりでしたが、そんなわたしの中のペリー像を一新するかのような表情を浮かべているのが、この下田湾をバックに建つ『ペリー艦隊来航記念碑』です。
最初は、特に意識もせず、ただ風光明媚な良い場所に建っているなぁ〜という程度の印象だったのですが、胸像に近づくにつれ、おや?という感情が湧いてきました。
この「ペリー艦隊来航記念碑」の胸像は、「下田条約」締結へ向けてこの地に上陸した、ペリー一行の来航を記念して建てられたものなのですが、この胸像には、わたしが思い描くペリー像とは異なるものがあり、また久里浜などにある銅像とも明らかにその表情に違いが感じられました。
そんなことから、しばしの間わたしは、この胸像の前で、立ち尽くしてしまいました。
怖くないペリーがそこに
ペリーについては、いまさらここで多くを語る必要もないかと思いますが、「マシュー・カルブレース・ペリー」は、1794年4月10日に、アメリカの東北部ロードアイランド州ニューポートで生まれ、アメリカ海軍の東インド艦隊司令長官として、鎖国状態にあった日本を、力づくで開国へと導いたことで知られる人物です。
ペリー艦隊来航記念碑当時の文献などには、オランダ色の強かった幕府の影響もあり、「ペルリ」という表記で、数多くその名が登場し、また日本人と異なるその顔立ちやアルコール依存症だったことから、しばしば「天狗」や「赤鬼」などと呼ばれ、そんな風刺画も数多く残されています。
1853年に、黒船を率いて圧倒的な力関係、文明の利器を武器に、日本を開国に追い込み、1854年3月31日に、神奈川にて全12か条に及ぶ「日米和親条約」を締結させ、約2ヶ月後の5月25日に、下田「了仙寺」にて、細則付加条約として、全13か条の「下田条約」を締結させました。
そんなことから、黒船ともども、怖いイメージが纏わりつくペリーなのですが、下田湾をバックに建つこのペリーの胸像は、そんな攻撃的なペリーの印象とは、どこか少し様子が違う感じがします。
少なくともわたしには、この胸像だけを見るにあたり、怖いイメージは浮かびません。
教科書をはじめ、多くの方がクイズなどで「ペリー!」と答えるあの顔や、久里浜にある銅像などと比較してみても、明らかにその表情に違いが感じられ、全く別人にさえ思えてきます。
この胸像は、1966年10月28日に、「村田徳次郎」氏により造られたものなのですが、村田氏がどのような意図のもとこのような表情のペリーにされたのかは、わたしにはわかりません。
しかしながら、下田の町を歩き回り、開国の歴史を学び、ペリーの足跡に触れるにつれ、わたしの中に、ひとつの想いがめぐるようになりました。
わたしが想う、ペリー像の答え・・・
初め、この「ペリー艦隊来航記念碑」の前に立った時には、多くの方がそうであるように、わたしもペリーが上陸した場所なんだ・・・ということばかりに目が行きがちでした。
ペリーの胸像しかしながら、当然のこと、ペリーはここから日本を去っていきました。
日本を開国に導き、条約を締結させたペリーは、下田を去る時、おそらくは大統領から命ぜられた使命を果たせた充実感を感じていたのではないでしょうか。
そう考えると、日本の国土を見上げるこの胸像の顔には、大事をやり遂げた男の表情が窺え知れ、条約締結にこぎつけた安堵感からか、また心の解放感からか、実に穏やかな表情が見受けられます。
開国を迫って日本に来てから今日に至るまでの日々を回顧しているかのようにも見え、また、条約締結前には、目に入らなかった日本の自然の美しさに、去る時になり改めて気づき、洋上から眺める下田の景観の美しさに、心を奪われているかのようにも見えます。
こうしてこの下田の地が、ペリーにとって、日本滞在の最後の場所であったことを念頭に考えると、実にこの地にふさわしい胸像に思えてきます。
村田氏がどのような意図のもとこのような表情のペリーにしたのかは、わたしにはわかりませんが、わたしには、このペリーの表情がそう思えてなりません。
この地に上陸して、条約締結に向かう時の想いと、すべてを成しえてこの地から旅立って行った時のペリーの想いを考える時、わたしには、この胸像がどうしても後者の顔に思えてなりません。
今まで「黒船来航」から条約締結までのイメージしか持っていなかったわたしの中のペリー像に、今まで見つけることの出来なかった新たな1ページが刻まれた気がします。
それが、わたしの中のこの胸像の表情の答えであり、このペリーの表情は、久里浜ではなく、この下田の地だからこそ表現できたものに、わたしには思えてなりません。
ペリー上陸記念碑?
そんな「ペリー艦隊来航記念碑」ですが、この「ペリー艦隊来航記念碑」を訪れてみると、ペリー上陸の地として、久里浜にある「ペリー上陸記念碑」と混同されたり、ペリーが初めて上陸したのが、この下田の地であるかのように誤解されている方が、意外に多いように思われました。
ペリー艦隊来航記念碑実際のところ未だに大半はそうなのですが、この「ペリー艦隊来航記念碑」は、「ペリー上陸記念碑」と呼ばれることが多く、下田の観光パンフレットをはじめガイドブックや案内板には、そのような表記が多々見受けられ、地元の方々も「上陸記念碑」と呼ぶケースが多いようです。
ひとつには、この「ペリー艦隊来航記念碑」は、2002年5月18日に、現在の場所に移転となったのですが、1966年10月28日に制作されてからこの方、「ペリー上陸記念碑」と呼ばれていたことや、現在この「ペリー艦隊来航記念碑」が建つ公園が、「ペリー上陸記念公園」という名称であることも、その要因のひとつとなっているのかもしれません。
下田公園下の鼻黒の地にペリーが上陸したことは事実ですし、「ペリー上陸記念碑」と呼んでも差支えないのですが、どうもその言葉の響きから“日本に初めて上陸したのがここ・・・”というイメージが湧いてしまうのが問題のようです。
ちなみに、本家本元の久里浜に建つ「ペリー上陸記念碑」は、1901年に建てられたもので、この「ペリー艦隊来航記念碑」とは対照的に、初代内閣総理大臣「伊藤博文」(いとうひろぶみ)の筆による「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」の文字が刻まれた、重々しい石碑となっています。
黒船来航?
そんな「ペリー艦隊来航記念碑」とともに、同じように誤解されている感があるのが、「黒船来航」です。
観光船 サスケハナ号この下田の地にペリー一行が訪れたのは、浦賀沖にペリー艦隊が現れた、所謂「黒船来航」とは異なり、黒船の代名詞ともなっている「サスケハナ」号も、ここ下田には来航していないということです。
しかしながら、「サスケハナ」号は来航せずとも、これまた黒船が下田に来航したのは事実ですし、それを黒船来航と呼ぶことには何も問題もないのですが、歴史用語として「黒船来航」となると、どうしても浦賀沖の史実を指すことから、誤解が生じてしまうようです。
また観光船として「サスケハナ」号が、下田湾で運行していることも、その要因となっているように思えます。
ちなみに、一般的にいう「黒船来航」とは、1853年7月8日に、浦賀沖に現れた、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の巡洋艦4隻をいい、その内、旗艦の「サスケハナ」号と「ミシシッピ」号が、帆船ではなく外輪式のフリゲート艦で、その黒塗りの船体の煙突から濛々と真っ黒な煙を吐いていたことから、黒船と呼ばれたとされています。
「泰平の 眠りをさます 上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で 夜も眠れず」と詠われたのも、この出来事からきています。
下田に来航したペリー艦隊
1854年に、この下田に来航した黒船の旗艦は、「吉田松陰」の「踏海の企」で知られる「ポーハタン」号で、2度目に浦賀沖に来航した全9隻の内、「サスケハナ」号と帆船の「サラトガ」号を除く7隻が、この下田に来航しました。
残念ながら来航しなかった「サスケハナ」号ですが、観光船としては「ポーハタン」号では、やはり人気も知名度も役不足といった感じでしょうから、黒船の代名詞である「サスケハナ」号が登場したんでしょう。
いつもと違うペリーに出会えたならば・・・
この「ペリー艦隊来航記念碑」の横には、2004年3月31日に、日米交流150周年によせて、第43代アメリカ合衆国大統領の「ジョージ・ブッシュ」から贈られたメッセージが刻まれたプレートが飾られています。
大統領からのメッセージと日米友好の灯そのプレートの下には、「日米友好の灯」として、ペリーの生誕地であるロードアンランド州ニューボートから贈られた灯が焚かれています。
またペリーの胸像の前には、アメリカ海軍から贈られたという大きな錨が、「ペリー艦隊来航記念碑」を囲むように飾られています。
ペリーは、日本を去った後、1857年に海軍を退役すると、一般に「ペリー遠征記」と言われる「アメリカ艦隊シナ近海および日本遠征記」の編纂に残された人生を注ぎ、書き上げた後まもなく63年の生涯を閉じました。
この下田の地を発ってから、わずか4年後の出来事でした。
そんなペリーのこの地に上陸してから条約締結に向かうまでの想いと、すべてを成しえてこの地から去って行った時の想いを考えながら、この「ペリー艦隊来航記念碑」をご覧頂けたらと思います。
ペリー艦隊来航記念碑わたしが感じたように、いつもとは違ったペリーの姿が思い描けるかもしれません。
いつもと違うペリーに出会えたならば、そのまま「ペリーロード」を抜け「了仙寺」へと足を運んでみてください。
観光地として見慣れた景色が、少し変わって映るかもしれません。
毎年5月には、この下田の町を舞台に、壮大に「黒船祭」が行われます。
祭り期間中は、国際色溢れるイベントが数多く催され、合わせて企画展なども開催されますので、この期間に下田を訪れると、より深くこの開国の歴史が感じとれるかもしれません。
いずれにせよ下田を訪れた際には、このペリー上陸の地でもありペリー旅立ちの地でもある「ペリー艦隊来航記念碑」に、是非とも訪れてみてください。 
 
 

 

 
『日本滞在記』 ハリス

 

 
タウンゼント・ハリス
( Townsend Harris, 1804-1878) アメリカ合衆国の外交官。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。民主党員、敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた。タウンゼンド・ハリスと表記されることもある。日本の江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。
苦学の末に貿易業を開始
1804年10月3日、ニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒル(後のハドソン・フォールズ(英語版))に父ジョナサン・ハリスの六男として生まれる。家系はウェールズ系。
家が貧しかったため、小学校・中学校を卒業後はすぐ父や兄の陶磁器輸入業を助け、図書館などを利用して独学でフランス語、イタリア語、スペイン語を習得し、文学を学ぶ。その苦学時代の体験が、長じて教育活動に目を向けることとなり1846年にはニューヨーク市の教育局長となり、1847年に高等教育機関「フリーアカデミー」を創設。自らフランス語、イタリア語、スペイン語を教えるなど、貧困家庭の子女の教育向上に尽くした。そのほか、医療や消防などの公共事業に携わる。1848年に辞職。
家業の経営が悪化したため、ハリスは1849年にはサンフランシスコで貨物船の権利を購入し、貿易業を開始する。清、ニュージーランド、インド、マニラなど太平洋を中心に各地を航行して、以前から興味を抱いていた東洋に腰を落ち着ける。1853年には日本への第1次遠征を行っていたマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が清に滞在しており、上海にいたハリスはペリーに対して日本への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。
アジアでの活動を経て初代駐日領事に
ハリスは国務長官など政界人の縁を頼って政府に運動し、1854年3月、台湾に関するレポート「台湾事情申言書」を提出。4月には寧波の領事に任命される。アメリカへ帰国したハリスは、同年に日本とアメリカとの間で調印された日米和親条約の11条に記された駐在領事への就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、1855年に大統領フランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命される。ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。また、シャムとの通商条約締結も命じられた。当時、イギリスの駐日公職者は母国政府から派遣されたエリート出身者がほとんどだったが、アメリカはハリスのような在住の商人らに兼任させることが多かった。
ハリスは通訳兼書記官としてオランダ語に通じたヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856年に出発。ヨーロッパからインド経由で4月にはシャムへ到着、バンコクにおいて通商条約の締結に尽力する。さらに香港経由で8月21日(安政3年7月21日)に日本へ到着し、伊豆の下田へ入港する。
日米修好通商条約 締結、初代駐日公使へ
日本では通訳の不備などから、対応にあたった下田奉行・井上清直に入港を拒否されるなどのトラブルもあったが、折衝の末に正式許可を受け、下田玉泉寺に領事館を構える。ハリスは大統領親書の提出のために江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、江戸出府は留保された。下田においては薪水給与や回比率などの問題を巡り和親条約改訂のための交渉が行われ、1857年6月17日(安政4年5月26日)には下田協定が調印される。この頃からハリスは体調を崩し幕府に看護婦を要請した。幕府はハリスの籠絡を目的として芸者の斎藤きちを送り3ヶ月だけ看病に入っている(→唐人お吉)。
ハリスはたび重ねて江戸出府を要請し続けていたが、1857年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可する。ハリス、ヒュースケンらの一行は1857年10月に下田を出発し、江戸に入る。江戸では蕃書調所に滞在して登城の日取りが決められ、12月7日(旧暦10月21日)に登城し、13代将軍徳川家定に謁見して親書を読み上げている。
1858年(安政5年)には大老となった井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結された。これにより初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して、1859年7月7日(安政6年6月8日)に江戸の元麻布善福寺に公使館を置く。
開市の延期活動
1860年8月1日、アメリカ国務長官ルイス・カスに対して書簡で、通商条約により再来年に控えた江戸の開市(1862年1月1日の予定)の延期を進言した。実は下田に着任した当時、ハリスへの襲撃未遂事件があり、以降も攘夷による在留外国人に対する襲撃や焼き討ちが相次ぎ、また孝明天皇からの条約勅許はいまだ幕府から出ておらず、現在の幕政下での開市は時期尚早と判断していた。10月31日(万延元年9月18日)、ハリスは老中安藤信正と会談し、急すぎる開市の延期を希望していた幕府との思惑とも一致し、また翌1861年1月14日(万延元年12月4日)にはヒュースケンが殺害される事件がおき、ハリスは確信に至ったと思われる。5月2日(文久元年3月23日)、将軍家茂名での「七年間の両都・両港の開市・開港の延期を要求する直書」が各国公使に出されると、ハリスはヒュースケン後任のアントン・ポートマンに翻訳させて5月8日(文久元年3月29日)付けでアメリカ本国へ急激なインフレが進行している旨と併せて報告した。
8月1日(文久元年6月25日)付けでエイブラハム・リンカーン大統領、ウィリアム・スワード国務長官から家茂宛の書簡がハリスに届くが、内容はヒュースケン殺害の補償までは開市延期を含む一切の譲歩はしないというものだった。ハリスは幕府の正信や久世広周と交渉して補償の合意を取り付けた後、11月27日にオールコックに5年間の開市延期の自由裁量を得たことを通知、12月6日、家茂に面会してリンカーンの親書を直接手渡し、12月14日(文久元年11月13日)に幕府から補償が実行された。12月28日、正信にはイギリス以外の各国の自国民にも併せて開市の延期を通達したと書簡で報告された。これは予定されていた開市のわずか3日前だった。この後、文久遣欧使節とイギリスとの間でロンドン覚書(1861年6月6日)、パリ覚書(同年10月2日)など、各国とも開市延期に同意している。
帰国
1862年(文久2年)には病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国。辞任の理由に関しては、ハリスの日記にかねてからの体調不良があることや、また自分とは党派が異なる共和党のリンカーンが大統領で、南北戦争の故郷の心配があったことなども指摘されている。後任はロバート・プルインで、5月17日には着任して家茂に謁見している。
帰国後は業績を表彰され、1867年には議会はハリスに対する生活補助金の支給を可決している。特に公職には就かず、動物愛護団体の会員などになった。1876年には保養地のフロリダ州に移住し、1878年2月25日に74歳で死去。生涯独身であったため、姪が法定相続人となった。
墓所はニューヨーク市ブルックリン区のグリーンウッド墓地。
人物
○ ハリスの足湯(静岡県下田市)アメリカ合衆国では、1847年設立のニューヨーク市「フリーアカデミー」(現在のニューヨーク市立大学シティカレッジ)の創設者として知られる。現在もニューヨーク市立大学シティカレッジ図書館には、ハリスが日本駐在時に作らせたとされる最初の日本製星条旗を始め、書き残した書状や所有物などが展示、保存されている。
○ 駐日領事時代に、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせるため、ハリスとヒュースケンに対して侍女の手配を行う。役人はハリスを篭絡しようと芸者のお吉という名の女性を派遣した。役人の意図を見抜いたハリスは大変怒り、お吉をすぐに解雇している。ハリスが生涯独身であったことなどから後世に誤った風説が加わり、昭和初期には「唐人お吉」としての伝説が流布し、小説や映画の題材にもなった。
○ 大の牛乳好きである。ハリスが体調を崩した際、牛乳を欲しがったがなかなか手に入らず、侍女として雇われていたお吉が八方に手を尽くし、ようやく下田在の農家から手に入れ、竹筒に入れて運んで飲ませたという記録が残っている。この記録によると、その価格は8合8分で1両3分88文と非常に高価で、当時の米俵3俵分に相当したという。牛乳を公式に売買して飲用した記録は、日本ではこれが初めてだという。これを記念して、玉泉寺には「牛乳の碑」が建てられている。
○ ヒュースケン殺傷事件など日本の攘夷派の外国人襲撃行動に対し、イギリス、フランス、プロイセン、オランダの4か国代表は江戸幕府に対し共同して厳重な抗議行動をとったが、ハリスはこれに反対し、抗議行動には加わらなかった。
○ 日本人を見る目は「喜望峰以東の最も優れた民族」と好意的で、下田の町も「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」とそれぞれ日記に称賛気味に書いている。しかし、風呂の混浴の習慣は謹厳なハリスにとって耐えきれないもので「このような品の悪いことをするのか判断に苦しむ。」と述べている。
○ 下田では暇さえあれば周辺を散策していた。健康面ではあまり恵まれず吐血などの体調不良に悩まされていたが、いざ交渉の場になると精力的になり下田奉行らを悩ませた。また、道端の草花を見ながら故郷に思いをはせることもしばしばあった。
○ 1856年(安政3年)に下田御用所において日本貨幣とアメリカ貨幣との交換比率について幕府側と交渉を行った際、ハリスは金貨も銀貨も「同質同量の原則」すなわち、1ドル銀貨(英語版)は同じ質量に相当する一分銀3枚と交換すべきと主張し、一方幕府側は1ドル銀貨の地金価値は双替方式により銀16匁に相当するから一分銀1枚であると主張し対立した。最終的にハリスの主張が通され、日本で金に両替し海外で売りさばくと暴利が得られることとなり、短期間のうちに多額に上る小判が日本国外へ流失した。その過程でハリス自身も小判を買い漁り、それを上海などで売却して利鞘を稼ぎ、それを慈善事業に充てた。然る後に幕府に対策を助言し、万延小判への改鋳によって混乱は終息するも、この過程でおびただしい金が日本から流出した(幕末の通貨問題参照)。
○ ハリスと同じ時期に日本で暮らした商人のフランシス・ホールは、その日記のなかで、いかにハリスが居留地のアメリカ人の間で嫌われていたかについてを書き、下品な噂話まで記した。 
 
ハリスの日米通商条約と幕末の動乱

 

■はしがき
イギリスの東洋史学者のロングフォード J. H. Longford という人が、今から五十年ほど前に書いた本の中で、「ハリスの業績は世界の国際関係の全歴史における最大なもの」とのべている。
私はもちろん、この言葉を実証するだけの知識も力もないのであるが、ハリスが当時の国際的な課題であった「日本の通商開国」という難事業をなしとげたことは、なんとしても偉大な歴史的事実であるといわなければならない。
これによって日本の歴史は大きく変わり、外は極東の孤児から脱して国際社会の成員となり、内は封建制度の国家から近代国家へ飛躍する道をひらいたのである。
だから、ハリスは日本の歴史とは切っても切れない人であるし、その時代をあつかった歴史の本には必ず出てくるのであるが、この人物の歴史を一貫して書いた本となると、日本でもアメリカでも未だ出ていないようだ。
本書は、『人物叢書』のねらいと様式にしたがって書きおろしたハリスの伝記である。
伝記の性質上、生まれてから死ぬまで――すなわちハリスの一生にわたる足跡を一応たどったつもりだが、彼の歴史的生命は一に日本の開国の歴史にかかっていると言ってもよいのであるから、もっぱら記述の重点をそこにおいて、安政条約の成立過程、およびその前後における動きをなるべく詳細にのべることにした。
“史実”と“伝説”の相違については、この叢書の執筆者のだれもがぶつかる問題であると思うが、ハリスの場合にもそれが大きい。
ことに、彼のように文学などに扱われた場合は世人の耳目に入りやすいので、それがいつしか伝説となりがちであるが、歴史は実体であり、伝説はまぼろしである。両者の間には白と黒ほどの違いのある場合も多いのである。
本書は大体年代にしたがって論説をまじえずに、つとめて平易に叙述したものだが、それでも第七の四「不平等条約説の誤り」だけは、私が前に『日本歴史』(昭和三十五年十月号)にのせた一文と同じ趣旨のもので、これはやや論説めいたものだ。
この論文に対しては先ごろ東北大学教授の石井孝氏がご自分の意見を同誌でのべられたが、これはもっと多くの歴史学者によって採りあげられて然るべき問題だと思う。
ただし、その場合には、あくまでも歴史家としての立場と態度(政治的でない)でなされなければならない。
ハリスの帰国後の消息については、これまであまり知られていなかった。
もちろん日本にはその時代の史料はないし、アメリカでもそれをはっきりさせたものが出ていない。
帰国した時がちょうど南北戦争のごたごたの最中であったし、それにハリスの晩年はほとんど世人の耳目の外でおくられたので仕方がないのであるが、しかし伝記を書くとなると、ちょっとでも空白の時期があっては困るのである。
ハリスの日記の編纂者コセンザ博士 Mario E. Cosenza は当時、ハリスをその前身校の創設者とするニューヨーク市立大学の教授であったが、今なお八十余歳で同市に健在である。
同氏はベレナ夫人 Verena の協力によって、蒐集された史料を私のもとに寄せられた。
本書の刊行にあたり、同氏夫妻のご尽力に、深甚の謝意を表するものである。  
■第一 来朝前のハリス 
一 おいたち
姓名
タウンゼンド・ハリス Townsend Harriss ――これは、本書の主人公の姓名である。アメリカでも、所と人によってはタウンゼントと発音することもあるが、本書ではハリスの『日記』の編さん者であるコセンザ博士とも相談の上、タウンゼンドとした。その方が呼びやすいからである。
生まれ
このハリスは、一八〇四年(文化一年)十月四日に、ニューヨーク州、ワシントン郡、サンディ・ヒルに生まれた。生まれた日については墓碑にも誤って記されており、アメリカの辞典などにも誤記されている。また、徳富蘇峰著『近世日本国民史』には六日となっているが、前記の日付はハリス自身によって書かれた『日記』によるものだから、間違いなかろう。
祖先
祖先はイギリスのウェールズ人であった。アメリカの独立戦争よりも百五十年ほど前に、信仰の自由をもとめて新大陸へわたりロード・アイランド州を建設した、あの有名なロジャー・ウィリアムズ Roger Williams などと一緒に北アメリカへ渡ってきた。はじめはマサチューセッツ州に定住し、ずっと後になってからニューヨーク州のウルスター郡へ移ってきたのだという。ハリスの父方の祖父も母方の祖父も、独立戦争のときにはゲーツ Haratio Gates将軍麾下(きか)のアメリカ軍部隊の士官として、イギリス軍とたたかった。父方の祖父をギルバート・ハリス Gilbert Harris といった。この祖父の妻の名はサンクフル Thankful で、結婚前の姓がタウンゼンドであった。
祖母の感化
ハリスの洗礼名は、この祖母の旧姓に由来したのである。この祖母というのが、若い時からきわめて勝気な性質の女性だった。夫(おっと)が独立戦争で出征したあと、戦争の恐怖と不安の生活によく堪えながら七人の子供を育ててきたが、この地方はイギリス軍の未だ優勢なころ占領されて、掠奪や放火などの蛮行をうけた。彼女の家も焼かれたので、イギリス人を憎むことがひどく、一生涯その時分のことを忘れなかったという。その二番目の息子をヨナサン Jonathan といった。結婚してワシントン郡、サン・ディリヒルに移り、帽子商(ハッター)を家業としたが、そこの村長などをもつとめた。夫婦の中に六人の子供をもうけたが、男児五人の中の末子が、未来の日本への使節タウンセンド・ハリスだったのである。ハリスの幼少時代には、祖母のサンクフルの感化をうけることが大きかった。祖母はいつもハリスに信仰上の話や独立戦争時代の想い出話をきかせて、「真実を語れ。神を畏れよ。イギリスを憎め」と教えていた。ハリスが嘘を嫌い、また敬虔な新教徒として一生をおくったことは、祖母のこうした影響にもよったのであろうか。それに、ハリスは少年時代からずっと、良質で知られていた英国シェフィールド製のナイフを用いず、またイギリス製の布でつくった服を着用することを好まなかったともいわれているから、そのころから頑固なところがあったようだ。
教育
少年のころは未だ家庭の経済状態がよくなかったと見え、正規の教育は村の小学校と中学校だけにとどまった。後年の驚くべき博学は、社会人になって生活の余裕ができてから大いに図書館を利用したことと、読書欲と暗記力が非常に旺盛だったことなどによるものらしい。それにしても、大学の課程を踏むことができなかったのを常に残念がっていたと伝えられている。ハリスは十三歳のとき、父に連れられてニューヨークに行き、父の友人が営んでいた呉服店に奉公したが、もちまえの快活な性質と機智にくわえて、忠実に働くので、家人にかわいがられていた。数年の後、父母と兄のジョンがニューヨークに出て、陶磁器輸入商をはじめたので、ハリスもこれに加わった。この事業は相当成功して、家産も豊かになった。
陶磁器輸入商
後年、彼が未知の東洋にあこがれるようになったのも、東洋の特産物であったこれらの品物を取り扱っていたからかも知れない。この店は、一八三五年のニューヨーク市の大火のときに、破壊消防隊の手で爆破されてしまった。やがて同市が復興すると、ハリス兄弟の店も再建されたのであるが、実のところ、商売の方はハリスにとっては生活の手段以上の何ものでもなかったようだ。
読書
商売は兄にまかせ切りで、自分では好きな本を買ったり、図書館へかよったりして、語学などの勉強を夢中になってやっていた。フランス語・イタリア語・スペイン語などが主であったが、これらの勉強は商売上にも必要があったのではないかとも思われる。また、たえず優れた文学書、ことに英文学の本を好んで読んだ。作品の中に出てくる人物や事物を批評的な態度で観察することが好きでもあり、得意でもあった。また、後年、彼の知識の特長をなした動植物についての博識も、ただ東洋諸国を歩きまわって得た目の学問だけではなく、前から書物によってそうした素養ができていたものと想像される。このために、前にも言ったように、よく図書館を利用したが、記憶力がつよくて、正確なことは周囲の人々が驚くほどだったという。実際、彼が日本滞在中の出来事を詳細に書きとめた有名な『日記』を見ても、非凡な記憶力には、全く感心するほかはないのである。壮年になっても、結婚の話には一向に耳をかたむけようとしなかった。母親と、それに両親を亡くした姪たちと一緒に暮らしていた。
母親
母親は、ハリスに言わせると、とても知性と愛情にとんだ婦人で、彼の最もよい忠告者であり、激励者でもあった。いろいろの意味で、正規の学業の不足をおぎなってくれたのは母親であった。この母親も大の読書ずきで、自分や子供のために、居間や食事部屋に本を備えることを絶えず心がけていたという。当時のアメリカの家庭では、どこでもそうだったらしいが、ハリスは政治問題でよく母親と議論をしたようだ。母親の方はもちろん共和主義・連邦主義の信奉者で、強力な中央政府を支持したが、ハリスは熱心な民主党員(デモクラット)で、地方の自治を強調し、人民の意思を尊重する、当時のいわゆる革新主義者であった。母親の方はハリスの言うようなデモクラシーの理論に好意をもつことができず、無知な移民の走りやすい自由の濫用と、過激な行動に怖れをいだき、フランス革命の恐ろしい場面を想像して、しばしばハリスに注意をあたえたこともあったというが、ハリスの方は民主主義の熱烈な実践者であった。
民主主義の実践者
政治の実際運動にも首をつっこみ、財産の多寡(たか)で選挙資格を制限するような当時の保守主義者のやりかたに激しく反対して、選挙制度の改善をさけんでいた。しかし、こうした母子の新旧思想の対立にもかかわらず、ハリスの母親に対する心情は愛と敬慕にあふれていた。そして、母親の自分によせる真情に、極端と言ってよいほど感じやすかった。兄のジョンが商用でイギリスに行くことを彼にすすめた時も、年老いた母親のもとを離れるのが心配だといって、行くのを拒み、笑いながらこう言ったという。「将来、母から離れるようなことが起ったら、世界の眼から取残されている極東へ行ってみたい」と。ハリスは七十四年の長い生涯を独身で押しとおし、女性関係は全くなかったと思われるのであるが、一説によれば、彼の胸奥に秘められた母への慕情が結婚の意思をさまたげたのであって、彼は母のイメージの中に理想の女性を見出していたが、それと同じ女性をもとめることは到底不可能だと思っていたからだったという。これは、あまりにも非現実的な説で、とうてい首肯(しゅこう=承知)することができないが、本当の理由は彼の胸中にだげあって、誰もこれを解明することはできない。強いて言うならば、古来歴史に名をとどめた人々の中から、往々にして、こうした風変わりな人物が発見されるということだ。
唐人お吉
“唐人お吉”にからむハリスの蓄妾(ちくしょう)説が、後代の戯作(げさく)者の文字通りの戯作であるということについては、後章で詳述したい。彼は大のフェミニストで、「婦人の社会的地位は、その国民の文明の程度と精神状態を示すもので、東洋的な蓄妾制度は、キリスト教の戒律からいっても、文明の概念からしても許されることではない」といっていた。
壮年時代
壮年時代のハリスは、ニューヨークの市民社会の中で相当余裕のある生活をしていたようだ。この頃になると、彼は少年時代の苦い経験を思いだして、貧困な家庭の子弟の学校教育に関心をよせるようになった。地味な仕事ではあったが、市の教育局委員にえらばれて、一八四六年、四十二歳のとき教育局のプレジデント(長)になった。
貧困家庭の子弟の教育
フリー・アカデミの建設! これが、彼のまっ先にとりあげた問題であった。ニューヨーク市にフリー(無料)の中学(アカデミ)をつくる提案をしたのであるが、これは一部の有産階級の間からはげしい反対をうけた。彼は得意の説得力で人々をうごかし、また私財を投じてこれに奔走した。その甲斐があって、翌年無料中学校が創設された。後年、この学校が二ユーヨーク市立大学( The College of the City of NewYork)に昇格したとき、この大学の予備校にハリスの名前がつけられて、ハリス無料学校( The Townsend Harriss Hall High School )と名づけられた。このように、彼は教養のある活動的なニューヨーク市の典型的な一紳士として、四十五歳になるまで、主として同市の十四番街に住んでいた。政治方面でも、民主党員の間に相当の信望があり、交友にも知名人が多かったが、政治的な地位にはさして欲望がなく、もっぱら教育・医療・消防など、あまり人々のやりたがらない地味な社会事業に打ちこんでいた。
趣味
趣味は読書と乗馬で、特に英文学には一隻眼(いっせきがん)を有していたようである。乗馬の方も相当達者だったらしい。これは、日本へきてから大いに役にたった。雨天の日などはチェス(将棋)に興ずることもあったが、賭けごとは大嫌いだった。市(まち)の紳士にありかちな勝負事には一切手を出さず、また、それを終生の誓いとしていた。東洋遍歴の無聊(ぶりょう)な船旅の中でも、賭けを伴なうゲームの仲間には一切入ろうとしなかった。「私は、どんなに勝ち味のあるゲームにも、決して賭けをしない。年をとればとるほど、この決心はかたくなった」と、後年『日記』にそうかいている。彼のこうした生活に一つの転機をあたえるものがなかったら、彼はおそらくニューヨークの一市民としての至って平凡な生涯をおわり、歴史に名をとどめるようなことはなかったであろう。
二 東洋遍歴の旅ヘ 
母親の死
ハリスがニューヨーク市教育局のプレジデント(長)であった一八四七年十一月に、母親は八十三歳の高齢で世を去った。ハリスは悲歎と寂しさのあまり、一時に酒に親しんだり、あるいは公共事業の中に没頭して気をまぎらわせようとしたりした。一八四八年一月二十六日に、彼はプレジデントの地位を辞した。母の没後六ヵ月目に、折からの不況の波に洗われて、ハリス兄弟の店も倒産の憂き目をみた。彼は身心を立てなおそうと決意し、再びプロテスタント監督教会の敬虔(けいけん)な教徒にたちかえって、さっそく禁酒をちかった。
ニューヨークを去る
そして家業を整理し、永年住みなれたニューヨーク市を後にして、東洋遍歴の旅へのほったのである。時に四十五歳であった。ハリスの心はまず、黄金にめぐまれた、いわゆるゴールド・ラッシュのカリフォルニアと、神秘の濃い霧にとざされている東洋へと向かった。貿易商人を志したのである。カリフォルニアゆきの貨物船の権利を半分だけ買い、その船の積荷宰領(さいりょう)として一八四九年五月にニューヨーク港を出帆、ホーン岬(南アメリカ南端)を回航して、一路力リフォルニアヘと向かった。サンフランシスコで、船の権利を全部手に入れた。それから、主として太平洋とインド洋とを股にかけての約六ヵ年におよぶ貿易遠征の旅がはじまったのである。先祖からうけついだ開拓者の精神が彼の血を駆りたてたのであろうか。それとも、貿易で一山おこして、社会事業にでもつぎこもうとでも考えたのか。とにかく、これまでの比較的に恵まれた平穏無事な市民生活から、にわかに太平洋の荒波にもまれる逞(たく)ましい冒険者の、激動的な生活へと移ったのである。
貿易遠征
遠くはニュージーランド・フィリッピン・シナ・マレイ・セイロン・インドなど、海から海、島から島、アジア大陸の港から港を訪れてまわった。ある時には、食人種の島で酋長の家に泊めてもらい、人骨の飾ってあるところで一夜を明かしたこともあったという。接待役の土人が手真似で人肉の味をたたえた後で、彼の身体を指先でつついて見たという話もある。こうした長い、そして幅の広い貿易旅行の経験は、東洋の各地における人間の生活状態・経済・宗教・政治・文化・産物、その他のあらゆる国情についての実際的な知識や、これらの民族を相手にする場合に必要な、寛容・温情・勇気・胆力などの徳性を身につけるのに大いに役にたった。アジア問題の処理について、ハリスほどの広い知識と恰好な資格をそなえた人物は、当時のアメリカにおいて他に見出し得なかったであろう。彼がニューヨークを去って以来、毎年のクリスマスをどこで過ごしたかを知ることは興味がある。
   一八四九年 北太平洋の洋上
   一八五〇年 マニラ
   一八五一年 ペナン島(マレー半島西側)
   一八五二年 シンガポール
   一八五三年 香港
   一八五四年 カルカッタ
   一八五五年 セイロン
こうした貿易旅行は、彼の事業が経済的な破綻(はたん)を見るまで、六年もの長い間つづけられたのである。
ペリー提督の日本遠征
ペリー提督のひきいるアメリカ艦隊の、第一回日本遠征の行われた一八五三年(嘉永六年)に、ハリスはシナに滞在していた。彼は、折りから上海に寄港したペリー提督に手紙をおくって、つぎの日本訪問にはぜひ連れていってほしいと頼んだが、軍人以外の者は絶対に乗艦を許さないという理由でことわられてしまった。これはハリスを痛く失望させた。
外交官を志望
ハリスが極東駐箚(ちゅうさつ=滞在)の外交官を志望したのは、このころからであった。最初は香港か広東の領事になりたいと、国務省に運動してみたが、うまく行かなかった。また、一八五四年三月にマカオから、台湾の事情を詳しく調査した『台湾事情申言書』なるものを国務長官あてにおくって、台湾島の買収を献策したが、これは政府の容れるところとならなかった。当時、台湾の西部は清国に属していたが東部の生蕃(せいばん=土人)地帯は所属がなく、航海者は「食人種の島」とよんで、同島への漂着を非常に怖れていた。同年八月二日に、彼は年俸一千ドルで、シナの開港場寧波(ニンポー)の領事に任命された。この報知を、彼はペナン島でうけとったが、自分は任地へ行かず、シナ派遣の伝道医師マクガウアン Macgowan を寧波の副領事に任じた後、一八五五年五月二十一日に急いで本国へ向かって旅立ったのである(有名な『ハリスの日記』は、このあたりから始まっている)。
三 日本駐箚(ちゅうさつ)総領事となる
神奈川条約第十一条
一八五四年(嘉永七年)三月三十一日に米使ペリー提督と日本全権委員との間で締結された和親条約(神奈川条約)の第十一条は、「この条約の調印の日から十八ヵ月の後に、合衆国政府は下田に居住する領事(コンサルズ)または代理官(エージェンツ)を任命することができる」ことを規定している。
今や日本には、真に偉大にして先駆的な外交手腕を発揮すべき、十九世紀最大の機会が横たわっている。
ハリスがペナン島の旅を早々に打ち切って急いで帰国の途についた目的は、猶予なくこの機会をとらえるにあった。これは、ペリーの日本遠征のとき以来、彼の心から常に離れることのなかった野望であったのである。ハリスは、当時の国務長官ウィリアム・マーシーWilliam L. Marcy や、大統領と親交のあったウェトモア Wetmore 将軍などとも懇意な間柄だったので、これらの人々に、「日本へゆく外交代表」の就任運動をかねてから依頼していた。
推薦者
ウェトモア将軍のマーシー長官にあてた推薦状には、「じゅうぶんに教養があって、完成された商人である点で、私はハリス氏よりも優れた人物にこれまで接したことはない」とあり、また、「あらゆる通商問題について稀れに見る広い知識を有し、また数ヵ国語(スペイン語・フランス語・イタリア語の如き)に通じているから、かならず自らを領事職として有能ならしめることができると思う」とあるから、同将軍もハリスの人柄をよほど高く買っていたようだ。また、ニューヨークの有力な市民たちからも連名の推薦状が大統領に提出されていたし、かつて日本への同行を拒絶して、ハリスを落胆させたペリー提督自身も、ハリスを推薦した陰の有力者の一人であったといわれている。ペナン島から二ヵ月あまりの航海をへて故国へ着いたハリスは、すぐにワシントンへ急行して大統領のピアス Franklin Pierce に面会をもとめた。
大統領を訪う
一八五五年八月四日に大統領にあてて書いた彼の手紙は、つぎのように率直な、感動すべき字句でつづられている。
「私は閣下に対し、私か長い間、日本を訪問したいという強い願望をもってきたことを申しあげた。この感情は非常に深まってきているので、もし私が駐シナ弁務官か駐日領事かのいずれかを選ぶように申し渡されるならば、私は直ちに後者をとるであろう。私は、日本にいる間に耐えねばならぬ社会的流謫(りゅうたく=島流し)や、私が生活しなければならぬ精神的孤独については充分に承知し、それに耐えうるための用意がある。私は独身者であるから、なつかしい家庭を案じて顧みるようになったり、新しい家の中に耐えられなくなるような絆(きずな)は何ら有しない。――閣下よ、私は友人たちを訪問するために休暇を請願したり、日本を好まないという何らかの理由で、その地位を辞するようなことはしないつもりであって、私の任務を忠実に果たすために、ひたすら私の身をささげるつもりでいることを信じていただきたい」と。
大統領はハリスに会い、食卓を共にしながら語りあったか、その後で国務長官にあてて発した大統領の手紙には、つぎのように書かれていた。
大統領の手紙
彼は明らかに高い人格の持主である。書物と観察の両者からなる彼の広い知識は、私に強く印象をあたえている。彼と私との相談は、非常に満足なものであった。そして、私の判断によれば、問題の地位に対して彼の有する資格を、貴下は過大に評価してはいなかった。私は、直ちに彼を任命しよう。彼はできるだけ早く出発した方がよいと考える。一八五五年八月四日付の大統領命令で、ハリスは日本駐箚総領事に任命された。年俸五千ドルであった。これは仮任命で、正式の任命は翌一八五六年六月三十日(日本へ赴任の途中)、上院がこれを承認したのは七月三十一日(日本へ到着の二十日前)であった。
四 日本へ向かう
任務
ハリスは駐日総領事のほかに、またペリー提督の和親条約を改訂して、日本と新しい通商条約を締結する全権委員の任務をもあたえられた。また、日本へ赴任の途中にシャム(タイ)国へ立ちよって、同国と通商条約を結ぶことをも委任されたのである。
ヒュースケン
オランダ語は、当時の日本人の解しうる唯一の西洋語であったから、ハリスは日本へ出発するに先だって、書記官兼通訳として当時二十三歳であった元オランダ人、ヘンリ・ヒュースケン Henry Heusken を年俸千五百ドル(ただし、日本までの旅費不要、食事代自弁)の契約で雇うことにきめた上で、一八五五年十月十七日に単身任地へ向かってニューヨークを出発した。同月二十九日にロンドン着。十一月一日にパリ着。パリでは、国務省の制服規定にしたがった正装用の服や靴を注文し、ついでに大博覧会やルーブル博物館・オペラなどを見物した。マルセーユを経由して、エジプトに出て、紅海を下って、インドに寄り、一八五六年一月十九日にペナンに到着した。この島はハリスにとっては七度目の訪問地で、思い出の多いところだった。
乗艦サン・ジョシント号
同地でアームストロング James Armstrong 提督の指揮する合衆国の軍艦サン・ジョシント San Jacinto 号の来着を待ちうけた。同号はハリスを任地へ送りとどけるために海軍省から特に差し廻されたもので、ヒュースケンがそれに便乗してきた。四月二日にハリスは艦上に迎えられ、十三発の礼砲を聞きながら、「外交上の手腕をふるうべき国」へ向かって鵬途(ほうと)についたのである。「今年は私にとって、重大な年となるであろう。私の責務に委ねられた幾つかの重大案件がある。私がそれに成功すれば、私は私の名前を祖国の歴史に結びつけることができよう。もし失敗すれば、如何に私が商議に才能を発揮しようとも、成功したときに高められるのと同じほど、私は沈淪(ちんりん=落ちぶれる)するであろう。世間は、単に結果をもって判断するものであるから」。これが航海中における彼の感慨の一端であった。
シャム国との通商条約
サン・ジャシント号は四月十三日に、メナム河の河口砂洲(さす)に投錨(とうびょう)。ハリスは随員をしたがえてシャム国の首都バンコックに至り、合衆国の多年の懸案であって、一八五一年に便節のベールスチア Balestier が失敗した同国との間の条約改訂、すなわち通商条約の締結に成功した。この条約は、五月二十九日に旧王宮で調印された。ハリスがシャム(タイ)で見聞したことや、条約談判の次第などは、彼の『日記』の中に詳細に、そして余すところなく書かれているが、本書は限られたページの中で日本との交渉を主眼としているので、それらを割愛せざるをえない。ハリスの同国人に対する印象は甚だ好くなかったようだ。
「私はこれまで、彼らのような国人に会ったことがないし、また二度とこの国へ派遣されることの決してないことを望んでいる」といっている。
香港総督ボーリングと会見
五月三十一日にバンコックを離れ、途中香港に寄港して、イギリスの同港総督ボーリング Sir John Bowring と会見した。この会見でハリスは、シナの事件(アロー号事件に端を発した戦争)が片づき次第、イギリスは日本に対して通商を要求するために艦隊を派遣する考えをもっていることを知った。これは、日本に対するハリスの外交的態度に重大な意義をあたえたのである。香港では、日本へ連れてゆく五名のシナ人従僕を雇い入れた。
日本の沿岸が見えはしめた一八五六年(安政三年)八月十九日に、ハリスは無量の感慨をこめて日記にこう書きしるした。
日本到着の感激
「私は、日本に駐箚すべき文明国からの最初の公認された代理者となるであろう。このことは、私の生涯に一つの時期を劃(かく)するとともに、日本における諸々(もろもろ)の事物の、新しい秩序の発端となるであろう。私は日本と、その将来の運命について書かれるところの歴史に名誉ある記載をのこすように、私の身を処したいと思う」。
それから二日して、サン・ジャシント号は下田に入港したのである。 
■第二 ハリスの下田時代 
一 渡来の目的
一八五六年八月二十一日(安政三年七月二十一日)に、ハリスはサン・ジャシント号で下田へ到着した。当時、五十一歳十ヵ月であった。
安政元年の大津波
この伊豆の南端の港は、安政元年七月四日の地震と大津浪の惨害から、まだ完全には立ちなおっていなかった。そのときの津浪は、人口八千から一万をかぞえていたこの町を一瞬にのみこんでしまった。大浪が去ったあとには、十四軒の家がのこっていただけだったという。だから、家々はその後にたてられたもので、まだ木の香も新しく、復興の鑿(ノミ)の音があちこちから聞こえていた。
上陸止め宿を拒否
ハリスの来朝は、幕府にとって寝耳に水であった。下田奉行岡田備後守(忠養=ただやす)は、おどろいて江戸へ急報した。幕府の命令で、あわてて江戸からもどってきた同僚奉行の井上信濃守(清直=きよなお)と力を合わせて、ハリスを退去させようとした。先にのべたように、ペリーの条約(神奈川条約)第十一条の英文には、「この条約調印の日から十八ヵ月の後には、合衆国政府は何時なりとも、下田に居住する領事または代理官を任命することができる。ただし、両国政府のいずれか一方が、この配置を必要と認めた場合にかぎる」とあった。
ところが、日本文の方には、「両国政府において、拠(よんどころ)なき儀これあり候模様により云々」と書かれていたのである。
つまり、アメリカの使臣の下田駐箚(駐在)の必要は、あらためて両国政府の合議できめるというのであった。妙な行きちがいであるが、両国がたがいに相手国の言葉を理解せず、オランダ語の媒介で意思を通じあっていたために、訳文上の重大な手違いがあったのに双方とも気づかなかったのである。ハリスが到着すると同時に、「上陸する」「いや、居住のための上陸はまかりならぬ」で、面倒なことになってしまった。
ハリスは、退去の要求を頑(がん)としてききいれなかった。
「こうした問題の解決は、両国政府間の交渉で行わるべきもので、一総領事である自分の知ったことではない。
自分は大統領の命令できたのだから、その命令がなければ帰るわけにはゆかない」というのだった。
上陸して玉泉寺に入る
上陸をこばめば、そのまま軍艦で江戸へ行きかねないので、下田奉行も困ってしまった。そこで、居住の問題は後まわしにして、ひとまず上陸をゆるすことにし、下田在、柿崎村の玉泉寺(ぎょくせんじ、曹洞宗)を仮りの宿所とした。これは、ペリーの艦隊が下田に寄港したときにアメリカ人の休息所にあてられた寺だった。安政三年八月五日に、ハリスはヒュースケンとシナ人の従僕五名(一名は後に送還)をしたがえて上陸した。
柿崎
「柿崎は小さい、貧寒な漁村だが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度もていねいだ。世界のあらゆる国で貧乏につきものになっている不潔なところが、すこしも見られない。彼らの家屋は、必要なだけの清潔をたもっている。土地は一インチもあまさず開墾されている。地面は起伏が多く、熔岩の峰、あるいは火山から噴きだされた固い粘土となって聳えたっており、耕作には適しないほど嶮しいのであるが。」(『ハリスの日記』)
これが、ハリスの上陸第一歩の印象だった。その夜は、興奮と蚊のためによく眠れなかったという。
日本における最初の領事館
その翌日、日本における最初の領事館である玉泉寺の前庭に、桿頭(かんとう=ポール)高く星条旗をあげたのである。この日の午後二時半に、この帝国における“最初の領事旗”を掲揚する。厳粛な反省――変化の前兆――疑いもなく新しい時代がはじまる。あえて問う! 日本の真の幸福になるだろうか。その日の夕方、サン・ジャシント号は無事に任務をはたして、出港した。
ハリスの目的
復興途上の下田は、まだ人家が千戸ばかりで、人口も四〜五千にすぎなかった。それに、もともと外国の大船を相手にするような港ではなく、付近は山地ばかりで、物資にもとぽしかった。ハリスは着任して間もなく、下田が開港場として不適当なことに気づいたが、とにかく、この土地を足がかりにして江戸へのぼり、皇帝(エンペラー)(注)の政府と直接の談判をやって、まず日米間に互恵(ごけい)的な通商条約と、従来の条約よりも幅の広い修好条約をむすび、そのあとで世界の各国をこの条約に均霑(きんてん=行渡る)させる、つまり世界にさきがけて日本を名実ともに本当の開国の姿にあらためさせようとするにあった。
(注=当時の西洋人は、将軍を政治上の最高主権者であるエンペラーと考えていた。そして京都の帝(みかど)は、単に宗教上の主権者、すなわち神主の親方ぐらいにしか考えていなかった)
薪水条約の改定
さきに締結されたペリーの和親条約(注)は、日本の開国に先鞭をつけたものではあったが、これは要するに薪水条約・欠乏条約の範囲をです、肝心な通商の規定には少しもふれていなかった。
(注=合衆国の船に薪水(しんすい)・石炭・食糧などの欠乏品を供給するために下田と箱館の二港を開く)
だから、せっかくアメリカの貿易船がはるばる太平洋を越えてやってきても、日本の官憲に追いかえされる始末で、一時はペリー提督の成功を謳歌していたアメリカ人の間にも、貿易のできない条約では意味がないという不平や不満の声がやかましくなっていた。ところで当時の日本は、資本主義諸国と通商関係をむすんで自由に交際するということは困難な状況にあった。理由はいろいろあった。両者の社会構成や制度に根本的な相異があり、貿易を通じて国民の間に浸透する自由主義の風潮は幕府集権下の封建制度の基礎を危うくするおそれがあったし、貿易の利益はみとめても、二百年来「祖法」の二字で徳川幕府の威権を維持してきた関係上、祖法の一つである鎖国政策を根本的に改めること自体が幕府や諸大名にとって重大な問題だったのである。
ぶらかし政策
しかし、お隣のシナが頑固な鎖国政策で阿片(アヘン)戦争をひきおこし、さんざんに敗れた結果、屈服的な五市開港の条約を余儀なくされたことをよく承知していたので、外国と勝ち目のない戦争をすることは、これまた封建的支配の崩壊の原因となることを恐れていた。そこで、外国との紛争は出来るだけさけて、おんびんな回避策、すなわち、“ぶらかし政策”をとろうというのが、当時の幕府の腹であった。
そこで、ハリスを怒らせず、しかも下田に釘づけにしておくつもりで、幕府はハリスに「邪教伝染これなきよう相心得」させた上で下田駐箚の正式許可をあたえたのであるが、しかし中央との直接の交渉はあくまでも避けて、要求事項については出先機関である下田奉行をして応接にあたらせることにした。
一時のがれの空(カラ)返事で責任のある回答をさけさせ、あくまでも遷延策をとって、ハリスが手を空(むな)しく帰国するようになることを期待したのである。
ハリスは奉行たちの不正直と不誠意をなじって、「日本の役人は地上における最大の嘘つき」であると罵った。
“うそつき”と呼ばれることは、武士にとっては最大の侮辱であった。
彼らは胸中無念に徹しながらも、役目の手前こうした罵声(ばせい)に堪えなければならなかった。
出府を要求
出先機関の属僚を相手にしていたのでは何時までたっても埒(らち)があかないと思ったハリスは、安政三年九月二十七日に手紙を幕府の閣老にあてて送った。「大統領の親書を日本の皇帝に呈し、あわせて日本の安危に関する重大事件について直接日本政府に知らせるために」 出府(しゅっぷ)、すなわち江戸へ行きたいと申しこんだのである。この要請にたいして、幕府ではハリスに返書さえもおくらず、下田奉行に命じて口頭でことわらせた。ハリスは、はげしく抗議した。和親条約をむすんだ国の使臣の書簡に対し、口頭の返事だけですまそうとするのは合衆国を侮辱するものである。某国(イギリスを指す)の日本に対する企図を知らせて、おそるべき戦禍から日本を救うためには、ぜひとも早急に出府することが必要であるという意味の手紙を再び閣老あてに送ったが、幕府は、「所要の件については下田奉行に申し出で、大統領からの書簡は下田奉行に渡すように」という老中連署の返事を送って、再びハリスの要請をことわってしまった。しかし幕府としても、こうした一片の返書だけでハリスの要求をおさえることが出来るとは思わなかったので、この上ともに重ねて強請してくる場合には出府許可も止むをえないだろうと観念し始めたのだが、
ハリスの焦燥
それとも知らぬハリスは、容易に事のはこばぬのに焦慮し、その面貌には日増しに苦悩の色がこくなった。それに、健康のすぐれないのが、なおさら気持を苛(いら)だたせた。時として、無暗に役人たちに当たりちらすこともあった。本国政府からは、着任以来一片の音信もなかった。ハリスは国務省の怠慢と無責任さに憤慨したが、その理由が故国の政情の変化によるものではないかと臆測すると、これまた不安で心が暗くなった。

「あれから十八ヵ月以上もたっている。私をこの土地に孤独のまま捨てておくには、あまりに長い期間である。私との通信をもっと頻繁にするように、国務省に注文をつける必要がある」。
「私は本国政府へ送りたい重要な情報をもっている――その情報は、日本とアメリカとの通商に直接の拍車をかけるであろう。しかるに、来る月も、来る月も、わが政府へそれを通信することができずにいる。一隻の軍艦もいないことは、日本人に対する私の威力を弱めがちである。日本人は今まで、恐怖なしには何らの譲歩をなしていない。我々の交渉の将来のいかなる改善も、ただ力の示威があってこそ行われるであろう。この明らかな閑却は、ここへ来ないアメリカの海軍司令官たちの無頓着や怠惰によるものとは思いたくない。そこで、私は遅延の原因についてあらゆる想像の虜(とりこ)となっている。」(『ハリスの日記』)
と、彼は『日記』に、憤懣(ふんまん)やら不安やらの思いをこう書きつけた。
二 下田の風土と生活
こうした傷心の日々を慰めてくれたのは、この土地の美しい景色と、「これまでに経験したことのないような」温和な気候とてあった。
下田の住民
ハリスは素朴な下田の住民がとても好きだった。ことに、「耕して天に至る」式の、高い、せまい段々畑でせっせと立ち働いている農民の姿は、世界のどこの人間よりも勤勉に見えた。彼はこの人たちを、「喜望峰以東の最も優れた人民」と評した。
「この土他の住民は、いずれも豊かではなく、ただ生活するだけで精いっぱいで、装飾的なものに目をむける余裕がない。それでも、楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。家も清潔で日当たりがよいし、気持もよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるよりもよい生活を送っているところは他にあるまい。」(『ハリスの日記』)
住民たちが自分に対して無言の好意を示してくれていることが、ハリスにはよくわかった。この土地の住民は、明らかに外国人との交際を望んでいる。ただ、専制的な支配と苛酷な法律に対して抱いている恐怖の念が、あからさまな表現を封じているだけだと思った。
領事館の環境
上陸したのは秋の初めだったので、草ぶかい寺院の境内では夜ふけて虫の声がやかましかった。コオロギの声は、速く走る豆機関車のように奇妙にきこえたという。以前は寺の本堂だった薄暗い大広間の片すみに蝙蝠(コウモリ)がぶらさかっていたし、大きな髑髏蛛(どくろぐも)も這いまわっていた。鼠があまりたくさん走りまわるので、よく寝つかれなかったという。こうした寂しい環境に、いくぶんでも潤(うるお)いをもたせるために、ハリスは玉泉寺へ入ると直ぐに古い鐘楼を鳩舎に改造させて、四番(四つがい)の鳩を飼った。だが、これらは一夜のうちに猫に噛まれてしまったので、江戸から六羽の鳩を至急に取りよせてもらった。また、カナリヤや鷽(うそ=雀科の鳥)などの鳴禽(めいきん)類や、それに鶏なども飼って自分で世話をした。領事館の人数は、ハリスとヒュースケンのほかに、召使頭・料理人・その助手・洗濯夫(以上シナ人)・少年二人(助蔵・滝蔵)・水運搬人・掃除夫・園丁・馬丁の都合十名だった。日本人の中には通勤の者もあった。このうち、少年の助蔵と滝蔵はハリスに特に可愛がられて、後年の江戸出府のときには行列の駕籠わきにつきそった。
番士の撤去を要求
これらのほかに、ハリスの着任以来数名の役人(番士)が館内に詰めきって、領事館の警護にあたった。ハリスは、自分を囚人同様に監視するためのものだと抗議して、しきりに彼らの退去をもとめたので、これらの者は四ヵ月ほどで引きあげてしまった。自分に危害を加えるような者はこの土地には一人もいないという信念をもっていたからであったが、幸いに下田滞在中には一度もそうした不祥事はおこらなかった。根が潔癖な人で、それに何事にも几帳面な性質だった。朝起きると、かならず冷水をあびて身体をきよめた。これは酷寒の季節になっても止めなかったので、周囲の人々はおどろいた。食料や酒類(ハリス自身は禁酒していた)は当分の生活に差支えないほどのものを本国から持ってきていたが、それにしても新鮮な野茱や肉類の入手は必要だった。 野菜の方は役人に厳談して、必要なだけの畠をかりうけ、自作することにした。本国から持ってきた種子をいろいろ播いたが、芽が出なかったので、がっかりした。日本人の世話で馬鈴薯・玉蜀黍(とうもろこし)・胡瓜(きゅうり)・茄子(なす)なとを作ったが、こうした野菜作りは彼の健康と慰藉(いしゃ=なぐさめ)に大いに役だったようだ。
嗜好物
日本の果物は好んで食べた。ハリスの注文に、役人は無い、無いと言いながらも、ときどき葡萄・柿・梨・栗・蜜柑など、季節の果物を持ってきてはハリスを喜ばせ、その代わりに西洋の珍酒などをご馳走になるのであった。
四つ足の動物を食べない国のこととて、生鮮な肉の入手にはほとほと困ったが、それでも日本人が天城山中でとれた猪や鹿・野兎・野鳥などの肉を時々とどけてくれるので助かった。ことに猪の肉はたいへん気にいったようだ。
「日本人は猪の肉を、今まで三度私にとどげてくれた。たいへん軟らかく、汁気があって、すぐれた芳香をもち、美味な仔牛の肉と豚の腰肉の中間あたりの味がする。寒い季節の間十分に供給してくれる約束をしてもらった。それは私の家事に大きな助けとなるであろう」と『日記』に書いている。
付近の散歩
神奈川条約の規定により、七里外の遊歩は禁じられていたが、それでも付近の景色は豊かであった。ハリスはこのあたりの自然を愛して、よく付近の海岸や山野をあるきまわったり、馬で駆けまわったりした。これは、健康のためでもあり、風景探勝のためでもあったが、また、この地方の動植物や住民の生態を知りたいという欲望からでもあった。動物にかけては、後にパリの動物学協会の会員にえらばれたくらいであったが、植物の知識にかけても該博(がいはく=博学)だった。路傍の一木一草に目をとめては、それぞれの名称をあてたり、これまで見たものと比較したりした。そして、せっかく植物の宝庫に足を入れながら、植物学の知識が足らなかったと言って、いつも悔んでいた。森の中で、ふと一株の矢車菊を見つけて、急に故国のことを想いだし、しばし郷愁にかられて足を留めたこともあった。ある日の散歩で、ハリスは下田の谷地を松崎の方へ上ってゆき、その辺の温泉をおとずれた。硫黄の嗅いが鼻をついた。ふと、浴槽をのぞくと、一人の女が子供をつれて湯にひたっていた。女は少しの不安気心なく、ハリスを見て「オハヨー」と言った
日本人の淫習
ハリスは、日本人が風呂好きな国民であることを知ったが、同時に男女混浴の風習には眉をひそめた。
「労働者はみんな、男女・老若とも同じ風呂にはいり、全裸になって身体をあらう。私は、何事にも間違いのない国民が、どうしてこのように品(ひん)の悪いことをするのか、判断に苦しむ」といっている。そして、風呂のことはとにかく、日本人のような礼儀作法のやかましい国民の中に、信じがたいほどの淫(みだ)らな風習のあるのは、どうしたことかと訝(いぶか)る。「ヒュースケン君が日本の風習について奇妙な例を報告する。今日、彼は相当な身分の日本人の家へいった。その日本人は親しい態度で迎え、茶などをご馳走した。それから、その日本人は色々なもの――人体の各部分についての英語の名称をききはじめた。そこには、その男の母親や妻女や娘もいた。いろいろな物についての多くの名称をたずねてから、その男は着物の前をひらき、陰部を手に持って――女たちが見ているところで各部分の英語の名称をきいたという。」(『ハリスの日記』)
世界のどの国の女性よりも内気(うちき)で、控え目で、はずかしがりやの日本の女が、風習とは言いながら、こうしたことを恥ずかしがらないのは、どうしたことか。西洋人、しかも厳格なクリスチャンの家庭で育ってきたハリスには、これは信じがたいことであった。こうしたことは。日本が僧侶や神官、寺院や神社の非常に多い国でありながら、本当の意味の宗教がないからではなかろうかと、ハリスは考える。ことに、この国の上層階級の人々は、実際に皆、無神論者であると。
戒律の生活
ハリスはキリスト教の戒律をまもって酒を飲まなかったし、煙草も健康に悪いので、やめてしまっていた。日曜日には、安息日の戒律をまもり、訪問者の面会もことわって、静かに一日を祈祷と瞑想ですごした。日本では、まだキリスト教の禁令は解かれていなかった。いずれは、この国でもキリスト教の行われる時代がくるだろうが、それまでには、どれだけの歳月がかかることかと、そんなことを『日記』に書いている。
健康状態
彼は、長い間太平洋の波濤を股(また)にかけて往来し、東洋の未開の国々を方々歩きまわってきた人であるから、もともと身体は頑健で、健康には人一倍の自信があったにちがいない。ところが、日本へきてからの身体の調子はまことにミゼラブブルであった。それは、彼の『日記』の方々から知ることができる。
「  一八五七年 一月八日 木曜日
   身体がひどく悪い。
   一八五七年 一月十五日 木曜日
   病気。肉がたえず痩せてゆく。私は去年の四月二日にペナンを出発したのだが、今はその当時よりも四十ポンド(20kg)も少ない。
   一八五七年 三月十五日 日曜日
   七年の間、今日ほど身体の具合の悪いことはなかった。多量の鮮血を吐いた(訳注、胃病による、吐血と思われる)
   一八五七年 四月十八日 土曜日
   いつも身体がだるい。私は、あのフリゲート艦が到着して、診察してくれることを望んでいる。
   一八五七年 四月三十日 木曜日
   私の健康は、きわめて不満足な状態にある。私には、消化不良に起因する胃酸過多を治すことは不可能である。私は食物をパンと米、それに当地で入手する屠肉だけにとどめ、バター・油・果物、それに馬鈴薯以外の野菜をすべて断(た)っている。それでも私の不健康はつづき、相変わらず痩せる一方である。
   一八五七年 五月十一日 月曜日
   私はつとめて運動をするようにしているが、私の肝臓にはききめがない。それが心配のたねである。良医の乗っている外国船が当地にくるのを鶴首している。」(『ハリスの日記』)
旺盛な気力
こんな具合で、病気には悩みながらも、いざ仕事となると、いつも別人のように旺盛な、たくましい精力ぶりを発揮した。ことに、役人たちを前にした談判の席では、いつも相手はハリスの気力と頑張りに辟易(へきえき)しなければならなかったのである。さて、再び外交の本舞台へ立ちもどろう。
三 下田協約
最初の出府(しゅっぷ)要求は、すでに述べたように、下田奉行の口頭の返事で拒絶され、二度目の要求は閣老連署の返書で断わられてしまった。
三度目の出府要求
ハリスは閣老の返書を不満として、安政四年三月七日に三度目の要求書を提出した。これは、「大統領の親書を下田奉行をもって受け取らせようとするのは、合衆国の元首を軽視するものである。すべからく態度をあらためて、ぜひとも出府を許容してほしい」という強硬な抗議書だった。そこで幕府も、ハリスの出府の意思を抑えがたいことを知り、「出府を許すことに決定はしたが、準備の都合もあるので、すぐというわけにはゆかぬ」と、宥(なだ)めにかかった。それと同時に幕府は、これまでハリスが下田奉行に要求していた件々(貨幣交換の問題、下田と箱館におけるアメリカ人の居住権、補給港としての長崎の開港、領事の旅行権などをふくむ七ヵ条)については、従来のたぶらかし的な態度をあらためて、誠意をもって交渉にあたるように下田奉行に訓令した。これは、なるべく局地的交渉で事をすませて、江戸出府を食いとめようという魂胆から出たのであったが、ハリスとしては、出府は出府、局地的交渉は局地的交渉と割り切って、二兎を追う作戦にでたのである。
これについて、両国全権の間で数回の交渉がおこなわれた。
下田協約の調印
日本側はハリスの要求を全面的に容れ、安政四年五月二十六日に全権委員たる下田奉行井上信濃守(時万=岡田出羽守の後任者)とハリスとの間に、九ヵ条からなる条約が下田の御用所(ごようしょ)で調印された。これが、いわゆる「下田協約」The Convention of Shimodaである。これはペリーの和親条約(神奈川条約)を改訂して、いくぶん間口を広めたものにすぎなかったのだが、それでもハリス外交の一歩前進であり、安政五年の大条約の先駆けをなしたものであった。
協約文書
「規定書和文(注=安政四年五月二十六日調印、同年閏五月五日批准書交換)
帝国日本に於て、アメリカ合衆国人民の交りを、猶所置せんために、全権下田奉行井上信濃守・中村出羽守と、合衆国のコンシュル・ゼネラール・エキセルレンシー・トウンセント・ハリスと、各政府の全権を持て、可否を評議し、約定する条々次の如し。
第一ヶ条
日本国肥前長崎の港を、アメリカ船のために開き、其地に於て、其船の破損を繕(つくろ)い、薪水・食料或は欠乏の品を給し、石炭あらば、又それをも渡すべし。
第二ヶ条
下田並箱館の港に来るアメリカ船必用の品、日本に於て得がたき分を弁ぜむために、アメリカ人をこの二港に置き、且合衆国の下官吏を箱館の港に置くことを免許す。但、此箇条は、日本の安政五午(うま)年六月中旬、合衆国一八五八年七月四日より施すべし。
第三ヶ条
アメリカ人持来るところの貨幣を計算する時は、日本金或は銀一分を、日本分銅の正しきを以て、金は金、銀は銀と秤(しょう)し、アメリカ貨幣の量目を定め、然して後、吹替入費のため、六分だけの余分を日本人に渡すべし。
第四ヶ条
日本人がアメリカ人に対し法を犯す時は、日本の法度(はっと)を以て日本司人が罰し、アメリカ人が日本人へ対し法を犯す時は、アメリカの法度をもって、コンシュル・ゼネラール或はコンシュルが罰すべし。
第五ヶ条
長崎・下田・箱館の港において、アメリカ船の破損を繕い、又は買うところの諸欠乏品代等は、金或は銀の貨幣をもって價(つぐな)うべし。若し金銀とも所持せざる時は、品物を以て弁ずべし。
第六ヶ条
合衆国のエキセルレンシー・コンシュル・ゼネラールは、七里堺外に出づべき権あることを、日本政府に於て弁知せり。然りといへども、難船等切迫の場合にあらざれば、其権を用うるを延す事を、下田奉行望めり。此に於て、コンシュル・ゼネラール承諾せり。
第七ヶ条
商人より品物を直買にする事は、エキセルレンシー・コンシュル・ゼネラー並びに其館内に在るものに限り差免(さしめん)じ、尤も其用弁のために、銀或は銅銭を渡すべし。
第八ヶ条
下田奉行は、イギリス語を知らず、合衆国のエキセルレンシー・コンシュル・ゼネラールは、日本語を知らず、故に真義は、条々の蘭語訳文を用うべし。
第九ヶ条
前ヶ条の内第二ヶ条は、記する処の日より、其余は、各約せる日より行うべし。
右の条々日本安政四已(み)年五月二六日、アメリカ合衆国一八五七年六月一七日、下田御用所において、両国の全権調印せしむるもの也。
   井上信濃守 花押
   中村出羽守 花押 」
日米通貨の比率問題
前記の協約書の第三条(日米貨幣の比率)については、ハリスが渡米以来談判に談判を重ねた問題で、経済史の上からも重要な箇条であるから、ここに特記して説明する必要がある。安政元年五月、ペリー提督の艦隊が下田に寄港したときの談判で、日本側は日米貨幣の比率を、アメリカの銀貨一ドルについて銀十六匁(ほほ一分金一つに相当)、あるいは銭(ぜに)千六百文と定めた。ところが、アメリカ側では検査の結果、一ドルの銀の目方は一分(ぶ)銀(当時一分金の代わりに通用していた)の約三倍あることを知ったので、不審を訊(ただ)したが、日本側は、日本では貨幣の価値は政府の極印(ごくいん)次第できまるのだから、外国のように目方の比較では論じられないと弁解した。もっとも、当時の日本の貨幣制度は鎖国の立場で行われ、品質や量目も幕府が勝手に国民に押しつけていたのであるが、相手が外国人となると、そんな無茶なことは許されない。しかし、アメリカ側では差し当たって大した金額でもないので、この問題の解決を後日にのこすことにし、その割合で支払いをすませて立ち去った。
ハリスの主張
ハリスは、本国政府の命令もあり、着任早々この問題で奉行と談判をかさねた。ハリスの主張は、一ドル銀貨は目方からいって日本の一分(ぷ)銀三個、あるいは銭(ぜに)四千八百文(もん)に換算されるべきであり、従来の比率では日本が二倍も不当に利することになると言うのであった。奉行も、これには抗弁の言葉がなかった。
幕府に指示を仰ぎ、回答の引きのばしに汲々たる有様であったが、ついにハリスの主張を容れて、アメリカ人の持参した貨幣は、金貨は日本の金貨をもって、銀貨は日本の銀貨をもって、重量対重量で計算することを認め、その代わりにアメリカの貨幣を日本の貨幣に改鋳する費用(吹替入費)として、ある程度の割引をもとめた。ハリスもこれを承諾したが、日本側は六パーセントの割引を主張したのに対し、ハリスは五パーセントを固持して譲らず、なお数回の討議をへたのちに、ハリスの譲歩によって問題の解決を見るにいたった。なお、安政五年六月十九日に調印された日米修好通商条約の第五条(後文に掲出)では、日本側からの申し出によって改鋳費(吹替入費)は出さないでよいことになり、大いにハリスを喜ばせた。
四 「唐人お吉」の説
唐人お吉の登場
人口に膾灸(じんこうにかいしゃ=世間に知れ渡る)しているお吉という女性が登場したのは、この頃(下田協約調印の直前)である。前述と重復するが、ハリスが日本へきた使命というのは、ペリー提督がむすんだ「日米和親条約」の規定によって領事としての職務を執行する一方、この条約を改訂して「通商条約」をむすぶための全権委員の資格をも兼ねたものであった。しかし、当時の日本の支配階級にとっては、ハリスの渡来は迷惑千万であった。既成の条約にしたがって渋々ながら上陸はゆるしたものの、新規の条約は一切みとめないことにし、直接の交渉をあくまでさけて、出先機関である下田奉行に命じて、程よくあしらわさせていた。幕府の考えがこんなふうだったから、下田奉行の態度に誠意のあるはずはなかった。ハリスは、いつまでたっても責任のある返事がえられないので、こんな役人どもを相手に日を送るよりも、江戸へいって直接幕府の高官と談判した方がよいと考え、再三閣老へ手紙を送って江戸出府の許容をせまった。
奉行の懐柔策
飽くまでこれを拒めば、ハリスは軍艦来航の機会をとらえて、これに乗って江戸へ押しかけて来るおそれがあった。そこで幕府は下田奉行に対し、ハリスを下田に引きとめておくために、従来の態度をあらためて懇切に応対するように訓令した。奉行の岡田備後守はハリスの気勢をやわらげようとする下心から、同僚の井上信濃守と謀(はか)ってハリスを自邸にまねき、大いに歓待した。備後守は酔いにまぎらせ、酒をのまないハリスに向かって女を周旋しようと言いだした。副奉行(支配組頭)の一人は、もし好きな女があったら、それを世話するのは自分の役目であると言った。しかしハリスは、「東洋流の蓄妾制度ほど理解しがたいものはない」という考えから別段相手にならなかった。その後、貨幣の比率問題や出府問題などの交渉がうまくゆかなかったので、ハリスは業(ごう)をにやし、この上は便船を待って江戸へ急行するだけだと言いはなって、奉行との交渉をうち切ってしまった。もし、そんなことになれば、下田奉行は職責上免職か、あるいは切腹をまぬがれない。ところで、ハリスの激しい気魄(きはく)にひきかえて、その健康状態は前にも述べたように、まことに惨めなものだった。痼疾(こしつ=持病)の胃病が昂じて、ついには吐血するようになった。身体は痩(や)せる一方で、病床につくことも多かった。万一の場合を考えて、秘書の年若いヒュースケンに後事を託するという有様であった。
病気看護
ハリスの病床の世話をしていたヒュースケンは、たまたま出入りの役人に看護婦の周旋をたのんだ。同時に、自分もこれに便乗して侍女を得ようとした。西洋流の看護婦について皆目(かいもく)知識のなかった役人たちは、これを情事と解し、待っていたとばかりに、ハリスとヒュースケンのために、閨房(けいぼう)の秘事の相手をつとめる女性を下田の町家からさがしもとめた。その頃は、女は異人に接すると生血まで吸いとられるという俗説があったので、異人相手の女を手に入れるのは困難だったが、ようやくのことで、
お吉とお福
ハリスにはお吉、ヒュースケンにはお福という女を見つけることができた。ハリスに配された“お吉”(斎藤きち)は、老母の“きわ”と共に、下田に寄港する回船の船頭の着衣の洗濯などを表向きの稼業とし、その実は船頭や船大工などの間に媚(こび)をひさいでいた貧しい女であったが、役人の説得と、二十五両という大枚の支度金につられて、総領事館であった玉泉寺の門をくぐった。その日時についてははっきりしないが、関係文書の日付から見て、安政四年五月二十四日前後のことと思われる。ハリスは極端なまでに潔癖な性質だったので、お吉が酒色にすさんだ淪落(りんらく=だらく)の女であることを感知し、また脂粉(しふん)にかくされた腫物を見て、非常に不潔感をいだき、これを傍へ近づけなかった。そして、腫物の治療を口実に、わずか三日で家へ帰してしまった。
お吉の解雇
その後、お吉の方から、腫物は全快したから再勤させてくれと願いでたが、ハリスは取りあわず、支度金をそのままにして解雇を申しわたした。
お吉の方からは、一度異人館の門をくぐった以上は、世間にうとまれ、今後の洗濯稼業にもさしつかえるとの理由で、「なにとぞ格別の御仁恵(ごじんけい)を以て、御慈悲の御沙汰を懇願」し、慰藉金をもらいたいという歎願書を七月十日付でさし出したので、ハリスは、八月までの定めの給金に相当する三十両の金を解雇手当としてあたえた。
お吉の方から出したその金の受取証文の日付が八月二十二日となっている。
「これらの事実は、下田の玉泉寺の先代住職、故村上文機師が昭和八年に下田役場保管の古文書類の中から発見した証文や歎願書などによって明らかとなった。 」
ハリスは役人の不信な行為に憤慨したが、問題にするのはかえって自分の不名誉となるので、これを不問にしてすませた。そして、むしろ、これが機縁で、孤独にたえかね、ややもすれば帰心にかられている若いヒュースケンに、気に入りのお福(経師屋(きょうじや)平吉の娘ふく)を配することができたことを喜び、「オフクメ、オフクメ」とよんで、伜(せがれ)の嫁のように可愛がったといわれる。こんなことから、若干の風説もあったようだが、お吉をハリスの妾(めかけ)と断定した資料は一つもない。
「この種の風説の記録に、「亜人下田滞留中囲媚風説」(『嘉永明治年間録』)、「米国総領事出府道中井府甲動静に就て」(『高麗環雑記』)中の一節、などがあるが、いずれも二〜三行程度のもので、特に風説とことわっている。「アメリカ国官吏等召仕候女の儀に付申上候書付」は、下田奉行から老中に宛てた上申書(公文)であるが、これには明らかに、「病気看護」と書かれている。 」
ハリスとお吉の関係が今日のように言いはやされるようになったのは、ずっと後世になってからのことで、昭和三年以来作家の十一谷義三郎があの有名な、いわゆる「唐人お吉」ものの小説数篇を、「お吉」の研究家村松春水蒐集の史料にもとづくと袮して、発表してからのことである。十一谷氏は、下田の郷土雑誌『黒船』を見てから、村松氏のお吉研究に興味をもったのであった。これらの小説は、当時の沈滞をきわめていたわが国の文壇にエキゾチックな生新味を投じたものとして歓迎され、ついで、当時のアンチ・アメリカニズムと頽廃的ナショナリズムの風潮のなかに不況の打開を見いだそうとした興行資本家たちによって、演劇・映画・レコードなどにとり入れられた。しかし、村松氏の研究なるものは、実は史実のせんさくを目的としたものではなかった。同氏は下田で医業をいとなんでいたが、若いころから小説家を志望していた。「唐人お吉」の研究なるものも、実は小説の材料として書きためておいたものであった。たまたま十一谷氏がそれを借覧するや、史実と銘うって取材し、前記の小説を書いた。また、『実話唐人お吉』という標題の本を村松氏の名前で出版したが、「実話とは、十一谷氏が勝手にうたった文句で、自分としては迷惑に思っている」と、村松氏は生前にそう述懐している。
小説のお吉
とにかく、史料の発見によって、いわゆる「唐人お吉」は史実の座から引きおろされたが、それにしても「小説」や映画などのお吉は、春雨にうたれて散ってゆく椿の花にも似て、まことに哀艶(あいえん)きわまりない。これは、幕末の世情に思いをはせ、南国の情緒を愛する世間の人々の心に深く刻みこまれているが、それはいわゆる「伝説」であって、我々の問題としている「歴史」とは、また別なものである。
五 出府問題の解決
ハリスは下田協約の締結によって条約改訂の目的の一端を果たしたが、これは前にも言ったようにペリー提督の「薪水条約」を一歩進めただけのものに過ぎない。彼の本来の使命と抱負は、そんな生易しいものではなかったのである。
ハリスの日本開国感
ハリスの観察によれば、日本は東洋で最も統一的な政府と優秀な民族とを有している国家である。しかし残念ながら、歴史的な理由によって外国との交際をよろこばず、通商関係を頑固に拒(こば)んできている。ところで、蒸気機関の出現による東西交通の発達と、西洋資本主義の必然の趨勢(すうせい)として、日本の鎖国を打破し、これを国際市場の一環として開放することは、十九世紀の世界外交の最大の課題の一つとなってきている。しかし、このためには、シナに向かってやったと同様に大艦隊を差しかけて日本の政府を威嚇するか、戦争をしかけて屈服させるかしなければ、目的は達せられないのではないかと思われていた。ハリスはこの世界的な課題にいどみ、他の資本主義諸国にさきがけて、しかも平和的な外交手段でそれをやってのけようと考えていたのである。同時に、ハリスはこう考える。正常な国家間の通商関係は、国家相互の友愛と信頼によってのみ結ばれ、相互の間に富と繁栄とをもたらすものでなげればならない。このような貿易の正道を無視して、シナに阿片と戦争とを持ちこみ、戦果として貿易をかちとったアングロサクソン流の政策を、ハリスは宗教的感情とヒューマニティの立場から憎悪していた。西洋資本主義諸国の東洋市場開拓の歴史は、イギリス人の犯した罪悪行為でけがされたと思った。
阿片の禁輸を説く
彼は、ひ弱い日本を貪欲(どんよく)な「阿片商人」の手からまもるために、阿片の禁輸を考えていたし、阿片を入手したシナ人召使を叱責して、これを取上げ、またシナにある取引の商館に対して阿片を送りこまないように頼みこんだ(注)。(注=安政五年の「日米修好通商条約」では、ハリスは特に阿片禁輸の一項をもうけた。東洋諸国につきものの「阿片亡国」から日本をまもろうとしたこの事実を銘記する必要がある)。時あたかも、イギリスとフランスは「アロー号事件」をきっかけに連合艦隊を広東(カントン)へおくりこみ、シナ市場の拡大をはかって第二次の対シナ戦争をはじめていた。そして、イギリスの対シナ政策の本拠であった香港の総督ボウリングは、この戦争がおわり次第、戦勝の余威をかって日本へ迫まり、武力をもって通商を強要するであろうと自ら公言していた。
イギリスの対日企図
このイギリスの企図は、日本の運命にかかわる重大問題であったばかりでなく、新興国として東洋へ進出してきたアメリカ合衆国の貿易にとっても脅威であった。太平洋航路によるアメリカの東洋貿易は、その地理的条件のために、日本を中継国として確保する必要があった。換言すれば、日本と協力関係をむすんで、日本を他国、とくに競争相手であるイギリスやロシアの専有的支配からまもることが、アメリカの東洋における貿易権益をまもる道でもあったのである。
ハリス外交の眼目
だから、ハリス外交の主眼とするところは、他国の日本に対する独専的支配勢力を防ぐことにあったのだが、また、その外交の機微(きび)とするところは、他国による眼前の脅威を利用して頑迷な日本の支配者を覚醒させ、完全な開国、すなわち国際貿易断行の急務であることを彼らに悟らせるにあったのである。「平和の使者として来た一人の人間の、公正にして、妥当な要求をききいれるか。武力による不当な圧迫に屈するか。世界の情勢は日本の通商開国を避げがたいものにしている。問題は今や、いかなる形でこれを行なうかにある」と説いてまたも強引に出府問題をもちだしたのである。
またも出府を要求
日本側では、下田協約の締結によって出府問題は当分立ち消えになると思っていたから、この矢つぎばやの要求に全く期待をうらぎられた恰好だった。下田奉行は茫然自失(ぼうぜんじしつ)の体(てい)で、止むなくこれを幕府に報告した。しかし、ハリスに下田駐箚をゆるしたことさえ、徳川斉昭(なりあき=水戸)一派の諸大名の烈しい反対を招いていたこととて、これを将軍の膝元へよんで条約を議するなどということは、攘夷論者の反感を増大して、内乱を惹(ひ)きおこす不安さえもあった。そこで幕府は、ハリスの出府の不可避を観念して具体的な凖備に着手するとともに、一方ではできるだけその時期をのばして、反対派の説得に当たることになった。取りあえずハリスにぱ出府許容の決定を伝えたのであるが、しかし時期の明示がなされなかったので、ハリスはこれを日本の役人の常套(じょうとう)的な欺瞞(ぎまん)であるといって聞きいれなかった。
砲艦ポーツマス号の下田に入港
その頃である。ハリスの日本上陸からちょうど一年をへた安政四年七月二十日に、アメリカの砲艦ポーツマス号が下田に入港した。絶えて久しく見ることのなかった故国の船影を、ハリスが狂喜して迎えたことは怪しむに足りない。「この艦の訪問は、私をはげしい興奮に投げこんでいるが、それはよく想像されよう。私は号砲の発射が艦の接近を知らせてから、三時間と連続した眠りをとっていない」と日記に書いていることからも、それが知られる。この砲艦の入港は、ハリスに外交上の飛躍の好機をあたえた。下田奉行は幕府に急信をとばせた。ハリスが「龍の雲を得た勢で」この軍艦にのって江戸へ直航するおそれのあることを報じ、それを防ぐためには、速かに出府の期日を通告する必要があることを進言して、幕府の決断をうながしたのである。
出府許容に決定
そこで幕府は直ちに三家・諸大名を営中に集めて、「使節」の礼をもってハリスに出府・登城・謁見を許すことになった旨の将軍の内意を達したのである。これより先に、幕府の顧問格である溜間(たまりのま)詰の諸大名は斉昭一派の反対説を支持してアメリカ国官吏の強請に屈して出府を許可するのは国辱的処置だとの意見書を提出していたのであるが、時の老中筆頭(ひっとう)兼外国掛(首相兼外相に相当)堀田備中守(正睦=まさよし)は、最早これらの反対に頓着することなく、将軍の裁可を得て、これを正式に公表した。この堀田は佐倉十一万石の城主で、大名の中では最も外国の事情に通じていた人物であった。もともと他の諸大名のように開国通商を拒否するものではなかったが、ただ、事が重大なので容易に踏みきれないでいたのである。堀田の決断には、海防(外交)掛の進歩派の連中の強い献言が大いにあずかって力があった。ことに目付(めつけ)の岩瀬肥後守(忠震=ただなり)は当時最も進歩的な能吏として知られていたが、下田でハリスに接したこともあり、この際むしろハリスの意を迎えて積極的に開国貿易策をとるべきであると主張して、閣老たちの尻をたたいていた。また井上は、ハリスの人格に傾到して、何時しかその「親友」となっていたのである。ハリスの出府の日取りが決定した。いよいよ、その抱懐する「十九世紀最大の外交手腕」をふるうため、確固たる信念と抱負のもとに、江戸訪問の途につくことになった。これは、日本の歴史に新しいページをはじめる、最も重大な事件であった。時に五十三歳。彼は、「神よ。私の残りすくない生命を、有用に、そして立派に使用せしめたまえ」と念じながら、晴れの出発の日を待ったのである。 
■第三 ハリス、江戸へのぼる 
一 天城(あまぎ)ごえ
下田を立つ
安政四(1857)年十月七日の朝八時に、待望の江戸へのぼるため、ハリスは下田柿崎の総領事館を馬で出発した。この日は朝から、非常に天気がよかった。「私の旅の重大な意義を考え、江戸へのぼろうとする私の努力が成功をおさめたことを思うとき、実に溢れるような生気をおぼえた」と、彼は『日記』にそう書いている。そして、合衆国の国旗が馬前にひるがえり、長い間外国にとざされていた日本の土地を、この旗をかかげて進むことに、大きな誇りと、歴史的使命の重大さを感じたという。行列の人数は全部で三百五十人だったというが、幕府の記録にも「普通の道中と訳(わけ)違い、供立(ともだて)そのほかとも見苦しからざるよう厳重に仕り」とあるから、かなり高い格式があたえられていたらしい。行列の先駆は下田奉行輩下の菊名仙之丞で、これは百俵高、御役扶持七人扶持の侍(さむらい)。その前に奴(やっこ)が三人、いずれも長い槍(やり)をふりたてて、「下に、いろ。下に、いろ」とさけぶ。合衆国の旗が二人の護衛者にまもられ、その後から、ハリスが左右に六人の侍をしたがえて、馬上ゆたかに歩をすすめる。ハリスの乗用の駕籠は特製の大型で、十二人の屈強な駕籠かきがつき、靴持がその後にしたがった。ヒュースケンも乗馬で、これにも護衛の侍が二人ついていた。そして、やはり駕籠と駕籠かきが従い、その後からオランダ語の通詞が駕籠にのってつづいた。寝具・椅子・食物・トランク、それに進物をおさめた荷物などの長い列がつづき、最後はこの道中の最高責任者である下田奉行支配組頭(ハリスが副奉行とよんでいる)若菜三男(わかなみお)三郎が、自分の家来と柿崎の名主などをしたがえて指揮をとった。
荷物は一々アメリカの紋章のついている黒布で包まれ、同じ紋のついた三角の小旗が立ててあった。
梨本どまり
この初日の行程は十五マイル(24km)。道は下田の川(稲生沢川)にそっていた。箕作(みつくり)で正午の休憩。その夜は梨本(なしもと)の寺院に泊まる。
天城峠
翌日も八時に出発。この日は天城峠をこえる。天城峠は海抜約千メートル、路が非常に険しいので、ハリスは馬からおり、駕籠にのりかえた。峠で休息。そこから南を望むと、下田の町や大島の火山が手にとるように見える。
左手が相模灘なら、右手は駿河湾で、いずれも指呼(しこ)の間にせまっていた。道は下りになる。やがて、ハリスは再び馬にのり、人々はその後をおう。途中、浄蓮(じょうれん)ノ滝が見えたというから、当時の路は今よりもずっと谷合(たにあい)の方を通っていたらしい。ハリスは馬上から、時ならぬ満開の椿の花に目をとめた。湯ヶ島の村を通って宿所の寺院へ急ぐ途中、ハリスは初めて富士山を見た。それは雪でおおわれていた。午後の四時ごろだったが、かがやく太陽の中で、凍った銀のように美しかった。
湯ヶ島どまり
その夜は湯ヶ島泊まり。ここの寺院も梨本のときと同様に注意がよく行きとどいていて、ハリスを満足させた。もっとも、幕府はあらかじめハリスに対し、「海岸通り三十里ほどの内は、宿駅いずれも不便にて、休泊の寺院等甚だ見苦しく、此段兼て申し断りおき候こと」と因果をふくめておいたので、不自由なことは覚悟していたし、食物も日本側で調達できるのは精々(せいぜい)魚か鶏卵ぐらいなものと考えて、下田に備蓄していた肉類などの缶詰・塩づけなどを用意し、おまけに自分のしこんだ料理人まで連れてきていたので、この旅はハリスにとって結構楽しいものであったらしい。翌日も八時に湯ヶ島を出発。そこからは道がよいので、ずっと馬にのる。伊豆の山野は、ちょうど秋の収獲がはじまったばかりで、大部分の稲はまだ重い穂をたれていた。それがハリスに、なつかしいオンタリオ州の黄金(こがね)色の小麦畑を思いおこさせた。正午に大仁(おおひと)で休憩。
三島どまり
そこから再び馬にまたがり、ヒュースケンと菊名をしたがえて、行列の連中よりも一足先に三島の宿についた。
ここは東海道の有名な宿場で、当時の戸数はおおよそ九百、名高い三島神社のあるところ。さっそく神社に参詣し、二両二分を寄進した。その夜はこの町の本陣(ほんじん)に泊まる。この本陣は、これまでの寺院とちかって流石(さすが)に居心地がよく、ことに庭の築山や池の風致がハリスの目をたのしませた。一夜明ければ、明日は箱根山をこえるのである。
二 箱根ごえ
乗馬に自信のあるハリスは、箱根を馬でこしたかったのだが、路が非常に剣岨(けんそ)なので万一のことがあってはと、傍の者がとめた。駕籠は窮屈なので、それでは徒歩にしようと言い出したが、使節の手前、それはゆるされなかった。仕方なく駕籠でこすことになったのであるが、そのために箱根の関所(せきしょ)で思わぬ紛争(もめごと)がおきてしまった。
関所の紛争
関所の手前へきたとき、道中の責任者である若菜三男三郎が、「日本の規則では、大名でもこの関所を通るときには、役人が駕籠の戸をあけて、中を改めることになっている。これは形式的なものに過ぎないのだが、古来からの掟(おきて)だから我慢していただきたい」と、丁重にハリスに申し入れた。ハリスは、
「自分は日本の臣民ではなく、アメリカの外交代表者なのだから、そのような検査をうける理由はない。また、駕籠の中にいるのは紛(まぎ)れもなくこの私なのだから、今さら改めるには及ぶまい」といって、承知しなかった。
若菜は困って、それでは馬で通ることにし、空(カラ)の駕籠を検査させることにしてはと、妥協案をもちだしたが、理屈 に合わないことの大嫌いなハリスは、「どんな形式にせよ、その必要はない」といって、頑としてききいれなかった。そこで、「それでは指図を仰ぐため江戸へ使者を出すから、返事のあるまで五日間ここに滞在しなければならぬが、それでもよろしいか」というと、ハリスは、「五日はおろか、五時間も待てない。どうしても検査するというなら、下田へ引き返すばかりだ」と言いはる。
この強情さには若菜も困り果て、悄然(しょうぜん)として関所の番小屋へ入っていったが、二時間ばかりしてから、ニコニコしながら戻ってきて、うまく話がついたから、このまま通ってよいといった。こんなことで思わぬ時間を費してしまったので、暗くなっても容易に予定の小田原へ着かなかった。夜の山路を、手に手に松明をもった長い列が、ぐるぐる曲がり、折れ返りながら下ってゆくさまは、さながら火龍の尾のように見えたという。
小田原どまり
小田原のそばまでくると、多数の役人が、定紋(じょうもん)のついた大小・形・色とりどりの提灯をもって出迎えていた。三島の時のおびただしい見物人にひきかえて、小田原の城下町では店屋がいずれも戸をしめ、見物人も至って少なかった。これは
「往来の者、心得違いこれ有り候ては宜しからず候間、関東取締出役の者差出し、附添の下田奉行支配向申談じ、取締等万端心付候よう申し渡さるべく候」
という幕府の触れが余り強くききすぎたからであったが、旅の慰めは珍しい風俗に接することにあると言って、こうした取締りをハリスは喜ばなかった。その夜は本陣の奥の一間で、岸辺に打ちあげる波の音を枕に、昼間の旅の疲れをいやしたのである。
三 東海道すじ
八時半に小田原を出発、大磯で正午の休憩、ついで馬入川(相模川)を舟でわたった。川を渡って、馬にのろうとしたとき、癖の悪い馬がハリスの左手の小指を噛んだ。護衛者たちは青くなった。ハリスは狼狽する人々を制して、医者をよび、水姪(ひる)による傷の治療を命じた。医者が震えながら、玉の汗をかいているので、ハリスが、「身体の具合でもわるいのか」とかくと、膝まづいて、「これまで、あなたのような高貴の身分のお方に接したことがないからです」といった。
藤沢どまり
午後六時にその夜の泊まりである藤沢についた。途中の東海道すじは交通制限がおこなわれていたので、人馬の往来は至って少なかった。町でも村でも、掛茶屋をのぞいては、どの店も戸をしめ、見物の人々は清掃した家の軒先に跪坐(きざ=ひざまずく)して、静かに行列を見送っていた。村役人が次ぎから次ぎと交代して、平伏しては、嚮導(きょうどう=道案内)する。本陣には白と黒の縞の幔幕(まんまく)がはられ、そのそばに、国旗の竿をしばる棒杭がたててあった。午前七時に藤沢を出発、正午は神奈川で休憩する。ここはペリー提督の神奈川条約で有名なところだ。この辺りから再び見物人の数が多くなった。ハリスは、その人々に対する印象をこう書いている。
「彼らは、よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これがおそらく人民の本当の幸福というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本で見いだす。生命と財産の安全、一般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。」 (『ハリスの日記』)
午後四時半に川崎へ着いたが、到着早々宿所の件で悶著(もんちゃく)がおこった。この町の本陣は格式に似合わぬぼろ家だったので、ハリスは責任者の若菜に宿を変えるように迫った。若菜は、使節の威厳にかかわるから、本陣以外の宿所、すなわち一般庶民の泊まる旅籠へ行くことは止めてもらいたいと懇願したが、一度言いだすとハリスは強情だった。ヒュースケンが宿屋さがしに飛びだしていって、さっそく「万年屋(まんねんや)」という、当時川崎で名うての旅籠を見つけてきた。若菜は、「それは困る」といった。本陣には、普通の部屋の床(ゆか)よりも高くなっている上段の間というのがある。大名や使節は、高い格式と名誉のため、この上段の間に起居しなければならないというのである。ハリスは答えた。「貴殿の言葉は真実であり、もっともではあるが、貴殿は私が本陣の恵まれた床よりも、もっと私を高くする椅子というものに腰かけている事実を忘れている」と。
こんな珍問答の末、ハリスはとうとう、万年屋半七方(かた)へ宿がえしてしまった。夕食には鶉(うずら)や小鴨・大根などを注文して、下田から連れてきた料理人に調理させ、また蜜柑や葡萄をとりよせて、旅の味覚をたんのうさせた。ハリスは前もって、道中の宿泊費や食費は一切自弁にすることを申し出ていた。そのかわりに、自分の好みの材料で自分勝手な食事をすることにきめていたのである。翌日は日曜日。下田を出発してから七日目にあたる。
安息日の祈祷
この日は降臨節における第一日曜日(クリスマス4週前)であった。ハリスはヒュースケンを自分の牧師兼会集として、一緒に祈祷書を声高によんだ。
「私はその際、ある種の特別な感情をあじわった。この土地で、しかも人に聞えるような高声で安息日におけるキリスト教の祈祷が奉げられたのは、疑いもなくこれが最初のことであった。この川崎は、江戸からわずか十三マイル(20km)の近くにある。それに、このような行為を死罪をもって罰する法律は、今なお行われているのだが。」(『ハリスの日記』)
その日の午後、散歩のついでに大師河原の平間寺(川崎大師)に参詣し、一両一分を寄進した。はじめて見る銅葺きの大屋根、金色燦然(さんぜん)と輝く祭壇、巨大な青銅の梵鐘(ぼんしょう)など、堂宇の内外の荘厳な美しさに感歎したのである。 
■第四 ハリス、江戸へはいる 
一 沿道のありさま
明くれば、安政四年(1857)十月十四日。今日はハリスが江戸へ入る晴れの日である。
感慨
彼は、その折りの感慨を『日記』にこう書いている。
「この日は、私の生涯に重要なエポックを劃(かく)し、さらに日本の歴史においては、より重大な新しい紀元となるであろう。私はこの都府に迎えられる最初の外交代表者である。私の企図している談判が成功しようと、しまいと、この大いなる事実は、なお厳然と存続する。ついに、私はこの奇異な国民をして、使節の権能をみとめさせたのであるから。私はまた、伊豆半島の南端から江戸の市に在る江戸城までの日本の土地を、アメリカの国旗をかかげて進むということに、少ながらざる誇りを感ずる。」(『ハリスの日記』)
行列は八時少し前に川崎をたち、六郷川(多摩川)を舟でわたった。ハリスは、この晴れの江戸入りを、乗馬で颯爽(さっそう)とやりたかったのであるが、若菜が日本の風習を説明して頻りに駕籠をすすめたので、心ならずもそうすることにしたのである。日本では貴人は公衆の前に姿をさらさぬものとされているというのだが、こうした観念はアメリカ人であるハリスには至って奇妙に思えた。
蒲田の梅林
途中の蒲田(かまた)では、有名な梅林に立ちよって、梅花の塩漬を買い、梅花一輪(りん)を湯にひたして賞味した。また、完全な方形をした“亀田竹”という竹をみつけ、たいへん珍しいと言ってスケッチしたりした。鈴ヶ森の付近を通ったときに、刑場の方におびただしい鴉(カラス)の群れを見た。海上には、いくつかの台場が眺められた。品川の本陣で暫時(ざんじ)休憩。ここで行列を立てなおした。ここからは、若菜三男三郎が自ら行列の先駆をつとめる。人夫なども全部行列の中へ加えられたので、その長さは延々半マイル(800m)にもおよんだという。行列は、重々しい歩調をとって、人家のおし並んでいる道路をゆっくりと進んだ。
「沿道の人垣
私の通る道筋に立つことを許された人々は、いずれも道の両側に五列にならんでいた。辻々では、あまりの大群集を制するために、木戸(きど)が鎖(とざ)してあった。そして、私が駕籠の中から見あげたり、見おろしたりするときに、群集は男女の大きな塊(かたまり)のように見えた。」(『ハリスの日記』)
日本側の記録によれば、
「今朝、川崎を立ちて、品川・高繩通り町筋、本町二丁目より、御堀端通り、小川町・九段坂の下、蕃書御調所へ到着するころ、見物の老少、面をもって垣とす(武江年表)。 」とある。沿道の両側に人垣をつくった様が思いやられる。
さらに、『ハリスの日記』によれば、
「多数の警吏が行列に加わった。彼らは両刀をたばさむほかに、長さ二フィー卜ばかり(60cm)、直径一インチ(3cm)ほどの鉄の棒をにぎっていた。これは、気のあらい、乱暴な男の手ににぎられたならば、危険な兇器となるだろう。たえず街路の番人によって、サッサッ、――「さがれ」、「さがれ」とさけばれていたが、群集は静粛なので、その用がないと思われた。」(『ハリスの日記』)
とある。行列は日本橋をわたって、室町を通り、本町三丁目から左へまがって、本町二丁目から、やがて御堀端へ出た。鎌倉河岸から三河町、それから小川町を通り、こうして無事に九段坂下の蕃書調所についたのである。
二 上使の訪問
番所調所
蕃書調所(ばんしょしらべしょ)は徳川幕府直轄の洋書(主としてオランダの書籍)の翻訳と教授の場所で、九段坂下の牛ヶ淵にあった。この年、すなわち安政四年に古賀謹一郎を頭取(とうどり)として設けられたもので、後年開成所――ついで開成学校と改称され、これが現在の東京大学の前身となったのである。幕府はハリスの出府が決定するや、さっそく宿所の選考をやり、この蕃書調所の座敷をそれに当てることにしたのである。ハリスに先行して、準備のため江戸へきていた井上信濃守が、ねんごろにハリスを出迎えて、無事の着府を祝った。そして、各部屋を案内してまわったが、寝台や椅子・食卓、それに便所や浴室までが、井上の指図で下田の総領事館のものに似せて作ってあった。ハリスの部屋からは、江戸城本丸の高い石垣や樹立(こだち)を眺めることができた。ハリスは到着早々、閣老首席の堀田備中守あてに無事着府を報ずる書簡を発し、大君陛下(将軍)あての大統領の親書を伝達するために、陛下に謁見する日取りを承知したい旨を申し送った。(これらの書面は下田から用意してきて、ただ日付を記入して封印すればよいばかりになっていた)
接待委員
夕の食卓についたとき、つぎの八名の者が接待委員に任命されたことが、信濃守の口から伝えられた。土岐丹波守(頼旨)・林大学頭(緯)・筒井肥前守(政憲)・川路左衛門(聖謨)・井上信濃守(清直)・鵜殿民部少輔(長鋭)永井玄蕃頭(尚志)・塚越藤輔(元邦)。これに岩瀬肥後守(忠震)を一枚加えれば、いずれも当時の幕府の錚々(そうそう)たる新知識人で、それぞれ幕府の要職にありながら、堀田閣老の下で外交事務を兼務していたのである。
上司差遣
翌日、大目付・御留守居次席の土岐頼旨が、将軍の上使として、ハリスの無事着府を祝うため宿所を訪れた。この時の対面は、厳格な日本の作法に洋式を加味した形で行なわれた。まず、八名の接待委員がそれぞれ厳かな行列を仕立てて駕籠をのりつけ、直ぐに支度部屋へ通り、用意の裃(かみしも)をつけて接見の間へ入る。ハリスは通訳のヒュースケンをしたがえ、井上清直やその他の日本人の差添えで、そこへ案内された。ハリスは床(とこ)の間を背にして接待委員と向かい合い、両者は立ったままで丁寧にお辞儀をした。土岐頼旨が委員一同を代表して「大国の代表者たる貴下に敬意を表するため、大君陛下は我々を遣わされ、貴下の江戸到着を慶祝し、あわせて貴下の健康を問うように命ぜられた」という意味の口上をのべた。これに対するハリスの答辞があり、ついで委員の一人々々が紹介された。ハリスはそれらに向かって、「貴殿らのような立派な方々との面識をえたことは、私の幸いとするところであり、我々の交際が気持のよいものになることを希望する」とのべた。ハリスが別室へ退くと、井上がきて、上使の到着が少し遅れることを知らせた。大君からハリスヘ贈られる品物が、閣老の吟味と承認をえる必要があり、それに手間どっているというのだ。
将軍は閣老の傀儡
「そんな些細なことにまで、閣老の検査と承認が必要なのですか」と、ハリスはきいた。「さよう。それがすまなげれば」と、井上はこたえた。ハリスは、これによって早くも、大君は単に幕府の傀儡(かいらい)にすぎず、政治の実権を少しも持たない者であることを洞見(どうけん)したのであった。正午を少し過ぎたころ、上使の到着が知らされた。それは先刻の土岐頼旨であった。こんどは熨斗目(のしめ)麻裃に威儀を正して、上使の資格であらわれたのである。床の間には、白木の盆の上に緑の絹紐(きぬひも)をかけた箱がのっており、これが将軍からの贈り物であった。
「我々は、たがいに一礼した。丹波守(土岐頼旨)は、陛下が、私の遠国からきたことを知って、私の健康をたずね、長途の旅に異変がなかったかを問うため、自分を上使として遣わされたとのべた。そして、陛下が些少の贈り物をされたから、納めてもらいたいと、つけくわえた。ついで、丹波守は三歩後へさがり、彼個人としての挨拶をのべ、そして、私の健康をたずねた。これがすむと、彼は最初に立っていたところへ戻った。私は陛下の親切なメッセージに対して答辞をのべ、その親切な贈り物に対する謝辞をのべた。私は、この贈り物のことに言及するとき、箱の方にむかって頭をさげた。」(『ハリスの日記』)
これで、上使の儀礼的な訪問はおわった。
上使の口上
『高麗環雑記』によれば、上使の口上は、「上意 遠境の使節として相越され、大義に思召めされ候。到着につき、御使をもって御檜重一組、これを遣わさる」とある。これが日本人の通訳によってオランダ語に変えられ、ついでヒュースケンがこれを英語になおしてハリスに伝え、ハリスの口上もまた、これを逆にした順序で相手につたえられたのである。
将軍の贈り物
将軍からの贈り物は、『ハリスの日記』によれば、砂糖や、米粉や、果物や、胡桃(くるみ)などでつくった日本菓子で、これらが四段になって入っていた。それらは、どの段にも美しくならべられ、形・色合い・飾りつけなどが、非常に綺麗だった。重量は七十ポンド(34kg)あったというが、この数字は或は誤りかとも思われる。
『嘉永明治年間録』には、
 檜重一組(四重物一組、長一尺五寸、横一尺三寸、但し外槍台付、真田打紐付)
 干菓子(若菜糖・翁草・玉花香・紅太平糖・三輪の里)
 干菓子(大和錦・花沢瀉(はなおもだか)・庭砂香・千代衣)
 蒸菓子(紅カステラ巻・求肥(ぎゅうひ)飴・紅茶巾餅)
 蒸菓子(難波杢目羹・唐饅頭)
とあり、「大久保主水地、御次菓子師、宇都宮内匠の製造で、代金六十五両」ある。一両で米が六斗も買えた時代だから、菓子とも思えぬ途方もない値段だった。
三 堀田閣老を訪問
翌十六日に、ハリスは堀田備中守(正睦)からの書簡をうけとった。
謁見の日取り
将軍に謁見の日取りは十月二十一日にきまったから、当日は五半時(いつつはんどき=午前九時)に大統領の書簡を持参の上、登城されたいというのであった。翌日、ハリスは堀田にあてて、大統領から将軍あての親書の写しに、オランダ語の訳文をそえた書面を発送し、ご都合次第、いつでも貴閣老を訪問したいと書きおくった。堀田からは折りかえして、明日九半時(午後一時)に自宅へ訪ねてほしいと言ってきた。
不穏な噂
ハリスの亭主役をつとめる井上清直が毎日やってきては、あれこれと身辺の世話をやいていた。この日もやってきて、不穏な噂があり、万一にも不祥事があっては国交上の重大問題になるから、無断の外出はさけてほしいと頼んだ。これに対し、ハリスは次のように主張した。
「私は、国際法で認められている私の権利を制限するような約束には応じられない。私は個人的な危険を意に介する者ではなく、これまでも、江戸の人たちより遙かに性(しょう)の悪い人間のあつまっている東洋の諸都市を歩きまわってきたのである。しかし、みんなに迷惑をかけるようなことはしないから、私の年齢と分別(ふんべつ)を信頼して、どうか自由にしておいてもらいたい。私は、思慮の命ずるところに従って、あらゆる点で行動の自由を残しておきたい。行動の自由を拘束するために今後利用されるかも知れないような約束は、一切できない」と。」(『ハリスの日記』)
野外運動
そして、野外の運動は西洋人の毎日の習慣でもあり、健康の保持に必要であるから、運動のできる広い道路か馬場(ばば)を、政府において指定してほしいと、申し入れた。ハリスにこう言われて、井上も当惑したが、しかし当時の日本の人心はハリスの考えるような甘いものでは決してなかった。江戸市中では、攘夷論者の不穏な行動がしきりに噂されていた。そのため、幕府は全力をあげて不祥事の発生防止につとめていたのである。しかし、ハリス自身はもとより殉教者のような気持で江戸へのりこんで来たのであるから、危害を恐れはしなかった。日本の民衆を信頼しなければ、日本開国の事業は決してやりとげることができないと考えていた。
堀田邸訪問
翌日、ハリスは午前十時に蕃書調所を出て、西の丸下にある堀田正睦の邸へ向かった。供まわりは江戸入りの時とほとんど同じであったが、この目は井上清直が介添役に立った。掘田邸の大玄関には、三十人ばかりの裃(かみしも)をつけた人々が坐っていて、恭々(うやうや)しくハリスの入来を迎えた。直ぐに控の間へ通されて、茶菓をもてなされた。
「私が茶を喫しおわるや、ご対面の用意は? ときかれた。応諾の返事をすると、襖(ふすま)がひらかれ、宰相(掘田)があらわれた。我々は、たがいに黙礼した。彼は私を別の部屋へ案内した。そこには、一方に二つの椅子があり、他方には十個の黒塗りの腰掛があった。宰相は丁寧な身振りで私に椅子をすすめ、私か着席するのを待って、自分も椅子についた。このとき、例の接待委員たちが入ってきて、私にお辞儀をし、黒塗りの腰かけにかけた。宰相は慇懃(いんぎん)な態度で、私の健康をたずねた。私はこれに答え、こちらからも挨拶の言葉をのべた。彼は、私が非常に多くの国々を通ってきた長途の旅行に対して、多大の賛辞を表明した。私ぱ適当な返事をし、私は外交官の資格で江戸の大都市を訪問した最初の外国人であることを幸福に思っていると付けくわえた。間もなく、数人の家僕(サーバント)によって、テーブルが運ばれた。彼らは、できるだけ高く持ちあげ、堂々とした歩みと慎重な足取りで進みながら、それらを運んだ。その後から、煙管(キセル)・煙草・茶・菓子の盆などがはこばれた。宰相と私の盆は同じ高さで、ほかの者の盆よりも数インチ高かった。宰相は、ていねいに茶菓をすすめた。そして、自分は元来煙草をすわないので、ご免をねがいたいといった。暫時の会話ののちに、私は、謁見の日に大君に述べる挨拶の言葉の写しを宰相にさしだした。そして、不必要なことは抜きにして、いたって簡単なものにしておいたとつけくわえた。宰相は、それを翻訳させるため、しばらく中座させてもらいたいといった。彼は、私と信濃守とをのこし、接待委員たちと退出した。半時間ほどして、宰相は席にもどり、私の挨拶の言葉がきわめて満足なものであることをつげ、同時に、大君の答辞! を私にわたした。これは、全く閣老の指示する通りのことを大君が喋るということを、明らかに物語るものだ。用務をおわったので、私は立ちあがった。我々は、再びお辞儀をかわした。宰相は、最初に私と対面した場所まで私を送ってきて、もう一度お辞儀をした。宰相は三十五歳ぐらい、短躯で、感じのよい知的な容貌をしていた。その声はひくく、やや音楽的なひびきを持っていた。」(『ハリスの日記』)
堀田は、ハリスの眼からはだいぶ若く見られたが、当時四十八歳、年輩からしても、力量から言っても、幕閣の首班として不足のない人物だった。ことに、外国の知識にかけては、政敵の徳川斉昭(水戸)に蘭癖(らんぺき)先生と悪口されていたほどで、幕末の大政治家阿部伊勢守(正弘=まさひろ)の没後は、幕府の内治・外交を総理(=すべて管理)していたのである。
四 登城・謁見
「登城
登城・謁見の日ときまった安政四年十月二十一日、この日ハリスは晴れの服装(注)で、午前十時ごろ蕃書調所の寓所を発した。(注=米国務省の規定による、金て縫い取りした上衣。幅のひろい金線が縱に通っている青色のズボン。金色の房(ふさ)のついた上反(うわぞ)り帽、真珠を柄にはめた飾剣)若菜三男三郎以下警護の侍は、裃(かみしも)をきて、脛(すね)をむき出しにした半衿をはいていた。通弁官のヒュースケンは大手下馬(げば)で駕籠からおり、ハリスは下乗(げじょう)橋外で下りた井上に付き添われて殿中へ入ると、大目付と目付の二人が玄関の式台へ出迎えて奥へ案内した。控室(殿上ノ間)にはハリスとヒュースケンのために特に椅子が用意してあり、その脇に大統領の親書をのせる台が置いてあった。ここで茶の湯の饗応があった。
殿中の模様
ついで、私は殿中の他の控室へ案内された。通りすがりに、三〜四百人ほどの大名と高位の貴人がみな一方を向いて、きちんと列坐しているのを見た。彼らは全部、殿中で用いる式服を着用していた。」 (『ハリスの日記』)
『幕府沙汰書』によれば、「出仕の面々、直垂(ひたたれ)・狩衣・大紋・布衣(ほい)・素袍(すおう)を着」とあり、また、「アメリカ使節、登城・御目見え仰せつけらるるに就き、溜詰(たまりづめ)牧野備中守・松平和泉守・御譜代大名・同嫡子・高家(こうけ)・雁之間詰・同嫡子・御奏者番・同嫡子・菊之間縁頬詰・布衣以上の御役人・法印法眼の医師登城」とあって、譜代大名以下の高位者がほとんど登城したことがわかる。これらの人々が営中の作法をもって、盛装に威儀を正して居ならんだ光景は、豪華な錦絵を見るようであり、中にも、熨斗目(のしめ)麻裃に黄絹(ほつけん)の長袴を後にひいた大名の一群は、ハリスの眼に最も印象的にうつった。
式の予行を拒む
井上清直は、謁見式の前に式の予行をやってもらいたいとハリスに頼んだ。万一気おくれして、やり損なうことがあってはと、大いに気をもんでいたのである。ハリスはこれに対し、「宮廷の一般的な習例は、世界中どの国でも似たよったものであるし、しかも私は西洋の作法でやることになっているから、失敗するようなことは断じてない」といって、おだやかに拒んだ。やがて、謁見の時刻が到来し、将軍の出御が報ぜられた。これからの模様は、『ハリスの日記』が最もよく物語っている。
「謁見
私は、先ほどの場所(大広間)に彫像のように静坐している気の毒な大名たちのそばを通った。そして、彼らの前列まできたとき、その前を通って、彼らの右翼へ向かって進み、そこで立ちどまった。信濃守(井上)は、その場に平伏した。私は、彼の後に立ち、ヒュースケン君が私の背後にひかえた。単独の謁見室(拝礼席)は、大勢の謁見の行なわれる大広間と同じ外見をしている。しかし、大広間からぱ襖(ふすま)で隔離されているので、大名たちは私の出入りを見たり、謁見のときの口上を全部聞いたりすることはできるが、その中を見ることはできなかった。やがて合図があると、信濃守は両手をついて、膝行(しつこう=膝歩き)しはじめた。私は半ば右に向かって謁見室へ入っていった。そのとき、一人の侍従が高声で、「アメリカ使節!」とさけんだ。私は入口から六フィート(1.8m)ばかりのところで立ちどまって、頭をさげた。それから室のほとんど中央まで進み、再び立ちどまって頭をさげ、また進んで、室の端から十フィート(2.5m)ばかり、私の右手の堀田備中守とちょうど相対するところで停止した。そこには、備中守と、他の五名の閣老が、顔をこちらに向けて、両手をついていた。私の左手には、大君の三人の兄弟が同じく平伏し、彼らのいずれも、私の方へ殆ど「真(ま)向き」になっていた。数秒の後、私は大君に、つぎのような挨拶の言葉をのべた。
ハリスの口上
「陛下よ。合衆国大統領よりの私の信任状を上呈するにあたり、私は陛下の健康と幸福を、また陛下の領土の繁栄を、大統領が切に希望していることを陛下に述べるように命じられた。私は陛下の宮廷において、合衆国の全権大使たる高く且つ重い地位を占めるために選ばれたことを、大なる光栄と考えている。そして、私の熱誠な願いは、永続的な友誼の紐によって、より親密に両国を結ばんとするにある。よって、その幸福な目的の達成のために、私は不断の努力をそそぐであろう。」
ここで、私は言葉を止めて、頭をさげた。短い沈黙ののち大君は自分の頭を、その左肩をこえて、後方へぐいっと反(そ)らし、同時に右足をふみ鳴らした。これが三〜四回くりかえされた。それから、よく聞える、気持のよい、しっかりした声で、つぎのような意味のことを言った。
将軍の口上
「遠方の国から、使節をもって送られた書簡に満足する。同じく、使節の口上に満足する。両国の交際は、永久につづくであろう。」 〔訳注、「遠境の処、使節を以て書簡差越(さしこ)し、口上の趣、満足せしめ候。猶幾久しく申し通ずべし。 此段大統領へ忽しく申し述ぶべし」(『嘉永明治年間録』)〕。
大統領の親書を渡す
謁見室の入口に立っていたヒュースケン君は、このとき大統領の書簡をささげて、三度お辞儀をしながら、前へ進んだ。彼が近寄ったとき、外国事務相の堀田は起立して、私のそばへ寄った。私は箱にかかった絹布の覆紗(ふくさ)をとって、それを開いた。そして、書簡のカバーをあげて、外国事務相がその文書をのぞき見られるようにした。それから、私はその箱をとじ、絹の覆紗(ふくさ=六〜七条の紅白の縞のある)をかけ、そして、それを外国事務相に手渡した。彼は両手でそれを受けとって、自分よりも少し上座に置いてある美しい漆塗りの台にのせた。それから、彼は再び元のところへ坐った。私は大君の方へ向きなかった。大君は丁寧に私にお辞儀をし、これによって謁見の式がおわったことを私に知らせた。私はお辞儀をして後へさがり、停止してお辞儀をし、再びさがって、また停止し、またもお辞儀をして、それで終った。」(『ハリスの日記』)
大名列座の模様
「将軍の着席、諸大名の列座の模様を日本側の記録によって見ると、将軍家定(いえさだ)が立鳥帽子、小直衣(このうし)の装束で大広間へ出御。内藤紀伊守が先導し、太刀・刀持の小姓がつづいた。将軍の位置する上段ノ間は、厚畳七枚をかさね、錦をもってこれを蔽い、その四隅を紅色の総(ふさ)で飾った。将軍は椅子にかけ、その後座には御側衆の太刀持・刀役、奥向きの面々が控えた。下段ノ間の西の畳から松平讃岐守・井伊掃部頭・松平越中守・松平式部大輔・松平宮内大輔・酒井雅楽頭(うたのかみ)・牧野備中守・松平和泉守など溜間詰の譜代大名が順々に着座し、同間の東の方には年寄共(老中)や本多美濃守などが着座した。中段ノ間の西の縁頬(えんほほ)には、若年寄、前記以外の御側衆が着座。下段ノ間の西の縁頬には高家と諸大夫の雁ノ間詰・同嫡子・御奏者番・同嫡子・菊ノ間縁類詰・同嫡子・番頭・芙蓉ノ間役人が列居。二ノ間の北の方から東の方にかけて、四品以上の譜代大名・諸大夫の譜代大名・同嫡子、三ノ間には布衣(ほい)以上の役人や法印・法眼(ほうげん)の医師が列居した。」
大統領親書の内容
この式の眼目は、大統領の親書、すなわちアメリカ合衆国の国書を将軍に伝達することにあったのであるが、ハリスはその原文の写しにオランダ訳をそえて、あらかじめ閣老へ提出しておいた。幕府はオランダ文の方を、蕃書調所の川本幸民・高畠五郎・津田新一郎の三名に渡し、英文の方を手塚律蔵・西周助・森山多吉郎・伊東貫斎の四名に渡して、それぞれ和訳を命じた。だから、これにはオランダ文訳と英文訳の二通りがあるが、当時はまだ蘭学時代だったので、オランダ文訳の方に自信があったようだ。とにかく錚々(そうそう)たる蘭学者が額(ひたい)をよせて、二日間にわたって苦心して訳したものだけあって、意味だけは十分に通ずるので、それを掲げることにする。
「米国大統領親翰(蘭文和解)
アメリカ合衆国のプレジデント・フランクリン・ピールセ、日本大君殿下に呈す。大良友、合衆国と日本との間に、取結たる条約を修正して、殿下の大国と、夥(おびただ)しき諸産物の貿易を、是までよりも大に為し易きよう、取極め得べしと思えり。是を以て、予此事件に就て、貴国の外国事務宰相或は其他殿下の選任する役人と、会議せしむる為に、此回状の使として、此国の高貴・威厳なるトウンセント・ハリスを選ぴたり。但し此者は、既に合衆国のコンシュル・ゼネラールとして、殿下の外国事務宰相の信用を受けたり。予合衆国と日本との親交を篤くし、且永続せしめ、兼て両国の利益の為に、通商の交を増加する条約の趣に就て、宰相或は其他の役人同意すべき事、疑いなしと思う。殿下深切に高貴・威厳なるハリスを待遇して、予が為に、殿下に申立てる言を、十分信用し給ん事、予に於て疑いなしと思う。予殿下を安全に保護せん事を神に祈念す。予此書に合衆国の国璽(こくじ)を添へ、ワシントン府に於て、自分の姓名を書す。  一八五五年九月十二日(『幕末外国関係文書』の十八)。 」
日本の皇帝陛下
この書簡は、日本の皇帝陛下(His Majority the Emperor of Japan)に宛てられていた。政治の大権が朝廷にあるか、幕府にあるか、日本の国体がどうであるかなどということは、当時のアメリカ人にとっては何ら問題ではなかった。政治の実権の所在が問題であり、アメリカ人から見れば、江戸の将軍がエンペラーであったのである。しかし、こうした考えは、後に幕府が条約に反対の諸大名を制御する策として、京都の天皇(ミカド)に条約勅許の奏請をしなければならない羽目に立ちいたったとき、くつがえったのである。その時になって、ハリスは初めて日本の政治の複雑さを知り、政府としての実権を有せぬ幕府に対して空虚(うつろ)な憤りを感じたのである。
拝領物
ハリスが控室に退いている間に、すでに大名たちの退座した大広間は至急模様変えされ、老中一同着座の中で拝領物の披露が行なわれた。
『幕府沙汰書』によれば、「使節へ 時服十五(白羽重 二。段のしめ 二。紅白浅黄散し 八。白綸子(リンス) 一。紅白紗綾(さあや) 二)」。「通弁官へ 紗綾紅白 五反」とある。
将軍への贈り物
これに対し、ハリスは数日後に将軍へ贈り物をしたが、ペリー提督が来航したときの献上品にくらべると、まことにお粗末なもので、下田の領事館から有り合わせの品物をかきあつめてきた感がある。
「シャンペン 十ニクォート。シャンペン ニ十四パイント。シェリ酒 十二壜。各種のリキュール酒 十二壜。華飾無影燈(アルトラル・ランプ) 一。華飾切子硝子の円傘 三。特製の火筒(ほや)など。華飾切子硝子酒壜 二。望遠鏡 一。無液晴雨計 一。動植物図鑑 二冊、図版 千点。ブラマの特許錠 五」。
ハリスの目に映じた将軍の姿を、彼はその日の『日記』にこう書いている。
「大君は、床から二フィート(60cm)ばかり高くたっている席に設けられた椅子にかけていた。彼の前には、天井から簾(すだれ)がかかっていた。それは、下げると床にとどくであろうが、その時には巻きあげられていた。そして、重い総(ふさ)のついた太い絹紐で適当の高さにかかげられていた。
将軍の服飾
係の役人の誤算によって、その惓きあげが十分でなかったので、私は大君(将軍)の冠り物を見ることができなかった。簾を巻いた部分が、大君の額の中央から切り取ったように隠していたので、私は日本人の称している大君の「冠」なるものを、十分に書きあらわすことができない。後で聞いたのだが、この誤算は、日本人が私の身長を適当に斟酌(しんしゃく)することをしなかったから生じたもので、もし私の眼が三インチ(7.5cm)低かったならば、私は大君の冠り物の全体を見ることができたであろう。大君の衣服は絹布でできており、それに少々の金刺繍(ししゅう)がほどこしてあった。燦然たる宝石も、精巧な黄金の装飾も、柄(つか)にダイヤモンドをちりばめた刀もなかった。その点では、むしろ私の服装の方がはるかに高価であったといっても過言ではない。日本人が私に語ったところによると、大君の冠り物は黒い漆をぬった帽子で、鐘(かね)を逆さにした形をしている。大君の衣服は廷臣のものと形が異なり、見たところ緩やかな法服に似ている。しかし、その裳(はかま)は適度な長さであった。その材料は、豪奢なベナレス織の「インド錦襴」にくらべると、はるかに見劣りがした。」(『ハリスの日記』)
ハリスは将軍の面前でこのように余裕綽々(しゃくしゃく)ぶりを示し、事もなげに謁見の儀式をすませたのであるが、井上は差添いの大役を無事に果たしたので大いに安心した。ハリスが万一にも将軍の面前で粗相や失敗をしたら、井上は責任上、軽くてお役ご免、重ければ切腹ということにもなりかねないのであった。
殿中の評判
井上はハリスに、殿中の評判を語った。謁見の席にのぞんだ人々は、「使節の気魄(きはく)の偉大さ」に、みんな驚歎している。綺羅(きら)星のように居ならんでいる大名たちの前で、日本の最高権力者である大将軍の面前へ進みでたら、いくら豪胆な西洋人でも、きっと「震(ふる)え、おののき」、口吃(ども)ってしまうだろうと思っていたのだが、アメリカ人はオランダ人とちがって、さすがに大したものだと感心している――というのであった。ハリスは、それはお世辞だ、といって笑ったが、お世辞半分としても悪い気持はしなかったようだ。このさき困難な談判をはじめるにあたって、反対派の人々を含む大勢の大名たちにアメリカ使節の厳とした立派な印象をあたえておくことが、ぜひとも必要だったからである。 
■第五 ハリス、通商開国を力説 
一 堀田閣老邸の大演説
風邪をおして登城したのがたたり、ハリスはその晩高熱を出し、侍医伊東貫斎の診察をうけた。翌日(二十二日)、彼は床から起きあがって、堀田備中守(正睦)に手紙を書き、おりから病気見舞いにやってきた井上信濃守(清直)にそれを托した。手紙の内容は、日本の利害にかかわる「重大事件」について、ぜひとも閣老の耳に入れたいというのであった。
再び堀田閣老を訪う
十月二十六日に、ハリスは再び堀田閣老を西の丸下の邸宅に訪問した。例の接待委員(使節御用掛)の面々も、この会談に同席した。この席上でのハリスの演説は二時間をこえたといわれる、長いものだった。ハリスはまず、世界の現状を説明し、蒸気機関の出現によって世界の情勢が一変したことを語った。日本は、好むと好まざるとにかかわらず、鎖国政策を抛棄(ほうき)しなければならなくなるだろう。そして、日本の国民が、持ち前の器用さと勤勉さを自由に使うことが許されさえすれば、日本は遠からずして、偉大な、そして強力な国家となるであろう。貿易に対する適当な課税は、間もなく日本に大きな収益をもたらし、それによって立派な海軍を持つことができるようになろうし、自由な貿易の活動によって日本の資源を開発するならば、莫大な利益をあげることができるだろう。
過剰労働力の利用
しかし、この生産は国民の必要とする食料の生産を少しも阻害するものではなく、日本が現在持っている過剰労働力を使用することによって振興されるのである。諸外国は、競って強力な艦隊を日本に派遣し、開国を要求するだろう。日本はそれに屈服するか、さもなければ戦争の惨苦をなめなければならない。たとえ、戦争は起きないにしても、日本はたえず外国艦隊の来航に脅かされなければならない。これに対して何らかの譲歩をしようとするならば、時機を失わぬことが肝要である。艦隊の要求するような条件は、私のような者が要求するよりも、決して穏かなものではない。平和の外交使節に対して拒否したことを、艦隊の要求で屈服的に譲歩するようになっては、政府の威信を国民の眼前で失墜し、その権力を弱めることになるだろう。そうしたことは、一八三九年から一八四一年に至るシナの阿片(アヘン)戦争、その戦争後の状態、また現在シナに起きている対英仏との戦争を例にとって見れば、すぐに分ることである、と説いた。
「一隻の軍艦をも伴わずに、単身江戸へ乗りこんできた私と談判することは、日本の名誉を救うものであること。
問題となる点は、いずれも両者の間で慎重に討議すべきこと。日本は漸(ぜん)を追って開国すべきであることを説き、これにつけ加えて、次の三つの大きな問題を提出した。
三つの問題を提出
一、江戸に外国の公使を迎えて、居住させること。
二、政府の役人の仲介なしに、自由に日本人と貿易をさせること。
三、開港場の数を増加すること。
さらに、私はアメリカ人だけの特権を要求するものではなく、アメリカ人統領の満足するような条約ならば、西洋の諸大国はみな直ちに承認するだろうと言った。
阿片の禁輸
私は、外国が日本に阿片を押し売りする危険があることを強く指摘し、日本に阿片を持ちこむことを禁止するようにしたいと述べた。私の使命は、あらゆる点て友好的なものであること。私は一切の威嚇を用いないこと。
大統領はただ、日本に迫っている危難を知らせて、それらの危難を回避することが出来るようにすると共に、日本を繁栄・強力・幸福な国にするところの方法を指示するものであると説いて、私の言葉を終った。」(『ハリスの日記』)
鎖国は世界の公敵
鎖国は世界の公敵であり、いずれの国にも鎖国の権利はないという根本原理から説きおこしたこの時の演説は、ハリス一代の大演説であったが、これは日本の将来の運命を決する重大な鍵でもあった。この鍵を受取るか、受取らないかで、日本は岐路のいずれかを辿(たど)らなければならない。イギリスとフランスは、シナとの戦争がおわり次第、連合の大艦隊をもって日本へ来航し、重大な要求を政府に突きつけようとしている。その時の使節には、すでに香港総督のボウリングが内定しているというのが、ハリスのいわゆる「重大事件」の内容であったが、もっと驚くべきことは、ロシアの勢力が南下して日本の北辺を侵略しようとする動きがあり、イギリスもこれに対抗して北海道の占領を企図しているというのであった。ハリスの演説は、例によってヒュースケンがオランダ語に通訳し、それを日本の通詞(つうじ)が更に日本語に通訳するという仕方で相手に伝達されたのであるが、堀田備中守は深い関心をもってこれを傾聴し、十分に了解できないときには熱心に質問した。そして、これは幕府が始まって以来の最も重大な問題であるから、将軍の上聞に達した上で、よく考慮することを約束したのであるが、同時に、日本ではアメリカのように国政を迅速に処理することはできない組織になっているので、回答には充分の時日をあたえてもらいたいと言った。こうして、この日の会見はおわった。
演説の反響
公使の江戸駐箚や自由貿易の件などは、徳川幕府創始以来二百数十年来の「祖法」を破るものであった。京都の朝廷や斉昭一派の諸大名のごうごうたる擺夷論のさ中にあって容易に実行され得る問題ではなかったのだが、ハリスの演説は幕府の外交当局者に多大の感銘をあたえた。田辺太一の『幕末外交談』によれば、
「官吏(ハリス)が堀田備中守邸にて宇内(うだい=世界)の形勢を演説するに到り、滔々懸河(とうとうけんが)の弁、けだし当時有司の耳目を警醒(けいせい)し、心胸を開拓することもありしなるべし」とあり、中根雪江の『昨夢紀事』には、「彼(ハリス)は事なれたるようにして、憚(はばか)るところなく種々に論(あげつ)らいたり。備中殿は折々に、それは其筋の懸りの者へと譲り聞えられ、或は宜しからんように頼み聞ゆるなど言はれる有様、傍なる海防係の人々は冷汗を流して聞き居たることにて、ハリスが思はんところも恥しい限りなりけりとぞ」
ハリスの弁舌
とあるが、これから見ても、幕府要路の役人たちがハリスの弁舌に感心して、歎息しながら傾聴していた様子が思いやられる。また、徳富猪一郎著『近世日本国民史』はこの演説を評して、 「ハリスは時局を見るに於て、よく大体に通じていたばかりでなく、それを他に会通(えつう)せしむるの術において最も長じていた。彼は何となく一種の説客たる趣きがあった。」
日本開国宣教師
いわば彼は米国より派遣せられたる日本開国宣教師とでもいうべき資格をそなえていた。幕府の当局者が、この際においてハリスと出会したことは、単に米国のためばかりでなく、日本にとっても仕合せであった」と書き、また、「ペルーの軍艦大砲よりも、ハリスの舌鋒の方が、むしろ日本政府当局者の心を動かすには有力であり、かつ有効であった」といっている。ハリスは、この席上においても阿片の害を詳説した。害毒を知りながら金儲けのために阿片をシナヘ持ちこんだイギリス商人の悪徳を痛罵し、さらにイギリス政府がこれを援けて阿片戦争をやり、「百万人」の人間を殺してシナを亡国へ追いこんだことを人道上許すべがらざる行為であると非難した。アメリカは日本の楯となって、イギリス人の悪埓な企図を未然に防止する用意があり、そのためにぱ来るべき条約の一条項として「阿片禁輸」を明記することを勧め、もしアメリカ人がこれを犯した場合は、仮借(かしゃく)なく没収・焼棄の上、相当の処分に付すべきであると明言した。
宗教の自由
また、当時の日本では、宗門(キリスト教)の一件が外交上の一大難関となっていたのだが、ハリスはこれに対し、宗教は個人の自由であり、無理に勧むべきものではなく、まして往古のスペイン人やポルトガル人のように国土侵略の具として布教するなどはもっての外のことであるが、現在ではそうした懸念は全く無用であると説いて、相手の誤解をとくことにつとめた。とにかく、自分の言うことをきいてアメリカと通商条約を結ぶならば、日本は利益を得て繁栄するだろうが、これを拒絶するならば、日本は国際的孤立におちいり、諸強国、とくに野心的なイギリスやロシアの好餌(こうじ)となるであろう。早急にアメリカと最も有利な条約をむすんで、諸強国にもその条約に倣(なら)わせることが急務である。その上で、もし無法な条約を強要したり、不法な強請をする国があったら、アメリカは日本を援けて居中(きょちゅう=仲介)調停の労を取ろうというのが、ハリスの演説の結論であった。
二 ハリスの焦慮
重大事件の開陳に藉口(しゃこう=口実)して、幕府の要路に通商開国の一石を投じたハリスは、その後しばらく幕府の出方を注意ぶかく見まもっていたが、なにしろ蕃書調所の奥座敷に軟禁同様のありさまだったので、その消息をつかむことができなかった。
刺客の噂
幕府当局は、刺客(しかく)の徒がハリスの身辺をうかがっているとの噂(うわさ)に気を病み、蕃書調所の護衛を厳重にすると共に、ハリスの外出を制限したが、これはハリスの心証をひどく害した。
外交特権の侵害に抗議
彼は外界との隔離を、故意に外交使節の行動と自由を束縛するものとして、はげしく抗議した。
「私は、私の外交特権について、不愉快な論争をしている。日本人は、侮辱・傷害・火災なとがら私を護るための者を任命する権利があると主張する。これに対して、私はこう応酬した。私は単身江戸へきた。それ故に、私は日本政府が適当な人々を宿所におくことを欲する。しかし、それは私の請求によってなさるべきもので、彼らの権利としてなすべきものではないと。私は、外国の公使が当地へ居住のために来るときに、前例として引き合いに出されるようなことをしないようにするのを大切と心得ている。」(『ハリスの日記』)
この外交特権侵害の抗議については、幕府の当事者とハリスの間で数日にわたって論争されたが、
ハリスの身辺保護
幕府としてはハリスの身辺保護以外に他意はなく、問題は単に外交上の形式にすぎなかったので、これは両者の間で次のように妥結した。日本側は、「使節の住む屋敷については、使節の充分にして完全な管理権を認め、使節の許可なしには何人も立ち入ることができない」旨の一札を入れること。ハリスはこれに対し、「事故から自分をまもるために、若干の適当な人々を自分に付けることを日本政府に希望する。但し、その場合、自分の承諾なしには如何なる名目の下にも、他人を置く権利を日本政府に容認するものではない」との一札を入れることになった。
馬場の使用
ハリスは蟄居(ちっきょ)の憂さを晴らすために、健康上の必要を理由として、幕府に馬場の借用を申しこんだ。幕府は止むを得ず、田安門外の空地を、時間をかぎって使用することを許した。物見高い江戸っ子を、ハリスは逆に馬上から眺めまわすのであったが、町奉行は輩下の警吏を動員して群集の警戒にあたった。
江戸の地図
ハリスは、江戸の地図を一枚幕府に所望したが、天保年間に天文方兼書物奉行の高橋作左衛門(景保)が蝦夷(えぞ=北海道)の地図をシーボルトに与えて、大疑獄事件をひきおこしたことがあったので、幕府は容易に許さなかった。
『沿海水先案内書』
ハリスはまず閣老を啓蒙する必要があると考えたので、堀田閣老への贈り物(葡萄酒とリキュール酒 三十瓶、錠鍵 一組)にブラント著『沿海水先案内書(コースト・パイロット)』を添えて、「特にこの水先案内書に注意してほしい。これには、合衆国・西インド諸島・南アメリカ諸国の各港の精密な説明がのっているが、このような書物は個人によって私的に印刷され、ほしい者には誰れにでも自由に頒売されている。アメリカ政府は、こうした刊行物を、自由と繁栄の一大要素である外国貿易の便宜をますために大いに奨励しており、この案内書こそ、日本の外国事務相の手許に所蔵さるべき最も恰好(かっこう)な書籍であると考える」と手紙に書いておくった。これは、その代償として、所望の地図を入手しようとする下心から出たものであった。
幕府の秘密主義
二日後に幕府は、「他人に与えたり、複写したりしない」という条件で、ようやく江戸の地図を一枚ハリスにあたえたが、その際勘定奉行から町奉行に対して、次のような趣旨の内密な注意書が発せられていたのである。
「一、本所・深川・大川筋は摺(す)らないこと。
 一、御城をはじめ、葵(あおい)の紋のついている場所は、葵を消すこと。
 一、廓外の町家は詳細に摺(す)るには及ばぬこと。 」
経済学の講義
ハリスは日々の退屈と焦燥感を紛らわすため、また、談判開始という場合にそなえて幕府の役人に通商上の学問の初歩を教えておくために、経済学の初歩の講義をやりだした。
「私は現在、日本の人々に経済学の初歩をおしえ、西洋における商業規則の運用に関する知識の講義をしている。これには、想像以上の苦労がともなう。まだ新しくて適当な言葉すらないような事柄について、概念をあたえるのだが、それを聞いた通訳がそのオランダ語を知らないのだから、どうにも始末がわるい。そのため、きわめて簡単な概念を知らせるだけでも、数時間を要することがある。絶望して投げださないようにするには、絶大な忍耐を必要とする。しかし私は、私の発する一言一句、私が伝えることに成功した新しい概念のすべてが、直ちに閣老の会議に伝達されることを知っている。そこで私は、私のためではなくとも、すくなくとも私の後任者のために私の労力は実をむすぶであろうということを期待して、忍耐をつづけている。」(『ハリスの日記』)
外交当局者との質疑応答
ハリスの演説に対する幕府の反応が、十一月六日になって、ようやく現われた。接待委員であり、外交当事者でもある土岐頼旨・川路聖謨・鵜殿長鋭・井上清直・永井尚志の五名が、堀田閣老の意をうけてハリスを宿所に訪れたのである。これは、ハリスが閣老邸を辞去する際に、「質問があったら、どんな事でも喜んで説明しまし上う」といったので、不明の点について教示をもとめに来訪したのであった。そのときの質疑応答のあらましを、ハリスは日記にこう書いている。
「彼らの質問の主な点は、外国に公使を派遣する目的、その職務、国際法に認められている公使の権限などに関するものだった。これらの質問のすべてに対して、私はできるだけ明瞭にこたえた。私は、これに付言して、公使が任地の宮廷に対して重大な罪科を犯した場合に、その国の政府はその公使との交際を断ち、公使に国外退去を命ずることができること。普通の手続きとしては、公使の本国政府に向かって公使の行為を難し、召喚をもとめることになっていると述べた。接待委員たちは貿易についても質問し、私のいう、役人の仲介なしに行なわれる貿易とは如何なる意味のものかと質問した。これについても私は説明して、充分に彼らを満足させることに成功した。彼らは、日本人はこうした問題には全く暗く、小児のようなものであるから、貴下は我々に対して辛抱づよくなければならぬと述べた。そして、貴下の陳述のすべてに対して全幅の信頼をおくと付言した。私は彼らに通商条約の基本を書いた紙をわたして、それを逐条説明し、この紙に書いてあることは、よくよく念頭においてもらいたいと告げた。それから、私はこの連中にシャンペンをご馳走した。彼らは、この酒の性質を解し、これを嗜(たしな)むもののようであった。」(『ハリスの日記』)
質疑の焦点
この会見で日本側は、質疑の焦点を公使の職権において、根掘り葉捐り質したが、外国公使を江戸に駐箚させる件は、当時の国情からして幕府にとり最も頭の痛い問題だったので、十分に研究する必要があったのである。
また、日本がロシアなどと紛争を生じた場合にアメリカ公使が仲裁の労を本当にとるかと質問したのであるが、それから見ると、当時幕府がロシアの北辺侵略を非常に気にしていたことがわかる。
三 ハリスの恫喝(どうかつ)
うすら寒い、雪模様の日が数日つづいた。ハリスは先日の成果如何にと毎日待ったが、その後まだ幕府からは何の音沙汰もなく日がすぎた。成功の見こみがあるのか、ないのか。どんな障害があるのか。井上に当たってみても、彼は一言も口をわらない。不安な状態が、不良な健康と相まって、ハリスの気持をいよいよ暗くした。
クリスマス
十一月十日は西暦の十二月二十五日、すなわちクリスマスに当たる。彼は、陰うつな気持を、その日の日記にこう記している。
「メリー・クリスマス! 昨年のクリスマスのときには、こうして江戸でクリスマスを送れるとは殆ど思えなかった。もしも私が北京で、ある年のクリスマスを送ることができるとすれば、私がいろいろの土地でクリスマスを送ったという点で注目に値する表ができるであろうが。私の重大な陳述に対する回答がいつ得られるか。私は毎日、問い合わせている。これに対する返事はいつも同じで、大君の兄弟たち、すべての大名、その他の高位者など、多数の人々の意見を徴しなげればならぬ。それらの人々に一々書面を発送して、その返書を待たなければならぬというのである。ところで、「日本人は長い間の熟議の後でなければ、重要な事を決定しない」のが、昔からの慣わしなのだ、と。」
それでも、年内に望みをかけていたのであるが、それも空しく、こうした憂うつな状態で新年を迎えなければならなくなった。
「年末の感
私は、年末の三日間というもの、信濃守(井上)の訪問をうけていない。この事実は、私の交渉について懸念する不安な気持と相まって、この年の瀬を憂うつな状態ですごすことを余儀なくせしめている。今正に来らんとする新年こそは、海外からの通信が今年よりも多からんことを、私は切望している。実際、私は、東洋にある、わが海軍から、きわめて恥しい思いをするほど等閑視(とうかんし=なおざり)された。 」
そして、新年の日記には、
「念頭の感
年の始めを迎えることを許して下さった全能の神に感謝をささげる。私は不健康ながら半世紀以上を生き長らえてきたが、来年を迎えることは期しがたい。去年の一年間に、わが国の名誉のため多くのことを成しとげることの出来だことを、私は嬉しく思う。 」
新年の祝賀をのべに、土岐頼旨と井上清直が礼装でやってきたが、もちろん用件には一切ふれなかった。堀田閣老からは美麗な漆器と縮緬が贈られてきたが、肝心の用件については一言もいって来なかった。新年(新暦)も八日を過ぎた九日目に、痺(しび)れを切らしていたハリスは、折りから訪れた井上をつかまえて、
恫喝的詰問
「いつまで返事を待たせておくつもりか」と強く詰問した。持ち前の癇気(かんき)も手伝ったのだが、黙っていたのでは何時までたっても埓(らち)があかないと思ったからだ。
「私が外国事務相に極めて重大な演説をしてから、もう二十九日もたっている。しかるに、それについて、まだ何ら公式な通知がない。いつまでに返事をするのか、その期日さえも言ってきていない。このような取り扱いは、アメリカの外交使臣として甘受し得ないところだ。大統領は全く日本の利益を思い、最も友好的な便命を托して私を江戸へ派遣したのである。しかるに、日本側は、言葉だけは丁寧だが、誠実さが認められない。ただ戦争を避けたい一心で、ごまかしを事としているとしか考えられない。合衆国は、自国のために何ものをも要求しない。日本との貿易は、我々の問うところではない。我々の欲するすべては、日本の港で合衆国の船が修理をやり、薪水・食糧を入手することにあるが、その点ではすでに神奈川条約で目的を達している。日本はいつまで眠っているつもりか。一度目をさませば、私が日本に恩恵をもとめるものではなく、それを受けとるものでもないことが分るだろう。もし、私を必要としないなら、こんな囚人同様な境遇に留めおくことは私を侮辱するものであるから、さっさと下田へ引きあげることにしよう。そのあとで、どこかの国の全権秀員が、艦隊を背景に、砲弾の威嚇(いかく)で談判をやりにくるかも知れないが、その時には後悔してもはじまらない。 」と言い捨てた。
恫喝の効果
これは、乾坤一擲(けんこんいってき=とっておき)、成否を一挙に決しようとして演じたハリスの芝居であったが、この恫喝(どうかつ)は井上を震いあがらせた。彼はハリスを宥(なだ)め、一両日中には必ず満足な返事をもってくると約束した。ハリスとしても、折角ここまで来ながら徒(いたず)らに下田へ戻れたものではなかったが、その間の消息について、彼はこう書いている。
「これは、私としては明らかに大胆な仕方であった。しかし、この国民についての私の知識よりすれば、こうした所為によって交渉をぶちこわす危険のないことを知っていたし、私か屈服し、黙従すればするほど、彼らは私を欺くであろうが、こちらが大胆に出て、威嚇(いかく)的な口調を示せば、彼らは直ちに私に従うであろうと思ったからである。」
ハリスの恫蝎は覿面(てきめん)に利いた。堀田閣老としても、ことさらに遷引政策をとっていたわけではない。御三家の長老斉昭(なりあき:水戸)が奔馬のような勢いで開港に反対している際とて、一応諸大名の意向を打診する必要もあり、また現に反対派の説得に肝胆(かんたん)をくだいていたのであったが、井上の報告にもはや猶予ならじと、ハリスを招いて自ら回答することになったのである。
四 堀田閣老の回答
三度目の堀田邸訪問
こうして、安政四年十二月二日(新暦一月十六日)に、三度目の堀田邸訪問となった。堀田閣老は温顔に微笑をたたえて、ハリスを出迎えた。堀田は原則的にハリスの要求を承認し、全権委員を任命した上で条約談判に入る用意のあることを告げ、開国的な意思を表明したので、ハリスはようやく愁眉(しゅうび)をひらいた。
堀田はその席上、きわめて丁重な言葉で、上意の内容
「貴下の演説・書面・談話の趣きは委細将軍の上聞に達し、将軍からは、大統領の忠言と友誼に謝意を表するように命ぜられた」
と前置きして、上意の内容をハリスに伝えた。 それによれば、
「一、江戸に公使を駐箚させる件は承認する。公使の駐箚の場所と、その行使すべき権能は、今後の談判によって決定する。
二、自由貿易の権利は許容する。貿易の細目は談判によって決定する。
三、日本は小国であるから、下田・箱館・長崎の三港以上の開港は不可能であるが、下田は開港場として不適当なので、他の港をもって換えてもよい。 」
というのであった。これに対し、ハリスは、
ハリスの不満
「貿易港をわずか三港にかぎるとは心外である。このような制限の下では満足な条約は結び得ない。第一、箱館から長崎までの海岸線は一千英マイル(四百里)もあるのに、日本海にのぞむ西海岸に一港も開かれないというのはどうしたことか。多数のアメリカ捕鯨船が日本海方面に出撈(しゅつろう)しているが、それらに対してもこの方面に港をもつことが極めて大切である。大君陛下は日本国の狭小を云々(うんぬん)されたが、世界の主要国の地図を見れば、日本はそれらの国々の平均よりも遙かに長い海岸線を有している。だから、この件については切に再考を願いたい」 と切りこんだ。
堀田は、早急に全権委員を任命の上、明後日に第一回の会談を蕃書調所で行なうつもりであると告げた。
条約草案
ハリスは堀田に、「自分は日本委員も満足するような条約の草案を用意しており、この草案に従って審議を進めるならば、談判は楽になり、貴重な時間を節約することができると説いた。そして、「私は少しも隠しだてをしないし、秘密な動機や願望を持たないから、自由で開放的な態度で議事を進めることができる」 と付言した。 堀田は、 「貴下の方針はきわめて称賛すべきもので、自分も大いに満足である」 とのべて、この会談をおわった。ハリスが用意していた草案というのは、下田を立つ前に起草したもので、その条文は前文以下十六条からなるものだった。
好意の使者
ハリスは堀田閣老との対談で、条約談判にのぞむ自分の基本的な態度を示した。
「アメリカは日本の世界的孤立と、それに伴うべき危難を救うために条約を結ぼうというのであって、日本側がどうしても嫌なら、自分の出した草案を全部拒否してもかまわない。そのために日本の敵となるようなことはない。自分はあくまでも好意の使者である。 」といった。
日本側全権委員の任命
幕府は、下田奉行井上信濃守(清直)と目付の岩瀬肥後守(忠震)の二人を全権委員に任命した。井上下田奉行として、これまでの行きがかり上当然の人選であり、岩瀬は見識・才能ともにその任に当たるべき最適の人物であった。
岩瀬忠震
岩瀬は当時四十歳、幕吏随一の俊秀で、漢学の素養にたけ、西洋の事情にも通じていた。先ほど物故(ぶっこ)した老中阿部伊勢守(正弘)に抜擢されて外交の職にあたり、ついで堀田備中守(正睦)に重用された。ハリスの出府許可・将軍謁見なども、岩瀬の献策からでたものであった。
横浜開港論
彼は鎖国政策の固陋(ころう)を難じて、積極的開国策を主張し、ハリスの要求を好機として、進んで外国公便の江戸駐箚と貿易の自由を認め、特に横浜を開港して江戸幕府富強の基をひらくべきであると強く主張していた。この岩瀬は堀田閣老の懐刀(ふところがたな)であり、また井上清直と共にハリスの知己でもあった。
日本側の全権委任状
二人は任命の翌日、堀田閣老から次のような全権委任状を与えられた。
「アメリカ合衆国の使節トウンセント・ハリスと引合に及び候義は、都(すべ)て其方共へ委任せしむるものなり。安政四已(み)年十二月 御朱印 」
アメリカ側の全権委任状
アメリカ側の委任状の日本訳は次の通りであるが、これは原文の英文をヒュースケンがオランダ語に訳し、さらに伊東貫斎が日本語に訳したものだ。
アメリカ合衆国プレジデント フランクリン・ビールス
「是を見る人々に礼を為す。
帝国日本のための合衆国コンシュル・ゼネラール・トウンセント・ハリスの廉直・丁寧・練達を格別能く信じたるを以て、予此者に、合衆国の名目にて、マイエステート日本帝より正しく委任し、同じ権威を帰したる人々と接対談判し、合衆国とマイエステート日本帝の領地との間、惣体の商売、及び是に係りたる諸事を、其人々と同意し扱い、談判し取計い、且其事に付たる条約を取結び、名を記し、是を其摂政官の評議致すべきにて、彼其本条約をなす為め、合衆国プレジデントに示す為の、十分なる諸権威を帰したる事知るべし。
右の証として、予此に合衆国の印を調せしむ。
我君の年一八五五(安政二年七月二十七日)、合衆国独立より八十年九月八日、ワシントン府に於て、手づから与う。  フランクリン・ビールス」(『幕末外国関係文書』の十八)  
■第六 条約談判のいきさつ 
一 第一回談判
全権委任状の提示
堀田訪問の二日後に、蕃書調所の一室で両者の委任状提示が行われた。日本側の出席者は井上清直・岩瀬忠震(ただなり)の両全権と若菜三男三郎、書記二名。ハリスは礼服を着用し、ヒュースケンを従えて、この席にのぞんだ。両者は、起立したまま、たがいにお辞儀をした。ついでハリスは、全権委任状をヒュースケンに手渡し、ヒュースケンはそれを井上に渡した。井上は、大統領の署名をたしかめてから、岩瀬へまわし、岩瀬もそれを確めてからヒュースケンに返し、ヒュースケンはそれをハリスに返した。ついで、日本側の委任状がハリスに渡され、ハリスはエンペラー(将軍)の印と署名を確めてから、それを返した。委任状の提示がすむと、ハリスは自分の起草した条約草案のオランダ訳を日本側に手交した。日本側は、それを翻訳して内容を検討するのに数日を要する旨をつげた。
第一回談判
こうして、安政四年十二月十一日(新暦一月二十五日)に、いよいよ第一回の談判が開始された。場所はやはり蕃書調所の一室。午後の二時に両国の全権が顔を合わせた。この談判で、日本側は一応ハリスの要求を容れた上で、その内容を出来るだけ狭いものにしようとした。これは幕府の対外的な根本政策で、そうすることによって一応相手国を宥(なだ)めて戦争の回避をはかり、他方国内の条約反対論者の怒りを最少限度に食いとめようとするものだった。井上・岩瀬の両全権は、この趣旨に従ってハリスと折衝するように閣老たちから厳命されていたのである。ハリスは相手の胡魔化(ごまか)し的な態度を激しく非難した。冒頭から、こうしたことで論争が繰りひろげられた。『ハリスの日記』から、それを見ると、
「日本側の主張
条約の前文は承認され、また、公使と領事を迎えることに同意するという限りでは、第一条も承認された。
しかし、彼らは、公使の居住を神奈川と川崎の間に局限して、用務のある場合だけ江戸へくることにし、公使あるいは領事は、実際の用務を帯びる場合を除いては、日本の如何なる場所にも旅行させないようにすることを希望した。
彼らは、こう言いはじめた。
我々は、貴下が我々にあたえた条約の草案を注意ぶかく検討した。
日本は国がせまいので、三港以上は開かぬことに決めた。
下田は閉鎖して、その代わりに、もっと大きな一港を提供することになろう。
ペリー提督に港を開いたことは大きな譲歩で、それは大きな困難をおかして行なったものである。
下田の代わりに、彼らは神奈川・横浜を申し出た。
そして、大名全部が貿易の結果について満足するようになってから、他の港を開くことにしよう。
貿易は、オランダやロシアとの条約の規定通りに行なわるべきこと。
アメリカ人の日本における旅行は許すわけにはゆかぬし、厳重な制限をうけなければならないと。
ハリスの反駁
私は、こう反駁(はんぱく)した。
神奈川条約の第九条によれば、他の国に許された事柄は直ちにアメリカ人にも適用される。
それゆえに、なんら条約の規定を要しない。
ロシア・オランダの両条約について言えば、それらの条約は、それらの締結にしたがったあらゆる関係者にとって不面目なものであり、貿易に関するかぎり、それらの文書は、それらの書かれた用紙にも値しない。
もし、私がこのような条項に署名するならば、大統領は私に不名誉な召喚を命ずるであろうと。
公使を江戸の居住、あるいは公使の好きな場所から閉めだす提議は、きわめて無礼である。公使の迎接にこのような条件をつけるよりは、公使の迎接を拒否する方が遙かによかろう。
公使と領事は、国際法の下においてかかる人々の享受するあらゆる権利を持たなければならない。
私は、それらの権利以上の何ものをも求めないが、それ以下のものを承知することはできないと。
彼らは、「日本は二百年以上も鎖国されていたので、日本国民は貴下の提言するような大変革に対する用意がない。
日本国民は漸(ぜん=徐々に)を追って導かれなければならない。
国民が貴下を一層よく知るようになったら、その時には、我々は一層自由に行動することができる」などという陳腐(ちんぷ)な議論を繰返した。
私は、諸君の提出するような規定の下においては、、貿易は不可能であって、アメリカ人は五十年間日本に滞在しても、これ以上に親睦の方向にむかって進行ことはなかろうし、こうした事情の下に交際すれば、偏見を去るどころか、それを増大するであろう。
なぜなれば、日本人は、彼らがオランダ人を蔑視(べっし)してきたと同じ程度に、アメリカ人を軽蔑することをおぼえるだろう。
しかし私か日本で観察したあらゆる点よりして、日本の国民は実際我々との自由な交際を切望しているものと確信する。
もしどこかに反対があるとすれば、それは大名と武士にかぎられているが、この二つの階級はどこの国においても、大多数の国民の状態改善に反対するものであると反論した。
アメリカ人が日本の貨幣をうけとり、日本人がアメリカの貨幣をうけ取る要求は、きわめて決定的な態度で拒否された。
また、日本の役人の手をへなければ、売ることは一切ならぬと、はっきり言明された。
彼らは、こんな態度で、第八条を除いては、条約草案の全部を拒否し去った。
この第八条は、それが通るという目当てをほとんど持たずに、私か挿入しておいたものだった。
踏絵の廃止
それは、アメリカ人が適当な礼拝堂を建てる権利と、アメリカ人がその宗教を自由に行使し得ること、ならびに、日本人が踏絵の風習を廃止することを規定したものだった。
私が驚き、そして喜んだことには、この箇条はそのまま承認されたのである! 」
日本側は、このように、「人心居合(おりあ)わず」という理由を唯一の楯(たて)として、ハリスの要求を極力狭めようとした。草案第一条の「アメリカ公使の江戸駐箚と旅行の自由」については、江戸は外国人にとって危険だから、六郷川(多摩川)と神奈川との間にすることを主張し、また、その旅行をも制限したので、ハリスはアメリカの使臣を侮辱するものだと反駁した。第三条の「開港の場所と自由貿易」については、日本側は、約三ヵ月前に長崎でオランダおよびロシアと結んだ条約の振り合いで、長崎・箱館・神奈川の三港におさえ、また自由貿易(勝手の交易)を拒否したが、ハリスはオランダやロシアとの条約は一片の価値なきものと一蹴し、そんな胡魔化(ごまか)しの不自由貿易で甘んずる位なら、わざわざ江戸へ来る必要はなかったのだと言って、江戸と大坂を含む八つの港市の開放と、完全な自由貿易とを要求した。日本側はまた、第五条の「貨幣交換」について拒否の態度を示し、第七条でも、アメリカ人と日本人との雑居を認めず、旅行にも厳重な制限をつけたが、ただ、第八条の「信仰の自申」については、ハリスの予想を裏切って、日本におけるアメリカ人の信仰の自由を保障し、教会堂の設置をも認めたのである。とにかく、幕府の態度は、「人心居合(おりあ)わず、諸事漸(ぜん=徐々に)を追って取り計らうつもり」というのであったが、ハリスは日本の国益と、差し迫った「危難」の回避のために、本当の開国を行なうべきことを強く要求し、日本側の態度の根本的な変更を迫ったのである。
二 ハリス暗殺の陰謀
攘夷論の火元
「人心居合(おりあ)わず」とは、人心が不穏であるという意味であった。攘夷論の火元は、御三家の長老、水戸の隠居斉昭(なりあき)であった。水戸では、藩士の間に秘かにハリス暗殺の陰謀団が組織されており、すでに数名の者が江戸へ向かって出奔した形跡があるとの届けが、藩庁から幕府へ出されていた。こうした風潮は諸藩へも蔓延(まんえん)する気配があった。また、外国事情に全く無知な朝廷に攘夷論をたきつけて、朝・幕の離間を策する運動も盛んであった。幕府の対外的処置の如何によっては、内乱を惹き起こす危険さえもあったのである。井上は第一回談判の途中で、攘夷論者の消息をハリスにこう伝えた。
「武士階級の次三男
「武士階級の次男や三男は官位も定職をも有しない。それでも軍事教育をうけ、兵法や武器の使用をまなんでいる。彼らは、俸禄もなく、生涯立身の見こみがない。ただ、家長に養われているのだ。唯一の特権は両刀をおびることだけである。このような怠惰の風習により、彼らの多くが悪の道に転落し、放蕩(ほうとう)者・酒乱者・乱暴者となる。素行があまりひどくなると、親にも勘当され、家族からも見放される。こうした状態から、浪人と称する一つの階級が生まれた。これは、兇漢・暴漢・無頼の徒・浮浪者に相当する」と前置きして、「実は、幕府は目下、貴下の暗殺を企てている一味の者を摘発中である。
首謀者の逮捕
今朝その中の三名の首謀者を逮捕し、これらを投獄したが、この事件で幕府は非常に憂慮している。もし、アメリカ全権の身に禍いがおこれば、文明諸国の眼前に日本政府の失態を暴露(ばくろ)し、合衆国との間に重大な紛争をまねくことになる。だから、宿所の警戒を厳にし、貴下の外出をも制限しているのである」と。 」
井上は、公使の江戸居住は必ず騒擾(そうじょう)の原因になるから、川崎か神奈川にした方が公使自身にとっても好ましいに違いないと言った。ハリスは、井上の言葉を半信半疑できいていた。と言うわけは、江戸滞在五十五日間、そういう話は全くなかったし、公使の江戸居住問題が論議された第一回目の談判の朝になって突然逮捕者が出たというのは、どう見ても疑わしいと思った。だから、井上にむかって、「たとえ三名が三千名にしたところで、浪人の騒ぎぐらいで外国公使が江戸へ近づかなくなると思うなら、それは外国人の性質を知らぬもので、真面目に返事をする気にはなれない」と言って、突っぱなした。
ハリスの疑問
ハリスにして見れば、日本人が恨みも何もない外国人を矢鱈(やたら)に殺害するということは、容易に理解のできぬところであった。「右の者は、私を一目撃もいたし候義はこれあるまじく、私よりも悪事等相施し候ことは曽てこれなく候。若し一時面会いたし、一体の理合を説示候はば、右等の邪念は、忽ち相解け候ことにこれあるべしと存じ奉り候」というハリスの天真爛漫さには。井上も、「右は其許に意趣こ退恨等これありての所為にては毛頭これなく、理非・善悪の差別もこれなく、外国人を忌み嫌ひ候情より、右樣の企ていたし候儀」と答えるほかはなかった。逮捕された首謀者三一名とは、水戸藩の堀江芳之助・信田(しのだ)仁十郎・蓮田藤蔵であった。ハリスの出府以来、これを暗殺しようと、水戸藩士を中心に浪人を加えた一味十名ほどがこの謀議に参画した。十一月十九日に前記の三名が水戸を出奔し、江戸へ来てハリスの身辺をつけ狙ったが、警戒が厳重で目的を果たすことができず、水戸藩庁の追捕の手と幕府の厳重な探索により進退に窮して、同月二十七日に江戸の水戸屋敷へ自首したのであった。だから、同人らの逮捕の時から、井上がそれをハリスの耳に入れた日までを数えると、すでに二週間たっていたことになる。幕府は、これら三名の者を伝馬町の牢獄につないだ。
犯人の釈放を要求
『ヒュースケンの日記』によれば、ハリスはそれらの者の釈放を幕府にもとめたが、聞きいれられなかったという。蓮田と信田は間もなく獄中で病死した。堀江芳之介(克之介ともいう)は後年出獄したが、文久元年(1861)五月二十八日の水戸浪士による東禅寺のイギリス公使館襲撃にも参加した。すなわち、骨の髄からの攘夷論者で、こうした者の多かった時代であった。
「蓮田・信田両名の遺詠
蓮田藤蔵(安政五年正月五日、江戸において獄中死、年二十六歳)
武蔵野の あなたこなたに 道はあれど 我が行く道は ますら男の道
信田仁十郎(同年五月十七日、前同断、三十六歳)
大君の 身をけがさじと 賤(しず=いやしい)が身を なき人かずに いれてこそおれ(『殉難後草拾遺)。 」
三 第二回〜第九回談判
第二回談判
第一回談判の翌十二日午後二時半から第二回の談判が行なわれた。場所は、やはり蕃書調所の一室。日本側は草案第一条の公使江戸駐箚の件を渋々(しぶしぶ)ながら承認したが、その代わりに公使を派遣する時期をおくらせてくれといった。その理由は、物議の沸騰(ふっとう)している現状において外国公使を江戸へおくことは、攘夷論に油をそそぐ結果になる というのであった。ハリスはこれを、幕府の常套手段である遷引策を弄するものとして容易に同意しなかったが、ついに日本側の切望を容れて、草案の期日よりも一年半遅らせた一八六一年一月(万延元年十一月に当たる)まで公使を派遣しないことを固く口約した。また、公使と領事の国内旅行の自由については、日本側は諳大名の反対をおそれて公務以外の場合の領事の旅行を承認せず、この件では両者が互いに譲らなかったので、次回へ持ちこすことにした。第二条の「大統領の仲裁、アメリカ軍艦の日本船援助」は、日本側の希望する条項でもあり、ハリスもそれを予想して挿入したものであるから、これは即座に妥結した。つぎに、この条約の要(かなめ)ともいうべき第三条「開港・開市」の場所の件が採り上げられたが、この問題でぱ激しく議論がたたかわされた。日本側は相変わらず神奈川・箱館・長崎の三港以外を拒否、これに対しハリスは江戸・大坂・京都を含む十ヵ所を要求し、貿易の港市が多ければ多いほど、それだけ日本の国益は大きくなり、関税による政府の財源も増大すると説いた。日本側は、一時に多数の港市を開くことは、現下の国情が許さない、「それは漸(ぜん)を追ってなすつもり」と言って、ハリスの舌鋒(ぜっぽう)をかわした。
「討論は暗くなるまでつづいたか、そのとき日本委員は、貴下の議論は非常に重要なものであるから、それらを熟考するために一日を必要とする。それ故に、明後日まで貴下と会見することはできないと語った。かくて、私が前に記したこと――すなわち、実際上、私は政府全体を相手に折衝しているのであって、日本委員は単に彼らに告げられたことを復言し、私の言うことを報告することができるだけであるということが確証されたわけだ。
二人の日本人書記は、一言一句をも書きとるため、たえず働いた。」(『ハリスの日記』)
第三回談判
十二月十四日、午後一時半から第三回の談判が行なわれた。この談判では、第三条の「開港」の件がもっぱら議題となった。
新潟港
日本側の主張は、大体前回の蒸(む)しかえしであったが、西海岸に面する新潟を開港してもよいと言った。これは人口六万を擁する都会で、信濃川という大河がこの町を貫流している。その影響で港には泥が充満していて、大型船の入港は不可能だが、もし西海岸に新潟よりも良い港が発見されるなら、それに変えてもよい、ともいった。また、石炭は長崎から三里以内のところで発見されているから、九州では長崎以外の港を要求する必要はない。
京都
ミアコ(京都)は貴下の想像するような繁栄の都市ではなく、僧侶と寺の町にすぎない。大きな製造業もないし、絹を織る家も二十軒以上はない。天皇(ミカド)の都として有名な場所だが、ミカドには金も政治的な力もないし、国民に尊敬される何ものでもなく、一介の価値なき人物に過ぎないと言った。これはハリスに、京都は貿易の価値のない場所であると思いこませるための放言だった。
対外政策の鬼門
この京都こそは攘夷論の本源地で、いわば幕府の対外政策の鬼門であるから、ここだけは断じて食い止めなければならなかったのである。ハリスは短刀直入に、江戸・大坂・新潟・神奈川・長崎の期限つき開放を要求した。
「私は次の場所の開市・開港をつぎのように定めたいと言った。
江戸は一八六三年一月一日に開く(品川と共に)。
大坂は一八六一年七月四日に開く。
新潟は一八六〇年七月四日に開く。
神奈川は一八五九年七月四日に開く。
下田は一八六〇年一月一日に閉鎖し、長崎を一八五九年七月四目に開く。
日本委員は、江戸と大坂の開市はとても困難で、この困難は克服されそうにも思えないと語った。彼らは、それは不可能なことと考えていた。それ故に彼らは、それについて一日考えさせてくれと言い、今月の三十日、土曜日に私と会見しようといった。」(『ハリスの日記』)
日本側委員はこの席上、このような重大問題は幕府の一存で決することはできない。
武士階級の反対
もし幕府が諸大名の意見に反してこの問題を処理しようとすれば、騒擾(そうじょう)――すなわち謀叛(むほん)をひきおこすだろう、商人や一般庶民は開国に賛成と思うが、大名や武士階級の反対は非常に大きいので、我々は貴下の意見に賛成しながらも、これを実行することができないのだと言った。これは、その通りだったが、それで済む問題でぱなかった。ハリスは例によって、
「御拒(こば)みなされ候へば、自然御危難出来仕るべく、右は合衆国より事起り候儀にはこれなく、他の国より仕向け候よう相成り申すべく、江戸・京都・大坂の三港御開きの儀、斯く繰返し申上候に、御危難を除き申すべき為に御座候」(『幕末外国関係文書』の十八)
と、どこまでも突っ張ったのである。
第四回談判
一日飛んで、十二月十六日に、四回目の談判を行なう。この談判で、日本側は江戸と品川の開市・開港を承認したが、アメリカ人の居住を神奈川と横浜とに限ることにすると申し出た。これに対しハリスは、アメリカ人の江戸居住が認められなければ、江戸が開市されても貿易の実行は不可能であり、「アメリカ人が神奈川から江戸へ行き、その日のうちに戻り、しかも江戸で用事をたすことを期待するのは、肉体的にも不可能なことであり、このような取極めはアメリカ人が江戸で品物を売るのを防止するものだ」と反対した。品川については、同所は浅瀬で、開港場として物にならないのを知ったので、ハリスの方から要求を撤回したが、その代わりに、「江戸と大坂――すなわち、日本の二大都市からアメリカ人を閉めだすかぎり、自由貿易を云々するのは愚かも甚だしい」といって、江戸と大坂を強硬に要求した。
勝手の貿易
日本側はこの談判で役人の仲介なしの貿易(勝手の貿易、すなわち自由貿易)を認めたが、それに付言して、「日本には問屋と称する大商人の階級があるから、それらが神奈川で店舗をひらき、アメリカ人はそれを相手に売買するようにしたい」と申しでた。ハリスはこれに対し、「アメリカ人の販路を問屋に限ることは、そうした階級を保護するために専売制度を設けるに等しい」と反対したが、日本側は問屋に定数はないので専売のおそれはないと陳弁した。とにかく、この日の談判で日本側が自由貿易ヘー歩踏みだしたことは、ハリスにとって大きな収穫だった。
第五回談判
十八日に第五回談判。日本側委員はハリスの前回の議論に屈して、「神奈川をアメリカ人の居住の場所にすると共に、一八六三年一月一日以後商用で江戸へきたアメリカ人の一時的逗留(とうりゅう)のために、江戸市中に一街を設ける」ことで妥協を申し入れた。しかし、この居住と逗留の区別で議論が紛糾して、容易に意見の一致を見なかった。ハリスとしても、アメリカ人と日本人との雑居は強いて求めず、居留地制度に甘んじたのであるが、しかし妻子との同居を許されぬ一時的な逗留には承服しかねる旨を明らかにした。そして、「一八六三年一月一日(文久二年十一月十二日に当たる)以後に、アメリカ人の商用のために江戸を開市し、その目的で居住する場所は、後日アメリカの代表と日本政府との間で取りきめる」という文句を条約に明記すべきことを要求した。日本側としては、条約反対論者、ことに外国人の江戸「居住」に反対する諸大名の手前、なるべく「逗留」の文字を使いたかったのだが、ハリスは、江戸「居住」を条約文に明示しなければ江戸での商売は半身不随も同様だといって、承知しなかった。
第六回談判
翌十九日の第六回談判では、主として京都と大坂の開市が問題になった。日本側委員は、京都の開市は国情の到底許さぬところと前置きして、その理由をこう語った。
「京都をアメリカ人に居住地として開くことは絶対に不可能である。それは日本人の宗教と結びついている。これは至難であるというよりも、実際上出来ない相談である。それに、京都は商用の土地柄ではない。そのことは、アメリカの公使がそこを訪問すれば直ぐにわかることである。また、京都を外国人の常住地として開こうとすれば、謀叛(むほん)を惹き起こすことになろう。貴下がこの由を大統領に申し送るならば、大統領は日本に対して極めて親切な友人であるから、実際上の価値がなくて、同時に日本に無秩序と流血とをもたらすようなことを主張するはずは決してない。」(『ハリスの日記』)
京都の開市を断念
ハリスは、京都が商業都市でないこと、および京都の開市が日本全土の人心に刺激をあたえる危険のあることを感知したので、これを断念することにしたが、大坂には飽くまで食いついて離さなかった。日本側は、京都に近いという理由で大坂の開市・居住を拒み、これに代えるに堺か兵庫をもってしようと申しでた。
飽くまで大坂を要求
ハリスは、どこまでも大坂を要求した。
「大坂は江戸につづき候好き地にて、川筋四通五達、商売都合宜しく、船具その外取扱うにも便利、地も広く人も多ければ、商いも随って盛に相成るべく、此地を除き候ては、商法狭少に相成り、外の地所にて御開にては、十分の一と相成り、商売も又十分已の小商売に相成り申し候 」(『幕末外国関係文書』の十八)というのだ。
この問題をめぐって、長い間論議が戦わされた。日本側は、それならアメリカ人を堺に居住させ、そこから大坂へ行って商売し、またその目的で家を借りる権利をも与えるが、しかし大坂に宿泊することは許さないという、条件づきの開市を申しでた。ハリスはそれを一蹴し、大坂に宿泊できなければ、もし急病になった場合にどうするつもりか、無理に堺へ送り帰して途中で死んだら人道問題になると、そんな例えにかこつけて無理やり自説を通そうとした。日本側はまた、草案第七条の「アメリカ国民の旅行の自由」について、公使および総領事をのぞく一般アメリカ人には自由を認めることはできぬと強く主張した。そして、この問題と京都開市の件は二つとも絶対に不可能であり、それらを許せば必ず日本に叛乱が起こると言った。議論は白熱し、激しい言葉のやり取りがあった。日本側委員は、「もし諸外国がこの二つの件を理由に日本と戦端を開くなら、我々も最善の努力をもって応戦する覚悟だ。内乱は外戦よりも恐ろしい」と口走った。
条約成否の分岐点
夕暮になったので、ハリスは洋燈(ランプ)の用意を命じた。日本側委員は、貴下の頑張りにはすっかり閉口した、今日のところは、これでご免をこうむりたいと言った。ハリスは彼らに、「今こそ条約成否の分岐点である。
一歩あやまれば、これまでの苦労は水泡に帰する」といって、真剣な考慮をうながした。
第七回談判
このように、ハリスは「日本の国益と、危難の回避」を矛(ほこ)として論法鋭くつめより、日本側は「国情の許さぬところ」を楯(たて)にとって、互いに譲らなかったのである。
井上の苦衷
その翌日早朝、井上はハリスをその宿所に訪ね、今や江戸城内では保守派の間に猛烈な条約反対論が湧きおこっており、人々は幕府の譲歩に激昂していると言って、自分の苦衷をうち明けた。そして、「貴下が京都や大坂の開市とアメリカ人の国内旅行の自由をあくまで要求するならば、条約の全部を打ちこわす恐れがある。日本側のこれまでの譲歩は、当初においては夢想もしなかったところである。無価値なものを望んで、条約全体を失うよりも、これまで獲得したものを確保する方がよくはないか。これらの二つの問題にしても、幕府がいつまでも拒否するものではなく、いずれ人心の居合(おりあ)いがつけば自然に解決される問題だ」と言って、ハリスの翻意(ほんい)をたのみこんだ。ハリスも井上の衷情(ちゅうじょう)を容れて、「もし、条約の他の部分が全部こちらの思い通りになるならば、貴下の希望に応ずるようにする」とこたえた。こうした事前の了解のもとに、十二月二十一日に第七回の談判が行なわれたのである。この談判では、草案の第三条(開港・開市)・第四条(関税、アメリカ海軍の食糧・弾薬等の貯蔵に関する規定)・第五条(貨幣交換)・第七条(開港場の境界、旅行・居住の自由)について論議され、談判はようやく妥結にむかって進みだした。
対抗意識を去る
日本側委員は当初に見られた対抗意識を去って、愚問を恥じずに率直にハリスの教示を乞うようになり、ハリスもまた相手の手を取るように教え、たがいに誠意をもって談判の進捗(しんちょく)をはかったのである。ハリスは、大坂をアメリカ人の居住地として開放するならば、日本側の鬼門とする京都の開市とアメリカ人の旅行の自由を撤回しようと申しでた。第五条には、日本人に支払われる外国貨幣に対して六パーセントの両替手数料を日本政府に支払い、また日本貨幣の輸出を禁止する事があったが、日本側はその六パーセントを放棄し、また日本貨幣の自由な輸出を認め、外国貨幣を日本において自由に通用させることにすると言明して、ハリスを大いに喜ばせた。日本側はまた第四条をも承認したが、これもハリスにとって大きな収穫だった。
「この第四条は、合衆国政府に対し神奈川・箱館・長崎に、アメリカ艦隊の使用する必需物資を無税で陸揚げする権利を認めることであった。この承認によって、アメリカは世界で最も健康にめぐまれた気候を有する国において、東洋の合衆国海軍のために三つの良港を物資補給地とすることに成功したのである。」(『ハリスの日記』)
従来東洋におけるアメリカ艦隊の補給は、その競争国たるイギリスの主権下にある香港に依存してきていたので、一朝両国間に紛争のおきた場合には直ちに閉鎖される運命にあったのである。
「第八回の談判
十二月二十三日に、第八回の談判が行なわれた。大坂の開市の件をめぐって、再び激論がたたかわされた。日本側は、大坂は開くが、アメリカ人の居住地は堺とするという主張を依然として堅持した。そして、万一アメリカ人が大坂で急病になった場合を顧慮して、大坂と堺の間に病院を設けることにすると言った。ハリスが前回発言した急病人発生の場合云々は、ただ論証の手段として一例をあげたまでで、その主意はあくまで大坂の完全な開市(すなわち居住を含む)にあったのだから、その裹をかくような病院設置の提言には、彼はかんかんになって怒った。
再び大坂を拒否
日本側は例によって、「大坂は皇居最寄りの地、殊に人心居合わざる当節」云々(うんぬん)を主張して譲らず、ハリスは、それなら前回撤回した京都の開市と国内旅行の自由の二件を蒸しかえすことにすると言いだした。日本側委員は、「しばらく訥(ども)ったり、まごまごしたりした。そして、この提案は自分らの本意から出たものではないので、城中へ帰って報告した上、再考することにしようと、折れて出たのである」。」(『ハリスの日記』)
ついで、日本側から他の箇条を採りあげることを提議して、第六条(領事裁判の件)に直ちに同意を示した。第七条(開港場の境界、旅行および居住の自由)は、第三条(開市・開港の場所)の解決を見るまで保留することにしたが、第八条(信仰の自由)から第十五条(条約の施行)までは、いずれも若干の修正を行なっただけで異議なく通過したのである。
批准書交換使節の派遣
第十六条(批准書交換の件)では、日本側委員が意外な発言をして、ハリスを歓喜させた。
「彼らは、もし貴下が希望するならば、批准書の交換のための使節を日本の蒸気船にのせて、カリフォルニアを経由してワシントンに派遣することにしたいと提議したのである。私は、私にとりこれ以上の喜びはないと述べた。そして、合衆国は日本が条約らしい条約をむすんだ最初の大国であるから、最初の日本使節を、合衆国に送ることは、私の欣快にたえぬところだと告げた。」(『ハリスの日記』)
思うに、二人の日本側委員、ことに岩瀬忠震は、当然自分が使節の役目をおびて、批准書交換のためにワシントンへ派遣されるものと思い、また自分でもそれを希望していたのであろうが、条約調印直後の政変で堀田正睦が失脚するや、岩瀬自身も井伊大老のために退けられてしまった。そのために、万延元年(1860)の遣米使節の大役は、遺憾にも他の人々にこれを譲らなければならなかったのである。
第九回の談判
十二月二十五日に、第九回の談判。ハリスの強硬な申入れにより、幕府はこの回において大坂の完全な開市を認めたのである。ハリスの日記によれば、
「約束の通り、午前八時に会見する。日本側委員は大坂の件について色々な箇条を提出したが、結局、彼我の間でつぎのように意見の一致を見た。すなわち、一八六三年一月一日に江戸の市、一八XX年×日に大坂の市を居住と貿易のためにアメリカ人に開くこと。これら二市のいずれにおいても、アメリ力人が家屋を賃借できる特定地と遊歩しうる距離を、アメリカの外交代表と日本の政府によって設定すること。」(『ハリスの日記』)
これに気をよくしたハリスは、さらに堺と兵庫の開港をも要求したが、日本側は、大坂の代わりになら兵庫を開いてもよいが、大坂を開いた以上は開くわけにはゆかぬと、きっぱり断わった。そこでハリスは、「それなら兵庫は撤回するが、これは良港だから、いずれは開港する日が来るだろう」といって、堺だけで我慢することにした。
兵庫の良港に着目
兵庫の良港であることに着目したハリスは、さすがに烱眼(けいがん)であった。彼は、草案にはこれを入れていなかったのだが、談判の途中から兵庫は貿易港として大坂以上に有望であることを洞察していたのであった。結局、後の談判で、日本側からの申し出により堺をやめて兵庫を開くことになったのであるが、この兵車の開港実施は、後年に至って国論紛糾の種となり、幕府の存亡をかける大問題にまでなった。
大坂の開市
それはとにかく、日本側の譲歩によって、条約の最大難関と目された大坂開市の問題もここに落着を見たのであるが、これは井上・岩瀬両全権の説得が幕議を動かしたからであった。両人もハリスに対して、「大坂を江戸同様に開き候は、実にもってむつかしき儀のところ、過刻(かこく)も申し入れ候通り、両人とも格別力をつくし、種々評論を重ね、稍(やや)其方の申し条も相立て候儀故、右等の辺、得(とく)と推考斟酌(しんしゃく)これありたく候」(『幕末外国関係文書』の十八)と、大いに恩をきせている。こうして談判もようやく峠をこし、これまでに決まった開市・開港の場所について、その実施の期日がつぎのように定められたのである。
神奈川 一八五九年七月四日。長崎 同上。新潟 一八六〇年一月一日。 江戸 一八六二年一月一日。堺 一八六三年一月一日。大坂 一八六三年一月一日。
四 第十回〜第十四回談判
第十回の談判
十二月二十六日に、第十回の談判が行なわれた。この日の談判では、貿易の具体的な規定(貿易章程)が採りあげられ、関税の方法、荷物の改めかた、過料、各税法の利害得失などについての質疑・応答があった。日本側の質問に対するハリスの応答は、むしろ生徒に対する教示に近かった。日本側委員もこれらの回題について、知らざるを知らずとする率直な態度に出た。
「日本側委員は、こう言った。我々は、このような問題を取り扱った経験がないので、こうした事には全く暗いと。
また、こう言った。貴下は疑いもなく、今我々のために大きな苦心をはらって、貿易の規定を作成されている。我々は、貴下の親切に感謝する。当方では、貴下の廉潔に全幅の信頼をおいているので、それらを原案のまま認めようと。」(『ハリスの日記』)
貿易章程
こうして作られた貿易章程七則は、ハリスの草案を骨子として出未たものだが、世に誤って伝えられているような、ハリスがこれらを強要して、日本の関税自主権を犯したというような事実は全くなかったのである。
第十一回の談判
日本は、こうして安政五年の新たな年を迎えることとなった。これは、対外的に、また国内的に、徳川幕府にとって最も多難な年となったのである。条約談判は、すでに終わりに近づいていたが、それが終末に近づくに従って、諸大名はじめ保守主義者の条約反対論は、ますます激しくなってきたのである。幕府の外交当局者はこの事態を憂慮して、反対論者の慰撫(いぶ)や説得に努力したが、幕府の藩屏(はんぺい)ともいうべき御三家の長老、水戸の斉昭が反対論の先鋒を買って出ているので、始末が悪かった。
正月の蟄居
江戸で迎え九日本の正月を、ハリスは蕃書調所の一室にとじこもったままで過さなければならなかった。屋外は登城の大名行列や着飾った民衆でにぎやかだったが、正月の混雑に紛れて刺客が入り込むおそれがあったので、幕府から外出をとめられていたのである。ハリス自身も、時節がら余計な刺激や摩擦を人心にあたえてはとの遠慮から、もっぱら屋内に蟄居(ちっきょ)していた。正月の三日は終日物凄い吹雪だった。それはハリスに故郷ニューヨークのきびしい冬空を想いおこさせた。正月も三ヵ日を過ぎた一月四日に、前回の後をうけて第十一回の談判が行われた。(注=この日の談判については、日本側の記録がない。これは、談話の内容が機密にわたったので、筆記者を席から遠ざけたからだと思われる)
日本側、調印不可能を発言
もう一息で条約は妥結(だけつ)・調印というところまできていたのだが、この日の日本側委員の発言はハリスにとって大きなショックだった。条約反対論が非常に激しくなってきているので、たとえ談判が妥結しても、このままでは調印は不可能だと言い出したのである。
「彼らの話によれば、幕府は条約の実体を諸大名に示した。ところが、城中は忽ち鼎(かなえ=大なべ)の沸くような大騷動となった。若干の最も過激な分子は、このような大変革の実行を許す前に、自分の生命を投げだすと言いだした。そこで閣老たちはこれらの人々の啓蒙につとめ、皇土(キングダム)の滅亡をさけるためには、条約の締結は止むをえないことを諭(さと)したが、大部分の者は依然としてこれに応じない。幕府は、流血の惨事を見ることなしに、今直ちに条約に調印することが出来ない状態にある。そして、大統領としても、日本にこうした災害をもたらすことは欲せぬものと確信する、などと言った。
精神的皇帝への特使
彼らは最後に、閣老会議の一員が「精神的皇帝への特使」として京都へおもむき、皇帝の認可を得ることができるまで条約の調印を延期したいと言った。その認可がおり次第、大名たちは反対を撤回するに相違なかろうし、そうなれば調印は円満に行なうことができるが、それには約二ヵ月を要するというのである。この重大な話がおわるや、私は彼らに、もし天皇(ミカド)が承諾を拒むなら、諸君はどうするつもりかと訊ねた。彼らは直ぐに、断乎たる態度で、幕府は天皇の如何なる反対をも受けつけぬことに決定していると答えた。私は、単に儀式だけと思われることのために、条約を延期する必要がどこにあるかと問うた。彼らは、この厳粛な儀式そのものに価値があるのだと答えた。そして、私の了解したところによると、天皇(ミカド)に対して荘重に上奏し、天皇の決定が最後の切り札とたって、あらゆる物議が直ちにおさまるであろうというのであった。」
ハリスの憤懣
ハリスはこの陳述を、言いようのない失望と憤懣(ふんまん)の気持できいていたが、聞き終るとこう言った。
「諸君が私に話したことは、談判の歴史に先例のないことであり、それは児戯(じぎ)に類し、日本を治めるような賢明な政治家のなすべきことではない。それは重大事件を軽視するもので、大統領に甚だしい憂慮をあたえるにちがいない。そんな些細(ささい)な理由のために、非常に大きな労力を費してきた条約に調印することを拒むよりは、全然談判をしなかった方がましたった、と。 」
複雑な政情
日本の政情に疎いハリスの眼から見たら、天皇(ミカド)へ上奏などという儀式的行事は「児戯(じぎ)に類した」ことであったろうが、怪物の斉昭が今や朝廷と通謀して、朝威をかりて諸大名の反対熱を煽(あお)っていたのだから、幕府としてもそれを押し切って調印することは出来なかったのである。堀田正睦を初めとする幕府の開国論者は、この上はこちらも朝廷に働きかけ、勅命をかりて反対論者を承服させる以外に手はないと考えた。そこで井上清直に命じて、条約の勅許を得るまで調印の実施をのばすことをハリスに懇請させたのである。
六十日間の調印延期
ハリスは、意外な障害を知って当惑したが、幕府が当面している事態の重大さ知ったので、止むなく六十日間の調印延期を承諾した。ハリスの日記によれば、
「そこで私は、信濃守(井上)にこう提言した。我々は条約をできるだけ速かに進捗させ、完了の上、それを清書させて、調印を待つばかりにしよう。それから、彼我の委員は条約の仕事を完了して、今や調印するばかりになっているが、ある重要な理由のために調印は六十日間延期する必要があり、その期間が満了したら(或はそれ以前に)、条約は現在のままで調印するという一札を、閣老会議か外国事務相から私に入れさせることにしよう。その後私は直ちに、合衆国政府へおくる書信を用意するために下田へ戻ろう。五十日の終りごろ(それ以前でないならば)、幕府は条約調印の目的をもって私を再び江戸へ連れかえるために日本の汽船を下田へ派遣する、ということにしては、と。信濃守は大いに安心し、早速この旨を幕府につたえ、そのことで明日私に話そうといった。」(『ハリスの日記』)
ハリスは目をつぶった。そして、おだやかでない自分の胸に、「止むを得ない」と言いきかせた。自分の置かれている特殊の状況において、これ以上の策はとることができないと考えたのである。
第十二回の談判
ようやく妥結の寸前まできたとき、これまで日本の唯一の政府と思ってきた江戸の政府以外に、さらに京都に朝廷なるものがあって、その承認なしには条約の調印が不可能だとは、全く自分を、そしてアメリカを馬鹿にした話だと思った。やり場のない憤りと不安を交えた気持で、ハリスは一月六日の第十二回の談判にのぞんだのである。この目の談判では、草案第一条の[外交官の国内旅行の自由]が議題になった。日本側は、公使と総領事については旅行の自由を認めたが、普通の領事の場合はこれを拒否すると言った。ハリスは国際法の通義を引いて日本側の主張を非難したが、日本側委員は特殊な日本の国情を理由に頑として拒否をつづけた。日本側としても、故意に外国人の内地旅行を妨害するつもりはなかったのであるが、幕府の直轄地はいざ知らず、外国人が自由に大名の領地へ入る場合には生命の保証ができず、そのために国際問題をおこしては困るので、あくまでも拒否することにしたのである。ハリスもついに断念して、これに従った。
勅使奏請の使者
一月八日に、幕府は外交事情を朝廷に奏上して条約調印の勅許を仰ぐため、堀田に京都ゆきを命じた。すでに前月(安政四年十二月)に、儒者林大学頭(かみ)(韋)と目付の津田半三郎を京都へのぼらせて、外交事情を奏上させていたのであるが、いよいよ条約談判も終わりに近づいたので、幕府官僚の首脳者であり、外交問題の最高責任者である堀田が自ら出むいて、勅許奏請の衝(しょう)にあたることになったのである。随員は、談判委員の一人であり、俊秀・機敏をもって鳴る目付の岩瀬肥後守(忠震)と、井上信濃守(清直)の兄で老巧をもって聞こえた勘定奉行の川路左衛門尉(聖謨)であった。
幕府の対京都政策
当時、堀田をはじめ幕府の外交当事者は朝廷を甘く見すぎていた。朝廷は権力を持たず、かつ貧乏であったから、幕府の対京都政策の常套手段である威圧と買収、すなわち「黄白(こうはく)を撒(ま)く」ことによって、勅許は容易に得られるものと考えていたのである。幕府の上奏は朝廷を重んじてのことではなく、その真意は斉昭一派の反対を抑えることにあった。『昨夢紀事』によれば、斉昭は、「備中と伊賀(老中、松平忠固=ただかつ)には腹を切らせ、ハリスは首を刎(は)ねて然るべし」と怒鳴ったという。『ハリスの日記』には、「狂人のように喚(わめ)いているそうだ」とあるが、多分これらを言ったものだろう。
斉昭の京都手入
こうした斉昭の、いわゆる「京都手入れ」(朝廷に策動して、条約を葬ろうとする)は、将軍家の藩屏(はんぺい)でありながらその頸(くび)を絞めようとするものだったが、一方これを抑えるために軽々しく朝廷を利用しようとしたことは、堀田およびその一派の失脚の原因をなしたばかりでなく、幕府権力の失墜の元ともなったのである。この点では、岩瀬や井上などにも誤算があった。
朝廷に対する誤算
彼らは朝廷を軽蔑して、「目下多額の黄金が天皇の諸役人の間にまかれているから、朝廷の認可は間違いない」と、繰返してハリスに言っていたのである。それほど軽蔑している相手、すなわち朝廷のために、なぜ条約の調印を延期する必要かあるのか! これがハリスの大きな疑問であり、不安のまとであった。彼は『日記』に、こう書いている。
「天皇(ミカド)に対して、二種の意見書が提出されるということだ。その一つは条約の提案に賛成し、他は反対するものである。天皇は両者を審査した上で、その一つを認可するであろう。その認可には、すべての者が承服しなければならない。最も激しく条約に反対している人々でも、(天皇が大君の方に賛成するならば)、「神宣(のたま)う。われ従わん」というであろうと。 「しかし、これは、日本側委員が私に天皇のことを話すときの、ほとんど軽蔑的な態度とは、あまりにも一致しない」。そして、「彼らが私に話すことには、どうしても全幅の信頼がおけない」と言い、「私は、条約について全く失望し、意気銷沈(しょうちん)している。私は大統領の承認をうるような条約の締結に全く失敗するのではなかろうか。大いに気がかりである」 」とのべている。
日本人のオランダ語通訳者や、来訪した井上に対する八つ当たり的な言葉を『日記』の中にならべているが、それから五日して重症の床にたおれたところから見ると、この頃からすでに健康状態がわるく、条約に対する焦燥感から精神的にも自制の域をこえていたように思われる。
第十三回の談判
一月十日に、ハリスは最後の締めくくりとして、第十三回の談判にのぞんだ。
堺の代わりに兵庫を開く
この談判で特記すべきことは、先に決めた堺をやめて、その代わりに兵庫を開港することを日本側で提案したことだ。これは、堺が地理的に大和(やまと)の御陵に近いところから、幕府が朝廷に気がねして、兵庫と取りかえるに至ったものと思われる。堺の港が貧弱なのに反して、兵庫は今日の神戸が示しているように関西第一の良港であったから、もちろんハリスはこれを応諾した。また、長崎と箱館の開港場の区域は、ハリスの提案をそのまま日本側が認め、長崎はその周囲の御料所(幕府直轄地)、箱館は四方およそ十里の境界内ときまった。新潟の開港については、もし同港が開港場として不都合な場合は、西海岸の他の一港をこれに代えることにし、その決定は後日に延ばすことになった。
条約本文の妥結
日本側から各条文の用語についての修正案がだされ、それが終って午後五時に条約本文の妥結を見た。
輸出税
ついで付属規定である貿易章程がとりあげられた。日本側は、罰金の件や噸(トン)税を課さないという点ではハリスの教示を採択したが、しかし輸出税については、これを課することにしたと通告した。ハリスは前回にイギリスとアメリカの先進国を例にひいて、輸出税は日本の産業の発達を阻害するから、輸入税だけにした方がよいと、経済の原則を説明して忠言したのだが、日本側では課税することに決定したというので、不満ながらこれに従った。ハリスは『日記』の中で、「このような輸出税は如何なる繁栄の貿易をも粉砕するであろう」と残念がっているが、幕府としては、日本の産業の発達よりも、枯渇した幕府財政の救済の方が焦眉の急だったのである。そこに封建制度の矛盾があり、そうした矛盾が重なりあって、ついに徳川幕府は亡びるのである。
ボウリング総督への手紙
この日、条約本文の妥結に安堵したハリスは、香港のイギリス総督ジョン・ボウリングに長文の手紙をおくったが、その中で、日本人との談判の困難さをのべ、満足すべき条約がむすばれて、日本との商業関係が従来と異なった基礎の上に打ち立てられるならば、世界の国々も満足するであろうし、日本にとっても平和と繁栄と永久の利益になるであろうと書き、(イギリスの企図しているような)大艦隊の威圧を借りることなしに、自分が単身ここまで漕ぎつけたことに、いささか得意の口吻(こうふん=言い方)をもらしている。だが、ハリスのそうした気持は、まだ早かった。なるほど条約の妥結は見たが、目指す調印は「攘夷」の激浪のため遙かな沖へ押し流されていたのである。朝廷は元来攘夷の本源地であったが、斉昭の「手入れ」以後は謀略的な策源地と化していた。幕府の必死の工作を全く無視して、調印に反対の気構えを少しも変えようとはしなかったのである。ハリスには、京都の事情はさっぱり分らなかった。知らされてもいなかったし、むしろ、その反対のことが聞かされていた。
第十四回の談判
一月十二日に第十四回の談判が行なわれたが、この日は前回に間に合わなかった関税率の表が日本側から示されただけてあったから、談判は事実上十三回目で終わったものと考えてよい。
関税率の決定
なお、関税率についてハリスは、「私は如何なる輸出税をも課することのないように切望してきたのであるが、私はこの考えを放棄しなければならない」といっているが、その代わりに日本側でもハリスの要望をも容れて、原案の十二・五パーセントを五パーセントまで引き下げたのである。 
■第七 日米通商条約調印のいきさつ 
一 調印延期の談判
江戸へ入ってから八十七日、談判を重ねること十四回で、ハリスはようやく条約の妥結に成功し、今はただ調印を待つばかりとなった。しかし、幕府は調印前に勅許をうる必要があったので、前に述べたように、二ヵ月の調印延期をハリスに懇請したのであるが、ハリスはこれを承諾する代わりに、もしその期間中にイギリスが軍艦をつらねて渡米し、いかに条約を強要しようとも、決して自分よりも先に調印はしないという誓約を幕府にさせた。
ハリスの憂慮
これは、ハリスの一番心配した点てあった。折角苦心してきた日米条約が調印されないうちに、後来のイギリスに先を越されることは、到底ハリスの堪えうるところではなかった。他国に先んじて日本と条約を結ぶということが、ハリスの願いであり、生命であり、また祖国アメリカの希望であったから。
発病
談判がすんで二日目、「強い北西風がカムチャツカからの寒気をともなった」一月十四日に、ハリスは悪感(おかん)におそわれ、ひどく発熱して、病床についた。彼は調印までの二ヵ月間を利用して、ひとまず下田に帰って静養して来ようと思っていたのであるが、この考えは突然の発病によって早められた。下田にはアメリカから持参した薬もあり、同地は気候が穏かなので、病気をおして日本の汽船で帰ることにしたのである。彼は下田へ帰るに先だって、二通の条約言に署名調印し、病中もしものことを考えて二連を井上清直に托した。井上はその代わりに、二ヵ月以内に調印するという趣旨の堀田正睦の誓約書をハリスにあたえた。
下田に向かう
ハリスは安政五年一月二十一日に江戸を立ち、芝新銭座から幕府の蒸気船「観光丸」にのり、九ツ時(正午)に品川沖を出帆した。当時の江戸の町触れは、
「明二十一日、アメリカ使節御当地出立につき、元飯田町蕃書調所より、雉子(きじ)橋御門外御堀端通、常盤御門外左へ、本町二丁目より日本橋通、柴井町より、松平肥後守屋敷脇、江川太郎左衛門調練場、それより乗船のつもりに候間、かねて町触の趣堅く相守り、通行中、すべて不取締の儀これなきやう、厳重に相心得べく候。この通り道筋並びに最寄り町々、洩れざるよう触れ知らすべきものなり(『幕末外国関係文書』の十九)。」
幕府は、医者のほかに、奉行所の組頭・調役(しらべやく)・同並出役・同下役・同心(どうしん)などの付き添いを同船させて、途中の警戒にあたらせた。
危篤状態
下田に到着するや、ハリスは重態におちいった。数日間は危篤の状態にあったという。高熱で、チフスの病状がみられた。危険な容体が数週間もつづいた。将軍からも、老中一同からも、病状を心配する懇篤な見舞いの手紙がよせられた。長崎でオランダ医学を修めた、最も勝れた医者伊東貫斎と、もう一人の医者が下田へ急派された。将軍の夫人からは手厚い見舞いの品々がハリスの病床へとどけられた。
手厚い看護
毎日の容体書が、医者の手から江戸の城中へおくられた。すでに絶望状態であることを告げた報告に対し、幕府からは折りかえして、どうでもこうでも生命をとりとめよ、という強い命令がおくられてきた。もしハリスの一命を取りとめ得ない場合は、切腹して申し開きをするようにと、きわめて無理な注文さえよこした。医師たちた、切腹を覚悟して、刀を病床のそばに横たえながら、万全の手当をほどこしたという。その甲斐(かい)があって、ハリスは危く一命をとりとめることができた。幕府の好意あるこれらの処置が余程うれしかったらしく、ハリスは後日友人への手紙にこう書いている。
「私は日本人の親切な性質を示すため、これらの詳細を記した。恐らく私は、江戸における三ヵ月の私の滞在が、日本政府の当事者に対して不快な印象をあたえていなかったと解してよかろう。 」
再び江戸へ
ようやく病気から回復したハリスは、心急(せ)くままに医師の諌止をしりぞけて再び観光丸にのりこみ、安政五年三月五日に江戸九段坂下の蕃書調所へもどった。約束の日までに、どうしても間に合わせるためだった。江戸は、もう桜も散りかけていた。堀田正睦は、まだ江戸へ帰ってはいなかった。堀田は、ハリスとの約束の期日をしきりに気にしながらも、川路や岩瀬などと一緒に京都にとどまっていた。同地における条約反対の気勢は予想外に強く、勅許の降下は困難だった。堀田らは、手をかえ品を加えて、必死の了解工作をつづけていたのである。
朝廷の立場
朝廷は外国の事情を少しも知らなかったし、また知らされてもいなかった。したがって、開国の可否の問題について客観的に判断を下し得る立場にはなかった。それに、長い間幕府から政治的な発言を固く封じられ、それに馴れてきたのであるから、今俄かに意見をもとめられても、幕府の意図に盲従するか、あるいは感情的に反発するか、いずれにしても理論的な根拠を持ちあわせていなかった。そして感情的な面からすれば、朝廷は一にも二にも撰夷でかたまっていた。天皇(孝明天皇)も公卿(くげ)も外国人といえば夷狄(いてき)、すなわち禽獣(きんじゅう)に近いと信じこんでいたし、また周囲の論客たちからそう思いこまされていた。だから、幕府が夷狄(ハリス)の脅迫に屈して鎖国の伝統を破り、日本を亡ぼすものと頭から信じこみ、天皇御自身も、自分の時代に至って日本を亡ぼしては、祖宗の神霊に申訳けないといって、寝食を安んじ給わなかった。しかし、朝廷の考えがどうあったにせよ、幕府に大名を統御する力と自信のあるかぎりは、そうしたことは全然問題にならなかったであろう。現に、ベリー提督の和親条約(神奈川条約)が開国の端をひらいた時には、幕府は独断でこれに調印し、朝廷には事後報告をするだけで事が充分に足りた。しかも朝廷はこれに対して、嘉賞(かしょう=ほめる)の言葉をすらあたえたのである。
尊王攘夷の思想
だが、わずか四年たらずの間に、日本の政治情勢は著しく変化していた。水戸から発生した尊王攘夷の思想は京都をはじめ、各藩に滲透(しんとう)していた。おまけに、斉昭が京都の公卿と通謀して、天皇に攘夷論をたきつけ、諸大名もまたこれに迎合した。これは幕府が以前のような統制力を失なったことの証拠であるが、さらに幕府が条約調印の勅許を奏請したことは、統制力に対する自信の喪失を自ら表明したも同然であった。朝廷は幕府の弱体化を見ぬき、幕府の窮境はむしろ朝権伸長の好機であるとさえ考えた。
堀田の説得工作
だから、堀田らが海外の情勢を詳細に説明して、「開国は不可避であり、これに反対すれば諸外国を敵としてシナの二の舞いを踏むことになる。和親貿易は国家保全の道であるばかりでなく、また国家発展の要道でもある」ことをどれだけ説いても、いずれも耳をかそうとはしなかった。堀田をして、「堂上方(がた)ら、正気の沙汰とは思われず」と、痛憤・歎息させるだけだった。
宣旨降下
三月二十日に朝廷は堀田に対し、「猶(なお)三家以下諸大名へも台命を下され、再応衆議の上、言上あるべく仰せ出され候事」という宣旨(せんじ)を下した。幕府は、衆議がととのわないから朝旨をもって衆議を統一しようとしたのであるが、朝廷はその裏をかいて、衆議をととのえた上で再び申し出るように命じたのである。
勅許奏請の失敗
そこで、幕府の奏請はかえって逆効果となり、条約反対熱をいっそう煽(あお)る結果となった。ハリスと幕府との間で約束された条約調印の実行は、まったく暗礁にのりあげてしまった。堀田らは滞京六十日、条理をつくした陳弁もその甲斐(かい)がなかったので、まず岩瀬を一足先に帰してハリスに言い訳けさせることにした。そして、自分はなおも最後の了解運動をこころみたが、ついに容れられず、失意のうちに空しく京都を去り、四月二十日に江戸へもどった。
ハリスの不安と焦燥
その間ハリスは、蕃書調所の一室で言い知れぬ不安と焦燥の念にかられながら、日一日と堀田の帰りを待ちわびていた。そのころの断片的な『日記』によれば、
「一八五八年五月十五日
肥後守と信濃守に面接する。肥後は堀田備中守から私への通告の書面を持参する。京都(ミアコ)の事情は言葉で現わしうる以上に困難だ。大君の王座は三百年間政治の全権を保持してきている。その期間を通じて、わずかに三名の使者がミアコに派遣されただけだ。そして、それまでの使者は十日間滞在したに過ぎない。ミアコでは堀田備中守を暗殺しようとする陰謀があり、ミアコの壁々に彼の生命をおひやかす貼札がはられている。
ミアコとその隣接地の住民は非常な興奮状態にある。天皇は言った。「汝が大名たちの承諾をえたとき、私は私の承諾をあたえよう」と。大君と閣老会議は今でも条約を固執している。十二日の間、幕府の態度を待つことに同意する。 」
堀田とハリスの会見
四月二十四日に、堀田はハリスを西丸下の自邸にまねき、国内の困難な事情をのべて、条約調印の再延期を懇請した。ハリスはこれに対し、
「幕府に条約締結の実権がないならば、実権を有する京都の朝廷へ自分が出むいて、そちらと直接の談判をしよう。合衆国の大統領は日本の主権が江戸の政府にあると考えたので私をこちらへ派遣した。江戸の政府に主権がないのなら、これまでの事はみな私を欺いていたことになる。今後、諸外国は江戸の政府を相手にせず、直接天皇と交渉することになろう」 と息まいた。
しかし、そうは言っても、幕府が直面している苦しい事情もみとめてやらねばならず、また、ようやく調印の寸前まで漕ぎつけた談判を、今さら放擲(ほうてき=投げ出す)するわけにもゆかなかったので、次善の策として延期の期限をもちだした。
調印の再延期
堀田はこれに対し、七月二十七日(一八五八年九月四日)まで、すなわち三ヵ月の延期を申しでた。そして、その期限がきたら、如何なる困難な事情があろうとも押して調印することを、誠意をこめてハリスに誓った。ハリスは熟慮の末、「日本がその間に他国と条約の締結を行なうことがあっても、合衆国との条約の調印後三十日を経ないうちは調印しない」ということを条件として、この延期の申し出に同意した。ハリスは五月六日に堀田正睦から、調印の延期を大統領に懇請する将軍家定の親書と、閣老からハリス自身にあてた誓約言とをうけとった。ハリスはこの文書について、「これは事実上、条約の調印、ならびに批准と同一のものと考えられる」と、国務長官カッスヘ報告したのであるが、これによって幕府は、いよいよ動きのとれないところまで追いつめられた形になった。
二 条約の調印
調印の期日を幕府に誓約させたハリスは、再び江戸を発して、海路下田へむかった。
再び諸大名の意見を聞く
幕府は朝廷の宣旨にしたがって、再び三家・諸大名に対して意見をもとめたが、少数の条約賛成者と反対者とをのぞけば、大部分は、「国家の一大事、愚慮に及び兼ね候」とか、「別段の存じ付これなく」といったような、至極曖昧、あるいは日和見(ひよりみ)的な意見だった。これらは多くの場合、幕府の開国政策に消極的な反対意思を示したものであった。一方、京都の方では、志士とか処士(浪人)とかの連中があつまって盛んに攘夷論をあおっていたので、朝廷の意向は諸大名の答申の結果がどうあろうとも、条約の絶対否認でかたまっていたのである。
井伊直弼を大老に起用
幕府は、この未曾有(みぞう)の難局にあたって、彦根城主の井伊掃部頭(かもんのかみ=直弼)を大老に起用した。幕閣の首位は、これまでの堀田から井伊大老の座へとうつった。この井伊は元来大の斉昭嫌いであったが、対外政策に関しては堀田のような開国主義者ではなかった。どちらかと言えばむしろ鎖国的な傾向をもっていたのだが、しかし斉昭などのような鼻先だけの強がりを嫌い、諸外国と到底勝味のない戦争をやって幕府や国家の存亡を賭(と)するような政策には飽くまで反対だった。そこで井伊は、万一の場合には幕府の独断で調印することも国家の存立上止むを得ないと観念してはいたが、ハリスとの約束の日までには何とかして勅許を得て、違勅の責(せめ)からのがれたいと考えていた。
将軍継嗣問題
これと時期を同じくして、幕府には将軍の継嗣(けいし)をめぐって喧(やかま)しい問題がもちあかっていた。井伊大老は暗弱な将軍家定の後継者に紀州の幼君慶福(よしとみ=後の将軍家茂)を据えようとしていたので、水戸の斉昭の子で一橋家を継いでいた慶喜(よしのぶ)を擁立しようとする、いわゆる一橋派の諸大名との間に険悪な暗闘を生じていた。幕府の外交当局の役人の中には、斉昭を嫌いながらも、幼少な慶福よりも年長英邁な慶喜を立てようとする者が多かった。ハリスの応接委員であった川路・土岐・鵜殿なども一橋派であったが、そのために相次いで井伊大老のために左遷された。堀田は井伊に京都の失敗の責任を問われ、条約談判の立役者であった岩瀬も、一橋派であったために井伊の睨(にら)むところとなっていたので、この両者の地位も極めて危うくなっていた。こうした内部の軋轢(あつれき)と外部の攘夷論に妨げられて、幕府がハリスとの約束の期日までに条約の調印を果たすことは困難となっていたのであるが、ここに突然、調印を早めるような、思いがけない出来ごとが起こったのである。
ミシシッピー号の下田入港
六月十三日に、合衆国の汽船ミシシッピー号が下田に入港して、最近の情報をハリスにつたえた。それは、イギリスがすでにインドの叛乱を鎮定し、またイギリスとフランスの連合軍がシナを完全に制圧して、その余勢をかって連合の大艦隊を編成し、鉾先を日本に向けてシナ海を航行しつつあり、ロシアの艦隊もこれにつづいて到るであろうというのであった。ハリスの烱眼(けいがん)は、この事態こそ条約の成立にとって正に乗ずべき外交的契機であると見てとった。同時に、一刻を猶予(ゆうよ)すれば、自分のこれまでの労苦は水泡に帰するであろうとも思った。西洋諸国の眼から見れば、太平洋上のこの小島国は全くの無防備で、軍艦も、大砲らしいものさえもない。イギリスとフランスの連合軍がこの国を揉(も)みつぶすことは、シナの場合よりも容易であろうし、そうなっては大統領の親書も、自分のやってきたことも世界の物笑いとなり、本国の不名誉とハリス自身の無能をさらすことになるだろうと思った。ハリスはその翌日、この情報を江戸の堀田正陸に知らせ、危難が眼前にせまったことを伝えた。そして、折から来航したタットナル提督指揮の軍艦ポーハタン号にのって下田を出発し、十七日に神奈川付近の小柴沖に至り、手紙を堀田におくって、幕府の高官の来艦をもとめた。幕府の閣老たちはこの報告に狼狽した。鳩首謀議の末に、取りあえず、これまでの談判委員であった井上と岩瀬の二人に命じて交渉に当たらせることにした。二人は再度の全権委員として品川から船で出発し、十八日の夜半にポーハタン号の舷側へのりつけた。
ポーハタン号上の会見
井上と岩瀬は艦内でハリスに会って、この重大な報道に謝意を表したが、約束の期日前に調印することは国内の紛争を激化するおそれがあるので、到底不可能であると述べた。ハリスはこれに対して、「私は約束以外の何ものをも求めない。私は危急を諸君に知らせ、これに対処すべき最良の方法について忠言をあたえるだけだ。諸君が私の忠告を用いないなら、私は下田へかえって、おもむろに調印の時期を待つより仕方がない」とのべ、よって起こる戦禍と不幸とを未然に回避しようとするならば、危難の到来する前に、“最も公正にして妥当なる条約”の調印をすませて、諸大国をもこの条約に倣(なら)わせた方が賢明である。その上で、もしも不当な要求をする国があったら、自分は一身をもって調停にあたり、その野望をふせぐであろう」と、誠意と熱情をかたむけて説き、これを保証する手紙を書いて渡した。
開国の好機
井上と岩瀬は前にも言ったように、当時における最も積極的な開国主義者であったので、心中密(ひそ)かに“開国の好機至れり”とし、急ぎ立ち帰って閣老にこの旨を報告し、ハリスの言葉を反復して、幕議の決断をもとめた。井伊は、この場に至って、なおも躊躇(ためら)い、「天朝(てんちょう)への御伺い済みになるまで引き延ばすよう」に命じたのであるが、二人はこれに迫って、「万止むを得ない場合」の処置について、その決答をうながした。井伊もついに窮して、「是非に及ばぬ」と答えた。そして、国家存亡の前には違勅調印の大逆もまた止むなしと観念したので、すぐに将軍の裁可を仰いだ。二人はこれを白紙一任と解して、直ぐに汽船で神奈川沖へ引きかえした。
調印
調印は安政五年六月十九日(一八五八年七月二十九日)の、今の時間で午後三時に艦上で行なわれた。調印がおわるや、ポーハタン号の檣頭(しょうとう=マスト)に日米両国の国旗がかかげられ、二十一発の祝砲が、「平和外交の勝利」を誇るかのように、殷々(いんいん)と江戸湾にとどろきわたった。ハリスと、二人の日本委員との間に、かたい握手がかわされた。
三 日米修好通商条約の条文
安政の日米条約とは、普通「修好通商条約」のことを言っている。
江戸条約
この条約は前述のように、神奈川の沖合、ポーハタン号上で調印されたのだが、談判が江戸で行なわれたので、一名を「江戸条約」とも袮している。万延元年四月三日(一八六〇年五月二十二日)にワシントンで批准書交換が行なわれた(遣米使節の記事参照)。この条約は「本書」と付属規定の「貿易章程七則」からなっている。「本書」について言えば、ハリスの草案では“前文”と十六ヵ条からなっていたが、調印文書は“前文”と十四ヵ条になっている。条文は和文・英文・蘭文の三通りに書かれ、いずれも正本二通・写し二通の都合四通(彼我二通ずつ)作られた。正本の方が批准書交換の際に取り替わされたわけである。和文と英文のほかに蘭文を加えたのは、ペリー提督の時の条約(神奈川条約)で、和文と英文の間の意義の相違から後で紛糾を見たので、そうした場合は蘭文の意義に従うことにしたのである。

