「資本論」

資本論 / 1商品2交換3貨幣4資本公式5資本公式矛盾6労働力7労働過程8不変資本と可変資本9剰余価値率10労働日11剰余価値12相対的剰余価値13協同作業14分業と工場手工業15機械と近代工業16剰余価値17労働力変化18剰余価値率19労働力の価値20時間賃金21出来高払い賃金22賃金の国別の違い23単純再生産24剰余価値の資本変換  
「資本論」解説 / 1商品2交換3貨幣4貨幣の資本への転化5労働過程と価値増殖過程6資本7剰余価値率8労働日9剰余価値率10相対的剰余価値11協業12分業とマニュファクチュア13機械と工場14剰余価値15労働力の価格16剰余価値率17労働力の価値18時間賃金19出来高賃金20労賃の国民的相違21単純再生産22剰余価値の資本転化23資本主義的蓄積の法則24本源的蓄積25近代殖民理論
1貨幣資本の循環2生産資本の循環3商品資本の循環4循環過程の三つの図式
諸話 / 経済学批判ドイツイデオロギー国家と革命・・・
 

雑学の世界・補考

「資本論」

第一巻資本の生産過程
序文とあとがき
第一篇 商品と貨幣
 第一章 商品
 第二章 交換
 第三章 貨幣、または商品の流通
第二篇 貨幣の資本への変換
 第四章 資本となるための一般公式
 第五章 資本となるための一般公式における矛盾
 第六章 労働力の買いと売り
第三篇 絶対的剰余価値の生産
 第七章 労働過程と剰余価値生産の過程
 第八章 不変資本と可変資本
 第九章 剰余価値率
 第十章 労働日
 第十一章 剰余価値の率と量
第四篇 相対的剰余価値の生産
 第十二章 相対的剰余価値の概念
 第十三章 協同作業
 第十四章 分業と工場手工業
 第十五章 機械と近代工業
第五篇 絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産
 第十六章 絶対的剰余価値と相対的剰余価値
 第十七章 労働力の価格と剰余価値とにおける大きさの変化
 第十八章 剰余価値率に関する公式
第六篇 賃金
 第十九章 労働力の価値(とそれぞれの価格)の賃金への変換
 第二十章 時間賃金
 第二十一章 出来高払い賃金
 第二十二章 賃金の国別の違い
第七篇 資本の集積
 第二十三章 単純再生産
 第二十四章 剰余価値の資本への変換  
 
第一章 商品

 

第一節 商品の要素は二つ
 使用価値と価値(価値の実体と価値の大きさ)である
(1)資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積のようなものとして現われる。その最小単位は一商品ということになる。従って、我々の資本主義的生産様式の考察は、一商品の分析を以て始めねばならぬ。
(2)一商品は、とにもかくにも我々の面前に存在して、その特質をもって、人間の様々な欲求を満足させて呉れる。その欲求が、例え胃からであろうと、幻想からであろうとかまわない。ただこの商品要素の考察という段階においては、一商品が、直接的に生存のための欲求にであれ、間接的に生産に用いるための欲求にであれ、どのようにこれらの欲求を満足させるかについては、特に知る必要はない。
(3)鉄や紙などの有用物を、その質と数量という視点から見て行くことにしょう。これらのものは、様々な特質の集合体であり、様々な用途に使える。これらの用途の発見は歴史的な所産である。また、これらの有用物の数量を計る標準的な方法も、社会的に確立されてきたものである。様々な計量方法があり、計られる物の性状の違いによるものもあれば、習慣的に用いられてきた方法もある。
(4)ある物の有用性が、その物の使用価値である。物の有用性は空中に浮かんでいるものではなく、あくまでもその商品の物質的な特質の内に限られ、その商品の外に存在してはいない。つまりは、一商品、鉄とかトウモロコシとかダイヤモンドとかは、一現物であり、使用価値であり、有用物なのである。この一商品の使用価値という特質は、その有用さの質のために必要とされた労働の量からは独立している。我々が使用価値を論じる場合は、常に、その数量の確認が大切である。1ダースの時計とか1ヤードのリネンとか1トンの鉄とかのように。しかしながら、商品群の各使用価値の諸々については、それしか知識を要さない商品学に任せておけばいい。使用価値は、使用や消費においてのみ、実現する。また、富の実体となる。それがいかなる社会的な富であろうともである。現資本主義社会においては、その富がさらに加えて、交換価値の保管物であるということが、我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。
(5)交換価値は、ちょっと見た限りでは、数量的な関係に見える。あるものの有用さと他のものの有用さの比例的な関係に見える。しかもその関係は時や場所によって常に変化する関係に見える。このため、交換価値は偶然的で全く相対的なものであるように見える。しかしながら、一方では、商品とは切り離せない固有の価値にも見える。この相対性と固有という関係には言葉の矛盾を感じるだろう。これらの内容をもう少し細かく考えて行くことにしょう。
(6)与えられた一商品、例えば、1クオーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金等々と交換される。これらの商品はそれぞれ全く違う特質を有しているにも関わらず、交換される。小麦という一つの交換価値は、従って、様々な交換価値を持つことになる。
しかし、交換した結果から見れば、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金等々の交換価値は、1クオーターの小麦の交換価値ということになるので、さらに、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金等々それぞれの商品は、相互に交換価値があり、交換することができることになる。これらの事を踏まえれば、第一に、様々な量の商品達の交換価値は同一の何かを表しているということになる。第二に、交換価値とは、一般的に、商品に含まれ、識別できる何んらかのものの、一つの表現形式・現象形式だということになる。
(7)二つの商品を取り上げてみよう、トウモロコシと鉄である。それらは、それなりの比率で交換可能である。その比率がどうであれ、常に、与えられた量のトウモロコシは、ある量の鉄と、次のような等式で表わすことができる。
1クオーターのトウモロコシ=xツェントナーの鉄
この等式は、我々に何を語っているだろう?二つの違った事を語っている。まずは、1クオーターのトウモロコシとxツェントナーの鉄には、両者に共通な大きさの何かがあるということである。次いで、従って、二つの物には、1クオーターのトウモロコシとxツェントナーの鉄以外の、ある大きさを持った何かが存在しなければならないということになる。しからば、交換価値を持つこれらの二つの商品は、両者以外の同じ大きさを持つ何かと交換することができ、それらも等式で示しうるということをも語っている。
(8)簡単な幾何学図で説明してみよう。多角形の面積を求めたり比較したりする場合、我々は三角形に分解して計算する。ところで、三角形の面積は、その形とは別な、底辺の1/2と高さの積で表される。同じ様に、様々な商品の交換価値は、各商品に共通のある物で、その量の多いか少ないかで表すことができるということである。
(9)この共通のある物は、商品の幾何学的特質でも化学的特質でも、その他の自然的な特質でもあり得ない。その特質は、それら商品の有用性つまり使用価値にあるのではないかと思わせる。がしかし、明らかに商品の交換は、使用価値を全く考慮することもなく実行されるものである。結果的に、ある使用価値は、量が十分対応していれば、別のものの使用価値と同じと見なされるだけである。かのバーボン老が「ある衣料は、もしその価値が他の何かと等しいなら、あたかもその何かと同じものとなる。ある物と他の物の価値が同じで、そこに差異や異存がないならば、100ポンドの価値なる鉛や鉄は100ポンドの価値の銀や黄金と同じ価値であるように、同じ価値、同じ物となる。」と云ったように、見えるだろう。勿論、様々な商品の使用価値はそれぞれ違った特質を持っている、しかし、交換価値となると、量の違いだけである。これらから分かるように、交換価値には、使用価値の1原子も含まれていないと云うことである。
(10)もし、我々が、商品から、商品の使用価値を取り除いて見たとしたら、何が残っているだろうか。ただ一つ共通的な特質がそこにまだ残っている。商品を作り出した労働がそれである。しかし労働の産物だとしても、それはすでに、我々の手の中の物ではなく、変化してしまっている。もし、我々が、使用価値を取り除いて見たとしたら、同時にまた、使用価値であるその生産物の素材や形をも取り除いて見たとしたら、もはやそれはテーブルでも家でも糸でも、その他の有用物でもないものを見ていることになる。その物としての内容が視界から消えている。その物はもはや、家具職の労働の産物とも思えず、大工職の労働の産物とも思えず、紡績工の労働の産物とも、その他職種の労働の産物とも云えない。その物の有用な質も、そこに込められた有用な労働も、労働の内容も見ないとしたら、もう、その物には何も残らない。しかし、それらの物に共通する何かが残るのである。それは、ただ一つのもの、同じ意味での労働、つまり「人間の労働」が、この様に子細を取り去れば、そこにあるのが見えてくるだろう。
(11)さて、この生産物から諸々を取り去って残った何かを、今こそ取り上げて考察してみよう。それは、それぞれに同じ様にありながら姿は見えない。ただ一様に混ざり合った「人間の労働」の混成物、「人間の労働力」をどのように混ぜるかに関係なく混ぜ合わせた代物なのである。「人間の労働力」が注ぎ込まれた生産物、「人間の労働」が生産物となっていると、これらの考察が語っている。このように、生産物全てに共通する「人間の労働」という社会的実体の結晶を見れば、それが――価値である。
(12)商品が交換される時、それらの交換価値は、全く、使用価値から独立したあるものであると明らかに示す。我々が見て来た通りである。しかしもし、それらの使用価値を取り去っても、見て来たように、そこには価値が残存する。であるから、商品の交換価値の中に、価値を示す共通なあるものの存在が明らかである。交換されるものはいつでも、その価値なのである。我々の考察の進展は、やがて、交換価値が単に、商品の価値を証明するか、表現するかの形式であることを教えてくれることになるだろう。が、今の段階では、この交換価値とその形式から逆に、それから独立している使用価値の方について思考を深める必要がある。
(13)かくて、使用価値あるいは有用物は、物に込められた「人間の労働」という、こまごました内容がそぎ落とされたところの価値を持つ。さて、この価値の大きさはどのようにして計量されるのだろう。明瞭そのもの、価値を作り出した実体、その物に込められた労働の量である。そして、労働の量は、その労働の期間で計量される。労働の期間の大きさは、その標準的な週,日,時間で計量される。
(14)すると、ある人は、こんな風に考えるかも知れない。その物に費やされた労働の量で商品の価値が決まるなら、愚図で、未熟な労働者の作った商品の方がより価値があることになる。なぜなら、彼の生産物にはより長い時間を要しているだろうからと。そういうものではない。価値を作り出す労働とは、均一に混ぜ合わせられた「人間の労働」であり、一つの決まった様式で表すことのできる労働力の表現なのである。社会によって作り出されたすべての商品の価値の総計に込められた社会的な労働力の総計のことである。ここは、大勢の個々の労働力で構成された一塊りの均一な労働の集合体として見た「人間の労働」で考える必要がある。このように見れば、個々の労働単位は、他の者の労働単位と同じである。その労働の結果も同様である。つまりは、社会的な平均の「人間の労働」という性格をもったものである。一商品を作るに要する平均的時間以上の時間は必要もなく、社会的に必要とされる時間を越える時間も必要がない。通常の生産条件において、かつ平均的な熟練と集中力をもってある物を生産するに要する社会的な労働時間のことである。機械を導入した英国では、ある量の糸を布にするために必要な労働時間をおおよそ1/2に減らした。手織りの場合は、従来と同じ時間を要したが、実際に、この影響を受けて、一時間の労働が、半時間の社会的労働で置き換えられ、その結果、以前の価値が半分に下がった。
(15)ある物の価値の大きさは、社会的に必要とされる労働の量、または、生産物に必要とされる社会的な労働時間がこれを決めていると分かった。これらのことを踏まえれば、それぞれ個々の商品は、どれをとってもその一般的で平均的な社会的労働時間の量の生産物と見ることができる。従って、同じ商品は、そこに同じ量の労働が含まれており、また同じ時間で生産することができ、同じ価値を持っている。一商品の価値は、他の商品の価値と比例している。丁度そのものの生産に必要な労働時間が、他の物の生産に必要な労働時間と比例しているからである。つまりは、すべての商品の総価値は、まさに、総労働時間が凝結したものなのである。
(16)一商品の価値は、もし、その生産に要する労働時間が変わらず一定であれば、一定に留まる。ただ、労働時間は、労働生産性の変化により変わってくる。労働生産性は、様々な周辺状況や、作業技量の向上や、科学の進捗や、実用的な道具類の応用や、生産の社会的組織化、生産手段の実用化・拡大化、自然条件、で変わってくる。例えば、同じ労働量が豊作の季節なら、8ブッシェルのトウモロコシの収穫となるが、不作の季節なら、4ブッシェルの収穫に終わる。同じ労働量が、鉱脈豊かな鉱山では、貧弱な鉱山より多くの金属を産出する。ダイヤモンドともなれば、地表にはまずなく、その発見には、非常に長い労働時間が費やされ、その多大な労働が小さな片に象徴されている。黄金といえども、その全ての価値が今迄にまともに評価されたことがあるかとヤコブは云うが、ダイヤモンドに当てはめればなおさらのことであろう。エッシュベーゲによれば、1823年に至る80年間のブラジルのダイヤモンド鉱山が産出した全ダイヤモンドの価格は、同国の砂糖とコーヒー農園の一年半の平均的生産額にも及ばないと云う。だからこそ、小さなダイヤモンドに、より大きな労働が費やされており、大きな価値を表す。とはいえ、ダイヤモンド鉱脈の豊かな鉱山なら、同じ程の労働がより多くのダイヤモンドの産出となり、その価値は低落するであろう。もし仮に、僅かな労働の支出で、炭素からダイヤモンドを合成することができたら、その価値はレンガよりも小さなものとなるかもしれない。一般的に、労働生産性が大きくなれば、その物の生産に要する労働時間は短くなり、その物に結実される労働の量は小さくなり、その価値は小さくなる。逆に、労働生産性が小さくなれば、その物の生産に要する労働時間は長くなり、その物に結実される労働の量は大きくなり、その価値は大きくなる。まとめれば、一商品の中に込められた労働の量で、その価値が変わる、労働生産性は逆の労働量の変化をもたらす。
(17)なかには、価値はなくても、使用価値である物がある。人にとって有用ではあっても、なんら労働の必要がない物がそれである。空気、処女地、自然の牧場等である。また、なかには、有用であり、人間の労働の生産物であっても、商品とはならない物もある。直接的に自分の欲求を満たすために自分の労働によって作った物は、まさに、使用価値を生み出しているが、商品ではない。商品をと云うならば、使用価値を作るだけではなく、他人のための使用価値、つまりは社会的な使用価値を作らなければならない。(中世の農夫は、他人のために、他でもなく、領主に年貢を、教主に1/10税を生産したのである。確かに、他人のための使用価値を作っているが、この年貢や1/10税は、商品ではない。商品たるためには、他人の使用価値足らしめるために、それが交換によって、他人に渡らなければならない。)もう一つ最後に、物に有用性が欠けていれば、何物も価値は持たない。もし、無用な物であれば、そこに労働が含まれているとしても、その労働は労働とは見なさない。その労働は価値を作らない。
第二節 商品に込められた労働には、二重の性格がある

 

(1)最初に見たように、一商品は、自らを二つの要素-使用価値と交換価値のからまったものとして我々の前に現れた。また、価値という点から見るときには、労働が、使用価値を作るという労働の性格と同じ性格を示さないという二重の性格についても見て来た。商品に含まれる労働の二重の性格については、別の著書で、他の著者達に先がけて指摘してきたところでもある。この視点は政治経済動向の鮮明な理解のための軸足となることから、我々は、より詳細にこれを捉えておきたい。
(2)二つの商品を取り上げてみよう。一着の上着と10ヤードのリネンである。前者は後者の2倍の価値を持っているとしよう。そこで、10ヤードのリネン=Wとすると、一着の上着=2Wと表すことができる。
(3)上着は、そのはっきりした欲求を満足させる使用価値である。その使用価値は、目的的に、作業場を設け、材料と、道具を、用いて行った、そのための特別な生産的活動の結果で実現したものである。その生産物の使用における価値によって、その労働の有用性もそこに示されている。また別な言い方をするなら、労働によって、その生産物が使用価値となっていることが、明らかに示されている。我々がその有用な効果を確認するからこそ、それを有用な労働と呼ぶ。
(4)上着とリネンは二つの質的に異なる使用価値であり、またそれを作り出すには二つの違った労働の形式がある。仕立てと機織りである。これらの二つの物が、質的に違っておらず、またそれぞれ違った労働の質によって生産されていないならば、両者は、商品としての関係をもって相対することはできないだろう。上着は上着と交換されず、同じ使用価値を持つ別の物と交換されることはない。
(5)多くの様々な使用価値に対して、同じように多様な有用労働が対応しており、労働の社会的分業を、目,属,種,変種に分類できるだろう。この社会的分業は、商品の生産にとっては必要条件なのである。しかしその逆、商品の生産は社会的分業の必要条件とはならない。とはいえ、古代インドではカースト制による社会的分業があったが、商品の生産となったわけではない。または、近くの例をあげれば、多くの工場内ではシステムごとに労働が分けられてはいるが、その分業間でそれぞれの個別の生産物をお互いに交換したりはしない。生産物がお互いに認められる商品となることができるのは、ただそれらが異なる種類の労働の結果であり、それらの労働が独立してなされており、個別の誰かが考えて行った労働である場合である。
(6)それでは、要約しておこう。各商品の使用価値には、有用な労働が込められている。明確な目的をもって行われた明確な内容の生産的活動ということである。お互いに質的な違いがない有用な労働で成り立っている互いの物は、商品として相対することはできない。一般的に商品の形で物が生産される社会では、つまり個々の生産者が、独自の考えに基づいて行う独立した有用な労働で、かつ質的な違いがある労働によって成り立っている商品生産者の社会では、労働の社会的分業は、さらに複雑なシステムへと進展する。
(7)ところで、上着は、仕立屋に着られようと、客に着られようと、いずれの場合でも、使用価値となる。その上着とそのための労働との間には関係がない。ある状況下において、社会的分業の一独立部門として仕立て業が特別の業種になり、その労働が上着を作ったとしても同様に関係がない。誰かが仕立屋にならなくても、人類は幾千年の昔から、どこであろうと、着衣の欲求があり、衣服を作ってきた。云うまでもないが、上着やリネンは、その他の様々な物や富と同様、自然がそのまんま作り出した物ではなく、特定の欲求に対して自然にある特定の材料を利用して、その目的を持った作業、特殊な生産的な作業を行って得られたものに他ならない。であるから、労働は、使用価値の作り手であり、有用な労働であり、社会の態様に関係なく、人類の存在にとって、必要条件なのである。この作業は、自然が人間に課した永遠に続く作業であり、自然と人間の間で材料のやりとりが無かったなら、人間の生命もない。
(8)使用価値、上着やリネンやその他は、商品の本体で、二つの要素が組合わさったものである。つまり、素材と労働である。もし、そのものに費やされた有用な労働を取り去れば、自然が人の助けなしに成したままの材料が残る。人間が働きかける内容は、その自然的素材の形を変えることであって、自然でもやっているようなことである。それどころか、自然的素材を変形するに当たっても、常に自然の力に助けて貰っている。労働のみが、労働が作る使用価値たる物や富の源泉ではないことが分かる。ウィリアムペティが、労働はその父であり、大地がその母であると言うように。
(9)さて、我々は、使用価値として見て来た商品から、ここで、商品の価値の方を考えてみることにしよう。
(10)前に示した仮説、一着の上着は10ヤードのリネンの2倍の価値があるという仮説、に立ち戻ってみよう。この仮説は、単に量的な違いであるが、量が違うことを示しているだけではない。我々が注目するべきものは、もし仮に一着の上着の価値が10ヤードのリネンの2倍であるとしたら、20ヤードのリネンは一着の上着と同じ価値にならねばならぬということなのである。これらのものは、価値であり、上着もリネンもそれぞれ、そのための労働の明らかな結果であり、それぞれ同じ様に実体である。しかし、仕立てと機織りは、質的に違った内容の労働である。ところで、仕立てと機織りを同じ人間が順に行うような場合、そのような社会的状況であるとすれば、この二つの労働はただ同一の人間の労働のいろいろであって、異なる人間の労働として明確に決められた状況とは違う。同一の人間が、今日は上着を、別の日にはズボンを作るのと同じで、労働の幅のいろいろを示すだけである。また、現資本主義社会の中にも、いろいろな指示に基づいて、人間の労働のある部分は、仕立てに、他の部分は機織りに用いられる。多少の問題はあろうが、そういうことにならざるをえないはずである。
(11)もし、その生産的活動の特別な形式を見ないとすれば、すなわち、労働の有用な性格を見ないとすれば、そこには、単なる「人間の労働力」の支出以外の生産的活動はなくなる。それぞれ違った質の生産的活動ではあるが、仕立ても機織りも、人間の頭脳、神経、筋肉の生産的支出、つまりは「人間の労働」が意味するものとなる。異なる質の労働ではあるが、仕立てや機織りは、「人間の労働力」の、二つの違った支出形態なのである。勿論、差異があっても、同じものであるこの労働力は、多様な支出形態に対しても支出することができるが、そのためにも、それなりの発展的な技量度に到達していなければならない。商品の価値は、諸々を取り去った所の「人間の労働」を表しているが、一般的には、人間の労働の支出が、商品の価値を表している。また、この社会では、将軍とか銀行家が派手な役回りを演じているが、もう一方の側の、単なる人は、みすぼらしい、だがここにこそ単なる「人間の労働」がある。これが、他に何一つ持たない労働力の支出元、平均的で、様々な大きな発展からは取り残された、普通のどうということもない個々の人間なのである。ある特定の社会では、こんなもんである。だが、真実はこうである、単なる平均的労働が、違った地方では、違った時代では、その性格を変える。熟練労働は、単純労働をより強めたもの、いやそれ以上に単純労働を倍にしたものと考えられる、ある熟練労働の量は、単純労働のより多くの量と同じと考えられる。ところが、実際に経験していることは、熟練労働は、常に、単純労働並みのものへと小さく見なされるということである。最も熟練した技量の労働で作られた商品でも、未熟そのものの技量の労働の生産物と同じと見なされる。未熟労働だけのある量で表される。違った種類の労働で、違った熟練比率が混ざった労働であっても、社会的な仕組みででき上がったそれらの標準的な未熟労働として低く見なされる。この社会的な仕組みは、生産者の背後に隠れてでき上がってくるため、まるで、あたかも慣習的にでき上がったかのように見える。以下、全ての労働を、未熟で単純な労働として見ていくことにしよう。その方が分かりやすいだろう。なぜ、この熟練労働があの単純労働とみなされるのかに、煩わされることがなくなり、分かりやすくなるだろう。
(12)そこで、例の上着とリネンを価値として見れば、それぞれの異なる使用価値を取り去って見れば、それらの価値は、機織りとか仕立てとかの違いがある有用な労働の形を取り去ったところの労働によって表される。使用価値としての上着とリネンは、布と糸に、特別の生産活動を組み合わせたものであるが、一方、価値としての上着とリネンは、違いを取り除いた均一な労働の泥団子のようなもので、その価値に込められた労働は、布や糸に係わる生産的関係はかえりみられることもなく、まさに、ただの「人間の労働力」の支出である。仕立てと機織りは、上着とリネンの使用価値を作るための必要要素である。その二つの種類の労働は、違った質を持っている。しかしこれらの質を取り去るならば、いずれも同じ人間の労働という質しか無くなる。仕立てとか機織りとかの労働が、同じような物の同じような価値の実体を形づくる。
(13)前に示した等式を思い出して貰いたい。上着とリネンは単なる価値ではない。ある明確な大きさがあり、我々の仮説では、一着の上着は10ヤードのリネンの2倍の値であった。では、この差がこれらの値がいつどのように生じるというのだろう。それは、リネンは上着の半分の労働しか含まないという事実による。ということは、リネンの生産に必要な労働力に較べて、上着の生産に必要な労働力はその2倍の時間にわたって支出される必要があるという事実による。
(14)従って、次のようにまとめられる。使用価値に関して云えば、商品に込められた労働はその質を考えるが、価値として見ることになれば、そこに込められた労働は量であり、とにもかくにも、純粋かつ単質な「人間の労働」とみなしてその量として見なければならないのである。使用価値の場合は、どのようにして?とかそれはなんなのか?という質問が該当し、価値の場合は、いくら?とかどのくらい時間を要したのか?という質問に該当する。商品の価値は、ただ単に、そこに込められた労働の量で表されるものであるから、すべての商品は、それなりの比例関係にある同じ価値のものである、と云える。
(15)上着を作るために必要な、いろいろと異なる、有用な労働の生産性に変動がなければ、上着の価値の総額は、上着の数が増えれば、増大する。一着の上着が、x日の労働によってできたとすれば、二着の上着は、2x日の労働ということになり、以下同様の計算となる。そこで、もし、一着の上着を作るに必要な労働期間が倍になったり、半分になったりした時には、どうなるか。倍になれば、一着の上着は、以前の上着の二着分の値に跳ね上がる。半減すれば、二着の上着が、以前の上着の一着分の値になる。どちらの場合でも、各一着の上着は、以前と同じ効用で、違いはなにもない。各一着に込められた有用な労働の質も変わらない。ただ各一着の上着に費やされた労働の量は、以前とは違っている。
(16)使用価値の量が増えれば、物質的な富の増加となる。一着の上着はただ一人にしか着せられないが、二着の上着は二人に着せることができる。ところが、物質的な富の量の増加は、その価値の大きさの下落を同時に引き起こすことがあり得る。この逆行するような動きの起因は、労働に二重の性格があるからである。生産力は、云うまでもなく、ある具体的な形を持った有用な労働のことであり、その特定の生産的活動が一定期間内に示す効用は、その生産性に依存している。よって、有用な労働は、その生産性の上昇・下降の比率にもよるが、多かったり少なかったりはあるものの、生産物への有り余るほどの源泉となる。だが、一方、この生産性は、価値として表した労働にはなんらの変化をも及ぼさない。前に示した様に、生産力とは、具体的な有用な労働の形を表すものであるから、それらの具体的な有用な労働の形を取り去っている価値として表した労働には、もはやなんら関係を示しえない。従ってどうしようと、生産力が変化したとしても、一定期間内になされた同じ労働は、常に同じ価値の量を産出するだけである。だが、生産力に変化が生じれば、その具体的労働が、一定期間内に、使用価値の違った量を産出する。生産力が増大すれば、より大きな使用価値の量を、そして縮小の時はより少ない使用価値の量を産出するのである。労働の果実を増大する、すなわち労働で作られる使用価値の量を増やすような生産力の変化が、まさにその同じ生産力の変化が、増大した使用価値の量の総価値を減らすであろう。なぜなら、この変化の結果、以前は、その生産に必要だった総労働時間が減るからである。生産力が縮小した場合はこの逆となる。
(17)一方で、生理学的現象かのように、すべての労働は、人間の労働力の支出であり、一切を取り去った典型的な人間の労働という性格によって、商品の価値というものを作り出し、他の一方で、すべての労働は、特別な形式があり、かつ、ある目的を持っている、具体的で有用な労働という性格によって、使用価値を作り出す。  
第三節 価値の形式、または交換価値

 

(1)商品は、使用価値の形で世界に入って来る。物品とか日用品とかであり、鉄やリネンやトウモロコシ他のようにである。これが分かりやすい、見慣れた、いつもの具体的な形であろう。とはいえ、これらは商品であるから、二重のなにものかであり、有用な物であると同時に価値の保管物なのである。だからこそ、それらは商品であることを示し、商品の形式を持っている。商品の形式とは、すなわち二つの形式、物質的または自然的な形式と、価値の形式である。
(2)ここまでいろいろと見てくれば、商品の価値の実体については、マダムクイックリーの「どこでそんなものが掴めるのか」そんなことはわからない、というのとは違うだろう。商品の価値は、その存在そのままの物質性からは、まさにその反対側にあって、その中には、物質なるものは、1分子たりとも入り込めない。いかにその一単体商品をひっくり返して調べたとしても、価値のかけらでも残っていないかと調べても、それを捉えることは不可能であろう。ただ、商品の価値というものが、社会的に実体化されたものという真実が分かれば、人間の労働という典型的な社会的存在がそこに込められており、表されているということが分かれば、価値はただ、商品に対する商品の社会的関係であることが明白となる。実際に、その関係の中に隠されていた価値を見つけるために我々は、商品の交換関係、つまり交換価値から考察を始めたのだ。我々は、ここで、我々が見て来た最初の価値の形式に、立ち戻ってみなければなるまい。
(3)誰もが知っていようと、いまいと、商品は人々の前では一つの価値の形式を持っている。その使用価値の様々な物体的形式とは違った際立ったしるしを表す。はっきり云えば、それが商品の価値の貨幣形式だ、ということである。かくて、我々はどうしてもやらなければならない事に直面した。この貨幣形式発生の過程を明らかにするということである。商品の価値関係を表す価値の表現がどのように進展してきたかである。ごく単純などうということもない交換からこの目もくらむような貨幣形式に到達したのである。不思議なことに、この追及作業は、今だかって、ブルジョワ経済学から試みられたことがないのだ。我々がこれから行うことによって、同時に、貨幣がもたらした謎も解けるだろう。
(4)もっとも単純な価値関係は、云うまでもないが、ある商品を、違った種類の商品で示すことである。このようにすれば、二つの商品間の関係が、一つの商品の価値を、もっとも単純な表現で示すことになる。
A.最初に出会う、または偶然的な価値の形式
1.相反する二つの価値表現の極、相対的価値形式と等価形式
(1)この最初に出会う形式の中に、価値の形式の全ての神秘が隠されている。だからこそ、このことが我々にとって非常に難解なところなのである。
(2)ここでは、二つの種類の異なる商品(我々の例では、リネンと上着)は、明らかに違った役割を演じている。リネンは、自身の価値を、上着で表している。ということは、上着はその価値を表すものとして使われている。前者は能動的に演じ、後者は受動的に演じている。リネンの価値は相対的価値を表し、相対的価値形式となっている。上着は、等価であることを役目として示しており、等価形式となっている。
(3)相対的価値形式と等価形式は、ともに一体的に結合されており、互いに依存しており、切り離せない価値表現の核心なのである。がしかし、同時に、互いに排除しあう、極端に対立する同じ価値表現の両極なのである。この二つは、二つの異なった商品がその価値表現としての関係に置かれた時、それぞれ別々に当てはめられるのである。リネンの価値をリネンで表すことはできない。20ヤードのリネン=20ヤードのリネンとしてもなんの価値表現にもならない。それどころか、この等式は単に20ヤードのリネンは20ヤードのリネンでしかないと、交換価値をも消失した表現で、リネンの使用価値の量のことのみを示すだけとなる。リネンの価値は、だから、なにか別の商品で相対的に表現される他はないのである。リネンの価値の相対的形式は、従って、なにか別の商品(ここでは上着であるが)の存在を等価形式として予め想定している。一方の等価を表す商品は、同時に相対的価値形式を示すことはできない。等式の右辺に置かれた(二つの商品のうちの二番目のもの、後者の)商品(上着)は、価値を表現されるものではない。単に等式の左辺に置かれた(二つの商品のうちの最初のもの、前者の)商品(リネン)の価値が表現されるための役を務めているだけである。
(4)勿論、等式は逆の関係をも表しているから、20ヤードのリネン=1着の上着または20ヤードのリネンは1着の上着に値する、ということが、逆の1着の上着=20ヤードのリネンまたは1着の上着は20ヤードのリネンに値するの意味にもなる。がしかし、逆に置く場合は、等式の左にくる1着の上着の価値を相対的形式で表すことになり、上着に替えてリネンを、等価形式で置くと、逆に考えなければならない。一単体の商品は、従って、同時に、二つの価値形式で同じ価値を表現することはできない。この非常に対極的な二つの価値表現形式は、互いに相手を排除しあう。
(5)そして、一商品が相対的価値形式を表しているか、逆の等価形式を表しているかは、全くのところ、価値の表現における偶然的な位置による。それは、その価値が表現される商品であるか、価値を表現している商品であるかによる。
2.相対的価値形式
(a)この形式の性質と意味
(1)二つの商品の価値関係の中に、商品の価値を表す、あの最初に出会った表現(等式)が、どのように隠されているかを見つけ出すためには、我々は、初めに、後者(等価形式とした物)を量的な外観からは切り離して見て行かねばならない。この点で、誰もが、大抵は、逆に、量的外観にとらわれ、価値関係としては何も見ず、二つの違った商品間の明確な量の比率を見て、その比率が互いを等しくしていると見てしまう。違った物の大きさを、量的に較べるには、これらの物が同じ単位で表された場合だけなのを、忘れてしまっている。両者が、同じ単位のものとして表わされた時だけ、同一尺度で計ることができるはずだ。
(2)20ヤードのリネン=1着の上着、または=20着の上着、または=x着の上着となるかは、与えられた量のリネンが僅かな数の上着に値するのか、いや多数の上着に値するかのということで、どの場合も、リネンと上着の、価値の大きさを、同じ単位表現で、ある種の品物で見ているということである。であるからこそ、リネン=上着という等式が成り立つのである。
(3)これら二つの商品の質の同一性が、このような等式で示されたとしても、同じ役割は果たせない。そうではなくて、ただ、リネンの価値が表されたということである。それで、どの様にして?すなわち、他のものとも交換できる、等価を示す上着と照合することによってである。この関係によって、上着は価値の存在形態であり、価値の実体である。このような場合においてのみ、リネンもまた、同じ価値の実体となる。リネンの方から見れば、リネン自体の価値を、自ら独立した表現でできるようになった。上着と同じ価値であり、上着と交換できると。さて、この説明を化学式で例えてみよう。酪酸は蟻酸プロピルとは違った物質である。だが、どちらも、同じ化学的分子である炭素(C)、水素(H)、酸素(O)からできており、その比率も同じである。すなわちどちらもC4H8O2である。もし、我々が酪酸と蟻酸プロピルを同じものと仮定してみよう。するとまず最初に、蟻酸プロピルが分子では、C4H8O2であると分かる。次いで、酪酸が、C4H8O2であることに言及する。従って、この二つが化学分子としては同じ構成になっている点で、同じものであるとするだろう。勿論それらの異なる物性を無視しての仮定ではあるが。
(4)我々が、価値とは、商品に凝結された人間の労働に過ぎないと云うのならば、まさに、我々の分析をして、価値以外のものをそぎ落として、その事実を明らかにしたい。この価値は、だが、その物体的な形から離されたものではないことも、銘記して置きたい。また、もう一つ、それは、一つの商品と他の商品との価値関係の中にあるものなのである。一商品が価値の性格を示し得るのは、他商品との関係があってこそなのである。
(5)上着とリネンを等価とすることで、我々は、前者に込められた労働を、後者のそれと同じとした。確かに、上着を作る仕立ては具体的な労働で、リネンを作る機織りとは別のものである。しかし、それを機織りと同じと見るからには、仕立て労働を二つの種類の労働が全く同じものであり、それと同じものとみなすことである。すなわち、人間の労働という共通の性格でこれを見るということである。なんでもこのようにして見るならば、機織りもまた、仕立てと区別できない、価値を織り込むだけの労働に、ただの「人間の労働」にしてしまう。これが、互いに違っている種類の商品間の、等価表現なのである。様々な労働の中に、この価値を作り出す特別な性格の労働を持ち込む。異なる様々な労働が込められた異なる種類の商品を、何の違いもない、同じ質の「人間の労働」によるものにしているのである。
(6)しかしながら、リネンの価値となる、特別な性格を表すこの労働の他にも、実は、必要なあるものがあるのである。「人間の労働力」の作動が、「人間の労働」が、価値を作るが、その労働自体が価値なのではない。その労働が、ある物の形に込められて、凝結した状態になった時にのみ価値となるのである。人間の労働が凝結したリネンが価値を表現するためには、物の形を持たねばならないし、かつ、リネンとは違うある物にならねばならない。そのある物とは、リネンとも共通するある物であり、さらに、その他の全商品にも共通するものである。問題は、すでに解かれている。
(7)価値の等式で、等価を示す位置を占める時、上着は、同じ種類のあるものとして、リネンに等しい質として等式に加わる。それが価値だからである。この等式位置では、我々は、それを、価値以外の何物とも見てはいないし、価値を表すその明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。だが依然として、上着自体は、商品としての物体であり、使用価値そのもののただの上着なのであるが。このような上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない。関係がなければ、上着は何も示しはしないが、リネンとの関係に置かれた時、上着は、リネンの価値を明らかにする。あたかも、豪華な軍服を着用した時には、平服時とは打って変わって偉そうに見せるのと同じようなものである。
(8)上着の生産においては、人間の労働力が、仕立ての形で、実際には、支出されなければならなかった。が、それゆえ、人間の労働がその中に蓄積された。このことから、上着は、価値の保管物となる。だが、着古してボロになったなら、その事実をちらっとも見せることはない。価値の等式での、リネンの等価物は、ただこの局面でのみ、価値が込められたものと見なされ、価値の形としてそこにある。例えるならば、Bの目に、Aの体形が、陛下なるものとして見えていなければ、Aが、Bに、己を「陛下」と尊称をもって呼ばせることはできないのと同じである。いや、それ以上のものが必要であろう。なにしろ、臣民の新たな父たるたびに、容貌も髪の毛もそれ以外の諸々も変わるのだから。
(9)この様に、価値の等式において、上着はリネンの等価物であり、その価値の形の役目を果たす。リネンなる商品の価値は、上着という商品の形によって表現される。あるものの価値は、他のものの使用価値によって表現される。使用価値としてのリネンは、明らかに、上着とは違っている。だが、価値としてなら上着と同じであり、この場では、上着の外観を持っている。このようして、リネンは自身の物理的形状とは違った価値形式を得る。この、上着との等価によって、証明される価値という事実は、あたかも、キリスト教徒に羊の性質が見られるのは、神の小羊(キリスト)に似るからのようだ。
(10)そして、我々の、商品の価値の分析が語って来た全てのことが、リネン自身によって語られ、他の商品、上着、とのやりとりに至ることが分かった。ただ、その思いは、商品の言語で、その内なる関係でしか通じない言語で、その秘密を漏らす。己の価値が、人間の労働なる、細部をそぎ落とされた性格の労働によって作られたことを我々に語るために、上着が、リネンと同じ値であり、従って価値であり、リネンと全く同じ労働から成り立っていると語る。価値の崇高な実体が、同じリネンへの糊付けではないことを我々に伝えるために、価値が上着の形を有し、そのことがリネンに価値があることを示し、リネンと上着がまるで双子のようなものと語る。ここで、我々は、注意しておいた方がいいかもしれない。商品の言語は、ヘブライ語の他にも、いろいろ多くの正確さの異なる方言がある。ドイツ語で、値するは、"Wertsein"と書くが、ローマン語動詞で書く、"valere""valer""valoir(vaut)"と較べると、多少訴求力が弱い。特に、商品Bが、商品Aに等価とする時、商品Aの価値形態表現には、明確さを欠く。フランス語の、パリはミサに値する(Parisvautbienmesse)、をドイツ語では適切に強く表せないのだ。
(11)さらにくり返して云うが、価値関係を表す我々の等式(A=B)の意味は、形を持った商品Bが、商品Aの価値形式となる。または、商品Bなる物体が、商品Aの価値の鏡役を演じている。自らを、商品Bとの関係に置くことによって、自分自身の価値を、「人間の労働」により形づくられたものを、商品A自身の価値をも示す具体的実体Bを使って、Aの価値の姿を変換して見せているのだ。
(b)相対的価値の数量的な確定
(1)価値を表現したい全ての商品は、有用な品物であり、ある与えられた量を持っている。15ブッシェルのトウモロコシとか、100ポンドのコーヒーとかである。そして、ある量のどんな商品でも、ある明確な「人間の労働」量を保持している。従って、価値形式は一般的に価値を表さねばならぬだけではなく、ある明確な価値の量をも表さねばならない。従って、商品Aの商品Bに対する、リネンの上着に対する、価値関係の中では、価値一般としてリネンの質にも同等な後者としてだけではなく、上着(一着の上着)の明確な量が、明確な量(20ヤード)のリネンの量の等価とされるのである。
(2)等式、20ヤードのリネン=1着の上着または、20ヤードのリネンが1着の上着に値する、は、同じ量の価値の実体(凝結した労働)がどちらにも込められていることを意味している。同じ量の労働時間という同じ労働の量が、その二つのそれぞれの商品には費やされていることを意味している。しかし、20ヤードのリネンまたは1着の上着の各生産に必要な労働時間は、機織りや仕立ての生産性の変化の度に変化する。我々は、以下、このような相対的価値表現での、量的変化の影響も考えなければならない。
(3)I.上着の価値が一定で、リネンの価値が変化する場合を考えてみよう。仮に、亜麻の栽培地が疲弊して、その結果リネンの製造に要する労働時間が2倍になったとしたら、リネンの価値は2倍となろう、そうなれば、20ヤードのリネン=1着の上着という以前の等式に替わって、20ヤードのリネン=2着の上着という等式としなければならない。その結果、1着の上着には、今や20ヤードのリネンに込められた労働時間の半分しか含まれないこととなる。別の場合、仮に、織機が改良されれば、この労働時間は半分に縮小する、その結果、リネンの価値は1/2に下落するであろう。その結果、20ヤードのリネン=1/2着の上着としなければならない。商品Aの相対的価値、商品Bで表されるその価値は、Bの価値が一定であるとしても、Aの価値は、一方的に上昇したり下降したりすることになる。
(4)II.リネンの価値が一定で、一方の上着の価値が変化する場合を考えてみよう。もし、例えば、羊毛の収量が思わしくない場合、上着の生産に必要な労働時間が倍に成ったとすれば、20ヤードのリネン=1着の上着に替わって、20ヤードのリネン=1/2の上着ということになる。逆に、上着の価値が1/2に沈んでしまえば、20ヤードのリネン=2着の上着ということになる。この様に、仮に、商品Aの価値が一定であっても、その商品Bで表される相対的価値は、Bの価値とは逆の方向に上昇・下降することになる。
(5)I.とII.で違っているケースがあり、もし、それらを考えれば、同じ相対的価値の変化が、違った原因で生ずることが分かる。すなわち、等式20ヤードのリネン=1着の上着が20ヤードのリネン=2着の上着となるケースで見れば、リネンの価値が倍になったか、上着の価値が1/2になったかによるし、20ヤードのリネン=1/2着の上着となるケースなら、リネンの価値が1/2になったか、上着の価値が2倍になったかである。
(6)III.リネンと上着の各生産に必要な労働時間の量が、全く同時に、同じ方向で、同じ比率で変化したとしよう、このケースでは、20ヤードのリネン=1着の上着は変わらない。たとえその価値が違ったとしてもである。この価値の変化は、第三の商品、その価値が一定だったとするならば、それと比較すれば、直ぐに分かる。もし、全商品の価値が同時に同率で上昇・下降したとすれば、相対的価値は変わらないままである。実際の価値変化は、与えられた時間に生産された商品の量が、減ったのか・増えたのかで、明らかになる。
(7)IV.リネンと上着の生産に要する各労働時間、これらの商品の価値が、同時に同方向に変化する、だが変化の比率は同じではない、あるいは方向が逆、その他等と変化する場合、これらの変化の様々な組み合わせから生じる、商品の相対的価値への影響は、I.,II.,III.の結果から推論できよう。
(8)このように、それらの相対的表現に、実際の価値の大きさの変化が、曖昧なくまたは残さず反映されることはない。等式が表しているものは、相対的価値の量である。商品の相対価値は、その価値が一定であったとしても、変化するかも知れない。その価値が一定であったとしても、その価値は変わる。結局、価値の大きさとその相対的表現に同じ変化があったとしても、その量が一致する必要もない。
3.価値の等価形式
(1)我々は、商品A(リネン)が、違った種類の商品B(上着)の使用価値の中に自らの価値を表し、同時に、後者に特別な価値の形式、つまり等価形式という名称を刻印するのを見て来た。商品リネンは、その価値を持つ自らの内実を、物としての形以外の価値形式が認められていない上着をリネンと同等であるとする行為によって明らかにする。後者が価値を持っているということを、上着が直接的にそれと交換可能であるという事実によって、明らかにする。従って、ある商品が等価形式にあると我々が云うなら、我々は、それが直接的に他の商品と交換できるという事実を表明している。
(2)一つの商品、上着が、他と等価であるとするならば、例えばリネンとだが、そして、これによって、上着がリネンと直接的に交換できるという性格的特質を得たとしても、一体どのような比率で二つが交換できるのか、知る由もない。リネンの与えられた大きさの価値は、その比率は、上着の価値にかかっている。上着が等価形式にあって、リネンが相対的価値形式にあろうと、逆に、リネンが等価形式にあって、上着が相対的価値形式にあろうと、上着の価値の大きさは、生産に必要な労働時間により、価値形式に係わらず、独立的に決められる。しかし、上着が価値の等式において、等価の位置に置かれたならば、その価値は量的表現を得ることはない。そうではなくて逆に、商品である上着は、ただひとつ、ある品物の決まった量に対する数字を得る。
(3)例えば、40ヤードのリネンは−何に値するのか?2着の上着である。なぜなら、商品上着は、ここでは等価の役を演じており、上着使用価値が、リネンに対応しており、数字が価値を具体化しており、従って、上着の明確な数が、リネンの価値の明確な量を表すに十分と言える。であるから、二着の上着は40ヤードのリネンの価値の量を表す。だが、この表現は、それら自身の価値の量を表すことはできない。皮相的にこれらの事を捉えてしまうと、つまり、価値の等式において、等価とした側の数値が、ある使用価値を持ったある品物の単純な量が、全てを表現しているかのように捉えてしまうと、ベイリーを誤らせたように、その他大勢が、彼以前にも以後にも誤まったように、おかしな理論となる。単なる量的関係を価値の表現と見間違えたところである。正しくは、商品が等価を演じていても、その価値の量の確定については、一言も云ってはいないということである。
(4)我々に、一種の衝撃をもたらす等価形式の第一の特異点は、使用価値が、その物ありとする形式が、その反対側にある価値の形式として、なにか驚異的現象のように、現われてくることである。
(5)商品のそのままの形が、その価値形式となる。しかし、よく見てほしい。いかなる場合のいかなる商品Bにも、それが存在するのは、他の商品Aが、それらと、価値関係に入って来る時だけであり、この関係の境界線内に限られる。であるから、商品は、自分と等価関係の中に立つことはできない。また、だから、自分のあるがままの形で、自分の価値の表現に立ち入ることはできない。すべての商品は、自分の等価形式のためには、他の商品のどれかを選ぶように強いられる。そして、使用価値を受け入れる。言うなれば、他の商品のそのままの形が、自身の価値の形式なのである。
(6)商品の物質的存在や使用価値の計量に用いられる一つの方法は、この点を説明するのに役に立つ。一つの砂糖の固まりは、形があって、重い。だから重量がある。だが、この重量を見たり触ったりすることはできない。そこで、我々は、予め重量が決められた様々な鉄片を取り出してくる。この鉄、まさに鉄であるが、砂糖の固まりとは違って、重量の証明の形式以外の何物でもない。それにも係わらず、砂糖の固まりをそれなりの重量として表すために、我々は、それを鉄との重量関係の中に置くのである。この関係においては、その鉄は、その物は、重量以外はなにも表していない。ある量の鉄は、従って、砂糖の重量の測定という役割を果たす。そして、砂糖の固まりの中に込められている重量との関係から、重量の証明の形式を表す。この鉄が演じる役目は、砂糖やその他のものが鉄との間で、ただ、その重量が確定されねばならぬという関係内においてのものである。それらの物が重くもなく、この関係に入ることができないならば、この物は、他のものの重量を表す役目を果たすことはできないだろう。両者を天秤ばかりに乗せれば、その重量が同じようにあると実際に分かるし、その適当な量比を取れば、同重量となる。重量の計量としての鉄は、ただ砂糖の固まりの重量との関係を表わす様に、我々の価値の表現である物質対象上着は、リネンとの関係においてのみ価値を表す。
(7)砂糖の固まりの重量を示す鉄は、共に双方にある自然的物性である重量を表している。ここまでが例えである。実際には、上着はリネンの価値を示すものではあるが、双方にある自然的特質を表すものではない。紛れもない社会的なあるもの、それらの価値を表している。
(8)商品の相対的価値形式−例えばリネン−は、ある商品の価値を表す。そのある商品は、その物質や性質とはまったくかけ離れた何か別の物で、例えば、上着のようなものである。このそれ自身の表現が、そのものの底に横たわる、ある社会的な関係を指し示す。等価形式は、その逆である。この形式の神髄は、物としての商品自体−上着−であり、そのままで、価値を表す。そして、自然的自体のまま価値形式が付与されている。勿論、このことは、価値関係が存在している期間に限って、うまく維持されるもので、その時、上着は、リネンに対して等価の位置に立っている。だから、ある物の特質は、他の物のそれらとの関係の結果である、ではなくて、それらが、価値関係にあることのみを明かしているだけなのである。にもかかわらず、上着は、その特質が直接的に交換可能であるとか、重さがあるとか、我々を暖かく保って呉れる能力があるとかの、それらの特質がごく自然に付与されているからこそ、等価形式が付与されているかのようにある人の目には現われる。この形式は、その謎めいた性格ゆえに、その形式が完璧な発展を経て、貨幣の形で、彼らの目の前に現われるまでは、ブルジョワ政治経済学者の注目からは、逃れていたのである。彼は、黄金や銀の不思議な性格をなんとかうまく説明しようと試み、あまり目映えのしない商品に金銀の代理をさせてみたり、あの時この時で等価の役割を演じた可能性がある全ての商品のカタログを列挙したりして、満足を更新し続けるばかり。彼は、この20ヤードのリネン=1着の上着という最も単純な価値の表現が、すでに、等価形式の謎の解法として提示されているにもかかわらず、僅かな推察力すら持っていないのである。
(9)等価の役を果たす商品の本体は、あらゆる子細を取り去ったところの人間の労働を形づくっており、同時に、ある特別な有用かつ具体的な労働の生産物でもある。すなわち、この具体的労働が、子細内容を持たない人間の労働を表現するための媒体となるのである。一方で上着が、子細内容のない人間の労働の実形以外の何ものでも無いと云うならば、他方では、実際にその中に込められた仕立て労働は、子細内容のない人間の労働を実現した形式以外の何ものも示さないであろう。リネンの価値表現において、仕立て労働の効用は、布を作るのではなく、ある物を作ることであって、それを我々は、直ちに価値と認めるのであるが、つまり、労働の凝結物とするにある。ただし、この労働は、リネンの価値を実現した労働と区別することはできない。価値を映す鏡としての役割を果たすために、仕立て労働は、自身の子細内容を取り去った人間の労働一般以外の質を映してはならない。
(10)仕立てには、機織りと同様、人間の労働力が支出される。従って、両者は、人間の労働という一般的特質を保持する。従って両者は、価値の生産という場合、この点からのみ、考慮されねばならないであろう。これに関してはなにも神秘的なものはない。しかし、価値の表現になると、話のテーブルは完全に一回転する。例えば、機織りがリネンの価値を作り出したという表現が、どうして、機織りによってではなく、人間の労働の一般的特質によってとなるのか?と。機織りとは逆の別の具体的労働(ここの例では、仕立てであるが)という特定の形式によってなのかと。機織りの生産物の等価を作るという具体的労働によってとなるのかと。ただ、上着という実形形式が価値の直接的表現となり、そこで、仕立てという具体的労働形式が人間の労働一般の明白なる直接的体現となるからである。
(11)ここのところが、等価形式の第二の特異点である。具体的労働が、その反対側にある、子細内容を持たない人間の労働を示す形式となるからである。
(12)この具体的労働が、我々のケースでは仕立てであるが、示しかつ直接的に特定されるのは、他に変えることができない人間の労働であるからこそ、その他各種の労働をも示すのであり、リネンに込められた人間の労働をも示すのである。であるからまた、他の多くの商品が労働を指し示すように、個々の労働が、そのままで同時に、直接的に、その性格を社会的な労働として示すのである。一生産物が直接的に他の商品と交換できる様になるのは、これがその理由だからである。我々は、今、等価形式の第三の特異点に立ち会っている。すなわち、個々の労働がそのままで、その反対側にある、社会的な労働形式となることである。
(13)等価形式の第二・第三の特異点は、これらの様々な形式を最初に分析した偉大な思想家に立ち戻って見れば、よりよく理解できるであろう。思考形式、社会形式、自然形式等々、そしてそれらの中の一つに価値形式の分析がある。その思想家の名は、アリストテレスである。
(14)彼は、最初から、商品の貨幣形式は、単純な価値形式のより発展したものであり、適当に並べた他の商品の中での、一商品の価値の表現であると、はっきり述べている。彼がこう云っているからである。5つのベッド=一軒の家という表現は、5つのベッド=沢山の貨幣というのと同じであって、区別できない、と。さらに、彼は、この価値関係がこのような表現に達するためには、つまり、家がベッドと同等であるためには、家がベッドの質を持たねばならない、と見ている。もし、そうでなければ、これらの明白に異なる物と物を、同一基準でもって、較べることはできない、と。彼は云う。「交換は、物と物が同等であり、同じ基準で計ることができなければ、成立するはずがない。」が、彼をして、ここまでは来るものの、ここで止まってしまう。そして、さらなる価値形式の分析をあきらめた。「現実では、その通り交換されているのだが、違うものが、同じ基準で計られるというようなことは−質的に同等なものとして計れることは−あり得ない」と。このような同等化は、実際の現実にはあり得ない何かでしかなく、従って、単なる「実用上の、当座しのぎの、辻褄合わせみたいなものでしかない。」という分析結果で終わったのである。
(15)何が、これ以上の分析の障害となったのか、彼自身が我々に語ってくれている。価値概念の欠落であった。何が同等のなにかなのか、何が、家で表現されるベッドの価値を認めるところの、共通のものなのか?アリストテレスは、本当に、そんなものがあるはずもないと云う。何故ないのか?ベッドと較べることで、家はそれに等しい何かを表してはいないか。云うまでもないが、ベッドと家とを共に同等として表しているものがあるではないか。−そう、それが、人間の労働である。
(16)分かりそうなものであるが、アリストテレスには、商品に帰属する価値が、単なる全ての労働の、均一の人間の労働の、従って、同等の質である労働の表現形態であるということが見えていなかったという重要な事実が分かる。ギリシャ社会は、奴隷制度の上に成り立っていた。そこでは、これが当たり前のことであり、人やその労働力は同等ではないのである。価値表現の秘密は、全ての労働が、同等・等価で、人間の労働として一般化しているからこそ解けるのであって、人間の平等が普通に既定の概念として定着するまでは、解読され得ないのである。つまり、多くの労働の生産物が商品の形をとる社会において、すなわち、主な、人と人の関係が、商品の所有者であることで初めて解けるのである。アリストテレスの天才の輝きが、商品の価値の表現を同等の関係から見つけ出したことは、見事であるが、彼の生きた特異な社会の中では、只一つ、真実が、人間の平等の上に成り立つものであるがゆえに、発見にたどり着けなかったのである。
4.最初に出会った価値形式を全体的に見れば
(1)最初に出会った、商品の価値の形式、その等式には、他の、違った種類の商品との価値関係の表現が含まれている。また、各そのものの交換関係の表現が含まれている。商品Aの価値は、商品Bが直接的にこれと交換できるという事実によって質的に表わされる。また、その価値は量的にも、Bのある決まった量が、ある決まった量のAと交換できるという事実によって表される。他の言葉で云うならば、商品の価値は、交換価値の形式となることで、独立性と明確な表現を獲得する。この章の初めの所では、一商品は、使用価値であり、また、交換価値であると、ごく普通に簡略化して述べているが、正確に述べるならば、これは間違っている。一商品は、使用価値または有用な物であり、価値である。それは、それ自身を、このように二重のものとして明らかにする。そして直ぐに、その価値は独立した形式を得て、すなわち交換価値の形式となる。だが、この形式は、それぞれが他の違った種類の商品と、価値関係や交換関係に置かれた時にのみ明確になるものであって、互いに別々に離されている場合では何も明らかにはしない。間違いを訂正したところであるが、上記の表現様式は障害にはならない。簡単な省略的表現として見れば、適切である。
(2)我々の分析は、商品の価値の形式または表現が、その価値の本質に発していることを明らかにした。また、価値とその大きさが、交換価値の表現形態から発しているものではないことをも、明らかにした。ところが、重商主義者達や、昨今の再唱者フェリエやガニイやその他の者ばかりでなく、その正反対側に居る自由貿易主義者の近代的行商人のバスティアまでもが、次のような妄想を示す。重商主義者達は、価値の表現である質的な所に特別の関心をもっているが故に、当然ながら、商品の等価形式、貨幣の中にその完全さを獲得するものにしか関心を示そうともしない。また、自由貿易主義者の近代的行商人達は、逆に、どんな価格ででも彼らの手持ち商品を減らしていかなければならないことから、相対的価値形式の量の方に最も強い関心を示す。その結果として、彼らには、価値もなければ、価値の大きさもない。単に商品の交換関係による表現ばかりとなる。日々変わる商品群の価格リストで見る交換関係ばかりとなる。ロンバード通りで、これらの混乱した思考にそれなりの衣装を着せるのが仕事のマックロードは、最上の学問的美装を施して、(金銀と君主付与特権に固執する)迷信的な重商主義者達と(個人の自立へと)啓蒙された自由貿易主義者の行商人達の間を渡り歩くのに(単に粉飾的に)成功した。
(3)AのBに対する価値関係を現わす等式の中に含まれる、Bから見た、Aの価値の表現の詳細は、この関係内において、Aの物体としての形はただ使用価値を表しており、Bの物体としての形は、単に、価値の形式か様相を表していると、示している。どの商品にも内的に存在する、対立または対照性というべき、使用価値と価値が、二つの商品がこの様にお互いの関係に置かれることによって、外的に明らかにされる。価値を表示しようとするある商品はただ直接的に使用価値を呈する、一方の価値を表示された商品は、ただ直接的に交換価値を呈する。従って、最初に出会った商品の価値形式は、使用価値と価値、という対照性を商品の中に含んでいる形式ということがはっきりした。
(4)すべて、労働の生産物は、如何なる社会であれ、使用価値である。しかしそれが商品となるには、それ相応の社会の発展が、ある明確な歴史的段階に到達していなければならない。その段階では、有用な品物の生産に費やされる労働が、その物の客観的な質として表されるようになっていることである。それは価値ということである。であるから、最初に出会った価値形式は、労働の生産物が歴史的に商品となった初期の形式でもあると云える。また、価値形式の発展に歩調を合わせて、そのような生産物が少しづつ商品へと変形して行ったのであると云える。
(5)我々は、価値形式の発展に触れれば、最初に出会った価値形式では不足していることに、すぐに気づくであろう。それは、ほんの萌芽にすぎない。これから価格形式へと成熟する前には一連の脱皮を経なければならない。
(6)商品Bによる、商品Aの価値の表現は、単にAの使用価値から価値を排除しており、従って、商品Aを、一つの単一の商品Bとの交換関係に置く。だが、Aとその他の多くの商品との、質の同等性表現や量の比率値表現からは、依然として、遠く離れている。最初に出会った商品の相対的価値形式は、一つの他の商品との、一対一の、等価形式を知らせるだけである。リネンの相対的価値形式においては、このように、上着が等価形式を表し、または直接的に交換できることをも表す。が、ただ一商品リネンとの関係においてのみに限られることなのである。
(7)この最初に出会った価値形式ではあるが、簡単な変形で、より完成した形式へ進む。確かに、最初に出会った価値形式においては、商品Aの価値は、一つの、ただ一つの他の商品によって表されることになる。だが、その一つの商品は如何なる種類のものでも、上着でも、鉄でも、トウモロコシでも、何でも該当させられるだろう。しからば、Aは、これとでも、あれとでも、との関係に置く事ができるから、一つとの関係以外にも、この同じ物をして、他の多くの商品との間の関係という、違った形の、最初に出会った価値形式を得た。この可能となる表現の数は、ただ、この物から識別できる違った種類の商品の数で制限されるだけである。Aの価値の表現は、従って、最初に出会った価値表現とは違う、どんなに長くならべてもいい、一連の価値表現へと変換できる。
B.全体的または拡大された価値形式
1.拡大された相対的価値形式
(1)単一の商品の価値、例えば、リネンは、かくして、数えきれない程の商品世界の品々によって、表現される。他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。故に、この拡大表示は、この価値が自身を、その真実の光の中に、なんの違いもない人間の労働の凝結物として示す最初の瞬間となる。それらを作り出した労働が、明らかに、姿を表し、そこに立っている。労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。人間の労働の形式がなんであれ、仕立てであろうと、農耕であろうと、採鉱であろうと、なんであろうと、関係ない。すなわち、その労働が作り上げたものが、上着だろうと、トウモロコシであろうと、鉄や黄金であろうと、全く関係ない。リネンは、今、その価値形式に基づき、社会的関係の中に立っている。もはや、単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある。商品として、世界市民の如く。また、この終のない価値等式の連鎖が、同時に、商品の価値を意味している。その使用価値の特定の形や種類がどうであれ、なんの違いもないのである。
(2)最初の形式、20ヤードのリネン=1着の上着、は、他の物が表れても当然の、全く偶然の等式であり、これらの二つの商品がある一定の量で交換可能というのもまた偶然と言える。次に表れた形式は、前とは違って、背景がこれを決めており、偶然的外観からは本質的に違っていると分かる。リネンの価値が、たとえ、上着やコーヒーやまたは鉄とか、または、多くの異なる所有者の財産である、数えきれない様々な商品で表されたからといって、その価値の大きさを変えることはなく、そのままである。二人の個々の商品所有者間の偶然的関係は消え去る。ここでは、それらの商品の交換が価値の大きさを決めるのではなく、逆に、価値の大きさがそれらの交換比率を決めると、分かりやすいものとなる。
2.特別の等価形式
(1)個々の商品、上着、茶、トウモロコシ、鉄、その他は、リネンの価値の表現として登場し、等価を示し、故に、その物の価値を示す。これらの商品の物体としての形は、今では、多くの中の一つという、特別の等価形式を示す。同様、いろいろと違った商品の形は、そこに込められた、多様で具体的で有用な様々な種類の労働が、なんの違いもない「人間の労働」であって、それが作り出した、またはそれを明示している、数多くの形であることを示している。
3.全体的または拡大された価値形式の欠陥
(1)まず第一点として、この価値の相対的表現は、未完成である。なぜなら、ここに表された等式の連鎖に終りがない。次々と新しい種類の商品が現われ、新たな価値を示す物が供給されるたびに、連鎖が長くなる。第二点は、脈絡のない勝手な価値表現の多色の寄せ集めだから。そして、最後に、それぞれの商品の相対的価値が、この拡大された価値形式で表現されるものとなるならば、ならざるを得ないが、それらの相対的価値は、様々なケースで異なり、価値を表す終りのない連鎖となる。この拡大された相対的価値形式の欠陥は、等価形式にも反映する。それぞれ単体の商品の物体としての形が、他の多くの数えきれないものの中から、特別の等価形式となるのだから、全体として見れば、お互いに排除しあうばかりの等価形式の断片の他にはなにも受け取れない。また同様に、それぞれの特別な等価に込められた、特別で、具体的で、有用な種類の労働は、ただ、特別の種類の労働で表され、その結果、人間の労働一般を余すところなく表すものとはならない。確かに、これらの多数の、特別な、具体的な労働の形式を全体的に集めれば、適当なその表明になるとはいえ、それでもこの場合は、無限の連鎖に完結はなく、統一的概念にはなりえない。
(2)しかしながら、拡大された相対的価値形式は、下に記すように、他でもなく最初に出会った相対的表現または、初期的な等式の行並べである。
20ヤードのリネン=1着の上着 / 20ヤードのリネン=10ポンドの茶等々 / これらそれぞれは、逆の等式でも同じ内容を表す。 / 1着の上着=20ヤードのリネン / 10ポンドの茶=20ヤードのリネン等々
(3)実際に、ある人物が、彼のリネンを多くの他の商品と交換するとしたら、その価値は、他の商品の数々で表される。と言うからは、いろいろな商品の所有者は、それらをリネンと交換したのであって、彼らの様々な商品の価値は、一つの、彼らから見て同じ物、第三の商品、リネンによって表されている。もし、我々が、20ヤードのリネン=1着の上着または=10ポンドの茶、等々という行並びの等式の左右を逆にしたら、ということは、これらを、逆の関係で書き表したら、その行並びは、何を意味するかということであろう、そこで、やってみれば、
C.一般的価値形式
1.価値形式の変化した性格
(1)全ての商品は、この形式では、それらの価値を、[1]最初に出会った価値形式で表している。なぜなら、一つの単一の商品で表しているからである。[2]統一された形式で表している。なぜなら、一つしかない同じ商品で表しているからである。この価値形式は、最初に出会った形式であり、すべての商品にとって同じ形式となっている。従って、一般的形式といえる。
(2)前掲のAとBの形式は、一商品の価値を表す場合のみに適しており、それを、その使用価値または物体的な形から、明確に識別している。
(3)最初の形式、Aは、次のような等式をもたらした。
一着の上着=20ヤードのリネン / 10ポンドの茶=1/2トンの鉄
(4)上着の価値は、リネンに等しい。茶のそれは、鉄に。しかし、リネンに等しいとされようが、また鉄にとされようが、これらの二つの等式は、リネンと鉄ほどに違う。これらの形式は、簡明だが、労働の生産物が、偶然とか時々とかで交換される、初期の段階での便宜上でしか表れない。
(5)二番目の形式、Bは、最初のものから見れば、より的確な方法で、商品の価値をその使用価値から識別する。もし、上着の価値ということになれば、上着が自身の物の形をありとあらゆる形に変えたとしても、それが、上着を除く、リネンやら、鉄やら、茶やら、以下省略、ありとあらゆる物と等しいとして対照される場に置かれる。一方、様々なものに対応する一般的価値表現は、この形式Bでは、直接的に排除される。なぜなら、それぞれの商品の価値の等式において、他の全ての商品が今や、ただそれぞれの等価形式として現われるからである。拡大された価値形式が現実に存立するものとなる最初は、特定の労働の生産物、例えば畜牛が、今までは例外的であったものが、習慣的に他の様々な商品と交換されるようになった時からである。
(6)三番目で最後の、発展した形式は、全商品世界の価値を、ある一つの、その表現目的のために特別に切り離して置かれた商品で表す。すなわち、リネンである。かくて、リネンとそれらとの同等性によって、それらの価値を我々に示す。あらゆる商品の価値は、今や、リネンと等価とされることによって、それ自身の使用価値から区別されるだけでなく、他の全ての使用価値からも切り離され、これこそが事実であるが、あらゆる商品に共通するものによって表される。この形式によって、初めて、商品は、効果的に、お互いの価値としての関係に持ち込まれる。または、交換価値として表される。
(7)二つの以前の形式は、それぞれの商品の価値を、一つの単一の、種類の違う商品か、またはそのような多くの数々の商品で表した。両方とも、言うなれば、それぞれの単一の商品の価値を見出す特別のやりとりで、それぞれ以外の助けはなくてもよい。一般的価値形式、Cは、全商品世界の共同作業から導かれるものであって、これ以外から導き出されるものではない。商品は、その価値を、他の全ての商品によって一般的表現を得ることができる。同時に、それらの価値を、同じ等価物で表すことになる。すべての新たな商品は、この一揃いの中に加わらねばならない。かくして、商品の価値的存在は紛れもなく、社会的な存在であることが証明される。この社会的存在は、他でもなく、それらの社会的関係の全体によって、表される。であるから、それらの価値形式は、社会的に承認されるべき形式でなければならない。
(8)全ての商品が、今、リネンに等しいとされたのであるから、質的に同一の価値一般であるばかりでなく、その価値の大きさも比較可能となる。それらの価値の大きさを、一つでかつ同じ物質、リネンで表すことから、それらの価値の大きさもまた、互いに、他のものと較べられる。例えば、10ポンドの茶=20ヤードのリネン、また40ポンドのコーヒー=20ヤードのリネン。であるから、10ポンドの茶=40ポンドのコーヒーと。他の表現で示せば、1ポンドのコーヒーには、1ポンドの茶に含まれる価値の、わずか1/4の価値−労働−しか含まれていない。
(9)商品の全世界を包含する、相対的価値の一般形式は、他の全ての商品から隔離されて、ただ等価の役割を演じさせる、ある一つの商品−ここではリネン−を、全世界的な等価物に変換する。リネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。物質リネンが、あらゆる種類の人間の労働の、目に見える化身、人間の労働の社会的結晶状態となる。機織り、特定のもの、リネン、を生産するある私的な個人の労働が、こうしたことから、社会的な性格、他のあらゆる種類の労働と等質の性格を持つことになる。数えきれない行並びの等式、価値の一般形式は、それぞれ、リネンに込められた労働が、他の全ての商品に込められたものと同等であることを網羅する。そして、さらに、機織りを、区別できない「人間の労働」の表明の、一般形式に変える。これらのことによって、商品の価値である労働が、様々で具体的な労働形式や有益な現実の仕事等々をはぎ取った労働という、見えにくい面ばかりでなく、それらの目に見える形をその労働自体として表すようにもなるのである。価値の一般形式は、全ての種類の現実の労働を、人間の労働一般という共通的な性格に、また、人間の労働力の支出に要約する。
(10)価値の一般形式は、全ての労働の生産物を、ただの区別できない「人間の労働」の凝結物として示すものであるが、そのことによってまた、商品世界の社会的な核心を見せる。であるから、この形式が、商品世界において、人間の労働としてのあらゆる労働によって与えられた商品の性格が、商品に特別の社会的性格を付与すると、明白に示すのである。
2.相対的価値形式と等価形式の相互依存的な発展
(1)相対的価値形式の発展の度合いは、等価形式のそれにも連動して行く。しかし、次の点をしっかりと把握しておきたい、後者の発展は、前者の発展の結果であり、その表現であるに過ぎない。
(2)初期の、または別々な、一つの商品の相対的価値形式は、ある他の商品を別々の等価物に変換する。拡大された相対的価値形式は、一つの商品の価値の表現をその他全ての商品によって表しているのではあるが、それらの他の商品に、違った種類の特別な等価物の性格を与えることになる。そして最後の形式は、特別な種類の商品が世界的な等価物の性格を得る。なぜならば、他の全ての商品がそれを自分らの価値を一律に表す物とするからである。
(3)相対的価値形式と等価形式の対立関係、価値形式の両極は、その形式の対立のまま、同時に発展させられる。
(4)最初の形式、20ヤードのリネン=1着の上着は、すでに、未確定以上の、この対立関係を含んでいる。この等式を、我々が前から、または後ろから読めば、そのリネンとその上着の演ずる役割は違っている。あるケースでは、リネンの相対的価値が、上着によって表される。また他のケースでは、上着の相対的価値が、リネンで表される。この最初の価値形式では、従って、両極的対立は把握しにくい。
(5)形式、Bは、ただ一つ単一の商品が、その時、その相対的価値を極限まで拡大することができる。そして、全ての他の商品を、この一つの商品に対する等価物とするからこそ、その限りにおいて、拡大された形式を得る。ここでは、我々は、この等式を逆にすることはできない。20ヤードのリネン=1着の上着の単行式とは違うのである。それの一般的性格への変更なしには、拡大された価値形式から一般的価値形式への変換なしにはできないのである。
(6)最後に、形式、Cは、商品世界に、一般的社会的相対価値形式を与える。なぜならば、全ての商品が、ただ一つを除いて等価形式から排除されるからである。その一つの商品、リネンは、それ故に、他の全ての各商品と直接的な交換可能性という性格を得る。なぜならば、この性格は、他の全ての各商品には与えられないからである。
(7)世界的等価の形を表す商品は、その一方で、相対的価値形式からは排除される。もし、リネンが、または他のいずれかの等価役を努める商品が、同時に相対的価値形式をも分担するとすれば、自己の等価役を努めることにもなる。すると、我々は、20ヤードのリネン=20ヤードのリネンという等式も持つことになる。この同語反復は、価値も、価値の大きさも表さない。世界的等価の相対的価値を表すためには、我々は、形式Cをなんとか逆にしなければならない。この等価は、他の商品と共通するような相対的価値形式は持っていない。だが、その価値を相対的に表すというなら、他の商品の終りの無い行並べということになる。
(8)だからこそ、拡大された相対的価値形式または形式、Bは、それを、等価商品に対する特別の相対的価値形式として示す。
3.一般的価値形式から貨幣形式への移行
(1)世界等価形式は、一般的価値形式である。であるから、如何なる商品でもその役を果たすことができる。ではあるが、もし、一商品が、世界等価形式(形式C)を引き受けたと見られれば、それは、他の全ての商品から外され、それらの等価となる限りにおいてのみ、また、それら全商品がその形式を演じる限りのことなのである。そして、この排除が、最終的に、一つの特定の商品に限定された時から、まさに、この時から以外にはあり得ないが、商品世界の相対的価値の一般的形式は、明確な論理性と一般的社会的正当性を得る。
(2)ある特定の商品が、この様に社会的に認知された等価形式が、その物体としての形が、貨幣商品または貨幣としての役割を果たすものとなる。それが、その商品の特別の社会的機能となる。その結果、その社会的独占は、商品世界において、世界等価の役割を演じる。商品群の中のそれぞれは、形式Bでは、それぞれが、リネンの特定の等価を示した。形式Cでは、それぞれがリネンに対する共通的な相対的価値を表した。この主要な位置が、一つの特定の−すなわち、黄金によって確立されることとなった。そこで、もし、形式Cにおいて、リネンを黄金に変えるとすれば、どうなるか、
D.貨幣形式
(1)20ヤードのリネン / 1着の上着 / 10ポンドの茶 / 40ポンドのコーヒー / 1クオーターのトウモロコシ=2オンスの黄金 / 1/2トンの鉄 / x量の商品A / その他
(2)形式Aから形式Bへの発展の変化、そして後者から形式Cへの発展の変化は、本質的なものである。だが、形式Cから形式Dへのそれでは、単に黄金が等価形式となり、リネンの位置に入っただけで、あとはなんの違いもない。形式Dの黄金は、形式Cではリネンだったのと同じで、世界等価である。変化はただこれだけである。直接的かつ世界的交換可能性−他の言葉で云えばその世界等価形式−が、ここに、社会的な習慣によって、最終的に、黄金という物質と同じ物になったのである。
(3)黄金は、今や、全ての商品と対応する貨幣である。それはただ、以前から、普通の一つの商品として、それらに対応して来たからである。他の全ての商品と同様、一等価物としての役割を果たす事ができた。また、個別の交換で、単純な等価物として、または、他から見れば、特別の等価物として、役割を果たすことができた。それが次第に、制約の変化はあるものの、世界等価として用いられるようになった。そして、商品世界の価値の表現という独占的な地位を占めるや、貨幣商品となった。それから、それ以前にはあり得ないが、形式Dは、形式Cとはっきり区別され、一般的価値形式が、貨幣形式へと変化したのである。
(4)最初に出会った一商品の相対的価値表現、例えばリネンと、また同様一商品としての黄金。後者は、貨幣の役を演じるので、この等式が、これら商品の貨幣形式である。リネンの貨幣形式は従って、20ヤードのリネン=2オンスの黄金または / もし、2オンスの黄金が鋳貨刻印されて、2英ポンドであれば、20ヤードのリネン=2英ポンド
(5)貨幣形式の概念を持つための難しさは、世界等価形式と、必然的な結論である一般的価値形式形式Cの必要性を、明瞭に理解することにある。後者は、形式Bから演繹的に推論できる。拡大された価値形式は、我々が形式Aで見て来たところの20ヤードのリネン=1着の上着、または、x量の商品A=y量の商品Bという基本的要素から成り立っている。単純な商品形式こそ、貨幣形式の萌芽なのである。 
第四節 商品の物神崇拝とそれに係わる秘密

 

(1)最初、商品は、ごくありふれた物であり、簡単に分かる物として現われる。だが、その分析は、本当のところ、非常に奇妙な物で、形而上学的な名状しがたいものに満ちており、神学的な微妙なものであると示す。使用する上での価値ということなら、何も神秘的なものはない。人間の欲求を満たすという特質から見たり、人間の労働という特質から見ても、何も神秘的なものはない。人間が、彼の生産により、自然が与えてくれた素材の形を、彼にとって有用なものに作り変えたということは、白昼に陽を見るが如く明らかである。例えば、材木の形は、そこからテーブルを作ることによって変えられる。だとしても、依然として、テーブルは、日常に見るように、ふつうの材木である。ところが、一歩、商品へとなるやいなや、とんでもないあるものに変身する。テーブルが脚で床の上に立っているだけではなく、他のあらゆる商品との関係で、テーブル頭で立つ。そして、テーブル頭の頭脳から、テーブル回しというのがあるが、それ以上の珍妙不可思議なグロテスクな幻想を、まき散らす。
(2)だからといって、この商品の神秘的な性格が、それらの使用価値から発しているものではない。価値の要素を決めている性質から生じるものでもない。なぜなら、第一に、労働の有用な種類や、生産的活動がどう変化したとしても、それは、生理学的事実であるところの、人間の生物としての機能であり、その性質や形がどうであろうと、本質的に、人間の頭脳や、神経や、筋肉その他の支出ということだからである。第二に、価値の量を決める、すなわち、その支出の継続時間、または労働の量といったものの土台を形成することをも見れば、その量と質の明白な違いも全く自明である。如何なる社会状態であろうと、ものを生産するために費やす労働時間は、発展段階に違いがあれば同じようにではないものの、人類にとっては、必然的に関心を持つ事柄である。そして、最後に、人間がお互いのために何らかの方法で仕事をする瞬間から、彼らの労働は、社会的な形式を得る。
(3)それでは、いつから、労働の生産物の得体の知れない性格が、商品の形となるに及んで生じるのであろうか。まさに、その時からである。あらゆる種類の人間の労働は、その生産物によって、全てが同じ価値であることを具体的に示めされる。その支出の継続時間による、労働力の支出で計量される価値として、労働の生産物の価値の大きさという形式で示される。そして、最後に、生産者の相互関係が、彼らの労働の、社会的性格が、自ずと関係づけするのだが、生産物間の社会的関係の形式をも、もたらす。
(4)商品は、かくて、神秘的な物となる。そこでは、単純に、人々の労働の社会的性格が、労働の生産物にスタンプされているかのように、客観的な性格として現われるからであり、また、生産者の関係が、彼らの独自の労働の総計なのであるが、その社会的関係が、彼らの間に存在しているのではなく、かれらの労働の生産物間にあるように現わされるからである。神秘の理由は、ここにある。労働の生産物が、商品に、つまり社会的な物になり、その本質がある時は、感じられ、ある時は感じられないためである。一連の例えとして、物からの光が我々に感じられるのは、我々の視神経の主観的興奮ではなく、目から離れた場所にある客観的な何かの形があるからである。だが、見るという行為では、あるものから、他のものへと、実際の光の動きがなければ始まらない。ここでは外部のものから目に、である。物理的な物質間の物理的関係ということである。商品では違う。商品としての物の存在と、商品としてスタンプされた労働の生産物間の価値関係には、物理的特性とかそれらに生じる物的関係といったつながりは全くない。そこにあるのは、明らかに、人と人との関係であって、それが人々の目には、物と物の関係という幻想的な形として、見えるのである。そこで、この類似的なものを見るためには、宗教世界という霧に囲まれた領域に頼らなければならない。その世界では、人間頭脳の生産物は、あたかも生命を授けられた独立した存在であるかのように現われ、互いと人類との関係に浸入する。商品の世界で云えば、人々の手が作った生産物の中に浸入する。これを、私は、労働の生産物に取りつく物神崇拝と呼ぶ。商品として生産されるやいなや、商品の生産から切り離すことができないものとなる。
(5)この商品の物神崇拝の出因は、前記の分析から分かるように、労働の社会的性格という特異点にあり、それが生み出したものである。
(6)一般的に云うなら、有用な品物が商品となるのは、ただひとつ、それらが、私的個人の労働、または個人のグループが他とお互いに独立して仕事をなすからである。これらの私的個人の労働の総合計が社会の労働の総結集を形成する。彼らが、彼らの生産物を交換するに至らなければ、生産者もまた社会的な接触には入らない。交換行為なければ、各生産者の労働の特別なる社会的性格もその姿を見せない。他の言葉で言い換えるならば、個人の労働が、それを、社会の労働の一部であると主張するのは、他でもなく、生産物間の直接的交換行為が確立され、間接的に、それらを通じて、生産者間の関係が生じるからである。後者への、すなわち、一個人の労働と他のそれとの結合的関係は、個人間の仕事を通じての、直接的社会的関係としてではなく、まさに、個人間の材料的関係と物の社会的関係として現われる。ただ交換されることによってのみ、労働の生産物は、有用な物としての彼らの様々な存在とは別に、価値を、一つの同一的な社会的地位を得るのである。この、生産物の有用な物であることと、もう一つ価値であることの区分は、実際に重要なものとなる。まさに交換が、その先を学ぶ。かくて、有用な品物が交換されることを目的に生産され、その価値としての性格を、生産に入る前に、勘定することになる。この瞬間から、個人的生産者の労働は、社会的に、二重の性格を得る。一方で、明確に有用な労働として、明確な社会的欲求を満たさねばならない。そして同時に生ずる労働の社会的な区分の一端として、全ての労働の集合体の一部分たる地点を保持しなければならない。他方で、個人的生産者自身の様々な欲求を満足させることができる、ただ、あらゆる種類の有用な個人の労働の相互交換可能性が、社会的な事実として確立されている限りではあるが。かくして、それぞれの生産者の私的で有用な労働は、他の全てのそれと同等なものとなる。最も異なる種類の労働の同等化は、ただ、それらの非同等部分をそぎ落とし、共通のものだけに減らして、すなわち、人間の労働力の支出または、人間の労働とした所で、可能となる。個人の労働が持つ、二重の社会的性格は、日々の労働のうちに、生産物の交換から、わずかにでもその一端が彼の脳に写る時に現われる。この様に、彼自身の労働が持つ社会的に有用な性格が、生産物は有用でなければならないだけではなく、他人にとっても有用でなければならず、また、社会的性格が、彼の特定な労働が、他の全ての特定の種類の労働と同じであるという条件を形づくり、全ての物理的にも違った品物を、労働の生産物に、一つの共通の質を持つものに、すなわち、価値を持つものにする。
(7)従って、我々の労働の生産物を、他と、価値としての関係に置けば、これらの品物が、均一化された人間の労働の物質的な受け皿を成しているのが見えるということではない。全く逆で、いつでも、交換によって、まさにこのことによって、我々の異なる商品を、価値として同じとするのである。また、それらの品物に費やされた異なった種類の労働、人間の労働を同じとするのである。我々は、この事に気づいていなくても、そうしているのである。だから、価値は、そのラベルにどう書かれていようと、さまようことはない。むしろ、価値は、全ての生産物を社会的な判別しがたい記号に変換する。後に、我々は、この奇妙な記号の解読を試み、我々自身の社会的生産物の秘密の後ろにあるものを得ようとする。有用な物を価値とスタンプするために、あたかも、社会的な生産物が言語であるかのように。最近の科学的な発見では、労働の生産物が、価値であると言うならば、それらの生産に使われた人間労働の物的表現であるという。たしかに人類発展の歴史上画期的なことである。だが、労働の社会的性格が生産物自身の客観的性格であることを、霧を晴らすように明らかにするものではない。事実は、我々が取り扱っているもの、すなわち商品の生産という特別の生産形式では、特別に社会的な性格を持つ私的な労働は、個々に独立して行われているが、その性格ゆえにそのようなあらゆる種類の労働を等質と成す、それが人間の労働であるからである。従ってその性格は生産物に価値の形式を表す。−この事実は生産者には、前述の発見があろうとなかろうと、真実であり、それ以上のものはありもしない。丁度、科学的に空気のガス成分が発見されたからといって、大気になんの変化も生じないごとく、である。
(8)なんと言っても、生産者の現実的な関心事は、交換において、彼らの物に対してどの程度の他の物が得られるかということである。どの程度の比率で、交換が可能となるかである。これらの比率が、習慣により、ある定常的なところに行き着くのであるが、それがあたかも生産物の自然的特質からもたらされるように現われる。まるで、1トンの鉄と2オンスの黄金が等価であるのは、1ポンドの鉄と1ポンドの黄金が同じ重量であるかことのごとくである。物理的にも化学的にも違った性質であるにも係わらずにである。生産物に一度このことが印象づけされると、価値を持つという性格が、他のそれぞれと、価値の大きさとして相互に、単に繰り返し繰り返しなされることから、定着性を得る。これらの大きさについては、生産者の行為、予想や、意志から独立して常に変化する。彼らにとっては、彼ら自身の社会的行動が、彼らによって律せられるものではなく、逆に、品物の行動の形式が、生産者を律するかのように思えるだろう。全ての異なる種類の私的な労働、互いに独立的に行われる労働、さらにその中で社会的部分の一端として発展させられた労働の、ただその積み重ねだけから、比率が、社会が彼らに求める量的比率に到達するまで削られ続ける、という科学的な確信が芽生えるまでには、それ以前に、商品の生産の完全な発展が必要であろう。そして、なぜというなら、偶然的かつ止むことなく変動する商品間の交換関係の中で、かれらの生産に必要な社会的労働時間が、強制的に、あたかも自然法則のごとく立ち現れるからである。重量の法則が、まさに家が崩れ落ちるときに、聞こえてくるようにである。労働時間で価値の大きさが決まるということが、商品の相対的価値の現実の変動に隠されて、一つの秘密になる。この発見は、生産物の価値の大きさの決定に関して、単なる偶然性という外観を取り去るが、依然として、決定がなされる様式を変えることには至らない。
(9)人の脳に写る、社会生活の形式や、またそれに繋がるそれらの形式の科学的な分析についての認識は、現実の歴史の進展の流れとは逆の方向となる。彼は、その発展の過程がすっかりでき上がった祭りの後で、彼の手の内に入った結果を元に、後追いで認識に取りかかる。商品であると生産物にスタンプした性格やら、すでに確立されたことを、商品の流通を準備するためへの必要事項としたり、商品が当たり前に自然の安定性を得ているとしたり、社会生活の形式が自明であるとか、意味も分からずに、それらの物事が不変のものと目に写っている。従って、商品の価格の分析、それのみが価値の大きさを決定に導くと考えたり、価値としてのそれらの性格の確立には、全ての商品の共通の表現を貨幣で表すことそれのみで、十分と考えたりする。だが、それは、ただの商品世界の最終的な貨幣形式なのだが、その事が、逆に、私的労働の社会的性格や、個々の生産者の社会的関係を説明するよりも、実際には、覆い隠してしまう。私が、上着やブーツをリネンとの関係に置いたのは、それが、一切の子細を取り外した人間の労働という世界等価の化身だからであるが、この事が、かれらの見解ではすっかり消え失せているのがよく分かるだろう。それだけではなく、上着やブーツの生産者のそれらの品物をリネンと較べる時に、云うまでもないがここではリネンが、金や銀と同じ世界等価であるから較べているわけだが、それらの品物がかれらの私的労働と社会的な労働の集合体との関係を表わす。が、このこともかれらの見解では同様すっかり消え失せている。
(10)ブルジョワ経済学の範疇には、このような形式が詰まっている。それらが考える内容は、明確な、歴史的な生産様式、すなわち、商品の生産、の条件やら関係やらを、社会的正当性のもとに、表現するものである。であるから、商品の神秘の全て、商品の形をとる限りでの労働の生産物の回りを取り囲む奇術や魔法の全ては、我々が他の生産形式に行ってしまえば、消える。
(11)ロビンソンクルーソーの体験は、政治経済学者のお好みのテーマであるから、彼の島に、見に行ってみよう。普通の人であるが、二三の欲求を満足させねばならない。だから、いろんな種類の有用な仕事を少しはしなければならない。道具や家具を作り、山羊を飼い馴らし、魚を釣り、狩猟をする。彼のお祈りやその関係は取り上げない、それが彼の楽しみの一つであり、それを息抜きとみているのだから。彼の仕事は様々であるが、彼は、彼の仕事の形式がどんなものであれ、一人の活動であり、ロビンソンのそれでしかないことを承知している。であるから、その労働を構成するものは、様々な様式の人間の労働の他にはなにものもない。必要が、彼に、彼の時間を正確に彼の違った種類の仕事に分配するように強いる。彼の全般的活動において、ある種類のそれが他よりも大きな部分を占めるかどうかは、困難性とか、その場合の多少にもよるし、目指す有用な効果の達成がそれなりのものであるといったことによる。我が友ロビンソンは、直ぐに経験から学び、難破船から救出した時計、会計簿、そしてペンとインクで、ブリトン生まれよろしく、帳簿をつける。彼の資産台帳には、彼に帰属する便利な品々のリストがあり、またそれらの生産に必要な作業内訳もあろう、そして最後に、それらの物に彼が費やした労働時間が、平均的にどの程度の量であったか正確に記されたであろう。ロビンソンと、彼自身が作り出した富であるこれらの物との関係は、この通り、極めて単純かつ明解である。セドレイテイラー氏ですら、なんの苦もなく分かるものである。だが、それらの関係で、価値を決める本質的なものの全てが揃ったわけではない。
(12)光を浴びるロビンソンの島から、我々を、闇のとばりに包まれた中世ヨーロッパへ移してみよう。ここでは、独立した人とは違って、誰もが誰かに頼っているのを見る。農奴と領主、家臣と君主、信者と教主。人々の依存性が、生産の社会的関係を形作っている、丁度、その生産の原則によって、別々の生活圏があるかのようである。だが、人々の依存性・従属性が社会の基礎的任務であるからと言って、かれらの実際の労働やその生産物がそれとは違った幻想的な形式をとる必要性はない。それらの形は、社会の中のやりとりであり、サービスの種類であり、支払いの種類なのである。ここに見られる特異でかつ自然な労働の形式は、商品の生産を基本とする社会における労働形式とは違って、その一般的で、そのままの労働が、直接的に、労働の社会的な形式なのである。強制される労働が、商品生産の労働のように、適切に時間で計られたとしても、農奴の誰もは、領主のサービスに支払うものが、彼自身の労働力の決まった量であることを知っている。教主に差し出される1/10税が、彼の祝福よりも多いという事実を知らない者はいない。だから、違った階級の人々が行うそれぞれの役割がどうであれ、かれらの労働行為の中の個々間の社会的関係が、かれらの互いの人間関係としてことごとく現われるのである。そして、労働の生産物間の社会的関係の形が、偽装されることもなく、そこにあるのである。
(13)共同的な労働、直接的な協同労働の例に行って見たいが、全ての文明化した人類の歴史の発端では、自然の成行としてこのような発展段階があったはずだが、もう戻る道理もない。いや、手近に、百姓の家族に見られる家長制の生業があるではないか。そこでは、一家が使用するために、トウモロコシや、牛や、糸や、リネンや、衣服の仕立てがなされている。これらの違った品々は、家族ということでの、労働の沢山の生産物である。とはいえ、彼らの間での商品ではない。違った種類の労働、耕作、牛の世話、糸紡ぎ、機織り、仕立ては、様々な生産物を産み出す。それらは彼等自身のものである。そして、直接的に社会的機能となる。それが彼等家族の機能だからである。商品の生産の上に作られた社会と同様、それらには、自然発生的な発展が見られる労働の区分のシステムが備わっている。家族内での仕事の配分、数人のメンバーの作業時間の調整は、年齢や性別の違いによって、また季節によって変わる自然の条件によって、巧みになされる。個々それぞれの労働力が、ごく自然に、家族の全労働力の決まった比率のように仕事をなす。そして、だから、個々の労働力の支出の大きさ、その継続時間は、ここでは、彼等の労働の社会的性格の極めて自然なものとして現われる。
(14)いろいろと見てきたが、道筋を変えて、自由な個人からなる社会を今度は描いてみよう。そこでは、生産としての仕事を共同の形で行っており、全ての違った個々の労働力は、社会の労働力の組み合わせのように用いられる。ロビンソンの労働の全ての性格が、繰り返されているが、違いがある。個々のそれではなく、社会のそれである。彼によって作られた全ての物は、なにもかもひっくるめて、彼自身の個人労働の結果であり、そして端的に、彼自身の使用のための物である。我々が見ている社会の全生産物は、社会的な生産物である。その一部は、次の生産のために使われるが、それも社会的なものに変わりはない。その他の部分は、構成メンバーによって、生活のために消費される。であるから、この部分の彼等への分配が必要になる。この分配の様式は、社会の組織や、生産者達によって得られた歴史的発展の度合いによって変わってくるであろう。各個々の生産者の、生活のための分配量は、単に、商品の生産で行われるのと同様に、彼の労働時間で決められると確信する。この場合、労働時間は二つの役割を演ずる。その時間の配分は、明確な社会的計画に基づき、そこで行われる違った種類の仕事と共同体の様々な欲求との間の適切な比率で保持される。もう一つは、各個々によりなされた共同労働の比率を計ることに供され、個々の消費分として予定された全体量の中からの受け取り分を決めることになる。個々の生産者の、彼等の労働とその生産物の両方に係わる社会的関係は、ここでは完璧に単純で、分かりやすい。また単に生産だけではなく、分配に関してもである。
(15)宗教的世界はなんと言おうと、現実世界の投影である。だから、商品の生産の上に成り立つ社会では、その社会の生産者達は、彼等の生産物を商品や価値としてお互いに取り扱うという社会的関係に入ることになり、そこでは、彼等の個々の私的な労働が均一化された標準的人間の労働という小さなものに変えられてしまう。そんな社会で、ブルジョワジー的発展がより一層はっきりして来る中で、ますます個々の特徴を失う人間のカルト依存心情に寄り添うキリスト教が、(古き教義のカトリックよりも個人的自由を許容する)プロテスタントが、(神が作った社会ではあるが、やがて自然の法則で発展するという)理神論等がもっとも適応する宗教の形式となる。()は訳者注 古代アジアや古代の生産様式では、生産物の商品への転換が見つかる、だからまた、人の商品生産者への転換も見つかる。彼等は、集団から外れた従属的な場所に居住させられるが、原始的な集団が、崩壊に近づけば近づく程重要な存在となる。商業国家、と適切に呼ばれるものが、古代世界の隙間に現われる。インタームンディアのエピキュロスの神とか、ポーランド社会の細穴に住むユダヤ人とかのように。これら古代の生産の社会組織は、ブルジョワ社会と較べれば、極端に単純で、透明である。しかし、見るところ、彼等は個人としては未成熟であり、原始種族集団の仲間と繋がっているへその緒が切れてはいない。彼等のような特殊な集団が生まれたり、存在したりするのは、ただ、労働の生産力の発展が、低い段階を越えておらず、従って、物質的な生活の範囲での社会関係が、人と人の間、人と自然の間でも、それに相応して狭いからである。この狭さが、古代の自然崇拝に投影する。また、他の民族的宗教の要素に投影する。現実社会の宗教的投影は、いずれにしても、最終的には消え去る。日々の生活の実践的な関係が、人々に十分な知識と仲間や自然に対する合理的な関係を提供するようになれば、消え去る。
(16)物質的生産の進展に依拠する社会の生活の実態は、いずれ、自由な協働をする人々による生産として扱われ、ある決まった計画に従って、これらの人々によって行われるようになるまでは、神秘のベールを取り除くことはない。このためには、ある程度の物質的な基礎づくりが社会に求められる。または、そのための条件づくりが求められる。それらは、発展の長く苦しい過程の自然的な生産物のように現われる。
(17)不完全とはいえ、政治経済学は、この通り、価値とその大きさを分析した。そして、これらの形式の下にあるものを発見した。だが、いまだかって、次の疑問を発してしていない。なぜ、その生産物の価値が労働によって表されるのかと。またなぜ、その価値の大きさが労働時間で表されるのかと。*33 価値・価値の大きさ、労働・労働時間、かれらの空疎な文句でも、間違いようがない文字を商品の上にスタンプしている。商品は社会の状態に属していると。そこでは、人が制御するのではなく、商品の方が人間を支配している。この空文句はブルジョワジーの知性に、生産的労働そのものが、自然から賦課された、自明の不可欠事項であると顕れる。まさに、ブルジョワジー形式以前の社会的生産方式をブルジョワジーが取り扱うようなものだ。キリスト以前の宗教儀式をキリスト教の神父が執り行うみたいなもんだ。
本文注33 / 古典経済学の主な欠陥の一つは、商品の分析、そして特に、それらの価値の分析によって、価値が交換価値となる形式の発見に、失敗していることである。アダムスミスやリカードというこの学派の最上の代表者でさえ、価値の形式をなんの重要性もないものとして取り扱っている。商品固有の形質にはなんの係わりもないものとして見ている。その理由は単に彼等の関心がもっぱら価値の大きさばかりに注がれていたからではなく、もっと深いところにその理由がある。労働生産物の価値形式は最も抽象化されたものであるのみでなく、最も世界的に普遍化されたものなのである。だが、ブルジョワ的生産の生産物によって取得されたものであり、社会的な生産の特別なる種類の生産によって取得されたものとスタンプが打たれている。それゆえ、その特別なる歴史的性格をそれに与えている。かくてもし我々がこの生産様式をいかなる社会においても自然によって永遠に固定化されているものとして取り扱うならば、我々は必然的に価値形式の、そしてその結果として商品形式の、そしてそのより発展した貨幣形式や資本形式等々の本質的な差異内容を見落とすはずである。(フランス語イタリック)その結果として、我々は、これらの経済学者が、労働時間が価値の大きさを計るものであると完全に認めていながら、貨幣やその完璧化された一般的等価概念について、奇怪で矛盾した概念を持つのである。このことは、彼等が銀行業を取り上げる時、日常会話で貨幣の定義を取り上げる場合に、もはや理屈が合わなくなって、持った桶から水が漏れ出すという驚くべき珍事を披露するのを見ることで分かる。このような概念が復古的な重商主義(ガニー等)の再来をももたらす。彼等のそれは、価値には何もなく、ただ社会的な形式だけと見る。またはその形式をありもしない幽霊のようなものと見る。はっきりと言っておくが、これがあの古典的政治経済学の見解なのである。私は、その古典的政治経済学とはウィリアムペティ以後、ブルジョワ社会における現実の生産関係を考察してきた政治経済学と理解している。俗流経済学とは対照的な地点に立って考察してきた経済学と理解している。さて、俗流経済学は、外観のみを扱う。遠い昔に述べられた科学的経済学の文言をあいもかわらず繰り返す。そしてブルジョワの日常用に最も気になる現象のまことしやかな説明を捜す。後の残り全部は、いかにも格好がつくようにそれらをまとめることであり、ブルジョワジーが、これぞ自分の世界であり、自らにとって最上のありうべき世界なりと、自己陶酔する陳腐な概念を、永遠に続く真理とでも宣言することである。
(18)いったいどこまで行くと云うのか、幾人かの経済学者は、商品に内在する物神崇拝、または労働の社会的性格の物体的外観に惑わされてあらぬ所に行ってしまう。いろいろあるが、中でも、交換価値の形成に関して、自然が演じる役割は、という馬鹿げた退屈な口論がそれである。交換価値とは、その物品に授けた労働の量を表す明確な社会的方法であるから、交換の過程で確定されるものであり、自然がなにもそれに係わることはない。
(19)商品の形式を取る生産物、または直接交換のために作られる生産物の生産様式は、最も一般的であり、ブルジョワ的生産の最も萌芽的な形式である。であるから、その外観は、歴史上早い時期に作られた。ただ、現在今日と同じような優越的支配や独特の挙動はない。それゆえに、その物神崇拝的性格は、比較的簡単に見通せた。しかし、より具体的形式に直面するようになると、この単純な外観も消えた。どこからこの重金主義の幻想が生じたのか?その金や銀が、通貨を務めると、生産者間の社会的関係を表すことなく、奇妙な社会的特質を表す自然的な物となった。そして、重金主義を蔑視する近代経済学は、資本を取り扱う段になるといつも、その迷信的幻想を白昼のもとに明解に連れ出さない。経済学が、地代は大地から生じ、社会から生じるものではないという重農主義的幻想を放棄してから、かなりの年月が過ぎているではないか?
(20)先を急ぐ前に、商品形式に関する別の例でもう一度納得してみよう。もし、商品自身が話したら、彼等は次のように云うだろう。「多分、人々の興味の対象は、我々の使用価値であろう。だが、それは我々の物ではない。ただ、我々に属する物は、我々の価値である。我々の商品としての自然な交流がそれを証明している。お互いの目には、我々はただ交換価値以外の何者でもない。」さて、今度は、それらの商品が経済学者の口を通して喋るとどうなるだろう。「価値−(交換価値)は、品物の特質である。富−(使用価値)は、人のそれである。価値はその意味から交換を含む必要性がある。富は含む必要がない。」「富−(使用価値)は、人の帰属物である。価値は商品の帰属物である。人や集団は富であり、真珠やダイヤモンドは価値である。...真珠やダイヤモンドは、価値がある。」真珠やダイヤモンドのように。真珠やダイヤモンドに、交換価値を発見した化学者はいまだかってどこにもいない。ところが、この化学的要素の経済学的発見者は、まあとにかく特別の批判的眼識を持っているとかいうが、物の使用価値は物に属し、それらの物的特質からは独立しているという。一方、それらの価値は、それらの物としての部分を形成するという。これらの見解の云わんとしていることは、以下のことはあり得ない状況だということだ。物の使用価値は交換なしに実現され、人と物との直接的関係そのものであり、一方それらの価値は、交換によって実現される、それこそ社会的な過程そのものなのにだ。さて、われらが良き友人を思い起こしてみよう。ドグベリーだが、彼は隣人のシーコールに、「顔つきは、富の贈り物だが、読み書きは、自然にもたらされる」と云った。誰がここで間違えているだろう。 
 
第二章 交換

 

(1)当たり前のことだが、商品は市場に行くことはできない、また自分の勘定で交換をすることもできない。従って、それらの保護者、またそれらの所有者でもあるが、に、頼らなければならない。商品は、ものであって、従って、人間に逆らう力は持っていない。もしそれらが従順を求めているなら、人は力を使うことができる。別の言葉で云えば、それらを入手することができる。これらの物を商品として、他と互いの関係に入れて貰うためには、それらの保護者は、自分自身を他との関係に置かなければならない。それらの物に属している人物として、それなりに振る舞わなければならない。他人の商品に勝手をしてはいけないし、自分のものからは離れない。ただ例外は、お互い双方の合意によって、何かをすることはできる。従って、彼等は、私的な所有者としての権利を、双方とも互いに認めなければならない。この法律上の関係は、契約ということで表されるが、その契約が、発展した法的システムであるかどうかはともかく、二人の意志の関係となる。これこそ、二人の間の実際の経済的関係の投影に他ならない。この経済的関係が、互いの、法律条項で構成される主題内容を決めている。
(2)人は、互いに、商品の代表者、従って、所有者としてのみ存在している。我々の考察は、いずれこの先、この経済的段階で見せる性格が、彼等の間に存在する経済的関係の擬人化であること見つけるであろう。
(3)商品をその所有者から分かつ筆頭のものは、この事実である。商品は、他の商品を、自身の価値の外観的形式としか見ていない。この生まれながらにしての平等主義者でかつ冷笑主義者は、常に、他のどんなかつすべてとの交換に対して準備が済んでいる。心も体も。マリトルネスと同じで、いや彼女よりも品がない。所有者は、商品の具体的な意図とその欠けているところを彼自身の五感ないしそれ以上の感覚で、補うことになる。彼の商品は彼にとっては、差し当たっての使用価値は持っていない。そうでなければ、市場へ持ってはいかないだろう。それは他人のための使用価値を持っている。だが、彼自身にとってみれば、ただ、交換価値を保管しているという直接的使用価値である。であるから、交換のためのものである。そこで、彼は、彼にとってなにかと使える価値がある商品のために、それを手放す決心をする。全ての商品は、それらの所有者にとっては、使用価値が無い、使用価値は所有者以外のためのものである。であるから、それらは全て持ち手を変えなければならない。だが、この持ち手を変えるということは、それらの交換を意味する。交換とは、それぞれを、互いに他との、価値としての関係に置く。かくて、それぞれは価値となる。このことから、商品は、使用価値として実現される前に、価値として実現されねばならない。
(4)一方、それらは、それらが価値として実現されることができる前に、使用価値であることを示さなければならない。それに費やした労働がどれほどのものか、ただ、他人にとって有用な形式で費やされたものかどうかという限りで、実際に吟味されるからである。その労働が他人に有用であったかどうか、そしてその生産物がその結果、他人の欲求を満足し得るものであるかどうか、ということが、交換の行為によってのみ、証明されることができる。
(5)全ての商品の所有者は、交換によって、それが彼のある欲求を満足させる使用価値である商品であるかぎりで、自らのそれを手放したいと望んでいる。このやりとりを見れば、交換は彼にとって、単純な私的な取引である。だが他方、彼は、彼自身の商品が他の所有者にとって、なんらかの使用価値を持っているか、持っていないかに係わらず、彼の商品の価値の実現を望んでおり、それを他の適切な等価の商品に変換したいと望んでいる。この点から見れば、彼にとって、交換は一般的な性格の社会的やりとりである。しかし、この例の、そしておなじようなやりとりでは、全ての商品所有者に対して、同時に、全く私的な取引であり、かつ全く社会的で一般的な取引であることはできない。
(6)このことを、もう少し拡大して見てみよう。商品の所有者にとっては、他の全ての商品は、彼の所有する商品から見れば、特定の等価であり、従って、彼の商品は、他の全ての商品の世界等価である。しかし、これを全ての所有者に適用すると、事実上、そこには世界通貨を演じる商品はない。また、それら商品の相対的価値は、それらが価値として等価となることができるとか、それらの価値の大きさを較べられるとかの、一般的形式を、持っていない。そこでは、だから、それらは、商品として互いに対面してはいない。ただ、生産物または使用価値としてだけである。我等が商品の所有者、彼等は困難に陥り、ファウストのように考える。「初めに、行動があった」と。だから、彼等は考える前に行動し取引した。本能的に、彼等は、商品の自然的性状につり込まれたような法に従う。彼等は、彼等の商品を価値の関係に持ち込むことができないし、だから商品として、どれか他の商品と較べることだけで、どれか他の商品と世界等価としての関係にも持ち込めない。我々は一商品の考察からその事を見ている。特定の商品といえども、社会的行為なくしては、世界等価となることはできない。従って、他の全ての商品の社会的行動が、ある特定の商品を隔離して、それによって彼等の全ての価値を表す。それで、この商品の物体的形が社会的に世界等価と認められるものとなる。この社会的な過程を経て、世界等価となった特別な機能を有する商品は、他の全てから排除されて、すなわち、−貨幣となる。「彼等は同一の計略をなし、己が能力と権威を獣に渡さん(ヨハネ黙示録17章)この印章もしくはその名の数をしるされた人々の他、売り買いすることを得ざらしめたり」(ヨハネ黙示録13章:新約聖書ヨハネ黙示録)
(7)貨幣は、交換の過程でその必要性が形をなした結晶である。それによって、労働の様々な生産物が、実際に、互いを同等とされ、従って、商品に変換される。歴史的な進展と交換の拡大が、商品に隠れていた使用価値と価値の間の対照性をも発展させる。この対照性に、外から見えるような表現を与える必要性が、商売上のやりとりのためにも、独立した価値形式の確立が、急務となる。そして、商品が、商品と貨幣に分化することで、皆がそれに満足するまで、休止がないのを見る。また、これと同じ速度で、生産物の商品への変換が完成する。同様に、ある特別の商品の貨幣への変換も完成する。
(8)生産物間の直接的物々交換は、相対的価値表現の最初に出会った形式を、一面では持っているが、他の面では持っていない。その形式は、x量の商品A=y量の商品Bである。この形で直接的物々交換を表せば、x量の使用価値A=y量の使用価値Bとなろう。この場合の品物AとBは、商品になりきってはおらず、単なる物々交換の行為となっただけである。有用な物が交換価値の取得に目を向ける最初の一歩は、その所有者にとって、使用価値でなくなる場合、彼の当面の欲求を求めているある品物が多少余分なものとなる場合である。物は物として人の外にあり、当然ながら、彼にとっては譲渡し得る。この譲渡のためには、ただひとつ、双方とも、これらの譲渡可能な物の私的な所有者として、暗黙の了解のもと、独立した個人としての密接な関係をもって、お互いに相手を処遇しあうことが必要なのである。
しかし、このような相互的独立の状態は、共用的特質を基本とする初期的な社会には存在しない。その社会が、家長制家族の形であろうと、古代インド共同体や、ペルー人のインカ帝国であろうと、そこにはない。商品の交換は、だからこそ、その最初は、このような共同体の境界線ではじまる。他の似たような共同体との接触点である。または、その共同体のメンバーとの接触点である。生産物が共同体関係の外部で商品となれば、直ぐに、共同体内部でも、その反作用を受けて生産物が商品となる。交換できる物の割合は、最初は全く偶然のでき事である。それらを交換できる物にするのは、それらを譲渡しようとする所有者達の相互の欲望である。そうこうするうちに、異質の有用な物に対する必要性を、次第に、確信するようになる。定常的な交換の繰り返しが、交換を通常の社会的行動となす。従って、この経過のうちに、少なくとも、労働の生産物のある割合は、交換という特別の観点から生産されるに違いない。そしてこの瞬間から、消費のための物である有用性と、交換のための有用性との区別が、明確に確立される。その使用価値は、その交換価値から識別されたものとなる。一方、その品物が交換される量的比率は、彼等の生産そのものに依存するようになる。習慣が、それらに、ある大きさの価値をスタンプする。
(9)生産物の直接的物々交換では、各商品は、所有者にとっては、交換手段である。そして、他の全ての人にとっては、当然ながらそれが彼等にとって使用価値がある限りで、等価である。だが、この段階では、交換された品物は、それらの使用価値、または交換者の個々の必要性から独立した価値形式を得てはいない。価値形式の必要性が、交換される商品の数と種類の増大とともに大きくなる。問題とその解決方法が、自生的に発生する。違った所有者に属する、違った種類の商品が、ある同じような特別の品物と、交換の可能性がなく、価値として等価とすることができないならば、商品−所有者達は、彼等自身の商品と他のそれとを同等とすることはできなかったし、また、大規模にそれらの交換もできなかった。この特別の品物は、他の様々な商品の等価となることによって、狭い制限内にも係わらず、一般的で社会的な等価の性格を直ちに獲得する。この性格は、つかの間の社会的行為によって実際に生じるが、だからまた直ぐに表れ、直ぐに去る。その時その瞬間、その性格は、最初はこの商品に、次にはあの商品にと付着する。しかし、交換の発展にともなって、特定の種類の商品に、排他的に、強固に固着する、そして、貨幣−形式として認められることで、貨幣結晶となる。それが張り付く特定の種類の商品は、最初は偶然のでき事である。とはいえ、決定的な影響を及ぼす事情は、二つある。貨幣−形式は、まず、外からの最も重要な交換品目に取りつく。そしてこの事実は、地元の生産物の交換価値が表現を見出す初期的で自然な形式であることを示す。また他には、主要な持ち分でもある、生まれながらの譲渡可能な富、牧畜牛のような、有用な物に取りつく。遊牧民族が、最初に、貨幣−形式を発展させた。なぜならば、彼等の全ての世界的な品物は可動な物からなっており、だから、直接的に譲渡可能なのである。そして、彼等の生活様式だからである。次々と、それらを他の共同体との折衝を求めて運び、生産物の交換を懇請する。人は度々、人自身を、奴隷形式として、貨幣の初期材料として使って来た。しかし、土地をこの目的として使ったことはいまだかってなかった。このような発想は、すでによく発達したブルジョワ社会でのみ発現し得た。それは17世紀も2/3を経過した頃からはじまり、国家的な規模で最初に実行が意図されたのは、さらに1世紀後のフランスブルジョワ革命の頃である。
(10)交換が、地方的な枠を突き破るに比例して、商品の価値が子細を捨象した人間の労働の体現へとより一層拡大した。また同じく比例して、貨幣の性格が、商品に張り付いた。世界等価の社会的機能を行うに適した自然の物に、それらの商品は貴金属である。
(11)「黄金や銀は、自然に貨幣とはならないが、貨幣は自然に黄金や銀となる」この主張の正しさは、これら金属の物理的特質が、貨幣の機能によく適合していることで、示されている。とはいえ、我々は、この点については、ただ一つの貨幣の機能しか分かっていない。すなわち、商品の価値の表明形式としてであり、それらの価値の大きさが社会的に表されるものとしてである。価値の表明形式として不足はなく、子細を捨象した、差異のない、従って均一な人間の労働の体現に対しても適切で、その材料は、それのみで、それらのどこを取っても、同じ一様な質を示すことができる。さらにもう一つ、価値の大きさの違いは、純粋に量的なものであり、貨幣商品は、量だけの違いに敏感でなければならない。従って、意図に応じて、細分化できなければならず、また同様、再結合化できなければならない。黄金や銀は、これらの特質を自然に持っている。
(12)貨幣商品の使用価値は、二重となる。その商品の特別な使用価値(金、例えば、歯科用とか、奢侈品の素材としてとか、その他)に加えて、特別な社会的機能をもたらす形式的な使用価値である。
(13)以後、全ての商品はただ、貨幣の特定な等価である。貨幣がそれらの世界等価となれば、それらは、貨幣を世界等価と見なす以上、特定の商品群の一部を演じる。
(14)我々は、貨幣形式が、一つの商品の上に投げかけられた、残り全ての価値関係のささいな反射作用であるというのを見て来た。そこで、貨幣は商品である、という新たな発見をした者は、単に、十分に発展した形からこれを見て、そう分析しているに過ぎない。交換の行為が、商品に、貨幣への変換を与えたのである。その価値を与えたのではない。与えたものは、特別の価値の形式なのである。この二つの明確な概念を混同するある著作者は、黄金や銀の価値は想像上のものであると思い込まされたりする。貨幣はある一定の機能において、それ自身の単なるシンボルに置き換えができるという事実が、貨幣は単なるシンボルであるという間違った考え方の原因を与える。このような錯誤が、ある物の貨幣形式はその物から分離不能ではないという感触をもぐり込ませるかもしれないが、にもかかわらず、それは、それによって、社会的関係を表明するある一定の社会的関係の単純な形式なのである。この感覚なら、全ての商品もまたシンボルとなろう。なぜなら、それはまさに価値の範疇であり、人間の労働がそのものに費やされたただの物的外形だからである。だが、もしそういうことなら、その物に社会的性格が付与されているとか、ある明確な生産様式体制のもとになされた社会的性質をもつ労働に物的な形が付与されているとか云うのも、単なるシンボルとなるが、その同じ息から、これらの性格は、人類のいはば世界的同意によって認められた勝手な虚構であると云っていることになる。この文句は、18世紀によく云われた表現様式に似合う。人と人の社会的関係が作り出したこの謎の形式の発端が説明できなかったために、人々は、その奇妙な外観を取り外すために、都合に合わせた発端を付与しようと探し求めたのである。
(15)すでに、前に述べたように、商品の等価形式は、その価値の大きさを決めることを意味しない。従って、我々が、黄金が貨幣であり、その結果として、他の全ての商品と直接的に交換可能であると、知っているとしても、だからといって、例をあげるなら、10ポンドの黄金の価値がどれほどのものかは、事実、依然として語ってはいない。貨幣は、他の様々な商品と同様、自らの価値の大きさを、他の商品との相対的な比較以外では、表すことができない。この価値は、その生産に必要な労働時間によって決められる、そして、同じ労働時間を費やす他のある商品の量で表される。この様なその相対的価値の量的決定は、その生産現場での物々交換によってなされる。貨幣として循環に投入されれば、その価値はすでに与えられたものとなる。17世紀最後の10年間には、貨幣は商品とすでに見られていた、だが、この段階では、初期的な分析しか記されていない。その困難性は、貨幣が商品であるという理解の点にあるのではなく、どの様にして、何故、そして、何が、商品を貨幣としたのかにある。
(16)我々は、すでに、最も初めの頃の価値の表現から見ている。
x量の商品A=y量の商品Bである。ある物が、その内に、ある価値の大きさの他の物が該当すると表されており、これらの関係から独立して、等価形式を持つとして現われる。あたかも、社会的な特質が自然によって与えられたごとくに。我々は、この偽りの外観を、その最終的な確立に至るまで、追いかけてみよう。ある特定の商品の物体としての形が、世界等価形式となるやいなや、その確立が完成し、そしてかくて、貨幣形式へと結晶させられる。なにが起こったのかは、以下の通りである。全ての他の商品がそれらの価値をその中に表現しようとする結果として、黄金が貨幣となったのではない。逆であって、全ての他の商品が世界的に、それらの価値を黄金で表す、それが貨幣だからである。この過程の中間段階は、結果の中に消え、なんの痕跡も後に残さない。商品は、何一つ主導権を行使することもなく、それら自身の価値がすでに完全に表されているのを、他の商品群の並びの中の一員として見つける。これらの物、黄金と銀は、地の内から現われた時から、立ちどころに、全ての人間の労働を、直接的に具体化するものとなった。よって貨幣の魔術なのである。社会の形式の中で、今考えて見れば、人の行いは生産の社会的過程の中では、純粋に原子的なものである。生産における相互の関係は、彼等の制御と個々人の意識的な行動からは切り離された、素材的性格のようにみえる。この事実が、最初は、生産物に現われる。一般的規則が商品の形式を執るかの如く。我々は、どの様にして、商品生産者の社会の際立った発展がその特権的商品に、貨幣の性格を刻印したかを見て来た。以後、貨幣の謎は、商品の謎となった。まさに、それは、今、最もまばゆいばかりの形式で、我々を撃つ。 
 
