本望

作家 / 吉川英治芥川竜之介泉鏡花中里介山岡本綺堂豊島与志雄夏目漱石三遊亭円朝坂口安吾岡本かの子三好十郎海野十三太宰治菊池寛戸坂潤国枝史郎長谷川時雨小酒井不木夢野久作織田作之助林不忘松本清張平田晋策直木三十五伊藤左千夫倉田百三斎藤茂吉浅野和三郎黒岩涙香河口慧海楠山正雄邦枝完二江戸川乱歩メイ森田草平加藤文太郎ユリウス佐藤垢石本庄陸男牧逸馬矢田津世子小栗虫太郎横光利一三上於菟吉宮崎湖処子村井弦斎近松門左衛門ウォルストンクラフト牧野富太郎正岡容南方熊楠徳冨蘆花小林多喜二宮本百合子柳田国男久生十蘭幸田露伴横溝正史田中芳樹佐藤愛子ブリッシュ御田重宝福井晴敏竜騎士井伏鱒二つかこうへい柴田錬三郎楡周平平坂読尾崎紅葉志賀直哉雫井脩介喬林知菊地秀行橋本治森鴎外佐藤紅緑作者不詳・・・
詩人 / 萩原朔太郎宮沢賢治高村光太郎北原白秋佐藤春夫室生犀星島崎藤村永井荷風寺山修司鮎川信夫国木田独歩土井晩翠中原中也与謝蕪村北村透谷与謝野鉄幹与謝野晶子三木露風堀口大學草野心平三好達治西脇順三郎・・・
諸話 / 何もかも本当は面倒くさい禁煙1禁煙2谷崎潤一郎三島由紀夫の自決曽我物語の能悲運の蒲生氏郷北山敵討キリスト信仰者の覚悟と本懐リーダーシップ論町田樹の引退文問題多い報道ステーション淡路さん公開移送士は己を知る者のために死す生死一如佐藤一斎の名言明日は我が身返り討ち天照院龍海寺隠れた主役石塚観音の導き臼淵磐勝新太郎伝説理想の死に方山田方谷の陽明学キリストの恵み人は死んだらどこへ行くのか能の敵討ち物「本望」新社会人に贈る遊ばれても本望大人の独学中二病を突き詰める直感や違和感に正直に湯川安太郎小伝高千穂物語散財を称える酒を飲むだけの青春時代男たちの大和安倍首相の甘言蜜語川上音二郎砂的民衆の潤い涙の理由秋の悲歎野の仇討ち1野の仇討ち2津山事件創業者物語「むじな」伝説彼女と男性の行動モーツァルトと女たち妹背山婦女庭訓江戸の悪満仲大磯の虎女俳諧臨終の一句この水の洩り候が命なり電通と原発報道予科練で特攻訓練悉皆屋康吉船弁慶死のユーモア徂徠豆腐起きて半畳寝て一畳・・・
 

雑学の世界・補考

五月雨に本望遂げる蛙の子

平安時代の書家小野道風が見ていると、五月雨のなか、柳の枝に飛びつこうと何回も繰り返した蛙が、ついに本望を遂げた  
本望
1 本来の望み。もとから抱いている志。本懐。「―を遂げる」
2 望みを達成して満足であること。「留学できるなら―だ」
切願 (せつがん) 熱心に願うこと。切望。
切望 (せつぼう) 心から強く望んで願うこと。
素懐 (そかい) 平素からの願い。
訴願 (そがん) うったえ願うこと。
大願 (たいがん) 大きな願望。大きな祈願。
待望 (たいぼう) そうならないかと待ち望む。
大望 (たいもう) 大きな望み。身の程を越えた望み。
高望み (たかのぞみ) 自分の分を越えたことを望むこと。
嘆願 (たんがん) 事情を述べて願うこと。
念願 (ねんがん) 心にかけて願うこと。
悲願 (ひがん) ぜひ達成したいと心から思う願い。
併願 (へいがん) 受験の際、複数校を志願すること。
本懐 (ほんかい) かねてからの願い、本望、本意。
本願 (ほんがん) 一番の念願。本当の願い。
本望 (ほんもう) 持ち続けていた志、願い。本懐
野望 (やぼう) 身のほどを越えた大きな望み。野心。
夢   (ゆめ) 空想的な願い。将来実現したい願い。
要望 (ようぼう) つよく求め望むこと。
欲望 (よくぼう) 欲しがること。充足したいと望む心。
 
■作家

 

吉川英治  
「私本太平記」
・・・高氏の眼と共に、直義も辺りを見廻した。鎌倉中、谷々やつやつの甍いらかや町屋根は、木この間ま遠く、ここらの小山小山も、秋の昼さがりを、からんとして、萩はぎ桔梗ききょうに、微風もなかった。
「いつか、鑁阿寺ばんなじの御霊屋みたまやで、置文を御披見なされた折、兄者人は、その場で、あれを焼きすてておしまいなされた。……けれど、祖先家時公の御遺言は、かえって、お胸のうちに、不滅となって封じられたものだと、私も信じ、その後、右馬介も同様な心でおりました」
「…………」
「ところが、まもなく、北条一族たる赤橋殿の妹君いもぎみを、お娶もらいになると聞いては、兄者人の御真意も、わからなくなりました。政略結婚、よくある手です。でも、置文を見て、涙をそそいだ兄者人。……よも小さい栄耀えように眼がくらんで、北条方の籠絡ろうらくに乗るはずもなし、或いは、などと」
「わからぬというのか。兄の本心が」
「正直、不安でなりません。いつのまにか、御変心ではあるまいかと」
「ばかだなあ、おぬしは」
「直義の疑いが、馬鹿げていたら、本望ですが」
「弟……。明日の夜わかるよ。まず、おぬしにとっても嫂あによめとなる花嫁の登子を見てくれい。美人だぞ。眉目みめばかりか気だてもいい。一生の持ちものとして気に入ったから娶もらったのだ。ほかに、他意もないわさ」
「冗談はよして下さい」
憤むッとしたらしい。直義は石を離れて突ッ立った。
「今日こそ、お胸の底をたたいておく日と、直義は、足利一族の運命の岐わかれを負ってお訊きしたのだ。ひとの持つ嫁、その嫂が美人であろうと醜女しこめであろうと、知ッたことか」
「怒ったのか、直義」
「あたりまえだ」
「そう嫉やくな。おぬしにも、やがていい嫁が見つかろう」
「何を、いらざるたわ言ごと」
いきなり、直義が胸いたへ突いて来た腕を取って、高氏の体も、諸仆もろだおれに、秋草の中に埋まった。・・・
・・・まず第一に、彼女が西華門院に雑仕ぞうしとして上がる前から養われていた北ノ大路の学僧玄恵法印を、成輔が直接たずねた。
「……姿も見せぬ。いや、さような不始末では、来られもしまい」
玄恵の答えだった。
当代、玄恵法印の名は、急に世に聞えていた。新しい宋学そうがくの泰斗たいとである。特に、急進派の若公卿ばらの間に人気がたかい。
かの公卿一味の“文談会”なども、この老学者を引っぱり出して、表面、資治通鑑しじつがんの講義を聴く会だなどと、世間を欺瞞ぎまんしていたものである。
玄恵は、彼らに利用されるのを、知ってか知らずにか、唯々いいとして、それにも出席し、天皇の侍読じどくに挙あげられれば、それにもなった。
けれど、自身の新学説が、いかに天皇以下の、公卿新人を刺戟し、また世に波及するところが大きいか、そこまでは、われ関せずの態ていであった。一個の学僧は、あくまで一個の学究にすぎずと、みずから身を低く処しているような人である。
「親もととして、卯木を女院へ御推挙ありしは、貴僧なりと伺うているが、それは、いかなる御縁からで?」
成輔が、さぐると。
「されば、卯木の河内の実家方さとかた、楠木家と、わが家とは、遠い姻戚にあたるのでな」
「これは初耳。では、楠木多聞兵衛正成くすのきたもんびょうえまさしげと、貴僧とは」
「いやすでに、前代楠木正遠が、北河内の玉櫛たまくしノ庄しょうの出屋敷にあって、あの辺りの散所を支配していた頃からの誼よしみでおざった」
「して、卯木とは」
「あれは、その正遠の末娘よ」
「すると、正遠は、はや亡き人ゆえ、卯木の実家方さとかたをたどるなれば、必然、水分みくまりにて家督をつぎおる現当主、楠木兵衛となりますな」
「さよう。正遠のあとは、嫡男正成、次に弟の正季まさすえ……。その下にまだ女子がいたやらいぬやら。ともあれ、卯木は正成の妹にあたる者でおざる。とはいえ、十を幾ツも出ぬ女童めわらべのころより、この玄恵が手もとにて育はぐくみしものを、かかる始末となっては、迂僧うそうも何やら申しわけない心地ではある」
そう述懐じゅっかいをもらして、
「さっそく、河内へ書状をやって、玄恵の養育のいたらざりしを、詫びねばなるまい」と、呟いていた。
成輔は、自邸へ帰ると、すぐさま使いを河内の水分みくまりへ派して、失踪の男女が立ち廻ったか否かを、ただしてみた。
本来、武士だが、人を殺すわざなど、とても出来ぬ自分を覚さとって、刺客の使命もなげうち、西華門院の内から、卯木を奪ってかくれた治郎左衛門元成は、すぐ、その日その日の暮しにも困窮していた。
伊賀ノ国へは、いまさら帰ってゆく顔もない。
おそらく、国の養家では、一族して、「勘当する」と、立腹しているは知れたこと。
さりとてまた、のめのめ卯木の実家さとを、頼って行けるものでもない。
今はまったく、天涯てんがい、寄るべなき二人とはなったのだ。しかし悔いはしない。卯木もそれが本望といっていたのだから。
けれど、卯木が身に持っていた物などもすぐ売りつくし、その上にも、元成の身は、たえず生命の恐怖に襲われていた。
「……こんどは、自分が刺客に狙われる番か?」
始終、そんな怯おびえに振り向かれていたのである。
なんとなれば。自分もまた、烏丸殿から、みかどを中心の公卿謀議が宮中にある由を、はしなく、聞かされていたからだ。
それを、世に洩らす惧おそれがあるとて、大判事章房の身は、狙われたものである。――さすれば当然、坊門殿、千種殿までも、やッ気となって、
「刺客の使命も果さず、あまっさえ、女を奪ッて逃げた烏丸どのの下揩ーろうこそ、章房以上に、生かしてはおけぬ奴」と、密々、草の根も分けよと、叱咤しったされているに相違ない。――元成には、そう推理されて、暗澹あんたんとなってくる。
こんなときの男女に、死は常に、魅力である。死と恋との、悩みの中における両種の物の攪拌かくはんは、一そう強い甘美な酒を醸成する。
それにまた、卯木の身には、西華門院にいた頃から、すでに妊娠の兆があった。親を自覚しては、なお死ねない。
みぞれの降る冬になった。十二月の下旬。清水寺の下、三年坂での騒ぎだった。・・・
・・・老躯の、しかも大納言ともある身で、こんなさい、関東のまッただ中へ、しのび下向を踏み切って来るなど、よほどな勇気と目的でなければならぬはずだった。……が、そんなあせりは少しもない。根気よく高時の他愛ない話し相手になっていた。
とはいえ、いつかしら、定房は上手に、驕児の耳を、自分の言へも、かたむけさせていた。――支那の春秋左氏伝の史話などひいて、世間ばなしに事寄せているので――高時もはじめのほどは、おもしろげに聞いていたが、だんだん聞いてみると、
「一日も早く、隠岐の先帝を、お解き返しください。それが天下静謐せいひつの前提です。北条氏にも百年安泰の大計です。……その上で、どんな政治的な御折衝ごせっしょうも可能ではありませんか。……この定房もまた、その上でなら、一命を賭として、後醍醐のきみをおなだめ申しあげ、きみを語ろう宮方の者どもを鎮しずめるために、犬馬の労もいといません。たとえ幕府の犬よとよばれ、ふた股者と罵ののしられても、それで、世を平和に返し、民の塗炭とたんが救えるものなら、この老骨の往生に、本望この上もありません」と、いう意味のことを、るると説いているのであった。
高時は、はっと、定房の目的に気がついて「こやつ、なにをいうか」とばかり急に態度を硬こわめかけたが、そのくせ、頬にはタラと涙を垂れていた。反省でもなく、後醍醐への同情でもない。定房の老いの眼に涙をみたので、つい、誘われていたのであった。
「よう、諮はかっておく」
彼としては、いい答であった。政所や、評定所衆という機関のあるのを忘れていない。
「……なにとぞ」
と、老大納言は、清涼せいりょうの殿上てんじょうでもしないほどな平身低頭を、高時へはして、
「そこで、もひとつ、ここに。御仁恕ごじんじょを仰がねばならぬ一儀がございます」と、いった。
父皇後醍醐とともに、軍事にたずさわった皇子らは、みな遠くへ流されたが、都の内には、なお中宮やら、十歳以下の幼い宮たちが幾人も、六波羅監視のもとにある。・・・
・・・紀ノ小冠者が、そこを駈け去ってから、時間としていくらでもない。
殺到さっとうした新田勢は、
「あれだ。赤橋の崩れ本陣は」
「西道を取れ」
「そこの崖をのぼれ」と、昼からの勝ちに乗じて、肉薄してきた。
丘一帯は、松の暗がりは、たちどころに鳴動しだした。相打つ怒濤の吠えと、白い穂先やつるぎの飛沫しぶきに。――それも時たつほど、獣林の揺れに似ていた。
侍大将の南条高直は、
「や。あのお声は」と、乱刃のなかを退いて、ひと息入れ、またすぐ、自分を呼ぶ声をあてに駈けだした。
守時が待っていた。
背を大樹にもたせて、髪もみだし、槍を杖に、
「南条か」やっと、立ちささえている姿だった。
「ア、どこを。いますぐお手当てをいたしまする」
「それには及ばぬ」
青い眼のふちは笑っていた。
「……わしは果てる。本望と思って死ぬ。あとをたのむ」
「なんの、まだ」
「いや死なせてくれ。そちは侍大将。退けまいが、はや退くがいい」
「思いもよらぬ仰せ。伊豆田方いずたがた郡で重代ご恩をうけた鎌倉殿の臣。退くほどなら斬り死にします。自分の郎党も目の前に死なせておるものを」
「そうだったな。惜しい者ほど、散りいそぐか。ならば行け。思うさま武士の名に生きるがいい」
「赤橋どのは」
「あれで」と、守時は槍を杖にすこし歩いた。すぐそばに小さい北野天神の祠ほこらがあった。縁にあぐらして、守時は静かによろいを脱いだ。――見るにたえず、高直は下にうずくまったが、顔を上げたとき、もうその人は紅くれないの座に前身を俯うつ伏ぶせていた。
敵の目にふれてはと、首を掻いて、祠の裏に穴を掘った。気づいたのはそのときで、守時の首は一通の文ふみをかたく咥くわえていた。なぜかは知らず、南条は自分の口からしぜんに出た念仏と共に土をかけた。そろそろと掛けて行ってその穴のあとを足では踏めなかった。病葉わくらばを掻き寄せて来て、そこらにかぶせた。
ゆらい守時最期の地は、洲崎千代塚と、古典にみえる。が、千代塚の名も洲崎も現地名にはない。ただ「相模風土記稿」によれば、わずかに北鎌倉の寺分てらぶん、町屋の辺かと考えられるばかりである。
南条高直の戦死も、同夜の宵過ぎてはいなかった。――主将守時の死を見とどけ、直後、敵のなかへ駈け入っていたのであろう。なにしても、鎌倉の北の口はこれで突破され、越後新田党の猛兵や、堀口、大島の二隊も勢いを駆ッて、夜半にはもう山ノ内まで進出していた。・・・
・・・右馬介は、一礼して、伝馬役所の裏から誰にもその面を知られず立去ってしまった。じつにこの一布石があったればこそ、尊氏も自信をもって、直義が迎えの一隊も返し、自軍のみで目ざす山波深くへ進んで行ったものであったろう。
いったい、どこへ。
歩いている将士すら軍の方向は知らなかった。が、翌日の彼らはもう酒匂さかわの上流を折れて足柄山あしがらやまにかかっているのを知っていた。――やがて地蔵堂を経へ、金時山きんときやまの北を峠越えに出ると、南へのぞむすぐ目のさきに、竹の下、さらに三島まで一路降くだり坂で、その彼方には駿河湾の冬の海が黒いといっていいほど深い碧あおをしている。
しかし、そこまでを見とどけたのは、先駆の物見隊だけで、尊氏の本隊は、なお地蔵堂のあたりにとどまり、吹きすさぶ風花かざばなまじりの山颪やまおろしの下にその晩は夜営していた。
地名、竹の下とは“岳たけの下”の意味か。――物見の言によれば、そのへんから足柄明神へかけて、およそ七、八千とみられる敵が諸所に団々たる大焚火おおたきびをあげて温ぬくもっているという。――いまは疑いの余地もない。大将尊氏の胸にあるものは、その搦からめ手ての敵軍を、不意に、真上まうえから撃うち下ろすにあったにちがいない。
「旗は」と、尊氏は物見の者に、彼らが眼で知りえたかぎりの旗じるしなど聞きとっていた。
それによって、敵の主陣は、義貞の弟、脇屋義助よしすけ、義治よしはるとわかった。
また中書ちゅうしょノ宮尊良たかなが親王以下、八人の公卿大将がそのうえにいることもわかった。
「よしよし、ほかの大名旗本勢など、いちいち知る要もない。まずは腰糧こしがてを食うてよく寝ておけ」と、これは物見隊へだけでなく、全軍の将士へも同様な令でつたえられた。
けれど腰兵糧は氷を噛むようなものだし、火の気はもちろんゆるされず、その寒烈は骨を刺す。が、それでもいつか横たわると三千の兵は死んだように眠っていた。眠っているまが人間の本望を充たしている最良の時でもあるかのように。
尊氏も一とき眠った。
そのほかは地蔵堂の縁をめぐって思い思いな寝相をえがいていたが、折々には、むくと誰かが首をもたげて耳をたてた。そしてまた眠りにおちた。
こうして寅とらの刻こく(午前四時)をやや過ぎたかの頃になると、初めて、地蔵堂附近は騒然となり、人も馬もふるい起きて、やがて一せいに峠の上へ出て行った。――そこに立つと、竹の下はすぐ眼の下にあり、敵の所在は燃え残りの火の気で知れる。尊氏は歯の根のふるえを禁じえなかった。心のなかでさし上げた大石を一気に落すような思いで言った。
「あの真ん中へ突っ込め」
そしてまた、
「坂下へ廻るな。いつも敵の上に足場をとっていためつけろ」と、追っかけに注意した。
まだ夜は明けていず、足もとすらもまっ暗なのだ。――敵の驚きはいうまでもない。寝耳に水の奇襲だった。脇屋義助の本陣のあたりが、須臾しゅゆのまにぱっと赤い火光に染まってみえる。すでに火が放かけられたものであろう。
また。近くの足柄明神もすぐ黒煙にくるまれていた。中書ノ宮をはじめ長袖の公卿大将ばらは、うろたえに右往左往うおうさおうし、打物すら持ち忘れてただ逃げ惑った。そして手もなく討たれてゆく将も二、三にはとどまらなかった。
何か、地異天変のような錯覚さっかくにもとらわれる。
七千人の旗営きえいが一瞬にどうかしてしまったとしか見えない。――どろどろと熔岩ようがんのような黒いものが、山の中腹から逃げまろび重なりあって、はるか麓ふもとまで押し流れて行く。すべてそれは、人間と馬と、また新田勢や中書軍の旗差物などだった。
「まずかった」
脇屋義助。兄の義貞にまさるこの勇将は、どこかで地だんだ踏んだことだろう。・・・
・・・入れ代りに、陣幕とばりを揚げて、直義が顔を見せた。明け方のつかの間まだったろうが、よく眠った朝の顔だった。
「兄者あにじゃ」と、つい出たことばを、言いあらためて。
「兄上。――一夜考えておく――との昨夜の御意ぎょいでしたが」
「む。この後の方針か」
「されば。いちど鎌倉へひきあげて地固めするか。または、このまま義貞を追ッて都へ迫るかの、二途ですが」
「きめたよ、直義」
「どう?」
「このまま行こう」
「即日?」
「今日にも」
「こころえました」
「鎌倉などは欲しいものにくれてやれ。直義、中原ちゅうげんとは真ん中のことだ」
「そこまでのお腹をうかがえばわれら死んでも本望です」
「ばかを申せ。死ぬに苦労はいらん。これからこそ実みのある苦労を尊氏はする気なのだ」
「朝敵とよばれても」
「照覧しょうらんあれ、人はいおうと、天は知るだろう。尊氏はただ正しいと信じる道を行くだけだ。……いやこんなはなしは後日後日。直義、すぐ前進の貝を吹かせろ」
「お待ち下さい。さっき師直が、降参の将の簿ぼを作って、お目にかけるといっておりましたから」
直義はあわてて出て行った。まもなく発向の貝が鳴った。この朝の足利勢は、一夜に万を超える兵力となっていた。
ほとんど抵抗らしい抵抗もみず、以後の足利勢は、行く先々でいよいよその兵力を強大にするばかりであった。
当日、加島に夜営
翌朝、富士川渡河
次の日、興津
やがて手越、大井川と一路東海の道は足利色に風靡ふうびされて行った。
しかしその間、大雨の一昼夜もあったので、尊氏は新田の敗残勢力を叩くよりも、これ以上、自軍を疲れさせまいと心していた。わけて海道一の大河、天龍川を越えるには、しょせん一ト難儀はとしていたのである。
ところが、ほどなく遠州に入りその天龍川を前に眺めわたすと、濁流満々ながら対岸にいたるまで堅固な舟橋がえんえんとなお無事に架かかっていたので、
「これはどうだ!」と、軍勢は笑いどよめいた。
「新田勢のあわてぶりよ。逃げるに急であとの舟橋を断きり落して行く大事な退軍の常法すらも忘れている――」と。
が、尊氏は、
「はて? うかと渡るな」と、全軍を待たせた。
そして附近の川小屋から土地ところの者数名を狩り出し、何で舟橋が無事にあったかを直々じきじきに質ただした。・・・
・・・はじめ、彼は宇治を突破口と考えたが、その手の守りには菊水の旗が見えた。すると、彼は、
「楠木勢だな」と、すぐ転てんじて、大渡へ移ってしまった。なぜか正成を避けたのである。
もし尊氏がそこの守りを突いたら、楠木勢も一敗地にまみれていたかもしれなかった。なぜなら、瀬田、供御くごノ瀬せ方面の味方あやうしと聞えたので、正成は麾下の矢尾やおノ別当、志賀右衛門らに八百騎をつけて、加勢に割さいてやったところであり、義貞は淀口、脇屋義助は遠い山崎だったから、とても尊氏の兵力はささえきれなかったにちがいない。
けれどまた、もし楠木へぶつかって行ったら、尊氏軍の死傷もおそらくかず知れなかったことだろう。――尊氏はよくそれを予察していた。――いや正成を知悉ちしつしていたのである。彼はまだ心のどこかで正成に惹ひかれている。
「縁あらば」と、他日一つの酒を酌くみ合い、同床異夢どうしょういむにあらぬ同夢をみることがないでもないと思っていたのだ。
十日の昼合戦は、伏見、鳥羽、桂川の沿岸など、長い戦線で展開された。――しかし細川定禅、赤松円心らの四国、中国勢は、すでに洛内の一角に入っていた。――義貞の一万余騎は、いくつもに分裂し、日没前、諸所に乱れ立つのが見えた。
「宇治もやぶれた……」とは、その時刻の声だった。
尊氏の軍は、伏見へ出、このさいまたも、馬淵義綱、田上正氏などの降将とその兵九百人を加えていた。
そして味方の細川定禅、赤松円心則村のりむらの二将と、鳥羽殿とばでんの門外で落ちあった。つまり東西両軍の連絡を遂げたのだった。
「本望を遂げまいた」と、円心は言った。この円心も、いぜんは宮方であったが、例の建武恩賞のさい、余りにもひどい冷遇に怒って、いらい国元の播州にひき籠っていた者であった。・・・
・・・だから彼らは、尊氏がここの土につよい旧怨を持っていたらしいのを見て、またその回向えこうの態ていをながめて、
「さてはまだ、過去の恨みをお忘れないものとみえる」
と各ゝ、尊氏の報復を、今後に思って、ぞっとしたに違いなかった。――で、尊氏が拝を終ると、具簡ぐかんは畏おそる畏る、追従ついしょうしてこう言った。
「泉下せんかの赤橋(英時)どのにも、今日はいかばかり、およろこびか。また、将軍(尊氏)におかれましても、お恨みの一端が、まずはいささかお晴れ遊ばしたでございましょう」
「……ウむ、……何?」
反問するような顔を持ちながら、尊氏は、大庭の大きな平石へ腰をおろし、
「いい年をして、具簡はなにをいうか。復讐とな? ――そんなおろかな妄執を尊氏は念頭にもおいておらん」と、すこし叱りぎみな口調でつづけた。
「やれ、義兄のあだ、子のかたき、親の怨みのと申し合っていたら、弓矢の本道などは見失われてしまうだろう。それのみか、復讐は果てなきまたの復讐を生んでゆく。永劫えいごう、修羅の殺し合いを演じてゆくほか世に何を残す? ……。ばかな。われら弓矢の家の使命とはそんなものでない。……ときによりあえない犠牲を身内に見るもぜひなく、英時どのなど、真にお気のどくなお人ではあった。とはいえ、しょせん幕府と共に末路をいさぎよくなさるほかないお立場でもあり、それがそのお人の弓矢の大道であるならさぞ御本望であったろう。――尊氏はそう思う。そう思うて今日の御邂逅に、地下へ一言、ごあいさつを申したまでだ。恨みの何のと、そんな小義にとらわれて、愚痴なお手向けしたわけではない」
いくさは復讐でない。復讐のため戦はしない。
尊氏の弓矢はもっと大きな抱負と使命にある。そんなケチな……と彼は笑う。言い終って笑ったのである。
「…………」
叱られた大友具簡をはじめ、筑紫諸党の大将輩たいしょうばらは、ほっと、みな色を持ち直した。それまではたれにも澱おどんでいた一抹いちまつの危惧きぐだったものも、恩怨おんえんすべて、尊氏のことばで、すかっと、一掃いっそうされた感だった。・・・
・・・「ま。……こうだ」
と、義貞は床に扇のさきで曲線を描いてみせた。――須磨から駒ヶ林の浜、和田ノ岬、また湊川口と――守備の要地要地には扇の要かなめを止めて、
「ここに四千、ここに二千。ここには千五、六百騎。――脇屋義助を浜手の大将とし、なお随所には、御辺のいういわゆる応変自在の遊軍を、千騎、五百騎ずつ、その間かんに置く」と、説明する。
正成はいちいち頷いて。
「そこで陸地の敵には?」
「ム。足利直義の進路か。――それへは越後新田党の強兵をあたらせよう。――細屋、烏山からすやま、大井田、籠守沢こもりざわ、羽川、一の井などを主力に、武者所の諸勢をそえて、決死の者およそ七千を向けて打ちくだく」
「御本陣をどこに」
「さしずめ、陸手くがでと海手うなでの両方面へたいして、司令によい所といえば……。まず兵庫の中を一条まっすぐに通っておる西国街道のほどよき辺か」
「まことに、綿密めんみつな御軍配、それ以上はございますまい。が、そのためにかえって、どこもかしこも、守線の薄い弱味がなくもございませぬ」
「というて、どの方面にせよ、手を抜いてよい線はない」
「陸勢の攻め口には、山の手、西国街道、磯道づたいの三道どうがあり、――また海上の敵は、随所、すきを目がけて上陸して来ましょう。――よほどな御工夫があっても、ここはおぼつかなく思われまする」
「じゃによって、御辺の思案を訊くのだが」
「第一に危ないのは、御本陣です。以上のおくばりでは中軍にある御身辺は素裸にひとしく、もし敵の山手勢か水軍の一部に後ろを断たれたら、孤軍、何ともなりますまい」
「ぜひもない! その時はその時よ。大義のため、義貞もここに果つるなら、それも本望。何を恐れようや」
義貞は激してきた。彼らしい発色が酒気をまぜて、耳の根を染め、同時に正成もややことばを強めていた。
「いや総大将のおん身、そう軽々しくては相なりませぬ。――またお味方は、お味方にとって有利な浜戦に主力をそそいで戦うべきで、せっかくな精鋭を七千もさいて、直義の防ぎに当てるのは、おろかなことです。その一半をお旗本の固めにおき、他もみな海面の敵に当てて、敵に一歩も地を踏ませぬほどな防備こそしかるべきではないでしょうか」
「ばかな……」
義貞は苦笑した。ついでに、苦々にがにがと杯を仰飲あおって。・・・
・・・隅屋すや新左、恵美えみの正遠、河原九郎正次など、いずれも兄の手勢の者だ。――すぐこのさきの一叢いっそうの林に、正成以下みな旗を伏せて、しばし戦機を見つつ一ト息入れておられるという。
「オオではまだ御健在か」
よろこぶ正季を、新左や正遠たちは、
「やわか。なかなか」
と、笑い合いながら、先に立って、
「おやかたさまこそ、山手の戦い、正季の血気、いかにせし、とお案じ顔で、お待ちです」と、駈け出した。
行ってみると、そこの一叢林いちそうりんは、そのまま会下山の西の裾へつづいている。――すでに敵の直義ただよしとも、浜手側の少弐頼尚しょうによりひさの隊とも、十数回におよぶ激戦に激戦を交わして疲れきッた正成の麾下きかは、さすが惨さんとして、血みどろでない者はなく、その兵数も、半分以下にまで減ッていた。
「正季まさすえ、無事か」
「お。……兄上、正季こそ、死に遅れたかと存じていましたが」
「なんの、死の座は一つと、約したはず」
「本望です。して、お手勢は」
「見るとおり、きびしく減った。が、あわれただの一人も、むなしくは打たれていない」
「いや正季の一勢は、まだいささか健すこやかです。多くは失っておりません」
「双方合せれば、なおここに五百騎余は数えられよう。それをもって、さいごの一戦を図はかろうと思う。ま、こう来い、弟」
樹林の中を、明るい方へ出て行った。そして会下山の中腹といってよい木も無い傾斜をまたやや登って。
「正季」
「は」
「一瞬、鳴りの鎮しずんだわけが読めたか。ま……彼方を見い。生田、三ノ宮、御影みかげまで、渚なぎさも黒う足利勢が上陸し終った。――そして新田殿の軍兵は、ことごとく、あれへ駈けつけ、会下山から西、われら以外には友軍も見えん」
「左中将殿(義貞)も、よほどあわてたものと見えまする。――われら会下山の陣を、敵中におきすてて」
「いや、楠木勢へも、共に退さがれと、連絡はしたのだろうが、一ト頃の乱軍だ、伝令も何も、届かなかったに相違ない」
「とにかく、首尾よう、尊氏に打勝てばよいが」
「まず望みはない」
「正季にも、そう思われます。しかるに何で、所期の作戦を俄にかえて退かれたのか」
「それも、過ッてはいない。左中将どのは、あれでよいのだ。あれでよい」
「……とは、どういう御意中で」
「必定ひつじょう、新田勢は総くずれを来きたそう。そして好まぬことながら、左中将どのも都へさしてムチ打って落ち行くしか途もあるまい。わしは元々そうあって欲しかったのだ。正成亡きあと、主上後醍醐のきみを守護したてまつる大将といえば、やはり左中将新田殿のほかにはしかるべきお人も見えぬ。……ゆくすえ、尊氏の勢いがさらに大になるを思えば、なおさらのこと」
「ですが、全軍をあげて、生田の渚なぎさへ駈け向った新田どの。尊氏と見たら意地でも退けますまい。元々からの宿敵、かつは播磨いらい、負けを重ねている面目上、乱軍を掻き分けても、尊氏と一騎打を挑いどむ御所存ではないでしょうか」
「いや」
正成は薄うッすらと顔をゆがめた。その眸を回めぐらして、須磨方面へ、心を移しながら、
「尊氏は、生田へ向った水軍のうちにはいない」
「えっ、ではどこに?」
「日輪の旗を立てた大船の一つに乗って、彼処かしこに上陸すると見せかけて、じつは別な船に乗って須磨沖にとどまり、やがていとやすやす、駒ヶ林の浜へ一勢をひきいて上陸した。――そして駒ヶ林の宝満寺こそ、いま尊氏がいる本営とおもわれる」・・・  
「鳴門秘帖」
・・・「俵殿、俵殿……」
やっと尋ねあてた石子牢を覗のぞいて、こう呼んだのは世阿弥である。パラパラパラパラ崖がけから小石が降っている。その断壁面だんぺきめんの荒い岩肌に、藤の森から青い月がさしていた。
「一八郎殿……」と、もう一度、石と石との間をかき分けて、世阿弥が声をかけるとややあって、
「うウ……、た、たれだ!」と風穴の中で物音がした。――物音はしたが、一八郎もこの深夜に訪れたものを深く怪しんだとみえて、めったに穴口へ顔を寄せてこない。
「俵一八郎殿……。わしは甲賀世阿弥と申すものでござる。阿波の者ではござらぬ。十一年以前からこの山牢に封じこまれている世阿弥と申す幕府の隠密でござる」
「やッ、世阿弥殿?」
「ご承知か」
「知っている!」と、一八郎、青白い顔を石の間からさし出した。世阿弥は、妖鬼に睨まれるような凄さをおぼえた。
「ウーム、なるほど。いかにも世阿弥殿であった。たしかにそこもとがこのつるぎ山にいるとは存じていたが、どうしても会うことができない。それゆえ、わざと、柵を破って山を騒がせ、そこもとの気がつくように致していたが……ああ、とうとうお気づき召されたか」
「や、では脱走する目的ではなくて?」
「なんで。――この山峡さんきょうを脱走したとて、四面は山と海との二十七関、とても逃げおおせぬことは某それがしも心得ている」
「うむ、仰せの通りじゃ。土佐境とさざかいも讃岐越さぬきごえも逃げ道はない」
「しかし、お目にかかればもう本望でござる。世阿弥殿、一言ひとことお告げいたしたいことがある」
「オオ!」と顔を寄せあうと、二人の間へ、ザア――と箕みを開あけたような砂礫されきが落ちてきた。それをかき落して、また穴口を作りながら、甲賀世阿弥。
「わしも、お身に会ったなら、何ぞ消息しょうそくが聞かれようかと、それ一念で、山牢の柵を破ってまいったのじゃ。して、わしに告げたいこととは」
「江戸表におらるるそこもとの御息女お千絵殿という方から便りをもって、唐草銀五郎からくさぎんごろうというものが、阿波へ入りこむべく大阪表までまいりました」
「オオ、さては、唐草が娘の消息をもって阿波へまいりますとな?」
「さ、ところがその銀五郎は、目的の途中で、あえない最期をとげたのでござる。場所は、大津の禅定寺ぜんじょうじ峠。――某それがしもまたその時に、阿波の侍のために捕われて、とうとうここへ送られてまいった。しかし、御落胆なさるな、まだ安治川屋敷に押しこまれている当時、手前の妹の鈴が探ったところによると、われらと同腹の者で天満組の目明しをしている万吉と申す者が、法月弦之丞という人じんの力を借りて、再度、阿波へまいる支度のために、お千絵殿を尋ねて行ったということでござります……」
「はて? ……法月弦之丞と申せば、わしが江戸表にいた当時は、まだ十四、五の美少年で、夕雲流せきうんりゅうの塾へ通っていた大番組おおばんぐみの子息――。どうしてそれが、娘の千絵を存じているのであろう」
「二人は恋の仲だそうでござる」
世阿弥は不思議な気がした。かれが、夢にみるお千絵は、いつも彼が江戸を去った時のおさないお千絵であったから……。・・・
・・・父に会った歓よろこびの絶頂に、弦之丞とともに手をとって死のう。
そう思うそばから、また、一方の心は、
(お千絵を不幸に墜おとしてもよいのか!)
と責める声がする。
剣山に行きついて、剣山の土になるのは、いわゆる、木乃伊みいらとりの木乃伊みいらになるの類たぐいで、弦之丞がここまでの苦艱くかんも、結果は、無意味なものに帰してしまう。
ふたたび重囲の阿波を逃れ出なければならない。
その時になって、初めて、父の名も闇から光明へ、弦之丞も一箇の武士として、栄光の江戸に迎えられる。
すべての、いい結果を呪のろって、わがままな死の世界へ、弦之丞を導こうとする心を、お綱は自身でおののいた。奔放になろうとする恋のわがまま――自我主義をおそろしく気づいた。
「そうはなれない、私の気性でもそうはなれない」
お綱は情熱と理智のたたかいにもまれて、固く睫毛まつげをふさいでいた。弦之丞には、静かに眠っているふうを粧よそおっている心の奥で――。
「生きねばならない」と、つよく思い返した。
「目ざして上る時よりも、いっそうなまっしぐらで、剣山をのがれ出なければならない。死んではならない! 弦之丞様を死なしてはならない! そして父の世阿弥とその人を、義理あるお千絵に渡してやることを自分の本望としなければならない、それを、無上として歓ぶのが人間だよ、愛だよ! ――じゃあ、お前はなんにもなくなるではないか? 愛って、人間の一生って、そんなつまらないものでいいものかね? そうさ、ほんとに空くうな話だ、だけれど、そうした自分を無にする気もちは、さびしいだろうが、まんざら悪いものじゃあるまい。私はそれを信じよう、考えてみればもともとから何もなかったお綱じゃあないか」
眠りを粧よそおっているまぶたから、いつか、涙……涙……涙……とめどなくながれている。
南無大師遍照金剛なむだいしへんじょうこんごう――。
廃寺の内陣で唱える人声があった。お綱は、今宵この荒れ寺に、自分たちのほかにも行き暮れた遍路が雨露をしのいでいるのを知って、そっと、涙をふきながら弦之丞を見た。
杖により、壁にもたれて、寂じゃくとしているその人は、寝ているのか、起きているのか分らない。白い行衣ぎょうえの裾すそを、榧かやの煙がうすく這はって――。・・・
・・・目的はまだ達しられていない。
世阿弥がお綱に託した隠密遺書はどうしたろう? 一念、奪とり返さずにはおけないのはあの血筆の一帖じょうだ。あれをつかんで遺志をとげないうちは、命のある限り、闘わなければならない。
「お綱」
やがて弦之丞は、しっかりした声音こわねで、かの女を見る目に愛熱の火をこめた。涙ぐましいくらいな情思をかくありありと彼が見せたことはなかった。
「お綱! お前はどんな危地に迫ろうと、決して、この弦之丞より先に死んではならぬ。拙者には、何かしら霊感れいかんというような自信がある。きっと、あの秘帖は奪とり返してみせる。サ、今日はどこかへ姿を隠そう、この傷の血さえ少し止まれば……」と、立ちかけたが、お綱がその膝に顔をうツ伏せて、泣いているのか、離れる様子がないので、また言いつづけた。
「よいか、お綱、拙者が秘帖をそちの手に返してやったら、お前はあれを持って江戸へ帰れ! そこには、お千絵殿の幸福やら、甲賀家の栄はえやら、お前の亡き母の霊もまた、みんな、微笑をもって待っていよう。必ず、短気を出して、世阿弥殿の託たくにそむいてはならぬぞ。わしとて、そちが阿波をのがれる姿を見届けるまで、必ずみずから死を招くことはいたさぬ」
この上にもお綱の意志を強めようとほとばしる言葉のうちに、死を覚悟している弦之丞の心がほのめいた。
お綱は咽むせんで叫びたかった。
いいえ、弦之丞様! わたしはあなたとこの国に死んでこそ幸福です。本望です。なんであなたを残して帰る江戸表にうれしい微笑ほほえみが待っていましょう。・・・
・・・「この事件になんの功もない拙者が、それを携たずさえて幕府の歓待にのぞむのは僭越せんえつでもあり、第一資格のない自身として恥入りまする。京都の左京之介様、また江戸表でも将軍家をはじめ、貴殿の肉親の人々も、どれほどか、噂をきいてそこもとの偉功をたたえて待っているか知れますまい。いわば栄はえある凱陣がいじんの将、拙者も万吉もほかの者も皆、御同道申しあげよう。ぜひとも、それは御自身で江戸表へ」
と、すすめるのを、弦之丞は手を振って、
「御厚意のほどはありがたく思いまするが、実は、自分の一個の存念で、このまま、江戸へは帰らぬ覚悟でござります」
「えっ」
と鴻山は、その心を計りかねるように、
「そりゃ、なぜでござるか?」と弾はずみこんでまたすぐに、
「何か、徳川家に対して、ご不平でも? ……」と探るように顔色を見た。
なぜ?
それはお綱にも万吉にも、同時に怪しまれたことだった。ことに、お千絵はなつかしい人の姿を目の前にしながら、まだあたりの人の手前、ひとことも口をかわされないでいたが、にわかに悲しげな色が眉を曇らしている。
「決して」
弦之丞は鴻山の言葉を否定して、
「不平などはみじんござりませぬ。そう誤解して下されては困る。そのことは、とうから心にもっていた拙者の宿望です。――幸いにして、なかるべき筈の一命をたもち、父祖ふそ食禄しょくろくをうけてきた幕府へも、いささか報恩の労をつくし得たことは、法月家の不肖児ふしょうじ弦之丞としてできすぎた僥倖ぎょうこう。なんで、それが誇り、なんで、望外な出世をのぞみましょうや。ただ、慾には、この微功をもって、お千絵殿の家名が立ち、また、ほかの方々にも何らかのお沙汰がありとすれば、拙者の本分、これ以上はないのでござる」
「いや、それでは、お千絵殿をはじめ、他の者も、第一この鴻山にしても、自身の本望はとげたにしても寝ざめのよくない心地がする。ぜひ、貴殿もいちどは江戸へ御帰府あるようにおすすめいたす。いや、お願いする!」と、鴻山は熱をこめて言った。
その言葉は、お千絵の秘している心を代弁してくれるようであった。同時に、万吉もいわんとする気持を鴻山がつくしてくれたような気がした。
しかし、お綱の考えはどうであったろうか? すくなくも今のお綱の胸のうちは千々ちぢにみだれているに違いない。ひとり、襟えりに深く手をさし入れてうつむいている姿を見ても、その悩ましさが思いやられる。
いつか陽脚ひあしが傾いてきた。紫のひだを濃くしてゆく山の姿は夕暮の近さを示してきた。
と――あなたの小高い林をぬけてくる人数が見えた。奥甲賀の山間やまあいに陽がおちるまでと約束した、与力中西弥惣兵衛やそべえと、その手の捕方とりかたの影であった。・・・
・・・江戸に籍をおく身であって、一面、反幕府派と称せらるる皇学中心の運動をも、どうしても否定しきれないところに、かれの憂鬱が常にあった。
その矛盾むじゅんを乗りこえて、かれをここまで勇躍させてきた力は、幕府のためというよりも、剣山で龍耳りゅうじ老人に告白したとおり、恋、義理、涙、そういうきずなにはきわめて弱いかれの個性――凡人凡智ぼんじんぼんちの情熱である。
今またその告白をくり返して――
「なんでこのふた心と矛盾を抱いて、これ以上、幕府の栄禄えいろくを食はみ得ましょうか!」というのだった。
「多少、江戸表にも、心のひかれることがない身ではござらぬが、果てしのない凡情の延長へ辿たどってゆくより、むしろこのまま帰府を断念して、元の虚無僧、一管の竹笛ちくてきに余生を任して旅に終るほうが、自由で本望に思われます。拙者のためにと仰せ下さるならば、もうこの上のおすすめ、ひらに御無用に願いたい」
もう鴻山にも万吉にも、出世の無理強じいをすすめるようなありあわせな厚意は、かれの真実と潔癖の前にいいだされなくなった。
で――黙然とうなだれてしまったが、その沈黙がくるとすぐに、わっと、こらえを破って泣く声をきいた。
はっと、皆の目は、泣き伏したお千絵の姿に吸いつけられる。
お千絵は最前から弦之丞の心もちをきいているうちに、あたりが真っ暗におぼえる程な失望に血を激げきしながら、今ここで、自分の心をいいだす勇気もなく、目の前を通りすぎて行こうとする運命に対しても、悲しむよりほかの力をもたないかの女であった。
「ああ……」
しかし、その痛々しい姿は、弦之丞の心をみだし、また責める。
ひとつの矛盾をしりぞければ、また新しくひとつの矛盾がなだれてくる。
神のごとき純なお千絵に、生涯の傷手いたでを与えて去ることは、かの女を幸福にすべく起った初志をみずから裏切っていないだろうか。
また、ちょうど同じこの禅定寺ぜんじょうじ峠で、去年の夏――お千絵様を! と合掌して落命した唐草銀五郎からくさぎんごろうに対しても、破誓はせいの罪がないだろうか。
理性はそれを問う、良心は弦之丞にそれを責める。・・・
・・・指へ痛くしびれてくるふるえが、お綱の涙をいっぺんに誘いかけた。だが、お綱は、ここでは決して泣き顔を見せまいとして、暴風のような激情と闘っていた。
「わしは幕府へ仕える気がすすまぬのだ。ゆるしてくれ、このわがままを。何と思いなおしても、江戸へ帰る気にはなれない拙者だ。で……それよりは、お前たち姉妹きょうだいこそ」
と弦之丞は、お千絵の顔をジッと見て、
「ゆく末、むつまじく暮らしてくれ」と力をこめて、ふたりにいった。
「えっ……?」
お千絵は耳を疑った。
姉妹? 誰と?
今、弦之丞はそういったのではないか。と泣きはれた目をみはったが、思い当たったものか、サッと顔の色をさめさせて、その眸を、お綱のほうへ向けかえたのであった。常木鴻山も、今はつつんでいた仔細を話して、お千絵に義理の姉をひきあわせる時機であろうと考えて、唇をうごかしかけたが、
「いいえ! いいえ!」と、その間もないような早口で、お綱はすべてをさえぎって、名乗ることも避けて言った。
「弦之丞様、もうなんにも申しますまい。江戸へ帰ってくれともお頼みいたしません。ですけれど、たとえ旅から旅でお暮らしなさるにしても、お千絵様の身だけは永く見てあげて下さいね……ご、後生でございます。お綱があなたに最後のお願いは、たった、それひとつでございます。それさえかなえて下されば、わ、わたしは、自分があなたと暮らす身になったのと同じように、うれしいと思います! ……本望です! ……江戸の女の負け惜しみではございませぬ、心の底から、蔭にいても、おふたりのお幸せを祈っています」
「…………」
「返辞はどうなさいました。おっしゃって下さい、弦之丞様、承知したというひと言こと! それを聞いて、わたしはもう……行かなければならない所があるのです。そこへ、迎えが来ている体でございますから」
「や! ……」とふりかえる弦之丞。
鴻山もお千絵も、いつぞやの人相書を思いあわせて、初めて、救いがたいお綱の危機が、支度をしてのぞんでいる態ていに気がついた。
弦之丞は何ともいえぬすくみを、自身におぼえた。そして、棒立ちになっている万吉とともに、暗然とした顔を見あわせてしまったが、やがて、衝つきあげる感情にたまらなくなって、ふたりとも声を洩らさず、背中合せに腕を曲げて、熱涙のたばしる瞼まぶたをおさえていた。・・・  
「三国志」
・・・「あ。私のです」
劉備は、失くした珠が返ってきたように、剣と茶壺の二品を、張飛の手から受取ると、幾度も感謝をあらわして、「すでに生命いのちもないところを救っていただいた上に、この大事な二品まで、自分の手に戻るとは、なんだか、夢のような心地がします。大人たいじんのお名前は、さきほど聞きました。心に銘記しておいて、ご恩は生涯忘れません」と、いった。
張飛は、首こうべを振って、
「いやいや徳は孤こならずで、貴公がそれがしの旧主、鴻家こうけの姫を助けだしてくれた義心に対して、自分も義をもってお答え申したのみです。ちょうど最前、古塔のあたりから白馬にのって逃げた者があると、哨兵の知らせに、こよい黄巾賊の将兵が泊っていたかの寺が、すわと一度に、混雑におちた隙すきをうかがい、夕刻見ておいた貴公のその二品を、馬元義と李朱氾の眠っていた内陣の壇からすばやく奪い返し、追手の卒と共にこれまで馳けてきたものでござる。貴公の孝心と、誠実を天もよみし賜うて、自然お手に戻ったものでしょう」
と、理由わけをはなした。張飛が武勇に誇らない謙遜なことばに、劉備はいよいよ感じて、感銘のあまり二品のうちの剣のほうを差しだして、
「大人、失礼ですが、これはお礼として、あなたに差上げましょう。茶は、故郷くにに待っている母の土産なので、頒わかつことはできませんが、剣は、あなたのような義胆ぎたんの豪傑に持っていただけば、むしろ剣そのものも本望でしょうから」と、再び、張飛の手へ授けて云った。
張飛は、眼をみはって、
「えっ、この品をそれがしに、賜ると仰っしゃるのですか」
「劉備の寸志です。どうか納めておいて下さい」
「自分は根からの武人ですから、実をいえば、この剣の世に稀な名刀だということは知っていますから、欲しくてならなかったところです。けれど、同時に貴公とこの剣との来歴も聞いていましたから、望むに望めないでおりましたが」
「いや、生命いのちの恩人へ酬いるには、これをもってしても、まだ足りません。しかも剣の真価を、そこまで、分っていて下されば、なおさら、差上げても張合いがあり、自分としても満足です」
「そうですか。しからば、ほかならぬ品ですから、頂戴しておこう」と、張飛は、自身の剣をすぐ解き捨て、渇望かつぼうの名剣を身に佩はいていかにもうれしそうであった。
「じゃあ早速ですが、まだ賊が押し返してくるにきまっている。それがしは鴻家のご息女を立てて、旧主の残兵を集め事を謀はかる考えですが――貴公も一刻もはやく、郷里へさしてお帰りなさい」
張飛のことばに、
「おお、それでは」と、劉備は、芙蓉ふようの身を扶たすけて、張飛に託し、自分は、賊の捨てた驢ろをひろってまたがった。
張飛は、先に自分が解き捨てた剣を劉備の腰に佩はかせてやりながら、
「こんな剣でも帯びておいでなされ。まだ、涿県たくけんまでは、数百里もありますから」といった。
そして張飛自身も、芙蓉の身を抱いて、白馬の上に移り、名残り惜しげに、
「いつかまた、再会の日もありましょうが、ではご機嫌よく」
「おお、きっとまた、会う日を待とう。あなたも武運めでたく、鴻家の再興を成しとげらるるように」
「ありがとう。では」
「おさらば――」
劉備の驢と、芙蓉を抱えた張飛の白馬とは、相顧あいかえりみながら、西と東に別れ去った。・・・
・・・その日は、天候もよくなかったに違いないが、戦場の地勢もことに悪かった。寄手にとっては、甚だしく不利な地の利にいやでも置かれるように、そこの高地は自然にできている。
峨々ががたる山が、道の両わきに、鉄門のように聳そびえている。そこを突破すれば、高地の沢から、山地一帯の敵へ肉薄できるのだが、そこまでが、近づけないのだった。
「鉄門峡まで行かぬうちに、いつも味方はみなごろしになる。豪傑、どうか無謀はやめて、引っ返し給え」と、朱雋の軍隊の者は、部将からして、怯ひるみ上がっていうほどだから、兵卒が皆、恐怖して自由に動かないのも無理ではなかった。
だが、張飛は、
「それは、いつもの寄手が弱いからだ。きょうは、われわれの義軍が先に立って進路を斬りひらく、武夫たる者は、戦場で死ぬのは、本望ではないか。死ねや、死ねや」と、督戦に声をからした。
先鋒は、ゆるい砂礫されきの丘を這って、もう鉄門峡のまぢかまで、攻め上っていた。朱雋しゅしゅん軍も、張飛の蛇矛に斬り捨てられるよりはと、その後から、芋虫の群れが動くように這い上がった。
すると、たちまち、一陣の風雷、天地を震動して木も砂礫も人も、中天へ吹きあげられるかとおぼえた時、一方の山峡の頂に、陣鼓を鳴らし、銅鑼どらを打ちとどろかせて、
――わあっ。わあっ。
と、烈風も圧するような鬨ときの声がきこえた。寄手は皆地へ伏し、眼をふさぎ、耳を忘れていたが、その声に振り仰ぐと、山峡の絶巓ぜってんはいくらか平盤な地になっているとみえて、そこに賊の一群が見え「地公将軍ちこうしょうぐん」と書いた旗や、八卦けの文を印した黄色の幟のぼり、幡はたなど立て並べて、
「死神につかれた軍が、またも黄泉よみじへ急いで来つるぞ。冥途めいどの扉とを開けてやれ」と、声を合わせて笑った。
その中に一人、遠目にもわかる異相の巨漢があった。口に魔符まふを噛み、髪をさばき、印いんをむすんでなにやら呪文を唱えている容子だったが、それと共に烈風は益ゝつのって、晦冥かいめいな天地に、人の形や魔の形をした赤、青、黄などの紙片がまるで五彩の火のように降ってきた。
「やあ、魔軍が来た」
「賊将張宝が、呪じゅを唱えて、天空から羅刹らせつの援軍を呼び出したぞ」
朱雋の兵は、わめき合うと、逃げ惑って、途も失い、ただ右往左往うろたえるのみだった。
張飛の督戦も、もう効きかなかった。朱雋の兵があまり恐れるので、義軍の兵にも恐怖症がうつったようである。そして風魔と砂礫にぶつけられて、全軍、進むことも退くこともできなくなってしまった時、赤い紙片かみきれや青い紙片の魔物や武者は、それ皆が、生ける夜叉か羅刹の軍のように見えて、寄手は完全に闘志を失ってしまった。
事実。
そうしている間に、無数の矢や岩石や火器は、うなりをあげ、煙をふいて、寄手の上に降ってきたのである。またたくうちに、全軍の半分以上は、動かないものになっていた。
「敗れた! 負けたっ」
玄徳は、軍を率いてから初めて惨たる敗戦の味をいま知った。
そう叫ぶと、
「関羽っ。張飛っ。はや兵を退ひけっ――兵を退けっ」
そして自分もまっしぐらに、駒首を逆落しに向けかえし、砂礫とともに山裾へ馳け下った。・・・
・・・曹操は、見つけて、
「おのれ、あれなるは、たしかに呂布」と、さえぎる雑兵を蹴ちらして、呂布の立っている高地へ近づこうとしたが、董卓とうたく直参じきさんの李傕りかくが、横合いの沢から一群を率いてどっと馳けおり、
「曹操を生擒いけどれ」
「曹操を逃がすな」
「曹操こそ、乱賊の主魁しゅかいぞ」と、口々に呼ばわって、伏兵の大軍すべて、彼ひとりを目標に渦まいた。
八方の沢や崖から飛んでくる矢も、彼の前後をつつむ剣も戟ほこも、みな彼一身に集まった。
しかも曹操の身は今や、まったく危地に墜ちていた。うまうまと敵の策中にその生殺を捉われてしまった。
――君は戦国の奸雄かんゆうだ。
と、予言されて、むしろ本望なりとかつてみずから祝した驕慢児きょうまんじも、今は、絶体絶命とはなった。
奇才縦横、その熱舌と気魄をもって、白面の一空拳よく十八ヵ国の諸侯をうごかし、ついに、董卓をして洛陽を捨てるのやむなきにまで――その鬼謀は実現を見たが――彼の夢はやはり白面青年の夢でしかなく、はかない現実の末路を遂とげてしまうのであろうか。
そう見えた。
彼もまた、そう覚悟した。
ところへ、一方の血路を斬りひらいて、彼の臣、夏侯淵かこうえんは主を求めて馳けつけてきた。
そしてここの態を見るや否や、「主君を討たすな」と、一角から入りみだれて猛兵を突っこみ、李傕りかくを追って、ようやく、曹操を救けだした。
「ぜひもありません。かくなる上は、お命こそ大事です。ひとまず麓の滎陽けいようまで引退がった上となさい」
夏侯淵は、わずか二千の残兵を擁して踏みとどまり、曹操に五百騎ほど守護の兵をつけて、
「早く、早く」と促した。
顧かえりみれば、一万の兵は、打ちひしがれて、三千を出なかった。
曹操は、麓へ走った。
しかし、道々幾たびも、伏兵また伏兵の奇襲に脅やかされた。従う兵もさんざんに打ち減らされ、彼のまわりにはもう十騎余りの兵しか見えなかった。
それも、馬は傷つき、身は深傷ふかでを負い、共に歩けぬ者さえ加えてである。
みじめなる落武者の境遇を、曹操は死線のうちに味わっていた。
人心地もなく、迷いあるいて、ただ麓へ麓へと、うつろに道を捜していたが、気がつくと、いつか陽も暮れて、寒鴉かんがらすの群れ啼く疎林そりんのあたりに、宵月の気けはいが仄ほのかにさしかけている。
「ああ、故郷の山に似ている」
ふと、曹操の胸には父母のすがたがうかんできた。大きな月のさしのぼるのを見ながら、
「親不孝ばかりした」
驕慢児きょうまんじの眼にも、真実の涙が光った。脆もろい一個の人間に返った彼は、急に五体のつかれを思い、喉の渇かつに責められた。
「清水が湧いている……」
馬を降りて、彼は清水へ顔を寄せた。そして、がぶとひと口飲み干したと思うと、またすぐ近くの森林から執念ぶかい敵の鬨ときの声が聞えた。
「……やっ?」
ぎょッとして、駒の背へ飛び移るまに、もう残るわずかな郎党も矢に斃たおれたり、逃げる力もなく、草むらに、こときれてしまっている。
追いかけて来たのは、滎陽城太守の徐栄の新手あらてであった。徐栄は、逃げる一騎を曹操と見て、
「しめたッ」
ひきしぼった鉄弓の一矢を、ぶん! ――と放った。
矢は、曹操の肩に立った。・・・
・・・深入りした味方が、趙子龍のために粉砕されたとはまだ知らない――袁紹えんしょうであった。
盤河橋をこえて、陣を進め、旗下三百余騎に射手百人を左右に備え立て、大将田豊でんほうと駒をならべて、
「どうだ田豊。――公孫瓚も口ほどのものでもなかったじゃないか」
「そうですな」
「白馬二千を並べたところは、天下の偉観であったが、ぶッつけてみると一たまりもない。旗を河へ捨て、大将の厳綱を打たれ、なんたる無能な将軍か。おれは今まで彼を少し買いかぶっておったよ」
云っているところへ、俄雨のように、彼の身のまわりへ敵の矢が集まって来た。
「や、や、やっ」
袁紹は、あわてて、
「何処にいる敵が射てくるのか」と、急に備えを退いて、楯囲たてがこいの中へかけ込もうとすると、
「袁紹を討って取れ」とばかり、趙雲の手勢五百が、地から湧いたように、前後から攻めかかった。
田豊は、防ぐに遑いとまもなく、あまりに迅速な敵の迫力にふるい恐れて、
「太守太守、ここにいては、流れ矢にあたるか、生擒いけどられるか、滅亡をまぬかれません。――あれなる盤河橋の崖の下まで退いて、しばらくお潜ひそみあるがよいでしょう」
袁紹は、後ろを見たが、後ろも敵であった。しかも、敵の矢道は、縦横に飛び交っているので、
「今は」と、絶体絶命を観念したが、いつになく奮然と、着たる鎧を地に脱ぎ捨て、
「大丈夫たるもの、戦場で死ぬのは本望だ。物陰にかくれて流れ矢になどあたったらよい物笑い。なんぞ、この期ごに、生きるを望まん」と、叫んだ。
身軽となって真っ先に、決死の馬を敵中へ突き進ませ、
「死ねや、者ども」とばかり力闘したので、田豊もそれに従い、他の士卒もみな獅子奮迅して戦った。
かかるところへ逃げ崩れて来た顔良、文醜の二将が、袁紹と合体して、ここを先途せんどとしのぎを削ったので、さしも乱れた大勢を、ふたたび盛り返して、四囲の敵を追い、さらに勢いに乗って、公孫瓚こうそんさんの本陣まで迫って行った。
この日。
両軍の接戦は、実に、一勝一敗、打ちつ打たれつ、死屍は野を埋め、血は大河を赤くするばかりの激戦で、夜明け方から午ひる過ぐる頃まで、いずれが勝ったとも敗れたとも、乱闘混戦を繰返して、見定めもつかないほどだった。
今しも。
趙雲の働きによって、味方の旗色は優勢と――公孫瓚の本陣では、ほっと一息していたところへ、怒濤のように、袁紹を真っ先として、田豊、顔良、文醜などが一斉に突入して来たので、公孫瓚は、馬をとばして、逃げるしか策を知らなかった。
その時。
轟然ごうぜんと、一発の狼煙のろしは、天地をゆすぶった。
碧空へきくうをかすめた一抹まつの煙を見ると、盤河の畔は、みな袁紹軍の兵旗に満ち、鼓こを鳴らし、鬨ときをあげて、公孫瓚の逃げ路を、八方からふさいだ。
彼は生きたそらもなかった。
二里――三里――無我夢中で逃げ走った。
袁紹は勢いに乗じて急追撃に移ったが、五里余りも来たかと思うと、突如、山峡やまかいの間から、一彪ぴょうの軍馬が打って出て、
「待ちうけたり袁紹。われは平原の劉玄徳りゅうげんとく――」
と、名乗る後から、
「速やかに降参せよ」
「死を取るや、降伏を選ぶや」と、関羽、張飛など、平原から夜を日に次いで駆けつけて来し輩ともがらが、一度に喚おめきかかって来た。
袁紹は、仰天して、
「すわや、例の玄徳か」と、われがちに逃げ戻り、人馬互いに踏み合って、後には、折れた旗、刀の鞘、兜かぶと、槍など、道に満ち散っていた。・・・
・・・曹操は、さらにこう奏上して、帝に誓った。
「生を国土にうけ、生を国恩に報ぜんとは、臣が日頃から抱いていた志です。今日、選ばれて、殿階でんかいの下もとに召され、大命を拝受するとは、本望これに越したことはありません。――不肖ふしょう、旗下の精兵二十万、みな臣の志を体している忠良でありますから、なにとぞ、聖慮を安んぜられ、期して万代泰平の昭日しょうじつをお待ちくださいますように」
彼の退出は、万歳万歳の声につつまれ、皇居宮院も、久ぶりに明朗になった。
――けれど一方、大きな違算に行き当って、進退に迷っていたのは、今は明らかに賊軍と呼ばれている李傕りかく、郭かくしの陣営だった。
「なに、曹操とて、大したことはあるまい。それに遠路を急ぎに急いで来たので、人馬は疲れているにちがいない」
二人とも、意見はこう一致して、ひどく戦に焦心あせっていたが、謀将の賈詡かくがひとり諫めて承知しないのである。
「いや、彼を甘く見てはいけません。なんといっても曹操は当代では異色ある驍将ぎょうしょうです。ことに以前とちがって、彼の下には近ごろ有数な文官や武将が集まっています。――如しかず、逆を捨て、順に従って、ここは盔かぶとを脱いで降人に出るしかありますまい。もし彼に当って戦いなどしたら、あまりにも己を知らな過ぎる者と、後世まで笑いをのこしましょう」
正言せいげんは苦にがい。
李傕も、郭も、
「降服をすすめるのか。戦の前に、不吉なことば。あまつさえ、己を知らんなどとは、慮外りょがいな奴」
斬ってしまえと陣外へ突きだしたが、賈詡の同僚が憐れんで懸命に命乞いをしたので、
「命だけは助けておくが、以後、無礼な口を開くとゆるさんぞ」
と、幕中に投げこんで謹慎を命じた。――が、賈詡はその夜、幕を噛み破って、どこかへ逃亡してそのまま行方をくらましてしまった。
翌朝。――賊軍は両将の意思どおり前進を開始して、曹操の軍勢へひた押しに当って行った。
李傕の甥に、李暹りせん、李別りべつという者がある。剛腕をもって常に誇っている男だ。この二人が駒をならべて、曹操の前衛をまず蹴ちらした。
「許褚きょちょ、許褚っ」
曹操は中軍にあって、
「行け、見えるか、あの敵だぞ」と、指さした。
「はっ」と、許褚は、飼い主の拳こぶしを離れた鷹のように馬煙うまけむりをたてて翔け向った。そして目ざした敵へ寄るかと見るまに、李暹りせんを一刀のもとに斬り落し、李別が驚いて逃げ奔るのを、
「待てっ」と、うしろから追いつかみ、その首をふッつとねじ切って静々と駒を返して来るのだった。
その剛胆と沈着な姿に、眼のあたりにいた敵も彼を追わなかった。許褚は、曹操の前に二つの首を並べ
「これでしたか」と、庭前の落柿でも拾って来たような顔をして云った。
曹操は、許褚の背を叩いて、
「これだこれだ。そちはまさに当世の樊噲はんかいだ。樊噲の化身けしんを見るようだ」と、賞ほめたたえた。
許褚は、元来、田夫でんぷから身を起して間もない人物なので、あまりの晴れがましさに、
「そ、そんなでも、ありません」と、顔を赭あかくしながら諸将の間へかくれこんだ。
その容子がおかしかったか、曹操は、今たけなわの戦もよそに、
「あははは、可愛い奴じゃ。ははは」と、哄笑していた。
そういう光景を見ていると、諸将は皆、自分も生涯に一度は、曹操の手で背中を叩かれてみたいという気持を起した。・・・
・・・文醜は、顔良の弟で、また河北の名将のひとりであった。
「おお、先陣を望みでたは文醜か。健気けなげ健気、そちならで誰か顔良の怨みをそそごう。すみやかに行け」
袁紹は激励して、十万の精兵をさずけた。
文醜は、即日、黄河まで出た。
曹操は、陣をひいて、河南に兵を布いている。
「敵にさしたる戦意はない、恟々きょうきょうとただ守りあるのみだ」
旌旗せいき、兵馬、十万の精鋭は、無数の船にのり分れて、江上を打渡り、黄河の対岸へ攻め上って行った。
沮授は心配した。
袁紹を諫めて、
「どうも、文醜の用兵ぶりは、危なくて見ていられません、機変も妙味もなく、ただ進めばよいと考えているようです。――いまの上策としては、まず官渡かんと(河南省・開封附近)と延津えんしん(河南省)の両方に兵をわけて、勝つに従って徐々に押しすすむに限りましょう。それなら過あやまちはありません。――それをば軽忽けいこつにも黄河を打渡って、もし味方の不利とでもなろうものなら、それこそ生きて帰るものはないでしょう」
諄々じゅんじゅんと、説いた。
人の善言をきかないほど頑迷な袁紹でもないのに、なぜかこの時は、ひどく我意をだして、
「知らないか。――兵ハ神速シンソクヲ貴タットブ――という。みだりに舌の根をうごかして、わが士気を惑わすな!」
沮授は、黙然と外へ出て、「――悠ユウタル黄河、吾レ其ソレヲ渡ラン乎カ」と、長嘆していた。
その日から、沮授は仮病けびょうをとなえて、陣務にも出てこなかった。
袁紹もすこし云い過ぎたのを心で悔いていたが、迎えを重ねるのも癪しゃくなので不問にしていた。
その間に玄徳は、
「日頃、大恩をこうむりながら、むなしく中軍におるは本望ではありません。かかる折こそ、将軍の高恩にこたえ、二つには顔良を打った関羽と称する者の実否をたしかめてみたいと思います。どうか私も、先陣に出していただきたい」と、嘆願した。
袁紹は、ゆるした。
すると、文醜ぶんしゅうが、単身、軽舸けいかに乗って、中軍へやって来た。
「先陣の大将は、それがし一名では、ご安心ならぬというお心ですか」
「そんなことはない。なぜそんな不平がましいことをいうか」
「でも玄徳は、以前から戦に弱く、弱い大将というのでは、有名な人間でしょう。それにも先陣をお命じあったのは、いかなるわけか、近ごろ御意を得ぬことで」
「いやいやひがむな。それはこうだ。玄徳の才力を試そうためにほかならん」
「では、それがしの軍勢を、四分の一ほども分け与えて、二陣に置けばよろしいでしょうな」
「むむ。それでよかろう」
袁紹は、彼のいうがままに、その配置は一任した。
こういうところにも、袁紹の性格は出ている。何事にも煮えきらないのである。戦に対して、彼自身の独創と信念がすこしもない。
ただ彼は、父祖代々の名門と遺産と自尊心だけで、将士に対していた。彼の儀容風貌ぎようふうぼうもすこぶる立派なので、平常はその欠陥けっかんも目につかないが、戦場となると、遺産や名門や風采ふうさいでは間に合わない。ここでは人間の正味そのものしかない。総帥そうすいの精神力による明断や予察が、実に、全軍の大きな運命をうごかしてくることになる。
文醜は、帰陣すると、「袁えん将軍の命であるから」と称し、四分の一弱の兵を玄徳に分けて、二陣へ退がらせてしまった。そして自身は、優勢な兵力をかかえ、第一陣ととなえて前進を開始した。・・・
・・・「なに。曹丞相みずからこれへ参るといわれるか」
「いかにも、追ッつけこれへお見えになろう」
「はて、大仰おおぎょうな」
関羽は、何思ったか、駒をひっ返して覇陵橋はりょうきょうの中ほどに突っ立った。
張遼は、それを見て、関羽が自分のことばを信じないのを知った。
彼が、狭い橋上のまン中に立ちふさがったのは、大勢を防ごうとする構えである。――道路では四面から囲まれるおそれがあるからだ。
「いや。やがて分ろう」
張遼は、あえて、彼の誤解に弁明をつとめなかった。まもなく、すぐあとから曹操はわずか六、七騎の腹心のみを従えて馳けてきた。
それは、許褚きょちょ、徐晃じょこう、于禁うきん、李典りてんなんどの錚々そうそうたる将星ばかりだったが、すべて甲冑をつけず、佩剣はいけんのほかは、ものものしい武器をたずさえず、きわめて、平和な装いを揃えていた。
関羽は、覇陵橋のうえからそれをながめて、
「――さては、われを召捕らんためではなかったか。張遼の言は、真実だったか」と、やや面の色をやわらげたが、それにしても、曹操自身が、何故にこれへ来たのか、なお怪しみは解けない容子ようすであった。
――と、曹操は。
はやくも駒を橋畔まで馳け寄せてきて、しずかに声をかけた。
「オオ羽将軍。――あわただしい、ご出立ではないか。さりとは余りに名残り惜しい。何とてそう路を急ぎ給うのか」
関羽は、聞くと、馬上のまま慇懃いんぎんに一礼して、
「その以前、それがしと丞相との間には三つのご誓約を交わしてある。いま、故主玄徳こと、河北にありと伝え聞く。――幸いに許容し給わらんことを」
「惜しいかな。君と予との交わりの日の余りにも短かりしことよ。――予も、天下の宰相たり、決して昔日せきじつの約束を違たがえんなどとは考えていない。……しかし、しかし、余りにもご滞留が短かかったような心地がする」
「鴻恩こうおん、いつの日か忘れましょう。さりながら今、故主の所在を知りつつ、安閑と無為の日を過して、丞相の温情にあまえているのも心ぐるしく……ついに去らんの意を決して、七度まで府門をお訪ねしましたが、つねに門は各ゝとざされていて、むなしく立ち帰るしかありませんでした。お暇も乞わずに、早々旅へ急いだ罪はどうかご寛容ねがいたい」
「いやいや、あらかじめ君の訪れを知って、牌はいをかけおいたのは予の科とがである。――否、自分の小心のなせる業わざと明らかに告白する。いま自身でこれへ追ってきたのは、その小心をみずから恥じたからである」
「なんの、なんの、丞相の寛濶かんかつな度量は、何ものにも、較くらべるものはありません。誰よりも、それがしが深く知っておるつもりです」
「本望である。将軍がそう感じてくれれば、それで本望というもの。別れたあとの心地も潔いさぎよい。……おお、張遼、あれを」と、彼はうしろを顧みて、かねて用意させてきた路用の金銀を、餞別せんべつとして、関羽に贈った。が関羽は、容易にうけとらなかった。
「滞府中には、あなたから充分な、お賄まかないをいただいておるし、この後といえども、流寓落魄りゅうぐうらくはく貧しきには馴れています。どうかそれは諸軍の兵にわけてやってください」
しかし曹操も、また、
「それでは、折角の予の志もすべて空しい気がされる。今さら、わずかな路銀などが、君の節操を傷つけもしまい。君自身はどんな困窮にも耐えられようが、君の仕える二夫人に衣食の困苦をかけるのはいたましい。曹操の情として忍びがたいところである。君が受けるのを潔しとしないならば、二夫人へ路用の餞別として、献じてもらいたい」と強たって云った。・・・
・・・何思ったか、関羽は馬を下り、つかつかと周倉のそばへ寄った。
「ご辺が周倉といわれるか。何故にそう卑下ひげめさるか。まず地を立ち給え」と、扶たすけ起した。
周倉は立ったが、なお、自身をふかく恥じるもののように、
「諸州大乱の折、黄巾軍に属して、しばしば戦場でおすがたを見かけたことがありました。賊乱平定ののちも、前科のため、山林にかくれて、ついに盗賊の群れに生き、いまかくの如き境遇をもって、お目にかかることは、身を恨みとも思い、天にたいしては、天の賜たまものと、有難く思います。将軍どうかこの馬骨を、お拾いください、お救い下さい」
「拾えとは? 救えとは?」
「将軍に仕えるなら、ご馬前の一走卒でも結構です。邪道を脱して、正道に生きかえりたいのでござる」
「ああ、ご辺は善性ぜんしょうの人だ」
「おねがいです。然るうえは、死すともいといません」
「が、大勢の手下は、どうするか」
「つねに皆、将軍の名を聞いて、てまえ同様お慕いしています。自分が従うてゆけば、共々、お手についてゆきたい希望にござりまする」
「待ちたまえ、ご簾中れんちゅうに伺ってみるから」
関羽は静かに車のそばへ寄って、二夫人の意をたずねてみた。
「妾わらわたちは、女子のこと、将軍の胸ひとつで……」と、甘夫人はいったが、しかしここへ来るまでの間、たとえば東嶺の廖化りょうかなどでも、山賊を従えては故主のお名にかかわろう――と、かたく断った例もあるし、世上のきこえがどんなものであろうかと、そのあとで云いたした。
「ごもっともでござる」と、関羽も同意だったので、周倉のまえに戻ってくると、気の毒そうに云い渡した。
「ご簾中には、云々しかじかのおことばでござる。――ここはひとまず、山寨へ帰って、またの時節を待ったがよかろう」
「至極な仰せ。――身は緑林りょくりんにおき、才は匹夫ひっぷ、押して申しかねますなれど、きょうの日は、てまえにとって、実に、千載ざいの一遇ぐうといいましょうか、盲亀もうきの浮木ふぼくというべきか、逸しがたい機会です。もはや一日も、悪業の中には生きていられません」
周倉は、哭なかんばかりにいった。真情をもって訴えれば、人をうごかせないこともあるまいと、縷々るる、心の底から吐いてすがった。
「……どうか、どうか、てまえを人間にして下さい。いま将軍を仰ぐこと、井の底から天日を仰ぐにも似ております。この一筋のご縁を切られたら、ふたたび明らかな人道に生きかえるときが、あるや否やおぼつかなく思われます。……もし大勢の手下どもを引き具してゆくことが、世上にはばかられての御意なれば、手下の者は、しばらく裴元紹はいげんしょうにあずけ、この身ひとつ、馬の口輪をとらせて、おつれ願いとう存じまする」
関羽は、彼の誠意にうごかされて、ふたたび車の内へ伺った。
「あわれな者、かなえてつかわすがよい」
夫人のゆるしに、関羽もよろこび、周倉はなおのこと、欣喜雀躍きんきじゃくやくして、
「ああ、有難い!」と、天日へさけんだほどだった。
だが、裴元紹は、周倉が行くなら自分にも扈従こじゅうをゆるされたいと、彼につづいて、関羽に訴えた。
周倉は、彼をさとして、
「おぬしが手下を預かってくれなければ、みなちりぢりに里へおりて、どんな悪行をかさねるかもしれない。他日かならず誘うから、しばらく俺のため山に留まっていてくれ」
やむなく裴元紹は手下をまとめて、山寨へひきあげた。
周倉は本望をとげて、山また山の道を、身を粉にして先に立ち、車を推しすすめて行った。
ほどなく、目的の汝南に近い境まで来た。
その日、一行はふと、彼方の嶮しい山の中腹に、一つの古城を見出した。白雲はその望楼や石門をゆるやかにめぐっていた。・・・
・・・曹操は審配の計はかりごとを観破していたので、数万の飢民が城門から押出されてくると、すぐ大兵を諸所に伏せて、飢民のあとをついて奔河ほんがの如く出てきた城兵を直ちに挟撃してこれに完全なる殲滅せんめつを加えた。
城頭では合図の篝かがりを、天も焦がすばかり赤々とあげていたが、城門を出た兵はたちまち壕ほりを埋める死骸となり、生けるものは、狼狽をきわめて城中へ溢れ返ってきた。
「今だぞ。続けや」
曹操は、その図に乗って、逃げる城兵と一緒に、城門の内へはいってしまった。彼はその際盔かぶとのいただきへ、二条ふたすじまで矢をうけて一度は落馬したが、すぐとび乗って、物ともせず将士の先頭に立った。
しかし、審配は毅然として、防禦の采配を揮ふるった。ために、外城の門は陥ちたが内城の壁門は依然として固く、さしもの曹操をして、
「まだかつて、自分もこんな難攻の城に当ったことがない」と嘆ぜしめた。
「手をかえよう」
彼は、転機に敏さとい。――頭を壁にぶつけて押しくらするような愚をさけた。
一夜、彼の兵はまったく方向を転じて、滏水ふすいの境にある陽平の袁尚を攻めた。
まず弁才の士をやって、袁尚の先鋒たる馬延ばえんと張ちょうぎのふたりを味方へ誘引した。二将が裏切ったので、袁尚はひとたまりもなく敗走した。
濫口らんこうまで退去して、ここの要害に拠よろうと布陣していると、四方から焼打ちをうけて、またも進退きわまってしまったので、袁尚はついに、降伏して出た。曹操は快くゆるして、
「明日、会おう」と、全軍の武装を解かせ、降人の主従を一ヵ所に止めさせておいたが、その晩、徐晃と張遼の二将を向けて、袁尚を殺害してしまおうとした。
袁尚は、間一髪かんいっぱつの危機を辛くものがれて、中山ちゅうざん(河北省保定)方面へ逃げ走った。その時印綬いんじゅや旗幟はたじるしまで捨てて行ったので、曹操の将士からよい物笑いにされた。
一方を片づけると、大挙して、曹操はふたたび城攻めにかかった。こんどは内城の周囲四十里にわたって漳河しょうがの水を引き、城中を水攻めにした。
さきに袁譚の使いとして、曹操のところに止まっていた辛毘しんびは、袁尚の捨てて行った衣服、印綬、旗幟などを、槍の先にあげて、
「城中の人々よ、無益な抗戦はやめて、はやく降伏し給え」と、陣前に立ってすすめた。
審配は、それに答えて、城中へ人質としておいた辛毘の妻子一族四十人ほどを、櫓に引きだして首を斬り、一々それを投げ返して云った。
「汝、この国の恩を忘れたか」
辛毘は悶絶して、兵に抱えられたまま、後陣へひき退がった。
けれど彼は、その無念をはらすため、審配の甥にあたる審栄しんえいへ、矢文を送って、首尾よく内応の約をむすび、とうとう西門の一部を、審栄の手で中から開かせることに成功した。
冀州の本城は、ここに破れた。滔々とうとう、濁水だくすいをこえて、曹軍は内城にふみ入った。審配は最後まで善戦したが力尽き捕えられた。
曹操は、彼に苦しめられたことの大きかっただけに、彼の人物を惜しんで、
「予に仕えぬか」と、いった。
すると辛毘が、この者のために、自分の妻子一族四十何名が殺されている。ねがわくは、この者の首を自分に与えられたいと側からいった。
審配は、聞くと、その二人に対して、毅然とこう答えた。
「生きては袁氏えんしの臣、死しては袁氏の鬼たらんこそ、自分の本望である。阿諛軽薄あゆけいはくの辛毘ごときと同視されるさえけがらわしい。すみやかに斬れッ」
云い放ちながら、歩むこと七歩――曹操の眼くばせに、刑刀を払った武士が飛びかかる。
「待て!」と一喝し、静かに、袁氏の廟地びょうちを拝して後、従容しょうようと首を授けた。・・・
・・・主君の夫人たりまた自分の妹でもある彼女へ、蔡瑁さいぼうはこう囁いた。
「御身からそれとなく諫めたほうがよかろう。此方から申し上げれば、表立って、自然、角かども立つからな」
蔡夫人はうなずいた。
その後、良人の劉表と、ただ二人きりの折、彼女は女性特有な細かい観察と、針をふくむ綿のような言葉で、
「すこしはご要心遊ばして下さいませ。あなたはあなたご自身のお心で、世間の者もみな潔白だと思って、すぐご信用になりますけれど、どうして、玄徳などという人には、油断も隙すきもありはしません。――あの人は以前沓くつ売りだったというじゃありませんか。義弟おとうとの張飛は、ついこの間まで、汝南の古城に籠って強盗をしていたというし。……何だか、あの人がご城下へきてから、とても藩中の風儀が悪くなったような気がします。ご譜代の家臣たちも、みな胸を傷いためているそうでございますし」と、有ることないこと、さまざまに誹そしった。
それをみな真にうけるほど、劉表も妻に甘くはないが、なんとなく玄徳に対して、一抹の不安を持ったことは否めない。
閲兵えっぺいのため、城外の馬場へ出た日である。劉表は、ふと、玄徳の乗っている駿壮の毛艶とそのたくましい馬格を見て、
「すばらしい逸足ではないか」と、嘆賞してやまなかった。
玄徳は、鞍からおりて、
「そんなにお気に召したものなら、献上いたしましょう」と自ら口輪をとって進めた。
劉表はよろこんで受けた。すぐ乗換えて城中へ帰ってくると、門側に立っていた蒯越かいえつという者が、
「おやッ、的盧てきろだ」と、つぶやいた。
劉表が聞きとがめて、
「蒯越かいえつ、なにをおどろくか」と、たずねた。蒯越は拝伏して、理由をのべた。
「私の兄は、馬相を見ることの名人でした。ですから自然、馬相について教わっていましたが、四本の脚が、みな白いのを四白といい、これも凶馬とされていますが、額に白点のある的盧てきろは、もっと凶わるいといわれています。それを乗用する者に、必ず祟たたりをなすと古来から忌まれているもので、ために、張虎もこの馬に乗って討死しました」
「……ふウむ?」
劉表はいやな顔してそのまま内門深く通ってしまった。
次の日。酒宴の席で、彼は玄徳に杯を与えながらいった。
「きのうは、心にもない無心をした。あの名馬は、ご辺に返そう。城中の厩うまやに置かれるよりは、君の如き雄材に、常に愛用されていたほうが、馬もきっと本望だろうから」
と、さり気なく、心の負担を返してから、彼はまた、
「――時にご辺も、館にいては市街に住み、出ては城中の宴に列し、こう無事退屈の中におられては、自然、武芸の志も薄らごう。わが河南の襄陽じょうようのそばに新野しんや(河南省かなんしょう・新野しんや)という所がある。ここには武具兵糧も籠めてあるから、ひとつ一族部下をつれて、新野城に行ってはどうか。あの地方をひとつ守ってくれんか」
もちろん否やはない。玄徳は即座に命を拝して、数日の後、新野へ旅立った。
劉表は城外まで見送った。一行は荊州の城下に別れを告げ、やがて数里を来ると、ひとりの高士が彼の馬前に長揖ちょうゆうして告げた。
「先頃城内で、蒯越かいえつが劉表に説いていました。――的盧てきろは凶馬と――乗る人に祟たたりをなすと。――どうかそのご乗馬はお換えください」
何びとか? と見ると、それは劉表の幕賓ばくひんで、伊籍いせき字あざなを機伯きはくという者だった。
玄徳は馬をおりて、
「先生、おことばは謝しますが、憂いはおやめ下さい。――死生命アリ、富貴天ニアリ――何の馬一匹が私の生涯をさまたげ得ましょう」と、手を取って笑い、爽さわやかに別れを告げて、ふたたび新野の道へ向った。・・・
・・・その朝、諸葛瑾しょかつきんはひとり駒に乗って、街中にある弟孔明の客館を訪ねていた。
急に周瑜しゅうゆから密命をうけて、孔明を呉の臣下に加えるべく説きつけに行ったのである。
「おう、よくお越し下された。いつぞや城中では、心ならず、情を抑えておりましたが、さてもその後は、お恙つつがもなく」と孔明は、兄の手をとって、室へ迎え入れると、懐かしさ、うれしさ、また幼時の思い出などに、ただ涙が先立ってしまった。
諸葛瑾も共に瞼まぶたをうるませて、骨肉相擁あいようしたまま、しばしは言葉もなかったが、やがて心をとり直して云った。
「弟。おまえは、古人いにしえの伯夷はくい叔斉しゅくせいをどう思うね」
「え。伯夷と叔斉ですか」
孔明は、兄の唐突な質問をあやしむと同時に、さてはと、心にうなずいていた。
瑾は、熱情をこめて、弟に訓おしえた。
「伯夷と叔斉の兄弟ふたりは、たがいに位を譲って国をのがれ、後、周の武王を諫めて用いられないと、首陽山にかくれて、生涯周の粟ぞくを喰わなかった。そして餓死してしまったが、名はいまに至るまでのこっている。思うに、おまえと私とは、骨肉の兄弟でありながら、幼少早くも郷土とわかれ、生おい長じてはべつべつな主君に仕え、年久しく会いもせず、たまたま、相見たと思えば、公おおやけの使節たり、また一方の臣下たる立場から、親しく語ることもできないなんて……伯夷叔斉の美しい兄弟仲を思うにつけ、人の子として恥かしいことではあるまいか」
「いえ、兄上。それはいささか愚弟の考えとはちがいます。家兄の仰っしゃることは、人道の義でありましょう。また情でございましょう。けれど、義と情とが人倫の全部ではありません、忠、孝、このふたつは、より重いかと存ぜられます」
「もとより、忠、孝、義のひとつを欠いても、完まったき人臣の道とはいえないが、兄弟一体となって和すは、そもそも、孝であり、また忠節の本ではないか」
「否とよ、兄上。あなたも私もみなこれ漢朝の人たる父母の子ではありませんか。私の仕えている劉予州の君は、正しく、中山靖王ちゅうざんせいおうの後、漢の景帝の玄孫にあたらせられるお方です。もしあなたが志をひるがえして、わが劉皇叔りゅうこうしゅくに仕官されるなら、父母は地下において、どんなにご本望に思われるか知れますまい。しかも、そのことはまた、忠の根本とも合致するでしょう。どうか、末節の小義にとらわれず、忠孝の大本にかえって下さい。われわれ兄弟の父母の墳つかは、みな江北にあって江南にはありません。他日、朝廷の逆臣を排し、劉玄徳の君をして、真に漢朝を守り立てしめ、そして兄弟打揃うて故郷の父母の墳を清掃することができたら、人生の至楽はいかばかりでしょう。――よもや世人も、その時は、諸葛の兄弟は伯夷叔斉に対して恥じるものだともいいますまい」
瑾は、一言もなかった。自分から云おうとしたことを、逆にみな弟から云いだされて、かえって、自分が説破されそうなかたちになった。
その時、江こうの畔のほうで、遠く出陣の金鼓や螺声らせいが鳴りとどろいていた。孔明は、黙然とさしうつ向いてしまった兄の心を察して、
「あれはもう呉の大軍が出舷する合図ではありませんか。家兄も呉の一将、大事な勢揃いに遅れてはなりますまい。また折もあれば悠々話しましょう。いざ、わたくしにおかまいなく、ご出陣遊ばしてください」と、促した。
「では、また会おう」
ついに、胸中のことは、一言も云いださずに、諸葛瑾は外へ出てしまった。そして心のうちに、
「ああ、偉い弟」と、よろこばしくも思い、また苦しくも思った。
周瑜は、諸葛瑾の口からその事の不成立を聞くと、にがにがしげに、瑾へ向って、
「では、足下も、やがて孔明と共に、江北へ帰る気ではないか」と、露骨にたずねた。
瑾は、あわてて、
「何で呉君の厚恩を裏切りましょう。そんなお疑いをこうむるとは心外です」と、いった。
周瑜は冗談だよ、と笑い消した。しかし孔明に対する害意は次第に強固になっていた。・・・
・・・「その奇策を行うには、呉からも曹操の陣へ、詐いつわりの降人を送りこむ必要がある。……が、恨むらくは、その人がありません。適当な人がない」
周瑜しゅうゆが嘆息をもらすと、
「なぜ、ないといわるるか」
黄蓋こうがいは、せき込むように、身をすすめて、詰問なじった。
「呉国、建って以来、ここ三代。それしきのお役に立つ人もないとは、周都督のお眼がほそい。――ここに、不肖ながら、黄蓋もおるつもりでござるに」
「えっ。……ではご老台が、進んでその難におもむいて下さるとか」
「国祖孫堅将軍以来、重恩をこうむって、いま三代の君に仕え奉るこの老骨。国の為とあれば、たとい肝脳かんのう地に塗まみるとも、恨みはない。いや本望至極でござる」
「あなたにそのご勇気があれば、わが国の大幸というものです。……では」
周瑜は、あたりを見まわした。陣中寂せきとして、ここの一穂すいの燈火ともしびのほか揺らぐ人影もなかった。
何事か、二人はしめし合わせて、暁に立ち別れた。周瑜は、一睡してさめると、直ちに、中軍に立ち出で、鼓手こしゅに命じて、諸人を集めた。
孔明も来て、陣座のかたわらに床几しょうぎをおく。周瑜しゅうゆは、命を下して、
「近く、敵に向って、わが呉はいよいよ大行動に移るであろう。諸部隊、諸将は、よろしくその心得あって、各兵船に、約三ヵ月間の兵糧を積みこんでおけ」と命じた。
すると、先手の部隊から、大将黄蓋こうがいがすすみ出ていった。
「無用なご命令。いま、幾月の兵糧を用意せよと仰せられたか」
「三月分と申したのだが、それがどうした」
「三月はおろか、たとえ三十ヵ月の兵糧を積んだところで無駄な業わざ、いかでか、曹操の大軍を破り得よう」
周瑜は、勃然ぼつぜんと怒って、
「やあ、まだ一戦も交じえぬに、味方の行動に先だって不吉なことばを! 武士ども、その老いぼれを引っくくれ」
黄蓋も眦まなじりを裂いて、
「だまれ周瑜。汝、日頃より君寵をかさに着て、しかも今日まで、碌々ろくろくと無策にありながら、われら三代の宿将にも議を諮はからず、必勝の的あてもなき命をにわかに発したとて、何で唯々諾々いいだくだくと服従できようか。――いたずらに兵を損ずるのみだわ」
「ええ、いわしておけば、みだりに舌をうごかして、兵の心を惑まどわす痴しれ者め。誓って、その首を刎ね落さずんば、何を以て、軍律を正し得ようか。――これっ、なぜその老いぼれに物をいわしておくか」
「ひかえろ、周瑜、汝ごときは、せいぜい、先代以来の臣ではないか。国祖以来三代の功臣たる此方に、縄を打てるものなら打ってみよ」
「斬れっ。――彼奴きゃつを!」
面に朱をそそいで、周瑜の指は、閻王えんおうが亡者もうじゃを指さすように、左右へ叱咤した。
「あっ、お待ち下さい」
一方の大将甘寧が、それへ転まろび出て、黄蓋に代って罪を詫びた。
しかし黄蓋も黙らないし、周瑜の怒りもしずまらなかった。果ては、甘寧まで、その間から刎ね飛ばされてしまう。
「すわ、一大事」と諸大将も、今はみな色を失って、こもごもに仲裁に立った。いやともかく大都督周瑜に対して抗弁はよろしくないと、諸人地に額ひたいをすりつけて、
「国の功臣、それに年も年、なにとぞ憐みを垂れたまえ」と、哀願した。
周瑜はなお肩で大息をついていたが、
「人々がそれほどまでに申すなれば、一時、命はあずけておく。しかし軍の大法は正さずにはおけん。百杖じょうの刑を加えて、陣中に謹慎を申しつける」と、云い放った。
即ち、獄卒に命じて杖じょう百打だを加えることになった。黄蓋はたちまち衣裳甲冑かっちゅうをはぎとられ、仮借かしゃくもなく、棍棒を振りあげてのぞむ獄卒の眼の下に、無残、老い細った肉体を、しかも衆人監視の中に曝さらされた。・・・
・・・壕におちいって死ぬ者、矢にあたって斃れる者など、城の四門で同様な混乱におとされた呉軍の損害は、実におびただしい数にのぼった。
「退鉦ひきがねっ。退鉦をっ」と、程普ていふはあわてて、総退却を命じていた。
そして、南郡の城から、思いきって遠く後退すると、早速、
「何よりは、都督のお生命いのちこそ……」と、軍医を呼んで、中軍の帳の内に横たえてある周瑜の矢瘡やきずを手当させた。
「ああ、これはご苦痛でしょう。鏃やじりは左の肩の骨を割って中に喰いこんでいます」
医者はむずかしそうな顔をしかめて、患部をながめていたが、傍らの弟子に向って、
「鑿のみと木槌きづちをよこせ」と、いった。
程普が驚いて、
「こらこら、何をするのだ」と、怪しんで訊くと、医者は、患者の瘡口きずぐちを指さして、
「ごらんなさい。素人しろうとが下手な矢の抜き方をしたものだから、矢の根本から折れてしまって、鏃が骨の中に残っているではありませんか。こんなのが一番われわれ外科の苦手にがてで、荒療治をいたすよりほか方法はありません」と、いった。
「ううむ、そうか」と、ぜひなく唾つばをのんで見ていると、医者は鑿のみと槌つちをもって、かんかんと骨を鑿ほりはじめた。
「痛い痛いっ。たまらん。やめてくれ」
周瑜は、泣かんばかり、悲鳴を発した。医者は、弟子の男と、程普に向って、
「こう、暴れられては、手術ができません。手脚を抑えていてくれ」と、その間も、こんこん木槌を振っていた。
荒療治の結果はよかった。苦熱は数日のうちに癒いえ、周瑜はたちまち病床から出たがった。
「まだまだ、そう軽々しく思ってはいけません。何しろ鏃やじりには毒が塗ってありますからな。なにかに怒って、気を激すと、かならず骨傷と肉のあいだから再び病熱が発しますよ」
医者の注意を守って、程普はかたく周瑜を止めて中軍から出さなかった。また諸軍に下知して、「いかに敵が挑んできても、固く陣門を閉ざして、相手に出るな」と、厳戒した。
城兵は以来ふたたび城中に戻って、いよいよ勢いを示し、中でも曹仁の部下牛金は、たびたびここへ襲せて来ては、
「どうした呉の輩やから。この陣中に人はないのか。中軍は空家あきやか。いかに敗北したからとて、いつまで、ベソをかいているのだ。いさぎよく降伏するなり、然らずんば、旗を捲いて退散しろ」と、さんざんに悪口を吐きちらした。
けれど、呉陣は、まるでお通夜のようにひッそりしていた。牛金はまた日をあらためてやって来た。そして、前にもまさる悪口雑言を浴びせたが、
「静かに。静かに……」と、程普は、ただ周瑜の病気の再発することばかり怖れていた。
牛金の来訪は依然やまない。来ては辱はずかしめること七回に及んだ。程普はひとまず兵を収めて、呉の国元へ帰り、周瑜の瘡きずが完全に癒ってから出直そうという意見を出したが、諸将の衆評はまだそれに一致を見なかった。
かかる間に、城兵は、いよいよ足もとを見すかして、やがては曹仁自身が大軍をひきいて襲よせてくるようになった。当然、いくら秘しても周瑜の耳に聞えてくる。周瑜もさすがに武人、がばと病床に身を起き直して、
「あの喊ときの声はなんだ」と、訊ねた。
程普が、答えて、
「味方の調練です」というと、なお耳をすましていた周瑜は、俄然、起ち上がって、
「鎧よろいを出せ。剣をよこせ」と、罵ののしった。そして、「大丈夫たる者が、国を出てきたからには屍かばねを馬の革かわにつつんで本国に帰るこそ本望なのだ。これしきの負傷に、無用な気づかいはしてくれるな」と、云い放ち、遂に帳外へ躍り出してしまった。・・・
・・・このところ髀肉ひにくの嘆たんにたえないのは張飛であった。常に錦甲きんこうを身に飾って、玄徳や孔明のそばに立ち、お行儀のよい並び大名としているには適しない彼であった。
「趙雲すら桂陽城を奪って、すでに一功を立てたのに、先輩たるそれがしに、欠伸あくびをさせておく法はありますまい」と、変に孔明へからんで、次の武陵城攻略には、ぜひ自分を――と暗に望んだ。
「しかし、もしご辺に、不覚があった場合は」
孔明が、わざと危ぶむが如く、念を押すと、
「軍法にかけて、この首を、今後の見せしめに献じよう」
張飛は、憤然、誓紙を書いて示した。
「さらば行け」と、玄徳は彼に兵三千をさずけた。張飛は勇躍して、武陵へ馳せ向った。
「大漢の皇叔玄徳の名と仁義は、もうこの辺まで聞えています。また張飛は、天下の虎将。――その軍に向って抗戦は無意味でしょう」
こういって、太守金旋きんせんをいさめたのは、城将のひとり鞏志きょうしという者だった。
「裏切者。さては敵に内通の心を抱いているな」
金旋は怒って、鞏志の首を斬ろうとした。
人々が止めるので、その一命だけは助けてやったが、彼自身は即座に戦備をととのえて、城外二十里の外に防禦の陣を布しいた。
張飛の戦法はほとんど暴力一方の驀進ばくしんだった。しかも無策な金旋はそれに蹴ちらされて、さんざんに敗走した。
そして城中へ逃げてきたところ、楼門の上から鞏志が弓に矢をつがえて、
「城内の民衆は、みな自分の説に同和して、すでに玄徳へ降参のことにきまった」と、呶鳴りながら、びゅうんと弦つるを反そらした。
矢は、金旋の面にあたった。鞏志は、首を奪って、城門をひらき、張飛を迎え入れて、元来、玄徳を景慕していた由を訴えた。
張飛は、軍令を掲げて、諸民を安んじ、また鞏志に書簡を持たせて、桂陽にいる玄徳のもとへ、その報告にやった。
玄徳は、鞏志を、武陵の太守に任じ、ここに三郡一括かつの軍事もひとまず完遂したので、荊州に留守をしている関羽のところへもその由を報らせて、歓びをわけてやった。
すると、関羽からすぐ、返書がきて、
(張飛も趙雲も、おのおの一かどの働きをして実にうらやましく思います。せめて関羽にも、長沙ちょうさを攻略せよとの恩命があらば、どんなに武人として本望か知れませんが……)
などと、独り留守城にいる無聊ぶりょうを綿々と訴えてきた。
玄徳はすぐ、張飛を荊州へ返して、関羽と交代させた。そしてわずか五百騎の兵を貸して、
「これで長沙へ行け」と、関羽の希望にこたえた。
関羽は、もとより人数の多寡たかなど問うていなかった。即日、長沙へ向うべく準備していると、孔明が、
「羽将軍には注意するまでもないと思うが、戦うにはまず敵の実質を知ることが肝要です。長沙の太守韓玄かんげんは取るにも足らん人物だが、久しく彼を扶たすけ、よく長沙を今日まで経営して来た良将がひとりおる。その人はもう年六十に近く、髪も髯ひげも真っ白になっているだろう。しかし、戦場に立てば、よく大刀を使い、鉄弓を引き、万夫不当の勇がある。すなわち湖南の領袖りょうしゅう、黄忠こうちゅうという――。ゆえに決して軽々しくは戦えない。もしご辺がそれに向うなれば、さらに、三千騎をわが君に仰いで、大兵を以て当らなければ無理であろう」と告げた。
しかし、何と思ったか、関羽は孔明の忠告も、耳に聞いただけで、加勢も仰がず、たった五百騎を連れてその夜のうちに立ってしまった。
孔明は、その後で、玄徳へ対して、こう注意した。
「関羽の心裡には、まだ赤壁以来の感傷が残っています。悪くすると黄忠のために討死するやも知れません。それに小勢すぎます。わが君自ら後詰ごづめして、ひそかに力を添えてやる必要がありましょう」・・・
・・・ ほどなく玄徳は、荊州へ引揚げた。
中漢九郡のうち、すでに四郡は彼の手に収められた。ここに玄徳の地盤はまだ狭小ながら初めて一礎石を据えたものといっていい。
魏ぎの夏侯惇かこうじゅんは、襄陽から追い落されて、樊城はんじょうへ引籠った。
彼についてそこへ行かずに、身を転じて、玄徳の勢力に附属して来る者も多かった。
玄徳はまた北岸の要地油江口を公安と改めて、一城を築き、ここに軍需品や金銀を貯えて、北面魏をうかがい、南面呉にそなえた。風ふうを慕って、たちまち、商賈しょうこや漁夫の家が市をなし、また四方から賢士剣客の集まって来るもの日をおうて殖ふえていた。
一方。
呉の主力は、呉侯孫権の直属として、赤壁の大勝後は、その余勢をもって、合淝がっぴの城(安徽省あんきしょう・肥)を攻めていた。
ここの守りには魏の張遼ちょうりょうがたてこもっていた。さきに曹操が都へ帰るに当って、特に、張遼へ託して行った重要地の一つである。
赤壁に大捷たいしょうした呉軍も、合淝を攻めにかかってからは、いっこう振わなかった。
それもそのはず張遼の副将にはなお李典、楽進という魏でも有名な猛将が城兵を督していたのである。寄手は連攻連襲をこころみたが、不落の合淝に当り疲れて城外五十里を遠巻きにし、
「そのうちに食糧がなくなるだろう」と空だのみに恃たのんでいた。
ところへ、魯粛ろしゅくが来た。
孫権が、馬を下りて、陣門に出迎えたので、
「粛公は大へんな敬いをうけたものだ」と、諸兵みな驚いた。
営中に入ると、孫権は、魯粛に向って、意識的にいった。
「きょうは特に馬を下りて出迎えの礼をとった。この好遇は、いささか足下のなした赤壁の大功を顕あらわすに足りたろうか」
魯粛は、首を振った。
「いうに足りません。その程度の表彰では」
孫権は、眼をみはって、
「では、どれ程に優遇したら、そちの功を顕あらわすに足りるというのか」
「さればです」と、魯粛がいった。
「わが君が、一日も早く、九州のことごとくを統すべ治めて、呉の帝業を万代ばんだいにし給い、そのとき安車蒲輪あんしゃほりんをもって、それがしをお迎え下されたら、魯粛の本望も初めて成れりというものでしょう」
「そうか。いかにも!」
二人は手を打って、快笑した。
けれど魯粛はその後で、せっかく上機嫌な呉侯に、ちといやな報告もしなければならなかった。
それは、周瑜しゅうゆが金創きんそうの重態で仆れたことと、荊州、襄陽、南郡の三要地を、玄徳に取られたことの二つだった。
「ふふむ……周瑜の容態は、再起もおぼつかない程か」
「いや、豪気な都督のことですから、間もなく、以前のお元気で恢復されることとは思いますが……」
話しているところへ、今、合淝の城中から一書が来ましたと、一人の大将が、うやうやしく、呉侯の前に書簡をおいて行った。ひらいてみると、張遼からの決戦状であった。
呉の大軍は蠅はえか蛾がか。いったいこの城を取巻いて、何を求めているのであるか。
文辞は無礼を極め、甚だしく呉侯を辱はずかしめたものだった。孫権は、赫怒して、
「よしっ、その分ならば、わが真面目しんめんぼくを見せてくれよう」と、翌早朝に陣門をひらいて、甲鎧こうがい燦爛さんらんと、自身先に立って旭あさひの下を打って出た。
城からも、張遼をまん中に、李典、楽進など主なる武者は、総出となって押しよせて来た。
「呉侯、見参っ」
と、張遼は一本槍に、その巨物おおものを目がけて行った。すると、馬蹄に土を飛ばして、
「下司げすっ、ひかえろ」と、一大喝だいかつしながら立ちふさがった者がある。呉の大将太史慈たいしじであった。・・・
・・・などという錚々たる人物があるし、なお、呉懿ごい、費観ひかん、彭義ほうぎ、卓膺たくよう、費詩、李厳、呉蘭、雷同、張翼、李恢りかい、呂義りょぎ、霍峻かくしゅん、ケ芝とうし、孟達、楊洪あたりの人々でも、それぞれ有能な人材であり、まさに多士済々の盛観であった。
「自分が国を持ったからには、それらの将軍たちにも、田宅でんたくをわけ与えて、その妻子にまで、安住を得させたいが」
ある時、玄徳がこう意中をもらすと、趙雲はそれに反対した。
「いけません、いけません。むかし秦しんの良臣は、匈奴きょうどの滅びざるうちは家を造らず、といいました。蜀外一歩出れば、まだ凶乱を嘯うそぶく徒、諸州にみちている今です。何ぞわれら武門、いささかの功に安んじて、今、田宅を求めましょうか。天下の事ことごとく定まる後、初めて郷土に一炉ろを持ち、百姓とともに耕すこそ身の楽しみ、また本望でなければなりません」
「善い哉かな、趙雲の言」と、孔明もともに云った。
「蜀の民は、久しい悪政と、兵革へいかくの乱に、ひどく疲れています。いま田宅を彼らに返し、業を励ませば、たちまち賦税ふぜいも軽しとし、国のために、いや国のためとも思わず、ただ孜々ししとして稼ぎ働くことを無上の安楽といたしましょう。その帰結が国を強うすること申すまでもありません」
なおこの前後、孔明は、政堂に籠って、新しき蜀の憲法、民法、刑法を起算していた。
その条文は、極めて厳であったので、法正が畏おそる畏る忠告した。
「せっかく蜀の民は今、仁政をよろこんでいる所ですから、漢中の皇祖のように法は三章に約し、寛大になすってはいかがですか」
孔明は笑って教えた。
「漢王は、その前時代の、秦の商鞅しょうおうが、苛政、暴政を布しいて、民を苦しめたあとなので、いわゆる三章の寛仁な法をもって、まず民心を馴ずませたのだ。――前蜀の劉璋は、暗弱、紊政ぶんせい。ほとんど威もなく、法もなく、道もなく、かえって良民のあいだには、国家にきびしい法律と威厳のないことが、淋しくもあり悩みでもあったところだ。民が峻厳を求めるとき、為政者が甘言をなすほど愚なる政治はない。仁政と思うは間違いである」・・・
・・・糜芳と傅士仁のふたりを脚下に見ると、帝玄徳は怒龍どりゅうのごとき激色げきしょくをなして罵った。
「見るも浅ましき人非人にんぴにんども、なんの面目あってこれへ来たか。ひとたび窮すれば、関羽を呉へ売り、ふたたび窮すれば、呉を裏切って馬忠の首を咥くわえ来る。その心事の醜悪、行為の卑劣、犬畜生というもなお足らぬ。もし汝らをゆるさば百世の武門を廃すたらし、世の節義は地に饐すえるであろう。さらに関羽の霊位に対しても、断じて生かしておくことはできない。――関興関興、この仇二人は汝に授ける。首を刎ねて、父の霊を祭るがよい」
関興は、雀躍こおどりして、
「ありがとうございまする」と両手にふたりの襟がみをつかんで、関羽の霊前まで引きずって行き、首を斬ってそこに供えた。
本望をとげた彼のよろこびに引き代えて、張苞は、ひとりしおれていた。帝はその心事を察して、
「まだ汝の亡父ちちを慰めてやれぬが、やがて呉の国に討入り、建業城下に迫る日は、必ず張飛の仇もそそがずにはおかぬ。張苞よ、悲しむなかれ」と、いたわった。
ところがこの頃すでに、その仇なる范疆はんきょう、張達の両人は、身を鎖で縛いましめられ、檻車かんしゃに乗せられて、呉の建業から差し立てられ、道中駅路駅路で庶民の見世物に曝さらされていたのであった。
なぜかというに。
相次ぐ敗戦の悲報で、呉の建業では、常に保守派とみられる一部の重臣側から、急激に和平論が擡頭していた。この一派の意見としては、
(もともと、蜀は呉と結びたがっていたものだ。それが今日のように国を挙げて敵愾心てきがいしんを奮い起して攻めてきたのは呂蒙りょもう、潘璋、傅士仁、糜芳などに対する憤怒で、今はそれらの者もみな亡んでしまった。残っているのは、范疆はんきょう、張達の二名に過ぎない。しかしあんな人物のために、呉がおびただしい代償を払う理由などは毫ごうもない。早々召捕って、張飛の首と共に、蜀の陣へ返してやるべきである。――そして荊州の地も玄徳へもどしてやり、呉妹ごまい夫人ももとの室へお送りあるように、表ひょうを以て和を求めたなら、蜀軍はたちまち旗を収おさめ、これ以上、呉が天下に威信を墜おとすことはないであろう。現状の推移にまかせていたら、ついにこの建業の城下に蜀の旗を見るような重大事に立ちいたるやも測り知れぬ)
というのであって、それには勿論、主戦派の猛烈な論争も火の如く駁ばくされたが、結局、一日戦えば一日呉の地が危なく見えてきたので、孫権もそれに同意する結果となってしまったのである。
で、程秉ていへいを使者として、書簡をささげて、猇亭こていへいたらしめた。すなわち彼は、檻車の中に囚えてきた范疆、張達の二醜しゅうに添うるに、なお沈香の銘木で作った匣はこに塩浸しおびたしとした張飛の首を封じ、併せて、蜀帝玄徳の前にさし出した。
玄徳はこれを収めた。
そして、二醜しゅうは、
「孝子へ与えん」と、張苞の手にまかせた。
張苞は、額をたたいて、
「これぞ、天の与えか」と、躍りかかって、檻車の鉄扉を開き、ひとりひとりつかみ出して、猛獣を屠殺とさつするごとく斬り殺した。
そして、二つの首を、父の霊に供えて、おいおい声をあげて哭いた。呉の使いの程秉はそれをながめておぞ気をふるった。
玄徳は沈黙している。そこで程秉が、
「主君の仰せには、呉妹君をもとの室へお返しして、ふたたび長く好誼よしみをむすびたいと、切にご希望しておられる次第ですが」と回答をうながした。
玄徳は、明瞭に、その媚態外交を、一蹴した。そして、
「朕のねがいはこれしきの事にとどまらん。呉を討ち、魏を平げ、天下ひとつの楽土を現じ、光武の中興に倣ならわんとするものである」と明らかに宣した。・・・
・・・鄂煥がっかんときては彼よりももっと神経の粗あらいほうである。たちまち牙きばをむいて憤慨した。
「こういう証拠のある以上、何も迷っていることはない。なお万一を顧慮されるなら、陣中に一宴を設けて、雍闓を試しに招いてごらんなさい。彼が公明正大ならやって来ようし、邪心があれば二の足を踏んで来ないだろう」
なお、第二条として、こうも勧めた。
「もし来なかったら、彼奴きゃつの二心は明白ですから、ご自身、こよいの夜半よなかに、不意討ちをおかけなさい。てまえは別軍を引いて、陣の後ろを襲いますから」
高定はついに意を決してその通り運んだ。案のじょう雍闓は軍議を口実にしてやって来ない。
高定は夜襲を決行した。これは雍闓にとってまったく寝耳に水である。おまけに雍闓の部下は、先頃から何となく怠戦気分であった上、中には高定の兵と一緒になって、その潰乱かいらんを内部から助けた者も出たため、雍闓は一戦の支えも立たず、ただ一騎で遁走を企てた。
裏門へかかった鄂煥は、たちまち得意の戟げきを舞わして、一撃の下に彼の首を挙げてしまった。
夜明けと共に、高定は首を携えて、孔明の陣へ降った。孔明は首を実検すると、急に左右の武士を振り向いて、
「この曲者しれものを斬り捨てろ」
高定は仰天した。かつ哀号し、かつ恨んで云った。
「丞相はこの合戦中、折あるごとに、不肖高定を惜しんで下さるとのことに、深く恩に感じ、いま降参を誓って参ったのに、即座に殺せとはいかなる仔細ですか。あなたは仁者の仮面めんをかぶった魔人か」
「いや、何と申そうと、汝の降参はいつわりにちがいない。われ兵を用いることすでに久しい、何で汝ごとき者の計に乗ぜられようか」
匣はこの中から一封の書簡を取り出して、これを見よ! と高定の前へ投げやった。まぎれもない朱褒しゅほうの手蹟であった。彼はもう逆上していて、それを読む手もふるえてばかりいた。
「よく見たがよい、朱褒の書中にも、高定と雍闓とは刎頸ふんけいの友ゆえ、油断あるなと、忠言してあろうが。――それを以てもこの首の偽首なること、また汝の降伏が、彼としめし合わせた謀計ということも推察がつく。――かくいえば何で朱褒の片言のみ信じるかと汝はさらに抗弁するかも知れんが、朱褒が降伏を乞うことは、すでに再三ではない。ただまだ彼は自分を証拠だてる功がないためにあせっておるだけに過ぎぬ」
聞くと、高定は歯を咬み、躍り上がってさけんだ。
「丞相丞相! 数日の命を高定にかして下さい。憎んでもあきたらぬ奴は朱褒です。初め、雍闓の謀反へ此方を引き入れたのも、彼奴なのに、今となって、この高定を売って、自己の反間の野心をなし遂げんとは、肉を啖くらい、骨を踏みつけても、飽きたらない犬畜生です。彼奴の反間にかかって、このままここで斬られては、高定、死んでも死にきれません」
「数日の命をかしたらどうするというのか」
「もちろんです。朱褒の首を引っさげて身のあかしを立て、しかる後に、正当なご処分をうけるものなら死んでも本望です」
「よし。行き給え」
孔明は励ました。
三日ほどすると、高定は、前にも勝る手勢をつれて、ここの軍門へ帰ってきた。
そして孔明の前に朱褒の首を置いて、
「これは偽首ではございませんぞ。よく眼をあいて見て下さい」と、云った。
孔明、一目見るとすぐ、
「然り、然り」
と、膝をたたいてまた、
「前の首も、あれは雍闓に相違ないよ。わしはただ君のために、大功を立てさせたいために、あんな一時の放言をなしたのだ。悪く思わないでくれ」と、一笑して、労をねぎらった。
この高定はほどなく益州三郡の太守に封ぜられた。・・・  
「宮本武蔵」
・・・武蔵は黙って降りて来た。そして道傍みちばたの老母の手を取って、牛の背へ押しもどし、
「権どの、手綱を持て、歩きながら話そう。――試合しあうか、試合わぬかは、わしも歩きながら考えるとして」と、いった。
次に彼は、黙々と、その背を母子の者に向けて歩いて行く。話しながら歩こうといったのに、その沈黙は変らない。
武蔵が何を迷っているか、権之助にはその肚が酌くめないのである。疑いの眼を彼の背へ光らしている。そして一歩でも距へだつまいとするもののように、遅のろい牛の脚を叱咤しながら尾ついて行った。
嫌いやというか。
応か。
牛の背の老母もまだ不安そうな顔に見えた。そして、十町か二十町も高原の道を歩いたかと思う頃、先に歩いていた武蔵が、
「ウム!」
と独り返辞をしながら、くるりと、踵きびすをめぐらし、
「――立合おう」と、いきなりいった。
権之助は手綱を捨て、
「承知か」
即座にもと思ったらしく、もう足場を見まわすと、武蔵は、意気ごむ相手を眼の外に措おいて、
「じゃが――母御」
牛の背へいうのである。
「万が一のことがあってもよろしいか。試合と斬合とは持ち物がちがうだけで、紙一重ほどの相違もないが」
念を押すと、老母は初めてにこと笑って、
「御修行者、お断りまでもないことを仰せられる。杖じょうを習まなび出してからもう十年。それでもなお、年下のあなたに負けるような伜であったら、武道に思いを断つがよい。――その武道に望みを断っては、生きるかいもないといいやる。さすれば、打たれて死んだとて当人も本望である。この母も、恨みにはぞんじませぬ」
「それまでにいうならば」
と、武蔵は、眸を一転して、権之助の捨てた手綱をひろい、
「ここは往来がうるさい。どこぞへ牛を繋いで、心ゆくまで、お相手いたそう」
いの字ヶ原のまっただ中に、枯れかけている一本の巨おおきな落葉松からまつが見える。あれへと指して、武蔵はそこへ牛を導き、
「権どの。支度」と、促した。
待ちかねていた権之助は、おうと武蔵の前に棒をひっ提げて立った。武蔵は直立したまま、相手を静かに見た。
「…………」
武蔵には木剣の用意がない。そこらの得物を拾って持つ様子もなかった。肩も張らず、二本の手は柔かに下げたままである。
「支度をしないのか」
今度は権之助からいった。
武蔵は、
「なぜ?」と、反問した。
権之助は、憤むっと、眼から出すような声で、
「得物を把とれ、何でも好む物を」
「持っておる」
「無手か」
「いいや……」
首を振って、武蔵は、左の手をそっと忍ばすように、刀の鍔つばの下へ移して、
「此処に」といった。
「なに! 真剣で」
「…………」
答えは、唇の端に歪ゆがめた微笑を以てした。低い一声、静かな呼吸の一つも、もう徒いたずらに費ついやすことはできないものになっている。
落葉松からまつの根元へ、濡れ仏のように、べたっと坐り込んでいた老母の顔は、途端にさっと蒼ざめた。・・・  
「随筆 宮本武蔵」
・・・江戸の沢庵の生活を、物心両面で豊かにしたものは、若き友忠利ただとしであった。
沢庵は、花と並んで茶が好きであったらしく、機会あるごとに忠利から贈られる茶を、千金の宝の如く珍重している。また、季節の果物や国々の名産など、沢庵のわずかな欲望を驚かす数々の贈り物が、絶えず忠利から届けられた。
これらの好意に対する沢庵の喜びと感謝の表情は、忠利に宛てた書面の随所に見られるのである。
従是これより可申入之処、遮而かへつて尊書御報に罷成候。如仰昨日者おほせのごとくきのふは、さはりなく終日申承まをしうけたまはり、本望此事に候。短日之故惜暮計候くれををしむばかりにさふらひつ。近日以参可申入候条、抛筆候、
一日の短きを惜しみつつ、風流の話、治民の話、武道の話など、それからそれへと語り暮したのであろう。中にも、話題の中心は、やはり道についてであった。忠利は真摯しんしな求道者として沢庵の高示を仰ぎ、沢庵もまた、忠利を教え導くにあらゆる努力を吝おしまなかった。
御礼存。先頃者さきごろは忠庵迄、乍恐伝語申候つる。御帰国前には、必一日可申承まをしうけたまはるべく候。於御尋者おたづねにおいては、可為本望ほんまうたるべく候。一冊静に可被成御覧ごらんなさるべく候。御合点不参所候はゝ、貴面に又々可申入候也。
諄々じゅんじゅんたる沢庵のさまを見るべく、孜々ししたる忠利のさま見るべし、である。
二人はまた能楽に一日の歓を尽すこともあった。
追而申候。昨日之松風、近比ちかごろ見不申候面白能おもしろきのうにて候。松のむかふをまはりてとをられ候様子ともは、わさをきに持て仕候者の可成様子にてはなく候。つねに道なとわけてとをり候に、松の枝のさかり候を、をしのけてとをり候様もてあまさぬ見かけにて候つる。松風之時は、但馬殿も我なから我をわすれられ候哉や、さて上手かなと被申まをされ候つる、藤永、朝長、何いづれも/\出来申候、不存候者之ぞんぜずさふらふものの目に、さあるべきやうに見申みまをすかよき上手と申候間、我等こときの目に能よく見へ候か上手たるへきと存事ぞんずることに候、
忠利の「松風まつかぜ」の出来栄えを賞歎した手翰しゅかんであるが、師弟和楽の状が、紙面に躍如やくじょと溢れている。
忠利は寛永十四年頃から、ようやく薬餌やくじに親しむことが多くなった。この年の十一月には、鎌倉に転居して病を養っている。
本草医学に明るい沢庵は、薬や養生法の注意を与えたり、力づけたりした。
(この方面の沢庵の著作としては「医説」「骨董録こっとうろく」「旅枕」それぞれ一巻がある)
その結果、幸いにして回復に近づいたが、この時勃発したのが、九州の切支丹一揆きりしたんいっきであった。そして、忠利の健康が完全に立ち直っていなかったためであろう。その子光尚みつなおが、爆発と同時に急遽きゅうきょ島原に下った。
(忠利の長子六丸は、寛永十二年七月、従四位下侍従に任ぜられ、家光の一字を与えられて、光尚と称した)
暴徒の勢いは意外に熾はげしく、かつ、板倉内膳正重昌ないぜんのしょうしげまさ討死のことなどがあったので、忠利は翌十五年正月、自ら島原に出陣した。そして、忠利着陣後一ヵ月にして乱は鎮まったが、この布陣に依って再び病いを発し、その後一年は国許に病臥の生活を送ったのである。
その間、沢庵もまた、大徳寺開山大燈国師だいとうこくし三百年忌のため上洛じょうらくを許され、或いは郷国但馬に入湯したりして、たまさかの消息が交わされるに過ぎなかったが、十六年四月に至って、両者は殆ど時期を同おなじうして江戸に入った。
かくして、この師弟の間に、再び愛慕の一年が流れ、十七年五月に、忠利は参覲さんきんの期終って熊本に帰ったが、計らずもこれが永別となったのである。・・・  
「雲霧閻魔帳」
・・・わけの分らない世の中が、天明から、寛政、文化と流転るてんした。
あれから、まさに春秋二十余年。
カアーン。カアーン。
霙みぞれでも呼ぶように、灰色の冬の寒空に、鉦かねをたたいて歩く男がある。
青あおッ洟ぱなだの、腫物できものたかりだの、眼やにくそだの、味噌っぱだの、頬も手も、かじかんでる癖に、寒さを知らない伊吹山の麓の風の子たちが、
「地蔵様へ、花供あげろ。――地蔵様へ、花供げろ」と、道ばたの寒椿の、白いのや、紅いのを、むしり取っては、前へ鉦を叩いてゆく、男の笈おいずるへ投げつけていた。
伊勢路近江路、時には、京や大坂あたりにも見かける、地蔵行者である。
雨露によごれた白衣びゃくえを短く着、笈の上から天蓋をかざしている。左の手には、旗を持っていた。旗の文字も、雨に流れているが、
御堂建立勧進みどうこんりゅうかんじん、地蔵愛行者心蓮しんれん
と、読める。
「――子を大事になさいよ。親は子を育てたいといいますが、私は、子に救われ、子のため、人間になりました。わしばかりでござるまい、世間、親と威張る衆は多いが、実は、子に救われている親御衆の方が、どんなに多いか知れないので……」と、行者心蓮は、子供のいる家の前に立つと子の功徳を説き、地蔵愛を誦ずし、わけて子を亡くしたという家を聞くと、必ず訪ねて慰めた。
「お心がございましたら、一文でも二文でも、地蔵堂の建立に御寄進ねがいます。――私の死ぬまでに、それがどこかの紫雲英れんげの原に、小ささやかな一宇の愛の御堂となれば、私は、その原の白骨となって御守護いたします。はい、一人でも二人でも、世の親御様たちに、私の心が届けば、それで本望なのでございます」
カーン。カアーン……
鉦かねは、そういって、黄昏たそがれの迫る村を歩くのだった。
「地蔵様へ、花供あげろ」
ぞろぞろ、尾ついて歩いていた子供たちも、一人減へり、二人減り、彼のまわりは、もう寒い伊吹颪いぶきおろしと夕闇だけだった。
「ああ、雪が来た」
心蓮は、空を仰いで、初老を越えかけた眼をしばたたいた。天蓋に――勧進旗――横なぐりの雪がぼたぼたと吹きつけた。
見る間に、草鞋わらじの型がつく。
「木賃はないし……」
彼は、戻りかけては、また先へ歩いた。もうそこは、村端むらはずれの土橋だった。
「そうだ、これも行ぎょうの一つ。朝までに凍えて死ねば、それまでのこと……」
どこの納屋か、藁わらが積んである。それへ、笈おいをおろし、軒先に屈みこんで、足の先に積ってくる雪を見ていた。見ているまに、指がかくれ、甲が隠れ、今に体も埋まるかと思われるほど、風は、伊吹の雪を送ってきた。
「まあ」
ふいに、後ろの戸が開いて、戸の隙間から女の顔が見えた。人は住まない外納屋なやと思っていた心蓮は、あっと、驚きの目をふりあげた。
「旅のお方。先ほどから、気づいてはおりましたが、女一人、父が戻るまでは、お上げ申すわけには参りませぬが、この雪に、そんな所においでなされては、凍え死にまする。――土間へ這入って、芋粥いもがゆなと召し喰あがりませ」
「かたじけない――」と、心蓮は、雪と共に、戸の内へ飛びこんで、はあ、と息で両手を温めた。・・・  
「べんがら炬燵」
・・・北がわの屋根には、まだ雪が残っているのであろう、廂ひさしの下から室内は、広いので、灯がほしいほど薄暗いが、南の雀口すずめぐちにわずかばかりつよい陽の光が刎はね返かえっていた。きのうにつづいて、終日ひねもす、退屈な音を繰りかえしている雨だれの無聊ぶりょうさをやぶるように、地面へ雪の落ちる音が、時々、ずしんと、十七人の腸はらわたにひびいた。
太平記を借りうけて、今朝から手にしはじめた潮田又之丞うしおだまたのじょうが、その度に、きまって、書物から眸を離すので、そばに坐している近松勘六ちかまつかんろくが、
「雪じゃよ」
低声こごえでささやいた。
「赤穂あこうも、今年は降ったかな」
富森助右衛門とみのもりすけえもんがつぶやくと、
「のう、十郎左」
三、四人おいて坐っていた大石瀬左衛門おおいしせざえもんが、前かがみに、磯貝十郎左衛門いそがいじゅうろうざえもんの方を見て、
「――雪で思いだしたが、もう十年も前、お国元の馬場で、雪というと、よく暴れたのう」
「うむ」
十郎左は、笑えくぼでうなずいた。
「この中でも、いちばん年下じゃが、そのころお小姓組のうちでも、やはり、貴様がいちばん小さかった。そして、泣き虫は十郎左と決まっていたので、貴様の顔ばかり狙って、雪つぶてが飛んで来たものだった」
「泣き虫なら、もっと、涙もろい先輩がおるよ」
「誰」
紙捻こよりで耳をほっていた赤埴源蔵あかばねげんぞうが、
「よせ、あの話は」
友達は、みな知ってることとみえて、同じようにくすくす笑った。
こんなふうに、時々、和なごやかにくずす謹厳な無聊ぶりょうさを、それでも、この部屋の若者たちは、隣室の方へ、気がねらしく、笑ってはすぐ憚はばかるような眼をやるのだった。
ちょうど、下しもの間まにはこの九人。
上かみの間に八人。
ふた組に分れていた。
その上の間の組には、大石内蔵助おおいしくらのすけ以下、老人が多く、きょうは料紙と硯すずりを借りて、手紙を書いている者が多かった。いちばん年長の堀部弥兵衛ほりべやへえ、顔の怖い吉田忠左衛門よしだちゅうざえもん、黙ったきりの間喜兵衛はざまきへえ、そのほか原惣右衛門はらそうえもんだの、間瀬久太夫ませきゅうだゆうだの、真四角に膝をならべて、読書か何かしていた。
内蔵助だけは、斜めに顔をあげて、いつもの深謀な眸も、今はもう何も思うことがないというように、ぼんやり、半眼にふさいでいた。書き物もせず、書も手にふれず、どっちかといえば小がらで肩のまろい体を、やっと、置くべき所へ置いたというような恰好で、居ずまいよく坐っていた。
十二月十六日――
人々は、手紙の封に書いている。
討入のおとといの夜は、もう過去だった。何だか、遠い過去の気がするのである。
ゆうべは雨だった。
吉良殿の首しるしを、泉岳寺の君前に手向たむけてから後、松平伯耆守まつだいらほうきのかみの邸やしきに直訴じきそして、公儀の処分を待ったのである。その結果、一同四十六名を、水野、松平、毛利、細川の四家へわけてお預けと決ったのは夜で、雨の中を、まるで戦いくさのような人数に警固され、この白金しろがねの中屋敷へ、内蔵助以下十七名が送りこまれたのは、すでに丑満うしみつだった。
意外だったのは、ここへ着いて、おとといからの泥装束を脱いでいる混雑のなかへ、五十四万石の大身である越中守が、自身、無造作にやってきて、
(この度は、さだめし、本望なことであろうの)
と、ねぎらわれたことだった。
次には不寝番ねずのばんの物々しい警戒だった。今朝になって、それとなく訊くと吉良家とは、唇歯しんしの家がらである上杉弾正太弼たいひつの夜襲に備えるものと分った。
内蔵助は、
(上杉家には千坂がおる)
一笑したが、若手のいる下しもの間までは、
(いや、何ともしれぬぞ)
と、なお胸の余燼よじんを、消さなかった。で――雪とは承知しながら、ずしん、ずしん、と地ひびきのする度に、潮田又之丞も、ほかの者も、すぐ眼をうごかした。・・・

芥川竜之介

 