「日米修好通商条約議定書(和文)
(安政五年六月十九日―一 一八五八年七月二十九日調印、万延元年四月三日―― 一八六〇年五月二十二日批准書交換)
条約本書の前文
帝国大日本大君と、アメリカ合衆国大統領と、親睦の意を堅くし、且永続せしめんために、両国の人民貿易を通ずる事を処置し、其交際の厚からん事を欲するがために、懇親及び貿易の条約を取結ぶ事を決し、日本大君は、其事を井上信濃守・岩瀬肥後守に命じ、合衆国大統領は、日本に差越たるアメリカ合衆国のコンシュル・ゼネラール・トウンセント・ハリスに命じ、双方委任の書を照応して、下文の条々を合議決定す。
第一条 外交官の相互派遣と旅行の自由
向後日本大君と、アメリカ合衆国と、世々親睦なるべし。日本政府は、ワシントンに居留する政事に預る役人を任じ、又合衆国の各港の内に居留する諸取締の役人、及び貿易を処置する役人を任ずべし。其政事に預る役人及び頭立(かしらだち)たる取締の役人は、合衆国に到着の日より、其国の部内を旅行すべし。合衆国の大統領は、江戸に居留するヂプロマチーキ・アゲントを任じ、又此約書に載る、アメリカ人民貿易のために開きたる、日本の各港の内に居留するコンシュル又はコンシャライル・アゲント等を任ずべし。其日本に居留するヂプロマチーキ・アゲント並びにコンシュル・ゼネラールは、職務を行う時より、日本国の部内を旅行する免許あるべし。
第二条 大統領の仲裁と米国軍艦の日本船扶助
日本国とヨーロッパ中の或る国との間に、もし障(さしさわ)り起る時は、日本政府の嘱に応じ、合衆国の大統領、和親の媒(なかだち)となりて扱うべし。合衆国の軍艦、大洋にて行遇たる日本船へ、公平なる友睦の取計らいあるべし。且アメリカ・コンシュルの居留する港に、目本船の入る事あらば、其各国の規定によりて、友睦の計らいあるべし。
第三条 開港・開市の場所
下田・箱館港の外、次にいう所の場所を、次の期限より開くべし。神奈川 午(うま)三月より凡(およそ)十五ヶ月の後より。西洋紀元一八五九年七月四日。長崎 同断。同断。新潟 同断、凡二十ヶ月の後より。西洋紀元一八六〇年一月一日。兵庫 同断、凡五十六ヶ月の後より。西洋紀元一八六三年一月一日。若し新潟港を開き難き事あらば、其代りとして、同所前後に於て、一港を別に選ぶべし。神奈川港を開く後六ヶ月にして、下田港は鎖すべし。此箇条の内に載たる各地は、アメリカ人に居留を許すべし。居留の者は、一箇の地を、価を出して借り、又其所に建物あれば、是を買う事妨なく、且住宅・倉庫を建る事をも許すべしといへども、是を建るに託して、要害の場所を取建る事は、決して為さざるべし。此掟を堅くせんために、其建物を新築・改造・修補などする事あらん時には、日本役人是を見分する事当然たるべし。アメリカ人建物のために借り得る一箇の場所並びに港々の定則は、各港の役人と、アメリカ・コンシュルと議定すべし。若し議定しがたき時は、其事件を、日本政府とアメリカ・ヂプロマチーキ・アゲントに示して、処置せしむべし。其居留場の周囲に、門墻(もんしょう)を設けず、出入自在にすべし。江戸 午三月より凡四十四ヶ月の後より。一八六二年一月一日。大坂 同断、凡五十六ヶ月の後より。一八六三年一月一日。この二ヶ所は、アメリカ人、唯商売を為す間にのみ、逗留する事を得べし。此両所の町に於て、アメリカ人建家を価を以て借るべき相当なる一区の場所、並に散歩すべき規定は、追って日本役人とアメリカのヂプロマチーキ・アゲントと談判すべし。
貿易の自由
双方の国人品物を売買する事、総て障りなく、其払方等に付ては、日本役人これに立合はず、諸日本人アメリカ人より得たる品を売買し、或は所持する、倶に妨なし。軍用の諸物は、日本役所の外へ売るべからず。尤(もっとも)外国人互の取引は、差構ある事々し。此箇条は、条約本書取替せ済の上は、日本国内へ触れ渡すべし。米並に麦は、日本逗留のアメリカ人並に船々乗組たる者、及び船中旅客食料の為の用意は与うとも、積荷として輸出する事を許さず。日本産する所の銅余分あれば、日本役所にて、其時々公けの入札を以て払い渡すべし。在留のアメリカ人、日本の賎民を雇い、且諸用事に充る事を許すべし。
第四条 関税
総て国地に輸入輸出の品々、別冊の通り、日本役所へ、運上を納社べし。日本の運上所にて、荷主申立の価を、奸ありと察する時は、運上役より、相当の価を付け、其荷物を買入る事を談ずべし。荷主もし是を否む時は、運上所より付たる価に従て、運上を納むべし。承知する時は、其価を以て、直に買上べし。合衆国海軍用意の品、神奈川・長崎・箱館の内に陸揚し、庫内に蔵めて、アメリカ番人守護するものは、運上の沙汰に及ばず。若し其品を売払う時は、買入る人より、規定の運上を、日本役所に納むべし。
阿片禁輸
阿片の輸入厳禁たり。もしアメリカ商船三斤(1.8kg)以上を持渡らば、其過量の品は、日本役人是を取上ぐべし。輸入の荷物定例の運上納済の上は、日本人より、国中に輸送すとも、別に運上を取立る事なし。
アメリカ人輸入する荷物は、此条約に定めたるより、余分の運上を納むる事なく、又日本船及び他国の商船にて、外国より輸入せる同じ荷物の運上高と同様たるべし。
第五条 貨幣交換
外国の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て、通用すべし(金は金、銀は銀と、量目を以て、比較するをいう)。双方の国人、互に物価を償うに、日本と外国との貨幣を用いる妨なし。日本人外国の貨幣に慣はざれば、開港の後、凡一ヶ年の間、各港の役所より、日本の貨幣を以て、アメリカ人願次第引替渡すべし。向後鋳替のため、分割を出すに及ばず。日本諸貨幣は、(銅銭を除く)輸出する事を得、並びに外国の金銀は、貨幣に鋳るも鋳ざるも、輸出すべし。
第六条 領事裁判
日本人に対し、法を犯せるアメリカ人は、アメリカ・コンシュル裁判所にて吟味の上、アメリカの法度を以て罰すべし。アメリカ人に対し、法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すべし。日本奉行所・アメリカ・コンシュル裁断所は、双方商人借金等の事をも、公けに取扱うべし。都(すべ)て条約中の規定、並びに別冊に記せる所の法則を犯すに於ては、コンシュルヘ申達し、取上品並びに過料は、日本役人へ渡すべし。両国の役人は、双方商民取引の事に忖て、差構う事なし。
第七条 開港場の境界
日本開港の場所に於て、アメリカ人遊歩の規程、次の如し。神奈川 六郷川(多摩川)筋を限とし、其他は、各方へ凡(およそ)十里(40km)。箱館 各方へ凡十里。兵庫 京都を距る事十里の地へは、アメリカ人立入らざる筈に付、其方角を除き、各方へ十里、且兵庫に来る船々の乗組人は、猪名川より海湾迄の川筋を越えるべからず。都(すべ)て里数は、各港の奉行所又は御用所より、陸路の程度なり(一里は、約4km)。長崎 其周囲にある御料所を限とす。新潟は、治定(じじょう=必然的)の上、境界を定むべし。アメリカ人重立たる悪事ありて、裁断を受け、又は不身持にて、再び裁許に処せられし者は、居留の場所より、一里外に出るべからず。其者等は、日本奉行所より、国地退去の儀を、其地在留のアメリカ・コンシュルに達すべし。其者ども諸引合等、奉行所並びにコンシュル糺済(ただしずみ)の上、退去の期限猶予の儀は、コンシュルより申立に依て相叶うべし。尤(もっとも)其期限は、決して一ヶ年を越えるべからず。
第八条 信仰の自由
日本にあるアメリカ人、自ら其国の宗法を念じ、礼拝堂を居留場の内に置くも障りなく、並に其建物を破壊し、アメリカ人宗法を自ら念ずるを妨る事なし。アメリカ人、日本人の堂宮を毀傷(きしょう=こわす)することなく、又決して日本神仏の礼拝を妨げ、神体・仏像を毀(やぶ)る事あるべからず。双方の人民、互に宗旨に付ての争論あるべからず。日本長崎役所に於て、踏絵の仕来りは、既に廃せり。
第九条 逃亡者逮捕に関する日本官吏の助力
アメリカ・コンシュルの願に依て、都(すべ)て出奔人質に裁許の場より逃去しものを召捕、又はコンシュル捕へ置たる罪人を、獄に繋ぐ事叶うべし。且陸地並に船中にあるアメリカ人に、不法を戒め、規則を遵守せしむるがために、コンシュル申立次第、助力すべし。これ等の諸入費並に願に依て、日本の獄に繋ぎたる者の雑費は、都てアメリカ・コンシュルより償(つぐなう)うべし。
第十条 戦艦・兵器の購入等
日本政府、合衆国より、軍艦・蒸気船・商船・鯨漁船・大砲・軍用器並に兵器の類、其他要需(ようじゅ=必要)の諸物を買入れ、又は製作を誂(あつら)へ、或は其国の学者・海陸軍法の士・諸科の職人並に船夫を雇う事、意のままたるべし。都(すべ)て日本政府注文の諸物品は、合衆国より輸送し、雇入るアメリカ人は、差支なく、本国より差送るべし。合衆国親友の国と、日本国万一戦争ある間は、軍中制禁の品々、合衆国より輸出せず、且武事を扱う人々は、差送らざるべし。
第十一条 別冊の貿易章程
此条約に添たる商法の別冊は、本書同様双方の臣民互に遵守すべし。
第十二条 旧条約の廃止
安政元年寅(とら)三月三日(即一八五四年三月三十一日)、神奈川に於て取替したる条約の中、此条々に齟齬(そご=食い違い)せる廉(かど=事柄)は、取用いず。同四年已(み)五月二十六日 (即一八五七年六月十七日)、下田に於て取替したる約言は、此条約中に悉(つく)せるに依りて取捨べし。日本貴官又は委任の役人と、日本に来れる合衆国のデプロマチーキ・アゲントと、此条約の規則並びに別冊の条を全備せしむるために要すべき所の規律等、談判を遂ぐべし。
第十三条 条約の改正
今より凡百七十一ヶ月の後(即一八七二年七月四日に当る)双方政府の存意を以て、両国の内より一ヶ年前に通達し、此条約並びに神奈川条約の内存し置く箇条、及び此書に添たる別冊ともに、双方委任の役人実験の上、談判を尽し、補い或は改る事を得べし。
第十四条 効力発生
この条約の趣は、来る未(ひつじ)年六月五日(即一八五九年七月四日)より執(とり)行うべし。
批准書の交換
此日限或は其以前にても、都合次第に、日本政府より使節を以て、アメリカ・ワシントン府に於て、本書を取替すべし。若し余儀なき子細ありて、此期限中本書取替し済(すま)ずとも、条約の趣は、此期限より執(とり)行うべし。本条約は、日本よりは、大君の御名と奥印を署し、高官の者名を記し、印を調して証とし、合衆国よりは、大統領自ら名を記し、セケレターリス・フハン・スタート共に自ら名を記し、合衆国の印を押すして、証とすべし。尤(もっとも)日本語・英語・蘭語にて、本書写ともに四通を書し、其訳文は、何(いず)れも同義なりといへども、蘭語訳文を以て、証拠となすべし。此取極のため、安政五年午(うま)六月十九日(即一八五八年アメリカ合衆国独立の八十三年七月二十九日)、江戸府に於て、前に載たる両国の役人等名を記し、調印するもの也。
   井上信濃守(花押)   岩瀬肥後守(花押) 」
四 不平等条約説の誤り
史家の通説
安政の日米条約はアメリカ側、すなわちハリスが治外法権(領事裁判)を日本に強制し、また日本の関税自主権を犯した不平等条約・国辱的条約であるということが、長い間史家の通説となってきている。しかし、不平等条約なる言葉は、もともと安政条約に関する史家の実証的研究から生まれたものではない。
条約改正運動
明治の初年、新政府の指導者たちが「旧物破壊・百事改革」の理念から諸般の制度の革新に着手し、その一翼としての条約改正の運動にのり出した時から初めて使われだしたもので、それまでは誰れもこの条約をそんなふうには言っていなかった。 つまり、不平等とか国辱とかいう言葉は、条約に限らず一般に明治初期の合言葉であって、国民主義を鼓吹(こすい=宣伝)して日本の国際的地位を急激に高めようとした、当時の為政者の政策的な意図から出たものなのであった。前章で述べたように、ハリスは安政三年(一八五六)七月二十一日に総領事として下田へ渡来したが、その使命は日米和親条約(神奈川条約)で定められた領事の職務をとるかたわら、この条約をさらに改訂して通商条約にするための全権委員の任務をもおびたものだった。その翌年、ペリーの和親条約を改訂した「下田協約」なるものをむすんだが、さらにその翌年に幕末の大条約として日本の歴史に新紀元を劃(かく)した「日米修好通商条約」十四ヵ条を締結したことは前に述べた通りである。
領事裁判
問題になっている領事裁判というのは、下田協約の第四条と、日米修好通商条約の第六条に次のように規定されている。 (すでに前章に掲げたが、論証の都合上、再記することを許されたい)。
「*下田協約、
第四条「日本人アメリカ人に対し法を犯す時は、日本の法度を以て日本司人罰し、アメリカ人日本人へ対し法を犯す時は、アメリカの法度をもって、コンシュル・ゼネラール或はコンシュル罰すべし。」
*日米修好通商条約、
第六条「日本人に対し、法を犯せるアメリカ人は、アメリカ・コッシュル裁断所にて吟味の上、アメリカの法度を以て罰すべし。
アメリカ人に対し、法を犯したる日本人は、日本役人調べの上、日本の法度を以て罰すべし。……」」
馭外の法
外国人が日本で日本の国法を犯した場合に、日本の法律と裁判によらないで、相手国の法律と責任者によって処罰するという規定は、今日から見たら日本の主権を犯すものとして到底容認できないのだが、徳川幕府が日本の政府であったこの時代には、いわゆる“馭外(ぎょがい)の法”として、東照権現(家康)以来の“祖法”、すなわち憲法ともいうべきものだったのである。当時の日本の国法は、徳川幕府が人民を統治するに必要とした法律であって、外国人は対象からはずされていた。鎖国が国是(こくぜ)であった関係からでもある。しかし、もし外国人が日本で法を犯すようなことがあった場合には、日本の法律で罰せずに、外国の法律で罰することに「祖法」として定めていたのである。だから幕府は、ハリスの来朝以前において、すでに日英・日露・日蘭の各和親条約の中に、これと同様な条項をもうけていた。
「日英和親条約
*安政元年(1854)八月二十三日調印、日英和親条約、
第四条「此後渡米の船、若(もし)日本の法度(はっと)を犯す事あらば、右の両港に来るを禁ず。船中乗組の者、法を犯さば、其船長厳しく其罪を糾(ただ)さるべし。」
日露和親条約
*安政元年(1855)十二月二十一日調印、日露和親条約、
第八条「ロシア人の日本国にある、日本人のロシア国にある、是を待つ事緩優(かんゆう)にして、禁錮することなし。然れども若(もし)法を犯すものあらば、是を取押へ処置するに、各其本国の法度を以てすべし。」
日蘭和親条約
*安政二年(1856)十二月二十三回調印、日蘭和親条約、
第二条「オランダ人日本の掟(おきて)を犯し候はば、出島在留高官の者へ知らせ申すべく侯。
左候得ば、同人をして、オランダ政府より、其国の法通り戒め申す可き事。」
最恵国条款
ところで、先の日米和親条約(神奈川条約)には、最恵国条款(じょうかん)(注)がうたわれている。(注=後日他国に許したことは、そのままアメリカにも許したことになる)
*安政元年(1856)三月三日調印、日米和親条約、
第九条「日本政府外国人へ当 節アメリカへ差免(ゆる)さず候廉(かど)相免し候節は、アメリカ人へも同様差免し申すべ く、右に付談判猶予致さず候事。」」
そこで、「領事裁判」が下田協約の条文の中へ自動的に取り入れられたわけであるが、しかも日本側は「祖法」なるが故に、進んでこれを認めたのであった。そして、これが後の修好通商条約の中にうけつがれたのである。これらの経緯から見れば、ハリスがこれを日本に強要したという説は全く当たらないのである。つぎに、この条項が不平等な性質のものであるか、どうか。前に掲げた日露和親条約、第八条の場合には、
相互的治外法権
「ロシア人の日本国にある、日本人のロシア国にある、云々」と明記してある。これは相互的治外法権を意味している。したがって、条約の不平等性については問題にならないわけである。ところが、日米条約の条文にはこのような相互性の明記がないし、この点きわめて曖昧である。その文面から見て必ずしも一方的なものとも受けとれないのであるが、それかと言って、相互的なものとも断定できない。こうした点から、日米条約は一方的な治外法権で、したがって不平等なものだという論者も出てくるわけである。
一方的治外法権
これは、当時日本は国法により海外渡航を禁じていたので、一つには形式的な面からわざわざ曖昧な表現をとったものとも考えられるのであるが、しかし、また、明記せずにわざわざ曖昧にしたところに、かえってハリスの苦心のあとが見られ、日本人および日本政府に対する彼の周到な思いやりと、これに対する日本側委員の賢明な洞察がうかがわれるのである。
当時の刑法
当時の日本の刑法なるものは、徳川政権の絶対性と封建制度の身分性を保持するための苛酷きわまるものであった。一、二の例をあげれば、十両以上の盗みは引き廻しの上、打ち首。手形の不渡りも、十両以上は同罪(親類縁者が弁済した場合でも、本人は所払い)。大名の行列を横切った場合は、その場で斬り捨て、というように、当時の先進諸国の法律とは到底比較にならない乱暴なものだったのである。事実、この条約が結ばれてさえ、それから数年後におこった生麦(なまむぎ)事件でも、薩摩は英人殺害の合法性を主張して譲らなかった。
このような事情があるので、諸外国は日本と国交を開くにあたり、日本に在住する自国民をこうした法律から保護するために、「領事裁判」を希望したのであった。ところで、日本が相互的治外法権を主張してロシアとの条約のように、これを日米条約の条文に明記した場合にはどうなるか。
例証
たとえば、アメリカに在留する日本人があやまって大統領に無礼を働いたとする。大統領はアメリカの元首で、日本の将軍に匹敵するものであるから、日本の法律によれば文句なしに死罪に値する。日本の商人がアメリカにおいて十両の不渡り手形を出したとする。これも死刑である。しかし、アメリカの法律によれば、罰金、あるいは若干の有期刑ですむであろう。とすれば、当の本人はそれを希望するだろうし、日本政府としても強いて日本の法律を行使するような馬鹿なことはしないだろう。ハリスが条約の原案の起草にあたって、この条文をわざと曖昧なものにしたのは、一方では日本を一方的治外法権の不名誉からすくい、他方においては日本が相互的治外法権によって当然おちいるであろう自縄自縛(じじょうじばく)を警戒してのことだった。
国情の相違
そこに思い至れば、平等も不平等もないのである。あるものは、両国の国情の相異だけである。こうしたハリスの非凡な外交的頭脳と、日本にささげた彼の深い愛情と配慮に思いおよばずして、かえってこれを非難の材料にしてきたことは大きな間違いであったと言わなければならない。それに、ハリスとしても日本の将来を考えて、日米両国にとって共に不便な、こうした条項が早くなくなることを切望していたのである。明治四年岩倉(具視=ともみ)大使一行の訪米の時には随員の福地源一郎に会って、徳川幕府と明治政府の時代の相異をのべて、早く日本が先進国なみの法律をつくって条約の改正をするように進言したのである(『幕府衰亡論』)。また、関税自主権の問題でも、同様のことが言いうる。
関税自主権
関税については、「日米修好通商条約」の付則とも見るべき「貿易章程」に規定してあるのだが、この取り含めに当たっても、ハリスがこれを強要したという事実は全く見られない。ハリスは貿易の規定、ことに関税の種類や方法・税率などについて詳しく日本側委員に説明(というよりは教示)したが、そのいずれを採るかは、日本側が自主的に決めるべきであることを教えた。
「彼ら(日本側委員)は、こうした問題を取り扱った経験がないので、この件については全く暗いと語った。彼らは、こう言った。貴下は疑いもなく、今我々のために非常な苦心を払って貿易の規定を作成されている。我々は貴下の親切に感謝する。我々は貴下の清廉潔白に全幅の信頼をおいているので、それらを原案のまま認めると。」(『ハリスの日記』)
しかし、日本側委員はそう言いながらも、幕府の最高会議の結果日本側独自の案を作成して提出したのである。ハリスはその内容に不満ではあったが、日本政府(幕府)の特殊事情を考慮して、これをのんだのであった。
改税約書
もっとも、この条約の調印後八年たった慶応二年(1866)に、英・仏・米・蘭の四ヵ国が日本政府を威嚇し、条約の勅許と「改税約書」なるものを勝取った。この改税約書の利害得失は別として、これは明らかに日本の関税自主権を侵犯したものであった。しかし、これと安政の日米条約やハリスは全く関係がないのである。ハリスは、その時にはとっくにアメリカへ帰っていたし、この改税約書なるものは、実は安政条約で定められた税率を打破したものであった。
日米対等の条約
ハリスが日本に通商開国を強要したことは紛れもない事実であるが、彼が日本に強要したものは、あくまでも“日米対等の条約”であった。治外法権や関税率を強制したという非難のもとは、おそらく通商条約を強制したという事実との混同から生じた皮相な誤解にもとづいたものであろう。そして、この誤解をさらに深めたものは、先にも述べたように明治初年以来の条約改正運動であるが、この運動は安政条約の不平等性や国辱(こくじょく)性から出発したものではなく、その狙いとするところは新政府の体制、ことに法律制度の急速な整備改革にあったのである。 
■第八 ハリスの公使時代 
一 あらまし
堀田閣老の失脚
条約の調印から四日して、堀田備中守(正睦)は井伊大老(直弼=なおすけ)のために老中の座から追われた。原因は条約の勅許奏請の失敗にあったが、将軍の継嗣問題で大老から一橋派と見られていたためでもあった。
公使に昇任
ハリスはその年の暮れ、すなわち安政五年十二月十六日に公使に昇任した。翌年三月に下田を立って、二ヵ月ばかり長崎〜香港方面に旅行し、神奈川領事のドールやジョセフ・ヒコ(新聞の元祖といわれる浜田彦蔵)などを連れて帰ってきたが、帰ると直ぐに下田の総領事館を閉鎖し、江戸へ上って麻布の善福寺を仮の公使館として、これにおさまった。条約の締結までは苦難の道であったが、それからの三年五ヵ月はアメリカの初代駐日公使として、ずっと江戸に住み、彼の驥尾(きび=見習う)について日本にやってきたイギリス・フランス・ロシア・オランダ・プロシアなどの外交使臣や実業家たちの先達(せんだつ)として、在留外国人の間に極めて大きな影響力をもっていたのである。
条約の先鞭と斡旋
日本とこれらの国々との修好通商条約は、いずれも「ハリスの条約」を基本として起草され、ハリスの好意的な斡旋によって結ばれた。それら諸国の外交代表は、条約の先鞭(せんべん)をつけられたことについては内心不満もあったのだが、そのお蔭で、これに準拠して容易に条約を締結することが出来たことを感謝した。そんなわけで、しぜん幕府の信頼も厚かった。日本最初の「遣米使節」や「遣欧使節」も、ハリスの斡旋(あっせん)によって行なわれたのである。そのほか、わが国の金貨の国外流出の問題や、軍艦・商船などの購入、鉱山技師の招聘などでも幕府のために大いに尽力した。これらの表面的な事象ばかりでなく、彼はまた、各国の相対立する外交目的・優位の競争・嫉視・猜疑(さいぎ)・憎悪・術策など――幕末の日本をめぐるあらゆる複雑な国際外交の裏面にも一番よく通じた立場にあったにちがいない。
『ハリスの日記』の謎
(『ハリスの日記』は条約調印のあたりで終っている。ハリスのように几帳面(きちょうめん)な人が、公使になってから日記をつけなかったとは考えられないが、死後それが発見されなかったというのは、謎であると共に、史家の大きな歎きとなっている)。ハリスの公使時代は、ちょうど日本の封建政治が最後のあがきをしていたときで、井伊大老を閣老の首班とした幕府は、条約の調印に反対の徳川斉昭(なりあき、水戸)、一橋慶喜擁立派の松平慶永(よしなが、越前)・徳川慶恕(よしくみ、尾張)を厳罰し、反幕府・攘夷派の多くの者を逮捕・処刑して、いわゆる「安政の大獄」をおこした。
井伊大老の死
その反動で、水戸の浪士が大老を桜田門外に要撃し、その首級をあげた。ついで、浪士団のイギリス公使館(東禅寺)襲撃事件、安藤閣老(対馬守信正・信睦)を坂下門で要撃した事件など、血なまぐさい騒動が頻発(ひんぱつ)した。
「ヒュースケンの暗殺
ハリスの手足となって働いてきた書記官兼通訳官のヒュースケンも、攘夷の兇刃(きょうじん)にたおされた。この時のことであるが、イギリス・フランス・オランダの外交代表は蹶起(けっき)して幕府の責任を糾弾し、はては国旗を巻いて江戸を退去するような始末で、ハリスの出かたによっては幕府は全く窮地におちいらざるを得なかったのであるが、「このように人心がなったのも、自分が二百年来の鎖国を一変させたからで、それを勧めた合衆国は、あくまで日本政府を助けて、開国の目的を達成させなければならない」と、ひとり江戸に踏みとどまった。(「ヒュースケンの暗殺事件」参照) 」
「このような危険な時期においても ハリスは毎日のように公使館である麻布の善福寺から城濠端(おほりばた)まで馬を駆けさせて、運動をするのを止めなかったという。そのたびに警護の騎馬隊(別手組=べってぐみ)が、あわてて後を追ったとは、その当時別手組の一員であった江原素六の述懐であった(『江原素六伝』)。」
これらの放胆な彼の日常の行動は、「自分に危害を加える人間は一人もいない」という、アジア彷徨(ほうこう)時代からの彼独得の堅い信念から出たものか、あるいは、日本開国の歴史的使命に殉じようとするプロテスタント的な情熱からであったか。
幕府の信頼
とにかく、当時の閣老は、彼の日本に対する同情的な態度と、その円熟した外交上の経験に信頼するところが篤く、外交の難事はすべてハリスの意見に待つという風であった。
ハリス辞任
彼が下田へ到着したときには、幕府は上陸さえ拒絶しようとしたのに、長い日本滞在の後に病気の理由で帰国の意向をもらした時には、閣老はなお三年間の留任を切望する旨の書簡を合衆国政府へおくった。
将軍の謝辞
そして、いよいよ日本を去ることが確定したとき、閣老は連名で彼の再渡を希望する書簡を国務長官におくり、将軍家茂(いえもち)はハリスの人格とその日本につくした功績をたたえる次のような親書を大統領に送ったのである。
「恭敬して、
余(わ)れアメリカ合衆国マーイエステイト大統領に復す。貴国欽差(きんさ=特命)大臣トウンセント・ハリス儀帰国の望あるにより其段允許(いんきょ=許す)されし趣領諾せり。同人我国に久々在留し其職掌精勤せしを感じ、且殿下之其人を得て差越せしに依り双方臣民の幸福なる事、則ち殿下友誼の至渥(しあく)なるを徴するに足れり。猶(なお)委細之儀は老中より貴国事務大臣へ申入候べき。
文久二年壬戌(じんじゅつ)四月七日   源 家茂 印 (『続通信全覧類輯』) 」
安藤閣老の謝辞
ハリスが正に日本を去らんとするや、外国掛の閣老安藤対馬守(信正)は彼を招いて、「貴下の偉大な功績に対しては何をもって報ゆべきか。これに足るものは、ただ富士山あるのみ」という感激的な謝辞を呈したという。帰国のために将軍に謁見した際(文久二年三月二十八日)、将軍はハリスに一振りのすばらしい日本刀を贈った。(ハリスは後に、さらにそれを、「祖国アメリカを南北戦争の荒廃から救った」グラント将軍に贈呈した)。
日本を去る
ハリスは文久二年四月(一八六二年五月)に、後任のプリュイン公使と交替して帰国したのであるが、当時五十七歳であった。日本滞在の期間は五年九ヵ月(総領事二年四ヵ月、公使三年五ヵ月)だった。
二 横浜開港の問題
神奈川開港の困難
日米修好通商条約の第三条には、神奈川を開港することが規定してあるが、横浜を開くとは書いてない。ところが、神奈川を開くとなると、同地は東海道の重要な宿駅で、人馬の往来がはげしく、わけても諸大名の参覲交代などの場合は特に混雑するので、居留の外国人との間に不測の不祥事が起こるおそれがあった。それに、過激な攘夷論者は幕府が勅許を待たないで条約に調印したのに憤慨し、外国人居留地を襲撃しようとする動きさえあった。そんなことでもあれば重大な国際問題になるので、幕府も神奈川の開港には二の足を踏んでいた。その挙句(あげく)考えついたのが、条約の文面を曲げて、街道すじから離れている横浜を神奈川の身代わりにすることだったのである。幕府はこうした下心から横浜港の建設をやり出すと共に、当然ハリスから反対が出ることを予想し、この問題で彼の了解をもとめるように神奈川奉行に命令した。
水野忠徳
この横浜開港を最も強く主張したのが、外国奉行の水野筑後守(忠徳=ただのり)であった。彼は岩瀬忠震などに匹敵する幕吏中の俊秀で、開国の当初からしばしば対外交渉を重ねてきた練達の士でもあった。水野は神奈川奉行を兼帯して、他の同僚奉行と共にハリスとこの件で談判することになったが、水野はこの目的を貫徹するためには屠腹(とふく=切腹)をさえ辞せぬ覚悟をしていたと言われる。彼はハリスを説得する口実として、横浜はすなわち神奈川である、少なくとも神奈川の一部であると、無理に条約面をこじつける戦法でこの談判にのぞんだのである。
横浜開港談判
ハリスは、この頃すでに公使に昇任していたが、下田からやってきて神奈川に上陸し、同地の本陣で水野らとこの問題で談判を始めた。談判は安政六年二月一日から同月十七日まで連日行なわれたが、案の定(じょう)、ハリスは条約面を盾にとって頑強に日本側の提案に反対した。
「ハリスの主張
ハリスの主張によれば、
一、条約の明文には、神奈川の名前はあるが、横浜の名前はない。
二、神奈川は東海道の重要な駅路にあたり、商業が盛んで、開港場として適しているが、横浜は交通不便な一寒村にすぎない。
三、大名の通行する道という理由で外国人を横浜へ移そうとするのは、条約の冒頭にかかけてある“親睦”の精神に反するものである。
四、日本側では神奈川の地勢の狭隘(きょうあい)を云々(うんぬん)するが、決してそうではない。優に五十年間は居留地として繁栄する余地がある。
五、着船に不便なら、干潟(ひがた)の埋立てや浚渫(しゅんせつ)などで水深を大にすることができるし、しかも、それは容易である」というのであった。
日本側の反駁
これに対する日本側の反駁は、
一、横浜は飽くまで神奈川の一部である。その証拠に、ペリー提督の条約は横浜で結ばれたが、それを神奈川条約と袮している。
二、横浜とても神奈川と同様に、江戸へ交通する要路にあたる。
三、万一にも大名などの行列と外国人の間に紛争が生ずれば、国際上きわめて重大な事態を惹き起こすおそれがある。
四、神奈川は地形が狭く、そのために将来かならず不便を生ずるだろう。
五、横浜は湾内が深くて、天然の良港である。
というのであった。 」
当時の横浜村
今日の眼から見れば、横浜の良港であることは何人も疑わない。何故にハリスがそんなに頑強に反対したのか、了解にさえ苦しむところであろう。しかし、当時の横浜村は沼地に蘆(あし)の生えしげった、見すぼらしい一小漁村で、人家とて六十戸にたらず、とうてい開港場として物になりそうな場所ではなかった。それに、ハリスは江戸出府の途中、神奈川の繁盛を実際に見てきたので、その時の先入感から離れ切れなかったのである。
ハリスの猜疑
元来ハリスという人は、一度約束して決めたことは、必ずそのまま実行するという直情径行(ちょくじょうけいこう)な性質だった。それが、日本へ来てから何度も裏切られてきたので、自然幕府のやりかたに疑(うた)ぐり深くもなっていた。条約の第三条には、「其居留場の周囲に、門墻(もんしょう=出入口)を設けず、出入自在にすべし」とある。これは、長崎で長い間オランダ人を出島に閉じ込めてきた幕府の外国人隔離政策を打破するために設けた条項だが、ハリスは幕府が横浜に出島同様のものを築いて、外国人の自由を拘束するのではないかという疑念を持ったのである。条約の明文からすれば、もちろんハリスの方に理があった。しかし、日本側としても決して他意があったわけではない。ただ、外国人の生命の保障の上から無理に横浜を押し立てようとしたのであるが、ハリスは頑としてこれを受けつけなかった。違約だ、違約でない、の論争がくりかえされ、結局議論は水かけ論となった。ハリスは、「それなら、開港後各国人が渡米した上で取りきめよう」と、談判を中絶して一旦下田へ引き揚げ、本国からの便船を待って長崎へゆき、ついで香港方面への旅行にのぽった。
横浜港の経営
幕府の方では、ハリスの留守中に既成事実を作ろうと、昼夜をわかたず山を開き、草を刈り、沼を埋め、畑をならし、建物を造り、江戸・神奈川・下田などから貿易商人を呼びよせて店を開かせた。一方、役宅・会所・蔵・波止場、その他の築港工事を急がせて、横浜港の経営を遮二無二(しゃにむに)押しすすめた。移ってきた商人たちの多くは、未だ外国貿易の何たるかを知らず、幕府の役人の勧誘で仕方なく店を持った者が多かったが、幕府の強引な建設策は見る見る効を奏し、その年の五月にハリスが日本へ戻ってきたときには、横浜は寂寥(せきりょう)な一寒村から一朝にして将来の繁盛を約束するような町に一変していたのである。条約に定められた開港の期日(すなわち一八五九年七月四日)に至るや、ハリスをはじめ諸外国の外交代表はいずれも条約面通りに神奈川をもって開港地とし、それぞれの居館を次の場所にかまえた。
神奈川町甚行(じんぎょう)寺――フランス公使。
青木町本覚寺――アメリカ領事。
青木町浄滝(じょうりゅう)寺――イギリス領事。
神奈川町慶雲(けいうん)寺――フランス領事。
神奈川町長延(ちょうえん)寺――オランダ領事。
ハリスの強情な性格
ハリスは、シナの旅から戻るや下田の総領事館を閉鎖して、神奈川へ来航した。そしてシナから同伴してきた神奈川領事のドールを本覚寺に住まわせ、自分は江戸へ入って麻布の善福寺を仮の公使館としたが、こんどは老中を相手に、諸外国の代表を語らって、執拗に横浜問題に食い下がった。幕府はこれに対して了解工作をつづけると共に、一方ではハリスの抗議に頓着なく横浜港の建設をすすめた。そして大いに外国商人の便宜をはかったので、これらの商人は一人も神奈川を好まず、ハリスの説得をしりぞけて横浜へ集中した。また、諸外国の代表も、条約の文面とハリスに対する気兼ねから神奈川に居館を置いてはいたものの、横浜の便利なのを見て自国商人の横浜集中や同所の開港を黙認するようになったので、心から反対を唱えるのはハリス一人になってしまった。こうして、横浜は幕府の計画通りに開港場としての実績をあげ、商人が軒をならべ、往来織るが如く、すでにハリスの反対をもってしても、如何ともなしがたい状態にまでなった。しかし、ハリスはその後も自分の主張をまげず、帰国するまで一度も横浜の土を踏まずに、持ち前の強情さを貫いたといわれる。横浜の開港の歴史は、こうした論争の一ページをもって始まるのであるが、これはまた、ハリスの性格の一面を如実に物語るものでもあった。
三 ポーハタン号の遣米使節
使節の任命
日米修好通商条約の第十四条に、批准書の交換は日本から使節をワシントンに派遣して行なうことが規定してあった。これは当時の日本側委員の提案によったもので、岩瀬忠震の如きは自ら使節の任に当たろうと、その準備までしていた。しかし、人の運命は定めがたく、堀田正睦失脚の後の岩瀬は井伊大老の忌むところとなり、忽ち転職、やがて退職を余儀なくされてしまった。それは兎に角、幕府は条約の規定によって使節をアメリカへ派遣せねばならず、安政六年(一八五九)九月に、外国奉行兼神奈川奉行の新見(しんみ)豊前守(正興=まさおき)を正使に、外国奉行兼箱館奉行の村垣淡路守(範正=のりまさ)を副使に、目付の小栗豊後守(忠順=ただまさ)を監察に任じて、アメリカ行きを命じた。この使節のアメリカ派遣の世話をしたのが、公使のハリスであった。ハリスは、自分が苦心して調印に漕ぎつけた条約の批准書交換使節を、自分の手でアメリカに送ることを大いに誇りとして、乗艦の手配やら、本国との連絡やら、斡旋の労をいとわなかった。
ポーハタン号
一行は使節以下、随員・従者をふくめて総勢七十七名、安政七年一月二十二日に、米艦ポーハタン号に乗って横浜を出発した。この軍艦は長さ二百五十フィート(76m)、幅四十五フィート(14m)、二千四百十五トンで、大砲十一門を搭載し、指揮官はタットナル提督、乗組員四百三十二人であった。ペリー提督が横浜で条約を調印した際の旗艦で、アダムズ中佐がその条約の批准書の交換に下田へやってきた時の乗艦でもあり、またハリスはこの艦上で井上・岩瀬の両名と条約の調印をしており、日米の国交上きわめて縁(ゆかり)の深い軍艦であった。そして、またまた晴れの使節をアメリカへ送りとどける使命をになったのである。ポーハタン号は、横浜を出帆してから間もなく大暴風雨に見舞われた。風波がはげしくて、艦体は三十二度まで傾き、一行はひどく船酔いに悩まされた。やむなくハワイのホノルル港に寄り、請われて国王夫妻に謁見したりした。その時の村垣範正のざれ歌に、「御亭主は たすき掛なりおくさんは 大はだぬぎで 珍客に逢う」というのがある。
サンフランシスコに入港
三月九日に、祝砲を聞きながらサンフランシスコに入港したが、チョン髷(まげ)・帯刀の珍客の入来に、物珍しさも手伝って、同地の歓迎ぶりは非常なものだった。同地で、先着の護衛艦「咸臨丸(かんりんまる)」の乗組員に会って互いに無事を祝した。さらに使節一行は再びポーハタン号に乗って南下し、パナマ地峡を汽車で横断して大西洋岸に出(い)で、ここで待ちうけていた米艤ロアノーク号に乗って北上し、閏(うるう)三月二十四日(改元、万延元年)に首都のワシントンに上陸した。同月二十八日に、使節は狩衣(かりぎぬ)、随員は布衣(ほい)・素袍(すほう)の礼装に威儀を正し、四頭だての馬車をつらねて、歓迎の群集が沿道の両側をうずめる中をホワイト・ハウスにおもむき、
批准書の交換
大統領ジェームズ・ビュカナン J. Buchanan に謁見して、将軍徳川家茂(いえもち)の親書を手渡し、ついで四月三日に国務省へ出むいて、国務長官ルイス・カッス Luis Case と批准書の交換を行なった。それから一行は、国会議事堂・海軍造船所・博物館・天文台・動物園などの、多くの場所を見てまわった。何を見ても、ただ驚き呆れるばかりであったが、さすがに使節は悠揚(ゆうよう)たる態度をうしなわなかった。ついで、ボルチモア・フィラデルフィア・ニューヨークの都市に招かれて、どこでも大歓迎をうけた。
国賓として歓迎
アメリカの国民は、日本の最初の遣外使節を自国に迎えたことを大きな誇りとし、国を挙げての歓迎で、一行を国賓として待遇した。航海中はもちろん、米国滞在中もホテルから汽車・馬車などの費用まで一切を負担し、フィラデルフィア市だけでも歓迎費一万ドル、ニューヨーク市は二万ドルの支出を市会で議決したというから、一行のために支出した総額は莫大なものであった。
帰国の途につく
一行は、使命を果たした上は早々帰国しようと、他の諸都市の勧誘をしりぞけて帰途についたが、フィラデルフィアに至って、江戸に変事(実は桜田門外の変)のあったことを初めて耳にした。一行は五月十三日に、新造のアメリカ最大の軍艦ナイアガラ号(四千五百八十トン)にのり、礼砲におくられてニューヨーク港を出帆した。それから大西洋を横ぎり、喜望峰をまわり、インド洋を経て、ジャワ島のバタビアや香港に寄港し、九月二十七日に無事品川沖に帰着、翌二十八日に上陸した。往復と滞在で、約十ヵ月を要したのである。十月一日には、使節は打ち連れて麻布善福寺のアメリカ公使館にハリスを訪問し、渡米にあたって斡旋の労をとった彼の厚情と尽力に対して深甚の謝意を表した。
咸臨丸の太平洋横断
使節のアメリカ派遣と時を同じくして、咸臨丸の太平洋横断が行なわれた。これは、日本人が長崎でオランダ人から航海術を習いはじめてから僅か五年のことである。その浅い経験で太平洋の怒濤を勇敢に突っきって往復したのだから、その意気ごみたるや壮としなければならない。使節のアメリカ派遣が幕府の評議にのぽったとき、使節の乗艦のほかに日本の軍艦を別に仕立てて、使節警護の名目をもって太平洋を横断させ、あわせて航海術の腕前をためして見ようということになった。そして、これに用いられたのが咸臨丸であった。これは幕府がオランダに注文して造らせた、百馬力、三百トンぐらいの木造の小汽船であった。汽船とは言っても港の出入りの時だけ石炭を焚く程度のもので、航海中はもっぱら帆走に頼らなければならなかった。
乗組員の意気
乗組の一行は、指揮官に軍艦奉行の本村摂津守(喜毅)、艦長に勝麟太郎(軍艦操練教授方、教頭)、それに教授方・教授方手伝・従者・水夫・火夫にいたるまでを数えると総勢九十余名におよんだ。万延元年一月十三日に品川沖を発し、途中横浜で、半年ほど前にわが沿岸で難破して滞在中であったアメリカの測量船の船長ブルックなど十一名の外人を客分として便乗させた。航海中は日本人だけで操縦し、便乗のアメリカ人は指導と援助以外には一切手を出さないという約束だったが、途中大暴風雨にあったため、相当これらの人々の厄介にもなったらしい。一月十九日に浦賀を発し、使節の乗艦ポーハタン号に三日先行して太平洋にのりだした。大圏コースをとって一路サンフランシスコへ向かって帆走したが、間もなく連日の荒天で、船体はしばしば三十七、八度心傾くというような有様だった。搭載の艀(はしけ)四艘のうち、二艘までが激浪にさらわれてしまった。しかし、このような難航海にもかかわらず、三十七日がかりで太平洋を横断し、二月二十五日にサンフランシスコに到着、大いに日本人の軒昂(けんこう)たる意気を示した。ポーハタン号よりも十数日早く着いたわけである。一行は同地で盛んな歓迎をうけた。さすがに船体の損傷が多かったので、同地のドックで修理が施されたが、費用は一切アメリカ持ちで、金を払うと言っても先方は笑って受けつけなかったという。
帰航
同地に滞在すること約五十日、閏三月十八日にサンフランシスコの港を抜錨(ばっぴょう)して帰途についたが、帰路は幸い平穏な日和(ひより)にめぐまれた。途中ハワイに寄港して石炭・水などを積みこみ、五月六日(万延元年)夜に入って品川沖に到着、たがいに無事を祝し合った。
福沢諭吉
この一行中には、本村摂津守(喜毅)の従僕の資格で連れて行ってもらった福沢諭吉と、『万次郎漂流記』で有名な通弁の中浜(ジョン)万次郎が加わっていたが、この二人がウェブスターの辞書を一冊ずつ買って帰ったことは有名な話である。艦長格で行った勝麟太郎(海舟)は後年崩れゆく幕府の総帥(そうすい)として終戦の処理に大いに活躍したし、福沢諭吉も幕末から明治期にかけて、西洋文明の思想を大いに日本に導入し、わが国の近代化に尽したことは周知の事実である。
四 ヒュースケンの暗殺事件
攘夷熱の猖獗
安政五年(一八五八)に日米条約を皮切りに諸外国との間に修好通商条約が結ばれ、やがて横浜開港となり、ついで遣米使節の議なども起って、時勢は一途開国の気運へ向かうかと思われたのであるが、条約締結の責任者である井伊大老が万延元年三月に水戸浪士の手にかかって桜田門外で非業(ひごう)の最期をとげてからは、尊王・攘夷論者の跋扈(ばっこ=はびこり)を見るようになり、それらの者による暴力が横行するようになった。
外国人を殺傷の頻発
殊に、彼らは、「撰夷のさきがけ」と称して、横浜や江戸でやたらに外国人を殺傷したのである。
「安政六年七月二十七日夜、横浜上陸のロシア士官一名・水兵二名殺害される。犯人不明。安政六年十月十一日夕刻、フランス領事のシナ人召便一名、横浜で断られて重傷。犯人不明。万延元年二月五日夕刻、オランダ人二名、横浜で殺害される。犯人不明。この外にも、江戸のイギリス公使館(高輪の東禅寺)門前で公使館の小使兼通弁伝古(日本人)の刺殺事件があり、この時の犯人も不明であった。 」
このように相次いで殺傷事件がおこり、しかも犯人はいずれも逮捕を見なかったので、在留の外国人たちは恐怖の念におそわれ、役人が故意に犯人の逮捕を見のがしているのではないかと疑い、不信の目を幕府に向けていた。こうした時に、ヒュースケンの暗殺事件がおこったのである。
プロシャとの修好通商条約
万延元年七月にプロシアのオイレンブルグ伯 Friedrich Albert, Graf zu Eulenburg が品川に上陸し、日本と修好通商条約を結ぶ目的で芝赤羽根の接遇所(外国人応接所)に入ったが、攘夷熱の猖獗(しょうけつ=暴威をふるう)していた際だったので、幕府はこれと条約を締結することを拒んだ。この時に両者の間に立って斡旋の労を取ったのがハリス公使であった。ハリスは、幕府が江戸・大坂の開市と兵庫・新潟の開港の延期を要請してきたのを承諾し、その代わりにプロシアとの条約締結を幕府に勧めて、これを承認させたのであるが、また両者の談判を側面から援助するために、オランダ語の出来るヒュースケンをプロシア側に貸してやることにした。そんなわけでヒュースケンは、オイレンブルク伯の滞在中は毎日麻布のアメリカ公使館から赤羽根の応接所まで騎馬で通うことにしていたのである。オイレンブルク伯の随員中にはオランダ語に通じた者が一人もいなかったので、ヒュースケンはこの談判にとって無くてはならない存在だった。それだけに、彼は攘夷論者に一層つけ狙われることになったのである。
ヒュースケン兇徒に襲われる
万延元年十二月五日夜、五半時(夜九時)ごろ、ヒュースケンが騎馬で応接所から公使館へ帰ってくる途中、森元中の橋の北のたもとへ差しかかったところ、突然攘夷派と思われる四〜五人の兇漢に襲われた。一人は抜刀で付き添いの先乗り鈴木善之丞の馬に切りつけた。ひるむヒュースケンの脇腹めがけ他の一人が切りつけた。先乗りの馬は駈け出して斃(たお)れ、馬上の鈴木は地面へ放りだされた。ヒュースケンの馬も主人を乗せたまま駈けだしたが、馬丁がようやくこれを取り押えた。ヒュースケンは馬から下りると、その場に突っ伏してしまった。
重傷を負って絶命
後乗りの阿部孝吉と近藤直三郎の両名は、いきなり提灯を切り落されたが、急いでヒュースケンに追いついた。しかし、その時には、すでに暗殺者たちは逃げ去っていた。まっ暗で、しかも突然の出来事だったので、相手と刀を抜き合わせる暇もなく、犯人の風体さえも確かめることができなかったのである。ヒュースケンは戸板にのせられて善福寺へもどったが、手当てのかいもなく夜半になって絶命した。遺骸は八日に麻布の光林寺に葬られた。幕府は、護衛の士をつけておきながら兇行を防ぐことが出来ず、しかも犯人を取り逃がし、その後捜査の手段をつくしたか遂に逮捕することができなかったので、大いに威信をおとした。
諸公使、国旗を巻いて江戸を去る
イギリスの公使オールコック Sir Routherford Alock とフランス公使のベルクール P. du Chesne de Bellecourt は、幕府に外国人の生命を保護する能力なしとして、国旗を巻いて江戸を去り、品川からイギリスの軍艦で相共に横浜へ引きあげてしまった。オランダ公使のポルスブル Dirk de Polsbroek もこれに同調して、幕府が外国人の安全を保証するまで江戸に立ち帰ることはないと宣言した。
ハリス公使の態度
一方、ハリスは、これまで朝夕形影を共にしてきたヒュースケンを失って悲歎に暮れたが、しかし幕府の窮情を察して、ひとり江戸へ踏みとどまっていた。そして、「暴徒による殺傷は、欧米の文明国でも時々あることである。日本の現在の不穏な状態は、二百年末の鎖国政策を一ペんに打ち破ったところから来ており、これは自分にも責任がある。幕府はこの件で私に陳謝し、ヒュースケン君の遺族に相当の扶助金を贈ると約束しているのだから、これ以上責めるのは宜しくない。今や、幕府を助けて開国の目的を達成させなければならない時に、軽々しく公使館の旗を撤去して横浜へ引きあげ、示威手段で幕府を苦しめるようなことは自分の採らないところである。一命のあらんかぎりは江戸へ留まって、紛争の解決に当りたい。それに、幕府から夜行を避けるように注意があったのだから、それをきかなかったのは当方の落ち度でもある」といって、他の諸公使の勧説を聞きいれようとはしなかった。
三公使江戸に戻る
そこで、三公使は一旦横浜へ引きあげては見たものの、振りあげた拳のやり場に困ってしまい、ハリスの斡旋を待って再び江戸へ戻ってきた。そこで、幕府もようやく愁眉(しゅうび=安心する)をひらくことができたのである。幕府はこの事件の責任者をそれぞれ処罰し、オランダにいるヒュースケンの老母に慰藉金として洋銀一万ドルを贈ったので、さしもの難事件もここに落着した。
安藤信正の信頼
時の外国掛の老中(外相に相当)安藤信正にこの事件以来ハリスを徳とし、その人柄に惚(ほ)れこみ、師父のように信頼していた。その後も外交上の難事がおこるたびに、まずその意見を聞くことにしていたと言われる。 
■第九 帰国後のハリス 
帰国の理由
ハリスの辞任帰国の表面上の理由は病気云々(うんぬん)にあったが、その真意は、すでに日本における歴史的使命がおわったことを自覚したこと、共和党のリンカーンが大統領に就任して以来民主党員(デモクラット)たる自分が何時までも在任するのを潔(いさぎよ)しとしなかったこと、すでに南北戦争が開始されてから一年を経過しており、故郷の様子が気がかりになったことなどにあったと思われる。
日本を去る
ハリスの日本退去の日付は文久二年(1862)四月十日、あるいは十二日と言われているが、十日に江戸を出発して、十二日出航の汽船で横浜を立ったのではないかと思われる。江戸の公使館を出たハリスは、儀仗兵(ぎじょうへい)にまもられながら後任者のプリュイン Robert H. Pruyu 公使と一緒に横浜へゆき、上海へ向かう汽船に乗って、永久に日本を去ったのである。
セイロン島に滞在
上海や香港などに寄港して、六月にセイロン島のポアン・ドゥ・ガルに到着した。同島は日本へ赴任の途中も暫く滞在した馴染みの深い土地であった。ハリスは同地のロレッ卜・ホテルに逗留中に、プロシアの日本駐箚領事に任命されたマックス・フォン・ブランド Max August Scipic von Brandt に会った。同領事はベルリンから日本へ赴任する途中だったが、プロシア国王が日本・プロシア間の条約締結に尽したハリスの功績に報いるために勲章を贈ることになった旨を伝えた。ハリスは、一年半前にプロシア使臣の応接所からの帰途暗殺されたヒュースケンのことを想いおこし、同人の冥福のためにもプロシア国王の厚意に感謝した。同年九月に故国に到着すると、まずボルチモアへ行って、ハリスの一番の親友ヘンリ・サンドウィズ・ドリンカーの長女のキャザリンを訪問した。ハリスは親友のこの娘を幼少のころから可愛がっており、日本へきてからも時々便りをしていたのであった。
ニューヨークに帰着
同市のボルチモア・ホテルに投宿し、そこからワシントンへ向かい、そこに三日ほど滞在したのち、故郷であるニューヨークの土を七年ぶりで踏んだのである。ハリスが帰った時には、アメリカは南北戦争の真っ最中であった。独身者のこととて迎える人も殆どなく、ニューヨーク市の四番街二六三の質素な下宿におちついた。友人や親戚などからも離れて、孤独を愛する生活を送っていたが、時折、華やかな、しかも困難だった日本滞在中の思い出に浸ったり、また内乱の渦中にある祖国の行末を思いわずらったりしていた。
老大君
近所の人々は日本から帰った彼をオールド・タイクーン(老大君)と呼んでいたという。日本滞在中に相当な蓄財もしていたのだが、内乱のために物価が昂騰したので、一人暮らしでも楽な生活ではなかったようだ。国務長官のウィリアム・セワード William H. Seward は、ハリスを慰藉(いしゃ)するために、彼が日本滞在中に自分の収入で負担してきた費用の一切を国家が補償するようにして呉れた。このセワードは、ハリスの日本派遣を当時の大統領ピアスに推薦した有力者の一人であった。そして、ハリスが辞任の意思を表明してきた時には、「健康の勝れぬことについての貴下の苦悩には、私は衷心より貴下に同情している。非常に卓越した才能と成功とをもって当ってきた重要な地位から貴下が退くことは、この国にとってばかりでなく、あらゆる西洋の国々にとっても大きい損失である。云々(うんぬん)」という懇篤な手紙を寄せたのであった。この年の暮れに、ハリスはニューヨークの政界や財界の人々の集まりであるユニオン・クラブの会員にあげられた。また、ハリスが往年設立したニューヨーク市のフリー・アカデミ(無料中学校)の教師団によって、ハリスに対する感謝の決議が行なわれた。翌文久三年(1863)四月七日に、麻布善福寺のアメリカ公使館が原因不明の発火で焼失した。
善福寺の焼失
当時は攘夷熱が一段と熾烈(しれつ)さを加えてきていたので、放火の疑いもあったのであるが、ハリスはアメリカでこの報を耳にするや、同寺再建のために金千両を寄付したことが現在同寺の記録にのこっている。
グラント将軍
この年の半ば過ぎに、北軍の将グラントが敵の難関ヴィックスバーグを攻略したので、北軍の士気が大いにあがり、同将軍は北軍の総指揮官に任ぜられた。これと時を同じくして、有名なゲッティスパーグの戦いでも北軍は大勝利をおさめた。とんで、慶応元年(1965)の春、グラント将軍は南軍の将リーをアポマトックスで降し、ここにおいて満四ヵ年の長きにおよんだ内乱もようやく終熄(しゅうそく)した。この内乱で、日本におけるアメリカの外交官の影響力はずっと後退し、イギリスがこれに代わって主導的な地位を占めるに至ったのである。ハリスは、英雄的指揮官として祖国を果てしない荒廃から救ったグラント将軍に感謝の手紙を送り、江戸城で公使辞任の挨拶の折、将軍家茂から贈られた見事な日本刀一振を贈呈することを申し出た。将軍からは折かえし、喜んで受納する旨の返事があった。
イタリア旅行
その後、ハリスはイタリア方面に旅行してローマに遊び、ついでパリに行き、当時世界的に有名だった大博覧会を見物したりした。そして、慶応三年(1867)に再びニューヨークへ帰ってきた。同年、アメリカの下院はハリスに生活補助金を支給する件を可決した。これは、争乱期に帰国したために輝かしかるべき名声が世間から没却され、市井の一隅に孤独の生活を送っている彼を、国家が少しでも優遇しようとするものだった。明治元年(1968)に、ハリスはアメリカ動物愛護協会の会員となった。時に、日本は革命の動乱のさ中にあった。ハリスにとって条約締結の相手であった徳川幕府は崩潰して、明治の新政府が樹立された。かっての攘夷論者で条約の成立に飽くまで反対だった人々が、政権の座につくや急に熱烈な開国主義者に転じて、欧米文化の心酔者となったのは皮肉であった。明治四年(1871)には岩倉大使一行の欧米訪問が行なわれた。その目的は文物制度の視察を兼ねて、条約改正に関する我が方の希望を開陳するにあった。木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳を副使とする総勢百人にも達する大名旅行で、安政条約の批准書交換使節の場合にも劣らぬような大歓迎をアメリカ国民からうけた。岩倉大使はこれに気をよくして、条約改正の談判に乗りだそうとしたのであるが、新政府の体制が未だ整わないうちに改正問題を出しても藪蛇(やぶへび)に終るという議論が一行の内部や留学生の間から起ったので、岩倉も談判の膝を途中から引っこめた。この時である。大使の随員の一人であった福地源一郎はニューヨークでハリスに面会した。ハリスは往時を追懐しながら、
「私は一方においてはアメリカの利益をはかり、一方においては日本の利益を損なわないように努力した。治外法権(領事裁判)の如きは当時の日本の国情から真に止むを得ず定めたことで、もちろん両国全権の素志から出たものではなかった。また輸出入税の如きも、私は民主党員(デモクラット)で自由貿易論者であったにもかかわらず、日本に海関税の収入を得せしめるために二割平均の輸入税を定め、酒類や煙草には三割五分の重税を定めたのであった」と語り、「当時井上・岩瀬の両全権は綿密に条約草案を逐条審議し、時にはかえって私を閉口させたこともあった。彼らの烈しい議論のために、私はしばしば草案を修正し、その主意までも改めたところが少なくない。こうした全権を持った日本は幸福であった」と、かつて条約談判の相手であった井上・岩瀬の両名を賞揚した(『幕府衰亡論』)。
明治七年(1874)十月に、ハリスは日本から帰国したばかりのウィリアム・グリッフィス William Elliot Griffis に手紙を書いた。グリッフィスは、日本に招かれて四〜五年も大学南校(後の東大)などで教鞭をとり、殊に理・化学方面の教育的基礎を初めて日本に築いた人であるが、ハリスはその帰国を知るや、親しく会って日本の近情を聞きたがったのである。翌八年の秋にグリッフィスはハリスを訪ね、二人はユニオン・クラブで会った。グリッフィスは、日本におけるハリスの偉大な足跡をしのんで、ハリスの死後十八年たった明治二十九年(1896)に『タウンゼンド・ハリス――日本における最初のアメリカ使節』という本を出版したが、その資料はハリスとのその後の交際によって得たものと思われる。明治九年(1876)には、ハリスはフロリダ州の保養地クリーン・コープ・スプリングズに来ているが、それは老齢に加えて、健康が勝れなかったためだったと思われる。このように、帰国後のハリスは公職をもとめることなく、静かな境地を楽しみながら、友人や親族とも余り交際をしなかったので、動静について知られているところが至って少ない。明治十一年(1876)二月二十五日(月曜日)にニューヨーク市の下宿で死去したのであるが、生涯独身を通してきたのであるから妻子かおるわけでもなく、姪のべッシー・ハリス Bessie A. Harris が彼の死後法定相続人となったのである。葬儀は二十八日(木曜日)の朝、四番街二一のキャルヴァリ教会で行なわれ、ブルックリンのグリーンウッド墓地に葬られた。墓地の事務所の記録には病名が肺充血Congestion of the lungs となっている。行年七十四であった。
墓碑には、こう書かれている。
「タウンゼンド・ハリスを記念して
一八〇三年十月五日(一八〇四年十月四日の誤りであることが、後年『日記』の公表により判明した)ニューヨーク州サンディ・ヒルに生まれ、一八七八年二月二十五日にニューヨークで死亡。彼が一八五七年と八年に結んだ両条約は、ただにアメリカの国民のみならず日本の国民にも満足をあたえた。彼は自分の国に対して忠誠であったばかりでなく、外交官としての彼の全経歴は、派遣された国の人民に対しても心からの尊敬の念を抱いていたことを証明しており、日本国民の権利を尊重したので、彼らから“日本の友”という称号を得た。」 
 
日本滞在記 諸話

 

ハリス日本滞在記
ハリス下田着1856年8月、江戸入りまで1年以上待たされて57年11月、修好条約締結が58年7月、日本退去61年5月。滞在したのは明治維新まであと10年、7年間という、あわただしくも騒然とした世相の時代だが、これほどおもしろい本には久しぶりに出遭った。本書には上、中、下と三巻あるが、「上」はタイ滞在日記で、「中」と「下」が日本滞在記。
一般の日本人は正直、勤勉で、身分の上下、富裕の差にかかわりなく質素で華美に走らない。大君(将軍)ですら住居は簡素、衣服は粗末だった。宝石や金銀で飾る風習がまったくない。ハリスが面会した将軍は第13代将軍、家定。
シーボルト同様、日本の動植物に関心が高く、下田に常駐しつつも観察したものを記している。
当時の徳川政権下の世情が混沌としていた事実についての知識が欠落していたからか、幕府との交渉に介在した武家役人を「嘘つき」「二枚舌」「底なしの虚言癖」と酷評、「奸智」「狡猾」「姑息」などの厳しい言葉がしばしば。ハリスは一貫して疑心暗鬼にかられたようだ。
副使節だったヒュースケン(イギリス人)が薩摩大名行列の前を馬で横切り、ために薩摩武士の兇刃に倒れ、所謂「薩英戦争」を引き起こした史実もあり、「将軍に会わせろ」とのハリスの強要に対し、役人が嘘を混ぜながら交渉引き延ばし戦術に出た裏舞台は想像できる。
ただ、役人の言動には今日の官僚システムの原型を見る思いがあるし、またかれらが幕府とのあいだで慌てふためき、幕府は幕府で大大名に気を遣ってうろちょろする姿には江戸末期の徳川政権の体質がいかに脆弱になっていたかを推察させるに充分。言葉を換えれば、徳川政権の瓦解が始まっていた時期だった。
将軍との謁見を経た後、国際関係にも経済にも無知だった交渉介在者(当時の大老を含め)に対し、ハリスは教師としての役目をにない、とくに経済学については言葉の概念から教えたという。
「日本人は恐怖なしには譲歩せず。力の誇示と示威が交渉を成功させる」との言葉は、ペリーの言動や、戦後のマッカーサーの威嚇的な態度に出た手法を想起させる。外圧に弱く、過剰反応する体質は今日も変わらない。北朝鮮のテポドン一発に慌てふためくのも、そうした日本人の性質の一端であろう。また、一方、アメリカが日本を庇護する点も、当時と戦後は酷似している。
江戸入りには350人もが行列に加わった。ハリスは用意された籠には乗らず、大名が乗る「籠」を称して「狭くて脚腰が伸ばせず、息が詰まる」といって忌避。「日本の大名や貴族はよくこんな乗り物に我慢ができる」などの感想を漏らしている。籠の代わりに、ハリスは馬に騎乗、威風堂々と下田から天城を越え、江戸に入った。要するに、当時、下田半島には海岸線を歩く道路がなかったということだ。とはいえ、貴人が籠に乗る意味は顔を民衆に曝さないことを目的としていたから、同行した役人はもとより、市井の民にとっても馬上の白人の姿は驚愕の景色だったに違いない。
沿道、とくに東海道に入って以後は幕府官僚の肝煎りで、人払いがなされ、平静だった。天城を越え、三島あたりに出たとき、富士山の威容には一驚を喫している。
江戸の女も「人類の母、イブ」と同様に好奇心のかたまりで、出窓の奥に幾つも顔が重なり、ハリスを見物したとの記述は想像に訴える。
下田到着以来、地震をなんどか経験した。東海、南海、江戸とペリー来航以降三度あった安政大地震のうち一度か二度はハリス滞在中に起こった可能性がある。津波も経験したかも知れない。
当時の日本人児童は生まれてから20歳に達することのできる割合がたったの3割だったことが交渉に介在した官僚から説明されている。ハシカ、疱瘡などのワクチンを当時の日本人は知らなかったという事情がある。
江戸宿泊所では故意にキリスト教の祈祷書を声高にとなえてみせ、幕府の「キリシタン禁制」を批判。デモンストレーションを行った。
日本人の馬の扱いをみて大笑いしている。日本人は馬をしつけるのではなく、馬にお願いしながら動いてもらおうとすると。また、日本は馬を駆って走るための広く平坦な土地に恵まれていないとも。
遣欧使節、遣米使節を可能ならしめたのはハリスの手柄。
江戸の日本人
昨日の朝日新聞夕刊に、「はみ出し歴史ファイル ハリス 列強総領事の見た日本の幸福」という記事がありました。歴史研究家の河合敦さんが、歴史の意外なエピソードを紹介されるコーナーです。
江戸時代の日本人は、健康的で身なりがよく、幸せそうで、アメリカから日本を文明化しようと来たハリスは驚いたのだそうです。
タウンゼント・ハリスは、1856年(安政3年)に、アメリカ総領事として下田港に到着します。列強国からは、最初の外交官でした。
ハリスが本国から課せられた任務は、開国したばかりの日本の幕府と、通商条約を結ぶことでした。
ハリスは熱心なクリスチャンで、当時は人気のなかった日本領事の職を熱望した理由の一つに、「この未開の国を、キリスト教の感化によって文明国に引き上げ、人々を幸福にしたい」という宗教的使命感もあったのだそうです。
ハリスは、1958年に、日米通商条約を結ぶことに成功します。
日本に滞在するうちに、ハリスの気持ちは大きく変化しました。日記には、次のように書かれています。

日本人は「皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない―これが恐らく、人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以(ゆえん)であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
ハリスは極東の地で図らずも楽園を目にしてしまい、自分の持つキリスト教的価値観を大いに揺さぶられたのである。いずれにせよ、幕末の日本人が欧米人から高い評価を受けたというのは大変興味深い。ということです。

「皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである」という箇所が印象的です。江戸時代は、寺子屋もあり、識字率は世界的に見ても高かったと聞きます。
「寺子屋によって実務的な教育が庶民の間に定着しており、明治初期における日本の識字率は世界最高水準にあった。明治期の日本が急速に近代化を達成できた要因のひとつに、寺子屋が庶民に高い教育水準をもたらしていた背景をあげることができる。」
ハリスの抱負
「1856年8月19日条
我々は今日、九州の沿岸から東約70哩にあるが、この海は人間に関するかぎり一つの砂漠のようであるー一艘の船も、ジャンクも、ボートも、如何なる種類の舟をも見ないーそして、このことは、合衆国よりも人口稠密な帝国 an empire の海岸に近づいてからも、なお同じである!太平洋の対岸の、渦巻く生活と、なんという対照であろう! 私は、日本の駐箚すべき文明国からの最初の公認された代理者となるだろう。このことは、私の生涯に一のエポックをつくるものであり、日本における諸事物の新しい秩序の発端となるであろう。私は、日本と、その将来の運命について書かれるところの諸々の歴史に、名誉ある記載をのこすように身を処したいと思う」
江戸城内で将軍家定に謁見
「大君の衣服は絹布でできており、それに少々の金刺繍がほどこしてあった。だがそれは、想像されうるような王者らしい豪華さからはまったく遠いものであった。燦然たる宝石も、精巧な黄金の装飾も、柄にダイヤモンドをちりばめた刀もなかった。私の服装の方が彼のものよりもはるかに高価だったといっても過言ではない。日本人の話では、大君の冠物は黒い漆をぬった帽子で鐘を逆さにした形だという。
……裳(はかま)の材料は、豪奢なペナレス織のインド綿襴にくらべると、はるかに粗末な品であった。殿中のどこにも鍍金の装飾を見なかった。木の柱はすべて白木のままであった。火鉢と、私のために特に用意された椅子とテーブルのほかには、どの部屋にも調度の類が見当たらなかった。」
天城越え
米国公使ハリスは伊豆下田の玉泉寺に滞在し仮の領事館とした。彼は江戸で通商条約を結びたいと願っていたが、幕府はいろいろ理由を並べて承知しない。彼は「米国大統領の親書を直接幕府の首脳に手渡したい」。外交上の儀礼を切り札にした。やむをえず幕府老中首座、堀田正睦はハリスの江戸入りを認める決断をしたのである。
安政4年11月23日、ハリス一行は下田を出発した。先頭は馬上の下田奉行代理、菊名仙之丞。続いて米国国旗にハリス本人、ハリスの護衛、駕籠かき人、馬上の通訳ヒュースケン、そして護衛、日常生活の必需品類と続き、最後尾は副奉行。総勢350人の大行列である。
道を天城越えにとり、23日は山麓の梨本集落にある慈眼院に宿泊。翌日、天城を越えた。
天城越えは予想以上にきつい道だった。険阻な山道は急峻で右はガケが迫り、細い道の左は深い谷と多くの滝がある。駕籠を担いで曲がれないほど鋭角もある。こうしてやっと峠を越えた。下り道になっても困難な状況は続いた。ヒュースケンはとうとう馬を下りて徒歩になった。だが靴が破れ足がつっぱって棒のようになる。彼は駕籠に乗り苦労して越えた天城を恨んで眺めた。そして眼をまわすと、松原越しに突然富士山が見えた。
「やわらかな陽射しを受け、うっとりするような美しい渓谷が目の前にある。
立ち並ぶ松の枝越しに太陽に輝く白峰が見えた。それはひと目でフジヤマと判った。
はじめて見る山の姿だが一生忘れることはないだろう。この美しさに匹敵するものが世の中にあろうとは思えない。フジヤマより三倍も高い山はある。スイスの氷河はたしかに印象的で壮大である。ヒマラヤの最高峰や孤高ダウラギリは、神々しい顔をはかり知れない高さに掲げている。しかしそれは周囲に立ちはだかる他の山々に登らないと見えない。氷と氷河しかない世界でどっちを向いても雪である。
ところがここは、実りゆたかな田園のなかに、大地と年齢を競うかのような松林、楠の老樹がお宮、すなわちこの国の古い神社の御堂に深い影を差しかける。豊かさと清らかさのこの殿堂、それを背後から包むように、たぐいなきフジヤマの稜線が左右のバランスを保ち高く聳える。清浄な白雪は夕日に映えて、あたかもダイヤモンドのように、青い山肌を薄墨色にかげらせている。
私は感動のあまり馬の手綱を引いた。
脱帽して“素晴らしいフジヤマ”と叫んだ。頭に悠久の白雪をいただき、緑なす
日本の国に凛として聳えたつ。
ああ!幼な友達にこの風景を見せたい!この王者に久遠の栄光あれ!」
 
ハリスと東海道

 

はじめに
1857年11月23日(安政4年10月7日)、ハリスは、通商条約締結のために、下田柿崎の玉泉寺に置かれていたアメリカ総領事館を出発して江戸に向かった。一行は、下田街道を通って、11月25日に三島宿に到着、翌26日、東海道を下って、箱根峠を越えた。その日は、小田原で一泊、27日は、大磯で休憩を取って、藤沢に宿泊した。前稿では、ハリスとヒュースケンの日記をもとに東海道箱根宿から藤沢宿までの様子をたどった。一行はその後、28日は、神奈川で休息して、川崎に宿泊する。30日、川崎を発った一行は、六郷川を渡って蒲田、鈴ヶ森と進んで品川で休み、高輪を通過してやがて東海道の起点である日本橋に至り、室町、本町、御堀端通り、小川町を経て、宿所の設けられていた九段坂下の蕃書調所に到着する。本稿では、ふたりの日記をもとに、藤沢から川崎にかけての幕末期の東海道の様子を探っていく。
1 ハリスとヒュースケン
1856年8月21日(安政3年7月21日)、アメリカ大統領ピアース(Franklin Pierce)に初代駐日外交兼総領事に任命されたタウンセンド・ハリス(Tawnsend Harris)が、軍艦サン・ジャシント号(the San Jacinto)で下田に入港する。時にハリス51歳、大統領より日本との通商条約締結の訓令を帯びていた。ハリスは、23日に下田に上陸、9月3日に下田柿崎村の玉泉寺を総領事館とし、翌日、アメリカ国旗を掲揚する。10月25日、ハリスは、大統領の親書を将軍に上呈するために江戸に赴くことを幕府に要請する。しかし、11月27日、幕府は、江戸出府要請を拒絶、ハリスは、1857年1月8日、再び出府を要請する書簡を幕府に送る。2月25日、ハリスは、すべての事務は、下田および函館の奉行と処理すべしとの老中の返簡を受け取る。これを不服としたハリスは、4月1日、江戸にて直接談判すべき旨の老中宛要求書を下田奉行に提出する。
この間、ハリスは下田にあって、通商条約の先駆となる九箇条の条約案を下田奉行と談判していた。この条約は、「下田条約」として1857年6月17日に、日本側全権下田奉行井上信濃守直清、中村出羽守万時との間で締結される。6月26日には批准書交換が済むが、この条約は和親条約の域を出なかった。8月27日、ハリスは、本来の使命である通商条約を結ぶために、再び、江戸出府を要請する。9月8日、幕府は、ハリス出府許可の意を、溜詰諸侯に内達、9月12日には、徳川三家に内達する。しかし、諸侯は、その中止を建議し、水戸、尾張の二侯は不可とする。9月18日、ハリスは、江戸出府の許否について十日間の期限付きで返答を迫る。9月23日、ハリスは下田奉行より江戸上府が許容されたことを告げられる。そして、10月1日、幕府老中筆頭兼外国掛堀田備中守正睦は、ハリスの出府許可を布告し、海外事情に詳しい旗本川路聖謨を米国総領事上府用掛に任命した。
この下田での条約締結のためオランダ語通訳として幕府方役人との交渉に参席していたのが、ヘンリー・ヒュースケン(Henry Heusken)である。ヒュースケンは、オランダ、アムステルダムで生まれる。1853年、21歳の時に大きな希望を抱いて新興国アメリカに移住する。しかし、期待外れの生活が続き、ハリスが、日本との通商条約締結のため英語とオランダ語のできる通訳を求めていることを知って、これに応募して採用される。時にヒュースケン23歳、年俸は1500ドルとの契約であった。ヒュースケンは、また、フランス語、ドイツ語にも堪能であった。
1855年10月25日、ニューヨークを発ったヒュースケンは、途中マデイラ島のフンシャル、アセンション島、ケープタウン、モーリシャス島、セイロン島のガルに寄港し、1856年3月21日に、当時プリンス・オブ・ウェールズ島と呼ばれていたイギリス領ペナン島のアメリカ領事カリアーの邸宅でハリスと対面した。その後、ヒュースケンは、5月29日にハリスがシャム国と修好通商条約を締結した場面に立ちあい、香港、広東、マカオを経てハリスとともに下田に到着した。
ハリスとヒュースケンには、28年という親子ほどの年齢差があった。ハリスは、日記の1856年12月3日の日付で、ヒュースケンについて次のように記している。
「 四日前からひじょうに悪性の風邪をひき、咽喉が痛い。ヒュースケン君が煖爐に燃料をつごうとしない習慣から、こんなことになるのだ。昼間は私が自分で火をつぐので、火を絶やすことはないが、夕方は忙しくなるし、それにヒュースケン君が火の傍にいることとて、それを怠ってしまう。木炭だから、消えるのが早い。紙の窓と家の隙間のため、直ぐに、戸外に坐っているように冷える。ヒュースケン君は食べるとき、飲むとき、眠るときだけを考え――他の事はあまりに気にかけない人だと私は思う。 」
2 江戸出府
大行列
○ 「合原猪三郎筆記」 / 私の行列の先駆は菊名で、キャプテン(大尉)に相當する身分の陸軍士官である。彼は馬と駕籠と、普通の駕籠人足と従者をもっている。彼の前には三人の若者が、いずれも先端に紙切れをつけた竹の棒をもって進んだ。彼らは、代る代るに、「下に、いろ」とさけんだ。それは、「シット・ダウン」、「シット・ダウン」という意味である。彼らは、四百ヤードほど前にたって進んだ。彼らのさけび声は、きわめて音楽的にひびいた。菊名の後に、私の護衛者二人にまもられたアメリカの旗がつづいた。それに次いで、私は六人の護衛者をしたがえて、馬をすすめた。私の駕籠と、十二人の駕籠人足、その人足頭、靴持などがしたがう。それから、ヒュースケン君が二人の護衛者にまもられながら乗馬でくる。その後に彼の駕籠、駕籠人足など。その後から、私の寝具、椅子、食物、トランク、それに進物をおさめた荷物をかついだ従者の長い縦列がつづき、私の料理人とその助手がこれに連なった。下田の副奉行が、自分の供廻りと、それから柿崎の村長と、最後に下田奉行の秘書役をしたがえて、つづいた。オランダ語の通詞が一人、駕籠でヒュースケン君の後から運ばれた。行列の人数は全部で約三百五十人をかぞえた。
駕籠
○ 日本の駕籠は、見たところフランスのルイ十一世時代にカーヂナル・バリューが発明したといわれているアイアン・ケーヂ(鉄檻)のような恰好につくられている。それは至って丈が低いので、その中で直立することができない。また、縦身が短いので、全身をのばして横臥することもできない。腰の下に両脚を折って坐るということに馴れないものには、身禮の重さが全部踵にかかってくるので、その姿勢をとることは容易に想像しうる以上に苦痛なものだ。私は前から、私ののる駕籠をつくらせてあった。それは(インドのパランキンのように)、長さが六呎半もあったので、日本の駕籠の苦痛からは免れることができた。
周到な準備
○ 私のその夜の宿は寺院であった。そこから、丘や谷や、そして、我々から約百五十呎の直下によこたわる村の極めて美しい眺めをほしいままにすることができた。私はカトリックや異教徒の世界のどこへいって見ても、常に教会や寺院のために最も形勝の場所がえらばれていることに気づく。私は、今日私の通った通路(それは道路とよぶことはできぬから)に、周到な注意がはらわれているのを知った。橋は、あらゆる水流の上に架けられ、通路は修理され、藪という藪は通路を明けておくために伐りはらわれていた。寺では、湯殿と便所が私の専用につくられていて、私を快くするために、萬端の注意がはらわれているのを私は知った。
天城山越え
○ ヒュースケンの記 / 私は歩く方がいいので、馬から下りた。二人の侍、靴持ちと傘持ちは、相変わらず影のようについてくる。威厳というのは厄介なもので、サンチョ・パンサが総督をやめたのはもっともだと私は思いはじめた。世間なみの旅行者として、この山々を気軽に歩き、好きな場所で足をとめ、気の向くままに草の上に寝そべることができるなら、何をおいてもそうしたいところだ。いま、もしここで足を止めれば、行列全体が停止して、私は従者に踵を踏まれることになりかねない。いまでこそ威風堂々、たいした貫禄だが、そうなると私の鼻と地面の泥がねんごろになることもありうるわけだ。
3 三島宿
ケンペルと三島
○ この町は、日本の大きな道路である東海道の上にあって、オランダ人が江戸へ行くときに通る道である。ところで、オランダ人は、この十年間というものは、江戸へ行ってはいないし、彼らの貢物は長崎で日本人に渡されているのだ。このようにして、オランダ人は旅行に要する多大の費用を節約したのだが、彼らが以前江戸訪問において捧げていた献上品は、現在長崎で規則的に要求され、その地で渡しているので、そのための出費は矢張り免れていない。三島は約九百戸を有している。一六九六年のケンペルの記述は、その過當な潤色を適當に割引けば、そのまま現在にも當てはまるだろう。ケンペルの書いたものを批評する場合には、素晴しさなどの標準には、一六九六年のそれと一八五七年のそれとの間に相違があるということを念頭におかなければならない。彼が一六八五年頃オランダを出発したときに素晴しかったものでも、一八五七年には賞讃の如何なる形容にも値しないということがあるだろう。そこで、彼が雄大な城廓、宏壮な宮殿、荘厳な神社について語るとき、百七十年前の昔はどんな部類の建物がそれらの賞讃の辞に値するものであったかを想起すべきだ。
○ ケンペルの記 / 三島は私の概算では、宿場はずれの町を除いて戸数六五〇、長さ四分の一里の中央の町筋から成る小さな町で、二つの川が町を流れ、川下の所で三本目の川がこれに合流する。これらの川はみなかなり深いので橋が架っていた。一六八六年〔貞享三年〕町はすべて焼け、それと一緒に、たくさんの物語で有名な、種々の古い立派な神社仏閣が失われた。以後それらは前よりずっときれいに再建されている。有名な神社の一つで、焼けてしまった三島明神という社は、同じように四角の石を並べた敷地に再建されたが、それについては第二回の参府旅行の折りに述べることにする。(1691.3.10)
○ ケンペルの記 / 日没の一時間前にわれわれは三島に着き、そこに泊った。ここには有名な神社があり、境内は広大で、四角の石がきちんと敷きつめてあった。またすぐ近くの池には、人によく慣れた魚がいた。(1691.4.7)
○ ケンペルの記 / 三月二八日われわれは吉原で昼食をとり、三島に泊った。(1692.3.28)
○ ケンペルの記 / 三島町。宿場はずれの家を加えないで六五〇戸から成っている。神社が建っていたが、すっかり焼けてしまっていた。境内は横一〇〇歩、縦三〇〇歩の広さがあり、樹木と石の垣をめぐらしてあった。しかし社殿の中で神体を安置してあった本来の場所は、竹の矢来で囲ってあり、たくさんのお札が下がっていた。その裏手の薮の中にはなお小堂が建ち、その近くに木製の黒い馬が置いてあった。そこから遠くない所に三和土で作った浅い池があり、人に馴れたたくさんのウナギやその他の魚がいた。(1692.4.29)
三嶋大社
ケンペル、ハリスともに、三島宿の名所である三嶋大社の社殿を見ることができなかった。なお、ハリスの記述には、安政東海地震と安政2年10月2日(1855.11.11)発生の安政江戸地震との混同がみられる。
○ この町には、亭々たる樹林にかこまれた美しい境内にある立派な神社があった。しかし、それは一八五五年十二月の大地震で、すっかり破壊されてしまった。私はその跡を見に行ったが、その途中、一見してこの町の全人口よりも遙かに多いと思われる澤山の人の群れを見て、私は驚いた。その理由を聞けば、私の到着する日取りは、何日も前から知られていたので、許可を得ることのできた人達がみな私を見るために三島へやってきているというのだ。中には百哩以上もある遠方からきている者すらあるという。人々は全く行儀がよかった。私のそばへ群れよることもなかった。何らの叫びも、騒々しさもなかった。私が通るときには、みな跪いて、(私を正視することを憚るもののように)目を伏せていた。相當身分のある人達だけが私に敬禮することを許されていたが、これは額が地面に實際つくほど「低く叩頭する」ことによって行われた。そこの神社の境内に、魚の群れているいくつかのきれいな池がある。三層の小さい塔が、地震にひどくゆすぶられたので、ぐらぐらして倒れそうになっている。神域の小さな掘割にかかっている橋までが、境内を圍んでいる石垣とともに、すっかり破壊してしまっている。
本陣
○ 今夜の私の休息所は本陣であったが、それは守などのような最も身分の高い人達のための休宿所である。下田の副奉行でさえもが、ここには泊ることができなかった。貴人や政府の役人のためには二、三の等級からなる旅舎があるが、これらは一般の旅館と区別されている。というのは、一般の旅館にも雑多な等級があるが、いずれもそれだけの金を払えば誰でも自由に宿泊し得るのである。私は、ひじょうに居心地がよかった。背後には矮樹や小さい築山や岩石のある庭があり、小池があって、お伽の国の小人でもなければ渡れぬような橋がいくつかかけてあった。
寄進
○ 日暮れ頃、三島に着く。町には二十の街路があり、東海道という日本の幹線道路上にある。その夜泊まった宿はまったく申しぶんがなかった。すみずみまでよく手入れがゆきとどいている。座敷まわりは便利で清潔で、庭石や池や亭、奇妙な形に刈り込まれた樅の木などのある庭を見渡すことができる。小径には飛石をおいて、靴を汚さぬ工夫がしてある。今日は八里の旅であった。半時間休憩した後、ミヤ〔三島神社〕を見にゆく。歩いて行ったが、道の両側はたいへんな人だかりだった。この神道の社殿の境内は非常に広く、両側に大きな樅の木のある小径が通っている。境内の入口には三階建ての朱塗りの塔、つまり木造のパゴダが二基、建ててある。神殿そのものは三年前の地震で倒壊した。ミヤの再建に寄進した篤志家の名前を墨で書いた小さな板きれが道にそって並んでいる。非常に大勢の名前があるから、寄付金がどんなに些少でも、ソロモンの神殿を凌駕する大伽監を建てるだけの資金ができたはずである。大使が神殿の寄付に応じたので、神官たちは盛装してお礼を述べにきた。そこにはまた大きな池があって、いままで見たこともない大きな金魚がたくさん泳いでいる。餌を投げてやると、先を争って群がり寄ってくるところは、文明国の金魚とすこしも変わらない。
4 箱根宿
東海道
○ これからは日本の大道路である東海道だ。その道幅は三十乃至四十呎あって、ひじょうに見事な絲杉、松、樅、樟などの並樹が道の両端にある。杉の多くは、すばらしい巨木である。一八五六年九月二十二日の颱風(この日の日記を見よ)が、これらの見事な木に痛ましい惨害をもたらした。ほとんど百ヤード毎に、その傷痕が見られた。
沿道風景
○ われわれが旅をしている大きな公道、東海道は、道路ぞいに高さ十フィートほどの土塁があって、その上に大きな松や杉が植えてある。ケンペルが江戸へ行くとき、影を落としていたのも、たぶんこの並木であろう。ケンペルが書いた『日本の歴史』はとても役に立つ本であるが、私はいま、一足ごとに、一つの村に入るごとに、彼がみごとに描写した日本の習俗の一つ一つに、そのことを改めて認識している。日本の姿はケンペルの時代から変わっていない。内乱で国土が荒廃することもなかった。肥沃な田畑が軍馬や重い砲車に蹂躙されることもなく、農夫の茅屋が規律のない兵士たちに放火されることもなかった。秋の稔りは毎年欠かさず刈り取られ、備えの蔵に納められ、農夫の汗がマース〔戦の神〕やべロナ〔戦の女神〕の激情の犠牲にされることはなかった。昔ながらの奇妙な結髪が日本人の頭を飾っている。着物は祖先のと同じように仕立てられ、足にも同じ草履をはいている。同じ庶民たちが土を耕し、昔ながらに両刀をたばさんだ主人の前に土下座し、昔の本に書いてある日本人のもちまえの礼儀正しさが、すこしも輝きを失わずに残っている。ひるがえって西洋の歴史をひもといてみれば、いかに多くのぺージが血まみれの文字で書き綴られていることか。いかに多くの肥沃な国が、手のつけられない荒野に変わつてしまったことか。いかに多くの民族が国を奪われ、王座が覆えされ、みずから世界の主と称し、みずからの力に傲って、「国家、それは私だ」〔ルイ十四世太陽王〕と揚言した人々の首が、いかに数多く死刑執行人の刃にかかったことだろう。
箱根峠
○ ほどなく、我々は箱根の横嶺を登りはじめた。山道には平たい石が敷かれている。車輌や蹄鐵をつけた馬が全く通らぬので、その石は丁度磨かれたように至って滑かであるから、その上を馬で通るのは危険である。登りにくいが、天城山を越える時のそれほどではない。山頂附近で、私は家康が建立した神社へ案内された。家康は現在の徳川幕府の創建者である。箱根の山頂から、我々は駿河の邑と駿河湾の美しい景色を見た。富士山は目前に迫っているが、それは湯が島で見たときの壮麗さとは、まるで異ったものであった。
石畳
○ 箱根の山を登ると、もっとも悪い道――平担な部分がすこしもなく、穴だらけで、石が散らばり、泥が深くつもっている――が旅人に強いるすべての苦しみを忍ばねばならないが、それでもしばしばあらわれるすばらしい眺めによって十分酬われていることを知るのである。そのような場所をうまく利用して、勤勉な日本人は小さな茶店を建てている。〔草稿半ページ欠損〕 ……太平洋には何故なら……二日前に越えた天城、そして背後には駿河湾と、同名の町が見える。この町は日本のいくつかの年代記にその名を記されているが、現在の王朝の創始者はここに城を築いていた。四里ほど登って山頂に達し、半里下って、三百軒ほど家のある箱根村についた。
芦ノ湖
○ 私が休息した本陣は、約二哩の長さの美しい湖水の堤上にあったが、それは衛生上よくないところで知られている。ここの水はひじょうに悪く、富士の山腹を吹きおろす寒風が、病氣をおこさせることは分明だ。
寒冷の地
○ ここにはハエも蚊もいないから、夏は静養していてもこれらに妨げられることはないが、冬ここに滞在するのは全く快適ではない。外気は非常に寒く、重苦しくガスが立ちこめ、体によくないので、外国人は健康をそこなわずに長期間辛抱することは恐らくできない。前のオランダ東インド会社の長、フォン・カンプホイゼン氏は、自分は、ほかでもないこの土地のせいで体を悪くした、と私にはっきと言っていた。
○ ヒュースケンの記 / この村の宿に着くと、小さな湖に面する部屋に通された。湖は深い紺青色をしており、その底はきっと死火山の噴火口なのであろう。周囲は険しい山で、樹木が繁茂し、その背後に富士ヤマが見える。ここの冬は非常に寒いというケンペルの言葉はまちがっていない。湖から吹きあげる風と、富士の雪を越えて吹き下ろす風のために、周辺の地域よりはるかに寒いのである。
5 箱根関所
関所
○ 箱根の山頂から一哩ばかり、その北側から程遠からぬところに、箱根という名前の村がある。ここには、江戸地方に入る有名な関所がある。乗物はすべて厳重に検査され、旅人はめいめい所持の手形を改められる。
○ ヒュースケンの記 / この村を出はずれたところに屯所、または関所があって、はるか昔から皇帝の役人が、首都に往き来する人を検問している。それは山の峡間にあって、周囲の山が非常に高く、険しいので、江戸に行こうとする人はみなこの路を通らざるをえない。
駕籠改め
○ この関所へ差しかかったとき、下田の副奉行は極く遠廻しに、日本の大名がこの関所を通るときには、駕籠の戸を開き、駕籠舁の足を停めることなしに、役人がその中を覗きこむことになっていること。そして、それはほんの儀式に過ぎないものだが、古くからの掟となっていることなどを私に知らせた。
○ 私はこう答えた。自分は日本の臣民ではなく、合衆國の外交代表者であるから、このような検査を受ける理由はないのだ。君らは、私の駕籠の中に何があるかを知っている。そして、禁制の何ものもその中にはないということを、関所の役人に知らせることができるのだと。
○ 副奉行は暫く、私の決心をひるがえそうと試みた。そして、終には、私が馬でそこを通ることにし、その際、空の駕籠を検査させることにしてはどうかと申し出た。私は、どんな形式にせよ、検査そのものに反対するといって、断乎としてこれを斥けた。
○ すると、副奉行は、指図をもとめるために江戸へ使者を出すから、それがあるまで我々は滞在しなければならぬ。僅か五日でそれが得られるだろうといった。私は、五日は愚か、五時間も待ってはいられない。あくまで検査を主張するならば、このまま下田に引返そうと彼にいった。哀れな副奉行は、たいへん苦境に立った。とうとう関所の番小屋へ行ったが、二時間の後に漸く戻ってきて、一切が解決したから、このまま通ってもよいといった。
治外法権
○ ヒュースケンの記 / 大使は、この関所を通るとき、当番の役人がノリモンの扉を開けるであろうが、大使が自分の従者に開けさせてもよい、そして役人は内部を一目見るだけですぐに扉を閉めるだろうと言われた。異議があるなら、馬または徒歩で関所を越えてもよいのである(大使は、この帝国のもっとも強力な大名、薩摩守でさえこの検問権には服従するのだと説明された)。大使は次のように彼らに答えた。自分は大統領の代理としてそのような扱いに従うわけにゆかない。関所はノリモンのままで通るか、さもなければまったく通らないことにする。薩摩守は高い身分にあるといっても、主君に忠誠を誓いに行く臣下であるが、自分は完全な治外法権の下におかれているから、いかなる検問の権利にも服することはできないのである、と。二時間延引して、下田の副奉行と関所の衛兵の指揮官が協議したのち、ハリス氏はノリモンに乗ったまま門を通過し、ノリモンの扉は開かないが、私のノリモンの扉を開ける権利は保留するということでようやく話がまとまった。関所に着くと、ハリス氏の従僕のタキゾー〔村山滝蔵〕は主人のノリモンの扉を開け、そしてすぐに閉めた。ハリス氏は日本人が約束を破ったと思いこんで激怒したが、無理もない。しかし結局このことに責任があったのは滝蔵だけであった。彼はイキゾーが私のノリモンの扉を開くように命ぜられていると聞き、またあらゆる人がこの慣例に従わねばならないことを知っていた上、大使という身分の全般的な治外法権性を知らなかったために、ハリス氏も同様に規則に拘束され、それに従うものと思ったのである。 
6 畑宿
箱根東坂
○ ヒュースケンの記 / 箱根からの下りは、登り同様に困難である。大きな岩が路上いたるところにあって、けっして旅人に余裕を与えない。しかし、雨期の豪雨のさいにも路を保持して、通行できるようにしておくためには、岩を残しておくほかはない。雨は路を急流に変え、根深い岩だけを残して、他のものはいっさい押し流してしまうからである。
茗荷屋
○ その山道を三分の二ばかり下ったところで、私は「休宿所」の結構な小亭に休息した。すべてのものが小形につくられていた。その家は新しく、清潔なことこの上もなかった。小庭がその背後をかざり、岩壁からは若干の小さい瀧が銀絲のように、さらさらと気持のよい音をたてて、もつれ合って落ちていた。樹木は、できるだけ小さく、最も奇態につくられていた。いくつかの小さい掘割に、すきとおるような清澄な水がたたえられ、その水底は白い砂利でしきつめられていた。これらの掘割には、かなり多くの金、銀色の魚がおよいでいた。その中の一尾は二呎以上もあった。三十吋ほどもある一尾の鯉が、この魚族の家長であった。多数の小さい亀(日本では長壽の表象)が、若干の小さい岩の上や、幅十八吋ぐらいの橋の上を、物うげに這っていた。そのほか、私に供された色々の馳走の中には、魚の生きづくりとボンボンのように砂糖をまぶした茶の葉があった。その糖菓は品が非常にいろいろあり、優れた品質のものであった。
○ ヒュースケンの記 / この旅の間に見た旅宿のうちでもっともよかったのは、箱根村から約一リーグのところにあるハト〔畑宿の本陣茗荷屋〕にあった。部屋はきわめて清潔であったが、それは日本では珍しいことではない。どの部屋もすこぶる巧妙に配置されて、趣向をこらした庭園が眺められるようになっている。さまざまの花や庭石、いろいろな形に刈りこまれた植えこみ、岩間を伝わって美しい姿を見せる三段の滝(箱根湖に近いためである)、小さな岩窟、金魚や鯉のひしめいている池などがある。あらゆるものが、小石ひとつにいたるまで念いりに清めてある。
松明
○ 時間を空費したので、暗くなっても容易に小田原に到着しなかった。しかし、私はその遅延を苦にしなかった。なぜなら、竹で作った、ひじょうに沢山の炬火をもった行列の効果が、もの珍しい新奇な現象を見せてくれたから。それは山を下るとき、ぐるぐる曲り、折れ返って、想像の火焔の龍の尾のような形をつくった。
○ ヒュースケンの記 / 暗くなると、九十九折りの山道をたどる松明や提灯の光で、行列は光る蛇のように見えた。目には見えないが滝の音が快く耳をうち、海の波音も遠くから鈍く伝わってきた。
相模湾
○ 小田原の町の城壁を過ぎるころ、それぞれの定絞のついた大小、形、色とりどりの夥しい提灯の群れとともに、多数の役人によって私は出迎えられた。その場所へつくまで一哩ばかりの間、折々さかんな爆竹の音をきいたが、その原因を私は言い當てることが出来なかったのである。休息所に到着後、これらの音は頻度がまし、それにともなって今度は一つの、はっきりとした軋音がきこえてきた。それは引戸や窓をはげしく音させた。私は、それは濱邊にくだける波の音であると聞かされた。それが波であるのを見たのは、後になってからであった。
○ ヒュースケンの記 / 小田原に近づくにつれて、さわやかな潮風が冷たく感じられるようになった。町に入る前に、警察の分遣隊が竿のさきに提灯をつけ、アメリカ大使の一行に敬意を払うため、鉄の杖に鉄の環をつけたものを路上に突きたてて、じゃらじゃらと鳴らした。こうして護衛されながら、気持のよい小田原の町なかを通って、ようやくその夜の宿のきれいな家の前についた。
7 小田原宿
小田原府内
○ 江戸湾が相模の岬によって二岐にわかれ、小田原の湾が西方と北方へひろがり、一方において、その湾はほぼ東寄りの北に向ってずっと伸びている。太平洋の高浪が小田原の湾へ全く堂々たる威容をもってうち寄せ、その浜辺に激しく砕けている。夜おそく小田原に着いたので、私はその町の模様をろくに見ることができなかった。その町の戸数は七百だという。ケンペルは一六九六年に一千戸と述べている。仮に彼の計算が正確だとすると、この百六十年間にその戸数の十分の三を失っていることになる。
○ ヒュースケンの記 / 小田原の海のように磯浪の荒いところはほかにない。海からかなりへだたっているのに家全体が震動し続けるので、私は地震のためかと思った。
小田原宿家数
○ ケンペルの記 / 風祭から四分の一里行くと、四時半には小田原の町に着いた。ここは海岸にあって非常に快適な、小田原の宿場はずれにある町である。箱根の湖に源を発し、音を立てて流れ過ぎる川のほとりから、郭外の町々が始まり、右手はすぐ海岸で尽きている。木の茂った緑の高台の真ん中に小田原の町があり、左手は平野になっていて、この町は長さ一ドイツ・マイルに及ぶ肥沃な畑の恩恵を受けている。町の外側には門と番所があり、また両側にはきれいな建物があった。町筋は清潔でまっすぐに延び、そのうちの中央の通りは特に道幅が広い。郭外の町々を含めると、半時間では通り過ぎることはできない。およそ一〇〇〇戸ぐらいの家々は、小さいけれども、小ぎれいで、大抵白く塗られていた。多くの家は方形の土地に小さな庭園を設けていた。城には白壁造りの新しい三重の天守閣があって人目をひき、これは城主の住いであって、山麓に点在する寺院などと共に、町の北部にある。この土地は近くに海があるが、小売店には品物が少ない。これはこの町が商業や手工業にかかわりがない証拠のように思われた。けれども、ここでは香りの高い阿仙薬を製造し、それを丸薬や人型・花型などいろいろの形にして、小さな箱に入れて売るのである。その薬は歯のぐらぐらするのをなおすと共に、口から良い香りが出るので、特に婦人は毎日それを飲む。オランダ人や中国人はこの煮つめた液を原料のまま日本に送り、京都や小田原で精製し、アンブラ〔芳香を放つ興奮剤)や竜脳〔樟脳の一種〕やその他のものを調合して、それを再び仕入れて輸出する。住民は小ぎれいな服装をし、礼儀正しい態度、特に婦人の優雅な身のこなしから、商売をしないで、利子で生活できる裕福で身分の高い人々が、ここに住んでいることが十分にわかった。彼らはただ空気がきれいなことと、この土地の環境が快適なことから、ここに腰をおろしてしまったのである。その代りこの土地の少年たちは、箱根の子と同じように非常に腕白で、絶えず後ろから喚声をあげたりして、躾の悪さを示していた。かつては、この町とその支配権は美濃様(Mino Sama)に属していて、稲葉美濃守が最後の城主であったが、今の城主は将軍の上級参議官の加賀様(Cango Sama)である。われわれは、ここから江戸の宿の主人に宛てて、到着を知らせるために手紙を出した。(1691.3.11)
○ ケンペルの記 / 小田原の町に至る。この町には、城門と堀を備え、老中〔大久保〕加賀〔守〕様の城があり、幾本かの街筋が通っている。町の入口からわれわれの宿舎までに、私は七〇〇〜八○○戸の家を数えた。(1692.4.28)
8 小田原から藤沢へ
馬入川の舟渡し
○ 我々は、馬入川を渡舟でこした。この川の幅は今は二百ヤード位だが、五、六月の雨期には一哩をこえるという。両岸の土地はただの砂地である。そして、この川は流砂でみたされている。これらの砂と、洪水のときの川幅の増大が、岸堤の非常に低いことと相まって、この川の架橋を甚だ困難なものとしている。この川の廣い砂地と低い堤は、私にインドのソン河を想いおこさせた。
平坦な街道
○ 小田原から藤澤までは、ほとんど連続した一つの村の感がある。小村と小村との間が、僅かに数百ヤードを隔っているだけである。山越えするところは箱根で終わった。小田原からさき東海道は、江戸のむこうまでひろがった平野の中を通って行く。山は遠方に見えるだけである。道は完全に手入れされ、平らにならされて、馬車を走らせるのによさそうだが、この国にはまだ馬車がない。
田園風景
○ ヒュースケンの記 / 道の両側は見渡すかぎり水田で、鸛が数えきれないほど群れていて、測るような足どりで歩き、飛び立って次の田に移り、あるいは舞い、あるいは走り、羽ばたきながら走る。おびただしい雁が列をなして空を渡る。その啼き声はけっして耳に快くはないが、私には聞きなれたものであるし、遠い日、遠い所のことを思い出させてくれるのがうれしい。
9 沿道警備
御触書
ハリス一行が江戸に向けて東上する間、東海道は、幕命により、一行の出府に支障がないよう修繕のうえ綺麗に清掃されていた。しかし、この間、一般人の通行は、大きく制限されており、沿道の店舗は閉店を余儀なくされていた。そして、その現場取締には、俗に「泣く子も黙る八州廻り」と言われて恐れられた関東取締出役があたった。
「 往来の者、心得違ひこれ有り候ては宜しからず候間、関東取締出役の者差出し、附添の下田奉行支配向申談じ、取締向等萬端心付候やう申し渡さるべく候 」
この時、ハリスに同行した関東取締出役は、関口園十郎、吉岡静助、馬場俊蔵、広瀬章蔵、百瀬鐘蔵、安原党作の6人で、安原は60人余りの御供を引き連れていた。ハリス一行が、10月11日(旧暦)に、藤沢宿に宿泊するとの通知は、はやく9月4日、勘定奉行および道中奉行からの仰せ渡しを受けた品川宿問屋の源右衛門よりの書状が、藤沢宿問屋名主勘右衛門に届けられていた。そして、9月24日寅の下刻(午前4時過ぎ)、藤沢宿勘右衛門は、9月21日付けの勘定奉行加賀守本多安英および道中奉行伊豆守堀利堅連名で申し渡された次のような御触書を受け取った。
往来のない街道
○ ケンペルが日本を旅行したときには、旅人、僧侶、巡禮、尼僧、乞食が東海道に夥しく群れていたという。私はこれらの何れをも見なかった。私は途中の道路で、まだ十数人の旅人をも見ていないし、大名の大きな旅行列にも出遭っていない。町でも村でも、掛茶屋を除いては、どの店も戸をしめている。人々は彼らの家の前に大勢あつまり、私が通るとき黙って、静かにしている。各村の役人は、私をその村ざかいまで案内して、つぎの村の役人とそこで交代する。彼らは去るときに、私に平伏してお辞儀をする。これと交代した新しい案内者も、そうする。道路は修繕され、私を迎えるために整頓されていたばかりでなく、私の通過のわずか数時間前に、ほんとうに掃き清められる。東海道に通じている十字路、小路には、いずれも縄を張って、通行を遮断していた。
○ ヒュースケンの記 / 沿道では行く先ざきで役人の代表が迎えに出て、その土地を通り過ぎるまでわれわれを護衛し、いわば儀杖兵の役目をつとめる。代表者たちは村の入口に整然と並んでいて、紋切型の挨拶をし、額を地面まで下げ、別れるときもそれをくりかえすのである。役人は鉄杖で武装した警吏を伴っている。こうして道の中央はいつでも通行できるようにあけてある。群衆は、われわれを通すため、家々の前にひとかたまりになっていた。彼らはみな整然と坐って、一言も物を言わず、土に手をついて深い敬意を表している。一階ばかりでなく二階にも、われわれの通行を見るために集まった人たちがつめかけていた。政府は、われわれの通行中は誰も道中に出ることなく、通過するまで町や村の中にとどまっているように命じた。日本の幹線道路、東海道は、いつもは大勢の旅人やノリモンや馬、僧侶や托鉢僧やサマブリ〔早苗ぶり=半僧半俗の遊行念仏者の誤か〕、比丘尼、それにおびただしい大名の家臣などの往来がはげしいのだが、今日はまったく人影が絶えて、三島から品川まで約八十マイルの道中で、ようやく二、三のノリモンと、五、六人の人に出あっただけである。
○ ケンペルの記 / この国の街道には毎日信じられないほどの人間がおり、二、三の季節には住民の多いヨーロッパの都市の街路と同じくらいの人が街道に溢れている。私は、七つの主要な街道のうちで一番主な前述の東海道を四度も通ったので、その体験からこれを立証することができる。これは、一つにはこの国の人口が多いことと、また一つには他の諸国民と違って、彼らが非常によく旅行することが原因である。私はここで旅行者たちのうち最も注目すべきものを挙げよう。
10 異国人見物
藤沢宿
遊行寺参詣
○ ヒュースケンの記 / 朝、仏教の寺院を訪れ、その後、川崎に向かって出発。日曜日は川崎で過ごす予定。
異国人への興味
○ ヒュースケンの記 / 私と変わりない、いや私よりりっぱなこの人たちがみなひざまずいている光景に、私はうんざりしはじめた。こちらには白髪の老人が震える膝を曲げ、頭を下げている。あちらには若い娘が愛らしい顔を地面に伏せ、屈辱的な姿勢をとりつづけている。日本じゅうの美人が足もとにひざまずくというのは、確かに並はずれた光栄には違いない。しかし、そんな光栄は私には嬉しくなかった。せめて彼女と並んでひざまずくことができたのなら話は別だったろうが。 
11 神奈川宿
海沿いの道
○ 午前七時に藤沢を立った。江戸に近づくにつれて、次第に平野が広濶となり、道路はひじょうに気持がよい。東海道は小田原から全く海岸に近く走り、相模半島を横切るところが海から遠のいているだけだ。道路にそって、一八五六年九月の颱風による被害の痕が多数見られる。富士山は、それから遠ざかるにしたがって、姿がよく見えはじめる。途中の村々は、昨日通った村々よりも大きく、いっそう密接につらなっている。人々はいずれも祭日の晴着をきて、私が通るとき、彼らの家々の前の蓆にひざまずいている。正午に神奈川でとまり、水辺の綺れいな本陣に休息する。
○ 神奈川ではきれいな茶店で休憩した。そこには幸い大名臭さがなく、部屋は入江の波の寄せるきれいな小庭に面していた。そこからひろびろとした江戸湾と横浜村を見渡すことができる。
ペリー談判の地
○ 神奈川はペリー提督の談判の行われた場所なので、私にとって興味のある場所である。私はこの家から、ペリー提督の艦隊が碇泊した横浜の湾を見わたす。私は、神奈川と横浜との中間ぐらいの所に、三隻の欧洲型の、しかもその式の装備をもった船が、二隻のスクーナー船と共にあるのを見て、大いに驚いた。これらの船は、日本政府が海軍を創建するためにオランダから購入したものである。神奈川から北東にあたって、オランダ人から日本人に贈られた蒸気船を見た。
洋式船
○ 神奈川を通過する。これは入江の岸に沿ってつづくひどく細長い町で、その入江の口は江戸湾の奥に向かって開いている。そこに二隻のコルヴェット艦と、スクーナーが一隻いた。コルヴェット艦は二年前に薩摩と水戸で建造されたということである。蒸気船や快速大型帆船が開発された今世紀においては、やや古い型に倣ったものである。さらに行くと第三のコルヴェット艦が見え、品川の手前で沖合に外輪式コルヴェット艦スンビン号―現在カンコウマル〔観光丸〕と呼ばれている―が見えた。これはオランダ政府が日本政府に贈ったものである。
神奈川湊
○ 神奈川は繁栄する町の様相を呈している。ケンペルが記述した當時よりも、ずっと大きくなっている。江戸に一番近い港であり、江戸が外国貿易のために開かれるときには、ひじょうに大切な場所となるに相違ない。私は惜別の情をもって神奈川を去り、川崎へ向った。その土地で、私は日曜日を過すであろう。
○ ケンペル 1691年3月12日神奈川についての記 / およそ六〇〇の家々が立並ぶこの土地の町筋は、半里も長く続いていた。この町は神奈川という名が付いているが、どこにも川はない。町はずれの山や長く続く丘の麓にたくさんの穴が作られていて、住民は貯えた水をこの中から飲料として汲むのである。この水は大へんすき通ってはいるが、やや塩辛かった。近くにある入江では、潮がいちばん引いた時には、泥ぶかい沼のような海底が見えた。
12 川崎宿
庶民の様相
○ 見物人の数が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない―これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。
田中本陣
○ 午後四時半に川崎に到着した。私を迎えるために用意されていた本陣が、ひどく荒れはてているのを知った。戸や窓はしまらず、紙がぼろぼろに破れているので、風が自由に部屋へふきこみ、汚らしい不潔さが全体にみなぎっていた。これは、私が日本でこれまでに見てきた汚い家屋の最初の例であった。そして、私が日曜日をここで過そうと考えていただけ、一層ひどく私には感じられたのである。その家の状態は、一つの重大な問題となった。やがて、私は決心した。本陣に泊ろうと考えるかぎり、この場所の実際の不愉快さから遁れることができないので、この土地で発見することができるなら、もっとよい宿へ泊ることにしようと。そこで、副奉行が色々とむつかしい諌言をするのもかまわず、ヒュースケン君はこの土地の旅館を物色するため飛びだしていった。
上段の間
○ ヒュースケンの記 / 夕刻川崎に着く。ハリス氏が安息日に旅行することを欲しないので、明日はここで泊まることになっていた。ところが宿につくと、ハリス氏はそこに泊まることに反対しはじめた。街道筋の旅宿はホンジン〔本陣〕と呼ばれ、建物には必ず車で通り抜けられる門をはじめ、大名風の拵えがあって、身分のある人だけに使用される。自分の資金で本陣を建てる者には、政府が指定を与え、その施設を維持する権利は世襲で父から子に譲られる。身分の高い人はそこに宿泊せざるをえないから、持ち主は貴族の上客を保証されているのであるが、それにもかかわらず建物の手入れを怠っていることが多い。それで大衆向きの旅館のほうが状態のよい場合がある。川崎の本陣〔田中兵庫〕はひどい状態であった。
○ ヒュースケンの記 / 他の部屋より六インチも床が高くなっていて、大名・小名たちだけが高貴な寝息をとり交わした部屋で夜を過ごすのは明らかな名誉であるのに、ハリス氏は羽目板の隙間から十一月の夜の冷気が流れこまず、また皇帝の紋章のついた衝立や幔幕などよりもましなものがその隙間からのぞき見できる家で休むことを望んだ。というのは日本では、えらい人ほど隔離され、身動きせず、物を言わないので、衝立や幔幕は陽の光や空の青さ、そのほかしもじもの賎しいものを大名の目に触れさせないために置かれているのである。思うに、この帝国の貴人にとって最大の名誉は、昔、誓いを破った尼僧がなされたように、生きながら龕の中に塗りこめられることなのであろう。御霊よやすかれ!
13 宿泊所
宿替え
○ 私が万年屋へ行ってはならぬ他の理由として副奉行が述べたことの中には、ひじょうに重大な事柄があった。それは、どこの本陣でも、私の入る部屋の床は他の部屋よりも約三吋高くなっているということだ。余人と同じ高さの床の上に私をおくことは、私に払うべき尊敬を減少することになる。それに、大君から最もつよい命令が出ており、それによれば私は日本で最も身分の高い人達にあたえられる名誉のあらゆる特色を旅行中にうけることになっている。そんなわけで、私は常に最も良質の畳のしかれている、そして特別の型の梁などで縁どってある高い床のある本陣に泊まることになっているというのだ。
○ 私は彼に答えた。貴君の言はまことに真実であり、極めてもっともなことではあるが、貴君は、私が本陣の恵まれた床よりもずっと私を高くしているところの椅子にかけているという事実を忘れている。それに、「畳と梁」のことは、私は外国人のことゆえ、川崎に滞在中はそれらを考慮してもらわなくても結構であると。そんなわけで、事件は三時間ばかりを費したのちに落着した。
万年屋
○ 彼はやがて戻ってきて、一軒のよさそうな家を発見したこと。それは場所もよく、きれいで、清潔で、感じのよい家だといった。私は直ちにそこへ泊ることにきめた。副奉行は、庶民の泊る旅館へは行かないでもらいたいと、私に懇願した。しかし、私がそれを望むよりも、むしろ彼の方が自分の宿舎をすてて、彼自身その旅館へ行きたかったであろう。私は彼に、貴君に面倒をかけるようなことはしない。私の威厳に関しては、それは私自身に関する事柄だから、十分にそれを注意するつもりであるといった。
14 旅籠
快適な宿
○ そこで私は、万年屋、すなわち「万年の幸福」というその旅館へいったが、宿を変えて非常によかった。なぜならば、暗くて、汚くて、不愉快な本陣の代りに、明るく、清潔で、氣持のよい家に入ることができたからである。
○ ヒュースケンの記 / 彼らは急いで他の宿を用意した。それは母屋(公衆旅館)から離れた、小さな白い別棟で、一階にある二室から町の周辺と、鸛がのどかに歩きまわっている水田が見渡せる。この宿屋は万年屋といって、名前は古めかしいがなかなか快適である。
西洋式料理
○ 私の料理人は私に、ひじょうに美味しい小鴨と、うまい鶉を私の夕食に供してくれた。私はこの男(日本人の料理人)に、私が下田を出発する前の五週間ばかりの間、西洋式の料理をおしえていた。彼の料理はデルモニコの料理には劣るが、日本料理よりは私の味覚に大いにましである。私は私の食物と宿泊に対して、私の旅行中は支払をする(私の護衛者、駕籠舁、馬丁などの給金をも)。幕府は、私の荷物などを運ぶために雇った人夫の全部に給与する。江戸へ到着のあかつきは、私は大君の賓客としての待遇をうけ、私の宿所と食事は大君によって給せられるであろうとつげられてい る。

ハリスとヒュースケンは、江戸出府における最終宿泊地である川崎において、民間の宿で一夜を明かす。明くる11月29日は、「聖アンデレ(St.Andrew)の日(11.30)」に最も近い日であり、キリストの降誕を待つクリスマスイブまでの約4週間、つまり降臨節(Advent)の第一日曜日にあたっていた。  
 
『長崎海軍伝習所の日々』 カッテンディーケ  

 

 
ウィレム・ヨハン・コルネリス・リデル・ホイセン・ファン・カッテンディーケ
(1816-1866) オランダの海軍軍人、政治家。日本においては単にカッテンディーケ、カッテンダイケ、カッテンデイケ、カッテンデーケなどと記されることが多いが、本来の姓は「コルネリス」で、「ホイセン・ファン・カッテンディーケ」は叙任された騎士爵の称号である。
1857年(安政3年)9月21日、幕末に徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号(後の咸臨丸)を長崎に回航し、幕府が開いた長崎海軍伝習所の第1次教官ペルス・ライケンの後任として第2次教官となる。勝海舟、榎本武揚などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を精力的に行った。
2年後の1859年(安政5年)、長崎海軍伝習所は閉鎖となり帰国。1861年、オランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任した。
日本滞在時の回想録『長崎海軍伝習所の日々』(水田信利訳、平凡社東洋文庫)が出されている。その回想録の中で、日本の子供の態度についてこう記している。
「 子供たちへの深い愛情を、家庭生活の全ての場面で確認することができる。見ようによっては、日本人は自分の子供たちに夢中だとも言える。親が子供に何かを禁じるのは、ほとんど見たことがないし、叱ったり罰したりすることは、さらに稀である。 」
西洋では子供を厳しくしつけるために鞭打つこともあった。西洋人の目では日本の家庭での子供への接し方が自分たちとは大きく異なっていると見えていた。
カッテンディーケの教育を受けた勝海舟の立案によって、1864年(元治元年)に西洋式の海軍士官養成機関・海軍工廠である神戸海軍操練所が設立された。
 
長崎海軍伝習所

 

安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関。幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地の軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖された。併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身となった。
幕府海軍の養成を目的としたので、軍艦の操縦だけでなく造船や医学、語学などの様々な教育が行われた。例えば、ポンペ・ファン・メーデルフォールトによる医学伝習は、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなった。派生した長崎養生所・長崎英語伝習所は、後の長崎大学の基となった。また、第二次教師団看護長のインデルマウンは家業の活版印刷術を教授した。この近代的な活版術の導入に関わった本木昌造と平野富二は後に明治政府から従五位を追贈された。
練習艦としては、オランダから寄贈された「観光丸」を振り出しに、委託新造艦の「咸臨丸」「朝陽丸」も到着後に使用されたほか、帆船「鵬翔丸」も購入された。さらに、造船実習を兼ねて「長崎形」(瓊浦形、玉浦形、コットル船)と呼ばれる小型帆船も建造され、完成後は航海練習に使われた。
なお、幕府伝習生が「長崎形」を建造したのに対抗するように、佐賀藩伝習生も同型船「晨風丸」を建造している。
沿革
黒船来航後、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決めた江戸幕府は、オランダ商館長の勧めにより幕府海軍の士官を養成する機関の設立を決めた。オランダ海軍からの教師派遣などが約束され、ペルス・ライケン以下の第一次教師団、後にヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の第二次教師団が派遣された。さらに練習艦として蒸気船「観光丸」の寄贈を受けた。
当面の目標は、オランダに発注した蒸気船2隻(後の「咸臨丸」「朝陽丸」)分の乗員養成とされた。そこで安政2年(1855年)に第1期生として、幕府伝習生37名が入校した。さらに、長崎など開港地の沿岸警備要員の要請も急務であったため、翌安政3年(1856年)には第2期生として長崎地役人などからなる幕府伝習生12名が臨時に追加された。その後、近代的な海軍兵学校においては若年の段階から士官養成をすべきとの方針から、第3期生として若手子弟中心の26名が入校した。
また、幕府伝習生以外に諸藩の伝習生の受け入れも行われた。安政2年(1855年)12月1日、日蘭和親条約締結の同日から、計128名(薩摩藩16名・佐賀藩47名・肥後藩5名・長州藩15名・筑前藩28名・津藩12名・備後福山藩4名・掛川藩1名)が伝習を受けた。「咸臨丸」と同型の「電流丸」を発注していた佐賀藩出身者が最も多く、活動も活発であった。
築地に軍艦操練所が新設されると、安政4年(1857年)3月に総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地に教員として移動した。そのため、長崎海軍伝習生は45名程に減った。その後、江戸から遠い長崎に伝習所を維持する財政負担が大きいことが問題となり、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになった。安政6年(1859年)に長崎海軍伝習所は閉鎖され、オランダ人教官は本国へと引き上げた。長崎海軍伝習所の閉鎖後、練習艦「観光丸」は佐賀藩に貸与され、三重津海軍所で運用をつづけられた。長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の日本海軍でも活躍した。
長崎海軍伝習所の閉鎖後、幕府海軍では本格的な外国人教官からの伝習は行われなかった。「富士山丸」の配備に際してフランス軍艦乗員から一時的な指導を受けたり(別名:横浜伝習)、箱館奉行所が独自に外国人船員から指導を受けていた程度であった。唯一、慶応年間になってイギリス海軍からの本格伝習が計画され、慶応4年(1868年)1月開始の予定でトレーシー中佐以下12名の教師団を招聘したが、大政奉還・王政復古により実現せずに終わった。 
 
長崎海軍伝習所の日々 1

 