第三章 貨幣、または商品の流通

 

第一節 価値の尺度
(1)以下、この考察作業の全てに関して、私は、簡明化のために、金を貨幣商品であると決めて置く。
(2)貨幣の主要な機能の第一は、商品に対して、それらの価値を表現する材料を供することである。または、それらの価値の大きさを同じ単位で表す材料を供することである。質的に同等で、量的にも比較可能な材料を供することである。それは、そのように、価値の世界尺度としての役目を果たす。ただ一つ、この機能があるゆえに、金、卓越した標準性をもつ等価商品は、貨幣となる。
(3)貨幣が、商品を、同一基準で計量できるものとするのではない。逆である。全ての商品は、価値として、人間の労働を現わしている。だからこそ、同一基準で計量することができるものなのである。それらの価値は、一つのそして同じ特別の商品によって計ることができる。その特別の商品は、それらの価値の共通的尺度に変換される。すなわち、貨幣に変換される。*
(4)金による、商品の価値の表現−x量の商品A=y量の貨幣商品−は、その貨幣形式またはその価格である。次のような単行等式1トンの鉄=2オンスの金は、今や、社会的に正当なる方法で、鉄の価値を表現するに十分足りる。もはや、この等式を明確化するための他の全ての商品の価値を表す多数行の等式はいらない。なぜなら、等価商品金は、いまや貨幣の性格を持っている。一般的な相対的価値形式は、それ自身の最初の形で、単純な、または個別の相対価値形式を改めて取得する。一方、拡大された相対的価値形式、終りのない等式の連結群は、いまや、貨幣商品の価値に対する奇妙な形式となった。その連鎖は、ここにすでに現実の商品の価格で社会的認識を与えられているし、持っている。我々はただ、価格表の字面を逆に読めばいいだけである。そうすれば、全ての種類の商品で表されている貨幣の価値の大きさを見つけることができる。とはいえ、貨幣自身は価格を持っていない。そのため、これを他の全ての商品と同位置に置くには、我々は、それを、それ自身の等価と同じとすることを余儀なくされる。
(5)商品の価格または貨幣形式は、商品の一般的な価値形式と同様、明白な物体的形からは全く別の形式である。であるから、それは、純粋な観念または心象形式である。見えはしないが、鉄、リネン、トウモロコシの価値は、これらの確かな品物の中に現実に存在している。それらが金と等価であることによって、観念的に認知することができる。つまり、それらの頭の中に存在している。従って、それらの所有者は、それらの価格が外の世界に通知されることができるように、前もって、彼の舌をそれらに貸してやるか、それらに、正札をぶら下げるかしなければならない。金による商品の価値の表現が単なる観念的な行為となって以来、我々は、その目的のために、想像上のまたは観念的な貨幣を使ってもなんら差し支えがなくなった。どの商売人も、彼等の価値を価格または想像上の貨幣で表す時、彼の物を金に変えることなどという考えは全くないということを知っている。また、何百万ポンドの価値がある物をこの金属で概算する場合でも、ほんの少しの金の直物も求められないことを知っている。かくのごとく、貨幣が価値の尺度を務める時に用いられるのは、想像上のまたは観念的な貨幣のみである。こう言う事から、粗暴な理論も生じた。だが、貨幣が価値の尺度機能を果たす場合はただの観念的貨幣であるとしても、価格は、実在の貨幣に全面的に依存している。鉄の価値、別の言葉でいえば、1トンの鉄に含まれる人間の労働の量は、鉄のそれと同量の労働が含まれる想像上の貨幣商品の量というもので表される。従って、価値尺度としての、金、銀、または銅に応じて、鉄の価値は、それぞれ違った価格で表されることになる。または、それらの金属のそれぞれ違った量で表されることとなる。
(6)従って、もし仮に、二つの違った商品、金とか銀が、同時に価値の尺度となるならば、全ての商品は二つの価格を持つことになる。−金価格が一つ、もう一つは銀価格である。この二つの価格は、金に対する銀の価値比が、例えば、15:1で変化なく維持されるならば、静かに並列する。この比にどんな変化でも、生じるならば、商品の金価格と銀価格間の比は混乱される。このことは、事実をもって、二重価格基準が、基準機能に矛盾することを証明する。
(7)明確な価格がある商品は、それら自身を次のような形式で表示する。a量の商品A=x量の金,b量の商品B=y量の金,c量の商品C=z量の金,その他。ここでは、a,b,cは明確な商品A,B,Cそれぞれの量を表示ずる、そしてx,y,zは金の明確な量を表示する。この結果、これら商品の価値は、観念的に、多くの違った量の金に変換される。以来、商品群自身の戸惑うばかりの種類にも係わらず、それらの価値は、同じ単位の金のそれぞれの大きさとなる。今では、それらは、お互いに比較され得るし、計量され得る。そして単位尺度金のある決まった量によって、比較しようとする欲求も技術的にはっきりしてくる。この単位は、一定分量への分割から、それ自身が基準や尺度間隔となる。金,銀や銅は、貨幣になる以前から、すでに、それらの重さの基準が基準尺度となっており、例えば、1ポンドという重さが、単位として使われ、ある時は分割してオンスとなり、別の時には、合わせて100ポンド重量となる。このようなことから、全ての金属流通で行われていたように、貨幣の基準名や、価格名に、従来からの金属の重量名称が、最初の段階では、与えられたのである。
(8)価値の尺度として、また価格の基準として、貨幣は二つの極めて明確な実行機能を持っている。価値の尺度としては、社会的に認められた人間の労働の実体そのものの如く、また、価格の基準としては、金属としての定まった重量の如く。価値の尺度として、多数の全ての商品の価値を価格に変換する役を果たし、観念上の金の量とする。また価格の基準として、それらの金の量を計量する。価値の尺度は商品を価値として計量する。価格の基準は、逆に、金の量を、金の一単位をもって計量する。ある一単位商品の金の量の価値を、他の金の重量で計量するものではない。金をして価格の基準とするためには、ある一定重量を基準単位として固定する必要がある。このことは、同じ単位基準で計量する場合全てに該当するが、不変の尺度単位の確立が必須的に重要となる。そこでさらに、様々な物に対応するために、小さい単位も主な条件となる。その方が価格の基準としての対処性も良くなる。だが、ただ、金が労働の生産物である限りのことで、従って、価値の多様性に対する適応力を備えており、金は、価値の尺度としての役割を果たすことができる。
(9)第一の点は、金の価値が変わっても、価格の基準としての機能には、いささかも影響しないということである。このことは明白なことである。この価値がどのように変わったとしても、金属の様々な量の価値の比は一定を維持する。仮に金に暴落があったとしても、12オンスの金は依然として、1オンスの金の12倍の価値を持っているし、価格も変わらない、考慮されるのは、違った金の量との関係のみである。一方、1オンスの金の価値に上昇・下降があっても、1オンスの金の重量を変えることはできないし、その一定分量の重量にもなんら変化は及ばない。このように、金は、常に、例えその価値に大きな変化が起こったとしても、不変の価格の基準として、同じ役割を果して呉れる。
(10)第二の点は、金の価値が変わっても、価値の尺度としての機能は、少しも邪魔されないということである。変化は全ての商品に同時に影響する。そこで、他の状況も同じならば、従って、それらの相対的価値は、それらにおいては、そのままである。つまり変化しない。だが、それらの価値を新たに表す時には、高いか低いかの金の価格でとなる。
(11)いかなる商品もの価値を、ある他の商品の明確な使用価値の量によって、算定する場合、例えば、その商品の価値を金で算定する場合、我々は、与えられた量の金の生産に費やされた、与えられた期間の与えられた労働の量以外は必要としない。価格の一般的変動に関して云うなら、それらは以前の章で考察した、最初に出会うような相対的価値の法則に当てはまる。
(12)商品価格の一般的上昇は、以下の二つの場合にのみ起こり得る。一つはそれらの価値の上昇−貨幣の価値は一定として−または、貨幣の価値の下落、商品の価値は一定として、のどちらかである。一方、商品価格の一般的下落は、同様、一つは商品の価値の下落、貨幣の価値は一定として−または、貨幣の価値の上昇、商品の価値は一定として、のいずれかである。従って、貨幣の価値の上昇が、商品の価格の比例的下落を意味することにはからずしもならないし、また貨幣の価値の下落が、商品の価格の比例的上昇を意味することにもかならずしもならない。商品の価値が一定の場合のみ、そのような価格の変化が生じる。例えば、商品の価値が上昇し、同時に、貨幣のそれにも同様の比例的な上昇があれば、価格に変化は生じない。そしてもし、商品の価値の上昇が、貨幣のそれより遅いか早いかしたならば、それらの価格は、商品と貨幣の価値の変化の差によって、下落か上昇かが決められることになろう。その他いろいろなケースがある。
(13)さて、それでは、また、価格形式の考察に戻ることにしょう。
(14)しばらくするうちに、貨幣の形をとる貴金属の様々な重量による使用貨幣名と、元から使われていた名称である実際の重量との間に食い違いが起きるようになった。その食い違いは、歴史的な理由による。そのうちの主なものは、(1)他民族からの通貨の輸入、発展段階の低い民族に対する先進地からの。初期ローマでは、金貨・銀貨が外からの商品として流通した。これらの外からの硬貨名は、原産地でのそれらの重量と一致することはなかった。(2)富の増加により、劣位の金属は優位の金属によって、価値の尺度としての立場から押し出される、銅が銀によって、銀が金によって。ではあるが、こうしたことが、この順で、詩的年代記のように進行したわけではない。例えば、ポンドなる名称は、銀の重量1ポンドに与えられた貨幣名であった。銀の価値の尺度の位置を、金が奪ったことにより、同じ名称が、銀と金との価値の比率に従って、およそ1/15ポンドの金に採用されたのであった。このように、貨幣名としてのポンドは、重量名としての同じ言葉から、違ったものとなった。(3)何世紀にもわたって継続的に、王や王子達による貨幣の改鋳・改悪が、硬貨の元の重量に対して行われ、硬貨は事実上なくなってしまったが、名称だけは残った。
(15)このような歴史的原因が、貨幣名から重量名を切り離して、民族的集団における確立した習慣へと変換する。以来、貨幣の標準は、一方では、純粋に因習であり、また他方、一般的に受容されるものとして見られなければならない。つまり最終的には、法律で規定される。ある貴金属の与えられた重量、例えば、1オンスの金は公式的に一定分量に分けられて、法律的に名称を授けられる。ポンド、ドル、その他と。この一定分量は、その時以来、貨幣の単位を務める。また、この一定分量は、さらに細かく区分されて、法律的名称、シリング、ペニー、他となる。しかし、これらのいずれも、区分される前も後も、ある明確な金属の重量が、金属貨幣の標準である。ただ一つの変更は、細分化と単位名称だけなのである。
(16)価格または金の量は、そこに商品の価値が観念的に変換されているのだが、それらは、従って、今では、硬貨名で表現される。または法律的に決められた金標準の細分量名で表現される。であるから、例えば、1クオーターの小麦は1オンスの金の価値があるという時、それは、3ポンド17シリング10ペンス1/2の価値であると云う。この方法で、商品は、それらの価値がどれほどのものかを、それらの価格で表し、貨幣は、貨幣勘定を務める。ある品物の価値を貨幣形式で明確にする時はいつでもこのようにする。
(17)物の名前は、その物の質からは切り離されている。私がその人の名前がヤコブと知っていても、その人については何も知らないのと同じである。貨幣も同様であって、その名前、ポンド、ドル、フラン、ドゥカート、他から、価値関係のいかなる痕跡も消滅している。このような秘教的な符号に隠された意味に起因して惹起される混乱は、非常に大きなものとなる。なぜならば、これらの貨幣名が、二つのことを表すからである。一つは、商品の価値、それと同時に、もう一つ、金属の一定分量の重量が貨幣の標準を表すからである。一方、様々な商品の物体的な形から切り離したところの価値、この材料的で、具体的な意味を持たないそれを、同時に純粋に社会的形式と認識すべき点は極めて重要なことである。
(18)価格は、商品に実現された労働の貨幣名である。だから、商品の等価を、その価格を構成する貨幣総数で表すことは、同語反復である。ちょうど、一般的に、一商品の相対的価値の表現が、二つの商品の等価と云うみたいなものである。しかし、商品の価値の大きさを示す価格が、貨幣との交換比率を説明しているとはいえ、交換比率の説明が、商品価値の大きさの説明に必要であるわけではない。二つのそれぞれ同量の社会的必要労働で表されるもの、1クオーターの小麦と2ポンド(約1/2オンスの金)を考えてみよう。2ポンドは、その小麦の価値の大きさを貨幣で表したものである。またはその価格である。今、状況が、この価格を3ポンドに上昇させることを許したとしよう、または、1ポンドに引き下げるよう強いられたとしよう、そうなれば、1ポンドと3ポンドとは、小麦の価値の大きさを表すには、小さ過ぎたり、大き過ぎたりするかも知れないが、それにも係わらず、それらがその価格である。まず第一に、それが、それによってその価値が現われる形式、すなわち貨幣だからである。第二に、貨幣によるその交換比率の説明だからである。もし、生産の条件、別の言葉で云えば、労働の生産力が一定に留まるとするならば、同量の社会的労働時間が、価格が変わる以前・以後とも、1クオーターの小麦の再生産に支出されねばならない。この状況は、小麦生産者の意志にも、他の商品の所有者の意志にも依存しない。
(19)価値の大きさは、社会的生産関係を表す。ある品物とそれを作るために必要となる社会的総労働時間の割合との間に必要的に存在する諸関連を表す。価値の大きさが価格に変換されるやいなや、上記の必要な関係が、一商品と他の商品、すなわち貨幣商品である、との間の交換比率として、多少偶然的ではあるが、姿を現わす。しかし、この交換比率は、商品価値の実際の大きさと、それとは別に、状況にもよるが、その価値から逸脱した金の量をも表す。だから、価格と価値の大きさとの間にある量的な不適合の可能性、また前者と後者の乖離は、価格形式自身の起因的特質なのである。これは欠陥ではない、いやそれどころか、ある生産様式によく適合している価格形式なのである。その生産様式に起因する慣例が、互いを釣り合わせるが、明らかに、無法・違法な、ただ一つの手段としての役割を、それらに賦課している。
(20)だがさらに、価格形式は、価値の大きさとその貨幣的表現である価格との間の量的不適合の可能性と矛盾しないだけではなく、質的矛盾を隠蔽する。それはどういうことかと云うと、貨幣は商品の価値形式以外のなにものでもないが、価格は共に価値を表していたが、次第にこれを止める。あるもの、良心とか名誉とかだが、それ自身は商品ではないが、持ち主によって売りに出すことができる。そして、その獲得は、価格を通じて、商品形式でなされる。この様に、ある物は、価値はないが、価格を持つことがあるかもしれない。この場合の価格は、観念上のもので、数学的な数量のごときものである。一方、観念上の価格形式は、直接的・間接的にかかわらず、実際の価値関係を、時には、隠す。例えば、未墾の地の価格である。人間の労働がなんら関与していないので、価値はないのだが。
(21)価格は、一般的な意味で相対的価値と同じく、商品の価値を表す。(例えば、1トンの鉄)は、ある与えられた量の等価物(例えば、1オンスの金)が、直接的に鉄と交換可能であると云うことをもって。しかし、その逆の、鉄が金に対して直接的に交換可能であると云っているのではない。従って、商品が交換価値として、実際問題として、効果的に行為がなされるかどうかは、物体としての形を止めなければならないし、また単なる観念的な金からほんものの金に自らを変化させなければならない。だが、この全質変化は、ヘーゲルの「概念」、「必要」から「自由」への変化よりも、または、海老が自らの殻を捨てるよりも、聖ジエロームが老アダムの原罪を置き去りにするよりも困難やも知れぬ。商品は、その実際の形(例えば、鉄)を伴いながら、我々の観念上で、金の形をとれたとしても、依然として、ある時に、そして同じ時に、現実として、鉄でありかつ金であることはできない。価格を決めるためには、それが観念上の金に等しいことを満たせばよい。しかし、その所有者にそれを世界等価として提示することになれば、現実に金に置き換えなければならない。もし仮に、鉄の所有者が、ある他の商品の所有者の所に行って、交換を申し入れたとするならば、そして、彼に鉄の価格をすでにそれは貨幣であるとして伝えたならば、彼は聖ペテロが天にてダンテに答えたのと同じ答えを得たであろう。その時ダンテは、こんな詩を唄っていた。
(22)「これで信仰の純度と重さは両方とも検査されました。でも、教えてください、あなたはその信仰をあなたの心に持っていますか?」私は答えました。「はい、持っています。正しい信仰です。」(ダンテ「神曲」天国篇第24歌)
(23)従って、価格は、商品が貨幣と交換可能であり、また、交換されねばならないことの両方を暗に示している。一方、金は、観念上の価値の尺度を務める。ただ、それは、すでに、交換の過程において、貨幣商品であると自身を確立しているからである。観念上の価値の尺度ではあるが、下には硬い現金が潜んでいる。 
第二節 流通の手段

 

A.商品の変態
(1)我々は、前章で、商品の交換は、矛盾しかつ互いに排他的な条件を含んでいることを見た。商品を商品と貨幣に分けることが、これらの矛盾を払拭するのではなく、妥協的方便を発展させ、なんとか並立できる形としている。これは、現実の矛盾を調和させる一般的な方法なのである。例えば、ある物体が常に相手方に向かって落下している状態で、同時に、そこから常に飛び去ろうとしている状態を叙述するという矛盾である。楕円は、この動作の一つの形式として、この矛盾を許容しながら、同時に、調和せしめている。
(2)交換が一つの過程である限りにおいて、商品は、非使用価値である持ち手から、使用価値となる使い手へと移される。社会的な流通ということである。有用な労働の一つの形式である生産物が、他のものに置き換わる。商品が一度、落ち着き先を見つければ、そこで使用価値として仕えることができる。交換の世界から消費の世界に抜け出る。しかし、現時点では、前半の世界ただ一つが我々の関心事なのである。従って、我々は、今、現実に行われている形式的な外容から交換を見て行かねばならない。社会的な流通を実効あらしめているところの形式の変化または商品の変態を考察して行かねばならない。
(3)この形式の変化なるものの把握は、一般的に、大変不十分である。その不十分さの理由は、価値それ自体が不明瞭な概念であることを別にすれば、全ての商品における形式の変化が、通常の商品と貨幣商品という二つの商品の交換に起因している。もし、我々が、商品は金のために交換されるという、目に付くだけの事実の視点に留まるならば、我々は、注目すべき大事な点、すなわち、商品の形式に生じた変化を見落としてしまうだろう。我々は、金がその時は単なる商品であり、貨幣ではなく、他の商品が自身の価格を金で表す時、この金は、まさにそれら商品自身の貨幣形式であるという事実を見落とすことになる。
(4)商品は、とにもかくにも、あるがままで、交換の過程に入る。そして、その過程が、それらを商品と貨幣とに分ける。そして、このことが、それらにもともと内在している一方に対して、対立する表側の他方をもたらす。まさに、使用価値と価値、そのことである。商品は、今、貨幣つまり交換価値に対立して立っている。がしかし、この違いの統合は、それ自身を二つの対立する極、それぞれの極は互いに異なる方向に向いている、を表している。二極は、必要な対立として、結合されている。等式の一方に、我々は、通常の商品を置く、それは現実の使用価値である。その価値は、観念的に価格で表されている。それの相手方、その価値を実際に体現している金と等価とされる。他方においては、金属としての現実の金、価値の体現と同等な物としての、貨幣がある。金は、金として、それ自身に交換価値がある。使用価値として見るならば、他の全ての商品と面前で相対している相対的価値の表現の系列で表される観念的な存在に過ぎない。これらの使用の総計が、様々な金の使用の総計となっている。これらの相反する商品の形式が、それらの交換がはじまり、実現する過程を表す実際の形式なのである。
(5)ある商品の所有者−そう、古き友リネン織り職−に連れ立って、その活動場面、市場に行ってみよう。彼の20ヤードのリネンは、正確に、2ポンドの価格である。彼は、それを2ポンドと交換する。そして、彼は、よき古き人と称されるがごとき人物として、同じ価格の家庭用の聖書に、その2ポンドを手離す。リネンは、彼から見れば単なる商品である。価値を保有するところの。彼は、これを金へと手離す。それは、リネンの価値形式である。そしてこの形式を彼は、再び別の商品へと手離す。聖書である。聖書は、有用物として、そして家人の敬虔な祈りを導くものとして、彼の家に入る運命にある。この交換は、二つの相反する変態、とはいえ補足しあう性格ではあるが、によって、既成の事実となる。−商品の貨幣への変化、そして貨幣の商品への再変化である。この二つの変態の局面は、共に、明らかに、織り職の取引である。売りまたは商品の貨幣との交換、買いまたは貨幣の商品との交換である。そして、この二つの行動を結びつけているものは、買うために売るということである。
(6)この全ての取引の結果は、織り職から見れば、リネンの所持に替わって、今度は、聖書となる。最初の商品に替わって、他の同じ価値ではあるが、違った有用なものを所持している。このような方法で、彼は、彼の他の生活用品や、生産の手段を獲得する。彼の視点から見れば、この全ての過程は、彼の労働の生産物と、他の者の生産物との交換以上のものはなにも発動されておらず、生産物の交換以上のものはない。
(7)従って、商品の交換には、それらの形式において、次のような変化が伴っている。
商品(Commodity)――貨幣(Money)――商品(Commodity)
C――M――C
(ドイツ語版由来の表現なら、W――G――W)
この全過程の結果は、品物に限って云えば、C-C,一つの商品と他との交換であり、物の形を呈した社会的労働の流通なのである。この結果が達成されたならば、この過程は終了する。
(8)C-M.最初の変態、または売り / 価値の商品物体から貨幣物体へとの跳躍は、私が、いろいろなところで声を大きくして云って来たように、商品の命懸けの跳躍である。もしも、その飛躍が短かすぎて落ちたら、商品自体にはなんら傷つくものではないが、その所有者は、当然傷つく。労働の社会的な分割は、彼の労働をただの一隅のものとなし、彼の欲求を多面的なものとなす。なにゆえに、彼の労働の生産物が彼にとっては単なる交換価値となるかの、これが詳細なる理由である。しかし、貨幣への変換なくしては、社会的に認知された性質、世界等価を獲得することはできない。だが、貨幣は、別の誰かのポケットの中にある。そのポケットから貨幣が出てくるように仕向けるのは、我が友の商品が、これがその全てなのであるが、貨幣所有者にとっての使用価値であらねばならぬ。このためには、そのものに支出された労働が社会的に有用な種類のものであり、労働の社会的分割の一分枝を構成している種類のものであることが必要なのである。しかし、労働の分割は、生産のシステムであり、自発的に成長してきた。そして、生産者達の背後に隠れて成長を続けている。交換される商品は、なんらかの新たな種類の労働の生産物であって、あらたに生じた要求を満足するかとか、または、その物自身が新しい要求を生み出すとかいうものであるかもしれない。昨日までは、多分、一生産者がある与えられた商品を作るために行う多くの工程の一工程であった一つの特定の工程が、今日は、その関連からそれを分けて、独立した労働の一分枝としてそれ自体を確立するかも知れない。そして、独立した商品として、市場にその未完な生産物を送ってくるかも知れない。そうした状況が、分離として成熟しているかいないかに係わらず。今日、その生産物は、社会的な欲求を満たす。明日は、その品物が、他のふさわしい生産物によって、完全に、または部分的に、取って代わられる。さらに、我々の織り職の労働が、社会的分割の一枝たる労働と認めらているであろうとしても、決して、彼の20ヤードのリネンの有用性が十分に保証されているという事実はない。もし、集団のリネンへの欲求が、他の様々な欲求と同様、この欲求も限界を持っているのだから、すでに、ライバル織り職の生産物で、限界に達しているかも知れない。我が友の生産物は、不必要で、余分である。従って、有用性がない。人は、もらった馬の贈り物の歯は見ないもんだと云うが、我が友は、贈り物をするためにたびたび市場に行くわけではない。さて、話は戻って、彼の生産物が使用価値を実現したとしよう。ならば、貨幣を引きつけただろうか?そこでの疑問は一つ、一体どのくらい引きつけたか?である。答えは、疑うまでもなく、その品物の価格として予め付けられている。価値の大きさの宣言としてである。我が友の偶然的な計算ミスはこの際は、一切考慮しないものとする。ミスは市場で、直ぐに正される。彼は、彼の生産物に、ただ社会的に必要な平均的な労働時間を費やしたものと思われる。だから、その価格は、彼の商品に実現された社会的労働の量の単なる貨幣名であるに過ぎない。しかし、我が織り職の許可なく、彼の後ろに隠れて、織りの古き生産様式はこっそりと変化している。昨日までは、1ヤードのリネンの生産に社会的に必要な労働時間は、疑う余地のないものだったが、今日は停止している。事実は、貨幣所有者が、ただ、我が友の競争相手が云う価格から、それを証明しようと熱心なのである。彼にとっては、不運だが、織り職は、ほとんど居ないわけではないし、遠く離ればなれでもない。最後に、市場にある全てのリネンが、社会的に必要な労働時間を含んでいると考えてみよう。これとは逆に、すべてのこれらのものの、全体としては、それらに余分な労働時間を費やしたかも知れない。もしも、市場がヤード当り2シリングの通常価格で全てのこれらの量を胃に納めることができないならば、集団の総労働時間の多過ぎる部分を機織り形式に費やしたことを証明している。その影響は個々の織り職が彼の特定の生産のために、社会的な必要性以上の労働時間を費やしたと言う事と同じである。ここで、ドイツの格言を云わせてもらえば、いっしょくたに捕まったら、いっしょくたに吊るされる。市場にある全てのリネンは、取引としては一つの品目であり、個々の布は、そのただの小さな部分でしかない。そして、それぞれの単ヤードの価値は、均一に混ぜ合わされた人間の労働の、社会的に決められた量の、明確なる同じものの物体的形式なのである。
(9)我々は、商品が貨幣を愛しているのを知っている。だが、真の愛の行く先には、滑らかな走りはないものであることも。労働の分割の量は、その質の分割と同じように、自発的で偶然的な方法でもたらされる。このため、商品の所有者達は、同じ区分の労働が、彼等を個々独立の生産者にしており、また、生産の社会的過程や、同じ過程の中のお互いと個々の生産者との関係を、これらの生産者の意志による全ての依存性から切り離しており、そして、個々の互いの独立性にもかかわらず、一般的で互いに依存しあうシステムが、するどく追加されている様子を見出す。または、生産物によっても見出す。
(10)労働の分割は、労働の生産物を商品へと変換する、そしてそれゆえに、それをさらに、貨幣へと変換する必要を作り出す。また同時に、この全質変換の完成を偶然的な出来事にしている。とはいえ、我々は、ここでは、この現象が完全に成就し、従って、この過程が正常になされることのみに関心を持っている。いや、それ以上で、もしこの変換がはじまるとし、商品が絶対に売れないということがなければ、この変態は生じる。たとえ、価格が表すものが、価値以上だったり、以下だったりと異常なものだとしてもである。
(11)売り手は、彼の商品を金で置き変える。買い手は、彼の金を商品で置き変える。我等の眼前に迫っている事実は、商品と金であり、20ヤードのリネンと2ポンドであり、これらが、持ち手を変え、持ち場所を変える。別の言葉で云えば、彼等は交換されたということである。だが、商品は何と交換されたのか?それ自身の価値を表す物体の形と。世界等価とである。では、金は何と?自身の使用価値の特定の形式とである。なぜ、金は、リネンに対応して貨幣形式をとるのか?なぜなら、リネンの価格は2ポンドであり、貨幣の単位で示されており、すでに、リネンを金と、貨幣形式において、等価としている。商品は譲渡の瞬間、元の商品形式の衣を脱ぎ捨てる。すなわち、その瞬間、その使用価値がなんと金を引きつける。ほんの少し前までは、ただ観念上の価格という存在に過ぎなかったのにである。価格の実現、またはその観念上の価値形式は、従って、同時に、観念上の貨幣の使用価値の実現である。商品の貨幣への変換は同時に、貨幣の商品への変換である。明らかなように、一つの過程は、二つのものを実際に示している。商品所有者の極からは、それが売りであり、その逆の極、貨幣所有者からは、それが買いである。他の言葉で云えば、売りは買いである。C-Mは、またM-Cである。
(12)ここまでのところでは、我々は、人々をただ一方の経済的範疇として見てきた。それは、商品所有者としてであり、その範疇においては、彼等自身の労働の生産物を差し出して、他人の労働の生産物を自分のものとする。だがここからは、一人の商品所有者は、他の貨幣所持者に合うことになる。後者、つまり、買い手、の労働の生産物は、貨幣となっていなければならない。金でなければならない。または、貨幣を構成するものへと、彼の生産物がすでに、その皮膚を脱ぎ捨てて、元の有用なものとしての形を脱ぎ去って、自身が変換していなければならない。貨幣として演じようというならば、金は、どこかの時点で、勿論のこと、市場に入っていなければならない。その時点は、金属の生産現地で見つけることができる。そこで、金は、労働の直接的な生産物として、誰か他の等価の生産物と、物々交換された。この瞬間から、それは、常に、あらゆる商品の価格を具体化している。産出現地での他の商品との交換を別にすれば、金は、あらゆる商品の所有者が譲渡した形を変換した形とするであろう。売りの生産物であり、最初の変態C-Mである。金、我々が見たように、観念上の貨幣となる。または、価値の尺度となる。それは、全ての商品がそれらの価値をそれで計るからであり、それらの有用なものとしてのそのままの形を観念的に明確化する。そして、それらの価値の形を作るものとなる。それが、真の貨幣となる。商品の一般的な譲渡によって、有用なもののそのままの形式で、実際に場所を変える。そして、それらの価値を実際に体現するものとなる。ひとたび、それらが、貨幣の形と想定されれば、商品はそれらの本来の使用価値の全ての痕跡を脱ぎ捨て、それらを作り出すことになった特定の種類の労働の痕跡も脱ぎ捨てる。自身を同形の形式、社会的に認められた均一に混ぜられた人間の労働への変形のために、脱ぎ捨てる。我々は、貨幣の片を見ただけでは、それがいかなる特定の商品と交換されたのかを、云うことはできない。貨幣形式にあるそれらの全ての商品は、みな同じように見えるだけである。貨幣が汚いものであったとしても。とはいえ、汚いものが貨幣ではない。さて、我が織り職がリネンを手離したことを考えると、我々は、二つの金片が、1クオーターの小麦の変態した形であることを知ることになるであろう。リネンの売りが、C-Mが、同時に買い、M-Cである。ただし、最初の行為である売りの過程が、それとは異なるものへの取引となって終わる。すなわち、聖書の買いである。一方、リネンの買いは、これで終了しているが、その前段の取引は、これとは異なるもの、すなわち、小麦の売りで始まっている。C-M(リネン-貨幣)これは、C-M-C(リネン-貨幣-聖書)の最初の部分である。また、M-C(貨幣-リネン)はもう一つ運動C-M-C(小麦-貨幣-リネン)の最後の部分である。一商品の最初の変態は、商品から貨幣への取引であり、であるから、また、常に、ある他の商品の第二の変態であり、後者の、貨幣から商品への再取引である。
(13)M-Cまたは買い / 商品の、第二の、そして、終局的な変態 / 貨幣は、全ての他の商品の変態した形であり、一般的なそれらの譲渡の結果である。この理由により、貨幣は、自身をなんの制約も条件もなく、譲渡可能なのである。それは、全ての価格を裏側で見ている、つまり、それら自らの使用価値を実現するために、そのままの形で並んでいる全ての他の商品の物体に対して、自身を叙述している。商品が貨幣に熱い視線を送っている価格は、同時に、交換性の限界を、その量を示すことで、明示している。どんな商品でも、貨幣となれば、商品としては消滅し、その貨幣自体に、所有者からどのように入手したかを聞くことはできないし、いかなる品物がそれと交換されたかも聞くことはできない。貨幣は匂わないどんな出自であろうとも。一方では売られた商品を代表し、他方では、買われる商品を代表している。
(14)M-C、買い、は同時に、C-M、売りである。商品の終局的な変態は、他の商品の最初の変態である。我が織り職について見れば、彼の商品の一生は、彼の2ポンドを変換した聖書で終わる。さらに、聖書の売り手が、織り職から手に入れ自由に使えるその2ポンドを、ブランデーに変えると考えてみよう。M-C、これは、C-M-C(リネン-貨幣-聖書)の終局局面であり、また同様、C-M、つまり、C-M-C(聖書-貨幣-ブランデー)の最初の変態局面である。ある特定商品の生産者は、提供できるものは一つの品物しかない、だが、これを大きな量でたびたび売る、しかしながら、彼の数多くの、様々な欲求が、彼をして、実現した価格を分けるように強いる。貨幣の合計額は、数えきれない買いを自由にする。かくて、終局的な商品の変態は、他の様々な商品の最初の変態の集合体を構成する。
(15)今、我々が、商品の完成された変態について考えてみるならば、その全体は、まず初めは、二つの相対し、かつ補足しあう運動C-MとM-Cを作り上げるようなものとして表れる。この二つの、商品の著しい対照的な変化は、所有者の二つの役割である社会的行為によってもたらされる。これらの役割は、そのたびごとに、彼によって演じられる経済的性格を刻印する。売りを作る人は、売り手となり、買いを作る人は、買い手となる。だが、商品のこのような変化のたびごとに、そこには、二つの形式、商品形式と貨幣形式、が同時に存在する。ただ、対極にではあるが。全ての売り手は、彼の反対側に、買い手を見出す。そしてすべての買い手は、売り手を。ある特定の商品が、その二つの変化、商品から貨幣へ、貨幣から商品へと連続する変化を経る間、商品の所有者は、その連続経過の中で、彼の役割を、売り手から買い手に、と変える。とはいえ、この売り手と買い手なる性格は、永久的なものではなく、そのたびごとに、彼等に付着する。商品の流通に係わる様々な人々に付着する。
(16)商品の完成された変態は、最も簡単な形で云うならば、4つの極端と言うべき場面と3人の劇的な登場人物を意味している。第一場は、商品が貨幣と出くわす。後者は、前者の価値の形式となる。そして、後者は、硬き現実として、買い手のポケットの中にある。商品の所有者は、かくて、貨幣の所有者との接触の場に入れられる。
直ぐに商品は、貨幣に変えられる。貨幣はその束の間の等価形式となる。
等価形式の使用価値は、他の商品の形の中に見出される。最初の変化の最終局面、貨幣は、その時、二番目の局面の開始点にいる。
最初の変化時点で売り手であった人が、この二番目の局面では、買い手となる。そこに、第三の商品の所有者が、この場面で売り手として登場する。
(17)二つの局面、互いに他とは逆になる局面が、一つの回路のように、互いを一つの円運動にまとめているように、商品の変態を作り上げている。商品形式が、この形式を脱ぎ捨て、また商品形式に戻る。疑いもなく、商品は、ここでは、違った二つの局面に表れる。最初のスタート地点では、それは、所有者にとって使用価値ではない。仕上げの地点では、そうなる。また、その様に、貨幣も、最初の地点では、価値の固い結晶として。その結晶内に商品は強く凝結する。仕上げの地点では、単なる一瞬の等価形式へと溶ける。ある使用価値へと置き換わる運命にある。
(18)回路を構成する二つの変態は、同時に、二つの商品の、二つの部分的な逆の変態なのである。一つのかつ同じ商品、リネンは、その自身の変態の順を開始し、また他の変態(小麦)を完結する。最初の局面、または売り、リネンは、その人において、二つの役割を演じる。だが、そこで金に変えられる、そして第二のかつ最終的な変態を完結する。また、同時に第三の商品の最初の変態の完成を手伝う。この様に、一つの商品の変態の進行によって作られる回路は、他の商品の込み入った回路に混ざり合っている。様々な回路の総計が、商品の流通を構成する。
(19)商品の流通は、直接的な生産物の交換、(物々交換)とは違う。形式としても、実質としても違っている。その行程だけを考えてみよう。織り職は、実際のところ、彼のリネンを聖書と交換した。ではあるが、このことは、彼自身の場合を考える限りでのみ真実なのである。聖書の売り手、彼の体を中から温める何かを選んだが、彼が聖書をリネンと交換する意図が無かったのと同様、我が織り職は、小麦がリネンと交換されたことを知らなかった。Bの商品がAのそれと置き換わる、しかし、AとBとは、互いにこれらの商品を交換したわけではない。勿論、このような、AとBが同時に互いに買い合うことが起こらないわけではないが、このような例外的な取引が、商品の流通の一般的条件においては必要的帰結であるはずもない。我々がここで見ようとしているのは、一つは、どのようにして、商品の交換が、人や地域的な結びつきが切り離されることのない直接的物々交換から、その枠を突き破ったのかであり、もう一つは、どのようにして、登場人物達の制御を大きく越えて、その成長を通じて、自発的に社会関係の全体のネットワークを発展させたのかである。それこそが、農夫が彼の小麦を売り、それが織り職の彼のリネンを売ることができた理由である。また、織り職がリネンを売り、我が向こう見ずが彼の聖書を売り得た理由である。また、後者が、永遠の人生の水を売ったので、蒸留酒製造業者は彼の命の水を売ることを得た、等々と続く話の理由である。
(20)流通過程は、従って、直接的な物々交換のようには、使用価値が場所と持ち手を変えたとしても、消え失せることにはならない。貨幣は、ある与えられた商品が変態する回路から落ちて消えることはない。それは、常に、他の商品によって立ち退かされたとしても、流通の場の新たな所に投入される。リネンの完成された変態では、リネン−貨幣−聖書では、リネンが最初に流通から脱落し、次いで貨幣がその場所に入る。そして、聖書が流通から脱落し、再び貨幣がその場所を取る。一つの商品が他のものを置き換える時、貨幣商品は、いつも、ある第三の者の手にくっついている。流通は、貨幣を、毛穴からの汗の如く染み出させる。
(21)次のような思考ほど幼稚なものは、他にはまずない。ありとあらゆる売りは買いであり、ありとあらゆる買いは売りであるから、商品の流通は、売りと買いが必然的に均衡しているはずという思考ほど。もし、これが、現実の売りの数が、買いの数と等しいことを意味しているならば、それは単なる同語反復でしかない。ではなくて、実際的な意味は、あらゆる売り手が、彼の買い手を市場に連れて共にくることを証明したいのであろう。自分とは違った種類のものの、買い手を。売りと買いは一つの同じ行為である。商品所有者と貨幣所有者間の交換であり、二人の磁石の両極のように互いに相対する人の間のことである。一人の人間によって行われたとしても、それらは極性があり、反対の性格を持つ、二つの明確な行為を形づくる。であるから、もし、流通という錬金術レトルトに投げ入れても、貨幣の形で再び出てこないということになれば、別の言葉で云えば、所有者によって売ることができず、また当然ながら、貨幣の所有者によって、買われないならば、この売りと買いの同一性から云って、商品は使い物にならないということになる。この同一性は、さらに、次のことを意味している。もし、交換がなされれば、商品の長いか短いかの一生を終えるということである。商品の最初の変態は、その時の売りと買いである。それはまた、それ自身においては、独立の過程である。買い手が商品を持ち、売り手が貨幣、すなわち、いつなりとも、流通に入り込む用意ができている商品を持つ。何人も、ある誰かが買うことなしには、売ることはできない。しかし、何人も、彼が売ったからといって、直ちに買うことを義務づけられているわけではない。流通は、直接的物々交換では課せられていた、時間、場所、そして個人の制約、これら全てを取り壊す。そして、流通は、物々交換においては存在した、ある者の生産物の譲渡とある者の生産物の取得の間の直接的同一性を、一つの売りと一つの買いに解体する効果を果たす。これら二つの独立した、相反する行為は、切り離せない一体を成しており、本質的一体であり、また同様にこの切り離せない一つのものが、自身をして外見的には正反対のものを表している。もしも、完成された商品の変態における、二つの部分的な変態局面の間の、ずれ時間が非常に長くなると、もしも、売りと買いの裂け目が非常に著しいものとなると、それらの間の親密なつながりが、それらの同一性が自ら、恐慌を生み出すことによってその存在を主張する。
B.貨幣の流れ
(1)形式の変化、C−M−C、この変化によって、労働の物体的生産物の流通が始まるのだが、この変化が、商品の形の中にこめられた、ある与えられた価値をして、過程を開始するべきものであると要求しており、また同様、商品の形の中で、完了すべきものと要求している。従って、この商品の運動は回路となる。一方、この運動の形式は、貨幣の回路とはならないようになっている。結果は、貨幣の戻りではなくて、その開始地点からより遠ざかり続ける動きとなる。売り手が彼の貨幣を固く保持しているならば、それは彼の商品の移転中の形であり、商品としては、変態の最初の局面にあり、ただその変化の半分を成したにすぎない。しかし、すぐにでも過程は完成、すぐにでも買いによって彼の売りを補足する。貨幣は、再び、所有者の手から離れる。確かに、もし織り職が聖書を買った後で、さらにリネンを売れば、彼の手に貨幣が戻ってくるだろう。でも、この戻りは、最初の20ヤードのリネンの流通に係わったものではない。その流通は、聖書の売り手の手の中に入った貨幣で終わっている。織り職の手への貨幣の戻りは、ただ、新たな商品による流通の過程の、更新または繰り返しによってもたらされる。更新された過程もまた、前回同様の結果をもって終わる。結局、商品の流通によって貨幣に授けられたこの直接的な運動は、常に、その開始点から遠ざかる動きを形作る、商品所有者の手から他のそれらの手への道筋で。この道筋がその流れを構成する。(貨幣の流れ)
(2)貨幣の流れは、いつも、単調で、同じ過程の繰り返しである。商品はいつも売り手の手の中にあり、貨幣は、買いの手段として、いつも買い手の手の中にある。貨幣は、商品の価格を実現することによって、買いの手段の役目を務める。この実現が、その商品を売り手から買い手に移し、また貨幣を買い手からそれらの売り手へと動かす。そのように、また他の商品に関して同じ過程が再び行われる。この貨幣の動きの一面的な性格は、商品の動きの二面的な性格から生じているが、そのためにその事実を隠してしまう。商品の流通のまさにその性質が、逆の外観を産む。最初の、商品の変態は、目に見える。貨幣の動きだけでなく、商品自体のそれも。二番目の変態においては、それとは逆で、その動きは、ただ貨幣の動きとして我々の目の前に表れる。流通における第一の局面では、商品は貨幣と場所を変える。その結果、商品は、その有用な物であるからこそ、流通から降りて消費へと進む。それとは代わって、我々は、価値の形−つまり貨幣を持つ。それから、それは流通の第二の局面を通り抜ける。それ自身のあるがままの形の故ではなく、ただ貨幣としての形であるがゆえに。従って、この動きの一連は、ただ貨幣によって維持継続される。そして、この同じ動きが、商品は二つの正反対の性格の過程を構成するものであるが、あたかも貨幣の動きとして考えられることから、いつも一つの同じ過程、常に新たな商品とその場所を変え続けるものとなる。従って、商品の流通、すなわち、ある商品が他の商品によって置き換えられる、によってもたらされる結果が、次のような様相を呈する。商品の形式の変化によって完結するというよりは、貨幣が流通の媒体役を演じているように見える。その行為によって、商品が流通し、全体的には外観上の動きもなしに、使用価値とはならぬ手から使用価値となる手への移動のように見せる。そして、貨幣の移動とは逆の方向へと常に移動させるように見える。一方の貨幣は、連続的に、商品を流通から引き降ろして、その場所に入り込むように見える。だから、連続的に開始地点からますます遠くへと離れるように動いて行くように見える。だから、貨幣の動きは単に商品の流通の表現であるにも係わらず、あたかも事実上は逆の様相を呈し、商品の流通は、貨幣の動きの結果のように見える。
(3)繰り返しておくが、貨幣が流通の手段として機能するのは、ただその中に、商品の価値の独立した実物を保持しているからである。従って、その動き、流通の媒体役のごとき動きは、事実としては、ただ商品の動き、その間にそれらの形式を変えていることを示しているだけである。つまり、この事実が自身をして、貨幣の流れを容易に見えるようにせざるを得ないということなのである。であるから、リネンを例にとれば、最初の変化は、その商品形式から貨幣形式である。最初の変態の第二の局面、C-M、貨幣の形、そして、最後の変態の最初の局面、M-C、その再変換、聖書へである。しかし、この二つのそれぞれの形式の変化は、いずれも、商品と貨幣との交換によって完成される。それらの往復的位置変換によって。同じコインの断片達が、売り手の手に、商品の形式を譲渡したものとして、やってくる。そしてそれは、絶対的譲渡可能な商品形式として去る。それらは二度場所を変える。最初のリネンの変態で、これらのコインを織り職のポケットに置き、そして二番目では、それらをそこから取りだす。同一商品による正反対の二つの変化は、同一のコインの断片達の場所の置換、二度繰り返され、しかも反対の方向にであるが、を表している。
(4)もし、そうではなくて、ただ一局面の変態だけが行われるものとすれば、もし、単なる売りまたは単なる買いのみとすれば、与えられた貨幣の断片達は、ただ一度だけ場所を変えるだけである。その二度目の場所の変更は、いつも、商品の第二の変態を表す。貨幣からの再変換である。度重なる同じコインの場所変更は、一つの商品が経過した一繋がりの変態を表すばかりでなく、一般的商品世界の数えきれないほどの変態の絡み合いをも表している。ただ我々が今検討している形式では、これらのことを当てはめできるのは、単純な商品の流通に限ってのみ、であることは云うまでもない。
(5)あらゆる商品は、最初に流通に入り込み、そしてその最初の形式変更へと進み、そしてただ流通から今度は、脱落する。そして、他の商品によって置き換えられる。貨幣は、これとは異なり、流通の媒体役として、継続して流通の局面の中に留まる。そして動き回る。そこで、次の質問が生じる。この局面は一体どのくらいの量の貨幣を定常的に含んでいるのか?と。
(6)ある想定上の国では、毎日全く同じ時刻に、ただ異なる地方においてだが、数多くの一方向の商品の変態が見られる。他の言葉で云うなら、数多くの売りと数多くの買いかある。商品は、事前に、想像上、それらの価格によって、貨幣の明確な量と等価となる。そして、それゆえ、ここで検討している流通形式においては、貨幣と商品は、常に、物体の顔と顔でやってくる。一つは買いの正極に、他方は売りの負極に。流通の手段の大きさとして求められるものは、予め、これらの全ての商品の価格の総合計によって決定されていることは明らかである。事実上、貨幣は実体として、商品の価格の総合計によって、予め、表された観念上の黄金の総合計、その量を表している。この二つの総合計は、従って、等しいことは自明である。
しかしながら、我々は、商品の価値が不変であるとしても、それらの価格は、黄金(貨幣の素材)の価値に伴って変化する。その価値が下落すれば、それに比例して価格は上昇し、上昇すれば、比例して下落する。つまり、もし、黄金の価値がこのように上昇または下落するならば、商品の価格の総合計は下落または上昇し、流れの中の貨幣の量は、同じ程度、下落または上昇せざるを得ない。流通媒体量の変化は、この場合、確かに貨幣自身によって起こるが、流通媒体としての機能によるとは云えるものではなく、むしろ、価値の尺度機能によるものと云える。最初、商品の価格は、貨幣の価値とは逆に変化する。次いで流通の媒体量が、商品の価格に応じて直接的に変化する。もし例えば、黄金の価値が下落する代わりに、黄金が銀によって価値の尺度の地位を置き換えられたとすれば、まさに、同じ事が価格に起きるであろう。または、もし例えば、銀の価値が上昇する代わりに、黄金が銀を価値の尺度から押し出すことになれば、まさに、同様のことが価格に起きるであろう。一つのケースでは、以前の黄金よりも多くの銀の流れが生じ、他の場合は、以前の銀よりも少ない黄金の流れが生じる。いずれの場合においても、貨幣の物体としての価値、すなわち価値の尺度を果たす商品の価値は、変化するであろう。であるから、そのように、同じように、貨幣によってそれらの価値を示す商品の価格も変化するであろうし、そのように、同じように、それらの価格を実体化する機能である貨幣の流れの量も変化するであろう。すでに、我々が見てきたように、流通の局面は、黄金(または貨幣の一般的物体)が、ある与えられた価値の商品としてその中に滑り込めるように開いている回路を持っている。従って、貨幣がそれらの機能、価値の尺度として侵入する時、価格を表す時、その価値はすでに決められている。もし、今、それらの価値が下落するならば、その事実は、最初に、それらの産出の現場で直接的に行われる物々交換で、交換されるそれらの商品の価格の変化によって証明される。他の全ての商品の大部分は、特に十分に発達していない文明社会においては、長期間にわたり、以前の古いままで実情無視の価値の尺度による価値で見積もられ続けることとなろう。とはいえ、一商品のそれは、それらの一般的価値関係を通じて、他の商品に感染する。であるから、それらの価格は、黄金または銀で表される価格は、それらの相対的な価値によって決められるところに次第に落ち着く。最終的には、全ての商品の価値は、貨幣を成す金属の新しい価値によって見積もられるものとなる。この過程には、貴金属の量の連続的な増加を伴う。増加は、産出現場での直接的な物々交換される品物と置き換えられるそれらの産出流に起因している。従って、商品一般が真の価格を求めるにつれて、それらの価値が貴金属の下落した価値に応じて見積もられるにつれて、それらの新しい価格の実現のために必要な金属の量の同様の比率量が予め供給される。新しい黄金や銀の供給源の発見に続いて起こるこれらの結果の一面的観察から、17世紀の、特に18世紀のある経済学者達をして、間違った結論へと導いた。商品の価格が上昇したのは、流通手段の役を果たす黄金や銀の量の増大の結果であったと。
それゆえ以降、商品の価格を想定する場合はいつでも、その瞬間においてとする。であるから、この仮定において、流通の媒体の量は、実現されるべき価格の総計によって決められる。もし今、さらに、それぞれの商品の価格が与えられているものと想定すれば、価格の総計は、明確に、流通内にある商品の大きな固まりに依存する。次のことを理解するに、少しも頭脳を減らすことはなかろう。もし1クオーターの小麦のコストが2ポンドであるとしたら、100クオーターの小麦のコストは200ポンドになるであろう、200クオーターなら、400ポンド、以下同様、この結果として、貨幣の量は、小麦と入れ代わるために変化する。売れれば、その小麦の量に応じて大きくならねばならぬ。
(7)もし、商品の大きな量が一定であるとすれば、商品の価格の変動に伴って、流通貨幣量が変わる。価格の変化に応じて価格の総計が増加したり減少したりするため、その貨幣量が増加したり減少したりする。この影響を生じさせるためには、全ての商品が同時に、上昇または下落しなければならないと言うわけではない。主要な品物のいくつかの価格の上昇または下落で十分である。全ての商品の価格総計は、ある場合には増加し、他の場合には減少する。そして、従って、より多くまたはより少ない流通内の貨幣量となる。価格の変化が、商品の価値の現実の変化と一致している場合、または、市場価格の単なる変動の結果である場合は、流通の媒体の量への影響は、その量を変えない。次のような品物が売られた、または部分的な変態が同時に異なる場所で起こったと考えてみよう。それは、1クオーターの小麦、20ヤードのリネン、1つの聖書、4ガロンのブランデーとしょう。もし、それぞれの品物の価格が2ポンドだとすれば、その価格の総計は、従って、8ポンドで表される。ならば、8ポンドの貨幣が流通に入り込まねばならないことを意味する。一方別に、もし、これらと同じ品物が、次のような一連の繋がりをもった変態であるとしよう。1クオーターの小麦−2ポンド−20ヤードのリネン−2ポンド−1つの聖書−2ポンド−4ガロンのブランデー−2ポンド、この連鎖は我々にはお馴染みのものである。この場合では、2ポンドが異なる商品を次から次と流通させる。これらの価格の実現を連続的に成した後、つまりそれらの価格総計、8ポンドの流通を連続させた後、それらは、最後に、蒸留酒製造業者のポケットの中の休息に行き着く。まさに、その2ポンドがこの様に4回の運動を成す。繰り返される同一コインの断片達の場所の変更は、商品形式の二回の変化に相応しており、流通の二つの場面を反対方向で通過するそれらの動きにも相応している。そしてまた、様々に違う商品の変態の絡み模様にも相応している。変態の過程を構成するこれらの正反対で補完的な局面は、同時に通過することはなく、連続的に通過して行く。従って、この繋がりが完成するには、それなりの時間経過が求められる。そこでは、貨幣の流れの速度が、与えられた時間の中で、与えられた貨幣断片の動く回数で計測される。4つの品物の流通に1日を要したと考えてみよう。1日に実現された価格総計は8ポンドである。二つの貨幣断片の動いた回数は4回である。流通貨幣の量は、2ポンドである。従って、流通過程期間の、ある与えられた時間の経過において、我々は、次の等式を得る。流通媒体として機能した貨幣の量=商品の価格総計/同一単位のコインが行った動きの回数。この等式は法則として一般性を得る。
(8)ある想定上の国で、与えられた期間の間の商品流通の全体は、一つには、数えきれない程の個別のそして同時の部分的変態、買いと同時の売りである、それぞれのコインはただ1度それらの位置を変える。またはただ1回動く。もう一つその他には、数えきれない程の別々に、並列してなされる一繋がりの変態でなっている部分と、それらが互いに合わさった部分でなっている。それぞれの一繋がりの中では、それぞれのコインは沢山の動きをする。その回数は、状況によって大きくもなり小さくもなる。一つの単位で流通している全コインによる、動きの総回数が与えられるとすれば、その単位で見た単コインによる平均移動回数を得る。または、貨幣の流れの平均速度を得る。毎日初めに流通に投入される貨幣量は、勿論、同時に別々に流通する全商品の価格総計によって決められる。しかし一旦流通に投入されれば、コインはいはば互いに原因・結果を有する。もし、あるコインがそれらの速度を増せば、他のそれはそれ自身の速度を対応して遅らせるか、または流通から完全に落ちこぼれる。なぜなら、流通は、単コインまたはその要素による平均移動回数を乗じた時に、実現すべき価格総計となる、黄金のしかるべき量しか保持し得ないからである。従って、もし、別の断片による移動回数が増大すれば、それら全体の断片の流通内の移動回数は縮小する。移動回数が減少すれば、全体の断片量は増大する。流通が抱え得る貨幣の量は、流れの平均速度を与えることで、決まってくるものであるから、流通から、ポンド金貨を削ぎ取るには、(早く手放したくなる)同量のポンド紙幣をそこに投入すればよい。銀行家なら誰もが知っている一つの汚い手である。
(9)貨幣の流れとは、一般的に考えられている様に、単純な商品流通の反射であり、または、それらが行う正反対の変態のそれである。それであるから、また、流れの速度は、商品のそれらの形式の変化の早さを反射する。ある一繋がりの変態と他の繋がりの変態との連続的な絡み合い、社会的な物のやりとりの急迫、流通局面からの商品の早い消失と、同じ早さでの新しいものが、その場所に取って代わる早さ、を反射する。従って、我々は、この流れの速さにおいて、正反対でかつ補足的な局面の統一を、商品の有用局面から価値局面への変換の統一を、また、後者局面から前者への再変換の統一を、売りと買いの二つの過程の統一を、分かりやすい形で把握することになる。ところが逆に、流れの遅滞はこれらの過程を別々の正反対の局面への分離を反射する。商品形式の変化の停滞を反射し、だからまた、社会的な物のやりとりのそれも反射する。流通それ自体は、勿論のこと、その停滞の原因を指し示してくれることはない。それはそれ自体の現象を証拠としてそこに置くのみ。一般の人達は、流れの停滞と同時に、流通周辺から貨幣が現われたり消えたりする頻度が少なくなるのを見れば、普通に、停滞は流通媒体の量的不足のせいだと思うだろう。
(10)ある与えられた期間において、流通媒体として機能する貨幣の全量は、一つは、流通商品の価格総計によって決められる。もう一つは、正反対の局面のそれぞれの商品の変態の早さによっている。この早さについては、それぞれの単コインによって実現される平均的な価格総計の全体にたいする比率に依存している。しかし、流通商品の価格総計は、価格に依存しているのと同様、商品の量にも依存している。しかしながら、以下の3つの要素、価格状況、流通商品量、そして貨幣の流れの速度は、すべて変化する。従って、実現される価格総計とその結果としての流通媒体の量は、膨大なこれらの3要素の変化の組み合わせで各様に変わる総計に依存する。我々は、これらの変化の組み合わせの中から、価格の歴史において最も重要となるものの幾つかを考えてみることとする。
(11)価格が一定に留まるとしても、流通媒体の量は、流通商品の数が増えることにより、増大するであろう。または、その流れの速度の低下により増大するであろう。またはその二つの組み合わせにより増大するであろう。一方、流通媒体の量は、商品の数の減少、またはそれらの流通の早さの増加により、減少するであろう。
(12)商品の価格が一般的に上昇したとしても、流通媒体の量は一定に留まるであろう。それらの価格上昇と同比率で流通商品の数が減少するとすれば。または、流通内の商品の数が一定であって、流れの速度の上昇が価格の上昇と同比率であるとすれば。流通媒体の量は、商品の数のより早い減少が生じる場合や、流れの速度の上昇が生じる場合は、減少するであろう。
(13)商品の価格が一般的に下降したとしても、流通媒体の量は一定に留まるであろう。それらの価格下落と同比率で流通商品の数が増加するとすれば。または流れの速度が同じ比率で低下するとすれば。流通媒体の量は、商品数のより早い増加が生じる場合や、流通の早さが価格の下落より急激に低下する場合は、増加するであろう。
(14)この異なる要素の変化組み合わせは、互いに補足し合うであろうから、それらの連続的な不安定さは目立たない。実現すべき価格総計や流通内の貨幣量は、一定に留まる。かくて、我々は、特に、長期間を考察するならば、貨幣の量の平均値からの偏差は、いずれの国においても、以下の場合を別とすれば、我々がまず思うよりは、ずっと小さい。定期的に起こる工業恐慌や商業恐慌と言った大きな混乱や、めったに起きない貨幣価値の変動を別とするならば。
(15)流通媒体の量が、流通商品の価格総計により決定され、かつ、その平均的な流れの速度が価格よりもより急激に上昇することで制約されるという法則は、次のようにも云うことができよう。与えられた商品の価値総計と、それらの平均変態早さ、貨幣として流れる貴金属の量は、その貴金属の価値に依存している。だがこれとは違って、次のような、間違った見解を持つ人も現われる。価格は、流通媒体の量によって決められる。そして後者の量は、一国内の貴金属量に依存している。と。この見解を最初に述べた人物の目には、さらにその他の追従者達の目には、不合理な仮説が見えていないようだ。商品には価格がなく、貨幣にも価値がない、それらが流通に参入したその最初においては。そしてどう言う分けか一旦流通に参入したならば、商品の一定分量が、積み上がった貴金属の山の一定分量と交換される。と。
C.コイン(鋳貨)と価値の符号
(1)貨幣は、流通媒体としての機能から、コイン(鋳貨)の形を有するようになる。価格または商品の貨幣名で観念的に表される黄金の重量は、流通において、コインの形として、または与えられた単位の黄金断片として、それらの価格の商品と直面せねばならない。コイン鋳造、価格基準の確立といったものは、国の仕事である。国が違えば、黄金や銀がコインとしてそれぞれ違った制服を身に付けている。世界の市場では、その制服を脱ぐ。であるから、商品流通の内部的または国内の局面と、その世界的局面との分離を表示するようにもなる。
(2)従って、コインと金の延べ棒との違いは、ただその形だけである。黄金は、いつでも、ある形から他の形へと移ることができる。とはいえ、新鋳を離れれば直ぐに、溶解再鋳造への高速道路上にいる自分自身を見ることになる。流通期間中に、コインは磨耗する。あるものはかなり、他のものは多少少ないが。名目と実体、名目的な重量と実重量、分離の過程が始まる。同じ単位をもつコインが違った価値となる。なぜなら、それらは重量が違うからである。黄金の重量は、価格の基準として決められている。流通媒体の役を果たす重量からの逸脱は、当然ながら、遅かれ早かれ、商品の価格を実現する正しい等価としてはもはや機能しえない。中世から18世紀までに至る鋳貨の歴史は、この原因から起こる常新たなる混乱を記録している。コインを、それらが公言するものを単に表すだけの外観と見なすという流通上の自然な傾向、それらを公式的に含有していると想定される量の表象となすという傾向は、近代の法律では認めているところである。法律が、金貨の資格を失うだけの磨耗量を定めるとか、またはもはや法的な番人としないと決めるとか。
(3)コインの流れそのものが、それらの名目とそれらの実重量とを分ける効果を有するという事実から、単なる金属断片を一方に、他方にコインの明確な機能を作る。この事実は、コインと同じ目的の役目を果たす表象、つまりある他の材料による代用物で金属コインを置き換えるという潜在的な可能性を意味する。極めて僅かな量の黄金または銀の鋳造上の実際面での難しさ、また最初において、より貴重とはいえない金属が価値の尺度として、より貴重なものに代わって、銀に代わって銅が、金に代わって銀が、貨幣としてより貴重でないものの流通が、より貴重なものによって、押し出されるまでは、使われていた状況がある。これらの事実は、金貨の代理として、銀や銅での代用貨幣が、歴史的にその役割りを果していたことを説明している。銀や銅の代用貨幣は、コインが手から手へ最大速度で動くという流通が行われ、最大量の磨耗と破断が想定される地域では、金貨に取って代わる。このことは、売りと買いが、いつも非常に小さな規模でなされている場所で生じる。黄金の領域内で、これらの衛星的断片によるそれらの永久的な確立を防ぐために、黄金に代わって、受け取らなければならない支払い範囲を逆に強制的な制定をもって決めている。特定の取引場所では違った種類のコインが使われており、自然に相互に流れ込むこともある。代用貨幣は大抵黄金とともに使われ、その最小単位の金貨幣のさらに細かい部分を支払うために用いられている。黄金は、一方で、常に小売り流通に注ぎ込まれているが、他方では、代用貨幣に代わられて常に弾き出されている。
(4)銀や銅の代用貨幣の重量は、恣意的に法によって定められる。流れの中では、それらは、金貨よりも早く磨耗する。であるから、それらの機能は、重量から完全に独立し、価値そのものの如きものとなる。コインとしての黄金の機能は、黄金としての金属価値から完全に独立する。従って、それらのものは、価値のない相対的なものとなる。丁度その場でコインの役を果たす紙幣のように。この純粋なシンボル的性格は、金属代用貨幣に、ある量まで刻印される。紙幣はかくて明瞭に自立する。事実は、ただ最初の一歩が厄介なだけ。
(5)国が発行し強制的に流通させている不換紙幣についてのみ、我々はここで言及する。それは、金属貨幣流通に直接的に起因している。信用による貨幣は、これとは別の条件で、単純な商品流通の見地に基づいている。だが、このことの全体は、我々は今のところ、知っていない。しかし、我々は次のことは、はっきりと断言するであろう。真の紙幣といったものは、流通媒体としての貨幣の機能に起因する、そしてそのように云うならば、信用に基づく貨幣は、その起源を自発的な支払い手段としての貨幣の機能に持つと。
(6)国は、紙切れを流通に置く。その紙切れには、様々な貨幣名称が印刷されている。1ポンドとか5ポンドとか、その他にも。現実に同じ名称量の黄金の位置を占め、その限りにおいて、それらの動きは、貨幣自身の流れを規制する法に従わねばならない。紙幣流通の特異な法は、ただ黄金を表す紙幣の割合から発することができる。そのような法が存在する。簡単に云うならば次のようなものである。紙幣の発行量は、黄金の量を(場合によっては銀の量と言えるであろう。)越えてはならない。その黄金の量とは、もし表象によって置き換えられないとした場合に、実際に流通するであろう量のことである。またここでは、ある与えられた水準量に対して常に変動するも、流通が保持し得る黄金の量のことである。ある想定上の国の流通媒体の全体量は、今も、実際の経験によれば、容易に確かめられるある最低量を下回ったことはない。事実として、この最低量の構成部分が常に変わっても、または、その中の黄金断片が常に新たなものに置き換わっているとしても、それらの量または流通の連続性には何の変化も生じない。従って、紙の表象に置き換えることができるのである。他方、もし仮に、全ての流通導管が今日、紙幣で、流通保持可能量一杯まで詰め込まれたとすれば、商品流通量の微変動によって明日には溢れ出すことになるであろう。もはや標準がなくなる。もし紙幣が適切限界、実際に流れることができるそのような単位の金貨の量を越えたとしても、一般的悪評に陥る危険を別とすれば、商品流通の法に従って、求められかつ唯一紙幣に表されることができる黄金の量をただ表す。だがもし、紙幣が実際にあるべき量の2倍発行されたとしたら、実際のところ、1ポンドなる貨幣名は1/4オンスではなく1/8オンスの黄金を意味することになろう。あたかも、価格の基準である黄金の機能が変更されたのと同じ影響が生じる。黄金の価値が以前は1ポンドの価格であらわされていたものが、今度は2ポンドの価格で表されることになろう。
(7)紙幣は、黄金または貨幣を表す代用貨幣である。これと商品の価値との関係は、以下の通りである。後者は観念上同量の黄金で表され、黄金の量は表象的に紙幣で表される。ただ紙幣は、黄金を表す限りにおいてのみ、他の全ての商品が価値を持つように、価値の表象なのである。
(8)誰かが、なぜ黄金が、最終的に、価値のない代用貨幣で置き換えられることができる様になったのかと、尋ねるかも知れない。当然我々はすでに見て来たところである。それが置き換えられることができるのは、コインと全く同じに機能する限りであり、流通媒体として機能する限りであり、他のなにものでもない限りである。今、貨幣は、この他に、別の機能を持つ。その単に流通媒体としての役割を果たす隔離的な機能は、すり減ったが、依然として流通を続ける金貨に取りつくという必要性があるわけではない。それらの個々の貨幣は、ただ現実に流通している限りにおいては、単にコインであり続けるし、または流通手段であり続ける。しかしながら、黄金の最低量の大きさに関する場合は、紙幣によって置き換えられる可能性がある。その最低量なるものは、常に、流通局面の中に留まり、切れ目なく流通媒体としての機能を果たし、この目的のための排他的な存在となる。従って、その動きは、C-M-Cなる変態の逆向きの局面の交互の連続的なものを表す以外のなにものでもない。その局面では、商品はそれらの価値形式に直面し、ただ直ぐに消えるのみ。商品の交換価値としての独立した存在は、ここでは、商品が直ちに他の商品によって置き換えられるのであるから、瞬間的な幻影となる。かくて、連続的に貨幣を手から手へ移すこの過程においては、貨幣は単なる表象的存在で事足りる。その機能的存在が、いわば、物体的な存在を取り入れる。商品の価格の瞬間的かつ客観的反射であるから、それは、自身の表象としての役割りのみを果している。従って、代用貨幣で置き換えられることが可能となる。とはいえ、以下のことは必須である。代用貨幣は、それ自身の社会的正当性を客観的に持たねばならない。この表象紙幣はその強制的な流れを確保しなければならない。国によるこの強制的作用は、共同体の境界線上までの内部流通局面でのみ効力を持つ。ただし、同様に貨幣が流通媒体の機能を完全に発揮するか、またコインたりうる域内でのことである。 
第三節 貨幣

 

(1)価値尺度として機能し、かつ本人自らまたは代理人をも含めて、流通媒体である商品は、貨幣である。黄金(または銀)は従って貨幣である。己の黄金の本人としてあるべき時は、まず一つは貨幣として機能する。そして、単なる観念上の価値尺度の機能を示すことも無く、流通媒体の機能を表すこともできない場合は、貨幣商品である。他方、本人あるいは代理人のいずれが行う機能であろうと、機能を有するがゆえに、全ての他の商品により表される使用価値の反対側にある、ただ適切な交換価値の存在形式である、唯一無二の価値形式に、凝結している時、それは同様に貨幣として機能する。
A.退蔵
(1)商品の、正反対の二つの変態の回路での絶え間ない動き、または、売りと買いの止まることのない交互は、休みない貨幣の流れ、または、流通の永久運動をなす貨幣の機能の中に表されている。
しかし、一連の変態が阻害されると直ぐに、売りがそれに続く買いによって連結されなければ直ぐに、貨幣は動かされることを止める。ボワギュベールが云う様に、家具から建築物へと変形する。動かせるものから動かせぬものへ、コインから貨幣へとなる。
(2)商品流通が発展するそのほとんど最初から、そこに同様、最初の変態の産物を堅く握りしめて置きたいと云う必要上の必然性と熱烈なる欲望もまた発展させられた。その産物なるものは商品の変形した姿であり、その黄金の皮を被った固まりである。
商品は、これらのことから、他のものを買う目的のためには売られなかった、ただそれらの商品形式をそれらの貨幣形式に置き換えるためにである。商品流通をなし遂げる単なる手段であるものから、この形式の変換が最終目的となる。この商品形式の変換は、かくて、条件なしに譲渡可能な形式としての、またはその単なる瞬間的な貨幣形式としての機能を差し止められる。貨幣は、退蔵物へと固められる、そして売り手は、貨幣の退蔵者となる。
(3)商品流通の初期の段階では、余剰の使用価値だけが、貨幣に変換された。従って、金や銀は、それ自身で、社会的な余剰または富を表すものである。この素朴な退蔵形式が、狭い地域の欲求に対する固定化した供給のために行われる伝統的な生産様式の集団においては、永続されるものとなる。それはアジアの人々のそれであり、特に東インド人に見られる。バンダーリントは、ある国の商品の価格はそこに見出される金と銀の量で決定されると仮想するのであるが、次のように自問自答する。何故、インド商品はこのように安価なのか?と。答えは、ヒンズー人はかれらの貨幣を埋めるからであるという。1602〜1734年にかけて、彼等は1億5千万ポンドのイギリス銀貨を埋めた。その銀貨の出所は、アメリカからヨーロッパに来たものである。1856〜1866年の10年間では、イギリスはインドと支那に1億2千万ポンドの銀を輸出した。これらはオーストラリアの金と交換して受け取ったものである。ほとんどの銀は支那に輸出され、それのインドへの道を作った。
(4)商品生産のさらなる発展により、あらゆる商品生産者は、確かなる諸事物を結びつける物、または社会的な抵当物を作ることを強いられる。彼の欲求は、次から次と、それ自体の存在を痛感させ続ける。だから、他の人々の数々の商品を買い続ける。だが彼自身の側の品物の生産と販売は時間を要し、また状況に左右される。従って、売りなくして買うために、彼は買うことなく、前もって売って置かねばならない。この事は、一般的に行われるならば、矛盾している。しかし、貴金属は、それらの生産現場では、直接的に他の商品と交換される。ここには、(黄金または銀の所有者による)買いを欠いた、(商品の所有者による)売りがある。この部分の本文注 / "範疇"としての意味で買いと云うならば、黄金や銀は既に、商品形式を変換しており、または、売りのための生産物と言える。そして、更なる、他の生産者達の、買いなくして生じた売りは、商品の所有者達の全てに対する、新たに生産された貴金属の単なる分配と言うことになる。この方法、全てがこの形の交換に沿うならば、様々な広がりをもって、黄金や銀の退蔵品が積み上がる。交換価値の、特定の商品の形での保有と貯蔵の可能性は、また、金銭欲をも生起する。流通の拡大に応じて、我々の面前に現われた、圧倒的とも云える社会的な富の形式、貨幣の力が増大する。「黄金は素晴らしいもの、誰が持とうと、それは彼の欲求全授の神となる。黄金を以てすれば、誰でも天の楽園に魂を持ち込むことができる。」(1503年コロンブスのジャマイカからの手紙に)黄金は、何がこれに変形したのかを開示しないのだから、ありとあらゆるものが、商品であろうとなかろうと、黄金に変換可能である。あらゆるものが売ることができるものとなり、また買うことができるものとなる。流通は、その中に投げ込まれたあらゆるのものが、再び黄金の結晶で出てくる巨大な社会的レトルトとなる。聖人の骨ですら、それとは違うが、優美な聖なる特別の人間の捧げ物も、勿論、この錬金術に抵抗することはできない。商品のあらゆる質的な違いは、貨幣においては、立ちどころに消え去る。だから貨幣は、その側面からは、急進的な平等主義者のごとく、全ての差異を除去する。だが、貨幣自身は、商品であり、永遠の物であり、いかなる個人の私的所有物ともなることができる。こうして、社会的な力が、私的人間の私的な力となる。古代人達は、であるから、貨幣を、経済と物事の秩序を破壊するものと弾劾する。近代社会は、生まれて間もなく、大地の窪みから、プルートスを、髪の毛を掴んで引きずり出した。その成り立ちのまさに原理の化身なるぎらぎらと輝くものを、そこに聖杯を見るごとく、黄金を迎え入れる。
(5)商品、そこに使用価値なるものを抱容するもの、は、特定の欲求を満たす。そうしてまた、物体的な富の特定の要素でもある。しかし、商品の価値は、その他の全ての物体的な富の要素の吸引力の度合いを示す。従って、所有者の社会的富の大きさを示す。商品の所有者である未開人は勿論、西ヨーロッパの農夫にとってさえ、価値は同じ価値形式である。そして従って、彼にとっては、彼の退蔵する黄金や銀の増加は、価値の増加である。当然のことながら、貨幣の価値は変化する。ある時は、自身の価値の変化によって、またある時は、商品の価値の変化の結果として。ではあるが、一方、この事が、200オンスの黄金が100オンスのそれよりも価値が大きいことを妨げることはない。また他方、現実のこの品物の金属なる形を、他の全ての商品の世界等価形式であることを邪魔することもないし、また人間の労働の直接的社会的具体化物であることをも邪魔するものではない。退蔵に次ぐ退蔵の欲望はその性質上満足させられることがない。その量的な点では、誰が考えても、貨幣にはその効用に対する束縛がない。すなわち、それは、直接的に、他のいかなる商品にも変換できるのであるから、物体的富の世界的代理なのである。だが同時に、あらゆる現実の貨幣の総計は、ある量に限られる。従って、買いの手段としては、限られた効用しか持たない。この貨幣の量としての限界と、質的にはなんら束縛がないという対立が、退蔵者にとっては、シジフォスに課されたような繰り返し労働への槍となる。彼にとっては、まさに、あらゆる新たな属国がただ新たな国境となる征服者のごときものとなる。
(6)黄金を貨幣として保持して置くためには、退蔵を形成するためには、それを流通から防御しておかなくてはならない。または、それが享楽の手段に変じてしまわないように防御しておかなくてはならない。退蔵者は、従って、黄金崇拝のために、肉欲を犠牲とする。彼は、慎みの福音に熱心でなければならぬ。他方、彼が流通から回収するものは、商品として、そこに投入したもの以上のものはない。より生産すれば、より売ることができる。よく働く事、節約する事、そして黄金欲、これが彼の基本的美徳である。沢山売り、ほとんど買わずが彼の経済学の全てである。
(7)なまの退蔵形式とは別に、黄金や銀の品々の美的形式での所有もまた見出す。市民社会の富がこんな形で成長する。我等を富ましめよ、さもなくば、我等をして富を表してみよ。(ディドロ)
(8)一方においては、この様な成り行きで、貨幣としての機能とは無関係に、黄金や銀の市場が形成され、絶えず広がって行く。また、他方においては、隠れた供給源であって、危機の時期や社会的な混乱の場合には、これらに頼ることになる。
(9)退蔵は、金属流通の経済において、様々な目的を果たす。その第一の機能は、金貨と銀貨に係わることで、その流通の条件から生起する。我々が見て来た様に、商品流通の広がりと早さ、そしてそれらの価格における微変動に応じて、貨幣流通の量がどのように引き潮満ち潮を絶え間なく繰り返すことか。従って、この大きさは膨張したり収縮したりすることができねばならない。ある時は、流通コインとしての役割のために、貨幣は引き寄せられねばならない。またそうでない時は、流通コインは多少なりとも流通しない貨幣としておくために、退けられねばならない。現実に流れているところの、貨幣量の大きさが流通の含有力を常に一杯に満たして置けるかどうか、そのためには、一国内の黄金と銀の量は、コイン機能として求められる量以上であることが必要である。この条件は、退蔵形式にある貨幣によって充足される。この貯水ダムが流通へまたは流通から、供給または回収のための導水路の役目を果たす。これによって、これらは堤防から溢れ出すことはありえない。
B.支払いの手段
(1)これまで見てきた商品流通の単純形式においては、我々は、与えられた価値がいつも我々に二重の形で表されているのを見た。商品として一つの極に、貨幣として反対の極に。商品の所有者達は、従って、それら既に等価であったもののそれぞれの代表者として、相対した。しかし、流通の発展に伴って、商品の譲渡がそれらの価格の実現から時間的に分離されるという状態が生じる。これらの最も単純な状態のいくつかを示せば、それで十分であろう。ある一つの商品は、その生産のために長期間を要するが、他のそれは、短期間で生産される。またある場合、異なる商品の生産は、その年の異なる季節に依存している。ある種の商品は、市場の地域で生まれるかもしれないが、他のものは、市場まで長い旅をしなければならない。であるから、商品所有者No.1は、No.2が買う準備ができる前に、売る準備ができているかもしれない。同じ取引が同じ人間によって、いつも繰り返し行われているならば、売りの状態は、生産の状態に応じて決められるであろう。これとは別に、与えられた商品の使用に関しては、例えば家だが、この場合はある期間が売られる。(普通に云えば、貸家はということ。)この場合は、まさに、期間終了時に買い手は実際にその商品の使用価値を受け取る。従って、彼は、それを彼が支払う前に買っている。売る側は、手持ちの商品を売るが、買い手は、単に貨幣の、あるいはどちらかと云えば将来の貨幣の代表者として買う。売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。商品の変態、またはそれらの価値形式の発展が、ここで、新たな局面を現わしたのであるから、貨幣もまた、生まれたばかりの機能を獲得したのである。それが、支払いの手段として現われる。
(2)債権者または債務者の性格は、ここでは、単純な流通から決まる。そのような流通形式の変化が、買い手と売り手に新たな型を押印する。従って、最初のうちは、この新たな役は、ちょっとした一時的で、交互の、売り手と買い手のそれのようなものである。しかし、その対立関係はまあそう楽しいものではなく、立ちどころに堅く固まりやすいものなのである。とはいえ、この様な性格は、商品流通からは独立したものと考えることができる。古代世界の階級闘争は、主に、債務者と債権者の抗争の形式を取っていた。ローマでは、平民債務者の崩壊をもって終わった。彼等は奴隷と置き換えられた。中世の抗争は、封建領主債務者の崩壊で終わった。彼等は、それを成立させていた経済的基礎とともに、彼等の政治的力を失った。これら二つの時期に存在している、債務者と債権者の貨幣的関係が、二つの階級存在の各一般的経済状態の中の、その底流となる敵対関係を反映するのは、疑問の余地がない。
(3)商品流通に戻ってみよう。二つの等価の外観、商品と貨幣は、売りの過程の二つの極において、いま、同時に起こるべきものであることを止めている。ここでは、貨幣は第一に、売られる商品の価格を決めることで、価値の尺度として機能している。契約で確定された価格は、債務者の義務を表しており、その貨幣総計を、彼は、決められた日に支払わなければならない。第二に、買いの観念上の手段として役割を果たす。買い手の支払いの約束としてのみの存在ではあるが、商品の持ち手を変えることになる。支払いの手段が現実に流通に入るのは、つまり、買い手の手を離れて、売り手の手に行くのは、支払いが決められた日以前ではない。流通媒体は退蔵に変形する。なぜならば、最初局面の直ぐ後、その過程を停止した。なぜならば、商品の変化した形、すなわち、貨幣は、流通から引き下げられた。支払いの手段が流通に入るのは、実際のところただ商品が流通を離れた後である。貨幣はもはや過程を進めない。交換価値としての存在の絶対的形式として、または究極の世界商品としても、踏み込むこともなく、ただ閉じる。売り手は彼の商品を貨幣に変えた、それで何らかの欲求を満足させるために。退蔵者は、同様、彼の商品を貨幣の形で保持するために。債務者は、支払いができるように。彼が支払わないとなれば、彼の品物は執政官によって売られることになろう。商品の価値形式、貨幣は従って、今、売りの究極の目的となる。流通自身の過程から発現する社会的必要性を担う。
(4)買い手は、商品を貨幣に変える前に、貨幣を再び戻すがごとく商品に変化させる。別の言葉で云うならば、彼は、第一の変態の前に、第二の変態を完成させる。売り手の商品は流通し、またその価格を実現する。しかしただ貨幣を法的に請求する形において実現する。それは、貨幣に変換される前に、使用価値に変化させられる。第一の変態の完成は、ただ後の時期にになって追ってくる。
(5)ある与えられた期間内に満期となる債務は、その債務の基となった商品の売りの、商品価格総計を代表している。この総計額を実現するための必要な金は、第一の例は、支払い手段の流れの速度に依存している。その量は、二つの状況によって条件づけられる。まずは、債務者と債権者の一種の繋がりの関係で、次のような場合。Aが彼の債務者Bから受け取ったら、それを即座に、彼の債権者Cに手渡す、以下その様な順で、と云った場合。第二の状況は、債務の、異なる満期日間の間隔の長さということである。支払いの連鎖、または、遅らされた第一の変態は、以前のページで考察したところの、変態の絡み合った繋がりとは、本質的に、違ったものである。売り手と買い手の間の繋がりは、流通媒体の流れではとても表せない。この繋がりはただ流通から発生させられ、流通内に存在する。反対に、支払い手段の動きは、長く以前から存在した社会的関係を表す。
(6)事実、沢山の売りが同時に行われ、またそれがその脇でも次々に行われることが、コインの次々に流れの速度で置き換わっていくことの広がりを制限する。だが一方、この事実が支払いの手段の節約の新たな梃子となる。支払いがある一カ所に集中される比率が高まると、特別な制度とか方法がそれらの決算のために発展させられる。中世のリヨンの振替である。Aに支払うBの債務、BにCの、CにAの、以下同様、が受け取り量、支払い量を一定程度まで無効にするよう、お互いに突き合わせればよい。そうすれば、そこには僅かな差額分の支払いしか残らない。支払いに集められた量が大きければ、それだけ差額部分が小さくなる。流通内の支払い手段の大きさも小さくなる。
(7)支払い手段としての貨幣の機能は、真ん中部分がない両端だけの矛盾を意味している。お互いの差額部分の支払いの範囲ならば、貨幣の機能は、ただ観念上の貨幣勘定であり、価値の尺度である。現実の支払いがなされねばならぬというならば、貨幣は流通媒体としての役を果たさず、単なる生産物のやりとりでの一時的な代理人の役も果たせない。ただ、社会的労働の独特の化身として、交換価値の存在を示す独立した形式として、世界商品としての役を果たす。
この矛盾は、金融恐慌として知られる、工業と商業の恐慌の局面で、頂点に達する。
本文注 / この本において、記される金融恐慌は、まさに恐慌中の恐慌そのものである。特定の恐慌、同様に金融恐慌と呼ばれるものの、間接的に工業と商業に反応するような独立した現象から作り出されたようなもの、とは明白に区別されねばならない。この恐慌の要点は、資本家の資本に見出される。従って、それらの直接的運動の局面は、資本の局面である、すなわち、銀行、証券取引所、そして財政に見出される。このような恐慌は、ただ、どこまでも続く長い支払いの繋がりがあり、それらが人為的なシステムとして敷衍しており、完璧に発展した所だけに発症する。一般的かつ拡張的なこのメカニズムの攪乱があればいつでも、なにが原因となろうと、貨幣は突然直接的に、単なる観念上の勘定貨幣の形から、あるべき姿の厳しい現金となる。卑俗な商品は、もはやそれを置き換えることはできない。商品の使用価値は、役立たない。価値は、それ自らの独立した形式の存在のまま消失する。恐慌前夜、ブルジョワジーは、繁栄の酔いにまかせた自己満足で、貨幣はただの想像以外のなにものでもないと宣言したものだ。商品だけが貨幣であると。だが、今は違う。あらゆる場所で叫んでいる。貨幣だけが商品だ!牡鹿が水を求めてあえぎ回るように、彼の魂は、貨幣を求めてあえぎ回る。それだけが富となる。恐慌では、商品と、その価値形式貨幣という正反対のものが、絶対的な矛盾としてその頂点を表す。従って、このような場合では、貨幣が表す形式などなんの重要性もない。貨幣飢餓が続く。支払いは金であろうと、信用貨幣、銀行券であろうと、遂行されねばならない。
(8)もし、いま、与えられた期間において流れている貨幣総合計を考えると、我々は、流通媒体の流れ及び支払い手段に与えられた速度において、それが、実現される価格の総計+期限がきた支払い総計−互いに精算相殺される額−最終的に、同一コイン断片が流通手段と支払いの手段となる循環量に等しいことが分かるだろう。この様になれば、各価格、流れの速度、それに支払いの相殺手続きの広がりが与えられたとしても、与えられた期間、仮に1日として、その時に流れている貨幣量と流通商品量はもはや一致しない。流通から引き下ろされてすでに長い期間を過ぎた商品を代表する貨幣が流れ続けている。商品達、その貨幣等価がある未来の日にしか表れないのに、その商品達が流通している。それ以上である、債務は日々契約され、日々満期となる支払いもある。相互の量は全く均衡しているというものではない。
(9)信用貨幣は、支払い手段としての貨幣の機能から直接的に飛び出してくる。商品の購入によって生じた債務証書は、他への債務の譲渡を目的に流通する。他方、信用制度が広がれば、それに応じて、貨幣の支払い手段としての機能も拡大する。その性格から、様々な形式をつくり、大きな商業取引においては、取引を牛耳る特異な存在となる。金貨や銀貨は、余波を受けて、小売り取引へと、その地位を追われる。本文注には、ロンドン最大の商会の一つ、モリスン・ディロン商会の年貨幣収入と支出の報告書が示されている。ほとんどが手形・銀行券(イングランド銀行、その他の地方銀行)・小切手であって、金・銀貨は収入のわずか3%支出の1%とある。
(10)商品生産が自身を十分に拡張すれば、貨幣も、商品流通の局面を越えて、支払いの手段としての役割を強める。商品はあらゆる契約の中の世界的主要事項となる。地代、租税、そして支払い類似のものは、物納の支払いから、貨幣での支払いに変化する。どこまでこの変更が広がるかは、生産の一般的状態に依存している。このことは、一つの例として、ローマ帝国が試みた年貢を貨幣で徴収しょうとした二度の失敗の事実からもよく分かるところである。ルイ十四世下の農民の、話すことも出来ない悲惨、その悲惨さは、ボワギュベール、ボーバン元帥、他が、感銘的な批難を展開している。税の重さもその原因であるが、その税を物納から貨幣による納税へと変更したからである。アジアにおいては、他方、事実上、国税は主に物納地代で構成されており、自然現象の法則による再生産という生産状態に依存している。そして、この支払い様式が、まさにそれゆえに、古い生産形式の維持を継続せしめている。これがオスマントルコ帝国維持の一つの秘密である。もし、ヨーロッパによる外国貿易が、日本に、物納地代を貨幣地代に替えることを強いるならば、その国の模範的な農業は、もはや成り立つまい。農業が続けられてきた狭い経済状態は一掃されるだろう。
(11)あらゆる国で、一年のうちのある日々が、多様で大きな、そして頻発する支払いの決算日として、習慣的に、認識されるようになる。これらの日時は、もろもろの再生産車輪の革命からではなく、季節に深く関係する状態から決まってくる。それらは、また、商品流通、租税とか地代とかその他等々とは直接関係なしに、支払い日を規定する。この支払いを行うために必要な貨幣の量に、それらの日々に満期となる国中で、周期的に、支払い媒体の相殺に際して、単に表面的というべきものにすぎないものの、変動を生じる。
(12)支払い手段の、流れの速度の法則から、全ての周期的な支払いから求められる支払い手段の量は、その出所を問わず、それらの期間の長さに反比例することが知られる。
(13)支払い媒体へと貨幣が発展すれば、その総計の支払いを定めた日のために、蓄えることが必要となる。一方の退蔵、富を得る明確なる様式、は、市民社会の進展とともに消失する。支払い手段の確保という方式が進展とともに成長する。
C.世界貨幣
(1)国内流通の局面を離れれば、貨幣は、その地方の殻、そこで表していたものを脱ぎ捨てる。価格の基準とか、コインとか、代用貨幣性とか、価値の表象とかのそれらを脱ぎ捨て、その本来の姿である金塊に戻る。世界の市場間の売買においては、商品の価値も、まさに世界的に認められるものとして表される。であるから、この場合、それらの独立した価値形式もまた、世界貨幣の形で、それらに対面する。唯一世界市場においてのみ、貨幣はまた、その形をして、抽象的人間労働の直接的社会的な具体的化身たる商品としての圧倒的な性格を獲得する。この局面における、その現実の存在様式は、その典型的な概念と適切に一致する。
(2)国内流通の局面範囲では、価値の尺度を務めることで、貨幣となる商品は、ただ一つしかありえない。世界市場では、二重の価値尺度が支配する。金と銀である。
(3)世界貨幣は、世界的支払い媒体としての役を務める。また世界的購入手段として、さらに、全ての富の世界的に承認される体現物としての役をも務める。国際的貸借を決算する際の支払い手段としての機能がその主要なものである。だから、重商主義者達の合言葉は、貿易収支。金・銀は、主に、国際的購買手段を務め、一旦、様々な国間で行われている取引の通常的均衡が急に乱されることになれば、必要不可欠となる。最後に、それは、買いまたは支払い上の問題だけではなく、市場での特別の事情、またはそれ自身が意図する目的から、一国から他国への富の移動に関する問題が生じた場合、または商品の形での移動が不可能となる場合には、世界的に承認された社会的富の体現物となる。
(4)ちょうど、あらゆる国が、国内流通のために貨幣の貯蔵を必要とするように、あらゆる国は、世界市場という外部の流通のためにも、同様、貨幣の貯蔵を必要とする。退蔵の機能は、従って、一部は国内流通と国内での支払いの媒体としての、貨幣機能に起因し、また一部は世界貨幣の機能に起因する。後者の機能のために、本物の貨幣商品、現実の金と銀が必要となる。ジェームズスチュアート卿は、純粋に地域的な代理からそれらを区別するため、金・銀を「世界の貨幣」と呼んだ。
(5)金・銀の流路の流れは、二重である。一つは、その産出現場から全世界市場へと自身を広げ、さらに浸透して行くために、いろいろな所、それぞれ異なる国の流通局面へと、流れの導管を満たし、磨耗した金貨・銀貨を置き換え、奢侈品の材料を供給し、退蔵に固まる。この最初の流れは、商品群に実現された労働と、金銀の産出各国の労働が具現化した貴金属群、とを交換した国々から始められる。他方、各国間の流通局面で行き来する金・銀の滞ることのない流れがあり、その流れの動きは、止むことのない為替相場の変動に依存している。
(6)ブルジョワ形式の生産が、ある程度まで発達した国々では、銀行の頑丈な部屋に集められた退蔵を、それらの特異な機能を適切に実行するために求められる最低量に制限する。これらの退蔵が平均的な量を大きく越える場合はいつでも、例外はあるが、商品の流通の閉塞指標、商品変態の流れの障害指標となる。 
 
第四章 資本となるための一般公式

 

(1)商品の流通が、資本の出発点である。商品の生産、それらの流通、さらにそれらの流通形式の発展したものを、商業と呼ぶ。これらの形式が、資本が生起する歴史的基礎を成している。資本の近代史は、16世紀の世界商業と世界市場の創設から記されよう。
(2)もし、我々が、商品流通の物質的実体、その様々な使用価値の交換の内容を度外視して、この流通過程から生じる経済的形式のみを考慮するとすれば、我々は、その最終的結果として貨幣を見つける。この最終的な商品流通の生産物は、資本が出現する最初の形式である。
(3)歴史的にも明らかなように、資本は、土地所有とは違って、最初から変わらず貨幣形式を用いる。貨幣での富として、商人資本として、そして高利貸しとして出現する。資本の最初の出現形式が貨幣であるかどうかを見つけるために資本の発生源を探す必要はない。我々は我々の目で、毎日それを見ることができる。全ての新たな資本は、市場から始まる、市場に登場する、商品市場であれ、労働市場であれ、または貨幣市場であれ、我々の日々の中にさえ、貨幣の形で現われ、ある決まった過程によって、資本へと変換される。
(4)貨幣のただの貨幣たる存在と、貨幣の資本としての存在について、我々が気づく最初の違いは、それらの流通形式上の違い以上のものはなにもない。
(5)最も単純な商品の流通形式は、C-M-Cである。商品の貨幣への変換である、そして貨幣が再び商品に戻る変化である。または、買うための、売りである。この形式と並んで、別の、特別に違った形式、M-C-Mを我々は見つけている。貨幣の商品への変換である、そして商品が貨幣に戻る変化である。または、売るための、買いである。貨幣の、後者の方式の流通は、それによって、資本へと変換されるものとなる。すでに、資本としての存在性を有している。
(6)では、さっそくM-C-Mなる回路についてもう少し近寄って調べてみよう。それは、他とも同じく、二つの相反する局面から成る。最初の局面M-Cまたは買いでは、貨幣は商品へと変化させられる。第二番目の局面C-Mまたは売りでは、商品が貨幣へと再び戻るかのように変化させられる。これらの二つの局面の結合は、一つの動きを形作っている。そこでは、貨幣が商品と交換され、そしてその同じ商品がまた、貨幣と交換される。そこではまた、商品は売られるために、買われる。または、買いと売りの形式の違いを無視している。そこではまた、商品が貨幣によって買われ、次いで貨幣が商品によって買われる。その結果は、その過程の各局面はそこから消え失せ、貨幣のための貨幣の交換M-Mとなる。もし、私が2,000重量ポンドの綿を100ポンドで買い、その2,000重量ポンドの綿を110ポンドで転売するとすれば、私は、事実上、100ポンドを110ポンドに、貨幣を貨幣に変えたことになる。
(7)もし、二つの等価である貨幣計100ポンドと同貨幣計100ポンドをこの方式で交換するのが意図というならば、このM-C-Mなる回路は馬鹿げたもので、無意味であることはこれこそ明らかであろう。けちんぼさんの計画の方がよほど分かりやすく、確実である。彼は、100ポンドを流通の危険に晒すかわりに、じっとして置く。なのに、商人は、綿に100ポンドを支払ったそれを110ポンドで売るか、100ポンドとするか、または、50ポンドにさえ替えるか、いずれにしても、彼の貨幣は、これら全ての場合において、独特の、他には見られない特異な動きをしている。農夫が彼のトウモロコシを売って、その貨幣で全く別の布地を買うということとは、全く異なる種類のものである。従って、我々は、まず最初に、これらのM-C-MとC-M-Cという二つの回路形式の性格について調べてみなくてはならない。そうすれば、単なる形式の違いの根底にある本当の違いが、おのずから明らかになろう。
(8)まずは、二つの形式に共通するものを見てみよう。
(9)両回路とも、同じ二つの相反する局面に分解することができる。C-M売り、と、M-C買いである。これらのそれぞれの局面には、同じ物質的要素、商品と貨幣があり、また同じ経済劇の出演者、買い手と売り手が互いに相対している。それぞれの回路は、同じ二つの相反する局面の結合体である。そして、それぞれのこの結合体は3組の契約関係者の介在によってもたらされる。そのうちの一組は、売るだけであり、もう一方は買うだけ、だが3番目は、買いそして売るの両方を行う。
(10)回路C-M-Cを、回路M-C-Mと区別しているまず第一のものは、連続する二つの局面の順序が逆になっていることである。単純な商品流通は、売りで始まり、買いで終わる。だが、貨幣の資本としての流通は、買いで始まり、売りで終わる。一つのケースでは、開始点も到達点も共に商品である。他のケースでは、それが貨幣である。一番目の形式では、運動は貨幣の介在でもたらされる。二番目は商品の介在でもたらされる。
(11)C-M-Cの流通においては、最後は、貨幣が商品に変えられる。その商品は使用価値として役割を果たす。貨幣は、この一度に全てを費やす。逆のM-C-Mではこれとは違って、買い手は、貨幣を出すが、買い手として貨幣を回収するために支出するのである。彼の商品の買いに、彼は貨幣を流通に投入するのは、その同じ商品の売りで、その貨幣を再び引き戻すためである。彼は貨幣を行かせるが、それはただそれを再び取り戻すという狡賢い意図が伴っている。従って、貨幣は費やされるわけではなく、単に前貸しされただけである。
(12)回路C-M-Cで、同じ貨幣断片が、二度その位置を変えた。売り手は買い手からそれを得て、それを別の売り手に支払った。この完成した流通は、まずは、商品に対する貨幣の領収書で始まり、商品に対する貨幣の支払いで終了する。M-C-Mなる回路では全く逆である。ここでは、貨幣断片は、その場所を二度も変えない。変わるのは商品の方である。買い手は、売り手の手から、それを手に取り、他の買い手に手渡す。単純なる流通で、同じ貨幣断片が二度位置を変えたのと似て、商品は、一方から他方へと通過する。そのように、ここでは、同じ商品の二回の場所の変化が、貨幣の出発点への還流をもたらす。
(13)そのような還流は、それに支払われた以上で売られる商品に依存しているわけではない。この子細は、戻ってくる貨幣の量のみに意味がある。買った商品が転売されるやいなや、還流自体が成立する。別の言葉で云えば、回路M-C-Mが完成するやいなや貨幣が還流する。であるから、ここで、我々は貨幣の資本としての流通と、単なる貨幣としての流通の明白な違いが分かる。
(14)回路C-M-Cでは、貨幣は一商品の売りによってもたらされるが、直ぐに再び、他の買いによって、持ち去られて、この回路が完全に終了する。
(15)それにもかかわらず、その単純な回路で、貨幣の還流があって、出発点に戻って来るということがあるならば、それは、ただ新規のものか、その活動の繰り返しでしか起こり得ない。もし、仮に、私が1クォーターのトウモロコシを3ポンドで売るとしたら、そしてこの3ポンドで布を買うとしたら、貨幣は、私に関する限りでは、これに費やされて、お終いである。貨幣は、布の商人に所属する。もし私が今度さらに、に番目の1クォーターのトウモロコシを売れば、貨幣は確かに、私の所へ戻ってくる。しかしながら、最初の取引の結果としてではなく、その繰り返しの帰結として、にすぎない。私がこの二番目の取引を新たな買いで完成すれば、立ちどころに貨幣は再び私を置き去りにする。従って、この回路C-M-Cにおいて、貨幣の支出は、その還流について、なにも関係がない。他方、M-C-Mにおいては、貨幣の還流はこの、まさに、この支出様式によって実施される。還流がなければ、この実施は失敗である。または過程が遮断されたか、未完状態となる。その補完的かつ最終的な局面、売りが不在である。
(16)回路C-M-Cは、一商品を以て始まる。そして、他の商品で完成する。その商品は、流通から離脱し、消費に入る。消費は、欲求の充足である。別の言葉で云えば、使用価値であり、それが最終目的である。回路M-C-Mはこれとは違って、貨幣で始まり、貨幣で終わる。その際立つ動機は、そして魅惑する到達点は、当然ながら、唯一つ、交換価値である。
(17)単純な商品の流通は、その回路の両端に、同じ経済形式を持っている。それらは、商品であり、等価の商品である。しかし、それらはまた、同じく使用価値ではあるものの、それらの特質は違っている。例えば、トウモロコシと布である。それぞれの物には、社会の労働が体現されている、その生産物の交換が、ここでは、その運動の基礎を形作っている。これと違って、回路M-C-Mなる流通は、最初は、目的がないように見える。なぜかと云えば、同語反復だからである。両端には同様、同じ経済形式を持っている。それらは貨幣であり、そして、だから、質的に違っている使用価値ではない。なぜなら、貨幣は、商品の変化した形式ではあるが、ここでは、それらの特異なる使用価値は消失している。100ポンドと綿との交換、そして、そこで、この同じ綿を再び100ポンドに交換、ということは、単なる貨幣と貨幣との、同じものと同じものとの、交換の、遠回りでしかない。この交換は無目的で馬鹿げたものに見える。一方の貨幣総計と他のそれとを区別できるのは、ただそれらの量だけである。従って、過程M-C-Mの性格と傾向は、その両端の質的な違いに帰すべきものは何一つなく、ただそれらの量的な違いの一点にある。最初の開始点で投入したもの以上の貨幣を流通の完了時点で引き出すことにある。100ポンドで買われた綿は、多分、100ポンド+10ポンドまたは100ポンドで転売されるだろう。であるから、この過程の形式は正確には、M-C-M'である、と言うことは、M'=M+ΔM=最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものとなる。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、無傷を維持しているばかりでなく、自身に剰余価値または自己拡大を加えているのである。この運動こそ、貨幣の資本への変換なのである。
(18)勿論、C-M-Cにあっても、両端のC-C、トウモロコシと布にあっても、異なる価値の量を表してしまうことがあるかもしれない、それもまたあり得ることである。農夫は、彼のトウモロコシをその価値以上で売るかもしれぬ。または布をそれらの価値以下で買うかもしれぬ。他方、布の商人によっても彼はそのようにされるやも知れない。とはいえここで考察している流通形式では、そのような価値の差は、純粋に偶然的なものである。トウモロコシと布が等価であるという事は、このM-C-M過程の全ての内容を、少しも損なうものではない。それらの価値が等価であることが、むしろその普通の流れにとっては必要なる状態と言える。
(19)買いのための売りの行動の繰り返し、または、更新は、常に、いわゆる、消費または、決まった欲求という目的を持った、その物によってしっかりと結び付けられている。その目的なるものは、全く、流通局面の外に存在している。しかし、売るために買う場合は、この逆で、始めも終りも同じもの、貨幣、交換価値である。であるから、この運動には際限がない。疑うまでもなく、MがM+ΔMとなる。100ポンドが110ポンドとなる。が、これらの質的な点のみについて見れば、110ポンドは、100ポンドと同じである。すなわち貨幣である。そして量について考えれば、110ポンドは、100ポンドに似て、明確なる金額であり、無限ではない有限の価値である。今、この110ポンドを貨幣として使ってしまえば、それらはそれらの役割を演ずることを止める。もはや資本ではない。あるいは流通から降りて、退蔵に固まれば、そして、最後の審判日が来る迄そのままならば、1ファージングの利子も生まないであろう。だがもし、一旦、価値の拡大を意としたら、あたかも、100ポンドを110ポンドへと価値拡大しようという誘因に乗るならば、そのいずれも、交換価値の表現以外ではなくなる。そのいずれも、同じ使命感の途上にある。価値増殖、可能的な絶対的富への接近である。確かに時間的な差もあり、最初に予め投じられた価値、前貸し分の100ポンドは、流通において、付け加えられた余剰価値の10ポンドとは区別できるものではあるが、瞬時にその差は消失する。過程の最後に、我々が受け取るのは最初の100ポンドを片手に、もう片方の手に剰余価値の10ポンドを受領するというものではない。我々は単純至極に110ポンドの価値を得る。このまさにこの110ポンドは、かって元の100ポンドが係わった過程、増殖過程に入る状態と適格性を備えた状況にある。貨幣は、ただその過程を再び始める状態でのみ、その運動を完結する。従って、ありとあらゆる別々の回路、買いとそれに続く売りが完成する回路、の最終結果は、それの新たな回路の開始点となる。単純なる商品の流通-買うために売る-は、再流通に繋がらない、つまり、使用価値を充当するとか、欲求を満足させるとか、の目的のために遂行される方法である。貨幣の資本としての流通は、これとは違って、自身で終わる。価値増殖が、ただその事のみが新たな運動として絶えず惹起する。資本の流通は、かくて、際限がなく、止むを知らない。
(20)この運動を意識的に代理するならば、貨幣の所有者は、資本家となる。彼なる人が、いやむしろ彼のポケットが、貨幣の始点であり、帰着点である。価値増殖、流通M-C-Mの客観的原理または、主要バネが、彼の主観的目的となる。そしてそれがかってなかったそれ以上の富、あらゆるものをこそぎ取ったただの富の占有となる限りにおいて、それが彼の操作の唯一の動機となる。価値増殖、それで彼は資本家として機能する。これこそ、資本の擬人化であり、その意識と意志を授けられた。従って、使用価値は、資本家の実際の目的として、省みられることはあり得ない。それぞれの一売買において利益を図ることでさえも省みられるものではない。休みなく、終りのない利益作りだけが、彼の目指すものなのである。この果てしない私腹に続く貪欲、この熱望が交換価値を追うのだが、この貪欲は、資本家とけちんぼに、共通している。が、けちんぼは、ただの狂った資本家にすぎないが、資本家は、正気のけちんぼである。終なき交換価値の増大、けちんぼにとっては、流通から彼の貨幣をいかに保全するか、その方法探しに励むことであるが、その増大は、より敏感なる資本家によって、常に、それを、流通に新たに投入することによって達成される。
(21)独立の形式、すなわち、単純な流通において、商品の価値を表す貨幣形式は、ただ一つの目的、すなわち、それらの交換の役を果たし、運動の最終結果においては、消失する。他方、流通M-C-Mでは、貨幣も商品も共に、それらの価値の異なる存在形式を表す。貨幣は一般様式、商品はその特別の、言うなれば、偽装様式を表す。それは、常に、一つの形式から他の形式に変化している。それによって失われることもなく、そして、そのように、自動的な行動的性格を帯びる。もし、我々が、今、その当然なる成り行きにおいて、連続的に自己拡大する価値を表す二つの異なる形式のそれぞれを取り替えるとしたら、直ぐに我々は、これらの二つの命題に至る。資本は貨幣である。資本は商品である。しかしながら、事実、価値は、ここでは、過程の能動的要素であり、その過程において、常に、貨幣と商品の形式を交互に表す。それは、同時に、大きさを変え、自身から余剰価値を放出することで、当初の価値から自身を区別する。別の言葉で云えば、自発的に拡大する。この運動によって、その成り行きにおいて、それは余剰価値を自身に加える。それが、それ自身の運動であり、その拡大である。であるから、自動的な拡大となる。なぜなら、それが価値だから。それは、自身に価値を付加することができる不可思議な性質をいま獲得した。それは、生きた子孫をもたらす。または、少なくとも、金の卵を産み落とす。
(22)従って、価値は、そのような過程の能動的な要素となり、ある時は貨幣の形式を取り、別の時には商品のそれを取る。そしてこれらの変化を経ながら、それ自身を保存し、拡大する。それは、自らの独自性を、いついかなる時においても、確立できるように、その手段として、ある独立形式を要求する。そうして、この形式として、ただただ、貨幣の姿を所有する。貨幣の形式のもとで、価値は始まり終わる。そしてまた始まり、そのことごとくの作動はそれ自身の自発的発生機なのである。その出発点は、100ポンドであった。それがいまは110ポンドであり、以下同様と続く。しかし、貨幣自身は、価値の二つの形式の一つに過ぎない。なんらかの商品の形式を取らずには、資本となることはない。退蔵とは違って、貨幣と商品の間には、なんら敵対関係はない。資本家は、あらゆる商品がなんであるかを知っている。その商品が何であれ、貨幣であることを知っている。商品の形がみすぼらしかろうと、臭い匂いがしていようと、確信と事実において貨幣であり、たとえ割礼していなくともユダヤ人であり、そして、それ以上のもの、貨幣からより多くの貨幣を作り出す驚異的手段なのである。と知っている。
(23)単純な流通C-M-Cでは、商品の価値は、それらの使用価値からは最も独立した形式で、達成された。すなわち、貨幣形式であった。しかし、その価値が、今度は、流通M-C-Mでは、または資本の流通では、たちまちそれ自身を独立したものとして表す。それ自体の動作を与えられて、それ自体の存在過程を瞬時に通り抜けて、自身を表わす。その存在過程の中では、貨幣も商品も単なる形式で、相互に、そのように表れたり、それを脱ぎ捨てたりする。いやむしろ、それ以上である。商品達の関係を単純に表す代わりに、それは今、いわば、それ自身との私的な関係に入る。それは、元の価値としての自分と、剰余価値としての自分を区別する。まるで、父が自分を、自分と息子から区別するかのように。だが、両者とも同じ自分で、自分と同じ年齢のままである。すなわち、ただの、10ポンドの剰余価値が、前貸しされた元の100ポンドを資本となす。そうなれば、すぐに息子が、息子によって、父が、そして息子がということになり、すぐに、それらの違いは消失し、再びかれらは一つのものになる。110ポンドである。
(24)従って、価値は、今、過程によって、価値となる。過程における貨幣であり、また、そのようにして、資本である。それは、流通から出てくる。またそれに入る。その中で、自身を保存し、自身を倍にする。大きく拡大されて、そこから戻ってくる。そして、いつも新たなに、同じ事を始める。M-M'貨幣を産む貨幣、これが、最初の通訳である重商主義者の口から出た資本の叙述である。
(25)得るための買い、または、より正確に云うなら、より高く売るための買いM-C-Mは、明確なる特別の形式、唯一つの種類というべきもの、資本として現われる。すなわち、商人資本である。しかし、産業資本もまた、貨幣である。それらは商品に変えられ、これらの商品の売りによって、再びより多くの貨幣に変えられる。流通局面の外部で、いかなる事件が勃発しようと、その買いと売りの合間で発生しょうと、この運動の形式に影響することはない。最後に、利子生み資本の場合において、流通M-C-M'は簡略化される。我々は、途中段階抜きで、結果を得る。M-M'"ぶっきらぼうに云えば"それは、貨幣はより多くの貨幣に値する。価値はそれ自身よりも偉大である。
(26)それゆえに、M-C-M'が、現実として、流通局面の中で一見したところでは、資本となるための一般公式である。 
 
第五章 資本となるための一般公式における矛盾

 