「古千屋」
・・・すると同じ三十日の夜よ、井伊掃部頭直孝いいかもんのかみなおたかの陣屋じんやに召し使いになっていた女が一人俄にわかに気の狂ったように叫び出した。彼女はやっと三十を越した、古千屋こちやという名の女だった。
「塙団右衛門ばんだんえもんほどの侍さむらいの首も大御所おおごしょの実検には具そなえおらぬか? 某それがしも一手ひとての大将だったものを。こういう辱はずかしめを受けた上は必ず祟たたりをせずにはおかぬぞ。……」
古千屋はつづけさまに叫びながら、その度に空中へ踊おどり上ろうとした。それはまた左右の男女なんにょたちの力もほとんど抑えることの出来ないものだった。凄すさまじい古千屋の叫び声はもちろん、彼等の彼女を引据えようとする騒ぎも一かたならないのに違いなかった。
井伊の陣屋の騒さわがしいことはおのずから徳川家康とくがわいえやすの耳にもはいらない訣わけには行ゆかなかった。のみならず直孝は家康に謁えっし、古千屋に直之なおゆきの悪霊あくりょうの乗り移ったために誰も皆恐れていることを話した。
「直之の怨うらむのも不思議はない。では早速実検しよう。」
家康は大蝋燭おおろうそくの光の中にこうきっぱり言葉を下くだした。
夜よふけの二条にじょうの城の居間に直之の首を実検するのは昼間ひるまよりも反かえってものものしかった。家康は茶色の羽織を着、下括したくくりの袴はかまをつけたまま、式通りに直之の首を実検した。そのまた首の左右には具足をつけた旗本はたもとが二人いずれも太刀たちの柄つかに手をかけ、家康の実検する間あいだはじっと首へ目を注そそいでいた。直之の首は頬たれ首ではなかった。が、赤銅色しゃくどういろを帯びた上、本多正純ほんだまさずみのいったように大きい両眼を見開いていた。
「これで塙団右衛門も定めし本望ほんもうでございましょう。」
旗本の一人、――横田甚右衛門よこたじんえもんはこう言って家康に一礼した。
しかし家康は頷うなずいたぎり、何なんともこの言葉に答えなかった。のみならず直孝を呼び寄せると、彼の耳へ口をつけるようにし、「その女の素姓すじょうだけは検しらべておけよ」と小声に彼に命令した。・・・
・・・家康の実検をすました話はもちろん井伊の陣屋にも伝わって来ずにはいなかった。古千屋こちやはこの話を耳にすると、「本望ほんもう、本望」と声をあげ、しばらく微笑を浮かべていた。それからいかにも疲れはてたように深い眠りに沈んで行った。井伊の陣屋の男女なんにょたちはやっと安堵あんどの思いをした。実際古千屋の男のように太い声に罵ののしり立てるのは気味の悪いものだったのに違いなかった。
そのうちに夜よは明けて行った。直孝なおたかは早速さっそく古千屋こちやを召し、彼女の素姓すじょうを尋ねて見ることにした。彼女はこういう陣屋にいるには余りにか細い女だった。殊に肩の落ちているのはもの哀れよりもむしろ痛々しかった。
「そちはどこで産うまれたな?」
「芸州げいしゅう広島ひろしまの御城下ごじょうかでございます。」
直孝はじっと古千屋を見つめ、こういう問答を重ねた後のち、徐おもむろに最後の問を下した。
「そちは塙ばんのゆかりのものであろうな?」
古千屋ははっとしたらしかった。が、ちょっとためらった後のち、存外ぞんがいはっきり返事をした。
「はい。お羞はずかしゅうございますが……」
直之なおゆきは古千屋の話によれば、彼女に子を一人ひとり生ませていた。
「そのせいでございましょうか、昨夜さくやも御実検下さらぬと聞き、女ながらも無念に存じますと、いつか正気しょうきを失いましたと見え、何やら口走ったように承わっております。もとよりわたくしの一存いちぞんには覚えのないことばかりでございますが。……」
古千屋は両手をついたまま、明かに興奮しているらしかった。それはまた彼女のやつれた姿にちょうど朝日に輝いている薄うすら氷ひに近いものを与えていた。
「善よい。善い。もう下さがって休息せい。」
直孝は古千屋を退けた後のち、もう一度家康の目通めどおりへ出、一々彼女の身の上を話した。
「やはり塙団右衛門ばんだんえもんにゆかりのあるものでございました。」
家康は初めて微笑びしょうした。人生は彼には東海道の地図のように明かだった。家康は古千屋の狂乱の中にもいつか人生の彼に教えた、何ごとにも表裏ひょうりのあるという事実を感じない訣わけには行ゆかなかった。この推測は今度も七十歳を越した彼の経験に合がっしていた。……
「さもあろう。」
「あの女はいかがいたしましょう?」
「善よいわ、やはり召使っておけ。」
直孝はやや苛立いらだたしげだった。
「けれども上かみを欺あざむきました罪は……」
家康はしばらくだまっていた。が、彼の心の目は人生の底にある闇黒あんこくに――そのまた闇黒の中にいるいろいろの怪物に向っていた。
「わたくしの一存いちぞんにとり計はからいましても、よろしいものでございましょうか?」
「うむ、上を欺いた……」
それは実際直孝には疑う余地などのないことだった。しかし家康はいつの間まにか人一倍大きい目をしたまま、何か敵勢にでも向い合ったようにこう堂々と返事をした。――
「いや、おれは欺あざむかれはせぬ。」・・・  
「或日の大石内蔵助」
・・・藤左衛門は、こう云って、伝右衛門と内蔵助くらのすけとを、にこにこしながら、等分に見比べた。
「はあ、いや、あの話でございますか。人情と云うものは、実に妙なものでございます。御一同の忠義に感じると、町人百姓までそう云う真似がして見たくなるのでございましょう。これで、どのくらいじだらくな上下じょうげの風俗が、改まるかわかりません。やれ浄瑠璃じょうるりの、やれ歌舞伎のと、見たくもないものばかり流行はやっている時でございますから、丁度よろしゅうございます。」
会話の進行は、また内蔵助にとって、面白くない方向へ進むらしい。そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下ひげの辞を述べながら、巧たくみにその方向を転換しようとした。
「手前たちの忠義をお褒ほめ下さるのは難有ありがたいが、手前一人ひとりの量見では、お恥しい方が先に立ちます。」
こう云って、一座を眺めながら、
「何故かと申しますと、赤穂一藩に人も多い中で、御覧の通りここに居りまするものは、皆小身者しょうしんものばかりでございます。もっとも最初は、奥野将監おくのしょうげんなどと申す番頭ばんがしらも、何かと相談にのったものでございますが、中ごろから量見を変え、ついに同盟を脱しましたのは、心外と申すよりほかはございません。そのほか、新藤源四郎しんどうげんしろう、河村伝兵衛かわむらでんびょうえ、小山源五左衛門こやまげんござえもんなどは、原惣右衛門より上席でございますし、佐々小左衛門ささこざえもんなども、吉田忠左衛門より身分は上でございますが、皆一挙が近づくにつれて、変心致しました。その中には、手前の親族の者もございます。して見ればお恥しい気のするのも無理はございますまい。」
一座の空気は、内蔵助のこの語ことばと共に、今までの陽気さをなくなして、急に真面目まじめな調子を帯びた。この意味で、会話は、彼の意図通り、方向を転換したと云っても差支えない。が、転換した方向が、果して内蔵助にとって、愉快なものだったかどうかは、自おのずからまた別な問題である。
彼の述懐を聞くと、まず早水藤左衛門は、両手にこしらえていた拳骨げんこつを、二三度膝の上にこすりながら、
「彼奴等きゃつらは皆、揃いも揃った人畜生にんちくしょうばかりですな。一人として、武士の風上かざかみにも置けるような奴は居りません。」
「さようさ。それも高田群兵衛たかたぐんべえなどになると、畜生より劣っていますて。」
忠左衛門は、眉をあげて、賛同を求めるように、堀部弥兵衛を見た。慷慨家こうがいかの弥兵衛は、もとより黙っていない。
「引き上げの朝、彼奴きゃつに遇あった時には、唾を吐きかけても飽き足らぬと思いました。何しろのめのめと我々の前へ面つらをさらした上に、御本望ほんもうを遂げられ、大慶の至りなどと云うのですからな。」
「高田も高田じゃが、小山田庄左衛門おやまだしょうざえもんなどもしようのないたわけ者じゃ。」
間瀬久太夫が、誰に云うともなくこう云うと、原惣右衛門や小野寺十内も、やはり口を斉ひとしくして、背盟はいめいの徒を罵りはじめた。寡黙な間喜兵衛でさえ、口こそきかないが、白髪しらが頭をうなずかせて、一同の意見に賛同の意を表した事は、度々どどある。
「何に致せ、御一同のような忠臣と、一つ御ご藩に、さような輩やからが居おろうとは、考えられも致しませんな。さればこそ、武士はもとより、町人百姓まで、犬侍いぬざむらいの禄盗人ろくぬすびとのと悪口あっこうを申して居おるようでございます。岡林杢之助おかばやしもくのすけ殿なども、昨年切腹こそ致されたが、やはり親類縁者が申し合せて、詰腹つめばらを斬らせたのだなどと云う風評がございました。またよしんばそうでないにしても、かような場合に立ち至って見れば、その汚名も受けずには居おられますまい。まして、余人は猶更なおさらの事でございます。これは、仇討あだうちの真似事を致すほど、義に勇みやすい江戸の事と申し、且かつはかねがね御一同の御憤おいきどおりもある事と申し、さような輩を斬ってすてるものが出ないとも、限りませんな。」
伝右衛門は、他人事ひとごととは思われないような容子ようすで、昂然とこう云い放った。この分では、誰よりも彼自身が、その斬り捨ての任に当り兼ねない勢いである。これに煽動せんどうされた吉田、原、早水、堀部などは、皆一種の興奮を感じたように、愈いよいよ手ひどく、乱臣賊子を罵殺ばさつしにかかった。――が、その中にただ一人、大石内蔵助だけは、両手を膝の上にのせたまま、愈いよいよつまらなそうな顔をして、だんだん口数をへらしながら、ぼんやり火鉢の中を眺めている。・・・  
「秋山図」
・・・元宰先生げんさいせんせい(董其昌とうきしょう)が在世中ざいせいちゅうのことです。ある年の秋先生は、煙客翁えんかくおうと画論をしている内に、ふと翁に、黄一峯こういっぽうの秋山図を見たかと尋ねました。翁はご承知のとおり画事の上では、大癡を宗そうとしていた人です。ですから大癡の画という画はいやしくも人間じんかんにある限り、看尽みつくしたと言ってもかまいません。が、その秋山図という画ばかりは、ついに見たことがないのです。
「いや、見るどころか、名を聞いたこともないくらいです」
煙客翁はそう答えながら、妙に恥はずかしいような気がしたそうです。
「では機会のあり次第、ぜひ一度は見ておおきなさい。夏山図かざんずや浮嵐図ふらんずに比べると、また一段と出色しゅっしょくの作です。おそらくは大癡たいち老人の諸本の中でも、白眉はくびではないかと思いますよ」
「そんな傑作ですか? それはぜひ見たいものですが、いったい誰が持っているのです?」
「潤州じゅんしゅうの張氏ちょうしの家にあるのです。金山寺きんざんじへでも行った時に、門を叩たたいてご覧らんなさい。私わたしが紹介状を書いて上げます」
煙客翁えんかくおうは先生の手簡を貰もらうと、すぐに潤州へ出かけて行きました。何しろそういう妙画を蔵している家ですから、そこへ行けば黄一峯こういっぽうの外ほかにも、まだいろいろ歴代の墨妙ぼくみょうを見ることができるに違いない。――こう思った煙客翁は、もう一刻も西園さいえんの書房に、じっとしていることはできないような、落着かない気もちになっていたのです。
ところが潤州へ来て観みると、楽みにしていた張氏の家というのは、なるほど構えは広そうですが、いかにも荒れ果てているのです。墻かきには蔦つたが絡からんでいるし、庭には草が茂っている。その中に鶏にわとりや家鴨あひるなどが、客の来たのを珍しそうに眺めているという始末ですから、さすがの翁もこんな家に、大癡の名画があるのだろうかと、一時は元宰先生げんさいせんせいの言葉が疑いたくなったくらいでした。しかしわざわざ尋ねて来ながら、刺しも通ぜずに帰るのは、もちろん本望ほんもうではありません。そこで取次ぎに出て来た小厮しょうしに、ともかくも黄一峯の秋山図を拝見したいという、遠来の意を伝えた後のち、思白しはく先生が書いてくれた紹介状を渡しました。
すると間もなく煙客翁は、庁堂ちょうどうへ案内されました。ここも紫檀したんの椅子いす机が、清らかに並べてありながら、冷たい埃ほこりの臭においがする、――やはり荒廃こうはいの気が鋪甎ほせんの上に、漂っているとでも言いそうなのです。しかし幸い出て来た主人は、病弱らしい顔はしていても、人がらの悪い人ではありません。いや、むしろその蒼白あおじろい顔や華奢きゃしゃな手の恰好なぞに、貴族らしい品格が見えるような人物なのです。翁はこの主人とひととおり、初対面の挨拶あいさつをすませると、早速名高い黄一峯を見せていただきたいと言いだしました。何でも翁の話では、その名画がどういう訳か、今の内に急いで見ておかないと、霧のように消えてでもしまいそうな、迷信じみた気もちがしたのだそうです。
主人はすぐに快諾かいだくしました。そうしてその庁堂の素壁そへきへ、一幀いっとうの画幅がふくを懸かけさせました。
「これがお望みの秋山図です」・・・  
「白」
・・・ある秋の真夜中です。体も心も疲れ切った白は主人の家へ帰って来ました。勿論もちろんお嬢さんや坊ちゃんはとうに床とこへはいっています。いや、今は誰一人起きているものもありますまい。ひっそりした裏庭の芝生しばふの上にも、ただ高い棕櫚しゅろの木の梢こずえに白い月が一輪浮んでいるだけです。白は昔の犬小屋の前に、露つゆに濡ぬれた体を休めました。それから寂しい月を相手に、こういう独語ひとりごとを始めました。
「お月様! お月様! わたしは黒君を見殺しにしました。わたしの体のまっ黒になったのも、大かたそのせいかと思っています。しかしわたしはお嬢さんや坊ちゃんにお別れ申してから、あらゆる危険と戦って来ました。それは一つには何かの拍子ひょうしに煤すすよりも黒い体を見ると、臆病を恥はじる気が起ったからです。けれどもしまいには黒いのがいやさに、――この黒いわたしを殺したさに、あるいは火の中へ飛びこんだり、あるいはまた狼と戦ったりしました。が、不思議にもわたしの命はどんな強敵にも奪われません。死もわたしの顔を見ると、どこかへ逃げ去ってしまうのです。わたしはとうとう苦しさの余り、自殺しようと決心しました。ただ自殺をするにつけても、ただ一目ひとめ会いたいのは可愛がって下すった御主人です。勿論お嬢さんや坊ちゃんはあしたにもわたしの姿を見ると、きっとまた野良犬のらいぬと思うでしょう。ことによれば坊ちゃんのバットに打ち殺されてしまうかも知れません。しかしそれでも本望です。お月様! お月様! わたしは御主人の顔を見るほかに、何も願うことはありません。そのため今夜ははるばるともう一度ここへ帰って来ました。どうか夜の明け次第、お嬢さんや坊ちゃんに会わして下さい。」
白は独語ひとりごとを云い終ると、芝生しばふに腭あごをさしのべたなり、いつかぐっすり寝入ってしまいました。・・・  
「玄鶴山房」
・・・一週間ばかりたった後、玄鶴は家族たちに囲まれたまま、肺結核の為に絶命した。彼の告別式は盛大(!)だった。(唯、腰ぬけのお鳥だけはその式にも出る訣に行かなかった。)彼の家に集まった人々は重吉夫婦に悔みを述べた上、白い綸子りんずに蔽おおわれた彼の柩ひつぎの前に焼香した。が、門を出る時には大抵彼のことを忘れていた。尤もっとも彼の故朋輩ほうばいだけは例外だったのに違いなかった。「あの爺さんも本望だったろう。若い妾めかけも持っていれば、小金もためていたんだから。」――彼等は誰も同じようにこんなことばかり話し合っていた。
彼の柩ひつぎをのせた葬用馬車は一輛りょうの馬車を従えたまま、日の光も落ちない師走しわすの町を或火葬場へ走って行った。薄汚い後の馬車に乗っているのは重吉や彼の従弟いとこだった。彼の従弟の大学生は馬車の動揺を気にしながら、重吉と余り話もせずに小型の本に読み耽ふけっていた。それは Liebknecht の追憶録の英訳本だった。が、重吉は通夜疲れの為にうとうと居睡いねむりをしていなければ、窓の外の新開町を眺め、「この辺もすっかり変ったな」などと気のない独り語を洩もらしていた。
二輛の馬車は霜どけの道をやっと火葬場へ辿たどり着いた。しかし予あらかじめ電話をかけて打ち合せて置いたのにも関らず、一等の竈は満員になり、二等だけ残っていると云うことだった。それは彼等にはどちらでも善かった。が、重吉は舅しゅうとよりも寧むしろお鈴の思惑を考え、半月形の窓越しに熱心に事務員と交渉した。
「実は手遅れになった病人だしするから、せめて火葬にする時だけは一等にしたいと思うんですがね。」――そんな譃うそもついて見たりした。それは彼の予期したよりも効果の多い譃らしかった。
「ではこうしましょう。一等はもう満員ですから、特別に一等の料金で特等で焼いて上げることにしましょう。」
重吉は幾分か間の悪さを感じ、何度も事務員に礼を言った。事務員は真鍮しんちゅうの眼鏡をかけた好人物らしい老人だった。
「いえ、何、お礼には及びません。」
彼等は竈に封印した後、薄汚い馬車に乗って火葬場の門を出ようとした。すると意外にもお芳が一人、煉瓦塀れんがべいの前に佇たたずんだまま、彼等の馬車に目礼していた。重吉はちょっと狼狽ろうばいし、彼の帽を上げようとした。しかし彼等を乗せた馬車はその時にはもう傾きながら、ポプラアの枯れた道を走っていた。
「あれですね?」
「うん、………俺たちの来た時もあすこにいたかしら。」
「さあ、乞食こじきばかりいたように思いますがね。……あの女はこの先どうするでしょう?」
重吉は一本の敷島しきしまに火をつけ、出来るだけ冷淡に返事をした。
「さあ、どう云うことになるか。……」
彼の従弟は黙っていた。が、彼の想像は上総かずさの或海岸の漁師町を描いていた。それからその漁師町に住まなければならぬお芳親子も。――彼は急に険しい顔をし、いつかさしはじめた日の光の中にもう一度リイプクネヒトを読みはじめた。・・・  
「開化の良人」
・・・「三浦は贅沢ぜいたくな暮しをしているといっても、同年輩の青年のように、新橋しんばしとか柳橋やなぎばしとか云う遊里に足を踏み入れる気色けしきもなく、ただ、毎日この新築の書斎に閉じこもって、銀行家と云うよりは若隠居にでもふさわしそうな読書三昧ざんまいに耽っていたのです。これは勿論一つには、彼の蒲柳ほりゅうの体質が一切いっさいの不摂生を許さなかったからもありましょうが、また一つには彼の性情が、どちらかと云うと唯物的な当時の風潮とは正反対に、人一倍純粋な理想的傾向を帯びていたので、自然と孤独に甘んじるような境涯に置かれてしまったのでしょう。実際模範的な開化の紳士だった三浦が、多少彼の時代と色彩を異にしていたのは、この理想的な性情だけで、ここへ来ると彼はむしろ、もう一時代前の政治的夢想家に似通にかよっている所があったようです。
「その証拠は彼が私と二人で、ある日どこかの芝居でやっている神風連しんぷうれんの狂言きょうげんを見に行った時の話です。たしか大野鉄平おおのてっぺいの自害の場の幕がしまった後あとだったと思いますが、彼は突然私の方をふり向くと、『君は彼等に同情が出来るか。』と、真面目まじめな顔をして問いかけました。私は元よりの洋行帰りの一人として、すべて旧弊じみたものが大嫌いだった頃ですから、『いや一向同情は出来ない。廃刀令はいとうれいが出たからと云って、一揆いっきを起すような連中は、自滅する方が当然だと思っている。』と、至極冷淡な返事をしますと、彼は不服そうに首を振って、『それは彼等の主張は間違っていたかもしれない。しかし彼等がその主張に殉じゅんじた態度は、同情以上に価すると思う。』と、云うのです。そこで私がもう一度、『じゃ君は彼等のように、明治の世の中を神代かみよの昔に返そうと云う子供じみた夢のために、二つとない命を捨てても惜しくないと思うのか。』と、笑いながら反問しましたが、彼はやはり真面目な調子で、『たとい子供じみた夢にしても、信ずる所に殉ずるのだから、僕はそれで本望だ。』と、思い切ったように答えました。その時はこう云う彼の言ことばも、単に一場の口頭語として、深く気にも止めませんでしたが、今になって思い合わすと、実はもうその言ことばの中に傷いたましい後年の運命の影が、煙のように這いまわっていたのです。が、それは追々おいおい話が進むに従って、自然と御会得ごえとくが参るでしょう。
「何しろ三浦は何によらず、こう云う態度で押し通していましたから、結婚問題に関しても、『僕は愛アムウルのない結婚はしたくはない。』と云う調子で、どんな好いい縁談が湧いて来ても、惜しげもなく断ことわってしまうのです。しかもそのまた彼の愛アムウルなるものが、一通りの恋愛とは事変って、随分ずいぶん彼の気に入っているような令嬢が現れても、『どうもまだ僕の心もちには、不純な所があるようだから。』などと云って、いよいよ結婚と云う所までは中々話が運びません。それが側はたで見ていても、余り歯痒はがゆい気がするので、時には私も横合いから、『それは何でも君のように、隅から隅まで自分の心もちを点検してかかると云う事になると、行住坐臥ぎょうじゅうざがさえ容易には出来はしない。だからどうせ世の中は理想通りに行かないものだとあきらめて、好いい加減な候補者で満足するさ。』と、世話を焼いた事があるのですが、三浦は反かえってその度に、憐むような眼で私を眺めながら、『そのくらいなら何もこの年まで、僕は独身で通しはしない。』と、まるで相手にならないのです。が、友だちはそれで黙っていても、親戚の身になって見ると、元来病弱な彼ではあるし、万一血統を絶たやしてはと云う心配もなくはないので、せめて権妻ごんさいでも置いたらどうだと勧すすめた向きもあったそうですが、元よりそんな忠告などに耳を借すような三浦ではありません。いや、耳を借さない所か、彼はその権妻ごんさいと云う言ことばが大嫌いで、日頃から私をつかまえては、『何しろいくら開化したと云った所で、まだ日本では妾めかけと云うものが公然と幅を利きかせているのだから。』と、よく哂わらってはいたものなのです。ですから帰朝後二三年の間、彼は毎日あのナポレオン一世を相手に、根気よく読書しているばかりで、いつになったら彼の所謂いわゆる『愛アムウルのある結婚』をするのだか、とんと私たち友人にも見当のつけようがありませんでした。・・・  
「偸盗」
・・・猪熊のばばに別れると、次郎は、重い心をいだきながら、立本寺りゅうほんじの門の石段を、一つずつ数えるように上がって、そのところどころ剥落はくらくした朱塗りの丸柱の下へ来て、疲れたように腰をおろした。さすがの夏の日も、斜めにつき出した、高い瓦かわらにさえぎられて、ここまではさして来ない。後ろを見ると、うす暗い中に、一体の金剛力士が青蓮花あおれんげを踏みながら、左手の杵きねを高くあげて、胸のあたりに燕つばくらの糞ふんをつけたまま、寂然せきぜんと境内けいだいの昼を守っている。――次郎は、ここへ来て、始めて落ち着いて、自分の心もちが考えられるような気になった。
日の光は、相変わらず目の前の往来を、照り白しらませて、その中にとびかう燕つばくらの羽を、さながら黒繻子くろじゅすか何かのように、光らせている。大きな日傘ひがさをさして、白い水干すいかんを着た男が一人、青竹の文挾ふばさみにはさんだ文ふみを持って、暑そうにゆっくり通ったあとは、向こうに続いた築土ついじの上へ、影を落とす犬もない。
次郎は、腰にさした扇をぬいて、その黒柿くろがきの骨を、一つずつ指で送ったり、もどしたりしながら、兄と自分との関係を、それからそれへ、思い出した。――
なんで自分は、こう苦しまなければ、ならないのであろう。たった一人の兄は、自分を敵かたきのように思っている。顔を合わせるごとに、こちらから口をきいても、浮かない返事をして、話の腰を折ってしまう。それも、自分と沙金しゃきんとが、今のような事になってみれば、無理のない事に相違ない。が、自分は、あの女に会うたびに、始終兄にすまないと思っている。別して、会ったのちのさびしい心もちでは、よく兄がいとしくなって、人知れない涙もこぼしこぼしした。現に、一度なぞは、このまま、兄にも沙金にも別れて、東国へでも下ろうとさえ、思った事がある。そうしたら、兄も自分を憎まなくなるだろうし、自分も沙金を忘れられるだろう。そう思って、よそながら暇いとまごいをするつもりで、兄の所へ会いにゆくと、兄はいつも、そっけなく、自分をあしらった。そうして、沙金に会うと、――今度は自分が、せっかくの決心を忘れてしまう。が、そのたびに、自分はどのくらい、自分自身を責めた事であろう。
しかし、兄には、自分のこの苦しみがわからない。ただいちずに、自分を、恋の敵かたきだと思っている。自分は、兄にののしられてもいい。顔につばきされてもいい。あるいは場合によっては、殺されてもいい。が、自分が、どのくらい自分の不義を憎んでいるか、どのくらい兄に同情しているか、それだけは、察していてもらいたい。その上でならば、どんな死にざまをするにしても、兄の手にかかれば、本望だ。いや、むしろ、このごろの苦しみよりは、一思いに死んだほうが、どのくらいしあわせだかわからない。
自分は、沙金しゃきんに恋をしている。が、同時に憎んでもいる。あの女の多情な性質は、考えただけでも、腹立たしい。その上に、絶えずうそをつく。それから、兄や自分でさえためらうような、ひどい人殺しも、平気でする。時々、自分は、あの女のみだらな寝姿をながめながら、どうして、自分がこんな女に、ひかされるのだろうと思ったりした。ことに、見ず知らずの男にも、なれなれしく肌はだを任せるのを見た時には、いっそ自分の手で、殺してやろうかという気にさえなった。それほど、自分は、沙金を憎んでいる。が、あの女の目を見ると、自分はやっぱり、誘惑に陥ってしまう。あの女のように、醜い魂と、美しい肉身とを持った人間は、ほかにいない。
この自分の憎しみも、兄にはわかっていないようだ。いや、元来兄は、自分のように、あの女の獣のような心を、憎んではいないらしい。たとえば、沙金しゃきんとほかの男との関係を見るにしても、兄と自分とは全く目がちがう。兄は、あの女がたれといっしょにいるのを見ても、黙っている。あの女の一時の気まぐれは、気まぐれとして、許しているらしい。が、自分は、そういかない。自分にとっては、沙金が肌身はだみを汚けがす事は、同時に沙金が心を汚す事だ。あるいは心を汚すより、以上の事のように思われる。もちろん自分には、あの女の心が、ほかの男に移るのも許されない。が、肌身をほかの男に任せるのは、それよりもなお、苦痛である。それだからこそ、自分は兄に対しても、嫉妬しっとをする。すまないとは思いながら、嫉妬をする。してみると、兄と自分との恋は、まるでちがう考えが、元になっているのではあるまいか。そうしてそのちがいが、よけい二人の仲を、悪くするのではあるまいか。………
次郎は、ぼんやり往来をながめながら、こんな事をしみじみと考えた。すると、ちょうどその時である。突然、けたたましい笑い声が、まばゆい日の光を動かして、往来のどちらかから聞こえて来た。と思うと、かん高だかい女の声が、舌のまわらない男の声といっしょになって、人もなげに、みだらな冗談を言いかわして来る。次郎は、思わず扇を腰にさして、立ち上がった。・・・
・・・老人は、勝ち誇った顔色で、しわだらけの人さし指を、相手につきつけるようにしながら、目をかがやかせて、しゃべり立てた。
「どうじゃ。わしが無理か、おぬしが無理か、いかなおぬしにも、このくらいな事はわかるであろう。それもわしとおばばとは、まだわしが、左兵衛府さひょうえふの下人げにんをしておったころからの昔なじみじゃ。おばばが、わしをどう思うたか、それは知らぬ。が、わしはおばばを懸想けそうしていた。」
太郎は、こういう場合、この酒飲みの、狡猾こうかつな、卑しい老人の口から、こういう昔語りを聞こうとは夢にも思っていなかった。いや、むしろ、この老人に、人並みの感情があるかどうか、それさえ疑わしいと、思っていた。懸想した猪熊いのくまの爺おじと懸想された猪熊のばばと、――太郎は、おのずから自分の顔に、一脈の微笑が浮かんで来るのを感じたのである。
「そのうちに、わしはおばばに情人おとこがある事を知ったがな。」
「そんなら、おぬしはきらわれたのじゃないか。」
「情人おとこがあったとて、わしのきらわれたという、証拠にはならぬ。話の腰を折るなら、もうやめじゃ。」
猪熊の爺は、真顔になって、こう言ったが、すぐまた、ひざをすすめて、太郎のほうへにじり寄りながら、つばをのみのみ、話しだした。
「そのうちに、おばばがその情人おとこの子をはらんだて。が、これはなんでもない。ただ、驚いたのは、その子を生むと、まもなく、おばばの行ゆき方かたが、わからなくなって、しもうた事じゃ。人に聞けば、疫病えやみで死んだの、筑紫つくしへ下ったのと言いおるわ。あとで聞けば、なんの、奈良坂ならざかのしるべのもとへ、一時身を寄せておったげじゃ。が、わしは、それからにわかに、この世が味気なくなってしもうた。されば、酒も飲む、賭博ばくちも打つ。ついには、人に誘われて、まんまと強盗にさえ身をおとしたがな。綾あやを盗めば綾につけ、錦にしきを盗めば、錦につけ、思い出すのは、ただ、おばばの事じゃ。それから十年たち、十五年たって、やっとまたおばばに、めぐり会ってみれば――」
今では全く、太郎と一つ畳にすわりこんだ老人は、ここまで話すと、次第に感情がたかぶって来たせいか、しばらくはただ、涙に頬ほおをぬらしながら、口ばかり動かして、黙っている。太郎は、片目をあげて、別人を見るように、相手のべそをかいた顔をながめた。
「めぐり会ってみれば、おばばは、もう昔のおばばではない。わしも、昔のわしでなかったのじゃ。が、つれている子の沙金しゃきんを見れば、昔のおばばがまた、帰って来たかと思うほど、おもかげがよう似ているて。されば、わしはこう思うた。今、おばばに別れれば、沙金ともまた別れなければならぬ。もし沙金と別れまいと思えば、おばばといっしょになるばかりじゃ。よし、ならば、おばばを妻めにしよう――こう思い切って、持ったのが、この猪熊いのくまの痩世帯やせじょたいじゃ。………」
猪熊いのくまの爺おじは、泣き顔を、太郎の顔のそばへ持って来ながら、涙声でこう言った。すると、その拍子に、今まで気のつかなかった、酒くさいにおいが、ぷんとする。――太郎は、あっけにとられて、扇のかげに、鼻をかくした。
「されば、昔からきょうの日まで、わしが命にかけて思うたのは、ただ、昔のおばば一人ぎりじゃ。つまりは今の沙金しゃきん一人ぎりじゃよ。それを、おぬしは、何かにつけて、わしを畜生じゃなどと言う。このおやじがおぬしは、それほど憎いのか。憎ければ、いっそ殺すがよい。今ここで、殺すがよい。おぬしに殺されれば、わしも本望じゃ。が、よいか、親を殺すからは、おぬしも、畜生じゃぞよ。畜生が畜生を殺す――これは、おもしろかろう。」
涙がかわくに従って、老人はまた、元のように、ふて腐れた悪態あくたいをつきながら、しわだらけの人さし指をふり立てた。
「畜生が畜生を殺すのじゃ。さあ殺せ。おぬしは、卑怯者ひきょうものじゃな。ははあ、さっき、わしが阿濃あこぎに薬をくれようとしたら、おぬしが腹を立てたのを見ると、あの阿呆あほうをはらませたのも、おぬしらしいぞ。そのおぬしが、畜生でのうて、何が畜生じゃ。」
こう言いながら、老人は、いちはやく、倒れた遣戸やりどの向こうへとびのいて、すわと言えば、逃げようとするけはいを示しながら、紫がかった顔じゅうの造作ぞうさくを、憎々しくゆがめて見せる。――太郎は、あまりの雑言ぞうごんに堪えかねて、立ち上がりながら、太刀たちの柄つかへ手をかけたが、やめて、くちびるを急に動かすとたちまち相手の顔へ、一塊の痰たんをはきかけた。
「おぬしのような畜生には、これがちょうど、相当だわ。」
「畜生呼ばわりは、おいてくれ。沙金しゃきんは、おぬしばかりの妻めかよ。次郎殿の妻めでもないか。されば、弟の妻めをぬすむおぬしもやはり、畜生じゃ。」
太郎は、再びこのおやじを殺さなかった事を後悔した。が、同時にまた、殺そうという気の起こる事を恐れもした。そこで、彼は、片目を火のようにひらめかせながら、黙って、席を蹴けって去ろうとする――すると、その後ろから、猪熊いのくまの爺おじはまた、指をふりふり、罵詈ばりを浴びせかけた。・・・  
「竜」
・・・「その朝でさえ『三月三日この池より竜昇らんずるなり』の建札は、これほどの利きき目がございましたから、まして一日二日と経って見ますと、奈良の町中どこへ行っても、この猿沢さるさわの池の竜の噂うわさが出ない所はございません。元より中には『あの建札も誰かの悪戯いたずらであろう。』など申すものもございましたが、折から京では神泉苑しんせんえんの竜が天上致したなどと申す評判もございましたので、そう云うものさえ内心では半信半疑と申しましょうか、事によるとそんな大変があるかも知れないぐらいな気にはなって居ったのでございます。するとここにまた思いもよらない不思議が起ったと申しますのは、春日かすがの御社おやしろに仕えて居りますある禰宜ねぎの一人娘で、とって九つになりますのが、その後のち十日と経たない中に、ある夜母の膝を枕にしてうとうとと致して居りますと、天から一匹の黒竜が雲のように降って来て、『わしはいよいよ三月三日に天上する事になったが、決してお前たち町のものに迷惑はかけない心算つもりだから、どうか安心していてくれい。』と人語を放って申しました。そこで娘は目がさめるとすぐにこれこれこうこうと母親に話しましたので、さては猿沢の池の竜が夢枕ゆめまくらに立ったのだと、たちまちまたそれが町中の大おお評判になったではございませんか。こうなると話にも尾鰭おひれがついて、やれあすこの稚児ちごにも竜が憑ついて歌を詠んだの、やれここの巫女かんなぎにも竜が現れて託宣たくせんをしたのと、まるでその猿沢の池の竜が今にもあの水の上へ、首でも出しそうな騒ぎでございます。いや、首までは出しも致しますまいが、その中に竜の正体を、目まのあたりにしかと見とどけたと申す男さえ出て参りました。これは毎朝川魚を市いちへ売りに出ます老爺おやじで、その日もまだうす暗いのに猿沢の池へかかりますと、あの采女柳うねめやなぎの枝垂しだれたあたり、建札のある堤つつみの下に漫々と湛えた夜明け前の水が、そこだけほんのりとうす明あかるく見えたそうでございます。何分にも竜の噂がやかましい時分でございますから、『さては竜神りゅうじんの御出ましか。』と、嬉しいともつかず、恐しいともつかず、ただぶるぶる胴震どうぶるいをしながら、川魚の荷をそこへ置くなり、ぬき足にそっと忍び寄ると、采女柳につかまって、透すかすように、池を窺いました。するとそのほの明あかるい水の底に、黒金くろがねの鎖を巻いたような何とも知れない怪しい物が、じっと蟠わだかまって居りましたが、たちまち人音ひとおとに驚いたのか、ずるりとそのとぐろをほどきますと、見る見る池の面おもてに水脈みおが立って、怪しい物の姿はどことも知れず消え失せてしまったそうでございます。が、これを見ました老爺おやじは、やがて総身そうしんに汗をかいて、荷を下した所へ来て見ますと、いつの間にか鯉鮒こいふな合せて二十尾びもいた商売物あきないものがなくなっていたそうでございますから、『大方おおかた劫こうを経た獺かわおそにでも欺だまされたのであろう。』などと哂わらうものもございました。けれども中には『竜王が鎮護遊ばすあの池に獺の棲すもう筈もないから、それはきっと竜王が魚鱗うろくずの命を御憫おあわれみになって、御自分のいらっしゃる池の中へ御召し寄せなすったのに相違ない。』と申すものも、思いのほか多かったようでございます。
「こちらは鼻蔵はなくらの恵印法師えいんほうしで、『三月三日この池より竜昇らんずるなり』の建札が大評判になるにつけ、内々ないないあの大鼻をうごめかしては、にやにや笑って居りましたが、やがてその三月三日も四五日の中に迫って参りますと、驚いた事には摂津せっつの国桜井さくらいにいる叔母の尼が、是非その竜の昇天を見物したいと申すので、遠い路をはるばると上って参ったではございませんか。これには恵印も当惑して、嚇おどすやら、賺すかすやら、いろいろ手を尽して桜井へ帰って貰おうと致しましたが、叔母は、『わしもこの年じゃで、竜王りゅうおうの御姿をたった一目拝みさえすれば、もう往生しても本望じゃ。』と、剛情にも腰を据えて、甥の申す事などには耳を借そうとも致しません。と申してあの建札は自分が悪戯いたずらに建てたのだとも、今更白状する訳には参りませんから、恵印もとうとう我がを折って、三月三日まではその叔母の世話を引き受けたばかりでなく、当日は一しょに竜神りゅうじんの天上する所を見に行くと云う約束までもさせられました。さてこうなって考えますと、叔母の尼さえ竜の事を聞き伝えたのでございますから、大和やまとの国内は申すまでもなく、摂津の国、和泉いずみの国、河内かわちの国を始めとして、事によると播磨はりまの国、山城やましろの国、近江おうみの国、丹波たんばの国のあたりまでも、もうこの噂が一円いちえんにひろまっているのでございましょう。つまり奈良の老若ろうにゃくをかつごうと思ってした悪戯が、思いもよらず四方よもの国々で何万人とも知れない人間を瞞だます事になってしまったのでございます。恵印はそう思いますと、可笑おかしいよりは何となく空恐しい気が先に立って、朝夕あさゆう叔母の尼の案内がてら、つれ立って奈良の寺々を見物して歩いて居ります間も、とんと検非違使けびいしの眼を偸ぬすんで、身を隠している罪人のような後うしろめたい思いがして居りました。が、時々往来のものの話などで、あの建札へこの頃は香花こうげが手向たむけてあると云う噂を聞く事でもございますと、やはり気味の悪い一方では、一ひとかど大手柄でも建てたような嬉しい気が致すのでございます。
「その内に追い追い日数ひかずが経って、とうとう竜の天上する三月三日になってしまいました。そこで恵印は約束の手前、今更ほかに致し方もございませんから、渋々叔母の尼の伴ともをして、猿沢さるさわの池が一目に見えるあの興福寺こうふくじの南大門なんだいもんの石段の上へ参りました。丁度その日は空もほがらかに晴れ渡って、門の風鐸ふうたくを鳴らすほどの風さえ吹く気色けしきはございませんでしたが、それでも今日きょうと云う今日を待ち兼ねていた見物は、奈良の町は申すに及ばず、河内、和泉、摂津、播磨、山城、近江、丹波の国々からも押し寄せて参ったのでございましょう。石段の上に立って眺めますと、見渡す限り西も東も一面の人の海で、それがまた末はほのぼのと霞をかけた二条の大路おおじのはてのはてまで、ありとあらゆる烏帽子えぼしの波をざわめかせて居るのでございます。と思うとそのところどころには、青糸毛あおいとげだの、赤糸毛あかいとげだの、あるいはまた栴檀庇せんだんびさしだのの数寄すきを凝らした牛車ぎっしゃが、のっしりとあたりの人波を抑えて、屋形やかたに打った金銀の金具かなぐを折からうららかな春の日ざしに、眩まばゆくきらめかせて居りました。そのほか、日傘ひがさをかざすもの、平張ひらばりを空に張り渡すもの、あるいはまた仰々ぎょうぎょうしく桟敷さじきを路に連ねるもの――まるで目の下の池のまわりは時ならない加茂かもの祭でも渡りそうな景色でございます。これを見た恵印法師えいんほうしはまさかあの建札を立てたばかりで、これほどの大騒ぎが始まろうとは夢にも思わずに居りましたから、さも呆れ返ったように叔母の尼の方をふり向きますと、『いやはや、飛んでもない人出でござるな。』と情けない声で申したきり、さすがに今日は大鼻を鳴らすだけの元気も出ないと見えて、そのまま南大門なんだいもんの柱の根がたへ意気地いくじなく蹲うずくまってしまいました。・・・  
「俊寛」
・・・「それは御立腹なすったでしょう。」
「康頼は怒るのに妙を得ている。舞まいも洛中に並びないが、腹を立てるのは一段と巧者じゃ。あの男は謀叛むほんなぞに加わったのも、嗔恚しんいに牽ひかれたのに相違ない。その嗔恚の源みなもとはと云えば、やはり増長慢ぞうじょうまんのなせる業わざじゃ。平家へいけは高平太たかへいだ以下皆悪人、こちらは大納言だいなごん以下皆善人、――康頼はこう思うている。そのうぬ惚ぼれがためにならぬ。またさっきも云うた通り、我々凡夫は誰も彼も、皆高平太と同様なのじゃ。が、康頼の腹を立てるのが好よいか、少将のため息をするのが好いか、どちらが好いかはおれにもわからぬ。」
「成経なりつね様御一人だけは、御妻子もあったそうですから、御紛まぎれになる事もありましたろうに。」
「ところが始終蒼い顔をしては、つまらぬ愚痴ぐちばかりこぼしていた。たとえば谷間の椿を見ると、この島には桜も咲かないと云う。火山の頂の煙を見ると、この島には青い山もないと云う。何でもそこにある物は云わずに、ない物だけ並べ立てているのじゃ。一度なぞはおれと一しょに、磯山いそやまへ槖吾つわを摘つみに行ったら、ああ、わたしはどうすれば好よいのか、ここには加茂川かもがわの流れもないと云うた。おれがあの時吹き出さなかったのは、我立つ杣そまの地主権現じしゅごんげん、日吉ひよしの御冥護ごみょうごに違いない。が、おれは莫迦莫迦ばかばかしかったから、ここには福原ふくはらの獄ひとやもない、平相国へいしょうこく入道浄海にゅうどうじょうかいもいない、難有ありがたい難有いとこう云うた。」
「そんな事をおっしゃっては、いくら少将でも御腹立ちになりましたろう。」
「いや、怒おこられれば本望じゃ。が、少将はおれの顔を見ると、悲しそうに首を振りながら、あなたには何もおわかりにならない、あなたは仕合せな方かたですと云うた。ああ云う返答は、怒られるよりも難儀じゃ。おれは、――実はおれもその時だけは、妙に気が沈んでしもうた。もし少将の云うように、何もわからぬおれじゃったら、気も沈まずにすんだかも知れぬ。しかしおれにはわかっているのじゃ。おれも一時は少将のように、眼の中の涙を誇ったことがある。その涙に透すかして見れば、あの死んだ女房にょうぼうも、どのくらい美しい女に見えたか、――おれはそんな事を考えると、急に少将が気の毒になった。が、気の毒になって見ても、可笑おかしいものは可笑しいではないか? そこでおれは笑いながら、言葉だけは真面目まじめに慰めようとした。おれが少将に怒られたのは、跡にも先にもあの時だけじゃ。少将はおれが慰めてやると、急に恐しい顔をしながら、嘘をおつきなさい。わたしはあなたに慰められるよりも、笑われる方が本望ですと云うた。その途端とたんに、――妙ではないか? とうとうおれは吹き出してしもうた。」
「少将はどうなさいました?」
「四五日の間はおれに遇おうても、挨拶あいさつさえ碌ろくにしなかった。が、その後のちまた遇うたら、悲しそうに首を振っては、ああ、都へ返りたい、ここには牛車ぎっしゃも通らないと云うた。あの男こそおれより仕合せものじゃ。――が、少将や康頼やすよりでも、やはり居らぬよりは、いた方が好よい。二人に都へ帰られた当座、おれはまた二年ぶりに、毎日寂しゅうてならなかった。」
「都の噂うわさでは御寂しいどころか、御歎き死じにもなさり兼ねない、御容子ごようすだったとか申していました。」
わたしは出来るだけ細々こまごまと、その御噂を御話しました。琵琶法師びわほうしの語る言葉を借りれば、
「天に仰ぎ地に俯ふし、悲しみ給えどかいぞなき。……猶なおも船の纜ともづなに取りつき、腰になり脇になり、丈たけの及ぶほどは、引かれておわしけるが、丈も及ばぬほどにもなりしかば、また空むなしき渚なぎさに泳ぎ返り、……是具これぐして行けや、我われ乗せて行けやとて、おめき叫び給えども、漕こぎ行く船のならいにて、跡は白浪しらなみばかりなり。」と云う、御狂乱ごきょうらんの一段を御話したのです。俊寛様は御珍しそうに、その話を聞いていらっしゃいましたが、まだ船の見える間あいだは、手招てまねぎをなすっていらしったと云う、今では名高い御話をすると、
「それは満更まんざら嘘ではない。何度もおれは手招てまねぎをした。」と、素直すなおに御頷おうなずきなさいました。・・・  
「路上」
・・・音楽会が終った後で、俊助しゅんすけはとうとう大井おおいと藤沢ふじさわとに引きとめられて、『城』同人どうじんの茶話会さわかいに出席しなければならなくなった。彼は勿論進まなかった。が、藤沢以外の同人には、多少の好奇心もない事はなかった。しかも切符を貰っている義理合い上、無下むげに断ことわってしまうのも気の毒だと云う遠慮があった。そこで彼はやむを得ず、大井と藤沢との後について、さっきの次の間まの隣にある、小さな部屋へ通ったのだった。
通って見ると部屋の中には、もう四五人の大学生が、フロックの清水昌一しみずしょういちと一しょに、小さな卓子テエブルを囲んでいた。藤沢はその連中を一々俊助に紹介した。その中では近藤こんどうと云う独逸ドイツ文科ぶんかの学生と、花房はなぶさと云う仏蘭西フランス文科の学生とが、特に俊助の注意を惹ひいた人物だった。近藤は大井よりも更に背の低い、大きな鼻眼鏡をかけた青年で、『城』同人の中では第一の絵画通と云う評判を荷っていた。これはいつか『帝国文学ていこくぶんがく』へ、堂々たる文展ぶんてんの批評を書いたので、自然名前だけは俊助の記憶にも残っているのだった。もう一人の花房は、一週間以前『鉢はちの木き』へ藤沢と一しょに来た黒のソフトで、英仏独伊の四箇国語しかこくごのほかにも、希臘語ギリシャごや羅甸語ラテンごの心得があると云う、非凡な語学通で通っていた。そうしてこれまた Hanabusa と署名のある英仏独伊希臘羅甸の書物が、時々本郷通ほんごうどおりの古本屋ふるぼんやに並んでいるので、とうから名前だけは俊助も承知している青年だった。この二人に比くらべると、ほかの『城』同人は存外特色に乏しかった。が、身綺麗みぎれいな服装の胸へ小さな赤薔薇あかばらの造花ぞうかをつけている事は、いずれも軌きを一にしているらしかった。俊助は近藤の隣へ腰を下しながら、こう云うハイカラな連中に交まじっている大井篤夫おおいあつおの野蛮やばんな姿を、滑稽に感ぜずにはいられなかった。
「御蔭様で、今夜は盛会でした。」
タキシイドを着た藤沢は、女のような柔やさしい声で、まず独唱家ソロイストの清水に挨拶した。
「いや、どうもこの頃は咽喉のどを痛めているもんですから――それより『城』の売行きはどうです? もう収支償つぐなうくらいには行くでしょう。」
「いえ、そこまで行ってくれれば本望なんですが――どうせ我々の書く物なんぞが、売れる筈はありゃしません。何しろ人道主義と自然主義と以外に、芸術はないように思っている世間なんですから。」
「そうですかね。だがいつまでも、それじゃすまないでしょう。その内に君の『ボオドレエル詩抄』が、羽根はねの生えたように売れる時が来るかも知れない。」
清水は見え透いた御世辞を云いながら、給仕の廻して来た紅茶を受けとると、隣に坐っていた花房はなぶさの方を向いて、
「この間の君の小説は、大へん面白く拝見しましたよ。あれは何から材料を取ったんですか。」
「あれですか。あれはゲスタ・ロマノルムです。」
「はあ、ゲスタ・ロマノルムですか。」
清水はけげんな顔をしながら、こう好い加減な返事をすると、さっきから鉈豆なたまめの煙管きせるできな臭くさい刻きざみを吹かせていた大井が、卓子テエブルの上へ頬杖をついて、
「何だい、そのゲスタ・ロマノルムってやつは?」と、無遠慮な問を抛ほうりつけた。・・・  
「或敵打の話」
・・・寛文かんぶん十年の夏、甚太夫じんだゆうは喜三郎きさぶろうと共に、雲州松江の城下へはいった。始めて大橋おおはしの上に立って、宍道湖しんじこの天に群むらがっている雲の峰を眺めた時、二人の心には云い合せたように、悲壮な感激が催された。考えて見れば一行は、故郷の熊本を後にしてから、ちょうどこれで旅の空に四度目の夏を迎えるのであった。
彼等はまず京橋きょうばし界隈かいわいの旅籠はたごに宿を定めると、翌日からすぐに例のごとく、敵の所在を窺い始めた。するとそろそろ秋が立つ頃になって、やはり松平家まつだいらけの侍に不伝流ふでんりゅうの指南をしている、恩地小左衛門おんちこざえもんと云う侍の屋敷に、兵衛ひょうえらしい侍のかくまわれている事が明かになった。二人は今度こそ本望が達せられると思った。いや、達せずには置かないと思った。殊に甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑え難い怒と喜を感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに平太郎へいたろう一人の敵かたきではなく、左近さこんの敵でもあれば、求馬もとめの敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾多の艱難を嘗なめさせた彼自身の怨敵おんてきであった。――甚太夫はそう思うと、日頃沈着な彼にも似合わず、すぐさま恩地の屋敷へ踏みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。
しかし恩地小左衛門は、山陰さんいんに名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手足しゅそくとなる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴はやりながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。
機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。その内に彼等の旅籠はたごの庭には、もう百日紅ひゃくじつこうの花が散って、踏石ふみいしに落ちる日の光も次第に弱くなり始めた。二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の祥月命日しょうつきめいにちを迎えた。喜三郎はその夜よ、近くにある祥光院しょうこういんの門を敲たたいて和尚おしょうに仏事を修して貰った。が、万一を慮おもんぱかって、左近の俗名ぞくみょうは洩もらさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した位牌いはいがあった。喜三郎は仏事が終ってから、何気なにげない風を装よそおって、所化しょけにその位牌の由縁ゆかりを尋ねた。ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり人びとが、月に二度の命日には必ず回向えこうに来ると云う答があった。「今日も早くに見えました。」――所化は何も気がつかないように、こんな事までもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、加納かのう親子や左近の霊が彼等に冥助みょうじょを与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。
甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の寺詣てらもうでに気づかなかった事を口惜くちおしく思った。「もう八日ようか経てば、大檀那様おおだんなさまの御命日でございます。御命日に敵が打てますのも、何かの因縁でございましょう。」――喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行燈あんどうを囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の菩提ぼだいを弔とむらっている兵衛の心を酌くむ事なぞは、二人とも全然忘却していた。
平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃ねたばを合せながら、心静しずかにその日を待った。今はもう敵打かたきうちは、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、ただその時刻だけであった。甚太夫は本望ほんもうを遂とげた後のちの、逃のき口くちまで思い定めていた。
ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、行燈あんどうの光で身仕度をした。甚太夫は菖蒲革しょうぶがわの裁付たっつけに黒紬くろつむぎの袷あわせを重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細い革の襷たすきをかけた。差料さしりょうは長谷部則長はせべのりながの刀に来国俊らいくにとしの脇差わきざしであった。喜三郎も羽織は着なかったが、肌はだには着込みを纏まとっていた。二人は冷酒ひやざけの盃を換かわしてから、今日までの勘定をすませた後、勢いよく旅籠はたごの門かどを出た。
外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた祥光院しょうこういんの門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。今朝けさの勘定は四文しもん釣銭が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ。」と云った。喜三郎はもどかしそうに、「高たかが四文のはした銭ぜにではございませんか。御戻りになるがものはございますまい。」と云って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞かなかった。「鳥目ちょうもくは元より惜しくはない。だが甚太夫ほどの侍も、敵打の前にはうろたえて、旅籠の勘定を誤ったとあっては、末代まつだいまでの恥辱になるわ。その方は一足先へ参れ。身どもは宿まで取って返そう。」――彼はこう云い放って、一人旅籠へ引き返した。喜三郎は甚太夫の覚悟に感服しながら、云われた通り自分だけ敵打の場所へ急いだ。
が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎と一しょになった。その日は薄雲が空に迷って、朧おぼろげな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、棗なつめの葉が黄ばんでいる寺の塀外へいそとを徘徊はいかいしながら、勇んで兵衛の参詣を待った。
しかしかれこれ午ひる近くなっても、未いまだに兵衛は見えなかった。喜三郎はいら立って、さりげなく彼の参詣の有無を寺の門番に尋ねて見た。が、門番の答にも、やはり今日はどうしたのだか、まだ参られぬと云う事であった。
二人は惴はやる心を静めて、じっと寺の外に立っていた。その間に時は用捨なく移って、やがて夕暮の色と共に、棗の実を食はみ落す鴉からすの声が、寂しく空に響くようになった。喜三郎は気を揉もんで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は頭かしらを振って、許す気色けしきも見せなかった。
やがて寺の門の空には、這はい塞ふさがった雲の間に、疎まばらな星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身を寄せて、執念しゅうねく兵衛を待ち続けた。実際敵を持つ兵衛の身としては、夜更よふけに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。
とうとう初夜しょやの鐘が鳴った。それから二更にこうの鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。
が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。・・・
・・・大団円
甚太夫じんだゆう主従は宿を変えて、さらに兵衛ひょうえをつけ狙った。が、その後ご四五日すると、甚太夫は突然真夜中から、烈しい吐瀉としゃを催し出した。喜三郎きさぶろうは心配の余り、すぐにも医者を迎えたかったが、病人は大事の洩れるのを惧おそれて、どうしてもそれを許さなかった。
甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の診脈しんみゃくを請うべく、ようやく病人を納得させた。そこで取りあえず旅籠はたごの主人に、かかりつけの医者を迎えて貰った。主人はすぐに人を走らせて、近くに技ぎを売っている、松木蘭袋まつきらんたいと云う医者を呼びにやった。
蘭袋は向井霊蘭むかいれいらんの門に学んだ、神方しんぽうの名の高い人物であった。が、一方また豪傑肌ごうけつはだの所もあって、日夜杯さかずきに親みながらさらに黄白こうはくを意としなかった。「天雲あまぐもの上をかけるも谷水をわたるも鶴つるのつとめなりけり」――こう自みずから歌ったほど、彼の薬を請うものは、上かみは一藩の老職から、下しもは露命も繋つなぎ難い乞食こじき非人ひにんにまで及んでいた。
蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、痢病りびょうと云う見立てを下くだした。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は癒なおらなかった。喜三郎は看病の傍かたわら、ひたすら諸々もろもろの仏神に甚太夫の快方を祈願した。病人も夜長の枕元に薬を煮にる煙を嗅かぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。
秋は益ますます深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡しばしば空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、やはり薬を貰いに来ている一人の仲間ちゅうげんと落ち合った。それが恩地小左衛門おんちこざえもんの屋敷のものだと云う事は、蘭袋の内弟子うちでしと話している言葉にも自おのずから明かであった。彼はその仲間が帰ってから、顔馴染かおなじみの内弟子に向って、「恩地殿のような武芸者も、病には勝てぬと見えますな。」と云った。「いえ、病人は恩地様ではありません。あそこに御出でになる御客人です。」――人の好さそうな内弟子は、無頓着にこう返事をした。
それ以来喜三郎は薬を貰いに行く度に、さりげなく兵衛の容子ようすを探った。ところがだんだん聞き出して見ると、兵衛はちょうど平太郎の命日頃から、甚太夫と同じ痢病のために、苦しんでいると云う事がわかった。して見れば兵衛が祥光院へ、あの日に限って詣もうでなかったのも、その病のせいに違いなかった。甚太夫はこの話を聞くと、一層病苦に堪えられなくなった。もし兵衛が病死したら、勿論いくら打ちたくとも、敵かたきの打てる筈はなかった。と云って兵衛が生きたにせよ、彼自身が命を墜おとしたら、やはり永年の艱難は水泡に帰すのも同然であった。彼はついに枕まくらを噛かみながら、彼自身の快癒を祈ると共に、併せて敵かたき瀬沼兵衛せぬまひょうえの快癒も祈らざるを得なかった。
が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に刻薄こくはくであった。彼の病は重おもりに重って、蘭袋らんたいの薬を貰ってから、まだ十日と経たない内に、今日か明日かと云う容態ようだいになった。彼はそう云う苦痛の中にも、執念しゅうねく敵打かたきうちの望を忘れなかった。喜三郎は彼の呻吟しんぎんの中に、しばしば八幡大菩薩はちまんだいぼさつと云う言葉がかすかに洩れるのを聞いた。殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、「おれは命が惜しいわ。」と云った。喜三郎は畳へ手をついたまま、顔を擡もたげる事さえ出来なかった。
その翌日、甚太夫は急に思い立って、喜三郎に蘭袋を迎えにやった。蘭袋はその日も酒気を帯びて、早速彼の病床を見舞った。「先生、永々の御介抱、甚太夫辱かたじけなく存じ申す。」――彼は蘭袋の顔を見ると、床とこの上に起直おきなおって、苦しそうにこう云った。「が、身ども息のある内に、先生を御見かけ申し、何分願いたい一儀がござる。御聞き届け下さりょうか。」蘭袋は快く頷うなずいた。すると甚太夫は途切とぎれ途切れに、彼が瀬沼兵衛をつけ狙ねらう敵打の仔細しさいを話し出した。彼の声はかすかであったが、言葉は長物語の間にも、さらに乱れる容子ようすがなかった。蘭袋は眉をひそめながら、熱心に耳を澄ませていた。が、やがて話が終ると、甚太夫はもう喘あえぎながら、「身ども今生こんじょうの思い出には、兵衛の容態ようだいが承うけたまわりとうござる。兵衛はまだ存命でござるか。」と云った。喜三郎はすでに泣いていた。蘭袋もこの言葉を聞いた時には、涙が抑えられないようであった。しかし彼は膝を進ませると、病人の耳へ口をつけるようにして、「御安心めされい。兵衛殿の臨終は、今朝こんちょう寅とらの上刻じょうこくに、愚老確かに見届け申した。」と云った。甚太夫の顔には微笑が浮んだ。それと同時に窶やつれた頬ほおへ、冷たく涙の痕あとが見えた。「兵衛――兵衛は冥加みょうがな奴でござる。」――甚太夫は口惜くちおしそうに呟つぶやいたまま、蘭袋に礼を云うつもりか、床の上へ乱れた頭かしらを垂れた。そうしてついに空しくなった。……
寛文かんぶん十年陰暦いんれき十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程に上のぼった。彼の振分ふりわけの行李こうりの中には、求馬もとめ左近さこん甚太夫じんだゆうの三人の遺髪がはいっていた。・・・  
「疑惑」
・・・「すると――何か私の講演に質疑でもあると仰有おっしゃるのですか。」
こう尋ねた私は内心ひそかに、「質疑なら明日みょうにち講演場で伺いましょう。」と云う体ていの善い撃退の文句を用意していた。しかし相手はやはり顔の筋肉一つ動かさないで、じっと袴の膝の上に視線を落しながら、
「いえ、質疑ではございません。ございませんが、実は私一身のふり方につきまして、善悪とも先生の御意見を承りたいのでございます。と申しますのは、唯今からざっと二十年ばかり以前、私はある思いもよらない出来事に出合いまして、その結果とんと私にも私自身がわからなくなってしまいました。つきましては、先生のような倫理学界の大家の御説を伺いましたら、自然分別もつこうと存じまして、今晩はわざわざ推参致したのでございます。いかがでございましょう。御退屈でも私の身の上話を一通り御聴き取り下さる訳には参りますまいか。」
私は答に躊躇ちゅうちょした。成程なるほど専門の上から云えば倫理学者には相違ないが、そうかと云ってまた私は、その専門の知識を運転させてすぐに当面の実際問題への霊活れいかつな解決を与え得るほど、融通の利きく頭脳の持ち主だとは遺憾ながら己惚うぬぼれる事が出来なかった。すると彼は私の逡巡しゅんじゅんに早くも気がついたと見えて、今まで袴はかまの膝の上に伏せていた視線をあげると、半ば歎願するように、怯おず怯おず私の顔色かおいろを窺いながら、前よりやや自然な声で、慇懃いんぎんにこう言葉を継ついだ。
「いえ、それも勿論強いて先生から、是非の御判断を伺わなくてはならないと申す訳ではございません。ただ、私がこの年になりますまで、始終頭を悩まさずにはいられなかった問題でございますから、せめてその間の苦しみだけでも先生のような方の御耳に入れて、多少にもせよ私自身の心やりに致したいと思うのでございます。」
こう云われて見ると私は、義理にもこの見知らない男の話を聞かないと云う訳には行かなかった。が、同時にまた不吉な予感と茫漠とした一種の責任感とが、重苦しく私の心の上にのしかかって来るような心もちもした。私はそれらの不安な感じを払い除けたい一心から、わざと気軽らしい態度を装よそおって、うすぼんやりしたランプの向うに近々と相手を招じながら、
「ではとにかく御話だけ伺いましょう。もっともそれを伺ったからと云って、格別御参考になるような意見などは申し上げられるかどうかわかりませんが。」
「いえ、ただ、御聞きになってさえ下されば、それでもう私には本望すぎるくらいでございます。」
中村玄道なかむらげんどうと名のった人物は、指の一本足りない手に畳の上の扇子をとり上げると、時々そっと眼をあげて私よりもむしろ床の間の楊柳観音ようりゅうかんのんを偸ぬすみ見ながら、やはり抑揚よくように乏しい陰気な調子で、とぎれ勝ちにこう話し始めた。・・・  
「報恩記」
・・・「どうかわたしを使って下さい。わたしは必ず働きます。京、伏見ふしみ、堺さかい、大阪、――わたしの知らない土地はありません。わたしは一日に十五里歩きます。力も四斗俵しとびょうは片手に挙あがります。人も二三人は殺して見ました。どうかわたしを使って下さい。わたしはあなたのためならば、どんな仕事でもして見せます。伏見の城の白孔雀しろくじゃくも、盗めと云えば、盗んで来ます。『さん・ふらんしすこ』の寺の鐘楼しゅろうも、焼けと云えば焼いて来ます。右大臣家うだいじんけの姫君も、拐かどわかせと云えば拐して来ます。奉行の首も取れと云えば、――」
わたしはこう云いかけた時、いきなり雪の中へ蹴倒けたおされました。
「莫迦ばかめ!」
甚内じんないは一声叱ったまま、元の通り歩いて行きそうにします。わたしはほとんど気違いのように法衣ころもの裾すそへ縋すがりつきました。
「どうかわたしを使って下さい。わたしはどんな場合にも、きっとあなたを離れません。あなたのためには水火にも入ります。あの『えそぽ』の話の獅子王ししおうさえ、鼠ねずみに救われるではありませんか? わたしはその鼠になります。わたしは、――」
「黙れ。甚内は貴様なぞの恩は受けぬ。」甚内はわたしを振り放すと、もう一度そこへ蹴倒しました。
「白癩びゃくらいめが! 親孝行でもしろ!」
わたしは二度目に蹴倒された時、急に口惜くやしさがこみ上げて来ました。
「よし! きっと恩になるな!」
しかし甚内は見返りもせず、さっさと雪路ゆきみちを急いで行きます。いつかさし始めた月の光に網代あじろの笠かさを仄ほのめかせながら、……それぎりわたしは二年の間あいだ、ずっと甚内を見ずにいるのです。(突然笑う)「甚内は貴様なぞの恩は受けぬ」……あの男はこう云いました。しかしわたしは夜よの明け次第、甚内の代りに殺されるのです。
ああ、おん母「まりや様!」わたしはこの二年間、甚内の恩を返したさに、どのくらい苦しんだか知れません。恩を返したさに?――いや、恩と云うよりも、むしろ恨うらみを返したさにです。しかし甚内はどこにいるか? 甚内は何をしているか?――誰にそれがわかりましょう? 第一甚内はどんな男か?――それさえ知っているものはありません。わたしが遇あった贋雲水にせうんすいは四十前後の小男です。が、柳町やなぎまちの廓くるわにいたのは、まだ三十を越えていない、赧あから顔に鬚ひげの生えた、浪人だと云うではありませんか? 歌舞伎かぶきの小屋を擾さわがしたと云う、腰の曲った紅毛人こうもうじん、妙国寺みょうこくじの財宝ざいほうを掠かすめたと云う、前髪の垂れた若侍、――そう云うのを皆甚内とすれば、あの男の正体しょうたいを見分ける事さえ、到底とうてい人力には及ばない筈です。そこへわたしは去年の末から、吐血とけつの病に罹かかってしまいました。
どうか恨うらみを返してやりたい、――わたしは日毎に痩やせ細りながら、その事ばかりを考えていました。するとある夜わたしの心に、突然閃ひらめいた一策があります。「まりや」様! 「まりや」様! この一策を御教え下すったのは、あなたの御恵みに違いありません。ただわたしの体を捨てる、吐血とけつの病に衰え果てた、骨と皮ばかりの体を捨てる、――それだけの覚悟をしさえすれば、わたしの本望は遂げられるのです。わたしはその夜よ嬉しさの余り、いつまでも独り笑いながら、同じ言葉を繰返していました。――「甚内の身代みがわりに首を打たれる。甚内の身代りに首を打たれる。………」
甚内の身代りに首を打たれる――何とすばらしい事ではありませんか? そうすれば勿論わたしと一しょに、甚内の罪も亡ほろんでしまう。――甚内は広い日本にっぽん国中、どこでも大威張おおいばりに歩けるのです。その代り(再び笑う)――その代りわたしは一夜の内に、稀代きだいの大賊たいぞくになれるのです。呂宋助左衛門るそんすけざえもんの手代てだいだったのも、備前宰相びぜんさいしょうの伽羅きゃらを切ったのも、利休居士りきゅうこじの友だちになったのも、沙室屋しゃむろやの珊瑚樹さんごじゅを詐かたったのも、伏見の城の金蔵かねぐらを破ったのも、八人の参河侍みかわざむらいを斬り倒したのも、――ありとあらゆる甚内の名誉は、ことごとくわたしに奪われるのです。(三度さんど笑う)云わば甚内を助けると同時に、甚内の名前を殺してしまう、一家の恩を返すと同時に、わたしの恨うらみも返してしまう、――このくらい愉快な返報へんぽうはありません。わたしがその夜よ嬉しさの余り、笑い続けたのも当然です。今でも、――この牢ろうの中でも、これが笑わずにいられるでしょうか?
わたしはこの策を思いついた後、内裏だいりへ盗みにはいりました。宵闇よいやみの夜よの浅い内ですから、御簾みす越しに火影ほかげがちらついたり、松の中に花だけ仄ほのめいたり、――そんな事も見たように覚えています。が、長い廻廊かいろうの屋根から、人気ひとけのない庭へ飛び下りると、たちまち四五人の警護けいごの侍に、望みの通り搦からめられました。その時です。わたしを組み伏せた鬚侍ひげざむらいは、一生懸命に縄なわをかけながら、「今度こそは甚内を手捕りにしたぞ」と、呟つぶやいていたではありませんか? そうです。阿媽港甚内あまかわじんないのほかに、誰が内裏だいりなぞへ忍びこみましょう? わたしはこの言葉を聞くと、必死にもがいている間あいだでも、思わず微笑びしょうを洩らしたものです。
「甚内は貴様なぞの恩にはならぬ。」――あの男はこう云いました。しかしわたしは夜よの明け次第、甚内の代りに殺されるのです。何と云う気味きみの好よい面当つらあてでしょう。わたしは首を曝さらされたまま、あの男の来るのを待ってやります。甚内はきっとわたしの首に、声のない哄笑こうしょうを感ずるでしょう。「どうだ、弥三郎やさぶろうの恩返しは?」――その哄笑はこう云うのです。「お前はもう甚内では無い。阿媽港甚内はこの首なのだ、あの天下に噂の高い、日本にっぽん第一の大盗人おおぬすびとは!」(笑う)ああ、わたしは愉快です。このくらい愉快に思った事は、一生にただ一度です。が、もし父の弥三右衛門やそうえもんに、わたしの曝さらし首を見られた時には、――(苦しそうに)勘忍して下さい。お父さん! 吐血の病に罹かかったわたしは、たとい首を打たれずとも、三年とは命は続かないのです。どうか不孝は勘忍して下さい、わたしは極道ごくどうに生まれましたが、とにかく一家の恩だけは返す事が出来たのですから、・・・  
「邪宗門」
・・・しかしあの飽くまでも、物に御騒ぎにならない若殿様は、すぐに勇気を御取り直しになって、悠々と扇を御弄おもてあそびなさりながら、
「待て。待て。予の命が欲しくば、次第によって呉れてやらぬものでもない。が、その方どもは、何でそのようなものを欲しがるのじゃ。」と、まるで人事のように御尋ねになりました。すると頭立かしらだった盗人は、白刃しらはを益ますます御胸へ近づけて、
「中御門なかみかどの少納言殿は、誰故の御最期ごさいごじゃ。」
「予は誰やら知らぬ。が、予でない事だけは、しかとした証あかしもある。」
「殿か、殿の父君か。いずれにしても、殿は仇かたきの一味じゃ。」
頭立った一人がこう申しますと、残りの盗人どもも覆面の下で、
「そうじゃ。仇の一味じゃ。」と、声々に罵り交しました。中にもあの平太夫へいだゆうは歯噛みをして、車の中を獣のように覗きこみながら、太刀たちで若殿様の御顔を指さしますと、
「さかしらは御無用じゃよ。それよりは十念じゅうねんなと御称え申されい。」と、嘲笑あざわらうような声で申したそうでございます。
が、若殿様は相不変あいかわらず落ち着き払って、御胸の先の白刃も見えないように、
「してその方たちは、皆少納言殿の御内みうちのものか。」と、抛ほうり出すように御尋ねなさいました。すると盗人たちは皆どうしたのか、一しきり答にためらったようでございましたが、その気色けしきを見てとった平太夫は、透かさず声を励まして、
「そうじゃ。それがまた何と致した。」
「いや、何とも致さぬが、もしこの中に少納言殿の御内みうちでないものがいたと思え。そのものこそは天あめが下したの阿呆あほうものじゃ。」
若殿様はこう仰有おっしゃって、美しい歯を御見せになりながら、肩を揺ゆすって御笑いになりました。これには命知らずの盗人たちも、しばらくは胆きもを奪われたのでございましょう。御胸に迫っていた太刀先さえ、この時はもう自然と、車の外の月明りへ引かれていたと申しますから。
「なぜと申せ。」と、若殿様は言葉を御継ぎになって、「予を殺害せつがいした暁には、その方どもはことごとく検非違使けびいしの目にかかり次第、極刑ごっけいに行わるべき奴ばらじゃ。元よりそれも少納言殿の御内のものなら、己おのが忠義に捨つる命じゃによって、定めて本望に相違はあるまい。が、さもないものがこの中にあって、わずかばかりの金銀が欲しさに、予が身を白刃に向けるとすれば、そやつは二つとない大事な命を、その褒美ほうびと換えようず阿呆ものじゃ。何とそう云う道理ではあるまいか。」
これを聞いた盗人たちは、今更のように顔を見合せたけはいでございましたが、平太夫へいだゆうだけは独り、気違いのように吼たけり立って、
「ええ、何が阿呆ものじゃ。その阿呆ものの太刀にかかって、最期さいごを遂げる殿の方が、百層倍も阿呆ものじゃとは覚されぬか。」
「何、その方どもが阿呆ものだとな。ではこの中うちに少納言殿の御内でないものもいるのであろう。これは一段と面白うなって参った。さらばその御内でないものどもに、ちと申し聞かす事がある。その方どもが予を殺害しようとするのは、全く金銀が欲しさにする仕事であろうな。さて金銀が欲しいとあれば、予はその方どもに何なりと望み次第の褒美を取らすであろう。が、その代り予の方にもまた頼みがある。何と、同じ金銀のためにする事なら、褒美の多い予の方に味方して、利得を計ったがよいではないか。」
若殿様は鷹揚おうように御微笑なさりながら、指貫さしぬきの膝を扇で御叩きになって、こう車の外の盗人どもと御談じになりました。・・・
 
泉鏡花

 

    「高野聖」
「印度更紗」
・・・「あんな顔をして、」と夫人は声を沈めたが、打仰うちあおぐやうに籠を覗のぞいた。
「お前さん、お知己ちかづきぢやありませんか。尤もっとも御先祖の頃だらうけれど――其の黒人くろんぼも……和蘭陀オランダ人も。」
で、木彫の、小さな、護謨細工ゴムざいくのやうに柔かに襞襀ひだの入つた、靴をも取つて籠の前に差置さしおいて、
「此のね、可愛らしいのが、其の時の、和蘭陀館オランダやかたの貴公子ですよ。御覧、――お待ちなさいよ。恁こうして並べたら、何だか、もの足りないから。」
フト夫人は椅子を立つたが、前に挟んだ伊達巻だてまきの端をキウと緊しめた。絨氈じゅうたんを運ぶ上靴は、雪に南天なんてんの実みの赤きを行く……
書棚を覗のぞいて奥を見て、抽出ぬきだす論語の第一巻――邸やしきは、置場所のある所とさへ言へば、廊下の通口かよいぐちも二階の上下うえしたも、ぎつしりと東西の書もつの揃そろつた、硝子戸がらすどに突当つきあたつて其から曲る、……本箱の五いつツ七ななツが家の五丁目七丁目で、縦横じゅうおうに通ずるので。……こゝの此の書棚の上には、花は丁ちょうど挿さしてなかつた、――手附てつきの大形の花籠はなかごと並べて、白木しらきの桐きりの、軸ものの箱が三みツばかり。其の真中の蓋ふたの上に……
恁こう仰々ぎょうぎょうしく言出いいだすと、仇かたきの髑髏しゃれこうべか、毒薬の瓶びんか、と驚かれよう、真個まったくの事を言ひませう、さしたる儀でない、紫むらさきの切きれを掛けたなりで、一尺しゃく三寸ずん、一口ひとふりの白鞘しらさやものの刀がある。
と黒目勝くろめがちな、意味の深い、活々いきいきとした瞳ひとみに映ると、何思ひけむ、紫ぐるみ、本に添へて、すらすらと持つて椅子に帰つた。
其だけで、身の悩ましき人は吻ほっと息する。
「さあ、此の本が、唐土もろこしの人……揃つたわね、主人も、客も。
而そして鰐わにの晩飯時分、孔雀くじゃくのやうな玉たまの燈籠とうろうの裡うちで、御馳走ごちそうを会食して居る……
一寸ちょいと、其の高楼たかどのを何処どこだと思ひます……印度インドの中のね、蕃蛇剌馬ばんじゃらあまん……船着ふなつきの貿易所、――お前さんが御存じだよ、私よりか、」と打微笑うちほほえみ、
「主人しゅじんは、支那しなの福州ふくしゅうの大商賈おおあきんどで、客は、其も、和蘭陀オランダの富豪父子かねもちおやこと、此の島の酋長しゅうちょうなんですがね、こゝでね、皆みんながね、たゞ一ひとツ、其だけに就ついて繰返して話して居たのは、――此のね、酋長の手から買取つて、和蘭陀の、其の貴公子が、此の家うちへ贈りものにした――然そうね、お前さんの、あの、御先祖と云ふと年寄染としよりじみます、其の時分は少わかいのよ。出が王様の城だから、姫君の鸚鵡おうむが一羽いちわ。
全身緋色ひいろなんだつて。……
此が、哥太寛こたいかんと云ふ、此家ここの主人あるじたち夫婦の秘蔵娘で、今年十八に成る、哥鬱賢こうつけんと云うてね、島第一の美しい人のものに成つたの。和蘭陀の公子は本望ほんもうでせう……実は其が望みだつたらしいから――
鸚鵡は多年馴ならしてあつて、土地の言語は固もとよりだし、瓜哇ジャワ、勃泥亜ボルネオの訛なまりから、馬尼剌マニラ、錫蘭セイロン、沢山たんとは未まだなかつた、英吉利イギリスの語も使つて、其は……怜悧りこうな娘をはじめ、誰にも、よく解るのに、一ひとツ人の聞馴ききなれない、不思議な言語ことばがあつたんです。
以前の持主、二度目のはお取次とりつぎ、一人も仕込んだ覚えはないから、其の人たちは無論の事、港へ出入る、国々島々のものに尋ねても、まるつきし通じない、希有けうな文句を歌ふんですがね、検しらべて見ると、其が何なの、此の内へ来てから、はじまつたと分つたんです。
何かの折の御馳走に、哥太寛こたいかんが、――今夜だわね――其の人たちを高楼たかどのに招まねいて、話の折に、又其の事を言出いいだして、鸚鵡おうむの口真似もしたけれども、分らない文句は、鳥の声とばツかし聞えて、傍そばで聞く黒人くろんぼたちも、妙な顔色かおつきで居る所……ね……
其処そこへですよ、奥深く居て顔は見せない、娘の哥鬱賢こうつけんから、妼こしもとが一人使者つかいで出ました……」・・・  
「二世の契」
・・・「お前様一枚脱いでなり、濡ぬれたあとで寒うござろ。」
「震へるやうです、全く。」
「掛けるものを貸して進ぜましよ、矢張やっぱり内端うちわぢや、お前様立つて取らつしやれ、何なになう、私わしがなう、ありやうは此の糸の手を放すと事ぢや、一寸ちょっとでも此の糸を切るが最後、お前様の身が危あぶないで、いゝや、いゝや、案じさつしやるないの。又また不思議がらつしやるが、目に見えぬで、どないな事があらうも知れぬが世間の習ならいぢや。よりもかゝらず、蜘蛛くもの糸より弱うても、私わしが居るから可よいわいの、さあ/\立つて取らつしやれ、被かけるものはの、他ほかにない、あつても気味が悪からうず、少わかい人には丁度ちょうど持つて来い、枯野かれのに似合ぬ美しい色のあるものを貸しませうず。
あゝ、いや、其の蓑みのではないぞの、屏風びょうぶを退のけて、其の蓑を取つて見やしやれいなう。」と糸車の前をずりもせず、顔ばかり振向ふりむく方かた。
桂木は、古びた雨漏あまもりだらけの壁に向つて、衝つと立つた、唯と見れば一領いちりょう、古蓑ふるみのが描ける墨絵すみえの滝の如く、梁うつばりに掛かかつて居たが、見てはじめ、人の身体からだに着るのではなく、雨露あめつゆを凌しのぐため、破家あばらやに絡まとうて置くのかと思つた。
蜂はちの巣のやう穴だらけで、炉の煙は幾条いくすじにもなつて此処ここからも潜もぐつて壁の外へ染にじみ出す、破屏風やれびょうぶを取とりのけて、さら/\と手に触れると、蓑はすつぽりと梁はりを放はなれる。
下に、絶壁の磽确こうかくたる如く、壁に雨漏の線が入つた処ところに、すらりとかゝつた、目覚めざめるばかり色好いろよき衣きぬ、恁かかる住居すまいに似合ない余りの思ひがけなさに、媼おうなの通力つうりき、枯野かれの忽たちまち深山みやまに変じて、こゝに蓑の滝、壁の巌いわお、もみぢの錦にしきかと思つたので。
桂木は目を睜みはつて、
「お媼ばあさん。」
「おゝ、其ぢや、何と丁ちょうどよからうがの、取つて掻巻かいまきにさつしやれいなう。」
裳もすそは畳たたみにつくばかり、細く褄つまを引合ひきあわせた、両袖りょうそでをだらりと、固もとより空蝉うつせみの殻なれば、咽喉のどもなく肩もない、襟えりを掛けて裏返しに下げてある、衣紋えもんは梁うつばりの上に日の通さぬ、薄暗い中うちに振仰ふりあおいで見るばかりの、丈たけ長ながき女の衣きぬ、低い天井から桂木の背せなを覗のぞいて、薄煙うすけむりの立迷たちまよふ中に、一本ひともとの女郎花おみなえし、枯野かれのに彳たたずんで淋さみしさう、然しかも何なんとなく活々いきいきして、扱帯しごき一筋ひとすじ纏まとうたら、裾すそも捌さばかず、手足もなく、俤おもかげのみがすら/\と、炉の縁ふちを伝ふであらう、と桂木は思はず退すさつた。
「大事ない/\、袷あわせぢやけれどの、濡ぬれた上衣うわぎよりは増ましでござろわいの、主ぬしも分つてある、麗あでやかな娘のぢやで、お前様に殆ちょうど可よいわ、其主そのぬしもまたの、お前様のやうな、少わかい綺麗きれいな人と寝たら本望ほんもうぢやろ、はゝはゝはゝ。」
腹蔵ふくぞうなく大笑おおわらいをするので、桂木は気を取直とりなおして、密そっと先まづ其の袂たもとの端に手を触れた。
途端に指の尖さきを氷のやうな針で鋭く刺さうと、天窓あたまから冷ひやりとしたが、小袖こそではしつとりと手にこたへた、取り外はずし、小脇に抱く、裏が上になり、膝ひざのあたり和やわらかに、褄つましとやかに袷の裾なよ/\と畳に敷いて、襟は仰向あおむけに、譬たとえば胸を反そらすやうにして、桂木の腕にかゝつたのである。
さて見れば、鼠縮緬ねずみちりめんの裾廻すそまわし、二枚袷にまいあわせの下着と覚おぼしく、薄兼房うすけんぼうよろけ縞じまのお召縮緬めしちりめん、胴抜どうぬきは絞つたやうな緋の竜巻、霜しもに夕日の色染そめたる、胴裏どううらの紅くれない冷つめたく飜かえつて、引けば切れさうに振ふりが開あいて、媼おうなが若き時の名残なごりとは見えず、当世の色あざやかに、今脱いだかと媚なまめかしい。
熟じっと見るうちに我にもあらず、懐しく、床ゆかしく、いとしらしく、殊ことにあはれさが身に染しみて、まゝよ、ころりと寝て襟のあたりまで、銃を枕に引ひっかぶる気になつた、ものの情なさけを知るものの、恁かくて妖魔の術中に陥おちいらうとは、いつとはなしに思ひ思はず。・・・  
「菎蒻本」
・・・その瞼に朱を灌そそぐ……汗の流るる額を拭ぬぐって、
「……時に、その枕頭まくらもとの行燈あんどんに、一挺消さない蝋燭があって、寂然しんと間まを照てらしておりますんでな。
――あれは――
――水天宮様のお蝋です――と二つ並んだその顔が申すんでございます。灯の影には何が映るとお思いなさる、……気になること夥おびただしい。
――消さないかい――
――堪忍して――
是非と言えば、さめざめと、名の白露が姿を散らして消えるばかりに泣きますが。推量して下さいまし、愛想尽あいそづかしと思うがままよ、鬼だか蛇じゃだか知らない男と一つ処……せめて、神仏かみほとけの前で輝いた、あの、光一ツ暗やみに無うては恐怖こわくて死んでしまうのですもの。もし、気になったら、貴方あなたばかり目をお瞑つむりなさいまし。――と自分は水晶のような黒目がちのを、すっきり睜みはって、――昼さえ遊ぶ人がござんすよ、と云う。
可よし、神仏もあれば、夫婦もある。蝋燭が何の、と思う。その蝋燭が滑々すべすべと手に触る、……扱帯しごきの下に五六本、襟の裏にも、乳ちの下にも、幾本となく忍ばしてあるので、ぎょっとしました。残らず、一度は神仏の目の前で燃え輝いたのでございましょう、……中には、口にするのも憚はばかる、荒神あらがみも少くはありません。
ばかりでない。果ては、その中から、別に、綺麗な絵の蝋燭を一挺抜くと、それへ火を移して、銀簪ぎんかんざしの耳に透とおす。まずどうするとお思いなさる、……後で聞くとこの蝋燭の絵は、その婦おんなが、隙ひまさえあれば、自分で剳青ほりもののように縫針で彫って、彩色いろどりをするんだそうで。それは見事でございます。
また髪は、何十度逢っても、姿こそ服装なりこそ変りますが、いつも人柄に似合わない、あの、仰向あおむけに結んで、緋ひや、浅黄や、絞しぼりの鹿かの子の手絡てがらを組んで、黒髪で巻いた芍薬しゃくやくの莟つぼみのように、真中まんなかへ簪かんざしをぐいと挿す、何転進てんじんとか申すのにばかり結う。
何と絵蝋燭を燃したのを、簪で、その髷まげの真中へすくりと立てて、烏羽玉うばたまの黒髪に、ひらひらと篝火かがりびのひらめくなりで、右にもなれば左にもなる、寝返りもするのでございます。
――こうして可愛がって下さいますなら、私ゃ死んでも本望です――とこれで見るくらいまた、白露のその美しさと云ってはない。が、いかな事にも、心を鬼に、爪を鷲わしに、狼の牙きばを噛鳴かみならしても、森で丑うしの時参詣まいりなればまだしも、あらたかな拝殿で、巫女みこの美女を虐殺なぶりごろしにするようで、笑靨えくぼに指も触れないで、冷汗を流しました。……
それから悩乱。
因果と思切れません……が、
――まあ嬉しい――と云う、あの、容子ようすばかりも、見て生命いのちが続けたさに、実際、成田へも中山へも、池上、堀の内は申すに及ばず。――根も精も続く限り、蝋燭の燃えさしを持っては通い、持っては通い、身も裂き、骨も削りました。
昏くらんだ目は、昼遊びにさえ、その燈ともしびに眩まぶしいので。
手足の指を我と折って、頭髪ずはつを掴つかんで身悶みもだえしても、婦おんなは寝るのに蝋燭を消しません。度かさなるに従って、数を増し、燈ひを殖ふやして、部屋中、三十九本まで、一度に、神々の名を輝かして、そして、黒髪に絵蝋燭の、五色の簪を燃して寝る。
その媚なまめかしさと申すものは、暖かに流れる蝋燭より前さきに、見るものの身が泥になって、熔とけるのでございます。忘れません。
困果と業ごうと、早やこの体ていになりましたれば、揚代あげだいどころか、宿までは、杖に縋すがっても呼吸いきが切れるのでございましょう。所詮の事に、今も、婦おんなに遣わします気で、近い処の縁日だけ、蝋燭の燃えさしを御合力おごうりょくに預ります。すなわちこれでございます。」と袂たもとを探ったのは、ここに灯ひともしたのは別に、先刻さっきの二七のそれであった。
犬のしきりに吠ほゆる時――
「で、さてこれを何にいたすとお思いなさいます。懺悔ざんげだ、お目に掛けるものがある。」
「大変だ、大変だ。何だって和尚さん、奴もそれまでになったんだ。気の毒だと思ってその女がくれたんだろうね、緋ひの長襦袢ながじゅばんをどうだろう、押入の中へ人形のように坐らせた。胴へは何を入れたかね、手も足もないんでさ。顔がと云うと、やがて人ぐらいの大きさに、何十挺だか蝋燭を固めて、つるりとやっぱり蝋を塗って、細工をしたんで。そら、燃えさしの処が上になってるから、ぽちぽち黒く、女鳴神おんななるかみッて頭でさ。色は白いよ、凄すごいよ、お前さん、蝋だもの。
私わっしあ反そったねえ、押入の中で、ぼうとして見えた時は、――それをね、しなしなと引出して、膝へ横抱きにする……とどうです。
欠火鉢かけひばちからもぎ取って、その散髪ざんぎりみたいな、蝋燭の心へ、火を移す、ちろちろと燃えるじゃねえかね。
ト舌は赤いよ、口に締りをなくして、奴め、ニヤニヤとしながら、また一挺、もう一本、だんだんと火を移すと、幾筋も、幾筋も、ひょろひょろと燃えるのが、搦からみ合って、空へ立つ、と火尖ひさきが伸びる……こうなると可恐おそろしい、長い髪の毛の真赤まっかなのを見るようですぜ。
見る見る、お前さん、人前も構う事か、長襦袢の肩を両肱りょうひじへ巻込んで、汝てめえが着るように、胸にも脛すねにも搦からみつけたわ、裾すそがずるずると畳へ曳ひく。
自然とほてりがうつるんだってね、火の燃える蝋燭は、女のぬくみだッさ、奴が言う、……可ようがすかい。
頬辺ほっぺたを窪ますばかり、歯を吸込んで附着くッつけるんだ、串戯じょうだんじゃねえ。
ややしばらく、魂が遠くなったように、静じっとしていると思うと、襦袢の緋が颯さっと冴えて、揺れて、靡なびいて、蝋に紅あかい影が透とおって、口惜くやしいか、悲かなしいか、可哀あわれなんだか、ちらちらと白露を散らして泣く、そら、とろとろと煮えるんだね。嗅かぐさ、お前さん、べろべろと舐なめる。目から蝋燭の涙を垂らして、鼻へ伝わらせて、口へ垂らすと、せいせい肩で呼吸いきをする内に、ぶるぶると五体を震わす、と思うとね、横倒れになったんだ。さあ、七顛八倒しちてんばっとう、で沼みたいな六畳どろどろの部屋を転摺のめずり廻る……炎が搦からんで、青蜥蜴あおとかげの踠打のたうつようだ。
私わっしあ夢中で逃出した。――突然いきなり見附へ駈着かけつけて、火の見へ駈上かけあがろうと思ったがね、まだ田町から火事も出ずさ。
何しろ馬鹿だね、馬鹿も通越しているんだね。」
お不動様の御堂みどうを敲たたいて、夜中にこの話をした、下塗したぬりの欣八が、
「だが、いい女らしいね。」と、後へ附加えた了簡りょうけんが悪かった。
「欣八、気を附けねえ。」
「顔色が変だぜ。」
友達が注意するのを、アハハと笑消して、
「女あまがボーッと来た、下町ア火事だい。」と威勢よく云っていた。が、ものの三月と経たたぬ中うちにこのべらぼう、たった一人の女房の、寝顔の白い、緋手絡ひてがらの円髷まるまげに、蝋燭を突刺つッさして、じりじりと燃して火傷やけどをさした、それから発狂した。
但し進藤とは違う。陰気でない。縁日とさえあればどこへでも押掛けて、鏝塗こてぬりの変な手つきで、来た来たと踊りながら、
「蝋燭をくんねえか。」
怪あやしむべし、その友達が、続いて――また一人。・・・  
「錦染滝白糸」
・・・白糸、横を向きつつ、一室の膳に目をつける。気をかえ煙草たばこを飲まんとす。火鉢に火なし。
白糸 火ぐらいおこしておきなさいなね、芝居をしていないでさ。
欣弥 (顔を上げながら、万感胸に交々こもごも、口吃きっし、もの云うあたわず。)
撫子 (慌あわただしく立ち、一室なる火鉢を取って出づ。さしよりて)太夫さん。
白糸 私は……今日は見物さ。
欣弥 おい、お茶を上げないかい。何は、何は、何か、菓子は。
撫子 (立つ。)
白糸 そんなに、何も、お客あつかい。敬して何とかってしなくっても可ようござんす。お茶のお給仕なら私がするわ。
勝手に行ゆくふり、颯さっと羽織を脱ぎかく。
欣弥 飛んでもない、まあ、どうか、どうか、それに。
白糸 ああ、女中のお目見得めみえがいけないそうだ。それじゃ、私帰ります。失礼。
欣弥 (笑う)何を云うのだ、帰ると云ってどこへ帰る。あの時、長野の月の橋で、――一生、もう、決して他人ではないと誓ったじゃないか。――此家ここへ来てくれた以上は、門も、屋根も、押入も、畳も、その火鉢も、皆みんな、姉ねえさんのものじゃないか。
白糸 おや、姉さんとなりましたよ。誰かに教おそわったね。だあれかも、またいまのようなうまい口に――欣さん、門も、屋根も押入も……そして、貴女あなたは、誰のもの?
欣弥 (無言。)
白糸 失礼!(立つ。)
欣弥 大恩人じゃないか、どうすれば可いい。お友さん。
白糸 恩人なんか、真ッ平です。私は女中になりたいの。
欣弥 そんな、そんな無理なことを。
撫子 太夫さん。(間)姉さん、貴女は何か思違いをなすってね。
白糸 ええ、お勝手を働こうと思違いをして来ました。(投げたように)お目見得に、落第か、失礼。
欣弥 ええ、とにかく、まあ、母に逢って下さい、お位牌いはいに逢っておくれ。撮写うつすのは嫌だ、と云って写真はくれず、母はね、いまわの際まで、お友さん、姉さま、と云ってお前に逢いたがった。(声くもる)そして、現うつつに、夢心ゆめごこちに、言いあてたお前の顔が、色艶いろつやから、目鼻立まで、そっくりじゃないか。さあ。(位牌を捧げ、台に据う。)
白糸 (衣紋えもんを直し、しめやかに手を支つかう)お初に……(おなじく声を曇らしながら、また、同じように涙ぐみて、うしろについ居る撫子を見て、ツツと位牌を取り、胸にしかと抱いて、居直って)お姑様しゅうとさん、おっかさん、たとい欣さんには見棄てられても、貴女にばかりは抱だきついて甘えてみとうござんした。おっかさん、私ゃ苦労をしましたよ。……御修業中の欣さんに心配を掛けてはならないと何にも言わずにいたんです。窶やつれた顔を見て下さい。お友、可哀想に、ふびんな、とたった一言ひとこと。貴女がおっしゃって下さいまし。お位牌を抱けば本望です。(もとへ直す)手も清めないで、失礼な、堪忍して下さいまし。心が乱れて不可いけません。またお目にかかります。いいえ、留めないで。いいえ、差当った用がござんす。
思切りよくフイと行ゆくを、撫子慌あわただしく縋すがって留とどむ。白糸、美しき風のごとく格子を出でてハタと鎖とざす。撫子指を打って悩む。
欣弥 (続いて)私は、俺おれは、婦おんなの後へは駈出かけだせない、早く。
撫子 (ややひぞる。)
欣弥 早く、さあ早く。
撫子 (門かどを出で、花道にて袖を取る)太夫さん……姉さん。
白糸 お放し!
撫子 いいえ。・・・  
「山吹」
・・・はじめ二人。紫の切きれのさげ髪と、白丈長しろたけながの稚髷ちごまげとにて、静しずかにねりいで、やがて人形使、夫人、画家たちを怪あやしむがごとく、ばたばたと駈かけ抜けて、花道の中ばに急ぐ。画家と夫人と二人、言い合せたるごとく、ひとしくおなじ向きに立つ。人形使もまた真似るがごとく、ひとしくともに手まねき、ひとしくともにさしまねく、この光景怪しく凄すごし。妖気ようきおのずから場じょうに充みつ。稚児二人引戻さる。
画家 いい児こだ。ちょっと頼まれておくれ。
夫人 可愛い、お稚児さんね。
画家 (外套を脱ぎ、草に敷く)奥さん、爺さんと並んでお敷きなさい。
夫人 まあ、勿体ない。
画家 いや、その位な事は何でもありません。が貴女の病気で、私も病気になったかも知れません。――さあ、二人でお酌をしてあげておくれ。
夫人、人形使と並び坐す。稚児二人あたかも鬼に役えきせらるるもののごとく、かわるがわる酌をす。静寂、雲くらし。鶯うぐいすはせわしく鳴く。笙しょう篳篥ひちりき幽かすかに聞ゆ。――南無大師遍照金剛――次第に声近づき、やがて村の老若男女十四五人、くりかえし唱えつつ来きたる。
村の人一 ええ、まあ、御身おみたちゃあ何をしとるだ。
村の人二 大師様のおつかい姫だ思うで、わざと遠く離れてるだに。
村の人三 うしろから拝んで歩行あるくだに――いたずらをしてはなんねえ。
村の人四五六 (口々に)来こうよ来うよ。(こんどは稚児を真中まんなかに)南無大師遍照金剛、……(かくて、幕に入いる。)
夫人 (外套をとり、塵ちりを払い、画家にきせかく)ただ一度ありましたわね――お覚おぼえはありますまい。酔っていらしって、手をお添えになりました。この手に――もう一度、今生こんじょうの思出に、もう一度。本望です。(草に手をつく)貴方、おなごり惜しゅう存じます。
画家 私こそ。(喟然きぜんとする。)
夫人 爺おじさん、さあ、行ゆこう。
人形使 ええ、ええ。さようなら旦那様。
夫人 行こうよ。
二人行きかかる。本雨。
画家 (つかつかと出で、雨傘を開き、二人にさしかく)お持ちなさい。
夫人 貴方は。
画家 雨ぐらいは何の障さわりもありません。
夫人 お志頂戴します。(傘を取る時)ええ、こんなじゃ。
激しく跣足はだしになり、片褄かたづまを引上ぐ、緋ひの紋縮緬もんちりめんの長襦袢ながじゅばん艶絶えんぜつなり。爺おやじの手をぐいと曳ひく。
人形使 (よたよたとなって続きつつ)南無大師遍照金剛。
夫人 (花道の半ばにして振かえる)先生。
画家 (やや、あとに続き見送る。)
夫人 世間へ、よろしく。……さようなら、……
画家 御機嫌よう。
夫人 (人形使の皺手しわでを、脇に掻込かいこむばかりにして、先に、番傘をかざして、揚幕へ。――)
画家 (佇たたずみ立つ。――間。――人形使の声揚幕の内より響く。)
――南無大師遍照金剛――
夫人の声も、またきこゆ。
――南無大師遍照金剛――
画家 うむ、魔界かな、これは、はてな、夢か、いや現実だ。――(夫人の駒下駄を視みる)ええ、おれの身も、おれの名も棄てようか。(夫人の駒下駄を手にす。苦悶くもんの色を顕あらわしつつ)いや、仕事がある。(その駒下駄を投棄つ。)
雨の音留やむ。
福地山修禅寺の暮六ツの鐘、鳴る。・・・  
「雪柳」
・・・――生霊か、死霊か、ここでその姿が消えるのではないかと、聞いている筆者わたしは思った。さきに「近世怪談録」を見ているほどだから、その浅草新堀の西福寺うらの若侍とおなじく、横路地で冷たい手、といった時、もう片手きかないほどに氷ったのではないか、と危あやぶんだくらいであった。
「……やさしい、すずしい帯でした。女肌には緋のかたびらに……が、それが、なよなよとした白縮緬しろちりめん、青味がかった水浅黄の蹴出しが見える、緋鹿子ひがのこで年が少わかいと――お七の処、磴だんが急で、ちらりと搦からむのが、目につくと、踵かかとをくびった白足袋で、庭下駄を穿はいていました。」
――筆者わたしはその時、二人の酒席の艶つややかな卓子台ちゃぶだいの上に、水浅黄の褄つまを雪なす足袋に掛けて、片裾庭下駄を揚げた姿を見、且つ傘の雫しずくの杯洗にこぼるる音を聞いた。熟じっと、ともに天井を仰いだ直槙は、その丸髷まるまげの白い顔に、鮮麗あでやかな眉を、面影に見たらしい。――熟じっと、しばらくして、まうつむけのように俯向うつむいた。酔っている。
「や、あなたは庭下駄を穿いていますね。」
吃驚びっくりして私が云った。
「いっそ脱ぎましょうか。」
「跣足はだしになる……」
「ええ。」
「覚悟はいいんですか。」
「本望ですわ。」
「一本松へ着いてから。」
「ええ一本松へついてから。」
「一緒に草葉の蛍を見ましょう。」
「是非どうぞ。」
「そこまでは脱がせません、玉散る刃やいばを抜く時に。」
が、例の牛蒡丸の洋杖ステッキで、そいつを捻ひねくった処は、いよいよもって魅つままれものです。
――さて、その一本松です。夜目に見て、前申した故郷くにの松にそのままです。一体、名所の松といえば、それが二本松、三本松でも、実際また絵で見なくても、いい姿はわかるものです、暗夜やみの遠燈とおびの、ほの影に、それに靄もやをかけた小雨なんです。
――ああ、まだあすこをごらんにならない。――実は私もその夜がはじめてで。
事情あって、その後も、あの一本松、また寺の石磴のあたりまでは参りましたけれども、石磴を上ったって松も何もありはしません。磴は横です。真向うに、その夜、真暗まっくらな上り道がありました。一本松はその上なんです。石磴は、のぼると、……寺なのを、まつたくその時は知らなかった。のみならず、お目にかけたいくらい、あの石磴は妙です。あたりに何にもない中に立っているから、仄白ほのじろい空の階子はしごのようで、故郷くにの山道に似た処から、ひとりぎめに、私が先へ踏掛けた。ついて上ったのは、お冬さんなんですが、どうでしょう。庭下駄で捌さばく褄つまの媚なまめかしさが、一段、一段、肩にも、腰にも、裳すそにも添って、上り切ると、一本松が見えたから不思議なんです。
「風はないのに、松の匂においが襲うと一緒に、弱い女の肌の香が消えそうで。……実際身でしめ、袖で抱きたかった。心細道、岩坂辿たどり、辿りついたはその松の蔭、……その一本松よき死場所と、かげの夫婦は手で抱合うて……それから何でしたっけ。」
お冬が、
「……かくす死恥……ですわ、そんな、唄、うたってかまいませんか。かくす死恥旗天蓋てんがいに、蛇目傘じゃのめ開いて肩身をすぼめ……あれ、お燈明とうみょうが、石燈籠に。おとせあれ見よ、草葉の露に、青い幽迷かすかな蛍火一つ……蛍のようですわね。」
「お燈明。」
「ええ、ねえ、ごらんなさい、この松には女の乳を供えるんです。」
「飛んでもない、あなたの乳なぞ。……妬やける、妬けます。」
と云った。……乳とただ言われただけで、お冬さんの胸が雪白に見えるほど、私の目が、いいえ、お冬さんのいう言葉が、乳にかぎらず、草といえば、草、葉といえば、葉、露は、露、蛍は、蛍、燈明が燈明に見えたんです。何よりも一本松が一本松に、ありありと夜中に見えたんですから化ばかされていたに違いない。いやそれ以上、魔法にやられていたのです、――「伝書」をお忘れになりますまい。ところで、唄の忘れた処は、その胸に手をあてて、お冬さんが思い出しては、つけてうたって、聞かせました。・・・  
「唄立山心中一曲」
・・・先生が蒼くなって、両手でお道さんを押除おしのけながら、(これは余所よその娘です、あわれな孤児みなしごです。)とあとが消えた。
(決行なさい、縫子。)
(…………)
(打て、お打ちなさい。)
(唯今。)
と肩を軽く斜めに落すと、コオトが、すっと脱げたんです。煽あおりもせぬのに気が立って、颯さっと火の上る松明たいまつより、紅くれないに燃立つばかり、緋ひの紋縮緬もんちりめんの長襦袢ながじゅばんが半身に流れました。……袖を切ったと言う三年前ぜんの婚礼の日の曠衣裳はれいしょうを、そのままで、一方紫の袖の紋の揚羽の蝶は、革鞄に留まった友を慕って、火先にひらひらと揺れました。
若奥様が片膝ついて、その燃ゆる火の袖に、キラリと光る短銃ピストルを構えると、先生は、両方の膝に手を垂れて、目を瞑つむって立ちました。
(お身代りに私が。)とお道さんが、その前に立塞たちふさがった。
「あ、危い、あなた。」と若旦那が声を絞った。
若奥様は折敷いたままで、
(不可いけません――お道さん。)
(いいえ、本望でございます。)
(私が肯ききません。)
と若奥様が頭かぶりを掉ふります。
(貴方が、お肯き遊ばさねば、旦那様にお願い申上げます。こんな山家の女でも、心にかわりはござんせん、願ねがいを叶かなえて下さいまし。お情なさけはうけませんでも、色も恋も存じております。もみじを御覧なさいまし、つれない霜にも血を染めます。私はただ活いきておりますより、旦那さんのかわりに死にたいのです。その方が嬉しいのです。こんな事があろうと思って、もう家を出ます時、なくなった母親の記念かたみの裾模様を着て参りました。……手織木綿に前垂まえだれした、それならば身分相応ですから、人様の前に出られます。時おくれの古い紋着もんつき、襦袢も帯もうつりません、あられもないなりをして、恋の仇かたきの奥様と、並んでここへ参りました。ふびんと思って下さいまし。ああ女は浅間しい、私にはただ一枚、母親の記念かたみだけれど、奥様のお姿と、こんなはかないなりをくらべて、思う方の前に出るのは死ぬよりも辛うござんす。それさえ思い切りました。男のために死ぬのです。冥加みょうがに余って勿体ない。……ただ心がかりなは、私と同じ孤児みなしごの、時ちゃん―少年の配達夫―の事ですが、あの児こも先生おもいですから、こうと聞いたら喜びましょう。)
若旦那の目にも、奥様にも、輝く涙が見えました。
先生は胸に大波を打たせながら、半ば串戯じょうだんにするように、手を取って、泣笑なきわらいをして、
(これ、馬鹿な、馬鹿な、ふふふ、馬鹿を事を。)
(ええ、馬鹿な女でなくっては、こんなに旦那様の事を思いはしません。私は、馬鹿が嬉しゅうございます。)
(弱った。これ、詰つまらん、そんな。)
(お手間が取れます。)
(さあ、お退どき、これ、そっちへ。)
(いいえ、いいえ。)
否々いやいやをして、頭かぶりをふって甘える肩を、先生が抱いて退のけようとするなり、くるりとうしろ向きになって、前髪をひしと胸に当てました。
呼吸いきを鎮しずめて、抱いだいた腕を、ぐいと背中へ捲まきましたが、
(お退どきと云うに。――やあ、お道さんの御おん母君、御ご母堂、お記念かたみの肉身と、衣類に対して失礼します、御許し下さい……御免。)
と云うと、抱倒して、
(ああれ。)
と震えてもがくのを、しかと片足に蹈据ふみすえて、仁王立におうだちにすっくと立った。
(用意は宜よろしい。……縫子さん。)・・・  
「怨霊借用」
・・・「御意で。」とまた一つ、ずり下りざまに叩頭おじぎをして、
「でござりますから瓢箪淵ひょうたんふちとでもいたした方が可よかろうかとも申します。小一の顔色かおつきが青瓢箪を俯向うつむけにして、底を一つ叩いたような塩梅あんばいと、わしども家内なども申しますので、はい、背が低くって小児こども同然、それで、時々相修業に肩につかまらせた事もござりますが、手足は大人なみに出来ております。大おおきな日和下駄ひよりげたの傾かしいだのを引摺ひきずって、――まだ内弟子の小僧ゆえ、身分ではござりませんから羽織も着ませず……唯今頃はな、つんつるてんの、裾すそのまき上った手織縞か何かで陰気な顔を、がっくりがっくりと、振り振り、(ぴい、ぷう。)と笛を吹いて、杖を突張つっぱって流して歩行あるきますと、御存じのお客様は、あの小按摩の通る時は、どうやら毛の薄い頭の上を、不具かたわの烏が一羽、お寺の山から出て附いて行ゆくと申されましたもので。――心掛ここころがけの可よい、勉強家で、まあ、この湯治場は、お庇様かげさまとお出入でいりさきで稼ぎがつきます。流さずともでござりますが、何も修業と申して、朝も早くから、その、(ぴい、ぷう。)と、橋を渡りましたり、路地を抜けましたり。……それが死にましてからはな、川向うの芸妓屋げいしゃや道に、どんな三味線が聞えましても、お客様がたは、按摩の笛というものをお聞きになりますまいでござります。何のまた聞えずともではござりますがな。――へい、いえ、いえそのままでお宜よろしゅう……はい。そうした貴方様、勉強家でござりました癖に、さて、これが療治に掛かかりますと、希代にのべつ、坐睡いねむりをするでござります。古来、姑しゅうとめの目ざといのと、按摩の坐睡は、遠島ものだといたしたくらいなもので。」
とぱちぱちぱちと指を弾はじいて、
「わしども覚えがござります。修業中小僧のうちは、またその睡ねむい事が、大蛇を枕でござりますて。けれども小一のははげしいので……お客様の肩へつかまりますと、――すぐに、そのこくりこくり。……まず、そのために生命いのちを果しましたような次第でござりますが。」
「何かい、歩きながら、川へ落おっこちでもしたのかい。」
「いえ、それは、身投みなげで。」
「ああ、そうだ、――こっちが坐睡をしやしないか。じゃ、客から叱言こごとが出て、親方……その師匠にでも叱られたためなんだな。」
「……不断の事で……師匠も更あらためて叱言を云うがものはござりません。それに、晩も夜中も、坐睡ってばかりいると申すでもござりませんでな。」
「そりゃそうだろう――朝から坐睡っているんでは、半分死んでいるのも同おんなじだ。」と欣七郎は笑って言った。
「春秋の潮時でもござりましょうか。――大島屋の大きいお上かみが、半月と、一月、ずッと御逗留ごとうりゅうの事も毎度ありましたが、その御逗留中というと、小一の、持病の坐睡がまた激しく起ります。」
「ふ――」と云って、欣七郎はお桂ちゃんの雪の頸許えりもとに、擽くすぐったそうな目を遣やった。が、夫人は振向きもしなかった。
「ために、主な出入場でいりばの、御当家では、方々のお客さんから、叱言が出ます。かれこれ、大島屋さんのお耳にも入りますな、おかみさんが、可哀相な盲小僧だ。……それ、十六七とばかり御承知で……肥満こえふとって身体からだが大おおきいから、小按摩一人肩の上で寝た処で、蟷螂かまぎっちょが留まったほどにも思わない。冥利みょうりとして、ただで、お銭あしは遣れないから、肩で船を漕こいでいなと、毎晩のように、お慈悲で療治をおさせになりました。……ところが旦那。」
と暗い方へ、黒い口を開けて、一息して、
「どうも意固地いこじな……いえ、不思議なもので、その時だけは小按摩が決して坐睡をいたさないでござります。」
「その、おかみさんには電気でもあったのかな。」
「へ、へ、飛んでもない。おかみさんのお傍そばには、いつも、それはそれは綺麗な、お美しいお嬢さんが、大好きな、小説本を読んでいるのでござります。」
「娘ッ子が読むんじゃあ、どうせ碌ろくな小説じゃあるまいし、碌な娘ではないのだろう。」
「勿体もったいない。――香都良川には月がある、天城山あまぎやまには雪が降る、井菊の霞に花が咲く、と土地ではやしましたほどのお嬢さんでござりますよ。」
「按摩さん、按摩さん。」と欣七郎が声を刻んだ。
「は、」
「きみも土地じゃ古顔だと云うが。じゃあ、その座敷へも呼ばれただろうし、療治もしただろうと思うが、どうだね。」
「は、それが、つい、おうわさばかり伺いまして、お療治はいたしません、と申すが、此屋こちら様なり、そのお座敷は、手前同業の正斎と申す……河豚ふぐのようではござりますが、腹に一向の毒のない男が持分に承っておりましたので、この正斎が、右の小一の師匠なのでござりまして。」
「成程、しかし狭い土地だ。そんなに逗留をしているうちには、きみなんか、その娘ッ子なり、おかみさんを、途中で見掛けた――いや、これは失礼した、見えなかったね。」
「旦那、口幅くちはばっとうはござりますが、目で見ますより聞く方が確たしかでござります。それに、それお通りだなどと、途中で皆がひそひそ遣ります処へ出会いますと、芬ぷんとな、何とも申されません匂が。……温泉から上りまして、梅の花をその……嗅かぎますようで、はい。」
座には今、その白梅よりやや淡青うすあおい、春の李すももの薫かおりがしたろう。
うっかり、ぷんと嗅いで、
「不躾ぶしつけ。」と思わずしゃべった。
「その香の好よさと申したら、通りすがりの私どもさえ、寐ねしなに衣きものを着換えましてからも、身うちが、ほんのりと爽さわやいで、一晩、極楽天上の夢を見たでござりますで。一つ部屋で、お傍にでも居ましたら、もう、それだけで、生命いのちも惜しゅうはござりますまい。まして、人間のしいなでも、そこは血気ちのけの若い奴やつでござります。死ぬのは本望でござりましたろうが、もし、それや、これやで、釜ヶ淵へ押おっぱまったでござりますよ。」
お桂のちょっと振返った目と合って、欣七郎は肩越に按摩を見た。
「じゃあ、なにかその娘さんに、かかり合いでもあったのかね。」・・・  
「天守物語」
・・・夫人、片手を掛けつつ几帳越に階子の方を瞰下みおろす。
――や、や、や、――激しき人声、もの音、足蹈あしぶみ。――
図書、もとどりを放ち、衣服に血を浴ぶ。刀を振ふるって階子の口に、一度屹きつと下を見込む。肩に波打ち、はっと息して摚どうとなる。
夫人 図書様。
図書 (心づき、蹌踉よろよろと、且つ呼吸いきせいて急いで寄る)姫君、お言葉をも顧みず、三度の推参をお許し下さい。私わたくしを賊……賊……謀逆人むほんにん、逆賊と申して。
夫人 よく存じておりますよ。昨日今日、今までも、お互に友と呼んだ人たちが、いかに殿の仰せとて、手の裏を反かえすように、ようまあ、あなたに刃やいばを向けます。
図書 はい、微塵みじんも知らない罪のために、人間同志に殺されましては、おなじ人間、断念あきらめられない。貴女あなたのお手に掛かかります。――御禁制ごきんぜいを破りました、御約束を背きました、その罪に伏します。速すみやかに生命いのちをお取り下されたい。
夫人 ええ、武士さむらいたちの夥間なかまならば、貴方のお生命を取りましょう。私と一所には、いつまでもお活きなさいまし。
図書 (急せきつつ)お情なさけ余る、お言葉ながら、活きようとて、討手の奴儕やつばら、決して活かしておきません。早くお手に掛け下さいまし。貴女に生命を取らるれば、もうこの上のない本望、彼等に討たるるのは口惜くちおしい。(夫人の膝に手を掛く)さ、生命いのちを、生命を――こう云う中うちにも取詰めて参ります。
夫人 いいえ、ここまでは来ますまい。
図書 五重の、その壇、その階子を、鼠のごとく、上あがりつ下りついたしおる。……かねての風説、鬼神おにがみより、魔よりも、ここを恐しと存じておるゆえ、いささか躊躇ちゅうちょはいたしますが、既に、私わたくしの、かく参ったを、認めております。こう云う中にも、たった今。
夫人 ああ、それもそう、何より前さきに、貴方をおかくまい申しておこう。(獅子頭を取る、母衣ほろを開いて、図書の上に蔽おおいながら)この中へ……この中へ――
図書 や、金城鉄壁。
夫人 いいえ、柔い。
図書 仰おおせの通り、真綿よりも。
夫人 そして、確しっかり、私におつかまりなさいまし。
図書 失礼御免。
夫人の背せなよりその袖に縋すがる。縋る、と見えて、身体からだその母衣の裾すそなる方かたにかくる。獅子頭を捧げつつ、夫人の面おもて、なお母衣の外に見ゆ。
討手どやどやと入込いりこみ、と見てわっと一度退く時、夫人も母衣に隠る。ただ一頭青面の獅子猛然として舞台にあり。
討手。小田原修理しゅり、山隅九平くへい、その他。抜身ぬきみの槍やり、刀。中には仰山に小具足をつけたるもあり。大勢。
九平 (雪洞ぼんぼりを寄す)やあ、怪あやしく、凄すごく、美しい、婦おんなの立姿と見えたはこれだ。
修理 化ばけるわ化るわ。御城の瑞兆ずいちょう、天人のごとき鶴を御覧あって、殿様、鷹を合せたまえば、鷹はそれて破蓑やれみのを投落す、……言語道断。
九平 他ほかにない、姫川図書め、死しにものぐるいに、確にそれなる獅子母衣に潜ったに相違なし。やあ、上意だ、逆賊出合いであえ。山隅九平向うたり。
修理 待て、山隅、先方で潜った奴やつだ。呼んだって出やしない。取って押え、引摺出ひきずりだせ。
九平 それ、面々。
修理 気を着けい、うかつにかかると怪我をいたす。元来この青獅子あおじしが、並大抵のものではないのだ。伝え聞く。な、以前これは御城下はずれ、群鷺山むらさぎやまの地主神じしゅじんの宮に飾ってあった。二代以前の当城殿様、お鷹狩の馬上から――一人町里まちさとには思いも寄らぬ、都方みやこがたと見えて、世にも艶麗あでやかな女の、一行を颯さっと避けて、その宮へかくれたのを――とろんこの目で御覧ごろうじたわ。此方こなたは鷹狩、もみじ山だが、いずれ戦いくさに負けた国の、上揩カょうろう、貴女、貴夫人たちの落人おちうどだろう。絶世の美女だ。しゃつ掴出つかみいだいて奉れ、とある。御近習、宮の中へ闖入ちんにゅうし、人妻なればと、いなむを捕えて、手取足取しようとしたれば、舌を噛かんで真俯向まうつむけに倒れて死んだ。その時にな、この獅子頭を熟じっと視みて、あわれ獅子や、名誉の作かな。わらわにかばかりの力あらば、虎狼とらおおかみの手にかかりはせじ、と吐ほざいた、とな。続いて三年、毎年、秋の大洪水よ。何が、死骸しがい取片づけの山神主が見た、と申すには、獅子が頭かしらを逆さかしまにして、その婦おんなの血を舐なめ舐め、目から涙を流いたというが触出ふれだしでな。打続く洪水は、その婦おんなの怨うらみだと、国中の是沙汰これざただ。婦おんなが前髪にさしたのが、死ぬ時、髪をこぼれ落ちたというを拾って来て、近習が復命をした、白木に刻んだ三輪牡丹高彫ぼたんたかぼりのさし櫛ぐしをな、その時の馬上の殿様は、澄すまして袂たもとへお入れなさった。祟たたりを恐れぬ荒気の大名。おもしろい、水を出さば、天守の五重を浸ひたして見よ、とそれ、生捉いけどって来てな、ここへ打上げたその獅子頭だ。以来、奇異妖変ようへんさながら魔所のように沙汰する天守、まさかとは思うたが、目まのあたり不思議を見るわ。――心してかかれ。
九平 心得た、槍をつけろ。
討手、槍にて立ちかかる。獅子狂う。討手辟易へきえきす。修理、九平等、抜連れ抜連れ一同立掛たちかかる。獅子狂う。また辟易す。
修理 木彫にも精がある。活いきた獣も同じ事だ。目を狙ねらえ、目を狙え。
九平、修理、力を合せて、一刀ひとたちずつ目を傷きずつく、獅子伏す。討手その頭かしらをおさう。
図書 (母衣ほろを撥退はねのけ刀を揮ふるって出づ。口々に罵ののしる討手と、一刀合すと斉ひとしく)ああ、目が見えない。(押倒され、取って伏せらる)無念。
夫人 (獅子の頭をあげつつ、すっくと立つ。黒髪乱れて面おもて凄すごし。手に以前の生首の、もとどりを取って提ぐ)誰の首だ、お前たち、目のあるものは、よっく見よ。(どっしと投ぐ。)・・・
・・・――皆、盲目めくらになりました。誰も目が見えませんのでございます。――(口々に一同はっと泣く声、壁の彼方かなたに聞ゆ。)
夫人 (獅子頭とともにハタと崩折くずおる)獅子が両眼を傷つけられました。この精霊しょうりょうで活きましたものは、一人も見えなくなりました。図書様、……どこに。
図書 姫君、どこに。
さぐり寄りつつ、やがて手を触れ、はっと泣き、相抱あいいだく。
夫人 何と申そうようもない。貴方お覚悟をなさいまし。今持たせてやった首も、天守を出れば消えましょう。討手は直ぐに引返して参ります。私一人は、雲に乗ります、風に飛びます、虹にじの橋も渡ります。図書様には出来ません。ああ口惜くやしい。あれら討手のものの目に、蓑笠着ても天人の二人揃った姿を見せて、日の出、月の出、夕日影にも、おがませようと思ったのに、私の方が盲目になっては、ただお生命いのちさえ助けられない。堪忍して下さいまし。
図書 くやみません! 姫君、あなたのお手に掛けて下さい。
夫人 ええ、人手には掛けますまい。そのかわり私も生きてはおりません、お天守の塵ちり、煤すすともなれ、落葉になって朽ちましょう。
図書 やあ、何のために貴女が、美しい姫の、この世にながらえておわすを土産に、冥土めいどへ行ゆくのでございます。
夫人 いいえ、私も本望でございます、貴方のお手にかかるのが。
図書 真実のお声か、姫君。
夫人 ええ何の。――そうおっしゃる、お顔が見たい、ただ一目。……千歳ちとせ百歳ももとせにただ一度、たった一度の恋だのに。
図書 ああ、私わたくしも、もう一目、あの、気高い、美しいお顔が見たい。(相縋あいすがる。)
夫人 前世も後世ごせも要らないが、せめてこうして居とうござんす。
図書 や、天守下で叫んでいる。
夫人 (屹きっとなる)口惜くやしい、もう、せめて一時いっとき隙ひまがあれば、夜叉ヶ池のお雪様、遠い猪苗代の妹分に、手伝を頼もうものを。
図書 覚悟をしました。姫君、私わたくしを。……
夫人 私は貴方に未練がある。いいえ、助けたい未練がある。
図書 猶予をすると討手の奴やつ、人間なかまに屠ほふられます、貴女が手に掛けて下さらずば、自分、我が手で。――(一刀を取直す。)
夫人 切腹はいけません。ああ、是非もない。それでは私が御介錯ごかいしゃく、舌を噛切かみきってあげましょう。それと一所に、胆きものたばねを――この私の胸を一思いに。
図書 せめてその、ものをおっしゃる、貴方の、ほのかな、口許くちもとだけも、見えたらばな。
夫人 貴方の睫毛まつげ一筋なりと。(声を立ててともに泣く。)・・・  
「悪獣篇」
・・・夫人はわずかに語るうちも、あまたたび息を継ぎ、
「小児こどもと申しても継まましい中で、それでも姉弟きょうだいとも、真ほんの児ことも、賢之助は可愛くッてなりません。ただ心にかかりますのはそれだけですが、それも長年、貴下あなたが御丹精下さいましたお庇かげで、高等学校へ入学も出来ましたのでございますから、きっと私の思いでも、一人前になりましょう。もう私は、こんな身体からだ、見るのも厭いやでなりません。ぶつぶつ切って刻んでも棄すてたいように思うんですもの、ちっとも残り惜おしいことはないのですが、慾よくには、この上の願いには、これが、何か、義理とか意気とか申すので死ぬんなら、本望でございますのに、活いきながら畜生道とはどうした因果なんでございましょうねえ。」
と、心もやや落着いたか、先のようには泣きもせで、濁りも去った涼しい目に、ほろりとしたのを、熟じっと見て、廉平堪たまりかねた面色おももちして、唇をわななかし、小鼻に柔和な皺しわを刻んで、深く両手を拱こまぬいたが、噫ああ、我かつて誓うらく、いかなる時にのぞまんとも、我わが心、我が姿、我が相好、必ず一体の地蔵のごとくしかくあるべき也なりと、そもさんか菩薩ぼさつ。
「夫人おくさん、どうしても、貴女あなた、怪あやしい獣に……という、疑うたがいは解けんですか。」
「はい、お恥かしゅう存じます。」と手を支ついて、誰たれにか詫わび入る、そのいじらしさ。
眼まなこを閉じたが、しばらくして、
「恐るべきです、恐るべきだ。夢現ゆめうつつの貴女あなたには、悪獣あくじゅうの体たいに見えましたでありましょう。私の心は獣けだものでした。夫人おくさん、懺悔ざんげをします。廉平が白状するです。貴女に恥辱を被らしたものは、四脚よつあしの獣ではない、獣のような人間じゃ。私です。鳥山廉平一生の迷いじゃ、許して下さい。」と、その襯衣しゃつばかりの頸うなじを垂れた。
夫人はハッと顔を上げて、手をつきざまに右視左瞻とみこうみつつ、背せなに乱れた千筋ちすじの黒髪、解くべき術すべもないのであった。
「許して下さい。お宅へ参って、朝夕、貴女あなたに接したのが因果です。賢君に対して殆ほとんど献身的に尽したのは、やがて、これ、貴女に生命を捧げていたのです。未いまだ四十という年にもならんで、御存じの通り、私は、色気もなく、慾気もなく、見得もなく、およそ出世間的に超然として、何か、未来の霊光を認めておるような男であったのを御存じでしょう。なかなか以もって、未来の霊光ではなく、貴女のその美しいお姿じゃった。けれども、到底尋常では望みのかなわぬことを悟ったですから、こんど当地の別荘をおなごりに、貴女のお傍そばを離れるに就いて、非常な手段を用いたですよ。五年勤労に酬むくいるのに、何か記念の品をと望まれて、悟さとりも徳もなくていながら、ただ仏体を建てるのが、おもしろい、工合のいい感じがするで、石地蔵を願いました。今の世に、さような変ったことを言い、かわったことを望むものが、何……をするとお思いなさる。廉平は魔法づかいじゃ。」
と石上に跣坐ふざしたその容貌ようぼう、その風采ふうさい、或はしかあるべく見えるのであった。
夫人は、ただもの言わんとして唇のわななくのみ。
「貴女あなたも、昨日きのう、その地蔵をあつらえにおいでの途中から、怪しいものに憑つかれたとおっしゃった。……すべて、それが魔法なので、貴女を魅して、夢現ゆめうつつの境きょうに乗じて、その妄執もうしゅうを晴しました。けれども余りに痛いたわしい。ひとえに獣にとお思いなすって、玉のごときそのお身体からだを、砕いて切っても棄すてたいような御容子ごようすが、余りお可哀相かわいそうで見ておられん。夫人おくさん、真の獣よりまだこの廉平と、思おぼし召す方が、いくらかお心が済むですか。」
夫人はせいせい息を切った。・・・  
「瓜の涙」
・・・昼も梟ふくろうが鳴交わした。
この寺の墓所はかしょに、京の友禅とか、江戸の俳優某なにがしとか、墓があるよし、人伝ひとづてに聞いたので、それを捜すともなしに、卵塔らんとうの中へ入った。
墓は皆暗かった、土地は高いのに、じめじめと、落葉も払わず、苔こけは萍うきぐさのようであった。
ふと、生垣を覗のぞいた明あかるい綺麗な色がある。外の春日はるびが、麗うららかに垣の破目やれめへ映って、娘が覗くように、千代紙で招くのは、菜の花に交まじる紫雲英げんげである。……
少年の瞼まぶたは颯さっと血を潮さした。
袖さえ軽い羽かと思う、蝶に憑つかれたようになって、垣の破目をするりと抜けると、出た処の狭い路みちは、飛々とびとびの草鞋のあと、まばらの馬の沓くつの形かたを、そのまま印して、乱れた亀甲形きっこうがたに白く乾いた。それにも、人の往来ゆききの疎まばらなのが知れて、隈くまなき日当りが寂寞ひっそりして、薄甘く暖い。
怪しき臭気におい、得えならぬものを蔽おおうた、藁わらも蓆むしろも、早や路傍みちばたに露骨あらわながら、そこには菫すみれの濃いのが咲いて、淡うすいのが草まじりに、はらはらと数に乱れる。
馬の沓形くつがたの畠やや中窪なかくぼなのが一面、青麦に菜を添え、紫雲英を畔くろに敷いている。……真向うは、この辺一帯に赤土山の兀はげた中に、ひとり薄萌黄うすもえぎに包まれた、土佐絵に似た峰である。
と、この一廓ひとくるわの、徽章きしょうとも言いっつべく、峰の簪かざしにも似て、あたかも紅玉を鏤ちりばめて陽炎かげろうの箔はくを置いた状さまに真紅に咲静まったのは、一株の桃であった。
綺麗さも凄すごかった。すらすらと呼吸いきをする、その陽炎にものを言って、笑っているようである。
真赤まっかな蛇が居ようも知れぬ。
が、渠かれの身に取っては、食に尽きて倒るるより、自然ひとりでに死ぬなら、蛇に巻かれたのが本望であったかも知れぬ。
袂たもとに近い菜の花に、白い蝶が来て誘う。
ああ、いや、白い蛇であろう。
その桃に向って、行ゆきざまに、ふと見ると、墓地はかちの上に、妙見宮の棟の見ゆる山へ続く森の裏は、山際から崕上がけうえを彩って――はじめて知った――一面の桜である。……人は知るまい……一面の桜である。
行ゆくに従うて、路は、奥拡がりにぐるりと山の根を伝う。その袂にも桜が充みちた。
しばらく、青麦の畠になって、紫雲英で輪取る。畔づたいに廻りながら、やがて端へ出て、横向に桃を見ると、その樹のあたりから路が坂に低くなる、両方は、飛々差覗さしのぞく、小屋、藁屋を、屋根から埋うずむばかり底広がりに奥を蔽おおうて、見尽されない桜であった。
余りの思いがけなさに、渠は寂然じゃくねんたる春昼をただ一人、花に吸われて消えそうに立った。
その日は、何事もなかった――もとの墓地を抜けて帰った――ものに憑つかれたようになって、夜よはおなじ景色を夢に視みた。夢には、桜は、しかし桃の梢こずえに、妙見宮の棟下りに晃々きらきらと明星が輝いたのである。
翌日あくるひも、翌日も……行ってその三度みたびの時、寺の垣を、例の人里へ出ると斉ひとしく、桃の枝を黒髪に、花菜を褄つまにして立った、世にも美しい娘を見た。
十六七の、瓜実顔うりざねがおの色の白いのが、おさげとかいう、うしろへさげ髪にした濃い艶つやのある房ふっさりした、その黒髪の鬢びんが、わざとならずふっくりして、優しい眉の、目の涼しい、引しめた唇の、やや寂しいのが品がよく、鼻筋が忘れたように隆たかい。
縞目しまめは、よく分らぬ、矢絣やがすりではあるまい、濃い藤色の腰に、赤い帯を胸高むなだかにした、とばかりで袖を覚えぬ、筒袖だったか、振袖だったか、ものに隠れたのであろう。
真昼の緋桃ひももも、その娘の姿に露の濡色を見せて、髪にも、髻もとどりにも影さす中に、その瓜実顔を少すこしく傾けて、陽炎を透かして、峰の松を仰いでいた。・・・  
「海神別荘」
・・・僧都 もろともに、お勧め申上げますでござります。
公子 (頷うなずく)まあ、今の引廻しの事を見て下さい。
博士 確たしかに。(書を披く)手近に浄瑠璃にありました。ああ、これにあります。……若様、これは大日本浪華なにわの町人、大経師以春だいきょうじいしゅんの年若き女房、名だたる美女のおさん。手代てだい茂右衛門もえもんと不義顕あらわれ、すなわち引廻し礫はりつけになりまする処を、記したのでありまして。
公子 お読み。
博士 (朗読す)――紅蓮ぐれんの井戸堀、焦熱しょうねつの、地獄のかま塗ぬりよしなやと、急がぬ道をいつのまに、越ゆる我身の死出の山、死出の田長たおさの田がりよし、野辺のべより先を見渡せば、過ぎし冬至とうじの冬枯の、木この間ま木の間にちらちらと、ぬき身の槍やりの恐しや、――
公子 (姿見を覗のぞきつつ、且つ聴きつつ)ああ、いくらか似ている。
博士 ――また冷返ひえかえる夕嵐、雪の松原、この世から、かかる苦患くげんにおう亡日もうにち、島田乱れてはらはらはら、顔にはいつもはんげしょう、縛られし手の冷たさは、我身一つの寒の入いり、涙ぞ指の爪とりよし、袖に氷を結びけり。……
侍女等、傾聴す。
公子 ただ、いい姿です、美しい形です。世間はそれでその女の罪を責めたと思うのだろうか。
博士 まず、ト見えまするので。
僧都 さようでございます。
公子 馬に騎のった女は、殺されても恋が叶かない、思いが届いて、さぞ本望であろうがね。
僧都 ――袖に氷を結びけり。涙などと、歎き悲しんだようにござります。
公子 それは、その引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。(頭かぶりを掉ふる。)博士――まだ他に例があるのですか。
博士 (朗読す)……世の哀あわれとぞなりにける。今日は神田のくずれ橋に恥をさらし、または四谷、芝、浅草、日本橋に人こぞりて、見るに惜おしまぬはなし。これを思うに、かりにも人は悪あしき事をせまじきものなり。天これを許したまわぬなり。……
公子 (眉を顰ひそむ。――侍女等斉ひとしく不審の面色おももちす。)
博士 ……この女思込みし事なれば、身の窶やつるる事なくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結わせて美うるわしき風情。……
公子 (色解く。侍女等、眉をひらく。)
博士 中略をいたします。……聞く人一しおいたわしく、その姿を見おくりけるに、限かぎりある命のうち、入相いりあいの鐘つくころ、品しなかわりたる道芝の辺ほとりにして、その身は憂き煙となりぬ。人皆いずれの道にも煙はのがれず、殊に不便はこれにぞありける。――これで、鈴ヶ森で火刑ひあぶりに処せられまするまでを、確か江戸中棄札すてふだに槍やりを立てて引廻した筈はずと心得まするので。
公子 分りました。それはお七という娘でしょう。私は大すきな女なんです。御覧なさい。どこに当人が歎き悲かなしみなぞしたのですか。人に惜おしまれ可哀あわれがられて、女それ自身は大満足で、自若じじゃくとして火に焼かれた。得意想うべしではないのですか。なぜそれが刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、恵めぐみの杖しもと、情なさけの鞭むちだ。実際その罪を罰しようとするには、そのまま無事に置いて、平凡に愚図愚図ぐずぐずに生存いきながらえさせて、皺しわだらけの婆ばばにして、その娘を終らせるが可いいと、私は思う。……分けて、現在、殊にそのお七のごときは、姉上が海へお引取りになった。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かった。姉上は御覧になった。鉄の鎖は手足を繋つないだ、燃草もえぐさは夕霜を置残してその肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子ひがのこを燃え抜いた。緋の牡丹ぼたんが崩れるより、虹にじが燃えるより美しかった。恋の火の白熱は、凝こって白玉はくぎょくとなる、その膚はだえを、氷った雛芥子ひなげしの花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注いだのだった。そのまま海の底へお引取りになって、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、紅くれないの珊瑚の中に、結綿ゆいわたの花を咲かせているのではないか。
男は死ななかった。存命ながらえて坊主になって老い朽ちた。娘のために、姉上はそれさえお引取りになった。けれども、その魂は、途中で牡おすの海月くらげになった。――時々未練に娘を覗のぞいて、赤潮に追払われて、醜く、ふらふらと生白なまじろく漾ただようて失うする。あわれなものだ。
娘は幸福しあわせではないのですか。火も水も、火は虹となり、水は滝となって、彼の生命を飾ったのです。抜身ぬきみの槍の刑罰が馬の左右に、その誉ほまれを輝かすと同一おんなじに。――博士いかがですか、僧都。・・・  
「貝の穴に河童の居る事」
・・・社の神木の梢こずえを鎖とざした、黒雲の中に、怪しや、冴えたる女の声して、
「お爺さん――お取次。……ぽう、ぽっぽ。」
木菟みみずくの女性である。
「皆、東京の下町です。円髷は踊の師匠。若いのは、おなじ、師匠なかま、姉分あねぶんのものの娘です。男は、円髷の亭主です。ぽっぽう。おはやし方の笛吹きです。」
「や、や、千里眼。」
翁が仰ぐと、
「あら、そんなでもありませんわ。ぽっぽ。」
と空でいった。河童の一肩、聳そびえつつ、
「芸人でしゅか、士農工商の道を外れた、ろくでなしめら。」
「三郎さん、でもね、ちょっと上手だって言いますよ、ぽう、ぽっぽ。」
翁ははじめて、気だるげに、横にかぶりを振って、
「芸一通りさえ、なかなかのものじゃ。達者というも得難いに、人間の癖にして、上手などとは行過ぎじゃぞよ。」
「お姫様、トッピキピイ、あんな奴はトッピキピイでしゅ。」
と河童は水掻みずかきのある片手で、鼻の下を、べろべろと擦こすっていった。
「おおよそ御合点と見うけたてまつる。赤沼の三郎、仕返しは、どの様に望むかの。まさかに、生命いのちを奪とろうとは思うまい。厳しゅうて笛吹は眇めかち、女どもは片耳殺そぐか、鼻を削るか、蹇あしなえ、跛びっこどころかの――軽うて、気絶ひきつけ……やがて、息を吹返さすかの。」
「えい、神職様かんぬしさま。馬蛤まての穴にかくれた小さなものを虐しいたげました。うってがえしに、あの、ご覧ろうじ、石段下を一杯に倒れた血みどろの大魚おおうおを、雲の中から、ずどどどど!だしぬけに、あの三人の座敷へ投込んで頂きたいでしゅ。気絶しようが、のめろうが、鼻かけ、歯はッかけ、大おおきな賽さいの目の出次第が、本望でしゅ。」
「ほ、ほ、大魚を降らし、賽に投げるか。おもしろかろ。忰せがれ、思いつきは至極じゃが、折から当お社もお人ずくなじゃ。あの魚は、かさも、重さも、破れた釣鐘ほどあって、のう、手頃には参らぬ。」と云った。神に使うる翁の、この譬喩たとえの言ことばを聞かれよ。筆者は、大石投魚を顕あらわすのに苦心した。が、こんな適切な形容は、凡慮には及ばなかった。
お天守の杉から、再び女の声で……
「そんな重いもの持運ぶまでもありませんわ。ぽう、ぽっぽ――あの三人は町へ遊びに出掛ける処なんです。少しばかり誘さそいをかけますとね、ぽう、ぽっぽ――お社近ぢかまで参りましょう。石段下へ引寄せておいて、石投魚の亡者を飛上らせるだけでも用はたりましょうと存じますのよ。ぽう、ぽっぽ――あれ、ね、娘は髪のもつれを撫なでつけております、頸えりの白うございますこと。次の室まの姿見へ、年増が代って坐りました。――感心、娘が、こん度は円髷まるまげ、――あの手がらの水色は涼しい。ぽう、ぽっぽ――髷の鬢びんを撫でつけますよ。女同士のああした処は、しおらしいものですわね。酷ひどいめに逢うのも知らないで。……ぽう、ぽっぽ――可哀相ですけど。……もう縁側へ出ましたよ。男が先に、気取って洋杖ステッキなんかもって――あれでしょう。三郎さんを突いたのは――帰途かえりは杖にして縋すがろうと思って、ぽう、ぽっぽ。……いま、すぐ、玄関へ出ますわ、ごらんなさいまし。」
真暗まっくらな杉に籠こもって、長い耳の左右に動くのを、黒髪で捌さばいた、女顔の木菟みみずくの、紅あかい嘴くちばしで笑うのが、見えるようで凄すさまじい。その顔が月に化けたのではない。ごらんなさいましという、言葉が道をつけて、隧道トンネルを覗のぞかす状さまに、遥はるかにその真正面へ、ぱっと電燈の光のやや薄赤い、桂井館の大式台が顕あらわれた。
向う歯の金歯が光って、印半纏しるしばんてんの番頭が、沓脱くつぬぎの傍そばにたって、長靴を磨いているのが見える。いや、磨いているのではない。それに、客のではない。捻ひねり廻して鬱ふさいだ顔色がんしょくは、愍然ふびんや、河童のぬめりで腐って、ポカンと穴があいたらしい。まだ宵だというに、番頭のそうした処は、旅館の閑散をも表示する……背後うしろに雑木山を控えた、鍵の手形なりの総二階に、あかりの点ついたのは、三人の客が、出掛けに障子を閉めた、その角座敷ばかりである。
下廊下を、元気よく玄関へ出ると、女連の手は早い、二人で歩行板あゆみいたを衝つと渡って、自分たちで下駄を揃えたから、番頭は吃驚びっくりして、長靴を掴つかんだなりで、金歯を剥出むきだしに、世辞笑いで、お叩頭じぎをした。
女中が二人出て送る。その玄関の燈ともしびを背に、芝草と、植込の小松の中の敷石を、三人が道なりに少し畝うねって伝つたわって、石造いしづくりの門にかかげた、石ぼやの門燈に、影を黒く、段を降りて砂道へ出た。が、すぐ町から小半町引込ひっこんだ坂で、一方は畑になり、一方は宿の囲かこいの石垣が長く続くばかりで、人通りもなく、そうして仄暗ほのくらい。・・・  
「紅玉」
・・・画工 (茫然ぼうぜんとして黙想したるが、吐息して立ってこれを視ながむ。)おい、おい、それは何の唄だ。
小児一 ああ、何の唄だか知らないけれどね、こうやって唄っていると、誰か一人踊出すんだよ。
画工 踊る? 誰が踊る。
小児二 誰が踊るって、このね、環わの中へ入って踞しゃがんでるものが踊るんだって。
画工 誰も、入ってはおらんじゃないか。
小児三 でもね、気味が悪いんだもの。
画工 気味が悪いと?
小児四 ああ、あの、それがね、踊ろうと思って踊るんじゃないんだよ。ひとりでにね、踊るの。踊るまいと思っても。だもの、気味が悪いんだ。
画工 遣ってみよう、俺を入れろ。
一同 やあ、兄さん、入るかい。
画工 俺が入る、待て、(画を取って大樹の幹によせかく)さあ、可いいか。
小児三 目を塞ふさいでいるんだぜ。
画工 可よし、この世間よのなかを、酔って踊りゃ本望だ。
青山、葉山、羽黒の権現さん
小児等こどもら唄いながら画工の身の周囲まわりを廻めぐる。環の脈を打って伸び且つ縮むに連れて、画工、ほとんど、無意識なるがごとく、片手また片足を異様に動かす。唄う声、いよいよ冴さえて、次第に暗くなる。
時に、樹の蔭より、顔黒く、嘴くちばし黒く、烏からすの頭かしらして真黒まっくろなるマント様ようの衣きぬを裾すそまで被かぶりたる異体のもの一個顕あらわれ出で、小児こどもと小児の間に交まじりて斉ひとしく廻る。
地に踞うずくまりたる画工、この時、中腰に身を起して、半身を左右に振って踊る真似す。
続いて、初はじめの黒きものと同じ姿したる三個、人の形の烏。樹蔭より顕れ、同じく小児等の間に交って、画工の周囲を繞めぐる。
小児等は絶えず唄う。いずれもその怪あやしき物の姿を見ざる趣なり。あとの三羽の烏出でて輪に加わる頃より、画工全く立上り、我を忘れたる状さまして踊り出いだす。初手の烏もともに、就中なかんずく、後あとなる三羽の烏は、足も地に着かざるまで跳梁ちょうりょうす。
彼等の踊狂う時、小児等は唄を留とどむ。
一同 (手に手に石を二ツ取り、カチカチと打鳴らして)魔が来た、でんでん。影がさいた、もんもん。(四五度口々に寂さみしく囃はやす)ほんとに来た。そりゃ来た。
小児のうちに一人いちにん、誰とも知らずかく叫ぶとともに、ばらばらと、左右に分れて逃げ入る。
木この葉落つ。
木の葉落つる中に、一人いちにんの画工と四個の黒き姿と頻しきりに踊る。画工は靴を穿はいたり、後の三羽の烏皆爪尖つまさきまで黒し。初はじめの烏ひとり、裾をこぼるる褄紅つまくれないに、足白し。
画工 (疲果てたる状さま、摚どうと仰様のけざまに倒る)水だ、水をくれい。
いずれも踊り留やむ。後の烏三羽、身を開いて一方に翼を交わしたるごとく、腕を組合せつつ立ちて視ながむ。
初の烏 (うら若き女の声にて)寝たよ。まあ……だらしのない事。人間、こうはなりたくないものだわね。――そのうちに目が覚めたら行ゆくだろう――別にお座敷の邪魔にもなるまいから。……どれ、(樹の蔭に一むら生茂おいしげりたる薄すすきの中より、組立てに交叉こうさしたる三脚の竹を取出とりいだして据え、次に、その上の円まろき板を置き、卓子テェブルのごとくす。)
後の烏、この時、三羽みッつとも無言にて近づき、手伝う状さまにて、二脚のズック製、おなじ組立ての床几しょうぎを卓子の差向いに置く。
初はじめの烏、また、旅行用手提げの中より、葡萄酒ぶどうしゅの瓶を取出だし卓子の上に置く。後の烏等、青き酒、赤き酒の瓶、続いてコップを取出だして並べ揃う。
やがて、初の烏、一挺ちょうの蝋燭ろうそくを取って、これに火を点ず。
舞台明あかるくなる。
初の烏 (思い着きたる体ていにて、一ツの瓶の酒を玉盞ぎょくさんに酌つぎ、燭しょくに翳かざす。)おお、綺麗きれいだ。燭あかりが映って、透徹すきとおって、いつかの、あの時、夕日の色に輝いて、ちょうど東の空に立った虹にじの、その虹の目のようだと云って、薄雲に翳かざして御覧なすった、奥様の白い手の細い指には重そうな、指環ゆびわの球たまに似てること。
三羽の烏、打傾いて聞きつつあり。
ああ、玉が溶けたと思う酒を飲んだら、どんな味がするだろうねえ。(烏の頭かしらを頂きたる、咽喉のどの黒き布をあけて、少わかき女の面おもてを顕あらわし、酒を飲まんとして猶予ためらう。)あれ、ここは私には口だけれど、烏にするとちょうど咽喉だ。可厭いやだよ。咽喉だと血が流れるようでねえ。こんな事をしているんだから、気になる。よそう。まあ、独言ひとりごとを云って、誰かと話をしているようだよ……
(四辺あたりを眗みまわす)そうそう、思った同士、人前で内証で心を通わす時は、一ツに向った卓子テェブルが、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽かすかな、しかし脈を打って、血の通う、その符牒ふちょうで、黙っていて、暗号あいずが出来ると、いつも奥様がおっしゃるもんだから、――卓子さん(卓をたたく)殊にお前さんは三ツ脚で、狐狗狸こっくりさん、そのままだもの。活いきてるも同じだと思うから、つい、お話をしたんだわ。しかし、うっかりして、少々大事な事を饒舌しゃべったんだから、お前さん聞いたばかりにしておいておくれ。誰にも言っては不可いけないよ。ちょいと、注ついだ酒をどうしよう。ああ、いい事がある。(酔倒れたる画工に近づく。後あとの烏一ツ、同じく近寄りて、画工の項うなじを抱いだいて仰向あおむけにす。)
酔ぱらいさん、さあ、冷水おひや。・・・  
「式部小路」
・・・「せめてその骨でも拾って、腕まもりでも拵こしらえよう、」とまっしぐらに立向った、火よりも赤き気競きおいの血相、猛然として躍り込むと、戸外おもては風で吹き散ったれ、壁の残った内は籠こもって、颯さっと黒煙くろけむりが引包ひッつつむ。
「無茶でさ、目も口も開あきやしねえ、横もうしろも山のような炎の車がぐるぐると駆けてまさ、から意気地はありません。
夢のような気です。まして棄鉢すてばちに目を眠った処を、裾すそからずるずると引張るから、はあ、こりゃおいでなすったかい。婆さんが衣きものを脱ぐんだろう、三途川さんずのかわの水でも可い、末期に一杯飲みてえもんだ、と思いましたがね、口へ入ったなあ冷酒の甘露なんで。呼吸いきを吹返すと、鳶口とびぐちを引掛けて、扶たすけ出してくれたのは、火掛ひがかりを手伝ってました、紋床の親方だったんでさ。
焼あとへね、遠山さんもおいでなさりゃ、その新聞社の探訪の、竹永丹平というのも来ました。親方と四人でね、柳の根方でしばらく、皆みんなで、お嬢さんの噂ばかりしましたっけ。夜露やら何やらで湿ッぽくばかしなって、しらしらあけの寒いのに皆みんな悄しおれて別れたでさ、それッきり。
どこへおいでなすったか、お行方は知れませんや。またもうお目にかかるまいと心じゃ極きめていたんですから、口へ出して人に聞くのも何だか気が咎めてならねえんで、尋ねるわけにもなりませんで、程たって、勝山さんの御新造が築地の何とかいう病院で、お亡なくなんなすったって、風のたよりに聞きましたが、ともかくも病院へお入んなさるくらいじゃ、立派にお暮しなさるんだろう。お嬢さんは、お手車か、それとも馬車かと考えますのが一式の心ゆかしで、こっちあ蚯蚓みみずみたように、芥溜はきだめをのたくッていましたんで。
へい、決してその、決して何でさ、忘れたんじゃありません。」
語って涙を拭ぬぐう時、お夏ははんけちを啣くわえていた。
「じゃ何、あの晩火事の時、火の中へ飛び込んだの、大変ねえ。」
「へ、何、そりゃ、そんな事はわけなしでさ。熟じっと大人しくしている時が堪たまらねえんで。火でも水でも、ドンと来た時はおもしれえんで。へ、何、わけなしでさ。殊にお嬢さん許とこの灰になりゃ、私わっしあ本望だったんです。」と、思わず拳こぶしを握ったのである。
お夏は黙って瞻みまもった。その時はじめておくれ毛がはらはらと眉を掠かすめた。
「でもお前、目をまわしたとおいいじゃないか。」
「ちょっと、眠ったんで、時々でさ。」
「だってお前、きっと火傷やけどをおしだろう。」
直垂ひたたれに月がさして、白梅の影が映っても、かかる風情はよもあらじ。お夏の手は、愛吉の焼穴だらけの膝を擦さすった。愛吉たらたらと全身に汗を流し、
「ええええ、脇腹を少し焦しましたが、」
「可哀相かわいそうに、お見せな。」
「何、身体からだ中、疵きずだらけだから、からもう何が何だか分りません。」とはだかった胸を慌ててかくした。
「愛吉、それでもお前、無事に逢えて可よかったねえ、ほんとうによく来たねえ。」
「ですから、ですから、その上がられました義理じゃねえんで、お門口へだって寄りつく法じゃありませんがね、ちとその、」と口籠った。妾沙汰めかけざたの一条で、いいかねたものであろう。
お夏はいささかも気に留めず、
「おいいでない。愛吉、お前がそんな事をいって来ないお庇かげで、私がどんな出世をしたのよ、どんな出世が出来たのよ。」
と詰なじるがごとく声強く、
「お前たちを袖にして出世をしたってどうするの、よ、愛吉、」
「じゃあ、ど、どうしてお嬢さん、貴女はどうしてどこにおいでなすったんでございますね。」
「芥溜はきだめよ。」
「え、」
「私もやっぱり芥溜なの。」
「飛、飛んでもねえ。」
「だって、お前も好すきなんだから可いではないか。」と澄ましていう。・・・  
「ピストルの使い方」
・・・おなじ状さまに、振袖をさしのべたが、すらりと控えた。
「いやだ、……鶴子饅頭が食べたそうだ、ほほほ。」
「むむ。」
多津吉は頬張るごとく頷うなずいた。
「やりたまえ。……第一形もよし、きれいだよ。敷いてある松葉は毒にはならない。」
「ええ、私なんか、お腹なかがすけば、他国の茸きのこだって生で食べます。人間は下ってますけれど、そんな事に掛けては仙人ですから、食ものに毒も薬もないんですが、実みを入れて、……何ですか、お聞き下さるようですから、一段語りましてから御祝儀を頂きますわ。ね、洋服で片膝立てたのは変なものね、親仁様、自分で名告なのった天狗より、桃を持たしたい、大おおきな猿なにかに見えた事。貴方、ここには、――この城下で、上手名人と言われた近常ちかつねさんという……評判の、いずれ、そんな人だから貧乏も評判の、何ですかね、何とか家かとか云ったけれど私にはよく分らない。(指環ゆびわも簪かんざしも拵こしらえるのじゃ。)と親仁様が言ったから錺職かざりやさんですわね。その方のお骨が納おさまっているんですってね。」
「ああ、錺職――じゃあ男だね。」
「そうよ、ええ、もう随分のお年でしたって。」
「待ちたまえ。……骨の入っているのが、いい年の錺職さん、近常か――それにしては、雪の中の美しい、……何だっけね、婦人おんなの白い幽霊と云ったのはおかしいね。」
「まあ、お聞きなさいよ。――貴方は、妙に、沈んで落着いて、考え事をしているように見える癖に、性急せっかちだね、――ちょっと年をお言いなさい、星を占みてあげますから。」
と熟じっと瞳を寄せつつ、
「星の性しょうなら構わないけれど、そうでなくッて、そんな様子だと怪我けがをする事よ。路みちに山坂がありますから、お気をつけなさいなね。」
「怪我ぐらいはするだろうよ。……知己ちかづきでもない君のような別嬪べっぴんと、こんな処で対向さしむかいで話をするようなまわり合せじゃあ。……」
「まあ、とんだ御迷惑ね。」
「いや覚悟をしている。……本望だよ。」
「嬉しい事、そんなにおっしゃって下さるんですもの、私かって、……お宿までもついて送って行くわ。……途中で怪我なんかさせませんわ。生命いのちに掛けても。……」
多津吉はいささか気を打たれたように目を睜みはった。
「同伴つれはどうなんだね、串戯じょうだんにも、そんな事を云って、お前さん。」
「谷へ下りたから、あのまんま田畝たんぼへ出て、木賃へ引取りましょうよ。もう晩方で、山に稼ぎはなし、方角がそうなんですもの。」
「だって、一座の花形を、一人置いて行きっこはなかろうではないか。」
「そこは放し飼がいよ。外に塒ねぐらがないんですもの、もとの巣へ戻ると思うから平気なもの。それとも直ぐ帰れなんのって、つれに来れば、ちょっと、隠形おんぎょうの術を使うわ。――一座の花形ですもの。火遁かとんだって、土遁どろどろどろ、すいとんだって、焼鳥だってお茶の子だわ。」
「しかし、それにしてもだね。」
「苦労性ね、そんな星かしら。」
「きみの星は! 年は?」
「年は狐……星は狼。……」
「凄すごいもんだなあ。――そこで、今の話だが。」
「ええ、――白い幽霊の訳はね、天狗様が按摩に聞いた話を、私にしたんですよ。……可よござんすか。明治……あれは何年とか言いました、早い頃です。――その錺職かざりやの近常さんの、古畳の茅屋あばらやへ、県庁からお使者が立ちました。……頤あごはすっぺり、頬髯ほおひげの房々と右左へ分れた、口髯のピンと刎はねた――(按摩の癖に、よくそんな事を饒舌しゃべったものね)……もっとも有名な立派な方ですとさ、勧業課長さん、下役を二人、供に連れて、右の茅屋あばらやへお出向きになると、目貫めぬき、小柄こづかで、お侍の三千石、五千石には、少わかいうち馴なれていなすっても、……この頃といっては、ついぞ居まわりで見た事もない、大した官員様のお入いでですし、それに不意だし、また近常さんは目が近くって、耳が遠くっていなすったそうですからね、継はぎさ、――もう御新造ごしんさんはとうに亡くなって、子一人、お老母ばあさん一人の男やもめ――そのお媼ばあさんが丹精の継はぎの膝掛を刎はねて、お出迎え、という隙もありゃしますまい。古火鉢と、大きな細工盤とで劃しきって、うしろに神棚を祀まつった仕事場に、しかけた仕事の鉄鎚かなづちを持ったまま、鏨たがねを圧おさえて、平伏をなさると、――畳が汚いでしょう。けばが破れて、じとじとでしょう、弱ったわね、課長さん。……洋服のもっ立尻たてじりを浮かして、両手を細工盤について、ぬッと左右の鯰髯なまずひげ。対手あいてが近眼ちかめだから似合ったわ。そこへ、いまじゃ流行はやらないけれども割安の附木ほどの名刺を出すと、錺職の御老体、恐れ入って、ぴたりとおじぎをする時分には、ついて来た、羽織なしで袴はかまだけの下役が、手拭てぬぐいを出して、そッと課長さんのお尻の下へ当がうといった寸法ですって。」
「光景覩みるがごとし……詳くわしいなあ。」
多津吉は苦笑した。・・・  
「小春の狐」
・・・あれから菜畑を縫いながら、更に松山の松の中へ入ったが、山に山を重ね、砂に砂、窪地の谷を渡っても、余りきれいで……たまたま落ちこぼれた松葉のほかには、散敷いた木この葉もなかった。
この浪路が、気をつかい、心を尽した事は言うまでもなかろう。
阿媽、これを知ってるか。
たちまち、口紅のこぼれたように、小さな紅茸べにたけを、私が見つけて、それさえ嬉しくって取ろうとするのを、遮って留めながら、浪路が松の根に気も萎なえた、袖褄そでつまをついて坐った時、あせった頬は汗ばんで、その頸脚えりあしのみ、たださしのべて、討たるるように白かった。
阿媽、それを知ってるか。
薄色の桃色の、その一つの紅茸を、灯ともしびのごとく膝の前に据えながら、袖を合せて合掌して、「小松山さん、山の神さん、どうぞ茸きのこを頂戴な。下さいな。」と、やさしく、あどけない声して言った。
「小松山さん、山の神さん、どうぞ、茸を頂戴な。下さいな。――」
真の心は、そのままに唄である。
私もつり込まれて、低声こごえで唄った。
「ああ、ありました。」
「おお、あった。あった。」
ふと見つけたのは、ただ一本、スッと生えた、侏儒いっすんぼしが渋蛇目傘しぶじゃのめを半びらきにしたような、洒落しゃれものの茸であった。
「旦那さん、早く、あなた、ここへ、ここへ。」
「や、先刻見た、かっぱだね。かっぱ占地茸……」
「一つですから、一本占地茸とも言いますの。」
まず、枯松葉を笊に敷いて、根をソッと抜いて据えたのである。
続いて、霜こしの黄茸を見つけた――その時の歓喜を思え。――真打だ。本望だ。
「山の神さんが下さいました。」
浪路はふたたび手を合した。
「嬉しく頂戴をいたします。」
私も山に一礼した。
さて一つ見つかると、あとは女郎花おみなえしの枝ながらに、根をつらねて黄色に敷く、泡のようなの、針のさきほどのも交まじった。松の小枝を拾って掘った。尖さきはとがらないでも、砂地だからよく抜ける。
「松露よ、松露よ、――旦那さん。」
「素晴しいぞ。」
むくりと砂を吹く、飯蛸いいだこの乾からびた天窓あたまほどなのを掻くと、砂を被かぶって、ふらふらと足のようなものがついて取れる。頭をたたいて、
「飯蛸より、これは、海月くらげに似ている、山の海月だね。」
「ほんになあ。」
じゃあま、あばあ、阿媽おっかあが、いま、(狐の睾丸がりま)ぞと詈ののしったのはそれである。
が、待て――蕈狩たけがり、松露取は闌たけなわの興に入いった。
浪路は、あちこち枝を潜くぐった。松を飛んだ、白鷺しらさぎの首か、脛はぎも見え、山鳥の翼の袖も舞った。小鳥のように声を立てた。
砂山の波が重かさなり重って、余りに二人のほかに人がない。――私はなぜかゾッとした。あの、翼、あの、帯が、ふとかかる時、色鳥とあやまられて、鉄砲で撃たれはしまいか。――今朝も潜水夫のごときしたたかな扮装いでたちして、宿を出た銃猟家てっぽううちを四五人も見たものを。
遠くに、黒い島の浮いたように、脱ぎすてた外套がいとうを、葉越に、枝越に透すかして見つけて、「浪路さん――姉さん――」と、昔の恋に、声がくもった。――姿を見失ったその人を、呼んで、やがて、莞爾にっこりした顔を見た時は、恋人にめぐり逢った、世にも嬉しさを知ったのである。
阿婆おばば、これを知ってるか。
無理に外套に掛けさせて、私も憩った。
着崩れた二子織ふたこの胸は、血を包んで、羽二重よりも滑なめらかである。
湖の色は、あお空と、松山の翠みどりの中に朗ほがらかに沁しみ通った。
もとのように、就中なかんずく遥はるかに離れた汀みぎわについて行く船は、二艘そう、前後に帆を掛けて辷すべったが、その帆は、紫に見え、紅あかく見えて、そして浪路の襟に映り、肌を染めた。渡鳥がチチと囀さえずった。
「あれ、小松山の神さんが。」
や、や、いかに阿媽おっかあたち、――この趣を知ってるか。――・・・  
「夜行巡査」
・・・老人はとっさの間に演ぜられたる、このキッカケにも心着かでや、さらに気に懸かくる様子もなく、
「なあ、お香、さぞおれがことを無慈悲なやつと怨うらんでいよう。吾おりゃおまえに怨まれるのが本望だ。いくらでも怨んでくれ。どうせ、おれもこう因業じゃ、いい死に様もしやアしまいが、何、そりゃもとより覚悟の前だ」
真顔になりて謂いう風情ふぜい、酒の業わざとも思われざりき。女むすめはようよう口を開き、
「伯父おじさん、あなたまあ往来で、何をおっしゃるのでございます。早く帰ろうじゃございませんか」
と老人の袂たもとを曳ひき動かし急ぎ巡査を避けんとするは、聞くに堪えざる伯父の言ことばを渠かれの耳に入れじとなるを、伯父は少しも頓着とんじゃくせで、平気に、むしろ聞こえよがしに、
「あれもさ、巡査だから、おれが承知しなかったと思われると、何か身分のいい官員か、金満かねもちでも択えらんでいて、月給八円におぞ毛をふるったようだが、そんな賤いやしい了簡りょうけんじゃない。おまえのきらいな、いっしょになると生き血を吸われるような人間でな、たとえばかったい坊だとか、高利貸しだとか、再犯の盗人ぬすっととでもいうような者だったら、おれは喜んで、くれてやるのだ。乞食こじきででもあってみろ、それこそおれが乞食をしておれの財産をみなそいつに譲って、夫婦めおとにしてやる。え、お香、そうしておまえの苦しむのを見て楽しむさ。けれどもあの巡査はおまえが心しんからすいてた男だろう。あれと添われなけりゃ生きてる効かいがないとまでに執心の男だ。そこをおれがちゃんと心得てるから、きれいさっぱりと断わった。なんと慾よくのないもんじゃあるまいか。そこでいったんおれが断わった上はなんでもあきらめてくれなければならないと、普通なみの人間ならいうところだが、おれがのはそうじゃない。伯父さんがいけないとおっしゃったから、まあ私も仕方がないと、おまえにわけもなく断念あきらめてもらった日にゃあ、おれが志も水の泡あわさ、形なしになる。ところで、恋というものは、そんなあさはかなもんじゃあない。なんでも剛胆なやつが危険けんのんな目に逢あえば逢うほど、いっそう剛胆になるようで、何かしら邪魔がはいれば、なおさら恋しゅうなるものでな、とても思い切れないものだということを知っているから、ここでおもしろいのだ。どうだい、おまえは思い切れるかい、うむ、お香、今じゃもうあの男を忘れたか」
女はややしばらく黙したるが、
「い……い……え」ときれぎれに答えたり。
老夫は心地ここちよげに高く笑い、
「むむ、もっともだ。そうやすっぽくあきらめられるようでは、わが因業も価値ねうちがねえわい。これ、後生だからあきらめてくれるな。まだまだ足りない、もっとその巡査を慕うてもらいたいものだ」
女はこらえかねて顔を振り上げ、
「伯父さん、何がお気に入りませんで、そんな情けないことをおっしゃいます、私は、……」と声を飲む。
老夫は空嘯そらうそぶき、
「なんだ、何がお気に入りません? 謂いうな、もったいない。なんだってまたおそらくおまえほどおれが気に入ったものはあるまい。第一容色きりょうはよし、気立てはよし、優しくはある、することなすこと、おまえのことといったら飯のくいようまで気に入るて。しかしそんなことで何、巡査をどうするの、こうするのという理窟りくつはない。たといおまえが何かの折に、おれの生命いのちを助けてくれてさ、生命の親と思えばとても、けっして巡査にゃあ遣やらないのだ。おまえが憎い女ならおれもなに、邪魔をしやあしねえが、かわいいから、ああしたものさ。気に入るの入らないのと、そんなこたあ言ってくれるな」
女は少しきっとなり、
「それではあなた、あのおかたになんぞお悪いことでもございますの」
かく言い懸かけて振り返りぬ。巡査はこのとき囁ささやく声をも聞くべき距離に着々として歩ほしおれり。
老夫は頭こうべを打ち掉ふりて、
「う、んや、吾おりゃあいつも大好きさ。八円を大事にかけて、世の中に巡査ほどのものはないと澄ましているのが妙だ。あまり職掌を重んじて、苛酷かこくだ、思い遣やりがなさすぎると、評判の悪わろいのに頓着とんじゃくなく、すべ一本でも見免みのがさない、アノ邪慳じゃけん非道なところが、ばかにおれは気に入ってる。まず八円の価値ねうちはあるな。八円じゃ高くない、禄ろく盗人とはいわれない、まことにりっぱな八円様だ」
女はたまらず顧みて、小腰を屈かがめ、片手をあげてソト巡査を拝みぬ。いかにお香はこの振舞ふるまいを伯父に認められじとは勉つとめけん。瞬間にまた頭こうべを返して、八田がなんらの挙動をもてわれに答えしやを知らざりき。・・・  
「卵塔場の天女」
・・・「恐縮だよ。」
「それを、それを、まだ碌ろくに目もあかん藁わらの上から、……町の結構な畳の上から、百姓の土間へ転がされて……」
「少しお待ち! 恐縮はするがね、お母っかさんは大病だった――きみのお産をして亡くなったんだ――が、きみを他所よそへ遣ったお父とっさんやお祖母ばあさんのために、言訳ッて事もないが話がある。私も九つぐらいな時だ、よくは覚えていないけれど、七夜には取揚婆とりあげばばあが、味噌漬で茶漬を食う時分だ。まくりや、米の粉は心得たろうが、しらしら明あけでも夜中でも酒精アルコオルで牛乳を暖あっためて、嬰児あかんぼの口へ護謨ゴムの管で含ませようという世の中じゃあなかった。何しろ横に転がして使う壜びんなぞ見た事もないんだからね。……可いいかい。それに活計くらしむきに余裕があるとなれば、またどうにもなる。いま、きみは結構な町の畳からと言ったけれど、母親の寝ていた奥の四畳は破障子やぶれしょうじの穴だらけだ。しかも雪の中の十二月だ、情なさけない事には熱くて口の渇く母親に、小さく堅めて雪を口へ入れたんだけれど、降ふりたての雪はばさばさして歯に軋きしむばかりで、呼吸いきを湿らせるほどの雫しずくにならない。氷がないんだよ。甘露とも法雨とも、雪の雫が生命いのちの露だって、お母っかさんが、頂戴々々というもんだから、若い可愛い嫁の、しかも東京で育ったのが、暗い国へ来て、さぞ、どんなにか情なさけなかろうと最惜いとしがって、祖母おばあさんがね、大屋根の雪は辷すべる、それは危いもんだから、母親の寝ていた下屋の屋根を這はって、真中まんなかは積って高い、廂ひさしの処まで這って出いで、上の雪を掻かいて、下の氷柱つららは毒だし、板に附着くッついたのは汚し、中の八分めぐらいな雪の、六方石のように氷っているのを掻いて取って、病人に含ませるんだが、部屋の中はさすがに鉄瓶の湯気や炬燵こたつのぬくもりで溶けるだろう。階子段はしごだんを上り下りするように、日に幾度屋根へ出入りをしたか知れないとさ。観音様に見えますと云って、凝じっと優しい姑しゅうとの顔を見ながら、莟つぼみの枯れる口を開けた、お母さんのおもいも、察するが可いいよ。きみ、花を飾った駕籠かごに乗って江戸芝居を見た娘がそれだもの、何も時節だ。……冷いようだが、いや、寒いようだが、いや薄情だと言えばそれまでだが、農家で育って、子守をして、工女から北海道へ落ちたって、それほど情なさけながったり、怨うらめしがったりする事はなかろうと思う。が、どうだい。何しろ、そんな中だもの、うまれたての嬰児あかんぼが育てられるものか。あの時、もしも縁のあった田舎へ養女に遣らなかったら、きみは多分育たなかったろうよ、死んじまったかも知れないんだ。」
「それですから、それですから、私はいっそ死んだ方がと、昨日も、今日も……」
「まあ、待ちなよ。……亭主が出来て、十一人か、児こを拵こしらえているじゃあないか。贅沢ぜいたくな事を云って、親を怨うらむな、世間を呪のろうな!……とは言うが、きみの身の上は気の毒だと思う。けれども考えて見るが可い、……きみは北海道の川端か、身投げをしようとするのに、小児こどもを負おぶったり抱いたりしたろう。親子もろともならある意味で本望だ。母おっかさんはそうじゃあない、もう助からない覚悟をして、うまれたばかり、一度か二度か、乳を頬辺ほっぺたに当てたばかりの嬰児あかんぼを、見ず知らずの他人の手に渡すんだぜ。私は、悲しい草双紙の絵を、一枚引ひきちぎったように、その時の様子を目に刻んで知っている。夜だ――きみの父親になった男は、表の間まにでも待っていたろう。母親になるのが――私も猿の人真似で、涙でも出ていたのか洋燈ランプの灯が茫ぼうとなった中に、大きな長刀酸漿なぎなたほおずきのふやけたような嬰児あかごを抱いて、(哀別わかれに、さあ、一目。)という形で、括くくり枕の上へ、こう鉄漿おはぐろの口を開けて持出すと、もう寝返りも出来ないで、壁の方に片寝でいたお母さんがね、麻の顱巻はちまきへ掛かかった黒髪かみがこぼれて横顔で振向いた。――目は今……私の目にも見えない。」
言ことばが途切れた。
「――鼻筋が透徹すきとおるように通って、ほんのりと歯と唇が見えた……それなりがっくりと髪も重そうに壁を向いた処へ、もう一度、きみの母親がのしかかって嬰児あかんぼを差出すと、今度は少し仰向あおむけになったと思うと、お母さんの白い指が、雪の降止もうとするように、ちらちらと動いた、――自棄やけに鉄漿おはぐろの口が臭くってそいつを振払った、と今の私なら言うんだが、もうこの身からだで泣くのにも堪えられない、思切らせておくれ、と仕方をしたんだろう。――あとは知らない。しばらくすると、戸外おもてを草鞋わらじの音がびしゃびしゃと遠のいた。」・・・  
「草迷宮」
・・・「それではお婆さん楽隠居だ。孫子がさぞ大勢あんなさろうね。」
と小次郎法師は、話を聞き聞き、子産石の方かたを覗のぞきたれば、面白や浪の、云うことも上の空。
トお茶注さしましょうと出しかけた、塗盆ぬりぼんを膝に伏せて、ふと黙って、姥うばは寂しそうに傾いたが、
「何のお前様、この年になりますまで、孫子の影も見はしませぬ。爺じじい殿と二人きりで、雨のさみしさ、行燈あんどうの薄寒さに、心細う、果敢はかないにつけまして、小児衆こどもしゅうを欲しがるお方の、お心を察しますで、のう、子産石も一つ一つ、信心して進じます。長い月日の事でござりますから、里の人達は私等わしらが事を、人に子だねを進ぜるで、二人が実を持たぬのじゃ、と云いますがの、今ではそれさえ本望で、せめてもの心ゆかしでござりますよ。」
とかごとがましい口ぶりだったが、柔和な顔に顰ひそみも見えず、温順に莞爾にっこりして、
「御新造様ごしんぞさまがおありなさりますれば、御坊様ごぼうさまにも一かさね、子産石を進ぜましょうに……」
「とんでもない。この団子でも石になれば、それで村方勧化かんげでもしようけれど、あいにく三界に家なしです。しかし今聞いたようでは、さぞお前さんがたは寂さみしかろうね。」
「はい、はい、いえ、御坊様の前で申しましては、お追従ついしょうのようでござりますが、仏様は御方便、難有ありがたいことでござります。こうやって愛想気あいそっけもない婆々ばばが許とこでも、お休み下さりますお人たちに、お茶のお給仕をしておりますれば、何やかや賑にぎやかで、世間話で、ついうかうかと日を暮しますでござります。ああ、もしもし、」
と街道へ、
「休まっしゃりまし。」と呼びかけた。
車輪のごとき大おおきさの、紅白段々だんだらの夏の蝶、河床かわどこは草にかくれて、清水のあとの土に輝く、山際に翼を廻すは、白の脚絆きゃはん、草鞋穿わらじばき、かすりの単衣ひとえのまくり手に、その看板の洋傘こうもりを、手拭てぬぐい持つ手に差翳さしかざした、三十みそぢばかりの女房で。
あんぺら帽子を阿弥陀あみだかぶり、縞しまの襯衣しゃつの大膚脱おおはだぬぎ、赤い団扇うちわを帯にさして、手甲てっこう、甲掛こうがけ厳重に、荷をかついで続くは亭主。
店から呼んだ姥の声に、女房がちょっと会釈する時、束髪たばねがみの鬢びんが戦そよいで、前さきを急ぐか、そのまま通る。
前帯をしゃんとした細腰を、廂ひさしにぶらさがるようにして、綻ほころびた脇の下から、狂人きちがいの嘉吉は、きょろりと一目。
ふらふらと葭簀よしずを離れて、早や六七間行過ぎた、女房のあとを、すたすたと跣足はだしの砂路すなみち。
ほこりを黄色に、ばっと立てて、擦寄って、附着くッついたが、女房のその洋傘こうもりから伸のしかかって見越みこし入道。
「イヒヒ、イヒヒヒ、」
「これ、悪戯いたずらをするでないよ。」と姥が爪立つまだって窘たしなめたのと、笑声が、ほとんど一所に小次郎法師の耳に入った。
あたかもその時、亭主驚いたか高調子に、
「傘や洋傘こうもりの繕い!――洋傘こうもりがさ張替はりかえ繕い直し……」
蝉の鳴く音ねを貫いて、誰も通らぬ四辺あたりに響いた。
隙すかさず、この不気味な和郎を、女房から押隔てて、荷を真中まんなかへ振込むと、流眄しりめに一睨にらみ、直ぐ、急足いそぎあしになるあとから、和郎は、のそのそ――大おおきな影を引いて続く。
「御覧ごろうじまし、あの通り困ったものでござります。」
法師も言葉なく見送るうち、沖から来るか、途絶えては、ずしりと崖を打つ音が、松風と行違いに、向うの山に三度ばかり浪の調べを通わすほどに、紅白段々だんだらの洋傘こうもりは、小さく鞠まりのようになって、人の頭かしらが入交いれまぜに、空へ突きながら行ゆくかと見えて、一条道ひとすじみちのそこまでは一軒の苫屋とまやもない、彼方かなた大崩壊の腰を、点々ぽつぽつ。・・・  
「春昼」
・・・「まさかとお思いなさるでありましょう、お話が大分唐突だしぬけでござったで、」
出家は頬に手をあてて、俯うつむいてやや考え、
「いや、しかし恋歌こいかでないといたして見ますると、その死んだ人の方ほうが、これは迷いであったかも知れんでございます。」
「飛んだ話じゃありませんか、それはまたどうした事ですか。」
と、こなたは何時いつか、もう御堂おどうの畳に、にじり上あがっていた。よしありげな物語を聞くのに、懐ふところが窮屈きゅうくつだったから、懐中かいちゅうに押込おしこんであった、鳥打帽とりうちぼうを引出して、傍かたわらに差置さしおいた。
松風が音ねに立った。が、春の日なれば人よりも軽く、そよそよと空を吹くのである。
出家は仏前の燈明とうみょうをちょっと見て、
「さればでござって。……
実は先刻お話はなし申した、ふとした御縁で、御堂おどうのこの下の仮庵室かりあんじつへお宿をいたしました、その御仁ごじんなのでありますが。
その貴下あなた、うたゝ寝ねの歌を、其処そこへ書きました、婦人のために……まあ、言って見ますれば恋煩こいわずらい、いや、こがれ死じにをなすったと申すものでございます。早い話が、」
「まあ、今時いまどき、どんな、男です。」
「丁ちょうど貴下あなたのような方かたで、」
呀あ? 茶釜ちゃがまでなく、這般この文福和尚ぶんぶくおしょう、渋茶しぶちゃにあらぬ振舞ふるまいの三十棒さんじゅうぼう、思わず後しりえに瞠若どうじゃくとして、……唯ただ苦笑くしょうするある而已のみ……
「これは、飛んだ処ところへ引合いに出しました、」
と言って打笑うちわらい、
「おっしゃる事と申し、やはりこういう事からお知己ちかづきになったと申し、うっかり、これは、」
「否いや、結構ですとも。恋で死ぬ、本望です。この太平の世に生れて、戦場で討死うちじにをする機会がなけりゃ、おなじ畳の上で死ぬものを、憧こがれじにが洒落しゃれています。
華族の金満家きんまんかへ生れて出て、恋煩こいわずらいで死ぬ、このくらいありがたい事はありますまい。恋は叶かなう方が可よさそうなもんですが、そうすると愛別離苦あいべつりくです。
唯ただ死ぬほど惚ほれるというのが、金かねを溜ためるより難かたいんでしょう。」
「真まことに御串戯ごじょうだんものでおいでなさる。はははは、」
「真面目まじめですよ。真面目だけなお串戯じょうだんのように聞えるんです。あやかりたい人ですね。よくそんなのを見つけましたね。よくそんな、こがれ死じにをするほどの婦人が見つかりましたね。」
「それは見ることは誰にでも出来ます。美しいと申して、竜宮りゅうぐうや天上界てんじょうかいへ参らねば見られないのではござらんで、」
「じゃ現在いるんですね。」
「おりますとも。土地の人です。」
「この土地のですかい。」
「しかもこの久能谷くのやでございます。」
「久能谷の、」
「貴下あなた、何んでございましょう、今日此処ここへお出でなさるには、その家うちの前を、御通行おとおりになりましたろうで、」
「その美人の住居すまいの前をですか。」と言う時、機はたを織った少わかい方の婦人おんなが目に浮んだ、赫燿かくようとして菜の花に。
「……じゃ、あの、やっぱり農家の娘で、」
「否々いやいや、大財産家だいざいさんかの細君でございます。」
「違いました、」
と我を忘れて、呟つぶやいたが、
「そうですか、大財産家おおがねもちの細君ですか、じゃもう主ぬしある花なんですね。」
「さようでございます。それがために、貴下あなた、」
「なるほど、他人のものですね。そうして誰が見ても綺麗きれいですか、美人なんですかい。」
「はい、夏向なつむきは随分ずいぶん何千人という東京からの客人で、目の覚めるような美麗びれいな方かたもありまするが、なかなかこれほどのはないでございます。」
「じゃ、私わたしが見ても恋煩こいわずらいをしそうですね、危険けんのん、危険けんのん。」
出家は真面目に、
「何故なぜでございますか。」
「帰路かえりには気を注つけねばなりません。何処どこですか、その財産家の家うちは。」・・・
・・・「これはおかしい、釣つりといえば丁ちょうどその時、向う詰づめの岸に踞しゃがんで、ト釣っていたものがあったでござる。橋詰はしづめの小店こみせ、荒物を商あきなう家の亭主で、身体からだの痩やせて引緊ひっしまったには似ない、褌ふんどしの緩ゆるい男で、因果いんがとのべつ釣をして、はだけていましょう、真まことにあぶなッかしい形でな。
渾名あだなを一厘土器いちもんかわらけと申すでござる。天窓あたまの真中の兀工合はげぐあいが、宛然さながらですて――川端の一厘土器いちもんかわらけ――これが爾時そのときも釣っていました。
庵室あんじつの客人が、唯今ただいま申す欄干らんかんに腰を掛けて、おくれ毛越げごしにはらはらと靡なびいて通る、雪のような襟脚えりあしを見送ると、今、小橋こばしを渡った処ところで、中の十歳とお位のがじゃれて、その腰へ抱だき着いたので、白魚しらおという指を反そらして、軽くその小児こどもの背中を打った時だったと申します。
(お坊ぼっちゃま、お坊ちゃま、)と大声で呼び懸けて、
(手巾ハンケチが落ちました、)と知らせたそうでありますが、件くだんの土器殿かわらけどのも、餌えさは振舞ふるまう気で、粋いきな後姿を見送っていたものと見えますよ。
(やあ、)と言って、十二、三の一番上の児こが、駈けて返って、橋の上へ落して行った白い手巾ハンケチを拾ったのを、懐中ふところへ突込つッこんで、黙ってまた飛んで行ったそうで。小児こどもだから、辞儀じぎも挨拶あいさつもないでございます。
御新姐ごしんぞが、礼心れいごころで顔だけ振向いて、肩へ、頤おとがいをつけるように、唇を少し曲げて、その涼すずしい目で、熟じっとこちらを見返ったのが取違えたものらしい。私わたくしが許とこの客人と、ぴったり出会ったでありましょう。
引込ひきこまれて、はッと礼を返したが、それッきり。御新姐ごしんぞの方は見られなくって、傍わきを向くと貴下あなた、一厘土器いちもんかわらけが怪訝けげんな顔色かおつき。
いやもう、しっとり冷汗ひやあせを掻いたと言う事、――こりゃなるほど。極きまりがよくない。
局外はたのものが何んの気もなしに考えれば、愚にもつかぬ事なれど、色気があって御覧ごろうじろ。第一、野良声のらごえの調子ッぱずれの可笑おかしい処ところへ、自分主人でもない余所よその小児こどもを、坊やとも、あの児ことも言うにこそ、へつらいがましい、お坊ちゃまは不見識の行止ゆきどまり、申さば器量きりょうを下げた話。
今一方いまいっぽうからは、右の土器殿かわらけどのにも小恥こっぱずかしい次第でな。他人のしんせつで手柄をしたような、変な羽目になったので。
御本人、そうとも口へ出して言われませなんだが、それから何んとなく鬱ふさぎ込むのが、傍目よそめにも見えたであります。
四、五日、引籠ひきこもってござったほどで。
後のちに、何も彼かも打明けて私わたくしに言いなさった時の話では、しかしまたその間違まちがいが縁えんになって、今度出会った時は、何んとなく両方で挨拶あいさつでもするようになりはせまいか。そうすれば、どんなにか嬉うれしかろう、本望ほんもうじゃ、と思われたそうな。迷いと申すはおそろしい、情なさけないものでござる。世間大概たいがいの馬鹿も、これほどなことはないでございます。
三度目には御本人、」
「また出会ったんですかい。」
と聞くものも待ち構える。
「今度は反対に、浜の方から帰って来るのと、浜へ出ようとする御新姐ごしんぞと、例の出口の処で逢ったと言います。
大分もう薄暗くなっていましたそうで……土用どようあけからは、目に立って日が詰つまります処ところへ、一度は一度と、散歩のお帰りが遅くなって、蚊遣かやりでも我慢が出来ず、私わたくしが此処ここへ蚊帳かやを釣って潜込もぐりこんでから、帰って見えて、晩飯ばんめしももう、なぞと言われるさえ折々の事。
爾時そのときも、早や黄昏たそがれの、とある、人顔ひとがお、朧おぼろながら月が出たように、見違えないその人と、思うと、男が五人、中に主人もいたでありましょう。婦人おんなは唯ただ御新姐ごしんぞ一人、それを取巻く如くにして、どやどやと些ちと急足いそぎあしで、浪打際なみうちぎわの方へ通ったが、その人数にんずじゃ、空頼そらだのめの、余所よそながら目礼処どころの騒ぎかい、貴下あなた、その五人の男というのが。」・・・  
「歌行灯」
・・・「泣いてばかりいますから、気の荒いお船頭が、こんな泣虫を買うほどなら、伊良子崎の海鼠なまこを蒲団ふとんで、弥島やしまの烏賊いかを遊ぶって、どの船からも投出される。
また、あの巌いわに追上げられて、霜風の間々あいあいに、(こいし、こいし。)と泣くのでござんす。
手足は凍って貝になっても、(こいし)と泣くのが本望な。巌の裂目を沖へ通って、海の果はてまで響いて欲しい。もう船も去いね、潮も来い。……そのままで石になってしまいたいと思うほど、お客様、私は、あの、」
と乱れた襦袢の袖を銜くわえた、水紅色ときいろ映る瞼まぶたのあたり、ほんのりと薄くして、
「心でばかり長い事、思っておりまする人があって。……芸も容色きりょうもないものが、生意気を云うようですが、……たとい殺されても、死んでもと、心願掛けておりました。
ある晩も、やっぱり蒼あおい灯の船に買われて、その船頭衆の言う事を肯きかなかったので、こっちの船へ突返されると、艫ともの処に行火あんかを跨またいで、どぶろくを飲んでいた、私を送りの若い衆しゅがな、玉代ぎょくだいだけ損をしやはれ、此方衆こなたしゅうの見る前で、この女を、海士あまにして慰もうと、月の良い晩でした。
胴の間で着物を脱がして、膚はだの紐へなわを付けて、倒さかさまに海の深みへ沈めます。ずんずんずんと沈んでな、もう奈落かと思う時、釣瓶つるべのようにきりきりと、身体からだを車に引上げて、髪の雫しずくも切らせずに、また海へ突込つッこみました。
この時な、その繋かかり船に、長崎辺の伯父が一人乗込んでいると云うて、お小遣こづかいの無心に来て、泊込んでおりました、二見から鳥羽がよいの馬車に、馭者ぎょしゃをします、寒中、襯衣しゃつ一枚に袴服ずぼんを穿はいた若い人が、私のそんなにされるのが、あんまり可哀相な、とそう云うて、伊勢へ帰って、その話をしましたので、今、あの申しました。……
この間までおりました、古市の新地しんまちの姉さんが、随分なお金子かねを出して、私を連れ出してくれましたの。
それでな、鳥羽の鬼へも面当つらあてに、芸をよく覚えて、立派な芸子になれやッて、姉さんが、そうやって、目に涙を一杯ためて、ぴしぴし撥ばちで打ぶちながら、三味線を教えてくれるんですが、どうした因果か、ちっとも覚えられません。
人さしと、中指と、ちょっとの間を、一日に三度ずつ、一週間も鳴らしますから、近所隣も迷惑して、御飯もまずいと言うのですえ。
また月の良い晩でした。ああ、今の御主人が、親切なだけなお辛い。……何の、身体からだの切ない、苦しいだけは、生命いのちが絶えればそれで済む。いっそまた鳥羽へ行って、あの巌いわに掴つかまって、(こいし、こいし、)と泣こうか知らぬ、膚の紐になわつけて、海へ入れられるが気安いような、と島も海も目に見えて、ふらふらと月の中を、千鳥が、冥土めいどの使いに来て、連れて行かれそうに思いました。……格子前さきへ流しが来ました。
新町の月影に、露の垂りそうな、あの、ちらちら光る撥音ばちおとで、
……博多帯しめ、筑前絞り――
と、何とも言えぬ好いい声で。
(へい、不調法、お喧やかましゅう、)って、そのまま行ゆきそうにしたのです。
(ああ、身震みぶるいがするほど上手うまい、あやかるように拝んで来な、それ、お賽銭さいせんをあげる気で。)
と滝縞たきじまお召めしの半纏はんてん着て、灰に袖のつくほどに、しんみり聞いてやった姉さんが、長火鉢の抽斗ひきだしからお宝を出して、キイと、あの繻子しゅすが鳴る、帯へ挿はさんだ懐紙に捻ひねって、私に持たせなすったのを、盆に乗せて、戸を開けると、もう一二間けん行きなさいます。二人の間にある月をな、影で繋つないで、ちゃっと行って、
(是喃こいし。)と呼んで、出した盆を、振向いてお取りでした。私や、思わずその手に縋すがって、涙がひとりでに出ましたえ。男で居ながら、こんなにも上手な方があるものを、切せめてその指一本でも、私の身体からだについたらばと、つい、おろおろと泣いたのです。
頬被ほおかむりをしていなすった。あのその、私の手を取ったまま――黙って、少し脇の方へ退のいた処で、(何を泣く、)って優しい声で、その門附が聞いてくれます。もう恥も何も忘れてな、その、あの、どうしても三味線の覚えられぬ事を話しました。」・・・  
「南地心中」
・・・見よ、見よ、鴉が蔽おおいかかって、人の目、頭かしらに、嘴はしを鳴らすを。
お珊に詰寄る世話人は、また不思議にも、蛇が、蛇が、と遁惑にげまどうた。その数はただ二条ふたすじではない。
屋台から舞妓が一人倒さかさまに落ちた。そこに、めらめらと鎌首を立て、這いかかったためである。
それ、怪我人よ、人死ひとじによ、とそこもここも湧揚る。
お珊は、心静しずかに多一を抱いた。
「よう、顔見せておくれやす。」
「口惜くちおしい。御寮人、」と、血を吐きながら頭かぶりを振る。
「貴方あんたばかり殺しはせん。これお見やす、」と忘れたように、血が涸かれて、蒼白あおじろんで、早や動かし得ぬ指を離すと、刻んだように。しっかと持った、その脈を刺した手の橘の、鮮血からくれないに染まったのが、重く多一の膝に落ちた。
男はしばらく凝視みつめていた。
「口惜いは私こそ、……多一さん。女は世間に何にも出来ん。恋し、愛いとしい事だけには、立派に我ままして見しょう。
宝市のこの服装なりで、大阪中の人の見る前で、貴方あんたの手を引いて……なあ、見事丸官を蹴けて見しょう、と命をかけて思うたに。……先刻さっき盞させる時も、押返して問うたもの、お珊、お前へ心中立や、と一言いうてくれはらぬ。
一昨日おとといの芝居の難儀も、こうした内証があるよって、私のために、堪こらえやはった辛抱やったら、一生にたった一度の、嬉しい思いをしようもの、多一さん、貴下あんたは二十はたち。三つ上の姉で居て、何でこうまで迷うたやら、堪忍しておくれや。」
とて、はじめて、はらはらと落涙した。
絶入る耳に聞分けて、納得したか、一度ひとたびは頷うなずいたが、
「私は、私は、御寮人、生命いのちが惜おしいと申しません。可哀気かわいげに、何で、何で、お美津を……」
と聞きも果さず……
「わあ、」と魂切たまぎる。
伝五爺じじいの胸を圧おさえて、
「人が立騒いで邪魔したら、撒散まきちらかいて払い退のきょうと、お前に預けた、金貨銀貨が、その懐中ふところに沢山たんとある。不思議な事で、使わいで済んだよって、それもって、な、えらい不足なやろけれど、不足、不足なやろけれど、……ああ、術ない、もう身がなえて声も出ぬ。
お聞きやす、多一さん、美津みいさんは、一所に連れずと、一人活いかいておきたかった。貴方あんたと二人、人は交ぜず、死ぬのが私は本望なが、まだこの上、貴方にも美津さんにも、済まん事や思うたによってな。
違うたかえ、分ったかえ、冥土めいどへ行てかて、二人をば並べておく、……遣瀬やるせない、私の身にもなってお見や。」
幽かすかながらに声は透とおる。
「多一さん、手を取って……手を取って……離さずと……――左のこの手の動く方は、義理やあの娘この手をば私が引く。……さあ、三人で行こうな。」
と床几を離れて、すっくと立つ。身動みじろぎに乱るる黒髪。髻もとどりふつ、と真中まんなかから二岐ふたすじに颯さっとなる。半ばを多一に振掛けた、半ばを握って捌さばいたのを、翳かざすばかりに、浪屋の二階を指麾さしまねいた。
「おいでや、美津さんえ、……美津さんえ。」
練ものの列は疾とく、ばらばらに糸が断きれた。が、十一の姫ばかりは、さすが各目てんでに名を恥じて、落ちたる市女笠、折れたる台傘、飛々とびとびに、背せなを潜ひそめ、顔おもてを蔽おおい、膝を折敷きなどしながらも、嵐のごとく、中の島籠こめた群集ぐんじゅが叫喚きょうかんの凄すさまじき中に、紅くれないの袴一人々々、点々として皆留とどまった。
と見ると、雲の黒き下に、次第に不知火しらぬいの消え行く光景ありさま。行方も分かぬ三人に、遠く遠く前途ゆくてを示す、それが光なき十一の緋の炎と見えた。
お珊は、幽かすかに、目も遥々はるばると、一人ずつ、その十一の燈ともしびを視みた。・・・  
「活人形」
・・・泰助はまず卒倒者の身体を検して、袂たもとの中より一葉の写真を探り出だしぬ。手に取り見れば、年の頃二十歳はたちばかりなる美麗うつくしき婦人おんなの半身像にて、その愛々しき口許くちもとは、写真ながら言葉を出ださんばかりなり。泰助は莞爾かんじとして打頷うちうなずき、「犯罪の原因と探偵の秘密は婦人おんなだという格言がある、何、訳はありません。近い内にきっと罪人を出しましょう。と事も無げに謂いう顔を警部は見遣みやりて、「君、鰒ふぐでも食って死しによったのかも知れんが。何も毒殺されたという証拠は無いではないか。泰助は死骸しがいの顔を指さして、「御覧なさい。人品ひとがらが好よくって、痩やせっこけて、心配のありそうな、身分のある人が落魄おちぶれたらしい、こういう顔色かおつきの男には、得て奇妙な履歴があるものです。と謂いつつ、手にせる写真を打返して、頻しきりに視ながめていたりけり。先刻より死骸の胸に手を載せて、一心に容体を伺いいたる医師は、この時人々を見返かえりて、「どうやら幽かすかに脈が通う様です。こっちの者になるかも知れません。静しずかにしておかなければ不可いけませんから、貴下方あなたがたは他室あっちへお引取下さい。警部は巡査を引連れて、静にこの室まを立去りぬ。
泰助は一人残りて、死人の呼吸いきを吹返さんとする間際には、秘密を唸うなり出す事もやあらんと待構うれば、医師の見込みは過あやまたず、ややありて死骸は少しずつの呼吸を始め、やがて幽に眼まなこを開き、糸よりもなお声細く、「ああ、これが現世このよの見納みおさめかなあ。得たりと医師は膝立直して、水薬を猪口ちょこに移し、「さあこれをお飲みなさい。と病人の口の端はたに持行けば、面おもてを背けて飲まんとせず。手をもて力無げに振払い、「汝うぬ、毒薬だな。と眼まなこを睜みはりぬ。これを聞きたる泰助は、(来たな)と腹に思うなるべし。
医師は声を和やわらげて、「毒じゃない、私は医師いしゃです。早くお飲みなさい。という顔をまず屹きっと視みて、やがて四辺あたりを見廻しつ、泰助に眼を注そそぎて、「あれは誰方どなた。泰助は近く寄りて、「探偵吏です。「ええ、と病人は力を得たる風情にて、「そうして御姓名おなまえは。「僕は倉瀬泰助。と名乗るを聞きて病人は嬉しげに倉瀬の手を握り、「貴下が、貴下があの名高い……倉瀬様さん。ああ嬉しや、私は本望が協かなった。貴下に逢えば死しんでも可いい。と握りたる手に力を籠めぬ。何やらん仔細あるべしと、泰助は深切に、「それはどういう次第だね。「はい、お聞き下さいまし、と言わんとするを医師は制して、「物を言ったり、配慮きあつかいをしては、身体からだのために好くない。と諭せども病人は頭こうべを掉ふりて、「悪僕、――八蔵奴めに毒を飲まされましたから、私はどうしても助りません。「何、八蔵が毒を。……と詰寄る泰助の袂を曳ひきて、医師は不興気に、「これさ、物を言わしちゃ悪いというのに。「僕は探偵の職掌だ。問わなければならない。「私は医師の義務だから、止めなければなりませぬ。と争えば病人は、「御深切は難有ありがとう存じますが、とても私は助りませんのですから、どうぞ思ってることを言わして下さいまし。明日まで生延びて言わずに死ぬよりは、今お話し申してここで死ぬ方が勝手でございます。と思い詰めてはなかなかに、動くべくも見えざりければ、探偵は医師に向いて、「是非が無い。ああいうのですから、病人の意にお任せなさい。病人はまた、「そうして他ほかの人に聞かしとうございませんから、恐入りますが先生はどうぞあちらへ。……とありければ、医師は本意ほい無げに室の外おもてに立出でけり。・・・
 