オランダからの第二次海軍教育班として来日し、1857年9月、長崎に到着。
海軍伝習所創設の経緯
日本の政治は、嘉永六年(1853年)ころから従来にない動揺を示した。安政の初め、徳川幕府は四囲の情勢から、200年堅持した鎖国政策を持続することが不可能になったと観念して、にわかに開国政策に転ずる腹を決め、さしあたり幕府が最も憂慮する、欧米諸勢力の我が国安全に対する脅威に対抗できる近代的欧式海軍を創設することにした。
そしてこの旨を、時の長崎オランダ商館長ドンケル・クルチウスに内密に告げて、オランダ政府からこの計画の実現のための協力、並びに軍艦の建造または購入の斡旋について、何分の意向を確かめるよう手続きをとってもらいたいと申し入れた。
それに対しオランダ政府は、近年衰微の一途をたどりつつあった対日貿易の促進と政治的理由から、幕府の要求に応ずる方針を決め、幕府が欧式海軍を創設せんとするならば、先ず幕府はオランダより教師を招聘して、日本青年に近代科学の知識を授け、艦船の操縦術を習得さすことが必要であることを告げ、また軍艦の建造・購入の件については、当時ヨーロッパの政局極めて不穏なる状態にある折柄、幕府の希望に副うことは頗る困難ではあるが、政局安定の暁にはまた改めて考慮すると回答した。
この結果、幕府は長崎に海軍伝習所を設けて、そこに旗本だけでなく、諸藩の青年にも入所を許し、オランダ人教師から近代科学並びに海軍に関する教育を受けさすこととして、オランダより海軍教育班を招聘したが、そのオランダ教育班は二次にわたって来朝した。
その第二次教育班長であったのが、この『滞日日記抄』の著者、オランダ海軍二等尉官リッダー・ホイセン・ファン・カッテンディーケであった。
これより先オランダ政府は、軍艦の建造または購入の斡旋方につき幕府より依頼を受けたが、前述の通りヨーロッパ政局の不安を理由に謝絶したので、幕府は改めて東印度ジャヴァの造船所に注文することにした。
これを知ったオランダ政府は、幕府がさほどまでに軍艦を欲しがっているならば、それをむげに放置することはできないとして、終に2隻をオランダにおいて建造することを引受けたが、その中の1隻のヤパン号(のちの咸臨丸)が安政四年(1857年)3月竣工したので、それを日本へ回航することになった。
そしてこれを機会に駐日オランダ海軍教育班の交替を行うことにして、このファン・カッテンディーケを班長とする第二次教育班を編成し、これをヤパン号に乗り込まして日本へ回航する任に当たらした。
当時西洋科学に触れる機会が少なかった我が国青年を、或は講義に、或は実地訓練に、熱心に指導して西洋科学の基礎知識を授け、やがてその生徒らは科学・技術・産業・軍事等あらゆる方面において、指導的地位を占め、遂に世界の人々をして目を瞠らせる程の長足の進歩を遂げしめて、我が国文化の偉大なる先達者となった。
かくの如く日本人固有の英知と才能をよく見出して、これを独り日本人にのみならず、世界人類の福祉増進のために役立たしむべく練磨してくれたファン・カッテンディーケの功績は、我が国民が決して見落としてはならないところであろう。
天保の末期1840年ころイギリス・フランスは、あたかも支那と阿片戦争に没頭していたため、未だ十分その猿臀を我が国にまで伸ばすいとまがなかった。
ロシアはそれより先に黒龍江地方に接する千島・樺太を蚕食しようと策謀し、アメリカはその捕鯨船が出漁区域を拡大して、漸次日本の近海にまで乗り出して来るに及んで、我が国との間に屡々面倒な問題を惹き起こした。
そこで早く日本と修交条約を結んで、問題が発生すれば直ちに日本政府と交渉に入り、迅速かつ直接に解決の途を求めようとした。
一方これら諸国は、もし我が国が依然として鎖国政策に拘泥し、彼らの交易を許されたいとの要求を斥けるならば、武力に訴えても素志を貫徹しようという程の険悪な気構えを示していた。
そこでこの容易ならぬ情勢を知るオランダは、長い間親交を続けて来た信義上から、逸早くこれを日本に通報して、差し迫っている国難を未然に防止させようとした。
しかし新勢力圏の獲得に目の眩んだ連中は、もはや日本の政策など問うところに非ずと言った気構えで、しゃにむに鎖国の厳門を破って闖入を企てた。
かくの如く、文化年度の頃より頻りに我が辺海に出没する欧米人の傍若無人の振舞は、幕府の自尊心を傷つけること甚だしかった。さらばといって施す術もなく、ただ呆然として彼らの暴状に目を瞠るに過ぎなかった。この状態はやがて、内政面に大きな波紋を捲き起こさずには済ませなかった。
咸臨丸の回航
1856(安政三)年私は勅命によって殖民大臣付きに補せられ、日本の将軍のためにキンデルダイク造船所にて建造せられた百馬力の蒸気船ヤパン(咸臨丸)をその目的地に回航し、同時に私と同行する人員の一部をもって、さきに1855(安政二)年より57年までペルス・ライケン中佐指揮の下に、日本において航海学およびその他の科学の教育を担当せしめられていた海軍派遣隊と交代すべき命令を受けた。
今ここに何故オランダが、日本に派遣隊を送ったかの理由につき、一言述べることは、あながち無駄ではあるまい。日本政府は、オランダ国王ヴィルレム3世が折角与え給いし忠告も容れなかった。
しかし我が国は常に、日本がヨーロッパ国民をもっと寛大に取り扱う制度を設けるよう慫慂してきた。そうして今度こそは前よりも、もっと成功の見込みがついて、再び提案を出しうる時機の到来を狙っていたのである。
また両国の古い友好関係からしても、強制的手段に訴えるということは、許さるべきではなかろう。
かくて我々の望みを達する方法としては、幕府に風説書 (長崎の商館長がその義務として、オランダ船入港のつど入手した海外情報を長崎奉行を通じて幕府に提出したもの) の提出を拒否し、また場合によっては、出島を引き揚げるより以外に、途はなかった。
しかし幕府の遅疑逡巡の態度は、むしろ憫むべきで、我から相談を断るということは、一般の利害にももとり、また出島の商館を引き払うということも、時すでに遅い。
オランダは及ぶかぎり幕府の期待を裏切らないようにして、その日本における勢力を維持しなければならない。かくてオランダは、あらゆる科学的進歩の誘導者となり、また海軍派遣隊までも付けて蒸気船スームビング(観光丸)を日本に贈呈し、科学的進歩のために助力しなければならなかったのである。
最初はこれほど尽くしても、おそらく日本を正しい道に導くことはできないだろうと思っていたが、結果は予想を遥かに越えて、江戸の保守派は、未だ勢力を失墜していなかったにもかかわらず、日本人のヨーロッパに対する考え方がガラリと大転換をしたことは、見のがし得なかった。
土地の人々は、船の入港の光景を久しく見なかったところに、船から暗闇の中で二発の砲を放ち、到着を知らしたものだから、忽ち市民の間に大騒ぎを起した。
私がこれを敢えてしたのは、つまりは夜中には何事も起こらないと安心しきった気持でいるお人好しの日本人の夢を、多少とも醒まさせようとの考えからであった。
見る見るうちに、周囲の山の上に一面に火が点けられたが、それは実に見惚れるばかりの美しい光景であった。
それから程なく、私は大勢の供の者を引率した二人の武士の訪問を受けたが、これらの武士は、私にいろいろうるさいほどの質問、例えば「あなたは妻帯しているか、そうして子供は何人あるか」などといった質問までもするので、遂に私はもうよい加減に止めて貰いたいと断ると、彼らはこれが日本の掟なのだからと弁解する。
問答表の質問事項に全部答え終わって、私はこれで掟の要求は皆満たしたし用事は済んだはずだと思うがと言うと、今度は自分らの時計と、私の時計とを比べてみたうえで、やっと休息することを許した。
翌朝暁の空が次第に明け渡るにつれて、絵を見るような光景が展開した。長崎湾は伊王島のあたりから奥へ大きくタライ形をなし、その周りは殆ど残らず急峻な山で取り囲まれて、その山々は、水際から頂上まで、家やお寺や或は砲台が立ち並び、一面に目醒めるばかりの青々とした樹木や垣根あるいは小さな畠に取り囲まれている。
この畠は、また山の畝の田と同様に梯子段式に人間の手によって作られている。
誰でも海旅の後にはちょっとした事にも感嘆し易いものであるが、そうした気持以外に、実際長崎入港の際、眼前に展開する景色ほど美しいものは、またとこの世にあるまいと断言しても、あながち褒め過ぎではあるまい。
朝早く私は入港の許可を得て、いよいよ出島の船着場に向かい、進航を始めた。自分の肚には、出島とはどんな所か、また我々を待ち受けている日本の人たちはどんな人々か、我々の2ヵ年の日本滞在を愉快に過ごさすも、また不愉快に送らすも、皆その人々の態度一つにかかっているのだから、早くその人たちに会ってみたいという気持があったのだ。
岸辺を見渡すと沢山の人が出ているようだ、港内には4隻のオランダ船と多数の日本小舟が羅集しているほかに、ロシア船のアメリカ号がいるのを見受けた。同船にはロシア海軍提督プチャーチン伯爵閣下が搭乗していた。
先ずバタヴィアからの主なるニュースを伝えてから、持参した手紙を渡した。私は皆が手紙を読んでいる間に、出島の検分や、日本人との面会、またオランダ人が教育を施している場所の視察などをした。
奉行屋敷の庭に、製帆所とフレガット船の船具が置いてあって、そこで生徒は実地の訓練を受け、建物の内で学科を受ける。
この建物は夏季の教場としては誂え向きだが、冬季には殆ど寒さに耐えられなかった。
蓋しその教場というのが、ただ薄い紙を張った障子で室内の空気を温めるだけで、ほかに何らの暖房装置も無かったからだ。
概して私の見たものはすべて気に入った。そうして先に来ていろいろの経験をした人々も皆善いことばかり話して聞かすので、ここで2年を過ごすのだと思っても少しも嫌気がささなかった。
1855年(安政二)にオランダ国王ヴィルレム3世陛下は、将軍に1隻の蒸気船を献上された。
その時、同時にその船を用いて日本人を教育するために、将校機関部員および水兵をもって組織された一派遣隊をも付け給うた。日本人は欣んでその国王の思召しを受けるとともに、感激のあまり同派遣隊所属の人々には、200年来厳守された規則をなげうって、自由に長崎市の内外を往来しうることすらも許可したのである。
これら士官および部下たちは日本に雇われているのではなくて、蘭領東インド派遣のオランダ艦隊に属し、給料はオランダ政府から支給されたのである。
その指揮官は、日本人に航海学の教育を授ける任務を帯びていた。将軍はこれら派遣隊の出島滞在に要する費用に対し、金銭的補償も与えないで派遣隊をただで使うこと欲しなかった。
そこで一定の手当を支給したが、なおこの他にもいろいろの恩賞があったから、両者を合すればかなり莫大な額に上ったといえるだろう。
私は日本人が常に我々に対し、及ぶ限りの優しみをもって接し、未だかつて何事も私に相談することなしに、勝手に行ったことなどなかったことを認めねばならぬ。
ヨーロッパでは日本および日本人に対し先入主を持っているが、それもあながち無理もない。例えばキリスト教徒に対する残虐な掃滅、2世紀以上も頑迷に固守された鎖国、オランダ人の出島幽閉――これは何れの著書も憤激に満たされている――のごとき事実は、ヨーロッパ人をして日本人に良い感じを持たしめない理由である。
しかし、日本人の外国人取扱いを非難する者は先ず1848年に出版されたフォルブスの著『支那滞在の五ヵ年』を一読するがよかろう。その一節に次のようなことが書いてある。
「イギリス人は広東で、自宅に檻禁されているも同然である。散歩しようとて散歩する町が殆どない。たまたま町に出れば侮辱されるに定まっている。いや自宅においてすら、狂暴な民衆を防ぐに安全を感じられないことを経験した。些細な原因でも、きっと激昂の酬いが憐れな外国人の頭上に下され、自分の家が損害賠償を受ける微塵の望みもなくして民衆にブチ毀されていくのを見ていなければならない」
これによっても我々の隣国人たるイギリス人が、ただ将来の飛躍を望むばかりに、つい最近まで、広東でどれほど酷い目に遭うのを隠忍したかをよく知ることができる。
これに反して、日本にいるオランダ人は、密貿易を行ったり国法を犯したりする者に当然与えられるべき処分とか威嚇をも、侮辱というならば論外だが、さもなき限り、未だかつて我々は日本人から侮辱された例はない。
その日本の外国人取扱いをかれこれと非難するのは、いったい正しいか否かと、むしろ反問したいくらいだ。
それどころかオランダ人は、往昔より幕府の手厚い保護を受け、奉行は幕府から彼らの安全を護る責任を負わされていた。これが時に厄介と思われるような規則にも服さなければならぬ結果を伴った次第である。
我々と日本人との間を隔てた堅氷が融け、我々が打ち解けた態度で日本の士官や生徒たちと交際を始め、そうして信頼を受けているという心証を握ってから、我々はますますこの国民の善良なる側面を知ることができた。
そうしてこの印象はひとり我々の側のみでなく相互的であったと言っても差支えないと信じている。
私は一般に日本国民は辛抱強い国民であると信じている。彼らはお寺詣りをするのが務めであると考えており、我々がお寺に詣ることも非常に喜ぶ。
彼らの年長者に対する尊敬心および諸般の掟を誠実に遵守する心がけなど、すべて宗教が日本人に教え込んだ性質であり、また慈悲心が強く惨虐を忌み嫌うのは日本人の個性かとさえ思われる。
長崎にはお寺の数が60、まだその外に小さな御堂は数知れない。また僧侶および役僧の数は700を超える。こんなに沢山の徒食者やお寺を守り立てていくことは、住民僅か6万の長崎にとっては実に容易ならぬ負担であるに違いない。
まだその上に、乞食は皆家々で一文、あるいは金がなければ一掴みのお米を恵まれる。この乞食の商売は女もやっている。
私はこうも考える、すなわち日本にはあまり貧乏人がいないのと、また日本人の性質として慈善資金の募集に掛るまでに、既に助けの手が伸ばされるので、それで当局は貧民階級の救助にはあまり心を配っていないのではなかろうかと。
日本では婦人は、他の東洋諸国と違って一般に非常に丁寧に扱われ、女性の当然受くべき名誉を与えられている。
もっとも婦人は、社会的にはヨーロッパの婦人のように余りでしゃばらない。そうして男よりも一段へり下った立場に甘んじ、夫婦連れの時でさえ我々がヨーロッパで見馴れているようなあの調子で振舞うようなことは決してない。
しかし、そうだといって、決して婦人は軽蔑されているのではない。私は日本美人の礼賛者という訳ではないが、彼女らの涼しい目、美しい歯、粗いが房々とした黒髪を綺麗に結った姿のあでやかさを、誰が否定できようか。
女は下層階級の者でも一般に淑やかで、その動作は外国人と付き合う場合の態度でも、すこぶる優雅である。彼女たちは、ヨーロッパ人が女に気をくばる親切さを非常に喜ぶ、その長崎婦人の何気ない浮気をば、夫がカンカンになって怒っている光景を私はしばしば目撃した。
これから間もなく私は蒸気船にて航海をなすことを定義し、3月30日海軍伝習所長、大目付木村様および艦長役勝麟太郎らとともに生徒16名、水夫50名を引き連れて乗船した。
良い天気に恵まれて愉快に五島に向け航海したが、ここでは夜は五島に属する一島の樺島の西岸にある或る港に投錨した。
幕府の肚はその威光を付近の島々に輝かすために蒸気船咸臨丸を使用したかったらしい。
我々の船は狭い五島の海峡をば、しかも水夫たちのいろいろの指示を受けながら、幸いにも無事通過した。強い潮流がその海峡を東に流れている。
それ故、船は進むのに非常な困難を覚えた。機関部員は監督のオランダ将校1名のほかは全部日本人ばかりであったが、この難航を立派に切り抜けた。
私は最初、彼らがとても24時間も力一杯蒸気を焚き続け得ようとは予想しなかった。私はこの旅行で大いに得るところがあった。また生徒らも、この航海によって船を動かすことのいかに難しいものであるかを実地に覚えた点において、非常に役立ったと思っている。
海軍伝習所長も大いに満足して、幾度も繰り返し私に感謝の辞を述べていた。
そうして復活祭の第一日には沢山の鶏卵、四頭の豚、魚、野菜、蜜柑などの贈り物を届けてくれた。彼は私に、こうした航海は今後も繰り返しやって貰いたい。また鹿児島、平戸、下関へも行くようにしたいと言っていた。私はむろん喜んでそれを承諾した。
江戸はほとんど毎年、地震、火事または流行病など、何かの災厄に見舞われる。
1858年(安政五)は大火の年で、4月には江戸で長崎全市ほどの広い町が灰燼に帰した。このことは艦長役の勝氏が夫人から受取った音信によって私に語って知らせたのであるが、勝氏の全財産はその大火のために失われたとのことである。
それだのに勝氏は笑いながら「いや、それしきのこと、何でもござらぬ、1856年の折はもっと凄うござった」と平気で付言していた。実際、この世の事はすべてが比較的である。
4月15日、港内を帆走していた11人乗りのスループが?覆したのを見たとき、容易ならぬ椿事に見舞われたと思ったが、舵手のデ・ラッペル君の機転によって何の不祥事もなくて済んだ。
春の心地よい天気は、またもや汽船で旅行をしてみたいような気持を起させた。今度は平戸と下関を訪れることにした。
海軍伝習所長は今度は同行しないことに決め、その職権を勝麟太郎氏に委ね、2人の目付役を付けた。私は同所長が同行しないことに不平を抱こうとはしなかった。いやむしろ我々すべては彼のそうした決定を喜んだ。
大目付役は、どうもオランダ人には目の上の瘤であった。おまけに海軍伝習所長はオランダ語を一語も解しなかった。それに引き替え艦長役の勝氏はオランダ語をよく解し、性質もいたって穏やかで、明朗で親切でもあったから、皆同氏に非常な信頼を寄せていた。
それ故、どのような難問題でも彼が中に入ってくれればオランダ人も納得した。
しかし私をして言わしめれば、彼は万事すこぶる怜悧であって、どんな具合にあしらえば我々を最も満足させ得るかを直ぐ見抜いてしまったのである。すなわち我々のお人好しを煽て上げるという方法を発見したのである。
江戸奉行の息、伊沢謹吾氏も艦長役の一人であったが、彼もまた旗本出の生徒十六名を率いて乗船し、さらにオランダ士官も乗り込んだ。
元来このような窮屈な旅行には、えてして悶着が起こり易いのであるが、12日間も続いた航海中一度も気持を悪くするようなことは起らなかった。
生徒は皆々名家の子弟であるにかかわらず、彼らは常に賎しい水夫のごとく立ち働き、また船室は全部これをオランダ士官に提供するは勿論、すべての点において教官に対し礼儀を失わなかった。
我々はこれらの人々と同船して、実に愉快な日を送った。皆々快活で日本語とオランダ語のチャンポンで、面白い会話を交わしたりなどした。
一部の者はオランダ語を非常によく解し、練習のためお互い同士、オランダ語だけで話していた。私はこの航海によって如何に日本人が航海術に熟達したがっているかを知って驚いた。
ヨーロッパでは王侯といえども、海軍士官となり艦上生活の不自由を忍ぶということは決して珍しいことではないが、日本人、例えば榎本釜次郎のごとき、その先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、2年来一介の火夫、鍛冶工および期間部員として働いているというがごときは、まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。
これは何よりもこの純真にして快活なる青年を一見すればすぐに判る。彼が企画的な人物であることは、彼が北緯59度の地点まで北の旅行をした時に実証した。
また機関将校の肥田浜五郎氏(1830〜1889。咸臨丸の蒸気方士官。幕府が石川島で千代田型を造ったとき、その六十馬力蒸気機関を製作した。明治十五年海軍機関総監)も特筆さるべき資格がある。オランダや他のヨーロッパ諸国では、とても望まれないようなこと、すなわち機関将校がまた甲板士官でもあって、甲板士官の代役を勤め得るというようなことが、日本では普通に行われるのである。
4月21日我々は平戸に向って出帆した。話に聞けば、平戸にはかつて我々の祖先が住んだという家の遺跡が今なお残っているとのことであるから、私はかねがね一度この地を見たいと熱望していたのである。
我々の船が平戸の町の前に着いた時、沢山の船が田助村の小さな港に入っていると聞いたので、我々の船もそこに錨を卸して田助村を見物に出かけた。
そこには妙な人間がいて、我々の行く所へはどこへでも随いてくる。そうして何か驚いたような風をしていた。 
 
勝海舟 長崎海軍伝習所の四年間

 

一八五五年(安政二年)九月三日、麟太郎は昌平丸に乗込んで品川沖を出帆した。目指すは長崎、そこに我国初めての海軍伝習所が開かれてオランダ人の先生から授業を受けることになったのだ。船には同じく小十人組の矢田堀景蔵のほか、舟大工、鍛冶方、鉄砲方、水夫、船頭などが乗込んでいる。大工が、
「旦那、一体どんな事をするんでがす。おら、ただの大工だのにお上のご命令で異人のとこへやられるってんで、女房と泣く泣く水さかずきで」
「なあに、心配はいらねえよ」
と麟太郎は相変わらずのベランメイ調で、
「訳はこうさ。この六月にオランダから蒸気船スームビング号という大きな船をくれたんだ。観光丸って名になったがな。その船を動かす稽古をしなくちゃ、宝のもちぐされだ。また、この船を見習って俺達も造らなきゃあいけねえ。動かし方や作り方をオランダ人に教わるわけよ」
「ですけど旦那、言葉がわかりやすかね」
「そうよな。チンプンカンプンだろうが、同じ人間だ。顔つき見てりゃあわかるさ」
「心細いね。それに随分しけてきましたぜ。無事に長崎へ着きますかね」
遠州灘へさしかかると大嵐に見舞われた。帆柱が三本ポキリと折れた。
「俺はこれだから船は嫌いだ。胸くそが悪くて吐きたくなる」
船に弱い麟太郎は転がって苦しんだ。これで海軍の勉強をしようというんだから先が思いやられる。一ヶ月もかかって十月二日ようやく長崎へついたが、みんな病人のようになってへなへなと上陸した。その夜、江戸では大地震があって、麟太郎の家もつぶれて焼けてしまったが、市民の死傷二万二千、焼失した家屋約十万戸でこれは一般の民家だけ。武家屋敷の災害は民家よりひどかったといい、死傷者一万五千。大体、江戸の三分の一がなくなった。水戸藩士でペリーの首をちょん切ってやると威張った藤田東湖も水道橋の江戸屋敷で圧死した。
長崎海軍伝習所は、もと長崎奉行の別宅西役所に設けられ、スームビング号に乗組んできた将校士官たちがオランダ語で教えた。その内容は、一、航海術、運用術=ベレスレイケン 二、造船学、砲術=スガラウェン 三、船具学、測量学=エーゲ 四、算術=デョング 五、機関学=ドールニキス 六、砲術調練=セルジアントといったもので、これらは士官の養成、水夫や大工たちは別に実地に教育を受ける。幕府から派遣された伝習生は四〇名ほどで、ほかに諸藩(佐賀、福岡、薩摩、長州、津、熊本、福山、掛川)の生徒約一三〇名も参加した。
一番みんなが閉口したのはもちろん言葉の問題だ。午前八時から十二時、午後は一時から四時まで授業があるが、一切合財オランダ語なのでさっぱりわからない。時々艦にいって運転や操作の演習があるが、この方がまだわかりよいけれど、先生は日本語をしらず生徒には暗記一方でやらすから中々覚えられぬ。麟太郎は蘭学を学び翻訳もしていたから一番わかる方なので自然に通訳となり、どちらかも信頼されるようになった。しかしこの勉強は全く大変だった。言葉と同じように蒸気船の仕組みも何一つ知らないわけだから。まず名前を覚え、それぞれの役目を知り、一つ一つ試してゆく。物の形のあるものはまだいいが、航海術や算術には閉口した。数理がもとになっているものはほとんどの者が苦手で、麟太郎も頭がへんになったが、何でもやりぬくぞと頑張ってきた剣術や蘭学勉強のふん張りくせがこの時も幸いして、二、三ヶ月経つと何とか目鼻がついてきた。この時大目付として総指揮に当っていた永井尚志(なおむね=一八一六〜九一)も阿部正弘に見出された人物だが、幕府から二千両出させて造船所を造り、コットル船(帆船)の製造をさせた。船大工たちは、初めて外国式の船を造ったわけだ。
外国の造船術を学んだ最初の人はこの時の大工たちで、その後日本が世界的にすぐれた造船技術を示すようになったのも、この伝習所の生徒た力である。
麟太郎はまもなく(一八五六年、安政三年三月)講武所砲術教授方に命じられ、小十人組から大番へ進んだ。
成績優秀で身分を上げられたのだ。
幕府は江戸に軍艦教授所をつくって伝習所生徒を教師にすえることにした。伝習所は二年で卒業なので大目付の永井尚志はじめ第一期生の矢田堀景蔵ら四十人の生徒はいっせいに観光丸に乗って江戸へ向った。当然麟太郎も加わるはずだったのに、どっこい待ったと引留めたのは、交代のためにオランダから新しくヤパン号に乗ってきた教官たちである。今度の教育班の長官は艦長カッテンディーケ中佐で、この人は麟太郎の才能をたちまち発見して、ぜひ引続き生徒と教師の間をうまく切り回してほしいと頼んだのだ。
カッテンディーケは『長崎海軍伝習所の日々』という本の中で、「勝氏はオランダ語をよく解し、性質もいたっておだやかで、明朗で親切でもあったから、みな同氏に非常な信頼を寄せていた。それ故、どのような難問題でも彼が中に入ってくれればオランダ人も納得した」と書いている。
勝手知らぬ外国人と融通のきかぬ日本人の間にはさまって仲をとりもつのが麟太郎の役目だった。第二回の生徒の中には榎本武揚(一八三六〜一九〇八)のようにすぐれた人物がいた。榎本は麟太郎と同様小旗本で、父は数学者。大変な勉強家で、蒸気の釜たき、鍛冶工、機関部員として熱心に働いた。そのほか五代友厚(一八三四〜八五、薩摩藩、のちに実業家)、佐野常民(一八二二〜一九〇二、佐賀藩、のちに日本赤十字社創立者)、またのちの海軍大将になる川村純義(すみよし)、海軍機関総監になる肥田浜五郎などもいた。
永井尚志(なおむね)と代った新しい所長、大目付の木村喜毅(よしたけ)は腹のすわった、ゆったり落着いた人だが、あるとき生徒をなまけさせてはいかんと思ったのか文句をいった。
「勝くん、航海の稽古が短かい。ちょいと出てさっさと帰るようでは駄目だ。もっと遠くまで行ったらどうだ」
訓練には順序があるのに何を言うかと、
「そうですか。それではお目付も一緒に乗って出られてはどうですか」
麟太郎は疳癪をおこして木村を船にのせ、
「今日は遠くまで行くぞ」と、港を出てどんどん天草灘を乗り越えていった。
外へ出ると風が立って大波が船を揺上げ揺下げ波しぶきが甲板を洗う。灰色の雲がたれこめて、島影も見えず木村にはどこがどこだか見当もつかない。
「もういいだろう。帰ったらどうだ」
[いや、まだ早いです。天草からせいぜい、五、六里です。これからずっといって甑(こしき)島へ参りましょう」
「いや、もうよい。もう帰ろう」
木村は我慢できず、グ、グ、グッと吐いてしまった。
木村は役目上、文句を言うのだが、麟太郎は力量はあるのに身分が低いため、言う事を聞かねばならない。それが嫌で不平で疳癪をおこすのだ。
新しい教官カッテンディーケは中々努力家で、生徒と日本の理解に努め遠洋航海も木村の希望通り試みることとした。オランダからもってきたヤパン号は咸臨(かんりん)丸と名付けられていたが、これに木村、勝以下生徒、水兵が乗込んで五島から対馬(つしま)へ乗出した。島へついて西北部を測量しようとボートで川をさかのぼっていった。麟太郎はハントローエンとハルジスという二人の外人と一緒に上陸した。と思うと、ドドーンと、一発鉄砲玉をくらった。対馬藩の警備の侍が、外国人が攻めてきたと勘違いしたのだ。麟太郎がいくら説明しても道を通そうとしない。仕方なく船で釜山沖までいき、赤土の、木のない山の朝鮮を眺めてきた。
つぎの遠洋航海は薩摩から沖縄(琉球=明治維新後に日本領土の沖縄となる)へのコースだった。薩摩藩は昔からよそ者を入れないので薩摩半島の先の山川港に寄って水をもらい、すぐ沖縄へ向うことにして出発した。実は幕府から薩摩藩が密貿易を行っているのを調べて来いと秘密の命令をうけていたのである。咸臨丸が立ち寄る事は藩主の島津斉彬(なりあきら=一八〇九〜五八)も承知していた。それに頭脳の鋭い斉彬は、沖縄の秘密をさぐりにいくことも見ぬいていた。薩摩藩が財政の上でも武力の上でも幕府をおびやかす大藩になったのも、沖縄を利用して外国と密貿易をやってきたからだ。咸臨丸が山川港に姿を見せた知らせを受けると、指宿(いぶすき)温泉まできていた斉彬はただ一人、馬をとばして馳けつけた。そして、「よくきた。折角であるから鹿児島へ来てくれい」と、船を回すようにいった。
麟太郎は不思議に思った。これまで絶対寄せ付けぬ幕府の人間を城下に迎えようというのだ。「薩摩へ入れるのは俺が初めてかもしれぬ。なるほど、これは沖縄へいくな、という事だな。」と、察しのいい麟太郎は判断した。
咸臨丸は予定を変えて鹿児島湾へ入っていった。
カッテンディーケたちは斉彬に案内されて、鎔鉱炉を備えつけた鋳砲工場、製銃工場、ガラス工場、電信機製作所などを見学した。誰に教わるのでもなく、外国の書物を頼りに自分たちの手で造り出したのだ。こんな積極さは、よその藩では見られない。カッテンディーケはまた麟太郎と二人で近くにつないであった長さ七メートルほどの小さな蒸気船を見たが、明らかにオランダの本を頼りに造られたものだった。蒸気機関など見たこともない日本人が、只の図面を頼りにこれだけのものを造ったという事は、カッテンディーケにとってもびっくりするほど尊敬すべき事柄に思えた。
しかし、鹿児島の町の人達は、初めて見る赤毛の外国人に古草履やうなぎを投げつけた。
普段なら足元へもよれぬ大名の斉彬だが、名君の評判通り、麟太郎にも気さくに話した。「勝くん。人を用いるには急ぐものでないよ。事業というものも同じ事、十年たたねば取り留めのつかぬものだ」上に立つ人だからこんな事をいった。人というのは西郷吉之助(隆盛、一八二七〜七七)の事をいったらしい。西郷は身分の低い郡の書記役だったが、毎月の報告に思いきった意見を書いて来る。それに斉彬は注意して、やがて中小姓に引上げた。江戸へ出たときは庭番を命じた。庭番というのは斉彬の傍近くによれる秘書役だ。こうしてじっくり西郷という人物を見ていたのである。
事業というのは、いま大騒ぎをしている開国と開国に反対の攘夷(じょうい=外国打ち払い)の問題をふくめて政治の事をいったのかもしれない。二ヶ月後にカッテンディーケと麟太郎たちはまた咸臨丸で鹿児島を訪れ、斉彬の手厚い歓迎をうけた。町民も今度はおとなしかった。この前うなぎを投げつけたのは町人ではなく、兵児(へこ=武士の子弟)たったそうである。
斉彬はオランダ人の意見をよくとりいれ、前回きたとぎ注意した事はもう用いられて進行していた。工揚の拡張も計画されていた。鉄砲もモールス信号機もすぐれた出来である。確かに藩主は珍しく進歩的で積極的である事が、だれの目にも明らかだった。が、このすぐれた殿様はまことに残念にも一ヶ月あとの七月(一八五五安政五年)に五十歳で急死してしまった。
麟太郎が長畸へきたのは一八五五年(安政二年)十月で、今はもう一八五八年(安政五年)も暮れようとしている。
「 足かけ四年も江戸を離れている勘定だ。その間に世の中は烈しく変わっていく。和親条約を結んだアメリカから総領事のハリスがきて、下田に領事館を設けた(一八五六)。老中阿部正弘が疲労のため三十九歳で亡くなった(一八五九)。今年(一八五八)になってからはいよいよ大変だ。ハリスは通商条約の調印を要求し、幕府は六十日以内に行なうと約束した。老中堀田正睦は京都に上り、孝明天皇に調印許可を願った。しかし朝廷は許さない。彦根藩主井伊直弼が大老となり通商条約に無断で調印した。ついでロシア、フランスと通商条約を結んだ。幕府の開国に反対の公家侍、学者などが捕えられて獄に入れられた。 」
こんな天下の大変の時、長崎でぼんやり過せるものではない。
「畜生! なぜ江戸へ帰してくれねえんだ。俺だけ四年も置いてきぼりにしやがってひでえ話だ。長崎くんだりでぼやぼやしていられるかい」 疳癪もちだからジリジリしている。ところへまた我慢のならないニュースが入ってきた。
何でもアメリカと通商貿易を結んだ機会に、こっちからアメリカへ使節を送るという話。それなら言い分がたっぷりある。是非とも日本人の操る船で太平洋を横切って使節を送りたい。アメリカの船なんぞに乗って、へいこらするのはみっともない。船のことなら俺にまかせておけ。どうにも我慢できなくなって、「お目付、私を江戸へ帰してもらいたい」と、ねじこんだ。やがてこれが許されて長崎を出発することになったのが、明くる一八五九年(安政六年)一月五日、朝陽(ちょうよう)丸という船に乗っていよいよ出発という時にカッテンディーケが見送りにきた。カッテンディーケは、麟太郎の事を、
「 ――この尊敬すべき日本人とはおそらく二度と会う事はあるまい。私は同人をただに誠実かつ敬愛すべき人物と見るばかりでなく、また実に真の革新派の闘士と思っている。要するに私は幾多の点において尊敬している。私がいよいよ彼の乗船とわかれて帰路につこうとした時、彼は私に七発の礼砲をはなってくれた。――」
と、その著書『長崎伝習所の日々』の中に書いている。
朝陽(ちょうよう)丸は長崎を出て下関から瀬戸内海の塩飽(しあく)島にきて泊まった。昔から瀬戸の水軍、船を操る事は天下一の腕達者の島の人達で、朝陽丸の水夫も、のちの太平洋横断の咸臨丸の水夫も、みなここの人達だ。大坂湾を出て紀州沖・熊野灘へ出ると雪が海上を吹き荒れた。伊豆へむけて吹雪にさからいながらゆくうちに、次第に風は烈しく、雪は逆巻き、波は荒れ狂い、大しけになってきた。船は手まりのように波にもてあそばれ、いつ転覆するかわからない。士官も水夫も海水に氷りつきながら一昼夜頑張った。それでもまだ風はおさまらない。ボートはとっくに切り離し、麟太郎は波にさらわれぬようトモのマストに体を縛りつけて指揮をしていたが、骨まで氷って声が出なくなった。波は容赦なくぶちこむから縛った縄が次第にとけて、ざぶんと大波くらうと甲板に放り出され、ずるずる滑って海へ落ちそうになる。「あっ!」と、叫ぶ声がしたが、助けるにも助けようがない。麟太郎はあらんかぎりの力をふりしぼって甲板に爪を立て、必死に這ってまた帆柱に体を縛り付けた。どうも大しけばかり喰らっている。
長崎へ来るときも散々な思いをし、伝習所でもで死ぬ思いをした事がある。
「全く酷いもんだ。俺みたいに船に弱いものが海軍をつくるなんて、一体どうなっちゃうんだ」
しかし運が強かったのか、次第に風がおさまって、朝陽丸はヨロヨロ下田港へたどりついたが、その時は船中の士官も水夫もうれし泣きに泣いてしまった。一月十五日、こうして江戸へ帰る。  
 
カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力

 

リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケは、江戸幕府が創設した長崎海軍伝習所の第2次オランダ教師団の司令官として、1857年(安政4)に軍艦ヤーパン号(のちの咸臨丸)で来日し、伝習生に実践航海術の指導訓練をした人物です。第1次伝習生だった勝海舟や榎本武揚は、この第2次伝習で助手的役割を務めています。そのカッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、外国人の視点から幕末の長崎の風景が詳細に描かれ、興味深い記述が多く見られます。その中から長崎の印象についていくつか紹介してみましょう。
こんな美しい国で一生を終わりたい
カッテンディーケは、初めて長崎港に入港した印象について「絵を見るような光景が展開した」と記し、「伊王島あたりから、奥へ大きく盥(たらい)形をなし」と形容しながら、「周囲は急峻(きゅうしゅん)な山々に囲まれ、麓(ふもと)から頂上まで人家や寺院や砲台が並び、樹林や段々畑に囲まれていた」と表現しています。また、「実際長崎港に入港する際、眼前に展開する景色ほど美しいものは、またとこの世界にあるまいと断言しても、あながち過褒(かほう)ではあるまい」とも続けています。船上の長旅から開放された感慨もあると思いますが、長崎港の地形と美しい当時の景観が、脳裏に浮かび上がってくるような描写です。  現在の伊王島から望む長崎港も昔と変わらぬ美しい姿をしています。長崎港行のフェリーに乗船し女神大橋をくぐると、眼前にすり鉢状に広がる長崎の地形が展開されますが、刻々と変化する光景はまるで動く絵画を鑑賞しているような、そんな気分になってしまいます。  カッテンディーケが来日した当時、すでに出島在住のオランダ人は自由に市中を散策できる許可を得ていました。来日当初、彼らは諏訪(すわ)神社や桜馬場(さくらばば)あたりまで散策に出かけていましたが、だんだん遠出をするようになっていきます。時には出島の対岸の稲佐(いなさ)にも散策に出て、狩猟を楽しみました。「こんな美しい国で一生を終わりたいと何遍思ったことか」とカッテンディーケは長崎の風景を賛美しています。やがて馬で遠出できるようになると、浦上(うらかみ)、金比羅(こんぴら)山などの郊外に足を伸ばしていますが、「これらの地に住む人々こそ、地球上最大の幸福者であるとさえ思われた」と長崎周辺の魅力を最上級の賛辞で結んでいるのです。
オランダ人とアメリカ人の一大ピクニック
アメリカの軍艦ミネソタ号が長崎港に停泊中のある日のこと。オランダ側の主催でアメリカ人士官慰労のためのピクニックが盛大に催されたとカッテンディーケは記しています。長崎を出発し長崎街道を通り、網場(あば)まで徒歩か駕籠(かご)で行くことになりましたが、その日は天気がよかったので、日見(ひみ)峠までの険しい道のりをほとんどのアメリカ人が徒歩を選んだということです。
実際に峠の街道跡を歩いてみますと、道幅は狭く、山道を切り開いて造られただけあって曲がりくねった険しい坂道が続きました。しかし、山林に囲まれたのどかで静かな自然や峠道に時おり広がる眺望には心癒されました。途中にあった茶屋、神社、関番所なども異国人の目にはもの珍しく映ったのではないでしょうか。
長崎街道は歴代のオランダ商館長の使節一行が江戸参府のために通った道で、出島オランダ商館医のシーボルトも随員として日記に記録した道です。ピクニック途中の峠道の下り坂では、一行はシーボルトと同じように美しい橘(たちばな)湾や島原半島の雲仙普賢(うんぜんふげん)岳の眺望を楽しみました。午後には小船で茂木(もぎ)に渡り、にわかづくりのテーブルを囲んで愉快なひとときを過ごしたと記されています。ちなみに茂木は天然の良港で、1580年(天正8)に領主大村純忠が長崎とともにイエズス会に寄進した土地でもありました。風雲急を告げる幕末の1日、長崎の郊外を楽しそうにのんびりと歩くオランダ人と約40人のアメリカ人一行の姿を想像するだけでも、何だか不思議な気持ちになってしまいますね。こんな心弾む出来事が起こるのも国際交流の町・長崎ならではのことではないでしょうか。
オランダ人エル某の墓碑に供えられた花
リッダー・ハイセン・フォン・カッテンディーケが著わした回顧録『長崎海軍伝習所の日々』には、長崎の自然や風景のほかに、特徴的な風俗や行事についても紹介されています。
ある日、カッテンディーケは稲佐悟真寺にある国際墓地に出かけ、数年前に出島で亡くなったオランダ人エル某の墓碑に供えられている新鮮な花を発見しました。関係者に尋ねると、故人は遊女を身受けし家政婦として同居していたとのこと。しかし、幸福な時間は長く続かず、彼は重病にかかり、彼女の献身的な看護も実らず亡くなってしまったそうで、その彼女が年2回の彼岸の日に墓参りをして、花を供えているというのです。
稲佐悟真寺は1598年(慶長3)創建の長崎最古の寺院で、16世紀末に来航した中国人が檀家となり中国人墓地を開設しました。その後江戸幕府の鎖国政策により、悟真寺の墓地の一画に出島に住むオランダ人のための墓地が割り当てられました。さらに1858年(安政5)、ロシア戦艦の乗組員埋葬のためにロシア人墓地が建設され、開国により欧米人のための国際墓地が開設されました。国際墓地の管理は現在、稲佐悟真寺が行っています。
話を元に戻しましょう。エル某が亡くなったあとの彼女は、再び遊廓に戻りましたが、のちに僧侶の妻となります。今や仏教関係者となった彼女が、欠かさず異教徒の国際墓地に墓参りをするという事実も、長崎の特異な海外交流史のなせる宗教的寛容さかもしれません。カッテンディーケ自身も、部下の水兵を病で亡くし国際墓地に埋葬した際に、近所の寺(稲佐悟真寺と思われる)の僧侶からの「仏式の経を唱え線香をあげたい」という申し出を快く受けています。
ところで、カッテンディーケのいうエル某とは誰でしょうか? 頭文字が「L」のオランダ人男性のことですが、興味をそそられるまま個人的に少し調べてみれば、ヒントは『時の流れを超えて-長崎国際墓地に眠る人々-』(レイン・アーンズ+ブライアン・バークガフニ著)という長崎国際墓地の調査研究書にありました。同書掲載の国際墓地に埋葬された人物一覧から該当する人物をさがしていきますと、私個人の考えですが埋葬の時期、氏名、年齢から推測して、1852年(嘉永5)10月に亡くなり稲佐悟真寺のオランダ人墓地に埋葬された、F・C・ルーカスではないかと思われました。彼はロッテルダム出身で出島の「オランダ東インド会社」に勤務していましたが、24歳という若さで亡くなっています。
今から156年前のオランダ人男性と日本人遊女の儚(はかな)いロマンスとはどのようなものだったのでしょう。墓碑に供えられた美しい新鮮な花を見つけた日、カッテンディーケはいったいどのような想いに包まれたのか、想像をたくましくしてしまいます。 
 
長崎海軍伝習所の日々 2

 

幕末の長崎
勝海舟といえば幕末の幕府海軍奉行となり、西郷隆盛と折衝して、江戸を大火と混乱から守った歴史の転換期の功績者だ。坂本竜馬は人物にすっかり心酔して、師弟の交わりをしている。その勝や、これも海軍奉行となる榎本武揚らに、操船のイロハから教えたのがカッテンディーケ。日本海軍の創始者ともいえる。
オランダ政府から教師として派遣され、長崎海軍伝習所にやって来た。のち、オランダの海軍中佐に昇進し、海相となり、外相も兼務している。司馬遼太郎の小説にも随所で登場するカッテンディーケだが、『長崎海軍伝習所の日々』は、固苦しい史書だと思って、ずうっと敬遠していたが、どうして、これがなんとも面白い。幕末の長崎を実によく描写している。
肥壷
軍艦や商船などの船舶が、頻繁に寄港するようになると、修繕ドックは欠かせない。カッテンディーケは、建設中の飽ノ浦工場の見学に出かける。今の三菱造船所のある場所だ。そのころはまだ緑に覆われていたのだろう。美しい景色に見とれていたが、困ったものも見つける。
「残念なことは歩道に沿って到る所、壷のあるのが目に付く。その中には、人や動物のあらゆる汚物が、丁寧に蓄めてあって、これが田畑にま撒かれる。故にその悪臭といったら、とても堪らない。甚だしきは、人が時折その壷に落ち込むような危険さえもあることである」 
これには閉口したようだ。カッテンディーケのこの著述によって、日本の肥壷はヨーロッパにまで知られることになったのでは。
墓前の花に感動
稲佐の外国人墓地にも足を延ばしている。出島で数年前に亡くなったオランダ人の墓碑に、新鮮な花が供えられているのに気付く。聞けば、このオランダ人は遊女と同棲していたが、病の床に臥すようになった。彼女の献身的な看護の甲斐もなく、亡くなった。その後、遊女はいったん遊廓に戻ったが、寺の住職の梵妻(妻)になった。しかし、命日などの折には必ず墓参りし、花を供え、このオランダ人の冥福を祈っていた。
カッテンディーケは、故人を忘れない遊女と、現在の夫であるお坊さんの「寛容さ」に感動を覚えている。
長崎人気質
長崎の人たちの、おおらかさも驚きのひとつだ。開港の長崎では、しばしばコレラが発生している。海軍伝習所には日本近代医学の創始者ともなった医師ポンぺがいて、流行を防ぐことに活躍している。
カッテンディーケの在任中にもコレラが発生した。新型肺炎サーズではないが、本当なら恐慌も起きるはず。ところが、長崎の人たちは少しも騒がない。それどころか、町中で行列を作って、太鼓を叩いて練り歩き、鉄砲を打って市民の気を浮き立たせ、厄除けをしていた、と驚嘆している。
また、葬儀の棺を担ぐときも、あたかもお祭り騒ぎのように戯れていた≠ニ書き、「日本人は死を恐れないことは格別である」と、感想を述べている。
長崎の女性
日本では婦人は、他の東洋諸国と違って、非常に丁寧に扱われ、女性の当然受けるべき名誉を与えられている、という。婦人は、社会的には、ヨーロッパのようにあまりでしゃばらない。男より一段へり下った立場に甘んじているが、決して婦人は軽蔑されているのではない。
私は日本美人の礼賛者というわけではないが、彼女らの涼しい目、美しい歯、粗いがふさふさとした黒髪をきれいに結った姿のあでやかさを誰が否定できようか、と絶賛する。しかも、しと淑やかで、すこぶる優雅である、とほめちぎる。でも安心するのは早計だ。
「私が日本で、実に美人だと思った女は数名に過ぎなかった」 とも、述べているのだから。
幕末の有力諸侯
カッテンディーケは、伝習所生徒の練習航海のため、『咸臨丸』などで、五島や対馬、平戸を訪れている。薩摩(鹿児島)では、島津斉彬に歓迎されたり、肥前佐賀藩の鍋島かんそう閑叟など、歴史を動かした幕末の有力諸侯にも会っている。その人物評も面白い。
日本びいき
長崎の自然を見るにつけ、「こんな美しい国で一生を終わりたいと何遍思ったことか」「これらの地に住む人々こそ、地球最大の幸福者であるとさえ思われた」と、すっかり日本びいきになっている。先輩シーボルトは死の間際に、「私は平和で、美しい国に行く」と言ったと伝えられるが、カッテンディーケも負けてはいないようだ。  
 
カッテンディーケの長崎海軍伝習所の日々 3

 

明治維新とキリスト教
キリスト教のことである。前編で、同志社を設立した教育者で牧師の新島襄と、日本海軍を創始した立役者で政治家の勝海舟が一見全く違うジャンルで活動していたように見えるが、実はキリスト教を介して深い交友関係にあったことに触れた。
新島襄と勝海舟
また、新島襄がキリスト教を標榜する同志社を、京都という旧来日本文化の中心地に開くことが出来たのは、森有礼、田中不二麿、木戸孝允たちの明治新政府の指導者たち、あるいは山本覚馬のような京都府における指導者と深い交友関係が築けたためであるが、彼らは新島襄のキリスト教思想に共感を示し、中には自ら洗礼を受けた者がいることも、以前のウェブログ「新島襄と同志社」で触れた。
新島襄と同志社
つまり、キリスト教は、五か条のご誓文に続いて出された五榜(ごぼう)の掲示の、第三札「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ 若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事 慶應四年三月 太政官」を見てもわかるように、明治維新の時点では依然として禁制であったにもかかわらず、それに拘らなかった明治期の指導者がいたということである。
もちろん岩倉使節団の欧米訪問により、キリスト教を禁制したままでは不平等条約改正が不可能と悟って、いわば外圧によってその不利を理解した向きも多いのだが、幕末に生を受け、武士道や儒学、国学、漢学等の素養を身につけて育った幕臣や藩士たちの中から、キリスト教精神に親近感をもった勝海舟や新島襄、さらには内村鑑三や新渡戸稲造のような人物が出たことは考えてみれば不思議でもある。
プロテスタンティズムと「自助論」の世界
我が信奉する司馬遼太郎は、1989(平成1)年に刊行した「明治という国家」(NHK出版)の中で、上記の疑問につき鋭い解釈をしている。この書の第7章「自助論」の世界で、明治国家とキリスト教という話をします、というくだりが出てくるので、この疑問に関係すると思われる部分を少し引用してみる。
「ご存知のようにキリスト教には、大別して旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の二つがあります。明治時代は不思議なほど新教の時代ですね。江戸期を継承してきた明治の気質とプロテスタントの精神とがよく適ったということですね。勤勉と自律、あるいは倹約、これがプロテスタントの特徴であるとしますと、明治もそうでした。これはおそらく偶然の相似だと思います。」
「近代に入ってカトリック国というのは、フランスをのぞいて、どうしてふるわない−−−というと語弊がありますから、−−−風変わりなものになったのでしょう。マフィアの産地のシチリア、そしてイタリア、スペイン、ポルトガルなどは、カトリックの国です。そして中南米の諸国。」
「なにをもって風変わりというか、と怒る人がいるにちがいありません。自律、自助、勤勉というプロテスタンティズムからみて風変わりだ、ということなのです。プロテスタントの国とは、たとえば、イギリス、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、そして1950年代までのアメリカ合衆国。さらにこれにつけくわえるとすれば、江戸時代をふくめた日本です。日本はプロテスタントの国じゃありませんが、偶然似たようなところがあるのです。」
「明治日本にはキリスト教はほんのわずかしか入りませんでしたが、もともと江戸日本が、どこかプロテスタンティズムに似ていたのです。これは江戸時代の武士道をのべ、農民の勤勉さをのべ、また大商人の家訓をのべ、さらには町人階級の心の柱になった心学(しんがく)をのべてゆきますと、まことに偶然ながら、プロテスタンティズムに似ているのです。江戸期の結果が明治国家ですから、これはいよいよ似ている。」
つまり司馬遼太郎は、江戸期の日本にはもともとプロテスタンティズムと似たような気質があり、そのような素地にあった江戸期の結果としての明治国家はいよいよプロテスタンティズムに似てきた、ただし似ていないのはゴッドとバイブルをもっていない点だった、と解釈している。
もちろんこの第7章には司馬遼太郎がこのような解釈に到るための、日本におけるキリスト教伝来と弾圧の歴史から、明治における解禁と受容に関する事蹟が詳細に述べられている。福沢諭吉の「西洋事情」が幕末・明治初年のベストセラーとすれば、それに匹敵するかあるいはしのぐほどの明治初年の大ベストセラーが、中村敬宇(正直)翻訳の「西国立志編」だったことも強調している。
「西国立志編」のもとの本は英国の著述家サミュエル・スマイルズの「自助論(Self Help)」で、英国のプロテスタントが共有していた、独立心をもて、依頼心を捨てよ、自主的であれ、誠実であれ、勤勉であれ、正直であれ、をくりかえし説いている書らしい。中村敬宇は幕府の昌平黌きっての秀才で、静岡に移住した徳川家の子弟たちを勇気づけるために愛読していたこの書を翻訳したという。
さらに司馬遼太郎は、日本では「まじめ」の代名詞となったクリスチャンに対する仏教僧の反省のエピソードを紹介していて面白い。「われわれは酒を飲んだりしてじつにふまじめではないか、せめてプロテスタント牧師のように禁酒しようじゃないか」ということで、本願寺僧侶がまっさきに反省して、明治20年に京都の西本願寺から「反省会雑誌」なるものが生まれたという。
この反省雑誌が12年続き、本社が東京に移され、今の「中央公論」の前身になったとのことである。「この反省会雑誌は仏教僧侶でさえ、神なきプロテスタンティズムにあこがれた、という証拠の一つでありましょう。明治の精神をこの面からみると、じつにわかりやすいように思えるのです。」と、司馬遼太郎はこの章を結んでいる。
勝海舟とカッテンディーケ
前編で勝海舟が意外なことにキリスト教の理解者であったことに触れたが、司馬遼太郎はまた勝海舟のことを日本史上、異様な存在とする。異様とは“国民”がたれひとり日本に存在しない時代において、みずからを架空の存在とし、みずからを“国民”にしてしまったことであると述べ、そのことについてもこの書で解釈している。
この書の第9章は、「勝海舟とカッテンディーケ」という章であり、司馬遼太郎は、“国民”の成立とオランダ、というサブタイトルをつけて、鎖国下の江戸日本が数ある西欧諸国の中で唯一つきあった国であるオランダから受けた影響を論じている。オランダは新教と商業主義的自由を奉じて世界でももっとも早く市民社会をつくりあげた国であった。
オランダは、16世紀にカトリック教会の堕落を遠慮会釈なしに思想書「痴愚礼賛」で書いたエラスムスや、17世紀に合理主義や無神論を唱えたことで有名な大思想家のスピノザを輩出し、あまり富の不合理な集中が起こらなかった国であったことが、法の下で平等で均質であり、自分と国家を同一視するといった“国民”の概念を早くに獲得していた国であったとしている。
そのオランダからやってきたカッテンディーケが触媒となって勝海舟に“国民”という思想を植え付け、勝海舟はその思想を坂本竜馬に移植して薩長同盟がなり、さらに三田の会談においてその思想が西郷隆盛の心に響いたことが、江戸の無血開城という日本史上(もしくは世界史上)もっとも格調の高い歴史を演じさせたというのが、この章の骨子である。
カッテンディーケは、以前のウェブログ「長崎と勝海舟」で述べた幕末に設置された長崎海軍伝習所の、第2次教師団の団長として長崎に赴任したオランダ海軍の派遣隊長である。冒頭写真のように幕府がオランダに発注したヤパン号(引渡し後は咸臨丸)を回航して1857(安政4)年に着任した。長崎海軍伝習所において、カッテンディーケと勝海舟とは、教師と生徒隊長といったかたちで相まみえることになった。
長崎と勝海舟
このように「明治という国家」で述べられている司馬遼太郎の解釈は、幕末に生を受け、武士道や儒学、国学、漢学等の素養を身につけて育った幕臣や藩士たちの中から、キリスト教的精神や藩を越えた国民という視点に親近感をもった勝海舟や坂本竜馬、さらに新島襄たちが生まれたことの疑問への、かなり説得力ある回答である。
それではカッテンディーケは、どのように勝海舟に触媒作用を及ぼしたのであろうか。カッテンディーケは帰国後にオランダで「滞日日記抄」という日記を出版したことは関係者に知られており、オランダ総領事を務められた水田信利氏により「長崎海軍伝習所の日々」として翻訳出版されているので、滋賀県立図書館から借りて読んで見た。
カッテンディーケの長崎海軍伝習所の日々
カッテンディーケ著、水田信利訳の「長崎海軍伝習所の日々」は、1964(昭和39)年に平凡社の東洋文庫から出版されている。原作の「滞日日記抄」は1860(万延1)年にオランダのハーグで出版されたもので、カッテンディーケが長崎に赴任していた1857(安政4)〜1859(安政6)年の日本の江戸時代の様子を知ることが出来る貴重な日記である。
カッテンディーケはこの書のはしがきで、この日記は自分の記憶に便ずるだけの目的で記録したものなので、日本の紹介には必ずしも役に立つものではないこと、また、職務も何回かの沿岸巡航を除いてはいつも長崎に縛り付けられていて、江戸すら訪れる機会に恵まれなかったことから、記述も九州周辺に限られるので、この日記の出版にはかなり躊躇した末踏み切ったと記している。
出版に踏み切った理由として、伝習所の生徒たちと結んだ深い人間関係から、これまで知られなかった幾多の事実を明らかにすることができ、このことが本書に多少なりとも価値をつけることになり、目を通した友人が出版を勧めてくれたので、と説明している。そして日本人生徒との交友も具体的に述べている。
「若々しくてしかも名門の日本人諸君と結んだ親密な関係や彼らと交えた日常の交際は、およそこの国を訪れた他の幾多の人々よりも、どれだけ詳しくこの注目すべき国民を知悉せしめたか知れない。彼らは教室だけでなくしばしば我等の家にまで来訪し目付役の付添いのない場所で学問を進めることができた。」
「さらに、我々は日本人諸君と、或いは船内で、或いは陸上で、幾日も幾日も、また幾夜も共に過ごしたが、それが相互の信頼感を大いに増した。特に彼らが、付添役のいないところで、彼らの考えを存分に語ることができた場合など、それがヒシヒシと感じ取られた。我々はこれによってこれまで知られなかった幾多の事実を明らかにすることができた。」
つまりカッテンディーケは、後にオランダの海軍大臣や外務大臣を務めるほどの人物で紳士であるから、一般論でさらっと目付役や付添役のいないところでも生徒たちと交流したと述べているが、このような大胆な挙動ができるには、生徒自身もオランダ語がよほどできなくてはならないし、時勢に対する見識がなくてはならない。このようなことができたのは勝海舟くらいであろうと想像されるのである。
カッテンディーケはこの書で、日本とヨーロッパとの関係の歴史、日本におけるキリスト教の歴史、日本の政治機構に変革をもたらした16世紀の重要事件も記しているので、日本への着任前に日本語も習うなどして周到に準備したことがわかる。また当時の日本の風俗、慣習、政治制度、出会った日本人も非常に鋭く観察していて、オランダ人の目でイギリス、フランス、アメリカなどの欧米諸国や支那と対比しているのも面白い。
このような鋭い観察や批判は、彼の言うとおり、目付役のいないところで交わされた日本人生徒(特に勝海舟)との本音の交流から彼自身の感覚で捉えたものであろうし、勝海舟は逆にカッテンディーケから民主主義、国民、市民などの概念を会得し、自分の思想にまで昇華させていったに違いない。司馬遼太郎のいうカッテンディーケの勝海舟に対する触媒作用とはこのことであったように思われる。
第二次派遣隊による伝習内容
それでは勝海舟たち日本人伝習生はどのような授業を受けていたのだろうか。カッテンディーケはこの書の中で第二次派遣隊の課程は次のように定められたと具体的に記載していて、並々ならぬ高度な授業であったことがわかる。 ( 例 週3時間 = w3h)
隊長中佐の受持ち  鋼索取扱い w3h / 演習 w3h / 規程 w3h / 地文学 w2h
一等中尉の受持ち  艦砲術 w5h / 造船 w5h / 艦砲練習 w6h
              (ただし歩兵操練の監督を兼ねる)
二等尉官の受持ち  運転術 w5h / 数学代数 w5h / 帆の操縦法 w9h
              (ただし測定器、海図、観測および時球の監督を兼ねる)
主計士官の受持ち  算術 w9h
軍医の受持ち     物理 w3h / 化学 w3h / 分析学 w3h / 繃帯術 w3h
機関士官の受持ち  蒸気機関学理論 w6h
              (ただし飽ノ浦工場の建設及び蒸気機関の監督を兼ねる)
軍人以外の教師の受持ち 年少通辞に対しオランダ語と算術教授 w11h / 騎馬 w10h
海兵隊下士官の受持ち 歩兵操練 w15h / 船上操練 w4h / 一般操練 w3h
鼓手の受持ち     軍鼓の練習 w12h
漕手の受持ち     水兵の仕事練習
看護手の受持ち    医官の手伝いまたは印刷部の手伝い
一見してすごいカリキュラムであった事が実感される。これを漢学や国学で育った幕臣や藩士が通辞を介してオランダ語で授業を受けるわけである。子母沢 寛の「勝海舟」には、ほとんどの伝習生がネをあげ、オランダ語がよくできた勝海舟に泣きついてくる場面があるが、さもありなんという気がする。
カッテンディーケから見た日本人の生徒たち
カッテンディーケはこれらの授業を受けた生徒たちについて印象を述べているが、当時の日本の生徒の選抜方法や生徒たちの意識をよくついている。
「生徒のほうも、皆年齢が長じてから始めて勉強するのであるから、一通りの苦労ではなかったと思われる。私には何を標準に生徒の選抜をするのか、よくは呑み込めなかった。日本当局は、あまり生徒の能力といったものには頓着しないで、ただ門閥がものを言い、一切を決定するらしいから、どんなに馬鹿らしくても、どうにも仕様がない。ただ不行状だけは仮借しない。」と能力主義でない点をついている。
「私の信ずるところによれば、いわゆる海軍軍人に仕立てられるこれら生徒たちの大部分は、ただ江戸に帰ってから、立身出世するための足場として、この海軍教育を選んだに過ぎないのだ。私は当局に対し、真の海軍将校を作るためには、十四、五歳の少年を養成するのがよいと勧めたことが、一再ではなかった。」と、多くの生徒が必ずしも海軍将校になる気がなかったと指摘している。
「我々は40人の旗本出身の生徒に、あらゆる航海学の教育を施したが、これら将来士官に任用せらるべき運命にある人々は、少なくとも何事も大綱だけは、一通り教わっておくべき筈なのに、いつも“拙者は運転の技術は教わっているが操練はやらない”とか、あるいは“拙者は砲術、造船、および馬術を学んでいるのだ”という風で、勝手気ままな考えで勉強をしているのだ。」とも見ており、グローバルな視野を持とうとしない日本人の特質を見抜いている。 
カッテンディーケの見た勝海舟
カッテンディーケは勝海舟に対しては、やはりオランダ語もよく出来、色々な難問をてきぱきと処理する人材と見ているとともに、彼の図太さもしっかり見ている。
「大目付役は、どうもオランダ人には目の上の瘤であった。おまけに海軍伝習所長はオランダ語を一語も解しなかった。それに引き替え艦長役の勝氏はオランダ語をよく解し、性質も至って穏やかで、明朗で親切でもあったから、皆同氏に非常な信頼を寄せていた。それ故、どのような難問題でも、彼が中に入ってくれればオランダ人も納得した。」と、すこぶる評価が高い。しかも、勝海舟の問題可決能力が極めて優れていることをカッテンディーケも認めている。
ところが、「しかし私をして言わしめれば、彼は万事すこぶる怜悧であって、どんな工合にあしらえば、我々を最も満足させ得るかを直ぐ見抜いてしまったのである。すなわち我々のお人好しを煽(おだ)て上げるという方法を発見したのである。」と、勝海舟がある意味で図太くオランダ人に接し、彼らを手玉に取ろうとしていることもしっかり見ている。
このようにカッテンディーケと勝海舟は、肝胆相照らすような間柄になっていたようである。日本人が何でもないことにダラダラと数ヶ月も審議に時を費やす態度に、辛抱しきれずに焦々(いらいら)させられた時、勝海舟から教訓を受けたといっている。ペリー提督について、「彼は良い人間ではあったが、大そう焦々した、そうして不作法な妙な男だった。」と勝海舟が言ったのだが、彼はおそらく私を諷して言ったのだろうと述べている。
国民意識の植え付け
司馬遼太郎は、カッテンディーケが触媒となって、勝海舟が当時はたれひとり意識していなかった「国民」を自認し、それが坂本竜馬に移植され、さらに西郷隆盛に響いたと解釈していることに対し、この書でカッテンディーケが勝海舟に国民の概念について直接どうこういったという話はないが、次のような記載がある。
「私はこれまで幾度となく、調子が合わない嫌いがあるから改めてはどうかと注意したにもかかわらず、今まで肥前藩の艦船には、日本国旗ではなくて、肥前の藩旗が掲揚されていた。この結果として幕府方の士官は、ナガサキ号に乗ることを嫌った。」という有様であったが、肥前藩がある航海の時にカッテンディーケの助けを求めた。
「そこで、私は右の助力に対する申し入れは、伝習所長を経てなされなければ応諾はできないと断った。ところがその結果、同船の旗は、肥前藩のものを降ろして、幕府の旗に替えられることになり、幕府方の士官一同も、大満足を感じたのである。このこと自体は、誠につまらぬことのようだが、この決定は日本人の先入主を抑え、一種の勝利であったから、私はこれを重要視したのである。」
つまりカッテンディーケは、「日本国内は大小幾多の藩が、互いに独立しているというほどでなくとも、皆嫉視し合って、分かれているような状態であるから、単一の利益を代表するなどということは思いも寄らぬことであるからだ。これは結局、一般の不利益でしかない。」ということを、日本人に指導したわけである。勝海舟はこのようなカッテンディーケの思想をよく理解し、「国民」という概念を身につけたのだろう。
オランダ語がよくできた勝海舟は、出島にも出入りして直接カッテンディーケやオランダ人と接触し、三色旗の下で歌われていたローフ・デン・ヘールが旧約聖書のダビデの詩篇からとった賛美歌であることを知り、和訳したものが「何すてと やつれし君ぞ」という日本語の賛美歌になっていることは、前編の「新島襄と勝海舟」で触れた通りである。
所感
なぜ、幕末に生を受け、武士道や儒学、国学、漢学等の日本的な素養を身につけて育った幕臣や藩士たちの中から、キリスト教的精神や、藩を越えた国民という視点に親近感をもった勝海舟や坂本竜馬、さらに新島襄たちが生まれたのだろう、ということの疑問から、司馬遼太郎の解釈に接し、その結果、カッテンディーケにまで来てしまった。
昔の日本を西欧人の目で見た書として、以前のウェブログ「イザベラ・バードの日本奥地紀行を読む」でイギリス人のイザベラ・バードの見た日本に触れた。彼女の見た日本は明治維新後の1878(明治11)年の日本であったが、オランダ人のカッテンディーケの見た日本は、イザベラ・バードよりさらに20年余り前の、まだ江戸時代の日本である。しかもイザベラ・バードは日本の中でも文化の浸透が遅かった東北や蝦夷日本を見、カッテンディーケは日本の中では最も国際化されていた長崎を見たということになる。
イザベラ・バードの日本奥地紀行
両方の書を読んで感じるのは、「事実をありのままに見る」という公平な観察態度である。イザベラ・バードの時もプライバシーを保てない生活の中でも、物事を観察する態度は冷静であり、その本質を見ようとする観察態度に強い感銘を受けたが、カッテンディーケも来日前には事前勉強をしっかりしていて、着任してからの日本を見る目は非常に客観的である。
イザベラ・バードは、どうも短足胴長の日本人男性より、背も高く彫りの深い顔立ちのアイヌ人男性の方に好みがいったようであり、日本男子の読者としてはやっかみも出る部分があったが、カッテンディーケは日本酒の美味しさをワインと比べて礼賛しているところもあり、かなり日本びいきになっていたことは間違いないように思われる。
肥前藩の防護施設を視察した後の食事で、「食事はヨーロッパ風の料理に葡萄酒などを揃えて出したが、その葡萄酒の味ときたらとても不味くて、何べんも何べんも繰り返される乾杯には、むしろ日本酒をもって答えたくらいであった。日本人は一度始めるときりがない。私はその折、日本酒も此処のように良いものならば、ずいぶん多量に飲んでも、決して害がないことを経験した。」
「いやしくも正直なヨーロッパ商人なるかぎり、どうしてあのような葡萄酒を、日本人に売りつけられようか。私には全くの謎である。しかもそればかりではない。彼らヨーロッパ商人は、日本人がサン・ジュリアンとかカンタメアルなどという葡萄酒よりも、日本酒のほうを好む理由が解せないとさえ、日本人に向かって言っているのだから、ただ驚くの外ない。」と、日本酒を擁護してくれている。
たしかに司馬遼太郎の観るように、江戸日本の気質と、オランダのプロテスタンティズムおよび国民や市民の概念が結びついて、幕末の一部の日本人に、幕府解体以降の日本の進むべき道を照らしたことは間違いないのであろう。日本の皇室はオランダ皇室と今も深い交友関係を結ばれているが、一般の日本人も日本が近代化するにあたってのオランダの貢献を忘れてはなるまい。 
   
 
『大君の都』 オールコック 

 

 
サー・ラザフォード・オールコック
(1809-1897) イギリスの医師、外交官。清国駐在領事、初代駐日総領事、同公使を務めた。日本語訳された著書に、開国後の幕末日本を紹介した『大君の都』がある。
外科医を志す
1809年、ロンドン西郊のイーリングで医師トーマス・オールコックの息子として生まれた。母親が早く亡くなったため、イングランド北部の親戚の家に預けられ、15歳の時に父の元に戻り、医学の勉強を始めた。最初ウェストミンスター病院とウェストミンスター眼科病院で1年間教育を受けた後、1828年までパリに留学し、解剖学、化学、自然史を修め、またフランス語だけでなく、イタリア語も身につけた。勉学の傍ら、彫刻家のアトリエに通い、彫刻の手ほどきを受けている。ロンドンに戻った後、上の2病院で研修医として2年間過ごし、1830年に王立外科学校から外科の開業医としての免許を得た。
1832年からの4年間はイギリス軍の軍医として、戦乱のイベリア半島に赴任している。ロンドンに戻った後、内務省解剖検査官などをしたが、外務省の要請により、イベリアでの外交問題処理のため、再びスペイン、ポルトガルに赴任した。しかし、イベリアでの過労がたたってリウマチに侵され、両手の親指が全く利かなくなった。このため、外科医として将来を断念した。
清の外交官として
その後、オールコックは外務省に入り外交官に転身した。この頃イギリスは1840年からのアヘン戦争で清を破って海禁を解き、南京条約により清の5港を開港させていた。この極東情勢に興味を持ったオールコックは、1844年に福州領事に任命されると、しばらくアモイで過ごした後、条約港福州での領事業務に携わった。不平等条約で規定された租界管理や領事裁判権などの複雑な業務で成果を挙げ、1846年に上海領事、1855年に広州領事に転じ、15年の長きにわたって中国に在勤した。この間、福州、上海における租界の発展に尽力した。オールコックは市場開拓のため清との再戦論を唱え、上海領事だった頃には首相パーマストン子爵に清に武力行使をするよう進言する書簡を送り、アロー戦争(1856年)を引き起こした。
日本開国後の初代駐日総領事に着任
1858年、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースが訪日して日英修好通商条約が締結され、翌1859年7月1日(安政6年6月2日)をもって長崎、神奈川、箱館の3港が開港することが約束された。オールコックは極東在勤のベテランとしての手腕を買われ、1859年3月1日付けで初代駐日総領事に任命された。5月3日にこの命令を香港で受け取ると、5月16日には香港を立ち、上海経由で6月4日(5月3日)に長崎に到着した。日英修好通商条約の批准書交換を7月1日(6月2日)以前に行うように命令されていたため、長崎を6月20日(5月20日)に出発し、6月26日(5月26日)に品川沖に到着し、高輪の東禅寺に入った。
オールコックは、7月1日(6月2日)に開港予定地である神奈川の視察に赴き、7月6日(6月7日)、オールコックは東禅寺に暫定のイギリス総領事館を開き、軍馬売却を幕府に要請するなどした。幕府側はオールコックらの到着を事前に知らされていなかったが、交渉は順調に進み、7月11日(6月12日)に一行は江戸城に登城、批准書の交換が行われた。なお、神奈川を視察した際に、対岸の横浜に居留地が建ち、そこが実際の開港地であることを知らされる。オールコックは実利的な面からは横浜が有利と認めながらも、条約遵守を要求し、結局領事館を神奈川の浄瀧寺に設置することで妥協した。
1859年9月から10月にかけて、もう一つの開港地である函館へ旅行。12月23日(安政6年11月30日)、特命全権公使に昇格。また1860年9月11日(万延元年7月27日)には富士山村山口登山道を用いて富士山への登山を行ったが(途中村山三坊に宿泊)、この登頂は記録の残る中では外国人として初めてのことであった。その帰路、熱海に旅行。このときの記念碑が市内の湯汲坂に現存している。
彼は日本の農村の様子について、こう書き残している。
「 このよく耕された谷間の土地で、人々が、幸せに満ちた良い暮らしをしているのを見ると、これが圧政に苦しみ過酷な税金を取り立てられて苦しんでいる場所だとはとても信じられない。ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいないし、またこれほど穏やかで実りの多い土地もないと思う 」 (『大君の都』)
攘夷派の襲撃
1861年1月14日(万延元年12月4日)、米国駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に襲われ、翌日死去した。オールコックは外国人の安全を保証できない幕府への抗議として、外交団が横浜へ引き移ることを提案したが、ハリスはこれに反対した。結局オールコックはフランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールと共に、横浜へ移った。江戸へ戻ったのは1ヵ月後であったが、この頃からハリスとの関係が悪化し始めた。
1861年4月下旬からモース事件の後処理のため香港に滞在した。この間にロシア軍艦対馬占領事件の報告を受け、英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープと協議し、軍艦2隻を対馬に派遣して偵察を行わせた。オールコックは5月後半に長崎に到着、6月1日(4月23日)に長崎を出発、瀬戸内海および陸路を通る34日の旅行をし、7月4日(文久元年5月27日)に江戸に戻った。翌7月5日(5月28日)、イギリス公使館を攘夷派浪士14名が襲撃した。オールコックは無事であったが、一等書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷した(第一次東禅寺事件)。これを機にイギリス水兵の公使館駐屯が認められ、イギリス艦隊の軍艦が横浜に常駐するようになった。8月13日(文久元年7月8日)、艦隊を率いてホープが来日すると、翌8月14日(7月9日)、オールコックはホープと共にイギリス艦隊の圧力による対馬のロシア軍艦退去を幕府に提案し、幕府はこれを受け入れた。9月19日(8月15日)、ロシア軍艦は対馬から退去した。
この8月14日(7月9日)および翌15日(7月10日)に行われた会談は、オールコック、ホープ、オリファント(第一次東禅寺事件で負傷し帰国予定)、老中・安藤信正、若年寄・酒井忠眦に通訳を加えただけの秘密会談であった。オールコックはここで幕府権力の低下という実態を知った。1860年頃より、幕府は新潟、兵庫および江戸、大坂の開港開市延期を求めていたが、オールコックはこれを断固拒否していた。しかし、この会談の後、オールコックは開港開市延期の必要性を理解し、幕府が派遣予定の遣欧使節を強力にサポートする。オールコックは1862年5月1日から開催予定のロンドン万国博覧会に自らが収集した日本の文物を出品のほか、この遣欧使節が招待客として参加できるよう手配していたが、それに加えて自身の休暇帰国を利用して、直接英国政府に開港開市延期を訴えることとした。使節一行は1862年1月21日(文久元年12月22日)日本を立ったが、オールコックは同行せず、3月23日(文久2年2月23日)に日本を離れ、後を追った。帰国直前の3月16・17日(2月16・17日)の両日、オールコックは老中首座・久世広周と秘密会談を持ち(安藤信正は坂下門外の変で負傷)より詳しく日本の情勢を理解した。5月30日にロンドンに着き、6月6日、5年間の開港開市延期を認めるロンドン覚書が調印された。帰国中の6月19日、バス勲章を授与され、サーの称号を得た。また、この休暇中、ラザフォードは自著『大君の都』を出版する手配を終え、1863年にロンドンで出版した。
この著述で、日本が美しく国民の清潔で豊かな暮らしぶりを詳述する一方で、江戸市中での体験から「ペルシャ王クセルクセスの軍隊のような大軍でも編成しないかぎり、将軍の居城のある町の中心部をたとえ占領できたとしても、広大すぎるし敵対心をもった住人のもとでは安全に確保し持ちこたえられるヨーロッパの軍人はいないだろう」と書いた上で、日本人について以下のように綴っている。
「 彼らは偶像崇拝者であり、異教徒であり、畜生のように神を信じることなく死ぬ、呪われた永劫の罰を受ける者たちである。畜生も信仰は持たず、死後のより良い暮らしへの希望もなく、くたばっていくのだ。詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる民族の一員である我々と比べて、日本人は劣等民族である。 」 (『大君の都』)
約2年の休暇の後、1864年(元治元年)春に日本に帰任したが、日本の様相は一変していた。帰国中に生麦事件とそれに対する報復としての薩英戦争が発生、長州藩による外国船砲撃のため、関門海峡は航行不能となるなど、日本国内の攘夷的傾向が強くなっていた。幕府も、攘夷派懐柔のためにヨーロッパに横浜鎖港談判使節団を派遣していた。
オールコックはこれを打破しようとして、四国艦隊下関砲撃事件では主導的役割を果たすが、これを認めなかった外相ジョン・ラッセルにより帰国が命じられた。
駐日公使はかつて清で彼の部下だったハリー・パークス(在任、1865 - 1883年)に引き継いだ。
その後
後にオールコックの外交政策が至当であったことが認められたため、日本への帰任を要請するが拒否された。しかし、1865年には当時のアジア駐在外交官の中では最も地位が高いとされた清国駐在公使に任じられ、1869年まで北京に在任している。同年に外交官を引退し、その後は王立地理学会や政府委員会委員などを歴任。1897年にロンドンで死去した。
 
「大君の都」オールコック 1

 

元医師で外交官、中国で15年も広州領事などを歴任していた経験、手腕を買われて、初代駐日公使ラザフォード・オールコックは1858年(安政5)に日英修好通商条約が締結され時期に日本駐在総領事に任命されている。
品川の高輪東禅寺に英国総領事として1859年(安政6年)から一時帰国する1862年までの3年間を綴った『大君の都』の驚愕的な内容には、今でも新鮮で『新しい驚き』がある。
アロー号事件で中国に対して過酷で残忍非道な辣腕をふるった大英帝国の切れ者外交官の対日外交交渉の内幕(イギリスの思惑)とは何であったのだろうか。
アメリカ合衆国の初代駐日公使として日米修好通商条約を締結したタウンゼント・ハリスは有名なのですが当時の覇権国(世界帝国)イギリスの外交官オールコックの3年間の江戸滞在の記録である『大君の都』には、今我々が知っている(知っていると思っている)歴史とは全く違う別の江戸時代の日本と日本人が歴史小説以上の迫真に迫る圧倒的な姿が描かれているのです。
江戸幕府を倒した明治政府や司馬遼太郎によって作られた幕末の歴史とは全く違った別の真実の記録、それも日本人側ではなく世界帝国イギリス人外交官側から見た真実の(忘れ去られた)歴史があった。
ペリー来航を熟知していた幕府
今の普通の日本人の知っている歴史の常識では、『1853年にペリー提督の合衆国東インド艦隊の黒船が突然東京湾に入ってきて、300年の日本の眠り(鎖国)から幕府は何の対応も出来ずに、いたずらに外交交渉を引き伸ばすことしか出来なかった。ペリーは翌年大艦隊を率いて再び来航、圧力に屈した日本は横浜函館2港の開港と領事館の設置を内容とする日米和親条約を結んだ。これはアメリカの捕鯨船の燃料や食料の補給の為であった』、とするものですが本当の話は大きく違う。
当時の日本国は、根本的な『国家存亡』の全面危機に直面していた。
ペリー艦隊の日本到来を徳川幕府は、学校で習う歴史とは大違いで遥か以前、1853年のずっと前から正確に予想していた。 (160年前の当時においてアヘン戦争は十数年前であり、歴史上の事件ではなく生々しい政治の現実である。欧米列強の軍事的な外圧は目の前の切実な脅威だった)
先ず脅威はロシアから始まっている。
当時のロシアはシベリア全土や中国領だった沿海州を獲得、樺太も占領しアラスカからサンフランシスコ近くにまで根拠地を設けていた。
欧米列強(帝国主義国家群)の中で一番日本に近く接近していたのはロシアであり、日本にとって直接の脅威であった。
1778年に、ロシア帝国皇帝の親書を携えた大砲で武装したロシアの商船が最初に日本に来航した。
1792年にも再び来航し、その後は1852年まで何度も日本に対して通商を求めて来航し、時には武力で威嚇することさえ辞さなかった。
ペリー来航前年の1852年には、頑強に開国に抵抗する日本側に対して、とうとうロシアは『来年ロシア海軍の大艦隊を引き連れて通商交渉に来る』と最後通牒を突きつけて帰っていった。
当時はロシア一国だけではなくて、世界帝国イギリスや新興帝国のアメリカも虎視眈々と日本を狙っていた。
1796年にイギリスの測量船が日本沿岸に現れてゆっくりと海岸沿いに航行したが、幕府には白人たちの行いが軍事行動の準備の為の測量であることが判っていたが阻止する力が無かった。
1803年アメリカ船が長崎の出島に来航して通商を求める。
1808年にはイギリス船が来航し長崎の町を砲撃し出島を占領、オランダ人を人質にして幕府に対して大英帝国との通商を要求するが、日本側との長い交渉の末に諦めて平和裏に撤収する事件まで起きている。
イギリスはその後も何度も来航し通商を求めたが、とうとう1824年にはイギリス艦隊は日本の首都江戸の北東150キロ地点の関東北東部に上陸したが幕府側の迅速で適切な対応に対して当初の目的を遂げることなく英軍は撤収する。
1837年にはアメリカの商船モリソン号も初めて江戸湾(東京湾)に入ってきて通商を求めたが、日本側は沿岸の砲台での警告の威嚇射撃などを行ったので諦めて帰っていく。
1846年(ペリー来航の7年前)にはアメリカ海軍東インド艦隊所属の帆船軍艦二艘が東京湾の浦賀に入ってきて通商を求めるが幕府は断固拒否する。
アメリカが1848年に戦争によってカルフォルニアなどアメリカ西岸(太平洋の東海岸)をメキシコから奪った以降にはフランスイギリスなど列強はひっきりなしにやってきて最後通牒の形で開国を要求し、イギリスの戦艦に護衛された測量船が直接東京湾に入り水深や航路の測量を行っている。日本側は東京湾入り口に砲兵隊を配備して厳重に警備したが発砲はしていない。
これ等の歴史的な経緯を見れば、江戸幕府にとってアメリカのペリー艦隊の1853年来航は予測済みの事柄だったことは十分に理解できるだろう。
日本の歴史教科書の記述の『突然のペリー来航』が如何に歴史的事実と大きく違うか。事実は正反対で『無策、無能な江戸幕府』を宣伝する目的の明治政府による悪質な政治的プロパガンダだったのです。
何を恐れて開国(通商条約)に抵抗したのか
当時のロシアやイギリス、フランス、アメリカが日本側に求めた『通商』(開国)とはいったい『何』を意味したのだろうか。
何故、これほどまで徹底的に徳川幕府は外国との自由な通商(開国)を恐れ、拒み続けたのだろうか。
現在における『通商』の意味は、何か喜ばしいもの、有利なものと考えられている。
通商関係を持つことで双方が利益を得ることが出来るし、新しい可能性や視野が生まれて来ると現代人なら思っているので、通商関係(開国)に頑強に抵抗した江戸時代の日本人とは島国根性で視野狭窄、未知の新しいものを恐れてパニック状態に陥ったとも解釈出来る。
現代人は、世界との通商関係とは日本の命綱に近い大事なものと考えていて、世界に広がる貿易(通商)なくして現在の豊かな日本社会は考えられない。
ところが民主主義の今とは大違いで、19世紀中葉の世界は全く別の『危険な構造』になっていた。
自由な通商とは恐ろしい罠であり、特に当時の日本人にとっての『世界』とは、恐ろしい脅威に満ち溢れている弱肉強食の『力』の論理で無法が横行する危険な世界であると考えられていた。
インドの植民地化とアヘン戦争後の中国
5千年近い古い偉大な文明を誇る大国インドのマハラジャ達の野望を利用してイギリスやフランスは傭兵部隊を組織して国内で血みどろの権力闘争を行い、インド人の権力者達は次第に弱体化していく。
当時の欧州諸国にとってのインド製品は魅力に満ち溢れていたが、対してイギリスフランスなど欧州製の品物は皮革や羊毛蜜蝋など大航海時代以前とさして代わり映えしない魅力の無い品物ばかりで、イギリスやフランスなど欧州側が大幅な輸入超過による慢性的な貿易赤字に苦しめられていた。
イギリスにはインドの様な何でもある国が欲しがる品物が無かったのである。
ワーテルローでフランスのナポレオンがイギリスに負ける1815年に、北西部の一部を除く全インドもイギリス軍の軍事力で完全植民地化が成功してしまう。
イギリスの東インド会社による支配により、インドの優れた繊維産業は壊滅しインドは単なる原料輸出国(イギリス製品の輸入国)に成り下がってしまい、原綿の輸入価格も綿製品の輸出価格もイギリスが独断で決定出来るようになって、やっと英国の今までの構造的な貿易赤字が解消されるのです。
徳川幕府は地理的に5000kmも遠く離れていたにも関わらずオランダや中国経由で、正確な情報を取集してインドで起こった悲惨な事態をすべて把握していた。
インドは日本にとっては中国に次ぐ心情的にも親近感の有る文化の一大中心地であり、日本人の精神的バックボーンの仏教発揚の地である。
スペインから独立したオランダは海洋国家として19世紀の初頭まではイギリスフランスなどに対抗する一大勢力(敵)であったので、遠慮することなく敵国イギリスが日本と比べられないくらいに大きな国であるインドの首を徐々に絞めて殺していく様を正確に日本に伝達していたのである。
ペリー来航の9年前(清がアヘン戦争でイギリスに大敗した4年後)の1844年オランダ王ウィレム2世はイギリスによってインドが無残に植民地化される様や中国に無理無体を吹っかけたアヘン戦争の経過など弱肉強食の帝国主義時代の世界情勢に鑑み『開国も止む無し』(武力抵抗の危険性)との国王の親書を徳川幕府の将軍に送っている。
最初は通商から始まった
当時の日本人が欧米の求める『通商』を恐れた理由は、独自の優れた文明を誇った大国インドが滅んだ最初の出来事が、何でもない普通の『通商』から始まっていたからである。
悲惨で残酷極まるイギリスによるインドの植民地化は、300年前に白人が来て南部の海岸部の幾つかの都市と普通の通商を求めるところから全ては始まった。
最初は慇懃で親切で友好的であったが、少しづつ着実に影響力や権力を持っていきインド内部の争いに介入して対立を煽り、最初の白人商人のインド上陸から300年後の最後には大文明圏である全インドを手に入れ、その時は慇懃でも親切でも友好的でも無くなっていた。
インド人は自分自身に対して自信を持っていて、欧州人を少しも恐れていなかった。
何故なら当時のインドは欧州諸国に対してほとんどあらゆる点で優れていたからです。
最初の時点では、インドは文化的にも軍事的にも経済的にもヨーロッパよりも数段勝っていた。インドは植民地化される19世紀時点でもGDPで英国を上回っていた。
しかしインドにとって、そんなことは最後には何の役にも立たなかったのである。
本当は怖い貿易・通商 trade(貿易)の意味
150年前にアメリカなど当時の列強が押し付けた『全ての障壁を失くした自由な通商・貿易』(trade)ですが、今の日本語的なイメージでは『自由な貿易』は薔薇色で、少しも『悪い』ところが無い。
ところが、この名詞としての通商(trade)の本来の意味は動詞としての『騙す』であると言われています。
広い大陸での、価値観の違う異民族相手の利害が対立する通商・取引(trade)とは騙し騙されるのが基本で、少しでも油断したら騙されて酷い目に合う危険が潜んでいた。
英語の通商・貿易(trade)には、日本語に無い『怖い意味』が含まれているのです。
tradeは、島国で同じ相手と永久に付き合う必要がある日本人が身上とする商売上の『正直さ』や『公正さ』だけでは成り立たない、彼我の『力関係』がものを言う弱肉強食の厳しい世界なのです。 (trade on には『取引します。』との訳以外に、もう一つの『付け込む。』との恐ろしい意味が含まれている)
大ヒットしたジョージ ルーカス監督の『スター・ウォーズ』の悪役は何故か通商連合だった。
英語圏では『通商連合』(Trade Federation)と言われると『油断するな』と身構えるのでしょう。
『天高く馬肥ゆる秋』の言葉の由来となった万里の長城を越えて中国を脅かした匈奴の昔から、洋の東西を問わず、通商を担う遊牧民は、農耕民にとっては貴重な品々を商う『貿易』だけではなくて、同時に恐ろしい略奪者なのです。 
 
「大君の都 幕末日本滞在記」 2

 

ラザフォード・オールコック
ラザフォード・オールコック卿(Sir Rutherford Alcock 1809-1897)は、イギリスの初代駐日英国公使で、1859 年(安政 6 年)に総領事兼外交代表として来日、3 年後の 1862 年 6 月に一時 帰 国 した翌年 に 『 The Capital of the Tycoon: a narrative of a three years’ residence in Japan』(※邦訳:『大君の都:幕末日本滞在記』岩波文庫)を著しました。表題の「大君」tycoon とは、徳川将軍のことで、幕末に用いられた称号です。
ペリーの来航に続く安政年間は、地震・津波、コレラ流行、井伊大老の暗殺、尊王攘夷派の浪士による外国人襲撃などが頻発する騒然とした世相でした。オールコックは日英修好通商条約の批准など多事多難な公務に従事するかたわら、外国人として初めて富士山に登頂し、函館、長崎〜江戸にも国内視察旅行を行い、江戸近郊にも度々出かけては日本の自然・風物にも目を向け、閉鎖的な幕府役人と異なる町や農村の人々との接触を楽しみました。
富士登山の帰路に宿泊した熱海温泉では、愛犬トビーを事故で失いましたが、宿の主人が僧侶を呼び皆で手厚く葬ってくれたことに感激し、「日本人は、支配者によって誤らせられ、敵意を持つようにそそのかされない時時には、まことに親切な国民である。」と書いています。
「大君の都 幕末日本滞在記」
長崎の町の山の手の部分の概観は、半ば荒廃した都市のようである。その理由の一半は道路の道幅にあり、他の一半はおびただしい人口をもつ中国の諸都市と比較してみたことにあると思う。商店には、品物が乏しいような感じがした。陶磁器・漆器・絹製品などがあるだけだ――江戸を相手に商売をしてるのではないであろうから、まったく見くびるのはどうかと思うが、それにしてもあまり心をひきつけるものはない。
かれらを、その類似点や相違点をも合わせて、全体的に考えてみると、日本のワビング〔ロンドンのテームズ川ぞいのドックのある地区で、ロンドンの海からの入り口をなしている〕ともいうべきこの港町から判断しただけで、すぐに数世紀にわたってかれらのなかに住みついた中国人居留民から悪習を教えこまれ、またオランダ人その他の外国人からも過去・現在をつうじて悪習を教えこまれながらも、愛想がよくて理知的で、礼儀正しい国民であり、そのうえに上品で、イタリア語とまちがえるような一種の柔らかなことばを話すという結論をえることができる。市が開かれる広場でのかれらのあいさつは、からだを低く折りまげてする品位があって入念なおじぎである。
いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわす。それに、ほとんどの女は、すくなくともひとりの子供を胸に、そして往々にしてもうひとりの子供を背中につれている。この人種が多産系であることは確実であって、まさしくここは子供の楽園だ。
私は読者に、立体鏡の筒を目にあてがって、新しい時代や他の民族についての先入見や周囲の対象をことごとくしめだすようにおねがいする。このことは、まえまえから考えていたことで、そうすれば読者は、われわれの祖先がプランタジネット王朝〔イギリスの王家(一一五四−一三九九年)〕時代に知っていたような封建制度の東洋版を、よく理解することができるであろう。われわれは、一二世紀の昔にまいもどるわけだ。なぜなら、「現在の日本」の多くの本質的な特質に類似したものは、十二世紀にしかもとめられないからである。
よく手入れされた街路は、あちこちに乞食がいるということをのぞけば、きわめて清潔であって、汚物が積み重ねられて通行をさまたげるというようなことはない――これはわたしがかつて訪れたアジア各地やヨーロッパの多くの都市と、不思議ではあるが気持ちのよい対照をなしている。
日本人は、いろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる。ところで、その欠点のうちでもっとも重要なことは、かれらには、軍事的・封建的・官僚的なカスト――これは、カストというよりも、階級といった方がよいかも知れぬが、どちらも似たり寄ったりだ――があるということだ。
たしかに日本人は、なんでも二つずつというのを好むようだ。二元的原理が人間の組織のなかにはいり、全自然に浸透しているのをわれわれは知っているが、日本の特質のなかには、この二元的なものが、どこよりもひときわ念入りに進歩しているようだ。ある博学な医者が主張するように、われわれが外見上二つの目と耳をもっていると同じく、頭のなかには二つの完全な頭脳がはいっていて、そのおのおのが両者を合わせた機能のすべてを果たし、また独立したいくつもの思考さえ同時に営むことができるということが事実だとすれば、日本人の頭脳の二重性はあらゆる種類の複合体を生み、政治的・社会的・知的な全生活のなかにゆきわたり、これらをいわば二重化する方法を生み出してきたと見なすことができるであろう。日本では、ただひとりの代表だけと交渉するということは不可能だ。元首から郵便の集配人にいたるまで、日本人はすべて対になって行動する。
名詞に性がないということ、また三人称の「かれ」・「彼女」・「それ」などのあいだの差異を示す人称代名詞がないということは、日本語の文法上の顕著な事実なのだが、このことは、奇妙にも、公衆浴場の混浴その他の日常生活の習慣の面でも実践されているようだ。たしなみということについてのわれわれのいっさいの観念とはまったく反対のことが日本で行なわれていながら、しかもヨーロッパではそんなことをすれば必然的に生ずると思われる結果が日本でも生じているかどうかということを自信をもっていえるほど、われわれはまだその国民や社会生活に通じているとはいえないようだ。
すべてこういったことのなかで、われわれが第一に知ることは、妙に自己を卑下する傾向であり、個人主義・自己主張がある程度欠けているということだが、これは、他面、かれらの国民性のなかのあるものにひじょうに反している。日本人は、自分の種族や国家を誇り、自分の威厳を重んじ、すべて習慣やエチケットが規定するものを怠ったり拒絶したりすることによって自分たちに投げかけられる軽蔑とか侮辱にたいして、きわめて敏感である。それゆえ、当然のことながら、かれらは儀式張って堅苦しい国民である。かれらが軽蔑とか侮辱に敏感であるのにまったく正比例して、他人を腹立たせたり、他人の気にさわることを避けるために、ひじょうに気を使う。
だがいまでは、長い経験からして、わたしはあえて、一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずたびたびからだを洗い(はだかでいても別に非難されることはない)、身につけているものはわずかで、風通しのよい家に住み、その家は広くて風通しのよい街路に面し、そしてまたその街路には、不快なものは何物もおくことを許されない、というふうにいうことをはばからない。すべて清潔ということにかけては、日本人は他の東洋民族より大いにまさっており、とくに中国人にはまさっている。中国人の街路といえば、見る目と嗅ぐ鼻をもっている人ならだれでも、悪寒を感じないわけにはゆかない。
それは、女が貞節であるためには、これほど恐ろしくみにくい化粧をすることが必要だというところをみると、他国にくらべて、男がいちだんと危険な存在であるか、それとも女がいちだんと弱いか、のいずれかだということである。
日本人の外面生活・法律・習慣・制度などはすべて、一種独特のものであって、いつもはっきりと認めうる特色をもっている。中国風でもなければヨーロッパ的でもないし、またその様式は純粋にアジア的ともいえない。日本人はむしろ、ヨーロッパとアジアをつなぐ鎖の役をしていた古代世界のギリシア人のように見える。かれらのもっともすぐれた性質のある点では、ヨーロッパ民族とアジア民族のいずれにもおとらぬ位置におかれることを要求するだけのものをもっているのだが、両民族のもっとも悪い特質をも不思議にあわせもっている。
どの役職も二重になっている。各人がお互いに見張り役であり、見張り合っている。全行政機構が複数制であるばかりでなく、完全に是認されたマキャヴェリズムの原則にもとづいて、人を牽制し、また反対に牽制されるという制度のもっとも入念な体制が、当地ではこまかな点についても精密かつ完全に発達している。
日本人は、おそらく世界中でもっとも器用な大工であり、指物師であり、桶屋である。かれらの桶・風呂・籠はすべて完全な細工の見本である。
しかしながら、そこにある建て物はけっして独創的なものではない。事実、それらは木像の建築物で、中国式の建て物をすこし修正したものにすぎない。寺院や門や大きな家は、いちじるしく中国風で、ただかたちが改良され、ひじょうによく保たれている。
かれらはきっときれい好きな国民であるにちがいない。このことは、われわれがどんなことをいい、あるいはどんなことを考えても、かれらの偉大な長所だと思う。住民のあいだには、ぜいたくにふけるとか富を誇示するような余裕はほとんどないとしても、飢餓や貧乏の徴候は見うけられない。
かれらの全生活におよんでいるように思えるこのスパルタ的な習慣の簡素さのなかには、称賛すべきなにものかかがある。そして、かれらはそれをみずから誇っている。
自分の農地を整然と保っていることにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはないであろう。田畑は、念入りに除草されているばかりか、他の点でも目に見えて整然と手入れされていて、まことに気持ちがよい。
この土地は、土壌と気候の面で珍しいほど恵まれており、その国民の満足そうな性格と簡素な習慣の面でひじょうに幸福でありつつ、成文化されない法律と無責任な支配者によって奇妙に統治されている。わたしは「成文化されない」といったが、その理由は、閣老たちはわたしに成文の法典があるとはいうものの、わたしはいままでいちどもその写しを手にしたことがないし、それにかれらがわたしを誤解させていないかぎりは、それはいまだかつて印刷されたことがないからだ。
民族のある体質的な特徴は、ある道徳的な特徴とともに、世代から世代へと伝えられる。日本人のばあいにもこの例外ではなくて、うそをつくその性癖はなにか最初の体質が完全に身についてしまったに相違ない。それでもなおその上に、日本人はその性質のなかになにか上品で善良なものの痕跡を多くとどめている。
日本中どこでも、男はとくに計算がへたらしくて、この点ではヨーロッパ人の「くろうと」の好敵手たる中国人よりもはるかに劣っている。不思議なことに、女は、その主人よりもはるかに計算が上手である。それで、足し算や掛け算をするときには、かならず主婦の調法な才能にたよったものだ。
たしかに、乞食はいる。首都のなかやその周辺にはかなり多数いる。とはいえ、かれらは、隣国の中国におけるように無数にいるとか飢餓線上にあるのをよく見かけるというような状態にはまだまだほど遠い。
聞くところによれば、地代は地方によって、そしてまた土地の生産性にしたがって異なるようである。しかしながら、日本人はきわめて質素で窮乏しており、一般に貧しく見えるところから判断すると、耕作者にのこされるのは、かろうじて生きてゆくに足るだけの米と野菜、それにかれらがいつも着ているたいへん粗末でわずかばかりの着物を買うのにやっとのものだけらしい。
一般に、婦人たちの特徴になっているのは、おだやかな女らしいつつしみ深い表情と挙動であり、男たちのなかでも身分のいやしくない者は、その態度にある種の洗練さと優雅さがうかがえる。一方、下層階級の人びとでさえ、つねにたいへん礼儀正しく、他人の感情と感受性にたいする思いやりをもち、他人の感情を害することを好まない。そのような気持ちは、世間一般が野卑で粗野な束縛のない放縦が広く行なわれているなら、とてもたもちつづけることができないであろう。
商品や客をのせた何千という舟が広い水面をおおっており、どの橋にも外国人を見ようとする人びとが驚くほどぎっしりつめかけていた。まったく日本人は、一般に生活とか労働をたいへんのんきに考えているらしく、なにか珍しいものを見るためには、たちどころに大群衆が集まってくる。
日本人は、女には家庭の軽労働をさせ、男が戸外の重労働をするという点で、文明のすすんだ国のなかでひときわ目立っているように思えるのである。
全体のこの牧歌的な効果をそこなっていた唯一のものは、奇妙なことだが、婦人たちだった。歯を黒くして赤い紅をつけているとはいえ、彼女たちのもっともみにくいいやな点は、けっしてその顔ではないのである。実際、大君や大名がいかに絶対的かつ専断的な権利を行使しているかを考えると、一六歳以上ともなれば女が着物をまとわないで外へ出るのは重い犯罪であり、不行跡だとする法令がなかったとは、不思議ではないにしても残念なことだと思える。
現在日本を現実に支配しているのは、一種の封建的貴族制であると思われるが、これはある点ではロンバルディア公国〔六世紀にイタリア北部ロンバルディアに樹てられ、七七四年シャルルマーニュゲルマン人の一派・ランゴバルド族によって倒された王国〕やメロヴィンガ王朝〔四八一−七五一〕のフランスや昔のドイツで、特定の家から王を選んだころの状態を思わせるものがある。貴族や領主の連邦が土地を所有し、サクソン時代やプランタジネット朝〔一一五四−一三九九〕初期のイギリスの豪族と大体同じように支配権を享受しているように思われる。
わたし、この著者の説にまったく賛成であって、日本人の悪徳の第一にこのうそという悪徳をかかげたい。そしてそれには、必然的に不正直な行動というものがともなう。したがって、日本の商人がどういうものであるかということは、このことから容易に想像できよう。
ある国においては、真理にたいする愛はほとんど認めがたい。日本はそんな国である。虚偽・賭博・飲酒はさかんに行なわれているし、盗みや詐欺もかなり行なわれており、刃傷沙汰も相当多い。しかし、わたしの意見をのべておくと、こういったことはキリスト教の律法のもとにおかれ、キリスト教の美徳を行なうのにもっと好都合な条件のもとにおかれていると信じられる多くのヨーロッパの国々におけるよりも、はるかに多いというわけではない。
政府は、封建的な形態を保持しており、行政のもとになっているのは、これまでに企てられたなかでももっと巧妙な間諜組織である。この組織は、必然的に文明化をさまたげる作因となり、知的・道徳的進歩にたいするひとつの障害として作用する。
わたしのいっているのは、男女の関係、法律によって認められた交わり、そして婦人の地位である。この点にかんしては、不当にも多くの讃辞が日本人に与えられてきたとわたしは信じている。ここでは日本人が国民全体として他国民より不道徳であるかないかといった問題には立ち入りたくない。しかしながら、父親が娘を売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、しかも法律によって罪を課されないばかりか、法律の認可と仲介をえているし、そしてなんら隣人の非難もこうむらない。
日本政府がとっている制度ほど、思想・言論・行動の自由を決定的に抑圧する制度は、ほかに考えることが困難だ。さらにわたしは、日本の政治制度は、人間の最上の能力の自由な発達と相いれず、道徳的・知的な性質が当然熱望するものを抑圧する傾向にあり、正常にして根絶しがたいすべてのものをつちかい、発揮する手段を与えないと信じる。
物質文明にかんしては、日本人がすべての東洋の国民の最前列に位することは否定しえない。機械設備が劣っており、機械産業や技術にかんする応用科学の知識が貧弱であることをのぞくと、ヨーロッパの国々とも肩を並べることができるといってもよかろう。
日本人は中国人のような愚かなうぬぼれはあまりもっていないから、もちろん外国製品の模倣をしたり、それからヒントをえたりすることだろう。中国人はそのうぬぼれのゆえに、外国製品の優秀さを無視したり、否定したりしようとする。逆に日本人は、どういう点で外国製品がすぐれているか、どうすれば自分たちもりっぱな品をつくり出すことができるか、ということを見いだすのに熱心であるし、また素早い。
このように、世界でも最良の道路をもっておりながら、通信の速度と手段にかんする点では、かれらは他の文明世界に三世紀もおくれている。しかもこのひじょうに原始的な郵便も、人びとの必要にはなんの関係もなく、政府とその役人のあいだの連絡を保っておくのに役立っているだけである。
個人や公共の建て物の大きさなり価値については、もし日本の精神文明なり道徳文明がそんなもので評価されるとするなら、日本人にとっては酷なことであろう。かれらには建築と呼びうるようなものはない。……したがって、世界最大の都市のひとつである江戸の街路ほど、むさくるしくみすぼらしいものはない。大名の屋敷でさえ、同じような建て方の低い一列のバラックにすぎず、ただ屋根が高いだけだ。
すべての職人的技術においては、日本人は問題なしにひじょうな優秀さに達している。磁器・青銅製品・絹織り物・漆器・冶金一般や意匠と仕上げの点で精巧な技術をみせている製品にかけては、ヨーロッパの最高の製品に匹敵するのみならず、それぞれの分野においてわれわれが模倣したり、肩を並べることができないような品物を製造することができる、となんのためらいもなしにいえる。
だが、人物画や動物画では、わたしは墨でえがいた習作を多少所有しているが、まったく活き活きとしており、写実的であって、かくもあざやかに示されているたしかなタッチや軽快な筆の動きは、われわれの最大の画家でさえうらやむほどだ。
漆器については、なにもいう必要はない。この製品の創始者はおそらく日本人であり、アジアでもヨーロッパでもこれに迫るものはいまだかつてなかった。……日本人はきわめてかんたんな方法で、そしてできるだけ時間や金や材料を使わないで、できるだけ大きな結果をえているが、おそらくこういったばあいの驚くべき天才は、日本人のもっとも称賛すべき点であろう。
すなわち、かれらの文明は高度の物質文明であり、すべての産業技術は蒸気の力や機械の助けによらずに到達することができるかぎりの完成度を見せている。ほとんど無限にえられる安価な労働力と原料が、蒸気の力や機械をおぎなう多くの利点を与えているように思われる。他方、かれらの知的かつ道徳的な業績は、過去三世紀にわたって西洋の文明国において達成されたものとくらべてみるならば、ひじょうに低い位置におかなければならない。これに反してかれらがこれまでに到達したものよりもより高度な、そしてよりすぐれた文明を受けいれる能力は、中国人を含む他のいかなる東洋の国民の能力よりも、はるかに大きいものとわたしは考える。
オールコック のエピソード
ラザフォード・オールコックは、富士山に初めて登った外国人です。
富士山に登る為に箱根を超えた時の感想
「小田原から三島(十一次の宿駅)へゆく道は、箱根の峠を通っている。この峠は、山脈の頂上近くにあって、距離が約七リーグ(約二一マイル)もあり、想像できるかぎりもっともけわしい山道だ。道の大半は舗装の石の代わりに岩の破片だらけの水路であるにすぎず、その上を馬にのってゆくことは、この国のわら靴を利用したところでとても不可能だ。われわれの蹄鉄つきの馬にわら靴が欠くべからざるべきであることがわかった。それにしても、別当(馬丁)にとっては、たとえ乗り手という邪魔者がいなくても、丸石をこえて安全に馬をつれてゆくことは容易な仕事ではなかった。また数名の者は落馬した。これは、膝にとっては明らかに危険なことであった。それに道はほとんどたてつづけに上り坂で、徐々にしか前進することができず、仲々骨の折れる仕事である。だが、景色はからだの疲労をつぐなってあまりあるものであった。スイスを旅行した者には、オーベルラント〔スイスの中央部の山岳地帯で、大半はベルン県に属している〕のある部分、とくにローテルブリュンネンへの下り坂を思い出させる個所が多かった。
マツの木がいっぱいはえている高い山々やみずみずしい緑色の渓谷とか屈折しながら下の野原へ流れてゆく渓流などがよく似ている。だがそれは、主要な特徴の面ではあまり雄大ではない。ここには永久的な氷河や雪のマントをかぶったむき出しの岩や高峰はない。一〇〇〇フィートの絶壁をなす不安定な岩を流れる滝もほとんどない。空高くそびえ立つはだかの岩壁をもつシーデックやウェッテルホルン〔いずれもスイスのベルン・アルプス中のやま〕が欠けている。箱根の山脈全体のなかには、高くそびえる高峰やはてしなくひろがる雪と氷河をもつユングフラウ〔南スイスのベルン・アルプスの中の山〕に匹敵しうるものはない。ベルン連峰の巨人〔ユングフラウのこと〕は、日本において見ることのすべての山々を一挙にみすぼらしく思わせるほど偉大だということを告白しておかなければならない。とはいえ、たとえその景色が崇高さの点でアルプスにとてもおよばぬとしても、その代わりに植物の多さと豊富さでははるかにアルプスをしのいでいる。
ここでは、山腹は高いところまでアカマツの森林になっていて、そのなかにタケやスギの優雅な群葉がまざっている。わたしが森林の木として誇らしげにしげっているスギを見たのは、そのときが初めてである。峠の頂上から箱根湖〔芦ノ湖〕へ下ってゆくときに、これらの木でできたりっぱな並木道に出くわした。いくつかの木は地上三フィートのところで周囲の寸法をはかると一四ないし一六フィートもあり、一五〇フィートの高さに直立している。薄紫色や青色や白色の大きな房をもった野生のアジサイが、スコッチ・アザミと並んで土手を覆っていた。谷間から最高峰にいたる間のあらゆる丘や山々は、樹木や灌木のこんもりしげった群葉のひとつの密集したかたまりのごとき観を呈していた。カシやカエデやブナやハンノキやクリなども皆ここにあり、ゆたかな秋の色合いに包まれていた。……」
愛犬「トビー」の墓
サー・ラザフォード・オールコック卿が1860年に熱海に2週間滞在した折、イギリスから一緒に連れてきたスコッチテリアのトビーが間欠泉からの噴湯に触れ、大やけどをして亡くなりました。その時熱海の人たちはトビーに対して人とかわらない葬儀を行って丁寧に弔い、江戸に戻ったオールコック卿は「可哀想なドビー」と刻まれた石を熱海に送り墓石とし、今もオールコック卿の記念碑とともに立っているそうです。オールコック卿は熱海の人たちのトビーへの手厚い態度に感激し、イギリスへ帰った後も当時あった日本人への偏見に対して「日本人は親切な国民」と弁明しトビーの死は日英の架け橋となりました。  
 
「大君の都 幕末日本滞在記」 3
 イギリス人が見た150年前の日本

 

ラザフォード・オールコック卿(1809〜1897)は、初代駐日英国公使で、1859年(安政6年)に総領事兼外交代表として来日、3年後の1862年6月に一時帰国した翌年に 『 The Capital of the Tycoon: a narrative of a three years’ residence in Japan』(『大君の都:幕末日本滞在記』岩波文庫)を著した。表題の「大君」tycoon とは、徳川将軍に用いられた称号。
以下、『大君の都:幕末日本滞在記』よりの抜粋。イザベラ・バードの「朝鮮紀行」と読み比べると面白い。我々の先祖がアジア文化圏とは一線を画した、独自の優れた文化を築いていた事が、ありありと窺える。
オランダ人その他の外国人からも過去・現在を通じて悪習を教え込まれながらも、愛想がよくて理知的で、礼儀正しい国民であり、そのうえに上品で、イタリア語と間違える様な一種の柔らかな言葉を話すという結論を得る事ができる。市が開かれる広場での彼等の挨拶は、身体を低く折り曲げてする品位があって入念なお辞儀である。
よく手入れされた街路は、あちこちに乞食が居るという事を除けば、極めて清潔であって、汚物が積み重ねられて通行を妨げるという様な事はない――これは私が嘗て訪れたアジア各地やヨーロッパの多くの都市と、不思議ではあるが気持ちのよい対照を成している。
日本人は、自分の種族や国家を誇り、自分の威厳を重んじ、全て習慣やエチケットが規定するものを怠ったり拒絶したりする事によって自分たちに投げかけられる軽蔑とか侮辱に対して、極めて敏感である。それ故、当然の事ながら、彼等は儀式張って堅苦しい国民である。彼等が軽蔑とか侮辱に敏感であるのに全く正比例して、他人を腹立たせたり、他人の気に障る事を避ける為に、非常に気を使う。
長い経験からして、私は敢えて、一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れず度々 身体を洗い(裸で居ても別に非難される事はない)、身につけているものは僅かで、風通しのよい家に住み、その家は広くて風通しのよい街路に面し、そしてまたその街路には、不快なものは何物も置く事を許されない、という風にいう事を憚らない。全て清潔という事にかけては、日本人は他の東洋民族より大いに勝っており、特に支那人には勝っている。支那人の街路といえば、見る目と嗅ぐ鼻を持っている人ならだれでも、悪寒を感じない訳にはゆかない。
日本人は、おそらく世界中で最も器用な大工であり、指物師であり、桶屋である。彼等の桶・風呂・籠は全て完全な細工の見本である。
彼等はきっと綺麗好きな国民であるに違いない。この事は、我々がどんな事を言い、或いはどんな事を考えても、彼等の偉大な長所だと思う。住民の間には、贅沢に耽るとか富を誇示する様な余裕は殆んど無いとしても、飢餓や貧乏の徴候は見受けられない。
自分の農地を整然と保っている事にかけては、世界中で日本の農民に敵うものは無いであろう。田畑は、念入りに除草されているばかりか、他の点でも目に見えて整然と手入れされていて、誠に気持ちが良い。
確かに、乞食は居る。首都の中やその周辺にはかなり多数いる。とは言え、彼等は、隣国の支那に於ける様に無数に居るとか飢餓線上にあるのをよく見かけるという様な状態にはまだまだ程遠い。
一般に、婦人たちの特徴になっているのは、穏やかな女らしい慎み深い表情と挙動であり、男たちの中でも身分の卑しくない者は、その態度にある種の洗練さと優雅さが窺える。一方、下層階級の人々でさえ、常に大変礼儀正しく、他人の感情と感受性に対する思い遣りを持ち、他人の感情を害する事を好まない。そのような気持ちは、世間一般が野卑で粗野な束縛のない放縦が広く行なわれているなら、とても保ち続ける事ができないであろう。
商品や客を乗せた何千という舟が広い水面を覆っており、どの橋にも外国人を見ようとする人びとが驚く程ぎっしり詰め掛けていた。全く日本人は、一般に生活とか労働を大変呑気に考えているらしく、何か珍しいものを見る為には、立ち所に大群衆が集まってくる。
日本人は、女には家庭の軽労働をさせ、男が戸外の重労働をするという点で、文明の進んだ国の中で一際目立っているように思えるのである。
物質文明に関しては、日本人が全ての東洋の国民の最前列に位する事は否定しえない。機械設備が劣っており、機械産業や技術に関する応用科学の知識が貧弱である事を除くと、ヨーロッパの国々とも肩を並べる事ができると言っても良かろう。
日本人は支那人の様な愚かな自惚れは余り持って居ないから、勿論 外国製品の模倣をしたり、それからヒントを得たりする事だろう。支那人はその自惚れの故に、外国製品の優秀さを無視したり、否定したりしようとする。逆に日本人は、どういう点で外国製品が優れているか、どうすれば自分たちも立派な品を作り出す事ができるか、という事を見出すのに熱心であるし、また素早い。
全ての職人的技術に於いては、日本人は問題なしに非常な優秀さに達している。磁器・青銅製品・絹織り物・漆器・冶金一般や意匠と仕上げの点で精巧な技術を見せている製品にかけては、ヨーロッパの最高の製品に匹敵するのみならず、それぞれの分野に於いて我々が模倣したり、肩を並べる事ができないような品物を製造する事ができる、と何の躊躇いも無しに言える。
人物画や動物画では、私は墨で描いた習作を多少所有しているが、全く活き活きとしており、写実的であって、斯くも鮮やかに示されている確かなタッチや軽快な筆の動きは、我々の最大の画家でさえ羨む程だ。
漆器については、何もいう必要はない。この製品の創始者はおそらく日本人であり、アジアでもヨーロッパでもこれに迫るものは未だ嘗て無かった。…日本人は極めて簡単な方法で、そしてできるだけ時間や金や材料を使わないで、できるだけ大きな結果を得ているが、おそらくこういった場合の驚くべき天才は、日本人の最も称賛すべき点であろう。

イギリス人は、その植民地主義により産業革命を支え、人種差別意識が強く、決して道徳的に優れた民族とは言えない。そのイギリス人が見た日本は、様々な点で歪んだバイアスがかかっていよう。『大君の都:幕末日本滞在記』には日本人を見下した表現も多々ある。それらには白人独自の人種差別意識が現れているが、この投稿では恣意的にそういった鼻持ちならない表現の抜粋は避けた。ここでは人種差別主義者であるイギリス人が日本人の美徳をどの様に感じたかを理解していただきたい。
残念ながらラザフォード卿には〈質素・倹約の美徳〉は理解できず、〈貧しさ〉としか理解できなかった様だし、裕福な町人が着物の裏地で贅を凝らした事も知らない様だ。そもそも〈粋(いき)〉の風情など理解出来ようもない。また、嘉永・安政年間の日本人の識字率が、武士100%、庶民49〜54%に対して、イギリスの庶民は9%程度しか字を読めなかった事もラザフォード卿はご存知無かっただろう。
私は植民地主義・人種差別という不道徳を正当化していたイギリス人、産業革命を成し遂げたという優れた一面を持っているイギリス人が、我々のご先祖を表層的にではあるが高評価していた事を誇らしく思う。ラザフォード卿は、明らかにアジア文化圏の中で日本を突出した文化を持つ国と認識していたのは事実である。 
 
オールコックが注目した日本の美

 

イギリスの公使オールコックは安政5年(1858年)日英修好通商条約が締結されたのち、極東在勤のベテランとしての手腕を買われ、初代駐日総領事に任命され、安政6年5月3日(1859年6月4日)に来日しました。オールコックは日本の工芸品に注目しています。
「大君の都」より
「すべての職人的技術においては、日本人はひじょうな優秀さに達している。磁器、青銅製品、漆器、冶金一般や意匠と仕上げの点で精巧な技術を見せている製品にかけては、ヨーロッパの最高の製品に匹敵するのみならず、それぞれの分野においてわれわれが模倣したり、肩を並べることができないような品物を製造することができる」
日本の工芸品の精巧さを述べています。また美術について次のように書いています。
「人物画や動物画では、、わたしは墨でえがいた習作を多少所有しているが、まったく活き活きとしており、実写的であって、かくもあざやかに示されているたしかなタッチや軽快な筆の動きは、われわれの最大の画家たちでさえうらやむほどだ」
このころの西洋の美術というのはシンメトリーという対称性や黄金比率によって安定を重んじたレイアウトなのに対して日本の美術はアンシンメトリーであり、動的なレイアウト構造に独自の美意識を描写していました。西洋の美術観からすると斬新なもので、これがジャポニズムブームに発展していくわけです。
「動物の描写にかけては、素材に何を使おうと、かれらはただたんにかたちだけを研究したのではなくて、それぞれの習慣と生活をも研究しているように思える。それもひじょうに正確でくわしく観察しているので、かれらは主題を十分に自分のものとし、二、三本の線と筆の一刷きで、自然を誤り無く模倣している」

西洋人は人間は自然は征服すべきものとしていますが、日本人は人間は自然の一部であり自然は畏怖すべきものとしてとらえていました。森羅万象に神が宿るという考え方です。そうした自然観は日本画、書、茶道、庭園、装飾美術工芸といったものに反映され、この美がジャポニズムとして世界を席捲していくわけです。
オールコックは日本の芸術品他日用品まで収集し、これをロンドンの万国博覧会に展示しようとしていました。そして江戸幕府にその希望を伝えると幕府は好反応を示し、出品に協力したいと申し出てきました。オールコックは日本の芸術は絶対に欧州で注目されると思っていたのでしょう。この成り行きには大満足で、幕府へ返事を出し、本国へは「私は・・・(万博への出品に関する)日本の代表に自分自身を任命した」と書送っています。
オールコックは614点の品物のカタログを自ら準備し、本国へ送りました。漆器、わら細工、籠、陶磁器、冶金製品、和紙、革製品、織物、彫刻、絵画、挿絵、版画、機械(オランダから学んだもの)、教育用の作品と器具、玩具・・・。幕府からは紙製品と日本の硬貨一組が提供されました。
文久元年(1862年)、ロンドン万国博覧会が開催されました。当時の世界約70カ国からの出品がありました。日本の使節団も到着しました。この使節団の中に福沢諭吉がいます。オールコックは遅れて到着。日本の使節団は西洋人の注目の的となりました。ヨーロッパの軍隊や外交官の礼服の中にあって、東洋の輝きは伝説から抜け出したようにエキゾチックで、目の当たりにした西洋人観衆からざわめきが洩れました。
日本の出品物は大好評でした。実は安政2年(1855年)のパリ万国博覧会でオランダが日本の家具、屏風、陶磁器、版画、書物を紹介しており、高い芸術性と精緻な技術で話題をさらっていたのです。ロンドンの出品で本格的ジャポニズム流行のきざしが見えてきました。ところが、日本の使節団には不評だったのです。他国の文明の利器の中で日本の品物はみずぼらしく見えたようです。蓑笠や草履といったものも展示されていたのも理由の一つのようですが、何しろ展示してあるのは芸術的といっても日本人からみれば日常の生活の中にあるものだったからです。それは当たり前で日本の芸術は日常の生活から生まれたものですから・・・
5年後の慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会では日本は正式に参加しました。ここでも日本の工芸品や浮世絵は大好評で、日本家屋が会場に再現され、日本髪で振袖姿の芸者が給仕する茶店という趣向は大ヒット。中には着物を借りてその場で着て、これを譲って欲しいというパリジェンヌもいたといいます。 
 
オールコックの富士登山と富士宮地域

 

はじめに
富士宮市教育委員会では、「オールコックの富士登山 —初代英国公使ラザフォード・オールコックによる外国人初の富士登山から150年」展(以下、「本展」とします)と題し、平成22年6月25日から7月11日まで、富士宮市富士山環境交流プラザ(富士宮市粟倉)で展示会を行いました。これは、初代駐日英国公使を務めたオールコックが、万延元年七月(1860年9月)に富士登山を行ってから150年目にあたることから企画されたものです。
オールコックの登山は、自著『大君の都』に詳しいほか、地域資料にもその足跡が残されています。本展では、富士山麓地域でのオールコックの姿や、初めて欧米人旅行者を迎えた地域の対応について絵図や古文書を用いて紹介しました。また、オールコック以後も、幕末期に外国人が富士登山に訪れており、地域資料から彼らの様子や地域の対応について紹介しました。
1.旅の概要
オールコックは、計画に反対していた幕府を説き伏せ、万延元年七月富士山へ向けて出発しました。この旅には、単なるレクリエーションだけでなく、日英修好通商条約(1857年締結)にある内地旅行権の確認や江戸を離れた地方を視察するという政治的目的もありました。
旅には、オールコックを初めとする英国公使館職員ら8名のイギリス人に加え、幕府から派遣された外国奉行役人や荷物を運ぶ人馬が随行しました。そのため、オールコックの希望とは逆に大行列の旅であったといいます。
一行は東海道を進み、吉原宿で台風をやり過ごした後、大宮町を経て村山の興法寺に入ります。翌朝、村山の法印(山伏)の案内のもと村山を出発し、「中宮八幡堂」で馬を返して荷物を強力に預けてからは、金剛杖を手に徒歩での登山を開始しました。
その日は六合目(現在の元祖七合目)まで登り、翌日無事頂上に到達しました。山頂では持参した測量機器で標高や気圧など測量したほか、英国旗を掲げシャンパンで乾杯し登頂を祝いました。その後、「一ノ木戸」(標高2160m付近)まで一気に下山し、同所に一泊した後、村山を経て大宮町に戻りました。
2.地域資料にみるオールコックの富士登山
オールコックの富士登山は大変耳目を集め、一行が通過する東海道筋では見物制止命令が出されるほどでした。地域に伝わる資料にも、当時の様子が記されています。
大宮町の造酒屋の当主の日記『袖日記』には、一行の外見や荷物、様子などについて、伝聞を交えつつ詳しく書きとめられています。当時の人々が興味深く外国人に接していたことが伺えます。また、当時、富士山の化身である天狗がオールコックの登山に怒ったため登頂できなかったとする瓦版が発行されました(実際は登頂に成功しています)。外国人の登山に好意的ではない意見もありましたが、『袖日記』などの地域資料からは、大宮町の人々が好意的かつ好奇心に満ちて彼らに接していたことが伺えます。
『袖日記』には、宿泊場所の用意や人足・馬の手配など、大宮町が一行のために様々な準備や対応を行っていたことが記されています。富士山ろくの森林を管理していた富士山御林守上役石川孫四郎の日記にも、オールコックの登山に備え、事前に富士山に登山して準備していたことが記されています。しかし、これらの準備や負担は重いものであったため、費用の支払いや負担のあり方について、登山後も長く問題になり、オールコック以降の外国人登山の際にも度々問題となりました。
3.その後の外国人富士登山
地域に残された資料によると、オールコックを含め、幕末期に5回の外国人富士登山が行われました。彼らの多くは大宮・村山口を利用し、幕末に大宮町町役人を務めた角田桜岳(佐野与一)の日記『桜岳日記』には、スイス総領事一行やアメリカ公使一行の登山の際に、付近の村々から見物人が集まっていたことが記されています。
幕末期の外国人富士登山
   年     /     登山者
   万延元年(1860) 英国公使オールコックらイギリス人8人
   慶応二年(1866) スイス総領事ブレンワルトらスイス人4人
               アメリカ公使ポートマンら8人
   慶応三年(1867) オランダ総領事ポルスブルックらオランダ人5人・中国人1人
               英国公使パークス、パークス夫人ら10人
『桜岳日記』慶応二年七月十日条 / 「此度の異人は瑞国人なりといふ、スーエツシヤといふ、何やら咄しなから通りたり、髭赤き異人もありたり、人はアメリカ・イキリスなとゝ変りたる事なし、いつれも年よりハなかりし」
『桜岳日記』慶応二年八月十七日条 / 「今日異人来るとて大に見物なそ出る、国はアメリカなりとミニストル其外十人余にてクロンホウも弐人来るといふ、山宮辺・宮内辺のものサイの河原へ見に来り」
おわりに
幕末、外国人公使たちは名前や姿を知られていた富士山に競って登りました。地域資料からは、重い負担を嘆きつつも彼らの訪問に対しては好意的に迎えた富士山ろくの人々の様子が浮かび上がってきます。 
 
「食の黒船」の来航 西洋野菜を伝えたオールコック

 

海を越えて愛された西洋野菜
私たちの食生活に欠かすことの出来ない、レタスやキャベツ、アスパラガス……。今でこそ頻繁に目にするが、これらの野菜は「西洋野菜」と呼ばれるものである。かつて海を越え渡来した外国人たちによって伝えられ、横浜を発祥の地として、日本全国に広まっていったのだ。
江戸時代末期、開国を迫る諸外国と江戸幕府との間で修好条約が結ばれ、長崎や函館、横浜などが条約港として設定された。幕府のある江戸と最も距離が近い港町・横浜には、多くの外国人が居住した。それと同時に、ホテルや洋館などの西洋建築、さらに野球やテニスといったスポーツなど、今の私たちの生活に根付いている様々な文化が流入した。
中でも大きな影響を受けたのが、食文化である。彼らの食する、見たこともないような野菜類は、日本人に大きな衝撃を与えた。
こうした変革のきっかけを与えた人物の一人が、イギリスの初代駐日総領事を務めたラザフォード・オールコック(1809〜1897)である。
横浜における栽培の始まり
医者である父親の元に生まれたオールコックは、父と同じく医学を修めイギリス軍の軍医となる。しかし、その後リウマチに冒され両手親指の自由を失ってしまう。医師としての道を断たれた彼は、語学の教養を活かし外交官に転身。1859(安政6)年、開港した日本に赴き、初代駐日総領事に任命されることとなった。
彼は、赴任先である日本の庶民の性格や生活に強い関心を示し、その詳細を記録し続けた。それは、駐在する国への外交官としての興味という範疇を越えていた。自身が過ごした江戸や横浜を中心に、各地の農村や市街など多くを巡っている。
後に、彼は見聞きした日本についての記述をまとめ『大君の都(The Capital of the Tycoon)』として欧州で出版した。この本は今日においても、幕末期の日本を知るための貴重な資料となっている。
同書は当時の日本の農家の生活や、そこで栽培している作物に関して詳しく書かれており、横浜における、最初の西洋野菜栽培の記述も見ることができる。
「わたしは、日本のこの地方に良質のチシャ(レタス)、キクヂシャ、パセリ、数種類のキャベツとともに、ハナキャベツ(葉牡丹)、芽キャベツ、キクイモを導入することに成功した。横浜のロウレイロ氏は、わたしがイギリスから入手した若干の種から、非常に完全にこれらの野菜ばかりの大きな菜園をつくりあげた」
オールコックは、自身の故郷の味を求めて、祖国より持参した種から西洋野菜を栽培していたのだ。こうした動きは、外国人駐留地の各所で見られるようになる。
その後、西洋野菜が広まるにつれ、栽培技術を学び、生産する農家が増えていった。横浜の山手地区から始まった栽培は、子安や磯子などの近隣の農村から徐々に全国に広まっていった。
知られざる日本の姿を伝えたオールコック
オールコックが著した『大君の都』では、日本人の生活や文化に触れるとともに、日本人と欧州人の生き方や考え方、制度の違いについても述べている。日本人の気質については、幕府の対応の不誠実さ、一部の大名家臣の傲慢な振る舞いなどに時折憤慨しつつも、「自分の農地を整然と保っていることにかけては、世界中で日本の農民にかなうものは、おそらくないであろう。(中略)これ以上骨おしみせず、辛抱づよく、勤勉な国民は、ほかにはどこにもいない。」(『大君の都』より)とあるように、非常に好ましいものとして受け取り紹介している。
生麦事件などによって日本とイギリスの関係が悪化した際には、オールコック自身も浪士に襲撃されている。不安定な情勢の中、総領事である彼には常に危険が付きまとった。それでも彼は自分の目で日本を見つめ続け「日本人はとても親切な民族であり、敵対するべきではない」と本国に献言し、関係修復に努めたといわれる。
 のちには、『大君の都』だけでなく、『日本の美術と工藝(Art and Industries in Japan)』など、日本に関する著作を多く残した。遠く離れた東洋の島国を愛し、その姿を広く伝えた人物として、その功績は多大である。
幕末期に流入した様々な外国文化は、その後の日本の方向性、さらには生活文化の形成にも大きな影響を与えた。オールコックが駐在したこの時期は、日本の食文化にとっても重要な転換期となったのである。 
 
『一外交官の見た明治維新』 アーネスト・サトウ  

 

 
サー・アーネスト・メイソン・サトウ
(1843-1929) イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。植物学者の武田久吉は次男。
日本着任まで
1843年、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(当時はスウェーデン領だったため出生時の国籍はスウェーデン)の父デーヴィッド、イギリス人の母マーガレット(旧姓、メイソン)の三男としてロンドンで生まれた。サトウ家は非国教徒でルーテル派の宗教心篤い家柄であった。ミル・ヒル・スクールからユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進学、ローレンス・オリファントの著作『エルギン卿遣日使節録』を読んで日本に憧れ、1861年にイギリス外務省(領事部門)へ通訳生として入省、駐日公使ラザフォード・オールコックの意見により清の北京で漢字学習に従事した。
第一次日本駐在
着任
1862年9月8日(文久2年8月15日)、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任した。当初、代理公使のジョン・ニールは、サトウに事務仕事を与えたため、ほとんど日本語の学習ができなかったが、やがて午前中を日本語の学習にあてることが許された。このため、当時横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師・高岡要、徳島藩士・沼田寅三郎から日本語を学んだ。また、公使館の医師であったウィリアム・ウィリスや画家兼通信員のチャールズ・ワーグマンと親交を結んだ。サトウが来日した直後の9月14日(8月21日)、生麦事件が勃発した。生麦事件およびその前に発生した第二次東禅寺事件の賠償問題のため、ニールは幕府との交渉にあたったが、サトウもこれに加わった。但し、当時のサトウの日本語力では交渉の通訳はできず、幕府およびイギリス公使館がそれぞれのオランダ語通訳を介しての交渉であった。サトウが初めて「日本語通訳」としての仕事をしたのは、1863年6月24日(文久3年5月9日)付けの小笠原長行のニールへの手紙(5月10日をもって攘夷を行うと、将軍・徳川家茂が孝明天皇に約束したことを知らせる内容)を翻訳したことであった。
薩英戦争前後
1863年8月、生麦事件と第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、ニールは薩摩藩との交渉のため、オーガスタス・レオポルド・キューパー提督に7隻からなる艦隊を組織させ、自ら鹿児島に向かった。サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発した。サトウ自身も薩摩藩船・青鷹丸の拿捕に立会ったが(その後の略奪にも加わっている)、その際に五代友厚・寺島宗則(松木弘安)が捕虜となっている。開戦後、青鷹丸は焼却され、アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を目撃する。
1864年(元治元年)、イギリスに帰国するか日本にとどまるか一時悩むが、帰任した駐日公使オールコックから昇進に尽力することを約束されたので、引き続き日本に留まることを決意した。オールコックはサトウを事務仕事から解放してくれたため、ほとんどの時間を日本語の学習につかえることとなった。 また、ウィリスと同居し親交を深めた。
オールコックは日本国内の攘夷的傾向(前年の長州藩による外国船砲撃や幕府による横浜鎖港の要求など)を軍事力を用いてでも打破しようと考えていたが、7月に長州藩の伊藤博文(伊藤俊輔)と井上馨(志道聞多)がヨーロッパ留学から急遽帰国してきたため、サトウは彼らを長州まで送り届けた。結局伊藤らは藩主・毛利敬親を説得できなかったが、このときからサトウと伊藤の文通が始まっている。下関戦争では四国艦隊総司令官となったキューパー提督付きの通訳となり、英・仏・蘭の陸戦隊による前田村砲台の破壊に同行し、長州藩との講和交渉では高杉晋作(宍戸刑馬と名乗る)を相手に通訳を務めた(伊藤博文・井上馨も通訳として臨席)。
通訳官に
1865年(慶応元年)4月、通訳官に昇進。この頃から伊藤や井上馨との文通が頻繁になる。この往復書簡で、長州藩の内情や長州征討に対するイギリス公使館の立場などを互いに情報交換した。サトウはこの頃から「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名を使い始めた。10月には新駐日公使ハリー・パークスの箱館視察に同行した。11月、下関戦争賠償交渉のための英仏蘭三国連合艦隊の兵庫沖派遣に同行し、神戸・大坂に上陸、薩摩藩船・胡蝶丸の乗組員(西郷隆盛も来船したが、偽名を使っていた)と交わった。この頃から、日本語に堪能な英国人として、サトウの名前が広く知られるようになった。
『英国策論』
1866年(慶応2年)3月から5月にかけて週刊英字新聞『ジャパン・タイムズ』(横浜で発行)に匿名で論文を掲載。この記事が後に『英国策論』という表題で、サトウの日本語教師をつとめた徳島藩士・沼田寅三郎によって翻訳出版され、大きな話題を呼ぶ。西郷隆盛らも引用したとされ、「明治維新の原型になるような一文」ともされる。
『英国策論』の骨子は以下の通り。
1.将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
2.独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
3.現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
横浜の大火の後、公使館が江戸高輪の泉岳寺前に移ると、近くの門良院で来日したばかりの2等書記官アルジャーノン・ミットフォードと同居した。パークスの訓令により、予定されている大名会議や長州征討の事後処理について、また兵庫開港問題や一橋慶喜の動向などについて情報収集するために長崎を訪問した。
1866年末から1867年(慶応3年)始めにかけて、鹿児島・宇和島・兵庫を訪問、大坂から来た西郷隆盛と会い、薩摩藩の考えを聞いた。宇和島では前藩主・伊達宗城が『英国策論』を読んでいたことを知った。
慶喜の外国公使謁見
将軍となった徳川慶喜が大坂での外国公使謁見を申し出たため、その件および兵庫開港問題などについて情報収集するために2月に兵庫・大坂を訪問し、その際薩摩の小松帯刀とも会った。4月にパークスが慶喜に拝謁した際には、サトウはその通訳を努めたが、パークスは慶喜に対して非常に肯定的な評価を持った。このため、薩長との関係が深いサトウは不安をもったようで、後に西郷隆盛の来訪をうけた際には、幕府とフランスが提携しつつあり、これに対抗するためイギリスは薩摩を援助する用意があるとまで発言しているが、西郷は外国の助けは不要と謝絶した。また西郷から「議事院」など将来にわたる日本の政治体制について話をきいた。
大坂からの帰路は、チャールズ・ワーグマンと共に陸路(東海道)を通った。掛川宿で日光例幣使の家来に「夷狄」という理由で襲われたが、無事であった。
7月、日本海側の貿易港選定のため、パークスに随行して箱館経由で日本海を南下し、新潟・佐渡・七尾を調査した。サトウは七尾でパークスと別れ、ミットフォードと共に陸路(北陸道)を通って大坂まで旅した。ミットフォードと二人で阿波を訪問する予定であったが、長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、阿波経由で土佐に向かうこととなり、パークスも同行した。土佐では主に後藤象二郎を交渉相手とし、前藩主・山内容堂にも謁見した。土佐藩船「夕顔」で下関経由で長崎に向かい桂小五郎と初めて会った。関係者との協議でイカルス号水夫殺害事件における土佐藩や海援隊への嫌疑は晴れた。
江戸で開成所教授・柳河春三と親交を持ったが、春三は後に『中外新聞』を発行しており、柳河との関係を通じて戊辰戦争中佐幕派の情報収集にもあたった。
維新前後
1867年12月、大政奉還の詳細を探知するためと、兵庫開港の準備のためにミットフォードとともに大坂に行き、後藤象二郎・西郷隆盛・伊藤博文らと会談した。
1868年(慶応4年)1月、兵庫開港準備に伴う人事で通訳としての最高位である日本語書記官に昇進した。王政復古の大号令が出されたために京都を離れ大坂城に入った慶喜とパークスの謁見で通訳を務めた。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北し、慶喜が大坂城を脱出すると、旧幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。直後に岡山藩兵が外交団を銃撃するという神戸事件が勃発したが、解決のため兵庫に派遣されてきた新政府使節・東久世通禧とパークスらとの会談で通訳にあたった。その後、戦病傷者治療のために大坂・京都に派遣されたウィリスに同行し、西郷隆盛・後藤象二郎・桂小五郎・品川弥二郎・大久保利通らと会談した。神戸に戻り、神戸事件の責任者である岡山藩士・滝善三郎の切腹に臨席した。外交団が明治天皇に謁見を行おうとした矢先に堺事件が起きたが、同事件解決後に京都に赴き、三条実美・岩倉具視を訪問、天皇謁見の際もパークスに随行した。
イギリス外交団が横浜に戻った後も江戸で主に勝海舟などから情報収集にあたった。大坂でパークスの信任状奉呈式に同行し、このとき初めて天皇に謁見した。北越戦争下にある新潟視察とロシアによる国後島・択捉島占領の真偽を確認するために蝦夷地を旅行した。 1869年(明治2年)、パークスとともに、東京で天皇に再度謁見した。
賜暇帰国と再来日
賜暇で帰国するためオタワ号で横浜を出港、上海・香港・シンガポール・ボンベイ・スエズ・アレクサンドリアを経由してイギリスに到着した。1870年(明治3年)11月、賜暇を終えて日本に戻った。
1871年(明治4年)、鹿児島から上京してきた西郷隆盛と会った。代理公使アダムズらと箱根・江ノ島に旅行した。廃藩置県後、アダムズと岩倉具視との会談で通訳をした(議題は、廃藩置県断行の状況や農民に対する課税問題、神仏分離令など)。アダムズとオーストリア貴族ヒューブナーが明治天皇と謁見する際に通訳をした。アダムズと木戸孝允との会談で通訳をした。木戸孝允と会い新しい官制である太政官三院八省制について説明をうけた。アダムズとともに岩倉具視と会い、条約改正準備のための遣外使節団派遣やキリスト教解禁問題、日清修好条規をめぐる攻守同盟疑惑について話し合った。関東一円を旅行した。この頃、日本人女性武田兼と結婚した。1872年(明治5年)、アダムズとともに甲州を旅行、さらにワーグマンを加えて日光を旅行した。鎌倉・江ノ島を旅行した。参議・大隈重信、工部大輔・山尾庸三とともに西国巡遊の旅行をした。横浜港を出港し途中、下田・鳥羽に寄港して伊勢神宮に参拝。大阪・神戸を経由して讃岐の金毘羅宮に参拝。長崎まで行き大阪に引き返す途中、厳島神社に参拝した。京都を旅行した後、中山道を経由して東京に帰った。箱根を旅行した。1875年(明治8年)、二度目の賜暇で帰国した。
三度目の来日と西南戦争
1877年(明治10年)1月に日本に戻ったが、パークスの命で直ちに鹿児島視察に派遣された。鹿児島滞在中に西南戦争が勃発した。出陣直前の西郷隆盛に会ったが、ほとんど話すことはできなかった。
1878年(明治11年)7月、信州、北陸方面へ旅行。長野県大町市から北アルプスを横断する立山新道を経て富山県富山市へ至っている。
1880年(明治13年)に長男・栄太郎、1883年(明治16年)に次男・久吉(後の武田久吉)が生まれた。同年まで日本に滞在し、三度目の賜暇で帰国した。
その後はシャム駐在総領事代理(1884年 - 1887年)、ウルグアイ駐在領事(1889年 - 1893年)、モロッコ駐在領事(1893年-1895年)を歴任した。
駐日特命全権公使
1895年(明治28年)7月28日、サトウは駐日特命全権公使として日本に戻った。東京には5年間勤務したが、途中の1897年(明治30年)にはヴィクトリア女王の即位60周年式典のために一時帰国している。日清戦争に勝利した日本は、1895年4月17日に下関条約を結んだが、4月23日には三国干渉により遼東半島を清へ返還した。サトウはその後の帝国陸軍・海軍の成長を目の当たりにすることになる。サトウはまた、日本での治外法権が1899年(明治32年)に撤廃されるのにも立ち会った。治外法権の撤廃は1894年(明治27年)7月16日に調印された日英通商航海条約に含まれていた。
なお、サトウの後任として日本に着任したクロード・マクドナルドが、在任中の1905年(明治38年)に公使から大使に昇進し、初代の駐日英国大使となった。
駐清公使
1900年から1906年の間、駐清公使として北京に滞在、義和団の乱の後始末を付け、日露戦争を見届けた。北京から帰国の途上、日本に立ち寄った。
晩年
1906年、枢密院顧問官。1907年、第2回ハーグ平和会議に英国代表次席公使。引退後はイングランド南西部デヴォン州に隠居し、著述に従事。キリシタン版研究の先駆けとなって、研究書を刊行するなどし、のちの南蛮ブームに影響を与えた。駐日英国大使館の桜並木は、サトウが植樹を始めたものである。 
 
「一外交官の見た明治維新」 
 明治維新期に滞在した英国外交官の見聞録

 

アーネスト・サトウとは日本人二世ではない。生粋のイギリス人外交官の名前である。アーネスト・サトウの原著「日本における一外交官」は1921年にロンドンで出版された。サトウは合計25年も日本に滞在した青年外交官であった。一度目の日本駐在は1862年ー1869年の幕末から明治維新までの期間で本書の叙述内容をなし、二度目の駐在は1870年ー1883年の明治政府の体制作りの時期、三度目の駐在は1895年ー1900年の日露戦争前夜の日英同盟結成に尽力した時期であった。まさにサトウは英国が日本を極東の同盟者と位置づけて、世界政治の渦中へ日本を巻き込んだ外交政策の立役者であった。後説明になるが、日本が幕末から近代国家として独り立ちするまでの、日本の保護者として日本外交の枠組みを書いた外交官であった。第2次世界大戦後サンフランシスコ講和を経て日本が自由主義経済国の優等生として世界に羽ばたくまで、アメリカが日本の保護者であったのと同じ役割を果たしたのが英国である。幕末から明治維新にかけての日本の歴史は対外関係から始まり絶えず対外関係に動かされて発展してきた。当時西郷、木戸、伊藤など倒幕の志士から、勝海舟など幕府閣僚らの相談を受け、裏で明治維新の脚本を書いてきたのがイギリス領事であった。それは無論イギリスの貿易利益最大化が目的であったが、海外列強の植民地化の脅威から日本を救ったのもイギリスかもしれない。
この著書は日本の近代化の外交史であるばかりでなく、当時の日本の朝廷や武士の風俗、習慣の見聞録、日本の旅行記、凶徒に襲われた事件禄、首切り・切腹などの刑罰への立会い、明治維新の要人との交遊録などが書かれており、実録週刊誌的な面白さが満載されている。ところがこのサトウの原著「日本における一外交官」は第2次世界対戦後まで日本では禁書扱いされており、翻訳や原本を見ることさえ出来なかったという。これは明治維新の舞台裏の機微が明らかにされることを、皇国日本は恥としたのであろう。全部自分らの力で維新をやり遂げ条約改正や外国からの軍事的経済的圧迫を取り除いたとする明治以降の外交史のストーリーに傷がつくと思って禁書にしたのであろう。サトウは日本に20年間滞在し、外交官生活を45年送ったのであるが、本書は特別に興味あるエピソードに満ちた期間(1862年ー1869年の第1次滞在期)の、天皇が統治権を回復するまでの事件に関したことを、自分の日記から抜書きしたという。原稿は1887年ごろに出来上がったが、打っちゃっておいたのを人の勧めで1921年いに完成したのだという。アーネスト・サトウはヨーロッパの特に優れた日本学者として、また19世紀末から20世紀初頭のイギリス極東政策の指導的外交官として有名である。サトウは18歳の時「御伽の国日本」の本を読んで夢を馳せるようになり、イギリス外務省の通訳生募集に応じて1961年11月に日本に向けて出発した。1862年日本の横浜港についたが、着任後直ぐに「生麦事件」が起こった。そして薩摩・英国戦争、長州と4カ国連合艦隊の下関戦争などが勃発して、日本の西南諸藩は急速に近代化を志して、尊皇攘夷から倒幕へ急速に舵を切った。幕府の無能は目を覆うばかりで西郷の武力の前に徳川幕府は簡単に崩壊した。戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦争)、江戸開城、上野戦争、奥羽戦争、函館戦争で旧支配階級は決定的に敗北し、明治新政府が1968年に成立した。この時期を外交官の目で描いたのが本書である。明治政府が成立するのを見届けてサトウは一時帰国する。1870年に再び来日し1883年まで滞在した。その後サトウはシャム総領事、1889年ウルガイ公使、1893年モロッコ公使、1895年日本公使として三度目の来日をした。1900年シナ公使、1906年イギリスに帰国し枢密顧問官、ハーグ国際仲裁裁判所の任についた。1907年引退し1929年行年86歳で逝去した。
サトウの「一外交官の見た明治維新」に入る前に、当時の政治状況を眺めておこう。サトウが日本に着任する前には、1858年に諸外国との間に修交通商条約が結ばれたが、1860年3月強権的に事を進める井伊大老が桜田門前で水戸浪士に襲撃されて最期を遂げてからは、徳川幕府の当事者能力は急速に形骸化していった。京都において「憂国の志士」による攘夷・倒幕の運動が激しくなり、いわゆる勤皇・佐幕の「テロ」が横行した。治安は極度に悪化した。そして攘夷思想から外国人も暗殺された。サトウが来日した1962年はまさにそういう時代であった。もはや誰が見ても幕府には政治的統率力はなく、治安維持能力もなくなっていた。なぜ日本人は外国人を血祭りに挙げたのだろうか。これは鬱曲した政治的パトスの変態的な発散であった。攘夷とは政治的に意味のない気分を高揚させるだけの運動と化したのである。外様大名として長く徳川家から冷遇されてきた長州と薩摩藩はここぞとばかり、幕府をいじめにかかった。通商条約締結後に外国人嫌いの天皇を担いで、「攘夷」というできもしないことを幕府に逼り、そして外国人との間に事件を起こして幕府を窮地に追いやる戦術に出たのである。その反幕から倒幕へ推進したのが、西国雄藩のァ津堂的な下層武士階級であった。長い間の参勤交代制による藩財政の疲弊によって徳川家への恨みは通奏低音のように諸藩を貫き、徳川幕府が外交上の問題で窮地に追い込まれて喝采を叫んでいたのである。江戸幕府末期には、世襲制度の矛盾が封建支配体制に抜きがたい無気力・無能を生み出し、将軍から諸侯、家老家など封建貴族の大部分が無能な傀儡(よきに計らえ)に化していたのであった。幕府は勿論、各藩の政治の実権は活動的な意欲に満ちた下級武士層の手に移った。勝海舟、西郷隆盛などが活躍できたのは、上が無能であったからだ。イギリス公使オールコックは外国貿易が必然的に日本の社会に革命を起こすことを予見していた。また西欧列強は日本が新しい政治体制に移行しない限り、諸外国との開かれた通商関係は出来ないと感じていた。サトウが日本に赴任した1962年ごろ対日外交の主導権は南北戦争に忙殺されていたアメリカから、全くイギリスの方へ移っていた。横浜での貿易は総額の85%はイギリスだけで占めていたし、全日本での貿易総額の50%以上に達していた。
サトウが着任してからの政治情勢をまとめておこう。すると個人の目でみた本書の動きよりも、全体像が見えて分りやすい。サトウが日本に来て1週間後に有名な「生麦事件」(イギリスの商人リチャードソンが薩摩藩主島津久光一行の行列に出くわして殺害されて)がおき、狼狽した幕府がイギリス艦隊に薩摩征伐を許したことが致命的な失敗になった。薩英戦争の結果、薩摩藩は攘夷がいかに無謀で欧米列強と力の差が大きすぎる事をいやというほど実感し、以降の薩摩藩の政策が一変した。これと同じような事が長州との間にも起きた。これより先に長州の京都での勢力は「七卿落ち」や1964年8月「蛤門事変」で敗退するなど全く窮地に陥っていた。加うるに長州は下関沖を通る商船を攘夷打ちしたため、4カ国連合艦隊が下関を襲撃した。下関の全砲台を破壊・占領され下関の街も焼かれたので、あっけなく長州は降参した。長州は幕府に恭順の意を表し、その間に藩政や軍政・交易政策を全面的に改め近代化をめざした改革に着手した。ところで攘夷の中心は頑迷で世界を知らない「京都の朝廷」であった。まだ通商条約の「勅許」もしていなかった。そこで欧州列強は下関戦争の幕府の賠償金を放棄する代わりに、条約の勅許、神戸先期開港、関税率の改定を要求した。4カ国艦隊が兵庫沖でデモンストレーションをしたので、将軍家茂は驚いて勅許を得た。なんだかすべての責任が幕府を追い詰めた。1965年7月イギリス公使はパークスに代わった。かれは明敏にも薩長2藩による日本の封建性打破の可能性を見抜き、新しい政府の樹立を期待ししきりに薩長との接近に努めた。一方フランスのロッシュ公使はイギリスとの貿易競争から幕府の要人と手を結んでいた。殖産施設や軍事援助で薩長2藩の台頭を抑えイギリスと対抗した。1966年薩長連合がなり、2回におよぶ幕府の長州征伐軍を破った。これで時代の流れは完全に倒幕へ向かった。高杉晋作の近代兵器と新軍隊による戦いが功を奏した。家茂の逝去と攘夷運動の元凶であった孝明天皇の逝去(伊藤博文と岩倉による暗殺という説がある)によって長州征伐は幕府側の完全敗北になった。この戦争の失敗で幕府の無力が内外に露呈され、薩長は倒幕の軍を大阪に進めた。岩倉、西郷、小松、大久保など薩摩藩の実力者が討幕軍の計画を練った。新将軍慶喜は徳川単独政権を支える事が出来ないと悟って、土佐藩主山内容堂の意見を入れて1967年11月「大政奉還」をし、1968年1月王政復古のクーデターにより慶喜の最後の望みも断ち切られた。と同時に新政府は徳川家に辞官・納地返還を突きつけて、鳥羽伏見戦争で一気に幕府軍を敗走せしめた。江戸城の無血開城は勝海舟と西郷隆盛の仲介を取ったのがイギリス公使パークスであったという。イギリスは局外中立という大義名分で他の諸国の介入を防ぎ、イギリス単独の影響力確保を狙ったのである。
アーネスト・サトウが滞在した1862年ー1869年(第1期)の日本の政治状況の年譜を簡略に記す。
1862年 9月 8日 アーネスト・サトウ横浜着
      9月21日 生麦事件起こる 
     12月 9日 遣欧使節竹内保蔵 江戸・大阪開港延期の交渉をはたして帰国
1863年 1月31日 長州藩高杉、伊藤ら品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ち
      3月31日 将軍家茂京都へ行く
      5月24日 アメリカ大使館焼き討ち
      6月 6日  家茂攘夷実施の期限を6月25日と天皇に約束
      6月24日 老中小笠原長行横浜・長崎・函館の三港の閉鎖を通告
            外国人の退去を勧告
      6月25日 長州アメリカの商船を砲撃、ついで7月8日フランス軍艦を砲撃、
      7月11日 オランダ軍艦を砲撃、7月16日アメリカ軍艦と交戦して敗北
      8月15日 薩英戦争 薩摩藩イギリス艦隊と交戦
      9月30日 朝議で長州藩の堺町門守衛を免じ、七卿都落ち(京都の政変)
     11月15日 薩摩藩生麦事件の賠償金を支払い犯人逮捕を約束
1864年 5月 2日 水戸天狗党の乱 筑波山で挙兵
      7月 8日 池田屋事件
      7月21日 長州の伊藤、井上らイギリスより帰国し、横浜にオールコック公使を
            訪問し和平案を探る
      8月20日 蛤門事変 長州軍京都御所にて幕府・薩摩軍と交戦し敗退
      8月23日 幕府使節池田長発フランスへ横浜港閉鎖交渉に失敗し帰国
      8月24日 第1次長州征伐の勅命下る
      9月 5日 下関戦争 英米仏蘭4カ国艦隊下関を砲撃
     10月22日 幕府若年寄酒井 下関事件で賠償金支払いか新港開設を約束
     12月27日 生麦事件主犯処刑にサトウら立ち会う
1865年 6月 9日 第2次長州征伐のため将軍家茂江戸を出発        
      7月 8日 新イギリス公使パークス横浜に着く
     11月 4日 4カ国公使 条約勅許と兵庫開港を要求して兵庫沖に艦隊デモ
     11月24日 幕府は4カ国公使に条約勅許と兵庫開港不勅許を告げる
1866年 3月 7日 坂本竜馬らの周旋で薩長同盟なる        
      7月25日 長州 幕府軍を破る
      8月11日 老中板倉勝清 フランス公使ロッシュに大砲、軍艦の購入を依頼する
      8月29日 将軍家茂大阪城で死去 長州征伐休戦
1867年 1月30日 孝明天皇崩御
      2月27日 遣欧特使徳川昭武 渡仏する
      3月11日 将軍慶喜 フランス大使ロッシュと会談 ロッシュはイギリスと
            薩長2藩の結合を警告する
      4月29日 将軍慶喜 イギリス、オランダ、フランス、アメリカの公使を引見
      5月27日 サトウと画家ワーグマン 掛川で暴徒に襲われる
      7月23日 土佐藩後藤象二郎、坂本竜馬、薩摩藩小松、西郷、大久保と
            王政復古の密約なる
      8月25日 長崎でイギリス水兵2名殺害される
      8月31日 パークス公使徳島藩主蜂須賀、9月8日高知藩主山内を訪問
      9月11日 薩摩藩小松、西郷、大久保ら京都で長州と密談し倒幕計画を練る
     10月17日 薩長芸三藩同盟なる
     10月29日 土佐山内容堂 後藤に命じて幕府に大政奉還を建議する
     11月 8日 岩倉が中山に代わって、大久保、広沢らに倒幕の詔書をだす
     11月 9日 将軍慶喜 大政奉還   東海道・近畿・江戸で「ええじゃないか」
            の民衆狂舞が起きる
     12月10日 京都で土佐藩坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺される
     12月29日 パークス公使不祥事を避けるため幕軍の大阪撤退を要求 サトウら
            薩長藩に大阪撤退を要求
1968年 1月 1日 兵庫開港  大阪開市
      1月 3日 王政復古 総裁、議定、参与の三職をおく
      1月10日 慶喜 大阪で4カ国公使と会見
      1月17日 江戸城二の丸焼失 
      1月19日 旧幕府 江戸三田の薩摩藩邸を襲撃
      1月27日 鳥羽伏見の戦い 幕軍淀で敗退する
      1月30日 慶喜 軍艦開陽丸で大阪を脱出し江戸に向かう
      2月28日 6カ国公使 局外中立を宣言 
      3月 8日 土佐藩兵士 堺港でフランス軍水兵10名を殺傷 
      3月26日 天皇参内の途中パークス襲われる
      4月 6日 天皇5か条の誓文を宣告  江戸三田の薩摩藩邸で勝海舟と
            西郷隆盛が会見し江戸無血開城を話し合う
      5月 3日 慶喜 水戸に謹慎
      5月22日 天皇 パークスを引見し、パークス信任状を手渡す
      6月11日 官制改正 七官を太政官において、立法・行政・司法を分掌
      6月19日 慶喜隠居 徳川家達が当主となる 70万石に削封
      6月22日 奥州同盟官軍に抵抗
      7月 4日 上野彰義隊の乱鎮圧
      9月 3日 江戸を東京と改称 11月26日天皇東京に入る
     11月 6日 会津落城
     12月 8日 幕臣榎本武揚 函館五稜郭で兵を挙げる
     12月30日 4カ国公使 横浜駐在外国兵を撤収
1969年 1月 1日 東京開市、新潟開港
      2月 9日 6カ国公使 局外中立解除を宣言
      2月24日 サトウ 賜暇帰国 
本書は岩波文庫上下二冊、36章からなる。明治維新の歴史的事実については上の年表としかるべき成書で詳細を見るべきで、本書だけからではかえって明治維新の全貌はつかめない。小さな窓から景色を見るようでぎこちない感じがするものだ。英国の1青年外交官としての日常任務は日本の政治的変革ではなく、外国人の殺傷事件で謀殺される業務や華々しい外国艦隊の動き、諸外国の外交官の交際と駆け引き、諸藩の高官や日本人との儀礼や交際に多くの精力が注がれている。情報についても日本人からの提供が主であるため断片的で、全体の政治軍事の動きは後聞きでまとめられた場合が多い。本書を読む第1のポイントは、当時の外国人(英国人)から見た明治維新ということであろう。本書より当時の日本を知るエピソードを拾って紹介する。
1) 横浜の社会
安政5年の通商条約によって外国貿易は長崎と横浜の港に限られて開かれ、埋立地の神奈川が外国人の居留地であった。長崎ではアメリカの宣教師が勉強に来る武士階級に自由主義思想を伝えたようだ。横浜では商取引に無知な山師のような日本の商人との取引が横行していた。また税関の役人の腐敗には賄賂が付きまとった。横浜の行政は奉行以下の役人が監視し、オランダ語を媒介した通話であった。神奈川の居留地では金を払って「地券」を得る仕組みで財産を形成したようだ。教会や墓地もできた。横浜にいた外国人社会はいわば「ヨーロッパの掃き溜め」と称されるように、品位のない連中が多かった。貿易には当初「洋銀」が用いられていたが不足してきたので、「1分銀」で代行するようになった。外国の官吏は条約によって100ドル=131文と交換されたが、実勢の為替相場は100ドル=214文であったので、官吏らは日本貨幣をドルに変えることにより40%の利ざやを稼ぐ事が出来たという。外交官の生活は潤沢で馬を持ち宴会が盛んに行われた。しかし旅行は制限され諸外国の代表以外は25マイルをこえて遠出する事は禁止されていた。江戸に4各国代表部が設置され、イギリス代表部は品川高輪の東禅寺に置かれ、公使には居館が江戸に設けられたが、治安の不安から居館を横浜に移したという。高輪のイギリス公使館が1961年に凶徒の襲撃を受けたため、オールコック卿は横浜に移り艦隊が公使館を守った。1962年オールコック卿が一時帰国したときの代理大使はニール大佐となり、再び公使館を高輪に移したが暴徒が衛兵を殺害する事件が起こって、公使館は再度横浜に舞い戻った。
2) 日本の政情
当時の諸外国の外交官は、徳川将軍を「大君」と呼び政治上の主権者で、天皇は宗教上・精神上の皇帝と見ていた。ここでサトウが日本の古代史を概観するのである。いつ仕入れた知識かは知らないが相当勉強が進んでからの知識であろう。それが当時の日本の常識であったとは思われない。古代日本の地に他国の侵入者(半島経由)がやってきて、純然たる神権政治を行ったのが、日本の君主制の始まりである。中国から律令と仏教を輸入して、古来の神に入れ替わった。藤原氏の文官政治は源平の武家政治に圧倒され、武家封建制が樹立された。日本の封建制は外国から侵略を受けなかったため、強力な中央集権制の必要性を感じなかった。後醍醐天皇の王政復古も空しく、足利の武士政権から織田信長・秀吉・徳川家康の国内統一となった。徳川体制は御三家・譜代・旗本を中核とする支配で、その周りに外様大名がいた。大名は幕府に税金を一切払わない代わりに、参勤交代や賦役・寺院建設など過大な負担を強いられた。身分制度は世襲制で、大名の行使する権力は次第に名目だけとなり、実権は地位の低い活動的な層が担った。こうして日本の支配階級は知能程度の低い、非生産的な無能階級に成り下がっていた。欧米の諸外国が文明の風を当てると、日本の制度はエジプトのミイラのように脆くも風解したのである。天皇も将軍も無能の頂点に君臨し、公卿や幕閣も右往左往のでくの坊と化していた。徳川の末期には幕府の実権は譜代大名から下級旗本の奉行の手に落ちていた。1852年アメリカのペリー艦隊がやってきた時が日本の支配体制崩壊の始まりとなった。1960年徳川幕府最期の宰相井伊直弼が桜田門外で水戸浪士に殺害されてからというものは、徳川幕府には政権をになうべき気概のある人間は将軍といえどもいなくなった。当事者がいない幕府は蝉の抜け殻みたいなもので、簡単に踏み潰されたのである。
3) 生麦事件 賠償金の要求と薩英戦争
サトウが日本に赴任して1週間後1962年9月12日、リチャードソンという上海の商人ら3名が馬に乗って東海道の生麦付近を通行中、島津久光の行列に出くわして切り殺されるという事件が発生した。世にいう「生麦事件」である。イギリス領事ヴァイスのもと外国外交団は審議を重ね、海兵隊1000人を上陸させて近くで宿泊していた島津久光を逮捕するという意見も出たが、これを制して徳川幕府に抗議する事になった。もし海兵隊が島津久光を逮捕したら、日本は恐らく壊滅的な無政府状態となり、英仏蘭の連合軍との戦いに進展したに違いない。そして日本国土は諸外国の植民地となり分割されたであろう。紙一重のところで、イギリスの理性(商売上の利益から)が優先して、徳川政権に事件の解決を委ねるという外交団の決議となった。1863年3月ニール大佐は本国より幕府と薩摩藩に十分な賠償金を要求せよ炉いう訓令を受け取った。約13万ポンドの賠償金と殺害犯人の尋問と処刑を要求する文書を徳川幕府に提出した。幕府は賠償金の分割払いと諸港の閉鎖を回答してきた。ニール大佐は港の閉鎖は条約違反の宣戦布告とみなすと脅かし、かわりに西南諸藩を押さえるための協力を申し出た。幸いなるかな老中小笠原は外国からの援助を断り、自分の努力で解決を行うという当事者意識を示した。ついで薩摩藩に賠償金を要求するため、1963年8月七つの軍艦からなる艦隊を編成して薩摩に乗り込むことになった。鹿児島の砲台の大半を爆破した。これ以降薩摩藩は急速にイギリスに接近して親密となり、西欧の文明を摂取し始めたのである。
4) 長州の攘夷と下関戦争
攘夷論者の多かった長州では、1863年6月25日下関海峡を通過するアメリカの商船を砲撃、ついで7月8日フランス軍艦を砲撃、7月11日オランダ軍艦を砲撃、7月16日アメリカ軍艦と交戦という挑発的な一連の軍事行動をおこなった。4カ国外交団は薩摩藩に対しての同様な対抗策が長州にも効果をもたらすと信じて、幕府に下関海峡再開の保証がなければ下関に艦隊を派遣すると通告した。一方イギリスの留学から帰国した伊藤と井上の二人に藩との交渉を依頼して外国4カ国の代表の手紙を預けた。長州藩からの回答は、攘夷は幕府と天皇からの命令でもあるし、そこへ物言えというものであった。そこで連合艦隊はイギリス7艦、フランス3艦、アメリカ1艦、オランダ4艦とともに下関海峡に向かった。下関にある主要な砲台を破壊して、総勢1900人の海兵隊(イギリス1400人)が上陸した。長州はその前から第1次中秋征伐に敗北し藩は挙げて窮地に陥った。長州が攘夷を断行したのは幕府の命でもあったので、サトウはこの下関戦争で長州人が好きになったらしい。2枚舌で攘夷と開港を進める幕府役人に嫌気が差したという。長州人にしろ薩摩人にしろ敗戦してもイギリス人に恨みを抱くことなく、この事件を通じてイギリスと薩長が親しい盟友関係にあったことは注目に値する。真摯に愛国心で闘う人は意外に分かりあえるものらしい。
5) 天皇の条約批准
1865年7月イギリス公使がラザフォード卿からハリー・パークス卿に代わった。日本の王政復古と明治維新が秩序よくおこなわれ、内乱があれほど早く終焉したのは実はこのパークス氏の功績が大きい。通商条約が結ばれて既に7年がたつがいまだに天皇の条約批准が行われていなかった。パークスは諸国の公使と相談して、艦隊の支援の下に大阪に出かけて、幕府閣僚に談判することになった。イギリスは4艦、フランスは3艦、オランダは1艦の参加で下関戦争ほどは大掛かりではないデモンストレーションを大阪港にかける事になった。条約の勅許さえ得られない衰退した徳川の権力の後押しはイギリスにとって好ましい事ではなく、もはや「大君」を見捨てるべき時がきたようだ。幕府が勅許を得ないなら、直接外国艦隊で京都の天皇に批准を迫ると脅かしたところ、将軍家茂は攘夷の砦である孝明天皇に諮って「外国事務は将軍に委任する」という従来の慣習を確認しただけの布告が下された。これはペテンであって時間稼ぎの曖昧言辞を弄したに過ぎない。
6) 長崎・鹿児島・宇和島訪問 将軍家茂・孝明天皇暗殺説
サトウは私的に「イギリス国策論」という本を著わし、日本の友人に配布していた。これが薩長や西南諸藩の有志には評判のバイブルとなっていた。日本開国後の進むべき道である近代化路線を説いたパンフレットである。友人の求めに応じてプリンセス・ロイヤル号に乗って西南諸国への旅に出た。長崎では井関氏、薩摩では島津図書、新納刑部らに会い、薩摩と長州が反幕行動を連携することを知った。薩摩は技術の習得では長足の進歩を見せていた。イギリスは薩長と親善関係を保ち斡旋者になる政策であるが、フランスは幕府を援助するようだ。オランダはイギリスに賛同したが、ドイツ・イタリアはフランスに追随し、アメリカは中立路線である。ついでサトウは薩摩と友好関係にある伊達宗徳の宇和島藩を訪問した。伊達宗徳は天皇を盟主とする連邦制をといたが、イギリスは内乱には介入しないほうがよいことを説明した。そして最期に兵庫に着いた。1886年8月将軍家茂が大阪で亡くなり、慶喜が将軍職を継いだ。1887年1月30日孝明天皇が崩御した。攘夷の2巨頭が相次いでなくなったことには陰謀説があって、サトウも家茂と孝明天皇毒殺説を人から聞いてありうることだと頷いている。読書ノートで太田龍著 「長州の天皇征伐」を紹介したので参照して欲しい。新将軍慶喜は1887年4月29日、4カ国の公使を招いて引見した。イギリスは将軍を権力の代理者と捉えていた。フランスはかなり親密に慶喜に協力を約束し抜き差しならぬ関係になっていたようだ。慶喜のやる気によって、薩長とイギリスの離間を図るため、幕府海軍設置をめぐって幕府閣僚がイギリスに接近するなど、一時薩長の革命勢力は退潮したかのようであった。
7) 徳島・土佐訪問 西南諸藩の新体制への動き
パークス卿らは函館を廻って、新潟開港視察と代港能登七尾港視察のたびに出た。サトウは七尾から大阪へ徒歩で向かった。サトウの文章は道中の旅行記として面白い。1867年8月長崎のイカラス号水兵殺害事件が起き、老中板倉勝清らとの交渉に忙殺されたが、サトウはその間備前鍋島直正という大陰謀家と面談したり、西郷と面談した。西郷は幕府が兵庫と大阪の貿易を独占する意図を激しき攻撃した。徳島藩蜂須賀阿波守がサトウの「イギリス国策論」について議論したいというので徳島を訪問した。ついでイカラス号水兵殺害事件の容疑で土佐に出かけ土佐藩家老後藤象二郎と面談した。後藤は国会開設に興味を持ち、これについては薩摩の西郷と同じ考えであった。藩主山内容堂の意見では、政治的見解は決して保守的ではなかったが薩長と変革の方向に向かう用意があったとは思えなかった。下関を経由して長崎に着いた。長州の伊藤と木戸が尋ねてきた。薩摩、土佐、芸州、備前、阿波の連名で将軍慶喜に辞職を勧告し政府改革を迫る文書が慶喜に提出された。長崎では水兵殺害事件の調査で土佐藩士からなる海援隊が調査の邪魔をしてきたが、結果的には土佐の仕業ではなかったので当然のことかもしれない。幕府には全く秩序維持能力がないことは明白であった。
8) 将軍政治の没落 大政奉還から王政復古クーデター
1867年11月16日将軍慶喜が大政奉還をしたと外国奉行石川河内守がパークスに告げた。すでに老中小笠原から今後政治は合議制になり天皇の裁可を受けることになると言われていた。勝海舟が内乱を心配していた通り、大阪には薩摩兵5000人と長州兵が駐屯しており、幕府軍と一触即発の状態で京都での動乱は不可避の情勢にあった。いよいよ古い制度が終末を迎えたという感じであった。慶喜は列藩会議を招集し自分が盟主になることを企んでいたが、すでに薩摩、土佐、宇和島、芸州には連合が成立し薩摩と土佐兵5000人と長州兵1500人が、京都の幕軍1万人と対峙していた。坂本竜馬と中岡慎太郎が革命を前に京都見回り組によって暗殺されたのもこの時であった。翌1968年1月4日条約国の各公使が日本の政治情勢分析のために意見を交換した。ところが各国の公使は意外と日本国内事情に精通していなかった。すでに京都を掌握しているのは会津ではなく、薩摩、芸州、土佐兵が御所を守護している状況であった。1月3日薩摩は将軍職の廃止、新政府の総裁、議定、参与の3職を提案した(王政復古)。薩摩と将軍の間を斡旋しているのは土佐藩であった。新政府の人事が発表された。総裁:有栖川宮、議定:山階宮、正親町(三条)、岩倉具視、尾張侯、越前侯、芸州侯、薩摩侯、土佐侯、参与:大原重徳、大久保、西郷などの人物であった。そして将軍慶喜については滅亡の運命が用意されていたのである。慶喜処分の内容が勝海舟の最大の懸案事項で、恭順の妥協の規範をなしたことは、江藤淳著 「海舟余波」にも詳しく記されている。この中で江戸に騒乱が発生した。1月17日夜将軍家定の夫人となっていた薩摩出身の天璋院の奪回を狙って薩摩人が江戸城二の丸に放火した。そこで幕府は三田の薩摩邸を焼き払う騒動が勃発した。この状況で外国公使らは天皇政府証人問題を議論したが、公使側から動けない、まだ天皇から何の通知も受け取っていないのである。もし京都政府が国政の指揮を取るなら、引継ぎを幕府に通告して各国公使を京都に招集しなければならない。という静観論である。
9) 鳥羽伏見の戦争 
1868年1月27日徳川側の指揮官陸軍奉行竹中重固が討薩表を持って京都に入ろうとして鳥羽口で交戦が始まった。この戦いは1日で終った。藤堂が山崎で寝返りし、指揮官竹中も淀で投降したのであっけなく徳川勢は逃亡した。新撰組も淀で敗退した。そして将軍慶喜も1月30日開陽丸で大阪から江戸へ逃亡した。仁和寺宮が征討大将軍となって箱根以西の藩はすべて天皇側に帰順した。関が原の戦いでも戦闘らしい戦闘はなく寝返りで決着している。鳥羽伏見の戦いでも小競り合い程度で直ぐの寝返りで決着している。なんか日本人は駆け引きと空気で勝敗を決するのが好きなようだ。戦争といっても敗残兵を清掃する程度である。2月7日天皇の使者東久世が岩下、寺島、伊藤を伴って兵庫の外国公使に面会した。「大君に代わって天皇が条約を履行する」という通告であった。公使に対して天皇政府承認要求に等しい。フランスが激高したが、他の国の公使は自国へ伝えるという返事をした。2月4日備前藩兵士がアメリカ人兵士を射殺する事件が発生し、賠償を求める文書が東久世に渡された。伊藤は逮捕と処罰を約束した。後日伊達伊予守と三条実美の指令を受けて解決覚書を持参した。革命の事態の進展に驚愕したフランス公使ロッシュは帰国する意向を伝えた。幕府にあれほど肩入れをしたロッシュとしては一日も日本に居る事は出来なかったのであろう。これでイギリス公使パークスの局外中立策とアメリカの甲鉄艦の引き渡し阻止というやり方が公使仲間に承認されたことになる。
10) 備前事件・堺事件 京都での天皇謁見
1868年3月8日土佐藩兵士が堺港でフランス軍水兵10名を殺傷する事件が発生した。先の備前事件の犯人滝善三郎の切腹は伊藤と五代の命乞いにも関らず外交団の賛成多数で断行された。土佐藩士20名についても死刑が求刑されたが、11名の処刑が済んだ時フランス艦長のトゥアールの判断で死刑は中止された。これはサトウから見ると、許された9名の死刑囚の名誉からして遺憾な処分停止である。切腹は見世物でもなく報復でもなく、極めてれ儀正しい一つの儀式であるというのだ。一理あるようだ。たしかに遺された9名の死刑囚の余生が屈辱にまみれるからで、これは死刑より陰惨な処分ではないかということだ。新政府の外国外交団承認のために天皇との謁見について、パークスと伊予守、小松が協議し、京都での謁見となった。そのまえに3月7日外国諸代表と政府高官(公卿と西国大名全員)の重大な協議が行われた。その翌日事が成る寸前に、土佐藩兵士が堺港でフランス軍水兵10名を殺傷する事件が起きたのだ。3月中はこの事件の賠償、犯人20名の処刑、藩主山内の謝罪問題で外交団は忙殺された。3月19日イギリス公使館全員は舟で大阪に移動し、馬で京都に向かった。宿舎は知恩院に取り天皇謁見準備に入った。山階宮、三条、岩倉らと会談し京都の攘夷姿勢が一変したことを告げられ、これまで新政府の樹立に協力したイギリスに対する天皇謁見がかなう事になった。ところが3月26日知恩院から皇居に向かうパークス公使一行の行列に凶徒(僧侶)が襲撃した。公使側の護衛10名ほどが負傷した。朝廷側は驚愕して徳大寺、越前松平、東久世、伊達、鍋島備前藩主らがパークスに「見舞いと陳謝にきた。3月26日改めてパークスは天皇に謁見し苦労をねぎらわれた。襲撃犯主犯1名の処刑は27日に行われた。新政府になったといえども、攘夷論者が多く治安状況は良くなかったが、政府の処置は迅速丁寧に行われたようだ。
11) 江戸開城と上野彰義隊の乱 慶喜水戸謹慎 新政府官制発布
3月31日パークスとサトウらは横浜に戻り、江戸に出て情勢を探った。サトウの情報源は幕府海軍総裁だった勝海舟からである。官軍はは既に三方(品川、新宿、板橋)より江戸にはいった。討幕軍総裁は有栖川宮大総督であった。徳川側の代表は勝と大久保一翁の2名で、西郷参謀と江戸開城の交渉に当った。慶喜処分と徳川家封が焦点になった。勝はパークス公使に新政府に対する影響力を発揮して内乱を防止するように依頼し、パークスは欧米諸外国公使は徳川への過酷な処分は内乱を長引かせるため好ましくないという意見であると西郷に圧力をかけた。徳川側でも脱走する人間が多く、小笠原、平山、塚原、小栗上野助らがいなくなっており弱体化は著しかった。こうして江戸無血開城がなったのだが、勝と西郷の交渉については江藤淳著 「海舟余波」を参照してほしい。新政府へのイギリス公使の新任上奉呈は5月22日大阪の東本願寺で行われ、天皇謁見があった。サトウらは横浜に戻り、官報や民間の新聞の翻訳に忙しかった。それによると4月27日慶喜処分が決まり、5月3日慶喜は水戸に蟄居する事になった。しかし徳川の残党は各地でくすぶっており、7月4日上野寛永寺にいた彰義隊と親王輪王寺宮(後の北白川)が官軍と衝突し、乱は一日で平定されたが残党は新潟や会津へ逃げた。サトウらは新政府の発する法令改正の翻訳に忙しかったが、アメリカ政治学の影響のもとに大隈重信、副島種臣らが活躍していた。6月11日の官制改正は3権分立と官職の任期制(猟官制度)にあったが、サトウらは批判的な目で見ていたようだ。卓越した薩摩の政治家大久保利通らは江戸を政治の中心とし、天皇を江戸に移す計画であった。新政府の財政は底を突き、徳川の金庫に殆ど金がなかったので、天皇政府の死活に関る重要問題であった。
12) 会津戦争・函館五稜郭の乱
横浜のイギリス連隊観兵式に三条実美らを招いて競馬をみたり、勝海舟と慶喜処分の情報交換をおこなった。勝は榎本の艦隊にフランス軍人が乗って江戸を離れたという。会津若松城に立て籠もった残党は11月6日降伏した。これで奥羽同盟は壊滅した。このころ吉原という遊郭に外国人の立ち入りが許可され、サトウら外国人らの吉原遊びが流行したようだ。12月11日榎本らの「徳川の海賊」が函館に上陸して反乱となり、官軍と交戦した。12月21日官軍の東久世らは派^クス公使と協議し、イギリス艦隊の山口勅使をのせて函館に渡りたいという要求があったが、パークスは事件に深入りしたくないとしてこれを断った。函館の乱の平定をもって日本全国に平和が訪れた。17日奥羽で戦った総督仁和寺宮が江戸に到着した。
13) 東京遷都と天皇謁見
1月5日イギリス公使らは皇居で天皇に謁見することができ、1月9日木戸、東久世、町田らはパークス公使を浜御殿に招いて、新政府承認の礼をした。21日には会津と仙台の処分が行われた。徳川は完全に亡んだので、22日各国公使の局外中立宣言の撤回が話し合われたが、イギリス・オランダは賛成、他の4カ国は漸次見合わせという態度であった。これに対しては木戸、岩倉からクレームが来て、見事に1本取られた格好であった。2月9日に各国公使の局外中立宣言の撤回が行われた。外交問題で日本も交渉ができるようになったといえる。サトウは休暇を貰ってイギリスに帰国することになり、勝海舟ら政治情報を提供してくれた日本の知人らに挨拶した。こうして6年半におよぶサトウの第1次日本駐在は終った。  
 