(1)貨幣が資本になる時に取る流通の形式は、これ迄に我々が考察してきた商品の性質の意味とか、価値と貨幣とか、流通それ自体ですらも含めて、これらの法則に反している。何が、単純な商品の流通形式から、この形式を区別しているのかと云えば、二つの正反対の過程売りと買いの繋がりの順序が逆転していることである。これらの二つの過程の間にある、純粋的な形式の違いが、どのようにそれらの性格をあたかも魔法のごとく、変えることができるのだろうか。
(2)だが、それが全てではない。この逆転は、これらの取引を行う三人のうちの二人の間では、存在していない。資本家として私が、Aから商品達を買い、それらをさらにBに売る。しかし単純な商品達の所有者として、私は、それらをBに売り、そしてそれから新たなものを、Aから買う。AとBは、二つの取引において、なんら違いは見えない。彼等は単なる買い手達と売り手達である。そして、私は、いずれの場合でも、彼等に、単なる貨幣または商品達のいずれかの所有者として立ち会う。買い手として、または、売り手として。そして、さらに、二つの取引の両方において、私は、ただ買い手として、Aに相対し、そして、ただ売り手としてBに相対する。一人にはただ貨幣として、他の一人には商品達として。そして彼等には、いずれも資本として相対してもいないし、資本家としてでもない。また、貨幣とか商品とか以上の何ものかの代表としてでもない。また、貨幣や商品ができる範囲を越えてなんらかの影響を生産できるものとしてでもない。私にとっては、Aからの買いとBへの売りは一件の部分なのである。ただ、この二つの行為の繋がりは、私にとってのみ存在している。Aには、私の、Bとの取引について、彼自身にはなんの問題もない。Aとの取引について、Bにもなんの問題もない。そして、仮に、私が、彼等に、私の、繋がりの順を逆にした行為の称賛に値する性質を説明しようと申し出たならば、彼等は、多分、以下のことを指摘するであろう。それは、私が繋がりの順を間違えたこと、全ての取引で、買いから始めて売りで終わるのではなく、逆に、売りから始め、買いで完結するものと。確かに、私の最初の行為買いは、Aから見れば、売りであり、私の二番目の行為売りは、Bから見れば、買いである。AとBは、これには納得せず、全ての売買は余計であり、よくある言葉遊び以外のなにものでもない、とわめくだろう。
ならば、今後の取引のために、Aは直接Bから買い、Bは直接Aに売ると声を大にするだろう。だから、全ての取引は、日常的な商品流通の補完されない局面の、一つの隔離された形に縮小される。Aから見た、単なる売り、とBから見た単なる買いである。従って、繋がりの順の逆転は、単純な商品流通の局面から我々を外に連れ出さない。だから、我々は、単純な流通の中に、流通に入り込んで、価値の拡大を許すもの剰余価値を創造するもの、があるのかどうか、しっかりと見て行かねばならない。
(3)では、流通過程を、単純で直接的な商品交換のようにそれ自身を表す形式としてのそれを取り上げてみよう。この中では、常に、二人の商品所有者がお互いに相手から買うというケースである。決算日では、互いの未払い量は等しく、互いに相殺しあう。この場合の貨幣は、貨幣の勘定計算であり、商品の価値をそれらの価格で表す役目をはたす。それ自体は、彼等と、実際の固い貨幣の姿で対面することはない。使用価値に関するならば、両者とも、なにがしかの有益なものを受け取るであろうことは明らかである。両者とも、彼等にとっては使用価値として役に立たない物を手離すことで、そして、相手の物を受け取れば、彼等はそれを役立てることができる。そして、そこには、また、さらなる利得があるであろう。A彼はワインを売って、トウモロコシを買う、多分、与えられた労働時間で、農夫Bが作る以上にワインを生産しているであろう。また一方、Bはワイン醸造者のAが作る以上にトウモロコシを作っているであろう。従って、それぞれが各々で生産する自分のトウモロコシやワインを交換しない場合に較べて、Aは、同じ交換価値に対して、より以上のトウモロコシを得られるかも知れない。Bは、より以上のワインを得られるかも知れない。従って、使用価値に関して云えば、「交換は、両者に利益をもたらす取引である。」と言えるそれなりの場である。交換価値に関しては、これとは違う。「一人の男、多くのワインを持っており、トウモロコシはもっていない男が、沢山のトウモロコシを持っており、ワインを持っていないある一人の男と交渉する、50なる価値を有するトウモロコシと同価値のワインの間で交換が成立する。この行為は、交換価値の増加をどちらにももたらさない。なぜというなら、それぞれ彼等はすでに、交換以前に、交換によって得たものと同じ価値を所有していた。」この結果は、これらの商品間に、流通媒体である貨幣を導入しても、また売りと買いを明確に二つの行為に分けたとしても変わらない。商品の価値は、流通に入る前に、価格で表されており、そして、従って、価格は流通の前提条件であって、その結果ではない。
(4)単純なる商品流通の法則から直接流れ出てくるもの以外の事情を捨てて考えれば、交換にはなにもない、(もし、我々がある使用価値を他のそれと置き替えることを除けば、)ただ、あるのは、変態、商品形式の単なる変化のみである。同じ交換価値、すなわち、同じ、具現化された社会的労働の量は、商品の所有者の手のなかに、初めから終り迄、留まっている。最初は、彼自身の商品の形で、そして次は、彼がそれと交換したことによって貨幣形式で、そして最後は、彼がその貨幣で買った商品の形で、留まっている。この形式変化は、価値の大きさという点では、変化を意味しない。変化というなら、この過程を経て商品の価値は、その貨幣形式への変化に限られている。この形式は、最初、売りに提供された商品の価格として存在する。そして、現実の貨幣総計として、とはいえ、それはすでに価格として表わされたものである。そして最後は、等価商品の価格として。この形式変化は、それのみでは、価値の量における変化はなにも意味しない。ちょうど、5ポンド紙幣を、ソブリンとか半ソブリンとかシリングとかに両替するのと同じ以上のものを意味しない。従って、商品流通がそれらの価値形式のみに変化を及ぼす限りにおいては、また混乱を及ぼすことがない限りにおいては、それは、等価の交換でなければならない。俗流経済学は、価値の性質についてはなにも知らない。が、かれらの純粋なる方法で流通現象を考えたいと思う時はいつでも、供給と需要は等しいと云う。どっちがどっちの量であろうと、その影響は皆無であると。従って、もし、使用価値が交換されたとすれば、買い手にも売り手にもなんらかの利得が起こり得る。交換価値に関しては、そうはならない。ここで、我々は、むしろ次のように云わねばならない。「そこに同等あらば、そこに利得なし。」確かに、商品はそれらの価値から逸脱した価格で売られるかも知れない、しかし、その逸脱は商品の交換の法則に違反しているとみなされる。普通の状態では、等価の交換であり、であるから、そこに価値増殖の仕組みはない。
(5)故に、我々には、商品流通に余剰価値の源泉なるもの、そこに潜んでいる報酬を、明らかにしようと試みる思考には、使用価値と交換価値の混同がある、ように見える。例えば、コンディヤックは云う、「商品の交換においては、価値に対して我々が価値を与えるということは真実ではない。逆に、各二人の契約者達は、あらゆる場合において、より大きな価値に対して、より少ないものを与える。…もし、我々が本当に等価を交換するのならば、いずれの側の契約者も利益を作ることはできないだろう。それなのに、彼等は共に、得ているし、得るべきである。何故か?物の価値は、唯一つ、我々の欲求との関係から成り立っている。ある者にとって、より以上のものならば、他の者にとっては、より少ないものである、またはその逆である。…我々が売りに出す品物が我々自身の消費のためのものとは、仮定されてはいない。…我々は、有用ではないものを、我々が必要なものを得るために、手離したいと思っている。我々は、多くのものに対して、少なく与えたいと思っている。…次のように考えたのは、自然である。交換において、価値に価値が与えられた、交換されたそれぞれの品物は、いつでも、同じ金の量と同じ価値であった。…だが、我々の計算には、考えられた別の視点がある。疑問は、我々が、いずれも、なにか余分のものを、なにか必要なものに交換したのかどうかである。」我々が、この一節を見れば、コンディヤックがどのように、使用価値と交換価値とを混用させているかばかりでなく、まったく子供染みた方式で考えているかが分かる。商品の生産がよく発達している社会において、それぞれの生産者は、自己の生存の手段として生産しており、彼の必要を超えるもののみを、流通に投入すると考えているのだから。依然として今も、コーディヤックの論法がたびたび近代経済学者によって繰り返される。特に、発展した形式での商品の交換、商業は、余剰価値を生み出す性質を持っている、という点で、目につく。「商業…は生産物に価値を与える。その生産物が消費者の手にあれば、生産者の手の中にある以上の価値がある。そして、それが生産行動であると厳粛に考えられるのかも知れない。」しかし、商品は、二度も支払われはしない。まずはそれらの使用価値の勘定として、さらに、それらの価値勘定として、と別々に支払われはしない。また、こうも云えるだろう。商品の使用価値は、売り手によりは、より買い手に役に立つ、その貨幣形式は、より売り手に役に立つ。そうでなければ、彼はそれを売るだろうか?従って、我々は、買い手が、「厳粛なる生産行為」なるものを、靴下を、例えば、貨幣に変えてみることによって行ったとしたら、そう云うに違いないのだろうか。「余剰価値を生み出す性質が分かった。」と。
(6)もし、商品、または商品と貨幣、が同量の交換価値であり、それゆえに等価として、交換されたとしたら、誰も、彼が流通に投入した価値以上のものを、流通から抽出しないことはいうまでもない。そこに、剰余価値の創造はない。そして、通常の形式では、商品流通は等価交換を要求する。しかし、現実の実践では、過程は、その通常の形式を保持してはいない。従って、我々は非等価交換についても推測してみよう。
(7)どんな場合でも、商品を受け入れる市場は、ただただ、よく来る、商品達の所有者達で賑わっている。そして、これらの人々が互いに及ぼし合う力は、かれらの商品達の力以上のものはない。これらの商品の物としての多様さは、交換行為へと引きつけられるだけの、物としての魅力がある。だから、買い手と売り手は互いに依存することになる。なぜならば、誰も彼自身の欲求の対象となるものを持ってはいない。そしてそれぞれは、彼の手に、他人の欲求に適うものを持っている。彼等の使用価値の、これらの物としての違いの他に、そこには、他とは違うただ一つの、商品としての違い、すなわら、物そのものとしての形と、売りによってそれらが変換されたところの形式との違いである。商品と貨幣との違いである。かくて、それに従って、商品達の所有者達は、ただ売り手達商品を所有する者と、買い手達貨幣を所有する者に区別されるようになる。
(8)では、ある説明が付かない特権によって、売り手が彼の商品をそれらの価値以上で売ることができると想定してみよう。100のものを110で。この場合、価格が名目上10%上げられているとしよう。従って、売り手は、10の余剰価値をポケットに入れる。しかし、彼が売った後、今度は買い手となる。第三の商品所有者が今、売り手として彼の元に現われる。第三の彼もまた、彼の商品を10%高く売る特権を享受することができるのである。我々の友は、売り手として10を得たが、ただ再び買い手として、それを失う。正味の結果は、全ての商品所有者は、彼の価値の10%高で互いに売るのであるから、彼等が彼等の真の価値でそれらを売ったのと、正確に同じことに帰着する。このような、一般的で名目的な価格の吊り上げは、金の重量の代わりに銀の重量で表した価値と同じように、同じ効果となる。それらの価値間の実際の関係は、変わらないまま留まっている。
(9)逆の仮説を作ってみよう。買い手が、商品の価値よりも、安く買える特権を有しているとしよう。この場合について、彼が売り手となった時のことを考えてみる必要はもうないだろう。彼は、買い手となる前に、すでに、買い手として10%を得る前に、売りにおいて、10%を失っていた。全ては、元の通りである。
(10)かくて、剰余価値の創造や、貨幣の資本への変換は、これらのことから、商品がそれらの価値以上で売られることによっても、または、それらの価値以下で買われることによっても、いずれの仮説においても、説明されることはできない。
(11)この問題は、トレンズ大佐の何とか云うのを追って、次のような、不適切な論説を紹介しても、なんら単純にはならない。「消費者の側にある力と性向!には、十分なる要望が存在しており、商品に、直接的または迂回的物々交換のいずれによっても、それらの生産コストよりもそれなりに大きい、資本…部分を与える。」流通への関係において、生産者と消費者は、ただ単に、買い手と売り手として会するのみである。生産者が獲得する余剰価値の起因が、消費者が商品に、その価値以上に支払うという事実にあると断言することは、ただ別の言葉で云えば、商品の所有者は、売り手として、高く売る特権を持っていると云うことになる。売り手は、彼自身で、商品を生産した、または、それらの生産者を代表している。しかし買い手は、彼の貨幣によって表された、商品を全く過不足なく生産していなければならない。または、それらの生産者を代表している。彼等の間の区別は、一人は買い、そして別の一人は売るである。これでは、商品の所有者は、生産者という呼称で、それらをそれらの価値以上で売り、消費者という呼称で、それらにより多く支払うということになって、これでは、我々をして一歩も進めていない。
(12)従って、余剰価値は、名目的に価格を上げること、または、売り手がより高く売る特権を有することに起因するという妄想を主張する人々は、この主張を実証するために、ある階級、ただ買うばかりで、売らない、つまり一方的な消費者で、生産しない階級を想定しているに違いない。このような階級の存在は、我々がやっとたどり着いた地点、すなわち、単純な流通の範囲では説明することはできない。だが、我々は、先読みしてみよう。このような階級が不断に買いをなすその貨幣は、不断に彼等のポケットに、いかなる交換もなしに、無料で、腕力によってかはたまた権利によってか、商品の所有者自身のポケットから、流れ込む。このような階級へ商品をそれらの価値以上で売ることは、ただ、前もって与えた貨幣の一部をこっそりと奪い返すだけのことである。小アジアの町は、この話の様に、古代ローマに対して毎年貨幣を貢いだ。この貨幣でもって、ローマは、彼等から商品を買った、そしてそれらを高く買った。その地方の人々は、ローマを騙した。だから、彼等は彼等の征服者達から商売の方法で、貢納の一部を取り戻した。だが依然として、これらによっても、被征服者達は実際には騙されていたのである。彼等の品々は、依然としてかれらが貢いだ自分達の貨幣の範囲で、支払われ続けられたのである。この方法で、富を築くとか、余剰価値を創り出すことはない話である。
(13)だから、我々は、売り手が買い手であり、そして買い手が売り手である交換の範囲内に限っておこう。我々の困難は、多分、個人の代わりに、擬人化された演技者を取り扱うことから、生じているかも知れない。
(14)Aは、BやCに対して、彼等から報復されることなく、有利な立場に立つだけの十分な賢さがあるかもしれない。AはBに40ポンドの価値を有するワインを売る。そして交換によって、彼から50ポンドの価値があるトウモロコシを取得する。Aは40ポンドを50ポンドに変換した。そして減らすことなく、より多くの貨幣を作り上げた。彼は彼の商品を資本に変換した。我々はこの事を、もう少し厳密に見てみよう。交換以前、我々は、40ポンドの価値があるワインをAの手に、そして50ポンドの価値があるトウモロコシをBに、全体で90ポンドの価値を持っている。交換後も、我々は、依然として同じ、合計90ポンドの価値を持っている。流通によって、価値は、1イオタの増加も加えていない。ただ、AとBとの間で、違った分配がなされた。Bが失った価値が、Aの剰余価値である。ある一人のマイナスが、もう一人のプラスである。もしも仮に、Aが正式なる交換によらず、Bから10ポンドを直接盗ったとしても、同じ変化が生じたであろう。つまり、交換における価値総計は、分配の如何なる変化によっても、増加させられることがないのは明白である。ユダヤ人がクイーン・アンの1ファージングを1ギニーで売っても、一国の貴金属の量が少しも増えなかったのと同じである。資本家階級は、全体としては、如何なる国においても、無理やり身を伸ばすことはできない。
(15)我々が、裏返したり、捩じったりしたとしても、事実は何も変わらないままである。もし、等価が交換されたとしても、余剰価値は生じない。そしてまた、非等価が交換されたとしても、依然として、余剰価値は生じない。商品の流通または交換では価値は生まれない。
(16)従ってこれらの事実こそ、何故、今、我々が、資本の標準的形式近代社会の経済的体制を決定づけている形式を、分析するに当たって、最も一般的な、言うなれば、ノアの大洪水以前の形式商人資本とか金貸し資本を、全く考慮しないのかの端的な理由である。
(17)回路M-C-M、より高く売るために買うは、最も明白な正真正銘の商人資本のものである。ではあるが、この運動は、全て、流通局面において発現する。であるが、だからと云って、貨幣を資本に変換すること余剰価値を形成することを説明するのは、流通のみでは、不可能である。商人資本では、等価交換である限り、それは不可能事であることがはっきりするであろう。従って、その起因をなすには、商人として、売りと買いの両方の生産者達の間に、寄生するかの如く自身を押し込んで、二重に利き腕ぶりを発揮することだけしかない。この場面で、フランクリンが、「戦争は略奪だが、商業は大抵騙しなり。」と言うように。もし、商人の貨幣が資本に変質すると云うことを、生産者達が単純に騙されるということ以外で説明されるべきと云うならば、中間項として長い一連の段階が必要であろう。現在のところでは、単純な商品の流通が、我々の唯一つの仮説を形作っていのだが、その中間項それこそ、求めていることの全てである。
(18)商人資本に関して我々が述べたことは、金貸し資本について一層より多く当てはまる。商人資本、その両端、市場に投げ入れられた貨幣と市場から引き上げられた増加した貨幣は、少なくとも、買いと売りによって連結されている。別の言葉で云えば、流通の運動によって連結されている。金貸し資本の場合、M-C-M形式は、両端だけに、途中が抜けて、M-M、貨幣がより多くの貨幣に変換される。貨幣の性質とは相容れない形式である。そして、従って、商品の流通という観点からは、依然として説明しがたい。かって、アリストテレスは「以来、貨幣で計算される限りでの富は、二重の科学であり、一つは商業に属しており、もう一つは経済に属する。後者は、必要であり、褒めるべきものである。前者は、流通に基づいており、承認し難い条理を伴っている。(それは、自然の条理に基づいておらず、互いの騙しあいだからである。)従って、高利貸しは、最も正しく嫌われている。なぜならば、貨幣そのものは、彼の取得の源であって、そのために貨幣が発明されたあるべき目的のために使われていないからである。商品の交換のために始まったのであるが、利息が貨幣から生じ、より多くの貨幣となった。それ以来その名は([ギリシャ語で、トコス]利息そして、子孫)。生まれた者達は、それを生んだ父親に似ているからである。しかし、利息は、貨幣の貨幣である。それゆえ、新たな命の造出様式であり、もっとも自然とは異なるものである。
(19)我々の考察が進めば、我々は、商人資本や、利子付き資本のいずれも、派生的形式であることを見出すであろう。そして同時に、何故、これらの二つの形式が、歴史の進展において、資本の近代の標準的形式以前に現われたのか、はっきりするであろう。
(20)我々は、流通によっては、余剰価値が創られ得ないことを見てきた。そして、だから、その並びの中に、後ろに隠れている何かが起こっているに違いない。それは、流通自体には現われてはこない。しかし、商品所有者の相互の関係の全体であり、彼等が彼等の商品によって規定されるのであるから、流通以外のどこかで剰余価値が起因する可能性があるのだろうか。流通から離れても、商品所有者は彼自身の商品との関係だけである。価値に関する限り、その関係は、この事に限られる。商品は彼自身のある労働量を保持している。その量は、社会的標準によって明確に計量されている。この量は、商品の価値として表されている。そして、価値が貨幣勘定として計算に入れられたならば、この量はまた価格で表されている。それが10ポンドであると想定してみよう。しかし、彼の労働は商品の価値と価値を超える余剰との両方で表されてはいない。10が、また11であるような価格で表されてもいない。それ自体より大きい価値としてでもない。商品所有者は、彼の労働によって、価値を創ることができる。しかし自己拡大する価値を創ることはできない。彼は、新たな労働を付け加えることによって、価値を増加させることはできる。そしてそれゆえ、価値にさらに価値を手にすることはできる。例えば、皮をブーツにすることによって。同じ材料は今ではより価値がある、なぜなら、それは、より大きい量の労働を保持しているからである。従ってブーツは皮よりも大きな価値を持っている。だが、皮の価値はもとのままで残っている。それがそれ自体を拡大したのではなく、ブーツとなる間に剰余価値を付加したのでもない。従って、流通局面の外で商品生産者が、他の商品所有者に接触することなく、価値を拡大できたり、結果として貨幣または商品を資本に変換することは不可能なことである。
(21)従って、流通によって、資本を創り出すことは不可能なのである。そして、流通から離れて、資本を発生させることもまた同様、不可能なことである。その起因は、流通と、流通ではないものの両方にあるに違いない。
(22)従って、我々は、二重の結果を得た。
(23)貨幣の資本への変換は、商品の交換を規定する法律の基礎に基づいて説明されなければならない。そこでは、等価の交換が出発点である。(本文注 / 前述の考察から、読者は、この記述が間違いなく、資本の形成は、商品の価格と価値が同じであっても、可能でなければならないと見るであろう。なぜなら、その形成が、それともう一方とに差があるがゆえであるはずもないからである。もし、仮に、価格が実際に、価値から乖離していても、我々は、なにはともあれ、前者を後者へと引き下げる。他の言葉で云えば、その違いは、偶然的なこととして、それらの純粋な状態で見られる現象が進んでいると見なし、また我々の監視は、行き違う状況、その過程に関してはなんらの疑問ももたらさないが、に邪魔されることはないと見なして取り扱う。我々は、よく知っているが、この引き下げは、単なる科学的な過程というものでもない。連続する価格の変動、それらの上昇と下降は、互いに補正され、それら自体を平均的な価格へと引き下げる。それらの隠れた整流装置である。それが、かなりの時間を要するものの、商人または製造業者のあらゆるやりとりの導きの星となる。彼は、長い期間においては、商品が高くもなく、低くもなく売られる、まさにそれらの平均的価格で売られるということを知っている。従って、もし、彼が、この事を深く考えるとしたら、資本形成の問題について、次のように、云うかも知れない。価格が平均価格で規制される、すなわち、究極的に、商品の価値によって、と仮定するならば、いかにして資本の発現を説明できるのだろうか?私は、「究極的に」と言う、なぜなら、アダム・スミス、リカード、その他の信者が云うようには、平均価格は直接的に商品の価値と一致してはいないからである。)
我等が友、マネーバグス(複数の財布)、彼はまだ単なる資本家の胎児でしかないが、彼は、彼の商品をそれなりの価格で買わねばならない。それらをそれなりの価格で売らねばならない。そして、さらに、過程の最後には、彼が開始点で投入した価値以上のものを流通から引き出さなければならない。彼の成人資本家への発展が出現しなければならない。流通局面の内側とその外側の両方において。これが問題の条件である。ここがロードス島だ。ここで跳べ。 
 
第六章 労働力の買いと売り

 

(1)資本に変換されるよう意図された貨幣の場合に起こる価値の変化は、貨幣自体に起こることはできない。なぜなら、購入と支払いの手段の機能には、商品を買うまたは支払う、その価格を実現する以上のものはない。そして、固い現金として、変わることのない価値の固化物なのである。第二の流通行為、その商品の転売においても、それが起因することはほんの少しもない。品物が物体的形式から貨幣形式に戻るだけの変化以上のものはない。従って、変化は、商品が買われるという最初の行為M-Cで起こらなければならない。しかし、その価値にあるのではない。なぜなら、等価が交換されたのである。そして、商品はその価値全部を支払われたのである。従って、我々は、次のような結論を強いられている。変化は使用価値に起因している。そのような商品のものの。すなわち、その消費の中に。商品の消費から価値を引き出すことを可能とするために。我が友マネーバッグスは、商品を、市場で、流通局面で、見つけ出すという幸運があったに違いない。その使用価値は、価値の源という特異な性質を持っている。その実際の消費は、従って、それ自体で、労働の具体化であり、その結果、価値の創造である。貨幣所有者は、市場で、そのような特別の商品、労働の能力または労働力を見つけたのである。
(2)労働力または、労働の能力は、人間としての存在における、それらによって得られた精神的、肉体的な能力の総体と理解されるべきものである。彼が、いろいろな使用価値を生産するときはいつも、彼は、これらを用いる。
(3)しかし、我等の貨幣所有者が、商品として労働力が提供されていると見つけることができるかどうか、そのためには、様々な条件がまずは満たされねばならない。商品の交換自体は、それ自身の性質から生じる依存関係以外には、なにものも意味してはいない。この仮説に立てば、労働力は、市場に、商品として現われることができる。ただもし、そして、その所有者、彼の労働力そのものを所持する個人が、それを売りに供し、またはそれを商品として売る限りにおいて、である。彼が、この事ができるようにするためには、彼はその事に関して、彼の処分権を持っていなければならない、労働能力の所有者彼という人間として、なんら束縛を受けない者でなければならない。彼と貨幣の所有者は、市場で出会い、互いに、同等の権利の上に立って、すなわち、法の目において、ともに同等な、違いは唯一つ、一人は買い手であり、もう一人は売り手として相対する。この関係の存続には、労働力の所有者が、それを明確なる期間において、それを売ることが求められる。なぜなら、仮に、彼がそれを、尻もその付け根も売ったとなれば、全てを一度に、そうなれば、彼は彼自身を売ったことになるであろう、彼自身を自由なる人間から奴隷に変換している、商品の所有者から商品に変換していることになってしまう。彼は、常に、彼の労働力を彼の財産として、彼自身の商品として見守らねばならない。そしてこの様に、彼はただ、それを一時的に、明確なる時間期間の間、買い手の処分にまかせることができるのである。この意味において、ただ、それの所有者として、彼の権利の放棄を回避することができるということである。
(4)貨幣所有者が、市場で、商品として、労働力を見出すための必須の第二の条件は、労働者は、彼の労働が具体化された商品を売るという位置にある存在の代わりに、彼の生命そのものの中にのみ存在する労働力を商品として売ると申し出るよう強いられているに違いないということである。
(5)人が、労働力とは違う商品を売ることができるであろうためには、当然ながら、生産の手段、原料とか道具とか他を持っていなければならない。皮なくして、ブーツは作れない。また彼は生活手段も必要とする。誰も、未来の音楽家でさえも、未来の生産物で生きることはできない。または、未完成な使用価値で生きることはできない。そして、彼が世界の舞台に始めて登場した瞬間から、人は生き、消費せざるを得ない。生産活動の間も、それ以前もそうであった。全ての生産物が商品の形式をとる社会では、これらの商品は生産されたら、売られねばならない。ただかれらの売りの後でのみ、それらの生産者の要求を満足させることができる。彼等の生産に必要な時間の他に、彼等の売りのための時間も必要なのであるから、さらにその時間も付け加えられる。
(6)彼の貨幣を資本に変換するためには、従って、貨幣の所有者は、市場で自由な労働者に出会わねばならない。自由には二重の意味がある。自由な人間として、彼は、彼自身の商品である労働力の処分ができる。そしてもう一つ、彼は売るための他の商品を持たない。彼の労働力を実現させるために必要なものが全く足りていない。
(7)何故、この自由な労働者が、市場で、彼に対面するのかという問題については、貨幣所有者にとっては全く興味がない。彼は一般的な市場の一支所としてしか労働市場を見ていない。そして、現在のところはでは、少しも我々の興味を引くものではない。我々は、彼が実際的に行うことを、事実について理論的に密着して行く。しかしながら、一つのことは明白である。自然は、一方に貨幣や商品の所有者を作らず、他方に、自身の労動力だけを所有している人を作らない。この関係は、自然基盤を持たず、全ての歴史期間で一般的という社会基盤をも持たない。明らかに、過去の歴史的発展の結果であり、数多くの経済的革命の生産物であり、古い社会的生産諸形式の一連の全体の消滅の生産物なのである。
(8)すでに我々が議論してきた経済的範疇も、また同様、歴史の刻印を付けている。生産物が商品になるかどうかは、明確な歴史的条件が必要である。それは、生産者、彼自身の生存の直接的手段として生産されるべきものではない。我々はさらに進んで、如何なる状況において、全ての、またはその生産物の大部分が商品形式を取ったのか調べてみれば、我々は、このことが極めて特別な種類の生産としておこり得たことを発見することになろう。資本家の生産であると。とはいえ、このような調査は商品の分析にとっては、当面は関係外である。生産と商品流通は、多くの量の品々が、生産者の直接的要求のために生産され、商品とはならず、よって社会的生産もまだ先に長い道のりを残しており、交換価値が、縦横に支配的とはなっていない場合でも、起こり得た。生産物の商品としての出現には、労働の社会的な分業の発展と云ったものが前提される。使用価値の交換価値からの分離であり、最初の物々交換から、すでに完成された状態へのその分離が前提される。しかし、この発展の段階は、多くの社会形式で共通しており、他の視点から見れば、最も変化しつつある歴史的特徴を示している。他方、もし、我々が貨幣について考えると、その存在は、明確に、商品の交換の段階を意味する。貨幣の特別の機能、それは単に商品の等価としてとか、または流通の手段としてとか、または支払い手段としてとか、または退蔵、または世界貨幣とか、を行うが、その広がりや、またある一つの機能を、比較的優位に置くとか、または別の機能を優位とするとかによって、社会的生産の過程の非常に異なる段階を示すものとなる。とはいえ、我々は、経験上、商品流通が比較的未熟であっても、これらの全ての形式の生産には十分であることを知っている。資本については別である。その存立の歴史的な条件は、単なる貨幣・商品の流通から与えられるというものではない。それは、ただ、生産手段・生活手段の所有者が、市場で、彼の労働力を売っている自由なる労働者と出会うことでのみ始まる。そして、この一つの歴史的条件が、世界の歴史を構築する。従って資本は、現われた直ぐから、社会的生産過程に新たな時代を宣言する。
(9)我々は、今こそ、この特異な商品労働力についてより詳しく調べなければならない。他の全てのものと同様、価値を持っている。どのようにして、その価値が決められるのだろうか?
(10)労働力の価値は、あらゆる他の商品の場合のように、その生産に必要な労働時間、必然的に、この特殊な品物の再生産に必要な労働時間であるが、によって決められる。それが価値を有する限りにおいて、その中に含まれる明確な、社会的労働の平均的な量以上のものを表すものではない。労働力は、ただ、生きている個人の能力として、または力として存在する。その生産は、であるから、彼の存在を前提にしている。あらゆる個人にとって、労働力の生産は、彼自身の再生産または彼の維持である。彼の維持のために、彼は生存の手段のある一定の量を要求する。従って、労働力の生産のために必要な労働時間は、それらの生存の手段の生産に必要な時間数に集約される。別の言葉で云えば、労働力の価値は、労働者の維持のために必要な生存手段の価値である。しかしながら、労働力は、ただその行使によってのみ実際のものとなる。それは、それ自身を、働くという行動で示す。しかし、それゆえに、ある明確なる量の人間の筋肉、神経、頭脳他が消耗し、これらが、回復を要求する。この増大した支出は、より大きな収入を求める。労働力の所有者が、今日働けば、明日彼は、同じ過程を同じ条件で健康と力でもって再び繰り返すことができなければならない。彼の生存手段は、従って、労働する個人としての彼の通常の状態に彼を維持するに十分なものでなければならない。彼の通常の欲求は、食料とか、衣料とか、燃料や家、は、彼の国の気候その他の自然の条件によって変わってくる。他方、彼のいわゆる必要なる欲求の数や広がりは、それらを満足させる様式は、それら自身歴史的発展の産物であり、従って、その国の文化の発展状況の大きな展開いかんに依存している。自由な労働者階級が形成されたところの、生活の安楽さの度合いとか習慣の状態により特定的に依存している。従って、他の商品の場合とは対照的に、労働力の価値の決定には、歴史的かつ倫理的な要素が入り込む。それにも係わらず、一国の、ある時期では、労働者にとって必要な生存手段の平均的量が、事実上既知である。
(11)労働力の所有者は、死ぬべき運命にある。だから、もし、市場に絶えることなく彼の姿があるべきと云うならば、貨幣が資本に絶えることなく変換されるべきと云うならば、労働力の売り手は、彼自身を永続させねばならない。「あらゆる生きる個人が、彼自身を永続させる方法で、生殖によって。」労働力は、市場から、磨耗、破断、死によって、引き下ろされる。だから絶えることなく、新たな、少なくとも同量の、労働力で置き換えられなければならない。であるから、労働力の生産のために必要となる生存手段の総額には、労働者の代理品すなわち、彼の子供達への必要な手段も含まれなければならない。この特異なる商品の所有者という人種が、市場に現われるように、永続するようにするために。
(12)ある与えられた産業の一部門では、技巧と手際が求められるかも知れない、また労働力を特別の種類のものとするとか、人間の体を改造するために、特別の教育または訓練が必要となる。そして、このことが、その部分のために、より多くまたはより少ない量の商品の等価物のコストが生じる。この教育への支出分(通常の労働力の場合には極めて僅かなものである。)が、その生産に費消される合計価値に加えられる。
(13)労働力の価値は、その生存手段の明確な一定量の価値に収斂される。従って、それら手段の価値によって変化する。または、それらの生産に必要な労働の量によって変化する。
(14)生存手段のうちのある物は、食料とか燃料とかは、毎日消費される。だから、新たな供給が毎日配されねばならない。他の衣料とか、家具とかは、より長い期間長持ちするから、より長い期間を置いて交換されるよう要求する。ある品物は、毎日買われ、支払わねばならない。他は週で、また他は四半期で、以下それぞれがある。しかし、それらの支出の総額が年間でどのように散らばっていようと、それらは、平均収入から毎日次々になんとかしなければ済まない。労働力の生産のために毎日必要な商品の合計を=A、そして週で必要な商品の合計を=B、四半期で必要なものを=C、以下等々、とすれば、日平均商品=(365A+52B+4C+&c)/365となる。この日平均で必要となる商品全体の固まりの中に、6時間分の社会的労働が体現されていると考えてみよう。すると、1日あたりの労働力に、半日分の社会的労働が含まれている。別の言葉で云えば、毎日の労働力の生産のために、半日の労働が必要と云うことである。この量の労働が、日労働力の価値を、または毎日再生産される労働力の価値を形成する。もし、日平均社会的労働の半日分が3シリングであるとするなら、3シリングが、日労動力の価値に該当する価格である。従って、もし、それらの所有者が、それを日当り3リングで売りに供するなら、その売り値は、その価値と同等であり、我々の仮定によれば、我が友マネーバッグスは、彼の3シリングを資本に変えようと思っているので、この価値を支払う。
(15)労働力の価値の最低限度は、毎日の供給がないと、労働者の生命に係わるエネルギーが更新できない商品の価値で決められる。つまりは、物質的に絶対に欠かすことができない生存手段の価値によって決められる。もしも、労働力の価格が、この最低にまで下落すれば、それは、その価値以下に下がる。そのような状況になれば、ただ活動不能状態で、維持され、病的な症状も現われる。だが、あらゆる商品の価値は、それを通常の品質のものとするために必要な労働時間によって決められる。
(16)労働力の価値を決めるこの方法、極めて当たり前に規定される方法を、弱肉強食的な方法と云うならば、また、ロッシイが、「労働の能力を把握するのに、生産過程の間における労働者の生存手段を考えもしないということは、幽霊のそれを把握せよと云うようなものではないか。」と嘆いているが、このように共に嘆くならば、それは全く安っぽい感傷と云うしかない。我々が、労働、または、労働力と言うのは、同時に、労働者と彼の生存手段を、労働者と賃金のことを云っているのである。我々が労働の能力と云うからといって、労働を云ってはいない。我々が消化能力と云ったとしても、消化を云っていないのと同じことである。後者の過程は、良好な胃袋以上のなにかを云う必要があろう。我々が労働の能力と云う場合、我々は必要なる生存手段を無視してはいない。逆に、労働の価値を労働者の生存手段の価値で表している。もし、彼の労働の能力が売られずに残されたままなら、労働者は、それから何の利得も引き出せない。いやむしろ、この能力なるものが、自らの生産のために、一定量の生存手段が不可欠であるという、残酷とも云える自然が負わす必要性を感じることになろう。そして、その再生産のためにそうする他はないことを感じ続けることになろう。であるから、彼は、シスモンディの「労働のための能力とは、…それが売られずしては、何物でもない。」に、合意するであろう。
(17)商品としての労働力の、特異な性質の一つの内容は、買い手と売り手間で契約が成立したとしても、その使用価値は直接的に前者の手に渡っていないということである。その価値は、他のあらゆる商品と同様、流通に入る前に既に決められている。なぜなら、一定量の社会的労働が、それに支出されているからである。だが、その使用価値は、その後の、それらの力の行使で成り立つ。労働力の譲渡、また、買い手によるそれの実際的な私有、使用価値の雇用は、時間的に隔てられている。とはいえ、商品の使用価値の売りによって行われた形式的な譲渡の場合、買い手への現実的な引き渡しが同時に行われるものではない。後者の貨幣は通常、支払い手段として機能する。資本主義的生産様式をとるあらゆる国においては、契約によって決められた一定期間、例えば、毎週末までの作業前には、労働力に対して支払わないことが習慣になっている。従って、全ての場合で、労働力の使用価値が資本家に前貸しされている。労働者は、買い手がその価格を支払う前にそれの消費を許している。彼は、あらゆるところで、資本家に信用貸しを与えている。この債権は、単なるフィクションではない。資本家の破産ともなれば、賃金の未払い分としてはっきりと現われる。それだけではない、絶えずこのようなことが繰り返されている。それにもかかわらず、貨幣が購入手段としての役割を果たそうが、支払手段としての役割を果たそうが、この、商品の交換の性質を変えることはない。労働力の価格は契約で決められる。後に至るまで、それが実現されないにも係わらず。丁度、家を借りるのと同様だ。労働力は売られた、だが、後になって支払われるだけにも係わらず。だが、成り行きとして、この両者の関係を単純明快に理解するために、労働力の所有者が、その個々の売りにおいて、直接的に、支払うと明記された価格を受領すると暫定的に仮定するのが分かりやすいだろう。
(18)我々は、今、労働力と云う特異なる商品の購入者が、所有者に対して支払う価値が、どのように決定されるかが分かった。前者が交換によって得る使用価値が、それ自体をただの事実上の使用権であり、労働力の消費であることを明らかにしている。貨幣所有者は、この目的のために必要なあらゆる物を、原料を、市場で、その全価値を不足なく支払って買う。労働力の消費は、一つであり、かつ同時に、商品の生産であり、剰余価値の生産である。労働力の消費は、あらゆる他の商品の場合と同様に、市場または流通局面の範囲外で完結する。従って、この騒々しく、様々なことがそこで展開されており、誰もが見ている局面をしばらく離れて、マネーバッグス氏と労働力の所有者と一緒に、二人に従って、生産の行われる隠された住所に行ってみよう。彼等の境界入口には、「業務関係者以外立ち入り禁止」という文字面が我々を睨んでいる。ここで、我々は、どのように資本が生産するのか、どのように資本が生産されるのかを見るであろう。我々は、ついに、利益作出の秘密をこじ開けるであろう。
(19)我々が離れてきた局面、その範囲内では、労働力の売りと買いが行き来するが、そこは事実、人間の本質的権利のエデンの園である。そこにある規則は唯一つ、自由・平等・所有権・功利主義である。自由、なんとなれば、労働力という商品の売り手と買い手は、ただ彼等の自由な意志のみに縛られるだけ。彼等は、自由な行為者として契約し、合意に到達したことは、なにはともあれ、彼等の共通の意志の法的表現を与える形式となる。平等、なんとなれば、それぞれは、他と、商品の、単純なる所有者として互いの関係に入り、彼等は、等価と等価を交換する。所有権、なんとなれば、それぞれ、彼自身が所有するもののみを処分する。そして、功利主義、なんとなれば、それぞれ、彼等自身のみを見ている。ただ一つの力が、彼等を共にし、互いの関係に置く。それは利己的であり、それぞれの利得と個人的興味である。それぞれは彼自身のみを見ており、その他のことは彼自身にとって障害にならない。そして、なんとなれば、彼等がそうする、彼等がやることの全ては、予め確立された物の調和に従っており、あるいは、全てが整った神の摂理の下にあり、相互の利益のために共に働き、共通の幸福のためであり、全ての利益のためであるのだから。
(20)俗物自由貿易論者は、この単純な流通局面、または、商品の交換から、彼の見解やら理念やら、資本と賃金に基づく社会を判断する基準とやらを、持ち出して来るが、この局面から離れるに際して、我々は、なんとはなしに、我々の登場人物達の顔付きの変化を、感じることができるようだ。彼、ほんの少し前は、貨幣所有者だったが、今では、資本家として、先頭を大股で進んでいる。労働力の所有者は、彼の労働者として後について行く。ある人物は、偉そうな素振りで、気取った笑いをしながら、業務への心づもりをしつつ、他の者は、怯えながら、後ろを振り返りつつ、あたかも自分の皮を市場へ持っていく者のように、そしてなんの希望もなく、−ただ笞打たれるしかないと。 
 
第七章 労働過程と剰余価値生産の過程

 

第一節 労働過程または使用価値の生産
(1)資本家は、労働力を、使うために、買う。そして、労働力の使用とは、労働そのものである。労働力の購入者は、その、売り手を働かせるように設定することで、それを消費する。働く事によって、売り手は、実際に、それ以前は単に潜在的であったに過ぎないが、労働力を可動させることで、労働者となる。彼の労働を、商品として再出現させるためには、彼は、なにはともあれ、それを何か有用なもののために、何らかの欲求を満足させることができるあるものに、支出しなければならない。であるから、資本家は、労働者をして生産させようと課すものは、特有な使用価値、特別なる品物である。使用価値の、または物品の生産が、資本家の指図の下に行われようと、また彼のために行われようと、それらの生産の一般的性格を変えるものではない。これが事実である。従って、我々は、まず最初は、与えられた社会条件で表れる特定の形式から離れて、この労働過程を考えなければならない。
(2)労働は、なんにもまして、人間と自然が共に参加する過程である。そこで、人は、自発的に開始し、調整し、彼自身と自然の間に起こる素材の反作用を制御する。彼は彼自身をもって、自然に対抗する。それはあたかも自然そのものの力で対抗する如くである。手足を動かし、頭と手を使い、彼の体という自然の力で、彼自身の欲求に叶うような形へ、自然の生産物を適当な物へとするために。このように、外部世界に働きかけ、それを変えることによって、彼は、同時に、彼自身の自然をも変えている。彼は、彼の潜在能力を発展させ、彼の意図に、彼の行動を従わせる。我々は、ここでは、それらの原始的・本能的な、我々のうちに残っている単に動物としての労働形式については、取り上げないこととする。人間労働が原始当初の本能的状態に留まっていた状況と、人が彼の労働力を商品として市場に持ってくる状況との間には、相当の長い時間があり、その間を大きく隔てている。我々は、他でもなく人間的なものと云える形式の労働を前提とする。蜘蛛は、織り職の作業に似た作業を行う。または蜂は、彼女等の巣房の建設に関しては、多くの建築家に恥を塗る。だが、最も優秀なる蜂と、最悪の建築家とを区別するものは、建築家がそれを実際に建てる前に、想像の上で、構築を仕上げているということである。あらゆる労働過程の終端には、我々には、すでに、その開始時点で、労働者の想像の上に存在していた結果が得られるということである。彼は、彼が働くことによって、素材の形の変化に影響を与えることだけではなく、彼のやり方に法則を与え、彼の意志を従わせる、彼自身の目的を実現するのである。そして、この従わせると云うことは、単に一時的な行動ではないのである。体の各器官の活用に加えて、その過程が、全作業期間を通じて、作業者の意志が彼の目的に一致して、きちんとむらなく存在することを要求している。このことは、厳密な注意力を意味している。その遂行される様式の仕事の性質が魅力的でなければないほど、従って、彼の体や精神力に、多少の遊びが与えられることが少なければ少ないほど、より厳密な注意力が強いられる。
(3)労働過程の、基本的な要素は、1,人の個人的活動・それ自身が仕事をすること、2,その仕事の対象、3,その手段である。
(4)土地(経済的見地から云えば、水も含めての土地)は、未開墾の処女地の時から、人間に必要なもの、または生存の手段として手に入れることができる物を供給する。それらの全ての物は、彼等の環境との直接的な繋がりから、労働によって単純にもぎ取ってくる。それが、労働の対象であり、同時に、自然が分けて呉れたものである。例えば、魚、我々は捕まえて、かれらの要素である水から取りだしてくる。木材、我々は、処女林から切り出してくる。鉱石、我々は、それらの鉱脈から採掘する。もし、これとは違って、労働の対象を、云って見れば、以前の労働によって濾過されているものを取ってくるならば、我々は、それを原料という。すでに採掘されて、洗鉱されている鉱石は、それである。全ての原料は、労働の対象であるが、あらゆる労働対象が原料というものでもない。ただ、労働によって、なんらかの変化を受けた後でのみ、それになるのである。
(5)労働の手段は、物、または、物の複合体である。労働者は、彼の労働対象と彼自身の間に介在させ、彼の活動の導体の役割を与える。彼は、ある物の機械的、物理的、化学的性質を利用して、他のある物を、彼の目的に役立つものに作る。人自身の腕を労働の手段として用い、集めてくるといった、すでに作られている生存手段、例えば、果実、というようなことから離れて、考えてみよう。そうすれば、労働者が最初に自身で持つものは、労働の対象ではなく、その手段であろう。かくて、自然は彼の活動の一つの器官となる。彼の体の器官にそれを付け加える。聖書の教えにも係わらず、彼自身の身の丈を伸ばす。大地は、彼の最初の食料貯蔵庫であり、また同様、彼の道具小屋である。その大地は、彼に、例えば、石を供する。投げたり、砕いたり、押したり、切ったり、その他いろいろな道具となる。大地は労働の手段である、しかしながら、農業のような形で使用するには、他の様々な手段の一連のもの、及び、比較的高度に発達した労働が伴わねばならない。労働が多少でも、発展するやいなや、それは、特別に用意された手段を求める。であるから、我々は、人類最古の洞窟で、石の道具や武器を見つける。人間の歴史の初期において、飼い馴らした動物、すなわち、目的のために飼育された動物、労働の手段として使用できるようにした動物も、労働の手段として、特別に用意された石、木、骨、貝殻と並んで、主要な役割を果している。労働の手段の使用や制作は、ある種の動物の中には、萌芽として存在してはいるものの、人間の労働過程の特別な性格と言える。だから、フランクリンが、人間を道具を作る動物と定義するのである。過去の労働手段の遺物は、絶滅した社会の経済的形式を考察するためには非常に重要で、ちょうど、骨の化石が、絶滅種の動物を決定づけるのと、同様である。それは、何が作られたか、ではなくて、どのようにそれら等が作られたか、どんな道具によってかであり、我々をして、いかなる経済的時代であったのかを、他とはっきりと区分できるようにしてくれる。労働手段は、人間の労働が獲得した発展の度合いの基準を提供してくれるだけではなく、それらの労働が行われている社会的条件の指示器でもある。労働手段の中では、機械的な性質のもの、体に例えて云えば、生産の骨格と筋肉と呼べるものが、ある与えられた生産の時代のより大きな、決定的な性格を与えている。労働のための材料を保持するだけの、管、槽、籠、瓶、他は、一般的には、生産の管系と云え、骨や筋肉に付随する。だが、この管系が初めて重要な役割を演じ出したのが、化学工業である。
(6)広い意味で云うならば、それらの、直接的に労働をその対象に転換させるために使われる手段に加えて、労働過程の遂行に必要な、いろいろな方法で、活動の案内人役を務めるものも、手段として含めるのがいいだろう。これらのものは、直接にはこの過程に入らないが、それが無ければ、なにも始まらないか、僅かな部分しかできないであろう。もう一度、我々は大地を、そのような世界的手段として見出してみよう。なぜなら、それは労働者に明確な立場を用意し、彼の活動の雇用の場を整える。労働手段の中でも、それは、以前の労働の結果であり、また労働者階級に帰属するものである。我々は、作業者集会所、運河、道路、その他諸々を、見つけ出すであろう。
(7)労働過程において、従って、人間の活動は、労働手段の助けを借りて、働きかける材料に、当初から意図されたような、変化を及ぼす。過程は生産物の中に消え、後者は使用価値となる。自然の材料は、人間が欲求する形への変化に適合させられる。労働が自身と対象を一体化する。前者が具現化し、後者が変形される。労働が活動として表れ、次いで、生産物として、ある決まった品質が動きを止めて表れる。鍛冶屋が打てば、刃物が並ぶ。
(8)もし我々が、全過程を結果視点、つまり生産物から検討するならば、率直に云って、労働の対象と手段は、共に、生産の手段と言える。そして、労働そのものは、生産的労働と云える。
(9)生産物の形で、使用価値が労働過程から出てきたとしても、依然として、他の使用価値、以前の労働の生産物が生産手段としてそれに入り込んでいる。同じ使用価値が以前の過程の生産物と以後の生産手段の両方に存在する。従って、生産物は、単なる結果ではなく、また、労働の基本的な条件でもある。
(10)直接的に自然から、労働のための材料を供給される、いはば、そこから取りだしてくる産業、例えば、鉱業、狩猟、そして農業(農業に関しては、処女地の開墾に限定されるが)と云った産業を除いて、全ての産業部門においては、原料を取り扱う。それらの物は、既に労働によって濾過されており、既に労働の生産物である。農業での種子もそうである。動物や植物も、我々は自然の産物と考えるのに慣れているが、現在の形は、云うならば、単に去年の労働の産物であるばかりでなく、人間の管理の下、彼の労働によってなされた、多くの年代を経て続いてきた、漸進的な変化の結果である。いや、大部分の場合、たとえどんなに皮相的にしか見ない観察者にも、労働の手段が、過去の時代の労働の痕跡を見せてくれる。
(11)原料は、生産物の主要な実体をなすか、または、単に補助材料としてその構成関係に入るかのいずれかであろう。補助材料は、労働手段によって消費される。ボイラー焚口への石炭、車輪への潤滑油、荷役馬への干し草。また、それは、ある改質を与えるために、原料に混ぜられることもある。未漂白のリネンに塩素剤をとか、鉄に石炭をとか、羊毛に染色剤とか。また、同様に、作業の進行を支援することもある。作業室の暖房とか照明とかに用いられる材料の場合のように。主要なる実体と補助材料との明確な違いも、真に化学工業では、消滅する。なぜならば、生産物の実体においては、原料は、最初の構成で、再現されることもない。
(12)全ての物は、様々な性質を持っている。また、違った様々な使用に適用することができる。一つの同じ物が、従って、全く異なる過程への原料として役に立つ。例えば、トウモロコシは、製粉業者、澱粉製造業者、蒸留酒製造業者、畜産業者の原料である。それは、また、それ自身の生産のための原料として入る。種子の形で。石炭もまた、生産物であると同時に、生産手段として、石炭の採掘に加わる。
(13)さらに云えば、ある特別の生産物は、その物としての他、同時にその過程において、共に、労働の手段であり、かつ、原料として使用されうる。例を挙げるなら、牛の肥育である。ここでは、動物は原料であり、かつ、また、同時に、肥料生産の手段である。
(14)直接的な消費の準備ができているのに、さらなる生産物のための原料となるかもしれない生産物、葡萄は、ワインのための原料となる。他方、労働が我々に、ある形で与えるその生産物が、ただ、原料としてのみ使うことができるものもある。それは、綿、繊維、撚糸と云ったものである。このような原料は、それ自身生産物であるにも係わらず、様々な過程の全行程を通過しなければならないであろう。各過程で、役割を果たし、次々に確実に形を変え、原料となり、全行程の最後の過程を終わるまで進み、そしてそれは完全な生産物を供する。個々の消費のために、または、労働の手段としての使用のために。
(15)ここまで我々が見て来たように、使用価値が、原料として、労働の手段として、または生産物として見られるかどうかは、その労働過程の中でのそのものの機能に大きく依存している。それが、そこで占める状態に依存している。これは変化し、そのようにそれらの性格も変化する。
(16)従って、生産物が、生産の手段として新たな労働過程に入る場合はいつでも、その生産物としての性格をそのことによって失う。そして、単なる過程の要素となる。紡績工は、紡錘を紡ぐための単なる道具として取り扱い、亜麻を単に彼が紡ぐ材料として取り扱う。勿論、材料や紡錘なくして、紡ぐことは不可能である。従って、これらの生産物であるところのものの存在が、紡績作業を開始する際には当然のことである。しかし、過程自体においては、事実それらが以前の労働の生産物であるとしても、そのことは、全くどうでもいいことである。丁度、消化の過程においては、食パンが、農夫の、製粉業者の、パン製造業者の、以前の労働の生産物であろうがなかろうが、なんの重要性もないのと同様である。だが逆に、生産物としてそれらに問題がある場合は、一般的に、いかなる過程の生産手段であるのかから、それらの生産物の性格において、それら自体がはっきりする。切れないナイフまたは弱い糸は、我々に、Mr.Aなる刃物工、またはMr.Bなる紡績工と、はっきりと思い当たる。生産物が完成した時点で、労働によって、それが有用な品質を確保しているならば、労働の諸々はどうでもよく、その姿は明らかに消え失せている。
(17)労働の目的のために役立たない機械は、無駄である。さらに加えて、破壊的な自然力の影響の餌食に陥る。鉄は錆び、木材は朽ちる。我々によって、織られもせず、編まれもしない撚糸は、いずれも、くず綿糸である。生きた労働が、これらの物を掴みあげて、それらを死の眠りから揺り起こし、単なる可能性にすぎない使用価値から、実際の有効なるそれへと変化させねばならない。労働の炎を浴び、労働者の器官の一部として充用されて、云って見れば、過程のなかで、それらの機能の遂行のためによみがえらせる。真に消費され、しかも目的に合わせて消費され、新たな使用価値、新たな生産物の基本的な構成物として、個人的消費のための生活手段としていつでも使えるように、または、ある新たな労働過程のための生産の手段としてよみがえらせる。
(18)だから、もし、一方で、完成された生産物が、結果だけではなく、労働過程の必要な条件であり、他方で、それらがその過程に入るという前提であるならば、生きた労働とそれらの接触が、そのことによって、それらの使用価値としての性格が保持でき得る、そして、活用される唯一の手段となる。
(19)労働が、その材料要素を、その対象を、その手段を使いきる、それらを消費する。そう、それが消費過程である。このような生産的消費は、個人的消費から、次の点によって区別される。後者は、個人が生きるための生活手段として、生産物を使用する。前者は、ただ労働のために、生きている個人の労働力が活動できうるように、使用される。従って、個人的消費の生産物は、消費者である彼自身である。生産的消費の結果は、消費者とは明確に違う生産物である。
(20)だから、それらの手段や対象が、それら自身の生産物である限りでは、労働は、生産物を作り出すために、生産物を消費する。別の言葉で云えば、一式の生産物自体を、他の一式のための生産手段に用いることで消費する。だがしかし、人類の初めの頃に戻れば、労働過程への単なる参加者は、人と大地であった。後者は人間からは独立している。それゆえ、今でさえも、直接的に自然からもたらされる多くの生産手段をそのまま、その過程に用いているが、だからといって、自然の物と人間労働との組み合わせなどと云うものはなにも示さない。
(21)上記のように、その簡単な初期的な要素として分析した労働過程は、使用価値を、自然の物を人間の要求に充当させる物を、生産するための人間の行動である。人間と自然との間で、物のやりとりをもたらすための必要条件なのである。自然が課した、人間としての存在に係る、未来永劫変わらぬ条件なのである。従って、であるから、労働過程は、人間存在のあらゆる社会的局面からは独立しており、または、むしろ、あらゆる各局面において共通しているのである。従って、かっては、我々の労働者を、他の労働者との関係において表す必要性は無かった。人と彼の労働が一方に、自然とその物質が他方に、それで充分であった。小麦粥の味は、誰がそのからす麦を育てたのかを語りはしないし、単純な粥の作り方過程が、いかなる社会的条件のもとで作られたからす麦なのかをも語りはしない。奴隷主の野蛮な笞でか、または、資本家の例の目つきでかは、語られもしない。また、古代ローマのキンキナトウス将軍が、彼の小さな農園の固い粘土質の土地で栽培させたものなのか、石で野獣を殺戮する未開の地で取れたものなのかは、分からない。偉大なる、論理的な明敏さという事実によって、トレンズ大佐は、未開人の石に、資本の起源を発見したのである。彼[未開人]が野獣を追いかけて投げた、最初の石に、彼の届かぬ位置にある果実をたたき落とした、最初の棒に、我々は、目的のために、ある物を用い、別の物を獲得する補助としたのを見る。そして、そのように、資本の起源を発見したのである。
(22)それでは、ここで、我等の資本家気取りの下に戻ることにしよう。我々は、彼が、自由市場で、労働過程に必要な要素全てを、その対象的要素である、生産手段を、その主体的要素である、労働力と同様に、購入した直後に、彼から離れたのであった。彼は、専門家の鋭い目で、生産手段を、また、彼の特別な商売のためにもっとも適用した労働力の種類を、選んだのである。その商売は、紡績業、深靴製造業、または他の様々な業種である。それから、彼は、それらの商品の消費に取りかかる。彼が買った労働力を、労働者とし、労働力を体現させ、彼の労働によって、生産手段を消費する。労働過程の一般的性格は、労働者が彼自身のためにに代わって、資本家のために働くという事実によっても、何ら変わることはない。そればかりではなく、深靴製造業または紡績業で用いられる特別の方法や作業は、資本家が介入したとしても、直ちに変更されるものではない。資本家は、彼が、市場で見つけたそのままの労働力を用いることから始めねばならない。当然ながら、資本家の出現直前の時代に見られた様な種類の労働で満足せねばならない。労働の資本への従属によって、生産方法に変化が起こったのは、まだ、もっと後の時代のことである。従って、もう少し後の章で、取り扱うことにしなければならないであろう。
(23)労働過程は、資本家が、労働力を消費する過程となるに及んで、二つの特有な事象を現わす。その一つは、労働者が、彼の労働が所属する資本家の差配の下で働くので、資本家が仕事が適切なマナーにおいてなされるように、細かく注意するので、そして、生産手段が一定の理解を持って使われるため、原料の不必要な浪費がなく、用具の消耗も、仕事上の必要な範囲を越えない。
(24)二番目は、その生産物が、資本家の所有物であって、その直接の生産者たる労働者のそれではないと云うことである。資本家が日労働力ために、その価値を支払ったと言うことを思い出してみよう。だから、その労働力を一日使用する権利は彼に属している。他の商品を使用する権利と同じである。彼が、一日賃借りした馬のように。その使用は、商品の買い手に属している。そして、労働力の売り手は、労働を与えることによって、彼が売った使用価値を手離す以上に、実際のところ、何も行うことはない。彼が、作業場に入るやいなや、彼の労働力の使用価値は、であるから、繰り返しになるが、その使用は、労働の使用は、資本家に所属する。資本家は、労働力の買いによって、労働を、生きた酵母として、死んだ生産物の構成要素に混ぜ込む。彼の視点からは、労働過程は、買った商品の消費以上のなにものでもない。その労働力なのだが、生産手段と共に供給される労働力以外では、その消費はなんら効果を現わすことができないという労働力なのである。その労働過程は、資本家が買った物と物との間の、彼の所有物となった物と物との間の一過程なのである。従って、この過程の生産物は、彼に属す。ちょうど、彼のワイン貯蔵室で、発酵過程を経たワインがそうであるように。
本文注 / 生産物は、資本に変換される以前に、私有される。資本に変換されても、そのような私有をより安全にするものではない。(シェイブュリエ「富、貧からなる」)プロレタリアは、彼の労働を一定量の生活必需品のために売ることによって、生産物の分け前の要求を全て放棄する。生産物の私有様式は、であるからといっても、以前と同じままである。我々が言及したことによる取引によっても、そこはなにも変わらない。生産物は、原料と生活必需品を供給した資本家に、独占的に所属する。そして、これが私有の法律の厳格な帰結である。が、この私有という法の根本的原理は、全く逆で、すなわち、あらゆる労働者が、彼が生産した物の所有者であるという、排他的権利を持っている。
労働者が、彼の労働により賃金を受け取ったから...だから、資本家は、資本(彼は、生産の手段の意味で使っている。)のみではなく、また、労働の所有者でもある。もし、賃金として支払われたところのものが、普通に、資本という言葉に含まれるならば、資本から分けて労働を語ることは不合理である。このように、資本なる言葉が用いられる場合、労働と資本は共に含まれる。(ジェームズ・ミル「政治経済学の要素」) 
第二節 剰余価値の生産

 

(1)資本家が私有した生産物は、使用価値である。例えば、紡いだ糸であり、または、深靴である。しかし、深靴が、ある意味で、全社会の進歩の基礎であり、また、我等の資本家が断固たる進歩的人物であるとしても、彼は多くの深靴を、今のところ、それら深靴達のために製作するものではない。使用価値は、商品の生産において、"それ自身が愛する"物では何の意味もない。使用価値は、ただ、資本家によって、生産される。なぜならば、また、その限りにおいてのみ、生産される、それらが、交換価値の物的土台、その保管物だからである。我等の資本家は、二つの事を見据えている。その一つは、彼は、交換される使用価値の生産を欲している、はっきり云えば、商品として必ず売れる品物を、ということである。第二には、自由市場で大枚をはたいて買った、生産手段と労働力、生産に使用される商品の価値総計よりも大きくなるであろう価値を持つ商品の生産を欲している、と言うことである。彼の目的は、単に使用価値を生産するだけではなく、商品をなのである。使用価値のみではなく、価値をなのである。価値のみではなく、同時に剰余価値をなのである。
(2)我々は、今、商品の生産を、取り上げて見ており、そして、ここに至るまで、一つの過程局面のみを検討してきた、ということをしっかりと頭に入れておいて貰わねばならない。商品といえば、使用価値と同時に、価値である、その様に、それらの生産過程は、労働過程でなければならないし、同時に価値の創造過程でもなければならぬ、ということになった。
(3)それでは、ここから、価値の創造としての生産について、調べて行くことにしよう。
(4)我々は、それぞれの商品の価値が、その生産のために、与えられた社会的な条件の下、必要な作業時間、それに費やされた労働の量によって決められ、それが物体化されているのを知っている。この法則は、資本家のために遂行される労働過程の結果として、我等の資本家にもたらされる生産物の場合にも、よく適用され得る。これなる生産物、10ポンドの撚糸を、仮に取り上げてみよう。我々の最初の一歩は、その中に実体化された労働の量を計算してみることである。
(5)撚糸を紡ぐためには、原料が必要とされる、この場合は、10ポンドの綿と仮定する。我々は、現時点では、この綿の価値を考察する必要性はない。なぜなら、資本家は、例えば、10シリングというその価値の満額で買ったと、我々は仮定しよう。その価格には、社会的な平均的労働という意味で、綿の生産のために必要な労働がすでに表されている。さらに、我々は、紡錘の損耗を、それが当面の我々の目的なのであるが、用いられる全ての労働手段を代表するものとして、2シリングの価値になると仮定しよう。それから、仮に、24時間の労働、または、2作業日が、12シリングで表される金の量の生産に必要とされるものとして、そしてすでに、我々は2労働日が撚糸に一体化されているのを知っているのだから、ここから計算を始めてみよう。
(6)我々は、綿が、相当数の紡錘なる物が消費されたことで、新たな姿になっているという状況に、迷わされてはならない。一般的価値法則によって、もし、40ポンドの撚糸の価値=40ポンドの綿の価値+紡錘等の価値、すなわち、もし、この等式の両側の商品の生産に、同じ作業時間が必要とされるならば、10ポンドの撚糸は、10ポンドの綿と1/4の紡錘等を合わせたものと等価になる。この場合、我々は、同じ作業時間が、一方の10ポンドの撚糸に、他方の10ポンドの綿と紡錘等の一部とを一緒にしたものに、物体化されていると考えている。従って、価値が、綿・紡錘に表れようと、または撚糸に表れようと、その価値の量においては、なんらの違いはない。紡錘と綿は、静かに並んでいる状態とは打って変わって、過程に共に加わり、それらの形を変えられる、そして、撚糸にされる。しかし、それらの価値は、このことによっても、それらが、単純に、それらの等価である撚糸と交換された場合以上の影響を受けることはない。
(7)撚糸の原料となる、綿の生産のために必要な労働は、撚糸の生産に必要な労働の一部である。だから、撚糸の中に含まれている。紡錘に体現化されている労働も同様に含まれており、その損耗なくしては、綿は紡がれない。
(8)従って、撚糸の価値を決める場合の、または、その生産に必要とされる労働時間を決める場合の、そこで行われる全ての特別の過程は、様々な回数、また異なる場所で行われるが、いずれも必要なものである。最初に、綿と紡錘の一部の損耗分を生産し、次いで、綿と紡錘が撚糸を紡ぐ。これらは、いっしょになって、あたかも、異なるが、一連の、一つでかつ同じ過程のように見なされるかも知れない。撚糸に含まれるこれら全ての労働は、過去の労働である。そして、構成された要素の生産のために必要な作業は、現時点でいえば、最後の紡ぎ作業からはかなり以前の時点でなされたものであるが、そのことは全く重要なことではないのである。もし、労働のある一定量、30日分が、家を建てるに必須であるとしょう、それに込められた全労働量は、最後の日の作業が、最初のそれから、29日遅れてなされたのが事実だとしても、少しも変えられることはない。そのように、原料や労働手段に含まれた労働は、ちょうど、紡ぎの過程の初期の段階に、実際の紡ぎの労働が始まる前に、投入されたものとして取り扱われ得る。
(9)生産手段の価値、すなわち、綿と紡錘であるが、これらの価値は12シリングという価格で表されものであるが、従って、撚糸の価値の構成部分である。別の言葉で云えば、その生産物の価値の一部である。
(10)それにもかかわらず、二つの条件が満たされねばならない。第一には、綿と紡錘は、使用価値の生産に一体化していなければならない、ここで云う場合は、それらが撚糸になっていなければならない。価値は、生み出された特定の使用価値とは独立したものであるが、ある種の使用価値として体現されなければならない。第二には、生産の労働に用いられた時間は、その場合に与えられた社会的条件下で、実際に必要とされる時間を越えてはならないと言うことである。従って、もし、1ポンドの撚糸を紡ぐに、1ポンド以上の綿を要しないのであれば、1ポンドの撚糸の生産で消費される綿の重量がこの重量を越えないように注意されねばならない。紡錘についても同様に注視する必要がある。資本家に趣味があり、鉄に替えて、黄金の紡錘を使ったとしても、依然として、ただ、労働として、撚糸の価値に計算されるものは、鉄の紡錘の生産に必要と思われる労働に留まる。なぜならば、与えられた社会的条件下では、それ以上は必要がないからである。
(11)今、我々は、撚糸の価値のどの程度の部分を、綿と紡錘が占めているか分かった。それは、12シリングに達しており、または、2日分の仕事の価値である。我々が考える次の点は、撚糸の価値のどの程度の部分が、紡ぐという労働によって、綿に加えられたかということである。
(12)今、我々は、労働過程の間にとらえた見方とは、非常に違った観点から、この労働を考えて見なければならない。そこにおいては、我々は、一つの、綿が撚糸に変わるという特定の種類の人間活動としてそれを見ていた。そこにおいては、他の状況が同じに保持されるならば、労働が仕事に合致していればいる程、良い撚糸が得られた。であるから、紡績労働は、他の種類の生産的労働とは特別に異なるものとして見られた。一つはその特別の目的、すなわち、紡ぐことだけに。もう一つは、その作業の特別の性格に、生産手段としての特別な性質とその生産物の特別な使用価値と云うことに。紡績作業のためには、綿と紡錘は必要である。しかし、旋条砲を作るためには、何の役にも立たない。ここでは、それとは逆に、それが、単に価値創造である限りで、紡績労働を見るのであるから、彼の労働は、砲を作り出す労働との違いを考慮しない。または、(ここで、我々の関心により近いもので云えば),生産手段に一体化されている綿栽培や紡錘製作の労働との違いも考慮しない。この同一性なる理由によって、綿栽培、紡錘製作そして紡績は、お互いに量的な違いはあるが、その構成要素の一部分を形成することができる。それを一つにまとめるものは、すなわち、撚糸の価値である。ここにおいては、我々は、質については何も持っていない。自然や特別の労働の性格についても同様、何も持っていない。ただ単に、その量だけしか持っていない。そして、このことは、単純に計算されることを要求している。我々は、紡績は単純なもので、未熟練労働で事足り、与えられた社会の状態の平均的労働で充分であるという仮説へと進む。以後、我々は、逆の仮説を置いたとしても、そこに、何ら差が生じないと言うことを見るであろう。
(13)労働者が作業する間、労働は絶え間なく、変化をもたらす。動いているものから、動きのないある物になる。労働者が作業していれば、それが生産された物となる。1時間の紡績労働の後には、その活動が、ある一定量の撚糸として表される。他の言葉で云えば、ある一定量の労働が、すなわち、1時間のそれが、綿に体現される。我々が労働と言っているものは、紡績工として支出される彼の生命力のことであって、であるから、紡績労働のことではない。なぜならば、特殊な紡績作業のことをみているのだから。ただ一般的な、労働力の支出のことであって、紡績工としての明確な作業に関することではないからである。
(14)我々が今検討している過程は、極めて重要なところである。綿を撚糸に変換するための仕事に費やされる時間は、与えられた社会的条件で必要とされる時間を越えるものではない。もし、通常の、すなわち、生産の平均的社会的条件において、aポンドの綿を、1時間の労働によって、bポンドの撚糸にすることが適当であるならば、12aポンドの綿を12bポンドの撚糸に仕上げることができないのであれば、1日の労働を、12時間の労働とは算定しない。なぜなら、価値の創造においては、社会的な必要時間のみを算定するのだから。
(15)労働ばかりではなく、原料や生産物も、今や、全く新たな光の中から表れる。かって我々が、純粋で単純な労働過程で見たそれらとは全く違っている。ここでは、原料は、労働のある一定量の単なる吸収材役を務める。この吸収によって、事実、撚糸に変えられる。なぜならば、それは紡がれ、なぜならば、労働力が紡績の形式において、それに加えられるからである。しかし、生産物撚糸は、ここでは、綿に吸収された労働の分量以上のなにものでもない。もし、1時間に、12/3ポンドの綿が紡がれて、12/3ポンドの撚糸にできるなら、10ポンドの撚糸は、6時間の労働の吸収を示す。一定量の生産物は、これらの量は、今や、他でもなく、一定量の労働で表される。明確に結晶化された労働時間の大きさで、表される。それらは、それだけ多くの時間の、それだけ多くの日数の社会的労働の、体現化されたもの以外のなにものでもない。
(16)我々は、ここでは、労働が特別の紡績という仕事であると云う事実については、これ以上関与しない。その対象が綿であって、また、その生産物が撚糸であることも、だから、対象それ自体がすでに生産物であって、だからこそ原料であることにも関与しない。もし、紡績工が、紡績に代わって、石炭鉱山で働き、彼の労働対象が、石炭が、自然からもたらされたとしても、それにもかかわらず、一定量の掘削された石炭の量例えば、112ポンド重量のものは、一定量の吸収された労働を表すであろう。
(17)我々は、労働力の売りの場面で、その1日分の労働力を3シリングと仮定した。そして6時間の労働がその総額分に表されており、そしてその結果として、この量の労働が、労働者によって日々求められる、生活に必要となるものの生産には必須なのである。もし、ここで、我々の紡績工が、1時間の作業で、12/3ポンドの綿を12/3ポンドの撚糸に変換することができるならば、6時間の労働で、彼は、10ポンドの綿を、10ポンドの撚糸へ変換することになろう。従って、紡績工程において、綿は6時間の労働を吸収する。同じ量の労働が、また、3シリングの黄金片の価値に体現化される。その結果として、単なる紡績の労働によって、綿に3シリングの価値が追加される。
(18)それではここで、生産物10ポンドの撚糸の全価値について考えてみよう。2日半の労働が、その中に体現されている。そのうちの2日分は、綿と紡錘の損耗に、そして半日分は、紡績過程の間に吸収された。この2日半の労働は、また、15シリングの黄金片によって表される。であるから、15シリングが、10ポンドの撚糸の適切なる価格である、または、1ポンドの撚糸の価格が、18ペンスである。
(19)我々の資本家は、びっくりして、凝視したまま固まっている。生産物の価値は、前貸しした資本の価値と、正確に、等価のままである。前貸しした価値は少しも大きくなっていない。剰余価値は創造されなかった。その結果、貨幣は、資本に変換されることがなかった。撚糸の価格は、15シリング、そして、15シリングは自由市場で、生産物の構成要素のために支出された。同じものの量で云えば、労働過程の要素のために、綿のために10シリングが支払われ、2シリングが紡錘の損耗のために、そして、3シリングが、労働力のために支払われた。思い描いていた膨らんだはずの価値はどこにもない。なぜなら、そこには、単に、以前に存在していた、綿と紡錘と、そして労働力の価値の総計しかないのだから。存在する価値の単純な加算値があるだけなのだから。生じるはずの剰余価値がない。これらの切り離された価値は、今、全てが、一つのものに集中された。だが、それらは、そのまま依然として、15シリングなる総計であった。それは、3つの部分に分断される前、商品の購入時に、手に、あったものである。
(20)この結果には、実際問題として、非常に奇妙な点がある分けではない。1ポンドの撚糸の価値は、18ペンスである。もし我々の資本家が、市場で、10ポンドの撚糸を買うとすれば、彼はそれらに15シリングを支払わねばならない。人が、建築済の家を買おうと、建ててもらって買おうと、取得の様式によって、家に注ぎ込む貨幣の大きさが増加しないのは自明のことである。
(21)我々の資本家は、自分の部屋に戻って、例の俗悪なる経済用語で吠える「違うだろ。俺は、もっと沢山の銭にするそのはずのために、前貸ししたんだぞ。」地獄への道は、都合よき意図で舗装されている。つまり、彼は、簡単に貨幣を作ることを意図したのである。何一つ作ることもなしに。
本文注 / こんな風に、1844-47年、彼は、彼の資本の一部を、鉄道投機に賭けるため、生産的雇用から引き上げた。また、同様、アメリカ市民戦争の間じゅう、彼は、リバプールの綿取引所のギャンブルに注ぎ込むために、彼の工場を閉業し、労働者を街頭に放り出した。
彼は、あらゆる種類の罵詈雑言をわめきちらす。もう二度とこんなだまし討ちには引っかからないぞ。以後、彼は、それらを、彼自身で製造する代わりに、その商品を市場で買うだろう。がしかし、もし彼の資本家兄弟達が、同じことをするならば、彼はどこの市場で商品を見つけることができるというのだろう?そして、彼は、彼の貨幣を食べることはできない。彼は説得を試みる。「私の禁欲も考えて貰いたい。私は、15シリングを湯水のごとく使い果たしていたかもしれなかった。それを、その代わりに、生産的に消費し、それでもって、撚糸を作ったのだ。」おっしゃることはごもっともです。だから、良心を痛める代わりとして、報酬の常道として、彼は、良質の撚糸を持つ身なのである。では、貨幣退蔵者の役を演じるのか、そのつまらぬ道へ逆戻りするはずはないだろう。我々は、前に、そのような禁欲主義者が行き着いた先を見ている。王といえども、脇に並ぶ物がなければ、彼は彼の権力を失う。本人の禁欲の効用がいかなるものであれ、それに報いる特別のものはなにもない。なぜなら、生産物の価値は、生産過程に投じられた商品の価値の単なる総計でしかないのだから。ゆえに、彼には、美徳がその報酬であること見出してもらい自らを慰めて戴くことにしよう。だが、彼に、それはない。彼は執ようになる。彼は云う。「撚糸は、私にとって、何の役にも立たない。私はそれを売るために生産したのだ。」ならばお売りになればよい。いや、もっといい方法もある。以後、彼個人の欲求を満足させる物のみを作ればよい。過剰生産と言う流行病に対する間違いなき治療法として、彼の医師マカロックがすでに処方している。彼は、さらに言い張る。「労働者が」と彼は疑問を挟む。「自分の手足を動かしたからって、作る商品が何んだと云うんだ?できはしないだろ。私が材料を彼に供給しなければ、それがあればこそ、それがそこにあるからこそ、体現できたんじゃないのか?大体、社会の大半は、そんな無能なろくでなしばかりしかいないのに、私は、私の生産手段を、私の綿と私の紡錘をもって、計り知れない貢献を社会に提供しなかったとでも云うんか?社会ばかりじゃない、労働者にとってもだ。彼等には、はっきり云うが、生活に必要なものを支給したはずだろ、そうじゃないとでも云うんか?なのに、この貢献に対して、私には、なんの見返りも許されないとはどういうわけじゃ?」よくまあ、云いますなあ。労働者が、彼の綿と紡錘を撚糸に変えるという等価の労働提供を彼に与えなかったでしたっけ?これ以上、この労働提供については、なんの問題もないはず。商品として、または労働として、その有用なる使用価値の効果を越える労働提供はあり得ない。とはいえ、ここでは、我々は交換価値を論じている。資本家は、労働者に3シリングの価値を支払った。そして、労働者は、彼の綿に、等価である3シリングの価値を付け加えることで、彼に、価値には価値で、返したのであった。我々の友人は、この時まで、財布の中身を誇っていたのだが、急に、彼自身の作業者と同じような、謙虚な態度を装って、抗議する。「私自身が、働かなかったと言うのですか?私が、労働の総監督の行為をしていなかった、紡績工を監視していなかったと云うのですか?この労働が、同じように、価値を創造しないのですか?」彼の監視人や、支配人は、彼等の笑いをかみ殺す。しばらくすると、陽気に一笑い、彼は、例の態度に逆戻り。やっぱり、例のごとく、経済学者の教義の始終を、我々に、歌ってみせたのであった。実際問題として、彼が云うように、その歌にびた一文使ってはいないであろう。彼は、この事や、そのような全ての事、口実作りとか、騙しの手品遊びは、政治経済学の教授たちに任せている。教授等は、そのために支払いを受けており、雇われている。彼自身は、実際的な人間である。だから、商売外で何を云うかは、いつも考えている分けではない。だが、彼の商売の内では別で、彼が見ているものが何かはよく知っている。
(22)我々は、この問題について、さらに詳しく見て行くことにしょう。1日の労働力の価値は、3シリングの大きさである。なぜならば、我々の仮説によれば、半日分の労働が、労働力のその量に体現されているからである。すなわち、何故と云うに、労働力の生産に要求される1日当りの生計手段は、半日分の労働に値するからである。しかし、労働力に体現された過去の労働と、行動に呼び出すことができる生きた労働とは、それを維持するための日々の費用と、作業に支出する日々のそれとは、この二つは、全く違うものなのである。前者は、労働力の交換価値を決めている。後者は、その使用価値である。労働者を24時間生かして置くために、半日労働が必要であるという事実は、彼が終日働くことを、どんなことによっても、妨げはしない。従って、労働力の価値と、労働過程において労働力が作り出す価値とは、この二つは全く違う大きさなのである。だから、この二つの価値の違いこそ、労働力を買っていた時に、資本家が注目していた所なのである。労働力が保持する有用な質、それが撚糸や深靴を作るのであるが、それらは、彼にとっては、必要条件以外のなにものでもない。価値を作り出すために、労働は、有用な方法で支出されねばならない。実際、彼に欲求を与えたものは、その特別な使用価値、その商品が持つ、その存在、価値の源泉であるばかりでなく、それ自身が持つよりもより大きな価値を持つと云うことである。これが特別なる奉仕、資本家が労働力から得ようと見込んだものなのである。この取引に関しては、彼は、商品交換の「永遠の法則」に従って行動する。労働力の売り手は、他のいずれの商品の売り手と同様、交換価値を実現するために、使用価値を手離す。彼は、他方を与えることなくしては、これを得ることはできない。労働力の使用価値は、別の言葉で云えば、労働は、油の使用価値が、売った後は、それを売った商人に属さぬように、労働力の売り手には少しも属していない。
貨幣所有者は、1日の労働力の価値を支払った。であるから、彼の物は、1日間のそれの使用となる。1日間の労働は彼に属する。これなる事情において、一方の、労働力の日々の生計維持にかかる費用は、ただの半日労働分でしかない。が他方、全く同じ労働力は全日中働くことができる。この一連の結果として、1日間それを使用する価値が創り出す価値は、その使用のために支払ったものの2倍となる。この事情は、疑いもなく、買い手の幸運の一部であって、決して、売り手に対する権利侵害ではない。
(23)我々の資本家は、この事情を見越しており、だから、かれの高笑いの理由は、このことにあった。従って、労働者は、作業所で、仕事に必要な生産手段の中で、6時間ではなく、12時間を発見する。ちょうど6時間の過程において、10ポンドの綿が、6時間の労働を吸収した。そして、10ポンドの撚糸となった。それが、今、20ポンドの綿が、12時間の労働を吸収して、20ポンドの撚糸になろうとしている。それでは、ここで、この延長された過程の生産物について調べてみよう。ここに、今、20ポンドの撚糸、5日分の労働が、物体化している。その内の4日分は、綿と、紡錘の失われた鉄に要する分であり、その残りの1日は紡績過程の中で綿に吸収されている。黄金で表せば、5日の労働は30シリングである。従って、これは20ポンドの撚糸の価格であり、以前、1ポンドに18ペンスの価格を与えていたものである。しかし、過程に入れられた商品の価値の総計は、27シリングである。撚糸の価値は、30シリングである。従って、生産物の価値は、その生産に前貸しされた価値よりも、1/9大きくなった。27シリングが30シリングへと変換された。3シリングの剰余価値が創造された。策略はついに成功した。貨幣は、資本に変換されたのである。
(24)問題のあらゆる条件は、満足されている。同時に、商品交換を規制する法則にも、どこから見ても侵害された形跡はない。等価は等価と交換された。なぜなら、資本家は買い手として、それぞれの商品、綿、紡錘、そして労働力に、それぞれの満額を支払った。労働力の消費で、それはまた、商品生産の過程であるが、その結果、20ポンドの撚糸、30シリングの価値を得た。資本家は、以前は買い手であったが、今度は、商品の売り手として市場に戻ってきた。彼は、彼の撚糸を、1ポンド当り18ペンスで売る。その正確なる価値で。とはいえ、そのことにより、彼は、最初に流通に投入したものよりも3シリング多いものをそこから引き出した。この変態は、この貨幣の資本への変換は、流通局面内と、またその外の、両方共で起こったことである。流通内と云うのは、なぜかと云えば、市場で労働力を買うことによって条件づけられたからであり、流通外と云うのは、なぜかと云えば、余剰価値の生産への跳躍石台が、流通外にあって、それを成したからである。その過程は、その生産局面に完全に閉じ込められている。かくして、「全てが最良であることがありうる世界では、全てのものは、最良の状態にある。」(フランス語イタリックボルテール楽観主義哲学者の言葉1759)
(25)貨幣を商品に変えれば、商品は、新たな生産物の物的要素として仕える。また、労働過程の要素として仕える。生きている労働を死んだ物質に一体化することによって、資本家は、同時に、価値を、すなわち、過去の、物体化された、そして死んだ労働を、資本に変換する。価値を伴った大きな価値に変換する。生きている怪物、価値、それは果実のように甘く、そして、倍加する。
(26)もし、今、我々が、価値の生産過程と余剰価値を創造する生産過程の二つを較べて見るならば、後者は、他でもなく、ある明確な点を越えて続けられた前者である。もし、一方の過程がその点を越えて運用されなければ、そこでは、労働力に資本家が支払った価値は、正確に等価に置き換えられる。それが価値を生産する単純な過程である。もし、これとは違って、ある点を越えて続けられるならば、それが、剰余価値を創造する過程となる。
(27)もし我々がさらに進めて、価値の生産過程を、純粋で単純な労働過程と較べて見るならば、我々は、後者が、有用な労働から成り立っており、その作業が使用価値を生産するのを発見する。ここでは、我々は、ある特定な品物を生産している労働をじっと見ることになる。我々は、その品物の質の面からのみ見る。それが最終的な目的に合致しているかどうかと。しかし、価値創造過程としてこれを見るならば、その同じ労働過程がそれ自体を単に量的側面からだけをもって示すことなる。ここでは、その作業をする上で労働者が要した時間のみが問題であり、その作業時間において、労働力が有効に支出されたかどうかが問題となる。ここでは、その過程に投入された商品はもはや、ある明確かつ有用な物の生産に込められた労働力の必要な付加物と見なされることはない。それらは単に、それなりに吸収された労働の、またはそれなりに物質化した労働の保管物と見なされる。その労働が、既に生産手段として物体化していようと、労働力の行動によってなされるこの過程において初めて一体化されようともである。そして、そのどれであれ、ただ時間の長さによって数えられる。それは、状況に応じて、多くの時間または日数で数えられる。
(28)さらに加えれば、品物の生産に費やされる時間は、与えられた社会的条件下で必要な限りにおいてのみ、計量される。この条件の内容は、様々である。まず第一は、労働が通常の条件で遂行されるべきであるということが必要になる。もし、自動ミュール紡績機が、紡績に用いられる一般的な用具であるならば、紡績工に、昔ならではの、糸巻棒とか糸車を使わせることは不合理である。また、綿も、作業において、余計なごみの原因となるような粗悪な綿であってはならず、適切な品質のものでなければならない。一方、紡績工は、1ポンドの撚糸の生産において、社会的に必要な時間以上を費やしていることが見つかれば、その場合、その超過時間は、価値も、貨幣も創造しない。しかし、過程の物質的要素が通常の質であるかないかは、どちらにしても、労働者に依存するものではなく、ただすべて、資本家に依存している。繰り返しにはなるが、労働力自身は、平均的な効用のものでなければならない。雇用がなされる取引において、広く行われる取引において、それは、平均的技能、手際の良さ、機敏さを持っていなければならない。だから、我々の資本家は、そのような通常の良質さを持つ労働力を買うために適切な注意を払った。この労働力は、平均的な努力と、通常の強度において運用されねばならない。だから、資本家は、彼の作業者が、1刻も無駄にしないように、それが上記のようになされているかどうかに、注意を払う。彼は、労働力の一定期間の使用を買った。そして、彼の権利を力説する。彼には、略奪されたものという概念はない。最後に、そして、この目的のために、我々の友は、彼独自の罰則を持っている。原料や労働の道具のあらゆる浪費は、厳しく禁じられる。なぜならば、無駄に費やされた労働、余分に支出された労働、そのような労働は、生産物に計量しないし、または、その価値に入れないからである。
(29)それでは改めてここで、我々は、労働の違いについて見ておこう。一つは、有用物を生産すると考えられるそれであり、他方は、価値を創造すると考えられるそれである。我々が、我々の、商品の分析によって発見した違いが、それ自体を、二つの生産過程の各局面区分に分解している。
(30)生産過程、一つは、労働過程と価値創造過程との統一として考えられ、それは、商品生産のそれである。他方は、労働過程と剰余価値生産の過程との統一として考えられ、それは、資本家が行う生産過程である。または、資本家の商品生産のそれである。
(31)我々が、以前のページで述べたように、剰余価値の創造においては、資本家によって占有された労働が、平均的な質の単純な未熟練労働であろうと、より複雑な熟練労働であろうと、ほんの少しの関心事にもならない。全ての、平均的労働よりも、高度な、または、複雑な性格の労働は、より多くの経験等を要した種類の労働の支出である。その労働力の生産には、より時間と労働を要している。従って、未熟または単純な労働力に較べれば、より高い価値を持っている。紡績工の労働と、宝石細工人の労働との間に、技能としての、違いがなんであれ、宝石細工人が、単に彼の労働力を、価値に置き換えるという彼の労働部分は、剰余価値を創造する追加的部分と較べても、質的にはなんら異なるものではない。宝石加工においては、紡績と同様、剰余価値は、ただ、労働の量的超過分から生じる。延長されたその分から、そして同じ労働過程から生じる。一つの場合は宝石加工過程からであり、他の場合は、撚糸の製造過程からである。
本文注 / 熟練労働と、未熟練労働との区別は、その大部分は、純粋なる幻想の中にやすらかに眠っている。僅かに、こうも云えるだろう。区別は、とうの昔に実際上終了しており、伝統的習慣の思い出としてのみ生き返る。その区別は、その大部分は、ある労働者階級のグループの、どうにも救いようがない状況の中に、安らかに眠っている。その状況とは、彼等の労働力の価値とは違う労働力の価値があり、それらとの正確な平等から隔てられていることである。偶然的な情勢が、時に、大きな役を演じる。これらの二つの労働形式が時により、位置を変える。例えば、労働者階級の体力が悪化している地域では、そして、相対的に云うならば、疲れ果てている地域では、このことは、資本主義的生産がよく発達した全ての国にあてはまるが、その地域は、大きな筋力の支出を要望し、非常に繊細な労働形式に較べて、それが一般的に熟練した労働とみなされる。繊細な労働は、未熟練労働のレベルに沈下する。例を挙げるなら、レンガ積み工である。イングランドでは、ダマスカス織り職のそれよりもかなり高いレベルを占める。他方、分厚いファスチャン織りの剪毛労働は、大きな体力的作業を要望し、また同時に、非健康的なものだが、それでもただの未熟練労働とみなされる。そして、だが、我々は、国の労働分野において、いわゆる熟練労働が大部分を占めている分けではないということを忘れてはならない。レイングは、イングランド(と、ウェールズ)で、1,130万人の生活が、未熟練労働に依存していると見積もっている。もしも、彼が書いた当時の全人口1,800万人から、我々が、貴族の100万人、生活困窮者、浮浪者、罪人、売春婦他の150万人、中間層を形成する、465万人を差し引けば、上述の1,100万人が残る。だが、彼の中間層に、彼は、小さな投資による金利生活者、公務員、著述家、芸術家、教師、そしてそれに類する者を含めている。数を増やすために、彼はまた、この465万人の中に、工場の職工で多少良き支払いを受けている部分も含めているし、勿論、レンガ積み工の数もその中に入れている。(S.レイング「国民の困窮」S.Laing:"NationalDistress,"&c.,London,1844) 大きな階級は、食物を得るために、普通の労働以外には、何も持っていない。彼等が、人々の大部分なのである。(ジェームズ・ミルJamesMill,inart.:"Colony,"SupplementtotheEncyclop.Brit.,1831.)
(32)しかし、他方、あらゆる価値創造の過程において、熟練労働の平均的社会的労働への換算は避けられない。すなわち、熟練労働1日分は、未熟練労働の6日分にという具合に。
本文注 / 価値の尺度として、労働を参照するには、ある特殊な種類の労働を含める必要がある。他の種類のそれがどの程度の比率に耐えるかは、容易に突き止められる。("OutlinesofPol.Econ.,"Lond.,1832,pp.22and23.) 従って、我々は、資本家に雇用された作業者の労働を、平均的未熟練労働であると仮に設定することで、我々自身から余計な検討を省き、我々の分析を単純化する。 
 
第八章 不変資本と可変資本

 

(1)労働過程の様々な要素は、生産物の価値の形成に関しては、それぞれ違った役割を演じる。
(2)労働者は、彼の労働対象に、ある量の追加的な労働をその上に費やすことによって、その労働の特別な性格や有用性がどうであろうとも、新たな価値を付け加える。他方、過程で使用された生産手段の価値は、保存される。そして、それら自身を、生産物の価値の構成部分として、新たな形で表す。例えば、綿や紡錘の価値は、撚糸の価値の中に、再現する。従って、生産手段の価値は、生産物に移管されることによって、保存される。この移管は、それらの手段が生産物に変換される間に、生じる。または、別の言葉で云えば、労働過程の間に生じる。つまり、労働によって、もたらされる。だが、いかにしてか?
(3)労働者は、同時に二つの作業を行うのではない。一つは、綿に価値を与えるために、もう一つは、生産手段の価値を保存するために、または、同じものの価値を撚糸に移管、生産物に移管するために、綿の価値のために作業したり、紡錘の価値の一部のために作業したりするわけではない。そうではなく、新たな価値を追加する行為そのものによって、彼は、それらの以前の価値を保存するのである。だから、どうであれ、彼の労働対象に、新たな価値を追加すること、または、それらの以前の価値を保存することの二つの全く明確なる結果は、労働者によって、同時に、一つの作業の間に生み出される。この事は、この結果の二重の自然的性質が、彼の労働の二重の自然的性質から説明されることができるのは当然の事と云える。その時かつ同時に、一つの性格により、価値を創造しなければならず、もう一つの性格により、価値を保存、または移管しなければならない。
(4)それでは、どのような方法を用いて、労働者は新たな労働とその結果としての新たな価値を付け加えるのか?明らかに、ただ、特定の方法のうちにある生産的労働によってである。紡績工は紡ぐことで、織り職は織ることで、鍛冶屋は鉄を打つことで。とはいえ、特定の形式の労働、紡績、織り、鍛冶それぞれが、当然ながら、一般的労働、それが価値なのである、として物に一体化される間の労働によってなのである。生産手段、綿と紡錘、撚糸と織機、鉄と鉄床は、生産物の構成要素となる。労働と生産手段が新たな使用価値として一体化される。それぞれの使用価値は消えて、新たな形のもとに新たなる使用価値の中にのみ再現する。我々は、今、価値創造の過程を検討している時、もし、使用価値が新たな使用価値の生産に有効に消費されるならば、消費された品物の生産に支出された労働の量が、新たな使用価値の生産に必要な労働の量の一部を形成する。この一部とは、それゆえに、生産手段から新たな生産物へ移管された労働なのである。ゆえに、労働者は、消費された生産手段の価値を保存する。または、その価値の一部であったそれらを生産物に移管する。内容をそぎ落とした追加的労働によってではなく、特定の有用な労働の性格によって、特別の生産的な形式によってそれをなす。であるから、労働が、そのように特別の生産的行為である限りにおいて、それが紡績、織り、または鍛冶である限りにおいて、ただ触れるだけで、生産手段を死からよみがえらせ、それらを労働過程の生きた要素とする、そして、それらを新たな生産物とするために、共に結合させる。
(5)もしも、作業者の特別な生産的労働が、紡績ではないとするならば、彼は、綿を撚糸に変換することはできない。従って、綿と紡錘の価値を撚糸に移管することもできない。この同じ作業者が、職種を変えて、木工指物師になったと想像してみよう、それでも彼は、彼が作業する材料に、依然として、1日の労働によって、価値を追加することができるであろう。この事から明らかなように、第一には、新たな価値の追加は、彼の労働が特に紡績であるからではなく、特に木工指物であるからでもなく、ただの内容を問わない労働、社会の全労働の一部であるがゆえである。そして、次には、追加された価値は、ある与えられた量であり、彼の労働が持つ特別なる有用性のゆえではなく、ある量の時間その労働が用いられたからである。一方は、だから、内容をそぎ落とした人間労働の支出というその一般的性格のゆえであり、紡績が綿と紡錘の価値に新たな価値を追加する。他方は、だから、その同じ紡績労働が、生産手段の価値を生産物に移管し、それらを生産物に保存するという特別な性格を持つ、具体的な、有用な過程であるがゆえである。であるから、その時かつ同時に、二重の結果が生産される。
(6)ある量の労働の、単純な追加によって、新たな価値が付加される。この加えられた労働の質によって、労働手段の元の価値が、生産物に保存される。労働の二重の性格から生じるこの二重の効用は、いろいろな現象のなかに、その痕跡を見ることができるであろう。
(7)ある発明が、紡績工に、彼が以前36時間を要して紡ぐことができたのと同じ量を、6時間で紡ぐことができるようになったと仮定してみよう。有用な生産の目的のために、彼の労働は、今では、以前よりも、6倍も効果的なものとなった。6時間の作業の生産物が、6倍に増大した。6ポンドから36ポンドに。しかし、今の36ポンドの綿は、ただ、以前の6ポンドの場合と同じ労働の量を吸収している。1/6の新たな労働が、綿各1ポンドによって、吸収された。であるから、労働によって各1ポンドに追加された価値は、ただ、以前のものの、1/6となるわけである。他方、生産物としては、36ポンドの撚糸としては、綿から移管された価値は以前の6倍も大きい。6時間の紡績によって、原料の価値は、生産物に保存され、移管されたが、それは以前よりも6倍も大きい。とはいえ、紡績工の労働によって追加された新たな価値は、その同じ原料の各1ポンドでは、以前のものの1/6である。このことは、価値を保存することができる一つの場合の特性と、価値を創造することができる他の場合の特性の、二つの労働の特性が、本質的に違ったものであることを示している。一方では、一定量の綿を撚糸に紡ぐに要する時間が長ければ長い程、より大きな新たな価値が材料に加えられる。他方、一定時間内に紡がれる綿の重量が大きければ大きい程、より大きな価値が保存され、それが生産物に移管される。
(8)今度は、紡績工の労働の生産性が変化するのとは代わって、一定に留まり、従って、彼は、1ポンドの綿を撚糸に変換するためには、彼が以前やっていたのと同じ時間を要するものとして、だが、綿の交換価値が変化し、以前の価値の6倍に上昇したり、その価値が、1/6に低下したりすると、仮定してみることにしよう。これらのいずれの場合においても、紡績工は、1ポンドの綿に同じ量の労働を据える。そして、だから、彼は、以前、彼が価値を変えたように、その同じ価値を追加する。彼は、また、彼が以前やっていたように、同じ時間に、ある与えられた重量の撚糸を生産する。だがそれにもかかわらず、綿から撚糸に移管する価値は、変化以前の1/6であったり、場合によっては、以前の6倍にもなったりする。同じような結果が、労働手段の価値が上昇したり、または、低下したりする場合にも生じる。だが、この場合は、その間、過程において、それらの有用な効力は変えられることなくそのままに留まるものとすればということである。
(9)再度確認しておこう。もし、紡績過程の技術的条件が、不変で、一定に保たれ、生産手段にも価値の変動がないとするならば、紡績工は、同じ作業時間で、同量の原料と、価値変動のない機械類の同じ量を消費し続ける。彼が生産物に保存する価値は、彼が生産物に付け加える新たな価値に、直接的に比例している。2週間にわたって、彼が、1週間に較べて2倍の労働を、つまり2倍の価値を一体化すれば、そしてその同じ時間に、2倍の原料と2倍の機械類損耗分を、つまりそれぞれ2倍の価値を消費すれば、その結果として、彼は、2週間の生産物に、1週間の生産物に較べて2倍の価値を保存する。生産の諸条件が一定である限りにおいて、労働者が、生きている労働によって付け加える価値が大きければ大きい程、彼はより大きい価値を移管し保存する。とはいえ、彼がそうするのは、単純に、この新たな価値の追加が生じる条件が変化せず、かつ、彼自身の労働から独立しているからなのである。勿論、このことは、次の様に云えるであろう。労働者は、彼が追加した新たな価値の量に常に比例して、古い価値を保存する、と。綿の価値が1シリングから2シリングに上昇、または6ペンスに下落したとしても、いずれの場合でも、作業者は、1時間の生産物の中に、2時間で保存する価値に較べて、ただ1/2の価値を変わることなく保存する。同様に、もし彼自身の労働の生産性が上昇または低下と変化するとしたら、彼は、1時間に、場合に応じて、彼が以前やっていたのに較べて、より多くのまたはより少ない、いずれかの綿量を紡ぐであろうし、その結果として、彼は、1時間の生産物の中に、より多くのまたは、より少ない綿の価値を保存するであろう。しかしながら、彼は、2時間の労働によって、1時間のそれと較べて、2倍の価値を保存するであろうことは、いずれの場合でも同じである。
(10)価値は、ただ、有用な品物の中に、物の中に存在する。その、純粋に、記念品のような象徴的な表現という思考から抜け出してみよう。(人間彼自身は、労働力の擬人化として見なせば、自然なる物、物と言える。とはいえ、生きていて意識のある物である。そして、労働が、彼の内に存在するこの力の明示に他ならない。)従って、もし、品物がその有用性を失えば、それはまた、その価値を失う。生産手段が、それらが、それらの使用価値を失う時、その時と同時に、なぜそれらの価値を失わないのかの理由は、このようになる。それらは、労働過程において、当初の形式であるそれらの使用価値は失うが、ただ、生産物の中に、新たな使用価値を形成すると考えるからである。しかしながら、とはいえ、価値として重要と思われる点は、それ自体を内に体現する有用なある品物でなければならないが、この目的を果たす特定な物が何であるかは、全くのところ、どうでもいいのである。このことは、商品の変態を取り扱う時に見たところである。従って、次の様に云える。労働過程において、生産手段は、それらの価値を、ただ、それらの使用価値とともに、それらの交換価値をも失う限りにおいてのみ、生産物に移管する。それらは、自身の生産手段として失った価値のみを生産物に差し出す。しかし、この点に関しては、労働過程の材料的要素は、全てが同じように振る舞うわけではない。
(11)石炭は、ボイラー釜の下で燃えて、痕跡も残さずに消え失せる。車軸に塗られたグリースも、同様に消え失せる。染料やその他の補助物質も同様に消失するが、生産物の性質として再現する。原料は、生産物の実質を形成するが、ただし、その形を変えた後でのことである。従って、であるから、原料や補助物質は、以前それらが纏っていた性格的形式を、労働過程に入る時に失う。労働手段はこれとは異なる。道具、機械、作業場、そして容器は、それらが、それらの元の形を保持している限りにおいて、労働過程で使えるのである。そして、それらの変わらぬ形が、毎朝、過程の再開を準備してくれる。このことは、それらの寿命のある期間、言うなれば、それらが、役割を果たす継続する労働過程期間内では、生産物からは独立した形を保持する。またそのように、それらは死んだ後も形を保持する。機械、道具、作業場等々の死骸は、それらが創出を助けた生産物とは常に分離されかつ区別されている。今、もし、我々が、いずれもの労働手段の使用された全期間を取り上げて見るならば、それが仕事場へ入って来た日から、物置小屋に追放される日までを、考えるならば、その間に、それらの使用価値が完全に消費され、それゆえに、それらの交換価値が完全に生産物に移管されたことを、我々は見出すであろう。例えば、もし、紡績機械が10年間使用に耐えうるとするならば、その活用期間に、その全価値が徐々に、10年間の生産物に移管されたことは当然のことである。従って、労働手段の一生は、長短の差はあれ、同じ作業の繰り返しの内に終わる。それらの一生は、人間のそれと同じと云えるかもしれない。日々が、人を、24時間だけ、墓場の近くへと連れていく。とはいえ、その道を何日間旅し続けるのかは、単に彼の外見を見たからといって、正確に告げることは誰にもできない。にもかかわらず、この難しさが、生命保険会社の営業を妨害するというものでもない。平均寿命理論を用いて、非常に正確に、同時に、非常に儲かる結論を得る上での妨げになるというものでもない。
そう、労働手段についてもそのようなことなのである。特定の種類の機械がどの程度の耐用性を有するかは、平均的に、経験から知られているところである。そのものの、労働過程での使用価値が、ただの6日間しか持続しないとしよう。そうすれば、平均的に、その使用価値の1/6が日々失われる。従って、その価値の1/6が、1日の生産物へと切り離される。労働手段の損耗、それらの1日当りの使用価値の消失、生産物へと切り離される価値の相当量は、この原理に基づき、それ相応に計算されている。
(12)かくてこの様に、以下のことは、目を打つほど明白である。すなわち、生産手段は、労働過程において、自身の使用価値の損耗により、それらが、それら自身を消失するが、その価値以上のものを、生産物に決して移管しない。もし、その生産手段に失う価値がないならば、別の言葉で云えば、それが人間労働の生産物でないならば、生産物に移管する価値はない。それは、交換価値の形成にはなんら寄与しないが、使用価値を創り出すことは助ける。このようなものは、人間の助力なしに自然によって供給されるすべての生産手段の中に含まれている。それらは、大地、風、水、その辺にころがっている金属鉱石、処女林の木材等である。
(13)他に、まだ、生産手段自体が示す興味深い点がある。1,000英ポンドの価値がある機械があって、1,000日で全てが損耗すると仮定してみよう。であれば、日当りの生産物に、1日ごとに、1/1,000相当の機械の価値を移管する。同時に、活力を減退させつつあるとはいえ、その機械は、全体として労働過程で、その役割を継続する。そのように、労働過程の一要素、生産手段は、全体として労働過程に入り続けるが、一方、その価値形成過程には、その分数部分のみしか入らない。二つの過程での違いは、それらの物質的要素の内に、以下のことを、このような違いとして反映しているのである。同じ生産手段が、労働過程では全体として役割を果たし、一方同時に、価値の形成の要素としては、ただ分数部分のみを入れるだけと云うことを。
本文注 / 労働手段の修理という点については、我々は、本題としては、取り上げない。修理した機械は、もはや手段の役割を果たすものではなく、労働の対象でしかない。もはやそれで作業をするというものではなく、敢えてその面倒を見るというものである。我々の論述目的のために、次のように想定することは、だれにも認めて貰えるものと思う。労働手段の修理に支出された労働は、それらの本来の生産に必要な労働に含まれている、と。我々が本題とするものは、医者が治癒できない損耗であって、僅かずつ死に運ばれるもので、「時に応じて修理されることができない損耗をいうのであって、ちょうどナイフで云うなら、殆ど減磨して、刃物師がこの状態を見て、新たな刃を研ぐことは意味がないと云うであろうことである。」我々は本文で、機械は、あらゆる労働過程において、機械としての必須の全体で役割を果たし、しかし、同時に、価値創造過程には、僅かづつしか入らないことを見て来た。だから、次のような引用に示された考えの混乱は、かなり偉大なものなのである。「リカード氏が、[靴下]を作る機械の製造工の労働の一部は、と言うのは、」一足の靴下の価値に、例えば、含まれているということのようだ。「依然として、全体としての労働、それぞれの靴下各足を生産する労働...は、それらの製造工の全労働を含んでおり、部分ではなく、一つの機械として、沢山の靴下を作り、機械のうちのいかなる部分かを欠いては、靴下を作る事はできない。」著者は、通常ならぬ自己満足的半可通もいいところだが、彼の混乱と、従って、彼の論争に関する限りでは、正しい。リカードも、いかなる他の経済学者達も、彼の以前も以後も、この二つの労働の局面を正確に区別しなかったし、従って、それらの価値形成という各局面のもとでの、その役割を依然として見ていないのだから。
(14)他方、ある生産手段は、全体として、価値形成の役割を果たす、労働過程には、この間、それは少しずつのみ入る。綿の紡績において、115ポンドごとに、通常15ポンドの屑綿が、撚糸に変換されずに、「悪魔の塵」になってしまう。さて、この15ポンドの綿は、撚糸の構成要素には決してならないとはいえ、それでも、平均的な紡績の条件では、この屑綿量は、当然のもので、避けられないと考えられ、その価値は、そのまま確実に、撚糸の価値に移管される。撚糸の物質を形成する100ポンドの綿の価値と同じように。100ポンドの撚糸が作られる前に、15ポンドの綿の使用価値は塵に消えねばならない。この綿の崩壊は、従って、撚糸の生産には必要な条件なのである。だから、それが必要な条件であり、他にはない理由により、その綿の価値が生産物に移管されるのである。労働過程から生じるあらゆる種類の廃棄物は、この様に確かなものを持っている。ただ、その廃棄物が、新たなそして独立の使用価値をもって再び用いられることができないという限りでのことである。廃棄物の再利用というのも、マンチスターで活動する大きな機械ではよく見られる。そこでは、山のような鉄の削りくずが、夕方、鋳造所へと運び出される。翌朝、鉄の大きな固まりとして、仕事場に再び現われるために、積み出される。
(15)我々は、生産手段が、それらの古い使用価値の形の中に持っていた価値を労働過程期間内で消失する限りにおいて、価値を新たな生産物に移管するのを見てきた。それらが過程において、耐えることができた価値の最大損失量は、云うまでもなく、過程に入ってきた時の元の価値量に制約される。または別の言葉で云えば、それらの生産に必要な労働時間に制約される。従って、生産手段は、それらが備わる過程とは独立してそれら自体が持っている価値以上の価値を、生産物に移管することは決してできない。与えられた原料、または機械、または他の生産手段がいかに有用だとしても、それが、150英ポンドの価格で、また別の言葉で云えば、500日間の労働であるとしても、いかなる状況のもとであれ、依然として、150英ポンド以上の価値を生産物に加えることはできない。それらの価値は、それが生産手段として入った労働過程によって決められるのではなく、そこから生産物として出ることで決められる。それは、労働過程において、単に使用価値として役割を果たし、有用な性質を持つ物である、従って、それが以前に価値を持っていなかったならば、生産物には、いかなる価値をも移管しない。
本文注 / このことから、我々は、J.B.セイの馬鹿らしい説を審判することができるだろう。彼は、余剰価値(利子、利潤、地代)が、"生産的部分"生産手段、土地、道具、原料などの、それらの使用価値なるものを、労働過程に投入することで生じるという解説を企てる。Wm.ロッシェル氏は、紙に黒インクで、なんかを書いて置こうと、いつでもその機会を逃さないのであるが、独創的な思いつきの評論の一つとして、記したものに、次のようなものがある。"J.B.セイの示すところは、まさに正しい。搾油機によって作られる価値は、あらゆる費用を差し引いた後の、なにか新たなもので、搾油機自体が組み立てられた労働とは全く違ったあるものである"教授!、まさに真実、搾油機によって生産された油は、その通り、搾油機の構築に支出された労働!とは、確かに違うあるものである。ロッシェル氏は、価値を、そのようなもの、"油"のようなものと理解している。なぜなら、油は価値を持っているからと。それはそうだが、それにもかかわらず、"自然"は石油を産み出す、確かに相対的には"僅かな量"ではあるが。この事実に対する彼のさらなる観察から述べようとしているところは、次のようになる。"それ(自然)は、交換価値を産まない。"ロッシェル氏の"自然"と交換価値の見解は、愚かな処女が、彼女がその通りと子供を産んだことを認めながら、しかし、"それはただ小さなものであった"と云うのに似ている。この"賢き熱心なる者"は、さらに続けて次のように云う。"リカード学派は、資本を、蓄積された労働として、労働の概念のもとに含めるのが習慣である。この論は巧みなものではない。なぜならば、まさに、資本の所持者は、結局のところ、その同じものを、保存したり、創造したりする以上のなにものかを成した。すなわち、利子を要求するために、それをただの楽しみから節欲したのである。"この政治経済学の、解剖学的・生理学的方法のなんと"巧みな"ことよ。"まさに"、単なる欲求を、"結局のところ"、価値の源泉に変換したのである。
(16)生産的労働が、生産手段を、新たな生産物へと変えている間に、それらの価値は、霊魂輪廻を経る。その消費され尽くした体に、新たに創造された体を占有する褒美が与えられる。しかし、この生まれ変わりは、そう云えるものであるが、労働者の背後に隠れて起こる。彼は、同時に、以前の価値を保存することなくして、新たな労働を加えることはできないし、新たな価値を創造することもできない。このことは、彼が加える労働が特別に有用なものでなければならず、生産物を、新たな生産物のための生産手段とすることなくしては、有用な種類の作業をすることができないからである。であるからして、それらの価値を新たな生産物に移管する。従って、労働力の作動、生きた労働の、価値を保存する能力、同時にそれを付け加えるその特質は、自然の贈り物であって、労働者にはなんの損失もない。しかし、資本家の資本の現在価値を保存する限りにおいては、彼にとって大きな利点である。商売が好調である限りにおいては、資本家は金儲けにのめり込み過ぎていて、この労働の無償の贈り物に一瞥もしない。恐慌による破壊的な労働過程の中断は、彼をして、このことに、敏感に気づかせる。
本文注 / 1862年11月26日付けタイムズに、800人を雇い、150梱の東インド綿、または130梱のアメリカ綿を紡ぐ、ある製造業者が、仕事をしない彼の工場の、それでも生じる出費について、悲痛に満ちた様子で、窮状を述べている。年6,000英ポンドに達すると、彼は見積もる。それらの項目の中には、地代、地方税、国税、保険、支配人・帳簿係・運転技師・他の給与といった、ここでは我々にとってなんら関係ないものも多い。その後に、工場を時々暖めたり、時々蒸気機関を動かすための石炭代として150英ポンドと計算する。これに、時々機械を作業状態に維持するために雇う人の賃金も含めている。最後に、機械の減価償却として、1,200英ポンドを計上する。なぜなら、蒸気機関が回転を止めたからといって、天候や自然の腐朽原理はその作用を停止しないからである。彼は、次のことをも強調する。彼の機械が、すでに、相当痛んでいるため、1,200英ポンドという小さな額以上には見積もっていないと。
(17)生産手段に関して云うならば、実際に消費されたものが、それらの使用価値であり、そして労働によるこの使用価値の消費が、生産物に帰結する。そこに、それらの価値の消費はない。
本文注 / 生産的消費…においては、商品の消費は、生産過程の一部となっている。…この様な場合には、価値の消費は生じない。(S.P.ニューマン「経済学概要」p.296.)
従って、であるから、再生産されると云うならそれは正確ではない。むしろ保存されるである。それは、過程においてそれ自身が成すいかなる作業によるものではなく、その品物の中にもともと存在するものが、消失するからである、それが真実ではあるが、ただあるその他の品物へと消失する。故に、生産物の中に、生産手段の価値の再現がある。ただ、厳密に云うならば、それらの価値の再生産ではない。つまりは、生産されたものは、新たな使用価値であり、その中に、以前の交換価値が再現するのである。
本文注 / 多分20版と多刷したアメリカの経済概要書の一節は、こう書き出される。「資本がどの様な形式で再現しようと、そんなことは、どうでもいい。」それから、饒舌極まる生産物に再現される生産要素の可能性なるものを列挙したのちに、次のように結論づける。「様々な種類の食料、衣料そして住まい、人間としての生存及び慰みに必要なもの、もまた、変化を受けてきた。それらのものは、時から時へと消費され、彼の体と心に新たな活力を添えることで、新たな資本を形成することで、生産の仕事に再び雇用されることで、それらの価値が再現する。(F.ウェイランド「経済学概要」pp.31,32.)他の奇妙な点に言及しないとすれば、次のように述べれば充分であろう。新たな活力として再現する実体は、パンの価格ではなく、血液を形成するその物質である。また他方、活力の価値として表れる実体は、生存手段ではなく、ただそれらの価値である。同一の生活必需品は、価格が半分であっても、活力と同一の筋肉と骨を形成する。しかし、生活必需品の価格が異なれば、同一の価値なる活力を形成しない。この「価値」と「活力」の混乱は、我等が著者の脳がパリサイ人的曖昧さと結合しており、以前から存在している価値の単なる再現から剰余価値を説明しようとしても、なんら成果を得ることはない。
(18)生産手段については、前段で、本文注も含めて述べて来た通りであるが、これとは全く違うのが、労働過程の主要な要素、活動している労働力である。労働者が、特別なる対象を持つ彼の特別な種類の労働によって、生産手段の価値を生産物に保存または移管する間に、彼は同時に、単なる作業活動によって、その瞬間々々に、追加的なまたは新たな価値を創造する。ところで、作業者が、彼自身の価値、彼自身の労働力の価値と同価値を生産した時点で、生産過程が止められたと仮定してみよう。例えば、6時間の労働で、彼は、3シリングの価値を加えたのである。この価値は、生産物の全価値から、生産手段に起因する価値部分を、差し引いた余剰である。これこそ、過程において形成された唯一の価値の発現断片であり、この過程で創造された唯一の生産物の価値部分である。勿論我々は、この新たな価値が、資本家によって、労働力の買いに前貸しされた貨幣の、その貨幣は、労働者によって、生活必需品に支出されたのであるが、その、単なる置換であるということを忘れてはいない。労働者によって支出された貨幣について見れば、新たなる価値は、単なる再生産に過ぎないが、しかし、それにもかかわらず、実際に、生産手段の価値の場合とは違って、まさに明らかな、再生産なのである。一つのある価値の、他の価値への置換が、ここでは、新たなる価値の創造によって結実する。
(19)それ以上に、我々はここまで読んできたことから、労働過程が、労働力の価値と単純に等価となるものを生産物に再生産し、一体化するに必要な時間を越えて、継続するであろうことを知っている。等価のためには充分な6時間に代わって、過程は、12時間も継続するであろう。労働力の活動は、従って、それ自身の価値を再生産するだけではなく、それを越えて、それ以上の価値を生産する。この剰余価値は、生産物の価値と、その生産物の形成のために消費された要素群の価値との差である。別の言葉で云えば、生産物の価値と、生産手段と労働力の価値との差である。
(20)生産物の価値の形成において、労働過程の様々な要素によって演じられる役割の違いについての我々の説明によって、事実、我々は、資本自身の価値拡大過程における、資本の異なる要素に付与された異なる機能の性格を明らかにしてきた。生産物の全価値の剰余分、その構成要素の価値総計を越える分は、当初前貸しされた資本を越えて拡大された資本の剰余分である。一方に生産手段があり、他方に労働力があるが、これらは、労働過程の様々な要素に変換された、当初資本となった貨幣であり、その価値の存在様式の単なる違いに過ぎない。資本のある部分、生産手段、原料、補助材料、そして労働手段は、生産過程において、いかなる価値量の変化も起こさないのであるから、従って、私は、これを、資本の不変部分、または、より短く、不変資本と呼ぶ。
(21)資本のもう一つの部分、労働力であるが、これは、生産過程において、価値の変化を生ずる。それは、自身の価値の等価を再生産し、かつまたその超過分を生産する。剰余価値を生産する。剰余価値自体も変化するであろう。状況によって多くなったり、少なくなったりするであろう。資本のこの部分は、常に、不変のものから、量的変化するものに変換され続ける。従って、私は、これを、資本の可変部分、または、短く、可変資本と呼ぶ。(variablecapital)資本の同じ各要素は、労働過程視点で見れば、それら自体は、それぞれ生産手段と労働力、対象的と主体的な各要素を表す。剰余価値を創造する過程視点で見れば、それら自体は、不変資本と可変資本を表す。
(22)不変資本の定義は、前述の通りであるが、その要素において、価値の変化の可能性を排除するものではない。
仮に、ある日綿の価格が、1重量ポンドあたり6ペンスであるとしよう。翌日綿の収穫の不足から1ポンドあたり1シリングになったとしよう。いずれの綿も6ペンスで買われ、そして価値が上昇した後で、仕事を終えた。生産物には、1シリングの価値が移管している。綿価格上昇以前に紡ぎ終えたものもまた、撚糸として市場流通するならば、同様、以前の価値の2倍を生産物に移管する。しかしながら、これらの価値の変化は、紡ぎ自体によって綿に加えられた増加分または剰余価値から独立しているのは云うまでもないことである。もし、古い綿が、紡がれていなかったなら、価格上昇の後では、1ポンド6ペンスに替わって1シリングで、売ることができるであろう。さらに加えて云えば、綿が過程を経過している度合いが少なければ少ない程、この結果は、より確実なのである。我々は、それゆえに、投機家が、このような急な価値変化に際しては、最も少ない労働の量しか支出されていない材料に投資するということを法則化しているのを発見する。従って、布よりは撚糸に、撚糸よりは綿それ自体に投機する。我々が今見ているこの場合の価値の変化は、綿が生産手段の役割を演じている過程に起因するものでも、従って、不変資本としての機能に起因しているものでもなく、ただ、綿自身が生産される過程に起因しているのである。商品の価値は、これが真実である、それに含まれる労働の量によって決まる。ただし、この量自体は、社会的条件によって制約される。もし、いかなる商品であれ、その生産に必要となる社会的労働時間が変化したなら、---凶作の収穫の結果は、豊穣の収穫の結果よりも多くの労働が、与えられた綿の重量を表す。---以前から存在している全ての同じような商品群は、影響を受ける。なぜならば、それらは、かってそうであったように、今も、ただ、その種類の個々であるからであり、そして、それらの価値は、社会的に必要なある与えられた時間で計量されるからである。すなわち、現に存在している社会的条件のもとでの必要な労働によって、計量されるからである。
(23)原料の価値が変化するように、過程において用いられる労働手段、機械類等のそれも、同じく変化するであろう。その結果として、それらから生産物に移管される価値の該当部分は、同様、変化するであろう。もしも、新たな発明の結果、特定の種類の機器が、労働の小さな支出によって生産されることができたとしたら、古い機械は多少の差はあれ、その価値を低下させられる。その結果、それなりに少ない価値を生産物に移管する。しかしながら、ここで繰り返すが、この価値の変化は、機械が生産手段として活動する過程外のものに起因している。一旦この過程に入るならば、その機械は、過程外で持っていた価値以上のものを移管することはできない。
(24)生産手段の価値の変化があったとても、それらが労働過程において、その役割を開始した後でさえも、不変資本というそれらの性格を変えるものではない。そのように、また、可変資本に対する不変資本の比率が変化したとしても、資本のこの二つの種類のそれぞれの機能には影響を与えない。労働過程の技術的条件が次のように大きく革新されたならば、以前は10人が10個の小さな価値の道具を使用して、比較的少量の原料で仕事をなしていたが、今では、1人で、高価な機械一つで、100倍の原料を取り扱うようになったならば、この後者の場合、我々は、巨大な不変資本の増大に直面する。このことは、使用される生産手段の全価値の大増大と、同時に、労働力に投資される可変資本の、大削減として表される。とはいえ、このような革新は、ただ、不変資本と可変資本の量的関係を変えたのみで、あるいは、全資本が、不変的要素と可変的要素に分割される比率を変えたのみで、この二つの根本的な違いには、いかなる変化も生じてはいない。  
 