中里介山

 

「大菩薩峠」
・・・助けて慈悲にならぬのは心中の片割かたわれであります。
一方を無事に死なしておいて、一方を助けて生かしておくのは、蛇の生殺なまごろしより、もっと酷むごいことである。
不幸にして、お豊はあれから息を吹き返した、真三郎は永久に帰らない、死んだ真三郎は本望ほんもうを遂げたが、生きたお豊は、その魂たましいの置き場を失うた。
これを以て見れば、大津の宿で机竜之助が、生命いのちを粗末にする男女の者に、蔭ながら冷ひややかな引導いんどうを渡して、「死にたいやつは勝手に死ね」と空嘯そらうそぶいていたのが大きな道理になる。
息を吹き返して、伯父に当るこの三輪の町の薬屋源太郎の許もとへ預けられた後のお豊は、ほんとうに日蔭の花です。誰が何というとなく、お豊の身の上の噂は、広くもあらぬ三輪の町いっぱいに拡がった。
お豊は離座敷はなれに籠こもったまま滅多めったに出て歩かないのに、月に三度は明神へ参詣します。今日は参詣の当日で、かの閑人ひまじんどもに姿を見咎みとがめられて、口の端はに上ったのもそれがためでありました。
女というものは、どこへ隠れても人の眼と耳を引き寄せる。お豊が来て二三日たたないうちに、夜な夜な薬屋の裏手の竹垣には大きな穴がいくつもあいた。ここへ来てから、もう七十五日は過ぎたのに、お豊の噂うわさだけは容易になくなりません。
かの藍玉屋の金蔵の如きは、執心しゅうしんの第一で、何かの時に愁うれいを帯びたお豊の姿を一目見て、それ以来、無性むしょうに上のぼりつめてしまったものです。
事にかこつけては薬屋へ行って、夫婦の御機嫌ごきげんをとり、折もあらば女と親しく口を利きいてみたいと、いろいろに浮身うきみをやつしているので、今ほかの連中はまた一局に夢中になる頃にも、金蔵のみは女の消え去った路地口を、じーっと見つめたまま立っています。
時は夏五月、日盛りは過ぎたが、葭簾よしずの蔭で、地はそんなに焼けてもいなかったのに打水うちみずが充分に沁しみて、お山から吹き下ろす神風が懷ふところに入る時は春先とも思うほどの心地ここちがします。
「少々ものを尋ねとうござるが……」
一方は将棋に夢中で、一方は路地口に有頂天うちょうてんである。
「植田丹後守たんごのかみ殿の御陣屋は……」
「ナニ、植田様の御陣屋――」
金蔵はやっと、店先に立ってものをたずねている旅の人に眼をうつした。この暑いのにまだ袷あわせを着ている。手には竹の杖。
女を見て総立ちになった閑人どもは、このたびは一人として見向きもしない。
問いかけられた当の金蔵すらも、直ぐに眼をそらして、
「植田様は、これを真直ぐに左」
鼻であしらう。
旅人は、教えられた通りにすっくと歩んで行く。これはこれ、昨夜を長谷はせの籠堂こもりどうで明かしたはずの机竜之助でありました。・・・
・・・兵馬は七兵衛の素姓すじょうをよく知らないのです。ただ自分の娘にしているお松のために尽す行きがかりで、自分に尽してくれるのだと、こう思っています。
一緒に旅をしていても、不意に姿を見せなくなることがある。そうかと思うと不意にどこからともなく飛んで帰る。
「うちの方は屋敷も田畑も都合よく人に任せて来ましたから、これから当分、伊勢廻り上方見物かみがたけんぶつをするつもりで、あなた様のお伴ともをして相当のお力になるつもりでございます」
と言って、上方からついたり離れたりしているのであった。気が利いていて足が迅はやい、兵馬にとってはこの上もない力であります。
「宇津木様、私共はあなた様のお力になるというよりは、こうして旅を巡めぐって歩くのが何より楽しみなのでございますから、どうか打捨うっちゃってお置きなすって下さいまし。それからもう一つは、あのお松の爺父おじいさんというのを切った奴、それを探してやりたいんで。こうなってみると、おたがいに意地でございますから、首尾よくあなた様が御本望ごほんもうをお遂げなさるまではお伴ともしていたいのでございます」
「いつもながらそれは有難いお心、本望遂げた上で、また改めてお礼のできる折もありましょう」
「いや、その時分には、私共はまたどこへ旅立ちしているかわかったものではございませんから、御本望をお遂げあそばしたとて、お礼なぞは決して望んではおりません。その代りに宇津木様、あなた様のお口から七兵衛という言葉を、一口もお出し下さらぬようにお願い申しておきたいんでございます」
「そりゃ妙なお頼みだが」
「ちと変っておりますけれど、あなた様が御本望をお遂げあそばします間の七兵衛と、あなた様が御本望をお遂げあそばしました後の七兵衛と、七兵衛に変りはございませんけれど、七兵衛の名前に大した変りがございますから、どうか七兵衛、七兵衛とおっしゃらないように」
「ははは、いよいよおかしいことを言われる」
兵馬は何の合点がてんもなく、ただ笑うばかり。
「ははは、おかしいようなことでございますが、なかなかおかしいことではないんで、うっかり七兵衛とおっしゃると罰ばちが当りますよ」
「罰が当る?」
「そうでございます、御承知の通り私共は韋駄天いだてんの生れかわりでございまして、下手へたに信心をするとかえって罰が当ります」
こんな話をしてその晩はここに泊り、兵馬と七兵衛はその翌朝、暗いうちに福士川の岸を上ります。
岸がようやく高くなって川が細くなる。細くなって深くなる。峰が一つ開けると忽然こつねんとして砦とりでのような山が行手を断ち切るように眼の前に現われる。七兵衛は平らな岩の上に立って谷底を見ていたが、
「この水は、あの山を右と左から廻めぐってここで落合おちあいになるようだが、徳間はあの山の後ろあたりになるだろう、ここらあたりから向うへ飛び越えて行けば妙だが」
山の裾すそから谷底、向うの岸をしばらく眺めているうちに、
「はて、この谷の中に何かいるようだ」
七兵衛は蔽おおいかぶさった木の中から谷底を覗のぞく。なるほど、ガサガサと物の動くような音がします。
「宇津木様、この下に何かいますぜ、熊か猪か、それとも鹿か人間か、ひとつ探りを入れてみましょう」
手頃の石を拾って谷底へ投げ落すと、
「危ない、誰だい石を投げるのは」
谷底から子供の声。
「おや、子供の声のようだ」
七兵衛は深く覗き込んで、
「誰かいたのかい」
「人間が一人いるんだよ」
「人間が……そんなところで何をしているんだい」
「何をしたっていいじゃないか、お前こそ上で何をしているんだい」
「俺は旅人だが、下で音がするようだから石を抛ほうってみた。そこにいるのはお前一人か」
「私一人だよ、もう石を抛ってはいけないよ」
「もう抛りはしない、その代り道を教えてくれないか」
「お待ち、今そこへ登って行くから」
「いいよ、お前が登って来なくても、こっちから下りて行く」
「危ないよ、上手に下りないと岩の上へ落ちて身体が粉になるよ」
「大丈夫――宇津木様、こんな谷底で子供が一人で何をしているのだか、ひとつ下りて行ってみましょう」
七兵衛は兵馬を残して、木の根と岩角いわかどを分ける。・・・
・・・米友はホッと安心の胸を撫で下ろすのを、女は笑って、
「意気地のない人だねえ、女を見て、あんなに逃げなくってもいいじゃないか」
「うむ」
「お前さんの逃げっぷりがあんまりおかしいから、あとを暫く見送っていましたのよ、そうすると、足許あしもとに落ちていたのが財布、手に取って見た時分には、もうお前さんの姿が見えなかったから、少しばかり追いかけてみたけれど、どちらへおいでなすったか分らなかったから預かっておきました」
「有難う、あれは俺らの金じゃないんだ、主人の金なんだから」
「念のために、わたしは中をよく調べておきました、そうしてすぐにお係りへ届けようと思ったけれど、そうすると面倒になるし、仲間の者に見せれば、すぐに使われてしまいますから、見てごらんなさい、こんな細工さいくをしましたのよ、わたしの頭の上の仕掛しかけを」
女は御幣のような白い紙の片きれがひらひらしている頭を、米友の前へ突き出して、
「お前さん、この白い紙を取って頂戴、お前さんに取らせようと思って、わたしがワザワザこんなことをしたんだから。わたしがこんなことをしておいたのは、もしやお前さんが、お金を失くして探しに来やしないかと思って、その時の目印なんですよ。暗いところだからお互いに面付かおつきがわかるんじゃなし、わたしの方では、お前さんの小柄なのと、歩きつきのお上手なのに覚えがあるんだけれども、お前さんの方ではわたしがわかるまいと思って、その目印にこの紙を頭に附けたんだから、この紙をお前さんに取ってもらえば本望ほんもうというものだよ」
「ああ、そうか、俺らはさっきから、何のためにお前がそんな紙きれを頭へ結ゆわいつけているのかわからなかった」
「こちらへおいでなさい。今いう通り、人に知れると面倒になるから誰にも知れないように、わたしがよいところへそっと隠しておいて上げたのだから」
女は米友を土蔵の裏へ引っぱって行って、河岸の水際みずぎわまで米友をつれて来た時に、
「その石を転ころがしてごらんなさい」
「あ、これだ、これだ」
石を転がすとその下にあったのは、まさに自分の持っていた財布。
「早く持っておかえりなさい、それがために御主人を失敗しくじるようなことがあると、お前さんもまだお若い人だからためにならないから。そうして、これを御縁にまた遊びにおいでなさいよ」
「お前さんの家はどこで、名前はなんというんだ、改めてお礼に上らなくちゃならねえ」
「わたしの家? そんなことはどうでもようござんすよ、お礼なんぞはいけません――名前だけは言いましょう、お蝶というんですよ。ここへ来て、今時分、お蝶お蝶といえば、大概お目にかかれますわ」・・・
・・・こんな酷ひどい目に遭わされながら何とも訴えないのは、そこに何か仔細がなければならぬと思って与力同心の面々は、この男を引き立てようとした時に気がついたのは、この男に片腕のないことでした。
これより先、猿橋の西の詰つめの茶屋の二階で郡内織の褞袍どてらを着て、長脇差を傍に引きつけて酒を飲んでいた一人の男がありました。年は五十に近いのだが、でっぷりと太って、額際ひたいぎわに向う傷があって人相が険けわしい。これは前にしばしば名前の出た鳥沢の粂という男であります。
粂は二階から障子をあけ払って猿橋を一目にながめながら、
「どうだい、野郎をあんなにしてやった、いい心持だろう、あんなのを眺めて酒を飲むとよっぽどうめえ」
粂は猿橋の真中から、亀の子のようにがんりきの身体を吊下げて、それを見ながら酒を飲んでいるのでありました。
「親分、どうか許して上げてください、あの人も悪いことがあるんでしょうけれど、あんなにまでなさらなくってもよろしうございます、どうか助けてやって下さい」
「いいや、いけねえ、あの野郎には、あれでもまだ身に沁しみたというところまでは行かねえんだ、もうちっと窮命きゅうめいさしてやる。お前もよく眼をあいて見ておきねえ、なんで下を向くんだ、よ、高さは僅か三十三尋ひろとちっとばかり、下はたんとも深くねえが、やっぱり三十と三尋、甲州名代なだいの猿橋の真中にブラ下って桂川かつらがわ見物をさせてもらうなんぞは野郎も冥利みょうりだ。お前も可愛がったり可愛がられたりした野郎だ、よく見ておきねえ、なにもそんな処女きむすめみたように恥かしがって下を向くことはねえじゃねえか」
鳥沢の粂の傍にいる女、それは女軽業の頭領のお角でありました。
「親分さん、どうか助けて上げてくださいよう、死んでしまいます、悪い人は悪い人でも、あれではあんまり酷うございますから、早く解いてやって下さいよう」
「いいや、いけねえ。お前もずいぶん、女子供を買って来て危ねえ芸当をさせて銭をもうける職業しょうべいに似合わねえ、あのくらいの仕置しおきが見ていられねえでどうする。野郎に軽業をさせて今日はお前と俺がお客になって見物するんだ、この桟敷さじきは買切りだから誰に遠慮もいらねえ、首尾よく野郎の芸当が勤まれば、二人の手から祝儀をくれてやらあ」
「親分、どうしても解いて上げることができなければ、いっそ殺してしまって下さい、あんな目に会わされているより、一思いに殺されてしまった方がよいでしょうから。わたしも見ていられないから、早く殺してやって下さい」
「殺しちまっちゃあ、身も蓋ふたもねえや、ああいう野郎にはいろいろの芸当をさせてみて、死にかかったらまた水を吹っかけて生き返らして、またやらせるんだ。まあ、お角、一杯飲みな。俺があの野郎をあんな目に遭わせるから、俺は鬼か魔物みたようにお前の目に見えるか知れねえが、ずいぶんああしてやっていい筋があるんだ。あの野郎の生立おいたちから国を出るまでのことを残らず知ってるのが俺だ、俺にああされてあの野郎には文句が言えねえ筋があるんだ、俺にああされたから野郎は本望ぐれえに心得ていやがるだろう、これからゆっくりその話の筋を語って聞かせてやるから、落着いて聞いていねえ、それを聞いているうちにはなるほどと思うこともあるだろう、俺が酔興すいきょうであんな軽業をさせるんじゃねえと思う節ふしもあるだろう……おやおや、役人が大勢来やがったな、あ、百の野郎を引き上げたな。うむ、土地のやつらあ俺を憚はばかって手が着けられねえのを、木端こっぱ役人め、出しゃばりやがったな、面白おもしれえ、どうするか見ていてやれ、百の野郎がなんとぬかすか聞きものだ」・・・
・・・彼等は甲州の天嶮と地理を探って、何か大事を為すつもりであったものらしい。それが現われて、捉まってこの牢へ入れられたものらしい。牢を破ってここへ逃げ込んだことは、我人われひと共に幸いであったけれど、我々をこうして隠して置く駒井能登守という人のためには、幸だか不幸だかわからないと思いました。
能登守は、もう無事に南条と五十嵐の二人をこの邸から逃がしてしまった、この上は御身一人である、ここにいる以上は安心して養生するがよいと親切に言ってくれました。ともかくも、南条と言い、五十嵐と言い、それに自分と言い、金箔附きの破牢人であることに相違ない。その金箔附きの破牢人である自分たちを、公儀の重き役人である能登守が、逃がしたり隠して置いたりすることは、かなり好奇ものずきなことに考えられないわけにはゆきません。
砲術にかけてはこの能登守は、非常に深い研究をしているとのことを聞きました。それとは別に能登守は、医術に相当の素養があることも兵馬にはすぐにわかりました。
肝臓が痛むということも、兵馬が言わない先から能登守は見てくれました。これが肺へかかると一大事だということ、しかし今はその憂うれいはないということをも附け加えて慰めてくれました。南条や五十嵐もかなり奇異なる武士であったけれど、この能登守も少しく変った役人と思わせられます。そのうち、この人に委細を打明けて、自分の本望を遂げる便宜を作ろうと兵馬は思いましたけれども、まだそれを打明ける機会は得ません。兵馬は能登守のことを思うと共に、それよりもまた因縁の奇妙なることは、曾かつて自分がその病気を介抱してやったことのあるお君という女が、この邸に奉公していて、それがいま自分の介抱に当っているということであります。兵馬は能登守の次に、お君の面影を思い浮べておりました。
それやこれやと、人の面影を思い浮べているうちに、またうとうとと眠くなって、そのまま快き眠りに落ちて行きました。
ややあって宇津木兵馬は、何物かの物音によって夢を破られ、眼を開いた時、障子を締めて廊下を渡って行く人の足音を聞きました。多分、食物か薬を、例のお君が持って来てくれたものだろうと思って、枕許を見ました。
枕許には、竹の筒が置いてあります。その竹の筒には凧糸たこいとが通してあります。凧糸の一端に結び文のようなものが附いていることを認めました。
今までこんなものを持って来たことはないのに、何もことわりなしに、ちょこなんと、これだけを置き放しにして行ってしまったことが、兵馬にはなんだか、おかしく思われるのでありました。
そう思って考えてみると、今、これを置き放しにして行ってしまった人の足音が、どうも、いつも来てくれるお君の足どりではないと思い返されました。といって能登守の足音とも思われません。お君でなし、能登守でなしとすれば、そのほかにここへ入って来る人はないはずである。自分のここにいることさえも知った人はないはずである。と思うにつけて、兵馬には今のおかしさが、多少の不安に感ぜられてきました。
兵馬は手を伸べてその竹筒を取りました。手に取って一通り見ると、それは最初にお松をして破顔せしめたと同じ記号によって、病中の兵馬をも微笑させました。その一端には「十八文」と焼印がしてあるからです。・・・
・・・人に見えないところを歩いて行く間の二人の足は、驚くべき迅はやさを持っていましたけれど、甲府へ近づいてからの二人の足どりは世間並みでありました。
二人とも笠を被って長い合羽かっぱを着て、脇差を一本ずつ差していました。先に立っている方が年配で、あとから行くのが若いようです。
「大へんな景気だな」
と言って立ちどまったところは要害山ようがいやまの小高いところであります。ここから見下ろすと、馬場を取巻いた今日の景気を一眼に見ることができます。
「大当りだ」
と言って若い方が笠の紐を結び直しました。そうすると年配の方は、松の根方の石へ腰をかけて煙草を喫のみはじめました。
若い方は別に煙草も喫みたがらず、腰もかけたがらずに、しきりに馬場の景気、桟敷の幔幕、真黒く波を打つ人出、八幡宮の旗幟のぼり、小屋がけの蓆張むしろばりなどを、心持よかりそうにながめていました。
年配の方は七兵衛であって、若い方はがんりきの百蔵であります。どこにどうしていたのか、この二人は流鏑馬を当て込んで、また性しょうも懲こりもなく、この甲府へ入り込もうとするらしい。どのみちこの二人が当て込んで来るからには、ロクな目的があるわけではなかろうけれど、ドチラにしてもこの面かおで、甲府へ真昼間まっぴるま乗り込もうとするのは、あまり図々しさが烈しいと言わなければならぬ。けれども二人としては、この機会に何かしてみなければ気が済まないのでありましょう。
ただこの機会に何かしてみたいという盗人根性ぬすっとこんじょうが、二人をじっとさせておかないのみならず、まだこの甲府に何か仕事の仕残しがあればこそ、この機会を利用してその片かたをつけてしまうために、協同して乗り込んで来たものと見れば見られないこともないのです。
だから、二人がこうして小高いところから、夥おびただしい人出を見下ろしている眼つき面つきにも、いつもよりはずっと緊張した色があって、乗るか反そるかの意気込みも見えないではありません。
二人が仕残した仕事といったところで、七兵衛は兵馬の消息を知りたいこと、それとお松とを取り出して安全の地に置きたいこと、その上で本望を遂げさせてやりたいこと、それら多少の善意を持った物好きがあるのだろうけれど、がんりきときては、何をいたずらをやり出すのだか知れたものではありません。
二人がこの小高いところから下りて、人混みの中へ紛れ込んだのは、それから幾らも経たない後のことであります。
その日の競馬はそんなような景気でありました。その翌日の競馬はそれに弥増いやました景気でありました。
両日共に日は暮れるまで勝負が争われ、勝った者は馬も乗り手も揚々として村方へ帰り、負けた者は後日を期した意気込みを失いません。かくて第三日となりました。今日は最終の日で、そうして晴れの流鏑馬のある日でありました。それが士分の者によって行われようという日であります。
この日になって、雛壇の桟敷さじきの二番目へ、前二日の日には曾かつて見かけなかった美しい女房が、老女と若い侍女をつれて姿を見せたことは、早くも初日以来の見物の眼に留まらないわけにゆきません。これを見つけた者は、早くもその噂をはじめました。・・・
・・・恵林寺えりんじの師家しけに慢心和尚まんしんおしょうというのがあります。
恵林寺が夢窓国師むそうこくしの開山であって、信玄の帰依きえの寺であり、柳沢甲斐守の菩提寺ぼだいじであるということ、信長がこの寺を焼いた時、例の快川国師かいせんこくしが、
安禅必不須山水あんぜんかならずしもさんすいをもちゐず
滅却心頭火自涼しんとうめつきやくひもおのづからすずし
の偈げを唱えて火中に入定にゅうじょうしたというような話は、有名な話であります。
宇津木兵馬は駒井能登守から添書てんしょを貰って、ここの寺の慢心和尚の許もとへ身を寄せることになりました。
慢心和尚というけれども、和尚自身が慢心しているわけではありません。和尚は人から話を聞いていて、それが終ると、非常に丁寧なお辞儀をする人でありました。非常に丁寧なお辞儀をしてしまってから後に、
「お前さんより、まだ大きなものがあるから、慢心してはいけません」
王城の地へ上って行列を拝した時にも、和尚は恭うやうやしく尊敬の限りを尽しましたけれども、そのあとで、
「お前さんより、まだ大きなものがあるから、慢心してはいけません」と言って帰りました。
領主や大名へ招かれた時でも、そうでありました。御馳走になったあとでは、非常に丁寧なお辞儀をして、帰る時に、
「お前さんより、まだ大きなものがあるから、慢心してはいけません」
諸仏菩薩を拝んだあとでも、また同じようなことを言いました。
「お前さんより、まだ大きなものがあるから、慢心してはいけません」
慢心和尚の名は、おそらくその辺から出て呼びならわしになったものと思われます。慢心してはいけませんというのは、人に向って言うのではなく、自分に向って言うのらしいから、それで誰も慢心和尚の不敬を咎とがめるものはありませんでした。
慢心和尚の面かおはまん円いと言うても、またこのくらいまん円いのは無いものでありました。面の全体がブン廻シで描いたと同じような円さを持っていました。そうしてそのまん円い面のまん中に鼻があるにはあるけれども、眼と眉は有るといえば有る、無いといえば無いで通るくらいであります。
ほんのりと霞がかかったように、細い眉が漂うている。その代りでもあるまいけれど、口は特に大きいのです。和尚の拳こぶしは小さい方ではないけれど、その小さい方でない拳を固めて、それを包容し得るほどに、和尚の口は大きいのでありました。それがお師家しけさんで通るのだから、大した学問とか隠れたる徳行とかいうものを持っているのかと思えば、それが大間違いであります。学問は門前の小僧よりも出来ない人でありました。書入れをしたり仮名かなをつけたりして、やっと読むことのできる語録を二三冊持っていることが、和尚の虎の巻で、それを取り上げてしまえば、水をあがった河童かっぱ同様で、講義も提唱もできないのであります。
隠れたる徳行にも、隠れざる徳行にも、和尚の人を驚かす仕事は、ただ自分の拳を自分の口の中へ入れて見せるくらいのものであります。これだけは尋常の人にはできないことでありました。けれども和尚は決して、そんなことを自慢にしてはいません。自分の拳が、自分の口の中へ入るというようなことを噯おくびにも人に示したことはありませんから、はじめて和尚を見た人は、さても円い面の人があるものだと驚き、次に大きな口もあればあるものだと驚き、あとで人から、あの口へあの拳が入るのだと聞いて、三たび驚くのでありました。
宇津木兵馬もこの和尚に相見しょうけんの時から、三箇みっつの驚きを経過しました。慢心和尚は宇津木兵馬からその身の上と目的を聞いて後、例の慢心は持ち出さないでこう言いました。
「わしはその敵討かたきうちというのが大嫌いじゃ」
兵馬は和尚のその言葉に、平らかなることを得ませんでした。
「しからば悪人を、いつまでもそのままに置いてよろしいか」
「よろしい」
「それがために善人が苦しめられ、罪なき者が難渋なんじゅうし、人の道は廃すたり、武士道が亡びても苦しうござらぬか」
「苦しうござらぬ」
「これは意外な仰せを承る」
「この世に敵討ということほどばかばかしいことはない、それを忠臣の孝子のと賞ほめる奴が気に食わぬ」
「和尚、御冗談ごじょうだんをおっしゃるな」
と兵馬は、慢心和尚の言うことを本気には受取ることができません。今まで自分を励まして、力をつけてくれる人はあったけれども、こんなことを言って聞かせた人は一人もありません。
「冗談どころではない、わしは敵討という話を聞くと虫唾むしずが走るほどいやだ、誰が流行はやらせたか、あんなことを流行らせたおかげに、いいかげん馬鹿な人間が、また馬鹿になってしまった」
「和尚は、世間のことにあずからず、こうしてかけ離れて暮しておらるる故、そのような出まかせを申されるけれど、現在、恥辱を受け、恨みを呑む人の身になって見給え」
兵馬として、和尚の出まかせを忍容することができないのは当然のことであります。それにもかかわらず和尚は、兵馬の苦心や覚悟に少しの同情の色をも表わすことをしませんで、寧むしろ冷笑のような語気であります。
「誰の身になっても同じことよ、わしは敵討をするひまがあれば昼寝をする」
「しからば和尚には、親を討たれ、兄弟を討たれても、無念とも残念とも思召おぼしめされないか」
「そんなことは討たれてみなけりゃわからぬわい、その時の場合によって、無念とも思い、残念とも思い、どうもこれ仕方がないとも思うだろう」
「言語道断ごんごどうだん」
兵馬はこの坊主を相手にしても仕方がないと思いました。仕方がないとは思ったけれども、多年の鬱憤うっぷんと苦心とを、こんなに露骨に冷笑されてしまったのは初めてのことでありました。それだから、その心中は決して平らかではありません。
和尚の言葉は、敵討そのものを嘲あざけるのではなくて、寧ろいつまでもこうして、本望ほんもうを達することのできない自分の腑甲斐ふがいなさを嘲るために、こう言ったものだろうと思われるのです。
そう思ってみると、嘲らるるのも詮せんないことかと我自ら情けなくなるのであります。それと共に、過ぎにし恨みや辛いことが胸に迫って来るのであります。兵馬は全く、自分の腑甲斐ないことに泣きたくなりました。
ともかくも和尚の前を辞して、定められたる書院の一室に落着いた後までも、兵馬はこの泣きたい心持から離れることができません。
ついには、こうして、永久に自分は兄の敵かたきを討つことができないで了おわるのかと思いました。そうして、討つことのできない兄の敵を、東奔西走して尋ね廻った自分は、それでけっきょく一生がどうなるのだということをも、考えさせられてしまいました。
それだけの意味ならば、敵討かたきうちはばかばかしいと、昼寝をするにも劣るように罵った和尚の言葉が当らないでもない。そうして畢竟ひっきょう、悪いことをした奴は、悪いことをしただけが仕得しどくで、人間の応報の怖るべきことを思い知る制裁を与えらるることなしに済んでしまうとしたら、この世の中は不公平なものだ、ばかばかしいものだ。兵馬はそんなことを考えると頭が重くなって、経机きょうづくえの上に両手でその重い頭を押えて俯伏うつむいた時、ハラハラと涙がこぼれました。
宇津木兵馬はその晩、泣いてしまいました。それは自分の腑甲斐ないことばかりではなく、過ぎにしいろいろのことが思い出されると、涙をハラハラとこぼしはじめて、やがて留度とめどもなく泣けて仕方がありません。
兵馬自身にも、その悲しいことがわかりませんでした。慢心和尚に言われたことの腹立ちは忘れて、ただただ無限に悲しくなるのでありました。それだから経机の上へ突伏つっぷして、いつまでも眠ることもしないで泣き暮していました。
いっそのこと、刀も投げ出し、お松を連れてどこへか行ってしまおうかしら。そうして小店こだなでも開いて、町人になってしまおうかとも思わせられました。そうでなければ髪を剃りこぼって、こんなお寺のお小僧になってしまった方が気楽だろうとも考えさせられました。
兵馬の心は、今日まで張りつめた敵討の心に疲れが出て来たのかしら。人を悪にくむ心よりは、人恋しく思うようになって泣きました。
張りつめていたから、今までお松と、ほとんど同じところに起臥きがしていても、その間にあやまちはありませんでしたが、今こうして見れば、お松の今まで尽してくれた親切と、異性の懐しみとが犇ひしと身に応こたえるのであります。これは思いがけないことで、この寺で坊さんに嘲られてから、兵馬自身に、女を恋しく思う心が起りました。
すでに敵かたきを討つということをないものにすれば、自分はこれから一生を、なるたけ無事に、なるたけ楽しく、そうしてなるたけ長く生きて行きさえすればよいことになる。それをするにはお松という女は、実によい相手であるとさえ思わせられないではありません。
もし、ここの和尚が言ったように、敵を討つことがばかばかしいことであるとするならば、この方法を取って、なるべく長く生きるのが賢い方法であって、その方法はいくらでもあることを、兵馬は無意味に考えさせられました。
お松の心はすでに、そうなっているとさえ、兵馬には想像されるのであります。「いっそ、命を的の敵討などはやめにして……お前と一緒に末長く暮そうか」「それは、本当でございますか」そう言ってお松の赧あからむ面かおが眼に見えるようです。お松の内心では、疾とうからそこへ兵馬を引いて行きたいように見えないではありません。
すこしも早く本望を遂げた上は、兵馬に然るべき主取りをさせて、自分もその落着きを楽しみたい心が歴々ありありと見えることもある。
もしまた本望を遂げないで刀を捨てる時は、たとえ八百屋、小間物屋をはじめたからとて、お松はそれをいやという女でないことも思わせられてくる。
この時、兵馬は、竜之助を追い求むる心よりも、お松を思いやる心が痛切になりました。明日の晩は甲府へ入って、お松を訪ねてやろうという心が、むらむらと起りました。
慢心和尚という坊主が、よけいなことを言ったおかげで、せっかくの兵馬の若い心持をこんな方へ向けてしまったとすれば、不届きな坊主であります。けれども、その不届きな坊主の無礼な言葉をも忘れてしまったほど、兵馬はお松のことが思われてなりませんでした。・・・
・・・この二人が京都へ入り込んだのと前後して、甲州から江戸へ下るらしい宇津木兵馬の旅装を見ることになりました。
恵林寺へも暇乞いとまごいをして、勝沼の富永屋へ着いた兵馬は、別に一人の伴ともをつれていました。その伴というのは、この間まで躑躅つつじヶ崎さきの神尾の古屋敷にいた金助です。してみれば、金助も頼む神尾の殿様なるものはいなくなるし、あの古屋敷も売り物に出るというわけで、甲府住居ずまいも覚束おぼつかなくなっていたところへ、兵馬に説かれたものか、兵馬を説きつけたものか、この人の伴となって江戸へ脱け出そうとするものらしくあります。
この俄にわかごしらえの主従が富永屋へ草鞋わらじを脱いだ時分に、富永屋には例のお角もいませんでした。机竜之助もいませんでした。お銀様も、ムク犬もまた姿は見えません。
兵馬は翌朝、宿を出て笹子峠へかかると、金助が、
「これから私も心を入れ替えてずいぶん忠義を尽しますよ、お前様もこれからズンズン御出世をなさいまし。まあ、私が考えるのに、これからは学問でなくちゃいけませんな、お前様は腕前はお出来になって結構でございます、学問の方も御如才はございますまいが、学問も、どうやら今までの四角な学問よりも、横の方へ読んで行く毛唐けとうのやつの方が、これから流行はやりそうでございますぜ、今、鉄砲にしてみたところが、どうもあっちのやつの方が素敵でございますからね。お前様もこれから学問をおやりになるならば、毛唐のやつの方を精出しておやりなさいませ、あれが当世でございますぜ」
金助は、よくこんな巧者な話をしたがります。そうして高慢面こうまんがおに、忠告めいたことを言って納まりたがる人間であります。
「私なんぞは、もう駄目でございます、これでも小さい時分から学問は好きには好きでございました、けれどもほかの道楽も好きには好きでございました、親譲りの財産しんだいがこれでも相当にあるにはあったんでございますがね、みんなくだらなく遣つかってしまいましたよ、これと言って取留まりがなく遣ってしまいましたよ、なあに、いま考えても惜しいともなんとも思いませんがね、かなりこれでも遊んだものでございますよ、だから江戸を食いつめて甲州まで渡り歩いているんでございます、江戸へ帰ったら、また病が出るだろうと思ってそれが心配でございますよ、でもまあ、昔と違って今は、まるっきり融通というものが利きませんからね、これで融通が利き出すとずいぶん危ねえものでございます。危ねえと言ったって、こうなれば、疱瘡ほうそうも麻疹はしかも済んだようなものでございますから、生命いのちにかかわるような真似は致しません。何しろ、まあ、これを御縁に江戸へ帰ったら落着きましょうよ、末長くあなた様の御家来になって忠義を尽して往生すれば、それが本望でございますよ、お江戸の土を踏んで、畳の上で往生ができればそれで思い残すことはありませんな。あなた様は、どうか私の分までみっしり出世をなすっておくんなさいまし、出世をなさるには、酒と女……これがいちばん毒でございますからな、この金助が見せしめでございますよ、あの神尾の殿様も見せしめでございますよ、と言って駒井の殿様も、あんまりいいお手本にはなりませんな。どっちへ転んでも楽はできません、やっぱり酒と女で、器量相当に面白く渡った方が得かも知れませんな。してみると、器量相当以上に道楽をして来た私なんぞは、この世の仕合せ者でございましょう、下手に立身出世をして窮屈な思いをするよりは、金助は金助らしく道楽をしていた方が勝ちでございましょう。あなた様の前だが、私しゃあ江戸へ着いたら早速に、吉原へ行ってみてえとこう思います」
金助は、ぺらぺらと兵馬の前も憚はばからず、こんなことを言いました。
これから心を入れ換えて忠義を尽しますという口の下から、もういい気になって吉原の話であります。・・・
・・・浪切不動の丘の上に立つ高燈籠の下まで来た盲法師は、金剛杖を高燈籠の腰板へ立てかけて、左の手首にかけた合鍵を深ると、潜くぐり戸どがガラガラとあきました。杖は外に置いて、釣燈籠だけは大事そうに抱えて中へ入った盲法師、光明真言こうみょうしんごんの唱えのみが朗々として外に響きます。
唵阿謨迦毘盧遮那摩訶菩怛羅摩尼鉢曇摩忸婆羅波羅波利多耶呍
おんあもきゃびろしゃのまかぼだらまにはんどまじんばらはらはりたやうん――
コトコトと梯子段を登る音が止んで暫らくすると、六角に連子れんじをはめた高燈籠の心しんに、紅々あかあかと燈火が燃え上りました。光明真言の唱えは、それと共に一層鮮やかで冴さえて響き渡ります。
その余韻よいんが次第次第に下へおりて来た時分に、前の潜り戸のところへ姿を現わした盲法師の手には、前と同じような青銅からかねの釣燈籠が大事に抱えられていましたけれど、持って来た時とは違って、その中には光がありませんでした。そのはずです、中にあった光は、高くあの六角燈籠の上へうつされているのですもの。その光をうつさんがためにこうして、トボトボと十町余りの山道を杖にすがってやって来たのですから、今はその亡骸なきがらを提げて再び山へ戻るのが、まさにその本望でなければなりません。
「え、何ですか、どなたか、わたしをお呼びになりましたか」
前に腰板へ立てかけておいた金剛杖を、再び手に取ろうとして盲法師は、また聞き耳を立てました。これがこの盲法師の癖かも知れません。誰も呼ぶ人はないのにまず自分の耳を疑わないで、あてもないところを咎め立てしてみるのは、今に始まったことではありませんでした。金剛杖は手に持ったけれども、やはりその場は動かないで、怪しげな頭を振り立てて、前後左右の気配をみているようです。
しかしながら、ここは前と違って、あたりに大木もなければ人家もありません。往来の山道よりは少し離れて高く突き出したところですから、わざわざでなければ、この夕暮に人が上って来ようとは思われないところです。
それにもかかわらず、盲法師はその人を見つけたかのように、いったん手に取った金剛杖をまたもとのところへさしかけて、
「どう致しまして、これは、わたしから御前ごぜんにお願いして、強たってやらせていただく役目なんでございます、決して言いつけられてやっているお役目ではございません。わたしですか、今年十七になりました、エエ、このお山へ参ったのが日蓮上人と同じことの十二歳でございました。こんなに眼の不自由になったのはいつからだとおっしゃるんですか。それは、つい近頃のことですよ。もっとも小さい時分から眼のたちはあまりよくはございませんでしたがね、この春あたりからめっきり悪くなりました、桜の花の咲く時分に、ポーッとわたしの眼の前へ霞かすみがかかりましたよ、その霞が一時取れましたがね、秋のはじめになると、またかぶさって参りましたよ、今度は霞でなくて霧なんでしょうよ、その霧がだんだんに下りて来て、今では、すっかり見えなくなりました。へえ、そりゃ随分悲しい思いをしましたよ、心細い思いをしましたよ。けれども泣いたって喚わめいたって仕方がありませんね、前世の業ごうというのが、これなんです、つまり無明長夜むみょうちょうやの闇に迷う身なんでございますね。その罪ほろぼしのために、こうやって毎晩、この燈籠を点けさせていただく役目を、わたしが志願を致しました、自分の眼が暗くなった罪ほろぼしに、他様ひとさまの眼を明るくして上げたいというわたしの心ばかりの功徳くどくのつもりでございますよ。ナニ、雨が降ったって風が吹いたって、そんなことは苦になりませんよ、毎晩こうやってお燈明とうみょうをつけに行く心持と、高燈籠へ火をうつして油がぼーと燃える音、それから勤めを果して、こうしてまた帰って来る心持と、それが何とも言えませんね……雨風といえば、近いうちに大暴風雨おおあらしがあるって、あの茂太郎がそう言いました、大暴風雨のある前には、蛇が沢山どっさり樹の上へのぼるんだそうですがね、本当でしょうか知ら、まあ、お気をつけなさいまし」
誰も相手が無いのに、盲法師はこう言ってから、金剛杖を取り上げてそろそろ歩き出しました。・・・
・・・「もし、あなた、罪のない人を殺してはいけません、わたしを殺して下さいまし、わたしが悪いのですから、わたしだけを殺して、ほかの人を助けて下さいまし、わたしはお前さんに殺されれば本望でございます」
そこへ縋すがりついたのはお豊ではありません、名も知らぬ女です。声にも聞覚えのない女であります。
女もまた、縋りついて、その人が動かない人でありましたから驚きました。
「あ、違いました」
離れようとしたが離れられません。動かない人の手が、早くも蛇のようにからみついておりました。
「あなた様は、どなたでございます、あの人はどちらへ参りました、どうぞ、お放し下さいまし、わたくしは、あの人に殺されなければならない女でございます、どうぞ、お放し下さい」
もがいたけれども、離れることはできません。
あちらの原っぱの方角で弁信法師が、お喋りをはじめたのはこの時分でありました。
「大変なことになってしまいました、一時いっとき、わたくしも気が遠くなってしまいました。おや、提灯の火も消えていますね。それでも、御安心下さいまし、わたくしの身体は無事でございます、倒れた拍子に頭を打ったものですから、ほんの一時、気が遠くなっただけのことでございます、もう、なんともございませんから御安心下さいまし。それにしても、あの発狂者きちがいはどうなされた、ほんとうにお気の毒なのはあの方でございますが、これも前世の宿業しゅくごうの致すところでございましょう、お諦あきらめ下さいまし。怪我をしたくもないし、おさせ申したくもないものでございます。女の方は、どうなさいました、逃げておしまいなさいましたかな、それとも真先に斬られておしまいなさいましたかな。それにつけても女というものは、罪の深いものでございますな、女一人ゆえに、どのくらい多くの人に間違いが出来るか知れたものではございません。でございますからお釈迦様も、女は怖ろしいものじゃと仰せられました、また女は救われないものじゃと仰せられました」
こう言って、ようやく起き上って来ました。転んでもただは起きないで、喋りながら起きて来ました。序ついでに、地に落ちて消えた提灯を手さぐりにして拾って起き上りました。
「おやおや、それにしても、あんまり静かでございますね、お怪我をなすった方もずいぶんおありなさるはずなのに、この近所には、どなたもおいでになりません、皆さん歩いてお帰りになったのですか、たった今、あれほどの騒ぎがありましたところにしては、あんまり静か過ぎますようでございます。まさか、夢ではございますまいね、夢であろうはずはございませぬ。それならば、もしや、あの、狐につままれたと申すものではございますまいか。おお、それそれ、わたくしにはお連れがありました、わたくしはそのことを忘れておりました、お連れの先生は、どうなさいましたでしょう、あの先生のことだから、お怪我をなさるようなことはございますまいが、わたくしのことを御心配になっておいでになるかも知れません、大きな声でお呼び申してみましょうかしら。それともまた、ここで大きな声を出して悪いようなことはございませんか知ら」
弁信は塵ちり打払いながら例によって、暫く小首を傾かしげていると、その鋭敏な耳に女の声が聞える。
「どうぞここをおはなし下さいまし、人違いで失礼を致しました……苦しうございます」
それを聞くと、弁信は声のした方へ頭をクルリと振向けました。
「どうぞおはなし下さいまし、わたしは苦しうございます……」
女は何者にか捉われの手を逃れようとして苦しみ呻うめいている。半ば蛇に呑まれて、半身だけが地上にのたうち廻って苦しむような、熱苦しい、どろどろした呻きの声であります。
それを篤とくと聞き定めた弁信は、消えた提灯を片手に、飛鳥の如く走り出しました。不思議となにものにも躓つまずくことなく、声のしたところへ一足飛びに走って来て、
「もし、先生、そこにおいでになりましたか。女のお方も、そこにおいでなさいますね。なんにしても、お怪我が無くてよろしうございました。けれども、あの足音をお聞きなさい、あの人の声をお聞きなさい、大勢の人がまた尋ねに参ります、今度つれて行かれたら、もう助かりませぬ、早くお逃げなさい。先生、わたくしのことは御心配にはなりませぬよう、あなた様は早く、その女のお方を連れてお逃げ下さいまし、先生がお逃げにならなければ危のうございます、早くこの場をお逃げなさいまし。あの通り人の足音と声とが近寄って参りました、お聞きなさいまし」・・・
・・・七兵衛は、そこで、ちょっと黙ってしまったのは、むろん後込しりごみをしてしまったものと兵馬は諦あきらめ、いっそこんなことをいわない方がよかったと思っていると、七兵衛は率直に、
「よろしうございます、私が、きっとその三百両をあなた様のために、三日のうちに調ととのえて差上げましょう。その代り私から、あなた様に一つの願いがございます」
そこで兵馬が意外の思いをしているのを、
「お願いというのはほかではありません、あのお松のことでございます。あの子は私が大菩薩峠の上で拾って来た、かわいそうな孤児みなしごなんでございます、私だって、いつまでもあの子の後立てになっているわけには参りませんし、それに、私が後立てになっていたんでは、あの子のために末始終、よくないことが起るかも知れませんので……どうかあなた様に、行末永く、あの子の面倒を見てやっていただきたいのでございます」
こういって改まって、お松という女の子の身の上を頼みます。
「それはよく心得てはいますけれども、今の拙者の身では、人の力になってやることができない」
「それは嘘でございます」
七兵衛は少しく膝を進ませて、
「人の力になってやるのやらないのというのは、心持だけのものです、あなたの心を、お松の方に向けてやっていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
「拙者の心持は、いつもあの人に親切であるつもりだが……」
「ところが、あの子の方では、わたしの親切が足りないから、兵馬さんに苦労をさせるのだと、この間も泣いておりました。私はお若い方に立入って、野暮やぼなことは申し上げるつもりはございません、あなた様が、第一にあのお松を可愛がってやっていただけば、それから後のことは、とやかくと申し上げるのではございません」といって七兵衛は、何か思い出したように台石から立ち上り、社やしろの木立から少しばかり街道筋へ出て天を見上げ、
「それでは、兵馬様、私はこれから三日の間に、あなた様のお望みだけのお金を調えて――そうですね、ドコへお届けしましょうか、ええと……浅草の観音の五重の塔の下でお目にかかりましょう、時刻は今時分、あの観音様の前までお越し下さいまし、その時に間違いなくお手渡し致します。今夜は雨が降るかも知れません、私はちょっと側道わきみちへ外それるところがございますから、これで失礼を致します」といって七兵衛は、そのまま風のように姿を闇に隠してしまいました。
そこで兵馬は、社の木立の深い中をたどって、社務所の方へ帰りながら、
「わかったようでわからぬのはあの七兵衛という人だ、金を持っているのか、持っていないのか、トント判断がつかぬ。どこにか少なからぬ小金こがねを貯えていて、表にああして飄々ひょうひょうと飛び廻っているのか知ら。いつもと違って今宵は三百両というなかなかの大金である、それを事もなげに引受けて、三日の期限をきったところには信用してよいのか悪いのか、とんと夢のようである。しかし、今まであの人の約束を信じて、ツイ間違ったことがない、それで、ここでも約束通りに信を置いて間違いないだろうか知らん」と胸に問いつ答えつしていたが、やはり夢のようです。果して易々やすやすとその要求するだけの金が手に入ったならば、自分の今の苦痛はたちどころに解放される。解放されるのは自分だけではない、苦界くがいに沈む女の身が一人救われる。そうして、金にあかして、愛もなければ恋もない女を買い取ろうとする色好みの老人の手から、本当に愛し合っている人の手に取り戻すことができる。自分の本望、女の喜び、それを想像すると、兵馬はたまらない嬉しさにうっとりとする。
うっとりとして、自分の足も六所明神の社内を、冷たく歩いているのではなく、魂は宙を飛んで、温かい閨ねやの燃えるような夜具の中に、くるくると包まれてゆく心持になってゆく時、ヒヤリとして胸を衝ついたものは、
「あなたの心を、お松の方に向けていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」といまいい残して行った七兵衛の一言ひとことがそれです。・・・
・・・この幣束へいそくで、お祓はらいをしてもらったのだか、祓い出されたのだか、二人はほどなく小屋の外へ出てしまいました。
「ごらん、お前があんまり陰気な顔をしているもんだから、あの神主様にまでばかにされてしまった」
といって、後家さんが浅吉をこづきました。浅吉はよろよろとして踏みとどまるところを、後ろから行って後家さんがまたこづきました。
「ホントに陽気におなりよ、意気地なし、陰気はけがれだと神主様も言ったじゃないか、お天道様の御陽光が消えると、けがれが起ると神主様がそうおっしゃったよ、ホントにお前はけがれだよ」
「だって、お内儀さん……」
恨めしそうに後ろを向きながら、浅吉がまたよろよろとよろけて踏みとどまると、
「お前がいると陰気くさくっていけないって、体ていよく追っ払われたんじゃないか、外聞が悪い」といって後家さんが三たびこづくと、浅吉がまたよろけました。
「意気地なし」
後家さんから四たび突き飛ばされて、二間ばかり泳いで踏みとどまった浅吉は、
「それは御無理ですよ」
やはり恨めしそうに振返ったけれど、あえて反抗しようでもなければ、申しわけをしようでもありません。小突かれれば小突かれるように、むしろこうして虐待されたり、凌辱されたりすることを本望としているかの如く、極めて柔順なものです。
そうして、突き飛ばされて、突き飛ばされて、二人の姿は小梨平から見えなくなりました。
そのやや暫くあとで、机竜之助は、林の蔭から、こっそりと身を現わして、鐙小屋あぶみごやに近いところの岩間から湧き出でる清水を布に受けて、頭巾ずきんを冠かぶったなりで、うつむいては頻しきりに眼を冷し冷ししていると、小屋の中から手桶をさげて出て来た神主が、
「これは、これは――」といって、竜之助の仕事を立って見ていましたが、
「それは利ききますよ、水でなけりゃいけません、湯では本当の修行になりませんな……白骨の温泉の雌滝めだきに打たれるより、この水で冷した方が、そりゃ利き目がありますよ」
「どうも、しみ透るほど冷たい水だ」と竜之助が眼を冷しながら答えると、神主が、
「トテモのことに、室堂の清水まで行って御覧になってはいかがです、これどころじゃありません……それから一万尺の権現のお池へ行って、神代ながらの雪水をむすんでそれを眼にしめして、朝な朝なの御陽光を受けてごらんなさい、癒なおりますよ」
「御陽光というのは何だね」
「朝日権現のお光のことでございます、黒住宗忠様が天地生き通しということをおっしゃいましたのを御存じでしょう」
「知らない」
「三月の十九日に、宗忠様は、もう九死一生の重態の時に、人に助けられて、湯浴ゆあみをして、衣裳を改めて、御陽光をお拝みになりましたから、家の人たちは、もうこの世のお暇乞いとまごいを申し上げるのだろうと思っていましたところが、御陽光が宗忠様の胸いっぱいになって、それより朝日に霜の消えるが如く、さしもの難病がことごとく御平癒になりました」
「ははあ」
「久米の南条の赤木忠春様は、二十二歳の時に両眼の明を失いましたけれど、宗忠様の御陽光を受けてそれが癒りましたよ」
「ははあ」
「御陽光に背そむいてのびる人間はなし、御陽光を受けて癒らぬ病人というのはございません……まあ、一度、この乗鞍ヶ岳へお登りなさいませ、そうして、朝日権現の御前に立って、蕩々とうとうとのぼる朝日の御陽光を拝んで御覧あそばせ、それはそれは、美麗とも、荘厳そうごんとも……」
と言いかけて、美麗荘厳はこの人に向って、よけいなことだと気がつきました。・・・
・・・そこで田山白雲が、もう争っても駄目と思ったのか、沈黙して考え込んでしまいました。
つまり頭の置きどころが違うのだ。この女の額面を上げようという意志は、なるべく趣向の変った、人目を奪うような意味で、旧来の額面を圧倒しようという負けず根性から出ているので、画面の題目や、絵の内容などには一切おかまいなしである。ここは争っても駄目だ。白雲は沈黙してしまいましたが、しかし物はわからないながら、この女の気性きしょうには、たしかに面白いところがあると思いましたから、
「よろしい、その切支丹をひとつ描きましょう」と言いました。これが負けず嫌いのお角を喜ばせたこと一方ひとかたでなく、相手をいいこめて、自分の主張が通ったものでもあるように意気込んで、
「描いて下さる、まあ有難い、それで本望がかないました」
それから一層心をこめて白雲を款待もてなしました。白雲も久しぶりで江戸前の料理に逢い、泰然自若たいぜんじじゃくとして御馳走を受けていましたが、今宵は、いつものように乱するに至らず、ひきつづいて駒井甚三郎の噂うわさ。駒井のために一枚の美人画を描いてやったが、それが、自分ながらよく出来たと思い、駒井も大へん気に入って、この脇差をくれたということ。それから、いいかげんのところで切上げる用心も忘れないでいると、お角が、
「ねえ先生、お差支えがなければ、わたしどもへおいで下さいませんか、二階が明いておりますから、いつまでおいで下さっても、文句をいうものはございません、そこで、どうか精一杯のお仕事をなすっていただきとうございます」
お角は背中の文身ほりものを質においても、奉納の額に入れ上げる決心らしい。・・・
・・・外へ出て見ますと、周囲の高い山から、雪が毎日、下界へ一尺ずつ下って参ります。やがてこの雪が、山も、谷も、家も、すっかり埋うずめてしまうことでしょうが、まだ、谷々は、紅葉の秋といっていいところもありますから、お天気の良い日は、わたしは無名沼ななしぬまのあたりまで、毎日のように散歩に出かけます。
温泉の温かさは、夏も、冬も、変りはありません。このごろ、わたしは一人でお湯に入るのが好きになりました。一人でお湯に入りながら、いろいろのことを考えるのが好きになりました。
大きな湯槽ゆぶねが八つもありまして、それぞれ湯加減してありますから、どれでも自分の肌に合ったのへ入ることが自由です。真白な湯槽、透きとおるお湯の中に心ゆくまま浸ひたっていると、この山奥の、別な世界にいるとは思われません。
昨日も、そうして、恍惚うっとりとお湯に浸つかっていると、不意に戸があいて、浅吉さんが入って来ましたが、私のいるのを見つけて、きまり悪そうに引返そうとしますから、
『浅吉さん、御遠慮なく』と言いますと、
『ええ、どうぞ』と、取ってもつかぬようなことをいって、逃げるように出て行ってしまいました。
なんて、あの人は気の弱い人でしょう。このごろになって、一層いじいじした様子が目立ってお気の毒でなりません。
全く、あの人を見るとお気の毒になってしまいます。死神にでも憑とりつかれたというのは、ああいうのかも知れません。このごろでは、力をつけて上げても、慰めて上げても駄目です。人に逢うのを厭いやがること、土の中の獣が、日の光を厭がるように恐れて、こそこそと逃げるように引込んでしまいます。
それにひきかえて、あのお内儀かみさんの元気なことは――お湯に入っているところを見ますと、肉づきはお相撲さんのようで、色艶いろつやは年増盛としまざかりのようで、それで、もう五十の坂を越しているのですから驚きます。
『あの野郎、もう長いことはないよ』というのは多分浅吉さんのことでしょう。お内儀かみさんは、浅吉さんを連れて来て、さんざん玩具おもちゃにして、それがようやく痩せ衰えて行くのを喜んで眺めているようです。
浅吉さんていう人も、なんて意気地がないのでしょう。
全く意気地無し――といっては済みませんけれど、ほんとうに歯痒はがゆいほど気の弱い人です。お内儀さんは、浅吉さんを、こんな山の中へ連れて来て嬲殺なぶりごろしにしているのです。そうしてその苦しがって死ぬのを、面白がって眺めているのだとしか思われないことがあって、私は悚然ぞっとします。それでも、付合ってみると、お内儀かみさんという人も、べつだん悪い人だとは思われず――浅吉さんもかわいそうにはかわいそうだが、お内儀さんも憎いという気にはなれず、わたしは、知らず識らずそのどちらへも同情を持ってしまうのです。一方がかわいそうなら、一方を憎まねばならないはずなのに――それとも、二人とも、別に悪いというほどの人ではないのでしょうか。また、わたしの頭が、こんがらかって、善悪の差別がつかないのでしょうか。
わからないのは、そればかりじゃありません。浅吉さんは、あれほど、お内儀さんから虐待を受けながら、お内儀さんを思い切れないんですね。無茶苦茶に苛いじめられて、生命いのちを毮むしり取られることが、かえってあの人には本望なのか知らと思われることもありますのです。ですから、わたしには、うっかり口は出せません。夫婦喧嘩の仲裁は後で恨まれると聞きましたが、あの人たちは夫婦ではありませんけれども、悪い時は死ぬの、生きるのと、よい時はばかによくなってしまうのですから、わたしは、障さわらないでいるのが無事だと思っています。
ですけれども、そうしているのは、わたしが、あのお内儀さんに加勢して、浅吉さんを見殺しにしているかのように思われてならないこともあります。
弁信さん。
こんなことを、あなたに書いて上げるんじゃありませんけれど、あなたが、わたしのために言って下すったことが、わたしの身の上でなくて、あの浅吉さんという人の身の上にかかっているような気持がしてならないものですから、つい、こんなことを書く気になってしまいました。
前に申し上げる通り、わたしは道中も無事、ここへ来てもほんとに幸福の感じこそ致せ、殺すとか、死ぬとか、そんないやなことは、わたしの身の廻りには寄りつきそうもありませんのに、あの浅吉さんという人には、最初から、それがついて廻っているようです。かわいそうでなりませんけれど、いま申し上げたようなわけで、力になって上げる術すべがありませんのよ。・・・
・・・幕があいたので、いったん居眠りから呼び醒さまされた道庵も、この物凄い景気に、すっかり眼を醒ましてしまうと、舞台は箱崎松原の大乱闘。
重太郎が十八人目を斬った時に、道庵が二度目の居眠りから眼を醒まして、一時は寝耳に火事のように驚きましたが、やがて度胸を据えて見物していると、最初から数えていた見物のいうところによれば、都合二十八人を斬って捨てた時に幕が下りました。
見物はホッとして息をつく。
道庵はしきりに嬉しがっている。
宇治山田の米友は、なんだか要領を得たような、得ないような顔をして、しきりに首を捻ひねっている。
幕がおりると共に見物はホッと息をついて、その息の下から海老蔵は偉い、海老蔵ほどの役者はないと、感嘆の声が盛んにわきおこります。
次の幕は、野州宇都宮の一刀流剣客高野弥兵衛の町道場。
花道から岩見重太郎が、武者修行の体ていで腕組みをしながら歩いて来る。そうして述懐のひとり言ごと。
自分は家中の者を二十八人も斬り捨てたために、浪人の身となって武者修行をして歩いている。自分としてはこうして武を磨くことが本望だが、国に残る父上や、兄上、また妹の身の上はどうだろう。近ごろ夢見が悪い、というようなことを言う。
いや、そう女々めめしい考えを起してはならぬ。あれに立派な道場のようなものが見える。推参してみようと、道場へ近寄って武者窓を覗のぞくと、門弟共が出て来て無礼咎とがめをする。結局、貴殿武者修行とあらば、これへ参って一本つかえという。重太郎、多勢に引きずられるようにして道場に入り込み、それから入代り立代る門弟を、片っ端から打ち据える。堪りかねて道場主高野弥兵衛が出たのを、これも苦もなく打込んでしまう――弥兵衛は無念に堪えないながら、どうしても歯が立たないと見て、止むなく笑顔を作って重太郎を取持ち、一献いっこん差上げたいからといって案内する。
舞台廻ると、宇都宮の遊女屋三浦屋清兵衛の二階。
そこへ、弥兵衛が重太郎を連れ込んで盛んに待遇もてなす――そこで重太郎がパッタリと妹お辻にでっくわす。お辻はこの家に身を沈めて、若村という遊女になっていたのである。
あまりの意外な邂逅かいこうに二人は暫く口が利きけない。やがて弥兵衛一味が酔い伏してしまった時分に、重太郎はお辻を呼んで、身の上を聞く。
聞いてみれば、父の重左衛門は同じ家中の師範役、成瀬権蔵、大川八右衛門、広瀬軍蔵というものの嫉ねたみを受けて殺されてしまった。自分は兄の重蔵と共に仇討に発足したが、兄は中仙道の板橋で返り討ちになってしまい、自分はここへ身を沈めるようになったのだが、今、あなたと一緒に来た高野弥兵衛というのに附纏つきまとわれ困っているが、あれはよくない男だというような物語がある。
重太郎、それを聞いて悲憤のあまり、今夜のうちに、お前を連れてここを逃げ、父兄の仇討に上ろうと約束をする。・・・
・・・八畳の一間、そこに静かな敷物がある、部屋の飾りも落着いて、卑しげがない。
正面に「南無妙法蓮華経」の髯題目ひげだいもくの旗がある。
「伊津丸いつまる」
「はい」
「梶川様が岡崎からお越しになりました」
「おお梶川殿」と、寝返りを打とうとするのを押止めた梶川は、
「そうしていらっしゃい、あなたがそんなに御病気で休んでおられるということを、つい存じませぬ故、お見舞も致さず、失礼しました」
「いえいえ、失礼はこちらのこと、こんな意気地のない姿を人に見られるがいやさに、どちらへもお知らせをしませんでした」
「それは御遠慮深すぎる、ほかならぬ拙者にだけはお便りを下さってもよかろうものと、只今も奥方の前で、それをお怨うらみ申していました」
「有難うございます、同じ怨みはこちらからも申さねばなりますまい。それはどちらに致せ、今日はよくお越し下されました」
「いや、よくまいったと申し上げたいが、実は只今も奥方に申し上げました通り、余儀ないわけで人を討ち果し、それがために岡崎を立退いてまいりました」
「おお、それはそれは、大事ではござれども武士の意気地、やむにやまれぬこともござりましょう。どうしてまた、人を討たねばならぬようになりましたか」
「自分ではいらぬ腕立てを致すつもりは更にござらねど、事情がおのずからそうなっては、ぜひもござらぬ」
「貴殿は天性、術に長たけておいででした、その術が貴殿の幸か不幸かを齎もたらすことになるとはいえ、こうして病床に親しむ吾々には、そのお元気が羨うらやましい」
「いやいや、客気にはやって身をあやまらぬよう、父からも堅くいましめられ、自分ながら心を締めておりますけれども、どうも勢い止むを得ませぬ」
「左様な儀ならば遠慮なくこの屋敷に逗留なさい、私も良い友達があって、心丈夫」
「まことに御迷惑の儀とはお察しいたしますが、暫くおかくまいが願えれば、それに越した喜びはござりませぬ、只今、奥方にもそのお許しを受けました」
「ここは離れて静かなところですから、隠れているにはくっきょうと思います」
「それはそれとしまして、貴殿の御病気を一日も早く治したいものでございます、そして昔のようにおたがいに竹刀しないを取って稽古をしてみたいものでござる」
「いや、それはもう望みが絶えました、立って歩けるようになれば、それだけで本望だと思っておりますが、多分それも叶いますまい」
「なんという心細いことをおっしゃる、まだまだ、おたがいに元気いっぱい、こうして拙者が傍にお附き申している限りは、拙者の念力だけでも丈夫にしてお目にかけます」
「そのお言葉が何より心強く感じます。実はこうして永らく病床になやんでいるより、どこぞ湯治へでも行けとすすめられておりますが、湯治に行こうという気にもなりませぬ」
「ははあ、湯治は悪くありません、次第によってはその湯治先まで、拙者が附いてまいってあげてもようございます、そうすれば拙者のためにもよいと思います」
「いやいや、貴殿のお隠れなさるには、かえってこの屋敷がようございます、この屋敷にありさえすれば、決して人の手に捕われるという心配はありませぬ」
「いやいや、拙者のは国を立退いて来たとは申せ、実は、武士の面目の上に止み難き事態であることは、藩の者も皆判っている故、さのみ恐れて隠れ潜む必要はござりませぬ、表面上謹慎を表して立退けばそれで済むのでございます」
「いずれにしても御用心に如しくはなし、ゆっくりご逗留なされよ」
「奥方様」と、梶川は奥方の方に向いて、
「拙者は隠れ潜んでいるのがよいとは申せ、伊津丸殿はこうして永らく一室におられては、お気も屈しましょう、湯治のことはよい思いつきと存じますが、もし湯治においでなさるのに、お手不足でもあるならば、及ばずながら拙者がおともを致しましょう」
「それは有難うございます。実は信濃の国の白骨の湯というのが、たいそうよく効くという話でございますから、それへ、この子を連れて行ってみようとも思いましたが、何を申すにも、時も時、所も所、私たちだけではどうすることもできませぬ」
「ははあ、白骨とはどちらか存じませぬが、そういう次第ならば、拙者が喜んでおともを致しましょう、どうです伊津丸殿」
病人の方へ向き直り、
「湯治に行く気はござりませぬか」と言われて伊津丸は天井の一方を、涼しい目でじっと見詰めながら、
「湯治に行くよりは、私は肥後の熊本へ行きたいのです」
「はて、肥後の熊本」と梶川が小首をかしげるのを、奥方がひきとって、
「肥後の熊本は先祖の地だということで、この子はそのことばかり申しております。同じ湯治をするならば、肥後の阿蘇山の麓ふもと、また同じ死ぬるならば熊本の本妙寺の土になって、御先祖の清正公の魂にすがりたい、なんぞと口癖のように申していますから、いつもそれをわたしが叱っております」
「ははあ、伊津丸殿は拙者と共に道場通いを致した時も、よく左様なことを申されました」
「はい、この子はどうしたものか肥後の熊本を、先祖の地、先祖の地、と言いますけれど、本当に先祖の地は、この尾張の国だということが、どうしても分らないで困ります。すなわち御先祖清正公は、ここからほんの地続きの尾張の中村で生れ、そうしてあの尾張名古屋の御本丸も、清正公一手で築き成したもの、清正公の魂魄は、肥後の熊本よりは、この尾張の名古屋に残っているということを、よくよく申し聞かせても、どうしてもこの子にはその気になれないようでございます」
「それもそうかも知れませぬ、世間の人も加藤清正公と申せば、肥後の熊本だと思います、清正公の魂は、かえってあちらに止まっておられるかも知れません、それが伊津丸殿の心を惹ひかされる所以ゆえんかも知れませぬ」と梶川が言った時に、病人はちょっと向き直って、
「わたしはやはり肥後の熊本が、なんとも言えず慕わしい、梶川殿、どちらかなれば、わたしは白骨よりは熊本へ行きたい、なんと熊本まで私をお送り下さるまいか」
「お送り申すは容易やすいことなれど……」
その時奥方は、キッと襟えりを正し、
「伊津丸、お前はそれほど熊本へ行きたいならばおいでなさい、私はいつまでもこの尾張の国に残っております、御先祖の心をこめた、あの金の鯱しゃちほこのある尾張名古屋の城の見えないところへは行きたくありません、死ぬならば尾張の国の土になりたい、熊本はわたしの故郷ではありません」・・・
・・・その翌日、長浜の町は水を打ったように静かでありました。
その前の日あたりの人民の動揺の低気圧は消散してしまったか、そうでなければあのまま凍りついてしまったようです。昨晩、篝かがりを焚たいたには相違ないのですが、今朝になって見ると、それが滞りなく炭の屑に化してしまっていただけのもので、その篝火の下で、なんら異状のものの出没が照し出された形跡はありませんでした。
少し今朝、調子が変った点がありといえば、それは、いつも早起きの町民が、少々眼の醒さめ方が遅いかとも思われるくらいでしたが、その時分、ひょっこりと八幡町の町の辻へ姿を現わしたのは、弁信法師に相違ありません。
「ええ少々、物を承りとうございますが、りんこの渡し場まで参りますには、どちらへ参りましたらよろしうございましょうか、これを真直ぐに参りましてさしつかえございますまいか、或いは右に致した方が順路でございましょうか、それとも左――」
こう言って、杖を町の辻の真中に立てましたが、誰も答えるものはありません。
それは前いう通り、時刻としてはそんなに早過ぎるというわけではないのですが、町民が今朝に限って眼のさめることが遅いのですから、自然、戸を開くことも遅れて、折から通り合わせる人もなければ、店の中で認めて挨拶をしてくれる人もないという状態なのです。
「まだ、どなたもお目ざめになりませぬな、今朝は別して皆様お静かでいらっしゃいますな、では、ともかくわたくしはこの通を真直ぐにまいってみることにいたしましょう、そう致しますると、いずれは湖の岸までは出られるように思われてなりません、りんこの渡しと申しますのも、つまり、その湖の岸のいずれかにあるものに相違ございませんから、何はしかれ、湖岸へ向って進んでみまして、それからのことといたしましょう」
誰も挨拶を返すものがなくとも、この小坊主は、喋しゃべることにかけては相手を嫌わないのであります。ですから、一向ひるむ気色けしきもなく、そのまま右の辻から杖をうつそうとすると、
「待て――」と言って、一人の足軽が棒をもって物蔭から立現われました。
「はい」
「坊主、貴様はどこへ行くのだ」
「はいはい、わたくしは竹生島へ参詣をいたしたいと心得て出てまいったものでございます、最初の出立を申し上げますると、日蓮上人が東夷東条安房あわの国とおっしゃいました、その安房の国の清澄のお山から出てまいりまして、その後追々と国々を経めぐってようやくこの近江の国の胆吹山の麓まで旅を重ねて参りましたものでございますが、ごらんの通り、旅路のかせぎと致しまして、平家琵琶の真似事を、ホンの少しばかりつとめますもの故に、この近江の国の竹生島は浅からぬ有縁うえんの地なのでございます……」
「これこれ、そうのべつにひとりで喋りまくってはいかん――貴様、見るところ目が見えないのだな」
「はい、ごらんの通りでございます、まことに前世の宿業が拙つたのうございまして、人間の心の窓が塞がれてしまいました、浅ましい身の上でございます。そもそもわたくしがこのような運命に立至りました最初の……」
「これこれ、まだ貴様の身性みじょうを調べたわけではないのだ――連れはあるのか、ないのか」
「はい、連れと申しまするのは一人もございません。一緒に連れて行ってもらいたいと申したものはございましたが、思案をいたしてみますると、独ひとり生れ、独り死に、独り去り、独り来きたるというのが、本来出家の道でございまして、ましてこの通り不具かたわの身ではありますし、われひと共に迷惑のほどを慮おもんぱかりました事ゆえに、わたくしは誰にも挨拶なしに、こっそりと抜け出して参りました。あの竹生島へ渡りますには、大津から十八里、彦根から六里、この長浜からは三里と承りました、このいちばん近い長浜の地から出立させていただくことも、本望の一つなのでございます……そもそも私がこのたび、近江の国の土を踏みまして、琵琶の湖水を竹生島へ渡ろうと思い立ちました念願と申しまするは……」
「いいから行け! 行け!」
足軽はついに匙さじではなく棒を投げてしまいました。つべこべとよく喋る坊主で、黙って聞いていれば際限がなかりそうだし、そうかといって、咎とがめ立てをして拘留処分を食わすには余りに痛々しいものがある。それにまた、江州長浜という土地は、昔は錚々そうそうたる城下の地であったが、近代は純然たる商工都市になっている。そうして同時に信仰の勢力がなかなか侮あなどり難いものがある。うっかり坊主を侮辱して、現世罰の祟たたりを受けてもつまらないと感じたのか、そのことはわからないが、足軽がとうとう棒を投げ出して、弁信の無事通過を許さざるを得なくなりました。・・・
・・・お銀様はその好きな新月を、よく故郷の空に於て見たものですが、その都度、やはり無意識に、「繊々初月上鴉黄」という一句を、まず念頭に思い浮ばしめられてくるのが習いとなっていましたが、最初のうちはただ何となしに、その一句が頭にうつり、それを無意識に口ずさんでみる程度のものでしたが、そのうちに、いつということなく一つの疑問に襲われたのは、「繊々たる初月」ということには何の異議もないが、「鴉黄に上る」というあとの半句が解しきれなかったのです。
鴉黄というのは何だろう。鴉という字はカラスという字だから、鴉からすがねぐらに帰り、空の色がたそがれで黄色くなる時分に、新月が上り出したという意味ではないかと、最初のうちは漠然と、そんなふうにのみ解釈していましたが、そのうちに、お銀様の研究癖が、単にそんな当て推量では承知しなくなりました。
そこで、書物庫へ入って古書を引出して取調べをはじめたことです。調べがすんでみると、全く予想だもしなかった意義と歴史とを発見することができました。鴉黄というのは、鴉のことでもなければ、黄昏たそがれのことでもない。それには、想い及ばなかったところの濃厚な意味が含まれていると共に、お銀様の反抗心を、また物狂わしいものにしたところの、歴史上の重大なる描写と諷刺とのあることを、あの詩全体から発見するに至りました。
あれは申すまでもなく、盧照鄰ろしょうりんの「長安古意」の長詩の中の一句でありますが、何の意味となく誦していたところのものと、新たに取調べたことによって、お銀様はとりあえず、「鴉黄」というのは、唐の時代に於て、支那の風流婦女子によって盛んに行われたお化粧のうちの一つで、額の上に黄色い粉を塗って飾りとしたその習わしであることを知ってみると、「繊々たる初月」というのも自然の夕空の新月のことではなくして、その黄粉を粧うた美人の額の上に描かれた眉の形容であることを知るに及んで、漫然たる最初の想像が全く覆くつがえされたのです。
ちょっとしたことでも、物は調べてみなければならない、学問上のことについては、独断であってはならないという自覚を、お銀様がその時に呼び起されてみると、同時に、ただあの詩の中の右の一句だけでなく、あの長詩全体に亘わたっての意味を味わわなければならないと、自家蔵本の渉猟にとりかかりました。
その結果が、お銀様を「長安古意」のたんのう者としたのみでなく、その作者であるところの盧照鄰という古いにしえの薄倖なる詩人に対して、同情と哀悼あいとうの心をさえ起さしめたのであります。
お銀様の頭には、今、この「長安古意」が蒸し返されて、あのとき受けた強い印象が、つい目の前に蘇よみがえり迫って来るもののようです。
お銀様は、ただもう、その古詩を思い出すことによって、感情が昂たかぶってきましたが、足許は焦あせらずに、胆吹の裾野の夕暮を、じっくりと歩んでいるのです。
その時、不意に右手の松林の間から、叱々しっしっと声がして、のそりと、一つの動物が現われ出しました。見ればそれは巨大なる一頭の牛が、後ろから童子に追われて、ここへ悠然と姿を現わしたものですが、牛は牛に違いないが、その皮の色が真青であることが、いとど驚惑の感を与えずには置きません。
それが行手に、のそりと現われたものですから、お銀様も少しくたじろぎました。しかし相手は牛のことであり、不意に現われたとはいえ、牛飼がちゃんと附いて、この温厚な動物を御ぎょしているのだから、寸毫すんごうといえども恐怖の感などを人に与えるものではありませんでした。
「奥様、こんにちは」
牛飼の少年は、質朴に、そうしてさかしげにお銀様に向って頭を下げて通り過ぎようとしました。
「奥様」といったのは故意か偶然か知らないけれども、昨今ではあるが、みんな自分の周囲の出入りの者、見知り越しの土地の人などが自分を呼ぶのに、この「奥様」という語を以てすることをお銀様が納得している。お銀様はむしろ令嬢として扱われるよりは、奥様と呼びかけられることを本望としているらしくも見える。
してみれば、この牛飼の少年も、多分、お銀様の新植民地の建前工作にあずかっている人数のうちの、家族の一人であることが推察されないでもない。ただ、不審といえば不審というべきは、こんな少年を、あの工事中のいずれに於てもまだ見かけなかったこと! この少年が鄙ひなに似合わず、目鼻立ちの清らかなということにありました。
「ちょっとお待ち」
やり過ごして置いてから、お銀様が、何のつもりか、後ろからその少年を呼びとめたものです。
しかしながら、その子供は見向きもしないで、さっさと行ってしまいます。多分、お銀様から呼ばれた言葉が聞えなかったのでしょう。しかし、お銀様は強しいて、声を高くして再びそれを呼び返そうとはしませんでした。・・・
・・・この一間では、お銀様も、あの晩に素晴しい夢を見せられたことは、「不破の関の巻」で書きました。お銀様のあの時の夢は、見ようとして見た夢でありました。見ようとして見た夢を、空想通りに見せられたのですから疑問はありませんが、いま伊太夫の見せられている夢は、全く自分も予期しないところの夢であったのです。ですから、伊太夫は夢の中でも、この夢の全く取止めようのないのに呆あきれているのです。
もう一度繰返して見ると、お銀様はここへ来る前から、関ヶ原の軍記に相当のあこがれを持ち、ここへ来てから、関ヶ原合戦の絵巻物を見せられ、それから、関ヶ原の夜の風物に直接存分触れて来ての後の夢でしたから、見せられた夢も当然であり、見た当人も不思議はなかったのです。お銀様はあの時、この部屋で大谷刑部少輔おおたにぎょうぶしょうゆうの夢を見たのです。見ようとして見たのです。お銀様こそは、関ヶ原の軍記に憧あこがれを持つというよりも、大谷刑部少輔その人に、かねてより大いなる憧れを持っておりました。
何故に女人としてお銀様が、人もあろうに大谷刑部少輔吉隆にそれほどまでに憧憬を捧げているのか――
お銀様は、どうしたものか、関ヶ原の軍記に於て、西軍に同情を持っている。石田、小西に勝たさせたいという贔屓ひいきが、物の本を読むごとにこみ上げて来るのを如何いかんとも致し難い――だがそれは、石田、小西が好きだからではない、別にお銀様の心魂を打込むほどに好きな人が、関ヶ原軍記の中に一人あったからです。その人こそ、無上の共鳴と、同情と、贔屓とを捧げている。常の時でさえお銀様は、その人のことを思い出すと涙を流して泣く。歴史上といわず、およそありとあらゆる人間のうちで、お銀様をしてこれほどに同情を打込ませる人は、二人とないと言ってもよいでしょう。その人は誰ぞ、それがすなわち大谷刑部少輔吉隆その人なのであります。
その好きな人を、その人の最期さいごの地で、夢に見たのだから本望です。本望以上の随喜でした。あの盛んな大芝居を夢見てしまった後のお銀様は――
――石田三成も悪い男ではないが、大谷吉隆はいい男だねえ。
わたしは日本の武士で、まだ大谷吉隆のようないい男を知らない。今はその人の討死した関ヶ原へ来ている。あのいい男の首塚が、ついこの近いところになければならぬ。
わたしは何を措おいても、あの人の墓をとむらって上げなければならぬ――明日、明朝――いいえ、今夜これから、ちょうど、月もあるし……
大谷吉隆の首を、わたしはこれからとむらってあげなければならない――
かくてお銀様は、月の関ヶ原をさまよい尽して、ついにどこよりか一塊の髑髏を探し求めてまいりました。
その髑髏が果して、大谷刑部少輔の名残なごりの品であったか、なかったか、そんな詮索は無用として、お銀様は心ゆくばかりその髑髏を愛しました。面目めんもくが崩れ、爛ただれ、流れて、蛆うじの湧いている顔面がお銀様は好きなのでした。大谷刑部少輔の顔面としてではなく、自分の顔面としての醜悪は、無上の美なりとして憧れていたのですが、その時の髑髏は米友によって洗われ、弁信によって火の供養を受けて、立派に成仏しているはずですから、またもここへ迷うて出て、父の伊太夫を悩まさねばならぬ筋合いは全くないのであります。・・・
・・・伊太夫が旅立ちをしたあとの留守居を引受けた与八の、また一つの社会事業としての、浴場公開のことがありました。
古来、伊太夫の屋敷のうちには有名なる温泉がありました。温泉といっても、そのままで入湯のできるまでに熱い湯ではありませんでした。温度四十五度内外のものですから、いったん沸かして入らなければならないのですが、それでも効目ききめは大したものでありました。少なくとも大したものとして遠近おちこちに伝えられて、以前は、ほとんど公開の設備をしていたのですが、伊太夫の後妻を迎える前後になって、公開をやめて自家用だけにしておりましたのが、なお特に希望して来るものが多かったのですが、一人に許すと百人に許さなければならぬという道理で、ことごとく謝絶してしまっておりました。
それを、近ごろになって、与八が伊太夫に頼んで再び公開のことを申し出でたのを、今度は伊太夫がすんなりと承知してくれました。その上に、設備万端の費用もおかまいなしというようなわけで、与八の前へ棟梁とうりょうを呼んで、自分から言いつけて工事をやらせるという徹底ぶりにまでなったのですから、与八の本望は申すまでもなく、大工さんたちも、
「わたしたちもこれで願いがかないました、この仕事は人助けのためだから」と言って、奉仕につとめてくれたことですから、日ならず立派な公開浴場が出来上りました。
遠近、聞き伝えて欣よろこぶことは容易ではありません。病人たちは、その噂だけで再生の思いをした者もありました。
木の香新しい浴室の中央へ地蔵様を据えつけると、与八はそこで風呂番をつとめました。そうして湯加減を見るために、いつも最初の朝湯は与八自身がつとめました――というのは、一つはこのお湯の効目を、とかく病身がちな郁太郎というものに蒙こうむらせてやりたいということも、最初の希望の一つであったのです。
そこで風呂が沸くと、与八は真先にお毒見をするつもりで、郁太郎を抱いて新湯を試みました。
ある日、与八が余念なく入湯していると、その姿を立って眺めているお婆さんが一人ありました。このお婆さんは、きりりと身ごしらえをして、かなり道中の雨露を凌しのいで来たと見られる手甲脚絆てっこうきゃはんをつけて、笈摺おいずるのようなちゃんちゃんこを着て、そうして、草鞋わらじがけで竹の杖をつき立てて、番台の下まで進んで来たのですが、どうしたものか、そこですっかり与八をながめ込んでしまったのです。
与八は、そんなことにはいっこう頓着なしに、しきりに郁太郎を手拭で撫でさすっておりましたが、やがて、眼を上げて見ると、番台の下に矍鑠かくしゃくたるお婆さんが一人、突立ってこちらを見ているのに気がついて、急に大きな頭を一つ、がくりと下げ、
「お早うございます」と、例によって、馬鹿ていねいに挨拶しますと、右のお婆さんが、
「お前さんは、いい人相だねえ」
挨拶を返すことを忘れて、惚々ほれぼれとこう言って感歎の声を放ちます。
「へ、へ」
与八としては気のいいえがおをもって、お婆さんの感歎に答えるだけでした。・・・
・・・「君たち、しらを切ってはいけないよ、君たちが机竜之助を隠している。隠していないとすれば、少なくとも拙者が竜之助にめぐり会うべき機会を妨げた――信州の諏訪以来、覚えがあるだろう」
と兵馬から厳しく、こうたしなめられると、はじめて二人が気がついたように、面を見合わせて、
「ああそうか、あのことか、あれか」
「どこにいるか、その在所ありかを教えてくれ給え、明白に言えなければ、暗示だけでも与えてくれ給え」
兵馬が畳みかけて追い迫ると、仏頂寺は呑込み面に、
「あれはな、宇津木君の推察通り、いささか妨げをしてみたよ、意地悪をしたわけじゃない、人から頼まれたんだ」
「誰に頼まれた」
「それは、甲州の豪族の娘で、俗にお銀様といって、なかなかの代物しろものだ、その人に我々が余儀なく頼まれてな」
「うむ、あのお銀様という女――あれなら僕も知っている」と、兵馬もそう答えざるを得ませんでした。そうすると仏頂寺が、
「あのお銀様という女に頼まれてな、宇津木兵馬が、机竜之助を兄の仇かたきだと言って、つけ覘ねらっている、これから信州の白骨へ行こうとする、会わせては事が面倒だから、どうか、二人を会わせないようにしてくれと、我々に頼んだのだ」
「そうか。そうして、それから?」
「そこで、我々はちょっと迷ったよ、宇津木のためには、早く会わせて本望を遂げさせてやりたいし、このお銀様の頼みも無下むげには捨てられない。ところで、お銀様が説くところを聞いていると、なかなか道理がある、ことにもう一つ、あの女には力がある、それは何の力かというに、金力だ、あれは甲州第一の富豪の娘で、莫大な金力の所有者だ、その金力と、弁力とをもって、われわれを圧迫して来たのだ、こいつには参ったよ」
「では、君たちは、金力でもろくも買収されてしまったのだな」
「そういうわけじゃない、金力があろうとも、弁力があろうとも、その人にそれだけの力がなけりゃ、人を圧服することはできやせん、正直に言えば我々は、お銀様という女に圧倒されてしまって、否応なしに、君にとっては憎まれ役――二人を会わせまいとする役割をつとめてしまったのだ」
「意気地がないなあ――女に圧倒されてしまった仏頂寺」
兵馬が嘲ると、丸山勇仙が、
「女だって、あの女は少し違うよ、買収と言えば人聞きが悪いが、あの女は使うようにして使うんだ、仮りに買収されたとすれば、僕等ばかりじゃない、君もまた、あの女に買収されていたんだぜ。君の諏訪から今までの道中費は、よそながら僕等が支払った、これは間接に、みんなあのお銀様の懐ろから出ているんだぜ」
「そんなはずはない」
「はずはなかろうとも、事実は争われないのだ。ところで、机竜之助は、あの女が保護している限り、君の手には合うまいと考える。しかしまあ、仏頂寺あるところに丸山があり、宇津木兵馬あるところに旅芸妓がありとすれば、お銀様という女のあるところに机竜之助があるかも知れない、その心持で探し給え」
「で、そのお銀様はどこにいる」
「それは知らない」
二人がまたクルリと背を向けたところへ、雲煙が捲き込んで来ました。・・・
・・・女は寝ながら、次のような話をはじめました。
それを書き下ろしてみると――
昔、同じ藩中の人に殺されたお武家がありました。そのもとの起りは、奥様から起ったのだそうです。そこで、まだ子供はなし、力になるほどの身寄りもないけれど、この奥様は、なかなか気象の勝った奥様でございまして、夫の敵かたき、もとはと言えば自分から起ったこと、これをこのままにして置いては、女ながら武士道が立たない。といって、身寄りには一人も力になるのはないのです。そこで雄々しくも自分の夫の敵討願いを出して、旅に出ることに覚悟を決めました。
ところで、家には、夫の時代から愛し使われた若党が一人あるのです。若党といっても若いとはきまっていないけれども、この若党は真実年も若し、それに身体からだが達者で、腕も利き、万事に忠実で、亡き夫も二無きものと愛して召使っておりました。
この若党にも暇をやって、奥様はひとり敵討の旅に出ようとしますと、若党がそれを聞いて涙を流して言いました、
「それはお情けないお言葉でございます、亡き御主人様に子のように愛されておりましたわたくし、今この場に当って、奥様の敵討にお出ましになるのをよそに、どうしてこのお邸やしきを立去られましょう。下郎の命はお家のために捧げたものでございます、どうか、私めをもお連れ下さいまし、道中に於ての万事の御用は申すまでもなく、敵にめぐり逢いました時は、主人の怨うらみ、一太刀なりと報いなければ、仮りにも家来としての義理が立ちませぬ。どうぞこの下郎をお召連れ下さいまし、たとえ私は乞食非人に落ちぶれましょうとも、奥様に御本望を遂げさせずには置きませぬ。もしお聞入れがなくば、この場に於て切腹をいたしまして、魂魄こんぱくとなって奥様をお守り申して、御本望を遂げさせまするでございます」
思い切った体ていで、こう言い出しましたものですから、奥様も拒こばむことができません。
「それほどそちが頼むならば、聞いてあげない限りもないけれど、知っての通り、家にはそう貯えというものがあるわけではなし、永ながの年月たずぬる間には路用も尽きて、どうなるか知れぬ運命、わたしとしては、行倒れに倒れ死んでも、夫への義理は立ちます、いや、たとえ本望は遂げずとも、死んで夫のあとを追えば、それも一つの本望であるが、お前は縁あってわたしの家に使われたとは言いながら、譜代の家来というわけではなし、まだ若い身空だから、いくらでもよそへ行って立身出世の道はある、そうしたからとて、誰もお前に非をうつものはないけれど、わたしはそうはゆかない、わたしに代って敵を討つ身寄りがない限り、わたしというものはこうしなければ、家中かちゅうへ面向かおむけがなりませぬ。ここをそちに聞きわけてもらいたいが、それほどに言われる志はうれしい。では、その覚悟で、わたしに附添うて下さい――頼みます」
「有難うございます、一生の願いをお聞き入れ下されて、こんな嬉しいことはござりませぬ」
そこで、主従が勇ましく敵討の旅に立ち出でました。
奥様にとっては、むろん夫の敵――下郎にとっては主人の仇、名分も立派だし、ことに主家の落ち目を見捨てない下郎の志は一藩中の賞ほめものでした。・・・
・・・胆吹の新館のお銀様の居間で、お雪ちゃんが頻しきりに桔梗ききょうの花を活けている。
お雪ちゃんとしては、お銀様に出し抜かれて湖水めぐりをされてしまったようなものの、それでも心からお銀様を恨むということも、憎むというほどのこともあろうはずはなく、今では充分の好意をもって、その不在の間にお花を活けて、床の間への心づくしをして置いて上げたいという気持にまでなっているのです。
思うようには活けられないけれど、せめてお銀様に笑われないように――ああも、こうも、と枝ぶりに精をこめている間に、つい我を忘れる気持にまでさせられてしまいました。芸術的気分とでもいうものでしょう――無心になって花を活けていると、その後ろから、不意に物影が暖かくかぶさりましたのに、無心の境を破られて、はっと見向くと思いがけなく、自分の背後にお銀様が例の覆面のままで、すらりと立って、こちらを見下ろしているではありませんか。
「まあ、これはお嬢様、お帰りあそばしませ」
お雪ちゃんは少し周章あわてて、いずまいを直して挨拶をしますと、お銀様は、
「たいそうお上手ですね」
「いいえ、お恥かしいんでございますよ」
お雪ちゃんは恥かしそうに申しわけをすると、
「結構じゃありませんか」
「いいえ、お嬢様のお留守の間に、ほんのお笑い草までにと思いまして」
「どうも有難う」
「ほんとにお恥かしい……」
「全くお見事ですよ、わたしなんぞには、とてもそうは参りません」
「どういたしまして、お嬢様なぞは、お仕込みが違っていらっしゃいますから」
「天性のものですね、わたしなんぞいくら稽古をしても、無器用なものですから」
「いいえ、お嬢様は万事に筋がよくっていらっしゃいますから」
「芸事では、お雪さんにかないません」
「どう致しまして」
「それで結構です、頂戴して飽かずながめることに致しましょう――お手並もよいが、花の選みも悪くございません」
「少しでもお気に召しましたら、わたし本望でございます」
「部屋全体が、これですっかり落着きが出来ました――お雪さん、そこはそのままにして、あとで誰かに片づけさせましょう、早速ですが、一つあなたに頼みがあるのです」
「何でございますか」
「あのね――」
「はい」
「御苦労ですけれども、お雪さん、これから、あなたにひとつ長浜まで行っていただきたいのです」
「長浜まででございますか」
「はい、長浜へ行って、暫くあそこに泊っていていただきたいのです、しばらくといっても、そう長い間ではありません、せいぜい五日か十日」
「承知いたしました、どういう御用か存じませんが、お嬢様のおっしゃるお言葉でしたら……」
「それでは早速お頼みしますが、長浜へ行きますと、浜屋といって、古い大きな構えの宿屋があるのです、そこへ裏木戸から行って、お雪さんに、暫く泊っていていただきたいのです」
「よろしうございますとも、いつでもおともを致します」
おともと言われて、お銀様の言葉が少しセキ込みました。
「いいえ、わたしは行きません」
「では?」
「お雪さん、あなた一人で行って泊ってもらいたいのです」
「わたしが一人で、その宿へ泊りに行くのでございますか」
「ええ――一人で行って、向うに人がいますから、その人の介抱をしてもらいたいのです」
「まあ――どなたかのお世話をして上げるのでございますか」
「それはね、行って見ればわかります」
「でも……」と、こんどは、お雪ちゃんの言葉が淀よどみました。お雪ちゃんとしては、お銀様のおともをして長浜まで行くものとばっかり思っていたのが、そのお銀様は行かないで、自分一人で行け、行った先に人がいるから、その人を介抱に――しかも、その人は誰か、行って見ればわかると言われるほど、お雪ちゃんの気分が、わからないものになります。・・・
・・・最初は、周囲の情景に一抹いちまつの淋しさを感じたのが、ここに至って、対人的にお雪ちゃんは、全く嬉しくさせられてしまいました。
誰にしても、自分のもてなしが人を喜ばすことを見れば、自らもそれを喜ばぬ人はない。特に、今晩のお雪ちゃんは、相手の鬱屈を見兼ねて、自分の独断で、外出禁制の人を、こちらがそそのかして、遊山に連れ出したようなものですから、お雪ちゃんとしては、お銀様を向うに廻しての一大冒険のようなものでしたが、その冒険が功を奏して、御当人をかくまで満足せしめたかと思うと、そのことの喜びで、すべてが忘れられてしまって、この人を喜ばせ、自分も喜びをわかつためには夜もすがら、遊び明かしても悔いないというほどの心持にさせられてしまいました。
「今まで、お酒がおいしいの、気ばらしになったのとおっしゃったことのないあなたから、そうおっしゃられると、わたしは、もうこれより上の本望はございません。ねえ、先生、今晩は、ここで夜明けまででもかまいませんから、昔話を致しましょうよ」
「望むところだよ」
「昔話と言ったって、そう古いことではありません、白骨以来、ほんとうに落着いて、先生からお話を伺う機会も与えられませんでしたし、わたしもなかなかに機会に恵まれませんでした。お目にかかれないのではないのですが、お銀様という方が背後にいらっしゃると思うと、わたしは怖くなって、先生が、わたしの人じゃない、口を利きいては悪い他人のようにばっかり思われる心持になって、ほんとに気が引けてなりませんでしたが、今晩はさらりと、わたしもその心配が取れてしまいました。ねえ、先生、それから後の話をして聞かせて下さいな」
「お雪ちゃん、お前から話してごらんなさい」
「では、わたしから昔話をはじめましょう。ねえ、先生、あなたとわたしと二人は、どうして、信州の白骨なんて、あんな山の奥へ行かなければならなかったでしょう」
「病気保養のためだな」
「誰の病気保養のためなんでしょう」
「この眼だ――」
「いいえ、そればっかりじゃありません」
「では、ほかにも病人があったのか」
「ありましたとも」
「それは誰で、何の病気だ」
「先生よりも、わたしの方が病人だ、なんて言う人があるのですから、いやになってしまいました」
「お雪ちゃんが病気、今宵も、そんなにぴんぴんしているお雪ちゃんが」
「ええ、誰が、そんな噂うわさをするのですか、わたし、ほんとうに怖いようですわ」
「どんな噂をしたんだね」
「ねえ、白骨の温泉へ行ったのは、あなたのお眼の療治ということも、目的の一つであったには相違ないですけれど、もう一つは、わたしの病気を直したいためのかこつけだなんて、悪口を言う人があるそうですから、いやになってしまいますわ」
「お雪ちゃんに何の病気があって?」
「何の病気って、先生……きまりが悪いわ」
お雪ちゃんはポッと面かおを赤くしながら、
「そのころでも、わたしが、いちばんいやだと思ったのは、白骨にいる時分、あのイヤなおばさんと一緒にお湯に入っていますと、あのおばさんが不意に、わたしに向って言ったことには、お雪ちゃん、隠したって駄目よ、あなたの乳が、こんなに黒くなっているじゃありませんか、と言って、いきなりわたしの乳首をつかまえられた時でした。あの時ほど、わたし、ぞっこん骨身にこたえて、いやな思いをしたことはございません」
なるほど、その時はいやであったろうが、今は、その現実感を通り過ぎてしまって、いやな思い出を、いやな気分なしで、多少の甘え気分をさえ加えて、昔語りにして見せているほどのゆとりが出来ている。
「それから、あのイヤなおばさんが、なおいやなこと、それはいやなことという程度を通り越して、恐ろしいこと、怖いことを、わたしに平気で言って聞かせてくれました――それは、なあ、お雪ちゃん、いやならば水にしておしまいなよ、かまわないから間まびいておしまいなさい――そんなことにクヨクヨするもんじゃありません、水の出端でばななんだもの、わたしなんぞ若い時は……と言ってイヤなおばさんがわたしにあの時、身ぶるいするほどいやな話を、平気で話してくれました。お話だけじゃないのです、わたしの手をとるようにして、ああしなさい、こうしなさい、何を意気地のない、そんなことでどうします、わたしなんぞは……わたしでなくったって、誰だってすることなのよ、若い娘に限ったことじゃないわ、後家さんでも、人のおかみさんでも、一生に一度や二度は誰だって……お雪ちゃん、うぶもいいけれども、度胸を据える時には据えなければ駄目ですよ、こうしてこうするんです、と言ってわたしの手をとって……わたしは、その話だけで、気が遠くなってしまって人心地がありませんでした。イヤなおばさんという人は、ああも度胸がある人、今までにあんなことは朝飯前にやってのけている人……と思って震え上ってしまいましたが、先生、それは、昔の話でございます、今となっては、そんなことは、もう全く気にかけないようになりました。ほんとに、人間の心というものは我儘わがままなものでございますねえ、今では、わたしは、赤ちゃんが一人くらいあってもいいと思いますの、子供というものを手塩にかけて育ててみたら、どんなに楽しいものでしょう、と思い出して、なんだか取返しのつかないような心持にされてしまうことさえ時々あるのですね。お銀様が、こんど長浜へ来たら、わたしに丸髷まるまげを結わせるとおっしゃいました。あの方のおっしゃることは、私たちの頭では想像もできませんけれど、もし、丸髷にでも結って、こうして、この間へ一人、小さいのを置いて、そうして、水入らずのお月見をしたら、どんなに楽しいでしょう」
お雪ちゃんは、子供が甘い夢を見るようにあこがれ出したが、竜之助は動かない。久しぶりの酒の香にうっとりして、我を忘れたものか、酒がこぼれて膝に落つるのも知らないでいると、お雪ちゃんがたまらなくなって、
「先生、わたしにばかり、言いたいことを言わせて置いて、ひどいわ、あなたも何とかおっしゃいよ」と言って、竜之助の面かおを見た時に、
「あっ!」と言いました。無論、同時に自分の面の色も変ったことでしょう。竜之助は盃さかずきを挙げたまま、蝋人形のように白くなって動かない。
「…………」
「先生、大変、いつのまにか舟が沖の方へ向って流れ出しております」
お雪ちゃん一人が狼狽ろうばいしきって、立って水棹みさおを手さぐりにして、かよわい力で、ずいと水の中へ突き入れてみますと、棹はそのままずぶずぶと水に没入して、手ごたえがありません。
舟は、いつしか遠浅の圏内を外れて、棹の全く立たないところへ来ている。
「あら、先生、どうしましょう、棹が届かなくなりました」
「どれどれ」
竜之助は立って、塚原卜伝でもするもののように、お雪ちゃんの手から、棹を受取って、ずぶりと差し込んでみたけれど、手ごたえがありません。
憮然ぶぜんとして、見えない眼で水の上をながめている。
二人が月に興じている間に、舟は、棹の立たないところへ来てしまったのです。
舟が棹の立たないところへ来たとすれば、櫓ろを用うるに越したことはないが、この舟には出立から櫓も櫂かいも備えて置かなかった。備えれば備うべきはずのものを、櫓を用いないで済む程度のところ、棹を以て用の足りる範囲のところで、浅く遊んで帰ろうとした予定のところを、環境が別になったために、身心ともに知らず識しらず深入りしているうちに、舟は独自の漂流をはじめて、深いところへ来てしまっている。
二人が狼狽したのも無理はありません。
竜之助のさし置いた棹を、お雪ちゃんが、取り上げて、またこちらの水に入れてみたけれど、やっぱり駄目でした。
お雪ちゃんは、焦って、棹をあちらこちらへ入れてみたけれども、そのいずれにしても手ごたえがありません。
「先生、どちらもさおが立ちません」
悲観絶望した途端に、はっと竹の棹が手を辷すべって、湖の中へ流れ出してしまいました。
それを捉えんとする手はもう遅い。
「あら、あら、棹さおを取られてしまいました」
もう泣き声に近かったのですが、竜之助はそれを慰めるもののように、
「棹を取られたのは仕方がない、人間を取られてはいけません」
「わたしは大丈夫です」
とお雪ちゃんは、うわごとのように言って、悠々と、あちらを独ひとり泳ぎをはじめている水馴棹みなれざおの形を見つめて、ぼんやりと立っていましたが、やがて、その面に、自暴やけに似たような冷静さが取戻されて来て、
「もう、どうにもなりません、流れ放題……」・・・
・・・神尾主膳をして、極めて順当に、「おれは徳川のために死ぬよ」の言葉を発せしめたのは珍しいことです。この珍しい素直さを取戻してみると、それからのこの男の頭が驚くばかり明晰めいせきなものとなりました。考えてみると、それもそうだな、徳川をそんなに弱いものにしたのは、旗本が意気地がないんだ、おれが悪かったんだ、おれたちが衰えたから、それで天下がグラついて来たのだ、いまさら誰を恨まんようはない!
神尾は、いよいよ珍しくも、外へ向って発する鬱憤を、内に向って省かえりみる心持にさせられている。こういうことは全く異例であるけれども、これも一つは酒というものが、傍らにいて焚きつけることをしない一つの作用であると見れば見られる。昨夜あの通り転げ込んで、座右に酒がありさえすれば、むやみやたらにあおりつけて、その結果はどうなったか自分でもわからない。今朝、眼がさめて人か酒があったならば、それを引寄せて、またどういう狼藉ろうぜきがこの場に行われたか、それも予想の限りではなかった。人がいたにしても、酒の種が切れていた。今朝も同様……酒が傍らにないために、外に発する狂乱を、内に顧みる内省にしてくれたことは是か非か。
こうなると、神尾の頭はいよいよ重い。もう酒を呼び疲れている。さりとて、飯を食う気にもなれない。起き上る気にさえもならない。蒲団ふとんの腐るまで、こうして仰向けに寝ていることが本望だ。
神尾の三つの眼が天井に向って、或いは燃え、或いはうつろのように冷え切って見つめている。日は高くのぼったが、どうやら曇り日になったらしい。門がとざしてあるから、今日は子供らも近づかない。主膳はやがて少しくまどろんだ。まどろんだ時間がどれほどであったかは知らないが、中ごろで不意に呼びさまされた。
「殿様……殿様」
二声つづいて呼ぶ声を、うたたねの小耳にはさんだから神尾主膳が、
「誰だ」
「鐚びたでございます」
「鐚か」
「鐚でございます」
「鐚、貴様も生きていたか」
「殿様も御無事でいらっしゃいましたか」
「そこをあけて面つらを見せろ」
「はい、殿様――この通りの面でございます」
隔ての襖ふすまを八寸ばかり開いて、面を見せたその面は、ガスマスクをかぶったように繃帯で巻かれていましたから、神尾も少し驚いて、
「どうした、鐚、その面は……」
「これと申すも、誰を恨みましょう、みんな殿様の為させ給う業でございます、今日は恨みに上りました」
「ふーん」と神尾は、ガスマスクのように繃帯した鐚の面を見直したが、今日は滑稽な感じがしない。
「恨めしいやら、口惜くやしいやら、今日お目通りをした以上は、思い切って損害賠償を申し立てましょうと、歯がみをいたしながら推参いたしましたが、本来が忠義骨髄の鐚、すやすやとお寝やすみの殿のお寝息をうかがいますると、やれ御無事でいらせられたかと、昨日来の恨みは脆もろくも消えて、先以まずもって嬉し涙に掻かきくれたような次第でございます」
「とにかく気の毒だったな、おたがいに昨日はあぶなかったよ」
「そのお言葉で、鐚はもう成仏でございます、本来、忠義骨髄の鐚の儀でございますから、殿のお為めならば、この面なんぞは三角になりましょうとも、いびつになりましょうとも――そんなことを気にかける鐚ではございませんが、それにしても、あれはかわいそうでございましたよ、水戸在のあのお百姓は、かわいそうでござんした」
「うむ」
「あれは、たしかに殿様の方が御無理でござんしたな、百姓なるが故に憎い、憎いが故に斬らざるべからず、これでは立つ瀬がござんせん……」
「言うな、言うな、そんなことはもう言って聞かせてくれるな、それよりは、貴様にそれだけの怪我をさせたのが不憫ふびんだ、そのうち埋合せをするから辛抱しろ、それはそうと鐚、今日はゆっくり話して行け、あの向うの戸棚にお絹のやつの夜具蒲団があるから、あれを引出して、そこへ敷いて休め、寝物語とやらかそう」
神尾主膳は、寝ながら、こちらを向いて腮あごで隣室の方へ指図をしました。・・・
・・・そうして、少し身動きをして言いました、
「それは御親切に有難いことでございますが、どうもわたくしは、知っているお方にはお目にかかりたくない心持が致しまして、このままずっと大阪へ行ってしまいたいと存じます、いいえ、こちらの先生の田辺とやらへ御厄介になって、それから大阪へ参るなら参るように致したいと思います」と、やっとお雪ちゃんがこう言いました。
それにお雪ちゃんは、道庵先生とは至極心安い。胆吹の王国で、この先生といっしょにハイキングをやったこともあれば、人生問題を論じ合ったこともある。至極イキの合う先生ではあるが、今となっては、自分を知っている人のすべてに会うことを、悪意でなく、避けたがっている。その気分をお角さんも認めたものですから、
「それもそうですね、ではあなたは道庵先生とは別の心持でいらっしゃい、お雪様だか誰だかわからないようにしてお送りしますから、蔭にはいつも両先生がついていると、心強く思っていらっしゃい」
そこはお角さんも心得ている。道庵という先生は、至極出来のいい先生ではあるけれども、何をいうにも、あのがさつな気象である。むやみにいい機嫌で、病人の傍でさわがれた日には、病人のためにならないこともある。且つまた、この病人は、全く素直であるだけ、それだけ油断がならない。いつまた昂奮して、再び死を急ぐような気分にならないとも限らない。心中者には特にそういう気分は有りがちで、まあよかった、人間一人を取戻したと思ってホッと安心している、その隙すきをねらって飛び出して本望を遂げてしまうという例もずいぶんあることですから、その辺は健斎先生にもよく依頼してある。なんにしても、当分は、絹糸にさわるように本人の気分をやわらかにして置かなければならない。この際に道庵先生のようなざっかけを、病人の意志に反して、傍に置くことは相当考えなければならないと、お角さんが思いました。
そこへ、取次の女中が出て来まして、
「ちょじゃまちの先生とかおっしゃるお方が、おいでになりました」
早くも道庵が進入して来たらしい。・・・
・・・不破の関守氏は、手紙よりは会話の方に向って少しく等分が崩れる。がんりきは相変らず、自分の功名をでも吹聴ふいちょうするような気分で、
「根が百姓一揆でござんすからなあ、金と穀を眼の前に山と積まれた日にぁ、忽たちまちぐんにゃりの、よしよし、そう事がわかりゃはあ何のことはねえ、空家をぶっつぶしたところではじまらねえ、御持参の分捕物でかんべんしてやれ、さあこの金銀米穀を分け取りだと、それから分前という話になるてえと、みっともねえ話さ、青嵐の親分が見ている前で、もう分前の争いがおっぱじまったそうでげすよ、浅ましいもんですなあ、百姓共――慾から出た一揆なんてものは、慾でまた崩れる、そこへ行くと、坊主の一揆は百姓一揆より始末が悪い、一向宗の一揆なんてのは、未来は阿弥陀浄土に生れるのが本望なんだから、銭金や米穀なんぞは眼中に置かねえ、七生までも手向いをしやがる、慾に目のねえのも怖こわいが、慾のねえ奴にも手古摺てこずるもんですなあ、親方」
「そんなことは、どうでもいい、青嵐の親方と、百姓一揆の結末を、もう少し話してみろ」
「胆吹御殿へ向っての打ちこわし騒ぎなんてのは、それですっかり解消してしまいまして、それから一揆共が、眼の前へ振り撒まかれた餌えさの分前で同志討ちが始まろうというわけなんだから、全く浅ましいもんでげす。その途端に、御領主お代官の手が入るてえと、さあことだ、一揆の奴等ぁ、慾で気の弛ゆるんだところへ、にわかにお手入れ――忽ち蜘蛛くもの子を散らすように追払われたのは見られたものじゃねえ、無論、お持たせの金銀米穀は置きっぱなしさ、その上に置きざり分捕りの利息がつこうというものだ。右の次第で、その場の一揆は退散いたしやしたが、さて、そのあと、知恵者はさすがに知恵者で、青嵐の親方が、お手先の役人と対談の、持って行った大八車に八台の金銀米穀は、そのままそっくり御殿へ持って帰りの――なおその上に、一揆共が退散の時に置逃げをした大釜だの、鍋だの、食い雑用の雑品類、みんな胆吹御殿で引取りの上、勝手に使用いたしてよろしい、つまりお下げ渡しという寸法になったんですから、何のことはない、見せ金だけを見せて、それで利息をしこたまかせいで来たようなものでござんす、知恵者は違いますよ、全くあの親分は軍師でげす、元亀天正ならば黒田如水軒、ないしは竹中半兵衛の尉じょうといったところでござんしょう」――
こいつの報告にも、キザと誇張を別にして、筋の通ったところがある。・・・
・・・放縦のようでも、売られ売られつつ、旅から旅を稼がせられ、およそこの世の酸すいも甘あまいもしゃぶりつくした福松は、金銭の有難味を知っていて、締まるところは締まる仕末も、世間が教えてくれた訓練の一つ。
「二十日余りに四十両、使い果して二分残る――なんて、浄瑠璃じょうるりの文句にはいいけれど、梅川も、忠兵衛も、経済というものを知らない、使いつくしてはじめてお宝の有難味を知るなんて、子供にも劣るわねえ、わたしに使わしてごらんなさい――一生使ってみせるから」
福松は、その都度、こう言って、三百両の金包を撫なでて自分の気を引立てたり、兵馬を心強がらせたりしようとする。無論、この三百両の金を、器用に活かして使いさえすれば、ここ幾年というものは、二人がこうして旅を遊んで歩くに不足はない、不足はさせない、という腹が福松にはあるのです。その証拠には、飛騨からここへ山越しをして来る間、若干の日数のうち、いくらの金を要したかと言えば、金は少しもかからない、たまに木樵山きこりやまがつに、ホンのぽっちりお鳥目ちょうもくを包んで心づけをしてみれば、彼等は、この存在物を不思議がって、覗眼鏡のぞきめがねでも見るように、おずおずとして、受けていいか、返していいか、持扱っている。旅というものは、金のかかるように歩けば際限なく金がかかるけれども、金をかけないつもりで歩けば、全くかけないで歩くことができるもの――いやいや、やりようによってはお宝を儲もうけながらの旅、万が一にも行きつまれば、わたしには腕というものがある、身を落す気になりさえすれば、いずれの里でも、腕に覚えの色音を立てて人の機嫌気づまを浮き立たせさえすれば、三度の御飯はいただける。その上一人や二人の身過ぎ世過ぎは何の苦もないと、福松は、いよいよの際の芸が身を助ける強味をも算用に入れているから、世の常の浮気者や、切羽つまった心中者の、身も魂も置きどころのない、ぬけがらの道行と違って、いわば経済的の根拠がある。今まで、山に千年もいたから、これから海で千年の修行をしたい――なんぞと、世間を七分五厘にする余裕さえ持てるようになっている。
宇津木兵馬になると、そうはゆかないのであります――白骨から、飛騨の平湯へ出て、高山まで、旅の遊山で浮うわつき歩いているのではない、求むる敵かたきがありと思えばこそ――それが、どう聞き間違えたか、南へ外はずれたものを、北へ向って走り求めているという相違にはなっているが、求むる目的というものがあるにはあって、それに煽あおられている。無目的と、享楽と、その刹那刹那せつなせつなを楽しんで行こうという女と調子は合わせられない。
ただこういう女に、こういう際に持ちかけられたということに、運命の興味を感じて、これを相手に行路難の修行底といったような、善意に水を引いた興味が伴えばこそで、実は穴馬谷へ落ち込んで、はじめて、たずぬる相手は北国へ落ちたのではないということを確認したまでのことで、越中、加賀の方面には断じて、それらしい人の通過した形跡がないことを、この間に、たしかに確めたのです。が今となっては路頭を転ずることができない。いっそ、名に聞いたまま足を入れていない北国の名都、越前の福井に見参してから、その上で、あれから近江路へ出ることは天下の北陸道だから、それを通って、やがて再び京都の地に上り得られるのも旬日の間。
こうなると、兵馬の頭には、金沢もなく、三国もない、地図を案じて北陸の本筋を愛発越あらちごえをして近江路へ、近江路から京都へ、心はもう一走り、そこまで行けば今度こそは結着、そこで、双六すごろくの上りのように、三条橋を打留めに多年の収穫、本望が成就じょうじゅする――そこで何となしに気がわくわくして、これは福松と異なった意味で心が湧き立ってきました。
福松の頭には、浮いた湊みなとの三国の色町の弦歌の声が波にのって耳にこたえて来る。兵馬の頭には、僅か昔の京洛の天地、壬生みぶや島原の明るい天地の思い出が、怪しくかがやいて現われて、あれから新撰組はどうなったか、近藤隊長、土方副長らのその後の消息も知りたい。今の京都の天地にはところによっては腥風血雨せいふうけつうであるが、まだまだ千年の京都の本色は動かない。
兵馬は、福井のことは頭に上らず、しきりに、京へ、京へと心が飛んで参りました。・・・
・・・心から福松は、そういう観念で、兵馬にまた三百両の大金を押し返し、押しすすめましたけれども、それを、そうかと言って、翻って受け納める兵馬ではありません。
なるほど、一応それは聞えるけれども、拙者は男子一匹、天涯一剣の身、路用があればあるで心強いには相違ないが、なかったところで、相当助力の友は到るところにあって、更に窮屈というものはない、それよりも、身が定まった、定まったというけれど、とにかく、知らない土地へ来ての一本立ちは、見込み以上に物がいる、まして、相当の顔に立てられれば立てられるように、株の手前もあり、附合いの入目いりめもあるだろう、使えば使い栄えのする金になるのだから、この際、君の用意のためにするがよい――と事をわけて言い聞かせた上に、万一、君が受けないといっても、この種類の金を、拙者が有難く頂戴に及んで、いい気持で遣つかい歩けるかどうか考えてみるがよろしい、君がつかえば生きるが、拙者が遣うと男が廃すたる――というようなことまで説いて聞かせた上に、
「そういうわけだから、君はこの金でしかるべき芸妓家げいしゃやの株を買うようにし給え、それで余ったらば――」と言って、極めて分別的な、しかも算盤そろばんに合う計画を立てて福松に示したのは、このあわらというお湯は、今こそ地中に埋れてはいるが、ゆくゆくこれが世に出ると、北国街道の要害でもあり、絹織物の名産地でもある福井の城下に近い形勝を占めたところだから、大いに繁昌するに相違ない。で、今のうちに多少なりとも地所を買い求めて、ゆくゆく温泉宿でも経営して、老後の安定を心がけてはどうだ。
こういう分別的な、算盤に合う提案をしたものですから、それが福松をうなずかせもし、安心もさせ、あなたというお方は、ほんとに感心なお方、お若いに珍しい、品行がお堅い上に、老巧の年寄も及ばない行末の心配まで、本もとからうらまでお気がつかれる、まあ、何という感心なお方でしょうね、こんなお方、どうしてもはなしたくないわ、こんなお若くて、親切で、武芸がお出来になって、品行がよくていらっしゃる、その上、年配の苦労人はだしの分別までお持ちになる、手ばなしたくないわ、離れたくない、こんなお方をはなして人にとられては女の恥よ、女の意地が立たないわよ。ねえ、あなた、もう考え直す余地はなくって、このお金で、芸妓家の株を買い、余ったお金で、このあたりへ土地を買い、そうして、いっそのこと、あなたもこの土地へ納まっておしまいなさいよ。思い直すことはいけませんの、あなたは、あなたの本望がお有りなさるでしょうけれども、その御本望が成功なさったからとて、どうなりますの。
もう一ぺん、思い直して頂戴よ、ここでまた福松が、いたく昂奮して参りました。
別れを惜しんでいると、処女の親しみを感じるけれども、昂奮し出すと、売女ばいたのいや味が油のように染しみ出す。兵馬は、これを迷惑がって、
「馬はいいですか、明朝六つに出立と申しつけて置いてくれましたね」
「いけませんの――思い直しは叶かないませんの、では、あきらめます、いまさら、そういう未練は申し上げられないはずでしたのね、今晩一ばんだけの御縁――」
あきらめられたり、あきらめ兼ねたり――女は三百両の大金の上へ、どっかりと身をくねらせて、やけ半分のような気持で、煙管きせるの雁首がんくびで煙草盆を引っかけて引寄せ、
「宇津木さん、あなたという人は、女の情合いは知ってらっしゃるが、女の意地というものがわかりませんのねえ」
「一通りはわかっているよ」
兵馬も、自分が純粋無垢の青年だと誇るわけにはゆかない。その昔は江戸での色町で、相当な疚やましい思い出がないとは言えないから、いささか恐れていると、女が、
「では、ほんの一くさり、わたしの身の上話を聞いて頂戴な、わたしののろけを受けて見て頂戴、今晩のは真剣よ」・・・
・・・彼方の人影もまた、汀なぎさのほとりを、あちらへ向いて進んでいるのか、こちらを向いて引返しておいでになるか、それもわかりません。絵のような海岸に、ぽっちりと一滴の墨を流したように、人ひとりが立ち尽しているのを見るばかりです。
しばらくして、お松は月を避けるもののように海岸の砂をたどると、道はいつしか椰子の林の中に入っていました。お松は、まともに月を浴びることが心苦しくなって、木蔭に忍ぶ身となったらしい。けれども、その足もとは、夢を追うように、海に立つ彼方の墨絵のような一つの人影を追うているのです。
彼方の人影も、もはや、それより先へは、行って行けないことはないけれども、あとに会場を控える身にとっては、単独の行過ぎになることを虞おそれて、とある着点からおもむろに、踵きびすを返して戻るもののようです。その時には、もうはっきりと、その進退の歩調がわかりました。そうして、こちらがじっとしていさえすれば、あちらの戻りを迎えることになるという進退がはっきりとわかりました。お松は椰子の木蔭に息をこらして、人を待つの姿勢となりました。
それとも知らぬ駒井甚三郎が、当然そこを折返して来たのは、久しく待つ間のことではありませんでした。
「誰、そこにいるのは」と言葉をかけたのは、待機の女性ではなくして、そぞろ心で月に歩んでいる独歩の客でありました。
「はい、わたくしでございます」とお松は、きっぱりと言いながら、存外わるびれずに、木蔭から身を現わして駒井の方へ近づいて来ました。
「ああ、お松どの、そなたも月に浮かれて来ましたか」
「はい、ちょっと、海へ出て見ますと、あんまりすばらしいお月夜でございますものですから」
「まだ、みんな騒いでいますか」
「ええ、皆さん、大よろこびで、あの分では夜明しも厭いといますまい」
「そうですか、それは本望です、そういう楽しみをしばしば与えてやりたいものだ、我々がいると、かえって興を殺そぐこともあるかと、実はそれを兼ねて少々席を外してみたが、外へ出ると、またこのすばらしい光景だものだから、つい、うっかり遠走りをやり過ぎて、いま、戻り道に向ったところです」と駒井は、いつもの通り沈重ちんちょうに釈明を試みました。その時にお松は、この場の悪くとらわれたような羞恥の心が、自分ながら驚くほど綺麗に拭い去られて、ずっと駒井の傍へ寄ることを懼おそれようとしませんでした。
そうして、駒井の後ろに従うような気分でなく、それと相並んで歩きたいような気持に駆かられました。
「殿様、どうして、わたくしがあの木蔭にいることがおわかりになりまして?」
「ははあ、それはわかるよ、こうして月に浮かれてそぞろ歩いているとは言いながら、なにしろ、はじめての無人島だ、環境の事情からも、自衛の本能からもだな、前後左右に敏感に神経が働くからな、注意すまいと思うても、物影の有る方に注意は向くよ、植物と人間とを見誤るほどに、わしは酔うてはいないのだ」・・・
・・・駒井甚三郎も、お松も、この人に会っては、皮をかぶることはできないのです。
だが、そういった七兵衛入道の面には、いささかも意地の悪い表情はなく、それが結局、二人の喜びに勝まさるとも劣ることなき、躍動を抑えて、ほほえむかの如き含蓄の深い色を漂わせて、
「縁は異なものとはよく言ったものだ、あの子が駒井の殿様のものになろうとは思わなかった、駒井能登守を、こっそりと独占ひとりじめにする凄腕すごうでを持っていようとは思わなかった、さて、おれが仕込んで、おれ以上の腕になったというものか、全く以て小娘は油断ができない」と、こう独ひとり言ごとを言いながら、ほくそ笑みをつづけましたが、その笑顔は、我が子の手柄を親としての自慢と誇りに堪えないような笑顔でないと誰が言います。事実上、七兵衛は、わがこと成れりというほどに、そのことを喜んでいるのは確かです。
お松についても、駒井についても、知るだけを知りつくしている七兵衛入道は、今さら、「縁は異なものとはよく言ったものだなあ」と、ひたすら、その縁という異常なることに感じて、それの正しいか、正しからざるかは考えていないらしい。考える暇もないらしい。もし、少々でもその余裕があったとしたならば、彼は第一に、このことが宇津木兵馬というものにとって、いいことか、悪いことか、そのことだけでも一応は考えなければならないはずなのです。
七兵衛としては、一日も早く兵馬に本望を遂げさせて、そのあと二人を一緒にしてやる、これが一生の願いで、これまで陰に陽にそのことに力を入れて来たのですが、ここで、そういう結構が、すっかり打ちこわされてしまっていることを知った以上は、お松に対して苦言を言わなければならず、駒井に対して直諫ちょっかんもしなければならないところなのですが、これがすっかり消滅して、
「お松もいよいよ女になった、これで、おれも安心だ」という安心と満足でいっぱいなのは、どうしたものでしょう。こうして七兵衛が、大安心と満足で満ちきっているところへ、天幕の外から、
「おじさん、来ているの?」
これも、うら若い女の声でありました。紛まごう方かたなき奥州の南部で、七兵衛入道がむりやりに押しつけられて来た、お喜代という村主の娘の声に相違ありません。・・・
・・・ 駒井甚三郎は、明日の約束を以て、この場の会見と会話とを打切りました。順路をよくこの異人氏に教えて、自分はもと来し路へ引返します。出立の時は、今日は、もう一足でも先へ前進してみるつもりでしたが、ここで会見の時を過ごしてみると、もう進む気が起りませんでした。
来た路を引返しながら駒井甚三郎が思う様、この孤島へ来て、さかさまに、白い異人から東洋哲学を聞かせられようとは思わなかった、ドコの国、いずれの時代にも、その時代を厭いとう人間はあるものだ、称して厭世家という。そういうことは、いずれの時代にもあるが、いつも世間には通用しない。当人も無論、通用されないことを本望とする。世間の滔々とうとうたる潮流から見れば、一種例外の変人たるに過ぎない。一人や二人そういう変人が出たからとて、天下の大勢をどうすることもできるものではない。また当人も、一人や二人で天下の大勢をどうしようの、こうしようのと考えているのではないから、別段、問題にするには当らないが、どうかすると、そういう変人の中に、驚くべき予言が語られたり、達観が行われたりするもので、あらかじめ、そういう声を聞くと聞かないでは、国の興亡が定まることさえあるものだ。言う者に罪なし、聞く者以て警いましむるに足る。
だが、それはそれとして、こんなところで、こんな人種から、東洋哲学を聞かせられて、これに充分の応答ができない、まして、逆に彼等にこれを説き教える素養を欠いている己おのれというものを、駒井甚三郎が反省せざるを得ませんでした。
日本に於ては、おこがましいが、自分は当時での最新知識であり、有数の学者と我も人も許していたのだ。それが、ややもすれば金椎キンツイに虚を突かれたり――孤島の哲学者に逆説法を食ったりするのは、事が自分の研究の職域以外としても、光栄ある無識ではないのである。自分の究きわめているのは、今の哲学者の見るところによると、欧羅巴文明の糟粕そうはくかも知れない。かの糟粕を究めつつ、自家の醍醐味だいごみも知らないということになると、いい笑い物だ。
学問、研究、知識は、いよいよ広く、いよいよ大きい、この海洋のようなものだ、というような反省が駒井の心に波立ちました。・・・  
「百姓弥之助の話」
・・・普通木炭を焼くには一定の炭竈を築いてする一定の方法がある、が、弥之助がはじめたのはそういう本格的のやり方でなく、軽便実用を主とした即成式のものであった。
この春、弥之助はその地方の農林学校を訪れて教師が校庭で速成炭焼を試験しているのを見て、仔細にその仕方を尋ねて来た、というのはこの地方では不相変あいかわらず囲炉裡いろりで焚火たきびをやっているが、それは燃料の経済からいっても、住居の構造と衛生からいっても損するところが多いものだ、それに薪まきの材料も年々不足して来るし、そうかといって、農家の力では木炭を買って使いきれない。
ところがここに桑の木というものがある。養蚕ようさんの事が近来、めっきり衰えて桑園を作畑に復旧する数も少なくない。新百姓としての弥之助は、附近の桑園を買い取って、これを耕地にする為に何千本もの桑の株を掘り返して持っている、この桑の株は大抵七八年の歳月を経ているが、枝を刈り取り刈り取りするものだから、丈たけは僅か二三尺に過ぎない、が年功は相当に経ているだけに、薪にすると火持がよい、併し、これを炭に焼けば一層結構なものになると、かねがねそれを心掛けていたが、最近の農業雑誌を見ると、その方法が書いてある、よって、塾の青年に、その事を云いつけて置いたところへ、農林の生徒がやって来て、昨日、それを実行した。
先ず、幅三尺、長さ二間ばかりの薬研式の浅い穴を掘って、それに藁わらを敷き込み、その上へ上へと桑材を山盛りにして、隙間へは藁を詰め込んで上面一帯に土を盛りかぶせ、一方の口から火を焚きつけて、団扇うちわやとうみで盛んに煽あおった、斯くて一昼夜ほどすると、一方の風入口が火を吹き出した時分に、それを塞いで蒸す、という段取りである。
どうやら調子よく行っている、この分なら相当の炭が得られそうな気持がする、消炭に毛が生えた程度でも我慢する、相当立派なものが出来れば、この冬は炭を買わないで間に合う、併せて、この方法を附近の農家に流行はやらせてもいい。
それを見届けた上で弥之助は、豚舎と鶏舎を見廻った。豚は四頭飼っている、鶏は十羽いる、豚の発育は皆上等と云って宜よろしい、食物の食いっぷりが極めて良よろしい、豚というやつは食う事の為にだけ生きているとしか思われない、食う事の為に生きて、食われる事の為に死ぬ。彼に於ては生も死も本望かも知れない、最初に経営を任せたある坊さんが施設した豚飼養の計画は農家経済として間違った着眼ではない、収益率の極めて乏しい農家の副業として豚の飼養は相当有利なものである。この頃聞くと、つぶし豚に売って、一貫目一円九十五銭――までになったそうだ、約二円である、で、一頭の豚をこの辺では二十貫程度にして売り出す、少し丹精すれば三十貫にはなるから、五頭も飼うと有力な一家経済の足しにはなる。
鶏もこの頃漸く卵を産みはじめた。少なくも資本だけは取り上げなければならない、と百姓弥之助は考えた、百姓弥之助の農業はまだ投資時代だが、やり出した以上はお道楽であってはならない、美的百姓だけで甘んじていてはならない、早く独立自給だけにして見なければ冥利みょうりにそむくと弥之助は考えている。・・・
・・・百姓弥之助はニュース映画を見ようと思って、新宿の追分のところまで来た。
そこで、戦地に向う野戦砲兵の一隊が粛々と進んで来るのを見て足を留めた。
百姓弥之助は植民地に居ては村人に送られる出征兵とそれを送る村人の行列を見て心を打たれたが、東京の地に来て真剣に武装した日本軍隊と云うものを眼のあたり見ると彼はまるで送り迎えの時の感情とは全く違った心の底から力強い感激の湧き出る事を禁ずる事が出来なかった。
武装した日本軍隊は身の毛のよだつほど厳粛壮烈なものである、威力が充実し精悍の気がみなぎって居る、殊にこれから戦地に向うと云う完全武装した軍気の中には触るるもの皆砕くと云う猛力が溢れ返って居る、村落駅々から送られて出る光景には慥たしかに一抹の哀々たる人間的離愁がただよっていないという事はない。すでに斯うして武装した軍隊を見ると秋霜凜冽しゅうそうりんれつ、矢も楯もたまらぬ、戦わざるにすでに一触即発の肉弾になりきっている。
だから出征の勇士は全く本望を以て死ぬ事が出来る――ただたまらないのは戦終って後その士卒を失った隊長、昨日迄の戦友と生別死別の同輩、それから残された遺族等のしのばんとしてしのぶあたわざる人情の発露である、戦争にはそれがつらい、ただそれだけがつらい、この悲痛をしのぶ心境に向っては無限の同情を寄せなければならぬ。・・・  
 