アーネスト・サトウの見た幕末の石川 「一外交官の見た明治維新」

 

イギリスの明治時代の有名な外交官・日本文化研究家のアーネスト・サトウの著書『一外交官が見た明治維新』から、石川県関係の箇所を抜粋した。明治維新と言っても、半分以上が幕末の見聞録であり、石川県の記述の箇所も、慶応3年、明治改元の一年前の話である。七尾に上陸した目的は、七尾を新潟の代港として、加賀藩に開港してもらう為の外交交渉であった。幕末明治維新を記述した書物の中では、外国人の書いた貴重な資料である。翻訳文ではあるが、その簡潔でスッキリした文体には、一流の外交官であることを証明していると思う。これを機会に一度全文を読んでみることをお勧めする。文中、一部分かりくするため、カッコ書きなどで、私が註を加えた箇所もあるが、ご容赦願いたい。
(第19章から)
(慶応3年:1885年)8月7日早朝、われわれは約1万フィートの立山を中心とする越中の高い連峰が見える所まで来ていた。11時には目指す港の入口へ着いた。この港は、湾に向かい合っている相当大きな島(能登島のこと)の影にある。サーペント号が先頭に立って、測量船としての任務を遂行しながら進んだのであるが、沢山の浅瀬があちこちにあるので、私たちは大いに警戒しなければならなかった。七尾の町の手前に投錨した時は、もう12時半になっていた。
当時の七尾は人口8千から9千を擁し(ただし当時七尾町と言った市街地のみ)、別名を所口と言った。加賀の大名(前田慶寧(よしやす))の汽船数隻が出入りしている重要な港で、阿部ジュンジローという町奉行が支配していた。阿部は長崎へも行ったことがあり、いくらか英語を知っている青年であった。長崎留学は当時としてはまるで洋行して外国の学問を修めて来たぐらいに思われたものだ。だが、この男は主君の名代として口をきくだけの権限を持っていなかったので、領主の首都金沢から佐野(サノ)と里見(サトミ)という2名の重役が来るのを待った。この両名は8月9日にパジリスク号へやって来て、5時間も長い間艦内にすわりこんで話した。いや、話したと言うよりも、ハリー卿に話しこまれた形であった。話題の中心は、七尾が新潟の代港として適当かどうかということであった。加賀の人々の恐れたのは、その結果七尾が昔の長崎や、新潟の場合のように大君(タイクーン)(徳川将軍のこと)に取上げられることになりはせぬかということであった。しかし、彼らはあえて公然とは口にしなかった。この土地の住民は外国人に接することは慣れていないとか、産物の輸出に伴い一般の物価が高くなるから大多数の者が反対するであろうとか、加賀の大名としては七尾を外国貿易港にしたいのだが、それにしても勿論領民の意向に添うようにしなければならぬとか、色々口実を並べ立てた。
そこでハリー卿は、これらの点については直接問題にせず、新潟が停泊地としては不便なこと、それには七尾以外に新潟に近い港はないという「事実」などを、よく説明した。その間に卿は、佐渡の夷港(えびすみなと)を新潟の代港とするために視察してきたなどということは、全然口に出さなかった。卿が天候の加減で新潟の砂州が荒れて停泊が危険な場合でも、当地の大名は外国船が七尾に停泊することにあくまでも反対するのであろうか、と聞くと、相手は、人道上から言っても、お互いの親善関係から言っても、大名はこれを拒むことができないだろうと答えた。それなら、外国船はその場合長時間何もしないで七尾に停泊してはおられぬから、積荷はひとまず陸揚げし、新潟へ輸送できるようになるまで倉庫に保管することになろうが、それに対して何か反対はあるか、と聞くと、いや、おそらく反対はあるまい、人道のために、と答える。そこで、ハリー卿は、それでは一体誰が必要な倉庫を建てるのか、と聞くと、それは外国側でも加賀藩側でも、都合の良い方ににしたらよかろうと答えた。では、外国人が陸揚げした品物を七尾の住民が買いたいという場合、その売買を防ぐのは至難な事ではなかろうか、と言うと、それはそうかもしれない、そんな事を許可すれば七尾は外国貿易の港になってしまうが、しかし必要な品物を全部前もって注文したり、新潟へ輸送する積荷の中から必要品を選り抜いて買うというのでなければ、異議を唱える訳にも行くまいとの返事である。実際のところ、彼らとしては、大君政府の援助なしに港の取締りや商品の保管をやることができると考えていたのである。七尾は、ずっと昔から前田氏の領地であった。加賀・越中・能登三国にわたる唯一の良港で、どうしても手放すことのできない土地であった。彼らは、幕府との共管で七尾の行政に当たるのを好まず、さりとて全然幕府の手に渡してしまうことはなおさら欲しなかったのである。
ハリー卿は、相手の意見に同意を示し、私と一行の者を大阪へ派遣する方法について話しをすすめた。これは、私たちが江戸を出発する前に公使館で論議されたものであった。しかし、新潟奉行がハリー卿に、七尾から陸路を通って帰るつもりはないかと尋ねた時、大いに外交的な我が長官は、そんな考えは毛頭ないと答えたのであった。
役人達は、ハリー卿のこの提言に誠意のある態度を示さなかったので、卿は彼らに向かい貴殿らの態度は外国人に対する友誼を欠くもので、他藩がわれわれに示した感情とは大いに異なると、厳しい口調で非難した。卿の露骨な言葉は役人の気持ちを痛く害した。彼らは大いに不機嫌になり、黙りこんでしまった。そして、多分本当であったろうが、腹が減ったからと言って帰って行ってしまった。
役人たちが艦を退去するや、ハリー卿は即刻、ミットフォードと私を陸路大坂へやり、自分はバジリスク号で長崎を経由して横浜へ帰航することを決心した。私たちは、勿論卿の場合よりもずっと身軽にこの国の旅行ができるので、この機会にまだ外国人が通ったことのない日本内地の一部を見ることができると思うと嬉しくてたまらなかった。そこでさっそく、私は町奉行に会いに上陸した。ブロック(中佐)はサーペント号と共に、当地に残って、湾をくまなく測量することを命じぜられた。私たちより一日早く新潟から来ていた提督は、サラミス号に蒸気を起こして三時半に出港し、それから2時間後にバジリスク号もつづいて港を出た。
長官は、最後の瞬間まで私たちを手放したがらず、港口まで送ってきた。港口で、私たちはサーペント号のボートに携帯品を移した。ところが、ボートが陸へ向かって漕ぎ出した途端に、バジリスク号が浅瀬に乗り上げて、私たちに向かって戻って来いと信号した。そんな事があったので遅くなり、私たちが最後にようやく長官のご機嫌取りから解放されて、岸に上がったのは夜の八時であった。
私は上陸すると、一度ならず泊まったことのある宿舎へ行った。間もなく、旅行の手形を万端引き受けた佐野と阿部が訪ねてきたが、そこへまた江戸の外国係の役人2名もやってきた。この2人の役人は横浜からハリー卿について来ていた者だった。卿は、ブロックのやる港湾測量に便宜をはかるようにと言って、この両名の役人を当所へ残すことにしたのであるが、彼らは私たちが陸路大坂へ行くと聞き、おそらく私たちの行動を探るためだろうか、一人を同行させてくれと言いに来たのだ。加賀の大名の領内だけならよいが、その先へ行けばきっと困ることができるだろう、荷物や駕篭の人夫を雇うも不便だろうし、ひょっとすると襲撃されて殺されるようなことがあるかもしれぬ、などと言った。また、実のところ自分達外国人の役人は、陸路貴殿らの行く所へはどこへでも同行するように命ぜられており、日本の法律では、外国人が旅行する場合にその世話を兼ねて必ず外国係の役人が同行することになっている、とも言った。これに対し私は強硬に、諸君は大君の閣老からハリー卿の世話を命ぜられて来たのだから、あくまでも卿の命令に従わなければならない、と答えた。ハリー卿はこの役人に対し、特別の仕事のため七尾に残れと命令されているのだし、私たちも長官から役人を同伴してはならぬという厳命を受けていたのである。また、われわれとしても、加賀の大名や、加賀のすぐ向こうに領地を持つ越前の大名が、あらゆる手段をもって旅行の便宜をはかってくれると思ったし、他の道中についても、この両大名が京都滞在の大君の家臣に手紙を出して、必要な訓令を発するように手配してくれ、また通過する沿道の町々の役人に直接命令を伝えてくれるものと確信していたのだ。
外国係の役人が口にした法律云々については、そんな事があるものかと、私は堅く信じていた。精々の所、そんな意味の慣例があるだけで、それに従おうと従うまいと、こちらの勝手だと言ってやった。相手も、もはや議論でだめだと観念したらしく、こんどは私の感情に訴えようとして、もし貴殿らが単独で出発されるなら、身共たちは江戸の重役に対してまことに相済まなぬことになると哀訴した。しかし、それも甲斐がなかった。とうとう、彼らはこの問題から手を引いて、それならいかなる困難に遭遇されようとも、当方に決して責任がないことを認めてもらいたいと言った。私は即座にこの要求をいれた。彼らは、おそらく腹の中では、ブロックの世話もこちらのしったことかと舌打ちしながら、退去したのである。私たちは、とうとう勝ったわい、と思いながら寝についた。
(第20章から)
翌朝、佐野と阿部の2人が、旅行の用意が万端整ったという嬉しい知らせをもってきた。そして、先々幾多の不便もあろうが、それは我慢していただきたいと、色々の言い訳をした。この2人は、私とミットフォードには上等な駕篭を、野口と、ミットフォードのシナ人召使の哲学者じみたリン・フーのために普通の駕篭を用意してくれた。護衛は、富永(トミナガ)という士官の指揮する、長い棒を持った20名の人達で、いずれも両刀を帯びていた。私たちは、八時半に出発した。海の方を眺めると、バジリスク号は、もはや出発した後で、サーペント号が悠然と停泊しているのが見えた。外国係の役人は姿を見せないので、もう断念したものと推定した。そこで私たちは、長官からも、大君の役人からも、また他のいかなるヨーロッパ人からも完全に解放されて、日本の全く見知らぬ地方の冒険の旅に出立したのである。どのみち、どうにかなるだろうが、とにかく私たちにとっては全く物珍しい冒険の旅であった。
七尾の町を離れると、私たちはすぐに駕篭からおりて、歩くことにした。焼け付くような暑い日であた。20名の護衛は、いずれも歩きながら片手で扇を使い、片手の手ぬぐいで額の汗を拭(ぬぐ)った。やがて、われわれは大いに優待されていることが明らかになった。なぜなら、まだ一時間半もあるかにうちに休憩して、甘い西瓜と、お茶の接待を受けたからである。桃も出されたが、ばかに未熟だったので、手に取るだけの勇気がなかった。また一時間も行くと、再び休まなければならなかった。みんなが、いやに丁寧だった。行き会った農夫は土下座した上、かぶり物を脱がされた。前日ハリー卿が佐野とその同僚をしかりつけたあとだったので、こんなに厚遇されようとは全く思わなかった。
道は、次第に細くなってゆく谷の間を通っていた。あぶら菜と麻が沿道に栽培されていた。1時15分に、小ざっぱりとした宿屋へ立ち寄った。そこで休んで昼寝をあつらえたが、この宿屋で結構な食事を出してくれた。一睡してから、3時にそこを出て、別の谷間の道を下りながら先を急いだ。そして4時半に休憩し、6時半にはとうとう18マイルを踏破して、その夜の宿泊地に到着した。
ここが、志雄の村で、小川の岸にある景勝な土地である。谷の入口に近いので、だんだん高く重なっている山々をそこから見上げた眺めは、日本に数多い佳景の一つであった。一風呂浴びた後で、何でもございませんがと丁寧にわびる言葉のあとから、結構な晩の食事が運ばれた。
翌日は16マイルほど歩いて津幡に達し、ここで街道に出た。この街道は、ここの大名の領地の端から端へかけて、あまり海岸から遠くない所を通っている。これまでの護衛が立ち去り、新しい一隊がこれに代わった。この辺は日本でも比較的に人口の多い所なので、私たちは大いに住民も好奇心の的になった。森本では、街道の家々の軒先で人々が折り重なって見物し、また道路のわきは、筵を敷いてすわりながら見ている人々でいっぱいだった。
この地方を過ぎると、やがて金沢の白い城壁が松林の上から覗いているのが見え出した。町が見える所まで来ると、私たちは再び駕篭に乗り、手近な一軒の家へ運び込まれた。私はこの家で里見と、もう一人恒川(ツネカワ)という名の役人に会った。
見物の人々が大勢集まっていた。中には、私たちのいる家の見通せる蓮池の泥の中に入ってまで、好奇心を満足させようとする熱心な者もいた。この家では、美味しいメロンとリンゴと、町の裏山から取ってきた凍雪などが出された。壁際に金屏風をつらね、卓上に果物や菓子を高く盛り上げ、上座の背後の壁の窪んだ所には、手紙を書く時の用に備えて、きわめて美しい金蒔絵の立派な硯箱が置いてあった。それはほとんど使用されることがなく、ただ儀式的に用意されている品であった。
役人は私たちに、住民によく見えるようにここから徒歩で行くことにして欲しいと言ったが、旅の服装ではあるし、いささか埃によごれ、また旅の疲れも出ていたので、駕篭に乗ることにした。道路は、あらゆる階級と年齢の見物人で人垣をつくっていた。その中には大変奇麗な娘も何人かいた。
途中に、もう一軒の上等な休憩所が用意されていた。われわれは前もって、旅館までまっすぐ行くことを頼んでおいたのだが、そこへも無理に立ち寄らされてしまった。そこを出て、今度は物見高くはあるが、きわめて秩序正しく町民が人垣を作っている街路を進み、一つの橋を渡った。それから何度も右や左に曲がった後、ようやく宿舎に着いたのであるが、これまでの騒ぎと、儀礼ずくめのために、いささかぐんなりした。
里見が玄関で私たちを出迎えた。彼は接待の監督の為に先回りしていたのであった。部屋の前を幾つか通って、奥の大きな部屋に通されたが、そこはビロードの毳(けば)の大きな絨毯が敷かれていて、シナの卓子や、仏教寺院の高僧が盛大な儀式の時に腰掛けるような緋色の椅子が用意されていた。間もなく宿の主人が現れて、あたかも2人の王様にでも挨拶するように畳へ頭を摩り付けて、御辞儀した。煙草やお盆を運んできた召使は、いずれも頭が床につくほど低くお辞儀してから、それを両手に高くささげて卓子の上に置き、絨毯の端まで後ずさりして、引き下がる前にもう一度頭を床まで垂れた。
私たちは、仰々しい恭敬な態度で一人一人風呂場へ案内された。それから訪問者に接するため、携行した中の一番上等な衣服(新しくも、上等でもなかったが)と着換えた。最初の訪問客は、大名の特使で、この暑さにもかかわらず、つつがなく、御無事に御到着、恐悦に存じますと、口上を述べた。ミットフォードは、大いに威厳をつくって、大して暑さも感じなかったと答えた。これまでの厚遇と親切に深く感謝しているので、貴藩の大名を訪問して直接謝辞を述べたいと言うと、使者は、「主人は折あしく病気でございます。さもなくば喜んでお目にかかりましょうが」と答えた。ミットフォードは、大名が早く全快されることを祈ると言った。実のところ、大名が外国人2名に面接するには、礼式上の問題についてきわめて重大かつ面倒な決定を要するので、仮病を使ったのだろうと私は推測した。使者は、貴殿たちのために小宴を設けて、お相伴するよう主君から仰せつかっていると言い添えた。ミットフォードは前よりもさらに美辞を連ねて、ハリー・パークス卿からのメッセージ(実際は長官から託されたものではなかったが、それをしないと手落ちになる)をでっちあげ、加賀の大名と人民に対して変わることのない友誼を誓いたいと述べて、使者は勿論、一座の人々に多大の感銘を与えた。私たちは、暑気のため健康を害するのを懸念して藩主がわざわざ遣わしたという医師を紹介された。
以上のような挨拶がすんでから、饗宴に移った。それは、これまでに述べたものと同じだが、豪奢な点と料理の品数の多いことにかけては、はるかに前述のものをしのいだ。接待する側の日本人が、どうも椅子では窮屈らしく見受けられたので、日本の流儀によって家具を取り片付け、畳にすわって杯の献酬を容易にしようではないかと、われわれの方から申し出た。よもやまの雑談のうちに大分時間もたち、人々の頭の中に多かれ少なかれ酒がまわってから、私たちは政治上の話題をもちだした。そして、大勢の人々と互いに打ち解けて談じ合ったのである。
日本の家屋は、秘密の話がしにくいようにできている。障子の後ろや襖の陰には、常に誰かが立ち聞きしている。だから、もし密謀を企てようとすれば、庭の真ん中でやるのが最も良い。そこなら盗み聞きを防ぐことができる。しかし、この場合はそうしたこともできかねたので、聞きたい者には聞かしてやれ、という気になった。密談の要旨はこうであった。
−−加賀藩は外国人との貿易を望んではいるが、公然と七尾港を開港場とすることは欲していない。それは、もし公然たる開港場にすれば、大君の政府は七尾港を加賀藩から取上げるに違いないからである。しかし、七尾を新潟の補助港にして外国船を停泊させ、貨物をこの港に陸揚げさせることには異議がないから、そうした場合はそれに伴って他の一切の事も自然に解決するだろう。もし大君の政府からこの問題について藩の意見を求めてくるならば、それについてあいまいな返事をしておくつもりである。
こうした意見に対し、勿論イギリス側としては、加賀の大名の希望にそって行動するつもりであるし、貴藩の利益を少しでもそこなうようなことは決してしないつもりだと、私たちは答えた。これは饗応者を大いに満足させた。彼らは私たちに対して、あたたかい友情を身にしみて感じると言明した。それから、細かい点は私も覚えていないが、江戸へ帰ってからも秘密を保ちながら互いに通信することにし、その方策などについて協定した。双方とも秘密を厳守することを申し合わせて、この密談を終わったのである。
やがて、非常に豪奢な寝具が運ばれた。絹綿をつめた絹や縮緬(ちりめん)の柔らかい蒲団を敷き重ね、蚊を防ぐために大きな紗(しゃ)の網(ネット)が吊るされた。ついで宿の者が、緑茶を入れた急須に茶飲み茶碗をそえた小さい盆と、喫煙に必要な道具を蚊帳の裾からそっとすべりこませて、どうぞお休みくださいと言った。朝になると、目の覚めぬうちにまず、快適な生活の要素であるこれと同じ品物が前夜と同様にそっと持って来てあった。
午前中は、漆器や磁器を選びながら時を過ごした。前夜の話では付近の山に登ることになっていたが、差し支えができたので、代わりに金沢の港の金石(かないわ)へ行くことにしたから承知してもらいたいと言ってきた。金石は金沢から5マイルばかり離れた所にあるので、3時頃の馬で出かけた。馬と言っても蹄鉄の打ってない、至って見すぼらしい小馬だった。厚い黒い紙を革の代用に使ったヨーロッパ式の鞍と、よく鞣(なめ)されていない、すこぶる堅い革の手綱が付いていた。野口は日本式の立派な馬衣をつけた小馬に乗ったが、乗馬のできない例の哲学者じみたシナ人のリン・フーは駕篭に乗せられた。目的地までの距離はごくわずかなのだが、上等な身分の人間は疲労を感ずるだろうと気をまわし、途中に2ヶ所、金石に一ヶ所と、計3ヶ所の休憩所が用意されていた。
港町と称する金石も、行ってみれば期待に反し、名もない川の口にあって、天気が完全によくない限りは全く使い物にならない、開けっ放しの投錨地であった。
その晩の食事の時、私たちは2人の役人とさらに立ち入った話をしあった。彼らは、前夜の密談に熟考した末、七尾を開港した暁には貿易額の幾分かを大君の政府に上納するのが最善の方策であるという結論に達していた。そうして置けば、加賀藩としても密貿易の罪に問われる心配もないだろうと。私たちもこの考えに賛成し、江戸に誰かを代表として派遣して、大君の政府や外国の代表と交渉させたらどうかと言った。
日本の内政問題に話が移ると、彼らは大君の政府は勿論存置せしむべきであって、薩摩や長州は他の諸藩と提携して、全然これを廃止すべしと言っているようだが、それはよろしくない、しかし同時に、大君の政府の権力に対しては当然制限を加える必要があるだろう、と述べた。彼らは、私のパンフレットを読んでいて、あの説には全く同感だといった。そう言われて見ると、私たちとしても加賀藩の意見には完全に同意であると答える以外はなかった。実を言うと、加賀藩は政治思想の中心地からかなり遠ざかっているので、南西諸藩の抱負を認めてそれに共鳴するということはできなかったのだ。彼らは、日本中でも無知と非文明の本場だと常に思われてきた北部の海岸地帯に、孤立の状態で置かれていたのである。したがって、自藩の事にしか関心をもっていなかった。加賀の大名(前田慶寧)の有する土地は、他のいずれの藩主の領土よりもはるかに大きな歳入があると見られている。そのため、加賀藩は世間一般からその貫禄を認められており、自らもそれに満足していた。したがって、日本の政治組織の変革なぞは加賀藩にとっては殆ど益するところがなく、心の底では政治の現状維持で満足していたのである。
これに反して、イギリス公使館は、天皇(ミカド)が再び日本国民の元首の地位につくことにできるだけ尽力し、その上で条約に誰も反対することができないようにするため、勅許を得ようと決心していたのである。そこで、こうした目的の為に大君政府の組織を改革して、主要な大名(というよりもむしろ藩)をして、権力の分配にあずからしめる必要があったのだ。
宿の主人は私たちをもっと長く引き留めておきたかったようだが、一定の期日までに大坂に到着する必要があったので、そうもゆかなかった。そこで8月14日の朝、金沢を立ったのである。主人は行きがけに自分の親戚の店に立ち寄って、万一の用意に「紫の雪(しせつ)」という特許薬を買ってゆけとしきりに勧めた。この薬の主成分は硝石で、それに麝香(じゃこう)で香をつけたものだが、筋肉の病気には大抵効くと信じられていた。
街路は、またも熱心な見物人でいっぱいだった。金沢の町を離れてから駕篭をおり、絵のように美しい城郭が眺められる高台の料亭に立ち寄って、お別れのご馳走にあずかったのである。お城の周囲には沢山の樹木が繁茂していて、それが公園のように見え、普通castle(城)の名前で呼ばれているヨーロッパの厳めしいfortres(城砦)とは大いに趣を異にしていた。この料亭で魚を食べ、酒を飲んで一時間を過ごした。そして、この訪問の前までは何の交際もなかった加賀藩の人々と永久に変わることのない友情を誓ったのである。
その日は松任(マットー)で昼食をとり、多数の人々の傾聴する前で町長と長い間雑談した。夕刻小松(コマツ)に到着したが、これで20マイル踏破したわけだ。途中何度も足をゆるめたり足を留めたりして休息した時間をも勘定に入れると、これでもかなりの速度で歩いたことになる。翌日は金沢と大聖寺領との境界を通過し、ここで護衛の者が交代した。大聖寺の町では街路が奇麗に掃き清められ、見物の群集が家々の軒先に行儀よくすわっていた。その中には晴れ着を来て、銀の花鬘(はなかずら)をつけ、奇麗に白粉をぬり、奇妙な金属光沢を皮膚に与える紅花の染料を唇につけてた良家の娘さんたちも大勢混じっていた。
ここで、これまで同行して来た加賀の紳士岡田(オカダ)と新保(シンボー)の2人に正式に別れを告げた。ミットフォードのシナ人召使もみんなと一緒に別れの席に連なったが、シナ人のリン・フーは、叩頭(こうとう)ばかりしている日本の礼儀作法は了解できないと、哲学じみたことを言っていた。
さらに行くこと約3マイルにして、ついに前田家の領内を離れ、越前領へと足を踏み入れた。
 
『シュリーマン旅行記 清国・日本』 ハインリッヒ・シュリーマン  

 

 
ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン
(1822-1890) ドイツの考古学者、実業家。幼少期に聞かされたギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアが実在すると考え、実際にそれを発掘によって実在していたものと証明した。
プロイセン王国のメクレンブルク・シュヴェリン州(現メクレンブルク=フォアポンメルン州)ノイブコウ(シュヴェリーンの近郊)生まれ。9人兄弟で6番目の子であった。父エルンストはプロテスタントの説教師で、母はシュリーマンが9歳のときに死去し、叔父の家に預けられた。13歳でギムナジウムに入学するが、貧しかったため1836年に退学して食品会社の徒弟になった。仕事の合間の勉強で15ヶ国語を完全にマスターした。
貧困から脱するため1841年にベネズエラに移住を志したものの、船が難破してオランダ領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社した。1846年にサンクトペテルブルクに商社を設立し、翌年ロシア国籍を取得。この時期に成功し、30歳(1852年)の時にロシア女性と結婚したが、後に離婚。さらにゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功を収める。クリミア戦争に際してロシアに武器を密輸して巨万の富を得た。
トロイア発見
自身の著作では、幼少のころにホメーロスの『イーリアス』に感動したのがトロイア発掘を志したきっかけであるとしているが、これは功名心の高かった彼による後付けの創作である可能性が高い。発掘当時は「トロイア戦争はホメロスの創作」と言われ、トロイアの実在も疑問視されていた、というのもシュリーマンの著作に見られる記述であるが、実際には当時もトロイアの遺跡発掘は行われており、シュリーマンの「トロイア実在説」は当時からして決して荒唐無稽なものではなかった。
彼は発掘調査費を自弁するために、貿易などの事業に奔走しつつ、『イーリアス』の研究と語学にいそしんだと、自身の著作に何度も書き、講演でもそれを繰り返した。実際には発掘調査に必要な費用が用意できたので事業をたたんだのではなく、事業をたたんでから遺跡発掘を思いついたのである。また彼は世界旅行に出て清(当時の中国)に続き、幕末・慶応元年(1865年)には日本を訪れ、自著 La Chine et le Japon au temps présent (石井和子訳『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫)にて、鋭い観察眼で当時の東アジアを描写している。その後ソルボンヌ大学やロストック大学に学んだのち、ギリシアに移住して17歳のギリシア人女性ソフィアと再婚、トルコに発掘調査の旅に出た。発掘においてはオリンピア調査隊も協力に加わっていた。
彼は『イーリアス』を読み込んだ結果、トロイア市はヒサルルク(ヒサルルック)の丘にあると推定した。1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。1873年にいわゆる「プリアモスの財宝」を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、古代ギリシアの先史時代の研究は大いに進むこととなった。
「プリアモスの財宝」はオスマン帝国政府に無断でシュリーマンによってギリシアのアテネに持ちだされ、1881年に「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き換えにドイツに寄贈された。第二次世界大戦争中にモスクワのプーシキン美術館の地下倉庫に移送され、現在は同美術館で公開展示されているが、トルコ、ドイツ、ロシアがそれぞれ自国の所有権を主張し、決着がついていない。
彼は発掘の専門家ではなく、当時は現代的な意味での考古学は整備されておらず、発掘技術にも限界があった。発掘にあたって、シュリーマンはオスマン帝国政府との協定を無視し出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。発見の重大性に気づいたオスマン帝国政府が発掘の中止を命じたのに対し、イスタンブールに駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けた。こうした不適切な発掘作業のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、これらは現在に至っても考古学者による再発掘・再考証を難しい物にしている。
ギリシア考古学の父
シュリーマンは、発掘した遺跡のうち下から2番目(現在、第2市と呼ばれる)がトロイア戦争時代のものだと推測したが、後の発掘で実際のトロイア戦争時代の遺跡は第7層A(下から7番目の層)であることが判明した。第2層は実際にはトロイア戦争時代より約1000年ほど前の時代の遺跡だった。これにより、古代ギリシア以前に遡る文明が、エーゲ海の各地に存在していたということをも証明した。
また彼は、1876年にミケーネで「アガメムノンのマスク」のような豪奢な黄金を蔵した竪穴墓(竪穴式石室)を発見している。1881年にトロイアの黄金をドイツ国民に寄贈してベルリンの名誉市民となった。建築家ヴィルヘルム・デルプフェルトの助力を得てトロイア発掘を継続する傍ら、1884年にはティリンスの発掘に着手。1890年、旅行先のナポリの路上で急死し、自宅のあったアテネの第一墓地に葬られた。
人物
職を転々としながらも商才を発揮し、トロイ発掘の目標に向け蓄財し、かつ勉学に励んだ。語学は、音読をすること・決して翻訳しないこと・文法を度外視して文章を丸暗記することなどの勉強法により、多国語を学習した。母国語であるドイツ語のほか、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、スウェーデン語、ポーランド語、イタリア語、現代ギリシア語および古代ギリシア語、ヘブライ語、ラテン語、ロシア語、アラビア語、トルコ語に詳しかった。内容は著書『古代への情熱 シュリーマン自伝』で詳述、語学習得法の一例としてよく紹介される。18ヶ国語を話せたという。
エピソード
幕末の慶応元年(1865年)に日本を訪れ、「日本人が世界で最も清潔な国民だということに疑いの余地がない」と言及した。 背景には当時はイギリスのテムズ川などのヨーロッパの川は、排泄物などで汚染されていて不潔だったので、ペストなど伝染病などの原因となっていた。 これに対して江戸時代の日本の川は綺麗だった。理由は排泄物の処理がきちんと管理されていたからだった。なぜなら排泄物が優れた有機肥料という点で高い値段で取り引きされていたからだった。価格が急騰して、江戸幕府が介入して排泄物の価格を引き下げるように強制する法令まで制定して公布していたほどだった。
日本人の入浴・混浴文化を知って「なんと清らかな素朴さだろう!」と初めて公衆浴場の前を通り全裸の男女を見た時に感動して叫んだ。『どんなに貧しい人でも、日には一度は公衆浴場に通っている。」とし男女混浴を見て「禁断の林檎をかじる前の我々の先祖と同じ姿になった老若男女が一緒に湯をつかっている。日本人は礼儀に関してヨーロッパ的観念をもっていないが、人間というものは自国の習慣に従って生きている限り間違った行為をしているとは感じないものだからだ。そこでは淫らな意識が生まれようがない。すべてのものが男女混浴を容認しており、男女混浴が恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。ある民族の道徳性を他の民族のそれに比べてうんぬんすることはきわめて難しい。』と記した。。
浅草寺で花魁の絵姿と仏像が並んで飾られている様子を見てシュリーマンはしばらく立ち尽くして、「私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた----長い間、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちすくんだ」と遊女が人々に尊敬されていることに驚いた。
幕末の日本国内の政治について「絶対的権力を持った大名達は、二つの権力の臣下として国法を尊守しながらも、実際には、大君(徳川家茂)と帝(孝明天皇)の権威に対抗している。好機と見て自己の利益と情熱によって両者の権威を縮小しようと図るのである。これは騎士制度を欠いた封建制度であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。ここでは君主が全てであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にしましてよく耕された土地が見られる」と記した。  
 
シュリーマン旅行記 清国・日本 1

 

19世紀半ば、ドイツ人のハインリッヒ・シュリーマンが、有名なギリシャのトロイ遺跡を発掘する前に、世界各地を旅する途中、当時清朝だった中国と、幕末の日本を訪れた。その時の中国・日本の様子を、詳細にレポートしている。その詳細さは、この本を読めば、その当時の情景がすぐに思い浮かぶぐらいだ。大きなものから小さなものまで具体的な数字を挙げて大きさを表現し、物の価格まで事細かにしっかり記されている。特徴的なのは、中国についてはかなり毒舌に評価している一方で、日本についてはかなり絶賛している。外国に住んで、日本ってやっぱり良い国だなと思うことは多々あったけど、この本の、なんの偏見もない客観的なヨーロッパ人の日本に対する評価には、日本という国は素晴らしい国なんだと、改めて思わせてくれる。当時、中国は欧米列強の侵略を受け、清朝政府は腐敗し、国民はアヘンに犯され堕落していた。一方日本は、明治維新の3年前という幕末の混乱期ではあったけど、260年続いた江戸時代の秩序の中にいた。シュリーマンによる旅行記では、こうも違うかというぐらい、中国・日本とを好対照に記している。
当時の街並み
シュリーマンは中国北京の万里の長城を見に、上海から天津へ船で移動した。その時天津の街に降り立った時の印象をこう記している。
『私はこれまで世界のあちこちで不潔な街をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の街は汚れている。しかも天津は確実にその筆頭にあげられるだろう。街並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている。』
また、北京の街を歩いている時の様子。
『ほとんどどの通りにも、半ばあるいは完全に崩れた家が見られる。ごみ屑、残滓、なんでもかんでも道路に捨てるので、あちこちに山や谷ができている。』
一方で、江戸、横浜の町を見物したシュリーマンはこう書いている。
『日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地が無い。』
『日本人はみんな園芸愛好家である。日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう。』
『この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもまして耕された土地が見られる。』
北京
『北京はとても大きな街で、城門にたどりつくまでに一時間以上もかかった。街をぐるりと囲む城壁内に七百万人は住めるだろう。だが、実際の人口は百万にも満たないようにみえる。早朝だったので、道を歩いても乞食に悩まされることなく、思う存分あたりを観察することができた。ときどき、白っぽい花崗岩でつくられた石畳の残骸を見かけた。崩れた石造りの下水渠や欠けた軒蛇腹、破損して泥にほとんど埋もれた塑像などがいたるところにあった。花崗岩の立派な石橋もたくさん目にした。しかし、半ば崩れていたので渡ることができず、迂回しなくてはならなかった。石畳の断片、瓦礫となった下水渠、壊れた軒蛇腹、塑像、石橋・・・北京の街のそれらすべてが、いまや荒廃し堕落した国民を表わしていた。現在では二階建ての安っぽい家、汚れきって、首都の道路というよりは巨大な下水渠のような通りに、かつては偉大で創意に富んだ人々が住んでいたのだ。舗装され、清潔な見事な道路、大邸宅、壮麗な宮殿があったのだ。もし少しでもお疑いなら、北京の堂々たる城門や城壁を見るがいい。その大きさについては既に述べたとおりである。このような門や壁が今日見られるような街を守るために建造されたとは!まったく考えられないことだ。』
お寺を訪れる
北京で歴史あるお寺を訪れた時の印象。
『…寺を訪れた。シナの寺院建築はヨーロッパ最高の建築家も一目置くほどである。だがいまは、無秩序と頽廃、汚れしかない。…途方もない費用をかけて建設したこの壮大な建築物を、いまや頽廃し堕落した民族が崩壊するにまかせているのを目の当たりにするのは、じつに悲しく、心痛むことだ。』
一方日本のお寺を訪れた時の印象。
『高名な豊顕寺で休憩した。境内に足を踏み入れるや、私はそこにみなぎるこのうえない秩序と清潔さに心を打たれた。大理石をふんだんに使い、ごてごてと飾りたてた中国の寺は、きわめて不潔で、しかも頽廃的だったから、嫌悪感しか感じなかったものだが、日本の寺々は、ひなびたといっていいほど簡素な風情ではあるが、秩序が息づき、ねんごろな手入れの跡も窺われ、聖域を訪れるたびに私は大きな歓びをおぼえた。』
『僧侶たちといえば、老僧も小坊主も親切さとこのうえない清潔さがきわだっていて、無礼、尊大、下劣で汚らしいシナの坊主たちとは好対照をなしている。』
当時の女性について
『シナでは、女性の美しさは足の小ささだけで計られる。九センチあまりの小さな足の持ち主ならば、歯が欠けていようが、禿頭だろうが、十二センチの足の女性よりも百倍美しいとされる。例え後者がヨーロッパ風の基準に従えば目映いばかりの美しさをそなえていようとも、である。』(←当時の纏足<てんそく>の風習)
『日本政府は売春を是認し奨励する…貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは、法律で認められている。この売買契約にあたって、親たちは、ちょうどわれわれヨーロッパ人が娘を何年か良家に行儀見習いに出す時に感じる程度の痛みしか感じない。なぜなら売春婦は、他の職業と比べて何ら見劣りすることのない、まっとうな生活手段とみなされているからである。…娼家に売られた女の児たちは、結婚適齢期までこの国の伝統に従って最善の教育を受ける。…有名な寺の本堂に「おいらん」の肖像画が飾られ、…日本人は、「おいらん」を尊い職業と考え、他国では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。その有様を目にして、長い間、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちすくんだ。』
万里の長城を見る
『私は(世界の)素晴らしい眺望をたくさん見てきた。しかしいま、眼前に展開された光景の壮麗さに匹敵するものは何もなかった。私は呆然自失し、言葉もなくただ感嘆と熱狂に身をゆだねた。』
しかし、長城を見に行く際に訪れた村で、シュリーマンは中国人の気質について理解する。
『(村人に)旅行の目的は何かと聞かれて、…長城を見ることだと答えてしまった。彼らはみんな大口を開けて笑い出した。石を見るためだけに長く辛い旅をするなんて何と馬鹿な男だろうというわけだ。どうしてもしなければならない仕事以外、疲れることは一切しないというのがシナ人気質である。』
日本人の混浴文化
『どんなに貧しい人でも、少なくとも日には一度は、街のいたるところにある公衆浴場に通っている。…(男女混浴を見て)禁断の林檎をかじる前の我々の先祖と同じ姿になった老若男女が、一緒に湯をつかっている。…日本人は礼儀に関してヨーロッパ的観念をもっていないが、…人間というものは、自国の習慣に従って生きている限り、間違った行為をしているとは感じないものだからだ。そこでは淫らな意識が生まれようがない。すべてのものが男女混浴を容認しており、…男女混浴が恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。ある民族の道徳性を他の民族のそれに比べてうんぬんすることはきわめて難しい。』
金銭感覚
『シナ人は偏執的なまでに賭け事が好きであり、貧しい労働者でも、ただ同然で食事にありつけるかもしれないというはかない望みに賭けて、自分の食いぶちの二倍ないし四倍の金をすってしまう危険をものともしない。』
『(横浜港に着いた際、税関の官吏は)中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(二・五フラン)ずつ出した。ところが何と彼らは、自分の胸を叩いて「ニッポンムスコ」(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な応対だった。彼らはふたたび深々とおじぎをしながら、「サイナラ」(さようなら)と言った。…彼ら(役人)に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金で贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである。』
中国の演劇
『劇場で演劇を見た。…次は歌と音楽の入った劇だった。太鼓や鐘、それに奇妙なヴァイオリン(胡弓?)からなるオーケストラは、文字通り、猫の騒ぎのような音を出していた。歌も、ヨーロッパ人からすれば、耳を引っかくような叫び声にしか聞こえなかった。それでも観客はしごくご満悦の体で、詰め込みすぎた胃から出てくるおくびの音を響かせながら、さかんに賞賛の声を上げていた。シナ人は拍手喝采することを知らない。』
日本の簡素・質素の文化
『日本に来て私は、ヨーロッパで必要不可欠だとみなされていたものの大部分は、もともとあったものではなく、…寝室を満たしている豪華な家具調度など、ちっとも必要ではないし、それらが便利だと思うのはただ慣れ親しんでいるからにすぎないこと、それら抜きでも十分やっていけるのだとわかった。もし正座に慣れたら、つまり椅子やテーブル、長椅子、あるいはベッドとして、この美しいゴザを用いることに慣れることが出来たら、今と同じくらい快適に生活できるだろう。』

シュリーマンは、中国について批判的に書いていることが多いのに比べ、日本に対して批判的、否定的な記述はほとんどない。 
 
シュリーマン旅行記 清国・日本 2

 

作者は元々は藍染料を扱う商人であったが、ビジネスに成功し、巨万の富を築くと、ビジネスからは思い切りよく手を引き、旅行と遺跡の発掘に資金と余生を注いだ人物であり、ホメロスの詩を信じ、空んじもして、それが功を奏して、第一にトロイア遺跡の発掘、第二にミケナイの発掘、第三にティリマチスの発掘に成功、その名を世界にとどろかせた。また、作者は語学の天才であり、数ヶ国語をマスターしていた。
本書はシュリーマンが発掘に手を染める前、1865年(明治維新の3年前)に日本と清国を訪れたときの旅行記であり、他の外国人による幕末日本に関してと似たような誤解はあるものの、個性的な見聞には感ずることが少なくない。
清国・北京のオーケストラは平べったい太鼓や鐘と胡弓からなり、猫の大騒ぎのような音を出していた。上海での劇場経験でも、シナ人はハーモニーとメロディーがどんなものか理解していない。ドラと胡弓、笛、太鼓、竹製の笙(しょう)からなるオーケストラは筆舌に尽くしがたい滅茶苦茶な騒々しさであり、どうしてこのような音楽が観衆を熱狂させるのか、わたしには理解できなかった。
北京は三つの街に分割され、皇帝の街、韃靼人(だったんじん)の街、漢人の街、それぞれ巨大な塔と城門とを備えた城壁で互いに隔てられて、全体は全長50キロの城壁が囲んでいる。
また、清朝の紫禁城は長さ12キロ、高さ8メートルの壁に囲まれ、宮殿付きの第一位階層の高官以外は中に入ることはできない。一方で、君主は宮殿の外に出ることはできず、君主にとって紫禁城は牢獄に等しく、ハーレムの逸楽に耽り、高官らの追従やへつらいの中で皇帝は全ヨーロッパの1.5倍の民を統治する義務と責任がある。
城壁が至るところで崩れ落ちそうで、宮殿内の庭園は草木が伸びるがままの状態、大理石の橋も壊れている。寺院も孔子廟(こうしびょう)も一流の建築物だが、無秩序と退廃が支配し、仏像の衣も刺繍もぼろぼろに剥げ落ちている。
街中には、首に1メートル33センチ四方の板を水平につけられた罪人を至るところで見かける。板に取り付けられた高札には罪状と処罰期間が明示されている。漢人街の刑場には男の首がそれぞれ鉄製の大きな鳥籠に入れられ、曝(さら)されていた。
満州との境付近にある古北口に入ったとき、人々の好奇の的となり、清国風の服装をせず、弁髪(後方に髪を長くたらすスタイル)もしていない群集に取り巻かれ、宿屋に着いたとき、一部の人は部屋の中にまで入って来、入れない人々は部屋の窓によじ登ってわたしの所作を凝視。
ペンを使い、左から右へ、かれらが見たこともない文字を連ねたときにも、ペンという道具にも度の過ぎた好奇心をみせ、わたしをうんざりさせた。清国への旅行の目的は万里の長城を見ることだと応えると、全員が大笑いし、「石を見るためにだけ、そのような長旅をするのか」とバカにされた。かれら野次馬はわたしが床に就き、灯りを消すまで出ていってくれず、きわめて無礼でマナーに欠けた人々であるとの印象を受けた。
長城の壁は半分以上崩れていて、一定の高さまで登るまでは難行苦行、望遠鏡を使い見渡すと数十キロ先まで長城が見え、人間の手が造り上げた最も偉大な創造物であることに異論はないが、いまや、この大建築物は過去の栄華の墓石と化している。長城はそれが駆け抜けていく深い谷の底から、またそれが横切っていく雲の只中からシナ帝国を現在の堕落と衰微にまで貶(おとし)めた政治腐敗と士気喪失に対して沈黙のうちに抗議している。わたしは長さ67センチ、重さ25キロほどのレンガを背中にくくりつけて持ち帰ることにした。
阿片の影響は南ほどひどく、北に行くに従い愛飲者は減っていく。天津、北京ではごく僅かな人々しか麻薬の災禍を認められなかった。また、ツバメの巣には阿片の解毒剤としての効能がある。
シナ人は墓を個人の所有地につくっており、それが原因となってこの国に鉄道の敷設は無理があるとみていたが、1865年、1876年にイギリス人が二本の鉄道を創設したが、いずれもシナ人の手によって撤去され、わたしの推理が当たっていると思っていた。しかし、帰国後、1888年にシナ人自身の手によって唐胥鉄道が開通して以降、1890年代には全土で5万900キロに達したと仄聞した。(中国は政府の命令によって、家でも墓でも動かさざるを得ない)。
シナの美人の条件は纏足(てんそく)に尽きる。容貌よりも歯ならびよりも容姿よりも毛髪のスタイルよりも、たった9センチの小足に最大の甘美な期待値を置く。女子は三歳になると、小指を含め3本の指を足の裏側に折り曲げて包帯できつく絞めつける。圧迫し続けると、甲骨が突き出て反り返るので、踵(かかと)が出っ張る。本人は自由な2本の指と異常発達した踵に体重をかけて歩く。折り曲げられた3本の指は成長しても足の裏にくっつくことはない。結果として、脚は踵の上の部分で太く、鼠径部が異常肥大する。シナで纏足をするのは清朝の漢族だけ。
日本の横浜港に到着したとき、水先案内人は屈強な男二人で、髪をチョンマゲにし、小船に乗っていたが、衣服の代わりに身体を刺青で彩色していた。上陸後、荷をかつぐ人足がやってきたが、ほとんどの男たちは裸同然であり、身体の皮膚は疥癬(かいせん)に罹ったカサブタで覆われ、皮膚病を免れていた人足は僅かな数だった。
横浜は人口4千人、道路は砕石で舗装され、道幅は10−20メートルだった。
横浜税関で、荷を開けられると後が大変なので、勘弁してくれるよういくばくかの金を出したところ、「日本男児はこういうものは受け取らない」と拒絶されたが、荷を細かくチェックすることは勘弁してくれた。
日本人の住居には必ず花が庭を彩り、低木はよく刈り込まれ、日本人の園芸好きを示している。住居そのものはきわめて清潔、家具は長火鉢しかなく、畳の上がベッドになり、ソファーになり、マットレスにもなる。
日本人の主食は米だが、パンを食する習慣はない。この頃、ジャマイカ人の男が横浜にパン屋を開業している。(客のほとんどは欧米人であっただろう)。
日本人の使う枕は木製で、長さ30センチ、底部の幅18センチ、上部10センチ、高さ15センチの舟形。枕の上部には3センチほどの窪みがあり、そこに紙のクッションが置かれ、男女ともに髪型を崩さぬよう、枕にはうなじを載せて休む。また、日本人は終日にわたって正座しても疲れず、足が痺れることもない。
日本女性は着物を身に、木製の下駄をはいているが、ほとんど素足。婚礼時には歯を黒く染める「お歯黒」をし、未亡人になっても週二回はこの化粧を続ける。髪には椿油だけで、すばらしい髪形に結いあげる。髪にはカンザシが一本、唯一の装飾品として使われる。
日本人は世界で一番清潔。どんな貧しい人でも一日に一度は銭湯に通い、老若男女ともに混浴風呂に入り、身を清める。混浴に関しては西欧人から批判が多いが、社会習慣はそれぞれの土地にそれぞれ独特のものがあり、比較を絶している。日本人がヨーロッパの女性が男性と手をとりあってダンスするところを見たら、慎ましさの欠けた社会性を感ずるだろう。
日本の政府、幕府は売春を是認し、娼家を一定の地域に定め、保護している。売春婦経験者は日本では社会的身分として必ずしも恥辱とか不名誉とかを伴うことはなく、まっとうな一つの生活手段だとみなされ、年季が明けて結婚することもごく普通であり、花魁(おいらん)経験者などは尊敬さえされる。
シナの僧侶が尊大で無礼で下劣で不潔なのに比べ、日本の僧侶は親切で、清潔さが際立っていた。日本人は一般に極端なほど整理整頓に気を使う。
雨天に農民が使う蓑(みの)を求め着用してみたが、役にたたず、全身すぶ濡れになった。
1865年頃には、列強の公使と随行員は江戸に在住することが許可されていたが、武士による襲撃を受けることが頻繁であったため、アメリカ大使以外は江戸を立ち退いていた。イギリス公使館は品川の東禅寺に在ったが、1861年には10名が殺害され、15名が重傷を負い、さらに1862年にはイギリス人伍長(兵士)が殺害され、江戸から横浜に転居していた。東禅寺には刀創の跡が今でも柱などに残っている。
アメリカ総領事から招待状を貰い、幕府の差配で5人の武士にガードされ、馬に乗って念願の江戸を訪れた。江戸への道路は幅が10−11メートル、江戸内部の道は幅7メートル、パリと同様、砂利で舗装されている。一方、大名らが隣り合う屋敷町は20−40メートルもの道幅となっている。
アメリカ公使館は麻布の善福寺に在り、昼間は200人、夜間は300人以上の役人が武装して警備にあたっている。
シナの北京をはじめ、トルコのコンスタンティノープル、インドのカルカッタやデリー、エジプトのカイロなどで遭遇した犬は粗暴で、吠えたてられ追い回されたが、日本の犬はおとなしく、道に腹這っている姿をしばしば目にした。
日本人はバター、牛乳、肉を口にせず、動物性食料は魚類に依存している。
浅草観音寺では100人以上の老若男女が、わたしたち一行(5人の警護を含め)の周囲に絶えず群がり、「唐人、唐人」と叫び、なかには身体に触れようとしたり、時計の鎖についているサンゴをむしり取ろうとする人もいて、警護の武士はそれを防ぐのに躍起になっていた。
寺の本堂という宗教施設に吉原の花魁を描いた絵が額に収められて飾られているのを見たときは、前代未聞の途方もない逆説のように思われた。西洋では娼婦は身分卑しく、恥ずべき存在だが、日本では崇められている。わたしは長いあいだ絵の前に茫然として立ちすくんだ。
民衆のなかに真の宗教心は浸透していないように思われた。寺には花魁の絵があり、境内には芝居小屋、見世物小屋など雑多な娯楽があって、それらが真面目な宗教心と調和するとは思えなかった。軽喜劇には、しばしばみだらなシーンがあったが、日本人は男も女も、それに気分を損ねることもなく、むしろ誰もが楽しんでおり、そういう姿勢と普段の生活のなかに純粋で敬虔な心持が存在し、両立している実態が理解を超えていた。
日本人は茶を喫するのがことのほか好きだが、茶には砂糖も牛乳も入れない。
アメリカ公使、ポートマン氏は当時の江戸人口を250万と想定、人口分布を次のように見ていた。
1) 将軍家に属する役人、使用人、家来  225,000
2) 諸大名とその家来             600,000
3) 僧侶、医師                 225,000
4) 商人、職人、猟師、百姓、船乗り  1,100,000
5) 巡礼者、旅行者              200,000
6) 娼婦                     100,000
7) クリスチャン                    50,000
文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されている。工芸品において、蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している。教育に関してなら、日本はヨーロッパ文明国のレベル以上であり、シナやアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対し、日本では男女ともに仮名と漢字で読み書きができる。
ただ、もし文明という言葉が敬虔な宗教心をベースに迷信を打破し、寛容の精神を植えつけ、定着させることを意味するのなら、日本国民は少しも文明化されていないことになる。
封建体制の抑圧的な傾向は民衆の自由な活力を妨げ、抹殺する方向に動く。この国の将軍は各地に散在する大名らの利害を優先的に考えるあまり、外国との自由な接触によって莫大な利益を得、知的道徳的な進歩が促され、封建体制による支配が揺らぐことを危惧している。
江戸港を閉ざし、外国人が江戸で居住する希望をかなえ、守る力がないことの責任は将軍家よりも、むしろ大名にある。たとえば、イギリスは日本との交易を維持するために、横浜港に7隻の軍艦を配備し、800名の陸軍兵士を配置、長崎にも1隻の軍艦を停泊させていて、それらの駐留費は日本との交易から生まれる利益を上回っている。
幕府は外国の高官が個人的に利益が得られるように、為替交換率を高官らに有利に設定している。これに対し、日本商人が異議申し立てをしたが、顧みられることはなかった。 
 
トロイア遺跡発掘前にシュリーマンは幕末の江戸を訪れていた 3

 

トロイアの遺跡発掘は1871年。その6年前の1865年に、ハインリッヒ・シュリーマンは日本を訪問。時代は幕末で尊皇攘夷に揺れる明治維新前夜という不穏な社会情勢。ロシアの商社が成功し、巨万の富を得たシュリーマンは世界周遊の旅の途中で日本のすばらしさを聞くようになり、日本に来ることになった。日々の出来事を日記に書きとめて、本の題材とすることになる。
だが、この『シュリーマン旅行記 清国・日本』はシュリーマンの最初の著作である。原書は“La Chine et le Japon au temps present”で、そのまま訳すと「現在のシナと日本」である。商売には成功したが、著述家や研究者としては何の経歴もなし。その後の考古学研究を始める前の準備段階の一つとして考えるべきかもしれない。シュリーマンはこの本をフランスで出版した。オールコックの『大君の都』が1863年に出版され、シュリーマンも著書の中でオールコックの本に言及している。シュリーマンの日本旅行記はまだ未知の国で情報も少ない時代の貴重な情報だった。1870年代から始まるジャポニズムにも影響を与えていた可能性がある。
シュリーマンの乗った船は江戸にすぐに上陸することはできなかった。江戸湾は外国船の行き来が禁じられ、横浜に外国人居留地が作られた。シュリーマンも横浜で下船する。横浜港には各国の軍艦が停泊し、いざという時のために準備をしている。江戸までは遠く、威嚇的な意味合いもあまり効果がない。彼はしばらくは横浜を拠点に日本観光をしていたようだ。だが、横浜到着後から江戸に移動するまでの期間は八王子訪問を除くとほとんど語られていない。八王子へ行くのがこの時期の一番の遠征だったのだろう。現在からすると、どうして八王子に行ったのだろうと不思議に感じるが、横浜港の開港で絹、すなわちシルクの輸出が活発になり、八王子の養蚕業がこれまでにない発展を遂げていた。絹の道資料館の情報を見ていると、異人館というのがあったとの記載がある。シュリーマンだけではなく他の外国人も絹の産地として来ていたのだろう。
八王子へ向かう途中で原町田の茶屋によるのだが、これが現在の町田周辺である。日本でも戦後はシュリーマンの伝記がよく読まれていたのだから、誰かが言い出してシュリーマン記念碑でも立ててもいい気がするが、トロイヤ遺跡の発掘の話だけでこの本にまでたどり着いた人はいなかったことになる。講談社学術文庫で出版されたことは、幕末の資料としても貴重だ。ネットで見てみると、シュリーマンの本を手がかりに当時の外国大使館を巡り歩いている人もいる。だが、文献としての歴史的な研究は放置されているように思えて仕方がない。
キリスト教徒ということもあって、外国人の日付の記述は正確だと思われるが、家茂の行列が横浜を通り過ぎた日付は6/10だと記している。ウィキペディアの和宮の記事だと、5/16日ということになるが、これは一致しているのだろうか。
シュリーマンは偶然にも徳川家茂が関西に向かう行列を東海道で見ることになる。当時は幕府と長州藩の間で紛争があり、徳川家茂は関西に向かう。家茂はその後に病気となるため、この行列で江戸を去った後、戻ることは無かった。シュリーマンの関心は翌朝に見つけた三つの死体だった。行列をしらずに飛び出した農民、上官から農民を切るように言われた部下、そして切捨てを命じた上官の三人の遺体だと聞かされる。
シュリーマンはグラヴァー商会の仲介で江戸へ行くことになるが、ここでも奇妙なことを言っている。このグラヴァーというのはドイツの有名な医者の息子だというのだ。長崎のグラヴァー邸が有名なので訳者はトマス・グラヴァーと関連づけているが、もう一人のグラヴァーがいたのではないだろうか。
シュリーマンの『清国・日本』シュリーマンの観たという演劇はブラックユーモアに溢れた話で、シュリーマンも楽しんだ。シュリーマンからすると控えめで温厚な日本人だというのに、観客たちはこのひどい話を喜んでいることを意外に感じている。それはこんな話だ。
与力が路上の博打をとがめようとしたが、ついつい参加して博打に大負けして裸にされる。そこに町奉行がやってきたので、泥棒にやられたと嘘でごまかす。若い女がやってきて、与力が自分をだましたこと、泥棒に取られたのではなく、博打に負けてすべて取られたのだと訴える。町奉行は与力が嘘を言ったことに激怒し、切腹かさらし首を言い渡す。与力は情けで切腹を許してくれたことを喜び、女にも詫びて切腹して果てる。
シュリーマンの旅行記を読んでいると、そこには思った以上の情報が織り込まれていて、どれもがすぐには歴史的検証ができない話題が並んでいる。演劇に関する記述がまさにそれにあたる。シュリーマンが見た劇場は猿若町の江戸三座のどれかなのだろうが、それがどれかはよくわからない。また演目となった物語がどのような演目だったのかも不明である。ストーリーをかなり詳細に書いているので、脚本が残されていればわからないはずはない。だが、誰も答えを与えていない。演目がわかれば自然と市村座か中村座かとわかり、そこに出ていた役者が誰だったのかが判明しそうなものだが、資料も無くて、もしかすると答えはないのかもしれない。また「タイシバヤ」と言っているが、戸坂康二の対談に「シバヤ」という言い方があったことが触れられているが、この言い方については不明点があるらしい。 
 
シュリーマン旅行記 清国・日本 4

 

トロイア遺跡の発掘で知られるハインリッヒ・シュリーマン。彼はその発掘に先立つ六年前、世界旅行の途中、中国につづいて幕末の日本を訪れている。一ヶ月という短期間にもかかわらず江戸を中心とした当時の日本の様子を、なんの偏見にも捉われず、清新かつ客観的に観察した。執拗なまでの探求心と旺盛な情熱で、転換期日本の実像を生き生きと活写したシュリーマンの興味つきない見聞記。まず清国から、「シュリーマン旅行記 清国・日本 H・シュリーマン 石井和子訳」を基に、興味深い記述のみを参考、引用、抜粋しながら、シュリーマンの軌跡を辿ってみよう。 
万里の長城 
世界旅行の途中、上海に行った折、どうしても長城を訪ねたい気持ちを抑え切れないシュリーマンは天津経由北京へ船で向かう。1860年、清国と英仏間に締結された条約の結果、賠償金を支払い終えるまで、清国政府は自国の税務業務に外国人官吏を登用せざるを得なかったが、そうするとほどなく税収が大幅に増え、それまでの自国役人の腐敗堕落が明らかになり、それで清国政府は彼らを罷免し、代わりにシナ語を話せる外国人を雇うようになったー
『私は北京で、シナ語研修中の将来の税関吏たち六人に会った。ドイツ人一名、フランス人一名、イギリス人二名にアメリカ人二名。みな以前は商社マンで、財を成すチャンスの少ない母国よりも、独立した良い地位が得られる清国を選んだのである。しかしこれは事務職に限って見られる現象ではないようだ。というのは、上海から天津まで、ベルリンのアランと名乗る建築家と道連れになったのだが、彼はまず天津でシナ語を学び、それから税関吏になるために清国政府から渡航費用をもらって、ヨーロッパから着いたばかりであった。彼はプロシアの首都に宮殿を建てるという、いつになったら得られるかわからない栄光より、無能でも良い地位が保証され、有能なら輝かしい将来を開いてくれるシナ語の勉強のほうを選んだというわけである』
大運河の合流点の天津の印象、これ以来、街の不潔感との闘いか始まる
『天津の人口四十万を超え、その大部分は城外に住んでいる。私はこれまで世界のあちこちで不潔な町をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の町はよごれている。しかも天津は確実にその筆頭にあげられるだろう。街並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている』
天津到着の翌々日、二輪馬車二台で北京へ。ヨーロッパの馬車とは違い、拷問のような乗り心地に疲労困憊のあげく、翌日に北京に着く。城壁の威圧的で壮大さに圧倒される。城壁の内側でものすごく素晴らしいものと遭遇できるかと期待したが、しかしそれはひどい間違いで、北京には、荷馬車曳きが泊まる、ぞっとするくらい不潔な旅籠を除けば、ホテルはなく、とある僧院と交渉、根切に値切り提示額の半額で泊まる。夜8時だったが食事もなく、この時間は北京中が眠っているということで、疲れきっていたこともあり、そのまま寝る。翌朝5時にアトション(従卒)が朝食を準備してくれたが、それはひどい緑茶でヨーロッパならどんな貧しい労働者でも欲しがらないような代物、米も黄色くまずく、二本の箸も使い方がわからず、こんな哀れな朝食となったが、空腹は最上の御馳走で、極めて美味と感じる。食事の後、アトションに命じて鞍付きの馬を二頭捜し、午前6時、町を見物するために出発した。
『あの素晴らしい広東のいちばん広い通りでさえ道幅はニメートルもなかったのに、ここ北京ではどんな細い道でも六メートルはある。ほとんどの通りは幅二十メートルで、三十メートルのものも多く、中には五十〜六十メートルの道もある。どの家も二階建てで、燻し煉瓦でできているので青みがかった色をしている。・・・ほとんどの通りにも、半ばあるいは完全に崩れた家が見られる。ごみ屑、残滓、なんでもかんでも道路に捨てるので、あちこちに山や谷ができている。ところどころに深い穴が口を開けているので、馬に乗っているときはよほど慎重でなければならない。どこに行っても、陽光を遮り、呼吸を苦しくさせるひどい埃に襲われ、まったくの裸か惨めなぼろをまとっただけの乞食につきまとわれる。どの乞食もハンセン氏病を患っているか、胸の悪くなるような傷に覆われている。彼らは痩せこけた手を天に上げながら、膝まづいて額を地にこすりつけ、大声で施物をねだる。胸を引き裂かれるような思いがしたが、私には彼らの苦痛を軽減してやることができない。』
罪人を見る
『首のまわりに一メートル三十三センチ四方の板を水平につけられた罪人を、至るところでみかける。彼らは手を口にもっていくことができないので、通行人に食べ物を恵んでくれるように頼み、さらにはそれを口に入れてくれるように懇願せざるをえない。板に取り付けられた高札には、罪状と処罰期間がしるされている。ほかに重量約十キログラムの鉄塊や腕や足に取り付けられた罪人もいる。これほどの重さを付けられて、さらに歩こうとすれば、鉄塊を頭上に持ち上げるほかない。背中にはその悪行と処罰期間を示す札がつけられている。以上の罪人は刑罰の道具の許すかぎり自由に町中を歩き回ることができる。ただし、一歩町を出ようものなら死刑が待っている。漢人町の大通りの中央にある刑場を見たことがある。最近切られた男の首いくつかと数ヶ月前のものらしい首いくつかが、鉄製の大きな鳥籠に入れられて曝してあった。それぞれの籠に、死刑に値した罪状を知らせる高札が取り付けてある。』
纏足
『実際、シナでは、女性の美しさは足の小ささだけで計られる。九センチあまりの小さな足の持ち主ならば、疱瘡の跡があろうが、歯が欠けていようが、禿頭だろうが、十二センチの足の女性よりも百倍も美しいとされる。たとえ後者がヨーロッパ風の基準に従えば目映いばかりの美しさをそなえていようとも、である。シナでは、小さい足は未婚の若い女性に甘美な期待を抱かせ、既婚女性には誇りとなり、また貧者にとっては慰めともなるものである。・・・私は、この国の習慣に由来するさまざまな障害を乗り越え、いくどかシナ女性の素足を見ることができた。・・・さて、このように絶え間なく強い圧迫を加えられた結果、脚は踵の上の部分で太く、鼠蹊部が異常に肥大する。シナの人が見れば、足の寸法で鼠蹊部の様子がわかる。面白いことに、纏足作りはシナの女{清朝の漢族}だけがやることで、シナに住むモンゴルの女たちには見られないことである。シナの女たちは、衣服や装身具にはどんな無頓着でも、お洒落の唯一の対象である足にだけは、いつも贅沢なものを着けようとする。つまり通常は鮮やかな色の絹の三角布で足を包み、その上から絹の赤か黒の短靴を履く。靴底は厚さ十センチの白塗りの革が使われる。北京の街にはボロ布しか身にまとっていない女乞食があふれているが、そういう女たちでまともに靴を履いている者は見たためしがない。また、いうまでもなく、纏足に靴を履かされた女たちは、まるで鵞鳥のようによたよたよろめいて歩く。』 
『シナ人たちは生来賭事が好きなので、どの通りにも賭博場があり、さらに戸外でもさまざまな小胴元が賭場を張っていて、そのどれにも男たちが群がっている。昼間は小金さえも出し渋るおとなしい小商人が、夜になると賭博場で数千ピアストルをすって、しかもまったく動じない。・・・シナ人たちは偏執教的なまでに賭事が好きであり、貧しい労働者でも、ただ同然で食事にありつけるかもしれないというはかない望みに賭けて、自分の食い扶持の二倍ないし四倍の金をすってしまう危険をものともしない。けれどもシナでの賭事は、現世の利益を得るだけのものではない。それはまた、神々の恵みを授かり、その意向をしるためのものでもある。』
たくさんの行商人、またお寺の仏像前で、高い声で祈ってはぬかずく男女をいたるところで見かける。ドイツ人の学者であり宣教師であったヨハン・アダム・シャールの作った天文台をも訪ねる。次に、漢人街にある劇場に行こうと皇帝の宮殿(紫禁城)のそばを通る。
『長さ十二キロメートル、高さ八メートルの壁に囲まれている。宮殿付きの第一位階の高官以外、何人も、この中へ入ることはできない。だが、この館は、宮殿というよりむしろ、君主の牢獄と呼んだほうがふさわしいものなのである。なぜなら、皇帝は国の習わしに縛られて、けっして外出できないからである。この宮殿の中、ハレムの逸楽と高官たちの追従、諂いのただなかで、皇帝は、全ヨーロッパの1.5倍の民を統治するための経験と知識を得なければならない。もし1860年に明朝の宮殿を破壊したフランス人とイギリス人が、同時に北京の巨大な皇帝の牢獄をも打ち壊していたら、それは人類への多大な貢献になったろうし、また清国の文明開化への偉大な一助となったろう。そう私は心から思うものである。しかし神の摂理は、1860年の英仏同盟軍がなしえなかったことを、まもなく完遂しょうとしているようだ。離宮はもう何世紀も修理されていないように見えるし、城壁はいまにも崩れ落ちそうである。・・・途方もない費用をかけて建設したこの壮大な建築物を、いまや頽廃し堕落した民族が崩壊するにまかせているのを目の当たりにするのは、じつに悲しく、心痛むことだ。もし寺をきちんと保ち、美しい姿を後世に残そうと思ったなら、それぞれの寺に常駐の職人を二人もおけば充分だったろうに。清国の君主たち、また民の愚かさ加減、意気阻喪ぶりは、自分たちの神々の聖堂、栄えある祖先の建てた偉大な建造物を崩れるがままに放置したさまに、遺憾なく現れている。』
やっと漢人町に着き、満員の二つの劇場をやり過ごし三つ目の劇場の桟敷席を得る。そこは手持ち不沙汰な人は一人もいない。誰もが食べるか飲むか煙草を吸うかしていた。すべて男性。というのも、まともな女性が芝居に行くなど、慎みのないこととされているからであるー
『清国では、俳優はひどく軽侮されている。女性は俳優にならないしきたりになっているので、女の役は女装した男優によって演じられる。なよなよして豊かな髪をもち、甘い声の彼らは女になりきるだけの演技力をそなえている。男役も女役も、衣装は赤、黄、青、緑、または白の絹で、絹糸や金糸の素晴らしい刺繍で覆われている。・・・平べったい太鼓や鐘、それに奇妙なヴァイオリン(胡弓か?)からなるオーケストラは、文字通り、猫の大騒ぎのような音を出していた。歌も、ヨーロッパ人からすれば、耳を引っかくような叫び声にしか聞こえなかった。それでも観客はしごくご満悦の体で、詰め込み過ぎた胃から出てくるおくびの音を響かせながら、さかんに称賛の声をあげていた。シナ人は拍手喝采することを知らない。こんな劇が二十分ほど続いたあと、おどけた芝居が始まった。これは実に素晴らしい演技だったので、台詞がわからなくても意味はすべて理解できた。 つづいてもう一つの別の劇が始まった。清国の劇場では幕間がないので、演目がつぎつぎにかけられる。』
観劇後、もう夕方の七時。朝の五時から何も食べていないのに気がついた。北京を知ろうとする激しい情熱が食欲に勝っていたのだ。運よく同じ通りに一軒のレストランを見つけ、主人と交渉、燕の巣を注文。シナ人につきものの不潔さを別にすればそんなに悪くなく、箸は使えないし皿もスプーンもないので、シナ人と同じようにスープ鉢に口をつけ、箸で巣を引き寄せながら啜った。長城を見たいという気持ちに変わりはなかったが、同時に長旅の疲れの不安もあったので、明日以降はまず長城を見に行き、北京見物はその後の一週間をあてることにする。アトションに、古北口への往復旅行用の馬車二台と鞍付きの馬一頭を借りにいかせ、翌朝四時に宿寺の僧たちに別れの挨拶をすませ、北に向かって出発した(馬車一台は予備)。
『北京はとても大きな街で、城門にたどりつくまでに一時間以上もかかった。街をぐるりと囲む城壁内に七百万人は住めるだろう。だが、実際の人口は百万人にも満たないように見える。早朝だったので、道を歩いても乞食に悩まされることなく、思う存分あたりを観察することができた。ときどき、白っぽい花崗岩でつくられた石畳の残骸をみかけた。崩れた石造りの下水渠や欠けた軒蛇腹、破損して泥にほとんど埋もれた塑像などがいたるところにあった。花崗岩の立派な石橋もたくさん目にした。しかし、半ば崩れていたので渡ることができず、・・・北京の街のそれらすべてが、いまや荒廃し堕落した国民を表していた。』
そうこうして、やっと夜六時、清国でいちばん清潔な都といわれる古北口に入った。古北口は満州との境付近に位置する高い山に囲まれた谷間の町である。
『外国人がこの町まで来たことはめったにないから大騒ぎになった。オランウータンやゴリラが服を着てパリの大通りを歩いても、私ほど好奇の的にはならなかったのではないだろうか。町の門を通るやいなや、群衆が私を取り囲み、宿屋までついてくるのはもちろん、部屋の中まで入ってきた。・・・なお悪いことに、旅行の目的は何かときかれて、アトションが長城を見ることだと答えてしまった。彼らはみんな大口を開けて笑いだした。石を見るためだけに長く辛い旅をするなんと何と馬鹿な男だろうというわけだ。どうしてもしなければならない仕事以外、疲れることは一切しないというのがシナ人気質である。』 
朝食後、城壁に登るため、案内人を連れてでかける。相変わらず野次馬が城壁の最初の険しい坂までついてきたが、疲れを避けて皆、帰ってしまうー
『最初の難所は、城壁に沿って深い谷になっていた。しかも城壁はほとんど崩れ落ち、道幅は34cmしかなかった。狭すぎて、両手をつかなければ姿勢が保てないのだ。アトションはすっかり勇気がくじけてしまい、私を一人残して立ち去った。私は一人歩き続けた。・・・辛抱強く登り続け、ついに念願の岩山にたどりついた。それでもまだ二キロ以上にわたって、別の岩が横切っていた。・・・私は勇気をふるってこの難関に挑みはじめた。・・・しかしとにかく私は頂上にへたどりつき、銃眼を備えた沌台の塔の上に登った。ちょうど正午だった。五時間半も奮闘したわけだ。しかし眼前に開かれた眺望は、長旅と長城登攀の苦しみをたっぷり償って余りあるものだった。・・・望遠鏡で北方を見やると、山々のかなたに満州平野が望まれる。足下には深さ900メートルの峡谷が見える。北方から流れ來る一本の川が、田を潤し、様々な曲線を描き、古北口の美しい町を二つに分かちながら、この峡谷を縦に貫いている。・・・眼下の南方に広がるたくさんの丘の美しさといったら、比較するものがないくらいである。丘をはるか越えたあたりに北京平原が望まれる。東側の峡谷の彼方、のこぎり状の巨大な山脈によってふちどられた幾千もの岩山の眺めは、まさに崇高というほかない。』
長城の巨大さ、眺めは圧巻。眼前に展開された光景の壮麗さに圧倒されるシュリーマン。
『私は茫然自失し、言葉もなくただ感嘆と熱狂に身をゆだねた。かくも多くの驚異を 見ることに慣れることはできなかった。ごく幼いころから話に聞いては好奇心を そそられていたシナのこの万里の長城、これが今、想像の百倍以上の威容をもってもって目の前に迫っていた。巨大な望楼を備え、つねにいちばん高い山の尾根を求めてのびていくこの広大な棚を見れば見るほど、私にはそれが、ノアの洪水以前の巨人族がつくりあげたもののように見えてならなかった。もちろん歴史によって、長城が紀元前220年ころに築かれたことは知っているが、それでも死すべき運命の普通の人間の手が、これをどうやって築いたのか、谷間でしか作れなかったはずの花崗岩の塊や無数の煉瓦等の資材をとうやってこの大きな切り立った巨大な岩山の上まで運び、積み上げることができたかは、わからない。』
煉瓦やセメントを作り花崗岩を切り出し、高処へ運んだ数百万の人夫に思いを馳せ、またこの長城にある二万の塔を守備する数多くの兵を考えれば、長城はかって人間の手が築き上げたもっとも偉大な創造物だということに異論の余地はない。がいまやこの大建築物は、過去の栄華の墓石といったほうがいいかもしれないとシュリーマンは考える。
『長城は、それが駆け抜けていく深い谷の底から、また、それが横切っていく雲の只中から、シナ帝国を現在の堕落と衰微にまで貶めた政治腐敗と士気喪失に対して沈黙のうちに抗議をしているのだ。私は、できれば日暮れまで塔に残っていたかった。この素晴らしい光景はいくら見ても見飽きることがなかった。しかし灼熱の太陽に、喉の渇きがいかんともしがたく、ついに、この人を寄せつけない地をあとにした』
望遠鏡をベルトに差し、長さ67cmほどの大きな煉瓦を二つ抱えて町に入るやいなや、また一群の老若男女に囲まれた。
『彼らはわたしの煉瓦を指差しながら、重さ50リーブル(25キロ)もある、一銭にもならない長城の石をわざわざ運んでくるなんてどうかしていると、わいわい囃したてた。わたしがシュイ(水)と言って、死にそうに喉が渇いていることを身振りで示した。人々は急いで冷たい水を籠に入れて持ってきてくれ、しかも何の報酬も求めなかった。わたしはこれまで清国で、こんなにも寛大な例に出会ったことがなかった。この町の人々は、少々好奇心の度が過ぎているにせよ、親切心においてはシナ人のなかで際立っていると言わざるをえないだろう。彼ら山岳人たちは、ゆったりとゆとりのある生活をしているようだ。珍しいことに、町中に一人の乞食もいない。シナでもっとも清潔な町という評判どおりのようだ。住人たちの衣類も、ありふれた布でできてはいるが、清潔にしているので、ある種の優雅さが備わっている。清国の他の地域と同様に、女性の魅力は纏足した小さな足にのみ向けられているようだが、山岳民族はまだ風俗の紊乱に犯されていない。男、女、子供、みな強く、逞しく、桃色の頬を見れば、健康によい気候に恵まれ、阿片とは無縁なことがよくわかる。清国南部では阿片があまねく愛好されているから、無表情で蒼白な顔しか見られない。阿片愛飲者は北に行くにつれて減少する。天津、北京ではごくわずかな人々にしか、この麻薬の災禍を認められなかった。』
その日、やっとシナの宿屋にしては良い宿で休息をとることができた。 
上海 
シナの二輪馬車にほとほとうんざりしていたので、天津まで下るまではしけを借りたが、たった三ピアストル(18フラン)。はしけといっても四十トンもあり、押したり曳いたりするのに水夫を八人も必要としたが、乗り心地は大雨のせいで馬車よりもっと苦しむ羽目になり、天津まで三日もかかってしまった。天津からは香港のデント商会の素晴らしい大きな蒸気船に乗り、上海まで二日半で着く。運賃は食事と葡萄酒がつき八十両(720フラン)。汽船の運賃が極東でこんなに高価なのは、あらゆる刷新に対して、とりわけ蒸気機関に対して嫌悪感をいだいているシナ人たちは、相変わらず手で石炭を堀り続けているため、手作業人夫の手間賃が安いにもかかわらず、はるか地球の裏側からから来るイギリス産に勝てないのだ。
『清国政府は、四億の人民を教化するあらゆる事業を妨げることで、よりよい統治ができると考えているから、蒸気機関を導入すれば労働者階級の生活手段を奪うことになると説明しては、改革に対する人々の憎悪を助長している。しかし、極端な困窮にあえいでいるから、早晩、自国の豊かな炭鉱に目を開き、蒸気機関を使ってそれらを採掘せざるを得なくなるであろう。いずれにしても、北京の谷間に蒸気機関車の汽笛が響くまでには幾世代もかかるだろう。』
「汽笛一斉新橋を」ではないが明治初期に人力車夫が数千名集まった抗議集会が新橋駅前であったことが想起される。シュリーマンは中国に蒸気機関車の走る日を絶望視しているが、実際には1865年にイギリス人が北京で短距離の鉄道を作ったが、直ちに取り壊された記録が残っている。さらに1876年、再びイギリス人により上海ー江湾間に鉄道の一部が開通したが、これも翌年十月には撤去される。本格的に開通するのは1888年10月、中国人の手による。
上海港は1864年に開かれた、広大な清帝国とヨーロッパを結ぶ最も重要で清最大の輸出港である。上海の町の気候はひどく健康に悪く、町は沼に囲まれていて、沼の瘴気が空気を腐らせ、コレラ、マラリア、赤痢、天然痘をひきおこす。シュリーマンはホテルを持つミッチェル氏と上海大劇場にむかう。芝居は夜十一時半に始まり、明け方の五時半か六時まで続く。阿片吸飲者用の椅子席まであり、320人収容でき、観客はぼちぼちやってくるから、ホールがいっぱいになるのはようやく午前一時ごろ。
『入場料には飲食費が付いていて、われわれが席につくや給仕がやってきて・・ ビスケット、氷砂糖、西瓜の種、そしてさまざまな菓子が、われわれの前に次々と並べられた。給仕が二人。十五分ごとに、汗をかいた顔や手を拭く熱いおしぼりを観客全員に配り、数分後にそれらを回収してまわる。給仕たちはまた十五分ごとに、やかんを持っては、客の間を巡り、空になった湯飲みに湯をついてまわる。・・初めのうち、女性客は一人もいなかったが、深夜の十二時から午前一時ごろになると、十二歳から十六歳くらいの若い娘が30人ほどやってきた。娘たちはよろよろしていて、好き添いのアマ(御手伝い)に支えられなければどうにもならない風だった。そんなにもほどくよろめくのは、明らかに、彼女たちの足が驚嘆すべき小ささであることを誇示するためであり、娘たちはその魅力をひけらかすためだけにやってきたように思える。どの娘も贅沢な服装をしていた・・ありとあらゆる装飾品で飾り立てていた・・演題は・・ただちに上演できる演目を三百も書かれていた。観客は一ピアストル余計に払えば、・・演目の中から好きなものを選んで、象牙版に書かれたプログラムの一つに替えることができることになっている。実際、やがて長い辮髪の中国人商人が八人、八ピアストル払ってプログラムのうち八つの芝居を、彼らの選んだ六つの喜劇を二つの悲劇に替えさせた。喜劇は韻をふんだ英雄時代の滑稽物で、見事に演じられた。日本人を除けば、シナ人は滑稽物を演ずる技術にもっとも長けた民族であると、私は思う・・真に賞賛すべきは、彼らの素晴らしい記憶力だろう。そのおかげで何百とある場面を新たに準備することなく、またヨーロッパの俳優たちのように舞台監督やプロンプターの助けもなしに演じることができるのである。舞台監督やプロムターなど、シナには存在しない。衣装ばかりか演出もまた、北京のそれよりもずっと私の気に入った。北京では劇場がひどく不潔で、それが興業の価値を少しばかり傷つけていた。・・彼らは音楽とメロディーにおいて自分たちに欠けているものを、不協和音と騒音で補おうとするのであるが、それはすなわちヨーロッパの同業者の多くがやっていることと同じである』
シュリーマンは上海でよく見かけるジャンクにも興味を示す。
『シナの「ジャンク」の帆は竹で編んだものであり、長さ24メートル、ときには25メートルのものもある。・・六門から十四門の大砲で武装していて、ときには二十門もついているものも見かける。たくさんの水夫が乗り込み、すきあらば海賊行為をおこなおうと待ちかまえている。ジャンクはたいていスタンポ(悪臭弾)と呼ばれる恐ろしい武器を備えている。・・爆発したとたん、すぐそばにいた人を窒息させてしまう。海賊たちは船を襲撃するさい、まずこれらの壺を一つ、船室の窓から投げ込んで、中の人を一挙に片付ける。投げ込めなかったときは、戦闘のまえにジャンクのマストの上から壺を、めざす船の甲板になげつける。私が香港を発つ前夜、こういうふうにして、ある海賊ジャンクが、町から12キロ離れた港の出口で、デンマークの二本マストの小型帆船を乗っ取った。海賊たちは船長を殺し、一等航海士に瀕死の重傷を負わせ、乗組員を縛り上げて、自分たちのジャンクに約1500ピコル(約百トン)の米を運びこんだ。それからデンマーク船底に穴をあけ、手足を縛った乗組員たちを船倉にほり込んで船もろとも海中に沈めようとした。が、乗組員たちはすぐに縄をほどき、船の穴をふさいで、無事香港の港までたどりつくことができた。』
海賊が跋扈しているが、ヨーロッパ人の首領が多いことをシュリーマンは指摘している。 いよいよ江戸へ。 
江戸(横浜)上陸 
上海から東洋蒸気船会社の北京号に乗り、横浜に向かう。わずか三日の快適な旅のあと、噴煙がたちのぼる硫黄島火山(鳥島)を通り、美しい景観を見せる九州本島に沿って進んだ。乗組員は、シナ人、マレー人、ラスカール人(インド・ボンベイ出身のヒンズー教徒)、マニラ原住民、イギリス人、モカ出身のアラブ人、ザンジバル出身のアフリカの黒人たち-中央アフリカの焼けつく太陽のもとに生まれた彼らはもっぱら釜焚きに。現代では考えられない国際的な顔ぶれに驚く。決して奴隷ではなく仕事を求めてきた連中だ。一等船客はシュリーマンを含めて18名。ほとんどがヨーロッパ人。硫黄島火山(鳥島)に着いてから二日後、有名な火山「富士山」を望む。船が横浜に近づくに連れて、よりはっきりと。いよいよ恋い焦がれて来た国に着く。
『翌六月四日、私は上陸のため早起きした。甲板にのぼると、自分がもはや中国にいるのではないということを実感した。中国では、蒸気船が入港するたびに、舳先に二つの大きな目玉をつけたペンキ塗りの汚い小舟が群がってきて、船を囲んでしまう。小舟を操るのはいつも、赤ん坊を入れた籠のようなものを背中にくくりつけた女が二人とか、辮髪を踝まで垂らした男と幼児を背負った女とかであった。ところが、ここでは屈強な男二人を乗せた小舟がただ一艘浮かぶだけである。彼らが身につけているものといったら一本の細い下帯だけで、そもそも服を着る気があるのかどうか、あやしまれるくらいだ。しかし彼らはからだじゅう、首から膝まで、赤や青で、龍や虎、獅子、それに男女の神々を巧みに入れ墨しており、さながらジュリアス・シーザがブルトン人について語ったところを彷彿させる。すなわち「彼らは衣服こそまとっていなかったが、少なくとも見事に(からだを)彩色している」。髪型も、隣人であるシナ人のそれとはずいぶん違っていた。額から頭頂部まで三インチほど剃りあげ(ちょんまげ)・・・これは貧しい船頭、人足からもっとも裕福な大名(日本の封建諸侯)にいたるまで共通した髪型で、日本の男子に他の結い方はない。』
二人の男は、横木の先端に固定されて回転を支えるようになっている小さな軸にぴったり合う長い魯(伝馬船)を使って漕ぎ、埠頭へ。
『船頭たちは私を埠頭の一つに下ろすと「テンポー」と言いながら指を四本かざしてみせた。労賃として四天保銭(十三スー)を請求したのである。これには大いに驚いた。それではぎりぎりの値ではないか。シナの船頭たちは少なくともこの四倍はふっかけてきたし、だから私も、彼らに不平不満はつきものだと考えていたのだ。』
『上陸するや、人足が二人やってきて、私の荷物を竹竿に釣り下げて運ぼうとした。だが、彼らの身体、とりわけ手足はほとんど「かさぶた」で覆われており、ひどい疥癬に罹っているのが見てとれた。そこで二人を追い払い、皮膚病に冒されていない者を探したが、誰もいなかった。埠頭には人足は多いが、みな皮膚病を患っていた。三十分も待ってやっと病気に罹っていない男を二人見つけた。彼らは私の荷物を税関まで運んだ。』
その税関は
『日曜日だったが、日本人はこの安息日を知らないので、税関も開いていた。二人の官吏がにこやかに近づいてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に届くほど頭を下げ、三十秒もその姿勢を続けた。次に中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて「ニッポンムスコ」[日本男児?]と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な応対だった。彼らはふたたび深々とおじぎをしながら、「サイナラ」[さようなら]と言った。』
二人の人足を連れて、居留地のホテルへ。ホテルの新しい部屋に落ち着いてから横浜の町を見物に出かけた。1859年には小さな漁村だった横浜も、いまや人口一万四千人。道路は全て砕石で舗装。青みがかった瓦葺の木造二階建ての家が道に沿って並んでいる中、シュリーマンの探訪が続く。
『地震のために、日本では煙突が一本もない。しかしそもそも日本人はそれをまったく必要としていないのだ。ごはんを炊くにもお茶をいれる湯を沸かすにも、家の両側にあって、終日開け放たれている出入り口とか、窓の引き戸などから煙を逃がしているからである。道を歩きながら日本人の家庭生活のしくみを細かく観察することができる。家々の奥の方にはかならず、花が咲いていて、低く刈り込まれた木でふちどられた小さな庭が見える。日本人はみんな園芸愛好家である。日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう。・・・ 主食は米で、日本人にはまだ知られていないパンの代わりをしている。日本の米はとても質が良く、カロライナ米よりもよほど優れている。・・・ 家族全員が、そのまわりに正座する。めいめいの椀を手に取り、日本の箸でご飯と魚をその小さな椀に盛り付けて、器用に箸を使って、われわれのフォークやナイフ、スプーンではとても真似のできないほどすばやく、しかも優雅に食べる。食事が終わると主婦が椀と箸を片付け、洗って、引き戸の後ろの棚に戻す。このようにして食事の名残は、またたく間に消えてしまう。・・・ 夜の九時ごろには、みな眠ってしまう。家族がその上で一日を過ごしたござは、同時にベッド、マットレス、シーツの用を務めるのである。そこに枕を加えれば
いいだけだ。・・・ 日本人は終日正座しつづけても疲れない。しかも、その姿勢のまま読み書きしても、紙や本をたてかける机などの必要を感じない。税関ではこのようにして二十五名から三十名からの官吏が、広間の中央に横二列に座り、帳面に非常な速さで上から下へ、右から左へ筆で書いている。実に奇妙な眺めである。スカーフやハンカチーフはない。男性も女性も、服の袖の中にパゴダ・スリーブ(一種のポケット)がついていて、そこに洟をかむための和紙(懐紙)を入れている。彼らは、この動作をたいそう優雅におこなう。自分の家で洟をかむときは、この紙を台所の竈にくべ、人の集まる場所では、この紙を静かに畳み、外にすてさせるために召使を目で探す。召使が見つからなければ、袖に紙をしまって、外に出たとき捨てる。彼らは、われわれが同じハンカチーフを何日も持ち歩いているのに、ぞっとしている。苦力(クーリ)や担ぎ人夫たちの身につけるものは、別当(馬丁)と同様、幅の狭い下帯と、背中に赤や白の大きな象形文字の書かれた紺色のもの[半纏]だけである。彼らはたいてい体中に入れ墨をしている。日本には馬車がなく、重い荷物を運搬するには二輪の手押し車が用いられる。荷を満載して二輪車を、人夫が六人がかりで押したり引いたりしているところに出会う。・・・ 日本人が世界でいちばん清潔な国民であるkとおは異論の余地がない。どんなに貧しいひとでも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。・・・にもかかわらず日本には他のどの国よりも皮膚病が多い。疥癬をやんでいない下僕を見つけるのに苦労するほどだ。この病気の原因を探るには実に苦労した。いろいろ見聞したことから推量するに、唯一の原因は、日本人が米と同様に主食にしている生魚[刺身]にあると断言できると思う。
「なんと清らかな素朴さだろう!」初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らが浴場を飛び出してきた。誰かにとやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法にもふれることなく、彼らは衣服を身につけていないことに何の恥じらいも感じていない。その清らかかな素朴さよ! オールコック卿の言うとおり、日本人は礼儀に関してはヨーロッパ的観念をもっていないが、かといって、それがヨーロッパにおける同様の結果を引き起こすとは考えられない。なぜなら、人間というものは、自国の習慣に従っていきているかぎり、間違った行為をしているとは感じないものだからだ。・・・ 
日本政府は、売春を是認し奨励するいっぽうで、結婚も保護している。正妻は一人しか許されず、その子供が唯一の相続人となる。ただし妾を自宅に何人囲おうが自由である。貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは、法律で認められている。契約期間が切れたら取り戻すことができるし、さらに数年契約を更新することも可能である。・・・娼家を出て正妻の地位につくこともあれば、花魁あるいは芸者の年季を勤めあげたあと、生家に戻って結婚することも、ごく普通におこなわれる。娼家に売られた女の児たちは、結婚適齢期までーすなわち十二歳までーこの国の伝統に従って最善の教育を受ける。つまり漢文と日本語の読み書きを学ぶのである。さらに日本の歴史や地理、針仕事、歌や踊りの手ほどきを受ける。もし踊りに才能を発揮すれば、年季があけるまで踊り手として勤めることになる。遊郭は、町から離れた一角に集められている。江戸の遊郭はきわめて数が多く、城壁や濠によって他の地域から隔てられた、もうひとつの町をつくっている。吉原である。・・・ 吉原には十万人以上の遊女がいる。しかしどんな遊女でも外に出るには通行証が必要で、通行証を手に入れるためには、相当なお金を用意しなけえればならない。遊里の営業権は、各町ごとにセリでいちばん高い値をつけたものが、数年間にわたる独占権とともに政府から払い下げられる。遊里の収入は莫大で、国家のもっとも大きな財源の一つになっている。』
十万人の遊女は間違い。最盛期で四千人。国家の大きな財源でもなく風紀上の問題で吉原へ。江戸の文化ともいえただの風俗だけではなかった吉原の微妙な存在は、さすがのシュリーマンの理解の範囲を越えていたのでは。 
大名行列を見る絶好の機会に恵まれる。それも将軍家茂の上洛行列。
『六月七日と八日、日本政府は横浜の外国新聞を通じ、また道路に日本語の立て札を立てて、大君(実質的君主)[徳川家重]が同月十日、正(和宮)の兄にあたる帝(聖の君主)を訪ねるため、大勢の供をひきつれ、東海道(大街道)を通って江戸から大坂(京都の誤り)へ向かう旨通告した。混乱を避けるため、行列が通過するさい、外国人には立ち会わないよう要請し、また日本人については、東海道に面した店はすべて戸口を閉めて行列が通り過ぎるまで外に出ないよう厳命した。しかし六月九日、横浜の英国領事は、幕府にかけあった結果、横浜から六マイルのあたり、東海道筋の木立に陣取って外国人が行列を見物できるよう、許可をとったと発表した。』
土地柄をよく観察するシュリーマンは指定の場所まで歩いて行く。いつもの観察眼は怜悧で鋭く、埴生・地質・肥料(人糞)まで思いをいたす。
『一時間ほど歩いて、私は大君の行列を見ようと外国人たちに割り当てられた木立に着いた。外国人が百人くらい、警備の役人が三十人くらい集まっていた。さらに一時間半ほど待たされたあと、行列が通りはじめた。まず大勢の苦力[奴]が竹の竿に荷物を通したものを担いできた。つづいて長い白か青の上着を着て黒か濃紺のズボン(たっつけ袴)を踝に縛りつけ、青い靴下[足袋]に藁のサンダル[草鞋]を履いて、漆塗りの竹製の帽子[陣笠]を被り、背中に背嚢を負った兵士[足軽]の大隊。彼らは弓矢、あるいは鉄砲、刀で武装していた。士官たちは質の良い黄色のキャラコの衣服に、膝までとどく明るい青か白の上着[陣羽織]をつけていた。上着には高い位を表す白い小さな紋が付いていた。踝のところで締めた青いズボンに、やはり青い靴下と藁のサンダル[足袋と草履]、黒い帽子を被っていた。腰には二本の刀と扇子を一本差している。馬には蹄鉄を打っておらず、かわりに藁のサンダルを履かせていた。次にまた苦力がつづき、そのあとから背中に赤くて大きな象形文字をつけた長く白い服[陣羽織]を着て馬に乗った高級武士[老中、若年寄]が現れた。さらに徒歩の槍持兵の二大隊、大砲二門、また歩兵が二大隊、大きな漆塗りの木箱を担いだ苦力、白か青か、赤の服を着た槍持兵が歩いていく。赤い象形文字のついた白服の馬上の高官たち。白くて長い上着の兵士の大部隊。馬丁が四人、黒い覆いですっぽり包まれた鞍付きの馬を四頭曳いてきた。そして美しい黒漆塗りのノリモン[車輪のない駕籠][輿]。そのあとに金箔で百合の花[葵?]をかたどった金属の軍旗がつづく。いよいよ大君が現れた。他の馬と同様、蹄鉄なしで藁のサンダルを履かせた美しい栗毛の馬に乗っている。大君は二十歳くらいに見え、堂々とした美しい顔は少し浅黒い。金糸で刺繍した白地の衣装をまとい、金箔のほどこされた漆塗りの帽子を被っていた。二本の太刀を腰に差した白服の身分の高いものが約二十人、大君のお供をして、行列は終わった。』
翌朝、驚くべき光景を。
『翌朝、東海道(大街道)を散歩した私は、われわれが行列を見たあたりの道の真ん中に三つの死体を見つけた。死体はひどく切り刻まれていて、着ている物を見ても、どの階級の人間がわからないほどだった。横浜で聞いたところによると、百姓が一人、おそらく大君のお通りを知らなかったらしく、行列の先頭のほんの数歩手前で道を横断しょうとしたそうである。怒った下士官が、彼を切り捨てるよう、部下の一人に命じた。ところが、部下は命令に従うのをためらい、激怒した下士官は部下の脳天を割り、次に百姓を殺した。まさにそのとき、さらに高位の上級士官が現れたが、彼は事の次第を確かめるや、先の下士官が気が狂っているときめつけ、銃剣で一突きするよう命じた。この命令はすぐさま実行に移された。三つの死体は街道に打ち捨てられ、千七百人ほどの行列は気にもとめず、その上を通過していったのである』
史実によれば上洛の第一の目的は萩藩再征であった。 
八王子 
幕末の文久元年(1865)六月十八日〜二十日。この時節の日本は梅雨。飽くなき探訪を続けるシュリーマンであるが、惜しむらくは雨に煙る八王子の全身像を捉え切れなかったようだ。旅行者にとってはその地の自然の美しさや埴生の豊かさは、中国・朝鮮であろうとも感動は変わらず、人手のかかった創造物の違い、清潔さ、民度がまた心を動かすのであろう。
『横浜滞在中、あちらこちらに遠出をしたが、とくに興味深かったものに、絹の生産地である大きな手工芸の町八王子へイギリス人六人と連れ立って行った旅がある。六月十八日日曜午後三時十五分、われわらは馬で出発した。貸馬屋から一日六ピアストル(三十六フラン)で馬を借りておいたのである。馬丁を七人雇ったが、彼らは下帯だけの素裸で、馬とスピードを競うかのように駆け足でわれわれのあとを追った。馬丁たちは全身に鮮やかな色で化け物や神々の入れ墨をほどこしていて、そのいくつかは、ほんとうに傑作のように思われた。前方にはつねに巨大な火山・富士山が見えていた。・・・ われわれは高名な豊顕寺で休息した。寺は、針葉樹、椿、シュロなどの美しい木立に囲まれている。寺は木造で、屋根は茅で一メートルの厚さに葺かれ、田舎にある日本の寺がそうであるように、屋根の棟にそって百合の花が植えられている。境内に足を踏み入れるや、私はそこに漲るこのうえない秩序と清潔さに心を打たれた。大理石をふんだんに使い、ごとごてと飾りたてた中国の寺は、きわめて不潔で、しかも頽廃的だったから、嫌悪感しか感じなかったものだが、日本の寺々は、鄙びたといってもいいほど簡素な風情ではあるが、秩序が息づき、ねんごろな手入れの跡も窺われ、聖域を訪れるたびに私は大きな歓びを覚えた』
なんと八王子は「御蚕(おかいこ)」の町。
『われわれは街道をギャロップで進みつづけ、ほどなく養蚕地域に入った。どの畑も、イタリアと同様、桑の木の並木によって区切られている。枝は1.5メートルないし2.5メートル以上に伸びないように切られている。桑は五、六年経つと根こそぎ抜かれ、若い苗木に植え替えられる。というのは、ここでもシナやインドと同様、蚕の飼料として桑の若木の葉がより適していると確信しているからである。われわれの通った村々はどの家も蚕室があった。畑はどこもかしこも巧みに耕されている。豊かな雨とたくさんの小川のおかげで農作業は容易だ。家畜がいないのでその肥料を使うことができないから、畑を肥沃にするには、引き抜き刈り取ったあと腐るにまかせた雑草と、町中でていねいに集められた人糞が使われる。』
『われわれは夕方六時に原町田という大きな村に着き、とある茶園(日本では茶屋という)に一夜の宿を求めた。・・・茶屋の正面は16メートルあり、二階建てだった。藁葺き屋根は棟が百合の花で飾られていた。一階の間仕切りはすべて引戸でできている。・・・茶屋の床は磨かれ、きれいな竹の敷物で被われている。広間に家具はない。唯一長さ1メートル、高さ、幅66センチの蓋のない箱(箱火鉢)がニ箇あるだけである。箱には炭火が入っていて、人々はその上で茶をたてる。左奥にある棚の上に、繭が入った竹の茣蓙がたくさんある。繭は蚕の蛹を殺して絹を取り出すため、熱湯につけられる。そうしないと蛹が繭を破って蛾になり、生糸が取れなくなってしまう。・・・ われわれは二階の一室があてがわれた。夕食後、われわれ全員が入れるくらい大きな蚊帳が二張吊られた。蚊帳の中で頭を木の小さな枕にあずけ、床に敷かれたござの上に疲れた手足を伸ばした。』
『一晩中雨が降り、翌日もどしゃ降りだった。にもかかわらず、朝食後午前十時三十分、八王子の町へ向かって出発した。滝のような雨を少しでも、避けようと、雨季(梅雨)に田畑を耕す日本農民が使う藁のマント(蓑)を求めた。しかしこのマントはあまり役にたたず、間もなくずぶ濡れになってしまった。ひどいぬかるみだったが、つねに速足で進み、午後一時近くに八王子に到着した。田園はいたるところさわやかな風景が広がっていた。高い丘の頂からの眺めはよりいっそう素晴らしいものだった。十マイルほど彼方に、高い山々をいただいた広大な渓谷が望まれる。やがて八王子の茶屋ーー原町田のそれとよく似ていたーーに着いた。人口は二万くらい。われわれは町の散策を始めた。家々は木造二階建てで、時折見かける耐火性の「練り土」の家は銀行か役所であった。たいていの家に絹の手織機があり、絹織物の店を出している。道幅26メートル、約一マイル[二キロ]近くもつづく大通りにそって、ところどころに車井戸がある。滑車には一本の綱がかけられ、両端に桶がくくりつけられている。一方の綱をたぐりよせると、満杯になった桶が上がってくる間に、もう一方の桶に水が満たされるというわけである。しのつく雨のせいで思うように町を見ることができなかった。夕方五時ごろ八王子を出てびしょぬれになりながら、七時に原町田に着き、そこで一夜を過ごしてから翌朝横浜に向かった。』 
江戸 
『素晴らしい評判を山ほど聞いていたので、私は江戸へ行きたくてうずうずしていた。1858年に調印された通商条約によれば、すでに1862年には、外国との交易がこの首都で始まっているはずだった。しかしヨーロッパ諸国は大君(タイクン)の懇願を受け入れて、江戸の開港を無期限に延ばすことに同意してきた。だからいまでも外国列強の公使たち及びその随行員のほかは江戸を訪問することができない。しかも残念なことに、諸公使たちは彼ら自身、またその随員たちの生命が危うくなるような襲撃に幾度も遭ったため、ずいぶん前から江戸を立ち退いてしまっている。だからアメリカ合衆国全権公使プリュイン氏を除いては、江戸に残っている人はいない。プリュイン氏自身も、臨時の代理公使としてポートマン氏を残して数ヶ月江戸を離れている。』
江戸見物にはポートマン氏の招待状がなければならなかったが、横浜のグラバー商会のとりなしで総領事のフィッシャー氏から届けられ、六月二十四日にポートマン氏を訪問することになる。また翌二十五日から江戸を見たい希望にも応えくれ、総領事は翌朝八時から付き添いとして五人の役人(騎馬警護の士官)を派遣するようにという命令とともに、江戸への旅行許可証を、横浜の日本警察庁(横浜奉行所)に送ってもらう。シュリーマンが日本到着以来、雨がほとんど絶えまなく降りつづいていたが、六月二十五日は空の閘門を全開にしたかと思うほどひどかった。
『どしゃ降りのなか、私に付き添う羽目になった五人の役人とともに、私は朝八時四十五分に出発した。この護衛の役人はわずかばかりの心付けを受け取ることも許されない。彼らは、どんな辛い運命からも、その苦しみのなかばを取り除いてくれるある哲学、毅然とした諦観をもって、人生の廻り合わせにただしたがっている。』
列をつくって街道を全速力で進む。二人の上級武士がシュリーマンの先にたち、あとの三人は後方の警備。首から足首まで、神々、鳥類、象、龍、あるいは風景などを、鮮やかな色で巧みに入れ墨した全裸に近い別当(馬丁)が六人、馬と速さを競うようにあとを駆けて来る。十五分ほで東海道の神奈川宿に着く。この道路は長崎から江戸へ、そして函館まで六百マイル(960キロ)以上にわたって国中を横断している。
『大街道ぞいにはまた、たくさんの茶屋や警吏の詰所(番所)がある。大街道は、竹竿に荷物をつけた苦力(クーリ・人足)や蹄鉄なしで藁のサンダルを履かされた、重荷を運ぶ馬で混雑している。実際、役人の馬以外、蹄鉄をつけた馬は見たことがない。しかも役人たちが馬に蹄鉄をつけ始めたのも二年前からにすぎない。他の馬はすべて藁のサンダルを履いている。われわれはそのほか街道を行き交うきわめて多くの兵隊(足軽)たちに出会ったが、彼らは弓と矢筒、または刀、銃で武装していた。銃剣はすねに鞘におさめられ、腰に帯びている。われわれは苦力(駕籠かき人足)四人が担いだ乗り物や二人の苦力の担いだ駕籠をたくさん追い越した。街道の番所はどこも六人から八人の警吏が正座していた。彼らは私に同行する役人を見付けるや、路上へ飛び出して、平伏して迎えた。』
途中、茶屋に2回寄り茶を飲み食事をとる。例の如く食事の内容、値段、サービスにまできめ細やかに観察するシュリーマン。江戸湾を見ながら、昼ごろ江戸の港に着いた。
『やっと午後一時ごろ、江戸の町に入り、よく観察できるよう馬を並足にした。まず大商店が立ち並ぶ界隈を通った。そこではどの家も一階が道に向かって開け放れた店舗になっていて、奥の方は矮小な木で飾られた小さな花壇が見えた。日本の家にはかならず庭があり、庭には水槽や、あるいは小さな庭石でふちどられ、扇型の尾をした金魚でいっぱいの、模型のような池がある。江戸の家々は木造二階建てで、日本のどこでもそうであるように、窓の代わりにサッシ(障子)の引き戸がついている。サッシ(障子)にはとても薄いが耐久性のある白い紙が張られているから、長い間雨に曝されても破れない。時折火災にも耐える練土の家(土蔵造り)を目にする。平均して木造家屋二十五軒に対して練土の家一軒の割合である。不幸にも日本では地震が多いので、石の家を建てることはできない。江戸のすべての道は、パリの大通りのように砂利で舗装されている。もっとも狭い道でも幅七メートルはある。商業地域の平均的な道幅は十四メートルくらいである。一方大名すなわち領主たちの屋敷町の道幅は二十から四十メートルもある。』
午後二時ごろアメリカ合衆国公使館に着く。善福寺という大きな寺で、その名は永遠の浄福を意味する。代理公使のポートマン氏の歓待を受ける。
『ポートマン氏は私をまず二つの寺と二つの隣り合った建物の近く、彼のいわゆる「要塞」に案内した。その要塞とは二つの竹の垣根とたくさんの番小屋、そして哨舎からなっている。ここで昼間は二百人、夜間は三百人以上の役人が太刀と弓、鉄砲と短刀で武装して警備にあたっている。味方同士を確かめる合言葉が夜ごと決められ、受け答えできずに通りすぎようとする者はたちどころに切られることになっている。』
どしゃ降りの雨が続く。しかし江戸を見物した願望は大きく、そんなことは言っていられないと、入浴してさっぱりしたあと、別の警護の役人五名とともに、ふたたび馬で出発した。
『どの大名屋敷も三百〜六百メートル四方の広大な庭園の中央にある。庭を囲むように木造二階建ての大きな建物があり、そこには大名側近の侍とその家族が住んでいる。この広大な建物も、大名の供廻りの者すべてを住まわせるのには充分でない。従って庭の中にはかならず別にたくさんの住宅が建てられている。大名たちは法律によって一年のうち六か月間は江戸屋敷に住まねばならないし、地元に戻っている六ヶ月は家族を人質として江戸に残しておくよう、定められている(参勤交代の制)。彼らが多数の家臣を連れて江戸を出発し、また戻って来る行列の規模は、大名の禄高に比例し、もっとも富裕な物の供廻りは一万五千人を超える。大名屋敷は練土で塗られたものもあるが、大半は簡素な木造で、漆喰で白くしてあるだけである。しかしどの屋敷も多かれ少なかれ幅広い堀に取り囲まれ、そのうちのいくつかは、さらに高い土塀に囲まれている。日本には四百家以上の大名がおり、みなそれぞれに一つないしいくつかの屋敷を江戸に構えているので、総合すると大名屋敷だけで江戸の三分の一を占める。江戸で公布された公式目録によれば、大名のうち二十は、二十六万三千七百石以上の年収がある。一石が十七・三フランとすれば四百五十六万二千十フランとなる。さらに年収六十万石、すなわち一千三十八万フランを越えるものは四家ある。列記すれば、大名加賀前田加賀守は年間石高百二十万二千七百石、すなわち一石十七・三フランとして換算すれば二千八十万六千七百十フランである。大名尾張徳川尾張殿は六十二万九千五百石だから、同様にして千八十九万三百五十フランとなり、大名陸奥仙台松平陸奥守は六十二万六千石で千八十二万九千八百フランである。大君が勝手気ままな行動がとれない理由としてまず、彼が昔からのしきたりや法律を遵守していることがあげられる。しかしそれ以上に、表向きの服従にもかかわらず、実際には対立関係にある大名、すなわち領主たちの存在が大きい。以上のようにオールコック卿は言うが、この指摘は正しい。国元では大部分の土地を領有し、そこに絶対的権力をふるっている大名たちは、二つの権力の臣下として国法を遵守しながらも、実際には、大君と帝の権威に対抗している。好機到来と見るや、自己の利益と情熱に従って、両者の権威を縮小しょうと図るのである。これは騎士制度を欠いた封建体制であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる。』 
愛宕山に着き、丘の上から江戸を見る。町の三分の一が見えるか見えないかだが素晴らしい景観。正面に江戸城。城の右手は歴代大君の霊廟のある増上寺。その右側の多くの大名屋敷は広大だが低層建築。各大名屋敷には、針葉樹やいろんな木を植えこんだ大庭園が見える。さらに右は、広い港と六つの砲台にたくさんの小舟。
『大きな日本の蒸気船が七隻、投錨地に停泊していた。これらの船は幕府が千五百万フラン以上もかけて建造したものだが、打ち捨てられたまま、何ら益するところなく朽ち果てる運命にあるようだ。・・・われわれは愛宕山を降り、再び馬に乗って大君の城のまわりを一巡した。世界の他の地域と好対照をなしていることは何一つかきもらすまいと思っている私としては、次のことを言わなくてはなるまい。すなわち日本の猫の尻尾は一インチあるかないかなのである。また犬は、ペテルスブルクやコンスタンティノーブル、カイロ、カルカッタ、デリー、北京では大変粗暴で、われわれの乗っている馬やラクダに吠えたて、追いかけ廻してきたものだが、日本の犬はとてもおとなしくて、吠えもせず道の真ん中に寝そべっている。われわれが近づいても、相変わらずそのままでいるので、犬を踏み殺さないよういつもよけて通らねばならない。』
夕方公使館に戻る。夜間自分たちを守ってくれる詰所の提灯に感心するシュリーマン。これらの提灯は安くて、そのうえヨーロッパのランターンより長持ちし、使わないときには折り畳んでしまえる。次の日、六月二十六日早朝、いつもの警護の武士五名と他の公使館を訪問するために馬で出発。一ヶ月ぶりの晴れで熱帯を思わせる太陽がぎらぎらと照りつける。まずアメリカ公使館付の通訳ヒュースケンが殺されたフランス公使館のある済海寺。さらに長応寺にあるオランダ公使館。そして東禅寺にあるイギリス公使館に向かう。
『この公使館は血にまみれた惨劇の舞台にもなったのだから、もっと詳細に記述しなければならない。花崗岩の大門を入ると、長さおよそ五百メートル、横六十六メートルほどの広大な境内が広がり、松の大木が植えられていた。門からは花崗岩の敷石を並べた広い道が二層建ての豪壮な楼門を通って本堂までまっすぐにつづいている。本堂の左手は大勢のボンズたちが寝起きする大きな平屋の建物で、公使館は右手にある。やはり平屋で二十ないし二十五部屋にいくつかの廊下が張り巡らされている。間仕切り壁も外壁も紙を貼った引戸(襖、障子)でできているので、夜は建物を知りつくした人でもなければ、とても抜け出せないだろう。1862年(1861年の誤り)七月の襲撃のさい、まさにこの造りのおかげで、オールコック卿は命拾いしたのである。ほうぼうの障子紙に、この襲撃のときできた大きな血痕がまた残っている。家屋のもう一方の側には、池を隔てて、うっそうとした樹木が生い茂った広大な庭園があり、かってその池には、小さな木の橋が架かっていた。同様に1863年(62年の誤り)の夜、合言葉を使って庭の側から忍び込んだ刺客たちは、イギリスの二人の伍長を殺したが、協力な援軍が到着し、イギリス臨時公使オニール大佐を暗殺する目的を果たすことができないまま逃亡した。現在橋はこわされに二重三重の防禦柵と、多くの番小屋で取り囲まれている。けれどもイギリス人たちは物理的にも比喩的にも火山である江戸の地を恐れ、ずいぶん前から公使館を横浜に移しているので、江戸の建物は打ち捨てられている。』
ここから随員とともにアメリカ公使館に戻り昼食をとり、それから別の五人の役人といっしょに、有名な浅草観音を見物に出かけた。
『江戸を流れる大川(隅田川の下流)は河口こそ広いが大河ではない。この河が街を不均等に二分している。一方が本所、もう一方がいわゆる江戸である。さらにこの江戸が、町、城(大君の居城)と外城(城の周囲)の三部分に分けられる。浅草観音寺は、ほぼ町のはずれにある。われわれは大名屋敷が打ち続く似たような界隈を速足で駆け抜け、大君の墓所にそってかなり長い距離を進んだ。同業地域に入ってからは、じっくり見ることができるよう馬の速度を落とした。どこを見渡しても、肉屋や牛乳屋も、バターを売る店も、家具屋もない。日本人は肉も牛乳もバターも食べず、また家具の何たるかも、まったく知らないからである。一方、金で模様を施した素晴らしい、まるでガラスのように光り輝く漆器や蒔絵の盆や壺等を商っている店はずいぶんたくさん目にした。模様の美しさといい、精緻な作風といい、セーブル焼き(フランスの代表的な陶器)に勝るとも劣らぬ陶器を売る店もあった。たとえば、まるで卵の殻のように薄いにもかかわらず、きわめて丈夫な陶器の茶碗がある。竹や籐を格子状にめぐらした茶碗もある。格子はとても強く、しかもきわめて精巧にできているので、顕微鏡でも使ってみないと陶器なのか籐なのか見分けがつかないくらいである。ただしわれわれヨーロッパ人にとっては、部屋の装飾品にしかならないだろう。この茶碗は、われわれに小さすぎるし、それに受皿も把手も付いていないからである。日本の家庭で使われる食器の種類はきわめて限られており、われわれからすれば一風変わった形の他の陶器が、いつ、何に使われるのか、わからない。・・・ 日本刀の名声は東洋全体に鳴り響いている。その堅牢さと切れ味は凄いもので、太さ二センチの鉄の棒も一打ちに断ち切ることができると、誰もが請け負ったものだ。ここでは大小二本の刀を八十分(二百フラン)で売っている。私は刀一本に百分ではどうかともちかけた。ただし支払いの前に、主人自ら私の目の前で釘を断ち切って見せてほしいと。しかし主人が断ったので、買うのをやめた。思うに、私の耳には日本刀の品質が誇大に伝えられたものらしい。私が切らせたいと思った釘は直径一インチの六分の一(四ミリ)もなかったのだから。日本ではいまだに弓がよく使われていて、長さ二〜三メートルの弓を方々の店で見かけた。矢がいっぱい入っている漆塗りの箙(えびら)付きで、一張五十八分(百四十五フラン)である。木彫りに関しては正真正銘の傑作を並べている店が実に多い。日本人はとりわけ鳥の木彫に秀でている。しかし石の彫刻は不得手であり、たまに見かける軟石を使った石彫もつまらないものである。大理石は日本ではまったく知られていないようだ。』 
『国産の絹織物を商う店が多いのに驚かされた。男女百人を超える店員が働き、どの店も大きさといい、品数の豊かさといい、パリのもっとも大きな店にもひけをとらない。ただ店内のしつらえは外の国のと少し異なっている。店は通常町の角にあり、ベランダか、開け放たれた廊下に囲まれ、道に面した一階の壁は障子か引戸になっている。日本の店はどこでもそうだが、朝にこの障子または戸を外し、夕方また元に戻す。店はいつも間口いっぱいが入口で、奥の方まで開け放たれている。・・・ このほか、たくさんの下駄屋、傘屋、提灯屋、いろいろな教養書や孔子、孟子の聖典を売っている数軒の本屋の前を通った。本は実に安価で、どんな貧乏人でも買えるほどである。さらに、大きな玩具屋も多かった。玩具の値もたいへん安かったが、仕上げは完璧、しかも仕掛けがきわめて巧妙なので、ニュウルンベルグやパリの玩具製造業者はとても太刀打ちできない。たとえば玩具の小鳥が入っている鳥籠は五〜六スーで売られているが、小鳥は機械が起こすほんのわずかの風でくるくる廻るようになついているし、仕掛けで動く亀などは三スーで買える。日本製の玩具のうちとりわけ素晴らしいのは独楽(こま)で、百種類以上もあり、どれをとっても面白い。絵や額を並べている店にも立ち寄ってみた。日本人は絵が大好きなようである。しかしそこに描かれた人物像はあまりにリアルで、優美さや繊細さに欠ける。ところで日本人は、家の中でも路上でも、ほとんど裸で暮らす習慣を持っていて、誰ひとりそれがデリカシ−に欠ける行為だとは考えない。風俗画家というものは、日常目にしているものを画題にするものであり、従って、ヨーロッパ人ならおかしいと思う人々の暮らしぶりを描いても、それは当然なのである。日本の首都で外国人を目にすることは一大事件であり、私が道を通っているときも、人々は好奇心をあらわに、唐人!唐人!と叫んだ。公衆浴場にさしかかると、歓声がいちだん高くなった。運の悪いことに、風呂屋の前を徒歩で通りかかるたびに、横浜で遭ったような光景が繰り返された。有名な日本橋と呼ばれる橋を渡った。日本人はここを基点として国内全ての距離を計測する。ようやくわれわれは浅草観音寺の大きな山門に着いた。門から長く美しい道が一本、寺の入り口の扉までのびている。大通りの両側に店が立ち並び、一種のバザール形式をとっていて、主に子供の玩具、仏像、婦人の装身具、とりわけ金色の簪が売られている。簪の先端には中が空洞のガラス玉がついていて、ガラス玉の中は、色のついた液と金箔で満たされている。通りは女、子供、風来坊、買物客でごった返している。』
シュリーマンは警護の武士五人と寺に入り、一時間以上かけてじっくり見て廻った。
『寺の中には二十余りの巨大な提灯が吊るされ、なかには長さ七メートル、幅三.三メートルもある提灯も見られる。日本の宗教について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級はむしろ懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺と民衆の娯楽とが奇妙な具合に混じり合っているのである。浅草観音の広い境内には、ロンドンのベイカーストリートにあるマダム・タッソーの蝋人形館によく似た生き人形の見世物や茶店、バザール、十の矢場、芝居小屋、独楽廻しの曲芸師の見世物小屋等々がある。かくも雑多な娯楽が真面目な宗教心と調和するとは、私にはとても思えないのだが。境内の見世物を全部見て回ったが、とりわけ独楽の曲芸に感嘆した。空中高く独楽を投げ上げ煙管の先端で受け止める。曲芸師はまるで独楽が人間かのように語りかけながら、辿るべき道筋を指示する。ある独楽には刀の切先を廻り、刃の上を行ったり来たりするように命令し、またある独楽には二十度の角度にぴんと張った紐の上を登り降りすることを命じた。三番目のには、空中に放りあげてから、一本の指で受け止め、腕にそっと登らせ、つづいて背中を一廻りしてもう一方の腕から戻るように命じた。すると、独楽はまるで生きもののように命令に従った。独楽に内部には、断じてタネも仕掛けもない。曲芸師の手の力と器用さは大変なもので、ちょっと見ると二本の指で軽く回しただけのように見えた独楽が十分間も回りつづけた。もし万一このページがかの有名なアメリカ人、バーナム氏の目にふれることがあれば、私は彼に、小人や、偉人ワシントンの乳母なるふれこみの耳が遠く口がきけなくて体の麻痺した黒人の老婆を並べるような興業はやめて、即刻日本に来て独楽曲芸師を雇い、ヨーロッパやアメリカで興業することを推めたい。独楽回しは実に素晴らしい芸術であり、かならずやどの文明国でもそれにふさわしい称賛の嵐を巻き起こし、バーナム氏に毎年巨額の富をもたらすに違いない。』
仏像の傍らに、優雅な魅力に富んだ江戸の「おいらん」の肖像画。日本でもっとも大きくて有名な寺の本堂に「おいらん」の肖像画が飾られている事実。他国では、人々を娼婦の憐れみ容認しているが、その身分は卑しくも恥ずかしいものとされている。だが日本人は「おいらん」を尊い職業と考え、崇めさえしている。前代未聞の逆説のように思われ、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちつくすシュリーマン。その後、役人五人の猛反対にかかわらず、大芝居と呼ばれる大劇場に入る。大芝居は中国の劇場とは違って、幅23メートルの舞台に緞帳や舞台裏、それに質は落ちるがヨーロッパ風の書き割り。劇場内に椅子、ベンチ、あるいはテーブルなどはなく、平土間にも一階、二階のギャラリー席にも2メートル四方の竹の茣蓙が敷かれ、観客はその上に座っている。最初の演し物はドラマティックな作品で、次は滑稽ものだったが、いずれもみごとに演じられていたので、日本語がわからなくてもすべてがよく理解できる。
『このあと軽喜劇がいくつか上演されたが、もし日本人が淫らなシーンに気分を損ねるような観客であったならば、幕が降りるまでとても耐えられなかっただろう。劇場はほぼ同数の男女の客でいっぱいで、誰もがこのうえなく楽しんでいるように見えた。男女混浴どころか、淫らな場面を、あらゆる年齢層の女たちが楽しむような民衆の生活のなかに、どうしてあのような純粋で敬虔な心持ちが存在し得るのか、私にはどうしてもわからない。』
劇場から出た時はもう、夕方の六時。七時のポートマン氏の晩餐に間にあわすべく速足で急ぐ。警護の武士たちは、道路いっぱいにひしめきあっている群衆を、「ハイ! ハイ! アボナイ!」と叫びながら追い散らす。こうして七時半に善福寺の公使館に着いた。この夜の合言葉は「誰」に対して「大」であった。
『江戸での私はまるで囚われ人のようであった。武装した百人余りの役人が領事官の周囲を厳戒態勢で守っているにもかかわらず、私が風呂場や厩舎に行くたびに、役人が何人かついてくるのだ。風呂場も厩舎も同じ庭の中にあるのに、である。こういううんざりするような過剰警備に抗議をしたが徒労に終わったし、またその理由をあれこれ憶測してみたがそれも無駄だった。役人たちが欲得ずくでこのげんなりするまでの警備に励んでいるのではないことはよく承知している。だからなおのこと、その精勤ぶりに驚かされるのだ。彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである。それにしても、ほんの数日を江戸で過ごすだけの私が、こうも過度の献身ぶりに辟易しているのだから、同じように警護され、外出時にはかならず前に二人後ろに三人護衛がつく、かの高名な代理公使ポートマン氏にいたっては、まったくお気の毒としか言いようがない。』
六月二十七日、団子坂にある有名な苗床と公園、王子にある名高い茶屋を見物し、帰路もう一度見たいと思っていた浅草観音寺を経て戻れるように、五人の役人たちとともに早朝出発した。まず大名屋敷が立ち並ぶ道を駆け抜け、雁や野鴨が群れる江戸城の堀に沿った美しい道を進む。
『途々、大名や大名の家族の行列にいくつか行き会った。彼らは黒い漆塗りの乗り物(駕籠)に乗り、その前後を、大変な数の徒歩やら騎馬やらの家来が守っている。家来たちは日本の刀を差し、漆に金箔塗りの竹製の笠をかぶって、主君の名前と家柄を背中に大きな漢字で書いた水色の羽織を着ている。それに濃色の細いズボンと青い靴下とサンダル、以上が彼らの服装である。行列の家来たちは、あたりを睥睨し、人々を威圧するように進んでいた。その後にいつも、黒い油紙に包んだ荷物を竹竿につけて担いだ十〜二十人の苦力(中間・奴)が続いた。』
通りには人が溢れ、「ハイ! ハイ! アボナイ!」と言う前払いの叫びも、もはや役に立たず、馬の歩調を緩めざるを得なかった。つづいて大名屋敷の立ち並ぶあたりをふたたび早足で駆け抜ける。なかでも加賀前田加賀守の広大な屋敷は目立っている。二時間半駆けたあと、団子坂に着く。丘の中腹に、御影石の大石段とたくさんの庭石で知られる苗木園がある。たくさんの盆栽を見たが、庭師による虎、らくだ、象などの形をした木もさることながら、蛙の恰好した松に驚嘆する。
『団子坂の丘から眺めると、江戸は森の真ん中にある二つの広大な街のようである。われわれは数々の美しい庭園と公園を横切って、さらに王子まで旅をつづけた。・・・ 私は供の者と一緒に川ぞいの有名な茶屋の一つ(現在の扇屋か?)に行った。寺に上がる前に、そこに昼食を注文しておいたからである。この茶屋は木造二階建てで掃除が行き届いていた。磨きぬかれたか、あるいは漆塗りかの床に、絹で縁取りされた美しい竹の敷物が敷かれ、日本のどこでもそうなように、家具調度の類はいっさいない。目のさめるように美しくてうら若い十二歳から十七歳の乙女たちが給仕をしてくれる。長い着物を小奇麗にまとい、幅広の帯をきゅっと締めているので裾の部分が広がらず、歩きづらそうである。日本の着付けははっきりと反クリノリン(注1)の傾向を示している。木の下駄が唯一の履物で、彼女たちはいつそれを茣蓙を敷いた床の前に脱いでから部屋にあがる。彼女たちの髪は結髪によって結い上げられた傑作である。会食者が座るや否や、若くて美しい女性がうやうやしくお辞儀をしながら、煙管と、漆塗りの小さい箱の中に銅製の「うつわ」が二個入った煙草盆を持ってきた。「うつわ」の一つには、きざみ煙草が、もう一つには真っ赤におこった炭火と灰が入っていた。また別の女性がやはり深々とお辞儀をしながら、富士山やこうのとり(鶴)を金で描いた漆塗りのお盆にのせた緑茶の小さな茶碗をすすめた。茶には砂糖も牛乳も入っていない。茶屋は花園に囲まれている。盆栽に飾られた花園が川にそって広がり、戸を開け放した立派なあずまやが散在している。・・・私は日本風に座ることができなかったので足を投げ出して昼食をとった。別の娘が五人の供の者にご飯、刺身、煮魚、惣菜等を給仕し、燗をした銚子を次々に、少なくとも六本はつけた。供の者が冷酒より燗酒を好んだからである。最後に勘定書を持ってきたので見ると、六分(十五フラン)もしていた。』
食事後、いつもの隊列を組んで浅草観音寺に向かう。道にそってほとんど 切れ目なく農家と苗床と菜園が並んでいたが、シュリーマンが興味をもったのは鍛冶屋と学校(寺子屋)。 見学後、かなりの時間を浅草観音寺とそのまわりの娯楽場で過ごしてから、アメリカ領事館のある善福寺へ戻った。 合言葉は「誰」と「娘」だった。朝七時三十分、六名の騎馬役人の護衛と出発。それまで訪れたことのない界隈を通り、永代橋を渡り、江戸でもっとも美しい深川八幡宮に。寺の後ろの枯木の梢にこうのとりの巣が見えたが、この寺でもまた、「唐人!唐人!」と叫ぶ大群衆につきまとわれる。この後洲崎弁天を観て、すぐ近くの茶屋で、日本人が賞味しているのと同じ煎茶を飲み、そこから港と松の豊かな庭の素晴らしい眺めを楽しむ。後、両国橋を渡って領事館に戻る。
『昼食のあと、赤羽の寺(注2)の公園を訪ねた。この寺には墓地もあり、1861年1月15日に暗殺されたアメリカ公使館付通訳ヘンリー・ヒュースケンの墓があることで知られている。ヒュースケンは江戸に埋葬された、ただ一人のキリスト教徒であるばかりでなく、日本語を正確に読み書きすることができるようになった唯一の外国人である。そしてそれがその死の原因となった。日本人は、彼があまりにも日本の生活になじんだので、自分たちの統治機構の秘密を洩らすのではないかと恐れたのである。ヘンリー・ヒュースケンが埋葬され以来、この墓地は穢されたとみなされ、今ではすっかり打ち捨てられている。』
士農工商やキリシタンにシュリーマンは触れているが、一般論でとくに目新しくもなく、江戸の人口は過大評価。
『日本には戸籍がないし(注3)、そのうえ政府も国勢調査をしないので、江戸の人口については、およその数をあげることさえむずかしく、ほぼ二百五十万〜三百万と推定されるのみである。ペリー司令官の秘書として、1854年(1853年の誤り)に日本を訪れ、1859年以来、江戸に駐在している総領事のポートマン氏は、この首都の人口を、二百五十万は超えないだろうと考えている。・・・ 現在江戸に住む唯一の外国人は公使館員、ポートマン氏、そして私である。しかし、まず外国との耕栄に開かれた三つの港の人口を見ても、アメリカ人以外の外国人はごく少ない。その数は、
横浜に約200人 / 長崎に約100人 / 函館に15人 / 総数約315人 である。
外国人たちは、横浜の海辺の限られた居留地に住んでいる。彼らの家はガラス窓のある二階建てで、一階はベランダが、二階は回廊がめぐらされている。どの家も、花や木が植えられた美しい庭の真ん中に建っている。』
注1 「クリノリン」は鯨骨等で作られた夫人のスカートを張らせるためのペチコート。腰枠。
注2 「赤羽の寺」は現在の麻布・四ノ橋近くの光林寺。幕末、浪士等の殺戮による在日外国人の死体の引き取りを躊躇した寺が多いなか、光林寺住職は道心の発露から、ヒュースケンや義僕伝吉(イギリス公使館通訳)の屍体を引き取り手厚く葬ったという。
注3 じつは日本の戸籍は古く、六世紀にまでさかのぼることができる。「日本書記」欽明条には、渡来人を中心に戸籍が編まれたことが記されている。さらに天智九年(670年)には全国的・全階層の戸籍が作成された(甲午年籍)。近代日本の戸籍法は1871年(明治4年)に制定され、翌年発布。現行の戸籍法は1947年(昭和22年)制定による。

巻末のシュリーマンの日本文明論
『もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。』
男のロマンを追い求める情熱、不屈の意志力、執拗なまでの探求心、そしてあふれんばかりの才気・・トロイア遺跡発掘に成功したのは1871年、本書の旅から六年後のことである。 
 
 

 

 
諸紀行文 

 

 
「日本素描紀行」 レガメ 
( 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。レガメは明治三十二年に再来日しています。)

日常生活には、その本質的なものの中に、昔からの習慣が残っている。家庭生活では、まだ何も変っていないのである。祖先崇拝、孝心、誠実さ、兄弟愛、夫婦間の貞節、老人を敬う心、子供や弱い者への思いやり、貧しい者への慈善、助け合う心、これらすべてが、家庭での教育でしっかり教え込まれ、僧侶と何の関係もない儀礼や、独自の儀式を通じて培われる。神棚は家の中にあり、父親には魂を導く責任があり、そしてその妻は、夕方になると家の女中たちを身辺に集め、自分は彼女たちの安泰と振舞の責任者であるという態度を保っている。――これはわれわれの国の中産階級でのような、七階の屋根裏部屋の召使いのあり方とはずいぶんと違う。日本の家では、家具はたいへん少なく、これが家の中での仕事の手間を省き、他の仕事をしやすくしている。余った時間には、糸を紡ぎ、絹を織り、また、家族用に必要な衣服を作ったりする。一つの例として、シカゴの博覧会[1893年の世界代博覧会]への、先の皇太后[英照皇太后]の出品が挙げられる。それらは皇太后の御所で織られた見事な絹織物であった。
結婚は、まったく民法上の[宗教儀式によらない]もので、簡単な登録によって認められる。贈物の交換のあと、儀式としては、親族の集まりが、新婦の家で行われるだけである。養子縁組は、古い時代に宗教上の理由から、祖先を崇拝する慣行を果たすのに、男の代表者を必要としたために生まれた習慣であると言える。今日では、この習慣の恩恵をこうむっているのは、もはや死者ではなくて、生きている者、特に低い階層の者たちである。 息子の義務は、年とった両親の必要に応じて援助することである。誰もこの義務を免れようと考えていないので、養老院を設立する必要は感じられないし、そして公共負担はそれだけ軽減されている。
社会のどの階層でも、貧富にかかわらず、親族会議の諸権利は、今でも尊重されている。一個人にかかわる重要な事柄は、親族会議の判断にすべて委ねられる。親族会議の承認なしに農家の息子は、村を去って都会で生活しようとは考えないであろうし、同様に、上流階級の人間は、近親の承諾なしには自分の財産を抵当に入れることはできない。隠居Inkioつまり、ある年齢に達して、共同体[家族]の主人の地位を退いた者は、まだ元気いっぱいであり、公の仕事をすることはできる。だが私生活での役割りはまったくなくなる。その場合、一家の舵を取るのは長男である。
私生活
この章の冒頭に、教養のある、一家の良き父親であるS氏の肖像を載せるのを、たぶん大目に見てもらえると思う。少なくとも、彼の顔立ちが、明敏な精神と善良な心をはっきりと表していることは、認めていただけるであろう。いずれにしても、この忠実なスケッチ(ここでは家族の写真を掲載しました)は、私に、氏本人のほほえみをすぐさま思い出させるのだ。一見してどんなに魅力的であっても、オデオン座で上演されたジュディト・ゴーチェ夫人の日本を主題にした作品に彼女がつけた「ほほえみを売る女」という題名を良いと思ったことはまったくなかった。日本のほほえみは、売られるのでなくて、ただで与えられるものなのだ。それはすべての礼儀の基本になっていて、生活のあらゆる場で、それがどんなに耐え難く、悲しい状況であっても、このほほえみがどうしても必要なのである。だが笑いと同様に――この笑いの方は評価がごく低く、下品であると見なされている――ほほえみには、さまざまなニュアンスがある。日本の新しい階層の間では、ほほえみは雲ってきている。近代生活のための闘いに必要不可欠な知識を得るには、何と多くのことをしなければならないのか。もはや、悠長な儀礼的な口上に費す時間を持っていないし、手短な挨拶が、かつての延々と続くお辞儀にとって代わっている。西洋人が真情を要約して吐露しても、まだ愛想のよさは残っている。ましてや、日本という、この優しさに満ちた国で、どうしてそうではないことがあろうか。
S氏は、多くの研究に没頭しなければならないのに、優しさを少しも失っていなかった。さらにもっと顕著な資質は、彼が言葉を正確に使うことである。この点で、彼は大部分の同国人より優れている。他の人々は、礼儀作法に心を砕くあまり、彼らの賛辞は、しばしばあいまいになりがちである。ある日、S氏は私にこう言った。「もし、本当の日本の内側を見、私たちの私的な生活を知りたいなら、私の家にお出でなさい。」 さまざまな事情で、私は招きに応じられなかったが、その後、私がおもちゃを送ったお返しにと、家族全員の写真を頂いた。その写真は実に美しいので、私はその複製をここに載せたいという気持ちに勝てなかったのである。S氏と私は、一緒にかなり良い仕事をした。私がS氏に満足の意を表さなければならなかったのは、仕事の同僚としてだけではない。この一文が彼の目にとまったら、ここに、彼の細やかな心遣いに対する私の心底からの感謝の念の証を読み取っていただけたらと願っている。 
西郷侯爵公式訪問
内務大臣、元帥西郷侯爵[西郷従道]が、彼の秘書官の上品な大久保利武氏[大久保利通の三男]を通じて、私を元帥の邸に喜んで招く旨を昨日、伝えて来られた。強風にもかかわらず、私は、誠実なS氏と共に、約束の時間に着く。風は嵐のように吹き、一人引きの車を二人引きにしなければならず、車夫たちは、自然の力に逆らってたいへんな苦闘をしなければならなかった。私は、電灯で照らされ、ヨーロッパの家具や日本の品々を備えた一階の客間に案内される。二枚の油絵、元帥と彼の父である大西郷[西郷隆盛は従道の父ではなく兄である]の肖像が壁を飾っている。
待つほどもなく、大臣は侯爵夫人を伴って入って来る。握手やりとり、肘掛け椅子が暖炉の前の一本脚の二つの円卓の側に移される。一方の円卓は、葉巻と紙巻きたばこ用であり、他方は、干菓子とマロン・グラッセ、それに伴う日本流の砂糖を入れないお茶用である。私を暖炉の右側に座らせる。親切なS氏は客間の中央に立って、われわれのために通訳の労をとってくれる。離れたところに、大臣の個人秘書が座っているが、まったく無口な人物である。元帥は灰色の口髭を生やし、見たところ少し荒っぽい気性の大男である。
慣例的な挨拶のやりとりの後、会談が始まり、私はいくつもの質問に答えなければならない。私はインターヴィユーは苦手で、何とかその難関を切り抜ける。西洋的な考え方の流行についてほのめかしながら、私は、元帥が専心している物の独特な様式について話す。その場合、外国の事物の採用が必要だと認められるとき、その外形をいささかも変えてはならないと考えるべきではないであろう。彼がまずそうであるように、自分の仕事に慣れるためには、事物の全体の調和の中に自分を入れさせるような外見を、急いで自分に与えなければならない。和服を着ている侯爵夫人が会話に加わる。夫人は三十歳を越えていて、聡明の誉れが高いことがその物腰から見てとれる。
一日の終り
私は、午後三時から始めた貧しい人々の住む地域の散策から戻って来る。一年の初め、つまり春の一日の終わりであり、暖かい太陽は、青味を帯びた雲間にまどろんでいる。魚屋や八百屋の店先は、夕食のため、たいへん賑わっている。この時刻の盛んな活気は、やがて人気のない街の静けさに移っていくのだろう。私は、深く感動して、頭をかしげて戻る。たった今見たすべてのことに、心の奥底まで動かされ、あの誠実な人たちと、手まねでしか話せなかったことが、たいへんもどかしい。勇気があって機嫌よくというのが、陽気で仕事熱心なこのすばらしい人々のモットーであるらしい。女性たちは慎ましく優しく、子供たちは楽しげで、皮肉のかげりのない健康な笑い声をあげ、必要なときには注意深い。すべての人が、日中は、家の中でと同じように通りでも生活をしている。その家はまるで蜜蜂の巣で、個々の小孔は積み重なる代わりに横に並んでいて、通行人の目にさらけ出された寝台を置く凹所のようであり、また、戸外で営まれる大小さまざまな仕事は言うに及ばず、家の中のものが、外にあふれ出ている。
彼らは、私がどんなに彼らが好きであるのか、おそらく知るまい。また、自分たちに、どんなに愛される資格があるのかも知らないし、反対に、われわれヨーロッパ人は、彼らを軽蔑していると、考えているのかも知れない。白状すれば、確かにそういうこともある。事実、われわれヨーロッパの中の何人の者が、愚かにも、われわれの人種の手前味噌な優越性を、相変わらず、ぶしつけにも彼らに示しているのだ。私はそんな者とは違う! 金色の空は、そのきらめきを、掘割や深く掘り下げられた曲がりくねった川の静かな水に映して溶かし込んでいる。しかし、ここには、多くの場所において、ヨーロッパからやって来た冷厳な事実と、画趣についての戦いがある。それは、お役所風な格式張った、直線的な建築物によって示されている。どっしりとした屋根の木造の家々の間で、できたての窮屈そうな不恰好な建物が、外国を真似て、滑稽な高楼や小尖塔を立てている。そして、あの商店の看板は何と言ったらよいのか? トタンにペンキを塗って、日本の女性と乾杯をしている、舞踏服のヨーロッパの女性を表しているのだ。
夜の帳がおりて、これらのおぞましいものの上に、慎ましいベールがかけられる。・・・深い堀に沿って、数知れぬ電線は、アイオロス[ギリシャ神話で、風の神。風に鳴る琴をアイオロスの琴という]の琴となって風に鳴る。そして、その無気味な歌は、上の方から聞えるというよりはむしろ、責めるような悲痛な調子で、地の底から出てくるようだ。軽い梶棒の中の狭いところで速足で行く私の車屋も、手に提灯を持ち、それが彼の前の泥土に、光の溝をつけている。 
日本の家屋
今日は女の子の祭りである。数えきれないほどの店が、昔風に華美に着飾った小さな人形を陳列する。そして、いたるところに赤味を帯びた明かりがあって、この妖精の小さな世界のきらびやかな色の衣装を、玉虫色に光らせている。また、私にとっても祭りである。日本の旧友に再会したのだ。一昨日、その友人は、新聞で私の名前を読んで昨日、私のホテルに来て、名刺を置いていったのだ。そして今朝、私は答礼の訪問をしに出かける。彼は留守で私より英語を上手に話す奥さんに迎えられる。彼が戻り、率直に感動し合う。われわれは、1881年にパリで別れた。彼は法律の勉強のためにパリに来ていたのだ。一別以来、われわれは会っていなかったし、文通もなかった。一般に、日本人は、容易には文通に応じないのだ――少なくとも外国語では――これは不思議な性格だと見てもよいかも知れない。それでも良い友人でなくなったというわけではないのだ。彼は、私に、自分の家に来て住むように勧めて、その友情を示してくれる。私は少しもためらわずに承知する。
明日から家財道具を移すことになる本所という地区で、私は間近から日本を見ることになるのだ。私は日本人の生活を送りその秘めた魅力を 味うことができるだろう。そしてそれは、漆を塗った盆の上に置かれたいくつもの小さな皿で出される食事で始まる。この盆は、純然たる日本の二つの道具である、火鉢Chibachiと、長い燭台(行灯)の間に置かれる。私の新しい住所は、本所、両国橋、元町十八番地(今の墨田区両国一丁目九番地)である。これは快く響く。家は川の左岸に建てられていて、二階建てのいくつかの棟があり、それらは互いに連結している。石垣で囲まれた庭先は水に洗われ、その小さな庭には木が植えられていて、そこから、お茶を飲みほしながら、舟が通るのが眺められるのだ。さらにすばらしいことには、ちょうど真向かいに、富士山がある。はるかな靄の中に、雪の頂きがそびえ、決して飽きることのない景観である。・・・
もう少し日がたてば、少し離れた堀切へ菖蒲を、亀戸へ藤を見に行くだろう。他にも、蓮の花や菊の花があるが、これらは情熱的な庭師の得意とするものであり、彼らは日本を花の王国にしたのである。・・・小さな女中のオキさんは、すべてを上手にこなし、こぼさない。球のように丸く、少し、垢抜けない彼女が子供っぽくたて続けに笑うと、この家の静かな厳しさは陽気になり、また、厚い蓙(畳)の上を素足で滑るように歩くので聞きとれない足音に代わって、彼女の居場所がわかるのだ。彼女は部屋を片づけ、料理を手伝い、台所にある井戸で水を汲む。都心を離れると、大部分の家は、中庭に自家用の井戸を持っている。稀には、われわれのところのように、住居の屋内に井戸がある。・・・・この台所では、金属製品はほとんど使われず、あらゆる容器、さまざまな大きさの桶、鉢、水受け、水桶、盆、そして樽から杓子にいたるまで、すべてが木製である。また、使用人たちの使う楕円の大桶の形をした浴槽(主人たちのも同類である)も同じで、これには水を沸かすための小さな釜が取り付けてある。これらすべてが、申し分なく手入れが行き届いている。
数世紀の間、オランダ人だけが日本人と通商を許されていたが、その近隣の国の人々とまるで違うあの細心な清潔好きの習慣を、彼らは日本人から取り入れたのではなかろうかと、私はしばしばいぶかったものだ。このことについて調査をしたら面白いであろう。私に昼食を運んで来るのもオキさんである。私が、隣の梅カ香Prunier parfumeというレストランへ昼食をしに出かけないときは、いつも隣家の屋根に住んでいる大きな鳥とその食事を分け合うことになるのだ。ともかく重大な問題は、日本料理の酸っぱさに逆らっているいささか不機嫌な胃のために、栄養を補給することである。日本の食事には、ブドウ酒もパンも牛乳もバターもチーズもないし、砂糖もほんの少し、コーヒーはないし肉屋で売っている肉の代わりに、家禽の肉か狩の獲物の肉であり、それさえもむしろ稀である。また、パンに代わって、水で煮た米、ブドウ酒の代わりが酒である。あとにはもう、生の魚とか焼き魚、卵、練りものを作る野菜、何種類かの海藻しかない。・・・・私の窓から見える両国橋は、木造技術のたいへん美しい見本である。他に例がないほど、原料の種類と品質とに恵まれた国は、この技術においては抜きんでているのだ。橋床を支えている橋桁は、枠根太と巧みに美しく接ぎ合わされて、橋の堅牢さを保証しているし、それを見れば、満足感が得られるのだ。ヨーロッパの技師の厳しく正確な鉄の建造物を見ても、それは得られないであろう。それなのに、なんと、この辺りにもそれらがのさばり始めているのである。
 
「東京日光散策」 ギメ

 

( 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。)
江戸
それぞれの地方には、将軍の指図のままに動く領主や大名Daimioがいたが、これらの首長をとおして、日本は征夷大将軍――第二位の主権者――からたえず下される命令で治められていた。外国人、特にヨーロッパ人が、帝を法王と思い、将軍を実際の皇帝であると考えていたのは、この点であった。朝鮮人とオランダ人は、それを大君Taikounと呼んでいたが、これは大大名を意味する。・・・京都はもはや役に立たない首府でしかなかった。古い首都は首都としての地位を降り、どのように活用するかということだけが問題となった。江戸は帝国の新しい都市となり、これら二つの都市の運命と変遷がよくわかるように、勅令によって江戸の名は廃止され、帝の居所は以後布告によって、東京と呼ばれることになった。・・・
日本の鉄道
汽車は非常に快く小ぎれいである。職員は白の雲斎布[厚手の綿布]を着用していて、優美で上品である。車両は少々狭いが、便利で、アメリカと同じように次の車両に通じている。どこも清潔で、手入れが行き届き、サロン風の鉄道である。この路線の開業式の日は大騒ぎであった。まだ誰も垣間見ることができなかった帝が自ら、住民の前に姿を現わしたのである。現人神が、列車に乗るために、わざわざ天から下りて来たようであった。・・・(この日は開業後、天皇が初めて汽車にお乗りになった日で、開業日は明治五年九月十二日。天皇ご臨席で行われています)鉄道の沿線は非常に単調である。ほとんど海沿いを走っていく。沿線は豊かに栽培され、数百年を経た樹木におおわれた神聖な丘が点在し、藁葺きの家のある小さな部落や多くの竹林によって彩られた地方を横切っている。・・・田畑には、きびしい太陽の暑さから大きな麦藁帽子で身を守った、裸同様の労働者がいる。道には、青い長い着物を着て、油紙でできた大きな日傘をさしている人がいる。日傘のレンズ型の黄色い鮮かな色彩[蛇の目]が、景色から浮き出ている。海に目をやると、漁師の小舟が行き交うのが見える。至る所活気に満ちている。駅ごとに、多くの土地の人が、急いで車両に乗ってくる。群衆は騒々しく、陽気である。日本人はいつも旅が大好きであったし、また巡礼という口実で、自分の国を完全に知ることができるが、その日本人が即座に鉄道を採用したのだ。・・・
東京に着く前にわれわれは品川で下りる。海を見下ろす丘の上に位置している広い郊外の街である。古い仏教寺院が外国公使館の居住地として使われているのは、このあたりである。人力車夫はわれわれに車に乗るようにと勧める。暑さにもかかわらず、われわれは徒歩で行くことにする。興味ある事物が街道でわれわれを待っているからである。
まずは四十七忠臣(浪人 roonin)の墓がある泉岳寺Singakou-djiである。彼らは伝説的になり、また名高い文学者、近松門左衛門Tchikamatsou Mouzaimon(十八世紀)の作品[『基盤太平記』]によって有名になった。この話は語られる値打ちがある。非常に特徴のある風俗のこまごまとした話に満ちているからである。・・・注目すべきことは、歴史的な事柄を細心の注意を払って記録する日本人は、その背景を書き留めることも決して忘れない。彼らは自然の美しさをこのうえなく愛している。このような愛情を持っている日本人は、これらの事件を風景から切り離して考えることができない。・・・
すぐ側に茶屋がある。休んだ小屋は蓙でおおわれた低い演台である。覆いがしてある台の上で、古代ローマ人が何か食べるときのように、日本人は寝そべったり、しゃがんだりしている。一人の若者が、上半身を起こして肘で支え、腹ばいになっている。・・・彼は側で同じように寝そべっている若い娘と話をしている。われわれが立ち止まろうとする様子を見て、彼はその可愛い連れに合図をした。すると、彼女はすぐに起き上がり、われわれに挨拶をし、にこにこしてわれわれのところに来る。・・・・若い娘は笑い、話したがる。しかし、われわれに話が通じないのがわかると、他の方法で楽しませようと努める。日本には楽しむ方法はたくさんあるのだ。
まあ見て下さい。彼女は非常に軽い小さな菓子を、われわれのところに持って来る。かりかり食べる振りをすると、わっと吹き出して、われわれの指から彼女は華奢な手で奪い取る。それは魚の菓子なのだ。睡蓮の中にそれを投げて手をたたくと、金のうろこを持った食いしん坊が集まって来て、水の上にその菓子を飛び上がらせる。非常に愉快だ。この優美な娘は、菓子を投げ、乾いた小さな音をたてて手をたたき、頭を斜めにかしげて、菓子よりも自分の魅力で魚を引き寄せるかのようにほほえむ。魚は来たかって? わからない。生き生きした快活な若い娘、青い蝶の着物、バラ色の睡蓮、そして水面の緑が不意に出現したので、私は唖然としていたようだ。レガメは時間を無駄にせず、できるかぎりデッサンしていた。 
日本人の家で
われわれの友人、松本さんMatsmotoはこう言ってくれた。
「東京に着いたら会いにいらっしゃい。町をお見せしましょう。浅草の寺院やその神聖な庭を見物させましょう。そこは小売店、軽業師、見世物師、花屋、小鳥屋、きれいな娘たちが開いている弓の射的場[矢場]、劇場、墓地、茶屋、お堂があり、にぎわっています。また、金の漆で塗られた寺院や巨大な樹木や将軍たちの青銅のくすんだ墓が見られる芝Shibaにも案内しましょう。町には古道具屋がたくさんありますから、それも案内しましょう。日本の料理屋の秘密を明かしましょう。そこではときには食べる相手が、そして常に優れた女の演奏家や魅力的な踊り子が見つかります。」
この計画のすべてをわれわれは夢見ていた。横浜に到着してからというもの、われわれは松本さんに一日でも早く会いに行くことばかり考えていた。この若い日本人は、サンフランシスコから日本まで、われわれと一緒に船旅をしてきた。海上での二十三日間は、人間を結びつけるのに十分である。たまたまわれわれと同じ船室に入られたこの外国人が、友人となったのは当然である。彼はアメリカで真面目に勉強し、アメリカの技師の免状を持って帰国する。彼の家を見つけるのは、簡単ではなかった。幸いにも人力車夫たちが聡明で、話して説明しなくても、身振り手振りで十分であった。われわれをまず銀座の大通りに連れて行き、ついで橋を渡り、運河沿いにある倉庫を通って、探していた住居まで連れて行ってくれた。
松本さんは家にいた。彼は門口にわれわれを出迎えにくる。しかし最初の言葉を交わしたときから、彼の顔には当惑の色がありありと浮かんでいる。われわれもかなり戸惑ってしまった。船の上で示してくれたあの友情は、陸地では消えることになっていたのか。悪い時間に不意に彼を訪れたのか。それとも・・・そんなことではなかった。松本さんはわれわれが短靴を脱がずに家に入るには、どのようにしたらよいのかと、思案にくれていたのだ。もっと問題をはっきりさせれば、自分の家にわれわれを迎えるために、どのようにして靴を脱がせたらいいのかわからないのだ。
というのは、日本の家は非常に清潔なので、泥だらけのあるいは埃だらけの履物はどれも家に染みをつけ、台なしにしてしまうからである。柔らかな蓙[畳]が、座ったり、食事したり、眠ったりする部屋すべてに広げられている。その蓙は完璧でなくてはならないので、小ぎれいな部屋の中に、長靴を履いたまま入るヨーロッパ人の訪問は、住民に不快感を与えるのだ。しかし、松本さんは思い切って話した。
「お入りになって頂けますか。」
「もちろんですよ。」
「靴を脱ぐのがお嫌ではないですか。」
「ちつとも。それどころか喜んで。」
われわれは前もってこのことを知らされていたのである。
こうして、われわれをもてなす人の顔が晴れやかになる。本当に、こうしたごくささいな習慣を受けいれないで、日本人の望みどおりにしようとしない人々は、確かに間違っている。履物を脱いで、われわれは狭くて急な木の小さな階段をよじ登る。一段一段にワニスが塗られ、漆の木のように光沢がある。松本さんは、両側がすっかり取り払われている大きな部屋に、われわれを迎え入れる。普通でない部屋の大きさに驚いているのを見て、これは風を通すために溝つきの仕切り[襖]を外した十二くらいの部屋から成っているのだと指摘してくれる。この季節の暑さは、このような、住居の仕切りを取り払うというごく簡単な方法で見事にしのがれている。透かしの入ったフリーズが、天井のあちこちに部屋の境界をなしていて、仕切り壁[襖]を嵌めると、家の見取図が分かるのだ。広々とした入口から、区切られた廊下を通して、眺めは庭とゆるやかに回る運河へと広がり、そして正面から左手にかけて、イギリス人がgodownsと呼んでいる、城塞の形をした、あの倉庫の果てしない見晴らしが望める。
この建造物は、不燃性と言われている一種の灰色の練り土で作られており、稀に明かり窓がついている。てっぺんが括弧型に作られた奇妙な屋根は、ワニスで黒光りがする丸味のある瓦で作られ、その瓦は空に力強い不規則な花綵飾りを作り出している。運河からの出入りが非常に都合よくできているこれらの倉庫には、東京の裕福な商人たちの貯蔵品や商業用の財産が蓄積されている。われわれのいる部屋には一つの家具もない。くぼみに、古い肥前shizen[唐津焼]のすばらしい花瓶だけがある。それが家具のすべてである。主人はわれわれにどうか下に座って下さいと言う。年老いた女中が、まず火鉢shibashiを持って来る。陶器の火鉢で、パイプを打って灰を落すために、竹の筒がついている。ついで彼女は、とても小さな急須にお茶を持って来る。それは、非常に小さな三つの茶碗を満たすのにどうにか足りるほどのものである。最後に、小さな菓子を出しに来る。とてもおいしい。しかし菓子をつまむようにと、われわれのために用意された木の箸は、何の役にもたたなかった。こうしたことはすべて好ましかったが、われわれが一番期待していたのは、主人が話してくれた町を見物する計画が実現されることであった。松本さんはわれわれの苛立ちを察して、三人連れ立って浅草の寺の聖なる庭へと出発する。 
仏教の市
ガイドの松本さんは、浅草公園の飾りと名誉とになっている記念建造物をわれわれに見せるだけでは満足しない。彼はわれわれを連れて、売店とか軽業師の小屋とか弓の射撃場[矢場]とかを通って歩き回る。これらの施設はすべて、かつては異教の寺院を取り囲んでいたし、現在でもなお、日本の寺院を活気付けている。おもちゃ屋が一番多い。花や書物や絵巻物も売っている。古本屋があり、古い写本は珍しくない。茶屋、アメリカ風の冷たい飲物の居酒屋、日本料理屋、これらは物質的な面である。囲いの中では、花や珍しい植物や非常に美しい陶器の植木鉢を売っている。・・・手拭はそれぞれ一枚のハンカチである。――ポケットには決して入れず、風邪をひいても日本人は決してそれで洟をかまないし、かまないように気を付けている。そんな布切れをハンカチと呼ぶことが出来ればの話だが。(フランス語では、ハンカチは洟をかむものという意味)・・・こっちには動物の見世物、あそこには喜劇を物語る講釈師。もっと向うには操り人形、そばには大きい鳥籠のあるにぎやかな小鳥屋。その隅では手品師がいて、群衆が見とれている。・・・
芝(増上寺)
人力車は上野公園を通って、芝公園にわれわれを連れて行く。それは真直な行程ではないが、松本さんは用意周到で、今夜はわれわれに日本式の夕食をさせようと約束していたので、われわれの胃はヨーロッパ風のランチであらかじめ腹ごしらえすることを遺憾に思わないだろうと彼は考えている。
ところで上野には、もっとも文明化したレストランの一つ[精養軒]がある。そこには、椅子やフォークや本物の羊の背肉がある。そのレストランは日本人が経営しており、公園の中にある。・・・
教育を受けた日本人が、自分の国で認めている信仰を恥に思うのは、奇妙なことである。日本がヨーロッパの思想に関心を寄せるようになったとき、先駆的役割を果たした日本人は、私の考えでは、うわべだけをみて劣等感に陥るという誤りを犯したのだ。確かに彼らは、まだ蒸気を使用した工場も理工科学校も持っていなかった。しかし何とすばらしいものを彼らは持っていたのか。それらを理由なく放棄しているのだ。日本は日本の風習をあまり信用していない。日本はあまりにも急いで、その力と幸を生み出してきたいろいろな風俗、習慣、制度、思想さえも一掃しようとしている。日本は恐らく自分たちのを見なおすときがくるだろう。私は日本のためにそう願っている。・・・・
月と花のレストラン
町の主な骨董商を案内し、日本の骨董品について若干の知識を手ほどきしてくれた後、松本さんは、銀座の大通りの近くのこの土地特有の施設にわれわれを連れて行ってくれた。そこで踊りと音楽とごちそうを同時に楽しむことになるのだ。その施設は「月と花のレストラン」[花月]と呼ばれており、家の前に小さな庭があり、庭には井戸と一本の木があって、そのたたずまいは完璧である。・・・狭い階段を登ると、いくつかの壁紙の板[屏風]を配置して、われわれのために一部屋が作られた。案内人は日本の習慣に従って、食事の前に風呂に入るようにと親切に勧める。私はためらう。その土地の風習に喜んですぐ従うレガメは、数分後、松本さんと一緒に日本の長いゆったりした着物を着て戻って来る。
松本さんのイメージが一変した。彼はベルベデーレのアポロ[バチカン美術館にある古代の彫刻]と美を競おうなどとした訳ではないのに、ヨーロッパのモーニング・コートで身動きができず、かなり貧弱で窮屈なかっこうをしていたものだ。しかし突如、古代アジアの王子の物腰に戻ったのだ。彼の調和のとれた身振りは、ゆったりした衣服のひだによって際立ち、華奢な手首足首や、しなやかな首が、その全体の調和をとっている。日本人はこんなに着心地のよい、芸術的で経済的な民族衣装を持っているのに、なぜ窮屈で変てこなヨーロッパの衣類を、大金を払って着なければならないと思っているのか、本当にわからない。いずれにしても、私の二人の仲間は、柔らかい蓙の上にくつろいでいるのに、私の方はズボンが裂けないように気をつかうと、どうしても四足の猿や賢い熊みたいな姿勢になってしまうのだ。
食事が始まる。初めは、お茶とスポンジ状の菓子(カスティラ)ついで黒い漆の蓋付きの碗にはいったポタージュが運ばれる。ポタージュ(吸い物)は、立方体のカスタードと小玉ねぎ数個、それに一片の煮魚が汁の中に入っている。これはとてもうまい。しかし小さな棒[箸]で、魚を細かく切り、その断片を口に運び、唇から多くの魚の骨を引き出さなくてはならない。骨は皿に一杯になる。諦めて餓死しなければならないのだろうか。ここが重大なのだ。
松本さんが助言してくれる。小さな棒の一本は、ペンと同じように、親指と人差指と中指との間に保たなければならない。もう一本の棒は、手と親指のしわになっている付け根と薬指の第一節とで動かない線を作り、その線に最初の棒の先端が、顎のように近付いたり遠去かったりするのだ。難しいのは、上にある枝を、下の枝の面に動かすことである。少しでも離れると、二つの先端が合わさって食物をつかむ代わりに、互いに通り越したり、一片の食物を口に運ぼうとする寸前に、それを回して落としてしまう。二番目は、あんずのジャムと黄色のクネル[つみれ]付きの蛸(amabi)[あわびのことか]が数切れ入った料理で、ばら色と灰色の磁器の小皿に盛ってあり、全体としてオレンジ色の波模様がつくられている。この奇妙な盛り合わせは、確かにわれわれの胃にはいささか抵抗ありとみたが、女の音楽家が案内されると、彼女たちが到着しただけで気分は一新される。 
踊りと宴会
一人は三味線sa-missenを弾く。蛇の皮で飾られた、長くて細いギターで、その耳障りな短い音は、まったく音楽的ではない。控えの三味線弾きは、たえず誤って演奏する。彼女は楽器に合わせて歌うから歌も狂ってくるれのだ。少なくともわれわれにはとらえがたく、その調べは音程が短か過ぎると私には思える。他の演奏家は、小さな太鼓[鼓]を鳴らす。左手で肩に支え、右手で打つのだ。太鼓の皮を張っている絹の紐は左手に集められ、打つごとに締めたりゆるめたりする。したがって、音は怒っているあざらしの怒号のように、ほえたり、叫んだりする。弱々しそうにみえる娘が、斜めに置いてある太鼓の前の席に着き、うつべき棒を長い間振り上げたままで入る。突然振り下ろして、恐ろしい音を発する。このような激しい音を出す力は、彼女のどこから出てくるのか。芸とたゆまぬ研究、才能と音楽的な感覚とが、こうした結果をもたらすのだ。美しいものだ、音楽は。・・・
彼女は夢中で、押しつぶされた猫の叫びを発しながら歌う。三味線は活気付き、胸を引き裂くような音を発する一方、小太鼓は最善を尽してほえたてる。音が急に止んで気付くのだが、その曲が終ると演奏者に酒を勧めるのが慣習である。酒はこの国のブランデーで、発酵させ蒸留させた米から造られる。踊り子が一人やって来た。繊細な目鼻立ちの女の子で、われわれの前にひれ伏し、挨拶の文句を大げさに言う。その文句はたびたび息を吸う歯音で区切られるが、それは敬意のしるしである。吸えば吸うほど礼儀正しいのだ。オーケストラが再び楽器の調子を合わせる。踊り子は立ちあがり、ポーズをとる。彼女が演じるのは劇の踊りであり、日本の古いデッサンにみられる持って回った姿勢がその挙動の中に見出せる。彼女は無言劇の中で、顔の表情を変えない。身振りだけの魂のない冷たい哀歌なのだ。・・・
三番目の料理は生の鯛taiの切身。鯛は赤い大きな魚で恵比寿さまYebisとともによく描かれている。これは上等な食べ物であり――焼かれればの話だが――、しいらに似ているが、味ははるかにいい。 鯛の切身は淡いばら色で、白でデッサンを施した青い皿に盛られ、クリスタルガラスの小さな格子の上に置かれている。格子の下には濃い月桂樹の葉が一枚敷かれている。そして、この料理を調和のとれた完璧なものにするために、青リンゴ色のはつか大根のピュレが少しそえられ、月桂樹の葉と濃淡の差はあるが一つの色となり、青と緑とピンクの色が調和をとって飾りつけられている。この皿と一緒に、赤と金色の九谷Koutaniの磁器の碗が持ってこられる。その中には有名な日本のソース(しょうゆshoio)が注がれていた。箸でつまんでは魚の切身をこの碗の中に浸すのだ。これこそ日本人の大好物であり、そして典型的な日本の料理[刺身]なのである。
この時、芸者gueshaが扇子を広げ、非常に風情のあるステップを踏む。ただフェリックス[レガメ]が時々若い娘を止めさせて、その順序を乱す。娘の動きが非常に変化に富んでいるので、芸術家の速い筆も、瞬間の動きを描きとめる時間がないのだ。踊り子は灰色の服を着ているが、その下には鮮明な赤の衣装[長襦袢]が透けて見える。袖は長く、帯は深紅色である。扇子は銀の色をしている。四番目の料理は、煮た鯛。金色のデッサンが施され、趣味よく花模様が飾りつけられた緑の磁器で出される。煮た鯛を味わっている間に、踊り子はそっと姿を消した。彼女は間もなく新しい衣装で戻って来る。緑がかったグレイの絹の服を着け、白いデッサンの縞の入った赤と青の帯を締めている。背中の帯の真中に、金と黄色の布のすばらしい結びを付けている。はでな同じ布の一種の胸飾りが、服の下の首の周りに見えている。彼女は八分の六拍子で活気のあるステップを踏み、踊りながら歌う。これがそのだいたいのメロディ(かっぽれkapori)である。しかし、私は節の正確さはまったく保証しない。というのは、われわれの記譜法で日本の音程を表現するのは、不可能に近いからだ。この踊りはすばらしい。三味線の弾き手はほとんど正確に演奏しているようにさえ思える。歌い手たちの方は、よくわからぬ言葉を最後まで続けている。
五番目の料理。濃いブルーの大きな皿の上に、ピンクの小さなうみざりがにが三つ付いた、真白い魚のフライを持ってくる。踊りが終るとわれわれはアンコールをした。このような成功には、どうやら慣れていないこの娘にとっては、大いにうれしいことなのだ。だから彼女は、いっそう元気よくとび出し、ステップを踏みながら、ほほえもうとさえする。しかし、どんなに活気付こうと、彼女は決して跳び上がらない。魅力は、とりわけいつも調和のとれた姿態の中にあり、それは衣服の長いひだのおかげなのだ。短い服で踊ったら、たぶんだめであろう。六番目の料理。われわれが食い尽くした異様な食物の消化を助けるために、炊いた米を何杯か食べて、重力の法則を利用する。炊いた米は,発酵させ、塩漬けされた数切れのきゅうりによって味を引き立てられる。
ところで、信じられないだろうが、われわれは、箸の操作にかなりの進歩をみたので、小さな棒で多少とも器用にとらえられた米は、ある程度の速さをもって姿を消すのだ。 
 