第九章 剰余価値率

 

第一節 労働力の搾取
(1)前貸し資本Cによって、生産過程において産み出された剰余価値が、別の言葉で云えば、資本Cの価値の自己拡大が、まずは最初に余剰として、生産物の価値の量がそれらの構成要素の価値を凌ぐものとして、我々の検討対象として現われる。
(2)資本Cは、二つの部分から成っており、一つは、生産手段に投下された貨幣総計c、もう一つは、労働力に支出された貨幣総計vである。cは、不変資本となっている部分を表す、また、vは、可変資本となっている部分を表す。であるから、まずは、C=c+vと表す。仮に、前貸し資本が、500英ポンドであるとしよう。そして、その内訳が、500英ポンド=不変分410英ポンド+可変分90英ポンド(£500=£410const.+£90var.)であるとしよう。そして、生産過程が終了した時、我々は、商品を手にしているであろう。その商品の価値=(c+v)+sであり、ここのsは、剰余価値である。または、前に我々が記した数字で書けば、この商品の価値は、(不変分410ポンド+可変分90ポンド)+余剰分90ポンドとなるであろう。最初の資本が、今は、CからC'へと、500英ポンドから、590英ポンドへと変化したのである。その違いは、s、または、剰余価値90ポンドである。生産物の構成要素の価値は、前貸し資本の価値に等しいのであるから、生産物の構成要素の価値を越えた生産物の価値の超過分は、前貸し資本の拡大分、または、生産された剰余価値である云々は、単なる同語反復にすぎない。
(3)とはいえ、この同語反復について、もう少し、詳しく調べてみよう。対比させられている二つのものは、生産物の価値と、生産過程で消費されたその構成要素の価値である。これまで、我々は、労働手段をなす不変資本部分が、どのようにして、その価値の僅かな分数部分を生産に移管するか見て来た。他方の残余の価値は、それらの道具に存在し続ける。この残余部分は、価値の形成にはなんら寄与しない。我々は、現時点では、この部分については、考慮外にしておいてもいいであろう。この部分を計算に入れたとしても、何の違いも生じない。例えば、前の式、c=410英ポンドを取り上げてみよう。この総計が、原料の価値312英ポンドと、補助材料の価値44英ポンドと、そして過程における機械の摩損分の価値54英ポンドからなっていると考えてみよう。また、使用する機械の全価値が1,054英ポンドであると考えてみよう。そして、この機械の全価値から、計54英ポンドの分のみが生産物を作り出すために前貸しされ、それが、過程において、機械が失った摩損分であると分かる。この部分が、生産物と一体になった部分の全てである。ところで、もし、我々が、同様、機械全価値の残余分に、気づくなら、それらは依然として、機械のうちに存在しつづけており、生産物に移管されるものとして、前貸しされた資本の一部であることも分かるはずである。そして、そのように、我々の計算の両側にそのことを表すならば、我々は、一方に、1,500英ポンドを、そして他方に、1,590英ポンドを置かなければならぬ。これらの二つの計の差、または剰余価値は、依然として、90英ポンドということになる。従って、この本全編を通して、内容に矛盾がない限り、我々は常に、生産手段の価値は、その過程で実際に消費された価値を意味し、その価値のみを意味するものとする。
(4)その様な意味を表すものとして、我々は、元の公式C=c+vに戻ってみよう。我々が見て来たように、この公式は、つぎのように変形される。C'=(c+v)+s、つまり、CがC'になる。我々は、不変資本の価値は生産物に移管されて、単に生産物に再現することを知っている。新たな、実際に過程において創造された価値、生産された価値、価値生産物は、従って、生産物の価値と同じものではない。それは、最初に表れた、(c+v)+s、または、不変資本410英ポンド+可変資本90英ポンド+剰余価値90英ポンドのようなものではなく、v+sまたは、可変資本90ポンド+剰余価値90ポンドなのである。590英ポンドではなく、180英ポンドなのである。もし仮に、c=0または他の言葉で云えば、もし仮に、ある工業の一部門で、資本家が、生産手段、それが原料であれ、補助材料であれ、または労働手段であれ、以前の労働によって作られたものを用いることなく、ただ、労働力と、自然から供給される材料のみを用いて生産することができるならば、この場合、生産物に移管する不変資本はないであろう。この場合の生産物の価値要素は、すなわち、我々の例であった410英ポンドは削除され、計180英ポンドが、新たな価値として創造され、または、生産された価値である。この中には、剰余価値の90英ポンドが含まれており、また、不変資本cをいかに巨大なるものにしようと、同じ価値に留まる。つまり、我々にとっては、C=(0+v)=vまたは、C'、拡大された資本=v+sであるのだから、従って、前述のとおりC'−C=sでなければならない。一方、もし、ifs=0または別の言葉で云えば、もし、可変資本の形式で前貸しされた労働力が、その等価しか生産しないとしたら、我々にとっては、C=c+vまたは、C'、生産物の価値−(c+v)=0、または、C=C'でなければならない。前貸し資本は、この場合、その価値を拡大しなかったのである。
(5)考察してきたことを踏まえれば、我々は、剰余価値が、純粋に、労働力に変換された資本の一部である可変資本vの価値変化の結果であることを知っている。その結果、v+s=v+v、または、v+vの増加分となる。であるから、いろいろと云ったとしても、ただ、「vのみが変化する。」というのが事実なのである。だが、変化の実態は、資本の可変部分の増加の結果として、同時に前貸しされた資本総計の増加ともなることから、その実態の明確さが失われる。最初は500英ポンドであったものが、590英ポンドになった。それゆえに、我々の考察を正確な結果に導くために、我々は、生産物の中の、不変資本のみが表れる部分を度外視して見なければならない。つまり、不変資本を0と、または、c=0としなければならない。このことは、単に、数学的公式の応用であって、我々が、不変分と可変分の大きさを、加算と減算の記号のみによって、相互に関連させられている関係として見て行く場合は、いつでもこのような方法が使われる。
(6)もう少し難しい点が、初めの可変資本の形式ゆえに、提起される。我々の例によれば、C'=不変資本410英ポンド+可変資本90英ポンド+剰余価値90英ポンドである。しかし前者の90英ポンドは、与えられたものであり、従って、不変量である。にもかかわらず、それは、不合理にも、可変量として扱われるものとして表れている。しかし、事実は、この可変資本90英ポンドという文字は、ここでは、過程に入るこの価値を示す単なる記号なのである。労働力の買いに投入される資本部分は、物質化された労働力の明確な量、購入された労働力の価値のように不変価値である。しかし、生産過程において、90英ポンドは、活動する生きた労働力となり、死んだ労働は、生きた労働によって、停止しているものは、流動するものによって、不変のものは、可変のものによって置き換えられる。その結果はvの再生産+vの増加分となる。それゆえ、資本主義的生産の視点から見るならば、全ての過程が、最初に投入された不変価値の、労働力に変換されたところのものの、自然発生的な変化として目に入る。その過程とそれらの結果が、共に、この価値に寄与したものとして目に入る。従って、もし、「可変資本90英ポンド」というこのような表現と、または、「自己拡大するそのような価値」という表現が矛盾したものとして見えるならば、それはただ、それらが、資本主義的生産に内在する矛盾を取りだして見せて呉れたからに過ぎない。
(7)最初は、不変資本を0とみなすことは、奇異な考え方であると思うであろう。だが、日常的に我々はそのようにしている。もし、例として、我々が、綿工業からの、英国の利益の大きさを計算したいと思えば、まずは第一に、我々は、アメリカ合衆国、インド、エジプトそして他の国々の綿に支払った総額を控除する。他の言葉で云えば、生産物の価値に単に再現される資本の価値が、0と置かれる。
(8)勿論、剰余価値率は、剰余価値が直接的に発条する資本のその部分、その価値の変化を表す資本のその部分を分母とするものであるばかりではなく、また、前貸し資本総額を分母とするものであることも、経済的見地からは大変重要なことである。であるから、我々は、第三巻で、この率について徹底的に取り扱うつもりである。労働力に置き換えられることによって、ある部分の資本が、その価値を拡大することが可能となるためには、もう一つの別の資本部分が、生産手段へと置き換えられていることが必要である。可変資本がその機能を実行できるかどうかは、不変資本が、適切な比率で、各労働過程の特有なる技術的条件によって与えられている比率で、前貸しされていなければならない。とはいえ、化学的過程に必要なレトルトや容器が整ったからと云って、化学者に、彼の分析結果を、これらの器材の整列のみから見出すように迫ることなどありえない話である。もし、我々が、生産手段を、見るならば、価値創造との関係において見るならば、そして価値量の変化との関係において見るならば、そしてその他の関係とは切り離して見るならば、それらは、単純に、素材として表れてくる。それは、労働力が、価値を創造する力が、労働力自体を一体化する対象としての素材として表れてくる。自然も、この素材も、なんら重要ではない。ただ一つ重要なのは、生産過程において、拡大された労働を吸収するに充分な素材の供給が継続すると云うことである。一旦与えられたこのような供給で、素材の価値は上昇または下落するであろう、または、大地や海のように、それ自体になんら価値がなくなるかも知れない。だが、この事は、価値の創造または価値の量における変化に関してなんら影響を与えるものではない。
本文注 / ルクレティウスが述べたことは、自明である。「無は無の創造者になることができる。」無からは、何も作り出せない。価値の創造は、労働力の労働への変換である。労働力自体は、慈しみ深き育成意図によって、人間という生物に移管されたエネルギーである。
(9)だから、まず最初は、我々は、不変資本を0と置く。前貸し資本は、その結果、c+vからvへと表記が短くなる。生産物の価値(c+v)+sに代わって、ここでは、我々は、生産された価値を、(v+s)と表す。与えられた新たに生産された価値=180英ポンド、この額は、結果として、過程において支出された全労働を表している。そして、ここから、可変資本の90英ポンドを引けば、残りの90英ポンドが手に残り、それが剰余価値の量である。この90英ポンドの額、またはsは、生産された剰余価値の絶対量を表す。生産された相対量、または、可変資本に対する増加率、これが、可変資本に対する剰余価値の比率として得られること、または、s/v.で表されることは、云うまでもない。我々の例では、この比率は90/90であり、100%の増加を示す。可変資本の価値の相対的増加、または、剰余価値の相対的な大きさを、我々は、「剰余価値率」と云う。
本文注 / 英国人は、同じ意味で、利益率とか利子率という言葉を使う。我々は、剰余価値の法則を知っているかぎり、この利益率はなんの神秘でもない。これらについては、第三巻で示すことになろう。だが、もし、この逆の方法を取れば、利益率から剰余価値率を考えるとなれば、我々は、その一つも、また、もう一つの方も理解することはできないであろう。
(10)我々が見て来たように、労働者は、労働過程の一つの時間部分では、彼の労働力の価値のみを生産する。それは、彼の生存のための価値である。ところで、彼の仕事は、労働の社会的区分に基づいており、諸関連の一部をなしているのであるから、彼は、彼自身が消費する現実に必要なものを、直接生産することはできない。それに替わって、彼は特定の商品を生産する。例えば、撚糸である。そして、その価値が、彼が必要とするものの価値と等しい。または、彼が必要とするものを買うことができる貨幣と等しいものとなる。この目的のために用いられる彼の労働日の該当部分は、彼が日々求める平均的な必要品の価値に比例して、または、同じ量となるが、それらを生産するに要する平均的労働時間に比例して、大きくもなり小さくもなる。もし、それらの必要品の価値が、平均的に、6労働時間の支出として表されるならば、その価値を生産するために、作業者は、平均6時間の作業をしなければならない。もし、資本家のために作業するのに代わって、彼自身のために独立して働くとしても、他の状況が同じであれば、依然として、同じ時間数の労働は免れない。彼の労働力の価値を生産するために、そして彼自身の保全または彼自身の再生産の継続のために、その労働量からは免れない。しかし、我々が見て来たように、彼の労働力の価値3シリングであるが、それを生産する彼の労働日のその部分で、彼は、資本家によってあらかじめ前貸しされた彼の労働力の価値の等価分のみを生産する。
本文注 / 予め前貸しされたとある所に、エンゲルスが注を付けている。ドイツ語版第三版に追記された注-著者は、ここで、経済用語を通常の使用法を用いて訴えている。第6章文節(17)が思い起こされるであろう。そこには、真実は、労働者が資本家に前貸しするのであって、資本家が労働者に、ではないのである。と書かれている。
新たに創造された価値は、ただ、前貸しされた可変資本を置き換えたものに過ぎない。このことは、次の事実による。すなわち、3シリングの新たな価値の生産は、単なる再生産の外観を取る。であるから、作業日のその部分、この再生産が行われる時間を、私は、「必要」労働時間と云う。そして、その時間に支出される労働を、私は、「必要」労働と云う。(いずれもイタリック)必要とは、労働者に関して云えば、彼の労働の特定の社会的形式から独立しているからであり、必要とは、資本に関して、そして、資本家の世界に関して云えば、労働者の継続的な存在に、彼等自身の存在が依拠しているからである。
本文注 / 必要労働時間という言葉を、この著作においては、今まで、ある商品の生産のために、ある社会的条件において、必要な時間を意味するものとして用いてきた。だが、これ以降、特定の商品労働力の生産のために必要な時間を意味するものとしてもまた、用いる。一つの同じ言葉を違った意味に用いるのは不便であるが、これらを全て排除できる科学もない。例えば、高等数学で、初等数学の用語を用いるのと比較できよう。
(11)労働過程の第二段階においては、彼の労働はもはや必要労働ではない。かの作業者は働き、まさに、労働力を支出する。だが、彼の労働は、もはや必要労働ではない。彼は、彼自身のためには何の価値も創造しない。彼は余剰価値を、無から創造するというとてつもない魅力を持つ余剰価値を、資本家のために創造する。労働日のこの部分を、私は余剰労働時間と云う。また、この時間中に支出された労働を、余剰労働と云う。余剰価値を正しく理解するために、以下のことは、何にも増して轡のように重要である。すなわち、剰余価値とは、剰余労働時間が凝結したものであり、他でもなく余剰労働が物体化したものである。価値の適切な把握のために云うならば、それは、多くの労働時間の単なる凝結物であり、他でもなく労働が物体化したものなのである。社会の様々な経済的形式における本質的な差異は、例えば奴隷労働を基盤とする社会と、賃金労働を基盤とする社会との差異は、ただ、いずれのケースにおいても、実際上の生産者、労働者から取り上げる余剰労働の、その様式の違いの中にある。
本文注 / ウイルヘルムトキュディデスロッシエル氏は、あるはずもないロバの巣を発見した。彼がなした重要な発見とは、剰余価値の形成または余剰生産、そしてその結果ともなる資本の蓄積は、一つには、今日の資本家の節欲に負っており、もう一つには、文明水準の最低段階では、より強い者が、より弱き者に節約を強いたことによるのかもしれない。というものである。一体何を節約するのか?労働をか?または資本家にとっては存在もしない剰余富裕をか?
ロッシエルのごとき人々をして、剰余価値の起源を説明させるものは、資本家の妥当的剰余価値を、多少なりともまことしやかに趣向を凝らして弁明させるものは何であろうか。他でもなく、それは、彼等の実際の無知と、彼等の、価値と剰余価値の科学的な分析に対する後ろめたい恐怖である。そしてまた、そこに存在する全く居心地が悪いであろう力による結果を受け入れることに対する後ろめたい恐怖である。
(12)一方において、可変資本の価値と、可変資本によって買われた労働力の価値は等価であり、そして、労働力の価値が、労働日の必要部分を決めるのであるから、そしてまた、他方において、剰余価値は、労働日の剰余部分によって決められるのであるから、剰余価値の可変資本に対する比率は、剰余労働の必要労働に対する比率に同じと言える。別の言葉で云えば、剰余価値率は、s/v=剰余労働/必要労働である。両比率s/vと、剰余労働/必要労働は、同じ内容を違った方法で表している。一つは、実体となった労働と、予め組み込まれた労働との比を、もう一つは、生まれた労働と、流れ去った労働の比を表している。
(13)従って、剰余価値率は、資本による労働力の搾取の度合いを正確に表現するものである。または、資本家による労働者の搾取の度合いを正確に表現するものである。
本文注 / 剰余価値率は、労働力の搾取の度合いを正確に表すものではあるが、搾取量の絶対値を表すことにはならない。例えば、もし、必要労働が5時間であって、剰余労働も同じく5時間であるとすれば、搾取率は100%である。搾取量は、ここでは、5時間と計量される。他方、もし、必要労働が6時間で、剰余労働が6時間ならば、搾取率は前と同じく100%に留まるが、実際の搾取量は20%増大して、5時間から6時間となる。
(14)我々の例では、生産物の価値を、410ポンド不変+90ポンド可変+90ポンド余剰と仮定した。また前貸し資本を500ポンドと仮定した。通常の勘定法に習って計算するならば、我々は、剰余価値の比率の様なもの(一般的には利益率と混同されているため)として、18%を得るであろう。この比率は、カレー氏やその他の同調者達には、ご納得がいく驚きをもたらすに足る程度の低さであろう。しかし真実は、剰余価値率は、s/Cでもs/(C+v)でもない。すなわち90/500ではなくて、90/90または100%であり、一見したような外観上の搾取の度合いの5倍以上の率なのである。我々が想定しているこの設定に関しては、実際の労働日の長さを知らず、そして労働過程が何日なのか、または何週なのかの期間をも知らず、同様、雇用されている労働者の人数も知らないが、それにも係わらず、剰余価値率s/vに関しては、我々には、正確に、明らかにされているのである。その等価である表現、労働日の二つの部分の間の関係、剰余労働/必要労働によってすでに明らかにされているのである。この関係はここでは、等式の一つであり、その比率は100%である。この結果を見れば明らかなように、我々の例では、労働者は労働日の半分を自身のために働き、後の半分を資本家のために働く。
(15)であるから、剰余価値率の計算方法は、簡単に云えば、次のようになる。生産物の全価値を取り出し、そこに単に再現されているに過ぎない不変資本を0と見なせば、そこにあるものが、商品を生産する過程において実際に創造された価値そのものである。もし、剰余価値量が与えられているならば、可変資本を見つけるには、そこにあるもからその剰余価値量を引けばいいだけである。もし、逆に、後者が与えられているならば、剰余価値量が求められる。共に与えられているならば、ただの最終的演算をなせばいいだけである。すなわち、s/v、剰余価値のv可変資本に対する比率を計算すればよい。
(16)この方法は極めて単純なものであるが、その根底となるこの聞き慣れない剰余価値率の考え方を適用して行くために、誤用を避けるために、幾つかの例について、読者に実習していただ
(17)最初に、我々は一つのケースとして、ある紡績工場を取り上げてみる。10,000個のミュール紡錘があり、アメリカ産の綿から32番手の撚糸を紡ぎ、毎週1紡錘当り1重量ポンドの撚糸を生産する工場である。屑となる分は6%と仮定する。この状況下で、週当り10,600重量ポンドの綿が消費される。従って、600ポンドがごみ屑となる。綿の価格は、1871年4月現在では、1ポンドあたり73/4ペンスであった。であるから、原料価格は、約342英ポンドとなる。10,000個の紡錘については、前処理機と原動力も含めて、我々が、紡錘当り1英ポンドと仮定すれば、全体では、10,000英ポンドとなる。摩損分については、10%または年1,000英ポンド=週20英ポンドと置く。建物の賃借料は300英ポンド/年または6英ポンド/週と想定する。石炭の消費量は、(ゲージ値で100馬力、60時間の使用において、時間当り、馬力当り4重量ポンドの石炭と、工場内の暖房用分を含めて)週11トントン当り8シリング6ペンスとして、週では約41/2英ポンドとなる。ガスは週1英ポンド、オイル他で週41/2英ポンドとなる。以上のように、補助材料の価格は、計10英ポンドとなる。従って、週当りの生産物の価値の不変部分は、378英ポンドである。賃金は、週当り52英ポンドである。撚糸の価格は、121/4ペンス/重量ポンドであるから、10,000重量ポンドでは、総計510英ポンドとなる。剰余価値は、従って、この場合は、510-430=80英ポンドとなる。生産物の価値の不変部分を=0と我々は、価値の創造においては何も役割を持っていないのであるから、この部分を0と置く。週当りで創造された価値としては、132英ポンドが残る。つまり、=可変分52英ポンド+剰余分80英ポンドである。従って、剰余価値率は、80/52=15311/13%である。平均労働10時間労働日とすれば、その結果は、必要労働=331/33時間、そして剰余労働=62/33時間となる。
本文注 / 上記のデータは、あるマンチエスターの紡績業者より私に与えられたもので、信頼できるものでる。
(18)もう一つの例、ヤコブが次の様な1815年の計算結果表を見せてくれた。予め幾つかの項目に整理したものとはいえ不完全さは免れないが、それにも係わらず、我々の目的にとっては充分である。この表では、1クォーター当りの小麦を8シリングと仮定している。また、1エーカー当りの平均的収穫を22ブッシェルとしている。
(19)生産物の価格が、その価値と同じとすれば、剰余価値は、利潤とか利子とか地代他の項目に分配されていることを我々は見出す。これらの項目の詳細について我々は何も関心を持たない。我々は、これらをまとめて単純に足し算すれば、その合計、つまり剰余価値3ポンド11シリング0ペンスを得る。種子と肥料に支払われた計3ポンド19シリング0ペンスは、不変資本であるから、我々はそれを0と置く。残りの額3ポンド10シリング0ペンスは、前貸しされた可変資本であり、この結果から、新たな価値、3ポンド10シリング0ペンス+3ポンド11シリング0ペンス、が、ここで生産されたことになる。従って、s/v=3ポンド11シリング/3ポンド10シリングであり、算出された剰余価値率は、100%以上となる。労働者は、彼の労働日の半分以上を剰余価値を生産するために働く。この剰余価値を、いろいろと違った人物が、いろいろと違った口実のもとに、彼等の間で分け合うのである。
本文注 / この上記本文で示された計算は、単に説明用として表したものである。ここでは価格=価値と仮定しての話である。我々は、いずれ、第三巻において、平均価格を仮定する場合でさえも、このような単純な方法では剰余価値率の実数をみることができないことを知るであろう。  
第二節 生産物自体の比例部分に該当するものによる
 生産物の価値の諸要素の表示

 

(1)それでは、ここで、どのようにして資本家が貨幣を資本に変換したかを見せてくれた例に戻ってみることにしよう。
(2)12時間の一労働日の生産物は、20重量ポンドの撚糸であって、30シリングの価値を持っている。この価値の8/10または24シリングは、単に、生産手段の価値(20重量ポンドの綿20シリングと紡錘の磨耗分4シリング)を再現しているものである。従って、それは、不変資本である。残りの2/10または6シリングは、紡績過程で新たに創造された価値である。このうちの半分は、日労働力の価値を置き換えたものであり、または可変資本である。もう一つの残りの半分は、剰余価値3シリングを成している。であるから、20重量ポンドの撚糸の価値は、次の様な数式で示されよう。
30シリングの撚糸の価値=24シリング不変資本+3シリング可変資本+3シリング剰余価値
(3)生産された20重量ポンドの撚糸に、これらの全ての価値が含まれているのであるから、この価値の様々な構成要素は、この生産物の該当する部分に、それぞれ含まれているものとして表わされることができる。
(4)30シリングの価値が、生産された20重量ポンドの撚糸に含まれているとすれば、8/10の価値あるいは不変資本を構成する部分24シリングが、生産物の8/10の部分16重量ポンドの撚糸と言える。その撚糸のうち、131/3重量ポンドは、原料の価値を表しており、紡がれた綿の価値である。そして22/3重量ポンドは、4シリングを表し、紡錘他の、過程での摩損分の価値である。
(5)であるから、撚糸20重量ポンドの紡績に使用された綿の全ては、その撚糸のうちの131/3重量ポンドで表されている。この後者重量ポンドの撚糸の中には、確かに重量としては、131/3重量ポンド以上の綿はなく、131/3シリングの価値しか含んでいないが、62/3シリングの追加的な価値がそれに含まれているのである。それが、残りの62/3重量ポンドが紡績において費やされた綿の等価分なのである。結果的には、言うなれば、全ての綿20重量ポンドが、131/3重量ポンドの撚糸に凝縮されて、あたかも62/3重量ポンドの撚糸には、綿が含まれていないかのように見えることになる。他方、この撚糸131/3重量ポンドの重量には、補助材料や労働手段の価値の、過程において新たに創造された価値のいずれの1原子も含まれてはいない。
(6)同様、22/3重量ポンドの撚糸には、4シリングの、綿部分を除いた残りの不変資本が、体現化されている。他でもなく、20重量ポンドの撚糸の生産に費やされた補助材料や労働手段を表している。
(7)従って、我々は次のような結果に行き着く。生産物の8/10の部分、または16重量ポンドの撚糸は、その物の有用性という性格において、その他の残余の生産物と同様に、紡績工の労働の成果のごとく見える。が、この関連において見れば、何も、紡績過程で支出された労働を含んではいないし、吸収してもいないのである。それはまるで、あたかも綿が自身で、誰の助けも受けずに、撚糸に変化したかのようである。その外観はまさに奇策というか、騙しのようである。直ぐに、資本家が、これを24シリングで売れば、つまり、彼の生産手段を貨幣に置き換えれば、この16重量ポンドの撚糸が、相当する綿と紡錘摩損分の偽装以外の何物でもないことの証明となる。
(8)他方の、残りの2/10の生産物、または4重量ポンドの撚糸は、12時間の紡績過程で創造された、新たな価値6シリング以外の何物でもない。この4重量ポンドに移管された全ての価値は、いはば、最初の紡績分の16重量ポンドの中に一体化されるべき原料と労働手段から掠め取ったようなものと云えるかも知れぬ。この場合、あたかも、紡績工が空気の中から4重量ポンドの撚糸を紡ぎ出したようでもあり、または、彼がそれらを、綿や紡錘の助けを得て、まるで降って湧いた自然の贈り物のごとく、何らの価値を移管することもなく生産物を紡いだかのようでもある。
(9)この4重量ポンドの撚糸の中には、この過程で新たに創造された全ての価値が濃縮されている。その一方の半分は、消費された労働の価値または3シリングの可変資本と等価である。もう一方の半分は、剰余価値3シリングを表す。
(10)紡績工の12労働時間が、6シリングを体現するのであるから、30シリングの価値がある撚糸には、60労働時間が体現されていなければならない。そして、この労働時間の量は実際に20重量ポンドの撚糸に存在しているのである。撚糸の8/10、または16重量ポンドのそれには、生産手段として、紡績過程の始まる前に、48時間の労働が支出され、物体化されているのである。そして、残りの2/10、または4重量ポンドには、12時間の作業が過程自体において物体化されるのである。
(11)前のページで、我々は、撚糸の価値が、その撚糸の生産において新たに創造された価値と、それ以前に、生産手段として存在していた価値の総計と等価であることを見た。
(12)今、生産物の価値の様々な構成要素が、それぞれ機能的には互いに違っている部分が、生産物自体の比例部分に該当するものによって、いかに表されているかが、ここに示されている。
(13)生産物を、それぞれ違った部分に分けるというこの方法、そのうちの一つは、ただ、生産手段のために費やされた以前の労働を表し、または不変資本を表し、その他の部分は、ただ、生産過程の中で費やされた必要労働を表し、または可変資本を表し、さらにもう一つの最後の部分は、ただ剰余労働を表し、または剰余価値を表すというこのように分けるという方法は、後に、その応用から複雑極まるこれ迄の解けなかった問題において、この簡単な分割の形以上に、重要な分析的な支点となるであろう。
(14)前述の考察において、我々は、総計生産物を、直ぐに使えるものとして、12時間労働日の最終的な結果として取り扱った。とはいえ、我々は、そのように生産の全段階を通しての総計生産物として見るだけでなく、最終または、総計生産物の機能的に異なる部分として、それぞれ違った段階で与えられた部分的生産物として表すようにして見ても、前と同じ結果を必然的に得る。
(15)紡績工は、12時間で、20重量ポンドの撚糸を生産する。または、1時間に、12/3重量ポンドのそれを生産する。であるから、8時間では、131/3重量ポンドのそれを、または全日で紡がれた全綿量の価値と等価の部分生産物を生産する。同様に、次の1時間36分での部分生産物は、22/3重量ポンドの撚糸であり、12時間で費やされた労働手段の価値を表す。これに続く1時間12分で、紡績工は、2重量ポンドの撚糸、3シリングの価値を有するものを生産する。この価値は、彼が6時間の必要労働で創造する全価値と等価である。最終的に、最後の1時間12分で、彼はもう一つの2重量ポンドの撚糸を生産する。その価値は、彼が半日間の剰余労働によって創造する剰余価値と等価である。この計算方法は、毎日の英国工場主の狙いに迎合する。こんな具合に彼は云うだろう。最初の8時間または2/3労働日において、彼は彼の綿の価値を取り返すと。そして、以下残り時間云々と。この方法は、前者と同様、完璧に正確である。事実は、先に述べた最初の方法は、ここでとの違いで云えば、空間に応用したものであって、そこには完成した生産物の違った部分が次々と並んでおり、ここでは連続して生産されたそれらの部分が時間的に取り扱われていると云うことである。しかしながら、この方法は、粗暴極まる思考が伴い易く、もっとはっきり云えば、実際的に価値を産む価値を作る過程に関心を持つばかりに、その過程そのものを理論的に誤解している者の頭の中では、そんな具合となる。そのような人々の頭の中には、次のような思考が入り込むであろう。例えば、我が紡績工が、彼の労働日の最初の8時間において、綿の価値を生産、または置き換える。続く1時間36分で、労働手段の摩損分の価値を、次の1時間12分で、賃金の価値を、そして、剰余価値の生産を工場主に捧げる、それがよく知られるところの、「最後の時間」であると。これでは、我が貧しき紡績工は、綿、紡錘、蒸気機関、石炭、オイル、その他を、生産し、同時にそれらを用いて紡績するだけでなく、1労働日を5労働日に拡大するという二重の不可思議を行う者に作り替えられる。なぜなら、我々が今検討している例で云うなら、原料と労働手段の生産が、12時間1労働日の4労働日を要求し、そして彼等の願う撚糸が、もう一日のそのような労働日を要求するからである。利益の渇望が、愚かな心情を、このような不可思議の中に想起する。そして、これらを検証する意志など少しも持ち合わせていないおべっか使いの空論家達によって、この愚かな心情が、次のような歴史的にも有名になった論述で主張された。 
第三節 シーニョアの「最後の時間」

 

(1)1836年のあるよく晴れた朝、英国経済学者の才人とよばれるやも知れぬ、かつ、彼の経済学的科学のようなものと、彼の作文の美しきスタイルとでよく知られているナッソーW.シーニョアは、オックスフォードからマンチェスターに呼び出された。後所において、前所で教えた政治経済学を学ぶために。工場主達は、彼を、彼等の代表選手に選出したのである。単に、新たに通過した工場法に反対するためだけではなく、依然として、より脅威的な10時間運動の議論に対抗するためである。彼等のいつもの実用的な鋭い感覚では、この学者先生には最後の仕上げ部分がもう少し必要であり、そのことがあるので、彼等は彼に手紙を送ったのであった。マンチェスターの工場主らの授業を受けた教授の側だが、それを体現化して、小冊子を記した。そのタイトルは、「工場法に関する諸論綿工業に及ぼす影響について」1837年ロンドンとなる。ここに、我々は、様々の記述の中に、次のようなご指摘を見つけることとなる。「現在の法のもとでは、18歳以下の人間を雇い、1日に111/2時間以上働かせることができる工場はない。すなわち、週5日間は12時間で、土曜日は9時間だからである。」
(2)「さて、以下の分析(!)によれば、その様に操業する工場では、全純利益は、最後の時間から引き出されていることが示されるであろう。私は、工場主が、10万英ポンドを投資したものと想定することにする。8万英ポンドは工場と機械類に、2万英ポンドを原材料と賃金にである。資本が年に1回転するものとし、粗利が15%あるものとすればその粗利は1万5千英ポンドに相当するものでなければならない。…工場の年の回収額11万5千英ポンドのうち、各23/2時間の作業が生産するもののは、5/115または1/23である。この23/23(全体の11万5千英ポンドを構成するものであるが)のうち、20/23、言うなれば11万5千英ポンドのうちの10万英ポンドは、単純に資本を置き換えるものであり、−1/23(または、11万5千英ポンドのうちの5千英ポンド)は、工場や機械類の損耗分を補うものである。残った2/23は、毎日の23時間半の、最後の二つに該当するのであるが、10%の純利益を生産する。従って、(価格が変わらないものとすれば)もし、工場が11時間半に代わって13時間の作業を保持することができれば、運用する資本に、2千600英ポンドを追加することで、純利益は二倍になる。他方、もし、作業時間が1日1時間減らされることになったなら、(価格が変わらないものとすれば)純利益は破壊されるであろう。もし、1時間半が減らされれば、粗利も壊滅されるであろう。」
本文注 / この様な我々の目的にとって重要でもなんでもない常軌を逸した見解、例えば、工場主が正規の機器類の磨耗分を粗利としてまたは純利として認識しているとか、資本の一部を置き換えるためにと認識しているとか言う主張は無視しておこう。また、彼の数字が正確かどうかについても無視しておこう。レオナード・ホーナーは、「シーニョア氏への書簡」ロンドン1837年で、俗に云う分析ものと大した違いがないことを明らかにしている。レオナード・ホーナーは、1833年の工場査問委員会の一委員であり、1859年まで、検査官、いや、工場監査官であった人である。彼は、労働者階級のために不滅の功績を成した。彼は、敵意すら抱く工場主と生涯を掛けて戦っただけではなく、工場で何時間も働く「手」よりも工場主の票を重要視する内閣とも戦ったのであった。
理論への骨折りがどうであれ、シーニョアの論述は混乱している。彼が真に云いたいと意図したことは、次のことであった。工場主は、作業者を日11時間半または23/2時間雇う。労働日と同様に、労働年とすれば、それが、11時間半または23/2時間の、その労働日数の1年倍であることに思い当たる。この思いつきによれば、23/2時間が年11万5千英ポンドの生産物を産む、1/2時間では、1/23×£115,000、20/2時間では、20/23x£115,000=£100,000、すなわち、前貸しした資本と同額と代るものとなる。残りの3/2時間は、3/23x£115,000=£15,000または粗利である。この3/2時間のうちの一つは、1/23x£115,000=£5,000を産み、すなわち、機器類の損耗分を補う。更に残った2/2時間、最後の時間が、2/23x£115,000=£10,000または純利益を産む。シーニョアは、彼の小冊子本文で、この最後の2/23の生産物を、労働日そのものの該当部分にすり替えている。
(3)そして、教授はこれを「分析!」と呼ぶ。もし、工場主達のご講義に彼の信頼を寄せるならば、彼は以下のことを信じたということになる。作業者は、生産において、1日の最も良い部分を、建物や機器類や綿や石炭等々の価値の再生産、あるいは置き換えに費やしたと。ならば、彼の分析は無駄であった。彼の解答は単純に、次のようなものとなろう。--紳士諸君!もしも、諸君が工場を、11時間半に替わって10時間稼働とするならば、他の物事にも変動が無ないとすれば、日当りの綿、機器その他の消費は、それに比例して減少する。すなわち、諸君は、諸君が失ったのと同じものを得る。諸君の作業人達は、将来において、1時間半少ない時間を、少なく前貸しされた資本の再生産または置き換えに費やすであろう。-逆に、教授が工場主達のご講義を更なる質問をすることもなく信じないならば、そして、その筋の専門家として、分析が必要と考えるならば、いろいろ工場主連中に尋ねる前に、他でもなく、作業日の長さと純利益の関係に関する問題ならば、教授は、注意深く、機械類や作業所や原料や労働者を一塊にしないで、まずは建物や機械類や原料他に投資された不変資本を一つの勘定側におき、そして、賃金に前貸しされた資本を別の勘定側に置くのが妥当である。さて、その上で、教授が、工場主達の計算に従って、1/2時間単位でその2単位分で、作業者が彼の賃金を再生産または置き換えていると言うことを発見したならば、その時は、次のような分析を続けて述べるべきである。
(4)諸君の数字によれば、作業者は、最後の1時間の手前の1時間で、彼の賃金を生産し、そして、最後の1時間で、諸君の剰余価値または純利益を生産するという。さて、同じ期間では、作業者は同じ価値を生産するのであるから、最後の1時間の手前の1時間の生産は、最後の1時間のそれと同じ価値でなければならない。さらに云えば、彼の労働する間だけが、その全てだけが、彼が様々な価値を生産するものなのである。そして、彼の労働の量は、彼の労働時間で計量されるのである。諸君は、この量を日111/2時間と云う。彼は、これらの111/2時間の一部を彼の賃金の生産または置き換えに費やし、そして残りの部分を諸君の純利益のために費やす。これ以上には、彼は絶対に何もしない。しかるに、であるから、諸君の説に従えば、彼が生産する彼の賃金も、剰余価値も同じ価値であるから、彼は53/4時間で彼の賃金を生産し、もう半分の53/4時間で諸君の純利益を生産する。このことは明瞭である。もう一度繰り返すが、2時間で生産される撚糸の価値は、彼の賃金の価値と諸君の純利益の合計額に等しいのであるから、この撚糸の価値の計量は111/2時間でなければならず、そのうちの最後の一つ前の53/4時間は、その間に生産された撚糸の価値を示しており、そして53/4時間は最後の時間で生産された撚糸の価値である。今、我々はどう見るかによって大きく異なる場面に直面している。だから、充分注意!してほしい。最後の作業時間の一つ手前の作業時間は、最初の時間と同じで、ごく普通の作業時間であり、それ以上でもそれ以下でもない。ならば、紡績工はいかにして1時間で、53/4時間を体現する価値、撚糸の姿となっているものを生産するのか?真実は、彼がそのような奇跡を行うものではない。彼によって1時間に生産された使用価値は、一定量の撚糸である。この撚糸の価値は、53/4作業時間で計量される。そのうちの43/4時間は、彼の助けによらず、予め生産手段、綿、機械類、他で体現されている。残りの1時間のみが彼によって加えられたものである。従って、彼の賃金の価値は53/4時間の中で生産されるのであり、そして1時間で生産された撚糸の価値も同様53/4時間の紡績から成り立っているのであるから、彼の53/4時間の紡績によって創造された価値は、1時間で紡がれた生産物の価値に等しいのである。この結果に、なんら魔法はない。もし、諸君が、彼が労働日のほんの一瞬でも、綿や機械類やその他の再生産や置き換えのために、失っていると考えるならば、諸君は皆、間違った道の上に居る。そうではなくて、彼の労働が、綿や紡錘を撚糸に変換するのであり、彼が紡ぐからこそ、綿や紡錘の価値が、それらの自らの価値のまま撚糸に行き着くのである。この成り行きは、彼の労働の質に依存しており、彼の労働の量に依存してはいない。確かに、彼は1時間では、半時間でやるよりも多くの価値を、綿の形から、撚糸に移管するであろう。だが、それは単に、半時間で紡ぐよりは1時間の方がより多くの綿を紡ぐと言うだけのことである。かくて、諸君は気づかれたものと思うが、諸君の主張、作業者は最後の時間の一つ前の時間に彼の賃金の価値を生産し、最後の時間に諸君の純利益を生産するという主張は、彼によって2作業時間で生産される撚糸が、労働日の最初の2時間であれ、最後の2時間であれ、111/2作業時間または丁度全日作業、すなわち、彼自身の2時間の作業と91/2時間のその他の人々の作業が一体化している撚糸である、ということ以上のものを表してはいない。そして、私の主張、最初の53/4時間で、彼は彼の賃金を生産し、最後の53/4時間で諸君の純利益をという主張は、只一つ、諸君は、前者分を彼に支払い、後者分は彼に支払わないということなのである。労働者への支払いと、本来ならば労働力への支払いと云うべきところを、簡略化して述べたが、ここはただ、私が、諸君らの専用俗語で話しただけのものである。さて、紳士諸君、もし、諸君が、諸君が支払った作業時間に対して、諸君が支払わなかった時間を較べるならば、それらが、互いに、半日に対して半日であり、その比率が100%、なんとまあ可愛らしい比率であることか、を発見するであろう。さらに、なんの疑いもないことだが、諸君が、111/2時間に替えて13時間を法的に獲得するならば、諸君らならやり兼ねないだろうが、作業に追加の1時間半を、純余剰労働として持ち込むならば、後者の時間が53/4時間から71/4時間労働に増加し、剰余価値の比率は100%から、1262/23%となる。そうなると、諸君ら皆、血色が奇怪しくなって、さらに1時間半のこのような追加を作業日に加えることを求める。率は100%から200%かそれ以上となる。別の言葉で云えば、2倍以上ということである。一方、人間の心は面白いものである。特に、財布のことになるとそうしたものである。-労働時間の減少が、111/2時間から10時間へと進めば、諸君の全純利益が捨て犬同然となるのではないかと大げさに悲観する。そんなことはない。他の状況が同じに留まるならば、剰余労働が53/4時間から43/4時間に縮小する。結末としては、依然として利益をもたらすもので、剰余価値の比率が要するに8214/23%となる。しかるに、このような、世にも恐ろしい「最後の時間」という諸君がでっちあげたお説は、至福千年を少しも疑わない信者が最後の審判の日を迎えるというお話以上のお話で、「全く馬鹿げた話」である。もし最後の時間が消えたとしても、諸君にはなんの損失もないし、諸君の純利益もなくならない。また、諸君が雇った少年少女の「心の純粋さ」もなくならない。諸君らの「最後の時間」の兆しが、諸君らを襲うような時は、いつでも、オックスフォードの教授でも思い出せばいいだろう。では、これにて、諸君、「さようなら」、また先の、昔の世とは違う良き世で合ことになるやもしれぬ。
本文注 / もし、一方で、シーニョアが、工場主の純利益が、英国の綿工業の存在が、世界市場における英国の支配力が、「最後の作業時間」に依存していることを証明したと云うならば、他方では、アンドリュー・ユア博士は、もし、子供達や18歳以下の青年達が、まるまる12時間暖かで純粋に道徳的な雰囲気にある工場に置かれる代わりに、1時間早く残酷で不真面目な外の世界に追い出されるとしたら、怠惰や悪習のためこころの純粋さを奪われるであろうことを明らかにした、と云うことになる。だが、実際は、1848年以降、工場検査官達は、この「最後の」、この「破滅的な時間」なるもので、工場主達をからかい続けるのを止めたことがない。1855年5月21日づけの検査報告書で、ホーベル検査官は、「このような狡賢い計算(彼はシーニョアを引用する)が正しいとするならば、英王国の全ての綿工業は、1850年このかた、赤字で作業してきたことになる。」1848年、10時間法が議会を通過した後、ドーセット州の境界からサマセット州にかけて散在するごく少ない亜麻紡績工場のある雇い主は、この法への反対請願をかれらの幾人かの作業者達の肩に強制したのである。この請願の条項には、次の様に書かれている。「貴下の請願人は、子の親として、追加的な暇な1時間は他でもなく、やる気をより損なうことになるであろうと思われる。怠惰は悪徳の始まりであると思っている。」1848年10月31日のこの工場に関する報告書は、次のように云っている。亜麻紡績工場の雰囲気は、これらの有徳で優しいご両親のお子さん達がその中で働くのであるが、原料からの塵や繊維くずで充満している。その紡績室に10分居るのですら極めて不快なものである。なぜなら、繊維くずの雲が、直ぐに、目も耳も、鼻も口も、と入り込むのである。逃れようもない。最も苦痛な感覚なしにはそこに居られないからである。その労働そのものは、機械の発狂的な性急さが、絶え間ない技能と動作を要求し、その疲れをしらぬ監視と制御下で、なされている。ご両親をして、わが子に「怠惰」なる言葉を云わせるのは、何か冷酷無比というべきであろう。子供達は、食事時間を許される他は、まる10時間をこのような雰囲気の中の仕事に拘束され続けるのである。....これらの子供達は、近隣の村の労働者より長時間働くのである。....この様な「怠惰と悪徳」なる冷酷無比のご高説は、単なる空文句であり、かつ最も恥ずかしい偽善的な言葉として銘記されるべきである。....約12年前、一部の人々が、工場主の全純利益が最後の時間の労働から湧き出すものであって、従って、作業日を1時間減らすことは、彼等の純利益を破滅させるであろうという説に衝撃を受けて、政府筋もその説を是認したことから、そのことを強く公的にも宣言したものだが、その最初の「最後の時間」というお題目の発見が、今、かなり改良されて、利益と同様に道徳も含まれ、子供達の労働時間がまる10時間へと短縮されるならば、彼等の道徳も彼等の雇い主の純利益も共に消えてしまい、これらが、この最後の致命的な時間のいかんに掛かっているという説として再発見する時、かっての一部の人々は、自らの目をほとんど信じられないであろう。(工場検査報告書.1848年10月31日)そして、その同じ報告書が、純粋な心を持ったこれらの同じ工場主の道徳性と高潔さの例をいくつか紹介している。策略、ごまかし、騙し、脅し、偽造、を用いて、身を守ることも出来ない作業者達に、この種の請願に署名を強いた。そして、彼等をして、全工業界あるいは全国の請願という形で、議会に、押し込ませた、と。これが、いわゆる科学的経済学と云われるものの特徴的現状なのである。すなわちシーニョア彼自身も、彼の反対者も、最初から最後まで、「根源的発見」なる間違った結論について説明することが少しもできなかったのである。彼等の訴えたものは、現実的な体験を申し立てたものであって、何故そのようになるのかも、またその結果としてどこに行き着くのかも、不明のまま残った。シーニョアの名誉のために云っておくが、後に、彼は工場法を精力的に支持した。
(5)シーニョアは、「最後の時間」なる叫びを、1836年に発明したが、
本文注 / にも係わらず、この学習した教授が、彼のマンチェスターへの旅行からなんらの恩恵もなしであったというものでも無かった。「工場法に関する諸論」の中で、彼は、「利益」、「利子」、その他の「なんらかのより以上のもの」を含めた全純利得が、純粋に、労働者の不払い労働に依存していることを記している。1年前、オックスフォードの学生達や教養をつけた無教養なペリシテ人達のために「政治経済学概論」を書いたが、「リカードの労働による価値の決定論に対置して、利益は資本家の労働から得られ、利子は彼等の禁欲から、別の言葉で云えば、節制から得られることを発見した。」とある。この俗説は古めかしいものだが、「節制」なる文句は目新しい。でもこれがドイツ語では坊主語の「禁欲」と翻訳されてしまった。 
第四節 剰余生産物

 

(1)剰余価値を表す生産物のその部分、(第二節の例で与えられた、20重量ポンドの1/10、または2重量ポンドの撚糸)を我々は「剰余生産物」という。剰余価値率について云えば、それは、資本総計との関係ではなく、その可変部分との関係で決定される。それは、相対的剰余生産物量が、この生産物がかかわったそれ以外の全生産物との比で決められるものではなく、その一部分、体現化した必要労働との比率で決められるのと、同じ方法と言える。剰余価値の生産が資本主義体制における生産の最高・最終の目的なのであるから、人の、または国家の富の大きさは、生産された絶対的量によって計られるものではなく、剰余生産の相対的大きさによって計られるべきものなのである。
本文注 / 「2万英ポンドの資本を用いて、彼の利益が年2千英ポンドである個人に関して云うならば、何が起ころうと、彼の利益が年2千英ポンド以下に減らずにもたらされるならば、彼の資本が100人を雇用しようと、1,000人を雇用しようと、どうでもいいことである。また、生産された商品が、1万英ポンドで売れようと、2万英ポンドで売れようと、どうでもいいことである。国家の実際の関心も似たようなものではないと云えるか?もたらされる純現実的収入、その地代や利益が同じなら、その国の人口が1千万であろうと、1千2百万であろうと、そのことに重要性はない。」(リカード「原理」)リカードよりかなり以前に、アーサー・ヤングは、次のように云っている。もっとも彼は、剰余生産物とそれ以外の生産物との関係を狂信的に支持する、饒舌で無批判な論者で、彼の評判は彼の功績に反比例しているのだが、「近代の王国においては、全ての領地が、[古代ローマの様式で、小さな独立した農民に分割され、]よく耕されていたとしても、単に、人を繁殖させるという目的を除けば、最も役にも立たない目的の一つであろう。(アーサー・ヤング「政治の算術論他云々」ロンドン1774)
非常に奇妙なことに、「強い傾向が見られる…純国富が労働者階級にとっても有益であると…とはいえ、明らかに、それが純国富の目的ではない。」(Th.ホプキンス,「土地地代他云々」ロンドン1828.)
(2)必要労働と剰余労働の合計、すなわち、作業者が彼の労働力の価値を置き換え、そして剰余価値を生産する過程期間の時間の合計、この合計時間実際の時間が、彼が働く期間、すなわち労働日を構成する。 
 
第十章 労働日

 

第一節 労働日の限界
(1)我々は、労働力がその価値通りに買われ、また売られると云う前提から考察を進めてきた。その価値は、他の全ての商品と同じく、その生産に必要な労働時間で決められる。もし労働者の生存手段の生産のために、日平均6時間を要するのであれば、彼は、彼の一日の労働力を生産するために、または、その売りの結果として受け取った価値を再生産するために、平均して、毎日6時間労働しなければならない。彼の労働日の必要部分は6時間となり、そして従って、それが、なされるもの、示された量である。この通りではあるが、労働日の長さ自体はだからと云って所与のものとは決まらない。
(2)直線A―――Bが、必要労働時間、つまりは6時間の長さを表すものと仮定する。もし、労働がA―――Bを越えて1,3,または6時間長引くならば、我々は3通りの別の直線を持つことになる。
労働日I.A---B-C. / 労働日II.A---B―-C. / 労働日III.A---B―――C.
3つの違った労働日は、7時間、9時間、そして12時間を表している。直線A―――Bの、延長部分B―-C.は、剰余労働の長さを表している。労働日は、A―――B+B―-Cまたは、A―――Cであるから、可変量B―-Cによって変化する。A―――Bは一定であるから、B―-CのA―――Bに対する比率は、いつでも計算できる。労働日I.の場合は1/6、労働日II.の場合は3/6、労働日III.の場合は6/6(A-B)となる。さらに、比率、剰余労働時間/必要労働時間 は、剰余価値率を決めるものであるから、この後者の比率は、B-CのA-Bに対する比率として与えられる。それは、それぞれ3通りの違った労働日で、162/3、50、そして100%となる。これとは違って、もし、剰余価値率のみが与えられたとしても、例えば100%であるとしても、労働日は、8、10、12、またはそれ以上の時間となるかもしれない。労働日を構成する二つの部分、必要労働時間と剰余労働時間が、引き延ばされた結果として同量になっているとしても、これらの二つの構成部分のそれぞれがいかなる長さであったかは分からないということである。
(3)労働日は、この様に、一定ではない。まさに変動量なのである。その一方の部分は、確かに、労働者彼自身の労働力の再生産に必要とされる労働時間によって決定される。だが、その全体の量は剰余労働の長さによって変動する。従って、労働日は決めることができるものではあるが、とはいえ、それだけで決まるものではない。
(4)労働日が、定まっているものではなく、変動するものではあるが、他方、一定の限界内でのみ変動する。しかしながら、その最小限度はもちろん決められない。もし、我々が延長線B-Cまたは、剰余労働=0とすることができるならば、我々は最小限度、すなわち、彼自身の維持のために必要となる労働をしなければならない労働日の部分だけと云うことになる。しかしながら、資本主義的生産の基本に従うならば、この必要労働は、労働日の単なる一部分をなすだけで、労働日自体はこの最小限度まで減じられることはありえない。他方、労働日には最大限度がある。ある点を超えて延長されることはできない。この最大限度は二つの物事によって条件付けられている。その第一は、労働力の物理的な活動によっている。自然日の24時間において、人は彼の生命力の決まった量だけしか支出できない。馬は、同様に云うならば、日から日までの間、8時間しか働けない。その日の一部において、この力は、休息し、眠らなければならない、またその日の別の部分において、他の物理的な必要を満足させなければならない。食事をし、洗濯をし、衣服を用意しなければならない。これらの純粋に物理的なものの他に、この労働日の延長は、道徳的倫理とも対立する。労働者は、彼の知的かつ社会的な欲求を満足させるための時間をも必要としている。その欲求の広がりや活動の回数は、社会の進展の一般的状況によって規定される。従って、労働日の変化は、物理的、また社会的な規制範囲内において生じる。とはいえ、これらの制限条件はいずれも、非常に弾力的で、どこまでも許容範囲を許す。そのため、我々は、8時間、10、12、14、16、また18時間と言ったような全く多くの違った長さの労働日を見いだす。
(5)資本家は、その労働力を日単価で購入した。彼にとっては、その使用価値は一労働日の期間中ずーっと存在している。であるから、彼は、一日中ずーっと労働者を労働させる権利を得たのである。しかし、一労働日とは何なのか?
本文注 / この質問は、ロバート・ピール氏がバーミンガム商業会議所に対して行った1ポンドとは何か?という有名な質問よりもはるかに重要な質問である。彼がこの様な質問を提起したのは、ピール氏がバーミンガムの「小シリング派」の面々と同様に貨幣の由来について知らなかったが故である。
(6)すべての出来ごとを並べようとも、それは自然日よりは少ない。どの程度少ないと云うかだが、資本家は、この労働日の必然的限界について彼独特の見解を持っている。資本家とは、単なる資本の擬人化に過ぎず、彼の魂は資本の魂に他ならぬ。資本は、ただひとつの衝動的生命を持つ、価値と剰余価値を創造しようとする衝動というべきもので、不変部分、生産手段となり、でき得る限りの剰余労働量を吸収しようとする衝動である。
(7)資本とは、死んだ労働である。それが吸血鬼のごとく、生きた労働を吸って生きかえり、さらに労働を吸えば吸う程に大きな生命を持つに至る。労働者が働く時間こそ、擬人資本が、彼自身をもって購入した労働力を消費する時間なのである。
(8)もし、労働者が、彼のその使用に供した時間を、自分のために消費するなら、彼は資本家から盗むことになる。
(9)であるから、資本家は、商品交換の法律を拠り所とする。彼は、他の全ての買い手と同様に、彼の商品の使用価値から取り出し得る最大の便益を求める。突然、労働者の声が沸き上がる。生産過程の嵐と抑圧の中に放り込まれたのだから。
(10)私があなたに売った商品は、他の商品群とは違って、その使用において価値を創造する。その商品自体より多くの価値を創造する。だからこそ、あなたはそれを買ったのである。あなたの側から見れば、天与の資本の拡大として表れる。だが、我々から見れば、労働力の余分な支出である。あなたと資本家である私は、市場においては、ただ一つの法律を知るだけである。すなわち、商品の交換のそれである。商品の消費は、それを手離した売り手に属するものではなく、それを獲得した買い手にだけ属している。従って、あなたが、私の毎日の労働力の使用に属しているということになる。しかし、あなたが日々支払う代価によって日々のそれを再生産することができなければならない。またそれを再び売ることができなければならない。年齢による自然な消耗等々を別にしても、あす日も同じ通常の力と健康と新鮮さをもって働くことができなければならない。あなたは毎度のように、節約せよとか、無駄遣いするなとかの文句で我々に説教を垂れるが、それなら、それもいいだろう。私は、注意深い節約家の持ち主として、私の唯一の富、労働力、の執事として、その馬鹿らしい無駄遣いを節制しょう。私は、日々その通常の時間と健康的な発展に見合う限りにおいて、動きを定め、行動を注入しよう。あなたは、無制限の労働日の拡大によって、私が三日かけなければ回復できない程の大きな労働力の量を一日で使い尽くそうとするかも知れない。あなたが労働から得るものは、私の失う命なのである。私の労働力の使用と、それの強奪とは全く違うものなのである。もし、(普通にやるべき当たり前の量の仕事をこなす)平均的な時間の仕事によって、労働者が平均的に働く期間が、仮に30年であるとしょう、とすれば、あなたが私に日の始まりから終りまでの分として支払う価値は、私の受け取るべき全価値の1/(365×30)または1/10950の価値ということになる。しかるに、もし、あなたがこれを10年間で使い尽くし、それでもあなたは私に日々、全価値の1/3650の代わりに1/10950を支払うならば、つまりわずか1/3しか支払わないならば、あなたは、私の商品の2/3を毎日盗むこととなる。あなたは私に一日分の労働力に対して支払うが、その間あなたは、三日分の労働力を使用する。これは、我々の契約及び交換の原理原則に違反する。であるから、私は、普通の当たり前の長さの労働日を要求する。私は要求する、だが、あなたの心に訴えることはしない。何故かと云えば、心情などは、お金絡みの話となれば、どこかえ行ってしまう。あなたは、市民の模範となる方でしょう、多分、動物虐待防止協会の会員でもおありなさるでしょう、そして、長靴の先まで、高潔な芳香を漂わせておられる、だが、あなたは、私と、顔と顔の距離で対面すると、あなたには鼓動する心臓がない。その代わりに、そこにはなんと、鼓動する私の心臓の鼓動があるではありませんか。私は普通の当たり前の労働日を要求する。なぜならば、私は、他のすべての売り手と同様に、私の商品の価値を要求するからである。
本文注 / 1860-61年の、労働日を9時間に減らすためのロンドンの建築労働者の大ストライキの最中、建築業者側の委員会は、我々労働者の申し立てにかなり近い内容の宣言を公開した。その宣言の中に、皮肉ではなく、事実、建築業者の中でも最も利益をむさぼるサー・M・ピートなる者が、高潔の香りにおいて、と恥ずかしげもなく、述べた。  
(11)ところで、我々は、とんでもない拡大解釈を別とすれば、商品の交換の性質自体は、労働日に制限を付与することも、剰余労働に制限を付すこともない。資本家は、買い手として、その権利を守る。彼が、労働日をできる限り長いものにしたいと思えば、またできるならば、いつでも一労働日を二労働日にしたいと思えば、その権利を守る。他方、売った商品の特異な性質は、買い手の消費に対しては、制限を表す。そして、労働者は、売り手として彼の権利を守る。労働日をある決まった普通の時間に減らしたい時は、彼の権利を守る。従って、ここには二律背反が生じる。権利対権利であり、ともに、同じように、交換の原理原則の約束事から生じている。同等の権利間では、力が事を決める。資本主義的生産の歴史においては、何が労働日なのかの決定は、闘争の結果として表れる。資本の集合体すなわち、資本家階級と、労働の集合体すなわち、労働者階級との間の闘争の結果として。
第二節 剰余労働へのあくなき貪欲。工場主とボヤール

 

(1)資本は、剰余労働を発明してはいない。社会の一部の者が、生産手段を独占的に保有する処では、どこでも、労働者は、彼が自由であろうと、また、自由でなかろうと、自分の生計に必要な労働時間に加えて、生産手段の所有者の生存手段を作り出すための余計な労働時間を追加しなければならない。このことは、生産手段の所有者が、アテネ人の富裕階級に属する人々、エトルリアの神権政治家、ローマの市民、ノルマンの男爵、アメリカの奴隷所有者、ワラキアのボヤール、近代の地主または資本家でも同じである。とはいえ、生産物の使用価値が、その交換価値ではなくて、主要な関心事であるという与えられた経済形式を持つある社会の場合では、以下のことは明らかである。剰余労働は、与えられた欲求の組み合わせによって、それが大きいか小さいかはあろうが、制限される。そこでは、生産自体の性質から生じる剰余労働の無制限な渇望はない。であるから、古代より、金銀の生産のように、特に、独立した貨幣形式をとる交換価値を獲得するための場合においては、過剰労働は恐るべきものとなる。死ぬまで強制的に働かされるのが過剰労働のそれと分かる形式となる。ここはただ、ディオドロス・シクルスを読む。
本文注 / 「誰も、これらの不幸な人々(エジプト、エチオピア、アラビア間の金鉱山の人々)を正視できない。彼等は彼等の体を洗うこともできず、布を纏うこともできない、彼等の惨めな運命を哀れむ人もいない。そこに、病人に対する、弱き者に対する、年寄りに対する、か弱き女性に対する、優しさも、手心もない。全ての者は、死が苦難と苦痛を終わらせるまで、叩かれながら働き続けねばならない。」(ディオドロス・シクルス.歴史聖典)
これらは、今に至るも、古代の例外である。しかし、奴隷労働とか賦役労働とかで依然として成り立っている生産に寄り係っていた人々も、資本主義的生産様式の支配による国際市場の渦の中に放り込まれるやいなや、自分達の生産物を輸出することが彼等の主要な関心事となり、文明化された過剰労働の恐怖が、奴隷、農奴、他の野蛮な恐怖の上に更に不当に強いられる。であるから、以前のアメリカ南部諸州連邦における黒人労働は、直接的な地方単位の消費を対象とした生産が行われていた間は、家長制的性格を保持していたが、綿の輸出が、諸州の血道を上げる関心事となるに及んで、黒人の過剰労働は、時には彼の命は7年の労働と計算され、また計算方式そのものの係数にまでなった。もはや、彼から一定量の有用な生産物を得ることは問題では無くなってしまった。今では、剰余労働そのものの生産が問題となった。すなわち、ドナウ諸候国(今のルーマニア)の賦役労働と似たようなものとなった。
(2)ドナウ諸候国の剰余労働に対する飽くなき貪欲と英国の工場の飽くなき貪欲の比較は、特別に興味を引く。なぜならば、賦役労働における剰余労働は、独立しており、直ぐにそれと分かる形を持っているからである。
(3)労働日が、6時間の必要労働と、6時間の剰余労働から成り立っているものと仮定してみよう。とすれば、自由な労働者は、毎週6時間×6または36時間の剰余労働を資本家に与える。このことは、週3日は彼自身のために働き、そして週3日は、ただで、資本家のために働くというのと同じである。しかし、このことは、表面的に見ただけでは明白ではない。剰余労働と必要労働は、互いに他と混然一体となって合わさっている。従って、この関係を、毎分30秒彼自身のために働き、毎分30秒資本家のために働く等々と表現することもできる。賦役労働はそうではない。ワラキアの農夫は、彼自身を維持するための必要労働を、ボヤールのための彼の剰余労働とは明確に区分された場所で行う。一つは彼の畑でなされ、もう一つは候国主の土地でなされる。であるから、労働時間の各部分いずれも、独立しており、別々に他とは分かたれている。賦役労働においては、剰余労働は正確に、必要労働とは分かたれている。とはいえ、このことは、剰余労働と必要労働の量的関係には、なんら差をもたらすものではない。週3日の剰余労働は、それが賦役労働であろうと、賃労働であろうと、労働者自身には何の等価ももたらさない。ボヤールの場合は、直接的に賦役日数をごく単純に強いるのであるが、資本家の剰余労働への飽くなき貪欲は、労働日の無制限な拡大を追い求めることに表れる。
(4)ドナウ諸候国では、賦役労働は、地代のようなものとか、その他の従属の付属物とかと混ぜ合わされたものであったが、それが、支配階級へ支払う最も重要な献上物をなしていた。この場合もそうだが、どこでも多くの場合、農奴制から賦役労働が生じることは稀であって、逆に、農奴制の方が、より多くの場合、賦役労働から生じていた。ルーマニア地方でもそうであった。彼等の生産様式は土地の共有に基づくものではあったが、スラブやインドの形式とは違っていた。土地のある部分は、多くは、共同体メンバーの自由な保有によって、耕された。他の部分−共同農場−は、共同で耕した。この共同労働の生産物は、ある部分は、不作や災害のための貯蔵物であり、ある部分は、戦争や、宗教や、その他の共同の支出に供するための共同貯蔵物であった。やがて、軍や聖職の高官・高僧達が、この共同の土地と、そこに費やされた労働を横領した。彼等の共同の土地の自由農夫の労働は、共同の土地を掠めた盗賊らのための賦役労働に変換された。この賦役労働はすぐ、事実上は農奴的関係へと発展したが、世界解放者ロシアが農奴制廃止を表明して、法を策定するまでは、法的な関係ではなかった。1831年、ロシアのキセレフ将軍が公布した、賦役労働法だが、勿論のこと、ボヤールらが書き示したものであった。ロシアは、ドナウ地方の有力者を排除して征服を果たした、そして、ヨーロッパ中のこの種の自由主義者の喝采を得た。
(5)この賦役労働法は、"基本法"と呼ばれたが、その基本法によれば、ワラキアの農夫は、誰であろうと、細かく示された支払いに係る項目の山の他に、いわゆる地主と呼ばれる者に対して以下の責務を負っている。(1),12日の一般的労働、(2),1日の畑仕事、(3),1日の木材運搬、計年14日である。ではあるが、この政治経済の内容を深く見るならば、普通の感覚で捉えられるものではない。平均的な一日の生産物を生産するに必要な労働日のようなものではなく、ギリシャの巨人、キュクロプスですら24時間ではできないようなずるい方法で、平均的な1日の生産物が決められているのである。基本法自ら、あの、ロシア人の皮肉も込めて、36日の手作業の生産物が、12日の労働日であると解釈せねばならない。と宣言している。3日の労働が、1日の畑仕事であり、同じような方法で3倍に該当するものが、1日の木材運搬である。合計すれば、42日の賦役労働となる。ここでは、地主に供する、たびたび臨時の使役、ヨバギーなる奉仕が加えられる。人口に応じて、全ての村は、年一定量の割り当て分をヨバギーとして提供しなければならない。この追加的賦役は、ワラキアの農夫一人あたり14日と見積もられる。この様に、前記の賦役労働は、年に56日という大きさに達する。ところで、ワラキアの農業年は、厳しい気候のため、210日に過ぎない。この中の40日は日曜日と祝日であって、平均30日は悪天候なのである。計70日は勘定には入れられない。140日が労働日として残る。かくて、必要労働に対する賦役労働の比は、56/84または662/3%と、英国の農業労働者または工場労働者の労働を規制する剰余価値よりもかなり小さい値を示す。とはいえ、これは、賦役労働を法律として記述したものに過ぎない。英国の工場法に較べて、その精神においては、依然として、より「自由」である「基本法」は、その中身を簡単にすり替える方法を知り抜いている。12日を56日とした後、その56日の賦役労働の名目上の1日の規定をとてつもない1日とする。すなわち、トウモロコシ農場では、この仕事のために、その農場全体の草取りをしなければならない、そのためには、2倍の余計な時間を必要とする。1日のそのような農業労働は、5月から10月までを意味すると、法律的には解釈できるのである。モルダビア地方の条項は、さらに過酷で、「勝利の酒に酔ったボヤールは、"基本法"の12日の賦役労働は、年に365日に達するとほざいたのである。」
(6)もし仮に、ドナウ諸候国の基本法の、いずれの項目もが、剰余労働に対する飽くなき渇望をおおっぴらに合法化しているとすれば、英国の工場法は、同じ飽くなき渇望の隠蔽された表現である。これらの法律は、労働力の制限のない使い果たしへの資本家の飽くなき渇望に対して、資本家と地主が支配する国家によって制定された国家法によって、労働日に制限を課している。日々、より脅威となる労働者階級の運動を別にしても、英国中の畑にグアノを散布するという事態に対して、その同じ必要性によって、工場労働の制限が導き出されたのである。その同じ盲目の渇望土地の略奪的な使用が、ある場合には、土地を疲弊し尽くし、他の場合は、国家の生活活力の源を引き裂いた。周期的な疫病が、このことを鮮明に明らかにしている。ドイツとフランスの軍兵士採用最低基準が小さくなっていると。
(7)今現在(1867)も有効な、1850年の工場法は、平均10時間の労働日を認めている。すなわち、最初の5日間は、12時間、朝6時から夕方の6時まで、半時間の朝食と、1時間の夕食を含んでいるが、10時間半の労働時間がそこにある。土曜日は、8時間、朝6時から午後2時まで、朝食のための半時間が差し引かれる。差し引き計60時間が残る。各5日間が10時間半、最後の日が7時間半である。
(8)この法律の管理人が何人か任命されている。工場査察官である。英内務省に直属し、半年ごとに彼等の報告書が議会の命令によって公開される。その内容は、資本家の剰余労働に対する飽くなき渇望を、定期的かつ公式的な統計資料として、示している。
(9)しばらくは、工場査察官が述べるところを聴こう。「ある詐欺的な工場主は、朝6時15分前に(時にはもっと早くから、また時には、多少遅くから)仕事を始める。そして夕方6時15分過ぎに(時にはもっと長くまで、また時には、多少短く)仕事を止める。彼は、朝食のために普通に認められている半時間の最初の部分から5分を、最後の部分から5分を盗む。また、夕食のために普通に認められている1時間の初めの部分から10分を、終りの部分から10分を盗む。土曜日には、午後2時15分に(時にはもっと長くまで、また時には、多少短く)仕事を止める。かくて、彼が得た時間は、
朝6時前------------------------------15分
夕方6時以後--------------------------15分
朝食時間-----------------------------10分
夕食時間-----------------------------20分
―――――――――――――――――――――
小計---------------------------------60分
5日間では---------------------------300分
土曜日朝6時前------------------------15分
朝食時間-----------------------------10分
午後2時以後--------------------------15分
―――――――――――――――――――――
小計---------------------------------40分
週計では-----------------------------340分
または、週5時間40分であり、これを年50労働週と見なして計算すれば、(祝日と臨時休業に相当する2週をはずして48労働週倍とすれば)年、27労働日に等しいものとなる。」
(10)一日当り5分、労働時間を増やせば、各週倍すれば、年には2日半に等しいものとなる。
(11)一日当り追加的な1時間を、朝6時前とか、夕方6時以後とか、食事のために決められた時間の初めと終りとかの小さな部分取りで獲得すれば、年が13ヶ月労働月に近いものとなる。
(12)恐慌に見舞われ、生産が中断され、週のうちほんの僅かな時間「ショートタイム」労働しかなくなった工場においても、労働日を拡大するこの飽くなき渇望はなんの影響も受けない。商売が少なくなればなるほど、その商売からより多くの利益を作り出さねばならない。労働時間が少なくなればなるほど、より多くの時間が剰余労働時間に転じられねばならない。
(13)工場査察官の、1857-1885年の恐慌時の報告書では、次のようになっている。
(14)「商売が非常に不景気な時に、そのような過剰労働が存在するというのは、一見矛盾しているように見えるが、この不況がとんでもない人達をして、違反を引き起こすのである。そして、とてつもない利益を獲得する。過去半年で、」レオナードホーマーは云う。「我が地区の112工場が廃業し、143工場が休業中だが、依然として、法的時間を超えた過大労働が継続している。」
(15)「大部分の時間は、」とハウエル氏は云う。「売買の減退により、多くの工場は全体的に閉鎖されており、依然として多くの所では、短時間労働しかない。にも係わらず、私は、1日のうちの半時間、または3/4時間が、労働者に公的に認められた休息やリフレッシュのための時間から削られて、掠め取られているという苦情を、相変わらず受け取り続けている。」この様な現象は、1861年から1865年に起こったあの恐ろしき綿恐慌の際にも、規模的には小さいが、再現された。「食事時間とか、違法な時間とかに、工場内で人が働いているのが見つかれば、大抵は、彼等は工場を決められた時間に立ち去らず、[彼等の機器類の手入れ、その他の]仕事を止めさせるためには強制的な措置が必要となる、特に土曜日の午後はそうなる。という言い訳が予め用意されていることが多い。しかし、もし、機械が回転を止めた後に、工場内に人手が残っているならば、…彼等には、機器類の手入れ等々の時間が特別に分けて充分用意されて雇用されているのではないと云うことである。朝6時前にも、土曜日の午後2時前にも、いずれにしても、そんな時間はないのである。ただ、やれ、やらんのか。と。
本文注 / 1860年10月31日付け報告書云々。法律に基づく法廷に提出された工場主等の証言によれば、その熱狂的な、工場内労働のいかなる邪魔に対しても、彼等自身をして反対させる彼等の手に驚くばかりであるが、以下のような奇怪な状況を示すに至る。1836年7月の初め、ドーズバリー(ヨークシャー)の治安判事に届いた告訴状には、バトレー近郊の8つの大きな工場の工場主が工場法に違反したとあった。これらの紳士達のある者は、12歳から15歳の5人の少年を、金曜日の朝6時からそれに続く土曜日の4時まで、食事のための小休止と深夜の睡眠のための1時間の他には、休みもなく働かせたとして告訴された。そして、この子供たちは、30時間ものやむことなき労働を、穴と呼ばれる"ぼろくず小屋,"の中で続けねばならなかった。このぼろくず小屋の中は、毛織物くずが細片にまで引き裂かれ、塵埃、切片等々が充満しており、大人の作業者ですら、彼の肺を守るためハンカチで常に鼻や口を覆わなければならぬ程なのである。告訴された紳士等は宣誓する場面で、宣誓せずに証言する。宣誓するには、クエーカー教徒として、あまりにも宗教的に良心的すぎるのかもしれないが、次のように証言した。この不幸な子供たちのために、かれらの持ちうる限りの同情をもって、4時間の睡眠を許したが、頑固な子供たちは、なんとしてもベッドに行こうとはしなかった。と。このクエーカー教徒なる紳士達は、20英ポンドの罰金を科された。(桂冠詩人)ドライデン(1631-1700)(の風刺詩)は、こうした紳士達の出現を見透していたようだ。
見かけは、まったくもって高潔そのもののきつね、宣誓するのは恐れるが、悪魔のように嘘はつく、受難節の祝賀に向かうがごとくだが、聖なる目は意地悪く、祈りの文句を云う前は、罪もないのだが。祈ったとたん、やりたい放題。
(16)「それ(法に違反する超過労働)によって得られる利益は、彼等にとって抗することができるところを超えた大きな誘惑として、多くの場合、現われる。彼等は見つからないで済む確率も読んだ上であり、有罪判決を受けて支払う罰金や裁判経費の額が小さいことも承知の上である。かれらは、仮にそれが露顕した場合でも、利得と損失の差し引き利得がそれなりのものであると承知しているのである。....日々の中で、小さな時間を盗み、それを積み上げて、追加的な時間を得ると云う場合には、査察官をして、それを1件としてあばくには、無理というべき困難性がある。
(17)これらの、労働者の食事時間や息抜き時間からの資本による"小さな窃盗"を、査察官達は、"分のこそ泥"とか"分のかっさらい,"と呼称している。また、労働者が゛俗術語的に云う"食事時間をちょい齧りして溜め込む"も使っている。
(18)このような状況下では、余剰労働による剰余価値の形成は明白で、何の秘密でもない。ある高貴で尊敬に値する親方が、こう云った。「もし、あなたが、私に、1日の労働においてほんの10分の延長時間の使用を許して呉れるならば、あなたは私のポケットに年間1千ポンドを入れて呉れる。」「2,3分こそ、利益の妊産婦じゃ。」
(19)全労働時間を働く労働者を、「フルタイマー」と呼び、6時間しか働かすことができない13歳以下の子供たちを「ハーフタイマー」と呼ぶが、この視点からは、これ以上に明確なものを取りだせはしない。ここでは、労働者は、作業時間の擬人化以外のなにものでもない。全ての個々人の特徴は、フルタイマーとハーフタイマーとの呼称に溶解させられている。 
第三節 搾取に対して法的制限がないイギリスの各産業部門

 

(1)我々は、ここまで、労働日の拡大に係る傾向を考察してきた。剰余労働に対する狼人間のごとき飽くなき渇望には、怪物的強制がともなった。それは、イギリスの一ブルジョワ経済学者をして、アメリカ大陸を征服したスペイン人が黄金のために行ったインディオに対する残虐さを上回るとは言わないが、と云わせたほどのものであった。しかるが故に、資本は最終的には法的規制の鎖に縛りつけられることになった。そこで、我々は、労働の搾取が法的規制から今日まで免れていた、または昨日までそうであったある産業部門について見て置くことにしよう。
(2)ブロートンチャールトン州治安判事は、1860年1月14日、ノッチンガム議会で開催された会議の議長として、次のように述べた。「レース業界に関係する人々の大部分における、窮乏と苦難の状況は、英王国の他の地域や、世界の文明国では知ることができない程のものである。9歳または10歳の子供たちは、朝の2時、3時または4時に、彼等の汚いベッドから引きずり出され、かろうじての生存のために、深夜の10時、11時または12時まで働くことを強いられる。子供たちの手足はやせ細り、体はちぢこまり、顔は青白く、石のように麻痺したままで子供らしさは微塵も感じられない。本当に見るに忍びない。…我々は、マレット氏または、他のいかなる工場主が身を乗り出して、審議に反対の抗議をしようと、驚かされはしない。…この制度は、モンタギューバルピー牧師が述べたように、厳格きわまりない奴隷制度そのものであって、社会的にも、肉体的にも、道徳的にも、精神的にも…人の労働時間は日18時間に減らされるべきであろうなどと云う申し立てのための公的会議を開催する町を我々は一体何と考えたらいいのか?…我々は、バージニアやカロライナの綿農園主を批難する。彼等の黒人市場、黒人を満載した船、黒人の人身売買が、ここで起こっている、資本家の利益のために編まれるベールや襟飾りの作業における、ゆるやかな人間性の喪失よりも、より忌まわしいものなのか。」
(3)スタッフードシヤーの陶器製造業は、過去22年間で、3回、議会査問の対象となった。その結果は、1841年に「児童雇用コミッショナー」に提出されたスクリビン氏の報告書、1860年に枢密院の医務官の命令で公開されたグリーンハウ博士の報告書(公衆衛生第三次報告書112-113)、そして最後が、1862年のロンゲ氏の「第一次児童雇用コミッショナー報告書1863年7月13日」に収録された報告書である。私の目的を達するには、搾取された子供たち彼等自身のいくつかの証言を、1860年と1863年の報告から引用すれば充分である。子供たちの証言からは、大人の、特に少女や女性の状況も推測される。そして、この産業部門から見れば、綿紡績部門が、好ましいもので健康的な作業場に見えると。
(4)ウイリアムウッド9歳は、7歳10ヶ月の時に働き始めた。彼は最初から「型運び」(型に入っている品物を乾燥室に運び、その後、空になった型を、持ち帰る仕事)をやった。彼は、週の毎日朝6時に働きに来た、そして午後9時に帰った。「ぼくは週のうち6日は夜9時まで働き、7週から8週はそうであった。」7歳の子供に15時間労働とは!
Jマレー12歳は、次のように証言した。「私はろくろを回し、型運びをした。私は6時に来る。時には4時に来る。昨日は徹夜で働いた。朝の6時まで。一昨日から、ベッドへは行っていない。他に8人か9人の他の少年たちが徹夜で働いていた。一人を除いて全員が今朝も来た。私は3シリング6ペンスを得る。私は夜の仕事をしてもそれ以上は得ていない。先週は二晩働いた。
ファニーホウ10歳の少年は、「いつも、(食事のための)1時間はない。時には30分しかない。木曜日、金曜日、そして土曜日。」(第一次児童雇用コミッショナー報告書1863年)
(5)グリーンハウ博士は、ストーク-オン-トレンドやウォルスタントンの製陶業地域での平均寿命が異常に短いと述べた。陶器製造業に雇われている20歳以上の成人男子人口は、ストーク地域で僅か36.6%、ウォルスタントン地域ではただの30.4%に過ぎないのであるが、第一の地域では、20歳以上の成人男子で、肺疾患で亡くなった人の半数以上が、第二の地域では、約2/5が、陶工であった。アンレイの開業医ブースロイド博士は、「後継世代の陶工は、誰もが、先代の者に較べて、矮小で健康も劣っている。」と述べた。他にマックビーンズ医師も同様、「私が25年前に陶工達の間で開業して以来、私は、このはっきりした退化、特に身長と胸囲の減少が見られた。」これらの記述は、1860年のグリーンハウ博士の報告書(公衆衛生第三次報告書)から取りだしたものである。
(6)1863年の児童雇用コミッショナー報告書から、次のようなものを読むことができる。北スタッフードシヤー病院の上級医師であるJ.T.アーレッジ博士、こう述べている。「陶工は、一階級ひとまとめにして、男も女も衰弱しきった人々の代表である。肉体的にも精神的にもである。彼等は、一般的に、発育不全で、病弱で、多くは胸に病状が見られる。彼等は早くから年寄りのようになり、当然のように短命に終わる。彼等は無気力で、青白く、消化不良が顕著で、肝臓や腎臓の不調があり、またリウマチに罹っているなど、健康障害の数々が見られる。とはいえ、これらの様々な病気の中で、特にはっきりしている傾向は、胸の病気である。肺結核、気管支炎、そして喘息である。彼等に特異的に表れるのは、よく云われる陶工喘息、または陶工の使い捨てである。腺または骨、またはその他の体の各部分を冒す腺病は、陶工の2/3またはそれ以上を占める病気である。…この地方の人々の退化が現状より悪化しないのは、近郊から絶え間く陶工が補充されるからであり、またより健康な人々との結婚によるものである。」
(7)同病院の専門外科医であった、故チャールスパーソンズ氏は、ロンゲコミッショナー宛の手紙の中で、様々な事を書いているが、とりわけ次の点に触れている。「私は私の個人的観察からのみ云うことができるのであるが、統計的なデータからではないが、不憫な子供たちを見ては、何回となく感じざるを得ない怒りを表すに躊躇しない。子供たちは両親と雇用主のあくなき渇欲の満足のために、自分達の健康を犠牲にしている。」彼は、陶工たちの病気の原因をいろいろと列挙し、次の言葉で要約している。「長時間労働」と。このコミッショナーの報告書は、以下のことを信じているとある。「全世界でこれほどの栄光を獲得したと称される製造業が、その成功の傍らに、労働者達の身体的退化、蔓延する肉体的な苦悩、早過ぎる死、がまつわり付いていると云う点を延々と指摘され続けることはないであろうと。この偉大な成果は、労働者の労働と技術によって達成されたのであるのだから。」そして、英国の製陶業で起こったことの全ては、スコットランドの製陶業でも同様であった。
(8)黄燐マッチ製造業は、1883年マッチの軸木本体に燐を用いる方法の発明から始まった。1845年以降、この製造業は英国において急速に発展し、特にロンドンの人口の多い地区の中で広がり、同様、マンチェスター、バーミンガム、リバプール、ブリストル、ノーリッジ、ニューカッスル、そしてグラスゴーでも広がった。それとともに、破傷風初期によく見られる咬みあわせの痙攣も広がった。ウィーンの一医師が1845年に発見した、黄燐マッチ製造業に特異的な病気である。労働者の半数は、13歳以下の子供たちと、18歳以下の少年である。この製造業は、その非健康的であること、悪臭がひどく、その不快きわまりないことから、労働者階級の最も悲惨な人々、半飢餓状態の寡婦等々が、彼女等の子供たちをそこになげやった。ぼろを纏った、半飢餓の、教育を受けたこともない子供たちを。
(9)(1863年)、ホワイトコミッショナーが尋問した証人の270人は18歳以下であり、50人は10歳以下、10人は8歳、5人はただの6歳であった。夜間の労働、不規則な食事時間、食事も大抵は有害な燐のある作業場そのものの中で取っていた。ダンテも、彼の最恐の地獄よりもさらに恐ろしい地獄を、この製造業の中に見つけたことであろう。
(10)壁紙製造業では、粗雑な下等ものは、機械印刷される。上等のものは、手で(木版印刷で)仕上げる。もっとも忙しい月は、10月の初めから4月の終りまでである。この間、仕事は朝6時から夜10時まで、またはさらに深夜近くまで、休みなく怒濤のごとく続く。
(11)J.リーチは、次のように述べた。「冬、ここのところ、19人の少女のうち6人が、同時に、過労から病気で休んでしまったので、残りの彼女らを起こして置くために、私は、彼女らのそばで、どならねばならなかった。」
W.ダッフィは、「子供たちは、眼を開けていられず、仕事にならなかったのをよく見ることがあった。本当のところ、我々もそんな状態だった。」
J.ライトボーンは、「私は13歳、我々はこの冬、(夜の)9時まで働いた。去年の冬は、10時までだった。この冬は足がうずき、いつも私は泣いていました。」
G.アプスデンは、「私と働くその少年が7歳のとき、私は彼をおぶって、雪の中を行き来したものです。そして、いつも彼は一日16時間働きました。…私は、たびたび、機械の傍で立っている彼に、膝を床につけて、食事を与えました。なぜって、彼がそこを離れることも、機械を止めることもできなかったからです。」
あるマンチエスター工場の共同経営者スミスは、「我々は、(この我々なる意味は、自分たちのために働く手をそう云うのであるが)食事のために休むということもなく、仕事をし続けるので、10時間半の日労働は、午後4時半には終了する。そして、それ以後のすべての時間は超過時間となる。」
本文注 / この超過時間は、我々の云う、剰余労働時間という意味で使われているものではない。これらの紳士諸君は、10時間半労働を通常の労働日と考えており、さらにその上、勿論のこと、通常の剰余労働が含まれていると考えているのである。この超過労働が始まれば、ほんの少しだけ余計に支払われる。でも、よく見れば、いわゆる通常日に支払われるものは、その価値よりも下回っているのが分かる。従って、超過時間は単純に、より多くの剰余労働を強奪するための、資本家のトリックなのである。例え通常日に対して適切に支払われたとしても、そう云うことになるであろう。
(さて、このスミス氏は、10時間半の間で、彼自身の食事を取らなかったのか)「我々は、(スミス流の、例による我々のことだが)夕方6時前に仕事を止めることは稀で、(彼の意味では、"自分達"が前貸しした労働力機械の消費を止めないと云うものだが)その結果、我々は、実際のところ、年がら年中全てにおいて超過時間作業を行っている。これらのことは、子供たちも大人も同様である。(152人の子供と少年たち、140人の大人達のことである。)このところの18ヶ月の平均労働は、少なく見ても、週7日と5時間、または週78時間半であった。今年(1862)5月2日までの6週間の平均はより大きく、週8日または週84時間であった。」その上、くだんのスミス氏は、相変わらず自分のことを我々と王族が自分表現に複数形を用いるように、極端に複数形に固執してこれを用いながら、こう、笑って、付け加えた。「機械作業は、大した作業じゃない。」木版印刷の雇用主らは、「手作業は、機械作業よりも健康的なもの。」と云う。概して、工場主は、「少なくとも、食事時間の間は、機械を止めよう。」という提案には、不正に対するかの様な憤激をもって、これに反対を申し立てる。ボローの壁紙工場支配人であるオトレー氏は云う。「法律条項が、朝6時から夜9時までの作業を許可するものならば、それは、我々(!)にとてもよく合う。しかし、工場法の朝6時から夕方の6時というのは、合わない。我々の機械は、いつも食事のために止められる。(おお、なんとまあ寛大なこと!)止めたからといって、紙も色インクも、云うに及ぶ無駄はない。だが、」彼は、同業者らの心情をおもんばかり、「時間のロスが好ましいものではないことは理解しうる。」と付け加える。委員会報告書は、次のように、無邪気に、意見を書いている。ある主要な企業の云う時間をロスするという恐怖、すなわち、他人の労働を占有する時間のロスが、そのために利益を失うということが、13歳以下の子供らの、そして18歳以下の少年たちを、日12時間から16時間働かせることを許すに足る理由になるのか。なりはしないだろう。彼等の食事時間を減らす、あるいはそれを与えない理由として成り立ちうるのか。生産過程そのものにおいて、蒸気機関に石炭や水を給するように、羊毛に石鹸水を加えるように、車輪にオイルを注すように、単なる補助材料を労働手段に供するように、彼等の食事も食事時間も与えないのか。そんな理由があるはずもないだろう。と。
(12)(最近導入された機械による製パン方式は別であるが、)英国の製パン業ほど、古風な生産方法を保持している業界は他にはない。まるでローマ帝国の詩文からそのまま出てきたような、キリスト教以前のような製法である。前にも述べたが、資本は、労働過程の技術的な性格など最初はどうでもいいのである。それを見つけた時そのままを取り入れて、その過程を始める。
(13)特にロンドンでの、信じられないような、とんでもない混ぜ物のパンについて、下院の「食品への混入物に関する」調査委員会(1855-56)と、ハッサル博士の「混ぜ物の検出」調査によって初めて、明らかにされた。(本文注:硫酸アルミニウム(またはアルミナまたは明礬)の粉末、またはそれに塩を混ぜたものが、通常の商品として、「パン製造業者向けの材料」と言う明確なる名前で出回っている。)これらの摘発の結果が、1860年8月6日の「食品・飲料への混ぜ物を予防するための」法律であったが、効力のない法律であった。いつもながらの、全ての自由な商売人達、混ぜ物の商品の買いや売りで、それを正直なペニーと交換することを決意している彼等に対して、手厚い配慮を施したものであった。当の委員会自身が、自由な商売とは、基本的に、混ぜ物の取引であり、英国人の独創性に富む「洗練された」代物という物の取引のことであると、多少はともかく、無邪気に、信じていたのである。実際のところ、この種の詭弁は、プロタゴラスが白を黒、黒を白とするよりも、よく知られており、エレア派が全てはただの外観であることを、直接目に、いかに示すかにあると実証するよりも、よく分かっている。
本文注 / 煤は炭素の非常に利用しやすい形態であり、よく知られた物質である。そして、肥料となる。資本家的煙突掃除業者は、これを英国の借地農業者に売る。ところで、この時、1862年、英国の陪審員は法律上、買い手に知らされることなく、90%の埃や砂が混ざった煤が、商売上の観念から見て本物の煤であるのか、混ぜ物の煤なのかを決めたのである。「商売の友」は、その煤を、商売上の本物の煤と判決したのであった。そして農民の原告訴訟人の訴えは却下された。原告が訴訟費用をも負担したのである。
もう一つ本文注 / フランスの化学者シュバリエは、商品の「洗練化」に関する彼の論文で、彼が調べた600以上の品物の多くにおいて、10、20、30種の様々な偽装方法を列挙している。彼は、私が全ての方法を知っている分けでもないし、知っているもの全てを述べているものではないと、付け加えている。彼は、砂糖の偽装について6種類、オリーブ油で9種、バターで10種、塩で12、ミルクで19、パンで20、ブランデーで23、オートミールで24、チョコレートで28、ワインで30、コーヒーで32、等々。全能の神ですら、この運命から逃げられない。ルアルドカールの「聖体の偽装について」(フランス語併記)1856年を見よ。(資本主義体制の偽装については、嘘丸出しの800訳者のワープロが突然自動車的に急発進ブレーキが…)
(14)これらの全ての報告書で、委員会は、大衆の注目を、その「日々のパン」に向けさせた。そして、そうであるからこそ、製パン業にも注目させることとなった。同時に、多くの人々の集会や、議会への申し立てに、ロンドンのパンの旅職人達の、超過労働に反対する叫びが沸き起こった。この叫びが非常に急激なものであったため、何回も登場する1863年の委員会だが、そのメンバーの一人である、H.S.トレメンヒア氏が王室直属の調査委員に任命された。彼の報告書は、付された証拠と合わせて、資本家、地主、名誉聖職者を激怒させた。これらの人物は、彼のパンを食べるには、額に汗することによってなすべきことと神に命じられていると知ってはいたが、その彼のパンで、一定量の人間の汗という分泌物も毎日食べねばならないとは知らなかった。さらに加えて、腫れ物の膿とか、蜘蛛の巣とか、ゴキブリの死骸とか、腐敗したドイツ酵母とかを混ぜて食べているとは知らなかった。硫酸アルミニウムとか砂とか、その他の、商品的には当然とした鉱物質の他に、こんなものを混ぜ合わせて食べねばならいとは、知らなかったからである。神聖なる自由な商売には何ら顧慮を施されることもなく、自由な製パン業は、かくて、(1863,;の議会会期期間終了のため)国家監視官達の監視下に置かれたのであった。また、同議会の法律によって、18歳以下のパンの旅職人については、夜9時から朝5時までの労働が禁止された。この最後の条項は、超過労働に対する、様々の実情、古くから続く、ごくありふれた商売のなんたるかを見事に表している。
(15)ロンドンのパンの旅職人の仕事は、通常、大体夜の11時に始まる。まずは、「生地」を作る。これはかなりきつい労働過程で、約30分から45分係る。その回のバッチ量にもよるし、労働を捧げるべき内容にもよる。その後、彼は、捏ね鉢の蓋でもある捏ね板の上で、小麦粉袋一枚を敷き、もう一枚を丸めて枕とし、横になって大体2時間程度眠る。その後は、約5時間は続く、激しく連続する作業に従事させられる。生地を掴み取り、秤にかけ、型に入れる。それを竈に入れ、ロールパンその他の菓子パンづくりの準備をし、竈から、型パンを取りだす。そして店の仕事をこなし、等々と続く。竈作業室の温度は、約75°から90°の範囲にあり、小さな竈室の場合は、温度が低いと云うことはなく、通常は、むしろ高いと思われる。これらの食パン、ロールパン、その他の作業が一段落すれば、次にはこれらの配達の仕事が始まる。パンの旅職人のかなり多くの者は、仕事として、夜のこれらの激しい仕事をした足で、昼間の長い時間、バスケットや一輪車で配達する。そしてしばしば、また竈室に戻る。仕事は午後1時から6時の間の、季節による、様々な時間で、終わるか、彼等の主人の仕事の量と内容で終わる。他方、その他の者は、竈室に戻って、さらなるバッチを釜から取りだす作業に午後遅くまで従事させられる。
いわゆるロンドン季節なる期間(クリスマスから初夏の7月までの期間、議会が開催され、多くの人々が首都を訪れる期間訳者注)には、市のウエストエンドの「正札価格」の製パン業者に所属する職人は、一般的には、午後11時に仕事を始め、製パン作業をする。1-2時間の短い休息の後、(時々はほんの僅かな場合もあるが)翌朝8時まで続く。彼等は、その後、ほぼ全日、4、5、6時、そして夕方7時までパンの運搬に従事させられる。また、時には、午後、竈室に戻り、ビッケット焼きを手伝う。そして仕事を終えた後、時には5または6時間の、ある時は、たったの4または5時間の睡眠を、彼等の次の作業を開始する前に、持つことができるかもしれない。金曜日は、いつも、彼等はいつもより早い10時頃には仕事を始める。そしてある場合は、仕事、パン焼きとパンの配達だが、土曜日の夜8時まで続く、しかしより一般的には、日曜日の朝4または5時までも続く。そして日曜日、彼等は一日に2、3回、1、2時間、次の日のパンを準備する仕事に従事せねばならない…。
安売り業者に雇われた職人は、平均時間より長い時間を働かねばならないだけでなく、殆ど全ての時間を竈室に閉じ込められる。(安売り業者とは、正札以下で彼等のパンを売る業者のことであるが、すでに述べたように、ロンドンの全製パン業者の3/4を構成するのである。)安売り業者は通常、彼等のパンを…店内で売る。もし、彼等がそれを外に送り出すなら、一般的ではないが、雑貨屋に供するのを除けば、大抵はその目的のために他人の手を雇っているはずである。パンを家から家へと配達する作業は職人の仕事ではない。週末に向けて、…職人達は木曜日の夜10時に始めて、僅かな中休みで、土曜日の夕方遅くになるまで、続ける。
(16)ブルジョワ的知識人ですら、安売り業者の立場を理解している。「職人の不払い労働が、彼等の競争成立の根源を成している。」と。そして、正札業者は、彼等安売り業者という競争相手を、外国人(何を指すのかは、後段(18)で分かる。)の労働を盗み、なんやらを混ぜこんだ不良品を売っていると国の調査委員会に告発した。「彼等は、今では、ただ、まず第一に、大衆を騙し、第二に、12時間分の賃金で、18時間も職人を働かせることで存在しているだけである。」と。
(17)パンに粗悪材料等を混ぜることと、正札以下で売る業者階級が形成されたのは、18世紀の初めの頃からである。協同的商売の性格が失われた時からで、製粉業者または小麦粉問屋の姿で、資本家が、普通の製パン業者の後ろに回って登場した頃からである。資本家的生産は、こうしたことを、この商売の中に持ち込んだのであり、労働日の際限のない拡張、夜間労働、もまた持ち込まれた。特に後者は、1824年以降、ロンドンにおいて、顕著な跋扈を見せる実態となった。
本文注 / 17世紀の終り頃、そして18世紀の初めの頃は、ありとあらゆる商売に割り込んでくる問屋(代理店)は、依然として、「公衆の迷惑」として、批難された。サマセット州で四半期ごとに開廷される治安判事裁判の大陪審は、下院に対して、ある告発を送付した。いろいろとあるのだが、その中に、次のような陳述がある。「ブラックウエルホールのこれらの問屋は、公衆の迷惑であり、布地の取引を害する、であるから、不法妨害として排除すべきである。」ジョージリード著「我々英国の羊毛の場合…他云々」ロンドン1685年
(18)これらが述べている内容を知れば、調査委員会が、パンの旅職人を、短命な労働者群に区分するという報告も理解できるものとなろう。彼等は、労働者階級の子供たちの多くが死んで行く一般的状況を幸運にも逃れ得たとしても、42歳に達する者は稀である。にもかかわらず、製パン業は応募者に溢れかえっている。ロンドンに供給される労働力の源は、スコットランドであり、英国西部農業地域であり、そして、ドイツなのである。
(19)1858−60年、アイルランドのパンの旅職人達は、彼等自身の資金を集めて、夜間及び日曜日の労働に反対する抗議集会を組織した。大衆は、−例えば、1860年5月のダブリンの集会では−、アイルランド人としての温情をもって、彼等としての、支援する立場を、鮮明にした。運動の結果、ウエックス、キルケニー、クロンメル、ウオーターフォード等では、週日労働のみについては成功裏に確立を見た。「旅職人の要求が強く表明されたリメリックでは、製パン親方の反対や、最も大きな反対者となった製粉・製パン一貫業者の反対によって、これらの運動は挫折させられた。リメリックの例が、エニスやティペレアリの運動を後退させた。最も強くあらん限りの示威感情が沸き上ったコークでは、親方達は、労働者を解雇するという彼等の実力を行使することで、運動を壊滅させた。ダブリンでは、製パン親方達はこの運動に対して反対の決意をあらわにし、旅職人の要求に対して、できる限りの手を使って挫き、日曜労働と夜間労働を承諾するよう追い込んだ。応じようとしない労働者には、これとは別の手を使って、追い払った。」
(20)英国政府委員会は、その政府は、アイルランドで、歯に至るまで武装して、そのことをいかに示すかをよく知っていたのだが、柔らかく、あたかも葬式に参列したかのような声色で、容赦しようともしないダブリン、リメリック、コーク他の、製パン親方達に次の様に忠告した。「委員会は、労働時間は自然の法則によって制限されており、罰則なしで冒されることはできないものと信じている。製パン親方達は、彼等の労働者に、解雇の恐怖をもって、彼等の宗教上の信念とかれらの良き感情とを冒涜し、国の法律に従わず、大衆の意見(この内容は日曜日の労働に関するものが全てではあるが)を無視したことは、労働者達と親方達の間に反目を惹起させたと考えられる。…そして、宗教、道徳、社会的秩序等に危険な例を引き起こした。…委員会は、日12時間を超える定常労働は、労働者の家庭生活及び個人生活を浸食し、倫理崩壊に至らしめる。個々人の家庭に干渉し、そして息子としての、兄弟としての、亭主としての、家長としての、家族的義務を放棄させるものと信じている。12時間を超える労働は、労働者の健康に穴をあけるもので、早過ぎる老化と死をもたらす。労働者の家族にとっては耐えがたい痛手となる。かくて、最も必要な時に、家族の長の配慮や支援が剥奪される。」
(21)ここまでは、アイルランドの場合を取り上げたが、海峡の向こう側、スコットランドでは、農業労働者、犂百姓達が、厳冬期の13-14時間労働と、その上に加えられる日曜日の4時間の労働に対する抗議を行った。(なんと、安息日を厳守するキリスト教徒達の国なのに!)
本文注 / 1866年1月5日、エジンバラに近いラスワードで開催された、農業労働者の大衆集会。(「労働者の擁護者」紙1866年1月13日を見よ。)最初に、スコットランドにおいて、農業労働者達の中から、職業組合の組織化がなされたことは、歴史的な出来事なのである。中でも、最も抑圧された英国農業地域の一つ、バッキンガムシヤーで、1867年3月、労働者は、彼等の週賃金を9-10シリングから12シリングに上げるための一大ストライキを打った。(前述紙に見るように、英国農業プロレタリアートの運動は、1830年以後、彼等の激しい意志表示が鎮圧されたことで、全く潰れてしまったが、また、新救貧法の導入によっても実際に潰滅されていたが、1860年代になって、再び開始された。1872年の画期的な時点に至るまでの間、様々に成長した。英国の地の労働者の位置について触れている1867年以降に発行された青書と、ともに、私は、第二巻でこの点に再度触れる。第3版にも補追した。)
一方で、同じ時間に、3人の鉄道員が、ロンドン検死官の陪審に立っていた。−車掌、機関手、信号手である。非常に大きな鉄道事故が、何百人という旅客をあの世への特急に乗せた。この不運の原因は、雇用者の過失である。彼等は、陪審員の前で、異口同音に次のような陳述した。10年または12年前、彼等の労働は日8時間続くのみであった。ここ5-6年は、それが14、18そして20時間へと捩じり上げられた。そして、休日の運行、遊覧列車の運行と言った非常に過酷な圧力も加わった。たびたび、40から50時間の休息なしの運行状態が続いた。彼等は、普通の人間で、キュクロプスではない。ある時点・地点で彼等の労働力は消滅した。昏睡が彼等を捉えた。彼等の頭脳は考えることを止め、目は見るのを止めた、と。本当に「尊敬に値する」陪審員達は、評決によって、殺人の罪で、彼等を次の裁判に送った。その評決には、心やさしき「添え書き」があり、こう書かれていた。将来は、鉄道の資本家的有力者は、充分な量の労働力の購入により浪費的に、そして購入した労働力の排出に当たっては、より「節制的」に、より「自制的」に、そしてより「つつましく」あるべきものと信心深く希望する、と。
本文注 / レイノルズニュース紙1866年1月−毎週この新聞は、「恐ろしく、かつ破滅的な事故」「ぞっとするような悲劇」等々のセンセーショナルな見出しで、新たな鉄道事故を次々に取り上げた。これらの事故の一つに係る、北スタッフォードシャー線の雇用者の一人は次のように述べた。「誰でも分かるように、もし、蒸気機関車の機関手と火夫が、常に外を見ていなければ、こうなる。風雨の中、29-30時間も休息なしで仕事をする彼等から、それをどうやって期待できるのか。いつも行われていることだが、一つの例を上げれば、−ある火夫は月曜日の朝早くから仕事を始める。一日の仕事と称される仕事を終わった時、彼は14時間50分の職務を果たした。お茶を飲む時間の前に、彼は次の職務に呼び出される。…彼が14時間25分の職務を終えた時には、何の中断もない計29時間と15分の職務となっている。残りの週日の仕事は、次のようになっている。−水曜日15時間、木曜日15時間35分、金曜日14時間半、土曜日14時間10分、合計週88時間30分となる。そこで、旦那、この全ての時間に対して6日と1/4日分の支払いを受けた時の彼の驚きを想像してみよ。これは何かの間違いであると思った彼は、運行係に申し出た。…そして、一日の仕事を何と考えているのかを尋ねた。貨物輸送に当たる火夫では13時間(すなわち、週78時間)であるとの答えが戻った。それを受けて彼は、週78時間以上の職務についての支払いを求めた。が、拒絶された。とはいえ、最後に彼は、彼等が彼に別に1/4日分を与えると云われた。すなわち10ペンスを。」1866年2月4日号
(22)あらゆる職業の労働者が、年齢・性別を問わず、我々の所に頻繁に押しかけてくる。殺された魂がユリシーズの所に押しかける以上に。彼等は、−その内容に言及した青書を腕に抱えてはないが、−一見して過労の印が見てとれる。その雑多な中から、さらに二つの姿を取り上げる。その姿は、資本の前では全ての人間が均一であることを驚くべき鮮明さで証明している。−婦人用帽子縫製工と鍛冶工とである。
(23)1863年6月の最後の週、ロンドンの日刊紙の全てが、「センセーショナル」な見出しで、「単なる過労による死」という小さな記事を掲載した。それは、婦人用帽子縫製工の死を取り上げたもので、マリーアンウォークリー20歳。非常に高い評価を受けている婦人服の仕立業者に雇用されていた。エリーズという感じのよい名前の一人のご婦人によって、労働力を搾取された。古い、よく登場する話題が、今一度語られる。この少女は、平均で16時間半働いた。季節によっては、30時間休みもなく働くこともあった。彼女の労働力が無くなると、たびたび、シェリーとか葡萄酒とか、またはコーヒーで回復されられた。その時はまさにこの季節の真っ只中であった。新らたに宮廷入りした英国皇太子妃のための舞踏会に招待された貴婦人達のために、豪華なドレスの数々を瞬きする間に魔法のように仕上げる必要があった。マリーアンウォークリーは、休みもなく、他の60人の少女たちと、30人一部屋で、そこは、彼女たちに必要とされる空気量の1/3しか与えない狭さの中で、26時間半働いた。夜は、二人一組で、板で間仕切りされた窮屈極まる穴のような寝室で寝た。
本文注 / 保健委員会の顧問医師レースビー博士は、「大人一人当り、寝室では300立方フィート、居室では500立方フィートが最低必要空気量としてあるべきである。」と述べた。ロンドンの病院の一つに所属する先任医師リチャードソン博士は、「婦人用帽子縫製工、服飾縫製工、そして普通の裁縫婦達を含むあらゆる種類の裁縫工には、3つの苦痛がある。−過労、不十分な空気、そして食料不足または消化不良…裁縫作業は主として…圧倒的に男性よりも女性に適している。だが、この業種の欠陥は、特に首都では、僅か26人の資本家によって寡占されており、資本からはじけだす利益を独占するという権利をもつ資本家によって、資本へと労働から経済を取りだすことができることにあった。この力は、全階級にそのことを知らしめている。もし仮に、一人の裁縫師が僅かな顧客を得て経営することができたとしても、競争があり、維持していくためには、彼女の家で、彼女は死ぬほど働かねばならない。そしてこの過労を、彼女は彼女を支えてくれる人達にも強いねばならない。もし失敗するか、独立を試みることがなければ、より大きな業者に加わらざるを得ない。そこでは彼女の労働は少なくなりはしないが、彼女の金は安全である。このようになれば、彼女は単なる奴隷となる。社会の変化の中に投げ出される。たった一部屋の我が家で、飢えまたはそれに近い生活、そして24時間のうちの15、16、そして(aye古英語:oldeenglishe)18時間ともなる作業に従事し、空気はやっと耐えられるもの、そして食べ物といえば、例えそれが良いものであったとしても、きれいな空気がなければ、消化されない。これらの犠牲の上に、肺病が、これこそ純粋に、悪い空気、悪い食料によって発症する病気である。」リチャードソン博士著「社会科学評論」の中の「労働と過度労働」1863年7月18日
そして、この婦人用帽子製造業者は、ロンドンでも最良の部類に入る業者の一つであった。マリーアンウォークリーは、金曜日に病気となり、日曜日に死んだ。彼女の仕事が完成することがないままに。マダムエリーズは、このことに仰天した。医師キーズ氏は、臨終には間に合わなかったが、検死陪審が来る前に、状況をよく監察し、「マリーアンウォークリーは、人数が多過ぎる作業室での長時間作業と小さ過ぎの不良通風装置しかない寝室のために死んだ。」と述べた。この医師に良き礼儀作法の授業を施すために、検死陪審は、検死報告に次のように記した。「脳卒中で死亡。しかし、過密作業室内での過重労働がその死を加速させた懸念という理由もある。等々。」「我々の白人奴隷」と自由取引業者コブデンとブライドの機関紙、モーニングスター紙は叫んだ。「我々の白人奴隷は、墓場に入るまで働かされた。その間、黙ったまま、やせ衰えて、そして死んだ。」
本文注 / モーニングスター紙1863年7月23日−ザタイムズ紙は、この事件を利用して、ブライト他の言い分と比較して、アメリカの奴隷所有者を擁護した。「我々の多くは、こう思っている。」と、同紙社説1863年7月2日は云っている。「我々は、笞の音の代わりに、まるで強制する器具のように、飢餓の苦しみを使用して、我々(前述注)の若い婦人を死に至らしめたが、我々は、奴隷所有者の家族として生まれた者に対して、火や虐殺を用いて追い立てる権利は少しも持ってはいない。少なくとも、彼等は、奴隷たちをよく養い、少しだけ働かせる。」同じような態度で、スタンダード紙、保守主義者トーリー党の機関紙は、ニューマンホール師を口汚くこき下ろし、「彼は、奴隷所有者を破門するが、ロンドンのバス運転手や車掌をして、犬に与える程の賃金で、日16時間も働かせるご立派なご一族と、良心の呵責もなく、お祈りを共にする。」最後にトーマスカーライル、私は、彼については1850年に書いたことがあるが(spake古英語:oldeenglishe)、のご神託を。「悪魔が勝利したが、内実はなにも変わらなかった。」短い寓話で、彼は現代史の一大偉業の一つであるアメリカ南北戦争をこのレベルの話に矮小した。次の様な話である。北のピーターは、南のポールの頭を、力を込めて叩き潰そうと思った。なぜならば、北のピーターは、彼の労働者を日単位で雇おうとし、南のポールは、彼の労働者を生涯で雇おうとするからである。("マクシミリアンズマガジン"殻の中のイリアスアメリカーナ1863年8月)かくて、都市労働者に対するトーリー的同情の泡が、−農業労働者にではない、が、−ここのところに来て破裂した。云いたいことは、−奴隷制擁護!
(24)「あたかも一日の日課のごとき、死に至る労働は、何も服飾製造業者の作業室に限ったことではない。他に千もの場所がある。繁盛している商売がそこにあるならば、私が云った通り、その全ての場所で。…我々は、一つの典型として鍛冶屋を取り上げよう。もし詩人が正しいならば、鍛冶屋ほど、心暖かく、陽気な人はいない。彼は朝早く起き、太陽が光を広げる前に火花を打ち出す。彼は、他の人には見られない程、食べ、飲み、そして眠る。彼が、事実、適度に働くならば、肉体的に云えば、最良の人間の位置にいる者の一人である。しかし、彼の後に付いて市や町まで行けば、そこに、我々はこの強き男の上に覆いかぶさる仕事の重圧を見る。そして、彼の国の死亡率における彼の位置が、どのようなものであるかを見る。メアリルボーン(ロンドン北西約4kmにある地区)では、鍛冶屋が年1,000人に、31人の割合で、死ぬ。別な言い方をすれば、成人男子のこの国全体の平均死亡率に較べて11人も上回る。この職業は、人間の活動としては全く自然なもので、人間の行う製造業の一分野としても異議を挟むこともないものであるが、それが、単なる労働の過重によって、人間を破壊することになる。彼は、日にかなりの回数で鉄を打ち、かなりの歩数で動き回り、かなりの回数の呼吸をする、そして、平均的に長生きし、50歳に至ることができる。彼は、もう少し余計に打ち、もう少し余計に歩き、もう少し余計に呼吸することで、合わせて、彼の人生の1/4分を余計に増加するよう仕向けられる。その努力に見合う、その結果は、限られた時間の中で、1/4多い労働によって、それだけ多い生産をなす。そして50歳に達せず、37歳で死ぬ。」 
第四節 昼間労働と夜間労働交替制