岡本綺堂

 

    「綺堂むかし語り」
「子供役者の死」
・・・お江戸の役者が発つというので、これまで幾日か白粉の香に酔わされていたこの町の娘子供などは名残り惜しいような顔をして見送っていました。中には悲しそうに涙ぐんでいるのもありました。取り分けて肝腎の花形の六三郎の顔が駕籠の垂簾たれにかくされているのを、残り惜しく思う若い女もたくさんあったでしょう。そのなかで唯ひとり、路傍みちばたの柳のかげに立って、六三郎の駕籠をじっと睨んで、「畜生……いい気味だ。」と、あざわらっている一人の女がありました。
お初は生きていたのです。
親分の吉五郎は苦労人で、大勢の子分の面倒も見ている男だけに、お初と六三郎とのわけを聞いても、生かすの殺すのというような、この社会にありがちな野暮はいわなかったのです。そこで先ずお初を自分の家へ呼びつけて、おだやかに詮議を始めると、女もさすがに江戸っ子ですから、自分よりも年下の六三郎に関係した始末を、ちっとも悪びれずに白状して、親分のお目を掠めたのはわたくしが重々の不埒ですから、どうぞ御存分になすって下さいましと、いさぎよく自分のからだを投げ出してしまいました。これがひどく吉五郎の気に入って、「よく綺麗に白状した。で、おまえは十歳とおも年の違う六三郎と夫婦になりてえか。」と訊きましたら、お初は「そうなれば自分は本望です。弟だと思って面倒を見てやります。」と、正直に答えたそうです。
それを聞いても吉五郎は憤おこりませんでした。「よし、お前がそれほどに思っているならば、おれが媒介なこうどをして六三郎と一緒にしてやるから、いつまでも可愛がってやれ。しかし相手は子供だ、おまけに旅を廻る芸人だ。いい加減にだまされていちゃあ詰まらねえから、まったく相手の方でもお前を思っているかどうだか、よくその性根を試した上で、おれの方から本人に話をつけてやろう。まあ、そのつもりで待っていろ。」というので、それからひと趣向して六三郎を呼び付けたのです。お初の顔や身体には糊紅を塗って、なぶり殺しにでもされたように拵えて、座敷の隅へころがして置いたのでした。さて、かの六三郎はこれを見てどうするか、その出ようによってその本心を探る術すべもあると、吉五郎はひそかにうかがっていると、年の若い、気の弱い六三郎はその試験にすっかり落第してしまいました。
「お前はこの女を知っているか。」と訊かれたときに、六三郎は「知らない。」と答えました。この一言で、こりゃあ駄目だと吉五郎に見限られました。死んだ振りをしていたお初も、あんまりな人だと大層くやしがったそうです。六三郎が帰ったあとで、お初は吉五郎の前に手をついて、あらためて自分の不埒を詫びた上に、あんな奴のことはふっつり思い切りますから、どうぞこれまで通りにお世話を願いますと、心から涙をこぼして頼んだそうです。
可哀そうなのは六三郎です。自分の思う女に見限られたばかりか、それが根もととなって病いは重るばかりで、みんなと一緒に信州まではともかくも乗り込んだものの、とても舞台の人にはなれそうもないので、旅さきから一座の人々に引き別れて、ほとんど骨と皮ばかりの哀れな姿で、故郷の江戸へ帰って来ました。六三郎の家は深川の寺町にありました。それからどっと床について、あけて十七の春、松の内にとうとう死んでしまいました。その枕もとには毎晩蒼い顔をした女が坐っていたなどというのは、六三郎の囈語うわことでも聞いた人が尾鰭を添えて言いふらした怪談で、お初は明治の後までも甲州に生きていたということです。・・・  
「修禅寺物語」
・・・(夜叉王は怪しみて立ちよる。桂は顔をあげる。みなみな驚く。)
春彦 や、侍衆さむらいしゅうとおもいのほか……。
夜叉王 おお、娘か。
かえで 姉さまか。
春彦 して、この体ていは……。
かつら 上様お風呂を召さるる折から、鎌倉勢が不意の夜討ち……。味方は小人数、必死にたたかう。女でこそあれこの桂も、御奉公はじめの御奉公納めに、この面おもてをつけてお身がわりと、早速さそくの分別……。月の暗きを幸いに打物とって庭におり立ち、左金吾頼家これにありと、呼ばわり呼ばわり走せ出づれば、むらがる敵は夜目遠目に、まことの上様ぞと心得て、うち洩もらさじと追っかくる。
夜叉王 さては上様お身替りと相成って、この面にて敵をあざむき、ここまで斬り抜けてまいったか。(血に染みたる仮面めんを取りてじっと視る)
春彦 われわれすらも侍衆と見あやまったほどなれば、敵のあざむかれたも無理ではあるまい。
かえで とは言うものの、あさましいこのお姿……。姉様死んで下さりまするな。(取り縋りて泣く)
かつら いや、いや。死んでも憾うらみはない。賤しずが伏屋ふせやでいたずらに、百年千年生きたとて何となろう。たとい半晌はんとき一晌でも、将軍家のおそばに召し出され、若狭の局という名をも給わるからは、これで出世の望みもかのうた。死んでもわたしは本望じゃ。
(云いかけて弱るを、春彦夫婦は介抱す。夜叉王は仮面をみつめて物言わず。以前の修禅寺の僧、頭より袈裟けさをかぶりて逃げ来たる。)
僧 大変じゃ、大変じゃ。かくもうて下され、隠もうてくだされ。(内に駈け入りて、桂を見てまたおどろく)やあ、ここにも手負いが…。おお、桂殿……。こなたもか。
かつら して、上様は……。
僧 お悼いたわしや、御最期じゃ。
かつら ええ。(這い起きてきっと視る)
僧 上様ばかりか、御家来衆も大方は斬り死……。わしらも傍杖そばづえの怪我せぬうちと、命からがら逃げて来たのじゃ。
春彦 では、お身がわりの甲斐かいもなく……。
かえで ついにやみやみ御最期か。
(桂は失望してまた倒る。楓は取りつきて叫ぶ。)
かえで これ、姉さま。心を確かに……。のう、父様。姉さまが死にまするぞ。
(今まで一心に仮面をみつめたる夜叉王、はじめて見かえる。)
夜叉王 おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ。
かえで ええ。
夜叉王 幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸神しんに入るとはこのことよ。伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう。(快げに笑う)
かつら (おなじく笑う)わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。ちっとも早う上様のおあとを慕うて、冥土めいどのおん供……。
夜叉王 やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。苦痛を堪こらえてしばらく待て。春彦、筆と紙を……。
春彦 はっ。
(春彦は細工場に走り入りて、筆と紙などを持ち来たる。夜叉王は筆を執る。)
夜叉王 娘、顔をみせい。
かつら あい。
(桂は春彦夫婦に扶けられて這いよる。夜叉王は筆を執りて、その顔を模写せんとす。僧は口のうちにて念仏す。)・・・  
「玉藻の前」
・・・「きょうはきついお世話でござりました」
法性寺の門を出ると、玉藻は兼輔に言った。兼輔もきょうの首尾を嬉しく思った。
「頑固かたくなな叔父御もお身に逢うてはかなわぬ。まして初めから魂のやわらかい我らじゃ。察しておくりゃれ」
彼は玉藻に肩をすり寄せて、女の髪の匂いを嗅かぐように顔を差しのぞいてささやくと、玉藻は顔をすこし赤らめてほほえんだ。
「又そのようなことを言うてはお弄なぶりなさるか。その日の風にまかせて、きょうは東へ、あすは西へ、大路おおじの柳のように靡なびいてゆく、そのやわらかい魂が心もとない。なにがしの局つぼね、なにがしの姫君と、そこにも此処にも仇あだし名を流してあるく浮かれ男おのお身さまと、末おぼつかない恋をして、わが身の果ては何となろうやら」
「なんの、なんの」と、男は小声に力をこめて言った。「むかしは昔、今は今じゃ。兼輔の恋人はもうお身ひとりと決めた。鴨川の水がさかさに流るる法もあれ、お身とわれらとは尽未来じんみらいじゃ」
「それが定じょうならばどのように嬉しかろう。その嬉しさにつけても又一つの心がかりは、数ならぬわたくしゆえにお身さまに由よしない禍いを着きしょうかと……」
「由ない禍い……。とはなんじゃ」
玉藻は黙ってうつむいていると、兼輔はやや得意らしく又訊いた。
「お身と恋すれば他ひとの妬ねたみを受くる……それは我らも覚悟の前じゃ。諸人に妬まるるほどで無うては恋の仕甲斐がないともいうものじゃ。妬まるるは兼輔の誉ほまれであろうよ。それがために禍いを受くるも本望……と我らはそれほどまでに思うている。恋には命も捨てぬものかは」
「そりゃお身の言わるる通りじゃ」と、玉藻は低い溜息をついた。「じゃというて、お身さまに禍いの影が蛇のように付きまとうているのを、どうしてそのままに見ていらりょう」
「じゃによって訊いている。その禍いの影とはなんじゃ。禍いの源はいずこの誰じゃ」
「少将どのじゃ」
「実雅さねまさか」と、兼輔は眼をみはった。
少将実雅はかねて自分に恋していたと玉藻は語った。恋歌こいかも艶書えんしょも千束ちつかにあまるほどであったが、玉藻はどうしてもその返しをしないので、実雅はしまいにこういう恐ろしいことを言って彼女をおびやかした。自分の恋を叶えぬのはよい。その代りにもしお身が他の男と恋したのを見つけたが最後、かならずその男を生けては置かぬ。実雅は彼と刺し違えても死んで見するぞと言った。殿上人とはいえ、彼は代々武人である。殊にいちずの気性であるから、それほどのこともしかねまい。自分が兼輔のために恐れているのはその禍いであると、玉藻は声をひそめて話した。・・・
・・・千枝太郎は玉藻のたましいを宿したその石を月明かりでしばらく眺めていた。彼は玉藻のために後世ごせを祈ろうとも思っていなかった。畜生にむかって菩提心をおこせと勧めようとも思っていなかった。彼はただ、藻みくずと玉藻たまもとを一つにあつめたその魔女が恋しいのである。石をじっと見つめている彼の眼からは、とどめ難い涙がはらはらとこぼれ、彼は堪まらなくなって、石にむかって呼んだ。
「藻よ、玉藻よ、千枝太郎じゃ」
石は彼の思いなしか、それに応こたえるように、ゆらゆらと揺るぎ始めた。彼はつづけて呼んでみた。
「藻よ。玉藻よ……。千枝太郎がたずねて来たぞ」
石は又ゆらめいた。そうして、ひとりの艶あでやかな上臈じょうろうの立ち姿がまぼろしのように浮き出て来た。柳の五つ衣ぎぬにくれないの袴をはいて、唐衣からごろもをかさねた彼女の姿は、見おぼえのある玉藻であった。
「千枝太郎どの、ようぞ訪ねて来てくだされた。そのこころざしの嬉しさに、再び昔の形を見せまする」
寒月に照らされた彼女は、むかしのように光り輝いていた。千枝太郎は夢心地で走り寄ろうとするのを、彼女は檜扇で払い退のけるようにさえぎった。
「それほどのこころざしがあるならば、なぜ今までにわたしの親切を仇あだにして、お師匠さまの味方をせられた。又いっときなりとも三浦の娘に心を移された。それが憎い、怨めしい。今更なんぼう恋しゅう思われても、お前とわたしとの間には大きい関が据すえられた。寄ろうとしても寄られませぬぞ」
「それはわしの過失あやまちじゃ。免ゆるしてたもれ」と、千枝太郎は枯草の霜に身をなげ伏して泣いた。「今までお身を疑うたはわしの過失じゃ。お身を恐れたは猶更のあやまちじゃ。魔女でも鬼女でも畜生でも、なつかしいと思うたら疑わぬ筈、恋しいと思うたら恐れぬ筈。それを疑い、それを恐れて、仇に月日を過ごしたばかりか、お師匠さまに味方してお身をかたきと呪うたは、千枝太郎が一生のあやまちじゃ。この通りに詫びる。こらえてたもれ」
彼は早く悪魔の味方にならなかったことを今更に悔やんだ。悪魔と恋して、悪魔の味方になって、悪魔と倶ともにほろびるのがむしろ自分の本望であったものをと、彼は膝に折り敷いた枯草を掻きむしって遣る瀬もない悔恨の涙にむせんだ。その熱い涙の玉の光るのを、玉藻はじっと眺めていたが、やがて優しい声で言った。
「お前はそれほどにわたしが恋しいか。人間を捨ててもわたしと一緒に棲みたいか」
「おお、一緒に棲むところあれば、魔道へでも地獄へでもきっとゆく」と、彼は堪えられない情熱に燃える眼を輝かして言った。
玉藻は美しく笑った。彼女はしずかに扇をあげて、自分の前にひざまずいている男を招いた。・・・  
「半七捕物帳」
・・・二人は約束して別れた。その明くる朝、半七が朝飯を食って、これからもう一度下谷へ行ってみようかと思っているところへ、源次が汗を拭きながら駈け込んで来た。
「親分、あやまりました。わっしはまるで見当違いをしていました。舐め筆の娘は、自分で毒を食ったんですよ」
「どうして判った」
「こういう訳です。あの店から、五、六軒先の法衣屋ころもやの筋向うに徳法寺という寺があります。そこの納所なっしょあがりに善周という若い坊主がいる。娘の死んだ明くる朝にやっぱり頓死したんだそうで……。それが同じように吐血して、なにか毒を食ったに相違ないということが今朝になって初めて判りました。その善周というのは色の小白い奴で、なんでもふだんから筆屋の娘たちと心安くして、毎日のように東山堂の店に腰をかけていたと云いますから、いつの間にか姉娘とおかしくなっていて、二人が云いあわせて毒を飲んだのだろうと思います。なにしろ相手が坊主じゃあ、とても一緒にはなれませんからね」
「すると、心中だな」
「つまりそういう理窟になるんですね。男と女とが舞台を変えて、別々に毒をのんで、南無阿弥陀仏を極めたんでしょう。そうなると、もう手の着けようがありませんね」と、源次はがっかりしたように云った。
若い僧と筆屋の娘とが親しくなっても、男が法衣ころもをまとっている身の上ではとても表向きに添い遂げられる的あてはない。男から云い出したか、女から勧めたか、ともかくも心中の約束が成り立って、二人が分かれ分かれの場所で毒を飲んだ。それは有りそうなことである。二人がおなじ場所で死ななかったのは、男の身分を憚はばかったからであろう。僧侶の身分で女と心中したと謳うたわれては、自分の死後の恥ばかりでなく、ひいては師の坊にも迷惑をかけ、寺の名前にも疵が付く。破戒の若僧もさすがにそれらを懸念して、ふたりは死に場所を変えたのであろう。こう煎じつめてゆくと、二人が本望通りに死んでしまった以上、ほかに詮議の蔓つるは残らない筈である。源次が落胆するのも無理はなかった。
「そこで、その坊主には別に書置もなかったらしいか」と、半七は訊いた。
「そんな話は別に聞きませんでした。あとが面倒だと思って、なんにも書いて置かなかったんでしょう」
「そうかも知れねえ。それから妹の方には別に変った話はねえのか」
「妹は先月頃から嫁に行く相談があるんだそうです。馬道うまみちの上州屋という質屋の息子がひどく妹の方に惚れ込んでしまって、三百両の支度金でぜひ嫁に貰いたいと、しきりに云い込んで来ているんです。三百両の金もほしいが看板娘を連れて行かれるのも困る。痛いたし痒かゆしというわけで、親達もまだ迷っているうちに、婿取りの姉の方がこんなことになってしまったから、妹をよそへやるという訳には行きますめえ。どうなりますかね」
「妹には内証の情夫おとこなんぞ無かったのか」と、半七は又訊いた。
「さあ、そいつは判りませんね。そこまではまだ手が達とどきませんでしたが……」と、源次は頭を掻いた。
「面倒でも、それをもう一度よく突き留めてくれ」・・・
・・・勝気の母に激励されて、魚屋の若い息子は主人と姉のかたき討ちを思い立った。その以来、鶴吉は麹町八丁目の町道場へかよって、剣術の稽古をしていると云う。彼が瓦版を熱心に眺めていたのは、自分にもかたき討ちの下心したごころがある為であったことを半七は初めて覚った。
「そこで、親分さんにお願いでございますが……」と、直七は云いつづけた。
「おっかさんも鶴さんも一生懸命に思い詰めているのですから、まあ助太刀をしてやると思召おぼしめして、子分の衆にでも云いつけて、その伝蔵のありかを探してやっていただくわけには参りますまいか」
「何分お願い申します」と、鶴吉も畳に手をついた。
「いや、判りました」と、半七はうなずいた。「成程。おっかさんの云う通り、一季半季の渡り中間なんぞは格別、かりにも侍と名の付いている用人や家来たちが、あと構わずに退転してしまうというのは、どうも面白くねえようだ。だが、おまえさんが自分でかたき討ちをすると云うのも、ちっと考えものだ」
鶴吉は福田の屋敷の家来でない。主人の妾の弟に過ぎないのであるから、表立って主人のかたきと名乗り掛けるのは無理であろう。姉のかたきと云えば云われるが、伝蔵のような罪人は公儀の手に召し捕らせて、天下の大法に服させるのが当然であって、私のかたき討ちをすべきでは無いと、半七は云い聞かせた。
「親分のお諭さとしはご尤もでございますが、あの伝蔵を自分の手で仕留めなければ、わたくしの気が済みません。母の胸も晴れません。首尾よく本望を遂げました上は、自分はどんなお仕置になっても厭いません」と、鶴吉は飽くまでも強情ごうじょうを張った。
一途いちずに思いつめた若い者に対して、半七はいろいろに理解を加えたが、彼はどうしても肯きかないのである。しかも半七はその強情を憎むことも出来なかった。
「それほど思い詰めたら仕方がねえ。まあ、思い通りにかたき討ちをおしなせえ」
「有難うございます。ありがとうございます」と、鶴吉は涙をながして喜んだ。
「そこで、その伝蔵のありかを突き留めて、わたしらの手で押さえるならば仔細はねえが、おまえさんの手で討つとなると、仕事がちっと面倒だ。伝蔵という奴は腕が出来るのかえ」と、半七は訊いた。
「なに、たいして出来る奴でも無さそうですが……」と、直七が引き取って答えた。「それが主人を一刀で斬って、つづいてお関さんも斬ってしまうと云うのは、あんまり手ぎわが好過ぎるようにも思われます。それには何だか因縁がありそうで……。ねえ、鶴さん」
「母は因縁だと申していますが……」
「どんな因縁だね」と、半七は又訊いた。
「今時いまどきこんなお話をいたしますと、他人ひとさまはお笑いになるかも知れませんが……」と、鶴吉は躊躇しながら云った。「伝蔵は主人の枕元にある脇指わきざしで斬ったのですが、その脇指が吉良上野こうずけ殿の指料さしりょうであったと云うことです。その由来は存じませんが、先祖代々伝わっているのだそうです」
「先祖伝来はともかくも、好んでそんな物をさすと云うのは、よっぽどの物好きだね」
「物好きといえば物好きです。吉良の脇指というので、代々の殿さまは差したこともなく、土蔵のなかに仕舞い込んであったのを、先年虫ぼしの節に、今の殿さまが御覧になって、どこが気に入ったのか、自分の指料にすると仰しゃいました。そんな物はお止めになったが好かろうと云った者もありましたが、殿さまはお肯ききになりません。それは刀が悪いのではなく、差し手が悪いのだ。吉良が悪いから討たれたのだ。おれは吉良のような悪い事はしない、吉良の良い所にあやかって四位の少将にでも昇進するのだなぞと仰しゃって、とうとうその脇指を自分の指料になさいました。それから四、五年のあいだは何事もなかったのですが、図はからずも今度のようなことが出来しゅったいしまして、殿さまも姉もその脇指で殺されました。姉はふだんから其の脇指のことを気にしていまして、吉良の脇指なんぞは縁起が悪いと云っていましたが、やっぱり虫が知らせたのかも知れません」
「刀の祟りということは、昔からよく云いますが、吉良の脇指なども良くないのでしょうね」と、直七は仔細らしく云った。
「吉良の脇指も村正むらまさと同じことかな」と、半七はほほえんだ。「そこで、その脇指はどうなったね。伝蔵が持ち逃げかえ」
「いえ、庭さきに捨ててありました」と、鶴吉は云った。「お屋敷の後始末をする時に、こんな物はいよいよ縁起が悪いから、折ってしまうとか云うことでしたから、わたくしがお形見に頂戴いたして参りました。わたくしはそれで伝蔵を討ちたいと思いますが、いかがでしょう」
「それもよかろう。吉良の脇指でかたき討ちをしたら、世の中も変ったものだと、泉岳寺にいる連中が驚くかも知れねえ」
冗談は冗談として、半七は年の若い鶴吉に同情した。おなじ刀で相手を仕留めれば、それは本当のかたき討ちである。刀屋に渡してせいぜい研とがせておけと、半七は彼に注意して別れた。・・・  
「番町皿屋敷」
・・・(播磨はお菊を突き放して、刀をひき寄せる。下の方より庭づたひに奴やつこ權次走り出づ。)
權次 もし、殿様しばらくお控へ下さりませ。さつきから物蔭で窃そつと立聞きをして居りましたら、お菊どのが大切のお皿を割つたとやら、砕いたとやら、そりやもうお菊殿の落度は重々、そのかぼそい素そつ首くびをころりと打落されても、是非もない羽目ではござるものの、多寡たくわが女子ぢや。骨のない海月くらげや豆腐を料理なされてもなんの御手堪おてごたへもござるまい。さつきの喧嘩とは訳が違ひまする。こゝは何分この奴に免じて、そのお刀はお納めなされて下さりませ。
播磨 そちが折角の取りなしぢやが、この女の罪は赦ゆるされぬ。なんにも云はずに見物いたせ。
權次 一旦かうと云ひ出したら、あとへは引かぬ御気性は、奴もかねて呑み込んでは居りまするが、なんぼ大切の御道具ぢやと云うても、ひとりの命を一枚の皿と取替へるとは、このごろ流行はやる取替べえの飴よりも余り無雑作の話ではござりませぬか。どうでもお胸が晴れぬとあれば、殿さまの御名代ごみやうだいにこの奴が、女の頬桁ほゝげたふたつ三つ殴倒はりたふして、それで御仕置はお止めになされ。
播磨 えゝ、播磨が今日の無念さは、おのれ等の奴が知るところでない。いかに大切の宝なりとも、人ひとりの命を一枚の皿に替へようとは思はぬ。皿が惜さにこの菊を成敗すると思うたら、それは大きな料簡れうけんちがひぢや。菊。その皿をこれへ出せ。
お菊 はい。
(時の鐘きこゆ。お菊は箱より恐る/\一枚の皿を出す。播磨はその皿を刀の鍔つばに打ちあてて割るに、お菊も權次もおどろく。)
播磨 それ、一枚……。菊、あとを数へい。
お菊 二枚……。
(お菊は皿を出す。播磨は又もや打割る。)
播磨 それ、二枚……。次を出せ。
お菊 三枚……。
(播磨はまた打割る。權次も思はずのび上る。)
權次 おゝ、三枚……。
播磨 次を出せ。
お菊 四枚……。
(播磨は又もや打割る。)
播磨 四枚……。もう無いか。
お菊 あとの五枚はお仙殿が別のお箱へ入れて持つてまゐりました。
播磨 むゝ。播磨が皿を惜むのでないのは、菊にも權次にも判つたであらうな。青山播磨は五枚十枚の皿を惜んで、人の命を取るほどの無慈悲な男でない。
權次 それほど無慈悲でないならば、なんでむざ/\御成敗を……。
播磨 そちには判らぬ。黙つてをれ。しかし菊には合点がまゐつた筈。潔白な男のまことを疑うた、女の罪は重いと知れ。
お菊 はい、よう合点がてんがまゐりました。このうへはどのやうな御仕置を受けませうとも、思ひ残すことはござりませぬ。女が一生に一度の男。(播磨の顔を見る。)恋にいつはりの無かつたことを、確かにそれと見きはめましたら、死んでも本望でござりまする。
播磨 もし偽りの恋であつたら、播磨もそちを殺しはせぬ。いつはりならぬ恋を疑はれ、重代の宝を打割つてまで試されては、どうでも赦すことは相成らぬ。それ、覚悟して庭へ出い。
(お菊の襟髪を取つて庭へつき落す。權次はあわててお菊を囲ふ。播磨は庭下駄をはきて降り立つ。――)
播磨 權次。邪魔するな。退け、退け。
權次 殿様。女を斬るとお刀が汚れまする。一旦柄つかへかけた手の遣り場がないといふならば、おゝ、さうぢや。あれ、あの井戸端の柳の幹でも、すつぱりとお遣りなされませ。
播磨 馬鹿を申すな。退かぬとおのれ蹴殺すぞ。
(權次が遮るを播磨は払ひ退けて、お菊を前にひき出す。)
權次 えゝ、殺生な殿様ぢや。お止しなされ、お止しなされ。
(權次また取付くを播磨は蹴倒す。お菊は尋常に手を合はせてゐる。播磨は一刀にその肩先より切り倒す。)
權次 おゝ、たうとう遣つておしまひなされたか。(起き上る。)可哀相になう。
播磨 女の死骸は井戸へなげ捨てい。
權次 はあ。
(權次はお菊の死骸をだき起す。上の方より十太夫は灯籠をさげて出づ。)
十太夫 おゝ、菊は御手討に相成りましたか。不憫のやうでござりまするが、心柄こゝろがらいたし方もござりませぬ。
權次 殿様お指図ぢや。(井戸を指す。)手伝うてくだされ。
十太夫 これは難儀な役ぢやな。待て、待て。
(十太夫は袴の股立もゝだちを取り、權次と一緒にお菊の死骸を上手の井戸に沈める。播磨は立ち寄つて井戸をのぞく。鐘の声。)
播磨 家重代の宝も砕けた。播磨が一生の恋もほろびた。
(下の方より權六走り出づ。)
權六 申上げます。水野十郎左衞門様これへお越しの途中で町奴どもに道を遮られ、相手は大勢、なにか彼やと云ひがかり、喧嘩の花が咲きさうでござりまする。
權次 むゝ、そんならまだ先刻の奴等が、そこらにうろついてゐたと見えるな。
播磨 よし、播磨がすぐに駈け付けて、町奴どもを追ひ散らしてくれるわ。
(播磨は股立を取りて縁にあがり、承塵なげしにかけたる槍の鞘さやを払つて庭にかけ降りる。)
十太夫 殿様。又しても喧嘩沙汰は……。
播磨 やめいと申すか。一生の恋をうしなうて……。(井戸を見かへる。)あたら男一匹がこれからは何をして生くる身ぞ。伯母御の御勘当受けうとまゝよ。八百八町を暴れあるいて、毎日毎晩喧嘩商売。その手はじめに……。(槍を取直して。)奴。まゐれ。
二人 はあ。
(播磨は足袋はだしのまゝに走りゆく。權次權六も身づくろひして後につゞく。十太夫はあとを見送る。)・・・
 
豊島与志雄

 

「乾杯」
・・・山川家が所有してる工場が一つありました。規模はささやかなものでしたが、そこに、可なりの資材が蓄積されていました。それは塚本老人の配慮に依るとのことでした。資材のなかの主要なものとして、美製鋼板、俗にミガキ鋼板というのが約八十噸あまりありました。
そのことを、工場長の上原稔から聞かされて、山川正太郎はちと意外に思いました。ところが、それに関する上原稔の話は、更に意外なものでありました。
概略しますと、次のような話でありました。この八十噸のミガキ鋼板は、公定価格の三倍ほどの時価で、直ちに引受者がある。つまり、八十万円ほどになる。ところで、今回、山川さんが某政党に領袖の一人として加入するについて、相当の金が必要である。そこで、右の鋼板を売却したいと思うが、如何であろうか。
それが、塚本老人からの申し込みでありました。
上原稔は反対しました。
塚本老人は説きました。――山川家のためだから、まあ我慢して貰いたい。鋼板をそっくり転売してしまっても、職工たちに仕事が不足するわけではあるまい。真鍮の屑物が多量あるから、それを加工すればよかろう。また、たとい鋼板を扱って、各種の器物を製造するにしても、多くの熱量を要することだし、その辺の見通しが困難ではあるまいか。すべて山川家のためだから、よく考えておいて貰いたい。
その話、大旦那が亡くなったばかりのところではあるし、若旦那にはさし当り内分にとの話を、上原稔は山川正太郎に打ち明けてしまいました。
「私はただ、職工達を存分に働かしてやりたいと思っています。みな、立直った気持で、働きたがっております。鋼板は彼等の手に渡してやって下さい。同額の給与を貰っても、遊んでいるより働く方が本望だと、そういう彼等の意気を、私は涙の出るほど嬉しく思います。それで、お願いに出ました。」
額が晴れやかで、色が黒く肉のしまった、その上原稔の熱情は、山川正太郎にも伝わりました。けれどその時は、山川正太郎はただ次のように答えました。
「よく分りました。もう少し考えた上で善処しましょう。」
山川正太郎は眉をひそめました。何か陰謀に似た影を感じました。そして、塚本老人に問い訊してみようと思いながら、その、慇懃な態度にくるまった無表情に当面すると、何も言い出しかねました。
そういうことのために、宴席で斡旋してまわってる塚本老人の姿は、山川正太郎の心を刺戟しました。そしてますます、決意に似た感慨をそそりました。
まったくのところ、決意に似た感慨にすぎませんでした。終戦後、民主主義の線に沿う社会革命が、急速に進みつつあるような外観を呈しながら、実は健全に進行するかどうかの見通しは未だつきませんでしたし、殊に経済的には、如何なる混乱が突発するか分りませんでした。その不安定な時勢のなかで彼は、恰も戦争中に積極的に動かなかったように、やはり積極的に動こうとはしませんでした。ただ、飲酒と無為との独自孤高な生活を、これではいけないと思いました。なにか新たな生活を、幻想的に追求しました。資産の危殆も却って快いものに思われました。そして新たな出発線を、亡父の五十日忌に置きました。そういうものに頼ったところに、彼の決意の浅さ弱さがあったとも言えましょうか。
それでも、決意に似た感慨は、深くそして痛く、ともすると彼はよろけそうになりました。・・・  
「文学精神は言う」
・・・以上のような呟く精神は、もはや既に明かな如く、政治的精神ではない。またひろく一般文化的精神でもあるまい。それは単に文学的精神であろう。なぜなら、それは、心の持ち方とか、生活の心構えとか、人格のあり方とか、物の考え方とか、そういうものを中心問題とするからである。そしてそれが説くところの新たな文化の建設というのは、文学の新たな復興創造と解せられるのである。
この文学的精神は、如何なる事態のなかにも一種の理想主義を把持するし、如何なる現実のうちにも一種の理想主義を見出そうと欲する。茲に一種のと言う所以は、この理想主義が際限もなく伸展するからであり、その先方は文学自体が持つ夢想のなかに没して、それを辿ってゆけば、やがて人間性の破壊にまで到達するかも知れないからである。そしてこの窮極の点に於いて、この精神は逆に、原子爆弾をその象徴とする科学上の新時代に対抗して、人間性を擁護しようと意図する。だがそこに至るまでに、さし当ってこの精神は、あらゆる卑俗を忌み、自己を高貴に保とうとする。その性質は謂わば貴族主義である。
茲に言う貴族主義とは、社会生活上のそれとは異る。権勢や富や華美など、階級的な特権を意味するのではない。卑俗とは生命力の微弱なことを言い、高貴とは生命力の強健なことを言うのだと、太陽の光のなかで考える、そういう性質を意味するのである。それ故にこの貴族主義者は、精神的に甚だ多欲なのである。あらゆることを見、あらゆることを考え、あらゆることを夢みようとする。神に身を任せると共に、悪魔にも身を任せる。つまり、社会生活上の貴族主義者が衣食住に於いて貪欲放縦であるが如く、この貴族主義者は思惟に於いて貪欲放縦なのである。彼は遂に己を破滅させるかも知れない。然し彼は言うであろう、自由のうちに破滅するのは本望だと。自由がこのように利用されることは太陽的である。自由とは自律の自由に外ならないと理解されるのであるが、ここではもはや、生長発展も破綻破滅も共に自律的なものとなる。
このように説く時、政治的精神は驚いて叫ぶであろう。何たる個人主義ぞやと。然しそれは誤解である。この文学的精神は、個人主義どころか、新たな探求と建設とのために己を捧げてるのである。己を捧げてるが故にあらゆることが可能なのである。廃墟のことを忘れてはいけない。廃墟のなかに新たな建設が為されねばならないことを見落してはいけない。
それにしても、少しく乱暴な精神だね。それが君の文学精神なのか。――そう筆者に尋ねる人もあるだろう。
それに対して、筆者は微笑もて答えたいのである。――僕の精神は言わないが、吾々が持つべき文学精神なのだ。人間としての矜持ある逞ましい美しいものをそこに見出し得ないとするならば、それは怯懦の故であろう。そして怯懦は遂に真の自由をも建設をも知らずに終るであろう。・・・  
「落雷のあと」
・・・「遅刻の理由を、はっきり説明したまえ。」と水町は太い声を出しました。
立川は没表情な顔で言いました。
「あとで始末書を書いて差出すことにします。どうせ仕事はありませんから……。」
水町は太い眉をぴくりと動かしましたが、何とも言いませんでした。その隙に、立川はお辞儀をしてその室から出ました。
彼は自席に戻って、紙と筆墨を用意しました。ぺンよりは毛筆で書くべきだと考えたのです。そして墨をすってるうちに、先ず弁当を食べることにしました。
同僚たちはなんだか不審そうな眼を彼に向けながら、弁当を食べていました。事務が殆んど無くなってから、新聞や雑誌や図書を読むのは自由でしたが、高声での無駄話はやはり禁ぜられていました。
立川の弁当には珍らしく米飯がはいっていました。それを箸でつっつきながら、彼の心を領している一種の哀感は更に深まるばかりでした。
あの、前夜の落雷の前から、彼はその哀感に浸っていました。哀感を以て見れば、周囲も自己もすべてが、硝子張りの中にでもあるかのように、或る距りを置いて眺められました。
その日、妹は矢野さんの家に手伝いに行きました。空襲があるようになってから、矢野さんのところでも人手が少くなり、母がちょいちょい手伝いに行っていましたが、その母が急に弱ってきてから、自然と妹が代りをするようになっていたのです。矢野さんのところには、事業関係の来客が数人あって、大した饗応だとのことでした。夜になって、妹は米飯と野菜の煮物をもらって帰ってきました。残りものだけれどお母さんにと、そういうことでした。その残飯を、粉飯ばかりの折柄に珍らしく美味しく、母と妹と彼と三人で食べました。母の配慮で、翌日の彼の弁当の量だけ取り除けられていました。食事をしながら、話は食物のことに向いがちでした。矢野さんのところの御馳走には、鯛の刺身や車蝦の煮附や鰻の蒲焼やにぎり鮨などがあったとのことでした。その鮨に母はひっかかりました。何が食べたいといって、お鮨にこしたものはなく、お鮨さえ充分食べたらもう本望だと、淋しそうに言いました。妹はそれを笑って、ショートケーキが一番食べたいと言いました。カステーラよりもっとふわふわして、はるかに甘く、とろりとしたクリームがかかっていて、苺や林檎や桃があしらってある、あれが一番よいと述べ立てました。鮨やショートケーキなら、戦死した弟も好きでした。或は母と妹は、弟が好きなことを意識して言ってるのかも知れませんでした。二郎もそれが好きだったよと、彼がうっかり言いますと、母と妹はちょっと話を途切らしました。
遠くに稲妻と雷鳴とがあるだけで、夜気は静まり返り、狭い庭の隅には、秋を思わせるような虫の声がしていました。母と妹はまた食物のことを話しだしました。母はもうだいぶ弱っていました。白髪染めをやめたせいか、頭髪に白いのが目立ち、腰が曲ってきたせいか、背丈が縮んだようでした。頬のたるんでる色白の顔が、却っていたいたしく見えました。以前は何事も手早く取り片付けていたのに、この頃では、長い間かかって抽出の中などをかきまわしてることがありました。食事の後も暫くは坐りこんだままで、立つのが大儀そうでした。妹も母に似た顔立で、色が白く頬がふっくらしていて、そして背が低く小柄でした。食事の後も、母と調子を合して容易に立とうとしませんでした。
風が吹きだして、雨が来そうな気配に母と妹は戸外へ注意を向けて、暫し黙りこみました。その二人とも、へんに淋しく頼りなさそうでした。良人を亡くしてから貧しい生活を続けてきた五十歳過ぎの母、いずれはどこかへ縁づかなければならない二十四歳の妹、二人とも、気力も体力も弱そうで、そして家庭には、戦死した弟の占めていた場所が新たな空虚を拵えていました。その淋しく頼りない存在の母と妹が、粉食ばかりに弱っていて、矢野さんところの残飯を有難がり、そして昔の夢を追って、鮨やショートケーキの架空な話を楽しんでるのでした。
そこへ、いよいよ雨が来て、雷鳴が激しくなり、それから、近くに雷が落ちました。
落雷の衝撃は、母と妹の心身を打ち拉ぎ、次で昂奮さしたかも知れませんが、一郎にとっては、その哀感を深めるだけでした。彼は自分自身をも、哀感の硝子張りの中に眺めました。雷に裂かれたあの欅を悲哀に似た決意で眺めた自分自身も、残飯の弁当をつっついてる自分自身も、そこにありましたし、更に、会社の謂わば残飯を貪ってる自分自身も、そこにありました。・・・  
「碑文」
・・・徐和はその太い眉の下から、怪訝そうに曹新を見つめました。
「よく分ったよ。」と曹新はくり返しました。「いつぞや、君は僕によい忠告をしてくれたことがあったね。これまで研究してきた社会学が、国に帰って来てみると、何だか尺度が違ってる感じがして、僕が途方にくれてることを、君に打明けた時、君はこういうことをいったね。社会学とか政治学とか、そういう法則的なものは、こちらにはあてはまらない。そうした抽象的な法則よりも、なぜ物の学問をしないか。雲の学問でもよいし、実際の物の学問をなぜしないか。言葉は違うが、そういう意味のことを君はいった。その後僕もいろいろ考えて、君の意見に或る真理があることを、この支那の土地で悟った。然しその真理は真理としておいて、君があの時いったことは、みな、今日の伏線だったんだね。秩序や法則の破壊が、君達の目指すところだろう。伯父さんも君も同類だ。だが、変に持って廻ったいい方をして僕を引き込もうとするのは、当分やめたがよかろう。僕にも別に信ずるところがあるんだ。」
徐和は落着きはらって、きっぱりといいました。
「あなた様は、なにか、大変な考え違いをなすっていられます。私はただお尋ねなさいますことに、お答えしただけでございます。」
狼狽の気も皮肉の気もない、まともな調子でした。
「それなら、君は伯父さんの一味ではないのか。」
「旦那様がどういうことをなすっておられますか、私はよく存じません。」
「では、伯父さんは成功されると思うか、失敗されると思うか。」
「私には全く分りません。」
「それで君はいいのか。」
「私はただ召使で、旦那様のお側に、善悪ともに、おつきしているだけでございます。」
「それだけで本望なのか。」
「親父もそういい遺しました。仕方がございません。」
「なに、仕方がない。」
「仕方がございません。」
曹新は我を忘れたようにつっ立って、右の拳で徐和の頬を殴りつけました。徐和はじっと頭を垂れました。その逞ましいそして従順な姿を見据えて曹新は自分の頭の髪をかきむしり、鋭く叫びました。
「あっちに行き給え、穢らわしい。」
徐和は静かに立上って、向うへ歩み去りました。
曹新は暫く茫然と佇んでいましたが、頭を強く打振り、ウイスキーをたて続けに飲み、まだいくらかはいっているその瓶を地面に叩きつけ、瓶の砕ける音を聞いてから、腰掛の上に仰向けに寝そべりました。・・・  
「強い賢い王様の話」
・・・老人ろうじんと王子とはまたその山の頂いただきへ行きました。すると、さらに高い山がまた向むこうにでてきました。もう下の方を見廻まわしても、積つみ重かさなった山や遠とおい野が少し見えるきりで、初めのような美うつくしい景色けしきは眼めにはいりませんでした。薄黒うすぐろい雲くもがすぐ前を飛とんで行きました。
「あの山の上へ行こう」と王子は向むこうの高い山を指さしていいました。
「望のぞむならつれていってもいい」と老人ろうじんは答こたえました。
「しかし帰かえりはお前一人だぞ。城しろの庭にわへおろしてくれといっても、わしは知らないが、それでもいいのか」
王子は少し心細ぼそくなってきましたが、それでも構かまわないと答こたえました。そして二人は向むこうの山の上へ行きました。もう、なんにも見えませんでした。薄黒うすぐろい雲くもが足下あしもとに一面めんにひろがっていて、遠とおくの下の方で雷かみなりが鳴なるような音がしていました。雲くもよりも高い山だったのでした。それでも、向むこうにはさらに高い山がつき立っていました。
「あの山へ行こう」と王子はいいました。
王子はただ高いところへあがって行くことよりほかには、なにも考えてはいませんでした。この老人ろうじんに負まけてなるものか、どんな高いところへでもあがってやる、という気でいっぱいになっていました。そして二、三度高い方の山へと、老人ろうじんにつれられてあがってゆきました。
ある山の上にくると、老人ろうじんはそこにとんと杖つえをついていいました。
「お前の強情ごうじょうなのにはわしも呆あきれた。これが世界で一番高い山だ。もう世界中でこれより高いところはない。ここまでくればお前も本望ほんもうだろう。これからまた下へおりて行くがいい。はじめからの約束やくそくだから、わしはもう知らない。これでお別わかれだ」
王子が眼めをあげて見ると、もう老人ろうじんの姿すがたは消きえてしまっていました。王子はぼんやりあたりを見廻まわしました。頭あたまの上には、澄すみきった大空と太陽たいようとがあるばかりでした。立っているところは、つき立った岩の上で、眼めもくらむほど下の方に、白雲しろくもと黒雲くろくもとが湧わき立って、なにも見えませんでした。冷つめたい風が吹ふきつけてきて、今にも大嵐おおあらしになりそうでした。王子は腕うでを組くんで、岩いわの上に座すわりました。いつまでもじっと我慢がまんしていました。しかし、そのうちに、だんだん恐おそろしくなってきました。風が激はげしくなり、足下あしもとの雲くもがむくむくと湧わき立って、遙はるか下の方に雷かみなりの音まで響ひびきました。王子はそっと下の方を覗のぞいてみました。
屏風びょうぶのようにつき立った断崖きりぎしで、匐はいおりて行くなどということはとうていできませんでした。
王子は立ちあがりました。そして考えました。
「あの老人ろうじんに助たすけを求もとめたくはない。なあに、命いのちがけでおりてみせる。僕ぼくが死しぬか、それとも、うち勝かつかだ」
王子は石を一つ拾ひろって、それを力まかせに投なげてみました。石は遙はるか下の方の雲くもに巻まきこまれたまま、なんの響ひびきも返かえしませんでした。
「よしッ!」と王子はいいました。
そして、岩いわの上から真逆まっさかさまに、むくむくとしてる雲くものなかをめがけて、力一ぱいに飛とびおりました。・・・  
「子を奪う」
・・・瀬戸が帰ってゆくことは分かっていたけれど、彼は玄関まで見送りもしなかった。機械的に立ち上った足で、庭の中をまた歩いていると、向うの室に敏子の姿を見かけた。彼は一寸眼を見据えた。それからつかつかとはいって行った。
敏子は膝の上に子供を抱いて室の偶にしょんぼり坐っていた。彼の方をちらりと見上げて、また眼を伏せてしまった。彼ははいって来た縁側の障子を閉めた。閉め切ると、自らはっとした。電気の光りに輝らされてる四角な室、隅っこに顔を伏せている彼女、入口を塞いでつっ立っている自分、その光景が宛も、桂の中の野獣とその餌食とのように頭に映じた。……彼はまた障子を開いた。そして、その敷居際に腰を下した。
「寒くはないですか。」と彼は云った。
「いいえ。」と敏子は答えた。
彼は向うの言葉を待った。然し敏子は俯向いたまま何とも云い出さなかった。彼は心の中で言葉を探した。適当な言葉が見つからなかった。然し躊躇してるのはなお苦しかった。口から出まかせに云った。
「いろいろ苦労をかけて済みません。」
「いいえ。」と彼女は云った。落付いた調子だった。「私はこの子のために、ほんとに仕合せなことと思っております。」
そんなことを云ってるのではない、と彼は心の中で叫んだ。然しどう云い現わしていいか分らなかった。
「考えてみると、僕は何だか恐ろしい気がするけれど……。」
「私は安心しております。お祖母様もお……母様も、ほんとに御親切ですから。」
「僕もどんなに苦しんだか知れない。然し僕の意志ではどうにもならなかったので……。」
「いいえ、こうして頂けば、私は本望でございますもの。」
「随分苦しんだでしょう。」
「いえ、まだ何にも分かりませんから。」
そう云って彼女は子供の頭に頬を押しあてた。
彼は口を噤んだ。彼が彼女のことを云っているのに、彼女は故意にかまたは知らずにか、子供のことばかりを云っていた。彼は苛ら苛らして来た。少し露骨すぎる嫌な言葉だと意識しながら、ぶしつけに云ってやった。
「僕達二人のことは、もう何とも思ってはいないんですか。」
敏子は黙って彼の顔を見た。彼はその眼の中を覗き込んだ。然し何の意味をも読み取れなかった。彼は眼を外らして、庭の方を眺めながら、大きく溜息をついた。
「僕は依子を心から愛してやろう。」と彼は独語のように云った――そしてそれは実際独語だった。
すると俄に、此度は彼女の方から追っかけてくるのを、彼は感じた。冷かな清徹さに満ちながら曇ってる彼女の眼の光りは、急に、中に濁りを含んだ清らかさになった。彼はそういう眼の光りをよく知っていた。あの当時、彼女の清く澄んだ眼の中に現われてくる、その熱っぽい濁りを、彼は幾度も見て慴えたのであった。……彼は不安な気持ちになった。無理にしめくくられたような皺のある厚い唇、太く逞しい頸筋から上膊、厚ぼったい胴、皮膚がたるんでるような肌目の荒い肉体、それらが誘惑しかけてくるのを感じた。彼は我知らず身体を少し乗り出そうとした。するとその瞬間に彼女の眼はまた冷かに澄んだ曇りに返った。その曇りの底には、もはや何物も見て取れなかった。曇りながら冷たく澄みきってるのみだった。
彼は我に返って、心のやり場に困った。一瞬間前の自分が恥しくなった。そして、幾代と兼子とがいつまでも出て来ないのが、俄に気になりだした。罠を張られたのではないかという気がした。
彼は黙って立ち上った。障子をしめた。何とか云いたかったが、言葉が見つからなかった。敏子は子供を抱きながら軽く身を揺っていた。
「みんな何処へ行ったのかしら?」と彼は平気を装って云った。
座敷を出て茶の間を通り、玄関の方を覗いてみると、其処に幾代と兼子とが立っていた。・・・  
「一つの愛情」
・・・御手紙有難う存じました。
私は先生にお手紙など差上げる今の自分を夢のように感じます。
私は先生をこの世で一番おえらい方と、ずっと思い続けてまいりました。けれど、先生からお手紙など頂ける身になろうとは、夢にも思ったことがございましょうか。私はもうこのまま死んでも、充分本望でございました。この世に生れて来た甲斐のあった自分を、しみじみ感じました。それが、それが、今は、自分自身の身を先生の前に恥じようと致しております。私は自分のみすぼらしさを、先生の御前に限りなく恥ずかしく存じます。
虫のようにみすぼらしく愚かしい自分の内容を、どうして先生に申上げる勇気がございましょう。けれど、けれど、私はもうどうなってもよろしゅうございます。恥と共に地獄の底に落ち込んでも致し方ございませぬ。どうぞ私をおさげすみ下さいませ。
私はもう七八年前、現在の家へひとりぽっちで逃げてまいりました。私は結婚に失敗致しました。
失意と絶望のただ中で、限りなく我身に悲痛な涙を注ぎました。
何もかも、それは不当であり、不正でございました。私は人生に対して底知れぬ恐怖を感じると共に、一切の人生に見切りをつけてしまいました。何もかも、さげすむべき愚劣さではないか。
死の幻影が、それから私をすっかり包み込んでしまいました。
私はその中にあって、少しの衝撃にも飛び上って死ぬる身構えを致しました。心はもうめちゃめちゃでございました。体ももうめちゃめちゃでございました。自分の人生はもうすっかり終ったのだと思いました。
ひとりになって死んでしまおう、下らぬものに犯されることのないひとりになって。私は堪え難い生の苦痛をにない、夢中でこの家にのがれてまいりました。
もうどんなことがあっても、ここから一歩も外へは出ないし、もうどうなってもよい。――それから、無茶苦茶に悲惨な心すさまじい日々が過ぎて行きました。
私には兄が一人ございます。今は遠方に住んでおりますけれど、その兄が、こういう私に、家と、少し離れてるところにある田を八段ばかりと、山を五段ばかり、私の名儀にして、お金を少々与えてくれました。けれど、小作料ぐらいの収入で、どうして生活してゆけましょう。私はそれからも兄に生活の僅かな補助を受けました。私のみすぼらしい虫のように哀れな貧しい生活は、ずっと続きました。
その間に、私の心も、自分以外の世間の空気に少しずつ触れる機会のある度に、次第にいろいろ移り変ってまいりました。けれど、私にはどうしても、この世に生きている人の心がわかりませぬ、わかりませぬ。人がみな私のことを世間知らずだと申します。私も人並に生きることを一生懸命に考えました。けれど、どうしても駄目でございます。私は人に触れては、つらい堪え難い痛手を心で受けるばかりでございます。
私はこの世には生きてゆけぬ心を持って生れて来た女でございました。
私はいつまでたっても、この世に浮び上ることが出来ませぬ。それは病気した体の弱いためか、過去に受けた心の傷のためか、それから長い間に歪み縮んでいた不幸な心理状態のためか、私にはわかりませぬ。
けれども、この世にはどこにも、美しい心などありませぬ。私は誰とお話しても、少しも気持がふれ合わないで、それがたまらなく苦しく淋しゅうございます。
そして今はもう、考えることも何もかも精根がつきてしまって、ただ虫のように愚かしい弱々しい心が、次第次第にこの世から遊離して、風と一緒に宇宙に淋しくさまようようになりました。私には今はもう何の希望もございませぬ。あるものは、ぞっとするほど恐ろしい真暗な孤独地獄の闇ばかり。私は日毎にいよいよ虫のようにみすぼらしく哀れになってゆく我身を、どうすることも出来ませぬ。勇ましく生きてゆく気力を失った私に、これから先どのような日々がございましょう。
来年から……私は仕方なく、人をやとって五段ほど、でたらめに田を作ろうかと思います。そんなことが出来ても出来なくてもよい。じっといると息も出来ないほど淋しくなりますもの。
いろいろ下らぬことばかり申上げまして、私は先生の御不快なお思いを極度に恐れます。何卒私の愚劣さをおゆるし下さいませ。私はもうどのようなことになりましても致し方ございませぬ。私をどうかおさげすみ下さいませ。
吉岡先生様   紀美子・・・  
「女と帽子」
・・・あの夜、あなたはよく眠れなかったようですね。寝返りばかりしていたじゃありませんか。そして翌朝になると、波江さんから電報が来、やがて速達郵便が来て、今日は行かれなくなったが、明後日の午後七時に御待ち合せしたい、一泊のつもりで……と云ってき、あなたはすぐに承諾の返事を書いて、それから考えこみましたね。何を考えていたんです? 私がいろいろ忠告しても返事をしないで、縁側に寝ころんだまま、起きてるのか眠ってるのか分りませんでしたよ。あなたの社会正義観から云えば、波江さんが金を得んがために身体を提供し、云わば妾同様な生活にはいるのは、許す可らざることかも知れませんよ。然し、ああいう商売をしてゆくにはパトロンの一人や半人くらいあるのが、普通のことですからね。波江さんが東京に出て来てから、一人の男の肌にも触れなかったと、あなたは信ぜられますか。それはとにかく、あなたが深く考えこんだのは、そんなことでなく、もっと身近な直接的なことではありませんでしたか。
初めは、私にもあなたの真意が分かりかねましたよ。夕方になって慌しく、大島の着流しに草履ばきで、帽子もかぶらず手荷物もなく、ステッキ一本で、懐中には波江さんから受取った百円とありったけの金を用意して、四五日旅をしてくると、だしぬけに出かけたんですからね。お母さんや女中ばかりでなく、誰だって驚きますよ。
あなたが先ずその薄茶の帽子を買ったので、私は初めて微笑したものです。それからあなたは銀座裏で酒をのみ放め、その晩は富士見町の待合にしけこみ、翌日はまた酒、夜はまた銀座裏、そして遅く、吉原までのしましたね。自暴自棄でしてるのかと思うと、そうでもない。妙に積極的な放蕩でしょう。そして精力を浪費してしまったんですね。
もうこうなったら、本望でしょう。あとは、ただ試してみるだけのことです。時間を気にしなくてもいいですよ、きっと波江さんは来ます。少しくらい後れるかも知れませんが、まあゆっくり落着いておいでなさい。精根つきたって様子をしていますね。そうでしょうとも。だが、何でそうびくりびくりするんですか。胸でもむかつくんですか。
面白かったですね。あなたが酒飲みなことは知っていたが、あれほどとは思いませんでしたよ。あなたの真意が大体分ったので、そうなれば私の領分ですからね、私も大いに愉快にやりましたよ。覚えていますか。え、よく覚えていない……それも無理はありません。面白いことをきかしてあげましょう。銀座裏で、橋のたもとに出た時、あなたはしきりに橋の欄干に上ろうとしましたよ。ところが、おかしなもので、充分に身体を乗り出さないものだから、何度もしくじりましたね。もっとも身体を乗り出しすぎたら、掘割の泥水の中に落っこちますがね。酔っ払ってても用心はあるもので、その用心が適度にもてず、いつも後へ後へとずり落ちてしまったんです。あなたのその様子を見ながら、私は考えましたね、人間てものは酔ってなくても大概こうなんだと。ちょっと肚さえきめれば、こわごわ尻をつき出さずに、ちゃんと橋の欄干の上につっ立つくらい、わけはないじゃありませんか。
富士見町に行っても、吉原に行っても、行った夜は、あなたは元気で積極的で動物的でしたが、翌朝になると、しかつめらしい顔付でむっつりしていましたね。あんなのは女に嫌われますよ。どうしたんです? 良心というか、矜恃というか、何かがそこなわれでもしたんですか。そんなら初めから行かなければいいんです。行った以上は、そして明確な意図を以て遂行した以上は、翌朝になって何を不快がることがありますか。
今日午後、あなたは見当り次第の銭湯にとびこみましたね、広い流し場で、客は一人きりなく、午後の日脚が硝子戸からさしこんで、湯気がほんのりたっていました。その日向のところへ、湯壺から出たあなたは身体をなげ出して、胸や腹や手足の肉体を、ぼんやり眺めていたでしょう。ああして見ると、あなたの肉体もちょっと綺麗ですね。女の肉体よりも、男の肉体の方が、湯上りには恐らく美しいに違いありません。あの時あなたが、前夜接した女の肉体のことを考えていたのなら、眉をしかめても当然なわけですが、あなたは却って、何かうっとりとしていましたね。放蕩というものは、そうしたもので、醜い女の肉体に洗い清められて自分の肉体が益々美しくなるのです。またあの時、ちらとでも、あなたが波江さんの肉体を美しく想像したとすれば、とんでもない間違いですよ。波江さんの肉体なんか、あなたが知った女のそれよりか美しいわけはありません。白粉のつきのわるいあの顔の皮膚から考えても、分るじゃありませんか。・・・  
「ジャン・クリストフ」
・・・それらの老書生らは、少しも古典芸術の外に踏み出さなかった。批評家らは際限もなくタルチュフやフェードルについて議論をつづけていた。それに少しも飽きることがなかった。老人になってからも、子どもの時に面白がった同じ冗談に笑っていた。民族がつづく最後までそのとおりかもしれなかった。およそ世界のいかなる国でも、祖先崇拝の情をかほど根深く維持してるものはなかった。宇宙のうちで祖先以外の他の部分は、彼らになんらの興味をも起こさせなかった。いかに大多数の者が、フランスにおいて大王の御代において書かれたもの以外は、何一つ読んでいなかったし、何一つ読みたがらなかったことだろう! 彼らの芝居には、ゲーテも、シルレルも、クライストも、グリルパルツェルも、ヘッベルも、ストリンドベリーも、ローペも、カルデロンも、他国のいかなる偉人の作も、演ぜられていなかった。ただ古代ギリシャの物だけは別だった。彼らは古代ギリシャの後継者だと自称していた――(ヨーロッパのあらゆる国民と同様に)またごくまれにシェイクスピヤを取り入れたがっていた。それは試金石だった。彼らのうちには演戯上の二派があった。一方では、エミル・オージエの劇のように、通俗的な写実主義をもって、リヤ王を演じていた。他方では、ヴィクトル・ユーゴー式の声太な勇ましい調子で、ハムレットを歌劇オペラにしていた。現実も詩的であり得ること、生命にあふれた心にとっては詩も一の自発的言語であること、などを彼らは思い及ばなかった。そしてシェイクスピヤは虚偽のように思われて、また急いでロスタンに立ちもどっていた。
けれどもこの二十年来、芝居を改革するために努力が尽くされていた。パリー文学の狭い範囲は広げられていた。大胆を装よそおってすべてに手が触れられていた。外部の変動が、一般の生活が、恐ろしい力で慣習の幕を押し破ったことも、二、三度あった。しかしながら、その裂け目はまた急いで縫い合わされた。ありのままに事物を見ることを恐れてる、気の小さな父親らであった。社会の精神、古典的伝統、精神と形式との旧習、深い真摯しんしの欠乏、などは彼らをして、その大胆な試みを最後まで押し進めることを許さなかった。最も痛切な問題も巧みな遊戯となった。そしていつも帰するところは婦人――つまらない婦人――の問題であった。イプセンの勇壮な無秩序、トルストイの福音、ニーチェの超人など、偉大な人々の影法師が、彼らの舞台でなんと悲しげな顔をしていたことだろう!……
パリーの著作者らは、新しいことを考えてる様子をするのに、たいへん骨折っていた。が根本は皆保守的であった。大雑誌、大新聞、政府補助の劇場、学芸会などのうちにあって、過去が、「永遠なる昨日」が、これほど一般的に君臨してる文学は、ヨーロッパに他に例がなかった。パリーが文学における関係は、ロンドンが政治におけるのと等しかった。すなわちヨーロッパ精神の調節機であった。フランス翰林院かんりんいんは、一つのイギリス上院であった。旧制に成っている幾多の制度は、その古い精神を新しい社会に飽くまで課そうとしていた。革命的な諸分子は、すぐに排斥されるか同化されるかした。そうされるのがまた彼らの本望でもあった。政府は政治上では社会主義的態度を装よそおっていたが、芸術上では、官学派の導くままになっていた。人々は諸学芸会にたいして民間の団体としてしか争わなかった。それもへまな争い方だった。なぜなら、団体の一人がある学芸会にはいり得るようになると、すぐにそれへはいり込んで、最もひどく官学風になるからであった。そのうえ、ある軍隊の前衛にいようが後列にいようが、作者はその軍隊の捕虜ほりょであり、その軍隊の思想の捕虜であった。ある者は官学的な信条のうちに蟄居ちっきょし、ある者は革命的な信条のうちに蟄居していた。そして結局は、いずれにしても同じ目隠しであった。・・・  
「反抗」
・・・周平は黙っていた。
保子はまた云い続けた。
「あなたは自分で恐ろしいとは思わないんですか。他人の日記なんかは、たとい眼の前に出ていてもなかなか見られるものではないわよ。それを、留守中にこそこそ探すなんて、泥棒よりも悪いことよ。泥棒は何か或る品物を盗むきりだけれど、あなたは、他人の心の秘密を盗み取ろうとしてるのよ。私そんな陰険な心の人は大嫌い。……いつぞや、あなたは隆吉をそそのかして、吉川さんの写真を見ようとしたわね。あの時は何とも思わなかったけれど、今考えると、今度のことと全く同じ気持だったのでしょう。私思ってもぞっとする。あなたを側に置いとくことは、まるで探偵にでもつけられてるようなものだわ。」
周平は、頭の上から落ちかかってくる叱責の言葉を、一語々々味っていった。その苛辣な味に心を刺されることが、今は却って快かった。どうせ踏み蹂ってしまわなければならない恋だった。それを彼女の怒りによって踏み蹂られることは、寧ろ本望だった。彼はじっと眼をつぶって、絶望の底に甘い落着きを得てる自分の心を見戍っていた。――所へ、意外な言葉が落ちかかってきた。
「あなたは隆吉へどんな影響を与えてるか、気が付いていますか。」
周平はぼんやり顔を挙げた。保子は続けて云った。
「隆吉が可哀そうな身の上であることは、あなたにも始めから分っていた筈よ。私達はあの子に、その一人ぽっちの淋しさを忘れさせようと、どんなに骨折ったか知れないわ。そしてあの子が素直に快活になったのを見て、心から喜んでいたのよ。すると、この夏休みの前頃から妙に陰鬱になって、暗い顔をして考え込んでるのが時々眼につくばかりでなく、何だか始終私達に気兼ねでもしてる様子だし、またふいに、お父さんの話をしてくれとか、お母さんはまだ生きてるのとか、これまで口にもしなかったことを聞くものだから、どんなにか気をもんだでしょう。そしてついこないだ、またお父さんのことを聞くから、そんなことを聞いてどうするんですと尋ねると、井上さんに話してあげるのだと答えたわよ。病気で熱が出てた時のことよ。井上さんとお父さんとが僕を置きざりにして逃げていった、というような夢をみたと云って、しくしく泣いてたこともあってよ。……あなたそれをどう思って? あの子のそういう心持も、あなたに責任がないとは云わせないわ、あなたは私達皆の心持に、どんな毒を流し込んでるか、よく考えてごらんなさい。」
周平は初めて口を開いた。調子は落着いていた。
「よく分りました。私が悪かったのです。」
「悪かったというだけで済むと思って?」
保子は憤りと興奮とで顔を真赤にしていた。周平は更に苛酷な叱責の言葉を待った。然し彼女は唇を痙攣的に震わせるきりで、もう何とも云わなかった。周平は静かに云った。
「私は自分で凡ての責任を負うつもりです。今は何にも申しませんけれど、いつかは、私のことをすっかり理解して頂ける時もあるような気がしますから、それを頼りに、自分一人の途を歩いてゆきましょう。」
保子は眉根一つ動かさなかった。憎悪の念に凝り固ってるかと思われた。周平はぴょこりとお辞儀をした。そして、立ち上りかけながら云った。
「私は自分を……。」
云いかけて彼は口を噤んだ。じっと眼を見据えてる保子の姿が恐ろしくなった。彼はまたお辞儀をした。一寸待った。そして逃げるように二階の室へ上っていった。・・・
・・・村田が立って行くと、お清は四、五歩退しざって、戸の外に出て来た村田の横をつとすりぬけ、室の中にはいり込んで、がたりと扉を閉めた。
「おい、冗談じゃない。開けろよ、早く。」
「開けないわよ。私井上さんと秘密の話があるんだから、誰もはいってはいけない。……ねえ、井上さん!」
酒を飲んだらしい赤味のさしてる真白い顔の中から、白目がちの澄んだ眼が、周平の方をじろりと見て笑っていた。周平は口が利きけなかった。
やがて村田がはいってきて、長椅子の上の周平の側に身を落すと、お清はいきなり二人の間にはいり込んで、二人の手をしかと左右の手で握った。その手が妙にばさばさ乾ききってるように、周平は感じた。
「秘密の相談て、何なの?」
瞬きと一緒にくるりと動く眼が、周平の顔を眺め、次に村田の顔を眺めた。
「云えないから秘密なのさ。」と村田は云った。
「じゃあ私、いつまでも此処から出て行かない。」
「そいつは有難い。君に一晩中取持って貰えば本望だね。此処から出ようたってもう出さないぜ。」
「私もあなた方二人に介抱して貰えば本望だわ。出そうたって出るものですか。」
「そうくるだろうと思っていたよ。」
長椅子の背に身をもたして、がっくり後に反らしていた頭を、彼女は俄にもたげて、村田の方をじっと見た。
「何が?」
「いやこっちのことだよ。……秘密の相談という餌でお清ちゃんを釣ったわけさ。」
「そう。私も一寸釣られてみたかったのさ。」
語尾を村田のに真似て一寸気張ってみせたが、それからほーっと息をした。
「ああ酔った。」
「誰にそんなに酔わされたんだい。」
彼女は何とも答えないで、くすりと笑った。そしてじっと電燈の光りを仰いだ。
「この電気は妙に薄暗いわね。」
「今にはじまったことじゃないよ。」
「そうかしら。」
おとなしく受けておいて、彼女はまた椅子の背に頭を反らした。
その横顔を、周平はじっと眺めた。眉根まで通ってる鼻つきが、いやに頑丈らしく下品に見えた。額から蟀谷こめかみへかけた小皺が、脂を浮かして気味悪く光っていた。・・・  
 
夏目漱石

 

「野分」
・・・高柳君は今こそ苦しいが、もう少し立てば喬木きょうぼくにうつる時節があるだろうと、苦しいうちに絹糸ほどな細い望みを繋つないでいた。その絹糸が半分ばかり切れて、暗い谷から上へ出るたよりは、生きているうちは容易に来そうに思われなくなった。
「高柳さん」
「はい」
「世の中は苦しいものですよ」
「苦しいです」
「知ってますか」と道也先生は淋さびし気げに笑った。
「知ってるつもりですけれど、いつまでもこう苦しくっちゃ……」
「やり切れませんか。あなたは御両親が御在おありか」
「母だけ田舎いなかにいます」
「おっかさんだけ?」
「ええ」
「御母おっかさんだけでもあれば結構だ」
「なかなか結構でないです。――早くどうかしてやらないと、もう年を取っていますから。私が卒業したら、どうか出来るだろうと思ってたのですが……」
「さよう、近頃のように卒業生が殖ふえちゃ、ちょっと、口を得うるのが困難ですね。――どうです、田舎の学校へ行く気はないですか」
「時々は田舎へ行こうとも思うんですが……」
「またいやになるかね。――そうさ、あまり勧められもしない。私も田舎の学校はだいぶ経験があるが」
「先生は……」と言いかけたが、また昔の事を云い出しにくくなった。
「ええ?」と道也は何も知らぬ気げである。
「先生は――あの――江湖雑誌こうこざっしを御編輯ごへんしゅうになると云う事ですが、本当にそうなんで」
「ええ、この間から引き受けてやっています」
「今月の論説に解脱げだつと拘泥こうでいと云うのがありましたが、あの憂世子ゆうせいしと云うのは……」
「あれは、わたしです。読みましたか」
「ええ、大変面白く拝見しました。そう申しちゃ失礼ですが、あれは私の云いたい事を五六段高くして、表出ひょうしゅつしたようなもので、利益を享うけた上に痛快に感じました」
「それはありがたい。それじゃ君は僕の知己ですね。恐らく天下唯一ゆいいつの知己かも知れない。ハハハハ」
「そんな事はないでしょう」と高柳君はやや真面目まじめに云った。
「そうですか、それじゃなお結構だ。しかし今まで僕の文章を見てほめてくれたものは一人もない。君だけですよ」
「これから皆んな賞ほめるつもりです」
「ハハハハそう云う人がせめて百人もいてくれると、わたしも本望ほんもうだが――随分頓珍漢とんちんかんな事がありますよ。この間なんか妙な男が尋ねて来てね。……」
「何ですか」
「なあに商人ですがね。どこから聞いて来たか、わたしに、あなたは雑誌をやっておいでだそうだが文章を御書きなさるだろうと云うのです」
「へえ」
「書く事は書くとまあ云ったんです。するとねその男がどうぞ一つ、眼薬の広告をかいてもらいたいと云うんです」
「馬鹿な奴やつですね」
「その代り雑誌へ眼薬の広告を出すから是非一つ願いたいって――何でも点明水てんめいすいとか云う名ですがね……」
「妙な名をつけて――。御書きになったんですか」
「いえ、とうとう断わりましたがね。それでまだおかしい事があるのですよ。その薬屋で売出しの日に大きな風船を揚げるんだと云うのです」
「御祝いのためですか」
「いえ、やはり広告のために。ところが風船は声も出さずに高い空を飛んでいるのだから、仰向あおむけば誰にでも見えるが、仰向かせなくっちゃいけないでしょう」
「へえ、なるほど」
「それでわたしにその、仰向かせの役をやってくれって云うのです」
「どうするのです」
「何、往来をあるいていても、電車へ乗っていてもいいから、風船を見たら、おや風船だ風船だ、何でもありゃ点明水の広告に違いないって何遍も何遍も云うのだそうです」
「ハハハ随分思い切って人を馬鹿にした依頼ですね」
「おかしくもあり馬鹿馬鹿しくもあるが、何もそれだけの事をするにはわたしでなくてもよかろう。車引でも雇えば訳ないじゃないかと聞いて見たのです。するとその男がね。いえ、車引なんぞばかりでは信用がなくっていけません。やっぱり髭ひげでも生はやしてもっともらしい顔をした人に頼まないと、人がだまされませんからと云うのです」
「実に失敬な奴ですね。全体何物なにものでしょう」
「何物ってやはり普通の人間ですよ。世の中をだますために人を雇いに来たのです。呑気のんきなものさハハハハ」
「どうも驚ろいちまう。私なら撲なぐってやる」
「そんなのを撲った日にゃ片かたっ端ぱしから撲らなくっちゃあならない。君そう怒るが、今の世の中はそんな男ばかりで出来てるんですよ」
高柳君はまさかと思った。障子にさした足袋たびの影はいつしか消えて、開あけ放はなった一枚の間から、靴刷毛くつはけの端はじが見える。椽えんは泥だらけである。手ての平ひらほどな庭の隅に一株の菊が、清らかに先生の貧ひんを照らしている。自然をどうでもいいと思っている高柳君もこの菊だけは美くしいと感じた。杉垣すぎがきの遥はるか向むこうに大きな柿の木が見えて、空のなかへ五分珠ごぶだまの珊瑚さんごをかためて嵌はめ込んだように奇麗に赤く映る。鳴子なるこの音がして烏からすがぱっと飛んだ。・・・  
「明暗」
・・・お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目まじめさが疑がわれた。反抗、畏怖いふ、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪けんお、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯こうさくしたいろいろなものはけっして一点に纏まとまる事ができなかった。したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいに訊きいた。
「じゃあなたは私を厭いやがらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」
「いや目的はそうじゃありません。目的は外套がいとうを貰いに来たんです」
「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。しかし本望ほんもうかも知れません」
「目的と本望とどこが違うんです」
「違いませんかね」
お延の細い眼から憎悪ぞうおの光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性きしょうがありありと瞳子ひとみの裏うちに宿った。
「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡りょうけんから敵打かたきうちをしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になって他ひとを厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」
小林の筋の運び方は、少し困絡こんがらかり過ぎていた。お延は彼の論理ロジックの間隙すきを突くだけに頭が錬ねれていなかった。といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点を掴つかむだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口に纏まとめて見せた。
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして負おわないというんでしょう」
「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚おぼえがあるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
「どうして」
小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草たばこを吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。それを見抜いて、わざと高を括くくったように落ちついている小林の態度がまた癪しゃくに障さわった。そこへ先刻さっきから心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延の蟠わだかまりは、一定した様式の下もとに表現される機会の来ない先にまた崩くずされてしまわなければならなかった。・・・  
「坑夫」
・・・それから長蔵さんが往来へ出る。自分も一足後おくれて、小僧と赤毛布あかげっとの尻を追っ懸かけて出た。みんな大急ぎに急ぐ。こう云う道中には慣なれ切ったものばかりと見える。何でも長蔵さんの云うところによると、これから山越をするんだが、午ひるまでには銅山やまへ着かなくっちゃならないから急ぐんだそうだ。なぜ午までに着かなくっちゃならないんだか、訳が分らないが、聞いて見る勇気がなかったから、黙って食っついて行った。するとなるほど登のぼりになって来た。昨夕あれほど登ったつもりだのに、まだ登るんだから嘘うそのようでもあるが実際見渡して見ると四方しほうは山ばかりだ。山の中に山があって、その山の中にまた山があるんだから馬鹿馬鹿しいほど奥へ這入はいる訳になる。この模様では銅山どうざんのある所は、定めし淋しいだろう。呼息いきを急せいて登りながらも心細かった。ここまで来る以上は、都へ帰るのは大変だと思うと、何の酔興すいきょうで来たんだか浅間あさましくなる。と云って都におりたくないから出奔しゅっぽんしたんだから、おいそれと帰りにくい所へ這入って、親親類おやしんるいの目に懸かからないように、朽果くちはててしまうのはむしろ本望である。自分は高い坂へ来ると、呼息を継つぎながら、ちょっと留っては四方の山を見廻した。するとその山がどれもこれも、黒ずんで、凄すごいほど木を被かぶっている上に、雲がかかって見る間まに、遠くなってしまう。遠くなると云うより、薄くなると云う方が適当かも知れない。薄くなった揚句あげくは、しだいしだいに、深い奥へ引き込んで、今までは影のように映ってたものが、影さえ見せなくなる。そうかと思うと、雲の方で山の鼻面はなづらを通り越して動いて行く。しきりに白いものが、捲まき返しているうちに、薄く山の影が出てくる。その影の端がだんだん濃くなって、木の色が明かになる頃は先刻さっきの雲がもう隣りの峰へ流れている。するとまた後あとからすぐに別の雲が来て、せっかく見え出した山の色をぼうとさせる。しまいには、どこにどんな山があるかいっこう見当けんとうがつかなくなる。立ちながら眺ながめると、木も山も谷もめちゃめちゃになって浮き出して来る。頭の上の空さえ、際限もない高い所から手の届く辺あたりまで落ちかかった。長蔵さんは、
「こりゃ、雨だね」
と、歩きながら独言ひとりごとを云った。誰も答えたものはない。四人よつたりとも雲の中を、雲に吹かれるような、取り捲まかれるような、また埋うずめられるような有様で登って行った。自分にはこの雲が非常に嬉しかった。この雲のお蔭かげで自分は世の中から隠したい身体からだを十分に隠すことが出来た。そうして、さのみ苦しい思いもしずにその中を歩いて行ける。手足は自由に働いて、閉とじ籠こめられたような窮屈も覚えない上に、人目にかからん徳は十分ある。生きながら葬ほうぶられると云うのは全くこの事である。それが、その時の自分には唯一の理想であった。だからこの雲は全くありがたい。ありがたいという感謝の念よりも、雲に埋められ出してから、まあ安心だと、ほっと一息した。今考えると何が安心だか分りゃしない。全くの気違だと云われても仕方がない。仕方がないが、こう云う自分が、時と場合によれば、翌あすが日にも、また雲が恋しくならんとも限らない。それを思うと何だか変だ。吾わが身みで吾が身が保証出来ないような、また吾が身が吾が身でないような気持がする。・・・  
「それから」
・・・「僕の存在には貴方あなたが必要だ。何どうしても必要だ。僕ぼくは夫丈の事を貴方あなたに話はなしたい為ためにわざ/\貴方あなたを呼よんだのです」
代助の言葉には、普通の愛人あいじんの用ひる様な甘あまい文彩あやを含ふくんでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に逼せまつてゐた。但たゞ、夫丈それだけの事を語かたる為ために、急用として、わざ/\三千代を呼んだ所が、玩具おもちやの詩歌しかに類してゐた。けれども、三千代は固より、斯う云ふ意味での俗を離れた急用を理解し得る女であつた。其上世間せけんの小説に出でて来くる青春せいしゆん時代の修辞には、多くの興味を持つてゐなかつた。代助の言葉が、三千代の官能に華はなやかな何物をも与へなかつたのは、事実であつた。三千代がそれに渇いてゐなかつたのも事実であつた。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心こゝろに達した。三千代は顫ふるへる睫毛まつげの間あひだから、涙を頬ほゝの上うへに流した。
「僕はそれを貴方あなたに承知して貰もらひたいのです。承知して下ください」
三千代は猶泣ないた。代助に返事をする所どころではなかつた。袂たもとから手帛ハンケチを出だして顔かほへ当あてた。濃い眉まゆの一部分と、額ひたひと生際はえぎは丈が代助の眼めに残つた。代助は椅子を三千代の方へ摺すり寄せた。
「承知して下くださるでせう」と耳みゝの傍はたで云つた。三千代は、まだ顔かほを蔽つてゐた。しやくり上げながら、
「余あんまりだわ」と云ふ声が手帛ハンケチの中なかで聞えた。それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遅おそ過ぎたと云ふ事を切に自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁とつぐ前に打ち明けなければならない筈であつた。彼は涙なみだと涙なみだの間あひだをぼつ/\綴つゞる三千代の此一語を聞くに堪えなかつた。
「僕は三四年前に、貴方あなたに左様さう打ち明けなければならなかつたのです」と云つて、憮ぶ然として口くちを閉とぢた。三千代は急に手帛ハンケチを顔かほから離はなした。瞼まぶたの赤あかくなつた眼めを突然代助の上うへに睜みはつて、
「打ち明あけて下くださらなくつても可いいから、何故なぜ」と云ひ掛かけて、一寸ちよつと蹰躇ちうちよしたが、思ひ切つて、「何故なぜ棄すてゝ仕舞つたんです」と云ふや否や、又手帛ハンケチを顔かほに当あてゝ又泣ないた。
「僕ぼくが悪わるい。堪忍して下ください」
代助は三千代の手頸てくびを執とつて、手帛ハンケチを顔かほから離はなさうとした。三千代は逆さからはうともしなかつた。手帛ハンケチは膝の上うへに落ちた。三千代は其膝ひざの上うへを見た儘まゝ、微かすかな声で、
「残酷だわ」と云つた。小さい口元くちもとの肉にくが顫ふるふ様に動いた。
「残酷と云はれても仕方がありません。其代り僕は夫丈それだけの罰ばつを受うけてゐます」
三千代は不思議な眼めをして顔かほを上あげたが、
「何どうして」と聞きいた。
「貴方あなたが結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身どくしんでゐます」
「だつて、夫それは貴方あなたの御勝手ぢやありませんか」
「勝手ぢやありません。貰もらはうと思つても、貰もらへないのです。それから以後、宅うちのものから何遍結婚を勧められたか分わかりません。けれども、みんな断つて仕舞ひました。今度こんども亦一人ひとり断ことわりました。其結果僕と僕の父ちゝとの間あひだが何どうなるか分わかりません。然し何どうなつても構はない、断ことわるんです。貴方あなたが僕に復讐ふくしうしてゐる間あひだは断ことわらなければならないんです」
「復讐」と三千代は云つた。此二字を恐るゝものゝ如くに眼めを働はたらかした。「私わたくしは是でも、嫁よめに行いつてから、今日こんにち迄一日いちにちも早く、貴方あなたが御結婚なされば可いいと思はないで暮くらした事はありません」と稍改あらたまつた物の言いひ振ぶりであつた。然し代助はそれに耳を貸さなかつた。
「いや僕は貴方あなたに何所どこ迄も復讐して貰もらひたいのです。それが本望なのです。今日けふ斯こうやつて、貴方あなたを呼んで、わざ/\自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方あなたから復讐ふくしうされてゐる一部分としか思やしません。僕は是で社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はさう生れて来きた人間にんげんなのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方あなたの前に懺悔ざんげする事が出来れば、夫で沢山なんです。是程嬉しい事はないと思つてゐるんです」・・・
・・・「姉ねえさんは泣ないてゐるぜ」と兄あにが云つた。
「さうですか」と代助は夢の様に答へた。
「御父おとうさんは怒おこつてゐる」
代助は答をしなかつた。たゞ遠い所を見る眼めをして、兄あにを眺めてゐた。
「御前おまへは平生から能よく分わからない男だつた。夫でも、いつか分わかる時機が来くるだらうと思つて今日こんにち迄交際つきあつてゐた。然し今度こんだと云ふ今度こんだは、全く分わからない人間だと、おれも諦あきらめて仕舞つた。世の中に分わからない人間にんげん程危険なものはない。何を為するんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前おまへは夫それが自分の勝手だから可よからうが、御父おとうさんやおれの、社会上の地位を思つて見ろ。御前だつて家族の名誉と云ふ観念は有もつてゐるだらう」
兄あにの言葉は、代助の耳みゝを掠かすめて外そとへ零こぼれた。彼はたゞ全身に苦痛を感じた。けれども兄あにの前に良心の鞭撻を蒙る程動揺してはゐなかつた。凡てを都合よく弁解して、世間的の兄あにから、今更同情を得やうと云ふ芝居気は固より起らなかつた。彼かれは彼かれの頭あたまの中うちに、彼自身に正当な道を歩あゆんだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた。その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた。三千代以外には、父ちゝも兄あにも社会も人間も悉く敵てきであつた。彼等は赫々かく/\たる炎火えんくわの裡うちに、二人ふたりを包つゝんで焼やき殺ころさうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此焔ほのほの風に早く己れを焼やき尽つくすのを、此上うへもない本望とした。彼は兄には何の答もしなかつた。重い頭あたまを支へて石の様に動かなかつた。
「代助」と兄あにが呼んだ。「今日けふはおれは御父おとうさんの使つかひに来きたのだ。御前は此間このあひだから家うちへ寄より付つかない様になつてゐる。平生なら御父とうさんが呼び付けて聞き糺たゞす所だけれども、今日けふは顔かほを見るのが厭いやだから、此方こつちから行つて実否を確たしかめて来こいと云ふ訳で来きたのだ。それで――もし本人に弁解があるなら弁解を聞くし。又弁解も何もない、平岡の云ふ所が一々根拠のある事実なら、――御父おとうさんは斯かう云はれるのだ。――もう生涯代助には逢はない。何処どこへ行いつて、何なにをしやうと当人とうにんの勝手だ。其代り、以来子としても取り扱はない。又親おやとも思つて呉くれるな。――尤もの事だ。そこで今いま御前おまへの話はなしを聞いて見ると、平岡の手紙には嘘うそは一つも書いてないんだから仕方がない。其上御前は、此事に就て後悔もしなければ、謝罪もしない様に見受けられる。それぢや、おれだつて、帰つて御父おとうさんに取り成し様がない。御父おとうさんから云はれた通りを其儘御前に伝へて帰る丈の事だ。好いいか。御父おとうさんの云はれる事は分わかつたか」
「よく分わかりました」と代助は簡明に答へた。
「貴様きさまは馬鹿だ」と兄あにが大きな声を出した。代助は俯向うつむいた儘顔かほを上あげなかつた。
「愚図だ」と兄あにが又云つた。「不断ふだんは人並ひとなみ以上に減へらず口ぐちを敲く癖に、いざと云ふ場合には、丸で唖の様に黙だまつてゐる。さうして、陰かげで親の名誉に関かゝはる様な悪戯いたづらをしてゐる。今日こんにち迄何の為ために教育を受けたのだ」
兄あには洋卓てえぶるの上うへの手紙を取とつて自分で巻まき始めた。静しづかな部屋の中なかに、半切はんきれの音おとがかさ/\鳴なつた。兄あにはそれを元もとの如ごとくに封筒に納めて懐中した。
「ぢや帰るよ」と今度は普通の調子で云つた。代助は叮嚀に挨拶をした。兄は、
「おれも、もう逢あはんから」と云ひ捨てて玄関に出た。
兄あにの去さつた後あと、代助はしばらくして元の儘じつと動かずにゐた。門野かどのが茶器を取り片付かたづけに来きた時、急に立たち上あがつて、
「門野かどのさん。僕は一寸ちよつと職業を探さがして来くる」と云ふや否や、鳥とり打帽を被かぶつて、傘かさも指ささずに日盛ひざかりの表おもてへ飛び出した。
代助は暑あつい中なかを馳かけない許ばかりに、急いそぎ足に歩あるいた。日ひは代助の頭あたまの上から真直まつすぐに射下おろした。乾かはいた埃ほこりが、火の粉この様に彼かれの素足すあしを包つゝんだ。彼かれはぢり/\と焦こげる心持がした。
「焦こげる/\」と歩あるきながら口くちの内うちで云つた。
飯田橋へ来きて電車に乗のつた。電車は真直に走はしり出だした。代助は車のなかで、
「あゝ動うごく。世の中が動く」と傍はたの人に聞える様に云つた。彼かれの頭あたまは電車の速力を以て回転し出だした。回転するに従つて火ひの様に焙ほてつて来きた。是で半日乗り続つゞけたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた。
忽ち赤あかい郵便筒が眼めに付ついた。すると其赤い色が忽ち代助の頭あたまの中なかに飛び込んで、くる/\と回転し始めた。傘屋かさやの看板に、赤い蝙蝠傘かうもりがさを四つ重かさねて高たかく釣つるしてあつた。傘かさの色が、又代助の頭あたまに飛び込んで、くる/\と渦うづを捲まいた。四つ角かどに、大きい真赤な風船玉を売つてるものがあつた。電車が急に角かどを曲まがるとき、風船玉は追懸おつかけて来きて、代助の頭あたまに飛び付ついた。小包こづゝみ郵便を載のせた赤い車がはつと電車と摺すれ違ふとき、又代助の頭あたまの中なかに吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと続つゞいた。仕舞には世の中が真赤まつかになつた。さうして、代助の頭あたまを中心としてくるり/\と焔ほのほの息いきを吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。・・・
 
三遊亭円朝

 

「怪談牡丹灯籠」
・・・龜「源さま、私わっちが今立聞をしていたら、孝助の母親おふくろが咽喉のどを突いて、お前なれさん方の逃げた道を孝助に教おせえたから、こゝへ追掛おっかけて来るに違ちげえねえから、お前めえさんは此の石橋の下へ抜身ぬきみの姿なりで隠れていて、孝助が石橋を一つ渡った所で、私共が孝助に鉄砲を向けますから、そうすると後あとへ下さがる所を後から突然だしぬけに斬っておしまいなさい」
源「ウム宜しい、ぬかっちゃアいけないよ」
と源次郎は石橋の下へ忍び、抜身を持って待ち構え、他ほかの者は十郎ヶ峰の向むこうの雑木山ぞうきやまへ登って、鉄砲を持って待っている所へ、かくとは知らず孝助は、息をもつかず追掛おっかけて来て、石橋まで来て渡りかけると、
龜「待て孝助」
と云うから、孝助が見ると鉄砲を持っている様ようだから、
孝「火縄を持って何者だ」
と向うを見ますと喧嘩の龜藏が、
龜「やい孝助己を忘れたか、牛込にいた龜藏だ、よく己を酷ひどい目にあわせたな、手前てめえが源様の跡を追っかけて来たら殺そうと思って待っているのだ」
相「いえー孝助手前てめえのお蔭で屋敷を追出されて盗賊どろぼうをするように成った、今此処こゝで鉄砲で打ち殺すんだからそう思え」
と云えばお國も鉄砲を向けて、
國「孝助、サア迚とても逃げられねえから打たれて死んでしまやアがれ」
孝助は後あとへ下さがって刀を引き抜きながら声張り上げて。
孝「卑怯ひきょうだ、源次郎、下人げにんや女をこゝへ出して雑木山に隠れているか、手前てめえも立派な侍じゃアないか、卑怯だ」
という声が真夜中だからビーンと響きます。源次郎は孝助の後うしろから逃げたら討とうと思っていますから、孝助は進めば鉄砲で討たれる、退しりぞけば源次郎がいて進退此こゝに谷きわまりて、一生懸命に成ったから、額と総身そうしんから油汗が出ます。此の時孝助が図らず胸に浮んだのは、予かねて良石和尚も云われたが、退ひくに利あらず進むに利あり、仮令たとえ火の中水の中でも突切つッきって往ゆかなければ本望ほんもうを遂げる事は出来ない、憶おくして後あとへ下さがる時は討たれると云うのは此の時なり、仮令一発二発の鉄砲丸だまに当っても何程の事あるべき、踏込んで敵かたきを討たずに置くべきやと、ふいに切込み、卑怯だと云いながら喧嘩龜藏の腕を切り落しました。龜藏は孝助が鉄砲に恐れて後あとへ下さがるように、わざと鼻の先へ出していた所へ、ふいに切込まれたのだから、アッと云って後あとへ下さがったが間に合わない、手を切って落すと鉄砲もドッサリと切落して仕舞いました。昔から随分腕の利きいた者は瓶かめを切り、妙珍鍛みょうちんきたえの兜かぶとを割きった例ためしもありますが、孝助はそれほど腕が利いておりませんが、鉄砲を切り落せる訳で、あの辺は芋畑が沢山あるから、其の芋茎ずいきへ火縄を巻き付けて、それを持って追剥おいはぎがよく旅人りょじんを威おどして金を取るという事を、予かねて龜藏が聞いて知ってるから、そいつを持って孝助を威かした。芋茎だから誰にでも切れます。是これなら圓朝にでも切れます。・・・
「塩原多助一代記」
・・・引続きまする鹽原多助一代記は多助が八歳の時のお話でござります。彼かの岸田右内は忠義のためとは云いながら、心得違いに見ず知らずの百姓が五十両懐中致して居りますを知って、無心を云いかけますと、彼の百姓は驚きまして争いとなり、右内は百姓の転びし上へ乗っかゝり、お主しゅうのためには換えられぬと、嚇おどして五十金を奪おうとする。下では百姓が人殺し/\と云って居りますが、往来は稀な山村やまむらで、名におう上野国こうずけのくに東口の追貝村、頃は寛延元年八月の二日、山曇りと云うので、今まで晴天でいたのが暗くなって、霧が顔へかゝりました、暗さは暗し、向う山では鹽原角右衞門が山賊を打とめ、旅人を助けんと家来と知らず鉄砲の狙いを定めて、ガチリッと引金を引く拍子に、どうんと谺こだまへ響いて、無惨や右内は乳の上を打抜かれて一度ひとたびは倒れましたが、一方かた/\へ刀一方かた/″\へ草を掴んで立上り、足を爪立て身を慄ふるわせ、ウーンと云いながら、がら/\と血を吐き出しますと、其の血が百姓の顔へ掛りますから、百姓は自分が打たれた心持がして、人殺し/\/\と慄えながら云っている所へ、鹽原角右衞門が独木橋まるきばしを渡ってトッ/\/\と駈けて来ました。
鹽「これサ御旅人ごりょじんお怪我はありませんか」
角「はい怪我アしたかもしんねえ、真赤な血が出やした」
鹽「それは私が今上の賊を打留めたによって、其の血が貴方にかゝったのだろう、それとも少しは切られましたかな」
角「へえ、道理で痛くも何ともなかった、助かったかな、有難うごぜえやす」と血だらけになった百姓が仰向いて見ますと、氈鹿かもしかの膏無あぶらなしに山猫の皮を前掛にしまして、野地草やちぐさの笠を背負しょい、八百目の鉄砲を提げて、
鹽「まアお怪我が無くって宜よかったなア」
角「猟夫かりゅうどさんでごぜえやすか、既に此奴こいつに殺される所を助かりやした、私わしの懐中に金のあるのを知って跡を尾つけて来て、取ろうとするから、名主へ連れて往ゆくべえと思っていた所が、既に殺される所でがんした」
鹽「いや悪い奴でございます」と云いながら賊を見ると右内だから恟びっくりして、
鹽「右内やア/\、心得違いをしたな、右内やア/\」と呼ぶ声が忠義の心に通じましたか、右内は漸々よう/\細き目を開いて見れば、目の前に主人の顔、
右「旦那様々々々」と云いながら鹽原の手に縋り付く。
鹽「何故なぜ心得違いをした、手前も元は侍ではないか、如何に落ぶれ果て、食うや食わずの身となるともナア、何故其の様なさもしい了簡に成ってくれた、渇かっしても盗泉とうせんの水を飲まず位の事は心得ているではないか、何ういう訳で人の物を奪とる気になった、手前とは知らずナ、此の角右衞門が旅人たびゞとを助けようとして打留めたのであるぞ、これ許してくれえ/\」というに、右内はハッ/\と息を吐ついて、ものが云いたいが、外へ出る息ばかりで、漸く微かすかな声を出しまして、
右「旦那様、八年ぶりで貴方にお目にかゝりました所、彼あの通り見る影もないお身の上、御新造様からも五十金才覚してくれと家来の私わたくしへ手をついてのお頼み、此の旅人が金を所持して居りますのを見て、あなたを世にお出し申したいばっかりで心得違いをいたしました、あなたのお手に掛って死ぬのは本望でございます、永らく御奉公をいたして、御恩を戴いた御主人の妹を連れ出して逃げるような心得違いを致しました右内ゆえ、天罰主罰しゅうばつ報むくい来きたって、只今此の所で旦那様のお手にかゝって死ぬのは当前あたりまえでございますが、江戸表に残った女房おかめと、まだ年のいかない娘が此の事を聞きましたら嘸さぞ歎なげきましょうが、決して盗賊どろぼうをして殺されたのではない、旦那様を江戸表へお連れ申したいと思う心得で、斯様かような事を致しましたと云う事を、旦那様から仰せ聞けられて下されませ、あゝ最もう目が見えん、此の世のお別れ」と云いながらバタリと倒れましたから、鹽原も思わず声が出まして、
鹽「あゝ不憫ふびんな事をした、家内が聞いたら嘸歎くであろう、許してくれ」と歎くのを百姓が聞いていて、ホロリ/\と泣出しました。
角「とんだ事になりました、あゝ金を貸せば宜かった、道理で主人のために金が入るだ、主人も私わしも印形を捺ついて証文を張るからって名前さえ明かしたが、よもや、嘘だと思うから貸さなかったッけ」
鹽「はい全く私共わたくしどもの家来でございまして、手前を世に出したいばかりで、此の様な事をいたしました、何卒どうぞ御勘弁を願います」
角「御勘弁どころじゃねえ、鉄砲を打ぶたなけりゃア己が殺される所だ、何とそう云う良いい家来を鉄砲で打ったら嘸悲しかんべえ」・・・
・・・多「嘘は吐つけねえものだなア、小平ハア斯う知れてしまったから、己おれは胡麻の灰へいだと云って帰けえった方が宜かんべい、番頭さん、此奴こいつは道連の小平という胡麻の灰へいでがんすよ」
番「いえー胡麻の灰へいかい、それだから夜は戸を明けない方が宜いいというのだ、大変な騒ぎが出来た」
多「アはゝゝゝゝ既すんでに八十両という大金を奪とられる処だった、去年汝われが己おれに刄物はもの突付けて、既すんでのことで殺される処を助かって此処にいるだが、汝われはまアだ悪事が止やまねえのか」
小「妙な処で逢ったなア、そうして貴様はどういう訳で此処の家うちにいるのだ」
多「どうして居るって、己おらア金を貯めて国へ帰けえるべいと思って、此処な家うちで稼いでいる処へ汝われが来たから分ったのよ」
小「エーおい番頭さん、私わっちア道連の小平という胡麻の灰へえで、実は少し訳があって此の書付が手に入へいったから、八十両まんまと騙かたり取ろうと思った処が、山出しの多助の野郎に見顕みあらわされ、化ばけの皮が顕あらわれてしまったから、此の儘じゃア帰けえれねえ、さア此の大きな家台骨やていぼねから突き出されゝば本望だ、さア突出して貰おう」
番「突き出すって、どうもこりゃア困った」と番頭は頻りに心配致して居ります処へ、此の頃は只今とは違いまして人力がございませんから、駕籠で大急ぎに参りまして、トン/\トン/\「ちょっと此処をお明けなすって下さい」と今度は本当の吉田八右衞門という人が、涎よだれをたら/\滴たらし這入ってまいり、只と見れば先程さっきの奴が自分の形装みなりで居りますから、八右衞門は突然いきなり此の野郎と云いながら、一生懸命に這上がって、小平の胸ぐらを掴んで放しません。
八「此の野郎呆れた野郎だ、己が身体利かねえようにして、己が荷物から脇差から大事でいじな書付まで盗みやがった、盗賊どろぼう々々、此の野郎々々」
小「静かにしろえ」と云いながら八右衞門の手を逆さかに捻ねじって其処そこへ投げ付け、草鞋穿きの儘でドッサリと店先へ上り、胡坐あぐらをかきまして、
小「やい百姓、実は己おらア小平という胡摩のへえだ、上州で人殺ひしごろしから足がつき、居られねえから其の場をふけ、猿田船やえんだぶねへ乗って江戸へ着き、先刻さっき濱田で飯を食いながら聞いていると、手前てめえが此の山口屋善右衞門へ八十両の為換かわせを取りに来たという事を聞いちゃア遁のがさねえ地獄耳、手前てめえの跡を付けて来て、転んだ振りで荒稼ぎ、頭突ずつきといって横腹よこっぱらを頭で打ぶって息の音ねとめ、お気の毒だと介抱して呑ませた薬は麻痺薬しびれぐすりだ、手前てめえの身体がきかねえうちに衣類きものから懐中物まで引攫ひっさらって遁にげるのを、盗人仲間どろぼうなかまで頭突ずつきというのだ、あの時攫さらった書付からまんまと首尾よく八十両、いゝ正月をしようと思った所が、打って違って山出しの多助の野郎に見顕みあらわされたから、もう破れかぶれだ、さア突き出せ/\」
と云うので店の者は大きに驚き、頭かしらを呼びにやるやら何やら騒ぎ致しますけれども、小平は鉄挺てこでも動きませんので、持て余している所へ帰って来たのは主人善右衞門で、これより小平を奥へ連れてまいり、意見を致しますお話は次囘までお預りに致しましょう。・・・  
「霧陰伊香保湯煙」
・・・やま「実に何うも松五郎のような不孝不義な奴はございません、お父さまの御命日に、お墓参りでも為した事があるかと、偶たまに東京とうけいへ出てお寺へ往って、これ/\のもので年頃はこれ/\でございますが、塔婆とうばの一本も供あげてお墓参りには参りませんかと、方丈さまや寺男に聞くのも、少しは悪をしながらも、親の有難いも主人の大切な事ぐらいは分りそうなものだと思って居るのに、つい墓参りをした事もない、尤も然そう云う心があれば此様こんな悪い事も出来ませんが……どうせ遁のがれる道はないから、私は年を老とって何うなろうとも、小峰の掛合かゝりあいにならんよう立派に名乗り出て、自分だけの罪を被きるが宜いい……誠に何うも皆様に面目次第もございません」
と泣き沈むを見て流石さすがの悪人松五郎も心に感じ、
松「橋本の旦那え、私わっちア何う云う訳で此様こんな悪い事をしたかと思ってね、今夢の寤さめたような心持で……その布卷吉さんは茂之さんの子たア知らねえ、年の往ゆかねえで親の敵を討とうと云う其の孝心を考え、今まで此方こっちの作った悪事と不孝を思い合せれば、同じ人間に生れても迷えば此様なにも悪の出来るものかと、我ながら実に先非を悔いて改心致しました、もう何うせ遁れる道もありませんから、斯う云う親孝行な兄にいさんの手に掛って死にゃア本望で、昔なら腹ア切る処とこでござえやすが、此の家を血で汚けがしちゃア客商売の事ゆえ永井の家に気の毒だから、向山へ引摺ってって思う存分に斬ってしまって下せえ、決して手出しは致しやせん、それとも縄に掛け派出へ引いてって、親の敵を捕まえましたといって処分に附けて下されば、私の罪も消えます、兄さん早く引張って往って、貴方のお手柄になすって下さい……サお瀧、お前めえも此処らが死処しにどころだ、成程考えるとなア茂之さんがお前を殺そうと思って裏口から這入って来た時、お前は己ん処とけへ知せに来ていて、茂之さんのお内儀かみさんが一人で留守居をして居ると、大夕立大雷鳴おおがみなりの真暗まっくらの処とけへ這入って、女房児こを殺した時の心持は何うだったろうと、悪事をする中うちにも時々思い出すと、余あんまり好いい心持じゃアありません……ナアお瀧、手前も時々魘うなされた事もあったな、手前も死処だぜ」
瀧「あゝ何うも面目次第もございません……私どもに縄を掛けて、布卷吉さんお前さんの思う存分胸の晴れるようにしてお呉んなさいまし」
松「決して手出しは為しませんから引摺ってって下せえまし」
市「ウン能く覚悟をした、私わしア縛る役じゃアねえけれども、逃げ隠れを為ようたって、捕めえたら動かさねえぞ、お役人の手数てかずを掛けるより私が引張って往ゆく、無闇に人を縛っちゃア済まねえから、私が手前てめえを捕めえて往いこう」
やま「能く其方そちは覚悟をして縄に掛り、名乗り出る心になった、人は心から悪いものではない、一念の迷いから悪い事をすると聞く、何も彼かも知って居ながら此様こんな事をして…其方は暴れ者もんだが、親方さんのような力の強いお方に捕まって逃げ隠れを為ようとして怪我でもするといけないから、尋常に名乗って出ろ」
小峰「本当に憖なまじ逃げようなぞとして怪我アしてはいけませんから、おとなしく名乗って出て下さいよ」・・・
 
坂口安吾

 

「選挙殺人事件」
・・・ どうにも理解に苦しむのだ。直接本人に当ってみようと彼は思った。新聞記者の悪い癖だ。直接本人に当ったところで、本音はきける筈がない。まして裏に曰くがあれば、本音を吐かないばかりでなく、詐術を弄するから、ワナにかかる怖れもある。本音を知るには廻り道。それを知りながら、むやみに当人に会いたがるのが記者本能というものだ。
寒吉は夜分三高木工所を訪れた。取次に現れたのは四十がらみの人相のわるい男であったが、彼の名刺を受けとって、
「オヤ。新聞記者? 新聞記者か。アハハ。新聞かア。アハハ。アハハア。アハハハハハ」
彼の素ットンキョウな笑いは止るところがなくなったようである。その笑い声が寒吉をみちびき、奥の部屋で主人に紹介を終っても、笑い声は終らなかった。三高はイヤそうに顔をしかめたが、笑い声を制しなかった。選挙中は何事も我慢専一という風に見えた。
「立候補の御感想を伺いに参りましたが」
「まアお楽に」候補者らしく如才のない様子だが、それがいかにも素人くさい。それだけに、感じは悪くなかった。
「立候補ははじめてですか」
「そうです」
「どうして今まで立候補なさらなかったのですか」
「それはですね。要するに、これはワタクシの道楽です。ちょッとした小金もできた。それがそもそも道楽の元です。金あっての道楽でしょう。御近所の方々もそれを心配して下さるのですが、ワタクシはハッキリ申上げています。道楽ですから、かまいません。かまって下さるな。ワタクシに本望をとげさせて下さい、と」
「本望と申しますと?」
「道楽です。道楽の本望」
「失礼ですが、ふだんからワタクシと仰有おっしゃる習慣ですか」彼はギョッとしたらしく、みるみる顔をあからめて、
「失礼しました。ふだんはオレなぞとも云ってましたが……」馬鹿笑いの男が部屋の隅できいていて、今度はクスクス笑いだしたので、寒吉は三高が気の毒になった。
「無所属でお立ちですが、支持するとすれば、どの政党ですか」
「自由党でしょうな。思想はだいたい共通しております。しかし、もっと中小商工業者をいたわり育成すべきです。それはワタクシの甚だしく不満とするところでありまして、またワタクシの云わんとするところも……」
演説口調になりかけたので、寒吉はそらすために大声で質問した。
「崇拝する人は?」
「崇拝する人?……」
「または崇拝する先輩。政治的先輩」
「先輩はいません。ワタクシは独立独歩です。一貫して独立独歩」力をこめて云った。彼の傍に芥川龍之介の小説集があった。およそ彼とは似つかわしくない本である。
「その本はどなたが読むのですか」
「これ? ア、これはワタクシです」
彼は膝の蔭から二三冊の本もとりだして見せた。太宰治である。
「面白いですか?」
「面白いです。笑うべき本です」
「おかしいのですか」
「おかしいですとも。これなぞは難解です」
こう云って一冊の岩波文庫をとりだした。受け取ってみると、北村透谷だった。
「学歴は?」
「中学校中退です。ワタクシは、本はよく読んだものです。しかし、近年は読みません」
「読んでるじゃありませんか」
彼は答えなかった。疲れているらしい。
「何票ぐらい取れると思いますか」
ときいたが、チラと陰鬱な眼をそらしただけで、これにも返事をしなかった。彼の本心をのぞかせたような陰鬱な目。
「これが本音だ!」
寒吉はその日を自分の胸にたたんだ。その他の言葉は、みんな芝居だ。ワタクシという無理でキュウクツな言葉のように。
「要するに、裏に何かがある」それを掴んでみせるぞと寒吉は決意をかためた。・・・  
「明治開化 安吾捕物」
・・・津右衛門は千代に語って、
「世間の人は色々のことを云うが、オレのうちはそのような大それたものではない。まア多少はある一人のちょッとした曰くづきの人物に関係があるが、この家の者がその血筋ではないのだ。わが家の血筋などはとるにも足らぬものさ。関係があるという血筋の人については、ちょッと先祖は言外をはばかる事情があったが、今ではさしたることもない。そこで私のオジイサンの代からそれを系図に書き入れてあるよ。東太が成人して家督をついだら、東太にたのんで見せてもらうがいいさ」
「では、父から息子へ語り伝える必要はもうなくなったのですか」
「イヤ。それはまだある。これだけは文字に記するわけにはいかないのだよ」と津右衛門は笑ったものだ。
千代は今までそういうことを気にかけなかったので、この家に関係ありという人物が誰であるか、それを知ることなどは津右衛門の死後も忘れていた。
しかし、今、こうして実父と実兄が、言葉巧みな方法で、この家を我が手に収めようとするのに気付くと、ここに何かがあるナと気がついた。即ち、父と兄は見破ったのだ。東太はまだ幼少であるから、云うまでもなく父の語り伝えをうけていない。とすれば、瀕死の父は、その語り伝えを残さなければ、死んでも死にきれなかったろう。彼があの断末魔ののたうちまわる苦悶の中で、右手を必死に動かしていたのは、その語り伝えの内容を暗示しようとしていたのだ。
天鬼はまるで気違いのように津右衛門の死にゆく様のマネをしたではないか。よほど重大な理由がなければ、あのように必死に、あのように愚かな所業のできるものではない。天鬼は瀕死の津右衛門が必死に指し示した方向に、村人の噂に高い金箱の隠し場所があると判断したのに相違ない。その指の示す方向の山林中を、彼らは二日間も歩き廻っていたではないか。しかし彼らはその所在地を知ることができなかった。いったん帰宅して色々と検討したあげく、多分この屋敷内のどこかに金箱があるべきことを推定したのであろう。
こう気がつくと、主婦たるものの本能がムクムクと頭をもたげた。千代は既に東太の母であり、千頭家の主婦であった。安倍兆久の娘でもなく、天鬼の妹でもなかった。千代はキッと額をあげて父をマジマジと見すえて、
「お父様も情けないことを仰有おっしゃいますね。私は千頭津右衛門の妻ではございませんか。主人が死んで一周忌もすまぬのに、三十五日、四十九日の法要もつとめずに、どうしてこの家がうごかれましょうか。女ばかりの私たちが戦乱が怖しいのは申すまでもございませんが、一周忌もすまぬうちにここを空き家にするぐらいなら、ここで泥棒に締め殺された方が本望でございます。東太や私や家屋敷が助かるよりも、ここを守って死に果てることを、亡き津右衛門も満足してくれるだろうと思います。もう二度とそのようなことを仰有って下さいますな」
気品あくまで高く、余言を許さぬ鋭さ。しかし兆久天鬼とてもオメオメ引き下りはしない。尚もしつこく食い下って数日を重ね、その日中は何食わぬフリをして屋敷内をくまなく調べている様子であったが、ついに目的を果さず、千代のリンリンたる気魄におされて、むなしく退却してしまった。
父と兄が去ると、千代はホッとした。そして亡き津右衛門の必死に示した指を追い、その意味を判じ先祖伝来の遺言を復活して東太に伝えるのは自分に課せられた一生の仕事であると心に誓うところがあった。
さッそく仏間に入り、本尊の秘密の胎内から系図をとりだして調べた。この系図はまさしく慶長年間からはじまっていた。
その系図の文字とは別に、何かこまかく書きこまれているのは、それが津右衛門のオジイサンが書き加えたという文字にちがいない。そのほかには書きこみがなかった。しかし、その書きこみには、別にそう重大らしいことは書いてなかった。
「千頭家は当地移住まで特に記すべき血統なし。初代津右衛門長女さだ」
そこまでは当り前の文字であるが、その次から風が変って、字ではあるが、読みようのない文字である。
「人左川度。キウンヨザギンブ。クレビラキ。当家大明神大女神也」
こう書かれていた。
千代は考えたが、分らなかった。それを紙片に書きとり、系図を元の場所へおさめ、折にふれ紙片をとりだして考えふけったが、どうしても、手がかりがない。
四十九日がきて、近在の人々が集った。そのとき、江戸から回向にきてくれた碁打の一人が、
「人の話では、仏は勝碁の途中になくなられたとのこと、神田の甚八に四目置かせて勝碁とはさてさて怖しいことでござるが、棋譜は書きとめでございませぬか」
千代もこれには参った。亡父最後の勝局、この譜を残しておかなかったのは残念だが、あの唐突の死に際してそんな余裕のありうる筈のものでもない。
「私もそれを残念に思いますが、終盤ちかくチラと見ただけの盤面、しかと覚えておりませぬ」
「甚八と申せば江戸の素人天狗は三目でもめったに歯の立たぬ豪の者。まず二段はたっぷり打ちましょう。甚八に四目置かせて勝つなどとは名人と雖いえども考えられぬことでござる。棋譜の知られぬは残念千万でござるのう」
「うち見たところでは白によい碁ではございませぬ。黒は置き石を生かして白を圧迫し、黒に充分の碁ですが、隅の黒石に平凡な死に筋があるのを見落して、せっかくの好局を負けにしたのでした」
千代はこう答えて、目にアリアリと黒の見落した筋を思い浮べた。その時、千代の頭にひらめいたのは、その手筋であった。彼女は顔色の変るほど驚いた。彼女は腹に力を入れて、ウンとこらえた。しばしして、人に顔色をさとられぬうちと座を立って、わが部屋へ逃げこんだが、その踏む足もウワの空、宙を踏む夢心地である。
「アア!」
彼女はフスマをしめて部屋にはいり、崩れるように坐りこんだ。断末魔の津右衛門が指さしていたのは、一つの方角ではなかったのだ。すぐその指の先にあるもの、碁盤なのだ。のたうちまわって前へ前へすすみつつも、指さしていたのは、たしかに碁盤であった筈。然り。たしか碁盤そのものであったのだ。
甚八が見落していた手筋というのは、敵の石をとって二眼できたとき、とった石を又とり返される筋があるのを見落していたのである。甚八ほどの打ち手が見落すのはフシギであるが彼は血迷っていたのであろう。この手筋を碁の術語で「石の下」と云うのである。
「石の下!」
津右衛門の言いたい言葉はこれだったのだ。人々の噂する金箱が、もしも隠されているとすれば、石の下なのだ。
その日から千代の思案と探索が新しく再びはじめられた。しかし謎も解けなければ、どの石の下とも判断の下し様がなかった。千代は遂にあきらめて、東太が成人したら、すべてを東太に明かして、東太の力で探させようと思ったのである。
それから二十年すぎた。そして新しく事件が起るのである。・・・  
「保久呂天皇」
・・・彼は濡れ衣の恥をそそいで中平の鼻をあかしてやることは簡単であると知っていた。山をくずし石室を解体すれば分るのだ。いと簡単の如くであるが、それをすることができないのだ。五年間、全力をつくしての築造物だ。いと簡単にそれをくずせるものではない。そのために考えこんでしまったのである。
考えたって埒はあかない。他に濡れ衣をそそぐ手段はないからだ。けれども彼は考えてみる。考えようとしてみるだけだ。するとウツラウツラする。何も考えていない。そのバカらしさ、むなしさがなつかしい。夜になり、時には真夜中になり、彼はふと気がついて、立ち上る。すこしフラフラする。腹がへったのだ。家へ戻り、一升飯をたいて一息にたいらげる。それから手洗いに立ったりして夜の明けぬうちにまた穴へ戻ってくる。穴の方が住み心地がよいからだ。穴の中にいると、安心していられる。誰もこの穴をどうすることもできないという安心だ。そして穴に閉じこもっているうちに、濡れ衣の方は次第に忘れて、誰もこの穴をどうすることもできないという安心の方にひたりきってしまうようになったのである。
五日たち、一週間たち、しかし断食のはずの久作が大そう元気よい足どりで野グソに行ったり水をのみにでかけたりする姿を見かけ、親たちに戒しめられて近よらなかった子供たちが穴のまわりに集るようになった。
リンゴ園からこれを見て喜んだのは中平だ。さっそく穴の前へやってきて、
「お前たちよい子だからこの山の土をくずしてくれ」
そこで子供たちが土をくずしはじめたから、これを見ておどろいたのは親たちで、駈けつけて来て子供をつれ去った。そのとき一人の親がこう云って子供を叱った。
「たたられるぞ! このバカ!」
穴の中の久作はこの親の一喝にふと目をあいて考えこんだ。
すばらしい言葉だ。部落の者が自然にこの言葉を発するに至っては本望だ。神のタタリ。天のタタリ。天皇のタタリ。タダモノがたたるはずはないのである。
この部落には神社もなかった。オイナリ様の小さなホコラすらもなかった。いまだかつてタタリを怖れてしかるべきものは存在していなかったのである。
「この部落でタタリを怖れられたのはこのオレがはじめてだな」
こう気がつくと、全身が喜びでふるえたのである。
「たたってやるぞオ!」
彼は怖しい声でこう吠えてみた。すると喜びで胸がピチピチおどったのである。そして、この上もなく安らかな気持だ。これが神の心、天皇の心だと彼は思った。
彼が本当に穴の中に閉じこもったきり一歩もでなくなり、したがって自然に断食しはじめたのは、この時からであった。それは断食が目的ではなかった。この上もない安らぎ、神の心と瞬時も離れがたかったからである。一歩でれば、俗界だ。この安らぎを失う。穴の中は天界だ。彼自身は天人であった。暗闇の穴がニジにいろどられ五色の光がみちていた。天人の音楽がきこえてくる時もあった。
彼が完全に穴の中に閉じこもってから二十日ほどたち、身うごきもしなくなったので、村から巡査と医者がきて彼を運びだして駐在所へ運んで行った。その翌日、巡査の指図で村の者が早朝から一日がかりで山をくずし石室をこわしたのである。
シマの財布はどこからもでなかった。久作の家も捜したが、どこからも札束はでなかった。意外な収獲としては「保久呂天皇系図」という久作の新作らしい一巻の巻物が現れたことである。天照大神からはじまり久作らしき天皇で終る最後に、
「この天皇眼の下に大保久呂あり保久呂天皇の相なり裏山のミササギに葬る」
とあって、どうやらあの山と石室が保久呂天皇のミササギであったことが判明したのであった。・・・  
「犯人」
・・・約二時間後、仁吉が弁当を食べ終り、休息したのちの一問一答である。
「さっきサヨを殺したと云ったが、あれはウソだろう」
「本当だ」
「お前はサヨと口をきいたことがあるのか」
「サヨはオレに親切だった」
「なぜ親切だったのか」
「オレがサヨの小屋へ食べ物を盗みに行ったら、サヨに見つけられて、逃げるところを後から突きとばされて押えつけられた。なぜ泥棒にきたかと訊いたから、泥棒しないと御飯が食べられないからだとワケを話した。するとサヨはポロポロ泣いて、すまなかった、すまなかった、と言ってオレを抱いた。その日からサヨはオレに親切だった。食べるものがないときはいつでも来いと云った」
「それはいつごろか」
「サヨの死ぬ一月ぐらい前だった」
「お前は時々食べ物をもらいにサヨのところへ行ったのか」
「時々行った。サヨはオレが行くとよろこんで、あれもこれもタラフク食えとすすめた」
「サヨが死んだ日のことを云ってごらん」
「サヨはオレの顔を見ると、お前の来るのを待っていたと云った。そしてこの前見せてくれたハートのクインのお守りをオレに貸して抱かせてくれと云った。それを手渡してやるとサヨは自分の肌につけてポロポロ泣いて、お前に殺してもらうために刃物を用意しておいたと白木のサヤの短刀をとりだして見せた。どうして死にたくなったのかと訊いたら、お前に会ったからだと云った。そしてお前に殺してもらえれば本望だと云ってポロポロ泣いた」
「なぜ本望だか、お前に分るか」
「そんなことは分らないが、サヨの言葉はみんな本当にきまっている」
「サヨが殺してくれとたのんだから、その短刀で突いたのか」
「サヨはオレに短刀を持たせてハダカになった。この腹がいとしくて、いとしくてたまらないから、この腹を突きさいて殺してくれと云った。そして、お前も生きていると、大人になって、大人はみんな悪者だから、そうなる前になるべくお前も死ぬ方がよいと言った」
「お前はなんと返事をしたか」
「返事なんかしない。サヨはオレの返事をきいたのではないから。サヨはオレが大人になる前になるべく死んだ方がよいと教えてくれただけだ。サヨはこの腹がいとしい、いとしいと何べんも云って、なんとも云えない優しい笑顔で自分の腹をさすって見ていた。ヘソのところへ短刀を力いっぱい突きさして、下の方へ引き下せるだけ引き下して腹をさいてくれと云った」
「サヨはねてヘソを指さしたのか」
「立っていた。立ったまま突きさせと云って、オレの手を押えて自分で短刀の位置を定めた。さア、突いておくれと云って、目をとじた」
「その前に、お前に頬ズリをしなかったか」
「そんなことはしない。サヨはいつもオレの目を見ていたし、オレはいつもサヨの目を見ていた。ハダカになってからは、サヨの目はいつも神サマの目のように笑っていた」
「神サマの目を見たことがあるか」
「サヨの目を見ている間、そう思って見ていた。その目が開いているとオレが突けないと思ったのか、さア突いておくれ、と云って目をとじたが、それは一そう神々しく見えた」
「サヨは目をとじて蒼ざめた顔をしたか」
「目をとじたら、一そう神々しい笑顔に見えた。オレはサヨに云われた通り力いっぱいヘソを刺して、それから下へ引いた」
「サヨは悲鳴をあげたろう」
「一度も悲鳴なんかあげない。突き刺したとき、かすかにウッとうめいて、オレが短刀を引き下して抜いてから、よろめいてドスンと倒れた。しばらく苦しんでもがいたが、一度も叫ばなかった。サヨは苦しみながらオレに云った。仁吉は男だ、我慢しろと云った」
「それはどういう意味か」
「痛いのはしばらくだ、じき楽になるから、とまたサヨはオレに云った。そして、しばらくたつと、サヨは本当に楽になって、笑いをうかべた」
「そして何か云ったか」
「その笑い顔が挨拶の言葉だということがオレには分った。そしてサヨは死んだ」
「なぜサヨが殺されているとウソをついて届けたのか」
「サヨがそうしろと教えて死んだからだ。オレは一人で誰にも見せずに穴を掘って埋めると云ったが、そんなことはするなとサヨは云った。生涯生き恥をさらしたから、ハダカの死に姿をさらして死に恥もかきたい、と云った。みんなにハダカ姿を見せたいと云った」
「罪ほろぼしに死に恥をかきたいと云ったのだな」
「ハダカで死にたい、ハダカがいとしい、ハダカを見せたい、とその後で云った」
「お前はサヨを殺したことを後悔しているか」
「サヨは喜んで死んだ。最後にサヨの喜ぶことがしてやれたからオレはうれしい。だからオレはもう死にたいと思う」・・・
 
岡本かの子

 

「取返し物語」
・・・(法師五六人、親鸞聖人の木像を担ぎ出して来る)
阿闍梨『親鸞どのもいたわしゅう思召おぼしめされていらるるだろう。それ、各僧、源右衛門の背に負わしてやられよ』
法師一同『畏かしこまりました』
(此の時おくみは跣足はだしで先に、蓮如上人は駕かごに乗り、取るものも取りあえぬ形で花道を駈けつけて来る)
おくみ(源右衛門に取りついて)『もうし、ととさん、こちの人はどうしやさんした』
(源右衛門、親鸞聖人の木像を背負いつつ、顔をそむけて、うつ向く。)
おくみ『黙っていなさるは心がかり。早う教えて下さりませ』
源右衛門『これ嫁女、源兵衛はな』
おくみ『源兵衛さんは?』
源右衛門『それ、そこじゃ』(顎にて袖の千切れに包まれし首を示し、涙をはらはらと落す。)
おくみ(袖の首を取上げて)『やっぱり覚悟の通りにならしゃんしたか。ととさんと一緒に旅立ちの様子がおかしいと、直ぐそのあとでかかさんを攻め詰なじって漸ようよう訊いた事の仔細。それから山科の御坊に駈けつけて、お上人さまにお訴え申し、お上人さまともども急いで駈けつけたが』(泣く)
蓮如(駕籠かごより降り)『時遅れしか、残念、残念』
源右衛門『嫁女、歎くまいぞ。そなたが抱いておるは、そりゃ源兵衛の抜け殻。魂は移って、これ、此処に在おわします』(顎にて背中の影像を示す)
おくみ(袖の首を抱えたまま、影像に取りついて)『身を捨てても、人を救うとは仏のお誓い。その誓いの通りなさんした、源兵衛さんは、凡夫でいながら聖ひじりも同然。見れば開山聖人さまの御影像も泣いていやしゃります。源兵衛さんは本望であろうわいなあ。わたしゃもう、歎きも、哀しみもいたしますまい。(首にものいう如く)期するところは極楽浄土。一つ台うてなで花嫁花婿。のう、こちの人、〽忘れまいぞえあのことを。いや、〽忘れられぬぞあのことを。〽忘れられぬぞあのことを』(唱えつつ首の包みに額を押しあて泣きむせぶ。舞台一同のものも落涙)
蓮如『時は末法、機は浅劣。聖道永く閉じ果てて、救いの術はただ信心。他力易行と教えて来たが、思いに勝まさる事実の応験。愛慾泥裏の誑惑きょうわくの男と女がそのままに、登る仏果の安養浄土、恐ろしき法力ではあるなあ。この上は源兵衛に続いてわが身も一しお、老いの山坂厭いといなく、衆生済度しゅじょうさいどに馳せ向わん。有難し、忝かたじけなし、源右衛門。源兵衛。(合掌しつつ和歌を口ずさむ)
あひがたき教へを受けて渇仰かつがうの かうべはこゝに残りこそすれ』
(衆僧経の諷誦ふうじゅの声にて、舞台一同合掌礼拝。)・・・  
「高原の太陽」
・・・かの女はあまり唐突にその言葉を聞いたように感じた。だがよく考えれば、青年がいつも女性でなければと云っていたことを、今また思い出した。
「僕はやっぱり女性の敏感のなかに理解がしっとり緻密に溶け込んでいるのでなければ、淋しい男性にとってほんとうの喜びではないと思うんです。兄さんは僕を多少ニヒリストで素焼の壺程度にさらりとした人間と解釈したに過ぎないが、あなたはそれ以上、僕に鬱屈している孤独的な寂しさまで感じわけて下さったでしょう……女性の本当に濃かいデリケートな感受性へ理解されることが、僕の秘かな希望だったんだな……」
「でもあなたは素焼の壺が二つ並んだような男女の交際が欲しいと仰ったでしょう」
「またそれが出ましたね。どうも素焼の壺が頻々ひんぴんと出て来ますね。あれは僕自身も僕を素焼の壺程度に解釈していた時分云ったことですよ。僕は実は大変な鬱血漢でしたよ」
「割合いに刺戟的な方だと思うわ」
「ばあやのお喋りがはいらないんで、今日はあなたがよくお話しになる、僕の本望だな。あれはね、僕、今でもそう思ってますが――つまり、すぐ恋愛になるような、あり来りの男女の交際は嫌だと思ってましたから、それがああいう言葉で出たんですが……」
この青年は非常にエゴイズムなのではないかと、ふとかの女は思った。
でなければ、それ以上に抜け切った非常に怜悧な男なのではないかとも思った。
でもこう話しているうちに、決して男性の体臭的でない明るいすがすがしい気配が、青年の顔色や態度に現われて来た。かの女は、もしその気配に自分の熱情が揺がされでもしたら、自分が何か非常に卑しい軽率な存在にでも見えだすかも知れない――そう思うとかの女はかすかなうそ寒いような慄えに全身をひきしめられた。
「ね、あそこをご覧なさい」
青年の指差したのは、真向いの堤に恰あたかも黄金の滝のように咲き枝垂しだれている八重山吹の花むらであった。陽は午後の円熟した光を一雫のおしみもなく、その旺溢した黄金色の全幅にそそぎかけている。青年は画家が真に色彩を眺め取る時に必ず細める眼つきを、そちらへ向けながら沁々しみじみ云った。
「あの山吹の色が、ほんとうに正直に黄いろの花に今の僕の心象には映るのです。僕の心が真に対象を素直にうけ入れられるようになったのですね。以前僕の描いた山吹の色は錆色でした。それが渋いとか何とかいいかげんなニヒルの仲間達に煽おだてられたもんですが、詰らないことです。僕の盛り上って来た精神力でほんとうに人生を勇敢にこれからは掴つかみ取れそうです」・・・
 
三好十郎

 

「猿の図」
・・・三芳 『私はここに、このたびのミソギ行に参加した全員を代表して、感謝の言葉を述べることのできるのを、光栄とするものであります。しかしながら、私どもが心から感謝すればするほど、これがただ感謝にとどまっていてはならない、いや、感謝への念が真実なものであるならば当然それは、もっと積極的なものへ発展するのは当然でありまして……』
大野 三芳君、もう、いいだろう。
三芳 え? ……あのう、いえ……実は、この後がガンモクなんで、ぜひお聞き願いたいんですが――?
大野 ……(なにも言わないで、ビールをガブ飲みする)
三芳 ……(オズオズと大野と薄田の顔色をうかがっていた後、二人が強いて反対していないことを見てとって)じゃ、すこし、はしょって最後の所だけを――(朗読をつづける)『で、ありまして……ええと……そこで、つまり、私どもには、この感謝の念と、それに、最初に述べましたような、自らの兇悪ムザンな犯罪に対するつぐのいがたい罪の意識が有るのであります。加うるに、アッツ島その他におけるわが神兵の玉砕以来、戦況の日に非なるを、もはや坐視するにしのびないものがあるのであります。今や既にわれわれは、国民としての最後の関頭に立ちながら、筆硯を事としているのに耐え得ないのであります。併せて、われわれがわれわれの過去の罪悪に対する自らのつぐのいを僅かでも志すという点からいいましても、全身命をなげ打って第一線の銃火の中にミソギすることこそわれわれに残された唯一つの路であります。願わくば、われわれの志をあわれみ、挺身従軍の許可が与えられますよう、御高配下さるよう、この機会に切に切にお願申します。それも、出来ますならば、唯単に文化人として従軍するのではなく、銃を担い剣を取って一兵として従軍したいのが私どもの本望であります。かくて、私どもは私どもの志のクニツミタマに添い奉り、撃ちてし止まん日の鬼と化さんことを、ここに誓います! 以上、御願いのため、連署血判をもって――」
薄田 ほう、血判したのか?
三芳 はあ、いえ、これは下書きでして、大野先生に一応聞いていただき、これでよいとなりましたら清書しました上で――はあ。
薄田 痛いぞ、指を切るのは。
三芳 いや、それは――(心外なことを言われて、抗弁しようとするがやめて、大野を見る)
大野 なかなか良いじゃないか。(言いながら卓の上の小皿から肴の一片を取ってくめ八に食わせる)
三芳 はあ、実は、少し単刀直入に過ぎて、言葉が不穏当な個所も有るようにも思いましたが、とにかく正直に私どもの気持を訴えてですね、理解してさえいただければ、それでよいと思ったものですから。誠心誠意、ただそのことを――
大野 いいだろう。ねえ薄田さん。(薄田のコップにビールをつぐ)
薄田 そう。わしらの方として別に異存はないが――しかしまあ、そこまでなにしなくても、いいんじゃないかねえ。こないだ、隊の方で新聞や雑誌の連中を引っぱったのは、チョットほかのことでなあ、君たちとは別だ。それほど気にしなくともよかろう。それに、いま言ったその、理解さえしていただければというんだったら、なにもそう――
三芳 いえ、そ、そ、それは、そ、そんな意味ではないのです! これでもし許していただければ、一兵卒として従軍します、する気がなくて、誰がこんな願書を出したり――ちがいます、そ、そんな新聞や雑誌の連中が引っぱられたから、それにおびえて、それで、ゴマをすって私たちがこんなことを――心にもないことをしていると――そんな、そんなふうに取られては、立つ瀬がありません。し、し、心外です、そ、そんな――
薄田 ハハ、まあいいよ。
三芳 よくありません。そんなふうに私どもの誠意が――
薄田 誠意はわかっとる。だが君たちまで第一線に引っぱり出さなきゃならんほど、まだ、わが方の状況はなっとらん。安心したまい、ハッハ。・・・  
「殺意(ストリップショウ)」
・・・そして死んだ、あの人は
アッケないといっても、アッケない
それから二タ月とたたぬ間に
南方の基地へ運ばれて行く船が
向うの飛行機にしつこく追尾され
機銃の掃射を喰った時に
うたれて死んだ。
その公報をにぎって、山田先生がじきじきに来てくだすった
忘れもしない、その時の空襲警報発令中の
人気のない応接室の片隅で
いつもどおりの静かな顔で
しかし、どこかしら、いつもとちがった冷たく固い
眼をなすって
「美沙子さん、徹男は戦死した」
と言って、そして、長いこと何も言われない。
私の頭のどこかがブウンと鳴った
涙も出ず、悲しい気持もおきず
先生の顔をバカのように見守っていた
しばらくして、「僕の思いすごしでなければ
あなたの方は、とにかくとして、すくなくとも徹男のがわに、
あなたに対する何か細かい気持が動いているような気がした事が一二度ある。
それで、特にあなたには、この事を
僕自身でおしらせしたいと思って、今日は来ました。
差し出た、よけいな事だったら、おわびをする。
あれの戦死については、今さら
かくべつの感慨はない
かねて覚悟していた事で、むしろ本望だったろう。
ただ、戦場に立って兵士として一弾もはなたぬうちに、たおれた事は本人も無念だったろうと思う
僕らとしても、それだけが、残念だ」
先生の言葉は私にはわからなかった
私の耳にはその時、徹男さんの声がきこえていた
「……美沙子さん、僕は死にたくない」
ツト寄って先生が私を抱いた
気が遠くなり、私はたおれかけたようだ
そうでなくても仕事の過労と栄養不良のために
弱りきっていた私は、立っておれなかった。
折からとどろきはじめた高射砲の音に
ジッと耳をすましながら
先生は私のからだをグッと抱きしめて
「ねえ、美沙子君、忘れまい
いつになっても忘れないようにしよう
何が徹男を殺したかを
何が、われわれから、あれを奪ったかを……」
徹男さんのような気がした
徹男さんの匂いがした
なまぐさい匂いの中で
私の乳と腹と腰が
先生の胸と腹と腰にピッタリと押しつけられて
ジットリと冷たい汗のようなものを流し
最初の男を感じていた
見も聞きもせぬ無感覚の中で
はじめて、男に全部をまかせていた
――女のからだの悲しさと恐ろしさ
開かねばならぬ時には開かないで
開いてはならぬ、開いてもしかたのない
自分で知らぬうちに開く花か
徹男さん戦死の報を受けたばかりの
あの空襲のさなかに、あさましい!
いや、いや、あさましいと思ったのはズッとあとだ
その時はただ先生の腕の中で
徹男さんに抱かれていた
ほかに言いようはない、そうだ、
先生の腕の中で、徹男さんに抱かれていた
おかしな、おかしな、おかしなこと!・・・  