「ボンジュール・ジャポン」 ウーグ・クラフト

 

( 「ボンジュール・ジャポン」フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめた本です。著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。)
明治15年、日本到着
上海を出発して二日後、三菱の船は外輪式でずっと振動しているから、あまり快適とはいえないたびの末、東京丸は長崎に寄港した。・・・翌朝、私たちは下関の海峡に錨を下ろした。・・・ここで外務卿の井上氏(井上馨)が乗客の一人として加わることになった。彼は下関に、朝鮮での出来事(壬午軍乱)のために来ており、東京に戻るところだった。・・・・・たくさんの人たちが大臣の見送りに来ていたので、私たちは、世界で最も追従的と思われる日本のマナーの数々を目の当たりにすることができた。それは数えきれないほどペコペコと頭を下げる動作の連続だった。それぞれが何度も何度も体を曲げ、地面に頭がつかんばかりに下げるのである。奇妙な口笛を吹きながら、手を膝の上で上げたり下げたりしながら、作り笑いを惜しみなく浮かべるのである。かわいそうな大臣とお付きの人たちは、お辞儀された分だけ挨拶を返さなくてはならないから、頭を下げ足をこすり合わせ続けていた。・・・・・
八月十五日、神戸の外国人租界に到着、・・・日本はどこでも電信線が引かれており、何年も前から鉄道も走っていて、特に大阪経由の神戸・京都間、横浜・東京間は発達している。中国では、1876年にいち早く引いた上海・呉淞間の鉄道を破壊して、首都と地方都市を結ぶ線の建設許可の決断も下せなかったのである。隣国同士でこれほど違う民族については、書いても書ききれないほどである!・・・・神戸近郊の布引の滝は、旅行者にとっても住民にとっても、魅力的な散歩コースとなっている。私たちは狭い急流へと通じる坂道までジンリキシャ(人力車)で行く。・・・・私たちが頂上のチャヤ(茶屋)と呼ばれている茶を飲ませる店に近づくと、二人の気取った女たちがわざわざ出迎えにやってきた。さまざまな身振り手振りをしながら私たちを歓迎し、案内するために手を取った。ござに座らせ、小さな磁器の茶碗に、あまり色はないが香りのよいお茶を注いでくれた。ヨーロッパの同じ階級の娘たちと比較した場合、気取らず親切で、優雅で優しいこの娘たちに軍配が上がる。
この小柄で楽しい人たちの給仕で、甘いお菓子を食べ飲み物をすすりながら、私たちは素晴らしい景色を飽きることなく眺めていた。・・・・これらは中国の砂漠とは全く対照的な魅力的な景色をなしていた。本やアルバムを手に空想にふけっていると、突然、日本人女性の一団が水浴びにやってきた。わらで編んだござに座りお盆を用意して、長くて先に指抜きのついたペンのように細いパイプをとりだす彼女たちの姿ほど面白いものはない。服を脱いで明るい色のガウン(浴衣)に着替えてから、地面にピンや紐を散らかしながら、手の込んだ髪をお互いに崩しにかかった。私たちとの間に衝立を置き、目隠しのようなものを一応つくったが、私たちのことも、また気晴らしに滝を浴びにきたアダムの格好をした(裸の)男たちが見えても、気にかける様子はまったくなかった。厳格なイギリス人たちのように、自分たちの作法に反しているからといって目を覆うつもりはない。日本の作法にただ驚くばかりである。男、女、子供が一緒でも声を出して騒ぐわけでもなく、みだらなおふざけもなく、私たちにしてみれば考えられないほど丁寧に体を洗っているのである。日本人が清潔であることは有名だが、おそらく世界中で最も水と親しんでいる民族ではなかろうか。こんな瞬間でも、中国人の三つ編み(弁髪)を引っ張って、布引の滝を浴びせてやりたい気持ちである。・・・・
十八日、横浜に到着したので、私たちの船旅はここで終った。ほとんどの船客は神戸で船を下り、そこから陸路で東に向かう。旧首都・京都と新首都・東京を結ぶ非常に有名な東海道と中山道、それは東海沿いの道と、中央山地を通る道のことだが、それを行くのである。私たちの予定としては、この二つの道を横浜から出発して通ろうと思っている。私たちは海岸通りにあるグランド・ホテルに泊まることにした。ここはフランス人が経営しており、彼らの居留地にある。・・・・現在の横浜は、人口のうち約六千五百人が日本人、四千人の外国人のうち二千人は中国人で、・・・・
私たちもここ山手に、二日前から住んでいる。何ヶ月も前から考えていた計画を実行に移して、日本に長い間住んでいる、オランダ人の所有する六十番の家を借りることにした。この新居を、将来予定している遠出や旅行の拠点とするため、なるべく快適に過ごせるように整えた。私たちが昨日雇ったガイドと旅行に出ている間は、ウィルという男が留守番をしてくれることになった。ガイドの名前はイトーといって、完璧に英語が話せる。外国人が決められた範囲の外に行く場合に、欠かせないものが二つある。パスポートと紙幣である。  
明治東海道の旅 1
すでに八日間東海道を進んでいるが、一歩進むごとに新しい風景が現れる。・・・・一年のうちに春と秋との二つのきれいな季節を過ごせるとは、夢のような気持ちがする。・・・・もし自然の美しさが民族の容貌と性格に影響するとすれば、日本人はきっと勇壮な山やのどかな谷から、誇りを持った、独立的で優しく陽気な性格を養われたのであろう。中国人の皮肉っぽい表情や憎々しげな態度を思い出すにつけ、それほど遠い地ではないのに、全然違う性格で、礼儀正しく快い歓迎に魅了されてしまう。しかし我々外国人は、日本人の礼儀作法を正しく評価しない傾向があるようである。初めて見ると洗練されているがあまりにも儀式的な態度なので、彼らにとっては大切な慣習も、我々には間抜けて見える。どれほど西洋的な思い上がりや、無遠慮な態度や、疑い深い態度が彼らを傷つけていることであろうか。ここでは日常的な礼儀として、人に話す時、自分自身を卑下して、相手を称賛とお世辞で満たさなくてはならない。これは私たちには考えられないことである。家の中で挨拶をする際も、ござに手と膝をついて、何度も額を床につけるのである。道で会った場合は、お礼やお世辞をささやきながら、またもや何度も体を曲げるのである。どの階級のどの部類の男も女も子供も、苦力から貧しい旅行者、乞食にいたるまで、出会いがしらと分かれ際に、私たちが下関で見た例のように儀式ばっているのである。この礼儀作法に対して、当然私たちは不器用で気の利かない対応をしてしまう。不慣れで戸惑っている私たちに代わって、ガイドのイトーに挨拶が集中する。だが冗談に関しては非常に気が合い、何を言っても笑う。私たちが単に「オハヨー」といっても笑い、たいしたことがなくても爆笑するのである。
家や宿屋は、すべてに細心の手入れがされている。すべてとは、貧しい小屋、最低の茶屋にいたるまでである。床は伝統的なござ(畳)に覆われていて、履物を脱いで清潔な足で上がる。・・・日本家屋の部屋は、大体が内庭に面している。庭は部屋ほど空っぽではなく、飾られて充実している。庭がたとえ数平方メートルしかなくても、小さなもみの木や潅木、藪、苔の生えた岩や石に飾られた、とても手の行き届いた小庭に変えられてしまう。自然の景観を装うために、竹の衝立が器用にこのミニチュアの庭園に立ててある。もちろんすべてが完璧とは言えないが、理想的な域に達している場合、その素晴らしい細部は筆舌に尽くしがたい。小庭も部屋と同じように住み心地の良い凝った家の一部で、できたら海の向こうまで持って帰りたいような趣味と努力の賜といえる。
この機会に、中国のひどい宿屋と日本のきれいな茶屋を比較してみるとまた驚いてしまう。中国ではどんなに偉い官吏でも、日本の貧しい巡礼者ほど快適な宿泊はできないだろう。日本食はまだ食べられるし、非常に衛生的に調理され、この上なく美的に並べられる。・・・イトーが慣れた手つきで和洋折衷の食事を準備している間に、私たちは柔らかい畳の上でくつろぎ、洋服を脱ぎ捨てて唐草模様の着物を羽織、青か白のタビ(二股に分かれている靴下で、片方に親指を、もう片方に四本の指を入れる)を履く。・・・
自分の家や茶屋、または公衆浴場でも木の浴槽で、湯は石炭でわかし、冬も夏も毎晩湯を浴びる。ヨーロッパ人の皮膚にはあまりに熱すぎる湯だが、いつも最初の湯は外国人に丁重に譲ってくれるので入ってみることにしている。私たちは屋外や庭にしつらえた岩場での水浴が好きだが、日本人旅行者は浴槽の煮え湯の中で延々とくつろいでいる。浴槽に入る前に石鹸で体を洗い、歯を磨く。そして湯につかり、ロブスターのように赤くなって出てくると、ハチマキ(手拭の誤り)といっていつも携帯している青い布で、瞬く間に体を拭いてしまう。
有料の公衆浴場での日本人の入浴風景はもっと不思議なもので、たくさんの男と女が無邪気に隣り合わせに入浴しているのである。こうして眺めていると、政府が衝立をまん中に作り、混浴を禁止したのは、我々ヨーロッパ人の観念にショックを与えないために、新しい制約を作ったのであろうか?・・・・このようなことは、しきたりの違いの問題ではないか? 日本人の女性は服を着ていない同国人と一緒に水浴びすることをなんとも思わないにもかかわらず、デコルテ(肩や胸もとをあらわにしたドレス)を着ることに関して抵抗を感じるであろうし、サロンや劇やバレエなどで目にする、ヨーロッパでは公然と認められている露出度には、びっくりしてしまうであろう。今までに分かったことだが、彼女たちはヨーロッパ風の貞淑ぶった態度を理解していない。それは、色気に対する考えがヨーロッパ社会で通用しているのと全く違うからである。要するに日本の女性は、西洋の女性のような歓心の引き方をしないということである。 
明治東海道の旅 2
数日後、浜松という人口一万二千人の小さな町で、今まで見たこともないようなきれいな旅館に出合った。部屋の羽目板は、漆を塗って磨いた違った色合いから成っている。女主人と息子と義妹が、夕食の間ずっと同席してくれた。義妹は優しくはにかんだ目をしたきれいな少女で、外国の食べ物を味見しようとしなかった。主人のほうは、既婚にしては珍しく歯も黒く染めず、眉も抜かず、人の良い女性だった。自然の美しさに恵まれた人が、野蛮な処置によってその魅力を失ってしまうとは、残念なことである!
最近書いた手紙を出したのは名古屋の町からで、ここで一日半休んだ。名古屋は尾張の大名が昔住んでいた土地で、人口三十万人の栄えた工業都市であり、現在は愛知県の県庁所在地だ。・・・私たちの泊った宿屋は村や集落のものより劣っているが、大都市にありがちな新しいアイデアを取り入れていて、壁紙を張った食堂、テーブルクロスの掛かったテーブルがあり、じゅうたんが敷いてある。室内装飾の細かい点にもびっくりしたが、それ以上に、ヨーロッパの作法や道具をまねたり、使いこなそうと奮闘する日本人男性の格好とぎこちなさには驚かされた。・・・・
名古屋で最も注目に値する所は、間違いなく国内でも有名な城だ。・・・五階建ての天守閣の最高層は、日本でも有名な芸術作品、対になった金のイルカ(シャチ)を載せている。その価値は、十八万円、つまり八十万フラン以上と言われている。二つのうちの一つは、1873年にウィーンの万国博に出展され、その帰途、蒸気船ニルは難破したが、幸にも釣り上げられ、不幸を免れて元の場所に納まった。五日前から京都にいる。熱病が治り、神戸経由で来たシャルルと落ち合った。・・・・
日本は中世の伝統から現在の進歩へと一気に飛躍したのだ。フランスで言えば、何の段階も踏まず、シャルル七世の時代から1789年(フランス革命)の翌日になってしまったようなものだ。それは神秘の町京都が普通の町になってしまったということだ。十六年前だったら、外国人が京都に姿を見せることすら、まして狂信的なサムライの刀を見ずに探検することなどできなかったはずだ。今では観光客がサトウ(アーネスト・サトウ)の案内書を手に、以前は半分神であったミカドの宮殿を訪れ、神聖なお寺の隣に建っている現地資本の半ヨーロッパ風のホテルにさえ泊れるのだ。私たちはこの中の一つで、円山の丘に建っているヤアミホテルに泊っている。・・・・
町は御所の中庭から始まる、長くて広い道が整然と直角に引かれているが、元の独創性を保っていない。しかし京都・神戸間の鉄道の開通で絹製品のあふれている市場は、活気を絶やさずにいる。京都はまた娯楽に恵まれた都市で、芝居、祭り、それに音楽の夕べなどが楽しめる。大きな道路では、東海道沿いで見たものを百倍にした光景が繰り広げられている。ここでも他と同じように紺色の色調の服が占めている。紺色は苦力、労働者、職人の服の色で、彼らはこれを短めにきつく着ていて、背中には職業を示す標章が書き込まれている。仕事着意外、日本人の服はだいたいがキモノと呼ばれるものに集約され、男も女も同じ形で同じ原則のものだ。・・・それは長い外套のようなもので、広い袖をもち、ボタンも止め金もなく、前で交差させて、ウエストを女性は幅広の、男性は狭いベルト(帯)で締めて、芸術的で複雑な結び目を作る。・・・・
これまで、完全にヨーロッパ風の洋服を着ている日本人をあまり見かけていない。洋装はほとんどが政府の役人か、公職についている人たちだ。通訳のイトーは最新のエレガントな三つ揃いを着て私たちのお供をしている。私が見た限りでは、一般の人々に取り入れられているのは麦わら帽子かフェルトの帽子と髪型、毛かフランネルの下着と傘くらいなものだ。履物は、畳が板の間か石の床にならないのならこのままでいいと思うが、シンプルで特殊な方法の履物がほとんどだ。それはわらのサンダルにしろ、木の板の履物(下駄)にしろ、男も女も同じものだ。しかし、ヨーロッパ式の髪型は結構普及していて、額を剃って、頭のてっぺんに小さな尻尾のように固めた髪の束を持っていく非常に特徴的でエレガントな髪型(丁髷)は、田舎でもすたれ始めている。この頃は逆立った頭や乱れた頭の人ばかりで、伝統的な髪型がもてはやされているのは、漁師や山に住む人たちの間だけだ。
日本で最も豪華なのが京都の寺だが、この寺の装飾品は芸術的な財宝といっても過言ではない。町の至る所に寺があり、数多くの仏教の宗派のいずれかに属している。黒谷の僧院や真如堂の寺や、その他多くの寺の彫刻を施した御堂、その銅の壷や香炉は、円山の高い樹林の奥に隠されている。しかしなかでも重要な西本願寺は、京都市内にある。・・・どこも手入れが行き届いて清潔で、僧は礼儀正しく愛想がよい。北京の荒れた御堂や汚い坊さんを気の毒に思う。 
明治東海道の旅 3
奈良は八世紀に首都だった人口二万人の町で、寺を囲む大きな森と、十八メートルもある巨大な大仏で知られている。この大仏はミカドの希望によって、何度か失敗した末、七四九年に造られた(正しくは七四七年鋳造開始、七五二年開眼)ものだ。・・・・坂の上にある、私たちの泊っている宿ムサシノから、大きな階段とカスガノミヤ(春日大社)へ通じる林道が延びていて、巡礼者たちが木や角でできたおみやげを売る店の前を通っている。近くでは、てなずけられた鹿が草を食べている。赤く塗られた回廊と礼拝堂は、緑の生い茂った背景に映える。暗い葉の茂った大樹林の間の巨大な杉の下を曲がり、数百メートルにわたって両脇にランタンと花崗岩の台座(燈籠)が並んでいる段々になった大通りを行くと、この神秘的な眺望の中で、少し離れた所にもう一つのシントーの社ワカミヤに着く。まるで墓の間を歩いているようで、恐れさせるような効果がある。ワカミヤでは、非常に興味深いカグラ(神楽)という宗教舞踊が九円で見られる。これはシントーの非常に古い勤行で、熱心な信者の希望でミサのように行われる。
儀式の様子を説明しよう。社の庭に面して開け放した部屋に、三人のカンヌシと女が観客の前にひざまずく。右側の少し奥まった所に、四人の処女が舞踊の準備をして控えている。聖職者たちは短い白衣をまとっている。手にはそれぞれ笛、長太鼓、二枚の木の板を持っている。若い女たちは、顔を厚塗りして、白と金と薄緑色の長い服をまとい、それが下に着ている深紅の服と対照をなしてくっきり浮かび上がっている。ほどいた髪が背中に垂らしてあり、首の高さで金色の輪で結んでいる。額の上には人工の花の房が飾られている。楽器を演奏する女も同じ格好をしていて、目の前に長くて平らなハープ(琴)を置いている。この人たちはみな一言も喋らず、不動のまま合図があるまで待っている。合図と共に頭を床まで下げ、楽器がメランコリックな前奏をかなでる。若い女たちが立ち上がり、列になって進み、色とりどりのリボンのついた鈴の束や扇子を操りながら、優雅で息のあった間を取ったゆっくりした動作を始める。聖職者たちは長太鼓の音、板のパチパチいう音、笛のうなるような音、ハープのせわしない音階に合わせて、悲しげな連祷を歌う。・・・・
奈良から大阪まで、途中、薬師寺と法隆寺の二つの寺に立ち寄ると一日かかる。・・・・街灯のない暗い町外れ、終わりのない道、同じ橋をまた渡っているのではないかと思うほど数多くの大きい橋や小さい橋を通り、十四日の夜大阪のジュテイホテルに到着した。
ジュテイホテルは京都のヤアミと同じような感じだが、多少行き届いている。淀川の上にある小さな島(中之島)に建っている。近くにはヨーロッパやアメリカの商人たちが失敗して去って行った外国人租界がある。大阪は人口五十万以上にのぼり、東京に次いで重要な都市である。南西地方の商業の中心地で、たくさんの地方の金持ちの商人が駐在している所でもある。独特な生活に活気と刺激のある町で、数多くの運河が川の支流とつながっていて、とても風変わりな景色を作り出している。・・・・群衆が建物のほうに急いで向っており、特に手品師の周りは人垣ができていて、私たちも巧妙な手品には長い間引きつけられていた。・・・
私たちが特に楽しんだのは、ここを通る人もあまり注意を払わないような社の一角にある池にいる数百匹もの亀だ。茶店で買うピンクと白のふくらんだ小さな菓子を池に投げ入れる。この菓子は水より軽いので水面に浮いて、しばらくすると亀の群が、大きいのも小さいのも、若いのも年取ったのも、押し合いへし合い菓子を食べようと泳いでくる。この戦いは時には十五分くらい続き、日本人もヨーロッパ人も、子供をも楽しませてくれる。
大阪では、名古屋や京都でそうしたように、イトーに歌手――ゲイシャつきの晩餐の手配をまかせた。・・・・彼女たちの演技は、食事、お茶、きれいに包んだお菓子、冷たい水に入った果物、ショーユ(塩辛いソース)で食べる生卵の軽食などと共に楽しむためにある。席に着くと、丁寧に包んだシャミセン、つまり長いギターを持ってきて、ござに座る。あいさつをし、冗談を言い、遊びの相手をし、彼女たちを呼んだ殿方たちに踊りと歌で気に入ってもらわなければならないし、才気と賑やかさで楽しませる任務がある。・・・・外国人は、上流階級の女性たちと知り合う機会がないので、この美しい顔立ちの愛想のいい娘たちはありがたい。しかし、なんと彼女たちはおしゃれなのだろう。常に身だしなみに気を使っていて、幅広のベルト間にはさんだ物入れを取り出しては、鏡をのぞき、口紅を塗り直したり、漆黒の美しい髪に櫛を入れたりしている。彼女たちにとって笑いはたやすく日常的なことなので、お互いに言葉が分からなくても、陽気な雰囲気づくりには事欠かないのだ。彼女たちに接する際、礼儀の限度を越すと大変なことになる。普段から儀式的な態度に慣れているので、少しでも礼儀に反すると、配慮が足りないということを何気なく示す。イトーが呼びに行くと、大阪のゲイシャたちは、私たちがちゃんとした紳士で、大声を出したり、なれなれしくしないかを確かめた。 
中山道から横浜へ
中山道は、まずいくつかの山頂や人気のない小さな谷を見下ろす荒涼とした高原を通り、東海道のように活気のある村のある、両側が切り立った平地にたどりつく。少し先は静かな地域となり、人の住んでいる中心地は非常に広々して閑散とした所だ。人も周りの景色のように牧歌的な性格をしている。家は大きな石で葺いた平らな屋根が突き出ていて、スイスやチロルの山小屋のように木のバルコニーがついている。たくましく日に焼けた目鼻だちのはっきりした住民たちは、都市の技術革新を知らずにいる。大人たちは非常に愚直な表情をしていて、子供や若い娘たちは手に負えないくらい内気なのには驚かされた。
この高地にはあまり外国人が来ないので、通りすがりに好奇の目で見られた。朝など、私たちが宿屋の玄関先で大きな靴の紐を結んでいたり、夕方、食事の際に私たちがフォークやスプーンで食べているのを見物しに来る人たちで周りに人垣ができるほどだ。ある茶屋では、女中さんが怖がって近づくことができなかったほどだ。またある宿屋ではある晩、人生で二度とないほどのアリガトの嵐にあった。宿屋のおかみさんがルイ(同行の友人)に直してもらおうと壊れたオルゴールを持ってきて、修理の様子を心配そうに見守っていた。彼女がぜんまいを回し、長い間眠っていた音色が流れ出すと、彼女は感謝の念を際限なく示した。・・・・
湖の近くのシモノスワ(下諏訪)という村での休憩の後に、私たちは浅間火山に程近い和田峠の先の少し寂しい地域に着いた。少し先の、日本で最も寒い場所の一つと言われる追分では、また雨が降り出し、・・・・ここで私たちは三日間も足止めをくった。通過してきた道も、これから通る道も、橋が流されてしまい、川の流れは激しくなり、警察も船で渡ることを許可してくれなかった。・・・・
この足止めは、日本語の勉強に少し役立ったが、この言葉は非常に難しく、そのうえ書いてあるとおりに読むには不都合に思えた。・・・十月十日、やっと警察の許可が下りて何里か進み、熊谷の百七十五人も旅行者がいる混んだ茶屋まで行くことができた。その日の夕、日が暮れてから、私たちは果てしなく広がった東京の町に入った。・・・・
山手に戻ってから数日後、新たな旅行に出ることにした。行き先は日光で、太陽の輝きという意味だ。知名度は「日光ミナイウチハ、ケッコウイウナ」という有名な格言でも分かる。ある朝早く、私たちは二頭立ての二輪馬車に乗って東京を後にした。・・・東京から日光までの距離は三十八里、約百四十キロで、一般の日本人の乗る乗合馬車でなく、駅馬車を頼めば、途中何度か馬を替えても、二日で行き着ける。人口一万五千人の宇都宮の町を過ぎると、緑豊かな道になった。・・・評判の茶屋スズキに着いたら、外国人旅行者でいっぱいだった。そのため、一晩泊まる所を他に見つけて、日光近辺を散策することにする。翌日、徒歩で海抜千三百七十メートル、鉢石より八百メートル高い所にある中禅寺湖まで行った。
私たちの散歩は、村を出た所の美しい眺めから始まった。松の丘の下を小さな滝状に流れている大谷川の激しい流れに沿った斜面に、みすぼらしい小屋が立っている。左側の曲がり角の上に、明るい山を背景に、真っ赤な大きな橋があり、その血の色をした赤が杉の暗い枝の下で輝いている。これは聖なる橋、御橋といって、伝説によると1638年に勝道上人が奇跡的にシンサダイヤの神(深沙大王)に助けられた場所に架けられたといわれている。・・・・・
橋を渡ると、先細の葉の美しいモミジが、鮮やかな秋の装いの中で輝いている森林地帯に近づいた。進めば進むほど、峡谷は大谷川のエメラルド色の水に削られ狭まる。私たちは、この川の岩やそだ束の小さな橋を何度も渡った。山腹が険しくなり、木の葉の種類も変化に富んでいる。最初に苦労して登った山頂からの、特に大きな半円の中央に孤立した盆地の眺めに感動した。簡素な茶屋の屋根に太陽が遮られ、広大なパノラマが目の前に広がっていた。どの方角にも、上にも下にも、頂上にも急斜面にも、大きなピンクや赤、黄、真紅、オレンジ、朱の茂みが散らばっている。それらは、空の青色に限りなく映えていた。白い滝が見え隠れして、丸い谷の底を蛇行している急流と合流している。世界中どこを探しても、これ以上の秋の景色を見ることはできないと思う。・・・・
私たちは天候にも恵まれ、日光で四日間過ごした。中禅寺の山が見える素晴らしい庭のある囲い地の中に、サンブツドーの僧院を見に行った。イギリスの皇太子が日本を訪問した時に泊ったという建物では、ショーグンの戦いを詳細に記したミサ典書のようなもので、古い貴重な絵を巻いたもの(巻物)を坊さんが見せてくれた。近くの滝への散歩に満足して、来た道を通って横浜に帰った。帰り道では、たくさんのイギリス人観光客とすれ違った。なかにスズキの茶屋にジンリキシャで向う三人のご婦人がいた。結局、私たちも別棟のきれいな部屋に泊ることができた。 
明治、横浜にて
私たちの住んでいる別荘からは、一年の半分以上雪に覆われた、頂が砂糖の塊に似た富士山や海、山手の坂の素晴らしい景色が見える。一階には食堂と大きなサロンが、二階には寝室がある。ヨーロッパ式の住居の作りと同じで、小さな別棟には、台所と使用人の部屋がある。スタッフはウィル、イトー、ボーイ一人と料理人の四人だ。・・・・・この日紹介してもらった数人に、秋の競馬で出会った。先おとといやっと終わったが、この競馬は三日間続き、その間はまさにお祭りだ。香港や上海でもそうだったが、皆にとって競馬はホリデーで、この間、銀行も会社も店も、馬場に行くか、郊外で休日を過ごして息抜きするために休業する。日常的な流れはすべて中断され、現地の人たちも多かれ少なかれ、お祭りの明るい気分を楽しんでいる。すでに何週間も前からコースは馬主や調教師の集会場になっており、選抜の名目で走らせている。彼らの馬は、中国のポニーか日本のポニー、または掛け合わせたポニーで、居留者はみな大会のずっと前からずっと後まで、どの馬が勝とうが負けようが、競馬に夢中になる。馬場は私たちの借家から車で十五分のところの山手にある。・・・・
この日に座を沸かせたのは、朝鮮の使節団だった。・・・・公式のレセプションからレセプションへと出席し、新しいものを見る機会に恵まれて非常に喜んでいるようだ。使節団は、愉快で天真爛漫だが、やや粗野な八人だ。競馬には通訳に連れられて羊のようにゆっくりとやってきて、人々のいるスタンドの真ん中にぎこちなく固まっていた。彼らの着ている緑、紫、白や青の服は、あまり清潔とはいえず、針金の大きな被り物(サラダの水切り籠か携帯用食器籠のような形)は、皆の視線を集めていたが、そんなことには一向にお構いなしのようだ。競馬には非常に関心が高く、乗馬への情熱を呼び覚ましたようだ。こらえ切れなくなって、彼らのうちの一人がミカドに走る許可を請うた。
ミカドと大臣たちは彼らを満足させるために、即刻その場で「朝鮮賞」の創設を決めた。二人の騎手が野外競馬場に入場してきて得意そうな大使を馬に乗せた。合図が鳴り、馬が走りだした。最初のうちは良かったが、そのうち全権委員は徐々に遅くなった。息ができなくて必死にたてがみにしがみついている間に、他の騎手たちはゴールの柱をギャロップで過ぎて行った。大使は常軌を逸した競争に目を回して、皇族のいるスタンドの足元に転げ落ちた。服と針金が地面に容赦なく散らばり、競馬場が笑いと歓呼の声で沸いた。
今月(十一月)の三日は天皇の誕生日だった。この日の東京では、さまざまな催しが行われていた。近衛隊の閲兵式、能の古い舞や外務省での舞踏会などだ。・・・・
イギリス公使館の書記官のM・Bのところでの夕食の後、以前外交官のために宴会が行われた場所で開かれている外務省の舞踏会に出かけた。完全なヨーロッパ風の建物の周辺は、ジンリキシャで埋め尽くされていた。ガス灯の列と色とりどりのランタンで飾りつけられた中庭に、停まっているクルマはほとんどない。警官に見張られた玄関前の階段の上には、WELCOMEという大きな字が客を出迎えている。天井は低いが、きれいに花と葉で飾りつけられたサロンは、着飾った人々や、刺繍をあしらった服を着た大臣であふれていた。しかし日本人は少ないうえ、西洋化されすぎている。期待していた姫たちはあまり見当たらず、最新の夜会服を着た井上夫人の横には、グレーの地味なキモノを着たご婦人ばかりが目についた。この国際的な集まりは、どちらかというと数人の日本人のためにヨーロッパ人が開いているパーティーのようだ。オーケストラ、ビュッフェ、人でいっぱいの庭で打ち上げられる花火は、ますますこの印象を強調する。
この夜もまた、例の朝鮮人たちがやって来て陽気になった。彼らの服装はすでに競馬の時に物笑いの種になっていたが、舞踏会では最高に滑稽だった。彼らは壁際に、時にはサロンの中央の床に座っている。なかには料理やぶどう酒が気に入った人もいて、ビュッフェから離れない。 テーブルの上のもので気に入ったものを指でつまんだり、隣の人の皿から羞恥の念もなく取り、飾り用のパセリやクレソンの束を一気にのみ込んで、際限なく酒を飲む。夜中には彼らのうちの何人かは完全に酔っぱらって、針金の帽子を被った頭を振りふり、感動して皆に握手を求めていた。これまでの彼らの態度から、食後のため息(げっぷ)が一斉に起こるのは、特に目新しいことでもない。明け方の一時には特別列車が、夜の最後の音楽「喜びあふれて」のポルカがまだ耳元で鳴り響いている横浜っ子を乗せて帰った。
天皇の誕生日の数日後、日本的な祭り、菊の祭が赤坂御所の庭園で開かれることになっていた。毎年二回、桜と桃の花が咲く時と、菊の花の盛りに、皇后と一緒にミカドは庭園を隅々まで見て歩く。この機会に名門の出の人、公使館員と名士の外国人たちを招待する。・・・・・赤坂の菊を見たことのない人は、フランスにないこの植物の美しさを想像できないだろう。ここでは、菊は大衆の花であり、君主の花でもある。 
明治、東京にて
・・・最も活気のあるのは大通りで、交通量の激しい往来で遊ぶ子供たちが問題になっている。小さい子供から、子供(あるいは代わりに巨大な人形)を背負っている子たちも、みんな道の真ん中を走り、注意されているにもかかわらず、平気で車夫たちの足元にまとわりついている。それに加え、盲目の人が杖をつきながら歩いていたり、下駄をはいた女性たちが不器用に小股で歩いていたり、全速力で走るジンリキシャ、荷物が重くてかがんでいる苦力などがいて、事故が起きないのは奇蹟としか言えない。だがこの民族の冷静さと落ち着きが、事故を防いでいることは認めなくてきならない。イライラしたり喧嘩する人がいないし、車夫たちも他のクルマとぶつかりそうになると、非常に巧みに止まるのだ。その上笑いながら邪魔したことを詫びるのだ。どこでも洗練、礼儀、それに暗黙の了解が存在している。我々も見習わなくては!・・・・
浅草への散歩道は、東京で最も人出の多い所で、観光客にとって興味深いものだ。・・・・トリイをくぐると、両側には店がぎっしり並んでいる。大通りはもっと活気づいている。写真館や床屋、おもちゃ売り、服、靴、茶や米、ハトのための豆売りがいてお祭りのようで、この露店の前を町や田舎からやってきた家族連れが、カンノン(観音)に向ってぞろぞろと散歩している。赤い柱の下にあるお金を投げ入れる木の箱に近づくにつれて、混雑が激しくなってくる。ここで祭壇の前を通り一列になり、寺の見せ物の彫像と、六世紀に川の岸辺で、ある貴人が釣り上げたという女神の聖遺物にたどりつくためだ。これは病気の救世主のビンツル(お賓頭廬)を表したものだ。いつでもこの偶像に、体の治したい部分を触れている熱心な人々を見かける。あまりにこすられるので、彫像はすっかりすり減っている。・・・坊さんたちによる祈祷が終わると、人の流れは寺の周りの露店の並ぶ娯楽や遊びのある広場に向かう。軽業師、手品師、学者犬、玉突き、弓、芸を仕込まれた鳥やてなずけられた猿、画廊、茶屋やお菓子屋。通りのそこら中に写真屋があり、陳列棚には人気のある俳優のさまざまなポーズのもの、有名な芸者、よそゆきの顔をした市民の写真が飾られている。
東京には個人の大庭園や庭園が非常に多い。この話になると、すぐに水戸のヤシキ(小石川後楽園)と本所地域の裕福な商人の敷地があげられる。水戸のヤシキの起伏に富んだ地形に広がる人工的な美しさは、長い年月によって造られた。・・・・実際よりも十倍くらいの大きさに感じられるように、非常に小さくまとめられた庭園には、住居のほかに、娯楽用にあずまやがいくつかある。竹を編んで作った釣り小屋、凝った作りの茶室や、持ち主の自慢である何層もの大きな建物だ。建物の内装に使われている材料は、信じられないほどぜいたくなものだ。・・・・
だが奇妙なことに、これらの部屋は中国とヨーロッパの調度品が混ざって置かれている。ござの上にはけばけばしいじゅうたんが敷かれ、重い金色の額がデリケートな板張りに掛けてあるなど、趣味の悪さを証明している。純粋な日本趣味とは全く比較にならない我々の製品が普及し始めている。ひと通り見た後、この家の持主を紹介された。彼は自室で待っていて、私たちにお茶と甘いものを出してくれ、他のいろいろなものと一緒に、イギリス大使からもらったルイ十六世のきれいな扇子を見せてくれた。扇子に描かれた人物のパニエ(輪骨でふくらませたスカート)や、髪粉のついたかつらにに好奇心をそそられたようなので、私は百年前はフランスでもこのように趣味の良い服を着ていたことを説明した。彼は多分このままだと、自分の国でも孫の代には、1868年にあった刀と、尻尾のように固めた頭に、驚く日が来るのであろうかと感慨深げだった。この家を建てるのに、四十万フランかかったそうだ。桁外れなこの金額が、実際につぎ込まれた狭い空間を見たらもっとびっくりするだろう。日本ではぜいたくは、大きさや量よりも、質と希少であることが問題で、本物の日本の芸術とは、どんなに細かい部分でも絶対に同じものを作らないことなのだ。収集家や愛好家は、他の人が持っていないものを欲しがるからだ。新作、未発表のものが求められていて、それには信じられないような大金を支払う。木であろうと、貝であろうと、植物であろうと、器用に細工してあれば、私たちには考えられないような額になってしまう。
東京近郊には青々とした苗を育てている園芸家がいるが、他に訪れたたくさんの場所を見た結果、植物や花に対する嗜好がどの階級の人も強く、園芸愛好家は計り知れないほどいることに気がついた。・・・・気難しい地主の所有する素晴らしい小屋も同じだ。装飾が控えめであればあるほど価値は上がる。高価な置物と同じくらい価値のある瀟洒な建物だが、何も置かれていない。飾り物の花瓶も、色とりどりの刺繍も、豪華な漆塗りや木の家具もなく、私たちが日本風に飾り付けをする時の木、青銅、象牙の品物もない。どんなに大金持ちの家も、昔の宝を所有している人も、目につく所には置かず、全部倉庫に入れてあり、何かの機会にしか出さないのだ。 
明治の相撲と鎌倉
隅田川を両国橋で渡って少し行った地域の本所のエコイン寺(回向院)で、力士の戦いが行われた。・・・・この奇妙な興行は、私に今までだれも考えたことのないことを思いつかせた。力士たちが戦っている様子、壇上の様子を写真に撮ることだ。写真機を持って行って試みようとした時、新しいもの好きの人は好奇心を見せたが、力士たちの丁重だがきっぱりとした拒否にあった。たいへん礼儀正しく、礼儀に対して最も敏感な日本人は、習慣の定めた節度を越すと、その人間に対して冷たい軽蔑の態度で接するようになる。彼らが過敏であることは、それほど長く滞在しなくても分かる。・・・
私は言われた手続きを踏み、どんなにつまらない交渉もすべて厭わないようにした。そのため、イトーと寺の隣の小さい家に、協会の会長の七十歳の紳士に会いに行った。・・・イトーが伝統的な丁寧なささやき声で、私には永遠と思える説明、ほめ言葉をささやき、お愛想を言い、それに対して相手も同じように応え、時々静かにお茶を少しずつ飲み、キセルをふかし続けた。嫁や子供が話し合いに加わり、ソオデスカ、ソオデスネ、エ、エ! の声をのんびり発しながら。それが会話の中に何度も出て来るのだ。全員が非常な驚きで私のことを見ていて、もし、通行人が外の壁を外すことができたら、ためらわずに仲間に入ったことだろう。結局私のほうが成功をおさめ、親方は私の希望を受け入れることを約束してくれて、巨人たちを閉会式の次の日、闘技場を取り壊す前に集めるようにしてくれた。私のために行われた興行は、短時間では済まず丸一日かかった。・・・とにかく細かい部分も手を抜かず、いつもの状態であるようにした。私が言わなくてもすぐに集ったのが群衆だ。観客が必要だという心配は、物見高い人たちが四方八方から集って来たのを見た時、すぐ晴れた。すべてが思うとおりにいった。スモウ(力士)たちは、全然威張らずに気持ちよく私の希望に応えてくれた。何度も、試合前、途中、後のポーズをとってもらい、最後にお礼のためにきちんと包んだお金を、頼み込んで会長に受取ってもらった。
日本には外国人が好み、夢中になるような景色や散歩道がたくさんある。偶然にも主要な港にある租界はその点で非常に恵まれている。例えば横浜を拠点としてそこら中に行けるし、数時間の「日本旅行」をすれば見る価値のある二つの名所に行ける。その一つは、1192年から1450年まで(正しくは1333年まで)ショーグンの都であった鎌倉だ。現在では村と大きな寺の周りに集中している集落しか残っていない。鎌倉には自殺や暗殺それに戦いなどの記憶を思い起こすような、宗教的、歴史的な事件がつきものだ。もう一つは神聖な島、江ノ島だ。この二ヵ所の間には、奈良のものより小さいが、旅行者にもてはやされている大仏がある。今は、青銅の巨大な手の下に集って記念写真を撮る観光客の名所になっている。
江ノ島は季節と潮の関係で、島になったりならなかったりする特徴がある。この季節は、島と陸を結ぶ一キロの砂浜を歩いて渡ることができる。砂浜の端には青銅のトリイが、店や茶屋の立ち並ぶ小道に向って開いている。小道を進むと丘の上の引っ込んだところにある社に行き着く。散歩は素晴らしく、道を曲がると、思わぬところに彫刻や木に半分隠れた社や、素晴らしい景色の見えるところがあったりする。少し先には、割れ目までツタや野生のツバキが生い茂った切り立った崖沿いに、階段がある。より急な階段が、島の反対側に通じている。島の反対、太平洋側には、巡礼の目的地である江ノ島のベンテン(弁財天)の洞窟がある。
鎌倉と江ノ島へ行く途中では、日本の本物の美しい景色を見ることができる。急ぎ足の旅行者も、仕事が目的の居住者も、遠くまで行かなくても、横浜の近辺に、美しい風景があることに気付いてほしいものだ。十二月の晴れた日々に、この魅力的な景色を楽しむことができた。たくさんの人が(特にクリスマス休暇を屋外で過ごすのが好きな人たちは)この季節に好んで小旅行をする。今回のクリスマスはまさに理想的で、温暖な気候との評判どおりの、気持ち良い天候だった。 
 
「ベルツの日記」 エルヴィン・ベルツ

 

( ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿をご紹介します。)
東京・加賀屋敷にて
明治9年6月26日
今日、きめられた家へ引越しましたが、さしあたり前任者ヒルゲンドルフ博士の客分としてこの家へ迎えられたのです。この住居はいわゆる『加賀屋敷』、すなわち旧加賀候の邸宅である大学の構内にあります。・・・ 将来わが家となるこの家は坂の上にあって、そのすその大きい『不忍』池には無数のハスの花と、かわいい朱のお宮があります。向うの丘の眺めもすばらしく、そこは古い美しい『上野』公園で、今をさる僅か8年(!)前に維新の役の決戦が行われたところです。
この家の庭は、老樹の木立があって非常に美しいので、これを自分の趣味どおりにしつらえることのできる日を、今から楽しみにして待っています。・・・
着いてから五日で、すぐ生理学の講義を始めましたが、学生たちの素質はすこぶる良いようです。講義はドイツ語でやりますが、学生自身はよくドイツ語がわかるので、通訳は実際のところ単に助手の役目をするだけです。・・・
日本のドイツ医学は一種の伝統をもっていたのです。既に17世紀には、ドイツの探検家で医師の、ケンプフェルが、オランダの役人としてではありましたが、来朝しています。しかもかれの活動は、当時の非常に困難な事情にもかかわらず、ある程度の注目をひきました。それから50年前には、同じくオランダ人として(それ以外には入国の可能性がなかったので)ヴュルッブルクの医師フォン・シーボルトが来朝し、多数の門弟を出しましたが、そのうち若干のものは、自己の知識欲のため死罪にすら処せられねばならなかったほどです。・・・
11月7日(東京)
今日、ミットフォード著『古い日本の物語』を読んだ。日本の事情に関する見解が、この本では、日ごろ在留ヨーロッパ人の口からよく聞くのよりも正しいこと、ことに女性にたいする見方が妥当であることを知って満足に思った。
同時にまた、その中で語られている伝説と歴史上の出来事は個人的の勇気、極めて幼い時からの勇敢さを表明しており、われわれを心から驚嘆させるばかりである。志操の高潔な点も物語のすべてを通じて現れており、しかもそれが極めて純潔で堅固であるため、まるで美しい中世紀を眼前にみるような気がするのである。
今日でも、気品が高くて死を怖れぬ勇気のある人々はまれではない。それに貴族の子弟は、幼い時から一種の威厳を身につけていて、それが極めて自然なものであるから、ヨーロッパで同年輩の子供の場合であればたしかに苦笑ものに相違ないのだが、別におかしくも感じないのである。自分は一度このような男の児をみたことがあるが、ある『大名』の息子で、優しくしようが厳しくしようが、つんとすまし返った態度をくずそうとはしなかった。最初は、この児の無神経さがしゃくにさわってならなかった。だがかれは、決して無神経ではなかったのだ。あまりにも気位が高く、しつけがよいので、ものに動じるようなことがなかったのにすぎない。・・・・
11月30日(東京)
昨夜半近く、われわれがナウマンの家から帰るとき、南東の方向に大火事があるのに気づいた。遺憾ながらこれは、東京で冬のあいだひんぴんとして起る出来事である。だから自分も今では、八週間前に初めて見た大火で神田区内の家屋八百が焼失した時ほど、驚かなくなった。
あの折、加賀屋敷の丘から物すごい火事場を見渡したときは、並々ならぬ印象をうけたものである。自分は思わずつぶやいた「ここで僅かの時間に、何千という人々が宿となけなしの財を失うのだ」と。それからすぐ、現場へ行ってみた。幾多の個所では、まだ炎があがっていた。そこで自分は、日本人の態度を観察する機会を得たわけだが、こうして観察したところは非常に興味のあるものだった。まず何よりも、比較的静粛なのに驚いた。わめき騒ぐ声もしなければ、女、子供の泣き叫ぶ声もせず、第一にそんな連中の影すらみえなかった。いたるところで男子の群が休みなく、音もなく働いて、水を運んだり、家屋を取りこわしたり、畳やこまごまとした持物のつまった行李を持出したりしていた。・・・
12月1日(東京)
日本人とは驚嘆すべき国民である! 今日午後、火災があってから36時間たつかたたぬかに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。まだ残骸がいぶり、余じんもさめやらぬうちに日本人は、かれらの控えめの要求なら十分に満足させる新しい住居を魔法のような速さで組立てるのだ。家事の前には、僅かの畳と衣服以外に多くの所持品があったわけでもないから、失ったものも少なく、あれこれと惜しむこともあまりないのである。これらの事実や、また日本人がいかなる悲運でも、これをトルコ人以上の無頓着さで迎えることを書物で知っていたにもかかわらず、なおかつ自分はこれらの人々の有様をみて驚嘆せざるを得なかった。
小屋がけをしたり、焼跡をかき探したりしていないものはといえば、例の如く一服つける楽しみにふけっている。女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。彼らの顔には悲しみの形跡もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々をみた。  
岩倉公の死 明治16年
それは明治16年の初めのことだったが、ある晩、ドイツ公使館で一人の貴公子然たる青年にあった。あとで判ったが、それは岩倉公の令息だった。青年はわたしの方へ歩みよって尋ねた、
「お伺いいたしますが、先生、ひどい嚥下(えんか)困難を呈する場合は、危険な兆候でしょうか?」――「その方はお幾つです?」――「五十二歳ですが」――「それじゃあ、まあただ事ではありませんね」――「実はわたしの父なのですが」――
青年がさらになお二、三の症状を述べたとき、食堂癌の疑いがあると、わたしは告げておいた。
それから半年あまりは、別に何事も耳にしなかった。するとある日、宮内省と文部省の役人から、至急面談したいとの知らせをうけた。二人の役人は勅令によりわたしに、次の船便で神戸へ立ち、京都で重い病気にかかっている日本の最も重要な政治家の岩倉右大臣を見舞い、出来れば東京へ連れ帰ってほしいと依頼した。すぐさまわたしは、助手を一人伴って神戸へ出発したが、神戸ではもう、わたしを迎える手まわしがすっかり出来ていた。
公はひどく衰弱し、やっとの思いで少量の栄養をとり得るにすぎないような有様だった。六月の末、わたしたちは東京へもどった。――その時、公はわたしから包み隠さず本当のことを聞きたいと要求した。
「お気の毒ですが、御容態は今のところ絶望です。こう申し上げるのも、実は公爵、あなたがそれをはっきり望んでおられるからであり、また、あなたには確実なことを知りたいわけがお有りのことを存じていますし、あなたが死ぬことを気にされるようなお方でないことも承知しているからです」
「ありがとう。では、そのつもりで手配しよう。――ところで、今一つあなたにお願いがある。ご存知の通り、伊藤参議がベルリンにいます。新憲法をもって帰朝するはずだが、死ぬ前に是非とも遺言を伊藤に伝えておかねばならない。それで、出来れば、すぐさま伊藤を召還し、次の汽船に乗りこむよう指令を出そう。しかし、その帰朝までには、まだ何週間もかかる。それまで、わたしをもたさねばならないのだが、それが出来るでしょうね?」そして公は低い声でつけ加えた、
「これは、決して自分一身の事柄ではないのだ」と。
「全力を尽しましょう」
だか、もうそれは不可能だった。病勢悪化の徴候は見るまに増大した。公はほとんど、飢え衰えるがままに任された形だった。永い、不安のいく週間かがすぎた。その時わたしは、臨終が間近なことを知った。わたしは公に、最後の時間が迫ったことを告げた。すると公は、井上参議を呼び寄せるように命じた。公は参議に、声がかれているから、側近くひざまずくように促した。その間わたしは反対側に、公から数歩はなれてうずくまり、いつでも注射のできる用意をしていた。そして終始、寸刻を死と争いながら、公は信ずるものの耳にその遺言を一語一語、ささやきつ、あえぎつ、伝えるのであった。
こうして、疑いもなく維新日本の最も重要な人物の一人であった岩倉公は死んだ。鋭くて線のその顔立ちにもはっきり現れていた通り、公の全身はただこれ鉄の意志であった。
明治21年12月15日(東京)
ここ数日のあいだ、北白川宮の病気の王子をたびたび見舞った。王子は一歳半の、まれに見る美しい幼児である。母君は、有識の誉れ高い大名の一族伊達家の姫君である。
天皇の叔父君にあたる当主の宮は、およそ四十歳で、ちょうど維新の当時1868年には上野の寺で院主だった。宮は僅か二十五歳あまりで、将軍派により天皇に対抗して擁立されたが、のちドイツに派遣され、そこで完全な軍隊教育をうけて、大尉にまで昇進した。口ひげのある、全く西洋人のような外見の、上品な紳士で、優しくてもの静かで、『昔型』のよい日本人だ。
恐らく宮は、いくたび自問されたことだろう――もし自分が天皇になっていたら、いまごろは何をしているかしらと。だがもちろん、そうなれば、今日の宮ではなかったはずだ。洋行もされなかったろうし、プロシャ士官の鉄の試練も経験されなかったはずだ。
先日、大隈外相邸で宴会に出席、黒田首相と大いに語り合った。首相は以前、途方も無く乱暴でかんしゃく持ちのため『気違い黒田』と呼ばれていたが、今ではすっかり人心を引きつける愛想のよさと謙虚さを備えた人物である。とても力が強くて、力技は何でもみな好きだ。首相の考え通りになれば、日本の青年はずっと強くなっていることだろう。だが残念ながら、この点では全く実現性が少ない。
天皇が移られるに先だち、12月10日と11日、新しい宮城の拝観が許された。宮城は、市の中心をなす丘の東南半を占めているが、この丘は周囲と共に広大な御苑を形成しているのだ。昔の将軍の城もここにあったが、明治5年に焼失した。自分の考えでは、現在気象部のある丘の方がよかったのではないかと思う。というのは、そこの方が石崖その他の規模がはるかに大きいからである。そうはいうものの、他国の首都にある宮殿で、この宮城に匹敵するものはなかろう――少なくとも庭園の配置と美観の印象では。  
帝国憲法発布 明治22年
明治22年2月11日(東京)
天皇の前には、やや左方に向って諸大臣、高官が整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなければ立場をかえて現在『将軍』であったはずの徳川亀之助氏や、ただ一人(洋服姿でいながら)なお正真正銘の旧い日本のまげをつけているサツマの島津公を認めた。珍妙な光景だ! 天皇の左方は外交団。広間の周囲の歩廊は、他の高官連や多数の外人のため開放されている。
皇后は、内親王がたや女官たちと共に、あとより続かれた。長いすそをひく、バラ色の洋装をしておられた。すると、玉座の左右から、それぞれ一人の大官が一つずつ巻物を持って進み出たが、その一人はもとの太政大臣三條公だった。公の手にあった方が憲法である。他方の巻物を天皇は手に取ってお開きになり、声高らかに読み上げられた。それは、かねて約束の憲法を進んで国民に与える決定を述べたものであった。
次いで天皇は、憲法の原本を黒田首相に授けられたが、首相はこれを最敬礼で受け取った。それが終ると、天皇は会釈され、皇后や御付のものを従えて、広間を出て行かれた。式は、僅か十分間ばかりで全部終了した。
この間、祝砲がとどろき、すべての鐘が鳴り響いた。儀式は終始、いかめしく、きらびやかだった。ただ玉座の間が、自体は豪華なのだが、なにぶん地色が赤で暗すぎた。――皇后御付の女官たちの中に式部官として当地に在留する同国人フォン・モール夫人の上品な姿を認めた。
東京で今日ほど、たくさん美しい娘を見たことがない。このみずみずしさ、このすこやかさ、このあでやかな着物、この優しい、しとやかな物腰。東京のいわゆる『山車』――宗教上のお祭に、人間や牛によって街路をひきまわされる行列の車――はことごとく街頭へ。多くは数階もある、こみ入った造り物で、上部には大きい人形や舞台面を取付け、前部には一種の音楽隊が控えていて、とてつもない騒音をかき立てるのだ。ある二、三の車ではその前方を芸者たちがいろいろな服装でねって行った。一番きれいだったのは『人足』(職人)に仮装した芸者の一団である。
午後は観兵式――練兵場の底なしの泥沼にもめげず挙行された。兵士たちが、ひざの上までよごれて、五時に帰営するのを見た。しかし、若者たちがそれでもなお、元気よく朗らかに行進していたのがうれしかった。
八歳から十四歳の少女たちも、雪解けの中に数時間立っていなければならなかったのだが、いささかも疲れなかったかのように、楽しげな顔色で家路についていた。大多数のものはハカマをつけ、素足か、せいぜい薄いソックスだけで、大抵はだぶだぶの不細工なクツをはいていた。これがヨーロッパの少女であれば、次の日は全部病気になっていることだろう。
3月11日(東京)
今夕、鹿鳴館で、東京の商工業者主催の大舞踏会。皇族、大臣、公使などがこれに招待された。社会的に重要な出来事だ! というのは、商工業者がこのようにしてその存在を示したのは、今回が初めてであるからだ。この二十年間にかれらの地位が、何とまあ変わったことか!
4月26日(東京)
現存の日本最大の画家である狂斎[河鍋暁斎]は、もう今日はもつまい、胃癌にかかっているのだ。かれの絵は漫画に類する。だが、構想が大きくて、出来栄えのどっしりした点では、かれに匹敵するものはない。
4月27日(東京)
正午、『赤十字』の三周年祝賀式に上野へ。御付のものを随えて、皇后御臨席。外交団では、夫人と令嬢同伴のロシア公使と、フォン・シーボルトのみ。他はすべて、早稲田の大隈伯の園遊会に出ている。
皇后はだんだん洋装に慣れてこられた、全く立派に見える。優しい容姿に、品のある顔立ち。簡単な式辞を読まれた。次いで三條総裁が年度報告をした。それから、寄付者や援護者に、制定の表功章を授与。各会員が集会のおりにつけるメダルもまた全然勲章まがいのものである。
人間の愚かな虚栄心からみて、確かにまずい策略ではない。これを所持したい希望から、この会の新会員になったものが多数あることは確実だ。
婦人たちの中に、日本服を着たものが多数居ったことはうれしかった。幸い日本服も、今ではいくぶん見直されるようになったらしい。
5月23日(東京)
父になった! 22日から23日にかけての真夜中、妻(ハナ)は男の児を授けてくれた。今のところ、父という感じが全然しない!
昨夜、寝入ってから、奇妙な夢を見た。自分は助産のため、知人のところに来ていた。すると、戸があいて、二十年前に見た通りの父と母がはいって来た。両親は自分を訪ねようとしていたのであった。そこで目が覚めた。そして、そばには妻(ハナ)が寝ていた。 陣痛はちょうどその時に始まったのである。それは全く、祖父母が孫にあいさつするため訪れて来たかのようだった! お告げを受けたわけだ!  
大隈公暗殺未遂 明治22年
10月18日(東京)
センセーショナルな出来事――その場から、今帰宅したところだ。七時頃、イギリス公使館のナピーア氏のもとへ車をかり、そこから、夕食によばれていたチェンバレン氏のところへ行くつもりだった。ところが、ナピーア夫人は、熱に浮かされたように興奮していた。自分の顔を見るが早いか、有無をもいわせず、お説教だ。最初は何のことだか合点がいかなかった。そのうちに、ようやく事情が判ってきた――暗殺事件が起ったのである。それが大隈外務大臣に! 
みんなが自分を探していたのだ。そこで、馬車に飛び乗り、外務省へ。どの門も、サーベルとピストルの警官で一杯だ。前庭には、数知れぬ馬車、人力車。自分の顔をみると、すぐ屋内へ通した。大隈氏は、自分がいつも氏夫妻を往診する時と同じ階下左側の部屋で、ソファの上に横たわっていた。意識は明瞭だ。仮包帯を施した右脚の激しい痛みは、モルヒネで和らげてあった。人々は、まだ橋本氏が来るのを待っていた。他のおもだった日本の医師たちは、もう集まっていた。かれらはすべて、甚だ冷静に事を処理した。だが、このような場所ですら、先生がたはあのばか笑いをやめることが出来なかった。
右足内側のくるぶしの上方にある傷は、その個所で脛骨を完全に粉砕していた。その上方の第二の傷は、ひざ関節の内側下方にあって、該関節内への粉砕骨折を伴っていた。脛骨の中間部も同様に、全部粉砕されていた。下腿を動かすと、骨が、まるで袋にはいっているかのように、手の中でがたがた音を立てた。上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことは明白だった。この手術を佐藤氏が行い、その際、橋本氏がある程度の指図をした。手術は順調にはかどった。治癒の見込みは十分ある。
凶行は、明らかにダイナマイト爆弾を以て行われた。犯人来島恒喜は、その場で頸部をかき切って自殺した。
凶行の原因――条約改正。大隈は、この国多年の宿願であった条約改正をなしとげようと思った。事実かれは、その目的達成の寸前にまでこぎつけ、ドイツ、アメリカ及びロシアとの新条約はもはや締結されたも同然で、ただ批准を要するのみという状態にあった。この時、突如として、多数の日本人は不安をいだき始めたのである。内閣まで、このことで確執を生じた。かつては日本人すべてが望んでいた宿願を、多大の労苦と手腕でついに達成することに成功した大隈は、今では、外人に国を売ろうとする国賊であるとか、その他のばかげた非難を浴びるにいたった。このような一般の感情が最高潮に達して、今回の卑劣な暗殺行為となって現れたものである。・・・・
5月11日(東京)
大津でロシア皇太子に凶行。今日午後、報道がはいった――大津で、通路に配置された警官の一人が、露太子にサーベルできりつけ、その額に傷を負わせたと。ある程度これは、一種の売名的行為だと思う。しかし、近年次第に増大するロシアへの憎悪も、それにまざっていることは確かだ。
既に前からこの国では、何でものみ込むロシアが、いつかは日本にかかってくるのではないかと、恐れていた。ところが数年前、ロシアは東京目抜きの地点駿河台で、日本政府がロシア公使館の建設用として提供した土地に、豪勢な教会を建てた。この場合、奇妙なのは、ロシアの平民が一人として東京にはおらないことである。
さて、この大教会堂はその異様な形状で、本当に全東京を威圧している。そこで、当然のことに、ロシアへの非常な憤激が起った。これがだんだんひどくなった結果、ロシア正教の信者となったものは、ほとんど国賊と見なされるような有様に立ちいたった。
露太子来朝の報があった時、二、三の新聞――例によって例の新聞だが――は、国内を軍事上スパイする目的で来るのだという、正気のさたではない説をばらまいた。こんな説を信じたあほうどもが、実際にまたあったのだ! 恐らく今度の犯人も、こんな頭の狂った考えの犠牲者だ!
5月18日(東京)
日本側では、露太子をなだめるため、全く十二分をつくした。天皇みずからを初め、皇族方、閣僚の大部分、伊藤伯など、みなすぐに京都へ向った。露太子はすぐ本国から、帰艦の命令をうけた。極めて軽かったその傷は、数日後にはもうほとんどなおっていた。天皇及び皇后は、それぞれ露帝及び皇后に、懇篤なおわびの電報を打たれた。
明治25年3月8日(東京)
今日、ある出産に立会って。ヨーロッパの婦人が、自然に対してこの義務を果たすとき、まあ何という騒ぎ、何というわめき声だろう! 泣き叫ぶことを最大の恥としている日本婦人に対して、自分はいつも恥ずかしく思っている。  
日清戦争のころ
明治25年8月27日(東京)
ここ数日は、ヨーロッパ行きの用意をした。
今日、荷造り。妻(ハナ)は無言で根気よく、しかも上手にやるが、全く彼女でなければできないことだ。三歳のトクには、『オトウサン』がとても永いこと『ドイツ・ノ・クニ』へ『オバアサン』をたずねて行くということが、どういう意味かまだわからない。
明治26年8月17日:太平洋上、汽船オセアニック号にて
一年に近い不在の後、ヨーロッパや通過したアメリカ合衆国の旅からさまざまの印象を得て、いま帰るところだ。日本に近づけば近づくほど、ハナやトクやウタに会いたい気持ちが、いよいよ激しくなる。ことにウタには、生まれてから初めてだ。
8月21日(横浜):日本到着
ハナ、トク、赤ん坊のウタが待っている、『山手』のネムブリニ・ゴンザガ方へ。ハナは脚気でまだ少し顔色が悪い。トクは大きくなっていて、意外に元気だが、これはまる一ヶ月、堀内の海岸で遊んでいたからだ。ウタは、生後四ヶ月にしては、上出来の子で、焦茶色の大きい眼をしている。髪は僅かに濃いブロンド。
12月24日(東京)
クリスマス・イーヴ! だが、楽しいこの日も憂うつだった! トクの流行性感冒がすんだかと思うと、今度は、一週間このかた、かわいい盛りのウタが同じ病気で、重い肺炎を併発し、絶えず生死の境をさまよっている。妻の振舞は悲壮を極め、子供を昼も夜も、ほとんどその腕から離さない。それこそ全く『かの女の』子供といった形で、むしろトクの方がよけいに自分のことを案じてくれる。自分自身も流行性感冒にかかっているのだ。
明治27年7月25日(宮ノ下)
東京では号外が出た――鎮台の一部に出動命令が下り、予後備召集の準備が勧められていると。戦争らしい。
妻(ハナ)は子供たちを連れて、昨日こちらへ来た。われわれは山口の『別荘』(現富士屋ホテル)へ移った。みな元気で健康だ。ウタとトクは、この宮ノ下で大喜びだ。みなで一緒に木賀へ金魚を見に行く。
9月5日(宮ノ下)
清国側から出た報道によると、8月20日、平壌附近で大戦闘があって、日本軍は激戦の後、完全に撃破された由。日本政府は、この戦闘に関して何の公表もしない。清国側は作りごとがうまいから、万事はまだよくわからない。
9月8日(宮ノ下)
宮ノ下を去るのは残念だ。いまだかつて、日本でこんな楽しい夏を過ごしたことがない。しかも、妻や子供たちと一緒に、しあわせな日を送ったのだ。トクはここで、身体も精神も、驚くほど発育した。母親は、五歳になるこの児に毎日、日本の習字を教えたが、今ではとても進歩した。ウタの理解力にはびっくりさせられるほどだ。――おまけに、お天気のよい、からっとした夏、よいホテル、愉快な交際仲間。
9月21日(東京)
このとおり、日本軍はやっぱり勝ったのだ、しかも海陸で。すなわち、16日には平壌を占領した。損害僅少。また17日には、清・韓両国の境にある鴨緑江の河口における大海戦で、清国軍艦四隻を撃沈または炎上せしめた。
9月22日(東京)
日本人の態度が、一般に予想していたよりも有頂天になっていないことは、認めねばなるまい。今や第二軍が編成中である。時事新報を先頭に全新聞紙は、敵を完全に粉砕するまでは、いかなる条件のもとでも講和しないことを要求している。
12月2日(東京)
日本人の態度は、その大戦果からみて、模範的に冷静である。
かれらは、事を運ぶに先だち、あらかじめ結果をすべて決めてかかるほど、確かに自信満々たるものがある。こんな有様だから、日本の兵士がまだ旅順の近傍にすら達しないうちに、横浜市はこの要塞からの戦利加農砲の下付を請願した。ところが旅順は、予定されていた日の11月21日に陥落したので、横浜市民は加農砲が手にはいった。
旅順占領の絵も、ずっと以前から売出されていた。『グラフィック』誌は、日本従軍画家の信じられないほどの多作振りに驚嘆しているが、十枚の絵のうち九枚は東京で作られたに過ぎないことをご存じないのだ。
明治28年12月24日
あわただしいクリスマス。午前、往診。午後は横浜へ行かねばならなかった。
お友達をよんでいた子供たちのため、四時半にクリスマス・ツリーを。二年前のちょうど今晩、ウタは半死の状態からよみがえったのである。それこそ、われわれにとって何よりのクリスマス・プレゼントだった。今、ウタは、われわれすべての喜びを一身に集めて、元気で快活なかわいい子供だ。  
ウタの死を知らせる手紙 明治29年
2月28日:東京永田町2丁目
懐かしい皆さん!
久しくお便りをしませんでしたところ、いま、悲しい知らせでこの手紙を始めねばならない次第です。
かわいいウタがなくなりました。
一昨日の朝、食事の時、まだウタは、生れつきの愛嬌を一杯にふりまいて、わたしの側にすわっていました。お昼に、わたしが大学から帰ると、ハナ(妻)は、子供がかぜをひいたようだと申しました。夜になって、重い腹膜炎を起こしたのですが、この病気は大抵は命取りになるのが常です。そして、今から数時間前に、ウタの明るく澄んだ眼は閉じられてしまいました―永遠に。
子供が病気になった、ちょうどその日、ハナは『少女の祭り』への招待状を書くのにかかっていましたが、この祭りというのは、母上の誕生日である『三月の三日』に、この日本では毎年お祝いされるのです。しかも今回は、ウタも満三歳になる年にあたりますので、特に盛大に祝うことになっていました。初めてウタに洋装させるつもりで、かわいい服がすっかり取りそろえてありました。
ところが今、わたしたちのするのはそのお祝いではなく、あの子の―お葬いです。
このような花盛りの美しい子供を、急に失うということは、恐ろしい打撃です。何しろ、誰ともかけ離れて、ウタは、今までに見た子供の中でも、全く特別な存在でした。あの子は母親から、その気質の内面的な快活さと、同時にまた―子供ながらもある程度は認められるのですが―その堅固な性格と不屈の意志を受け継いでいました。特殊の魅力をもつ、あの子のとても大きい利口な眼には、誰もが驚嘆していました。そして、わたし自身がしばしば不思議に思ったのは、知合いの家庭のもう大人に近い令嬢たちが、ウタにまるで夢中だったことです。わたしがこの不審を口に出していうと、いつも与えられるおきまりの返答がこうです――
あの子は他の子供たちとは違いますと。
トクは、臨終の時、妹の傍にひざまずき、涙にむせぶ声で絶えず祈り続けました「お助け下さい、どうか妹をお助け下さい」と。わたしはトクを、室外へ遠ざけねばなりませんでした、トク自身が病気になる心配があったからです。
ハナの態度は、ローマの女のようでした。ハナだけは、病気のあいだ、泣きませんでしたし、その声は震えてはいませんでした。しかし、その内心はどんなであったか、わたしにはわかるのです。ウタは、ハナにとって唯一のものであり、すべてでもあったのです。わたしが読んだり、書いたりしている時、ハナはよくやって来て、いったものです「まあ、ちょいと、早くいらっしゃい。ウタが、すっかりご機嫌で、とてもかわいらしく遊んでいるのを見てやって下さい!」と。そしてハナもまた、わたしの友人と全く同じことをいうのでした「まるでうそのようですが、大人でさえ一日中、時のたつのも忘れて、この子と遊んでいられます」と。
事実、ハナにとってウタは誇りであり、今からその将来までも、はや夢みていたような有様でした。世の中に出て、完全に独立独歩でやれるよう、ウタに学問をさせねばならぬとか、あるいは何か役に立つことを習わしておかねばならぬなどと。―ですから、ハナの冷静の裏にどんな感情が潜んでいたかを、わたしはよく知っていました。それだけにわたしは、最後の瞬間が気がかりでならなかったのです。
果たして、抑えに抑えていたその内部の力も、ついにその瞬間にいたって爆発し、せきを切った奔流となり、あらゆる感情のすさまじいあらしが、かの女ゆすりにゆするのでした。それは、悲痛にたえかねたのではありません。痛憤きわまりない感情をまじえた悲痛なのでした。それは、現世で最愛のものを奪い去った運命への反抗でした―しかもその子たるや、生まれてから死ぬまで、ほとんど一夜として、かの女に抱かれないで眠ったことはなく、まるでその筋の一つ一つが、かの女の奥底に生えつながっているかのような子であったのです。
万事休し、呼吸も心臓もとまってしまった時、ハナはあの子の小さい体をひしと抱きしめ、体温を与えてよみがえらせようとするのでした。それから、子供をゆすぶり、泣き叫ぶのです「ウタ、そんな振りをしてはいけません。お前は死んではいないの。死んでなんかいるはずがないのよ」と。そして、自身の息を、子供の口から肺の中へと吹き込むのでした。「さあ、息をしておくれ! ほんの一息でいいから、ほんのひと――一息」。
今はもう真夜中ですが、ハナもやや落着いています。なきがらの側にひざまずいて、一言も発しません。しかしわたしは、寝るように勧めるつもりです。知合いの女性が二人、お通夜をしてくれています。
明後日、私たちはかわいい子供を葬るのです。
思っただけでも、それはたまらないことです! どんなにあの子は、わたしを慕っていたことか。わたしが帰宅する時、馬車か人力車の響きを聞き、召使が日本の風習で「だんなさまのお帰り」と叫びますと、あの子はどんな遊びをしていても、そのままにやめ、ちょうど手にしていたものが何であろうと、すべてをほうり投げ、ちょこちょこと小さな足で大急ぎに急ぎ、両手を広げてわたしの方へかけよって、わたしの脚に抱きつき、わたしが抱いて高く挙げてやるまでは、小さな頭をわたしに擦り付けるのでした。高く挙げてやると、あの子は特有の笑い声をあげるのですが、その声は今でもなお、耳に残っており、わたしにとっては何よりも甘美な音楽でした。
もう過ぎ去った、過ぎ去ったことです!
翌朝――
いや、あまりにもむごい! いろいろな方面からまだ人形や、おもちゃや、美しい色模様の絹の反物など、すべて楽しいお祭りを祝って、小さいウタへの贈り物が参ります。それというのも、今日は、ハナがウタのため、初めての盛大な子供の集会をやるよう、招待を出しておいたからです。しかし今となっては、幼い心を悦ばせるこれらの品々も、死んだ子供の側に空しく置くよりほかはありません。哀れな母親は、全く胸も張り裂けんばかりです。わたし自身も、涙の乾くいとまがありません。このかわいそうな子供が、せめてこの日を楽しむぐらいのことは、許されてもよさそうなのに、なぜいけないのでしょうか?  
北清事変(義和団の乱)の頃 明治33年
4月9日(京都)
けさ未明に、神戸からこの京都へ。一面に春の美しい装い。祇園のそばの公園内のにぎわいは、今すこぶる面白い。サクラはちょうど満開で、たくさんの人々をひき寄せている。にわか作りの茶店ないしは、燃えるように赤い覆いをかけた簡単なベンチに、時としては色とりどりの幕を張りめぐらしただけのものが、至るところにある。
またここには、でかでかと広告した、鳴物入りの『百美人見せ物』もある。これは百人の芸者の写真を陳列したもので、入場料五銭。入場者はそれぞれ、どの芸者を一番美人と思うかを記入する――というよりはむしろ、記録係に口で伝えるのだ。これらの若い芸者のうちで、最多数の投票を得たものが六百円の賞金をもらう! すべて、東京にある類似の催し物のまねごとである。全く特異であり、しかも文化史的、民族史的にいってはなはだ興味のある点は、日本人の選んだ入賞者がヨーロッパ人の眼には賞に値しないものであり、またその逆も真であることだ。
6月6日(東京)
・・・・清国でも、おもしろくない模様である。ロシアは、暴動を鎮圧するために自国の軍隊を派遣することを、清国政府に申し出たそうである。フランスも結局、一緒に巻きこまれねばならないことになるかもしれない。よしんばそれがどんなに辛くとも。もしロシアの友情を傷つけたくないのなら、『やむにやまれぬ』ことだ。・・・・
6月13日(東京)
・・・・政情不穏、ますます不穏。清国では、ロシアが大沽に砲二十四門を有する四千名を下らぬ兵を、またイギリスが一千名をそれぞれ上陸させた。天津から北京への鉄道は破壊された。数名の西洋人が殺害された。ながらく気づかわれていた『大戦争』がここで始まらねばよいが――。
6月17日(宮ノ下)
清国の政情は険悪である―険悪! 清国人は、暴徒ですら、決して一般に考えられていたほど『無視してよい存在』ではない。・・・
英国のシーモーァ提督が1400名の各国連合軍を率いて、天津から北京に進軍した。恐らく誰も信じていただろう、提督が何の抵抗も受けず、間もなく首都に到着するものと――約140キロの行程。ところが、再三再四電信を破壊されながらも、とにかく届いた報道はといえば、その軍隊が前進していないことばかり伝えている。暴動及び外人に対する清国政府の態度は全く不明である。北京にいる外人の状態は危険きわまりない。
6月18日(宮ノ下)
・・・この場合、救援できる立場にあるのは日本とロシアのみである。両国だけが、相当大部隊の兵を出せるのだ。明らかに暴動は、清国全土に拡大する恐れがある。
単独では今、ドイツは何もできない。ロシアの家来になりたくなければ、イギリスと日本に結びつくよりほかはないが、よりによってこの両国たるや、前者はドイツ国民から、また後者はドイツ政府から、それぞれ念入りに手ひどい扱いを受けていたのだ。
7月6日(宮ノ下)
・・・・日本は驚くほど平静に身を持している。一軍団を北京に派遣しても、至極当然の話と思われるほどなのに。だがヨーロッパ諸国は、自国の公使を見殺しにする方が、その救出を日本に依頼するよりはましだとでも思っているようだ。なさけない嫉妬心!――今までのところ、日本軍は清国で断然頭角をあらわしている。恐らく東京のドイツ公使館でも結局、日本を『ばかにしない』方が利巧であることを悟るようになるか、あるいは少なくともそうなる希望があるようだ。他国の公使館ではすべて、こんなことをとっくから認識していたのである。
7月10日(東京)
・・・・海外のこの方面におけるわれわれドイツの利害がイギリス及び日本のそれと一致する――いや、一致せざるを得ないことや、ロシアと争う場合には、日本がわれわれにとって無限の価値をもつことを、一体いつになったら悟るようになるのだろう! だがロシア恐怖症が、一切の理性を抑えつけてのさばっているのだ。
清国からは、別段の情報なし! ところで、ウィルヘルム皇帝は陸戦隊の出発にあたって、またもや演説をされたが、その際しゃべりながら興奮してかんかんになってしまわれた。再三『復讐』という言葉が使われた――というよりはむしろ、口をついて飛出した由。
これと全く対照的に、日本人の徹底した平静ぶりは、何と感じのいいことだろう。誰もかれもが、まるで何事もなかったかのようにおちついて、静かである。それでいてこの場合、かれらの手中に決定権はにぎられており、しかもそれをかれらは百も承知なのだ。
7月22日(宮ノ下)
非常におもしろい文書――もう何回となく死を伝えられていた清国皇帝が、日本の天皇に一書を呈していわく、清・日両国は東洋の国として西洋諸国に対抗して協力するのが当然であり、日本はよろしく清国の平和を回復すべきであると。これで日本は、ヨーロッパだけではなく、清国自身からも依頼を受けたわけである。日本の地位は、本当に素晴らしいほど強固である。日本の天皇の返書はすこぶる威厳のあるものだが、単独行動の点では全く拒絶的である。日本は列強と協同でのみ行動することをのぞんでいるのだ。
8月4日(日光)
・・・・特に興味をおぼえたのは、天津から来たパウェルで、氏は数々の話題をもっていた。氏の事務所は、清国兵ではなくロシア兵により、すっかりこなごなに破壊され、略奪されたし、ブーフハイスターの事務所はフランス兵にやられた。ヨーロッパ各国の人たちは、自国の兵士がわれ勝ちにみんな略奪したことを、異口同音に認めている。それでいて、清国兵を非難し、野蛮人呼ばわりをしようというのだ!  
日露戦争前年 明治36年
9月15日(東京)
二ヶ月この方、日本とロシアの間は、満洲と韓国が原因で、風雲険悪を告げている。新聞紙や政論家の主張に任せていたら、日本はとくの昔に宣戦を布告せざるを得なかったはずだ。だが幸い、政府は傑出した桂内閣の下にあってすこぶる冷静である。政府は、日本が海陸共に勝った場合ですら、得るところはほとんど失うところに等しいことを見抜いているようだ。・・・・
10月20日(宮ノ下)
外交上は相変らず何の決着もない。・・・だがしかし、もし日本が本当に韓国を占有する意志なのであれば、行動に出るのは今だ。ロシアが永住的に満洲に腰をすえるのを黙って見ておれば、韓国も失ってしまうだろう。こんなことは日本の誰にも判っているのだ。だから、何のために依然として談判を続けているのか、全く不可解である。一日一日がロシアにとっては有利、日本には不利となるのだ。・・・
12月14日(東京)
ローゼン男(爵)は困難な時局に当面している。・・・男は非常に親日的と見られており、事実またその通りである。だがその男も、今ではやはり日本の主張に腹を立てて、英国が同盟の力を認めることにより日本人の頭を狂わしたものと称している。「われわれは徹頭徹尾平和的で、決して侵略的ではない」と男はいった。そこで自分は一言さしはさましてもらったのである。――とにかくロシアは、他国の眼にはすこぶる侵略的に感じられる、満洲占領は日本人から大いに侵略的な行動と見られていると。すると男は沈黙し、ただ肩をすくめるばかりで、何だか口の中でつぶやいた。
12月21日(東京)
政治的に一向からっとしない空模様である。戦争はますます不可避だ。ロシアは日本をなめてかかっている。戦備は整えるし、韓国と清国では勝手気ままのし放題という有様で、しかも一方ヨーロッパには、極めて平和的な報道をばらまいているのだ。
12月23日(東京)
ロシアが最後の瞬間にでも譲歩しない限りは戦争だ、とは誰もが信じているところだ。ロシアは、全くのところ愚弄的というより他に表しようのない態度で、徹頭徹尾日本を取扱っていた。
日本側の申出に対しては、まる六週間も全然回答を寄せない有様で、その口実たるや、例えば、皇帝が目下ペテルブルグに居られないから――だとか、皇后が中耳炎を患っておられるから! ――などと、空々しい極みである。しかもその期間を利用して、絶えず軍隊と軍艦を東亜に派遣していたのであって、これがためその艦隊は、現在既に日本側の勢力と同一程度にまで達してしまった。
その間に露帝はドイツとオーストリアから、東亜の紛争に乗じて漁夫の利を占めるような行動に出ない旨の言質を得ていた。他方においてフランスは、日本を一そう孤立せしめるため、イギリスと親交関係を結ぶよう示唆されたらしい。確かに抜け目のない政策だ! ロシアは、日本側から止むを得ず宣戦を布告するように仕向けようと思っているのだ。しかも日本としては、好戦的との評判を免かれる必要上、このように自国側からまず宣戦を布告することこそ、絶対に避けたいところなのだ。・・・
12月27日(東京)
・・・ペルシャの一要人が来訪した。前宰相である。イギリス側では氏に非常な好意を示している。しかしロシアの方でもまた、氏のために便宜を計るよう指令を受けている。
氏は表向きは単に遊覧の目的で来訪したとのことであるが、内実は日本の事情が、英露両国間の板ばさみになっている氏の興味をひいているのだ。何しろ全アジアにおいて、現にヨーロッパの支配下にあるか、またはその支配下に立つ虞れのある民族の間には日本の名声、すなわちヨーロッパ人から同権と認められており、外国が全然征服の意図を有しないアジア唯一の国家、民族としての日本の名声が普くひろがっているからだ。
この前の冬は、シャムの皇太子が来訪された。皇太子が日本の姫君との結婚を望んでおられた由のうわさには、バンコックで事情に通じているはずのツェルニヴィ大佐自身の認めた如く、確かに真実の点があったのだ。しかしながら、皇太子は空しく帰国された。・・・
次いでインドの学生と仏教の僧侶が来訪し、つい最近にはカプルタラの大王の来訪をみたが、その主な目的は、日本の美少女は別として、何が故にアジアにおいて唯一日本のみが、このように独立自主であるかの真相を知るにあった。
王は繰り返し自分にこの点を質し、露国公使ローゼン男にも同じことを尋ねた。自分はそれに答えて強調した――日本人は(千年以上にわたり築き上げられた、栄誉ある武門の流れをくむ点は別としても)割拠主義のインド人とは大いに異なり、顕著な異身同体の国民的感情を持つもので、しかも国民全体がそうなのである。この国民には、国家の危急存亡のときを弁える顕著な天性がある。そしてそんな場合には、匹夫といえども、自己並びに一家のあらゆる欲望を我慢することが出来るのである。
これに加えて甚だ重要なのは、自覚を以て新日本を建設した、一部の有力な政治家の極めて達観的な政策である。・・・  
日露開戦直前 明治37年
1月2日(東京)
五時のお茶の時、英国公使館付武官ヒューム陸軍大佐並びに、ジャーディン海軍大尉とエー・バナーマン卿の両英国士官と共に政局を語る。この両士官は当地駐在を命ぜられて、まるで通訳になるかのように日本語を勉強している。だが、ジャーディン大尉は素直に断言した「要するにわれわれは、この戦争だけが目的でやって来たんですよ」と。この言葉は、英国が四ヶ月以前において、既に戦争を必至とみなしていたことを、十分に表明している。
1月3日(東京)
予想されたとおりロシアは、少なくとも清国に向っては、日本の隠忍を恐怖だと示唆している。こうなってはもう、断の一字あるのみだ。いつのことだ――いつ、日本は馬山浦を占領するのだ! 京城駐在のパウロフ露国弁理公使は、折もあろうに今この時に、馬山浦の土地を韓国に要求するという、高慢な態度に出た! 日本に対する歴然たる侮辱だ!
一般には、日本側から戦端を開くのも間近いことと観ている。日日新聞ですら、今では結局戦争を、しかも即時の開戦を促す有様である。恐らく日本も、宣戦を布告することはなかろうが、戦端は開くだろう。もしやらなければ、本当にばかだとののしられても仕方がないはずだ。
1月6日(東京)
日本の強硬な態度は、ヨーロッパに感動を与えた。『ヤパンポスト』紙の一電報によれば、ドイツの新聞も今では、ロシア側の完全な譲歩によってのみ平和を保ち得る旨の見解らしい――これは久しい以前から当地のわれわれが抱いていた見解だが。但しこの譲歩は、文字通り完全なものでなければならんはずだ――というのは、ロシアがこんな譲歩をした場合ですら、それは後日戦端を開くため、単に好機をうかがっているにすぎないことを、日本は余りにもはっきり知りすぎているからだ。従って現在の事態では、ロシアが最後に至って譲歩することは、決して日本の歓迎するところではなかろう。・・・
現内閣の過度の隠忍振りをあれほどしばしば、しかもあれほど猛烈に攻撃したジャパン・タイムスは、今日突如として、その内閣が、しかもその隠忍自重により『全世界の絶賛』を博した!と、書立てている。
フランスが、清、韓両国内で政治的の煽動を始めた。北京駐在仏国公使は、速やかにロシアと協調するよう清国側に勧告し、また京城駐在の同国公使は韓帝に、フランスの保護を受けられるよう進言したとか。これは、直接日本に対する敵性行為を意味する。・・・・
2月7日:交渉決裂 戦争!
さあ戦争だ――ないしは、戦争も同然だ。
日本側の再三にわたる厳重な督促にもかかわらず、いまだになんらの回答にも接せざるをもって、ここに日本は交渉を打切る! 旨、一昨夕、小村外相はローゼン男爵に通達した。
ローゼン男爵はロシアの利益代理をオーストリア公使に一任したが、引揚げは金曜日になるらしい。
男爵には誰もが、心から同情を寄せている。男爵が真に日本の知己であることは周知だ。二年半の昔、自分が男爵とその夫人にミュンヘンであったとき、夫妻は日本への深い望郷の念を語っていた。東京への再任命に接したとき、夫妻はしあわせで、心から悦んでいたが、もちろん、いかなる難局がその前途に横たわっていたかを、知る由もなかった。弁明の余地なき自国の侵害的なやり方を代表すべき使命をば、人もあろうに、男爵が引受けねばならなかったことは、全く気の毒である。日本人を毛嫌いした前任公使イスヴォルスキーなら、さだめしこんな使命を快しとしたことだろうに! ・・・・
2月9日(東京)
今朝、日本側の要求および対ロシア交渉に関する政府の公表があった。それによれば誰でも、日本が我慢し切れなくなって交渉を決裂させたことを、もっともだと思わざるを得ない。もちろん、ロシア政府はこの機会を利用して、日本を平和の破壊者と宣伝している。しかしながら、おそらく何の役にも立つまい。
事実は、ロシアが厳粛な誓約を守らなかったことから、平和が破られたのに相違ないのだ。日本はその立場を簡明に発表し、その忍耐により世人全般の(少なくとも公平な人々全部の)同情を確保した。・・・・
開戦
第一報――7日(すなわち一昨日)仁川港碇泊中の巡洋艦ワリヤーク(6500トン)及び砲艦コレ―ツ(1800トン)は、長崎・大連間の連絡に従事する東シベリア汽船の大型新造船二隻と共に、わが軍に拿捕せらる。
続報――わが軍は仁川に上陸し、直ちに京城に向け、引続き進撃中。・・・
みじめな状態にあったのは、京城駐在のロシア公使だろう。公使の日本に対する極端な愚弄的態度は有名なもので、日ごろから韓帝に、断固としてロシアに刃向う勇気が日本にあるとは、とうてい考えられないと、吹き込んでいたのである。・・・  
宣戦布告 明治37年
2月11日(東京)
宣戦布告――今日は「紀元節」といって、2564年(!)の昔、日本最初の君主、神武天皇が即位した日であるとか。この日を利用して天皇は、対露宣戦を布告した。それは中庸を得た布告文で、どこでも好印象をもって迎えられることだろう。
旅順沖の大海戦はまだ相変わらず、公式に確認されていない。
午後――
今なお東郷提督の公報が出ない。非常な憂色がみなぎり始めた。
幸いにして――パリ経由で――アレキシェフ(総督)のペテルブルグ宛の報告が伝わってきた。それによると、日本軍の勝利は、昨夕伝えられたほど圧倒的ではないが、それでも極めて著しいものがある。
旅順沖の第一戦で戦艦二隻、巡洋艦一隻が甚大な損害をこうむったことは、アレキシェフ自身も認めている。「然れども、これら諸艦はなお水面上にあり」と称するのだ。アレキシェフの第二報によれば、二日目(すなわち九日)戦艦一隻、巡洋艦三隻が水線部に損傷を受け、従って戦闘力を失った由で、しかもこれは、ロシアが極東にドックをもたぬため、決して一時的のものとはいえない。だがしかし、アレキシェフの報告は、日本側になんらかの損害を与えることができたとは、一言も述べていない。
夜――
ようやくにして東郷提督の報告があった。それははなはだしく控え目のものである。事実その報告によれば、日本側の戦果を、ロシア側の自認しているよりも僅少に推定することすら、あえて不可能ではないくらいだ。
九日の夜から十日にかけて、大暴風雨があった結果、東郷は自軍の艦艇と、ボートによる連絡がとれなかったらしい。とにかく、今までに露艦九隻が戦闘不能となったのに反し、日本側では著しい損害をこうむったものは、一隻もないことだけは確実だ。・・・・
2月16日(東京)
戦争の第一報――もっともそれは、誇張されてはいたが――によってヨーロッパのうけた深い感動が、だんだんと判って来た。今度という今度は、さすがのドイツも、無敵ロシアのもろさ加減が、こうも暴露されたのを見ては、いよいよ目を覚まさざるを得ないだろう。なかんずくこれは、あからさまに日本人を軽侮し、一途にロシアを賛美してはばからなかった、東洋におけるわが海軍と役人連中によい薬だ。おそらく今ごろ、かれらの中の若干の者は、昨年の夏、自分と語ったときの話を思い出していることだろう。
あのとき自分は、日本の方からロシアを攻撃するが、しかもその際、十分勝算があるとの意見を述べたところ、素気なく笑殺された。そして、さすがに日本人を観る点にかけては、かれらの中の誰よりも勝れていると賞められるどころか、反対に、盲目的な日本びいきとして、ヨーロッパ式に物事を量る尺度をなくしてしまったのだといわれた。だが、こんな非難は、友人や親戚の者からもうけて、もう慣れっこになっている。そしてこれは、自己が世の中で観たり覚えたりしたことを、祖国のために役立てようとすれば、誰でもつねにうける非難なのだ。
3月8日(東京)
日本は韓国と、きわめて重要な協定を遂げた。韓国ならびにその宗室の独立性を承認するも、その施政は、日本の援助によりこれを改善すべきこと。更に韓国は、日本の同意なくしては、なんらの企画、ことに第三国との交渉を行わざることとなった。日本の要求ははなはだ控え目である。まずさしあたりというところか?
韓国では、この協約締結の衝にあたった李址鎔と、その同僚の一人に爆弾が投ぜられたが、この暗殺の企ては失敗に終った。
排日派が、またもや京城で活動している。日本側がむざむざその反対派を逮捕させないでいるのは不思議だ。その一人に対し、日本側では訪日を勧めて害を除いた。その男とは、悪賢い李容翊である。かれは目下在京中で、日本の大の知己であるかのように見せかけている。だが、この古タヌキのことは判っているのだ!
しかし、他の親露派吉永沫と白礼雲は平壌にあって、韓人を煽動しているそうだ。日本軍はもう平壌を占領しているのに、変な話だ。それとも、全く上辺だけでも、韓国内部の事件に干渉するように思われるのを、避けようというのだろうか? それで、日本側では京城の政府に交渉して、あの連中の策動を禁止するよう要請(?)したとか。
一昨日、京城のドクトル・ブンシュから手紙を受取ったが、最高の敬意を文字に表して、日本軍の規律と態度を述べている。日本軍はかれに非常な感銘を与えたらしい。外交上の出方もまた、節度に適った点で優れていると。
4月12日(東京)
午後、広瀬中佐の葬儀。国民葬の形をとる。・・・かれの死は悲壮を極めたもので、敵の砲台と軍艦からの激しい砲火の下で、底荷積載の船を、すでに爆沈せしめた後であったが、部下の勇敢な機関部員の安否をも確かめるまでは、身の安泰をはかろうとはしなかった。
かれは三度、甲板下に赴いたが、結局、その部下を発見することはできなかった。空しい捜索の後、ついにかれがボートに飛び乗ったとき、一発の砲弾がその身を引裂き、ただ「一片の肉塊」がボートに遺されたにすぎなかった。これは鄭重に保存せられ、今日、東京の青山で埋葬された。天皇は後から、すなわちその死後、かれの身分としては破格の位階昇進を許された。
このような死後の名誉表彰は、ヨーロッパ人には不可解に思われるが、これにより後世の人々すべてをして、輝く栄光の中にその先人を仰がしめ、単にその生涯のみならず、その死もまた、祖国のためであったことを示すのであるから、決して無意義ではないのだ。かれのために記念碑が建てられる由。  
旅順の陥落 明治37年
10月23日(日光)
北海における珍しい出来事が、イギリスを極度の興奮に陥れた。バルチック艦隊が、罪のないイギリス漁船を砲撃し、二隻を沈没せしめ、多数の人々を殺傷したのである。まだ公表はないが、強いて説明をつければ、露艦が盲目的な対日恐怖症から、(理性のある者なら、どうして日本の軍艦がそんな場所に現れるか、想像もできないはずなのに)罪のないイギリス漁船を日本の水雷艇と誤認したものと解釈するよりほかはない。・・・・・
10月28日(東京)
バルチック艦隊は、フランスの港湾そのものの中で、石炭の供給をうけている。これは、明白な中立違反だ。・・・・
「ロイター電」によれば、イギリス全土は、ハル港漁船事件で激怒しているものと信ぜざるを得ない。もちろん、それはもっともなことだが、しかしイギリスは、バルチック艦隊をやっつけることまでは考えていない。なぜなれば、イギリスの計画におあつらえ向きなのは、日本もまた、あまり強大にならないことであるからだ。かくてこそイギリスは、東アジアで思いのままに振舞えるのだ。イギリスの政策のこんなねらい所は、元来、だれにだってわかるはずなのだが、日本の新聞はわからない――否、それを知りたくないのだ。・・・・
・・・午後、女子学習院の運動会へ。これは、年に二回催される。六百人の女生徒全部が参加した。数々の体操や遊戯は、全く申分なく、その出来栄えも同様に結構だった。徒手体操は、身体のあらゆる筋肉を鍛錬するよう、適当に選んである。二十五年前を回顧する時、女子の体育方面における進歩は、確かに驚異的である。しかし、自分の傍におった外交団主席ド・アネタン氏は、それと共に、日本の女性独特の優雅な点が害われることをおそれている。あるいはそうかも知れない。氏のいわく「これらの少女たちは、もう今までの日本婦人のように、優しくしとやかな女ではなくなるだろう」と。しかしながら日本も、上流階級に壮健な婦女子を望むとすれば、結局、一つくらいの代償は払わねばなるまい。
11月26日(東京)
報道によると旅順総攻撃が開始されたそうだ。
日本とアメリカ――サンフランシスコのアメリカ労働総同盟は、合衆国とその領土より完全に日本人を閉め出すことを一致で決議し、この趣旨を国会に陳情する件を可決した。これはもちろん、ワシントンでのルーズベルト大統領による伏見宮の歓迎を機会に、先日、日本の新聞がアメリカを謳歌したあの気勢をそぐものだ。・・・しかしながら、こんな経験すらもなお、日本人のアメリカ盲信の迷夢を覚ますにはいたらない。日ごろ、ドイツの対日敵性を証明するためには、いかなる機会をもとらえてのがさない『朝日新聞』は、相変わらず確信していわく「アメリカの太平洋沿岸地方でも、もっと日本人を知るようになれば、必ずや日本人を排斥しないようになるだろう」と。ところが、同地方こそは現在すでに、日本人を一番よく識っているのだ。
フランスに対しても、その中立違反事件では、穏やかな応対振りである。ただドイツのみが、しかも近ごろのその態度には、非難の余地がないにもかかわらず、はなはだしく憎まれているのだ。・・・・
12月1日(東京)
旅順付近の有名な203高地が占領された。これは、日本軍にとって勝利と称すべきものだ。この高地からは、旅順の港がすっかり見おろされるとのことである。・・・
どの国が、最近その態度を一変したかといえば、それは単にイギリスだけで、すなわち、その同盟国たる日本の利益のために、ロシアを手こずらせるどころか、反対にスエズ運河で、あらゆる便宜を与えたのであった。確かにロンドンではチベットの件で寝覚めが悪いのだろう、それで、万一ロシアの勝利となった場合のため、予防工作を企てているのだ。
12月8日(東京)
203高地は、噂にたがわず、非常な重要性をもっているらしい。日本軍は、同高地からの砲撃により、三隻の主力艦を戦闘力皆無の状態に陥れてしまった。このところ、気勢があがっている。
12月10日(東京)
旅順の露艦を撃破する作戦は、進捗している。
ロシアは、ルーズベルト大統領のヘイグ会議勧誘を拒絶し、いかなる調停にも応ずる意志はないと。
ロシアは、東アジアに向ける第三艦隊を編成しようとしている。
12月15日(東京)
朝六時、大磯に赴き、正午に帰京して、青木、ハッツフェルト両家の結婚式に、かっきり間に合った。ドイツ公使による戸籍上の挙式で、公使は戸籍吏の役目を務めた。
首相桂伯爵は、結婚立会人として出席していた。祝宴の後で自分は、伯がその心労と激務にもかかわらず、依然として元気で快活な様子であることは、同慶のいたりであり、また政党が伯を悩ますことのはなはだしいのは、遺憾にたえないと、伯に述べた。「だがね、今日はうまく行くよ」と、笑って胸をたたきながら、伯がいった「政党との折合いは、この胸一つにありさ。政党は、政府の予算に対する質疑を、ほとんど全部撤回したんだ。この足で、すぐ議会へ出るが、そこで万事は、すらすらとはかどるよ」と。
明治38年1月2日(東京)
旅順陥落! 大吉報――旅順開城す。日本にとって、なによりも素晴らしいお年玉である。ステッセルは一月一日、乃木に書簡を送り、降伏に関し交渉開始の意ある旨を告げた。この報道は昨朝すでに、天皇のもとに達したのであるが、奇妙なことに東京では、二日にようやく発表され、一方ワシントンでは、元旦早々に知れわたっていたのである。  
奉天会戦 明治38年
明治38年(1905年)1月5日(東京)
今日、宮中の盛大な新年宴会。各国公使を除けば、またも自分は唯一の西洋人であり、しかも、金糸入りの大礼服姿の百官に混って、たった一人の燕尾服だった。なにしろ、勲四等以上の日本人はいずれも、けばけばしく刺繍で飾り立てた大礼服をもっているからだ。・・・
天皇は、広間の一端の離れた壇上に、東面して着席される。その左右に、一段下がって、各皇族の席がある。・・・自分は、いうまでもなく当世の花形である東郷提督の筋向いに席を占めたので、その顔立ちをくわしく観察することができた。かれは面長で、頬骨はほとんど目立たず、上り下りのない真直ぐの眼、高くはない鼻だ。ゴマ塩の鼻下ひげがある。全体として、その顔はいささか日本人離れがしている。・・・
宴会は純日本式で、紐飾りの付いた服装の給仕が銀瓶から注ぐ一杯の酒で、例のように始まる。それから、各自の前に黒い漆塗の盆に盛って並べてある料理に手を出す。皇室の紋章入りの酒杯は、もちろんのこと、誰もが大変ほしがるものである。マツ・ウメの花・タケに、長寿の表徴であるツルとカメを配した「幸福の山」(蓬莱山)の象徴的な飾物もまた、各自包んで帰って差支えない。・・・家では召使い一同が、この宴会の「幸福の山」のふもとに盛られている菓子の、よしんば小さいかけらの一つでも、各自にゆきわたれば、大変ありがたがるからである。
1月16日(東京)
日本軍は、敗れた敵軍に対して、非常に騎士的な態度を示している。これには、おそらく打算的な気持ちも混っているのだろう。がしかし、事実は事実なのだ。乃木将軍は長崎の知事に一書を送って、ステッセルをしばらくの滞在中、特に鄭重に取扱うよう依頼した。乃木としては、これは確かに心底からの希望である。
1月22日(東京)
アメリカは清国に、厳正中立維持の要求を突きつけた。そしてドイツ、イギリス、イタリアの三国と組んで、交戦国側にこの点を厳重に警告し、ことに門戸開放の原則をも強調しようと目論んでいる。門戸開放の点は、平和の暁には、特に日本への要求になるわけだから、今からすでに満洲を、外人に対して思いのままに振舞える日本の勢力範囲とみなしている。多数の性急な東京の連中のお気には召すまい。奇怪なのは、アメリカが何事にも出しゃばるのと、また日本がそれに対して「有難う」と礼を言っていることだ。
3月9日午前10時(東京)
日本軍大勝利! ロシア軍は、全線にわたって退却中である。奉天は占領され、鉄道はその北方で遮断された。黒木軍はロシア軍の左翼を迂回し、これを西方に圧迫しているので、ロシアの中堅全軍は最大の危機に瀕している。日本軍は、鉄嶺をもやがて占領する見込みである。そうなると、退路はことごとく遮断されてしまうことになる。
3月9日夜(東京)
奉天はまだ陥落していない! またもや新聞のデマ!
だが当地では、戦闘がこのような結末をみることは確実だと見なしている。
3月10日午後(東京)
号外が乱れ飛ぶ。だが今日の唯一の公表は、ロシア軍の全線にわたる退却と日本軍の追撃とを報ずるのみで、大砲や捕虜の戦果にはなんら触れていない。しかし号外は、ロシア軍の敗北を徹底的となし、戦利品を莫大と称している。
深更――
大勝利! 奉天は陥落した。時に今朝十時。広報にいわく「わが包囲作戦は成功せり。わが軍は奉天を占領し、俘虜・大砲その他の戦利品莫大なり。今朝、なお戦闘継続中」と。
3月18日(東京)
クロパトキンが、総司令官の職を解かれた。後任はリネウィッチである。
この報道は、今日、ホテルのすぐ側の市立公園で行われた、盛大な奉天戦捷祝賀会にちょうど間に合った。公園にいたる広い道路を、無数の団体が色とりどりの旗を押立てて、目もあやな制服の少年音楽隊と共に行進して来る光景は、全く絵のように美しい。道路自体も色彩で満ち溢れている。屋根や高い柱からは、万国旗を豊富につるしたひもが放射状に、あるいは筋かいに、道路上に張られている。公園の入口には、紅白の布をまいた高いさおを交叉して、二つの大きい日本の旗――普通の国旗と旭日の軍旗――が立ててある。 
公園のひろびろとした運動場には、やはり放射状に小旗をつるした大きい柱、派手な色彩を施した壇が設けられ、そこで市長が祝賀演説をやった。通路に沿って幾百となく並んだ、白い文字入りの紫の団体旗は、長い竹ざおに結びつけられているが、子供にでももてるほど軽い。刺繍入りの重い絹の旗は、当地では宗教上の行列、ことに法華宗の行列の場合に見受けるにすぎない。毎度ながら、民衆の静粛で、秩序ある態度には驚嘆せざるを得ない。物すごい人出の市立公園が、ほとんど劇場と変わらぬ――もっとも、うるさい音楽は別だが――静けさであった。それでいて人々は、このような場合のわれわれと全く同様に、心の底から慶んでいるのだ。
ここで念頭に置かなければならないのは、もちろん日本には旗亭の類が存在しないことである。一人として泥酔者を見かけなかったし、警官もまた群衆中では見受けなかった――ただし入口のところには、騎馬や徒歩の警官が大勢ひかえていて、極めて静粛に、すさまじい人の流れを整理していた。左側通行が、当地では規定になっている。警官は、公園に通ずる道路の中央におって、単に突立っているだけで、各人が左側を行くように取計らっているのだ。  
対馬沖海戦前の日本 明治38年
3月16日(東京)
午後、結婚式の後の日本式披露宴に出席。唯一の西洋人だった。長与又郎博士の令妹が、一青年医師と結婚したのである。そして今日、帝国ホテルで300人の客を迎えて、その披露宴が行われた。・・・
新婦は、日本婦人の正式礼装である。白の下着に黒の絹服をつけていた。それには幸福の山「ホウライサン」の意匠が刺繍してあったが、この意匠は、結婚の贈物を包むのに用いられる「フクサ」という、金糸入りの四角い絹布片にしばしば見るもので、すなわち松と竹と梅の花である。会衆の男子をつくづく眺めたとき、その衣服が今ではぴったり似合っていること、かれらが洋服に慣れ切っていることが目についた。25年前、このような場合の日本人の様子とは、なんという相違だったろう――服はたいていだぶだぶで、下着類は汚れ、猫背で膝が曲っていた。・・・
3月21日(東京)
日本の力が増大するのを、合衆国では邪推の眼でみる徴候が、いよいよ著しい。二週間前にはカリフォルニア州の立法会議が、ワシントンで日本移民制限の措置を提案することを決議した。一週間前には議会の一委員会の委員長が、アメリカは何時なりと日本にほこ先を向け得るよう、その艦隊を増強せねばならないと公言した。そして今度は移民委員会が、日本人はアメリカの公民になれないとの理由をもって、テキサスにおける日本人10名の帰化を無効と宣言した。・・・
3月27日(東京)
目覚しい日本の財政――日本の内国公債は、おそらく五倍の申込み超過になるらしく、そして今度は、ロンドンとニューヨークで三億円の新公債を起したが、しかもその条件たるや、一割引発行で四分五厘の利子という、すこぶる有利なものである。・・・担保として、政府はタバコ専売の収益を提供している。
こうして、自分が日本のためにいだいていた唯一の懸念、すなわち財政上の懸念は一掃された。
遼陽の戦勝後においてすら、ロシアの公債はまだすこぶる高値を保ち、日本のは安値だった。ロシアは到るところで、たやすく金を調達できたが、日本は自己の同盟国から、最もひどい募債条件を甘受せねばならなかった。今はそれが逆である。ロシアにはもう誰も貢ごうとしない。反対に日本へは、われもわれもとひしめき合って、金を貸そうとしている。
3月31日(東京―沼津―東京)
自分と同じ客車に、四名の戦傷将校が東京まで乗った。他になお、六名の旅客が同車していた。しかしながら、これらの将校と、軍人でない普通客とのあいだには,お互いに入り混じって席を占めていたにもかかわらず、数時間の旅行中に一言も取りかわされなかったのである。
将校連はすべて「尉官」、すなわち最高で大尉だった。ヨーロッパ諸国であれば、早速に会話のきっかけを作り、士官たちに戦争の話をさせるであろうし、また士官たちも、快く話してやったことだろう。だが、この国では違う。くだんの将校たちは、普通人のあいだに腰をかけて黙っているか、または人越しに仲間同志で語り合っていたが、別にいばってそうしているわけではなく、ただ、それが風習であるにすぎないのだ。
もう一つ観察したこと。将校たちはいずれも青年で、中でも、頭部の傷に白い包帯をした一人は、体つきといい、顔立ちといい、素晴らしい美丈夫だった。三島で、美しい娘が一人乗った。さあそこで、若い勇士たちにとっては、色目を使うか、気取った態度に出る機会が到来したのだ。ところが、誰一人として娘には目もくれぬ有様で、一方その娘はといえば、再三再四、美丈夫の士官に慕わしげな眼差しを送っていたのであった。・・・
4月15日(京都)
朝早く、食事前に妻(ハナ)と東山にある古い寺「高台寺」へ散歩。・・・上の方は墓地になっていて、そこには、王政復古に熱中して一命ささげた多数の人々の個別の墓や、維新に功労をたてて、後に安らかな生涯を終えた少数の人たちの墓、たとえば、あの混乱時代の最も偉大な政治家の一人であった木戸の墓もある。かれらのお陰で開けたこの洋々たる祖国の前途を、今ではもう見ることもできないで、皆ここに眠っているのだ! 
崇敬の念に打たれて、われわれはその場にたたずんでいたが、この厳かな静寂を破るものはただ、うるわしい春の朝を鳴きとおすおびただしいウグイスの声のみであった。
そのとき、妻が驚きの叫び声をあげた――「あら、ここに坂本竜馬の墓がありますわ!」――「どんな人なんだ、それは?」と、自分はたずねた。「ご存知ありませんの? 皇后さまのお夢の話を、なにかでお読みになりませんでした?」――「いや、知らないよ。」――「昨年、戦争の始まったころ、皇后さまが大変不思議な夢をご覧になりましたので、これを御付の方の一人におもらし遊ばされました。それによりますと、お見知りのない一人の男が、お夢に現れて――わたしは坂本竜馬と申す者でございます、今度の戦は勝利でございますから、ご安心遊ばされますよう、お知らせ申し上げるため参上いたしました、この坂本竜馬の申し上げることにうそ、偽りはございません――と申し述べたそうでございます。
皇后さまは、その男の様子、衣服などをお物語りになって、そんな男が居ったかどうか、またどんな人物であったかをおたずねになりました。御付の人は驚きのあまり、言葉も出ない有様でしたが、そのような男の居ったこと、仰せのとおりの様子をした人物であったこと、朝廷につくして死んだこと、京都に葬られていることなどをお答え申し上げました。それ以来、坂本は日本中で有名です。そしてこのお話は、国民を元気づけることにもなりました。」
考えにふけりながら、われわれは公園を通って引返したが、そこはあの勇敢な勤皇派の人々が夜陰にしばしば会合して、「将軍」の権力を打破し、大政を奉還させるための方策を協議したところである。  
対馬沖海戦(日本海海戦) 明治38年
5月5日(東京)
日本の新聞が、フランスの中立違反振りに興奮しているのも無理はない。ロゼストウェンスキーはインドシナの諸港を利用し、しかも外国の船舶までそこからの出港を差止めている有様だ! 典型的なのは、この危機に当って、『タイムス』その他の英紙のそらぞらしい態度だ――すなわちいわく「フランスがいかにデリケートな立場にあるかを、日本も顧慮すべきである!」と。得手勝手な話だ! フランスの態度により、日本の立場は極度に脅かされているのだ。ロシア艦隊としては、フランスの港に逃げこんでじっとしていることによってのみ、国外にありながら、日本軍の攻撃をうける危険を、一時は免れ得るわけである。しかも、事が死活に関する重大問題であるというこの場合、日本に感傷的な顧慮をせよと称するのだ。フランスは公然とその同盟国を助けているが、イギリスはきこえぬ風をしている。だが日本としては、それがどんなに辛くとも、平気な顔をしておらねばならない。なにしろ、やがて再び金が要ることはわかっているのだから、英人の機嫌を損じてはならないのだ。
5月10日(東京)
東京在留の全外国人は大騒ぎだ。かつて永年にわたり東京のフランス公使館付武官を務め、今はフランスの大会社の代理店をやっている退役陸軍大尉ブーグァンが、義理の息子F・ストランジと共に、ロシアのスパイとして逮捕されたのである。・・・ブーグァンのように世間で知られ、ことに以前は日本の武官のあいだで非常に人気のあった男に対して、こんな手段をとる以上、政府は極めて確実な証拠を握っているに相違ない。・・・しかも、かれには財産がなく、収入はまことに微々たる有様であったから、家族の将来に見透しがつかなかったのだ。こうして、かれは誘惑に敗れ、危険と知りつつ破滅の一歩を踏み出したのであった。・・・
5月27日(東京)
ロシア艦隊に関して、奇怪きわまる消息が伝えられている。あるいは、まだインドシナの領海内にとどまっているとか、あるいはまた、フィリピンの近海に居るとか。なおまた、戦艦五隻と輸送船三隻は上海に向って航行中であり、戦艦二隻は上海よりさらに北方へ進航しているとの噂もある。
午後――
号外――ロシア艦隊は対馬の近海に現れ、海戦が行われていると。今し方、自分のところに居ったグリスコング米国公使の話しによると、この報道が真実である旨の情報を、公使はうけていると。
こうしておそらく、自分が今これを書いている最中に、世界歴史の重要な一ページが決定されているのだ。
5月28日(東京)
正午、アルコ伯爵のもと。伯は、新婚の寺島伯爵と、すこぶる美しいその夫人(実家は京都の三井家)のため、厳かな宴を張ったのである。
海戦――それが進行中であることはわかっている。だが、政府は沈黙している。もっとも、宮中からすぐ自分のところへ来た岡の話によると、経過は満足すべきものがあり、少なくとも六隻の露艦が撃沈されたが、日本側の損害は不明であると。
日本人が、その歴史の上で重大なこの危機に際して、落着き払っているのには、どの外人もみな感心している。
5月29日(東京)
対馬沖における日本海軍の稀有の大勝。海戦は二日間続いた。露艦は二十六隻だったが、うち十三隻は撃沈され、五隻は拿捕された。日本側は、一隻として大型艦を失わなかった。三笠は損傷を受けたが、戦闘には差支えない状態だった。水雷艇数隻が沈没した。勝利があまりにも圧倒的なので、もし公報があらゆる詳細な点を伝えていなかったならば、誰もほとんど信じなかったろう。
午前中はすっかり、号外! 号外! だった。勝利の後でも、日本人は悠然と構えていた。一時間の後には、自分のいるホテルのおびただしい日本人従業員たちは、平日と変らぬ穏やかな様子だった。もう戦争の話は出なかった。うれしいときのこのような悠揚さに、われわれ外人は皆、感服せざるを得ない。
8月29日(ザルツブルグ)
講和! 自分にとって、この報道は全く思いがけなかった――なにしろ、日本があらゆる点で簡単に譲歩するとは、とうてい信じられなかったからである。しかも、日本はそれをしたのだ!
戦費賠償は受取らないし、抑留船舶は取得しないし、樺太の半分は無償で引き渡すというのだ! こうも本来の要求とかけ離れているのには、重々もっとも至極な理由があるに相違ない。でなければ、日本がこのような条件に応ずるはずがないと、自分は確信する。だが日本の為政者は、要求緩和の挙に出るのが賢明であるわけを、確かに承知しているのだ。
口やかましい政論家連中がなんとさけぼうと、内部ですでに頂点まで出しきった力を、尽き果てるまで酷使すれば、しょせん後にはたたりが残るではないか。それに、他日、友邦イギリスからそでにされた場合、よくうわさにのぼったことのあるロシアとの将来の同盟を、かれら為政者が考えていないとは誰がいえよう。・・・・
かくてまたもや世界歴史の一ページが――それも、現在ではほとんど見透しのつかない広大な影響を有する一ページが――完結されたのである。今や日本は陸に、海に、一等国として認められた。われわれが東アジアにおいて、徐々ではあるが間断なく発展するのを観たその現象が、今や近世史の完全な新作として、世界の注視の的となっている――アジアは世界の舞台に登場した。そしてこのアジアは、ヨーロッパ諸国の政策に、従ってわれわれの祖国の政策にもまた、共通の重大な影響を及ぼし得るのであり、また及ぼすはずだ。ヨーロッパだけの政策は、もはや存在しない。世界政策があるのみだ。東アジアの出来事は、もはや局部的な意義をもつものではなく、今日ではわれわれにとって極度に重要な関心事である。これらすべての意義を、世人はいまだに気づかないが、しかし時がこれを教えるだろう。・・・  
 
「日本見聞記」 ブスケ

 

「ブスケ 日本見聞記(フランス人の見た明治初年の日本)」の中からご紹介します。ブスケは1872年[明治五年]に日本政府の法律顧問として四年間滞在しました。
先ずその緒言の一部で「この好機を逸せず、まだまだ知られていないこの国民の外的及び内的生活を事実に基いて知ることができた。私は、我々の文明よりもはるかに古く、同じように洗練され、これに劣らず成熟した文明が私の眼前で花を開いているのを見た。私は、その文明の花と我々西洋文化の花との違いに心をうたれ、根元まで探り、この国の芸術的・精神的表現をこの国の構造に基いて尋ね、その国民の心理をその作品の中に求めようとするに至った。私は利害に捉われない・良心的な観察者として、この調査を体系的でもなく、また成心もなしにつづけてきた。私は自由な証人として語るのである・・・」と述べています。

大川は大商業活動の舞台であるばかりでなく、大衆の娯楽の舞台でもあり、この娯楽は呑気で陽気な一国民の大きな行事であるらしい。最も凝った行事は両国橋のたもとで毎年6月28日に行われる大花火である。川の両岸には、夕方6時から早くも、派手な着物をきた大勢の人々が集ってくる。赤づくめの着物をき、鳥の羽で作った一種の帽子をかぶった何人かの子供が通行人の前でとんぼがえりをうってみせる。橋は人で一杯であり、左岸の本所から流れでてきた水路は船で一杯である。好奇心をそそるような仕掛けをしたアーチがつぎつぎと空に描かれるのを見るのはすばらしい。
これらの大勢の人々を見るだけでもかくも強い喜びの印象を生むのは、この多くの人々の上にどんな不思議な威力が働いているのだろうか。日が落ち、見世物の場所が変わり、舞台はもう河岸ではなく河自体の上である。船がひしめき合い、各船は上機嫌の市民を満載している。こちらには、昨日は商売に用いられまた明日も商売に用いられる船の中に、真面目な商人一家が質素に化粧もせずに見せるためでなく見るために乗っているかと思うと、あちらには非のうちどころのないほど化粧をし素晴らしい着物をきた婦人たちが夫と共にいる。彼女らは静かに楽しんでいる。もっと遠くには、「ゲシヤ」(芸者)――舞妓――が数名きわめて優雅な無言劇を演じており、楽人が三味線で彼女らにあわせている。隣の船には白絹の長いマント(羽織?)を着た一人の若い男が悠々と横になり、そばでは三人の女が坐り、代わる代わる彼をあおいでいる。彼はすでに「サキ」(酒)に酔っており、目は輝き微笑をたたえ、やっと立上がって岸にある鯨幕と吹流しのはためいている茶屋に入ってゆく。夜になるとすぐに、一万か一万二千の船が、暑い夜のそよ風の下で各種各様の図柄をみせまた無数の蛍のようにゆらぐ、あらゆる形の、あらゆる大きさの、あらゆる色の提灯をかかげる。
最初の花火が打ちあげられると、狂熱的な歓声が二十万の胸から沸きあがり、爆音のおこる度毎に繰返される。ひけ時がくると、各船はこの紛糾している混乱から抜けでようとする。そして一同はよろめく「ムスメ」(娘)――若い女――と眠った老人を伴いながら彼らの目的に向って静かに流れてゆく。このような混雑の中なのに強くぶつかり合うことも粗野な言葉を交わすこともない。これが民衆の生活である。その目的とするところは、生活するに必要なだけの充分な金を儲けて、楽しむ機会を逃さぬことである。民衆はこのように幸福であったが、西洋が彼らを締めつけている。勤勉な労働の必要がヨーロッパという競争相手とともに入ってきた。幼年時代の気楽な楽しみよ、さらば。苦労の多い時代が遠からずやってくる。
非宗教的祭
・・・彼らの国民的な好みとしては、その自然の風景好み、彼らの草木や花に対する愛好以上の特徴的なものはない。金持ちがその住居の周りに植木を植えるだけでなく、どんな質素な家でも境や庭になんらかの潅木を植えまた瓶に生けた花で家の中を明るくしていないような家はない。彼らはそれで社寺を飾り、それで祭壇を飾り、菓子や盛りものをそれとともに供えさえする。気に入りの花の種類にはそれぞれその名所がある。その季節となると多くの人がそこにやってくる。春には、東海道の「ムメ・ヤシキ」(梅屋敷)に「ムメ」(梅)の咲くのを見に行く。少しあとの四月には向島、上野、王子に、桜の木からばら色の雪が降りそそぎそれを囲む樅の木の濃い緑と見事な対照を作っているのを見にゆく人々が群をなして赴く。
朝から夜まで、これらの庭園はあらゆる年齢、あらゆる境遇の散策者で一杯になり、それらの人々にとっては紙の提灯で飾られた小さい竹の小屋がしばしの憩いの場所となる。そこでは菓子、茶、桜湯が供され、おもちゃが売られている。若い娘が音楽を奏で、皆が幸福、無頓着、陽気を味わっている。六月は、こんどは「フジ」(藤)の番である。野外の宴が催される。詩人は詩情を吐露し、記念の歌を彼らを憩わせてくれた木の枝にぶらさげる。それからほどなくして、江戸の人々はその親しい川の岸にゆき、附近の沼地の中でさまざまな色や姿でおひただしく生えている菖蒲を賞でにゆく。最後に、秋になると「キク」(菊)が愛でられる。これが植えられている庭は、凍った霧が地平線を曇らせ、花が枯れ、日本人が家に閉じこもるようになるまでは、おとなう人がたえない。そこでもまた、裕福な人々は驚くほどの忍耐と心づかいがつくり上げた、なお生き生きしている盆栽、苔、目を楽しませる箱庭を観賞することができる。この自然に対して捧げられた崇敬は流行でもなく、また月並みの興奮でもない。これは本当にこの民族の天賦の本能である。 
 
「明治日本滞在記」 ベルソール

 

( フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。)
京都への道すがら
一般的に言って、校門が開かれ、教師から白人への反感を植えつけられている生徒たちが路上に溢れる時には、ヨーロッパ人はそこに居合わさないことが望ましい。とはいうものの、生徒の群がヨーロッパ人にぶつかり、罵りの言葉が彼に浴びせられた時には、私は、日本人がどんなに親切で丁重かを思い出すよう、そのヨーロッパ人に勧告したい。最も無礼な子供をも静めるための妙策を、私はずっと以前から教えられている。誰でもよい、子供たちの一人に近寄り、道を聞くか、広場の名前を尋ねるかするのである。罵りを発していた口はたちまち微笑を浮かべる。挑むような姿勢をとっていた小さい体が前に傾いてお辞儀をする。そして、彼の仲間たちも、私が敵であることを忘れて、彼らの父たちが生活の掟としてきた愛想のよさをひたすら私に示そうとする。つい昨日も私は、一群の生徒たちにタバコ屋へ案内してもらった。この生徒たちというのが、その一瞬前には、私に石つぶてを投げたかもしれない連中だったのである。「タバコ屋はどこですか?」という私の単純な問いかけが、親切と丁重の伝統をたちまち彼らに思い出させたのである。・・・
私の記憶に誤りがないならば、ラフカディオ・ハーンは心身を備えた生身の神、老いたる農夫を見た。その農夫は、ある夏の夕方、自分の住んで居る岬から、巨大な津波が押し寄せてくるのに気がついた。水平線の果てに現れたその大波はみるみる巨大に膨れ上がり、陸地に近づいてきて、村人全部をその波間に呑み込んでしまうかと思われた。農夫はためらうことなく自分の手で収穫したばかりの稲わらと穀倉に火をつけた。彼がどんなに叫んでも声の届くはずのない丘の上に、火の手を見つけた村人たちが駆け上がってくるのを願ってのことである。村人たちが感謝して彼のために建てた寺は、この農夫の家から遠くなかった。耕している田畑から、彼はそのわらぶきの屋根を、木立ごしに見ていた。日々の生活の中で、人びとがこの農夫に対して神としての敬意を表していたろうとは私は思わない。しかし、この土地の子供たちは、いつからかこの人物が神の魂を実際に宿したことを知っていた。ヨーロッパの人たちが日本の無宗教について語るとき――ある人びとはそのことを嘆き、他の人びとは、もっといけないのだが、それをほめそやすたびに――人びとは肩をすくめずにはいられない。神がその路上を歩んでおり、その屋根の下に住んでおり、神の誇りとする行為がその存在の目に見える閃光にほかならないと、こんなにも信じている国民を、私はかつて見たことがない。・・・・
遠くから見る名古屋は、工場の煙と蒸気を噴き上げているように見えた。駅を出て、しだれ柳並木の大通りに立つと、この町が驚くほど近代的な都市に思われた。二輪車、三輪車の類いもずいぶんとうるさかった。さまざまの大きさ、さまざまの型のものがあり、子供の時に見たきり、それ以後見たことのないものもあった。それらの前輪は商店の二階にまで届き、後輪は歩道の高さにも及ばないように思われた。これらを組み立て、かもめのように軽々と飛びかっている日本人たちは、それら屑鉄のような乗物の騒音に酔っていた。日清戦争以降、名古屋が大阪に次いで、日本の最大級の工業都市の一つになったことを私は承知していた。この都市の乗物も、市電も、欧米風の商店も、“進歩ホテル”も私を驚かすことはない。しかし、柳並木の大通りから外れ、曲がりくねった小路に一歩入りこんだ途端に、ヨーロッパ文明は跡かたもなく消え失せる。ここでは、匂ってくるのは、油で揚げた魚と、線香のにおいばかりである。界隈には、子供と神々がやたらに多い。あたりは、小さいあばら屋、貧弱な寺、屋台店、露店の焼肉屋、大きな庇の下に金網をめぐらしたお堂、石の台座の上でまどろんでいる仏陀、木の祭壇に坐って参詣を受ける狐。どの路地にも、奇妙な大きい果物のようにぶら下がった、同じ形、同じ色の提灯が見られる。何百軒もの店で、陶製の猫を売っている。その、ぴんと立って内側が赤い耳は、縁なし帽のリボンの結び目に似ている。・・・・
人びとが群っていても、それほど騒がしいことはない。細い竹の棒を操って吉凶を占う易者の言葉も、手を打ち合わせて神に祈る信心深い人びとの声もはっきりと聞きとれる。しかし、この群衆、週の毎日が日曜日のようなこの群衆は、どうやって、何で暮らしているのだろうか? いつもいつも楽しんで暮らしているようなこの人びとを見ると、彼らの神々、香と台所の煙でくすんだようなあの神々が彼らを養ってくれているのかと思いたくなる。・・・・
東京の下町と同じく、ここでも驚くべき看板を見かける。白地の布に黒い字で書かれた大きな看板である。ある古道具屋は“百万円”という名前である。粗末な魚屋は“七福神”という看板である。七人の神がその買い手を守ってくれんことを。なにしろ、魚屋は、猛毒をもつといわれる魚、ふぐを客に売るのである。そして、人びとは、「ふぐは食いたし、命は惜しし」などと言う。ところで、乞食を見かけることはあまりない。寺の階段あたりにうろついていることもない。日本では、まったくの乞食というのはごく少ないのではないかと思われる。 
京都の魅力(上)
すばらしい場所であった。寺院の名前はもう思い出せないが、いくつかの丘に囲まれた平地全体が見渡され、そこに京都の町並みがくすんだ黒っぽい干潮のように広がっている。大きな建物の屋根も浮き立っては見えない。緑がかった、大きな塊のように見えるだけである。・・・いくつもの丘の斜面のいたるところに、寺院の階段、仏塔、神社、叢林等が、朝の光が輝く青白い空気の中に、くっきりとそれぞれの輪郭を浮かび上らせていた。小川と小鳥だけが歌っていた。人間たちの住居も、神々の館と同じく静まり返っていた。かつて、帝位が盛んで、天皇が京都に都を置き、この都市の四十万の人口のうち五万人が僧侶であったという時代には、狭くて長く、上り下りの坂の多い大路小路は、耳に入るものとては、衣ずれの音に刀の触れ合う音、笛の音、舞踊の調べのみであり、朝な夕な、僧侶が鐘を打ち鳴らしていたのであろう。
われわれは、寺院近くの、とある茶店の戸口に腰を下ろしていた。校旗を先頭にして、少女の学校生徒の群が通っていった。どの子も明るい色の着物を着て、生徒らの姉と見えるくらいの女教師たちに引率されていった。女生徒たちは山腹の神にお参りに行くところで、めいめいが枝葉模様の布(風呂敷)にきれいに包まれた小さい弁当を下げていた。少女らの、軽やかな、跳びはねるような一群は、たちまち木立の陰に消えた。・・・・あらゆる地方から、学校の教師たちは、生徒を引率して京都にやってくる。ほこりで真っ白になった履物を引きずり、ある者は日本風の衣服をまとい、他の者はヨーロッパ風の衣服を着こんだ生徒たちの群に会わぬ日はない。一見して、彼らの無骨な顔は、喜びも驚きも疲れも見せておらず、懸命な緊張の表情があるばかりである。私は好んで彼らのあとについて行く。とくに、彼らが宮殿や城館を訪ねるときにはそうする。この少年たちは、過つことのない嗅覚を備えていて、優れたもの、珍しいもの、極上のものの前ではぴたりと足を停める。
この生徒たちを、天皇の館、あるいは旧将軍の城の中で見るべきである。しかし、幻想的で華やかで豪奢な様式によって私を魅するこの居城を表現するのに、館とか城とかとは別の言葉を私は見つけたいと思う。これらの居城は重厚でしかももろい感じなのである。重たげな屋根の下の、自然の美しさのすべてが反映している、半透明の夢幻の境に入る。ここは外気にさらされた一階に当る部分である。紙と絹と金から成る華奢な壁が、それぞれの格間が孔雀の尾羽のように美しく輝いている天井を支えている。この壁に孔をあける剣の一突きで、この夢の城、この幻影の館も一瞬にして崩れ去るのではないかと思われる。なんと豊かな多様性、なんとおびただしい技巧! そして、なんという間取りの見事さ、そして優雅さ!・・・敷き詰められた畳の柔らかさが、固い地面を離れてこの世ならぬ世界を歩んでいるような思いに誘う。わが連れの人びとは、この心地よい眩暈を覚えない。彼らの好奇的な目は、価値の測り知れない宝飾品に素早くそそがれている。彼らの目は、一本の木、一羽の小鳥を他のものとははっきり別のものにする絵筆の走りを見てとっているのである。・・・・
私にとって非常に楽しいのは、こうして古い京都の街中を、遠い昔から洗練されながら、長い時間血にまみれて生き、しばしば優しくも皮肉なこの民族の後継者らと行を共にすることである。
日本のたいていの都市では、最も中心になる地域で、宵に入るごとに始まる祭を行う習わしである。まるで、操り人形が鈴を振るのを見ないでは眠れないかの如くである。夜の食事がすむと、ほんの数歩あるけば縁日の舞台である。・・・店や屋台は、群衆が物静かなのと同じくらいに静かで柔らかい光を投げる提灯で飾られている。たまに、ヨーロッパ風の商店や床屋、それに本屋などだけが、明るい光を投げている。・・・・本屋といえば、その色とりどりの光が表の通りまで広がっている。本屋の数がこんなに多い国を私は知らない。ほとんど礼拝堂と同じくらいに数が多い。しかし、私にとって最も楽しい京都の見世物といえば、それは庶民劇である。・・・
京都の住民はとても色が白く、言葉も他の地方の人々よりも柔らかである。それに、この地球上に彼らよりも丁重な人びとがいようとは思えない。「東国男に京女」と古い諺はいった。江戸は今日では東京と呼ばれる。みやこは京都と呼ばれる。しかし、この諺は今日でもその道理を失っていない。ここの女たちはほとんど全部が優雅であり、その中の一部はほんとうに美しい。この女たちなら、ヨーロッパでもアジアでも、およそ目のある男たちのいるところならどこでも美しいといわれるだろうと思う。
芸者はとりわけ魅力的である。人びとの話では、彼女らは山の米しか食べないのだという。山の米は平地の米より栄養に乏しいからだそうである。彼女らのほっそりと美しい顔立ちも、夢のようなあの風情も、その軽い食べ物のせいなのかもしれない。とある丘の険しい中腹に山の米の畑を見かけると、私はすぐに京都の芸者のことを思い、貧しい畑から美しいものを作り出す術を心得ている日本人の器用さを思う。中産階級の女たちは、かなり質素な外見の衣服の下に、他の階層の女たちが真似ようともしない気品を秘めている。その多くは貴族の子孫である。しかし、彼らの失墜はけっして衰亡ではなかった。彼女らは普通の平凡さの中にとどまった。彼女らはかつても華やかながら平凡に暮らしていたのである。そもそも、京都の貴族は、革命によって貧しくはなったが、この新世紀に腹を立てたりせず、世を拗ねて隠遁したりすることもなく、人生の新しい要求に素直に順応したのである。 
京都の魅力(下)
私の住む通りの外れにカトリック教会が立っている。そこの司祭オーリアンティス神父は、伝統あるいは歴史の中でキリスト教に対する最も仮借ない敵の一人に数えられる大名の屋敷跡住んでいる。・・・・元の主がしつらえたままに残った庭には、珍しい樹木や奇妙な石などが配置されている。・・・・ほとんど毎日、私が訪れる時刻には、オーリアンティス神父は数人の日本人へのフランス語の授業を終える。これらの生徒は、既婚者、家庭の父親、軍人、公務員、あるいは外国語愛好者等さまざまだが、わが国の言語を学ぶことを望んでおり、大男で、ひげが半白になり始めているオーリアンティス神父は、わが国の子供たちが使う読本を彼らに使わせている。・・・・
昨日、オーリアンティス神父は、ある職人の家で宵を過ごすのだと私に告げ、同行しないかと私を誘ってくれた。・・・われらが知人たちは、職人の住まいが両側に並ぶ狭い袋小路の奥に住んでいた。窓と引戸式の表口はまだ開いていて、二つか三つの小さい部屋の中を見ることができた。この種の家はたいていこんな間取りである。木蓮の大きな花のような白い角灯が投げる白っぽい光の下で、子供たちがひざまずいて勉強のおさらいをしていた。光の陰に隠れたいくつかの顔からは、穏やかな話し声や笑い声が洩れていた。われわれが入った家は大きくはなかった。一室とそれに板の間である。板の間は台所に使われている。父親、母親、それに四人の娘が、その部屋に人を迎え、食事をし、そして眠る。しかし、この人たちは貧民ではない。その部屋は、六人が住んでいるのに、わが国の屋根裏部屋の入口で感じる貧しい不潔感がない。その部屋は清潔で、魅力的ですらあった。部屋には、夏にはいっそう涼しい藤のござのようなものが敷かれていた。小さいたんすが二、三、奥に並んでいた。鏡の入ったごく小さい化粧台が、部屋の隅に見えていた。ニスか漆を塗ったごく低いテーブルが二脚あり、一つには茶道具と菓子が、他の一つには、元サムライで、今は扇子作りの職人である父親の刀が載っていた。
同じくキリスト教徒の隣人たちが、この集いに招かれていた。一人は陶工、一人は彫金師、一人は提灯張り、他の一人はやはり扇子作りで、誰もが自分の家で仕事をし、輸出商人にそれぞれの品物を納めているのだった。・・・女たちがやって来た。その中の一人で、若くて愛想がよく、ばら色の顔をした女は、哺乳瓶に吸い付いている赤子をかかえていた。彼女はわれわれと同じようにひざまずいて、赤子を前に寝かせた。そして、神父がおしゃべりのような調子でキリストのたとえ話を説明している間、その幼い子に笑いかけ、愛撫し、自分の宝をうっとりした目で見つめ続けるのだった。神父の話が終わり、茶菓が振る舞われると、男たちは今しがた聞いたことについて思いきって意見を述べ、それから自分らの商売の話に移って、日に日に苦しくなっていく暮らしのことを嘆いた。年とった人たちと、とりわけこの家の娘たちは、赤子のまわりに群り、代わる代わる抱き合った。・・・・
私が東京で知った前田という男は、京都で役人をしていたが、東京生まれのせいか、自分を島流しにあった人間のように見ているところがあった。東京生まれで、文明を鼻にかける男の目には、京都の住民は軽率で、口が軽く、ぶらぶらしていて、あまりにのどかな人間に映るらしい。・・・私たちは、京都の町から少し離れた桂川の急流のほとりで、私の京都での最後の午後を過ごすことに決めていた。鉄道が、桜の花盛りの一週間、花の香に酔ったあらゆる人びとをそこへ運ぶ。・・・・私たちは、舗石の敷かれた並木道の奥の小さい料亭を選んだ。扇の形をした透かし彫りのある塀がこの料亭を囲んでいる。日本の諺に、「立っている者は、親でも使え」というのがある。美しい景色を前にし、酒の杯を手にして、あるいは夢想に耽りながら、日本式の畳の上に坐り、半ば身を横たえた時に人が覚えるあの甘美な怠惰の情を、これ以上に表現しうる言葉はないだろう。われわれヨーロッパ人が快適な安楽椅子から身を起すのに要する努力は、日本人ガ立ち上がり、身を動かすために求められる努力とは比較にならない。前田と私は、二階の一室に横になった。欄干からは、身をくねらせる川の流れが見渡され、森の深いしじまが聞えんばかりである。小舟の行き交うのが見える。川岸のしだれ柳を静かにゆするそよ風には、稲の香がかすかに混っている。最初の酒を飲みほした時に、私は前田に言った。「京都を去るのが私にとってどんなに辛いことか、あなたには分かりますまい。京都はまことにユニークな都市です。ここでは旧き日本の心の鼓動しているのが、今も聞かれます。その数々の宝を知らせて下さったことに、心からお礼を申します。・・・・・」 
門司から長崎へ
私たちは、まさに日が暮れようという時刻に、日本地中海のジブラルタルともいうべき下関海峡に着いた。門司港は煙の幕に覆われている。無数の帆船が、長く伸びた赤い水平線上に浮かんでいる。かつては名もない漁村に過ぎなかったところが、今や九州鉄道が通り、要塞を設けられた都市になった。汽車が出るまで時間があったので、私は日本人の旅行の仕方をもう一度観察した。ある程度の階層の日本人は、高価な荷物のように旅行をする。行先を告げる必要はほとんどない。下車すると、宿がたとえほんの数歩のところにあっても、そこまで運ばれる。宿では、茶、酒、料理が振る舞われ、芸者がまかり出る。彼は何にも気を遣う必要がない。彼の汽車の切符は彼の手の中に滑り込み、時刻かっきりに、車室に案内される。自分の夢想を中断されることなしに、下船し、町を通り、汽車に乗ることの出来るのは、世界で彼らだけである。信徒の手で移転する仏陀さながらである。
しかし、異国の仏陀である私は、家族全員が私の周りに集まっている宿屋のござの上には坐っていない。僧侶の説教は、私の沈黙ほどには必ずしも多くの人を集めない。門司の人びとは、普通よりももっと強い好奇心を示す。私が口にする僅かの言葉、生活習慣についての私の試み、酒や生の魚に対する私の好みは、たちまち無数の微笑と丁重な挨拶を招くにいたる。突然、宿屋の主人が、その質問が私に通じないのを見て、頭を掻き、英和会話の手引きを探しに人を走らせる。彼はその手引きを、最初右から左に、次いで左から右にめくり、その顔は赤く充血する。・・・女中が入って来て、私に汽車の切符を渡し、主人には車夫が玄関に来ていると告げた。しかし、主人は下女を押しのけ、熱心にページをめくるのをやめようとしない。私は通訳がいないことを呪った。そして、不安は募るし、ここを立ち去りたい気持ちは強くなるしで、私はどうしてよいか分からなかった。その時、宿屋の主人は勝ち誇ったように拳を振り上げ、上体をすっくと起すなり、爪でしるしをつけた次の言葉を私に指し示した。
“I do not understand English”
私は危うく列車に置いてきぼりをくうところだった。あの宿の主人と彼の会話手帖を相手にして宵を過ごすことになったかもしれないと思うと、ぞっとした。しかしながら、私のその夜は、よりましというものでもなかった。ある偶然から、英語とフランス語のチャンポンを片言で話す隣人につきまとわれる破目になったからである。それは鳥栖の商人の息子だった。彼の勉学が大した程度のものでないことは、私に向けた最初の質問で分かった。
「あなたの国には鉄道がありますか?」
私は彼に、日本に鉄道が敷設されるより前に、フランスは鉄道を建造していたと述べた。
「で、わが国のと同じように乗り具合はいいですか?」
「それはなんとも言えないけれど、車中でよく眠れます」
そこまでにして、私は彼にお休みと言った。この厄介な男は、そのあと十回も私の眠りを妨げた。まず彼の名前を名乗り、私の名刺をねだり、彼の父の住所を伝え、ついには――ああ神よ、彼を許し給え――彼の背広の生地、「イギリスの本物の生地」を私に手で触らせるのだった。ついに私が眠気を失ってしまった時には、彼はその頭を私の肩に預けて眠りこけていた。鳥栖で、列車の車掌が彼を揺り起こし、その足を引っ張って、やっと私を解放してくれた。暮れなずむ夕暮れの薄光の中で、田圃、丘、湿った感じの森、小さい村落、そして寺と墓地――すでに見慣れた日本のすべてがふたたび姿を見せ始めた。
翌朝、ふたたび日が昇った。田圃の彼方で、刈取りをしている人びとが、きらきら光る鎌で目を覆いながら、走りすぎる私たちを眺めている。やがて、私たちは大村湾に着いた。私たちは徒歩で桟橋に至り、海を渡って時津に辿り着き、そこから長崎行きの列車の方へ歩かなければならなかった。黄金の流し込みのように、いくつかの丘の麓をくねり、きらきら輝く田圃の中を通っている小道を歩く、眠気も覚めるすばらしい散策。履物の店と茶屋の屋根の上には、艶のある月桂樹の枝葉がこんもりと茂っていた。午前十一時ごろ、長崎の錨地が見えた。山に囲まれた、巨大な藍玉の杯さながらである。私はコサックの輸送隊の士官たちといっしょにホテル・ペルビューに着いた。カンヌからボルディゲラまでのリヴィエラ海岸といえども、長崎のヨーロッパ人居留地以上に魅惑的な風景は見られない。この居留地の晴れやかな高台は、この町の一翼と港全景を見下ろす位置にある。ここに欠けているものといえば、オレンジとばらの香りだけである。しかし、桜の季節も過ぎて、日本の花々も、果物が芳香を失ったように、もはや香りをもたない。この季節に、ウラジオストックの人びとは冬の間体を暖めにやってきて、夏の最中まで留まるのである。 
 
「世界周遊記」 ヒューブナー

 

( オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。)
明治四年七月・横浜
日本にやってきた者は、誰しもわが目を疑う。歩みを進めるごとに、これはみんな夢ではないか、おとぎ話ではないか、千一夜物語の一挿話ではないか、といぶかることになる。それに、目にする光景があまりにも美しいので、雲散霧消してしまうのではないかと恐れるのである。私はむだな記述をするつもりはない。こんにちでは誰でもよく知っているように、日本の人々はおとなしくて感じがよく、礼儀正しくほがらかで、よく笑い、温厚で、とりわけたいへん子供っぽい。また下層階級の人々は、日焼けした赤銅色の顔をし、肌にはしばしば赤や青の刺青をしており、その模様や色からして、この国の古い漆器によく似ている。どんな階級の人でも、頭は額を刈り上げ、後頭部に楽しそうに揺れる小さい辮髪(丁髷)を飾っている。夏には窮屈な袴を脱ぎ、個人によって違うが、タフタ織か綿の簡単な浴衣をつけるだけで、家にいる時には褌をしている。この褌という腰巻は、上は天皇から下は苦力まで、対面を重んじる日本人なら誰でも心がける身だしなみの基本となるものである。
階級制度の最下位にある商人は別として、みんな誰かに帰属している。しかし、農奴とか奴隷としてではなく、ある一つの藩の構成員として帰属しているのである。この藩というのは、いくつかの階級に分かれているが、つまるところはただ一つの大家族だけを形成しているものである。君主すなわち大名が、その長である。この君主に従うのは、重臣、家臣、侍つまり両刀を差した武士(一本しか刀を差していない者もいるのだ)、いろいろな階級の兵士である。みんな着物の背中と袖には、仕えている君主や団体の紋章をつけているが、この紋章は円の中に花とか文字が書き込まれたものだ。武士の刀や、墨壷、煙管、帯に結わえられた財布などは、いずれもよく知られている。ラザフォード卿の報告でこれも周知のことだが、君主に随行している侍連中とか、酒を何杯か飲んで興奮して茶屋つまり遊郭から出てきたばかりの侍連中に出くわすことは、好ましくないばかりか、死の危険すらある。ところで現政府が封建制度を解体している途上にあることは、一般にはあまりよく知られてはいない。しかし、この国の外見そのものは、まだほとんど変わっていないのである。さて、日本女性には、どんな記事や書物の筆者でも心を奪われてしまっている。正確に言えば、彼女たちはけっして美しくはない。顔立ちの端正さという点では、まだ申し分ないとは言えないのである。・・・・
しかしながら彼女たちは陽気で、純朴にして淑やか、生れつき気品にあふれている。それに、横浜周辺の茶屋で彼女たちの生活態度を研究した若い著者たちの言を信じるならば、彼女たちはきわめて人なつっこい。彼女たちの髪型は、艶のある黒髪を二つか三つに分けて優美に結わえ、日本の簪で留めたもの。(それ以上、髪を伸ばしているのは宮廷の侍女たちしかいない。)服装は、着物と羽織に、後ろで大きな結び目を作った太い帯。履物はおのついた下駄で、この鼻緒を足の指で器用にはさんでいる。・・・・・
しかし、どんなペンや絵筆をもってしても、日本の現実を表現できはしないだろう。実際に日本を見てみなければ、そこに暮らす人々が街路を動き回っている様子や、愛想よく微笑を交わす様子、お互いに深々と頭を下げてお辞儀をする様子など、想像もつかないことだからだ。たとえば、ある偉い人間がひれ伏しても機敏さと威厳を保っているところなど、想像できもしまい。この場合、そうした機敏さや威厳は、ひれ伏すという行為から屈辱的に見える要素を抜き去り、そうしてその行為に、礼儀正さと尊敬とをいくぶん誇張ぎみに表明しているという性格だけを賦与することになるのである。
街路を歩くと、たいへん清潔なことにまず驚かされるが、きょろきょろと左右を見ながら、眼が百もあればもっとよく見られるのに、と残念に思いつつ歩いていると、拍子のついた物音と、歌というか呼び声が聞えてくる。これは、長い竹に籠を吊して、筋骨たくましい肩にかついでいる苦力の声だ。汗が刺青をした手足に流れている。この季節には、彼らは下帯をつけているだけで、まったくの素っ裸だ。この連中もやはりにこやかである。短い休みの間には、彼らはおしゃべりをし、たがいにおべんちゃらを言い合う。それからあの家並み! これについては読者諸氏はよくご存知であろう。もう何度も描かれているものだし、また諸君のうちには過ぎしパリの万国博覧会(1867年)で本物の日本家屋をご覧になった方もあろう。でも、こうしたものはけっして実際のありさまを伝えてはいないのだ。日本の家は、まさしくこの日本で、正真正銘の日本人が住んでいるその家を、実際に見てみなければわかりはしない。家の奥まで覗きこんでみなければならないのだ。覗きこむのは簡単だ。というのは、日本の家は街路に面して完全に開け放たれているからである。見落としてならないのは、家具調度はまったくないが、美しい畳の敷かれたその住まいの中で、光と闇とがたわむれるさまだ。家の奥には小さな庭が垣間見られるが、そこには盆栽がいくつもあって、これは小さいにもかかわらず、森の巨木に似ている。それはまるで子供の顔に皺を書き入れ、扮装させて老人にしたようなものだ。いやはや、私よりずっと巧みな筆さばきをもってしても日本の現実を描くことなど不可能だ、と先ほど大見得を切ったばかりなのに、その舌の根も乾かぬうちに、うっかり私自身が日本を描写してしまっていた。ともあれ、日本に到着した旅行者の目の前に繰り広げられるのは、民衆が生活上の無数のささいな問題を解決していくさまなのである。民衆はほんとうに洗練されており、ある限られた範囲内で我々と同じ欲求を感じているのだが、しかし我々とはまったく違った手段・方法で、そういう欲求を満たしているのである。 
明治四年八月・富士への小旅行
オランダ公使ファン・デル・フーフェン氏が、自分の計画している富士山への小旅行に加わらないかと勧めてくれた。私はこの得がたい機会を利用して、その休火山のほとんど未知の北部・北東部地方を探検してこようと思った。旅行者は六名。・・・・いよいよ今朝(三日)五時、暑い一日を思わせるすばらしい晴天の朝、我々は腰掛付馬車に乗って出立した。馬車は我々を乗せて東海道に向う。東海道は日本の幹線路で、ここから一里あるが、この東海道に出ると、小田原の川(酒匂川)まで馬車に乗っていくことができる。そこからは徒歩や馬や駕籠で道を続けるのだ。我々の守護天使にして監視人である役人は、小さな痩せ馬に乗って、我々の車を取り巻いている。この原始的なつくりの乗物に腰をおろすやいなや、私以外の者はみんなそれぞれ自分の武器を点検しだしたが、私は武器を何も所持していなかった。となりの若者はポケットから恐ろしげな回転式連発拳銃を取り出した。彼がその拳銃をとり扱うさまを見ていると、これまでの世界周遊旅行ではじめて、自分の生命が心配になったのだ。
東海道はいつもと変わらずたいへん賑わっていた。徒歩で旅する者、乗物(のりもん)をつかう者、駕籠に乗った者、女子供、両刀を差した人々、剃髪した僧侶などが、ほとんど途切れることなく続くのだ。・・・・我々に付き添っている役人たちは、立派な若者だった。大きな鍔の黒い烏帽子をかぶり、絹のゆったりとした着物をつけて、結構上品なのだ。道の両側には家や店や木が立ち並んでおり、村々が隣り合っていた。・・・・一時頃、封建都市小田原の対岸に到着した。ここで馬車を降り、我々はそれぞれ一枚の板の上に横になって、指を小さな穴に通した。そうすると、四人の裸の男たちがその板を持ち上げて肩に乗せ、そして川の中に飛び込んだ。これは奇妙だが少し感動的な迫力のある情景だった。急流の中ほどまで来た時、水が板をかつぐ男たちのほぼ肩の高さまでになった。激しい流れに屈せざるをえず、男たちは流されるがままになったが、幸いにも背が立たなくなることはなかった。まるで我々が小船に乗って下っているかのように、岸辺が遠ざかっていく。そのうち海の怒涛の響きが苦力たちの拍子をつけた大声と混ざりあうのだった。彼らは荒波と闘いながらも時おり笑いながら我々の方を見やる。軽い板の上でさんざん揺さぶられつつも、我々は板に必死にしがみつく。やっとのことで川岸にたどり着き、我々は砂の上に降ろされた。
そこからなお少し歩くと、小田原の大通りに出た。この町の入口では、奇妙な礼服を着た市長と助役たちが我々を出迎え、大袈裟に叩頭の礼をした。それから彼らは我々を盛大に歓迎して大きな茶屋に連れていったが、そこでは昨晩から送り込まれた人々が昼食を準備していた。一、二年前から小田原には横浜の居留民たちが訪れるようになっているが、それでも、肌の白い人間がやって来ることは、ここではいまだに大事件であるようだ。住民たちが、男も女も、数えきれないほどの子供たちも、みんな我々が食事をするのを見に駆けよってくる。・・・・・そうして夕方の七時頃、ようやく宮ノ下の温泉に到着したのである。村長は、日本人の家族を追い出して、我々を一番いい宿屋の一番いい部屋に泊めてくれた。・・・・別の部屋には、我々のお目付け役の役人たちが、若い娘たちのまわりに車座になってしゃがみこみ、唄を歌ったり、酒を呑んだりしていた。台所は料理の準備をする女たちでいっぱいだった。彼女たちは鍋の火加減を見守り、まだ生きている魚を切ったりするが、このうえなく清潔で、手際もよい。目を驚かせるようなものは何もない。みんな喋ったり笑ったりして、いかにも楽しそう、暢気そう、気さくそうだ。・・・・
我々の一団は、午前六時少し前に、縦列になって出発した。もし自分の体から脚を取りはずすことさえできれば、駕籠の旅ほど快適なものはまたとあるまい。この国の駕籠は開けっぱなしの駕籠で、長さ約三フィート、高さニフィートである。ただし、駕籠を吊り下げている大きな竹の厚みを差し引かなければならない。屋根は太陽の光から身を守るには不十分で、おまけにたいへん低いので、どうしても仰向けに寝なければならないし、また前の駕籠かきがあまりにも接近しているので、脚も折り曲げなければならないのである。でも人間というものは何にでも慣れるものだ。さもなければ日本になんか来てはいけない。日本は世界の他の国々とはまったく違う別世界なのだから。・・・・
今日はこの上なく楽しい一日だった。駕籠に乗って旅をするのは、いわば地面すれすれに飛ぶようなものだ。午前中、草原を横切っている時、草や地衣類や花の茎が私の頬をなでていたし、私の視線は、歩行者なら足で踏むとすぐさま視界から逃れていく神秘的な地帯の中へと入り込んでいくのだった。これは私にとって一つの啓示のようなものであった。太陽は木の葉の陰や草の茎と戯れていた。私は蜜蜂や蝶や無数の昆虫が花々の萼(がく)にこっそりと忍び込むのを観察した。それにしても何と美しい花々であったことか。巨大な撫子の花の上に優美に傾いている大きな釣鐘形の青い花、細長い草の円天井の下に咲いている百合の花。あらゆるものがこの国ではにこやかに笑っているのだ。植物も、人間も。駕籠かきの貧しい人々を見てみるがよい。彼らはいつまでも笑いつづけ、喋りつづける。玉のような汗が赤銅色の体をしたたり落ちていてもだ。
彼らは二、三分毎に駕籠をかつぐ肩をいれかえる。それも一瞬の早業だ。我々のそれぞれの駕籠には四人の苦力がついていて、かわるがわる交替する。登り坂では、手のあいている者たちが駕籠をかついでいる相棒たちの背中を手で押して助けてやる。十分ごとに彼らは交替する。が、あらかじめ丁寧に声をかけたりはしない。「お前さん、疲れただろ――ちっとも、お前さんの目こそ節穴だい」というような次第だ。そしてまた笑いがまきおこり、やられた方はやり返すのである。 
明治四年八月・箱根・江ノ島
昨日我々は江戸を離れた。私の旅の道連れは、英国代理公使アダムズ氏と英国公使館書記官兼通訳官サトウ氏である。富士山麓に行くときにとったのと同じルートを通って、我々は午後、湯本に到着した。宮ノ下へ向う北東方向の道はここから分かれるのだが、我々は東海道を進み続ける。急流に沿った東海道を辿っていくと、畑村に出た。これはその風光明媚なこと、茶屋とその庭とで有名な所である。・・・・読者諸氏にはこういういわく言いがたい幸福感を思い描くことがおできになるだろうか。つまり、しのつく雨が絶え間なく朝から晩までどしゃぶりに降って快い涼しさをふりまいているなかで、自分の力と元気を意識しながら、庭に向ってぱっと開け放たれた瀟洒な部屋で、とても綺麗な畳に寝転がっているという幸せを。その気持ちよい感覚を、私は幸せにもみんなと分かちあうことができたのである。・・・・宿を発つときの光景は、いつもながら賑やかだ。物見高い連中の立ち並ぶ二列の人垣の間を部屋から部屋へと通り抜けていくのである。宿の主人と女将が、両手で仲介人から勘定を受け取った。二人は何度も繰り返し繰り返し感謝と礼の言葉を述べた。姐さんたちはあとを追いかけてきて、笑いながら手を振って、道中ご無事で、またいらしてね、などと言う。家の出口の敷居のところでは、到着した時に脱いだ靴を探す羽目になった。そしてそこで、村のお偉方の市長と側近たちが我々にお辞儀をして、村のはずれまで先導してくれたのである。・・・・・
日本人は自然が好きだ。ヨーロッパでは美的感覚は教育によって育み形成することが必要である。ヨーロッパの農民たちの話すことといえば、畑の肥沃さとか、水車を動かす水量の豊かさとか、森の値打ちとかであって、土地の絵画的な魅力についてなど話題にもしない。彼らはそうしたものに対してまったく鈍感で、彼らの感じるものといったら漠然とした満足感にすぎず、それすらほとんど理解する能がない有様なのである。ところが日本の農民はそうではない。日本の農民にあっては、美的感覚は生れつきのものなのだ。たぶん日本の農民には美的感覚を育む余裕がヨーロッパの農民よりもあるのだろう。というのも日本の農民はヨーロッパの農民ほど仕事に打ちひしがれてはいないからだ。肥沃な土壌と雨と太陽が仕事の半分をしてくれるのだから、あとはそっくりそのまま時間が残ることになる。この時間を、日本の農民は小屋の戸口に寝そべり、煙管をくゆらせ、自分の娘たちの歌声に耳を傾けながら、どこを見ても美しい周囲の風景に視線をさまよわせるのである。もしできれば、日本の農民は小川のほとりに藁葺きの家を建てる。そしていくつかの大きな石を使って、それを適当な場所に置き、小さな滝を作る。水の音が好きだからだ。
そばにはヒマラヤ杉の若木を植える。枝を何本かまとめ、他の枝は離して、そうして小さな滝の上に傾けるのだ。こういうモティーフは、色刷版画で表現されているのを諸君は幾度も見たことがあるだろう。またその脇には杏の木が植えられる。木が花盛りになると当人も家族も大喜びする。こういう自然に対する感情は、とりわけ日本の絵画作品に反映している。この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行きわたっているのだ。どんなにつましい住居の屋根の下でも、そういうことを示すものを見いだすことができる。たとえば、造花、精巧な子供の玩具、香炉、偶像、その他もろもろの物。こういうものの目的は、ひとえに目を楽しませることにある。我々ヨーロッパ人にとっては、宗教のために用いられるのでなければ、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ。・・・・
我々は、みごとな針葉樹が立ち並ぶ凹んだ道を進みつづけた。隘路を越すと、道は内海の入り江の浜に下った。この入り江は小さな丘に囲まれ、美しい小島が点在している。金沢の町のちょうど正面にあたる場所だ。ここで我々を待ちうけていたのは、日本の高貴な礼儀作法の顕現される場面であった。それはそもそもこういう次第だからだ。つまり、私の同行者の中に江戸の名家の一つに数えられる家の家長とかねてよりたいへん親密な間柄の者がいたのだが、その家のある若い女性がたまたまここに海水浴に来ており、私の同行者の、その彼がやって来る知らされるやいなや、その女性は自分が訪ねていく旨を知らせてきて、かかりの老医者をお供にすぐさま現れたのである。十八歳くらいのとてもきれいな女性で、生まれは京都。ヨーロッパ人のように色が白い。顔が少し青ざめているが、それは気分がすぐれないからだ。それにまた、あっさりとした上品な服装をしているからでもある。こういう着こなしは上流婦人の身づくろいの特徴なのだ。彼女の挨拶の物腰は自然で慎ましく優雅である。まずひれ伏し、大きく叩頭の礼をする。つまり、畳にその美しい額をつけるのである。腕を床につけ、手は内側に向けてしばらくしばらくひれ伏してから、身を起す。脚は曲げたままで、手は膝の上におく。そうして正座して挨拶の言葉を一通り述べてから、やっと会話が始まるのだ。わが友人は紳士だし、日本での作法も心得ているので、同じように順序よく挨拶の礼を行った。私は彼の軽妙さに感嘆した。それなのに自分だけ真面目くさったままでいられようか! しかし、最後に笑うものがいちばんよく笑うというものだ。若い日本女性は身を起し、魅力的な微笑を浮かべて私を見つめてから、深々とお辞儀その他の所作をしたのである。このような礼を尽した挨拶にこたえるには、今度は私自身が同じ所作を順々に行わねばならなかった。礼儀正しい婦人と医者は、私の無器用さを見とがめず、再び雑談を始めた。実のところちょっと陳腐な話だったが、しかしなかなかいい言葉もあったし、笑いも結構まじっていた。別れて帰ってから、彼女は我々に果物と砂糖菓子のいっぱい盛られた籠を贈って来てくれた。 
明治四年九月・江戸の店舗
今朝、江戸の主な店をいくつか訪問。横浜の日本人地区にはヨーロッパ市場向けにわざわざ製造された品物があるが、ここ江戸ではそれとは逆に、物はすべて日本人の好みに合わせて作られている。こういうさまざまな数々の品物をつぶさに眺めることほど面白いことはない。・・・美術品と工芸品を比較して言えば、ここ日本では、芸術家は職人に極めてよく似ており、また職人はある程度まで本質的に芸術家なのだ。ヨーロッパにおいても中世はこれと同じ状況だったのである。玩具を売っている店には感嘆した。たかが子供を楽しませるのに、どうしてこんなに知恵や創意工夫、美的感覚、知識を費やすのだろう、子供にはこういう小さな傑作を評価する能力もないのに、と思ったほどだ。聞いてみると答えはごく簡単だった。この国では、暇なときはみんな子供のように遊んで楽しむのだという。私は祖父、父、息子の三世代が凧を揚げるのに夢中になっているのを見た。・・・・
私はごくわずかなお金でたくさん珍しい品々を買い込んだ。そのうちのいくつかは本物の美術品といってもよいものだ。たとえば、小さな青銅品、さまざまな動物が描かれた文鎮、亀の群像といったものだ。滑稽さをねらっている意図は明らかだ。他の店でも同じような群像、同じモティーフを見つけたが、しかし複製ではなかった。これは機械的に同じ型が再生産されるのではなく、発想が同じなだけなのだ。職人は、というか芸術家は、模倣しつつも自分の創意工夫を盛り込むのである。それから、柔らかく光沢のある紙で私の買った品物を包んでくれる女性たちの華奢で綺麗なほっそりした手にも私は感嘆したのだった。我々は最も有名な二軒の絹織物店も訪れた。我々は顧客でいっぱいの二階の大広間に通された。顧客の中には身分の高い婦人も数人いた。男も女もみんな一フィートほどの机の後ろに正座し、その上に薄手の縮緬や、無地あるいは模様入りのずしりと重い厚手の織物など商品を広げていた。着物の色は目を見張るほど鮮やかだ。値段さえあまりに高すぎなければ、喜んで家具や壁掛けの織物として用いられるところだろう。教会の壮麗な装飾にも使うことができるだろう。ここ日本ではこういう織物で男女の正装用の衣装を作るのである。・・・・・
今日は東京の茶店はどこもかしこも、さぞかし大事件の話で持ち切りになるだろう。・・・みんなの話題をさらうほど今日はすごい出来事があるのだ。つまり身分の高い一婦人が今晩英国公使館の晩餐会に出席するのである。日本の有力者数人との交際関係を培ってきたアダムズ氏が、その関係を利用してこの画期的な出来事をお膳立てしたわけだ。招待者は松根とその夫人、現中国大使宇和島の令嬢である。うら若きこの貴婦人は十四歳になるかならないかというくらいで、たいへん小柄だ。眼は少し切れ長だが美しい大きな眼で、可愛らしい手足をしている。頭が少々大きく見えるのは、たぶんふさふさした豊かな髪のせいだろう。髪の毛は真ん中で分けられて、鼈甲の大きな二つのかんざしで留められている。白い襦袢の上には、薄灰色の絹の着物を着ている。これはとても幅が狭く、足回りは特にそうだ。胴回りに締められた薄黄色の幅広の帯はたいへん短く、端の結び目はふくらんで、ほとんど肩先までの高さになっている。・・・・私は彼女の夫の隣、彼女の正面の席に着いた。彼女を観察するほど面白いことはなかった。生き生きした聡明な眼を食卓の回りにすばやく走らせ、我々と同じように振る舞おうとする。日本人の勘のよさが大いに助けとなって、肉料理が出る頃にはもうすっかりフォークの使い方を呑み込んでしまった。少しずつ遠慮もとれ、食卓を離れるときには子供のように無邪気で気楽な態度になって、広間をくるくる歩き回った。何もかもが目新しいのだ。それから夫の却下の足台に腰かけ、葉巻を吸った。我々がいるのも忘れているようだった。
松根は顔立ちこそ整ってはいないが、なかなかの美青年だ。しかし多くの同国人と同様、彼自身も変身途上にある。彼は上から下までヨーロッパ人のような格好だった。パリ到来の深靴をはき、丁髷(ちょんまげ)を切り、もう後頭部は剃らずに髪を伸ばし縮らせ逆立てている。そのため気品が失われていた。なぜ日本の髪型を捨てたのかと私はたずねてみた。風邪を引くからだと彼は答えた。なかなかの政治家だ。進歩に傾きながらも、まだあえてそれを認めようとはせず、両派の間を泳いでいるというわけだ。彼はもはや保守反動ではないが、さりとて進歩主義者でもないのだ。これが現今の多くの日本人の立場である。しかしこれだけは言っておこう。丁髷を切る者は改革に味方する者であり、その数は増加しているのだと。日本は激動しているのである。
今夜、晩餐会で西郷と知合った。彼は薩摩公の平時から九州第一の実力者の一人に成り上った人物だ。改革事業を順調に推進するためには、彼の協力をとりつけ、その仲介によって日本南部の有力諸侯の支持を固めることが必要不可欠である。そこで岩倉が九州の奥地まで西郷を迎えに行き、新計画に協力するよう求め、江戸に戻ってくるよう説得したのだ。西郷はヘラクレス像のように巨大な体躯をしている。彼の眼は知性の光を放ち、顔立ちは精力のあることを示している。格好には無頓着で、軍人らしいなりをしている。態度物腰は田舎貴族といったところだ。巷間伝えられるところでは、彼は宮廷にうんざりしており、帰農したくてじりじりしているということだ。 
明治天皇に謁見
明治四年九月十六日、今朝、侍従が四人乗り無蓋軽四輪馬車のような馬車に乗って我々を迎えにやって来た。・・・・外門に到着したとき、我々は武装した軍隊に気がついた。これは中門でも、城の近くでも同じことだった。ヨーロッパ風の服装をした者も中にはいる。こういう武装した兵士たちは、見た目にはなかなか立派だった。ただ彼らは少々こういう仮装に当惑しているようではあった。そのかわり、役人や、その他の文武に携わる騎兵たちは、日本古来の服装をし、武器を持っており、堂々としてほんとうに立派だった。城の大きな堀に架けられた最後の橋を渡ってから、我々は馬車を降り、ごく稀な例外を除いては絶対誰も入ることのできない天皇専用の庭園に通された。・・・・
我々は五分ほど歩いたころ出迎えを受けた。太政大臣三条、岩倉、木戸・大隈・板垣の三参議、それから長州・肥前・土佐三藩の代表者たちが我々を迎えてくれたのである。この三藩の代表者たちは、この時は姿を見せなかった薩摩藩代表の西郷とともに、明治維新を成し遂げたのであった。つまり我々は、ある観点から見るならば日本の改革者とも破壊者ともいえるような人物たちの前にいるのだった。・・・・少し話しをしていると、天皇は謁見の準備がおできになったと知らせがあった。我々は大礼服を着たこういう高官貴顕に付き添われてふたたび歩き、瀧見茶屋と呼ばれる建物の開いた扉の前に着いた。私は天皇の御姿を一目拝見したいと好奇心を燃やしていたのだが、自分の回りに視線を投げかけて、この場所の詩的な美しさにただもう感嘆せずにはいられなかった。・・・・我々は中に入り、神々の子孫の前に出た。その部屋は奥行約二十四フィート、間口十六から十八フィートであった。床は極上の畳で覆われていた。天皇が腰かけている高さ二フィートの台座の他はまったく家具はない。入口のところは暗かったが、幸い偶然にも太陽の光が鎧戸と障子の隙間から射しこみ、天皇の御体の上に強い光を投げかけたのであった。
公式な謁見そのものが稀なのだが、それもつねに城で行われるのであって、そのときには、近づく人間の無遠慮な視線を遮るために御簾が半分ほど下ろしてあり、天皇の御顔を隠しているのだという。ところがここではそういう類いの用心はまったくされてはいなかったのだ。天皇は腰掛けに座って御足を組まれ、合掌なさっていた。これこそまさに仏像にとらせているポーズと同じ姿勢である。・・・・玉座の左、障子の前には三条と三人の参議、右側には岩倉が控えていた。アダムズ氏と私とは、サトウ氏と宮廷側の通訳官に伴われて、部屋の中央、天皇の正面のほんの数歩というところにいた。最初のあいだ、深い静寂がこの小さな四阿をつつんでいた。いまここにはこの大帝国の命運を左右する人々が集っているのである。蝿のうなり声と蝉の鳴き声しか聞えてこなかった。岩倉から紹介を促されたアダムズ氏は、目下オーストリアの代表が上海滞在中で日本を離れているため、自分が謹んで陛下に私を紹介するものだ、という旨のことを述べた。天皇は二言三言アダムズ氏に言葉をかけられ、それから私に大海をいくつもよく越えてきたとお誉めの言葉があり、それに対して私はこういう場合にふさわしい言葉を返した。
それから天皇はふたたび口を開いておっしゃった。
「聞くところによれば、そなたは長いあいだ国で重職を担い、さまざまな大国にていくたびとなく大使の責務を果たしてきたということだ。そなたの仕事がどのような性質のものか、我にはしかとは判じかねるが、もしそなたの実り多い経験のうちで、我々が知っておいた方がよいと思われるようなことがあるなら、遠慮なくわが顧問官たちに申し伝えるがよい」
作法に則ってのことであろう、天皇は私に話しかけられながらも、不明瞭で聞き取りにくい声で呟かれるだけであった。三条がそれを大きな声で復唱し、それから宮廷通訳官が英語に直すのだった。我々の返答はサトウ氏によって日本語に翻訳された。天皇は口を開くたびに我々の方を向いてじっと見つめられるのだった。その時には天皇の御顔が突然生気をおび、優雅な微笑と優しい表情に包まれるのだった。しかし口を閉ざすとすぐさま真面目な表情に、というか無表情になられるのであった。・・・・
そろそろ腰を上げようかという頃に、三条が主上の命令どおり日本についての意見を披瀝するよう私に求めた。私は自分の無知を詫びつつ、日本の現状を改善しようと新内閣が行っている努力と有益な諸改革を賞賛した。それから付け加えてこう言った。「この食卓のまわりに集っておられる傑出した方々は、その英知ゆえにかように困難な仕事に向っているわけです。諸氏はこの国の風俗習慣、思想を考慮すべきですし、またヨーロッパにおいてよいことでも、そっくりそのまま日本でもそうなるとは限らない、ということも肝に銘じていただきたいと思います。あまりに急激な変化は避けるべきでしょうし、慎重の上にも慎重に行動すべきでしょう」
こうして我々の謁見は終った。・・・・夕刻、天皇から我々に、変わった形の砂糖漬けとさまざまな種類の砂糖菓子(落雁)がいっぱい入った箱が贈られてきた。 
大阪から京都へ
この都市(大坂)は日本の商都である。(日本)帝国の中央部向けの外国産の商品すべてはここを経由する。・・・・ここでは蒸気が役割を果たしはじめており、この点で、日本人は中国人を凌駕した。後者は機械の動かし方や蒸気船の運転の仕方をまだ習得していないのに、そうしたことができる日本人を見出せるからだ。土佐候は、大型の蒸気船を何隻か所有しており、その船長や機関士は現地人なのだ。我々は、この町の外に、美しい三隻の蒸気船が投錨しているのを見た。それらはこの大名の所有になるものであり、横浜と瀬戸内海の小さな港との交易をしている。船賃はアメリカの船会社の料金よりかなり安いので、船はいつも乗客で超満員だ。外国から輸入された商品は大坂から淀川を伏見まで遡り、そこから陸路で京都へ運ばれる。この川を遡り、琵琶または近江という名称で知られる大きな内陸の湖に入る他の船もある。・・・・私が(英国)領事館の敷居をまたぐまでもなく、岩倉(具視)の書簡により私の旅行を予め知らされていた府知事が来訪を知らせてきた。数分後、副知事と通訳に伴われて、府知事がやって来た。彼は日本の高官の典型というべき人で、礼儀正しく、立派でこの点は彼に十分ふさわしいことながら、少々ぎこちがなく、場合によっては顔が引きつり、顔の表情は考え深げな様子になったり、少々間が抜けたようになる。・・・ありきたりの文句の交換が終るやいなや、彼の顔の表情は和らぎ、もともと陽気でしばしば好意に満ちた彼の本性が勝ってしまい、暇乞いの時に再度仮面をつけることにしておいて、公的な仮面をはずしてしまうのだ。・・・・
京都御所の内部見学を要求
我々は四時に伏見に到着した。華々しい式典が我々を待ち受けていた。船着場では、正装の当局者たちが我々を出迎えてくれ、花々や絨毯で飾られた美しい部屋に案内されたが、そこにはこの日のために机と椅子が置かれてあった。我々が自由に使えるように府知事が気をきかせてくれた、これらのありがたい家具は、旅行中ずっと我々のお供をしてくれることになった。・・・・
京都の南東にある我々の旅籠から北東のはずれに近い御所へ行くには、町を端から端まで横切らねばならない。我々の行列の先頭に府知事の役人が進んだ。彼は黒色の大きな馬に乗った武士で、馬は大小の刀を差した人間の好みに従い、跳びはねたり、勢いに乗じて走ることを仕込まれていた。馬に乗った護衛が六人すぐさま我々の前に行った。(大)参事とその副官は二人のヨーロッパ人のそばに、しかも、できるかぎり近くに陣取った。別当は徒歩で後について来た。我々は別当が我々の馬の手綱を把かませないようにするのに大変骨を折った。両刀を差し、馬に跨った役人六人と徒歩の護衛たちが、後衛部隊を成していた。合計すると、我々は約四十人となった。したがって、我々の凱旋したような行進は大変な騒ぎを巻き起こした。通行人は立ち止まるし、商人とその家族は、店の敷居の上に殺到した。誰も彼もが(大)参事の前で平伏し、他の士官にも深々と挨拶した。二人の外人に対しては、愛嬌振りまこうなどとはせず、物見高さと冷やかさをもって二人は眺められたのだ。保守的な人たち、つまり我々の参事の言うように、反体制派の人たちが住む若干の界隈では、我々に投げつけられる眼差しから判断すると、我々は全然人気がなかった。休息中、私の鼻眼鏡が大きな騒ぎを起した。近づいてきて、使わせてくれと私に許可を求める貴族が幾人かいた。鼻眼鏡は手から手へと回り、約数百の人々に感嘆の声をあげさせてから、何度も惜しみのない感謝の言葉が表されて、私に戻されたのだ。・・・・・
私の京都旅行の主な目的の一つは、天皇の城、つまり真の住みかは天空にあるといえそうな――というのも彼は天子なのだから――あの謎の人物の住居を見物することだった。天子の住みかを江戸、大坂、京都の将軍の豪邸と比べることは、将軍と天皇との間のほとんど未知の関係をいまなお覆うヴェールの端を持ち上げることだと私は期待していたのだった。けれども、江戸や横浜では「そんなことをお考えになってはいけません。天子の住みかは、人間には近づけないのです」と私は言われていた。これほど当り前なこともなかった。とはいえ、私は匙を投げてはいなかった。アダムズとサトウ両氏の親切でいつの場合も有効な仲介のお陰で、かなり長い交渉を重ねた後、岩倉は、第二の壁の九つの門内を私に見させてくれる、つまり公家の住む一画に私を這入らせてくれる命令つきの、御所管理者(留守宮内省)宛ての書状を私に与えてくれていたのだった。その辺りからは、御所をはっきりと目のあたりにできることだろう、と言われていた。けれども現場に着き、かの名高い九つの門は幸いにも開かれていたものの、そこからは別の外壁しか見えず、御所は全然見えなかったので、私は第二、第三の柵が囲んでいる二番目の中庭に入らせてもらえるようにと言い張った。参事は驚きを、いや不満さえをも私に隠さなかった。なんという前代未聞の要求とでもいうのだろう。そうかもしれないが、私は言い張った。ことは深刻なものになった。我々の案内役は動揺していた。彼の諫言は、懇願、笑いと困惑の沈黙に取って代わった。こうした煮え切らない萌しを見て、私は更に拍車をかけ、高官二人と随員すべてを従えて禁じられている門の敷居を越えてしまった。二つ目の、中庭に辿り着くと、我々は無言で互いの顔を見合った。みんなの顔の上から、驚愕が読み取れたのだ。またとない冒涜を犯してしまったというのだろう。・・・・・ 
京都御所内部見学
六つの門のうち閉まっているものが若干あり、半開きになっているものもあった。私がこの聖域に入るようなふうをしていると、参事の哀願するような眼差しが私を引き止めたのだった。エンズリー氏(英国副領事)が参事の懸念を取り去るのにふさわしい理屈をあれこれ並べていたが無駄だった。その答えは判で押したように同じだった。曰く「御所の管理は行政の管理ではない」。曰く「御所の管理官は、新政府や進歩派やとりわけヨーロッパ人を毛嫌いする宮廷内の守旧派に属している」云々。最後の妥協案として、参事は我々を御台所門まで連れて行き、若干のちっぽけな殿舎の低い屋根の上から御所の大御殿の切妻を垣間見せてくれた。彼は作り笑いをしながらこう叫んだ。「それでは、これでご満足いただけたでしょうか。ヨーロッパにご帰国の際には、貴殿らは誰もが目にできないもの、つまりは天子の御所をご覧になったし自慢話がおできになることでしょう」。そして、もう遅いし、府知事が我々を屋敷で待っておられるし、道程は長いし、暑い盛りだし、昼食のこともそろそろ考えなければならない時間であると付け加えて、彼は急いで引き返そうとした。
私はこう切り返した。
「そうはいきませんよ。私は貴殿らの態度に満足していません。なんということなのです。あなたがたは我々の習慣の真似をし、我々の服装を変に着込み、文明の全き途上にいると思っておられるというのに、我々を天子の住みかから閉め出そうとなさるほど迷信深いとは。天子の台所を一瞥するお許しが貴殿らの文明の極みだと分かったら、ヨーロッパではさぞかし物笑いになることでしょう」。エンズリー氏がこれらの言葉を訳し終わらないうちに、我々の周囲に沈黙ができた。参事は、蒙古人種の肌色のぎりぎり一杯まで、赤面した。彼と補佐との間で、低い声での短い会話が始まった。彼は我々に言った。「おっしゃる通りです。我々は笑い者になることでしょう」。彼は御所の管理官に会いに行こうと申し出たけれども、この交渉からなんら良い結果も期待できない、と言った。・・・・・程よい距離を保って我々の周囲には、人の群ができた。公家の侍女なのだった。我々は彼女たちの独特の服装と艶やかな髪型に気付いた。・・・こんな調子で、半時間が過ぎた。やがて、我々の使者らが喜々として駆けつけてきた。我々は中に入ることが許されるのだ。管理官と補佐は、宮廷の正装を羽織る時間だけをくれと要求した。二人はやってきた。彼らはかなり無愛想な様子をしていたけれども、とうとう決断してくれて、我々に禁じられた一画の敷居を越えさせてくれた。我々は公家門から入った。・・・・
回廊の端までやってくると、管理官は、誰の目にも不機嫌と困惑が見てとれたが、我々がやってきた所へ我々をつれ戻すような素振りをした。けれども今度は、我々の人のよい参事が公然と外人の肩をもってくれ、身振りをし、叫び、真っ赤になって怒った。エンズリー氏も能うかぎりに参事を応援したので、補佐の怒気を含んだ抗議にもかかわらず、管理官の懸念をついには打ち負かすことができた。同じようなやりとりは、どの門でも繰り返えされたが、幸にも門は開いていたので、役人たちの煮え切らない態度を目にするやいなや、私は門を越えてしまった。江戸では、こう言われてきたのである。日本の役人は尻が重く、難癖をつけるのが好きだが、辛抱と礼儀正さと威厳をもってすれば、なんなく事をうまく運ぶことができる、と。今日は、この助言が大変役に立ってくれた。・・・・結局のところ、御所は、公家や御所侍の住む二つの界隈を除けば、それほど大きくない地所を占めているにすぎないのだが、屋敷と区別するものと言えば、建物の少々大きな規模と何よりも神聖な風格だけなのだった。・・・・・仕切り(障子)は、他のどの人家のそれとも似ており、動かすことができ、白い紙でできた基盤桟がついている。時には天然の木の格子が仕切りを守っている。私は多様であると同時に、質素で上品なそのデッサンに見惚れたものだ。雨戸は歳月と樹の種類に従い、明るい灰色か、淡いマホガニー色かになった、木の天然の色を宿していた。・・・・
全体の印象は筆舌に尽くしがたかった。眼を欺くどころか、むしろ眼から逃れていくような色彩の地味で柔らかい調和、細部の美しさ、装飾模様の仕上げ、これら神秘的で近寄りがたい場所を支配する、得も言えぬ趣味、優雅さと気高い質素さの故に、建築物の荒削りな性格を忘れてしまうのだ。江戸の芝で感嘆したような、豪華な彫刻や透かしにした高浮彫りの痕跡はどこにもないのだ。おそらくは天子の趣味と神道の伝統とがそれらの価値を認めなかったのだろう。
「それで、天皇の居所、寝室はどこにあるのですか」
「庭園の中です」
「庭園の中に入りましょう」・・・・・
エンズリー氏はそう早くは匙を投げなかった。彼は門番たちの話に加わり、彼らをまるめこむことに成功した。・・・・天子の庭園が置かれている自然な佇まいは、管理官が我々をその中に入れるのを極度に嫌ったわけを説明してあまりあるだろう。すべては主の不在をはっきり物語っていたのだ。小さな池は、枯れ葉と植物で覆われ、雑草が小径にはびこり、家屋の前に並べられた若干の鉢植えだけが庭師がいることを示していた。とはいえ、手入れがされていないことを除くと、樹木以外はすべて小振りで、貧弱だった。歴代の将軍が営々と築いた江戸城の真に堂々とした庭園と、天子のこのみすぼらしい茶室の庭とのなんたる違いだろう。 
琵琶湖から宇治へ
夜明けに、参事と補佐が私の部屋に入ってきた。別れの挨拶を述べにきて、和服を着ていた。二人が誰だかほとんど分からなかった。それほど殿様然としていた。私はその点を指してお世辞を言ったが、全然気をよくしてくれなかった。というのも、二人はヨーロッパ人に似ていることを自慢していたのだから。出発は八時。我々は儀礼兵と目付という嘆かわしい護衛に先導されたり、取り囲まれたり、後続されながら加茂川大橋を渡り、町の東の渓谷に入った。・・・・・いま辿っている東海道のこの部分は人口の多い町の幹線道路と似ていた。路上はこの上ない賑わいだ。通行人、旅人、日本の使者にあたる飛脚、琵琶湖からか北の海(日本海)からか、走りながら運ぶ魚でいっぱいの駕籠を背負う人たち、長い竹竿を持つ苦力、女たち、遍路さんに、牛に曳かれた多数の車駕。道路は完備されていた。・・・・とくに我々の関心をすっかり惹き付けていたのは、ヨーロッパ人がごく稀に目にしたにすぎない神秘的な琵琶湖だった。この地方の市邑である大津県は、湖に注ぎ込む山の斜面に鎮座していた。・・・・
湖の出口から程遠からぬところで、川に小島ができており、東海道の二つの橋が横切っている。・・・・我々は橋の下を通り、瀬田川の魅力のある岸辺に沿いながら、嶮しい岩山の麓に小奇麗にうずくまる小さな村に着いた。村は巨木に囲まれており、峰には、花崗岩の山で古くから名高い寺、石山寺が鎮座する。・・・・・
寺の前で、上品な服装をした、貴族の家柄の出の娘さん三人に出会った。我々のそばを通る際、彼女らは頭を逸らせ、扇子で顔を隠した。これは帝国の役人の話によれば、まだお歯黒をしてなく、眉毛を抜いていない娘さんにとっては、しなくてはならない用心とのことだ。慎みの上から、彼女らのまばゆいばかりの美しさは、向こう見ずな異人の視線に会うことのないように要求されていたのだから。・・・・今日、我々はヨーロッパ人は誰もまだ訪れたことのないと言われる地方を横切ることになるだろう。大津出発は八時二十分。方角は南東。九時に追分村に到着。ここで東の方へ、日本中の名茶で名高い宇治地方へ向うために、我々は東海道を後にした。私は馬に乗って旅行をしていて、雨が土砂降りだったけれども、気温は温和で快かった。我々は大きな市場町、醍醐寺を通り過ぎた。・・・・
十一時に非常に重要な別の市場町、チソ村(六地蔵村)に到着し、休息。正午に出発。半時間後に黄檗に、つまり著名な仏教寺の一つの大門前に我々は着いた。・・・・我々は一時にこの寺を後にした。天気は明るくなっており、我々はいつもながらの同じ自然から成る風景を楽しんだが、黄檗から、茶畑が加わってきた。高い防波堤が茶畑を横切っており、そこを通って我々は宇治川の岸辺に出た。・・・・宇治では大津へ戻るため、我々の儀礼上の護衛は、我々と別れた。これは彼らの訓示に対する重大な違反だった。というのも、彼らは大坂まで我々のお供をしなければならなかったからだ。けれども、エンズリー氏の雄弁が功を奏して、我々は、彼らにお引取りを願って、自由に一息つけることとなった。これら役人のしつこさについてはどう表現していいか分からないほどなのだ。旅行中も、休憩中も、彼らは片時も我々のもとから離れないのだ。三時半、川船に乗って出発。・・・・暗闇のため我々の哀れな川船は航行を続けることができないので、我々は七時頃、河の右岸に上陸したが、河はすでに淀川という名になっていた。・・・・
役人たちは別の川船で我々よりも先に行っていてエンズリー氏はすでに宿に着いているにちがいない従者たちを待ちながら我々の持ち物の番をすることに腹を決めていたので、私は氏に従者たちをあとから送り込むことになった。私は提灯を用意して、渡し守二人とだけで出発した。夜は真っ暗だったし、雨は土砂降りだった。道は幅一フィートもない非常に高い防波堤で、片側は川に、反対側は沼沢地に浸っていた。地面は水浸しだった。一歩あるくたびに私は滑って、靴を泥の中にとられた。しまいには、渡し守の一人が私を背中に背負ってくれた。どこに足を置くべきかを指示しようと先を行く連れの背中に両手を乗せ、左側にはごうごうと唸る川の中に、我々の右側には屍衣の如く広がる沼沢地の中に絶えず転げ落ちそうになり、歩くごとによろめきながらも、この気のいい男は前に進んで行ったが転ぶことはなかった。二十五分かかったが、私には大層長いように思われた騎馬行の後、我々は遠くに光る一点を認めた。それが旅籠だった。そこで私は歓呼の声で迎えられた。男の人、女の人、娘さんが私を取り囲み、物珍しそうに眺め、私には分からない止めどない質問をし、至れり尽くせりの世話と親切を施してくれた。いやだと言ったにもかかわらず、あっと言う間に、私は「一同の目の前で」雨でびしょびしょの衣服を脱がされ、お湯がいっぱい入った風呂桶の中に入れられた。ロブスターを茹でられるほどの湯加減だったが、次に冷水を体にかけてくれた。これが日本人のやり方で、実にすばらしいものだ。旅籠屋の真新しい浴衣で私は包まれ、貴賓室の畳の上に案内された。熱いうちに出された宇治茶を何杯か飲むうちに、しまいには私の体力も回復した。 
 
「お雇い外国人の見た近代日本」 ブラントン

 

( 英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。)
赴任の理由と日本最初の電信
1865年(慶応元年)5月、オルコックの後任としてハリー・パークス卿が駐日英国公使として江戸に着任した。パークス公使が最初に手掛けた仕事は現行の通商条約の補足の約定の条項の速やかな実施を促進することであった。パークス卿は約定の条項のうち欧米人の安全に関する条項※の実施について特に熱心であった。・・・・
※・・・航海の安全のための条項、第十一条の「日本政府は、外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため、灯明台、浮木(ブイ)、瀬印木(障害標識)等を備うべし」があった。
英公使が特にこの条項の実施に熱心で、しばしば幕府と折衝した事情は、日本が外国と貿易開始以来、日本沿岸で外国船の遭難事故が頻々として起こり、その都度多数の人命が失われたことによる。
パークス卿は江戸幕府の閣老に対し、航海の安全の問題は可及的速やかに結論を出すよう圧力をかけた。・・・・これに対し幕府閣老から1866年12月7日次のような回答があった。
「灯台の設置場所については正確な実測を行った上でないと決定はできない。しかしその間にも我が方は要求された機器を発注する所存である。灯台の機器三箇所の分については既にフランスへ注文ずみである。それ以外の八箇所の分については装置一式がイギリス政府を通じて入手できるよう貴下の御尽力をお願いする。当方は購入代金の見積りが出来次第発注をする」・・・・これに関した事務の一切をエジンバラのスコットランド灯台局のダヴィッド&トーマス・スチブンソン兄弟に委任することに決定した。・・・・スチブンソン兄弟は、私がすべての要求を充たす者であると認めて、私を商務省に推薦し、1868年2月24日付で私は採用通知を受取った。・・・・
1868年(明治元年)10月の中旬に寺島氏(宗則)が横浜の知事に任命された。氏は英語をよく話し、外国関係の事務に大変理解があるので、日本政府と条約国の代表者の間の有能な仲介者であった。・・・日本に在留する最初の外国人土木技師であった私は、来日間もなく各方面から援助を求められる立場にあった。私は灯台技師として日本に赴任したのであったのに、思いがけなく東洋で最初の電信線の架設者となった。日本政府は横浜・東京間22マイル(約35.2キロメートル)と、新しく開港した大阪と京都の間に電信線を架設することを決定した。そして私は、その工事に必要な資材と機械をイギリスに注文すること及び電信の工事の施工と、日本人に電信工事及び電信機の操作を指導できる熟練した技術者を獲得するよう命令を受けた。電信の機材は1869年(明治二年)9月に到着し、G・M・ギルバート氏の指導監督の下に建設された。ギルバート氏はまた日本人に電信の操作をも伝授した。電信の移入は、刀を振り回す機会を求めていた狂信的なサムライによって数本の電柱を切り倒された事件があったほかは、一般市民から敵意なく受け入れられた。電文は、英文、和文の両方で送受されるが、後者は42の文字を使うので、この要求を充たすため二重に使用できる機器が採用された。はじめはいくらか困難があったものの、日本人電信手は文字盤と電鍵の操作を短期間に習得し、1870年(明治三年)の初めには既に公衆電報の取扱いが始められていた。私は帝の国で電信線の建設に着手した最初の者であるが、私より先にこの国で電信建設の許可を得た者がいたのである。イギリスから輸入した資材によって電信線が架設されることを聞知したスイス国の領事はハリー・パークス卿に、自分は将軍の政府から日本国内の電信を建設する許可をスイス国のために取得していると通告してきた。
多分、スイス政府は、日本に革命騒ぎがあった1868年の頃にはこの国がどのように落着くのか様子を見るため、実際に行動を起こさなかったのであろう。それはともかく、ハリー・パークス卿はこの国の状勢の推移について、より正しい見通しを持っていたので、他国の機先を制したのであった。スイス政府から日本の政府に、やはり電信建設の申し入れがあったに違いない。このことで外交上の紛糾を経験した日本政府は、1868年からはいかなる事柄にも外国の支配を許さず、したがってそれまでの合意事項は廃棄した。オーストリア政府も以前に電信機械の一式と大量の電線を供給した。それらが幕府の倉庫に格納されているのが見付かったので、この機材は私の部下たちによって、東京の皇居やその他諸官庁間の通信線に使用された。約100マイル(160キロメートル)に及ぶ二箇所の日本最初の電信線が核となって今日の電信路線の延長が実現した。電信事業は、はじめ政府の別々の省の管轄下において進められたが、後一つの省に統一された。 
灯台建設場所測量航海の様子
日本における私の主務は灯台の建設である。その第一歩は航海者たちが推薦した予定場所を検分して回ることから始まった。これらの場所を訪れる唯一の方法は海路の旅行しかなかった。・・・・早急に灯台の建設を始めることに最も熱意を持っていたハリー・パークス卿は、イギリス海軍の提督ヘンリー・ケッペル卿に、この事業のため彼の指揮下にある艦船の一隻を特派するよう慫慂した。公使の要請に基いてケッペル卿はジョンソン艦長の指揮するイギリス海軍のマニラ号を派遣してくれた。こうして私の最初の日本沿岸一周はこの軍艦によって実現した。・・・・士官室には三名の日本人が居住し、下甲板の水兵の間に十八人ないし二十人の随行日本人がいた。我々の旅行は1868年(明治元年)11月21日に始まった。未調査の湾を測量したり、灯台建設の予定地を訪れたりして、航海は1869年1月5日に終了した。・・・・・
この航海において日本の紳士たちはヨーロッパ式の食卓につくのが始めてであったから、彼らの反応はかなり我々の興味をそそった。薬味入れのガラスの小瓶やナイフやフォークに皿などを見た彼らの珍しがりようは大変に滑稽であった。食卓用具のそれぞれの使用目的について全く知識がなかったから、どれもこれもまともに扱えなかった。ケチャップや食用酢をなめてみて顔をしかめ、胡椒のふりかけ瓶を嗅いだときは大変なことになった。牛肉や羊肉は訝しそうに見詰めた。はじめ二、三回の会食の席ではヨーロッパ人たちはおかしさに吹き出すのを押さえることができなかった。それがどんなに口にあわない食物でも威厳を崩さず、静かにすました顔でもぐもぐと味わうので、なおさらおかしさを誘うのだった。馬鈴薯その他の野菜はかなり好む様子であった。
しかしこれは彼らの急激な変化に対する適応の能力を示すものとして認めなければならない。というのは、二、三日たつと、彼ら日本人は食卓では、育ちのよいヨーロッパ人同様に振舞い、前に並べられたどの皿もおいしそうに食べるのであった。彼らはナイフやフォークを使うことを少しも苦にしなくなり、薬味も間違った使い方をしなくなった。・・・・東京の帝の政府は、地方の役人に対して我々にあらゆる援助を提供するよう訓令してあると聞かされてきたが、事実、彼らが私の要望に応えてたゆみなく努力を傾けてくれるのにはひどく感激した。 大名、すなわちこの地方の領主は、我々に対する贈物として大量の甘藷や数羽の鶏を艦まで届けてくれた。これらの贈物は喜んで受取ったが、陸岸で荷物の運搬に使役されている数頭の黒い牡牛を見て、食用に一頭を買う交渉をした。値段のことは、すぐに双方で満足する額が決まった。しかし仏教徒である島民は本能的に、牛を買いたいと申し込んだ我々の目的は神聖なものであると思い込んでいたが、後になって我々の本意を知ると断固として商売を拒否した。彼らが言うには、牛が自然死するまで待つのであれば売ってもよいが屠殺するなら売らない、というのであった。彼らの良心の呵責は、値段を上げることを申し込んだ結果、幾分やわらいだ。残りの良心は、これは断っておかねばならないが、罪のないごまかしを使うとすっかり解消した。・・・・
こうして我々は広島に着いた。ここである不幸な事件が起ったが、この度は、日本人の性質の非常に快い賞賛に値する側面を見た。マニラ号の士官候補生である十九歳の青年が艦の錨泊中に急死した。遺体は美しい湾の岸辺に埋葬することになり、艦の全乗組員が柩について行った。死亡した青年と同国人の士官たちの一団と少し距離をおいて立っていた日本人たちは式が行われる間中黙礼をしていた。式が終ると東京の高官は墓前に進み、支社を悼む短いスピーチを述べた。彼は終りに日本では死者に花を贈る習慣があるが、この場所に花がないから墓石を建てて、この墓地がこの地方の役所によって鄭重に守られるよう東京の政府に命令を発するよう依頼すると説明した。葬式の直後、数人の老人が手に手に潅木の小枝を捧げて墓に近付き、恭しく墓前に置く姿は、見ていて大変に美しい光景であった。広島でのこの出来事は、日本人の性質の、少なくとも親切な面についてはヨーロッパ人の意見をかなり好転させた。私は数年後にこの墓地を訪れる機会があって、かつて発せられた政府の訓令が注意深く守られているのを実際に見ることができた。 
明治元年の長崎で灯台設置調査
長崎の知事、井上馨に面会した。彼は若い男(井上馨は天保六年生まれ、当時三十三歳)で、彼は教育の一部を合衆国で受けた。彼は流暢に英語を話すので私は必要な仕事を容易に処理することができた。彼は私の依頼には快く応じて出来る限りの協力を約束してくれた。たまたま私がアルガス号での日本政府高官の突飛な行為を話すと、彼は大変に面白がった。そして「彼も良き日本人であるから、すぐにもっと分別をわきまえるであろう」と高官を弁護した。・・・・
長崎は高い丘陵に囲まれた世界中で最も美しく、かつ安全な港の一つである。外国人の居留地も日本人の市街も丘の北東側に位置し、絵を見るようなたたずまいは殊更に興味深い眺めである。長崎では近代化を図る日本にとって重要な多くの計画が実行されている。大型船の造船台が設けられ、種々の工作機械を設備した工場が建っていた。ここでは日本人のみが働いており、工場は全部が稼動しているようであった。イギリス人※グロヴァー氏の商会は、近くの小島、高島に発見された石炭の採掘で日本政府との間に協定を結んでいる。彼は私が知る限りでは、日本でこの鉱物の採掘の許可を得ている唯一のヨーロッパ人である。
私は高島の採炭作業場を訪れた。そこは毎日三百人の労働者を雇い、近代的巻揚機やポンプの設備があり、毎日約200トンの良質の瀝青炭を産出する。この石炭はトン当たり4ドル50セントで売られている。イギリスから輸入する石炭はこの頃1トン7ドル50セントもした。・・・・ この第一回の視察航海が終り、いよいよ灯台建設推進の手順が出来上がると、灯台補給船の必要なことが改めて痛感された。私は東京の政府から、この目的に適う船が購入できる機会がくれば通知するように命ぜられていた。
間もなくその機会が向こうからやってきた。サンライスという名の新造で小型のスクリュー推進のイギリス汽船が入港した。積載量は400ないし500トンで手ごろな広さのキャビンが二つあり、必要な寝所も備わっていた。横浜に駐在していたイギリス海軍の機関士に気缶や機械及び船体をくまなく検分してもらったところ、良好だしいう報告を受けた。そしてハリー・パークス卿も賛成したので、私は日本政府にこの船の購入を申し入れた。船の所有者でもある船長は売却を代理店に委任し、代理店を通して売値は6万ドルと決定した。この価格に日本政府も承諾した。・・・・
私は、ペニンシュラー&オリエンタル郵船の汽船でサザンプトンを出発し日本に赴任したのであるが、そのときの航海で首席航海士のブラウンの知性のある態度や振舞いに感銘を受けた。そこで私は彼に、会社における現在の職を辞して灯台補給船の船長として日本政府に勤める気持ちはないかと尋ねたところ、彼は私の誘いに応じた。雇用の条件も決まって1869年(明治二年)2月24日ブラウン氏はサンライス号の船長の職についた。イギリス士官や機関士及び日本人船員も同時に同船に雇われた。ブラウン船長は教養があり、責任感が強く、また極めて慎重な人柄であったから、多くの日本人に好かれた。・・・
ブラウン氏がサンライス号の船長に任命されてから横浜近傍の灯台への近距離航海を数度行った後、1869年7月7日、日本南西海岸を一周する航海を始めた。そのとき私といっしょに航海した日本の官吏は井上(薫)であった。彼は英語を正確かつ流暢に話し、彼はいっしょに教育を受けたアメリカ人仲間のユーモアと活動的な性質を吸収しているように思われた。私がこれまで会った日本人にこうした活動的な精神を見たことがなかった。彼は同僚日本人の旧套なやり方に対して遠慮会釈もなく嘲り続け、彼特有の方法で活を入れてびっくりさせるのであった。日本沿岸航海のうち、この井上のような下級の役人とした児戯に類する論争ほど私の気持を自由で愉快にしたものはなかった。
政府の各局のうち、井上が関係した灯台業務ほど順調な発展をもたらした所はなかった。久しく下僚にとどまるにはあまりにも有能であった陛下の僕の井上は、政府の他の省に異動し、目覚しく昇進した。1878年(明治十一年)彼は英国宮廷(Count of St. James)に日本の高官として招かれた。1878年ロンドンの土木技師協会の会合で私が日本の灯台についての論文を発表したとき、彼は快く会合に出席してくれた。日本の南西沿岸の航海にはその他に、私の妻と日本を訪れていた退役印度人将校も乗船していて、私が灯台設置の予定地を視察するときには同行した。
※グロヴァー
幕末期に日本への密貿易で活躍したイギリス商人。彼は長州藩へ七千挺以上もの小銃を供給した。日本人のヨーロッパ留学も援助し、そのうちに伊藤や井上も含まれている。また、彼はイギリス公使パークスの薩摩藩接近の仲介役をも果した。 
明治初期の島津藩で
このときの航海で最も興味深かった所は、有名な島津藩の城下町である鹿児島と薩摩の他の場所を訪れたことであった。鹿児島は、かつて横浜近くの街道で四名のイギリス人一行が薩摩の大名の家来に襲撃され、殺傷された事件の報復として1863年(文久三年)7月にイギリス艦隊によって砲撃されたことがあった。この砲撃の結果、薩摩人の間に、西洋文明を高く評価する気運が生じたのであるが、私が訪れたときにそれを証明するいろいろの事物を見た。
薩摩の君主島津三郎(藩主島津忠義の父)はいまだに中央政府から独立した勢力を保持してはいるが、1870年(明治三年)頃では天皇の政府から不信視されていた。事実、井上は我々がどんな歓迎を受けるか心中で測りかねていたので、自分でこの地の当局の意向を忖度するまでは我々に上陸を見合わせるようにと言った。我々の船が鹿児島に着くと、彼はすぐに陸岸に向い、四、五時間たって四人の薩摩の役人を伴って帰って来た。役人たちは、我々を心から歓迎し、及ぶ限りの援助を惜しまないと言った。役人はまた、彼らが通常殿様と呼んでいる薩摩の大名が、次の木曜日の夕刻に我々と晩餐を共にしたいと願っており、我々がそれを受けることを望んでいると言った。殿様の親切に対し我々の感謝を伝えて戴きたいと役人に頼み、我々はこの歓待を喜んだ。彼らはまた「誠に言いにくいことであるが、遺憾なことに殿様はワインをお持ちにならないから船からいくらか持参して戴ければ幸いである」と言った。我々はシャンペン六瓶とシェリー酒六瓶を晩餐会への贈物とした。
翌朝、役人がまた船にやって来て、薩摩で建設予定の灯台の作業の概要を知りたいと言ったので説明をした。灯台建設場所は鹿児島から40マイル(約64キロメートル)南の佐多岬で、さきのマニラ号の航海のとき、私が上陸できなかった所である。この後役人は、我々を案内して鹿児島に上陸し、大きな紡績工場を見せた。見たところ工場内はよく整頓されて十分な機能を発揮しているようであった。使用されている機械はイギリスのオルダムで製造され、長崎のグロヴァー商会を経て輸入されたものであった。我々はまた薩摩の兵器工場も見せてもらった。そこでは大口径の大砲や弾薬を製造中であった。当地では各種の有益な事業、例えば造船、ガラス器の製造、木工業等も行われていた。・・・・
殿様から招待された夕刻、我々は紡績工場の中の大きな部屋へ案内された。二十人分くらいの食器類が長いテーブルに並べてあった。陶磁器はスタフォード(イングランド中部の州)の産、刃物はシェフィールド(イングランド北部の都市)産のものであった。殿様は出席されないが代理としてある重臣が出席したと説明があった。なお、殿様から我々への贈物を受取って欲しいと言った。贈物は美事な薩摩の陶器と絹織物など数点であった。これら歓待の思い出の品々を私は未だに秘蔵している。
晩餐は、巧妙に調理し美事に盛り付けしたフランス風の料理に、日本流の味付けがしてあるようだった。ただ非常に奇妙なことには、スープからデザートの菓子までのフルコースを一同で共にして食事が済んだと思ったら、また新しく食事が運ばれ、再びスープが並べられ、次いで前と同じ順序で他の料理のコースが続いた。こうして二度目の食事が終ったとき、私が見たところでは主人側では更に食事を出すつもりでいるようであった。そこで私は井上に、その必要のないことを耳うちした。井上は薩摩の役人に私の示唆を伝えたので、このサイクルが停止し晩餐会は終った。ヨーロッパの形式に従ってビクトリア女王と天皇睦仁及び薩摩の殿様の健康をたたえ、杯を乾したが・・・・・この晩餐会は、日本人が新しい物を取入れることを好む性質の例証を更に一つ加えたものであった。・・・・
医師W・ウイリス氏はこの頃唯一人のイギリス人として鹿児島に在住していた。彼は日本では知名人で、日本人及び外国人の双方から等しく尊敬を受けていた。彼はイギリス公使館に長年雇われていた優秀な外科医で、先年日本が経験した狂乱の時代に、日本人に図り知れない援助を与えた。当時通訳生であったアーネスト・サトウ氏と共に19世紀に京都に入った初めての外国人であった。彼は帝の擁護者によって新しく発足した政府に招かれ、折柄の戦乱、特に伏見の戦闘では、負傷者や病人の救助に力を尽した。薩摩の殿様は特にこのときのウイリス氏の働きを高く評価して高額の報酬を与えようとしたが、ウイリス氏はこれを固辞した。維新の動乱がおさまったとき、薩摩の殿様はウイリス氏に、鹿児島に移って藩主及び住民に医療の便益を与えてくれるよう請うた。彼はこの申し出を、穏当な報酬で五ヵ年の期間を限って受諾し、自ら進んで僻遠の土地に赴きこの条件を果しているときであった。 
伊勢佐木町の吉田橋
日本人を駆り立てた進歩の精神を象徴するいま一つの例は鉄橋の架設である。1870年(明治三年)に見た日本の橋の構造は、前に述べた住宅と同様に非常に原始的なものであった。橋脚は木の皮が付いたままの材木である。一番目の橋脚は日本の工法が許す限り岸から離れて地中に打ち込んである。橋脚と橋脚の間には二本の材木が渡してあり、それには日本の橋に特有のアーチ形を造るよう曲った材木が選んである。橋脚の上部には横に並べて厚い板が張ってある。これに粗雑に造った手すりをつければ橋は完成である。こんな橋は絶えず修理が必要で、また馬車などは通れない。橋は五年毎くらいにすっかり架け替えなければならない。
横浜から東京への幹線道路にあるこの短命な※橋の架け替えを、寺島知事に求められた。彼は旧来の橋に代えて恒久的な橋の架設について私に相談をもちかけた。この架橋は一つの実験の意義を持つものである、と彼は私に説明し、ヨーロッパではどのようにして橋を架設するかを日本人に見せたいのだと言った。しかし寺島はこの架設工事に多額の経費を支出する権限は与えられていないので、ヨーロッパから架橋に必要な資材の輸入や、架橋専門の外国人技術者の雇れはできないことを表明した。
寺島のこのような意図を知った私は、仕事の困難なことは分かっていたが、これを断るよりも、何とかして助力者を得て仕事に取組む気になった。イギリスの鉄道で鉄橋の架設工事に若干の経験があったので、かなり条件は異なるが、全くの無鉄砲で引受ける決心をしたのではない。私の設計では石の橋台(アーチの両端を支える台)にラチス橋(格子型の骨組で支えた橋)で橋脚間は長さ約100フィート(約30,5m)、橋の幅25フィート(7.6m)のものであった。
幸運にも横浜で鍛冶工の技能者が一人見付かったので、彼の助力を得るため雇入れた。鉄板を手に入れるため、日本や支那の外国人居留地をくまなく探したところ香港で入手することができた。工場から穴空け機と剪断機を借り、鉄板を所定の寸法に剪断し、鉄鋲を打込む穴を空けた。大梁はすべて日本人が組合せ、鉄鋲を打って組立てた。彼らはかつてそそんな工具を使用したことがなかったので、自分たちが扱った仕事の性質についてはまるで知らなかったのである。
この一つの工事が民衆の心に非常な興味を喚起した。架橋工事の間中、サムライや商人階級の群集が、唐人(外国人のこと)の新奇なもくろみを見物しようと蝟集した。人々は工事に使う大きな石に腰を下ろし、日本の小さなパイプ(煙管)で煙草を詰め替えては喫い続けながら、この珍しい見物について議論しながら飽かずに眺めていた。後で知ったことであるが、知ったか振りの連中たちは、私の仕事の成功を疑問視していたそうである。
しかし諺にも「一事が万事」と言い、一つの事が成就すれば何事もうまくゆくという意であるが、日本においては殊にそうである。日本最初の鉄橋は何の故障もなく架設された。橋の許容荷重をかなり上回る荷重でテストしたが、鋲打ちの弛みから橋の中央部で設計よりわずかに多くたわむ外は満足すべき結果であった。
※橋は伊勢佐木町の吉田橋である。開港直後木造の橋が架けられたが、慶応末年に破損が甚だしくなったので、ブラントンに架橋が委嘱されたのである。工費は7000円で通行する馬車から一銭、人力車から五厘の橋銭を徴収した。 
蒸気船への熱望
模倣の才と珍奇な物を好む性質の持主である日本人は、1870年(明治三年)頃には、ヨーロッパの製造品を、小児が玩具を欲しがるように、愛好品として所有したいという熱望が大変に旺盛であった。ヨーロッパの新しい物がこの国へ入って来た当時は、その所有欲は、実用品として利用したいというよりも単に珍しい物を所有したいという欲望が強かった。このような気質から全く馬鹿馬鹿しい事態がしばしば起った。
例えば、当時の日本人は兎という動物を知らなかった。あるイギリス人貿易商が耳の長いこの動物を数匹日本に持ち込むことを思いついた。その結果は、日本人はすっかりこの可愛い動物のとりこになり、それを飼いたいという熱望が国中に広まった。商人はカリフォルニアやオーストラリアや支那で飼い兎を捜して買い集め、汽船が日本の港に入る度に数百の兎が舶載されて来た。それでも兎に対する需要は一向に衰えず、熱狂した買手は一匹の兎に100ドルもの値をつけた。政府も驚いて輸入を制限するため兎の輸入に重税を課した。この措置で、さしもの兎熱も短期間で冷却して兎の輸入は全く跡絶えた。
同じような、しかしそれほど激しくない所有願望は、豚や羊を対象にしても起こった。豚も羊もそれまで日本にはいなかったのである。このマニアは少しくトラブルを惹き起こしたものの、短期間で消滅した。・・・1860年代(万延年間)、70年代(明治三年〜十二年)に起こった日本人の最初の熱中の中でも特に熱中させ、永く続いたのは蒸気船を持ちたいという熱望であった。幕府や封建諸侯、その他資本に余裕のある者は蒸気船を購入した。日本のような島国では蒸気船は単なる玩具ではなく、最も高価な実用品の代表でもあった。最初の購買者には不幸なことであるが、蒸気船の構造が複雑で、無知な者の手にかかると非常に危険な代物であった。
日本人は自分で蒸気船を操縦したり、機械を運転した経験を持たなかったことは言うまでもない。日本人船主は未熟な者に船を任せた結果、それが災難の頻発する原因となった。そして、無知なためにその災厄が予見できず、次から次へと船を買い求めたが、それはただ彼らの抑えきれない、新奇な物に対する欲望を一時的に充たすに過ぎなかった。その頃の日本人は、文字通り世界中に蒸気船を捜し求めた。合衆国、支那、印度、フランス、イギリス等の各国は、自国のために調達した船舶さえも日本向けに回した。それも既に役に立たなくなったものや旧式なものでも、容易に、かつ安価に手に入るものを日本に送り込んだ。日本人もまた安価で速やかに入手できるものならどんなものでも欲しがった。破損したり、あるいは古くて使用に耐えなくなって放置されていた船が、この新しい市場の売物にするため、応急の修理が施され、新しく塗装された。日本人は、自身で船体や機関の検査能力がないくせに、ヨーロッパ人の助言を退け、この上なく無駄な買物ばかりして、良心的でない商人や代理店を喜ばせたのであった。
時には船が出港できなかったり、また機関を停止することが出来ない場合があった。機関が壊れたり、給水不足から汽缶が焼損したり、ときには爆発して死傷者が出るといった恐ろしい事故が起こったが、それらは決して稀なことではなかった。・・・・我々の灯台業務用船は、日本人が乗組んだ蒸気船が座礁したのを救助するため、就航以来六、七回も出動した。そんな場合は、どの船もろくに手入れもしてなく、全くひどい状態であった。機械は赤く錆びているか、また油やグリースでベトベトであった。甲板は砂磨きもしてなく、船室は汚くいやな臭がし、ロープや船具類は乱雑に山になって積上げてあった。
実際に、外国人の発明品も日本人の手に掛かるとこんな状態になるのが普通であった。日本人が異国の船に乗組んで立派に任務が果せるようになるまでにはある時間が必要であったのである。日本人が伝統の清潔好きの習慣をこの新しい場所に持込み、日々の課業の規律を身に付けるまでには、なお長い年月の訓練を要したのであった。海図や航海の指導書もなかったので、これらの船の船長は航海のルールの知識に欠けていて、夜間に所定の航海灯を掲げることなど考えもしなかった。それは乗組員自身にも決して安全でなかったが、それよりも訓練された船員が乗組んだまともな船が、こんな船と衝突して遭難する危険があった。日本の蒸気船がある時舵が利かなくなって、外国船が出入りしている港の中を右往左往している様は、まるで狂人が荒れ回っているようであった。・・・・・
西洋の文明を吸収するに従って海路旅行の手段がますます日本人には必要となってきた。彼らはすぐこうした特殊な分野における己の無能力さを正しく認識するようになった。その結果、次第に外国人の航海士官や機関士をすべての日本の蒸気船に任用するようになった。また新しい船を買う前に西洋の進歩した技術の習得に励むようになった。 
 
一外国人が見た開国日本
  アレクサンダー・ハーバーシャムの航海記より

 

はじめに
1850 年代における日本の「開国」以降、外交官や通訳、商人、あるいはその家族など、多くの欧米人が日本を訪れるようになった。彼/彼女らの中には、日本滞在中の記録を日記に書き残したり、それをもとにした滞在
記を刊行した者もいる。それらの史料は、幕末・維新期における日本の政治や外交、あるいは社会、文化などの諸側面について、日本国内の史料だけでは明らかにし得ない多くの事実を示してくれるという点でも重要な史料といえる。これらの外国人が残した多くの史料をもとに、すでにさまざまな研究成果が発表されてきた。
このような欧米人の来日は、1854 年3 月31 日(安政元年3 月3 日)に締結された日米和親条約の締結を契機としている。日米和親条約自体は通商の規定を伴った条約ではないが、アメリカ人やその他の条約国の人々が新たな商売を求めて開港地の下田や箱館に来航し、中には条約締結国以外の外国人も来日していた。
条約の交渉が行われている時期に日本を訪れた外国人の体験談として、まずは日米和親条約の、一方の当事者側であるペリー艦隊の記録があげられる。同艦隊の大部の遠征記録に加え、ペリー本人の日記や、通訳として乗艦していたサミュエル・ウィリアムズの記録などが有名であろう。また、1853 年に来日したロシア使節プチャーチンの書記官をつとめた作家ゴンチャローフの航海記も知られている。
一方、日米間の条約締結がなされた直後に来日した外国人の記録については、どうであろうか。有名なものとしては、海軍伝習のため長崎に滞在したオランダ人カッテンディーケの記録や、ハンブルクの商人リュドルフの日記があげられる。しかし、日米和親条約の当事者であるアメリカ人の記録は、あまり知られていない。そもそも、条約締結の報をうけ、多くのアメリカ人が来日したのであるが、彼/彼女らの中で自身の体験記などを刊行した者が少ないのである。
しかし、開国直後の日本を訪れた外国人の体験や、それにもとづく「日本」観などを検討することは、それ以後、否応なく欧米諸国を中心とした近代世界秩序に巻き込まれていく日本の、初発の国際条件を考察する上でも重要な作業といえるであろう。とくに、開国の直接の契機をつくったアメリカ人たちの、開国直後の体験を分析することは、その後の通商条約締結にいたる過程を再検討することにもつながるはずである。
このような中にあって、アメリカ海軍の士官であったアレクサンダー・ハーバーシャムが自身の航海日記をもとに執筆・刊行した『マイ・ラスト・クルーズ(私の最新の航海記)』は、開国直後の日本における彼自身の体験談が描かれた貴重な史料である(以下、本稿では『クルーズ』と略記する)。ハーバーシャムは、1855 年5月、北太平洋測量艦隊の一等少尉(first lieutenant)という立場で下田および箱館に来航した人物であり、『クルーズ』には、開国直後の日本の役人層とのやり取りや、あるいは一般の人々との交流など、興味深い話題が豊富に詰まっている。しかしながら、日本においては、ハーバーシャムの名も、また『クルーズ』の名も、ほとんど知られてはいない。
そこで本稿では、ハーバーシャムおよびその著『クルーズ』の紹介も兼ねながら、それらを手がかりに、1855年という開国直後の日本において彼がどのような体験をし、それがどのような対日観につながったのか、という点について考察を行うことを課題とする。その上で、開国直後のアメリカ人の体験が、その後のアメリカ本国の対日政策などに与えた影響について展望を示すことを目指したい。
1.ハーバーシャムと『マイ・ラスト・クルーズ』
まず、本稿の主人公ともいうべきアレクサンダー・ハーバーシャムの経歴から確認をしていきたい。
ハーバーシャム(Alexander Wylly Habersham)は、1826 年にニューヨークで生まれ、1841 年、士官候補生としてアメリカ海軍に入隊した)。入隊後、ジョージアの海軍兵学校で学び、1848 年に卒業している。その後、沿岸警備に従事していたが、1852 年8 月、北太平洋測量艦隊の派遣が決定され、ハーバーシャムは同艦隊に所属することとなった。
この測量艦隊は、海図が十分に作成されていなかった中国近海からベーリング海、および北極海にかけての海路の測量・探査を目的として編成された艦隊である。司令長官に任命されたカドワレイダー・リンゴールドの指揮の下、準備が進められ、1853 年6 月11 日にノーフォークを出航した。艦隊は、旗艦ヴィンセンス号、ジョン・ハンコック号(艦隊の中で唯一の蒸気艦)、ポーポイズ号、フェニモア・クーパー号、そして補給船のジョン・ケネディー号という5 隻から構成されていた。
ハーバーシャムが乗艦したのは、ケネディー号である。この船で測量事業に従事しながら、彼ら一行は喜望峰経由で香港へと進んでいった。詳細は後述するが、1854 年8 月、香港で司令長官がリンゴールドからジョン・ロジャーズに交代となり、それに伴い、ハーバーシャムはハンコック号への移乗を命じられた。彼はこのハンコック号に乗って、1855 年5 月、ヴィンセンス号とともに下田に来航する。その後、ハンコック号は日本列島の太平洋岸側を測量しながら北へ進み、途中箱館に寄港した後、ベーリング海および北極海の測量を実施し、1855 年10 月にサンフランシスコへ到着、その任務を終えた。
測量艦隊での任務を終えた後、ハーバーシャムはフィラデルフィアの海軍工廠で勤務し、1857 年には東アジア艦隊のポーハタン号への乗艦を命じられた。この同じ年の3 月に、彼は測量艦隊における航海日記をもとに『マイ・ラスト・クルーズ』を刊行した。
このように着実に海軍での経歴を積んでいたハーバーシャムは、1860 年5 月、海軍を辞し、商売のために日本へ移住する。測量艦隊での日本訪問と、この日本移住が具体的にどう関係しているのか、という点は不明であるが、彼は日本の茶をアメリカに向けて輸出するという貿易業に従事した。しかし、その日本滞在期間は短く、翌1861 年にはバルティモアに戻っている。それはまさに南北戦争開戦の時期にあたり、ハーバーシャムは「南部連合の支持者」として、1861 年末から約5 ヶ月間、拘束されたという。南北戦争終結後は、茶の貿易や缶詰製品の事業にたずさわり、1883 年に亡くなった。
以上がハーバーシャムの大まかな経歴であるが、続いて、彼が1857 年に刊行した『クルーズ』について確認していきたい。
全部で507 頁にものぼる同書は、24 章から構成されている。序言においてハーバーシャムは『クルーズ』の刊行について、「これらの事業が達成される中で、我々がどこへ行き、何を見たのか、という点をただ示すこと」が目的だと述べている(6 頁)。また、その内容は、「艦隊の数船で仕事をしていた中での、個人的な観察にほとんど限定されるものではあるが、厳密に事実に即した」内容であり、「私もそのほとんどに加わっていた危険や冒険による高揚感に多少は影響されているものの、正直を旨とし、不正確な印象を与えるようなことは全く意図していない」という(同上)。
以上の特徴を有する『クルーズ』では、彼が立ち寄った様々な地域の様子や、そこでの「危険」、「冒険」が、彼のユーモアも交えながら生き生きと描かれている。もちろん、文学作品としてではなく、歴史的史料として同書を利用する場合には、このような彼の修辞表現などは差し引いて考えなければならないであろう。また、おそらくは記憶違いによる事実の誤記・誤認も時に見られ、この点にも注意が必要である。それでも、日本はもちろん、同書で紹介されているそれぞれの地域の、19 世紀当時における社会や文化などの実態を検討する上で、『クルーズ』が重要な史料であることは間違いない。
なお、日本については、下田に到着する第11 章から、蝦夷地近海の測量を終えてオホーツクへと出発する第16 章までが割り当てられている。後述するように、日本の滞在は約5 週間に及んだ。それに対し、香港や上海を拠点として、中国近海にハーバーシャムは1 年近く滞在し、『クルーズ』では第7 章から第10 章までが同地域での活動に関する記述となっている。滞在期間に対する記述の分量から考えれば、日本体験に関する記述が最も多い。この点からも、ハーバーシャムにとって日本での経験が大きな印象を与えるものであったということが推測できるであろう。
2.アメリカ北太平洋測量艦隊の来日
(1)北太平洋測量艦隊が日本に来航するまで
1853 年6 月に北太平洋測量艦隊がノーフォークを出航したその約1 か月後、日本へ派遣されたペリー艦隊が浦賀を訪れた(1853 年7 月8 日)。ペリーは、日本との条約締結に並ならぬ決意を抱いていた。それは、指揮下の艦船をすべて日本に集結させたことにあらわれている。その結果、艦隊が日本に移動した1854 年1 月の段階で、香港・広東の近海には、傭船クイーン号を除いて軍艦が不在という事態まで生じることとなった。
しかし、当時清朝内部では、太平天国の乱が生じており、香港や広東に在住する外国人たちの間で、治安悪化に対する不安が高まっていた。このような状況の中、1854 年3 月から5 月にかけて、アメリカ北太平洋測量艦隊の艦船が続々と香港へと到着した。この測量艦隊の香港到着をうけ、1854 年6 月5 日、広東在住のアメリカの商人たちは測量艦隊司令長官リンゴールドに、アメリカ人の生命・財産の保護を要請したのである。
ハーバーシャムの乗るケネディー号は、ハンコック号、クーパー号とともに、1854 年1 月10 日から5 月15 日にかけてガスパル海峡の測量を実施し、それが終了した後に香港へ向かった(74−79 頁)。しかし、香港到着後、ケネディー号は「船体が腐っている、つまりまったく使い物にならないということが判明した」(115頁)。ポーポイズ号も同様の状態にあり、両艦船は大規模な修理に入ることとなった。このように艦船が大規模な修理を要するという状況も相まって、リンゴールドは測量艦隊の事業の中断を決め、アメリカ商人たちの要請をうけて中国近海の護衛に当面従事することにしたのである。
この頃から、艦隊の士気が乱れ始めた。おそらく、時間を持て余すようになったことが原因であろう。ポーポイズ号では、4 月の時点で、「数人の例外をのぞいて」酒に溺れている状況であったという。加えて、リンゴールド自身が断続的な高熱に襲われ、指揮がとれない状態となった。このような中、1854 年7 月23 日、香港に姿をあらわしたのが、同年3 月に日本との条約締結に成功したペリー提督である。この後の動きは、ハーバーシャムによって次のようにまとめられている(115 頁)。
その間、ペリー提督が名高い日本への航海から戻ってきた。彼は「北太平洋艦隊」で起きている事態について、何らかの行動をとることが求められていると実感した。我々の艦隊は、ペリー提督からは独立した別個の艦隊である。しかし、ペリー提督がその時点で最上官であったこと、また、リンゴールド司令長官の健康状態に関して報告を受けたことから、彼は測量艦隊への介入が必要だと考えたのである。「慎重を要し、安静と退役が必要」という趣旨の船医団からの報告があり、ペリーはリンゴールドに帰国を命じた。指揮権は、リンゴールドのすぐ下の階級であったジョン・ロジャーズ司令官に移譲された。そして、ここに我々の艦隊の全面的な再編成が開始されたのである。
測量艦隊司令長官を引き継いだロジャーズは、それまで率いていたハンコック号から旗艦ヴィンセンス号に移乗した。そして、ペリーの支援をうけながら、ロジャーズによって艦隊の再編が進められることとなる(115−116 頁)。ハーバーシャムも、その一環としてケネディー号からハンコック号への移乗を命じられた。この間の動きを、彼は「不確かさと混乱の、筆舌尽くせぬ状況が数週間続いた。どの船が正しく、命令をうけたときにどこにとどまればいいのか、誰も分からなかった」(116頁)と記している。なお、ケネディー号は広東の護衛にあてられ、測量艦隊からは外されることとなった。
最終的に再編成が完了し、ヴィンセンス号とポーポイズ号は琉球、小笠原諸島の測量に向かった(128 頁)。一方、ハンコック号は北京に向かう使節ジョン・マクレーンの護衛にあたるという任務を命じられ、クーパー号と行動をともにした。
なお、ヴィンセンス号とポーポイズ号よりも先に香港を発ったハーバーシャムは、「二度と後者(ポーポイズ号)を見ることはなかった」という(129 頁)。ヴィンセンス号とともに小笠原へ向かっていたポーポイズ号が、同地近海で行方不明になるという事故が生じたのである。ハンコック号とクーパー号が上記の任務を終え、1855 年2 月13 日に香港に戻ってきた時、すでにヴィンセンス号は同地に戻っていた(164 頁)。しかし、そこにポーポイズ号の姿はなく、ハンコック号がその捜索に向かったものの、「失望と危機、時間の浪費以外には何も得られなかった」という(166 頁)。
香港に再集結するまで、琉球・小笠原近海の測量を実施していたヴィンセンス号は、1855 年1 月、鹿児島湾にも訪れている。ヴィンセンス号を率いるロジャーズは、薩摩藩の役人に対し、同湾測量の便宜を図るよう要請したものの、返答がなく、思うように測量を実施することができなかった。この鹿児島訪問が契機となって、ロジャーズは、開港地下田に立ち寄り、日本政府と交渉する必要を認識するにいたったのである。香港に戻ったロジャーズは、同地で日本行きの準備を整えた。5隻から3 隻に減った測量艦隊は、いよいよ日本へ向かうこととなったのである。
(2)琉球から下田、そして箱館へ
1855 年4 月2 日、測量艦隊司令長官ロジャーズは、海軍長官に対し、ハンコック号とクーパー号がすでに同地を出発し、琉球に向かっている旨を香港から報告している。この報告書によれば、測量艦隊は琉球で一旦集結した後、次は箱館を再集結の地として日本列島近海の測量を実施するとともに、自身はハンコック号を引き連れて開港地の下田に立ち寄り、日本政府に対し、近海測量に関して交渉を行うつもりであるという。
4 月9 日、ハンコック号が那覇に到着した。しかし、この時点ではまだヴィンセンス号とクーパー号は姿を見せていなかったという(179 頁)。2 隻が到着するまでの間、ハンコック号は琉球近海の測量を実施した。
ここで、ハーバーシャムの琉球体験について、簡単に紹介をしておきたい。彼が琉球でまず驚いたことは、琉球の役人の中に、英語を上手に話す者がいるということであった。彼は、「琉球で少しく英語を話す者は、私がこれまで見てきたどの外国人よりもうまく発音している。中国人と異なり、彼らはR の音も難なく発音できている」と述べている。このように英語を話す琉球人の発音が上手なのは、同地に滞在する宣教師から直接教示を得ていたからであった。1840 年代以降、琉球にはイギリスやフランスの宣教師が訪れ、琉球政府の拒否にもかかわらず滞在を続けていた。ハーバーシャムは、当時琉球に滞在していたイギリスとフランスの2 人の宣教師と会話を交わし、彼らから、「現地の人々には親切にされているものの、改宗者はほとんどいない」と聞かされている(以上、181 頁)。
一方、琉球の人々に対するハーバーシャムの評価は、あまり高いものではない。彼は、「質素で、不快なところもないが、いくぶん内気で、かなり卑屈な態度をとり、この上なくずる賢い。(中略)そのずる賢さの点では、日本人にさえまさっている」と琉球人のことを批判している(181−182 頁)。
このように彼が琉球の人々を「ずる賢い」と評したのは、食糧などを要求しても、なかなか届けてはくれなかったという経験にもとづいている。1854 年7 月11 日にペリー艦隊が締結に成功した琉米修好条約の第1 条では、アメリカ側が要望し、琉球で準備できる物品であれば、適切な価格で取引できると規定されていた。しかし、要求したモノがすぐに入手できるということはなく、「私たちは、最も楽天的な人が期待するよりも多くの余った時間を使いこなすことができると分かった」とハーバーシャムは皮肉を込めて述べている(191 頁)。『クルーズ』で紹介されることとなったハーバーシャムの琉球体験は、こうした「余った時間」での出来事だったのである。
なお、琉球で体験した、要求した物品がなかなか届かないという事態は、開港地の下田においても経験することとなる。「ずる賢さ」の点で琉球人と日本人が比較されているのも、両地における類似の経験にもとづいていたといえよう。ハーバーシャムは、琉球と日本の双方での経験について、「ペリー提督によってしっかりと話し合いが尽くされた条約があるにもかかわらず、琉球の人々から新鮮な食品を入手することができず、また、後には日本人からも得られなかった」と述べている(196頁)。琉米修好条約および日米和親条約という2 つの条約が、琉球、日本それぞれによってないがしろにされている。これが、ハーバーシャムが両地において共通して実感したことであった。
さて、琉球での準備が整い、1855 年4 月27 日、測量艦隊は那覇を出航し、日本を目指した。この日本への航路について、ハーバーシャムは次のように述べている(195 頁)。
今や我々は、日本の蝦夷(Jesso)という島にある箱館へと出航した。クーパー号は、日本の本州(the great island)の西側を測量し、ヴィンセンス号とハンコック号は、できるかぎり広範囲を踏破するために別のルートをたどり、(本州の)東側で測量に専念することとなった。後者の2 隻の艦船は、東側に位置する下田にも立ち寄ることになっていた。
ハーバーシャムの記述通り、測量艦隊は2 つに分かれて箱館を目指し、1855 年5 月13 日(安政2 年3 月27 日)には、ヴィンセンス号とハンコック号が下田に入港した。下田において司令長官ロジャーズは、「日本帝国江戸ニ於て外国之事を司る貴官」に宛てた測量認可を求める書簡を下田奉行に渡した。幕府のその後の対応については前稿に委ねるが、結論だけ述べておけば、幕府内の評議は測量の可否をめぐって揺れに揺れる一方、返答までには時間がかかるであろうと判断したロジャーズは、とくに幕府からの公式の回答を聞くこともなく、5 月28 日、ハンコック号とともに下田を出航し、日本列島の太平洋岸の測量を続けながら箱館へと向かった。
6 月5 日、ハンコック号がまず箱館に到着し、6 日にクーパー号、そして7 日にヴィンセンス号が姿を見せ、久々に3 隻が集結することとなった。箱館では、香港で傭船したハンブルク船籍のグレタ号から物資を提供され、ベーリング海峡への航海の準備を行っている。箱館港をはじめ、同地周辺の測量を実施した後、艦隊は6月26 日、箱館を出航し、カムチャツカやアリューシャン列島の測量へと向かっていった。
ここで、ハーバーシャムの日本滞在期間をまとめると、下田には2 週間あまり滞在し、箱館にはちょうど3週間滞在したことになる。この合計約5 週間の日本滞在は、上述の通り、ハーバーシャムにとって非常に大きな印象を残すものであった。次章では、『クルーズ』に記された彼の日本体験の内容を見ていきたい。
3.ハーバーシャムの見た開国日本
(1)日米和親条約と測量艦隊
ハーバーシャムが『クルーズ』の中で最も強調している点のひとつが、日本における和親条約の取り扱いについてである。上述したように、琉球での体験同様、彼は日米和親条約が日本によってないがしろにされていると感じたのである。
1854 年3 月31 日(安政元年3 月3 日)にアメリカ合衆国と日本とのあいだで締結された日米和親条約について、その一方の当事者であるペリーは、「これまで全ての対外関係を完全に排除することが権利であると主張していた国と、友好的で独自の関係を築いた最初の国という名誉」をアメリカにもたらしたと述べ、自身の成果を誇っている。このペリーの言のように、アメリカ側にとって、日米和親条約とは「全ての対外関係を完全に排除する」という日本の鎖国政策に終止符を打たせた条約を意味していた。
この認識は、測量艦隊の者たちにとっても、同様のものであったと考えられる。とくに、香港でペリーから直接日本との条約締結の談を聞いたジョン・ロジャーズは、ペリー同様の観点を有するにいたったことであろう。
しかし、ロジャーズが日本で体験したこととは、自身の期待に反し、日米和親条約を以てしても日本は鎖国政策を継続させている、という事態であった。ロジャーズは海軍長官に対し、「条約は、日本の政策として長きに渡り続けられてきた鎖国を放棄するという意志を伴って締結されたものではない」と報告しているのである。
このような失望は、ロジャーズに限らず、測量艦隊の船員たちの多くが抱いたものだと考えらえる。それは、ハーバーシャムも例外ではない。彼は『クルーズ』において、日本における条約の取り扱いについて、次のように述べているのである(199−200 頁)。
この条約について、私は付言しなければならない。条約は、最も楽天的な考えにもとづいて期待される以上のことをも保証してくれている。にもかかわらず、日本人自身の全くの不誠実さによって、多くの条項が無効で空虚なものとされているのである。(ペリー)提督は、圧倒的な艦隊と政府からの制約のある権限ではなく、適切な軍事力と完全な権限をともなって、再度日本に派遣されるべきであろう。
ロジャーズや、あるいはハーバーシャムがこのように感じることとなった背景には、アメリカ人の上陸・止宿にかかわる問題が関係している。測量艦隊が下田に到着したとき、同地柿崎の玉泉寺に、10 人のアメリカ人が滞在していた。アメリカ商船カロライン・フート号の船員とその家族たちである。彼らは、条約によって開港された箱館で商売を行うために来日し、一時的に下田に滞在しようとしていたのである。
しかし、日本側は彼らの上陸・止宿を認めようとはしなかった。日米和親条約の内容から、自身の上陸・止宿を当然の権利だと認識していたフート号の船員たちは、下田奉行所側と交渉を続けることとなる。そこに来航したのが、ロジャーズ率いる測量艦隊であった。『クルーズ』は、その時の動きを次のように伝えている(210頁)。
ロジャーズ司令長官が「放浪の民」から、ペリー提督による近年の条約の諸条項について遵守するよう日本人に対して圧力をかけてほしい、と要請された時、我々は長らく下田に滞在していたというわけではなかった。それでも、その士官(ロジャーズ)は、その問題が将来2 国の政府の間で議論されるべきものと正しく認識し、彼らの側に立って、公式に(日本へ)申し出を行うことに同意した。
その結果、ロジャーズは測量だけではなく、上陸・止宿の問題についても下田奉行と交渉をもつこととなった。しかし、それでも日本側の上陸・止宿拒否の姿勢が覆ることはなかった。箱館でもロジャーズが間に立ち、箱館奉行に彼らの滞在を認めさせようとしたが、「同じような拒否に遭い、彼ら(フート号船員)はかなりの、そして当然の怒りを抱いてサンフランシスコへ帰っていった」という(210 頁)。「当然の怒り(just dudgeon)」という表現からも、ハーバーシャムがフート号の船員たちの主張を正当と見なし、日本側の条約の取り扱いに対して批判的であったことが分かるであろう。
条約の問題に関して、ハーバーシャムは物品の購入に関しても不満を抱いた。条約第7 条は「合衆国の船、右両港に渡来の時、金銀銭􀀀品物を以て、入用の品相調ひ候を差免し候」という内容であった。この内容から、ハーバーシャムを含め、アメリカ人たちは「どの店にも入り、自分の好みとポケットに最も合うモノを購入する権利」があると解釈した(222 頁)。しかし日本側では、第7 条とはあくまでも「入用の品」のみの購入または交換を認めた条項であって、自由な物品購入まで認めたわけではない、という解釈であった。
このような条約解釈の相違が生じたのは、第7 条の和文が「入用の品」として必要品の購入に限る旨を明記しているのに対し、英文では単に“articles of goods”とあるだけで、和文・英文の文意自体にそもそも大きな相違があったからである。ハーバーシャム自身がこのことを知っていたのかは分からないが、たとえ知っていたとしても、彼はロジャーズのように、日本による「欺瞞心からの改竄」を疑ったことであろう。ハーバーシャムは、自由な物品購入もできない状況に関して、「輸出のために日本人により設けられた条項のほとんどが完全に無用のものとなっている」と記したのである(237 頁)。
そのほかにも、琉球で経験したように、食料などを要求してもなかなか届かないことがたびたびあった。ハーバーシャムは、下田に滞在していたロシア人から、「日本人が口約束だけで行動を伴わない時に、我が提督(プチャーチン)が日本人とうまくやっていくことができた唯一の方法は、士官を武装させ、『江戸へ行く』と脅すことであった」と伝えられ、「彼は正しかった」と述べている(201 頁)。こうした経験は、ハーバーシャムに次のような見解を抱かせるにいたった(249−250 頁)。
日本人は、いつでも何でも拒否をする─たとえそれが条約によって明確に記されていることであっても。彼らとうまく折り合うことのできた唯一の方法は、何も問うことなしに望むことを実行することであり、その上で、彼らに我々の権限について条約を参照させるという方法であった。
したがって、もし我々が(日本)訪問により何かを成し遂げたいならば、我々はあたかも皇帝から全権限を委任されているように振る舞うか、あるいは、全く何もやってなどいないかのような精神状態を作らなければならなかった。
このような「精神状態」にもとづいて、ハーバーシャムは「日本人の狡猾さによって我々の前に立ちふさがる障害」(250 頁)に抗しながら、日本近海の測量を実施したと述べている。ロジャーズが日本側の公式回答を得ることなく測量を継続したのも、同様の「精神」によって、あたかも当然のように測量を実施し、測量活動に対する日本側の抵抗を回避するためだったのであろう。
以上のように、測量艦隊の船員たちは、来日によって条約が無効になっているということを〈発見〉した。それは、開国したと思われた日本が、実は鎖国を継続していたという失望を意味していたのである。
(2)日本人との交流
ハーバーシャムは、一方では日本が条約を反古にして、鎖国政策を続けているという点に不満や失望を抱きつつも、自身がその閉鎖的な日本に現にいるのだ、ということについて大きな感慨を抱いていた。彼は次のように述べている(203 頁)。
今や、我々は不思議な人々に囲まれ、日本に滞在していた。彼らは、過去300 年の間、自らを縛りつけることを楽しみとし、また一方で、どの国の者であれ、遭難した全ての者を厳しく取り扱ってきた。世界は、数世紀の孤独を経た彼らとの関係を新たにし始めたところである。
ハーバーシャムのこの感慨は、下田・箱館において、役人層だけではなく、一般の民衆も含めた「不思議な人々に囲まれ」た経験にもとづいていたのであろう。下田の柿崎に上陸した際、ハーバーシャムたちは「我々を歓迎しようとやってきた多くの子供たちと、かわいらしい女性たちに取り囲まれ始めた」という(203 頁)。
実際、下田の人々は、敵意がないと分かると、測量艦隊の船員たちに対して強い興味を抱いたようである。ハーバーシャムは、下田近辺を散策するうちに、鄙びた集落にたどり着いたときの経験を、次のように記している(以下、215−216 頁より)。
彼ら一行がその集落を訪れると、「叫び声と混乱の大騒動」が生じたという。犬はほえ叫び、子供たちは母親にしがみつき、母親も子供同様に泣き叫び、「まさに我々の登場によって世の終わりが到来したかのように、我々の前から姿を消した」と彼は表現している。しかし、残った男性たちに「Ohio(おはよう)」と声をかけ、ともにタバコを吸ううちに、日本人男性たちも警戒が解けてきたようで、ハーバーシャムは拳銃やマッチなどを彼らに見せ始めた。そうするうちに、「女性も、子供も、犬も、皆が皆─犬も例外ではない─、『何の騒ぎだ』と」集まってきたという。ハーバーシャムは、「風変わりではあるが、しかし─民衆に関していえば─善意に満ちた人々」と交流できたことに満足を示している。
この「善意に満ちた人々」と交流する中で、ハーバーシャムは日本人の知的好奇心の強さに感嘆するようになった。「彼らはまた、多くの場合、我々の言語から2、3の単語を学び取ることに最大限の熱意を示して」おり、数字を覚えて次の日にそれを砂浜に書き付けていた少年のエピソードを紹介している。
このような知的好奇心は、下田で出会った一般の人々だけのものではない。ハーバーシャムは、役人層の知的好奇心の高さにも驚きを示している。箱館から松前までの測量に向かったハンコック号は、途中で上陸し、そこで夜を過ごした。上陸の際、40〜50 人の日本の役人たちが見張りのために近づいてきたという。ハーバーシャムらは、この日本人たちと「様々なことについてサイン」を決めることで、コミュニケーションをとることができた(以下、288 頁より)。その時のコミュニケーションについて、彼は次のように記している。
私は、明らかに下層の士官が、ヨーロッパ情勢や、日本の外の出来事について多くの知識を有していることに驚いた。彼らは、戦争が起きているということだけではなく、その勃発の原因についても実に適切な認識を抱いていた。彼らは、ロシアはとても大きな国で、フランスとイギリスはとても小さい、と述べた上で、「なぜアメリカはどちらか一方の側に立って参戦し、早期終結させようとしないのか」と尋ねてきた。
ハーバーシャムは、当時勃発していたクリミア戦争(1853−1856 年)について、下層の役人たちまでが詳しく知っていることに驚いた。日本人たちは様々な質問をアメリカ人たちに投げかけ、日本人は「一般的に考えられているよりも頻りに外の世界と交流している状態」にある、とハーバーシャムは考えたのであった。
なお、『クルーズ』において、固有名詞で登場する日本人としては、通訳のTatz-nosky がいる。これは、オランダ語通詞の堀達之助のことである。彼は、オランダ語だけではなく、英語も話すことができた。ハーバーシャムは堀に様々な質問をし、彼から日本に関する情報を得ていた。このような堀とのやり取りを通じて、ハーバーシャムは、「達之助と彼の弟分の通詞たちに英語を習得させ、また、(英語の)書物を日本に紹介させれば、彼らの馬鹿げた鎖国(their stupid seclusion)は、過去のものとなるであろう」と述べている(229 頁)。海外情勢に対する日本人の知的好奇心に接したハーバーシャムは、それらを満たすことによってこそ、条約締結後もなお続いている日本の「馬鹿げた鎖国」に、真の意味で終止符を打つことができる、と期待したのである。
以上のように、ハーバーシャムは日本人の知識に対する好奇心の強さを賞賛していたが、しかし前節で紹介したように、日本人の「狡猾さ」も目の当たりにしていた。その「狡猾さ」もまた、役人層と一般の人々の双方に共通するものであった。ハーバーシャムは、松前付近の上陸地点で2 人の日本人がハンコック号に近づき、グラスとビンを盗んでいった事件を報じ、この事件こそが日本人における「間違いなく嘘つきで、不誠実な人々の、好ましからざる奇癖」を示している、と指摘する(以上、302 頁)。
このような、日本人に対する称賛と批判の双方を書き述べたハーバーシャムは、次のような「日本人」観を吐露している(241 頁)。
日本人の国民性として、放蕩と淫ら、という点が広く認識されている。中級・下級層の日本人─それより上層の日本人については接触する機会がなかった─に、ほとんど、あるいは全く上品さが欠けていることは、認めなくてはならない。しかし、彼らと交流する中で、彼らが実際に道義心に欠けているということを指し示すものは見られなかった。(中略)しかし、彼らが半開の東洋人であり、異教徒であるということを忘れてはならない。
彼は、日本人を「半開の東洋人」と見なしていた。
「半ば開かれた」ところに対する称賛と、「半ば開かれていない」ところに対する批判。これが、ハーバーシャムの「日本人」観を構成していた。そしてこの「日本人」観が、日本人の知的好奇心を満たすことでさらなる「開化」に導くという、欧米側からの一方的な「文明の使命」観にもつながっていたのである。
むすびにかえて
開国直後の、かつ欧米諸国との最初の条約となった日米和親条約の、一方の当事者であるアメリカ人の記録。この点に、『クルーズ』の歴史的史料としての、最大の価値のひとつが認められるであろう。
条約締結直後、カロライン・フート号の船員のように、冒険的に日本へ来航したアメリカ人は少なくない。彼らは一様に、開国した日本の「開放性」を期待していた。それは、アメリカ政府の意向をうけて来航した測量艦隊の船員たちも同様であった。ハーバーシャムの記録は、このような開国日本への期待が、失望に終わるまさにその過程を描き出した史料といえる。
この失望は、行論中で示したように、測量艦隊を率いていたジョン・ロジャーズにも共通していた。ロジャーズは海軍長官に対し、日本が鎖国政策を実質的に継続していることを報告している。開国日本に対する期待の高まりと失望、という一連の経緯は、測量艦隊に共通のものであった。
一方、ロジャーズ自身は、航海記録を編集し、刊行するというようなことをしていない。ハーバーシャムは巻末において、「議会から、我々の先の指揮者であるジョン・ロジャーズ司令長官に対し、我々の仕事の成果を世界に向けて広めるであろう公式の報告書の準備に取りかかることを求めてほしい」という期待を記している(507頁)。しかし、このハーバーシャムの期待はかなわず、ロジャーズによる測量艦隊の公的な航海記が出版されることはなかった。帰国後に、前任の司令長官リンゴールドと測量の成果をめぐって確執があったことが影響していると考えられる。
一方、公式な航海記録が刊行されなかったからこそ、ハーバーシャムの『クルーズ』が有する史料的価値が一層高まっているともいえよう。ロジャーズや、その他の士官からの報告書類からは、彼らがどのようにして開国日本に対する失望を抱くにいたったのか、あるいは、日本経験についてどのような感想を抱いていたのか、という点を読み取ることは、必ずしも容易ではない。しかし、ハーバーシャムの『クルーズ』には、開国直後の日本を訪れた一アメリカ人の、率直な体験談が描かれているのである。
もちろん、彼の個人的な経験をアメリカ人、ないし外国人一般にまで普遍化することに対しては、慎重でなければならない。それでも、当該期の日米関係を考えるという点に限っても、ハーバーシャムが書き残した体験談は重要であろう。日本の開国過程は、従来、ペリーによる日米和親条約から、ハリスによる日米修好通商条約まで、基本的にはそのまま連続したものとして描かれることが多かった。実際、ペリー自身、和親条約の次は通商条約が締結されるべきと考えており、その意味では、ペリーからハリスという一連の流れは、確かに連続性をもって展開されたといえる。
しかし、その間には北太平洋測量艦隊の来日があり、その船員たちによる、開国したと思われた日本への失望、という重要な体験が存在していたのである。こうしたアメリカ人たちの体験が、1856 年以降のハリスの対日交渉や、アメリカ政府の対日政策全般にどのような影響を与えたのか、という点を解明することによって、日本の開国過程の歴史は、より立体的・構造的に描かれることになるであろう。『クルーズ』は、そのためのひとつの手がかりとなる史料なのである。
なお、日本での体験以外にも、ハーバーシャムは航行中に立ち寄った様々な地域について描写をしている。それは、アメリカの太平洋および東アジア進出という歴史そのものを考察する上でも重要であろう。ハーバーシャムの『クルーズ』を総合的に検討し、太平洋および東アジアという空間の中で19 世紀におけるアメリカ人の対外観を探るということも、今後の課題としていきたい。 
 

 

 
 
諸話 

 

 
イタリアの日本研究
イタリアと日本との交流
おそらく、ヨーロッパのなかで、最初に日本という国について言及したのは、イタリア人、ヴェネツィア共和国の商人マルコ・ポーロ(Marco Polo, Venezia 1254-1324) である。彼の口述によって記された旅行記 Il Milione『東方見聞録』において、日本を指した「チパング Cipangu/Cipango(ジパング Zipangu)」の記述があり、ヨーロッパに広く普及した書物(写本だけでも150種類、印刷本は数え切れないほど)である。
しかし、日本とイタリア人の最初の接触は戦国時代に入ってから、主にキリスト教の宣教師を通してである。日本で活躍したイタリア人伝道師に、イエズス会のオルガンティノ・ネッキ・ソルディ(Organtino Gnecchi Soldi, 1533-1609)やアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606) 1が有名である。とくにヴァリニャーノ巡察師は、1581年にイエズス会員のための宣教のガイドライン、Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone(日本の風習と流儀に関する注意と助言)を著し、第1回日本巡察にもとづいて執筆されたSUMARIO de las cosas de Japón (『日本諸事要録』、1583年)、なお『日本巡察記』の報告書とともに、未完になったHistoria del Principio y Progresso de la Compania de Jesus en las Indias Orientales (1542-64年間)やDel principio y progreso de la Religion Christiana en Japon(1601)などの大作も記し、ルイス・フロイスとジョアン・ロドリゲスの著書と並ぶ歴史に残るものである。また、1582年(天正10年)には九州の戦国大名が4人の少年使節をローマ教皇の元に派遣した天正遣欧少年使節の企画を発案し実施した人物でもある。イタリアを中心に天正少年使節団の大反響に触発されたもの(Guido Gualtieri, Relationi della venuta degli Ambasciatori Giaponesi a Roma…, Zanetti, 1586)も数多く発行されたようである。なお、宣教師や商人などの記録、報告、言述・書簡などのもとに、ヨーロッパには16世紀・17世紀に出版された日本に関する書籍は、ラテン語、(ルネサンス時代には、ヨーロッパに出回る書籍のおよそ半分がヴェネツィア製であった)イタリア語を中心になり、多数多彩であったようである。
また、仙台藩主伊達政宗の命により支倉常長を正使とした慶長遣欧使節は1615年1月30日(慶長20年1月2日)にエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見して後、ローマに至り、1615年11月3日にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。天正使節ほどの盛大な反響ではなかったにせよ、記録のみならず、ヴェネツィア共和国の元首に委託されてドメニコ・ティントレット(Domenico Tintoretto, 1560-1635)が伊東マンショの見事な肖像画を残したと同じように、アルキータ・リッチ(Archita Ricci, 1560-1635)による豪華な『支倉常長像』(1615年、ローマのボルゲーゼ美術館蔵)も残っている。
その後、日本は禁教令を敷いて鎖国の時代になるにもかかわらず、1643 年(寛永20 年)にジュゼッペ・キアラ(Giuseppe Chiara, 1603-1695)、そして1708 年(宝永5 年)に(イエズス会の伝道師ではないが)ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ司祭(Giovanni Battista Sidotti/Sidoti, 1668-1714)というイタリア人が密入国し、捕らえ悲惨な結末になる。しかし、キリスト教布教のために来日したシドッティ司祭との審問に基づいて新井白石が『西洋紀聞』(1715 年頃に完成)を筆記、それが1807 年以来広く流布されるようになり、鎖国下の日本における世界認識に大いに役立った。
17 世紀の半ばにイタリア人イエズス会士のダニエッロ・バルトリ (Daniello Bartoli, 1608-1685)が書いた大著 Istoria della Compagnia di Gesu (『イエズス会史』)は徐々にアジア編(1653 年版)、日本編(1660 年版)、中国編(1663 年版)、イギリス(1667 年版)、イタリア編(1673 年版)が発行される。未完でもイタリア文学のなかでも17 世紀の名文の名著とされ、その中のIl Giappone (1660 年版、5冊2巻)もまた、幅広く普及し、愛読された書籍のようである。
このように、このころまで、イタリア人は日本に関する知識を宣教師などが書いた書物だけを介して得ていたのであるが、また、日本に興味を持つようになったのは、19 世紀後半、統一王国になってからである。
しかし、近代になってから日本との関係が強くなった最初のきっかけは政治と貿易である。独立国家になったばかりの当時のイタリアには養蚕業と関連した紡績業などは、国の最も重要な産業のひとつで、ヨーロッパの中で生糸・絹織物の生産量の多い輸出国であった。しかし、1854 年頃から、蚕の伝染病が流行したことにより、養蚕製糸業に大きく依存していたイタリアの経済は致命的な打撃を受けてしまったのである。1860 年代の初めから、イタリア人蚕種仕入人・業者は伝染病に感染していない健康な蚕種を求めて、ベンガル、中国などへ探したが、健康な蚕種が存在する唯一の国は、開国したばかりの日本であった。日本の蚕種の質は極めて良好だったため、1860 年代に日伊蚕種貿易の規模は徐々に拡大し、イタリアは日本にとって産業上、最も重要なパートナーとなったのである。こういった状況は日伊外交関係にも影響をおよぼし、1866(慶応 2)年に日伊修好通商条約が締結され、1867 年から、イタリアと日本は本格的に国交を始め、公使と領事が日本に派遣される。実は当時、日本在住のイタリア外交担当の代表者であったアレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵の家族も蚕種貿易に携わっていたのであるが、1866 年には、イタリア海軍大尉ヴィットリオ・アルミニョン(Vittorio ARMINJON, 1830-97)が、イタリア使節として日本に赴き、日伊修交通商条約に調印し、1869 年にジェノヴァでその著書Il Giappone e il viaggio della corvetta Magenta del 1866 (『幕末日本記』)も出版された。その後、1873 年に岩倉使節団は、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ヴェネツィア、ミラノなどを視察したが、各地で歓迎され、見聞報告書『米欧回覧実記』(1878 年版)に記されている通りである。
19 世紀後半に、ジャポニズム (Japonisme) がイタリアでも広がり、日本の美術品の収集家も次第に増えていったが、イタリアの場合、主にお雇い外国人として日本を訪れたイタリア人を中心に、日本美術の重要なコレクションが生まれる。東京の大蔵省紙幣局を指導し日本の紙幣切手印刷の基礎をついたエドアルド・キョッソーネ(Edoardo Chiossone, 1833-98)自身のコレクションが収まったジェノバのキョッソーネ東洋美術館、イタリアのブルボン=パルマ家の公子エンリコ・ディ・ボルボーネ=パルマ(Enrico II Borbone-Parma, 1851-1905)が妻と世界一周の旅(1887−1889 年)の途中、東洋、日本で買い集めたコレクションになるヴェネツィアの東洋美術館、武器武具などを中心に熱心に集めた(イギリス人の父、イタリア人の母の)フレデリック・スティッベルト(Frederick Stibbert , 1836-1906)のコレクションと豪邸からなったフィレンツェのスティッベルト美術館、東京芸大の全身なる東京工部美術学校で教授した彫刻家ラグーサ(Vincenzo Ragusa, 1841-1927)のコレクションなどが所蔵されているローマのピゴリーニ民族博物館などである。
イタリアにおける日本研究の歴史
以上のような動きはイタリア人研究者にも、研究機関なる大学や日本語教育などにも影響を及ぼした。イタリアにおける日本語教育は、19 世紀後半にはフィレンツェの国立高等学校に日本語講座が開設されたことに始まる。この時期から20 世紀の初めにかけ、ヴェネツィア、カ・フォスカリ大学の前身なるヴェネツィア商業高等学校、ローマ大学、ナポリ東洋学院(現ナポリ大学「オリエンターレ」)など現在日本語学科が導入されている主要な大学で次々に日本語講座の開設が進んだ。フィレンツェでアンテルモ・セヴェリーニ (Antelmo SEVERINI, 1827-1909) が、初めて日本語講座を開設し、1866 年に『日本語会話』のイタリア語版を出している。ヴェネチア、カ・フォスカリでは最初に日本語講座が開設されたのは1873 年からで、また1886 年にアゴスティーノ・コッティン (Agostino COTTIN) による『基礎日本語』という文法書も出版され、イタリア語で書かれた最初の日本語文法書のようである。その他、1890 年にジュリオ・ガッティノー二(Giulio GATTINONI)が記したGrammatica giapponese della lingua parlata (『日本口語文典』)も、1908 年にはヴェネツィアで『日本語講座』が刊行され、また、1910年に作家及び語学者ピエトロ・シルヴィオ・リヴェッタ(Pietro S. RIVETTA 1886-1952) の日本語表記に関する教科書、バルトロメオ・バルビ(Bartolomeo BALBI)が『伊和実用宝鑑』も出版されている。
また、セヴェリーニは、Lodovico Nocentini とともに、日本の文学作品をイタリア語に訳し始めた人である。その後、ナポリで教え、ダンウンツィオとムッソリーニとも親交があった下位春吉(1883-1954)もSAKURA という文芸誌などのなかで、日本文学の数作品を紹介してきた。続いて、サレジオ会のカトリックの神父として1929-47 年間、1959-74年間に日本に滞在したマリオ・マレガ(Mario MAREGA, 1902-1978)も『古事記』『忠臣蔵』の伊訳などを刊行し、戦後はマリオ・テーティ(Mario Teti)と須賀敦子(1929-98)も日本の近現代文学(川端、谷崎、三島、安部公房など)の翻訳に貢献した。特に戦後からは、日本古典文学の翻訳と研究には大きな存在になったのは日本文学史、日本演劇史などを発表したマルチェッロ・ムッチョーリ(Marcello Muccioli, 1898-1976)教授である。
また、黒澤明を初め、日本の映画の紹介をしながら、ムッチョーリの後を継いだジュリアーナ・ストラミジョーリ(Giuliana STRAMIGIOLI, 1914-88)も挙げられる。
こうして、日本の文化に関する研究も始まり、文学、芸術、民族学、歴史、哲学と宗教などについての本も徐々に出版され始めた。
20 世紀前半、日本との文化交流も発展した。1897 年にはじめて日本の美術協会は(1895年より開催され世界最古)ヴェネツィアの美術ビエンナーレに出展して広い反響を呼ぶ。
また、1911 年にローマで開催された博覧会にも日本絵画が展示され、日本画は文学評論家エミリオ・チェッキ(Emilio Cecchi, 1884-1966)等によって評価された。その後、1930年にもまたローマのパラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ・ディ・ベッレ・アルティの展示場にて大規模な日本美術展覧会が開催された。ムッソリーニ政権の組織的な支援によって実現されたこの展覧会は、大倉喜七郎男爵(1882-1963)の主催で、日本芸術使節の役を担った横山大観(1868-1958)が担当したもので、西洋において初の大規模な日本美術展であり、後に「ローマ展」という名で知られるようになった。 日本人の職人達の手によって改装された本格的な日本様式の展示空間の中で、展示作品の多くは近代日本画の傑作で、当時の日本・イタリア両側のマスコミに大きく取り上げられ、大成功を収めた。また、1929 年に日本画の本質を説くArs Nipponica(『アルス・ニッポニカ』、日本の美術)という本も限定部数で発行され、特にロベルト・パピーニ(Roberto Papini, 1883-1957)のエッセイ(批評)、イタリアの日本美学の解釈法を示す画期的な参考書になった。10また、リヴェッタが書いたLa pittura moderna giapponese( 『日本の近代絵画』、1930 版)は r e p l a、一般のイタリア人に日本文化に対する知識を普及させた。
1939 年には日伊文化協定が結ばれた。しかし、この時期のイタリアにおける日本研究は、日伊両国の政治と密接に関連していた。大戦後、このような政治経済との関係からは開放され、イタリアにおける日本研究はますます盛んになった一方である。
現在、イタリアにおいて日本語主専攻課程を持ち、日本語の学位が取得できる大学は、ヴェネツィア、ローマ、ナポリにあり、日本研究者の大多数は、この3大学に集中している。その他、ミラノ(国立大学とラビコッカ大学)、トリーノ、ボローニャ、フィレンツェ、ベルガモ、レッチェ(サレント大学)、カターニア(とその分校ラグーサ)、などの各大学にも日本語日本文化のコースがあり、優れた研究者が活躍している。また、小規模ですが、パヴィーァ大学、ペルージャ大学、トゥーシャ大学にも日本語講座がある。ヴェネツィア大学における日本語日本文化専攻の学生は3 年間の学部では定員制になってから各学年310 人、専門課程の学生(大学院生)も入れると、1000 人以上で、ヨーロッパの中でも国際交流基金が認めた拠点として、最大規模の日本研究機関になる。ローマ大学は学生数は800 人、ナポリ大学は400 人ぐらいで、国際交流基金の2014 年度日本語教育機関調査によると、11イタリア全体の日本語学習者は7420 人で、ほとんど(6069 人)高等教育(大学)で学んでいる状況である。
イタリアにおける日本研究の最新の動向 / 大学を中心に
19 世紀後半から現在に至るまで、イタリアにおける日本研究のテ−マは、時代とともに変わってきたが、先駆者による一般的な東洋学、あるいは日本学、日本文化全般の研究から、それぞれの専門分野に分かれ、戦後からより専門的な研究が行われるようになった。
イタリアでは、正式の常設の日本語講座を見ると、最近までは言語と言語芸術である文学が中心、かつ主役であった。しかし、日本語を主眼として他の科目も専門細分化して少しずつ育ってきた。事実、2000 年より始まった大学制度の大改革は、実行された時点から、言語と文学の区別を形式・実質ともにより明確なものにしたと共に、他の専門の自立ももたらし、認めさせるきっかけとなった。そのような独立は、歴史、思想・宗教、美術、芸術などの他の学問にとっても大変良いことである。ただし、イタリアの国立大学、国内の研究機関などには、これから先、多くの専門分野に力を尽くすための体制と予算が備えられるかどうかという問題がある。
イタリアの文化史、伝統のなかで、歴史的展望による研究が多く、文献学、書誌学的研究から文化的な変遷の中の言語、文学、歴史を対象とする学問が主流をなしてきた。現在でも外国語の学部は主に、諸国の言語とともに、かならずその国の文学史を教えるという仕組みになっている。日本語講座のある大学も例外ではなく、そのため、日本文学研究は、作家論、作品論などを中心に、どこの大学でも主役になっている。
ヴェネツィア、カ・フォスカリ大学には現在、アジア・地中海アフリカ研究学科になっているが、日本学も多種多様な分野の専門家がいて、先生方、若手の研究者、院生などの研究も多岐にわたる。日本の思想史、とくに徳川時代の思想、文化史、政治学と国際関係などにわたる博識のパオロ・ベオーニオ・ブロッキエーリ(Paolo Beonio Brocchieri, 1934-91)教授から始まり、ボロッキエーリがパヴィーア大学に移転してからヴェネツィアの日本学の棟梁となったアドリアーナ・ボスカロ(Adriana BOSCARO)教授が、キリシタン世紀とイエズス会の伝道師の記録、豊臣秀吉などの研究、日本史から徐々に日本文学に移り、古典文学、平賀源内、谷崎潤一郎、遠藤周作などの幅広く優れた論文と翻訳を通して、 現在の拠点の確固たる基盤を築いた。
イエズス会, キリシタンの研究から、古文、日本語史 へと広がったアルド・トッリーニ(Aldo TOLLINI)の研究活動は、ボスカロ先生の流れの一部を汲んで、また思想の方面、仏教哲学、禅と道元、茶道の文化などへと展開し、貴重な著書を生んだと言える。他方、彼の弟子にヴァレリオ・アルベリッツィ(Valerio ALBERIZZI)のように古文、国語史、文体史(和漢混交文など)、仏教典などの漢文に記入されて来た古訓点などの精密な調査研究を日本で続けている。
人類学の観点から、ブロッキエーリの後を継いだ マッシモ・ラヴェーリ(Massimo RAVERI)は 思想史、哲学のなかで、とくに日本の宗教、神道や民俗学、民間宗教、現代の新興宗教などに関心を持ち、イタリアでは専門の第一人者として、国際的に活躍している弟子(Fabio Rambelli, Lucia Dolce, Federico Marcon, Erika Baffelli, Andrea De Antoni, Tatsuma Padoan など)も多く育てた。人類学の方面に若手のジョヴァンニ・ブリアン(Giovanni BULIAN)は神島などの調査研究を行い、漁師の町村、日本の漁業、風、海などに関する独創的研究を続けている。
ボスカロ先生の文学研究の後継者としてルイーサ・ビエナーティ(Luisa BIENATI)は文学、物語論の確かな方法論に基づいた作家論、作品論、日本近現代文学史の入門書と専門書、永井荷風、谷崎潤一郎、井伏鱒二、原爆文学などの研究・翻訳で注目し、実り多い成果をあげている。より伝統的な観点から古典文学、とくに古代の物語文学、『住吉物語』、『更科日記』、『紫式部日記』などの翻訳と解説などを著しているのはナポリ大学出身のカロリーナ・ネグリ(Carolina NEGRI)である。若手研究者では、ピエラントニオ・ザノッティ(Pierantonio ZANOTTI)は小説が主流になっているイタリアの従来の研究と違って和歌(藤原定家)から近現代詩、山村暮鳥や未来派などのアヴァンギャルドの革新的な論文から現代のゲームの世界などへの関心を広げている。また、カテリーナ・マッツァ(Caterina MAZZA)は現代文学のなかでも、井上ひさしのパロディー文学をはじめ、荻野アンナのような女流文学、多和田葉子のような二ヶ国語で書く作家の作品などの新傾向に注目している。
日本語の分野には、言語学と国語史の視野に立って日本語の多方面(明治時代の日本語、坪内逍遥から最近の言語をめぐる社会現象まで)を捉えるパオロ・カルヴェッティ(Paolo CALVETTI)も、社会言語学の立場から琉球諸語とアイデンティーティの問題、周辺的な言語、消滅危機言語をめぐる多大な成果をあげているパトリック・ヘインリッヒ(Patrick Heinrich)も、琉球語と音韻の問題に注目している若手の研究者ジュセッペ・パッパラルド(Giuseppe Pappalardo)もいる。
日本史の分野では、日本のファシズム、日本の近現代史において特に政治問題と太平洋における国際関係の諸領域(ヴェトナムなど)を扱ったフランチェスコ・ガッティ(Francesco GATTI)先生の教え子として、ローサ・カーロリ(Rosa CAROLI)もまた日本史、沖縄史、国際関係などについて業績をあげている。若手研究者には、日本の近現代史のなかで政府体制、政治・経済と選挙の関連、農業問題などに注目しているアンドレア・レヴェラント(Andrea REVELANT)も、また、歴史学の観点から、16 世紀、17 世紀のヨーロッパ・イタリアが宣教師などの記録を通して見た日本、日本の知識とイメージ、イタリアにおける和書、日本をめぐる書籍の調査研究などをしているソニア・ファヴィ(Sonia FAVI)も期待できる。
美術の分野は、日本美術と美学、浮世絵の作品とその巨匠北斎、広重、歌麿などの多数の書籍を編みながら、展覧会などにキュレーターとして直接携わったジャンカルロ・カルツァ(Giancarlo CALZA)の後、ジャポニズムと浮世絵、葛飾北斎と広重などの基礎的な研究を新鮮な感覚で紹介しているシルヴィア・ヴェスコ(Silvia VESCO)が代表している。
ヴェネツィアで舞台芸術の分野を切り開いたのは主に能楽、横道萬里夫などの能の構造の分析をふまえた演劇学の研究に独創的な感覚を注いだパオラ・カニョーニ(Paola CAGNONI)であるが、その跡を継いだボナヴェントゥーラ・ルペルティ(Bonaventura RUPERTI)は人形浄瑠璃、近松門左衛門、近世演劇、近世文学(泉鏡花の作品と戯曲)、日本舞踊、ドラマツルギーとしての日本演劇を扱う日本演劇史の研究を続けてきた。また、舞踏、コンテンポラリーダンスなどの現場での研究をしているカティア・チェントンツェ(Katja CENTONZE)も比類のない研究活動(日本現代文学、三島由紀夫と舞踏の関わり、舞踏、現代舞踊、モダンダンス、現代演劇など)をしている。
最近、学生の関心を集めている大衆文化の研究には、M. Roberta NOVIELLI ロベルタ・ノヴィエッリが映画史、日本映画と日本近現代文学、アニメの論文、多数の業績を上げているが、エウジェーニオ・デアンジェリス(Eugenio DE ANGELIS)のような有望な若手研究者も育って、国際映画祭等に参加しながら専門雑誌などに評論を投書し活躍している。
三宅トシオ(Toshio MIYAKE)も社会学とカルチャースタディーズの展望からマンガ・アニメ、若者文化の諸現象、日本現代文学におけるイタリアのイメージ、イタリアにおける日本のイメージ、その変遷などの吟味に貢献している。 マルチェッラ・マリオッティ(Marcella MARIOTTI)は日本語,日本語教授法などの研究と実施をしながら、社会学の視点から児童文学の研究と翻訳(イタリアでも大ヒットとなった『世界の中心で、愛をさけぶ』、『はだしのゲン』、童話集など)も数多く出している。
また、東洋美術、仏教思想、韓国との交流なども検討したところで新鮮味を出しているクレメンテ・ベーギ(Clemente BEGHI)もあげられる。
以上はヴェネツィア大の研究者陣であったが、ミラノには日本語日本文化講座を設けている大学が三箇所あり、ビコッカとミラノ国立大学は主で、また私立のボッコーニ(経済大学)にも日本経済の専門家がいて、少し日本語講座もある。ビコッカにはローマ大学出身の アンドレア・マウリツィ(Andrea MAURIZI)は『懐風草』、『新猿楽記』、『浜松中納言物語、『落窪物語』のような主に古代文学の翻訳と解説、また近世には『男色大鑑』などの翻訳もあり、多彩な活動を行っている。ミラノ国立大学には シモーネ・ダッラキエーサ(Simone DALLA CHIESA)と、若手に ティツィアーナ・カルピ(Tiziana CARPI)は人類学、社会問題と現象を取りこみながら、日本語と言語学に力を入れている。また、 ヴィルジニア・シーカ(Virginia SICA)は、三島由紀夫を中心に日本近現代文学のみならず中世の五山文学なの研究で、文化担当になっている。そしてボッコーニ出身のコッラード・モルテーニ(Corrado MOLTENI)は カルロ・フィリッピー二(Carlo FILIPPINI)とともに、日本経済の貴重な専門家である。最後に、日本美術の分野に、写真美術と浮世絵、14デザインと美学などの論文を出しているカルツァ先生の弟子ロッセッラ・メネガッツォ(Rossella MENEGAZZO)もいる。
ミラノ大学とともにトリノ大学に西川一郎とともに最初から日本学、日本文学研究を築いたのはマリオ•スカリーセ(Mario SCALISE)先生である。しかし、実はスカリせ先生の父(グリエルモ・スカリーセ大将, Guglielmo SCALISE, 1891-1975)も1934-39 年の間日本に軍事担当として滞在し、暗き時代の中でも日本の文化に魅せられ、その後、伊日辞典(1940 年版)も翻訳も出版しミラノ大学で日本語日本文化を教えた家柄である。
グリエルモ・スカリーセ大将の婿に、サンテ・スパダヴェッキャ大将も舅に感化を受け、日本の文化に熱心になり、アジア文化センターを開設し、娘ニコレッタ・スパダヴェッキャ(Nicoletta SPADAVECCHIA)もIsMEO(中亜極東協会、1933 設立)、現在のIsIAO(アフリカ東洋研究所)のミラノ分校で日本語日本文化を教えながら、夏目漱石、大江健三郎などの文学作品、土居健郎などの翻訳を出している。
現在、トリーノには日本近現代文学の専門、特に三島由紀夫に傾倒しているエマヌエーレ・チッカレッラ(Emanuele CICCARELLA)と現代文学の多数の新鮮な翻訳(大江健三郎から桐野夏生、高橋源一郎、古川日出男まで)を次から次へ出している安部公房の演劇、現代文学専攻の ジャンルーカ・コーチ(Gianluca COCI)である。また、若手に ダニエーラ・モーロ(Daniela MORO)はジェンダー文学、女流作家と演劇、円地文子、野上弥生子などの論文を発表している。そして、ラヴェーリ先生の弟子で、日本思想史、京都派、西田幾多郎などの本格的な思想研究をしているマッテオ・チェスターリ(Matteo CESTARI)が東洋哲学の有力な担当である。
ボローニャ大学には、外国語部と文学部に別れいていたが、フォルリーのキャンパスは言語学、音韻学専門の上山素子(UEYAMA Motoko)が、ボロニャ本校は日本語教授法などに新技術を取り入れた実験的な研究(大衆文学、推理小説の翻訳も)を行っているフランチェスコ・ヴィトゥッチ(Francesco VITUCCI)とともに、近現代文学、女流文学、映画との関係について幅広い活動を繰り広げているパオラ・スクロラヴェッツァ(Paola SCROLAVEZZA)が支えている。他方、日本学系の学者ではないが、ボローニャ大学舞台芸術学科のジョヴァンニ・アッザローニ(Giovanni Azzaroni)とその弟子マッテオ・カザーリ(Matteo Casari)などのように、演劇の専門家として、歌舞伎、能、伝統演劇の伝承の方法、実際の稽古の体験などを人類学的な方法論を通して、舞台芸術としての能やその他の演劇を見る立場に立っている研究者も力添になっている。16なお、ボローニャ大学の文学部には日本語担当の竹下敏明のほかに、英山などの浮世絵の研究調査などを行った近藤映子とともにボローニャで東洋美術センターを指揮しているジョヴァンニ・ペテルノッリ(Giovanni PETERNOLLI)が資料、文献を提供したり、展覧会を企画したりする機関のなかで、日本美術の専門家である。
この分野では、ジェノヴァのキョッソーネ東洋美術館館長のドナテッラ・ファイッラ(Donatella FAILLA)女史がキオッソーネ美術館の素晴らしいコレクションを支えながら、ジェノヴァ大学でも教え、優れた研究を続けているように、大学人のみでなく直接作品にふれる他の分野の研究活動も大事な役割を果たしているといえる。
フィレンツェ大学の文学部には日本語日本文化講座は、チベット研究の第一人者ジュゼッペ・ツッチィ(Giuseppe Tucci, 1894-1984)について東洋学者になり、アイヌ、海女などの日本研究の草分的かつ魅力的な存在だった人類学者、登山家、写真家、ジャーナリストのフォスコ・マライー二(Fosco MARAINI, 1912-2004)によって創設されたが、現在鷺山郁子(SAGIYAMA Ikuko)が、『万葉集』、『古今和歌集』の伊訳など、和歌文学から近代詩歌(萩原朔太郎など)まで優れた成果をあげている。また、フランチェスカ・フラッカーロ(Francesca FRACCARO)は和歌とともに、物語文学、中世文学、『方丈記』、『蜻蛉日記』等の翻訳に取り組んだ。若手のエドアルド・ジェルリー二(Edoardo GERLINI)は和歌と漢詩の影響関係、菅原道真、比較文学の展望から見たイタリア中世の詩歌と和歌など、古典文学の中でも革新的な広がりを見せている。
なお、フィレンツェには浮世絵のコレクターと愛好家、美術の専門家マルコ・ファジョーリ(Marco FAGIOLI)がロンドンなどよりも早く70年代(1977年)からほとんど毎年日本の春画の本、カタログ、解説書などを数多く出版しその展覧会にも携わっている。ローマの「ラ・サピエンツァ」大学には『源氏物語』の初イタリア語訳とともに古典文学から近現代文学まで、夏目漱石、石川淳、太宰治など、多大な業績を積んできたマリア・テレーサ・オルシ(Maria Teresa ORSI)の跡を継承したマティルデ・マストランジェロ(Matilde MASTRANGELO)は幕末と明治の文芸、森鴎外と歴史小説、近代文学と落語、講談など、三遊亭円朝と怪談の論文で貴重な存在である。また、 ジョーヤ・ヴィエンナ(Gioia VIENNA)は現代文学、女流作家などの作家論などを続けている。若手に ルーカ•ミラーシ(Luca MILASI)も坪内逍遥、幸田露伴などで、ステファノ・ロマニョーリ(Stefano ROMAGNOLI)も戦争文学と紀行文学(火野葦平など)で、それぞれ近代文学あるいは昭和文学に注目している。他方、ローマ大学出身のロベルタ・ストリッポリ(Roberta STRIPPOLI)は中世文学、物語、御伽草子などの翻訳と研究をしてきたが、現在アメリカの方で活躍している。
また、日本史の専門家として、マルコ・デルベーネ(Marco DEL BENE)は日本史、近現代史などにおけるメディア、新聞・ラジオ、歌謡曲、映画などの役割についての貴重な研究をしている。日本美術史を担当しているサドゥン(Daniela SADUN)と、日本近現代文学、芥川龍之介、女流文学、イタリアと日本との交流の研究をしてきたテレーサ・チャッパロー二・ラロッカ(Teresa CIAPPARONI LA ROCCA)はストラミジョリの教え子である。
ローマには日本の音楽、『源氏物語』における音楽、神楽などの研究をしている ダニエーレ・セスティーリ(Daniele SESTILI)もいて、現代音楽の作曲家、能の音楽とフルクサス(Fluxus)のようなアヴァンギャルドなどの研究をしているトリーノ出身のルチャーナ•ガッリアーノ(Luciana GALLIANO)とともに、邦楽の研究には大変貴重な存在である。
最後に、日本思想史、古文、仏教、宗教などの研究にはナポリとローマで活躍したシルヴィオ・ヴィータ(Silvio VITA)は今日本在中である。
ナポリ、東洋大学は日本文学研究の先駆者マルチェッロ•ムッチョーリの後、日本美術、日本史、日伊の交流などの多彩な研究を繰り広げたアドルフォ・タンブレッロ(Adolfo TAMBURELLO)が多くの弟子を指導してきたが、現在日本語担当の大上順一(OUE Jun’ichi)と シルヴァーナ・デマイオ(Silvana DE MAIO)はそれぞれ比較言語学、日本語・イタリア語の対照研究と日本語、明治史、御雇外国人などをめぐる研究をしている。
また、文学のほうでは、 ジョルジョ・アミトラーノ(Giorgio AMITRANO)は日本近現代文学のなかでも中島敦、吉本ばなな、村上春樹、井上靖などの研究と翻訳をとおして紹介し、業績を上げ、若手には キアラ•ギディー二(Chiara GHIDINI)は古典文学と宗教思想などについて、ジュセッペ・ジョルダーノ(Giuseppe GIORDANO)は『新古今和歌集』、 クラウディア・イアッツェッタ(Claudia IAZZETTA)は能について、 ガラ・フォッラーコ(Gala FOLLACO)は永井荷風から近現代文学にわたる論文を出している。
政治学部のほうに、日本史、日本政治史、日本の国際関係に関するスケール大きく視野広い論文を著したフランコ•マッツェイ(Franco MAZZEI)とその弟子 ノエミ・ランナ(Noemi LANNA)が担当している。など、ヨーロッパ(イギリス東インド会社など)、日本・中国の国際関係史、海洋貿易と海賊などをめぐる研究をしてきたパトリツィア・カリオーティ(Patrizia CARIOTI)とコーモ近辺の大学に同様の日本史の研究をしているティツィアーナ・イアンネッロの若手研究者もいる。サルデーニャ島(サッサリ大学)にまた日本史の専門家としてパオロ・プッディーヌ(Paolo PUDDINU)も活躍している。レッチェにあるサレント大学には マリア・キアラ・ミリオーレ(Maria Chiara
MIGLIORE)は 古代文学、『唐物語』、『万葉集』、日本文学と漢文学の関係、また若手にアントニオ・マニエーリ(Antonio MANIERI)は古代文化、『常陸風土記』の翻訳、馬をめぐる文化と言葉などの研究を展開している。
最後に、シチリア島にはカターニア大学と分校のラグーサには、 パオロ・ヴィッラーニ(Paolo VILLANI)は『古事記』、本居宣長、神話などの研究、とルーカ・カッポンチェッリ(Luca CAPPONCELLI)は萩原朔太郎、与謝野晶子のように近現代詩などに注目している。
一般の研究の現状と動向 / 大衆文化への感心
このように、イタリアの大学の高等教育、研究機関における研究活動を行っている日本学の研究者、学者の実例とその研究テーマを概観してみたが、あらゆる分野で、専門的知識と豊富な研究成果をあげてきたと実感出来るかと思われる。
そして、まず、全体の傾向としては、北ヨーロッパ諸国と違って、近現代の文化現象のみならず、古典などの研究も重要な基盤となっていることが明らかに窺える。それに合わせて学生の教育も、現代言語を初め、漢文、和文などの古文に対する読解力とともに、文学、宗教、歴史などの他の分野でも古代から一通り研究する姿勢を崩さないで、しっかりした基盤に立った学習者、若手研究者、柔軟性のある人材を育てることを重視し、一人前の研究者としての育成、自立のところまで、求める努力が認められる。古典の研究ができる人材は現代の研究も兼ねてできるようになるが、逆の方向はなかなか出来ないのは事実のようである。そして、古典的な文献の現理論的な研究、それに基づいた教育の基礎を捨てないで、古典の資料の読解力にも基づいた高度な専門性とともに、歴史に伴う変遷と本質、細部と全体像とに焦点を合わせ、教育にも全体の通時的な知識、歴史的な展望に立った吟味と把握、厳密な解釈と想像力、柔軟性と総合性を重視してきたといえる。
しかし、今でも、ヨーロッパと同じように、政治体制・経済の多種多様な問題に悩み、不景気や停滞、不振に苦しむ日本なのに、イタリアでは、日本文化に関心を持って大学で日本語を学ぼうとする学生の人数が依然として減らないのは、なぜであろうか。
著しい経済発展の高度成長の絶頂を経てきた日本であるが、今やヨーロッパ諸国、アメリカ等と並ぶ、優れた伝統と洗練された美的創作の付加価値による、高度の資質を備えた豊かな文化活動、文化現象などを提供する国となって、恐るべき経済力の迫力のみならず、文化の多方面から訴える魅力のある国の、より安定した時代に入ったといえる。もっとも、経済成長を支えてきたのは、文化の高い水準、就学率、教育兼学問の普及、知識と教養、芸術と技術に対する関心、精密性と厳格性のある繊細な精神と感性なのではないであろうか。他方、それに反して、実用主義・功利主義に傾きがちなところもあったその経済発展が時には文化のいろいろな側面を犠牲にしてきたのも、否めない事実である。
しかし、喜ばしいことに、文化のあらゆるレベルでも国際的に認められてきたのも、日本に対する態度の現状であると言える。
日本現代文学も徐々にイタリアの読者に馴染みのあるものとなり、日本料理もイタリアの一般の消費者・美食家にとってちょっとした流行になっている現在、日本文化の魅力のあると思われる分野が増えている中、芸術の多彩な現象をめぐる大衆文化が主役である。
十何年前から、イタリア(ヴェネツィア大学に限らず)の日本語学科の学生に日本語を勉強している動機を訪ねると、日本のマンガ、アニメを通してなんとなく日本文化に興味をもったと答える学生が多いようである。アニメ・マンガに対する若い世代の関心は、言うまでもなく、少年の頃、日本のアニメ・テレビ番組の下で育ってきた感化によるのであるが、やはり、大学へ進むと、単なる趣味としての表層的なレベルを超えるし、より意識した立場から日本の文化に近づいていくプロセスのなかで、興味も関心も研究も多彩化していく。実際は、若手研究者のレベルになると、やはり、大衆美術から高級文化までバラエティに富む日本のマンガ・アニメの膨大な世界にとどまらず、他の研究テーマに関心を拡げているようである。
もちろん、それと同時に、映像文化の実状について、学術的な洞察力を示している本も出てきている。日本漫画史、漫画・アニメ辞典、漫画家論(手塚治虫、宮崎駿など)、作品論(ジャンルーカ・ディ・フラッタ(Gianluca Di Fratta)など)もあれば、日本漫画やアニメの根底にある世界観などのようなものについて考えようとするもの[パドヴァ大学美学の専門家なるマッシモ・ギラルディ(Massimo GHILARDI), Cuore e acciaio, Esedra, 2003]もある。また、ずっと広い視野で、現在の日本社会の諸異相への関心を証明しているものとして、アレッサンドロ・ゴマラスカ(Alessandro Gomarasca),ルーカ・ヴァルトルタ(Luca Valtorta)編, Sol mutante (Costa e Nolan, 1996)とゴマラスカ編, La bambola e il robottone… (Einaudi, 2001)という論文集も90 年代からどんどん出てきた。伝統的にイタリアでは強く根付いていた歴史的展望から、より社会的な視野に移って現在の日本を見直そうとする動きが窺える。そして、そのような研究者側の動向と共に、読者・一般享受者などの嗜好、関心も変化してきたと言える。
日本美術の典型的なテーマ、浮世絵をめぐる世界、ジャポニズムのようなヨーロッパ美術との影響関係などに関する研究が相変わらず主流をなす傍ら、日本美術の新しい側面、そして、日本古美術の知識や学力を育ててきた学者も増えたと同時に、日本におけるアバンギャルド、デザイン、コンテンポラリーアートについて、日本現代美術の多岐にわたる創作活動などにますます好奇心を示している専門家も 増えつつある。展覧会の都度に出た論文集を含むカタログも、一般読者向きへの解説もあれば、より専門的に細かい問題を取り上げる研究も、若手研究者の中には生まれつつある。
国際的に高く評価され活躍している日本人の中で、建築家(丹下健三の時代から、安藤忠雄、黒川紀章、磯崎新、伊東豊雄、妹島和世、隈研吾など)はもちろん、美術(村上隆)や舞台美術などの世界にも楽しみながらファッション界の先端に立っているスタイリスト(三宅一生、山本耀司等もその代表であるが)、それらの活躍ぶりも若手研究者の注目を浴び、論文の対象になっている。日本の伝統の染色、織物、着物などの技術、色、文様、美学などの研究と展覧会も現れ、これも確かに見逃せない日本美術の一面である。
一般読者の関心の新傾向を示すものとして、いままでイタリアの出版社は、小説の翻訳や人類学的なジャーナリズム以外、一般の読者を相手に日本に関する書物としてあまり専門的な論文集・学術書を発行しようとしなかったようである。しかし、最近、専門的な日本文学、日本史、日本美術、日本の思想と宗教、各分野に関する著書も大規模の出版社により発行されているので、かなりの読者層が日本文化に関心をもっていることを証明している。
それと同時、イタリアにおける日本学関連研究者ではないが、日本文化、芸術に興味を示している著者、学者もかなり多くなってきている。一般の享受者も、研究者、専門家も、他の分野との関わりを無視出来ないとして、学際性、多彩な学問分野間の共同研究という広がりをもったものを好むような時代風潮にある。なお、ヨーロッパと日本も示している傾向として、学際性というものと並行して、地域に束縛されず、たとえば中国、韓国なども含むより広い範囲の中で一つの分野の断層を捉えようとする研究態度も著しくなった。日本のみでなく、東アジアのなかで、同じ現象と多種多様なアスペクトをつかむと、趣が異なるがために、やはり示唆に富んだものとして比較論にまで拡がる傾向が見える。
そして、マルチメディアリティーという世界のなかで、映像・音響などの多次元を通して訴える表現が好まれる時代にあるのも確かなことである。ネットのサイトなどに幅広くアジアの映画、アニメ、演劇、舞踊などの文化現象群を専門家によって紹介し、研究資料及び年表、批評、論文などのかなり充実した情報を提供してくれるものが現れ、思いもよらぬ勢いで認められ、専門雑誌にも評価されている。実は、イタリア日本研究学会(伊日研究学会)(AISTUGIA, Associazione Italiana per gli Studi Giapponesi)も1973 年にイタリアにおける日本研究を促進する目的で創立されて以来、現在、400 名以上の会員を擁しているが、イタリアにおける日本研究者、学生のみならず、日本に関連する各方面の社会人、日本に真摯な関心を抱く一般人等を糾合する方針をとって主張している。イタリア最大の組織として、年次研究会議、論文集発行を初めとする活発な活動を展開している。研究会議は毎年行われ、年々発表者が増える一方である。それに応えて、3 日にわたる学会のスケジュールも分野別にわかれ、研究発表が同時平行して行われるようになっっている。若手研究者が多くなっただけでなく、研究テーマ、専攻もバラエティに富み、拡がっている。若手研究者の積極的な参加、ますます深まる専門知識の実力による学芸研究の細分化と充実性というものが一番際立つところである。
また、それとは別に、比較研究の展望から毎年異なる研究課題を扱う学会・シンポジウムも各大学、各機関に大変著しい発展を見せ、文学、歴史、社会、宗教、思想、美術、演劇、音楽などの境なく、日本に関わる人文科学領域全般を対象として、他の分野の専門家も交えて、大変興味深い機会となり、実り多い成果をあげて成功をおさめている。日本もイタリアも近代国家になってから国交を樹立したのは1866 年8 月25 日だったので、2016 年は国交開設から150 年目に当たる。日伊国交流150 周年のために、イタリア及び日本の各地で、文化事業を中心に、いろいろな行事、催し物、イベントなどが実施されている。しかし、見てきたように、イタリアという統一国家がまだ存在していなくても、日本の正式の大使ではなくても、政治政権の代表ではなかったとしても、
イタリア人と日本人との間に、450 年近くの交流があった。「国と国との関係とは、詰まるところ人と人との関係です。…日伊両国及び両国民の相互理解が一層促進され、かつ、二国間関係の新たな展望が拓かれる契機となることを期待」17できる時代になった。時代の長い流れの中で、人間による劇的な出会いでもあったが、近代になってから、特に、それぞれの国民の文化の理解と知識が深まり、まず文化活動、文化研究、人文科学の今までの研究の積み重ねのおかげで、見事に出来たことである。今後の研究も美しい花を咲かせることが期待できる。先生と学生の、互いと個人個人の、今後の努力次第である。
「遊楽万曲の花種をなすは、一身感力の心根也」(世阿弥、『遊楽習道風見』)  
 
日本での難破外国船史

 

1543年8月 明商船が種子島沖に漂着、鉄砲伝来
明国船は、台風にもまれながら琉球列島を北上したが、種子島南端門倉岬に漂着。ポルトガル人3名、琉球人、中国人ら百数十名が港頭の慈遠寺の宿坊で生活し、このとき、パン、蒸しパン、樟脳、タバコ、中央支点式の鋏など、新しい文物が伝えられた。またポルトガル人から鉄砲を買い求め、後に来訪したヨーロッパ人から鉄炮の鋳造法や火薬製法を学ばせ、種子島銃を完成させた。瞬くうちに鉄砲は大阪の堺、滋賀の国友へと伝播し、大量に作られるようになった。 『遍歴記』を残したポルトガル人フェルナン・メンデス・ピントは、日本の記録と相違しながらも種子島の漂着を記述している。当時室町幕府が、明貿易を奨励したことやその後の海賊紛いの貿易商人の時代でもあった。だから、日本各地で貿易や流通・移民があったといわれ、現在の学者は鉄砲伝来の起源論争という不毛な論争を費用を掛けて行っているという・・・・
ただこの時、ポルトガル人アントニオ=ガルバンは、『諸国新旧発見記』を残している。また、17世紀早々に、種子島氏が『鉄砲記』を編纂させた。そこには西洋人は粗野なところもあり文盲だが商売をしたいだけと中国人の儒生が語っているという。であるから当時の多々の漂着船は、殆どが倭寇と同様に海賊紛いの商船でもあるのかもしれない。
南種子町西之の前之浜を見下ろす門倉岬に鉄砲伝来紀功碑。西之表市の若狭公園は、鉄砲伝来における、鉄砲鍛冶職人の悲恋の娘「若狭」から名づけられ、ここには日本・ポルトガル親交碑,修好碑がある。1993年西之表市は、ポルトガル・ヴィラ・ド・ビスポ市と姉妹都市盟約を結んでいる。
1596年10月 西船サン=フェリペ号台風により、土佐沖に漂着
マニラからメキシコに向かうスペイン船サンフェリペ号は、東シナ海で台風に襲われ、甚大な被害を受け土佐沖に漂着。満載の積荷は、幾度も往復して陸揚げ。乗組員・宣教師達は全員上陸を許され、宣教師と上級船員は浦戸の大きな屋敷に、その他は座礁場所近くの村に分散して収容。船員達は、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向けた。
当時、『スペインは領土征服の第一歩として宣教師を送り込む』といわれ、都に向かい交渉の仲介を頼まれたフランシスコ会などの宣教師たちは捕らえられ、やがて処刑。
その後、秀吉は流れ着く品物は日本の物であると積荷を没収することとした。船員たちは、大国意識をむき出しにして挑戦する場面もあった、また度重なる申し出を受けて、サンフェリペ号の修繕が許され、食料を土佐側から給付されて浦戸から帰港。
豊臣秀吉は1587年にすでにバテレン追放令を発布していた。この頃、秀吉は九州を平定しているが、長崎の教会が要塞化していることや宣教師の寺社破壊、キリシタン大名地域での日本人を奴隷として売買したことを把握していた。ましてマニラには、日本人居留地もあり、貿易からスペインのフィリピン植民地化を把握していたと思われる。そして、サン=フェリペ号の難破を機会に秀吉がさらにキリスト教に態度を硬化させたといわれる。以後、貿易よりも鎖国と異教の取り締まりが強化されていく。
江戸末期密入国したラナルド・マクドナルドは、踏み絵の像は日本の悪魔といわれるもプロテスタントである為、抵抗無く踏めた。聖書の事は禁句と忠告されたという。
1600年4月 蘭商船リーフデ号豊後沖に漂着。生存者24名。
オランダの商船リーフデ号が豊後の臼杵に漂着。イエズス会の宣教師から即刻処刑要求を受ける。が、航海士イギリス人ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)、オランダ人ヤン・ヨーステン(「八重洲」の地名は彼自身に由来)は、徳川家康から江戸に招かれ外交顧問として活躍。三浦按針は、武士の資格を得、日本で一生を終えた。なお、按針は航海士の前に造船大工であったことから、家康の命をおび伊東で大型船120tの船舶を完成させる。
1982年に、横須賀市とジリンガム市(後のメドウェイ市)は姉妹都市提携
1982年に、伊東市もジリンガム市と友好都市提携、
平戸では、毎年5月下旬には墓前で「按針忌」。横須賀市では、毎年4月8日「三浦按針祭観桜会」、伊東市でも、毎年夏には「按針祭」を開催。按針出生地であるメドウェイでは、毎年9月中旬に「Will Adams Festival」が開催されている。
1609年9月 西軍艦サン・フランシスコ号御宿町沖で難破、漂着。生存者370名
スペイン船サン・フランシスコ号が千葉県御宿町で座礁し、難破で約 50名が溺死し370人?は浮遊物につかまり助かった。村民がドン・ロドリゴ総督を含めた乗組員を救出し、着物や食料を提供。翌年1610年には、三浦按針が建造させた船サン・ブエナ・ベントゥーラ号を家康から貸し出されメキシコのアカプルコへ帰港した。スペイン帰国後、「ドン・ロドリゴ日本見聞録」を残す。
難破以前、ドン・ロドリゴフィリピンは臨時総督在任中、マニラの日本人暴動に際し暴徒を日本に送還。三浦按針の訪問から家康に友好的な書簡で、メキシコと日本との交流が始まっていた。1611年スペイン国王フェリーペ三世は、駿府の家康のところにセバスチャン・ビスカイノ大使を御礼と密かな国土偵察として派遣。しかし、日本は鎖国体制が進みつつ無愛想に。帰国後「ビスカイノ金銀島探検報告」を後述。また1613年、この際に伊達氏は支倉常長による「慶長遣欧使節団」を送る。
1928年に御宿町岩和田の高台に日本、スペイン、メキシコの交通の発祥地の地として、「日・西・墨三国交通発祥記念碑」と「メキシコ記念塔」が建立された。
この御宿町は、志摩地方、石川県舳倉島とならび日本の三大海女地帯のひとつ。海女神、村で知られる御宿町の女性らがスペイン人を助けた人情味あふれる心意気を忘れず今に伝えている。
1978年に御宿町はメキシコ国クエルナバカと姉妹都市。2013年には、ドン・ロドリゴの生誕地、メキシコのテカマチャルコ市と姉妹都市を締結する。エチェベリア・メキシコ大統領もここをヘリコプタ−で突如、訪れている。
1753年12月 清商船八丈島沖に漂着、難破、71人救助
清国船が長崎の航路で、2度も暴風に遭い主帆柱も折れて彷徨い八丈島沖に漂着。島では合図の火をたて、漁船数艘で全員を救助。学識があった流人が筆談で情報を交わし、かつて漂着した明僧の開祖とする長楽寺を宿泊場所とした。写真がない時代に流人絵師・狩野春潮が、船員たちの肖像画(カラーの記録)を含め記録が残されていた。当時の唐人の信仰心の厚さや精神世界が記録されてるという。数ヶ月後、海が静かになり代官に報告され6月に下田からの迎船で長崎へ送られ帰国。
中国人は、滞在中に破損した船材で長楽寺に山門(空襲で寺は消失)を築き、荘厳具の聯や扁額も寄贈した。
1771年6月 奄美沖で蘭船が漂着、難破、ロシア脅威論が日本に
奄美沖伊須湾にオランダ船が漂着、難破した。漂着したのは、ハンガリー生まれのポーランド軍人ベニョフスキーとその仲間であるが、全部で6、70人いたらしい。座礁した際溺死した仲間をナガネ山の旧墓地に埋葬。以後、外人墓、オランダ墓と呼び現在まで伝承されてきたが、外人墓は鬱蒼と樹木が茂る旧墓地に残された。
ハンガリ一軍人ベニョフスキーは、ポーランド軍としてロシアと交戦し、虜囚としてカムチャッカに流される。が、数十の同僚と脱走し、ロシアの軍艦を奪ってマカオヘ向かう途中、阿波並びに奄美に漂着。その際に、オランダ商館長にあてて□シアの南下を警告した書簡を送る。オランダ商館長がこれを日本に伝える。林子平の『海国兵談』は、これから作成された。脅威から、幕府は北海道の警備の強化や調査を進める。
ベニョフスキーの波乱万丈の冒険を記した『航海記』は、没後に刊行。フランス語版と英訳版を1790年にロンドンで刊行。他にもドイツでの翻訳が刊行され、当時の欧州で多くの読者を魅了したようだ。
1780年5月 清貿易船「元順号」南房総市沖で座礁、難破。78名全員救助
清国の貿易船「元順号」が大嵐で5ヶ月間も漂流し、千葉県南房総市千倉町沖合に座礁し漂着。千倉の漁民は暴風雨の中、身の危険も顧みず23名を救助し、翌日暴風雨は一段と激しかったが、漁師たちは命綱をもって残り55名全員を救助。急造の収容所を建て米・薪や野菜を差し入れ、約2ヶ月救護。その後、日本船にて長崎に移送され故郷に帰国させた。この時、救助した地の藩では、唐人への待遇が疎かで、日本の南画家・篆刻家杜澂が通司となり名声を上げた。
また副船頭の方西園が画家で、初めて富士山を近くから眺めて描き、その美しさと雄大な姿を絵に描く。同時に日本各地を写生。後に谷文晁により「漂客奇賞図」として模刻。その遠近法が当時注目された。

その他、和歌山東漁漁業協同組合 大島支所/歴史・文化から
1687年秋、ルソン(フィリピン)の船が和歌山東部の苗我島に漂着、11人死亡しており、生存者が3人。長崎へ送り返した。(熊野巡遊記)
1789年冬、77人乗の南京船「朱心如」が津荷浦に漂着、土州船がつきそい送り返す。(熊野巡遊記)
1797年5月 英軍船プロヴィデンス号宮古島沖で座礁・沈没。110人救助
イギリス海軍の探検船プロヴィデンス号が、極東偵察後宮古島市池間島沖で座礁・沈没。脱出した110人余の船員は、宮古島の住人に手厚く助けられた。
艦長ウィリアム・ロバート・ブロートンは、帰国後「航海記」を出版し感謝の念が記され、英国で評判になる。
1840年8月 沖縄北谷村沖で英商船インディアン・オーク号が漂着、67人救助
英国船籍東インド会社インディアン・オーク号は、台風により北谷村の海岸に漂着。乗組員は、イギリス人10人、インド人55人(沖縄の記録ては黒人)、中国人2人。村人は、親切に船から道具を運びだし寝泊する小屋を建て、食料や衣服を提供した。
当時琉球王朝と薩摩藩は、アヘン戦争のさなか早々に帰国させるべくジャンク船を建造した。その後迎えにきた英国船とその船で帰国させたのである。
当時の様子は、船員により「海事誌及び海軍記」に記録され、大英博物館に所蔵。村民等の苦労があったと想定されるが、その記録には、親切にしてくれた村や琉球の人を、とっても良い人達と書かれているそうです。(この頃からか、アジアに軍隊のない親切な国の島(琉球王国)があると風評・・)
1848年6月 米国インディアンの末裔ラナルド・マクドナルド、漂流者を装い日本密入国
 送還まで日本初の英語教師、幽閉されることで知識人と遭遇
ラナルド・マクドナルドは、米国で幼少時、日本人漂流民の音吉(後に上海・シンガポールで活躍)と出会い、インディアンの親戚に自分達のルーツは日本人だと教えられて信じ、日本にあこがれる。ミッション系の寄宿舎学校を出た後、銀行員が肌に合わず、「謎の王国日本」行きを企て、捕鯨船の船員となる。多少の教育もあり、容貌が日本人と似ていることから、日本語や日本の事情を学び、そこで地位を得ようと理想に燃える。そして、とうとう北海道の離島焼尻島・利尻島に漂流者として上陸。村民に拘留されるも、宗谷そして松前藩に移送され収監。送還の為、他の収監者と一緒に長崎に移され事情聴取される。
やがて長崎奉行が、マクドナルドの日本文化に関心や、多少日本語を使うなど学問もあることから、オランダ語通詞14名を彼につけて格子部屋で英語を学ばせる。その中に森山多吉郎と堀達之助がおり、ペリーの艦隊が来航したとき、通訳で活躍することとなる。マクドナルドは、めでたく長崎弁という日本語習得。日本の単語に母方のインディアンの言葉との類似を感じ、自身の語学的才能に気づくも半年後に送還される。
帰国後は米国政府に、日本が未開社会ではなく高度な文明社会であることを伝えた。のちの米国の対日政策やペリの来航に影響を与えたといわれる。
幽閉先での僧侶や医者など訪問客の交流で、自然を愛する心、人間性、高尚さ、誠実さ、純粋無垢などを日本人の美徳として挙げ、多くの点でよりキリスト教的だと驚き、キリスト教者は異教を不完全な宗教だとみなしているが本当だろうかとと疑問を呈したとのこと・・
米国では、研究や紹介の書籍が多く重要性を占める人物と認識された。
死の間際の最後の言葉は、「さようなら my dear さようなら」だったという・・ 「SAYONARA」の文字は、マクドナルドの墓碑に刻まれた。焼尻島と利尻島の上陸地点、長崎市と生誕地のフォート・アストリアに、マクドナルドの記念碑がある。
1850年4月 濠捕鯨船イーモント号が厚岸沖で難破。32人救助
オーストラリアの捕鯨船イーモント号が北海道厚岸町末広沖で難破し、32人を救助。1名溺死、31人を長崎経由、オランダ船で送還する。
1855年1月 露軍艦ディアナ号富士市沖で難破、津波地震の被害の中で500名救助
ロシア軍艦ディアナ号は、皇帝により平和的に日本との外交交渉を行うべく遠征。転々とするなか、、安政東海地震により交渉中の下田で船損傷。ただ、その時乗員と医師を陸上に派遣し、下田の人々に救助や医療の援助も行う。クリミア戦争状況や幕府の意向で伊豆の戸田港で修理しようとしたが、宮島村沖(現富士市沖)で大破。乗員約 500人は、沿岸の漁民たちが総出で救出しロシア側に大きな感銘を与えた。
帰国後には、支援の日本側へ譲渡する契約で、幕府から代わりの船の建造の許可。戸田村で西洋式帆船「君沢形」を建造。プチャーチンが支援した村への感謝も込め戸田(へだ)にちなんで船名をヘダ号。1855年5月2日に初航海。日露和親条約締結を終えたプチャーチンは、第二陣の「ヘダ号」でロシア兵48人で帰国。第一陣の 159人は、前月に下田でチャーターした米国船で帰国。しかし、第三陣の約 270人の乗組員はドイツ船で帰国中、クリミア戦争でロシアと戦っていた英国に拿捕され捕虜になる・・・・プチャーチンの秘書官イワン・ゴンチャロフは、帰国後、紀行文『フリゲート艦パルラダ号』を著す。
プチャーチンは、ロシアで条約の功績で伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進。後に教育大臣。1881年には、日露友好の貢献としてプチャーチンに日本から外国人初の勲一等旭日章が贈られる。
1871年10月 琉球船が台湾沖で遭難、多数の船員が殺害され、
 1874年台湾出兵。海難から見る激動の近代台湾と琉球
宮古島の琉球船が沖縄での納税の帰り、強風に遭い一隻66名が台湾に上陸し略奪に合う。拉致され逃走しさまよう中、首切りにあい多数の船員が殺害された。1873年には、台湾に漂着した岡山県柏島村の船の乗組員4名が略奪を受ける事件も発生。
1873年1月 仏商船ヲールアー号南房総沖で破船、17名救助
南房総大房岬の堂ヶ島で、仏国船ヲールアー号が西風のため破船。紅毛碧眼の西洋人が、ずぶぬれになり助けを求めた。人情に厚い多田良の人たちは、隣りの岡本村からも応援を受け、夕刻までかかって難破船に残る乗組員を救助し、釈迦寺に案内して世話をする。船員はフランス人5名、イギリス人1名、支那(南京)人1名、国籍不明の下官水夫10名の合計17名。
外務省から通弁官(通訳)を呼んで、ようやく難破船を事情聴取。数日後、外国人たちは多田良と岡本の村人たちに、世話になったことを感謝しながら帰っていきましたとさ。
1873年7月 独商船ロベルトソン号宮古島沖で遭難、8人を救助
ドイツ商船ロベルトソン号、宮古島の宮国沖で座礁。当日、暴風明けの波浪で接近を阻まれる。乗組員は落胆するも、島民は海岸でかがり火を焚き、難破船の乗組員を励ます。翌朝、高波を突いて小舟2艘を出し、ドイツ人6名(うち女性1名)、中国人船員2名を救出。そして手厚く保護し宿舎を提供、米や鶏肉を与える。当時、台湾出兵や沖縄県の成立で混乱がある中、指示もないことから官船を彼らに与え帰国させた。
船長のエドゥアルド・ルドヴィヒ・ヘルンツハイムが、「ドイツ商船R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記」と題して新聞に発表。ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は、宮古島の人々の博愛精神に感動し、76年に軍艦チクローブ号を派遣。そして時の明治政府を訪問し、宮古島にドイツ皇帝の博愛精神を賞賛する記念碑を建立する 。
1875年8月 英商船ジェームズ・ペイトン号浜松沖で座礁、難破。15人全員救助
英国船籍の帆船が遠州灘で勢力の強い台風により遭難。福島村 (現浜松市) の海岸に座礁した。船を発見した村人たちは、命がけで船員たちを救出。台風の余波で荒れた波に揺れる船と浜をつないだ一本の太い綱によって、初日は船長以下、11人を救出。翌日には残り4名も救出。戸長宅と副戸長宅、観音寺、浜の小屋の4カ所に救助し、乾いた服と食物が提供された。
当時、日本人の欧米人に対し好意的ではないが、村人たちの勇気ある行動は、イギリスやオーストラリアの新聞で、グレート・ヒューマニティ(大いなる人道主義)、グレート・カインドネス(最大の親切)と評されました。
英国公使から、各所に謝詞。英国から 100円の救援金が村に、さらに関係者には贈物が渡された。
1877年11月 露軍艦アレウト号北海道瀬棚沖で座礁。62人全員救助も・・・
北海道瀬棚海岸沖にてロシア軍艦アレウトが暴風に煽られ座礁。62人全員が地元住民により救助。12月、アブレク号派遣。49人を乗艦させたが、アブレク号の13名が暴風で戻れず。残留し函館に移動。座礁したアレウト号および搬出物看守の目的で越冬した13名を、翌78年4月軍艦「エルマック」で迎えに来たがアレウト号乗組員がボートで向かう途中高波により転覆、12人が犠牲になった。
1885年9月 米商船カシミア号種子島の東南海上で遭難沈没、12名救護
米国の帆船カシミア号が台風の暴風雨で、種子島の東南海上で遭難沈没し、乗組員は安城(立山)と伊関の2カ所に漂着した。助かった12人の乗組員は、村人から集めた食べ物や着物を与えられ手厚い看護により、本国に帰ることが出来た。
帰国後、米国大統領から功労者2名にメダルと25円が贈られた。その後米国議会から感謝の意をもって,伊関と安城の村落に五千ドルを贈与された。時の外務大臣大隈重信の進言により、無用な争いをさけ教育目的の基金とされた。また明治23年に五千ドルの贈与に対する感謝と先人の美徳の継承,カシミア号の遭難で命を失った3名の霊を慰めるため安城小学校内、伊関小学校内に紀徳碑を建立し,毎年9月に紀徳祭を行う。合計2つの紀徳碑、海岸に2つの米国人漂着地趾と美徳伝承之碑がある。
1886年10月 英商船ノルマントン号和歌山県串本沖で座礁沈没、26名保護も、事件として告発。ノルマントン号事件
英国貨物船ノルマントン号が、和歌山県潮岬沖で難破し、座礁沈没。イギリス人やドイツ人からなる乗組員26名は全員救命ボートで脱出し、沿岸漁村の人びとに救助され、手厚く保護。うち3人は凍死しており、上陸後に埋葬。ところが、この船に日本人乗客25人、インド人火夫・支那ボーイ計12人?も乗船しており、故意に船内取り残され死亡と推定された。県知事から報告を受けた外務大臣井上馨は、日本人乗客を含むアジア人が全員死亡したことに不審をもち、実況調査を命令。
新聞報道で批判を浴びるも、不平等条約から英国神戸領事館内管船法衙で海難審判が行われるも、船長以下全員に無罪判決。国内の新聞は、1名も日本人すら助からないのは、人種差別だとして横暴と非人道を批判し日本世論も大沸騰。
井上外務大臣は、神戸出船をおさえ、兵庫県知事名で横浜英国領事裁判所に殺人罪で告訴。結果、賠償は無いがドレーク船長に有罪判決を下し、禁固刑3か月に処した。当時の日本国民は、その恨みを忘れず、ドレークには「奴隷鬼」の字があてられたと。
1890年9月 トルコ軍艦エルトゥールル号和歌山県串本沖で遭難、親善使節団を69人救出
オスマン帝国最初の親善訪日使節団である海軍艦「エルトゥールル号」が帰路の和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下座礁沈没。乗員約600人中、地元の漁民らによって69人が救出されたが、587名が死亡または行方不明となった。
串本町樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当る。この時、台風で食料の蓄えもわずかであったが、衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。その樫野の寺、学校、灯台の収容者は、神戸の病院に搬送され治療を受けた。そして軍艦「比叡」と「金剛」で、オスマン帝国の首都・イスタンブルに送り届けた。
遭難翌年には、殉難将士の埋葬された樫野崎の地に、地元有志により「土国軍艦遭難之碑」が建立。1929年に、同敷地に日ト貿易協会により追悼碑。昭和天皇の慰霊後、トルコ共和国建国者の初代大統領であったムスタファ・ケマルは、殉難将士の墓域の大改修と新しい弔魂碑の建立を決定。トルコによって慰霊塔は改装し1937年除幕。トルコ共和国との共催で5年ごとに慰霊の大祭。
1894年4月 英商船ドラメルタン号が種子島に漂着。29名救出
香港へ向かう途中の英国帆船ドラメルタン号が暴風に遭い種子島前之浜に漂着。乗組員29名は島民の協力で無事救出され、二軒の民家に収容し手厚く介抱した。うち13名は、船が離礁するまで長く滞在し、手厚くもてなしのもと交流を深めた。
乗組員は別れを惜んで時計花びん額縁など数々の品物を贈り帰国後は滞在中の謝礼を送金している。また、船内に食糧用として飼われていた11羽の鶏をもらい、イギリス人のことから「インギー鶏」と呼び、今日まで大切に守り育てている。原産地は中国南部で、現在は種子島だけに原種が残る珍しい鶏です。 (以前の帆船では、長期の航海に備え。船内に生きた豚や卵を取るニワトリが飼われていた。)
ドラメルタン号漂着之碑は、言葉や風習の違いを越えて交流した心温まる物語を、後世に伝えるために建立されたとのこと。ドラメルタン号が帰国するとき、彦次郎という少年がイギリスに密航し知識と経験から、韓国・中国で海運業を営んだという。
1909年9月 日露日本海海戦で漂着したロシア兵遺体、長崎で合葬際
1905年5月27日 〜28日の日本海海戦は、東郷平八郎大将が率いる日本海軍の劇的な勝利となった。その後、ロシア兵遺体が長崎から青森にまで漂着することとなる。鳥取などの浜では、丁重に埋葬されたようだ。ただ、村民の間で埋葬について議論があり、異人であろうが仏さんにかわりないということで供養されたという。後年、昭和37年に初代国連大使を務めた鳥取出身の澤田廉三氏は自費で「露軍将校遺体漂着記念碑」と顕彰碑が建てて5年毎に慰霊祭を行っているというところもある。
明治41年、日本ハリストス正教会のニコライ主教は、捕虜収監中に亡くなったロシア兵の埋葬する松山市来迎寺裏の墓地や隠岐島等で慰霊を行う。埋葬地が不明という自体を受け、帰京後大使を通し、漂着したロシア兵の遺体の実態把握をロシア政府に働きかける。そうしてロシア政府の依頼で日本政府のもと各地の漂着状況と埋葬地を把握した。そうして各地の県の報告から71名の漂着情報を集めることとなる。
日本政府は、これらのロシア兵を一括して長崎で合葬する提案をロシア側に出し了承をえる。各地の遺骨は、恐らく明治42年6月から8月までの間に掘り出され、長崎市へ移送されたようである。
1909年明治42年9月27日にニコライ主教も臨席のもと長崎市で合葬祭が行われた。
長崎の稲佐国際墓地である悟真寺のロシア人墓地は、原爆投下や戦後の混乱で荒廃していたが、平成8年、ロシア海軍創立300周年を機に整備された。
1939年12月 ソ連貨客船インディギルカ号北海道猿払村沖で座礁、沈没 429名救出も、犠牲者700名と推測
北海道猿払村沖合でソ連貨客船インディギルカ号が宗谷岬の位置を見誤ったことから漂流し座礁、沈没。子供も含めた429名の生存者を救出するものの700名以上が死亡したと思われる。乗客は漁期を終えた漁業者で、カムチャツカ半島から引き上げてくる途中に遭難と見られた。また、乗客数を把握している乗組員は存在しなかった。救助された乗組員らは、当月中に小樽港から離日、ウラジオストクへ向け帰国する。
ソ連政府は、船体の所有権を放棄し遺体収容は不要、遺品返還も無用、と異例の連絡。ソ連崩壊後調査で、船は強制収容所の政治犯及び家族の送還の護送船でないかとの説。
猿払村は、1971年に海に面した場所に慰霊碑を建立、手厚く遭難者の慰霊を行う。日ロ友好記念館も建てられていたが、近年閉館しているらしい。さて、救出された方々はどこら辺の民族であったのか・・  
 
イラストレイテッド・ロンドン・ニュース

 