 

(1)剰余価値創造視点から見れば、不変資本、生産手段は、労働を吸収するために存在するのみである。労働の全ての一滴とともに、それに比例する量の剰余労働をも吸収する。もし、それらが、このことをなさず、単なる存在に過ぎないものであるならば、資本家にとっては、相対的な損失となる。休んで横になっている間は、役にもたたない前貸し資本を意味することになるからである。そして、この損失は明白かつ絶対的なものになる。それらの活用の中断が、作業を再開するに及んで、追加的な支出を余儀なくされるからである。労働日の自然日の限界を超えた延長、夜間へと突入させること、は、その唯一の鎮痛剤となる。だが、生きた労働の血に対するバンパイヤーの渇望をただ僅かに鎮めるにすぎない。かくて、日の全24時間の労働の占有が、資本主義的生産の固有の性向となる。しかし、同一個人の労働力を昼間と同様に夜間も連続して搾取することは、肉体的に不可能である。この肉体的な障害条件を克服するためには、昼間に使い果たされる労働者の労働力と夜間に使用される者のそれとの間で、交替が必要となる。この交替は、様々な方法によって、いろいろな形で実施されよう。例えば、ある労働者たちは、ある週は、昼間の労働者として雇用され、次の週は夜間の労働者として雇用されるように調整される。これは、リレーシステムとしてよく知られているものである。この二つの労働者達のセットの交替制が、英国綿製造業の若き血気盛んな時代においては、圧倒的に用いられた方法であった。そして、現在でも、依然として、随所に用いられており、モスコー地域の綿紡績業では支配的である。この24時間生産過程は、今日でもシステムとして存在している。依然として「自由な」大英帝国の多くの製造部門、イングランド、ウエールズ、そしてスコットランドの、溶鉱炉、鍛造工場、圧延工場、その他の冶金工場に存在している。ここでの労働時間は、6労働日の24時間の他に、多くの場合、日曜日の24時間を含んでいる。労働者は、男子と婦人、成人と男女の子供たちからなっている。子供たちや少年少女たちの年齢は、8歳から、(場合によっては、6歳から)18歳までの間、あらゆる年齢の者がいる。
(2)ある製造部門では、少女も婦人も、男子といっしょに、夜間を通して働く。
本文注 / 「スタッフォードシャーでも、南ウェールズでも、若い少女たちや婦人達は、採炭立て坑口やコークスの貯留処で、昼間のみではなく、夜間も雇用されている。この慣習については、英国議会に提出される報告書でたびたび、非常に悪質な弊害が伴うものとして、警告されている。これらの女性達は、男どもと一緒に、雇用されており、彼女らの服装からは殆どその見分けもつかない。泥や煤で汚れており、彼女達は女性らしい仕事から隔てられていて、自尊心を喪失しており、女性らしい性格が欠落しているように見える。」(児童の雇用に関する調査委員会第四次報告書ロンドン1865)ガラス工場における労働も同様である。
(3)夜間労働による、一般的と云える有害な影響を脇にどけたとすれば、破られることなき24時間継続する生産過程は、通常の労働日の制約を超す絶好の機会を提供する。例えば、既述の産業部門では、特に疲労度が高い部門であるが、公式の労働日は夜だろうが、昼だろうが、それぞれの労働者には通常、12時間である。だが、この量を超える超過労働は、多くの場合、英国の公式報告の言葉を使って云えば、「恐るべきもの以外のなにものでもない。」
本文注 / 子供たちを夜間労働に雇用するある一人の製鋼業者は、この様に云う。「夜間労働する少年たちは、昼間眠ったり、また適当な休息を得ることができなくとも、なんとかやっていける、ように見える。」(児童の雇用に関する調査委員会第四次報告書ロンドン1865)ある医師は、少年の成長と体の維持に関する太陽光の重要性について、次の様に書いている。「光は、また、直接的に身体の組織を堅固にし、かつ弾力性を加える作用をなす。動物の筋肉は、適当な量の光を奪われると、軟化し、かつ弾力性をなくす。神経組織も、光の刺激の欠如から、その感度を失い、あらゆる成長への協調が阻害される。…子供たちの場合は、常に、日中は、沢山の光に触れていることが、そして、その中の相当部分が、直射する太陽光線に触れていることが、健康にとって、最も重要なのである。光は、順応性を持つ良き血液への凝結を助け、繊維が形成された後には、それを堅固にする。また、光は、各器官を刺激する役割を果たす。このことは、様々な大脳機能により活動的なものをもたらすこととなる。」この一節はウォセスター総合病院の先任医師W.ストレンジ博士の「健康」1984から引用されたものであるが、調査委員会の一メンバーであるホワイト氏への手紙に書かれた。「私は、以前、ランカシャーで、夜間労働の子供たちへの影響について観察する機会を持ったことがあるが、私は、次の様に云うことを躊躇しない。何人かの雇用主がその実態を擁護するかのように言い張るに反して、子供たちは直ぐに彼等の健康を損なうことに直面させられる。」(第四次報告書1865)この様な問題が、重大な議論の材料に並ぶことこそ、資本主義的生産が、資本家等やその家来等の頭脳機能を、どのようにおかしなものにするかよく分かるというものである。
(4)「それは不可能である。」と報告書は続ける。「9歳から12歳の少年たちによって行われる、次の文章に記されているような過重労働がどんなものかを思い描くのは、誰にとっても、不可能である。…両親らや雇用主らによるこのような力の乱用は、これ以上存在することを許されるべきものではない、という押さえがたい結論に到達することなしには。」(第四次報告書1865)
(5)「少年たちの労働を、通常的な方法として、または忙しい時の方法であるとを問わず、昼夜交替で実施することは、過度に長い時間の労働を、定常的なものとする扉を、避けようもなく開けることになる。これらの長時間労働は、明らかに、ある場合には、子供たちにとって、残酷であるばかりでなく、信じられない程の長さになっている。当然のことだが、多くの少年たちの中には、何らかの理由で、一人ならず、それ以上の者が、仕事を休むことがある。そうなれば、それらの欠勤を補充することになるが、そのため、何人かは、交替番を超えて、働くことになる。このことは、当たり前のことと、よく知られているシステムである。…交替番の少年たちが、欠勤した場合、どのように対処するのかと、私が、大きな圧延工場の支配人に尋ねた時、彼は「私は、恐らく、あなたがよく知っているのと同じことをするでしょうね、旦那。」と、この事実を認めた。」(第四次報告書1865)
(6)「正規の時間は、午前6時から午後5時半までとなっているある圧延工場で、ある一人の少年は毎週の4夜、少なくとも午後8時半まで働いた。…このことが6ヶ月間続いた。また、別の少年は、9歳の時、時々、12時間交替を3回分続けたことがあり、10歳の時は、二日二晩連続したことがあった。」第三の少年は、「現在10歳、…朝6時から夜12時まで三晩、そして他の日は午後9時まで。」「別の少年、現在13歳、夜6時から次の日の正午12時まで働いた、一週間すべてで。そして、時々は、交替3回分をまるまる通して働いた、例えば、月曜日の朝から火曜日の夜まで。」「別の、現在12歳、ステーブリーのある鋳造工場で、朝6時から夜12時まで、ここ2週間働いた、これ以上はもう続けられない。」「ジョージアリンズワース現在9歳、地下貯蔵室係のボーイとして、金曜日にここに来た。翌朝3時に仕事を始めなければならなかったため、僕はここに夜中留まった。家は5マイル程離れている。溶鉱炉の上の床で寝た。エプロンを敷き、ぢょこっとジャケットを被って寝た。他の2日も、朝6時に来た。そう!ここは熱い所だ。僕は、ここに来る前、1年ぐらい、この地域のある工場で、同じ仕事をした。そこでも同じで、土曜日の朝3時に仕事が始まった。−いつもそうだった。しかし、家が非常に着く[近く]、家で寝ることができた。別の日、僕は、6時に始めた。そして、夕方6時か7時にやっと貰えた。」他云々。
本文注 / 同上報告書。これらの「労働力」の学力に欠ける程度は当然とはいえ、以下のような、委員会メンバーの一人との対話に表れるものとならざるを得ない。ジェレミアーハインズ12歳−「4の4倍は8、4つの4は16。王は、彼を、彼に全ての貨幣と黄金を持つ。我々はエー・ジェイ王(王妃のことを云っている)を持つ。人々は彼女をアレクサンドラ王女と呼ぶ。彼女は王妃の息子と結婚していると云われている。王妃の息子はアレクサンドラ王女である。王女は男である。」ウィリアムターナー12歳−「英国には住んでいない。それはある地方のこととは思うが、前はそれも知らなかった。」ジョンモリス14歳−「神が世界を作ったと云うのを聞いたことがある。そして、一人を除いて、全ての人々が溺れて死んでしまったと云うのも。その一人が小さな鳥であったというのも聞いたことがある。」ウィリアムスミス15歳−「神は男を作り、男が女を作った。」エドワードティラー15歳−「ロンドンのことは知らない。」ヘンリーマシューマン17歳−「教会には行ったことがある、最近は殆ど行っていない。彼等の説教に出てくる一人は、イエスキリストである。他の人の名を云うことはできない。そして、彼についても何も話すえない。彼は殺されてはいなかった。そうではなく、他の人々と同じように死んだ。ある点で、彼は、他の人々と同じではなかった。なぜならば、彼はある点で信心深く、他の者はそうではなかったからである。(第四次報告書1865訳者注)
「悪魔は、良い人である。彼が何処に住んでいるかは知らない。」「キリストは、邪悪な人間である。」「この少女は、Godをdogとつづった。そして、女王の名前は知らなかった。」(第五次報告書1866)この同じシステムは、ガラス工場でも、製紙工場でも、冶金工場、すでに触れているが、と同様に行われている。製紙工場では、機械で紙が作られる所では、禁忌物除去工程を除いて、子供の労働が全工程で常用されている。ある場合では、交替制による夜間労働が全週に渡って、絶え間もなく遂行されている。通常、日曜日の夜から、次の土曜日の真夜中直前まで続く。ここでは、昼の作業で12時間が5日、18時間が1日とあるが、子供たちは、毎週、12時間が5夜、6時間が1夜である。他の場合では、それぞれの交替番が、次の日まで連続する24時間を働く。ある番は、月曜日に6時間が予定され、土曜日に18時間が組まれていて、計24時間となる。他の場合では、その中間的なシステムが横行しており、製紙工場に雇用される者は、週の毎日を15または16時間働く。このシステムについて、調査委員のロードは、こう云う。「12時間交替と24時間交替の悪いところを全て合わせたようなものである。」と。13歳以下の子供たち、18歳以下の若者、そして女性たちがこの夜間労働システムで働く。往々にして、12時間交替システムでは、彼等彼女等は、自身を回復させるために姿を見せなかった者の代わりに、二番続けて24時間仕事をすることを強いられた。少年少女たちはたびたび超過労働していることを証拠が証明している。たまにはでなく、24時間または36時間もの中断なき労役へと延長していく。連続する単調な釉薬工程で、12歳の少女が、まるまる1ヶ月間日14時間働くのが見出された。「食事ごとの2回の、多くても3回の半時間の通常の休憩や、中休みすらなしに。」通常の夜間労働を全面的に止めたある工場では、超過労働が恐ろしい程、延長するところとなった。「そして、そこは、大抵は、最も汚く、最も熱く、最も単調な様々な工程なのである。」(第四次報告書1865)
(7)さて、今度は、資本なるものが、この24時間システムをどのように見ているかを聞いてみよう。このシステムの極端な実状、「残酷にして信じがたい」労働日の拡大化の乱用については、沈黙のうちに、当たり前のように、通り過ぎる。資本は、ただ、このシステムについて、「正常」なものであると語るだけである。
(8)製鋼業マサーズ ネイラー&ビッカーズ社の、工場主たちは、600人から700人の間の人数を雇っており、そのうちの僅か10%が、18歳以下である。その18歳以下の中の僅か20人を夜間番に組み込んでいるだけであるとして、次のように彼等自身を言い表す。「少年たちは、熱から苦痛を受けることはない。温度は大体華氏86度から90度…鍛造や圧延では、人手は夜も昼も交替制で働く。しかし、他の作業では、昼間の作業であって、そこでは、朝6時から夕方6時までである。鍛造工場では、12時から12時である。ある人手は、常に夜間に働く、昼と夜の作業を交替することはない。…我々は、常に夜働く者と、昼間働く者とに、健康に関しては、なんらの差も見出さない。多分、人は、同じ時間の休息をとることが、その時間がまちまちであるよりも、よく眠ることができるのだろう。…夜間番を働く18歳以下の20人の少年たちについてだが、…18歳以下の若者の夜間労働なしでは、我々はうまくは出来ない。問題となるのは、生産コストの増加であろう。…熟練の人手と全ての部門の頭を揃えるのは困難だが、若者については、我々はいくらでも得られる。…だが、我々が雇っている少年たちの僅かな比率から云うならば、その問題(夜間労働の制限規定)は、我々にとっては、重要なものでもないし、興味もない。」(第四次報告書1865)
(9)製鋼製鉄業マサーズジョンブラウン&カンパニー会社、約3,000人の大人と子供たちを雇用し、製鉄と重製鋼部門の操業においては、昼夜の交替制を敷いているのだが、その工場主の一人であるJ.エリス氏は、「重製鋼作業では、一人または二人の成人男子らに対して、少年一人か二人を雇用している。」と述べた。彼等の事業計画では、18歳以下の少年500人以上を雇用し、そのうちの約1/3、または170人が13歳以下である。法律の変更提案に関する意見として、エリー氏は、「18歳以下の者を、24時間のうち12時間以上働かせるべきではないという要求は、なんとしても反対を申し上げねばならないこととは思わない。しかし、我々は、12歳以上の、夜間労働に用いることができる少年たちに、何らかの線を引くことができるとは思わない。しかし、我々が現在夜間労働に使用している少年たちの雇用が許されないというよりは、13歳または、より上の14歳以下の少年たちを雇用することが遅かれ早かれ、完全に禁止されるであろう。昼間番で働くこの少年たちは、彼等の番が代われば、夜番でも働かねばならない。なぜならば、成人男子らが夜番だけ、働くことは出来ないからで、それでは成人男子らの健康を破滅させるであろう。…とはいえ、我々は、隔週の夜間労働であればなんの害もないと考える。(ネイラー&ビッカーズ社の、工場主たちは、これとは逆に、彼等のビジネス上の利益と思うがゆえに、夜間/昼間労働を定期的に変更することの方が、夜間労働だけの連続よりも害があると配慮したのであった。)我々は、交替制で働く者が、他の仕事を昼間のみ行う者と同じく健康であることを見ている。…18歳以下の少年たちを夜間労働に用いることが許されないということに対する我々の反対は、支出の増加がその理由である。そしてこれが唯一の理由である。(なんとまあ、利己的で、恥ずかしげもなく赤子のようなもの言いで)その増加の負担が、商売を成功させる上での額よりも、多少は耐えうる額よりも、大きいと考える。(なんとまあ、何が云いたいのか分かるような分からんような、馬鹿げた言い回しであることよ)もし、法がそのように決まったら、我々には労働がなくなり、立ち行かない。」(すなわち、エリスブラウン&カンパニーは、労働力の全価値を支払わされるという致命的な困惑に遭遇することになるであろう。)
(10)"夜も眠らぬ一つ目巨人キュクロプスが支配するかのような製鋼製鉄工場"マサーズキャンメル&カンパニー会社の工場は、前述のジョンブラウン&カンパニーと同様、大規模工場である。そこの管理責任者は、政府調査委員のホワイト氏に彼の証言を書面で提出した。後に、訂正のために戻された時、彼はこの文書を再提出しない方がいいのではないかということに気がついた。しかし、ホワイト氏は記憶力が良かった。彼は完璧に正確に、思い出した。少年たちや若年の者らの夜間労働を禁止することは、マサーズキュクロプスにとって、「不可能であり、自分等の商売を止めることと同義語であろう。」そして、あいも変わらず、6%よりわずかに多い18歳以下の少年と、1%より少ない13歳以下の子供たちを雇用する。
(11)同じテーマについて、製鋼圧延及び鍛造工場の、サンダースン兄弟&カンパニー会社の工場主E.F.サンダースン氏は、こう云う。「夜間労働から18歳以下の少年を排除することによって大きな困難が生じるだろう。主な点は、少年たちの代わりに男子成人を雇用することから生じるコストの増大であろう。それがどの程度になるのかは私には云えないが、多分、鋼の価格を工場主達が充分に上げうる程のものとは、ならないであろう。であるから、その結果は、彼等の上にのしかかる。と言うことで、勿論のこと、この人達は(なんとまあ、おかしな頭の持ち主たちよ!)その額を支払うのを拒否するであろう。」サンダースン氏は子供たちに、いくら支払っているのか知りはしないのだが、「おそらく、若い少年たちは、週4シリングから5シリングを得ている。…子供たちの仕事は、一般的に、('一般的'勿論いつもそうではない。)子供たちの力に見合ったもので、それで充分足りるものである。であるから、より大きい力を持つ成年男子を用いることによる損失に見合う利得はない。または、重い金属を扱う稀な場合のみしか見合わない。大人達は、彼等の元に少年たちを持たないのを好まない。なぜって、大人は子供より従順ではないからである。それに加えて、少年たちは、このやり方を学ぶためには、若いときから始めなければならない。昼間の労働だけに少年たちを付けて置くことは、この目的にはそぐわない。」何故そぐわないのか?何故、昼間の作業のみからで、必要な技能を修得できないのか?あなたの答えは?「それは、隔週ごとに、昼/夜を交替する大人達に起因する。大人達は、その半分の時間を少年たちから離されれば、彼等から捻り出す利益の半分を失うであろう。彼等が見習い工に与える訓練が、少年たちの労働のためという見返り余祿の一部となっているからである。だからこそ、大人達は、安い価格で少年たちを連れてくる。大人の誰もが、この半分の利益を欲するからであろう。」他の言葉で云うならば、マサーズサンダースンは、成人男子の賃金を、少年の夜間労働に代わって自分達のポケットからその部分を支払わねばならないだろう。マサーズサンダースンの利益は、ある程度減ることになるが、これが良きサンダースン人の、何故少年たちが彼等の技能熟練を昼間作業から修得することができないかの理由である。
本文注 / 我々の時代、いろいろと振り返ってみたり、論証したりするこの時代では、何事にも適切な理由を付けられない者は、それがいかに悪かろうと、気違いじみていようと、少しも価値がない。悪しき結果に終わるこの世の全ては、最も適切な理由のために、悪しき結果に終わる。(ヘーゲル)
さらに、加えるなら、少年たちに代わって働く大人たちに夜間労働を投げ込むこととなろう。マサーズ等は耐えられないであろう。事実、この困難は非常に大きく、彼等には夜間労働全てを諦めることになるほどではなかろうか。そして、「この仕事に関する限りでは、」とE.F.サンダースンは云う。「それなりにうまくやっていけるだろうが、−」しかし、マサーズサンダースンは、製鋼の他にいろいろとやらなければならないことがある。製鋼業は、単純に、剰余価値づくりの口実に過ぎない。溶鉱炉、圧延工場、等々、建物、機器類、鉄、石炭他等々は、それらを鋼に変換よりも多くの何物かを持っている。それらは剰余価値を吸い取るためにそこに存在している。そして、12時間よりも24時間の方が、ごく当然により多くのそれを吸い取る。事実、それらの道具建てが、神のお恵みと法の名において、そのサンダースン達に、一日の全24時間、相当数の人手の労働時間を記した小切手を与える。そして、それら道具建ての労働を吸収する機能が妨げられやいなや、それらは資本としての性格を失い、すなわち、サンダースン達にとっては、純粋な損失となる。「であるとしても、かなりの高価な機器類の半分がただ無駄に放置されるという損失が生じる。そして現在のシステムができる程の仕事を得るためには、我々は、土地と工場を広げ、二倍にせねばならず、そのためには、二倍の出資が必要となる。」だが、しかし、何故、これらサンダースンたちは、他の資本家が、昼間だけの労働で、建物、機器類、原材料が夜間は"止まっており"、そのうま味がないのに、あたかも自分達には特権があるように云うのだろう?E.F.サンダースンの答えは、全アンダースンたちの名において、「それらの昼間のみの工場は、機器類の無駄な放置による損失を被る、その通りである。しかし、溶鉱炉の使用は、我々の場合、より大きな損失を含んでいる。もし、炉温を維持するなら、燃料の損失であり、(ここには、労働者の命の損失は無くなるが、)また、もし炉温が維持出来なければ、炉温を上げるための追い焚き時間が損失となる。(睡眠時間の損失、8歳の子供たちのそれさえも、サンダースン族のための労働時間の利得と云うのか。)そしてさらに、炉温度の変化による炉の痛みがある。(昼夜交替労働の場合は、この同じ炉が痛まないとでも云うのか。)
本文注 / これと似たような、ガラス製造工場主達の心優しき良心の呵責話は、次のようになる。子供たちの規則正しい食事時間は不可能である。なぜならば、炉から放射されるある一定量の熱が、"純粋なる損失"となるか、"浪費"となると思われるからである。調査委員ホワイトは、これについて実状を記している。彼の記述は、ユアや、シーニョア他のそれとは違って、また、取るに足りない彼等の剽窃者ドイツのラロッシェールのように、資本家の、彼等の、黄金の支出における、"禁欲"、"自制"、"節約"や、また彼等の、チムール帝国並みというべき人の命!の浪費に影響されることもない。「子供たちの食事時間を確保すれば、現状でのいつもの状態と較べれば、ある量の熱は、たしかに失われることになるだろうが、その貨幣価値においては、成長ざかりの子供たちに、くつろぎながら食事をとる充分な静かな時間を与えず、そして消化のための食事後の休息をも与えず、英国中のガラス工場群でやられているよう有様を見れば、そこに生じている人間の力の浪費に匹敵するものとは思えない。」そして、今は進展著しき時代、1865!年なのだ。そのような子供たちは、持ち上げたり、運んだりする力の支出を考えないものとしても、瓶や高密度の光学用フリントガラスを作る小屋の中を、仕事の間、6時間ごとに、15−20マイルを歩く!さらに、仕事は度々、14−15時間も続く!これらのガラス工場は、モスコーの紡績工場と同様に、6時間ごとの交替制が大半なのである。「週の労働時間部分の間、休息のために与えられる時間は、最も長く煩わされない時間としても、一度に6時間なのである。そして、この中から、仕事への行き帰り、洗濯、衣服の手入れ、そして食事の時間をやりくりせねばならぬ。若い少年たちのために必要な睡眠時間分を削ってのことである。特に、このような暑い、消耗の激しい仕事には必要な睡眠時間なのに。休息のための時間は、僅かしか残らない。新鮮な空気や遊びのための時間はない。…その僅かな睡眠も、勿論のことだが、夜は自分自身を仕事のために起こすことで、昼は騒音で邪魔される。」ホワイト氏は、一少年が、連続36時間働いたケースを取り上げる。また他に、12歳の少年たちが朝の2時まで働き続け、そして彼等の次の仕事に戻るまでの、朝5時まで、(3時間!)工場内で寝たというケースも取り上げる。「仕事の量は、」一般報告書の下書きを書くトレメンヘアーとタフネルは、こう書いている。「各少年、若者、少女、婦人たちによってなされる、彼等の昼または夜のひとつながりの労働の量は、まさに、通常のものとは思えない程のものである。」その一方で、夜遅く、自制的なガラス資本氏は、ポルトガル産のワインを腹に納めて、いつものクラブからよろめきいでて、家路へと操り人形さながらにふらつきながら、「ブリトン人は、決してローマの奴隷になるべきではない!」とのたまう。 
第五節 標準的な労働日のための闘争

 

 14世紀中頃から17世紀末にかけての、労働日拡張のための強制的な法律
(1)「労働日とは何か?資本家が購入した労働力の価値を、どの程度の時間的長さの間、消費することが許されるのか?労働力そのものの再生産のために必要な時間を越えて、どの程度まで労働時間の拡張が許されると言うのか?」これらの質問に対する資本家の答えるところは、すでに見てきたように、次のようなものである。すなわち、労働日は全24時間を意味する。それなくしては、労働力がその活用を絶対的に拒否する、僅かな休息の時間を控除はするが。であるから、労働者は、彼の全生活全時間を通して、労働力以外のなにものでもないことは自明である。であるから、彼が持っている時間は、ごく当たり前のこととして、法的な労働時間としても、資本の自己拡大のために捧げられたものである。学習のための時間、教養充実のため、社会的な役割のため、社交のため、自身の肉体的精神的な活動としての自由な遊びのため、日曜日の安息のため(そして、それがなんと、安息日を厳粛に守るキリスト教徒の国なのに!)の時間は、月明かりのごとき代物、どうでもいいことである。
本文注 / 英国では、現在でも、農業地域で、労働者が自分の家の前の庭仕事をしただけで、安息日を冒涜したとして、投獄の刑を受ける。同じ労働者が、もし、彼が働く、金属、紙またはガラス工場に、日曜日に出勤しなかったならば、例えそれが宗教的な発心からであったとしても、契約違反として罰せられる。この古き伝統を守る議会には、それがもし、資本拡大過程で起こった、安息日破りに関してならば、何も聞こえないのであろう。ある陳情書(1863年夏)では、魚店や鶏肉店の日雇い労働者が、日曜日の労働の廃止を要求している。そして、彼等の仕事が週日は平均15時間、日曜日は8-10時間であると述べている。同じ陳情書から、我々はまた、次のようなことを知る。エクゼターホールの貴族的偽善者の中のとてもグルメな者達が、特にこの「日曜労働」を支持している。これらの「神聖なる者達」は、それは熱心に、彼等の肉体的楽しみを求め、他人の過重労働、窮乏、飢餓には耐えるという謙虚さをもって、彼等のキリスト教徒らしい信仰を表す。大食は、労働者等の胃をよりひどく痛めると、古代ローマの詩人ホラチウスの章句を歪曲する。
まさに、資本の盲目的で抑制の効かない、剰余労働への狼人間的渇望をもって、道徳的範囲を越えるのみではなく、労働日としての、単に肉体的な限界のギリギリの範囲すらも踏み越える。それは、成長のための時間をも、発達のための時間をも、体の健康維持の時間をも強奪する。それは、新鮮な大気や日光に当たるために必要な時間をも盗む。それは、食事時間を値切り、しかもそれを生産過程そのものにできる限り組み込む。かくて、労働者に対する食事は、ボイラーに石炭を放り込むのと同じく、機器類にグリースを塗り、油を注すように、単なる生産手段に施されるものとなる。それは、麻痺するまでに至った肉体的活力の回復のために必要な、それを補い、刷新するために必要な、絶対的に消耗しきった生体組織の再生のために必須の、深い睡眠をむさぼりくすねる。労働日の限界を決めるものは、労働力の通常的な維持ではなく、労働力の日最大限の支出可能性がそれを決める。例えそれがどんなに病的であり、強制的であり、苦痛に満ちたものであろうともである。それはまた、労働者の休息時間の限界をも決めている。資本は、労働力の寿命についてはなんの関心も持たない。気づかうことは単純かつ唯一、労働日において潤沢に使うことができる最大限の労働力だけである。結果として、労働者の生命を短縮する。それは、丁度、貪欲な農夫が、土壌からより収穫を増やそうと、その肥沃土を台無しにするがごとくである。
(2)資本主義的生産様式(本質的に、剰余価値の生産、剰余労働の吸収そのものである)は、労働日の拡張をもって、人間の労働力の発展と機能の一般的、道徳的かつ肉体的条件を人間の労働力から盗み取り、人間の労働力を低下させるだけではなく、労働力そのものの早期の消耗と死をも生産する。
本文注 / 「我々は、我々の以前の報告書に、何人かの経験のある工場主達が、超過時間労働の結果について述べているところを、書いている。…明らかに、人の労働力を早期に喪失する傾向がある。」(第四次報告書1865)
それは、労働者の実際の生命時間を短くすることによって、ある与えられた時間内の労働者の生産時間を延長している。
(3)とはいえ、労働力の価値は、その商品の、つまり労働者の再生産に必要な価値を含んでいる。または、労働者階級の維持のためのものを含んでいる。もしそう言うことであるならば、労働日の不自然な延長は、資本が自己拡大のためへの無限の渇望を追って、必然的に奮闘するものとはいえ、労働者個々の命の長さを縮め、それゆえ、労働力の使用期間をも縮めるのであるから、より頻繁に置き換えを強いられるところとなる。そして、労働力の再生産のための支出総額もより大きな額となるであろう。丁度、機械の価値を毎日より大きく再生産することにすれば、機械はより早く磨耗させられる。従って、資本自身の利益としては、通常の労働日へとその視線方向を向けるように思われる。
(4)奴隷所有者は、彼の労働者を、彼の馬を買うかのように、買う。もし、彼が彼の奴隷を失うならば、彼は奴隷市場で新たな支出によって、補填する分の資本を失う。
(5)だが、「ジョージアの米作沼地、またはミシシッピーの沼沢地は、人間の健康にとっては、致命的な性状をもっているやもしれないが、このような地域を耕すためには、人間の生命の消耗も必要であり、バージニアやケンタッキーの地が持っている豊穣から補填できないほどの、大きなものでもない。さらに、経済を考慮すれば、奴隷所有当初においては、奴隷の保持と所有主の利益が一致するため、思いやりのある取り扱いにいくらかの保証を与えるが、一旦奴隷売買があたりまえとなれば、それが、奴隷労働を最大限積み上げるための理由となる。なぜならば、奴隷は直ぐに外国領地から供給されて、置き換えることができ、その生産性がどの程度に達するかに較べれば、奴隷の生命の期間などはどうでもいい程度のものとなる。奴隷輸入国の奴隷使用にかかる格言によれば、もっとも効果的な経済とは、最も短時間内に、できるかぎりの方法によって、人間家財をして最大限の量の働きをさせるかにある。熱帯耕地では、たびたび年の利益が、当該農場への投資総額に匹敵し、黒人の生命は、最もでたらめに放棄された。西インドの農業は、数世紀にわたって信じられないほどの富をもたらした。そして、それは、数百万のアフリカ人を飲み込んだ。キューバでは、当時、その収益は、数百万を数え、そこの農場主は君主であり、奴隷階級は、粗悪極まる食料、最も疲弊しており、絶え間のない労働で、毎年その大部分の者が絶滅された。(ケアンズ"奴隷力")
(6)この話は、あなたのこと。(ラテン語古代ローマの詩人ホラチウスの章句)奴隷売買を労働市場と、ケンタッキーとバージニアをアイルランドや英国の農業地域、スコットランドやウェールズと、アフリカをドイツと読む。我々は、いかに超過労働がロンドンの製パン業で働く者達をやせ細らせたかを知っているが、にもかかわらず、ロンドンの労働市場はいつも、製パン業者で死亡を望むドイツ人他の志望者の過剰待機者で溢れている。製陶業は、我々が見たように、労働者が最も短命である製造業種の一つである。が、そこにそれゆえ、製陶工場で働く者達の不足があるか?近代的な製陶方法の発明者である、ジョシァウェッジウッド、彼自身元は普通の労働者であったが、1785年、下院で、この業界全体では、15,000人から20,000人の人々を雇用している。と語った。1861年の大英帝国のこれらの業者が町の中心にある地域の人口は101,302人である。
(7)「綿関係の業界は、90年も存在し続けている。…それは、イギリス人の三世代もの間存在し続けている。そして、私は確信しているが、充分に余裕を見ても、次のように云うことが許されるものと思う。この間に、九世代の工場労働者を使い捨てたと。」(1863年4月27日の下院におけるフェランドの演説)
(8)確かに、熱狂的な活気を呈したある時代には、労働市場が明らかに枯渇を示したことは疑いもない。例えば、1834年である。が、その時、製造業者達は、救貧法委員会に、農業地域の「余剰人口」を北に送り出すべきであると、「製造業者達が、それらを完全に吸収して使用する」との説明を付けて、申し入れをした。(これらの言葉は、綿製造業者達によって書かれたそのままのものである。)
(9)救貧法委員会の同意により、代理人が任命された。マンチェスターに、事務所が設置され、そこに、雇用を希望する農業地域の労働者のリストが送られ、彼等の名前が登録された。製造業者達は、これらの事務所にやって来て、彼等の選択によって、適当と思われる者を選んだ。「必要なる要望」としてそれらの者を選ぶと、マンチェスターに、できるだけ早くその者が来るようにと、なんのことはない、ただ指示書を書いた。その者たちは、品物の包みのごとくその案内書を与えられて送り出された。運河や、荷車や、その他の者は道を歩いて、そして多くの者は、行く先不明で、半分飢えた状態で、途中で、見つけられた。このシステムは、後に成長し、恒常的な商売となった。下院議会にとっては、信じがたいものと思われるが、私に云わせれば、この人身商売は長く維持され、その結果として、それらの者たちが当たり前に、これらの[マンチェスター]の製造業者達の元へと、あたかも奴隷が合衆国の綿耕作地に売られるがごとく、1860年の「綿関連業種の好況に沸き返る」場所に売られたのである。…製造業者達は、再び、手が足りないことに直面した。…彼等は、彼等が人身屋と呼んだ方式を採用した。これらの代理人が英国南部・東南部や、ドウセットシャーの牧草地や、デボンシャーの沼沢地や、ウイルシャーの雌牛を飼育する人々の所に送られたが、彼等代理人は、誰も見出すことができなかった。余剰人口は「吸収」されつくされていた。
(10)バーリィガーディアン紙は、対フランス条約締結に際して、「追加的な10,000人の人手がランカシャーに吸収されるだろう、そして30,000人から40,000人が必要となるだろう。」と書いた。「人身屋やその下請け人」が、農業地域をくまなく無駄に回った後では、尚更である。
(11)代表が、ロンドンにやって来て、まさに正しき場所、名誉ある紳士、[ウ゛ィリアーズ氏、救貧院評議会の理事長]の所に、おもむいた。ある英国救貧院施設から貧しい子供たちをランカシャーの工場へと獲得する目論見を持ったからである。
本文注 / ウ゛ィリアーズ氏は、彼の立場において、最良の意図を持っていたとしても、「法律上」は、これらの製造業者の要望を断る義務があった。しかしながら、紳士諸君は、地方の救貧院評議会の当然の法律上の手続きを経て彼等の目的を達した。A.レッドグレーブ氏、工場査察官は、今回は、孤児や困窮者の子供たちは、「法律上」の、見習い工として、「昔のような乱用を伴うものではなかった」と、(この乱用については、エンゲルスの著作「労働者階級の状態」を)とはいえ、確かに「このシステムの乱用が、スコットランドの農業地域からランカシャーやチェッシャーに連れてこられた少女たちや若い女性たちの場合」にあったけれども、と主張する。このシステム下においては、製造業者達は、救貧院当局との間で、一定期間を定めた契約を交わす。契約の一方は、子供たちに、食事を与え、衣服を給し、宿舎を提供する。そして彼等たちに小額とはいえ貨幣による給与を出す。このレッドグレーブ氏の記述部分は、そのまま見れば奇妙である。特に、もし、我々が、イギリスの綿商売が繁栄の時期にあり、1860年は、前代未聞の好景気の時期であって、その上、賃金は異例の高さにあったことを考えても、このような契約はありえないのではと。この商売における異常とも云える人手の要望は、ちょうどアイルランドの人口減少とも、イギリスやスコットランドからオーストラリアやアメリカへの前例のない規模の移民とも、いくつもの英国農業地域の現実に起こっている人口減少とも直面した。一つは、労働者の活力ある力量を実際に、打ち壊したからでもあり、一つは、人身屋がすでに、使い捨てできうる人口を食い散らした結果である。このような状況にもかかわらず、レッドグレーブ氏は、「しかしながら、この種類の労働者は、その高価な労働者として、他の様々な策が尽きた後で探し出すべきものであろう。通常13歳の少年の賃金は、週4シリングである。しかし、50人から100人の少年のための、宿舎、衣服、食事、そして医療的な看視、そして適切な管理、そしてその他にそれなりの報酬をというならば、一人当り週当り4シリングではでは出来ない話である。」と、さらに奇妙な報告を書いている。(工場査察官報告書1860年4月30日)レッドグレーブ氏は、労働者が彼の見習いに対して、子供たちの週4シリングなる賃金で、できることがなんなのかを我々に説明するのを忘れている。製造業者が50人または100人の子供たちに対して宿舎とか、まかないとか、監督指導とかの諸々を成し得ない時に、見習い預かりの労働者にできるはずがないのに。テキストから間違った結論に至るのを防ぐために、私は、ここに、英国綿産業の事情について書かねばならない。1850年の労働時間の規制他を定めた工場法のもとに置かれ、英国の模範的産業として注目されねばならない存在なのである。英国綿産業の職工は、惨めな状況にある大陸の仲間に較べれば、遥かによき存在として注目を集めている。「プロシャの工場で作業に従事する労働者は、少なくとも週10時間英国の競争相手に較べて長く働いている。もし、彼の家で、自分の織機で働く条件の雇用者であるなら、彼の労働はさらなる追加的時間を縛られることなく働くことになる。(工場査察官報告書1855年10月31日)レッドグレーブ、工場査察官は、1851年の産業博覧会のあと、大陸各国を旅行した後、特にフランスとドイツを、工場各所の状況を調査する目的のために、回った後に、上記のように述べた。プロシャの職工について、彼は、こう云った。「彼は、質素な暮らしをなんとか維持するに足る、そして慣らされたところの細き安らぎをなんとか満たすに足る報酬を得る。…彼は粗悪な暮らしをし、そして猛烈に働く。彼の状況は、英国の職工よりも劣悪である。」(工場査察官報告書1855年10月31日)
(12)これらの経験が資本家に示すものは、一般的に、不断の過剰人口である。それは、余剰労働を吸収しつつある資本のいつもの要求との関係における過剰ということである。だが、この過剰は、発育不全で、短命で、直ぐに互いに取り替えられ、もぎ取られた、いわば成熟前のということだが、の各世代の人間種から成り立っている。
本文注 / 超過労働で、「多くの者は、異常とも云える速さで死ぬ。しかし亡くなった者の場所は、瞬時に満たされる。そのように、人々の頻繁な入れ換えがあっても、その情景にはなんの変更も生じない。」(E.G.ウォークフィールド1833ロンドン「イングランドとアメリカ」)
そして、はっきりと、これらの経験が、知識を有する観察者に、資本主義的生産様式が、人間史で云うならば、その日付はつい昨日からのことだが、人々を根源的に、あっという間に、強烈な握力で、捉えたことを教えている。−また、恒常的に、地方から、素朴で肉体的に痛んでいない人々を吸収することによって、工業人口の退化をいかに遅らすことができたかを示している。−また、新鮮な大気と自然淘汰の法則をして、彼等の内で、力強く働く者の中から、最も強き者のみの生存を許すという地方からの労働者ですら、すでに次々と死んでいく状況を知らしめている。
本文注 / 「公衆衛生枢密院医務官第六次報告書、1863年」ロンドン1864年発行を見よ。この報告書は、特に、農業労働者のことを取り上げている。「サザーランド…は、通常、非常に良く改良された州を代表する…が…かっては、良質で勇敢な兵士を輩出するとして有名であったが、そこですら、住民が貧弱で、発育不全の人種であることが、最近の調査で発見された。この健康的な場所、海に面する丘で、飢えた子供たちは、あたかもロンドンの裏道の不潔な空気の中にいるかのように、青白い。(W.Th.ソーントン過剰人口とその治療法)彼等は、事実、グラスゴーの横町に豚が押し込まれるがごとくして、淫売・泥棒と一緒にいる3万の「勇敢なるスコットランド高地人」に似ている。
資本の周囲に居る労働者の隊列の苦労などありはしないと云うためのご立派な言い分を持っている資本家は、早晩訪れるであろう人類の衰退や究極的な人口喪失を目の当たりにしても、実際になにをどうするのか、しないのかは、まるで、地球がいずれ太陽に落下するお話を聞くがごとくである。我世を去りし後に、洪水よ来たれ!(フランス語イタリック)なる亡言こそ、ありとあらゆる資本家とありとあらゆる資本主義国家が腹のなかで思っていることである。以来資本家は、社会からの強制が無い限り、労働者の健康や命の長さについては、気にもしない。
本文注 / 「国家の資本にとっても、事実、人々の健康は非常に重要であるにも係わらず、残念ながら、我々は次のように云わざるを得ない。労働者を雇用する者達の階級は、この宝を守り、大切にするつもりが全くない。….職工たちの健康に配慮することが、工場主に強制された。」(タイムズ紙1861年11月5日)「ウエストライデングの人々は、人類の毛織物製造業者となった。….人類の労働者の健康は、犠牲となった。そして、人類が僅か2-3世代で、退化してしまうに違いない。ところがそこに反動が現われた。シャフツベリー卿の法案が、児童労働の時間を制限した。」云々。(1861年10月度の戸籍本署長官の報告書)
肉体的、かつ精神的な退化、早過ぎる死、超過労働の苦しみからの抗議に対する資本の解答は、それが我々の利益を増大させるものなのに、それがなぜ、我々を悩ませるものであるべきなのか?ただ、全体としてこれらの対応を見るならば、明らかに、それらが、個々の資本家の良きあるいは悪しき意志に依存していると云うものではない。自由競争という資本主義的生産の避け得ぬ法則がもたらすものが、強圧的外部法則の形で、全ての個々の資本家に作用するからである。
本文注 / 我々は、それゆえ、以下のことを見つけた。1863年の初めの頃、スタッフォードシャーに広く製陶工場を所有する26の会社の中の一つである、ヨシアウェッジウッド父子会社が、「いくつかの法律の制定」を求めて、請願書を提出した。他の資本家達との競争が、自分なりに子供たちの労働時間を制限すること他を許さない。製造業者間で、協定を設ける枠組みでは、前にもこの弊害について多くの遺憾を述べたが、子供たちの労働時間制限他を守ることはできない。….これらの全ての点を考慮して、我々は、いくつかの法律の制定こそ我々の求めるものと確信した。(児童雇用調査委員会第1次報告書1863年)最近になって、より衝撃的な例が表れた。熱狂的な好景気で綿価格の急上昇が見られたことが、ブラックバーンの紡績業者達の互いの同意に基づく、ある一定期間、彼等の工場の労働時間を短縮する事態を引き起こした。この期間は、1871年11月の末に終了した。この間、紡績と織機を合わせ持つ裕福な工場主達は、この協定による減産を利用して、彼等自身の商売を拡張し、小さな雇用主の犠牲の上に、大きな利益をむさぼったのである。小さな雇用主達は、直ぐに、職工たちに対する、彼等の矛先を変えて、職工達に、熱心に、9時間労働を掲げて戦うようにと説いたのである。そして、その成立まで資金的に支援すると約束したのであった。
(13)標準労働時間の確立は、数世紀にわたる資本家と労働者の闘争の結果である。この闘争の歴史は、二つの対照的な違いを見せる。すなわち、我々の時代の英国の工場法と、14世紀から18世紀の中頃にまで至る間の英国労働法令とを比較してみよ。
本文注 / 英国労働法規は、似たようなものが、同時期フランスやオランダ他でも制定されたが、生産方法の変化が、それらを意味のないものにしてしまったずーっと後になって、英国では1813年になってやっと正式に廃止された。
近代工場法は労働日を強制的に短縮するのに対して、初期の法令はそれを無理やりに延長しようとしたものである。勿論、萌芽時点の資本の要求で、−成長を始めた頃、資本が、充分な量の剰余労働を吸収する権利を確実にしようとしたもので、経済的諸関係の力のみではなく、国家の助けによっても、それを果たそうとしたものである。−最初に表れた時は、控えめなもので、譲歩をもって相手とあい対峙したものが、不満になり、傲慢になり、成熟の状態へと成長したに違いないのである。数世紀の間、「自由な」労働者が、資本主義的生産の発展に感謝して合意したものが、社会的条件によって、覆されてしまった。彼の生きて活動する人生を、彼の働くあらゆる能力を、彼の生活必需品の価格のために売ることで、彼の生まれ持った権利を目茶苦茶にされた。言うなれば、14世紀から17世紀の終りに至るまで、資本が国家手段を用いて、成人労働者に負わそうとした労働日の延長と、19世紀後半で、このように、国家によって、子供たちの血を資本の鋳貨とするのを防止するために、労働日を短縮しようとしたこととは、まさに、表裏一体の関係で、当然の成り行きというものである。つまり、こう言うことである。今日、今までのところ、最も自由な北米共和国の州であるマサチュセッツ州が、12歳未満の子供たちの労働の制限を宣言したが、これは、英国の、17世紀中頃にすらあった、身体強健な工芸職人とか、頑丈な農耕労働者や、筋肉たくましき鍛冶屋達の標準労働日であった。
本文注 / 「12歳未満の者を、いかなる製造工場においても、1日当り10時間を超えて雇用することがあってはならない。」マサチュセッツ州一般法令63第12章(様々な法令が、1836年から1858年にかけて、議決された。)「当州内においては、いかなる日であれ、10時間の間になされる労働が、綿、羊毛、絹、紙、ガラス、亜麻の工場であれ、鉄や真鍮の製造工場であれ、法的な日労働でなければならない。法令制定により、以後、いかなる日であろうと、いかなる工場であろうと、未成年者に10時間を超えて、また週60時間を超えて、働くよう強要したり、拘束したりして仕事に従事させてはならない。また、以後、いかなる工場であれ、10歳未満の未成年者を労働者として用いてはならない。」ニュージャージー州労働時間の制限法他第1節及び第2節(1851年3月18日付けの法)「12歳以上かつ15歳未満の未成年者を、いかなる製造工場であれ、いかなる日であれ、11時間を超えて雇用したり、または朝の5時前や、夕方7時半以後に雇用したりしてはならない。」(「改正法令ロードアイランド州」他第139章第23節1857年7月1日)
(14)最初の「労働者法令」(エドワード三世在位第23年1349年)は、その成立の直接的な口実として、大きな疫病が、人々を減少させたためであるとする。(口実が消滅した後も、数世紀にわたって、この種の法令が存続したのであるから、存立理由とは云えない。)すなわち、トーリー党の書き手が云うように、「適切な価格で人を仕事に得ようとする困難性が、耐えられない程度に大きくなってしまった。」(適切な剰余労働の量を得ようとする雇用者の算段から、その価格が離れてしまったということである。)
本文注 / 「自由取引の詭弁」第7版ロンドン1850及び9版で、この同じトーリー党員は、さらに、次のように認めている。「賃金を規制する議会法は、労働者に対しては不利に、雇用主には有利なものだが、464年の長期間存続した。人口も増大し、やがて、この法令は、事実上、不必要で、やっかいなものになってしまった。」
合理的な賃金は、従って、労働日の制限と同様に、法令によって決められた。後者の労働日の制限が、ここでは我々のただ一つの関心事であるが、1496年の法令(ヘンリー七世)によっても、繰り返された。手工業職人や農耕労働者に対する労働日は、3月から9月まで、法に従えば、(とはいえ、強制できるものではなかったが)朝の5時から、夕方の7-8時までの間である。それでも、食事時間として、朝食に1時間、夕食に1時間半、「昼食」に半時間があり、これは、工場法が今日規定しているものに較べて、正確に2倍あった。
本文注 / この法令について、J.ウェードは、まさしくも、次のように述べている。「上記の記述から、(法令のことを指している)1496年では、日常の食事に係る費用は、手工業職人の収入の1/3と、農耕労働者の収入の1/2と等価であると考えられており、現在の状況に較べて、労働者階級にはより大きな独立性があったことを示していることは明らかである。較べるならば、農耕労働者も手工業職人も、現在は、食費が、彼等の賃金のより高い割合を占めると認められるであろう。(J.ウェード「中産階級と労働者階級の歴史」)この差は、当時と現在の食料や衣料の価格関係の差に起因するというような見方は、次の本の一瞥をもって、その誤りが証明される。「物価年表他」ビショップフリートウッド著初版ロンドン1707年、第2版ロンドン1745年
冬は、同じ食事時間を含んで、朝5時から暗くなるまで仕事が続く。エリザベス治下の1562年の法令は、「日払いであれ、週払いであれ」全ての労働者の労働日の長さには全く触れず、夏場の休息時間を2時間半、冬場は2時間に制限するものとなった。夕食は1時間、そして「午後の一休みは半時間」は、5月半ばから8月半ばの間のみ許された。いかなる場合でも1時間の欠席は、賃金から1ペニーが差し引かれた。実際には、それでも、法令書に較べれば、労働者にとってはもう少し好ましいものであった。ウィリアムペティ政治経済学の父、そして広く見るならば、統計学の創設者でもある彼は、17世紀の終り1/3頃に出版した著作でこう云っている。
(15)「労働者は、(当時は農耕労働者を意味する)1日当り10時間働く、そして、週20回の食事をとる。すなわち、労働日には、1日3回、そして日曜日は2回である。もし、金曜日の夜を食事なしとするならば、そしてまた、11時から1時までの2時間としている食事時間を1時間半にすることができるならば、結果として、1/20多く働き、1/20少なく支出することとなり、上記(租税)が増収となるであろうことは明らかである。」(W.ペティ「アイルランドの政治的解剖賢き人にはこれで充分」16721691年版)
(16)アンドリューユア博士が、1833年の12時間法を、暗黒時代への後戻りだとして非難したのは、正鵠を得たものではなかったのか?これらの規則はこの法に、ペティが述べたように、まさしく含まれており、見習い工にも適用される。だが、児童労働の実態は、17世紀末でさえあってなお、次のような苦情からうかがい知ることができる。
(17)「7歳で見習い工とするこの我が王国のやりかたと較べれば、(ドイツの)彼等のやり方は違う。3歳とか4歳が普通の基準である。どういうことかと云えば、彼等は、揺りかごの頃から仕事のことを仕込む。それが彼等を機敏かつ従順ならしめる。その結果、仕事において成果を得ることになり、急速なる熟練へと到達する。ところが、ここ、我々の英国の若者は、見習い工になる前には何の育成もない。進歩も非常に遅く、職人として完璧の域に達するには、より長い時間を要する。」
本文注 / 「機械工業奨励の必要性に関する一論」ロンドン1690年ホイッグ党とブルジョワジーの意図にかなうように、英国の歴史を偽造したマコーリーは、次のように書いている。「子供たちを早くから仕事につかせる慣習は、….17世紀には、当時の製造システムのまあまあの広がりに較べれば、ほとんど信じがたい程に広く用いられていた。衣服商売で首座を占めるノーウィッチ市では、6歳の小さな生き物が労働に適合すると見なされていた。当時の数人の著述家等は、著名で慈悲深き人と見なされる者達であるが、その市において、まだ世話のやける年頃の少年・少女たちが、自分達の生活に必要な範囲を超えた年12,000ポンドの富を作りだすと云う事実を、狂喜をもって書いている。我々(マコーリー達)は、過去の歴史をより注意深く調べれば調べる程、我々の時代が新たな社会的害悪に満ちていると想像する者共と明確な一線を引くために、より多くの理由を見つけることができるであろう。」(「英国の歴史」第1巻)マコーリーは、さらに、17世紀「非常に、紳士的な」商業の友誌が、狂喜をもって、いかなる方法を弄して、オランダの一救貧院から4歳の子供が雇用されたか、そしてこの「美徳の応用」がマコーリー一派からアダムスミス至るまで、人道的な方法として用いられてきたかを披瀝していることについても、報告することができたであろう。確かに、手工芸に代わって、製造業となるに及んで、子供たちを用いることが顕著になった。この方法はいつでもある一定の範囲で貧農達の間では用いられてきたが、より一層おおっぴらとなり、農夫達に加えられた軛が重くなればなるほどそのようになった。資本の狙いは間違いようもなく明らかだが、それらの事実は、依然として、双頭の子の出現のように、ありもしない話として隔絶されていた。だからこそ、それらを、狂喜をもって、記録するに値するものとして、先見の明ある商業の友誌の驚異として、彼等の時代と子孫のために、この方式を推奨して、書いているのである。この類と同じスコットランドのお追従者で、ご立派なお喋りさんのマコーリーは、こう云った。「我々が今日聞くものは、ただの退化で、見るものは、ただただ進歩である。」一体、どんな目、そして特にどんな耳なのか。見てみたいもんだ。
(18)18世紀の大部分の間、近代工業と機械の時代に行き着くまで、英国の資本は自らのために、労働者の全週を、労働力の週価値の支払いによって確保することには成功していなかった。と云うのも、農業労働者達の場合は例外的であったからである。事実、彼等は、4日分の賃金で、1週間生活できたから、他の2日分を資本家のために働くということは、労働者にとっては、充分なる理由とはならなかったからである。英国経済学者の一派は、資本の意向に添って、労働者のこの頑迷さを最上級の激烈なる態度をもって、非難した。もう一つの別の一派は、労働者を擁護した。そこで、マカロックやマクレガーの著作と同じく、今日、評判となった商業の辞典の著者ポスルスェートと、「商業と貿易に関する評論」の著者(前述)との間でなされた論争を聞いてみることにしよう。
本文注 / 労働者を非難する者のうち、最も立腹が目立つのは、「商業と貿易に関する評論税他に関する所見を含む」ロンドン1770年を表した匿名の著者。彼はこの論調を初期の著作「課税に関する検討」ロンドン1765年で、既に取り扱っている。そして同じ側の仲間の一人、言語をなさない統計学的片言屋ポロニウスアーサーヤング。一方の労働者階級擁護側の真っ先にいるのは、ヤコブバンダーリント「貨幣は全ての物に対応する」ロンドン1734年の著作がある。神学博士ナザニエルフォースター師「現在の食料が高価格である原因に関する調査」ロンドン1767年の著作で知られる。プライス博士、そして特に、ポスルスェート彼の「商業と貿易に関する全般辞書」の補遺と同様の「大英帝国の商業的利益に関する説明と改善策」第2版1755年の著作もある。彼等は、事実、当時の他の多くの著述家達によって認められている。中でもジョシアタッカーによって明確に位置づけされている。
(19)ポスルスェートは、いろいろある中から、こう述べている。
(20)「我々は、それらの少ない観察記を終わるに際して、以下の常套句に触れずして終わることはできない。もし、勤勉で貧しい者達が5日間で、彼等自身を維持するに充分な物を得られるならば、彼等は週6日は働かないであろうと云う、あまりにも多くの者が口にする、使い古された文句のことである。その結果、手工業や製造業で働く労働者を週6日果てし無く働かせるために、あえて課税または他の方法によって生活の必需品の価格等を操作する必要性すらほのめかす。私は、この王国で働く人々の永久的奴隷化を主張するそこいらの偉大なる政治家共とは心情を異にし、一線を画さねばならない。彼等は、働くばかりで遊びがなければどうなるか、という民衆の諺を忘れている。広く英国商品に信用と名声をもたらす、手工業や製造業で働く人々の独創性と器用さを英国人は自慢しないと云うのか?何がこれらの独創性と器用さを生んでいると思うのか?多分、働く人々が思い思いに遊ぶこと以上のものはないだろう。年中彼等を週6日のすべてを、同じ作業の繰り返しに縛りつけるならば、彼等の独創性を鈍らすことにならないとでも、また、注意深く器用な手を馬鹿でのろまの手と置き換えないとでも云うのか?そして、そのような永久奴隷化することで、我々の労働者たちのそれらの信用と名声を維持することにとって代わってそれを失うことにはならないとでも云うのか?…そして、我々は、そのように激しく強制される動物から、どのような職人の腕前を期待することができるのだろうか?…彼等の多くは、フランス人なら5日か6日を要する仕事を、4日で片づけるだろう。だが、もし、英国人が永久苦役に置かれれば、彼等は、フランス人以下に退化すると恐れねばならない。我が国の兵士達が戦争では勇猛果敢と称賛される時、それが、英国風のローストビーフとデザートケーキが彼等のお腹の中にあるからと、またそれと同じように、彼等の憲法に記された自由な精神にあるからと、言わないのか?ならば、何故、我が手工芸や製造業の労働者の卓越した独創性と器用さが、彼等のそれぞれの好きな方法で行う自由かつ闊達な方法から生じるものであるとしてはならないのか、ここで、私は、そのような特権と、彼等の独創性を、彼等の果敢なる挑戦と同様に育む良き生活とが奪われるようなことがあってはならないと切望する。」(ポスルスェートの前述の著作の、最初の評論から)
(21)これに対して、「商業と貿易に関する評論」の著者は、こう応じる。
(22)「もし、7日ごとの日を休日となせと、神が制定されたと云うのなら、同時に、他の6日間は働くということを意味していると見るのは当然のことである。」(彼が云いたいのは、資本の為にということである。直ぐにそのことを知ることになろう。)「勿論、それは、冷酷に強制せよと云っているものではない。….とかく人類というものは、安楽と怠惰に堕する傾向があり、我々はこのことを経験からどうしようもなく知っている。我々製造業の衆愚の行動から見れば、彼等は、平均を超えては働かない。食料価格が高くならないならば、週4日を超えては働かない。….貧乏人の必要なものを一種類の物として見れば、例えば、それらを小麦であるとすれば、または次のように仮定すれば、….小麦のそのブッシェルが5シリングであるとして、そして彼(製造工場主の彼)が彼の労働によって1シリングを稼ぐとすると、週たったの5日働けばよい。もし、その小麦のブッシェルが4シリングになったとすれば、彼は週4日働けばよい。だが、この王国の賃金は、生活に必要なものの価格に較べてかなり高い。….4日働く工場主は、週のあとの日を無為に過ごすだけの余分の貨幣を持っている。….私は、週6日の適度の労働は奴隷制ではないと充分に述べたものと思う。我々の労働する人々は、このようにしており、全ての我々の働く貧しき者達は、最上の幸福を表している。
本文注 / 彼は、彼の著作「商業と貿易に関する評論」で、1770年の英国農業労働者の「幸福」がどんなものかに触れている。「彼等の力は常に限界まで使われており、今の生活レベル以下の生活をすることもできないし、より激しく働くこともできない。」
しかし、オランダ人は、製造業で、このように行っており、人々は大変幸福の様子である。フランス人も、休日でない限りそのようにしている。
本文注 / プロテスタントは、全ての伝統的な休日を、労働日に変えたことによって、資本の成因に重要な役割を演じている。
しかるに、我が衆愚は、ヨーロッパのどの国よりも、より自由でより独立的であるという生得特権を満喫するという観念に落ち込んでいる。この観念は、いくらかの利点として、我が軍隊の勇敢さに寄与しているものではあるが、製造業貧民達にとってはなんの利点もない。彼等自身にとっても、国家にとってもいいことはない。労働する人々は、絶対に、自分達の上位の者から自分達が独立していると、絶対に考えるべきではない。…我々のような商業国においては、そのような観念で、暴徒を焚きつけるようなことは危険きわまりない。ここでは、7/8に当たる人々は財産を持たないか、殆ど持っていない。我々の製造業貧民達が、今4日で稼ぐと同じ額で、6日働くことに同意するまでは、治癒は完璧ではない。」
本文注 / 1734年に、ヤコブバンダーリントが、資本家が、労働する人々の怠惰について云いたい腹の中を、単純に同じ賃金で、4日に代わって6日働くことを要求することであると述べている。
(23)この目的のために、そして「怠惰、放縦、過剰を根絶する」ために、産業の精神を促進するために、「我々の製造工場の労働の価格を低減させ、この国の、貧乏人のための課税率という重い負担を和らげる」ために、資本に「忠実なるエッカート」は、次のような広く認められている計画を提案する。そのような労働者が公の援助に寄り掛かることを止めさせると。別の言葉で云えば、生活困窮者の、救貧院を「恐怖の作業院」という理想的な作業院としなければならない。貧乏人の避難所にはしない。「今までの救貧院では、彼等は、多くの食事を与えられ、暖かで清潔な衣服があり、ほんの少ししか働かない。」この「恐怖の作業院で」、この「理想的な作業院で、貧乏人は、日14時間働く。食事のための適切な時間が許され、この方式で12時間の正味労働時間は残こされるであろう。」(本文注:「フランス人は」と彼は云う。「この我々の自由なる素晴らしいアイディアを笑う」と。)
(24)1770年の「恐怖の家」、理想的な救貧院では日12時間労働!63年後の1833年、英国国会が、13歳から18歳の子供たちの労働日を、4つの工業部門において、正味12時間に縮減した時には、英国製造業に最後の審判の日が来た!また、1852年ルイボナパルドが、彼の位置をブルジョワジーとともに確かなものにしようと、法定された労働日を勝手に改悪することで、と模索した時、フランスの労働者達は、一つの声にまとまった。「労働日を12時間と限定した法律は、共和国の法律で、我々に残された、まさにその一つの宝だ。」と。
本文注 / 「彼等が、特に、日12時間を超えて働くことに反対したのは、共和国の法律で、彼等に残された、ただ一つの宝であるからである。」(事実に関する工場査察官調査報告1856年10月31日)フランスの12時間法1850年9月5日は、1848年5月2日の暫定政府が定めた法律のブルジョワ版だが、いかなる工場も例外なく拘束するものであった。この法律以前のフランスの労働日に関する法律は、何の制限もないものであった。各工場においては、14、15、またはそれ以上の時間の状態が続いていた。「1848年におけるフランスの各階級の状況パルM.ブランキ」を見よ。M.ブランキ経済学者、革命論者の方のブランキではなく、経済学者のブランキは、労働者階級の状況に関する調査を、政府から委任されていた。
チューリッヒでは、10歳以下の子供たちの労働は、12時間に制限されている。1862年アールガウでは、13歳から16歳までの子供たちの労働時間は12時間半から12時間に軽減された。1860年オーストリアでは、14歳から16歳までの子供たちに、同様の軽減がなされた。
本文注 / ベルギーは、労働日の規制については、ブルジョワ国の模範である。駐ブリュセル英国全権大使ウエルデンのハワード上院議員が、1862年5月12日外務省にこう報告した。「M.ロジャー大臣は、私に、次のことを教えてくれた。子供たちの労働は、一般法でも、その他の地方法でも制限されてはいない。ここ3年政府はこの件に関する法律案を提出しようと、あらゆる会期で考えてきたが、いかなる法律でも労働の完全な自由の原理に反するものとする執拗な反対が、常に障碍として立ちふさがる。と。」
「なんという進歩」1770年以来の!と、マコーリーは、狂喜して叫ぶだろう。
(25)1770年では単に夢であった資本家の心が、貧乏人のための「恐怖の家」が、二三年後には、工業労働者自身のための、巨大な「作業院」として実現されたのである。その名は、工場と呼ばれる。そして、このたびは、現実の前にアイディアは色褪せる。 
第六節 標準労働日のための闘争 労働時間法による強制的な制限
 英国工場法1833年から1864年

 

(1)資本が、労働日を標準の最大限界まで拡張し、そしてさらにそれを超えて、自然日の12時間の限界までとするのに、
本文注 / いかなる階級の人達であれ、日12時間も辛苦せねばならいないと云うことは、まことに、大変気の毒なことと思う。これに、食事のための時間、仕事へ行くためと仕事から帰るための時間を含めれば、実際のところは、24時間のうちの計14時間となろう。….健康の点を問題外としてさえ、誰も以下のことを認めるに逡巡する者はいないと、私は思う。道徳的見地からも認めるものと思う。休息もなく、13歳という年齢から、労働者階級の時間をそれほどまでに吸い取ることは、そして各製造業者等には、何の制限もなく、もっと年下の子供たちからも時間を吸い取るということは、はなはだしき損耗以外のなにものでもなく、非常に嘆かわしい悪弊と云わねばならない。….従って、人々の道徳、きちんとした人々の養育、そして大勢の人々に適切な生活の楽しみを与えるために、そのためにこそ、すべての製造業者等には、毎労働日のある部分を休息とレジャーのために保留するべきであることがより以上に求められよう。(レオナードホーナー「事実に基づく、工場査察官報告書1841年12月31日」)
自然日の12時間の限界までとするのに、数世紀を要した後、機械信仰と近代的工業の勃興に乗じて、18世紀の後半1/3にある現在、そこには、まるで山崩れのように強大で辺り一面を覆うがごとき、暴力的な侵害がやってきた。あらゆる境界、道徳と自然、年齢と性別、昼と夜が打ち壊された。古き良き田園の法でもあった昼と夜の概念ですら、1860年の時点では、英国判事をして困惑させるものとなり、何が昼で、何が夜かを、「司法として」説明するためには、全くもって、ユダヤ教の律法の賢明さを、借用したのであった。(J.H.オトウェイ氏の判決文を見よ。ベルファストハイラリー法廷アントリム州1860年)資本は、このお祭騒ぎを堪能したのであった。
(2)最初のうちは、新たな生産システムの混乱と騒音に呆然となっていた労働者階級だが、時間が多少経過するやいなや、実態を理解するまでに回復した、抵抗運動がはじまった。最初は、機械信仰の発祥地である英国で。とはいえ、その後の30年間、労働者達が獲得した譲歩は、純粋に名ばかりのものであった。議会は1802年から1833年迄の間、5つの労働法を議決したが、そこは抜け目なく、それらを遂行するための、それに必要な役人のための1ペニーをも票決することなく、見事にやり過ごした。
本文注 / 以下の事は、フランス国ブルジョワ王ルイスフィリップ体制下の極めて特徴的なことであって、彼の治世の間1841年3月22日に議決された唯一の工場法は、執行されることが無かった。しかも、その法は、単に児童労働に関するものであり、8歳から12歳までの子供たちの日労働を8時間とするもので、12歳から16歳までの子供たちでは12時間とするもの、他であり、8歳の子供たちに対しての夜間労働すら許容するという多くの例外を含んだものなのにであった。この法の監督と執行は、この国ではいかなる鼠といえども警察の監視下に置かれるというのに、商売の友(フランス語イタリック)の善意に任された。ただ、1853年以降、唯一の単支所−ノード県支所−に有給の政府監視官が任命された。このことは、一般的に、同様、前者に劣らず、フランス社会の発展における極めて特徴的な事実であって、あたりを取り囲むあらゆる数のフランス国法のなかで、ルイスフィリップのこの法は、孤立を保持して立っていた。1848年の革命に至るまで。
(3)それらは、死文のままであった。「事実は、1833年の法律に至るまでは、年少の者たち、そして子供たちは、夜も、昼も、またはその両方で、意のままに働かされた。」(レオナードホーナー「事実に基づく、工場査察官報告書1860年4月30日」)
(4)近代工業に、標準労働日が持ち込まれたのは、実に、1833年の工場法からである。この法は、綿、羊毛、亜麻、そして絹の各工場を対象とした。資本の精神をこれ以上特徴付けるものは、他にはなく、1833年から1864年の英国工場法の歴史がそれである。
(5)1833年の法は、一般的な工場の労働日は、朝5時半から、夕方8時半であり、これらの制限内において、つまり15時間内で、年少の者(すなわち13歳から18歳までの者)を、一日のいかなる時刻から雇用しても、合法であり、いずれの一日のうちでも12時間超えなければよいと規定された。特別の場合の、例外も規定された。法の第6節は、次のように規定されている。「ここに示されるそのような例外的に規定される特別の者とは、毎日の中で、食事のために、少なくとも1時間半以上の食事時間が与えられる者である。」9歳未満の子供たちの雇用は、あとで述べる例外を除き、禁止された。9歳から13歳までの子供たちの労働は、日8時間に制限された。夜間労働、すなわち、この法によれば、夕方8時半から翌朝5時半までの労働であるが、9歳から18歳までの全ての者において禁止された。
(6)この法の制定者達は、この工場法が結果としてもたらす子供たちの労働時間の拡大を防ぐために、特別のシステムを作りだした。これについては以下で説明するが、これによって、成人労働力を搾取する資本の自由、彼等はそれを「労働の自由」と呼ぶのだが、それを妨げることを望んでいるわけでは全く無かったのである。
(7)「現行の工場システムの大きな弊害は、」と1833年7月28日の法制定委員会の中央代表委員会の報告書は書いている。「子供たちの労働が、大人の労働時間にまで延長されて継続される必要性から引き起こされることにあると思われる。この弊害を除去する唯一の方法として、我々の意見では、より弊害をもたらすと思われる成人の労働時間の短縮ではなく、子供達の二つの労働セットによる案が見出される。」
(8)…リレーシステムという名称のもとに、この「計画」はかくして実施された。すなわち、朝5時半から午後1時半まで、9歳から13歳の一つの労働セットが、そして、午後1時半から夕方8時半までがもう一つの別のセットが、「そこに用いられる、」等々。
(9)ここ22年間で議決された子供たちの労働に関する全ての法を、最も厚かましいやり方で無視し続けてきた工場主達への報酬として、ある錠剤が、その上に金メッキまで施されて、彼等に与えられた。議会は、11歳未満の子供を、工場において、1834年3月1日以後は、日8時間以上働かせてはならない、と法を定めた。また、同様、1835年3月1日以後は、12歳未満の子供を、1836年3月1日以後は、13歳未満の子供を、工場においては、日8時間以上働かせてはならないと法で定めた。この何と云う「自由主義」、「資本」のためをこれほどまでに配慮した法は実に注目に値するものである。なぜならば、ロンドンの最も著名な内科医や外科医であるファー博士、A.カーライル卿、B.ブローディー卿、C.ベル卿、ガスリー氏他が、下院の諮問において、遅滞は危険であると証言で明確に述べているからである。ファー博士はその後も、自分の考えを、遠慮なく述べている。
(10)「早々に、苦痛とともに、様々な形で現われる死を防ぐために、法律制定は必要である。そして明らかに、これ(すなわち、工場のやり方)は、最も冷酷な苦痛をもたらす様式であると見なす以外のなにものでもない。」
(11)工場主たちのために手厚い思いやりを盛るこの同じ「改革」議会は、13歳未満の子供たちに、その後の何年間かの、地獄工場での、週72時間の労働を宣告したのであった。その一方で、奴隷解放法は、同様に自由を少しずつ執行したが、農場主に対しては、最初から、いかなる黒人奴隷であれ、週45時間以上の労働を禁じたのである。
(12)しかし、資本は賢明さをもって調停されるものでもなく、今、数年にわたって続く、やかましい、論争を開始した。それは主に、日8時間労働に制限され、またある一定量の強制的教育を課せられる、子供と称される者の年齢についてであった。資本主義的人類学によれば、子供の年齢は、10歳で終り、またはせいぜいの所11歳までである。工場法が全面的に強制力を発揮する時期致命的な年1836年が近づけば、近づく程、工場主達の暴徒共がより一段と怒り狂うことになった。彼等は、事実、ある程度まで、政府を威嚇して、政府をして1835年に、子供年齢制限を13歳から12歳に引き下げることを提案させるところまで行った。だが、その間、工場主以外の周囲からの圧力もまたより脅威なものになってきた。上院の勇気もこれには逆らえなくなった。彼等は、日8時間以上、13歳の子供たちを資本のジャガーノート馬車の元に投げ出すことを拒否した。そして1833年の法は完全実施されるところとなった。この法は、1844年7月に至るまでは、変更されずに留まった。
(13)工場法が施行されて10年間、初めは一部分であったが、やがて、全体的なものとなったのは、工場法を執行することの不可能性にかんする苦情で、工場査察官の公式報告書は、そのことばかりの土砂降り状態となった。なぜなら、1833年のこの法は、朝5時半から夕方8時半までの15時間において、全ての「年少の者」と全ての「子供」の12時間または8時間をいつでも好きなように始めたり、分断したり、つまみ食いしたり、終わらせたりする自由を資本のご主人達に与えていたからで、また、ご主人に、それぞれの年少者・子供に、それぞれの時間の、食事のための時間を定めることを許していたからである。これらの紳士諸君は直ぐに新しい「リレーシステム」を見出した。労働馬を決まった駅で取り替えずに、馬車の方を替えてそのまま続けて走らせたのである。このシステムの美点については、改めて直ぐにこの点に戻ることにならざるを得ない。一見して明らかなように、結果として、このシステムは、工場法全体を台無しにした。その精神もさることながら、その文面をもである。どうやって工場査察官は、個々の子供や年少者に関する錯綜した簿記から、法的に決められた労働時間や法的に認められる食事時間を守らせることが出来るのか?殆ど全ての工場が、罰せられることもなく、以前の花を直ぐに咲き誇らせた。内務大臣との面談(1844年)において、工場査察官達は、この新たに発明されたリレーシステムの下では、いかなる管理も不可能であることを論証した。(レオナードホーナー「事実に基づく、工場査察官報告書1849年10月31日」)
しかしながら、その間に、情勢は大きく変化した。工場の手達は、1838年以来、とりわけ、彼等の経済的な状況から、10時間法案をつくり、これを彼等の政治的かつ、選挙スローガンとしたことである。また、1833年の法に従って自分達の工場を運営していた工場主達の方は、彼等のとんでもない仲間達、勝手し放題の輩や、地方的状況で運良く法を破ることができた輩の節操なき競争に関する陳情書で議会を圧倒した。そして、それ以上に、個々の工場主が、彼の昔ながらの取得欲のために手綱を振ったとしても、工場主階級の代弁者や指導者が前線を替えることを命じ、労働者達に向けて協力要請をしたからである。彼等は、穀物法の廃止に関する論争に首まで漬かっていて、この論争に勝利するために労働者達の助力を必要としたのである。彼等は、そこで、倍サイズのふかふかな食パンだけではなく、10時間法の制定すらを、自由貿易のミレニアム記念にと約束したのである。(レオナードホーナー「事実に基づく、工場査察官報告書1848年10月31日」)
であるから、彼等は、1833年の法がただ現実となるにまかせる状況に強く反対することは少なくなった。地主達、彼等の最も神聖なる利益地代を脅されたトーリー党は、彼等の敵の「極悪なる実践」(レオナードホーナー「事実に基づく、工場査察官報告書1859年10月31日」彼は、彼の公式報告書で、「極悪なる実践」という表現を用いている。)に対して博愛ある憤激をもって雷を発したのである。
(14)これが、1844年7月7日の追加工場法の原因であった。1844年9月10日に執行された。この法は、労働者の新たなる範疇を法の保護の下に置いた。すなわち、18歳以上の女性である。彼女達は、全ての点について、年少者と同じ地位に立たされ、彼女達の労働時間は12時間とされ、夜間労働は禁止された、等々。初めて、法律そのものが、直接的かつ公式的に成人の労働について管理するのを見るところとなった。1844-1845の工場報告書には、次のように皮肉を込めて述べられている。
(15)「成人女性が、彼女たちの権利がこのように大きく妨害されたことについてなんらかの遺憾を表すようなことは、私の知るところとなるような事例は、皆無であった。」(工場査察官報告書1844年9月30日)13歳未満の子供たちの労働時間は週61時間に減らされた。またある状況下では、日7時間となった。(本文注:この法は、子供たちが連日ではなく、隔日で働く場合、10時間の雇用を認めている。だが、全くのところ、この条文は、死んだままであった。)
(16)見せかけのリレーシステムの乱用を防ぐために、法は、その上に、次のような重要な条項を確立した。
(17)「子供及び年少者の労働時間は、どの子供または年少者であれ、朝、仕事を始める時から起算されねばならない。」
(18)であるから、例えば、少年Aが朝8時から仕事を始め、そして少年Bが朝10時から始めたとする。それでも、少年Bの労働日は、少年Aと同じ時刻に終了しなければならない。時刻は、公設時計によって決められるものとなる。例えば、最寄りの鉄道時計である。それに合わせて工場時計もセットされる。人を占有する者は、仕事の開始と終了時刻と何回かの食事時間を示す「読める」印刷した通知を掲示するものとする。正午前に仕事を始めた子供たちは、午後1時以降再び仕事に従事させてはならない。午後番組は、従って、午前中の子供たち以外の他の子供たちから構成されねばならない。食事時間は、1時間半である。
(19)「このことにより、少なくともその1時間は、午後3時前には与えられねばならない。少なくとも30分の食事時間を置かずに、午後1時前に5時間以上働かせてはならない。子供または年少者[または女性]を、[例えば食事時間]には、製造過程が行われるいかなる部屋で作業に従事させたり、そこに留まることを許したりしてはならない。」等々。
(20)これらの微細極まる、軍隊式の、時計の鼓動に合わせて、労働の時間、制限、休止を決めることは、全くのところ、議会の思いつきの産物ではない。近代的生産様式がもたらす自然の法則というべき諸々の状況が、段階を追って生長させたものである。それらの内容の明確化、公式的な承認、国家による告示は、長き階級闘争の結果である。その成り行きの最初の一つは、工場における成人男子の労働日に関する関連であり、同じ制限が取り上げられるところとなった。多くの場合、生産工程は、子供たち、年少者、女性たちとの協働で成り立っており、その協業が必須だったからである。従って、全体として、1844年から1847年の期間では、12時間労働日が一般的となり、全工業部門が工場法の下に統一されたのである。
(21)とはいえ、製造業工場主等は、この「進歩」を、「退歩」との組み合わせなしには許さなかった。彼等の横やりで、下院は利用できる子供たちの年齢を、神のご意志と人間の法に従って、資本家に必要なだけの追加的工場児童数の供給を確保するために、その年齢基準を9歳から8歳に引き下げたのである。
本文注 / 「子供たちの労働時間の短縮は、雇用される(子供たちの)数の増大を引き起こすであろうから、8歳から9歳までの子供たちの追加的な供給は、増大する要求に合致するものと思われた。(工場査察官報告書1844年9月30日)
(22)1846年−47年の両年は、英国経済史にとって新時代を画するものである。穀物法が撤廃され、また綿花やその他の原料の関税も撤廃された。自由貿易が法律の導きの星のごとく宣言された。別の言葉で云うなら、千年王国の到来である。だが、一方では、同じ両年は、チャーティスト運動と10時間法への運動が、それぞれ、それらの頂点に達した年でもあった。彼等は、復讐にあえぐトーリー党の中に同盟者を見出した。ブライトやコブデンを頭とする偽証を犯した自由貿易主義者達一群の狂信的な反対にも係わらず、長い闘争を経て、10時間法は、議会を通ったのであった。
(23)1847年6月8日の新工場法は、同1847年7月1日に施行されたが、それに先立って、「若い人々」(13歳から18歳までの)と、全ての女性の労働日が11時間に短縮された。だが、1848年5月1日には、まさに、労働日の制限が10時間となるはずである。その他の点では、単に、1833と1844年の法が補完され、完成されたということにすぎない。
(24)1848年5月1日には、完全実施となるはずのこの法律を妨害するために、資本は、今、事前の宣伝を開始しようとしていた。そして、労働者自身は、経験によって迫られた現況下にあり、彼等自身のやるべきことはその妨害を手伝うことであった。そして、その開始の時は、巧みに選ばれていたのであった。
(25)「(1846年−47年のものすごい恐慌の結果)2年以上にわたる大きな苦難が、工場労働者には、ふりかかっていた。多くの工場には短時間の作業しかなく、また多くの工場は全休業となっていた。であるから、相当数の工場労働者には、極めて狭い状況下追い込まれており、多くは、負債におののき、過去の損失を補うためにも、借金を返済するためにも、家具を質屋から取り返すためにも、売ってしまった物を元のようにするためにも、彼等自身や彼等の家族のために衣服を得るためにも、より長時間の労働を選ばねばならない現状に迫られていたのであった。このことをもまた、思い起こさねばならぬ。」(工場査察官報告書1848年10月31日)
(26)工場主等は、これらの状況の自然的効果を利用して、賃金の全面的10%引き下げを、強いた。これは、言うなれば、新自由貿易時代の幕開け儀式としてなされた。そして、さらに、労働日が11時間に短縮されると同時に、81/3%の賃金引き下げが続いた。さらにその倍の引き下げが、最終的に10時間に短縮されるやいなや、実行された。従って、状況が許すならば、どこであろうと、少なくとも25%の賃金切り下げが実行された。
本文注 / 「私は、ある人達のことを知っている。その者達は、週に10シリングを得ていた。賃金の10%切り下げで9シリングとなった。さらに、時間短縮により1シリング6ペンスを引かれ、計2シリング6ペンスが無くなった。だが、このことにも係わらず、彼等の多くは、10時間労働の方がよいと口々に云ったのである。」(工場査察官報告書1848年10月31日)
この様な好都合の条件が準備された中で、1847年の法の撤廃のための煽動が、工場労働者の内部で始まった。この煽動においては、嘘も、買収も、恐喝も節約されることは無かった。しかし、全ては無駄であった。労働者達が「労働者達への、法による脅迫」という苦情をのべた請願書の半ダースに関して、請願者達は、口頭尋問で、彼等の署名は、工場主等によって強要されたものであると述べた。「彼等は脅迫を感じている、が、それは工場法によるものでは、全く、ない。」
本文注 / "「私は、それ[その請願]に署名したことはその通りであるが、私は、その時に、私は間違ったことに手を使ったと云った。」「では、何故そんな風に手を使ったのかね?」「もし、断ったら、解雇されるにちがいないからで。」この請願者は、自分が「脅迫された」と感じているのは明らかであるが、工場法による脅迫では、全くない。"(工場査察官報告書1848年10月31日)
しかし、製造工場主達は、労働者達に、あたかも自分達が望んでいると語らせるのに成功しなくても、労働者の名を使って、新聞や議会にやたら大声で、自分達自ら喚き散らした。彼等は、工場査察官を、あたかもフランス国民議会の革命委員会のようなものであって、無慈悲に、不幸な工場労働者を、人道主義的な気まぐれの犠牲に供するようなものであると非難したのであった。この策動も失敗した。工場査察官レオナードホーナーは、彼自らと、彼の副査察官達の手を借りて、ランカシャーの工場群において、連署人に対する多くの聞き取りを行った。聞き取りを行った労働者の70%は、10時間を支持し、僅かなパーセントの労働者が11時間を支持し、全体の中では、取るに足りない僅かな者が、昔の12時間を支持した。
本文注 / (工場査察官報告書1848年10月31日)ホーナー氏の地区において、181工場の成人男子労働者10,270人が調査された。それらの証言は、1848年10月で終わる半年間の工場査察官報告書の付録に見出される。この証人聞き取り調査は、他の関連についても、同様、価値ある資料となっている。
(27)これとは別の、「友情に満ちた」ごまかしは、12−15時間成人男性を働かせたその後で、これこそが、彼等プロレタリアートが、心の中の心で欲している考えの、最上の証拠であると広く誇示するやり方であった。だが、「冷酷極まり無き」工場査察官レオナードホーナーが、再び立ちはだかった。殆どの「超過時間者達」は、と彼は述べた。
(28)「彼等は、より少ない賃金であっても、10時間労働の方がより好ましいと思っているのだが、彼等には選択の余地が無かった。つまり、多くの者が失業しており、(多くの紡績工が、安い賃金で、糸繋ぎ工として働かざるを得ず、それ以上の良い方法は無かったのであるから。)もし、長時間労働を拒否すれば、他の者が直ぐにその仕事を奪ったであろう。であるから、長時間労働に合意したからなのか、仕事から放り出されるのを恐れたのかは、分かったものではない。」
本文注 / レオナードホーナー自身が集めた証拠を見よ。また、副査察官Aが集めたものが、付録にある。一製造工場主もまた、そのままの真実を述べている。これらを見よ。
(29)この様な資本の事前キャンペーンは、嘆きに終わった。10時間法は1848年5月1日に施行されたからである。とはいえ、この間、チャーティスト党は大敗北を喫した。指導者達は投獄され、彼等の組織は分断された。このことが、労働者階級が知るところとになった自らの力の自信を震撼させた。この直ぐ後のパリの6月暴動とその血なまぐさい弾圧が、大陸同様、英国でも、あらゆる支配階級断片を団結させた。地主と資本家を、狼相場師と小店主を、保護主義者と自由貿易主義者を、政府と反政府側を、司祭と自由思想家を、若き売春婦と老修道女を、財産宗教家庭と社会の救済と云う共通の叫びの下に団結させたのである。労働者階級には、あらゆることが禁止され、あたかも容疑者として扱われる者と宣告された。製造工場主らにとっては、もはや自分らを抑制する必要がなくなった。彼等は、このおおっぴらの反動において、単に10時間法をぶち壊すだけではなく、労働力の「自由な」搾取を多少なりとも制限しようとした1833年以来の全ての法をも打ち壊したのである。この反動は、奴隷制擁護の反乱の縮小モデルであった。不真面目で無謀なこの反動は2年間以上も続いた。このテロリスト的な努力はまことに安いものであった。なぜならば、反動資本家にとっては、自分の「手」の皮膚以外に失うリスクがなかったのだから。
(30)以下のことを理解するためには、1833年、1844年、1847年の各工場法を想起する必要がある。後者が前者を改正していない点がある限りは、いずれの法も、有効であり、18歳以上の男子の労働日の制限もその一つで改正されていない。1833年以来朝5時半から夕方8時半の15時間が、法的な「労働日」として残存している。そして、この制限内で、当初は12時間の、そして最終的には10時間となる年少者と女性の労働時間制限が所定の条件によって実行されるべきものとなったのだが、以下のことを把握するには、このことを改めて想起しておく必要がある。
(31)製造工場主らは、こっちでもあっちでも、自分達が雇った年少者や女性のある部分を、多くの場合は半数を解雇し、成年男子と入れ換え、すたれていた夜間労働を再開した。10時間法は、と彼等は叫んだ、これ以外の方法を残していないと。(工場査察官報告書1848年10月31日)
(32)続く策略は、食事のための法的な休止時間に狙いをつけたことである。工場査察官達の報告を聞いてみよう。
(33)「働く時間が10時間に制限されることになって以来、工場占有者らは、依然としてそれを実際には実行してはいないが、その労働時間が朝9時から夕方7時までであり、朝9時以前に1時間、夕7時以後に半時間「の食事時間」を許すことによって、法の条項を満たしていると主張する。彼等が1時間または半時間の昼食時間を許している場合もないわけではないが、それはそれとして、工場における労働日の中で、1時間の断片または半時間を与えるべしと決めつけられているわけではない点に固執する。」(工場査察官報告書1848年4月30日)製造工場主らは、であるから、1844年の法は、食事時間については、厳密に条項を正確に読み取るならば、最も適切な飲食許可は、工場に来る前、そして工場を去った後に、つまり自分の家でのみ与えられることになると主張する。そして、こう云うのだ。何んで労働者達は、朝の9時前に昼食をとってはいけないのか?と。しかし、王室法律顧問は、規定されている食事時間は、
(34)「労働時間の間になければならず、そして、10時間連続して、朝9時から夕7時までいかなる休憩もなく働かせることが合法と定めているものでもない。」と判決した。(工場査察官報告書1848年10月31日)
(35)この様なふざけた主張の後に、資本は、その反逆を、1844年の法律文面に沿った手段でその前奏を開始した。だから合法であった。
(36)確かに、1844年の法は、正午前に仕事につかせた8歳から13歳までの子供たちを、その同じ子供たちを、午後1時以降にも働かせることを禁じている。しかし、正午か正午を多少でも過ぎた時刻から仕事を始める子供たちの6時間半の労働については、いかなることも規制していない。8歳の子供たちがいて、もし彼等が正午に仕事を初めて、12時から1時までの1時間、午後2時から4時までの2時間、夕方5時から8時半までの3時間半を働かされたとしたら、計合法的に6時間半となる。または、それよりもいい方法がある。子供たちの労働を、成人男子の労働に合わせて、午後8時半までとするために、製造工場主らは、午後2時までは子供たちに仕事をさせず、その後は途中の休憩もなしに、夕方8時半まで工場に居させることができた。
(37)「そして、現状において、英国には、日10時間以上彼等の機械類を稼働させたいという工場所有者らの欲求から、全ての年少者達と女性達が仕事から帰った後に、工場所有者の選択として、夕方8時半まで、成人男子の側に、子供たちを置いて仕事をさせるやり方が顕著に認められるものとなった。(工場査察官報告書1848年10月31日)
(38)労働者達と、工場査察官達は、衛生上及び道徳上の理由から抗議したが、資本はこう答えた。
(39)「私の判断でやったこと!法が正しく行われますように。私の判断のようにご判断を。」
(40)事実は、1850年7月26日に下院に提出された統計によれば、1850年7月15日に提出された多くの抗議にも係わらず、257の工場において、3,742名の子供たちが、この「判断」によって雇用されていた。(工場査察官報告書1850年10月31日)それが全てではない、さらに加えて、資本の山猫のごとき目は、1844年の法に、正午前の5時間の労働が、少なくとも半時間の休息なしに行われることを許していないことを読み取っていながら、正午以後の労働には何も記されていないことを発見した。であるから、資本の判断として、9歳の子供たちを午後2時から午後8時半まで、休息なしに単調な骨の折れる労働に縛りつけるのみならず、子供達をしてこの間ひもじい思いをさせるという楽しみを要求し、それを獲得したのである。
(41)「はい、彼の心臓。債務証券にそう記されております。」
(42)このシャイロック式の1844年の法の字句へのこだわりは、
本文注 / 資本の本質として、その発展した段階でも、未発達の段階と同じ形式を保持している。アメリカ南北戦争が始まる少し前の頃、奴隷所有者らの権力下において、ニューメキシコ領に課した規定には、こうある。労働者は、彼の労働力を資本家が購入した限りにおいて、「彼(資本家)の貨幣である。」ローマ帝国の貴族らにも、同じような見方が流布していた。彼等が平民債務者に前貸しした貨幣は、生活手段を経由して、債務者の血となり肉となった。従って、この「血と肉」は、「彼等の貨幣である」と。かくて、シャイロック的十戒となる。リングハットの仮説、貴族債権者らが時々、テルベ河を越えて、債務者の肉を食する宴会を開いたと云う仮説は、ドーマーの云うキリスト教徒の聖餐と同様、依然として分からないままである。
子供たちの労働を規制する点に関する限りでは、その法への反逆の単なる言いがかりになっているにすぎない。「年少者達と婦人達」の労働に関する、「偽装リレーシステム」の廃止が、この法の主目的であり主題であったことが想起されるところであろう。工場主らは、彼等の反逆を、次のようなむき出しの宣言を以て開始した。1844年法の条項は、日15時間を細切れにして、年少者達と婦人達を好き勝手に用いることを禁じているが、労働日が12時間と固定化されている限りでは、雇用者側が決めたことでもあり、「比較的無害なもの」であった。だが、10時間法下では、それらは「苦難に満ちた圧制」であった。(工場査察官報告書1848年4月30日)彼等は、工場査察官に、もっとも冷静なる態度をもって、自分らは、法の字句がどうであれ、自分らの考え通りに、前のシスシムを再導入すると通告したのであった。
本文注 / いろいろある中で、査察官レオナードホーナーに宛てた、慈善家アッシュワースの不快極まるクエーカー教徒の手紙が、それをよく表している。(工場査察官報告書1849年4月)
彼等は、丸め込まれた職工たち自身の利益のために、「より高い賃金を彼等に支払うことが出来るようにするために」やっているのだと見せかける。
(43)「これが10時間法下で大英帝国の製造業の優位を維持して行く唯一の可能な計画であった。」「多分、リレーシステムの不正を見つけることが多少は困難となるかも知れないが、それがどうしたというんだ。工場査察官や副工場査察官のちょっとした面倒を減らすために、この国の大製造業の利益をあたかも二次的な問題として取り扱うべきと云うのか?(工場査察官報告書1849年4月30日)
(44)これらの全屁理屈は当然ながら、なんの役にもたたなかった。工場査察官達は、法廷に提訴した。だが、もう一方の工場主らの請願書も、たちまちにして、国務大臣ジョージグレー卿を砂塵のごとく圧倒した。1848年8月5日の巡回裁判で、卿は、工場査察官に対して、しないようにと以下の勧告したのである。
(45)「法の字句の隙間解釈に関して、また年少者たちのリレー方式において、法が規定する時間よりも長い時間雇用されたと、そのような年少者たちが実際に存在するという信んずべき理由もなく、工場所有者らを提訴申請しないように。」以後、工場査察官J.スチュアートは、全スコットランドにおいて、15時間以内の工場日では、いわゆるリレーシステムを黙認した。たちまち以前のやり方が跋扈した。イングランドの工場査察官は、これとは異なり、国務大臣は法に関して独裁的な裁量権は持っていないと宣言して、奴隷制擁護の反逆に対して彼等の法的行為を続行した。
(46)とはいえ、法廷がこの場合のように、州治安判事らが、――コルベットの「偉大なる無給判事」らが、――それら提訴を無罪とするなら、資本家らを査問したところで何の期待があるというのか?これらの裁判において、一例を上げるならば、自分達の事案に、工場主らが判事の椅子に座るのである。ある男エスクリッジは、綿紡績業者で、カーショウ、リーズ、他による会社の経営者である。彼は当該地区工場査察官に、彼の工場で実施する予定のリレーシステムの概要を提出した。拒絶回答を聞いて、最初は静かにふるまった。二三カ月後、ロビンソンという名の個人が、この男も綿紡績業者で、エスクリッジのやる事には全部係わっていたが、忠僕と云えるかどうかは分からないが、エスクリッジが発明した典型的なリレー方式導入の罪で、ストックポートの州治安判事の前に出頭した。四人の判事が座った。そのうちの三人は、綿紡績業者であった。彼等の首席は、避けようしともしない同一人物たるエスクリッジその人であった。エスクリッジはロビンソンを無罪とした。翻って、ロビンソンに正しいことは、エスクリッジにも公正であると述べた。彼自身の法的判断に支えられて、彼は、彼の工場に直ちにそのシステムを導入した。(工場査察官報告書1849年4月30日の例も参照せよ。)勿論、この裁判官席の構成そのものが法に違反していた。
本文注 / ジョンウォブハウスの工場法として知られる、ウィリアム4世治下1年度及び2年度の法第24章10節によれば、あらゆる綿紡績業または織物業の所有者、またはそのような所有者の父、息子、兄弟は、工場法に関するいかなる審理にも、治安判事としての参加は禁じられていた。
(47)この種の道化裁判官は「緊急の修正を要する。」と、査察官ホーナー叫ぶ。「−このような裁定に法を一致させるように改訂すべきか、または、法にこれらの裁定が一致するように、より過ちの少ない裁判所に管轄させるべきである。−今後このような事例が生じた場合には。私としては、有給の裁判官を切望する。」(工場査察官報告書1849年4月30日)
(48)王室法律学者は、1848年の法に対するこの工場主らの解釈は不自然であると公言した。しかしこの社会の救世主らは、彼等の目的を転ずることについては、自分達を許さなかった。レオナードホーナーは次のように報告する。
(49)「法の施行に努力するものの、…10の提訴を、7つの行政区で行い、治安判事から支持されたものはただの1件のみ…このように、法の網の目が破られるようでは、この先の提訴は何の役にも立たないことになる。1848年法の労働時間の画一性を守るようにと確定された部分は、…この状況で、もはや私の地区(ランカシャー)では、法が正しく施行されている工場は存在しない。副査察官または私自身が、リレーシステムの拡大方式と言うべきシフト方式が行われている工場を査察しても、我々は、年少者たちと女性たちが日10時間以上働いていないと、確認するいかなる手段も持っていない。4月30日の報告書に戻るが、シフト方式を用いる工場所有者は、114人を数え、瞬く間に急速に増大している。多くの場合、工場の労働時間は、13時間半に拡張されており、朝6時から夕方の7時半である。…ある実例では、15時間であり、朝5時半から夕8時半までである。」(工場査察官報告書1849年4月30日)
(50)既に、1848年12月時点で、レオナードホーナーは、65製造工場主のリストと、29人の監視員のリストを持っていた。彼等は全員一致で、このようなリレーシステム下では、無法極まる超過労働を防ぐための監視方法が無いと言明した。(工場査察官報告書1849年10月31日)現に、同じ子供たちや年少者たちは、紡績室から織布室にシフトされ、現に、15時間の中で、ある工場から別の工場へとシフトされる。(工場査察官報告書1849年4月30日)このようなシステム下で、どうやって監督することが出来るというのか。
(51)「リレーシステム隠しの横行下、無限の「手」を混ぜ合わせて作りだす沢山の方法のうちの一つを見てもどうにもならない。全日での個々の、労働時間のシフト、様々な休息時間のシフト、があり、同じ時間、同じ室で、一緒に働く労働者達の完全なる一チームをも見ることはあり得ない。」(工場査察官報告書1849年10月31日)
(52)とはいえ、現実の超過労働のことを度外視したとしても、このいわゆるリレーシステムは、資本主義的な幻想である。かのチャールスフーリエが、ユーモアを添えて描写した「様々な労働の選択」なるものが、実現したわけではない。「労働の魅力」が、資本の魅力に換えられた云う点を受け入れるかぎりでは、実現したとも云える。例えばこうだ。ある「名の通った」新聞が、この工場主らの方式を、「管理と方法の合理的な完成品」のモデルであると称賛したのを見れば、分かるだろう。労働者ら各員は、時には、12から14の範疇に分別された。そしてそれらの範疇の内容構成は、絶えず変えられ、かつ再編成された。工場日の15時間において、資本は、今度は30分、今度は1時間と労働者を無理やり引きずり込んで、そして放り出す。工場に入れては、工場から追い出す。時間を細切れにして、こっちへあっちへと追い立てる。10時間の仕事が終わる迄彼を捕まえて離すことなはない。まるで、演劇舞台である。同じ人間が違う役を違う幕で演じねばならぬ。しかしながら、役者が、全演技の間は舞台に所属するのと違って、工場労働者は15時間工場に所属するのだが、あっちへ行ったりこっちへ来たりする時間は含まれていない。であるから、休息の時間は強制的な空き時間となり、青年たちを居酒屋の給仕に追い、少女たちを売春宿に追う。資本家が、彼の機械を12時間または15時間、労働者の数を増やすことなしに稼働させたいと日々思いつけばいつでも、労働者はこっちの細切れの時間に食事を飲み込まなければならないし、あるいは別のあっちの時間で食事を飲み下さねばならない。10時間法反対の煽動の時には、工場主らは、労働暴徒どもは、10時間の労働で12時間の賃金を要求していると叫んだものだが、今ではその言葉のメダルを裏返して、労働力の12時間または15時間の領有に対して10時間の賃金を支払った。(工場査察官報告書1849年4月30日を見よ。また、工場査察官ハウエルとサウンダースによる「シフトシステム」の詳細な説明報告書1848年10月31日を見よ。また、アシュトン及び周辺区の聖職者達が1849年春女王に提出したシフトシステムに反対する請願書も見よ。)これが、工場主らの10時間法の解釈であり、本質的な狙いそのものであった!これがあの同じ自由貿易主義者の姿である。穀物法反対運動のまるまる10年間、人間愛を熱く語り、ポンド、シリング、そしてペンスまで計算して、穀物の自由輸入と英国工業が所有する機械をもってすれば、資本家達を富ませるには10時間労働で充分であると、労働者に力説したあの者らの姿なのである。(例えば、「工場問題と10時間法案」R.H.グレッグ1837と比較してみよ。)この資本の反逆は、2年後、ついに勝利をもって結果の冠が与えられた。英国の四つの最高法廷の一つである財務裁判所法廷が、1850年2月8日に提出された提訴において次の様な判決を下したからである。製造工場主らは明らかに、1844年法の主旨に反した行動を取ったが、この法条項自体に、規定を無意味とする明確な言葉が書かれていると判決したのである。「この判決により、10時間法は廃止された。」
本文注 / F.エンゲルスの「英国10時間法案」(K.マルクスの編集による「新ライン新聞政治経済評論」1850年4月号に収録)に、この同じ「最高」裁判所法廷は、アメリカ南北戦争中、海賊船の武装を禁止する法の意味を逆転させるような語句の曖昧さを発見した。
これまでは年少者たちや女性たちに対して、リレーシステムを用いることに躊躇していた工場主連中は、いまや、それを用いることに、心臓も魂も注ぎ込んだ。(工場査察官報告書1850年4月30日)
(53)だが、この明らかに決定的な資本の勝利に、たちまち激変が伴った。労働者達の抵抗は不屈で根気強いものではあったが、これまでのところは、受け身に終始していた。今度は、ランカシャーやヨークシャーで、脅威的な集会をもって抗議した。ごまかしの様な10時間法は、この様に、単なる戯言であり、議会の法的詐欺であり、今だかって存在したこともない!工場査察官達は直ちに、議会に対して警告した。階級的対立が信じられない程の緊張点に達したと。ある工場主らは、仲間うちで愚痴をこぼす始末であった。すなわち、
(54)「治安判事の相矛盾する判決のために、事態はまったく異常となり、無政府的なものとなった。一つの法がヨークシャーで執行され、ランカシャーでは別の法が、一つがランカシャーの一行政区で、他のものが直ぐ隣の区で。大きな町の工場主は法を強引に切り抜けることができても、地方では、そのリレーシステムに必要な人々を見つけることはできない。工場から工場へシフトするにも人手が少な過ぎる。等々」
(55)云うまでもないが、資本の第一の生存権は、あらゆる資本家による、労働力の、平等なる搾取なのである。
(56)これらの状況下において、工場主と労働者の間の妥協が成立した。1850年8月5日の追加工場法である。議会の印章も捺印され確定した。「年少者たちと女性たち」の労働日は、週のうちの最初の5日間は、10時間から10時間半に伸び、土曜日は7時間半に短縮された。労働時間は朝6時から夕6時(冬季は朝7時から夕7時となる)で、1844年の条件と同じく、食事時間として1時間半より少なくない時間の休息、そしてその食事時間は、一斉に同時刻に与えられるものとなった。これらにより、リレーシステムは永久に廃止された。(本文注:「この現行法(1850年の)は、妥協の産物であり、そこで、労働者は、10時間法の恩恵を譲り渡して、労働者を制約する労働開始・労働終了の斉一時刻の方を選び取ったのである。」(工場査察官報告書1852年4月30日))子供たちの労働については、1844年の法が変わらず有効であった。
(57)一部の工場主らは、この時も以前と同じように、プロレタリアートの子供たちに関する特別な領主権を法の上で確保した。絹製造工場主らであった。1833年でも、彼等は大声で吠えて上流階級を威嚇した。「もし、仮に、いかなる年齢の子供たちであれ、日10時間の労働の自由が奪われたなら、自分達の工場の仕事が停止するであろう。」(工場査察官報告書1844年9月)13歳以上の子供たちを充分な人数買うことは、自分達にとっては不可能であろうという言い分である。彼等は彼等の望む特権を強奪したのである。その後の調査で、この口実は故意の嘘であることが明らかとなった。(同上)とはいえ、以後10年間にわたって、日10時間の絹紡績において、仕事のためには椅子の上に乗せられねばならないような子供たちの血肉を用いることが、妨げられることは無かった。(同上)1844年法は、確かに、彼等から11歳未満の子供たちを日6時間半以上雇用する「自由」を奪っていた。だがその一方で、11歳から13歳までの子供たちを日10時間働かせる特権を確保した。そして、他の全ての工場の子供たちに強制的に行われる教育を、彼等の場合には除外したのである。この時の口実は、以下の通りであった。
(58)「彼等が雇用された工場での織物の肌合いはとても繊細で、軽いタッチが必要で、早くからこれらの工場に導入された者たちによってのみ実現されるものなのである。」(工場査察官報告書1846年10月31日)
(59)子供たちは、彼等の繊細な指のために、まるまる屠殺されたのである。ちょうど、南部ロシアで角を持った牛が彼等の皮と牛脂のために屠殺されるのと同じようにである。でもついに、1844年では認められた特権は、1850年には、絹糸撚糸と絹糸巻き取りの部門のみに限定された。ところがここで、資本の利益を温存するために、11歳から13歳までの子供たちの労働時間の資本の「自由」が10時間から10時間半に伸ばされたのであった。再びその口実は、「絹工場の労働は、」
(60)「他の織物工場に較べて容易なものであって、また、健康への影響も低いものである。」(工場査察官報告書1861年10月31日)後に、公式医療調査は、正反対であることを証明した。
(61)絹製品製造業地域の平均死亡率は、ことの他高く、特に全人口のうちの女性部分では、綿製品製造業地域であるランカシャーよりもさらに高い。
本文注 / 工場査察官報告書1861年10月31日概して云えば、工場法に係る労働者人口については、身体的には大いに改善を見た。全ての医学的証言は、この点では一致している。また、様々な時点での個人的な観察も私をそう確信させるものである。だが、にもかかわらず、子供たちの、人生の最初の段階にある子供たちの恐るべき死亡率を別にしても、グリーンハウ博士の公式報告書によれば、「農業地域の通常的健康状態」と比較して、製造業地域の健康状態が好ましいものではないことを示している。証拠として、彼の1861年の報告書から以下の表を提示する。(略)
(62)6ヶ月ごとに提出される工場査察官の抗議にも係わらず、この健康被害は今なおこの時間でも続いている。
本文注 / 英国「自由貿易論者達」にとって、絹製造業者のための、絹の保護関税を断念することが、なんとも気の進まないものであったかは、よく知られたところである。フランスからの輸入保護関税に対応して、英国工場で働く子供たちの保護の撤廃が今度は彼等の言い分となった。
(63)1850年の法は、「年少者たちと女性たち」についてのみ、朝6時から夕8時半での15時間を、朝6時から夕6時の12時間に変えただけである。従って、この時間の前の半時間と後の2時間半、いつもの様に使うことができる子供たちの労働についてはなんら影響するものでは無かった。子供たちの全労働時間が6時間半を超えないと言う条件ではあったが。この法案の審議中、工場査察官達は、この悪のりのはなはだしき乱用に係る統計を議会に提出した。無駄であった。その背後には、景気好調の年には、子供たちの補助によって、成年男子の日15時間労働をねじ込もうとする狙いが隠されていた。続く3年間の経験は、このような試みが、成年男子労働者の抵抗の前に、悲嘆に帰さねばならなかった。その結果、1850年の法は、「子供たちの、年少者たちと女性たちの時間より前の、朝の時間、以後の夕方の時間の使用」を禁じる条項により、1853年に最終的な完成を見た。以後、二三の例外を除けば、1850年の工場法が、全製造業種の全労働者を適用下に置いた。
本文注 / 1859年と1860年の間、英国綿製造業の絶頂期、ある製造工場主らは、超過時間に対して高賃金という疑似餌を用いて、労働日の延長を成人男子労働者に認めさせようとした。ミュール紡績工らと自動挽き肉機監視工らは、雇用主らに対して請願書を提出し、この種の試みを停止させた。嘆願書には、次のように書かれていた。「分かりやすく云えば、我々の生活が我々の重荷となっている。そして、この国の他の労働者よりも週2日近く以上も工場に閉じ込められている間は、ここの農奴のように思う。そして、我々は、この不当なシステムを我々自身と将来の世代へも永続化しようとしている。….従って、ここに、最上の敬意をもって、あなた方に、通告するものである。クリスマスと新年の休暇の後に、作業を再開するに当たっては、週60時間働き、6時から6時まで、1時間半の休息を取り、働くが、それ以上は働かない。(工場査察官報告書1860年4月30日)
最初の工場法が、議会を通過してこの方、半世紀の時間が経過した。
本文注 / この法の用語法が法の違反に寄与した点については、議会返書である「工場等標準法」(1859年8月6日)があり、その中には、レオナードホーナーの「工場査察官をして、不法操業を防止することが出来るように工場法を修正するための提案、今やそれは、広く知られているものだが。」がある。
(64)1845年の「捺染工場法」は、工場立法としては最初の、本来のあるべき姿を逸脱したものであった。この新しい「おまけ」を受けた資本は今更という顔をしながらも、法の全行をわめきたてた。そこには、8歳から13歳までの子供たちと、女性のための労働日を16時間、朝6時から夜10時までに制限するものであり、その間には法的な食事時間のための休息も無かった。13歳を越える男性には、好きなだけ、昼夜通じて労働させることを許すものであった。
本文注 / 「8歳とそれより年齢の多い子供たちが、実際に、最近の半年間、私の地区で、朝6時から夜9時まで使用されていた。」(工場査察官報告書1857年10月31日)
それは、議会の流産児である。
本文注 / 「捺染工場法は、教育的な配慮に於いて、また児童保護の配慮の点でも、欠けるものと認められた。」(工場査察官報告書1862年10月31日)
(65)曲折はあったものの、この労働時間という原理は、近代産業の最も先端的性格を持つそれらの大きな工業部門で勝利することによって、はっきりと確立された。工場労働者の肉体的・道徳的再生と相まって、1853年から1860年にかけて、彼等の見事な前進は、全く鈍感な者をも驚かした。法的制限と規制が、南北戦争後の半世紀、工場主らを、一歩一歩絞め上げて行ったが、今や、その工場主自身が、依然として「自由」に搾取を続ける部門と、工場法下にある部門との違いにこれ見よがしに言及するのである。
本文注 / 例えば、1863年3月24日タイムズ紙に宛てた、E.ポッターの手紙である。タイムズ紙は、10時間法案に反対する工場主らの暴動を彼に思い出させている。
今や、「政治経済学」のパリサイ人らは、法的に規定された明確なる労働日の必要性の認識を、彼等の「科学」の特別なる新たな発見として高らかに宣言する。
本文注 / いろいろある中で、トゥークの「物価史」の共同執筆者であり、編集者であるW.ニューマーチ氏は、こんな具合である。大衆世論に対して意気地も見せず同意することが科学的進歩と云えるのか?
以下のことは、誰でも容易に分かるところであろう。工場主らのお偉方が諦めて、避けようもない事態に適応しようとすれば、資本の抵抗力も次第に弱まる。と同時に一方では、労働者階級の攻撃力は、直接的な利害関係にない社会階級の同盟者をも得て成長した。かくて、この時点から、1860年以後、かなりの急速な進歩が始まった。
(66)1860年、染色工場と漂白工場が、1850年の工場法の適用下に入った。
本文注 / 1860年に通過した法は、染色と漂白の各工場に関するもので、1861年8月1日から暫定的に12時間に、1862年の8月1日からは、明確に10時間、すなわち、通常日は10時間半、土曜日は7時間半にするべきものと決められていた。さて、運命の年1862年が来た。また例の昔の茶番劇が繰り返されたのである。またまた、工場主らは、年少者たちと女性たちの12時間の雇用を1年間延長して認めて欲しいと議会に申請したのである。「現在の商売状況(木綿不足の状況)では、労働者にとっては、日12時間働き、稼げる時に賃金を得るという非常に有利な状況にある。」法案は議会に、それらの声を受けて提出され、「そして、スコットランドの漂白作業を行う労働者らの行為を主な理由として廃案となった。」(工場査察官報告書1862年10月31日)労働者が申請したように見せかけて、その労働者によって覆されてしまった資本は、ほじくり屋法律家の助けも受けて、1860年の法が、「労働者の保護」のために書かれた全ての議会の法と同様の用語で書かれており、紛らわしい語句があって、彼等はその工場の中から、つや出し工場と仕上げ工場を除外する口実を与えることを発見した。いつなりとも資本の忠実なる使用人である英国法組織は、屁理屈部分を最高法廷で是認したのである。「労働者達は大いに失望させられた。….彼等は超過労働に不満を述べた。そして、立法府の明確な意図が不完全な定義という理由で損なわれてしまうことは実に残念なことである。」と述べた。(工場査察官報告書1862年10月31日)
レース製造工場とストッキング製造工場は、1861年に、1850年の法律の適用下に入った。
(67)子供達の雇用に関する委員会(1863年)の最初の報告書に従って、同じ運命が、全ての土器製造工場(単に製陶業のみではなく)、他にも分け与えられた。すなわち、黄りんマッチ製造工場、雷管製造工場、弾薬筒製造工場、絨毯工場、ファスチャン織り工場(綿等にコールテン風の仕上げをする)、他多くの「仕上げ」という名称の下に括られる工程を含む工場にもである。1863年には、野外漂白工場が特別工場法の適用下に入った。
本文注 / この「野外漂白工場」は、夜間に労働する女性たちはいないという嘘をついて、1860年の法から逃れていた。この嘘は工場査察官によって暴露された。同時に、議会は、労働者達からの嘆願書によって、野外で行われる漂白なる内容が、冷涼な牧草地で牧草の香りの中で実施されていると認識していたのを覆された。この大気によって漂白するという場所は、実は乾燥室のことであって、華氏90度から100度の温度なのである。中での作業は大部分が少女によって行われていた。「冷涼なる野外」とは彼女らが時々、乾燥室から新鮮な空気を求めて逃げ出すための工場用語のことなのである。「ストーブのある乾燥室には15人の少女たちがいる。リネンの場合は80度から90度、木綿の場合は100度かそれ以上となる。12人の少女たちがアイロン掛けや仕上げを10フィート四方の小さな部屋で行い、中央には密閉式ストーブがある。少女たちはストーブの回りに立って仕事をする。ストーブは恐ろしいほどに熱気を放射する。アイロン掛けのために、木綿等の布地を急速に乾かすためである。彼女たちの作業時間には制限がない。忙しい時期は、夜の9時または12時まで仕事をする。そのまま夜へと続けるためである。」(工場査察官報告書1862年10月31日)
ある医師は、こう述べている。「体を冷やすための特別の時間は決められていない。でも、温度が高すぎたり、作業者の手が汗で汚れたりすれば、僅かばかりの時間、外に出ることが許される。….熱い中で働く人々の病気を取り扱って来た、少なくはない私の経験から云えば、彼女たちの衛生上の状態は、紡績工場の労働者に較べて決して良くないとの意見をあえて述べざるを得ない。(一方の資本は、議会への陳述書で、田園の豊穣・田園の人々の豊満を描くルーベンス風の絵のような、健康的な彼女らを描き出す。)彼女らの最も顕著な症状は、肺結核、気管支炎、子宮機能異常、最も悪化した状態のヒステリー、そしてリウマチである。私の信じるところでは、これらの症状は、全て、直接的または間接的に、彼女らが使用される作業室の汚濁した空気、高温の空気によるもので、また、冬場、彼女らが、自分達の家に帰る時、冷たく湿った空気から体を守るための適切な衣服を持っていないことに起因するものである。(工場査察官報告書1862年10月31日)
工場査察官は、野外漂白業者によって掻きむしられたこの1860年の補遺法について、次のように述べている。「法は、当然に提供すべきもの、労働者に保護を与えることに失敗しただけでなく、ある条項で、….明らかに文字として、人達が夜8時以後働いていることを見つけられない限り、彼等は少しも保護条項に該当せずとある。仮に、働いていたとしても、それを証拠づける方式はなく、なんら摘発力が伴わない。」(工場査察官報告書1862年10月31日)
「以上の如く、様々な慈善または教育のための法として、その意図と目的という点で、この法は失敗している。であるからといって、女性達や子供達を日14時間、食事時間があろうと無かろうと、働かせるよう強いるに等しい内容が、慈善として認められそう呼ばれることはあり得ない。場合によっては、多分これより長い時間、年齢の制限もなく、性別も考慮せず、そのような仕事(漂白や染色)が行われる近隣の家庭の社会的慣習も考慮することなしに強いるであろうものを慈善とは云えない。」(工場査察官報告書1863年4月30日)
そして、製パン業も、この特別工場法の適用下に入った。これにより、野外漂白業では、年少者達と女性たちの夜間(夕方8時から翌朝6時まで)の作業が、製パン業では、18歳未満の旅職人の、夕方9時と翌朝5時の間の労働が禁止された。我々は後に、英国製造業の全部門で、資本家らの「自由」を剥奪すると脅したこの同じ議会の最近の提案に立ち戻るであろう。
本文注 / 第2版へのノート。1866年、私が上記の一文を書いて以後、再び反動が始まった。 
第七節 標準労働日のための闘争
 英国工場法に対する、他各国での反動