海野十三

 

「流線間諜」
・・・大団円
牧山大佐が帆村探偵を自動車に乗せて案内した先は、帝都の郊外にある飛行場だった。車は真暗な場内の奥深く入って停ったが、そこには目の前に、夜光ペイントを塗った飛行機の胴体が鈍く光っていた。
「これは例の世界に誇る巨人爆撃機だな」と、帆村は早くもそれと察した。巨人爆撃機なら、時速は五百キロで、航続距離は二万キロ、爆薬は二十噸トン積めるという世界に誇るべき優秀機だった。一行はすでに乗りこんでいたものと見え、帆村たちが乗りこむと直ぐ爆音をあげて滑走をはじめ、まもなく機体はフワリと宙に浮きあがった。
巨人機はグングン上昇した。メートルもなにも見えないけれども、身体に感ずる圧力でそれと分った。その上昇がまだ続けられているときのことだったが、乗組の全員が頭にかけている受話器に警報が鳴りひびいた。
「国籍不明ノ快速飛行機ガ本機ヨリ一キロ後方ニ尾行びこうシテ来ル」
本機を尾行している国籍不明の飛行機とは一体何者が操あやつるものであるか。
「イマ尾行機内ヲ暗視機あんしきデ映写幕上ニ写シ出ス乗組員ニ注意!」と、続いて警報が聞えた。と、帆村の目の前に映写幕がスルスルと降りてくるが早いか、三人の男たちの顔がうつった。一人は操縦し、一人はラジオ器械を操り、一人はこっちの方を睨んでいた。その男の顔を見た帆村はハッとして、
「ああ『右足のない梟ふくろう』だ!」と叫んだ。
「うん、やっぱり彼奴あいつが尾行してきおった。彼奴が仲間と連絡しないうちに早く片づけて置こうじゃないか」と牧山大佐は送話器の中へ怒鳴りこんだ。
「怪力線発射用意」と号令が響く。「撃てッ!」映写幕に映っていた「右足のない梟」外二名の男たちは俄にわかに苦悶の表情を浮べた。とたんに横合から白煙が吹きつけると見る間に、焔ほのおがメラメラと燃えだした。そして三人の顔は太陽に解ける雪達磨ゆきだるまのようにトロトロと流れだした。それが最期だった。暗視機のレンズはチラチラと動きまわったが、そこには白煙の外、なにも空中には残っていなかった。
「敵ながら惜しい勇士じゃったが……これも已やむを得ん。わが軍の怪力線の煙と消えたので彼もすこしは本望じゃろう」
そういって牧山大佐の声が受話器を通じて感慨無量かんがいむりょうといった顔をしている帆村の耳に響いた。
それから巨人機は恐ろしいほどスピードを増して、時間にして五、六時間も飛行した、哨戒員しょうかいいんは暗視機で四方八方を睨み、敵機もし現れるならばと監視をゆるめなかった。機関砲の砲手は、砲架ほうかの前に緊張そのもののような顔をしていた。しかし其その後は何者も邪魔をするものが現われなかった。
「牧山大佐どの。もう行先だの目的だのを話して下すってもいいでしょう」と帆村は大佐の耳に口を寄せて云った。
「君の方がよく知ってるじゃないか」
「やはりベーリング海峡ですね」と帆村はズバリといった。「プリンス・オヴ・ウェールス岬とデジネフ岬のある中間でしょう」
「正まさにそのとおり!」と大佐は帆村の手を固く握った。
そういっているところへ、受話器に警報が入ってきた。
「先刻マデ刻々低下シツツアッタ気温ガ、逆ニ徐々ニ上昇ヲ始メタ。コノ気温異常上昇ハ既ニ地方気象統計ニヨル記録ヲ破壊シ、イマヤ驚異的新記録ヲ示シ、シカモ刻々自みずかラソノ記録ヲ破リツツアリ」
牧山大佐は意味あり気に帆村の肩をドンと叩いた。どうだ、これでも分らぬかという風に……。
「ベーリング海峡ガ、望遠暗視機ニ感受シ始メタ。映写幕ヲ注視!」
映写幕といわれて、その上を見ると、なるほどベーリング海峡らしいものがうつっている。両方から象の鼻のように出ているのはウェールス岬とデジネフ岬にちがいない。ああ、しかもその両者を連ねるものは、満々たる海水にも浮氷にもあらで、これは城壁のように聳そびえたった立派な大堰堤だいせきていだった。
「分った!」と帆村は叫んだ。「ベーリング海峡の海水を堰せきとめると、そこから南の地方が暖流のために、俄にわかに温くなるのだ。いままで寒帯だった地方が温帯に化けるのだ。そこで俄然がぜんその宏大な地方を根拠地として某国の活溌な軍事行動が疾風迅雷しっぷうじんらい的に起されようとしているのだ。うっかり油断をしていたが最後、悔くいて帰らぬ破滅が来るばかりだった。ああ戦慄せんりつすべき大計画! あのとき密書が自分の手に入らなかったら……」
帆村は慄然りつぜんとして、隣席の牧山大佐を顧かえりみた。しかし大佐の姿は、もうそこにはなかった。その代り受話器の中から儼然げんぜんたる号令が聞えてきた。
「総員、配置につけッ!」・・・  
「空襲葬送曲」
・・・真弓が立って、気の毒な父の手をとった。
「お祖父じいちゃん。先刻さっき、大きな自動車が二つも続いて通ったよ。そいでネ、綺麗な箱を、おっことして行ったんだけど、母アちゃんがいけないって、とっちゃったよ」
「おお、そうか、そうか」盲目の祖父は、三吉の声のする方へ手を伸ばした。「三坊、お祖父さんのお膝の上へおいで」
「お父さん、どうかしましたか」浩が怪訝けげんな眼を見張って尋ねた。
「おお、浩も、真弓も、聞いて貰いたいことがあるんだ。外ほかでもないが、いよいよアメリカの飛行機が、この浜の上へ沢山攻めてくるということだが、聞けば、監視に立つ人数が足りないと、町長さんの話じゃ。何でも、防空監視哨というのは、眼と耳とが確かならば勤つとまるそうじゃが、其処で考えたことがある。お前達も知っているとおり、わしは元、海軍工廠かいぐんこうしょうに勤めていたものの、不幸にもウィンチが切れ、灼鉄しゃくてつが高い所から、工場の床にドッと墜ち、それが火花のように飛んで来て眼に入り、退職しなけりゃならなくなって、それからこっち、お前達にも、ひどい苦労を嘗なめさせた。おれはいつも済まんと思っているよ」
「お父さん、愚痴ぐちなら、云わん方がいいですよ」浩が心配して口を挿はさんだ。
「いや、今日は愚痴ばかり並べるつもりじゃないのじゃ」老父ろうふは強く首を振って云った。「そんなわけで、わしは、海軍工廠をやめたが、お国のために尽つくそうという気持は、更に変らないのじゃ。変らないばかりじゃあ無い。先刻せんこくのように、折角大事の防空監視哨に立つ人が無いと聞くと、残念で仕方がないのじゃ。そこでわしは考えた。何とかして自分がお役に立つ方法はないものかと。わしは眼こそ見えないが、耳は人一倍に、よく聞こえる。盲目になってから、特によく聞こえるような気持がするのじゃ。だがいくら耳が聞こえるからといって、盲目ではお役に立たない。そこでわしは、相談をするのじゃが、殊ことに真弓に考えて貰いたいと思うのじゃが、わしは孫の三吉を連れて監視哨の物見台へ上ろうと思うのだよ」
「ああ、お父さん、そんなこと、いけないわ」
「なあに、わしのことは、心配いらぬよ。こんな身体でお役に立てば死んでも本望ほんもうだ。ただ三吉を連れて行くのは、可哀想でもあるけれど、あれは案外平気で、行って呉れるだろうと思う」
「そうだよ。お祖父じいちゃんとなら、どこへでも連れてって貰うよ」無心の三吉が、嬉しそうな声をあげた。
「三吉は、まだ七つだけれど、恐ろしく目のよく利く奴さ。三吉の目と、わしの耳とを一つにすると、一人前いちにんまえの若者よりも、もっといいお役に立つかと思う位だよ」
「三吉は、小さいときから、父親のない不幸な子だ。それを又ここで苦しめるのは、伯父として忍びないです」
「ああ、兄さんも、お父さんも、ありがとう。どっちも、三吉の身の上を、それぞれ思っていて下さるのです。あたしは決心しました。三吉も、お祖父さんと行きたいと云っている位だから、あたしは母親として、それを許しますわ。今は、日本の国の、一つあっても二つあるとは考えられない非常時です。この磯崎では、一人の三吉を不憫ふびんがっていますけれど、あすこから電話線を伝つたって行ったもう一つの端の東京には、三吉みたいな可愛いい子供さんが何十万人と居て、同じようにアメリカの爆弾の下に怯おびえさせられようとしているんです。そのお子さん達の親たちは、お父さんも、あたしのような母親も、どんなにかせめて子供達だけにでも、空襲の恐怖から救ってやりたいと考えていらっしゃるか知れないんです。あたしはそれを思うと、その大勢の同胞のために、喜んで三吉を、防空監視哨の櫓やぐらの上に送りたいと思います。いいでしょう、兄さん」
「それは立派な覚悟だ」浩は熱い眼頭めがしらを、拳こぶしで拭ぬぐいながら返事をした。「建国二千六百年の日本が滅亡するか、それとも生きるかという重大の時機だ。私はお前の覚悟に感心をした。それと共に、年老いたお父さんの御決心にも頭が下るのを覚える。では、お父さん、三ちゃん、行って下さいますか」
「よく判ってくれて、こんなに嬉しいことは無い」老父も流石さすがに、感極かんきわまって泣いていた。
「なア、三坊、お祖父さんと一緒に、日本の敵のやってくるのを張番はりばんしてやろうな」
「ウン、あの磯崎神社いそざきじんじゃの傍わきの櫓やぐらなら、さっきよく見てきたよ。お祖父ちゃんと一緒に昇れるのなら、僕、嬉しいな。アメリカの飛行機なんか、直ぐ見付けちゃうよ。ねえ、お祖父じいさん」
「おお、そうだ、そうだ」
三吉の無邪気な笑いに、一家は喜んだり、泣いたりした。・・・  
「浮かぶ飛行島」
・・・不思議な看護人
話は、すこし前にもどる。
杉田二等水兵が自殺を決心して、手錠をはめられたまま飛行島の甲板から海中にとびこもうと走るうち、うしろからスミス中尉がピストルを撃ったことは、みなさん御存じのとおりである。
杉田二等水兵の体はもんどりうって海中へ墜ちてゆくうち、不意に下の甲板から、その体をうけとめた不思議な中国人のペンキ屋さんがあったことも、よく憶えていられるであろう。
杉田二等水兵は、あれから一たいどうなったのであろうか。
なぜその中国人のペンキ工は、命がけの冒険までして、杉田二等水兵の体をうけとめたのであろうか。
もともとそのペンキ工は、怪しい奴であった。飛行島建設団長のリット少将が起き伏ししている「鋼鉄の宮殿」の塔の上で、いつまでも同じところばかり塗っていた。そしてスミス中尉が持っている秘密電報の文面をそっと読んで、あとは知らぬ顔をしていた。まったく変なペンキ工だった。だがその正体のいよいよわかる時が来た。
杉田二等水兵は、何分の間か、それとも何十分にもなるか、とにかく相当の時間夢うつつの状態の中をさまようた後、ふと気がついた。
「うーん」
彼はうなりながら、自分の声にびっくりした。気がつくと、全身の痛みを激しく感じ出した。
彼の頭の中には、ヨコハマ・ジャックの憎々しい形相や、一癖も二癖もあるようなリット少将のぶくぶくたるんだ顔などが浮かんだ。何くそと思って、立ち上った――つもりであったが、
「しずかに、しずかに」と制する低い人の声に眼をあいてみれば、自分は見たこともない薄暗い室の隅に寝ているのであった。
誰かしらぬが二本の手が、杉田の肩をやわらかく下におさえつけているではないか。
低い声は、杉田の頭の上で二度三度とくりかえされた。
彼はいわれるままに静かに手足を伸ばした。
一たい何人であろう。
「どうもすまんです。いつの間に私はどうしてこんなところに来たのですか。教えてください」
すると低い声は軽く笑って、
「そんなことは後でいい。また出血をすると困るから、なにも考えないで、もう暫くじっとしていたまえ」とやさしくいった。
杉田はぼんやりした頭の中で、ふとその声音に聞耳をたてた。それはたしかに、どこかで聞きおぼえのある声だった。しかも懐かしい日本語! あのような声で話した人は……?
「だ、誰です、あなたは……」
「しずかにしていなきゃいけないというのに。お前さんの言葉が誰かの耳に入ると、そのときはもうどうにも助りっこないぜ」
「あっ! そういう声は――ああ川上機関大尉だ。か、川上……」
杉田はわめいた。そして自分の肩をおさえている手をふりはらって、がばと起きあがった。と同時に、彼の枕許にうずくまっていたやさしい声の主と、ぱったり顔を合わした。それは外ならぬ怪しい中国人のペンキ工の姿であった。
「おおあなたが」
杉田はそう叫ぶと、傷の痛みも忘れて、その胸にしっかり抱きついた。
「おお杉田。お前はよくやって来たな」
まぎれもない川上機関大尉の声だった。
「す、杉田は、う、う、嬉しいです。も、もう死んでも、ほ、本望だっ」
あとは涙に曇って聞きとれない。
「な、泣くな杉田――。お前が来てくれて、俺も嬉しいぞ」
中国人のペンキ工に変装した川上機関大尉と半裸の杉田二等水兵とは、薄暗い室の隅にしっかりと抱きあったまま、はりさけそうな胸をおさえてむせび泣いた。・・・
 
太宰治

 

「パンドラの匣」
・・・けれども君、僕がこんな甘ったれた古くさい薄のろの悩みを続けているうちにも、世界の風車はクルクルと眼にとまらぬ早さでまわっていたのだ。欧洲おうしゅうに於いてはナチスの全滅、東洋に於いては比島決戦についで沖縄おきなわ決戦、米機の日本内地爆撃、僕には兵隊の作戦の事などほとんど何もわからぬが、しかし、僕には若い敏感なアンテナがある。このアンテナは信頼できる。一国の憂鬱ゆううつ、危機、すぐにこのアンテナは、ぴりりと感ずる。理窟りくつは無いんだ。勘だけなんだ。ことしの初夏の頃から、僕のこの若いアンテナは、嘗かつてなかったほどの大きな海嘯かいしょうの音を感知し、震えた。けれども僕には何の策も無い。ただ、あわてるばかりだ。僕は滅茶苦茶めちゃくちゃに畑の仕事に精出した。暑い日射ひざしの下で、うんうん唸うなりながら重い鍬くわを振り廻して畑の土を掘りかえし、そうして甘藷かんしょの蔓を植えつけるのである。なんだって毎日、あんなに烈はげしく畑の仕事を続けたのか、僕には今もってよくわからない。自分のやくざなからだが、うらめしくて、思い切りこっぴどく痛めつけてやろうという、少しやけくそに似た気持もあったようで、死ね! 死んでしまえ! 死ね! 死んでしまえ! と鍬を打ちおろす度毎たびごとに低く呻うめくように言い続けていた日もあった。僕は甘藷の蔓を六百本植えた。
「畑の仕事も、もういい加減によすんだね。お前のからだには少し無理だよ。」と夕食の時にお父さんに言われて、それから三日目の深夜、夢うつつの裡うちに、こんこんと咳せき込んで、そのうちに、ごろごろと、何か、胸の中で鳴るものがある。ああ、いけない、とすぐに気附きづいて、はっきり眼が覚めた。喀血の前に、胸がごろごろ鳴るという事を僕は、或る本で読んで知っていたのだ。腹這いになった途端に、ぐっと来た。口の中に一ぱい、生臭い匂においのものを含みながら、僕は便所へ小走りに走った。やはり血だった。便所にながいこと立っていたが、それ以上は血が出なかった。僕は忍び足で台所へ行き、塩水でうがいをして、それから顔も手も洗って寝床へ帰った。咳せきの出ないように息をつめるようにして静かに寝ていて、僕は不思議なくらい平気だった。こんな夜を、僕はずっと前から待っていたのだというような気さえした。本望、という言葉さえ思い浮んだ。明日もまた、黙って畑の仕事を続けよう。仕方がないのである。他ほかに生きがいの無い人間なのである。ぶんを知らなければいけない。ああ、本当に僕なんか一日も早く死んでしまったほうがいいのだ。いまのうちに、うんと自分のからだをこき使って、そうしてわずかでも食料の増産に役立ち、あとはもうこの世からおさらばして、お国の負担を軽くしてあげたほうがよい。それが僕のような、やくざな病人のせめてもの御奉公の道だ。ああ、早く死にたい。
そうして翌あくる朝は、いつもより一時間以上も早く起きて、さっさと蒲団ふとんを畳んで、ごはんも食べずに畑に出てしまった。そうして滅茶苦茶に畑仕事をした。今から思うと、まるで地獄の夢のようだ。僕は勿論、この病気の事は死ぬまで誰にも告白せずにいるつもりだった。誰にも知らせずに、こっそりぐんぐん病気を悪化させてしまうつもりであった。こんな気持をこそ、堕落思想というのだろうね。僕はその夜、お勝手に忍び込んで、配給の焼酎しょうちゅうをお茶碗ちゃわんで一ぱい飲みほしちゃったよ。そうして、深夜、僕はまた喀血をした。ふと眼覚めて、二つ三つ軽く咳をしたら、ぐっと来た。こんどは便所まで走って行くひまも無かった。硝子戸ガラスどをあけて、はだしで庭へ飛び降りて吐いた。ぐいぐいと喉のどからいくらでも込み上げて来て、眼からも耳からも血が噴き出ているような感じがした。コップに二杯くらいも吐いたろうか、血がとまった。僕は血で汚れた土を棒切れで掘り返して、わからないようにした、とたんに空襲警報である。思えば、あれが日本の、いや世界の最後の夜間空襲だったのだ。朦朧もうろうとした気持で、防空壕ぼうくうごうから這い出たら、あの八月十五日の朝が白々と明けていた。・・・
・・・でも僕は、その日もやっぱり畑に出たのだ。それを聞いては、流石さすがに君も苦笑するだろう。しかし君、僕にとっては笑い事じゃ無かった。本当にもうそれより以外に僕の執るべき態度は無いような気がしていたのだ。どうにも他に仕様が無かった。さんざ思い迷った揚句あげくの果に、お百姓として死んで行こうと覚悟をきめた筈ではないか。自分の手で耕した畑に、お百姓の姿で倒れて死ぬのは本望だ。えい、何でもかまわぬ早く死にたい。目まいと、悪寒おかんと、ねっとりした冷い汗とで苦しいのを通り越してもう気が遠くなりそうで、豆畑の茂みの中に仰向に寝ころんだ時、お母さんが呼びに来た。早く手と足を洗ってお父さんの居間にいらっしゃいという。いつも微笑ほほえみながらものを言うお母さんは、別人のように厳粛な顔つきをしていた。
お父さんの居間のラジオの前に坐すわらされて、そうして、正午、僕は天来の御声に泣いて、涙が頬を洗い流れ、不思議な光がからだに射し込み、まるで違う世界に足を踏みいれたような、或あるいは何だかゆらゆら大きい船にでも乗せられたような感じで、ふと気がついてみるともう、昔の僕ではなかった。
まさか僕は、死生一如しせいいちにょの悟りをひらいたなどと自惚うぬぼれてはいないが、しかし、死ぬも生きるも同じ様なものじゃないか。どっちにしたって同じ様につらいんだ。無理に死をいそぐ人には気取屋が多い。僕のこれまでの苦しさも、自分のおていさいを飾ろうとする苦労にすぎなかった。古い気取りはよそうじゃないか。君の手紙の中に「悲痛な決意」などという言葉があったけれども、悲痛なんてのは今の僕には、何だか安芝居の色男役者の表情みたいに思われる。悲痛どころではあるまい。それはもう既に、ウソの表情だ。船は、するする岸壁から離れたのだ。そして船の出帆には、必ず何かしらの幽かな希望がある筈だ。僕はもう、しょげてはいない。胸の病気も気にしていない。君からあんな、同情の言葉に満ちた手紙をもらって、僕は実際まごついた。僕はいまは何も思わず、ただこの船に身をゆだねて行くつもりだ。僕はあの日、すぐにお母さんに打明けた。自分でも不思議なくらい平静な態度で打明けた。
「僕、ゆうべ喀血しました。その前の晩も、喀血しました。」
何の理由も無かった。急に命が惜しくなったというわけでも無い。ただ、きのう迄までの無理な気取りが消えただけだ。
お父さんは僕のためにこの「健康道場」を選んでくれた。ご承知のように、僕のお父さんは数学の教授だ。数字の計算は上手かも知れないが、お金のお勘定なんてのは一度もした事がないらしい。いつも貧乏なのだから、僕もぜいたくな療養生活など望んではいけない。この簡素な「健康道場」は、その点だけでも、まったく僕に似合っている。僕には、なんの不平も無い。僕は、六箇月で全快するそうだ。あれから一度も喀血しない。血痰けったんさえ出ない。病気の事なんか忘れてしまった。この「病気を忘れる」という事が、全快の早道だと、ここの場長さんが言っていた。少し変ったところのある人だ。何せ、結核療養の病院に、健康道場などという名前をつけて、戦争中の食料不足や薬品不足に対処して、特殊な闘病法を発明し、たくさんの入院患者を激励して来た人なのだから。とにかく変った病院だよ。とても面白い事ばかり、山ほどあるんだけど、まあこの次にゆっくりお話しましょう。
僕の事に就いては、本当に何もご心配なさらぬように。では、そちらもお大事に。・・・  
「花火」
・・・勝治は父に似ず、からだも大きく、容貌も鈍重な感じで、そうしてやたらに怒りっぽく、芸術家の天分とでもいうようなものは、それこそ爪の垢あかほども無く、幼い頃から、ひどく犬が好きで、中学校の頃には、闘犬を二匹も養っていた事があった。強い犬が好きだった。犬に飽あきて来たら、こんどは自分で拳闘に凝こり出した。中学で二度も落第して、やっと卒業した春に、父と乱暴な衝突をした。父はそれまで、勝治の事に就ついては、ほとんど放任しているように見えた。母だけが、勝治の将来に就いて気をもんでいるように見えた。けれども、こんど、勝治の卒業を機として、父が勝治にどんな生活方針を望んでいたのか、その全部が露呈せられた。まあ、普通の暮しである。けれども、少し頑固すぎたようでもある。医者になれ、というのである。そうして、その他のものは絶対にいけない。医者に限る。最も容易に入学できる医者の学校を選んで、その学校へ、二度でも三度でも、入学できるまで受験を続けよ、それが勝治の最善の路みちだ、理由は言わぬが、あとになって必ず思い当る事がある、と母を通じて勝治に宣告した。これに対して勝治の希望は、あまりにも、かけ離れていた。
勝治は、チベットへ行きたかったのだ。なぜ、そのような冒険を思いついたか、或いは少年航空雑誌で何か読んで強烈な感激を味ったのか、はっきりしないが、とにかく、チベットへ行くのだという希望だけは牢固ろうことして抜くべからざるものがあった。両者の意嚮いこうの間には、あまりにもひどい懸隔けんかくがあるので、母は狼狽ろうばいした。チベットは、いかになんでも唐突すぎる。母はまず勝治に、その無思慮な希望を放棄してくれるように歎願した。頑として聞かない。チベットへ行くのは僕の年来の理想であって、中学時代に学業よりも主として身体の鍛錬たんれんに努めて来たのも実はこのチベット行のためにそなえていたのだ、人間は自分の最高と信じた路に雄飛しなければ、生きていても屍しかばね同然である、お母さん、人間はいつか必ず死ぬものです、自分の好きな路に進んで、努力してそうして中途でたおれたとて、僕は本望です、と大きい男がからだを震わせ、熱い涙を流して言い張る有様には、さすがに少年の純粋な一すじの情熱も感じられて、可憐でさえあった。母は当惑するばかりである。いまはもう、いっそ、母のほうで、そのチベットとやらの十万億土へ行ってしまいたい気持である。どのように言ってみても、勝治は初志をひるがえさず、ひるがえすどころか、いよいよ自己の悲壮の決意を固めるばかりである。母は窮した。まっくらな気持で、父に報告した。けれども流石さすがに、チベットとは言い出し兼ねた。満洲へ行きたいそうでございますが、と父に告げた。父は表情を変えずに、少し考えた。答は、実に案外であった。
「行ったらいいだろう。」
そう言ってパレットを持ち直し、
「満洲にも医学校はある。」
これでは問題が、更にややこしくなったばかりで、なんにもならない。母は今更、チベットとは言い直しかねた。そのまま引きさがって、勝治に向い、チベットは諦めて、せめて満洲の医学校、くらいのところで堪忍かんにんしてくれぬか、といまは必死の説服に努めてみたが、勝治は風馬牛ふうばぎゅうである。ふんと笑って、満洲なら、クラスの相馬君も、それから辰ちゃんだって行くと言ってた、満洲なんて、あんなヘナチョコどもが行くのにちょうどよい所だ、神秘性が無いじゃないか、僕はなんでもチベットへ行くのだ、日本で最初の開拓者になるのだ、羊を一万頭も飼って、それから、などと幼い空想をとりとめもなく言い続ける。母は泣いた。
とうとう、父の耳にはいった。父は薄笑いして、勝治の目前で静かに言い渡した。
「低能だ。」・・・
 
菊池寛

 

「藤十郎の恋」
・・・千寿 そんな噂は、わしも人伝ひとづてには聞いたがのう。藤様は、口をつぐんで何もいわれぬのでのう。が、あの宗清で顔つなぎの酒盛があった晩のことじゃが、藤様は狂言の工夫に屈託して、酒盛の席を中座され、そなたたちは、追々酔いつぶれて、別間へ退かれた後のことじゃのう。藤様が、蒼い顔して、息を切らせながら、酒宴の席へ帰って来られると、立てつづけに、大杯で三、四杯呷あおってからいわれるのに、「千寿どの安堵めされい。狂言の工夫が付き申した」と、いわれたが、平生の藤様とは思われぬほどの恐い顔付きじゃったが、あの晩に……。(と千寿が首を傾けているとき、下手の入口から宗清のお梶が、ひそかに入って来るのに気がついて、口をつぐむ)
弥五七 (役者の道化振りを発揮して)これは、これはお梶どの。ようおいでなされました。ちょっとお尋ねしまする。藤十郎どのが、狂言の稽古の相手はあなた様ではござりませぬか。
お梶 (緊張しながら、しかもつつましやかに)なんでござりまする。藪から棒のお尋ねでござりまするのう。
弥五七 (やはり道化た身振りで)藤十郎どのが、今度の狂言の稽古に、人の女房に偽りの恋をしかけ、靡なびくと見て、逃げたとのことでござりまする。もしやお心当りがござりませぬか。
お梶 (つつましやかに、態度をみださず)偽りにもせよ、藤十郎様の恋の相手に、一度でもなれば、女子に生まれた本望でござりますわい。
弥五七 よくぞ仰せられた。ははは。
千寿 (やや取りなすように)ほんに、日頃から貞女の噂高いそなたでなければ、さしずめ疑いがかかるところでござりますのう。楽屋へ御用でござりまするか。さあお通りなさりませ。
お梶 あのう、嵐三十郎様に、お客様からの言伝ことづてを。
千寿 さようでござりまするか。さあ、お通りなさりませ。
(お梶、会釈して通り過ぎる。役者の部屋の方へ行かんとして、部屋を立ち出でたる藤十郎と顔を合わす。二人とも、瞬間的に立ち竦すくむ。お梶ちょっと目礼して行き過ぎる。藤十郎、しばらく後姿を見詰むる)
四郎五郎 (藤十郎の立ち出でたるを見て)今も、そなた様の噂をしてじゃ。今度の狂言について、楽屋の内外に広がった噂を、ご存じか。
藤十郎 (座元らしい威厳を失わないで)一向聞きませぬな。
弥五七 噂の本尊のそなた様が知らぬとは、面妖な。
千寿 藤様にはいわぬがよいわいな。
弥五七 いわいでも、いつかは知れることじゃ。藤十郎様、お聞きなさりませ。今度の狂言の工夫にそなた様がある人妻に恋をしかけたとの噂じゃ。
藤十郎 (快活に笑って)埒らちもない穿鑿せんさくじゃ。いつぞやも、わしが嵐三十郎の手負武者を介抱すると、あまり手際がよいというて、やれ藤十郎は外科の心得があるなどとやかましい沙汰じゃ。心得がのうても、心得のあるように真実に見せるのが、役者の芸じゃ。油売りになれば、油売った心得がのうても、油売りになって見せるのは芸じゃ。密夫の心得がのうて、密夫の狂言ができねば、盗人の心得がのうては、盗人の狂言はできぬ訳合いじゃ。公卿衆になった心得がのうては、舞台の上で公卿衆にはなれぬ訳合いじゃ。埒もない沙汰じゃ。口性くちさがない京童きょうわらべの埒もない沙汰じゃ。そのような沙汰が伝わっては、藤十郎の身近にいる人様のお内儀に、どのような迷惑をかけようとも計られぬわ。かまえて、打ち消して下さりませ。・・・  
「仇討禁止令」
・・・新一郎は、名乗って討たれてやろうかと思った。しかし、新一郎は頼母を殺したことを、国家のための止むを得ない殺人だと思っていただけに、名乗って討たれてやるほど、自責を感じていなかった。その上、最近になって、左院副議長江藤新平の知遇を得て、司法少輔に抜擢せられる内約があったし、そうなれば、新日本の民法刑法などの改革に、一働きしたい野心もあった。
当分万之助の様子を見ながら、万之助に復讐の志を変えさせることが、皆のためにもなり、万之助のためにもなるのではないかと思っていた。
そのうちに、明治六年が来た。
正月の年賀に、万之助は水道橋の旧藩主松平邸に行った。彼は、そこで山田甚之助に会ったが、山田は軍刀の柄を握って、万之助に対し少しの油断も見せなかった。万之助は、懐中していた短刀の柄に幾度も手をかけたが、吉川も同時に討ちたいという気持と、相手が着ている絢爛たる近衛士官の制服の威力に圧倒されて、とうとう手が出なかった。
その夜、万之助は新一郎の前で、泣きながら口惜しがった。
それから、間もない明治六年二月に、太政官布告第三十七号として、復讐禁止令が発布された。
布告は、次の通りの文章であった。
人ヲ殺スハ、国家ノ大禁ニシテ、人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ、政府ノ公権ニ候処、古来ヨリ父兄ノ為ニ、讐アダヲ復スルヲ以テ、子弟ノ義務トナスノ古習アリ。右ハ至情不レ得レ止ニ出ルト雖モ、畢竟私憤ヲ以テ、大禁ヲ破リ、私義ヲ以テ、公権ヲ犯ス者ニシテ、固モトヨリ擅殺センサツノ罪ヲ免レズ。加之シカノミナラズ、甚シキニ至リテハ、其事ノ故誤ヲ問ハズ、其ノ理ノ当否ヲ顧ミズ、復讐ノ名義ヲ挟ミ、濫リニ相構害スルノ弊往往有レ之、甚ダ以テ相不レ済事ニ候。依レ之復讐厳禁仰出サレ侯。今後不幸至親ヲ害セラルル者有レ之ニ於テハ、事実ヲ詳ツマビラカニシ、速ニ其筋へ訴へ出ヅ可ク侯。若シ其儀無ク、旧習ニ泥ナヅミ擅殺スルニ於テハ相当ノ罪科ニ処ス可ク候条、心得違ヒ之レ無キ様致スベキ事。
新一郎は、その布告の写を、役所から携え帰って、万之助に見せた。
万之助は、それを見ると、男泣きに泣いた。
万之助が泣き止むのを待って、新一郎は静かにいった。
「かような御布告が出た以上、親の敵を討っても、謀殺であることに変りはない。軽くても無期徒刑、重ければ斬罪じゃ」
が、万之助は、毅然としていった。
「復讐の志を立ててからは、一命は亡きものと心得ております。曽我の五郎十郎も、復讐と同時に命を捨てました。兄弟としては、必ず本望であったでござりましょう。たとい朝廷から御禁令があっても、私はやります。きっとやります。命が惜しいのは敵を討つまでで、敵を討ってしまえば、命などはちっとも惜しくはございません」と、いった。
新一郎が、突然喀血したのは、それから間もなくであった。蒲柳ほりゅうの質である彼は、いつの間にか肺を侵されていたのである。
お八重の驚きと悲しみ、それに続く献身的な看護は、新一郎の心を決して明るくはしなかった。新一郎の病気は、だんだん悪くなっていった。その年の七月頃には、不治であることが宣告された。
新一郎が病床で割腹自殺したのは、八月一日であった。・・・  
「賤ヶ岳合戦」
・・・此時の合戦に、両加藤、糟屋、福島、片桐、平野、脇坂七人の働きは抜群であったので、秀吉賞して各々に感状を授け、数百石宛ずつの知行であったのを、同列に三千石に昇らしめた。これが有名な賤ヶ岳七本槍である。石川兵助、伊木半七、桜井左吉三人の働きも、七本槍に劣らなかったので、三振の太刀と称して、重賞あったと伝わって居る。
さて北軍の総大将勝家は、今市いまいちの北狐塚に陣して居たのであるが、盛政の敗軍伝わるや、陣中動揺して、何時の間にか密かに落ちゆく軍勢多く、僅か二千足らずになった。勝家嘆じて、盛政、血気に逸はやって我指揮に随したがわず、この結果となったのは口惜しいが、今は後悔しても甲斐なきこと、華かな一戦を遂げたる後、切腹しよう、と覚悟した。毛受めんじゅ庄助進み出て「今の世に名将と称せられる君が、この山間に討死あるは末代までの恥である。よろしく北の庄に入って、心静かに腹を召し給え」と勧め、自らは勝家の馬印をもって止り防がんことを乞うた。勝家、庄助の忠諫を容れ、金の御幣の馬印を授けて、馬を北の庄へと向けた。庄助、兄茂左衛門と共に三百騎、大谷村の塚谷まで引退いて寄せ来る敵と奮戦して、筒井の家来、島左近に討たれた。
勝家、其間に北の庄指して落ちたのであるが、前田利家の府中城下にさしかかった時は、従う者僅かに八騎、歩卒三四十人に過ぎない。利家招じ入れると勝家、年来の誼よしみを感謝して落涙に及んだ。勝家、利家に「貴殿は秀吉と予かねて懇ねんごろであるから、今後は秀吉に従い、幼君守立ての為に力を致される様に」と云った。利家は、朝来、食もとらない勝家の為、湯漬を出し、酒を勧めて慰めた。夕暮になって、乗換の新馬を乞い、城下を立ち去ったが、嘗つての瓶破かめわり柴田、鬼柴田の後姿は、悄然しょうぜんたるものがあったであろう。
四月二十三日、越前北の庄の城は、既に秀吉の勢にひしひしと囲まれて居た。勝家は城諸共もろとも消え果てる覚悟をして居るので、城内を広間より書院に至るまで飾り、最期の酒宴を開いて居た。勝家の妻はお市の方と云って、信長の妹である。始め、小谷おだにの城主浅井長政に嫁し、二男三女を挙げたが、後、織田対朝倉浅井の争いとなり、姉川に一敗した長政が、小谷城の露と消えた時、諭さとされて、兄信長の手に引取られた事がある。清洲会議頃まで岐阜に在って、三女と共に寂しく暮して居たが、信孝勝家と結ばんが為、美人の誉高い伯母お市の方を、勝家に再嫁せしめたのである。勝家の許に来って一年経たず、再び落城の憂目を見る事になった。勝家、その三女と共に秀吉の許に行く様に勧めるが、今更生長える望がどうしてあろう、一緒に相果てん事こそ本望であると涙を流して聞き容れない。宵からの酒宴が深更に及んだが、折柄、時鳥ほととぎすの鳴くのをお市の方聞いて、
   さらぬだに打寝る程も夏の夜の夢路をさそふ郭公ほととぎすかな
と詠ずれば、勝家もまた、
   夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山郭公
二十四日の暁方あけがた、火を城に放つと共に勝家始め男女三十九人、一堂に自害して、煙の中に亡び果てた。勝家年五十四である。お市の方は、生涯の中うち二度落城の悲惨事に会った不幸な戦国女性である。秀吉もかねて、お市の方に執心を持っていたので、秀吉と勝家との争いにはこうした恋の恨みも少しはあったのであろう、という説もある。お市の方の三女は、無事秀吉の手に届けられたが、後に、長女は秀吉の北の方淀君となり、次は京極宰相高次の室に、末のは将軍秀忠の夫人となった。戦国の世の女性の運命も亦不思議なものである。
盛政は勝家の子権六と共に捕われ、北の庄落城前、縄付きの姿で、城外から勝家に対面させられている。権六は佐和山に、盛政(年三十)は六条河原に、各々斬られた。信孝(年二十六)も木曾川畔に自決して居る。清洲会議の外交戦に勝った秀吉は茲ここに全く実力の上で、天下を取ったわけである。・・・  
 
戸坂潤

 

「科学論」
・・・科学というものが一纏めにして、一体どういうものであるかを、この書物は分析するのである。そこで、科学自身の脈絡を、なるべく生きたまま取り出して見たいと私は考えた。だがその点あまり成功したとは考えられない。もしこの小さな書物に特色というべきものがあるとすれば、それは、自然科学と社会科学の二つの科学に渡って、その同一と差別と更に又連関とに心を配ったという点だろう。
体裁にややテキスト風の処もあるが、併しあくまで、科学そのものに就いての評論という観点を守ろうと心がけた。この錯雑紛糾を極めた生活と思想との世界に於て、私は「科学」の性能に、限りない期待を有つからである。
今から丁度七年前、私は『科学方法論』(岩波書店)を書いた。今度の出版は、この旧著が立っていた立脚点を相当の程度に改変すると共に、出来るだけその規模を拡大したものに他ならない。だが旧著の内に展開されたシステムと見解の或るものには、依然として利用すべきものがあったと思う。この『科学方法論』が併せ読まれるならば、著者の幸いである。――なお今度の書物の思想内容は、すでに之まで出版した私の諸著述や論文の中に、分散して見出されるものが大部分なので、読者が次の拙著も参考にして呉れるならば、本望である。――『イデオロギーの論理学』(鉄塔書院)、『イデオロギー概論』(理想社出版部)、『現代哲学講話』(白揚社)、『技術の哲学』(時潮社)、『日本イデオロギー論』(白揚社)。
結局に於て時間が不足であったため、論証を省いた処や杜撰な個処が少くない。他日訂正したいと考える。――なお参考書や文献は、機会々々に触れたと思うので、巻末には別に文献目録をつけなかった。そのため載せるべくして機会を得なかったものも多い。・・・  
「社会時評」
・・・検挙された或る校長は、皆が今迄習慣的にやって来たことで、大して悪いこととも思わなかったと述懐しているそうだが、案外これは、世間の偽善家達に対する頂門の一針になるかも知れない。小学校の校長さんだから先生だからと云って、何も超人間的な特別な人格者である理由はあるまい。そういう怪物に私の子供などの教育を任せるのだと、私は一寸考えざるを得ない。清廉とか金銭に恬淡だとかいう徳性は良いかも知れないが、師範学校の卒業生が皆清廉で恬淡な人格者でありそうだと仮定しているのは最も不真面目な迷信だろう。道徳はもう少し真面目に、上っ調子でなく、考えられなければならない。
本当に問題になるのは、校長が収賄したとかしないとかいう道徳問題ではなくて、学習書という一種の物質の存在の問題なのである。一体何のために、絶大な権威のある「国定」教科書の外に、そうした準教科書が必要なのかというと、どうも問題は、中等学校入学の問題にからんでいるらしい。男の場合で云えば、官立の高等学校や専門学校へ卒業生が沢山入学するのが良い中学校で、そういう中学校に余計入学させることの出来るのが、良い小学校となっているが、そういう良い小学校を造り出すために、わが学習書の存在理由があるわけで、人類の教育の一手引き受け人である小学校校長が、この学習書のために身を誤ったということは、或いは本望であるかも知れぬ。こういう「職責」のためならば、小学校の先生は学習書事件ばかりではなく、まだまだ色々の「不正」をやっているので、例えば秘密な補習教育とか準備教育とかによって、思いがけない莫大な収入を月々勘定に入れている先生は到る処にあるだろう。
労働者は仕事がないから怠けざるを得ないが、小学校の先生は中等学校の入学試験があるから「勤勉」であらざるを得ない。そして勤勉にすれば金が儲かるということは、立派な道徳なのである。
併し小学校校長問題は学習書問題を糸口としながら、次第に人事移動問題に移動して行くようである。校長は最も多く贈賄した部下の訓導を首席につけ、視学や市区町村会議員や府県会議員に贈賄する。(代議士は偉ら過ぎて効き目はないそうであるが。)或いは最も多く贈賄した者が校長になる。視学や議員それ自身が贈賄の所産で又収賄一般の主体だから、この贈賄は仲々有効だと云わねばならぬ。こうやって一旦校長になったが最後、例の学習書が待ち受けているという段取りである。
もし之が本当ならば、これこそ本当の賄賂問題になるわけだが、併し同時に之は決して校長先生だけの賄賂問題ではなくなる。最近東京市会疑獄事件の「醜市議」達に対する論告が行われているが、単にこうした疑獄が小学校の校長先生にまで及んで来た迄で、別に取り立てて騒ぐ程の珍らしい事件ではない。それは単に、小学校の校長の社会的地位が「向上」して、「有力者」の仲間入りをしたことに過ぎないのである。一頃のサラリーマンが支店長や課長の椅子を極めてやがて重役になったように、又官吏が地方長官から代議士になるように、又軍人は将官になると政治家になれるように、小学校の先生も校長となることによって、地方、地区の有力者に伍するのである。市区町村会や府県会の議員と同じに、地方的情実に基いた「有力者」で、中央の所謂名士ではないが、この地方的、地区的、有力者であることが、この種の議員と同格に、小学校校長の「腐敗」を招くのである。だが、小学校の先生だと云って、有力者に伍して悪いということはどこにもないだろう。・・・
 
国枝史郎

 

「剣侠」
・・・彼としては勝をゆずったのであるから、今後は厚遇されるであろう、そうして勝をゆずったのは、澄江が出現したからで、澄江のためにゆずったのである。だから今後はおそらく澄江も、自分に好意を持つだろうと、そんなように考えていたところ、事は全然反対となった。
そこで小人の退怨さかうらみ! そういう次第ならと悪心を亢ぶらせ、翌夜不意に庄右衛門を襲い、寝所でこれを切り斃し、悲鳴に驚いて出て来た澄江を、得たりとばかりに引っ抱え、これも物音に驚いて、出て来た主水をあしらいあしらい、戸外そとへ走り出て遁れようとした。
と、意外な助太刀が出た。
秋山要介や浪之助であった。
そこで澄江を手放したあげく、身を持て遁れ行方ゆくえ不明となった。
こうなって見れば主水としては、なすべき事は一つしかなかった。
敵討かたきうち!
そう、これだけであった。
父の葬式そうしきを出してしまうと、すぐに敵討のお許しを乞うた。
「よく仕つかまつれ」と闊達豪放の主君、榊原式部少輔さかきばらしきぶしょうゆう様は早速に許し、浪人中も特別を以て、庄右衛門従来の知行高を、主水に取らせるという有難き御諚、首尾よく本望遂げた上は、家督相続知行安堵という添言葉さえ賜った。
「お兄様妾わたくしも是非にお供を」
いよいよ旅へ出るという間際になって、こう澄江が云い出した。
「お父上が陣十郎に討たれました。その原因の一半は、妾にあるのでござりますから」
こう澄江は主張するのであった。
「女を連れての敵討の旅、それはなるまい」と主水は拒んだ。
「主君への聞こえ、藩中の思惑、柔弱らしくて心苦しい」
こう云って主水は承知しなかった。
「宮城野みやぎの、しのぶは女ばかり、姉妹きょうだい二人で父の敵を、討ち取ったではござりませぬか」・・・
・・・「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。・・・
・・・抱き起こしてくれたその武士こそ、恋しい恋しい主水であった。
「主水様ア――ッ」と恥も見得もなく、群集に揉まれ揉まれながら、澄江は縋りつき抱きしめた。
「澄江! 澄江! おおおお澄江!」
思わず流れる涙であった。
涙を流し締め返し、主水はほとんど夢中の態で、
「澄江であったか、おおおお澄江で! ……昼間鍵屋の二階の欄で。……それにいたしてもよくぞ無事で! ……別れて、知らず、生死を知らず、案じていたに、よくぞ無事で……」
しかしその時群集の叫喚、巷の雑音を貫いて
「やあ汝おのれは鴫澤主水しぎさわもんど! この陣十郎を見忘れはしまい! ……本来は汝に討たれる身! 逃げ隠れいたすこの身なれど、今はあべこべに汝を探して、返り討ちいたさんと心掛け居るわ! ……見付けて本望逃げるな主水!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
「ナニ陣十郎? 陣十郎とな?」
かかる場合にも鴫澤主水、親の敵かたきの陣十郎とあっては、おろそかにならずそれどころか、討たでは置けない不倶戴天の敵!
(どこに?)と声の来た方角を見た。
馬や群集に駈けへだてられ、十数間あなたに離れてはいたが、まさしく陣十郎の姿が見えた。
が、おお何とその姿、凄く、すさまじく、鬼気陰々、悪鬼さながらであることか! ザンバラ髪! 血にまみれた全身!
ゾッとはしたが何の主水、驚こうぞ、恐れようぞ、
「妹よ、澄江よ、天の賜物、敵陣十郎を見出したるぞ! 討って父上の修羅の妄執、いで晴そうぞ続け続け――ッ」と刀引き抜き群集を分け、無二無三に走り寄った。・・・
・・・「まあ可いい、ゆっくり養生するさ」主水はそう云って気の毒そうに見た。
「快癒してから立ち合おう」
「それよりどうだな」と陣十郎は云った。
「こういう俺を討って取らぬか」
「そういうお前を討つ程なら、あの時とうに討って居るよ」
「あの時討てばよかったものを」
「死人を切ると同じだったからな」
「それでも討てば敵討かたきうちにはなった」
「誉にならぬ敵討か」
「ナーニ見事に立ち合いまして、討って取りましたと云ったところで、誰一人疑う者はなく、誉ある復讐ということになり、立身出世疑いなしじゃ」
「心が許さぬよ、俺の良心が」
「なるほどな、それはそうだろう。……そういう良心的のお前だからな」
「お前という人間も一緒に住んで見ると、意外に良心的の人間なので、俺は少し驚いている」
「ナーニ俺は悪人だよ」
「悪人には相違ないさ。が、悪人の心の底に、一点強い善心がある。――とそんなように思われるのさ」
「そうかなア、そうかもしれぬ。いやそうお前に思われるなら、俺は実に本望なのだ。……俺は一つだけ可いいことをしたよ。……いずれゆっくり話すつもりだが」
「話したらよかろう、どんなことだ?」
「いやまだまだ話されぬ。もう少しお前の気心を知り、そうして俺の性質を、もう少しお前に知って貰ってからそうだ知って貰ってからでないと、話しても信じて貰われまいよ」
「実はな」と主水も真面目の声で、
「実はな俺もお前に対し、その中うち是非とも聞いて貰いたいこと、話したいことがあるのだよ。が、こいつも俺という人間を、もっとお前に知って貰ってからでないと……」
「ふうん、変だな、似たような話だ。……が、俺はお前という人間を、かつて疑ったことはないよ。俺のような人間とはまるで違う。お世辞ではない、立派な人間だ」
「お前だってそうだ、可いいところがある」
二人はしばらく黙っていた。
木曽街道の旅籠の部屋だ、襖も古び障子も古び、畳も古び、天井も古び、諸所に雨漏りの跡などがあって、暗い行燈でそれらの物象が、陰惨とした姿に見えていた。
乱れた髷、蒼白の顔、――陣十郎のそういう顔が、夜具の襟から抽ぬきんでている。・・・
・・・本懐遂ぐ
で、燈火が雨戸の間から、ほのかながらも庭先へ射した。
「やア、汝は水品みずしな陣十郎オーッ」
「誰だ? やア鴫澤主水しぎさわもんどかアーッ」
縁に佇んでいた者は、鴫澤主水その人であった。
庭へ射し出た燈火の光で、陣十郎を認めた鴫澤主水は、叫ぶと同時に刀をひっ掴み、庭へ躍り出ると積る怨み、ほとんど夢中で斬り込んだ。
「わっ」陣十郎は地に仆れた。
片手にお妻を抱えていた。
しかも片足は不具であった。
満足な方の右の足の、股の辺りを斬られたのである。
とその瞬間、澄江が刀を抜きそばめ、縁から庭へ飛び下りた。
「澄江殿かアーッ」と死期迫った声で、陣十郎は呼ばわった。
「其方そなたに懸想したばかりに……が今では二人一緒に、木曽街道の旅はしたが、躰に操に傷付けなかったことを、陣十郎の本性に、善心のあった証拠として心はればれ存じ居る……いざ主水拙者を討て! その前にこの女を!」
お妻を放すと放した手で、刀引抜きお妻の肩を、胸にかけて割りつけた。
「ヒ――ッ」と仆れてノタウツお妻! でも断末魔の息の下で、
「主水様、この世の名残りに、お目にかかれて本望でござんす……二人一緒に旅はしましたが、とうとう最後まで赤の他人……今はやっぱり陣十郎殿の女房……良人おっとに討たれて死にまする」
「討て主水! いざ立派に!」
「よい覚悟! 討つぞ陣十郎!」
主水の切り下した刀の下に、陣十郎の息は絶え、それに寄りかかってお妻も死んだ。
間もなくそこへ駈けつけて来たのは逸見多四郎と秋山要介とであった。
主水と澄江とが婚礼したのは、その翌年のことであって、仲のよい夫婦として榊原家では同僚たちがうらやんだ。
多四郎と要介とは親友となり、井上嘉門の大宝財の、使用方などについて相談などをした。
源女は本心を取りもどし、女芸人として名声を馳せ、杉浪之助はその後援者として、何くれとなく世話をしてやった。
赤尾の林蔵と高萩の猪之松とは、一時和睦はしたものの、やはり両雄ならび立たず、その後対抗するようになったが、それは後日の出来事であった。・・・  
「神秘昆虫館」
・・・さてその日から数日経った。
ここは森林の底である。周囲半里はあるだろうか、大きな池が湛えられている。その岸に点々と家がある。
ひときわ大きな木造家屋は、全く風変りのものであった。一口に云えば和蘭陀オランダ風で、柱にも壁にも扉にも、昆虫の図が刻ほってある。真昼である、陽があたっている。
と、玄関の戸をひらき、現われた一人の武士がある。何んと一式小一郎ではないか。
前庭をブラブラ歩き出した。
「いい景色だな、風変りの景色だ。日本の景色とは思われない」
こんなことを口の中で呟いている。
「小一郎様」と呼ぶ声がして、家の背後うしろから現われたのは、笑みを含んだ桔梗様であった。
「ご気分はいかがでございます」
「お蔭で今日はハッキリしました」小一郎は愉快そうに笑い返した。
「憎い大水でございましたことね」
「かえってお蔭で昆虫館へ参られ、私には本望でございましたよ。その上美しい声の主の、あなたにお目にかかれましたのでな」
「おや」と云うと桔梗様は、花壇の方へ眼をやった。四季咲き薔薇の花の蔭から、誰か覗いていたからである。二人の話を盗み聞くように。・・・
・・・桔梗様は返辞をしなかった。云いたいにも云うことがないからであった。永生の蝶の一匹の在家ありかを事実知っていないからであった。
恐ろしい拷問と云わなければならない。
助けにやって来た恋人を、一方において水責めに、断末魔の時期を刻々に告げ、さらに一方では恐ろしい、腐蝕性ある醂麝液を、突き付けて威嚇するのである。永生の蝶の一匹の在家を、もし桔梗様が知っていたら、一も二もなく明かせたであろう。そうでなくとも桔梗様に、少しでも不純の心があったら、出鱈目の在家を告げることによって、一時の危難から遁がれたかも知れない。桔梗様にはそれは出来なかった。と云うよりむしろ桔梗様には、一時遁がれの口実等を、考える事さえ出来なかったのである。そんなにも心が純なのであった。
「一式様とご一緒に死ぬ! それこそ妾の本望だ。ちっとも妾は悲しくない。それにしても一式小一郎様は、どうして妾の居場所を、突き止めて助けに来られたのだろう? ……誘拐されたと感付いたので、小指を噛み切り、血をしたたらせ、そのことを懐紙へ認めて、櫛や簪に巻き付けて、幾個いくつか往来へ落としたが、ひょっとかするとその一つを、一式様がお拾いになり、それからそれと手蔓を手繰たぐり、ここをお突き止めなされたのかも知れない。もしそうなら妾と一式様は、よくよくご縁があるというものだ。そういうお方と同じ場所で、同じ一味の悪者の手で、同時に殺されてこの世を去る。恋冥加! 怨みはない!」これが桔梗様の心持ちであった。
で少しも取り乱さなかった。とは云えやっぱり悲しくもあれば、また恐ろしくも思われた。で、泣きながら身顫いをし、顔から袖を放さなかった。
その間も南部集五郎の声は、戸口を通して聞こえて来た。・・・  
「八ヶ嶽の魔神」
・・・茶碗を取り上げた葉之助が、急に飲むのを躊躇ちゅうちょしたのは、当然なことと云わなければならない。
「評判のよくない大槻玄卿、どんなものをくれるか解るものか」つまり彼はこう思ったのであった。
玄卿はするとニヤリと笑った。
「いや鏡葉之助殿、愚老毒などは差し上げません。どうぞ安心してお試ためしくだされ」
図星を差されたものである。
「とんでもないこと、どう致しまして」
葉之助は苦笑したが、今はのっ引きならなかった。で、一息にグーと飲んだ。日本の緑茶とは趣きの異った、強い香りの甘渋い味の、なかなか結構な飲み物であった。
「珍味珍味」と葉之助は、お世辞でなくて本当に褒ほめた。
「産まれて初めての南蛮紅茶舌の正月を致してござる」
「お気に叶かなって本望でござる。いかがかな、もう一杯?」
「いや、もはや充分でござる」
葉之助は辞退した。
「さようでござるかな。お強しいは致さぬ」
で玄卿は茶器を片付けた。
それから二つ三つ話があった。
と、葉之助は次第次第に引き入れられるように眠くなった。
「これはおかしい」とこう思った時には、全身へ痲痺まひが行き渡っていた。
「ううむ、やっぱり毒であったか!」
葉之助は切歯した。それから刀を抜こうとした。ただ心があせるばかりで手が云うことを聞かなかった。
「残念!」と彼は喚くように云った。しかし言葉は出なかった。ただそう云ったと思ったばかりで、その実言葉は舌の先からちょっとも外へは出なかった。
彼は前ノメリに倒れてしまった。
しかしそれでも意識はあった。
それから起こった出来事を、彼はぼんやり覚えていた。
……まず二、三人の男の手が、彼を宙へ舁かき上げた。……縁から庭へ下ろされたらしい。……穴を掘るような音がした。……と、提灯ちょうちんの灯が見えた。……茴香ういきょう畑が見えて来た。……花が空を向いていた。……一人の男が穴を掘っていた。……大きな穴の口が見えた。……彼はその中へ入れられた。……バラバラと土が落ちて来た。……おお彼は埋められるのであった。……もう何んにも見えなかった。サーッと土が落ちて来た。……顔の上へも胸の上へも、手へも足へも土が溜った。……次第に重さを感じて来た。……そうして次第に呼吸いき苦しくなった。……「俺は死ぬのだ! 俺は死ぬのだ!」葉之助は穴の中で、観念しながら呟いた。そうしてそのまま気を失った。・・・  
「天草四郎の妖術」
・・・或夜、珍らしく従者も連れず、天草四郎時貞は城内を見廻わって居りました。宿直とのいの室の前まで来ますと、「四郎が。……四郎が」と無礼にも呼び捨てにしているものがあるので不思議に思って立ち止まり板戸の隙から覗いて見ますと、森宗意軒と葦塚忠右衛門とが、くつろいだ様子で話しています。四郎四郎と云っているのは宗意軒でありました。
「四郎め、すっかり天童気取りで、悠々寛々と構えているので、城中の兵ども安心して、かく防戦するでは無いか。迷信の力ほど恐ろしいものは無い」
「三月何うかと案じていたのに、一年の余も持ち堪えているとは、農民兵とて馬鹿にならぬ。天童降来して宗徒を護ると斯う信じ切って居ればこそ、望みの無い戦にも勇気を落とさず健気に防戦するであろうぞ」
「それも皆四郎のおかげじゃ」
「いやいやお前の才覚のためじゃ。あの白痴の四郎めをお前の手品で誑たぶらかし、天帝の子と思い込ませたのが、今日の成功をもたらせたのじゃよ」
「いや、あの時は面白かった」宗意軒は浩然と笑いました。「要するに俺の催眠術で彼奴の精神を眠らせて了い、いろいろ様々の形を見せ、彼奴をして天童じゃと思わせた迄さ。予想外に夫れが利いて、四郎め天童に成り済ましたのじゃからの。計画図にあたりと云うものさ」
「老後の思い出天下を相手に斯ういう芝居が打てたかと思うと、全く悪い気持はしないの」
「お互、小西の残党なのだが、憎い徳川を向うに廻わし是だけ苦しめたら本望じゃ」
「江戸で家光め地団太踏んでいようぞ」
「長生きするとよいものじゃ。いろいろのことが見られるからの」
「が、此度が打ち止めであろうぞ。後詰めする味方があるではなし」
「豊臣恩顧の大名共、屈起するかと思ったが是だけはちと当てが外れた」
「そうは問屋が卸ろさぬものじゃ。もう是迄に卸ろし過ぎている。ワッハッハッ」
「ワッハッハッ」
「ああ夫れでは此私は天の使いではなかったのか」
二人の話を立聞きしていた四郎時貞は余りの意外に仰天しましたが、次に来たものは絶望でした。
その絶望が劇しかったためか、転換した彼の性格が忽然旧に復して了い、一個白痴の美少年増田四郎となって了ったのは止むを得ない運命と云うべきでしょう。翌日、彼は止るを聞かず、緋威ひおどしの鎧に引立て烏帽子、胸に黄金の十字架をかけ、わざと目立つ白馬に乗り、敵の軍勢へ駈け入りましたが、身に三本の矢を負って城中へ取って返した頃には既に虫の息でありました。城中悉く色を失い、寂然と声を飲んだ其折柄、窓を通して射し込んで来たのは落ち行く太陽の余光でした。
その華かにも物寂しい焔のような夕陽を浴びて四郎は静かに寝ていましたが、
「われ渇く」と呟きました。
すぐに葡萄酒が注がれました。
「事畢りぬ」と軈て云った時には首を垂れて居りました。魂が天に帰ったのでした。白痴にして英雄児摩訶不可思議の時代の子は斯うして永久世を去ったのでした。臨終に云った二つの言葉は、エス・キリストが十字架の上で矢張り臨終に叫んだ言葉と全く同じだったのでございます。
主将と信仰とを同時に失った原ノ城の宗徒軍が一度に志気を沮喪させたのは寧ろ当然と云うべきでしょう。翌日城は陥落ました。老弱男女三万人、一人残らず死んだのは惨鼻の極と云うべきか壮烈の限りと云うべきか、世界的有名な宗教戦は四郎の運命と終始して、起り且つ亡びたのでございます。・・・  
「名人地獄」
・・・浅間甚内復讐を語る
どんな具合に巡り会い、どんな塩梅あんばいに立ち合って、兄の敵を討ったかについては、彼は恩師たる千葉周作へ、次のように話したということである。
「……とうとう本望をとげました。先生のお蔭でございます。一生忘れはいたしません。兄もどんなにか草葉の蔭で、喜んでいることでございましょう。おそらく修羅しゅらの妄執もうしゅうも、これで晴れたことでございましょう。……では、どうして敵と出会い、どんな具合に討ち止めたか、お話しすることに致します。なかばは偶然でございました。そうして後の半分は妹のおかげでございます。……追分をうたい、市中を流し、敵を目付けておりますうち、ふと隅田の片ほとり、小梅の里のみすぼらしい家に、お北によく似た若い女を、見掛けたことがございました。でもそれはたった一度だけで、後はいつもその家は、雨戸がしまっておりましたので、見かけることは出来ませんでした。それでも気になるところから、毎夜のようにそのあたりを、彷徨さまよったものでございます。そのうち秋が冬となり、年が明けて春となり、昨夜となったのでございますが、いつもの通りお霜を連れて、信濃追分をうたいながら、隅田の方へ参りました。そうしてその家の前に立ち、しばらく様子をうかがってから、堤を歩いて行きました。と、ご承知のようによい月夜で、おりから桜は満開ではあり、つい私はよい気持ちになり、次々にうたいながら歩いて行きますと、後の方から何者か、つけて来るではございませんか。ふと振り返って見ましたが、それらしい人の影もない。不思議なことと思いながら、また歩いて行きますと、やっぱり足音が致します。春の月夜にうかれ出た。狐か狸のいたずらであろうと、そのまま歩いて参りますと、ピタピタピタピタと足音が、近付いて来るではございませんか。で、振り返ってみましたところ、山岡頭巾で顔を包んだ、一人の武士が一間の背後うしろに、追い逼っているではございませんか。ハッと思ったものでございます。と、いうのはその武士が、刀の柄をシッカリと、握っていたからでございます」・・・
 
長谷川時雨

 

「樋口一葉」
・・・鑑定局という十畳ばかりの室へやには、織物が敷詰められてあり、額は二ツ、その一つには静心館と書してあり、書棚、黒棚、ちがい棚などが目苦めまぐるしいまでに並べたててあり、床とこの間まには二幅対にふくついの絹地の画、その床を背にして、久佐賀某は机の前に大きな火鉢を引寄せ、しとねを敷いていて彼女を引見したのであった。
「申歳さるどしの生れの廿三、運を一時に試ためし相場をしたく思えど、貧者一銭の余裕もなく、我力にてはなしがたく、思いつきたるまま先生の教えをうけたくて」と彼女は漸くに口を切った。それに答えた顕真術の先生は、
「実に上々のお生れだが金銭の福はない。他の福禄が十分にあるお人だ。勝すぐれたところをあげれば、才もあり智もあり、物に巧たくみあり、悟道の縁えにしもある。ただ惜むところは望のぞみが大きすぎて破れるかたちが見える。天稟てんぴんにうけえた一種の福を持つ人であるから、商あきないをするときいただけでも不用なことだと思うに、相場の勝負を争うことなどは遮さえぎってお止めする。貴女はあらゆる望みを胸中より退のぞいて、終生の願いを安心立命しなければいけない。それこそ貴女が天から受けた本質なのだから」と言った。彼女は表面慎つつましやかにしていても、心の底ではそれを聴いてフフンと笑ったのであろう。
「安心立命ということは出来そうもありません。望みが大に過ぎて破れるとは、何をさしておっしゃるのでしょう。老たる母に朝夕のはかなさを見せなければならないゆえ、一身を贄にえにして一時の運をこそ願え、私が一生は破やぶれて、道ばたの乞食こじきになるのこそ終生の願いなのです。乞食になるまでの道中をつくるとて悶もだえているのです。要するところは、よき死処がほしいのです」と言出すと、久佐賀は手を打っていった。
「仰おっしゃる事は我愛する本願にかなっている」
彼女と久佐賀との面会は話が合ったのであろう。月を越してから久佐賀は手紙をもって、亀井戸の臥龍梅がりょうばいへ彼女を誘った。手紙には、
君が精神の凡ならざるに感ぜり、爾来じらいしたしく交わらせ給わば余が本望なるべし
などと書いたのちに、
君がふたゝび来たらせ給ふをまちかねて、として、
   とふ人やあるとこゝろにたのしみて そゞろうれしき秋の夕暮
と歌も手も拙つたないが、才をもって世を渡るに巧みなだけな事を尽してあった。とはいえ、それを受けたのは一葉である。そんな趣向で手中にはいると思うのかと、直すぐに顕真術先生の胸中を見現みあらわしてしまった。日本全国に会員三万人、後藤大臣並びに夫人(象次郎しょうじろう伯)の尊敬一方ひとかたでないという先生も、女史を知ることが出来ず、そんな甘い手に乗ると思ったのは彼れが一代の失策であったであろう。
彼女は久佐賀の価値ねうちを知った。彼れは世人の前へ被かぶる面で、彼女も贏得かちうることが出来ると思ったのであろう。彼女の手記には利己流のしれもの、二度と説を聴けば、厭いとうべくきらうべく、面に唾つばきをしようと思うばかりだとも言い、かかるともがらと大事を語るのは、幼子おさなごにむかって天を論ずるが如きものだ、思えば自分ながら我も敵を知らざる事の甚だしきだと、自分をさえ嘲笑あざわらっている。けれども久佐賀の方では、自分の方は名と富と力を貯えているものだと、慢じていたのであろう。そしてその上に、一葉の美と才と、文名とを合せればたいしたものだと己惚うぬぼれたのであろう。他の者には洩もらすのさえ恥はじているだろうと思われる貧乏を、自分だけがよく知っていると思いもしたのであろう。まだそれよりも、彼女が親と妹のために、物質の満足を得させたいと願っている弱みを、彼れは自分一人が承知しているのだと思い上っていた。それのみならず彼れは、一葉を説破しえたつもりでいたかも知れない。・・・  
「市川九女八」
・・・ 九女八はしみじみとして、
「あたしがねえ、小芝居ばかりに出ていたので、どうかして、あれを止やめねえものかと仰しゃってたそうだから――」
緞帳どんちょう芝居――小芝居へ落ちていた役者ものは、大劇場出身者で、名題役者なだいやくしゃでも、帰り新参となって三階の相中部屋あいちゅうべやに入れこみで鏡台を並べさせ、相中並の役を与え、慥たしか三場処ほど謹慎しなければ、もとの位置にはもどさない仕来しきたりがある、階級的な差別の厳しいのが芝居道だった。
九女八は、下谷したや佐竹ッ原ぱらの浄るり座や、麻布あざぶ森元もりもとの開盛座かいせいざを廻り、四谷よつやの桐座きりざや、本所ほんじょの寿座が出来て、格の好い中劇場へ出るようになるかと思うと、また、神田の三崎町みさきちょうの三崎座に女役者の座頭ざがしらになってしまったりする。その上に、勧進帳のことで破門されたりして、九代目に芸を認めてもらえながら、引上げてもらう機運をはずしたのだと、もう、どうにもしようのない侘わびしさを、噛かんでいる。
「二銭団洲だって、歌舞伎座を踏んだのにな。」
台助は、はずみで、そんなことを言ってしまってから、しまったと思った。九女八が苦にがい顔をしたからだった。二銭団洲とは、下谷の柳盛座りゅうせいざで、二銭の木戸銭で見せていた、阪東又三郎が、めっかちではあるが団十郎を真似て、一生の望みが叶かなって、歌舞伎座の夏休みのあきを借りて乗り出したことがあったのを、いかもの食いの見物が、つねづね噂うわさに聞いた二銭団洲を見にいった。出しものは「酒井の太鼓」だったが、あとで座付き役者から物議が起ったことがあったりした、九女八にはいやな、ききたくないことなのだ。
「仕方がないよ、あたしは、はじめっから小芝居へ出てたものね。女役者なんて、あたしたちから出来たのだもの。」
九女八は、老おいても色の白い、柔らかい足を出している、台助の足の小指に触さわって見た。
台助は、艶々つやつやとした、額から抜け上っている頭の禿はげかたも、柔和な、品の悪くない、いかにも以前もとは大問屋の旦那であったというふうな、鷹揚おうようさと、のんびりした耳朶みみたぶとを持っている、どこか好色そうな老爺としよりだった。
「大阪の千日前せんにちまえへ芦辺倶楽部あしベクラブというのが出来るそうで、師匠が出てくれるならば、月額千円は出すというのだそうだ。」
九女八は、考え、考え、台助の小指をいじりながら、
「見世物小屋ではないでしょうかねえ。でも、お金が溜たまれば、も一度、何か、やって見る事も出来るでしょうから――」
「一年十二ヶ月、頭から約束しようというのだが――痛いてえよう。」と、台助は足をひっこめた。
「そりゃそうと、繁しげの井いを久しくやらないね。」
「染分手綱そめわけたづなですか――繁の井をすると、思い出すものね。」
弟子分でしぶんだった沢村紀久八さわむらきくはちが、お乳ちの人ひと繁の井をしていて、じねんじょの三吉との子別れに、あんまりよく似ている身の上につまされ、役と自分とのわけめがつかなくなって、舞台で気の狂ってしまったことを思い出すからだった。
しかも、その、女役者紀久八は小説にもなり狂言にもなっている。佐藤紅緑こうろく氏の「侠艶録きょうえんろく」の力枝りきえという女役者は、舞台で気の狂った紀久八がモデルであった。小栗風葉おぐりふうようだったかのに、「鬘下地かつらしたじ」というのがある。
「紀久八は舞台で気狂いになったが――あたしは舞台で死ねれば本望だ。なあに、小芝居だって見世物小屋だって、お客さまはみんな眼玉をもってらっしゃる。どんな人が見てくださってるかわかりゃしない。」
「じゃあ、まあ、とにかく、大阪の方の話は、出来そうな工合に、返事をしといてもいいね。」
――これは、もちっと後あとのことで、九女八はこの大阪から帰ってから後、大正二年の七月に、浅草公園の活動劇場しばいみくに座で、一日三回興業に、山姥やまうばや保名やすなを踊り、楽屋で衣裳いしょうを脱ごうとしかけて卒倒し、そのままになってしまったのだった。大阪で溜ためて来た金は、九女八が、何か計画して考えていたことには用いられず、終焉しゅうえんの用意となってしまったのだが、台助は、そんな予感がしたのかどうか、ふいと、仕かけていたその談話を打ち切って、
「俺は、ちょいとその事で、出かけてくる。」と着更きがえをしかけたところへ、静枝が名刺を読みながら来て、
「お師匠さんの芸談を聴きに来た、演芸の方の記者かたらしいのですよ。談話はなしといてくだすった方が好いと思いますから、お逢いになってくださいな。」と、婉曲えんきょくに、この名人の真相を残させたい、弟子の心やりですすめた。・・・
 
小酒井不木

 

「印象」
・・・夫人の眼はその時、獲物を見つけた猫の眼のように、ぎろりと輝きました。私は全身に一種の悪寒を感じて、思わず眼をそらせました。
「先生」と、夫人は力強く呼びました。そうして、その細い右の腕をのばして、ちょうど、自分の真正面にあたる壁の上にかけてある額を指さしました。それまで私は気がつきませんでしたが、その額の中には、浮世絵によく見る藍摺あいずりの鬼の絵が入れてありまして、場合が場合とて、その青い色をした鬼の顔が、一そう物凄く見えました。
「あの鬼の絵は、もと、私の実家さとに秘蔵されて居たもので、御覧のとおり北斎ほくさいの筆で御座います。私の結婚の際、いわば厄除けのまじないに貰って来たのでありますが、それが今は皮肉にも逆の目的に使用されて居るので御座います。先生、私はあの藍摺の鬼の絵を、私の復讐のために用いようと思いました。かつて、私は、ギリシアの昔、ある国の王妃が、妊娠中、おのが部屋にかけてあった黒人の肖像画を朝夕見て居たら、ついに黒い皮膚の王子を生んだという話を何かの本で読んだことがありました。先生、私は、この現象を私の復讐に応用しようと思ったので御座います。この藍色の鬼の絵を壁にかけて朝夕ながめて居たならば、きっと生れる子は、鬼のような怖ろしい顔をして居るか、或は少くとも、藍色の皮膚をした子が生れるだろうと思うので御座います。女の一念ですもの、私はきっと怖ろしい形相をした子を生むことが出来ると信じて、朝眼をさましてから、夜分眠るまで、眺めどおしにして来ました。若し私が望みどおりの怖ろしい形をした子を生みましたならば、それで私の良人に対する復讐は、りっぱに遂げられたといってよいではないでしょうか。そのめずらしい不具の子がだんだん生長して行くのを見ることは良人にとって永遠の恐怖だろうと思います。けれど、若しこの子が死んでしまっては何にもなりません。ですから、どうしても無事に生まなければならないのです。どうか先生、私の本望を遂げさせて下さいませ。私はくやしくてなりません。お願いです。ね、先生、どうぞ……」
あとははげしい啜すすり泣きの声に変りました。私は以上の言葉をきいて、夫人の執念の恐ろしさに、夫人の顔そのものが、すでに鬼のように見えて来ました。わが子を不具にしてまで良人を呪おうとする怖ろしい心。たとえ、夫人の予期したとおりのことが起るか起らぬかは保証し難いにしろ、少くとも、そうしたことをたくむ心には、戦慄を禁ずることが出来ませんでした。
妊娠中に目撃した印象が、そのまま胎児にあらわれるという現象は、古来の文献に少くありません。かような現象は、もとよりヒステリックな女に多いのですから、ことによると、夫人は、予期通りの子を生むかもしれない。そう思うと、私は藍色の皮膚をもち、鬼のような顔をした赤ん坊を想像して、全身の神経が痺れるように感じました。・・・  
「メデューサの首」
・・・わたしはぎくりとしました。この恐ろしい難題にぶつかってわたしははげしい狼狽ろうばいを感じました。わたしはむしろこの場から逃げ出してしまおうかと思ったくらいでした。すると、わたしの狼狽を見て取った彼女は、
「先生、先生はたぶん、わたしのような妙な癖を持った者が、平気で他人に身を任せて手術を受けることを不審に思いになるでしょう。けれども、自分の容色の美を保つためならば、わたしはあらゆることを忍びます。メデューサの首を取り出してしまえば、わたしの容色を取り返すことができます。その喜びを思えばどんな犠牲でも払うのです。ね、先生、潔く手術を引き受けてください」
わたしはなんとなく一種の威圧を感じました。とその時、わたしにある考えが電光のように閃ひらめきました。そうだ、この女の腹水を去らせ、血液の循環をよくしさえすれば、それでメデューサの首も取れることになるのではないか。いっそ潔く手術を引き受けて肝臓硬変症に対する手術を行ってやろう。こう思うと、わたしは肩の荷を下ろしたような気持ちになりました。だが、この衰弱した身体がはたして手術に堪えるであろうか。
「よろしい。手術はしてあげましょう。しかし、あなたはたいへん衰弱しておいでになりますから、はたして手術に堪えることができるか、それが心配です」
「手術してもらって死ぬのなら本望です」と、彼女は言下に答えました。
「手術してもらわねば、しまいにはメデューサの首にこの身体を奪とられてしまうのですから、一日も早く、わたしのいわば恋敵ともいうべき怪物を取り除いてしまいたいのです」
「よくわかりました。それでは明日手術しましょう」と、わたしは答えました。
翌日の午前に、わたしは手術を行うことに決心しました。わたしはその場合きっぱり引き受けたものの、とうてい彼女の容体では麻酔と出血には堪え得ないだろうと思って不安の念に駆られました。で、その晩はいろいろなことを考えて充分熟睡することができませんでした。
いよいよ当日が来ました。わたしが手術前に彼女を訪ねますと、彼女は昨日とは打って変わった力のない声をして言いました。
「先生、弱い人間だとお笑いになるかもしれませんが、もし手術で死ぬようなことがあるといけませんから、わたしの死後のことをお願いしておきたいと思います。わたしの少しばかりのお金の処分は先生にお任せしますが、わたしの死骸しがいについてはわたしの申し上げるとおり処置していただきたいと思います。わたしがもし助かりましたならば、取り出していただいたメデューサの首を自分で焼いて眺めたいと思いますが、もし死んだ場合には、わたしの身体とともに焼いて、その燃えてなくなる姿をわたしに代わって先生に眺めていただきたいと思います」
これを聞いて、わたしは言うに言えぬ恐怖を覚えました。もし手術が無事に済んで、麻酔から醒さめたのちメデューサの首を見せてくれと言われたらどうしようかと考えました。いっそ彼女が手術中に死んでくれたほうが……というような考えさえ起こってきました。
「それに先生、実を言うと、わたしはまだもう一つ心に願っていることがあるのです。それは温泉宿でわたしのお腹に悪戯書きをした人間を捜し出し、思う存分復讐ふくしゅうしてやりたいということです。しかし、それがだれであるかはもとよりわかりません。が、もしわたしが死にましたら、きっと復讐ができると思うのです。魂はどんなむずかしいことでもするということですから」
わたしはそれを聞くと、ひょろひょろと倒れるかと思うほどの恐怖を感じました。なんという戦慄せんりつすべき女の一念であろう。・・・  
「肉腫」
・・・私はこの意外な言葉をきいて、思わず彼の顔を凝視した。
まだ三十を越したばかりの年齢としであるのに、その頬には六十あまりの老翁ろうおうに見るような皺が寄り、その落ち窪んだ眼には、私の返答を待つ不安の色が漂って居た。
「だって……」
「いえ、御不審は尤もっともです。私は治りたいと思って、このできものを取って頂くのではありません。私の右の肩に陣取って、半年の間、夜昼私をひどい責め苦にあわせた、にくい畜生に、何とかして復讐がしてやりたいのです。先生の手で、この畜生を、私の身体から切離して頂くだけでも満足です。けれど、出来るなら、自分の手で、思う存分、切りさいなんでやりたいのです。その願いさえ叶えて下さったら、私は安心して死んで行きます。ね、先生、どうぞ御願いします、私の一生の御願いです」
患者は手を合せて私を拝んだ。辛うじて動かすことの出来た右の手は、左の手の半分ほどに痩せ細って居た。私は患者の衰弱しきった身体を見て、手術どころか、麻酔にも堪え得ないだろうと思った。で、私は思い切って言った。
「かねて話したとおりに、これは肩胛骨けんこうこつから出た肉腫で、肩の骨は勿論、右の手全体切り離さねばならぬ大手術だからねえ。こんなに衰弱して居て、手術最中に若もしものことがあるといけない」
患者は暫らく眼をつぶって考えて居たが、やがて細君の方を見て言った。
「お豊、お前も覚悟しとるだろう。たとい手術中に死んでも、この畜生が切り離されたところをお前が見てくれりゃ、俺は本望だ。なあ、お前からも先生によく御願いしてくれ」
細君は啜すすり泣きを始めた。彼女は手拭で涙を拭き拭き、ただ私に向って御辞儀するだけであった。私は暫らくの間、どう返答してよいかに迷った。治癒の見込のない患者を手術するのは医師としての良心に背くけれど、人間として考えて見れば、この際、潔く患者の願いをきいてやるのが当然ではあるまいか。たといそのままにして置いたところが、一月とは持つまいと思われる容体である。若し、患者が手術に堪えて、怖しい腫物の切り離された姿を見ることが出来たならば、たしかに患者の心は救われるにちがいない。
「よろしい。望みどおり手術をしてあげよう」と、私ははっきりした声で言い放った。・・・  
「卑怯な毒殺」
・・・こういって男はきびしくにやりとした。それは悪魔の笑いであった。
「君は僕を毒殺しようとした」彼は幾分か声をふるわせて続けた。「ところが幸か不幸か僕はその毒をのまなかった。のむ前に発見したのだ。そうして僕はこのとおり助かった。けれども僕は、警察へは届けなかったよ。警察へ届けたのでは、復讐の快感を十分味わうことが出来ぬからねえ。つまり、僕は、僕自身の手で君に復讐しようと思ったのだ。
そこで先ず僕は、内密に君が僕に与えようとした毒を分析してもらったよ。その結果、それがストリヒニンであると知れた。ストリヒニン! 猛毒だ。君は僕を、蛙が水泳ぎをするように手足をつんのめらせて、苦しみ悶えさせて殺そうとしたのだ。
その恐ろしい君の心に対して、僕がいかなる計画を建てたと思う? 僕は先ず、ストリヒニンで殺されない体質を作ろうと思ったよ。君への腹癒せにね。君をあざ笑ってやりたいためにね。そのために、僕は凡およそ一ヶ月かかったよ。即ち僕は毎日ストリヒニンを少しずつ分量をふやして嚥のみ、遂に致死量をのんでも死なない体質になることが出来たんだ」
彼はこういって、じっと病人の顔を見つめた。病人はマスクのような顔をして、身動きもしないで聞いて居た。
「それから僕は君を殺そうと思って、はじめて外出して、君の様子をさぐると、何でも君は災難にあって負傷し、この病院へ入れられたときいたので、今夜、病院の誰にも知られずにこうしてたずねて来たのだ。僕は、ここに、致死量のストリヒニンを含む丸薬を二粒持っている。これから、二粒の丸薬を二人でのもうと思うのだ。君にだけのませて僕がのまぬということは卑怯だからねえ。だが、僕は君と一しょには死にたくはないよ。僕は君に、ストリヒニンでは僕が死なぬということを見せ、君の苦しんで死んで行くところを思う存分にながめたいのだ。そうして勝利の快感が味わいたいのだ。何しろ、それのために、僕は一ヶ月間、世間と交渉を絶って、苦しい実験をして来たのだからねえ」
こういって、彼はポケットから、小さなガラス壜を取り出した。彼はそれを病人の顔の近くへもって来て振った。壜の中では、二つの白い丸薬が仏舎利ぶっしゃりのように、乾いた音をたてて転った。
「さあ、これから、二人で、これを一つずつのもうよ」
いいながら男は、その壜を床頭台の上に置いた。
さっきから、病人はその眼をきょろきょろさせるばかりであったが、この時細い声を出した。舌が自由に動かぬと見えて、言葉がはっきりしなかった。
「まあ君、そんなに急ぎたまうな。僕はいつでもその毒薬をのむよ。僕は喜んで君の手に殺されよう。君に殺されりゃ、本望なのだ。僕は僕の行為――君を毒殺しようとしたことを、どれだけ後悔しているか知れない。それがため僕はどれほど苦しんだか知れない。君は殺そうとしたものが、殺されようとしたものの何十倍も何百倍も苦しまねばならぬということを知って居るかね? 僕はたしかに、君よりもはげしい苦しみをしたと思って居る。僕は、もちろん、君を毒殺し得たと思って、すぐ自殺を計ったのだが、それが、どういう因果か未遂に終って、こうして病院へ連られて来て、今では自殺する能力をさえ奪われてしまったのだ。僕は君が生きていようとは思わなかったので、警察の人の来ぬのを不審に思いながら、何かよい自殺方法はないものかと、実は今晩も君の来る前に、頻しきりに考えて居たんだよ。だから、君の顔を見たとき、驚くよりもむしろ嬉しい思いがした」
立って居る男の顔には侮蔑と不審の色が浮かんだ。病人はそれを察して続けた。
「君は定めし、僕が強がりをいって居ると思うだろう。又、僕が自殺したくても自殺の出来ぬ状態にあるということを不審に思うだろう。然しかし、僕がどういう理由で、この病院へはいって居るかということを知って居たなら、僕のいうことに不審は起きない筈だ。なに? ちっとも知らないって? それは君、ちと、迂闊うかつではないか。君が僕を毒殺するために、そういうドラマチックな計画をして置きながら、殺すべき相手の現状を委くわしく調査しなかったというのは、大きな手ぬかりではないか。幸いに僕が自殺を計っても死ななかったからよいものの、もし僕が自殺を遂げて居たら、折角、致死量のストリヒニンでも死なぬからだを苦心して拵こしらえたとて、何の役にも立たなかったじゃないか。・・・
 
夢野久作

 

「近世快人伝」
・・・その頃、筑前志士の先輩に、越智おち彦四郎、武部小四郎、今村百八郎、宮崎車之助くるまのすけ、武井忍助なぞいう血気盛んな諸豪傑が居た。そんな連中と健児社の箱田六輔ろくすけ氏等が落合って大事を密議している席上に、奈良原到以下十四五を頭かしらくらいの少年連が十六名ズラリと列席していたというのだから、その当時の密議なるものが如何に荒っぽいものであったかがわかる。密議の目的というのは薩摩の西郷さんに呼応する挙兵の時機の問題であったが、その謀議の最中に奈良原到少年が、突如として動議を提出した。
「時機なぞはいつでも宜しい。とりあえず福岡鎮台をタタキ潰せば良ええのでしょう。そうすれば藩内の不平士族が一時いちどきに武器を執とって集まって来ましょう」
席上諸先輩の注視が期せずして奈良原少年に集まった。少年は臆面もなく云った。
「私どもはイツモお城の石垣を登って御本丸の椋むくの実を喰いに行きますので、あの中の案内なら、親の家うちよりも良う知っております。私どもにランプの石油を一カンと火薬を下さい。私ども十六人が、皆、頭から石油を浴びて、左右の袂たもとに火薬を入れたまま石垣を登って番兵の眼を掠かすめ、兵営や火薬庫に忍込しのびこみます。そうして蘭法附木マッチで袂に火を放って走りまわりましたならば、そこここから火事になりましょう。火薬庫も破裂しましょう。その時に上の橋と下の橋から斬り込んでおいでになったならば、土百姓や町人の兵隊共は一たまりもありますまい」
これを聞いた少年連は皆、手を拍うって奈良原の意見に賛成した。口々に、
「遣って下さい遣って下さい」と連呼して詰め寄ったので並居る諸先輩は一人残らず泣かされたという。その中にも武部小四郎氏は、静かに涙を払って少年連を諫止かんしした。
「その志は忝かたじけないが、日本の前途はまだ暗澹たるものがある。万一吾々が失敗したならば貴公あんた達が、吾々の後跟あとを継いでこの皇国廓清かくせいの任に当らねばならぬ。また万一吾々が成功して天下を執る段になっても、吾々が今の薩長土肥のような醜い政権利権の奴隷になるかならぬかという事は、ほかならぬ貴公あんた達に監視してもらわねばならぬ。間違うても今死ぬ事はなりませぬぞ」
今度は少年連がシクシク泣出した。皆、武部先生のために死にたいのが本望であったらしいが結局、小供たちは黙って引込んでおれというので折角の謀議から逐退おいしりぞけられて終しまった。・・・  
「斬られたさに」
・・・「……何はともあれこのままにては不本意に存じまするゆえ、御迷惑ながら小田原の宿しゅくまで、お伴仰せ付けられまして……」
「ああ……イヤイヤ。その御配慮は御無用御無用。実は主命を帯びて帰国を急ぎまするもの……お志は千万忝かたじけのうは御座るが……」
「……御尤ごもっとも……御尤も千万とは存じまするが、このままお別れ申してはいつ、御恩返しが……」
「アハハ。御恩などと仰せられては痛み入りまする……平に平に……」
「……それでは、あの……余りに御情のう……おなじ御方角に参りまする者を……」
「申訳もうしわけ御座らぬが、お許し下されい。……それとも又、関所の筋道に御懸念でも御座るかの……慮外なお尋ね事じゃが……」
「ハッ。返す返すの御親切……関所の手形は仇討あだうちの免状と共々に確しかと所持致しておりまする。讐仇かたきの生国しょうこく、苗字は申上げかねまするが、御免状とお手形だけならば只今にもお眼に……」
「ああイヤイヤ。御所持ならば懸念はない。御政道の折合わぬこの節に仇討あだうちとは御殊勝な御心掛け、ただただ感服いたす。息災に御本望を遂げられい。イヤ。さらば……さらば……」
平馬は振切るようにして若侍と別れた。物を云えば云う程、眼に付いて来る若侍の妖艶あでやかさに、気味が悪るくなった体ていで、スタスタと自慢の健脚を運んだ。振り返りたいのを、やっと我慢しながら考えた。
……ハテ妙な者に出合うたわい。匂い袋なんぞを持っているけに、たわいもない柔弱者かと思うと、油断のない体たいの構え、足の配り……ことに彼の胆玉きもたまと弁舌が、年頃と釣合わぬところが奇妙じゃ。……真逆まさかに街道の狐でもあるまいが……。
などと考えて行くうちに大粒になった雨に気が付いて、笠の紐ひもをシッカリと締上げた。
……いや……これは不覚じゃったぞ。「武士もののふは道に心を残すまじ。草葉の露に足を濡らさじ」か……。ヤレヤレ……早よう小田原に着いて一盞いっさん傾けよう。・・・
・・・危うく右へ飛び退のいた平馬は、まだ居住居いずまいを崩さずに両手を膝に置いていた。
「……乱心……乱心召されたかッ……讐仇かたきは讐仇かたき……身共は身共……」と助けてやりたい一心で大喝した。
一方に空を突いた若侍姿はモウ前髪を振り乱していた。とても敵かなわぬと観念したらしく、平馬の大喝の下もとに息を切らしながら眼を閉じたが、又も思い切って見開くと、火のような瞳を閃めかした。
「……ヒ……卑怯者ッ。その讐仇かたきを討つのに……邪魔に……邪魔になるのは貴方一人……」
「……エエッ……さてはおのれ……」
「お覚悟ッ……」という必死の叫びが、絹を裂くように庭先に流れた。白い光りが一直線に平馬の胸元へ飛んだが、床の間の脇差へかかった平馬の手の方が早かった。相手が立ち上りかけた肩先を斬り下げていた。
その切先きっさきに身を投げかけるようにして来た相手は、そのまま懐剣を取落して仰のけぞった。両手の指をシッカリと組み合わせたまま、あおのけに倒おれると、膝頭をジリジリと引き縮めた。涙の浮かんだ眼で平馬を見上げながらニッコリと笑った。
「……本望……本望で……御座います。平馬様……」
そう云ううちに、袈裟けさがけに斬り放された生平きびらの襟元がパラリと開いた。赤い雲から覗いた満月のような乳房が、ブルブルとおののきながら現われた。
「……すみませぬ……済みま……せぬ……。今までのことは、何もかも……何もかも……偽り……まことは妾わたくしは……女……女役者……」と云いさして平馬の方向ほうへガックリと顔を傾けた……が……しかし、それは苦痛のためらしかった。そのまま眼を閉じてタップリと血を吐いた。……と見るうちに下唇を深く噛んで、白い小さな腮あごを、ヒクリヒクリとシャクリ上げはじめた。
平馬は血刀を掲ひっさげたまま茫然となっていた。
「……ええ。お頼み申します。お取次のお方はおいでになりませぬか。手前は見付の佐五郎と申す者で御座います。どなたかおいでになりませぬか。お頼み申しますお頼み申しますお頼み申します……」という性急な案内の声を他所よそ事のように聞いていた。・・・
・・・二人は口を極めて平馬を賞め上げながら盆さかずきを重ねた。酌をしていた奥方までも、たしなみを忘れて平馬の横顔に見惚みとれていた。
しかし平馬は苦笑いをするばかりであった。燃え上るような眼眸まなざしで斬りかかって来た女の面影を、話の切れ目切れ目に思い浮かべているうちに酒の味もよく解らないまま一柳斎の邸を出た。
青澄んだ空を切抜いたように満月が冴えていた。
「……これが免許皆伝か……」とつぶやきながら平馬は、黒い森に包まれた舞鶴城を仰いだ。
平馬の眼に涙が一パイ溜まった。その涙の中で月の下の白い天守閣がユラユラと傾いて崩れて行った。そうしてその代りに妖艶な若侍の姿が、スッキリと立ち現われるのを見た。……本望で御座います……と云い云い、わななき震えて、白くなって行く唇を見た。
堀端ほりばた伝いに桝ます小屋の自宅に帰ると、平馬はコッソリと手廻りを片付けて旅支度を初めた。下男と雇婆やといばばの寝息を覗うかがいながら屋敷を抜け出すと、門の扉とへピッタリと貼紙をした。
「啓上 石月平馬こと一旦、女賊風情の饗応を受け候上そうろううえは、最早もはや武士に候わず。君公師父の御高恩に背き、身を晦くらまし申候間もうしそうろうあいだ、何卒なにとぞ、御忘れおき賜わり度候たくそうろう。頓首」
御用のため、江戸表へ急の旅立と偽って桝形門を抜け、石堂川を渡って、街道を東へ東へと急いだ平馬は、フト立止まって空を仰いだ。松の梢こずえに月が流れ輝いて、星の光りを消していた。
平馬は大声をあげて泣きたい気持になった。そのまま唇を噛んで前後を見かわしたが、
「……ハテ……今頃はあの三五屋の老人が感付いて追っかけて来おるかも知れぬ。あの老人にかかっては面倒じゃが……そうじゃ……今の中うちに引っ外はずしてくれよう。どこまで行ったとてこの思いが尽きるものではない……」と独言ひとりごとを云い云い引返ひっかえして、箱崎松原の中に在る黒田家の菩提所、崇福寺の境内に忍び込んだ。門内の無縁塔の前に在る大きな拝石おがみいしの上にドッカリと座を占めた。静かに双肌もろはだを寛くつろげながら小刀の鞘を払った。
眼を閉じて今一度、若侍の姿を瞑想した。
……おお……そもじを斬ったのはこの平馬ではなかったぞ。世間体せけんていの武士道……人間のまごころを知らぬ武士道……鳥獣の争いをそのままの武士道……功名手柄一点張りの、あやまった武士道であったぞ。……そもじのお蔭で平馬はようように真実まことの武士道がわかった……人間世界がわかったわい。
……平馬の生命いのちはそもじに参いらする。思い残す事はない……南無……。・・・  
「暗黒公使」
・・・あとを見送った私は、室へやに帰ると、死骸の始末も何も忘れたまま机の前の肘かけ椅子にどっかりと身体からだを落し込んだ。急にぼんやりとなって来た眼の前の空気を凝視しながら、太い溜息と一緒につぶやいた。
「……わから……なかった……」
そうしてうとうとと眼を閉じかけた。たまらなく睡くなって来たので……。
「あっはっはっはっはっはっ」と志免警視が明るい声で笑い出した。矢張り死骸の事も忘れる位いい心持になっているらしく、私の真向いの椅子にどっかりと反り返りながら……、
「……わっはっはっはっ。流石さすがの課長殿も一杯喰いましたね。はっはっ。しかし今度の事件は全く意外な事ばかりだったのです。第一ハドルスキーが樫尾大尉という事は、僕ばかりでなく、松平局長も二三日前まで知らなかったそうですからね。一方に、あの曲馬団をあれ程に保証した××大使が今になって急に、あんなものは知らないとあっさり突き離すだろうとは樫尾大尉も思わなかったそうです。……僕等は又僕等で、あの曲馬団で無頼漢ごろつきどもが、日本の警察を紐育ニューヨークや市俄古シカゴあたりの腰抜け警察と間違えるような低級な連中ばかりだろうとは夢にも思いませんでしたからね。新聞記者を連れて行けば、こっちの公明正大さが大抵わかる筈と思ったんですが……何もかも案外ずくめでおしまいになっちまいましたよ。はっはっはっ」
「おかげ様で本望を遂げまして……」と志村のぶ子が相槌を打った。
「……いやア……貴女あなた方の剛気なのにも驚きましたよ」と志免警視はどこまでも明るい声で調子に乗った。一事件が済んだ後のちで私の前に来ると志免はいつもこうであった。
「……ゴンクールはきっと僕が生捕いけどりにして見せるからと云って嬢次君が藤波弁護士にことづけたんですけど、何だか不安でしようがなかったんです。……その上に樫尾君が事件の号外は新聞社に出させてもいい。現在の日本の新聞では号外に着手してから刷り出す迄の時間が最少限一時間程度で、横浜はそれから又三十分位遅れて出るのだから、その加減を見て横浜のグランドホテルに居るゴンクールに電話をかければ彼は東京と横浜の号外をドチラも見ないまま狭山さんの処へ来る事になる。一方に狭山さんは号外を見ておられるにきまっているからとても面白い取組になる。又、万一、途中でゴンクールが気が付いて逃げ出したにしても、大抵胆を潰している筈だから二度と手を出す気にはなるまい。あんな奴は国際問題に手を出す柄じゃない。市俄古あたりの玉ころがしの親分が似合い相当だと云うのです。私も成る程とは思いましたが、聊いささか残念に思っているところへ、帝国ホテルで荷物片付の指揮をしながら、私共の通訳をして美人連中を取調べていた樫尾君が、今柏木の狭山さんの処に居るゴンクールから電話だ……と云った時には飛び上りましたよ。天祐にも何にも向うから引っかかって来たんですからね……取るものも取りあえず部下を引っぱって向うの門の処まで来てみたんです。……ところが来てみると課長殿が窓一ぱいに立ちはだかって腰のピストルをしっかり握り締めながら、室へやの中を覗いておられるでしょう。そこで此奴こいつはうっかり手が出せないなと思ってそーっと課長殿の背後うしろの椿の蔭から覗いて見ると驚きましたねえ。……あのゴンクールの銃先つつさきを真向まともに見ながら、あれだけの芝居を打つなんか、とても吾々には出来ません。扉ドアの外で黙って見ているお母さんの気強さにも呆れましたが……手に汗を握らせられましたよ。まったく……」
志免警視は心から感心したらしく眼をしばたたいた。先刻さっきからてれ隠しに台所の方へ出たり入ったりしてお茶を入れかけていた嬢次母子おやこは首すじまで赤くなってしまった。・・・  
 
織田作之助

 

「夫婦善哉」
・・・その年も暮に近づいた。押しつまって何となく慌あわただしい気持のするある日、正月の紋附もんつきなどを取りに行くと言って、柳吉は梅田うめだ新道しんみちの家へ出掛けて行った。蝶子は水を浴びた気持がしたが、行くなという言葉がなぜか口に出なかった。その夜、宴会の口が掛って来たので、いつものように三味線をいれたトランクを提げて出掛けたが、心は重かった。柳吉が親の家へ紋附を取りに行ったというただそれだけの事として軽々しく考えられなかった。そこには妻も居れば子もいるのだ。三味線の音色は冴さえなかった。それでも、やはり襖紙がふるえるほどの声で歌い、やっとおひらきになって、雪の道を飛んで帰ってみると、柳吉は戻っていた。火鉢ひばちの前に中腰になり、酒で染まった顔をその中に突っ込むようにしょんぼり坐っているその容子ようすが、いかにも元気がないと、一目でわかった。蝶子はほっとした。――父親は柳吉の姿を見るなり、寝床ねどこの中で、何しに来たと呶鳴どなりつけたそうである。妻は籍せきを抜いて実家に帰り、女の子は柳吉の妹の筆子が十八の年で母親代りに面倒めんどうみているが、その子供にも会わせてもらえなかった。柳吉が蝶子と世帯を持ったと聴いて、父親は怒おこるというよりも柳吉を嘲笑ちょうしょうし、また、蝶子のことについてかなりひどい事を言ったということだった。――蝶子は「私わてのこと悪う言やはんのは無理おまへん」としんみりした。が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向って呟く気持を持った。自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜あとがまに坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望ほんもうや」そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井てんじょうを睨にらんでいた。
まえまえから、蝶子はチラシを綴とじて家計簿かけいぼを作り、ほうれん草三銭、風呂銭ふろせん三銭、ちり紙四銭、などと毎日の入費を書き込んで世帯を切り詰め、柳吉の毎日の小遣い以外に無駄な費用は慎つつしんで、ヤトナの儲けの半分ぐらいは貯金していたが、そのことがあってから、貯金に対する気の配り方も違って来た。一銭二銭の金も使い惜おしみ、半襟はんえりも垢あかじみた。正月を当てこんでうんと材料もとを仕入れるのだとて、種吉が仕入れの金を無心に来ると、「私わてには金みたいなもんあらへん」種吉と入れ代ってお辰が「維康さんにカフェたらいうとこイ行かす金あってもか」と言いに来たが、うんと言わなかった。
年が明け、松の内も過ぎた。はっきり勘当だと分ってから、柳吉のしょげ方はすこぶる哀れなものだった。父性愛ということもあった。蝶子に言われても、子供を無理に引き取る気の出なかったのは、いずれ帰参がかなうかも知れぬという下心があるためだったが、それでも、子供と離れていることはさすがに淋さびしいと、これは人ごとでなかった。ある日、昔の遊び友達に会い、誘さそわれると、もともと好きな道だったから、久しぶりにぐたぐたに酔うた。その夜はさすがに家をあけなかったが、翌日、蝶子が隠していた貯金帳をすっかりおろして、昨夜の返礼だとて友達を呼び出し、難波なんば新地へはまりこんで、二日、使い果して魂たましいの抜けた男のようにとぼとぼ黒門市場の路地裏長屋へ帰って来た。「帰るとこ、よう忘れんかったこっちゃな」そう言って蝶子は頸筋くびすじを掴んで突き倒し、肩をたたく時の要領で、頭をこつこつたたいた。「おばはん、何すんねん、無茶しな」しかし、抵抗ていこうする元気もないかのようだった。二日酔いで頭があばれとると、蒲団にくるまってうんうん唸うなっている柳吉の顔をピシャリと撲って、何となく外へ出た。千日前の愛進館で京山小円きょうやまこえんの浪花節を聴いたが、一人では面白いとも思えず、出ると、この二三日飯も咽喉へ通らなかったこととて急に空腹を感じ、楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。「自由軒ここのラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とかつて柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸に湧わいた。こっそり帰ってみると、柳吉はいびきをかいていた。だし抜けに、荒々あらあらしく揺すぶって、柳吉が眠い眼をあけると、「阿呆あほんだら」そして唇くちびるをとがらして柳吉の顔へもって行った。・・・  
「神経」
・・・宿屋の女将にいわせると、所持金ももう乏しくなっていたらしく、身なりもよれよれの銘仙にちょこんと人絹の帯を結んだだけだというし、窃盗が目的でなく、また込み入った情事があったとも思えない。レヴュ小屋通いをしているところを、不良少年に目をつけられ、ひきずり廻されたあげく、暴行され、発覚をおそれて殺されたのであろう。
「うちにもチョイチョイ来てましたぜ。いや、たしかにあの娘はんだす」
事件が新聞に出た当時、「花屋」という喫茶店の主人はそう私に言った。
「花屋」は千日前の弥生座の筋向いにある小綺麗な喫茶店だった。「花屋」の隣は「浪花湯」という銭湯である。「浪花湯」は東京式流しがあり、電気風呂がある。その頃日本橋筋二丁目の姉の家に寄宿していた私は、毎日この銭湯へ出掛けていたが、帰りにはいつも「花屋」へ立ち寄って、珈琲を飲んだ。「花屋」は夜中の二時過ぎまで店をあけていたので、夜更かしの好きな私には便利な店だった。それに筋向いの弥生座はピエルボイズ専門のレヴュ小屋で、小屋がハネると、レヴュガールがどやどやとはいって来るし、大阪劇場もつい鼻の先故、松竹歌劇の女優たちもファンと一緒にオムライスやトンカツを食べに来る。千日前界隈の料亭の仲居も店の帰りに寄って行く。銭湯の湯気の匂いも漂うて来る。浅草の「ハトヤ」という喫茶店に似て、それよりももっとはなやかで、そしてしみじみした千日前らしい店だった。
殺された娘も憧れのレヴュ女優の素顔を見たさに、「花屋」へ来ていたのであろう。小柄で、ずんぐりと肩がいかり、おむすびのような円い顔をしたその娘は、いつも隅のテーブルに坐って、おずおずした視線をレヴュ女優の方へ送り、サインを求めたり話しかけたりする勇気もないらしかった。女優と同じテーブルに坐ることも遠慮していたということである。そのくせ、女優たちが出て行くまで、腰を上げようとしなかった。
それほどのレヴュ好きの彼女が、死後四日間も楽屋裏の溝の中にはいっていたとは何かの因縁であろう。溝のハメ板の中に屍体があるとは知らず、女優たちは毎日その上を通っていたのである。娘としては本望であったかも知れない。
しかし、事件が新聞に出ると、大阪劇場の女優たちは気味悪がった。「花屋」へ来る女優たちは皆その娘の噂をしていた。いつも一階の前から三筋目の同じ席に来ていたので、いつか顔を見知っていただけに、一層実感が迫るのであろう。
「皆で金出し合うて、地蔵さんを祀ったげよか」
「そやそや、それがええ。祀ったげぜ、祀ったげぜ」
そんな話をしている隣のテーブルでは、ピエルボイズの男優たちが、弥生座の楽屋から見える連込宿の噂をしていた。連込宿の二階の窓にはカーテンが掛っているが、彼等は楽屋の窓から突き出した長い竿の先で、そっとそのカーテンをあけると内部の容子が手にとるように見えるというのであった。彼等は舞台の合間にその楽屋に上って来ては、宿の二階を覗く。何にも知らぬ若いレヴュガールを無理矢理その楽屋の窓へ連れて来て、見せると、泣きだす娘がある――その時の噂をしていた。
「チャー坊はまだ子供だからな」
「そうかな。俺アもうチャー坊は一切合財知ってると思ってたんだが……」
「しかし、まだ十七だぜ」
「十七っていったって、タカ助の奴なんざア、あら、今夜はシケねなんて、仰有ってやがらア。きゃつめ、あの二階を見るのがヤミつきになりやがって、太えアマだ」
「太えアマは昨日の娘だ。ありゃまだ二十前だぜ」
「二十前でも男をくわえ込むさ」
「ところが、一糸もまとわぬというんだから太えアマだ」
「淫売かも知れねえ」
「莫迦、淫売がそんな自堕落な、はしたないことをするもんか。素人にきまってらア」
「きまってるって、ははあん、こいつ、一糸もまとわさなかった覚えがあるんだな。太え野郎だ」
そんなみだらな話を聴いていると、ふと私は殺された娘のことが想い出された。楽屋裏の溝の中で死んでいたのは、レヴュ好きの彼女には本望であったかも知れないなどとは、いい加減な臆測だ。犯されたままの恥しい姿で横たわっているのは、殺されるよりも辛いことであったに違いない……。
「花屋」を出ると、私は手拭を肩に掛けたまま千日前の通りをブラブラ歩いて、常盤座の前の「千日堂」で煙草を買った。
「千日堂」は煙草も売っているが、飴屋であった。間口のだだっ広いその店の屋根には「何でも五割安」という看板が掛っていて、「五割安」という名前の方が通っていた。夏は冷やし飴も売り、冬は饀巻きを焼いて売っていたが、飴がこの店の名物になっていて、早朝から夜更くまで売れたので、店の戸を閉める暇がなく、千日前で徹夜をしているたった一軒の店であった。
「千日堂」でも殺された娘の噂をしていた。
「毎日飴買いに来てました。いや、きっとあの娘はんに違いおまへん」
買って来た飴をしゃぶりながら、安宿の煎餅蒲団にくるまって、レヴュのプログラムを眺めていたのかと、私は不憫に思った。・・・  
 
林不忘

 

「若き日の成吉思汗」
・・・合爾合カルカ姫 殿――! (泣き崩れる)
札木合ジャムカ (支えて)おお、お前はそこにいたのか。して、今の話を聞いたのか。
合爾合カルカ姫 はい。残らず聞きましてございます。憎いのは、あの成吉思汗ジンギスカンです。大方あの時、あなた様と、妾を争いましてから、ずっとこの機会を狙っていたのでございましょう。偉い大将に出世したと聞きましたが、やっぱり、昔のがむしゃらな成吉思汗ジンギスカン! ああ、妾はいったいどうしたら――。(泣き入る)
札木合ジャムカ (片手に抱いて)これ、なにもそんなに悲しむことはない。わしは、全種族の潰滅を期しても、お前をきゃつの手に渡そうなどとは思わないのだ。
合爾合カルカ姫 はい。そのお言葉で、妾はもう、死んでも思い残りはございません。ついては。――
札木合ジャムカ (突然回顧的に)なあ合爾合カルカ、お前がまだ瑣児肝失喇ソルカンシラ家の娘で、余も成吉思汗ジンギスカンも、名もなき遊牧の若者だったころ、二人でお前の愛を争った。おれが勝ってお前を得たことが、成吉思汗ジンギスカンの心にこの針を植え、きゃつを、かかる惨虐無道の悪魔にしてしまったのだ。たとい戦いには敗れ、星月の旗の名誉は失っても、おれにはまだお前があるぞ。ははははは、こ、これ、この合爾合カルカがあるぞ。
合爾合カルカ姫 そんなにおっしゃって下すって、ほんとうに、もったいのうございます。つきましては、妾の心一つで、この札荅蘭ジャダラン族の人たちが助かり、またあなた様もこのお城も、事無きを得ますならば、あなた、妾は決心いたしました。どうぞこの合爾合カルカを成吉思汗ジンギスカンの陣営へお遣し下さいませ。
札木合ジャムカ (急き込んで)な、なに? お前は何を言う。この上おれを、札荅蘭ジャダランの札木合ジャムカは、妻の操で一身の安全を買った腰抜け武士だと、後世までの笑い草にしたいのか。軍には敗れたが恋には勝った、それがこの札木合ジャムカの、死際の唯一の慰めだということが、合爾合カルカ! お前には解らないのか。
合爾合カルカ姫 (必死に)いいえ、ただ妾は、あなた様と、城下の人たちをお助けしたいばっかりに、あの蛇のような執念ぶかい成吉思汗ジンギスカンに、この身を――。
札木合ジャムカ いや! 聞きたくない。お前、気でも違ったのか。そんなことを考えるだけで、このおれの胸は張り裂けんばかりだ。お前の身を守るためには、わしの命はおろか、城も惜しくはない。城下の民など、砂漠の鬼と消えるがいい。
合爾合カルカ姫 (追い縋って)いえ、あの、わたくしにも考えがございますから、どうぞ、一人で城を出ることをお許し下さいまし。
札木合ジャムカ ええいっ、くどい! お前には、かほどまでに言うおれの心がわからないのか。(参謀へ)最後の一戦だ。みな来い!
泣いて取りすがる合爾合カルカ姫を振り解いて、札木合ジャムカは決然と露台から奥へ駈け去る。参謀ら続いて走り入る。長い間。
侍女一 (良人の後を見送ったのち、首垂れて考え込んでいる合爾合カルカ姫に近づき)奥方様、あれほどまでにおっしゃる殿様のお胸の中、女子として、奥方さまもさぞ本望でございましょう。もはやわたくしども一同、奥方様のお供をして、戦死の覚悟ができましてございます。
侍女二 (正面の露台へ駈け出て)あれ! どうやら砂漠の地平線が、ぽうっと青白くなってまいりました。月が昇るのではございますまいか。月の出を合図に、あの恐しい成吉思汗ジンギスカン軍の荒武者どもが、乗り込んで来るとのこと。ああ、どうしたらよいか――。
侍女三 あれあれ! ほんとうにあの砂丘の果てに、ほのかに青い月の光がさし初めました。ああ、もう何刻なんときの生命いのちやら――おお! 中庭で、この軍使を煮る油を沸かしはじめました。ああ、何という恐しい! (と眼を覆う)
露台の向うから、紫いろの油の煙りが濛々と立ち昇る。合爾合カルカ姫と侍女らは、凝然と露台の外を見守る。
合爾合カルカ姫 (ひとり言のように)昔の成吉思汗ジンギスカンの恋が、ここへ来て、こんな恐しい仕返しをしようとは――。(泣く)
侍女二 お察し申し上げます。
侍女一 でも、殿様のあのお言葉、ほんとうに女冥利、嬉し涙が溢こぼれてなりませぬ。・・・  
「丹下左膳」
・・・片袖ちぎれた丹下左膳が大松の幹を背にしてよろめき立って、左手に取った乾雲丸二尺三寸に、今しも血振るいをくれているところ。
別れれば必ず血をみるという妖刀が、すでに血を味わったのだ。
松の根方、左膳の裾にからんで、黒い影がうずくまっているのは、左膳の片袖を頭からすっぽりとかぶせられた弥生の姿であった。
神変夢想の働きはこの機! とばかり、ずらりと遠輪に囲んだ剣陣が、網をしめるよう……じ、じ、じッと爪先刻きざみに迫ってゆく。
刀痕とうこん鮮かな左膳の顔が笑いにゆがみ、隻眼が光る。
「この刀で、すぱりとな、てめえ達の土性どしょうッ骨を割り下げる時がたまらねえんだ。肉が刃を咬んでヨ、ヒクヒクと手に伝わらあナ――うふっ! 来いッ、どっちからでもッ!」
無言。光鋩こうぼう一つ動かない。
鉄斎は? 見ると。
われを忘れたように両手を背後に組んで、円陣の外から、この尾羽おは打枯うちからした浪人の太刀さばきに見惚れている。敵味方を超越して、ほほうこれは珍しい遣つかい手だわいとでもいいたげなようす!
焦いら立ったか門弟のひとり、松をへだてて左膳のまうしろへまわり、草に刀を伏せて……ヒタヒタと慕い寄ったと見るまに、
「えいッ!」
立ち上がりざま、下から突きあげたが、
「こいつウ!」と呻いた左膳の気合いが寸刻早く乾雲空くうを切ってバサッと血しぶきが立ったかと思うと、突いてきた一刀が彗星すいせいのように闇黒に飛んで、身体ははや地にのけぞっている。
弥生の悲鳴が、尾を引いて陰森いんしんたる樹立ちに反響こだました。
これを機会に、弧を画いている刃襖はぶすまからばらばらと四、五人の人影が躍り出て、咬閃こうせん入り乱れて左膳を包んだ。
が、人血を求めてひとりでに走るのが乾雲丸だ。しかも! それが剣鬼左膳の手にある!
来たなッ! と見るや、膝をついて隻手の左剣、逆に、左から右へといくつかの脛すねをかっ裂いて、倒れるところを蹴散らし、踏み越え、左膳の乾雲丸、一気に鉄斎を望んで馳駆ちくしてくる。
ダッ……とさがった鉄斎、払いは払ったが、相手は丹下左膳ではなく魔刀乾雲である。引っぱずしておいて立てなおすまもなく、二の太刀が肘ひじをかすめて、つぎに、乾雲丸はしたたか鉄斎の肩へ食い入っていた。
「お! 栄ッ! 栄三――」
そうだ栄三郎は何をしている? 言うまでもない。武蔵太郎安国をかざして飛鳥ッ! と撃ちこんだ栄三郎の初剣は、虚を食ってツウ……イと流れた。
「おのれッ!」と追いすがると、左膳は、もうもとの松の根へとって返し、肉迫する栄三郎の前に弥生を引きまわして、乾雲丸の切先であしらいながら、
「斬れよ、この娘を先に!」
白刃と白刃との中間に狂い立った弥生、血を吐くような声で絶叫した。
「栄三郎様ッ、斬って! 斬って! あなたのお手にかかれば本望ですッ……さ、早く」
栄三郎がひるむ隙に、松の垂れ枝へ手をかけた左膳、抜き身の乾雲丸をさげたまま、かまきりのような身体が塀を足場にしたかと思うと、トンと地に音して外に降り立った。
火のよう――じんの声と拍子木ひょうしぎ。
それが町角へ消えてから小半刻こはんときもたったか。麹町こうじまち三番町、百五十石小普請こぶしん入りの旗本土屋多門つちやたもん方の表門を、ドンドンと乱打する者がある。
「ちッ。なんだい今ごろ、町医じゃあるめぇし」寝ようとしていた庭番の老爺ろうやが、つぶやきながら出て行って潜くぐりをあけると、一拍子に、息せききって、森徹馬がとびこんで来た。
「おう! あなた様は根津の道場の――」
御主人へ火急の用! と言ったまま、徹馬は敷き台へ崩れてしまった。
土屋多門は鉄斎の従弟、小野塚家にとってたった一人の身寄りなので、徹馬は変事を知らせに曙の里からここまで駈けつづけて来たのだ。
何事が起こったのか……と、寝巻姿に提さげ刀で立ち現われた多門へ、徹馬は今宵の騒ぎを逐一ちくいち伝える。
――丹下左膳という無法者が舞いこみ、大事の仕合に一の勝ちをとって乾雲丸を佩受はいじゅしたこと、そして、さしたまま逃亡しようとして発見され鉄斎先生はじめ十数人を斬って脱出した……しかも、刀が乾雲丸の故か、斬られた者は、重軽傷を問わずすべて即死! と聞いて、多門はせきこんだ。
「老先生もかッ」
「ざ、残念――おいたわしい限りにございます」
「チエイッ! 御老人は年歳としは年齢だが、お手前をはじめ諏訪など、だいぶ手ききが揃っておると聞いたに、なななんたる不覚――」
徹馬は、外へ探しに出ていて、裏塀を乗り越えるところを見つけて斬りつけたが、なにしろこの暗夜、それに乾雲丸の切先鋭するどく、とうとう門前町もんぜんちょうの方角へ丹下の影を見失ってしまった。こう弁解らしくつけたしたかれの言葉は、もはや多門の耳へははいらなかった。・・・
・・・「もしこれが戦国の世ならば」と、竹田は、一気につづけて、
「上様うえさまの御馬前に花と散って、日ごろの君恩に報い、武士もののふの本懐とげる機会もござりましょうに、かように和平あいつづきましては、その折りとてもなく、何をもってか葵あおい累代るいだいの御恩寵ごおんちょうにこたえたてまつらんと……いえ、主人左近将監は、いつも口ぐせのようにそう申しております。ところで、このたびの日光大修営、乱世に武をもって報ずるも、この文治の御代に黄金こがねをもってお役にたつも、御恩返しのこころは同じこと。ましてや、流れも清き徳川の源、権現様ごんげんさまの御廟ごびょうをおつくろい申しあげるのですから、たとい、一藩はそのまま食うや食わずに枯れはてても、君の馬前に討死すると同じ武士もののふの本望――」
「いや、見上げたお志じゃ。よくわかり申した」
来る使いも、来る使いも、この同じ文句を並べるので、主水正、聞きあきている。
「いえ、もうホンのすこし、使いの口上だけは、お聞きねがわないと、拙者の役表がたちませぬ――まことに、この日光おなおしこそは、願ってもない御恩報じの好機である。なんとかして自分方へ御用命にならぬものかと、それはいずれさまも同じ思いでございましたろうが、ことに主人将監などは、そのため、日夜神仏に祈願をこらしておりましたところ……」
主水正は、そっぽを向いて、
「何を言わるる。口はちょうほうなものだテ。祈願は祈願でも、なかみが違っておったでござろう。どうぞ、どうぞ日光があたりませぬように、とナ」
この言葉を消そうと、竹田なにがしは大声に、
「主人将監は、将軍家平素の御鴻恩ごこうおんに報ゆるはこの秋とき、なんとかして日光御下命の栄典に浴したいものじゃと、日夜神仏に祈願、ほんとでござる、水垢離みずごりまでとってねがっておりましたにかかわらず、あわれいつぞやの殿中金魚籤きんぎょくじの結果は、ああ天なるかな、命めいなるかな、天道ついに主人将監を見すてまして、光栄の女神はとうとう貴柳生藩の上に微笑むこととあいなり……」
「コ、これ、竹田氏とやら、よいかげんにねがいたい。あまり調子に乗らんように」
「その時の主人将監の失望、落胆、アア、この世には、神も仏もないかと申しまして、はい、三日ほど床につきましてござります」
「厄落やくおとし祝賀会の宿酔ふつかよいでござったろう」
「文武の神に見放されたかと、その節の主人の悲嘆は、はたの見る眼もあわれで、そばにつかえる拙者どもまで、なぐさめようもなく、いかい難儀をつかまつりました」
「どれもこれも、みな印刷したような同じ文句を言ってくる。そんなにうらやましいなら、光栄ある日光造営奉行のお役、残念ではあるがお譲り申してもさしつかえない、ははははは」
「イヤ、とんでもない! せっかくおあたりになった名誉のお役、どうぞおかまいなくお運びくださるよう――さて、今日拙者が参堂いたしましたる用と申しまするは……」
「いや、それもズンと承知。造営奉行の籤くじがはずれて、はなはだ残念だから、ついては、その組下のお畳奉行、もしくはお作事目付の役をふりあててもらいたい、と、かように仰せらるるのであろうがな」
「は。よく御存じで――おっしゃるとおり、二十年目の好機会を前にして、この日光御修理になんの力もいたすことができんとは、あまりに遺憾、せめてはお畳奉行かお作事目付にありつきたく、こんにちそのお願いにあがりましたる次第」
言いながら竹田は、定紋つきの風呂敷につつんだ細長いものを、主水正の前へ置きなおして、
「石川家伝来、長船おさふねの名刀一口ふり、ほんの名刺代り。つつがなく日光御用おはたしにあいなるようにと、主人将監の微意にござりまする。お国おもての対馬守御前へ、よろしく御披露のほどを……」
あらためて、平伏した。・・・
・・・ふしぎなことがある。
左膳がこの焼け跡へかけつけたとき、いろいろと彼が、火事の模様などをきいた町人風の男があった。
そのほか。
近所の者らしい百姓風や商人体が、焼け跡をとりまいて、ワイワイと言っていたが。
この客人大権現まろうどだいごんげんの森を出はずれ、銀のうろこを浮かべたような、さむざむしい三方子川さんぼうしがわをすこし上流にさかのぼったところ、小高い丘のかげに、一軒の物置小屋がある。
近くの農家が、収穫とりいれどきに共同に穀物でも入れておくところらしいが……。
空いっぱいに茜あかねの色が流れて、小寒い烏の声が二つ三つ、ななめに夕やけをつっきって啼きわたるころ。
夕方を待っていたかのように、その藁わら屋根の小屋に、ポツンと灯がともって、広くもない土間に農具の立てかけてあるのを片づけ、人影がザワザワしている。
「イヤ、これで仕事は成就したも同様じゃ。強いだけで知恵のたらぬ伊賀の暴れン坊、今ごろは、三方子川の水の冷たさをつくづく思い知ったであろうよ、ワッハッハ」と、その同勢の真ん中、むしろの上にあぐらをかいて、牛のような巨体をゆるがせているのは、思いきや、あの司馬道場の師範代、峰丹波みねたんば。
「ほんとうにむごたらしいけれど、敵味方とわかれてみれば、これもしかたがないねえ」
大きな丹波の肩にかくれて、見えなかったが、こう言って溜息をついたのは、お蓮様である。
取りまく不知火しらぬい連中の中から、誰かが、
「ムフフ、御後室様はいまだにあの源三郎のことを……」
お蓮様は、さびしそうな笑顔を、その声の来たうす暗いほうへ向けて、
「何を言うんです。剣で殺されるのなら、伊賀の暴れン坊も本望だろうけれど、お前達の中に誰一人、あの源様に歯のたつ者はないものだから、しょうことなしに、おとし穴の水責め……さぞ源さまはおくやしかろうと、わたしはそれを言っているだけさ」
「そうです」と丹波は、ニヤニヤ笑いながら一同へ、
「お蓮様は武士道の本義から、伊賀の源三に御同情なさっているだけのことだ。よけいな口をたたくものではない」と、わざとらしいたしなめ顔。
「そこへ、あの丹下左膳という無法者まで、飛びこんできて、頼まれもしないのに穴へ落ちてくれたのだから、当方にとっては、これこそまさに一石二鳥――」
みなは思い思いに語をつづけて、
「もうこれで、問題のすべては片づいたというものだ。今ごろは二人で、穴の中の水底であがいているであろう」
両手で顔をおおったお蓮さまを、ジロリと見やって、
「サア、これで夜中を待って、上からあのおとし穴をうめてしまうだけのことだ」
「何百年か後の世に、江戸の町がのびて、あの辺も町家つづきになり、地ならしでもすることがあれば、昔の三方子川という流れの下から、二つの白骨がだきあって発見さるるであろう、アハハハ」
いい気で話しあっているこの連中を、よく見ると、みなあの焼け跡の近所をウロウロしていた農夫や、町人どもで、あれはすべて司馬道場の弟子の扮装だったのだ。それとなく火事の跡のようすを偵察していたものとみえる。
「サア、酒がきたぞ」 大声とともに、一升徳利をいくつもかかえこんで、このとき、納屋へかけこんできた者がある。・・・
・・・異様な微笑をもらした左膳、追いすがりに、タタタと砂をならして踏みきるがはやいか、また一人二人、うしろから袈裟けさがけに……。
なめきっていた相手に、この、神しんに似た剣腕があろうとは!
石川左近将監の家来一統は、白い砂浜にごまを散らすように、バラバラバラッと――。
宰領の竹田が、血煙たてて倒れたのですから、もう壺どころのさわぎではない。
お壺の駕籠をそこへおっぽりだしたまま。
雲をかすみ。
みごとな黒塗りのお駕籠が、砂にまみれてころがっている。
走り寄った左膳は、ニッコリ顔をゆがめながら――これがほんとうの思う壺だ。
手の濡れ燕をもって、バリバリッと駕籠の引き戸を斬り破り、錦の袋につつまれた茶壺を、刀の先に引っかけてとりだした。
石川左近将監自慢の、呂宋ルソン古渡こわたりのお茶壺です。
濡れ燕を砂に突き立てた左膳。
ひとつきりの左手と、歯を使って、袋の結び目をといてみた。出てきたのは、朱紐しゅひもで編んだスガリをかけた、なるほど茶壺には相違ないが、目ざすこけ猿とは似ても似つかない。
が、左膳はべつに失望もいたしません。
これがこけ猿の茶壺でないことは、はじめからわかっている。
こうやって、宇治の茶匠のあいだを往来ゆききする大名の壺を、かたっぱしからおそっているうちには、どういうはずみでか、何者かの手にはいった真のこけ猿に出会わないともかぎらない。こういう左膳の肚ですから、なんでもいい、壺とさえ見れば掠奪するのだ。
  今日はその第一着手。
  煮しめたような博多の帯に、左膳、矢立をさしている。
  それを抜き取って、つぎに懐中から、懐紙を二つに折った横綴の帳面を取りだした。
  表紙を見ると、左膳一流の曲がったような、一風格のある字で、
  心願百壺あつめ  享保――年七月吉日
と書いてある。
大名の茶壺行列へ斬りこんで、これから百個の壺を集めようというのらしい。七月吉日とありますが、斬りこまれるほうにとっては、どう考えてもあんまり吉日ではありません。
これは、その筆初め。
片膝ついたうえに、その帳面の第一ページを開いた丹下左膳。
片手ですから、こういうときはとても不便だ。
矢立を砂に置き、筆を左手に持ちかえて、たっぷり墨をふくませたかとおもうと、
「石川左近将監殿御壺一個、百潮ももしおの銘めいあり 駿州千本松原にて」と、サラサラとしたため終わった。
そして、片手に壺を握るやいなや、
「百潮というからには、海へ帰りゃあ本望だろう」
ドブーン――!
うちよせる波へ、その壺を投げこんでおいて、あとをも見ずにスタスタ歩きだした。
ほんとに、百の壺を集めるうちには、どういういきさつで真のこけ猿が現われないものでもないと、左膳はまったく信じているのだろうか。
そんなことは、どうでもいいので。
茶壺というものに対して、魔のような迷執を持ちはじめた丹下左膳、ただ、壺を手にすればいいのだ。いや、濡れ燕に人血を浴びさせればいいのだ。ひょうひょうとして左膳はたちさって行きます。・・・  
 
松本清張

 

「黒の様式」
・・・そうなることが私の本望です。・・・
「迷走地図」
・・・しかし、中道にして仆れても本望です。 ・・・
 
平田晋策

 

「昭和遊撃隊」
・・・荒鷲最後の攻撃
フーラー博士は荒れ狂う海上を走る三隻の潜水艦を見て、ぞっとした。
夕闇をすかして眺めると、まぎれもない日本の潜水巡洋艦だ。
「もうだめだ。」博士は青くなって、スミス少佐と顔を見あわした。
『最上』の光線に第二発動機を焼かれ、翼を傷つけられたよろよろの『荒鷲』が、どうして新手あらての潜水遊撃隊と戦うことが出来ようか。
「仕方がない。初陣ういじんで戦死するのも運命だ。」フーラー博士は、心の中で最後の決心をした。
「スミス少佐。爆弾はまだ残っていたね。」
「はい、五百キロ爆弾が、一つだけ残っています。」
「よし、それで最後の合戦をしよう。武田博士の潜水艦を一隻でも沈めてやれば、僕は本望ほんもうだ。」
博士は、にやりと気味悪く笑った。
さあ、さっきの仇かたきうちだ。
『荒鷲』は、残った第一発動機をうならせながら、黒い黒い雨雲の中へかくれてしまった。
雲にかくれて、しのびより、不意討ふいうちをやろうとするのである。
スミス少佐がじっと時計の秒針を見ている。一秒、二秒、三秒、五秒――二十秒。
「艇長、もう敵の頭の上へ来ただろう。」
「はい、いよいよ爆撃です。」
スミス少佐の命令一下、『荒鷲』はぐっと機首を下げて、雲の中から波をめがけて、急降下ダイヴをやった。
死もの狂いの攻撃だ。ああ『八島』か『秋津洲』か『千代田』か、潜水遊撃隊のどの艦ふねかが、五百キロ爆弾の餌食えじきになるのではないだろうか? それとも、『荒鷲』が又『第十三号光線』を放射されて、あわれな最期をとげるのだろうか?
『荒鷲』の乗組員は、みな血走った眼で海の上をにらみつけた。しかし、奇怪千万!
二十秒前まで浮いていた潜水艦の姿が、もう見えないのだ。くらい海には波が狂い、風がごうごうとほえているばかりで、めざす日本潜水艦の影はない。
「逃したか。」
フーラー博士は口惜しそうに歯ぎしりした。
「しかし、わずか二十秒で潜水するとは、敵ながらあっぱれなやつら等だ。」――博士は心の中で、日本潜水艦のすばやい行動に舌をまいて驚いた。
「博士、敵はこちらの弱っていることを、知らないんですね。」
スミス艇長が青い眼を光らせた。
「うん、そうかも知れない。潜っていてもいいから、爆弾を落してやろう。」
博士は指さきに力を入れて、釦ボタンをぐっと押した。大きな爆弾が、黒い魔物のように、海の底へ落ちてゆく。
「ははは………、爆弾よ。海の底へ逃げてゆく敵艦を、どんどん追っかけてやれ。」
博士は、機上から手を振って、最後の爆弾に別れを告げた。
「どこにいるのか知らないが武田博士よ、これで今日の戦いは勝負なしだぞ。」・・・
・・・『八島』の最期
爆雷は世界大戦の時、さんざんドイツの潜水艦に苦しめられた英国大艦隊の司令長官ゼリコー元帥が、憎い憎い潜水艦を、やっつけようとして考え出した武器だ。
六十米メートルぐらいの深さまで落ちてから、爆発する。その爆発する力で、潜水艦をこわすのである。
『八島』は百米よりももっと深いところへ沈んでいるのだ。だから、頭のま上で爆雷が破裂しても、四十米も離れているから、ひびが入るほどひびいて来ないわけである。
しかし、『八島』は本多鋼鉄でこしらえた艦ふねではない。その鋼はがねは『最上』なんかよりは、弱いのだ。深い深い海の底では、水の重さに圧おされて殻かく(潜水艦の胴体)が、みしりみしりと変な音を立てる。
そして、どこからか、ぽとぽとと水がもってくる。むし暑い、にごった空気が、呼吸を苦しくする。
そのうちに、爆雷のひびきがだんだん強くなり、ごォーッごォーッと、耳のすぐ近くで聞え出した。そのたびに『八島』はぐらぐらとゆさぶられる。
「司令官、敵の爆雷は八十米近くで破裂していますよ。」
柴田少佐が眉毛をしかめた。
敵の駆逐艦は、すごい爆雷を持ち出したらしい。動くと音を聞き出されるから危いし、じっとかくれていても危い。
「いまいましいなあ。」
青木大佐がぎょろりとした眼をむいて、上をにらんだ時、どどどどどどどどと地ひびきがして、『八島』はぐらぐらとかたむいた。すぐ近くで爆雷が破裂したのだ。
キキキキ……、鋼が悲鳴をあげて、鋲びょうがゆるんだ。
「あッ、艦長。浸水しましたッ。」
けたたましい叫声さけびごえと一しょに、海水がひびの入ったすき間から、どッと噴き出した。
「しまったッ。」
青木司令官は、さっと顔色を変えたが、もうおそい。
海水は瀑たきのように流れこみ、みるみるうちに『八島』の中は水びたしだ。
「残念だ。」
「おれはもっと暴れたかったなあ。」
水兵たちの口惜しがる声を聞きながら、青木大佐は、壁に向ってペンキの刷毛はけを動かした。悲しい最後の言葉を書きつけるのだ。
「陛下の艦を失って申しわけなし。紅玉島を攻撃したことが、無念の中うちの本望なり。部下は一人として死を恐れず、軍紀厳正なり。臣青木大佐、死しても護国の鬼とならん」
白ペンキの壁に、黒ペンキの色があざやかである。
水はもう胸まで来た。
「司令官、自分にも一筆書かして下さい。」
柴田少佐は、泳ぎながら、天井へ黒々と刷毛をふるった。
「大元帥陛下万歳 帝国海軍万才 紅玉島一番槍 潜水カン八島 万ザイ。」
ああもう最期だ。少佐の黒い頭が渦巻く水の中へかくれてしまった。火が消えて、あたりはまっ暗になった。
どこから嗅かぎつけたのか、『海の殺人鬼』の鮫が、十匹、十五匹と牙きばを光らせて、しのびよって来る。
海行かば水みづく屍かばね――こうして『八島』七十人の勇士は、永遠に太平洋の水底に眠ることになったのだ。
勇士の墓場の上では、十八隻のA国駆逐艦が、猟犬のように入りみだれて、走りまわっている。
金剛石岬の上へ、三日月が、ぼんやりと上って来た。・・・
・・・Y代のいのり
小笠原島の沖では、もう大海戦がはじまっている。
昭和遊撃隊は、「決戦におくれては大変だ。」と、朝やけの海を、大いそぎで北の戦場へ走って行く。
三十六ノットの戦闘速力だ。ものすごい勢いで、波を切って突進する。
Y代さんは旗艦『最上』の櫓の上に立って、まだすこしうす暗い北の空を、じいーっと見つめた。美しい目に、悲しみの影がうかんでいる。
「ああとうとう決戦の時が来たんだわ。だけど、だけど、日本は本当に勝つかしら? こちらには末山大将がいらっしゃるけれど、もしももしもあの恐しいフーラー博士の『荒鷲』が出て来たら……ああどうしょう?」
小さい胸に、後から後から心配がわいてくる。Y代さんは、そっと目を伏せた。小さい唇がかすかに動いている。お祈をしているのだ。
「……代々木の森にしずまります明治天皇さまの尊いみたまに申し上げます。どうか海軍をお守り下さいませ。神風をお起し下さいませ。そして、そして、この昭和遊撃隊が、大きな大きな手柄を立てますように……」
後の言葉は、にわかに起ったはげしいつむじ風の音で、消されてしまった。
木下大佐の命令で、わが『最上』が、全速力を出しはじめたのだ。そのあおりで、一陣のつむじ風がまき起ったのである。
ああ四十五ノットの全速力! じつに、すごいスピードだ。見る見る遊撃隊はしぶきの煙につつまれ、風はごうごうと吠ほえ立てる。
檣マストの戦闘旗が、いまにも、ビリビリひき裂かれやしないかと思うばかり。
Y代さんは、櫓の中にいるのに、よろよろとよろけて、吹きとばされそうになった。
「もっと、もっと、急いで頂戴。」
Y代さんは、心の中で叫んだ。
その時、はるか水平線の向うから、どどどどどどどどどどごォーッと、雷のような砲声がひびいて来た。海戦は、もう、はじまっているのだ。
ああ、わが艦隊は、勝っているのだろうか、それとも、もしや、旗色がわるいのではないだろうか。
Y代さんは、心配で心配で、思わず甲板に坐ってしまった。
「神さま、どうかこのY代を傷つけて下さいませ。いいえ、それよりも生命をおめし下さいませ。昔、弟橘媛おとたちばなひめが日本武尊やまとたけるのみことのために、おん身を犠牲にあそばしたように、Y代は、昭和遊撃隊の身がわりになって、死にとうございます。この小さい生命が消えても、遊撃隊の勝利が残ったら、それで、それで、本望です。」――
Y代さんは、すっかり決心を、してしまった。
女だから戦闘は出来ない。しかし、日本の少女の、本当の勇気を見せて、味方をはげますことは出来るのだ。オルレアンの少女ジャンヌ・ダルクが、勇ましくも戦いの先頭に立ったように、Y代さんも、敵弾にうたれて、遊撃隊三千の勇士の心を、ふるい立たせようと、決心したのだ。
――ああ、砲声は、いよいよ近くなった。昭和遊撃隊は怒ったライオンの群のように、戦場へ急ぐ。
白い水煙は、勇ましいたてがみだ。十五糎の大砲はするどい牙だ。わがY代さんは、このライオンにまたがる戦いの女神だ。・・・
・・・『千代田』と『鯨』の一戦
『千代田』と『秋津洲』は砲声を聞いて北東に急いでいると、向うから三隻の怪物がやって来るのを見た。
『鯨』と『海賊』と『竜巻』だ。
北浦少佐は、清少年の腕をつかまえて、
「おい、いい獲物だぞ。」と、白い歯をむき出して、にやりと笑った。敵が見たら、さぞ気味の悪い笑わらいだろう。
さあ、二十四糎砲が敵の影をねらった。
「打方うちかた始め!」
少佐のどら声が夕空にひびきわたる。
赤い火を吹いて、大砲弾はとび出した。遊撃隊最後の一戦だ。
敵も勇敢に射ち出した。しかし、十二糎砲と二十糎砲では、勝負にならない。
五分間ばかり射ちあうと、もうA国艦隊には、負色まけいろが見えた。
『海賊』が、もえ出した。『竜巻』も砲をこわされて黙ってしまった。
ただ『鯨』だけが、傷をおいながら戦いをつづけるのである。さすがは、末山大将の友だちだけあって、オーガン大佐は強い船乗ふなのりだ。
彼は『鯨』を指揮して、十五分間戦った。そしてとうとう『海賊』『竜巻』の後を追って沈没した。『鯨』の歌にあるように、「夜はまっくら、あかりは消えた」のだ。もえながら沈む『鯨』の姿は、敵ながら気高かった。国のために死ぬる者はとうとい。
「かわいそうだなあ。」
清少年は、沈んで行く敵艦に、不動の姿勢をとって、敬礼を送った。
北浦少佐は、波にただよう敵兵を見て、「たすけてやれ。」と『救助』の号令を下した。
しかし、波が荒い。夕日が沈んで、海がくらくなりかけた。敵兵はみるみる波にのまれてしまう。空には信天翁がくちばしを尖とがらして、死人の肉をつつこうとしている。
『千代田』は、いろいろと苦心したが、とうとう五人しか救うことが出来なかった。
その敵の中に、一人の士官がいた。するどい眼をしている。腕に傷して、血がたらたら流れている。
「おお、君は、オーガン大佐じゃないか。」
北浦少佐は、その男の顔をじっと見た。敵の士官も、じっと少佐の顔を見た。
「ああ、君は北浦大尉か? 末山大将の副官だったね。」
「そうだよ。去年の暮に少佐になったよ。」
「それは、おめでとう。とうとう戦場で出あったね。僕は君の捕虜になってうれしいよ。」
「うん、君らしく勇敢に戦ったな。敵ながら感心したぞ。つかれただろう。どうだい、葡萄酒ぶどうしゅをやろうか?」
北浦少佐は、なつかしそうに、オーガン大佐の肩をたたいた。しかし、大佐は、悲しげに、うなだれて、
「いや、僕は末山大将を殺した男だ。日本海軍のためには悪魔だ。たのむから、ここで銃殺してくれ。」
「なにッ? じゃ旗艦を沈めたのは君か?」
「そうだ。さあ、殺してくれ。末山提督の仇を討ってくれ。」
オーガン大佐は、北浦艦長につめよった。
「僕はいやだ。捕虜の勇士を殺すことは出来ん。」
北浦少佐は、涙の眼で、ことわった。
「じゃ、君。君、僕を射ってくれないか。」
オーガン大佐は、清君によびかけた。
「君は少年勇士だな。そうだ。勇ましい日本の少年の手にかかって死んだら、僕は本望だよ。」
――清君は困ってもじもじした。
その時だ。フーラー博士の悪魔の無電が、わが『千代田』にもかかって来た。
「日本海軍よ。かくごせよ。昭和遊撃隊よ。墓場がまっているぞ。」
気味の悪い声が、黒雲の向うから、ひびいて来た。・・・
・・・碧海島へ
『最上』はさみしく碧海島へかえって来た。ああ、なつかしい碧海島。苔こけむす絶壁の上には、信天翁あほうどりの群が飛びかっている。北の水門には、ものすごい海流が渦巻いている。
「ああ、なつかしい碧海島よ。あたし、とうとう帰って来たわ。」
Y代さんの美しい瞳は、涙にぬれている。フーラー毒ガスに中毒したのか、顔の色が、青くてさみしい。
……『最上』は、あぶない水門を乗り切って、狼岩のかげに一まず、錨を下した。
碧海湾をかこむ大絶壁は、はじめて見た時と変りのない、雄大な姿を見せている。
蓮華岳、燕岳、槍岳の連峰は、黒々とそびえ、かすかに見える燕岳の麓には、『千種』の洞窟が、ぽっかりと口をあけている。
ああ、洞窟の秘密根拠地は変らないが、それに入る『千種』の姿は、もう見ることが出来ないのだ。
Y代さんは、かなし気に、うなだれた。
木下大佐も、小川中佐も、みな青い顔をしている。
   ○
やがて『最上』は、槍岳の洞窟へ入った。
富士洞窟から武田博士が、やって来た。博士もひどい苦労をしているのか、髭をぼうぼうと生はやし、頬がげっそりとこけている。
「よくやったなあ。」
博士は、木下大佐に声をかけた。
「よくやらんぞ。僕は残念だ。」
木下大佐の鬼のような眼から、はらはらと涙がこぼれた。
「A国艦隊は全滅したが、フーラー博士は、まだ生きているんだ。最後につかまって、さんざんやられたぞ。まあ、これを見てくれ。」
大佐は、皺しわくちゃになったフーラー博士の手紙を、にくにくし気にとり出した。
武田博士の眼がきらりと光った。
「なあに、心配するな。もう一月もしたら、『富士』が出来上るよ。」
「もっと早くやれんか。ぐずぐずしていると、日本はほろびるぞ。」
「うん、僕も生命いのちがけで急いでいるんだ。潜水艦としては、すっかり出来上っているんだがね。肝心のあの点がまだ出来ない。」
博士は、くらい顔をした。「肝心のあの点」とは何だろうか。謎のような言葉である。
「そうか。まだあれが出来ないか。」
木下大佐もため息をついた。
武田博士は、言葉をかえて、
「木下大佐。いま、さっき『千代田』と『秋津洲』が帰って来たがね。北浦少佐に聞くと、小笠原の南に、B国の大艦隊が来ているそうじゃないか。」
「えッ? B国艦隊が? 僕は知らんね。」
木下大佐は、おどろいた。
「油断は出来ん。日本がA国と苦戦して、弱ってると見たら、ずるいB国海軍だからね。台湾や小笠原あたりを占領するかもしれんぞ。」
「いや、そんな卑怯な、虫のいいことは、僕がさせん。」
「させちゃたまらんよ。まだ『最上』と『千代田』と『秋津洲』が、残っているんだからね。」
「それに、東京湾には、『金剛』も『伊勢』も、『扶桑』もいるぞ。傷をうけたが『陸奥』も戦える。B国あたりに負けてたまるものか。」
木下大佐は、すごい形相で、立ち上った。
「どうだ。お気の毒だが、今夜すぐに小笠原の沖を出てくれないか。」
「よし、すぐに出動しよう。君は『富士』を急いでくれよ。」
「うん、今に見ろ。A国もB国も、いや、世界を驚かしてやるからな。」
二人の大佐は、腰の短剣をカチリと鳴らした。――ずるいB国、南洋に大軍港をきずいて、ひそかに東洋の大乱をねらっているB国海軍。
それが、そろそろ魔の手をのばしはじめたのだ。
東には怪物フーラー博士。南からは新手あらてのB国大艦隊。――昭和遊撃隊は、いよいよ苦しい。
しかし、この秘密島を根拠地にして、最後の一分まで奮戦することは、帝国海軍の軍人として、本望ではないか。
木下大佐は、またも南の海へ出て、恐しい、そして、華々しい冒険戦をやろうとするのだ。・・・  
 
直木三十五

 