( 幕末明治の英紙報道 / 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介します。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳し本にまとめたものです。)  
合衆国の日本遠征
1853年10月22日号(香港、1853年8月10日)
今月7日[嘉永6年7月3日]ペリー提督はその最初の日本訪問を終えて当地に到着した。彼の指揮下にあるアメリカ合衆国艦隊は、旗艦サスケハナ号(蒸気艦)、ミシシッピ号(同)、プリマス号(コルヴェット艦)、サラトガ号(同)およびサプライ号(運送船)から成り、去る6月琉球諸島に会し、7月2日にサプライ号だけを残して、すべて日本に向けて出帆した。・・・8日に艦隊は江戸湾に到達し、浦賀と呼ぶ町の沖に投錨した。そこは江戸から30マイルのところである。2、3日にわたる交渉ののち、ペリー提督は300ないし400人の兵員を上陸させ、合衆国大統領の書翰とペリー自身の信任状を、皇帝[徳川将軍]の閣僚の一人で、これを受領するよう命ぜられた、なにがしの守(かみ)に贈った。
前記の兵員は、半月形をした海辺に整列して、400ないし500人から成る日本の軍隊と陸上で対峙した。双方とも、ひとたび合図があれば会戦に及ぶ準備が出来ていた。というのは、日本人は信頼を裏切るかも知れず、アメリカ人もまた同じ状況にあったので、ともにそうしたことが起らぬように警戒していたからである。しかし、すべては平和裡に済み、艦隊は回答を受け取るため、春になってもう一度訪問するとりきめができた。非公式ながら、皇帝は、きっと大統領書翰に好意的な回答をよこすだろうとの暗示が得られた。この会見の翌日には、数人の日本の役人たちが旗艦を訪れて、多くの贈物の授受が行われた。
書翰贈呈の儀式が済むと、艦隊は港をさらにさかのぼって、湾内の一部の全般的な測量を行った。江戸の町を見るところまでは至らなかったが、その前方2、3マイルのところにあるジャンク船の投錨地だけは見えた。日本人はこれらの帆船のことをさほど気にしてはいないように思われたが、それでも蒸気艦が自分達のまわりにあるあまりに多くのことを知りすぎてしまうのではないかと、いたく恐れ、また、蒸気艦が、風向きや潮流にさからってまで行動できることには明らかに納得がいかない模様であった。
江戸湾は世界でも最も美しく広大なものといわれるが、たしかに郊外の風景などは他に類がないほど壮観である。もちろん、もっと近寄って観察する機会はなかったが、日本人に――つまり、彼らの風俗、習慣、服装に――ついていえば、すべてが2世紀以前に[ヨーロッパ人によって]記述されたところとぴったり同じままであるように思われる。・・・・
日本品の展示会 
地球上でもっとも知られていない国々の一つである日本から、珍奇な品々ばかりの独特な積荷が首都[ロンドン]についたばかりである。ロンドン以外のところに日本の産物が少ないことは、われわれにオランダ商人たちのさもしい営みに対して国際人たちのいだく嫌悪の念を思い起させる。彼らの人目をはばかるような取引を通じて、われわれはこれまで日本の美術・工芸のまがいの見本ばかりつかまされていたからである。
このコレクションは、去る月曜日[1月30日]にポールモール・イーストの旧水彩画家協会の画廊で公開されたが、わが国では初めての直輸入だといわれている。・・・展示品は、木地に漆を塗り真珠やほうろうで象嵌した机、用箪笥、箱などから成り、わが国のパピェ・マーシュ(混擬紙)とは異なって極端な軽さと滑らかさ、また塗料を使わないこと、しかもまた、意匠がほとんどの場合ずばぬけて優美であるという特異性をもっている。さらに日本人特有の装飾品だが、彩色麦藁で非常に美しい意匠をこらしたものもあり、そのなかでも今週号の彫版画に見える鳥の形のついた小箱は最良の見本の一つである。
ブロンズ製品は稀に見る極めて古風なものであるが、なかでも2個の最大のブロンズ花瓶は形が非常にすっきりしており、図ではテーブルの上に示されているが、マールボロ・ハウスの実用美術博物館のために買い入れられたものだということがわかっている。・・・絹の衣装や部屋着も展示してあるが、非常にやわらかで、軽く綿をつめてあるが、日本の貴人の着るものである。・・・ 猿や魚に支えられているテーブルや、各種のパズル箱もあるが、また通常用いられるものよりはるかに上等だという醤油もいくらかある。総じて、これは非常に好奇心をそそるコレクションであり、最近合衆国の日本遠征によってかき立てられた関心にてらして見ると、非常に魅力あるものであることは疑いない。  
クリミア戦争の知らせを受ける
1854年9月16日号付録
英国軍艦ウィンチェスター号は、時あたかも女王陛下[ヴィクトリア、在位1837―1901]の誕生日に当る1854年5月24日、香港に入港、郵船の船長から女王の宣戦布告文(クリミア戦争)を読み聞かされた。ウィンチェスター号は上海に赴任するサー・ジョン・ボウリング総督を揚子江口まで送った。・・・南京と上海のほかに、サー・ジョンは日本をも訪問したいと望んでいる。ロシア人はすでに日本に到達し、なんらかの条約を結んだと伝えられる。ロシア人の朝鮮での殖民も近づき、彼らにとって日本との友好関係の樹立は、たいへん重要であろう。
すでに宣戦のあった以上、われわれは、これらの地域からロシア人を駆逐しなくてはならない。アメリカ人はすでに日本人に説いて、彼らの排他的な反社会的慣習をいくぶんゆるめさせた。彼らは丁重に応援を受け、1マイルに及ぶ鉄道[実は模型]や有線電信を敷設し、幾千の観衆の目をみはらせた。アメリカ人のこうした精力的な活動は大いに信用を博するに値するが、だからといって彼らに貿易の独占を許してはならない。合衆国の快速警備艇ヴァンダリア号がこのほど日本から到着した。ペリー提督もいた。条約はかなりうまく進行していた。ひとつの港が開かれ、もうひとつも18ヶ月以内に開かれるはずである。・・・・
英国艦隊の日本到着
1855年1月13日号
9月7日英国軍艦ウィンチェスター号、蒸気艦エンカウンター号、バラクーダ号およびスティクス号は、日本の長崎港外に投錨した。・・・数艘の小船が、おのおの12人の男たちを乗せてきて、港のはるか外で艦隊と遭遇したが、おのおのそのへさきにある木造の屋根の上に、2、3人の男が立って、竹を通したさまざまな白旗を振っていたが、それは艦隊を追い払いたがっているように思われた。・・・・
港務長、知事[奉行]の副官および税関の検査官が17名の付添いといっしょに旗艦の艦上にきた。付添いの者はみな2本の刀を帯びていたが、刀はいずれもかみそりのようにきらめき、鋭利で、しかも最高の出来ばえであった。彼らはこれらの刀をスケッチしたり、じろじろ見たり、あるいは手でさわったりされるのさえも嫌がった。
役人たちは艦長室に通され、その場で提督が上海から伴ってきたオト[乙吉]という日本人の仲立ちで会話が始められた。この男は、20年以上も前に貿易用のジャンク船で遭難し、イギリスにも行ったり、故ギュツラフ博士やその他の宣教師の臨時雇いになったり、といった人生の転変を経て、今は上海のデント・ハウス社のビール氏の倉庫管理人になっており、多額の金を貯えている。日本人は彼を上陸させようと考えたが、彼には上海に妻と子供たちがいるので、英国旗の保護下にいたほうがいいと言った。・・・
彼らは提督の正確な地位を尋ねた。港の規則に従って艦隊が碇泊したことはよいことだ、と彼らは言った。彼らは提督が皇帝にあてて敬意を表し、かつ演習のため兵士たちを上陸させる場所を求める手紙を受け取った。・・・・
提督は、艦隊のために食料を買いたいといった。しかし日本人は、彼らの法律が何物なりと売買することを厳しく禁じているのだ、と言った。しかし彼らは水や、その他要求されている新鮮な食糧や野菜を供給するつもりであった。9月9日には3艘の小船が舷側にやってきて、3匹の豚、42羽の鶏、米俵8ぱいの梨とさつま芋、それに幾束かの大根と玉葱、1籠の卵をもたらした。・・・
提督は港外の島々の、引っこんで砂のある入江で魚を取るために地引網を引いてもいいか、と尋ねた。彼はそれを許されなかったが、それでは魚も届けようということになった。6ないし7籠の立派な魚――鯛の一種、ぼら、かれい類――が22日に受領された。27日、ウィンチェスター号の艦長イメ氏と砲術係副官のブッシュネル氏は一艘のボートに乗って島々のまわりを帆走しに出かけた。この港の通路や防備を探索し、検討するためである。結果は上首尾で、良質の石炭が豊富に存在し、実際に外側の島の2つの炭坑から200ないし300トンもの量が掘り出してあるのを発見した。・・・日本人に若干量を艦上に運んでほしいと懇願したが、はじめのうちは彼らはそんなものは知らぬ、といっていた。彼らは提督がそれを見てきたと知ると、あそこはある大名に属するもので、長崎の知事は彼に干渉することはできない、といった。  
長崎の知事(奉行)を訪問
1855年1月13日号
(1854年)10月4日9時30分、5艘のボートが提督と約15人の仕官を乗せて旗艦ウィンチェスター号を後にした。・・・上陸場は、横長で粗削りのみかげ石の石段から成り、セメントはつめてなかった。まず仕官たちが上陸し、2列になり、その間をジェームズ・スターリング卿が、石段より20ヤード先のところで彼を待ち受けている2人の肥った日本人の役人の方へと進んだ。彼らは丁重に彼を歓迎し、知事のもとに案内するためにやってきたといった。・・・・
提督がただちに向う側の部屋に進むと、そこには知事が立っており、その右には検閲官[目付、永井岩之丞尚志]がいた。2人の背後には4人の若い役人が、手に手に鞘に納めた刀の先端を支えており、刀のつかは彼らの頭より上にあった。・・・知事は水野筑後守[忠徳]という名であった。彼は物静かで、聡明で、顔立ちのいい男で、36歳ぐらいだが、どちらかといえば中背以下である。彼は二言三言低いおだやかな声で彼の足許にいる卑賤の者に話しかけたが、その男は主君をほとんど見上げようともせず、けいれんを起したような「イチ、イチ」[はいっ、はいっ]という言葉で、一句一句理解したとの意思表示をし、知事が話すのをやめると、彼は数回畳敷きの床に接吻してのち、知事の言葉をオト(提督の通訳)に向って繰り返した。オトは提督に「知事は心からの敬意を表し、提督とその士官らにお目にかかれてうれしいといい、彼らが長崎で壮健かつ安穏ならんことを望む、といっている」と語った。
提督。知事に対し、私が彼の丁重な言葉に感謝していること、また彼が親切に送ってくれた物資のおかげでわれわれは壮健かつ安穏である、と告げよ。知事は、提督の書翰に対する江戸からの回答をすでに受領していて伝達することをねがっていたが、まだ到着しないのが遺憾である、といった。しかし、彼は一両日中に到着することを期待した。・・・
提督とその幕僚は、部屋のひとつに着席した。列席の士官たちは次の間に着席した。2つの部屋にはぴったり必要なだけの数のひじかけ椅子が用意してあった。一行が全員着席すると、武装した役人がひざまずいて、上等の茶を一杯ずつ中央に丸いくぼみのある丸い漆器の茶卓にのせてイギリス士官各人に出した。6ないし8インチの高さをつけた膳が各人の前に置かれ、そこにはカステラと明るい色の糖菓のいっぱいはいった、10インチ角で深さ4インチの美しい寄木細工の箱がひとつのっていた。コットン・ペーパーが2、3枚、独特の色をした紐でくくって、めいめいの膳についていた。各士官は自分の箱に名を書くように求められたが、これは訪問のわずかの記念に艦上へ送るときのためである。椅子2つの間ごとに、長方形の盆がおかれた、たいしゃ色の立派な葉巻と、火のはいった磁器のうつわと、パイプの灰をおとすための小さなうつわがのせてあった。・・・・
一行はそれから、もっとお茶を出され、また淡いシロップにはいった甘い平たいゆでだんごの厚いもの2切れが出た。この2切れは、赤い漆器の鉢に盛り、さかさにしたお皿の形の蓋がついていたが、鉢も蓋も上出来であった。これらのものは、さきに糖菓の箱のとき用いられたのと同じ膳にのせてあったが、膳には、重々しい銀のスプーンと銀のフォークと、それに1組の新品の箸も置いてあった。だが、どんな種類の葡萄酒もアルコール類も現れなかった。
外交上の手続きは過誤なく、秩序は完全に保たれ、この国民の礼儀にかなった威厳は非のうちどころがなかったが、料理に関してはあまりほめたものではない。オランダ人のことは何も知る機会がなかったが、彼らとの通信はまったく禁止されていたからである。けれども列席の日本人の一人はオランダ語を話し、彼らのための通訳をつとめているとのことであった。
床はみな幅3フィート、長さ3ヤードの美しい畳で覆われており、畳は床を和らげ、その上を歩いて気持ちのよいようにするため何か弾力性のあるものの上に置かれていた。日本人は履物を家屋や舟の外におく。一イギリス士官が床につばをはくのを見ると、日本人のひとりが英語でとてもゆっくりと、「If you please you must not spit, Japanese men sit here.」(どうぞつばをはかないでください。日本の人々はここに坐るのです)といった。小舟を維持するしかたからも判断できるように、彼らは衣服や住居に清潔を旨としている。・・・外国人との外交上・商業上の交際をもつのをいやがる気持ちにうち勝つためには長期にわたる忍耐強い駆引が必要であろう。提督が最初の長崎のオブニョウ[御奉行]すなわち知事を訪問してから4日後の、10月9日に第2回の訪問をする手順が整えられた。・・・  
江戸からの回答 (1855年1月13日号つづき)
オブニョウ[御奉行]は皇帝の回答を江戸から受け取っていた。それは解いてみると、長い一巻の巻物、もしくは一組の巻物であった。その内容が知らされた・・・・この回答には、丁重な言葉づかいでイギリス人が訪問し書翰のやりとりをした際示した敬意に謝意を述べ、偉大なるイギリス国民、女王、提督、その他に対して皇帝の胸に懐かれている高い配慮を表し、戦争[クリミア戦争]とそれに伴って恐るべき事柄が起ったため、窮迫した事態になったことを残念に思い、皇帝の臣民に対する義務の観念は厳正なる中立を彼に守らせるがごときものであることを説明してあった。
「皇帝は、いずれか一方の側の怒りに自分をさらさずに、また多くの哀れな弱い国民に恐ろしい災厄をひき起さずに、このひどい争いのどちらにも加担することはできない」としたが、これらの点について述べられた考えは、極めて正当、賢明、かつ尊厳なるものであった。皇帝は「長崎の主なる役人に、わが帝国の法律と利害とが許すような条約を自分の名において締結するよう任命したが、皇帝はよろこんでオランダ・中国の両国民に限られた特別の商業特権だけは除くが、最恵国により享受せられるすべての便宜をイギリス人に譲与する」とのことであった。
この皇帝の書翰は、とてもすばらしい産物と見なされた。それは、さまざまの義務と意向とを明白に、合理的に、かつ直截に述べたもので、期待され得ることはすべてこれを譲歩し、完全な信頼を示唆し、将来の行動を律すべき原理の数々を定義していた。・・・ 会見の進行中、多量の雨がふり始めた。このことは丁重で親切な心遣いを示す機会を与えた。五艘のボートの乗組員たち――その全員とこれを指揮する士官たち――はすべて宮廷内に雨宿りするよう案内された。もはや真暗だったが、雨はなおやまなかった。一行の各人に1本ずつ傘が贈られた。覆いのある屋形船が用意された。提督とその一行は7時半に日本の政府の小舟で無事にぬれずに旗艦に帰った。なお4、5日が条約起草のために費やされた。
日本の役人たちはしばしば一日数回も艦上にきて、あれこれ細部について調整を行った。しばしば彼らは夜9時までも艦内にいて会議にあずかった。すべての準備が14日に終ると、提督は以前のように随員を伴って長崎に赴いた。条約は知事に読み聞かされ、2時ごろ提督によって2通とも署名された。・・・そして一年以内に批准を行うこととなった。非常に立派な正餐がいくぶんヨーロッパ風の流儀で食卓の上に出された。糖菓は、以前よりもっと上等なもので、磁器の皿にのせて出された・・・・
ボートに帰る時間がくると、もう真暗だった。しかし街路あるいは通りには美しく塗った、どれも政府の標識のついた提灯をもつ人々の列ができていた。提督が通り過ぎるにつれて提灯をもつ人々は密集し、ついには上陸場のまわりに色つきの光の環ができ、海面もまた、それぞれこうした趣向のいい優雅な提灯のいくつかをあしらった小舟で覆われ、総じて新奇で目もあざやかな効果を生み出した。
この独特な国民の、礼儀ずくめだけれども控え目な親切、鷹揚でいながら行き届いた心遣い、尊敬すべき秩序、規律、良識は、客人たちを驚かせかつよろこばせた。かれらの親切な応対は自発的なものであった。事態がいちじるしく改善されたことが、ここに見られる。・・・・
彼らは自国の法律に対して払われた尊敬、自国の権利に対して示された敬意を知ってよろこんだ。彼らはいちじるしく感覚的で敏捷な人種である。ほとんど無意識にほんのわずかの侮辱ないし不作法すら感知し、感情の動きは繊細微妙をきわめ、荒っぽい粗野な扱いをしようものなら後ずさりしてしまう。彼らが気軽にしかも真に善意から願いを許してくれた事柄なら何事でも、彼らは徹底的に守りかつ行動に現すが、彼らから脅迫によって強要されるかぎり、その事柄は有望であり得ても、永続的で満足のいく結果を生むことはないだろう。・・・
一方では彼らの排外性を不可能にしてしまうような事件がつぎつぎと起り得るし、また、起るに決まっていることを感じ理解している。世界の利害がわんさと殺到すると、彼らもまた他国民同様に行動せざるを得ず、また文明化された慣例の方に「向きを変えて」進まざるを得なくなるのである。10月20日金曜日、最初到着した日からちょうど6週間後に、艦隊は長崎港を出帆した。太鼓を打って善意と敬意を示す儀礼的な護衛隊が、艦船に海上まで付き添ってきた。強い北東の季節風が艦隊に順風をもたらしたため、6日で香港についた。  
外国および植民地ニュース / 日本
1859年9月3日号
最近の中国からの郵便は、6月5日[安政6年5月5日]までの日本からのニュースをもたらした。日本とヨーロッパ諸国との国交は日増しに緊張を加え、数年のうちにこの点では完全に変化が起りそうである。電信に関する最初の実験ののちに、皇帝[将軍]は、江戸・長崎・下田・箱根の町々を結ぶ線を架設するように命じた。皇帝はまた艦隊の改造も決定し、すでに蒸気軍艦を6隻もっている。それらのひとつ「二フォン号」[咸臨丸=原名ヤーパン号]は周航航海に出たが、エンジンはアメリカ製の350馬力である。。船員はすべて日本人で、彼らは蒸気エンジンの操縦に多大の適性を示している。
アメリカ領事と日本政府[幕府]との間に難題が起ったが、このほど友好的に解決された。豊かな銅山を発見したひとりのアメリカ人が、日本の法律に反して鉱山と土地に対する権利主張した。政府は反対し、事件は不愉快な局面を迎えたが、そのとき、皇帝は、争いがさらにひろがるのを防ごうと、第三勢力を審判員に選ぶことを提案し、当初はフランスを、ついでロシアを指名した。アメリカ領事[タウンゼント・ハリス]は回答を送らなかったが、発見の当事者は、結果を道徳的に判断して、土地に対する要求は放棄し、鉱山を採掘してその利潤を日本政府と分けあう許可を求めた。この申し出はただちに受理されたが、誰しも本件における皇帝のとった中庸的立場を非常に高く評価している。
長崎の日本人
1860年2月25日号
ある売店で顕微鏡、望遠鏡、日時計、物差、天秤、柱時計、ナイフ、スプーン、グラス、ビーズ、小間物、それに鏡と、すべてヨーロッパのものを模範にして現地で作った品物を見つけましたが、値段が途方もなく安いので、労働の価値を最低に見積っても、なおこれらの品物からどのようにして利益が得られるのかは謎でした。顕微鏡はたいへん巧妙にできていて、ポケットに入れてもち運べるようになっていました。模造のモロッコ革の箱をあけてみると、中には小型の拡大力は強くないレンズが、直立した支柱から少し離れたところに金属の枠で固定されており、同じ支柱の上に調べようとする物体をかけておくようになっていましたが、全体の出来ばえは非常に立派でした。
望遠鏡は充分に厚さのある堅い紙のケースに入っており、木製のところは、革に似せて巧みに漆を塗ってありました。単眼鏡は小型ですがはっきり見え、倍率は大きくないけれど、このような器具がほんの1シリングで売られているのを見るのは驚くべきことでした。もう一種類の優れた日本の望遠鏡を見ましたが、それは、長く伸ばすと6フィートの長さで、まったく故国でだまされやすい親たちが港で子供に望遠鏡を買ってやるとき、わが海軍用装身具商が仕入れておくドランズ製の本物と同じほど、拡大力も強く、まともな品でした。長崎での値段は1ドルあるいは5シリングですが、ポーツマスでだったら5ポンドはします! 
店に陳列してあった日本製の柱時計は、仕掛けも美しい品であって、私たちが聞いていたこと、つまり、この国の人々は金工がとても巧みだということを証明していました。ある柱時計は、故国でよく見る、四角いガラスの覆いを通してあらゆる仕組がよく見えるようになっている卓上時計のようでした。高さが6ないし8インチ、幅も同じくらいで、同じ仕組みのデント氏の製作にかかる最上のものと見分けることさえ困難でした。
ある日、ある名士はコルト社のピストルとシャープ社のライフル銃を見せて説明してもらうと、その仕様書を手に入れたいといいましたが、それは自分でその製造を企てるためでした。他の一人は江戸でアネロイド気圧計を作りたいといっていました。
あらゆる部門のガラス製造技術が大流行となり、装飾用のびんのなかには、模様にとても独創的で趣のあるものが見られます。鉄製および真鍮製の大砲は直径10インチまでのあらゆる口径のものが鋳造されました。ある大名は最近、信管を改良して砲弾を製造し、またある大名は蒸気で動かす機械類にあまりに熱中し、またあえていっておきたいのですが、オランダ人が汽船の代金として請求した額があまりに巨額だったため、汽船建造工場をつくり、すでに1個の完全なエンジンが製造され、長崎で建造された1船に設置され、実際に港近くで作動されました。(オズボーン大佐よりの便り) 
明治維新のニュース
1868年1月11日号
上海からの報告は、日本で革命が起った旨を伝えている。タイクン[徳川慶喜]は辞職[大政奉還]したといわれ、この変革のひとつの結果として、外国人に対する新たな諸港の開港は、おそらく2、3ヶ月遅れるものと思われる。
1868年1月18日号
国内の内乱に関しては、現在のところ、帝国政府は今後ミカドのもとに、ダイミョウすなわち貴族層の協議機関をおくことによって運営されていくであろう、との話である。帝国の首都キアト[京都]には争乱が起っているとの噂がある。
1868年3月7日号
この国は明らかな混乱状態にある。内乱が生じたのは外国人に対して最近行われた数々の譲歩の結果であるが、この譲歩政策については、半独立的な領主たちが中央政府と意見が合わないのである。中央政府についていえば、「シャグーン」[将軍]が積極的でしかも目に見える首長であるのに対して、「ミカド」[天皇]は形式上の首長なのである。若いミカドはサツマ[薩摩]、チョイス[長州]及びソソ[土佐]という帝国の3大領主によって捕縛され、1月25日[慶応4年1月1日]付の報告書発信日現在では、捕虜としてなお彼らの手中にあるとのことであった。香港で2月12日[慶応4年1月19日]に受取った情報によれば、連合したダイミョウたちとショウグン・ストツバシ[一橋慶喜]との間の争いが継続中とのことである。・・・
1868年4月11日号
アレキサンドリアで受取った情報によれば、日本における内乱は終った。3人の有力なダイミョウ――すなわち、薩摩と、長州と、ゾザ[土佐]――がミカドのもとに政権を握った。
1868年5月2日号
先月7日[慶応4年3月15日]までの日本からの情報によれば、英国公使ハリー・パークス卿は、ミカドを訪問し、ミカドによって好意的に迎接を受けた。その帰路、パークスは一団の日本人に襲撃を受け[正しくは明治元年2月晦日襲撃を受け、3月3日初めて朝見]、付添の者数人が負傷した。襲撃者のうち3人が捕えられた。
1868年8月22日号
日本からのニュースによると、ストツバシはふたたび将軍職につくよう申出でを受けたが、その地位を拒んだという。彼は外務大臣になるだろうとも報じられている。
1868年9月19日号
日本はまたもや不安定な状勢にあり、大がかりな軍隊が北進しつつあるが、これまでのところ戦闘は起っていない。
1869年1月9日号
香港からの短い電報によると、日本ではミカドの権威が完全に確立された[明治元年9月8日改元]。彼は江戸に居を定めた。
1869年1月23日号
横浜発、先月16日[明治元年11月3日]付の横浜からの電報によれば、ハコダディ[函館]は7隻からなる反乱軍艦隊によって攻囲され、そして占拠された[明治元年10月、榎本武揚五稜郭に拠る]。イギリスおよびフランス軍艦が外国人社会を保護するためハコダディに進んだ。しかし、外国人社会はなんら撹乱されなかった。
1869年6月5日号
5月11日[明治2年3月30日]に日本から香港で受取った情報によれば、ハコダディを占拠した反乱軍をうつため、強力な海軍力がミカドの政府によって送られつつある。反乱軍はフランス士官たちの支援を得ているといわれている。・・・
1870年1月1日号
横浜からは12月2日[明治2年10月29日]までの情報がはいった。ミカドはタイクン[徳川慶喜]とアイジォ[会津]の領主[松平容保]に完全な恩赦を与えた。日本人の間に英国公使暗殺の陰謀があったが、未然に発覚し、挫折した。10月30日[明治2年9月26日]付の『ジャパン・ガゼット』紙によると、ミカドはオーストリア皇帝から派遣された使節に仁慈ある迎接を賜った。英国女王陛下の公使によって道はすでに固められているので、このオーストリアの特命全権公使男爵フォン・ペッツ提督は、その目的としてきた条約[日墺洪修好通商航海条約]の締結には、なんらの不都合もなかった。条約は18日[明治2年9月14日]に署名され、閣下は20日に江戸城に入ることを許され、随員とともに正式に陛下の迎接を受けた。  
日本に起った変化(本紙特派通信員より)
1873年11月8日号
いかなる国の歴史においても、日本に起った最近の革命に匹敵する変革を見出すのは困難であろう。最も急激な変革が行われ、驚くべき変容ぶりが今なお続いているのである。政府の明瞭な代表者であったタイクンは完全に排除され、ダイミョウたちの古い封建制度も一掃されてしまった。この国の軍事力を形成していたダイミョウ家臣団の代りに、今ではフランス式に訓練され、ミカドもしくはその政府に直属する陸軍がある。・・・・電信線が全国に拡張され、まだ1本だけだが、鉄道もすでに江戸横浜間に運転されており、もう1本の線は神戸大阪間でほぼ完成に近く、やがてはこれらも日本全土に拡張されることとなろう。
ヨーロッパの暦が採用され[明治5年12月3日が1873年1月1日なので、明治6年1月1日とした]、イギリス製の時計が鉄道の停車場にはどこにもかかっており、・・・・いかなる東洋の国も――そして、いかなる西洋の国も、と付け加えてもよかろうが――日本人が自国の主要な島をそう呼んでいるニフォンに、今起りつつあるような急激で完全な組織上の変化をとげたことはない。ミカドは今や政府の真の首長であり、しかも宗教的な神聖さのもとに包まれて見えないところにいる代わりに、彼は国民の前に現われ、政務を実際にとり行っているのである。みずから最初の鉄道の開業式に臨み、横浜商業会議所からの祝辞をたずさえた代表団に拝謁を賜った。・・・・
これらすべてのことは奇妙にも北京で起った事態と対照的であり、そのことは、・・・皇帝と西洋列強代表たちとの外交関係、およびひきつづき中国のどの地方へも電信と鉄道を導入することに反対している、という詳しい報せのなかで明らかにされる。どの港にせよ、日本の港を訪れる人の眼にとまる最初のことは、つい最近起って今もつづいている衣服の変化である。今までのところ、婦人たちは自分の昔からの絵画的な衣裳になんら変更を加えていないし、すべての人々がこの変化をなしとげるにはなお時間が経たなくてはなるまい。しかし、部分的にせよ全面的にせよ、変化をなしとげた人々の数も相当である。
大多数の人々はなお今までのところようやくにしてヨーロッパの服装のうち1、2の品々を採用したにすぎず、彼らは人目をひく、しかもときどきは笑い物になるような身なりをしている。フェルト製の広ぶち中折帽の需要が大きいが、この品の舶載はそんなに速くはできない。日本人はそれをかぶると、自分こそ新しい事態のなかではるかに進歩していると感じているかのようである。当地では頭に何かをかぶるという習慣はなかった。頭のてっぺんは剃られ、後頭部の髪の毛は小さな弁髪の形に結ばれ、なんらかの方法で糊づけしてとめてあるため、弁髪は頭のてっぺんで前方へ突き出ているのであった。
最初のさまざまの変化のうちのひとつは、髪を伸ばし、ヨーロッパ人のやり方に従ってこれを櫛ですき、ブラシをかけることであった。この点に達すると、日本人はいつでも帽子をかぶる準備ができるのである。広ぶち中折帽とグレンガリ型のふちなし帽とが優位を占めるスタイルである。インヴァネス・ケープ[スコットランド人のケープつき外套]がとてもお気に入りであるが、その理由は、袖がゆったりとして、広く、どこか彼らの昔の衣装に似たところがあるからである。
私は、昔の事態とこの新しい事態との対照を示すスケッチ(最初の画像)をお送りする。ひとりの人物は、ヨーロッパの影響を受けない、以前のままの服装を示している。その青い木綿でできたゆったりと体に合っている上衣は、その背面にある奇妙な形もしくは文字を染め出してあるが、昔の紋章をつけたものかとも思われる。彼の頭のてっぺんは剃られ、小さな弁髪の房は、真上に置いた小型の大砲のような外観を呈している。両足ははだしで、靴の代わりに藁のサンダルをはいている。この男をこの絵のなかの他の人々と比べてほしい。これらの人々はいずれも横浜でありのままをスケッチしたものである。グレンガリ帽をかぶった紳士は完全に姿を変えてしまったが、いかにも完全なので誰しも彼がヨーロッパ人だと思うであろう。彼のポケットにはアルバート型の時計鎖と時計がはいっているが、おそらくは横浜の政庁のどこかに属する官員なのであろう。もう一人の人物は広ぶち中折帽をかぶり、靴をはいているが、――これは上の端と下の端だけが変わったのに、その間は全部日本風なのである。ひとりのもっと年配の男がこの絵に見えているが、彼はインヴァネス・ケープを採用したのである。――今は冬であり、このケープは暖かい衣料品である。――しかし、彼はなお、昔風の髪型を保っている。一番右の端の人物は警官である。当地の警官隊は陸軍風の恰好をした小ざっぱりした黒い服装をしており、肩章はアメリカの模範に従っていることを暗示している。帽子は色は黒いが、明らかにインドのトピーを模倣したものである。
前にも述べたように、女の人々には今のところ変化が見られないが、しかし、日本社会のかなり上流階級に属する婦人たちについては、彼女たちがヨーロッパの婦人の衣装の秘密を問い合わせつつあるとの噂がある。日本の女たちの絵画的な服装がたどる運命については、ほとんど疑う余地がない。  
日本の茶屋の夜と朝
1873年11月15日号
日本は旅行のためのよい設備をそなえている。この点では、多くの東洋諸国とは異なっている。われわれの言葉の意味でのinn(旅館)は存在しないが、日本人なりのそういう場所は、「茶屋」(tea houses)と称するものによって、充分提供されている。こうした場所のひとつふたつは、大抵の村々に見出される。ある村々では、こうした場所は大きな建物である。すべてが極めて念入りなやり方で清潔さを保っており、しばしば日本式に設計された裏庭があり、そこには小型の岩や滝や湖や寺や盆栽の木が置かれている。ただヨーロッパ人旅行者は多少の食料品を用意して行かなくてはならないが、それは、日本の食糧がほとんどヨーロッパ人を満足させないからである。それに、いくらか飲める物と、敷布と、枕と毛布は、自分で持参しなくてはなるまい。
苦力もしくは運搬人は容易に雇えるから、われわれは、日本国内をいとも気楽に旅行することができるのである。これらの茶屋の部屋は、床にたいへん立派な柔らかい藁でできた畳があり、部屋の三方は紙製の、日本の風景を描いた横にすべる板[襖]でできている。夜になって家を締めるときには木製の横にすべる板でできた外側の防壁[雨戸]があり、これらには家を安全にするためかんぬきが使われる。朝になっても、これらの外側の板が外されるまで、光は部屋に入ることはできない。こうした場所のひとつで私がはじめて眠った夜のこと、私は、朝目がさめても、終夜灯が尽きてしまって、あたりは真っ暗であった。今何時だろうかと思ったが、あまりに快適だったため、何時か知るためマッチをするのがめんどうであった。
人々がそのあたりを動き出すのが私には聞こえたが、しばらくすると、私のところから2、3ヤード以内のところで、雷のような騒音がした。この騒音のとどろきはほんの一瞬間ほど続いてすぐにやんだが、しかしまもなく、2番目の突発音が続き、それは家が粉々にくだけるかのような響きであった。いったい何事が起り得たのだろうか。この大きな雷鳴の3番目の響きが起ると、何とかこの秘密を明かしてやろうという気を起させた。そこで私は、手を伸ばすと、横にすべる板を押しあけることができ、この雷鳴の主がすぐわかった。それはこの家の女たちの一人が、外側の板戸を開けて、昼間はこれをしまっておくために作られた隅の戸袋のところまで溝[敷居]に沿ってこれを押して行くだけのことであった。家全体が木と、そして、太鼓のようにきちんと枠に張られた紙とでてきているために、これらの外側の板を動かすという単純な動作なのに、あたかもギリシャ神話のジュピターが、みずから稲妻を発射しつつあるかのような音を生ずるのである。
私はあの恐ろしい騒音と、それを生み出した原因の単純さの対照を知ってよろこんだ。何か怖いものを見るのかと期待していたのに、私が見たのは、その日の仕事を始めようとしていた少女の絵画的な衣装だけなのであった。外には、古風な庭園があり、そこには奇妙に刈り込まれた小型の木々や、岩や、湖があり、晴れ渡った朝がほんの1、2分前までひたっていた暗闇と対照をなしてあらわれたのである。少女は、私が外を見ているのを見ると、おきまりの「オハイヨウ」[おはよう]という挨拶をし、まもなくイタリアのカルデロのような皿に炭火を入れて――日本の冬の朝は寒いので――、また竹の取っ手のついた古風な土びんに茶を入れて、運んできた。起きて、着替えをする前に茶を啜ることは、気持ちの良いものであった。
前夜私は、灯火をもってきた少女の印象がたいへん強かったので、彼女を私のスケッチブックの主題としてとりあげておいた。暗くなるとすぐ、このたいへん奇妙な形のランプもしくは角灯が部屋に運びこまれる。角灯はどこの茶屋でも同じものであり、木の台と枠、そして、炎をすき間風から守るためそのまわりに貼った紙とでできている。炎は、原始時代の素焼きのびんのような小さな真鍮の器に油と灯心を入れたものによって起される。このランプの大きな紙の表面は、点火されると、部屋のまわりにかなりの量の光を投げかけるが、その光は物を書いたり読んだりするのには充分とは思われなかった。そのため、夜なにかしたいと思うなら、やはりろうそくをもっていく必要がある。  
横浜から見た西南戦争
1877年4月14日号
日本は火山国であるため、しばしばこの地に爆発が起ることは、極めて自然のことである。実際、昨年10月ヒオゴ[肥後]の国の熊本の守備隊が真夜中に襲撃を受け、多数の将兵が“古い日本”の狂信家たちによって虐殺されて以来、農民の暴動や反乱がこの国のほとんど至るところで起っている。しかしこうした行動も、帝国政府によって、個々に鎮圧されてきた。これらの暴動のあいだ強力な薩摩藩は完全に静謐を保ち、ひところは全日本を内乱にまきこむ恐れのあったチョーシン[長州萩]における前原[一誠]の反乱のあいだすら、そうであった。
農民を鎮めるために減税が行われ、日本国中すべてが静謐に帰するかと思われた。それでも、ときおりは薩摩がかなり動揺しているとの噂が江戸に達した。ひところは、西郷[隆盛]が、不愉快に思っている大臣たちの解任を求める建白書を提出するため、17個大隊の兵の先頭に立って首都に向かって進軍中である、との報せもあった。しかし、これらの噂は否定され、ミカドが今月五日に鉄道開業式に臨むため京都へ赴いたころは、すべてが円滑に運んでいるかのように思われた。しかしこの式典すらも、とても満足には行われなかった。というのは、1隻の政府の汽船が鹿児島(薩摩の首府)から火薬を持ち去ろうとしたところ、その国から火薬を持ち去らせるのを拒んだ武装したサムライ[士族]たちによって追い払われた、とのニュースがこの地に伝わったからである。これが、実に紛争の発端であった。
薩摩にいた男子生徒やサムライや軍隊は、武器をとって隣国ヒオゴ[肥後]に侵入したのである。ミカドとその顧問官たちは、かねてから和解策をとることを願っていたが、しかし、反乱者たちがこのような振舞をしている旨の電報を受け取ると、彼らは、やむを得ず、戦争を布告した。そこでミカドはアリスガワ・ノ・ミヤ[有栖川宮熾仁親王]を総司令官に任命して、できるだけ速やかに反乱を鎮圧するための全権を与えた。
それ以来、政府は現地民の新聞によるいかなるニュースの刊行をも禁止した。しかし、戦われていた戦闘の噂はしきりに横浜に届いた。薩摩の人々は、1868[明治元]年の革命以来、日本の甘やかされた子供たちであった。しかし彼らは明らかにimperium in imperio(帝国内の帝国)を保つことを望んでいるのだが、それは、黙許さるべからざる事柄である。帝国政府は今、彼らに対抗して大きな陸軍軍隊を送りこみつつある。何千という軍隊がすでに(日本の)三菱会社所属の郵便船で送られたが、これらの郵便船はしばらく以前に(アメリカの)パシフィック・メイル汽船会社から購入されたものである。これらの軍隊は堂々たるものに見える。彼らは短いスナイダー銃[アメリカ製の後装銃]で武装し、服装も立派だが栄養も充分である。兵士はおのおの予備の靴と、赤、青、緑または紫の毛布1枚を背嚢に結びつけている。この2週間の間というものは、横浜は彼等がいたため活気づいている。彼らは江戸から列車でやってきて、当地で汽船に乗りこんでいる。昨日は200人の兵士と300人の警官が南へ向かった。警官たちは、顔つきの立派な連中で、六尺棒で武装しているだけだが、これは、目的地についたときライフル銃や連発拳銃と取り替えることとなろう。
西郷将軍がこの反乱になんらかの形で加わっていることを、日本の公式文書は否定している。しかしこの文書が書かれている言葉遣いや、反乱が進行している地方に西郷将軍が下野している事実にてらして、こうした否定をすること自体が、どちらかというと、彼がこの反乱を促進しつつあるとの報道を確認するのに役立つのだ。
先月21日付のサンフランシスコからの電報がはいっているが、それによると、鹿児島は、激烈な戦闘の後に帝国軍隊によって攻略されたとのことである。この地は、今からほぼ14年以前に英国財産に加えられた危害に対して薩摩の領主を懲罰するため、一英国艦隊ないし軍艦によって砲撃されたことが思い起される。
1877年4月21日号
日本公使館で受け取った火曜日[4月17日]付の日本からの至急報によれば、反乱軍は敗北して、ヒオンガ[日向]方面へ逃走したとのことである。日本の司令部は熊本に移され、暴動はほとんど集結したと見られる。
1877年7月7日号
官辺筋から得た電報によれば、反乱軍は追い散らされて、その一部は豊後の国へ追い込まれた。同じ電報によれば、平和はほとんど回復されているとのことである。  
日清戦争
1894年7月21日号
アジアの極東では、ときおり、仲介的な地理的位置を占める一国が無政府状態に陥って、自分で防衛できなくなったような場合に、ヨーロッパの場合と同様、敵視しあう諸帝国のもつ猜疑心のために、混乱が起る。中国と日本とは、朝鮮をいかにあつかうべきか、自他いずれの国もこの国を放任しておくべきかという問題をめぐって、まったく意見を異にしているが、さらに北方には第三国、すなわちロシアがいて、どんな政策をとるつもりか、その意図はまったくわからない。・・・・
1894年9月1日号
日本における最近の政府の発表によれば、朝鮮国王は6月30日中国からの独立を宣言し、ついで日本軍に中国の分遣隊をアサン[牙山]から駆逐するのを援助してほしい、と呼びかけたとのことである。中国側の報告によれば、最近日本軍が京城北西の平壌付近で中国軍に敗れたという。8月18日、日本の軍用輸送船団は、軍艦の護衛のもとに、大同江河口の平壌の入江に到着したらしい。・・・軍は大同江流域を通って平壌に向け出発したが、突然1000騎の中国軍騎兵隊の攻撃を受け、縦隊を2つに分断された。高地に程よく配置されていた中国軍砲兵隊は、日本軍に対し砲火を開き、日本軍は完全な混乱に陥り、自国の軍艦の砲火の保護圏内の海岸へ逃亡した。日本人ガ平壌南方中和へ後退した事実については、上記の報告では言及されていないが、中和は中国軍によって占領されているらしい。・・・
大連湾の占拠
1895年1月5日号
この事件はこのような偉業にふさわしい1894年11月5日に起った。大連湾は3000人の歩兵と180人の騎兵に護られていたが、中国軍の行動はまことに臆病で、ポート・アーサー[旅順]に向けて羊のように逃走した。日本軍は陸地側から大連湾を攻撃したが、死傷者はわずかに10人であった。それ故、大山[巌]元帥[当時は大将]は完全なしかも容易な勝利を博したが、防衛工事が大規模にできていただけに、この勝利には元帥自身も驚いていた。彼の陸軍の第1師団は金州を攻略し、大連湾は第2師団の手中に落ちたのである。
威海衛攻撃
1895年4月6日号
日本軍は、全艦隊の護送と保護のもとに50隻以上の輸送船で、1月中旬ロッキー湾[栄城湾]に3万の兵力をもつ第3軍を上陸させ、大山元帥の指揮下に(50マイル先の)威海衛へと進撃した。1週間経過してのち、艦隊は夜間抜錨して、早朝になると東側の堡塁群と交戦しながら町のほうへ近づいた。日本軍は急速に占領したが、占領したときは中国軍隊は全員逃亡していた。水兵たちが特に大砲を操縦するため上陸させられ、たちまちこれらの大砲を前面の敵と敵艦隊のほうへ向けたため、日本軍は山脈を通って、この強力に要塞化された場所に通ずる主要道路のほうへ自由にまわって、これを占拠することができた。旧式の艦船と砲艦は東の入口を横切って汽走し、島々の堡塁と中国艦隊に向って砲撃を加えたが、中国艦隊はこれに応戦して目標や距離を固定したまま砲火を放ったらしい。・・・2月5、6両日の夜には水雷艇が来遠・威遠・定遠の三大艦船、および小型の文書送達船1隻を沈没させるのに成功した。2月7日の午前には全艦隊が両入口砲撃し、2時間にわたってかなりの激戦が展開された。・・・・両側にいた艦隊は、伊東提督の指揮下に、まったく明らかに手出しをせずにいた。海軟風はこの煙を陸においやった。中国人砲手たちが自分たちの射程距離のかなり適切なことを知っていたことは明らかであるが、それは、艦船中には、危機一髪というのも何隻かあったからである。
しだいに砲撃は緩慢になり、艦隊も撤退したが、中国艦船はなおすでに日本軍の手中にある堡塁を砲撃しつづけた。このおそろしい攻撃のあと、中国の水雷艇隊は逃亡を図った。7隻は捕獲されてThree―Peaked Point[百尺崖東端か]の内側[陰山口]の日本軍の集合地に連行された。2隻は船足の早い巡洋艦に追われて芝罘まで逃げたが、ここで岸にのりあげ、その乗組員はいずこともなく逃亡した。日本艦隊にも若干の損害が生じた。すなわち、旗艦が煙突をへこまされたほか、浪速艦は後部甲板を爆破されて相当の損害を受け、他の1隻は一撃の砲弾が貫通して数人の水兵を殺害し、死者は岸辺で火葬に付されたのである。  
日英同盟成る
1895年4月13日号
下関で開かれている講和交渉が、近日中には、昨年7月以来中国と日本の間で猛威をふるってきた戦争の決定的な終結をもたらすことになるよう、また、両国陸海連合軍の間の3昼夜にわたる激戦ののち、2月7日に起った威海衛攻略こそ歴史的事件として記憶されるに至るであろう、と期待されている。威海衛の位置は渤海湾南岸に当たり、中国本土北部の遼東半島の末端にあるポート・アーサー[旅順]のほぼ反対側ほ占めるが、その位置は、日本軍の企図する海路陸路からする天津・北京への敵対的前進という観点から見るとき、ここを征服することを非常に重要ならしめているのである。この進軍はもし戦争がもう2、3ヵ月延びたら、きっと企図されたであろう。伊東提督と大山将軍が威海衛で行った作戦方法は、戦術に関する教授鎌アマチュア諸君によってくりかえしくりかえし検討されることになろうが、今週号にわれわれが掲載しているような正確で信頼すべきスケッチは、いずれも今後この問題について出る叙述や論評に関連して貴重なものであることが知られるかも知れない。
戦後の東アジア
1898年3月12日号
中国の揚子江とその他の内陸河川のヨーロッパ貿易への開港とビルマ鉄道の延長を考慮してイギリス大使C・マクドナルド卿が交渉に当たっていた中国の香港上海銀行からの借款契約は、2月1日北京で調印された、しかしロシアの影響力が強くてこの利益の多い取引がだめになりそうでもある。ロシア側としては、ポート・アーサーおよび大連湾ならびに満洲鉄道の永久租借権を要求している一方で、東部シベリアにおけるロシア陸軍の増大を大々的に意図している。他方、ドイツは山東地方の無限の占領権を要求するらしく、フランスは中国南部での、かねて欲しがっていた便益を要求するかも知れない。日本は、海軍が戦闘的態度をとっている。貿易と財政はこのところかなり混乱に陥っている。
日英協約
1902年2月15日号
最近英国外務省から出版されたブルー・ブック(議会提出用報告書)には、中国・朝鮮をめぐるイギリス・日本両国政府間に成立した重要な一協定の本文が載せてある。本条約締結の動機は、本文自身が明らかにしているとおり、「極東における現状と全局の平和を維持したいという希望」にある。このことは主として「清帝国と韓帝国の自主独立と領土保全」を是認し、かつこれらの国におけるすべての国の通商・産業の機会均等を確保するという大英帝国と日本との間の約定によって実現されるべきものである。この協定はその調印即日、すなわち去る[明治35年]1月30日に施行され、有効期限は5年間であって、その期限を過ぎた後は、1年前にいずれの側からなり契約解除を通告することによって終結されるはずである。
この重要でかつ平和的な文書は――その立案は公式発表の時まで秘密を完全に保ったが――イギリス側ではランスダウン侯爵の、また日本側では天皇の特命全権公使林[薫]侯爵により署名された。この協定のある一節を読んで、わが国民は特別の満足感を抱き、国内国外にある外交官中最も皮肉っぽい人々も――わが国の立場がわれわれの言葉を立証しているので――完全な確信を抱いた。すなわち「両締約当事国は相互に清国および韓国の自主独立を承認したので、これらのいずれの国においてもいかなる侵略的趨向によっても完全に影響を受けないことを相互に声明する」という箇条である。それでもなお締盟国の一国がもしこの協定の条件のもとで戦争状態に立ち入るならば、断固たる手段がとられるものと考えられる。その場合、締盟国の他方の側は中立を維持しなくてはならず、しかも他の諸国が中立を保持するよう影響力を行使しなくてはならない。もしその手段が成功を見ないなら、そしてもし締盟国以外の1国でも参戦するようなことになったら、その時は締盟国の他の側は援助を与えることとなっている。
こうした状況のもとでは、日本の海軍力のことを思い出すだけの価値がある。ほぼ10年前、吉野艦がエルスウィックで建造されたとき、全世界は瞠目したが、しかし同艦はごく最近三笠艦の次位に置かれるに至った。三笠艦は最大の就役軍艦であり、・・・もし必要が生ずれば、われわれ自身と共に戦列に加わって戦うものと期待されうると考えるなら、幾分の慰めとなるのである。  
 
富士山と琵琶湖についての言い伝え

 

1
大学生向けのある講読用のテクストは、葛飾北斎の『富嶽百景』のうちの「孝霊五年 不二峯出現」と題された一枚を図版として掲げて、以下のような説明を加えている─
「言い伝えによると、富士山と琵琶湖は同時に形作られたということである。孝霊天皇の五年目(紀元前286 年)に、湖から掘り出された土が富士山の盛り上がりを作り出すために使われたと言われている。」
この伝説は日本を訪れた欧米人には興味深い話だったようである。江戸時代に長崎から江戸まで旅をしたドイツ人、エンゲルベルト・ケンペルは、「世界中で非常に高く美しい山、富士山」「円錐形で左右の形が等しく、堂々としていて、草や木は全く生えていないが、世界中でいちばん美しい山」を称えつつ、こう記している。
「[大津の]町は淡水湖の岸辺にあり、固有の名がなく、ただ「大津の湖」と呼ばれている。
この湖水は地震で土地が陥没し水が溜ってできたといわれ、また…富士山はそれと同時に高くなったともいう。」
また、同じ行程をとったスウェーデン人のカール・ペーテル・ツュンベリーの旅行記には以下の記述がある─
「大津は同名の湖[琵琶湖]のほとりにある。湖は非常に細長く、その長さは日本の四○里もある。古い伝記には、この湖は地震によってわずか一夜にしてできたと伝えられ、その地震下に全地域が沈んだと書かれている。」
時代を下って、この言い伝えへの関心を幕末から明治時代までの主として紀行ものに探ってみると、かなりたくさんの記述を見出すことができる。以下の例はもちろん網羅的なものではなく、恣意的な収集によるものである。出版年順に並べてみよう。(引用冒頭に出版年と必要に応じて著者の国籍を記す。)
○[ 1863 ; イギリス人]伝説によれば、[富士の]山自体は一夜のうちに大地の内部から姿を現わして、それと同じ面積の湖[琵琶湖をさす]が同じ時刻に京都の近くに現われたとのことだ。
○[ 1869]伝説によれば、この有名な山[富士山]は、ナポリ湾のモンテ・ヌオーヴォのように、一夜の噴火によって地球の胎内から生まれ出たのだそうで、その反動として京都付近の地に大きな陥没が起き、一つの湖が生まれたとのことである。
○[ 1869-70 ; デンマーク人]富士山は休火山で、この前の噴火は一七○七年だった。語り伝えによれば、この山は一晩にして地上にせり上がり、同時に、その底辺部と同面積の湖が京都の近くにでき上がったということだ。
○[ 1881 ; イギリス人]言い伝えによると、この湖[琵琶湖]は紀元前286 年に地震によって生れ、その一
方で富士が時を同じくして駿河の平野から現れてそびえたということである。日本の古い言い伝えによると、1652 年 p l a c eに書かれた本以前の典拠はないのだが、富士は一夜にして現れてそびえ立ち、その一方でそれと同時に京都の近くの琵琶湖が出来たということである。
○[ 1890 ; イギリス人]日本の語り伝えによれば─しかし、このことは西暦一六五二年[承応元年]以前には書かれた記録はない─富士山は西暦前三○○年ごろ、一晩のうちに地面から隆起し、同時に京都の近くの琵琶湖が沈んだという。これは初期の噴火の結果として、一四○マイルも離れた琵琶湖ではなくて、山の麓に散在する多くの小さな湖ができたことを附会して言ったものではないだろうか。 …北斎の傑作画集は『富嶽百景』で、彼が七六歳になったときの作品である。その本には、この壮大な山の、あらゆる場所から、あらゆる場合における姿が描かれている。
○[ 1891 ; アメリカ人]富士ヤマは伝説に包まれ、巡礼たちは躊躇なく信じます。聖なる山は二○○○年前、わずか一晩で生まれ地上にそびえ立ちました。そのとき、西方に大きな窪地が出現し、すぐ水でいっぱいになったのが琵琶湖です。  
○[ 1897]日本の伝説によれば、紀元前三○○年に、ここ[御殿場]から二二○キロあまり離れた京都近くの琵琶湖が出現した夜と時を同じくして、富士山が忽然として大地の中から盛り上ってきた。この名前は日本語ではなく、アイヌ系言語から派生したことはたしかだ。日本の東北地方でも、多くの場所、山河がアイヌ系言語の古い名前をもっていることからしても、おそらく富士は日本の先住民であるアイヌが崇拝している火の女神フチから変形したものであろう。
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲は明治31 年に出版したエセイ集の中で、この言い伝えがよく知られているという旨を述べている。 
○[ 1898]富士にまつわる神話や伝説は少なくない。一夜にして地面が盛り上って山ができた話、小さな穴のある宝珠が降り注いだ話、…これらは、しかし、どれももう書物に書かれている。富士について私に書けることと言えば、富士登山の体験談以外、ほとんど残されていないのである。
この一節にある富士登山もこの時期に訪日した欧米人に人気があった。しかしここでは詳しくは扱わず、注記にとどめる。
○ [1906]午後に琵琶湖に着いたが、それは「リュート(ギターに似た十七世紀の弦楽器)の湖」という名前の美しい湖であった。この湖は伝説によれば、自然界の大変動によって富士山が百五十マイル先に隆起した時、同時にできたものだということである。
○[ 1910]伝説によれば、富士は一夜にして平野から隆起したのであって、それと同時に百五十マイル離れた土地で大きな陥没があり、そこに水が溜まったのが今の琵琶湖だということである。
この伝説に対する欧米人の関心を17 世紀末から20 世紀初めまで辿ってみた。最後の例に
加えてもう一つだけ注で例を見るが、あとは語るに任せて、先を急ごう。
2
以上のように、細部に少しずつ違いがあるにせよ、類似した記述が繰り返されるには、相互の影響に加えて、元になるものがあるはずだ。まず最初に、補注(3)で見るように、この伝承への言及としてたびたび取り上げられる二つの文献を改めて見てみよう。先に引用したケンペルのいわゆる『日本誌』とツュンベリーの旅行記は江戸時代に刊行されている。それに先立って浅井了意が『東海道名所記』(1661 年ごろ刊)を著しており、その中に以下の一節が見える─
「諺に、むかし、富士権現、近江の地をほりて、富士山をつくりたまひしに、一夜のうちに、つき給ヘり、夜すでにあけゝれば、簣かたかたを。爰にすて給ふ。これ三上山なりといふ。さもこそあるらめ
いにしへ、孝霊天皇の御時に、此あふミの水うみ、一夜のうちに出きて、その夜に、富士山わき出たり。その時しも。三上山も出来にけり。一夜の内に山の出き。淵の出き、又ハ山のうつりて、余所にゆく事、物しれる人ゝは、ふかき道理のある事也。故なきにハあらずと、申されし。」
引用の後半部に確かに富士山と琵琶湖が孝霊天皇の時代に時を同じくして出現したという記述がある。
もう一つの江戸時代の文献、『和漢三才図会』(1712)からこの言い伝えを記した箇所を引いてみよう。
「富士山[は]…伝えによれば、孝霊帝五年に始めて出現した。そもそも一夜のうちに地がさけて大湖ができたが、これが江州の琵琶湖で、その土が大山となったのが駿州の富士である[国史などにはこの事は載っていない。疑いがないでもない]。一年中雪があり、絶頂には烟がある。江州の三上山は簣からこぼれて出来たものなので、形はほぼ富士に似ている、という。」
『名所記』からの引用に出てくる「三上山」(別称、近江富士、むかで山)ができた由来はこの記述から分る。しかし、訪日欧米人の旅行記に、地震による土地の陥没、噴火と土地の陥没などの文言が見られるのは、ほかの典拠があってのことであろう。
ところで、富士山─琵琶湖伝説の出てくる、最も古い文献として挙げられてきたのは、補注の(3)に引用したいくつかの例に見られるように、北畠親房が著した『職原抄』(1340)である。はたしてこの有職故実書に伝説への言及はあるのか。書物の性質上、この言い伝えを探し出すのは無理かとも思われるが、その引用がある以上、どこかにその元となるものがあるはずだ。差し当り、「職原抄─古典籍総合データベース─早稲田大学」のサイトが便利そうだ。結論から言えば、『職原抄』そのものはこの言い伝えを取り上げていないようである。言及が見つかったのは、次の四件である─
(1) 職原抄引事大全.巻首、1-9/植木悦 集註 / 出版書写事項: 万治2[1659]山口市郎兵衛、東洞院通六角下ル町(京都)
(2) 職原抄引事大全.巻首、1-9/植木悦 集註 / 出版書写事項: 万治2[1659]吉田庄左衛門、[京都]
(3) 職原鈔.上、下、補遺、後附/北畠親房 [原著];[藤原惺窩][注] / 出版書写事項: 寛文2[1662][出版者不明]、[出版地不明]
(4) 増註職原鈔.巻1-5/北畠親房 述; 於雲子 改正 / 出版書写事項: 宝永元[ 1704] 跋[ 出版者不明]、[出版地不明]
これらの注釈書は記述の詳細に違いがあるとはいえ、内容はほぼ同じである。つまり、スルガの様々な漢字表記の仕方に始まって、ヤマトタケルノミコトが賊徒から難を逃れた話に続いて、以下の記述で締めくくられる。
(1)(2) 駿河上…○孝霊帝五年近江湖水始湛ヘテ冨士山始涌出ス
(3) 駿河 …○孝霊帝五年六月近江ノ湖水始テ湛テ而駿河ノ富士山始テ涌出ス
(4) ㋑ 駿河 …○孝靈帝五年六月近江ノ湖水始テ湛テ而駿河ノ富士山始テ涌キ出ス 
    (「㋑駿河上 ㋺伊豆下…」への注記)
もう一つ、今度は写本であるが、「京都大学附属図書館蔵 谷村文庫『職原抄』」に以下の記載が見られる。
「人王六代孝安(ママ)天皇四十四季メニ駿河之冨士山涌出ス也…近江…之湖水ハ人王七代孝㚑天皇五年之亥[?]ニ始湛ヘタリ(前半部は「東海道…駿河上」に、後半部は「東山道…近江大」に付けられた同じページの上部欄外注)」
この写本はかなり早い時期に成ったもののようだ。というのは末尾近くに書写を終えた─「冩シ畢[おわん]ヌ」─年として二つの年号が並んでいるからだ─「職原抄下終 正平二季[?]十二月一日…正平五年甲申五月上旬…」。西暦ではそれぞれ1347 年と1350 年である。
いずれにしても、富士山─琵琶湖伝説の出所は、官職の沿革を扱った『職原抄』本体ではなく、以上で見た注釈書の類に見出されるようだ。
3
日本文学に現れた富士山を古代から近代まで丹念に辿った久保田淳『富士山の文学』は、第三章、第二節で『東海道名所記』を取り上げて、こう述べている─「この作品での富士山のくだりは詳しい。…孝霊天皇の五年(西暦紀元前二八六年)に琵琶湖が出来、その土がここに盛り上って富士山となったので、富士禅定(修行として富士登山すること)する者は精進潔斎して登るのだが、…」。 また、この著書を読み進めてゆくと、さらに興味深い指摘に出会う。与謝蕪村の句を引いて、鋭い分析を行う。 
湖へ富士をもどすやさつき雨
「「仮名草子」の項でも言及したように、孝霊天皇五年に近江国の大地が裂けて琵琶湖が出来、同時に富士山が出現したという伝説がある。その伝承を踏まえて、このように長梅雨が続くと富士山は出現以前のように琵琶湖に戻ってしまうのではないかと仮想した。現代の我々には突飛としか言いようのない想像である。安永二年(一七七三)六月の作であるという。」
一方、同じ句に関して高浜虚子は蕪村の見事な腕前に賛辞を呈している。
「この句は主観的の句である。五月雨が或時は烈しい勢で降り、又連日小止みもなく降つてゐるのに対し、山の土を海へおし流すであらうといふだけでは普通の主観だが、蕪村は孝霊天皇五年近江国地圻[ママ]湖水湛而富士山出とある口碑を捕へて来て、降り続く五月雨の為め、其富士山の土を皆おし流して、もとの琵琶湖へ戻してしまうぞといつたのである。理屈も交つてゐる句だが、湖とか富士とか大きなものを捕へて来て、大胆にいひこなした所に、天晴蕪村の技倆が見える。」
ところで、富士山の世界遺産登録にちなんで様々な書籍類が出ているが、「“富士山ブーム、、に乗り遅れない」ようにと、登録を間近に控えた時期に出版された本には以下の記述がある。これは先に引用した『和漢三才図会』とともに『東海道名所記』からの引用部の補足となるだろう。
「富士山成立に関する伝説「日本一の山と湖」ではつぎのとおり。その昔、日本の神々が集まって、日本一高い山と日本一大きい湖をつくることにした。
神々は日本一高い山をつくる場所を駿河国、制限時間を1 日と決め、力自慢の神々が近江国から掘った土をもっこ(土石運搬に用いる道具)に入れて駿河国に運んだ。その土を盛って山をつくろうというのだ。
夕方からはじまった山づくりの作業は、明け方近くになって、あとひともっこで山ができ上がるところまできた。しかし、最後のひともっこを時間内に積み上げられなかった。そのため、富士山の山頂は尖った形でなく平らになってしまった。
いっぽう、近江国の土を掘った跡地には日本一大きな琵琶湖ができた。積み上げられなかった最後の一杯の土は、琵琶湖近くにこぼれて近江富士となった。」
以上、今の時代まで語り継がれて伝わる富士山と琵琶湖にまつわる伝説を見てきた。どうやら、話は出発点に戻ったようである。
 補注
(1)  このハンドブックの初版(1881)と第2 版(1884)は、サトウとホーズの共著である。
(第2 版は庄田元男によって邦訳されている─『明治日本旅行案内』全3 巻[平凡社、1996]。)第2 版では出版社に“London : John Murray” が加わり、“ROUTE 3. THE TO¯ -KAI-DO¯ FROM TO¯ KIO¯ TO KIO¯ TO.” 中のこの伝説の記述には変更はないが(p.80)、“ROUTE 7. Fuji and Neighbourhood.” については序文で「…「富士と近郊」の記述は、ほとんど全面的に書き改め、多くの増補を行った。」と述べている。その改訂はこの言い伝えの箇所にも及んでいる。
「日本の古い言い伝えによると、しかし1652年にこの国の人が書いたもの以前の記録はないのだが、[初版と同じゆえ、省略]。この出来事が起きたとする年代は、紀元前301 年とする書き手もいれば、紀元前286 年とする者もいるが、話全体が明らかに伝説上のものなので、それとの関連で年代について述べることはほとんど価値がない。」
(2)  梶山沙織「幕末の外国人富士登山と大宮・村山口」には、1860 年に初代英国公使、オールコック、1866 年にスイス総領事、ブレンワルトとアメリカ公使館書記官、ポートマン、1867 年にオランダ総領事、ポルスブルックと英国公使のパークスと夫人が登頂したとある。外国人が珍しかった当時、大勢の見物人が集まったり、登山口に当る地域などが宿泊所や食事などの準備といった負担を強いられたとの記述がある(小沢健志・高橋則英 監修『レンズが撮らえた幕末明治の富士山』[山川出版社 ])。
もちろん、日本人による富士登山・登頂も古くから行われていた。聖徳太子(574-622)が黒駒にまたがって富士山を飛び越える話や、修験道の祖とされる役行者(7 世紀の終りころ)が流刑先の伊豆から抜け出て夜になると富士山に登っていたという言い伝えは別として、12 世紀に末代上人が何度となく富士登山を繰り返したという記録があり、18 世紀からは富士講という信仰集団によって大衆登山とでも言うべきものが盛んに行われた(主に、上垣外憲一『富士山─聖と美の山』[中公新書])。
また、多くの読者を獲得してきた山岳随筆の中で、深田久弥は富士登山史とこの山への人々の登山願望に触れている。他の名山については自らの登頂体験に伴う細やかな観察や感懐を記しているのだが、こと富士山に限っては自身の登頂に関する記述はなく、この山に対しては愛憎相半ばする感情が交錯しているようである。それはさておき、よく引かれる冒頭に近い箇所を、長さをいとわず、改めて引用する─
「 …山岳史家マルセル・クルツの書いた『世界登頂年代記』を見ると、富士山は六三三年に役ノ小角に登頂され、そしてそんな高い山へ登ったのは、これが世界最初となっている。小角の登山は伝説的であるが、しかし平安朝に出た都良香[834-879]の『富士山記』には頂上の噴火口の模様が書いてあるから、もうその頃には誰かが登っていたに違いない。一番早く富士山が人間の到達した最高峰の記録を樹てたわけである。しかもこの記録はその後長い間保持され、一五二三年[メキシコの]ポポカテぺテル(五四五二米)の登頂まで続いた。約八、九百年もレコードを保っていたことになる。一夏に数万の登山者のあることも世界一だろう。老いも若きも、男も女も、あらゆる階級、あらゆる職業の人々が、「一度は富士登山を」と志す。これほど民衆的な山も稀である。(『日本百名山』[新潮文庫])」
さて、本題に戻って、以下、目についた限りでの外国人の富士登山・登頂の記載を羅列する─
「駐日英国大使(ママ)オールコック卿は、一八六○年九月の初めに富士登頂を成し遂げた。」(スエンソン、前掲書)
「昔は、女性は八合目から上へは登ることを許されなかった。パークス夫人が、この山頂に登った最初の女性であった。それは一八六七年[慶応三年]一○月のことであった。」(チェンバレン『事物誌』)
フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンは二度目の来日時の1870 年9 月13日に山頂に達したことを日記に書き残している。(初来日の1860 年当時は、外国人の移動範囲は厳しく制限されていた。)彼も御多分に洩れず、悪天候に悩まされた─「天候がどんどん悪くなった…。頂上に一○分いたところで急に雨と霰が降り出した。それは火口の周辺に留まることを不可能にした。私は下山しなければならなかった。」(上村直己 訳『リヒトホーフェン日本滞在記 ドイツ人地理学者の観た幕末明治』[九州大学出版会 ])
著名な外交官にしてジャパノロジスト、アーネスト・サトウは、1877 年7 月と1882 年9 月の二度にわたり富士山頂に登った(庄田元男 訳『日本旅行日記』2[ 平凡社東洋文庫 ])。
オーストリア=ハンガリー帝国の軍人、グスタフ・クライトナーは1878 年の富士山登頂の体験を、また、1887 年から二年間、明治天皇の宮中に勤務したオットマール・フォン・モールも、富士登山の体験を記録に残している(G. クライトナー 小谷裕幸・森田明 訳『東洋紀行』[平凡社東洋文庫 ]; モール 金森誠也 訳『ドイツ貴族の明治宮廷記』[講談社学術文庫])。
さらに、シドモアは自らの富士登山体験を前掲書の「第一七章 富士登山」と「第一八章 富士下山」で詳述している。
アドルフ・フィッシャーは七合目の山小屋まで行って悪天候のため「失敗に終わった富士登山」を経験した(前掲書)。
ポンティングの前掲書の「第七章 富士登山」は、念願が叶った喜びを伝えている。
(3)  『群書類従 』に収められた「本朝皇胤紹運録」は、天皇・皇族の系図を記しており、元は洞院満季が1426 年に編んだものである。そこには「第七[代]孝靈天皇…天皇五年近江國湖水湛始」とある。(塙保己一 編纂『群書類従』第五輯[続群書類従完成会 ]─神代から昭和天皇までの系譜が取り扱われている;「国立国会図書館デジタルコレクション」─[ この写本は「第九十五[代]後醍醐院」(在位1318-1339)まで扱っている]; 「早稲田古典籍」─[ こちらは「第百八[代]後陽成院」(在位1586−1611)まで])
いずれも室町時代の国語辞書である『下学集』(1444 年成立)と『運歩色葉集』(1548年なる)における該当箇所はそれぞれ次の通り─
冨士山 人王㐧七代孝霊帝ノ時一夜ニ從地[地より]涌出ス
富士山 人皇㐧七代孝㚑帝善記三年甲辰三月十五日一夜ニ自地[地より]涌出[ス]
(京キ大學文學部國語學國文學硏究室編『元龜二年 京大本 運歩色葉集』[臨川書店])
『 色葉集』の記述は引用部以外にも『下学集』のそれよりやや詳しいが、前者の出典の一つが後者であるという指摘については、『京大本』に付された「解題」参照のこと。
『東海道名所記』の校注者が述べているように、『下学集』と『色葉集』のどちらも富士山湧出を述べるのみで、琵琶湖への言及は見当らない。富士山の出現を扱った文献は、物集高見・物集高量が編集した百科事典の中で取り上げられている。主に「富士山の現出」の項を参照(『廣文庫』第十七册[名著普及会 ])。例えば、江戸時代後期の国語辞書『倭訓栞』には富士山が「孝靈天皇の時より涌出せりといふハ信ずるにたらず」とある。数多く抜粋された文献のうちで最も古いと思われるものは、北畠親房が著した有職故実書『職原鈔』(1340)である。以下に引用する─
富士山の現出 職原鈔、下ノ二三○ (孝靈帝五年六月、近江湖水始湛、而駿河富士山始涌出、)
『名所記』の伝説の元を『職原抄』などに辿っている。─『職原抄』、『和漢三才図会』、『東海道名所記』におけるこの言い伝えへの言及を引用している─
ところで、『職原抄』を「律令下の官職の解説書、有職故実書」と述べる『和歌職原鈔』の校注者は、「解説」で江戸時代に出た版本の比較考証を行った後、以下のように言っている。
「以上の版本『職原抄』本文が、いずれも江戸初期刊の古活字版に由来するのに対して、『群書類従』所収の『職原抄』は、系統を異にする本に拠る。それは、前掲『塩尻』が「好シ」とした正平二年十二月一日源顕統の識語「正平二年十二月一日書写之幷写点畢 権左中弁兼左近衛少将源顕統」を有する、いわゆる顕統本であった。したがって、類従本は慶長十三年版古活字版以来、版本に必ず付載されていた「補遺」、「追加」および下巻の末尾の「親王」以下を持たない。細部はともかく、版本『職原抄』中、『職原抄』の古態を示す唯一のテキストである。(今西祐一郎 校注『和歌職原鈔─付・版本 職原抄』[平凡社東洋文庫 ])」
『塩尻』は天野信景(1663-1733)の著作(同上書)。「正平二年十二月一日…源顕統」は、谷村文庫の写本でも同様であり、その一部については言及済みである。
『類従』に当ってみると、
東海道○十五ヶ國。 伊賀○下。 伊勢○大。 志摩○下。…尾張○上。 三河○上。 遠江○上。 駿河○上。 伊豆○下。…(塙保己一 編纂『群書類従』第五輯)
といった具合で、富士山─琵琶湖伝説への言及は見当らない。 
 
ゴロウニンに国旗を訊く

 

1804年になって、ロシアから今度はニコライ・レザノフ(1764〜1807)が双頭の鷲のロシア皇帝旗を立てて、長崎にやってきました。乗艦には白地に青の斜め十字や赤の斜め十字のロシア海軍旗を掲げ、堂々たる入港でした。
相前後して、室蘭、長崎、利尻島、浦賀、常陸大津浜などの港にはロシア船とともに英、米の船も相次いでやって来ました。中には、1808年8月、偽ってオランダ国旗を掲げ強引に長崎に入港して来た英国軍艦「フェートン号」の事件のように、卑劣な手法によるトラブルもありました。
こうした外国船の来航に対応するため、幕府は渡辺胤、近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵らを蝦夷地に向かわせたり、東北諸藩を蝦夷地警備に充てたりするとともに、通事に仏、英、露語を学ばせたり、異国船打払令を頒布するなどし、硬軟取り混ぜて対応を図るのでした。国旗研究もそうした外国事情研究の一環ではなかったかと思われます。驚くほど多くのさまざまな関連書籍が製作、刊行されているのです。外国船の区別をはっきりするために行なったことでしょう。
フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは自らの弟ルイをオランダの王に任命し、オランダの国旗を降ろさせました。その結果、世界中でオランダの国旗を掲げていたのはほとんど長崎の出島だけという状況になりました。
「フェートン号」には、ペリュー艦長以下350人が乗り組んでいました。8月15日、出島のオランダ人たちは当然のように歓迎のため近づくと、「フェートン号」はこのオランダ人を拉致して人質にし、同行した日本の役人には薪炭の提供を迫ったのです。
「このままでは“祖法”が破れる」と事の重大性に気付いた長崎奉行松平康英は必死に退去を迫りましたが、ペリューは逆に「市中への砲撃も辞さん」と脅しをかけるしまつで、康英はついに屈し、その晩、切腹して果てました。国際信義を裏切る英国のやり方には幕府もオランダも、その後長いあいだ警戒し、恨みを残しのです。
3年後の1811年、ロシア海軍のワシリー・M・ゴロウニン少佐(1776〜1831)がエカテリーナ2世の命を受けて今日、北方領土と呼ばれている根室周辺の島々を訪れ、測量を行いました。7月11日、国後島沖で幕府の役人に捕らわれ、箱館や松前で幽囚生活を送ることになりました。
報復的に捕らえられた豪商・高田屋嘉兵衛(1769〜1827)の努力もあって、ゴロウニンは2年3ヵ月の拘留の末、釈放され、その1815年、体験記を著しました。この体験記は各国語に訳され、日本では現著発行のわずか6年目の1821年に翻訳に取りかかり、2年後『遭厄日本紀事』の題で刊行されました。
そこに見られる日本人の1つの特徴は「質問好き」と、いうことのようです。
中には、旗の使用目的、軍用旗と商船旗の違い、戦時と平時の掲揚の違い、船の各所に掲げる旗の意味についてなど、旗について幕吏や通事たちは、実に専門的な質問を浴びせているのには驚かされます。講談社学術文庫の『日本俘虜実記』にはこんなやりとりも見られます。
「日本側が翻訳を求めたロシア語の文書類のほか、(村上)貞助や(上原)熊次郎は種々の品物やヨーロッパの本の日本訳を数冊持って来て、本について我々の説明や意見を聞かせて欲しいと言った。いな、むしろ彼らの例の疑い深さから、翻訳の正否を確かめたいのであると私には思えた。彼らが持ってきて見せたいろいろの品物のうち、支那人が描いた広東の風景画があって、それにはヨーロッパ各国の居留地がそれぞれの国旗で表してあった。日本人たちは「なぜロシアの国旗がないのか」と訊ね、その理由を知ると、「どうしてロシアの商人のいない土地に行こうとしているのか」と訊いた。「ヨーロッパ人は国籍がどこであろうとそんな場合には相互に援助するものである」というと大変に驚き、ほとんど信用しなかった。」
ここではベテラン通訳の熊次郎も新人ながらゴロウニンがその才能を買う貞助もまるで“なぜなぜ坊や”のようにいろいろと質問をあびせかける様子がよく描かれています。二人とも既に、国旗が世界情勢を知る上の大事な手がかりになるということをよく理解していたようです。そして次のように、旗の区別や国旗の意味にも興味を示すのでした。
「そのほか彼らは、レザノフ使節が乗って長崎に来航したナジェジダ号の絵を見せて、たぶん、艦長クルゼンシュテルンが艦を飾るため、海軍用語でいう満艦飾に掲げた艦尾旗、艦首旗やヨーロッパ各国の旗はどんな意味があるか、と訊ねた。」
このやりとりでも判るように、当時、幕府では既にかなり国際情勢を理解し、また、外国の旗などについて知っていたようなのです。

松浦静山(まつらせいざん。本名は清。静山は号。1760〜1841)が「魯西亜(ロシア)漂舶幟并(ならびに)和蘭(オランダ)軍船用法大略」として随筆集『甲子夜話』に記述をしたのは1821年のことです。ロシアの国旗や海軍旗、商船旗などについてとオランダの軍艦について記したものです。
この1821年という年は、西洋ではセントヘレナでナポレオン(1769〜1821)が英雄の生涯を閉じた年(5月5日没)です。他方、目を我が国の周辺に転ずると、諸外国の船舶が頻繁に遊弋する時代でした。捕鯨、通商の船が主ですが、中には海軍の軍艦もありました。『甲子夜話』には南部藩の今の青森県八戸市近郊の領地に異国船が現れたこんな話が出てきます。
すなわち、「近頃は奥の地へも異国船の来ること屡々あり。盛岡藩(南部氏)の届の文として視る」として、1822年に「九戸郡中野村」の「弐里(8キロ)沖合」に「異国船壱艘相見得」たので、狼煙をあげたが、さらに接近してきたという記述です。そして「或人曰、南部支侯の邑には蛮奴上陸して、野菜を多く奪掠してたりしと」いった具合だったようです。
静山は肥前(今の長崎県)平戸藩(6万石)の第10代藩主です。藩校維新館を創設、佐藤一斎を招聘し、自らも講義を行うなど、学問を奨励した大名として知られています。平戸には楽歳堂文庫、江戸には感思齋文庫を設け、4,862部、33,739冊の書物を揃えました。その中には、17、18世紀の洋書も含まれ、まさに、稀覯(きこう)書というべきものだったのです。詳しくは、『平戸松浦史料博物館蔵書目録』をご覧ください。静山がいかに多趣味で博学であったかに驚かされる蔵書の内容です。
若いころの静山は心形刀流剣術の達人としても知られ、その著『剣談』にはプロ野球野村克也監督の名言「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」はこの本がネタ元です。
1806年、46歳で三男・熈に家督を譲った後は江戸で、林述斎(1768〜1741)と深く交流しました。林述斎は、大学頭を務め、学問・文書面で中枢的役割を果たし、田沼意次(おきつぐ)や松平定信が主導した「寛政の改革」や幕政に深く関わった人でした。静山はその林の勧めにより『甲子夜話(かっしやわ)』を書いたのでした。これは著者が文政4年11月11日(グレゴリオ暦1821年12月11日)、甲子(きのえね)の夜に稿を起し、以後、約20年にわたって政治、経済、外交から風俗、地理、伝説に至るさまざまなテーマについて、82歳で没するまで、約7000項目について書き記した随筆集です。正続各百巻、第三編100巻の内78巻(計278冊)を脱稿しました。
『甲子夜話』といえば、「なかぬなら殺してしまへ時鳥」(織田信長)、「鳴かずともなかして見せふ杜鵑」(豊臣秀吉)、「なかぬなら鳴まで待よ郭公」(徳川家康)の三句(時鳥、杜鵑、郭公はいずれもホトトギス)で三人の天下人を擬した川柳があることで有名ですが、この随筆集は、江戸時代後期を知るうえで貴重な文献として高く評価されています。すなわち、先に述べた「寛政の改革」に関すること、「シーボルト事件」や「大塩平八郎の乱」などについて、さらには社会風俗、幕臣や諸藩(遠い秋田藩や南部藩のことまで何度か登場します)に関するエピソード、海外事情など、広範な題材がしっかりした記述で取り上げられているからです。
静山直筆による『甲子夜話』の正本は所在不明ですが、熈による副本が1858年に完成して、これが現在まで伝わっています。
さて、その『甲子夜話』のうち、1808年(文化5)年に著された正編巻95で、『魯西亜漂舶幟并和蘭軍船用法大略』を紹介しています。
静山はまず8種類のオランダの軍艦についてその大きさや性能に触れた後、魯西亜漂舶幟としてツアーリ(ロシア皇帝)が用いる旗以下、現在のロシア国旗を商船旗として紹介するなどさまざま種類の旗を図で示しています。
おそらくは、ある程度まとまった形で外国の旗を紹介している書籍として残存している最も古い記述ではないでしょうか。
この1808年、幕府は1月に仙台、会津の両藩に蝦夷地警備を命じ、2月には長崎の通事にフランス語を学ぶことを命じました。そして4月には、間宮林蔵が樺太探検に向い、8月にはさきに述べた「フェートン号」事件が起っています。まさに風雲は急を告げていたのです。

『国書総目録』(岩波書店)によれば、当時の世界各国の国旗を紹介しているもので現存する一番古いものは愛知県西尾市の岩瀬文庫の所蔵になる『萬國國旗圖及檣號圖(しょうごうず)』。天保11(1840)年のものです。
愛知県西尾市は上野介で有名な吉良町の北隣に位置しています。1221年に足利義氏が築城して以来という城下町。肥料商を中心に金融、鉄道、電気、繊維産業等を行い、町長、町議としても活躍し、しかも読書家であった岩瀬弥助(1867〜1930年)が「四十二の男の大厄」を迎えて社会奉仕をと考え、また地域文化の向上のために役立とうと決意(西尾市資料館『岩瀬文庫稀覯本=きこうぼん=展展観目録』)」し、私財を投じて明治40(1907)年に建物を完成、今日では彼の収集した約十万冊の貴重な蔵書を持つ全国でも稀な図書館となっています。
そのほとんどが極めて貴重な書籍というのに、岩瀬文庫は何度か行きましたがあまり訪ねる人のない様子です。係の人に聞いて見たら、年間400〜500人ぐらいのもの、とのことでした。以前は、木製の引出しに納められている古い分厚い検索カードが全部、筆書き。”タイム・トンネル”に、すぅーっと入って行く気分でめくったものでしたが、今ではすべてコンピュータ化されました。それはそれでいいのですが、逆に使用規則でがんじがらめ、かつては自由に写真撮影できたものが、1コマずつ申請し、お金を払って専門の業者に依頼するしかないというのですから、改善されたのか、改悪されたのか分からないというのが実感です。
現存する日本最初の総合的国旗図鑑、『萬國國旗並檣號圖』は『檣號圖』と『萬國國旗圖』の2巻の巻物。いずれも27.4センチ幅ですが、前者は719センチの長さに66の国旗、後者は1、355センチの長さに184の国旗が、極彩色のすばらしい筆使いで描かれています。
画いたのは貴志孫太夫。『檣號圖』には「貴志忠美、KISI TADAJOSI, Keizerlijk Lijfwacht」と、漢字とオランダ語の印鑑が押してあり、肩書は「幕府小納戸」をオランダ語に訳したもの。
『萬國國旗並檣號圖』を開いてみました。
国名や旗の種別の訳語に苦労がにじみでているのがすぐ判りました。今でも国旗については定まった日本語のないことが多く、horizontal tricolour を横三色旗、ほかに横二分旗など、東京オリンピックを前に私が勝手に訳したことばがかなり定着した程度ですから、鎖国下においてはどんなに大変であったか、しのばれます。満足な世界地図さえない時代に、きっと手さぐりの状態だったのでしょう。
オーストリアとオーストラリアは区別が出来なかったのか、「アウスタラーノ」の旗として赤白赤の横三色旗に紋章の入ったハプスブルク家のオーストリアの旗が英国の属領として扱われています。
さらにまた、ケーニヒスベルク(現・ロシア領カリーニングラード)の白青の横7条と2つの剣を持つワシを描いた旗や「ユニオン・ジャック」をカントン(竿側上部)に付け、残りの部分4分の3を赤にした英国の civil ensign (市民旗)を「地下人ノ替旗(じげにんのかえはた)」と訳しています。今日なら「国民旗」とでもいうべきでしょうか。
中南米で紋章を取り除いた旗が国内で広く用いられているように、一般の国民が国内で用いる国旗をいうことばです。鎖国下における先人の労苦とその先駆的研究にただただ頭の下がる思いがします。
労苦のほどはいくつかの「注意書き」にも表れています。「亜墨利加」の国旗は13条に16星を星型に並べたものになっていますが、これには「文化4丁卯(ひのとう)年長崎渡来ボストン舩」のものであるとあります。星の並び方や条と青地の接する数などからして、孫太夫本人が長崎で写生したものではなく聞き伝えを画いたものと思われます。
なぜか「Japan 日本国」も違っていました。「赤地に2本の交叉する剣、そして三日月」というのはこれは当時の蘭領バタビア(ジャワ)の旗です。そして幕府が「御軍艦義、御國印、白地日の丸」と定め、「日の丸」を日本国総船印として公式に定められたのは安政元(1854)年で、当時も、白地に黒い横の帯のものを採択しそうな雰囲気でしたから、これは無理もないのかと思います。
岩瀬文庫ではまた『萬國旗印』を拝見した。これもここにしかないものです。木版折たたみ式のもので16頁にそれぞれ12の旗を紹介しています。
「弘化三丙午(ひのえうま)初冬」の刊行とありますから『萬國國旗圖及檣號圖』の6年後、1846年の初めということになります。「弘化三」年といえば孝明天皇即位の年であり、「海防の勅諭」が出され、米仏デンマーク等外国船の来航が続きました。4年前、アヘン戦争が終わり、2年前、オランダ国王から幕府に開国を勧める書状が送られた年です。翌年には島津斉興が老中・阿部正弘に琉球の開港を願い出てこれを実現しています。そんな中での刊行です。危機感がにじみ出ている思いです。
同じ年に出版された『外蕃旗譜』や『萬國旗鑑』も現存しています。この時期、海防上も国旗の識別資料の整備は緊要だったに違いありません。
『萬國旗印』には総数189旗が紹介されていますが、何といっても目立つのは冒頭のオランダの国旗(赤白青の横3色旗)。他の4つ分を占めて大きく画かれているのです。オランダの国旗が特別扱いなのは、「時代」ということと、おそらくは“種本”がオランダ語のものだったのではないでしょうか。
全体に大きな間違いがなく、各国旗が極めて正確に紹介されています。「蛮書左讀横行、此圖ノ如キモ亦然リ。編中、同ト略譯スル所ハ其ノ左ヲ見ルヘシ。漢土ノ書ノ例ニ非ス」というのも興味深い「注」です。
『萬國舶旗圖譜(18.8×12.3p)』は松居信(南袋松居)の編になるもので岩瀬文庫以外にも、東京の静嘉堂文庫や神戸大学など5ヵ所に現存していることが確認されていますが、私はこれも岩瀬文庫で拝見しました。表紙は桐の薄い板なのです。「嘉永甲寅(きのえとら)秋新雕・不老館蔵板」というのですから、1854年、まさにペルリの再来航で明けた年であり、日米、日英の各和親条約が結ばれた年の刊行です。国旗研究もいよいよ重要な公務となり、その責任が現実味をもって来たようです。
注目すべきは、同書が国旗の使用法について触れていることと「萬國略圖」を画いていることです。
使用法は「敵ヲ欺ント欲シテ大Kヲ発シ偽旗ヲ建ツル等ノ事ハ決シテアル事ナシ。各國會盟シテ定メタルトコロノ法ナリト云」「港内近ク乗リ来テ其地勢ニ熟セズ郷導(あんない)ヲ乞ハント欲スル時ハ舳檣ノ上ニ自國ノ旗ヲ建ツ」といった具合いでもっぱら海上での使用についてです。こういう記述のあるのはこの時代の本ではこれだけです。「萬國略圖」ではカラフトのすべて、エゾ、リウキウ、大日本、そして太平洋の島々が日本と同じ赤色になっています。プチャーチンとの日魯通好条約(1855年)の直前のことです。太平洋の島々は千島のことか伊豆諸島のことかこの地図でははっきりしていません。
折たたみの画集のような形の中に480もの旗を紹介しているのには驚くほどです。中には「意太利亜國教化王府旗」、すなわちバチカンの旗まで載っています。1861年にイタリアが統一し、1929年のラテラノ協約で今のバチカンになったのですが、現在の国旗の原形ともいうべき金と銀の鍵が交叉した旗が当時の教皇領で用いられていたことが判ります。

付箋を付けてどこで図柄の情報を確認したかをかなり細かく書いているのも特徴です。もっともこれは著者が書いたものなのか、これを所持して使用していた人のものか必ずしもはっきりしていません。「ロシア始ノ四圖ハ寛政五癸丑(みずのとうし。1793年… 吹浦注、以下同じ)正月松前江渡来舶旗也」とか、「中ノ四圖ハ文化元甲子(きのえね)年(1804年)長崎ヘ渡来舶旗、同四丁卯(ひのとう)年(1807年)四月、長崎ヘ渡来同旗ナリ」といった書き方です。
1793年はラクスマンが、1804年は同じくレザノフが通商を求めてやって来た年です。双頭の鷲の旗をここで確認したということです。
同様に、イギリス国旗についても「此三圖は文化五戊辰(つちのえたつ)年(1808年)8月長崎ヘ渡来舶旗、同十三丙子(ひのえね)年(1816年)7月西海へ漂流、弘化二乙巳(きのとみ)年(1845年)7月、伊王島辺漂流各同旗なり」となっています。「ユニオン・ジャック」も鎖国下の日本にはまだ全く馴染の薄かったのがこのしつこいほどの確認の付箋ににじんでいるようです。
当時の英国旗はイングランドの聖ジョージ旗(白地赤十字)とスコットランドの聖アンドリューの旗(青地に白の斜十字)に、1801年のアイルランド併合で聖パトリックの旗(白地に赤の斜十字)が合わさって今と同じ旗になっていたはずですが、日本周辺に来ていた英国旗は聖パトリックの十字を無視していたのかも知れません。『萬國國旗圖及檣號圖』の英国旗は3つの旗(ジャック)が統合(ユニオン)した図(但し、聖パトリックの十字を左周りにずらして聖アンドリューの十字を生かすという正しい描き方ではない)になっています。これはおそらく略図が伝わったのを画いたものだったからなのでしょう。
幕末の国旗本の相次ぐ刊行は今から振り返っても感嘆してしまいます。
『萬國旗印』と同じ弘化3年の7月に『外蕃旗譜』も刊行されていることを、安津教授は『国旗の歴史』で紹介している。それによると1836年にオランダ人<般美伊児(ハンビーニ)>(ファン・ビーニ?)によって発行された『坤輿(こんよ)國(世界の国々… 吹浦注)』の付録を後に蕃書調所教授となった蘭学者・箕作阮甫が翻訳し、「さらに調査した資料も加え、各国の国旗、商船旗、大公使館旗、測量旗など81種類の旗が色彩図で描かれている」ものとのこと。同書の序文には原書は欧米のことには詳しいのですが「そのほかの国々については粗略です。そこで近頃出版の国旗に関する書物数冊と比較対照しながら、そのよいところを採用し、欠点を補って刊行したもの」だということです。そして、各国の国旗には「1国の理念などをシンボライズした旗、2国の名産物などを表した旗、3建国の由来など誇るに足る事実を表した旗」に分類できるとしているのだそうです。
残念なことに私はまだこの『外蕃旗譜』に直接触れることができないでいます。
『萬國旗鑑』は縦7センチ横13センチの横開きの手帳程度の大きさの木版カラー印刷です。私が始めてこの本に接したのは30年ほど前、早稲田大学の図書館ででした。同じものが東京国立博物館と岩瀬文庫にもあります。
弘化3年の「季秋刊行」したものを「再雕成」したとあります。オリジナル版の木版を、ペリーが浦賀に、プチャーチンが長崎に来る前年の嘉永5(1852)年に全面的に彫り直したということです。早稲田大学には2冊あり、ペリーが来た嘉永6年のものと、再来航し、日米和親条約が締結された翌7年のものです。幕府は続けてロシア、イギリスなどとも同様の条約を結び、「日の丸」を日本国総船印とした年でもあるのです。『萬國旗鑑』の説明部分の一部を紹介しましょう。
「萬國ノ幖旗我邦ニ昭明ナルマデ数十年、当時旧図ノ誤ヲ正シ五十余図ヲ出ズトイエドモ諸蛮ノ旗改変スルモノアレバ近来マタ補習スル者アリテイヨイヨ詳ナルコトヲ得タリ。今海浜ノ国ニ限ラズ常ニ此書ヲ懐ニシ時ニ望ンデ其商舶ト軍艦トヲ弁知セバ、海防ノ益少ナカラズ。惣ジテ異国ノ例入港ノ時大炮ヲ(一字不明=吹浦)シ、然シテ旗ヲ立テルニ十字ヲカキタルハ軍艦ニ非ラズトイフ印ナリ。其外今日ハ何々ノ日トテ種々ノ旗ヲ立テルガ習ヒトゾ事ハ西洋家ニ就テ就習スベキナリ。」
つまり、鎖国下の日本ではあっても、外国旗については識者の手でいろいろ研究されており、何種類かのかなり専門的な出版物があったということになります。しかも それらの国旗は時には変更されるものであること、商船と軍艦では使用する国旗のデザインが違うこと、各国別に祝日が決まっていてどの旗をいつ立てるかなどは「西洋家」なる専門家に聞け、ということです。
率直にいって、この『萬國旗鑑』もまた、とてもペリー来航以前のものとは信じられないほどのしっかりした内容です。
同書は「諳厄利亜(あんぐりあ、イギリス)」の「ユニオン・ジャック」など15種類の旗を先頭に、以下、実際の国名は漢字表記でルビつきだが、ルビだけで並べるとシカシア(スコットランド)、イベリニア(アイルランド)、オランダ、イスパニア(スペイン)、ポルトガル、イタリア、フランス、テー子(ネ)マルカ(デンマーク)、スウェシア(スウェーデン)、ホローニア(ポーランド)、ヒルマニア(ドイツ)、ムスコーヴィア(ロシア)、トルコ、アジア諸国、増補と続き、計286旗が紹介されている。増補の中にはアメリカの「星条旗」も出ています。
これまた断然詳しいのはオランダの国旗についてで、国王旗、商船旗、軍艦旗等々24種類が載っている。英国国王旗の紋章についてはこの時代の他の書にないほど詳しく正確で、アイルランドのハープの紋章もそれらしく描かれている。ただ、フランス三色旗がないこと、「星条旗」の紅白の条が十本しかないとか、星は八稜星でしかも8個しかない、といった気になる点もあります。
おそらくは手帳のような同書を手に持った幕府の役人が緊張に身を震わしながらペリーの艦隊でも見に行ったのではないでしょうか。

『萬國旗章圖譜(24.6×17.2p)』も幕末に出版された。木版彩色刷り和綴本で、今のB5版とほぼ同じ大きさで、42頁、「清国ニ始リ米利堅ニ終ル通計二百九十有一種」の旗を掲載しています。
水戸藩の蘭学者・鱸奉卿(またの名を重時、1815〜56年)が嘉永4(1851)年に出版したものが版を重ねて、嘉永5年版が筆写のものも含めて今でも日比谷図書館近藤文庫、豊橋市立図書館などにある。広島市立浅野図書館にもあったのですが、原爆で消失したとのことです。さらに、嘉永7(安政元)年版は東大図書館に、ほかにも刊行年不明のものが内閣文庫、岩瀬文庫などにあります。
『萬國旗章圖譜』は、同書に漢文の推薦文を寄せている「水府(水戸)教官森蔚」によれば奉卿の「平生研究蟹行文字(ヨーロッパ語・・・ 吹浦注)」の成果とのことですが、当時の国旗研究の難しさを奉卿自身、次の序文で率直に認めています。
国ノ旗章アルハ人ノ姓名字号アルカ如シ、一日モ廃ス可カラス、関係スル所豈少カランヤ、近世地学漸ク行レテヨリ其専書陸続嗣出シ、輿地各国ノ形勢風土ノ沿革ニ至マテ人々能其詳ナルヲ知ルヲ得タリ、只其国地所用ノ旌旗ニ於テハ全修ノ譜ナキヲ憾トスルノミ、是此挙アル所以ナリ、然トモ詳略其平ヲ得サル者ハ只採拠ノ及所ニ従ヲ以ナリ、
『萬國旗鑑』と『萬國旗章圖譜』の双方がそろっている早稲田大学の図書館で両方を比較して見ると、軍配は前者に上がります。その差の一番は気の毒ですが絵師の力にあるといえましょう。後者の図では紋章のライオンがどう見ても犬か狐に、象の足が馬か豚にしか見えないのです。しかし、それは無理もないことです。絵師がこれらの動物を見た可能性はまずないからです。
そういえば、京都の二条城や曼殊院の狩野派の虎の襖絵も、「朝鮮あたりから献上された皮から想像して描いたもの」と聞きました。
だから国旗図の動物も基になった図の細密な部分に神経を集中させて写し取らないかぎりその動物の姿を知っている私たちの目にはおかしな形に映ってしまうのです。ただ、「ユニオン・ジャック」の十字の微妙なズレとか星の稜の数などが、例えばチリ国旗の星が六稜星という具合いでアバウトなのです。「星条旗」の条は13本ですが、星の部分が青1色で塗りつぶされています。もう少し、神経を細かく、というのは後世からの過剰な注文なのでしょうか。
もっとも「星条旗」については今から見れば『萬國旗鑑』もひどいものです。紅白計10本の条に八稜星8個というのですから。
以前、私は幕末に国旗本が刊行されたのは、開国したわが国官民が“外国船識別のためという必要に迫られたため”と漠然と考えていました。ところが、詳しく調べてみると、実際にはペリー来航のはるか以前から私たちの先祖は外国旗について調べていたのです。
その大きな原因を私は相次ぐ外国船の渡来、なかでも、イギリスがオランダの国旗を盗用して長崎に入港した「フェートン号事件」(既述)と考えます。国旗を偽って用いることはもっとも卑怯なことであり国旗法にも反し、厳に戒しむべきことですが、1808(文化5)年8月に起きたこの事件は、まさにその典型です。
事件があった19世紀初頭を含む近代は、イギリスが「太陽の沈むことなき国」として世界の海をわがもの顔に制覇していった時代です。この事件もそうした世界情勢の激動のなかでのいまわしい歴史の1コマだったと言えるでしょう。 
 
幕末対外交渉におけるプチャーチンとペリーの比較

 

はじめに
昨年、朝日新聞が日ロ世論調査を行った。その質問と回答とを見てみると、日ロ両国国民のお互いの国に対する印象のギャップが大きいことに興味を持った。
『あなたは(日本人に対し)ロシア・(ロシア人に対し)日本が好きですか。嫌いですか。特にどちらでもないですか。』という質問の回答は日本人の回答は1位の「どちらでもない」が65%も占め、2位の「嫌い」が28%。3位の「好き」に至っては4%という数字が出ている。対して、ロシア人の回答は1位が「好き」で56%と割合も高い。『あなたはロシアについてどんな印象をもっていますか。』という日本人への質問に対し、回答が1位「経済が混乱している」、2位「信用できない」、3位「政治が混乱している」、と上位三位が全部否定的な回答になっている。しかし、ロシア人の日本に対する印象は、1位が「技術水準が高い」、2位は「効率的な経済」と肯定的な答えになっている。
創価大学で長年教鞭をとられていた酒井一之先生は、私が1年次の「ロシア事情」の講義のプリントで、『日露関係は「脅露」と「蔑露」の間で揺れ動いてきた。日露戦争以前では北からの脅威としてロシアを受け止めてきたが、日露戦争で日本が勝利してしまうとロシア野蛮国といった差別意識が広がり、革命がおき社会主義国になると脅露の時代が長く続き、最近になってペレストロイカで国家が安定しなくなると経済大国日本ではまた蔑露意識が出てきているが、こうした一般的傾向とは別に、両国の間には地道な交渉の関係があったことを忘れてはならない』と書かれている。
たしかに、ロシアと日本は隣国であり国交が結ばれる以前からの歴史も長く、また日本の漂流民にも住居や生活費を与えたりして、日本に対する興味はすこぶる高い。そして、実際に国交を結ぼうとするときの対応を見ていると、非常に紳士的であり日本側もそんなロシアに対する評価がとても高く、対応もよい。そんな両国の良好な関係を調べ、これからの日露関係につなげていきたくこの論文を書いた。
本論を書くにあたり、政策や条約そのものでなく、条約締結に至る米露の日本に対する接しかたや背景について調べた。
第一章では領土を東に拡大しつづけ、日本に興味を抱いたロシアについて述べる。日露両国の国交が開かれるまで、ロシアと日本を結びつける大きな役割を果たしてきたのは主に漂流民たちであり、彼らに焦点を絞っていく。第二章では、アヘン戦争などで列強の東アジア進出が盛んになり、それに伴い日本に接近してきた背景・様子をアメリカとロシアに絞って述べることにする。第三章では、実際に結ばれた日米和親条約と、日魯通好条約の内容を、日本がロシアとアメリカにどのような差をつけたのかを、比較して論じる。暦については新暦で統一している。
第一章 ロシアの日本への興味
ロシアは1582年にコサックの隊長エルマークによってシベリア―ハン国を征服したが、その後1632年には、ヤクーツクの砦を設置した。しかしピョートル時代まで、日本についてはほとんど知るところがなかった。のちにロシアの日本との開国交渉で、重要な役割を果たしたのが、日本の漂流民たちである。黒潮という海流と、外洋船の建造を禁じた徳川幕府の政策のせいで、これら漂流民は望まずして民間外交使節となった。ただし、偶然そうなったわけではなく、その裏には東方への出口を目指したピョートル大帝以来のロシアの政策があったのである。
ロシアの公式記録にてくる最初の日本人はデンベイ(伝兵衛)という大坂からの漂流民であった。伝兵衛は金融業・商品取引業を営み、淡路屋又兵衛の船荷監督役(上乗役)として船に乗り組んだものと思われる。船の乗組員は15名、積荷は米・酒・絹織物・南京木綿・白砂糖・氷砂糖・鉄などであった。1695年11月初め、デンベイらの乗った船は、大坂を出帆し江戸に向かう途中の紀州沖か遠州沖で、デンベイらの船団は嵐に遇い6ヵ月間漂流した後、カムチャツカ南部に漂着、現地民に囚われの身となった。
日本語学校創設
ピョートルは、日本の漂流民がカムチャツカについたという報告を聞くと、彼を首都に呼び寄せ、みずからデンベイに会って日本の話を聞いた。そしてその日のうちにピョートルはデンベイにロシア語を習得・マスターしたら、ロシア人の若者に日本語を教授するように命じた。鎖国によってオランダ語以外の外国語が禁止されていた日本とは対照的に、ロシアではこのとき以来、漂流民による日本語教育が細々とではあるが続けられてきたのである。しかしデンベイ1人では彼の死後教師が絶えてしまうので、もし日本の漂流民が発見されたら直ちに報告するよう、政府はシベリア庁に命令を出した。あたかもその要請にこたえるかのように、1710年にカムチャツカに漂流したサニマという日本人漂民が、ヤクーツクにまわされ、その後ペテルブルグに送られてきた。当時デンベイはまだ生存していたので、サニマはデンベイの助手に任ぜられ日本語を教え、のちにギリシャ正教会の洗礼を受け、ロシアに帰化しロシア婦人と結婚し、デンベイの死後も1734年まで日本語を教えつづけた。
その後1729年の夏に、またしても日本の船がカムチャツカに漂着した。これは若潮丸といって、薩摩から大坂へ、米・絹織物などを運ぶ途中難破した後、半年も漂流していた船だった。この船には17人の日本人が乗り組んでいたが、上陸早々コサックによって二人を残してあとは全員殺された。残ったのはソーザという年配の男と11歳のゴンザという少年だけだった。1733年に二人はペテルブルグに送られ女帝アンナに拝謁し、彼女の命令で洗礼を受けている。1736年にはペテルブルグの科学アカデミーに日本語学校が設立され、ここで二人はアンドレー=ボグダーノフの指導により、数名の若者に日本語を教授した。デンベイ・サニマの死後、日本語学校は閉校の状態にあったのだが、ゴンザ・ソーザのおかげで再び開校の機運を迎えるに至ったのである。しかしソーザはまもなく死亡し、ゴンザも三年後に21歳の若さで他界している。ゴンザがアンドレー=ボグダーノフと協力して、世界最初の露日辞典『新スラヴ・日本語辞典』を編纂していることは、特筆するべきであろう。
1745年、またしても日本の船が千島列島のオンネコタン島付近で難破した。これは蝦夷(北海道)から江戸へ木材・干魚・魚油を運ぶ南部領佐井港の船「多賀丸」で、船長竹内徳兵衛と7人の水夫は島に上陸後まもなく死亡し、残った10名がオホーツクへ移された。この報に接したロシア政府はこの中から優秀で頭のよい者5名を選んでペテルブルグへ送るように命じた。これら5名の日本人は、洗礼を受け首都につれてゆかれ、日本語学校の教師に任命された。しかしそれからまもない1753年に元老院は、太平洋のロシア探検隊につける通訳を東シベリアで養成するために、ペテルブルグの日本語学校をイルクーツクに移すことを決めた。このため5名の者は首都からイルクーツクに移され、オホーツクからこの地に送られていた以前の仲間とともに、日本語学校の教師となった。すでにペテルブルグ組で2名、シベリア残留組で1名が死亡していたため、この学校では7名の日本人が、5人のロシア人に日本語を教えた。しかし日本人教師は漢字も文法も知らず、ロシア人の生徒のほうも強制的に入学させられた上、ゴンザの頃と違い奨学金はきわめてわずかなためアルバイトをせねばならず、勉強の効果はあがらなかった。このイルクーツクの日本語学校はその後1816年に資金の浪費であるというイルクーツク知事の訴えにより廃止されたが、すでに30年間も事実上閉校状態だった。
大黒屋光太夫らの漂流
1782年、伊勢白子浦から江戸に向けて、木綿・薬種・紙などを積んだ「神昌丸」が駿河湾沖で遭難、8ヶ月の漂流ののちアムチトカ島に漂着した。この船の一行は17人で船頭は32歳になる大黒屋光太夫であった。アムチトカ島は極寒の不毛の島で、わずかな原住民と毛皮を商うロシア商人が住んでいるにすぎなかった。帰国の望みはロシアからの商人の迎の船であったが、ロシア船が座礁したのを知ると、光太夫らは流木を集めて船を造ることにした。ニビジモフらロシア商人の協力を得て、やっとの思いでアムチトカ島を出発した時には、すでにこの島に来て4年の歳月が経っていた。自分たちで船を作った光太夫たちだが、彼らが向かったのは日本ではなくロシアであった。1787年7月、光太夫とニビジモフらロシアの商人はニジニカムチャツカに到着した。強い帰国への意志から、光太夫は帰国願いをそこの役人に送ったが、いい返事はもらえなかった。ロシアの人々は光太夫らにとても親切に扱ってくれたが、飢えと寒さのため約2年の滞在で3人がビタミンの不足からくる壊血病で亡くなった。ここでの厳しい越冬生活の間に、光太夫は世界的探検家のレセップスに会っているが、彼の航海記に光太夫の強靱な態度のようすが記されている。それによると光太夫はすでにロシア語を話し、優れた頭脳の持ち主であることがわかる。なによりもレセップスを印象づけたのは、光太夫の部下に対する態度で、彼は身分によるよりも、その敏捷活発な精神とやさしい性質から部下を完全に掌握していたと書かれている。
乗組員18人のうち、残っているのは光太夫、小市、九右衛門、庄蔵、新蔵、磯吉の6人となった。ロシア語を理解するようになっていた光太夫らは帰国にはシベリアの都・イルクーツクの総督の許可がいることを知った。さっそく6人は仕度を調え、1788年6月、カムチャツカを出発、9月にオホーツクに到着した。シベリアは早くも冬で、イルクーツクまでの約4000キロは馬車とトナカイのそりで移動した。マイナス50度以下の極寒のシベリアを渡り、翌1789年2月、ようやくイルクーツクに到着した。イルクーツクはバイカル湖のほとり、当時、人口1万人のシベリア第一の都市であった。光太夫はさっそくシベリア総督に帰国願いを申し入れたが、意外にも返事はイルクーツクの日本語学校の講師になるようにとの事であった。鎖国の日本との通商を求めていたロシアは日本語の通訳を必要としていたのである。
このイルクーツクで光太夫らは生涯の恩人となる一人の人物に出会うことになる。これは第一回遣日使節となるアダム=ラクスマンの父、キリール=ラクスマンというフィンランド生まれの植物学者で、科学アカデミーの教授を勤めたこともある学者だった。彼はカムチャツカの博物を研究するためにイルクーツクに滞在していたが、光太夫らの身の上に深い同情を寄せ、直接皇帝に帰国の嘆願をするように進め、帰国への協力や生活の援助など親切にした。
しかしこのイルクーツクで水夫の九右衛門が亡くなり、庄蔵はシベリア横断の際の凍傷が原因で片足を切断、新蔵も重病と不安からロシアの女性と結婚、2人ともロシア正教に入信した。このままでは日本に帰れる望みがなく、光太夫はラクスマンのすすめにしたがって、首都へ帰る彼について1791年の初めにペテルブルグへ向かった。ぺテルブルグ近郊のツァールスコエセローで光太夫はエカテリーナと謁見し、女帝より正式に帰国の許可が出された。エカテリーナは9月25日付けでシベリア総督に訓令を与え、光太夫を送還させるために、一隻の船を準備し、できればこの機会に日本との通商を開くよう命じた。これにより、ロシアに帰化し日本語学校の教師に任ぜられていた新蔵と庄蔵を除いた3人が、特派使節アダム=ラクスマンとともにイルクーツクを発った。
しかし松前藩も幕府も漂流民を伴ってやってきたアダム=ラクスマンらの処遇に苦慮している。エカテリーナ女帝の勅書を持って来日したこの船は根室沖で投錨し、日本を目の前にしてここで冬を越し、光太夫と磯吉を引き渡し帰っている。この越冬期間中にあわれにも小市は壊血病で亡くなった。光太夫は帰国後、蘭学者桂川甫周にロシアでの見聞を詳細に口述し、『北槎聞略』が編集される。そこにはロシア語表現集は無論のこと、エレキテルや空気銃、果ては種痘法についても正確に紹介されている。
ロシア側が最初の公的な訪日使節団を派遣したのは1803年で、このときはアレクサンドル一世の親書を持って、翌年レザーノフが長崎に来航した。しかし、このときの幕府の対応はきわめて慎重で、レザーノフは一年以上も交渉を引き延ばされたあげく、通商条約を結べず帰国している。
その後ニコライ=フヴォストフの樺太日本人居住地域襲撃や、ワシーリー=ゴロヴニンが松前に幽閉されるといった事件が起こるが、彼の『日本幽囚記』によってロシア側の日本認識は深まり、彼についてロシア語を学んだ馬場佐十郎や足立佐内のロシア研究によって日本側も、より正しいロシア観を持つようなる。両国が正式に条約を結ぶには1855年のエブフィーミー=プチャーチンの来訪まで待つことになる。
第二章 日本に対する米・露の開国要求
第一節 プチャーチン、ペリー来航ラクスマンとレザーノフの失敗のあと、ロシア政府は1852年に海軍中将プチャーチンを全権大使として日本へ派遣することに決定した。そのきっかけとなったのは、アメリカ合衆国の武装蒸気船団が近く日本へ向かうという、東シベリア総督ムラヴィヨフからの情報であった。
19世紀半ばに、産業革命を経て、工業力・海運力とともに圧倒的な力で東アジアでの貿易の主導権を握っていたイギリスは、アヘン戦争で中国から香港を獲得した後、植民地拡大から自由貿易へと政策を大きく転換させた。そのイギリスに遅れをとったアメリカは中国貿易拡大のために、従来の東回り航路に加えて太平洋横断の蒸気船航路の開発に乗り出した。さらに、北太平洋での捕鯨船の活動が急増するにつれ、日本の沿岸で座礁・破損による遭難や台風でやむなく避泊するアメリカの船舶・乗員の生命・財産を保護し、薪炭・水・食料を補給する場所も必要になった。
蒸気船は風に頼らざるを得ない帆船に比べて、航海時間を大幅に短縮できる新しい船であったが、大量の石炭を燃料としていたので、長期間の航海ではどうしても石炭を補給する場所を確保しておかなければならなかった。特に広い太平洋ではなおのことであった。ここに、中間寄港地として日本が脚光をあびることになった。日本の開国は、こうした東アジア貿易をめぐる国際政治、世界経済の動向を背景としていた。
プチャーチンは、イギリスが清国に対して強要した南京条約(1842)直後に、清国の開港がロシアの国情に及ぼす政治経済上の影響をいち早く察知して、極東政策の急務を皇帝ニコライ一世及び政府閣僚に進言したほどの機敏な人物であった。半島なのか島なのかいまだ不明であるサハリン島、それにアムール川の河口の詳しい調査を対日交渉と並行して実施することを提案した。彼の意見は皇帝に認められ、特別委員会で審議の結果、1843年、遠征隊を清国と日本に派遣して領土、通商問題を一挙に解決すべくプチャーチンを適任と認める旨を決議した。もしも、このときに予定通りにプチャーチンの遠征隊が日本に来航していたら、アメリカのペリーよりも約10年早く日本開国の機先を制することになったであろう。しかし、外相ネッセリローデは近東政策(対トルコ問題)を先決とし、ヴロンチェンコ蔵相は極東維持による国費膨張を危惧し反対した。ニコライ皇帝は動揺し、遠征隊派遣は延期と決定されてしまったのである。
それから、再びプチャーチンが日本に派遣されるまで9年の歳月が無駄に過ごされてしまったのは、財政逼迫という事情が大きい。この間ロシアは生産力も技術力もますます涸渇する状態であった。西欧諸国は産業革命を終えて、飛躍の道に立っているのに、ロシアは農奴制に基づいた近代化が完全に行き詰まっていたのである。プチャーチンにあてがわれた艦隊の旗艦は、船齢20年の老朽艦であるフリゲート艦パルラーダ号であった。大型の汽走軍艦はロシアにはなかった。それが、ペリーが大型の汽走艦「サスケハナ」を旗艦としていた米国との決定的な差であった。ペリーは「汽走軍艦の父」という異名を持っていた。
ペリー艦隊の旗艦のサスケハナ号は2450トン、乗組員300人、1850年に進水したアメリカ海軍最新鋭の汽走軍艦である。アメリカの「日本国皇帝」に宛てた国書には、蒸気船を利用すれば、アメリカ西海岸から日本まで18日で来られる、と書かれている。
1852年9月上旬、プチャーチンは首都ペテルブルグの沖合にあるクロンシタット港から商船で、単身イギリスへ向け出発した。旗艦パルラーダ号の随行艦となるスクーナーを購入し、改装するためである。イギリスでプチャーチンは一年前に建造されたばかりの蒸気スクーナーを購入することに成功した。地中海の果物貿易に使われていた民間のスクーナー「フィアレス(恐れ知らず)」号を購入したのである。これを「ヴォストーク号」と命名して、軍艦に改造した。
プチャーチンが先にロシアを出発してから一ヵ月後フリゲート艦パルラーダ号はクロンシタット港を出港した。パルラーダ号はまもなくスウェーデンとデンマークの間の狭いオレスンド海峡で座礁した。11月12日パルラーダ号はイギリスの港ポーツマスに到着した。先にイギリスに来ていたプチャーチンは艦長のウンコフスキーから報告を聞くとパルラーダ号をドックにいれ修理することを命じた。修理には2ヶ月を要したが、この間1852年11月24日米国のペリー提督は汽走軍艦ミシシッピー号に乗り、東海岸のノフォークから日本の江戸を目指し出発していたのだった。
はじめのうちは、プチャーチンも長崎でなく直接江戸に向かうつもりだった。これはアメリカ領事フォーブスに対して、政府よりペリー艦隊に協力するよう訓令を得ているので、ペリー艦隊と合意することを期待していると表明したことに現れている。しかし江戸へ向かう途中の小笠原諸島の父島で、彼らは追加訓令を受け取っている。外相ネッセリローデはオランダ人のシーボルトの、日本専門家としての助言を採用し、日本の国法を侵さぬように交渉地は長崎を選ぶように露日関係樹立方策を修正し、皇帝の裁可を得たのである。そして1853年8月22日、プチャーチンの艦隊は長崎湾に入港した。
第二節 アメリカ、ロシアの開国要求
プチャーチンらの入港後直ちに長崎奉行所の応接掛馬場五郎左衛門と長崎奉行所行手付大井三郎助、白石藤三郎がオランダ語通詞とともにパルラーダ号にあがり、プチャーチン、ポシェット少佐と会談した。ポシェットが、プチャーチンに代わって、本国政府の命を受けて、日本政府宛ての(ネッセリローデからの)書簡を持参した、それを長崎奉行に直接渡したい、(プチャーチンから)長崎奉行所宛ての書簡は今日にも渡したい、使命は書簡に述べられているので、江戸に伝達して回答して欲しいと述べた。プチャーチンの奉行宛ての書簡は、翌日役人が来て受け取っていった。
『「判断は江戸で下されるということを承知しているが、御国の法があり、日本に来る外国人はまず長崎にやってくるべきだと承知している。だからロシア政府においても、その法を守り、このたび船々を先に長崎に差し出したのである。」「ロシア政府がもっぱら大切と考えていることは、和睦平安のことである。あえて通商の利益を貪るのみのことではない。」「日本語を良く心得ていないので、このたびのロシア語の書簡にオランダ語と漢文の訳をつけた。きっとこの二国語は心得ている方がおられると考えている。」』という、とても丁寧な書簡である。
その4日後プチャーチンは、再度書簡を奉行に送り長崎で前の書簡の返答を待っていて、政府によって定められた日に返答がなければみずから江戸に赴かなければならなくなると、手続きの促進を求めた。
しかし、ロシア艦隊の態度は彼らに接触した奉行所の役人たちをすっかり気に入らせてしまった。奉行に宛てた役人たちの意見書には、「ロシアと審議を通じ、交易もすべきだ」、とある。これは地位の低い役人としては実に思い切った提言だが、奉行もその内容に共感したからこそ、これを参考までに江戸に送っている。奉行自身も「滞船のことも至って穏やかにて、慎み方よろしく」「これまでは非法の儀もこれなく」と言葉を添えている。
浦賀に4隻の黒船が入ってきたのにおびえて、幕府が米国大統領フィルモアの国書を受け取ったのは7月14日である。その混乱の中で将軍家慶が死んで、喪に服している状態だった。人心がいっそう不安になる中で、ロシア使節の書簡も受け取らざるを得ないという結論が出た。
しかし、受け取った書簡への返事はどうするのか。幕府上層部の議論で大方はペリーに対すると同じ処置を取るという意見であった。幕府は国書受け取りを長崎奉行に訓令した。「国法では受け取れないが、余儀ない申し立てもあるので、書簡を受け取ってもいい。内容も見ていないので、可否はもとより挨拶をするのも難しいが、しいて望まれれば、この節多事につき、急には挨拶しがたいことを説明し、返事はオランダ商館長からするので出帆いたすように」、とのことであった。1853年9月21日に長崎奉行所でプチャーチンはネッセリローデ書簡を手渡した。
書簡の主な内容は、日露両国の国境の画定、開港・交易の要求である。幕府はプチャーチンが江戸に来航することを恐れていたので、幕府の正式代表として、勘定奉行川路左衛門尉聖謨、西丸留守居筒井肥前守政憲らを長崎に送った。
プチャーチンは、日本政府の全権代表は賢明で国務に長じており、その物腰も上品で、ヨーロッパの一流文化人の特徴でもある知識欲を備えている人物という印象を受けた、と書いている――「全権代表や長崎奉行をはじめ役人たちは、丁寧、懇切、愛想のよさをこめてわれわれに尽くそうと務めていた。大旅行家たちが日本人は極東随一の教養ある国民だと書いているが、まったくそのとおりだと思うことがあった。長崎滞在中、日本人はわれわれに対する態度を最後まで変えなかった。ロシア側と友好関係に入ろうとする日本政府の意図の誠意を表明したのである」
また、1月15日には日本側全権が最初の顔合わせの答礼として、パルラーダ号を訪問し、大歓迎を受けている。筒井は、プチャーチンがランチまで降りて、彼を迎え、お手を取りましょうというのに感激した。彼が、大国の使節である彼に手など取ってもらったら礼儀に反しないかとプチャーチンに尋ねると、プチャーチンは、位に強いて尊卑の別はないし、年齢で言えば筒井は父の格でプチャーチンは子の格であり、手を取るのは、わが父に使えて、孝行息子の道を失わないためだ、と答えている。ロシア側も日本側も、お互いに相手によい印象を抱いているのがわかる。
1854年2月2日、長崎における6回の会談が旗艦パルラーダ号の艦内において一応終結した。この結果、第三国と修好通商条約を締結する際には、ロシアとも同一条件で応ずること、日本はロシアに最恵国待遇を与えることが確認された。長崎での交渉では、プチャーチンは日本人と初めて本格的な外交交渉を行い、ペリーよりも日本人の心をつかみ、前向きの回答を得たと言える。2月5日にロシア艦隊は長崎を出航した。
紳士的に日本側と接触し、長崎の役人たちに気に入られたプチャーチンと違い、ペリーは、江戸湾に入る前日の日記に「一文明国が他の文明国に対してとる、然るべき儀礼を要求しよう。許可を得るような懇願は決してせず、権利として主張しよう。」と記し、自分たちが幕府から夷狄(野蛮人)扱いを受けないためには、是が非でも断固たる態度を堅持しなければならないと考えていて、「私が排他的に振舞い、厳格になればなるほど、この形式と儀礼を重んじる人々(幕府の役人のこと)は多くの尊敬を私に払うようになる」とも記し、そのために対等な地位の役人、自分にふさわしい高官を引き出し、高官とのみ会見しようと固く心に決めていた。実際にペリーは日本側との最初の接触の際、オランダ語通詞のポートマンに「提督は高官のみの乗船を希望している」と伝えさせ、しかも日本側の高官(実際には与力であり「高官」ではなかったが)との対談に自分が出ず、ペリーの副官コンチ大佐を通じて会談を進めた。
長崎でプチャーチンとの交渉を終えたときから日本側の事情は激変した。オランダ以外の国と国交を結ぶことになったら、まずロシアと結ぶということになっているのに、日本はすでに1854年3月31日に米国と和親条約を結んだからである。魯国応接掛の筒井と川路は長崎より江戸に戻ると、再来したペリーとの交渉が横浜で始まっているのを知って、老中阿部伊勢守に連名で、長崎での(ロシアへの)取り扱いとアメリカ人への対応が相違するなら、この後ロシア人が来て、欺かれたと思われるようで大変である。だから、アメリカ人への応対はとりもなおさずロシア人への応対と考えないと、後に大変なことになると懸念している、という意見書を提出した。
すでに結ばれている米国との和親条約で、下田に遊歩場を保証し、18ヵ月後には領事を置くことも認めている。このような交渉結果には、批判が強く、その分だけこれからのロシアとの交渉には圧力がかかり、川路たちは大いに憂慮していたが、5月3日、老中の阿部は川路たちの主張を容れて、次のように指示した。――大坂は避けて、長崎、下田、箱館への寄港は許し、薪水食料その他の欠乏品を渡し、金銀を受け取ることにしてよい。漂流民の救助、船の修理もよろしい。北地境界の件は検分の者も出発したことだから、来年は決められる。通信通商のことはその上ということにしたいと諭すようにせよ。アメリカ使節への応接の趣旨を考え合わせ、取り計らうこと。
長崎交渉後の日本側の状況が変わったのと同様に、ロシア側の状況も大きく変わった。ロシアが英仏に宣戦布告(クリミア戦争)をしたのである。長崎を出航したプチャーチンはマニラに向かったが、その途中の那覇で、ペリーが二日前に江戸を目指して出航したとの報告に接した。プチャーチンは、イムペラートルスカヤ湾でパルラーダ号からディヤナ号に移乗し、箱館、大坂を経て、1854年12月4日、下田に入港し、ディヤナ号を英仏艦隊の攻撃に備えた。12月20日プチャーチンは下田の福泉寺で筒井、川路の両全権と対面し、翌21日両全権は答礼としてディヤナ号を訪問して歓迎され、贈り物を交換した。22日長楽寺で実務交渉が開始された。第一回会談では、国交・通商・開港について話しあった。
下田での交渉は天災のために一時中断した。1854年12月23日駿河地方での大地震が発生したのである。下田は地震と津波によりほぼ壊滅した。ディヤナ号は船尾材など致命的な損傷を受け大規模な修理が必要になり、プチャーチンは下田にはこのための場所がないことからほかに適地を与えてくれるように日本側に申し入れ、西海岸の戸田港でディヤナ号を修理することにした。戸田は天然の良港で、完全に外界から閉鎖されていて、戦争中に軍艦を修理するという点でもよい条件であった。プチャーチンはディヤナ号を戸田へ向けて動かすことにしたが、強風で富士川河口の宮嶋村まで流され、駿河湾に沈没した。プチャーチンらは沈没するまでのあいだ、荷物の荷揚げを行い、村民も総出で浜辺に出てこれを応援した。宮嶋村も地震の被害を受けており、それでもプチャーチンらを助けてくれたことに、プチャーチンは「幕府がただちに派遣した役人たちは、われわれの不幸に心から同情し、われわれを厳しい冬から守るために家屋を急造し、救済に百方手を尽くしてくれた。しかもわれわれが上陸した戸田の地点では大地震のため全家屋が倒壊していたことを考えるならば、われわれに対する日本人の人類愛の心づかいは、賞賛にあまりある」と書いている。
修理を待つ間も、思わぬ事態で遅れた会談を進めなければならなかった。第二回の会談は1855年1月1日に再開され、結局1855年2月7日に下田の長楽寺に日露の全権が集まり条約交換の儀式が行われた。条約の内容は次の章で述べることにする。
祖国への帰還を急ぐプチャーチンは、快速船の建造を決意した。ディヤナ号にあった製図と用具はすべて消失したが、“帆船の経験” という論文と製図がのっている『海軍論集』誌が発見された。プチャーチンは部下に命じてその資料によって新造艦の設計図をひかせた。彼が日本側の誰にこの考えを伝えたかは不明だが、抵抗どころか、すこぶる積極的な支持を得、さっそくこのことが上部に上申されたとコロコリツェフの文章にある。銅・鉄・その他の資材は江戸から送付された。用具も人手も足りなかったが、日本側は一部の用具を沼津と江戸で造らせ、優秀な鍛冶職や大工を江戸に差し向け、彼らは西洋式帆船建造の技術を学んだのである。日露両国の人々により作られた、この小型帆船にプチャーチンは「ヘダ」号の名を与えた。このことはつい最近まで法律により大型船建造を許されていなかった日本の造船業に大きな影響を与えたと言える。
第三章 日魯通好条約と日米和親条約締結
プチャーチンよりも一足早く1854年3月31日に、ペリーは日米和親条約の調印を勝ち取っている。ペリーはこの条約により、下田・函館の2港を開港せしめ、漂流民救護、食料・飲料水等欠乏品の補給、領事の駐在、最恵国条款等の承認を取り付けた。日本退去に際し、琉球諸島、小笠原諸島の戦略上の優位性とその占有を主張したが、本国政府の認めるところとならず、香港経由で帰国している。
プチャーチンは1855年2月7日に日魯通好条約を日本と締結している。日露両国の国境は千島諸島では、エトロフ島とウルップ島の間に引かれ、サハリンについては「『カラフト』島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし」とし、境界線を引いていない。この条約で日本はロシアに下田・函館・長崎を開港している。3港を開いたのは、米国には下田・函館の2港であったから、より優遇したことになり、欠乏品の代価に米国と違って金銀銭だけでなく品物を持ってあてることができるようにしたのも、通商を認めることに一歩近づいている。もっとも重要なのは、領事裁判権の規定で、これは米国との条約にはなく、しかも日本が一方的にロシアに認める不平等なものではなく、ロシアも日本に認める、総務的・平等な規定になっていた。日魯通好条約は日米和親条約より進んだ内容であり、かつ日本を対等な存在と認めるものだと言うことができる。
こうしてロシアは約100年に渡る多難な試みのあげくに日本との国交を樹立した。しかしロシアは米英仏と違って、日本に軍事的強圧を与えなかった。日本との衝突を避けたばかりでなく、日本との善隣関係の支持、経済交流の発展に努力した。ロシアは、日本が西側列強の植民地になってしまうことに反対した。露日関係が崩壊し、極東のロシア領土を脅かすことを懸念したからである。
おわりに
全体を通じ、アメリカが圧力をかけて日本に開国を迫ったのに対し、ロシアは軍事的な圧力をかけることなく、日本との交渉を進めていった過程を見てきた。プチャーチン・ペリーらの来航・開国交渉は日本の歴史に大きな変換をもたらした。そしてプチャーチンよりも、ペリーの黒船での来航は、当時の日本の民衆にも大きな影響を与えたし、最初に日本を開国させたこともあり、現在でも日本人に広く知られている。しかし、もちろん外交的なことなので駆け引きなどがあるし、無理な交渉などもあったが、日本側の全権とプチャーチンらはお互いを尊敬し、信頼しあい交渉を進めていった点にペリーとの大きな違いがあるといえるだろう。
このことは、これからの外交でも学ぶべきだろうし、民間レベルの交流でも、両国の関係を良くしていく点で大事なことである。プチャーチンらと接した日本の役人たちはその態度に感心し、プチャーチンを信用し、前向きな姿勢で交渉に臨んでいる。日魯通好条約締結後、川路が江戸で条約締結の報告をした結果、領事規定について幕府内で強い反発が出た。条約締結後ではあったが、川路がプチャーチンに窮状を訴えると、「貴国政府が不満で、あなたが迷惑するのを望まないので、本国政府にしっかりと伝え、ロシア官吏が下田、あるいは箱館に渡来する以前に、一人をよこし、日本政府より官吏差し置きの件について全権ある人と交渉するようにしよう。日本において、そのときまで外国の官吏を置いていない場合である。」とプチャーチンも川路に対する友情の現れだと思うが、ぎりぎり川路に歩み寄りを見せたりもしている。
幕末期のプチャーチン・川路らのように、これからの両国も信頼しあい良好な関係を結んでいけるようにしていきたい。
年表
年代       / ロシア / アメリカ / 日本・その他
1695(元禄 8) / デンベイ漂着 /  / 
1710(宝永 7) / サニマ漂着 /  / 
1729(享保14) / ゴンザ・ソーザ漂着 /  / 
1736(元文元) / ペテルブルグに日本語学校創立(〜1816) /  / 
1745(延享 2) / 多賀丸船員ら漂着 /  / 
1782(天明 2) / 大黒屋光太夫ら漂着 /  / 
1791(寛政 3) /  /  / 寛政令
1792(寛政 4) / アダム=ラクスマン光太夫らを連れて来日 /  / 
1793(寛政 5) / アダム=ラクスマン、長崎入港の信牌を得て帰国 /  / 
1798(寛政10) / 近藤(重蔵)守重、択捉島に大日本恵土呂府の標柱を立てる・高田屋嘉兵衛エトロフ航路開拓 /  / 
1804(文化元) / レザーノフ来日 /  / 
1806(文化 3) /  /  / 文化令(薪水供与)
1808(文化 5) /  /  / フェートン号事件
1811(文化 8) / ロシア艦、クナシリ島上陸・略奪・松前奉行支配調役奈佐政辰ロシア艦長ゴロヴニンを捕らえる /  / 
1812(文化 9) / ロシア船長リコルド高田屋嘉兵衛を捕らえる /  / 
1825(文政 8) /  /  / 文政令(異国船打払令)
1836(天保 7) / ロシア船、漂流民をエトロフ島に護送 /  / 
1837(天保 8) /  / モリソン号事件(アメリカ船モリソン号が浦賀に入港、浦賀奉行これを砲撃) / 
1842(天保13) /  /  / 天保薪水令
1846(弘化 3) /  / 米国東インド艦隊のピッドル浦賀来航 / 
1849(嘉永 2) /  / 米国東インド艦隊のグリン票流民の救出に長崎来航 / 
1851(嘉永 4) /  / 土佐漁民中浜万次郎(ジョン万次郎)ら米船に送られ琉球に上陸 / 
1853(嘉永 6) / (8月)プチャーチン長崎来航・クリミア戦争勃発 / (7月)ペリー艦隊の第一回来航(浦賀) / 徳川斉昭、中浜万次郎より海外事情を聞く
1854(安政元) / ディヤナ号沈没 / (2月)第二回ペリー来航、横浜で交渉・(3月31日)日米和親条約締結 / 駿河地方で大地震
1855(安政 2) / 日魯通好条約締結 /  / 
1856(安政 3) / ロシア使節ポシェット下田来航、条約の批准書交換 / アメリカ総領事ハリス下田着任 / 
1858(安政 5) / ゴシケーヴィッチ、箱館の領事館の初代領事として着任 /  /   
 
女性の貞節 / 明治初期の日欧文化衝突

 

はじめに
幕末から明治初期にかけて来日した欧米人の見聞記には、日本の習慣と西洋のそれとの違いについて言及しているものがある。なかでも日本の裸体習俗については、多くの欧米人が書き残している。日本のあちらこちらで見受けられた裸体は、欧米人にとってはショッキングで、理解しがたいものであったようだ。しかし、その受け容れがたさにもそれぞれの欧米人によって差があった。
異なった文化や価値観に接したとき、それを受け容れるか、拒絶するか、既得の文化と融合させるか、全く新しいものを採用するか、さまざまな対処のし方があろう。欧米人のなかにも、日本の裸体習俗を野蛮なものとして拒絶した場合や、日本人がなぜそのような習慣をもっているのか理解に苦しみながらも受け容れようと努めた場合があった。
本稿では、日本の裸体習俗に接した欧米人に生じた、女性の貞節をめぐる葛藤をとりあげ、欧米人が異文化をどのように受けとめたのか見てみたい。
一 欧米人の来日
ながく鎖国体制をとっていた日本も、一八世紀末から一九世紀にかけて、世界史の流れに巻き込まれざるをえなくなった。一八五三(嘉永六)年に至って、ペリー来航を契機に開国を迫られた。翌一八五四(安政一)年には日米和親条約を締結し、ついでイギリス・ロシア・オランダとも和親条約を結んだ。一八五八(安政五)年には日米修好通商条約に調印し、オランダ・ロシア・イギリス・フランスともほぼ同じ内容の条約を結んだ。その結果、下田・箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港や江戸・大阪の開市を認めた。このような動きを背景として、幕末から明治にかけて多くの欧米人が来日した。表は、明治初期に在日した外国人の数を示したものである。これらの外国人には、鎖国体制下以来の中国人が最も多かったが、そのほかでは、当時の外交関係で重要な地位にあったイギリス・アメリカ・ドイツ・フランスなどの外交官、貿易商人、宣教師やいわゆるお雇い外国人が多く含まれた。
欧米人の来日は、さまざまな文化衝突をもたらした。一方的に日本文化や日本人を非難した欧米人もいたが、デュパンやオールコックのように、異文去たる日本を西洋文化の基準に照らして非難することの誤りや、公正に評価することの難しさを説いた者もあった。
○ 日本では、不品行や放蕩が君臨していると、多くの人たちが言ったり書いたりしているが、かれらは間違った物の見方をしてきている。というのも、かれらは問題を間違って捉えたか、あるいは悪意を持っていたかである。この国の風習は、われわれの風習とは全く異なったものなのである。多くの物事について、日本では同じ見方をしないからといって、またわれわれの類例の総てを日本ではきっとだれも持ち合わせていないからといって、十分に物事を見もしないで、またあらゆる事柄を考慮に入れずに非難するのは正しくはない。
オールコックは、他人が書いた次のような文章を引用している。
○ 「外国を正しく評価することは、この世でもっともむずかしいことのひとつだ。われわれが外国を十分に知っているようなことはめったにない。われわれが実際に見るものを公正に判断するようなことは、なおさらまれである。われわれじしんの特殊な気質にしたがって過小評価したり、過大評価したりする傾向は、それほど強いのである。」
これに付け加えて彼の意見として、「日本のような国については、われわれがひじょうに不完全にしか知らないことを十分かつ公正に判断することは困難で、それはほとんど不可能に近い」と書いている。
モースやスエンソンは、欧米人が日本人の習慣を野蛮だと思うように、日本人のほうも欧米人の習慣を野蛮だと思うことはあると指摘した。
○ 私は日本人が見る我々は、我々が見る日本人よりも無限に無作法で慎みがないのであることを断乎として主張する。我々外国人が深く襟を切り開いた衣服をつけて、彼等の国にないワルツのような踊をしたり、公の場所でキスをしたり(人前で夫が妻を接吻することさえも)その他いろいろなことをすることは、日本人に我々を野蛮だと思わせる。(中略)日本人のやることで我々に極めて無作法だと思われるものもすこしはある。我々のやることで日本人に極めて無作法だと思われることは多い。
○ 日本人の目にも、西洋人の習俗習慣のうちの多くが、われわれが日本人に対して感じるのと同じように不愉快なものとして映っている。なかなか口に出さないが、無理に求めればわれわれの欠点を指摘して責めでくる。(中略)日本人はわれわれが不潔だといって非難し、その証拠のひとつとしてハンカチの使い方をあげてくる。日本人が漢をかむ時はその目的にかなった小さな紙片を使用し、使用後はただちに捨てる。それに反し、われわれ西洋人は一日中不潔なハンカチをポケットに入れて持ち歩く。それがどうしてもわからぬというのである。たしかにその言い分に一理あるのは否めない。
欧米人が日本の習慣にカルチャーショックを受けたと同様に、日本人のほうでも欧米人の行為を非難したことがわかる。欧米人が、公の場所でキスをしたり、ハンカチで漢をかむことは、日本人にとっては「野蛮」「不潔」であった。イサベラ・バードは次のような経験をしている。
○ 宿の奥さんと伊藤(イサベラ・バードの通訳−引用属名)は、私のことを人目もかまわず話していた。私は、彼らが何を話しているのかときいてみた。すると彼は、「あなたはたいそう礼儀正しいお方だと彼女が言っています」と答えてから「外国人にしては」とつけ加えた。私は、それはどういうことかと更にたずねた。すると、私が、座敷に上る前に靴を脱ぎ、また煙草盆を手渡されたときにおじぎをしたからだと.わかった。
欧米人が、靴を脱いで室内に入るという習慣を破る例はほかに出てくる。こういつた日本ではごく日常的な行為さえ、欧米人にとっては未知のことがらであった。そういう行為をしない欧米人は、日本人から「礼儀正しくない」と言われなければならなかった。ポンペは「われわれが東洋国民の道徳や慣習を破ると、彼らの目にはわれわれが非常に低級に見えるようになるのである」と警戒している。
以上のように、幕末から明治初期にかけて、欧米人と日本の民衆が接触する機会が増えると、両者の習慣をめぐって衝突が起きた。そのなかで最も大きかったもののひとつが、本稿で取り上げる裸体をめぐる文化衝突である。
二 女性の裸体とその場面
(一) 女性の裸体
女性の裸体に言及したものとしては、次のような史料を拾いだせる。
○ 腰まで裸の、神から受けた人間の姿のままで、長い黒髪を湯で洗う、年のころは十八歳の娘。
○ 女性は上半身裸になる。身体にすっかり丸味がついたばかりの若い娘でさえ、上半身裸でよく座っている。無作法とも何とも思ってないようだ。たしかに娘から見ると何の罪もないことだ。日本の娘は「堕落する前のイブ」なのか。
○ われわれは、大東海道を進んでゆく。(中略)歯を黒く染めて墓穴のような口をした女たちは、夏であれば普通は腰まであらわにして、胸には銅色の「マーモット」〔蓄歯類の動物、ただしここでは女性の乳房をさす〕をしがみつかせ、一目見んものと店の戸ロに出てきたり、大通りにつづく小路や通りをかけてくる。
○ この国の人々がどこ迄もあけっぱなしなのに、見る者は彼等の特異性をまざまざと印象つけられる。例えば往来のまん中を誰れはばからず子供に乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける。
○ 多くの女性客は、燃えるような切長の眼を、舞台に釘づけにしたまま、なんの気取りもなく着物の胸をはだけ、赤児に乳を呑ませている。男性客となるともっと無遠慮で、しばしば素裸になってしまい、その浅黒い身体には、これ以上脱ぐわけにはいかぬ下帯、つまりイチジクの葉の代用ともいうべき白い手ぬぐいを紐で腰に巻きつけただけの姿になってしまう。
通りから見えるところで上半身裸になって髪を洗ったり、胸をあらわにしたままで外国人見物や授乳をしている女性に驚いている。欧米人にとってさらにショッキングであったのは、日本人の入浴をめぐる習慣であって、しばしば喫驚の感想とともに書きとどめられている。ポンペは長崎で五年間ほど暮らしたなかで、次のような光景を見ている。
○ ふつうはほとんどどの町にも銭湯があって、大きな浴槽があり、浴槽には満々と熱い湯を湛えていて、誰でも二、三文の銅貨を払えばこれに入ることができる。この銭湯ではまことに不思議なことがたくさん見られる。すなわち浴場では男も女も子供もいっしょに同じ浴槽に入る。(中略)一風呂浴びたのち、男でも女でも素裸になったまま浴場から街路に出て、近いところならばそのまま自宅に帰ることもしばしばある。
パンペリーは、箱館の公衆浴場について次のように書いている。
○ どこの家にも風呂はあるが、町なかにはたくさんの公衆浴場があり、そこではわずかな代金でもっと贅沢な洗い流しができる。これらの公共的な場所は、他の何にもまして目を惹くこの国の施設である。そこには、 「男湯」、「女湯」と記した入口がある。ところがこの仕切りは敷居を越えると終っていて、中に入るとすぐに男、女、子供たちがお互いにごしごし洗っているのが見られる。彼らは冷い水と熱い湯をかぶるのを愉しみながら、声高なお喋りと笑いとで、室内をまったく騒々しいものにしている。
このほか、混浴については多くの欧米人が書いており枚挙に暇がないほどである。混浴そのものが欧米人にとってショッキングであったことはいうまでもないが、その光景は見たくなければ見ずにも済む。しかし、入浴後難のままで帰宅する姿や、外国人を見物しようと公衆浴場から通りにまで裸で飛び出してくる族には手のうちようもなかった。
○ 「何と聖なる単純さだろうか!」とわたしは認めるであろう。わたしが一軒の公衆浴場の前を始めて通ったとき、そこに素っ裸の三、四十人の男女をみた。わたしの腕時計の鎖に吊り下げていた風変りな形をした赤い珊瑚の大きな塊を、もっと近くで観察しようとして、好奇心にかりたてられた彼らは、何とぞの浴場から飛び出してきたのである。
○ 公衆浴場について何度も語られてきた。他人が見た場面は随分話に聞いたが、私が見たのは江戸で乗馬中のことだった。男女の入浴者が入り乱れて、二十軒ばかりの公衆の小屋から、われわれが通りすぎるのを見物するために飛び出してきた。皆がみな何一つ隠さず、われわれの最初の両親〔アダムとイブ〕が放逐される前の、生まれたままの姿であった。こんなに度肝を抜かれたことはなかった。
○ 群衆の方は、興奮して夢中になっていた。到るところで辻や横町の住民たちが、われわれの通るのを見物するためにどっとあふれ出した。(中略)入浴中の男や女は、石鹸またはその日本的代用品のほかには、身にまとうものもないことを忘れて、戸口に集っている。
○ 横手は人口一万の町で、木綿の大きな商取引きが行なわれる。(中略)町の中を歩いて通ると、人びとは私を見ようど風呂から飛び出てきた。男も女も同じように、着物一枚つけていなかった。
(二)裸体の場面
上記のように、欧米人の見聞記には、日本人の(半)裸体での生活ぶりがしばしば描かれているが、民衆は誰でものべつまくなしに裸体になっていたわけではない。どのような場面でどのような人びとが裸体で生活していたのかみてみたい。
○ 日本人はシャツを着ないが、毎日入浴する。女子は赤い縮緬の嬬衿を着る。夏の間、農民や、漁師や、職人や労務者はほとんど真裸で働く。そして、この人々の女房たちは、腰の回りに一枚の布を巻いているだけである。
○ 庶民の服は、暖かい季節にはできるだけ軽くされ、腰の部分を覆う帯〔揮〕一本だけになる。けれども実際は、それすらも象徴的な役割しか果たさず、ほとんど丸裸である。
○ 長崎では下層民の群衆を見て、第一に目につくのは、前にも云ったやうに、裸体であった。
○ 長崎と同様、この地(下田  引用者註)でも貧しい階層の人たちは衣装が簡易で、男はほとんど下帯だけ、女はふつう腰から上を露出している。
以上のような記述から、半裸体で生活する人びとに共通するのは、夏の暑い時期にそのような姿になっているということ、しかも下層階級の人びとであるという点である。オールコックも「男は幅のせまい下帯〔ふんどし〕一本、女はいたましくも横幅を『節約した』ペチコート〔腰巻〕だけを、まとうという下層階級の夏の服装を見なれた。」と書いている。したがって、寒ければ服を着る。
○ 箱館の大通りまでは、数歩でゆける。空気はすがすがしく、北風が吹いている。それゆえに、長崎に到着したヨーロッパ人が最初に驚かされる裸体姿はどこにも見当たらない。ただし、多数のオール(擢)をつけた大きな小舟の漕ぎ手は例外だ。かれらは、はげしい労働のためにはだかになり、ヨーロッパにおけると同じようにオールを手もとへ引きつけ、大声で単調ではあるがすばらしい歌をうたいながら舟を漕いでいる。陸上では、男も女も子供も、だれもがきちんと衣服をまとい、寒風から身をまもっている。
冬でも「はげしい労働のために」半裸体で通したのは労働者であった。カッテンディーケは「苦力や漁師たちは、少なくとも長崎においては、冬でもほとんど裸体で仕事をしている」と、グリフィスは「働く人はよくふんどし一枚になっている」と書いている。リンダウが日本の海岸から二〇マイルのところで出会った漁師は、「腰に巻いている幅の狭い揮を除けば、素っ裸」であった。 「すそをからげて帯にはさみ、下半身と足はほとんど腰のところまでむき出しにした」駕籠かき、「腰にまわした幅の狭いベルト〔揮〕のほかはまつたくの裸」の角子のほか、川越し人夫、人力車夫、飛脚、荷運び人足、別当なども半裸体であった。特に重労働に携わる人びとにとって、(半)裸体という姿は、やむにやまれぬ事情があったようだ。
○ 人夫たちは、この法律(明治五年に出された裸体禁止についての法律-引用者註)に強く反発している。彼らにも、もっともな理由があるようだ。つまり彼らの言い分では、もし作業中に衣服の着用を強制されても、かれらの稼ぎではそれを守ることはできない。着衣の傷みのほうが自分たちの賃金でまかなえるよりも大きいからだというのだ。
重労働であるがゆえに、衣服の傷みもはやい。それならば、最初から脱いでしまえということなのであろう。
女性の場合には、上記のような重労働に携わることはないが、それでも夫婦で荷車を引く場合や、炭坑で働く女性は半裸体であった。また、家事をする場合でも次の史料の下女のように半身裸になることがあった。
〇 一人の下男が私の夕食のために米をといだが、その前にまず着物を脱いだ。それを炊く下女は、仕事をする前に着物を腰のところまで下した。これは品行方正な女性が習慣としていることである。
ヴィチェンツィオ・ラグーザが一八八○年に描いた『京都風俗』という絵の中の二人の若い女中は、上半身裸のまま石臼で粉をひいている。イザベラ・バードが見た米を炊く下女にしても、ラグーザが描いた石臼をひく女中にしても、夏という季節のせいもあろうが、家事をするのに衣服が邪魔になるので上半身裸になったのであろう。女性は、家事のほかに、化粧や洗髪、家事、授乳、行水、入浴など基本的に衣服が邪魔になる場合に、上半身裸あるいは全裸になった。スエンソンは次のようにいっている。
○ 日本女性が自分の身体の長所をさらけ出す機会を進んで求めるような真似は決してしないことは、覚えておいてよいだろう。風呂を浴びるとか化粧をするとかの自然な行為をする時に限って人の目をはばからないだけなのである。
民衆の裸体についての記事が、欧米人によって書かれた見聞記に散見されることからもうかがえるとおり、その習慣は当時の日本のいたるところで見られた。長崎・下田・箱館・江戸など欧米人が滞在していた地域でも、もちろん見られた。ただ、地域によって、人びとの露出の程度にかなり差があったようである。モースは、日光の諸寺院を回って中禅寺湖や男体山のあたりまで行った際の記録のなかに次のように書いている。
○ 奥地へ入って見ると、衣服は何か重大なことがある時にのみ使われるらしく、子供は丸裸、男もそれに近く、女は部分的に裸でいる。
イサベラ・バードは通訳とふたりで日光から会津・新潟・山形・新庄・横手・青森など、一般の欧米人が行きそうにもないところを旅行してまわった。日光を離れて「奥地」にさしかかったころ、人びとのようすに驚いて次のように書いている。
○ 私は見たままの真実を書いている。もし私の書いていることが東海道や中仙道、琵琶湖や箱根などについて書く旅行者の記述と違っていても、どちらかが不正確ということにはならない。しかしこれが本当に私にとって新しい日本であり、それについてはどんな本も私に教えてくれなかった。日本はおとぎ話の国ではない。男たちは何も着ていないと言ってもよいだろう。女たちはほとんどが短い下スカートを腰のまわりにしっかり結びつけているか、あるいは青い木綿のズボンをはいている。
奥地では都市部にくらべより裸体が日常的であったようである。また、イサベラ・バードは日光を離れた藤原で「何人かりっぱな家のお母さん方が、この服装だけ(短い下スカートをつけているだけー引用転註)で少しも恥ずかしいとも思わずに、道路を横ぎり他の家を訪問している姿」を見かけているから、奥地では裸体姿は下層階級に限ったものでもなかったようだ。
以上を要約すると、幕末から明治初期にかけて、民衆の(半)裸体の姿は、地域や老若男女を限らず見られた。しかし、のべつまくなしに裸体をさらしていたわけではなく、女性の場合であれば、家事、化粧や洗髪、授乳など一定の状況下でのことであった。裸体をさらす人びとは一般的に、夏の暑い時期に、男ならば揮、女ならば腰まきの姿になった。重労働に携わる人びとは冬でも半裸体のままで仕事をした。半裸体で生活する人びとは、少ない収入が衣服の消費においつかないような下層階級であった。ただし、奥地へいくと村役人層の女房でも半裸体で、男や子どもの場合も、都市部に比べ裸体姿がより日常的であった。
三 女性の貞節という問題
日本の女性が裸体をさらして渾らないようすは、欧米人に、女性というものについての混乱をもたらした。
〇 三日目の朝は嬉野に、夕方は武雄に、それぞれ硫黄温泉を見つけた。最初にわれわれが訪れた湯治場は、街路からあけすけに見えるところにあり、入浴者を日光からさえぎるための小屋の屋根があるだけだった。われわれが近づいたときに、中年過ぎのひとりの婦人が温泉のふちへ上ってきた。あとには、まだ五、六人置婦人が湯につかっていた。この婦人は、いっさいの自意識や当惑といったものをまったくもち合わせていなかったので(中略)口うるさい世間をも恐れず、因襲的な作法が定めた勝手なおきてなどをすこしも意に介せず、身にまとうものがなくてもなんの恥ずかしさも感じないとは。かの女は体を洗っていたので、清潔だった。かの女にはひとつの仕事をすませたという意識があるだけで、そのことをたまたまそこを通りがかった他人が知ったり見たりしていけない理由はない、と考えていたことは明らかである。
○ それよりももっと遠慮のないのは隣家の二人の若い女であって、彼等は突然河に入って沐浴をし、その限りない純真さでヨーロッパ人の目に姿を曝すのであった。
○ 下田の谷地を松崎の方へ上っていった。初めての温泉を訪れた。(中略)私は、子供をつれて湯に入っている一人の女を見た。彼女は少しの不安気もなく、微笑をうかべながら私に、いつも日本人がいう「オハヨー」を言った。
「いっさいの自意識や当惑といったものをまったくもち合わせていなかった」「遠慮のない」「少しの不安気もなく」といった表現は、欧米人(しかも男性)に裸体を見られた日本の女性に、当惑や遠慮や不安気があってしかるべきなのにそれがないという欧米人の困惑をよく表している。
次の、ジョンストン大佐、パンペリー、モースのように、女性についての「観念」「先入観」に対して「克服しがた」いショックを受けた欧米人もいた。ジョンストン大佐は、下田の通りを歩いていたとき、公衆浴場で混浴している人びとを見かけ、次のような感想を書き留めている。
○ そこでは男・女・子どもあらゆる年齢階級の人たちが、いちじくの葉もつけずにびちゃびちゃ音をたてて熱い湯の中にいた。(中略)彼らは、自分自身を露出させることがなにか無作法なことと結びつきうるであろうということを意識していなかったように思える。奇妙な人たち!とわたしは思った。女性のデリカシーという問題について、わたしがこれまで抱いていたあらゆる観念に対するたいへんなショックは容易には克服しがたかった。
パンペリーは箱館で次のような体験をした。
○ われわれが屋内の浴室に入ったとき、鉱山頭の妻が家族と入浴していた。わたしが引き返す暇もなく、夫人は風呂から上がって来た。彼女は上品に風呂に入るよう勧めながら、皆が入るには狭いので、自分は子供たちと別の浴室にゆくつもりだと告げ,た。いっさいが奥床しく運ばれ、彼女の方にはいささかの困惑もなかったため、わたしは礼節に関する先入観に対して、どちらの方向から次のショックがくるかがわからなくなり始めた。
モースは、中禅寺に向かう途中の足場の悪い場所で二人の娘に手をかそうとして「遠慮深く」「ゴメンナサイ」と断られた。温泉で二人に再会したときのようすを次のように書いている。
○ この時々の中から「オハヨー」というほがらかな二人の声がする。その方を見て、前日のあの遠慮深い娘二人が裸で湯に入っているのを発見した私の驚きは、如何ばかりであったろう。
欧米人が持っていた女性というものについての観念−裸体を男性に見られることを嫌う、は日本の女性には通用しなかった。欧米人にとって、そのような日本の女性の裸体は、貞操、貞節を危うくするものと考えられた。
○ 或る時ヒュースケン君が温泉へゆき、真裸の男三人が湯槽に入っているのを見た。彼が見ていると、一人の十四歳ぐらいの若い女が入ってきて、平気で着物を脱ぎ、「まる裸」となって、二十歳ぐらいの若い男の直ぐそばの湯の中に身を横たえた。このような男女の混浴は女性の貞操にとって危険ではないかと、私は副奉行に聞いてみた。
欧米人にとって、女性の裸体は貞操、貞節とはほど遠いものであったのだ。そのような欧米人のとらえ方は、裸体についての欧米人の固定観念ともかかわる。裸体をさらすことは、欧米人にとっては「破廉恥」「野蛮人みたい」「淫ら」なのである。裸体が破廉恥、淫らであるなら、女性の貞節と結びつくはずもない。
いっぽうでは「遠慮深く」「この音なく繊細で厳格」で「独特の鄭重さと、控へ目ではあるが快活な態度」をもち、「大抵の東洋諸国民よりも道義が優れてみる」「何事にも間違いのない」日本人が、「品の悪い」混浴をしたり、平気で裸体をさらす。欧米人にとって、この日本人の気質と裸体習俗は矛盾するものとして映ったようである。そこで欧米人はこの矛盾について何らかの説明をしょうと試みた。
○ 日本女性は慎み深さを欠いているとずいぶん非難されているが、西欧人の視点から見た場合、その欠け具合は並大抵ではない。とはいえそれは、本当に倫理的な意味での不道徳というよりはむしろ、ごく自然な稚拙さによる。
○ 日本の女は非常に貞淑であり、またこの国の道徳に反しないように、身持ちを草しむように心掛けていることは、認めなければならないが、話を交わすうちに、女も一般に差恥心を持っていないということが明らかに見透される。ところが日本人のそうしただらしなさは、ただ表面的で、実際はさほどでもないのである。
○ かれらのあいだで多年生活した人びとが主張しているように、かりに最上の服装をまとっているヨーロッパ人の多くよりも、日本の女の方が貞節であり、日本の男の方が道徳的だとしても、被服についてのべたこの記事の結論としては、一般に想像されている以上に純粋に慣例にもとづいている面がつよいというふうにいわざるをえないようだ。
「ごく自然な稚拙さ」「だらしなさ」「純粋に慣例にもとづいている」など、それぞれの説明をしている。これらのほかに、多くの欧米人が出した共通した結論は、日本人には裸体を人前にさらすことに対する差恥心がないというものであった。
○ 天井の低い、蒸気であふれた部屋に入ると、そこには生まれた時とほとんど変わらぬ格好をした裸の男女が何人も、地面を掘って石で固めたところへ湯をはった浴槽につかっている。麻縄が境界線として使われていて、ふたつの浴槽、男と女を隔てるのに板の衝立を使うことなどほとんどない。男も女もおたがいの視線にさらされているが、恥じらったり抵抗を感じたりすることなど少しもない。
○ われわれが差樽心と呼んでいる感情は、この国の人々の知るところではない。男も女も、毎日銭湯で顔を合わせることに慣れている。銭湯には皆が一緒に入る浴槽がある。
○ この上なく繊細で厳格な日本人でも、人の通る玄関先で娘さんが行水をしているのを見ても、不快には思わない。風呂に入るために銭湯に集まるどんな年齢の男も女も、恥ずかしい行為をしているとはいまだ思ったことがないのである。
○ 庶民の間では、差恥心は弱い。例えば、公衆浴場では男女が全裸のままで混浴するし、人生の種々相をありのままに演じてみせる劇場は堕落を教える学校である。
○ 決して日本が一ばん不行儀な国であるとは言わないが、しかしまた文明国民のなかで、日本人ほど男も女も差傘心の少ない国民もないように思われる。風呂は大人の男も女も、また若い男女も皆一緒に入るのであるが、男も女も真っ裸で風呂から町に出ているのを往々見かける。
○ 鳴呼、何という聖なる単純さだろうか!それは少しも世の批判を恐れるものではない。しかも、決していかなる月並な「礼儀」作法によっても酷評されるものではない。着物を付けていないことへのいかなる差恥心をも、彼らは持ちあわせていないのである。
いずれも、日本人には裸体をさらすことに対して董恥心がないと言っている。また、ムンチンガーは、日本人には、裸体を見ることによって衝動が起きるということはないという。
○ ヨーロッパ人のなかには、日本人のような文明国人がからだ全体や一部をこうも露わにすることに驚くものが少なくないが、これは常に慎み深く着物をつけている中国人とは全く反対である。私は少なからぬ旅行者がこのことについて道徳的に憤激するのを見た。しかしそんなに怒る必要はないのだ。日本人はそんなことは何とも思っていないのだから。そんな時日本人の頭には、多くの西洋人が思い描くような堕落した想像の罪深い光景など全く起こらない。この自然児たちの目は、裸の官能的魅力には開かれていないのだ。
しかし、欧米人が書いているように、日本人は、差恥心をもたなかったわけでも、「裸の官能的魅力に開かれていな」かったわけでもない。日本人が裸体をさらして悼らなかったのは、日本人のなかに、裸体を見つめてはいけないという暗黙の約束事があったからだと解したいつむしろ、裸体をさらすことによって、互いに見つめあわない、淫らなことを起こさないという秩序をつくり出していたといえよう。露出することによって、自己抑制をはかり、「衝動の断念」を可能ならしめたのである。次のイサベラ・バードの文章はそのあたりをよく示している。
○ 浴場は四つあるが、形式的に分れているだけで、入口は二つだけで、直接に入湯者に向って開いている。端の二つの浴場では、女や子どもが大きな浴槽に入っていた。中央の浴場では、男女が共に入浴していたが、両側に分れていた。(中略)浴場においても、他の場所と同じく、固苦しい礼儀作法が行なわれていることに気づいた。お互いに手桶や手拭いを渡すときは深く頭を下げていた。日本では、大衆の浴場は世論が形、、つくられる所だ、といわれる。ちょうど英国のクラブやパブ(酒場)の場合と同じである。また、女性がいるために治安上危険な結果に陥らずにすむ、ともいわれている。
以上のように考えれば、女性の貞操、貞節ということと裸体は日本においては決して矛盾するものではなく、むしろ、裸体をさらすことによって生じる緊張感が女性の貞節を守っていたといえるだろう。次のハリスやパンペリ1の文章は、そういった日本人のあり方を端的に示している。
○ けれども、それ(混浴i−引用者註)が女性の貞操を危くするものと考えられていないことは確かである。むしろ反対に、この露出こそ、神秘と困難によって募る欲情の力を弱めるものであると、彼らは主張している。
○ この習慣(混浴−引用者註)はヨーロッパ人にはショッキングなものに思われるが、日本人の謙虚さや礼儀正しさとは完全に両立するものとみえる。明らかに貞淑な日本の貴婦人がそうすることに何の差し障りも認めない。
欧米人のなかには、日本の女性と西洋の女性の貞淑さ、女性らしさの違いにまで気付いていた者もいた。
○ 日本の娘は白人女性がどこまで計算して露出や巧妙な服の仕立てをしているかについては何も知らない。ちょっとした豊かな節約で、その方が男をひきつけるつもりの全くない裸の上半身よりも、悪い影響を及ぼす。
○ この帝国自体と同じくらい古くから続いているこの習慣(混浴一引用者註)の結果、若い娘は両親の前ですら、妻は夫の前で、ヨーロッパの御下人たちが慎みの無い視線から隠そうとするものを、見られるがままに、触られるがままにして、何の不都合も感じていないのである。その反面ヨーロッパの女性はと言えば、そんな視線を避けようとはするが、最も潔癖な人に対してすら、その欲望を掻き立てるべく媚の限りを尽くしたこの直なく賢明な振る舞いに出るのである。
○ 私は都会ででも田舎ででも、男が娘の踵や脚を眺めているのなんぞは見たことがない。また女が深く胸の出るような着物を着ているのを見たことがない。然るに私はナラガンセット・ビヤや、その他類似の場所で、若い娘が白昼公然と肉に喰い込むような海水着を着、両脚や身体の輪郭をさらけ出して、より僅かを身にまとつた男達と砂の上をブラリブラりしているのを見た。
○ まえの絵にえがかれている光景(「入浴中の日本の婦人たち」と題した挿し絵i引用鉱煙)は、われわれにとって入浴の底抜けさわぎのように見えるかも知れないが、この光景を実際に演じている者はだれでも入浴をすませて化粧を仕終えると、上の絵(「湯上がり」と題した、着物をきちんと着込んだ女性を描いた挿し絵−引用者註)に忠実にえがかれているように、女らしい遠慮と謙遜そのもののような様子をして浴場の戸を出る。この女は、最上の女性として非難の余地がない様子で、容貌といい風采といい、ともにロンドンやパリの街や公共行楽地にしばしば出入りするひじょうに多くの女たちよりもはるかに女らしい。
西洋文化は、裸体を、無作法、淫ら、不道徳とした。肉体の露出はおさえられ、そのことによって秩序を保ち、淫らなことが起こらぬようにした。その分だけ、露出には、人びとの非難や注目が集まる。西洋の女性は、人前で裸体をさらすことはなかった。しかし、深く胸の出るような服を着た。男たちの視線を集めるための計算高い露出である。
日本文化は、裸体を無作法とはしないが、裸体を見つめることを不道徳とした。互いの裸体を見つめあわないという暗黙の約束事によって秩序を保ち、淫らなことを起こさぬようにした。日本の女性は、裸体をさらして琿らなかった。しかし、その露出は計算されたものではなく、習慣としてのそれであった。
おわりに
日本の女性は、一定の状況下ではあるが、人前に裸体をさらして憧らなかった。幕末から明治初期にかけて来日した欧米人にとって、裸体は、無作法、破廉恥、不道徳で、女性の貞操、貞節とは相容れないものであった。欧米人は女性の裸体にショックを受けた。「淫ら」「品の悪い」と速断した者もあった。自らの属する西洋文化に照らして、それに反する日本文化を拒否したといえよう。
しかし、日本文化を受け容れた欧米人もいた。その受け容れ方とは、もちろん、自ら日本人のように裸体をさらすことではない。女性らしさや貞淑さの文化による違い、裸体をめぐる道徳の文化による違いを発見し、その違いを尊重するということであった。
結果としては、当時、文明開化政策をとっていた明治新政府が、欧米人の日本に対する野蛮視を怖れ、裸体禁止策を講じた。明治政府の側からいえば、異文化たる西洋文化を受け容れたことになる。その受け容れ方とは、欧米人のように、裸体をさらさないようにすることであった。自らの文化を野蛮幽したうえでの、西洋文化への同化であったといえるのではなかろうか。
 
『日葡辞書』が語る衣の風景

 

1.はじめに
着衣は、生活の根幹であるばかりでなく、生産や技術の程度を端的に示し、背景にある流通、さらには労働の形態をも示す。それだけでなく、当該の衣服を身に付ける者の社会的な位置、身分をも標識し、アイデンティティの形成に大きな役割を果たすものである。何をどのように着るかという点において、個人的な嗜好が占める割合は時代によって大きく異なる。着衣は、社会と地域と時代によって大きく規定される文化である。
さて、他の地域から訪れた他者の眼差しは、当該地域で共有してきた当たり前の日常に、未知なモノや新奇なコトとしての輪郭を与え、浮かび上がらせることができるといえよう。中でも来日したイエズス会宣教師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノによって「日本は、ヨーロッパとは全く反対に走っている世界である‥すべてのことにおいて言語に絶し理解し得ないほど相違は大きく、正反対である」と断言された16世紀末の日本の状況は、宣教師たちの記録によって、その輪郭を一層明瞭にしたといえる。
ヨーロッパ人という他者にとって、着衣とは、特定の着衣の文化を共有する社会集団との距離を保持できれば強制されるものではなく、価値観の差異として、違和感のみで看過しうる。「我等が美しいと思うもの、我等の眼によく見える色彩を一般に彼等は喜ばない。彼等の目を楽しませるものは我等には価値がない」としても、最終的には「きわめて清潔であり、美しく調和が保たれており」と観察者としての視線で棚上げできるのである。
しかし、イエズス会宣教師という布教者にとって、着衣の文化に対して目を背けることなく、馴致していく必要があった。「彼等の食事、饗応、娯楽、儀礼に接し、これらを堪え忍ぶことは、我等にとってこれほどの苦痛や苦行はなかったと言わねばならぬほどであり、我等イエズス会を統轄するに際しては、日本人の風習に順応させる事以上に困難なことはないと思われる。従来はこの点で多く欠けたところがあった為に、大きい成果を失ったのである」との反省に立つ宣教師たちにとって、その順応は試練であり、また使命でもあった。
それでは、宣教師たちが「至上の困難、最大の苦痛を伴って堪え忍んだ」現実とはどのようなものだったのか。
ポルトガル人宣教師たちの手になる『日葡辞書』に収録された3万余語はきわめて断片的であり、ある種曖昧で限定的である。読み方が示されていることで、国語学の基本史料と位置付けられてきたが、百科事典のように語意が全て明示されている訳ではなく、およその品名の分類にすぎない記述も多いことから、歴史的な史料としては等閑視されてきた。しかしながら、布教の前提としての語彙の実用性・汎用性は必須のものであり、実際の見聞から得られたという意味で、着衣の故実や伝統の概念から解放された、その時空間の現実を切り取ることができる。『日葡辞書』から衣服に関する語彙を抽出して整理することは、単なる衣類の羅列に止まらず、16世紀末の日本に展開した衣の風景を再構築するために有効だと考える。
本稿では、『日葡辞書』を軸に、天正13年(1585)宣教師ルイス・フロイスによって著わされた『日欧文化比較』をあわせながら、着衣の文化の一齣をたどりたい。
わたしたちを取り巻く環境のうち、400余年でもっとも変貌を遂げたものが衣類である。昨今次々に産み出される化学繊維などの普及で素材も多岐にわたり、生産や流通のシステムが変化し、安価で多種類の衣類が容易に選択・入手できるようになった。生活様式や生活空間の変容に伴った機能性が求められ、社会構造の変化に従って、身分等を標章していたモノがほとんど姿を消し、「和服」を着る機会も著しく減少した。「和服」における規範や作法も緩やかになり、嗜好や自己表現としてのデザインが重視されるようになった。このように過去と共有するものが極めて限られている現在、わたしたちもまた過去に対して、異世界から他者の眼差しを投げかけているのに外ならない。言い換えれば、規範や作法、嗜みの意識から解放された現在こそ、着衣の文化を対象化できることばを持つともいえよう。
2.宣教師のまなざし
身体が丸見えの薄衣
まず、宣教師たちの耳目を驚かせたのは、「衣更へ」の時期になると夏だからという理由で、人々が男も女も一斉に、ほとんど全身が透けて見える程の薄い「帷子」を着たことである。夏でも冬でも身体が見えるほど薄い衣服を着用する習慣のないヨーロッパ人にとっては、これこそ不面目極まりないものであった。さらに、礼節を重んじ、人々の善き模範となるべきヨーロッパの僧・宣教師たちにとって、世間と一線を画し、聖職者として同じ役割を担っている筈の、日本の坊主らが薄い帷子を着け、誰もそれを恥ともしないし、不面目とも感じていないことは、坊主らへの不信を一層倍加した。
男の衣服と女の衣服とが明確に異なるヨーロッパに対して、日本では、中央部が開き、前裾が少し短く仕立てられた小袖と帷子は男にも女にも等しく用いられた。
帷子の下が素裸だったわけではないが、下着の役割を果たした帷子もあった。部屋着としては帷子の上に短めのガウン「胴服」を重ねたが、戸外では、男は着物もしくは帷子の上に、前の開いた、彩色を施した、きわめてうすいサンベニトを着けるとあり、帷子に「肩衣」と木綿・麻製で両脇の開いた「袴」を重ねた姿、女は衣服の前が足の甲まで開いているという表現から、帷子に「帯」を締め、帷子を転用した「被衣」というマントを頭から被った姿がうかがえる。
すっかり露わになった肌
次いで、宣教師の目は薄衣だけでなく、貴賤を問わず、一年の大半素足で歩き、胸や腕を露出する女性、常に足を露わにして歩く坊主、衣服を汚さないように後がすっかり露わになるほど後を上げる男、ズボンを鼠蹊部まで捲り上げた小者にも向けられた。
そして、人々が肌を露出させている理由は、着物の構造上の緩さにあると納得する。ボタンや締帯に飾られて身体にぴったりと合う半面、窮屈でもある、ヨーロッパ人の衣服に比べて、日本の衣服はきわめて緩やかなので、容易にそして恥ずることなく、すぐに裸になり、冬には、男も女も手を身体の中に差し込むことができたという。服を人に合わせたヨーロッパと、人を服に合わせたしぐさをもつ日本との対比である。
色とりどりの衣服
さて、自らを取り巻くほとんどすべて日本人たちが、彩色した衣服を身に着けているという構図も、宣教師たちにとっては異様であった。彩色した衣服を着ることは、軽率で笑うべきことと考えられていたからである。
色は単に種類や明暗の表現にとどまらず、象徴する感覚を。「我等が明るく陽気と思う白色を、彼等は喪と悲しみを表わすものと考え、我等が喪中に身につける黒色と紫色を彼等は喜ぶ」といい、黒い衣服を白い糸で縫っても、日本では少しも不適当とは思わないことに呆れた。
また黒みを帯びた黄色の僧衣を「香染の衣」といい、坊主たちは黄色または緑色の服を着ることを名誉の色として喜んだが、宣教師にとって黄色は派手でいやらしい色と認識されていた。色が象徴する感覚、および認識を形づくるものが真っ向から反対しているようすがみてとれる。
彩色は、染めた糸を織りだした先染めと布地を染色した後染めとに分けられる。衣類の素材には絹、麻、木綿、紙、樹皮、獣皮がみられる。織る工程がうかがえ、多様な名称が並ぶのは絹織物であり、織り節、織り縞、織り模様もさまざまで、流通も国内のほか、中国からの輸入品が珍重されていたこともわかる。
染色材料は樹皮・葉・花・実・根・鉱石など多岐にわたり、染色にたずさわる染物師を「染物屋や」と呼び、染色した物の色を「染色」といった。染色の外に、絵や模を描くもの、刺繡や金箔、宝石等を縫いつけて装飾したこと、着物の意匠として、区画を設ける「腰明け」「片身変り」「四変り」「八つ変り」もみられた。
さらに、着物の首の部分に別の布地や織物などで作った細長い布切れを付け添えることを「輪をさす」「襟」、着物の裾の継ぎ合わせ布を「裾継」、繕いをしたぼろの着物を「色々衣」といった。
剥ぎとったままの皮
また、毛皮の使われ方にも度肝を抜かれた。牡鹿から剥ぎとって毛がついたままのものを着たり、身分のある人がその上に坐るため、侍童の帯の後に狐や山犬の皮を吊るして運ばせたり、や馬飾や馬具の飾鋲を使わずに、外側にした虎の皮の「馬衣」を使ったり、毛皮を内側でなく外側に着たり、狂気染みたこととしか思えないものが多々あった。加えて、きわめて巧みではあるものの、染料を用いずに藁の煙だけを用いて着色したり、武具の彩りに使うなど、ヨーロッパ人がみた日本における皮革の扱いは、理解の範疇を超えたものであった。
足の中程しかない履物
さらに、男たちの足元に目を凝らすと、わずかに足の中程しかない履物を履いているものしかいない。足を完全に載せた履物を探すと、坊主と婦人と老人のものばかりである。ヨーロッパでは物笑いになるところが、日本では立派なことだという。あまりに意表を突かれたのか、強調するかのように【われわれの間では足を全部地につけて歩く。日本では、足の半分の履物の上で足の先だけで歩く】と重ねて述べている。
しかし、ヨーロッパ人側の論理だけでなく、日本人側の論理にも言及しているのが履物に関する記述である。【われわれは履物をはいたまま家にはいる。日本ではそれは無礼なことであり、靴は戸口で脱がなければならない】、【ヨーロッパで、われわれの間では、貴人が君主の前に履物を脱いでいくならば、それは狂気の沙汰であろう。日本人は、どんな主人の前にでも、履物をはいたまま出ることは教育のないこととされている】といい、最後に【われわれは帽子をとることによって慇懃を示す。日本人は靴を脱ぐことによってそれを示す】と認知するのである。
以上のように、宣教師たちにとって、苦痛になるほど奇異なもの、困惑するものを拾い出すと「ヨーロッパとりわけ修道会員たちの間では、下品で破廉恥なものとされている」ものに終始する。身体が透けて見えるような薄衣は不面目であり、肌の露出は恥知らずで、彩色された衣服の氾濫は軽薄でしかなく、剥いだままの獣皮は全く狂気染みており、長さが足の中程しかない履物は物笑いの種である。しかし、かつてのように黒人で低級な国民と一言の下に切り捨てなかったのは、土足で家に入るヨーロッパ人自身の行為が無礼で無教養だと指弾され、それらが「巧みに道理づけられていた」ためである。
3.日本人の美意識
矯めつけて着る
それでは、日本人自身が違和感を持った着方とはどのようなものだろうか。まず、挙げられるのは習わしとは反対の着方である。
着物を裏返しに着ることを「反様に着り物を着る」、着物の前面右おくみをもう一方の左おくみの上に重ねることを「着る物を引き違ゆる」、着物あるいは帷子の一方の裾が他方よりも長くなるように着ることを「片前垂に着る」、着物の片方が他方より下がっているとか、長くなっているとかすることを「片下り」、履物など対で数える物の片方がもう一方と違っている場合を「片ちぐ」、裾が引きずるほどで、足の下に敷かれるような長い着物を踏みつけることを「踏みしだく」、足を包み隠すように、袴の裾を足の下に踏み敷くことを「袴を踏み含む」といった。
それらに対して、まっすぐに整えてきちんと着ることを「着る物を矯めつけて着る」、服装を整えるために着物をなおしたり、引っ張ったりすることを「身繕ひ」、着物の前側を整えることを「衣紋を刷ふ」といった。
外出などのため、着物を着たり用意したりすることを「支度」、外出するために身なりを整えて飾ることを「出立ち」、きちんと着物を身につけることを「出立ちすます」、きれいできらびやかな着物や服装を「美々しい出立ち」、主人が立派に服装を整えるように、その着付けを手伝いに行くことを「衣文に参る」といった。
立派な着物や武具、その他の飾りを身につけて盛装した人を「厳しい人」、ようすがよく、ゆったりとした人を「着際の良い人」、ある着物を立派に上品に着ることを「着なす」、四肢の釣り合いがよく、風采が立派で上品な人を「押立ての良い人」、着物の胸の上にかかる部分を「衣文」、着物を上手く着こなす人を「衣文づきのよい人」、見かけの立派に見える者を「身なりよいもの」、自分の身や服装、その清楚さなどに心を配ることを「身を嗜む」、よく身を整えて飾り、こざっぱりして洗練された人を「花奢な人」、きちんと晴れやかに着物を着るさまを「ちゃっきと」、似つかわしいことを「さっつべらしい」といった。
すなわち、望ましいのは着物の前側が左右対称であり、適度な長さがあること、ことに胸から上の部分と下の部分との均衡が重要視されていたことがみてとれる。
美男をする
とはいえ、整えるというのは、及第点であっても好評価ではなかった。見た目が平凡でなく、趣があって優雅な人を「風流の良い人」、よい匂いのついた着物を「薫衣」、きらびやかな服装を「綺羅を磨いた支度」、豪華できらびやかな織物で作った衣裳を「綾羅錦繡」、薄手で軽く柔らかい衣裳を「綺羅軽裘」、優美できらびやかな装いをした人を「華美た人」、優美なきらびやかな着物を「美服」、立派できらびやかな着物を「鮮衣」、豪華で贅沢な着物を「珍衣」、良い着物を着て飾ることを「着飾る」、うわべや服装の姿形・外観を「装ひ」、男も女も同じようにおめかしをし、装いをすることを「美男をする」、伴をする者たちに、いまだかつてないほど立派に着飾らせて、ということを「伴ふ者どもをいつもより引き繕ぅて」、あちこちと歩き回り、やたらに身体を揺り動かして向きを変え、着物をみせびらかそうとするさまを「びらりしゃらり」􌓕びらつく」。
さらに、外面を飾り、見えを張ることの好きな者を「だてな者」、常軌を逸し、自分に許された程度以上の勝手気ままをする人を「傾き者」、服装や格好がまるで別の姿に変化して、まねをしたようであったり、とっぴに見えたりするもので、並外れて装いを凝らす女だとか、女のような装いをしてひどく人目をひくような男だとかを指す時に「化け化けしい」「化けらしい」、奇抜な服装を「逸興な支度」、色や模様などが突飛で、その人の人品に釣り合わない着物を着ることを「てばてばしい衣裳を着る」、行状や服装などが奇異で突飛な人を「ひゃぅげ者」といった。
優美さやきらびやかさは平凡でないことにつながり、面白味を加えた。その延長線上で下に着る物に贅を凝らす趣向も一般化していた。従来は、羽織裏などを例に近世後期の過差や奢侈の禁令に抵抗した趣向として強調されてきたが、より早い時期に成立したことがしられる。􌓕美男をする」風潮が、無視できないほどの大きな広がりをみせたことにも注目すべきである。ただし、面白味も一歩突出すると「化け化けしい」と悪評価につながった。
新しい着物と音
着物を新しく裁つ時に行なわれる儀式を「襟祝ひ」といったが、新しい着物を着て動く時などにばりばりと音を立てるようすを「ばりめかす」、新しい紙衣が音を立てるようすを「ごそめかす」、糊をつけてぴんと張った着物をぱりぱりと音を立てさせることを「はりめかす」、着物が擦れ合う時にざわざわと音を立てることを「ざやめく」、素肌に着た粗い着物などがざらざらしてがさつくことを「はしかい」、床にある着物などを足で踏みつけてしわくちゃにすることを「踏みしたく」といった。
新調したものは、初めに独占できはするが、馴染みに時間がかかり、柔らかくて薄くて軽い、あるいは豪華できらびやかという優位性に比して、新しさのみでは別段価値のあるものではなかったといえる。
古い着物と臭い
古い物が古いゆえに珍重されたかは、着物においては、袈裟を除いて言及がない。
着物に折目や皺ができることを「皺を畳む」、同じ一枚の着物をいつも着ているさまを「着詰め」􌓕衣裳を着通しにする」、着物を常用して傷め損ずることを「着損ずる」、古くなるまで続けて着て常用することを「着古す」、主君とか尊敬すべき人とかがもはや着なくなった古着を「召し下ろし」、奉公人の粗末な着物、慣例として定まっている時期に人に与えられる衣類や財物を「惣物」、主人が召使いに与える着古した着物を「お古」、体の垢が着物やその他の物にくっつくことを「垢づく」、着物などによごれや体の垢のしみができることを「垢染がした」、垢のついた着物を「垢衣」、足で踏みつけた泥のとばっちりを受けることを「泥を踏み被る」、地面の上を着物などを引きずって行くことを「そろ引く」、着物に、ある種の枯れ草・その種子がくっつくことを「さしが取り付く」、ひどく着古して長い間洗濯しない着物のような悪臭を放つことを「しわら臭い」、文書語で「臭衣」、着物についた体の汗や脂肪のしみを取り去ることを「油染を落す」、両手の間でこすりながら着物の垢や汚れを除き去ることを「揉み落とす」、着物が釘にからみついたことを「着る物が釘に引っかかった」、布切れが裂け破れる音を「さっさと」といった。織物がけばだつことを「ぼぼくる」、縫い目のほどけた所を「綻び」、引っ張って綻びさせることを「引き綻ばかす」、着物のどこかが破れて垂れ下がっていることを「びれゃぅが下がった」、補修布「継切」をあてることを「継ぎをする」、シモ(九州)では「ふせをする」、短くて繕いをした着物を「短褐」、破れた着物を修理して縫い繕うことを「綴る」、絹の着物がひどく古びてしまって洗濯して縫い直すことを「張帽紗」、古びてさんざんに破れ、ひどく修理してある着物を「襤褸」、ぼろぼろの古びた着物を「敝服」、ぼろをまとった貧乏人の身なりや格好を「ぼとぼとしたなり」、見かけや服装が並外れて醜くて、やせこけてぶざまで卑しいことを「異体」、たとえば、夫を亡くした女が化粧もせず、身だしなみもせず、自分自身を粗末に扱ってみすぼらしくなるさまを「身をやつす」、やつれて黒くなっていることを「痩せ黒む」といった。
着古した着物を象徴したのは臭いである。ぼろを着続けるのは新調できない貧乏さゆえだが、身だしなみもしないことが自分を粗末に扱っているものだという指摘は、美意識につながっている。
白単ずる
美意識に適わないありさまとは、どのようなものだろうか。
丁寧な支度をするのに対して、手早くさっさと着るさまを「ちんと着る」、身軽な服装を「軽支度」、帯を締めただけで袴もはかず、胴服も着ないでいることを「中帯ばかりで」、着物の着付けが悪く、だらしない格好をしている人のように、俗人が袴をつけないで下着だけでいること、あるいは坊主が衣をつけないでいることを「白衣でいる」・「白単ずる」、人と対面などする際に、病人などが袴をつけないで行儀悪くしていることを「大白衣」・「大白単」、髪はばらばらに解け、着物はだらしなくはだけなどして、身なりのみだれているさまを「大童」といった。着物や履物が大きくゆったりしている、あるいは無作法で躾の悪いさまを「寛ぐ」、婦人の帯の端が下へ垂れているさまを「しゃらしゃらと」「しゃらりしゃらりと」、締まりなく緩んで帯や剣などがずっと下の方へぶらさがるさまを「だらりとしたなり」、がさつで格好の悪い人を「無帯佩の者」、不恰好で釣合いのとれない、似合わない服装を「だばけた支度」、ある人の才能や地位に不釣合いな貧弱なさまを「左道」、そそっかしい、あるいは乱れてだらしがないさまを「ばさらな」、立居振舞が軽はずみでだらしがなく、礼儀正しくない者を「しゃっきゃくな者」、無作法で、躾が悪く、物事をよく知らず、でたらめをしでかす者を「馬鹿者」「戯け者」、粗野でむさくるしい格好で、見た目にこわさを感じさせるような者を「むくつけな者」といった。
これらからすれば、日本人自身が恥ずべきありさまと考えていたのは、だらしない格好であり、まさに下着だけの姿であった。この意味で宣教師たちが厭ったイメージと大差はなかった。
今昔
宣教師たちは【われわれの間ではほとんど毎年新しい服装や着衣の工夫が案出される。日本ではいつも同じで変わることがない】と述べたが、果たして、当時の日本人自身も同じように捉えていただろうか。
昔を舞台にした「能衣裳」として命脈を保っているのが、「烏帽子」「梨打烏帽子」「燕尾」「沙門頭巾」「鬘帯」「側次」「法被」「舞衣」「水干」「水衣」「大口」である。
烏帽子は、武士が優美な装いをする際にかぶる「折烏帽子」、式典とか祝祭日とかに着用する木製の「掛烏帽子」のほか、「立烏帽子」「長小結」「小結ひの烏帽子」「濃烏帽子」「風折烏帽子」「縁塗」の名もみえるが、常用されていたとは言い難い。
昔の人が着用したつばなし帽子と袖の広くて長い着物を「烏帽子裃」といった。広くて長い袖のついている着物を「裃」というが、本来の名称は「素襖」で、他の着物の上に重ねて着る、短い着物を指す。今日ではその代わりに「肩衣」と「袴」を用いる。また昔、今の「肩衣」と同じように着用した裏付きの丈の短い着物を「裏打」といったとある。こうした記述から、細かに昔と今とを線引きしていることがみてとれる。
標章するもの
官位を示す標章のついた着物をつけて壮麗豪華にしていることを「衣冠」、衣服の飾りときらびやかさが見事であったということを「束帯結構にござった」、祭りなどの際に改まってつける装飾または衣裳を「装束」といった。
公家の着物として「袿」「小袿」「裳袴」「指貫」「狩衣」「水干」が挙がる。ただし、「直垂」の項に、公家が着用したり武士が鎧の上に着たりする着物。すなわち「直衣」という記述があり、この直垂と直衣の混同からすれば、宣教師たちにとって、公家と武士のどちらか、あるいは、どちらをも見慣れず、熟知していない服装を示していることがわかる。旧来の正装「装束」が消滅したわけではなく、人口に膾炙していなかったのである。
それに比べ、頭に捲頭巾をして赤色の短い帷子を着た職人を弓弦作りの「弦掛」「弦差」、着物の上に麻帷子をはおり、頭にたくさんの髪飾りをつけて所々方々を遍歴する婦人を「かつら」と示したのは、おそらく目にしたことがあるからであろう。
当世
「後帯」の項には、まだ身体の後ろで紐を結び付けている子どもを「後ろ紐の童」と呼ぶ片方で、当世ではと注記して、大人になってからも帯を後ろの方で結ぶ結び方をいうとの記載がある。「当世」は現在広く行なわれていることを意味する。
16世紀末、銀と生糸をめぐるアジア海域の交易の拡大に伴って、衣類に特化してみれば、茶の湯の隆盛と相俟って、舶来の糸・紐・織物・端布の需要が増し、皮革や武具などの入手も容易になった。武具が即座に最新の様式を取り入れたのは、生死に関わると同時に、権力闘争に直結するからである。しかし、戦場を離れた場においては、男も女も帷子や小袖を着用し、同じように、襷をかけ、懐手をし、あるいは、おめかしをして装った。この「美男をする」とは決して個別・特殊なことではなく、新しくて今に始まる「今めかしい」場が求められていたこと、多くの人々が共感し、共有できる美意識が一連の時代性をもって醸成されたことが背景に考えられる。
4.おわりに
一瞥したところ、色も形も美意識も、日本は、ヨーロッパとまるで反対の、独自の価値体系を展開していた世界であった。
16世紀末の日本において、宣教師たちヨーロッパ人がうけた衝撃の数々は、おそらく、当時の日本人の想像の外であった。目の粗い帷子こそが風を通し、湿潤な夏を快適に過ごせるのであり、袖を捲って裾をはしょるしぐさも必要な動作に従ったもので、露出を目的にしたものではなかった。華やかな小袖も流行にならったもので、坊主でも隠居でもない証しともいえる。獣皮も剥いだまま纏うことにより、周囲の目を見張らせ、威圧感を与えるのであり、􌓕足中」を履くことで、泥はねもなく、足運びも簡便になった。これらは至極当たり前の日常風景だったのである。
下着がのぞき、紐が緩んだようなだらしない格好を嫌い、着物の前側は左右対称に、胸から上の部分と下の部分との均衡に配慮して整えるといった着衣の前提において、日本とヨーロッパとの間に径庭があったわけではない。
『日葡辞書』には衣服に対する優美さ・きらびやかさ・面白味という嗜好が認められる。こうした嗜好や美意識は全てが連綿と続いた不変のものではなく、一際「今めかしさ」が享受された時期に特徴的なものである。旧来の価値観に縛られることなく、新奇なモノを愛でる。新しさのみに価値を認めたわけでもなく、古さのみを珍重したわけでもないが、装いに関する表と裏との感覚は、ヨーロッパのそれとは別物であった。
16世紀末という時期は、総じて、日本における着衣文化の変化期にあたっていたといえよう。
  