 

(1)労働の、資本への、隷属を生じるであろう生産様式の様々な変化を別にすれば、剰余価値の生産、または剰余労働の摘出は、資本主義的生産の特別なる終端であり目的である、絶総計であり本質である。読者はこのことを忘れることはないであろう。読者には、我々が今まで読んで来たところでは、ただ独立した労働者にのみ触れており、であるから、その労働者のみが、彼自身をして、商品の販売者として資本家との折衝に入る資格を有する。ということを思い出して貰いたい。従って、もし、我々がスケッチしてきた歴史において、一方で近代製造業が、他方で肉体的にも法的にも未熟な労働者が重要な役割を演じているとしたら、前者は我々にとっては単なる特別の部門であり、後者は、単に労働搾取の特別かつ衝撃的な事例ということである。とはいえ、我々の考察の進展の成り行きの予想は別として、我々の前にある歴史的な事実の単なる関連として、次の事に触れておく。
(2)第一資本家の、無制限かつやりたい放題の労働日の拡大を希求する激情は、水力、蒸気力そして機械類によって最も早くから大変革が起こった製造業部門で、最初に満足を得た。すなわち、近代生産様式の最初の型というべき綿、羊毛、亜麻、そして絹の紡績業と織物業である。生産の物質的様式の変化、そしてそれに呼応する生産者達*151 の社会的諸関連の変化が、あらゆる諸関連を超えて、まず最初の特別なる拡張として出現した。そして、これに拮抗するもの、社会的要請としての規制が呼び出される。すなわち、法的な制限、規則、そして労働日とそこに含まれる休息の斉一化である。とはいえ、この規制は、19世紀前半では単に、例外的な規則*152 として現われる。この新たなる生産様式の初期的な領域が法の支配下に置かれる頃には、様相は一変、同じ工場システムを採用する他の多くの生産各部門ばかりでなく、なんとも古臭い方式で製造業、例えば製陶業、ガラス製造や、昔のまんまの手工業、例えば製パン業、さらに、いわゆる家族的業種と呼ばれる、釘製造業ですら、*153 完全に、資本家的搾取下と同様な状況に、彼等の工場そのものが落ち込んで久しいのであった。従って、規則は、次第に例外的性格を捨てることを余儀なくされるか、または英国では、かってのローマの詭弁家達のやり方に習って、仕事がなされる建物としての家を工場*154 と宣言することを余儀なくされた。
本文注151 / これらの各階級(資本家達と労働者達)の行動は、それぞれが置かれた関係における相対的関係の結果から引き起こされる。」(工場査察官報告書1848年10月31日)
本文注152 / 規則の下に置かれる雇用者は、蒸気力または水力の助けによって行われる織物製造業に関係する者である。雇用者がその対象者であると見なされるべき者であるかどうかは、二つの条件が存在する。すなわち、流れまたは水力を利用し、かつある特殊な繊維の製造業に属すると。(工場査察官報告書1864年10月31日)
本文注153 / いわゆる家族的製造業の状況については、極めて価値のある材料が、最近の、児童の雇用に関する委員会の報告書に見出される。
本文注154 / 「前委員会の法(1864)...習慣の大きく異なる様々な職業を包含し、かつ機械類の作動を生み出す機械的な力の利用は、以前は法的な字句「工場」を構成するものであったが、もはや必要なる要素ではない。」(工場査察官報告書1864年10月31日)
(3)第二ある生産部門の労働日の規制の歴史は、そしてこの規制に係る他の部門で依然として続く闘争は、孤立させられた労働者、彼の労働力の「自由」なる売り手、かってある時点で資本主義的生産が獲得した者が、何の抵抗の力もなく、屈伏したことを結果的に証明する。従って、標準的労働日の創設は、資本家階級と労働者階級間の、どの程度隠されたものかは別として、長い市民戦争の産物である。この競技は近代工業という競技場で始まるのであるから、その最初の開始地は、工業の故郷-英国*155 である。英国の工業労働者達は、英国のと云うだけでなく、近代労働者階級一般のチャンピオンであった。彼等の理論家達は、資本の理論に対して最初の鞭*156 を振り降ろした。
本文注155 / ベルギー大陸の自由主義者の楽園は、この運動の痕跡を何ら残していない。炭鉱や金属鉱山の男女及びあらゆる年令の労働者達でさえ、いかなる期間、いかなる時間の長さであれ、完全なる「自由特権」を以て消費されていた。毎1,000人の雇用者のうち、男子733人、女性88人、少年135人、16歳未満の少女44。溶鉱炉他では、毎1,000人の雇用者のうち、男子668人、女性149人、少年98人、16歳未満の少女85人である。これに加えて、熟練・非熟練労働力の莫大なる搾取の結果として、低賃金である。成年男子は平均日支払額2シリング8ペンス、女性は1シリング8ペンス、少年は1シリング21/2ペンス。その結果として、ベルギーの自由主義者らは、1863年、1850年に較べて、約2倍の量と価値の石炭、鉄等々の輸出を得た。
本文注156 / ロバートオーエンは、1810年になって直ぐ、理論として、(1)労働日の制限の必要性を主張しただけではなく、(2)実際に、彼のニューラナークの工場に日10時間を導入したのである。(3)そしてまた当時、共産主義者のユートピアのようなものと笑われたが、彼の云うところは「生産的労働と児童教育との調和と、労働者達の協働的社会」だが、彼によって最初に叫ばれて知られる所となった。今日、(1)最初のユートピアは、工場法である。(2)二番目となるのは、全工場法の公式的な字句として、(3)三番目は反動的な企ての隠れ蓑としてすでに使われている。以来、工場の哲学者ユアは、資本に対して、「工場法と言う名の奴隷制度を」なる文字を旗に書き込んで、男らしく「完全なる労働の自由」のために突き進んだ英国の労働者階級を、神に向かってはとても云えないような言葉で罵る*のである。(本文注157:*ユア「フランス語訳製造業者達の哲学」パリ1836年第2巻)
(4)フランスは、英国の後をゆっくりとびっこを引きながら歩く。12時間法を世にもたらすためには二月革命が必要であった。だが、この12時間法*158 は、英国の原形に較べれば、より不完全なものである。とはいえ、フランスの革命的な方式は、特別なる前進も獲得している。労働日に係る同じ制限を、作業場であろうと工場であろうと区別することなく全てに対して命じている。一方の英国法では、状況の圧力に不承不承屈している。今回はこの点で、その次はあの点でと。そして、展望もなく、途方にくれる矛盾の絡まりあう条項*159 だらけに堕する。英国では、単に、児童たち、年少者たち、女性たちで勝利を得たのみであり、僅かに最近になって、最初の一般的権利として勝利したに過ぎない。一方フランス法は、原理*160 そのものを宣言する。
本文注158 / パリにある国際統計会議の報告書1855年には、次の様に書かれている。「工場と作業場での日労働の長さを12時間に制限するフランスの法は、この労働の時間を明確な不動の時間としては限定していない。ただ児童労働については、朝5時から夕9時の間と明記されている。であるから、工場主のある者らは、日曜日を除いては、できる限り、日が始まろうと、終わろうと、休みもなしに、自分らの作業を自分らの好きなように継続できるという、この致命的な沈黙で示されている権利を利用する。この目的のために、彼等は、二組の異なる労働者の班を利用する。班はいずれもその作業場には1回では12時間を超えないが、作業は昼も夜も続く。法は納得されたが、人間性は納得されたか?」さらに、「人体にとっての、夜間労働の破壊的な影響」に触れ、さらにまた、「夜、男女が、同じように暗い照明の中でごったに置かれることの致命的な影響」にも触れている。
本文注159 / 「例えば、私の地区の一人の居住者は、同じ宅地内で、漂白と染色工場法下にある漂白業者であり、同時に染色業者でもある。また捺染工場法下の捺染業者であり、工場法下の仕上げ業者である。」(工場査察官報告書1861年10月31日におけるベイカー氏の報告)これらのいろいろと異なる対応を列挙したのち、これらに起因する複雑な状況について、ベイカー氏は、「であるから、居住者が、法を逃れる道を選ぶことになれば、これらの3つの議会法の執行を確保するにはかなりの困難性が避けられないということになるであろう。」結果として、法律家がこれに対して自信を持って云えることは、法衣を持ち出すことのみである。
本文注160 / 工場査察官も、最後には敢えて、このように云っている。「これらの異議申し立て(資本家の、労働日の法的な制限に係る異議申し立て)は、労働の権利という大きな原理の前には屈伏せざるを得ない….そこに、資本家の労働者に対する権利を停止する時が来る。そして労働者の時間が彼自身のものとなる。仮に、そこになんの疲労も無いとしても、勿論のことである。(工場査察官報告書1862年10月31日)
(5)北アメリカ合衆国では、共和国の一部が奴隷制度で汚れているかぎりでは、あらゆる独立した労働者の運動は、麻痺させられていた。黒き烙印が白い皮膚にあるかぎり、労働は、自分を解放することは出来ない。しかし、奴隷制度の死以後、新たな生命が直ちに開花した。市民戦争の最初の果実は、8時間運動である。この運動は、大西洋から太平洋まで、ニューイングラインドからカリフォルニアまで、一足3マイル×7倍という民謡に登場するあの深靴を実現した機関車で一気に走った。ボルチモアで開かれた労働者一般会議(1866年8月16日)は、次のように宣言した。
(6)「現在やらなければならないことの第一で名誉ある事は、この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放することである、そのためには、アメリカ連邦全州において、標準労働日を8時間とする法を議会で制定することである。我々は、我々の全力を以て、光栄ある結果が達成されるまで、これを前進させることを決意する。」*161
本文注161 / 「我々、ダンカークの労働者は、現在のシステムが課している労働時間の長さが、長すぎ、休息と教育のための時間が、労働者にはほとんど残されておらず、労働者を苦役に陥しめており、奴隷制度となんら変わらない状態にあると断言する。これが、何故我々が8時間の労働日で充分と決めたのかの理由である。また、充分であると法的にも承認されねばならない。何故我々が我々の助けとして力強き梃子、新聞記者を呼んだのかの理由である。….そして、我々へのこのような助力を拒む者らを、労働改革と労働者の諸権利の獲得に対する敵と考えるかの理由である。」(ダンカークの労働者達の決議文ニューヨーク州1866年)
(7)同じ頃、ジュネーブの国際労働者協会の会議は、ロンドンの一般評議会の提案を受けて、次のように決議した。「労働日の制限は、それなくば、以後の改善や解放の推進が流産させられかねない前提条件である….会議は、8時間を労働日の法的制限として建議する。」
(8)この様に、大西洋の両側で労働者階級の運動が、生産の状況自体の中から、本能的に成長した。英国工場査察官R.J.サンダースの次の言葉が、それを認めている。
(9)「社会の改革へと向かう更なるステップは、労働時間が制限されること、その規定が厳格に執行されることが、なんらあり得ないということでは、永久に遂行され得ない。」*(本文注:162:*工場査察官報告書1848年10月)
(10)我が労働者達が、生産過程に入った時とは違った者としてそこから出て来たと云うことを、ここで、認識せねばならない。市場では、「労働力」商品の持ち主として、他の商品の持ち主達と互いに対面して立っていた。売買する者対売買する者として。契約によって、彼の労働力をその資本家に売るということが、言うなれば、白黒明解、彼自身を自由に処分することであると、明らかになった。取引が完結してみれば、彼はなんら「自由な取引業者」ではないことを見出す。彼が自由に彼の労働力を売る時は、なんと彼がそれを売らねばならないと、強要されていた時なのである。*163」「事実、その時、搾取の余地が、その筋肉、神経、一滴の血に至るも、そこにある限り、吸血鬼は、彼をして離しはしないであろう。」*(本文注164:*フリードリッヒエンゲルスの著書「イギリスの10時間法案」) 労働者達に「激しい苦痛をもたらす悪魔のごとき蛇」に対抗する「保護」のために、労働者達は、彼等の頭を一つにせねばならない。そして、階級としても。法の議会通過を推進するためにも。我が労働者の売り処分を防ぐであろう社会的な固い防塁が法なのだから。各自が個々に資本と交渉することでは、自分達も自分達の家族も奴隷制度とその死に至らしめる売り処分で終わる。*165 大げさな「手離すことができない人間の権利」の大きな目録に代わって、飾りも何にもない労働日の法的制限というマグナカルタがそこにやって来た。実に、それが、いつ労働者の売りが終了するかを明確にし、いつ彼の時間が始まるかを明確にする。」なんと偉大なる変化がここに始まったことか!*166 (ラテン語ローマの詩人ウェルギリウス)
本文注163 / 「そもそもの、その取引の数々(1848年から1850年にかけての、資本の策動というべきもの)が、労働者達は保護を必要とはしていない、それどころか彼等が所有する彼等自身の唯一の財産-彼等の手の労働そして彼等の額の汗の処分については、自由な商売人と考えるべきと、何回となく繰り返し前提として叫ばれてきた主張の欺瞞性に、論争の余地がない証拠を、なによりもはっきりと提供したのである。」(工場査察官報告書1850年4月30日)「自由な労働(もしその通りなら、そうも云えるかもしれないが)は、自由な国においてすら、それを保護するための法の強い腕を要求する。」(工場査察官報告書1864年10月31日)「食事時間があろうとなかろうと、日14時間働かせることは、….それを許容することは、強制労働となんら変わらない。等々」(工場査察官報告書1863年4月30日)
本文注165 / 10時間法は、その法律の適用下に入った製造業の各部門において、「過去の長時間労働をする労働者達の早すぎる老衰を終結した。」(工場査察官報告書1859年10月31日)資本は、(工場においては)雇用者の健康やモラルに障害を与えることが無い様にするため、また彼等を、彼等自身を保護できない状態に置くことが無いようにするため、制限時間を超えて、機械類を運転し続けることが金輪際出来ない。」(同上)
本文注166 / 「さらなる特典の一つは、労働者自身の時間と、彼の雇用主の時間とを、明瞭に区別したことである。労働者は、今では、彼の売り時間がいつ終わったか、そして彼自身の時間がいつ始まるかを知っている。このことの確かな予知を有することで、彼自身の目的のために彼自身の時間を予め準備することができる。」(フリードリッヒエンゲルスの著書p52)「このことをして、彼等自身の時間の主人とすることで、(諸工場法は)彼等に意欲のエネルギーを与え、その意欲こそが、彼等を結果として、政治的な力を持つ事へと導いたのである。(同上p47)強烈なる皮肉と際立つ適切なる言葉で、工場査察官達は、こう云う。現実の法が、また、資本家からある種の野獣性を取り除き、単なる資本家への道に向かわせたと。そして、彼に少しばかり「文化」のための時間を与えたと。「以前は、工場主は金の事以外の時間を持たず、その使用人は労働以外の時間を持たなかった。」(同上) 
 
第十一章 剰余価値の率と量

 

(1)この章でも、これまでと同様に、労働力の価値と、その結果として労働力を再生または維持するために必要な労働日のある部分については、ある一定の大きさがすでに与えられているものとする。
(2)このことにより、個々の労働者が一定期間において資本家に供する剰余価値の率・量が、同時に与えられたものとなる。すなわち、仮に、必要労働が日6時間であり、ある一定量の黄金=3シリングで表されるならば、かくして、その3シリングが、一労働力の日価値あるいは、一労働力を購入するために前貸しした資本の価値となる。さらに、もし、剰余価値率が=100%であるならば、この可変資本の3シリングが、3シリングの剰余価値の量を生産する。または、その労働者が、6時間に等しい剰余労働の量を資本家に一日あたりで供給する。
(3)ところで、資本家の可変資本というのは、彼が同時に雇った全労働力の総価値の貨幣表現のことである。従って、その価値は、一労働力の平均価値に、雇った労働力の数を掛けたものに等しい。であるから、与えられた労働力の価値に基づき、可変資本の大きさは、同時に雇った労働者の数によって、直接的に変わる。もし、一労働力の日価値が=3シリングであるならば、日100労働力を搾取するためには、300シリングの資本が前貸しされねばならない。日n労働力を搾取するためには、3シリングのn倍の資本が前貸しされねばならない。
(4)同様に、もし、3シリングの可変資本、一労働力の日価値が、日3シリングの剰余価値を生産するとしたら、300シリングの可変資本は、日300シリングの剰余価値を生産する。そして、3シリングのn倍のそれは、日3シリング×nなる剰余価値を生産する。従って、生産される日剰余価値の量は、一労働者が供給する一労働日の剰余価値に、雇われた労働者の数を乗じた量と等しいものになる。しかも、さらに付け加えるならば、一労働者が生産する剰余価値の量は、労働力の価値が与えられたものならば、剰余価値率によって決まる。この法則は、次のように云える。剰余価値量は、前貸しされた可変資本の量に、剰余価値率を乗じた量となる。別の言葉で云えば、同一の資本家によって同時に搾取される労働力の数と、個々の労働力の搾取される率と、一労働力の価値、の各項目の複乗算によって求められる量となる。
(5)剰余価値の量をS、個々の労働者によって日平均として供給される剰余価値をs、一個人の労働力の購入に前貸しされた日可変資本をv、可変資本の総計をV、平均労働力の価値をP、その搾取率を、(a'/a)(剰余労働/必要労働)、そして雇われた労働者数をnとしよう。我々は次の式を得る。
S=(s/v)×V / S=P×(a'/a)×n
(6)以下のことは、常に想定されている。労働力の平均価値だけではなく、資本家によって雇われる労働者も、平均的な労働者なのである。時に、搾取される労働者数に比例して生産される剰余価値が増加しないという例外的ケースもあるが、この場合では、労働力の価値が一定値に留まってはいない。
(7)であるゆえ、剰余価値の一定量の生産においては、一要因の減少は他の増加で補完されるであろう。もし、可変資本が減少しても、同時に、剰余価値率が同じ比率で上昇すれば、剰余価値量は、変化なく留まる。もし、我々の前段の仮定で見るとして、資本家が、日100人の労働者を搾取するために、300シリングを前貸しせねばならぬとしたら、剰余価値率が50%として、この可変資本300シリングは、剰余価値150シリング、または、100人×3労働時間の剰余価値を産む。もし仮に、剰余価値率が2倍、または、労働日の超過が6時間から9時間に代わって6時間から12時間となり、同時に可変資本が半分に減らされたつまり150シリングになったとすれば、剰余価値は、同様にして150シリング、または50人×6労働時間の剰余価値を産む。可変資本の減少は、このように、労働力の搾取率の比例的上昇によって補完される。または、労働日の拡大に相当する雇用労働者数の減少によって補完される。ある一定の限界はあるものの、かくして、資本によって搾取される労働の供給は、労働者の供給からは独立している。*1
本文注1 / この初歩的な法則は、アルキメデスが逆さまになったような俗流経済学者には未知のようなもので、供給と需要で労働の市場価値を決める場合の梃子の支点を見出したと思っているらしい。その梃子の支点が、世界を動かすようなことはなく、その動きを止めるものと思っているらしい。この事とは逆に、剰余価値率の低下は、生産される剰余価値の量に何の変化も残さない。もし、同じような比率で、可変資本の量、または雇用される労働者数が増大すれば、剰余価値量には何の変化も残さない。
(8)雇用される労働者数の減少に対する補填、または前貸しされた可変資本の量に対する補填は、剰余価値率の上昇によって補填されるものではあるが、それは労働日の超過時間によるものであって、従って、それは、超えることが出来ない限界を持っている。労働力の価値がどの様なものであれ、労働者の生命維持のための必要労働時間が2時間であれ10時間であれ、労働者が生産し得る全価値は、日の始まりから日の終りまで、常に、24時間の労働によって体現される価値よりは少ない。もし12シリングが24時間の労働が実現するものの貨幣的表現であるとしたら、12シリングよりは少ない。我々の前の前提によれば、日6時間の労働時間が労働力自体の再生産に必要である、または、その労働力の購入に前貸しされた資本の価値を置き換えるものである。1,500シリングの可変資本が、500人の労働者を雇用し、剰余価値率100%12時間労働日であれば、日剰余価値1,500シリングまたは6×500労働時間を生産する。300シリングの資本が日100人の労働者を雇用し、剰余価値率200%または18時間労働日であれば、単に、600シリングの剰余価値量を生産する、または、12×100労働時間のそれである。そうして、だが、全生産物の価値、前貸しされた可変資本の価値+剰余価値であるが、それは、日の始めから日の終りまでの、計1,200シリングまたは、24×100労働時間に届くことはあり得ない。平均労働日の絶対的限界-これは自然そのものにより、24時間より常に少ない-は、可変資本の減額に対してより高い剰余価値率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。または、搾取される労働者の減員に対してより高い搾取率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。この誰でも分かる法則は、資本の、出来得る限り雇用する労働者数をこのように少なくする性向(今後とも作用し続ける)から生じる多くの現象を解く上で非常に重要である。また、別の性向として、出来得る限りの大きな剰余価値量を求めることから、前者とは逆に、可変資本部分を労働力に変換することもある。これまでのこととは全く違って、雇用された労働者数、または可変資本量が増大したとしても、剰余価値率の同比の下落はないし、生産される剰余価値量の下落もありはしない。
(9)三番目となる法則が、二つの要素、剰余価値率と前貸しされた資本の量で、生産される剰余価値の大きさが確定されることから導かれる。剰余価値率、または労働力の搾取度と、労働力の価値、または必要労働時間が、与えられるならば、可変資本が大きくなればなるほど、生産された価値の量も剰余価値の量も大きくなる、のは自明であろう。もし、労働日の制限が与えられるならば、また、必要労働部分の制限が与えられるならば、一資本家が生産する剰余価値量は、彼が設定した労働者の数に明確に、排他的に依存する。つまり、前に述べた条件の下では、労働力の量に依存し、または、彼が搾取する労働者の数に依存する。そして、その数そのものは、前貸しされた可変資本の量によって決まるのである。従って、与えられた剰余価値率と、与えられた労働力の価値によって、生産される剰余価値の大きさは、直接的に、前貸しされた可変資本の大きさによって変化する。さて、ここで、資本家は彼の資本を、二つの部分に分割することを思い出して欲しい。その一部分を彼は、生産手段に配置する。これは資本の不変部分である。もう一つの部分を彼は、生きた労働力に配置する。この部分は、彼の可変資本を形成する。社会的な生産様式が同じ基盤の上にあっても、資本の不変部分と可変部分との分割線は、生産部門が違えば、異なった引かれ方をする。同じ生産部門であっても、同様に異なり、技術的な条件や生産過程の社会的な構成の変化に応じてこの関係は変化する。しかし、与えられた資本が、いかなる比率で不変と可変に分割されたとしても、そして後者、可変部分の不変部分に対する比率が、なんであれ、1:2または1:10または1:x,であれ、ここに置かれた法則は何の影響も受けない。なぜなら、我々の以前の分析によれば、不変資本の価値は、生産物の価値に再現されるが、新たに生産された価値、新たに創造された価値である生産物には入り込まないからである。1000任の紡績工を雇用するためには、100人を雇用する以上の原材料、紡錘等々が勿論のこと必要となる。とはいえ、これらの追加的な労働手段の価値が上昇しようと、低下しようと、変化なく保持されようと、それが大きかろうと小さかろうと、そこに投入された労働力による剰余価値の生産過程には、何の影響も生じない。従って、前述の法則は、かくて、次のような形式をとる。異なる資本により生産される価値の大きさと剰余価値の大きさは、--与えられた労働力の価値とその搾取率が同じならば、--直接的に、これらの資本の可変部分を構成する大きさにより変化する。すなわち、生きた労働力に変換されたそれらの構成部分に応じて変化する。
(10)この法則は、外観を見る限りでのあらゆる経験とは、明らかに矛盾している。誰もが知っている様に、綿紡績工場主は、自分が注ぎ込んでいる資本の全部について、多くの部分を不変部分に、わずかな部分を可変部分に用いていることを知っており、だからといって、可変部分に多くを、不変部分には殆ど注ぎ込んでいない製パン工場主に較べて、少ない利益、または少ない剰余価値を懐にしていると云う分けではない。この外観的矛盾の解答のためには、多くの中間項が依然として必要なのである。丁度、初等代数の地点から見れば、0/0が実際の大きさを表していることを理解するためには、多くの中間項が必要なのと同じ様なものである。この法則を未だに把握していない古典経済学ではあるが、この点に本能的に固執する。なぜかと云えば、これが価値の一般法則としての必然的帰結だからである。古典経済学は、強引なる抽象化によって、この矛盾する現象の混乱から法則を解消しようとする。リカード派が、この躓きの石を乗り越えるためにどのように嘆いたか*2 は、後に、明らかにする。全くのところ、「実際には何も学ばない」俗流経済学は、この点で、法則が明瞭に成り立ち、その内容を説明しているにも係わらず、いつもの様に、至るところで、その反対側にある外観に固執する。スピノザとは逆に、彼等は「無知であることが、その充分な理由である。」と信じている。
本文注2 / より詳細については、第4冊剰余価値学説史で示されるであろう。)
(11)朝になると同時に、そして夜が終わるまでの間、社会の全資本によって注ぎ込まれる労働を、一労働日の集合体とみなしてみよう。もし、そこに労働者が100万人いて、一労働者の平均労働日が10時間であるとすれば、この社会的労働日は、1,000万時間を構成する。この労働日の長さが与えられているならば、それが物理的に決められていようと、社会的に決められていようと、剰余価値の大きさは、労働者の数すなわち労働人口の増加によってのみ増加され得る。ここでは、人口の増大が、全社会的資本による剰余価値の生産の数学的限界を形成する。これとは逆に、人口の大きさが与えられるものであるとしたら、この限界は、労働日の可能的長さ*3 によって形成される。
本文注3 / 「社会の、経済的時間としての労働が与えられたものであるとしよう。例えば、100万人の日10時間または1,000万時間….資本は増加に境界線を持っている。この境界は、ある与えられた期間、雇用された経済時間の現実の延長によって獲得さる。」(「諸国の政治経済に関する一論」ロンドン1821年))しかしながら、このことは、つまりこの法則は、ここまで取り上げて来た剰余価値の形成のためにのみ適用されているということを次章で知ることになろう。)
(12)これまでの、剰余価値の生産で取り上げたことからは、あらゆる貨幣総額、またはあらゆる価値が、気ままに資本に変換できるものではないということが云える。この変換がなされるためには、実のところ、ある最小限の貨幣、または、交換価値が、貨幣とか商品の個人的所有者の手の中に、予め必要条件として前提されていなければならない。最小限の可変資本とは、一単位労働力の費用価格と云うことである。1年間を通して、朝から夕まで、剰余価値の生産のために用いられる一単位労働力の価値と云うことである。もし、この労働者が彼自身の生活手段を所有している状態にあるならば、そして労働者として生きていくことに満足しているならば、彼は、彼の生活手段の再生産に必要な時間を超えて働く必要はない。例えばそれは日8時間で足りよう。彼は、他には、ただ、8労働時間に必要な生産手段を求めることだけであろう。他方、資本家は自身をしてどうするか。これらの8時間の他に、云うなれば4時間の剰余労働を、追加的な生産手段を装備するための追加的な貨幣を要求する。とはいえ、我々の仮説によれば、彼は、日々妥当な剰余価値を得た上で、一労働者と同じように、それ以上ではなく、生活して行くためには、二人の労働者を雇わねばならないであろう。すなわち、彼の必要な欲求を満足させることができるためには。この場合、彼の生産の行き着く先は、単に生活の維持であって、富の増加ではない。だが、この後者こそ資本家的生産を意味している。通常の労働者の二倍の生活を送り、それに加えて、その剰余価値の半分を資本に転換するためには、彼は、労働者の数とともに、前貸し資本の最小限度額を8倍に増額しななければならないであろう。勿論、彼は労働者の様に、自身をして働かせることはできる。直接的に生産過程に加わればよい。だがしかし、そうしたからと言って、どうなるか。ただの資本家と労働者のハイブリッド、小工場主である。資本家的生産のある段階では、資本家は全ての時間を資本家として機能するように身を捧げることができる。すなわち人格化した資本として、従って、他の労働者の管理をし、この労働の生産物の販売を管理する者として、特化するに至る。*4
本文注4 /「借地農場経営者は、彼自身の農業労働に勤しむことはできない。もし、そう彼がしたら、彼はそれによって、損をすることになる。と私なら云うであろう。彼のやるべきことは、農場すべての全般的監視でなければならない。彼の脱穀作業者は監視されねばならぬ。そうでないと、脱穀されぬままの小麦のために、直ぐに彼の賃金を失うことになろう。彼の干し草の刈り取り作業者も、その他の者も監視されねばならない。彼は、常に、農場の柵を巡らねばならない。なにものも放置されないことを見て行かねばならない。彼がもし、ある一ヶ所に留められていたなら、このようには行かない。」(J.アーバスナット「食糧の現在価格と農場規模との関係についての一研究」ロンドン1773年)この本は非常に興味深い。この本から、「資本家的借地農場経営者」または「商人的借地農場経営者」と系統だって呼称される者の起源を学ぶことができる。そして、生存だけしかなし得ない小農場者を踏みつけにしての自己称賛の記録を見出す。「資本家階級は最初は部分的に、そして、自分の手作業から解放されて、最終的には完璧にそのようになる。」(「諸国の政治経済についての講義教科書聖リチャードジョーンズ」ハートホード1852年第三講義)
それ故、中世のギルドは、親方が資本家に変態しないように力をもって阻止することを試みた。一親方が雇用し得る労働者の数の最大限を小さく制限したのである。ただ一つ、この中世の最大限数を大きく超えて生産のために前貸しされることで、実際に、貨幣または商品の所有者が、資本家に転化するのである。ここに、自然科学のごとく、ヘーゲル(彼の「論理」)によって発見された法則の正しさが現われている。すなわち、単なる量的な違いが、ある一点を超えれば、質的な変化へと転じる。*5
本文注5 / 近代化学の分子理論が最初に科学的に系統建てられたのは、ローランとジェラールによってであり、他の法則に依拠してはいない。(第三版への追加)この理論の説明ために、化学者でない者にとっては、なかなか難しいが、我々は、1843年に、C.ジェラールによって最初にそのように命名された炭素複合物の同族系列について、命名者本人が、この時、述べていることを書き留めておこう。この系列は、この物独特の一般的な代数的公式を持っている。すなわち、パラフィン系列ではCnH2n+2、標準アルコールは、CnH2n+2O、標準脂肪酸は、CnH2nO2、他いろいろと。ここに述べた例は、CH2という単純な形のものを量的に分子公式に追加して行くもので、その度ごとに、質的に違った物質が形成されるのである。この重要な事実の決定に関するローランとジェラールの功績(マルクスによって過大評価されている)については、コップの「化学の発達」ミュンヘン1873年と、スコークマーの「有機化学の起源と発展」ロンドン1879年を見よ。
(13)貨幣または商品の所有者個々が、彼自身を資本家に変態させるために指揮をとるその価値総額の最小値は、資本主義的生産の発展段階によって変化する。それぞれの与えられた段階や生産局面の違いによって、彼等の特別なる条件や技術的な条件によって変化する。生産のある局面では、その最初の資本主義的生産局面であってすら、一単独の手の中では見出せないほどの最小限の資本を要求する。このことが、ある部分では、私人達への国家的補助金をして、そのきっかけを与える。コルベールの時のフランスや、多くのドイツ諸州が我々の時代を作り上げた様に。またある部分では、工業商業のある部門での搾取のために、法的独占*6を社会的に形成する。我々の近代の株式会社の先駆である。
本文注6 / マーティーンルーサーは、これらの種類の会社を「独占的会社」と呼ぶ。
(14)我々が見て来たように、生産過程の内部においては、資本が労働に対する命令権を要求する。すなわち、労働力または労働者そのものに対して指図する。擬人化した資本、資本家は、労働者が彼の仕事を規則正しくなすように、また適切な集中度をもってなすように、管理する。
(15)さらに資本は、強制的な関係にまでこれを発展させ、労働者自身の生活に必要と処方された狭い範囲を超えて、労働者階級にそれ以上の労働を強要する。あたかも、他人の活動の演出者のごとく、剰余労働のポンプ係、労働力の搾取者として、直接的に労働者を追い立てた、初期の全ての生産システムを超えて、その熱中、規範の無視、無謀、効率一辺倒なやり方で、これを強要する。
(16)まず最初、資本は、歴史的に見出される技術的条件の基盤において、労働を服従させる。であるから、生産様式を直接的に変化させることはしない。剰余価値の生産は、--これまで我々が考察したような形式で、--証明済の単純な労働日の延長によって、従って、生産様式自体のいかなる変化からも独立して行われる。だから、旧式の製パン業者においても、近代的な綿製造工場に劣らないほど活発にそれが行われる。
(17)もし、我々が、単純な労働過程の視点から、生産過程を見るとすれば、労働者は、生産手段との関係に立っており、資本のなんやらの性質にあるのではなく、彼自身の知的な生産活動の単なる手段と材料に対して立っている。例えば、皮なめしでは、彼は皮を単純な労働対象として取り扱う。資本家の皮をなめすのではない。しかし、これを剰余価値の創造過程という視点から見れば、生産過程はたちまち違ったものとなる。生産手段は、たちまち、他人の労働の吸収手段に換わる。もはや労働者が生産手段を用いるのではなく、生産手段が労働者を用いる。彼の生産的活動の材料的要素として彼が消費するものではなくて、それらがそれら自身の生命過程の必要な酵素として彼を消費する。そして資本の生命過程が、絶え間なく価値拡大の活動だけを作りだす。絶え間なく自身を倍増するだけの活動を作りだす。溶鉱炉や工場が、夜何もせずに突っ立っているだけで、生きた労働を吸収しないならば、それは資本家にとっては、「ただの損失」なのである。故に、溶鉱炉や工場は、労働者たちの夜間労働を、正当なる要求とするのである。単純な、貨幣の生産過程の材料的要素への転化が、生産手段への転化が、夜間労働への要求を、他人の労働と剰余労働に対する一命題に、一権利に転化するのである。死んだ労働と生きた労働間の、価値と価値を創造する力間の関係の完全なる倒錯、資本主義的生産の特徴でありかつ特異な珍妙論が、どのようにして、資本家の意識、それ自体の鏡像となるのか、後段の一つの例が明らかにするであろう。1848年から1850年の間、英国工場主の反抗の頃、「西スコットランドの最も古く、最も尊敬される工場の一つカーライル一族会社、ペイスレーのリネンと綿の繊維工場、1752年に創業し1世紀に及ぶ存続を誇り、4世代の同家族によって経営されてきた、その工場主」….この「非常に知的な紳士」が手紙*7 を書いた。1849年4月25日付けグラスゴーディリーメール紙に、「リレーシステム」と題するもので、いろいろとある中で、次のような珍妙で朴訥な文章があった。「我々は今、….悪魔が工場の労働を10時間に制限するやもしれない….やつらは、工場主達の将来と財産に最も重大な損害を及ぼそうとしている。もし、彼(彼の「労働者」のこと)は以前12時間働いていたが、10時間に制限されると、彼の工場では、あらゆる12の機械または紡錘が10に縮んでしまう。工場を畳まねばならなくなるに違いない。その価値はただの10になるだろう。そうなれば、この国の全ての工場の価値の1/6の部分が差し引かれることとなるであろう。」*8
本文注7 / 工場査察官報告書1849年4月30日
本文注8 / 前出報告書工場査察官スチュアートは、彼自身はスコットランド人、は、英国人工場査察官達とは逆に、全く、資本家的な思考方式に捕らわれているのであるが、彼の報告書に加えたこの手紙について、次のように明確に述べている。「これは、同じ商売に従事する工場主達に与えられたリレー方式の採用についての最も有益な内容であり、作業時間の調整による変化への疑念と云う先入観を取り除くには最も明解なものである。」
(18)この、西スコットランドのブルジョワの頭脳にとっては、「4代」もの間受け継がれ、積み上げられた資本家的品質の頭脳にとっては、生産手段の価値、紡錘等々は、それらの財産、資本としての、それら自体の価値と、日々飲み込む他人の不払い労働のある一定量、が切り離しがたく混ざり合っており、カーライル一族会社の社長は、実際のところ、もし彼が工場を売れば、彼に支払われる紡錘の価値のみではなく、それに加えて、剰余価値を追加する力も、紡錘の中に体現されている労働、そしてその種の紡錘の生産に必要な労働のみでなく、勇敢なるスコットランドのペイスレーの土地が日々の汲み出しを手助けする剰余労働もまた支払われると思っているようだ。だからこそ、彼は労働日の2時間の短縮が、12の紡績機械の売値が10!のそれになると思っている分けだ。 
 
第十二章 相対的剰余価値の概念

 

(1)資本家によって、単に、彼の労働力のために支払われる価値の等価を生産する労働日の部分を、ここまでの処では、我々は、ある一定の大きさとして取り扱ってきた。いはば、事実上、与えられた生産条件の下で、与えられた社会の経済的発展段階の下で、の一定の大きさとして取り扱ってきた。この、労働者の必要労働時間を超えて、労働者が仕事を2時間、3時間、4、5、6時間、そしてそれ以上の時間を続けて働くことができることも我々は見た。剰余労働率と、労働日の長さは、この延長の大きさに依存したものであった。必要労働時間が一定であったとしても、その一方で、全労働日が変化することは、我々が見てきた処である。さて、ここで、我々が持っている労働日の長さと、その区分、必要労働と剰余労働間の区分が与えられたものであると仮定しよう。全長さをacとし、仮に、12時間の労働日を表すものとし、a--------------------------b-------c とし、a---b部分を10時間の必要労働、b-c部分を2時間の剰余労働としてみよう。さて、どうしたら剰余価値の生産を増やすことができるだろうか。すなわち、どうしたら、acを延長することなく、a-cと無関係に剰余労働を延長することができるだろうか?
(2)長さacは与えられたものではあるが、bcが延長可能であるものとすれば、そして、右端のcがそれ以上右に延長しないものとすれば、つまり、労働日acが依然として、なんであれ、位置を変えないものとすれば、bの開始位置を、aの方向に戻すことになろう。さて、新たなbの開始位置をb'とすれば、線a-b'-b-cが、下の様に描ける。a--------------------b'-b--c / b'---bの長さを、b------cの半分、または1時間の労働時間であるとしておこう。もし、改めて見れば、12時間労働日a-cにおいて、我々はb点をb'に動かし、b-cを、b'-cとした。剰余労働を1時間増やし、2時間から3時間とした。だが、労働日は前と変わらず12時間に留まっている。剰余労働時間を、b-cから、b'-cへと2時間から3時間に拡大はしたが、明らかに、同時に、必要労働a-bをa-b'に、10時間から9時間に短縮しなければ、このことは不可能である。剰余労働の拡大は、必要労働の縮小と見合っており、または、実際に、労働者自身の便益のために以前は消費した労働時間の一部が、資本家の便益のための労働時間に転化することになろう。労働日の長さは変わらないが、必要労働時間と剰余労働時間の区分が変わることになろう。
(3)他方、もし、労働日の長さと労働力の価値が与えられるならば、剰余労働の長さが与えられたものとなるのは自明である。労働力の価値、すなわち、労働力を生産するに不可欠な労働時間は、その価値を再生産するために必要な労働時間を定める。もし、一労働時間が6ペンスに体現されるとするならば、そして労働力の日価値が5シリングであるとするならば、労働者は、彼の労働力に対する資本によって支払われた価値と置き換えるために、または、彼の必要な日生活手段の価値の等価分を生産するために、日10時間働かなければならない。この様に、生活手段の価値が与えられるならば、彼の労働力の価値は与えられたものとなる*1 、彼の労働力の価値が与えられるならば、彼の必要労働時間の長さは与えられたものとなる。従って、剰余労働の時間は、全労働日から必要労働時間を差し引くことによって達成される。10時間が12時間から差し引かれて、2時間が残る。与えられた条件の下で、剰余労働が2時間を超えて、どの様にして引き延ばされるのか、それが分かるのは簡単ではない。いや、資本家にとってはなんでもない。5シリングに代えて、4シリング6ペンスまたはそれより少ない額を労働者に支払うことができる。もし、この4シリング6ペンスの価値の再生産に対応する9時間の労働で充分足りるとなれば、その結果、2時間に代わって3時間の剰余労働が資本家に生じ、剰余価値は1シリングから18ペンスに上昇する。とはいえ、この結果は、単に労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも下げたことで得られたものに過ぎない。彼が9時間で生産した4シリング6ペンスでは、彼は、以前の暮らしに必要であったものを1/10少なくせねばならぬ。結果、彼の労働力の適切な再生産が損なわれる。これでは、剰余労働は、ただ標準境界への踏み込みによって拡大されたものでしかない。その領域はただ、必要労働時間領域部分への強権的な拡大となるだけであろう。労働力の生産のために必要な労働時間、またはその価値の再生産に必要な労働時間は、労働者の賃金の彼の労働力の価値以下に下落によって減少させることはできないが、ただその労働力の価値そのものの下落によってのみ承認されるものとなる。労働日が与えられているとすれば、剰余労働の拡大は、必要労働時間の短縮から生じる必然性がなければならない。後者は前者から生じることはできない。我々が取り上げた例から云えば、必要労働時間が1/10縮小されることで、すなわち、10時間が9時間に、労働力の価値が実際に1/10低下すべきことが必要である。結果として、剰余労働が2時間から3時間に拡大されることになろう。
本文注1 / 彼の日平均賃金の価値は、労働者が必要とする「生活し、労働し、再生する」ためのものによって決められる。(ウイリアムペティ「アイルランドの政治的解剖」1672年)「労働の価格は、常に、必要なものの価格に等しい….いつでも….労働者の賃金が、彼の労働者としての低き身分と地位に見合うもので、多くの者は家庭を持つのであるが、その家庭を維持していくものに当たらないならば、彼は適切な賃金を受け取ってはいない。(J.バンダーリント既出)「自身の腕と働きのみしか持たない単なる労働者は、他人に彼の労働を売る以外の何物も相続しておらず….あらゆる種類の仕事において、必ずと言っていい程、実際に事実上その通りなのであるが、労働者の賃金は彼の生活を支えるに足るものに制限されている。」(タルゴー「考察他」著作集)「生活に必要な品々の価格は、事実、労働の生産コストである。」(マルサス「地代他に関する研究」ロンドン1815年)
(4)しかしながら、この様な労働力の価値の低下は、以前には10時間で生産されていた同じ生活必需品が、今では9時間で生産され得るということを意味する。しかし、この事は、労働の生産性の向上が無ければ不可能である。例えば、ある靴屋を想定してみよう。与えられた道具で、12時間の一労働日に、1足のブーツを作る。もし、彼が同じ時間でもって、2足を作らねばならないとしたら彼の労働の生産性は2倍にならねばならない。だが、それはできない。彼の道具を変えるか、または彼の労働様式を変えるか、またはその両方を変えるかしない限り、できない。そうするには、生産条件すなわち、生産様式と労働過程そのものであるが、を革命しなければならない。我々が、一般的に、労働の生産性の向上と言うのは、商品の生産に必要な社会的労働時間の短縮といった様な種類の労働過程の変更を意味している、そして、与えられた労働量に、より大きな使用価値量を生産する力を付加することである。*2 これ迄は、労働日の単純な拡大から生じる剰余価値を取り扱って来たが、そこでは、我々は、生産様式を与えられたものとして、変化しないものとして仮定してきた。しかし、剰余価値が必要労働を剰余労働に変換することで生産されるべきものとなるならば、旧来のやり方でやって来たような労働過程は、単純にその労働過程の長さを延長するだけのやり方は、資本家にとっては事足れりというものでは無くなる。労働の生産性を増大させ得るということになれば、生産過程の技術的かつ社会的条件は、結果として、あらゆる生産様式は、革命的に変容を受けざるを得ない。ただ一つこのことによって、労働力の価値は下落され得る。かくて、その価値の再生産に必要な労働日に該当する部分が短縮され得る。
本文注2 / 手工業の完成とは、より少ない人数で、または(全く同じことであるが)以前より少ない時間で、生産物を作る新たな方法の発見以外のなにものでもない。(シスモンディ「研究」)
(5)労働日の延長によって産み出された剰余価値を、私は絶対的剰余価値と呼ぶ。他方、必要労働時間の短縮によって生じる剰余価値を、労働日の二つの要素のそれぞれの長さを、それ相応に変更することから生じる剰余価値を、私は相対的剰余価値と呼ぶ。
(6)労働力の価値の下落をもたらすためには、労働の生産性の増加が次のような産業部門を捕らえなければならない。その生産物が労働力の価値を決めている産業部門、結果的にも、習慣的な生活手段に所属する生産物であるか、またはそのための手段と物を供給することができるかの、いずれかの、生産部門でなければならない。さて、とはいえ、商品の価値は、労働者がその商品に直接的に付与した労働の量のみではなく、さらにまた生産手段の中に含まれた労働の量をも合わせて決められる。例えば、一足のブーツの価値は、靴直しの労働のみではなく、皮革の、ワックスの、紐の価値等々に依存している。であるから、労働力の価値の下落は、労働の生産性の向上と、労働手段や材料を供給する産業部門等の関連するそれぞれの商品等が安くなることでもたらされる。それらの労働手段や材料は、生活必需品の生産に要する不変資本の必須の要素となる。しかし、生活必需品を供給するでもなく、またそのような必需品の生産手段ともならないものを供給する産業部門での、労働の生産性の向上は、労働力の価値を攪乱することはない。労働力の価値を変えない。
(7)勿論、安くなった商品は、ただその限りにおいてのみ、労働力の価値を下落させる。下落は、その商品が労働力の再生産において使用される範囲に比例して生じる。例えば、ワイシャツである。これは生活必需品の一つである。がしかし、様々な必需品のうちの一つなのである。であるから、生活必需品全体ということになれば、様々な商品群からなっており、かつそれぞれ別々の産業の生産物なのである。そして、それらの商品それぞれの価値が、労働力の価値の中に、その構成要素として入る。後者の価値は、その再生産のために必要な労働時間の減少によって減少する。全体としての減少は、それらの種々の異なる産業によって実現された労働時間の短縮の総計による。だがここでは、この一般的結果は、あたかも、個々の産業において、直接的にそのようになるもとして瞬時に実現するかのように取り扱われる。すなわち、労働の生産性の増大によって個々の産業資本家がワイシャツを安くする時がいつであれ、彼においては、労働力の価値の縮小、必要労働時間の該当比部分の短縮をわざわざ意図する必要性などは全くないのである。しかしながら、彼がこの結果に究極的に貢献する比率において、全般的に剰余価値率の上昇を支援することにはなる。*3 一般的かつ必然的な資本の傾向は、資本の存在証明の各形式とは明確に区別されねばならない。
本文注3 / 「我々は次のことを考えて見よう…生産物を…機械類の改良によって工場主らはその量を倍にした…彼は、全売り上げのより小さな部分をもって、彼の労働者に衣服を着せることができるであろう…そのようにして、彼の利益は上昇するであろう。だが、その他のことはなんら影響されることはないであろう。」(ラムジー既出)
(8)ここで、次のような事を考察する意図はない。資本主義的生産に内在する法則として、資本個々の集団としての運動に現われるそれら自体の兆候とか、それらが自身の主張する強権的な競争原理とか、資本家としての行為の直接的動機となる資本家個人の、家まで持ち帰る心や意識とかの、道筋については、考察してみる意図はない。だが、以下のことはより明瞭である。資本の内的特質の概念を持つ以前に、競争の科学的な分析は不可能である。丁度、天体の運動そのものの正確な動きを知る者でなければ、その運動を理解することはあり得ない。運動は直接的に五感では感じとることはできない。にもかかわらず、相対的剰余価値の生産を理解するために、以下のことを付け加えておこう。そこでは、我々がすでに獲得した結果以上のものはなにも仮定してはいない。
(9)もし、一労働時間が6ペンスに体現されているとすれば、6シリングの価値は、12時間の一労働日で生産されるであろう。広がりを見せた労働の生産性をもってすれば、12個の品物がこれらの12時間で生産されると考えてみよう。それぞれの品物に使用された生産手段の価値を6ペンスとしよう。これらの状況で、それぞれの品物のコストは1シリング。そこには、生産手段の価値として6ペンス、と、それらに労働によって新たに追加された価値の6ペンスがある。さて、ここで、ある一人の資本家が労働の生産性を2倍にする方法を考え出したとしてみよう。そしてその12時間の労働日にうちに、12個に代わって、その種の品物24個を生産する。生産手段の価値が同じに留まるとすれば、それぞれの品物の価値は、9ペンスに下落するであろう。そこには、生産手段の価値が6ペンス、と、労働によって新たに追加された価値の3ペンスがある。倍になった労働生産性にも係わらず、日の労働は、以前と同じく、新たな6シリングの価値を作り出すが、それ以上のものではない。とはいえ、その価値が2倍数の品物の上に振り分けられる。今、それぞれのこの品物は、価値の中に、1/12に代わって、1/24で体現された労働を有している。6ペンスに代わって3ペンスが、または、同じ量として云うならば、全1時間の労働時間に代わって、生産手段がそれぞれの品物の中に変換される時に、わずか半時間の労働時間が、ここで、追加されるということである。これらの品物の個々の価値は、今や、それらの社会的価値以下となる。他の言葉で云えば、社会的平均的条件の下で生産される同じような品物の多くの物よりも少ない労働時間の品物となっている。それぞれの品物の平均価格が、1シリング、そして社会的労働の2時間を表しているとする。しかし、変更された生産様式下では、わずか9ペンスの価格、または、わずか11/2時間の労働を含むにすぎない。とはいえ、商品の実際の価格は、そのものの個別の価格ではない。というのも、実際の価値は、その商品が個々の場合に生産者が要する労働時間によって計量されるのではなくて、その生産に要する社会的時間によってなのである。従って、もし、新たな方法を採用した資本家は、彼の商品をその社会的価値1シリングで売り、彼は、その個々の価値よりも3ペンス高く売る。そして、その様にして、3ペンスの更なる剰余価値を実現する。他方、彼に関しては、12時間の労働日が今では、12個に代わって24個の品物で表される。それゆえ、1労働日の生産物を始末するためには、以前の2倍の需要がなければならなくなった。すなわち、市場が2倍の広さにならねばならない。そこで、彼は、それらをそれらの個々の価値よりは高く、ではあるが、それらの社会的価値よりは安く、例えばそれぞれ10ペンスで売るであろう。このようにしても、彼は、依然として、それぞれから1ペニーの更なる剰余価値を絞り出す。剰余価値の増大物は彼のポケットに入る。彼の商品が、生活必需品の範疇、労働力の一般的価値を決定する部分に関係するもの、に属して居ようと居まいと、彼のポケットに入る。かくて、この後者の状況は、独立的に、存在する。すなわち、労働生産性を増大することによって、彼の商品を安くするという動機は、いずれの個々の資本家にも存在するのである。
(10)動機がどうであれ、上記の場合ですら、増大した剰余価値の生産は、必要労働時間の短縮から、またそれによって生じる剰余労働の拡大から生じる。*4 必要労働時間を10時間、日労働力の価値を5シリング、剰余労働時間を2時間とし、そして日剰余価値を1シリングとしてみよう。さて、資本家は、今では、24個の品物を生産する。1個10ペンスでそれらを売れば、計20シリングとなる。生産手段の価値は、12シリングであるから、品物142/5個は、単に、前貸しされた不変資本を置き換えたにすぎない。12時間労働日は、残りの93/5個で表される。労働力の価値は5シリングであるから、6個の品物が、必要労働時間を表す。そして、33/5個の品物が、剰余労働の価値である。必要労働の剰余労働に対する比率は、平均的社会的条件では5:1であったが、今では、5:3である。同じ結果に、次の様な方法でも帰着する。12時間労働日の生産物の価値が20シリング。そのうちの12シリングが生産手段に属している。単純に再現される価値である。残りの8シリングは、貨幣的な表現ではあるが、労働日の中で新たに創造された価値である。この額は、同じ種類の平均的社会的労働が表されている額よりも大きい、後者の12時間労働はわずか6シリングだからである。この例外的な生産的労働は、あたかも強化された労働のごとくである。その労働が、同じ時間に、同じ種類の平均的社会的労働よりも大きな価値を創造する。(第一章第二節節末(16)を参照)しかし、我々の資本家は、依然として、ただの5シリングを日労働力の価値として支払い続けるのみである。今では、10時間に代わって、その価値を再生産するためには、労働者はわずか71/2時間の労働を必要とするだけである。であるから、彼の剰余労働は、21/2時間増加した。そして彼が生産した剰余価値は、1から3シリングへと成長した。今では、改良した生産方法を採用した資本家は、同じ商売をする他の資本家に較べて、労働日のより大きな部分を剰余労働として占有する。彼は、個人としてこれを行い、資本家として全身全霊をもって相対的剰余価値の生産に取り組んだ結果を、全部を自分のものとする。ではあるけれど、他方、この余分に得た剰余価値は、消える。この新たな生産方法が一般化するやいなや、そしてその連鎖は、個々の安くした商品の価値とその社会的価値との差を消し去る。労働時間によって価値を決定する法則は、新たな生産方法を採用する資本家を、その法則の支配下に置く。彼の商品を社会的価値以下で売るように強いる。この同じ法則が、競争を強いる法則となる。彼の競争者に、新方法の採用を強いる。*5 従って、一般的剰余価値率は、究極的には、全過程によって影響を受ける。ただ、労働の生産性の増加時にあっては、そのことと関連する生産部門のみを捕らえる。そしてやがて、生活必需品等々を含むそれらの商品を安くし、そして、従って、労働力の価値の要素を安くする。
本文注4 / 「ある人の利益は、他人の労働の生産物の支配に依存してはいない。そうではなくて、労働そのものの支配に依存している。彼の労働者の賃金が変わらないのに、もし、彼が彼の生産物を高い価格で売ることができれば、彼は明らかに利益を受ける。….彼が生産する小さな部分が、その労働を稼働させるに充分であり、そして大きな部分が、その結果として彼自身の側に残る。」(「政治経済学の概要」ロンドン1832年)
本文注5 /「もし我が燐人が、僅かな労働で沢山のことをなせば、安く売ることができるであろう、そうなれば、私も彼と同じように安く売るためには、なんとかしなければならない。であるから、あらゆる技巧とか、取引とか、エンジンとかで、少ない人手の労働で、仕事をし、それによってより安くなるならば、他のその種の必要があり、張り合わなければならない人をして、同じ技巧とか取引とかエンジンとかを用いるか、類似のものを見出すかと強いることになる。かくて、全ての人は、同じ広場に立つことになり、彼の隣人よりも安く売ることができる者はいないであろう。」(「イギリスに対する東インド商売の利点」ロンドン1720年)
(11)商品の価値は、労働の生産力に反比例する。そしてそのように同じく、労働力の価値もそれに反比例する。なぜならば、それが、商品の価値に依存しているからである。相対的剰余価値は、逆である。生産力に直接的に正比例する。それは生産力の上昇に応じて上昇し、生産力の下落に応じて下落する。貨幣の価値が一定であるとするならば、12時間の平均的社会的労働日は常に、同じ、新たな価値、6シリングを生産する。それが剰余価値と賃金の間でどのように配分されようと全く関係はなく生産する。しかし、もし、増大した生産力によって、生活必需品の価値が下落するならば、そして、日労働力の価値が、そのため、5シリングから3シリングに減少するならば、剰余価値は、1シリングから3シリングに上昇する。労働力の価値の再生産のために、10時間が必要だったが、いまや、ただの6時間が必要とされる。4時間が自由なものとなる。そして剰余労働の領域に併合されることも可能となる。以来、労働の生産力の強化は、商品を安くするために、そしてそのように安くすることで、労働者自体を安くするために、資本における性向かつ定常的傾向として、資本家に内在するところとなった。*6
本文注6 / 「労働者の支出の割合がどのように減少させられようと、もし、産業を拘束するものが同時に解除されるならば、同じ割合で、彼の賃金も減少させられるであろう。」(「穀物輸出助成金の廃止に関する考察」他ロンドン1753年)「商売の利益は、穀物や全ての食料ができうる限り安くあるべきであることを要求する。それらのものを高くすれば、労働もまた同じように高くなるに違いないからである。….あらゆる国において、産業が拘束を受けていなければ、食料品の価格が労働の価格に必ず作用する。労働の価格は、常に、生活必需品が安くなるならば、縮小させられるであろう。」(前出)「賃金は、生産力の増大と同じ比率で減少される。機械は、まさに真実、生活必需品を安くする。それがまた、労働者を安くする。」(「競争と協業の各メリットの比較に関する懸賞評論」ロンドン1834年)
(12)商品の価値、それ自体については、資本家にとってはなんの興味もない。ただ一つ彼を魅了するのは、その中に住んでいる、そして売る事で実現される剰余価値ただ一つである。剰余価値の実現は、前貸しされた価値の払い戻しによってなされることが必要なのである。さて、ここでは、相対的価値は労働の生産力の発展に直接的に比例して増大するが、他方、商品の価値は同じ比率で減少する。一つのまたは同様の過程が商品を安くし、そしてそこに含まれる剰余価値を増加させる。我々は、ここに、ある謎の解法を得る。何故、資本家の唯一の関心事と言えば、交換価値の生産であるはずなのに、その彼が、絶え間もなく、何故、商品の交換価値の押し下げに努力するのか?この謎をして、政治経済学の創始者の一人であるケネーは、彼の論敵を困らせたのである。そしてこの謎に対して、論敵らは、彼に答えを出すことができなかった。
(13)「あなた達は次のようなことを認めるはずだ、」と彼は云う。「工業製品の生産においては、生産に支障をきたすことなく、労働への支出と費用をより少なくすることができればできるほど。そのような削減を、すればするほど、より有益なものとなると。なぜならば、出来上がった品物の価格を下落させるからである。だが、依然として、あなた方は、労働者の労働から生じる富の生産が、それらの商品の交換価値の増大の中に存在すると信じている。」*7
本文注7 / 上記記述(13)のフランス語原文を、注として表示している。(ケネー「商業と職人の労働に関する対話」)
(14)従って、労働日の短縮は、資本主義的生産においては、その生産力の増加によって労働を節約する局面では、なんら追及されることはない。*8 ある一定量の商品の生産に必要な労働時間、そこで意図されることは、ただその必要労働時間の短縮のみである。事実は次のごとし。労働者の労働の生産力が増大され、彼が以前の10倍個の商品を作るとすれば、それは商品各1個に1/10の労働時間で済ますことであるが、以前のように12時間働き続けることをなにも妨げはしない。また、同様のことを別の言葉で云うなら、120個に代わって、その12時間の労働から1,200個を作り出すことを妨げはしない。いや、それ以上に、その時、彼をして、14時間で、1,400個の品物を生産するように、彼の労働日が拡張されることもあり得る。それゆえ、マカロック、ユア、ショーニア、類似の者等の箔押しがある論文に、我々は、あるぺージでは次のような言葉を読むであろう。労働者達は、自身の生産力の発展について、資本家に感謝する恩義がある。なぜならば、それによって、必要労働時間が縮小されたからである。そして次のページでは、彼は、10時間の替わりに今後は15時間働くことで、資本家への感謝の証としなければならない。とあるのを。労働の生産力の全ての発展の目的は、資本主義的生産の限界内では、労働日のある部分を短縮することにある。その部分においては、労働者は、彼自身の生活のために働かねばならない。そして、まさに、そこを短縮することが、もう一方の日部分を長くする。そのもう一方の部分においては、彼は自由に、資本家のために無償で働く。このような結果が、商品を安くすることなしに、同様にどこまで達成できるかどうかは、相対的剰余価値の特有な生産様式を調べて見る事で、明らかになるであろう。我々がこれからすぐに、調査をしようとするところである。
本文注8 / 「自分達が支払わねばならぬ労働者の労働を、これほどまでに節約するこれらの工場主ら」(J.N.ビドー「工業的手法と商業から発生する独占」パリ1828年)「雇用者はいつも、労働と時間を節約するストレッチャーに縛りつけられることとなろう。」(ダガードスチュアート著W.ハミルトン卿編集「政治経済学講義」エジンバラ1855年)「彼等(資本家ら)の関心事は、自分らが雇用する労働者達の生産的力を、でき得る限りの最大限にすべきだと云うことである。この力を進展させるためにと、彼等の関心が凝縮している。そして全くそのことのみに凝り固まっている。(R.ジョーンズ前出第三講義) 
 
第十三章 協同作業

 

(1)我々が既に見て来たように、資本主義的生産は、各個々の資本が比較的大きな数の労働者を同時に雇用することが、唯一の出発点であり、そして実際にそこから始まる。その結果、労働過程は、広い規模で遂行され、相対的に大きな量の生産物を産出する。多くの数の労働者達が一緒に働き、同時に、一つの場所で、(または、あなたがそう云うならば、同じ労働の範疇で)一人の資本家の支配の下、同じ種類の商品を作るために働くことは、歴史的にも、論理的にも、いずれにも、資本主義的生産の出発点を構成する。生産様式自体から見れば、その厳密な意味で、その初期の段階では、製造業を、ギルド的手工業商売から区別することはほとんどできない。ただ、一つの、同じ個としての資本によって大勢の労働者が同時に雇用されている事以外には、区別できるところはない。中世の手工業者の主人の作業所が単純に大きくなったものに過ぎない。
(2)それ故、最初においては、その違いは純粋に、量の違いである。我々は、ある与えられた資本によって生産された剰余価値と、同時に雇われた大勢の労働者によって、合算された個々の労働者によって生産された剰余価値とが同じであることを見て来た。労働者の数自体は、剰余価値率や労働力の搾取の程度に関して、影響することはない。もし12時間労働日が6シリングの中に体現されているとすれば、そのような1,200日は、6シリングの1,200倍に体現されるであろう。一つの場合では、12×1,200労働時間が、もう一つの場合は、日12時間のそのような大勢による労働が生産物に一体化される。価値の生産においては、労働者の数は、それだけの多くの個の労働者の数と同じ並びでしかない。従って、1,200人が別々に働こうと、一人の資本家の支配下で結合されて働こうと、生産された価値には何らの差も作らない。
(3)にもかかわらず、ある一定の制約下においては、ある変化が起こる。価値として実現された労働は、平均的社会的労働であり、それゆえに、平均的労働力の支出である。とはいえ、どの平均的大きさも、同一種類に属する全ての個別の大きさの数々の平均でしかない。それぞれはその量としては異なっている。いずれの製造業でも、個々の労働者は、ピーターとかポールとかいう名の者だが、平均的労働者とは違っている。これらの個々の違いは、数学的には「誤差」と呼ばれもするが、ある最低数の労働者が一緒に雇用される場合には、いつも互に相殺されて違いは消滅する。有名な詭弁家であり追従者であるエドムンドバークは、彼の農園主としての実践的観察者としての立場から、次のごとき主張をするまでに至る。すなわち、「まことに小さい小隊でも」例えば5人の農場労働者でも、全ての個人的差は労働の中では消滅する。結果的には、いかなる与えられた成人5人の農場労働者を一緒に用いても、他のいかなる5人と同じ時間に同じだけの労働をする。と。*1
しかし、いかにその通りであるとしても、同時に雇用された大人数の労働者の全体としての労働日を、これらの労働者の数で除算したものが、一日の平均的社会的労働であることもはっきりしている。例えば、各個人の労働日が12時間であるとしてみよう。同時に雇用された12人の全体労働日が144時間であり、そして1ダースのそれぞれの労働が平均的社会的労働から多少上下にはずれたとしても、彼等のそれぞれが同じ仕事のために違った時間を要したとしても、それぞれの労働日は、依然として前と同じ、全体としての144時間労働日の1/12なのである。それは、平均的社会的労働日の質を保持している。ではあるが、この12人を雇用した資本家の視点から見れば、全1ダースの労働日である。各個人の労働日は全労働日の一分数部分であり、12人が互いに彼等の仕事を助け合おうと、また彼等の作業間の繋がりが単なる事実において、同じ資本家のための仕事として存在しようと、なんら問題にはならない。しかし、もし、12人が6つのペアの形で、多くの異なる小さな工場主に雇用されたとしたら、それぞれの工場主が同じ価値を生産するか、またその結果として、一般的な剰余価値率を実現するかは、全くの偶然となろう。
個々のケースで差異が生じるであろう。もし、一労働者がある商品の生産のために、社会的に必要な時間よりもかなりのより多くの時間を要するのであれば、彼のケースでは、必要労働時間が、平均的な社会的労働時間からかなり逸脱している。その結果として、彼の労働は、平均的労働とはみなされないし、彼の労働力は平均的な労働力ともみなされない。その労働力は、全く売れないか、または、平均的労働力の価値よりある程度低い価値でしか売れないであろう。であるから、全労働のある決められた効率の最低値が想定される。そして我々は後に、この最低値を決める方法を資本主義的生産が備えていることを見ることになろう。しかしながら、この最低値は平均からは外れる。ではあっても、他方、資本家は平均的な労働力の価値を支払わねばならない。それゆえ、6人の小工場主のうち、ある者は、平均的剰余価値率以上を搾り取り、他の者は以下となる。この不公平は、大きな集団では補われ、個々の工場主では補われない。かくして、価値の生産の法則は、個人的生産者によってのみ完全に実現される。彼が資本家として、そして大勢の労働者をまとめて雇用する場合、それらの労働は、その集団としての性質により、直ぐに、平均的社会的労働として刻印される。*2
本文注1 / 「ある人と他の人との労働の価値は、力においても、器用さにおいても、また誠実なやり方においても、そこにかなりの差があるのは、疑問の余地がない。だが、私の最良の観察から、いかなる与えられた5人でも、彼等の全体で見れば、他のいかなる5人と等しい一定の労働を、ある一定期間提供しできる。と私が述べたことは、今でもその通りと思っている。そのような5人の中に、一人はよき労働者としての全ての資質をもっており、一人は劣り、他の3人は普通だが、うちの一人は良いほうに、もう一人は劣る方にいるとしても、そのようにできる。であるから、そのような、小さな、僅か5人の小隊であっても、あなたは、完全なる5人が稼ぎ得る全ての完全な総量と同じ量を見るであろう。」(E.バーク既出)ケトレーの平均的個人と比較せよ。
本文注2 / ロッシェル教授は、ロッシェル夫人に雇われた一人の裁縫婦が、二日間で、1日一緒に雇った二人の裁縫婦よりも多くの仕事をしたことを発見したと断言した。よく学ばれた教授は、この資本主義生産過程について、育児室や、主要な人物、資本家、が居ないという状況では、学習すべきではなかった。
(4)労働のシステムに何の改変がなくても、大人数の労働者の同時の雇用は、労働過程の物質的条件に革命をもたらす。彼等が働く建物、原材料のための倉庫、同時に使われる道具や容器または労働者個々の役割に応じて使われるそれらの物、端的に云えば、生産手段に係るところの物、は、ここでは、共同的に消費される。ここでは、これらの生産手段の交換価値は増大されない。より綿密に消費されようが、大きな利点が考えられようが、そのような生産手段の使用価値によって、それら一商品の交換価値が上昇させられることはない。だが、他方、共同で使用されるのであるから、当然以前よりは大きな規模となる。20人の織り工が20台の織機が労働する作業室は、二人の織り工を使う一親方の作業室より大きくなければなるまい。しかし、20人のための一作業場を作る労働は、二人の織り工を収容する10の作業場を作る労働よりも小さな労働コストですむ。だから、共同で使用する大きな規模に集約された生産手段の価値は、その拡大、そして増大されたそれら手段の有用な効果、に正比例して増大はしない。共同で使用する時、それらの手段は、それら自身の価値のより小さな部分を各一生産物に引き渡す。
その一理由は、それらが付与するものの全体が、生産物のより大きな数量にばらまかれるからであり、また別の理由としては、それらの価値が、絶対的に大きなものとして、過程の稼働局面に関与することになるが、個々の孤立した生産手段の価値よりは相対的に小さいからである。このことによって、不変資本の一部分の価値は下落し、その下落の大きさに比例して、その商品の価値もまた下落する。その効果は、丁度生産手段のコストが小さくなったことと同じことである。彼等のやり方に於ける、その経済的節約は、全くのところ大人数の労働者による共同的消費によるものなのである。それ以上に、この社会的労働の必然的とも云える性格が、散在し相対的によりコスト高の生産手段をもつ隔絶された独立の労働者や小工場主からはっきりとその存在を区別する性格が、多くの労働者が互いに助け合うこともなく、単に並んで仕事をするだけでも、現われてくるのである。労働手段のある部分は、労働過程そのものが起動する以前から、このような社会的性格を獲得している。
(5)生産手段の使用における節約は、二つの面から考察されるべきである。その第一は、商品を安くすることである。そしてそれによって労働力の価値の低下に至る。第二は、前貸し資本に対する剰余価値率を良くすることであり、すなわち、不変資本と可変資本の価値総額に対する剰余価値率を改造することである。後者の局面については、我々が第三巻に至るまでは、取り上げて考察はしない。そこにおいて、それらの適切な諸関連とともに取り扱う対象なのである。その他の現在の問題に関連する点についても、ここでは取り上げず、後に論ずる。我々の分析の進行が、この分離を大事なテーマとして余儀なく迫っているのである。というのもこの分離は資本主義的生産の精神状態の方に見事な調和を見せるものだからである。なぜならば、この生産様式においては、労働者は、労働手段が彼自身から独立して存在しており、まるで、他人の財産のようなものであるのを見出す。節約は、それらを使う時、彼にとって見れば、独特の運動をするものであり、それは、彼には関心がない。従って、彼自身の個人的な生産力が増大されうる方法と何の関係もないからである。
(6)大勢の労働者が、共に並んで作業する場合、それが一つの同じ過程であるか、または繋がってはいるが違っている過程であるかのいずれであれ、それらは共同作業する、または共同作業として労働すると呼ばれる。(本文注:3*「力の競演」デェステュートドトラシィ既出)
(7)丁度、騎兵1大隊の攻撃力、または歩兵1連隊の防御力は、個々の別々に点在する騎兵や歩兵の攻撃または防御力の合計とは本質的に違うのと同様である。その様に、孤立した労働者によって用いられる機械力の総計は、新たに登場した社会的な機械力とは違う。多くの人手が同時に、一つのそして同じの、分割されていない作業に取り組むならば、ウインチを回して重量物を持ち上げ、あるいは障害物を取り除く。*4 この様なケースでは、結合された労働の効果は、個々の孤立した労働によって生産されるものでも、または、大きな時間を使っての労働によってのみ生産されるものでも、または、非常に小さな小人によってなされるもののいずれでもない。共同作業によって、個人的な生産的能力の増大を獲得するだけでなく、新たな力、言うなれば、多数のそのもの集合的な力を我々は獲得したのである。*5
本文注4 / 「そこには、いろいろな部分に分割することを認めがたい全く単純な種類の作業が多く存在する。多くの人々の両手による共同作業なくしては実施されることができない作業がある。大きな木を荷馬車に載せるという場合を取り上げることができよう。….端的に云えば、同じで分割しえない作業を同時に、互いに助け合って行う多くの両手がなければでき得ない。」(E.G.ウェイクフィールド「植民地化の技能に関する一見解」ロンドン1849年)
本文注5 / 「一人ではできず、そして10人でも、1トンの重量を持ち上げるには相当の苦労を要するにちがいない。けれども、100人なら、わずか彼等のそれぞれの指1本の力でできてしまう。」(ジョンベッターズ「産業大学の設立の提案」ロンドン1696年)
(8)沢山の力が一つに融合されることから生じる新たな力については、別に置くとして、単なる社会的な接触は大抵の産業において、労働者各自それぞれに効率を高める動物的な精神である競争心と活気を生じさせる。であるから、12人が一緒になって働くならば、彼等の集合的労働日114時間は、孤立した12人のそれぞれの12時間よりも、また一人が12日連続して働くよりも遥かに多くを生産するであろう。*6 その理由は、人間は、アリストテレスが主張するような、政治的な存在*7 ではなく、いずれにせよ、社会的動物であることによる。
本文注6 / 「そこにはまた、」(同じ数の男等が、10人の借地農業者の各30エーカーごとに雇われるのに代わって、一人の借地農業者の300エーカーに雇われる場合には)「農僕の人数に利点がある、普通には理解しがたいかも知れぬが、実際にそれを行っている者には自明である。何故かと云えば、4に対する1は、普通に云えば、12に対する3である。しかし、実際の作業はそうは行かない。例えば収穫時、一緒に投入する沢山の手で手早く片付けたい沢山の仕事がある場合、もし収穫で、二人の馭者、二人の積み込み、二人の投げ込み、二人の掻き手、そして他の者は、山積みまたは納屋の中に居れば、同じ数の手がそれぞれの組に分けられて、異なる農場に居る場合の倍の早さで仕事が片付くであろう。(「食糧品の現在価格と農場の大きさとの間の関連に関する研究」一借地農業者ロンドン1773年)
本文注7 / 厳密に、アリストテレスの定義は、人は本質的に市域に住む市民となる。このことは古き古典的な社会そのままの性格を示す。丁度フランクリンの人の定義が、道具を作る動物となり、アメリカのヤンキー的性格を持つのと同じことである。
(9)大勢の人が、同時に同じ場所に、または同じ種類の仕事に、一緒に従事させられたとしても、依然としてその労働のそれぞれが、集合的労働の一部であっても、労働過程の際立った局面を見せるかもしれない。それらの全局面において、共同作業の結果として、彼等の労働の対象が極めて早い速度で通過する。例えば、もし12人の煉瓦工が自分達を列に並べて、煉瓦を梯子の足元から梯子の先まで運ぶ場合、各自は皆同じことをするのだが、それにも係わらず、それぞれの個別の動作は、一つの全体としての作業の各部分の接続された形となるのである。それらは特別の局面であり、煉瓦のそれぞれを通さねばならない。そして、その結果、煉瓦は、人の列にある24本の手によって、それぞれの人が煉瓦を持って個々に梯子を上がったり降りたりするよりも早く運び終わる。*8 対象の品物は、同じ距離を短時間のうちに運ばれてしまった。繰り返して云えば、労働の組み合わせは、例えば、普請の場合はいつでも生じ、同時に異なる場所で見られる。12人の煉瓦工の144時間の共同的な作業には、一人の煉瓦工が行う12日間144時間の普請よりもより大きな進展が見られる。その理由は、一斉に働く人々の体は、手や目を、前にも後ろにも持っているからで、だから、ある程度の条件にもよるが、至るところに存在することができる。様々な労働の部分が同時に進展する。
本文注8 / 「さらに、この様な労働の部分的な分割は、労働者が同じ仕事に従事する場合でさえも起きることがある。例えば、煉瓦工が煉瓦を手から手へ建物の高い場所へ送り渡して行く作業では、全ての者が同じ仕事を行っているが、それでも彼等の中には労働の分割のようなものが存在している。事実、ここには、彼等各々は与えられた場所を通して煉瓦を渡して行き、一緒に行うことで、彼等が個々に彼の煉瓦を個別に上の階に運ぶよりもより速やかに仕事を達成する。」(F.スカルベック「社会的豊かさの理論」パリ1839年)
(10)上の例で、我々は人々が同じことをする、または同じ種類の仕事をするという点について強調してきたが、それは何故かと云えば、普通の労働の最も単純な形が、協同作業において偉大なる役割を演ずるからである。最高度に完璧に発展した状況においてさえも重要な役割を果たすからである。もし、作業が複雑で、共に働く者の数が少ない場合であればなおのこと、様々な仕事が違った人々に配分されて、そして、結果として、同時に遂行されることになるのである。全仕事の完成のための必要時間はそれによってむしろ短縮される。*9
本文注9 / 「込み入った数々の労働をこなすにはどうしたらいいか?多くのことが同時になされなければならない。一人が一つの事をする時、別の人は別のことをする、そうして、彼等の全てが、一人では作り出すことができないであろう結果のために貢献する。一人が漕ぎ、他の者が舵を取り、三番目の者が網を投げたり、銛で魚を仕留める。このような漁をすれば、この協同作業なしには不可能な成功を享受する。」(デステュートドゥトレーシー既出)
(11)多くの産業においては、決定的な期間があり、労働過程の性質からそれが決められる。その間にある明確な結果が得られねばならない。例えば、一群の羊の毛を刈り取るとか、一面の小麦を刈り取って収穫するとかの場合、その生産物の数量とか質は、ある決まった時期に始めて終わる作業に依存している。これらのケースは、丁度、にしん漁のように、取りかかるべき時期が、その過程によって、予め決められている。たった一人では自然日のなかから、例えば12時間、日それ以上の時間をかけたとしても道路を切り開くことはできないが、100人の協同作業は労働日を1,200時間にも拡大する。その仕事のために許容された時間の短縮は、大勢の労働量が、生産の場に、決定的な時間に、投入されることによって、可能となる。適切な時間内に作業を完成することは、数多くの組み合わされた労働日を同時に適用することに掛かっている。多くの有益な効果は、労働者の数に掛かっている。この人数は、しかしながら、常に、同じ量の仕事を同じ時期に実施するために必要な、個々の孤立した労働者の人数よりも少ない。*10 アメリカ西部で穀物の多量が、英国の支配が以前の社会集団を破壊したインド東部の綿花の多量が毎年期を失して無駄になったのは、この種の協同作業の不在による。*11
本文注10 / 「決定的な急場において、それを(農業労働)をなすことが、より良い結果をもたらす。」(「現在価格の諸関連に関する研究」他)「農業においては、時季以上に重要な要素はない。」(リービッヒ「農業における理論と実際」1856年)
本文注11 / 「次なる災害は、世界において、他国よりも多くの労働を輸出する国では殆ど見出し得ないものであって、多分中国や英国は例外であるが、綿畑から綿を摘み取る充分な人手を獲得することの不可能なることである。このため、大量の綿が摘まれずに放置される。その後、地に落ちて、変色したり、部分的には腐ったものが、そこから集められる。適切な時季における、労働の欠乏から、英国が渇望する期待の収穫の大部分が、損失となることを、耕作者は現実に認めなければならないことになる。」(ベンガルフルカル「隔月海外情報要約」1861年7月22日)
(12)一方で、協同作業は、作業が広い区域で実施されることを容認する。であるから、ある種の工事には協同作業が求められる。例えば、排水工事、築堤工事、灌漑、運河、道路、鉄道がある。他方では、生産規模を拡大しながら、その活動域の相対的な縮小を可能にする。この活動域の縮小は、規模の拡大から同時に始まり、それによって、多くの無駄な出費が削減される。この事は、労働者の複合、様々な過程の集合、そして生産手段の集中によってもたらされる。*12
本文注12 / 耕作の進歩により、「全てが、多分それ以上に、かっては500エーカーを粗っぽく使用していた資本と労働は、今では100エーカーのより完全な耕作に集中されている。」別に云えば、「資本と雇用される労働者の量に対して、相対的に広さが縮小集中されており、生産局面は拡大されている。以前の生産局面が使用していたもの、または一独立の生産者のそれと較べればと言う事である。(R.ジョーンズ「富の分配に関する一論」第1編地代についてロンドン1831年)
(13)結合された労働日は、関連的には、個別の孤立した労働日の同じ合計であると云えるが、より大きい使用価値量を生産する。結果、与えられた有益な効果の生産のための必要労働時間を小さくする。結合された労働日は、与えられたケースにおいて、この増大された生産的な力を取得する。なぜならば、労働の機械的な力を高めるからである。またはより広い範囲に活動の局面を広げるからであり、または生産規模に対して相対的に生産域を縮小するからであり、または決定的な時機に作業する大勢の労働者を配置するからであり、または個人間の競争を刺激し動物的な精神を高めるからであり、または大勢の人によって行われる同じ様な作業に、連続性と多面性の刻印を明確に与えるからであり、または同時に、違った作業を実施するからであり、または共通に使用することで生産手段を節約するからであり、または個々の労働に対して平均的社会的な性格を付与する、その性格が生産の増加の原因でもあるからであり、それぞれがどのように関係していようといまいと、この結合された労働日の特別な生産的な力は、いかなる状況であっても、労働の特別の生産的な力であり、または、社会的な生産的な力なのである。この力の出所は協同作業そのものなのである。労働者がシステムとして他の労働者と協同作業をする時、彼は、彼の個人的な足かせを脱ぎ捨てる。そして、彼の人間種としての可能性を発展させる。*13
本文注13 / 「一歩は不確かで小さいものだが、それらを集めればあのメディア人のように大きく高くなり、時間を縮め、空間を自分のものとする。」(G.R.カルリ「P.ブエリへの手記」既出テキスト15)
(14)一般的法則としてだが、労働者は一緒にされなければ協同作業することはできない。彼等の一つの場所への集結は、彼等の協同作業の必要条件なのである。であるから、賃金労働者は、彼等が同時に同じ資本、同じ資本家に雇用されなければ協同作業することはできない。そして、であるから、彼等の労働力が同時に彼によって買われなければ、協同作業することはできない。これらの労働力の全価値、またはこれらの労働者の一日の、または一週の、いろいろなケースがありうるが、の賃金の大きさは、生産の過程のために労働者達が集められる以前に、資本家のポケットの中に準備されていなくてはならない。300人の労働者に一度に支払う金額は、例え一日分であろうと一週分であろうと、少人数の毎週ごとの一年分よりも資本にとっては大きな支出が求められる。従って、協同作業する労働者の人数、または協同作業の規模は、先ず第一に、労働力を購入するために用いることができる個人としての資本家の資本額に依存している。別の言葉で云えば、一資本家が調達できる労働者の数に相当する生活手段の大きさに依存している。
(15)そして、可変資本と同様に、不変資本についても同じ事である。例えば、原材料への支出は、30人の資本家がそれぞれ10人を雇う場合と較べて、一人の資本家が300人を雇うならば、それは30倍の支出となる。この労働手段の量と価値は、通常は、実際のところ、労働者の数と同じ割合では増大しないが、それでもかなりの増大となる。従って、個々の資本家の手中にある大きな生産手段の集中は、賃銀労働者の協同作業の物質的な条件なのである。そして、協同作業の広がり、または生産の規模は、この集中の大きさに依存している。
(16)我々は前章で、ある程度の労働者数を同時に雇用するためには、それなりの最小量の資本が必要であることを見て来た。そしてその結果として、ある程度の量の剰余価値が産み出され、それが手作業労働をする一雇われ同様の彼自身を解放し、小さな工場主から資本家へと変換することになり、かくて、正式なる資本主義的生産を確立するのを見て来た。さて、我々は、多くの孤立化された、独立化された過程を、一つの結合された社会的過程に変換するためには、それなりの最小量の資本が必要条件になると分かった。
(17)また、我々は最初に、労働の資本への従属が、労働者が自分自身のために働くのに代わって、資本家のために、それゆえ、資本家の下で働くという事実の、唯一の帰結的な結果であることを見た。大勢の賃金労働者達の協同作業によって、資本の支配は、労働過程そのものを進める上での必要事項へと発展する。さらに、生産の実際の必須事項へと発展する。まるでそれは、資本家が生産領域を差配すべきであるということが、戦場で命令を下さねばならぬ将軍のそれのように、絶対に欠かす事ができないものへとなる。
(18)全ての、大きな規模の結合された労働は、多かれ少なかれ、個々の活動の作業の調和を確保するために、そして、個別の組織器官の活動とは違う、結合された組織としてそれぞれが持つ普遍的な機能を発揮するために、指揮機能を要求する。一人のバイオリン奏者は、彼自身の指揮者ではあるが、オーケストラは明確な一人の指揮者を必要とする。労働が資本の下に、協同作業となった瞬間から、作業の指示、監督、調整、が資本の一つの機能となる。資本の機能が確立するやいなや、それが特別の性格を獲得する。
(19)資本主義的生産の究極的な狙いは、その直接的な動機は、最大限のでき得る限りの剰余価値の量を引き出すことであり、*14 そして、その結果として、最大限のでき得る限りの労働力を搾取することである。協同作業する労働者の人数が増加するに応じて、資本の支配に対する彼等の抵抗もまた、増大する。そのため、この抵抗に打ち勝つことが資本にとっての必要事となる。資本家によって実施されるこの制御は、単に特別なる機能であるばかりでなく、社会的労働過程の性質から生じる、そしてその過程に特異なものであるばかりでなく、それは同時に、社会的労働過程の搾取機能となる。そして、その結果として、搾取者と、彼が搾取する生きて働く原材料である者との間に生じる避けることができない敵対の根源となる。
本文注14 / 「利益….は、取引の唯一の目的である。」(J.バンダーリント既出)
(20)繰り返すが、生産手段の規模が増加するに比例して、今や、労働者の所有権は消え、資本家の所有物となる。それらの手段の適切な利用に関する効果的な制御の必要性も増大する。*15
本文注15 / あの俗物ペリシテ新聞スペクテイターは、次のように述べた。「マンチェスターの針金製造会社」において、資本家と労働者の間にある種の協同経営を導入した、すると、「その最初の結果は、無駄遣いが急に減ったことであった。人々は、他の工場主らの工場の浪費以上に、彼等自身の財産を無駄にすべき理由のないことに気がついた。多分、浪費は不良債権に次ぐ製造における損失の最大の源泉であると。」この同じ新聞は、ロッチダールの協同作業実験の主要なる欠陥を見出して、次のように述べている。「彼等は、労働者による組合が、店、工場、そして産業の全ての状態を上手に管理することができることを示した。そして、彼等は直ちに人々の健康状態を改善した。しかし、そこに、彼等は、ご主人様の明瞭なる立場の余地を、残していなかった。」おお、なんと険悪なることぞ!
繰り返すが、賃金労働者の協同作業は、全くのところ、彼等を雇った資本家によってもたらされたものである。彼等が一つの生産的な姿に結合しているのは、彼等の個々の各機能間の繋がりの確立は、彼等にとっては、外的かつ対外的な事態であって、自分達自身の行動ではない。そうではなくて、彼等を一緒にして保持しているのは、資本の行動なのである。従って、彼等の様々な労働の間に存在する連結は、観念として、資本家の予め想定した計画の姿として彼等に写る。そして、事実上、同じ資本家の権威の実態となり、彼等の活動を彼の目的に服従させる他人の強力なる意志の実態となる。かくて、資本家の制御に本質的な二重性、生産過程そのもののが二重の性質を持つ理由から、すなわち、一つは使用価値の社会的生産過程、もう一つは剰余価値の創造過程であるからこそ、この後者をして、この制御を絶対的専制たらしめる。
協同作業の規模の発展に応じて、この専制もまた自身特有な形を取る。その最初といえば、彼の資本が資本主義的生産のための最小限に達するやいなや、資本家は実際の労働から一息ついて離れ、そうしてすぐに今度は、個々の労働者または労働者のグループを、直接的にまた常時監督する仕事を、特別な種類の賃金労働者に押しつける。資本家の指揮下にある労働者の産業軍隊は、まるで実際の軍隊のように、士官(管理者)、そして軍曹(手配役、監視役)を求める。彼等は、仕事がなされる間、資本家の名において命令する。指揮監督の仕事が、彼等の確立された、そして排他的な機能となる。単独に孤立する農場主や手工職人親方の生産様式と奴隷労働による生産とを比較する場合、前者の監督の仕事を、政治経済学者は、生産の雑費の中に計上する。*16 しかし、資本主義的生産様式を考えるならば、これとは違って、彼はこの制御の労働を、労働過程の協同作業という性格によって必要とされたそれと、その過程の資本主義的性格によって必要とされ、そしてまた、資本家と労働者の間にある利益の敵対的な性格から必要となる、全く異なる制御の労働とを、同一視するのである。*17 彼が産業の指揮官であるから、彼が資本家なのではなく、全く逆に、彼が資本家であるという理由から、彼が産業の指揮官なのである。産業の統率力は、資本の一つの属性なのである。丁度、封建時代には、将軍とか裁判官の機能が、土地所有の属性であったようにである。*18
本文注16 / ケアンズ教授は、北アメリカの南部諸州における奴隷による生産では、奴隷監督の仕事が主要な特徴であると述べた後で、こう続けた。「農地所有者(北の)は、彼の骨折りによる全ての生産物を占有するのであるから、努力させるためのものとして、その他にはなんの刺激策も不要である。監督労働は、ここでは全くなくて当然のものである。(ケアンズ既出)
本文注17 / ジェームスステュアート卿、作者であり、様々な生産様式の社会的な性格の識別について、完璧で顕著なる洞察力をもって知られる彼は、次のように述べた。「何故、製造業において、大きな業者が、個人的な製造業を崩壊させるのか、それはまさに、前者が、奴隷労働の単純さに近寄るからではないか?」(「政治経済学の原理」ロンドン1767年)
本文注18 / オーギュストコンテとその学派は、これに従って、資本のご主人の場合について行ったのと同じやり方で、封建領主が永遠に必要であると証明できるやもしれない。
(21)労働者は、資本家と売りの交渉を完了するまでは、彼の労働力の所有者である。そして、彼が持っているもの、すなわち、彼個人の、孤立した労働力以上のものを売る事はできない。この状態は、一人の労働力を買う代わりに、資本家が100人のそれを買うとしてもそのことによって変更されるものではない。だから、一人とに代わって、100人の繋がりなしの人と個別の契約を結ぶ。彼は、勝手に100人を働かしてもよい、何も彼等を協同させずともよい。彼は彼等に、100人の独立した労働力の価値を支払う。しかし、100人の結合された労働力には支払わない。互いには独立しているのであって、この労働者達は孤立状態にある。彼等は資本家との関係は持ったが、互いには何の関係にも入らない。この協同作業はただ、労働過程において始まるが、彼等自身に属するものではなくなる。過程に入れば、彼等は資本と一体となる。協同作業者として、労働する組織体の構成員として、彼等は、まさに、資本の特別の存在様式となる。であるから、協同作業として働く時、労働者によって発展させられた生産力は、資本の生産力となる。この力は、労働者がある与えられた条件の下に置かれたならばいつでも、無料で発展させられる。そして彼等をそのような条件下に置いたのは資本である。なぜならば、この力に対して資本は何も支払ってはいないからであり、一方で、労働者自身では、資本に所属する以前にはこの力を発展させてはいないからである。その力は、あたかも資本に内在する生産力という大自然(神)によって資本に付与された力のごとく現われる。
(22)この単純な協同作業の巨大な効果は、古代アジアの、エジプトの、エトルリア、その他の巨大建造物に見ることができる。
(23)「過去の時代、これらの東方諸国では、彼等の土木工事や軍事体制の支出を支払った後に、壮大なる建築等または役に立つ建築等に用いることができる余剰の所有に彼等自身が囲まれていることを発見した。そして、これらの建設において、非農業人口の殆どの手と腕を指揮して、驚くべき建造物を作り出した。それらは今でも彼等の力を顕示している。豊かなるナイル渓谷….は、非農業人口の群衆のための食料を産み出した。そして、この食料は、皇帝や聖職者達の所有物であるが、国中を満たした巨大な建造物を立ち上げる手段をもたらした。巨大な像の移動や大量のものの運搬が世界の不思議を作ったのである。人間の労働、ほとんどそれだけなのであるが、その労働が惜しげもなく使われた….労働者の数と彼等の努力の集中、それで十分であった。我々は、巨大な珊瑚礁が大洋の深海から隆起して島となり、堅固な大陸となるのを知っている。しかしながら、それぞれの個々の寄生物は取るに足りないほど小さく、弱く、そしてどうでもいいようなものなのにである。アジアの君主制下の非農業労働者は何も持たず、ただ彼等の個々の肉体的な努力をもって仕事をするだけで、だが、彼等の数が彼等の力であり、そのこれらの集合のまとまった力が、宮殿を立ち上げ、寺院、ピラミッド、巨大像の一群を立ち上げたのである。これらのものは遺跡となって、我々を驚嘆させ、いかにして作り出したのか、なぜなのかと我々を困惑させる。かれらを養った剰余が一人または二三人の手に閉じ込められたからであり、それがこのような企てを可能にしたからである。*19
本文注19 / R.ジョーンズ「講義テキスト」他、古代アッシリア、エジプト、他のロンドンにある収集品そして、他のヨーロッパ資本のそれは、我々の目には、協同作業の運用様式の証拠に見える。
(24)このアジア王やエジプト王の力、エトルリアの神権政治家、他の力は、近代においては、資本家に移管された。彼が一人の孤立した資本家であれ、または、共同株式の仲間であれ、一つの資本家集団なのである。
(25)人類発展の初期においてこのような協同作業は、狩猟生活を行っていた人々や*20 または、いわゆるインド的農業共同体に見てきた。これらの協同作業は、一方で、生産手段の共同的所有に基づいており、他方では、事実上、これらのケースでは、各個人は彼の種族または共同体のへその緒から彼自身を解き放すようなものは、各蜜蜂が自分を巣との関係から自由でないのと同様に何も持ってはいない。このような協同作業は、ここに示した二つの特質から見て、資本主義的な協同作業とは区別される。古代や、中世や、近代植民地で時々起きる大規模な協同作業の活用は、統治と隷属の関係、主に奴隷制に基づく。資本主義的な形式では、これと違って、最初から最後まで、自由な賃金労働者、彼の労働力を資本家に売る者、を前提としている。従って、歴史的にこの形式は、小作農業や、独立した手工業者、それがギルドであろうとなかろうと、それらに敵対しながら発展させられたものである。*21 この点から見れば、資本主義的協同作業は、協同作業の特有な歴史的形式として自身を示したのではなく、協同作業そのものが、歴史的に奇妙なる形式、つまり、特別に際だった、資本主義的生産過程の奇妙な形式となった。
本文注20 / ランゲは、多分正しいであろう。彼が、「市民法の各理論」で、狩猟が最初の協同作業の形式であり、人間狩り(戦争)が、最も初期の狩猟形式の一つであろう、と述べたが、その通りであろう。
本文注21 / 小規模な小作農業や、独立した手工業者の業、それらはいずれも、封建的生産様式の基盤を形成しており、その様なシステムが溶解した後では、資本主義的様式そっくりで続けられたが、それでも古典的な共同体の経済的基礎を形成し、彼等の最盛期を過ごし得た。ただ、共同的土地所有の初期的形態が消失した後、奴隷制が生産を本気で鷲掴みするまでの時期においてだが。
(26)協同作業によって発展させられた労働の社会的生産力が、あたかも資本の生産力のように表れるように、協同作業それ自体は、孤立した独立の労働者達や、小人数の雇われ労働者達によってですら行われている生産過程とは明確に違いを見せて、資本主義的生産過程の特殊な形式として表れる。資本に従属させられることによって、現実の労働過程が経験させられる最初の変化である。この変化は、自生的にやってくる。一つの同じ過程における多人数の賃金労働者の同時的雇用が、この変化の必要条件である。また、資本主義的生産の開始地点の形式でもある。この地点は、資本自身の誕生地点とも一致する。であるから、もし一方で、資本主義的生産様式が自身を歴史的なものとして我々に、労働過程の社会的過程への転換のための必要条件であるとして示すならば、他方、それは、この労働過程の社会的形式が自身を、労働の生産性を高めることによって、より利益を上げようと、労働を搾取するために資本が採用する方法として示すことになろう。
(27)我々がここまで見て来たような初期的な形式においては、協同作業は、大規模な生産のすべてに必ず付随するものではあるが、それ自身としては、資本主義的生産様式の発展における特別の時代的に明確化された性格を示すものではない。それがそのように表れたのは、せいぜい、そして大まかに云えば、手工業的に始まった製造業の最初の頃である。*22 そして、そのような種類の、大規模農業も、製造業の時代に呼応して、小作人による農業からははっきりと区別されるようになった。主に、多人数の労働者の同時雇用によってであり、そして、彼等の使用に供するための、大量の生産手段が集中化されたことによる。単純な協同作業は、常に、資本が大規模に運用するそれらの生産部門において支配的なものであるが、分業や機械の利用は、まだ副次的な役割に過ぎない。
本文注22 / 「同じ仕事に関して発揮される、結合された、熟練の技、精励さ、そして大勢による競争が、その進展への道ではなかったと云うのか?そして、英国の毛織物製造業をこのように偉大なる完成度に至らしめることができたのには、他の方法があったというのか?(バークレー「質問者」ロンドン1751年)
(28)協同作業が、いかに、資本主義的生産様式の基礎的形式を構成するものであるとしても、それにもかかわらず、協同作業の初期的形式は、資本主義的生産の特有の形式として、さらにそのより発展した生産様式の形式においても同様に、存在し続ける。 
 
第十四章 分業と工場手工業

 

第一節 工場手工業の二重の起源
(1)分業に基づく協同作業は、工場手工業においてその典型的な形式を身に纏う。そして、正確にそう呼ばれる工場手工業時代全期において、資本主義的生産過程に広く行き渡った特徴的な形式となった。その時期とは、おおまかに云えば、16世紀中頃から18世紀の後半1/3期に渡る。
(2)工場手工業は、その起源を、次の二つの経路に持っている。
(3)(1.)一人の資本家の指図下にある一つの工場に集められた労働者は、独立した様々な手工業に所属しているが、ある与えられた品物は、完成のためには、彼等の手を通らなければならない。例えば、馬車であるが、以前は、非常に多くの独立した手工職人達の労働による生産物であった。すなわち、車輪作り職人、馬具職人、幌職人、金具、シート、ろくろ、房飾り、ガラス、塗装、磨き、金箔貼り等々の職人達のであった。しかし、馬車の工場手工業では、これらの様々な職人達が一つの建物内に集められて、お互いに相手の手の間々で仕事をする。確かに、馬車はそれが形になる前に、金箔を貼ることはできない。だが、数多くの馬車を同時に製作しているとすれば、そのうちの幾つかが金箔貼り工の手に掛かっている間、他の台数はその前の工程を進行している。そこまでならば、我々は、使う材料等を人と物の形で見つけ出す単純な協同作業の領域内に依然として留まっている。だが、直ぐに重要なる変化がやって来る。仕立屋だろうが、鍛冶屋だろうが、その他の工芸職人だろうが、今や、馬車製作そればっかりに従事させられ、彼の昔のありとあらゆるものづくりをこなしたあの能力を、それらの仕事が無くなることから、徐々に失うことになる。そして他方、彼の能力は、狭い行動局面に最適化された形式という溝に閉じ込められることになろう。当初は、馬車製作は、様々な独立した手工業の組み合わせである。それがある程度経過すれば、それが、馬車製作という様々な細かな工程に分割されて、それぞれが特定の労働者の排他的な機能に結晶化してしまう。工場手工業は、全体として、それらの人々の接合によって運用される。同様に、布製造手工業も、その他の全ての工場手工業も、一人の資本家による支配の下に集められた、それぞれ異なる手工業の組み合わせとして表れることになる。*1
本文注1 / より近代的な例を示す。リヨンとニームの絹紡績と絹織物業である。「これらの業種は、全くの家父長制で、大勢の婦人と子供を雇用しているのだが、疲労や荒廃に追い込んだりはしない。そこでは人々をドロームや、バール、イゼール、ボークルーズの、彼等の美しき谷に住まわせ、彼等の蚕を育て、彼等の繭をほどく、真の工場製造業には決してならない。とはいえ、労働の分業の原理は、ここでも特別の性格を示す。そこには、明らかに、糸巻工、糸繰り工、染色工、整糸工、そして最終的には機織り工が存在している。だが、彼等は同じ工場建屋に集められてはおらず、一人の工場主に依存もしていない、彼等はすべて独立した存在なのである。」(A.ブランキ「産業経済学講座」A.ブレイズ偏パリ1838-39)ブランキがこの様に書いた以後においては、ある程度は、様々な独立の労働者達は、工場の中に結合された。[そして、マルクスが上のように書いた後は、力織機がこれらの工場に侵入し、そして、今1886年では手織り機に取って代わりつつある。(ドイツ語版第4版に付け加えた。クレフィールド絹産業もまた、明らかにこの主題を示す話しを持っている。)フレデリックエンゲルス]
(4)(2.)工場手工業は、また、このような多様な職種の寄せ集めとは全く違った方法でも現われる。多くの手工職人達が、一人の資本家によって同時に雇用され、彼等はすべて同じ仕事をするか、同じ種類の仕事をする。例えば、製紙、活字、または縫い針である。この協同作業は、それの、最も初期的な形式である。これらの各手工職人達は、(多分一人または二人の見習い工とともに)商品の全体を作る。従って、彼は、その生産に必要な作業のすべてを一連のものとして作業する。彼は依然として、彼の古き手工芸的な方法で作業する。しかし直ぐに、外部状況が、労働者を一ヶ所に集めて、彼等の仕事を同時に行うようにするために、違った使い方を始める。恐らく品物のある増加量がある与えられた期間内に配送されなければならない、となれば、作業は再分割再構成される。それぞれの者が一連のすべての様々な作業を行うことが許されていたのに代わって、これらの作業が互いに関連のない個別の系列に変えられ、同じように並んだ、別の職人のそれぞれによってなされるようになる、そして彼等のすべての作業が平行して、同時に、共に協同作業する労働者達によって遂行される。この偶然の繰り返しがさらに繰り返されて、それ自体の有利さをさらに発展させ、そして次第に、組織的な労働の分業へと硬直化する。商品は、独立した手工職人の個々の生産物であることから、手工職人の結合体の社会的な生産物となる。職人達のそれぞれは、一つの作業をし、ただ一つの作業をし、ある一構成要素の部分的作業を行う。ドイツのギルドに属する製紙業のケースでは、同じ作業が互いに混ざり合って連続した一つの手工職人の仕事となっていたが、オランダの製紙工場手工業では、多くの部分的作業として、並んで、多くの協同作業労働者達によって行われた。ニュールンベルグの針製造ギルドは、以後の英国の針製造業が成立する基礎石となった。そうではあるが、ニュールンベルグでは、一人の手工職人が、多分20程の作業を次々に行うものであったが、英国では、今では、20の針手工職人らが並んで、それらの20の作業の一つを行った。そして、そのさらなる経験の結果として、それらの20の作業はさらに分割され、個別化され、分断された労働者の排他的な機能というべき体をも作り上げた。
(5)この様に、手工芸から成長した、これらの工場手工業の成立様式は、二重なのである。一方では、様々な独立した手工芸の結合から産み出された。そしてそれは、彼等の独立性を細切れにして、一つの特定の商品の生産の補助的な部分的な工程へとどこまでも小さくされてしまった。他方では、一工芸部門の職人達の協同作業から産み出された。そしてそれは、その特定の手工芸を様々な細目の作業へと分割した。孤立化させ、そしてこれらの作業を、特定の労働の排他的な機能に行き着くまでに、互いに独立したものにしてしまった。従って、一方では、工場手工業は、労働の分業を生産過程に導入するか、またはその分業をさらに発展させた。また一方で、形式的には分離した手工芸を一緒に結合した。その特定の開始点がどうであれ、その最終的な形式は、少しも変わる所が無い、その部分が人間である同じ生産機構なのである。
(6)工場手工業における労働の分業を適切に理解するためには、次の各点をしっかりと把握することが必須である。その第一は、生産過程を様々な一連の工程へと分解することであって、ここでは、厳密に、一対一で手工芸のそれの一連の手の作業と同一の工程への分解である。そのそれぞれの作業は、複雑なものであれ単純なものであれ、手をもってなされねばならず、手工芸の性格を保持しており、それゆえに、道具を使う個々の作業者の力、熟練、理解の早さ、そして確かな腕に係っている。手工芸がその基礎として継続している。この狭い技術的な基礎が、いかなる明確な工業的生産過程の、真に科学的な、分析をも排斥している。以来、依然として、生産物によって通過される細目の工程は、孤立化している手工芸の方法によって、つまり、手とその加工によってなされるものでなければならない。それは、まさに、手工芸的技能が継続しているからに他ならない。この方法によって、生産過程の基礎が継続しているからで、それぞれの労働者は、部分的な機能に排他的に割り当てられており、そして、それが彼の人生のすべてであり、彼の労働力はこの細目機能の器官へと変えられる。
(7)その第二は、この労働の分業は特別な種類の協同作業であり、そして、その多くの欠陥は協同作業の一般的性格から惹起するものであって、その特定の形式から惹起するものではない。 
第二節 細目区分労働者と彼の道具

 

(1)もし我々が、より細かく見て行くとすれば、その最初の所に、彼の人生のすべてを掛けて一つの、同じ単純な作業を行う労働者がおり、彼の全身をば、自動機具に改造し、その作業に特化した道具となっている姿がはっきりと見えるであろう。その結果として、彼は、一連の継続する作業のすべてを行う工芸職人に較べれば、その部分に関してはより少ない時間でやってのける。そしてまさに、工場手工業の生きた仕組みを構成する集められた労働者は、そのように特化された細目区分労働者だけで出来上がっているのである。かくて、独立の工芸職人と比較すれば、与えられた時間内により多くのものが生産される、別の言葉で云えば労働力の生産性が増大する。*2 さらに、この微細労働が、一旦、一人の人間の排他的な機能として確立したならば、用いられたその方法がより完璧なものとなる。労働者の、繰り返し続けられるその同じ単純な行為が、彼のそのことに注がれる集中が、経験を通じて、彼に、如何にして求めている効果が、最低の労力によって得られるかを教えるであろう。そして、そこには常に、幾世代の労働者達が同時に生きており、与えられたある品物を作る工場に共に集まって仕事をしており、技術的な能力や、商売の手管等々を修得するであろう。やがて、これらが確立され、そして蓄積され、子孫に引き渡される。*3
本文注2 / 「沢山の様々な種目のありとあらゆる工場手工業がさらに、分岐され、異なる手工業職人に割り当てられれば、割り当てられるほど、その同じ種目の作業は、時間のロスも少なく、労働のロスも少なく、より迅速に、より巧みにこなして行くものとなるに違いない。」(「東インド貿易の利益」ロンドン1720年)
本文注3 / 「楽な労働とは、受け継がれた技能のことである。」(Th.ホジスキン「やさしい政治経済学」)
(2)事実、工場手工業は、細目区分労働者の熟練技能を生産する。その繰り返しの生産によって、そして、工場内において、どこまでも組織的にそれを押し進めることによる。またそれは、自然に発展した取引の数々の分化が、社会に大きく広がっており、いつでもそれを用いることができるのを知っているからでもある。さて、視点を替えて、この微細労働の、一人の人間の天職とも云うべきものへの転換を眺めれば、初期的な社会に見られる性向と符合する。取引を世襲化する。それらをカースト制度に固化するか、または、ある歴史的な条件によって、カースト制度の枠に納まらないものをもたらす個人が登場するような時は、これをギルドに封じこめる。カースト制度やギルドは、植物や動物の種や変種への分化を規定する自然の法則と同じ作用から生じる。ただ、その発展度がある点に達すると、カーストの相続やギルドの排他性が、社会の法によって定められるという特異点を別にすればと云うことだが。*4
本文注4 / 「手工芸もまた….エジプトでは、完璧といってもいいところにまで到達していた。それが何故かといえば、他の市民階級のことに関しては、手工芸者は、他の国には見られないようなことなのだが、お節介の手を出すことを許されてはいない。が、それに代わって、かれらの氏族内で世襲と法で決められた職業にのみ従事しなければならない….他の国では、小売業者が、様々なものに関心を分散しているのが見られる。時には、彼等は農業を試みる、また別の時には貿易を行う、また別の時には同時に、二つか三つの業務で忙しい。自由な国では、人々は非常に頻繁に、人々の集会に参加する….エジプトでは、これとは違って、全ての手工芸職人は、国事、または同時に幾つかの商売を行えば、厳しく罰せられる。であるから、彼等には彼等の職業への専心を妨げるようなものはなにもない….さらに云うならば、彼等の祖先より、多くの技能を受け継いで来たのであって、新たなより優れたものを見出そうと熱心なのである。」(ディオドロスシクルス:歴史の聖典第一巻第七十四章)
(3)「ダッカのモスリンはその繊細さにおいて、コロマンデルのキャラコやその他の品々は、その見事さと褪せることのない色彩で、他に引けをとったことはなかった。しかも、それらは、資本とか、機械とか、労働の分割とか、その他の、ヨーロッパの工場手工業に利益をもたらした施設のようなそれらの手段を用いずに生産されたものである。織り手は孤立した個人にすぎず、客の注文によって織る。そして織機は粗雑な作りであり、二三本の枝とか木の棒を組み合わせてぞんざいにまとめたと言った代物である。そこには縦糸を巻き取るものさえないため、織機は、だから、その一杯の大きさにまで拡げられていなければならず、大変不便な大きさとなる。それは織り手の小屋に納めることはできず、当然ながら、その仕事は、外で行わなければならない。天候の急変の度に中断されることになる。*5
本文注5 / 「英領インド他の歴史的かつ現状の重要性」ヒューマルレー、ジェームスウイルソン他によるエジンバラ1832年第2巻印度人の織機は縦型である、すなわち、縦糸は垂直方向に張られている。
(4)この特別の技能は、世代から世代へと蓄積され、父親から息子へと伝承されたものに他ならない。そして蜘蛛が巣を作るように、この熟練に至る。さらに、依然として、このような一人のヒンズーの織り手の仕事は非常に込み入っており、工場手工業労働者の仕事を越えている。
(5)次から次と、様々な細目作業を、一つの完成品を作り出す過程において行う工芸職人は、その時々で場所を替え、道具を替えなければならない。一つの作業から他の作業への転換において、彼の労働の流れは中断され、言うなれば、彼の労働日に隙間を作る。彼が一つの同じ作業を終日拘束されるやいなや、これらの隙間は非常に少なくなり、彼の作業がそのように変化するならばそれに応じてそれらの隙間は消え去る。その結果として得られる生産的な力は、与えられた時間における労働力の増大した支出、すなわち、労働の増大した強度、または、労働力の量の非生産的な消費の減少により生じるものと云える。度々の休息から作業への転換が無くなった部分への余分な労働力の支出は、一旦獲得した通常の速度の作業の、引き延ばされた長さと見合うことになる。だが他方では、一つの決まりきった種類の変わることなき労働は、活動のちょっとした変化に休息と喜びを見出す人間的な活気の湧出とその強さを乱すことになる。
(6)労働の生産性は、労働者の熟練のみではなく、彼の道具の成熟さにも依存している。同じ種類の道具、例えば、ナイフ、ドリル、ギムレット、ハンマー、その他は、様々な工程で用いられるであろう、また、同じ道具が、一つの単独の工程においても種々の目的に供することができよう。だが、労働過程の異なる作業が他と別に切り離されるやいなや、そしてそれぞれの細部の作業が、細目区分労働者の手に、過程に適合した、特異な形のものを要求するやいなや、一つの目的以上に用いられた以前の道具に変更が必要となる。この変化の方向は、その道具の変わることの無かった以前の形を引き続き使用する上での困難性によって決まる。工場手工業は、労働の道具の分化によって特徴づけされる。その分化においては、与えられた種類のある道具が明確な形を獲得し、それぞれの独特の使用に適応させられる。また、それらの道具の特殊化によって特徴づけされる。特殊細目労働者の手にある場合でのみ最大の機能を発揮する特殊な道具が与えられることになるからである。バーミンガム一ヶ所だけで、500種のハンマーが生産された。それぞれが一つの特異な工程で使われたのみでなく、一つの同じ工程の違った作業のために、数種類のものがそのことだけに用いられた。工場手工業時代は、それぞれの細目区分労働者の排他的な特別な機能に、道具を適合させ、労働の道具を単純化し、改良し、多様化した。*6 この様に、この細目化が、同時に、単純な道具の組み合わせからできあがる機械の存在への、一つの物質的な条件を作り出したのである。
本文注6 / ダーウインは、彼の種の起源に関する新時代を画した著作の中で、動植物の自然的器官について、次のように述べている。「一つの同じ器官が、様々な種類の仕事をしている間は、その器官の変化性に関する基本条件については、多分以下のように考えられる。すなわち、自然淘汰はそれこれの小さな形の変化を、保存したり、抑えたりするのに、たいして気を使わない。もし、それらの器官がある一つの特別な目的だけのためにと決められたような場合を除いては。だからナイフを例にとれば、ありとあらゆるものを切るものとして用いられるならば概して一つの形をとる。しかし一つの排他的に用いられるように定められた道具は、それぞれの異なる使用法に応じて違った形を持つに違いない。」
(7)細目区分労働者と彼の道具が工場手工業の最も単純な要素である。それでは、その工場手工業の局面を全体として見て行くことにしよう。 
第三節 工場手工業の二つの基本的形式
 異種業種からなる工場手工業 / 連続業種からなる工場手工業

 