「南国太平記」
・・・二人は、京の藩邸、大阪の藩邸にいる同志に、牧の消息を聞き、その返事を待っていたが(もし、第三番手の刺客が派遣されたとして、自分等より早く、牧の在所ありかを突き留めて討ったとしたなら、自分らの面目は――目的は――立場は――一切が崩壊だ)
益満の生死より、七瀬らの消息より、このことが重大事であった。浪人させられた武士の意地として、斉彬に報いる、唯一つの、そうして最後の御奉公として、牧仲太郎は、人手を借りずに、自分等二人の手で討取りたかった。二人は、京都の宿へ足を停めて、大阪の消息を、袋持三五郎から、京の動静を、友喜礼之丞から、知らせてもらうことにした。
黒ずんだ、磨きのかかった柱、茶室造りに似た天井――総て侘しく、床しい、古い香の高い部屋であった。
二十年余り、何一つ、世間のことを知らずに、侍長屋で成長してきた小太郎は、この一月足らずに起った激変に、呆然としてしまった。総ては、見残した悪夢であって、未だ頭の中で醒めきっていなかった。
「小太」
小太郎が、眼を開けて、腕組を解いた。
「牧が国を出る時に、二十人からの警固があったとすれば、今度の旅にも、五人、七人はついている、と考えねばならぬ――その、五人、七人の人数も、一粒選りの腕利きであろう――ところで、わしは、久しく竹刀さえ持たぬし、気は、若い者に負けんつもりでも、足、手が申すことを聞くまいと思われる。ただ武士の一念として、二人、三人を対手に――これでも負ひけを取ろうとは思わぬが、又、勝てるという自信も無い。勝てる、とは、卑怯ないい草じゃ。わしは、生きて戻る所存は無い。牧さえ刺殺さしころせば、全身膾なますになろうとも、わしは本望じゃ」
八郎太は、床柱に凭れて、首垂うなだれて、腕を組んだまま、静かにつづけた。
「然し――きっと、牧を刺せぬともいえぬ。刺せんかも知れぬ。その時に、小太」
八郎太が、小太と、大きくいったので
「はい」
八郎太は、小太郎の顔を、睨むように見て
「お前は、逃げんといかんぞ。わしを捨てて、再挙を計るのだ」
「然し――」
「心得ちがいをしてはならぬ。父を捨てて逃げても、所詮は、牧を討てばよい。二人が犬死をしては、それこそ、世の中の物嗤ものわらいだぞよ」
厳格な眼、言葉、態度であった。小太郎は、それを聞くと、なぜだか、父の死が迫っているように感じた。・・・
・・・百城は、黙って、じっと、袋持の胸の辺を見ていたが、急に、二人の方を振向いて
「狼藉者は――いいや、そういう名で呼んでは勿体ない。斉彬派の忠臣として、多勢を目掛けて、命を捨てに参ったのは――」
それだけいって、二人から、眼を離し、袋持の方へ
「仙波八郎太父子」
七瀬と、綱手との顔色が、少し変った。だが、七瀬は、すぐ、落ちついた声で
「二人きりでございましたか」
「御覚悟は、ござろうが、何う挨拶申し上げてよいか――」
百瀬は、俯向いた。袋持は、腕組して、天井を眺めて、吐息した。
「八郎太殿は、斬死、小太郎殿は、生死不明――」
「生死不明とは?」
「斬り抜けるには、斬り抜けられたらしいが、それから、何うなされたか? 牧氏の人数が、二十余人、その中へ、二人での斬込では――」
「二十余人?」
綱手の声は、顫えていた。
「八郎太は、斬死」
七瀬は、ここまでいうと、声がつまってしまった。四人は、暫く黙っていた。
「八郎太は、斬死致しましてござりますか。本望でござんしょう」
七瀬は、こう云うと、微笑した。
「頑固一徹の性たちで――何う諫めましても、聞き入れませず――」
百城が
「小太郎殿は、京の近くに、知辺しるべでもござろうか」と、母子の顔を見較べた。・・・
・・・「笑左――然し――」
斉興は、手早く、眼を拭いて、いつまでも黙って俯向いている調所へ
「何か、よい分別はないか」
「手前――」と、いって、調所も、指で眼頭を押えた。そして、少し紅味がかった眼を上げて、微かに笑いながら
「勇士は馬前の討死を本望と致しますからには、手前は、密貿易にて死ぬのを、本願と致します。この齢をして、三年、五年生き延びんがために、なまじ、悪あがきは致したくござりませぬ」
「うむ」と、斉興は、大きくうめいた。
「御茶坊主から取立てられまして三千石近い大身となり、家老格にも列しました上は、仕事は、まず、十中八九までは成就、最早思い残すこともござりませぬ。それに、竹刀持つすべだにも存ぜぬ手前、腹の切りようは、勿論、存じませぬが、従容死に赴いて、死に対する心得のあったことだけは、老後の思い出、若い者に、示しておきたいと存じまする。ともすれば、坊主上りと、世上の口にかかりますが、その坊主上りの死ざまを見せて、冥途の土産にと、平常から――」と、いって、調所は、手を懐へ入れた。そして、紙入を出して、その中から、小さい錫の容物いれものを取出した。
「毒薬でござりまする」
斉興は、黙っていた。
「伊勢の手にて取調べるにしても、まだ、十日、二十日は命がござりましょう。その間に、御奉公の納め仕舞、もう一儲けしておいて、さようならを致す所存、先刻申し上げました処置方のいろいろに就きまして、掛かかりの者共を、御呼び集め下されますよう。夜長ゆえ、あらましは、二三日にても取片付けられましょう」
「心得た。わしも、手助け致そうが、その毒薬を、そちは飲むのか」
「蘭法にて、何んとか加里と申すようにござりますが、口へ入れると、すぐ、ころり――」
「試みたか」
「犬に試みました。まことに、鮮かに、往生仕ります。老体のことゆえ、長い苦しみは致しとうござりませぬ。なめると、すぐに、ころり。一名、なめころ、と申します。あはははは。いや、こうして居る内にも、時刻は経ちまするから、それとなく、暇乞をするところだけは、今日の内に廻って、明日早々より後始末ということに致しとう存じまする」
「由羅には、申さぬがよいぞ。死ぬなどと」
「はい、御部屋様には、例の方の始末の話もあり、ただ今より御伺い申しましょう」
調所は、こういって立ちかけた。・・・
・・・(父の、斬死した山――)
小太郎は、夏の、陽盛りの空に聳えている叡山を見て
(そして、自分の、死にかけた山)
それは、二つながら、自分の眼で見、自分の身体に刻みつけた事実であったが、恐ろしい夢の記憶のように、自分の経験ではなく、もう一つ別の自分の経験であるように、感じられた。
床下から、調伏ちょうぶくの人形を掘り出して以来の、旋風のような、いろいろの事件――それは、悉く、小太郎を巻き込んでいたが、自分の――人間の、体験したことではないように思えた。自分の見た、自分の芝居、事実らしい夢――それは、父の斬死にさえ、こうしていると、悲しみも、憤りも、起って来なかった。人間の経験にしては、余りに、異常な、余りに恐ろしい事実であった。
(あの山で、ああしたことを、自分がしたのであろうか)と、小太郎は、疑った。
(もう一度、同じことをせよと、云われたなら?――二度とは、出来ない)
小太郎は、汗を拭きながら、肩にかけた荷物の下の、汗にじめじめするのを、度々、掛けかえながら、少し、引きつる脚で、大津から、坂本への道を、急いでいた。
(綱手――こいつも、死んだ)
小太郎は、綱手のことをおもうと、父の斬死よりも、可哀そうな気がしてきた。
(父は、本望であったかも知れん。然し、綱手は?)
月丸の手に抱かれて、月丸の手にかかって、死んだのは、その男と契った女として、幸であるかも知れぬが、その齢の若さ、死ななかったなら、何んな幸福が、その将来につづいたか? と、思うと、同じような暮しを、長くつづけて来て、これから後も、又、同じである父に比べて、綱手は、人生の、一番幸福なことを、経験しないで、死んで行ったのだと思えた。そして、それが、堪らなく、不憫に感じられた。
(母は、何うしているか?)
七瀬のことを考えると、それは、薄墨色をしていて、考えようがなかった。ただ、母が、苛立ちながら走り歩いたり、行燈の下で、子のことを、心配している姿だけが、思い出されてきた。そして、母よりも、深雪のことの方が、心配になってきた。
(せめて、綱手の代りに、深雪を人並に、暮せるよう――)
小太郎は、そのことを考えると、自分の仕事の、牧を討つ、ということや、益満の、天下を対手のことやよりも、南玉の生活が、庄吉の生活が――その人々の住んでいた長屋の人々の生活の方が、遥かに、幸福のようにも、考えられてきた。
(弓矢の意地?――主君への忠義――そのために、一家を、悉く犠牲にして――)と、思うと、益満の言葉が、しみじみと判ってきた。・・・  
 
伊藤左千夫

 

「野菊の墓」
・・・僕は何にもほしくありません。御飯は勿論茶もほしくないです、このままお暇願います、明日はまた早く上りますからといって帰ろうとすると、家中うちじゅうで引留める。民子のお母さんはもうたまらなそうな風で、
「政夫さん、あなたにそうして帰られては私等は居ても起ってもいられません。あなたが面白くないお心持は重々察しています。考えてみれば私どもの届かなかったために、民子にも不憫ふびんな死にようをさせ、政夫さんにも申訣のないことをしたのです。私共は如何様にもあなたにお詫びを致します。民子可哀相と思召おぼしめしたら、どうぞ民子が今はの話も聞いて行って下さいな。あなたがお出いでになったら、お話し申すつもりで、今日はお出でか明日はお出でかと、実は家中がお待ち申したのですからどうぞ……」
そう言われては僕も帰る訣にゆかず、母もそう言ったのに気がついて座敷へ上った。茶や御飯やと出されたけれども真似ばかりで済ます。その内に人々皆奥へ集りお祖母さんが話し出した。
「政夫さん、民子の事については、私共一同誠に申訣がなく、あなたに合せる顔はないのです。あなたに色々御無念な処もありましょうけれど、どうぞ政夫さん、過ぎ去った事と諦めて、御勘弁を願います。あなたにお詫びをするのが何より民子の供養になるのです」
僕はただもう胸一ぱいで何も言うことが出来ない。お祖母さんは話を続ける。
「実はと申すと、あなたのお母さん始め、私また民子の両親とも、あなたと民子がそれほど深い間なかであったとは知らなかったもんですから」
僕はここで一言いいだす。
「民さんと私と深い間とおっしゃっても、民さんと私とはどうもしやしません」
「いイえ、あなたと民子がどうしたと申すではないのです。もとからあなたと民子は非常な仲好しでしたから、それが判らなかったんです。それに民子はあの通りの内気な児でしたから、あなたの事は一言も口に出さない。それはまるきり知らなかったとは申されません。それですからお詫びを申す様な訣……」
僕は皆さんにそんなにお詫びを云われる訣はないという。民子のお父さんはお詫びを言わしてくれという。
「そりゃ政夫さんのいうのは御もっともです、私共が勝手なことをして、勝手なことをお前さんに言うというものですが、政夫さん聞いて下さい、理窟の上のことではないです。男親の口からこんなことをいうも如何いかがですが、民子は命に替えられない思いを捨てて両親の希望に従ったのです。親のいいつけで背そむかれないと思うても、道理で感情を抑えるは無理な処もありましょう。民子の死は全くそれ故ですから、親の身になって見ると、どうも残念でありまして、どうもしやしませんと政夫さんが言う通り、お前さん等たち二人に何の罪もないだけ、親の目からは不憫が一層でな。あの通り温和おとなしかった民子は、自分の死ぬのは心柄とあきらめてか、ついぞ一度不足らしい風も見せなかったです。それやこれやを思いますとな、どう考えてもちと親が無慈悲であった様で……。政夫さん、察して下さい。見る通り家中がもう、悲しみの闇に鎖とざされて居るのです。愚かなことでしょうがこの場合お前さんに民子の話を聞いて貰うのが何よりの慰藉いしゃに思われますから、年がいもないこと申す様だが、どうぞ聞いて下さい」
お祖母さんがまた話を続ける。結婚の話からいよいよむずかしくなったまでの話は嫂が家での話と同じで、今はという日の話はこうであった。
「六月十七日の午後に医者がきて、もう一日二日の処だから、親類などに知らせるならば今日中にも知らせるがよいと言いますから、それではとて取敢とりあえずあなたのお母さんに告げると十八日の朝飛んできました。その日は民子は顔色がよく、はっきりと話も致しました。あなたのおっかさんがきまして、民や、決して気を弱くしてはならないよ、どうしても今一度なおる気になっておくれよ、民や……民子はにっこり笑顔さえ見せて、矢切やぎりのお母さん、いろいろ有難う御座います。長長可愛がって頂いた御恩は死んでも忘れません。私も、もう長いことはありますまい……。民や、そんな気の弱いことを思ってはいけない。決してそんなことはないから、しっかりしなくてはいけないと、あなたのお母さんが云いましたら、民子はしばらくたって、矢切のお母さん、私は死ぬが本望であります、死ねばそれでよいのです……といいましてからなお口の内で何か言った様で、何でも、政夫さん、あなたの事を言ったに違いないですが、よく聞きとれませんでした。それきり口はきかないで、その夜の明方に息を引取りました……。それから政夫さん、こういう訣です……夜が明けてから、枕を直させます時、あれの母が見つけました、民子は左の手に紅絹もみの切れに包んだ小さな物を握ってその手を胸へ乗せているのです。それで家中の人が皆集って、それをどうしようかと相談しましたが、可哀相なような気持もするけれど、見ずに置くのも気にかかる、とにかく開いて見るがよいと、あれの父が言い出しまして、皆の居る中であけました。それが政さん、あなたの写真とあなたのお手紙でありまして……」
お祖母さんが、泣き出して、そこにいた人皆涙を拭いている。僕は一心に畳を見つめていた。やがてお祖母さんがようよう話を次ぐ。
「そのお手紙をお富が読みましたから、誰も彼も一度に声を立って泣きました。あれの父は男ながら大声して泣くのです。あなたのお母さんは、気がふれはしないかと思うほど、口説くどいて泣く。お前達二人がこれほどの語らいとは知らずに、無理無体に勧めて嫁にやったは悪かった。あア悪いことをした、不憫だった。民や、堪忍して、私は悪かったから堪忍してくれ。俄にわかの騒ぎですから、近隣の人達が、どうしましたと云って尋ねにきた位でありました。それであなたのお母さんはどうしても泣き止まないです。体に障さわってはと思いまして葬式が済むと車で御送り申した次第です。身を諦めた民子の心持が、こう判って見ると、誰も彼も同じことで今更の様に無理に嫁にやった事が後悔され、たまらないですよ。考えれば考えるほどあの児が可哀相で可哀相で居ても起たっても居られない……せめてあなたに来て頂いて、皆が悪かったことを十分あなたにお詫わびをし、またあれの墓にも香花こうげをあなたの手から手向けて頂いたら、少しは家中の心持も休まるかと思いまして……今日のことをなんぼう待ちましたろ。政夫さん、どうぞ聞き分けて下さい。ねイ民子はあなたにはそむいては居ません。どうぞ不憫と思うてやって下さい……」
一語一句皆涙で、僕も一時泣きふしてしまった。民子は死ぬのが本望だと云ったか、そういったか……家の母があんなに身を責めて泣かれるのも、その筈であった。僕は、
「お祖母さん、よく判りました。私は民さんの心持はよく知っています。去年の春、民さんが嫁にゆかれたと聞いた時でさえ、私は民さんを毛ほども疑わなかったですもの。どの様なことがあろうとも、私が民さんを思う心持は変りません。家の母などもただそればかり言って嘆いて居ますが、それも皆悪気があっての業わざでないのですから、私は勿論民さんだって決して恨みに思やしません。何もかも定まった縁と諦めます。私は当分毎日お墓へ参ります……」
話しては泣き泣いては話し、甲一語乙一語いくら泣いても果てしがない。僕は母のことも気にかかるので、もうお昼だという時分に戸村の家を辞した。戸村のお母さんは、民子の墓の前で僕の素振りが余り痛わしかったから、途中が心配になるとて、自分で矢切の入口まで送ってきてくれた。民子の愍然あわれなことはいくら思うても思いきれない。いくら泣いても泣ききれない。しかしながらまた目の前の母が、悔悟の念に攻められ、自ら大罪を犯したと信じて嘆いている愍然あわれさを見ると、僕はどうしても今は民子を泣いては居られない。僕がめそめそして居ったでは、母の苦しみは増すばかりと気がついた。それから一心に自分で自分を励まし、元気をよそおうてひたすら母を慰める工夫をした。それでも心にない事は仕方のないもの、母はいつしかそれと気がついてる様子、そうなっては僕が家に居ないより外はない。
毎日七日なぬかの間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。その翌あくる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出た。・・・
 
倉田百三

 

「出家とその弟子」
・・・親鸞 何もかもお任せする素直な心になりたいものだな。
唯円 聞けば聞くだけ深い教えでございます。
親鸞 みんな助かっているのじゃ。ただそれに気がつかぬのじゃ。
僧二 (登場)皆様ここにいられましたか。今やっと説教が済みました。(興奮している)
親鸞 御苦労様でした。しばらくここでお休みなさい。
僧二 お師匠様にお願いであります。ただ今私が説教を終わりますと、講座のそばに五、六名の同行どうぎょうが出て参りまして、親鸞様にぜひお目にかかりたいから会われるようにとりなしてくれと頼みました。
親鸞 何か特別な用向きでもあるのですか。
僧二 往生おうじょうの一大事について承りたき筋あって、はるばる遠方から尋ねて参ったと申します。皆熱心面おもてにあふれていました。
親鸞 往生おうじょうの次第ならばもはや幾度も聴聞ちょうもんしているはずだがな。まことに単純な事で私は別に話し加える事もありませんがな。
僧二 私もさよう申し聞かせました。ことに少し御不例ゆえまた日をかえていらしたらどうかと申しました。しかし皆はるばる参ったものゆえ、ぜひ親鸞様にお目にかからせてくれと泣かぬばかりに頼みます。あまり熱心でございますから、私も不便ふびんになりまして、御病気のあなたを煩わずらわすのは恐れ入りますが、一応お尋ね申す事にいたしました。
親鸞 それはおやすい事です。私に会いたいのならいつでもお目にかかります。ただ私はむつかしい事は知らぬとその事だけ伝えておいてください。ではここへすぐ通してください。
僧二 ありがとうございます。さぞ皆が喜ぶ事でございましょう。(退場)
僧一 遠方から参ったものと見えますな。
僧三 熱心な同行衆どうぎょうしゅうでございますね。
唯円 お師匠様に会いたさにはるばる京にたずねて来たのですね。私は殊勝な気がいたします。
親鸞 (黙って考えている)
僧二 (同行衆六名を案内して登場)
親鸞 (同行衆の躊躇ちゅうちょしているのを見て)さあ、こちらにおいでなさい。遠慮なさるな。
唯円、席をととのえる。同行衆皆座に着く。
親鸞 私が親鸞です。(弟子をさして)この人たちはいつも私のそばにいる同行です。
同行一 あなたが親鸞様でございましたか。(涙ぐみ親鸞をじっと見る)
同行二 私はうれしゅうございます。一生に一度はお目にかかりたいと祈っていました。
同行三 逢坂おうさかの関せきを越えてここは京と聞いたとき私は涙がこぼれました。
同行四 ほんになかなかの思いではございませんでしたね。
同行五 長い間の願いがかない、このような本望ほんもうなことはございません。
同行六 私はさっき本堂で断わられるのではないかと気が気でありませんでした。
親鸞 (感動する)よくこそたずねて来てくださいました。私もうれしく思います。どちらからお越しなされました。
同行一 私どもは常陸ひたちの国から参りましたので。
同行四 私らは越後えちごの者でございます。
親鸞 まああなたがたはそのように遠くからいらしたのですか。
同行二 ずいぶん長い旅をいたしました。
親鸞 そうでしょうともね。常陸も越後も私には思い出の深い国でございます。
同行四 私の国ではほうぼうであなたの事を同行どうぎょうが集まってはおうわさ申しております。
同行一 あなたのおのこしなされた御感化は私の国にもくまなく行き渡っております。
同行三 まだお目にかからぬあなた様をどんなにお慕い申した事でございましょう。
親鸞 私もなつかしい気がいたします。あのあたりを行脚あんぎゃしたころの事が思い出されます。
同行五 あのころとはいろいろ変わっていますよ。
親鸞 なにしろもう二十年の昔になりますからね。
同行六 雪だけは相変わらずたくさん積もります。
親鸞 雪にうずもれた越後えちごの山脈の景色は一生忘れる事はできません。
同行四 も一度いらしてくださる気はございませんか。
親鸞 御縁がありましたらな。だがおそらく二度と行くことはありますまい。もう年をとりましたでな。
同行一 お幾つにおなりなされますか。
親鸞 七十五になります。
同行二 さっきちょっと承りましたら、あなたは御病気でいらっしゃいますそうで。
親鸞 はい少し風をひきましてな。もうほとんどよいのです。・・・
・・・唯円 私はなんと申していいかわかりません。私はあなたの不幸な運命を悲しみます。あなたはほんとうにたまらない気がするでしょう。しかし仏様はどのような罪を犯したものでも、罪のままでゆるしてくださると聞いています。罪を犯さねばならぬように、つくられている人間のために、救いを成就してくださると、お師匠様から常に教わっています。
善鸞 あなたの信じやすい純な心を祝します。けれども私はそれが容易に信じられないのです。私の心が皮肉になっているのかもしれません。あまり虚偽を見すぎたのかもしれません。あまり都合よくできあがっている救いですからね。虫のいい極悪人のずるい心がつくり出したような安心あんじんですからね。私は私の曲がった考え方をあなたの前に恥じます。しかし浄土門の信心は悪人の救いのように見えて、実はやはり心の純な善人でなくては信じ難いような教えですからね。私はやはり争われぬものだと思います。私が信じられぬのも私の罪や放蕩の罰と思います。あなたでも、父でも純な清い人ですからね。自分では深い罪人だと感じていらっしゃるけれど、魂を汚けがし過ぎると、ものがまっすぐに受け取れなくなるのです。私はずいぶんひどく汚れていますからね。とてもあなたには想像できません。たとえば(苦しそうに口ごもる)いや、とてもあなたの前では言えないような事をしていますからね。実に皮肉な、卑しい、不自然な事をしていますからね。とても罰なくしてゆるされるような身ではありません。それは虫がよすぎます。私は卑しくても、このようなきたない罪を犯しながらそのまま助けてくれと願うほどあつかましくはなっていないのです。それがせめてもの良心です。私の誇りです。私はむしろ、かくかくの難行苦行をすれば助けてやると言ってほしいのです。どんな苦しい目でもいいと思います。それがかなわぬならば、私は罰を受けます。そのほうが本望です。
唯円 あなたのお話を聞いていると私はせつなくなります。あなたは私などの知らない深い苦しみを持っていらっしゃいます。あなたの言葉には尊い良心が波打っています。私はむしろ尊い説教でも聞いているような気がいたします。
善鸞 いいえ。私は一人の悪魔としてあなたの前に立っているのです。私は滅ぶる運命を負わされているのです。信ずる事のできない呪のろわれた魂をあわれんでください。・・・
  
斎藤茂吉

 

「ドナウ源流行」
・・・Donaueschingenドーナウエシンゲン は、フュルステンベルヒ公の治めた処で、その居城もあり、加特利教の寺も、醸造所も、美術館も、庭も古い時代からあったものである。西暦一九〇八年の火事以来、焼けた部分の町は新しく出来たのだそうである。
僕は「ドナウ源泉」(Donauquelle)を見に行った。清冽な泉で、昔は寺の礼讃を終えてこの泉を掬んだということである。又公爵が家来を連れてここで酒宴をしたということである。この泉は、海抜六七八米。海洋に至るまで二八四〇基米と註され、大理石の群像は、バアル神が童子と娘とを連れて、行手の道を示すところを刻したものである。泉の水は、直ぐ下をくぐってブリガッハに灑いでいる。その灑ぐところに、ウィルヘルム二世が小さい堂を建てて(西暦一九一〇年)、Danuvii caput exornavit Guilelmus II., Friderici filius, Guilelmi Magni nepos, Imperator Germanorum という銘を彫らせて居る。独逸人は、このあたりのドナウをば“junge Donau”というが、発音に快い響を持っている。そこにも掃除夫が居たので、その老いた掃除夫と少しばかり会話をし、泉の水を飲んでそこを出た。公の居城は直ぐ隣だが見ることは出来ないということであった。
寺を見て、それから Karlsbau を見に行った。そこには絵が可なりあった。けれども多くはウルム派、シュワーベン派、それからボーデン湖畔の画家のものなどが多かった。ホルバイン。クラナッハ。グリュネワルドなどのものは模写が多かった。其等の流派のものは、堅く陰気で、清楚で無いところに特色があった。僕には、テエーヌなどの議論も或程度まで受容れていいような気持がその時して居た。
Bezirksmuseum というのを見に行った。箪笥とか、古時計・著物・靴・うば車・額面など、そういうものが沢山陳列してある。ここにも矢張り古い時代の呵責道具が並べてあった。それから玻璃はりに画いた農民美術のいろいろのものがあり、この中には、欲しくて溜まらぬものもあった。素朴な色と、その配合と、女の顔などの邪気無いところは、僕をして所有心を起させた程である。それから古い寝台のいろいろがあった。寝台は維也納で、チロール山中地方のものを見て来ているが、此処のもなかなか好かった。その単純な模様が僕の心を引いた。それから、日本の品物のあるのが僕を驚かせた。漆塗うるしぬりの小箪笥があったり、竹の模様ある置物台。膳七重。高砂の翁媼図の縫取。書棚。香炉。屏風。大花瓶。太鼓など。目ぼしいものは無くとも、こういう処に日本の物が丁寧に飾られているのは決して悪い気持ではなかった。譬えば、長崎でシイボルトが伊藤圭介に呉れたという虫目金とか、久能山東照宮にある西班牙マドリー製の置時計とか、京都市妙心寺の南蛮寺鐘とか、そんなものを西洋の遊覧者が見て起す気持に似ていたかも知れなかった。少し誇張もあるけれども。
そこに Johann Grund という人の絵があった。これは美術史家の筆端にのぼるものでないから、かかる辺土に年を経るのであろうが、僕はその人の画いた女の図を見て静かな快楽を覚えた。この画家は豊麗な、可憐な女を画いた。そうすれば、これで本望なので、そういう覚悟に物哀れなところもあり、倨傲なところもあったのではあるまいか。そんな気がして幾つかの可憐な女人図を僕は見ていた。
その処を出て僕はカフェに入った。そこへ遠足に来た女学生の群が入込んで来て、菓子売るところにたかっていた。僕の傍に兵士が一人来て、珈琲を飲んで出て行った。僕はそれから、Gasthaus zur Sonne という食店に入った。上さんは顔の赤い肥った女で、亭主は跛であった。そこで僕は、分量の多いソップと、塩辛い料理とを食べた。町内に住む上さんが来て此処の亭主と何か話しているのを聞くと、訛が多くて僕には非常に分かりにくい。上さんも亭主も、僕が日本人だなどということを気にせぬらしく、恬然としているところは、民顕ミュンヘンの人などとは丸で違っていた。机のうえに合本した雑誌のあるのを見ると、西暦一八九六年発行の Munchner humoristische Blatter というのであった。これを見ても、僕の今居る食店の程度が分かるのであった。その滑稽新聞には、日本の事などはいまだ一つもなかった。そのなかに、泥の様に酔った学生を二人の学生が引ぱって連れて行く。雪がさかんに降っている。酔どれの学生の服が引ぱられるので段々ぬげて行く、しまいに服だけを二人が持って向うの方へ行く。肝腎の学生は見えない。そして雪の中に埋まってしまったという絵で、verlorener Student と題してある、当時の民顕ミュンヘンの学生が如何に沢山麦酒を飲んだかが分かる。それから、vereitelte Liebeserklarung と題された滑稽図があった。これは、男と女が自転車に乗って相並んで嬉しそうに来るところが先ず画いてある。それから一人の男が石橋の袂で待伏しているところが画いてある。二人が石橋のところまで来ると、待伏していた男が二人を川のなかに、逆様に転倒せしめるところが画いてある。これは、自転車が流行り出して、如何に色々の事があったかを暗指しているのである。僕が維也納を去って民顕に来た時、先ず気づいたのは自転車乗の民顕に多いということであった。小さい町の古びた食店で計らずも二十六七年前の世相を観たような気がして、秘かに僕は満足した。
僕はその食店に居るうち、案内書などを見ながら、今日の午前中の出来事を簡単に手帳に書きつけた。そうして稍疲れたような気もする、これからどうしようかと思った。・・・
・・・この上かみは一体いったいどうなっているだろうか。自分は此処まで来て、ブレーゲがブリガッハに合し、そうしてドナウの源流を形づくるところを見て、僕の本望は遂げた。このさき、本流と看做すべきブリガッハに沿うて何処までも行くなら、川はだんだん細って行き、森深く縫って行って、谿川になり、それからは泉となり、苔の水となるだろう。そこまでは僕の目は届かぬ。僕は今夕此処を立たねばならぬ。こんなことを思って古びた食店を出た。
僕は時計を持っていたが弾機ばねが途中でこわれて役に立たぬ。此の時計は目覚まし時計で、闇に見ると数字のところの光る様に作ったものである。そういう時計がはじめて日本に入りたてに、鉱山学の方をやっている友の呉れたものだが、奥山などに行くには是非必要だと云って呉れたのであった。その時計はだいぶ古くなって、神戸を出帆するとき神戸の時計店で弾機ばねを直した。それから維也納ウインナにいるときも、民顕ミュンヘンにいるときも度々その弾機を直した。それが今度も汽車の中で毀こわれてから役に立たぬ時計を持って歩いていたのであった。僕は時間を大凡おおよそで見積ってやろうと思って、いつの間にか川上かわかみの方に歩いて行った。
川の両岸りょうぎしは少し高くなって、流を見おろす位置でしばらく歩いた。そこの両岸は石垣で堅めてある。大体新開の町はずれの気分であるが、古い家も間々残って居り、大名時代の御用印刷処という文字が古びた壁に残っていたりする。或る役所らしい跡にはウィルヘルム一世の像があった。そのうち道に敷石が無くなって、歩くと沙塵が立った。そしてだんだん家が疎になってゆき、ついに町は尽きた。そこで道は自おのずと低くなっていたから、僕と流とは近づいて来た。そこの川幅は広くなり瀬をなしている。汀のところに立つと、流が曲ろうとして勢づいているのがようく見える。大体このへんを源としておこうか。何だか寂しいから、もう引返そうかともおもって、川柳の花のほうけているのを弄んだりなどして暫くそこに蹲跼しゃがんでいた。
それから身を起して、何向なにむきも少し歩こうと思った。そして、水車のようなものがあると見え、流を堰せいた処をわたって行った。人家は全く絶えて、すでに森が迫って来ている。その両方に迫って来ている森の間を、まばゆい春の日光に照らされた川は、極ごくゆるく迂うねって流れているのである。
僕は川に接近することを努めながら奥の方へ歩いて行った。ある時はすぐ川の汀を歩いていた。湿地で靴がぬかり、そこから泡が幾つも音をさせて上って来るところなどを歩いた。汀の草は冬がれて未だ芽ぶいていない。
流とそんなに近く歩いているから、直ぐ口を付けて水を飲むことも出来る。然るに水は流れているように見えず、ただいっこくに湛えているように見える。その銀色の水に直すぐさま顔を接することが出来るが、水はまだ深淵しんえんであって、水に顔を寄せ瞳をすえて水中を覗くに、汀の土が漸く水中に没し、深いところの土には水草が泥をかむって生えている。その奥は暗くなってもう見えない。しかし水の泡がゆるく水面を流れているから水は死んでないのである。
銀色の光る水を湛えて、川は遙か向うの森かげに曲ってしまう。僕の近くの川は訣なく跨ぐことの出来るようにおもうのは、水面と僕と距離の親しさがあるためであった。けれども川はやはり水の量豊かで、底にこもる不可犯ふかぼんのこの厳きびしさはおのずから大河の源流を暗指していたから、僕は心中に或る満足をおぼえたのである。小さい蛙が岸から水中に入って泳ぐなら、少し泳いだと思うとまた戻って来ただろう。その蛙は流にながされるようなことはない。極く放埒に戻って来ただろうと思った。
響がして来て対岸の向うの森のところを汽車が通って行った。この汽車は流に沿うて川上の方に通じた支線鉄道のうえを走って行くのであった。銀色の川が向うの森の麓をゆくとき紺のいろを現出した。僕は鉄道線路の橋を渡って、今度は向側を歩いて行った。まだ芽ぶかない灌木の群生しているところから向うを見ると、さっき森のかげに曲って行った川が目路から開けて来て、それがまた遙か向うに没している。そこのところに村が見える。点在している赭い屋根の間に、寺院の尖塔が一つあって、それが村の中心を保っている。
僕は二時間半はたっぷり歩いただろう。そう見積って汀を離れて丘をのぼって来た。そこに村から村へ通ずる道があった。そこまで来た。眼界が開けたから、森は暗黒の色を帯びて幾重にも畳なわって見える。その緩慢な曲線は何かの膚のようであった。その奥の奥に川の源があるのであるが、そういう落葉がくれの水、苔の水の趣味は差向きここに要求しなかった。
けれども、この細くなって西北の方に消えている川が、写真に撮れるだろうかどうかなどと思っていると、下手の方から自転車でのぼって来た二人の村人が行過ぎしなに、「キナ人かな」などと問答するこえが聞こえた。僕は午食をした食店を出てから、一度も独逸語を使わなかった。ただ水際を歩いて、時々日本語でひとり言を言ったのみであった。そこから僕は、今度はその道に拠って、ドナウエシンゲンへどんどん引返した。時間は殆ど目分量で極めていて不安心だから、時には駆歩をした。
あるところに来ると家が二軒あって、そこで鶏が黄いろい家鴨の雛を育てているところがあった。家鴨の雛が無遠慮でいるのに鶏がしきりに気にしてるところも僕の目についた。そのうち二たび両岸の高いところの川べりに来た。古い家に向日葵ひまわりのような花を黄に大きく画いたのがあった。宿に著くと時がまだ少しあった。僕は顔を洗い勘定をすましそれから麦酒ビールを一杯飲んだ。・・・  
 
浅野和三郎

 

「霊界通信 小桜姫物語」
・・・昔の忠僕
私わたくしがある日ひ海岸かいがんで遊あそんで居おりますと、指導役しどうやくのお爺じいさんが例れいの長ながい杖つえを突つきながら彼方むこうからトボトボと歩あるいて来こられました。何どうした風かぜの吹ふきまわしか、その日ひは大たいへん御機嫌ごきげんがよいらしく、老顔ろうがんに微笑えみを湛たたえて斯こう言いわれるのでした。――
『今日きょうは思おもい掛がけない人ひとを連つれて来くるが、誰だれであるか一ひとつ当あてて見みるがよい……。』
『そんなこと、私わたくしにはできはしませぬ……できる筈はずがございませぬ。』
『コレコレ、汝そちは何なんの為ために多年たねん精神統一せいしんとういつの修行しゅぎょうをしたのじゃ。統一とういつというものは斯こうした場合ばあいに使つかうものじゃ……。』
『左様さようでございますか。ではちょっとお待まち下くださいませ……。』
私わたくしは立たちながら眼めを瞑つむって見みると、間まもなく眼めの底そこに頭髪かみの真白まっしろな、痩やせた老人ろうじんの姿すがたがありありと映うつって来きました。
『八十歳さい位くらいの年寄としよりでございますが、私わたくしには見覚みおぼえがありませぬ……。』
『今いまに判わかる……。ちょっと待まって居いるがよい。』
お爺じいさんはいとも気軽きがるにスーッと巌山いわやまをめぐって姿すがたを消けして了しまいました。
しばらくするとお爺じいさんは私わたくしが先刻せんこく霊眼れいがんで見みた一人ひとりの老人ろうじんを連つれて再ふたたびそこへ現あらわれました。
『何どうじゃ実物じつぶつを視みてもまだ判わからんかナ。――これは汝そちのお馴染なじみの爺じいや……数間かずまの爺じいやじゃ……。』
そう言いわれた時ときの私わたくしの頭脳あたまの中なかには、旧ふるい旧ふるい記憶きおくが電光でんこうのように閃ひらめきました。――
『まァお前まえは爺じいやであったか! そう言いえば成なるほど昔むかしの面影おもかげが残のこっています。――第だい一その小鼻こばなの側わきの黒子ほくろ……それが何なにより確たしかな目標めじるしです……。』
『姫ひいさま、俺わしは今日きょうのようにうれしい事ことはござりませぬ。』と数間かずまの爺じいやは砂上さじょうに手てをついてうれし涙なみだに咽むせびながら『夙とうから姫ひいさまに逢あわせてもらいたいと神様かみさまに御祈願おきがんをこめていたのでござりますが、霊界れいかいの掟おきてとしてなかなかお許ゆるしが降おりず、とうとう今日こんにちまでかかって了しまいましたのじゃ。しかしお目めにかかって見みればいつに変かわらぬお若わかさ……俺わしはこれで本望ほんもうでござりまする……。』
考かんがえて見みれば、私達わたくしたちの対面たいめんは随分ずいぶん久ひさしぶりの対面たいめんでございました。現世げんせで別わかれた切きり、かれこれ二百年ねん近ちかくにもなっているのでございますから……。数間かずまの爺じいやのことは、ツイうっかりしてまだ一度どもお風評うわさを致いたしませんでしたが、これは、むかし鎌倉かまくらの実家さとに仕つかえていた老僕ろうぼくなのでございます。私わたくしが三浦みうらへ嫁とついだ頃ころは五十歳さい位くらいでもあったでしょうが、夙とうに女房にょうぼうに先立さきだたれ、独身どくしんで立たち働はたらいている、至いたって忠実ちゅうじつな親爺おやじさんでした。三浦みうらへも所中しょっちゅう泊とまりがけで訪たずねてまいり、よく私わたくしの愛馬あいばの手入ていれなどをしてくれたものでございます。そうそう私わたくしが現世げんせの見納みおさめに若月わかつきを庭前にわさきへ曳ひかせた時とき、その手綱たづなを執とっていたのも、矢張やはりこの老人ろうじんなのでございました。
だんだんきいて見みると、爺じいやが死しんだのは、私わたくしよりもざっと二十年ねんばかり後のちだということでございました。『俺わしは生涯しょうがい病気びょうきという病気びょうきはなく、丁度ちょうど樹木じゅもくが自然しぜんと立枯たちがれするように、安やすらかに現世げんせにお暇いとまを告つげました。身分みぶんこそ賎いやしいが、後生ごしょうは至いたって良よかった方ほうでござります……。』そんなことを申もうして居おりました。
こんな善良ぜんりょうな人間にんげんでございますから、こちらの世界せかいへ移うつって来きてからも至いたって大平無事たいへいぶじ、丁度ちょうど現世げんせでまめまめしく主人しゅじんに仕つかえたように、こちらでは後生大事ごしょうだいじに神様かみさまに仕つかえ、そして偶たまには神様かみさまに連つれられて、現世げんせで縁故えんこの深ふかかった人達ひとたちの許もとへも尋たずねて行ゆくとのことでございました。
『この間あいだ御両親様ごりょうしんさまにもお目めにかからせて戴いただきましたが、イヤその時ときは欣よろこんでよいのやら、又または悲かなしんでよいのやら……現世げんせの気持きもちとは又また格別かくべつでござりました……。』
爺じいやの口くちからはそう言いった物語ものがたりがいくつもいくつも出でました。最後さいごに爺じいやは斯こんなことを言いい出だしました。
『俺わしはこちらでまだ三浦みうらの殿様とのさまに一度どもお目めにかかりませぬが、今日きょうは姫ひいさまのお手引てびきで、早速さっそく日頃ひごろの望のぞみを協かなえさせて戴いただく訳わけにはまいりますまいか。』
『さァ……。』
私わたくしがいささか躊躇ためらって居おりますと、指導役しどうやくのお爺じいさんが直ただちに側そばから引ひきとって言いわれました。――
『それはいと易やすいことじゃが、わざわざこちらから出掛でかけずとも、先方むこうからこちらへ来きて貰もらうことに致いたそう。そうすれば爺じいやも久ひさしぶりで御夫婦ごふうふお揃そろいの場面ばめんが見みられるというものじゃ。まさか夫婦ふうふが揃そろっても、以前いぜんのように人間臭にんげんくさい執着しゅうじゃくを起おこしもしまいと思おもうが、どうじゃその点てんは請合うけあってくれるかナ?』
『お爺じいさまモー大丈夫だいじょうぶでございますとも……。』
とうとう良人おっとの方ほうからこの海うみの修行場しゅぎょうばへ訪たずねて来くることになって了しまいました。・・・
・・・神々の受持
神々かみがみのお受持うけもちと申もうしましても、これは私わたくしがこちらで実地じっちに見みたり、聞きいたりしたところを、何なんの理窟りくつもなしに、ありのまま申上もうしあげるのでございますから、何卒どうぞそのおつもりできいて戴いただきます。こんなものでも幾いくらか皆みなさまの手てがかりになれば何なにより本望ほんもうでございます。
現世げんせの方々かたがたが、何なには措おいても第だい一に心得こころえて置おかねばならぬのは、産土うぶすなの神様かみさまでございましょう。これはつまり土地とちの御守護ごしゅごに当あたらるる神様かみさまでございまして、その御本体ごほんたいは最初はじめから活いき通どおしの自然霊しぜんれい……つまり竜神様りゅうじんさまでございます。現げんに私わたくしどもの土地とちの産土様うぶすなさまは神明様しんめいさまと申上もうしあげて居おりますが、矢張やはり竜神様りゅうじんさまでございまして……。稀まれに人霊じんれいの場合ばあいもあるようにお見受みうけしますが、その補佐ほさには矢張やはり竜神様りゅうじんさまが附ついて居おられます。ドーもこちらの世界せかいのお仕事しごとは、人霊じんれいのみでは何彼なにかにつけて不便ふべんがあるのではないかと存ぞんじられます。
さて産土うぶすなの神様かみさまのお任務しごとの中なかで、何なにより大切たいせつなのは、矢張やはり人間にんげんの生死せいしの問題もんだいでございます。現世げんせの役場やくばでは、子供こどもが生うまれてから初はじめて受附うけつけますが、こちらでは生うまれるずっと以前いぜんからそれがお判わかりになって居おりますようで、何なんにしましても、一人ひとりの人間にんげんが現世げんせに生うまれると申もうすことは、なかなか重大じゅうだいな事柄ことがらでございますから、右みぎの次第しだいは産土うぶすなの神様かみさまから、それぞれ上うえの神様かみさまにお届とどけがあり、やがて最高さいこうの神様かみさまのお手許てもとまでも達たっするとの事ことでございます。申もうすまでもなく、生うまれる人間にんげんには必かならず一人ひとりの守護霊しゅごれいが附つけられますが、これも皆みな上うえの神界しんかいからのお指図さしずで決きめられるように承うけたまわって居おります。
それから人間にんげんが歿なくなる場合ばあいにも、第だい一に受附うけつけてくださるのが、矢張やはり産土うぶすなの神様かみさまで、誕生たんじょうのみが決けっしてそのお受持うけもちではないのでございます。これは氏子うじことして是非ぜひ心得こころえて置おかねばならぬことと存ぞんじられます。尤もっともそのお仕事しごとはただ受附うけつけて下くださるだけで、直接ちょくせつ帰幽者きゆうしゃをお引受ひきうけ下くださいますのは大国主命様おおくにぬしのみことさまでございます。産土神様うぶすながみさまからお届出とどけいでがありますと、大国主命様おおくにぬしのみことさまの方ほうでは、すぐに死者ししゃの行ゆくべき所ところを見定みさだめ、そしてそれぞれ適当てきとうな指導役しどうやくをお附つけくださいますので……。指導役しどうやくは矢張やはり竜神様りゅうじんさまでございます。人霊じんれいでは、ややもすれば人情味にんじょうみがあり過すぎて、こちらの世界せかいの躾しつけをするのに、あまり面白おもしろくないようでございます。私わたくしなども矢張やはり一人ひとりの竜神りゅうじんさんの御指導ごしどうに預あずかったことは、かねがね申上もうしあげて居おります通とおりで、これは私わたくしに限かぎらず、どなたも皆みな、その御世話おせわになるのでございます。つまり現世げんせでは主しゅとして守護霊しゅごれい、又また幽界ゆうかいでは主しゅとして指導霊しどうれい、のお世話せわになるものとお思おもいになれば宜よろしうございます。
尚なお生死以外せいしいがいにも産土うぶすなの神様かみさまのお世話せわに預あずかることは数限かずかぎりもございませぬが、ただ産土うぶすなの神様かみさまは言いわば万事ばんじの切盛きりもりをなさる総受附そううけつけのようなもので、実際じっさいの仕事しごとには皆みなそれぞれ専門せんもんの神様かみさまが控ひかえて居おられます。つまり病気びょうきには病気びょうき直なおしの神様かみさま、武芸ぶげいには武芸専門ぶげいせんもんの神様かみさま、その外ほか世界中せかいじゅうのありとあらゆる仕事しごとは、それぞれ皆みな受持うけもちの神様かみさまがあるのでございます。人間にんげんと申もうすものは兎角とかく自分じぶんの力ちから一つで何なんでもできるように考かんがえ勝がちでございますが、実じつは大だいなり、小しょうなり、皆みな蔭かげから神々かみがみの御力添おちからぞえがあるのでございます。
さすがに日本国にっぽんこくは神国しんこくと申もうされるだけ、外国がいこくとは異ちがって、それぞれ名なの附ついた、尊とうとい神社じんじゃが到いたる所ところに見出みいだされます。それ等らの御本体ごほんたいを査しらべて見みますると、二た通とおりあるように存ぞんじます。一つはすぐれた人霊じんれいを御祭神ごさいじんとしたもので、橿原神宮かしわらじんぐう、香椎宮かしいのみや、明治神宮めいじじんぐうなどがそれでございます。又また他たの一つは活神様いきかみさまを御祭神ごさいじんと致いたしたもので、出雲いずもの大社たいしゃ、鹿島神宮かしまじんぐう、霧島神宮等きりしまじんぐうなどがそれでございます。ただし、いかにすぐれた人霊じんれいが御本体ごほんたいでありましても、その控ひかえとしては、必かならず有力ゆうりょくな竜神様りゅうじんさまがお附つき遊あそばして居おられますようで……。
今更いまさら申上もうしあぐるまでもなく、すべての神々かみがみの上うえには皇孫命様こうそんのみことさまがお控ひかえになって居おられます。つまりこの御方おかたが大地だいちの神霊界しんれいかいの主宰神しゅさいしんに在おわしますので……。更さらにそのモー一つ奥おくには、天照大御神様あまてらすおおみかみさまがお控ひかえになって居おられますが、それは高天原たかまがはら……つまり宇宙うちゅうの主宰神しゅさいしんに在おわしまして、とても私わたくしどもから測はかり知しることのできない、尊とうとい神様かみさまなのでございます……。
神界しんかいの組織そしきはざっと右みぎ申上もうしあげたようなところでございます。これ等らの神々かみがみの外ほかに、この国くにには観音様かんのんさまとか、不動様ふどうさまとか、その他ほかさまざまのものがございますが、私わたくしがこちらで実地じっちに査しらべたところでは、それはただ途中とちゅうの相違そうい……つまり幽界ゆうかいの下層かそうに居おる眷族けんぞくが、かれこれ区別くべつを立たてているだけのもので、奥おくの方ほうは皆みな一つなのでございます。富士山ふじさんに登のぼりますにも、道みちはいろいろつけてございます。教おしえの道みちも矢張やはりそうした訳わけのものではなかろうかと存ぞんじられます。では一と先まずこれで……。
 
黒岩涙香

 

「幽霊塔」
・・・古山お酉
折角の晩餐が斯う殺風景に終ったは実に残念だ、けれど今更仕方がない、余は兎も角も怪美人と虎井夫人とに逢い充分謝せねばならぬと思い、お浦を捨て置いて怪美人――イヤ最早怪美人ではない単に松谷秀子だ――其の松谷秀子の居る室の前まで行った、何と云って謝した者か、事に由ればお浦を狂女だと言い做しても好い、あの今夜の振舞は狂女よりも甚しい、爾だ狂女とでも言わねば到底充分に謝する道はない、と斯う思って少し戸の外で考える間に、中浦から異様な声が聞こえた。確かに松谷秀子と虎井夫人とが争って居る。「イイエ、貴女が何と仰有っても嘘を吐いたり人を欺いたりする事は私には出来ません。正直過ぎて夫が為に失敗するなら失敗が本望です」と健気けなげにも言い切るは怪美人だ、扨は虎井夫人から余り正直すぎるとか何故人を欺さぬとか叱られて、夫に反対して居ると見える、何と感心な言葉ではないか、正直過ぎて失敗するなら失敗が本望だとは全く聖人の心掛けだ、余は一段も二段も怪美人を見上げたよ、次には虎井夫人の声で「場合が場合ですもの少し位は嘘を吐かねば、其の様な馬鹿正直な事ばっかり言って何うします」怪美人「イエ何の様な場合でも同じ事です、若し私の馬鹿正直が悪ければ是で貴女と分れましょう、貴女は貴女で御自分の思う様にし、私は独りで自分の思う通りにします、初めから貴女と私とは目的が別ですもの」斯う争って居る仲へ、日頃から懇意な人ならば兎も角、今日初めて逢った許りの余には真逆に飛び込んで行く訳に行かぬ、さればとて探偵然と立ち聞きをして居るのも厭だから、謝するのは明朝にしようと思い直し余は自分の室へ帰った、多分は叔父も明朝を以て篤と謝する積りで居るのであろう。
翌朝は少し早目に食堂へ行って見た、お浦も早や遣って来て居たが、勿論余とは口を利かぬ。何でも給仕に金でも与えて、怪美人の素性を聞き糺して居たらしい、何だか余の顔を見て邪魔物が来たと云う様な当惑の様子も見えたが給仕は更に構いなく「ハイお紺婆を殺した養女お夏というは牢の中で死にましたが、同じ年頃の古山お酉と云う中働きが矢張り時計の捲き方を知って居た相です」お浦は耳寄りの事を聞き得たりと云う様子に熱心になり「その古山お酉とは美しい女で有ったの」給仕「ハイ之は最う非常な美人で、イヤ私が此の家へ雇われぬ先の事ゆえ自分で見た訳ではありませんが人の話に拠ると背もすらりとして宛まるで令嬢の様で有ったので、村の若衆からも大騒ぎをせられ、其の中に一人情人が出来たそうです、爾してお紺の殺される一ヶ月ほど前に色男と共に駈落し、行方知れずに成って居たが、お紺の殺された後故郷穵州ウェールスに居る事が分り其の色男と共に裁判所に引き出されてお調べを受けましたが、遠い穵州に居て此の土地の人殺しは関係の出来る筈もなく、唯証人として調べられたのみで直ちに放免せられました、何でも其の後色男と共に外国へ移ったと云う事です。今頃は米国か濠洲おうすとらりやにでも居るのでしょう」お浦「随分其の女は貴婦人の真似でも出来る様な質だったの」給仕「ハイ不断貴夫人の様に着飾ると、田舎者などに感心せられるのを大層嬉しがって居たと云う事です」お浦「今居れば幾齢ぐらいだろう」給仕「お紺婆の殺された時、十九か二十歳だったと云いますから今は二十五六でしょうが、併し美人に年齢無しとか云いますから矢張り若く見えて居る事でしょう」
お浦は是だけで満足したか、問うのを止めて余の傍へ来て、最と勝ち誇った様子で「今の話を何と聞きました」余「何とも聞きませんよ」お浦「道さん、貴方の尊うやまう貴婦人は立派な素性です事ねエ。中働きの癖に情夫を拵えて出奔して、爾して古山お酉と云う本名を隠し松谷秀子などと勿体らしい名を附けてサ」余「エ、貴女は怪美――イヤ松谷嬢を其のお酉とやらだとお思いですか」お浦「私が思うのでは有りません、今は其のお酉より外に時計の捲き方を知った者もないと云うでは有りませんか、爾して松谷令嬢、オホホ大変な令嬢です事、其の令嬢も昨夜叔父さんに問い詰められ、以前に幾度も幽霊塔へ上ったと白状したでは有りませんか、同じ人でなくて何ですか」若し此の疑いの通りとせば真に興の醒めた話で有る、成る程アノ義母殺しの輪田夏子の墓へ参詣した所を見ると或いは此の疑いが当るかも知れぬ、仲働きを勤めて居て主人の養女夏子とは懇意で有った為、昔の事を思い出して参詣したのか、斯う思えば一言も無いけれど、余は何故かアノ怪美人を仲働きなどの末とは思わぬ、何となく別人の様な気がする、全体余は至って直覚の明らかな生まれ附きで、今まで斯うだろうと感じた事は余り間違った例がない、此の松谷秀子を古山お酉とやら云う仲働きと別人だと思う感じも、決して間違う筈がない、と自分だけは斯う思う。
併し別に争い様もないから、無言の儘で、何とかお浦の疑いを挫く工夫は有るまいかと、悔しがって居ると、丁度叔父朝夫が這入って来た、叔父は甚く落胆の様子で「ア、今朝篤と松谷秀子嬢に逢い、昨夜の詫びも云い更あらためて時計の秘密を聞き度いと思い其の室を尋ねたら、虎井夫人と共に早朝に此の宿を立った相だ、爾して行く先も分らぬ」お浦は益々勝ち誇って「爾でしょうよ、昔の素性を知った人が多勢居る土地に、そう長居は出来ぬ筈です」と独語の様に云い、更に余に向って「道さん、夜逃げよりも朝逃げの方が、貴方のお目には貴婦人らしく見えましょうネエ」何方まで余を遣り込める積りだろう、併し余は相手にせず、食事の終るまで無言で有ったが、頓て叔父は余に向い「来た序でだから是より幽霊塔の中を見て来よう」と云い、共々に出かける事とは成ったが、本統に幽霊塔を昼の中に検査するのは是が初めてだ、検査の上で何の様な事を発見するかは烱眼な読者にも想像が届くまい。・・・  
 
河口慧海

 

「チベット旅行記」
・・・故山に別る 
私がいよいよ出立の場合になると世の中の人は「彼は死にに行くのだ、馬鹿だ、突飛だ、気狂いだ」といって罵詈ばりするものがあったです。もっとも私の面前へ来てそういう事を言うてくれた人は信実に違いないが、蔭で嘲笑せせらわらって居た人は私の不成功をひそかに期して居った人かも知れないけれども、それらの人も私に縁あればこそ悪口を言ってくれたのでかえってその悪口が善い因になったかも知れない。多くの人が嘲り笑う中にも真実に私を止めた人もあります。もはや明日出立するという前晩即ち六月二十四日大阪の牧周左衛門氏の宅に居りますと大分止めに来た人がありました。
その中でもごく熱心に止められたのは今和歌山に判事をして居る角谷大三郎という人です。
「世の物笑ものわらいとなるような事をしてはならず、もはや君は仏教の修行も大分に出来て居るし、これから衆生済度を為しなくちゃあならぬ。殊に今日本の宗教社会に人物のない時にわざわざ死にに行く必要がないじゃないか」といってだんだん勧められたが、私は「死にに行くのか死なずに帰るかそりゃ分らんけれども、まず私は一旦立てた目的であるからどこどこまでも成就じょうじゅする心算つもりである」というと「それじゃあ死んだらどうする。成就されんじゃないか。」「死ねばそれまでの事、日本に居ったところが死なないという保証は出来ない。向うへ行ったところが必ず死ぬときまったものでもない。運に任して出来得る限り良い方法を尽して事の成就を謀はかるまでである。それで死ねば軍人が戦場に出て死んだと同じ事で、仏法修行の為に死ぬほどめでたい事はない。それが私の本望であるから惜しむに足らぬ」というような事で長く議論をして居りましたが、同氏はどう留めても肯きかぬと見られたか若干の餞別を残して夜深よふけに帰って行かれた。その外ほかにもいくらとめてみてもとまらんと言って涙をもって別れを惜しんで送ってくれた信者の方々も沢山ありました。世はさまざま、六月二十五日朝大阪を出立しその翌日朋友の肥下、伊藤、山中、野田等の諸氏に見送られ、神戸の波止場から和泉丸に乗船しました。その時に故国に別るる歌があります。
久方ひさかたの月のかつらのをりを得て 帰りやすらん天津日国あまつひくにに・・・
・・・視察がてらの乞食 
どういう人民が居ってどういう風に暮して居るか、あるいはいかなる人情風俗であるかを幾分か研究したりその他の有様も知りたいという考えがあったです。けれどもただぶらぶら散歩する訳にいかないからまず乞食という姿で行けば、物をくれてもくれなくってもその辺をよく研究することが出来る。常にそういう考えを持って居るからいつもどこかへ出ます時分には乞食に出掛けてあちらこちらを見廻った訳ではございます。その翌日もその宿主らはそこへ逗留して遊猟に出掛けた。私はテントの中で漢字の法華経を読んで居りました。するとその一番兄の女房とそれからダアワという娘(仲弟の女なり)が外で何か話をして居った。
始めは何をいって居ったかよく分りませなんだがラマラマという声は確かに私の事を意味して居るような話でしたから、聞くともなしに聞きますとダアワという娘のいうに、あのラマは私の阿母おっかさんがどうも死んだらしいような話をした、本当に死んだのだろうかとこういって尋ねて居るです。すると他の婦人は笑って、なにそんな事があるものか。あなたが余りあの人に思いを掛けたからそれでよい加減かげんな事をいってごまかしたんだ。そんな事をいうのを聞いて居った分には役には立ちゃあしない。それにこの間も私の内(夫を指していう)が話したことだが、もしあのラマが俺の姪めいの婿むこに成らないようであれば、屠ほふって喰物にするという話であった。実際内のも非常に怒って居るんだからその訳をよくいって一緒になったがよかろうということを私に聞えよがしにいって居るです。
私はどうも驚きました。けれどもその時に決心した。もしかかる事のために殺されるならばこりゃ実にめでたい事である。我が戒法を守るということのために殺されるというのは実にめでたい事である。これまでは幾度か過ちに落ちて幾度か懺悔ざんげしてとにかく今日まで進んで来た。しかるにその進んで来た功を空しくしてここで殺されるのが恐ろしさにあの魔窟に陥るということは我が本望でない。ただ我が本師釈迦牟尼仏がこれを嘉納かのうましまして私をして快く最期を遂げしめ給わるようにという観念を起して法華経を一生懸命に読んで居ったです。しかしその日は何事もなかった。その翌日二里ばかり向うへ行ってまたある山の端へ着きましてずっと向うの方を見ますと何か建物のあるような所が見えた。そこであそこは何かといって尋ねますとトクチェン・ターサム(駅場)であるという。例のごとく私はそこへ乞食に行きそれを済まして帰って来ますとただダアワが一人残って居て他の者は居らぬ。どこへ行ったかと聞きますと皆遊猟に行って誰も居らぬという。私は悟さとりました。ははあこれでいよいよ・・・
・・・今晩料理されるか 
知らん。なんにしても危急の場合に迫ったという観念が生じました。しかしこの娘もやはり何かの縁があってこういう事になったんであろうから充分に仏教のありがたい事を説き付けてやろう。この娘が私に対し穢けがらわしい思いを起したのは実に過ちであるということを悟らすまで懇々と説き勧めてやろうという決心をもって座り込みました。ところがその娘は朝から例の水蕈みずきのこを取り集め、あなたが非常に蕈がおすきだからといって親切らしくそれをくれたです。そこで例の麦焦むぎこがしの粉とその蕈きのこを喰いましていよいよ法華経を読みに掛ると、娘はそれを差し止めて申しますには、是非あなたにいわねばならん酷ひどい事を聞きましたから申します。でなければあなたに対してお気の毒だから……とこう申すです。その事はもうよく私に知れて居るのですけれどもなんにも知らん振りして聞きますと、やはり前に私が聞いて居った通りの事をいったです。
私がいうにはそれは結構な事だ、お前と一緒にならずにお前たちの親の兄弟に殺されるというのは実に結構な事である。もはや雪峰チーセも巡りこの世の本望は遂げたから死は決して厭いとうところでない。むしろ結構な事である。で私は極楽浄土のかなたからお前たちが安楽に暮せるように護ってやる。是非今夜一つ殺して貰おうとこういって向うへ追掛け〔かえって反撃し〕てやりました。すると大変にびっくりして娘はいろいろと言訳をいったです。けれどもだんだん私に迫って来て、あなた死んでは詰らんじゃないかとかなんとかいろいろな事をいい出したけれども、私はすべて鋭き正法を守る底ていの論法をもって厳格に打ち破ってしまった。で四時頃になりますと遊猟に行った先生たちは四人よったりとも帰って来たです。帰るや否やその三人兄弟の中の一番悪い弟がダアワに対して、こいつめ男の端に喰い付いていろいろな事をいってやがるという小言を一つくれたんです。それはテントの外から私共の話を聞いて居て来たんでしょう。するとその娘の親が何だとその弟に喰って掛り、貴様の娘じゃなし貴様に麦焦むぎこがしの粉一ぱい喰わして貰うという訳じゃあなし、俺の娘がどうしたからといって貴様の世話にはならないといってここに兄弟喧嘩が始まったです。・・・  
 
楠山正雄

 

「牛若と弁慶」
・・・牛若うしわかは五条ごじょうの橋はしの大おおどろぼうのうわさを聞きくと、
「ふん、それはおもしろい。てんぐでも鬼おにでも、そいつを負まかして家来けらいにしてやろう。」と思おもいました。
月のいい夏なつの晩ばんでした。牛若うしわかは腹巻はらまきをして、その上に白しろい直垂ひたたれを着きました。そして黄金こがねづくりの刀かたなをはいて、笛ふえを吹ふきながら、五条ごじょうの橋はしの方ほうへ歩あるいて行きました。
橋はしの下に立たっていた弁慶べんけいは、遠とおくの方ほうから笛ふえの音ねが聞きこえて来くると、
「来きたな。」と思おもって、待まっていました。そのうち笛ふえの音ねはだんだん近ちかくなって、色いろの白しろい、きれいな稚児ちごが歩あるいて来きました。弁慶べんけいは、
「なんだ、子供こどもか。」とがっかりしましたが、そのはいている太刀たちに気きがつくと、
「おや、これは、」と思おもいました。
弁慶べんけいは橋はしのまん中に飛とび出だして行って、牛若うしわかの行く道みちに立たちはだかりました。牛若うしわかは笛ふえを吹ふきやめて、
「じゃまだ。どかないか。」といいました。弁慶べんけいは笑わらって、
「その太刀たちをわたせ。どいてやろう。」といいました。牛若うしわかは心こころの中で、
「こいつが太刀たちどろぼうだな。よしよし、ひとつからかってやれ。」と思おもいました。
「ほしけりゃ、やってもいいが、ただではやられないよ。」
牛若うしわかはこういって、きっと弁慶べんけいの顔かおを見みつめました。
弁慶べんけいはいら立だって、
「どうしたらよこす。」とこわい顔かおをしました。
「力ちからずくでとってみろ。」と牛若うしわかがいいました。弁慶べんけいはまっ赤かになって、「なんだと。」といいながら、いきなりなぎなたで横よこなぐりに切きりつけました。
すると牛若うしわかはとうに二三間げん後あとに飛とびのいていました。弁慶べんけいは少すこしおどろいて、また切きってかかりました。牛若うしわかはひょいと橋はしの欄干らんかんにとび上あがって、腰こしにさした扇おうぎをとって、弁慶べんけいの眉間みけんをめがけて打うちつけました。ふいを打うたれて弁慶べんけいは面めんくらったはずみに、なぎなたを欄干らんかんに突つき立たてました。牛若うしわかはその間まにすばやく弁慶べんけいの後うしろに下おりてしまいました。そして弁慶べんけいがなぎなたを抜ぬこうとあせっている間まに、後うしろからどんとひどくつきとばしました。弁慶べんけいはそのままとんとんと五六間けん飛とんで行って、前まえへのめりました。牛若うしわかはすぐとその上に馬乗うまのりに乗のって、「どうだ、まいったか。」といいました。
弁慶べんけいはくやしがって、はね起おきようとしましたが、重おもい石いしで押おさえられたようにちっとも動うごかれないので、うんうんうなっていました。
牛若うしわかは背中せなかの上で、「どうだ、降参こうさんしておれの家来けらいになるか。」といいました。
弁慶べんけいは閉口へいこうして、 「はい、降参こうさんします。御家来ごけらいになります。」と答こたえました。
「よしよし。」と牛若うしわかはいって、弁慶べんけいをおこしてやりました。弁慶べんけいは両手りょうてを地ちについて、「わたくしはこれまでずいぶん強つよいつもりでいましたが、あなたにはかないません。あなたはいったいどなたです。」といいました。
牛若うしわかはいばって、「おれは牛若うしわかだ。」といいました。
弁慶べんけいはおどろいて、
「じゃあ、源氏げんじの若君わかぎみですね。」といいました。
「うん、佐馬頭義朝さまのかみよしともの末子ばっしだ。お前まえはだれだ。」
「どうりでただの人ではないと思おもいました。わたしは武蔵坊弁慶むさしぼうべんけいというものです。あなたのようなりっぱな御主人ごしゅじんを持もてば、わたしも本望ほんもうです。」といいました。
これで牛若うしわかと弁慶べんけいは、主従しゅじゅうのかたい約束やくそくをいたしました。・・・  
 
邦枝完二

 

「歌麿懺悔」
・・・亀吉はまだ、三十には二つ三つ間まがあるのであろう。色若衆いろわかしゅうのような、どちらかといえば、職人向でない花車きゃしゃな体を、きまり悪そうに縁先に小さくして、鷲わしづかみにした手拭で、やたらに顔の汗を擦こすっていた。
歌麿は「青楼せいろう十二時とき」この方、版下を彫ほらせては今古こんこの名人とゆるしていた竹河岸の毛彫安けぼりやすが、森治もりじから出した「蚊帳かやの男女だんじょ」を彫ったのを最後に、突然死去して間もなく、亀吉を見出したのであるが、若いに似合わず熱のある仕事振りが意にかなって、ついこの秋口、鶴喜つるきから開板かいはんした「美人島田八景」に至るまで、その後の主立おもだった版下は、殆ど亀吉の鑿刀さくとうを俟またないものはないくらいであった。
一昨年の筆禍ひっか事件以来、人気が半減したといわれているものの、それでもさすがに歌麿のもとへは各版元からの註文が殺到して、当時売れっ子の豊国とよくにや英山えいざんなどを、遥かに凌駕りょうがする羽振りを見せていた。
きょうもきょうとて、歌麿は起きると間もなく、朝帰りの威勢のいい一九いっくにはいり込まれたのを口開くちあけに京伝きょうでん、菊塢きくう、それに版元の和泉屋市兵衛など、入れ代り立ち代り顔を見せられたところから、近頃また思い出して描き始めた金太郎の下絵をそのままにして、何んということもなくうまくもない酒を、つい付合って重ねてしまったが、さて飲んだとなると、急に十年も年が若くなったものか、やたらに昔の口説くぜつが恋しくてたまらなくなっていた。
そこへ――先客がひと通り立去った後へ、ひょっこり現れたのが亀吉だった。しかも亀吉から前夜浅草おくやまで買った陰女やまねこに、手もなく敗北したという話の末、その相手が、曾かつて自分が十年ばかり前に描かいた「北国五色墨ほっこくごしきずみ」の女と、寸分の相違もないことまで聞かされては、歌麿は、若い者の意気地なさを託かこつと共に、不思議に躍る己おのが胸に手をやらずにはいられなかった。
「亀さん」
しばし、じっと膝のあたりを見詰ていた歌麿は、突然目を上げると、引ひッ吊つるように口をゆがませて、亀吉の顔を見つめた。
「へえ。――」
「お前さん今夜ひとつ、おいらを、その陰女やまねこに会あわせてくんねえな」
「何んですって、師匠」
亀吉は、この意外な言葉に、三角の眼を菱型ひしがたにみはった。
「そう驚くにゃ当るまい。おいらを、お前さんの買った陰女に会わせてくれというだけの話じゃねえか」
「冗談じょうだんいっちゃいけません。いくら何んだって師匠が陰女なんぞと。……」
「あッはッは。つまらねえ遠慮はいらねえよ。こっちが何様じゃあるめえし、陰女に会おうがどぶ女郎に会おうが、ちっとだって、驚くこたアありゃしねえ」
「それアそういやそんなもんだが、あんな女と会いなすったところで、何ひとつ、足たしになりゃアしやせんぜ」
「足しになろうがなるめえがいいやな。おいらはただ、お前の敵かたきを討ってやりさえすりゃ、それだけで本望ほんもうなんだ」
「あっしの敵を討ちなさる。――冗じょ、冗談いっちゃいけません。昔の師匠ならいざ知らず、いくら達者でも、いまどきあの女を、師匠がこなすなんてことが。――」
「勝負にゃならねえというんだの」
「お気の毒だが、まずなりやすまい」
「亀さん」
歌麿は昂然こうぜんとして居ずまいを正した。
「へえ」
「何んでもいいから石町こくちょうの六むつを聞いたら、もう一度ここへ来てくんねえ。勝負にならねえといわれたんじゃ歌麿の名折なおれだ。飽くまでその陰女に会って、お前の敵を討たにゃならねえ」
おめえの敵と、口ではいっているものの、歌麿の脳裡のうりからは、亀吉の影は疾とうに消し飛んで、十年前に、ふとしたことから馴染なじみになったのを縁に、錦絵にしきえにまで描いて売り出した、どぶ裏の局女郎つぼねじょろう茗荷屋みょうがや若鶴わかづるの、あのはち切れるような素晴らしい肉体が、まざまざと力強く浮き出て来て、何か思いがけない幸福しあわせが、今にも眼の前へ現れでもするような嬉しさが、次第に胸を掩おおって来るのを覚えた。・・・  
 
江戸川乱歩

 

「押絵と旅する男」
・・・私は怖くなって、(こんなことを申すと、年甲斐としがいもないと思召おぼしめしましょうが、その時は、本当にゾッと、怖さが身にしみたものですよ)いきなり眼鏡を離して、「兄さん」と呼んで、兄の見えなくなった方へ走り出しました。ですが、どうした訳か、いくら探しても探しても兄の姿が見えません。時間から申しても、遠くへ行った筈はずはないのに、どこを尋ねても分りません。なんと、あなた、こうして私の兄は、それっきり、この世から姿を消してしまったのでございますよ……それ以来というもの、私は一層遠眼鏡という魔性の器械を恐れる様になりました。殊ことにも、このどこの国の船長とも分らぬ、異人の持物であった遠眼鏡が、特別いやでして、外ほかの眼鏡は知らず、この眼鏡丈けは、どんなことがあっても、さかさに見てはならぬ。さかさに覗けば凶事が起ると、固く信じているのでございます。あなたがさっき、これをさかさにお持ちなすった時、私が慌あわててお止め申した訳がお分りでございましょう。
ところが、長い間探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻って参った時でした。私はハタとある事に気がついたのです。と申すのは、兄は押絵の娘に恋こがれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の身体を押絵の娘と同じ位の大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。そこで、私はまだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せて貰いましたが、なんとあなた、案あんの定じょう、兄は押絵になって、カンテラの光りの中で、吉三の代りに、嬉し相な顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。
でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望ほんもうを達した、兄の仕合せが、涙の出る程嬉しかったものですよ。私はその絵をどんなに高くてもよいから、必ず私に譲ってくれと、覗き屋に固い約束をして、(妙なことに、小姓の吉三の代りに洋服姿の兄が坐っているのを、覗き屋は少しも気がつかない様子でした)家へ飛んで帰って、一伍一什いちぶしじゅうを母に告げました所、父も母も、何を云うのだ。お前は気でも違ったのじゃないかと申して、何と云っても取上げてくれません。おかしいじゃありませんか。ハハハハハハ」老人は、そこで、さもさも滑稽こっけいだと云わぬばかりに笑い出した。そして、変なことには、私も亦また、老人に同感して、一緒になって、ゲラゲラと笑ったのである。
「あの人たちは、人間は押絵なんぞになるものじゃないと思い込んでいたのですよ。でも押絵になった証拠には、その後のち兄の姿が、ふっつりと、この世から見えなくなってしまったじゃありませんか。それをも、あの人たちは、家出したのだなんぞと、まるで見当違いな当て推量をしているのですよ。おかしいですね。結局、私は何と云われても構わず、母にお金をねだって、とうとうその覗き絵を手に入れ、それを持って、箱根はこねから鎌倉かまくらの方へ旅をしました。それはね、兄に新婚旅行がさせてやりたかったからですよ。こうして汽車に乗って居りますと、その時のことを思い出してなりません。やっぱり、今日の様に、この絵を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に、外の景色を見せてやったのですからね。兄はどんなにか仕合せでございましたろう。娘の方でも、兄のこれ程の真心を、どうしていやに思いましょう。二人は本当の新婚者の様に、恥かし相に顔を赤らめながら、お互の肌と肌とを触れ合って、さもむつまじく、尽きぬ睦言むつごとを語り合ったものでございますよ。
その後、父は東京の商売をたたみ、富山とやま近くの故郷へ引込みましたので、それにつれて、私もずっとそこに住んで居りますが、あれからもう三十年の余になりますので、久々で兄にも変った東京が見せてやり度いと思いましてね、こうして兄と一緒に旅をしている訳でございますよ。・・・  
「怪奇幻想」
・・・私はもう、これで本望ですよ。 ・・・
 
オルコットルイーザ・メイ

 

「若草物語」
・・・ジョウは、おどろしい目をまるくしました。
「なおすのに四十年かかりました。やっとおさえられるようになりました。ほとんど、まい日、怒りたくなるけど、顔に出さぬようになったのです。これからは、怒りたくならないようにしたいのですが、それには、もう四十年かかるかもしれません。」
ああ、その言葉はジョウにとって、どんなお説教より、はげしいおしかりより、よい教訓でありました。そして、四十年も祈りつづけて欠点をなくそうとしたおかあさんのように、じぶんもどうかしてこの欠点をなおしたいと思いました。
「ねえ、おかあさん、どういうやりかたなさるの? 教えて下さい。」
「そう、あたしは、今のあなたより、すこし大きくなったころ、おかあさんをなくしました。あたしは、自尊心が強いので、じぶんの欠点をたれにうち明けることもできず、ただ一人で長い年月を苦しみました。なん度も失敗して、にがい涙を流しました。そのうちに、あなたたちのおとうさんと結婚して、しあわせになったので、じぶんをよくすることが、らくになりました。けれど、四人の娘ができ、貧乏になって来ると、またまたむかしのわるい欠点がでて来そうです。もともと、あたしは忍耐心がないので、娘たちがなにか不自由しているのを見ると、とてもたまらない気持になるんです。」
「まあ、おかあさん! それじゃ、なにがおかあさんを救って下すったんですか?」
「あなたのおとうさんです。おとうさんは、忍耐なさいます。どんなときも、人をうたがうことなく不平なく、いつも希望をもっておはたらきになります。おとうさんは、あたしを助けなぐさめ、娘たちの御手本になるように、教えて下すったのです。だから、あたしは娘たちのお手本になろうとしてじぶんをよくすることに努めました。」
「ああ、おかあさん。もしあたしが、おかあさんの半分もいい子になれたら本望ですわ。」
「いいえ、もっともっといい人になって下さい。今日味ったよりも、もっと大きな悲しみや後悔をしないように、全力をつくして、かんしゃくをおさえなさい。」
「あたし、やってみます。でも、あたしを助けて下さいね。あたしね、おとうさんは、とってもおやさしいけど、ときどき真顔におなりになり、指に口をあてて、おかあさんをごらんになるのを見ましたわ。そうすると、おかあさんは、いつも口をむすんで、部屋を出ていらっしゃいます。そういうとき、おとうさんに、おかあさんは、お気づかせになったんですか?」
「そうなんです。そういうふうに、助けて下さいとお頼みしたんです。おとうさんは、お忘れにならないで、あのちょっとしたしぐさや、やさしいお顔つきで、あたしがきつい言葉を出しそうになるのを救って下すったのですよ。」
ジョウは、おかあさんの目に涙があふれているのを見て、いいすぎたかしらと、心配になって尋ねました。
「あたし、あんなふうにいったの、いけなかったでしょうか? でも、あたし思ったこと、おかあさんにみんないってしまうの。とてもいい気持なんですもの。」
「ええ、なんでもおっしゃい。そうやって、うちあけてくれると、おかあさんはうれしいのよ。」
「あたしは、おかあさんを悲しませたのではないかと思って。」
「いいえ、おかあさんは、おとうさんのことを話しているうちに、お留守ということがしみじみさびしくなり、おとうさんのおかげということを思ったりしたので。」
「だって、おかあさんは、おとうさんに従軍なさるように、おすすめになったし、出発のときもお泣きにならなかったし、留守になってからも一度もこぼしたりなさらないし、だれの助けもあてにしていらっしゃらないし。」と、ジョウは、いぶかしそうにいいました。・・・  
 
森田草平

 

「四十八人目」
・・・「お前は思い違いをしたようじゃが、いっそお前を手に懸けておいて、その足でお供ともに立とうと、寝ているのを幸い、そっと刀に手を懸けたところをお前に眼を覚されたのじゃ」
「まあ!」と言ったまま、おしおは俯向うつむいて考えこんでしまった。が、ややあって、思い入ったようにむっくり顔を上げた。「あなたのお心はよう分りました。だが、なぜそうならそうと訳を聞かせておいてから、手に懸けようとはしてくださらぬ。身分こそ卑いやしけれ、わたしも浅野家の禄ろくを喰はんだものの娘でござんす。父はあのとおりの病身な上に、そんな企てが皆様方のうちにあるとも知らず死んで行きました。私どもは女子のこと、そんな話を聞かしてくれる人もなければ、知りもせず、これまでは夢中で暮してきたようなものの、知らぬうちはともあれ、この上はあなたのお邪魔になってはすみませぬ。わたしは覚悟を極めました!」
「なに、覚悟を極めたとは?」と、小平太はうろたえ気味に聞き返した。
「はい、どうせあなたと別れては、誰一人たよるものもないわたしの身、後に残って、一人で生きて行こうとは思いませぬ。どうぞわたしを手に懸けておいて、潔いさぎよう敵討かたきうちのお供をしてくださりませ」
こう言って、おしおは男の前へ身体を突きつけるようにした。
「さ、その刀で一思いに殺してくだされませ。それほどわたしの身を思うてくださるあなたのお手に懸って死ぬのは、わたしも本望でござんすわいな」
「ま、待て、待てと言ったら、少し待ってくれ!」と、小平太はすっかり周章あわててしまった。「そういちがいに言われても、わしにはお前を手に懸けることはできそうもないわい」
「え、何と言わしゃんす? そんならわたしゆえに未練が出るから殺しに来たとおっしゃったは、ありゃお前本気ではござりませぬかえ」
「いいや、本気じゃ、本気には相違ないが、殺せと言われて、現在かわいい女房、それも肚に子さえ宿ったというものを、そうやみやみと手に懸けられるものでない。ううむ、待て、わしは一人で行くと覚悟をした! お前はどうか後に残って、気の毒じゃが、その子を育てて行ってくれ」
子どものことを言われて、おしおは思わず帯のところへ手を遣って、じっと頸垂うなだれたまま考えこんでしまった。
「それにわしの死んだ後で、たとい忠義の士よ、お主しゅうのために命を捨てた侍さむらいよと、世に持囃もてはやされる身になっても、わしの身寄りの者が誰一人それを聞いていてくれるものがないかと思えば、何となくうら淋しい気もする。なに、わしの兄はあっても、あれはもうわしの身寄りではない。身寄りといっては、お前一人だ。そのお前が後に残って、忠義の侍よ、あれを見よと、わしが世間から囃されるのを聞いていてくれたら、同じ死ぬにも張合があるというもの。わしは思いなおした。どうかわしの言うことを聞いて、後に生き残ってくれ!」
おしおはやっぱり俯向いたまま、何とも言わなかった。小平太は気を揉もんで、
「な、わしの言うことは分ったろうな? 分ったら、どうか得心とくしんして、わしの言うことを諾きいてくれ、な、な!」と、女の背に手を懸けながら繰返した。・・・  
 
加藤文太郎

 

「単独行」
・・・今日は実にすばらしい良いお天気である。冨山組四人と小屋番の案内および僕の六人で出発した。昨日登った杉山さんと案内のシュプールがあるのでそれを伝う。広い雪原を南よりに東へ向ってしばらく登ると浅い谷を渡る。二六二〇・八メートルの裾を巻き終るとまた広い谷が現われてくる。この谷にはよく雪庇ができているので、なるたけ右寄りに巻いて谷を渡る方が安全である。
これを越せば室堂の平はすぐである。天狗平から一時間ほどで室堂に着く。室堂からは浄土山の北斜面を巻いて行く。急斜面を巻き切ると一ノ越はすぐ目の上に現われてくる。この附近は随分風が強いとみえて雪は固くなっているし、浄土側には一部雪庇ができてその下には大きなスカブラができている。一ノ越のすぐ下の固い雪の斜面をキック・ターンしながら登れば室堂から一時間ほどで一ノ越の上にのぼれる。たいてい風は西から吹き上げてくるので風陰を求めて黒部側へちょっと下り、そこでスキーをアイゼンにかえる。
乳菓等を少したべて元気をつけてから登る。小屋番の案内はアイゼンを持ってこなかったので、頂上へは登れない。冨山のパーティも夏山用の不完全なアイゼンを履いているので早くは登れない。一ノ越から頂上までのあいだの尾根は最初ちょっと雪のやわらかいところと、岩の出たところがあるがだいたい固い雪の道で、ところどころ風で夏道の出ているところもあり、夏と殆んど変らない時間で登れる。
しかし風はなかなか強く寒いので、防風用の服を着、顔は毛皮で頬冠りをした上、スキー帽も冠って登る。頂上の社務所のところはまだ雪がやわらかくところどころ落ち込む。僕は雄山神社のところへ登った後、大汝の方へ二十分ほど縦走して行って立山の最高点へ往復する。この最高点から雄山神社を越して薬師岳が見えるし、大汝の上には黒部谷下流の白馬側の山が見える。冨山のパーティのうち頂上へは二人しか登らなかった。他の二人は追分の小屋にいるときからすでに消耗していた人である。頂上へ登ったリーダーらしい方の人は、これで春夏秋冬と立山の頂上へ登ることができて本望であると言って喜んでいた。一ノ越で一行から蜜柑みかんを御馳走になる。
一行がスキーを楽しみながら一ノ越を下って行くのを見送った後、コッヘルで甘納豆をたいて昼食をすまし、十一時にここを出発する。スキーはアルペン担ぎにし、両テールは紐で腰に縛り付けてぐらつかぬようにする。尾根の雪は固く一時間ほどで竜王岳のところへくることができた。ここで荷物を置いて竜王岳の頂上へ登ってみる。頂上は別に変ったこともないが、高いところを素通りすると後で心残りになるからである。
竜王の下りは随分急であった。しかし雪がやわらかいので危険ではない。だいたいにこれから鬼ヶ岳へとつづいた尾根は右側の湯川へ面した方がひどく落ち込んでいて噴火口壁であることをはっきり現わしている。尾根の雪は意外にやわらかく下りは安全だが、ちょっとでも登りがあると全く骨の折れるところであった。しかしザラ峠への下りは雪もよく締っていて、危険もない斜面なので走って下ることができた。一ノ越からこの峠まで三時間半ほどである。・・・
 
ダビットヤーコプ・ユリウス

 

「世界漫遊」
・・・ポルジイは大した世襲財産のある伯爵家の未来の主人である。親類には大きい尼寺あまでらの長老になっている尼君あまぎみが大勢あって、それがこの活溌かっぱつな美少年を、やたらに甘やかすのである。
二三年勤める積つもりで、陸軍には出た。大尉になり次第罷やめるはずである。それを一段落として、身分相応に結婚して、ボヘミアにある広い田畑を受け取ることになっている。結婚の相手の令嬢も、疾とっくに内定してある。令嬢フィニイはキルヒネツグ領のキルヒネツゲル伯爵夫人になるのが本望である。この社会では結婚前は勿論、結婚してからも、さ程厳重に束縛せられないと云うことを、令嬢は好く知っているのである。
勿論ポルジイの品行は随分ひどい。しかし女達に追い廻されている男だと云う所を酌量して遣らなくてはならない。馬は目醒めざましい上手である。その外青年貴族のするような事には、何にも熟錬している。馬の体の事は、毛櫛けくしが知っているより好く知っている。女の容色の事も、外に真似手のない程精くわしく心得ている。ポルジイが一度好いと云った女の周囲には、耳食じしょくの徒とが集まって来て、その女は大幣おおぬさの引手ひくてあまたになる。それに学問というものを一切していないのが、最も及ぶべからざる処である。うぶで、無邪気で、何事に逢っても挫折ざせつしない元気を持っている。物に拘泥こうでいしない、思索ということをしない、純血な人間に出来るだけの受用をする。いつも何か事あれかしと、居合腰いあいごしをしているのである。
それだから金かねのいること夥おびただしい。定額では所詮しょせん足らない。尼寺のおばさん達が、表面に口小言くちこごとを言って、内心に驚歎きょうたんしながら、折々送ってくれる補助金を加えても足らない。ウィイン市内で金貸業をしているものは多いが、一人にんとしてポルジイと取引をしたことのないものはない。いざ金がいるとなると、ポルジイはどんな危険な相談にでも乗る。お負まけにそれを洒々落々しゃしゃらくらくたる態度で遣って除のける。ある時ポルジイはプリュウンという果くだものの干したのをぶら下げていた。それはボスニア産のプリュウン二千俵を買って、それを仲買に四分の一の代価で売り払った時の事である。これ程の大損をさせるプリュウンというものを、好くも見ずに置くのは遺憾いかんだと云って、時計の鎖に下げたのである。またある時はどこかの二等線路を一手に引き受けられる程の数すうの機関車を所有していた。またある時は、平生活人画かつじんが以上の面白味は解かいせないくせに、歴代の名作のある画廊を経営していた。一体どうしてこんな事件に続々関係するかと云うに、それはこうである。墺匈国おうきょうこくでは高利貸しが厳禁せられている。犯すと重い刑に処せられる。そこで名義さえ附くと好い。ボスニア産のプリュウンであろうが、機関車であろうが、レンブラントの名画であろうが、それを大金で買って、気に入らないから、直ぐに廉価に売るには、何の差支もない。これは立派な売買である。仲買にたっぷり握らせて、自分も現金を融通する。仲買は公民権を失うような危険を冒さずに済むのである。・・・  
 
佐藤垢石

 

「老狸伝」
・・・厩橋城は、松平家が留守にした幕末の九十九年間に、はじめて狸がわが住まいとして、入り込んできたのではないらしい。その二、三百年前に、城の狸が北条勢や武田勢を、向こうにまわして戦っている。
『石倉記』によると、永禄十卯十年、上杉謙信は上州厩橋城に足を止めて、関東平定のことに軍略めぐらしていた。そこへ北条氏康が攻めてきた。
氏康の軍勢は氏政従臣松田尾張入道、同左馬助、大道寺駿河守、遠山豊前守、波賀伊像守、山角上野介、福島伊賀守、山角紀伊守、依田大膳亮、南條山城守など三万余騎。
これに、加勢として武田信玄が出馬してきた。信玄の率いる勢は馬場美濃守、内藤修理亮、土屋右衛門尉、横山備中守、金丸伊賀守ら二万余騎である。両旗の軍勢合わせて五万六千は、大旗小旗や、家々の馬印、思い思いの甲冑を、朝陽に輝かして押し寄せた。
同年十月八日から厩橋城を打ち囲み、追手搦手から揉み合わせ、攻め轟かすこと雷霆らいていもこれを避けるであろうという状況である。
血は、城のお壕ほりに溢れ、屍は山と積む激戦を演じたけれど、勝敗は遂に決しない。そこで、寄せ手の方では城を焼き払う方略を立て、毎夜城下の街へ火を放して気勢をあげたのである。
ある夜、城下の街からすばらしい火の手があがった。と、同時に寄せ手の軍勢は、鬨ときの声をあげ、城門も吹っ飛べとばかり、何万かが束になって押し寄せてきた。城兵は、これを迎えてなにかと必死になって戦ったけれど、如何とも支え得られそうもない。
城門を押し倒して、あわや城内へ北条勢が押し込もうと見える危機一髪のとき、不思議なり城の一角から大軍勢が押し出し、手に手に松火を翳かざして、北条勢の鬨の声よりも、さらに大きな鬨の声をつくって寄せ手のなかへ躍り込み、敵を無二無三に斬りまくったのである。
城兵も、これがために勢いを盛り返して、奮戦したので、さしもの北条、武田合同軍も、ついに敗走してしまったのである。これに乗じて城兵は、城外へ押し出して敵を追跡し、これを殲滅しようとしたけれど、伏兵の虞おそれありとなし、謙信はこれを制止した。
だが、思いがけない軍勢が、味方を救ったことについて、城内の幹部も兵卒も、甚だ不思議としたけれど、その謎は解けなかった。戦闘が終わって、城内の石垣の上や、門の扉に明るい朝暾ちょうとんが当たりはじめたころ、将兵が斬り合いの激しかった場所へ行ってみると、そこにもここにも獣の毛がちらばっている。
いずれも、怪しきことに思っていると、一人の武士が城の隅の叢くさむらのなかで異様なものを発見した。それは一疋の大狸、しかも冑を着て倒れているのである。手も足も、頭も傷ついて息絶え絶えのありさまだ。
武士がその傍らへ走り寄ると、狸は苦しげな声で自分は年古くこの城のなかに棲んでいる。恰あたかも、城の将兵から飼われているのも同じようであった。ところが、昨夜の戦いで城方が甚だまずい。この分では、落城に及ぶかも知れぬと知ったとき、傍観するのに忍びなかった。そこで、多数の将兵に化けて出で、力の限り闘って、このように深い手傷を負ったけれど、北条武田方を敗走せしめたのは本望であった。これで、多年の御恩返しもでき、無事に極楽へ行けましょう。こう、苦しいなかから物語り終わると、息を引き取ったという。・・・  
 
本庄陸男

 

「石狩川」
・・・主君と彼らの間がずいと接近したようであった。そして、これら――ここに集まったものだけは、同じその思いに捕われていた。おのずと邦夷は口数が多くなっていた。
「相田や大野ら、あちらのものは待ちこがれていることであろうぞ」
「それは」と阿賀妻が云った、「先の便に托しまして、こちらの大体の予定だけは知らせてやりましたが」
「そうか、それはよかった、首を長うして待っておるに相違ない」
――その一団とこれとを合せて、それだけを基礎にして、邦夷らの新たな生涯がはじまろうとしている。
「われらの行きつくトウベツの地と申すのは――」と邦夷は語りだした。
どこか遠方を見ているような例の眼を船の小窓に置いて、彼はその地の空と樹と草との清新さを描きだすのであった。その一つ一つ――どれもこれも、未だこの世に、人間のあることをさえ知らなかった。そういう汚れない処女地に、彼らの手がはじめて触れるのである。自然の土は、彼らの思いのままになるか、または逆らうか、それは手をつけてみなければ判わからない。ただこれだけは云えるのだ、――誰に妨げられることもなく彼らは、彼らの意のままに、すべての膂力りょりょくと意力を傾けてたたかうことが出来る、征服するか、それともこちらが斃たおれるか、ぎりぎりで挑むことが出来るであろう。そこまで徹するのが、これが、さむらいの本望であった。
ふいにま上で蒸笛が鳴り渡った。話はとぎれた。いよいよ出帆であった。錨をまく音がごぐんごぐんと響いて甲板が震えていた。機関が喚わめきだした。がらんがらんと大鐘が鳴った。船員たちのかけ声や、走りまわるざわめきが聞えた。人々はそっと自分の家族のそばにもどって来た。船は揺すぶれて動きだした。窓から射さしこむ浪なみの反射は秋の雲のようにちらちらした。水の上の冷たい空気がどこからかすッと吹きこんだ。彼らは首をすくめた。その寒さを見送るようにした。
これからしばらくの間は、この船のなかで暮さねばならぬのだ。茫洋ぼうようとした海の上に五六日を暮して、そして、そのトウベツとかいう地に辿たどり着くというのだ。しかし、まだはじめての旅のものには、それが実感として思い浮んで来なかった。遂に生れた土地を去るという――この何かはかなげな思いが胸を暗くするばかりである。女や子供にとってはすべてが虚うつろであった。茫然ぼうぜんと居すくんでいた。
船は青い浪を揺ゆらめきわけて進んでいた。
旅馴れた二三のものだけが、目をつぶって、刻々に遠ざかっている陸地を考えていた。甲板に出て、それを、この眼でもう一度見て置きたいと思う誘惑が、それは、邦夷に最も強いのであった。しかも、最も頑かたくなに抵抗しているのがその邦夷であった。彼の唇はますます深くへしまげられていた。・・・  
 
牧逸馬

 

「双面獣」
・・・ホテリングは、グリイン知事出身市の、州刑務所々在地ミシガン州アイオニア市に移されて翌火曜日の早朝、今度はシャワジイ郡検察官Q・ロウカックとJ・A・フインクの前に引き出されて三度訊問を受けている。デトロイト市の探偵が同市郊外に起った二件の幼児殺しに関する一件書類を持って派遣されて来ていて、この審問に立ち合ったが、それは何うやら尊敬す可き長老の働きではなかったようだ。ホテリングの家族はこれらの自白を信ずる事を拒んで、「敬神家」の友人のオウオソ町の弁護士W・A・シイグミラアを立てて抗争の準備をしていた。が州としては、フリント市のモッブ騒動の例もあり、未だに私刑リンチを要求する不穏の気が漲っているので、密かに、そして一日も早く罪を決めて終い度い。其処で一策を案じて、深夜、ホテリングと巡回裁判長のW・ブレナン判事、シイグミラア弁護人、其の他関係官一同を無燈自動車へ乗せて、ジェネシイ郡選出の上院議員ピイタア・レノン氏―― Senator Peter B. Lennon ――の荘園へ出掛けてぐるぐるドライヴし乍ら、車上法廷である。これがほんとの巡回裁判とは、嘘のような洒落た思い付きだった。ミシガン州には死刑はない。最も重い体刑は終身懲役である。勿論長老の精神状態が問題になって、その鑑定が知事へ申請された。オウオソ町基督教会の牧師フライ師が独房にホテリングを慰問して、二人は相擁して泣いたりしている。
「私はあなたに告白し度かったのです。長老に昇進する前日、土曜日に、余っ程告白しようと思って、牧師館の前まで行ったのですが、とうとう其の勇気が無くて引っ返して来ました。早く告白して、牧師さんの手で警察へ渡されれば本望だったのです」
面接後、フライ牧師は興奮して新聞記者に語った。
「私はアドルフが、私の教会のメンバアであったことを、少しも恥じる気持ちはありませぬ。私の識っている彼を想い出すと耐らなく悲しいのです。しかし彼は、精神的に不健全な人間です。憎むことも、恥じる事も出来ないと思います」
息子のドュヴォアも、シイグミラア弁護士と同行して父を訪れた。子供の、泪に光る微笑に見詰められて、ホテリングは、廊下中に響く声を上げて号泣したそうだ。ホテリング夫人は、有罪と確証された以上、群集の手に落ちて私刑された方が増しだと言って、一部に鳥渡問題になったりした。夫人としては、被害者の親達に対する迫った気持ちから、切実に、正実にそう感じたのだろう。ドュヴォア少年は、
「父は、私が物心ついてから一度も、荒い言葉で叱った事もありませんでした」などと、父親に花を持たした。・・・  
 
矢田津世子

 

「罠を跳び越える女」
・・・「どうして? ばかに遅かったわね。」
昼食時刻を、祥子は槇子を待ちあぐんでいた。
「とうとうこれなの。」
クルクル指で弄もてあそんでいた紙で、槇子は威勢よく首筋を切った。
「原因は?」
彼女の手から紙を毮むしり取って、それへ眼を馳せ乍ら、祥子は青白んだ皮膚をビリビリ慄わせた。
「Sの研究会で犬に嗅がれたのが直接の原因らしいわ。あの時、煙に巻けァよかったんだけどね。失敗したわ。それから、あの例の本ね、調査の北沢さんに貸してあった。あれを何時だったか北沢さんが洗面所へ置き忘れたのよ。生憎私のサインが入っていたらしいの。今度のは、みんな私の不注意からなのよ。ばかばかしい、ったらないわ。」
「それだけなの、ここでの結果に就てじゃないの?」
「大丈夫よ。やられたのは私一人。」
「よかったわね。ほんと?」
「疑うの? 安心していいのよ。でも、私が出ちゃったら却って外部そとでの運動しごとが自由でやりいいわ。こうなるのが本望だったわね、あのゴリラの奴ったら、私を罠へかけるつもりで、その実、奴自身が罠に引っかかってるのよ。醜態だわ。……でもね、これからが危険期でしょ。だからあんたの出来る限りのカモフラージュはね。」
「うん、それァね。けど、切られたあんたの首のやり場に、私苦労してるわ。」
「その心配ならいいの。私、京橋に勤口見付けてあるわ。」
「愕いた。早いひと!」
「予感がしてたのね。一週間ばかり前から。知ってるでしょう、あの有名なボロ保険のHよ。三十七円くれるって。」
「あんたの根は其処で延びるわけね。波間の海草みたいに、始終動揺してるこの事務員階級をまとめていくって、わりと骨仕事ね、だけど、此処で三十人近く集めたのは大きい事だわ。」
「己惚うぬぼれちゃ駄目よ。私達に残された仕事は、まだまだうんとあるんだから……これがほんの序の口よ。……じゃ、私、これから行って京橋きめてくるわ。」
祥子の額にたれかかったおくれ毛を耳へ挟んでやってから、槇子は、両腕を高く振りあげて大きな背のびを始めた。・・・  
 
小栗虫太郎

 

「人外魔境」
・・・「そうか」と棘いらだった目でぎろっと折竹を見て、「君もか?! このダネック探検隊エキスペジションの……隊長だけが帰って何になる。それとも、君らが死にたいというなら、別だがね」
「死にはせん。僕にはこの堆石の川を突っきれる自信がある。ただ、方法は分らぬが、そうなるような予感がある」
「止せ」ダネックは堪たまらなくなったように、叫んだ。なにより、彼を掻かきたてたのはケルミッシュに寄り添っているケティの像のような姿だ。
「君は帰れ! 僕は引き摺ずっても、君を連れてゆく」とケルミッシュの腕をぐいと捉とらえたとき、止めようと、馳はせよった折竹の目にそれは怖ろしいものが映った。堆石のながれを越えた向うの断崖の積雪が、みるみる間に廂ひさしのように膨ふくれてきた。雪崩なだれ?! と思ったとき氷塊を飛ばし、どっと、雲のような雪煙があがったのである。とたんに視野はいちめんの白幕に包まれた。折竹は、暫時ざんじその場で気をうしなっていたのだ。
やがて気がつくと、堆石のうえが雪崩で埋まっている。そして、四つの足跡が向うまで続いているのだ。これが、ケルミッシュの予感というものか。彼とケティは雪崩のうえを渡り、「天母生上の雲湖ハーモ・サムバ・チョウ」の奥ふかくへと消えたのである。折竹も、続こうとしたが起きあがることが出来ぬ。その間に、ごうごうと続く堆石のながれが、しだいに橋となった雪崩を払ってゆくのだ。
「ああ、せめて這はいでもできれば、俺は往くんだのに……」
万斛ばんこくの恨みが、いま分秒ごとに消えてゆく雪橋はしのうえに注がれている。援蒋ルートをふさぐ……九十九江源地ナブナテイヨ・ラハードへゆく千載の好機が、いま折竹の企図とともに永遠に消えようとしている。彼は、打撲と凍傷で身動きも出来なくなっていた。
「本望だろう。ケティは、遠い遠いむかしの、血の揺籃ようらんのなかへ帰った。ケルミッシュは、現実をのがれて夢想の理想郷へいった。二人はいいが……せっかく此処ここまで漕ぎつけて失敗しくじる俺は哀れだ」 となおも手をついて起き上ろうと試みたとき、ふと掌のしたに紙のような手触りを感じた。みると、ケルミッシュが書いた走り書きのようなものだった。・・・
 
横光利一

 

「上海」
・・・山口は笑いながら帽子をゆったり冠った。
「今夜は少々危いが、俺がやられたら後を頼むよ。昨夜は何んでも、芳秋蘭がスパイの嫌疑で仲間から銃殺されたとか、されかけたとかいうんだが、いつか君は、あの女の後を追っかけたことがあったっけ。」
「殺やられたか、芳秋蘭?」と甲谷は思わずいった。
「いや、そりゃ真個ほんとかどうだか、無論分らんが、何んでも日本の男に内通してたというので疑われたらしいんだ。そのうち一つ、俺はあの女の骨も貰って来ようと思っているのさ。」
山口は、ポケットから手帖と手紙を出すと、甲谷に見せた。
「君、俺がもし死んだら、君はこの二人の男に逢ってくれ。一人は李英朴りえいぼくといって支那人で、一人はパンヂット・アムリっていう印度人だ。この印度人は宝石商こそしているが、実は印度の国民会議派の一人でね。ジャイランダス・ダウラットムの高足こうそくだ。この男は君と逢ってるうちに、君のするべきことをだんだん君に教えていくよ。」
「じゃ、君も今夜はいよいよ死人になるんだな。」
山口はしばらく甲谷を見ていてから急に高く笑い出した。
「そうだ。死人になったら、俺の家の鼠にやってくれ。定めし鼠どもも本望だろう。」
「そりゃ、本望だろう。鼠にだって、この頃は洒落しゃれたのはいるからね。」
山口は、ともかくもこの場の悲痛な話を冗談にしてしまう甲谷の友情を感じたのであろう。オルガの肩を叩いて英語でいった。
「おい、お前の好きな参木に逢わしてくれるのも、この男よりないんだからね。甲谷には親切にしないといけないぜ。」
彼は甲谷を振り返った。
「じゃ、失敬、頼むよ。この李の手紙を読んどいてくれないか。なかなかの名文だよ。」
甲谷は悠々と笑いながら出ていく山口の後を見ていると、それはたしかに死体を拾いにいくのではなく、この騒動の裏で動くアジヤ主義者としての、彼の危険な仕事が何事かあるにちがいないとふと思った。彼は渡された李英朴の手紙を見ると、それは三日前にどこからか使いの者に持たして来たものであった。・・・
 
三上於菟吉

 

「雪之丞変化」
・・・お初の目は、ギラギラと輝き出した。彼女は叶わぬ恋人を、あらん限りの愛撫で、よろこばせてやるかわりに、この世からなる地獄の責苦せめくを浴びせかけてやる外はない破目になった。そして、どこまでも、その慾望を突き貫かなければ、我慢がならないのだった。
「そうか、用心に若しくはなしだな、なあに、覚悟さえすれば、拙者一人で大丈夫だが――」と、平馬が言うのを、
「そりゃあ、思い切って、叩き斬るなら、うまくいけば、先生にも出来ましょうよ。でも、それじゃアつまらない――生殺し、なぶり殺しにしてやらなければ――あたしだって、日ごろの恨みだから、短刀のきっ先きで、ちくりと位、やッてやりたいもの――」
「ほう、そなたがな?」と、さすがに、平馬、びっくりした目でみつめる。
「そうじゃありませんか――男と女の仲というものは、惚れるか殺すかですよ」
「怖ろしいな」
「怖ろしゅうござんすとも――あなただって、今こそ、あたしをそんな目で見ているけれど、もし、一度何してから、途中で逃げ出そうとでもして御覧なさい。そのときには、思い当りますよ。ほ、ほ、ほ、ほ」
「いや、拙者、そなたに殺されるなら殺されても本望じゃ」
「まあ、それはそれとして、じゃあ、明日の晩、あたしが、必ず、あの人を、柳ばしの方角まで引き出します――その途中、どこか淋しいところへ張っていて、盗んで下さい。連れていく場所も見立てて置きますから――」
「そんなことが出来るかな?」
「出来ますとも――」
「では、それで話はきまった――ときに、お初どの、今宵は、更ふけたから、ここで、泊ってまいってくれまいか――な、お初どの」
平馬の、手が伸びて、お初の肩にふれた。・・・
 
宮崎湖処子

 

「空家」
・・・かくて一七日となり法事を営まねばならざりき、さらでも野菜なき夏の半ば、夫の留守中何事も懈おこたりがちなりければ、裏の圃はたけに大葱おおねぎの三四茎日に蒸されて萎なえたるほか、饗応きょうおうすべきものとては二葉ばかりの菜蔬さいそもなかりき、法事をせずば仏にも近所にも済まず、営まんには物なければ、彼はいと痛う哀れになり、もはや世に棄てられたるように感ぜり、折々窓より外面を眺めても、村人はただ己おのがじしその野に労するのみにて、人には一把わの菜の慈悲もなかりき、今はジリジリ移りゆく日影を見るに堪えかね、仏壇の前に伏して泣きたり、哀れの寡婦よ、いかばかり悲しかりけん、さりながら慈悲深き弥陀尊みだそんはそのままには置き給わず、日影の東に回るや否、情ある佐太郎を遣つかわし給えり、彼は瓜うり、茄子なす、南瓜かぼちゃ、大角豆ささげ、満ちたる大いなる籃かごと五升入りの徳利とを両手に提さげて訪い来たれり、「姐子あねご今日は兄貴が一七日、大方法事を営まるることと、今朝寺に案内し、帰るさに三奈木の青物店に立ち寄り、初物品々買うて来ぬ、兄貴は大角豆が好きなりしゆえ、余分に求めしわが寸志、仏前に捧ささげられたし、もしこの籠かご一個にて今日の法事の済みもせば、われにもこの上なき本望なり」と、絶望の余にかかる恵みの音ずれあり、ことさら夫が好きの物と聞くからに、感謝の語のすべることも無理にはあらず、「夫に勝る卿おんみの親実、しみじみ嬉しく忘れはせじ」と、
分に過ぎたる阿園が感謝に、佐太郎は気を取り外はずせり、彼は満面に笑みの波立て直ちに出で行き、近処に法事の案内をし、帰るさには膳椀ぜんわんを借り燗瓶かんびん杯洗を調ととのえ、蓮根れんこんを掘り、薯蕷やまのいもを掘り、帰り来たって阿園の飯を炊く間に、吸物、平、膾なます、煮染にしめ、天麩羅てんぷら等、精進下物の品々を料理し、身一個をふり廻して僕となり婢となり客ともなり主人ともなって働きたり、日暮るれば僧も来たり、父老、女房朋友らの員かずも満ち、看経かんきんも済み饗応もまた了おわり、客は皆手の行き届きたることを賞ほめて帰れば、涙をもって初めし法事も、佐太郎の尽力をもて満足に済みたり、
阿園は法事済ましてより、日常のこととてはただ午前には墓より寺に詣まいり、午後よりは訪いくる佐太郎に慰められ、夜は疾とく寝るばかりなりき、佐太郎もまたこの家に以前よりは繁く通いぬ、されど村人は皆彼が謹直なるを思い、この家との旧ふるき好よしみを思い、勇蔵とともに戦地に赴おもむきしことを思い、勇蔵が亡き後事大小となく皆彼が義務なるを思いつ、ただに彼を怪しまざるのみならず、彼が経験なき壮年の身にしては、頼みなき身を慰むることの行き届けるに、感心したり、阿園はまた二三日ごとに墓の掃除せられ、毎朝己れに先だって線香立ち、花揷さされ、花筒の水も新あらたまり、寺の御堂にも香の煙薫くゆらし賽銭さいせんさえあがれるを見、また佐太郎が訪い来るごとに、仏前に供えてとて桔梗ききょう、蓮華れんげ、女郎花おみなえしなど交る交る贈るを見、わけても徒然つれづれごとに亡夫の昔語を語るを聞きてこの上のうも満足に思いぬ、「この人までもかくまで亡夫に懐なつきてあるか」と、・・・
 
村井弦斎

 

「食道楽」
・・・大原は中川の話しの耳新しきに感歎し「中川君、僕も今日の場合に食餌療法を実行したいと思うがモー一層委くわしく話してくれ給え」中川「僕も医者でないから委しい事は知らんが西洋の医者の食餌箋を一つ二つ手帳へ記してある。マア出して見よう」と懐中ふところより手帳を取出して仔細しさいに検あらため「ウイグル氏の胃アトニー症食餌箋というものがある。普通の人は三度の食事だけれども胃病の人は少しずつ幾度いくたびにも食べるといいから五度たびの食事にしてある。先ず朝の八時がレグミーゼココア百五十瓦ぐらむにクリーム五十瓦と、一瓦は日本の二分六厘ばかりだからココア三十七匁もんめにクリーム十二匁ばかりだ。午前十時が鶏卵けいらん半熟はんじゅく一つと焼やきパン二十瓦即ち五匁、昼食ちゅうじきがよく叩いたビフステーキ百瓦即ち二十五匁、砕きたる馬鈴薯じゃがいも二百瓦即ち五十匁、飴あめ二十瓦即ち五匁、午後四時がココア百五十瓦とクリーム五十瓦だから朝の通りさ。午後七時がタピオカ二百五十瓦飴十五瓦でその外にパン五十瓦牛乳二百瓦ブランデー十瓦を一日の中うちに適宜に用いるのだ。それで全熱量が千六百十カロリーになる。普通の人の食物は十三貫目の人に二千カロリーを要するが病人だから少し減じてあるのだ。大原君解ったかね」大原「少しも分らん」中川「解らないかね。僕の家へ来ればココアでもタピオカでも西洋食品は何でもあるけれども普通の家には滅多にないから西洋の食餌箋は日本人に不適当だ。されば我邦わがくにの医者が平生食餌箋を拵こしらえておいて胃病の患者には何の食物、熱病の患者には何の食物、快復期には何の食物と日本流の食物を指定してくれれば極ごく都合がいいけれども多くは無頓着で、食物の事を尋ねると不消化なものはいけません、牛乳を沢山お飲なさいという位な事だ。同じ豚でも生肉は非常に不消化だがハムにすると非常に消化が良いい。薩摩芋さつまいもも大おおきいのを食べると胸が焼やけるけれども裏漉うらごしにして梅干で和あえると胸へ持たん。同じパンでも種類によって三十一時間体中に留まるものもあれば黒麺麭くろぱんのように十四時間で体外へ出るものもある。同じ品物でも料理法によって消化が違い、同じ牛乳でも飲み方によって消化が違う。病人が牛乳を沢山ガブ飲みしたら胃液や外の酸類で凝結ぎょうけつして胃を悪くするに極きまっている。だから医者はよく食事法を病人に教えなければならん。単に不消化物が悪いという位では訳が分らん。胃病の人には不消化物よりも流動物の方が毒になるし、熱病の人には固形物を厳禁する場合もある。西洋の食物は何でもカロリー表が割出してあって鶏卵の半熟は八十カロリー、人参にんじんが二十五匁で四十カロリー、蓬蓮草ほうれんそうが二十五匁で百六十五カロリー、ジャガ芋が十二匁で六十三カロリー、雛鳥ひなどりのササ身が二十五匁で百六十四カロリー、犢こうしのカツレツが二十五匁で二百五十カロリー、焼パンが十二匁で百五十六カロリー、バターが八匁で二百二十カロリー、砂糖が二匁五分で四十カロリーというように西洋料理の一品一食を直ぐに体量表と比較して一日に幾品いくしな幾皿いくさらを食べなければならんという勘定が出る。日本食事は一向まだ研究がしてない。味噌汁一椀わんに飯三杯は幾いくカロリーになるか滅多に知しっている医者もあるまい。それだから食餌療法が我邦に行われん。大原君だって下宿屋生活ではなおさらこの食餌箋通りなものを作る事が出来まいから僕も家へ帰ったらお登和にタピオカの料理でも拵えさせて進あげようか」とこの一語に大原ムクムクと起き上り「ウムお登和さん、是非願いたい」と俄にわかに嬉し顔。側にいたる小山が「大原君悦よろこび給え、中川君がお登和さんの事を承知されたよ。君の本望は達したよ」と聞いて大原立上って雀躍こおどりし「ありがたい、モー病気全快だ」・・・
・・・千金の薬も愉快といえる感じに優るものなし。今までは起きも得ざりし病人の大原が本望成就と聞きて床の上に端座なし「小山君僕は深く君の恩を感謝する。中川君はお登和嬢を僕の処へくれると承諾されたのだね。実にありがたい。中川君、一たび承諾された以上は後に再び変更する事はあるまいね」中川「大丈夫だ」と笑いながら言う。大原は夢でなきかと疑うばかり「だがしかし中川君ばかり承諾されても御本人のお登和嬢が何と言われたろう。最初の風向かざむきでは少々心細かったが御本人も承諾されたろうか」中川「ウム、妹も別段に異存はない様子だ」大原「別段に異存はない様子だなんぞは少々不確ふたしかだね。御本人が進んで僕の処へ来たいと言う位でなくっては不安心だ」中川「アハハ、なかなか御念の入る訳だ。しかし僕や本人が承知しても一応国の両親へ通知してその上に事を極きめなければならん。国から返事が来た後に万事を相談しようが君もまだ病中ではあるし、気を付けて緩々ゆるゆる養生し給え」大原「イヤモー全快だ、全くモー何の事もない。先刻さっきまでは身体からだの工合も悪くって起きるに懶ものうかったが今の話しを聞いて病気が何処どこへか飛んで往った。気分も平日の通りだし、腹も急に減って来て平日のような米の飯が食べたくなった。自分ながら不思議のようだね」中川「アハハ現金なものさ。それがいわゆる精神感動だね、俄にわかに戦争がその土地へ始まったために腰の抜けた大病人が我れ知らず立って逃出してそれなり病気が癒なおったという事もある。精神感動ほど人の身体に偉大の働きをするものはない。胃腸が悪いの身体が弱いのといって食物養生ばかりしていても自分の精神が不愉快だとやっぱり何の効もない。少し位な不消化物を食べても精神の愉快な時には忽ち消化してしまう、僕の議論は何が一番良く食物を消化するかといったら胃液よりも腸液よりも愉快な精神の働きだという説だね、その様子なら君はモー大丈夫だ。あまり暴食せんように注意したら程なく全快するだろう。そこで大原君、僕は近い内に日を期して君と小山君御夫婦とを招待して上等の御馳走を差上げたいと思う。珍無類の御馳走だ。如何なる贅沢家ぜいたくかも金満家も容易に口にする事が出来んほどのお料理だ。平生へいぜいはなるべく安い原料を美味うまく食べる工風にして身分に過ぎた贅沢をせんが、その代り僕の家では毎月一度ずつ無類上等の御馳走を拵えて一家団欒して食べる事に極めている。それでも料理屋へ往いって高価な不味まずいものを食べたり、飲酒会さけのみかいへ往って高い割前を取られるよりも遥はるかに廉く上って家内一同で楽しめる。世間では主人公独ひとりが料理屋へ往って無駄な贅沢をして妻君は家で香の物や茶漬で飯めしを食うという悪い風もあるが、我々文学者の責任としてあんな野蛮風を社会より消滅させて一家の人が共に悦び共に楽むという美風を養成させなければならん。その主義で僕は毎月一度出来るだけ上等の御馳走を拵えるのだ。その時は君も遣って来給え」大原「往くとも明日でもいい」中川「まだ支度もあるから一、二週間の後だ。ではマア気をつけて養生し給え。小山君、モー行こう」と暇を告げて立上る、大原は最早平日の如き元気にて床を離れ室を出でて玄関まで送り来り「中川君よろしく」中川「よろしくとは」大原「お登和さんにさ」中川も小山も「アハハ」・・・
 
近松門左衛門

 

「冥途の飛脚」
・・・封印切  
冥途の飛脚二段目(中の巻)は、忠兵衛の身の破滅のもととなるできごとを描いた封印切の場面である。封印切とは、飛脚問屋として客から預かった大事な金の封印を、客に無断で切ってしまうこと、つまり横領の行為をさしていう言葉だ。信用がもとでの商売で、これほど重大な犯罪行為はない。この罪を犯した者は、死を以て償うしか道がないのだ。  
この封印切には伏線がある。忠兵衛は梅川の身請け問題を巡って金の入用に迫られ、友人の八右衛門へ届けられた金を無断で使ってしまっていた。金の受け取りを催促しに来た八右衛門は、忠兵衛から事情を聞かされて、怒るどころか一時立て替える形で、受け渡しを延期してやった。それどころか、心配する養母の気持ちをなだめてやるために、忠兵衛がきちんと金を受け渡したと見せかける芝居に協力までしてやるのである。  
この芝居を打つ場面がまた、見どころの一つになっている。忠兵衛は櫛箱から鬢水入れを取り出すと、それを紙に包んで金貨の包みのように見せかけ、養母の目の前で八右衛門に手渡す。それを八右衛門は何の疑問もない表情で受け取るのだ。  
地色 「ヤレ有難や此の櫛箱に焼物の鬢水入、これ氏神と三度頂き紙押広げるくるくると、駿河包みに手ばしこく金五十両墨黒に、似せも似せたり五十杯、母には一杯参らせし、  
フシ 「その悪知恵ぞ勿体なき  
詞  「これこれ八右衛門殿、今渡さいでもすむ金ながら、母の心を休める為、  
地色 「男を立てる其方と見て詮方なう渡す金、きっぱりと受け取って母の心を  
色  「休めてたも  
忠兵衛の勝手放題ともいえる望みに、八右衛門はどこまでも調子を合わせ、養母の目の前で偽の受け取り証文まで書いてやる。  
こうしてみれば、八右衛門は忠兵衛にとっては恩人であるべきはずを、忠兵衛はつまらぬ意地を張るために、八右衛門と梅川の目の前で、封印切という重大な罪を犯してしまうのだ。  
その意地というのは、忠兵衛の八右衛門にたいする面当てという形をとっている。八右衛門は別に、忠兵衛に対して金の催促をしたわけでもないのに、忠兵衛は八右衛門の態度に自分への侮蔑を感じ取って、何が何でも負債を解消してやろうという激情に駆られる、この激情にそそのかされる形で、封印を切ってしまうのだ。  
このやりとりが、封印切を名場面にしているのだが、この場面を演じる二人の役者、八右衛門と忠兵衛とが、何となく呼吸が合わぬ雰囲気を醸し出し、どうも割り切れない気持ちを観客に与える。  
封印切が演じられるのは、梅川らの遊女が遊んでいた茶店である。そこへ八右衛門がやってきて、遊女たちを相手に茶のみ話をする。話の内容は忠兵衛のことだ。これまでのいきさつを明かしたうえで、もうこんな男とは係わりを持たぬほうがよいと、女らに話す。それを二階にしのびながら聞いていた梅川は、忠兵衛を案じて涙を流す。  
そこへ忠兵衛もやってきて、八右衛門の話を立ち聞きし、大いに起こる、そこから一気に封印切へと邁進するのだ。  
地  「忠兵衛元来悪い虫押えかねてずんと出で、八右衛門が膝に  
色  「むんずと居かかり・・・  
詞  「措いてくれ気遣すな五十両や百両、友達に損かける忠兵衛ではごあらぬアア、八右衛門様八右衛門め、  
地色 「さア金渡す手形戻せと、金取り出し包みを解かんとする所を  
ところが、八右衛門はここでも冷静にふるまう  
色  「やい忠兵衛  
詞  「よっぽどのたはけを尽くせ、その心を知ったる故異見をしても聞くまじと、郭の衆を頼んで此方から避けてもらうたらば、根性も取直し人間にもならうかと、男づくの念比だけ、五十両が惜しければ母御の前でいふわいやい、てんがうな手形を書き無筆の母御をなだめしが、是でも八右衛門が届かぬか  
この言葉から、八右衛門はどこまでも友達の身の上を案じて言っているのがわかる。ところが忠兵衛のほうは、そんな忠告は耳に入らない、自分の不始末をなじられたことでのぼせ上り、当座の勢いで封印を切って、その金を八右衛門にぶつけるのだ。  
この様子を見ていた梅川は、そもそもこの事態は自分のために忠兵衛が無理をして金の工面に走ったのが原因だと思えば、自分を思う忠兵衛の気持ちはありがたく感じられながらも、大それた行為の行く末を思うと胸のつぶれるほど心配になる  
地  「情なや忠兵衛様なぜそのやうに上らんす、そもや郭へ来る人のたとへ持丸長者でも金に詰まるは  
フシ 「有る習  
色  「ここの恥は恥ならず何を当てに人の金、封を切って蒔散し詮議にあうて牢櫃の、縄かかるのといふ恥と替へらるか、恥かくばかり梅川は何とされといふことぞ、とっくと心を落しつけ八様に詫び言し、金を束ねて其の主へ早う届けて下さんせ、わしを人手にやりともないそれは此の身も同じこと、身ひとつ捨てると思うたら、皆胸に込めてゐる、年とてもまあ二年下宮島へも身を仕切り、大阪の浜に立っても此方様一人は養うて、男に憂き目かけまいもの気を静めて下さんせ、浅ましい気にならんしたかうは誰がした、私がした、皆梅川が故なれば忝いやらいとしいやら、心を推して下さんせと、口説き立て口説き立て小判の上にはらはらと、  
フシ 「涙は井出のやまぶきに露置き、添ふるごとくなり  
ここで梅川は、大阪の浜に立っても忠兵衛を養ってやる覚悟だから、なにとぞこの場の恥を忘れて、大それたことはしないでと、忠兵衛に哀願している。大阪の浜に立つとは、むしろ一枚持って男を引く女のことである。自分は幾多落ちぶれても、お前のためなら苦労とは思わない、だから命を大事にして自分と細々と生きてほしい、これはそんな切羽詰まった女の言葉なのだ。  
だが忠兵衛は女の真心を受け止めない。忠兵衛の心は目先の恥のためにかたくなになっている。そんな忠兵衛を前に、梅川は絶望し、八右衛門はあきれ返る。  
こうして大それた罪である封印切が行われる。忠兵衛に残されているのは、死ぬ定めだけである。忠兵衛はその定めを、自分が命を張ってまで愛した梅川とともに、受け入れたいと願う。  
地  「なぜに命が惜しいぞ二人死ぬれば本望、今とても易いこと分別据ゑて  
色  「下んせなう  
詞  「ヤレ命生きゃうと思うて此の大事が成るものか、生きらるるだけ添はるるだけ高は死ぬると覚悟しや、  
地色 「アアさうじゃ生きらるるだけ此の世で沿はう、・・・  
色  「木綿附鳥に別れ行く栄耀栄華も人の金、果ては砂場を打ちすぎて、後は野となれ山となれ、  
二人は大和路を目指して逃げ延びてゆく。 
 
シェリーメアリー・ウォルストンクラフト

 

「フランケンシュタイン」
・・・ジュスチーヌは快活らしい様子を装いながら、苦しい涙を抑え、エリザベートを抱いて、なかば感動を抑えかねた声で言った、「では、さようなら、私の好きな、たった一人のお友だち、エリザベートさま、神さまのお恵みで、あなたに祝福と加護がありますように。あなたのお受けになる不幸がこれ以上でございませんように! 生きて幸福になり、ほかの方たちを幸福にしてあげてください。」
そして、その翌日にジュスチーヌは死んだ。エリザベートの膓を断つような雄弁も、裁判官を動かして聖者のような被害者を無実の罪から救うことができかねた。私の熱情的な憤激した控訴も、裁判官には利き目がなかった。そして、そのつめたい答を受け、苛酷な無感情の推論を聞くと、そのつもりでいた私の自白も、私の口もとに凍りついてしまった。こうして、私が自分を狂人だと宣言することにはなっても、私のみじめな犠牲に下された判決を取り消すことにはならない。ジュスチーヌは人殺しとして絞首台の上で死んだのだ!
私は、自分の心の苦しみから眼を移して、エリザベートの深刻な声なき慟哭を考えてみた。これも私のしたことだった! また父の悩みも、最近まで笑いにみちていた家庭のさびしさも――みんな私の呪いに呪われた手のしわざだった! あなたがたは泣く、不しあわせな人たちよ、けれども、これがあなたがたの最後の涙ではないのだ! 葬いの慟哭はふたたび起り、あなたがたの哀傷の声は幾度となく人の耳を打つだろう! あなたがたの息子、血のつながる者、むかしたいへん愛された友人であるフランケンシュタイン。この男は あなたがたのために、生血の一滴一滴を使いはたしたいのだ。――この男は、あなたがたのなつかしい顔色にも映るのでなければ、歓びを考えも感じもしない――この男は、祝福をもって空気をみたし、あなたがたに尽してその生涯を送りたがっているのに――あなたがたに泣けというのだ――無量の涙を流して。もしも、こうして仮借のない運命がその本望を遂げるならば、そして、墓穴に入って平和になる前に、あなたがたの悲痛な苦しみのあとで、破壊の手が休むならば、この男は、望み以上に幸福なのだ!
このように私の予言的な魂は語った。私は、自分の愛する者が、穢らわしい技術の最初の不しあわせな被害者たるウィリアムとジュスチーヌの墓に悲しみの涙をむなしくそそぐのを、そのとき見ていたのだ。・・・
 
牧野富太郎

 

「植物一日一題」
・・・さて春に、そこすなわち娘の家に飛びこんだこの花粉すなわち幼い男子はこの娘の家に引き取られて、そこに幾月もの間に段々と生育するのだが、それを養い育てるその娘の家すなわち卵子も、日を経るままに次第にその大きさを増しつつ時日を重ねるのである。そしてそうこうしている内に卵子もズット大きな実となり、初めは緑色であるのが秋風に誘われて、ようやく黄色に色着いて来る。サアこの時だ! その実の頂に近い内部に液の溜ったところが出来ていて、その液の中へ娘の家で成年に達した男の花粉嚢から精虫が二疋ずつ躍り出て来て、その精虫の体に具えている纎毛を動かしてその液中を泳ぎ回るのである。そして間もなく、これも自分の家で成年に達した娘の雌精器に触接し、握手結婚して一緒になり、ここにめでたく生育の基礎を建てるのである。すなわち許嫁の男子(雄)と女子(雌)とが初めて交会し、四海波静かにめでたく三三九度の御盃をすませる。
それは春から夏を過ぎて秋となり、その間長い月日の間何んの滞りもなく生長を続けてついに成長の期に達し、待たれた本望を遂げて千秋楽とはなったのである。そしてなお樹上にはその実が沢山に残っているから、そこでもここでも同じく華燭の盛典が挙げられめでたいことこの上もなく、許嫁の御夫婦万歳である。そのうちに右の実がいよいよ軟く黄熟し烈臭を帯びて地に落ち、葉もまた鮮やかな黄金色を呈して早くも結婚の終了を告げ欣々然として潔ぎよく散落し、間もなくその年は暮れるのである。そしてこの結婚をすませた実が地に落ちれば、来年はそこに萌出して新苗を作り子孫が繁殖するのである。
イチョウの黄葉は敢てほかの樹には望まれない美観なもので、遠くから眺めればその家、その寺、その村の目標ともなる。もしこの数千本を山に作って一山をイチョウ林にしたらば確かに壮観を呈するであろう。私に○があれば是非実行して世人をアット言わせてみたいもんだが、財布が小さくて手も足も出ないのは残念至極だ。
この木には特にいわゆるイチョウの乳が下がるが、これはこの樹に限った有名な現象である。つまりこれは気根の一種であろう。往々それが地に届きその先が地中に入ったものもある。
この今見るイチョウ樹は昔、日本へは中国から渡り来ったもので、もとより初めから我国に在ったのではない。元来中国の原産であることは疑う余地はないが、今は同国でもその野生は見付からぬとのことである。・・・
 
正岡容

 

「小説 円朝」
・・・すなわちその日から小圓太は、ハッキリとした二代目三遊亭圓生の内弟子となった。
内弟子は他に誰もいなかった。おしのどんという縮れっ毛の女中が一人いるきりだった。
お神さん――。お美佐さんという三十三、四になる美しいがつんとすました背の高い御殿女中風のひとだった。黒襟の袢纏か何かで洗い髪に黄楊つげの横櫛という、国貞好みの仇っぽいお神さんを想像していた小圓太は大へん意外のような心持がした。お美佐さんはこの近くの何とかいう御家人の娘だったのを、何でもこの人でなくてはと、何年か前師匠がいろいろに手を尽して貰ってきた。従ってこんな芸人の住む所らしくもない寂しい四谷なんかに師匠の住んでいることも一にお神さんが下町へ住むことをいやがっているせいだという。でも、そのときはそんなこと何にもしらなかったから初対面の挨拶をしたとき、お師匠しょさんの圓生師匠とは事変ってまるっきり口数の少ないむしろ素気なくさえおもわれる応対に、いっそ小圓太はさびしいようなものをさえ感じないわけにはゆかなかった。
でもそんな寂しさ、間もなく本望を遂げて落語家になられたというこのあまりにも大きな喜びの前に、ひとたまりもなくどこかへ消しとんでいってしまった。身体中にはち切れそうないまの喜びは「魂ぬけて」いそいそというのが本音だったろう、全く誇張でなしに小圓太は圓生の住居中をフワフワフワフワ他愛なく飛んで歩いていた。
やがて日が暮れかけてきた。
初めて師匠の高座着を風呂敷へ包んだのを首ッ玉へ巻きつけて寄席へ行く供をすべくいっしょに門をでた。仰ぐともう空は縹はなだいろに暮れようとしていた。どこからか秋刀魚焼く匂いが人恋しく流れてきていた。二年前、日暮里の南泉寺の庭で、泣く泣く仰いだときと同じ縹いろの秋の夕空その空のいろに変りはないが、あのときといまとを比べてみたら、ああ何というこの身の変りようだろう。嬉しさに、思わずブルブルと身内を慄わせながら辺りを見廻したら、ほんの僅かの間なのに辺りの金目垣は定かには見えないほどもう薄暗くなってきていた。初めておもいだして腰に吊した小提灯を外し、新しい蝋燭へ灯を点した。薄黄色い灯影を先へ行く師匠の足許のほうへ送りながら、見るともなしに提灯を見ると、勘亭流擬いの太いびら字で「三遊亭」と嬉しく大きく記されてあった。・・・
 
南方熊楠

 

「神社合祀に関する意見」
・・・むかし京都より本宮に詣るに、九十九王子とて歴代の諸帝が行幸御幸の時、奉幣祈願されし分社あり。いずれも史蹟として重要なる上、いわゆる熊野式の建築古儀を存し、学術上の参考物たり。しかるにその多くは合祀で失われおわる。一、二を挙げんに、出立でたち王子は定家卿の『後鳥羽院熊野御幸記』にも見るごとく、この上皇関東討滅を熊野に親しく祈らんため、御譲位後二十四年一回ずつ参詣あり、毎度この社辺に宿したまい(御所谷ごしょたにと申す)、みずから塩垢離取らせて御祈りありしその神社を見る影もなく滅却し、その跡地は悪童の放尿場となり、また小ぎたなき湯巻ゆまき、襁褓むつきなどを乾すこと絶えず。それより遠からず西の王子と言うは、脇屋義助が四国で義兵を挙げんと打ち立ちし所なり。この社も件の出立王子と今一大字の稲荷社と共に、劣等の八坂神社に合祀して三社の頭字かしらじを集めて八立稲やたていね神社と称せしめたるも、西の王子の氏子承知せず、他大字と絶交し一同社費を納めず、監獄へ入れると脅すも、入れるなら本望なり、大字民七十余戸ことごとく入獄されよと答え、祭日には多年恩を蒙りし神社を潰すような神職は畜生にも劣れりとて、坊主を招致し経を読ませ祭典を済ます。神か仏かさっぱり分からず。よって懲らしめのため神社跡地の樹林を伐り尽さしめんと命ぜしも、この神林を伐ればたちまち小山崩れて人家を潰す上、その下の官道を破るゆえ、事行なわれず。ついに降参して郡衙ぐんがより復社を黙許せり。
また南富田みなみとんだ村の金刀比羅ことひら社は、古え熊野の神ここに住みしが、海近くて波の音聒やかましとて本宮へ行けり。熊野三景の一とて、眺望絶佳の丘上に七町余歩の田畑山林あり。地震海嘯つなみの節大用ある地なり。これを無理に維持困難と詐称して他の社へ合祀せしめしも、村民承知せず、結党して郡衙に訴うること止まず、ついに昨年末県庁より復社を許可す。可笑おかしきは合祀先の神社の神職が、神社は戻るとも神体は還しやらずとて、おのれをその社の兼務させくれるべき質しちに取りおる。しかるに真正の神体は合祀のみぎり先方へ渡さず隠しありしゆえ、復社の一刹那すでに帰り居たまう。燕石十襲じっしゅうでこの神主の所行笑うに堪えたり。この他にも合祀の際、偽神体を渡し、真の神体を隠しある所多しと聞く。・・・
 
徳冨蘆花

 

    「不如帰」
「小説 不如帰」
・・・今日明日と医師のことに戒めしその今日は夕べとなりて、部屋へや部屋は燈ともしびあまねく点つきたれど、声高こわだかにもの言う者もなければ、しんしんとして人ありとは思われず。今皮下注射を終えたるあとをしばし静かにすとて、廊下伝いに離家はなれより出いで来し二人の婦人は、小座敷の椅子いすに倚よりつ。一人は加藤子爵夫人なり。今一人はかつて浪子を不動祠畔ふどうしはんに救いしかの老婦人なり。去年の秋の暮れに別れしより、しばらく相見ざりしを、浪子が父に請いて使いして招けるなり。
「いろいろ御親切に――ありがとうございます。姪あれも一度はお目にかかってお礼を申さなければならぬと、そう言い言いいたしておりましたのですが――お目にかかりまして本望でございましょう」
加藤子爵夫人はわずかに口を開きぬ。
答うべき辞ことばを知らざるように、老婦人はただ太息といきつきて頭かしらを下げつ。ややありて声を低くし
「で――はどちらにおいでなさいますので?」
「台湾にまいったそうでございます」
「台湾!」
老婦人は再び太息つきぬ。
加藤子爵夫人はわき来る涙をかろうじておさえつ。
「でございませんと、あの通り思っているのでございますから、世間体はどうともいたして、あわせもいたしましょうし、暇乞いとまごいもいたさせたいのですが――何をいっても昨日今日台湾に着いたばかり、それがほかと違って軍艦に乗っているのでございますから――」
おりから片岡夫人入り来つ。そのあとより目を泣きはらしたる千鶴子は急ぎ足に入り来たりて、その母を呼びたり。・・・
 
小林多喜二

 

    「蟹工船」
「党生活者」
・・・私にはちょんびりもの個人生活も残らなくなった。今では季節々々さえ、党生活のなかの一部でしかなくなった。四季の草花の眺めや青空や雨も、それは独立したものとして映らない。私は雨が降れば喜ぶ。然しそれは連絡に出掛けるのに傘かさをさして行くので、顔を他人ひとに見られることが少ないからである。私は早く夏が行ってくれゝばいゝと考える。夏が嫌だからではない、夏が来れば着物が薄くなり、私の特徴のある身体つき(こんなものは犬にでも喰われろ!)がそのまま分るからである。早く冬がくれば、私は「さ、もう一年寿命が延びて、活動が出来るぞ!」と考えた。たゞ東京の冬は、明る過ぎるので都合が悪かったが。――然しこういう生活に入ってから、私は季節に対して無関心になったのではなくて、むしろ今迄少しも思いがけなかったような仕方で非常に鋭敏になっていた。それは一昨年刑務所にいたとき季節々々の移りかわりに殊の外鋭敏に感じたその仕方とハッキリちがっている。
これらは意識しないで、そうなっていた。置かれている生活が知らずにそうさせたのである。もと、警察に追及されない前は、プロレタリアートの解放のために全身を捧ささげていたとしても、矢張り私はまだ沢山の「自分の」生活を持っていた。時には工場の同じ組合の連中(この組合は社民党系の反動組合だった。私はそこでの反対派として仕事をしていた)と無駄話をしながら、新宿とか浅草などを歩き廻わることもしたし、工場細胞としての厳重な政治生活が規制されていたが、合法生活が当然伴う「交際」だとか、活動写真を見るとか、(そう云えば私は最近この活動写真の存在ということをすッかり忘れてしまっている!)飲み食いが私の生活の尠すくなからざる部分を占めていた。時にはこういう生活から、工細としての仕事を一二日延ばしたりしたことがあった。又自分だけの名誉心が知らずに働いていて、自分の名誉を高めるような仕事と工細の仕事と食い合ったとき、つい自分の方のことから先きに手がついたことが一切ならずあった。これは勿論もちろんその後の仕事のなかで変ってきたが、それでも党員としての「廿四時間の政治生活」を私がしていたとは云えなかった。然しそれは私にばかり罪があるのではない。一定の生活が伴わない人間の意識的努力には限度がある。一切の個人的交渉が遮断され、党生活に従属されない個人的欲望の一切が規制される生活に置かれてみて、私が嘗かつて清算しよう清算しようとして、それがこの上もなく困難だったそれらのことが、極めて必然的に安々と行われていたのを知って驚いた。それはこれまでの一二カ年間の努力を二三カ月に縮めて行われた。と云うことが出来る。始めこの新しい生活は、小さい時誰が一番永く水の中に潜ぐっているかという競争をした時のような、あの堪えられない何んとも云えない、胸苦しさを、感じはしたが。――だが、勿論私はまだ本当の困難に鍛練されてはいない。須山とちがった切抜スクラップの好きなSは、私の「廿四時間の政治生活」というのに対して、「一日を廿八時間に働いても疲れを知らないタイプ」に自分を鍛えなければ駄目だと云っている。
一日を廿八時間に働くということが、私には始めよくは分らなかったが、然し一日に十二三回も連絡を取らなければならないようになった時、私はその意味を諒解りょうかいした。――個人的な生活が同時に階級的生活であるような生活、私はそれに少しでも近附けたら本望である。・・・
 
宮本百合子

 

    獄中への手紙 [前半]
    獄中への手紙 [後半]
「ひしがれた女性と語る」
・・・他人の世話に成らない為に、養老院と、慈善病院があるではないかと云う人が無くはありますまい。けれども、私共が自分自身を、その裡に置いて考え、感じた時、あそこは果して快い平安な最後の場所でしょうか。
家族制度によって、過去幾百年来、全然、子と呼ぶ者を持たない人間、全然、扶養される権利を主張しない老人のあることに馴れない一般は、まだまだそれ等の機関に「人の棲むべき」光明と魂とを与えていません。
公平に云って、現在それ等は、避けたい場所でなければなりません。
若し、貴女が真個に良人を愛し、その愛の為に自己を貫き度いと云うのなら、どこまで遣れるか、遣れる処まで突き進んで見たらよいではありませんか、たといその為に行倒れになったとしても本望でしょうと云う、言葉は燃え、壮さかんです。
けれども、それが、全く生命を以て生きるのは、義人の魂の裡丈だと云うことを、私共は忘れてはなりません。
十人の人は、皆、正しく生きたい本願を裡に潜めています。が、それと同時に、あらゆる地上的な幸福に手を延すことを制し得ません。
どうにかして、正しく、且つ健に楽しく、生活は運転されて行かなければならないのです。
私は、彼女の衷心の希望の対立を認めない訳には行きませんでした。真に良人を愛した者が、次の結婚を無感覚に事務的に取扱えないのは、本当の心持でしょう。それと共に、彼女が、出来る丈、人並より僅少に思われる幸福の割前を逃すまいとするのも、嘲笑するどころのことではありません。
ここで、考えは、いや応なく、又、それならばどうしたらよいか、と云う基点まで逆戻りをしなければ成らなく成って仕舞ったのです。・・・
「獄中への手紙」
・・・私はこの頃図書館がすきと云うに近くなりました。あすこにいれば決してお客はありません。ちょいちょい何か囁(ささや)き合って、こっち見るひとたちはあっても、いきなりいつかのひとのように、そばへよって来るひとはマアありませんですから。本をよむにはいいわ、そういう勉強のときは。只、ものは書けません。特別室があればいいのねえ、大英博物館の図書館のように。そうしたら、本当にどんなに有効につかえるでしょう。でも、いろいろの点からよめる本とよんでいられない本とがあってね。そのことも面白い文化の諸相です。
ところで六月二十六日朝のお手紙の前の分というのは月が変ってもいまだに出現いたしません。どこへ行ったのでしょうね、又そちらのところではなかったのかしら。私はそれで本望だけれど、郵便やさんは字だけよむのでね、不便ね。(!)
二十六日のお手紙の紙は、ほんとにインクがにじんでかきにくそうだこと。こちらも紙は大変よ。原稿紙は本年ぐらい間に合いそうですけれど。このような手紙の紙、もうあと一二冊で、あとはどんなものになるのやら。やっぱりインクがにじんで大きな字しか書けないようなのかもしれません。
栗林さん、きのう待っていてね、又会ってかえりました。謄写料のこと申していました。一つ五部のがあったかしら、私がしらべて引いてくれと申しました。さっきこまかくしらべたら、五通とってあるのは全部で五種類でうち三つは、一部ずつさし引いて私たちとしては四部だけの分を払って居り、あと二種が五部のままで、それが五十九円八十四銭となります。ですから今回の分からそれだけ差引いて支払えばよいということになります。マア、これでいいのでしょう。私たちとしては仕事がダラダラとルーズでもいいということではいやだから、のことですから。こういう類のことはいつだって、そして恐らく殆ど誰がしてもたくさんの無駄はありがちのものですものね。もう一人のひとの事務所でしらべること、月曜日にいたします。・・・
 
柳田国男

 

「山の人生」
・・・大和の三輪みわの緒環おだまきの糸、それから遠く運ばれたらしい豊後の大神おおみわ氏の花の本の少女の話は、土地とわずかな固有名詞とをかえて、今でも全国の隅々すみずみまで行われているが終始一貫した発見の糸口は、衣裳いしょうの端に刺した一本の針であった。ところが後世になるにつれて、勝利は次第に人間の方に帰し蛇の婿は刺された針の鉄気に制せられ、苦しんで死んだことになっている例が多い。糸筋いとすじを手繰たぐって窃ひそかに洞穴の口に近づいて立聴たちぎきすると。親子らしい大蛇がひそひそと話をしている。だから留めるのに人間などに思いを掛けるから命を失うことになったのだと一方がいうと、それでも種だけは残してきたから本望だと死なんとする者が答える。いや人間は賢いものだ、もし蓬よもぎと菖蒲しょうぶの二種の草を煎せんじてそれで行水ぎょうずいを使ったらどうすると、大切な秘密を洩もらしてしまったことにもなっている。たった一つの小さな昔話でも、だんだんに源みなもとを尋ねて行くと信仰の変化が窺うかがわれる。もとは単純に指令に服従して、怖しい神の妻たることに甘あまんじたものが、のちにはこれを避けまたは遁のがれようとしたことが明らかに見えるのである。しかも或いは婚姻慣習の沿革と伴うものかも知らぬが、猿の婿入の話には後代の蛇婿入譚とともに、娘の父親の約諾ということが、一つの要件をなしている。そうでなくとも堂々と押しかけてきて一門を承知させたことになっていて、大昔の神々のごとく夜陰やいん密ひそかに通かよってきて後に露顕したものではなかった。そうして天下晴れて連れて還かえったことに話はできている。すなわち山と人界との縁組は稀有けうというのみで、想像しえられぬほどの事件ではなかったが、おいおいにこれを忌み憎むの念が普通の社会には強くなり、百方手段を講じてその弊害を防ぎつつ、なお十分なる効果を挙げえないうちに、国は次第に近世の黎明れいめいになったのである。・・・
 
久生十蘭

 

「顎十郎捕物帳」
・・・木曽の親類だといって、金三郎の介添になっていた骨太なふたり。いきなり突ったちあがって袴をぬいで畳にたたきつけると、
「おい、親分、お蓮のいう通り、もうこのへんが見切りどき。そんなところへ根を生やしていねえでいさぎよくお立ちなせえ。……どうせ、おれらは海の賊。たとえ江戸一の金持であろうと、婿面をしておさまることはねえと、いくらとめたか知れねえのに、陸へあがったばっかりにこのだらしなさ。手のまわらねえうちに早く飛びだしましょう」
金三郎は、袴の裾をまくって大あぐらをかき、
「唐天竺からてんじくまで荒しまわっても、一代では五十万両の金をつかめねえ。……廈門アモイの居酒屋で問わず語らずの金三郎の身の上話。うまく持ちかけて盛り殺し、陜西シェンシーお蓮がお米と生写しなのをさいわいに四人がかりの大芝居。寧波ニンパオのお時を小間使に化けさせ、まず邪魔な惣領のお梅を砒霜ひそうの毒で気長に盛り殺し、怪談の『金鳳釵』を種本にこまごまと書きおろしたこのひと幕。木場の堀にゃア材木が浮いてるから、よもや死体が浮きあがるはずはあるめえと海のつもりで大ざっぱに放りこんだのがケチのつきはじめ。あわてて投込場から死体を盗んだのがまたいけない。こうヤキが廻ったからには、しょせん悪あがきをしてもそれは無駄。千仞の功を一簣いっきに欠いたが、明石あかしの浜の漁師の子が、五十万両の万和の養子の座にすわるとありゃアまずまず本望ほんもう。……逃ふけるならお前らだけで逃てくれ。おれは、この座敷を動かねえんだ」
と、座敷のまんなかにごろりと大の字に寝っころがった。
安政の末ごろから、台州、福州を股にかけ沿岸の支那の漁村を荒らしまわっていた梅花の新吉の一味。親類づらをした二人は、老大ラオタアの権六、忘八ワンパの猪太郎という海賊船の船頭だった。・・・
 
幸田露伴

 