グリフィスの福井生活

 

ウィリアム・エリオット・グリフィス
(1843-1928) アメリカ合衆国出身のお雇い外国人、理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者である。明治時代初期に来日し、福井と東京で教鞭をとった。帰国後は日本の紹介につとめたほか、朝鮮についても紹介した。
1843年、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアに、ジョン・メリバーナとアンナ・マリア・ヘスの4番目の子供として生まれる。オランダ改革派教会系の大学であるニュージャージー州のラトガース大学を卒業。
ラトガース大学で福井藩からの留学生であった日下部太郎と出会い、親交を結ぶ。その縁により明治4年(1871年)に日本に渡り、福井藩の藩校明新館で同年3月7日から翌年1月20日まで理科(化学と物理)を教えた。天窓のついた理科室と大窓のある化学実験室を設計したが、これは日本最初の米国式理科実験室であったらしい。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県により契約者の福井藩が無くなった。明治5年(1872年)、フルベッキや由利公正らの要請により10ヶ月滞在した福井を離れて大学南校(東京大学の前身)に移り、明治7年(1874年)7月まで物理と化学、精神科学など教えた。
明治8年(1875年)の帰国後は牧師となるが、米国社会に日本を紹介する文筆・講演活動を続けた。1876年にアメリカで刊行したThe Mikado's Empire(『ミカドの帝国』あるいは『皇国』と訳される)は、第一部が日本の通史、第二部が滞在記となっている。
日本滞在中に記した日記や書簡、収集した資料は、グリフィス・コレクションとしてラトガース大学アレクサンダー図書館に収蔵されている。日下部やグリフィスの縁で、ラトガース大学のあるニューブランズウィック市と福井市は1982年に姉妹都市提携を結んでいる。 
1 グリフィスの生涯
どうもはじめまして。この度、こういう機会を与えてくださった文書館の人たちに深くお礼を申し上げます。
資料は3枚ございますが、1枚目がWペーパー、2枚目がEペーパー、3枚目がGペーパーと、本来ならば1、2、3でもすむところなんですが、William Elliot Griffisを記念して、こういうページにさせていただきましたので、これからWペーパーとか、Eペーパーとか、Gペーパーとか申しますので、ご了承ください。それでは、順を追ってお話いたします。
まず、Wペーパーをご覧ください。没後80年と申しますので、そんなに今と遠くはないですね。私が今、74歳でございますので、なんかそんなに遠くない。むしろ近い感じがして、長年、グリフィスについて調べてまいりました。
1843年のフィラデルフィア生まれで、修業時代というのは、ペンシルバニア市民軍(南北戦争の北軍)に従軍してしばらく戦争に参加しております。終わってから、ラトガースという大学に入りまして、卒業後、同じ町にあるニューブランズウィック神学校に入ります。これがまあ彼の少年から青年にかけての経歴です。
1870年、福井にやって来ます。これは相当な決心が要りました。最初の決心と書いてありますけど、相当な決心が要ったので、それについてはあとで述べます。
それから福井の明新館の教師になりまして、11か月いて、東京の南校の教師として福井を離れます。74年に帰国いたします。これは教師時代と申してもいいかと思います。
それから、帰国するとすぐユニオン神学校(ニューヨーク)に入り直します。それから卒業すると、牧師という職業につきます。牧師は、母が生まれ落とすとすぐにこの子は牧師にしたいというふうに一生の念願でありました。母のことばに従って牧師になります。牧師は、オランダ改革派教会(N.Y.スケネクタディ)というのが上にありますね。そこが最初の赴任地です。
それからボストンに行きまして、イサカというところの牧師をして、1903年、グリフィスの還暦の年ですけど、牧師を辞めてしまいます。これが私、最後の決心というふうなことを書いてありますけど、よほど慎重に考えた結果のことだと思います。
それから後は、著述を専門に、亡くなるまで物書きをやっております。つまり、修業時代と教師時代と牧師時代と物書きの時代とこういうふうに分かれております。こんなにきちんと分かれるのは珍しいんで、しかもそれが30年おきぐらいになっております。ワンジェネレーションですね。
つまり43年に生まれて70何年まで、これが第1期でしょうね。それから還暦の1903年までが第2期で、それから最後の年までが第3期、こんなふうにしてこれはあとで私がわかってきたことなんで、最初は何のことか見当もつかないですけれども、やっとこうやって皆さんにこういう話をできるようになったわけです。
一番下の方にグリフィス・コレクションということばがありますけど、これはラトガース大学の自慢のコレクションでありまして、私はここを8回ばかり訪れておりますが、ここで文書をずいぶん見てきたつもりです。
Wペーパーの右の方をご覧ください。右端の方を。ここに人名が並んでおります。これをいちいち説明しておりますと大変なんですが、全部グリフィスと関係のある人で、みなさんの中で何かご存知の名前があるでしょうか。
そのなかでも南条文雄というのが上の方にありますね。それから下の方へ行きますと、芳賀矢一というのがありますね。斎藤静という名前も見えますね。石橋重吉とか杉原丈夫という名前がありますが、こういう名前を申し上げたのは、芳賀矢一から杉原丈夫先生までが何らかの形でグリフィスの研究というのか、グリフィスに関心を持ってきた人たちなんです。
これを見ますと、実にグリフィスにとっては気の毒なことなんで、もっと早くからグリフィスについて関心を持つ福井の人たちが出るべきだったと思うんです。
そのなかで、斎藤静先生は福井大学でお習いになった方もおられると思いますが、『グリフィス博士略伝』、『グリフィス博士』というふうに立派なグリフィス紹介をなさっておりまして、私が最も敬愛する先生であります。
石橋重吉さんは、『若越新文化史』というなかに、福井県の洋学の歴史について、とっても重要な本だということで、もしご存知でない方は覚えておいていただきたいと思います。
杉原丈夫先生は民俗学、または昔話などで有名な人です。
芳賀矢一という人物をご存知の方いらっしゃいますでしょうか。有名な国文学者ですね。この人はアメリカへ旅行した時にグリフィスを直接訪ねていって、グリフィスを大変尊敬していた人で、私はこの人も尊敬しております。
2 グリフィスの福井関係著書
次のEペーパーに移ります。
このペーパーは、何か私の自慢のように思われると困るんですが。グリフィスという人が著述をしたというんだけれど、どれくらい書いたのかということをはじめにいってしまうと、一番下の数字のところをご覧ください。計29というのは、私の知っている限り日本に関するグリフィスの著書の数であります。
それからその上の数、18あるんですけれど、これがEペーパーの中に書いてある英文の彼が書いた本のタイトルであります。これが17、8冊書いてあると思うんですけれど、これらの本なども中心にして私が論文をぼそぼそと書いてきたのが本になったり、論文になったりということで、ここに書き上げましたので、もし何か知りたいという方がおられましたら、これを参考にしていただきたいと思います。
Eペーパーの一番上の方にFukuwiというローマ字が書いてありますが、これはグリフィスが福井にいた頃の福井のローマ字にはwが入っております。この方が正しいように感じますね。こういう細かいことが、グリフィスは非常に好きなんで、私もこういうことにならって、こういう細かいことが好きなんです。それで、「JournalからLettersまで」というこの題目はこういうことなんです。
私の著書の『グリフィスと福井』(福井県郷土新書5)という本があります。この本の特色は、グリフィスの日記、つまりJournalが英文と和文の両方入っていることで、私の自慢の作品であります。ついでに申しますと、県立図書館にもうわずか30冊ばかり残っておるということです。
それから、2番目、『明治日本体験記』という本があります。これは、平凡社東洋文庫、まあ有名といえば有名なんですけれど、ここで“The Mikado’s Empire”という作品の第2部を私が訳したのを出しました。ずいぶん前になります。非常に利用度が高い本であります。ただこの中にちょっと申しますと、グリフィスの書いている文章ですけれども、事実と違う箇所、日付の違うところが随分あります。これはグリフィスが粗雑な人間であるというのじゃなくて、書くとまずい、削除してあったりしているところがあります。
たとえば劇場へ芝居を見に行っているんですね、福井にいる時に。当時、福井には芝居小屋が2つありまして、それはね、つまり、不義密通をした自分の妻、武士の妻ですけれど、見つけ次第、密通をした2人を刀で切り殺すというところがあるんで、それは許しがあるらしいですね。それを書いた“The Mikado’s Empire第2部”ではそうなっております。
ところが、もう1つ、新聞社にその芝居のことで通信文を送っているんです。それを見ますとね、刀じゃないんです。刀で切るなんてもったいない、さびがつくといって、きこりの使う鉈を持ってきまして、それをその場で砥石で研いで、そして首をはねるという、そういう残酷な芝居になっているわけですね。あまりいい話じゃありませんけれど、そんなふうに変わっておりますので、そういうところをグリフィスは遠慮して、“The Mikado’s Empire” にはとてもそんなことまでは書けないというふうにして、そこでとどめたんだろうと思っています。まあ、そんなことをいってますと切りがありませんけど、そういう配慮もしてある本であります。
元に戻ります。『グリフィス先生越前豆日記』、これ豆本ですが馬鹿にならないんです。グリフィスはいつも手帳を懐に忍ばせておりまして、何でもかんでも記録しております。これが非常に役に立ったんですね、あとで本を書く場合に。その手帳を見ますと、とってもおもしろいことが書いてあるんで、これは青森の豆本で有名なところから何か書かないかといわれたので、飛びつくようにして書いた本です。おもしろい本ですが、ちょっと手に入りにくいです。
それから4番は『グリフィスと日本』という本です。これは論文誌を集めたもので、私の教授昇任の決め手になった本であります。
それから最後の5番目を見てください。『グリフィス福井書簡』、何だか自慢になって申し訳ないですけれど、こういう本を去年作りました。これは片方はグリフィスの手紙60通すべて英文で入っております。もう片方はその訳を入れてありますので、これはまだ非売品ですけれど、近い内に1冊にまとめて註をつけて出すつもりですので、もうしばらくお待ちください。PRだけしておきます。
ここでお話したいのはですね、そのJournal という日記から今お見せしたのは、Letterです。手紙です。その間、私の研究には28年間のブランクがあるんです。
これについてお話したいのは、実は日記を訳した後に飛びつくように手紙を訳したんですね。ところが、この訳がどうしても訳にならないんです。わからないんです。わかるところはもちろんあっても、わからないところがいっぱいあるんです。だからついに筆を投げました。それで放っときました。
ところがですね、その間にいろんなグリフィスの本を読んだり、それから資料を調べたりしているうちに、はっとまた手紙の方に心が行きまして、もちろん手紙は利用はしております、論文なんかに。だけど、そこで初めて訳してみようかなと思って読んでみたところが、やっとわかってきたんです。いろんなことがわかってきたんです。
ですからね、本当は手紙が書かれた年数はもっともっと昔なんですけれども、研究者としては、私のような日本人がですね、こういうものを研究する時には、あわててはいけないということをしみじみ思います。飛びつくようにして、訳せばいいんだというような訳の仕方をしたんでは本当は分からない訳なんです。ということを自信を持っていえますので、「JournalからLettersまで」という題にしました。
それから、Eペーパーの左の方をご覧ください。私の本は1から5までですけれど、論文が6からIまであります。これは大学とか、自分が属している学会とかの紀要なんかに出した論文であります。グリフィスのこういう本について書いたとか、そういうことを大体わかってほしいと思います。
それから最後にJからLですね。Jの「ザ・ヤトイ国際シンポジウム」、これに参加された方もいらっしゃると思います。随分前に福井でありました。それからその下のKは、国際セミナーといって、京都の新島会館でありました。非常に大きな学会でありましたので、私は「近代教育史の中のグリフィス」というテーマでお話しました。3番目はご存知かもしれません。5、6年前に福井市のニューブランズウィック市との姉妹都市20周年記念展で私は「未来を見つめて」というような講演をいたしました。
以上、1からLまで私がグリフィスについて何かにつけて書いてきたものでありますので、ご参考にしていただければありがたいと思います。
そこで、その次へ行きましょう。Gペーパーをご覧ください。これ書きましたのは何の関連もありませんが、この発表の準備をしておるうちに、ちょいちょいとおもしろいことが出てきましたので、それを並べたのにすぎないのであります。あまり関連はありませんけれど、もしおもしろい記事があったら読んでおいてください。
そのなかで、一番最初のですね、「Eb. Johnson の妹Ellenを知る」というのがありますが、エレンというのがグリフィスの最愛の恋人であります。ウイリー(グリフィスの愛称)はエレンの髪房と写真を生涯保持していた。これは、またあとでお話することがあるかと思いますが、それから1871年の9月20日のところに‘Boy’s Book on Japan, took definite shape’というのがありますが、これは、日本の民話について、大体構想がまとまったという意味になると思いますね。そこにすでに彼は日本の民話についての発想が芽生えているということです。
その次の“Tales of Old Japan”というのは、イギリス人が書いた本ですけれども、グリフィスが福井にいた頃に出た本です。こういうものを姉さんに注文しておりますので、こういうところにも民話に対する関心がすでにあったということであります。
それから、もう少し下の方を見てください。彼はInternational Folklore Congressという世界民話学会というのに参加しまして、‘The Folklore of Japan’という日本の民話という講演をしております。これは私が研究中に見つけた項目でありまして、グリフィスの福井民話の発祥は相当古いものだなあとしみじみ思いました。さすがにグリフィスのやることだなあと感心したのであります。
それから、もう少し下の方を見てください。真中から下の方です。「The Mikado’s Empire 第10版2分冊になる」と書いてありますが、“The Mikado’s Empire”がグリフィスの代表作であり、日本を知る外国の人たちの貴重な本になったものであります。背文字のところにですね、『皇国』と書いてあるんです。これも元からある題名ですが、私はこれはあまり使わないことにしております。あくまでも“The Mikado’s Empire”というふうに使っております。これがですね、私が持っておりますのは初版ですが、ざっと625ページあります。
この最初に日本地図がかいてありまして、何と福井県だけは別に出ています。この本を読むと、しみじみ福井県の人間にとってはありがたいなあと思います。なぜって福井のことがいっぱい出てくるんです。こんな本をね、放っておくわけにいかないでしょ。というふうに私は思っているんです。
もとへ戻ってみましょう。「The Mikado’s Empire 第10版2分冊になる」と書いてありますね。これが2冊に分かれるんですよ。なぜかっていうと、ページが増えていくんです。なぜ増えたかといいますと、そこに書いておきました。版を重ねるとき、新しい論文を必ず加えていくんです。だから、放っておかないですね。最初に本を書いちゃったら、もういいだろうというのではなくって、後々まで新しい歴史のページを加えていくわけですね。そうしているうちに700何ページになってしまったんで、1冊ではまかないきれない、2冊にするということで、あとは2冊本になっております。そういうことを申し上げておきましょう。
それから、一番下のところにですね、絶筆というのがあります。グリフィスには絶筆があります。これ実は、もう少し後に申し上げてもいいかなと思っているんですけど、ちょっと読んでみますね。“Japan’s Great Emperor, Mutsuhito and His Reign 1868〜1912”というのは、私が見た絶筆なんです。途中で切れております。原稿は途中で切れております。その後、これがグリフィスの『明治史』になったんだろうと思います。または、『明治天皇』になったんだろうと思います。
睦仁といういい方は、グリフィスによれば、なぜ日本人は明治天皇なんていうことばを亡くなってから使ってるんだと、あれは名前といえないのではないか、外国人は必ず睦仁というよ。そういうふうにいっています。これは正しい意見じゃないかと思います。だから、ここには睦仁というふうに書いてあります。
グリフィスが教えてアメリカへ連れて行った今立吐酔いという青年がおりました。今立吐酔がグリフィスに手紙を書いて、「先生、今あなたが書いておられる明治に関する本を私に是非訳をさせてください。私は、その訳から得たお金を、福井の子どもたちで、科学を勉強したいという希望の子どもたちに使いたい」というふうに先生に頼んでいるわけですね。グリフィスは、わかったと返事したんだけれども、絶筆になって終わってしまったという話があるわけです。そういうことも1つ話をしておきます。
それから、最後というか、Gペーパーの右のところを見てください。これはですね、グリフィスと同時代の日本の歴史上の出来事のどなたでもご存知の背景を書いておきました。たとえば、廃藩置県だとか廃仏毀釈だとか、それからずっといきますと帝国憲法だとか、それから日清戦争だとか、ということが書いてありますけれども、その並びのところにですね、日本精神ということばが書いてありますね。大和魂などということばもそこに入ると思います。つまり日本は軍事力が非常に強力になってきた時代であります。このへんからグリフィスは日本との関係を「和解」ということばで努力しなければいけないという気持ちになってきます。まあそれもあとでお話します。
Gペーパーの1番右下をご覧ください。これは忘れないうちに今言っておきましょう。グリフィスの最後の日記なのです。グリフィスはJournalをずっとつけておりました。85歳で亡くなるまでつけておりました。
どこで亡くなったかといいますと避寒地と申しまして、グリフィスのいたプラスキというニューヨーク州の町は寒いのです、冬は。ですからフロリダのウィンターパークという土地にしばらく滞在します。そこで心臓麻痺で急死したということなのですが、亡くなったのは確か2月5日だと思います。最後の日記は2月3日までつけてあります。その2月2日にこういう記事があったのでお知らせします。
ローリンズという大学でグリフィスは10時から学生に話をすると、何の話かというと‘On Japan’、日本についての話をするというのです。最後までこういうことをやった人であります。この中には必ず「福井」が出てくるのですよ。忘れないでください。
以上でざっとですが、WとEとGという3つの資料についてちょっとお話をしておきます。そこでですね、Eをもう1度見てください。Eペーパーですね。今から少しお話したいことがあります。
それはEペーパーの中に“The Mikado’s Empire”というところがあって、第2部はさっき申し上げたように私が訳をしましたけれど、その“The Mikado’s Empire”というのはいったい何が書いてあるのだろうかということをお話したいと思います。
それからもう1つは“Japanese Fairy World”、つまり『日本昔話』という本もどんな本であろうかということ、それからもう1つ“The Religions of Japan”という『日本の宗教』という本はいったい何だろうということ、この3つを私はグリフィスの3部作といっております。この3つが結局、最後まで彼の主張になるわけであります。しかもこの3つは、また我田引水ですけれど福井で発生しているのです。もう少しいいますと、グリフィスは福井を通して日本を知りました。決して日本を通して福井を知ったのではないのです。それを私は確信を持っていえます。
“The Religions of Japan”という『日本の宗教』という本は、やっぱり神道、神の話が中心になっております。何といってもアーネスト・サトウというイギリスの外交官がおりまして、あの人の見聞、それから知識はものすごい人であったらしく、その影響を受けて、それを参考にした本であるといわれておりますが、私はそこまでは勉強ができませんので、そういうことをお伝えしておきます。
でもこの中に、さっき申し上げた南条文雄という人、福井の人ではありませんけれどもグリフィスの頃に福井の僧侶学校に行った人だとは思いますが、福井のお寺さんに養子にきて、実はこの人は日本で屈指の梵語の研究家であるし、立派なお坊さんであるということはご存知の方はいっぱいおられると思います。その南条文雄が著した“A Short History of the Twelve Buddhist Sects” という日本の仏教の宗派の簡単な歴史の本があります。それをこの本は十分に利用しております。そのことを断っておりますので、私もなんとなく自慢ができる本であります。
もう1つ、グリフィスは昔話を書いております。挿絵があります。挿絵は専属の大沢南谷という名前の絵描きなんですね。江戸時代の絵描きなのですが。この大沢という絵描きを専属と申しましたのはつまり彼を雇ったんですね。この中の挿絵もその大沢が書いております。独特な挿絵であります。
“The Mikado’s Empire”というのはですね、これは歴史書だと思われていたのです。思われているのです、現に。というのは、第1部が何年から何年までの日本の歴史というタイトルがついているのですね。それからなおのこと、『皇国』という名前がついておりますから、簡単に皇国史観を述べているのだと思っている人がいるのです。しかし、これは大間違いです。それを1つよく頭に入れておいてほしいのです。皇国と書いてあるから簡単に皇国史観を述べているのだと、そういう歴史観で書いてあるのだと思って、しゃあしゃあと書いている人がおりますが、おそらく読んでいないのではないかと私は思っております。私は、この本はグリフィスの歴史認識をふまえた旅行記だと思っています。
なぜかと申しますと、これを出版したハーパー・アンド・ブラザーズという会社のPRにですね、こう書いてあるのです。探検とか旅行とか冒険シリーズの1冊として出版すると。要するにこれは紀行文なのですね。だからおもしろいのです。非常におもしろいのです。だって武生も出てくるし、江も出てくるし、福井は勿論のこと。1876年、明治9年ですね、これが出たのは。明治9年に我々のことをどこででも書いて、どこででも読まれているというそのようなことを考えられますか。そういうふうに私は旅行記だと思っております。
それから、グリフィスは福井に滞在中も暇さえあれば散歩をしました。暇さえあれば見聞しました。葬式があれば行列が続く。あとをついて行くのですね。そしてその墓地まで行って火葬場でどのようにして死体を焼くか、窯はいくつあって火は誰がつけるか。全部見ております。
それをどうしたかといいますと、どこへ書いたかといいますと彼は通信社と契約しているのです。数社あります。これからの細かいことはいいにくいですけれども、そのどこかへですね、その模様を一部始終書き送っているわけです。そして、題は日本の葬式と、‘Japan’s Funeral’という題で書き送っているのです。私はそれがあることを見つけましたので、それから得た知識が今のお葬式の知識であり、グリフィスの色々な知識であります。
とにかくグリフィスは見ております。国見岳に行きます。なぜあのような所にいくのかと、あそこから石炭が出たのです。石炭はいったいどのくらいの質のいい石炭か、質の悪い石炭かということを調べに行くのです。
そして、なぜそのようなことが彼にわかるのかというと、彼はラトガース大学で地質学の専門家になったのです。化学ではないのです。ニュージャージー州の地質学という論文を書いて彼は卒業したのです。福井にやって来ると、福井の藩主に自分の論文を献上しています。自分はこういう勉強をしてきたのだと。だから、彼はすごい知識を持っているのです。
それで私が余計なことをいうとお笑いになるかもしれませんけれども、高校の教師をしていた時に外国人教師と一緒になりました。この教師と私はグリフィスの白山登山を一緒にやってみようかといって、グループを作って同じ日に、グリフィスが登った同じ条件を作って山登りをしたのです。ついて来てくれたのは、Gerald LeTendreという外国人教師でした。びっくりしたのは白山へ登って一服する、そこに石ころがある。これは何石だといえるのですね。花が咲いている。名前がいえるのですよ。びっくりしましたね。僕はこれがアメリカの教養であろうと思っているのです。だから頭の中で覚えているのではなくて実際にこれとこれとが名前が出てくるわけですね。彼は辞めてスタンフォード大学の大学院を出ましてジョージア大学の教授をしております。
グリフィスもおそらく彼と同じような教養があったのだろうと思うから、福井のグリフィスの生活は全く楽しいものでした。しかしその反面、何があったかということはあとで話が出ると思います。
第28章第1部の一番最後のチャプター、章はですね、グリフィスがアメリカに帰って最初に書いた論文に‘The Recent Revolution in Japan’という1875年の論文があるのですが、それをここに入れたのです。その論文がこのなかで燦然と光っています。私が読んだ中でその入れた論文が一番立派だと思います。
しかし、雑誌に書いた最初の論文とここに入れた論文とを比べてみたことがあります。主義主張は同じです。ところが文章がかわっています。もう添削添削でほとんど姿をかえたくらいにかわっています。これはグリフィスが、文章が非常に上手いという理由だろうと思うのです。我々が文章を書くときにも何回も消したり加えたりして書きますね。グリフィスの論文はそういうふうにして書かれた論文だということを、私が実際確かめました。自分でそういうことをやってみました。こちらのことばがこうなっているのは、こちらではこうなっている。まことにすごいものでした。
この論文でなにがいいたかったのかといいますと、ペリーが来航しましたね。日本はペリーに負けたと、簡単にいいます。私は難しいことばをあまり知らないものですから。ペリーに負けたと、つまり外国の勢力に負けてきたと。それはわかると。しかし、それが日本をあのような日本にした最大の理由ではないと、理由は日本の中にすでにもう学問をしてる人がいっぱいいたのだと。いっぱい洋学を勉強している人がいたのだと。たとえば、左内がそうですね。だから、彼らがやって来ても、それに応ずるだけの日本の中に力があったのだなどということを簡単にいっております。
これを彼は英語でいっておりますがね、勿論。衝動説と衝撃説があるのです。衝撃というのはインパクトなのです。(手を打つ)「パーン」と当てるわけなのです。衝動というのはインパルス。中から湧き出てくるものだというのです。日本はペリーと立ち向かうことができたのはインパルスがあったからだということを、私みたいに歴史にうとい男は「なるほどなあ、こういう考え方をしてくれればわかるなあ」と思って、感心した論文でした。長い論文ですけれども、いまだに忘れません。
これが2冊本になって1913年が12版、最後の版なのですね。その版についた論文が‘Japan a World Power’。この論文がどういう論文かと申しますと、日本は日清日露の、簡単に言いますと軍事力が高まってきて世界に冠たる力を持ってきたという時代になっています。富国強兵策が実を結んでいるわけですね。そのときに書いた論文なので、もし日本に対して、危惧、心配なことがあるとすれば、それは軍事力であるということをはっきりいっております。この時代にもうすでに。軍事力がつくのはいいけれども、それがナショナル的な国、ナショナリズムになっているのだということをいっておるのですね。それがさっきちょっとね、Gペーパーで申しました大和魂とか、それから武士道というようなことばと連携してくるわけです。
だから、グリフィスが日本と触れ合った時はまだグリフィスにとっては日本は文明化されていっていい、封建制度が崩壊し文明化されていく、その手助けをしているのだという確信があったのですが、もうこの頃になってくると日本は変わってしまったと、日本は恐ろしいぞということになってくるのですね。それで彼は「和解」ということばを使うようになります。グリフィスが日本に対する一生はですね、決して彼が楽観視できない、楽観から悲観にかわっていくという、ちょっときつくいえばそういう間に彼が存在していたといえると思います。
そういうことがこの本でわかるということで、もう一言いいますと、グリフィスの書くもの、または考え方には必ず最初に書いたのもので通すというのではなくて、あとまでちゃんとその変化を見届けているということであります。
それからもう1つ、この本の中にね、日本の国民性について書いてあるのです。日本人とはこういう国民性を持っていると。その2つ、私が感心したのはですね、改善と進取ということばを使っているのです。改善というのは、日本人は間違っている、これは良くないと思ったらすぐに変えることができるのです。そういう国民性を持っているのです。
もう1つは、進取。先へ進んでいく。先へ進んでいく。新しいものがあったら、すぐそれを理解しようとする。それはわかりますね。そういうことは日本人にはありますね。そういうことを彼は福井を通して、もう感じ取っているのではないかと思います。その他色々なことがこの本には書いてありますので、そういう本だということをお知らせしておきます。
それからもう1つ、クリスチャンブシドウということをここでいっているのですよ。グリフィスはキリスト教徒なのですね。しかもフィラデルフィア生まれのキリスト教徒というのは非常に厳しいです。生活は素朴です。何といってもあそこにはクエーカー教徒がおります。だから贅沢はしません。グリフィスの福井生活は非常に質素です。贅沢はいっさいありません。それについては、あとで述べます。
そのクリスチャンブシドウのブシドウというのは内村鑑三というキリスト者が同じことをいっているのです。‘Bushido and Christianity’ということばを彼はその頃いっているのですが。私は面白半分にどちらが先にいったのかと調べてみました。先陣争いですからね。
調べたところどちらだと思いますか。グリフィスが先にいっているのです。なぜ内村鑑三とグリフィスがそのような似たところがあるのか、それについては詳しくは申しません。いうとおそらく笑われてしまうと思いますが。
この“The Mikado’s Empire”の口絵というのがございますね。
口絵というのは最初に写真がついてますね。これを口絵といいます。これは日蓮上人です。日蓮上人が今、鎌倉武士に首をはねられるところなのです。ところがそこへ光がさしてきて、武士が刀もろとも飛んでいってしまう「竜口の法難」という有名な絵がありますね。これを彼は掲げているのです。なぜ、日蓮かというと、別にグリフィスは日蓮を知っているわけではないのですけれども、もしキリスト教と日本の宗教とがぶつかるのならば、喧嘩するのは日蓮宗だろうと、こういう考え方をしているのですね。そして内村鑑三が“Japan and Japanese”という『日本および日本人』というあの5人ばかり日本の代表的な日本人をあげている1人が日蓮上人です。
次に、もう1つのこの民話のことですがね。グリフィスは民話を46編書いております。日本民話を46編。3冊、本がありましてね。私があちらこちら数が重複しているのを調べてみたところ46編あります。そのうち6編が福井に関する福井民話であります。福井民話というものがあるのです。
これは私が近年、『若越郷土研究』で発表したことがありますので、ご存知の方があるかもしれませんが。それについてちょっと述べておきます。
さっき申し上げた “Tales of Old Japan” という、これはイギリスのミットフォードという外交官が、書記官ですけれども、出した本なのですが、たとえば「舌切雀」というのがありますね。「舌切雀」を、あの日本語を話のとおりに英語に訳してあるのです。ちょっと考えてもおわかりでしょう。あのとおりに訳してもわからないですよ、外国人は。それをグリフィスはわかるように訳したのです。
法政大学のヘリング先生という女の先生がおられますけれども、日本の昔話の専門家ですけれどもグリフィスのこの本が一番立派だ、信頼できる最初の日本の昔話の英語本であろうと、このように太鼓判を押しておられます。
ではいったい、どういうことをやったかと申しますとね、ミットフォードの「舌切雀」というのはですね。心の優しい爺さんが雀を飼っていたが、洗濯の糊をなめたので意地の悪い婆さんが雀の舌を切って放してしまう。むごい話にすごく悲しんだ爺さんは雀をさがしに出かけて、再会がかない爺さんは雀の宿でご馳走になって、帰りの土産に貰った軽いつづらは宝物で一杯で、よくばり婆さんが希望したつづらはいたずらおばけとか妖精がでてきて、爺さんは何とかかんとかとありますね。この訳文の趣旨と展開は元の説話に忠実なのです。
しかし、グリフィス版はどうなっているのかといいますと、話の筋においては違いはありません。話をより論理的により面白く読ませるための創意工夫が施されているのが特色です。
どのようになっているかといいますとですね、まあ非常に理屈っぽいのですよね、グリフィスはね。爺さんが歓待された雀の宿でのことが全ページの3分の1を使って楽しく描写されているのです。元の話では雀の宿で歓迎を受けてつづらをもらって帰ったとだけ、ところが読んでみますと、グリフィスの本は雀の宿でのことが全ページの3分の1を使っている。楽しく書いてあるということで、すずめのホームがどうなっているかと、何が部屋にはあってとかいう細かいね、それを書くとアメリカでも外国人でも読んでわかるという、なるほどなあというふうにおとぎ話的に読めるというふうな内容で彼は書いているわけです。そういうところが特色です。この特色は忘れてはいけないと思いますね。
それから、福井民話というものはどのようなものなのかと申しますとね、初めにお見せした“Japanese Fairy World”という小さい本の中に5つあるのです。ところが3冊目、ずっと後に出した本ですけれどもそこにはその5つプラスもう1つ加わっているのです。都合6つあるのですが、最後の1つ加わったのがどちらかというと、ラフカディオ・ハーン的な幻想的な話が入っております。ラフカディオ・ハーンの真似をしたのかと、真似ではないですけどイメージを少し取ってきたような感じはいたしました。しかしその前の5つは彼の本来の作品でありまして、しかもその作品は後の作品とやっぱり違うところがあるのですね。
その中に1つ、バッタの行列というのがあるのです。例のバッタですね、昆虫の。あのバッタがみな侍になっていて、参勤交代の行列を組んで行くわけですよ。その藩主が乗った駕籠が真中にありまして、その行列が行くのです。バッタは何をする、コオロギは何をする、みんな昆虫が出てきて役目があるわけですね。そしてその行列が行ったあとに何を意味するかというと、グリフィスがいる時には、廃藩置県という世の中の変化が一杯ありまして、それでお城の中のものはその交代の時に使った駕籠でも全部売り物に出されたらしいですね。ほとんど投げ捨てられたらしいですよ。
お堀を埋めて、お堀を埋めたのはなぜ埋めたかというと壁がありますね、土壁が。それを落としてお堀をすぐに埋めて、そしてそこに家を建てていったという、もう全くあっという間の出来事であったらしいですね、廃藩置県の時のお城の崩壊というものは。そういうことは暗に示している物語になっております。
そこで、初めにはそういうことだけで終わったのが、あとの本ではどうなっているかといいますと、その駕籠を見送りながら街の虫たちはみんな額を土につけて土下座をしております。そしてそこに小さな女の子がおります。通り過ぎた後に母親に聞きます。「何か駕籠の中のものが見えた?」「見えるはずがないじゃない」これを入れてあるのです。これは何を意味するかは、おそらくおわかりになろうと思います。
そういうふうにグリフィスの書くものは、先も申し上げたように、必ず振り返って足したり削ったりして文章を作っておるということを、この場で話をしたいと思います。
ハーンとグリフィスというのを比べてみても面白いと思います。私はハーンのことについても興味をもっております。ところがですね、『怪談』というハーンのあの代表作、あれもFairy Talesであります。妖精物語と考えてよろしいです。ユーモアやアイロニーに乏しいということがいえると思います。幻想的ではありますけれども、ユーモアやアイロニーに乏しいということ。
ところがグリフィスのほうは、このユーモアがあり、先の行列の後の親子のようなアイロニーがあるというところが違うと思うんです。私はハーンの『怪談』があれだけ人気が出て皆に読まれていると同時にですね、グリフィスの物語も読まれていいんじゃないかと思う。それが両方読まれて、1つの日本の民話に、昔話になるんじゃないかということをこの本で思いました。そういうふうにお話をしておきたいと思います。
以上、私の話の前半はこのぐらいで終わりたいと思います。
3 手紙に見るグリフィスの福井生活
それじゃ後半にはいります。後半は今日の本題の福井生活についていくらか述べた後、写真を通して福井生活のことについて触れたいと思います。2点あります。
グリフィスのその手紙というのは、英文手紙は60通あるという
ことを私が確認しました。ラトガース大学へも知らせております。といいますのはですね、ちぎれていたり、どこからどこへと続いているかわからなかったりということがあるんです。
なぜかと申しますと、飛脚が手紙を集めに来るのが月に1回しかないんです。とても今の郵便制度と一緒にしちゃいけませんよ。だから例えば60通をですね、彼が滞在した11か月で割ってご覧なさい。5通ぐらいずつ毎月出しているわけですよ。
そうしますとね、例えば今日書くでしょ。まだ飛脚が来るのがわからないと。それも不定期的ですから。そうすると、その次また書くでしょ。と、何日に来るってわかるでしょ。急いで書くでしょ。明後日になったよ、と。また書くでしょ。
そういうふうに書くとね、手紙のいちばんはじめ、Dearって書きますね。これは姉さんに宛てた手紙ばっかりですから、ほとんど。Dearマギー、姉さんのことマギーといっております。愛称でね。Dearマギーと書くんですよ。ところがまだ取りに来ない場合は、Dearマギーを省略しますね。そしてもう1つ最後に自分の名前を書きますね。私なら山下英一と書きます。グリフィスはウイリーという愛称で書きます。
ところがウイリーがないんですよ。その次の手紙の最後にウイリーと書くと、ああこれだけのものがまとまっているのかとわかる。とにかく何日かかかって書いた手紙って、1通か2通の手紙が4通にも5通にも分かれて見える。どこがどうなっているかわからないということが、現実問題だったんです。もちろん、日付だけは必ず記入してある。
それもあってですね、訳ができなかったんです。これをね、なんというか、日夜ああじゃないかこうじゃないかと。しかも日にちがわからない時には、三井寺と永平寺とを間違えました。
だって「立派なお寺に見学に来ている外国人で、最初が私だ」なんて書いてあるんですよ。てっきり永平寺だと思いましてね。どうも合わないんですよ。そしたら彼は、福井に来る前に三井寺へ行っている。琵琶湖を渡ってやって来ているわけですね。そういうことが今思うとなんでもないことだけれども、実際に自分がそれをやっていると、そうわからないんです。そういうことも確かめて、60通ということに決めて、ようやく訳を始めたということをいっておきます。
それから福井からフィラデルフィアの実家まで、手紙は何日かかると思いますか。2か月かかるんですよ。2か月。そうするとね、ある用件を書いて2か月先に着く。すぐ返事をよこして2か月。4か月ですよ。だから用件は書けないの。用件は無効になっちゃうんですよ。そういう手紙の状態だということを知らないと、福井のグリフィスはわからないですよ。
彼は筆まめな人ですからね、私が調べたかぎり福井滞在中に220通ぐらい手紙を書いております。それはまめな人なんです。その中には先に申し上げた新聞などへの通信もあります。色々な要素がありますけれども、とにかく筆まめに書く人です。筆まめにメモをする人です。筆まめに文章をなおす人です。
福井には、明治5年1月の20日過ぎまでおりましたけれども、1月17日に、実はお母さんが亡くなっているんです。これは届きません。東京へ行ってから届きます。じゃあなぜ書いたかというと、グリフィスはそれを思って、自分のいなくなった月まで戻って、そこに母の死と書き入れました。そういうことも福井、だからですね、もっといいたいことは福井へ来るということ自体がすごい決心なんです。命にかかわる決心だということを、今日の簡単に留学する、簡単に行って帰れるという時代とは違う、当然の違いなんです。別にそっちが良い・悪いというのではないです。しかし、知らないと困ります。楽に行って帰れるという時代じゃないということを知らないと困る。母の死もそういうことで終わりました。
ところが、彼は母からいただいた丈夫な体、本当に丈夫でした。85歳まで生きたあの当時の人ですから。それから良心、心の美しさ、そういったものを母から受け取ったことを、後に彼ははっきり書いております。お母さんからいただいたものだとお母さんに感謝しております。その母さんが入院したり、亡くなってもちろんお葬式をしたときは、その費用についてはグリフィスが全部支払っております。じゃあどうして家の人がやらないのかというと、家の人には収入がない。この家族のことについてはあとで写真をみせます。その時にお知らせします。
お母さんの名前はアンナ・マリア・グリフィス、アンナ・マリアといいます。モーツアルトのお母さんと一緒です。一緒の名前ですね。ちょっと面白いなあと思って。非常に熱心なキリスト教徒で、フィラデルフィアの大都会でも知られていた婦人だったそうです。死の床でお母さんが一番気になる次男のグリフィスに遺言を、ことばを遺しました。
それがね、当時の新聞の死亡記事のところに載っているんですよ。死の間際のことばがね。それを訳しますとね「息子に伝えて欲しい。地上では2度と会えなくなっても母は天国で待っているから」こういうことばだけなんですけれどもね、こういうことばを残して亡くなっているということが新聞に出ています。先も申し上げたように、愛とか、健康な体とか、美しい心に感謝しているということを最後まで彼は書いておりました。
それで、ちょっと変わったことを申し上げます。グリフィスの月給は300ドルです。300円と考えてくださって結構です。ところがですね、彼は実家の生活費も出しているんです。それから、借金を払っているんです。なんだ借金て。お金がたくさん入っているのに、これはわからないんです。私もよくわからなかったのだけれども、日本に来るまでに借金があるんです。
福井藩から渡航費に400ドルもらっているらしいです。船のお金とか、汽車のお金とか。ところがそんなものでは間に合わないらしいですね、当時外国へ行くということは。しかもそこで生活するということは。だって書籍も持って来るんですよ。それでね、すごい借金をしているんです。どこから借金をしたか。一番大きいのは教育局です。福井でいえば福井の教育委員会にあたります。そこから借金をしているんです。
まず借金を支払わなければならないというのが、彼の日常生活の苦しいところなんです。だから自分の勝手に使えるお金はほとんど無かった福井生活です。これ、苦しいですよ。実に苦しい。それ程お金が彼にとっては大事な、貴重な、そして尊敬すべきものだったんですよ。
ところがですね、ちょっとこれ余談になりますが、グリフィスは福井にいるときに化学の本をつくろうとしたんですよ。それをつくって印刷して生徒に分けると、その方が能率が上がると考えたのです。
1つにはね。彼は英語で化学の本を書いて、それを訳す人が欲しかった。藩はそれを探してくれたのです。探してくれて、とてもいい通訳をしてくれる男だなあとグリフィスは感心したのですが、ところが実際にやってみると全然間に合わない男だということがわかったんです。
私が最初にグリフィスの日記を訳しましたね。その時に1つだけわからない文字があったんです。それがOtaという文字、またはOhataという文字なんです。ローマ字で書いてある。Mr.Ota、ずーっと後になってくるとMr.Ohataとなっているんですね。で、私は探してもね、検討がつかないから、『グリフィスと福井』のあの中の日記のところに、1つだけ片仮名でオタまたはオハタと書いてあるところが、何箇所も出てきます。あれはね、あの本が出てから私の恥ずかしい一面だったのです。誰かわかる人がいるんじゃないか、いや私しかわからないのか。
ところが今度わかったのです。まあ、こういうふうに書いてあります。不明の人物が12月3日の手紙で正体をあらわした。私、手紙を読んでやっとわかったのです。名前は太田源三郎、今太田さんの悪口をいっているようで非常に申し訳ないのだけれども、さっきの名前が書いてあったWペーパーを見てください。そこに確か太田源三郎ってありますね。その太田源三郎という人だということがわかりました。
これがどういう人物かというと、高い月給をもらっているんですよ、この太田さんは。グリフィスとあまり違わない月給をもらっているんです。だから仕事ができないのにそんな高い、自分に近いような月給をもらっているということで、グリフィスは非常に不快になったんですね。グリフィスの手紙の中で不快なところはそこだけです。他は1か所もありません。そこだけは本当に不快な気持ちを味わっているんですね。
彼は何ができたかというと昔話ぐらいが訳できる程度だったと。じゃあなぜそういうふうに偉い人だといわれたかというと、片言というよりも、しゃべれたんですね。だから話は通じるんですが、物が読めないと。そこでグリフィスは書いてあるんですね。literature、文学とはいわないです、書き物のことです、当時は。書き物が読めないのでは駄目だ、間に合わないですよといふうに、おさえておりますね。で、その人物がどういう人物かということですが、こんなふうに私は調べました。
Mr.Ohataは静岡藩士、太田源三郎。1835年から1895年。これは生まれて死ぬまでの年です。1862年から63年にヨーロッパ使節の通詞、通訳をしておりました。横浜語学所の英学教授と、こういう経歴の持主なんですね。立派なものです。
そして、静岡藩の貸人といって、教育指導者として他の藩に派遣されるという、そういう制度がありました。その静岡藩の御貸人として福井藩に雇われたと。こういう人物なのです。
なぜ雇われたかといいますと、横浜語学所が閉鎖してしまって行き場を無くしてしまう、浪人したんですね。それで勝海舟の世話で、福井藩にこの男を斡旋したのであると。その取引をしたのは福井藩の学校係の人であります。この学校係の人は立派な人なので、またあとでお話いたしますが、こういう人物が雇われたということです。
福井藩にしては非常に恥ずかしい雇い方ですのでね、だから時代の異常な移り変わりのところではいいこと・悪いことが混ざり合っているわけなので、これには私も参りまして、みなさん、もしお持ちならば『グリフィスと福井』の中のその名前は本名の太田源三郎とお書き換えください。それをひとつお話をしておきます。次にまいります。
グリフィスが福井に行かないかという話を受けたのは、ニューブランズウィック神学校の学生の頃でした。それに応じて神学校のグリフィスの先生たちが会議を開きました。学生のグリフィスを日本の福井というところに遣りたいのだけれども、福井は知っていると、ご存知のように日下部太郎がいました。知っていると。大賛成だと。ひいては化学の勉強だけではなくて、キリスト教の宣教にもなるのではないかと神学校の教授たちは口を揃えていいます。
ところが1人バーグという神学校の教授だけが反対をしたのです。駄目だと。反対の理由は、日本に行くと誘惑が怖いと。行くなと。もちろん彼は来ました。ところが案の定、彼は誘惑にもう少しで負けるところでした。この誘惑というのは女性とのことであります。彼は自分の身の世話に雇った18歳の女性を思い切って解雇しました。お金をあげて、親にもよろしく言ってくれといって解雇しました。
それは姉さんへの手紙でよくわかり、彼は姉さんに告白したわけですね。その時に初めてバーグ博士のいっていることは本当だなと。じゃあ日本だけが誘惑の国かと。そうじゃない、とグリフィスはいっています。外国、西洋文明を日本にもたらすのが自分の仕事だけれども、文明と一緒に罪悪がいっぱい入ってくると。日本もそれにやられてしまうことがあるよと。こういう考え方がグリフィスの考え方であり、我々の考え方でもなくちゃならんと思うんです。
つまり二元性ですね。片方だけをいうのではなくて、こういうふうにいったら、いやこちらにも同じようなことがいえるよという考え方が、私がグリフィスから学んだことの1つです。どこからでも学べると思うけれども、こういう時代に書いている人のことこそ、時代が時代ですから深刻だろうと思って学べるのではないかと思うのです。
次の話に入ります。じゃあ福井のグリフィスは幸せだったかと。仕事はものすごくよくやりました。だって福井藩が、グリフィスのためになることだったらどんなお金も惜しまなかったのです。これがまた福井の偉いところなんですね。人物をみてこの人ならやれると思った以上は、何のお金も惜しまないのです。それが証拠には、家を建てました。グリフィスのために。グリフィスのためにラボラトリ、実験場をつくってくれました。こんなすばらしいことはありません。この2つはあとで写真でお見せします。その時にお話しいたします。
ただし、江戸から見ると福井は奥地なので、英語を話す人もなく1人取り残された気持ちである上に、一日千秋の思いで待つ家族からの音信が届かない、いまわしい不安が続く毎日であった。第一、日本、いや福井へ来るということの心配は、先もいった誘惑どころじゃありません。死ぬかもしれないというおそれがあったのです。グリフィスは日下部の死を見ております。それで彼は学校新聞に、ラトガースの学校新聞は彼がつくったのです、学生のときに。その学校新聞にこう書きました。「僕と日下部が墓を、つまり僕が日下部のふるさとの日本の福井で死に、日下部は僕のふるさとのニューブランズウィックで死ぬということがあっても、そういうことが万が一あっても、みんな僕のことを忘れないでくれよ」と、こういうふうなことを書いております。
だからグリフィスはひょっとしたらひょっとということを、生命の危険ということを考えていたに違いありません。必ず護衛が付いておりました。護衛についてはもっと面白い護衛の話があります。
グリフィスは危険な目に遭わなくて、しかも1回だけキニーネというのを福井の医者からもらって飲もうとしたところが、毒が入っていたということがわかったということで、助かったという。どうして助かったかというと、彼は少年時代に家の会計を助けるために宝石商人のところにアルバイトに行っていたんですよ。何か薬があるらしいですね、宝石を色々加工する。それでもって毒のことを知っておって、彼はとっさに「このキニーネはキニーネじゃない」ということがわかったので命拾いをしたということも書いております。
私はですね、グリフィスが福井にいる時に加賀の、隣の金沢ですね、金沢藩に雇われていった医者と英語教師などがいるのを知っています。グリフィスは見送っております。「いやあ、いらっしゃい。もうしばらくで加賀ですよ。頑張ってください」と言って送っております。舟橋も渡っております。
ところがそのうちの英国人の英語教師が大聖寺で天然痘のために高熱で急死します。これ、リトルウッドという名前しかわかっておりません。これは私、日記で見つけました。それで、ずっと、ずっと昔です、大聖寺へ行って、あそこに山下久男という民俗学の専門家がおるので聞いてみました。「この辺で外国人の墓は無いか」と。「いやあ、あれじゃないかなあ」といって、2人が「これだ」といったのがリトルウッドの墓です。今でも加賀市久法寺の墓地にその墓があって、ずっとお参りしておりますけれども、今まで20数年間、毎年12月にお参りしております。
それはなぜかといいますと、もしグリフィスだったとしてもあり得ることなんですよ。それをグリフィスは身近に感じております。だから実に危険な福井生活であるということがいえるんですね。そういうところにやって来ているんです。でも結論は先にいいました。福井を通して日本を知ったと。これは私の結論であります。
もう1つ加えておきます。グリフィスが福井へ来て得たこと、1つは仏教国であるということです。彼は“The Mikado’s Empire”の中に非常に大事なことを書いています。日本を知るということは仏教を知らなければならないということ。だから『日本の宗教』という本を書いているわけです。こういうようなことを書いています。散歩していると家の隙間から家族が仏壇にお参りする姿を見ています。これは全部報告しております。実によくお寺に行っています。お坊さんのお話を聞いています。これは日記などを読んでいただければわかると思います。いっぱい出てきます。
そこで1つおもしろいことをいいたいのは今立吐酔という15、6の少年のことです。これは江松成の満願寺の子どもであります。しかし、とりわけ秀才できこえた頭のいい子どもだったらしいです。その人がグリフィスの明新館の生徒になります。グリフィスはすぐに目をつけます。新しく建ったグリフィスの家にその子を入れようとします。他に5人入りました。一緒に自分の家に下宿させるのです。費用は自分がもちます。そのくらいのことを彼はいつもやっています。お金はそこへ使うのですね。
そしてその吐酔を自分の家に入れたときに何をしたかというと、日曜にだけ賛美歌と聖書、「マタイ伝」の最初を勉強させるのです。これは別にクリスチャンにするとかいう意味ではなく、しかし、彼の心にはあったと思うのです。やってみようという。そのときに吐酔をいきなり入れるわけにはいかないです。お寺の子どもです。だから、母と兄に一生懸命わけをいって懇願するのです。とうとう許しが出て吐酔はグリフィスの家に住み込みます。その吐酔ですが、さっき申しましたようにグリフィスの絶筆になった睦仁天皇の『明治史』を彼はああいう理由でもって私に訳させてほしいといった。
そこから1つ考えられることは友情という問題ではないかと思うのです。我々と外国人との間に、友情というのはそういう例があるのですね。私もアメリカ人との友情があります。しょっちゅう手紙をくれる友達がいます。このようになるにはグリフィスの研究がもちろん大事だったことと、長続きするねばり強い手紙の交換、気持ちの交換、これがないとなかなか長続きすることはありません。みなさんの中で20年も30年も長続きする外国人の友達はありますか。やっぱり必要じゃないかと思うのですよ。そういうことをつくることがですね。余計なことですが、いっておきます。
それからクリスマスというのがあるのですが、これがね、グリフィスはこんなことを書いております。福井にいるときにクリスマスをやったのです。中心はストッキングに物をいれてやるという習慣ですね。ストッキングなんてありませんので足袋をつるさせたんです。足袋に何を入れるかということですね。入れるものはあるんですよ。小さな硬貨、キャンディ、鉛筆、そういったものを入れてやったのですね。そこで雇っている下男、子ども、生徒達、みんながつるす。
みなさんアメリカなんかではストッキングをどこにつるすかご存知ですか。私も知らなかったのですよ。それからというものはテレビばっかり見て、クリスマスのテレビはないかと見ているとわかったのです。暖炉の脇なのですね。あそこにつるすようにしておくのですよ。他はつるしません。そんなこともわからずに私達はいたようなもので、私も恥ずかしかったのです。
こういうことも書いてあります。同じ1つの町でイエスの名が藩の高札で冒瀆され禁止されているのに、他方イエスをたたえる祭りが行われているという実に奇妙なことであると自分で自分のことを書いているのですよ。これおもしろいでしょ。
私はどう考えるかというと、常に時代は唸りを立てて変わっているんですよ。変わっているという時代、この時代はグリフィス自身がepochal years といっているんです。epoch、エポックメイキングのエポックですね。このepochal years というのはグリフィスがいみじくもいっていることに驚きました。
実は、これはハーバード大学の入江昭さんがいっていることばなのです。このハーバード大の歴史学者が、世界史的に見ても日本の1870年代前後はepochal yearsであると呼ぶにふさわしいということは常識化していますよと。明治元年の1868年は大したことないんですよ。まだ江戸なんですよ。したがって日本の福井にいるグリフィスは東京のことを「東京」とはいわない。「江戸」といっていました。そういう時代なのです。幸せな時代ではないのでしょうかね。時代の大きな転換期。私は今の時代がどういう時代かよくわかりませんけれども少し似たところがあるように思います。
4 写真に見るグリフィスの福井生活
お待ちかねの写真に入りたいと思います。
写真1は、グリフィスの家族の墓なんです。ニューヨーク州スケネクタディにあります。
この前の大きな墓、ここ一帯はグリフィス家の墓地なのです。大きな墓地でベール墓地と申しまして、その真ん中のお墓はグリフィスのお墓なのです。後ろに3つありますね。これがいいたかったんです。グリフィスの姉さん2人と妹の3人、3姉妹の墓です。真ん中は手紙の主、マギーの墓です。小さいでしょ。なぜかというと3人とも独身だったのです。
そして私はこのお墓を初めて探したんです。ラトガースの先生方はびっくりしました。よくこんなお墓を探してくれたと。自慢なのです、私の。ところが最近まで気付かなかったのです。なぜ小さな墓なのか。この3人は独身でもって亡くなるまでグリフィスの家族と一緒にいました。つまりグリフィスは彼女らを世話してやったのです。姉さん思い、妹思いのグリフィスということがわかります。グリフィスの家では3人の姉妹は亡くなっておりますから、そこへ自分の墓地へ埋めてやったのですね。そういうお話です。
   [写真1 グリフィスの家族の墓]
写真2は後列の左から2人目がグリフィスですね。左端の人はグリフィス書簡の宛名のマギーさん。このマギーさんはグリフィスが開成学校教授のときに日本に呼びまして、日本で最初の東京の女学校の教師をしました。とても頭のいい聡明なお姉さんだったらしい。マーガレットといいます。
それから上の列の一番高いですね、これが妹なんですね、メアリさん。グリフィスの右隣は2番目の奥さんです。福井に昭和2年一緒に来られた時、新聞などで着物を着た姿で写っている奥さんです。右端の人は2番目の姉さんのマーサです。つまり3Mですね。メアリ、マーサ、マーガレットみんなMではじまる名前の姉妹です。
この下の3人は最初の奥さんの子どもです。最初の奥さんとの結婚は最初の牧師をした教会で知った女性なんで、ちょっと東洋風のとてもきれいな女性です。
父は、ユニオン大学というところがここにありまして、ギリシア語の先生をしておりました。私これどうしてかといいますと、3人の姉妹とグリフィスという関係が何を物語るかということがわからないのです、まだ。何も物語らなくていいんですよ。ですが、特にグリフィスはどちらかというと女性に囲まれるタイプだったのです。小さい時から近所のお母さんたちにもかわいがられるタイプの男の子でした。
   [写真2 グリフィスの家族と3姉妹]
写真3は、お馴染みのグリフィスの家ですが、ちょっと誤解があるので話をしております。はじめ4つ家を建てるつもりだったんです。1つはグリフィスより先に来ていた語学教師のルセー、それからグリフィス、それから後で来ることになっている大砲の士官ブリンクリー、もう1つはドイツ人の医者、その4人が来ることになっていたのです。
ところが、これもまた廃藩置県の影響でもってバタバタになってしまったんです。結局来なかったのは、ブリンクリーと医者です。ということでこの写真の何もないところに等間隔でもう1軒建てるつもりだった。4軒建てるのだけれど、来ないということがわかっているのがあるから3軒になった。というわけで一番早めに何もないところにルセーという人の家を建てるつもりだった。
ところがルセーというのは1年契約で契約が更新されないままに福井を追い出されました。だからこの家は必要なくなって土台だけ残りました。その次に建ったのは医者の家なのです。医者が来たらここへ入ってもらおうと、そしてグリフィスはこの家を選び、一番向かって左側の家に入ったわけです。しかしそのうち医者も来なくなった。ということでこの家は空っぽになって残ったわけです。「医者の家」と私はいいます。
   [写真3 グリフィスの家(左)]
グリフィスが東京へ行ってしまってしばらくして、この家は煙突の不備で焼けてしまった。そこで県庁の役人たちはこの誰も住んでいない家をこちらへ移しました。移動されました。ここへ入ったのがワイコフとマゼットというグリフィスの後に来た後任の先生たちです。2人入りました。これが続いたわけです。だからこの家はグリフィスの家ではありません。「医者の家」なのです、もともとは。そんなことはどうでもいいとはいいますけどね。
そういうことでこの家が残って昭和11年でしょうかね、丸焼けになって今は姿もない。ただ下に基礎にあるような石は残っているようですね、話を聞けば。そういういわれのある建物です。
大事なことをいいます。この2つの家をご覧ください。何が見えますか。煙突が見えます。煙突、左の家は見えないんです、何でですか。木があるからです。右の家は見えるでしょう。なぜですか。葉が落ちたからですよ。おそらく銀杏の木です。これは11月の写真です。銀杏の木の葉が落ちたから煙突が見えたのです。
写真4はグリフィスの書いた手紙の中に入っていた地図です。グリフィスの家は一番川下ですよ。足羽川が流れています。真ん中を見てください。ドクターズハウスって書いてあるでしょ。左手を見てください。ルセーズハウスと書いてあるのです。これらはルセーが設計しているのですよ。設計者が追い出されてしまった。
というわけで、ちょっと下を見てください。これを拡大したのがこれです。何を意味するかというと、これがグリフィスの家です。ここは川原。この道をみんな今まで行き来していたのです。でも家を建てたものですから、用心のためにここを仕切ってしまってこの道を通れなくなってしまった。そこで裏側に道をつくったわけです。
   [写真4 グリフィスの家の周辺図]
それをたまたまグリフィスがこっちを眺めていると、日本人が通るんですね。知っている日本人はこちらの道に入ります。ところが中には何にも知らずに今までのようにやってきます。川から下りてこっちの道に入ろうとすると行き止まりになっている。あたふたと驚いている様子が2階からのグリフィスに見えるのです。グリフィスはいたずらっぽく日本人があわてふためく様子を上から見ている。そのうち「ああそうだ」と気付いてこっちへ入る。グリフィスもホッとする。こういうことをいいたかったのです、マギーに。
写真5は藩のつくったラボラトリなんです。実験室なんです。建物ですから実験場といいます。おそらくこれね、素晴らしい写真なのではないかと思うのです。
これについて、私は『若越郷土研究』で随分前ですが、この写真を見たときに、お城本丸にある番所と書いてあったのですよ。番所ですね。通行人を何とかするとか、太鼓を鳴らすとか何とかの。違うんじゃないか。これは番所なんかではなくグリフィスのためにつくってくれたラボラトリではないかなと思って、建築の専門家の明治村の菊池重郎博士に早速手紙を出して聞いたのです。すると多分そうであろうと、ただし問題が1つあると。煙突だ、と。これが鐘を鳴らす台かもしれない。
   [写真5 実験場(ラボラトリ)]
ずうっと後になって、グリフィス日記を見たら「8フィートの煙突」と出てきたのです。高い煙突でしょ。もうそれで決定的でした。これ理科実験場ですよ。ここを見たってどう見たって外国風ですよ。それともう1つ、屋根の上に屋根があるでしょ、スカイライトです。光を入れる。ここまでわかったらグリフィスの手紙の中にこれの設計図があるのですよ、ぴたっと合います。この写真は日本の化学の資料の中でも非常に貴重なものではないかと私は思うのでこの関係の人があったらそういうことをPRしてください。お願いします。実は、この写真はグリフィス・コレクションにありました。
この煙突と写真3の煙突についてグリフィスがこういう風に通信文に書いています。愛宕山(足羽山)から市内を見ると瓦屋根の平らの家並がずっと広がっていると。そこに2つ煙突がある。2つの煙突、それがこれだったのです。これは福井の町の人にとっては初めてのことなので、おそらく不思議な気持ちで外国というものを
見直すものになったのではないかと私はみています。彼は「2つの煙突」というふうなことばで表しております。私もそのことばは忘れません。
   [写真6 村田氏寿]
写真6は誰でしょう。村田氏寿です。
村田氏寿というのは、由利、岡倉という福井の人が自慢する人物に決して劣らない人物であるということを今日は申し上げたいのです。立派な写真でしょう。グリフィスの全ての世話をした人です。学校係です。学監といいます。この人についてはもうこのくらいでと思ったのですが、どうしても今日話をしておきたいです。
   [写真7 グリフィス]
写真7のグリフィスの写真は南校時代、教授のときの写真だと思います。
私が両方を出したのは2人の友情ということをまた話したいからです。この2人の友情は、グリフィスがさっき結婚したと申し上げましたね、結婚のお祝いの手紙まで出しているのですよ。グリフィスが結婚したということで結婚のお祝いを出しているのです。それからずっと後まで、村田からグリフィス、グリフィスから村田と友情を結んでいます。グリフィスも、国籍や血縁が人を結ぶのではなく、心が人と人とを結ぶのだといっています。
   [写真8 村田氏寿書簡]  
写真8は村田の手紙なんですが、12月8日と書いてあるのは陰暦です。1月17日です、陽暦は。グリフィスを研究しますと幸いなことに全部陽暦になっています。逆に言うと陰暦に書き直さないといけないので、これは明治5年の1月17日が陽暦です。
余談ですが「グリフィス」と私は簡単に言っており、みなさんもそうかと思いますが、グリフィスほど名前が無茶苦茶にある人はありません。クリューフリュースとかクリスとかグーリスとか無茶苦茶やってます。村田氏寿ですら無茶苦茶であります。なぜそうなったかわからない。GRIFFISという綴りが珍しいです。SでなくTHで終わるのが普通なのです。おそらくイギリスのウェールズが父の方の先祖だったと思うのだが、ウェールズ語にちょっと似たところがあります。とにかく難しい名前なのです。グリフィスこそ名前が何十もあります。姉さんのマギーも東京の女学校の先生に迎えたときの雇いの公文書の中だけでも4つあります。
   [写真9 グリフィス書簡]
写真9の手紙ね。さっきの村田の手紙はグリフィスに福井を離れるなといっているのです。評判がよいから離したくない。グリフィスは福井を離れなければならない。東京のフルベッキからお呼びがあって従わなければならない。そうすると、村田は従わないでくれ、と。十分なことをしたのに出て行こうという。これだけ一生懸命やったのだから子どもが困る、ぜひ残ってくれとしつこくしつこくいうのです。その村田をグリフィスは好きなのです。村田は「白山」のような男だといっています。動かない。それから考え方が非常に素晴らしい。
それに対して、グリフィスが村田に早速、いややっぱりこういう事情があるって。これは訳すととってもいい文章なのですけれど今は時間がありません。ただ上のほうをちょっと見てください。これはこのとき初めて日本人に出す手紙だろうから、‘New Fukuwi’と書いてあります。新生福井、新しく生まれ変わる福井。そういうイメージを持っています。その次に書いてあるのは旧暦の日本流の日にちが書いてあります。12月というのが書いてあります。そういう気持ちがあるということをいっておきます。
   [写真10 グリフィス書簡]
写真10は手紙の終わりですね。‘With high respect I remain’と書いてありますね。尊敬を表しています。一番下、サインです。WEG( William Elliot Griffis)、みなさんにお渡ししたペーパーのWとEとGが1つに入っています。その次に書いてあるのがプロフェッサー・オブ・ケミストリーの略語です。化学教授という自分の立場を書いております。こういう長い手紙をああやっていろいろ消しながらすぐ氏寿に送っております。
   [写真11 村田氏寿書簡]
   [写真12 明新館出身の南校生とグリフィス]
はい、次の写真11ですが、それに対して氏寿はまた仕方がない、君がいうことはわかった、承知したと手紙を出しています。すぐ出しています。18日送った手紙、18日に返事しています。君は快く東京へ、江戸のほうへ行ってくださいと。一番最後のところ、今度はグリフヒス君となっています。今いったことがこんなに出てくるのです。おかしいでしょ。
写真12は有名な写真ですけれども、実はですね、明新館のときの写真だとばかり思っていました。ところが実は、東京へ行ってから写した写真です。グリフィスが東京の大学へ行くということがわかったときに、明新館の生徒は一緒に先生のところへ行くという生徒が何人もいました。ところが藩はおさえました。グリフィスが向うへ行ってまだ落ち着かないのに行っても困るだろうと。その後追っかけていったのはこの連中です。南校の学生です。
どこへ入ったかというと、元加賀藩の江戸表の屋敷がありますね。大きいんです。そこへ外国人教師は泊りました。そこへまたこの連中たちを入れたんですよ。世話してやったんですよ。それを写した写真で、これ記録があるんですね。東京の内田写真、内田九一という今でも知られている有名な写真館ですが、その写真館内で写した
のです。
   [写真13 グリフィス担任の南校1年生徒]
   [写真14 グリフィスを送別する開成学校生]
写真13も同じ日に写したらしいです。記録があります。手紙があります。これは南校の彼が受け持った1年生の生徒のクラスなんです。全部で20名生徒がおります。ちゃんと数えてみたら20名おります。名前は私にはわかりません。1つ面白いことを教えます。
グリフィスの左隣に1人おりますね。背の低い人物。腰へ何か差してます。刀です。これガードなんです。まだこの時代でこれなんですよ。ガードがそばにいるんです。面白いといえば面白いけど。そしてその服装を見てください。洋風と和風の中間です。時代が移ってます。どんどん移ってます。
写真14は、グリフィスが1874年に帰国するときに、上のクラスのハンサムな学生たちが見送っている送別の写真なんです。立派なものでしょ、日本人学生。この中から留学していったのは沢山いるんですよ。みんな洋服を先生に劣らず着こなしている。この名前は分かるはずなのですが、私は調べておりません。
   [写真15 グリフィス著英語教科書]
写真15は、グリフィスが日本で最初につくった本なのですよ。英語の教科書です。富士山が描かれています。この頃は慶応義塾の福澤諭吉が米国へ2回ほど行きました。
そのときに向うで英語のテキストをかっさらうようにして、できるだけ取って帰って慶応義塾の生徒に使わせて、彼らが先生になって出かけた時にそのテキストで教えた。ところが、彼が取ってこなかった教科書があるんですよ。それは私が知っているんですが、『マガフィーリーダーズ』という教科書なのです。その頃アメリカで一番使われていた教科書なのですよ。なぜ取ってこなかったのか。キリスト教の精神が充満していたんです。
だから選ばなかった。だから『マガフィーリーダーズ』を使った学校は日本中にほんのわずかしかありません。私はあることで探しました。2か所だけ知っております。だけどグリフィスはそういうことも知って自分が日本人の生徒ためにテキストをつくってやろうといってつくったのがこれです。
   [写真16 グリフィス著英語教科書]
   [写真17 グリフィス著英語教科書]
次、写真16が“FIRSTREADER”です。
巻3までつくるところを巻1までしかつくらなかった。なぜか、売れなかったのです。みんな慶応義塾に押されちゃった。その頃、慶応義塾だけでない、もう1つ沼津兵学校があったのです。沼津兵学校の卒業生と慶応義塾の卒業生が全国の英語教師になったのです。これは小浜市立図書館で見つけたものです。どこにもありません。これは『酒井家文庫』、小浜市立図書館ですね。
写真17は綴りの本ですね。ジャパン・シリーズ“SPELLINGBOOK”です。
   [写真18 グリフィス著旅行案内書]
   [写真19 “The Mikado’s Empire”の挿絵]
写真18はガイドブックです。横浜と東京のガイドブック2冊、彼は書きました。これは日本へ来る外国人のためのガイドブックです。非常に細かく書いてあります。泉岳寺も四十七士のこともいっぱい書いてあります。これを持ってみんな東京横浜を旅した。グリフィスは旅が大変好きでしたから、こういう本がつくれたのだと思います。
写真19は“The Mikado’s Empire”に大沢南谷の描いた挿絵の1つでちょっと面白いと思ったのは、昔話をおばあちゃんから聞いている孫たちですね。グリフィスの関心がわかると思いますからちょっと入れておきました。
   [写真20 ヤトイに関する調査依頼カード]
写真20ですが、Wペーパーにちょっと入っております。‘TO THE YATOI’、グリフィスはアメリカ人では日本に最初にきた雇いの教師です。あと200人ばかりいます、アメリカ人の雇いは。彼はそれを調べたのです。忙しい人がこのカードを出して、いつ頃日本へ来たか、どこで教えたか、いくらもらったかということを書いてくれっていって、集めたのが入っています。そういうこともやりました。これは日本人がやるべきことなのですよ。彼がやりました。
   [写真21 日本人傷病兵慰問のためのカード]
写真21は、日露戦争で日本兵が傷つきました。けがをして病院に入っています。病気になって病院に入っています。その人たちに心を慰めるために何でもいいから送ってあげてくれというカードなのです。横浜のH.ルーミス牧師へ送ってくれ、私に送ってくれたって困るけれども。そういう内容で、日本人傷病兵の慰問のためのカードであります。
   [写真22 講演会案内のためのカード]
写真22は‘POPULAR LECTURES’と書いてあるけれども、ちょうど私がここで話しているようにいろいろ大変なことでですね。これはイサカというところだと思います。彼が住んでいるところで、イサカというのはコーネル大学という大学があります。日本で知られているのは農学部が非常に有名で、昔から農学を勉強する人はそこへ留学しています。コーネル大学のある町のことだろうと思います。1915年と16年にわたってこういう題目で話をするから聞きにいらっしゃいというカードです。
中に‘China, Japan, the Far East’というのがあって日本のこと、‘The Evolution of Japanese Nation’「日本国民の進化」という題で話をしますよとあります。以上3枚のカードを並べてみましたけど、全部対外活動であります。本を書くだけじゃありません。外へ出てもこういう働きをした人です。
   [写真23 乃木希典書簡]
最後になります(写真23)。ちょっと皆さんびっくりすると思います。乃木希典の手紙であります。乃木希典はご承知のように奥さんと2人で切腹しましたね。その12日前のグリフィス宛の手紙らしいです。何が書いてあるかといいますと日露戦争で福井中学卒業生の51名が死んでいる。とても働きが立派であった。非常に教養のある人たちばっかりだった。聞けばあなたの教えた学校の後輩だ。福井中学のことをいっているんですね。
それでこの写真を、ちょうど私はちょっと他のことでおかしいんですけど、丸岡出身の作家中野重治さんが福井中学時代に、講堂の壁にこの写真が51の枠に入れて飾ってあったらしいです。それほどのことを我々は覚えておいていいのではないかと思うのですね。戦争がどうのこうのという建前ではなくて、グリフィスの昔教えてくれた学校の生徒たちの教養の立派さに驚きましたということを彼は書いて感謝状にして送ったわけですね。ちょっと面白い手紙だと思って出しておきました。
以上で終わります。ありがとうございました。
5 むすび
最後に1つ、福井の人が親切だということをいっておきます。グリフィスが感じたことはいうまでもありませんが、グリフィスの後に来たワイコフというお雇いの人が始終日本にいる間、福井の人は本当に親切な人だということをいっております。これはわれわれの誇りにしていいことじゃないかと思うんです。
それから、もう1つですね、随分後になってから、福井の4つの中学校、福中、武中、大中、浜中とおわかりですか、その中学が4つしかなかった時に、巡回して教えたC.R.コールバーンというアメリカ人教師がいて、この人があとで、岡山の第六高等学校の先生になっていった時に、グリフィスに送った手紙の中に、福井の人は私が福井に来たときも親切だったし、去るときもまた非常に親切であったと書いております。このことは、私は忘れてはいけないことだと思います。親切心は持っておれるものですから。食べ物や売り物と違います。これは大事にしたいと思います。
それから、さらにもう1つお願いします。ノーブレス・オブリージということばを最近よく聞くと思います。これは、自分がやってもらったことだけは、責任を持って返すということですね。こんな新しいことばのように見えるものでも、グリフィスの手紙の中にきちんと入っておりました。これは、グリフィスが藩がやってくれたようなことを自分もお返しをしなければならぬというような気持ちで福井生活をしている。福井で教えているということを意味しております。非常に大事な、いいことばだと思います。
最後になりますが、私は福井の子らに聞かせるグリフィス先生ということで、真実の子ども向けの本を1冊書きたいと思っております。これ夢です。どうもありがとうございました。 
 
イザベラ・バードの見た明治日本

 

イザベラ・ルーシー・バード
(1831-1904) 19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリスト。ファニー・ジェーン・バトラー(英語版)と共同で、インドのジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立した。バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出された。1881年(明治14年)に妹の侍医であったジョン·ビショップと結婚し、イザベラ・バード・ビショップ、ビショップ夫人とも称された。
イギリス・ヨークシャーで牧師の長女として生まれる。妹の名はヘニー。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。アメリカやカナダを旅し、1856年(安政3年)、"The Englishwoman in America"を書いた。その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。1893年(明治26年)、英国地理学会特別会員となる。
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉を供とし、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(所々で現地ガイドなどを伴うこともあった)。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。これらの体験を、1880年(明治13年)、"Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻(新島襄・新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。その後、1885年(明治18年)に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献である。
また、清国、クルディスタン、ペルシャ、チベットを旅し、さらに1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、旅行記"Korea and Her Neighbours"(『朝鮮紀行』)を書いている。
中国への再度の旅行を計画していたが、1904年(明治37年)に73歳の誕生日を前にしてエディンバラで死去した。同地のディーン墓地に埋葬されている。
『日本奥地紀行』
1878年(明治11年)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、1880年(明治13年)に "Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として刊行された。冒頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」としるし、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しくは述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にすることを明言している。
栃木県壬生町から鹿沼市の日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また日光で滞在した金谷邸(カナヤ・カッテージ・イン)にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪する。
日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と日光に育まれた植生、コケ、シダ、木々の深緑と鮮やかに咲く花々が中禅寺湖、男体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様を闊達に描写し絶賛している。街道の終点である湯元温泉にもたいへんな関心を示し、湯治場を訪れている湯治客の様子を詳らかに記している。またその宿屋(やしま屋)のたいへん清潔である様を埃まみれの人間ではなく妖精が似合う宿であると形容し、1泊したうえで金谷邸への帰途に就く。
山形県南陽市の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した。
『日本奥地紀行』では当時の日本をこう書いている。
「 私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている 」
他には新潟を「美しい繁華な町」としつつも、県庁、裁判所、学校、銀行などが「大胆でよく目立つ味気ない」としたり、湯沢を「特にいやな感じのする町である」と記したり、また黒石の上中野を美しいと絶賛したりしている。
他方、「日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである」、また「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である。」と日本人の人種的外観について記している。(ただし、これは高梨健吉による誤訳で、「堕落」の部分は「(鎖国による)退化」と訳すのが正しい。)なおアイヌ人については「未開人のなかで最も獰猛」そうであるが、話すと明るい微笑にあふれると書いている。ほかにもホザワ(宝坂?)と栄山の集落について「不潔さの極み」と表し、「彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。しかし、私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない」と阿賀野川の津川で書くなど、当時の日本の寒村における貧民の生活について、肯定的な側面と否定的な側面双方を多面的に記述している。 
明治期の日本を5回訪れたイザベラ・バード
イザベラ・バードはイギリスの女性旅行家。明治時代の日本を訪れ、その旅行記をまとめた「日本奥地紀行」の著作で有名です。彼女は日本以外にも、ハワイ、ロッキー山脈、マレー半島、ペルシャ、クルディスタン、朝鮮、中国に関する旅行記を残しています。その中でも日本は多く訪れていており、都合5回ほど来日。満州や朝鮮、中国への旅のベース基地や夏の静養のために、伊香保温泉や日光湯元温泉に滞在していました。
ほとんど変わらない日本の農村
最初の日本滞在から20年を経た日本の進歩を、彼女は目の当たりにしました。そのため、日本紀行も新版を出していますが、「奥地」の部分はほぼ改編がなされていません。理由は
「 農村では人々の生活はほとんど変わっていないので、私は紀行文を少しも書き換えずに、そのまま再び刊行する 」
とあり、日本の農村の姿が20年たってもほとんど変わっていなかったことを示唆しています。しかしバードは日本の田舎の風景を愛し、その美しさを精彩な文章で現しています。一方で否定的な描写も多く、偏向の少ない一外国人の見聞録として貴重な書物です。
バードの日本旅行の経路
バードは東京を経て北海道まで、約3ヶ月間旅行をしています。
東京 → 粕壁(春日部) → 栃木 → 日光 → 会津 → 新潟 → 小国 → 置賜(山形県南部) → 山形 → 新庄 → 横手 → 久保田(秋田) → 青森 → 函館 → 室蘭 → 白老・平取(アイヌ部落) → 函館 → 横浜
いろいろな町を訪れていますが、いい印象ばかりではなく、悪い印象をもった町もあったようで、中には悪し様に罵っているところもあります。天気やそのときのバードの気分など、色々な要素が含まれての印象なので、これが当時の全てではありませんが、「日本奥地紀行」に書かれている、各地の印象や感想をまとめてみました。
東京
横浜港に到着したバードは、そのまま記者で東京を目指します。初めて訪れた東京は、バードにとっては特に感激も感動もなかったらしく、淡々と情景を描写をするにとどまっています。
「 この肥沃な平野には、百万の人口をもつ都があるばかりでなく、寸尺の土地も鋤を用いて熱心に耕されている。その大部分は米作のために灌漑されており、水流も豊富である。いたることろに村が散在し、灰色の草屋根におわれた灰色の木造の家屋や、ふしぎな曲線を描いた屋根のある灰色の寺が姿を見せている。その全てが家庭的で、生活に適しており、美しい。勤勉な国民の国土である、雑草は一本も見えない。どこでも人間が多いと言う点を除けば、一見したところ何も変わったところはなく、それほど目立つ特色もない。 」
粕壁(春日部)
あまり印象が良くなかったらしいです。旅はまだ始まったばかりだというのに、ノミやシラミだらけの汚い宿屋、ぞっとするほどいやなもののスープの食事(みそ汁)に辟易している様子が描かれています。
「 こんなことを書いていいものかどうか分からないが、家々はみすぼらしく貧弱でごみごみして汚いものが多かった。悪臭が漂い、人々は醜く、汚らしく貧しい姿であったが、何かみな仕事にはげんでいた。 」
栃木
日本旅行をやめてしまおうか、と思ったほど最悪だったようです。。宿屋は汚い上に、日本人客が夜通し騒ぐせいでろくに眠れなかったからです。
「 六時に栃木という大きな町に着いた。ここは以前に大名の城下町であった。(略)多くの屋根は瓦葺きで、町は、私たちが今まで通過してきた町々よりも、どっしりとしていて美しい姿をしていた。しかし、粕壁から栃木に来ると、事態はさらに悪化した。(略)蚊帳はまったくノミの巣であった。(略)障子は穴だらけで、しばしば、どの穴にも人間の目があるのを見た。(略)夜がふけるつれて、家中のうるさい音がはげしくなり、真に悪魔的となって、一時過ぎまで止まなかった。 」
日光
今まで通ってきた関東平野が醜い夢に過ぎない、と書くほどその美しさを絶賛しています。日光では金谷さんという、地元の雅楽奏者の家に宿泊してますが、金谷家の雰囲気とともにその人柄についても誉め称えています。
「 私がいま滞在している家について、どう書いてよいものか私には分からない。これは、美しい日本の田園風景である。家の内も外も、人の目を楽しませてくれぬものは一つもない。宿屋の騒音で苦い目にあった後で、この静寂の中に、音楽的な水の音、鳥の鳴き声を聞くことは、ほんとうに心をすがすがしくさせる。(略)金谷さんの妹は、たいそうやさしくて、上品な感じの女性である。(略)日光は「日の当たる光輝」を意味する。その美しさは全日本の詩歌や芸術に有名である。男体山を主峰とする山々は一年の大半を雪におおわれ、あるいは残雪を点在させているが、人々に神として尊崇されている。すばらしい樹木の森林。人がほとんど足を踏み入れない峡谷や山道。永遠の静寂の中に眠る暗緑色の湖水。250フィートの高さから中禅寺湖の水が落ちる華厳の滝の深い滝壺。霧降の滝の明るい美しさ。大日堂の庭園の魅力。大谷川が上流から奔り流れ出てくる薄暗い山間の壮大さ。つつじ、木蓮の華麗な花。おそらく日本に並ぶものがない豪華な草木も、二人の偉大な将軍の社をとりまく魅力の数々のほんの一部にすぎない。 」
田島(南会津)
本を読んでいけば分かりますが、バードは基本的に自然が好きな人で、山々や木々や、そこを通る光の美しさを褒める傾向にあります。そういう点で田島(南会津)は自然の美しさでバードを魅了したようです。
「 私たちは田島で馬をかえた。ここは、昔、大名が住んでいたところで、日本の町としてはたいそう美しい。この町は下駄、素焼、粗製の漆器や籠を生産し、輸出する。(略)この地方はまことに美しかった。 日を経るごとに景色は良くなり、見晴らしは広々となった。山頂まで森林におおわれた尖った山々が遠くまで連なって見えた。山王峠の頂上から眺めると、連山は夕日の金色の霞につつまれて光り輝き、この世のものとも思えぬ美しさであった。 」
車峠〜津川(西会津)
同じ会津地方でも、車峠〜津川までの道のりは風景もつまらない、人も野蛮人以下、と糞味噌にやっつけています。同じ文脈で日本人の道徳性さえ貶しているので、よっぽど不快感を感じたのでしょう・・
「 宝沢と栄山に来ると、この地方の村落の汚さは、最低のどん底に到達しているという感じを受ける。 鶏や犬、馬や人間が焚火の煙で黒くなった小屋の中に一緒に住んでいる。堆肥の山からは水が流れて井戸に入っていた。(略)彼らはあぐらをかいたり、頭を下げてしゃがみこんでいるので、野蛮人と少しも変わらないように見える。彼らの風采や、彼らの生活習慣に慎みの欠けていることは、実にぞっとするほどである。慎みに欠けていると言えば、私がかつて一緒に暮らしたことにある数種の野蛮人と比較すると、非常に見劣りがする。(略)私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない。 」
新潟
バードは新潟の町の設備や景観、清潔さを誉め称え、故郷のエディンバラも新潟を見習うべきだ、とさえ言っています。少し長くなりますが、引用します。
「 しかし新潟は美しい繁華な町である。人口は5万で、富裕な越後地方の首都である。(略)このような隔絶された町に、大学と言う名にふさわしい学校が見られるのは興味深いことである。(略)新潟の官公街は、西洋式に文明開化の姿を見せているが、純日本式の旧市街とくらべると、まったく見劣りがする。旧市街は、私が今まで見た町の中で最も整然として清潔であり、最も居心地の良さそうな町である。(略)町は美しいほどに清潔なので、日光のときと同じように、このよく掃ききよめられた街路を泥靴で歩くのは気が引けるほどである。これは故国のエディンバラの市当局には、よい教訓となるであろう。(略)この町は、日本にきわめて珍しい美しさをもっている。奥深いベランダが街路に沿ってずらっと続いているので、冬になって雪が深く積もった時に、屋根のついた歩道の役目をするようになっている。運河に沿って並木道があり、りっぱな公園もあり、街路は清潔で絵のように美しいので、町は実に魅力的である。 」
山形
新潟から山形までの道のりは酷いものだったので、久方ぶりに見る近代都市に心がほっとした様子です。
「 山形県は非常に繁栄しており、進歩的で活動的であるという印象を受ける。上ノ山を出るとまもなく山形平野に入ったが、人口が多く、よく耕作されており、幅広い道路には交通量も多く、富裕で文化的に見える。(略)山形は県都で、人口2万一千の繁昌している町である。少し高まったところにしっかりと位置しており、大通りの奥の正面に堂々と県庁があるので、日本の都会には珍しく重量感がある。どの都会も町外れはとても貧弱だが、新しい県庁の高くて白い建物が低い灰色の町並みにの上に聳えて見えるのは、大きな驚きを与える。山形の街路は広くて清潔である。良い店があって、長く軒をつらねて装飾的な鉄瓶や装飾的な真鍮細工しか売っていないものもある。 」
新庄
明治新政府の県庁となった町とは対照的に、かつての大名お膝元の町は寂れ始めていることが記述されています。雨、蚊、鼠もバードのテンションを下げているようです。
「 新庄はみすぼらしい町である。ここは大名の町である。私が見てきた大名の町はどこも衰微の空気が漂っている。お城が崩されるか、あるいは崩れ落ちるままに放置されていることも、その原因の一つであろう。新庄は、米、絹、麻の大きな商取引があるから、見た目ほど貧弱なはずはない。蚊は何千となく出てくるので、サゴ椰子の澱粉粉とコンデンスミルクのあわれな食事を終わらぬうちに、私は寝床に入って蚊を避けねばならなかった。一晩中、暖かい雨が降った。私のあわれな部屋は汚くて息がつまるようであった。鼠は私の靴をかじり、私のきゅうりをもって逃げ去った。 」
湯沢
ここでは町の雰囲気というよりは、外国人珍しさに集まってきた群衆に心底うんざりしている様子が描かれています。何かイヤなことがあると、風景から雰囲気、食べたものまで何から何までネガティブな描写になるのはバードの文章の特徴かもしれません。
「 湯沢は特にいやな感じの町である。私は中庭で昼食をとったが、大豆から作った味のない白い豆腐に練乳をかけた貧弱な食事であった。何百人となく群集が門のところに押しかけてきた。(略)まことに奇妙な群集で、黙って口だけ大きくあけ、何時間もじっと動かずにいる。母の背中や父の腕に抱かれている赤ん坊は、目をさましても少しも泣かない。群衆が大声で笑ってくれた方が、たとえ私に対してであっても、ほっとした気持ちになるであろう。群集が皆じっと憂鬱げに私を見つめているのは、私を堪らない気持ちにさせる。 」
久保田(秋田市)
明治政府の行政の中心である久保田(秋田市)は、城下町ですが近代的な設備が整っていて、バードにも好印象だったようです。また、ここでビフテキ、カレー、きゅうり、外国製の塩、辛子を食べたことで活力が蘇ったようで、「眼が生き生きと輝く」と描写しています。そのことで全体的に好意的な印象が残ったのかもしれません。
「 久保田は秋田県の首都で、人口3万6000、非常に魅力的で純日本風の町である。(略)商売が活発で、活動的な町である。青と黒の縞や、黄色と黒の縞の絹物を産する。これで袴や着物を作る。また横糸を盛り上げた一種の白絹のクレープは縮緬として東京の商店では高値を呼ぶ。またふすまや下駄を生産する。城下町ではあるが例の「死んでいるような、生きているような」様子はまったくない。繁栄と豊かな生活を漂わせている。商店街はほとんどないが、美しい独立住宅街が並んでいる街路や横通りが大部分を占めている。住宅は樹木や庭園に囲まれ、よく手入れをした生垣がある。どの庭にもがっしりした門から入るようになっている。このように何マイルも続く快適な「郊外住宅」をいると、静かに自分の家庭生活を楽しむ中流階級のようなものが存在していることを思わせる。 」
黒石
宿が清潔であったことと、自然が美しかったこともあり、バードは黒石に比較的よい印象を持ったようです。その時の気分なのでしょうが、必要以上に褒めそやしたり、逆に乱暴に書きなぐったり、読んでいてこうもテンションの落差があるかと驚くほどです。
「 景色は明るい光を浴びて色彩も鮮やかで、実に美しかった。紺碧色と藍色、緑がかった青色と青みがかった緑色、思いがけない割れ目のところに白い泡のように光るものがあった。素木で家庭的な風景であり、まことに楽しい土地であった。農民の住みいくつかの村を通り過ぎたが、彼らは実に原始的な住居に住んでいる。(略)犬の顔も子どもの顔も、そして大人達の顔も、すべて静かに生活に満足して見えた。これらの百姓たちは多くの良い馬をもち、その作物もすばらしかった。(略)彼らはそれ以上の生活を知らないし現状の生活に満足している。しかし彼らの家は今までみたことがないほどひどいものであり、泥まみれになったエデンの園の素朴な生活といった感じで、毎週1回でも入浴しているだろうかと疑いたくなる。 」
青森
バードは函館に渡るために青森に立ち寄っていますが、ものの数時間もしないうちに船に乗っているので大した描写はありません。天気が悪かったせいもあり、「灰色の町」という印象しかないようです。
「 青森は灰色の家屋、灰色の屋根、屋根の上に灰色の石を置いた町である。灰色の砂浜に建てられ、灰色の湾が囲んでいる。青森県の都ではあるが、みじめな外観の町である。(略)この町の特産品は大豆と砂糖で作られるお菓子である。青森は深くて防波の充分によい港があるが、桟橋など貿易上の設備がない。 」
函館
当時の函館は、駒ヶ岳の噴火(1856年)からの20年ほどで、まだ完全に復興しきれていない様子で、全体的に「貧弱でみすぼらしい」という印象を受けたようです。
「 ここも日本なのであるが、何か異なったところがある。霧が晴れると、一面に緑で包まれた山々ではなくて、裸の峰や火山が現れてくる。火山は、ほんの最近に爆発したもので、赤い灰が昼の太陽の下に燃え、夕日には桃色から紫色に変わってゆく。(略)砂浜が岬と本土とを結んでいるので、ジブラルタルと地形が非常によく似ている。(略)函館を一見しただけで、やはりどこかからどこまでも日本的だと感ずる。街路は非常に広くて清潔だが、家屋は低くてみすぼらしい。この町はあたかも大火からようやく復興したばかりのようにみえる。家屋は燃えやすいマッチも同然である。他の年都市にあるような雄大な瓦屋根は見られない。幅広く風の多いこの町で永久に存続するようなものは、一つもない。 」
幌別(ほろべつ)
北海道に入ってから、バードのテンションはMAXになります。地平線の彼方まで続く、手つかずに自然の風景にいちいち感嘆しています。幌別はそんな中にあるアイヌと日本人の混在の町で、バードは興味深げにアイヌの家屋を観察しています。
「 山を上って頂上から眺めると、室蘭湾は実に美しい。一般的に言って、日本の沿岸の景色は私が今まで見たうちでもっとも美しい。(略)太平洋の眺め、耕作地のない誰も人の住んでいない沼拓地、森林におおわれた遠くの山々、これらは私が幌別に着くまでの景色の全てであった。幌別は日本人とアイヌ人の混住の村で、海岸近くの砂上に作られている。(略)アイヌ村は実際よりも大きく見える。ほとんどの家が倉をもっているからである。それは木の長い土台棒に支えられて地面から六フィートの高さに上げられている。(略)彼らの家屋は日本人の家と似ていなくて、むしろポリネシア人の家屋と似ているとだけ言っておこう。 」
白老(しらおい)
気分良く旅を続けることができた上に、宿屋が清潔で、しかも好物の鮭が食べれたことでテンションが上がっている様子です。
「 私たちは暗くなるころ白老に着いた。ここは海近くにあり、日本人の家が十一戸の村に、アイヌ人五十一戸の村がついている。そこには古風な大きい宿屋がある。しかし、伊藤はたいそうきれいな新しい宿屋を選んでくれていた。(略)その真ん中に伊藤がおり、今新しい鮭の厚い切り身を炭火で焼いているという嬉しいニュースを知らせてくれた。部屋はさっぱりと整理されているし、非常に空腹だったので、魚油皿に灯芯を立てた灯火の下でおいしく食べた。その日いちばん楽しかったことである。 」
湧別(ゆうべつ)
北海道の大地は、よほどバードを魅了したらしいです。故郷のスコットランドと風景が似ているのか、荒れ果てた荒野を見てひどく感激しています。
「 八マイル進むと湧別に来た。ここは私の心をひどく魅了したので、もう一度来たいと思う。その魅力は、この土地の持っているものよりも持っていないものにあり、伊藤は、こんなところに二日も滞在したら死んでしまう、と言っている。ここは、荒れ果てた寂しさがこれ以上先にはあるまいと思われるような、地の果てといった感じがする。 」
平取(びらとり)
アイヌ人の対応や振る舞いはバードの好みにあったようで、日本人より好印象を持ったようです。風景の美しさも相まって、感動がいっそう高まっているのが分かります。
「 平取はこの地方のアイヌ部落の中で最大のものであり非常に美しい場所にあって、森や山に囲まれている。村は高い台地に立っており、非常に曲がりくねった川がその麓を流れ、上方には森の茂った山があり、これほど寂しいところはないであろう。私たちが部落の中を通っていくと、黄色い犬は吠え、女たちは恥ずかしそうに微笑した。(略)しかし彼らは日本人の場合のように、集まってきたり、じろじろ覗いたりはしない。おそらくは無関心のためであり、知性が欠けているためかもしれない。この三日間、彼らは上品に優しく歓待してくれた。 」
バードはこのあと、函館に戻り船で横浜に帰港しています。
 
天正遣欧少年使節

 

1 天正遣欧少年使節
「天正」10年、「欧州(ヨーロッパ)」に「派遣」された、4人の「少年」たちを中心とした「使節」団のことです。
―― 時は戦国!…と、言いたいところですが、時は安土桃山時代。 織田信長、そして豊臣秀吉が天下を治めていた頃。その元号の一番最初と言われているのが「天正」(1573-1593)です。
1582年。時の権力者・織田信長の元、キリスト教を広めるためローマから日本を訪れていた司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、日本での布教活動に必要な支援をローマ教皇やスペイン王たちに依頼するための計画を立てました。
それは、将来日本のキリスト教を担っていくセミナリヨ(キリスト教の学校)の生徒である「少年たち」を、日本の「使節」として「ヨーロッパ」に「派遣」することでした。
少年たちが直接ヨーロッパを回れば、ヨーロッパの国々に日本の存在をアピールすることができ、さらに帰国後、ヨーロッパの素晴らしさを少年たちに広めてもらうことが出来る一挙両得の方法。
そのために選ばれた4人の少年たち。
   伊東マンショ。
   千々石ミゲル。
   中浦ジュリアン。
   原マルチノ。
それが「天正遣欧少年使節」だったのです。
2 使命・知識・体験・読経
「使命」
第1回でもお話した通り、「天正遣欧少年使節」が結成された理由は大きく言って2つありました。
1つ目は「日本での布教活動に必要な支援をローマ教皇やスペイン・ポルトガル王に依頼するため」
2つ目は「日本の少年たちが直接ヨーロッパを回ることで、ヨーロッパの国々に日本の存在をアピールして、帰国後、ヨーロッパの素晴らしさを少年たちに広めてもらうため」
…2つ目の理由に、2つ分入っていますね!
彼らの時代、当然ネットもTVもありません。ヨーロッパの人々はアジア諸国を見たことが無く、アジア諸国もまた、ヨーロッパは未知の世界でした。
“日本”なんて、ヨーロッパから見れば東の海の果ての果て。
「日本って何?」「どういう国?」「日本人ってどんな人?」ヨーロッパの人々は、興味津々だったことでしょう。
そんな中で「日本からの使者」として各所を訪問した彼ら。
いわば「日本代表」です。
ヨーロッパの人々が「日本人とは、どんな人間なのか」の判断基準にする対象として注目されていた4人の少年たち。実際、注目度の高さを物語るように、少年使節が訪れた事を書き記した書籍はヨーロッパで50冊以上にのぼったとか。
もし彼らが落とした食べ物拾って食べたら「日本人は落としたモノ食べる」とヨーロッパ中に触れ回られてしまったでしょうし、謁見中にお尻でも掻いたら「日本人は…」と書き立てられてしまったでしょう。自分の行動、一つ一つの振る舞いが全部「日本人は…」になってしまう!
これはものすごいプレッシャーだったのではないかと思います。
「日本代表」「日本人として」「日本」を背負った彼ら。オリンピックやワールドカップの代表選手状態ですよ。現代だったらお菓子に付くトレーディングカードになっていますよ。
さらに宗教や国内・海外の政治的事情、経済的な使命もハッキリ課せられていたのが「天正遣欧少年使節」。1つ目の結成理由として上げた「日本での布教活動に必要な支援」の約束も取り付けなければならなかった。
そして帰国後は、見聞きしてきた「キリスト教世界」を背負って、貴重な存在である「海外の国々を見て回った日本人」として時の権力者・豊臣秀吉と謁見するなど、国内での働きも期待されました。
彼らは、その役目を果たしました。
「使命」に臆すること無く、それをやり遂げた彼らは、スゴイ。
「知識」と「体験」
「天正遣欧少年使節」の企画者・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が、日本で神父を育成するために建設した学校・セミナリヨ。
織田信長のお膝元・安土(滋賀県)と、有馬晴信の領地・有馬(長崎県)の2箇所に作られました。天正遣欧少年使節の4人は、有馬セミナリヨの一期生でした。
そこでは、
最初に日本にやってきたフランシスコ・ザビエルが生活や価値観の違いにカルチャーショックを受けつつも「私が出逢った民族の中で、最もすぐれている」と評して、「日本人は文化水準が高いので、よほど立派な宣教師でないと日本の布教は苦労するであろう」と、日本に派遣される宣教師に知識の高い人材を求めたせいもあってか、セミナリヨでは西洋でも最先端とされていた知識が授業で取り上げられていたと言われています。
ラテン語、ポルトガル語といった語学、倫理神学、哲学、神学、地理学、音楽、美術、体育、さらに日本語の読み書きや、習字、作文、日本文学。
文化祭など学校行事まであったと伝えられており、当時の日本において、これだけ幅広く、そして多くの知識を学べた場所はここだけだったのでは無いかと思われます。
日本では、地球が丸いということも知られていなかった時代。
それを、少年使節の彼らは学び、そして船旅によって体験し、実感することが出来たのです。スゴイ。
「度胸」
今では日本からローマまで飛行機で約13時間ほどですが、「天正遣欧少年使節」の旅路は帆船で丸3年。
風に乗り、アジアの島々に滞在しつつインドを経由して、アフリカ大陸をグーッと周って、ようやくヨーロッパ大陸にたどり着くことが出来たのです。
当時、ヨーロッパは大航海時代。貿易で一攫千金を夢見た人々や、布教のために他国へ足を運ぼうとする宣教師たちが大勢いました。
少年たちの派遣を決めたヴァリニャーノもほぼ同様の経路を経て日本にたどり着いた訳ですから、その危険と困難は身を持って知っていたハズ。
何年かかるとも分からない、行き先の人も土地も初めての旅。命の保証だって無い。
そんな中、使命と希望を抱いて、海に乗り出した彼らの覚悟が、スゴイ。
ヨーロッパではスペイン帝国黄金世紀の最盛期に君臨したフェリペ2世にハグされて、現在使われている西暦、グレゴリオ暦を制定したローマ教皇グレゴリウス13世に謁見して、ローマ市内ではパレードの中心になり、帰国後には豊臣秀吉の前で西洋の楽器を演奏して褒められたりしている。
誰にも臆さず、立派な立ち振舞いを見せた十代の少年たち。
ただ、トスカーナ大公に招かれた舞踏会では、そんな彼らには珍しくお茶目なエピソードが残っていたりもします。
3 大友宗麟・大村純忠・有馬晴信
ヴァリニャーノ神父が発案した「天正遣欧少年使節」。
彼らはスペイン・ポルトガルの王様とローマ教皇に会うためにヨーロッパに旅立ちます。
しかし当時の彼らはティーンエージャー。さらに修道士でも司祭でも無い、セミナリヨの「学生」。
個人的に「海外とか興味あるんで、行きたいッス!」と希望して、それが叶えられたというわけではもちろんありません。
九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、ヨーロッパに向かったのです。
…ということで、大名の代理人となるにふさわしい、れっきとした理由があって4人は選ばれました。
その大名たち。大友宗麟・大村純忠・有馬晴信はどんな人物だったのか?
大友宗麟(おおとも・そうりん)
まずは大友宗麟さん。豊後(大分県)を治めていましたが、最盛期には九州六ヶ国まで領地を拡大していました。
布教のためにやってきた宣教師のフランシスコ・ザビエルと会い、領内での布教活動を認めた大名です。南蛮貿易を積極的に行い、外交に長けていたとも。
お名前は大友義鎮(おおとも・よししげ)で、宗麟は法号。仏門に入った人が授けられるお名前です。当初は禅宗に帰依していましたが、後に洗礼を受けて「ドン・フランシスコ」と名乗るようになりました。
キリスト教への関心が強く、「キリシタン王国」なるものを建設しようとしていたといわれています。
大友宗麟の名代は、筆頭使節である伊東マンショ。
マンショのおじいさん、伊東義祐(いとう・よしすけ)は日向(宮崎県)伊東氏の大名。その次男・義益のお母さん・阿喜多の叔父さんが、大友宗麟。大名の血縁者であることも、マンショが名代として選ばれた理由でした。
大村純忠(おおむら・すみただ)
大村純忠さんは、長崎県大村市周辺を統治していました。長崎港を開港した大名です。
港を探していたポルトガルの船に自領の横瀬浦(長崎県西海市)を提供し、同時に宣教師に対しても住まいを与えたりと便宜を図りました。その1年後に純忠は家臣と共に洗礼を受け、キリスト教徒になります。
その理由として、ポルトガルとの貿易による利益のためだった、という見方もされていますが、洗礼後はキリスト教の教えを守ろうとする熱心なエピソードも多々残されており、領民にも信仰を奨励した結果、大村領内での最盛期のキリスト者数は6万人越え、日本の信者の約半数がいたという時期もあったとされています。
名代は、彼の甥にあたる千々石ミゲル。
有馬晴信(ありま・はるのぶ)
肥前日野江藩(佐賀県、長崎県辺り)の初代藩主。
洗礼を受けた後は熱心なキリスト教徒となり、秀吉が禁教令を出した後も多数のキリシタンを領土に匿っていたといわれています。
名代は晴信の従兄弟にあたる千々石ミゲル。ミゲル、名代ダブルです。
名字は違いますが、有馬晴信のお父さんの義貞(よしさだ)の弟が、大村純忠と、ミゲルのお父さんである千々石直員(ちぢわ・なおかず)なので、ミゲルは2人の大名の血縁者なのです。

原マルチノと中浦ジュリアンはこの3大名の血縁者では無いので、副使です。彼らが選ばれた理由も気になりますが、それはまた別の機会に。

3人の大名とも、熱心なキリスト教信者。ヴァリニャーノ神父の企画に賛同して、天正遣欧少年使節を派遣したといわれていますが。
天正遣欧少年使節が旅立つ前に計画を知っていたのは、実は大村純忠と有馬晴信だけで、大友宗麟は知らなかったという説もあります。各地の距離を考えると、当時の情報伝達スピードでは書簡が間に合ったのか疑わしい…とのこと。
さらに、たどり着いたヨーロッパでも問題が。
「大名の甥」や「血縁者」という言葉が、当時のヨーロッパには伝わり辛かったのでしょう。日本語からポルトガル語、ラテン語、イタリア語やスペイン語…と、様々な言葉に訳されていったので、まるで伝言ゲーム状態だったことが予想されます。
「大名」という言葉を単純に「日本の王」と訳されたり、マンショやミゲルのことも「息子」とざっくり訳されたことで、天正遣欧少年使節は「日本の王子様」として諸国に伝えられ、それが後に論議を醸し出したりしています。
天正遣欧少年使節の派遣を良く思っていなかった人がヨーロッパでの歓迎ぶりを聞きつけて、「彼らは王子様じゃないですよ!マンショとか貧乏だったし!」とチクる手紙がローマへ届いたりもしていました。
彼らの華々しいヨーロッパ道中の裏では、様々な人たちの思惑が飛び交っていたのです。
4 フェリペ2世
スペイン・ポルトガルの王。フェリペ2世。
スペイン、ポルトガル、さらに2番目の奥さんは“ブラッディ・メアリー”ことイングランド女王メアリー1世でしたので、結婚期間中は共同統治者としてイングランド王も兼ねていました。
ちなみにフェリペ2世、全ての奥さんと死別していますが、生涯で4回結婚しています。
ヨーロッパ、中南米、アジアに及ぶ大帝国を支配し、勢力圏を拡大していたスペイン帝国の黄金期を統治した王です。
父はスペイン王にして神聖ローマ皇帝に選出され、スペインを「太陽の沈まない国」と言われるほどに繁栄させたカルロス1世。28歳の時に、父の退位によりオーストリアを除く領土を受け継ぎました。
加えてポルトガル王に即位したのは、1580年。使節が日本を出発した1582年にはまだ日本にその情報は届いておらず、ヴァリニャーノ神父はインドのゴアでヨーロッパの変動を知った模様です。

1584年、ポルトガルの港・リスボンに到着した天正遣欧少年使節を待っていたのは、フェリペ2世からポルトガルの統治を委ねられていた甥の枢機卿・アルベルト。非常に親しみを持って歓迎されたという記録が残っています。
イエズス会・上長の前で、少年使節が和装で盃の礼事をして喝采を受けたという話を聞いた枢機卿は、自分も和装の少年たちを見たいとリクエスト。
特に日本刀に興味を持ったアルベルト枢機卿、抜刀してガン見。教皇への贈り物として信長が持たせていたという屏風を一人でずっと眺めていたりもしたそうで(欲しかったんだろうな…)、枢機卿の人柄や興味が伺えるエピソードが多々残されています。

リスボンは海外から渡ってきた(あるいは奴隷として送られてきた)アジア人も多く、「外国人」ということで注目を集めることは無かったと記録されています。
しかし、「和装ボーイズ・コレクション」が話題となり、その先々で天正遣欧少年使節はランウェイして回らなければなりませんでした。
あ、それまでの道中では彼らは洋服でした。着物は大切な礼装。過酷な旅でボロボロになってしまってはいけないと、普段は丁寧に仕舞われて持ち運ばれていたそうです。本来は国王への謁見、そして教皇に会う時のために用意したものでしたが、彼らを招く誰もが着物を見たがったため、度々披露せねばならなくなりました。
フェリペ2世の従姉妹・カタリナ夫人に至っては、和服を大変気に入ったようで、仕立屋に命じて速攻で似たものを作らせ、息子に着させて披露したりも。金持ちのコスプレはやることが違う。
“着物効果”もあってか、あちこちで熱烈な歓迎を受けたため、天正遣欧少年使節の旅はなかなか進まず…。
さらに道中、ミゲルが疱瘡にかかったり、マルチノが高熱で倒れたりとポルトガルからスペインに向かう旅路は散々でした。

天正遣欧少年使節がようやく首都・マドリードに到着してフェリペ2世に謁見することが出来たのは、フェリペの息子に王侯貴族たちが忠誠を誓う「王太子の宣誓式」。
臣下たちが「フェリペ2世の子どもにも従いますよ」と神の前で宣誓を行う、非常に大事な儀式の後でした。この式には、天正遣欧少年使節一行もVIP席を用意されて陪席しています。
そして、いよいよフェリペ2世との謁見。天正遣欧少年使節、もちろん和装フル装備です。
フェリペ2世と、王子や王女たちが待つ特別な部屋に通された少年使節たち。
ひざまずいて手に接吻するのが国王への恭順を示す当時の挨拶でしたが、そうしようとするマンショをフェリペは押しとどめました。そしてマンショを立たせ、親しく抱擁。4人の少年使節、さらに2人の従者にもハグ。
天正遣欧少年使節が、第一のミッションを達成した瞬間でした。

フェリペ2世が彼らを温かく迎えたのには、ポルトガルで少年使節たちを迎えたアルベルト枢機卿やイエズス会・上長からの言伝、彼らを歓迎した貴族たちの評判ももちろんあったことでしょう。
しかしそれ以上に、「東方の王がスペイン・ポルトガル国王である自分に使者を遣わした」ということによる世界中に自分の権威が伝わっているという証、そしてキリスト教がアジアの果てにまで広まった象徴ともなる天正遣欧少年使節の来訪は、熱心なカトリック教徒であったフェリペ2世を非常に感動させたのだと思われます。
その後、進物の贈呈、マンショとミゲルによる日本語での口上、書簡の奉呈などが行われ、フェリペ2世はかつてないほど機嫌良く、彼らとの時間を楽しんでいたと伝えられています。

ちなみに、王太子としてこの場にいたのは、のちのフェリペ3世。当時6歳。
伊達政宗が慶長18年(1613年)に派遣した「慶長遣欧使節」と会ったのは彼です。
その時フェリペ3世は、幼い頃に会った4人の少年たちを思い出したりもしたのでしょうか。
5 グレゴリウス13世
ローマで天正遣欧少年使節を迎えた教皇は、グレゴリウス13世でした。
当時、中世末期に起こった宗教改革によってキリスト教世界は大きく揺れていました。
教会体制を批判したルターによって、キリスト教はローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展していたのです。
カトリック教徒の指導者である教皇にとっては、悩みの多い時代だったことでしょう。グレゴリウス13世は多くの神学校を設立して、聖職者育成に尽力していました。

そんな中、東の果てから「カトリック教徒」になった異国の少年たちがやってきた。
当時のローマから見て「日本」は未知の国でした。東の国といえばインド辺りまで。しかしそのインドよりさらに遠い場所から、自分たちと同じ神を信じるという少年たちが教皇に会うため、2年2ヶ月の歳月をかけてはるばるやってきたのです。
グレゴリウス13世は彼らを盛大に迎え、謁見の際には感動で滝のように涙を流したと伝えられています。

ローマ市内でも、天正遣欧少年使節たちは大歓迎を受けました。教皇への謁見に向かった彼らの行列は「ローマでも未曾有(みぞう)の最大の行事」と記録に残されています。
鼓手が太鼓を打ち鳴らし、トランペットの音を響かせながらの大行進。教皇の騎士団や枢機卿たちが真紅の衣をまとって整列し、ローマに駐在する各国の大使も華やかな装いで後に続きました。
行列がヴァティカン宮殿に向かう橋を渡る時には祝砲が何百発も鳴らされ、ローマ市民は大歓声を上げてその模様を見物したといわれています。
天正遣欧少年使節の3人は美しい和服姿で、優雅に帽子をかぶり、黄金で飾られた黒いビロードをまとった駿馬にまたがってその大行進の中心にいました。
想像するだけでワクワクするような豪華な風景です。天正遣欧少年使節、晴れの舞台。
でも、3人?そう、3人だったのです。
その場所に「急病を患った」中浦ジュリアンの姿はありませんでした。

そして感動的な謁見の後、わずか18日後に高齢であったグレゴリオ13世は世を去ってしまいます。 少年たちは大いにショックを受け、悲しみました。
教皇は大抵が高齢になって即位するため、ほぼ終身制でした。グレゴリオ13世の晩年を最後に飾ったのが、天正遣欧少年使節だともいわれています。 (ちなみに2013年に即位した現・ローマ教皇フランシスコの先代、ベネディクト16世は719年ぶりに生前退位しています)
グレゴリオ13世亡き後は、「コンクラーベ(教皇選挙)」によって、新たな教皇が誕生します。日本は「コンクラーベ」が「根比べ」に聞こえるといって話題になった耐久性選挙ですね。
ヴァリニャーノ神父はイタリアにいる時に「コンクラーベ」を間近に見る立場にあったので、彼の書き残した本にはその模様も詳しく書かれています。群雄割拠、下克上だった戦国時代の日本を生きていた少年に、「選挙」という制度を伝えたかったのではないかとも。

選挙の結果、次に教皇になったのはシクストゥス5世でした。
治安を立て直し、バロック様式の建築物を数多く残した偉業で歴史に名を刻んでいます。
シクストゥス5世の戴冠式にも、ローマで人気者となっていた天正遣欧少年使節はVIPとして招かれました。
参加したのは、やはり3人。

…しかし、残されている戴冠式の記録とは別に、とある壁画に注目してみたいと思います。
教皇がヴァティカンの図書館を拡大して大広間を造った際、自身の即位式の様子を描かせた壁画。
新教皇が“3人の若いインド人”を伴って聖堂に向かう行列を描いたこの壁画の中だけには、天正遣欧少年使節だと思われる少年たちの姿が、4人。描かれています。

どの記録が本当なのか。タイムマシーンが無い限り、歴史の真実はわかりません。
わからない分だけロマンがあるのが、歴史の面白さなのかもしれません。
そして2人のローマ教皇に謁見を果たした天正遣欧少年使節は、ようやく帰路につきます。
各イタリア諸国を回って歓迎を受け、再びスペイン・ポルトガルを通ってリスボンからインドのゴアへ。そこで彼らはヴァリニャーノ神父と再会し、マカオまで戻ります。
その時、既に日本では「バテレン追放令」が発令されていました。
6 伊東マンショ
【伊東マンショ】 誕生:永禄12年(1569年)頃、日向国都於郡(宮崎県西都市)にて誕生。
お父さんは伊東氏の家臣、伊東祐青。お母さんは日向伊東氏第10代当主・伊東義祐の娘、町の上。

伊東氏は代々、鎌倉時代に祖先が源頼朝から賜った日向国を領地としておりましたが、マンショが8歳の頃に薩摩(鹿児島県)の島津勢から侵入を受け、一族は親類関係にあった大友宗麟を頼って豊後国(大分県)まで逃げ延びます。
雪の中、山を越えての逃避行は相当険しいものだった様子。豊後にたどり着いてからも、遠縁に過ぎないマンショたち一家は冷遇され、マンショはほぼ孤児となっていたと伝えられています。
ヨーロッパでの「天正遣欧少年使節」の活躍ぶりを見ていると主席正使として華やかな役目を担っていることが多いマンショですが、小さい頃は相当苦労していた模様。
そんな中、長崎から豊後に赴任してきていたペドロ・ラモン神父と出会い、キリスト教を知り洗礼を受けます。
ちなみにこのラモンさんが、天正遣欧少年使節が帰国する際に「あいつら、教皇様に歓迎して頂く程身分高く無いっすよ!」と教皇に訴えの(?)手紙を送った人です。
貧しかった頃のマンショを知っている人なので、根拠のない嫌がらせでは無かったのでしょう。ヨーロッパでは使節の4人が「王子」と間違って伝わったりもしたので、ラモンさんはラモンさんなりに真実を伝えようとした結果の手紙だったと思われます。とはいえ“「天正遣欧少年使節」偽り説”を広めるような手紙にヴァリニャーノ神父は激怒。ラモンの手紙をフォローするための手紙を大慌てで教皇宛に書き送っています。この頃、秀吉がバテレン追放令を発した事もあり、フォロワーノ神父、気苦労が絶えませんでした。

ともあれ、ラモンによってマンショは「マンショ」となり、有馬に建設された「セミナリヨ」の第一期生として入学。
「セミナリヨ」は良家の子息しか入学出来なかったため、その時点ではもうマンショの血筋は明らかになっていたと見るか、それともヴァリニャーノが「天正遣欧少年使節」メンバーを探している時に大友宗麟の血縁者であることが判明したのか…詳細は不明です。
一説によると、マンショの叔父にあたる伊東祐勝(伊東義祐の次男)が正使候補として挙げられていたものの、彼は安土(滋賀県)のセミナリヨに居たために船出に間に合わず、マンショが代役になったのだとも言われています。
しかし代役だったとしても、主席正使としての務めを果たせると見込まれたマンショは、きっと優秀な少年だったのでしょう。事実、使節として向かった先々で、マンショは立派に役目を果たしています。
ヨーロッパ各地での謁見で口上を述べるのは、主席正使であるマンショの役割でした。
シスト5世の戴冠式では、教皇が手を洗うための水を注ぐ大役(本来は君主や諸侯が担う役目)を仰せつかっています。
フェリペ2世と謁見した時には、フェリペが草鞋に興味を持っていることに気がつくと、さっと自分の履いていたものを脱いで差し出したり、イタリアでトスカーナ大公が開いた舞踏会で女性から誘われた時は、まず付き添いのメスキータ神父に許可を仰ぎ、その謙虚さと配慮でヨーロッパの人々を感動させました。
自身が「初陣に挑むようだった」と武士の子らしく語ったその舞踏会では、習ったことも無かったダンスに挑んで奮闘。…ちなみに一緒に踊ったトスカーナ大公妃・ビアンカは“絶世の美女”と後世に伝えられており、しかもナイスバディだったと言われています。

マンショの本名は「祐益(すけます)」というのが定説ですが、実は「父が“伊東修理亮(スケ)と(日向)国王(伊東義)益(マス)の妹の息」と書かれた資料が残されているのみだそうで、本名は不明だそう。 「修理亮」はお父さんの官職です。
マンショのお父さんが子どもたちの無事息災を祈願して奉納したお堂が今に残っており、そこからマンショに該当する男児の名前を探すとすると、「虎千代麿」が濃厚だそうです。
ヨーロッパに残る文献の当て字は「満所」です。

近年、ルネサンス期のイタリア画家ティントレットの息子、ドメニコ・ティントレットが描いた「伊東マンショ」の肖像画がイタリアで発見されました。 「天正遣欧少年使節」が北部ベネチアを訪問した際、描かれたものだそうです。
7 原マルチノ
【原マルチノ】(はらまるちの) 永禄12年(1569年)頃、肥前国(長崎県東彼杵郡波佐見町)にて誕生。
副使として使節の一人に選ばれました。
ですがマルチノの出身地や家柄について、日本には詳しい資料が残っていません。
彼の身元が明記されている唯一の史料は、ローマにありました。
天正遣欧少年使節の4人は、ローマで「ローマ市民権」を与えられており、その議決書には、マルチノは「肥前国ハサミの首長の子」と書かれています。この公文書も細かく読むと若干の誤りがあったりしますが、海外の方が「肥前国ハサミ」という地名を思い付きで付けることは無いと思われるので、マルチノの出身地は波佐見で確定と見てよいでしょう。
……遥か昔を辿るのは、ミステリー小説の主人公が一つ一つ証拠や証言を見つけて、真実に行き着こうとするかのようで、歴史文献を見る度にワクワク致します。

さて。出身地が判明すれば、次のミステリーの解明への手がかりに。それはマルチノの身分と出生。
歴史研究家の方が、波佐見の郷土資料から肥前の名家である「原家」の家系図を探し出し、原マルチノの父兄に当たる人を推測されています。
それによると「原中務(ハラナカヅカサ)大輔純一(ダイスケスミカズ)」がマルチノのお父さんではないかとのこと。
純一には家政という一子しか記録されていませんが、この家政は大村喜前(ミゲルの従兄弟)に仕えているので、もし家政に兄弟が居たとするならば、年齢的にその子がきっとマルチノ。
また、キリシタン大名・大村純忠に仕えていた家臣の一族であれば、一家全員キリシタンとして洗礼を受けている可能性が強いので、次男坊が有馬のセミナリヨに入学していても不思議ではありません。
天正遣欧少年使節の帰国後、彼らの身分が問題になった時にヴァリニャーノは『アポロギア』という反論書をしたためていますが、その中でマルチノのことを「大村の領主の兄弟と結婚している姉妹と、大村領の最良の城の主君で、大勢の家臣を持つ兄弟を持つ。また大村領主の主だった親族である」と書いています。
なぜ、そんなマルチノが原家の家系図に残っていないのかと言うと、マルチノの兄と推測されている家政は、のちに起こる島原の乱を鎮圧した鍋島家の家臣になっています。マルチノが家政の弟だったとすると、有名なキリシタンである彼は家系図から抹消されてしまったのだと思われます。
そんなわけで、日本側の史料は残されていませんが、マルチノは大村家と縁のある、身分の高い武士の子であったということでしょう。

キリシタンであり、武士の子であるということは分かったマルチノですが、なぜ彼が天正遣欧少年使節に選ばれたのか?
セミナリヨの学生は皆、キリシタンで武士の子だったので、正使であるマンショ、ミゲルと違って「大名の血縁者」というステイタスが無い以上、副使のマルチノたちにはさらなる「選ばれた理由」が必要です。
ヴァリニャーノと宣教師ルセナが残した書簡によれば、天正遣欧少年使節の少年たちは
「セミナリヨの一期生であること」と、「教養・礼儀・美しさ」が優れていること。
を条件として選ばれた、とのこと。
つまり、マルチノは成績が良くて礼儀正しい美少年だったから!!
……実際にヴァリニャーノが「美少年だったから選んだんだ♪」とは明記していないのですが(明記されていたら逆にビックリする)、1585年にグァルチェリが書いた『日本使節記』には、副使のマルチノとジュリアンについて、「信仰が篤く、思慮深く、稀にみる謙虚さと徳高さを備えていた」と記載されています。
セミナリヨの生徒たちの中でも際立つ美点が、使節に選ばれた4人にはあったのでしょう。

天正遣欧少年使節のメンバーでは最年少だったマルチノですが、8年以上の海外生活で語学才能を開花。日本に戻った時には既にラテン語を教える立場となっています。
帰国の旅でインドのゴアに戻った際には、コレジオの盛大な歓迎会で長文のラテン語でオラティオ(演説)を披露。
彼らがヨーロッパから持ち帰った最先端の技術・文明のうちの一つに「活版印刷機」がありますが、これによってマルチノの演説は早速印刷、出版されて絶賛されました。
流暢なラテン語で、ゴアにいた西洋人を驚かせただけでは無く、その内容もルネサンスの思想や、アレキサンドロス大王にヴァリニャーノを例えた比喩表現など、教養に溢れた素晴らしいものだったのです。
晩年にマルチノが翻訳した本からは、彼が日本語にも長けており、翻訳家としての才能も持っていたことが分かります。

ちなみに、マルチノと共に出版活動に生涯を費やしたのは使節団の随員、コンスタンティノ・ドラード。
印刷技術習得要員として旅に同行していた彼は、帰国後、波瀾万丈となる天正遣欧少年使節たちの中でも原マルチノとほぼ一緒に行動しています。
ドラードは日本人の少年で、肥前国(長崎県諫早市)の出身であったとされていますが、日本名も身分も分かっていません。
「ドラード=Dorado」とはスペイン語で「黄金」という意味なので、歴史研究家の中には、彼は日本人と日本にやってきたヨーロッパ人との間に生まれた子で、金髪だったことからその名が付いたのでは?と唱える人も。
外国語に非常に長けていたそうですが、一方で日本語の読み書きはほぼ出来なかったという報告書も残されています。
ですが、ドラードはヨーロッパで学んだ印刷技術で「マルチノの演説」を始め数々の本を出版して、知識の普及や、布教に務めました。
マラッカで司祭に叙階され、晩年はマカオのセミナリヨの院長を務めています。
8 中浦ジュリアン
【中浦ジュリアン】(なかうら-じゅりあん) 永禄11年(1568年)頃、肥前国中浦(長崎県西海市西海町中浦)にて誕生。
彼の出生についても、原マルチノ同様、ローマ市議会の書類に残っているものから推測されています。
日本の歴史から彼らが消えてしまった理由は原マルチノの回で述べた通りです。彼らの身分について、海外の史料にはなぜ詳しく残っていたのかというと、伊東マンショの回にて書いた内部告発のため…という背景もあります。全ての歴史は繋がっているのです。

ジュリアンが天正遣欧少年使節の副使として選ばれた理由も、同じ副使である原マルチノと同じく“成績が良くて礼儀正しい美少年”だったから☆…と、いうのは少々意訳し過ぎの感がありますが、やはりジュリアンも、「セミナリヨの一期生であること」と、「教養・礼儀・美しさ」が優れていること。
この条件を満たしていた少年だったからだと思われます。
長旅に耐えうる健康な体、勉学に対する姿勢や努力、外交官である使節として、愛される性格も持ち合わせていたことでしょう。
当時、無事に目的地へ到着出来る確率は5割、とも言われた危険な航海に出ることへの度胸も求められたかもしれません。
これは当時武士の子として生まれた少年たちに共通することですが、「死ぬ覚悟」を常に備えていた武士の子たちの落ち着きぶりは、海外からやってきた宣教師たちを感動させたそうです。
中浦ジュリアンのお父さんは、大村家の家臣、小佐々氏の一族で中浦の領主・中浦純吉(なかうらすみよし)だったとされているので、彼もまた、武士の子としての気質を備えていたのだと思われます。
中浦純吉、通称・甚五郎さんは大村純忠を守って戦死しています。
当時、髷を切ることは相当の覚悟が要ることだったようで、剃髪することが条件であったセミナリヨは生徒を集めることに相当苦労したそうですが、甚五郎さんは熱心なキリシタンだったそうなので、子どもをセミナリヨに入れた可能性も大いにあったと推測されます。

さて。そんなジュリアン。ヨーロッパの旅では、大きなエピソードを2つ、残しています。
まずは、最初にイタリア半島に到着した際、トスカーナ大公の舞踏会に招かれた時のこと。
絶世の美女と謳われたトスカーナ大公婦人と踊ったマンショ、口火を切ったマンショに続いて踊ったミゲル、そしてマルチノとジュリアンも舞踏会の広場に駆り出されました。
その時、ジュリアンはひどく緊張していたのでしょう。
ダンスのパートナーに老婦人を誘ってしまい、周囲からどっと笑われてしまったそうです。
ちなみに、歴史の動きとはあまり関係の無いジュリアンの恥ずかしい失敗談がなぜ後世に伝わっているかというと。
犯人はマルチノ。
天正遣欧少年使節が、ヨーロッパ巡りを終えて再びゴアに立ち寄り、敬愛するヴァリニャーノ神父と再会した際。
マルチノが舞踏会での出来事を話した内容が残っているのです。
ヴァリニャーノは彼らのヨーロッパ見聞録をまとめ、天正遣欧少年使節の4人が語る西洋の事情を有馬晴信の血縁者であるレオと、大村喜前の弟・リノ(共に洗礼名)に語って聞かせているという“対話形式”の読み物にしています。
ヴァリニャーノが自身の母国語であるイタリア語でまとめたと思われる原稿を、デ・サンデがラテン語に翻訳したこの本が今に残っているのです。
ヨーロッパの魅力を伝えるためにヴァリニャーノが書いたものであり、日本に帰国する前の彼らと、日本にいる2人の少年の会話を創作しているので、当の本人たちが言った言葉がどれだけ入っているのかは不明ですが、「ジュリアン・舞踏会失敗談」のトーク部分は非常に4人がイキイキとして会話しており、本人たちの性格が伺えるエピソードとなっています。
「初陣に出るようで緊張した」と舞踏会の緊張をマンショが語った後、マルチノが快活に「マンショとミゲルが踊った後だったので、僕とジュリアンはプレッシャーが和らぐハズだったのに…ね?」とジュリアンが老婦人を誘ってしまったことを暴露。
それに対して、ジュリアンはどう反応したかというと。
「自分が踊れないことがバレないように、わざと老婦人を誘ってご婦人の方を笑い者にしてしまったことになっていたら申し訳ない」と、お相手を心配する言葉を残しています。とても思いやりの深い少年だったのでしょう。
ヴァリニャーノも、このやり取りを微笑ましく思って、書き残したのだろうと思われます。

そして、もう一つの大きなエピソードは。
教皇公開謁見の場に参加出来なかったこと。
彼らの旅の大きな目的の一つ。ローマ教皇との謁見に、中浦ジュリアンは参加出来なかったのです。
ジュリアンは、「ローマに着く四日前から熱病を患っており」「公開謁見の当日、医者から外出してはならない」と言われ、彼はあの、ローマ市民が熱狂で迎えた華やかな行列にも、名誉ある公式の謁見式にも、参加出来ませんでした。
ジュリアンは当日「教皇にお会いすれば、必ず治る」と縋り、哀れに思った貴人の取り計らいで、公開謁見の前に一人だけで教皇に謁見したとされています。
天正遣欧少年使節の随員が書き残した日記には、ただ「ジュリアンは高熱のため参加出来なかった」と記されており、史料から発生した小説では、ジュリアンの病状と教皇との非公式の面談をドラマチックに描いているものがほとんどです。
…一方、「天正遣欧少年使節は、最初から3人しか必要とされていなかった」という、「ジュリアン、無理やり欠席させられた説」を唱えている文献もあり、ジュリアン不参加の真実は、謎のままです。

天正遣欧少年使節と面会して数日後、教皇・グレゴリウス13世は世を去ります。臨終の際まで、教皇はジュリアンの病状を心配していたという記録が残されています。

「急な高熱」により、公式謁見に参加出来なかったジュリアンですが、道中は一度も体調を崩すことなく、海辺で育った子らしい元気なエピソードも残っています。
それは行きの船でのこと。
インドのゴアを発ってアフリカ大陸最南端である喜望峰を回り、セント・ヘレナ島から最終寄港地リスボンに向かう、その航海の様子を使節団の随員・メスキータ神父が、ゴアに残ったヴァリニャーノ神父に手紙を書き送っています。
日課である「祈祷、ラテン語の学習、日本語の読み書きの学習、福音の暗唱」の間に許された「毎日三時間の娯楽」の時間。
彼らは「広い甲板の上で、語り合い、楽を奏して喜び、チェスをして楽しみ、とくに釣りを楽しんだ」と伝えられています。
タコや、カツオ、タイなどをたくさん釣り上げて、釣り針と糸で鳥も釣っていたそう。海辺に育ったジュリアンは、きっと大活躍したことでしょう。
ゴアからの旅路は、航海士と水夫長が「これだけ好天候と順調なる航海に恵まれたことはかつてなかった」と驚いていたそうで、そしてその原因は「彼ら少年たちが、無邪気で善良だったから」であろう、と噂していたとのこと。
9 千々石ミゲル
【千々石ミゲル】(ちぢわみげる) 永禄12年(1569年)頃、肥前国釜蓋城(長崎県雲仙市)にて誕生。
ミゲルは、天正遣欧少年使節の中で一番身元がハッキリしていると言えるかもしれません。
なにせ、キリシタン大名・大村純忠、有馬晴信の名代。純忠の甥で晴信の従兄弟という血縁関係があります。
絶大な勢力を誇り肥前有馬氏の最盛期を創出した大名・有馬晴純の三男・直員(なおかず)が有馬氏の分家にあたる千々石家を継いでおり、この方がミゲルのお父さんです。有馬家を継いだのは晴純の長男・義直(よしなお)で、その息子が有馬晴信。晴純の次男は大村家に養子に出された純忠です。
三兄弟全員、名字が違うのでややこしいですが、大名ともなると日本にも多くの史料が残されているので、それぞれと血縁関係のあるミゲルの出生についても確証が高いです。
ミゲルの父、直員は釜蓋城城主でしたが、龍造寺家との合戦で落城。直員は戦死して、幼いミゲルは乳母に抱かれながら戦火を逃れて大村純忠の元に身を寄せたと伝えられています。
純忠の影響によって洗礼を受けたミゲルは、有馬のセミナリヨに入学。そこで天正遣欧少年使節の一人に選ばれます。

ヨーロッパでの華やかな旅路は他の三人と共に。
ちなみに、ミラノの年代記作者・ウルバーノ・モンテはイタリアで少年たちと会い、ミゲルのことを「蜂蜜のように甘い柔らかな物腰の子」と表現しています。は、ハニー…!ホワホワした感じの子だったのでしょうか。
ミゲルはあまり体が丈夫では無かったようで、ヨーロッパでの旅の途中に疱瘡にかかってしまったり、帰国の船で体調を崩したり、帰国後も勉学に支障が出る程病弱であったと伝えられています。
ですが、ヴァリニャーノが執筆した『天正遣欧少年使節見聞対話録』では対話を引っ張っていく話の中心人物として描かれています。
この本は、ゴアで天正遣欧少年使節と再会したヴァリニャーノが4人の旅話を聞いて、対話形式にまとめたもの。
彼らの帰りを日本で待っていた2人の少年に、天正遣欧少年使節がヨーロッパの素晴らしさを語り聞かせる内容となっています。2人の少年は、リノとレオという有馬と大村家の子息で、ミゲルの従兄弟。
語り聞かせる相手が年下の親戚だという設定が影響してるのかは分かりませんが、ヴァリニャーノが描くミゲルは、トークを引っ張るMC能力抜群。非常にイキイキとして聡明です。実際に彼らが残した手記では無いので、書き手のイメージによるものも大きいかもしれません。ですが4人を育てたともいえるヴァリニャーノがそれぞれに対して抱いていたイメージがよく現れています。

しかし、本の中でヨーロッパの素晴らしさとキリスト教を讃えていたミゲルは、帰国してから10年後にはイエズス会から退会しています。

1590年に帰国した直後は、他の3人と共に司祭になるため天草にあった修練院(コレジオ)で勉学を続け、イエズス会にも入会していましたが、1601年には除名されています。
学校を辞めた理由には、マカオ留学の選抜に漏れたからとも言われていますが、その際の留学メンバーからは、原マルチノも選抜漏れしています。成績優秀者のマルチノも落ちていることで、この選抜には様々な憶測がありますが、少なくとも「4人の内で自分だけ」とミゲルが思う理由は無いハズ。
また、イエズス会から去ったことが、必ずしも「教えを棄てた」とはなりません。信仰心をミゲルがいつどこで棄てたのか、また棄てたという確固たる証拠は残っていません。
ただ、ミゲルが千々石清左衛門と名を改めて妻を持ち、大村喜前に仕官したこと、伊木力(現:諫早市多良見町)に領地を与えられたこと、そして喜前に棄教を進言したとされていることは日本の史料に残されています。
その後、喜前から疎まれて暗殺されそうになったために有馬晴信の元へ逃れ、そこでも有馬家の家臣から恨まれて重症を負わされ、その後は長崎で暮らしていたという目撃情報が残るのみ、とか。
ミゲルがもし喜前のアドバイザーとなっていたならば、なぜ疎まれたのか?有馬家でも恨まれたのはなぜか?
何人かの宣教師が残した証言も「有馬で家臣に殺された」「長崎に生きている」と、食い違っています。
2003年、伊木力にて、ミゲルの息子・千々石玄蕃によって立てられた石碑が発見され、それが「ミゲルの墓」では無いかと言われています。
その石は、近隣の方々から「玄蕃の墓」として守られていましたが、研究者の方の見解で、「玄蕃」の名前が墓石の裏側に彫られていること、表には2人の戒名と没年月日が刻まれ、それが夫婦と思われることから、千々石ミゲルの墓では無いかと発表されました。
墓石は、伊木力から海の向こう側に見える大村を眺められるように立てられています。それが「恨みを持って死んだので、睨みつけるように立つ」とも言われますが、その周辺はかつてキリシタンの墓地があったことから、ミゲルは教えを棄てていなかったのではないか、とも。
ミゲルの晩年は、謎に包まれたままです。

他の三人は、コレジオで学んだ出身者のその後について書かれたイエズス会のリストに、生涯の終わりが記されています。
伊東マンショ(出身:日向) 1612年 長崎にて 死亡
原マルチノ(出身:波佐見) 1629年 マカオに追放
中浦ジュリアン(出身:中浦) 1633年 長崎にて 穴吊り

1608年、マンショ、マルチノ、ジュリアンは共に司祭に叙階されます。マンショは小倉に赴任されますが、土地の大名・細川忠興によって追放され、長崎のコレジオにて病死。
ヨーロッパでの旅を引率したメスキータ神父は、マンショのことを「信徒のモデルであり、模範だった」と偲びました。

マルチノは司祭になった後、ヨーロッパから持ち帰ってきた印刷機を使って出版に携わり、教科書の翻訳や辞書の編纂に力を注ぎました。政治交渉の場にも多々立ち会い、小西行長や加藤清正などとも面会しています。
1614年に幕府のキリシタン追放令によってマカオに追放となった後も現地で印刷と出版活動を続けていましたが、1629年に病死。
イエズス会の年報には「日本で有する最も優秀な通訳」と称され、「初の日本人管区長」に選ばれるだろうと信者たちから囁かれていた原マルチノは、今はマカオの大聖堂の地下墓室に、ヴァリニャーノと共に眠っています。

中浦ジュリアンは神父になってから博多に赴任。1613年まで博多で伝道していました。1614年の追放令に従わず、長崎に潜伏。そこから口ノ津など各地を巡り、20年に及ぶ潜伏布教を始めます。
ジュリアンは潜伏中、「最終誓願」と言われる自己放棄と献身の厳粛な誓願を行い、ローマに当てて祈りの手紙をしたためています。
ですが年々キリシタン弾圧は厳しくなり、拷問も酷いものが考案されていきます。 「踏み絵」が始まるとキリシタンであることが発覚する信者たちが増加。懸賞付きの訴人制度によって、キリシタンを見つけたものには報奨金が与えられるようにもなりました。
ジュリアンが検挙されたのは小倉。1633年、処刑地となっていた西坂にて「穴吊り」の刑に処されます。
頭に血が上ってすぐに意識を失わないようにこめかみに穴を開けられ、汚物の満ちた穴に縛られて吊るされ、蓋をされます。その上からさらに騒音などを立てられ、棄教する合図を送るまで拷問は続けられます。
諸説ありますが、ジュリアンは4日目に殉教したと伝えられています。彼が最後に残した言葉は「私はローマを見た、中浦ジュリアンである」だったとか。
ジュリアンが最期まで持ち続けていた誇りは、「天正遣欧少年使節」の一人であったということでしょうか。

主席正使として、務めを果たした伊東マンショ。
最期に手がけていた草稿に使節としての想いを書き残していた原マルチノ。
中浦ジュリアンは殉教から374年が経過した2007年、福者に列せられることが発表され、翌年列福式が行われました。

「天正遣欧少年使節」4人の中で、ただ一人教えを棄てたといわれている千々石ミゲル。
ですが、1638年にローマにもたらされた知らせには、「島原の乱」の指導者・天草四郎がミゲルの息子だと囁かれていたという報告があります。マカオにいた神父がローマに宛てた手紙の中にだけ確認されている内容で、その真偽は分かりません。
ですが、弾圧に苦しむキリシタンたちが天草で起こした最大の反乱である「島原の乱」の指導者の父が千々石ミゲルだと言われていたとしたら、当時のキリシタンたちの中で、「天正遣欧少年使節」の4人は特別な意味を持って存在していたのではないかと思われます。
ただ一人、司祭にならずに妻を持てた千々石ミゲルだからこそ、その息子の存在が、キリスト教を信じる人びとの拠り所になれたのかもしれません。  
 
「天正遣欧使節」 千々石ミゲルの離脱

 

「使節派遣」の真相に関わる事柄
1. ひとつは、この「使節派遣」が飽くまでイエズス会の東インド巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャ−ノによって企画されたものだったということ。
また、ヴァリニャ−ノの狙いは、日本でのイエズス会の布教の成功をヨーロッパ・キリスト教世界に誇示し、日本の教会への支援を要請し、併せて将来日本のキリシタン教会の指導者となるべき日本人自身にヨ−ロッパ・キリスト教世界を見聞させその素晴らしさを心底から理解させ、またそれを日本人に伝えさせること、であったと考えられること。
2、 第二に、同じイエズス会の司祭ペドゥロ・ラモンが、次の内容を総会長宛てに内部告発的に報告していること。
・「大友宗麟の名代として派遣されたとされる主席使節 伊東マンショは宗麟の甥でも何でもなく、遠い親戚に過ぎないこと。
・ 宗麟が『何のために、あの子供たちをポルトガルへ遣るのか』と自分に尋ねたこと。
・ 他の少年たちも、身分の低い貴族、貧しい殿の子息たちであること。
3. 第三に、使節がヨ−ロッパに携行した日本文の書状(ローマ・イエズス会文書館や京都大学に現存する)は、長崎でヴァリニャ−ノが日本人に書かせたものであって、大友・大村・有馬三侯のものとは言えないものであること。

さて、このところ有馬晴信に関わってきたためか、4人の使節のなかでは、千々石ミゲルに親近感を感ずるようになっています。
千々石ミゲルは、有馬晴信(鎮貴)の従兄弟(いとこ)であり、大村純忠の甥(おい)にあたります。(晴信の父有馬義貞と大村純忠、それにミゲルの父千々石直員(なおかず)とは兄弟ですが、純忠、直員は、大村家、千々石家の養子となったため、それぞれの苗字を名乗っているのです。)
伊東マンショが宗麟の「妹の娘の夫の妹の子」という遠縁に過ぎなかったのに対し、千々石ミゲルは有馬晴信・大村純忠という「キリシタン大名」の近親者であったのですから、上に述べたラモンの内部告発も必ずしも正確ではなかったということです。
四人の使節の中で、原マルチノと中浦ジュリアンが「副使」の位置付けであったのに対し、千々石ミゲルは伊東マンショと並んで「正使」の地位を与えられていました。
ところが、その千々石ミゲルだけが帰国の数年後、イエズス会を離脱しているのです。離脱の理由は明らかにされていません。イエズス会の内部の個々の会員に関する情報は公開されていないので、彼に関してどのような評価や報告が組織内でなされていたかも不明だそうです。
繊細だったとか病弱だったからという説はありますが、それは決め手にはならないような気がしました。そうするうちに、使節一行が帰国したときに刊行されている書物の中に、彼の離脱に関係あるのではと思われるものがあることに気が付きました。
別に証拠とかがあるという話ではないのですが、その書物の内容は彼の離脱のきっかけに充分成り得たものだと私には思えます。
まずは、四人の使節とアレッサンドロ・ヴァリニャ−ノの帰国後の足跡を辿ったうえで、その書物については、次回、書かせて頂きます。
「少年使節」帰国後の足跡
1590年 7月 ヴァリニャ−ノら使節一行、長崎へ帰着。(ペル−からマカオに来たスペイン人商人フアン・デ・ソリスも、この時、使節一行とともに、長崎に到着しています。)
1591年 3月 ヴァリニャ−ノら使節一行、京都・聚楽第で関白秀吉に謁見。 
      7月 天草・イエズス会修練院において、四名揃ってイエズス会員に採用され、修道士となる。(伊東マンショ・千々石ミゲルの母は激しくこれに反対したとされている。)
1592年10月 ヴァリニャ−ノ長崎を出港、以降マカオに駐留し中国の伝道に専念。語学・哲学・神学を修めるコレジオをマカオに新たに設置。
1593年 7月 四名とも、天草にて2カ年の修練期を終える。イエズス会修道士として誓願をたてる。
1595年 3月 ヴァリニャ−ノ、インド・ゴアに戻る。
1598年 8月 ヴァリニャ−ノ、日本巡察師を命ぜられ、長崎へ到着。
1601年    司祭として養成されるべく、17名の修道士がマカオに派遣される。(伊東マンショと中浦ジュリアンは含まれ、千々石ミゲルと原マルチノは含まれず。)
1603年    ヴァリニャ−ノ、離日。
1604年    伊東マンショ・中浦ジュリアン、長崎に戻る。
1605年末   スペイン人ドミニコ会司祭2名が、千々石清左衛門(ミゲル)に逢う。ミゲルは、還俗し大村喜前侯に召し抱えられ、清左衛門と称し妻を娶っていた。虚弱体質であった彼は殆ど手足が麻痺していたという。
1606年    ヴァリニャ−ノ、マカオにて病死(六十六歳)。大村喜前、領内からバテレンを追放し、自らは法華宗に改宗。千々石清左衛門は棄教。
1608年    伊東マンショ・原マルチノ・中浦ジュリアン、司祭に叙階さる。
1612年    伊東マンショ、長崎で病没(四十三歳)。
1614年以前に書かれた「アフォンソ・デ・ルセ−ナ(イエズス会司祭)の回想録」によると / 千々石ミゲルは、大村喜前から度々殺されそうになり、従兄弟の有馬晴信のもとに身を寄せた。有馬の家臣から瀕死の重傷を負わされることもあり、結局、有馬からも追放され、噂によれば、異教徒として長崎に住んでいる。
1629年    原マルチノ、マカオにて病死(六十歳)。
1630年    中浦ジュリアン、長崎にて殉教。(この時、同時に拷問を受け棄教したのがクリストバン・フェレイラである。)
「日本使節の見聞対話録」
1.「日本使節の見聞対話録」
千々石ミゲルの離脱のきっかけになったのではと私が考えるのは、1590年にマカオで印刷、刊行された「日本使節の見聞対話録」というラテン語で書かれた書物です。
アレッサンドロ・ヴァリニャ−ノが、ヨ−ロッパから戻ってきた使節たちとインドのゴアで再会した後、一行から見聞や体験を聴取して、旅先での記録を整理し、マカオ滞在中に編纂し、ドゥアルテ・デ・サンデ神父にラテン語に翻訳させたものとされています。
内容は、千々石ミゲルが、大村喜前の弟リノ、有馬晴信の弟レオという二人の従兄弟を相手に、帰国後に旅先での見聞を語る「対話録」になっています。
幸いに、この「対話録」は日本語に翻訳され、「デ・サンデ 天正遣欧使節記」という題名で、1969年に出版されていますので、私たちもその内容を覗くことが出来ます。
なぜ「幸いに」かと言いますと、この本は「対話録」の形式をとってはいますが、その内容には編纂者ヴァリニャ−ノの考えが色濃く反映されていると考えられるからです。
この時代、布教長フランシスコ・カブラルをはじめ、日本人や日本の風習を嫌悪すると公言して憚らないヨ−ロッパ人宣教師が少なくなかった中で、最も枢要な地位にあったヴァリニャ−ノ自身は、日本の風俗・習慣への順応主義を明確に打ち出し、日本人自身によるキリシタン教会発展に向けて終始奮闘したとされています。
けれども、ヴァリニャ−ノ自身が、内心どのような考えを持ち、特に、どのような世界観・日本観を持って上に書いたような活動を展開していたのかを示す資料は見あたりません。
そんな中で、この「対話録」は、「実際にその会話が交わされた根拠がない」という虚構性のために、歴史研究の資料としての価値には疑問が持たれていますが、話者である千々石ミゲルを通して、実はヴァリニャ−ノが日本人に伝えたかった自分の世界観・日本観などを遠慮会釈なく語っているために、そこから彼の本心を知ることができると考えられるのです。
2.「対話録」の内容
(1)ヨ−ロッパについて
「しかもこの叛乱ということが、ヨ−ロッパの人々の心にとって実に縁遠いものなのだ。」
「王の下にいる他の権家(貴族)・大名たちは、たがいに戦争することは決してない」「だから、たがいに確実な平和と安静のうちに生活し、戦争や不和は乗ずる余地がない。」
「ヨ−ロッパの富強の原因は、ヨ−ロッパが平和と静寂のうちに生活を送っていることにあると思う。」
「万事を公平に見渡し、そして公平な秤にかけて考えてみれば、やはりヨ−ロッパが世界のあらゆる部分の中でもっとも勝れたものであって、神はその御手に溢れるばかりにもっともよきものを多量に盛ってヨ−ロッパにこれを与え給い、積み上げ給うたのだとの判断を率直に認めざるを得ない。」「だからヨ−ロッパはその気候、諸民族の才能、勤勉、高貴さ、生活と統治の方法、多岐にわたる学芸において、他のあらゆる地方に勝れているのだ。」
「何しろ、〇〇〇〇〇〇〇の土着民は、その境域から一歩でも踏み出したことはいまだかつて一度もなく、その才能、勤勉、勇気の見本を示したこともないのだから、かれらはほとんどあらゆる教養に欠けていると信じて差し支えなく、これに反して他方ヨ−ロッパの人々は全世界に彼らの名声を轟かし、その功業をもって世界を満たしている。」
(2)ある種族の人々について
「あたかも俯いてひたすら口腹の慾に従うように自然がつくった畜生のごとく、大部分は自己の欲望と罪とに耽り、何の修業も、何の洗練された感覚もなく生活している。だからあるヨ−ロッパの哲学者がかの種族こそ奴隷になるために生まれてきたのだといったのは、確かに当たっている。」
(3)アフリカについて 
「その住民はたいてい色は黒く、あらゆる人間文化から遠ざかった野蛮・獰猛な人間どもである。」
(4)(南北)アメリカについて    
「さてここにみえるのが、アメリカであって、広いことはもっとも広いが、そこには色のどす黒いきわめて下等な人種が多数に住み、その全部が、少数のヨ−ロッパ人に打ち従えられて、ヨ−ロッパ人の権力の下に生活し、ヨ−ロッパ人を自分たちに対する当然の支配者のごとく考えているぐらいだ。」
(5)日本について
「日本では全国を通じて不断に戦争が行われ、したがってその災禍と害毒は全国を覆っているために、畠に種を蒔くことも収穫を集めることも、むしろ不可能に近く、全国至る所、戦乱が都市と田畑をわがもの顔に荒すことになっている。」
(日本の舞踊について)
「その一つはわが国の人々の間で舞踊する者は、たいてい、死んでしまったどこかの女が髪を振り乱し、悲しげな面持をした陰惨な仮面をかぶるとか、同様に人体からすでに抜け出た魂を表わす仮面を装うとかして人の前に出るが、これは舞踊にふさわしい快感や陽気さよりも、むしろ悲痛な哀愁を生ずるもののように思われる。このために、日本の舞踊はヨ−ロッパ人にとっては賑やかで面白いものというよりは、むしろ何だか騒々しく混乱した叫び合いとしか思われないようだ。」
(6)世界各地に散在する日本人奴隷について
「日本人には慾心と金銭への執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨ−ロッパ人はみな、不思議におもっているのである。そのうえ、われわれとしても、このたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。」
「ポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。」
(この件で、ポルトガル人やイエズス会の責任を追及する日本人がいることについて)
「いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。」
3.「対話録」の内容について考えたこと
(1)ヨ−ロッパの理想化
「ヨーロッパは、叛乱も戦争もない理想郷だ」とミゲルに語らせていることについて、「なんと事実からかけ離れたことを・・・」と感じて不快感すら催したのは私だけではないでしょう。
実際、16世紀のヨ−ロッパには、ハプスブルグ家(神聖ロ−マ帝国・スペイン)とヴァロア家(フランス)がイタリアを巡って争ったイタリア戦争(1521~1559)やフランスのカトリックとプロテスタントが40年近く争ったユグノ−戦争(1562~1598)など数多くの戦いがあり、「叛乱も戦争もない理想郷だ」などとはとても言えない状況であったことは今なら簡単に分ることです。
それでは、たとえ当時の日本人がそれが事実でないことが分らなかったからと言っても、なぜヴァリニャ−ノはそんな事実からかけ離れたことをミゲルに語らせたのでしょうか。
それは、それを語らせる必要があったからです。
というのは、「ヨ−ロッパが叛乱も戦争もない理想郷だ」ということが、当時のキリシタンの教えを支える大事な要素だったのです。
禅僧からキリシタンへ改宗し、イエズス会の理論的主柱として活躍しながら、後に棄教した不干斎ハビアンという人物がいます。このハビアンが著した『妙貞問答』というキリシタン伝道書のなかに、以下のくだりがあります。
「・・・、キリシタンノ国ナドニハ、千年ニアマッテ此方(このかた)、兵乱と云う(いう)ヤウナル事モナク、謀叛心ナドト申事(もうすこと)ハ、マレニモ有(ある)事ナシト申(もうさ)レサフラフ(さぶらう)ヲ聞侍(ききはべる)。・・・」
キリスト教が受け容れられた時期、戦国末期、は“粗暴な個人主義と物質主義”が横行した時代であり、この状態に耐えられなくなった人びとが何らかの社会秩序の基本になる宗教、いわば確固たる「統治神学」を求めても不思議ではない。(山本七平 日本人とは何か。17章 キリシタン思想の影響 祥伝社)
キリシタン教会は、そういう確固たる「統治神学」を求める人びとの要求を満たすことで教勢(教会勢力)拡大をはかろうとしていた面があるのです。そのためには、「キリスト教社会であるヨ−ロッパは叛乱も戦争もない理想郷だ」ということにする必要がありました。そして、教勢拡大の大義のまえにあっては、多少の歪曲もかまわないと考えたのでしょう。
ただし、山本七平氏が述べているように、日本の歴史上、他国の実情について事実と異なることが伝えられたのは、キリシタン教会の例に限りません。日本にとって新しい社会思想というものはこういう事実を歪曲化した宣伝とセットで入ってくるようです。それは、つい最近まで我々が社会主義・共産主義について経験させられていたことです。
(2)風俗・習慣・文化までヨーロッパが最も勝れていると強調していることについて
実は、この点についてヴァリニャ−ノは誇り高い西欧人として耐えがたい屈辱感を味わう経験をしているのです。それは、ヨ−ロッパ人宣教師たちが、日本の礼法に通じないために、日本人から軽蔑されていることを彼が知った時のことです。
ある大名に、「異なった風習の中で育ったのだから、外国人宣教師が日本の礼法を知らないのも止むを得ないと考えて欲しい」と申し入れたところ、無残にやり込められてしまったのです。
ポルトガル船貿易の恩恵を与え、他領主との戦いのために資金・武器・弾薬・糧食まで提供している相手だからと、高を括っていたのかも知れません。
領主自ら受洗することで集団改宗実現に協力し、“偶像崇拝撲滅”の名のもとに奨励した神社・仏閣の破壊に素直に従ってくれたことで気を許していた面もあったのでしょう。
回答は次のようなものでした。
『我らの国(日本)に住んでいるヨーロッパ人司祭たちが、日本人の美しい習慣や高尚な態度を、学ぶようほとんど努力せぬことは、まったく無知なことと思われる。』 (日本巡察記 ヴァリニャ−ノ)
『日本の風習を覚えられないほど、あなた方に知力と能力が欠けているのであれば、日本人はそれほど無能なあなた方の教えを受けるべきでない、と考える。』 (天正遣欧使節 松田毅一)
結果的に、ヴァリニャ−ノは日本の風習への順応主義を打ち出さざるを得なくなりました。もちろん、日本の風俗習慣が優れたものと考えたわけではなく、西欧の風習が人類の千差万別の風習の中で、最も高度な洗練されたものであるとの認識は変わらなかったのです。ただ、布教政策上、日本人に一歩譲るのが得策だから、そうしたまでのことだったのでしょう。
そして、いつか日本人にヨ−ロッパの世界が如何に世界に冠たるものであるかを分らせてやろう、と心に決めたのでしょう。その表れが「遣欧使節派遣」であり、「使節対話録」はその意義を知らしめる貴重な機会でした。ヴァリニャ−ノは、当然、その機会に自分の思いのたけをぶちまけたのだろうと考えられます。
(3)アフリカ・アメリカの先住民に対する侮蔑的・差別的見方について
1583年に執筆した「日本諸事要録」、第一章 (日本の風習、性格、その他の記述)の中で、ヴァリニャ−ノは以下の通り記述しています。
「人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨ−ロッパ人より優れている。
国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨ−ロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨ−ロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。」
これと、前回抜粋したアフリカ・アメリカ先住民に関する言辞とを比較して頂きたいと思います。
それにしても、この違いは、どこからくるのでしょうか。
イエズス会はアフリカでは1560年頃から、(南)アメリカでは、ザビエルの日本到着と同年の1549年にブラジルへ到着し布教を開始しています。従って、この「対話録」を書いた1590年頃、ヴァリニャ−ノは同じイエズス会士がアフリカや(南)アメリカで布教に奮闘していたことを知っていた筈です。彼は一体何を考えていたのでしょう。
彼等の中に、非ヨ−ロッパ社会にたいする「格付け」のようなものもありましたから、「日本には非ヨ−ロッパ社会のなかで、これだけ高い『格付け』を与えているのだから満足しなさい」という考えがあり、それを伝えておきたかったということかなとも思います。
また、「対話録」のなかに書かれている先天的奴隷人説を唱えた「あるヨ−ロッパの哲学者」というのはアリストテレスのことですが、その説を根拠としてインディオ奴隷化が主張されたり、「インディオは人間か否か」ということが大真面目で議論されたりし始めたのは、この「対話録」が書かれるほんの数十年前のことです。(新世界のユ−トピア 増田義郎)
そう考えると、今の私たちには、偏見・蔑視・差別と見えても、ヴァリニャ−ノにとっては疑問を感ずる余地のない当然の考え方だったのではないかとも思えてきます。
(4)世界に散在する日本人奴隷について
世界に散在する日本人奴隷について、千々石ミゲルは「対話録」のなかで、「この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。」と言わされていますが、ことはそれほど単純ではありません。
岡本良知著「十六世紀 日欧交通史の研究」によると、日本人奴隷については以下のような経緯があります。
1570年 ポルトガル国王が日本人奴隷取引禁止の勅令を布告しています。
これは、1567年以前に、平戸・横瀬浦・福田経由、日本人が輸出されていたことに対し、布教に支障をきたすとしてイエズス会がこれを抑止するようポルトガル国王へ働きかけたものと考えられます。
ところが、その後約30年間、その勅令は、実施・履行されなかったと言われています。
その理由として、
1.ポルトガル人にとって、事業を展開するために、日本人奴隷が必要だったこと。
2.戦乱の頻発等の日本国内の社会の窮状により、日本で子女を売る者が増加したこと。
3.イエズス会の考え方は、自己の布教事業を展開することに不都合であるというだけで、奴隷売買自体が社会倫理に反するという強固な考え方がなかったこと。
が挙げられています。
1587年、豊臣秀吉がこの問題をイエズス会に詰問した際、布教長ガスパル・コエリョの回答は,「日本側の諸領主に対し、禁止を勧告すべし。」というものでした。つまり、「奴隷を売る者(日本人)がいるから買う者(ポルトガル人)も出て来るのだから、日本人が奴隷を売ることを禁止すればよい」とコエリョは反論したのです。
常日頃、ポルトガル商人を管理・統制する立場と能力を誇示し、貿易取引にも介入しながら、いざ、ポルトガル商人の奴隷売買について管理責任を追及されると、途端に、「それはポルトガル商人と取引する日本の業者や領主たちの問題であるから、その日本人を取り締まれ」と回答することは、ポルトガル船貿易を取り巻く諸事情を考慮すると責任回避ととられても仕方ありません。
そのコエリョの回答を、「対話録」ではミゲルの口を通して蒸し返していることになります。
実際には、その後1596年のサン・フェリ−ペ号事件、翌年の二十六聖人殉教事件など、キリシタン教会を取り巻く状況が厳しさを増していったなかで、まず、1596年にドン・ペドロ・マルチンス司教によって「奴隷貿易者破門議決書」が出されましたが、その内容は今日残っていません。
さらに、「破門議決書」は、次の司教ルイス・デ・セルケイラ着任直後の1598年にも出されその中に、「(1587年に秀吉からの詰問があるまでは、)少年少女を買って国外に輸出するに際し、業者のためにその労務の契約に署名し、彼等のうちの或る者に署名させて認可を与えていた」旨が書かれています。
「対話録」が書かれた1590年の時点では明らかにされてはいませんでしたが、奴隷売買取引へのイエズス会の関与があったことは明らかであり、日本の領主たちを取り締まれなどと主張するまえに、自分たちとして先ずなすべきことがあったのです。
ヴァリニャ−ノがその実情をどのくらい承知していたかは分りませんが、実情が「ポルトガル人には、いささかの罪もない」などと言えるものではなかったことは確かです。
4.「対話録」と千々石ミゲルの離脱の関係
(1)「対話録の内容をミゲルは知っていたかどうか」ですが、
もちろん知る機会は充分あったと思います。
「対話録」は、マカオで1千部刊行されたとのことですが、当然日本へ持ち帰られたでしょう。使節の随員であった日本人修道士ジョルジェ・デ・ロヨラ修道士がその邦訳をてがけていたとのことですが、その修道士はマカオで病死してしまい邦訳は進められなかったようです。
ミゲルのラテン語学力は、1593年3月の在日イエズス会名簿によれば、二級で、おなじ年配のかつての有馬セミナリオの同級生と同等もしくはそれ以下でしかなかったようですが、仮に自分で読めなくてもイエズス会の中に、それを読んで日本語訳をしてくれる人は、いくらでもいたでしょう。
もちろん、自分が言わば主役として書かれている本ですから、その内容を知りたかったに違いありません。ですから、遅くとも1593年7月に天草で2年間の修練を終えるまでには知っていただろうと思います。
そして、2年の修練期を終えイエズス会の修道士としての誓願は立てたものの、以下に書きます理由によって、その後比較的短期間のうちに会から離れたのではないかと思います。
従って、1601年に伊東マンショと中浦ジュリアンが、他の15名の修道士とともに司祭になるための教育をうけるべくマカオに派遣された際に、ミゲルが同行しなかったのは、既に退会していたためでしょう。
(2)「内容についてミゲルはどう 思ったか」
ですが、対話の内容は我々が見てきたとおり、冷静に考えれば疑問を持たざるを得ないものです。
特に、「ヨーロッパ社会に対する一方的な礼賛」や「日本人奴隷問題に関する記述」には反発を感じたのではないかと思います。
そもそも、「少年使節行」は、ヴァリニャ−ノが日本人に西欧世界を見聞させ、ヨ−ロッパ・キリスト教社会の偉大さ、卓越性を頭に叩き込み、日本人に証言させるために企てたものですが、逆の結果が生ずる危険もありました。派遣された人間が、ヴァリニャ−ノから見れば不都合な物を見て、望むようには考えてくれない危険です。
帰国時、ミゲルは21~2歳です。当時、その年齢であれば、大人としての判断力はもうあったと考えられます。ミゲルは、使節の中で最も出身・素性の明らかな人物ですから、使節となる前に既に然るべき教育を受けていたことも考えられます。
そういうミゲルですから、旅行中に見聞することも、それについて考えることも、他の少年と比べると自立したものがあったのでしょう。そのため、ヴァリニャ−ノもミゲルに関しては注意を払っていたし、そういう事情を反映させて、「対話録」の主人公もミゲルとしたのでは、と私は思います。
ミゲルの側にしてみれば、「対話録」での自分の発言は知れば知るほど、馬鹿げています。まるで、自分が猿回しの猿にされたような侮辱を感じたのではないでしょうか。
大村純忠・有馬晴信といえば、「ヨーロッパ人宣教師たちが、日本の風俗・習慣を習得できないのであれば、無知・無能であり、そんな人たちの指導を受けるいわれはない」とヴァリニャ−ノを厳しく叱責・非難した誇り高き「キリシタン大名」たちです。
ミゲルには、自分が影響力のある大名の近親者であるとの自覚も、また出自相応の誇りもあったでしょうから、自分に対するヴァリニャ−ノの仕打ちは、耐え難くまた甘受すべきでもないと考えたのだろうと私は思います。
(3)『妙貞問答』というキリシタン伝道書を書いた、不干斎ハビアン
は1608年に脱会し、棄教します。そして、晩年、『破堤宇子』(ハダイウス)というキリシタン批判書を著しています。
その一節に、千々石ミゲルの心情を表わすのではないかと思われる部分があります。
「慢心は諸悪の根源、謙遜は諸善の基礎であるから謙遜を専らとせよと、人には勧めるけれども、生まれつきの国の風習なのであろうか、彼ら(伴天連 バテレン)の高慢は天魔も及ぶことができない。この高慢のため他の門派の伴天連(バテレン)と勢力争いをして喧嘩口論に及ぶことは、俗人そこのけのありさまであって、見苦しいことはご推察のほかだとお考え下さい。」 (海老沢有道訳『南蛮寺興廃記・・・破堤宇子』)
(4)脱会後のミゲルについては、病弱であったとか、大村喜前や有馬晴信の家臣からも虐待され不遇のうちに亡くなったと言われることが多いようです。
私がいつも不思議に思うのは、キリスト教を排斥した日本の社会が、キリシタンを離脱した人たちを「転び者」などと呼んで蔑(さげす)み、不幸のうちに死んでいったとしたがることです。キリスト教が邪(よこしま)な教えを授ける邪教であると考えるなら、それを離脱した人々は幸せになったと考えるべきでしょう。
千々石ミゲルについても、悲惨さを強調するような末期が語られています。
病弱で貧困のうちに生涯を終えたかも知れないけれど、自分の信条に正直に生き満足して死んでいったと、私は考えたいと思っています。 
 

 

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