(1)工場手工業の形成には、二つの基本的な形式がある。両者時には混ざり合うこともあるが、違った種類の形式である。そしてさらに、以後に続く、工場手工業から、機械をもってなされる近代工業への変換に関しては、明らかに違った役割を演じる。この二つの性格は、生産される品物の性質から生じる。この品物が、独立して作られる部分生産物の単なる機械的な結合によるのか、完成した形が一連の連続した工程と操作によるのかの、いずれかの結果による。
(2)例えば、一輌の機関車は、独立した5,000個以上の部品から構成される。しかしながら、これを純粋な工場手工業の最初の部類のサンプルとすることはできない、なぜならば、それは近代機械工業によって製作された構造物だからである。しかし、時計ならばいいサンプルとなる。そしてウィリアムペティも工場手工業における労働の分業を説明するのに、これを用いている。以前はニュールンベルグ職人の個人的な仕事であった時計は、極めて大勢の細目労働者達の社会的な生産物へと転換された。それらは、メインコイルばね工、文字盤工、渦巻きばね工、宝石穴加工工、ルビー軸工、指針工、ケース工、螺子工、メッキ工、そしてそれらに付随する様々な関連工、例えば、輪盤工(真鍮と鉄に分かれる)、ピン製作工、ムーブメント製作工、軸玉取り付け工(輪盤を軸玉に固定し、玉周辺部を磨くなど)、軸受けピボット製作工、香箱部品加工工(輪盤、ばねの取り付け)、ゼンマイ等香箱内部組み立て準備工(輪盤に歯を加工し、正確な大きさの穴を加工する等)、脱進機アンクル製作工、円筒形脱進機用の円筒製作工、脱進機ガンギ盤製作工、バランス輪盤製作工、ラケット型調速器製作工(時計の緩急を補正する機構板)、脱進機工(脱進機専門工)、さらに、香箱仕上げ工(ゼンマイ等のための箱を仕上げる)、鋼鉄磨き工、輪列磨き工、螺子磨き工、数字書き工、文字盤エナメル工(銅板の上にエナメルを溶かしてかける)、吊り掛け具工(ケースを掛けるためのリングを作る)、蝶番工(カバー等に真鍮製の蝶番を取り付ける)、ケース開閉の隠しボタン工(ケースを明けるときのバネの取り付け)、文字彫版工、文字彫刻工、ケース磨き工、等々。そして、それらの全ての細目工達の最後に、時計の全体を一つにまとめ、あるべきものにする仕上げ工がいる。数人の手を経る時計部品は僅か二三点で、これらの様々な細かく散乱した部品は、はじめて最後に一つの手に集められて、彼がそれらを結びつけて、機械的な全体となす。完成したその品物の中にある外的関係、そしてその様々でかつ相異なる要素が、同様の完成品すべての凡例と全く同様に、一つの作業場に細目労働者達を一まとめにするか、しないかは、偶然以外のなにものでもない。この細目作業は、ブォーやヌーフシャテルのカントーンがそうであるように、数多くの独立した手工業者達によってさらに長く続けられるかもしれない。が、一方、ジュネーブでは大きな時計工場手工業が存在し、細目労働者達は一人の資本家の監督の元で、直接的に協業する。とはいえ、後者の場合でさえも、文字盤、バネ、外ケースについては、その工場内で作られることは殆どない。時計商売では、労働者を集めて工場主工業を営む場合、例外的な条件を採用した方がより利益を得易い。なぜかと云えば、各自の家で働こうとする労働者達の相互の競争はより激しいものがあるからであり、また、数多くの異種業プロセスに細分化されたしまった労働には、まさに、一般的な労働の道具の使用など殆どないからであり、そして、その散らばった作業が、資本家にとっては、工場建屋他への支出が節約となるからである。*7 にも係わらず、これらの細目労働者が、自分の家で働くとはいえ、資本家(工場手工業者企業家・事業家)のために働くのであるから、独立の手工業者が、彼の顧客のために働くのとは全く違っている。*8
本文注7 / 1854年、ジュネーブは80,000個の時計を生産したが、ヌーフシャテルのカントーンの生産の1/5にも達しない。ラショー-ドゥ-フォンそこにある一つの大きな時計工場手工業所と見るのだが、ですら、年ジュネーブの2倍を生産する。1850-61年、ジュネーブは720,000個の時計を生産した。「王室大使館書記官及び商工業等に関する公使の報告書No.6,1863」の中にある「時計商売に関するジュネーブからの報告書」を見よ。最終的には互いにまとめられる各部品製品の生産がかくも分散されており、相互には何の繋がりを持たぬことが、この様な工場手工業をして、機械を用いる近代工業部門に転化することの困難性となっている。その上、時計の場合は、この他に二つの追加的な障害がある。その部品それぞれの微細さと繊細さであり、また、その奢侈品の如き性格である。ゆえに、それらの多種多様は、最上級のロンドンの製作所では、1年を通して同じように作られる時計は1ダースもないということとなる。機械を採用して成功しているバチェロン&コンスタンティン時計工場手工業所では、多くても3乃至4種類のサイズと形の品揃えしか生産しない。
本文注8 / 古典的な異種業種工場手工業の典型としての、時計づくりにおいては、手工業の細目分割によってもたらされた労働の道具の区別化と特殊化の、上に述べられたような状況について詳細に学ぶことができよう。
(3)もう一つの二番目の種類の工場手工業、その完成された形式は、一連の工程を一歩づつ進展する、つながった局面を経て、品物を作る。丁度、縫い針工場手工業の鋼ワイヤーの様に。そこでは、72の手工程を通り抜け、時には、92のもの異なる細目労働者の手を経る。
(4)このような工場手工業に関しては、その開始時点では、分散した手工業を結びつけ、そのように互いに分離された様々な局面の生産間に存在する空間を縮小する。その一つの場所から他への移動に掛かっていた時間は短縮される。と言う事は、この移動に要した労働も縮小される。*9 手工業と較べれば、生産性が増す。そして、この得られたものこそ、工場手工業の一般的な協業という性格に負うところなのである。その一方、労働の分割が、これこそ工場手工業の顕著なる原理であるが、生産の様々な局面の分離と、相互からのそれらの独立を強いる。この分断された機能間の繋がりの確立と維持のために、一つの手から他の手へと、そして一つの工程から他の工程へと、絶え間ない輸送が必要となる。近代機械工業の視点から見れば、この必要こそ、特徴であり、また費用を要する問題点として浮かび上がる。そしてこれこそが、工場手工業に内在する原理原則なのである。*10
本文注9 / 「人々がかくも密接して一つ屋根の下に集まれば、その運盤作業の必要性は少なくなるにちがいない。」(「東インド貿易の利点」p.106.)
本文注10 / 「工場手工業の異なる各段階の分離は、手の労働の雇用によるものであっても、生産のための大きなコストが加わる。その主なコスト上の損失は、ある工程から他の工程への単なる移動から生じる。」(「諸国の産業」ロンドン1855年第2編p.200.)
(5)もし、我々が、我々の注目をある特有の原料に向けるならば、例えば、製紙工場手工業における故紙、または縫い針工場手工業の鋼線とかに向けるならば、我々は、それが完成までに様々な細目労働者達の手の段階の繋がりという連続する過程を経るのを見るであろう。また、一方、もし我々が、作業所を全体的に見るならば、我々は、原料が、同時に、その生産のあらゆる段階にあるのを見るであろう。集合した労働者は、彼の多くの手の一つの配置では、ある一つの種類の道具を持って、鋼線を引き、別の配置ではまた違った道具を持って同時に、それを伸ばし、また他の配置では彼はそれを切断し、他の配置では先端を尖らし、等々と続く。その相い異なる細目過程は、一定時間内に連続しており、同時に、場所的にも次から次へと進む。であるから、非常に大量の完成された商品が一定時間に出来上がる。*11 この同時性は、確かに、全体としての工程を形成する一般的な協業から生じている。とはいえ、工場手工業は協業のための条件をあるがままのものとして見出すだけでは無く、また、かなりの程度で、手工業労働の細目区分からその条件を作り出す。その一方で、この協業は、労働過程の社会的組織を、個々の労働者を一つの断片的細目にリベットを打って固定する様にして、その組織を完成させる。
本文注11 / 「それ(労働の分割)は、また、全ての相い異なる部門が同時に遂行されるように、作業を分割することで、時間の節約を作る。….同時に、相い異なる工程全てを実施する事によって、個々の過程は分断的に取り扱われる。かくて大量の針は同じ時間で、あたかも一つの針が、切断され、または先を尖らせる、そのいずれもの工程を下手かのように、完全に仕上げられる。」(デュガルドスチュアート既出p.319.)
(6)各細目労働者の断片的生産物は、そうは云っても、ある一つの同じ完成品の進行する特殊な段階物に過ぎないのであるから、各労働者、または各労働者達のグループは、他の労働者またはグループのための原料を用意していると云える。ある一つの労働の結果は、他の労働のための出発点となる。その一人の労働者は、従って、直接的に他の者に職務を与えている。求める効果を取得するための、各部分工程に必要な労働時間は、経験によって学ばせられている。だから、工場手工業のメカニズムは、全体として、所定の結果は、所定の時間で獲得されるであろうという仮説に基づいている。この仮説に従えば、様々な補足的とも云うべき労働過程は邪魔されることもなく、同時に、進行することができ、そして次々とつながる。この直接的な作業への依存、当然ながら他の労働者への依存は、互いに、彼等のすべての者に、必要時間以上を彼の仕事に費やすことがないように強いる。かくて、継続性、統一性、規則性、秩序、*12 さらに、労働の強度すらも。これらは、独立の手工業者、または単純な協業の場合とは全く違う種類の労働となるのは、日を見るより明らかである。ある一つの商品に費やす労働時間はその生産のために必要な社会的時間を越えてはならない。商品生産においては一般的に、この規則が、ただただ競争の結果から確立されたものとして表れる。俗に云えば、生産者は誰でも、彼の商品をその市場価格で売らねばならないとなる。工場手工業においては、これとは逆に、与えられた時間において、与えられた生産物量を産み出すことが、生産過程自体の技術的な法則なのである。*13
本文注12 / 「全ての工場手工業にとって、技能が多様であればあるほど….それぞれの仕事の秩序と規則性は大きくなる。同じものは少ない時間でなされるはずであり、労働も少なくなるはずである。」(「東インド貿易の利点」p.68.)
本文注13 / 「にもかかわらず、工場手工業システムでは、多くの工業部門では、この成果を非常に不完全にしか得て居ない。何故かと云えば、生産過程の一般的化学的・物理的な確実性をどのように用いるのか知らないからである。
(7)とはいえ、それぞれの異なる作業は、同じ時間内では終わらない。であるから、同じ時間内では、各細目生産物は同じ量とはならない。従って、もし同じ労働者が、毎日々々同じ作業を行うならば、それぞれの作業には異なる労働者数を配置しなければならない。例えば、活字鋳造工場では、一人のヤスリ工に対して4人の鋳造工と分断工が2人である。各1時間で鋳造工は、2,000個の活字型に鋳湯し、分断工は4,000個の活字鋳を分断し、ヤスリ工は、8,000個の活字にヤスリがけする。我々は、ここに改めて、最も単純な形式の協業原理を取り上げることになる。同じことをする多くの雇用者の同時的雇用と云うことである。ただこの場合は、この原理が有機的関係を表すものとなる。工場手工業で行われる労働の分割は、社会的で集合的な労働のそれぞれ質が異なるものを単純化したり多様化したりするだけではなく、それらの労働の量的大きさを支配する決まった数学的な関係や比率を作りだす。すなわち、労働者数の相対的な設定、または労働者たちのグループの相対的な人数の設定をそれぞれの細目作業に応じて行う。つまり、社会的労働過程のさらに細かい質的な分割を産み出すとともに、その労働過程に対する量的な規則と比例関係を発展させる。
(8)ある与えられた規模の生産をする場合、一度、最も適切な構成の様々なグループの細目労働者数が経験的に確立されたならば、その規模は、各特定のグループの倍数を雇用することによってのみ拡大することができる。*14 そこには、以下のことが生じる。同じ個人が小さな規模でやっていた作業を、大きな規模になってもそのまま行うことができる。例えば、監督とか、細目生産物の一つの段階から次の段階への運搬等々の労働がそれである。この機能の分離や、特定の労働者を配置することは、雇用労働者の数が増大するまでは有利ではないが、全体の労働者数が増大すれば、その特定労働者の数の増加はすべてのグループに対して一様に比例的に行われることにならざるを得ない。
本文注14 / 「いつでも(それぞれの工場手工業の生産の特異な性質から)最も有利となるように多くの工程を分割することが確かめられており、同様そのような労働者数を雇用することも確認済であるならば、その正確な倍数の労働者数を雇用しない他の全ての工場手工業はその品物の生産にはより大きな費用を要することとなろであろう。….かくて、工場手工業が大きな規模となる原因がここに生じる。」(C.バベッジ「機械の経済性について」第1版ロンドン1832年第21章)
(9)個々にはいかなる特異な機能が割り振られていようと、その労働者達の隔絶されたグループは、同質的な要素をなしており、全メカニズムを構成する一つのパーツである。しかしながら、多くの工場手工業においては、そのグループ自体が一つの労働の組織体であり、全体のメカニズムはこれらの基本となる有機的組織体の併置またはその倍数の有機的組織となっている。その例として、ガラス壜工場手工業を取り上げてみよう。それは、基本的に異なる三つの段階に分けることができよう。最初は前段で、ガラスの諸材を準備する。けい砂とソーダ灰を混合する等、そしてそれらをガラス溶解釜で溶けている流動化ガラス体の中に投入して溶かす。*15 様々な細目労働者たちがこの最初の段階に雇用されている。また同様、最終段階、徐熱炉から壜を取り出したり、仕分けしたり、梱包したり等々にも、雇用されている。これらの二つの段階の間に、適切な温度状態にガラスを溶解し、流動状態のガラスを取り扱う中間段階がくる。溶融炉の各取り出し口で、一つのグループが作業する。グループは「穴」と呼ばれ、一人の壜製造工または仕上げ工、一人の吹き手、一人の集め手、一人の積み手または研ぎ手、そして一人の検査工で構成される。これらの5人の細目労働者達は、ただ一つの全体としての機能する有機的組織であって、ありとあらゆる特別な器官群となっている。従って、直接的な全5人の協業によってのみ機能する。もしそのメンバーの一人が欠ければ、そのグループ全体が麻痺する。もっとも一つのガラス溶解炉には幾つかの取り扱い口があり、(英国では4から6ヶ所)そのそれぞれに溶解したガラスをたっぷり入れる坩堝があり、同じような5人のグループがそれぞれに雇用されている。その各グループは分業に置かれているが、その異なるグループ間のきずなとしては、単純な共同作業がある。生産手段という一つの共通なものを使用するからである。溶融炉をである。そうすることによって、より経済的に溶融炉を使用できるからである。そのように、炉は4−6のグループによって、ガラス工場を形成する。そして、ガラス壜工場手工業はそのようなガラス工場をいくつか包括し、準備段階と最終段階に必要な設備と労働者を抱える。
本文注15 / 英国では、溶解炉は、そこからガラスを取りだして取り扱うためのガラス炉とは明確に分かたれているが、ベルギーでは一つの同じ炉が両方の過程に用いられている。
(10)工場手工業は、様々な手工業の組み合わせから立ち上がったが、最終的には、それと同様に、様々な工場手工業の組み合わせへと発展する。例えば、英国の大きなガラス工場手工業は彼等自身が使う溶解用の坩堝を作る。何故か、その過程の成功あるいは失敗かが、非常に大きく、これらの品質にかかっているからである。ここでは、その生産物の工場手工業と、生産手段の工場手工業とが結び付けられた。また他方、ある生産物を作る工場手工業が、他の工場手工業に結合される。その生産物を原料とする工場手工業であるとか、その生産物がそのまま混合される工程をもつ工場手工業とか等である。であるから、我々は、ある鉛ガラス工場手工業を、ガラス細工工場手工業や真鍮鋳造工場手工業と結びついて出来上がった工場手工業として見出す。後者は様々なガラス細工品に金属細工品を取り付けるためである。そのように組み合わされた様々な工場手工業は、大抵は、大きな工場手工業の個別の部門を形成する。だが同時に独立した過程をであり、それぞれの分業を担う。この工場手工業の組み合わせには、多くの利点があるにも係わらず、工場手工業は自身の基盤の上で、完成した技術システムへと成長することは無かった。それが生起するのはだだ一つ、機械によって成される工業への移行によってのみなのである。
(11)初期の工場手工業の時代においては、商品の生産に要する必要労働時間の短縮の原則は、*16 一般的に認識されており、公式化されてもいた。そして、機械の使用も、特に、大規模に実施されねばならない、ある単純な最初の過程では、大きな力の応用があちこちに広がっていた。例えば、初期の製紙工場手工業では、製紙原料の破砕は、製紙用破砕機によってなされた。金属工場手工業では、鉱石の粉砕は、連続打砕機によって実施された。*17 ローマ帝国は、全ての機械の初歩的な形式としてよく水車を用いたものであった。*18
本文注16 / これについては、W.ペティ、ジョンベラーズ、アンドリュウヤラントン等の「東インド貿易の利点」、J.バンデルリントから、見ることができる。これ以外のことについてはなにも述べていないが。
本文注17 / フランスでは、16世紀の終りに至るまで、鉱石の破砕や洗鉱に、すり鉢や篩が依然として使われていた。
本文注18 / 機械発達史の全容は、その歴史をトウモロコシの粉挽き工場"cornmill"にまで遡ることができる。英国の工場は今でも"mill"と呼ばれる。ドイツでも、今世紀最初の10年間の技術的な書物の中では、"Muhle"という単語が使われているのを依然として見ることができる。自然の力で駆動されるすべての機械のことだけではなく、機械そのものの本来の性質を有する機器類を備えた全ての工場手工業をも含めて使われている。
(12)手工業時代は、我々に、偉大な遺産を伝えている。羅針盤、火薬、活字印刷、自動時計と言った発明である。しかし、全体として見れば機械は、アダムスミスが、分業を、機械で説明したように、脇役でしかなかった。*19 17世紀の機械使用の散見は非常に重要なことである。なぜならば、それが当時の偉大なる数学者達に実用的な基礎と機械科学の創出への刺激を供したからである。
本文注19 / 詳細は、この著作の第4巻で詳しく見る事になるのだが、アダムスミスは、労働の分割に関して新たな命題を一つでも確立したことはない。とはいえ、彼を、工場手工業時代の優れた政治経済学者と特徴付けているのは、分業を強調したからである。彼が機械に与えた脇役に関しては、近代的機械工業の初期に、ローダーディールに反論の機会を提供した。その後には、ユアの反対論にもである。A.スミスは、その上、労働手段の分化と機械の登場についての認識がごちゃ混ぜである。前者の場合には、細目労働者自身が主役を演じているが、後者の場合は、工場手工業の労働者ではなく、学者や、手工親方や、農民(いろいろと手がけた者ら)すらも含めてその役を演じている。
(13)多くの細目労働者の組み合わせによって出来上がった集合的労働者は、工場手工業時代の特殊な性格をもった機械と言える。様々な作業が、商品の生産者によって次々と行われる、そして生産の進展の間、その一つが他のものとぶつかりあって渋滞する。様々な所にこうしたことが起こり、彼はそれを解消するように迫られる。ある作業では、彼は力を出さねばならず、他ではもっと熟練が、また別のところでは、もっと注意力が必要である。同一個人はこれら全ての能力を同じようなレベルでは持っていない。工場手工業がかくも一旦広まってしまった後は、様々な作業は隔離され、独立したものとなった。労働者は分割され、区分され、かれらの目立った能力に従ってグループ化された。一方において、もし、かれらの自然的な資質が、分業を築き上げる基礎であると云うならば、他方、工場手工業が一旦導入された以後は、単に限定的で特殊な性質に適合させる新たな能力を彼等の中に発達させたと云うことになろう。
集合的労働者は、今や、同じ程度に卓越した生産のための必須の性能を持っており、彼等を最も経済的な方法までに至らしめた。彼の全ての器官をもっぱらその事だけに用い、特殊な労働者を構成し、または労働者のグループを構成し、彼等の特殊な機能を発揮する。*20 集合的労働者の一部となるに及んで、一面的で不完全な細目労働者は、完璧なものとなる。*21 ただ一つのことを行う習慣は、彼をして、失敗することのない機具へと変える。全体のメカニズムと結び付けられたことによって、それが彼を機械の部品の規則性をもって仕事を行う様に強要する。*22
本文注20 / 「工場手工業の工場主は、異なる工程ごとに仕事を分割することによって、それぞれの工程が異なる技術レベルまたは力のレベルを要求することから、それぞれの工程が必要とする技術と力の詳細な品質を正確に購入することができる。であるから、もし全ての仕事が一人の労働者によって遂行されることになれば、その人間は、最も困難な仕事をこなすために十分な技量を持たねばならず、最も労力を要する作業をこなすためにはそれにかなう十分な力を持たねばならない。そのような作業内容に、品物が分けられている場合には。(Ch.バベッジ既出第19章)
本文注21 / 例えば、ある筋肉が異常に発達したとか、骨が曲がる等々
本文注22 / いかにして、年少者をして、彼等の仕事をムラなくやり続けるようにするのか、というある議会調査委員会の質問が出されたが、ガラス工場手工業の最高支配人、Wm.マーシャルによって、非常に正しく解答された。「彼等は、彼等の仕事を放置することはよくなし得ません。彼等が一度仕事を始めたら、彼等は続けるしかありません。彼等は、まさに、機械部品そのものなのですから。」(「児童の雇用に関する調査委員会」第四次報告書1865年)
(14)集合的労働者達は、機能を持つ、単純なものから複雑なものまで、高いものから低いものまで。であるから、彼のメンバー、個々の労働力は、様々な訓練のレベルを求める。その結果、それらの労働力は様々な価値を持つことにならざるを得ない。従って、工場手工業は労働力の序列化を発達させる。それにすなわち、賃金の序列化が付随する。もし、一方で、個々の労働者達がある限られた機能に適合させられ、一生をそれに結び付けられるならば、他方において、序列化された種々の作業が、労働者たちに、彼等の自然と彼等の修得した能力の両方に応じて、小分けされる。*23 とは云うものの、全ての生産過程は、ある単純な、いかなる者でも出来る操作を要求する。それらはまた、より豊穣な活動の間を繋ぐためにどうしようもなく必要であり、指定された労働者の特殊な排他的な機能に固定化される。このことは、手工業が工場手工業となるに及んで、作り出したものであって、非熟練労働者の階級と呼ばれるものである。手工業社会においては、厳格に排除された者であった。もし、それが、一方的に偏った特殊性を完璧たらしめるならば、一人の人間の全労働能力をそこへに支出させるならば、それはまた全ての発展の欠如とも云うべき特殊性が始まる。この序列的濃淡に並んで、そこに単純な労働の区分が起こる。熟練と非熟練の。後者にとっては、見習い工としてのコストが消える。前者にとっては、職人のそれと比べれば、機能が単純化されることの結果としてコストが縮小する。いずれの場合においても、労働力の価値は低落する。*24 労働過程の分解が新たなものと包括的な機能とを作り出したが、いずれも全域に及ばず、または非常に穏やかに進行した場合、手工業の場合では、この法則に例外もあった。労働力の価値の低落は、見習い工への支出の消失や縮小によって生じたが、資本に利益にかかる剰余価値の直接的な増加を意味することは紛れもない。労働力の再生産に要する必要労働時間の短縮は剰余労働の領域を拡大する。
本文注23 / ユア博士は、彼は、近代機械工業を神格化するのだが、これらの事に反論する興味も持たなかった以前の経済学者よりははっきりと、工場手工業の特異なる性格を暴く。また、彼の同時代の経済学者で数学者として、そして機械学者として優れていたバベッジ他すらよりも鋭く、指摘した。バベッジ他は、機械工業をただ工場手工業の視点から取り上げただけであった。ユアはこう云ったのである。「この適応は….個々の労働者の適応価値とそのコストは自然に形成される。そしてまさに分業の根本的性質を形づくる。」他方、彼は、この分業について次の様に書いている。「人の違った天分への労働の適応」と。そして最後の方で、全工場手工業システムの性格について、「労働の分業または労働の濃淡に対応するシステム」と。また「技能レベルにかかる労働の分割(分業)である。」と。(ユア既出)
本文注24 / 「各手工業職人は、….その場所において、働くことによって、彼自身を完成させることが可能であった。だが、….単なる安い労働者に。(ユア前出) 
第四節 工場手工業における分業、そして社会における分業

 

(1)我々は、最初に、工場手工業の発生について考察した。そして、細目労働者と彼の道具を、そして最後に、その仕組みの全体を考察した。さて、それでは、ここで、工場手工業における分業と、商品の全生産を形成する社会的分業との関係について少し触れて置きたい。
(2)もし、我々が労働だけを視界に置くならば、我々は、社会的な生産をその主な分割または属を指摘するであろう。--即ち、労働一般としての、農業、工業、その他と。そしてこれらの属を種や亜種に裂いていくならば、そこに、特殊な分野での分業があり、そして、一人ごとの作業場での分業または、細目の分業が存在する。*25
本文注25 / 「分業は、職業の分断から生ずる。最も広くその分割が進んだところでは、工場手工業のように、一つの同じ生産物を作り出すために、幾人かの労働者達がそれぞれに分けられる。(ストーク「政治経済学講座」パリ版第一巻)「ある程度の文明レベルに達した人達の間では、まず第一に、三つの分業を見る。我々はこれを一般的なと呼び、生産者の分業を、農業者、工場手工業者、そして商人である。これは、国の三大主要労働部門に呼応する。第二に、特殊なと呼ぶこともできるであろうが、各部門の分業をさらに種に分ける。….第三の分業は、職務の分業と名付けることができよう。または、専門労働と呼ぶこともできよう。個々の手工業から成長してきて、….それらは、工場手工業や工場の大部分で確立された。」(スカルベック既出)
(3)社会における分業は、そしてそれに相応して個々を特殊な天職に結び付けるそれ自体は、丁度工場手工業で分業の進むがごとく見えたとしても、逆の開始点から発展した。家族内に、*26 そして、その後さらに進展するように、部族内に、性や年令の違いから、自然に、分業が始まったのである。であるから、分業は、純粋に、生理学的な基礎の上に築かれた。その分業は共同体の拡大、人口の増加、そしてより明確に言えば、他の部族との闘争によって、それは一つの部族が他の部族を征服することによるのだが、その分業の基盤を拡大した。他方、以前に私が述べたことだが、異なる家族や部族、共同体が接触するところに、生産物の交換が始まる。文明の初期段階においては、それは個々の個人によるものではなく、家族、部族、その他であり、それぞれ独立した形態を持ったそれらが出会うのである。異なる共同体は、異なる生産手段を見出す。そして異なる生活手段を彼等の自然環境の中に見出す。ゆえに、かれらの生産様式そして生活様式そしてそれらの生産物は異なる。それが自発的に発展した違いとなり、異なる共同体が接触する時には、互いの生産物の交換がなされる。さらに、その結果、それらの生産物が次第に商品に変化して行く。交換は生産領域にはなにも違いをつくりはしないが、直ぐに違いを関係へと結びつける。そしてなによりも、拡大された社会の集合的生産の一部門という内部的依存関係へと、それらを変質させる。後者のケースでは、労働の社会的分業が、当初は互いに別個でかつ独立していた生産領域間の生産物の交換から現われる。前者、生理学的な分業が出発点である場合では、全体を形成するうちの特異な器官がその束縛から離れ、分離して、他のいくつかの共同体と、商品の交換を始める。とはいえ、それらは互いに遠く離れて孤立したもので、単独の結束で、多くの種類の作業を繋げるだけであって、商品として生産物を交換するにすぎない。一つのケースでは、以前は独立していたものを依存関係に置き、他のケースでは、以前は依存関係にあったものを独立のものとしている。
本文注26 / 第三版へのノートその後の人類の原始的状況に関する追及が、著者をして次のような結論に導いた。家族がまずあって、部族へと発展したのではなく、逆に、部族が原始のものであって、同時に、人間の共同体の形を、血縁的な関係の基礎の上に発展させた。部族的な結合が緩んだことによって始めて、多くのまた様々な家族形式がその後に発展したのである。[フレデリックエンゲルス]
(4)よく発達し、商品の交換によってもたらされた全ての分業の根底には、商業地と田園の分離がある。*27 このことは、次のように言えるかも知れない。社会の全経済史は、この対立による運動から要約される、と。ではあるが、この時点では、我々はこの点については、跨いで行くことにする。
本文注27 / ジェームズスチュアート卿は、この主題を最も正しく取り扱った経済学者である。だが、「国富論」の10年前に世に出た彼の小さな本は、現在でさえも、次の事実が明らかになっているにも係わらず、殆ど知られていない。マルサスを称賛する人達は、人口に関する論点を含む彼の著作の最初の版には、純粋に修辞的部分を除けば、殆どなにもなく、スチュアートからの引用ばかりであって、僅かに、ウォーレスとタウンゼントからの引用があるだけである、ということをも知らないという事実のことである。
(5)同時に雇用される労働者の一定数が、工場手工業における分業の物的前提となるように、工場内における固まりに呼応するように、人口の人数とその密度が、社会での分業の必要条件である。*28 とはいえ、その密度というものは、多少がどうであれ、相対的なものである。相対的に薄い人口密度のところでも、よく交通手段等の発達があれば、交通手段等に欠けるより大きな人口を有するところよりも、人口密度は濃い。例えば、この意味で言えば、アメリカ合衆国の北部州はより人口に富んだインドよりも人口密度は濃いと云える。*29
本文注28 / 「そこにある程度の人口密度があれば、社会的交易や労働生産物を増加させる力の結合にとっても、便利である。」(ジェームスミル既出)労働者数が増えれば、社会の生産力はその増加により、さらに複利計算的に増加し、その上に、分業によって倍に増加する。(Th.ホジスキン既出)
本文注29 / 1861年以降、綿の需要の高まりから、米の耕作を犠牲にしてインドの人口数が多いある地域で、綿の耕地拡大が広がった。その結果、地域的な飢饉が発生するところとなったが、交通手段の不足から、その地域の米の不足を他からの支援によって補うことが出来なかった。
(6)商品の生産と流通は、資本主義的生産形式の一般的前提であるから、工場手工業における分業は、広く社会的な分業がすでに一定のレベルにまで成長していることを要求している。逆に、前者の分業は、後者の分業に反作用し、それを発展させ、それを倍加する。同時に、労働の道具の細分化により、これらの道具を生産する製造業がより一層細分化する。*30 もし、工場手工業システムが、ある製造業を占有するともなれば、その製造業が、以前は他と繋がりを持って、それが支配的なものであれ、下請け的なものであれ、そして一人の工場主のものであれ、これらの製造業は即座にそれらの諸関連は切り離されて、独立化される。もし、商品生産の独特の段階を占有するとなれば、その生産の他の段階は非常に多くの独立製造業に変換する。そこで完成された品物が単に多くの部品を互いに結合させて作り上げられているものであれば、細分労働はそれら自体を、純粋なる個別の手工業として再編するであろうことは、前に述べたところである。工場手工業においては、より完全に分業を進めるために、一生産部門は、様々な原材料に従って、または、一つかつ同じ原材料を用いる様々な形式に従って、数多くの、そしてそれなりの規模の、全く新たな工場手工業へと分割される。その様に、フランスだけで、18世紀前半には、100種類以上の絹原料が織られていた。そして、アビニョンには、「全ての見習い工は、ただ一つの種類の品物のみに自らを捧げ、一度に、いくつもの織物の準備を学んではならない。」と云う法があった。特別な地域の生産部門に限定された地域的な分業は、多くの独特の利益を追及する工場手工業システムから新たな刺激を受け取った。*31 植民地制度と世界市場の幕開けは、共に、工場手工業期そのものの存在の一般的条件の中に含まれ、社会的分業を発達させるための豊富な材料を提供する。ここではこれ以上、分業が、経済面のみでなく、ありとあらゆる他の社会的局面までをもどのようにして鷲掴みするかを述べる処とはしないが、分業は、ありとあらゆる所に、専門化と人の選別というとんでもないシステムの基礎をまき散らす。それは、一人の人の一つ能力を、他の全ての能力を犠牲にして発達させる。丁度、アダムスミスの師であるA.ファーガソンをして、次のように嘆かせた。「我々は、ヘロット(古代スパルタの奴隷)の国を作った。そしてそこに自由市民はいない。」*32
本文注30 / そのように、織機の梭の生産のための、特別の製造部門が17世紀の早い時期にオランダで形成された。
本文注31 / 「英国羊毛織物工場手工業が、幾つかの部分、または、その特定の地に適応する部門に、分割されてはいないかどうかはともかく、細密な布はサマーセット、粗い布はヨークシャー、尺長巾ものはエクスター、毛羽立ちものはサドベリー、縮緬ものはノリッジ、亜麻と毛の混紡ものはケンダール、毛布はホイットニー、等々」(バークレー「質問者」1751年520節)
本文注32 / A.ファーガソン「市民社会史」エジンバラ1767年第4編第2節
(7)社会内部の分業と工場内の分業には、類似点も多々あり、また両者の繋がりも少なくない、だが、その規模という点のみではなく、その本質という点でも違ったものである。最もはっきりと表れる類似点は、様々な取引の繋がりを結びつけている目には見えない結束糸がある点であろう。例えば、牛の飼育者は皮を生産し、なめし業者はその皮を皮革にし、製靴業者は皮革を靴にする。ここにはそれぞれの者によって作られる物があるが、彼等の全ての労働を組み合わせた最終形に至る段階にすぎない。また、そこにはこの他の、牛飼育者やなめし業者や製靴業者に生産手段を供給するあらゆる種々の製造業がある。さて、この限りでは、アダムスミスが見たようにしか見えないかも知れない。社会的分業と工場手工業の分業の違いは、単なる主観であり、単に工場手工業内で見れば、多くの作業が一つの場所で行われており、一方は、前述で見た様に、広い地域に労働が散在しており、多くの人が労働の様々な部門に、目立ちもしない繋がりで雇用されているという違いにしか見えない。*33 さて、何が、牛飼育者、なめし業者、製靴業者の独立した労働の繋がりを形成しているのか?それは、彼等それぞれの生産物が商品という事実による。他方、工場手工業の分業を特徴づけているものは何か?そこの細目労働者は、商品を作らないと云う事実にある。*34 そこにある物は、ただの全細目労働者達の共同の生産物であり、それが商品となる。*35 社会的分業は、異なる産業部門の生産物の買いと売りによってもたらされる。一方、工場内における細目労働間の繋がりは、何人かの労働者の労働力が一人の資本家への売りによってもたらされる。資本家は、その労働力をあたかも結合された労働力のように扱う。工場内の分業は、一人の資本家の手への生産手段の集中化を意味し、社会的分業は、生産手段の、多くの独立した商品生産者の中への分散化を表す。工場内においては、鉄の比例法則が明確なる労働者数を明確なる機能に当てはめるが、工場外の社会では、偶然と気まぐれが様々な産業部門内で、生産者とかれらの生産手段の配分を弄ぶ。異なる生産局面には、確かに、常に均衡を維持しようとする傾向が働く。なぜならば、一方で、時に、各商品生産者は使用価値の生産に拘束されており、特定の社会的欲求を満たさねばならない。また、時に、これらの欲求の広がりは量的には異なる。それでもそこにはそれらの均衡を通常のシステムで解決しようとする内的関係も存在する。そしてそのシステムが一つの自発的な成長ともなる。そしてまた他方で、各固有の商品群に対して社会が支出できる労働時間の持ち分をどの程度とするかを、商品の価値の法則が究極的に決定する。からである。だが、この様々な生産局面で、均衡への一定の傾向が働くのは、単にこの均衡の破綻という絶え間ない事態に対する反作用の形であるにすぎない。工場内での分業では、このア・プリオリ的システムが規則的に働くが、社会的分業においては、ア・ポステリオリ的に働く。自然的な必然性として、生産者の法則のない気まぐれを制御する。市場価格の気圧計的変動が感知できるようにからである。工場内の分業では、単に資本家に所属するメカニズムの一部にすぎない人々に対する彼の疑いようもない権威を意味する。社会的分業は、何の権威をも認めない独立の商品生産者をして、ただの競争には付き合わせる。彼等相互の利益の圧力によってそれを強要される。丁度、動物王国さながら、全員による全体に対する戦争(ラテン語イタリックホッブズ英国の政治哲学者1588-1679)なによりも、全ての種が存在条件を維持するための。さて、この同じブルジョワ精神は、工場内の分業は賛美し、労働者を生涯小さな細目労働に縛りつけ、彼に資本への完璧な従属を強制し、生産性を増大させる労働の組織者たらんとする。この同じブルジョワ精神は、生産過程の社会的な制御と調整の意識的な取り組みに対しては、同じ熱心さで、非難する。財産権、自由、そして個人に属する資本を求める束縛なき行動という神聖なるものへの侵害であると。この熱狂的な工場システム擁護者が、社会の労働者の一般的組織化に対して、やたらに罵るのに、そうなれば、社会は一つの巨大な工場になるであろう、と言う以上のなにものもないのは非常に特徴的なことである。
本文注33 / 正規の工場手工業においては、と彼は云う。分業は、より大きなものとして表れる、と。なぜならば、「様々な労働部門に雇用されるこれらの者は、大抵、同じ工場建屋内に集められることができ、観る者の視野にまとめて置かれる。これとは逆に、そのような大きな工場手工業(!)、大勢の人々の大きな欲求を満たすために、多くの労働者を雇用する様々な異なる労働部門では、彼等全てを同じ工場建屋に集めることは不可能であり、….分業が非常に明解であるとは云いがたい。」(A.スミス「国富論」第一巻第一章)同じ章の有名な一節は、次の言葉で始まる。「文明に富み成長を続ける国の、最も一般的な工場手工業者または日労働者の住まいとその内外を見よ。」等々。そして、多くの様々な製造業がごく普通の労働者の欲求を満足のためにいかに貢献しているかを表現するところへと進む。のだが、この大半の文字は、B.deマンダビーユの「蜜蜂物語または私的な悪事、公益的善行」(初刊1706年ここには注書きはないが、1706年版には注書きがある。)の注書きの文字を複写したものである。
本文注34 / 「そこには、個々の労働にとって、当たり前の報酬と呼ぶことができるような物は何もない。個々の労働者は、全体のある一部のみを生産する。そしてその部品それぞれには、何の価値も何の有用性もない。労働者がつかみ取ることができる、そしてそれが自分のために持つ程の我が生産物と云う様な物はありはしない。」(「資本家の要求に対して、労働者が守ったもの」ロンドン1825年)この見事な本の著者は、既に取り上げている、かのTh.ホッジスキンである。
本文注35 / この、社会的分業と工場手工業の分業との識別は、アメリカ北部諸州の人々には実用的に明示された。南北戦争中にワシントンで提出された新たな課税は、"全ての工業生産物"に対して6%の税であった。質問工業生産物とは何か?立法府の解答"それが作られた時に"生産された物で、かつ、売るため準備ができた時に作られたものである。では、多くの例から一つを取り上げよう。ニューヨークやフィラデルフィアの工場手工業者は、以前は、傘をそれらの関連品を含めて全てを"作る"習慣であった。しかし、傘はあらゆる雑多な部品の混ぜ合わせであり(ラテン語イタリック)これらの部品は、様々な場所の独立した様々な個別の製造業の生産物となりかわる。これらの物は、個別の商品として傘の工場手工業に到着し、そこでまとめられる。ヤンキー達は、このようにまとめられた品を、"組み立てられた品"と名付けたが、まさに、その名は、税の集合体に値するものであった。そのように、傘は、最初に、その要素それぞれの価格の6%が、そして、それ自身の全価格の6%がその上に乗る"(税の)組み立て物"となった。
(8)もし、資本主義的生産体制の社会では、社会的分業の無政府状態と工場内の専制が互いに共存条件であるというならば、逆に我々は、次のものを見出す。初期的社会形式が、自然に商業的取引の分離を発展させ、そして結晶となし、最終的には法によって永久のものとし、一方で、承認された権威ある計画に基づいた社会の労働組織の実施例を、他方で、工場内の分業を徹底的に排除するか、またはそのことを単なる小人たちのものであるかまたは時々生じる偶然的に発生する範囲内のものにしているのを。*36
本文注36 / 「次のような一般法則があると云えよう。すなわち、社会内の分業に関して、それを指揮する権威が少なければ少ない程、工場内の分業はより発展すると。そして一人の人間の権威により従属させられると。そのように、分業の関係においては、工場内の権威と社会の権威は、互いに反比例する。」(カールマルクス「哲学の貧困」他)
(9)古き昔のインドの小さな共同体、そのうちの幾つかは、今日に至るまでも続いているが、土地の共有に基づき、農業と手工業を取り合わせた様な形で、変えることができない分業で成り立っている。その分業は、新たな共同体が開始時に、計画と体系として手を入れまとめ、用意したものである。100エーカーから数千エーカーの土地を占有し、それぞれがまとまった全体を形成し、自ら必要とするものを生産する。生産物の主な部分は共同体自身の直接的な利用へと予め決められており、商品の形にはならない。であるから、ここでの生産は、商品の交換によっている全体的に見たインド社会からもたらされる分業からは独立している。余剰のみが商品となる。だが、その部分といえども、国家の手が届くまでは、そうはならない。国家の手を経ることによって始めて、そうなる。国家は大昔からこれらの生産物の一定量を地代相当として取り扱ってき来た。これらの共同体の形成は、インドの諸所によって様々である。そのうちの最も簡素な形式は、土地は共同で耕され、生産物は構成員に分配される。同時に、紡いだり織ったりすることは各家庭の補足的な仕事としてなされる。皆がこのようにしている他に、ある者が同じ仕事に従事する。我々は"住民の長"を見つける。判事、警察、徴税官役を一人で担っている。記録係は、収穫勘定を行い、諸々の全てを記帳する。他の公務者としては、犯罪者を告訴し、旅人を保護し、次の村まで護衛する者。隣村との境界を守る監視役、共同の灌漑用池からの水の分配を行う水監視人、宗教的行事を執り行うバラモン、子供達に読み書きを教える教師、種まきや収穫の良き日または良くない日を知らせる他、農業に関する様々なことを知らせる暦のバラモン又は占星術師、農業用具の全てを作り修理する鍛冶屋と大工、村の全ての陶器を作る陶工、床屋、布の洗濯をする洗濯人、銀細工師、そしてある共同体では、銀細工師の、他では、教師の代役をする詩人があちこちに。この1ダースの個人は、全共同体の支出で維持される。もし、人口が増加したら、新たな共同体が、同じパターンで、未占有地に、作られる。この全メカニズムは組織的分業を明確にしている。工場手工業的分業は成り立ちようもない。なぜなら、鍛冶屋も大工も他も、不変の市場を見出すだけだから。時には、村の規模によって起こる変化程度はありそうなことだが、一人に代わって二人か三人か程度で済む。*37 共同体内部の分業を規制したこの法は、逆らうことが出来ない自然の法則の権威をもって作動した。同時に、各個々の職人、鍛冶工や大工、他は、彼の作業所において、全ての手作業を伝統的な方法で行った。とはいえ、それは独立しており、彼を制するいかなる権威も認めてはいない。これらの自給自足共同体内の単純な生産組織は、常にその同じ形式で自身を再生産する。そして、なんらかの破滅に直面しても、同じ場所に同じ名前で再び立ち上がる。*38 この単純さが、アジア的共同体の不変の秘密の鍵を与える。この不変性は、アジア諸国の溶解と再構築と、その絶え間なき王朝の交替とは際立った対照を見せる。共同体の経済的要素の構造は政治的空の嵐の雲によってもなんら触れられる事もなかったようにそのままである。
本文注37 / マークウィルクス中佐「南インドの歴史的スケッチ」ロンドン1810-17年第一巻インド共同体の様々な形式に関する的確な記述は、ジョージギャンベルの「近代インド」ロンドン1852年にも見出される。
本文注38 / 「この単純な形式のもとで、….この国の住民達は大昔から生活してきた。村の境界は殆ど変わらない。そして村が痛めつけられたり、戦争、飢餓、病気によって荒廃させられたとしても、同じ名前、同じ境界、同じ所有権、そして同じ家族すらが、何年も続いてきた。住民は王国の崩壊や分割に対してもなんら自身に障害を持ち込まず、村としてそのままに留まった。彼等は、いかなる権力に変わろうと、権力が委譲されようと、その内部経済を少しも変えずに保持した。」(Th.スタンフォードラッフル元ジャワ政府副官「ジャワの歴史」ロンドン1817年第一巻)
(10)ギルドの規則は、私が以前述べたように、一人の親方が雇用することができた見習い工と旅職人の数を最も厳格に制限したことにある。彼をして資本家になることを防いでいた。さらに云えば、彼は自分が親方である場所以外のその他の多くの仕事場で旅職人を雇用することはできなかった。ギルドは、彼等に接触しようとする自由資本の唯一の形式である商人の資本による浸食のことごとくを執拗に追い払った。商人は、全ての種類の商品を買うことができた。だが、労働を商品として買うことはできなかった。商人は、手工業の生産物のディラーとして、たんなるお情け的な存在であった。仮に状況が変わって、より多くの分業が必要になったとしても、一つの仕事場に様々な手工業を集中させることなく、現存するギルドが自身を種々に分けるか、古いものの隣に新たなギルドを創立した。であるから、ギルド組織は、手工業の分割や、個別化や、完全化がいかに寄与するものとなり、工場手工業存立の物質的条件を作り出すとしても、仕事場での分業を排除したのである。結論的に云えば、労働者と彼の生産手段は一体のものとして残ったのである。丁度蝸牛とその殻のように。そのように、そこには工場手工業の主要基盤が欠けているのである。労働者の彼の生産手段からの分離と、それらの道具の資本への転化とが欠けているのである。
(11)社会の分業が広がれば、その分業が商品の交換によって持ち込まれたか、そうでないかはともかく、社会の経済構造としては普通のものとなる。が他でもなく、極めて多くの、作業所内の分業、工場手工業によって行われたものは、唯一つ資本主義的生産様式のみが作り出した特別のものである。 
第五節 工場手工業の資本主義的性格

 

(1)一人の資本家の指揮の元に労働者数が増加することは、協業一般に見られるごとく、特に工場手工業がそうであるのと同様に自然的な出発点をなす。しかしながら、工場手工業での分業は、この労働者数の増加を、技術的な必然事項とする。そこに登場するいかなる資本家でも、ここで見たように、雇用する労働者数はすでに確立された分業によって規定されている。これとは別に、労働者数を増加させることのみによってより分業の利益を得ようとするならば、ただ、それらの様々な細目グループ数の倍数を増加させることによってしかそれを実現することはできない。その上、可変資本が用いる様々な要素の増加は、その固定資本の増加もまた必要とする。工場内では、道具等々、そして特に、原材料においては、それへの要求が、労働者数よりも急速に増大する。与えられた時間に、与えられた労働者数によって消費されるその量は、分業の帰結として、労働力の生産性に比例して増大する。その結果、工場手工業のまさにその性質に基づき、個々の資本家の手にある資本の最小量は増加し続けねばならないということが法則となる。別の言葉で云えば、社会的生産手段や生活手段の資本への転化が拡大され続けられねばならないと云うことになる。*39
本文注39 / 「工場手工業の細分業に必要な資本が、(著者は、必要な生活手段と生産手段と云うべきであった。)社会内において準備されていなければならないと云うだけでは十分ではない。それがその上に、工場手工業の親方の手に、彼等をして、かれらの運営を大きな規模で実施できるに十分な大きな量で積み上げられていなければならない。….分業が増大すればするほど、与えられた労働者数の一定の雇用が、道具や原材料他に、より大きな資本の支出を要求する。(ストーチ「政治経済学メモ」パリ版第一巻)生産手段の集中化と分業は、互いに切り離せないものである。これを政治的局面として云うならば、公的権力の集中化と私的利益の分割がそのように切り離せないものであると云える。(カールマルクス前出)
(2)工場手工業においては、単純な共同作業の場合と同様であるとしても、その集合的作業の有機的組織体は資本の一存在形式である。大勢の個々の細目労働者と云う作り上げられたメカニズムは、資本家に属する。であるから、労働の結合から得られた生産的な力は資本の生産的な力として現われる。工場手工業なるものは、以前は独立していた労働者を資本の命令や規律に従わせるのみでなく、それに加えて、労働者に対して、労働者の階層的な序列を作り出す。単純な共同作業の頃は、個人の労働様式を殆どにおいてなにも変えずに、そのままにしていたが、工場手工業はそれを徹底的に変革し、人間そのものを労働力として掴み直した。それが労働者を欠陥のある奇怪な物に変換した。生産的な能力や素質の世界において、彼の細目の器用さのみの支出を強いたのである。あたかも丁度、ラプラタ州で、その動物の毛や毛に滲み出した脂を得るのに、人々がその動物一頭を屠殺したのと同じである。その細目労働を様々な個人に配分するだけではなく、彼個人が、断片的作業の自動原動機にされたのである。*40 そして、一人の人間を単なる彼自身の体の一断片とした不条理なメネニウスアグリッパの寓話を実現したのである。*41 最初から、労働者は、彼の労働力を資本に売るのだろうか。物質的な商品の生産手段の方が彼を見捨てているからである。今では彼の労働力の方すらが、資本に売られないならば、その役目を拒絶する。その機能は売った後に資本家の作業場に存在する環境の中にあってのみ使用することができる。何一つ独立して作り出すことにそぐわない性質によって、工場手工業労働者は、生産的活動を単なる資本家の工場の付属物として発展させる。*42 選民として、エホバの親署を容貌に帯びているように、分業は、工場手工業労働者に資本の財産であると烙印する。
本文注40 / デュガルドスチュワートは、工場手工業労働者を「生きている自動装置….作業の細目に雇われた。」と呼んだ。(既出)
本文注41 / 珊瑚は、事実、個々それぞれがグループ全体の胃である。しかし、それはグループに滋養分を供給する。一方のローマの貴族は、それを取り上げる。
本文注42 / 手工業の熟練者は、いずれの場所でも、働くことができ、生活手段を見つけることができる。一方の者達(工場手工業労働者)は、ただの付属品であって、彼の仲間から離されたならば、何の能力もなく、独立してもいない。だから、押しつけられて当然のあらゆる法則を強いられる自分を見つけるのみ。(ストーチ前出ペテルスブルグ版1815年第一巻)
(3)知識、判断そして意志は、それらがいかに小さなレベルであれ、独立の農民や手工業者によって実践された。同じように、未開人は全ての闘いの方法を彼等の個人的な巧妙さの実習から作り上げた。このような能力は、今や工場全体を見るためにしか必要がない。生産に係る知能は一方向のみに拡大され、その結果、他の多くの知能は消え去る。細目労働者が失ったものは、彼等を雇用した資本の内に濃縮される。*43 労働者をして、他人の財産のごとく、そしてごく当たり前に、物質的生産過程が持つ知的能力に一対一で配置されるのは、工場手工業の分業の結果である。この分離は、資本家が、一労働者、一結合労働の同一性と意志を代表するところで、単純な共同作業から始まる。それは、労働者を細目労働者に切り下す工場手工業において発展する。それは、労働から切り離された科学を生産力とし、それを資本への奉仕へと押し込む近代工業において完成される。*44
本文注43 / A.ファーガソン既出「前者が他者の失ったものを得た。」
本文注44 / 「知識人と生産的労働者とは互いに大きく分離された。そして知識は、依然として、労働者の手にあって、彼の生産力を増大させ、労働を補足するものとして留まるのに代わって、….至る所で、労働に対立するものとして並べられた。….体系的に、彼等(労働者達)を迷わせ、彼等の筋力を機械的にそして服従的に引き出すための邪道に導いた。」(W.トンプソン「富の分配原理に関する研究」ロンドン1824年)
(4)工場手工業において、集合的労働者を、彼を資本を経由して、社会的な生産力としての富とするために、個々の労働者は個々の生産力では貧しいきものとされなければならない。
(5)無知は迷信の母であると同様に、探究の母である。熟慮や想像は間違いを生じやすい。しかし手足を動かす習慣はそのどちらからも独立している。従って、工場手工業がもっとも繁栄するのは、そこでは理性が考慮されることが殆どなく、工場では、….人が人と云う部品であって、原動機のごときものと考えられる場合である。*45
本文注45 / A.ファーガソン既出
(6)実際にあったことだが、18世紀中頃、幾つかの工場手工業では、ある特定の企業秘密に係る作業には、半白痴的人間の雇用をむしろ選んだ。*46
本文注46 / J.D.タケット「過去および現在の労働人口の状態の歴史」ロンドン1846年
(7)「多くの人間の理解力は、」と、アダムスミスは云う。「彼等の日常的な雇用によって必然的に形成される。人生の殆ど全てを、二三の単純な作業を行うことで費やした人間は、….彼の理解力を用いる機会を持つことはない。….彼は次第に、馬鹿で無知な、人間という生き物がなりうる程度の者となる。
(8)細目労働者の馬鹿さ加減について書いた後、彼は、こう云う。
(9)「彼の停滞した生活の画一不変は、彼の精神の生気を崩壊させる。….それは彼の体の活動すら崩壊させる。そして、彼が押し込まれた以外の仕事においては、彼の力を活気をもって、忍耐をもって、発揮させることができなくなる。彼自身の特異な取引で得た彼の器用さは、この意味では、彼の知能、社会性、そして勇敢性を犠牲にして得られたものに見える。しかし、あらゆる面で改良され、文明化された社会においては、この状態は、労働者貧民が、それが人々の大部分ではあるが、必ず陥らねばなければならない状態なのである。」*47
本文注47 / A.スミス「国富論」第五篇第一章第二節分業の欠陥的影響について示したファーガソンの生徒ではあるが、アダムスミスは、この点については完全に抜けている。彼の著書へのはしがきで、ちなみに話で、分業を称賛している。彼は、ただ、ぞんざいな言い方で、社会的不平等の原因を述べたにすぎない。しかも、第五篇の、ファーガソンの国家の収入を再現するところに至る前にはなにも触れていない。私は、私の著書「哲学の貧困」で、ファーガソン、A.スミス、ルモンティ、そしてセイの、分業に係わる彼等の見解を、それぞれを比較して、その歴史的関係について詳細に説明している。そして、はじめて、工場手工業で行われた分業が、資本主義的生産様式の独特の形式であることにも触れた。
(10)分業による大部分の人々の完全なる資質劣化を防止するために、A.スミスは、国による人々の教育を推奨する。しかし、形ばかりの現状維持と変わらないものを。彼の本のフランス語版の翻訳者であり、解説者でもあるG.ガルニエは、フランス第一帝政下で、ごく自然に上院議員となり、ごく自然に、彼のこの点について反対した。彼は主張する。人民の教育は分業の第一の法則を犯す。またそれによって、(次の文節に直接的に繋がって行く)
(11)「我々の全社会システムが禁止されるやも知れない。」「他の全ての分業同様、」と彼は云う。「手の労働と頭の労働の、*48 分離は、社会(彼は、正しくこの言葉を、資本、土地所有権、そして彼等の国を表すものとして用いている)がより豊かになれば、顕著となり、その構成部分がより明確なものとなる。この分業は、あらゆる他のものと同様、過去の結果であり、未来の進歩の原因である。….なのに、政府は、この分業に反対すると云うのか、またその自然の道筋を後戻りさせると云うのか?分割と分離を懸命に追っている二つの労働種をごちゃごちゃに混ぜ合わせる試みのために、公的な資金の一部を支出すると云うのか? *49
本文注48 / ファーガソンは既にこう云っている。前出「そして、考えること自体、この分割の時代にあっては、特殊な職種になるかも知れない。」
本文注49 / G.ガルニエ第五巻彼の、A.スミスの訳本
(12)社会全体での分業からでさえ、体と精神を多少は損なうことからまぬがれることはできない。とはいえ、工場手工業がその労働の社会的な分離・分岐を一層押し進めた。なおかつ特異なる分割によって、個人を、その人間的存在を根本から痛めつけることになった。その結果、産業病理学のための材料を提供し、その始点を与えた。*50
本文注50 / バドバの臨床医学の教授ラマンツィニは、1713年に彼の著書「職人達の病気について」を出版した。この本は1781年にフランス語に翻訳され、1841年に「医学百科事典第七集古典的著者編」で復刻された。近代機械工業時代には、勿論のこと、彼の、労働者の病気一覧表は大きく拡大された。「大都市における、特にリヨン市における労働者の肉体的精神的衛生について」A.L.フォンテレ博士著パリ1858年及び「各種身分別年令別性別の病気について第六巻ウルム1860年」他を見よ。1854年手工協会は、産業疾患に関する調査委員会を設置した。この調査委員会によって収集された資料は、「トウィッケンハイム経済博物館」の目録に見ることができる。政府の公式な「公衆衛生に関する報告書」は特に重要である。また、エドワードレイヒ医学博士の「人類の退化について」エルランゲン1868年を見よ。
(13)「人をして細分するとは、死刑を執行することである。もし刑罰が当然ならば。もし当然ではないならば、かれを暗殺することで、….労働の細分化は人々の暗殺である。*51
本文注51 / (D.アルカート「よく用いられる単語」ロンドン1855年)ヘーゲルは、分業について、非常に異端的な考え方を持っていた。彼の著書「法の哲学」の中で、彼は云う。「我々が理解している、教育のある人々とは、とりもなおさず、他人のすることを全て出来る人のことである。」
(14)分業に基づく協業は、別の言葉で云えば、工場手工業は、自然的な形成物のごときものとして始まった。が、ある程度の存在と広がりを得るに至るや、それは、組織的かつ体系的な資本主義的生産形式として認められるほどのものとなった。工場手工業の特異な分業が、厳密にそのように呼ばれるものであるが、最初は経験的に最も適合した形式を獲得したが、あたかも演技者の後ろに隠れるようにしながら、そして手工業ギルドがそうしたように、一旦見出せばその形式をしっかりと掴んで離さない。そして至る所でそれを1世紀にもわたって維持することに固執してきた。歴史が示すところである。この形式のいかなる変更といえども、どうでもいい些細な事を除けば、全てが、労働の道具の革命に起因するものである。そこいらに発生した近代工場手工業は、私はここで、機械に立脚した近代工業に言及するつもりはないが、どこにおいても、すぐ使えるラテン語の詩の断片を見出して、ただそれを一まとめに集合させられた文章として並べる。大きな町の製布工場手工業のケースはそれである。または、単純に、様々な手作業に(例えば、製本業に)排他的に、ある特定の人を当てることで、容易に分業の原理を応用することができる。これらのケースでは、様々な機能のために必要な手の数の比例関係を把握するには、一週間の経験があれば足りる。*52
本文注52 / 分業に関する、個々の資本家によって、当然視的に取り扱われる発明的天才の単純な信条は、今では、ドイツの教授連の間にしか存在していない。その証紙が、ロッシェル氏に貼ってある。彼は、分業がこれほどまでに広がったことについて、資本家のジュピター的頭脳からもたらされたと、資本家に感謝するために、彼に「様々な賃金」(異なった労働報酬)を献呈する。なにはともあれ、分業の広範囲の適用は、財布の詳細な長さによるものであって、天才の偉大さによるものではない。
(15)手工業の分解、労働の道具の特殊化、細分労働者の形成、そして後者のたった一つのメカニズムへのグループ化と結合化によって、工場手工業における分業は、質的な順序立てと量的な比例関係を社会的生産過程の中に作り出した。それゆえ、それは、明確な社会の労働の組織を作り出した。そして、それによって、同時に、社会の新たな生産力を発展させた。その特殊な資本主義的形式と、与えられた条件の下では、資本主義的工場手工業形式以外の形式を取ることはありえず、まさに、相対的剰余価値を獲得する特有な方式となる。または、労働者の犠牲を増大させて資本そのものの自己膨張となる。その社会的富を一般的に、「諸国の富」など("WealthofNations,"&c)と呼んだりする。その分業は、労働の社会的生産力を増大させる。労働者への恩恵のためではなく、資本家の利益のためだけに増大するのだが、それだけではなく、個々の労働者を不具化することによって増大する。その分業は、労働者を指揮する資本の支配権のための新たな条件をも作り出す。従って、一方で、それがそれ自身の歴史的な姿を、進歩であるとか、社会の経済的発展における必然的局面であるとか云うならば、他方では、搾取の、巧妙化された、そして文明化された方法であると云える。
(16)政治経済学、独立した科学としてのその学問は、最初は、工場手工業の時代の中でその存在を興した。ただ、社会的分業については工場手工業の視点からだけ説明していた。*53 そして、そこに、与えられた労働の量において、より以上の商品を生産する手段として見るだけである。であるから、その結果として、商品低廉化と資本蓄積の加速化の手段としてしか見ていない。ここで最も注目する驚くべき対照性は、この量と交換価値について、古き古典的な著者の態度が、もっぱら、質と使用価値にこだわることである。*54 生産の社会的部門の分断の結果として、商品はよりよく作られ、様々な人々の好みや才能は適切な分野を選択する。*55 そして、なんらかの制限がなければ、どこにあっても、重要な結果が得られることはない。*56 かくして、生産物も生産者も分業によって、改良される。仮に、量的生産の成長が時折言及されるとしても、それは、単に、使用価値の量的拡大という点でしか述べられない。そこには、交換価値または商品の低廉化について触れる文字はない。使用価値視点からのみ見るこの見解は分業を、社会の分割、そして階級が成り立つ基盤と見るプラトンにも見られる。*57 同様、特徴的ブルジョワ本能をもって工場内の分業により接近したクセノフォンはこう云う。*58 プラトンの共和国において、そこで分業が取り上げられている限りでは、国の形成原理としてのそれは、単にエジプトのカースト制度のアテネ人的理想化にすぎない。エジプトは彼の同時代の多くの者にとって、また、他の者やイソクラテス*59にとっても、産業盛んな国のモデルとして存在していた。そして、この尊大さを、ローマ帝国のギリシャにまでも当てはめようとする。*60
本文注53 / ペティや、「東インド貿易の利益」の匿名の著者のように、A.スミスより以前の著者達は、スミスが捉えた以上に、工場手工業において応用された分業の資本主義的性格を捉えていた。
本文注54 / 近代人の中では、二三の18世紀の著者は例外と云えるであろう。ベッカリアやジェームスハリスといったところであるが、分業に関しては、古き人の論そのまんまなのである。ベッカリアはこう言う。「もし、手と頭を常に同じ仕事に、同じ生産物に用いるならば、各個人が自分のためにすべての物を作るのに比べて、より容易に、より多く、より高い品質で生産されるであろう。このことは、誰でも経験的に知っていることである。….このようにして、人は様々な階級や身分に分割される。自身の利益のためそして商品の利益のために。」(チェザーレベッカリア「公共経済学の初歩」クストーディ版近代編第11章)ジェームスハリス、後のマルムズベリー伯爵、彼のセントペテルスブルグ駐在大使時代の「日記」で著名、は、彼の「幸福に関する対話」ロンドン1741年後の「三つの論文」第三版ロンドン1772年に再版で、「社会が自然である事(すなわち、雇用の分割)の証明に関する全ての議論は、….プラトンの共和国論の第二の本から引用されている。」と述べている。
本文注55 / オデッセイ第14章は、かく云う。「様々な人が、様々な仕事を楽しめるために」そして、アーキロコスは、彼の第六経験論の中で、「人は物が変われば、彼等の心を元気にする。」と。
本文注56 / 「彼は沢山の仕事をなすことができた、だが、殆どは無残なもの。−ホーマー」アテネ人は、誰もが自分達を、商品の生産者としてスパルタ人にまさっていると考えた。後者は戦争の時は自分達の配置に際しては十分な人を持っているが、金銭に関しては指揮をとることができない。歴史家ツキディデスは、アテネの政治家ペリクレスが、ペロポネソス戦争に向かうアテネ人達を鼓舞するための演説でそう云ったと書くごとく。「自分自身の消費のために物を作る人々は、彼等の金銭よりもむしろ体をもって戦争をするであろう。」(ツキディデス第一篇第一部第41章)にもかかわらず、物質的生産[絶対的な自給自足]に関する限りでは、分業とは対照的に、それがかれらの理想形であった。「分業によれば、繁栄があろう。だが、自給自足に立てば、独立がある。」ここでは次のことに触れて置かなければならない。30人もの暴君主の没落の頃にあっても、依然として、土地を所有しないアテネ人は、5,000人もいなかった。
本文注57 / プラトンによれば、共同体内部の分業は、多種の要求と個々の限られた能力から発展するものであると云う。彼の云う主な点は、労働者は彼自身を作業に適合させねばならない、仕事を労働者に適合させるのではない。と言う。もし彼が一度に、いくつかの仕事を進めて行けるならば、その内の一つか、その他のものも副次的なものであれば、後者の方法もやむを得ない。「と言うのも、労働者は仕事に奉仕せねばならず、仕事は彼の余暇のためではない。仕事は余った時間でなされることを許さない。−しかり、彼は必ずせねばならない−従って、結論として、全ての人が、自然に適性を取得した一つの物を、正しい時間に、他の余計なことに煩わされることなければ、全ての物はより多く生産され、より容易に、より良く作られる。」(共和国論第一篇第二部バイテル、オレリ、他編)ツキディデス既出142章もその様に云う。「船乗りの仕事は他と同様一つの技能であって、状況が要求するがごとく、副次的な仕事としてなされることはできない。他の副次的な仕事であっても、この仕事の傍らで行われることはできない。」プラトンは云う、もし仕事が労働者を待たねばならないなら、工程の重要なポイントを失し、物はおシャカになる。[もし誰かが、うっかりすれば…]この同じようなプラトン的観念が、全ての労働者に決まった食事時間を与えるという工場法の条項に反対する英国の漂白工場主らの抗議に立ち戻れば、そこに見出される。彼等の商売は労働者の便益などを待ってはいられない。なぜならば、「様々な作業、布のけば取り、洗濯、漂白、しわ取り、つや出し、そして乾燥、どれをとっても、損傷のリスクなしには、所与の時間において停止することはできない。….同じ食事時間を全ての労働者に実施することは、価値ある品物を不完全な作業による危険なリスクにかならずやさらすこととなるであろう。」[次は、何処で、プラトン主義が見出されることになるか!]
本文注58 / ペルシャ王の食卓から食料を受け取ることは名誉であるばかりでなく、他の食料よりもより味わいがよいといい、クセノフォンは、さらに次のように続ける。「そこにはなんらの驚くべきものはない。食料以外の様々な物も都市には特別な完全なものが持ち込まれるのであるから、当然ながら、王の食事も特別な方法で準備される。だが、小さな町では、同じ人が、ベッドの架台、扉、犂、そしてテーブルを作る、時には、売り家も作る。そして、彼は、自分の生活に十分な顧客を見出せばそれで十分に満足するのであるから。一人の人間がそれらの全ての物を満足に作り上げることは全くのところ不可能なことである。一方の大きな都市においては、誰もが多くの買い手を見つける、一つの仕事でそれを維持していくことには十分である。いやそこでは一つの完全な仕事の必要すら往々にしてない。ある者は男用の靴をつくり、他の者は女用を作る。ここでは、一人の者が縫製のみで生活を得る。他の者は靴革を裁断することで、ある者は何もしないが、布の裁断だけで、他の者はなにもしないが、各片を縫い合わせるだけで生活を得る。であるから必然的に、最も単純な種類の作業をする者は、疑いもなく、他の誰よりも上手にそれをなすと言う事になる。そのように料理技能においても云える。」(クセノフォンキュロパイディア第一巻第八部第二章)クセノフォンが、ここで、特に強調していることは、使用価値の達成についてである。彼は、分業の程度が市場の大きさに依存していることをよく知っていながらそう主張している。
本文注59 / 彼(ブシリス)は、彼等全てを特別なカーストに分割する。….同じ個人は常に同じ仕事を続けるべきである。なぜなら、彼等が彼等の仕事を変えたら、なんの技能をも上達させることがないと彼には分かっているからである。しかるに、一つの専念する仕事に絶えず執着する者は、その仕事を最上の完成に至らしめる。真実、技芸と手工業の相関においては、彼等が彼等のライバルを大きく凌駕するのは、名匠が凡工を越える以上のものであることを我々もまたみることになろう。そして、この君主制を維持するこの仕組みと彼等の国の規定は、多くの著名な哲学者達がエジプト人国家の規定を他の全ての国の上にあるものとして称賛したほどの見事なものである。(イソクラテスブシリス第八章)
本文注60 / ディオドロスシクラウスと比較せよ。
(17)厳密な意味での工場手工業の時代の間、すなわち、工場手工業が資本主義的生産によって支配的な形式となった時代の間、工場手工業の特異な傾向のどこまでもの発展には多くの障害が立ちふさがった。我々がすでに見て来たように、工場手工業は労働者を熟練工と未熟練工という単純な区分を作り出すのではあるが、同時にそれらの階級における序列的な取り決めもあって、その熟練工の優位な勢力によって、依然として、未熟練工の数は、非常に限定的な状態に留まる。工場手工業は、生きた労働具の様々なレベルの熟練、力、そして発展度を細目労働に適用するのであるが、それが女性や子供たちの搾取に向かおうとするのであるが、この傾向は全体としては、習慣や男性労働者の抵抗にあって挫折させられる。手工業労働者の分割は、労働者を作るコストを低下させ、それによって労働者の価値を低下させる。ではあるが、依然として、より困難な細目作業のためには、より長い見習い工期間が必要となる。それが余分なものと思われても、労働者は執拗に期間にこだわる。例えば、英国では、見習工期間に関する法を見出す。7年間の試用期間であり、工場手工業時代の終りに至る迄効力を持っていた。そしてその効力は、近代工業の到来に至るまで一方的に放棄されることはなかった。なぜかと云えば、手工業の技能が工場手工業の基礎であり、工場手工業のメカニズムは、その基本的な工程全体として彼等労働者そのものから離れてはいないのであり、資本家はいつも、労働者の不従順と争うことを強いられた。
(18)お友達でもあるユア教授はこう言う。「人間性の虚弱から、より熟練すればするほど労働者は、より我が儘で、より従順でない者になりやすい。当然ながらその結果として、機械的システムの構成要素としては、より適合しなくなる。….彼は、全体に対して大きなダメージをもららすであろう。」*61
本文注61 / ユア既出
(19)それ故、全工場手工業時代を通して、とりわけ、労働者のしつけの欠如に関する苦情が続く。*62 そして、我々は当時の著述家の証言は持たぬが、16世紀から近代工業時代の期間において、資本家は工場手工業労働者の使用できる全ての労働時間の主人となることには失敗したという簡単な事実を知る。工場手工業は短命で、彼等の工場の所在地をある国から他の国へと、労働者の出国やら入国やらと共に、変えている。これらの事実は十分にそれらを証明している。「秩序は、なにはともあれ、確立されねばならない。」1770年しばしば引用される「取引と商売に関する評論」の著者は叫んでいる。66年後、アンドリューユア博士は「秩序」をと再び叫んだ。「秩序」が、「分業という学者風情の独断」に基づく工場手工業においては欠けていた。そして「アークライトが秩序を創造した。」
本文注62 / このことについては、フランスよりも英国に多い。そして、フランスは、オランダよりも多い。
(20)全く同じ時点で、工場手工業は、社会の生産の全域を捉えることはできなかった、または、生産の核心を変革することのどちらをもできなかった。経済的活動の芸術的な尖塔のごとく立っているものの、その広大な基礎は町の手工業であり、村の家内工業であった。与えられた発展段階にあっては、工場手工業は、わずかばかりの技術の上に置かれており、工場手工業自身が作り出した生産の欲求との間の矛盾に直面していた。
(21)最も完成した創造物の一つは、労働の道具そのものを生産するための工場である。その道具は、特に複雑な機械的装置を装備し、出来上がる端から使われた。
(22)機械工場は、とユアは云う。「様々な等級で分業を明示した。やすりがけ、ドリル、旋盤、それらそれぞれ異なる労働者を持つ。かれらそれぞれの技能も上から下まである。」
(23)工場手工業における分業の生産物である、この工場はその内部において、自力で動く機械を生産した。それらこそ、社会的生産を規制する原理のごとく、手工業者等の作業を一掃した正体である。かくて、一方では、細目機能に労働者の一生を縛りつける技術的論拠を取り除いた。が、他方で、資本の支配を拘束していたこの同じ原理も投げ捨てられた。 
 
第十五章 機械と近代工業

 

第一節 機械の発展
(1)ジョンスチュアートミルは、彼の著作「政治経済学の原理」の中で、こう云っている。
(2)「機械の発明の全てが、あらゆる人間の日々の労苦を軽減したかどうかは今までのところ疑わしい。」*1
本文注1 / ミルは次のように云うべきであった。「他人の労働で養われることのないあらゆる人間の労苦を」と。なぜなら、疑いもなく、機械は富裕な労働をしない人間を大勢増やしたのだから。
(3)なにはともあれ、そのことが資本主義的な機械使用の目的であるはずもない。労働の生産力における他のあらゆる増加と同様、機械は商品を安くするためのものなのである。そして、労働日のある部分を短縮する。その部分とは、労働者自身の生きるための労働部分であり、彼が他に与えるための時間部分を拡大する。他に与えるとは、云うまでもなく、資本家に与える時間ということである。端的に云えば、機械使用の目的は、剰余価値の生産手段ということにある。
(4)工場手工業にあっては、生産様式の革命は、労働力によって始まったが、近代工業のそれにあっては、労働の手段によって始まる。そこで、最初の質問となるが、どのようにして労働の手段が道具から機械へと変換されたのか?または、機械と手工業の手段との違いは何なのか?と云うことになろう。ただここでは、注目される一般的な性格についてのみ検討していく。なぜと云えば、社会の歴史的な特定の時代区分と云うのは、地質学的な時代区分の様に、相互に明確で厳格な地層区分によって識別されるものではないからである。
(5)数学者達や機械学者達は、そしてこの中には、英国の経済学者等の追従者もいるのだが、道具を簡単な機械と云い、機械を複雑な道具と云う。彼等はそれらの間に何の本質的な差異をも見てはいない。単純な機械的な力、梃子、斜面、螺子、楔、その他にまでも、機械という名称を与えている。*2 実際に見れば分かるように、全ての機械は、外見がどうであれ、それらの単純な機械的な力の組み合わせである。ただ、この説明は、経済学的視点から云えば、何の意味もない。なぜならば、歴史的要素が欠けているからである。もう一つの道具と機械の差異に関する説明だが、道具では主動力が人間であって、それとはちがって、機械の主動力は人ではなく、例えば、家畜、水、風、等々であると云うのがある。*3 この見解に従えば、雄牛に曳かれる犂は、最も異なる時代でも普通の考案物だが、機械と云う事になり、一方、クローセンの回転式織機は、一人の労働者によって動かされ、一分間に96,000もの織り目を作り上げるが、単に道具と云うことになろう。それはおかしな話しである。同じ織機が人間の手によって動かされる場合は道具と言い、これを蒸気で作動させれば、この織機を機械と云うことになる。人間の最も初期の発明の一つは、家畜力の利用である。すると機械による生産が手工業生産に先行することになろう。1735年ジョンワイアットは、彼の紡績機を世に出し、それが18世紀産業革命の出発点となったが、人の手に変わってロバで駆動するとは云わなかったが、その部分はロバを利用した。実際に、彼がそれを機械と言ったのは、「指を使わないで紡ぐ」機械と云ったのである。*4
本文注2 / 例えば、ハットンの「数学講座」を見よ。
本文注3 / 「この視点から、我々は道具と機械の間に、明確なる識別線を引けよう。鋤、ハンマー、鑿、等々、梃子や螺子の組み合わせも、それらの諸々が他からはどんなに複雑に見えたとしても、人が主動力であり、….それらの物は全て道具の概念に入る。しかし、犂は家畜力によって曳かれ、また風車等々は、機械の中に分類されねばならない。(ウイルヘルムシュルツ「生産の運動」チューリッヒ1843年)多くの点で、推薦される本である。
本文注4 / 彼以前の時代、紡績機は、全く不完全なものであったが、すでに使われていた。そしてそれらの最初の出現があった国は多分イタリアであったろう。確かな技術史があるならば、18世紀のどの発明でも、一人の個人の発明であったことはほとんどないことを示すであろう。今までのところ、そのような本はない。ダーウインは我々に自然の技術史に関する興味をもたらした。すなわち、動植物の器官の形成に関して、生存のための生産手段としてそれらの器官が役割を果たしたという点である。人間の生産器官の歴史、全社会的組織の物質的基盤としての器官の歴史については、同じような注目に該当するものはないのだろうか?そしてそのような歴史をまとめあげることは、容易ではないと云うのだろうか?ビコが云うように、人間の歴史は自然の歴史とは違ったものであり、前者は我々が作ったが、後者は人間が作ってはいないから容易ではないと云うのだろうか?科学技術は、自然を考える上での人間の存在様式を明らかにする。彼が彼の生活を支える生産過程、そしてそれによって、さらに、彼の社会的関係の形成様式をもあらわにする。そして、それらの社会的関係から表れ出る精神的な観念の形成様式をもあらわにする。どの宗教史といえども、この精神の表れる物質的基盤を捉えることに失敗しており、厳密な把握に至っていない。実際に、宗教の幽玄なる核芯を地上の分析によって発見する方が、その逆の、それらの天上の形式に相応するものを現実の生活関係の中から捻り出すよりも、かなり容易である。後者の方法こそ、唯一の唯物論であり、従って、唯一の科学的方法である。自然科学の抽象的唯物論、歴史や過程を排除した唯物論では、彼等が彼等自身の専門性の領域からあえて踏み出そうとする時はいつも、彼等論者の抽象的かつ観念的な概念の弱点が、直ぐに明らかになる。
(6)十分に発達した全ての機械は、質的に異なる三つの構成部分から成り立っている。動力装置、力の伝達装置、そして最後に、道具または作業装置である。動力装置とは、全てを動かすためのものである。それは自分自身の動く力を作り出す、蒸気機関、熱エンジン、電磁力機械、等々の様なものもあれば、また、自身の駆動を、すでに存在している自然力より受け取るものもある。水車は水の落差より、風車は風により、等々と云った様に。伝達装置は、フライホイール、シャフト、歯車、プーリー、革バンド、鋼索、ベルト、ピニオン、そして最も数多くの種類があるギアといったものから構成され、運動を関連させ、その形式を変える。必要があればだが、例えば、直線的な運動を円運動に、そして動力を作業装置全体に分配する。全装置のうちのこれら最初の二つの部分は、作業装置を動かすためにのみ存在しており、いかにそれを動かすのか、どのように変換してそれに用いるのかのために据えられる。道具または作業装置はまさに機械そのものであって、18世紀の産業革命はそれをもって開始されたのである。そして、今もなお、変わることなく、手工業または工場手工業が機械によって推進されて工業に変わるという開始点として存在する。
(7)作業装置自体にもう少し近づいて調べて見れば、我々は、一般的に、そしてたびたび、疑いもなく、かなり変えられた形をしていても、そこに、手工業職人または工場手工業労働者が使っていた器具やら道具やらがあるのを見出す。違いがあるのは、人間の道具であったものが、機械装置の道具、または機械的な道具となっていることである。機械全体が、単に、その程度がどうであれ、以前の手工業の道具の機械化版に過ぎないか、例えば力織機*5 または、その作業部分が機械架台に取り付けられただけの、例えば、紡績機の紡錘とか、靴下編み機の針とか、機械鋸の鋸歯とか、研削機のナイフのように、昔なじみのものに過ぎないかのいずれかである。これらの道具と機械架台との違いは、その生まれくるところにある。なぜならば、それらは多くの場合、手工業または工場手工業によって作られた後に、機械の製品である機械架台に取り付けられる。*6 機械それ自体は、従って、一つのメカニズムであって、動くようにセットされれば、それらの道具を使って、以前は労働者が同様の道具を使って行っていたのと同じ作業を行う。原動力が人間によろうと、または他の機械によろうと、この点に関しては何の違いもない。道具自体が人より取り上げられて、そしてメカニズムの中に据えられた時から、機械はちっぽけな道具にとって換わる。この違いは直ぐに分かる。人自身が依然として原動力であり続けるような場合であってもである。彼自身が同時に使用できる道具の数は、彼自身が持つ自然の生産の道具の数によって、彼の肉体的器官の数によって、制約されている。ドイツにおいて、彼等は最初、一人の紡績工が二つの紡車を操ることを想いついた。それは、両手と両足でそれらを同時に動かすというものであった。これはとても難しいことであった。さらには、二つの紡錘を取り付けた足踏み式の紡車を発明した。が、一度に二本の糸を紡げる糸紡ぎ名人は、双頭の人間が居ないのとまったく同様と云うべきものであった。他方、ジェニーはその誕生においてすら、12-18本の紡錘を回し、そして数千の針を持つ靴下編み機は、瞬時に靴下を編んだ。いつくもの道具を持ち込んで同時に操ることができる機械は、その最初から、手工業職人の使える道具数を限定する生物器官的な制約からは解放されていた。
本文注5 / とりわけ、力織機の原型には、一見して、昔からの機織り機がそこにあると分かる。それが近代形になって、力織機は本質的な変形に至ったのである。
本文注6 / 英国において、機械によって製造されたこれらの機械式道具が顕著に増加してきたのは、そして、その機械を作る者が、同じ工場手工業者ではないのであるが、ここ15年ほどのこと(すなわち、1850年頃から)である。これらの機械式道具を製作する機械の例としては、自動糸巻製作機械、毛羽立て機製作機械、機織杼製作機械、そして、ミュール紡績機とスロッスル紡錘製作機械がある。
(8)多くの手工業の道具では、単なる動力役の者と、作業者または操作する者と正しく呼ばれる者との間には、はっきりした対照的な区別があった。例えば、脚は単に紡車の第一の作動者にすぎないが、一方、手は紡錘を動かし、そして糸を引き、撚るわけで、紡績作業の実際の操作を行う。産業革命によって最初に捉えられた手工職人の道具の、職人の手に残された最後の部分は、彼の新たな仕事、彼の目によって機械を監視し、機械のミスを彼の手によって正すことに加えての、単なる動く機械の機械的な部品となることである。他方、いつも単純な原動力を演じてきた者に係わる道具、例えば、石臼の柄を廻すとか、*7 ポンプの柄を動かすとか、ふいごの腕を上に下に動かすとか、すり鉢ですりつぶすとか、等々、このような道具は、すぐに動物や水の応用が呼び出される。*8 そして、風も原動力として呼び出される。どこにでも、工場手工業時代のずっと以前から、そしてそれ以後の間も、これらの時代において、これらの道具はそのまま機械となっている。だが、なんら生産様式の革命を作り出しはしない。近代工業の時代にあっては、これらの道具は、手技の道具の形のものであってすら、すでに機械であることは明らかである。例えば、ポンプ、1836−37年オランダハーレム湖の水汲み出しのために建設されたそれは、普通のポンプの原理に基づいたもので、ただ一つの違いと言えば、それらのピストンが、人に替って、巨人サイキュロプス級の蒸気機関によって駆動されていることである。鍛冶屋の、ありふれた、そしてきわめて不完全なふいごが、英国で、時にはその腕を蒸気機関と連結されて、ブロワー機に転換される。蒸気機関自体は、その発明があったと思われる17世紀に近づいた頃の工場手工業時代にあっても、そして1780年*9 に至る間にあっても、なんらの産業的革命を引き起こすことはしなかった。全く逆で、機械の発明こそが蒸気機関を必要とする形の革命を起こしたのである。人間が、彼の労働が、道具を用いて働く代わりに、単なる道具機関の原動力となるやいなや、原動力の方が人間の筋肉の代わりをするのは単なる偶然ではない。(余談にて)であるから、風、水、または蒸気の形式が、全く同様に、巧みに、人間の筋肉に取って代わることになろう。勿論、このことは、人間のみによって動かすように作られた当初の機構に大きな技術的変更が生じるという形式の変更を妨げはしない。今日では、全ての機械は、それがミシンとか、パン焼き器とかなんであれ、それら独特の形を持っているが、もともとその使い方がごく小さな規模でのものを別とすれば、機械は、人と、純粋に機械的な原動力との、両方によって動かされるように作られている。
本文注7 / モーゼは、「穀物を踏む雄牛に口輪を嵌めるな」と云う。ドイツのキリスト教徒の博愛主義者は、これとは違って、粉砕するための原動力として用いる農奴の首の回りに、木の板を取り付ける。彼等が、彼等の手によって、彼等の口に粉を入れるのを防止するためである。
本文注8 / まずは適当な落差に欠けるため、またもう一つの問題として有り余る水との闘いがあるため、オランダ人は原動力として風を使うように強いられている。風車自体は、彼等はドイツから得たが、ドイツでは、その発明の出所について、貴族、僧侶、と皇帝の間で馬鹿げた口論があった。風がその三者のいずれに属するのかというものであった。大気を奴隷にするというのがドイツでの叫びであるが、この同じ頃、風はオランダを自由にした。この場合束縛を減じたものは、オランダ人ではなく、オランダ人の土地であった。1836年においても、土地の2/3を再び湿地に帰すことを防止するために、6,000馬力の、12,000箇所の風車がオランダで用いられていた。
本文注9 / 確かに、ワットによって、いわゆる単シリンダー単動エンジンが著しく改良されたが、この形では、単なる揚水ポンプか、岩塩鉱の塩水汲み出し用としてしか使われなかった。
(9)その機械なるもの、産業革命の開始点となった機械は、たった一つの道具しか操れぬ労働者の地位を奪う。メカニズムとして似た様な道具を数多く操り、その原動力の形式がなんであれ、一つの原動力によって動く。*10 ついに我々は機械を得た。だが、ただの機械による生産の初歩的な要素として得たにすぎない。
本文注10 / 「これら全ての単純な道具の結合が、一つの原動機によって動かされ、機械を構成する。」(バベッジ既出)
(10)機械のサイズが大きくなるとともに、そしてそこに使われる道具の数が増えるとともに、それを動かすためのさらに巨大なメカニズムが呼び出される。そしてこのメカニズムは、その抗力を征服するために、人の力よりも強力な原動力を要求する。人はこのような均一で連続的な動きを生産する道具としては極めて不完全であるから、この事実からしても、それとは別な原動力を要求する。いずれにしても、彼が単純に原動機を演じるとするならば、また機械が彼の道具の役割を果たすとするならば、彼が自然力によって取って代わられることは明らかである。工場手工業時代このかた手にした偉大なる原動機の全ての中で、馬の動力は最悪である。まずは、馬は自分自身の頭を持っているからで、また、馬は費用が係るからである。そして工場内で馬を扱うことになると、非常に限定された。*11 にもかかわらず、馬は近代工業の揺籃期を通して、広範囲に用いられた。このことは、当時の農業者の方からの苦情によって、証明される。また、「馬力」という単語がいまでも機械的な力を表す用語として生き残っていることからも証明される。
本文注11 / 1861年1月、ジョンC.モートンは、技芸協会で、「農業に用いられる様々な力」についての論文を朗読した。彼はそこで、次のように述べた。「土地の均一性を求めようとするあらゆる改良は、純粋に機械的な力の生産のために、蒸気機関をますます適応性のあるものにした。….曲がりくねった柵やその他障害物で均一な作業が妨げられるような場所では馬の力が必要だが。とはいえ、このような障害物は日に日に消え去って行く。現実の力よりも、意志の実践をより多く求められる作業に対しては、適用可能な唯一の力は、人間の心にあり、別の言葉で云えば、人間の力である。」
(11)風はあまりにも定常性を欠き、そして制御できないものであった。そしてこれとは別に、英国、近代工業の生誕地では、水力の利用が、工場手工業時代の間ですら、優位を占めていた。17世紀すでに、二組の石臼を一つの水車で廻す試みがなされていた。だが、大きくなった伝動歯車機構はさらに大きな水力を必要とした。現状のものでは不十分となった。そうしてこれが摩擦の法則をより正確に研究することになる状況の一つとなった。同様に、レバーを押したり引いたりの動きをする製粉工場の原動力に生じる不規則性が、近代工業では後に重要な役割を演じる、慣性装置フライホイールの理論とその応用を導いた。*12 この様に、工場手工業時代を経る間、最初の近代機械工業の科学的・技術的要素が発展させられた。アークライトのスロッスル紡績機は、最初から、水力によって回転させるものであった。だが、優れた原動力であるとはいえ、困難に悩まされるものでもあった。大きな力を得たいと思っても、大きな力とすることは出来なかった。年のある季節には水が涸れてしまった。そして結局のところ水のあるその地方から本質的に離れられなかった。*13 ワットの二番目の発明、いわゆる複動蒸気機関が到来するまでは、石炭や水を用いて自分自身の力を産み出すような原動機は存在しなかった。その力は完全に人の制御に服し、可搬で、移動手段ともなった。水車のように田園的なものではなく、都会的なものであった。水車のように地方のあちこちに散らばって配置されるものに代わって、都市に生産を集中させることを許すものであった。*14 すなわち、それは普遍的な技術の応用であり、比較して云えば、地方的環境によって所在を選択するようなことにはなんら影響を受けない。ワットの天才の偉大さは、彼が1784年4月に提出した特許の明細書が示している。その明細書で彼の蒸気エンジンは特定の目的のための発明ではなく、機械工業への一般的応用に供するものとある。その応用について沢山のものが示されているが、例えば蒸気ハンマーは、半世紀が過ぎる迄は表れなかった。彼は、航海に蒸気エンジンを使用することには懐疑的であったが、彼の後継者のボルトンとワットは、1851年の博覧会に大洋蒸気船用の巨大な、コロッサル級の蒸気エンジンを送り込んだ。
本文注12 / ファウルハーベル1625年(両軸原動機の一方が駆動側で、他方に慣性円盤を取り付け、安定的な回転を保持するようにした。)ド・クー1688年(クランクシャフトと慣性円盤を組み合わせる方式を考案した。)
本文注13 / 近代タービン機は、水力を利用する工業を、以前の様々な足かせから解放する。
本文注14 / 「織物工場手工業の初期にあっては、工場の立地場所は水車を回す十分な落差のある小川の存在に依存していた。そして水車工場の確立は家内的な工場手工業の破壊の端緒ともなるにも係わらず、依然として小川の側に設置せざるを得ず、そして多くの場合、互いに一定の距離を置いて設置され、都会的なシステムというよりは田園の一部分を形成していた。そして、小川に替わるがごとく蒸気力が導入さるまでは、工場は都市に集中化されることはなく、また石炭と水の十分な量がある場所に集中化されることも無かった。
(12)道具が人の手の道具としての存在から機械的な装置の道具、機械の道具に変換されるやいなや、原動力機構もまた、人間の力という拘束から完全に解放されて、独立した形式を獲得する。その上、今迄我々が考察して来た個々の機械は、機械による生産の単なる一要素に没落する。原動力機構は今や、同時に、多くの機械を動かすことができた。原動力機構は多くの機械群とともに成長する。その機械群は同時に回転させられる。そして歯車他による伝達機構は網の目のように広がった装置となる。
(13)ここで、我々は、一つの種類の多くの機械の協業と、機械の重複したシステムとを峻別して見て行く。
(14)一つのケースを取り上げて見よう。生産物は完全に一つの単一の機械によって作られる。機械は、以前は手工業職人が彼の道具を用いて行っていた様々な作業を行う。丁度、例えば、一人の織り工が彼の織機を用いて行う様に、又は、何人かの手工職人達が次々と行う様に、個々別々にであろうと、工場手工業システムを構成する職人達でやろうと、いずれでも同じである。例えば、封筒工場手工業では、一人が紙折り器で紙を折り、他の者が糊を付け、第三の者が、紋章を刻印する部分を折り返し、第四の者が、紋印する。そしてそのように、これらそれぞれの作業を進めるために、封筒は手を変えねばならない。一つの単体の封筒機械は、これらの作業を一挙に行い、一時間に3,000枚以上の封筒を作る。1862年のロンドン万博に、紙のコーンカップを作るアメリカ製の機械が出品された。この機械は紙を切断し、糊を付け、折り込み、1分間に300個を仕上げた。ここでは、その全工程が、かって工場手工業で行われていた、それぞれに分割されて、次々を経る一連の作業が、一つの単体機械によって、様々な道具の結合体を動かすことによって、完結させられる。さてこの場面では、その機械が単なる複雑な手工道具の再現であろうと、工場手工業によって特殊化された様々な単純な道具の組み合わせであろうと、いずれにおいても、工場においては、すなわち機械のみが用いられる作業場においては、再び単純な協同作業に出会う。そして、一瞬、労働者のことを度外視すれば、まず初めには、この機械の協同作業自体の姿が目に止まる。あたかも、一ヶ所に集まって、同時に作業する集合機械体として見える。従って、織物工場は並んで動く力織機の数で構成され、また、縫製工場では、多くの縫製機械全てが同じ建物の中に置かれる。しかしそこには、全システムが一つの技術的単一性の下にある。全ての機械が受け取るのは彼等の同期した鼓動であり、同じ大きさであり、共通の原動機の鼓動からのものであり、歯車等の伝達機構の媒介を経てもたらされるものである。この伝達機構は、また、大抵の範囲内で、全てに共通である。なぜならば、その伝達機構の、ほんの僅かな特定の分岐が、それぞれの機械に行き着くだけなのである。多くの道具が、かくて、あたかも、機械の各器官を形成する。であるから、一種類の機械の数が、作動するメカニズムの各器官を構成する。
(15)実際の機械システムが、これらの独立している機械に取って代わることは、労働の対象が一連の細目工程の繋がりを通過するに至るまでは生じない。互いに補足し合う様々な種類の機械の連鎖によって作業が遂行されるまでは、独立する機械の地位を奪うことはない。ここで、我々は、もう一度、協同作業を、工場手工業を特徴づける分業の視点から、取り上げて見よう。ただしここでは、細目機械の組み合わせということになる。各種の細目区分労働者達の特別の道具、例えば、毛織物工場手工業における、毛ほぐし工、毛梳き工、紡績工等々の用いるような道具はいまでは特殊化された機械の道具へと変換されている。各機械はシステム上の特殊な器官を構成し、特別な機能を持つ。機械システムが最初に導入された工業のそうした部門では、工場手工業自身が、一般的に、区分化のための自然な基礎と生産工程の一連の構造をすでに備えている。*16 にもかかわらず、本質的な違いそのものが直ちに明らかとなる。工場手工業では、労働者が自分達の手工の道具を用いて、一人としてであろうと、グループとしてであろうと、それぞれの特殊化された細目工程を行わねばならない。であるから、一方で労働者が工程に適応して行くことになるが、他方では、工程の方が予め労働者に適応するように作られることにもなる。この人間側から見る主観的な分業原理はもはや機械による生産には存在しない。ここでは、全体としての工程は機械の客観性で検討され、その中には、言うなれば、人間の手によってどう行われるかとはなんの関係も持たない。連続する各局面において分析され、問題は、いかに各細目工程を実施するかであり、全体をまとめるかであり、機械装置や化学その他の助けによって解決される。*17 そうは云っても、勿論のこと、この場合でもまた、理論は広範な経験の蓄積によって完全なものとされねばならない。それぞれ個々の細目機械は順序に従って、次の機械に原材料を供給する、そしてそう言うことであるから、それらの機械は全て同時に動く。生産物はいつも、それらの製造の様々な段階を通る。そして常にまた、それらは、一つの局面から他の局面への移動の状態にある。あたかもちょうど、工場手工業において、細目区分労働者達の直接的な協同作業が特別なるグループ間の様々な比例関係を確立するかのように、それらが機械のシステムを組織化し、一つの細目機械が変わることなく他の機械によって支配され、それらの多くに関して、それらの数、力量、速度によって一定の決まった関係が確立される。集合的な機械は、今や、単一機械群や単一機械のグループとして、様々な種類のシステムを構成し、ますます完璧化し、工程は全体として連続的なものへとなる。すなわち、原材料が、最初の局面から最後まで、その通過が妨げられることが少なければ少ないほど、一つの局面から他への進行がより効果的なものとなる。人の手によらずして、まさに、機械自身によってである。工場手工業においては、細目工程の分断は労働の分割上の性質から持ち込まれた条件である。がしかし、最大限に発展させられた工場においては、それらの工程の連続性は、これとは違って、絶対のものである。
本文注16 / 機械工業時代以前では、毛織物工場手工業は英国では主要な工場手工業であった。それ故、18世紀前半、この工場手工業では、多くの実験が行われていた。機械で取り扱うための念入りな準備をそれほど必要としない綿は、羊毛で得られた経験の恩恵を利用することができた。その後、羊毛を機械で取り扱う方法は、綿紡績と綿織物の機械ラインから発展させられた。1866年羊毛工場手工業の孤立化した細目工程、毛梳き工程は、その後の僅か10年の間に、工場システムに一体化された。「羊毛の毛梳き工程に動力を用いることは、….毛梳き機の作業工程への広範な導入以来、特にリスターが考案した毛梳き機….疑いもなく、非常に多くの人間を作業から投げ捨てる効果はあった。羊毛は以前は手によって梳かれ、殆どの場合は、毛梳き小屋を用いて行われた。今では、ごく一般的に工場において梳かれ、手労働は、特殊な作業種を除いて、なくなってしまった。特殊な作業種が残っているのは、その手梳き羊毛が未だに好まれているからである。何人かの手梳き工が工場でも仕事を見つけている。ではあるが、機械の生産物と較べれば、本当に少ない比率でしかなく、ほとんど大部分の手梳き工の雇用は消え去ってしまった。」(事実に関する調査報告書1856年10月31日)
本文注17 / 「であるから、工場システムの原理は、….手工職人の分業またはレベル分けに代わって、その本質的な構成に係る工程の分離によるものとなる。」(アンドレユア「工場手工業の哲学」ロンドン1835年)
(16)機械システムは、織機のように、同種のごとき機械の単なる協業であれ、紡績のように、異種の機械の組み合わせであれ、それが自動式原動機で動かされるならば、それら自身において、巨大な自動装置を形成する。しかしながら、工場が全体的にその蒸気機関によって動かされるとはいえ、幾つかの個々の機械は、それらの幾つかの作動のためには労働者の助けを必要とするものもあった。(その様な助けとは、ミュール紡績機の走錘台車を動かすために必要なものであり、自動紡績機の発明以前ではそうであったし、精密紡績機では今もその必要がある。)または、機械がその仕事をすることが出来る様に、機械のあるパーツでは手工の道具のように職人の手を必要とするものもあった。その一つの例は、機械メーカーの工場の機械で、自動の刃物工具送り台の改良以前にはよく見られたものであった。機械が、人の手を借りずに、原材料を精巧に加工するに不可欠な作動の全てを実行するやいなや、人は単なる立ち会いとしての必要物となる。我々は機械の自動システムを得た。そして機械はその細部において絶え間なく改良を受容し続ける。粗糸状のロープが切れれば直ぐに送り出し側の枠架台を止める機具の改良があり、また自動停止装置、紡車ボビンの横糸が無くなれば直ぐに力織機を停止させるものなどは近代の発明と云える。生産の連続性と自動化の推進の両方の点において、その例として、我々は、近代の製紙工場を取り上げて見よう。一般的な製紙工業において、我々は、異なる生産手段を基礎とする生産様式の相違のみでなく、それらの様式を有する生産の社会的条件との関係をも、細部にわたって幅広く学ぶことができるであろう。どうしてかと云うと、古きドイツの製紙業は手工業生産のサンプルを我々に示してくれるし、17世紀のオランダのもの、18世紀のフランスのものは、厳密な意味で工場手工業のサンプルを、近代英国のものは、この種の自動製紙のサンプルとしてそこに用意されているからである。さらに、これらの他、インドと中国には、二つの明確な古代アジア形式の同種の製造業が今も存在している。
(17)中央に置かれた自動装置から伝達機構を通じて動かされる体系化された機械システムは、機械による生産の最も発達した形式である。ここで我々は、個々の機械に代わって、工場一杯に陣取る巨大な機械怪物を見ることになる。そしてその悪魔的な力は、最初のうちは、その巨大な四肢のゆっくりした控えめな動きに隠されているが、ついには、その俊敏かつ怒り狂うがごとき彼の無数の活動器官の回転をもってその姿を現わす。
(18)力織機と蒸気機関は、力織機や蒸気機関を製作する専門的な職種の労働者が存在する以前から存在していた。丁度、仕立屋と呼ばれる人々が存在する以前から人は着物を着ていたのと同じようなものである。ボーカンソン、アークライト、ワット、他の発明が、どのようにして実際に用いられるようになものとなったのかは、ただ一つ、それらの発明家達が、身近なところに、それなりの大勢の熟練工達を見ていたからである。工場手工業時代を経て、彼等は彼等自身の処遇をおのれの判断でどうするか決めることができる状態にあったのだから。これらのある熟練工労働者は、様々な商売を行う独立した手工職人であり、他の者は工場手工業内で一緒のグルーブとなっていた。そして、前にも述べたように、そこでは厳格に区分された分業化がなされていた。発明の数々が増えれば、それらの新たに発明された機械の需要も増加し、機械製造工業もまた様々な分岐を見せ、ますます、多くの独立の部門となり、これらの工場手工業での分業もまた、ますます発展させられた。かくて、であるから、我々は工場手工業において、近代工業の直接的な技術的基盤を見出す。工場手工業が機械を生産する、その機械によって、近代工業が、手工業や工場手工業システムを、最初に機械が利用された生産局面から廃止した。そのようにして、工場システムが、ものの自然な成り行きとして、不適切な基礎の上に立ち上げられたのである。このシステムがある一定段階の発展に達した時、それは、既製の基盤の上に根を下ろしており、その間、その古きラインにおいて精巧化された。また、機械は、その製造方法に適合させねばならないという原則の上に自身を作り上げており、あたかも、個々の機械は、人の力だけで動く範囲の矮小化された性格を維持したかのようであった。また、蒸気機関が、初期の原動力、動物、風、水すらもに取って代わる以前には、機械システムは適切に発展させられることは出来なかった。また、同様に、近代工業はその完全なる発展を、そのような生産手段としての性格がある間は、阻害されていた。機械は自己の存在を人の力量や人の技巧に負っており、工場手工業における細目区分労働者の筋肉の発展、鋭き視力、そして巧妙な手に依存しており、手工職人の手の限界、彼等の矮小な道具に縛られる。従って、この点での機械への憧れ、その状況が資本家の心に写すものがあったことを別にすれば、機械によって進められ工業の拡大は、そして新たな生産の分岐への機械の侵入は、労働者階級の拡大に依存していた。彼等は、彼等の雇用については大抵の場合、芸術的な性格にもとづいており、彼等の人数はわずかに少しずつ増やすことが出来ただけで、飛躍的に拡大することはできなかった。しかしこの事とは別に、機械の発展段階のある時点では、近代工業は、手工業や工場手工業によって用意された基盤とは技術的に両立しないところにまで行き着く。原動機の大きさの拡大、伝達メカニズムの拡大、そして機械自体の拡大、より複雑、より多様化、そしてこれら機械の細目内容のより規則的な安定性、それらは、ますます、最初の頃の手労働モデルから大きく離れ、自身の形式を求める。彼等が動く屋根の下以外は拘束不能となった。*18 その自動システムの完成化、そしてその使用、日々ますます避けることのできない、より強固な原材料、例えば木塊(wood-block)−いたる所でぶつかる人という障害物(stumbling-block)や、状況から生じるこれらの問題の解決−に代わって鉄が、と、昔の方式からは離れて行く。工場手工業の集合的な労働者ですら、人という障害物となり、僅かな部分を除いてはこれらを解決することはできなかった。近代水力ブレス機、近代力織機、近代毛梳き機のような機械は、工場手工業によって作り出すことはできなかった。
本文注18 / 力織機は初め主に木製であった。改良された近代形は鉄で作られている。初めの頃は、ある程度の時期に至るも古き生産手段の形が、それらの新しい形に影響を及ぼしていた。いろいろとあるが、現在の力織機と旧力織機を外観だけ較べて見れば分かる通りである。近代の溶鉱炉の送風機も最初は、どこにでもあった非効率な蛇腹の鞴の再現である。多分、他のなによりも驚くことは、現在の蒸気機関車の発明以前の試みでは、実際に、二本脚の機関車が作られた。馬の形を取り入れたのである。その脚が交互に地面から立ち上がった。機械の形が完全に機械的原理に従って作られるようになるのは、只々機械の科学の少なからぬ発展があって、実際の経験が積み重なった後のことである。そして、そこに至らしめる起源となった道具の伝統的な形から解放された。
(19)工業の一領域における生産様式の急激な変化は、他の領域での同様の変化をも内包している。初期においては、互いに結合されてはいるものの、工程の個別の局面に置かれ、依然として社会的分業として隔絶されており、従って、彼等のそれぞれは独立的な商品を生産していると言った様な工業の分枝においてこうした変化が連鎖的に生じる。例えば、機械紡績は、機械織機を必要とする。そして両者はいっしょになって、機械的・化学的革命を漂白、印刷、染色部門に不可避的に作り出す。また同様、他方では、綿紡績での革命が、綿の繊維から綿の種を取り除く綿繰り機の発明を要求する。この発明によって、綿の生産は今日求められているような巨大な規模になることができた。
(19)工業の一領域における生産様式の急激な変化は、他の領域での同様の変化をも内包している。初期においては、互いに結合されてはいるものの、工程の個別の局面に置かれ、依然として社会的分業として隔絶されており、従って、彼等のそれぞれは独立的な商品を生産していると言った様な工業の分枝においてこうした変化が連鎖的に生じる。例えば、機械紡績は、機械織機を必要とする。そして両者はいっしょになって、機械的・化学的革命を漂白、印刷、染色部門に不可避的に作り出す。また同様、他方では、綿紡績での革命が、綿の繊維から綿の種を取り除く綿繰り機の発明を要求する。この発明によって、綿の生産は今日求められているような巨大な規模になることができた。*19 しかしさらに、とりわけ言及すべきは、工業と農業の生産様式の革命が、社会的生産過程の一般条件に必要な革命をもたらしたことである。すなわち、通信と交通の手段においてである。社会が足場とし旋回する所は、フーリエの表現を使えば、小規模農業とそれに付随する補助的な家内工業、そして市街地の手工業であった。その通信手段・交通手段は工場手工業時代の生産に係る要求には全く対応できておらず、社会的分業の広がりにも、労働手段の集中化にも、労働者の集約化にも、植民地市場にとっても不十分なものであった。であるから、事実、革命的に変革された。全く同様、工場手工業時代からそのまま引き継いだ通信・交通手段は直ぐに近代工業にとって我慢することの出来ない足かせになった。その熱狂的な生産の早さ、その巨大な広がり、ひっきりなしの資本と労働の一生産領域から他への急送、新たに開設されたグローバル世界市場との連携、にとってはもう今までも各手段ではどうにもならない。かくして、帆船建造にもたらされた急進的変革は別格としても、通信・交通手段は徐々に、河川蒸気船、鉄道、海洋蒸気船、そして電話により、機械工業の生産様式に適合されて行った。しかしながら、巨大なる鉄の塊、いまや鍛造、溶接、切断、穿孔、研削されねばならないそれらは、それ自体、巨大な機械を要求していた。その建造には工場手工業時代の方法では全く対応できるものではなかった。
本文注19 / エリーホイットニーの綿繰り機は、ごく最近まで、18世紀の他の様々な機械に較べて、本質的な変化はほとんど無かった。もうひとりのアメリカ人であるニューヨークアルバニーのエメリー氏が、古風なホイットニーの綿繰り機に単純で効果的な改良を施したのは、ここ10年(すなわち、1856年以降)のことなのである。
(20)であるから、機械工業は、自ら、機械を、その特徴的なる生産手段を手に入れねばならなかった。それゆえ、機械で機械を建造せねばならなかった。自身のために、適合する技術的基礎を作り出し、そして自分自身の脚で立ち上がるまでは、そこに至ることは無かった。今世紀の最初の10年で、機械は、同時に進む機械の利用の増大とともに、機械を専門に作る製造業が、次第に、立ち上がって来た。とはいえ、それもわずか、1866年に先立つこと10年のことであった。鉄道建設と驚くほどの大きさを誇る外洋蒸気船が、巨大な機械、原動機の建造で今日用いられるところのその存在を呼び込んだのである。
(21)最も本質的な、機械による機械の生産への条件は、あらゆる力の大きさを出力する原動機にある。そして、それに加えてそれが完全なる制御下にあることである。そのような条件はすでに、蒸気機関によって満たされている。しかしそれと同時に、幾何学的に正確な直線、平面、円、円筒、円錐と、球を、機械の各細目部品のために生産する必要性があった。この問題は、今世紀前半の10年間で、ヘンリーモオズレーが、刃物工具送り台の発明によって解決した。そして、元は旋盤用に発明されたものだが、直ぐに自動化され、改良型が、旋盤の他に、必要とする多くの機械に応用された。この機械装置は、単に、ある特殊な道具に取って代わっただけでなく、鉄や他の金属に対して保持したり、研磨したり、切断したりする道具を用いて与えられた形状を作り出す手そのものに取って代わったのである。かくして、機械の工業部品の形を作り出すことが可能となった。
(22)「最も卓越した熟練工がなし得ないほどのレベルで、何の経験の積みかさねもなしに、容易に、正確に、素早くやってのける程に達している。」*20
本文注20 / 「諸国の産業」ロンドン1855年第二編この本はまた、次のように述べている。「この旋盤に付け加えられたものは、単純で外見的にはなんの重要性も見えてこないようであるが、そうではない。我々は、次のように云えるものに達していると信じている。すなわち、ワットの蒸気機関そのものの発明によって作られたものと同様、機械の使用に於ける改良と拡大への影響は非常に大きいものである。この導入が直ぐに全ての機械を完全なものとし、安価にし、そして、発明と改良を刺激した。」
(23)もし、今、我々が、可動する道具を構成する機械の構築に用いられる機械というものについて注意を向ければ、そこに手工の道具が再現しているのを見つけるであろう。とはいえ、巨大なる大きさのものとして。ボール盤のその可動部分は、蒸気機関で運転される巨大なドリルである。もしこの機械がなかったなら、他の一方の大きな蒸気機関のシリンダーや水圧プレスは作られることも無かったであろう。機械旋盤は唯一、通常の足踏み旋盤の巨大化再生産である。平削り盤、鉄大工は、人間の大工が木材に使うのと同じような道具で、鉄を扱う。ロンドンの埠頭で、船体の鉄製外板を切断する道具は、巨大な剃刀、剪断機という道具で、鉄板をあたかも裁縫師の布を切るはさみのようにやすやすと鉄を切断する。一対の怪物鋏である。そして、蒸気ハンマーは、普通のハンマーヘッドで仕事をするが、その重さたるや、雷神でも振り回すことが出来ないほどのものなのである。*21 これらの蒸気ハンマーはネイスミスの発明であるが、その一つは、6トン以上の重量があり、垂直落下距離7フィートで、平均36トン重量に達する。花崗岩の塊を粉砕するのはまるで子供の遊び、その上連続して軽く小さく打つことができないわけでもなく、柔らかな木材に釘を打つこともできる。*22
本文注21 / これらの機械の一つは、ロンドンで外輪船の外輪軸の鍛造に用いられるもので、「雷神」と呼ばれた。それは、一人の鍛冶屋が蹄鉄を打つように簡単に、161/2トンの軸一本を鍛える。
本文注22 / 木材加工機で、小さなものを加工することができるものは、大抵アメリカ人の発明である。
(24)労働手段は、機械の形式にあっては、人間の力に換えて自然の力を利用することが避けられない。親指のルールに代わって、意識的に科学を応用する。工場手工業においては、社会的労働過程の組織は純粋に個人的で、細目労働社の組み合わせである。機械システムでは、近代工業は、純粋に物的な生産的組織で、労働者はすでに存在する生産の物的条件に対する単なる付属品となる。単純な協同作業、そして分業化が形成される中での協同作業においてすら、その集合化された労働者によって、抑圧され個別化される労働者はまだまだ偶然的なものとして多少顕れる程度のものであった。機械は、後に述べるような二三の例外はあるが、共同的な労働の手段として、または共通の労働のそれとしてのみ動く。以後、労働過程の協同的性格は、ここに登場する後者の場合においては、労働手段そのものによって指示される技術的な必須事項となる。 
第二節 機械によって生産物に移転される価値

 