「五重塔」
・・・源太はいよ/\気を静め、語気なだらかに説き出すは、まあ遠慮もなく外見みえもつくらず我の方から打明けやうが、何と十兵衞斯しては呉れぬか、折角汝も望をかけ天晴名誉の仕事をして持つたる腕の光をあらはし、慾徳では無い職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衞といふ男が意匠おもひつきぶり細工ぶり此視て知れと残さうつもりであらうが、察しも付かう我とても其は同じこと、さらに有るべき普請では無し、取り外はぐつては一生にまた出逢ふことは覚束ないなれば、源太は源太で我おれが意匠ぶり細工ぶりを是非遺したいは、理屈を自分のためにつけて云へば我はまあ感応寺の出入り、汝は何の縁ゆかりもないなり、我は先口、汝は後なり、我は頼まれて設計つもりまで為たに汝は頼まれはせず、他の口から云ふたらばまた我は受負ふても相応、汝が身柄がらでは不相応と誰しも難をするであらう、だとて我が今理屈を味方にするでもない、世間を味方にするでもない、汝が手腕の有りながら不幸ふしあはせで居るといふも知つて居る、汝が平素ふだん薄命ふしあはせを口へこそ出さね、腹の底では何どの位泣て居るといふも知つて居る、我を汝の身にしては堪忍がまんの出来ぬほど悲い一生といふも知つて居る、夫故にこそ去年一昨年何にもならぬことではあるが、まあ出来るだけの世話は為たつもり、然し恩に被せるとおもふて呉れるな、上人様だとて汝の清潔きれいな腹の中を御洞察おみとほしになつたればこそ、汝の薄命ふしあはせを気の毒とおもはれたればこそ今日のやうな御諭し、我も汝が慾かなんぞで対岸むかうにまはる奴ならば、我ひとの仕事に邪魔を入れる猪口才な死節野郎と一釿ひとてうなに脳天打欠ぶつかかずには置かぬが、つく/″\汝の身を察すれば寧いつそ仕事も呉れたいやうな気のするほど、といふて我も慾は捨て断れぬ、仕事は真実何あつても為たいは、そこで十兵衞、聞ても貰ひにくゝ云ふても退けにくい相談ぢやが、まあ如是ぢや、堪忍がまんして承知して呉れ、五重塔は二人で建てう、我を主にして汝不足でもあらうが副そへになつて力を仮してはくれまいか、不足ではあらうが、まあ厭でもあらうが源太が頼む、聴ては呉れまいか、頼む/\、頼むのぢや、黙つて居るのは聴て呉れぬか、お浪さんも我わしの云ふことの了つたなら何卒口を副て聴て貰つては下さらぬか、と脆くも涙になりゐる女房にまで頼めば、お、お、親方様、ゑゝありがたうござりまする、何所に此様な御親切の相談かけて下さる方のまた有らうか、何故御礼をば云はれぬか、と左の袖は露時雨、涙に重くなしながら、夫の膝を右の手で揺り動しつ掻口説けど、先刻より無言の仏となりし十兵衞何とも猶言はず、再度三度かきくどけど黙〻むつくりとして猶言はざりしが、やがて垂れたる首かうべを擡げ、何どうも十兵衞それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言、吐胸をついて驚く女房。なんと、と一声烈しく鋭く、頸首くびぼね反そらす一二寸、眼に角たてゝのつそりを驀向まつかうよりして瞰下す源太。・・・
 
横溝正史

 

「幽霊鉄仮面」
・・・あの悪魔をひとりでも多くたおして死ぬことができたら本望ですよ。 ・・・
 
田中芳樹

 

「薬師寺涼子の怪奇事件簿」
・・・だったらムカデどもといっしょに地下まで押し流されても本望でしょ。 ・・・
 
佐藤愛子

 

「冥途のお客」
・・・でもたった一人でも、ここから何かのヒントを得る人がいて下されば本望です。・・・
 
ジェイムズ・ブリッシュ

 

「宇宙大作戦」
・・・どうせ、そうなるなら、友人の手にかかって死ぬ方が本望です。 ・・・
 
御田重宝

 

「特攻」
・・・空中戦をやって敵に撃ち落とされ、死んでゆくなら本望ですが、この時ばかりは考えました。・・・
 
福井晴敏

 

「終戦のローレライ」
・・・やってください、お役に立ててください、掌砲長殿なら本望です。・・・
 
竜騎士

 

「ひぐらしのなく頃に」
・・・沙都子の苦しみを私が懲役で代われるなら本望です!! ・・・
 
井伏鱒二

 

「小説日本芸譚」
・・・それからつづけて、 「これだけ盛大になれば、あなたも本望でしょう」と述べた。 ・・・
・・・宜瑜の云った、あなたも本望でしょう、という短い言葉にはこれだけの意味が含まれてあった。・・・
・・・目覚めた重耳は怒って狐偃を殺そうとしたが狐偃は「わたしが殺されても公子が成功すれば本望です」と言った。 ・・・
・・・宜瑜が不用意に吐いた、あなたも本望でしょう、という一語が運慶の心に或る素直さを失わせたのである。 ・・・
 
つかこうへい

 

「長島茂雄殺人事件」
・・・打ってくれた相手が長島なら私だって本望ほんもうです。・・・
 
柴田錬三郎

 

「江戸群盗伝」
・・・自分のしたいことをして、死ぬのなら、本望です。 ・・・
 
楡周平

 

「マリア・プロジェクト」
・・・生きてあの子が帰って、再び輝かしい未来に向けて歩み出してくれるなら、私は命を失おうとも本望です。・・・
 
平坂読

 

「ホーンテッド」
・・・先輩と一緒ならそれも本望です! ・・・
 
尾崎紅葉

 

    「金色夜叉」
「金色夜叉」
・・・火鉢ひばちの縁ふちに片手を翳かざして、何をか打案ずる様さまなる目を翥そらしつつ荒尾は答へず。
「荒尾さん、それでは、とてもお聴入ききいれはあるまいと私は諦あきらめましたから、貫一かんいつさんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」
咄嗟とつさに荒尾の視線は転じて、猶語続かたりつづくる宮が面おもてを掠かすめ去さりぬ。
「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何いかにも悪かつた事を思ふ存分謝あやまりたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本望なのでございます。素もとより容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してくれやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。私はもう覚悟を致し……」
宮は苦しげに涙を呑みて、
「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下されば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましても可よいので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さして下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」
感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、忽たちまちその長き髯ひげを振りて頷うなづけり。・・・
・・・ 無慙むざんに唇くちびるを咬かみて、宮は抑へ難くも激せるなり。
「かまはんぢや可かん」
「いいえ、かまひません!」
「そりや可かん!」
「私わたくしはもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、疾とうから棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富山の事などは……不如いつそさうして死んで了ひたいので御座います」
「それそれさう云ふ無考むかんがへな、訳の解らん人に僕は与くみすることは出来んと謂ふんじや。一体さうした貴方は了簡りようけんぢやからして、始に間をも棄てたんじや。不埓ふらちです! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了簡であつて見りや、僕は寧むしろ富山を不憫ふびんに思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を有つた富山その人の不幸を愍あはれまんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕は同情を表する、愈いよいよ憎むべきは貴方じや」
四途乱しどろに湿うるほへる宮の目は焚もゆらんやうに耀かがやけり。・・・
・・・満枝は惜まず身を下くだして、彼の前に頭かしらを低さぐる可憐しをらしさよ。貫一は如何いかにとも為する能はずして、窃ひそかに首かうべを掻かいたり。
「就つきましては、私今から改めて折入つた御願が有るので御座いますが貴方も従来これまでの貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたいので御座います。そのお辞ことば次第で、私もう断然何方どちらに致しても了簡を極めて了ひますですから、間さん、貴方も庶どうか歯に衣きぬを着せずに、お心に在る通りをそのまま有仰つて下さいまし。宜よろしう御座いますか。
今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は御存ごぞんじでゐらつしやるのです。従来これまでも随分絮くどく申上げましたけれど、貴方は一図に私をお嫌きらひ遊ばして、些ちよつとでも私の申す事は取上げては下さらんのです――さやうで御座いませう。貴方からそんなに嫌きらはれてゐるのですから、私もさう何時まで好い耻はぢを掻かずとも、早く立派に断念して了へば宜よいのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも女子をんなにしては極未練の無い方で、手短てみじかに一か八ばちか決して了ふ側がはなので御座います。それがこの事ばかりは実に我ながら何為なぜかう意気地が無からうと思ふ程、……これが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふは無い積の私、それが貴方の事ばかりには全く迷ひました。
ですから、唯その胸の中うちだけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座います。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能くの因果で、究竟つまり貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう致方いたしかたも有りませんが、そんなに為されてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、如何いかにも不敏ふびんな者だと、設たとひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方ではないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。
御自分が恋こひしく思召すのも、人が恋いのも、恋いに差かはりは無いで御座いませう。増まして、貴方、片思かたおもひに思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな不束ふつつかな者でも、同じに生れた人間一人いちにんが、貴方の為には全まるで奴隷どれいのやうに成つて、しかも今貴方のお辞ことばを一言ひとこと聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐるので御座います。其処そこをお考へ遊ばしたら、如何いかに好かん奴であらうとも、雫しづくぐらゐの情なさけは懸けて遣やらう、と御不承が出来さうな者では御座いませんか。
私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお辞ことばを、唯一言ひとことで宜いのですから、今までのお馴染効なじみがひにどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」・・・
・・・彼の懐ふところを出でたるは蝋塗ろぬりの晃きらめく一口いつこうの短刀なり。貫一はその殺気に撲うたれて一指をも得動かさず、空むなしく眼まなこを輝かがやかして満枝の面おもてを睨にらみたり。宮ははや気死せるか、推伏おしふせられたるままに声も無し。
「さあ、私かうして抑へてをりますから、吭のどなり胸なり、ぐつと一突ひとつきに遣やつてお了しまひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々ぐづぐづしてゐらつしやるのです。刀の持様もちやうさへ御存じ無いのですか、かうして抜いて!」
と片手ながらに一揮ひとふり揮ふれば、鞘さやは発矢はつしと飛散つて、電光袂たもとを廻めぐる白刃しらはの影は、忽たちまち飜ひるがへつて貫一が面上三寸の処に落来おちきたれり。
「これで突けば可よいのです」
「…………」
「さては貴方はこんな女に未まだ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作も無い事。些ちよつと御覧あそばせな」
言下ごんかに勿焉こつえんと消えし刃やいばの光は、早くも宮が乱鬢らんびんを掠かすめて顕あらはれぬ。啊呀あなやと貫一の号さけぶ時、妙いしくも彼は跂起はねおきざまに突来る鋩きつさきを危あやふく外はづして、
「あれ、貫一さん!」
と満枝の手首に縋すがれるまま、一心不乱の力を極きはめて捩伏ねぢふせ捩伏ねぢふせ、仰様のけざまに推重おしかさなりて仆たふしたり。
「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい――貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから一思ひとおもひに殺して下さい!」
この恐るべき危機に瀕ひんして、貫一は謂知いひしらず自ら異あやしくも、敢あへて拯すくひの手を藉かさんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、空むなしく悶もだえに悶えゐたり。必死と争へる両箇ふたりが手中の刃やいばは、或あるひは高く、或は低く、右に左に閃々せんせんとして、あたかも一鉤いつこうの新月白く風の柳を縫ぬふに似たり。・・・
・・・鰐淵わにぶちは焚死やけしに、宮は自殺した、俺はどう為するのか。俺のこの感情の強いのでは、又向来これから宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲い思を為なければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層苦くるしみを受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。
人たるの道を尽す? 人たるの行おこなひを為る? ああ、憥うるさい、憥い! 人としてをればこそそんな義務も有る、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、一いつの罪悪だと謂いふ。或あるひは罪悪かも知れん。けれども、茫々然ぼうぼうぜんと呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等なにらの益するところも無く、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末みじまつだ。増まして、俺が今死ねば、忽たちまち何十人の人が助り、何百人の人が懽よろこぶか知れん。
俺も一箇ひとりの女故ゆゑに身を誤つたその余あとが、盗人ぬすと家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初はじめに出損でそくなつたのが一生の不覚、あれが抑そもそも不運の貫一の躯からだは、もう一遍鍛直きたへなほして出て来るより外ほか為方が無い。この世の無念はその時霽はらす!」
さしも遣る方無く悲かなしめりし貫一は、その悲を立たちどころに抜くべき術すべを今覚れり。看々みるみる涙の頬ほほの乾かわける辺あたりに、異あやしく昂あがれる気有きありて青く耀かがやきぬ。
「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世らいせで二人が夫婦に成る、これが結納ゆひのうだと思つて、幾久いくひさしく受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ」
さらば往きて汝なんぢの陥りし淵ふちに沈まん。沈まば諸共もろともと、彼は宮が屍かばねを引起して背うしろに負へば、その軽かろきこと一片ひとひらの紙に等ひとし。怪あやしと見返れば、更に怪し!芳芬ほうふん鼻を撲うちて、一朶いちだの白百合しろゆり大おほいさ人面じんめんの若ごときが、満開の葩はなびらを垂れて肩に懸かかれり。
不思議に愕おどろくと為れば目覚めさめぬ。覚むれば暁の夢なり。・・・
・・・「いいえ、私がもう少し意気地が有つたら、かうでもないんだらうけれど、胸には色々在つても、それが思切つて出来ない性分だもんだから、ついこんな破滅はめにも成つて了つて、私は実に済まないと、自分の身を考へるよりは、貴方の事が先に立つて、さぞ陰ぢや迷惑もしてお在いでなんだらうに、逢ふ度たんびに私の身を案じて、毎いつも優くして下さるのは仇あだや疎おろかな事ぢやないと、私は嬉うれしいより難有ありがたいと思つてゐます。だものだから、近頃ぢや、貴方に逢ふと直ぢきに涙が出て、何だか悲くばかりなるのが不思議だと思つてゐたら、果然やつぱりかう云ふ事になる讖しらせだつたんでせう。
貴方にはお気の毒だ、お気の毒だ、と始終自分が退ひけてゐるのに、悪縁だなんぞと言れると、私は体が縮るやうな心持がして、ああ、さうでもない、貴方が迷惑してゐるばかりなら未だ可いけれど、取んだ者に懸り合つた、ともしや後悔してお在いでなんぢやなからうかと思ふと、私だつて好い気持はしないもんだから、つい向者さつきはあんなに言過ぎて、私は誠に済みませんでした。それはもう貴方の言ふ通り悪縁には差無ちがひないんだけれど、後生だからそんな可厭いやな事は考へずにゐて下さい。私はこれで本望だと思つてゐる」
「生木なまきを割さいて別れるよりは、まあ愈ましだ」
「別れる? 吁ああ! 可厭いやだ! 考へても慄然ぞつとする! 切れるの、別れるのなんて事は、那奴あいつが来ない前には夢にだつて見やしなかつたのを、切れろ切れろぢや私もどの位内で責められたか知れやしない。さうして挙句あげくがこんな事に成つたのも、想へば皆みんな那奴のお蔭だ。ええ、悔くやしい! 私はきつと執着とつついても、この怨うらみは返して遣やるから、覚えてゐるが可い!」
女は身を顫ふるはせて詈ののしるとともに、念入おもひいりて呪のろふが如き血相を作なせり。
不知しらず、この恨み、詈ののしり、呪はるる者は、何処いづくの誰だれならんよ。
「那奴も好加減な馬鹿ぢやないか!」
男は歯咬はがみしつつ苦しげに嗤笑ししようせり。・・・ 
 
志賀直哉

 

「城の崎にて・小僧の神様」
・・・病気になって死んだら、貴方も本望でしょう? ・・・
「城の崎にて・小僧の神様」 1
日本文学の作品を読んでいると、時に文学史と重ね合わさなければ、面白さが分からない作品があります。「なんだかぼくには面白さがよく分からないけど、有名な作品ということは、当時としては斬新ななにかがあったんだろうな」と、その作品が発表された当時のことを考えた上で、ある意味、無理矢理面白さを見つける感じです。
自然主義や私小説の作品が特にそうですし、夏目漱石や森鷗外の作品でも、現在の小説とは少し違った意識を持って読まなければならない感じがありますよね。襟を正すというか、ちょっと意識を集中させるというか。
ところが志賀直哉の短編というのは、現在の小説を読むように普通に読んで、普通に面白いのではないかと思うんですね。
恋人の手料理を食べて「普通においしい」と言ったら、「普通ってなんなの」と怒られるそうですが、文豪に対して、「普通に面白い」というのは、時代を越えた面白さがあるということですから、最大の褒め言葉になるのではないかと思います。
この短編集には、作られた物語の感じの短編と、志賀直哉の実生活を反映させたような短編の2種類が収録されています。私小説的なものも個人的には好きですが、作られた物語の方の方がより面白いかもしれません。
特に「小僧の神様」「赤西蠣太」は非常にいいですね。短編集の収録順とは異なりますが、この2作品を先に紹介したいと思います。
「小僧の神様」
「仙吉は神田のある秤屋の店に奉公している」という書き出しで始まります。お店の番頭さんたちがお寿司の話をしているんですね。仙吉はそれを聞いて、お寿司を食べたくて仕方ないんですが、なにしろ高いので、まだなかなか行けるような身分ではありません。
物語は2つの視点から描かれます。もう1つは若い貴族院議員のAの視点。Aは議員仲間から屋台のうまい寿司屋を聞いたので、行ってみたんです。何人かお客さんが立ってるので、ちょっと躊躇して人の後ろに立っていると、13、4歳の小僧がそわそわした感じでやって来ます。
小僧は寿司を食べようとするんですが、店主に「一つ六銭だよ」と言われて寿司を台の上に戻して帰っていきます。お金が足りなかったんですね。Aは寿司屋を紹介してくれた議員仲間に「何だか可哀想だった。どうかしてやりたいような気がしたよ」と言います。
ある時、Aが自分の幼稚園の子供のための体重計を買いに行くと、そこでは仙吉が働いていました。「仙吉はAを知らなかった。然しAの方は仙吉を認めた」んです。そう、寿司屋で会った小僧は仙吉だったんですね。Aは仙吉に寿司を食べさせてやりたいと思い・・・。
とまあそんなお話です。Aは堂々とご馳走するようなタイプではないんです。なので、さりげなく食べさせてあげたいと思うわけですが、そこにユーモアが生まれてきます。人情話というか、今読んでも心があったかくなる作品で、しかもあったかくなるだけではなく、どこか突き抜けた面白さがあります。
「赤西蠣太」
片岡千恵蔵主演で映画にもなっていて、その映画の印象が強いということもありますが、とにかくぼくのお気に入りの作品です。これはいいですよ。
「赤西蠣太」は時代ものです。伊達騒動の裏側が描かれているので、伊達騒動の知識があった方がいいですが、まあなくても大丈夫です。というか、正直ぼくもおぼろげな知識しかないですけども。
物語の主人公は赤西蠣太という、醜男で訛りがある田舎侍です。34、5歳。とことん真面目な性格で、お菓子と将棋が好き。ある時、妙な噂が流れます。切腹未遂をしたというんですね。実は、腸捻転になったのを、自分で腹を切って腸のねじれを治してしまったんです。
寡黙で不器用そうに見えながら、そうした豪胆な所もある蠣太。やがて蠣太はある密書を届けることになります。ところが、それが藩に露見してはいけませんから、旅に出る理由を作ることにしました。
小江という美しい腰元に艶書(ラブレター)を出すんです。どうせ受け入れられるわけはないので、失恋して居たたまれないのを理由に旅に出ようというわけですね。
ところが、小江から来た返事は、人とはどこか違う蠣太に前から尊敬の念を持っていたこと、そして「私は貴方からお手紙を頂いて本統に初めて自分の求めていたものがはっきり致しました。私は今幸福を感じております」というものでした。うまくいってしまったんです。
うまくいってしまってはダメですから、蠣太は困ってしまって・・・。
とまあそんなお話です。物語のバックボーンとしては伊達騒動があるわけですが、描かれるのは事件そのものではなく、その裏側です。それが個性のある主人公、どこかユーモラスな展開で進んでいくのがとても面白い短編です。
「小僧の神様」「赤西蠣太」は、作られた物語としての面白さ、ユーモラスさがある短編でした。それ以外の短編では、とにかく志賀直哉の文体が光ります。
志賀直哉の文体というのは、かなり特徴的です。川端康成や堀辰雄の文章を思い浮かべてもらうとよいですが、日本語の文章の美しさというのは、普通はやわらかさを持つんです。
食べ物で考えてもらうと分かりますけども、やわらかいものというのは、同時に噛み切れなさがありますよね。一方で、かたいものというのは、リズミカルに噛み砕くことができます。
志賀直哉の文体は、硬質さと同時に噛みごたえのよさがあるというか、読んでいてとても痛快な文体なんです。無駄のない文章という言葉がありますが、無駄のない文章というのは時に退屈なものです。
ところがそれが志賀直哉になると、短く端正な文体でありながら、色気というかユーモラスさというか、匂いのあるような文章になっています。
もう一点注目すべきなのは、その文章が書かれるにいたった志賀直哉の目です。「城の崎にて」「濠端の住まい」などの短編で特にそうですが、ある出来事と出会い、それについて思ったことを文章にするわけですよね。その「思ったこと」に志賀直哉ならではの態度、思考法が見えるんです。
どこか冷徹なような、達観したような。そうした志賀直哉の目、独特の文体をぜひ楽しんでください。
作品
「佐々木の場合」 書生をしている〈僕〉はお嬢さんのお守りと関係を持つようになります。〈僕〉より3つ位歳下で16歳の富は、終始他人に対してびくびくして、〈僕〉に怒られています。ある時、逢引の最中にお嬢さんの身にあることが起こって・・・。
「城の崎にて」 怪我の療養に温泉に行った〈自分〉。怪我が悪化すると致命傷になる恐れがあり、必然的に死について考えをめぐらします。ある朝、玄関の屋根で一匹の蜂が死んでいるのを見つけます。「他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった」と思う〈自分〉。やがて、道ばたでイモリを見つけて・・・。
「好人物の夫婦」 旅行に行きたいという夫に対して、「貴方がそんな事をしないとはっきり云って下されば少し位淋しくてもこの間から旅行はしたがっていらしたんだから我慢してお留守しているんですけど」という妻。旦那さんの浮気を疑っているんですね。妻が留守中に、女中の滝がどうやら妊娠しているらしいことが分かります。夫は妻に疑われるかもしれないと思いますが・・・。
「十一月三日午後の事」 〈自分〉は鴨を買いに行きます。途中で兵隊たちに出会います。〈自分〉は鴨の無邪気な顔を見て、殺すのが嫌になってそのまま持ち帰ることにして・・・。
「流行感冒」 赤ん坊を亡くしてから、次の子供を過保護なくらいに注意深く育てている〈私〉。嘘をついて遊びに行ったりする石という女中の言動が気に食いません。やがて病気が流行し始め、子供にうつったら大変だと考える〈私〉ですが・・・。
「雪の日」 我孫子の雪が見たいと言っていたK君が泊まりに来ます。ちょうど粉雪が降り始めます。友達の家に行き、何人かで話をします。雪の降る我孫子の日常風景を描いた短編。
「焚火」 向こう岸に焚火が見えます。「焚火をしてますわ」と妻がいった。小鳥島の裏へ入ろうとする向う岸にそれが見える。静かな水に映って二つに見えていた。画家のSさん、宿の主のKさんと、こちらも焚火をすることにします。みんなでとりとめのない話をして・・・。焚火の終わりがとりわけ印象に残る短編。
「真鶴」 父親からお金をもらい、自分と弟の下駄を買いに行きます。しかし、ふと水平帽がほしくなって、お金を全部使ってそれを買ってしまって・・・。
「雨蛙」 賛次郎は妻のせきと一緒に、劇作家のSと小説家のGの講演を聞きに行く予定でしたが、祖母が病気になってしまったので、せきを一人で行かせます。帰って来たせきにどうだったか尋ねると・・・。
「転生」 気の利かない奥さんに頭を悩ます夫。2人は生まれ変わったらおしどりになることを約束します。ところが奥さんはなにに生まれ変わるのか忘れてしまいます。迷った挙句、間違ってキツネに生まれ変わってしまって・・・。
「濠端の住まい」 山陰の松江に暮らしていた時のこと。ある夜、小説を読んでいると、隣の鶏小屋がなにやら騒がしいんです。次の日、近所の人に聞いてみると、猫がやって来て鶏を一羽とっていったというんですね。猫を捕まえるための罠をしかけますが・・・。
「冬の往来」 20歳の〈僕〉は姉の結婚披露宴で、子供を2人連れた薫さんと出会います。薫さんに惹かれていく〈僕〉ですが、ある時、「薫さんという方は、お前さんなんぞが考えている、只それだけの方じゃあ、ありませんよ」と姉に言われます。どうやら、恋愛のために旦那さんと家を捨てたことがあるらしいんですね。薫さんを想い続ける〈僕〉ですが、薫さんは・・・。
「瑣事」 京都まで金を取りに行くと言って、家を出た彼。実はお清という女に会いに行くんです。この短編ではお清がどういう境遇の女性かはよく分かりませんが、別の短編(「痴情」)から、茶屋の仲居だということが分かります。ちょっと素人じゃない感じです。奈良から京都まで行ってみれば、お清はどうやら奈良に行っているらしいんですね。奈良に戻った彼は、お清がいるらしい辺りに行くと、お清が客と一緒に歩いている所を目撃します。お清の印象はいつもと違っていて・・・。
「山科の記憶」 家に帰ると妻の様子がおかしいんです。浮気がバレたんですね。彼と妻は言い争いをします。「お前の知った事ではないのだ。お前とは何も関係の無い事だ」と云った。「何故? 一番関係のある事でしょう? 何故関係がないの?」「知らずにいれば関係のない事だ。そういう者があったからって、お前に対する気持は少しも変りはしない」彼は自分のいう事が勝手である事は分かっていた。然し既にその女を愛している自身としては妻に対する愛情に変化のない事を喜ぶより仕方がなかった。「そんなわけはない。そんなわけは決してありません。今まで一つだったものが二つに分れるんですもの。そっちへ行く気だけが、減るわけです」「気持の上の事は数学とは別だ」「いいえ、そんな筈、ないと思う」 妻はヒステリックになり、彼の手の甲をピシリピシリ打った。・・・はたして2人が出した結論とは?
「痴情」 夫の浮気で家庭がごたごたして、精神的に衰弱していることもあって、妻は風邪がなかなか治りません。夫は用事にかこつけて、東京に行きます。やがて、妻から手紙が来て・・・。
「晩秋」 彼はようやく小説を書き上げます。タイトルは「瑣事」。完成を喜ぶ妻に彼はこう言います。「今度の小説はお前には不愉快な材料だからね」郁子は一寸暗い顔をした。然し思い返したように、「いいわ」と云った。「もう何も彼も済んで了ったんだから・・・・・・」「見ない方がいいよ」「見ない事よ。気持を悪くするだけ損ですもの。見ない事よ」と繰返して云った。・・・夫の浮気を描いた短編「瑣事」の背景と、その小説が呼び起こした、かすかな波紋を描いた短編。
「瑣事」「山科の記憶」「痴情」「晩秋」は、夫の浮気を軸にした一連の作品となっています。直接的なぶつかりあいが描かれているという点で、「山科の記憶」がとりわけ印象に残りました。あらすじではあえてあまり触れていませんが、「雨蛙」は相当心えぐられるような短編です。理由を問いかけても明確な答えがかえってこない不気味さがあります。これはちょっと不思議な短編で、登場人物の心理に共感できないだけに、どこか変な余韻の残る小説です。あとはやはり「焚火」ですね。いつか機会があれば詳しく考えてみたいテーマですが、芥川龍之介と谷崎潤一郎の間に小説の筋をめぐっての論争があります。そこで触れられていたのが「焚火」でした。一つだけ言えるのは、「焚火」はとても鮮やかな印象を残す作品だということです。特に焚火の終わりの描写に注目してもらいたいんですが、まさに情景が浮かんでくるような小説なんです。極めて強いイメージの喚起力を持った作品だと思います。  
「城の崎にて・小僧の神様」 2
「風情という情景」
人間には景色に情を求める感覚が備わっている。例えば夕景に寂しさを感じたり、季節の移ろいに人生を重ねて観たりと、自然を見て感動する心がある。もしかすると他の生物もそうかもしれないが、人間にはその欲求が強いらしく、雪山に登ってみたり、知らない場所へは宇宙までも行ってみたくなったり、わざわざ遠い温泉へと旅行に出掛けたりする。
この中で風情という感覚は、その情景を人の営みに求めようとする。例えば大阪人なら赤い顔をしたおっちゃんが串カツ屋にふらりと立ち寄る姿を見て平和を感じるかもしれない。これが屋台のラーメンなら福岡かもしれないし、かつての東京なら赤提灯のおでん屋にそれを思ったのかもしれない。町の風景も人の心を映し出す。景色の全てが人工物であっても、暮らしに馴染んだ景観が自然の景色と同じように感じられてくるものだ。
志賀直哉という作家は文章に風情を込めようとした。日々の取り留めのない生活の中に息づく感性を見出して、その感情を文字に起こす。それまでは詩歌の中に見られたそれを少し長い文章で展開する「私小説」という手法を流行させたリーダー的存在と言えるだろう。今日の若い小説家でさえ何となしに生活の一文を添えることで場面の雰囲気を作る作家は少なくない。この「なんとなく」描いてしまう生活の景色というものが他の時代や文化圏には正しく伝わらない「風情」というものだ。その場その一ト時に然としてある生活の描写は物語の情景を豊かにしてくれる。
私たちはどれほど小説を読みこなしても、ルネサンス期のヨーロッパに舞う土埃の臭いも、三国志時代の人情の温もりも、江戸の夕暮れに食べる蕎麦の味も、正しく思い出す事は出来ないが、その行間に込められた侘しさはなんとなく伝わってくるものだ。それこそが古典や外国文学の魅力だと思う人も少なくない。先に挙げた大衆食文化の例で言うと、「小僧の神様」での鮨の立ち食い屋台の魅力は、今の時代には見られない風俗なので、鮨をラーメンに置き換えたり、一皿幾らの大衆鮨屋を想像して分かったような気分になるしか現代人には出来ないけれども、なんとなく独特の味がある。
そういった明治、大正、昭和初期の風情を味わうための読み物として志賀直哉という人の小説はある。
「小説の神様とは」
さて、ではこの作者が小説の神様とまで呼ばれてしまった功績はどこにあったか。それはやはり私小説の大衆化にあったと言えるだろう。何しろ文章を書けるということが一般的ではなかった時代のことだ。識字率も国民の半数程度だった時代に私事などという下らないものを書き起こして発表するという、いかにも上層階級の娯楽に仕立てた影響は計り知れない。他の作家も私事は書いたのだが、その中に何か面白い事を書かなければ文筆家にはなれなかった。その点において志賀直哉は日常のちょっとした情景を短く書くことで多くの人の手本となれた。夏目漱石を読んでも誰も真似は出来ないが、志賀直哉なら誰でも真似できる。数行書いて、ここはちょっと寂しいネ、とか、これは可笑しいネ、と楽しめばよいのだ。これが当時はとても格好良かっただろう。文字を教え込まれた大衆はこぞって日記を書いたり、用件も無いお洒落な挨拶文を贈り合ったりして、手軽に上層階級の気分を味わう事が出来たのだ。
「小僧の神様」の鮨屋台の風情は、現代に言い換えるなら、コンビニで肉まんを買えない少年が涎を垂らしているくらいのお話だ。それを可哀想に思った大人がそこにある餡まんやピザまんも少年の好きなだけ買い与えたら神様だと感謝されるわけだが、この話をスマートフォンか何かで綺麗に発表して、読者に「私にも書ける、作りたい」という一大ブームを巻き起こせたなら、先駆けた作者は支持者からスマホ文学の神様くらいには思われるだろう。風情もへったくれも無さそうに見えるかもしれないが、百年後の若者はそれを見て「爺ちゃん婆ちゃんの時代はコンビニっていうお店?か何かの肉まんっていうのを食べるのが乙だったんだね」とスマホという古ぼけた機械をかざしながら言われる時代がきっと来る。
私小説は日本を百年ほど席巻することになった。特に女性作家を多く輩出し、私事の生活と感情を描いただけの作品と、それに共感する市場は今も大きい。その界隈で彼を拝むべき作家も少なくないはずだ。
「意味の薄弱」
文章を書くハードルを下げて誰でも気軽に書けるようになると、小説家の競争はどれだけ上手いことを言い当てられたかが良し悪しの判断になってくる。面白い題材を見つけて、そこに表れる感情を豊かに描けば「それで良い」ということになる。これは小説における意味の重要性を減退させることに繋がった。何かを強く思わせればそれで良いのだから、恋人が病気に死んで気持ち良く泣ける小説が良かったり、コーヒーを飲みながら殺人事件を解決する青年の格好良さが小説の良さになってしまう。娯楽としてはもちろんそれで構わないが、そこに文学の求める意味は要らなくなってしまう。
志賀直哉のこの本に納められた十五編の小説には既に意味の薄弱が読み取れる。どの作も「それで何が言いたいのか」と問えば答えの無いようなものばかりだ。「私はそう思った」ということしか書かれていないから、共感しない人から見ると全く詰まらない。「真鶴」など少年のお話は起こしが上手いが、「好人物の夫婦」など男女の浮気の話題になるとこちらに共感がなければ何を言っているのかさっぱり分からない。作者の日記でも読まされているかのように個人的な感想しか読み取れないのだ。詰まり、その作文をどうして大衆に読んでもらおうと思ったのか、作者は全く考えていない。ただ思ったことを書けば興味を持ってもらえると「良い気」になっているわけだ。
この点は太宰治も激しく批判している。文学にも成らない浮ついた感想文の程度で何を威張っているのかと言うわけだが、逆に志賀からすれば、意味を形作る構成を決めた上で作り話を語るのは邪道に見えたことだろう。太宰の小説なんて所詮はフィクションじゃないかというわけだ。しかし先に噛み付いた志賀もフィクションには挑戦しているから、結局は太宰の才能を恐れて、圧力を掛けたのだと思われる。それ程に志賀のフィクションは酷い。何せ意味が無いものだから中身がまるで無い。本人もそれを分かっているから情けなくて「小僧の神様」の擱筆になったのだろう。あえて書かないことに意味があるように思わせて、やはり書いて表せないのは作家としては逃げた事に他ならない。
小説を文学から大衆娯楽へと落とした人。もとい、広めた人。その題材は日本の風情。影響は良くも悪くも大きかった。と、一文でまとめればこんなところだ。
作品
「母の死と新しい母」
一 母が懐妊した知らせが届き、嬉しくなって特別な土産を買って帰る。 二 母は悪阻(つわり)で元気がなかった。 三 母はとうとう死んでしまった。 四 母と共に土産を棺に納めた。「もうおしまいだと思った」。 五 二月ほどして自家(うち)では母の後を探しだした。私は実母を失くして毎日泣いていたが、すぐに新しい母を待ち焦がれるようになった。 六 結婚式と披露宴があった。 七 若くて美しい新しい母が来て愉快に思い、「実母の死も純然たる過去に送り込まれてしまった」。新しい母は六人も子を産み、その母も老けた。
おそらく作者の自伝だろう。実母の死と新しい母親についての感想が無駄なく書かれている。ノンフィクションとして読むなら切なさを感じることは出来るが、作者はどうしてこの題材をこの構成で描いたのか、お話は落ち着かない。新しい母が来たから実母の死なんてどうってことなかった、というように読めてしまうのだが、作者は生命の侘しさを書きたかったのか、それで最後は新しい母が老けたことを書いたのか、どうも落ち着かない。
「清兵衛と瓢箪」
清兵衛はまだ十二歳だというのに瓢箪で酒瓶を作るのが趣味だった。大人たちはそれを嫌がり、特に清兵衛の瓢箪を選ぶ感性を頭ごなしに否定した。ある日裏通りで清兵衛は飛びつきたいほどいい瓢箪を見つけて十銭で買った。清兵衛は片時も離さずそれを磨いていると、小学校の教師は「到底将来見込みのある人間ではない」と怒って清兵衛から瓢箪を取り上げてしまった。それを聞いた清兵衛の父も連れられて激高し、清兵衛の他の瓢箪まで割ってしまった。さて教師から捨てるようにと小使に渡されたあの瓢箪は、骨董屋に五十円で売られ、最後は豪家に五百円で引き取られたという。清兵衛は瓢箪を諦めて絵を描き始めたが、彼の父はそれも気に入らない。
子供の才能を見抜けない大人たちを風刺する小噺。こちらはフィクションで極短編に物語が綺麗に収まっている。清兵衛少年に加担して読めば教育の主体性について考えられることもあるかもしれない。ただし単純なフィクションなので清兵衛君の趣味が上手くいかなかったくらいしか確かなことは読み取れない。瓢箪作りの面白さや清兵衛の見立ての良さを説明して欲しかった。
「正義派」 
上 ある夕方、母親に連れられた五歳ばかりの女の児が路面電車に轢き殺された。電車に備え付けられていた救助網は作動せず、運転手が電気ブレーキを掛けたかどうかが事故の焦点となった。その場にいた線路工夫の中から運転手をかばう証言が起こった。他の三人の工夫はそれに食い下がった。
下 現場監督は鉄道会社の面子を考えて穏便に取り成そうとするが、三人の工夫は正義の証言を曲げずに運転手を責め立て、だんだん愉快な気持ちになった。しかし聴取を終えた三人は事故現場に戻るとその周囲の空々しさに、報われるべきものの報われない、不満を感じ始めた。飲み歩きながら大袈裟に事件を吹聴しても気持ちは晴れず、酔いつぶれて泣いた。
正義が報われないお話なのか、そういう正義派の人もいて報われるお話なのか、分からない。最後に正義の工夫が泣いていることから前者のようだが、正義が確かに負けた場面を書いてくれないと判断が付けられない。当時は書かなくても分かる当然に悪い結末があったのかもしれないが、仮に運転手の過失が認められたところで工夫は報われても轢かれた少女は報われない。上下段に分けた構成も何のためなのか分からない。
「小僧の神様」
一 小僧の仙吉は秤屋に奉公していた。店の大人たちが粋に鮨屋の話をしているのを憧れて聞いていた。 二 京橋まで使いに出された小僧は屋台の鮨屋に近づいた。 三 屋台にいた貴族院議員のAの前で小僧は鮪の脂身(トロ)を買えずに恥をかいた。 四 Aは小僧を可哀想に思った。 五 Aはたまたま秤屋で小僧を見つけたので御馳走してやろうと考えた。 六 小僧は鮨屋でたらふく鮨を食べた。 七 Aは善い事をしたと考えるのに、その心はなぜか淋しかった。 八 小僧はAを神様かもしれないと考えた。 九 Aは鮨を食べることに負い目を感じるようになった。 十 作者はここで筆を擱(お)くことにする。小僧がAを尋ねたら稲荷の祠に行き着いたお話にしようと思ったが、小僧に残酷な気がしたからだ。
書くのを途中で放棄するのはいけない。小僧に残酷だと思うなら別の話に転化すればよいし、残酷な結末をあえて書かないことに粋を感じるでしょうと言うのなら初めから書かなければよい。残酷うんぬんを抜きにして結末まで書いたとしても、その用意されたシナリオでは貴族議員Aの気持ちの方は落ちが付かない。小僧と二人の視点を交差するドラマ調にしてしまったために作者の力量ではまとめられなくなってしまったのだろう。執筆の敗北を隠して、気取った素振りで逃げようとするのは、作家として最低の行いだ。小僧には残酷だと思っても読者に残酷だと思わなかったのか。
「城の崎にて」
山手線の電車に跳ねられて怪我をした。城の崎温泉にて養生する。考えることは沈んだことが多かった。「自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた。」
ある朝、玄関の屋根では蜂が静かに死んでいて、三日ほどして雨に流されて消えた。それから間もなく、鼠に魚串を刺して自由を奪い、小川に放り込んで石を投げつけて遊んでいる者たちを見た。必死に努力する鼠と自分とを重ねて考えると最期まで見る気がしなかった。暫くして川辺にイモリを見つけたので驚かそうと石を投げたら偶然に当たって殺してしまった。
「生き物の淋しさを一緒に感じた。自分は偶然に死ななかった。蠑螈(いもり)は偶然に死んだ」「それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。」
代表作と言われる小説。作者の経験から偽りないエッセイなのだろう。生と死の紙一重について考える作者の気持ちはおそらく多くの人が共感できるはずだ。しかし、作者が間抜けに電車に跳ねられたことと、鼠をなぶり殺して遊ぶ人の姿とを同様に考えるのは意味の冒涜に近いものがある。これでは死に意味を感じているのではなく、ただ憂鬱に考えているだけだ。運の良し悪しで命運が決まってしまう心細さを描きたいのであれば、もっと生きた部分を書かないと果敢なさを表現することは出来ない。なんか命って簡単に死んでしまって淋しいなあと思うくらいは電車に轢かれなくても城の崎温泉を散歩しなくても出来る。
「好人物の夫婦」
一 良人(おっと)は旅に出たいという。細君は良人が旅先で女を抱くのではないかと心配する。良人は「しなくないかも知れない」とはぐらかして口論となり、旅の話は流れる。 二 細君は祖母の看病に大阪へ行った。 三 女中が悪阻の吐き気をもよおしている。 四 女中の妊娠相手に自分が疑われると思った。そういう事はなかったが、心はその女中に惹かれる部分があるのは事実だった。 五 細君も女中の妊娠を知っていて言い出せずにいた。良人からその話を持ち出すと、不安だった細君の心は晴れて、その手がブルブル震えた。
どこかに経験談を交えたフィクション小説だろう。作者にとって好人物というのは自分の気持ちに素直な物言いのことなのか。妻の不安を掻き立てるだけの夫の言動を好人物と呼ぶのは一般的ではないような気がする。女中の妊娠が夫のそれでなくとも、心は危うかったのであれば、「不安な夫婦」という題名の方がしっくりとくる。浮気が公然と行われていた彼らの社会では微笑ましい一幕なのであろうか。とはいえ、浮気をしたい夫とされたくない妻の問答は小説として一応成立している。それなら好人物は好き者という意味なのか。
「雨蛙」
平和な田舎町で酒屋を営む若い賛次郎は田舎暮らしに飽きて文学に少しかぶれる。小説家らの公演があるというので妻のセキを行かせると、その晩にセキは小説家に寝取られてしまった。セキを迎えに行って帰る道すがら木製の電柱につつましく住み着く雨蛙の夫婦を見つけて、なつかしく思う。賛次郎は小説などを人知れず裏山で焼き捨ててやった。
聞いた話か何かから起こしたフィクションだろう。憧れの世界から手痛いしっぺ返しを食らうお話としてまとまっている。妻が相手の男の指示から当世風の化粧などを施されて帰って来るが、陽なたの田舎道でそれが醜く見えるのは切ない。しかし、妻から不貞をしたように見える描写のせいで、夫の憧れが悪かったのかどうか見えなくなってしまう。最後の雨蛙のつつましい夫婦も妻には理解してもらえず、妻の思考に欠陥があるのか、それとも夫婦の意思が通じていないのか、なんだかよく分からない。
「焚火」
新緑の季節に妻を伴い山へ遊びに行く。世話をしてくれた宿の主Kさんと小鳥島(赤城大沼)へボートを出して焚火をする。Kさんは山で遭難しかかった時の不思議な話を始めた。彼がいよいよ危ない時に彼の母親が峠の向こうの母屋からいつ帰るとも分からないKが呼んでいると察知して義兄を迎えに寄こしたというのだ。Kはそれで助かった。話を聞いた妻と自分は母と子の不思議な絆を感じて感動する。焚火を終えて帰りのボートは、山の梟の声からだんだん遠ざかっていく。
山での焚き火というとキャンプファイアーの火を囲んで怖い話をする今日の定番を作ったのはこの小説かもしれない。Kという人物から聞いた不思議話と焚き火の体験をそのまま書き起こしたのかもしれないが、Kの作り話は大した不思議でもなく、焚き火の体験も今日では小学校のキャンプで誰でも知っているようなものだ。都会から離れた当時の作者にとっては新鮮な出来事だったのだろう。芥川龍之介はこの一見して話らしい起結もないのに雰囲気が醸し出される手法を絶賛しているが、それ程のものではない。お話に出てくる山にも母子にも特に意味は無い。
「真鶴」
伊豆半島の年の暮れに、十二、三歳になる男の児が不機嫌な弟の手を引いて歩いていた。少年は真鶴の漁師の息子で、父親から金を貰い、小田原まで弟と二人の下駄を買いに出掛けた。ところが少年は海兵の叔父への憧れから二人分の金を使って水兵帽を買ってしまったのだ。そして道中で出会った法界節(ほうかいぶし)の芸人一行の女に一目惚れをしてしまい、こうしてずっとその後を付いて歩いている。疲れ切った弟をおんぶして、この先の曲がり角まで行けば女と自分を巻き込んだ事件が起こるかもしれないと期待しながら疲れた自分を奮い立たせるが、少年の前に現れたのは彼の母親だった。安心した弟が暴れ出したので、少年は自分のかぶっていた水兵帽を弟にくれてやったがもう惜しく思わなかった。
開始五行の起こしは秀逸で小説の全体が見渡せる。最後はちょっと作り話の匂いが強いが、突然の恋に駆られる少年の急に大人びる感じが綺麗に描かれている。ただし恋心の部分は丁寧に描かれているのに心の成長過程が書かれておらず、女と少年の間に何もないし、肝心の別れる場面も分からず仕舞いだ。水兵帽を弟にやっても惜しく思わなくなっていた心境の変化を、恋がそうさせただけではなく、もう一歩踏み込んで書いてもらえないことには少年に何が起こったのかが分からない。海兵帽の象徴する叔父への憧れが恋に消されてしまったわけでもあるまい。
「山科の記憶」
一 彼は浮気遊びから帰るのに当惑を覚えた。女も妻も愛して幸せなのだからそれで良いはずなのに、妻に気を使って偽りを言わねばならないことが腹立たしくもあった。妻は浮気を見抜いてヒステリックになると手には負えなかった。 二 彼は妻が入院した時の若い医者のことを持ち出して、妻にも浮気の気があるのではないかと責めると、上手く話が外れた。 三 しかし女とは一時的にも別れるしかなかった。
次に続く二作との連作になる最初のお話。浮気をして帰ったら妻から浮気をやめろと詰め寄られる。おそらくこれは作者の経験談であり、また武勇伝の一つみたいなものだろうが、こんなに情けないことをよく発表出来たものだとしか思うことはない。小説のネタにして全国へ披露することで妻への復讐をしているのだろうか。悪いのは浮気をした夫の方だと思うが、今で言う逆ギレをして見せる様子から、彼の気持ちの悪いところはよく描けている。読者に伝えたいことは特にないのだろう。
「痴情」
一 女というのは祇園の茶屋の仲居だった。精神的に男のような女でこちらに執着していないが、こちらから執着していた。それに妻に咎められたから女を諦めるのは男として不甲斐なく思われていやだった。 二 妻は女と別れてくれなければ死ぬと言う。妻の正論に彼は不愉快で仕方がなかった。 三 東山三条に出向いて女に別れを告げると彼女は泣き出した。しかし彼女はこれが彼女の商売だと分かっている。そんな彼女を彼は愛して別れる気は全くなかった。 四 とにかく執拗な妻から離れたかった。彼が東京の実家に帰ると妻から長い手紙が届いた。淋しくてつらくて不安で泣けてくるから浮気はもうやめて帰って来てほしいという内容だった。
浮気話の連作の続き。妻が自分に惚れ込み過ぎていて束縛がつらいわ、といった感じなのか。
「瑣事」
彼は京都まで金を取りに行くと妻に嘘をついて女に会いに行った。すると女は行き違いで奈良まで来ているという。彼はすぐ奈良に戻ると女は別の男客と町を歩いていた。すれ違ってもこちらに気づきもしない女を見て、自分に会いに来るつもりは彼女にはなかったのだと思わされた。それでも彼女に会えただけで嬉しかった。
本当に些事で読んでいるこちらが困る。どうして自分の些事を大衆に読み聞かせようと思ったのか作者に聞いてみたいくらいだ。前二つの連作として見てもこれでは落ち着かないので、まだ続けるつもりの途中の一幕かもしれない。電車で行き違いになった事が作者には面白かったのか。または心も行き違いになっているのが良かったのか。
「濠端の住まい」
山陰松江に一ト夏暮らした時の事、私は田舎に即したわざと簡素な暮らしをしてみた。面倒を見てくれた隣の家でやっている養鶏を観察して過ごしたりした。ある夜に母鶏が猫に殺されてしまった。隣の夫婦は怒って猫を捕まえ、濠の水にしずめて殺すと言う。私は可哀想に思ったがどうすればいいか知らない。翌日、私が眼覚めた時には猫はすでに殺されていた。
小動物の殺傷を傍観している私を含めて神の無慈悲が決めた運命なのだと思う感想文。この時「私」はどうしたら良かったのでしょうかと問う道徳教育の題材くらいにはなりそう。しかし作者はこれを読ませてどうしようというのだろうか。その場にいない読者にはどうすることもできない。嫌な気分になるだけだ。
「転生」
一 ある所に気の利かない細君を持った一人の男があった。 二 男は妻の事を豚を飼っているように思っていた。 三 男は自分で自分が浅間しくなるほど癇癪を起こした。 四 妻が「あなたは利口過ぎる」と言うので男は「お前が馬鹿過ぎる」と言い返すと、二人は鴛鴦(おしどり)に生まれ変われば仲むつまじく丁度いいという結論になった。 五 男は目出たく死んで鴛鴦に生まれ変わった。 六 細君も死んだが狐に生まれ変わってしまった。 七 二人はやっと再会したが、間違いに驚き呆れて男は「何という馬鹿だ!」と怒鳴った。 八 妻は夫を食べてしまった。これは私の家の教訓ではないですよ。
作者と妻の喧嘩を冗談にしたお伽噺なのだそうだ。女性から見れば何が面白いのかさっぱり分からない。最後に妻が夫を食べてしまうところに男からの譲歩みたいなものがあるのだろうが、この感じの悪い夫の問題はそこではない。と、この作者に気づく力はないのだろう。古き時代の悪しき亭主関白といった風情なのだろうか。
「プラトニック・ラヴ」
私には好きな芸者がいたが会う事はほとんどなかった。それでいてなんとなく惚れていた。忘れていれば一年でも二年でも忘れている。憶い出せば恋人だ。これはプラトニック・ラヴというものだろうと考えた。ある日私は彼女の店の電話番号を手帳に書いてあったことを忘れていて間違えてそこに掛けてしまった。彼女が電話口に出て、いかにもプラトニック・ラヴらしい自分の間抜けさを思うとおかしくなって笑った。
これはプラトニックラブではない。疎遠だけれどたまに思い出す好きな芸者がいるというだけだ。小説の内容に起結もなく、中身もこんなものだから読んでも仕方がない。作者のプライベートなメモ程度のものだ。
 
雫井脩介

 

「クローズド・ノート」
・・・「香恵ちゃんが住んでるなら、この部屋も本望でしょ」石飛さんが冗談を返すように言う。 ・・・
 
喬林知

 

「今日からマ王」
・・・本当に、二百ページ書いたうちの一文だけでも、読んでるあなたのどこかに引っかかれば、初心者文章書きとしては本望です。 ・・・
・・・地元の人々が説明をしたところ、最初は驚かれたが「私の命が万民のお役に立てば、仏に仕える身の本望です」と快く引き受けてくださり人々は涙した。 ・・・
・・・ああ、ツェリ様に縫われるのならば本望です。・・・
 
菊地秀行

 

「吸血鬼ハンター」
・・・愛するお方に利用されるなら、本望ですわ。 ・・・
 
橋本治

 

「桃尻娘」
・・・より猥雑になりまして、本望です。 ・・・
自分の頭で考える   橋本治に訊く
1、橋本治はアメリカ女性大統領誕生も大学生のデモも二十年まえに予見している
——— 橋本先生は、1999年、28年まえ、『映画たちよ!』の末尾で、映画「アメリカン・クイーン」の予告編シナリオというパスティーシュの傑作を発表しています。アメリカ初の女性大統領誕生を波瀾万丈なハリウッド・オールスター映画としたものですね。そちらも現在、まさに映画でなく現実となろうとしています。
橋本 そうですね。ふっふっふ。
——— このまえ私が、橋本先生にインタビューさせていただいたのは、二昔まえ、『別冊宝島 東大さんがいく!』の企画ででした。その折、『人工島戦記』という大河小説の執筆を準備していると話されていたのが記憶に残っております。架空の地方都市を、地名駅名、バス停の位置まで全て創造して、その町で起こるゼネコン開発企画の波紋を通して、バブル以降の日本を描き尽くす全体小説とお聞きし、期待が高まったのですが……。
橋本 東京以外、実在する固有名詞が一つも登場しない(笑)。あれは最後、学生たちにデモをさせる話なんです!
——— そう。それです。当時それを聞いてピンときませんでした。構想は凄いと感じたけれど、日本で今後、学生がデモへ盛り上がる時代がやってくるとは思えなかった。昨年来の国会周辺デモを知って、橋本治の洞察力の射程にあらためて感嘆しています。
橋本 今のデモとはちょっと違うと思いますけど。
——— でしょうね。どこが違いますか。
橋本 私が対象にしたのは、事態にピンとこないノンキなその時の学生達でした。大学生はバカだという前提で、そんなバカな大学生がデモをやったら注目されるんじゃないかと。そういうあり方もあるだろうと。そのデモをやるというクライマックスで一本筋を通して、地方社会が見えるようにしたかっただけですけどね。まだ終わっていませんけど。
——— あきらめてもいらっしゃらない?
橋本 三千枚は書いて、あと千五百枚くらいは書かないといけない。中絶したのは結局、金詰りなんですよね。あと二年で借金返し終わるけど、四半世紀の隔たり越えて続き書くのかなあという気もする。ただ何つうのかな……、バカな大学生と政治は結びつかないというふうに考えていたけど、バカな大学生と政治が結びつかないといけないんじゃないの?というのはありますね。だから、ビリギャルが慶應受かったっていうのがあるんだったら、アホな大学生がちゃんと政治家になるっていうのもあったっていいと思うんですけどね。でも杉村太蔵じゃあねぇ。志だけじゃあね。頭悪いとどうにもならないのが政治家ですもんね。といって頭いいだけでもどうにもならないし。
——— 「桃尻娘」シリーズの最終巻では、頭のいい大学生榊原玲奈は立候補する妊婦となってましたね。
橋本 そうなってもおかしくない時代だろうな、と思ったんです。日本ってボスがいなければ政治成り立たないでしょ。ところが子供たちがそういうボスを作れなくなっちゃってる。民主教育が進んだから政治家は生まれなくなったんですよね。だから、ウチの娘も政治家にしちゃえと。でも現実にそれやれるのは、元ヤンだけですよ。多分……。
2、橋本治は、モラルと知性が同居したヤンキーの誕生を希望とする
——— それはリアリティありますね。地方議員の若手には、族あがりっぽい人、準ヤンキー系みたいな人けっこういますよ。あの世界も人手不足で、そういうタイプしかなり手がいなくなってきている。人の上に立つってみんなやりたがらなくなってるから。
橋本 人手不足でまた劣化してゆく。だから、いまや希望は、ヤンキーに学問をさせるしかないです(笑)。なぜって、普通の知識人つーか普通の人って、もはやモラルがないんですよ。頭はいいだろうけど、とってもセコい元都知事のマスゾエくんみたいにね。でもヤンキーってモラルで成り立っているから、ヤンキーに学問あたえるとモラルと知性が同居して、なんか久しく失われていたものが蘇りそうで。だってあの人たちは知らないことだらけなんだから。何に出会っても「へえー!」って呑みこむばかりだからいいと思うの。
——— まさしく福澤諭吉が、『学問のすすめ』をぶつけたときのごとく、まっさらなわけですね。福澤の著が、特定の学問を実利を挙げて勧めたものではないのは、橋本先生の今度の著でも再三指摘されていますが、それでも、「日本国中は勿論世界万国の風土道案内」地理学とか、「一身一家の世帯より天下の世帯を説きたる」経済学とか、はなはだ多き「なおまた進んで学ぶべき箇条」の一端を例示していますよね。いま現在、ヤンキーであれ誰であれ学ぶべき箇条を一端でも例示してはもらえないものですかね。そういう要望は多いと思いますが。
橋本 いや、どんな学問をすればいいかはわかんないです。
——— 人によって個別具体的にいろいろだからですか。
橋本 というか、私自身アレコレを勘だけでやってて、博覧型のトータリティがなくて、そういうガイドブックがあるということ自体がちょっと違わないかって気がするんですよね。 今だと、これ読めばわかるという本を教えてくださいとか、ネットでどこを調べればいいかとかになっちゃう。今の学問は複雑多岐に分かれ過ぎてしまって、それやっても結局、学問じゃなくて技術をマスターするって方向にしか行かないんじゃないか。 私基本的に勉強して何かわかったって人ではないので。勉強しなきゃいけない材料が何だかよくわからないから、こういうのかなってやって、なんとなく直感でわかったみたいなものだから。ガイドブックも何もなくても、目つぶって立って歩いていれば、自分の中から何か浮かんでくるだろうぐらいの、何か変な教育の中にいたような気がするんですよね。だから私の大学生時代、皆がいってることまったくわかんない。社会主義の用語しかないんだもん。だから、国語辞典引いてました。初めて。「政治」って引いたら「まつりごと」って書いてあって何の役にも立たない。だから本を読んでもよくわからなかった。
3、橋本治は、ガイドブックを忌避して、数学の証明問題で悟った自分を回想する
橋本 私、多分これ誰に言っても「それいいですね」とは言われないんですけど、数学やってなんかわかったんですよ。数学の証明問題つーのがあって、ああ説明ってこういうふうにするのだって。それと出会ってはじめて、説明というのがわかった。数学っていうのはわかんなくなっても元に戻ってはじめからずーっとやってれば答えがわかるもんだってことだけはわかった。
——— 確かに橋本先生の文章の「まずこれを説明します」という書き起こし方とか、証明問題の解答っぽいですね。
橋本 だってそういうふうに説明してくれる人あんまりいないんだもん。だから、評論系のものってまったく読んでないんですよ。
——— でしょうね。評論系っていまや福澤がいってる「世上に実のなき文学」ですからね。そんなの読んでいる人は、今回の福澤諭吉についての本とか、『小林秀雄の恵み』のような凄い思索は絶対出来ないと思います。評論系読んでると、肝心なところをこれは考え詰めないでも皆がいってるからいいやって無意識で思っちゃって難解になっていっちゃう。ところが橋本さんは、『学問のすすめ』のような「価値の定まった有名なもの」が本当はどういうものなのかを知りたいという衝動にかられて、時代背景との関係を丁寧に解きほぐしながら徒手空拳(としゅくうけん)で読みやぶってゆける……。橋本先生はいつだって何についてだってそうやって考えてこられましたよね。
橋本 それしかできないんです(笑)。 やっぱり福澤諭吉のあり方をもうここらへんで出していかないと話まとまらないしなっていうのはありましたね。昔だったら、福澤諭吉というと勝海舟の悪口言ってたとかどういう人かっていう知られ方ってあったけど、お札(さつ)になってしまって、よくわからなくなってしまった。
——— みなもと太郎先生の『風雲児たち・幕末篇』を読むといっぱい書いてありますけどね(笑)。いま出た勝海舟のほうはお読みになりますか。
橋本 いいえ。私は海舟よりも勝小吉のほうが好きです。というのは阪妻(ばんつま=阪東妻三郎)の映画のせいですけど(笑)。
——— 何という映画ですか。
橋本 「父子鷹(おやこだか)」です。阪妻がやるとみんな魅力的ないい人になるからすごいです。
——— そういう知識というか記憶が原点となって、橋本先生はご自分の思索を積み上げていらっしゃる。そのあたりのコツ、勉強して何かわかるのでない橋本式方法を片鱗でも見せていただけたらと…。たとえば先生は、十代の頃、読書なんかほとんどしなかったけれど、中公から出たばかりの「日本の歴史」「世界の歴史」のシリーズは読んだと書かれてましたよね。その読まれ方って、受験勉強のためとか歴史学者や小説家になりたいとか、あるいは歴史マニアや歴史「おたく」的な読み方とはまるで違っていたと思うんですよ。
橋本 うん。多分違うと思います。
——— そういういわば「自己流」で読めたのはどうしてかをみんな知りたいんじゃないか。
4、橋本治は、「物語の下地」を踏まえて歴史を自己流で読み破る
橋本 自己流で読み破っていけたのは「物語の下地」があったからです。私、歴史の年号って覚えられなかったんですよ。「一、二、三、四、金が滅亡」とかね(笑)。「世界の歴史」シリーズは、まず年表っていう別巻が出て本屋で読んで、そういう並び数字を探したら「一、七、八、九、フランス革命」というのがあった。それが十八世紀だったのなら一八〇〇年に十八世紀って終わるのかというのを高校三年生ぐらいでやっと理解しました(笑)。
——— それもまた自己流そのものですね。
橋本 この年表の巻は、いろいろ余分なことが書いてある。「巌流島の決闘、一六四五年」とかね(笑)。「一八三二年、鼠小僧次郎吉処刑」とか。わたしはそういうくだらないものからしか入ってゆけないんですよ。そういう物語の下地があったから、自己流で入って行ける。ファンタジーとしての歴史という入らせ方が今はないですね。昔は子供向けの物語に、歴史を背景にしているのがいくらでもあったけれど、いつの時代のどこの史実なのかは関係なく知ってる話があった。ファンタジーとして入り込むんですよね。源義経だとか。ロビン・フッドという人はイギリス人だって知ってるけどいつの時代かは知らない。シャーウッドの森がどこにあったかは知らないけれど、何か頭に入っている。
——— 福澤諭吉というと勝海舟の悪口言った人だなっていう知られ方ですね。その勝海舟は、阪妻がやった勝小吉の息子だろとかからはいる歴史……。
橋本 それはもうずーっと、折あるごとに言ってますけどね。つまり歴史をわかるための手がかりがあまりにも日本になくなっているんですよ。なくなっているから親しみが湧かない。知らない固有名詞ばっかりになってしまう。それで幕末ものが好きな人はそればっかり知ってるし、戦国武将が好きな人はそればっかり知っててとなってさ、どこそこの大名は誰でそのかみさんはどうでって。そういうこと知ってて何の意味があるの?と思っちゃうんですけどね。私、『日本の歴史』は高校生のとき途中まで三巻目くらいまで読みかけて「ああ、こんなもの読んで歴史が面白くなって好きになったら困るから、やめとこう」と思っていったん止めて、二十歳過ぎてから全部読みましたよね。二十歳過ぎてから私の読書体験はあらためて始まるんです。高校生の時に読んでたのは、イアン・フレミングの007シリーズですけどね。二十歳過ぎると個人全集をずっと読むという……。それで『日本の歴史』も、全部読んで三回繰り返し読んだけど。本って三回繰り返し読むと四回目にはなんか「もういいな」になるんですね。歴史好きになるときっと何か困ったことになるからって、大学入っても国史の授業とか受けてないんですよね。そのくせ、今はこんな風に歴史に深入りしてしまっている。
——— なぜ歴史好きになったらヤバいって思われたのですか? そして二十歳過ぎて読んだときは、なぜ大丈夫だったのですか?
橋本 別に歴史家になりたくなかったんですね。なんか、自分の進む先に歴史はなくて、脇道だった。それが二十歳過ぎて、基礎的なことを頭に入れとかなきゃだめだなと思ったんです。
——— 『世界の歴史』のほうは読まれましたか。
橋本 「世界の歴史」は「日本の歴史」みたいに一人一巻執筆じゃないんですよね。分担だからある意味で流れないですよ。なんか流れないとダメなんですよね。
———物語としての歴史なんですね。歴史「おたく」、歴史マニアへと閉じていっちゃうのとは違いますね。どこまでも、ファンタジーとしての歴史の延長上にある。昔はそういうファンタジーとしての歴史知識をどうやって仕入れたのでしょうか。
5、橋本治は、講談社の絵本とカバヤ文庫で歴史マニアとは違う歴史を体得する
橋本 どこで読んだかつーと、カバヤという菓子メーカーがあって、それの付録というかオマケで、キャラメルとか買って、入っている小さいカードを集めると本一冊もらえた。それが祖父さんのやっていた菓子屋にいっぱいあったんです。菓子を仕入れたときのブリキの缶に入っていた。菓子が棚に並んでいて本はブリキ缶に入ってたと逆なんですけど(笑)。で、祖父さんは「誰も取りに来ねえから、やる」って言ったんです。私は子供のときずーっとそのブリキ缶に座りながらその本を読んでいたんです。
——— 敗戦後に子供時代を送った人で、カバヤ文庫の思い出を語る人は多いですよね。出久根達郎さんとか坪内稔典さんとか。
橋本 私は本のうえに座ってましたから(笑)。祖父さんの実家へ行くとそこもやっぱり菓子屋なんだけど、そこの倉庫にカバヤ文庫、ずらっーと全部並んでました。そのときはさすがに欲しいと思った。マンガもありましたね。マンガ世界名作全集ってあったの知ってます?杉浦茂の『モヒカン族の最後』とか。最後はモヒカン族関係なくて忍術マンガになっちゃう。そんなのやカバヤ文庫の前は、講談社の絵本なんです。これは全部読みたいと思った。けっこう変なのがありましたよ。講談社の絵本でキリストって読みましたもん、俺(笑)。
——— (笑)どんなこと書いてあるんですか?
橋本 荒野をさまよっていると悪魔が現れて試練を……というところしか覚えていない。ほかにも源義経は定番にしても、中江藤樹なんかあった。絵本で。
——— ああ、戦前は親孝行のお手本でしたからね。
橋本 そうそう。だから中江藤樹って何をした人か、小林秀雄の『本居宣長』読むまで何も知らなかった。
——— 下地がようやく生きたわけですね。中江藤樹はともかく昔話の絵本なら現在でもありますでしょう。
橋本 ありますけど、いまのおとぎ話は絵がポップでしょう。昔ながらの講談社の絵本って何年か前に復刻されたけど、挿絵を日本画家が描いている。だからビジュアルでこの時代の人はこういう恰好していたというのが頭へ入り込むから、歴史へつながるのが簡単ですね。ともかく、なんであれ知っとくと、とっかかりになって楽ですよ。
———下地となるんですね。
橋本 『猿蟹合戦』だったらいまは栗が擬人化されちゃって完全にマンガになってるけど、昔のは、ちゃんと鎧(よろい)を着ている。手足がついてて。でも、頭だけ栗なんですよ(笑)。
——— 私も鞍馬山(くらまやま)の烏天狗(からすてんぐ)の精密な絵を覚えてます。牛若丸の絵本で。怖かった。
橋本 子供って精密なものが好きなんです。だから好きな子は緻密に描かれた絵を手で触りながら見ますよ。それなのに、お母さんの趣味に合わせたポップに簡略化されてしまったものばかり見せてるとバカになるんじゃないか。マンガも昔は、ネタがないから講談をマンガにしてるんですよ。荒木又右衛門とか宮本武蔵とかみんなマンガで読んだ。そういう雑な知識が下地にあると、じゃあ本当はどうなの?っていう積み上げ方ができるんですけどね。
——— カバヤ文庫は、先ほどのロビンフッドみたいな西洋ネタも多かったみたいですが。 
橋本 多かったですね。一冊だけ人にもらったものを持っているんですよ。これですけど。
——— 『三銃士』ですね。私は古本屋のガラスケースにすごい値段付けて納まっているのしか見たことないです。
6、橋本治は、図書館の完訳本や評論は読めずリライトとI・フレミングで疾走する
橋本 こういうむかしの子供向けのものって全部リライトだから。忠実な訳じゃなくて。翻訳が忠実さを求めるようになって、わかりにくくなった。とくにロシア文学とか。
——— ああ、山本夏彦さんとかも書いてましたね。米川正夫がいけないって。
橋本 私、去年、『レ・ミゼラブル』が本棚にあるのに気づいて読んだら、ジャンバルジャンが目覚めて銀器を盗みにゆくまで一ページ費やしている。早く盗めよって(笑)。だから『レ・ミゼラブル』をいま読むのって死ぬほど大変じゃないかと思って。
——— 山本さんがいうには、明治大正期に黒岩涙香(るいこう)の『噫無情(ああ、むじょう)』がものすごく面白いから、完訳が出ると、もっと面白いだろうと思われて売れたけど、みんな挫折したって。面白くて読みたくて読んだファンタジーがあれば下地となるけれど、正確な訳とか知識とかから始まっちゃうと、ついていけないか、自分で考える道具とならず権威主義的な知識の取りこみ方になっちゃう。
橋本 家庭科の時間にセーターやマフラーの編み方を教わった女の子が挫折するのと同じです。「編み目が揃ってない」とか言われてさぁ。
——— それはプレッシャーですよね。好きな男の子のために夢中で編まないとだめなんですね。
橋本 プレッシャーがなくなると勉強ってできるんですよ。勉強嫌いなのはプレッシャーのせいなんで、それがなくなって「勉強ができてもできなくてもどうでもいいや」になれば大体、勉強できるようになるし。
——— そうですかねえ。
橋本 そうですよ。中三のときにテストの見せっこをして「あそこ間違えてんの、違うよ」とかみんなでギャーギャーやってたんですよ。すると三十点だった子が次のテストで八十点になったりしちゃった。みんなあっというまに成績よくなって、このままだと抜かれるなと俺若干焦った覚えもありますもん。みなで笑いながら「だめじゃん!」とか言って、プレッシャーが解けた。それまでは自分の点みせるのが恥ずかしいから見せなかった。劣等感というか。それが解けた。
——— ああ。低偏差値の子を救い上げる塾の講師が、彼らは自分が出来ないのを恥じて「わからない」っていえない。思えない。プライドを棄てさせて「わからない」と平気で言わせるまでが大変だって聞いたことがあります。
橋本 八十点くらいまでほんとに伸びるんです。だから私はカバヤ文庫は読めたけれど、学校の図書館にある本は読めなかったのです。だから読書の時間とかあると、読むものがなくて、工作の本とか選んでた。糸鋸(いとのこ)でこういうものが作れますとか。
——— 評論系の本を全く読んで来なかったというお話に通じますね。だから、凄い知性を鈍らさないで来られた。
橋本 なぜ読めなかったのかはわからないけど。もともと頭が雑なつくりなのかもしれないですね(笑)。
——— 面倒なところは飛ばしてよめばいいじゃないですか。
橋本 私、それ出来ないんですよ。
——— ああ、そこは大事かもしれない。とことん本物なんですね。ずっと、自分が本当にわかるものだけを摂取して、完全消化して来られた。
橋本 講談社の絵本があって、マンガ読んで、缶カラのなかにカバヤ文庫が入っていて。そういうものだからさ、ちゃんとした本じゃない。図書館でそれのちゃんとした版を読もうとするんだけど、やっぱり退屈で読めない。なんか雑でエグいものじゃないとダメなのかもしれません。しかしまあ、小学校でカバヤ文庫読んでた子だから、高校に入ってもイアン・フレミング読んでいたんでしょうね。映画「007 ロシアから愛をこめて」がちょうど公開されたあとで次は「007 ゴールドフィンガー」だからさ、その次どうなるのって、それだけでずっと本屋で見つけて読んでましたね。高校時代は一番本読まなかった。そうするとどうなるかというと、字についてゆく持久力がまったくなくなって本が読めなくなる。しょうがないから大学に入ってから、短編小説ひとつでも読めたら読んだことにしようと、これだけ読みましたっていうリストを作ってました。
——— どんな短編小説を読まれたんですか。
橋本 読みたいものしか読んでない。筒井康隆がデビューしたぐらいの頃だから『東海道戦争』や『ベトナム観光公社』のなかの短編一個とかさ、高校生でも読めるみたいな。
——— そのころ、筒井康隆ってまだまだマイナーじゃないですか。SFマニアしか知らない……。
橋本 そうです。俺、「SFマガジン」読んでた子だから(笑)。そういうつつき方されると、どんどんどんどんすごく変な人になってゆくんです(笑)。「SFマガジン」と「演劇界」を同じ年頃で読んでた子だから。「SFマガジン」読んでた理由は、変な小説が載ってるからってそれだけですよ。
——— SF以外だったら?
橋本 突然、近松門左衛門の「曾根崎心中」が入ってきたりとか。
——— あれって「短編」だったんですね(笑)。
7、橋本治は義太夫好き江戸町人のごとく役立ち使える知識だけをインストールする
橋本 ファンタジーとしての歴史、物語の下地が大切なのは、やはり読みたいものしか読んでないからですよ。江戸時代の浄瑠璃をやってると、こんなもの聞いて当時の人はわかったのかっていうぐらいめちゃくちゃ。村国男依(むらくにのおより)とか人間の名前とは思えないような人物が出て来たり、壬申の乱を舞台にするんですよ。「日本書紀」をどこで読んだの?ですよ。そういう「よくわかんないけれど、どこかで聞いたことがある」的な物語の下地からの知り方を江戸時代の人は知っていたから、その点ではいまの人よりも頭が若干いいかもしれませんね。自分の気に入ることしか覚えていないからこそ、その知識を役に立てられる。
——— どういうことですか。
橋本 だってそうでしょう。親しんでいるからそれすぐ出てきて使えるじゃないですか。たとえ話で説教するときに、すごく役立ちますよ。そのケースにあてはまらなくても何かいえるじゃない。話が全部わかっているのかはまた別なんですけど。 
——— ああ、昔の大店では、丁稚(でっち)や女中にも盆暮れには芝居を見せてやって、叱るときは「あの芝居にもあっただろう」と譬(たと)えて説教したと山本夏彦のエッセイだかにありました。有吉佐和子さん描く芸者さんなんかも、芝居の譬えで語りますよね。
橋本 能は一人芝居だけど、義太夫は人間関係のドラマだから、今の人なんかわからないですよ。でも、すごく人間関係について示唆的です。江戸時代の義太夫の世話物のなかにある論争なんて自己を主張しないんですもん。「私はこうこうこう思っているのですが、それは間違いでしょうか」といった形で提示するの。女もじいさんもそう。若い男はいわない。あんまり頭よくないからね(笑)。だから自己主張じゃなくてひたすら譲り合う。でその譲り方が、「私はこう思っていると言ってしまったので、ちょっとえげつないかもしれないから引きます」くらいの計算の上でなされている。そこに主張の仕方の美しさがあるんだけど、「私はこうこうこう思うんですけど、それは間違ってはいないでしょうか」という持って行き方をするのは、やっぱり人間社会で暮らしてゆくための基本なんじゃないかと思うんですね。妾と正妻とがさ、「私が至らないところがあってうんたらかんたらで」と言って身を引こうとするんだけど実は未練たらたらなわけ(笑)。なんだけど、未練たらたらはわかっているけどそこで「お前なんか嫌いだ」って喧嘩してしまえば簡単なんだけど、そうもいかないから「私はこうこうこう思うので、どうぞあなた、こういうふうにしてあげてくれませんか」っていった持って行き方をするわけですよ。そうするとそれをまんま受けたらあんまりだから「いえいえ、私は」って延々やってって、最終的な調停が入るのを待つというドラマを作っているんです。
——— へえー。それなんという作品ですか?
橋本 私が今思い浮かべているのは、「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」って世話物です。
———対立や争いを、愚かしい暴力へ向かわせないで、美しい定型へと普遍化してゆくんですね。人間関係の芸術化……。橋本先生が「正義についてー山田風太郎論」(『秘本世界生玉子』所収)の最後「3 社会意志としての正義―本多佐渡守」を連想しました。凄惨だが社会維持に必要な権力的粛清を見事な政治芸術へ高める物語「忍者本多佐渡守」が読み説かれていましたね。
橋本 いまは意地悪する能力も落ちているでしょう。十八歳選挙権で、投票行かなくちゃいけないと思うけど、責任感じちゃってとても選べないステロタイプな真面目な子へ向けてのアドバイスを先日インタビューされたから、「善意の清き一票なんか投じなくていいよ。悪意の一票いれたらいいんだよ」つったんだけど。こいつだけは絶対いれたくないっていうのがあったら、絶対受かりそうもない泡沫(ほうまつ)候補に死に票として悪意で投票するっていうのもありだって。みんなくだらない悪いことはするけど、そういうまともな悪いことをあまり考えられないんです。すぐ暴力的になる。福澤諭吉はそんな暴力が嫌だから、意地悪になったんですよ(笑)。
——— 義太夫は、それこそ丁稚や女中までが楽しんだのだからすごいですよね。高度な人間関係のドラマがわかっていたんだ。
橋本 話が全てわかっていたかというとまた別でしょうけどね。当時は話の展開をわからせるために、スローにすべきところはすごーくスローにしてたんだと思います。ここが肝心というところは必ずテンポが落ちたりして。均一じゃないんです。「忠臣蔵」で塩谷判官(えんやはんがん)が切腹するシーンなんて舞台の人たちは本当の葬式のつもりでやってるんだもん。だから観客もシーンとしていなくてはならない。そういう体感で伝えるほうが多分通じやすいんですね。だって情報量がとてつもなく多い。毛穴の数を数えるようなものですから。脳へ情報送る目や耳よりも、皮膚感覚、触感っていうわかり方が一番納得するってことに近いんじゃないですか。恋愛だって相手の肌触りが嫌いだったらアウトでしょう。
8、橋本治は、福澤諭吉を知って言文一致で文語を覆す闘いをまた一歩進める
——— そういうファンタジー物語としての歴史を下地として豊かに持ちながら、学校図書館にあるちゃんとしちゃった本とかマニアックな歴史とかには染まらずに来た橋本治という稀有な知性が、いま福澤の『学問のすすめ』を読んだ……。
橋本 やっぱり福澤諭吉のあり方をもうここらで出していかないと、話がまとまらないしなっていうのがあります。一番大きいのは、福澤というわかりやすく書こうとする人がいたっていうことです。私は『言文一致体の誕生』とか書いてましたから、言文一致成立の前には、わかりやすく書こうとする人がいたということが大事。少なくともそのあとになると、人にわかりやすく書こうとするという態度が、なくなりますからね。自分が思ってることを書く所信表明だけで。
———ほんと所信表明ですね。あるいは仲間へのみ向けて僕たち仲間だよねと確認するための挨拶だけになる。言文一致についての橋本先生のその問題意識は、『蓮と刀』(1982)から一貫してらっしゃる。あの本の第一章のIII 、「本書の文体について」で、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)と二葉亭四迷(ふたばていしめい)の先輩後輩力関係のなかで、二葉亭の裡にあった江戸のしゃべり言葉を(幼児語のごとく)抑圧してしまうかたちで、言文一致体が成立した。それは二人の二十代の青年が、従来の大人の約束事である漢文や文語体ではすくいとれない「内的欲求」をのせるためのものだった。しかしそれから百年、いつしか今度はその言文一致体もまた“文語”と成り果ててしまった。おじさん仲間のお約束、それに従わない者、彼らからすれば上品じゃない幼児語を混ぜて用いて新しい「内的欲求」を現そうとする者を抑圧する若き日の橋本治みたいな才能を抑圧する体制となってしまった。先生が評論系の文章を読めなかったのは、「文語体」の最たるものだったからではないか。誰もが「人にわかりやすく書こう」ではなくて、おじさんたちの仲間内を支える符牒、それを使わなければ仲間に入れてもらえない書き方=言文一致体で書くようになってしまった。そして言文一致体がかく「成り果てた」1970年代末、とうとう橋本治が現れて、坪内逍遥や二葉亭四迷が「円朝の落語」の文体を叩き台としたように、「女子コォコォセェの文体」「少女マンガの表現」を踏まえて「桃尻娘(ももじりむすめ)」を書かれたわけですね。その理論的説明が「本書の文体について」だったと理解しております……。あの項が敬語文体という別流を試みて、言文一致主流からはぶられちゃった山田美妙の晩年の不遇で締められていたのを読んだときは、背筋が寒くなりました。「仲間内から閉め出されっとこわいんだ」。あたかもVHSに駆逐されたβですよね。
橋本 言文一致についてはね、長い話になるんです。『枕草子』の現代語訳やったとき、私はあそこまで日本語を崩すつもりはなかったんですよ。適当にやろうと思ってたんだけど、適当じゃ意味が取れないというか文章にならないんですよね。だから、助詞、助動詞の類まできちんと訳して、とりあえず最初の目論見としては、訳文だけで読めるものを作りたかったんですよ。で、向こうも文章としてちゃんとしてるんだから、それなりにやっていくと、普通の日本語じゃ手に負えなかったんですよ。だから、どんどんどんどんしゃべり言葉に近づいてきちゃったんですよね。で、そうなったら、「これって昔の口語体じゃない?」というふうに思ってしまって、「じゃ、それがここにあって、その後どうなるんだろう」ってふうになると、あまりにも膨大な話だから、わかんなくて。で、『平家物語』書いてるときに、慈円(じえん)の『愚管抄(ぐかんしょう)』を読んでて、なぜ私がこれを仮名で書いたかって慈円自らが言ってて、そこでもはやほとんど二葉亭四迷の「余が言文一致体の由来」みたいなものだから、じゃ、言文一致体じゃない文章ってなんだっていうと、それは漢文のことだよなって。明治になって、それまでの日本語が文語体といわれるようになってしまっただけの話であって、それだってもともと言文一致体であったはずなんだけれども、文章語として定着していくにしたがって文章語的なあり方になってしまっただけだと。で、江戸の戯作みたいなものになって、しゃべり言葉というものが入り込んできて、文章語というのは丁寧語が基本なんですけど、しゃべり言葉は丁寧語があるかないかまた別なんですよね。そういう混在したものが日本語で、言文一致体の文章を作るっていう段階で、正しい日本語とか美しい日本語の文章っていうときになると、そのことによって文章語じゃないしゃべり言葉の部分を排除しようとしちゃう。それはつまんない話じゃないかというだけなんですけどね。ただ、これだけのことでも、あんまり呑み込んでもらえないんですよね(笑)。
——— しかし、福澤諭吉はそれをちゃんと問題意識として持っていたのだと……。
橋本 ……と思います。
——— 今度のご著書(『福沢諭吉の『学問のすゝめ』』)の「はじめに」を読みますと、『学問のすすめ』と取り組まれたのは、二十年を隔てて二度依頼があったからという受け身の理由からのようですが、どうしようもなく必然的な邂逅だったようですね。橋本治と福澤諭吉は。いま、ご自分と言文一致問題との関わりを、『枕草子』現代語訳のはじめまで遡られましたが、『桃尻語訳枕草子』「訳者のあとがき」によれば、1980年頃、それを考えてらして、「漢文が常識だった時代に、かな文字で書かれた文章」である「平安女流文学の置かれている意図は、現代の少女マンガと同じものだと思いました」となって、「だから、これは現代の女の子言葉で訳せる」と思ったんですよね。橋本治の歴史的マンガ論『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』刊行時期と重なります。その現代の女の子言葉を駆使した「桃尻娘」での作家デビューは。1977年です。そして、『蓮と刀』で坪内逍遥と二葉亭四迷を論じられたのは、その後の1982年。すでに文語と成り果てているおじさんたちの仲間内の言葉へ、口語をわかりやすく書こうとして桃尻語をはじめ幾多の口語をぶつけてきた現代の言文一致運動は、先生の橋本治ワークをその始原以来、貫いてますでしょう? 『桃尻語訳枕草子』刊行当時、こうした壮大な視野がまるきり見えていない佐藤亜紀という作家が、「この程度のセンス」などと先生をくさして己の底の浅さをさらしていましたが。そんな橋本先生のあり方はそのまま、慈円にも福澤諭吉にも重なってゆきます。福澤でも、『福翁自伝』は、言文一致体ですよね。
橋本 そうです。でもあれはずっとあとでしょう?
——— 死ぬ間際ですね。
橋本 明治の三十年代終わりから書き手の人たちの大体にとって、言文一致体が当たり前になってくるんですね。
——— 『福翁自伝』はもう少し早いです。明治三十一年。だからなのか、言文一致体そのものではない。言文一致とおしゃべり言葉と丁寧語が交錯した面白い文体ですね。
橋本 でもそれこそが実は日本語の普通のかたちだと思うんですよね。話し言葉だけだと、読んで分かりにくい。しかし福澤諭吉といっても、みんな内容ばっかりを問題にしてるだけで。文体がどうこうっていう千年の時間がかかった長い変遷なんかやんないじゃないですか。
——— たしかに。今回の本ではそこが読みどころの一つですね。『学問のすすめ』がひらがなで書かれたという誰もが見過ごす一点にどれだけおおきな意義があるのかを橋本先生はしっかり押さえた。カタカナよりはまず日常ですぐ役立つひらがなを教えろと、福澤は「小学教育の事 二」(『福澤諭吉教育論集』岩波文庫所収)で説いていたのを思い出しました。ただ初版でひらがなを用いた『学問のすすめ』も再版では『学問ノススメ』となりますけど。『福翁自伝』の自在に混淆した文章も魅力的ですが、『世界国尽』では、地理学つまり世界の風土道案内のはずなのに、アメリカの項目で独立戦争の話へ脱線しちゃう。すると突如、文体が七五調となりますよね。「数万の敵は海を越え、新手引替へせめ来る、猛虎飛龍(もうこひりょう)の勢(いきおい)に、おそれ弛(たゆ)まぬ鉄石の、こころに誓ふ国のため、失ふ命得る自由、正理屈して生きんより国に報いる死を取らん」とか、二葉亭四迷のお手本が円朝の落語ならこちらは講談、歌入り観音経などの口承文芸を自家籠中としてます。
橋本 私の中では、江戸と明治の変わり目というものをとってもダイナミックに書いてある本だから、やっとそのミッシングリンクが一つ見つかったなという感じもするんですよね。私は自分が好きなところしかやらない人だから、近代もずーっとほったらかしにしてて、江戸時代は大体わかるけど、だった。それが、言文一致とかやって近代も明治二十年ぐらいからだったらわかるになって(笑)。手つかずで残っていた一桁台をやったら、そこに福沢諭吉がいたんだなって。内容的には、政治とちゃんと向き合えなければいけないよねという本なんですけどね、『学問のすすめ』つーのは。
9、橋本治は、遊びゲーム化した現代へ、遊びをルールを創作した頃を突きつける
——— その政治とちゃんと向き合えというのも、自由民権運動のように議会を開けとか憲法を作れとかそのために暴動を起こせとかいうレベルではなくて、政治とはそもそも何なのか、何のために私たちは政治をするのか、政府を持つのかという最初の最初から確認してゆこうというものだった。福澤が『学問のすすめ』で英国流の社会契約論を説くのも、現行政府をありもしない契約により正当化する体制擁護的意図からでもなく、だから議会を開けと自由民権的主張を導くためでもなくて、政府という概念すら固まっていない明治ヒトケタの状況のなかで、そういう「譬え話」を持ち出して、自由民権なんかよりはるかに「本質的で、大胆にもアナーキー」な最初の最初まで読者を連れてくるためだった……。最終回の(三)で、『学問のすすめ』のこの肝要を取り出して下さってるあたりもまた、今度のご本の読みどころですよね。思えば橋本先生は、『蓮と刀』の序章というべき「ソドムのスーパーマーケット」(1979『秘本世界生玉子』所収)で既に、「一体人は何のために社会を作るのでしょう?」というところまで遡行したうえで、国家を、君主制を議会制を語り、そこから性と教育を論じられました。ここでもやはり橋本治と福澤諭吉はかぶってみえます。いま政治と向かい合うにしても、最初の最初まで遡って考えない人が多いように思えます。「立憲主義」とかいった「文語体」を疑わずその先へ突っ込まない。さきほどおっしゃられた、物語のファンタジーの下地なしで、完訳本という「文語」をお勉強してしまって、自分で考えないのと通じるような……。
橋本 ファンタジー物語のなかへ入りこむっていうのは結局、遊びの中から人生のキーになるようなものを捕まえるっていうことなんだけれど、現在はすでに物語がゲーム化されてしまってますからね。こうやって呪文をゲットしてどうこうって今のファンタジーではなるけど、現実には呪文なんかそこらへんに転がっているものではないしさ。遊びがそういうルールがあらかじめ決まっているスポーツゲームになってしまって、みんなそのルールのなかで生きるという風になっちゃったから、ルールの外側のことがよくわかんない。だから却って平気という一種の鎖国状態になっている。
——— 先生は『チャンバラ時代劇講座』で、昭和三十年頃の原っぱでのちゃんばらごっこが、そのときそのときの仲間うちで、つかっていい武器とか、女の子はお姫様役か剣術使えるお姫様もありかとか、ルールを創造しながら遊んでいた姿を活写していましたね。『勉強ができなくても恥ずかしくない』でもビー玉のルールとか説明されてらっしゃった。ああいう失われた昔の遊びをていねいに説明されるとかもうなさらないのですか。
橋本 しないね。ビー玉は、知らない人のためにどこで売っていたのかというところから書きましたけど、そういうの思い出すのすごくしんどいんですよ。「水雷艦長」という遊びがあって、すごく好きだったんだけど、どんなルールだったか考えると全然わかんない。三割くらいしか掘り出せません。水兵と艦長と水雷に分かれて遊ぶんだけど、水雷は動けない。水兵が両手に抱えて敵へぶつける(笑)。
——— 特攻隊みたいですね。人間魚雷回天とか(笑)。鉄の棺桶ロケット「桜花」……。
橋本 そうそう(笑)。断片は出てくるんだけど、根本的なルールはどういうのだったんだろうとなるともうわかんないですね。それはやはり、ルールを創作しながら遊んでいるから、そのときそのときで。だから思い出せないんですよ。いまは子供がそういう遊びをしなくなったでしょう? サッカーとか野球とかルールが決まってる中で遊ぶから。
——— 既製品だけとなった。
橋本 そうそう。ルールを順守することだけはうまくなったかもしれないけど、「そうじゃないよ」つって、自分たちで遊びながらルールを創ってゆくことはしなくなったんだろうな。これはすごく大きい問題のような気がする。
——— インドアの物語もアウトドアの遊びもみんな、既成品すなわち「文語」となってしまったのですね。
橋本 私はさっきもいった数学で、わかんなくなっても、元に戻ってはじめからずーっとやっていけば答えはわかるだろうってことがわかった。だから公式忘れちゃうと、その公式を導くための一つ前の公式へ遡ってずーっとやって、予備校の模試の答案用紙が埋まって「裏へ」って続けて裏一面書いたら時間切れ。返却されたら「これは〇〇という公式を使えばもっと簡単にできます」って。それ覚えてたらやってるよ(笑)。
——— 文語や言文一致を知らないから、それ以前のしゃべり言葉そのまま筆記したみたいな(笑)。勝小吉の自伝みたいですね(笑)。
10、橋本治は、幼馴染みと近親相姦しかネタがない江戸末期と現在を重ね合わせる
———福澤諭吉が、政治や国家についてはじめからずーっと考えてみんなへ示したのは、幕府崩壊、明治政府も揺籃期だったからこそでしょうけど、ミッシングリングとしては、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)は江戸なんですか。それとも明治ですか。幕末から活躍している歌舞伎作者で、明治を代表する作品を多く残しました。「一身にして二生を経」たところは福澤と同じですよね。
橋本 あの人は江戸と明治で違う。書くものが全然違う。幕末の黙阿弥は、最後は近親相姦となるものばかりなんです。突然近親相姦の事実が発覚する恐怖っていうのは鶴屋南北(つるやなんぼく)がやっていますが、黙阿弥になるとそれがステロタイプ化されて情景みたいのものとなる。それが出ないと怖くないというかドラマがない。しかし明治になるとガラッと変わってもうそういう暗さがかけらもない。「時代が行き詰まる」というのと「時代が変わる」っていうのの間にはこれだけ差があるなって思います。今の世界、今の物語のつまらなさって幕末の黙阿弥と同じでしょう。みんな幼馴染へもってゆくしかない。ジェームズ・ボンドの「スペクター」でさえ、ブロフェルドがボンドの幼馴染で義理の兄貴……。何事だと思った。世界が行き詰まるとそういうことになるんです。なんか自分の身にドラマが何かないと嫌だっていう人がとっても増えてしまって、全部幼馴染で全て元々から決まってましたというふうになれば物語が出来るよとなった。私は本当に幼馴染みは興味ないんです。
——— 自分が特別な存在でなくちゃ嫌だという中二病とかセカイ系の思考に合うんでしょうね。幼馴染みの設定は。自分とその周辺が世界のすべてで中心だと完結してしまう。
橋本 それが進むと全部、近親相姦ばかりになるんですね。
——— 幼馴染と近親相姦、ライトノベルのボーイ・ミーツ・ガールはそれが定番ですね。
橋本 ライトノベルというのは話の中身はみんな一緒でしょう? 決まっているんでしょ。ドラマの核がこれしかないとなると、外が見えなくなってくるんですよね。まあ江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃もドラマにする題材って大体決まっているから、似たような話を設定かえて、ああだこうだってずーっとやってましたからね。似たようなものをちょっと味つけ変えて見せるってことに関しては、江戸二百何十年のほうがすごいですね。
——— 現在は、そういう中期以降の停滞期の江戸と似た時代だと思われますか。幼馴染みと近親相姦だけでなく、ハリウッドも日本のアニメも、リメイクばかり目立ちますが。
橋本 ネタがないんだってことはわかります。むしろ幕末に近いと思いますね。現代アートなんて幕末だと思うし。
——— 幕末という時代は橋本先生的には?
橋本 ただの騒乱だとしか思ってないから。
——— 今度のご本の話題でいえば、福澤諭吉の一番嫌ったバカが騒いだ時期ですね。しかし今は黒船が来てない。これから来るんですか。
橋本 今は、時代の変わり目が来ていても実はピンと来ない。明治維新だと天皇が輿に乗って江戸城へ入ったとか、第二次世界大戦だったら全部焼野原になったとかはっきりしているけれど、そういうのがない。私が二十歳のとき戦後二十年ちょっとだったから、二十年という物差しをつかうんだけど、昭和が終わってもう四半世紀。「えっー」って。子供のときに二十年とは感じ方が違うにしてもですよ。
——— SMAP結成はまだ昭和だったんですよね。
橋本 メリハリがないってことはこんなふうに流れていくものなのかと。でも、ずーっと流れ続けることは出来ないから、イギリスがEUに「あとさきの考えなしでなんで離脱したんですか?」って嫌味言われるぐらいなものだから、さすがに「何か考えなきゃいけないんじゃないの?」ってところには来ているだろうなと思いますけれど。
———福澤諭吉は、徳川時代が終わって、まだ新しい政府もルールも文体も出来上がっていないときに『学問のすすめ』を書いて、みんな一から考えたらどうだと持ちかけた。一九四五年の敗戦後、すべてがちゃらとなった時期、『学問のすすめ』はあらためて見直され、読まれたんですよね。では橋本先生が、『学問のすすめ』を取り上げた現在はどうなんでしょう。やはり当時と匹敵する歴史の画期だと思われますか。
橋本 思いますね。
11、橋本治は、昭和終焉以後の自らの闘いのどこに誤算があったかを今、検証する
——— そうですか。昭和が終わった1989年、橋本先生は、90年安保が家庭と会社から起こると語り、それからまもなくして、『貧乏は正しい!』シリーズという画期的な思想書の連載を開始されましたよね。当時と比べてどうですか。あのときも画期だと思われた?
橋本 あのシリーズ始めた時点で、私の計算は実は狂っていたんです。昭和が終わった時点でバブルというものははじけるものだと思っていた。だからこれでいろいろ終わるぞって。それが二、三年ずれた。あれが大きいかなあ。いきなりなるんじゃない、なし崩しの貧乏って、貧乏が来たのがよくわかんないですから。「うちだけかもしれない」って思ってしまったり。だってブランドのブームってバブルはじけた後でしょう? みんなが女子高生までがヴィトン持ち始めたのって。
——— 貧困が社会問題となったのは、1997年の橋本龍太郎改革以降、報道されるようになったのは、2000年代半ばですからね。
橋本 私は実家が、私が中学生くらいの頃、バブルだったんですよ。だからのちにバブルになった日本人が経験するようなことをみんな中学生段階で経験してるし、中学生だから、大人がそれやってると、「バカじゃねえの?」ってそういう理性で見てたから。だって毎日のように父親が変わっていくんだもん(笑)。「え?」って。突然ダブルのスーツ仕立ててさ、次の日は突然、べっ甲縁のメガネだったのが金縁のメガネに変わってさ(笑)。そしたら、次の日はゴルフ始める。
——— わかりやす過ぎますね(笑)。
橋本 で、ちょうど日本で最初のカード会社であるJCBが発足したぐらいの頃で、新聞にカードの広告が出てたんですよ。こんなの誰が買うんだろうと思ってたら、その次の日、父親が持ってた(笑)。大人にしてみりゃ、そうなっていくのはうれしいことなのかもしれないけど、子どもからするとさ、「バカじゃねえの?」ぐらいでしかないんでね。「衣食足りて礼節を知る」っていうのは、孔子の時代だからいえるのでね、礼節を知るに必要なのは、ほんとにちょっとの衣食が足りた状態なんですよ。それ以上足りて衣食余ると、礼節を脱ぎ棄てちゃうんですよね。だから、昭和が終わった時点で、バブルで吹きあがっちゃうような貧乏を引っ張ってる人たちがそんなに多いって知らなかったっていうのが誤算っちゃ誤算ですよね、わたしの。私、やっぱり昔の日本人だから、どこかに貧乏っていうのが一本筋入ってないとダメだなって、それが自分の弱点だなっていうふうに思ってたから。
——— リアルの地盤ってことですか。
橋本 うん、リアルなんですよね、貧乏であるということが。だって、貧乏だとつらいじゃないですか。リアルに。今、そういうリアリティを感じさせてくれるものって現実にないじゃないですか。たとえ貧乏であっても、それと向き合わなかったり。
——— しかし平成もずいぶん経って十数年ともなると、貧困とか格差とか言われ始めました。かなり遅れたけれど、ずっと浮かれてた人たちも相対的に貧乏になってきてはいますよね。
橋本 うん。
——— それは彼らにとってはそれなりのリアルかもしれませんね。
橋本 そこで反省してくれればいいけれど、しないでしょうね(笑)。私は昭和が終わって、これからは貧乏だなと思って、さっさと貧乏になった人だから、なんでも平気なんですよ。「みんな貧乏になれば?」って。
——— しかし、昔みたいにやたらとモノを欲しがらなくなったから、アベノミクスやっても消費は低迷しているばかりだし。橋本先生ほど根源的なところまでは行っていなくとも、この貧乏は受け止めているのではないですかね。
橋本 そうだったらいいと思いますけど、それだと経済なりたたないから、ムダ金使いましょうって運動ばっかりするじゃない。
12、橋本治は、婆さんのフラダンスにバブルの悪夢未だ終わらずを確認する
——— 財界や政治家やメディアの一部はそうでも、普通の人たちはもうついて来ないんじゃありませんか。
橋本 いやいやテレビ見てるOLは違うでしょう。昔よりひどいんじゃないですか。「それ使ってないと自分は取り残される」って意識は、今のほうが大きいでしょう。80年代初めフェミニズムがまだ明確にならない頃だと、キャリアウーマンファッションっていうのはさ、「やる人はやれば?」っていうようなものだったでしょう?
——— そうでしたか? けっこう新しい時代の方向みたいに皆そっちに流されたのでは?
橋本 それはない。ないない。だって、キャリアウーマンファッションはすぐボディコンに取って代わられたから。
——— だからそのボディコンへ皆が殺到したりしませんでした?
橋本 うん。でもあの頃は、「私あそこまでは派手になれないけど」っていう人がけっこういたはずだ。みんなそっちいったわけではない。いまのほうが、高校生の段階から化粧してさ、みんなと張り合って、落っこちるといじめの対象になるかなとか、自分の劣等感が深くなるかなっていった蓄積のなかで生きてるから、十代、二十代、そこから降りるのがとても怖いことになってると思う。
——— そうですか。二十年まえお伺いしたとき、橋本先生は、当時の露骨な金目当ての凶悪殺人とかオウム事件、話題となっていた自意識を募らせた少年犯罪や女子高生の援助交際とかを、バブルの膿がいま出ているんだと総括されてました(別冊宝島『東大さんがいく!』)。あれはたいへん腑に落ちたんですけどね。膿出ないで悪化していますか。
橋本 していますよ。だってチープファッションとかファストファッションとか、安く少なく作らせて、レアを手に入れたものが勝ちってしてるから、より必死と言えば必至だと思う。ネットでモノを探すとか化粧とか基本的にそれでしょう?
——— うーん。そういう無理をしなくては駆り立てられないってことはやはり、多数はもうついて行ってないんじゃないかなあ。
橋本 テレビで福島第一原発事故での全村避難の人々集めて、やはり村へ帰りたいみたいな座談会やっていて、「村のよかったところは?」という問いに中年のおばさんが「フラダンス」と。
——— それはいわきが近いですから。
橋本 そう思うでしょ? みんなそういうんだけど、こないだニュースになっていた碑文谷のおばあさんも趣味はフラダンスでしたよ。いわきと碑文谷は近くないですよ。まあ日本舞踊は女の踊りは膝まげて腰落とすから膝痛めて足腰によくないんですけどね。それにしてもフラダンスがこんなに侵食しているとは……。年寄りが年寄りにならないから消費の動向が変だってところを、経済学は考えてくれないでしょう?
——— 「学」かどうかはともかく、日経新聞ではそれ、団塊世代の「シニア消費」というキーワードとなって、個人消費回復を握る大きなテーマとして扱われていますけどね。
橋本 でもすごく変なものでしょう。赤いパンツとか(笑)。
——— だって経済学が扱うのは「量」ですもの。「すごく変」とかいう「質」をまず捨象するところから始まる考え方ですからね。
13、橋本治は、焦るバブル世代女性へ何もしないでいられた平安貴族を対峙させる
橋本 こないだ幻冬舎のウェブサイトで五十代女性の身の上相談に答えましたけど、「熱中できるものがなかなか見つからない。教えてほしい」という悩みだったんです。その女性は、「何かいいことあるんだろうな」とずーっと飢餓感を抱いてセカセカ、セカセカしてるんですよね。ただボーッとぼんやりとができない。緊張を解けない。私、昭和が終わって、寮に缶詰になって「源氏物語」書いていたじゃないですか。一日二食、テレビも食事のときだけ、朝刊読むだけ。思えば、時間を潰すものがこんなにあるのなんて、ごく最近の数十年、二、三十年かもしれない。じゃあ明治の文豪、さらには平安貴族とか余分な時間は何してたんだろうって考えてさ。昔の多くの人達は何もしないで時間を過ごす能力は持っていたんだなあと思ってね。明治の人や江戸時代の人は、よく歩いたんだろうけど、平安貴族はどこへも行かないですよ。だからいったい何をしてたんだろうって。
——— やりまくってたとか(笑)。
橋本 やりまくるには、行かなくちゃならないでしょ? で、基本的に恋の通いは歩いていくもんだというのが残ってるから、どうかなあっていう。そのすごくおかしいのは、光源氏の映画で六条院って普通の屋敷の四倍でってあってさ、そこに女をそれぞれ住ませてって。それはいいかもしれないけど、歩いていくの大変だぞって私思いました(笑)。だって、それ書くために一番最初にしたのは、京都行って、はじめに光源氏の屋敷があった二条院っていうのはここらへんで、五条の宿りってのはあそこらへんだから、歩くとどのくらいなんだろうって歩いてですよね。だから、うちの中広いから、けっこう歩くのかなと思ったけども、歩くのは使用人だけで、主人は動かないですしね。
——— でも、橋本先生が『源氏供養』で書かれていた、実質オナニーというべき相手の意思かまわずやれちゃうセックスの相手となる女の使用人とかいなかったんですか?
橋本 いたと思いますよ。でも、昔のミステリーの「使用人は犯人にしない」という条件と同じで、いても存在を消去される人達はいるんですよね。テキトーなつまみ食いはあって、「名のある女」とだけ恋をして。
———ですよね。そういうのをつまんで、食い散らかして時間潰していたような気も…。
橋本 ボーっとしてると何かにつけて歌詠むというぐらいのことしかすることないかな。花鳥風月ってそういう意味では金のかからない暇つぶしですよね。ただ、あの人たち、金のかかった花鳥風月だから。だって庭に桜植えたって、植えっぱなしじゃなくて、季節になると桜引っこ抜いて、別のもの植え替えるっていう。私なんか、月に二百万稼いでも、月末になると借金返済でそれ全てなくなるという生活をずーっと続けていてさ、へとへとになって家帰るとき、空見上げたら、月に雲かかっててさ、それ見て、ああ、きれいだなっと思って、疲れを全部忘れてしまったから。本当に。ほんと安上がりな人間だなと思いました。
——— そこまで追い詰められないと、現在は花鳥風月が現れないのですね。
橋本 砂漠の水です(笑)。
——— その身の上相談の人とはほんとに対極ですね。
橋本 多分その人は、「私は何でもすぐに出来るんだ」と思い込んでるんですよね。なんでもそこそこできる人は伸びないんだけどね(笑)。その人は友達も誰もいないと言って時間を持て余しているんですよ。それで何か趣味を持てば金儲けができるんだというどこかの自己啓発本で捕まえたらしい真理を抱えて、ではどうすれば好きなものが見つかるでしょうかって悩んでいる。自己啓発本をいっぱい読んでる。いまの出版界って、そういう自己啓発本に支えられてるんでしょうね。
——— なるほどね。確かにバブルの膿は出ていないですね。典型的なバブル症候群でいまだにふらふらしてらっしゃる。しかしそれにしても五十歳でしょう?バブル真っ只中の青春送った世代…。そこがピークじゃないですか? より下の世代は、十代でもう不況ですから、車に代表されるモノとかお金とか海外とかを背伸びつま先立ちして必死に追いかけずに、スマホで地元の友達とつながりを絶やさず、いろいろ参加してシェアしながら生きようとしているように見えますけど。インターネットも匿名性やバーチャルの魅力が大きかった時期が過ぎて、リアルに普通に会いたいとかボードゲームが新鮮とか、直接向き合いたいという動きが揺れ戻しであれ起こってきているみたいです。
14、橋本治は、新国劇も蜷川もない今、古典芸能と演劇の断絶を見て立ち尽くす
橋本 若い人たちのバーチャルからリアルへの揺り戻しはあるでしょうね。でもねえ、そういう若い人たちがいたとしても、文化って分断されると成長しなくなるんですよ。演歌も進化が止まってしまって、年寄りでも歌えるくだらない演歌ばっかりになっていってる。すごく上手な氷川きよしを歌える年寄りいないですから。歌謡曲の進化も70年代いっぱいで終わっている。以後はカラオケの時代となったから、素人が歌えるようにって方向へシフトしていっちゃったんですよね。アイドルの歌もみんなが歌えるような方向へ変わっていっちゃう。そうなると突出したものがいないから、文化はだめになる。文化は民主主義に反したものかもしれない。私、義太夫の詞書いたり、薩摩琵琶(さつまびわ)の詞書いたりするじゃないですか。後継者いないんですよね、その世界。商売にならないし今やってる人は頑張るけれど、末枯れちゃってるものにわざわざ入ってこようとする人はいない。先行き危うい。しかも下地が出来ていない。なんか違うの。語り物でしょう。口語文で生きちゃってる人にはあの文語文の音の回しができない。みんな明快であり過ぎるの。阿波踊りも昔はもっと雑然としていたのが、チーム的になっちゃたものだから整然とし過ぎてすごくつまらなくなった。みんなで参加することへの回帰はあっても、上手な人のを見たり聞いたりして「ああっ」って言えるのはこれからは難しいと思いますよ。昭和が終わる前後くらいに、いろんな人がどんどんどんどん死んでいったじゃないですか。私、勝手に「大死亡時代」って名前付けたんだけど、「あ、文化って本当に個人が作ってたものなんだな」って思いましたね。例えば、新国劇というジャンルの演劇があったけど、島田正吾が死んで辰巳柳太郎が死んじゃうと、もう何もないんですね。劇団あったけど結局あの二人で作っていたのかみたいな。新派だってもう崩壊したも同然ですしね。近代で演劇やってた人も、百年持たないで終わっちゃうのかなあと。魅力的な役者がいたから、彼らを生かすために脚本書こうっていう作家も出てくるし、再演に堪えて何度でも見たいかなと思える舞台が出てくるんだけれど、もうそういうものはないですものね。テレビドラマなんかほぼ再現ドラマとどう違うんだぐらいのものになっちゃってるし。お客さんが飽きてくればいいんだけど、きっと飽きないんだろうなあと。
——— そういうものだと思ってしまってますからね。
橋本 うん。だって演劇好きな人ってもう、結婚のこと考えていないOLだけになっちゃてますし。その兆候は、帝劇でミュージカルをやるようになってから、そういうOLの居場所が出来ちゃったんですよ。で、劇団四季が出来ちゃったでしょもうあそこは女性のためのAKBのようなものでしょう? コンサートがサーカス化、見世物化してサーカスが演劇化して、もう演劇成り立たないですよ。シェイクスピアだったらブランドだからわからなくても観た気になるかもしれないけど、そういうのだって蜷川幸雄さん死んじゃってどうやって鍛え上げてゆくのかなあっていうのもわからないですしね。そもそもね、少なくとも八〇年代いっぱいかけて、日本人は「バカになろうよ運動」をしてたんだと思ってるんですよ。まあそれには、それまでの何かちょっと行き詰ってしまったものをチャラにするためにとりあえずバカになってという必然もあったんだけれども、そのあともずっとバカになってたんですよ。八〇年代終わって昭和が終わってしまったら、もう「バカになって」の時代ではないんだけれども、いっぺん「バカになって」という時代が十年ぐらい長いと、逆戻りできなくなるんですよね。だから、その結果どうなるかというと、お笑い芸人がほぼインテリの代表のような役をやるというふうになってしまって、直接的に何か言うんではなくて、からかうような物言いをしてればなんとかなるっていうことになってしまったから、それは考えなくてもいいのかもしれないなっていう雰囲気がなんとなく広がってしまったんだろうとは思いますけど。
——— そうやって分断されて、文化は継承されず成長しなくなった……。たしかに楽観はできませんね。皆がリアルへ回帰し始めたときにはもう遅すぎて、かつてのリアルを継承してきた人たちはもういない……。先ほどの話に戻しますが、自己啓発本を読み散らして、趣味を追い求めてるバブルをひきずっている看護師さんにしてももう五十歳でしょう。そういうバブルを引きづっている人たちも、これから次第に高齢化して退いてゆくのではありませんか。
15、橋本治は、政治家に根深い「明治はよかった妄想」を憎悪する
橋本 いやいや、いまは年寄りほど図々しいじゃないですか(笑)。それで行き詰まってくると、「昔はよかった」って言いだす。イギリスでも年寄りがEU離脱せいってけしかけたんでしょう。
——— イギリスの年寄り、図々しそうですね(笑)。
橋本 アメリカだって図々しいしさ。もう全世界、「昔はよかった病」でしょう。日本の総理大臣だって「日本を取り戻す」って言ってますからね。みんな年取れなくなってるから、若いまま図々しい。そしてみんなそれに抵抗する強い言葉を持っていないから、図々しいほうが勝ちなんです。バカな人、ずるい人ほどポジティヴでしょう。あんなポジティヴな日本の総理大臣ってあんまり見ないですね。
——— あれは確信犯で演じているんじゃないのですか。
橋本 あの人には確信犯になるだけの頭がないと思う。一度辞めているし、復讐心に燃えたバカって厄介ですよ。
——— だとしてもいまどき暴走したところでたかがしれていませんか。
橋本 当人はしたいでしょう。いまはいろいろとそうも出来ない状況がちょぼっとあるだけじゃないですか。事態が変われば図に乗りますよ、バカって。
——— でも改憲とか今やったとしても、それで何かが大きく変わりますか。ちょっと考えにくいのですけど。
橋本 うーん。でも、変わっちゃったらもう元には戻せないですよ。あの人は妄想的明治主義者でしょう。自民党の政治家のなかにある「明治はよかった妄想」みたいなのってすごく根深いと私は思ってますから。大陸に進出したがるのは、日本人の血みたいなものですよ。
——— 秀吉ですか。
橋本 藤原仲麻呂だってやろうとしたし。西郷隆盛の征韓論だって。やっぱり朝鮮半島から中国へ入る変な夢っていうのは、田舎の人間が都へ上って出世したいのと同じものじゃないかという気がする。
——— しかし、植民地化や大陸侵略が日本に可能だったのは、李氏朝鮮にしても中華民国にしても国際情勢のなかで弱体化していた時期だったからかろうじてであって、現在の韓国や中華人民共和国に対してはやりようがないでしょう。それ以前にアメリカが抑えているし。
橋本 うーん、どう言われても私、これは変えないと思います。理屈抜きで明治政府に対するアレルギーがあるんですよ。だからなかなか近代まで手をつけなかったくらいで。私は司馬遼太郎じゃなくて山田風太郎派なんですよね。だから、福澤諭吉の明治政府に対する、あのなんか微妙な嫌悪感というのがすごくよくわかるんです。
——— 風太郎先生も『明治断頭台』で、福澤諭吉を登場させてました。福澤のあの権力との距離の置き方は相当賢いですよね。
橋本 もう距離を置いてるだけじゃあ済まなくて、潰したいくらいです。私「日本海海戦」という琵琶曲を書きましたけど、あれなんかも日本海海戦の日本海軍を賛美する方向を封じようと思って、違う方向へもっていった詞なんです。「こういうことをいうとこっちへ逃げる」って推察できる逃げ道を、先回りして全部塞いでおこうと思っている人なんですよ(笑)。「古事記」の現代語訳やったのも、日本の神話がまた変な風に利用されるかもしれないから今のうちに封じておこうという。で、「古事記」で何が一番大事かというと序文なんですよ。序文を読むとどういう時代にこれが天皇へ撰上されたかみたいなことが書かれてあるから、明らかにその時代のものでしかないってわかるんですよね。ただの神話や物語だとそういう境目がなくなってくるけど、こういう時代に天皇へこれを捧げますみたいに書いてある時代の歴史的産物なんですね。こういうふうに退路を全部絶ってやろうという変なことをやっていますね。
——— 希望の芽をあらかじめ潰しておくと。
16、橋本治は、希望をしらみつぶしに潰して安易な解答への逃避を断絶させる
橋本 なんか変に希望を与えておくとね、「それでいいんだ」って思っちゃいそうだから。
——— 文語みたいな既存の答えへ安易にとびついちゃうんですね。それで自分では何も考えないまま。それでは自己啓発本と同じになっちゃう。
橋本 そうそうそう。だから、やっぱり俺はみんなには悲観的になってほしいなあ。そのほうがもの考えるから。人間ってどうしていいのかわからないって中で初めて考えるものじゃないですか。だからいじめに遭った子なんてどうしたらいいのかわかんなくて迷うんだから、死ぬんじゃなくてあとは偉くなるだけだと私は思うんですけどね。迷わせることも意味があると。
——— 『青空人生相談所』の初めのほうで回答されてましたね。いじめに悩む中学生に、君には偉くなる可能性だけはある。冗談だと思っちゃだめだよって。あれ感動しました。 しかし、一般的にはみんなそう悲観的になってくれますかね、そう簡単に絶望しないのでは?
橋本 まあねえ、楽ですものねえ。生活不安がないとねえ。もうこの先は呪いをかけるしかないです(笑)。
——— 橋本先生がひたすら希望めいた退路を断っていっても、なかなか読んでくれないじゃないですか。
橋本 しかし読んでくれない人も、なんか追い詰められてるなっていう実感だけは味わえるかもしれないから、すごーく遠回りでもやります。だってやれることなんか所詮、遠回り以外の何物でもないですから。
17、橋本治は書き続け、講演も再開して、空にはまた陽が昇る
——— ちくまプリマ―新書の『国家を考えてみよう』は十八歳が選挙権を初めて行使する参院選を意識されたとお聞きしました。内容は類書と異なり、国家とか政治とかをまさに根本の根本から考えさせるもので、『学問のすすめ』そのものですね。橋本先生は福澤ならば、「民主主義にとって選挙は大事だから棄権はやめよう」ばっかりの類書は自由民権派ですかね(笑)。あれ、十八歳たちはどう読まれるとお考えですか。
橋本 わかんないです。私、若い人のことよくわかんないです(笑)。相手がどう受け取るかは、読み手によって分かれるじゃないですか。だから、相手がどうのよりも、やることやっておかなきゃいけないなという判断で書きましたね。まあ、参院選のあとに刊行されて、「こういうの参院選まえに読みたかったのに」って言われたら嫌だなっていうくらいかな。それくらいは考えます。あとはもう有効か無効かじゃなくて、言っておかなくちゃ始まんないと思っているので(笑)。「一粒の麦、もし死なずば」というか、誰も読まないかもしれないけれど、いま書いて土にでも埋めておけば、世界が滅びた後でほじくり返してくれるかもしれないってそれだけでやってますね。山の中で『源氏物語』書いてたときも、そう考えてました。もともと自分がやってることが他人にウケるようなことであるとも思ってなかったし(笑)。
——— でも二十年まえお話伺ったときには、『平家物語』訳すにも一行に一巻かけて諄諄(じゅんじゅん)と説くのだとおっしゃってらしたじゃないですか。一行にチャイナ古代からの暴君の名が羅列してあるから、それを噛み砕くなら、一巻あててチャイナの歴史を総覧しなくてはならない。そしてそこまで親切丁寧に説くことが、この著者はそこまで親身に俺につきあってくれるのだという信頼をも培うっていってらした。
橋本 諄諄と説いてると長くなりすぎて、読み手は飽きるんですよね。私の「平家物語」は十巻まで「平家物語」じゃないですから。
——— 七巻でようやっと「保元物語」でしたね。
橋本 そう。第三巻書いたところで、ああこれはもう誰も読まないなってわかりましたもん。諄諄と説く相手である若者ってまず私自身ですからね、昔の自分がこういうのを読んだかというと読まないってわかりますから。知らない固有名詞が三つまでは我慢しても五つ出てきたら投げ出すだろうぐらいは思います。だから『学問のすゝめ』も、全十七編すべてこの調子でやってったら膨大な長さになって誰も読まなくなる。だから一編だけにした。そのくらいは利口になりましたよね(笑)。
——— その調子でこれからもお願いしますよ。さっき初めのところでヤンキーに本を読ませたらって希望語ってらしたじゃないですか。
橋本 そっち系の若者が、「へ―知らなかった」つって「本読もうぜ」になってったというのも知っているから、ひたすら地を這うように(笑)、そっちの人たちにわかるように書くしかない。やっぱりね、同じことを三回書かないと、わかりやすくは書けないですね。一回目はまだ自分にわからせるため。その際には、「こういうのを書くんだったら、世間的に通りのいいことを」とかっていう不純物がいろいろ入っているんですよ。で、二回やって三回目になると、やっともう大体わかったから「あ、こういうふうに言えばいいんだ」みたいになるんですよね。
——— 私の場合は、違う人、三人に同じネタを話すとずいぶん整理できますね。
橋本 私、昔はわりと講演やってたのは、実はこれから書く本はどうなるのかなって反応見るためにプレゼンやってたんですけどね。「あ、こういう反応もあるのか、ここはつっこんでもいいのかな」とかね。でも、もうそんな体力ないです。一時間や二時間、フリートークで持たせるってよっぽど集中力ないと出来ない。私はもう病人だからそういうものないです。
——— 昭和と平成の間あたり、けっこう私、追っかけやってましたよ(笑)。カッコよかったじゃないですか。真っ赤な服着たりして。本邦唯一最高の知性、橋本治ここにありって感じで。
橋本 そういう服ももう捨てましたし(笑)。やっぱりああいう服って、若くないと着られないんですよ、本当に。若いとね、服の派手さを殺すだけのエネルギーがあるから。そうした中和能力がないとね、枯れ木にペンキ塗ってるみたいになるんですよ。
——— 『蓮と刀』で書いてらした「ベニスに死す」の厚化粧の老人の話は怖かったです。しかし、派手な服でなくてもけっこうですから、また話してくださいよ。そのプレゼン踏まえてまた書いてほしいです。ヤンキーが「へえー」と本を読みだす例はありますけど、連中が一番とっつき易いのって残念ながら『竜馬がゆく』でしょう?司馬遼太郎なんですよ。いきなり山田風太郎とは行かないかもしれませんけど、なんとかしてくださいよ。
橋本 講演は七月末に久しぶりにやりましたが、人前に立つって、それだけで疲れるんですよ。女の人がメイク落としてホッとするのは、顔を作ることがそれだけ緊張することで、私はその体力があるんだったら、文章の方に回しますね。
——— おおっ。いよいよ今後に期待してます!   (終わり)
 
森鴎外

 

    「渋江抽斎」
    「伊沢蘭軒」
    「北条霞亭」
    「大塩平八郎」
    「雁」
「北条霞亭」
・・・文化辛未(八年)八月十八日の霞亭碧山兄弟の書は次にわたくしに上に見えた梅谷と云ふものの事を教へた。「内宮梅谷生今に上京無之、尤脚気のよし、此義も上るか上らぬかを得と相糺し遣し、もし上られ候はゞもとの通に藪の内三人住居可仕候。無左候はゞ、立敬計に候へば、任有亭にさしかけ二三丈の間をこしらへ候はゞ、朝夕飯等もそこにて出来候故、別而よろしく候。これは随分頼み候へば出来も可仕候。少しの物入に候。材木等はもらはれ申候。いづれ梅谷生の上返事の上之事に候。」是に由つて観れば竹里の家は霞亭碧山の兄弟のみが住んだのではなくて、梅谷某が共に住んだものである。又霞亭が京都市中より帰つて、竹里の家に入らずに任有亭に寓したのは、某が伊勢に帰つて再び来ぬが故である。霞亭は某が来るならば竹里の家に入らうかとさへ云つてゐる。某は内宮のものである。
同じ書は次に田巻と云ふものの事を言つてゐる。「越後田巻彦兵衛一旦常安寺にて僧となり候へども、僧は本望にも無之、やはり還俗修業仕たきよしにて、時々書物もち参り候。此節は三条通の借屋に居申候。此方は遠方にも有之、京都に而佐野か北小路などへ頼遣べき様申候へども、何分私へ随身仕たきよし申候。尤梅谷生など上り候て藪之内又々居住仕候はゞ、夫に同居願ひたきと申候。飯費等の義は用意もいたし候よし、これも未だ得とは引受不申候。常安寺などにてはいかやうに被思居候や。私申候はいづれ国元並常安寺などへ書通得といたし候上世話も可仕と申置候。如何仕べきや御伺申上候。」田巻彦兵衛は越後の人で、鳥羽筧山の常安寺に入つて僧となつてゐた。既にして還俗し、霞亭に従学せむとしてゐる。霞亭は田巻が京都市中に居るを以て、佐野山陰若くは北小路梅荘に紹介しようとしたが、田巻は聴かない。霞亭は越後の親元と常安寺とに問ひ合せた上で授業しようとしてゐるのである。佐野山陰の家は、文化の平安人物志に拠るに、「衣棚竹屋町北」にあつた。上に引いた嵯峨樵歌の詩引に、三日前に霞亭と倶に月を広沢の池に賞したと云ふのは此佐野生であらう、しかし山陰は長者なるを以て、霞亭が「佐野生」と称するは少しく疑ふべきである。北小路梅荘は即ち源玫瑰で、其家は的矢書牘中の京都宿所留に「車屋町丸太町下る面側」と書してある。文化の平安人物志にも亦「車屋町丸太町南」と云つてある。松崎慊堂の慊堂日暦文政乙酉(八年)九月廿二日の条に「北小路大学介、六十以上老儒、質実可語、詩文亦粗可観、檉宇云」と云つてある。林皝の評である、佐野と北小路とは皆姓を自署するを例とした。佐野は「藤原憲」と署し、北小路は「源寵」と署したのである。
同じ書に又友之進と云ふものが俳句の巻を霞亭に託して瓦全をして加点せしめようとした事が見えてゐる。「友之進様御頼之発句の巻物、これは当春八蔵跡より宇仁館へ持参いたし候処、其節は送別筵に而殊之外匆々敷、荷物之処う仁たち出入之人へ飛脚出し、こしらへもらひ候。其内いかゞいたし候哉、かの巻物封と江戸表より参り候大封書状紛失、其後吟味候てもしれ不申候。甚申訳も無之事に候。可然御断可被下候。又々御遣し候はゞ、瓦全方へ遣し可申候。其訳左様乍憚御言伝奉頼候。巻物等御贈候はゞ、何にても産物にても御添可被下候。瓦全にても其外京都などにては、私共扇面其外認もの、詩文の評点いたし候も、それ相応に進物参り候故、何もなく候てはかつこうあしく候。」・・・  
「伊沢蘭軒」
・・・榛軒の喪は此年嘉永(五年)壬子十一月十七日に発せられた。遺骸は麻布長谷寺に葬られた。墓は上に記した如く、父蘭軒の墓と比んで立つてゐる。
葬の日は伝はらない。会葬者は甚だ衆く過半は医師で総髪又は剃髪であつた。途に此行列に逢つた市人等は、「あれは御大名の御隠居のお葬だらう」と云つたさうである。
此日長谷寺には阿部家の命に依つて黒白の幕が張られた。大目附以上のものゝ葬に準ぜられたのである。会葬者には赤飯に奈良漬、味噌漬を副へた弁当が供せられた。初め伊沢氏で千人前を準備したが、剰す所は幾もなかつたさうである。
輓詩は只一首のみ伝はつてゐる。誠園と署した作である。「余多病、託治於福山侍医伊沢一安久矣、今聞其訃晋、不堪痛惜之至、悵然有詠。天地空留医国名。何図一夜玉山傾。魂帰冥漠茫無跡。耳底猶聞笑語声。」「誠園稿」と書して、「爵」「守真」の二印がある。引首は「天楽」である。初めわたくしはその何人なるを知らなかつたが、偶寧静閣集を読んで誠園の陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守康爵であることを知つた。一安は榛軒の晩年の称である。和歌は石川貞白の作一首がある。「あひおもふ君が木葉と散りしより物寂しくもなりまさりけり。元亮。」
曾能子刀自の語るを聞けば、此日俳優市川海老蔵と其子市川三升とが、縮緬羽二重を以て白蓮花を造らせて贈つたさうである。海老蔵は七代目、三升は八代目団十郎である。然るに文淵堂所蔵の花天月地を閲するに、榛軒の病死前後の書牘三通がある。其一は榛軒の病中に父子連署して榛軒の妻志保に寄せたもので、「御見舞のしるし迄に」菓子を贈ると云つてある。末に「霜月九日、白猿拝、三升拝、井沢御新造様」と書してある。其二は八代目一人が賵を送る文で、「此品いかが敷候へども御霊前へ奉呈上度如斯御座候」と云ひ、末に「廿二日、団栗、伊沢様」と書してある。其三は又父子連署して造花を贈る文で、榛軒を葬つた日を徴するに足るものかと推せられるから、此に全文を録する。「舌代。蒙御免書中を以伺上仕候。向寒之砌に御座候得共、益御機嫌宜敷御住居被為在、大慶至極奉存候。扨旦那様御病中不奉御伺うち、御養生不相叶御死去被遊候との御事承り驚入候。野子ども朝暮之歎き難尽罷在候。別而尊君様御方々御愁傷之程如何計歟御察し奉申上候。随而甚恐入候得共御麁末なる造花御霊前様へ御備被下置候はゞ、親子共本望之至に御座候。只御悔之印迄に奉献之度如此に御座候以上。霜月甘二日。市川白猿。市川三升。伊沢様御新造さま。」八代目の一人で贈を送つたのと同日である。しかし造花が二十二日に送られたとすると、此二十二日が即葬の日ではないかとおもはれるのである。
二十三日に榛軒が生前にあつらへて置いた小刀の拵が出来て来た。鞘の蒔絵が蓮花、縁頭鍔共蓮葉の一本指であつた。榛軒は早晩致仕して、貴顕の交を断ち、此小刀を佩び、小若党一人を具して貧人の病を問はうと云つてゐたさうである。是は曾能子刀自の語る所である。・・・  
 
佐藤紅緑

 

ああ玉杯に花うけて
・・・激昂げっこうした声は刻一刻に猛烈になった。人々は潮のごとく阪井に向かって突進した。
「なぐってくれ!」
いままで罪人のごとく沈黙していた阪井はなんともいえぬ悲痛な顔をして、押しよせくる学友の前に決然と進みでた、そうしてぴたりと大地に座った。
「おれはあやまりにきたんだ、おれは先生にあやまりにきたんだ、おれはおまえ達に殺されれば本望だ、さあ殺してくれ、おれは……おれは……犬にちがいない、畜生にちがいない……」
繃帯を首からつった片手をそのままに、片手は大地について首をさしのべた、火事場のあとをそのままの髪かみの毛はところどころ焼けちぢれている、かれは眉毛一つも動かさない。
「あやまりにきたとぬかしやがる、弱いやつだ、さあ覚悟しろ」
ライオンはほうばのげたのまま、かれの眉間みけんをはたとけった。阪井はぐっと頭をそらして倒れそうになったがじっと姿勢をもどして片手を大地からはなさない。
「畜生!」
「ばかやろう!」
「恩知らず」声々がわいた。
「なぐるのは手のけがれだ、つばをはきかけてやれ」
とだれかがいった。つばの雨がかれの顔となく首となく背中となく降りそそいだ。
「ばかやろう!」
最後に手塚がつばをはきかけた。・・・
・・・千三はボックスに立つ前にバットを一ふりふった、それは先生の手製のこぶこぶだらけのバットである。かれは血眼ちまなこになって光一をにらんだ。いままでかれは光一を見るとき一種の弱気を感じたのであった、かれはわが伯父が入獄中に受けた柳家の高恩を思い、わが貧をあわれんで学資をだしてやろうとした光一の友情を思うと、かれの球を打つ気合いが抜けてどうすることもできないのであった。
いまかれは臍下せいかに気をしずめ、先生のバットをさげて立ったとき、はじめて野球の意義がわかった。
私情は私情である、恩義は恩義である、だが野球は先生および全校の名誉を荷のうて戦うのである、私情をはなれて公々然と戦ってこそそれが本当の野球精神である、このバットは先生を代表したものである、ぼくが打つのでない、先生が打つのだ。
こう思って光一の顔を見やると光一は微笑している、その男らしい口元、上品な目の中にはこういってるかのごとく見える。
「おたがいに全力を尽くして技術を戦わそうじゃないか、負けても勝ってもいい、敵となり味方となってもよく戦ってこそおたがいの本望だ」
千三はたまらなく嬉しくなった、かれはボックスに立った。それを見て光一は思った。
「かわいそうに青木は今日きょうはばかにしょげかえっている、一本ぐらいは打たしてやりたいな」
だがかれはすぐに考えなおした。
「いやいや、ぼくのお情けの球を打って喜ぶ青木ではない、そんなことはかえって青木を侮辱ぶじょくしかつ学校と野球道を侮辱するものだ」
実際敵の走者が第一第二塁にある、少しもゆだんのならぬ場合である、かれは捕手のサインを見た、小原はすでに青木をあなどっている、かれは第一にウェストボールをサインした、第二もまた……第三には直球である。それは青木の予想するところであった。 ・・・
 
作者不詳

 

「平家物語」
    平安鎌倉の物語5 平家物語
・・・中(なか)にも徳大寺殿(とくだいじどの)は一(いち)の大納言(だいなごん)にて、花族(くわそく・くはソク)栄耀(えいゆう・ゑいゆう)、才学(さいかく)雄長(ゆうちやう)、家嫡(けちやく・ケちやく)にてましましけるが、超(こえ)られ給(たまひ)けるこそ遺恨(ゐこん・いこん)なれ。「さだめて御出家(ごしゆつけ)な(ン)どやあらむずらむ」と、人々(ひとびと)内々(ないない)は申(まうし)あへりしかども、暫(しばらく)世(よ)のならむ様(やう)をもみむとて、大納言(だいなごん)を辞(じ)し申(まうし)て、籠居(ろうきよ)とぞきこえし。新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)のたまひけるは、「徳大寺(とくだいじ)・花山院(くわさんのゐん・くはさんのゐん)に超(こえ)られたらむはいかがせむ。平家(へいけ)の次男(じなん)に超(こえ)らるるこそやすからね。是(これ)も万ツ(よろづ)おもふさまなるがいたす所(ところ)なり。いかにもして平家(へいけ)をほろぼし、本望(ほんまう)をとげむ」とのたまひけるこそおそろしけれ。父(ちち)の卿(きやう)は中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)までこそいたられしか、其(その)末子(ばつし)にて位(くらゐ)正二位(じやうにゐ)、官(くわん)大納言(だいなごん)にあがり、大国(だいこく)あまた給(たま)は(ッ)て、子息(しそく)所従(しよじゆう・しよじう)朝恩(てうおん・てうをん)にほこれり。何(なに)の不足(ふそく)にかかる心(こころ)つかれけむ。是(これ)偏(ひとへ)に天魔(てんま)の所為(しよゐ)とぞみえし。平治(へいぢ)には越後中将(ゑちごのちゆうじやう・ゑちごのちうじやう)とて、信頼卿(のぶよりのきやう)に同心(どうしん)のあひだ、既(すで)に誅(ちゆう・ちう)せらるべかりしを、小松殿(こまつどの)やうやうに申(まうし)て頸(くび)をつぎ給(たま)へり。
しかるに其(その)恩(おん・をん)をわすれて、外人(ぐわいじん)もなき所(ところ)に兵具(ひやうぐ)をととのへ、軍兵(ぐんびやう)をかたらひをき(おき)、其(その)営(いとな)みの外(ほか)は他事(たじ)なし。東山(ひがしやま)のふもと鹿(しし)の谷(たに)と云(いふ)所(ところ)は、うしろは三井寺(みゐでら)につづいてゆゆしき城郭(じやうくわく)にてぞありける。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ・しゆんくはんそうづ)の山庄(さんざう)あり。かれにつねはよりあひよりあひ、平家(へいけ)ほろぼさむずるはかりことをぞ廻(めぐ)らしける。或時(あるとき)法皇(ほふわう・ほうわう)も御幸(ごかう)なる。故少納言入道(こせうなごんにふだう・こせうなごんにうだう)信西(しんせい)が子息(しそく)、浄憲法印(じやうけんほふいん・じやうけんほうゐん)御供(おんとも)仕(つかまつ)る。 ・・・
「太平記」
    室町戦国の物語1 太平記[上]
    室町戦国の物語2 太平記[下]
・・・此時若(もし)武蔵守(むさしのかみ)一足(ひとあし)も退(しりぞ)く程ならば、逃る大勢に引立(ひきたて)られて洛中(らくちゆう)までも追著(おひつけら)れぬと見へけるを、少(すこし)も漂(ただよ)ふ気色無(なく)して、大音声を揚(あげ)て、「蓬(きたな)し返せ、敵は小勢ぞ師直爰(ここ)にあり。見捨て京へ逃(にげ)たらん人、何の面目有てか将軍の御目にも懸るべき。運命天にあり。名を惜(をし)まんと思はざらんや。」と、目をいらゝげ歯嚼(はがみ)をして、四方(しはう)を下知せられけるにこそ、恥(はぢ)ある兵は引留(ひきとどま)りて師直の前後に控(ひかへ)けれ。斯(かか)る処に土岐周済房(ときしゆさいばう)の手(て)の者共(ものども)は、皆打散(うちちら)され、我身も膝口切(きら)れて血にまじり、武蔵守(むさしのかみ)の前を引て、すげなう通(とほ)りけるを、師直吃(きつ)と見て、「日来(ひごろ)の荒言(くわうげん)にも不似、まさなうも見へ候者哉(かな)。」と言(ことば)を懸(かけ)られて、「何か見苦(みぐるしく)候べき。さらば討死して見せ申さん。」とて、又馬を引返し敵の真中(まんなか)へ蒐(かけ)入て、終(つひ)に討死してけり。
是を見て雑賀(さいが)次郎も蒐入(かけい)り打死す。已(すでに)楠と武蔵守(むさしのかみ)と、あはひ僅(わづか)に半町計(ばかり)を隔(へだて)たれば、すはや楠が多年の本望爰(ここ)に遂(とげ)ぬと見(みえ)たる処に、上山(うへやま)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、師直の前に馳塞(はせふさが)り、大音声を挙(あげ)て申けるは、「八幡(はちまん)殿(どの)より以来(このかた)、源家累代(るゐだい)の執権(しつけん)として、武功天下に顕(あらは)れたる高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直是に有(あり)。」と名乗(なのつ)て、討死しける其(その)間に、師直遥(はるか)に隔(へだたつ)て、楠本意を遂(とげ)ざりけり。・・・
「東照宮御実紀」
    東照宮御実紀 / 徳川実紀
・・・御道の案內に參りし竹丸を近くめし。我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。もし今少し人數をも具したらんには。光秀を追のけ織田殿の仇を報ずべしといへども。此無勢にてはそれもかなふまじ。なまなかの事し出して恥を取んよりは。いそぎ都にのぼりて知恩院に入。腹きつて織田殿と死をともにせんとのたまふ。竹丸聞て。殿さへかく仰らる。まして某は年來の主君なり。一番に腹切てこのほどのごとく御道しるべせんと申。さらば平八御先仕れと仰ければ。忠勝と茶屋と二人馬をならべて御先をうつ。御供の人々は何ゆへにかくいそがせ給ふかと。あやしみ行ほど廿町ばかりをへて。忠勝馬を引返し石川數正にむかひ。我君の御大事けふにきはまりぬれば。微弱の身をもかへりみず思ふ所申さゞらんもいかゞなり。君年頃の信義を守り給ひ。織田殿と死を共になし給はんとの御事は。義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。去ながら織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば。いかにもして御本國へ御歸り有て軍勢を催され光秀を追討し。彼が首切て手向給はゞ。織田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申。石川酒井等是をきゝ。年たけたる我々此所に心付ざりしこそ。かへすべすも恥かしけれとて其よし聞え上しかば。君つくづくと聞召れ。我本國に歸り軍勢を催促し。光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。去ながら主從共に此地に來るは始なり。しらぬ野山にさまよひ。山賊一揆のためこゝかしこにて討れん事の口おしさに。都にて腹切べしとは定たれと仰らる。其時竹丸怒れる眼に淚をうかめ。我等悔しくもこたび殿の御案內に參りて主君㝡期の供もせず。賊黨一人も切て捨ず。此まゝに腹切て死せば冥土黃泉の下までも恨猶深かるべし。あはれ殿御歸國ありて光秀御誅伐あらん時。御先手に參り討死せんは尤以て本望たるべし。たゝし御歸路の事を危く思召るべきか。此邊の國士ども織田殿へ參謁せし時は。皆某がとり申たる事なれば。某が申事よもそむくものは候まじ。夫故にこそ今度の御道しるべにも參りしなりと申せば。酒井石川等も。さては忠勝が申旨にしたがはせられ。御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにて候といさめ進らせて。御歸國には定まりぬ。穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も。討ずしてかなはざるコ川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も。吾命の拙さよとて後悔せしといへり。)竹丸やがて大和の十市がもとへ使立て案內をこふ。忠勝は蜻蛉切といふ鑓提て眞先に立。土民をかり立り立道案內させ。茶屋は土人に金を多くあたへ道しるべさせ。河內の尊圓寺村より山城の相樂山田村につかせ給ふ。こゝに十市よりあないにとて吉川といふ者を進らせ。三日には木津の渡りにおはしけるに舟なし。忠勝鑓さしのべて柴舟二艘引よせ。主從を渡して後鑓の鐏をもて二艘の舟をばたゝき割て捨て。今夜長尾村八幡山に泊り給ひ。四日石原村にかゝり給へは。一揆おこりて道を遮る。忠勝等力をつくしてこれを追拂ひ。白江村。老中村。江野口をへて吳服明神の祠職服部がもとにやどり給ふ。五日には服部山口などいへる地士ども御道しるべして。宇治の川上に至らせ給ひしに又舟なければ。御供の人々いかゞせんと思ひなやみし所。川中に白幣の立たるをみて。天照大神の道びかせ給ふなりといひながら。榊原小平太康政馬をのりこめば思ひの外淺Pなり。其時酒井忠次小舟一艘尋出し君を渡し奉る。やがて江州P田の山岡兄弟迎へ進らせ。此所より信樂までは山路嶮難にして山賊の窟なりといへども。山岡服部御供に候すれば。山賊一揆もおかす事なく信樂につかせ給ふ。こゝの多羅尾のなにがしは山口山岡等がゆかりなればこの所にやすらはせ給ひ。高見峠より十市が進らせたる御道しるべの吉川には暇給はり。音聞峠より山岡兄弟も辭し奉る。去年信長伊賀國を攻られし時。地士どもは皆殺たるべしと令せられしにより。伊賀人多く三遠の御領に迯來りしを。君あつくめぐませ給ひしかば。こたび其親族ども此御恩にむくひ奉らんとて。柘植村の者二三百人。江州甲賀の地士等百餘人御道のあないに參り。上柘植より三里半鹿伏所とて。山戝の群居せる山中を難なくこえ給ひ。六日に伊勢の白子浦につかせ給ひ。其地の商人角屋といへるが舟をもて。主從この日頃の辛苦をかたりなぐさめらる。折ふし思ふ方の風さへ吹て三河の大Mにつかせ給ひ。七日に岡崎へかへらせ給ひ。主從はじめて安堵の思をなす。(これを伊賀越とて御生涯御艱難の第一とす。)八日にはいそぎ光秀を征し給はんとて軍令を下され。駿遠の諸將を催促せられ。十四日に岡崎を御出馬ありて鳴海(一說に熱田とす。)まで御進發ありし所に。十九日羽柴築前守秀吉が使來り申送られしは。秀吉織田殿の命をうけて中國征伐にむかひ。備前因幡の國人を降附し。備中の國冠河屋の城を責落し。高松の城を水責にし。彌進んで毛利が勢と决戰せんとする所に。輝元より備中備後伯耆三國を避渡し。織田殿と講和せんと申送る。此事いまだ决せざるに。都よりして賊臣光秀叛逆して織田殿御父子を弑する注進を聞とひとしく。其よし少しもかくさず毛利が方へ申送り。忽に和をむすび。毛利より旗三十流鐵砲五百挺かりうけ。そのうへ輝元が人質とつて引かへし。十一日攝州尼崎に着陣し。三七信孝。丹羽五カ左衛門長秀等と牒し合せ。十三日山崎の一戰に切勝て。光秀天罰のがれがたく終に誅に服したり。其餘殘黨ことごとく誅伐をとげ候へば。御上洛に及び候はぬよしなり。君はそのまゝ鳴海より御軍をおさめられ岡崎へかへらせ給ふ。然るに右府の家人共は國々にありて。こたびの亂におどろきあはて守る所をすてのぼりければ諸國まな乱れたちぬ。これよりさき右府甲斐の國を河尻肥後守鎭吉に賜はりし時。君近國にましませば萬にたのみまゐらするよし申されしにより。 ・・・
・・・大坂に籠りし諸浪人共みな御ゆるしなれば。心まかせに誰家なりとも仕官すべし。諸家にても召抱へん事も苦しからざる旨令せられしかば。艸菴に隱れて時節を伺ひしものども。感恩のェ大なるに感じ。それぞれ舊功をいひ立て俸祿にあり付しとなり。又落城の後赤座內膳永成。伊藤丹後守長次。岩佐右近正壽をはじめ。秀ョの小性十餘人ばかり京の妙心寺に迯入て。海山和尙をもて。撿使をたまはらば腹切むと申上しかば。大閤以來譜代の者どもが。秀ョの先途を見屆し上にて。腹切むといふは本望なり。今度罪する所の者は。大野修理などの首謀のものか。あるは先年關原の役に一旦その命を扶けしものか。又はこたび籠城せしは重科なればゆるすべららず。その外はなべて御ゆるしあれば。心まかせに何方へなりとも立退べしとあれば。みな仁恩をかしこみ。己がじゝあかれ行しとなり。又搏c右衛門尉長盛は關原の時高力左近大夫忠房に預られて。武州岩槻に在しが。其子兵大夫は此度冬の役には。將軍家の御陣に從ひ奉り。寄手の勝しときゝては顏色やましめ。城兵の利ありと聞ば喜スのさま顯れしが。このよし御聽に入しかば。それは舊主をわすれぬ神妙の心ざしなり。さすが搏cが子ほど有と仰られて何の御咎もなし。夏の陣には城中にはせ入り。長曾我部宮內少輔盛親が手に屬し。五月五日藤堂が陣に向て晴なる戰して討死しければ。今は父の長盛もかくて在らんはいかゞなりとて。遂に切腹命ぜられしなり。(明良洪範。駿河土產。)
大坂より京の二條に還御ありし頃。御物語の次に。本多上野介正純。木村長門守重成が事を稱歎し。かれもし七日迄生てあらむには。かならず秀ョを勸めて出城せしむべしといふに。とかうの御荅なし。正純また松平武藏守利隆がことをほめ聞ゆれば。利隆は金吾秀秋に似たりと仰らる。正純秀秋に似たりと宣ふは。逆意のきざしにてもあるかとおぼしめしての事かと思ひ。利隆には篤實なるものなりと申せば。五十萬石も領するものは。わが父子にも目をかくるほどの親愛の情がなくては。叶はぬと仰られしとなり。(古人物語。) ・・・  
「本能寺の変」
・・・光秀公より沼田權佐御使に被遣。忠興樣御人數被召連。急き御上り被成候樣にと。被仰進侯。御返事。此度は助被歸候。重て參候はは御誅伐可被成候迄。承届歸申候事。【細川忠興軍功記】
光秀公は三七樣。五郎左衞門殿。御打果可被成候間。筒井順慶に人數出し候へは。洞か峠にて御待合可被成と。被仰遣候へは。則人數出し可申と申に付。中一日二夜。洞か峠に野陣被成。筒井御待被成候事。【細川忠興軍功記】
對信長公ニ明智光秀逆心ノ刻。光秀筒井へ使ヲ被指越ハ。信長公ニ怨甚依有之。本能寺へ押寄セ御腹メサセ。其ヨリ二條ノ屋形へ取詰。信忠公ニモ御自害被雖候。然ハ御手前ト某事。數年ノ親ミ此時ニ候條味方ニ與シ玉フニ於テハ可爲本望候。於左候ニハ大和紀伊和泉三箇國可進ノ由被申越候。順慶モ家臣ヲ集メ評議區々ノ處ニ。何モ家老ドモ申ハ。兎角明智ノ味方ヲ被成可然ノ旨。申候トモ。松倉右近申ハ。先出馬可有之旨。御返答被成。八幡山マテ御出被成彼地能要害ノ處ニ候條。暫御在陣候得テ。樣子御見合可有。【大和記】
都に接した津の国の殿達ならびに重立った貴族は毛利との戦争に赴いてゐたのに、明智が盲目であって直に同日の諸城を占領させなかったことは、その滅亡の因となったのである。この諸城は信長の命によって破壊されて居り、兵士がゐなかった故、五百人を率ゐて行けば諸城から人質を取り、己の兵を城に入るることは容易であった。【イエズス会日本年報(1582年追加)】・・・   
「明智軍記 織田殿に明智が招かれた事 」
・・・明智十兵衛光秀は、越前にいた時には朝倉義景の下に仕えていたが、永禄八年の冬の頃から義景の側に出れることが少なくなっていった。その理由は何かと言えば、鞍谷刑部大輔嗣知が讒言したことによる。この嗣知は、足利公方義満公の次男大納言義嗣卿の四代の孫右兵衛佐嗣俊の孫の掃部頭嗣時の子である。この義嗣は父の鹿苑院殿義満の最愛の子だったので、義満公は義嗣の兄で将軍となった義持公を蔑ろにされることも多かった。将来的には義嗣に天下を譲り渡そうと考えていたのだが、応永十五年の夏、鹿苑院道義禅閤が亡くなられたので、その後は義嗣卿は不遇をかこった。同二十五年の春にはその大納言も他界されたので、その子の嗣俊は孤児となってしまった。そこで縁を頼って越前に下向されて、味間野の辺に仮家を設けられたので、ここを鞍谷御所といって朝倉家から保護された。特にこの刑部大輔の娘は、義景の内室となっているので、主君の舅と言う事にもなり、また才覚もある人だったので国中の皆から尊敬されていた。ある夜、話のあいだに義景に鞍谷殿が言うには、
「近頃濃州から来た明智光秀の様子をみていると、戦には勇敢で知謀才覚は人に勝っており、弁舌も巧みな者である。しかしその野心に限度はなく、常に朋輩の中でも上座に控えている。こんな輩は譜代の重臣を軽んじ、後々には主君である義景様をも欺き、些細な事を怨み、その野心に果てが無いような者です。朝倉金吾入道も申されているとおりです。」
といったので、その後義景もなんとなく光秀を近習から外し、皆に加増が有った時にも光秀に沙汰しないようなことをした。またその頃、美濃の国主だった斎藤竜興が尾州の信長と数年に渡って戦っていたが、終に討負けて濃州から流浪して拝星峠を越えて大野郡に塾居して、朝倉家を頼ってきた。光秀はこの事を聞いて、
「竜興は明智家の仇敵であれば、これといい、あれといい、この国に居て益が有る事は無い。細徳の険微を見て買生が書いたという筆の跡も、こう言うことかと実感されるわ。」
と思っていたところに、織田上総介信長から、明智の許へ、密かに書簡が送られてきた。
「そなたを招こうと思ったのは、私は今度右兵衛大夫竜興を亡し、尾濃両国を平定し、尾張から美濃に移って、岐阜に在城している。明智というのは元来私の舅斎藤山城守義竜の臣として、濃州の郡司であった家である。時に光秀の叔父宗宿入道は、主君義竜の為に忠義を全うし死んでいった者であれば、この信長としても常に其恩に報なければならないと神明に誓って思っていた処に、今、怨敵竜興を追い出して、会稽の恥辱を雪めて本望を達した。汝もきっと累年の憤りを散らそうではないか。私は、山城守と意を同じくしているので、光秀も旧里に帰って、再度家を起して、世上に名を知らしめてはどうか。」
と再三懇に書状を送られてきた。そこで、十兵衛も又徳輝を覧て下ると言って、信長の言うことを信じて、義景に暇を申しでて、永禄九年十月九日、越前から濃州岐阜へと参ったのであった。その頃、光秀は三十九歳であったそうだ。そして、旧知の猪子兵助を通して、御目見えを申上した。その祭には、持参した祝儀として菊酒の樽五荷と鮭の塩引の賃巻を二十を献上した。また、信長の内室は、光秀の従兄妹であるので、これとは別に御台所へ土産として、 住国越前の大滝の髻結紙を三十帖と府中の雲紙千枚、戸口の網代組の硯箱・文箱・香炉箱の類のもの五十ほどを献上した。信長は光秀の奇特な振る舞いをご覧になって濃州安八郡で四千二百貫の所領を光秀に授けられた。・・・  
小栗判官・餓鬼阿弥
    小栗判官・照手姫・餓鬼阿弥
・・・照手の姫の御物語はさておき申して、ことに哀れをとどめたのは、冥土黄泉にいらっしゃいます小栗十一人の殿原たちであって、諸事の哀れをとどめた。閻魔大王はご覧になって、「さてこそ申さぬか。悪人が参ったわ。あの小栗と申するは、娑婆にあったそのときは、善と申せば遠くなり、悪と申せば近くなる、大悪人の者であるので、あれを悪修羅道へ堕とそう。十人の殿原たちは御主にかかわって非法の死のことであるので、殿原たちは今一度、娑婆へ戻してとらそう」との仰せである。十人の殿原たちは承って閻魔大王へ、「のういかに、大王様。われら十人の者どもが娑婆へ戻っても、本望を遂げるのは難しいこと。あの御主の小栗殿を一人、お戻しになってくださるものならば、われらの本望まで必ずお遂げになることでしょう。われら十人の者どもは、浄土へならば浄土へ、悪修羅道へならば修羅道へ、咎に任せて、遣ってくだされ。大王様」と申すのである。大王は、「さても汝らは主に功ある輩よ。それならば、後世の模範に、十一人ながら戻してとらせよう」と思われて、視る目とうせんを御前にお呼びになって、「日本に体があるか、見てまいれ」との仰せである。 ・・・
・・・毒殺された小栗判官と十人の殿原は、藤沢の遊行寺に葬られた。十人殿原は荼毘(だび)にふされたが、判官だけは土葬にされた。横山親子は、陰陽師の占いに従ったのである。照手が流転を繰り返していた頃、判官一行は、死出の山路も遙々と冥途への道を辿っていた。判官一行は、ようやく閻魔大王の前に辿り着いた。さすがの判官も閻魔様の前では神妙にしていた。閻魔大王は、側に控える鬼達に「浄玻(じょうは)璃(り)の鏡」を命じると、次々と十人殿原の生前の姿を調べたが、最後に判官を調べると、鏡をぐるりと判官に向けて、じろりと判官を睨んだ。「十人殿原は、忠義のために非業の最期。なんの子細は無けれども、判官政清よ。己の姿をよっく見よ。」と、笏(しゃく)を振り上げはったと怒った。そこに映っていたのは、全身に鱗、頭には二本の角が生えたる蛇体の姿だった。閻魔大王は即決して、「凡夫の身にして御菩薩池の大蛇と契りを籠めたる咎により、判官政清は蛇道の地獄へ送り。十人殿原はその忠義により、今一度、娑婆(しゃば)へ帰さん。」と言った。これを聞いた十人殿原は、閻魔大王に詰め寄ると、十人口々に、「我々十人が娑婆に戻っても本望は遂げ難し、我が君様一人お戻し有るならば本望遂げるは必定。我が君様の咎は十人で受けまする。どうか我が君様を娑婆へお戻し下りますようお願い申し上げます。」と、懇願した。いまだかつて、冥途に来てまで忠義を忘れない者など居なかったので、閻魔大王は心底、殿原の志に感心をしてこう言った。「では、殿原達の忠義に免じて十一人共に娑婆帰りを許す。」と言うと、鬼に命じて、亡骸(なきがら)を所在を調べさせた。鬼が殿原は火葬、判官は土葬と報告すると、閻魔大王は、「亡骸なくば、是非に及ばぬ。殿原達は娑婆へは戻れぬ。冥途の十大守護神として我に仕えよ。さて、判官政清。殿原達に感謝いたせよ。」と言うと、なにやら一通を認(したた)めて御判をつくと、判官の弓手(左手)に握らせた。閻魔大王は笏を振り上げて、善哉(ぜんざい)善哉(ぜんざい)と唱えると、はったと虚空を打った。 ・・・
・・・これは、照手の姫の、御物語。さておき申し、ことに、あはれをとどめたは、冥途黄泉(めいどこうせん)に、おはします、小栗十一人の、殿原たちにて、諸事のあはれをとどめたり。閻魔大王様は御覧じて、「さてこそ申さぬか。悪人が参りたは。あの小栗と申するは、娑婆(しゃば)にありしそのときは、善と申せば遠うなり、悪と申せば近うなる、大悪人の者なれば、あれをば、悪修羅道(あくしゅらどう)へ、堕(おと)すべし。十人の殿原たちは、御主(おしゅう)にかかり、非法の死にの、ことなれば、あれをば、いま一度、娑婆へ戻いてとらせう」との御諚なり。十人の殿原たちは、承り、閻魔大王様へ御ざありて、「なういかに、大王様。われら十人の者どもが、娑婆へ戻りて、本望、遂(と)げうことは、難(かた)いこと。あの御主の、小栗殿を、一人、お戻しあつて、たまはるものならば、われらが本望まで、お遂げあらうは、一定(いちじょう)なり。われら十人の者どもは、浄土へならば、浄土へ、悪修羅道へならば、修羅道へ、科(とが)にまかせて、遣(や)りてたまはれの。大王様」とぞ申すなり。大王、このよし聞こしめし、「さてもなんぢらは、主(しゅう)に孝あるともがらや。その儀にてあるならば、さても末代の後記(こうき)に、十一人ながら、戻いてとらせう」と、思しめし、視る目とうせん、御前に召され、「日本(にっぽん)に体があるか、見てまゐれ」との御諚なり。承つて御ざあると、八葉(はちよう)の峯に上がり、にんは杖(じょう)といふ杖(つえ)で、虚空(こくう)を、はつたと打てば、日本は、一目に見ゆる。閻魔大王様へ参りつつ、「なういかに、大王様。十人の殿原たちは、御主にかかり、非法の死にのことなれば、これをば、体を火葬に仕り、体が御ざなし。小栗一人は、名大将のことなれば、これをば、体を土葬に仕り、体が御ざある。大王様」とぞ申すなり。大王、このよし聞こしめし、「さても、末代の後記に、十一人ながら、戻いてとらせうとは思へども、体がなければ、詮(せん)もなし。なにしに、十人の殿原たち、悪修羅道へは、堕すべし。われらが脇立ちに、頼まん」と、五体づつ、両の脇に、十王、十体と、お斎(いわ)ひあつて、今で、末世の衆生を、お守りあつておはします。   
石童丸 / 苅萱後傳
    石童丸
・・・母(はゝ)の苦節(くせつ)を全(まつたう)しまゐらすべう。既(すで)に心(こゝろ)を決(けつ)したれば。序(ついで)なくとも聞(きこ)えたてまつらんと思ひたるに。親子(おやこ)自然(しぜん)とその志(こゝろざし)合(がつ)し。詰(なじり)問(とは)せ給ふにつきて。事(こと)の本末(もとすゑ)を申なり。しばし身(み)の暇(いとま)を給はり候へ。やがて本望(ほんもう)を遂(とげ)て。御(おん)迎(むかひ)に参(まい)り候べしとて。一五一十(いちぶしゞう)を申しければ。千引(ちびき)は世(よ)にもうれしげにて。数回(あまたゝび)賞嘆(せうたん☆○ホメル)し。今(いま)のものがたりにつきてつら/\思ふに。彼(かの)勝軍坊(せうぐんぼう)と名告(なの)りて。御身(おんみ)に武藝(ぶげい)を教(をしへ)給ひしは。年來(としごろ)信(しん)じ奉(たてまつ)る。苅萱(かるかや)將軍(せうぐん)地藏(ぢざう)菩薩(ぼさつ)にて」 ましますなれ。殊更(ことさら)仇人(かたき)權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)が今(いま)の名字(みやうじ)その相貌(かほかたち)まで説示(ときしめ)したまふこと。世(よ)に有(あり)がたき應驗(おうげん)ぞかし。縁故(ことのもと)を審(つまびらか)にしり給ふうへは。今(いま)あらためて告(つぐ)るに及(およ)ばず。御身(おんみ)が父(ちゝ)繁光(しげみつ)どのには。桂江(かつらえ)といふ嫡室(ほんさい)。繁太郎(しげたらう)とかいふ一子(いつし)もありとか聞(き)けり。もし名告(なのり)あひ給はゞ。桂江(かつらえ)どのをば實(まこと)の母(はゝ)のごとく孝行(こう/\)を盡(つく)し。兄(あに)繁太郎(しげたらう)どのをもよく敬(うやま)ひて。母(はゝ)が誠心(まごゝろ)をな化(あだ)になしたまひそ。鎌倉(かまくら)までは路(みち)もはるけし。道中(どうちう)もつはらこゝろを用(もち)ひ。只(たゞ)地藏(ぢざう)菩薩(ぼさつ)の冥助(みやうぢよ)を仰(あほ)ぎて。祖父(おほぢ)の仇人(かたき)を撃果(うちはた)し。遠(とほ)からず好音(よきたより)を聞(きか)せ給へ。かゝるべしとはしらずして。御身(おんみ)が」挙止(ふるまひ)の。幼(いとけな)き時(とき)には劣(おと)りて見(み)ゆるが朽(くち)をしくて。何(なに)ごとも告(つげ)ざりし。わが身(み)の愚痴(ぐち)こそ面目(めんもく)なけれ。これこそむかし繁光(しげみつ)どの。再會(さいくわい)の信(しるし)にとて。遺(のこ)し留(とゞ)め給ひたる。重代(ぢうだい)の征矢(そや)。自筆(じひつ)の短冊(たんざく)なれとて。古(ふる)き葛籠(つゞら)をうち開(あけ)つゝ。・・・
奥州白石噺
    宮城野と信夫・団七踊り
たとえ慮外を致したとても 国の宝の民百姓をば
むざと手に掛け不届き者よ 殊によこしま非道を致し
われが役目を権威にかけて 諸事をはからう大胆者よ
とて、すぐに使者を遣わして団七に切腹を仰せつけた。この使いを受けると、団七はあわてて逃げ出し行方をくらましてしまう。泣く泣く葬式をすませ、四十九日の追善供養を営みおえると、巡礼姿に身をかためた母娘三人は、親類や村人たちのはげましに送られながら、仇討ちの旅にのぼる。路銀を使いはたした旅先の宿で母に死なれた後、さらに数々の苦労をなめた末、姉妹は、とうとう父の仇き志賀団七を討ちとる。
さすが団七真陰流の その名聞こえし達人なれば
すでに宮城野危うく見える そこで信夫は陣鎌持ちて
鎖投げれば団七殿の 腕にからむを後へ引けば
姉は突きこみききてを落とす そこで団七数所へ手疵
とてもかなわぬ運命つきる 姉と妹は止めを刺して
積もる思いの恨みも晴れて 本望遂げます二人の娘
世にも稀なる仇討ちでござる
これが、「娘仇討ち白石口説やんれ節」でうたわれる宮城野・信夫の仇討ち物語の概略である。
木版刷りの古びた音頭本に書きつづられた姉妹の仇討ち物語。百姓の娘姉妹が、武士に対して仇討ちをする、考えてみれば、不思議な話である。これはいったい何なのだろう。はたしてこんなことが本当にあったのだろうか。もしあったのだとしたら、遠い東北の地で起こった事件が、なぜ北陸の盆踊りの中で、歌い踊られるのであろうか。幾世代をかさねて歌い踊りつがれてきた「娘仇討ち白石口説」と「団七踊り」には、祖先たちのどんな想いがこめられているのであろうか。 
「金瓶梅」
・・・「まあ、うるさいことすると、たたくわよ」 「あんたになら、たたき殺されても本望ですよ」と言いざま、ものも言わせず王婆のオンドルまで抱き運んだ。・・・
「菅直人記者会見」 平成23年4月22日 質疑応答
    平成の総理大臣・政治家
日本テレビの青山です。総理は今、復興実施本部の立ち上げとそれに対する野党側の参画を呼びかけましたけれども、まずこの復興実施本部はどのような権利や責任を有する会議体を考えていらっしゃるのかということが1つ。この実際の野党に対する呼びかけは、現在、国民新党の亀井代表が実際に行っていますけれども、これは同じ連立与党とは言え、他党の代表である亀井さんがなぜこういう大事な呼びかけを行うことになっているのか。そして、これに伴って亀井代表は菅総理が地位に恋々としないと伝えているということを言っていますけれども、菅総理は復興にめどが立ったら退陣も辞さないという決意なんでしょうか。亀井さんとどのような話をしているんでしょうか。この質問も必ずお答えください。
まず実施本部の在り方については、過去のいろいろな例などは調べております。その在り方そのものを含めて、できることなら野党の皆さんとも協議をして、形づくってまいりたい。このように思っております。呼びかけについては、連立を組んでおります国民新党の亀井代表の方から、自分もそうした自由民主党や公明党など各党の皆さんが参加する形が望ましいと思うけれども、私に対して、菅はどう思うかということを聞かれまして、それはそういう形が取れるものなら大変ありがたい。その方向に向けて、亀井国民新党代表が御努力をいだたけることは大変ありがたい。このように申し上げているところでありまして、そういうことを受けて、亀井代表がいろいろと御努力をしていただいている。このように理解をいたしております。そして、この大震災と原子力事故のことは、先ほども申し上げましたように、私がそのときに総理という立場にあるというのは、ある意味で私にとっては宿命だと、このように受け止めております。その意味で、この事態に対して何としても復旧・復興、そして2つの危機を乗り越えていく道筋をつくり出していきたい。そうした道筋が見えてくれば、政治家としてはまさに本望だと、このように考えております。
 
■詩人

 

萩原朔太郎  
「青猫」
・・・詩を作ること久しくして、益益詩に自信をもち得ない。私の如きものは、みじめなる青猫の夢魔にすぎない。
利根川に近き田舍の小都市にて  著者
凡例
一。第一詩集『月に吠える』を出してから既に六年ほど經過した。この長い間私は重に思索生活に沒頭したのであるが、かたはら矢張詩を作つて居た。そこで漸やく一册に集つたのが、この詩集『青猫』である。何分にも長い間に少し宛書いたものである故、詩の情想やスタイルの上に種々の變移があつて、一册の詩集に統一すべく、所所氣分の貫流を缺いた怨みがある。けれども全體として言へば、矢張書銘の『青猫』といふ感じが、一卷のライト・モチーヴとして著者の個性的氣稟を高調して居るやに思ふ。
二。集中の詩篇は、それぞれの情想やスタイルによつて、大體之れを六章に類別した。即ち「幻の寢臺」、「憂鬱なる櫻」、「さびしい青猫」、「閑雅な食慾」、「意志と無明」、「艶めける靈魂」他詩一篇である。この分類の中、最初の二章(「幻の寢臺」、「憂鬱なる櫻」)は、主として創作年代の順序によつて配列した。此等の章中に收められた詩篇は、概ね雜誌『感情』に掲載したものであるから、皆今から數年以前の舊作である。『感情』が廢刊されてからずゐぶん久しい間であるが、幸ひに殘本の合本があつて集録することを得た。同時代に他の雜誌へ寄稿したものは、すべて皆散佚して世に問ふべき機縁もない。「さびしい青猫」以下の章に收められた詩は、何れもこの二三年來に於ける最近の收穫である。但し排列の順序は年代によらず、主として情想やスタイルの類別によつた。
三。私の第二詩集は、はじめ『憂鬱なる』とするつもりであつた。それはずつと以前から『感情』の裏表紙で豫告廣告を出して置いた如くである。然るにその後『憂鬱なる××』といふ題の小説が現はれたり、同じやうな書銘の詩集が出版されたりして、この「憂鬱」といふ語句の官能的にきらびやかな觸感が、當初に發見された時分の鮮新な香氣を稀薄にしてしまつた。そればかりでなく、私の詩風もその後によほど變轉して、且つ生活の主題が他方へ移つて行つた爲、今ではこの「取つて置きの書銘」を用ゐることが不可能になつた始末である。豫告の破約を斷るため、ここに一言しておく。
四。とにかくこの詩集は、あまりに長く出版を遲れすぎた。そのため書銘ばかりでなく、内容の方でも、いろいろ「持ち腐れ」になつてしまつた。その當時の詩壇から見て、可成に新奇で鮮新な發明であつた特種のスタイルなども、今日では詩壇一般の類型となつて居て、むしろ常套の臭氣が鼻につくやうにさへなつて居る。さういふ古い自分の詩を、今更ら今日の詩壇に向つて公表するのは、ふしぎに理由のない羞恥と腹立たしさとを感ずるものである。
五。附録の論文「自由詩のリズムに就て」は、この書物の跋と見るべきである。私の詩の讀者は勿論、一般に「自由詩を作る人」、「自由詩を讀む人」、「自由詩を批評する人」、「自由詩を論議する人」特に就中「自由詩が解らないと言ふ人」たちに讀んでもらふ目的で書いた。自由詩人としての我々の立場が、之れによつて幾分でも一般の理解を得ば本望である。 ・・・ 
漂泊者の歌
日は断崖の上に登り 憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方 続ける鉄路の柵の背後〔うしろ〕に
一つの寂しき影は漂ふ。
ああ汝〔なんぢ〕 漂泊者! 過去より来りて未来を過ぎ
久遠〔くをん〕の郷愁を追ひ行くもの。
いかなれば蹌爾〔さうじ〕として 時計の如くに憂ひ歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく 一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥〔せきれう〕を蹈み切れかし。
ああ 悪魔よりも孤独にして 汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
かつて何物をも信ずることなく 汝の信ずるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず 汝の欲情するものを弾劾せり。
いかなればまた愁〔うれ〕ひ疲れて  やさしく抱かれ接吻〔きす〕する者の家に帰らん。
かつて何物をも汝は愛せず 何物もまたかつて汝を愛せざるべし。
ああ汝 寂寥の人 悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊〔さまよ〕ひ行けど いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
萩原朔太郎(1886年/明治19年—1942年/昭和17年)の『氷島』が出版されたのは1934年、西脇順三郎の『Ambarvalia』が出版された翌年であった。当時の朔太郎がどのような状況にあったか振り返ってみると下記のとおりである。
1925年 妻子三人とともに上京
1927年 芥川龍之介自殺
1928年 『詩の原理』刊行 「詩と詩論」創刊。春山行夫「日本近代象徴主義の終焉」
1929年 稲子夫人と離婚。二児を伴い帰郷
1930年 父・密蔵死去
1931年 下北沢で、母、二児、妹と暮らす。
1933年 「郷愁の詩人与謝蕪村」「四季」創刊。『Ambarvalia』刊行
1934年 『氷島』刊行
『氷島』は評価が分かれる詩集である。「詩句に先だつて、それに充実すべき内容の方からまづ膨らみ上つてくるやうな場合、言語はかうした虚勢を張らないだらうとも考へられます」という三好達治の批判はよく知られている。『氷島』をどう読むかという問題は、しかしいまなお未解決の印象があり、さらに追求される必要があると思われる。上の記述から、当時の朔太郎がどのような時間を生きていたか、その一端を窺うことはできるが、もとより、それだけで『氷島』を語ることはできない。「僕は退却を自辱しながら、文語体漢語調を選ぶほかに道がなかつた」と朔太郎は云うが、そこには思索する詩人、萩原朔太郎がいたということについてさらに考えていきたいと思う。『氷島』の巻頭に置かれた「漂泊者の歌」は、詩人の「詩篇小解」によれば、「断崖に沿ふて、陸橋の下を歩み行く人。そは我が永遠の姿。寂しき漂泊者の影なり。巻頭に掲げて序詩となす」とある。 
春の実体
かずかぎりもしれぬ虫けらの卵にて、春がみつちりとふくれてしまつた、
げにげに眺めみわたせば、どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
桜のはなをみてあれば、桜のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、
やなぎの枝にも、もちろんなり、たとへば蛾蝶〔がてふ〕のごときものさへ、
そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
ああ、瞳〔め〕にもみえざる、このかすかな卵のかたちは楕円形にして、
それがいたるところに押しあひへしあひ、空気中いつぱいにひろがり、
ふくらみきつたごむまりのやうに固くなつてゐるのだ、よくよく指のさきでつついてみたまへ、
春といふものの実体がおよそこのへんにある。
大正4年(1915年)、室生犀星、萩原朔太郎、山村暮鳥の三人によってつくられた人魚詩社から「卓上噴水」が創刊されたが、これは三号で終わる。その後、大正6年に犀星、朔太郎によって「感情」が創刊されるが、そこに暮鳥の名前はなかった(暮鳥は「準同人」として4号から14号まで参加)。犀星、朔太郎、暮鳥、この三者の関係は複雑であったと想像される。上記の「春の実体」は「卓上噴水」第三集(大正4年5月)に発表されて、『月に吠える』に収められたもの。暮鳥の「風景」は同年6月に発表されたものだが、同じ春でも、ふたりはずいぶんと違ったものを見ていたようだ。

海を越えて、人々は向うに「ある」ことを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。しかしながら海は、一の広茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、単調で飽きつぽい景色を見る。
海の印象から、人々は早い疲労を感じてしまふ。浪が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向の砂丘に寝ころびながら、海を見てゐる心の隅に、ある空漠たる、不満の苛だたしさを感じてくる。
海は、人生の疲労を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切断から、限りなく単調になり、想像の棲むべき山影を消してしまふ。海には空想のひだがなく、見渡す限り、平板で、白昼〔まひる〕の太陽が及ぶ限り、その「現実」を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味気がない。しかしながら物憂き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。
海を越えて、人々は向うにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれども、ああ! もし海に来て見れば、海は我々の疲労を反映する。過去の長き、厭〔いと〕はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人々はげつそりとし、ものうくなり、空虚なさびしい心を感じて、磯草の枯れる砂山の上にくづれてしまふ。
人々は熱情から――恋や、旅情や、ローマンスから――しばしば海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人々の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬。そして夕方の疲労から、にはかに老衰しながらかへつて行く。
海の巨大な平面が、かく人の観念を正誤する。
萩原朔太郎の各詩集には、いずれも「自序」が付されている。そのどれを読んでも、詩について徹底的に思索されたことが了解される。そして、そのいずれもが古びていない。『宿命』の「序」として書かれた「散文詩について」という文章も捨てがたい。「散文詩」とはなにか、いまだによくわからないのだが、朔太郎の「散文詩」は、「散文詩」とはなんなのか、そして、詩を読むことのなんたるかを教えてくれるようである。上記の詩は大正15年に発表されたもの。朔太郎41歳。この年あたりから、あの『氷島』詩篇が書き始められたようだ。 
ありあけ
ながい疾患のいたみから、その顔はくもの巣だらけとなり、
腰からしたは影のやうに消えてしまひ、腰からうへには藪〔やぶ〕が生え、
手が腐れ 身体〔しんたい〕いちめんがじつにめちやくちやなり、
ああ、けふも月が出で、そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、
畸形〔きけい〕の白犬が吠えてゐる。
しののめちかく、さみしい道路の方で吠える犬だよ。 
荒寥地方
散歩者のうろうろと歩いてゐる
十八世紀頃の物さびしい裏街の通りがあるではないか
青や緑や赤やの旗がびらびらして
むかしの出窓に鉄葉〔ぶりき〕の帽子が飾つてある。
どうしてこんな情感のふかい市街があるのだらう
日時計の時刻はとまり
どこに買物をする店や市場もありはしない。
古い砲弾の砕片〔かけ〕などが掘り出されて
それが要塞区域の砂の中でまつくろに錆びついてゐたではないか
どうすれば好いのか知らない
かうして人間どもの生活する 荒寥の地方ばかりを歩いてゐよう。
年をとつた婦人のすがたは
家鴨〔あひる〕や鶏〔にはとり〕によく似てゐて
網膜の映るところに真紅の布〔きれ〕がひらひらする。
なんたるかなしげな黄昏〔たそがれ〕だらう
象のやうなものが群がつてゐて
郵便局の前をあちこちと彷徨〔はうくわう〕してゐる。
「ああどこに 私の音づれの手紙を書かう!」
朔太郎には、犀星と過ごした青春の日々をうたう「東京遊行詩篇」というものがある。そのひとつ、「狼」という詩に現われる、「きけ浅草寺〔せんそうじ〕の鐘いんいんと鳴りやまず」という詩句と、先週取り上げた犀星の詩句「ただ聞け上野寛永寺の鐘のひびきも」との照応などには興味深いものがある。それに対して、いわゆる「青猫以後」に登場する諸詩篇は、形而上的彷徨詩篇とも名づけたくなるものだ。朔太郎は、荒寥地方を、沿海地方を、沼沢地方を……この地上のどこにもない「地方」を、ただ彷徨する。その途次、いきなり「仏陀」が現われたりもする。これらの諸詩篇を筆者は深く愛する。これらの一篇一篇の詩が、はたして、よい詩であるのかどうか、自分でも判断を保留するところがないわけではないが、一方で、これらの詩篇はそんな次元をはるかに超えていることを知らされるのである。朔太郎がたどりついた「荒野の涯〔はて〕」に立ち、ここからさらに遠く往く途を夢想するばかりである。 
黒い風琴
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ
あなたは黒い着物をきて おるがんの前に坐りなさい
あなたの指はおるがんを這ふのです
かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。
だれがそこで唱つてゐるの だれがそこでしんみりと聴いてゐるの
ああこのまつ黒な憂鬱の闇のなかで
べつたりと壁にすひついて おそろしい巨大の風琴を弾くのはだれですか
宗教のはげしい感情 そのふるへ けいれんするぱいぷおるがん れくれえむ!
お祈りなさい 病気のひとよ おそろしいことはない おそろしい時間はないのです
お弾きなさい おるがんを やさしく とうえんに しめやかに
大雪のふりつむときの松葉のやうに あかるい光彩をなげかけてお弾きなさい
お弾きなさい おるがんを おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。
ああ まつくろのながい着物をきて しぜんに感情のしづまるまで
あなたはおほきな黒い風琴をお弾きなさい 
おそろしい暗闇の壁の中で あなたは熱心に身をなげかける
あなた! ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ。
これは驚嘆すべき詩である。詩が音楽そのものと化している。いや、音楽が詩と化したのか。「まつ黒な憂鬱の闇のなかで」「ふるへ」「けいれん」しながら、やがて「身をなげかける」無のエクスタシーへと到る「感情」の動きは詩そのものであり、音楽そのものである。とりわけ第二連終わりの二行の完璧にはことばもない。
艶めかしい墓場
風は柳をふいてゐます どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。
なめくぢは垣根を這ひあがり みはらしの方から生〔なま〕あつたかい潮みづがにほつてくる。
どうして貴女〔あなた〕はここに来たの やさしい 青ざめた 草のやうにふしぎな影よ
貴女は貝でもない 雉〔きじ〕でもない 猫でもない さうしてさびしげなる亡霊よ
貴女のさまよふからだの影から まづしい漁村の裏通りで 魚のくさつた臭ひがする
その腸〔はらわた〕は日に日にとけてどろどろ生臭く かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。
ああ この春夜のやうになまぬるく べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ
妹のやうにやさしいひとよ それは墓場の月でもない 燐〔りん〕でもない 影でもない 真理でもない
さうしてただなんといふ悲しさだらう。
かうして私の生命〔いのち〕や肉体〔からだ〕はくさつてゆき 「虚無」のおぼろげな景色のかげで
艶〔なま〕めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。
あの「虚無の鴉」をはじめとして、朔太郎の「虚無」ということばに惹かれる。ここでも、「貝でもない 雉でもない 猫でもない」「墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 真理でもない」(この否定のリズムはジョン・レノンのGODを思い出せる)、そして「ただなんといふ悲しさだらう」と、虚無が言表される。『月に吠える』の感覚的世界から『青猫』の超感覚的世界へのうつりゆきは、詩とはなにかと考える者を眠らせない。 
怠惰の暦
いくつかの季節はすぎ もう憂鬱の桜も白つぽく腐れてしまつた
馬車はごろごろと遠くをはしり 海も 田舎も ひつそりとした空気の中に眠つてゐる
なんといふ怠惰な日だらう 運命はあとからあとからとかげつてゆき
さびしい病鬱は柳の葉かげにけむつてゐる もう暦もない 記憶もない
わたしは燕のやうに巣立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔(かけ)つてゆかう。
むかしの恋よ 愛する猫よ わたしはひとつの歌を知つてる
さうして遠い海草の焚(や)けてる空から 爛(ただ)れるやうな接吻(きす)を投げよう
ああ このかなしい情熱の外(ほか) どんな言葉も知りはしない。
早、九月となってしまった。このところ、毎日のように、雨が降り、雷が鳴っている。朔太郎の詩を読んでいると、ひとつひとつのことばが独特の濃密さをもって迫ってくる。怠惰、憂鬱 病鬱、むかし、爛れる、かなしい、情熱……。 
笛の音のする里へ行かうよ
俥〔くるま〕に乗つてはしつて行くとき 野も 山も ばうばうとして霞んでみえる
柳は風にふきながされ 燕も 歌も ひよ鳥も かすみの中に消えさる
ああ 俥のはしる轍〔わだち〕を透して ふしぎな ばうばくたる景色を行手にみる
その風光は遠くひらいて さびしく憂鬱な笛の音を吹き鳴らす
ひとのしのびて耐へがたい情緒である。
このへんてこなる方角をさして行け 春の朧〔おぼろ〕げなる柳のかげで 
歌も燕もふきながされ わたしの俥やさんはいつしんですよ。
珈琲店 酔月
坂を登らんとして渇きに耐えず 蹌踉として酔月の扉(どあ)を開けば
狼藉たる店の中より 破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電気の影に 貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!  我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤独なり  いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を囲み 我れの酔態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ 残りなく銭(ぜに)を数へて盗み去れり。
「小説家の俳句 俳人としての芥川龍之介と室生犀星」
芥川龍之介氏とは、生前よく俳句の話をし、時には意見の相違から、激論に及んだことさへもある。それに氏には「余が俳句観」と題するエツセイもある程なので、さだめし作品が多量にあることだと思ひ、いつかまとめて読んだ上、俳人芥川龍之介論を書かうと楽しみにしてゐた。然るに今度全集をよみ、意外にその寡作なのに驚いた。全集に網羅されてる俳句は、日記旅行記等に挿入されているものを合計して、僅かにやつと八十句位しかない。これではどうにも評論の仕方がない。しかしこの少数の作品を通じて、大体の趣味、傾向、句風等、及び俳句に対する氏の主観態度が、朧げながらも解らないことはない。
前にも他の小説家の俳句を評する時に言つた事だが、一体に小説家の詩や俳句には、アマチユアとしてのヂレツタンチズムが濃厚である。彼等は皆、その中では真剣になつて人生と取組み合ひ全力を出しきつて文学と四つ角力をとつてるのに、詩や俳句を作る時は、乙に気取つた他所行きの風流気を出し、小手先の遊び芸として、綺麗事に戯むれてゐるといふ感じがする。室生犀星氏がいつか或る随筆で書いてゐたが、仕事の終つた後で、きれいに机を片づけ、硯に墨をすりながら静かに句想を練る気持は、何とも言へない楽しみだと。つまりかうした作家たちが、詩や俳句を作るのは、飽食の後で一杯の紅茶をのんだり、或は労作の汗を流し、一日の仕事を終つた後で、浴衣がけに着換へて麻雀でもする気持なのだ。したがつて彼等の俳句には、芭蕉や蕪村の専門俳人に見る如き、真の打ち込んだ文学的格闘がなく、作品の根柢に於けるヒユーマニズムの詩精神が殆んどない。言はばこれ等の人々の俳句は、多く皆「文人の余技」と言ふだけの価値に過ぎず、単に趣味性の好事としか見られないのである。
芥川龍之介は一代の才人であり、琴棋書画のあらゆる文人芸に達した能士であつたが、その俳句は、やはり多分にもれず文人芸の上乗のものにしか過ぎなかつた。僕は氏の晩年の小説(歯車、西方の人、河童等)を日本文学中で第一位の高級作品と認めてゐるが、その俳句に至つては、彼の他の文学であるアフオリズム(侏儒の言葉)と共に、友情の割引を以てしても讃辞できない。むしろこの二つの文学は、彼のあらゆる作品的欠点を無恥に曝露したものだと思ふ。即ち「侏儒の言葉」は、江戸ツ子的浮薄な皮肉とイロニイとで、人生を単に機智的に揶揄したもので、パスカルやニイチエのアフオリズムに見る如き、真の打ち込んだ人生熱情や生活体感が何処にもない。「侏儒の言葉」は、言はば頭脳の機智だけで――しかも機智を誇るために――書いた文学で才人としての彼の病所と欠点とを、露骨に出したやうな文学であつたが、同じやうにまた彼の俳句も、その末梢神経的の凝り性と趣味性とを、文学的ヂレツタンチズムの衒気で露出したやうなものであつた。その代表的な例として二三の作品をあげてみよう。
   蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな
   暖かや蕊に臘ぬる造り花
   臘梅や雪うち透かす枝のたけ
「蝶の舌」の句は、ゼンマイに似ているといふ目付け所が山であり、比喩の奇警にして観察の細かいところに作者の味噌があるのだらうが、結果はそれだけの機智であつて、本質的に何の俳味も詩情もない、単なる才気だけの作品である。次の二つの句もやはり同じやうに観察の細かさと技巧の凝り性を衒つた句で、末梢神経的な先鋭さはあるとしても、ポエヂイとしての真実な本質性がなく、やはり頭脳と才気と工夫だけで造花的に作つた句である。彼は芭蕉の俳句中で
   ひらひらと上る扇や雲の峯
を第一等の名作として推賞してゐたが、上例の如き自作の句を観照すると、芥川氏の芭蕉観がどのやうなものであつたかが、およそ想像がつくであらう。つまり彼は、芭蕉をその末梢的技巧方面に於て、本質のポエヂイ以上に買つてゐたのである。
いつか前に他の論文で書いたことだが、芥川龍之介の悲劇は、彼が自ら「詩人」たることをイデーしながら、結局気質的に詩人たり得なかつたことの宿命にあつた。彼は俳句の外に、いくつかの抒情詩と数十首の短歌をも作つてゐるが、それらの詩文学の殆んど全部が、上例の俳句と同じく、造花的の美術品で、真の詩がエスプリすべき生活的情感の生々しい熱意を欠いてる。つまり言へば彼の詩文学は、生活がなくて趣味だけがあり、感情がなくて才気だけがあり、ポエヂイがなくて知性だけがあるやうな文学なのだ。そしてかかる文学的性格者は、本質的に詩人たることが不可能である。詩人的性格とは、常に「燃焼する」ところのものであり、高度の文化的教養の中にあつても、本質には自然人的な野生や素朴をもつものなのに、芥川氏の性格中には、その燃焼性や素朴性が殆んど全くなかつたからだ。そこで彼が自ら「詩人」と称したことは、知性人のインテリゼンスに於てのみ、詩人の高邁な幻影を見たからだつた。それは必ずしも彼の錯覚ではなかつた。だがそれにもかかはらず、彼の宿命的な悲劇であつた。
室生犀星氏は、性格的にも、芥川氏の対照に立つ文学者である。彼は知性の人でなくして感性の人であり、江戸ツ子的神経の都会人でなくして、粗野に逞しい精神をもつた自然人であり、不断に燃焼するパツシヨンによつて、主観の強い意志に生きてる行動人である。そこで室生犀星氏は、生れながらに天稟の詩人として出発した。しかし後に小説家となり、その方の創作に専念するやうになつてからは、彼のポエヂイの主生命が、悉く皆散文の形式の中に盛り込まれて、次第に詩文学から遠ざかるやうになつてしまつた。彼は今でも、時に尚思ひ出したやうに詩を書いてる。しかし彼が自ら言ふ通り、今の彼が詩を書く気持は、昔のやうに張り切つたものではなくつて、飽食の後に一杯の紅茶をすすり、労作の後に机を浄めて、心の余裕を楽しむ閑文学の風雅にすぎない。そしてこの詩作の態度は、彼の他の詩文学であるところの、俳句の場合に於ても同様である。即ち他の多くの小説家の例にひとしく、彼の俳句もまた「文人の余技」である。
しかしながら彼の場合は、芥川氏等の場合とちがつて、余技が単なる余技に止まらず、余技そのものの中に往々彼の作物を躍如とさせ、生きた詩人の肉体を感じさせるものがある。すべて人はその第一義的な仕事に於て、思想と情熱の全意力を傾注し、第二義的な仕事即ち余技に於ては、単に趣味性のみを抽象的に遊離して享楽する。室生氏の場合も亦これと同じく、彼の句作の態度には、趣味性の遊離した享楽(ヂレツタンチズム)が多分にある。だがそれにも拘らず、彼はその趣味性の享楽を生活化し、ヂレツタンチズムを肉体化することによつて、不思議な個性的芸術を創造するところの、日本茶道精神の奥義を知つてる。例へば彼が陶器骨董を愛玩する時、その趣味性の道楽が直ちに彼の文学となり、陶器骨董の触覚や嗅覚がそれ自ら彼の生きた肉体感覚となるのである。そして彼が石を集め、苔を植ゑて庭を造り楽しむ時、しばしばその自己流の道楽芸が専門の庭園師を嘆息させるほど、真にユニイクな芸術創作となるのである。
そこで彼の俳句を見よう。
   凧のかげ夕方かけて読書かな
   夕立やかみなり走る隣ぐに
   沓かけや秋日にのびる馬の顔
   鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな
   秋ふかき時計きざめり草の庵
   石垣に冬すみれ匂ひ別れけり
彼の俳句の風貌は、彼の人物と同じく粗剛で、田舎の手織木綿のやうに、極めて手触りがあらくゴツゴツしてゐる。彼の句には、芭蕉のやうな幽玄な哲学や寂しをりもなく、蕪村のやうな絵画的印象のリリシズムもなく、勿論また其角、嵐雪のやうな伊達や洒落ツ気もない。しかしそれでゐて何か或る頑丈な逞しい姿勢の影に、微かな虫声に似た優しいセンチメントを感じさせる。そして「粗野で逞しいポーズ」と、そのポーズの背後に潜んでゐる「優しくいぢらしいセンチメント」とは、彼のあらゆる小説と詩文学とに本質してゐるものなのである。
俳人としての室生犀星は、要するに素人庭園師としての室生犀星に外ならない。そしてこのアマチユアの道楽芸が、それ自らまた彼の人物的風貌の表象であり、併せて文学的エスプリの本質なのだ。故にこれを結論すれば、彼の俳句はその造庭術や生活様式と同じく、ヂレツタントの風流であつて、然も「人生そのもの」の実体的表現なのだ。彼がかつて風流論を書き、風流生活、風流即芸術の茶道精神を唱導した所以も此処にあるし、句作を余技と認めながら、しかも余技に非ずと主張する二律反則の自己矛盾も、これによつて疑問なしに諒解できる。 
 
宮沢賢治

 

停留所にてスヰトンを喫す
わざわざここまで追ひかけて せっかく君がもって来てくれた
帆立貝入りのスヰトンではあるが どうもぼくにはかなりな熱があるらしく
この玻璃製の停留所も なんだか雲のなかのよう
そこでやっぱり雲でもたべてゐるやうなのだ この田所の人たちが
苗代の前や田植の後や からだをいためる仕事のときに
薬にたべる種類のもの きみのおっかさんが
除草と桑の仕事のなかで 幾日も前から心掛けて拵へた
雲の形の膠朧体(かうろうたい) それを両手に載せながら
ぼくはただもう青くくらく かうもはかなくふるへてゐる
きみはぼくの隣に座って ぼくがかうしてゐる間
じっと電車の発着表を仰いでゐる あの組合の倉庫のうしろ
川岸の栗や楊(やなぎ)も 雲があんまりひかるので
ほとんど黒く見えてゐるし いままた稲を一株もって
その入口に来た人は たしかこの前金矢(かなや)の方でもいっしょになった
きみのいとこにあたる人かと思ふのだが その顔も手もただ黒く見え
向ふもわらってゐる ぼくもたしかにわらってゐるけれども
どうも何だかじぶんのことではないやうなのだ ああ友だちよ
空の雲がたべきれないやうに きみの好意もたべきれない
ぼくははっきりまなこをひらき その稲を見てはっきりと云ひ
あとは電車が来る間 しづかにここに倒れよう
ぼくたちの 何人も何人もの先輩がみんなしたやうに
しづかにここへ倒れて待たう
宮沢賢治が異数の人であることは、いうを俟たないであろう。「ほんたうの」宮沢賢治はつかまえられたのだろうか。その遠さを考える。いまの関心にひきつけるならば、宮沢賢治は菩薩の道と文学の道との弁証をいかに生きたのかということについて考えるのだが、残された「詩」は黙して、そこにあるばかりだ。 
屈折率
七つ森のこつちのひとつが 水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ 向ふの縮れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便脚夫のやうに
(またアラツデイン 洋燈とり)
急がなければならないのか
雲の信号
あゝいゝな せいせいするな 風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし 山はぼんやり
岩頸(がんけい)だつて岩鐘(がんしよう)だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
そのとき雲の信号は もう青白い春の
禁欲のそら高く掲げられてゐた 山はぼんやり
きつと四本杉には 今夜は雁もおりてくる
林と思想
そら ね ごらん むかふに霧にぬれてゐる
蕈(きのこ)のかたちのちひさな林があるだらう
あすこのとこへ わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな 溶け込んでゐるのだよ
こゝいらはふきの花でいつぱいだ
宮沢賢治は、いつも散歩していた――というか、気がつくと、まず歩いている人だったと思う。「雲はたよりないカルボン酸」などということば、歩いていなければ生まれてこないだろう。そしてまた、宮沢賢治は、いつも自然と交歓していた――というか、草木や禽獣虫魚の声を聞くことができる人だったと思う。さればこそ、と得心できる詩句はいくらでも見出せる。散歩する賢治には雑念がなかった。いや、この云い方は正しくない。雑念はありすぎたが(「おれはひとりの修羅なのだ」)、歩いていると、自然と交歓していると、雑念は消えていくのだった(「(このからだそらのみぢんにちらばれ)」)。上記の詩なども、散歩の折に書き留められたものだろうか。賢治は誰と話しているのだろう。 
烏百態
雪のたんぼのあぜみちを ぞろぞろあるく烏なり 
雪のたんぼに身を折りて 二声鳴けるからすなり
雪のたんぼに首を垂れ 雪をついばむ烏なり
雪のたんぼに首をあげ あたり見まはす烏なり
雪のたんぼの雪の上 よちよちあるくからすなり
雪のたんぼを行きつくし 雪をついばむからすなり
たんぼの雪の高みにて 口をひらきしからすなり
たんぼの雪にくちばしを じっとうづめしからすなり
雪のたんぼのかれ畦に ぴょんと飛びたるからすなり
雪のたんぼをかぢとりて ゆるやかに飛ぶからすなり
雪のたんぼをつぎつぎに 西へ飛びたつ烏なり
雪のたんぼに残されて 脚をひらきしからすなり
西にとび行くからすらは あたかもごまのごとくなり
くらかけ山の雪
たよりになるのは くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも ぽしやぽしやしたり黝〔くす〕んだりして
すこしもあてにならないので まことにあんな酵母〔かうぼ〕のふうの
朧〔おぼ〕ろなふぶきではありますが ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかりです
初版本では末尾部分は下記のとおりである(初版本でのタイトルは「くらかけの雪」)。
ほんたうにそんな酵母のふうの 朧ろなふぶきですけれども
ほのかなのぞみを送るのは、くらかけ山の雪ばかり (ひとつの古風な信仰です)
さらに、次のような詩稿が手帳に書き留められていたことも忘れないでおきたい。
くらかけ山の雪
友一人なく たゞわがほのかにうちのぞみ かすかなのぞみを托するものは
麻を着 けらをまとひ 汗にまみれた村人たちや
全くも見知らぬ人の その人たちに たまゆらひらめく
春と修羅
心象のはひいろはがねから あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地 いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路をかぎり れいらうの天の海には
聖玻璃の風が行き交ひ ZYPRESSEN春のいちれつ
くろぐろと光素を吸ひ その暗い脚並からは
天山の雪の稜さへひかるのに (かげらふの波と白い偏光)
まことのことばはうしなはれ 雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ (玉髄の雲がながれて どこで啼くその春の鳥)
日輪青くかげろへば 修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から 黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり すべて二重の風景を
喪神の森の梢から ひらめいてとびたつからす 
(気層いよいよすみわたり ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫 ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに (かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSENしづかにゆすれ 鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく 修羅のなみだはつちにふる)
あたらしくそらに息つけば ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ) いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSENいよいよ黒く 雲の火ばなは降りそそぐ  
無声慟哭
こんなにみんなにみまもられながら おまへはまだここでくるしまなければならないか
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか 信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ (おら おかないふうしてらべ)
何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
またわたくしのどんなちひさな表情も
けつして見遁さないやうにしながら おまへはけなげに母に訊くのだ
(うんにや ずゐぶん立派だぢやい けふはほんとに立派だぢやい)
ほんたうにさうだ 髪だつていつそうくろいし
まるでこどもの苹果〔りんご〕の頬だ どうかきれいな頬をして
あたらしく天にうまれてくれ (それでもからだくさえがべ?)(うんにや いつかう)
ほんたうにそんなことはない 
かへつてここはなつののはらの ちひさな白い花の匂でいつぱいだから
ただわたくしはそれをいま言へないのだ (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに かなしく眼をそらしてはいけない
 
高村光太郎

 

荒涼たる帰宅
あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ 智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に 私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風〔びやうぶ〕をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして  そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
高村光太郎(1883/明治16年—1956/昭和31年)の『智恵子抄』は1941年8月に出版された。当時の光太郎を年譜で振り返ると、次のとおりである。1934年、父・光雲没。1938年、智恵子没。1940年、中央協力会議議員となる。1941年12月、太平洋戦争。1942年、日本文学報国会発足、詩部会会長となる。ところで、上の「荒涼たる帰宅」が書かれたのは1941年6月。『智恵子抄』がどのような経緯で一冊の詩集としてまとめられたのか、その詳細を知らないが、この詩が書かれた2ヵ月後に『智恵子抄』が出版されていること、これ以後、智恵子の詩が書かれることはなかったことなどを考えると、この頃に光太郎は大きな転機を迎えていたことが想像される。そして同年12月、「天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。」。智恵子の死後3年を経て書かれたこの詩は『智恵子抄』のなかでも佳作に属すると思う。「誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる」(と書いた)光太郎を去来したものはなんであったろう。 
寂寥
赤き辞典に 葬列の歩調あり
火の気なき暖炉〈ストオヴ〉は 鉱山〈かなやま〉にひびく杜鵑〈とけん〉の声に耳かたむけ
力士小野川の嗟嘆は よごれたる絨毯の花模様にひそめり
何者か来り 窓のすり硝子〈ガラス〉に、ひたひたと
燐をそそぐ、ひたひたと―― 黄昏〈たそがれ〉はこの時赤きインキを過〈あやま〉ち流せり
何処〈いづこ〉にか走らざるべからず 走るべき処なし
何事か為〈な〉さざるべからず 為すべき事なし
坐するに堪へず 脅迫は大地に満てり
いつしか我は白のフランネルに身を捲〈ま〉き 蒸風呂より出でたる困憊を心にいだいて
しきりに電磁学の原理を夢む 朱肉は塵埃〈ぢんあい〉に白けて
今日の仏滅の黒星を嗤〈わら〉ひ 晴雨計は今大擾乱を起しつ
月は重量を失ひて海に浮べり
鶴香水は封筒に黙し 何処よりともなく、折檻に泣く
お酌の悲鳴聞こゆ
ああ、走る可き道を教へよ 為すべき事を知らしめよ
氷河の底は火の如くに痛し 痛し、痛し
木下杢太郎の「食後の歌」の諸詩篇と高村光太郎の「食後の酒」とを読みくらべると、同じく「パンの会」に出入りしたものの、両者の間には歴然とした違いがあることが了解される。杢太郎が趣味的に傾斜していくのに対して、光太郎は「あらゆるものに対する現状憎悪から来るデカダン性と、その又デカダン性に対する懐疑と、斯かる泥沼から脱却しようとする焦燥とでめちゃめちゃになっていた」。上の詩には、その当時の焦燥がよく現われているが、それよりもむしろ、「力士小野川の嗟嘆は/よごれたる絨毯の花模様にひそめり」とか、「鶴香水は封筒に黙し/何処よりともなく、折檻に泣く/お酌の悲鳴聞こゆ」とかの措辞に現われる光太郎の内面、そのよってきたるところを興味深く思う。 
苛察
大鷲が首をさかしまにして空を見る。
空には飛びちる木の葉も無い。
おれは金網をぢやりんと叩く。
身ぶるひ――さうして 大鷲のくそまじめな巨大な眼が 槍のやうにびゆうと来る。
角毛(つのげ)を立てて俺の眼を見つめるその両眼を、俺が又小半時じつと見つめてゐたのは、冬のまひるの人知れぬ心の痛さがさせた業(わざ)だ。
鷲よ、ごめんよと俺は言つた。
この世では、見る事が苦しいのだ。
見える事が無残なのだ。
観破するのが危険なのだ。
俺達の孤独が凡そ何処から来るのだか、この冷たい石のてすりなら、
それともあの底の底まで突き抜けた青い空なら知つてゐるだらう。
詩とはなにか? 詩人とはなにか?と考えたとき、吉本隆明の『高村光太郎』をあらためて読んでみようと思った。吉本氏は容赦なく光太郎を剔抉する。その強度が、詩のなんたるか、詩人のなんたるかを浮かび上がらせる。そして、全詩篇(全集)にあたらない限り、この詩人の全貌はつかめないことを思い知らされる。
「自分と詩との関係」
私は何を措おいても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の彫刻がたとい善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。
ところでその彫刻家が詩を書く。それにどういう意味があるか。以前よく、先輩は私に詩を書くのは止せといった。そういう余技にとられる時間と精力とがあるなら、それだけ彫刻にいそしんで、早く彫刻の第一流になれという風に忠告してくれた。それにも拘かかわらず、私は詩を書く事を止めずに居る。
なぜかといえば、私は自分の彫刻を護るために詩を書いているのだからである。自分の彫刻を純粋であらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑きょうざつして来るのを防ぐため、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである。私には多分に彫刻の範囲を逸した表現上の欲望が内在していて、これを如何とも為がたい。その欲望を殺すわけにはゆかない性来を有もっていて、そのために学生時代から随分悩まされた。若し私が此の胸中の氤氳いんうんを言葉によって吐き出す事をしなかったら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢い、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。私は既に学生時代にそういう彫刻をいろいろ作った。たとえば、サーカスの子供の悲劇を主題として群像を作った事がある。これは早朝に浅草の花屋敷へ虎の写生に通っていた頃、或るサーカス団の猛訓練を目撃して、その子供達に対する正義の念から構図を作ったのである。泣いている少女とそれを庇かばっている少年との群像であった。又たとえば、着物が吊されてある大きな浮彫を作った事がある。その着物に籠こもる妖あやしい鬼気といったようなものを取扱ったのであるが、これも多分に鏡花式の文学分子を含んでいた。又美術学校の卒業製作には、還俗げんぞくせんとする僧侶を作った。今思うと随分滑稽こっけいな主題と構想とであって、経巻を破棄して立ち上り、甚だ俄芝居にわかしばいじみた姿態が与えられてあった。こういう風に私はどうしても彫刻で何かを語らずには居られなかったのである。この愚劣な彫刻の病気に気づいた私は、その頃ついに短歌を書く事によって自分の彫刻を護ろうと思うに至った。その延長が今日の私の詩である。それ故、私の短歌も詩も、叙景や、客観描写のものは甚だ少く、多くは直接法の主観的言志の形をとっている。客観描写の欲望は彫刻の製作によって満たされているのである。こういうわけで私の詩は自分では自分にとっての一つの安全弁であると思っている。これが無ければ私の胸中の氤氳は爆発に到るに違いないのであり、従って、自分の彫刻がどのように毒されるか分らないからである。余技などというものではない。
ところで彫刻とは一つの世界観であって、この世を彫刻的に把握するところから彫刻は始まるのである。私の赴くところ随所皆彫刻である。私の詩が本来彫刻的である事は已やむを得ない結果である。彫刻の性質が詩を支配するのである。私が彫刻家でありながら彫刻の詩が少いのを怪んだ人が曾かつてあったが、これは極めて表面的な鑑識であって、直接彫刻を主題として書いた詩ばかりが彫刻に因縁を持つのではない。詩の形成に於ける心理的、生理的の要素にそれが含まれているのである。だから多くの詩人の詩の形成の為方しかたと、私自身の詩の形成の為方とには何かしら喰いちがったものがあるように思われる。それは是非もない。
詩の世界は宏大こうだいであって、あらゆる分野を抱摂する。詩はどんな矛盾をも容れ、どんな相剋そうこくをも包む。生きている人間の胸中から真に迸ほとばしり出る言葉が詩になり得ない事はない。記紀の歌謡の成り立ちがそれを示す。しかし言葉に感覚を持ち得ないものはそれを表現出来ず、表現しても自己内心の真の詩とは別種の詩でないものが出来てしまうという事はある。それ故、詩はともかく言葉に或る生得の感じを持っている者によって形を与えられるのであって、それが言葉に或る生得の感じを持っていない者の胸中へまでも入り込むのである。ああそうだと人々が思うのである。それが詩の発足で、それから詩は無限に分化進展する。私自身のこの一種の詩の分野も、詩の世界は必ず之を抱摂して詩そのものの腐葉土とするに違いないと信じている。
私の彫刻がほんとに物になるのは六十歳を越えてからの事であろう。私の詩が安全弁的役割から蝉脱せんだつして独立の生命を持つに至るかどうか、それは恐らくもっと後になってみなければ分らない事であろう。 
「啄木と賢治」
○岩手県というところは一般の人が考えている以上にすばらしい地方だということが、来て住んでみるとだんだんよく分ってきました。此の地方の人の性格は多く誠実で、何だか大きな山のような感じがします。為ることはのろいようですが、しかし確かです。天然の産物にも恵まれていて、今にこれがみんな世の中に利用されるようになったら、岩手県は日本の宝の蔵になるでしょう。
○人物にも時々たいへんすぐれた人が出ています。文芸方面でいえば、石川啄木、宮澤賢治などという詩人が出たことは、もう皆さんも知っていることでしょう。啄木の歌や、賢治の詩は学校の教科書にものっていたと思います。「雨ニモマケズ」という賢治の詩などは、思いがけぬほど多くの人に暗記されています。
○石川啄木は明治十八年に生れてたった二十七歳で死んだ詩人ですが、死んだ後になってますます世の中の人に其の詩や歌や小説を読まれ、終戦後にも時代の考え方に大きな力を与え、たいへん一般の人に好かれ、今では啄木を主人公にした映画がいくつも競争で作られるほどになりました。
○啄木は岩手県岩手郡の玉山村という小さな村に生れ、隣の渋民村の学校で勉強しました。少年の頃から大いに勉強して、十八歳頃から長い詩を書き、二十歳の時一冊の詩集を出した位ですが、それからの七年間東京に出たり、北海道へ行ったり、生活の為にずいぶん苦しみ通して、社会と個人生活との関係について深く考え、ついに世の中にさきがけて社会主義と自由思想との真理をつかみました。歌の多くはそういう思想から自然と出て来る切ないほどの思いに満たされていて、それをよむと誰でも、本当だなあ、と感ぜずにいられないほど身にしみる力を持っています。日本古来の不自由な和歌というものを啄木はまるで新らしい自由なものにしてしまいました。
   働けど働けどわが暮しらくにならざりじつと手を見る
   やはらかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
などという歌でも、よんでいるといつのまにか強く心が動かされてくるでしょう。
○もう一人の大詩人宮澤賢治は稗貫郡花巻町に明治二十九年に生れ、この人もたった三十八歳で死にましたが、その為しとげた仕事の立派さは驚くばかりです。此の詩人の詩や童話は実にたくさんあり、どれをよんでみても心が清められ、高められ、美しくされないものはありません。非常に宗教心にあつく、法華経ほけきょうを信仰して、まるで菩薩ぼさつさまのような生活をおくっていました。仏さまといってもいい程です。自分をすてて人の為に尽し、殊に貧しい農夫の為になる事を一所懸命に実際にやりました。詩人であるばかりでなく農業化学や地質学等の科学者でもあり、酸性土壌改良の炭酸カルシュームを掘り出したり、世の中にひろめたりしました。皆さんの知っている「雨ニモマケズ」の詩は病気でねている時に書いたのですが、今日でも多くの人に救と力とを与えています。「風の又三郎」を映画で見た事がありますか。あの童話も宮澤賢治の作ったものです。此詩人は全く世界的な大詩人といっていいでしょう。
○啄木といい、賢治といい、皆誠実な、うその無い、つきつめた性格の人でした。 
 
北原白秋

 

「雲母集」
・・・崖の上の歓語
大きなる匍ひ下り松の枝の上漣かがやき鳥ひとつゐる
海雀つらつらあたまそろへたり光り消えたり漣見れば
この憎き男たらしがつつじの花ゆすり動かしていつまで泣くぞ
深潭しんたんの崖の上なる紅躑躅あかつつじ二人ばつかり照らしけるかも
恐ろしき淵のまはりを海雀光り列つらなめ飛び居りあはれ
かき抱けば本望安堵の笑ひごゑ立てて目つぶるわが妻なれば
帰命頂礼この時遥か海雀光りめぐると誰か知らめや
帰命頂礼消えてまた照る海雀人は目をとぢ幽かにひらき
帰命頂礼誰し知らねば海雀耀きの輪をつくりまた消けつ 
小鳥
小鳥は飛ぶ、彼はその飛ぶことすらも 曾て悟らざるがごとし。
小鳥は飛ぶ、金色の光に飛ぶ。
小鳥はただ飛ぶ、形なき一線に飛ぶ。
さながら翼(はね)つけし独楽(こま)の とめてとまらぬその迅(はや)さ。
かぎりなき大海の上、ただひとつころがれる日輪の 朱紅(しゅべに)の円(まろ)さ。
小鳥は飛ぶ、一線にその面(めん)を横ぎる。
かなしくも突き抜けむとす。
小鳥はこの時まさしく小鳥の姿となる。
鳥が「形なき一線に」飛ぶ、その過渡が歌われていて、味わい深い。白秋自身、この時(大正9年頃)、その過渡を生きていたのだろう。 
「酒の黴」から
金の酒をつくるは かなしき父のおもひで、
するどき歌をつくるは その児の赤き哀歓。
  金の酒をつくるも、するどき歌をつくるも、
  よしや、また、わかき娘の 父〔てて〕知らぬ子供生むとも……
からしの花の実になる 春のすゑのさみしさや。
酒をしぼる男の 肌さへもひとしほ。
  酒袋〔さかぶくろ〕を干すとて ぺんぺん草をちらした。
  散らしてもよかろ、その実となるもせんなし。
櫨〔はじ〕の実採〔とり〕の来る日に 百舌〔もず〕啼き、人もなげきぬ。
酒をつくるは朝あけ、君へかよふは日のくれ。
  ところも日をも知らねど、ゆるししひとのいとしさ、
  その名もかほも知らねど、ただ知る酒のうつり香。
その酒の、その色の、にほひの 口あたりのつよさよ。
おのがつくるかなしみに 囚〔と〕られて泣くや、わかうど。
  酒を醸〔かも〕すはわかうど、心乱すもわかうど、
  誰とも知れぬ、女の その児の父もわかうど。
かなしきものは刺あり、傷つき易きこころの
しづかに泣けばよしなや、酒にも黴のにほひぬ。
  銀の釜に酒を湧かし、金の釜に酒を冷やす
  わかき日なれや、ほのかに 雪ふる、それも歎かじ。  
 
佐藤春夫

 

願ひ
大ざつぱで無意味で その場かぎりで しかし本当の
飛びきりに本当の唄をひとつ いつか書きたい。
神さまが雲をおつくりなされた気持が 今わかる。
おつかさんが あの時 うたつてきかせたあの
子守唄を そつくりそのまま思ひ出したい。
その唄は きけば おつかさんももう知らない どうもでたらめにうたつたらしい。
どうかして生涯にうたひたい 空気のやうな唄を一つ。
自由で目立たずに 人のあるかぎりあり いきなり肺腑にながれ込んで
無駄だけはすぐ吐き出せる さういふ唄をどうかして一つ……
秋刀魚の歌
あはれ 秋風よ 情〔こころ〕あらば伝へてよ
――男ありて 今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて 思ひにふける と。
さんま、さんま そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は
小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。
あはれ 秋風よ 汝〔なれ〕こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒〔まどゐ〕を。
いかに 秋風よ  いとせめて
証〔あかし〕せよ かの一ときの団欒ゆめに非〔あら〕ずと。
あはれ 秋風よ 情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と 父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
――男ありて 今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて 涙をながす と。
さんま、さんま さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ げにそは問はまほしくをかし。
「昭和詩」=「現代詩」への動きは大正10年頃から始まっていたと云える。それを、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』(大正12年)から始めようかと考えているのだけれども、その詩集に跋を書いたのは佐藤春夫である。その春夫の『我が一九二二年』が同年同月(2月)に出版されている。上記の「秋刀魚の歌」はこれに収められている。平戸廉吉により「日本未来派運動第一回宣言」(大正10年)が発表されるなど、新しい詩の動きが生まれつつあるなか、春夫の詩を読むと、それはいかにも古風な抒情詩という体をなしている。後に萩原朔太郎は「佐藤春夫は過去の人である」と云った。それに対して、春夫は「僕は僕のなかに生きてゐる感情が古風に統一された時に歌つてゐる。僕は夢遊病者としてdateの外へ行つて歌つてゐる」と答えたが、この超然性は春夫がかんたんには古い詩人に収まらないことを物語っている。この有名な「秋刀魚の歌」も、古風でセンチメンタルな抒情詩に終わっていないところに、勁いものを感じさせる。  
 
室生犀星

 

    「抒情小曲集」
「津の国人」
・・・燦さんとした黄金づくりのお顔のこまやかな刻み目にも、もはや古い埃ほこりがつやをつくって沈んでみえ、筒井は両のたなごころに据すえてしばらく、じっと拝するがごとく見恍みほれた。そんな敬虔けいけんな筒井の眼のつかい、手の敬々うやうやしい重ねようはこのみ仏をまもるには、筒井より外にその人がらがありそうも覚えなかった。彼は筒井の嬉うれしそうな様子に信頼する強いほとばしりをその眼のなかに見入った。
「よくは覚えぬが母が父のもとに見えたときにお持ちになったものらしい、母がよく埃をはらい御おんみがきをかけておられたことを覚えている。」
「母上様におことわりを申さなければなりませぬ。」
「そなたが肌身はだみ離さず持っていてくれることは、母上にもきっと御本望でござろう。」
「あまりに不束ふつつかにて恐れ入るばかりでございます。」
筒井は父母の位牌いはいの前に行き、額ぬかずいて永く頭をあげずに祷いのりの時をつづけた。それは親しいものの限りをつくした、見ていても、心に重みのくるような礼拝のよろこびをあらわしたものだった。・・・  
室生犀星氏
みやこのはてはかぎりなけれど わがゆくみちはいんいんたり
やつれてひたひあをかれど われはかの室生犀星なり
脳はくさりてときならぬ牡丹をつづり あしもとはさだかならねど
みやこの午前 すてつきをもて生けるとしはなく
ねむりぐすりのねざめより 眼のゆくあなた緑けぶりぬと
午前をうれしみ辿り  うつとりうつくしく
たとへばひとなみの生活をおくらむと なみかぜ荒きかなたを歩むなり
されどもすでにああ四月となり さくらしんじつに燃えれうらんたれど
れうらんの賑〔にぎは〕ひには交はらず 賑ひを怨〔ゑん〕ずることはなく唯うつとりと
すてつきをもて  つねにつねにただひとり
謹慎無二の坂の上 くだらむとするわれなり
ときにあしたより とほくみやこのはてをさまよひ
ただひとりうつとりと いき絶えむことを専念す
ああ四月となれど 桜を痛めまれなれどげにうすゆき降る
哀しみに深甚にして坐られず たちまちにしてかんげきす
室生犀星といえば、その詩よりも、『我が愛する詩人の伝記』をまず思う。はじめて読んだとき、その、ものを見る眼の鋭さ、見たものを的確に記述するその文体に唸らされたことをいまもよく覚えている。西脇順三郎が云うように、「この詩人の詩の大部分は人生詩である」。だが、「単にセンチメンタルな人生詩人と違つて、人生の新しい関係を発見しようとしている」ことは、『我が愛する詩人の伝記』を読んでも了解されるところである。犀星の詩で、とくに好きな一篇というものはない。上記の「室生犀星氏」は、犀星二十代の放浪時代の一篇であるが、犀星の自画像たりえている詩のように思われる。後に書かれた「切なき思ひぞ知る」などと併せて読むと、感慨にとらわれる。その、「我はつねに狭小なる人生に住めり、/その人生の荒涼の中に呻吟せり、/さればこそ張り詰めたる氷を愛す。」という詩句などは誰にでも書けるものではないだろう。犀星室生照道は、文学者である前に、ひとりの人間であった。 

坂かどにかかりしとき 坂の上にらんらんと日は落ちつつあり
円形のリズムはさかんなる廻転にうちつれ 樹は炎となる
つねにつねにカンヷスを破り つねにつねに悪酒に浸れるわが友は
わが熱したる身をかき抱き ともに夕陽のリズムに聴きとらんとはせり
しんに夕の麺麭〔パン〕をもとめんに もはや絶えてよしなければ
ただ総身はガラスのごとく透きとほり らんらんとして落ちむとする日のなかに
喜びいさみつつ踊る わが友よ
ただ聞け上野寛永寺の鐘のひびきも いんいんたる炎なり
立ちて為〔な〕すすべしなければ ただ踊りつつ涙ぐむ炎なり
おろかなる再生を思慕することはなく 君はブラッシュをもて踊れ
われまづしき詩篇に火を放ち 踊り狂ひて死にゆかむ
さらにみよ 坂の上に転ろびつつ日はしづむ
そのごとく踊りつつ転ろびつつ 坂を上らんとするにあらずや
『我が愛する詩人の伝記』 読みやすいとは云えない、ゴツゴツとした文体が、なぜかくも深い味わいを印象させるのか、不思議ではあるが、引き込まれるようにして、あっというまに数章を読んでしまう。山村暮鳥の章では、次のようなことばが書かれていた。「詩人は早く死んではならない、何が何でも生き抜いて書いていなければならないのだ、生きることは詩を毎日書くことと同じことなのだ」。上記の詩は、犀星の放浪時代(明治43年から大正6年頃まで)に書かれたもののひとつ。ちなみに、犀星が前橋に朔太郎を訪ねたのは大正3年の2月だった。「坂」という詩は二篇書かれていて、「この坂はのぼらざるべからず」と始まる詩のほうが好みに合うのだが、上記の詩に流れるデモーニッシュなリズムにも捨てがたいものがある。 
昨日いらしつて下さい
きのふ いらしつてください。きのふの今ごろいらしつてください。
そして昨日(きのふ)の顔にお逢ひください。わたくしは何時(いつ)も昨日の中にゐますから。
きのふのいまごろなら、あなたは何でもお出来になつた筈(はず)です。
けれども行停(ゆきどま)りになつたけふも あすもあさつても
あなたにはもう何も用意してはございません。
どうぞ、きのふに逆戻りしてください。きのふいらしつてください。
昨日へのみちはご存じの筈です、昨日の中でどうどう廻りなさいませ。
その突き当りに立つてゐらつしやい。
突き当りが開くまで立つてゐてください。
威張れるものなら威張つて立つてください。
最後の詩集『昨日いらしつて下さい』 に収められた詩篇を読んでいると、「詩は青春の文学」などという物言いが色褪せていくのを覚えずにはいられない。「学道の人、若し悟を得ても、今は至極と思ウて行道を罷ル事なかれ。道は無窮なり。さとりてもなほ行道すべし」とは、道元のことばであるが、犀星の最後の詩集を読んでいると、犀星が「さとりてもなほ行道」したことが知られるのである。
「交友録より」
萩原朔太郎 二十年の友。性格、趣味、生活、一つとして一致しないが、会へば談論風発して愉快である。それに僕といふ人間を丁寧に考へてゐて何時も新しい犀星論をしてくれるが、萩原自身からいふと室生はおれを分つてゐないといふ。どうもそれは本統らしい。萩原のことを小説に書いて叱られたこともなければ、ほめられたこともない、僕は書きすぎて一人の親友に済まぬ許してくれといふ気持でゐることがある。ところが彼の論文や感想のなかに僕らしい男が小酷こつぴどくやつつけられてゐて、僕はあれは僕らしいぞといふと当り前だよといふ。そこで僕はほつとする。――僕の家のこども達は萩原のことをはぎちやんをぢさんといふ。僕のこども達に刀や鉄砲を持たせたのは萩ちやんをぢさんが初めてである。
北原白秋 一年に一度くらゐしか会はないでゐても、会へばすぐらくに口説いたり笑つたり怒つてみたり出来る。そのくせ僕が大森に来てから三年になるが、一度も訪ねて来ない、僕も三年前に萩原と一緒に訪ねたきりまだ行かない、気取つてゐるので来ないのではなく、肥つてゐて出不精になるのだと思ふ。会ひにゆくと喜んでくれる。喜んでくれすぎるので行きにくい。僕もこの人にあふと嬉しい、先輩といふ城壁を僕は飛び越えて会へるからである。北原君と言つてわるい気がするが、さう呼ぶと僕は自分の生意気を愛する気持になれるからである。
百田宗治 僕は百田を永遠の中学生と言つて笑はれたが、勉強家で親切な男、若々しくて気がつく、そのくせ彼は必ず対手の所論をそのまま聞いてくれない、不意に反対する、反対しさうもないところに反対する男である。僕の五倍くらゐ新文学に理論を持つてゐる、だから百田のまはりには伊藤整や春山行夫や乾直恵や阪本越郎などといふ新作家が集まつてゐる。だから衣巻省三はいふのである。「百田さんは同人雑誌の名付親のやうなところがありますね」
佐藤惣之助 酒友にして詩友、一点の曇りもないやうであるが、あれで逞しさうに見えるが淋しいところのある人。言葉が豊富で複雑で才分はわかわかしい、随筆は天下一品。
竹村俊郎 僕のすぐ向ひに住んでゐて毎日会ふ。詩友にして酒友、多田不二、恩地孝四郎、萩原などと「感情」時代からの友人、稀代の我儘者、酒は静かな方、趣味一致す。
福士幸次郎 会ふと快活さうに振舞ふ。さうでない時も福士はさうする。酒は静かで時々意見をしてくれるが、こちらからせねばならぬ意見も聞かぬふうに聞いてゐる人、十五年来の友。
堀辰雄 自分で半分物を言ひ対手にあとを言はせるやうな、徳のある、好意をもたれる人。
窪川鶴次郎 何時かいね子さんの日記か何かによると、僕のところを出てから、好いをぢさんだなあと言つたさうだが、僕は同年輩の友人のつもりでゐるのに、彼は僕ををぢさんと思うてゐるらしいのである。直情の人。
中野重治 殆ど、中野は仕事の方面のことなどを話したことがない、話したつて僕のやうな人間にわからぬと思ふのであらう。平凡な茶話、少しも気障でない人。
下島勲 お医者さんであるが、風流道の先輩、子供らしく芸術家肌で、一本気で、書のうまい人、時々わからぬことがあると尋ねて見る。「そんなことをあなたは知らないか」といふ。
 
島崎藤村

 

    「夜明け前」
    「若菜集」「破戒」「千曲川のスケッチ」
「旧主人」
・・・ 「さ、も一つ召上りませんか」
「沢山」
「そう、そんなら私頂きましょう」
「え、召上るんですか。――然し、もう御廃およしなさいよ」
「何故、私が酔ってはいけませんの」
「貴方のは無理な御酒なんだから」
「それじゃ未だ私の心を真実ほんとうに御存ごぞんじないのですわ。私はこうして酔って死ねば、それが何よりの本望ですもの」
無理やりに葡萄酒の罎びんを握つかませて、男の手の上に御自分の手を持添えながら、茶呑茶椀へ注ごうとなさいました。御二人の手はぶるぶると戦ふるえて、酒は胡燵掛こたつがけの上に溢こぼれましたのです。奥様は目を閉つぶって一口に飲干して、御顔を胡燵おこたに押宛てたと思うと、忍び音に御泣きなさるのが絞るように悲しく聞えました。唐紙に身を寄せて聞いて見れば、私も胸が込上げて来る。男は奥様を抱くようにして、御耳へ口をよせて宥なだめ賺すかしますと、奥様の御声はその同情おもいやりで猶々なおなお底止とめどがないようでした。私はもう掻毟かきむしられるような悶心地もだえごこちになって聞いておりますと、やがて御声は幽かすかになる。泣逆吃なきじゃくりばかりは時々聞える。時計は十時を打ちました。茶を熱く入れて香かおりのよいところを御二人へ上げましたら、奥様も乾いた咽喉のどを霑しめして、すこしは清々せいせいとなすったようでした。 ・・・
「破戒」
・・・尤もつとも、多くの牝牛めうしの群の中へ、一頭の牡牛をうしを放つのであるから、普通の温順おとなしい種牛ですら荒くなる。時としては性質が激変する。まして始めから気象の荒い雑種と来たから堪たまらない。広濶ひろ/″\とした牧場の自由と、誘ふやうな牝牛の鳴声とは、其種牛を狂ふばかりにさせた。終しまひには家養の習慣も忘れ、荒々しい野獣の本性ほんしやうに帰つて、行衛ゆくへが知れなくなつて了しまつたのである。三日経たつても来ない。四日経つても帰らない。さあ、父は其を心配して、毎日水草の中を捜さがして歩いて、ある時は深い沢を分けて日の暮れる迄も尋ねて見たり、ある時は山から山を猟あさつて高い声で呼んで見たりしたが、何処にも影は見えなかつた。昨日の朝、父はまた捜しに出た。いつも遠く行く時には、必ず昼飯ひるを用意して、例の『山猫』(鎌かま、鉈なた、鋸のこぎりなどの入物)に入れて背負しよつて出掛ける。ところが昨日に限つては持たなかつた。時刻に成つても帰らない。手伝ひの男も不思議に思ひ乍ら、塩を与へる為に牛小屋のあるところへ上つて行くと、牝牛の群が喜ばしさうに集まつて来る。丁度其中には、例の種牛も恍とぼけ顔がほに交つて居た。見れば角は紅く血に染つた。驚きもし、呆あきれもして、来合せた人々と一緒になつて取押へたが、其時はもう疲れて居た故せゐか、別に抵抗てむかひも為なかつた。さて男は其処此処そここゝと父を探して歩いた。漸やうやく岡の蔭の熊笹の中に呻吟うめき倒れて居るところを尋ね当てゝ、肩に掛けて番小屋迄連れ帰つて見ると、手当も何も届かない程の深傷ふかで。叔父が聞いて駈付けた時は、まだ父は確乎しつかりして居た。最後に気息いきを引取つたのが昨夜の十時頃。今日は人々も牧場に集つて、番小屋で通夜と極めて、いづれも丑松の帰るのを待受けて居るとのことであつた。
『といふ訳で、』と叔父は丑松の顔を眺めた。『私が阿兄あにきに、何か言つて置くことはねえか、と尋ねたら、苦しい中にも気象はしやんとしたもので、「俺も牧夫だから、牛の為に倒れるのは本望だ。今となつては他に何にも言ふことはねえ。唯気にかゝるのは丑松のこと。俺が今日迄の苦労は、皆な彼奴あいつの為を思ふから。日頃俺は彼奴に堅く言聞かせて置いたことがある。何卒どうか丑松が帰つて来たら、忘れるな、と一言左様さう言つてお呉れ。」』
丑松は首を垂れて、黙つて父の遺言を聞いて居た。叔父は猶なほ言葉を継いで、
『「それから、俺は斯この牧場の土と成りたいから、葬式は根津の御寺でしねえやうに、成るなら斯の山でやつてお呉れ。俺が亡なくなつたとは、小諸こもろの向町へ知らせずに置いてお呉れ――頼む。」と斯う言ふから、其時私わしが「むゝ、解つた、解つた」と言つてやつたよ。すると阿兄あにきは其が嬉うれしかつたと見え、につこり笑つて、軈やがて私の顔を眺め乍らボロ/\と涙を零こぼした。それぎりもう阿兄は口を利かなかつた。』・・・
・・・一夜は斯ういふ風に語り明した。小諸の向町へは通知して呉れるなといふ遺言もあるし、それに移住ひつこし以来このかた十七年あまりも打絶えて了つたし、是方こちらからも知らせてやらなければ、向ふからも来なかつた。昔の『お頭』が亡くなつたと聞伝へて、下手なものにやつて来られては反つて迷惑すると、叔父は唯そればかり心配して居た。斯の叔父に言はせると、墓を牧場に択んだのは、かねて父が考へて居たことで。といふは、もし根津の寺なぞへ持込んで、普通の農家の葬式で通ればよし、さも無かつた日には、断然謝絶ことわられるやうな浅猿あさましい目に逢ふから。習慣の哀しさには、穢多は普通の墓地に葬る権利が無いとしてある。父は克く其を承知して居た。父は生前も子の為に斯ういふ山奥に辛抱して居た。死後もまた子の為に斯の牧場に眠るのを本望としたのである。
『どうかして斯の「おじやんぼん」(葬式)は無事に済ましたい――なあ、丑松、俺はこれでも気が気ぢやねえぞよ。』
斯ういふ心配は叔父ばかりでは無かつた。
翌日あくるひの午後は、会葬の男女をとこをんなが番小屋の内外うちそとに集つた。牧場の持主を始め、日頃牝牛を預けて置く牛乳屋なぞも、其と聞伝へたかぎりは弔ひにやつて来た。父の墓地は岡の上の小松の側わきと定まつて、軈やがていよいよ野辺送りを為ることになつた時は、住み慣れた小屋の軒を舁かつがれて出た。棺の後には定津院の長老、つゞいて腕白顔な二人の子坊主、丑松は叔父と一緒に藁草履穿わらざうりばき、女はいづれも白の綿帽子を冠つた。人々は思ひ/\の風俗、紋付もあれば手織縞ておりじまの羽織もあり、山家の習ひとして多くは袴も着けなかつた。斯の飾りの無い一行の光景ありさまは、素朴な牛飼の生涯に克よく似合つて居たので、順序も無く、礼儀も無く、唯真心まごゝろこもる情一つに送られて、静かに山を越えた。・・・ 
「夜明け前」
・・・浪士らの行動についてはこんな話も残った。和田峠合戦のあとをうけ下諏訪しもすわ付近の混乱をきわめた晩のことで、下原村の百姓の中には逃げおくれたものがあった。背中には長煩ながわずらいで床についていた一人の老母もある。どうかして山手の方へ遠くと逃げ惑ううちに、母は背に負われて腹筋の痛みに堪たえがたいと言い出す。その時の母の言葉に、自分はこんな年寄りのことでだれもとがめるものはあるまい、その方は若者だ、どんな憂うき目を見ないともかぎるまいから、早く身を隠せよ。そう言われた百姓は、どうしたら親たる人を捨て置いてそこを逃げ延びたものかと考え、古筵ふるむしろなぞを母にきせて介抱していると、ちょうどそこへ来かかった二人の浪士の発見するところとなった。お前は当所のものであろう、寺があらば案内せよ、自分らは主君の首を納めたいと思うものであると浪士が言うので、百姓は大病の老母を控えていることを答えて、その儀は堅く御免こうむりましょうと断わった。しからば自分の家来を老母に付けて置こう、早く案内せとその浪士に言われて見ると、百姓も断わりかねた。案内した先は三町ほど隔たった来迎寺らいごうじの境内だ。浪士はあちこちと場所を選んだ。扇を開いて、携えて来た首級をその上にのせた。敬い拝して言うことには、こんなところで御武運つたなくなりたまわんとは夢にも知らなかった、御本望の達する日も見ずじまいにさぞ御残念に思おぼし召されよう、軍いくさの習い、是非ないことと思し召されよと、生きている人にでも言うようにそれを言って、暗い土の上にぬかずいた。短刀を引き抜いて、土中に深くその首級を納めた。それから浪士は元のところへ引き返して来て、それまで案内した男に褒美ほうびとして短刀を与えたが、百姓の方ではそれを受けようとしなかった。元来百姓の身に武器なぞは不用の物であるとして、堅く断わった。そういうことなら、病める老母に薬を与えようとその浪士が言って、銀壱朱をそこに投げやりながら、家来らしい連れの者と一緒に下諏訪方面へ走り去ったという。
こんな話を伝え聞いた土地のものは、いずれもその水戸武士の態度に打たれた。あれほどの恐怖をまき散らして行ったあとにもかかわらず、浪士らに対して好意を寄せるものも決して少なくはなかったのだ。・・・ 
若菜集 序詩
こゝろなきうたのしらべは ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにもつまれて あたゝかきさけとなるらむ
  ぶだうだなふかくかゝれる むらさきのそれにあらねど
  こゝろあるひとのなさけに かげにおくふさのみつよつ
そはうたのわかきゆゑなり あぢはひもいろもあさくて
おほかたはかみてすつべき うたゝねのゆめのそらごと
山村暮鳥詩集『三人の処女』に寄せた序文で「情人を愛するごとく、私は詩を愛し、情人に別るるごとく、私は詩に別れた」と書いた藤村のことを考える。『若菜集』は明治30年(1897年)、『三人の処女』は大正2年(1913年)。ふたつの詩集の間に流れた時間を考える。 
千曲川旅情のうた
昨日またかくてありけり 今日またかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく) 明日をのみ思ひわづらふ
  いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
  河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る
嗚呼(ああ)古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を静かに思へ 百年(ももとせ)もきのふのごとし
  千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり
  たゞひとり岩をめぐりて この岸に愁を繋ぐ
なんの目算も立てずに、「近代詩」の森を徘徊しているのだが、思いのほか、印象に残る詩が少ない。「近代」の感受性と「21世紀」のそれとが同じものではないことにもよるだろうが、これまでに書かれた「詩」がそれほど多いものではないことにも、ふと気がつかされる。いうまでもなく、「古典」とはなにかとあらためて考えることもある。この「千曲川旅情のうた」にたどりついたとき、ああ、これが藤村の「青春との別れ」「詩との別れ」の詩(うた)なのだなと得心する。だが、「この岸に愁を繋ぐ」という最終行から始まるものもあっただろう。それはなんであったのか。 
椰子の実
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子〔やし〕の実一つ
故郷〔ふるさと〕の岸を離れて 汝〔なれ〕はそも波に幾月
旧〔もと〕の樹は生ひや茂れる 枝はなほ影をやなせる
われもまた渚〔なぎさ〕を枕 孤身〔ひとりみ〕の浮寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば 新〔あらた〕なり流離の憂〔うれひ〕
海の日の沈むを見れば 激〔たぎ〕り落つ異郷の涙
思ひやる八重の潮々 いづれの日にか国に帰らん
北村透谷の葛藤は島崎藤村にも伝わったことだろうが、その本質において、透谷と藤村は同じではありえなかった。ともあれ、盟友・透谷の自殺、そして失恋などを経て、「自分のようなものでも、どうかして生きたい」と、藤村は仙台に赴く。その一年の仙台暮らしのなかで、『若菜集』(明治30年)の詩篇が書き上げられた。だが、その「序詩」、あるいは「草枕」の一部を除けば、21世紀のいまでも読むことができることばはほとんど見られない。いまでも読むことができるのは、最後の詩集となった『落梅集』(明治34年)に収められている「小諸なる古城のほとり」や「千曲川旅情のうた」に歌われた憂愁の情念ではないだろうか。上記の、歌曲としても知られる「椰子の実」も『落梅集』に収められている。「小諸なる古城のほとり」にも通じるような「流離」の思いが歌われるこの詩は、伊良子岬の海岸に椰子の実が流れてくるのを見つけたという柳田国男の話を聞いて作られたという一挿話とともに記憶される。
 
永井荷風

 

震災
今の世のわかい人々 われにな問ひそ今の世と また来る時代の芸術を。
われは明治の兒ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時 わが青春の夢もまた消えにけり 團菊はしおれて櫻痴は散りにき。
一葉落ちて紅葉は枯れ 緑雨の聲も亦絶えたりき。
圓朝も去れり紫蝶も去れり。
わが感激の泉とくに枯れたり。
われは明治の兒なりけり。
或年大地俄にゆらめき 火は都を焼きぬ。
柳村先生既になく 鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名残煙となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々 我にな語りそ今の世と また来む時代の芸術を。
くもりし眼鏡をふくとても われ今何をか見得べき。
われは明治の兒ならずや。
去りし明治の兒ならずや。
この「震災」という詩は、荷風の戦後の詩集『偏奇館吟草』に収められた一篇である。「訳詩について」という随筆のなかで、「一時わたくしが鴎外柳村二先生の顰みに倣つて、西詩の翻訳を試みたのも、思へば既に二十年に近いむかしである」と、荷風は云う。「当時わたくしが好むで此事に従つたのは西詩の余香をわが文壇に移し伝へやうと欲するよりも、寧(むしろ)この事によつて、わたくしは自家の感情と文辞とを洗練せしむる助けになさうと思つたのである」と。「感情と文辞と」が洗練されたこの詩は、鴎外の『於母影』、柳村上田敏の『海潮音』、そして荷風の『珊瑚集』と、その流れを思うとき、さらに味わい深いものとなる。
 
寺山修司

 

懐かしのわが家
昭和十年十二月十日に ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって 完全な死体となるのである
そのときが来たら ぼくは思いあたるだろう
青森市浦町字橋本の 小さな陽あたりのいゝ家の庭で
外に向って育ちすぎた桜の木が 内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは 汽車の口真似が上手かった
ぼくは 世界の涯てが
自分自身のなかにしかないことを 知っていたのだ
 
鮎川信夫

 

川岸にて
黒い川波に ありなしの残照の ひかりは乱れ
ひたいにかかる空は 去りゆく時の ひとひらの影をとどめ
行けども行けず のがれるところなき身の
孤独の骨は 寒風に吹きさらされる
よるべなき川岸の たましいひとつ――
静かに走れ すみだ川 わたしの歌のおわるまで 
 
国木田独歩

 

秋の入日
要するに悉(みな)、逝けるなり 在らず、彼等は在らず。
秋の入日あかあかと田面(たのも)にのこり
野分(のわき)はげしく颯々(さつさつ)と梢を払ふ
うらがなし、あゝうらがなし。
水とすむ大空かぎりなく 夢のごと深き山々遠く
かくて日は、あゝ斯(か)くてこの日は
古も暮れゆきしか、今も又!
哀し、哀し、我こころ哀し。
国木田独歩(明治24年―明治41年)。「秋の入日」は、死の一年前に書かれたものだが、冒頭の一行、とりわけ「要するに」の一語が語るものは深い。あの「山林に自由存す」に明らかなように、独歩は「遠く」を観る人であった。独歩が観ようとしたその「遠く」は、いまも存在していると思いたい。 
 
土井晩翠

 

荒城の月
春高楼の花の宴 めぐる盃影さして
千代の松が枝わけ出でし むかしの光いまいずこ。
  秋陣営の霜の色 鳴き行く雁の数見せて
  植うるつるぎに照りそひし むかしの光今いづこ。
いま荒城のよはの月 変らぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌ふはただあらし。
  天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿
  写さんとてか今もなほ あゝ荒城の夜半の月。
土井晩翠の代表作といわれる「星落秋風五丈原」が発表された頃、与謝野鉄幹は「新詩壇は目下の処藤村晩翠二氏を推さざるを得ず」といったという。藤村と晩翠とが並んで語られる時代があったのだ。ところで、いま晩翠の詩はほとんど読まれていない。難しい漢語で書かれた詩が、いまの読者に受け入れられることはないだろうし、時代を超えていくものが晩翠の詩にはなかったのだ。だが、「荒城の月」はいまもなお歌われている。それはなぜだろう。もとより、滝廉太郎の作曲によるところは大きいであろうが、それはひとまず措いて、虚心にこの詩を眺めれば、ここに表出された「切なるもの」は時代を超えていることが了解される。この一篇の詩で、晩翠土井林吉は記憶される詩人となった。詩とはなにか、とあらためて考えさせられる。 
 
中原中也

 

除夜の鐘
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜の空気を顫〔ふる〕はし、除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
それは寺院の森の霧〔きら〕つた空……そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。
それは寺院の森の霧つた空……
その時子供は父母の膝下〔ひざもと〕で蕎麦〔そば〕を食うべ、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜の空気を顫はし、除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
「宮沢賢治の詩」
彼は幸福に書き付けました、とにかく印象の生滅するまゝに自分の命が経験したことのその何の部分をだつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶまゝを、――つまり書いてゐる時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。
彼は想起される印象を、刻々新しい概念に、翻訳しつつあつたのです。彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考さるべきものでも翫味さるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のまゝで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白出来さへすればよかつたのです。
要するに彼の精神は、感性の新鮮に泣いたのですし、いよいよ泣かうとしたのです。つまり彼自身の成句を以つてすれば、『聖ママしののめ』に泣いたのです。
そしてその気質としては、動物よりも植物を、夏よりも冬を愛し、――『鋼青』を『苹果』を、午前のみそれを愛したのです。 
「宮沢賢治の世界」
人性の中には、かの概念が、殆んど全く容喙出来ない世界があつて、宮沢賢治の一生は、その世界への間断なき恋慕であつたと云ふことが出来る。
その世界といふのは、誰しもが多かれ少かれ有してゐるものではあるが、未だ猶、十分に認識対象とされたことはないのであつた。私は今、その世界を聊かなりとも解明したいのであるが、当抵手に負へさうもないことであるから、仮りに、さういふ世界に恋著した宮沢賢治が、もし芸術論を書いたとしたら、述べたでもあらう所の事を、かにかくにノート風に、左に書付けてみたいと思ふ。
一、「これは手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が感じてゐられゝばよい。
一、名辞が早く脳裡に浮ぶといふことは、尠くも芸術家にとつては不幸だ。名辞が早く浮ぶといふことは、「かせがねばならぬ」といふ、二次的意識に属する。
一、そんなわけから、努力が直接詩人を豊富にするとは云へない。
一、面白いから笑ふので、笑ふので面白いのではない。面白い限りでは人は寧ろニガムシつぶした顔をする。やがてニツコリするのだが、ニガムシつぶした所が芸術で、ニツコリする所は既に生活であるといふやうなことが云へる。
一、人がもし無限に面白かつたら笑ふ暇はない。面白さが、一と先づ限界に達するから人は笑ふのだ。面白さが、その限界に達すること遅ければ遅いだけ、芸術家は豊富である。
一、芸術を衰褪させるものは、固定観念である。誰もが芸術家にならなかつたといふわけは、云つてみれば誰もが固定観念を余りに抱いたといふことである。誰しも全然固定観念を抱かないわけには行かぬ。芸術家にあつては固定観念が謂はば条件反射的に抱かれてゐるのに反して、芸術家以外では無条件反射的に抱かれてゐると云ふことが出来る。
芸術家にとつて世界は、即ち彼の世界意識は、善いものでも悪いものでも、其の他如何なるモディフィケーションを冠せられるべきものでもない。彼にとつて「手」とは「手」であり、「顔」とは「顔」であり、即ち名辞するとしてA=Aであるだけの世界の内部に、彼の想像力は活動してゐるのである。従つて彼にあつては、「面白いから面白い」ことだけが、その仕事のモチーフとなる。 
 
与謝蕪村

 

北寿老仙をいたむ
君あしたに去〔い〕ぬゆふべのこゝろ千々〔ちぢ〕に 何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行〔ゆき〕つ遊ぶ をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公〔たんぽぽ〕の黄に薺〔なづな〕のしろう咲〔さき〕たる 見る人ぞなき
雉子〔きゞす〕のあるかひたなきに鳴〔なく〕を聞〔きけ〕ば
友ありき河をへだてゝ住〔すみ〕にき
へげのけぶりのはと打〔うち〕ちれば西吹〔ふく〕風の
はげしくて小竹原〔をざさはら〕真すげはら のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住〔すみ〕にきけふは ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に 何ぞはるかなる
我庵〔わがいほ〕のあみだ仏ともし火もものせず
花もまゐらせずすごすごと彳〔たゝず〕める今宵〔こよひ〕は ことにたふとき
これは、茨城・結城の俳人、早見晋我の死を悼んで与謝蕪村がつくった「俳詩」である。晋我が歿したのは延享2年(1745)というから、この「俳詩」がつくられたのはその頃であろうか。萩原朔太郎は「この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言つても、人は決して怪しまないだらう」と云っているが、続く安永6年(1777)に発表された「春風馬堤曲」「澱河歌」とともに、読む者に強い印象を与える「詩」である。我々ハ何処カラ来タノカ――。起源を尋ねる者をロマン主義者というのならば、僕はロマン主義者であるだろう。明治15年に刊行された『新体詩抄』をもって、我々の「詩」(近代詩、現代詩)が始まったとするだけではなにも見えてこないと考える以上、「日本の詩」のよってきたるところを尋ねて、さらに遡るしかない。もとより、起源を尋ねることがすべてではない。我々ハ何処カラ来タノカ。ソシテ、コレカラ何処ヘ行クノカ。新しい詩のかたちを探し求めた日本の詩人たちの営為を尋ねることは、いまを生きることでもあると知るのである。 
 
北村透谷

 

蝶のゆくへ
舞ふてゆくへを問ひたまふ、心のほどぞうれしけれ、
秋の野面をそこはかと、尋ねて迷ふ蝶が身を。
  行くもかへるも同じ関、越え来し方に越えて行く。
  花の野山に舞ひし身は、花なき野辺も元の宿。
前もなければ後もまた、「運命」〔かみ〕の外には「我」もなし。
ひらひらひらと舞ひ行くは、夢とまことの中間〔なかば〕なり。
『新体詩抄』では、「平常ノ語ヲ用ヒテ詩歌ヲ作ルコト少ナキヲ嘆ジ」(矢田部良吉序文)と書かれているように、日常のことばを用いて詩を書くことが謳われた。続く『於母影』では雅語が用いられ、一見、後退したように見えるが、その清新さは『新体詩抄』の比ではなかった。だが、日本近代詩が真に始まるのは北村透谷(明治元年ー明治27年)の登場をもってである。透谷こそは、日本近代詩において「詩」とはなにかを自覚的に問うた最初の詩人である。透谷曰く、「吾人は記憶す、人間は戦ふ為に生れたるを。戦ふは戦ふ為に戦ふにあらずして、戦ふべきものあるが故に戦ふものなるを」。透谷が云う「戦ふべきもの」とは、旧い秩序が推し進める「近代化」であった。透谷の闘いは、文字どおり「必死を期し、原頭の露となるを覚悟して家を出」たものであるが、ついに刀折れ、矢尽きる。晩年(自殺する前年)に書かれた「蝶」の連作詩篇をわれわれはいったいどのように読めばいいのだろう。そこには、「楚囚之詩」や「蓬莱曲」を書いた北村透谷はいない。だが、「戦ふ」強度が減衰しているそのピアニッシモにおいてさえ、表出された意識(ことば)は、当時の「新体詩」の意識(ことば)をはるかに超えていることを知るとき、透谷の残した詩文を繰り返し読まなければと思うのである。 
 
与謝野鉄幹

 

敗荷
夕〔ゆふべ〕不忍〔しのばず〕の池ゆく
涙おちざらむや 蓮〔はす〕折れて月うすき
長酡亭〔ちゃうだてい〕酒寒し
似ず住〔すみ〕の江〔え〕のあづまや 夢とこしへ甘きに
とこしへと云ふか わづかひと秋
花もろかりし 人もろかりし
おばしまに倚りて 君伏目がちに
嗚呼何とか云ひし 蓮に書ける歌
一般に、詩史では、「藤晩時代」(島崎藤村、土井晩翠の時代)の後に薄田泣菫、蒲原有明が登場するといわれるが、ここで見過ごすことができないのは、その泣菫や有明なども寄稿した「明星」を主宰した与謝野鉄幹である。いま鉄幹の詩が読まれているのかどうか知らないが、詩人として、「明星」の主宰者として、鉄幹与謝野寛は、僕にとって、いまも興味深いひとりである。例えば、明治34年に刊行された『紫』に収められた詩篇のいくつか。萩原朔太郎をして「おそらく鉄幹の抒情詩中で、唯一の圧巻ともいふべき傑作である」と云わしめた「敗荷」は鉄幹28歳の頃の作。明治33年8月、大阪に旅した鉄幹は、山川登美子、鳳晶子などと住之江の住吉大社に歌を詠みながら遊んだ。「わづかひと秋」の後、鉄幹は不忍池の長酡亭でひとり酒を酌みつつ、その時の思い出を「花もろかりし/人もろかりし」とかみしめる。ほかに、薄田泣菫との「好会」の時を味わい深く措辞する「泣菫と話す」という詩も捨てがたい。 
 
与謝野晶子
みだれ髪 
この書の体裁は悉く藤島武二先生の意匠に成れり表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり
臙脂紫
夜の帳ちやうにささめき尽きし星の今を下界げかいの人の鬢のほつれよ
歌にきけな誰れ野の花に紅き否いなむおもむきあるかな春はる罪つみもつ子
髪かみ五尺ときなば水にやはらかき少女をとめごころは秘めて放たじ
血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな
椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色いろ桃もゝに見る
その子二十はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
堂の鐘のひくきゆふべを前髪の桃のつぼみに経きやうたまへ君
紫にもみうらにほふみだれ篋ばこをかくしわづらふ宵の春の神
臙脂色えんじいろは誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命いのち
紫の濃き虹説きしさかづきに映うつる春の子眉毛まゆげかぼそき
紺青こんじやうを絹にわが泣く春の暮やまぶきがさね友とも歌ねびぬ
まゐる酒に灯ひあかき宵を歌たまへ女をんなはらから牡丹に名なき
海棠にえうなくときし紅べにすてて夕雨ゆふさめみやる瞳ひとみよたゆき
水にねし嵯峨の大堰おほゐのひと夜よ神がみ絽蚊帳ろがやの裾の歌ひめたまへ
春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髪か梅花ばいくわのあぶら
今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御裾みすそさはりてわが髪ぬれぬ
細きわがうなじにあまる御手みてのべてささへたまへな帰る夜の神
清水きよみづへ祇園ぎをんをよぎる桜月夜さくらづきよこよひ逢ふ人みなうつくしき
秋の神の御衣みけしより曳く白き虹ものおもふ子の額に消えぬ
経きやうはにがし春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ
山ごもりかくてあれなのみをしへよ紅べにつくるころ桃の花さかむ
とき髪に室むろむつまじの百合のかをり消えをあやぶむ夜よの淡紅色ときいろよ
雲ぞ青き来し夏姫なつひめが朝の髪うつくしいかな水に流るる
夜の神の朝のり帰る羊とらへちさき枕のしたにかくさむ
みぎはくる牛かひ男歌あれな秋のみづうみあまりさびしき
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
許したまへあらずばこその今のわが身うすむらさきの酒うつくしき
わすれがたきとのみに趣味しゆみをみとめませ説かじ紫その秋の花
人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴をごとにもたす乱れ乱れ髪
たまくらに鬢びんのひとすぢきれし音ねを小琴をごとと聞きし春の夜の夢
春雨にぬれて君こし草の門かどよおもはれ顔の海棠の夕
小草をぐさいひぬ『酔へる涙の色にさかむそれまで斯くて覚めざれな少女をとめ』
牧場いでて南にはしる水ながしさても緑の野にふさふ君
春よ老いな藤によりたる夜よの舞殿まひどのゐならぶ子らよ束つかの間ま老いな
雨みゆるうき葉しら蓮はす絵師の君に傘まゐらする三尺の船
御相みさういとどしたしみやすきなつかしき若葉わかば木立だちの中なかの盧遮那仏
さて責むな高きにのぼり君みずや紅あけの涙の永劫えいごふのあと
春雨にゆふべの宮みやをまよひ出でし小羊こひつじ君きみをのろはしの我れ
ゆあみする泉の底の小百合花さゆりばな二十はたちの夏をうつくしと見ぬ
みだれごこちまどひごこちぞ頻なる百合ふむ神に乳ちゝおほひあへず
くれなゐの薔薇ばらのかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな
旅のやど水に端居はしゐの僧の君をいみじと泣きぬ夏の夜の月
春の夜の闇やみの中なかくるあまき風しばしかの子が髪に吹かざれ
水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや君
誰ぞ夕ゆふべひがし生駒いこまの山の上のまよひの雲にこの子うらなへ
悔いますなおさへし袖に折れし剣つるぎつひの理想おもひの花に刺とげあらじ
額ぬかごしに暁あけの月みる加茂川の浅水色あさみづいろのみだれ藻染もぞめよ
御袖みそでくくりかへりますかの薄闇うすやみの欄干おばしま夏の加茂川の神
なほ許せ御国遠くば夜よの御神みかみ紅盃船べにざらふねに送りまゐらせむ
狂ひの子われに焔ほのほの翅はねかろき百三十里あわただしの旅
今ここにかへりみすればわがなさけ闇やみをおそれぬめしひに似たり
うつくしき命を惜しと神のいひぬ願ひのそれは果してし今
わかき小指をゆび胡紛ごふんをとくにまどひあり夕ぐれ寒き木蓮の花
ゆるされし朝よそほひのしばらくを君に歌へな山の鶯
ふしませとその間まさがりし春の宵衣桁いかうにかけし御袖かづきぬ
みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす
しのび足に君を追ひゆく薄月夜うすづきよ右のたもとの文がらおもき
紫に小草をぐさが上へ影おちぬ野の春かぜに髪けづる朝
絵日傘をかなたの岸の草になげわたる小川よ春の水ぬるき
しら壁へ歌ひとつ染めむねがひにて笠はあらざりき二百里の旅
嵯峨の君を歌に仮せなの朝のすさびすねし鏡のわが夏姿
ふさひ知らぬ新婦にひびとかざすしら萩に今宵の神のそと片笑かたゑみし
ひと枝の野の梅をらば足りぬべしこれかりそめのかりそめの別れ
鶯は君が夢よともどきながら緑のとばりそとかかげ見る
紫の紅の滴したゝり花におちて成りしかひなの夢うたがふな
ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清瀧きよたき夜の明けやすき
紫むらさきの理想りさうの雲はちぎれ/\仰ぐわが空それはた消えぬ
乳ぶさおさへ神秘しんぴのとばりそとけりぬここなる花の紅くれなゐぞ濃き
神の背せなにひろきながめをねがはずや今かたかたの袖こむらさき
とや心朝の小琴をごとの四つの緒のひとつを永久とはに神きりすてし
ひく袖に片笑かたゑみもらす春ぞわかき朝のうしほの恋のたはぶれ
くれの春隣すむ画師ゑしうつくしき今朝けさ山吹に声わかかりし
郷人さとびとにとなり邸やしきのしら藤の花はとのみに問ひもかねたる
人にそひて樒しきみささぐるこもり妻づま母なる君を御墓みはかに泣きぬ
なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな
おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る
ゆあみして泉を出でしわがはだにふるるはつらき人の世のきぬ
売りし琴にむつびの曲きよくをのせしひびき逢魔あふまがどきの黒百合折れぬ
うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風よかぜの青き
恋ならぬねざめたたずむ野のひろさ名なし小川のうつくしき夏
このおもひ何とならむのまどひもちしその昨日きのふすらさびしかりし我れ
おりたちてうつつなき身の牡丹見ぬそぞろや夜よるを蝶のねにこし
その涙のごふえにしは持たざりきさびしの水に見し二十日月はつかづき
水十里ゆふべの船をあだにやりて柳による子ぬかうつくしき(をとめ)
旅の身の大河おほかはひとつまどはむや徐しづかに日記にきの里の名けしぬ(旅びと)
小傘をがさとりて朝の水くみ我とこそ穂麦ほむぎあをあを小雨こさめふる里
おとに立ちて小川をのぞく乳母が小窓こまど小雨こさめのなかに山吹のちる
恋か血か牡丹に尽きし春のおもひとのゐの宵のひとり歌なき
長き歌を牡丹にあれの宵の殿おとど妻となる身の我れぬけ出でし
春三月みつき柱ぢおかぬ琴に音たてぬふれしそぞろの宵の乱れ髪
いづこまで君は帰るとゆふべ野にわが袖ひきぬ翅はねある童わらは
ゆふぐれの戸に倚り君がうたふ歌『うき里去りて往きて帰らじ』
さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人あらばあらば如何ならむ
君が歌に袖かみし子を誰と知る浪速の宿は秋寒かりき
その日より魂にわかれし我れむくろ美しと見ば人にとぶらへ
今の我に歌のありやを問ひますな柱ぢなき繊絃ほそいとこれ二十五絃げん
神のさだめ命のひびき終つひの我世琴ことに斧をのうつ音ききたまへ
人ふたり無才ぶさいの二字を歌に笑みぬ恋こひ二万年ねんながき短き
蓮の花船
漕ぎかへる夕船ゆふぶねおそき僧の君紅蓮ぐれんや多きしら蓮はすや多き
あづまやに水のおときく藤の夕はづしますなのひくき枕よ
御袖ならず御髪みぐしのたけときこえたり七尺いづれしら藤の花
夏花のすがたは細きくれなゐに真昼まひるいきむの恋よこの子よ
肩おちて経きやうにゆらぎのそぞろ髪をとめ有心者うしんじや春の雲こき
とき髪を若枝わかえにからむ風の西よ二尺に足らぬうつくしき虹
うながされて汀みぎはの闇やみに車おりぬほの紫の反橋そりはしの藤ふぢ
われとなく梭をさの手とめし門かどの唄うた姉がゑまひの底はづかしき
ゆあがりのみじまひなりて姿見に笑みし昨日きのふの無きにしもあらず
人まへを袂すべりしきぬでまり知らずと云ひてかかへてにげぬ
ひとつ篋はこにひひなをさめて蓋ふたとぢて何となき息いき桃にはばかる
ほの見しは奈良のはづれの若葉宿わかばやどうすまゆずみのなつかしかりし
紅あけに名の知らぬ花さく野の小道こみちいそぎたまふな小傘をがさの一人ひとり
くだり船昨夜よべ月かげに歌そめし御堂みだうの壁も見えず見えずなりぬ
師の君の目を病みませる庵いほの庭へうつしまゐらす白菊の花
文字ほそく君が歌ひとつ染めつけぬ玉虫たまむしひめし小筥こばこの蓋ふたに
ゆふぐれを籠へ鳥よぶいもうとの爪先つまさきぬらす海棠の雨
ゆく春をえらびよしある絹袷衣きぬあはせねびのよそめを一人ひとりに問ひぬ
ぬしいはずとれなの筆の水の夕そよ墨足らぬ撫子なでしこがさね
母よびてあかつき問ひし君といはれそむくる片頬柳にふれぬ
のろひ歌かきかさねたる反古ほごとりて黒き胡蝶をおさへぬるかな
額ぬかしろき聖よ見ずや夕ぐれを海棠に立つ春夢見姿はるゆめみすがた
笛の音に法華経うつす手をとどめひそめし眉よまだうらわかき
白檀びやくだんのけむりこなたへ絶えずあふるにくき扇をうばひぬるかな
母なるが枕経まくらぎやうよむかたはらのちひさき足をうつくしと見き
わが歌に瞳ひとみのいろをうるませしその君去りて十日たちにけり
かたみぞと風なつかしむ小扇のかなめあやふくなりにけるかな
春の川のりあひ舟のわかき子が昨夜よべの泊とまりの唄うたねたましき
泣かで急げやは手にはばき解くえにしえにし持つ子の夕を待たむ
燕なく朝をはばきの紐ひもぞゆるき柳かすむやその家やのめぐり
小川われ村のはづれの柳かげに消えぬ姿を泣く子朝あさ見みし
鶯に朝寒からぬ京の山おち椿ふむ人むつまじき
道たま/\蓮月が庵のあとに出でぬ梅に相行く西の京の山
君が前に李青蓮説くこの子ならずよき墨なきを梅にかこつな
あるときはねたしと見たる友の髪に香の煙のはひかかるかな
わが春の二十姿はたちすがたと打ぞ見ぬ底くれなゐのうす色牡丹
春はただ盃にこそ注つぐべけれ智慧あり顔の木蓮や花
さはいへど君が昨日きのふの恋がたりひだり枕の切なき夜半よ
人そぞろ宵の羽織の肩うらへかきしは歌か芙蓉といふ文字
琴の上に梅の実おつる宿の昼よちかき清水に歌ずする君
うたたねの君がかたへの旅づつみ恋の詩集の古きあたらしき
戸に倚りて菖蒲あやめ売うる子がひたひ髪にかかる薄靄うすもやにほひある朝
五月雨さみだれもむかしに遠き山の庵通夜つやする人に卯の花いけぬ
四十八寺じそのひと寺てらの鐘なりぬ今し江の北雨雲あまぐもひくき
人の子にかせしは罪かわがかひな白きは神になどゆづるべき
ふりかへり許したまへの袖だたみ闇やみくる風に春ときめきぬ
夕ふるはなさけの雨よ旅の君ちか道とはで宿とりたまへ
巌いはをはなれ谿たにをくだりて躑躅つゝじをりて都の絵師と水に別れぬ
春の日を恋に誰れ倚るしら壁ぞ憂きは旅の子藤たそがるる
油あぶらのあと島田のかたと今日けふ知りし壁に李すもゝの花ちりかかる
うなじ手にひくきささやき藤の朝をよしなやこの子行くは旅の君
まどひなくて経ずする我と見たまふか下品げぼんの仏ほとけ上品じやうぼんの仏ほとけ
ながしつる四つの笹舟さゝぶね紅梅を載せしがことにおくれて往きぬ
奥の室まのうらめづらしき初声うぶごゑに血の気のぼりし面おもまだ若き
人の歌をくちずさみつつ夕よる柱つめたき秋の雨かな
小百合さく小草がなかに君まてば野末にほひて虹あらはれぬ
かしこしといなみにいひて我とこそその山坂を御手に倚らざりし
鳥辺野は御親の御墓あるところ清水坂きよみづざかに歌はなかりき
御親まつる墓のしら梅中なかに白く熊笹くまざさ小笹をざさたそがれそめぬ
男をとこきよし載するに僧のうらわかき月にくらしの蓮はすの花船はなぶね
経にわかき僧のみこゑの片明かたあかり月の蓮船はすぶね兄こぎかへる
浮葉きるとぬれし袂の紅あけのしづく蓮はすにそそぎてなさけ教へむ
こころみにわかき唇ふれて見れば冷かなるよしら蓮の露
明くる夜の河はばひろき嵯峨の欄らんきぬ水色の二人ふたりの夏よ
藻の花のしろきを摘むと山みづに文がら濡ひぢぬうすものの袖
牛の子を木かげに立たせ絵にうつす君がゆかたに柿の花ちる
誰が筆に染めし扇ぞ去年こぞまでは白きをめでし君にやはあらぬ
おもざしの似たるにまたもまどひけりたはぶれますよ恋の神々かみ/″\
五月雨に築土ついぢくづれし鳥羽殿とばどののいぬゐの池におもだかさきぬ
つばくらの羽はねにしたたる春雨をうけてなでむかわが朝寝髪
しら菊を折りてゑまひし朝すがた垣間みしつと人の書きこし
八つ口をむらさき緒もて我れとめじひかばあたへむ三尺の袖
春かぜに桜花ちる層塔そうたふのゆふべを鳩の羽はに歌そめむ
憎からぬねたみもつ子とききし子の垣の山吹歌うて過ぎぬ
おばしまのその片袖ぞおもかりし鞍馬を西へ流れにし霞
ひとたびは神より更ににほひ高き朝をつつみし練ねりの下襲したがさね
白百合
月の夜の蓮はすのおばしま君うつくしうら葉の御歌みうたわすれはせずよ
たけの髪をとめ二人ふたりに月うすき今宵しら蓮はす色まどはずや
荷葉はすなかば誰にゆるすの上かみの御句みくぞ御袖みそで片取かたとるわかき師の君
おもひおもふ今のこころに分ち分かず君やしら萩われやしろ百合
いづれ君ふるさと遠き人の世ぞと御手はなちしは昨日きのふの夕
三たりをば世にうらぶれしはらからとわれ先づ云ひぬ西の京の宿
今宵こよひまくら神にゆづらぬやは手なりたがはせまさじ白百合の夢
夢にせめてせめてと思ひその神に小百合の露の歌ささやきぬ
次のまのあま戸そとくるわれをよびて秋の夜いかに長きみぢかき
友のあしのつめたかりきと旅の朝わかきわが師に心なくいひぬ
ひとまおきてをりをりもれし君がいきその夜しら梅だくと夢みし
いはず聴かずただうなづきて別れけりその日は六日二人ふたりと一人ひとり
もろ羽かはし掩ひしそれも甲斐なかりきうつくしの友西の京の秋
星となりて逢はむそれまで思ひ出でな一つふすまに聞きし秋の声
人の世に才秀でたるわが友の名の末かなし今日けふ秋くれぬ
星の子のあまりによわし袂あげて魔にも鬼にも勝かたむと云へな
百合の花わざと魔の手に折らせおきて拾ひてだかむ神のこころか
しろ百合はそれその人の高きおもひおもわは艶にほふ紅芙蓉べにふようとこそ
さはいへどそのひと時よまばゆかりき夏の野しめし白百合の花
友は二十はたちふたつこしたる我身なりふさはずあらじ恋と伝へむ
その血潮ふたりは吐かぬちぎりなりき春を山蓼やまたでたづねますな君
秋を三人みたり椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき
かの空よ若狭は北よわれ載せて行く雲なきか西の京の山
ひと花はみづから渓にもとめきませ若狭の雪に堪へむ紅くれなゐ
『筆のあとに山居やまゐのさまを知りたまへ』人への人の文さりげなき
京はもののつらきところと書きさして見おろしませる加茂の河しろき
恨みまつる湯におりしまの一人居ひとりゐを歌なかりきの君へだてあり
秋の衾ふすまあしたわびし身うらめしきつめたきためし春の京に得ぬ
わすれては谿へおりますうしろ影ほそき御肩みかたに春の日よわき
京の鐘この日このとき我れあらずこの日このとき人と人を泣きぬ
琵琶の海山ごえ行かむいざと云ひし秋よ三人みたりよ人そぞろなりし
京の水の深み見おろし秋を人の裂きし小指をゆびの血のあと寒き
山蓼のそれよりふかきくれなゐは梅よはばかれ神にとがおはむ
魔のまへに理想おもひくだきしよわき子と友のゆふべをゆびさしますな
魔のわざを神のさだめと眼を閉ぢし友の片手の花あやぶみぬ
歌をかぞへその子この子にならふなのまだ寸すんならぬ白百合の芽よ
はたち妻
露にさめて瞳ひとみもたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹
やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな
何となきただ一ひらの雲に見ぬみちびきさとし聖歌せいかのにほひ
神にそむきふたたびここに君と見ぬ別れの別れさいへ乱れじ
淵の水になげし聖書を又もひろひ空そら仰ぎ泣くわれまどひの子
聖書だく子人の御親みおやの墓に伏して弥勒みろくの名をば夕に喚びぬ
神ここに力をわびぬとき紅べにのにほひ興きようがるめしひの少女をとめ
痩せにたれかひなもる血ぞ猶わかき罪を泣く子と神よ見ますな
おもはずや夢ねがはずや若人わかうどよもゆるくちびる君に映うつらずや
君さらば巫山ふざの春のひと夜妻よづままたの世までは忘れゐたまへ
あまきにがき味うたがひぬ我を見てわかきひじりの流しにし涙
歌に名は相あひ問とはざりきさいへ一夜ひとよゑにしのほかの一夜とおぼすな
水の香をきぬにおほひぬわかき神草には見えぬ風のゆるぎよ
ゆく水のざれ言きかす神の笑まひ御歯みはあざやかに花の夜あけぬ
百合にやる天あめの小蝶のみづいろの翅はねにしつけの糸をとる神
ひとつ血の胸くれなゐの春のいのちひれふすかをり神もとめよる
わがいだくおもかげ君はそこに見む春のゆふべの黄雲きぐものちぎれ
むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子
うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ
今日けふを知らず智慧の小石は問はでありき星のおきてと別れにし朝
春にがき貝多羅葉ばいたらえふの名をききて堂の夕日に友の世泣きぬ
ふた月を歌にただある三本ぼん樹ぎ加茂川千鳥恋はなき子ぞ
わかき子が乳ちゝの香まじる春雨に上羽うはばを染めむ白き鳩われ
夕ぐれを花にかくるる小狐のにこ毛にひびく北嵯峨の鐘
見しはそれ緑の夢のほそき夢ゆるせ旅人かたり草なき
胸と胸とおもひことなる松のかぜ友の頬を吹きぬ我頬を吹きぬ
野茨のばらをりて髪にもかざし手にもとり永き日野辺に君まちわびぬ
春を説くなその朝かぜにほころびし袂だく子に君こころなき
春をおなじ急瀬はやせさばしる若鮎の釣緒つりをの細緒くれなゐならぬ
みなぞこにけぶる黒髪ぬしや誰れ緋鯉のせなに梅の花ちる
秋を人のよりし柱にとがめあり梅にことかるきぬぎぬの歌
京の山のこぞめしら梅人ふたりおなじ夢みし春と知りたまへ
なつかしの湯の香梅が香山の宿の板戸によりて人まちし闇
詞にも歌にもなさじわがおもひその日そのとき胸より胸に
歌にねて昨夜よべ梶の葉の作者見ぬうつくしかりき黒髪の色
下京しもぎやうや紅屋べにやが門かどをくぐりたる男かはゆし春の夜の月
枝折戸あり紅梅さけり水ゆけり立つ子われより笑みうつくしき
しら梅は袖に湯の香は下のきぬにかりそめながら君さらばさらば
二十はたとせの我世の幸さちはうすかりきせめて今見る夢やすかれな
二十はたとせのうすきいのちのひびきありと浪華の夏の歌に泣きし君
かづくきぬにその間まの床とこの梅ぞにくき昔がたりを夢に寄する君
それ終に夢にはあらぬそら語り中なかのともしびいつ君きえし
君ゆくとその夕ぐれに二人して柱にそめし白萩の歌
なさけあせし文みて病みておとろへてかくても人を猶恋ひわたる
夜の神のあともとめよるしら綾の鬢の香朝の春雨の宿
その子ここに夕片笑ゆふかたゑみの二十はたちびと虹のはしらを説くに隠れぬ
このあした君があげたるみどり子のやがて得む恋うつくしかれな
恋の神にむくいまつりし今日の歌ゑにしの神はいつ受けまさむ
かくてなほあくがれますか真善美わが手の花はくれなゐよ君
くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる
そよ理想りさうおもひにうすき身なればか朝の露草つゆくさ人ねたかりし
とどめあへぬそぞろ心は人しらむくづれし牡丹さぎぬに紅き
『あらざりき』そは後のちの人のつぶやきし我には永久とはのうつくしの夢
行く春の一絃ひとを一柱ひとぢにおもひありさいへ火ほかげのわが髪ながき
のらす神あふぎ見するに瞼まぶたおもきわが世の闇の夢の小夜中さよなか
そのわかき羊は誰に似たるぞの瞳ひとみの御色みいろ野は夕なりし
あえかなる白きうすものまなじりの火かげの栄はえの詛のろはしき君
紅梅にそぞろゆきたる京の山叔母の尼すむ寺は訪はざりし
くさぐさの色ある花によそはれし棺ひつぎのなかの友うつくしき
五つとせは夢にあらずよみそなはせ春に色なき草ながき里
すげ笠にあるべき歌と強ひゆきぬ若葉よ薫かをれ生駒いこま葛城かつらぎ
裾たるる紫ひくき根なし雲牡丹が夢の真昼まひるしづけき
紫のわが世の恋のあさぼらけ諸手もろでのかをり追風おひかぜながき
このおもひ真昼の夢と誰か云ふ酒のかをりのなつかしき春
みどりなるは学びの宮とさす神にいらへまつらで摘む夕すみれ
そら鳴りの夜ごとのくせぞ狂くるほしき汝なれよ小琴をごとよ片袖かさむ(琴に)
ぬしえらばず胸にふれむの行く春の小琴とおぼせ眉やはき君(琴のいらへて)
去年こぞゆきし姉の名よびて夕ぐれの戸に立つ人をあはれと思ひぬ
十九つづのわれすでに菫を白く見し水はやつれぬはかなかるべき
ひと年をこの子のすがた絹に成らず画の筆すてて詩にかへし君
白きちりぬ紅きくづれぬ床ゆかの牡丹五山ざんの僧の口おそろしき
今日の身に我をさそひし中なかの姉小町こまちのはてを祈れと去いにぬ
秋もろし春みじかしをまどひなく説く子ありなば我れ道きかむ
さそひ入れてさらばと我手はらひます御衣みけしのにほひ闇やみやはらかき
病みてこもる山の御堂に春くれぬ今日けふ文ながき絵筆とる君
河ぞひの門かど小雨ふる柳はら二人ふたりの一人ひとりめす馬しろき
歌は斯くよ血ぞゆらぎしと語る友に笑まひを見せしさびしき思
とおもへばぞ垣をこえたる山ひつじとおもへばぞの花よわりなの
庭下駄に水をあやぶむ花あやめ鋏はさみにたらぬ力をわびぬ
柳ぬれし今朝けさ門かどすぐる文づかひ青貝あをがひずりのその箱ほそき
『いまさらにそは春せまき御胸なり』われ眼をとぢて御手にすがりぬ
その友はもだえのはてに歌を見ぬわれを召す神きぬ薄黒き
そのなさけかけますな君罪の子が狂ひのはてを見むと云ひたまへ
いさめますか道ときますかさとしますか宿世のよそに血を召しませな
もろかりしはかなかりしと春のうた焚くにこの子の血ぞあまり若き
夏やせの我やねたみの二十妻はたちづま里居さとゐの夏に京を説く君
こもり居に集しふの歌ぬくねたみ妻五月さつきのやどの二人ふたりうつくしき
舞姫
人に侍る大堰おほゐの水のおばしまにわかきうれひの袂の長き
くれなゐの扇に惜しき涙なりき嵯峨のみじか夜暁あけ寒かりし
朝を細き雨に小鼓こつづみおほひゆくだんだら染の袖ながき君
人にそひて今日けふ京の子の歌をきく祇園ぎをん清水きよみづ春の山まろき
くれなゐの襟にはさめる舞扇まひあふぎ酔のすさびのあととめられな
桃われの前髪ゆへるくみ紐やときいろなるがことたらぬかな
浅黄地に扇ながしの都染みやこぞめ九尺のしごき袖よりも長き
四条橋ばしおしろいあつき舞姫のぬかささやかに撲つ夕あられ
さしかざす小傘をがさに紅き揚羽蝶あげはてふ小褄とる手に雪ちりかかる
舞姫のかりね姿ようつくしき朝京きやうくだる春の川舟
紅梅に金糸のぬひの菊づくし五枚かさねし襟なつかしき
舞ぎぬの袂に声をおほひけりここのみ闇の春の廻廊わたどの
まこと人を打たれむものかふりあげし袂このまま夜をなに舞はむ
三たび四たびおなじしらべの京の四季おとどの君をつらしと思ひぬ
あてびとの御膝みひざへおぞやおとしけり行幸源氏みゆきげんじの巻絵まきゑの小櫛をぐし
しろがねの舞の花櫛おもくしてかへす袂のままならぬかな
四とせまへ鼓うつ手にそそがせし涙のぬしに逢はれむ我か
おほつづみ抱かゝへかねたるその頃よ美よき衣きぬきるをうれしと思ひし
われなれぬ千鳥なく夜の川かぜに鼓拍子つづみびやうしをとりて行くまで
いもうとの琴には惜しきおぼろ夜よ京の子こひし鼓のひと手
よそほひし京の子すゑて絹きぬのべて絵の具とく夜を春の雨ふる
そのなさけ今日舞姫まひひめに強しひますか西の秀才すさいが眉よやつれし
春思
いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春
春みじかし何に不滅ふめつの命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ
夜よの室むろに絵の具かぎよる懸想けさうの子太古の神に春似たらずや
そのはてにのこるは何と問ふな説くな友よ歌あれ終つひの十字架
わかき子が胸の小琴の音ねを知るや旅ねの君よたまくらかさむ
松かげにまたも相見る君とわれゑにしの神をにくしとおぼすな
きのふをば千とせの前の世とも思ひ御手なほ肩に有りとも思ふ
歌は君酔ひのすさびと墨ひかばさても消ゆべしさても消ぬべし
神よとはにわかきまどひのあやまちとこの子の悔ゆる歌ききますな
湯あがりを御風みかぜめすなのわが上衣うはぎゑんじむらさき人うつくしき
さればとておもにうすぎぬかづきなれず春ゆるしませ中なかの小屏風
しら綾に鬢の香しみし夜着よぎの襟そむるに歌のなきにしもあらず
夕ぐれの霧のまがひもさとしなりき消えしともしび神うつくしき
もゆる口になにを含まむぬれといひし人のをゆびの血は涸れはてぬ
人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ
ここに三とせ人の名を見ずその詩よまず過すはよわきよわき心なり
梅の渓の靄もやくれなゐの朝すがた山うつくしき我れうつくしき
ぬしや誰れねぶの木かげの釣床つりどこの網あみのめもるる水色のきぬ
歌に声のうつくしかりし旅人の行手の村の桃しろかれな
朝の雨につばさしめりし鶯を打たむの袖のさだすぎし君
御手づからの水にうがひしそれよ朝かりし紅筆べにふで歌かきてやまむ
春寒はるさむのふた日を京の山ごもり梅にふさはぬわが髪の乱れ
歌筆を紅べににかりたる尖さき凍いてぬ西のみやこの春さむき朝
春の宵をちひさく撞きて鐘を下りぬ二十七段だん堂のきざはし
手をひたし水は昔にかはらずとさけぶ子の恋われあやぶみぬ
病むわれにその子五つのをととなりつたなの笛をあはれと聞く夜
とおもひてぬひし春着の袖うらにうらみの歌は書かさせますな
かくて果つる我世さびしと泣くは誰ぞしろ桔梗さく伽藍がらんのうらに
人とわれおなじ十九のおもかげをうつせし水よ石津川の流れ
卯の花を小傘をがさにそへて褄とりて五月雨わぶる村はづれかな
大御油おほみあぶらひひなの殿とのにまゐらするわが前髪に桃の花ちる
夏花に多くの恋をゆるせしを神悔い泣くか枯野ふく風
道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る
魔に向ふつるぎの束つかをにぎるには細き五つの御指みゆびと吸ひぬ
消えむものか歌よむ人の夢とそはそは夢ならむさて消えむものか
恋と云はじそのまぼろしのあまき夢詩人しじんもありき画だくみもありき
君さけぶ道のひかりの遠をちを見ずやおなじ紅あけなる靄もやたちのぼる
かたちの子春の子血の子ほのほの子いまを自在の翅はねなからずや
ふとそれより花に色なき春となりぬ疑ひの神まどはしの神
うしや我れさむるさだめの夢を永久とはにさめなと祈る人の子におちぬ
わかき子が髪のしづくの草に凝りて蝶とうまれしここ春の国
結願けちぐわんのゆふべの雨に花ぞ黒き五尺こちたき髪かるうなりぬ
罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ
そとぬけてその靄もやおちて人を見ず夕の鐘のかたへさびしき
春の小川うれしの夢に人遠き朝を絵の具の紅き流さむ
もろき虹の七いろ恋ふるちさき者よめでたからずや魔神まがみの翼つばさ
酔に泣くをとめに見ませ春の神男の舌のなにかするどき
その酒の濃きあぢはひを歌ふべき身なり君なり春のおもひ子
花にそむきダビデの歌を誦せむにはあまりに若き我身とぞ思ふ
みかへりのそれはた更につらかりき闇におぼめく山吹垣根
ゆく水に柳に春ぞなつかしき思はれ人に外ならぬ我れ
その夜かの夜よわきためいきせまりし夜琴にかぞふる三とせは長き
きけな神恋はすみれの紫にゆふべの春の讃嘆さんたんのこゑ
病みませるうなじに繊ほそきかひな捲きて熱にかわける御口みくちを吸はむ
天の川そひねの床のとばりごしに星のわかれをすかし見るかな
染めてよと君がみもとへおくりやりし扇かへらず風秋あきとなりぬ
たまはりしうす紫の名なし草うすきゆかりを歎きつつ死なむ
うき身朝をはなれがたなの細柱ほそばしらたまはる梅の歌ことたらぬ
さおぼさずや宵の火かげの長き歌かたみに詞あまり多かりき
その歌を誦ずします声にさめし朝なでよの櫛の人はづかしき
明日あすを思ひ明日の今おもひ宿の戸に倚る子やよわき梅暮れそめぬ
金色こんじきの翅はねあるわらは躑躅つつじくはへ小舟をぶねこぎくるうつくしき川
月こよひいたみの眉はてらさざるに琵琶だく人の年とひますな
恋をわれもろしと知りぬ別れかねおさへし袂風の吹きし時
星の世のむくのしらぎぬかばかりに染めしは誰のとがとおぼすぞ
わかき子のこがれよりしは鑿のにほひ美妙みめうの御相みさうけふ身にしみぬ
清し高しさはいへさびし白銀しろがねのしろきほのほと人の集しふ見し(酔茗の君の詩集に)
雁かりよそよわがさびしきは南なりのこりの恋のよしなき朝夕あさゆふ
来し秋の何に似たるのわが命せましちひさし萩よ紫苑よ
柳あをき堤にいつか立つや我れ水はさばかり流とからず
幸さちおはせ羽やはらかき鳩とらへ罪ただしたる高き君たち
打ちますにしろがねの鞭うつくしき愚かよ泣くか名にうとき羊ひつじ
誰に似むのおもひ問はれし春ひねもすやは肌もゆる血のけに泣きぬ
庫裏くりの藤に春ゆく宵のものぐるひ御経みきやうのいのちうつつをかしき
春の虹ねりのくけ紐たぐります羞はぢろひ神がみの暁あけのかをりよ
室むろの神に御肩みかたかけつつひれふしぬゑんじなればの宵の一襲ひとかさね
天あめの才さいここににほひの美しき春をゆふべに集しふゆるさずや
消えて凝こりて石と成らむの白桔梗しろぎきやう秋の野生のおひの趣味しゆみさて問ふな
歌の手に葡萄をぬすむ子の髪のやはらかいかな虹のあさあけ
そと秘めし春のゆふべのちさき夢はぐれさせつる十三絃よ
 
三木露風

 

去りゆく五月の詩
われは見る。
廃園の奥、折ふしの音なき花の散りかひ。
風のあゆみ、静かなる午後の光に、去りゆく優しき五月のうしろかげを。
空の色やはらかに青みわたり 夢深き樹には啼〔な〕く、空〔むな〕しき鳥。
あゝいま、園〔その〕のうち 「追憶」〔おもひで〕は頭〔かうべ〕を垂れ、
かくてまたひそやかに涙すれども かの「時」こそは
哀しきにほひのあとを過ぎて 甘きこころをゆすりゆすり
はやもわが楽しき住家〔すみか〕の 屋〔をく〕を出〔い〕でゆく。
去りてゆく五月。われは見る、汝〔いまし〕のうしろかげを。
地を匍〔は〕へるちひさき虫のひかり。うち群〔む〕るゝ蜜蜂のものうき唄
その光り、その唄の黄金色〔こがねいろ〕なし 日に咽〔むせ〕び夢みるなか……
あゝ、そが中に、去りゆく 美しき五月よ。
またもわが廃園の奥、苔古〔ふ〕れる池水〔いけみず〕の上、
その上に散り落つる鬱紺〔うこん〕の花、わびしげに鬱紺の花、沈黙の層をつくり
日にうかびたゞよふほとり――
色青くきらめける蜻蛉〔せいれい〕ひとつ、その瞳、ひたとたゞひたと瞻視〔みつ〕む。
ああ去りゆく五月よ、われは見る汝のうしろかげを。
今ははや色青き蜻蛉の瞳。鬱紺の花。
「時」はゆく、真昼の水辺〔すゐへん〕よりして――
三木露風(1889–1964)が詩人として生きたのは『廃園』(1909)から『白き手の猟人』(1913)までの数年である。露風といえば、その詩よりも、朔太郎の「三木露風一派の詩を追放せよ」という文章が思い出されるところがあるが(実際、『白き手の猟人』以降、その詩は衰弱していった)、「はびこれる悪草のあひだより/美なるものはほろび去れり/青白き光の中より/健げなるものは逝けり――」という序詩をもつ詩集『廃園』(1909)に収められた、この「去りゆく五月の詩」は記憶に残る一篇である。「去りゆく優しき五月のうしろかげを」などという一行は絶妙で、フランスの詩から影響を受けたのであろう、優美な動きのなかに安定したものが感じられる詩行の展開は繰り返し味わいたくなる。「ハアプの一の銀線の様に感じ易い心を以て、生〔ラ・ヸィ〕を歌つてゐる半音楽〔セミ・ミュジカル〕な」という高村光太郎のことばは言い得て妙か。最後の一行が含意する遠さが深い。 
 
堀口大學

 

夕ぐれの時はよい時
夕ぐれの時はよい時、かぎりなくやさしいひと時。
それは季節にかかはらぬ、冬なれば煖炉のかたはら、
夏なれば大樹の木かげ、それはいつも神秘に満ち、
それはいつも人の心を誘ふ、それは人の心が、
ときに、しばしば、静寂を愛することを
知つてゐるもののやうに、小声にささやき、小声にかたる……
夕ぐれの時はよい時、かぎりなくやさしいひと時。
若さににほふ人々の為〔た〕めには、それは愛撫に満ちたひと時、
それはやさしさに溢れたひと時、それは希望でいつぱいなひと時、
また青春の夢とほく 失ひはてた人々の為めには、
それはやさしい思ひ出のひと時、それは過ぎ去つた夢の酩酊、
それは今日の心には痛いけれど、しかも全く忘れかねた
その上〔かみ〕の日のなつかしい移り香〔が〕。
夕ぐれの時はよい時、かぎりなくやさしいひと時。
夕ぐれのこの憂鬱は何所〔どこ〕から来るのだらうか?
だれもそれを知らぬ! (おお! だれが何を知つてゐるものか?)
それは夜とともに密度を増し、人をより強き夢幻へとみちびく……
夕ぐれの時はよい時、かぎりなくやさしいひと時。
夕ぐれ時、自然は人に安息をすすめるやうだ。
風は落ち、ものの響〔ひびき〕は絶え、
人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、
今まで風にゆられてゐた草の葉も
たちまちに静まりかへり、小鳥は翼の間に頭〔かうべ〕をうづめる……
夕ぐれの時はよい時、かぎりなくやさしいひと時。
「夕ぐれの時はよい時」は、大正8年に出版された詩集『月光とピエロ』に収められている。一見、堀口大學らしくない詩ではあるが、後に『月下の一群』(1925)にまとめられる訳詩の経験が見事に生かされた、忘れがたい詩である。この詩の眼目は、いうまでもなく「夕ぐれの時はよい時、かぎりなくやさしいひと時。」のルフランにある。とりわけ「よい時」の「よい」ということばが味わい深い。この一語のために、この詩は書かれたのではないだろうか。 
 
草野心平

 

秋の夜の会話
さむいね ああさむいね
虫がないてるね ああ虫がないてるね
もうすぐ土の中だね 土の中はいやだね
痩せたね 君もずゐぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね 腹とつたら死ぬだらうね
死にたくはないね さむいね
ああ虫がないてるね
草野心平(明治36年—昭和63年)の第一詩集『第百階級』は昭和3年に出版された。「秋の夜の会話」は、その冒頭に置かれた詩である。これまで繰り返すとおり、大正末から昭和初頭にかけて現代詩は形成されていくが、それは大きく分けて、芸術革命を志向するアヴァンギャルド詩の運動と社会革命を志向するプロレタリア詩の運動のふたつの流れによるものだった。ところで、草野心平は、そのいずれにも括られない独自な場所を生きていたようだ。そのあたりのことを考えるのは別の機会にして、いまは、「一般には『第百階級』がぼくの処女詩集となっているが、それでもいいわけです」と作者が云うところの詩集を読むに際して必要と思われるものを下に引用する。
1、高村光太郎の「序」から
「この世に詩人が居なければ詩は無い。詩人が居る以上、この世に詩でないものは有り得ない」「彼(註 草野心平)は蛙でもある。蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない。それになり切る程通俗ではない。又なり切らない程疎懶ではない」「第百階級をニヒルの巣窟と見る者は浅見の癡漢、第百階級は積極無道の現実そのものだ」
2、詩集の「エピグラフ」から
蛙はでつかい自然の讃嘆者である 蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである
蛙は明朗性なアナルシスト 地べたに生きる天国である
なお、心平独自の一行ごとに句点を打つ書法は、この『第百階級』ではまだ現われていない。 
 
三好達治

 

甃のうへ
あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ うららかの跫音〔あしおと〕空にながれ
をりふしに瞳をあげて 翳〔かげ〕りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍〔いらか〕みどりにうるほひ 廂〔ひさし〕々に
風鐸〔ふうたく〕のすがたしづかなれば ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃〔いし〕のうへ
三好達治(明治33年—昭和39年)の『測量船』(1930)の読者は多いようだが、筆者には、三好達治の詩はいまひとつピンとこない。そのなかで、上の「甃のうへ」だけは例外で、「ひとりなる/わが身の影をあゆまする甃〔いし〕のうへ」という憂愁には惹かれる。ところで、この詩が、室生犀星の「春の寺」の意識的な本歌取りだと指摘したのは大岡信氏である。
○春の寺 / 室生犀星
うつくしきみ寺なり み寺にさくられうらんたれば
うぐひすしたたり さくら樹〔ぎ〕にすゞめら交〔さか〕り
かんかんと鐘鳴りてすずろなり。
かんかんと鐘鳴りてさかんなれば をとめらひそやかに
ちちははのなすことをして遊ぶなり。 
門もくれなゐ炎炎と うつくしき春のみ寺なり。
なるほど、ふたつの詩を読みくらべれば、大岡氏の指摘に納得させられるが、よりはっきりとするのは、ふたりの詩人の資質の違いではないだろうか。「本の手帖」の「三好達治追悼号」(1964年6月号)に収められた様々な文章は、この詩人の「謎」の一端に触れるようなところがあり、実に興味深い。奥野健男によれば、萩原朔太郎全集の編集に際して、犀星と達治は喧嘩別れし、そのまま絶交状態にあったのだが、達治は犀星の通夜に羽織袴で現われたという。「二日続いたお通夜のあと、三好さんは家にも帰らず、とん平でいつまでも飲み続けられていた。そしてたまたま隣の席に坐つたぼくに、自分がどの位犀星に決定的な影響を受けたか、詩人として完成したのは朔太郎だがそのそもそもは犀星の『抒情小曲集』の革命的な詩表現にあることを何度となく繰り返し述べ、惜しい詩人を喪つたと言つては絶句し、涙をぬぐわれるのであつた」。「み寺にさくられうらんたれば/うぐひすしたたり/さくら樹にすゞめら交り」と歌う犀星に憧れつつ、「ひとりなる/わが身の影」と記したのは達治26歳の時であった。 
 
西脇順三郎

 

旅人かへらず
旅人は待てよ このかすかな泉に
舌を濡らす前に 考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た 水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない 永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい 時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る 永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに 思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて 消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童 村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃
北村太郎の「空白はあったか」が発表されたのは1947年4月であったが、その年の8月に、西脇順三郎の『旅人かへらず』が刊行されている。同時に、『Ambarvalia』 を改作した『あむばるわりあ』も刊行された。さらに付け加えれば、同年11月、「荒地」の西脇順三郎特集号が出ている。 この『旅人かへらず』については、最近、八木幹夫氏が発表した「『旅人かへらず』の詩篇をめぐって —「昔の土を憶ふ」—」という論考をたいへん興味深く読んだ。それは、『旅人かへらず』の六五「よせから/さがみ川に沿ふ道を下る/重い荷を背負う童子に/道をきいた昔の土を憶ふ」という詩句から、「永遠を覗いてしまった詩人」を解読するものだが、八木氏は、「この詩集(『旅人かへらず』)を揶揄して、しばしば枯淡の東洋回帰とか文人趣味の先祖がえりという人もいるが、それは余りにも当時の西脇さんの心中とかけ離れている。」と云う。後に、西脇は「『旅人かえらず』は戦争のために回顧的に書いている。あれは私の好きな文章のつくり方ではなかった。」と書いたが、それは、「諧謔の人としてはあまりに重いサンチマンの気配がありすぎると考えたためかもしれない。」(八木幹夫)。 この『旅人かへらず』の一はこれまでも何度となく読み返してきた。この詩句が含意するものは多義的であり、その時々で読み方は異なるが、最近は、冒頭の4行「旅人は待てよ/このかすかな泉に/舌を濡らす前に/考へよ人生の旅人」を、あの「ギリシア的抒情詩」の一篇「雨」の終行「私の舌をぬらした」との関係において読むことが多い。「雨」が「存在」の輝きを表象した詩であるとするならば、『旅人かへらず』では、「舌を濡らす前に/考へよ」と、なぜ「存在」するのかという反省的思索、存在論的思索に踏み入っている。であればこそ、「ああかけすが鳴いてやかましい」という一行/「存在」がもつイロニーが輝く。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 


 

 

 
 

 

 
 

 

 
何もかも本当は面倒くさい  寂聴と塩野七生