(1)我々は、協同作業や分業から得られる生産的な力には、なんら資本の必要がないことを見て来た。それらは社会的労働の自然力なのである。そのように、また、物理的な力、蒸気、水、その他のようなものも、生産過程に充当する場合、なんらかのものを必要とすることもない。しかし、呼吸するために人間には肺が必要なように、それは、物理的な力を生産的に消費するためには、労働者の手のようなものを必要とする。水の力を利用するには水車が必要であり、蒸気の圧力を利用するためには蒸気機関が必要である。一旦発見された、電界における磁針の偏差の法則、または電流が流れるコイルが巻かれた鉄における磁化の法則には、1ペニーの費用もいらない。*23 確かに電磁科学法則は無料だが、しかしその法則を電信その他の目的のために利用するとなると、相当の費用が必要であり、様々な装置が必要となる。道具は、我々が見てきたように、機械によって絶滅させられることはない。人間の器官の矮小な道具から、それは人間によって作られた機械の道具に至るまで、拡大し、多様化した。今や、資本は、手工の道具ではなく、機械が自ら道具を操るその機械を用いて労働者に作業をさせる。それゆえ、驚くべき自然の力と自然科学を結びつけて生産過程に用いるならば、近代工業の労働生産性は普通では考えられない程のレベルまでに高まるのは、一見して明らかである。けれども、この増大した生産力は、他方において、労働支出の増大によって購入されたものではないということは必ずしも同様には明らかではない。機械は、他のあらゆる不変資本部分と同様、なんら新たな価値を創造しない。だが、自分の価値を、それが産み出した生産物に譲る。機械が持つ価値の限りにおいて、結果的に、価値を生産物に譲る。そしてそれは生産物が持つ価値の成分を形成する。安価にされるのではなく、生産物は機械の価値に比例して高価なものとされる。従って、次のことは白昼に陽を見るごとく明らかである。機械と機械システムは、特徴的な近代工業の労働手段は、手工業や工場手工業で使われる道具に較べれば比較にならない位の大きな価値を背負っている。
(2)まず最初に、次のことが把握されていなければならない。機械は、いつも全体として労働過程に入るが、価値を産み出す過程においては、ただ断片部分のみが入る。機械は機械が失う価値以上のものを加えない。平均的な消耗分ということである。であるから、機械の価値と、与えられた時間において、生産物へ機械による価値の転移分との間には、大きな違いがある。労働過程において、機械の耐用年数が長ければ長い程、その違いはより大きなものとなる。疑いもなく、すでに我々が見ていたように、あらゆる労働手段は労働過程には全体として入る、そしてただ、少しずつ平均的な日々の消耗分が、その比例分に応じて価値を産み出す過程に入る。しかし、この全体として入る分と日々の消耗分との差分は、道具よりも機械の方がより大きい。なぜかと言えば、機械はより耐久性のある材料で造られており、寿命も長い。また、その機械の使用においては、厳密に科学的法則によって規制されており、各パーツの消耗においてもまた消耗する材料においても、より大きな経済性、すなわち節約が計られている。そして、結論として云うならば、機械の生産の場は道具の場と較べれば比較にならないくらい大きい。機械であれ、道具であれ、それらの日々のコスト、即ちそれらが日々生産物に移転する価値、それらの平均的消耗と、それらが消費する補助的な材料、石油とか石炭とかと云ったものを控除して見れば、それらはそれぞれそれらの仕事を無償で行っている。あたかも、人の助けなしに働く自然によって準備された力のように作動している。道具の生産力に較べて機械の生産力が大きければ大きい程、道具の無償の恩恵に較べれば、機械の無償の恩恵はより大きなものとなる。近代工業によって、人は初めて、彼の過去の労働の生産物を大きな規模で無償の恩恵のごとく働かせることに成功した。まるで自然の力の様に。*24
本文注23 / 科学は、一般的に言えば、資本家になんらの費用をも支払わせない。事実、彼がそれをいかに利用しようと、決して、彼を妨げはしない。他人の科学は他人の労働と同じように資本によって併合される。とはいえ、資本主義的私有化と個人的私有化は、それが科学であれ、物質的な富であれ、全く違ったものである。ユア博士自身、機械を用いる親愛なる工場手工業者達の頭の中にある機械科学へのどうにもならない無知ぶりには嘆くばかり、また、リービッヒは英国化学工場手工業者達によって開示される驚くべき化学への無知についての話しになるとどとまることを知らない。
本文注24 / リカードは、この機械の効果を特に強調する。(機械に関しては、他の関連も含めて、彼は労働過程と剰余価値の創造過程とに関する一般的な識別すら把握してはいない。)そのため、彼は往々にして、機械によって生産物に付与される価値の視点を失い、機械を自然の力と同じような位置に置く。だから彼はこう言う。「アダムスミスは、どこでも、自然の営みと機械が我々のために成すこの活動を過少評価してはいないが、それらが商品に加える価値の性質については極めて正確に認識している。….あたかもそれらが機械としての仕事を無償で行い、機械が我々にそれを援助として供与し、交換価値以上の何物も加えない。(リカード原理)このリカードの見識は勿論、J.B.セイに対する限りにおいては正しい。セイは機械が価値創出の「仕事」をするものと思っており、それが利益の一部を形成すると思っているのだから。
(3)協同作業と工場手工業で取り上げたように、ある一般的な生産要素は、例えば建物のようなものは、個々に分散された労働者の分散された生産手段と比較すれば、共同的に消費されることによって節約される。従って、それらは生産物の価格を安くする。機械システムにおいては、その機械を構成するものが、多くの作業機具によって共同的に消費されるのみではなく、その伝達機構とともに原動機も多数の作業機器によって共同的に消費される。
(4)機械の価値と、日当たりで生産物に移行される価値との差が与えられたなら、後者の価値が生産物を高価格とする程度は、まずは生産物の大きさ、云うならば面積に依存する。ブラックバーンのベイヤー氏の1858年に出版された著書では、次のように見積もっている。
(5)「各機械実馬力*25 は、450個の紡錘を持つ自立紡績機と前処理装置、または、200個の紡錘を持つスロッスル紡績機、または縦糸がけや糊付け他を含めた40インチ巾の布を織る織機15台を駆動するであろう。」
本文注25 / 1馬力は、1分間当たりで33,000フィート・ポンドの力と等しい。33,000ポンドを1分間で、1フィート持ち上げる力、または1ポンドを1分間で33,000フィート持ち上げる力と云うことである。これが本に書いてある馬力の意味である。通常の言葉では、そしてまたこの資本論のあちこちで引用しているものは、「名目」、「商業上の」または「計測値」馬力が同じ蒸気機関にあり、区別されている。以前のもの、または名目馬力はシリンダー径とピストンストローク長のみで計算され、蒸気圧やピストンスピードは計算外である。この名目馬力は、この蒸気機関が50馬力であって、もしボールトンやワットの頃と同じ低い蒸気圧、そして同じように遅いピストンスピードで動かされたとしたら、その限りでの数値としてのものであることを示す。しかし、後者の二つの要素は今日では非常に大きな意味を持つ様になった。今日蒸気機関によって生じる機械的な力を計測するために、計測器が発明され、それはシリンダー内の蒸気圧を示す。かくて、この計測値または商業上の蒸気機関馬力が数学的公式によって表される。この公式には、シリンダー径、ピストンストローク長、ピストンスピード、蒸気圧が同時に考慮され、実際にそのエンジンが、33,000ポンドを1分間で、1フィート持ち上げる力の何倍あるかを表す。従って、「名目」馬力は、「計測値」馬力または「実」馬力の3倍または4倍、時には5倍のものとなる。この点は、以後のページにある様々な引用の説明のために示した。―F.エンゲルス
(6)まず最初のケースでは、450個の紡錘を持つミュール紡績機の日生産量となる。第二のケースでは、200個のスロッスル紡錘のそれであり、第三では、15台の織機のそれであり、1馬力の日コストである。このコストと、そしてその原動力が駆動することによる機械の損耗とが、それらに生産量に付加される。であるから、1ポンド当たりの撚糸または1ヤードあたりの布に対してそのように移転される価値はほんの僅かであり、極めて小さい。前に述べた蒸気ハンマーの場合も同様である。かくて、その日々の損耗、日々の石炭消費量等々は、1日にそれが打つ莫大な鉄量全体に移転され、僅かな小さな価値が鉄100ポンド重量に加えられるに過ぎない。しかし、もしこの巨大な機械をもって釘を幾本か打つということになれば、とんでもない大きな価値が移転されると云う事になるであろう。
(7)機械の作業能力、すなわちその作動する道具の数が与えられているならば、または力の大きさが設定されているならば、それらの結果量、生産物量は、その作業するパーツの速度に依存する。例えば、紡錘の速度、または1分間にハンマーが打つ回数に依存する。これらの巨大ハンマーの多くは、1分間に70回打ち下ろす、そしてライダーが特許を持つ機械は、紡錘を鍛造するための小さな槌で、1分間に700回の打撃を与える。
(8)機械が生産物にその価値を移転する率が与えられているとするならば、その移転される価値量は、機械の全価値に依存している。*26 機械が持っている労働が少なければ少ない程、機械はより少ない価値を生産物に分け与える。付与する価値が少なければ少ない程、それはより生産性があり、その作動は自然の力のようなものに近づく。まさに、機械による機械の生産は、その規模と能力の増大に比較すれば、相対的にその価値を小さくする。
本文注26 / 資本家的な観念を吹き込まれている読者は、このことを、機械が、その資本的価値の比率に応じて生産物に付加する「利子」と普通は見誤る。しかしながら、機械は何ら新たな価値を、他のすべての不変資本部分と同様、造らないことは、見て来た通り、簡単に分かるところである。「利子」という名の下にいかなる価値も付け加えることはできない。また、これまで我々は剰余価値の生産を取り上げて見て来たのであるから、利子の名の下にいかなるそれらの価値の存在をも、予め(フランス語イタリック)存在すると仮定することはできない。資本家的計算様式は、ちょっと見ただけで(フランス語イタリック)、明らかに不合理で、価値の創造の法則に矛盾している。この点については、この本の第三巻で説明することになろう。
(9)手工業または工場手工業によって生産された商品の価格と、機械によって生産された同じ商品の価格の比較と分析によれば、一般的に、次のことが見られる。機械による生産物では、労働手段によって生じる価値は相対的に上昇するが、絶対的には低下する。他の言葉で言えば、絶対的な価値量は減少するが、その生産物全量の価値量は相対的に、例えば、撚糸1ポンドの全量に関しては増大する。*27
本文注27 / 機械が、単なる動かす力として使用している馬とか他の動物に取って代わる場合では、機械が付加する価値の構成部分は絶対的にも相対的にも減少する。機械がそれらの事態の形式を変更するためのものである場合は、そうではない。ここでちなみに触れておくが、デカルトは動物を単なる機械のごときものと定義している。工場手工業時代の目で見ようとしていた。その一方で、中世の目で、動物は人間の助手と見ていた。あたかも後のフォンハレル氏の著書「国家管理による科学の復興」に見られるごとく、デカルトは、ベーコンと同様、生産形式の改変と人間による実用主義的な自然の征服を予想していた。あたかも思考方法を変更した結果のごとく。そのことは、彼の「方法序説」で明らかである。彼は、次のように云う。「学校における思索的哲学に代わって、我々は、生活に非常に役に立つ知識を得ることができる。誰でも実用的な哲学を見つけることができ、それは我々に火、水、空気、星、そしてさらに我々の回にある全てのものの力とか効用を知らしめる。あたかも我々は職人達の様々な商売を知るごとく十分に正確に知らしめられる。我々は職人達がそれに適応してすべて使いこなしたように、それらを使うことができるであろう。そしてそれが我々自身をして自然の主人、所有者とするであろう。そしてその結果として、人間的生活の完成化に寄与するであろう。」ダッドレイノース卿の「商業論」(1691)への序文はこう述べている。デカルト派の方法論は、金とか商売等々に関する古いおとぎ話と迷信的な観念から政治経済学を解放し始めた。しかしながら、結局のところ、初期の英国経済学者らは彼等の御用哲学者であるベーコンやホッブスに寄り掛かっていた。しばらくの後には、英国、フランスそしてイタリアの政治経済学者らが寄り掛かった御用哲学者はロックであった。
(10)ある機械の生産に多大な労働が費やされていて、その機械の使用によって節約される量と同じというのならばいつも、そこには労働の置換以外の何物もない。その結果としてある商品の生産に必要とされた全労働は減少されず、または労働の生産性も増加されない。とはいえ、機械に要した労働と節約された労働との差は、別の言葉で言えば、その生産性の程度は、それ自身の価値とそれが置き換えた道具の価値との差に依存していないことは明白である。機械に費やされた労働の長さの限りにおいて、そしてその結果として生産物に付加される機械の価値の一部分が、労働者が彼の道具によって付加した価値より小さい状態に留まる限りは、そこには常に、機械の効用によって節約された労働の差が存在する。従って、機械の生産性は、機械が置き換えた労働力によって計量される。ベインズ氏によれば、前処理機を含めてミュール紡績機の450個の紡錘を動かすためには二人の労働者が必要であるという。*28 そのミュール紡績機は、1馬力で駆動され、各自動式紡錘は10時間で、13オンスの撚糸(平均的な太さの糸番手)を生産する。であるから、週に、21/2人の労働者によって、3655/8重量ポンドの撚糸を紡ぐ。かくして、ごみ量を考えないものとして、366ポンドの綿花が撚糸に変換される間、わずか150時間の労働、または、各10時間労働日の15日分を吸収するのみである。しかしこれを、手回し紡車で、手紡ぎで13オンスの撚糸を生産するには、60時間を要する。同じ重量の綿が10時間労働日で2,700日の労働または27,000時間の労働を吸収する。*29 版木印刷、綿布に手作業で印刷する古い手法は、今では機械印刷によって取って代わられた。1台の機械が一人の男または少年の手助けで、1時間に4色で、普通では200人掛かりでやる作業と同じ量の更紗捺染を行う。*30 エリーホィットニーが綿繰り機を発明する1793年以前では、1ポンドの綿から種を取り分けるのに平均1日分の労働を要した。彼の発明によって、黒人女性一人で日に100ポンドのきれいな綿を作り出すことができた。以後、綿繰り機の性能は相当増大した。生綿1ポンドは、以前はそれを生産するのに50セントを要したが、その発明後は、多くの不払い労働込みで、当然ながらより大きな利益を含んで、10セントで売られた。インドでは、人々は種と綿を分けるために、ある手段、半機械を用いた。チュルカと呼ばれる。これで、一人の男と一人の女性とで、日に28ポンドのきれいな綿を繰る。数年後、フォーブス博士によって発明されたチュルカでは、一人の男と一人の少年とで日250ポンドを生産する。仮に、牛、蒸気、または水流でそれを動かすならば、二三人の少年と少女が材料の供給役とし必要となるだけである。16台のこれらの機械を牛で動かすならば、通常日平均で750人の人々が行う作業に相当する。*31
本文注28 / エッセン商工会議所の年度報告書(1863年)によれば、1862年に、クルップ鋳鋼工場は、161基の溶融炉、32台の蒸気機関(1800年この数は、マンチェスターで稼働していた蒸気機関のほぼ全数であった。)そして14基の蒸気ハンマー(これだけで1,236馬力である。)、49基の鍛造機、203台の道具機そして、約2,400人の労働者で、1,300万ポンドの鋳鋼を生産した。ここには、各1馬力当たり二人の労働者はいない。
本文注29 / バベッジは、ジャワ島では、紡績労働のみで、綿の価値にさらに綿の価値の117%の価値を加えると見積もる。同じ時代(1832年)機械と細糸紡績工業の労働によって綿に加えられた全価値は綿の価値の約33%である。(「機械の経済性について」)
本文注30 / 機械印刷は、さらに、染料を節約する。
本文注31 / 1860年4月17日職能協会において、ワトスン博士が読んだ、インド総督宛の生産物報告書を見よ。
(11)前に述べたように、一台の蒸気鋤は1時間で3ペンスのコストを要するが、66人15シリングのコストを要するのと同じ作業を行う。間違いやすい記述をはっきりさせるために、この例に戻ることにしよう。15シリングは、66人の1時間の仕事に支払った全労働の貨幣額を表すものでは全くない。もし仮に、剰余労働率が100%であるとしたら、これらの66人は1時間に30シリングの価値を作り出すであろう。であるから、彼等の賃金、15シリングは単に彼等の半時間の労働を表すにすぎない。そして機械のコストが排除された年150人の賃金に相当すると想定すれば、仮に3,000英ポンドとすれば、この3,000英ポンドは、この機械が導入される以前これらの150人によって生産された品物に加えられた労働の価格を表すものでは全くない。ただ、彼等の年労働の、それに支払われた部分のみを表すものに過ぎない。つまり、彼等の賃金を表すに過ぎない。他方、この3,000英ポンドは、その機械の貨幣価値は、労働者に支払われた賃金と資本家のための剰余価値の比率がどうであれ、その生産に用いられた全労働を表す。であるから、その価格によって排除された労働力と同じだけの価格であるとしても、依然として置き換えられた生きた労働に較べれば、そこに物体化された労働はさらにそれより少ないものである。*32
本文注32 / 「これらの無言の斡旋人(機械)は、常に、それが置き換えた労働よりも少ない労働の生産物である。それらの貨幣価値が同じだとしてもである。」(リカード既出)
(12)もっぱら生産物を安くする目的のための機械の使用は、機械の使用によって置き換えられた労働に較べて、その機械の生産に用いられた労働が必ず小さくなければならないという範囲に限定される。しかしながら、資本家にとっては、この機械の使用はさらに制約を受ける。労働に支払うのに代わって、彼は雇用した労働力の価値のみを支払う。であるから、機械使用にかかる彼の限界は、機械の価値とそれによって置き換えられる労働力の価値との差によって決定される。日労働の必要労働と剰余労働との分割は、各国によって異なり、同じ国内においてすら、時期によって異なる。または産業の異なる分業種で異なるからである。また実際、労働者の賃金は、ある時は彼の労働力以下となり、ある時はそれ以上に上がる。であるから、機械の価格とその機械によって置き換えられる労働力の価格との差は大きく変動する。たとえ、その機械の生産のために要する労働量とそれによって置き換えられる全労働量間の差が一定に留まるとしてもである。*33 しかし、資本家にとっては、ある商品の生産価格を決定するのは、前者の差のみであり、それが、競争のブレッシャーの下で、彼の行動を左右する。だからこそ、今日の英国で発明された機械は、北アメリカでしか使用されない。丁度16、17世紀にドイツで発明された機械がオランダでしか用いられなかったのと同じである。また、丁度、18世紀にフランスで発明されたものが、英国だけで利用されたように。より古い国では、機械はある産業の分業部門で用いられ、他の部門への労働者の過剰を産んだ。これらの後者部門では賃金が労働力の価値以下に低下して、機械の使用を阻害した。そして、資本家的視点から見れば、彼等の利益は労働雇用量の縮小からではなく、労働者への支払い量の減少からであって、機械の使用は無駄なことであり、ほとんどあり得ないことであった。英国の羊毛工場手工業のある部門では、こどもたちの雇用が近年顕著に減少した。そしてあるケースでは全く廃止された。何故か?工場法は二組のこどもたちの組を規定した。一つの組は6時間働き、他の組はその場合4時間とするか、両方の組とも5時間と規定した。しかし、両親達は、「半時間工」を、「フルタイム工」以下の安値で売ることを拒否した。そのため、「半時間工」を機械で置換したのである。*34 鉱山における婦人及び10歳未満のこどもたちの労働が禁じられる以前、資本家にとっては、男性等といつも一緒に仕事をさせる、裸の婦人達・少女たちの雇用は、彼等の道徳規範には少しも抵触するものではなく、特に銭勘定上からは当然のことであった。だから、それを機械に替えたのは、ただただ、工場法が議会を通過したからのことであった。ヤンキーは砕石機を発明していた。英国ではその機械を使用しなかった。その理由は、「可愛い奴」が居たからである。*35 彼等「可愛い奴ら」はこの仕事をして、彼の労働のほんの小さな部分の支払いを得ていた。だから機械は資本家にとってはコストを増大させかねないものであった。*36 英国では、婦人達が今もなおしばしば運河の船を曳く馬に替わって使われている。*37 なぜならば、馬や機械を生産する労働に関しては、正確にその量を知られている。一方、剰余人口にあたる婦人達を維持するに要する労働はいかなる計算においてもそれ以下だから。以来、機械の国英国の、この最も見下げ果てた目的のためへの人間の労働力の乱用よりも恥知らずなものを見出す国はどこにもない。
本文注33 / 故に、共産主義社会では、機械の使用について、ブルジョワ社会での見方とは全く異なる見方が存在するであろう。
本文注34 / 「労働の雇用者は、13歳以下のこどもたちの二組セットを必要もなく保持することはしなかったろう。….事実、ある工場手工業者等のグループでは、羊毛紡績業者連中では、今日、13歳以下のこどもたちを雇うことはほとんどない、すなわち「半時間工」をば。彼等は改良された新しい様々な種類の機械を導入し、これらはすっかりこどもたち(13歳以下)の雇用を置き換えた。ちなみに、私は、こどもたちの雇用数のこの削減を説明する一経過を取り上げておく。現存する機械に糸繋ぎ機と呼ばれる装置を付け加えることによって、各機械の特性に合わせて6人または4人の半時間工がこなした仕事を、一人の若年工(13歳を越える者)で行うことができた。….半時間工システムが糸繋ぎ機の発明を「刺激」したのであった。」(事実に関する調査報告書1858年10月31日)
本文注35 / 「可愛い奴」(英文はWretch)とは、英国政治経済学上の単語で、農業労働者を表す言葉として知られている。
本文注36 / 「機械は….労働(彼は賃金をこう言う)が高騰するまでは、ほとんど利用されることにならない。」(リカード既出)
本文注37 / 「エジンバラの社会科学会議報告書」1863年10月を見よ。 
第三節 機械が労働者に及ぼす即時的作用

 

(1)近代工業の出発点は、我々が見て来たように、労働の道具における革命であり、革命がその最も高度に発達した形式を獲得したのは、工場における組織化された機械のシステムにおいてである。いかに人間材料がこの客観的な有機体に一体化されたかを調べる前に、我々は、労働者自身に生じる、この革命によるいくつかの一般的な作用について考察しておこう。
A.資本による補足的な労働力の私物化 / 婦人たちとこどもたちの雇用
(1)機械が筋肉の力をなしで済ませるという限りでの話しとして云うならば、筋肉力の欠ける労働者の雇用手段となる。体の発達が不十分でも、手足が多少なりとも動く者の雇用手段となる。であるから、婦人たちとこどもたちの労働は、機械を用いる資本家どもが最初に欲しがるものであった。ゆえにこの、恐るべき労働と労働者の置換物は、直ちに、労働者の家族のすべてを、年令や性別を区別することもなく、資本の直接的な支配の下に組み入れて行くことによって、賃金労働者の数を増加させる手段となった。この強制的な資本家のための労働が、子供の遊びを強奪しただけではなく、家族を支える家庭での適度な範囲の自由労働をも奪ったのであった。*38
(2)労働力の価値は、一成人労働者個人の生活を維持する必要な労働時間によって決められるのみでなく、彼の家庭を維持するに必要な時間によっても決められる。その家庭の全てのメンバーを労働市場に投入することによって、機械は、労働力の価値を彼の家庭の全ての者に拡げる。そうすることよって、彼の労働力の価値を低下させる。一家庭の4人の労働者の労働力を買うためには、その家庭の頭の労働力を以前のように買うよりは多少は高くつく。しかし、その結果、一人の労働日に代わって4労働日が生じる。そしてかれら全体4人の費用は、一人の剰余労働以上の4人の剰余労働の超過分に見合うところまで低下して落ち着く。4人の人々は今や、自分達家族の生活のために働くだけではなく、資本家のためにさらなる剰余労働をすることになった。かように、機械は、一方で資本の搾取力の原理的対象を形成する人間材料を増大させるとともに、*39 同時に、搾取率をも高める。
(3)機械は、正式な労働者と資本家間のお互いの契約を根本的に変える。我々の基本的な事項である商品の交換については、最初の我々の仮定では、資本家と労働者は自由な人間として、それぞれ商品の独立した所有者として相対する。一人は貨幣と生産手段を持ち、もう一人は労働力を有する。しかし今では、資本家はこどもたちや成年には届かない年少者を買う。以前は労働者は自分の労働力を売った。それは彼が自由な商人としてそれをなした。ところが今では、彼は彼の妻や子供を売る。彼は奴隷商人になってしまった。*40 多くの場合、児童労働に対する需要は、黒人奴隷に対する需要形式とよく似ている。次に見るように、ちょうどアメリカの新聞広告には見なれたものの如くである。
本文注38 / エドワードスミス博士は、アメリカ南北戦争による綿花恐慌の頃、英国政府によって、ランカシャー、チェルシャーその他へ、綿業労働者の衛生状態について報告するために派遣された。彼は、衛生学上の見地から、ただし工場から労働者が追い出されたことは別にして、恐慌には様々な利点があると報告した。婦人たちは、今、健康を害する「ゴッドフレーのおしゃぶり」に代わって、幼児たちに授乳させるための十分な余裕時間を持つことができた。料理を学ぶ時間も持った。ただ残念ながら、この料理術を修得しても、料理する材料がないということにはなった。そして、このことから、我々は、いかに資本が自己拡大の目的のために、家族の家庭での必要な労働を強奪したかを見出す。この恐慌はまた、裁縫学校で、労働娘たちに、裁縫を教えるために用いられた。アメリカ革命と世界的な恐慌へと至らしめるために、労働娘たちは全世界を代表して紡ぎ、そして裁縫を習うことになったと云うべきか。
本文注39 / 「労働者の数の増大に至ったのは、男性に替わって女性の代用、成人に替わってこどもの代用を通じてである。週賃金が6シリングから8シリングの13歳の少女3人が、週賃金が18シリングから45シリングの成人男子一人にとって代わった。」(Th.Deクィンシー「政治経済学の論理」ロンドン1844年) 以後、とある家庭の機能、育児や幼児の授乳は、止めてしまう分けには行かないので、資本に徴発されてしまった母親は、その種のしごとを代わってくれる人を頼まねばならない。家庭内の仕事、例えば裁縫とか繕いとかは出来合いの品を買ってそれらに代えねばならない。それゆえ、家庭の中での労働支出の縮小は、お金の支出の増大を伴う。家庭の維持コストの増大と、多少増えた収入とが相殺される。その上、生活手段の準備や消費に関する節約やら判断やらは不可能なものとなる。これらの事実に関する豊富な材料は、表向きの政治経済学によっては隠蔽されるが、児童雇用監視委員会の工場査察官の報告書では明らかである。そして、特に公衆衛生に関する報告書にはさらに多くのことを見ることができる。
本文注40 / 成年男子労働者によって、英国の工場における女性たちとこどもたちの労働時間の短縮が、資本家に対して厳密に実施されたと云う事実とは対照的に、我々は、最近の児童の雇用に関する委員会報告書に、児童取引に係わる労働者の両親達の特徴として、真実おぞましくかつ全く奴隷売買の如き記述を見出す。ところが、資本家パリサイびとは、自分が作りだし、不朽化し、搾取を拡大し、その上、「労働の自由」として洗礼を施したこの蛮行を非難する。このことは同じ報告書にも見ることができる。「児童労働は救済されねばならない。….例え彼等が毎日自分のパンを求めるために働いているとしても。そのような不釣り合いな労苦に耐える力もなく、将来の生活への道筋の準備もなく、こどもたちは、肉体的にも精神的にも汚濁にまみれた状況に放り出されている。ティトゥスによるエルサレム征服について、ユダヤの歴史家はこう述べている。人間性を失った母親が自分のこどもを己の圧倒的な渇望を満足させるために犠牲にした時、そのような破滅のシグナルがあったのだから、破滅させられるのになんの不思議も無かった。」(「集中化された公的経済学」カーライル1833年)
(4)「私の目は」と、ある英国の工場査察官は言う。「私の管轄する地域の、最重要な工場手工業の町の、ある地方新聞に載った広告に引きつけられた。その文面は次の如くである。12歳から20歳の若い人を募集する、但し13歳として通用する者より若い者を除く。賃金は、週4シリング。申し込みその他は」*41
本文注41 / A.レッドグレーブの「工場査察報告書1858年10月31日」
(5)「13歳として通用する者」という文句は、ある事実に係わる。つまり、工場法は、13歳以下の児童は日6時間しか働かせられない。公式に任命された医師が彼等の年令を証明しなければならない。だから工場手工業者は、彼等があたかも13歳に達しているかどうかを判断する。工場に雇用される13歳未満の児童の数が突拍子もなく減少する。ここ20年の英国統計によれば、この減少は驚くべき不自然さを見せる。そのことは、工場査察官自身が認める証拠によれば、年令証明をする医師らの仕業である。医師らは資本家の搾取欲に迎合し、また親達の恥知らずな不正に迎合して、児童の年令を過大に偽ったのである。悪名高きベスナールグリーン地域では、毎週月曜日と火曜日の朝、公開市場が開かれる。そこでは、9歳以上の男女の子供達が、絹工場手工業者に、自分たちを賃貸しする。「通常の賃貸条件は、週1シリングと8ペンス(これは両親に所属する分)と、'私のための2ペンスとお茶'、この契約はその週のみに限ったものである。この市場が開かれている時の光景と使われる言語は全く恥ずべきものばかり。」*42 英国ではまた、こう言うこともあった。女どもが「救貧院からこどもたちを連れ出して、週2シリング6ペンスでだれかれ構わずに引き渡した。」*43 法律があるにも係わらず、大英帝国では、多くの少年たちが彼等の両親らによって、生きた煙突掃除機として売られた。(彼等に代わる多くの機械が存在しているに係わらず)その数は2,000人を越えた。*44 機械によって影響を受けた労働力の買い手と売り手の法的な関係は、全くのところ、自由な人間同士の契約という外観すらをも失うほどに変容しており、英国議会としても、言い訳的に工場に対する国の立場として、法的な原則を設けた。以前は制約しなかった児童の6時間労働制限法を持ち出せば、その度に工場手工業者たちの抗議が常に更新された。工場手工業者達はこう抗議した。多くの両親達は法の下に、彼等の子供たちを工場から連れ出し、「労働の自由」が依然として存在するところへ、つまり13歳未満の子供たちを成人と同様に働かせて、高い価格を排除することができるところへ、と売ると。だがしかし、もともと資本の本性は平等主義者ではなかったか。あらゆる生産局面において労働の搾取条件の平等を求めたのではなかったか。児童労働を制限する法が、ある産業部門で規定されれば、それが他部門での制限の原因となるはずではなかったか。
本文注42 / 「児童雇用調査委員会第5回報告書」ロンドン1866年[ドイツ語第4版には、--このベスナールグリーンの絹産業は今では殆どなくなっている、--と追記されている。F.エンゲルス]
本文注43 / 「児童雇用調査委員会第3回報告書」ロンドン1864年
本文注44 / 「既出児童雇用調査委員会第5回報告書」
(6)我々はすでに機械が、女性たちに身体的な悪化をもたらすことと同様に児童や若い人達にも身体的な影響を及ぼすことについて言及した。最初は直接的に機械の上に急速に成り立った工場において、そして残るあらゆる産業部門においても間接的に、資本の搾取に服従させられる全ての者に及ぶことを。ではあるが、ここでは、一点についてのみ詳述する。それは労働者のこどもたちの最初の一年にも達しない間の彼等の命、その大きな死亡者数のことである。英国の各地区の中の16の登録地区では、1才未満のこどもたち10万人ごとに、1年間で平均わずか9,000人が死亡する。(ある一つの地区ではたったの7,047人である)24地区では1万人を越える死亡があるが、11,000人は越えない。39の地区では、11,000人を越えるが、12,000人以下。48地区では、12,000人を越えるが、13,000人以下。22地区では20,000人を越える。25地区では21,000人を越え、17地区では22,000人を越える。11地区では23,000人を越える。フー、ウルバーハンプトン、アシュトン-アンダー-レイン、そしてプレストンでは24,000人を越え、ノッチンガム、ストックポート、そしてブラッドフォードでは、25,000人を越え、ウイズビーチでは16,000人、そしてマンチェスターでは26,125人である。*45 1861年の公式医学調査によれば、この高い死亡率は、地方的な原因を別として、基本的には、こどもたちの家庭から母親を仕事へと奪ったことに起因している。彼女達の不在の結果として、育児放棄、虐待となり、その他にも不十分な食事、不適切な食品、そして阿片の吸引がある。これらに加えて、母と子の不自然な隔絶が生じ、そのため子供たちに対する意図的な飢餓や薬漬けも起こる。*46 それらの地区のうちの農業地区で、「そこは女性の雇用は最少であって、そのため死亡率は非常に低い」ところで、*47 1861年の調査委員会は、それにも係わらず、予想外の結果に関して調査を進めた。そこは北海に面する純粋な農業地区なのに、1才未満の幼児の死亡率が、最悪な工場地区とほぼ同じであった。ジュリアンハンター博士は、そのため、この特異地点の減少を調査するよう任命された。彼の報告書は、「公衆衛生第6回報告書」に収録されている。*48 当時は、子供たちはマラリアとか、その他の低地で湿地である地域に特有の疾患によって死亡するものと思われていた。しかし調査は全く別の結果を示した。マラリアを撲滅し、冬は沼地、夏は貧弱な牧草地を肥沃な穀倉地に改良したことが原因で、幼児の例外的な死亡率を作り出したのであった。*49 ハンター博士が聴取したその地区の70人の医師たちは、この点については、「驚くほど一致していた。」事実、土地開墾様式の革命が産業システムを導入することになったのである。
本文注45 / 「公衆衛生第6回報告書」ロンドン1864年
本文注46 / 「それが、(1861年の調査)が示しているところは、それ以上のものがある。そこに記された状況によれば、母親の就業の結果としてネグレクトや養育不全で幼児が死亡するが、母親達は彼女たちの子供に対しては全く常軌を逸しており、こどもたちが死んでもなんの気持ちも持たず、時には、直接手をかけて死を確実にすることもある。」(既出「公衆衛生第6回報告書」)
本文注47 / 「公衆衛生第6回報告書」ロンドン1864年
本文注48 / 「公衆衛生第6回報告書」ロンドン1864年「ヘンリージュリアンハンター博士によるある英国の田園地区における幼児の過大な死亡数に関する報告」
本文注49 / 「公衆衛生第6回報告書」ロンドン1864年
(7)少年たちや少女たちと一緒になって隊の中で働く既婚婦人たちは、隊全体を請負として提供する「請負業者」と呼ばれる農夫の自由な処分の下に置かれ、契約条件に従って、使われる。「これらの一隊は、度々、自分たちの村からかなりの距離を歩くことになろう。彼女たちは朝集合させられ夕方はその道を戻る。彼女たちは、短いペティコートと、それに見合う上着とブーツ、時にはズボンという格好で、一見驚くほど頑強で健康的に見えるのだが、習慣的なふしだらに染まっており、彼女たちのこの忙しくそして独立した生活への愛着が、家に留め置かれた彼女等の子供たちの上にもらす致命的な結果には気が回らない。」*50
本文注50 / 前出
(8)工場地域のあらゆる現象がここに再生産されている。悪質な偽装的幼児殺しや鎮静剤等の投与等を含み、さらにその広がりも大きい。*51
本文注51 / 工場地域と同様、農業地域での、成年労働者、男女とも、アヘンの消費量は日々増大している。「鎮静剤等の販売を促進することは、….ある卸売業者の偉大なる目的である。薬屋によれば、それらが筆頭商品であるとみなされている。」(前出)鎮静剤等を投与されたこどもたちは、「小さな老人のごとくしわしわで、」あるいは「しなびた小猿のよう。」(前出)我々は、ここに、インドや中国が、どのようにして、英国に対して彼等の復讐をなし遂げたかを知る。
(9)「それらの弊害に関して私が知っているからこそ、」と、英国枢密院の医務官であり、公衆衛生に関する報告書の編集者でもあるサイモン博士は、語る。「あらゆる大きな産業における成人婦人の雇用に関して、非常に憂慮していることを言わねばならない。」*52

本文注52 / 前出
(10)「それこそ幸せそのもの」と、工場査察官のベイカー氏は彼の公式報告書に書いている。「それこそ幸せそのものである、英国の工場手工業地域において、家庭をもつ既婚婦人たちのすべてが、あらゆる繊維関係の仕事から締め出されることになるならば。」*53
本文注53 / 事実に関する報告書1862年10月31日ベイカー氏は以前は医師であった。
(11)女性たち及びこどもたちの資本主義的搾取によって生じるモラルの頽廃については、F.エンゲルスが書いた、彼の「英国における労働者階級の境遇」に余すところなく叙述されている。そして他の著者達によっても。であるから、私は、ここでは、それが起因になって生じたことのみについて述べるに止める。まさにこのような知的退廃、未熟な人間を、剰余価値の絞り出しのために、単なる機械とする人為的に作りだされた知性の退廃は、その心の状態は、自然の状態においては、今は無知であっても、いずれは発展していく能力として持っているものを壊すことがない自然的な心の豊かさを秘めているものだが、これとは全く別のものである。であるから、この退廃がついには、英国議会をして、工場法に、あらゆる産業において、14歳未満の「生産的」に雇用されているこどもたちに、初等教育を強制的に実施するという明文を入れることを余儀なくさせた。とはいえ、資本主義的生産体制の精神は、工場法のいわゆる教育条項をはっきりと愚弄しており、それを執行する仕組みの欠如もあって、明確なる幻想に堕するものとなった。工場手工業者等のこの教育条項への反対もあり、またそれらの条項から逃げるための勝手な解釈やらごまかしが横行した。
(12)「あたかも雇用されたこどもたちには、教育が与えられるかのように読めるこの欺瞞的法律として議会を通過させられたこの法律こそ恥知らずそのものである。そこにはその公言された目的を担保するなんの条項も、以下の他は無かったのである。そこにあるのは、こどもたちを、週何日かの、各日何時間(3時間)かを、四面壁に囲まれた学校と称される場所に閉じ込めることと、こどもたちの雇用者は毎週、学校教師または学校女教師として履修書に署名するよう指名された者による有効な署名をされた同書類を受け取らなければならない。ということ以外には何もなかったのである。」*54
本文注54 / L.ホーナーの「事実に関する報告書1857年7月30日」
(13)1844年の改正工場法が通過する以前は、二三はと言うことではなく、学校教師または学校女教師の、学校に出席したことを証明する書類は、十字マークで署名されていた。彼等彼女等は字が書けなかったからである。
(14)「ある時学校と呼ばれる場所、学校への出席を証明する書類が提出される場所を訪ねたが、学校教師の無学には全く驚かされた。というのは、私が彼に「あの、ちょっとお尋ねしますが、あなたは字が読めますか?」と云った時、彼の答えは「いかにも、かなり!」と云い、署名する権利の正当性をも付け加えた。「ともかく、私は生徒たちの前にいるのですから」」
(15)工場査察官達は、1844年工場法の準備当たって、この学校と呼ばれる場所の恥ずべき状況を明確にするのに失敗してはいなかった。履修証明書については法に同意したが、彼等は、1845年の法以後にも続くある一つのことには成功していた。
(16)学校履修証明書は、学校教師の自筆による記入でなければならず、かつ彼の「省略なしのクリスチャンネームと姓」をもって署名しなければならない。*55
本文注55 / L.ホーナーの「事実に関する報告書1855年10月31日」
(17)スコットランドの工場査察官ジョンキンケード氏も、同じような経験について語っている。
(18)「我々が訪ねた最初の学校は、Mrs.アンキリンによって行われている学校であった。彼女の名前のスペルを訊ねたところ、彼女は入口で間違えた。Cで書き始めたが、直ぐに自分で書き直した。彼女は彼女の名前がKで始まると云った。だが、学校の証明書控えには、いろいろな書き方で記されていることに私は気が付いた。記入もさることながら、彼女の筆跡は疑いもなく、教える適性がないことを示すものであった。彼女自身も彼女がこの記帳を続けることはできないと自認していた。….二番目の学校では、その学校なるものが、奥行き15フィート巾10フィートで、その中に、数えれば、75人のこどもたちがいた。子供たちは何かわけの分からない声をあげていた。」*56 「しかし、この劣悪極まる場所はここに取り上げた例のみに留まるものでは無かった。子供たちは何ら意味のある指導を受けることなく学校出席の証明書を得る。なぜそうなるかと云えば、多くの学校には有能なる教師はいるが、彼の努力はありとあらゆる年令の、三歳からかなり上の年令までの雑多な子供たちの大騒ぎの中ではなんの手を打つこともできなかった。彼の暮らしは、もっともいいケースでも、惨めなもので、その空間に詰め込むことができた最大数の子供たちから受け取るペンスに依存していたのである。それに加えて、学校家具はわずかしかなく、図書もなく、教具もない。そして貧しい子供たちは、狭く、臭い場所に押し込まれて生気もなくなる。私はそのような学校を沢山見てきた。そこでは子供たちは全く何もせずに並んでいる。これが学校出席としての証明となる。統計的に見れば、このような子供たちは、教育された者として数えられる。」*57
本文注56 / ジョンキンケード氏の「事実に関する査察報告書1858年10月31日」
本文注57 / Lホーナーの「事実に関する査察報告書1857年10月31日」
(19)スコットランドの工場手工業者等は、学校に主席しなければならない義務のある子供たちを排除するためにできることはなんでも試みた。
(20)「工場法の教育条項は、工場主等にこのような嫌悪を催し、雇用と教育の効用を同時に意図した工場法に該当する年令層の子供たちを排除しようとしたことを証明するには、以下の記録の他になんの議論も要らない。」*58
本文注58 / ジョンキンケード氏の「事実に関する査察報告書1856年10月31日」
(21)恐ろしく奇怪なる事態が、特別工場法によって規制される捺染工場手工業に出現した。その法によれば、
(22)「捺染工場手工業に雇用される以前に、すべての子供たちは、少なくとも30日、150時間以上、学校に出席しなければならない。最初の雇用日に先立つ直近の6ヶ月間、そして捺染作業に雇用されている連続する期間において30日かつ150時間と見なされる期間出席しなければならない、各連続する6ヶ月の期間ごとに、….学校への出席は、午前8時から午後6時の間でなければならない。いかなる日であれ、2時間半以下または5時間以上の出席は、150時間の一部としての出席記録とならない。通常の状態では、子供たちは朝と午後30日間各日少なくとも5時間、学校に出席する。子供たちの言葉で言えば、出席簿ができ上がるまで、….所定の時間数学校に出席した多くの少年たちは、捺染の6ヶ月間の作業の終了後に学校に戻った時、捺染少年工として最初に出席した時と全く同じ状態なのである。つまり、彼等の前回の出席で得たものが全て失われたということ。….他の捺染工場では、子供たちの学校への出席は、全くの所、企業内の緊急作業の有無に依存している。各6ヶ月ごとに必要な時間数は、1回あたり3時間から5時間の細切れで、多分、全6ヶ月の間にばらまかれている。….例えば、ある日の出席は朝8時から11時、また別の日では午後1時から4時、そして子供たちは、数日間は学校には現われないだろう。午後3時から6時に出席すれば、3、4日続けて、または1週間出席するかも知れない。が、その後は、3週間ない1ヶ月はやってはこないだろう。その後、ある日ある時間、雇用する親方がその動産少年の余った時間にそれを嵌め込む。かくてその子供たちはあたかもサッカーボールのように、学校から作業場へ、作業場から学校へと翻弄される。150時間という仮想的試合時間終了の笛がなるまで。」*59
本文注59 / A.レッドグレーブの「事実に関する査察報告書1857年10月31日」正規の工場法(本文で取り上げた捺染工場法ではないが)が施行されてしばらく経過した該当産業部門では、この教育条項の実施に係る障害は、近年、克服されてきた。工場法に該当しない産業部門では、J.ゲッデス氏ガラス工場手工業者のような見解が依然として広く蔓延している。彼が、調査委員会委員の一人であるホワイト氏に伝えた言葉は次の通りである。「私の見る限りでは、労働者階級の一部がここ数年楽しんだ大量の教育は、害悪である。危険である。なぜならば、それは彼等を自立させる。」(「児童の雇用に関する委員会第4次報告書」ロンドン1865年)
(23)このように多くの女性や児童が、労働者の仲間に加わるにつれて、機械はついに、男性労働者が工場手工業時代を通じて資本の専制に対抗してきた抵抗運動を打ち砕いた。*60
本文注60 / 「工場手工業者E氏…が私に語ったところによれば、彼は彼の力織機に女性をもっぱら雇用している。….既婚婦人を雇用すると決めている。特に、家族が居り、扶養が彼女の腕にかかっている者を。彼女らは未婚女性よりも注意深く、従順で、生活に必要なものを手に入れるために、彼女らはでき得るかぎの努力をするよう余儀なくされている。かくてその美徳が、女性的性格でもある独特の美徳が、自身を痛めるものへと転換される。---かくて、最も忠実で優しい彼女の性質が、彼女の隷属と労苦の手段にされる。」(10時間工場法案アッシュレー卿の演説3月15日ロンドン1844年)
B.労働日の延長化
(1)機械がもし、労働の生産性を増大させる最も強力な力を有するというならば、すなわち一商品の生産に要する労働時間を短縮させる最強力な力を有するというならば、それは資本の側にとっては最強力な手段となる。機械なるものに侵入されたそれらの産業においては、人間の性質なるものによって縛られていた労働日という枠を越えて、労働日を長くするための強力な手段となる。このことは、一方で、資本をして彼らの労働日延長への相も変わらぬ意図への無制限の期待を与える新たな条件を創り出し、また一方で、資本の他人の労働をものにする欲望を刺激する新たな動機となる。
(2)なによりも、機械の形式として、この労働の手段は自動機械となる。この物体は労働者から独立して動きかつ作業する。それ等はそれ故、産業の恒久機関となる。機械の付随役なる人間の弱き肉体と強き意志というある種の自然的な障碍に出会わぬならば、永久に生産を継続するであろう。この自動装置は、資本として、そしてそれが資本であるからこそ、資本家と云う人間に、思いつきと意志を賦与する。であるから、弾いてもすぐに反発する自然的障碍、人間、の抵抗を最小限に減らしたいという願望が喚起される。*61 この抵抗は、機械作業の明らかな軽さによって相当に軽減されており、また、そこに雇用した婦人たちやこどもたちの従順で扱いやすい性格によってもさらに軽減されている。*62
本文注61 / 「機械が一般的に導入されてから、人間の性質は、その平均的な力量を遙かに越えたところのものを強いられている。(ロバートオーエン「工場手工業システムの効用に関する観察」第二盤版ロンドン1817年)
本文注62 / 英国人は、物事の最初の外観の形式をあたかもその存在の原因であると見なす性癖を持っており、工場での長時間労働の原因は、工場システムの揺籃期に、資本家どもによって行われた、一種の強奪であって、抵抗もみせない搾取のための材料の獲得として行われた、救貧院や孤児院からの広範囲な子供たちの誘拐の結果であると考える習慣がある。それ故、例えば、フィサイデン彼自身工場手工業者の一人であるが、こう云う「長時間労働は、非常に多くの貧困にあえぐ子供たちが国の様々な地域から供給されたという状況によってもたらされたものである。工場主等がそれに直接関与したわけではない。だが一旦この様な哀れな材料と云うものがこのように生じるという仕組みが慣習として確立されたならば、彼等は彼らの隣人たちに対してもそれを偉大なる便益として取り込むことができた。」(J.フィサイデン「工場システムが受けた呪縛」ロンドン1836年第1巻)婦人労働者に言及して、工場査察官のサウンダースは、彼の1844年の報告書で次のように述べている。「女性労働者の中には、何週間も連続で、二三日を除き、朝8時から真夜中まで、2時間に欠ける食事時間しかなしに、週5日、24時間の内のたった6時間しか残された時間はなく、それも、家に戻り、ベッドに入り、また家から来る時間なのである。」
(3)我々が見てきたように、機械の生産性と、機械によって商品に移管される価値とは逆比例する。機械の寿命が長くなれば長くなるほど、機械によって移転される価値はより多くの生産物に行き渡る。そして一個の商品に対して加えられる価値の比率は小さくなる。とはいえ、実際の機械の寿命は、明確に労働日の長さに依存している。または、日々の労働過程の期間に、仕事が実際になされるための何日かを乗じたものに依存している。
(4)機械の損耗は、その稼働時間に正確に比例するものではない。そして、仮にそうであったとしたら、日16時間7年半稼働する機械は、同じ機械が日8時間15年稼働する場合と同じ稼働時間であり、全生産物に移転する価値が多いことにはならない。だが、最初のケースの場合は、後者の場合より2倍も早く機械の価値が再生産される。だから、資本家は、この機械を用いて、第2のケース、15年かけて吸収する剰余価値を7年半で絞り出そうとする。
(5)機械の物質的損耗には二つの種類がある。一つはそれを使用することによって生じ、流通におけるコインと同様に磨耗する。もう一つは使用ではなく、剣が鞘の中にあるままに錆びるように、損耗する。後者の種類は自然の力による。前者の場合は多少にかかわらず機械の使用による直接的な比例関係があり、後者の場合はある程度は使用とは反比例関係にある。*63
本文注63 / 「時には、….機械の休止によって、機械のデリケートな可動金属部分に損傷を受けることがある。(ユア既出)
(6)機械の物質的損耗に加えて、機械は、陳腐化と云うべき価値の低下に直面する。同じ種類の機械がより安く生産されるとか、よりよい良い機械が競争に参加することによって、その機械は交換価値を失う。*64 どちらの場合においても、機械がまだ若く、十分な寿命を有していても、その価値はもはやそこに現実に物質化された労働によって決められるのではなく、それを再生産するに要する労働時間または良い機械のそれによって決定される。それ故、その機械は多少の価値をすでに失っている。その総価値を再生産するに要する期間が短ければ短い程、陳腐化の危険性は少なくなる。そして労働日が長ければ長い程、その期間は短くなる。機械が産業に最初に持ち込まれるやいなや、それをより安く再生産する方法が次から次と続いた。*65 そして改良もされ、それは単に個々の部品や機械の一部分に影響するのではなく、機械全体に及ぶ。であるからこそ、機械の初期においては、労働日の延長化は特別なる動機としてそのことを最も敏感に感じさせるものとなる。*66
本文注64 / この点に関する言い分には、すでに触れているが、ザマンチェスター紡績業者(タイムズ1862年11月26日)は、「そのことも、(すなわち、機械の価値低下に対して、予め見込んで置くことも)また、常に、機械が全損耗する前に、新たなより良い構造を持った他の機械の登場によって、当該機械を廃棄するはめになる損失が考慮されていなければならない。」と。
本文注65 / 「新たに発明された一個の機械は、大雑把に見積もって、二番目の建造に比べれば、約5倍はするものと思われる。」(バベッジ既出)
本文注66 / 「ある特許のベール地を作る機構に、ほんの少し前のことだが、改良が加えられた。その効果は甚大で、その良き改造状態の機械が1,200英ポンドもしたものだが、二三年後には60英ポンドで売られた。….改良が非常に早く繰り返され、機械はその改造が終わらないうちに、業者によって廃棄された。何故かと云えば、さらに新たな改良がそれらの機能を駆逐していたからである。」(バベッジ既出)この嵐のような展開を見せたこの時代では、当然ながら、ベール地の工場手工業者は、忽ち、二組の労働者群を配置して労働日を元の8時間から24時間へと拡大した。
(7)労働日の長さが与えられているものとして、他の全ての状況が同じに留まるならば、二倍数の労働者の搾取は、二倍数の不変資本、機械とか建物に投資されるそれらのみならず、原材料や補助的物資に関わるものをも含む資本額を要求する。一方、労働日の長さの延長ということになれば、機械や建物に注ぎ込む資本額を変えることなしに、生産の拡大が許される。*67 従って、剰余価値の増大のみでなく、それを得るための必要な支出が減少する。このことは、労働日の延長に伴って多かれ少なかれ生じる事実であるが、ここでの考察におけるこの場合は、その変容は特に重要である。なぜならば、この、労働手段に転換された資本こそが、圧倒的に大きな意味を持っているからである。*68 工場システムの発展は不断に資本の一部を増加させる形式を確立する。この形式において、一方ではその価値の連続的な自己拡大を可能とする。同時に他方では、生きた労働との接触を失えばいつでもその価値を、使用価値と交換価値の両方を失う。「労働者がある時」と有力なる綿業者であるアッシュワース氏が、ナッソーWシーニョア教授に云った。「彼の鋤を地に放り出したら、その間、彼は18ペンスもする資本を無駄にする。我が雇用者達の一人が工場を離れたら、彼は10万英ポンドもした資本を無駄にする。」*69 ただの思いつきというのか!ほんの一瞬が、10万英ポンドの資本を無駄にするのだ!まさに恐ろしいことなのである。一人の我が雇用者が工場から抜け出すということになれば!アッシュワースから授かった講義内容を明確に理解した後のシーニョアによれば、増加した機械使用が、常に、労働日の長さを増加させることは「望ましい」のである。*70 「工場には、工場が短時間であろうと全時間であろうと、ある一定の支出がある。例えば、家賃、税金、火災保険、幾人かの長期奉公人の賃金、機械の損料、その他諸々の課金が工場手工業者には課せられる。この部分の利益に対する割合は、生産量が減少すればそれに応じて増大する。」(事実に関する調査報告書1862年10月31日)
本文注67 / 「市場の干満や要望の拡大縮小が常に生じる状況にあって、工場手工業者が固定資本の追加的投入なしに、追加的な流動資本を用いることができるならば、….もしも、建物や機械への追加的な支出を招くことなく、追加的な原材料の量をこなすことができるならば、そうしたことが繰り返されるのは云うまでもないことである。」(R.トレンズ「賃金と組み合わせについて」ロンドン1834年)
本文注68 / ここに叙述した状況については、単に完結的に示したものにすぎない。というのも、私は利益率、すなわち前貸し総資本に対する剰余価値率については、第三巻までは取り上げるつもりがないからである。
本文注69 / シーニョア「工場法に関する書簡」ロンドン1837年
本文注70 / 「流動資本に対する固定資本の大きな比率は、…長時間の労働を望ましいものとする。」機械使用他の増大に伴って、「長時間労働への動機は大きくなる。大きな比率を占める固定資本が利益を作り出すことができる方法だからである。」(前出)
(8)機械は相対的剰余価値を生産する。直接的に労働力の価値を下落させたり、間接的に、再生産過程に入ってくる商品を安くすることによって、労働力の価値を安くするだけではなく、最初に突発的に機械が産業に導入されれば、機械の所有者に雇用された労働をして、高密度かつより大きな効率的労働に転化することができ、生産された品物の社会的価値をその個別の価値以上のものに上げることもできて、かくて資本家は日生産物の価値の小さな部分をもって、日労働力の価値とすることができるようになる。この過渡期にあっては、機械の使用は一種の独占となるのであるから、その利益は例外的に大きい。かくて、資本家の搾取への努力は、「この彼の初恋の太陽が輝く期間」を通じて、出来得る限りの労働日の延長化によって完遂される。この利益の巨大さが、彼のより一層の利益をという貪欲を刺激する。
(9)ある特定の産業において、機械の使用がより一般的なものとなってしまえば、生産物の社会的価値はその個々の実体価値にまで低下し、剰余価値の法則はあたかも、機械によって排除された労働力から生じるのではなく、現実に機械といっしょに働く者として雇用された労働者から生じると法則自体が主張するかのように見えてくる。剰余価値は不変資本のみから生じる。そして我々が見てきたように、剰余価値量は二つの要素に依存する。すなわち、剰余価値率と同時に雇用される労働者の数とに。労働日の長さが与えられているならば、剰余価値率は一日における必要労働と剰余労働の相互の関係時間数によって決められ、それと同様、同時に雇用される労働者の数は、不変資本に対する可変資本の比率による。さて、多量の機械の使用によって、労働の生産性の向上によって必要労働支出に対して、剰余労働が増加しうるとは云え、この結果は、ただ、与えられた資本量によって雇用される労働者数を減じたことによってのみ得られたものであることは明らかである。以前は可変資本であったものを、労働力に投資したものを、不変資本である機械に置き替えたのである。それは剰余価値を産まない。事実、2人の労働者から、24人の労働者が産む剰余価値を絞り出すことは不可能である。仮に、各これらの労働者が12時間労働で、僅か1時間の剰余労働を提供するとしたら、計24時間の剰余労働が得られるが、一方、24時間は2人の全労働時間である。故に、機械を用いての剰余価値の生産はそこに内在する矛盾を意味することになる。なぜならば、与えられた資本量によって創出される剰余価値の二つの要素、一つは剰余価値率だが、もう一つの労働者数を減らすことなくしては増やすことができない。この矛盾は、ある産業において機械の使用が一般的ともなればすぐに気づくところである。機械生産された商品の価値は、同じような商品全ての価値を規定する。まさに、この矛盾が反射的に資本家をして、その事実を意識することもなく、*71 労働日の一層の延長化に駆り立てる。搾取する労働者数の相対的な減少を相対的剰余労働ではなく、絶対的剰余労働の拡大によってこそ補完するために。
本文注71 / 資本家、そして資本家の頭の中身を吹き込まれた政治経済学者もまた、なぜこの内的矛盾を意識しないかについては、第三巻の初めの部分に書かれるであろう。
(10)それゆえ、もし、資本主義的な機械の採用が、一方で、新たな強力なより以上の労働日の延長化への動機をもたらし、そして急激な変化、労働方法や社会的な労働組織の性格と云ったものを、その流れに対する全ての反抗を壊滅させるようなやり方でもたらし、他方、その一つであるところの新たな労働者階級を資本家に開示した。以前は彼にとっては接近不能なものであった。またその一つであるところの、いつでも取って替ることができるような労働者たちの状態を作り出した。余剰労働人口である。*72 その余剰人口なるものは、資本の指示に従うことを余儀なくされる。従って、近代工業の歴史における顕著な現象、機械があらゆる道徳的で自然な労働日の長さに関する制約を拭い去ったのである。また同様、従って、労働時間を短縮する最も有力な道具立てが、最も確実なる手段、労働者と彼の家族の全時間をして、資本家の勝手な使用に、彼の資本の価値を拡大する目的のための手段にしたのである。経済学上の逆説である。「もしも」古代の偉大なる思想家アリストテレスは夢想した。「もしも、あらゆる道具が、あたかもダイダロスの創造物が自ら動き、またはヘファイトスの祭壇が自分の判断で聖餐を執り行うように、言われたように、または自らの判断で適切に仕事をしたならば、もし、織り手の梭が自ら織るならば、親方にとっては見習工の必要はなく、ご主人様は奴隷を必要とはしないだろう。」*73 そして、キケロの時代のギリシャの詩人アンティパトロスは、穀物を挽く水車の発明に歓呼したのである。その発明こそ、全ての機械の初期形式の発明である。女性奴隷に自由をもたらすものであり、古きよき時代への復帰をもたらすものである。*74 おお、なんという多神教徒たちなのか!彼等は何一つ理解していない。学識のバスティアが、そして彼以前の更に賢きマカロックが発見した、政治経済学とキリスト教を何一つ理解していない。一つを挙げれば、機械が労働日を延長する確実なる手段であることを把握してはいなかった。彼等は、多少は、地にある者を置きそれが他の者の全発展の手段となる奴隷制を弁解していたことであろう。しかし、彼等には、僅かばかりの粗雑で、大した教育もない成り上がり者を、「突出した紡績業者」とか「大規模を誇るソーセージ業者」とか「影響力の大きな靴墨商人」にするために、一般大衆を、奴隷とすることを説教するには、キリスト教の諸々の尻ぐせを欠いていた。
本文注72 / このことは、リカードの最大の功績の一つである。機械を単に商品生産の道具として見るばかりでなく、「余剰人口」を作り出すものとしても見ていたことである。
本文注73 / F.ビーゼ「アリストテレスの哲学」第2巻ベルリン1842年
本文注74 / 私は下に、この詩のストールベルグの訳を置いておくことにしよう。なぜかと云えば、古代人が分業ついて述べたこの詩句の精神が、古代と近代の観点を対照的に浮き彫りにするからである。「粉挽く手を控えて、粉挽く乙女たちよ、柔らかき眠りに身を委ねよう。雄鶏が朝を告げようともそのままに。神は乙女らの仕事を妖精によってなされるよう命じ、そしてすぐに妖精たちは軽々と水車に飛び乗り、車軸を揺すって、取っ手を回わし、石臼を回転させた。我が主のように生きよう。仕事から離れて休息しよう。そして神が与えてくれた贈り物を楽しもう。」(ギリシャの詩クリスチャンガルフツーストールベルグハンブルグ1782年)
C.労働の強化
(1)資本が手に入れた機械によって、際限なき労働日の延長化がはびこることになったが、そのことが、社会のある部分において反動を引き起こす。生命の源泉そのものが脅威に晒された。そして、それゆえ、標準労働日の長さが法によって決められるに至った。すると、どういう現象が生じるかと云えば、我々がすでに見て来たように、すなわち、労働の強化が、極めて重要なものとなる。我々の剰余価値に関する分析においては、以前は労働の延長化、または労働の継続時間として見て来た。その強度については与えられたものと云う前提で見て来た。此処では、我々は、より長く延長された時間の労働やその度合いという以前のものに替えて、より強化された労働というものについて考察を進めることにする。
(2)機械使用の広がりに応じて、また機械に習熟する特別な労働者階級の経験が積み上がるのに応じて、その結果として、労働の速度と強度が自然に増大するのは自明であろう。かくて、英国では、この半世紀、労働日の延長が工場労働の強度の増大と共に進んだ。読者の皆さんの目に明瞭に見えてくるかどうかに係わらず、我々は働く、適当にやり、適当に始めるのではなく、日々変わることなき単調な作業を繰り返すのであるが、ついには、労働日の延長と労働の強度とが互いに相手を排除する地点に必然的に到達する。その結果、労働日の延長がただ一つ、労働強度の低下によって両立するか、労働強度を高くして、ただ一つ労働日を短くするかという地点である。徐々に高まってきた労働者の反抗が議会に対して、労働日の短縮を強制する法を迫るに及んで、正式な工場での標準労働日を決めてこれを施行するに至って、当然のことながら、労働日の延長によって剰余価値の生産を増大させる方式はこれで一挙に停止するのであるから、この瞬間から資本は、相対的剰余価値の生産へと自身の渾身の力をもって機械のさらなる改良へと急ぐことになった。同時に、相対的剰余価値の性質に変化が生じた。一般的に云うならば、相対的剰余価値の生産様式は、労働者の生産的力量の増大化によるものとなる。彼をして、同じ労働の支出という与えられた時間でより以上の生産ができるようにすることにある。労働時間は前と同様に同じ価値を全生産物に移転し続ける、しかし、この以前と同じ量の交換価値は、より多くの使用価値の上に分配される。かくて個別の一商品の価値は低下する。とはいえ、労働時間の強制的な短縮が出現すれば、局面は一転する。この巨大な衝撃が生産的な力の発展をもたらし、そして生産手段の効率化をもたらし、労働者に与えられた時間内での増大した労働支出を押しつける、労働力に高度の緊張を、労働日の気孔すべてに隙間もなく充填し、別の言葉で云えば、短縮された労働日の限界一杯まであらんかぎりに凝縮された労働をただただそこに圧縮する。このように与えられた時間内に凝縮された厖大なる労働とは、一体いかなる存在なのか。云うまでもなく厖大なる労働量を意味する。労働延長の、すなわち労働時間の計量方法に加えて、労働は、その強度、または凝縮の程度、または労働密度と云う新たな計量方法を、今や、獲得したのである。*75 より密度の高い10時間の労働日は、より以上の労働を含んでいる。すなわち、多少なりとも隙間を持っている12時間の労働よりも拡大された労働力を含んでいる。その結果、前者の1時間の生産物は、後者の11/5時間の生産物と同じかあるいはそれ以上の価値を持っている。高度化された労働の生産性を経て生じた、増大した相対的剰余価値という結果のことは後に触れることにして、今やこの同じ価値の総体は、資本家に言わせれば、31/3時間の剰余労働と、62/3時間の必要労働が生産されたと、以前は4時間の剰余労働と8時間の必要労働の生産であったものが、かくなったと。
本文注75 / 勿論、様々な産業における労働の強度については、常に、差が存在する。しかしこれらの違いは、アダムスミスが示すところによれば、僅かの状況によって生じる部分的な拡大であり、各種の労働における特異なものであって、それなりに補償されるものであるとする。この場合においては、労働時間、その価値を計量するもの、はなんら影響されるものではない。そうでない場合は、労働時間と労働強度という対立する両者が互いに一つの同じ労働量を排他的に表現する範囲を越えた場合である。と述べている。
(3)さてかくて、我々は、ある質問に到達した。どのようにして労働は強化されたのか?
(4)労働日短縮の最初の作用は、云うまでもないことであるが、労働力の効率は、その支出時間とは逆比例関係にあるという法則から生じる。かくて、短縮された期間によって失われたものは、ある一定の限界においてではあるが、労働力の緊張度を高めることで確保される。すなわち、労働者は実際に、より以上の労働力をさらにその上に支出するのであるが、これこそ資本家が彼に支払うと云うその生産様式によって確実なものとされる。*76 機械が殆ど何も仕事をしないか、そもそも機械が無いような工場手工業、例えば製陶業にあっても、工場法が導入されると、衝撃的なことが出現する。単なる労働日の短縮が驚くべきほどの度合いで、労働の規則性、画一性、序列化、連続性、そして労働の強度を増大させる。*77 とは云うものの、その作用が、すでに機械の連続性・画一性と並ぶ労働者の依存関係が厳密に規範として作られているような該当工場から発したかどうかは疑わしい。1844年に労働日を12時間以下に削減することについて議論がなされた時から今日に至るまで、工場主らは、ほぼ満場一致でこう宣言してきた。
本文注76 / 特に、出来高払いによる。この形式については、本書の第六篇で詳細に論じる。
本文注77 / 「事実に関する工場査察官調査報告書1865年10月31日」を見よ。
(5)「彼らの監督官は様々な作業場で労働者の作業が時間を無駄にしないように十分注意してきた。」とか「労働者のやり方に対する警戒と監視に関してこれ以上は増やすことはできない。」そしてそれゆえ、機械の速度とその他の状況に変更が無い限り、「よく管理された工場では、労働者に対する監視度を高めることでは何一つ重要なる結果を期待することは不条理である。」と。*78
本文注78 / 事実に関する工場査察官調査報告書1844年と4月30日で終了するその四半期1845年
(6)この主張は実際の実施によって否定された。ロバートガードナー氏は、彼のプレストンにある二つの大きな工場において、1844年4月20日以降、日12時間を11時間に、労働時間を短縮した。1年間の作業に関する結果は、「同じ量の生産物を同じ費用で受け取った。そして労働者は大体のところ11時間の労働で、以前の12時間分と同額の賃金を稼いだ。」*79 私は、紡績室と梳毛室での試みについては大目に見て置くことにする。そのワケは、彼等は機械の速度を2%高めにしてある機械と共に置かれていたからである。これとは違って、様々な嗜好に合う品物が織られる織布部門では、全くのところそのような僅かな変更も仕事の条件にはなかった。その結果は、「1844年1月6日から4月20日まで、日12時間労働で、週平均賃金は10シリング1ペンス半であったが、4月21日から7月29日までの間、日11時間労働で、週平均賃金は10シリング3ペンス半であった。」*80 ここでは、以前の12時間よりも11時間でそれ以上の生産を行った。そしてそれは労働者のより安定した集中と時間の節約の結果である。彼等が同じ賃金と1時間の自由時間を得た一方、資本家は同じ量の生産物を得て、また、石炭、ガス、他のものの1時間分の費用を省いた。同様の試験作業とその同様の結果が、ホロックスご主人やジャクソン旦那の工場でも確認された。*81
本文注79 / 前出報告書出来高払い賃金は以後も変わらなかったのであるから、週給は生産物の量に依存していた。
本文注80 / 前出報告書
本文注81 / これらの実験的試行においては、モラル・気持ちの持ち方という面が重要な役割を演じた。労働者達は工場査察官に対して次の様に述べている。「我々はより高揚した魂と共に仕事をした。夜が近くなれば自由になれるという今までにはなかった報酬があり、それぞれの活気と喜びが全工場に広がった。最年少の使いっぱしりから年配の職工まで、互いに、大いに、助け合うことができる。」(前出報告書)
(7)第一に、労働時間の短縮は、一定時間に労働者をしてより以上の力を出すことを可能にすることによって、労働の凝縮のための主観的な条件を作り出す。労働時間短縮が強制的なものとなるやいなや、機械は資本家にとっては客観的手段となる。一定時間内においてより多くの労働を搾り取る手段として、体系的に用いられる。このことは、二つの方法によって実行される。一つは機械の速度を増大させることによって、もう一つは労働者により多くの機械を取り扱わせることによってである。構造的に改良された機械が必要となる。一つは労働者に対してより大きな圧力を掛けることができないことを排除するためであり、もう一つは労働時間の短縮が資本家をして生産コストへの最厳密なる認識を迫るからである。蒸気機関の改良はピストンの速度を早め、そして同時に、大きく力を節約することによって、同じ蒸気機関をして、石炭の消費を同じか、あるいはより減らして、より多くの機械の駆動を可能にした。伝達機構の改良は摩擦を減らし、そして驚くほど古い機構を近代化した。軸の直径と重量を絶えず最小限にまで削った。最終段の作業機械の改良は一方でその大きさを減らし、それらの速度と効率を高めた。近代の力織機がその例である。または、他方それらの架体を大きくしてその作業機そのものの数とその広がりを増大させた。紡錘に見る如くである。またはそれぞれの作業機の速度を細部の変化を気づかせることもなしに加速した。かくて10年前のものと比べれば自動紡錘機の速度を1/5増加させた。
(8)英国では12時間への労働日の短縮は、1832年の日付を持っている。1836年ある工場手工業者は次のように述べている。
(9)「現在行われている工場での労働は、以前のそれよりも非常に激しいものとなっている。….30年ないし40年前と比べて….機械に与えられた非常に増大した速度によって、より大きな注意力とより大きな活動力が要求されるからである。」*82
本文注82 / ジョンフィールデン既出
(10)1844年アッシュレイ卿現シャフツベリー上院議員が、下院で次のような陳述をした。文書によって立証されている。
(11)「それらの工場手工業の各工程の仕事に従事する労働者の労働は、その仕事が始まった頃に比べれば3倍も激しい。機械は疑いもなく百万人の筋肉を要する仕事をした。しかしまたその恐ろしいばかりの動きをもって支配した彼等の労働を並外れた何倍もの労働とした。….1815年では40番手の木綿を紡績する一対の紡績機を動かす労働は---12時間労働日において---8マイルの必要歩行を含んだものとして知られていた。それが1832年になると、一対の紡績機木綿の同番手紡績で移動する距離では20マイルとなる。いや大抵はそれ以上である。1825年では紡績工は毎日それぞれの紡車に対して820個の糸を張る。全日では計1,640個の糸を張る。それが、1832年になると紡績工は各紡車に2,200個を、計4,400個となる。1844年になると各2,400個計4,800個の糸を張る。そしてあるケースでは、それ以上の労働量が要求される。….私は1842年に私宛に送られて来たもう一つ別の文書も持っている。次のように述べている。労働は累進的に増大している。移動距離がより長くなっただけでなく、生産物の量も倍加された。その一方で人手は前よりも比例的に少なくなった。さらに加えて、紡ぐ綿の品質が悪くなった。それらは紡ぐのも困難で、….だから梳綿室では労働が大きく増加した。織布室では非常に多くの人が雇用されている。そしてそこには主に女性達が雇用されているのである。….労働はこの二三年で10%も増加した。増加された紡績機械の速度による。1838年では週18,000巻の糸を紡いだが、1843年には21,000巻に達した。1819年では力織機は1分間に60回梭を走らせるが、---1842年では140回であった。著しい労働の増加が見られた。」*83
本文注83 / アッシュレー卿既出。
(12)この明らかに異常な労働強度は1844年の12時間法の下ですでに到達していたものであるが、これを見て、当時の英国工場手工業者らの、これ以上のいかなる進歩も、このようなやり方では不可能であろうと云う主張、従って労働時間の短縮は生産の減少を意味するとの主張が正当であるかに思われた。彼らの述べる理由の明らかな正しさは、彼らの永遠の看視センサーである工場査察官レオナードホーナーの次のような当時の陳述によって最もよく示されことになろう。
(13)「今では、生産量は主に機械の速度によって規定されねばならないのであるから、以下の条件に合致する最大速度において動かすことが工場所有者の意志でなければならない。その条件とは、すなわち、機械が急速に損耗しないように維持すること、生産される品物の品質の維持、労働者をしてその継続性を持続させるためにそれ以上の大きな労働支出のない範囲での作業に従事する能力の維持。従って、工場所有者が解決しなければならない問題は、前述の条件を考慮の上、彼がなしうる最大機械速度を見出すことでなければならない。しばしば、こうなる。彼は早過ぎる方に行き、増加した速度に対するカウンターバランスである破損や不良品を見ることになる。彼の速度を緩めることを余儀なくされる。そこで私はこう結論づけた。活動的で聡明なる工場所有者は安全なる速度を見出すことであろう。であるから、11時間で12時間と同じように生産することは不可能であろう。と。さらに私は、出来高払いの労働者は、自分自身をして、同じ作業率で継続できる力の範囲でのみ最大限の労働支出をするはずであろうと考えた。」*84
本文注84 / 事実に関する査察報告書1844年四半期終了時点9月30日と1844年10月1日から1845年4月30日まで
(14)さて、ところで、我がホーナーは、12時間以下への労働時間短縮は必然的に生産の縮小になるという結論に行きついたのであろうか? *85 彼は、彼自身、10年後に、1845年の彼の意見についてこう触れている。いかに当時、機械の伸縮性を過小評価していたことか、また人の労働力についても同様であった。これらはいずれも同時に、労働日の短縮という強制によって極限まで拡張されたのである。
本文注85 / 前出
(15)我々は今、かくて、1847年、英国の綿、羊毛、絹、そして亜麻の工場に10時間法が導入された以後の時代にやって来た。
(16)「紡錘の回転速度はスロッスル機で1分間に500回転、ミュール機では同1,000回転増加した。すなわち、スロッスル機の紡錘は1839年では1分間に4,500回転であったが、今(1862年)では5,000回転/分、そしてミュール機の紡錘は、かっては5,000回転/分だったが、今は同6,000回転/分である。前者では1/10、後者では1/5分が加えられて増加した。*86
本文注86 / 「事実に関する査察報告書1862年10月31日」
(17)著名な土木技師、マンチエスターに近いパトリクロフトのジェームスネエイスミスは、レオナードホーナーに1852年手紙を書いて、1848年から1852年の間にかけて行われた蒸気機関改良の特徴について説明した。蒸気機関の馬力数は、常に、官製方式に従って、1828年の蒸気機関と同様の力に従って見積もられており、*87 単なる名目であって、それらの実馬力数の指標の役割だけであることを述べた後に、彼は次のように続けた。
本文注87 / この件は、1862年の「議会答弁」で変更された。これによって、近代蒸気機関と揚水車の実際の馬力数が、名目馬力のところに表記された。二重撚り紡錘も同様で、もはや単紡錘の(1839年、1850年、1856年の議会答弁の場合のような)範疇には含まれなくなった。さらに羊毛工場の場合には、毛羽立て機数も加えられた。一方の黄麻と大麻の工場と、他方に亜麻の工場とには区別が設けられ、最後には、靴下編み工場が初めて報告書に挿入された。
(18)「私は、同じ重量の蒸気機関から、我々は今では少なくとも50%の、より大きな効率と仕事内容を、平均して獲得していると確信する。そして多くの場合、同一蒸気機関が、220フィート/分の速度に縛られていた時代では50馬力であったものが、今では100馬力以上….」「100馬力の近代蒸気機関は、以前のものと比べればより大きな力をもって機械を駆動することができる。機構の改良、ボイラーの容量と構造他によりなし遂げられた。」「更に、以前は馬力に応じて同じ人数を雇用していたが、今ではより少ない人数で機械数に比例して雇用される。」*88 「1850年、英連合王国の工場では、134,217名目馬力が用いられていて、25,638,580個の紡錘と301,445台の織機が稼働していた。1856年では、それぞれ前者が33,503,580、後者が369,205であり、1850年と同じ比率で名目馬力の力が必要と見積れば、175,000名目馬力となるであろう。だが実際の力として報告されたものは、1856年では161,435馬力であり、1850年の報告に基づいて計算し1856年に全工場が必要としたであろう力の大きさに比べて10,000馬力以上少ないものであった。」*89 「(1856年の)議会答弁からもたらされた事実はかくて、工場システムは急速に増大しており、当時は馬力に応じて人数が雇用されたが、今では機械に応じて少ない人数しか雇用されていない。すなわち、蒸気機関は節約された力やその他の方法によって、増大した機械の重量を動かすことができる。そして、より増大した仕事量が機械の改良によって、また生産方法、機械の速度、その他の様々な要因によって実現されることができた。*90
本文注88 / 「事実に関する査察報告書1856年10月31日」、そして1852年
本文注89 / 「事実に関する査察報告書1856年10月31日」
本文注90 / 「事実に関する査察報告書1856年10月31日」
(19)「あらゆる種類の機械に対してなされた大きな改良が、それら機械の生産力を圧倒的に高めた。疑いもなく、労働時間の短縮が、….これらの改良の動機を与えている。もう一方で、これらの機械には、労働者の激しい仕事が組み合わされた。(2時間または1/6)短縮された労働日で、少なくとも、以前のより長い時間で生産されるのと同じ量を生産することになった。」*91
本文注91 / 「事実に関する査察報告書1858年10月31日」。「同様報告書1860年4月30日」。
(20)労働力のより強烈なる搾取によって、工場手工業者の富がいかに大きなものとなったを示すには一つの事実で十分である。1838年から1850年にかけて、英国の、綿その他の工場での富の平均的な増加率は32%、一方1850年から1856年では86%に達した。
(21)1848年から1856年の10時間労働日の影響下の8年間における英国産業界に大きな進展があったのではあるが、次の1856年から1862年の6年間は、それをはるかにしのぐ進展となった。一例を挙げれば、絹の工場では、1856年では紡錘が1,093,799個であったが、1862年では1,388,544個になった。同様、1856年では織機が9,260台であったが、1862年では10,709台になった。紡錘数の増加率は従って、29%織機台数は15.6%である。その一方で、労働者数は7%減であった。1850年梳毛織物工場では、875,830個の紡錘、1856年では1,324,549個(51.2%増)、1862年では1,289,172個(2.7%減)が用いられた。但しもし、1856年時点の数には入っていて、1862年の数には入っていない二重撚紡錘数を考慮するならば、1856年以降紡錘の数としては殆ど変化がなかったことが分かるであろう。他方、1850年以降、紡錘や織機の速度は多くの場合二倍にされた。梳毛織物工場での力織機台数は、1850年では32,617台、1856年には38,956、1862年では43,048であった。労働者数は1850年では79,737人、1856年では87,794人、1862年では86,063人で、その中に含まれている14歳未満の子供たちの人数は、1850年では9,956人1856年では11,228人、1862年では13,178人であった。1856年時点に比べて、1862年には織機台数は大きく増加したものの、いやそれゆえ、雇用された労働者数は減少し、子供たちという搾取対象数は増大した。*92
本文注92 / 「事実に関する査察報告書1862年10月31日」。
(22)1863年4月27日フェルランド氏は、英国下院で次のように述べた。
(23)「私は、ランカシャーとチェシャーの16地区の代表者達から聞いたことを、彼らに代わって話す。工場における労働は、機械の改良の結果として、確実に増大している。以前、一人の労働者が二人の助手とともに二台の織機の面倒を見ていたものが、今では、一人で助手なしに三台の面倒を見ている。そして一人で四台を見るのも稀ではない。こうした事実が証明するように、12時間労働が今や10時間より少ない時間の労働に圧縮されている。であるから、工場労働者の労苦が、ここ10年間の増大によって、いかに大きなものに至ったかは自明である。」*93 「30年前(1841)、一人の紡績工は三人の助手と共に、300-324個の紡錘を持つ一対の紡績機の面倒を見る以上のことを要求されてはいなかった。現在(1871)では、彼は、2,200個の紡錘を、5人の助手と共に、取り扱わねばならず、1841年の頃の7倍以上を生産せねばならない。」(工場査察官アレックスレッドグレーブ-工芸ジャーナル1872年1月5日収録)
本文注93 / 二台の織機を用いて、一人の織工は、今では、週60時間で、一定の品質、長さ、巾のものを26巻生産するが、古い力織機では同様の物を4巻以下しか作ることが出来なかった。その様な反物一つの織り賃はすでに1850年になる頃には5シリング1/8ペンスから2シリング9ペンスに低落していた。
(24)それゆえ、1844年、1850年の工場法の成果について、工場査察官達は絶えず正義をもって、賞賛するものの、その一方で、労働時間短縮が労働強化の現実となり、労働者の健康と労働能力を阻害するに至ったことをも認めている。
(25)「綿、梳羊毛、絹の多くの工場では、機械の面倒を十分に見るために労働者をして狂騒的な労力の排出状態を必要とするに至った。機械の動きはここ二三年の間に非常に大きく加速されており、私には、グリーンハウ医師が彼のこの問題について指摘した最近の報告書にあるように、肺病による死亡率の異常とも云える増加の一つの原因ではないとはとても思えない。」*94
本文注94 / 「事実に関する査察報告書1861年10月31日」
(26)労働時間の延長化をきっぱりと禁止されるやいなや、資本自身としての埋め合わせのために、組織的に労働の強度を高めることによって、そして機械に対するあらゆる改良を取り込んで、労働者の労働をとことん搾り取る手段とするこの傾向は、直ぐに再び労働時間の縮小という事態を引き起こすに違いないと言うことについてはいささかの疑念もあり得ない。*95 また別の事実から見れば、10時間労働日制度の下にある1848年から現在の間の英国産業の急速な進展は、12時間労働日であった1833年から1847年の進展を凌いでおり、それは、労働時間に制限がなかった工場システムの導入後の半世紀の進展を凌いだ後者をさらに大幅に上回る。*96 (略) 青書「英王国の統計概要」8号、13号ロンドン1961年、1866年を見よ。ランカシャーの、工場数は、1839年から1950年の間では僅か4%しか増加しなかった。1850から1856年では19%、1856年から1862年では33%もそれぞれ増加した。これら工場に雇用された労働者数は上記のそれぞれの期間で絶対的には増加したが、相対的には減少した。(「事実に関する査察報告書1862年10月31日」を見よ。)ランカシャーでは、綿工業が優位を占めている。この地域における綿工業の驚くべき状況は、次のことを知れば、よく内容を把握することになるであろう。連合英王国の繊維関係総工場数の45.2%を占め、紡錘数の83.3%、力織機の81.4%、機械の馬力数の72.6%を、そして総雇用労働者数の58.2%を占めている。(前出)
本文注95 / ランカシャーの工場労働者の間から、今や(1867)8時間労働日の要求が始まった。
本文注96 / 次の表は、無いに等しい数字だが、1848年からの英王国の「工場」の進展について僅かながらもその徴候を示している。 
第四節 工場

 

(1)本章の初めに、我々は工場の胴体と呼ぶべきものについて考察した。すなわち、機械がシステムへと形成されたことをである。その機械システムなるものが婦人労働や子供たちの労働を盗み取って、資本主義的搾取のための材料としての人間をいかに多数作り出したかも見た。労働時間の際限もない延長によって全労働者の自由な時間をどのように、機械システムが没収したか、そしてそれがいかにして、時間の短縮に次ぐ短縮の内に巨大なる生産増加を許す進展に行き着いたか、短時間により大きな労働を獲得する組織的な手段としてそれを許したか、別の言い方をすれば、いかに労働力搾取の強度を高めたかを見てきた。さて、我々は今、工場を全体的に考察することにしよう。それこそ工場の最も完成した形式なのである。
(2)ユア博士、自動化工場のピンダロス、これを、一方では次のように書き出す。
(3)ユア博士は一方で次の様に書き表す。「それは中央動力(主原動力)によって途切れることなく駆動される生産的な機械のシステムに対して、勤勉なる技術をもって協働作業する成人と青年の多くの階層の労働者を結合するもの。」その一方で、「多くの機械的な、また知能的な器官によって作曲構成され、必要な物の生産のための間断なき演奏を続ける巨大自動機械であって、ありとあらゆるものが一つの自己的規律で動く力に従属させられている。」と書く。
(4)この二つの記述内容は同一のものと云うにはかけ離れている。一つは、集合的労働者、労働の社会的実体が、主な主体として表されており、機械的自動装置は客体として存在する。他方は、自動装置それ自体が主体であり、労働者は単なる意識のある器官にすぎず、意識がない器官である自動機械と混ぜ合わされたものであり、一緒くたにされたものであり、中央原動機に従属させられたものである。最初の記述は大規模に機械を採用するあらゆる可能性に適応する。二番目のものは、資本がそれを用いる特性を示しており、従って近代工場システムそのものと云える。それゆえ、ユアは、その動力がそこからやってくる中央機械を、単なる自動装置としてではなく、専制君主のごときものとして記述するのを好む。「これらのホールでは、慈悲深き蒸気権力が、己の回りに、彼の多数の追従者を召喚する。」*97
本文注97 / ユア既出
(5)道具が機械に取り込まれたように、それを扱う労働者の伎倆も機械に取り込まれる。道具が持っている力量が人間的労働力との離れがたき制約から解放される。かくて、その伎倆的基礎の上に成り立っていた工場手工業内の分業は一掃される。以後、工場手工業を特徴づけた専門的に特殊化された労働者の階層の中に、自動化工場では、機械の取扱い者として行う一人の同じような伎倆というだけの仕事へと均一化される傾向が入り込んで来る。*98 人為的に作り出された細目区分労働者の差異の世界から年令と性別の違いという生まれつきだけの差異の世界が入り込んで来る。
本文注98 / ユア既出。カールマルクス既出
(6)工場に再現する分業について見る限りでは、特殊化された機械の間に労働者を分配すると云うのが主なものである。多くの労働者を分配する。とはいえ、様々な各工場部門の間にグループとして編成されてというものではない。彼らのそれぞれは、一緒くたに集められた似たような多くの機械の処で働く。従って、彼らの協働作業はまことに単純なものである。工場手工業では特有なものであったあの組織だったグループは、今では労働者頭と彼の二三人の助手との間の関係に置き換えられた。そこにおける本質的な分業は、実際に機械に付随して雇用された労働者(彼等の中には蒸気機関の面倒を見る僅かな者も含まれる。)と、これらの労働者の単なる助手たち(圧倒的に子供たち)によるものである。助手の中には、作業対象である原材料を機械に供給する「餌係り」だけをやる者も少なくはない。これらの二つの基本的なクラスに加えて、数的には取るにたりない人のクラスがある。彼の仕事は、全ての機械の看視と時々必要となる修理をすることである。エンジニア、メカニック、指物師、他である。これらの者は上級労働者のクラスに該当し、或る者は科学的な科目の教育を受けた者で、他の者は、それに適するように育てられた者である。このクラスは工場労働者のクラスとは全く違うものであるが、単に人数としては一緒にされているにすぎない。*99 これらの者に見られる分業は純粋に技術的・専門的なものである。
本文注99 / まさに、統計の意図的誤導と云える。(この誤導は詳細に証明されることができると思われる。他の例も同様である。)英国工場法はここに記述した上級労働者のクラスを工場労働者からは除外しているにもかかわらず、一方議会報告書でははっきりとエンジニアやメカニックのみならず、支配人、営業マン、メッセンジャー、問屋、卸売、他をも含めている。短く云えば、工場主自身を除く全てを含めている。
(7)機械の処で働くためには、自動化機械の一定な止まることなき動きに彼自身の動きを合わせることを学ぶために子供の頃から訓練されねばならない。機械が全体として多様な機械のシステムを形成しており、一斉に可動し互いに協調しており、それらに基づく協働作業は、異なる種類の機械群の中に様々な労働者達のグループの分配を要求する。しかし機械の使用は、特定の人を特定の機能に固定的に結びつけた工場手工業的方法による分配の結晶の必要性を取り除く。*100 全システムの運動は労働者の指揮によって進行しているものではないのであるから、機械の指揮によって進行しているのであるから、人の配置替えはいついかなる場合であれ、作業を中断することなく行うことができる。この事の最も際立った証明はかのリレーシステムが提供して呉れる。1848-1850年の彼等の狂乱時代、工場手工業主等によって採用された例のシステムである。そしてついには、若き人々によってたちまち修得される機械作業が、機械使用専門に育まれる必要性、特別な作業者クラスを不要とする。*101 単なる助手が行う作業に関して云えば、工場においては、かなりの範囲で、機械によって取り替え得る。*102 それほど簡単に機械に置き換えられるほどの単純な作業であるからこそ、その骨折りで単調な作業に対して、人の方を忽ちそして常時取り替えができるのである。
本文注100 / ユアは、この点について承諾している。彼は、「必要な場合」労働者はマネージャーの意志によって一つの機械から他の機械へと配置替えさせられることができると言う。そして勝ち誇ったように、「そのような配置替えは、昔の決まりきった方法、一人の労働者には針の頭を作る仕事をあてがい、他の者には針の先を研ぐ仕事をと云うやり方とは全く反対のものである。」と叫ぶ。何故この古い決まりきった方法が自動化機械工場から、唯一「必要な場合」に外されるのか自問して見るのがもっといいのではないだろうか。
本文注101 / 危難が重大場面であれば、例えば、アメリカ南北戦争の間、工場労働者はブルジョワジーによって、頻繁に、過酷極まる作業(英文はtheroughestOfWorkと大文字が使われている)に投入される。例えば道路工事、その他である。英国の1862年及びその後年度「国立工場」が生活の糧を失った綿業労働者のためにと設立された。フランスの1848年のそれとは違う。後者は、国の支出によって、労働者は非生産的な作業をしなければならなかったが、前者はブルジョワジーの利益のために生産的な地方自治体の作業を行わねばならなかった。加えて、正規の労働者よりも安い賃金で、彼等との競争に投げ込まれた。「綿業労働者の肉体的外観はなんの疑問もなく改善された。….男性については。公共的業務の屋外労働に関しては。」(「事実に関する査察報告書1863年10月31日59ベージ」)報告者は、ここでは、プレストンの工場労働者についてさりげなく言及している。彼等は、プレストンムーアに雇用された者達であった。
本文注102 / 例えば、1844年の工場以後、羊毛工場には様々な種類の機械装置が導入された。子供たちの労働と置き換えるためである。工場主達自身の子供たちを工場内の助手としてその作業を修得させるために実際の作業をやらせねばならなくなれば、この殆ど未開拓である機械のとある分野はたちまち目覚ましい進歩が見られることになるであろう。「機械の危険性について云えば、恐らく、自動織機は、誰にとっても等しく危険である。それらの機械による多くの事故は小さな子供たちに降りかかる。動いている織機の下の床の掃除のために機械の下にもぐり込むことによる。何人かの機械「取り扱い者」がこの違反のために罰金刑を受けたが、結局何の効果もなかった。もし、機械制作者が簡単な自動掃除機を付け加えたならば、それによって、これらの小さな子供たちを機械の下に這い込ませる必要性を防止することができたであろう。それこそ我々の保護手段としての幸福なる追加部品となるであろう。(事実に関する査察報告書1866年10月31日)
(8)更に、厳密に云えば、古い分業システムは機械によって投げ捨てられるのではあるが、それにもかかわらず、あたかも工場手工業から引き継いだ伝統的な習慣の如くに、工場の中に引っかかっている。そして、以後、体系的に改鋳され、資本によってより醜悪な形式として、労働力の搾取手段として確立される。終生を通じて一つの同じ道具を扱う専門性が、今では、一つの同じ機械に仕えることが終生の専門となる。機械は、労働者を彼のほんの幼児期から、細目機械の部分へと変形する目的のために悪用される。*103 これによって、彼の再生産にかかる費用が大きく低減されるのみならず、同時に彼の救いのない工場への最終的な従属、すなわち資本家への従属が完璧なものとなる。ここでは、いや何処であれ、我々は、社会的な生産過程の発達による生産性の向上と、資本主義的搾取過程の進展によるそれとは明確に区別しなければならない。手工芸や工場手工業では、労働者は道具を使いこなす。工場では、機械が彼を使い潰す。前者では労働の道具の動きは彼から発する。後者では機械の運動に彼は追随しなければならない。工場手工業では労働者達は生きたメカニズムの一部である。工場では、我々には、労働者からは独立した生命のないメカニズムがあるばかり。労働者はその単なる生きた付属品であるにすぎなくなる。
本文注103 / ブルードンの驚嘆すべき思考はこんなところだ。彼は、機械を労働手段の合成物としてではなく、労働者自身に与えられる恩恵のための細目労働の合成物と「みなす」。
(9)「機械的な工程が何回も何回も行ったり来たりする中での、屈辱的な終りの無い決まりきった単調極まる骨折り仕事はシシュフォスの労苦のごときものである。疲れ果てた労働者の上に労働の重荷が、彼が積む岩の様に、止むこと無く必ず転がり落ちて来る。」*104
本文注104 / F.エンゲルス既出。並み以下で楽天家のモリナリ氏のごとき者でさえ、この程度のことは云う。「人は、日15時間も同一の機械の動きを見ていれば、彼の肉体的な力を同じ時間用いるよりも早く、疲れ果てる。この監視労働は、もしそんなに長時間にわたらなければ、精神的に有益な作業と場合によってはなるかもしれないが、長時間ともなれば過剰な使用により精神も肉体もともに破壊する。」(G.deモリナリ「経済学研究」パリ1846年)
(10)工場労働は、極限まで、神経系統を消耗させるとともに、同時に筋肉の多岐にわたる動きをも取り除き、ありとあらゆる自由の原子を没収する。*105 実際のところ、労働を軽減するはずのものがある種の苦痛の種となった。なぜならば、機械は仕事から労働者を解放したのではなく、様々な楽しみでもある労働を剥奪したのである。ありとあらゆる種類の資本主義的生産においては、それが単に労働過程のみならず、剰余価値の創出過程である限りは、この事を当然のこととしている。労働者が労働手段を使用するのではなく、労働手段が労働者を使用する。この転倒は工場システムにおいてのみ、初めて、学術的にも、知覚的にも実際の姿を得た。自動機械化されることによって、労働手段はその労働過程において、資本の形を取り、死んだ労働の形をもって、労働者の前にたちはだかり、生きた労働を搾り取る。手の労働から生産の知的能力部分を分離し、この能力を資本の労働支配の力に変換する。このことは既に見てきた通りであり、かくて、最終的に、機械の基礎の上に直立した近代工業によって完結された。取るに足りない労働者個々の特殊な技術は、科学・その巨大なる力の前には無限小量のごとく消えている。そして、労働の塊が工場メカニズムに実体化しており、それが一体となって、「主人」の力を構成している。従って、この「主人」の脳味噌の中では、この機械と彼のその独占が分かちがたく一体化しており、侮辱的に労働者に、次の様に吹く時はいつでも、その脳味噌と彼の「手」とが一致しない。
本文注105 / F.エンゲルス既出。
(11)「工場労働者は、ありがたく次なる事実を頭に入れて置くべきである。お前たちが持っている熟練した労働伎倆は本当にとるに足りない程度の低級なものである。これほど容易に獲得されるものは他にはない。その質から見れば、これほど多くの報酬を得られるものも他にはない。また云うならば、僅かな短期トレーニングの初心者でもこれほど早く、広く、求められる労働は他にはないだろう。….ご主人様のご機械様は、生産の商売において、はるかに重要な役割を実際に果しており、労働や労働者の伎倆とは比べものにならない。6ヶ月の教育でどの程度の労働者でも修得できるそんなものとは。」*106
本文注106 / 「紡績業者と工場手工業者のための防衛的基金委員会報告書」マンチェスター1854年我々は、これから後、このご主人が、彼の生きた自動機械を失う危機に直面すれば、全く別の歌を歌うのを必ず聴くことになろう。
(12)労働手段の一様な作動に対する労働者の技術的服従、そして、労働者大多数の特異なる構成、男女とあらゆる年令層の個々人からなる構成は、まるで兵舎的な規律を産み出し、それが工場における完全なるシステムとして凝固する。そしてさらに極限まで発展して、以前に述べた監督する役割をも産み出す。それによって、労働者は作業労働者と監督者とに分断される。産業軍隊内の一兵卒と軍曹に分断される。「主な困難[自動化工場における]は、….人間をして、彼らの散漫きわまる作業習慣を止めさせて、彼等自身を複合自動機械の不変の規則性に一致させるための訓練に、….にある。工場兵舎の要求に適した有効な工場規則を考案し、施行することは、あのヘラクレス的事業であったのである。その高潔なる達成となったのが、アークライト織機!であった。だが、システムが完璧に組織化され、その労働が最小限の軽きものに貶められている今日ですら、この方法によって人々を過去の青春期の工場の、あの使い勝手のよい手に、変換することは殆ど不可能と分かったのである。」*107 資本、私的な立法者であり、彼自身の善意のもとに、労働者に対する彼の専制が規定した工場法典は、責任の分担もなく、他はブルジョワジーによって承諾されるものばかりで、多くの者によって良く認められている代表的なシステムもなく、まさに、大規模な協働作業において必要となった労働過程の、当たり前ともなった労働手段の利用、特に機械の使用における社会的規範の資本主義的戯画である。奴隷監視人の笞に代わって監督者の違反記録簿がその位置を奪った。ごく自然に、全ての懲罰は罰金と賃金の減額に解消される。そして、リキュルゴス工場の立法者のとある才能は、彼の法を冒すことが、彼の法を守るよりも、できるならば、より利益が生じるように定める。*108 我々は、ここでは単に、工場労働が行われる上での物質的条件についてのみ触れることにする。すべての感覚器官は、どれも同じように痛めつけられる。人為的に操作された高い室温や、原材料の屑埃で充満した空気、耳をつんざくような騒音があり、過密に配置された機械の中、身体・生命への危険もまた云うまでもない。各季ごとの通例報告書は、産業戦争の死者・負傷者のリストを提示している。*109 社会的生産手段という経済体制はいはば工場システムなる温床によって成熟され、強行された。そして資本の手によって、システマティックな強奪手段ともなった。労働するときに労働者にとって必要なものを強奪した。空間の強奪、光、空気、そして危険きわまりなくそして不衛生きわまる生産工程の諸々から体を守るものを奪った。労働者の休み時間のための場所については云うまでもない。*110 フーリエが、工場を「調整された避寒地」というのは、間違っているのだろうか? *111
本文注107 / ユア既出アークライトの生涯を知る者は誰も、この天才理髪師を「高潔」とは決して呼ばないであろう。18世紀の偉大なる発明家達に関して云うならば、彼は論争の余地がないほどの偉大なる泥棒で、他の多くの人々の様々な考案を掠め取っただけの凡庸なる男であった。
本文注108 / 「ブルジョワジーがプロレタリアートを縛り上げる奴隷状態が、工場システム以上に、白日の眼にさらされることは他にはない。そこでは、あらゆる自由が法的にも事実上も完全に無くなっている。労働者は5時半には工場に入っていなければならない。もしも彼が二三分でも遅刻すれば、罰せられる。もし10分遅刻すれば、朝食が終るまでは工場に入ることが許されない。そして日賃金の1/4を失う。彼は命令の言葉に従って食べ、飲み、そして眠らねばならない。….絶対君主のベルが彼をベッドから起こし、朝食や昼食を知らせる。そして工場内ではどうなっているか?工場主が絶対的な法制定者である。彼は彼の好きなように規則を作る。彼は好きなように彼の法を変えたり、追加したりする。もしも彼がまったく馬鹿げた事項を挿入すれば、裁判所は労働者にこう言う。あなたはこの契約に自分の裁量をもって了承したのだから、今やあなたはそれを完全に実行しなければならない。….これら労働者は9歳から死ぬまで、この精神的・身体的な苦行の下に生きることを宣告されたのである。」(F.エンゲルス既出)ところで「裁判所の云うところ」について二つの例を描いて見よう。一つは、1866年末シェフィールドでの事である。その町の一人のある労働者がある鉄工所に2年間彼自身を仕事に従事させると契約した。ところが成り行きから雇用主ともめたので、彼は仕事を離れた。そして彼は、こんな事情ではそのような工場主のためには金輪際働かないと宣言した。彼は契約違反のかどで告訴され、2ヶ月の刑務所拘留の刑に処せられた。(もし、工場主が契約を破れば、民事訴訟で事足り、金銭的な決着以外にはなんの実害もない。)2ヶ月の務めが終ったのち、工場主は彼に仕事に戻り、かっての契約に従うようにと迫った。労働者は、自分は既に違反を償ったのでノーだと答えた。工場主は再び告訴した。裁判所は再び同じ判決をした。ただ前とは少し違っていた。判事の一人であるシー氏が、これは法律的におかしなことだと付記したのである。もしそう言うことになると、人は定期的に生きている限り、何回も繰り返してその一つの同じ違反や犯罪によって罰せられることになると。この判決はドッグベリー地区の「偉大なる無給名誉判事」によって下されたものではなく、ロンドンの最高裁判所の一つによって下されたものであった。−[ドイツ語版第4版で追加された分−こうした事は今では無くなり、公益ガス事業の件のような例外を除けば、英国の労働者は雇用主と同じ立場において、契約違反に関しては民事のみで告訴される。−F.エンゲルス]二つめのケースは、1863年11月末、ウィルトシェアーで起こった事である。ウェストベリーレィ地区のレオアーズの工場で布を織る工場手工業者であるハーラップなる者の一部に雇用された約30人の力織機の織工が、ストライキを起こして仕事を止めた。なぜかと云えば、ご主人様であるハーラップが、彼らが朝遅刻すると、彼らの賃金を減額するというご自分にとっては容易に合意し得る習慣に励んでいたからである。2分で6ペンス、3分で1シリング、そして10分で1シリング6ペンスの減額である。これらの減額分を時間換算すれば、時間あたり9シリング、日当分換算すれば、4ポンド10シリング0ペンスに該当する。織工の週当りの平均賃金が年を通して、10シリングから12シリングを越えることはないのにである。そして一方で、開始時間を笛で知らせる少年を指名した。少年は朝6時前にたびたび笛を吹いた。労働者がもしもその笛が止む時点でそこにいなければ、扉は閉じられ、扉の外にいる労働者は罰金を課された。その場所には時計はなく、不運なる労働者はハーラップに仕込まれた若き時間管理係りの合意的恩恵に浴することになる。ストライキに参加した、家庭の主婦も少女も、時間管理係りを時計に置き換え、もっと合理的な罰金算定法が導入されるならば、仕事に戻ると申し出た。ハーラップは契約違反のかどで、19人の婦人と少女を治安判事の前に呼び出した。傍聴者の大きな憤激に至る中、彼女たちにはそれぞれ罰金6ペンスと裁判費用2シリング6ペンスが科された。ハーラップは人々のブーイングにつきまとわれて退出した。工場手工業者の大好きな泥棒操作は、作業中の原材料取り扱いミスを理由に罰として労働者の賃金を減額することである。この方法は、1866年英国の陶業業地域で大きなストライキを引き起こした。児童雇用調査委員会報告書(1863-1866年)が示した内容はこう云っている。労働者は賃金を受け取れないだけではなく、彼が労働することによって、ペナルティ条項によって、彼のご大層なご主人によって、借金漬けとなる。と。最近の木綿恐慌の最中でもまた工場専制者の抜け目のなさを示す例は沢山並べて示されている。工場査察官のR.ベイカー氏はこう云う。「私自身、最近、ある綿工場占有主に対して、その場で、起訴手続きを取った。この恐慌の最中の苦しい時期に、医師の年令証明書代(工場主自身が支払った額は単に6ペンスなのだが)として、彼が雇った少年労働者から10ペンスを差し引いたからである。当時、法律によって許容されていた額は単に3ペンスであり、慣習的には何も差し引かれるものではなかった。….さらに私は別の者のことも知らされている。法によらず、同様のことを得ようとする者のことである。彼は、貧しい子供たちから、医師が仕事に適し、ふさわしい者であるとの証明書が届くやいなや、一人1シリングを子供たちから徴収する。彼等が綿紡績の技術と秘法を学習するための費用としてである。であるから、ストライキと云った様な異常な出来事に至る底流がここにある。至る所で彼等が決起するばかりでなく、現在のそうした特異なる状況ではいつでも発生する。」彼はここでは1863年の7月ダーウインで起こった力織機の織工たちのストライキのことについて言及している。(「事実に関する監視報告書1863年4月30日」)報告書は常に、公式の日付を越えて記録されている。
本文注109 / 工場法によってもたらされた、危険な機械からの保護は、有益なる効果を発揮した。「しかし….20年前には存在しなかった別の事故発生源がある。その一つは、まさに、機械の速度の増大である。車輪、ローラー、紡錘、梭等の動きは、今や加速され、加速度も増大し、指は切れた糸を拾い上げるために、素早く、かつ巧みに動かねばならない。もし、躊躇とか不注意があれば、指を持って行かれる。….多くの事故は、労働者の、仕事を手早くなしとげようとする熱心さによって起こる。工場主等の至上の命題は、このことはしっかりと頭に入れて置かねばならないことであるが、機械は常に動いていること、つまり布や商品を生産していることである。どの1分の停止も動力の損失ばかりでなく、生産の停止である。だから、労働者は監督から停止することなく仕事を続けることに駆り立てられる。監督者は、生産量しか関心がなく、機械を常に動かし続けることしか知らない。そしてまた、出来高の重量や個数で支払われる労働者にとっても、機械が動き続けるべきことが重要でないはずもない。それゆえ、多くの、いや殆どの工場では機械は動かしながら掃除すべきではないと厳しく禁じられているとはいえ、それにもかかわらず、殆どの日常的実施は、全てではないが、労働者は、それらの機構が動いている中で、屑を拾ったり、ローラーや車輪を拭いたり、等々を怒鳴られることもなく行う。このようなことからだけでも、6ヶ月間で906件の事故が発生した。….多くの清掃は毎日必ず行われているのであるが、しかも土曜日は通常機械の全清掃のための日として設定しているのであるが、多くのこの種の清掃作業は、機械を動かしている中で行われる。」何故かと云えば、清掃作業は支払われないし、労働者はできるだけ早くその仕事を済ませたいと思っているからである。故に、多くの事故は金曜日に起こる。そして特に土曜日には多くなる。他の曜日よりもかなり多い。前者は週始めからの4日間の平均と比較すれば、約12%以上多く、後者はその前の5日間の平均と比べて25%以上も多い。土曜日の作業時間も含めて計算すれば、−土曜日は71/2時間で他の日は101/2時間であるから−土曜日のそれは他の5日間の平均と比べれば、65%以上も事故が多い。」(「事実に関する査察報告書1866年10月31日」)
本文注110 / 本書第三巻の第一篇で、私は、最近、英国工場手工業者によって行われた、危険な機械から労働者を守る工場法の条項に対するキャンペーンの経緯を述べる積もりであるが、この時点では、レオナードホーナーの公式報告書の一節で十分として置こう。「私は、何人かの工場所有者が、いくつかの事故について許しがたい軽薄さをもって語るのを聞いたことがある。例えば、指の損傷など取るに足りない事であると。私は、このような思いやりのない話を聞いた時は、いつも次のような質問をすることにしている。あなたが追加の労働者一人を必要としているとしよう、二人が応募してきたとしよう、いずれの二人も様々な点から見て十分な素質を持っているが、一人は親指あるいは人指し指を失っていた、あなたはどちらの者を雇うだろう。答えに躊躇する者はいない。….」この工場手工業主達は、偽博愛主義的法律そのものと言われるものに対して誤った偏見を持っている。(「事実に関する査察報告書1855年10月31日」)これらの工場手工業主等は、賢き人達であり、理由もなく、奴隷所有者的な反逆に熱狂的に取り組んでいるはずもない。
本文注111 / 労働時間の強制的な制限やその他の規則をもって、最も長く支配した工場法にしばられる工場での、多くの古き乱用がここに至って消滅した。機械のまさにその改良が「ある程度の大きさの「改良された建物構造」を要求するからである。そしてこのことは労働者にとっても利益となる。(「事実に関する査察報告書1863年10月31日」を見よ。) 
第五節 労働者対機械の闘争

 

(1)資本家と賃労働者との闘争は、まさに資本の起源そのものの日に遡る。全工場手工業時代を通して荒れ狂った。*112 だが、労働者が労働手段そのものに、資本の物質的な化身に対して闘うことになったのは、機械の導入以後のことにすぎない。彼は、資本主義的生産様式の物質的基盤である、この生産手段の特異な形式に対して反逆した。
本文注112 / いろいろあるが、中でも、ジョンハウフトンの「農業と改良された商売」ロンドン1727年、「東インド貿易の利益1720年」、ジョンベラーズ既出等を見よ。「主人等と労働者達の、不幸な、互いに終りなき闘い。前者の不変の主題は労働者が行う労働をできるだけ安く獲得する事であり、この目的のためにはありとあらゆるごまかしを弄して失敗することがない。一方の後者は、同様に、彼らの主人に対してより高い要求に同意させようとあらゆる機会を狙っている。」(「現在の穀物の高価格の原因に関する研究」著者ナザニエルフォースター師は、しっかりと労働者達の側に立っている。)
(2)17世紀、ほとんど全ヨーロッパは、リボン織機や縁飾りを編む機械に対する労働者の反逆を経験した。ドイツでは、バンド編み機、レース編み機、椅子飾り編み機(ドイツ語Bandmuhle,Schnurmuhle,andMuhlenstuhl)と呼ばれる。これらの機械はドイツで発明された。アッベランチェロッティは、1636年にベニスに現れたこの機械について次のように語っている。但しこれが書かれたのは1579年のことであった。
(3)「ダンチッヒのアンソニーミュラーは、この町で約50年前、一台の非常に独創的な機械を見た。その機械は4本ないし6本のレースを一度に編んだ。しかし町長は、その発明が多くの労働者を街頭に投げ出すことになるだろうと考えて、発明者をこっそりと絞め殺すか溺死させることにした。」
(4)ライデンでは、この機械は1629年までは使われなかった。リボン織工達の暴動が、とうとう町議会がそれを禁止するまでに追い詰めた。
(5)ライデンへのこの機械の導入に関して、ボクスホルン(政治制度1663年)はこう述べている。「この町では、約20年前、ある者等が一つの織機を発明した。たった一人で多くの布を簡単に織ることが出来る。多くの者が同じ時間を掛けて織るよりも多くの布を織る。その結果、織工たちの騒動と抗議が、町議会が最終的にこの機械の使用を禁止するに至るまで続いた。」
(6)この織機に対する更なる禁止条項が、1632年、1639年、その後にも作られた後、オランダ国家は、1661年12月15日、一定の条件の下で、その使用をついに法令によって許可した。1676年のケルンでもまた禁止された。同じ時期、英国への導入は労働者の間に混乱をもたらした。1685年2月19日の皇帝勅令によりその使用は全ドイツ領において禁止された。ハンブルグでは、議会の命令によって公衆の前で燃やされた。1719年2月9日カール6世は1685年の勅令を更新し、1765年ザクセン選帝侯領で一般に許可されるまで禁止されていた。ヨーロッパの基盤を揺るがしたこの機械は、事実、ミュール紡績機や力織機への先駆的な機械であり、18世紀の産業革命の推進力となった。この機械は、その改良された型は、全く経験もない少年をして、全ての織機に全てのシャトルをセットして、ロッドを単純に前後させることによって、忽ちのうちに40から50ピースの生産物を作り出すことができたのである。
(7)1630年頃、オランダ人によってロンドン近郊に設立された風力製材工場は、大勢の人々によって廃止に追い込まれた。18世紀の初めが過ぎる頃ですら、水力製材工場は、議会の支援があったにもかかわらず人々の反対をなんとか凌ぐのに、非常に困難が伴った。エバレットが最初の水力による羊毛の剪毛機を設置するやいなや、仕事から放り出された人々10万人によって火をかけられた。以前には羊毛の梳毛で生計を立てていた5万人の人々は、アークライトの荒梳機や梳毛機に反対して議会に陳情した。英国工場手工業地域において、この18世紀初頭の15年間にも渡る、大規模な機械破壊は、主に、力織機の使用によって引き起こされた。ラッダイト運動として知られるところである。これらの機械破壊運動は、シドマスやカッスレー及びそれら地方の反ジャコバン派政府に、強烈に反動的かつ暴力的な弾圧手段をとる口実を与えることになった。労働者達が機械と資本による機械の使用との違いを明確に学ぶには時間と経験を要した。そして明確に、生産機械を直接攻撃するのではなく、それが使用される様式に対して戦うことと知ったのである。*113
本文注113 / 旧式な工場手工業では、労働者の機械に対する反乱が、今日ですら、時々、野蛮な形を取る。1865年に起こったシェフィールドのやすり工場の場合がその一つである。
(8)工場手工業内での賃金闘争は、工場手工業を前提条件としており、そこにはその存在そのものに反対すると言う直接的な視点はない。新たな工場手工業の立地への反対は、ギルドや特権を持つ町によるもので、労働者のものではない。従って、工場手工業時代の著者達は、分業を、主として、労働者の不足を補う実質的な手段として取り上げ、現実には労働者を仕事から駆逐する手段となっていることを取り上げない。この視点の落差を指摘すべきは必然必至である。仮に、英国において、今ではミュール紡績機によって50万人で足りる綿を、旧式の紡車で紡ぐとしたら1億人の人々が必要であると言うならば、このことは、ミュール紡績機がかって存在もしなかった9,950万人に取って代ったと言うことを意味してはいない。単に紡績機械に替ってもそれなりの数の労働者が必要となるだろうと言う意味に過ぎない。他方、もし我々が英国において、力織機が80万人の織工を路頭に投げ捨てたと言うならば、当該の機械は一定数の労働者と置き換えられるであろうと述べているのではなく、その力織機によって実際に転職させられるか解雇されるであろう実在の労働者のことを述べているのである。工場手工業時代の期間においては手工の労働は、分業によって置き換えられたとはいえ、依然としてその基礎を成している。新たな植民地市場の要求を満足させることは、相対的には小さな町の労働者が中世から受け継いだ技ではできなかった。大手の工場手工業主達は、封建制度の解体によって土地から放り出された農業地域の人々のためにと新たな生産分野に進出した。そのため当時は工場内における分業や協同作業は肯定的な面がより強く評価された。労働者達をより生産的にしたからである。近代工業の時代のずっと以前、僅かな者の手に協同作業と労働手段の集約が生じ、そしてその方法が農業に活用された多くの地域では、大規模な、急激で、強制的な生産様式の革命が起こった。そしてその結果、生存条件や地方の大勢の人々の雇用手段にもそのような革命が生じた。しかし最初に起こったこの闘争は、資本と労働者間に生じた闘争と言うよりは、大規模な地主と小さな土地の小地主の間に生じた争いと云えた。一方、労働者が労働手段である羊や馬やその他によって仕事を奪われた場合では、その反対運動がまず最初に産業革命への前段を形成した。労働者たちが最初に土地から追い出された。そして羊がやって来た。英国で行われたような大規模な土地の強奪は大規模農業の確立局面を作る最初の段階なのである。*115 それゆえに、この農業破壊はその最初においては、むしろ政治的革命の様相を呈する。
本文注114 / ジェームススチュアート卿もまた、全くこの意味に機械を理解している。「従って、私は機械を(事実上)養う必要のない労働者を作り出す手段と考える。機械とそれに見合うこの新たな労働者との違いは何か?」固執狂的なのはペティである。彼は、機械は「複婚」を解消すると言う。このような見解を容認するのはせいぜい合衆国のある地方のみである。別の見方についても見ておこう。「機械は一人の個人の労働を短縮することに成功するように使用されることはほとんどできない。その利用によって節約される時間よりも、その製造のためにより多くの時間が使われる。機械が唯一有用なのは、大勢の人々に働きかける時で、一台の機械が大勢の労働を助ける場合だけである。であるから、人口が非常に多い地区で、怠け者が沢山居て、最も失業者の多いところで使われる。…..機械は、人が少ないことから使われるのではなく、大勢の人を働かせるための道具として使われるのである。」(ピアシーラベンストーン「資金調達システムとその効果に関する思考」ロンドン1824年)
本文注115 / [ドイツ語版第4版への注:---ドイツでも同じことが云える。我国ドイツでも大規模農業が存在する。これらは、特に東部では土地を清浄化する(黒い血を排除する)ことによってのみ可能となった。このやり方は16世紀には広く行われ、1648年以降は特に激しかった。F.エンゲルス]
(9)労働手段が、機械の形式を取るならば、それは立ちどころに労働者にとっては競争相手となる。*116 機械による資本の自己拡大は、それ以後、直接的に、その機械によって生活手段が破壊された労働者の数に正比例する。全資本主義的生産システムは、労働者が彼の労働力を商品として売るという事実で成り立つ。分業はこの労働力をある特定の道具の取り扱い技能に縮小することによって専門化する。この道具の使用が機械の仕事になれば、どうなる。労働者の労働力は使用価値も交換価値も共に消える。労働者には売るものがない。丁度、紙幣が法律改正によって流通から外され、紙屑となるようにだ。そのように機械によって余剰となった労働者階級の一部は、すなわち、資本の自己拡大のために忽ちにして不要となった部分は、古き手工業や機械を使うものの古き工場手工業の不安定な競争条件・賃金の壁の中に行くか、より容易に入れる産業部門へと溢れ出るか、労働市場に淀む。そして労働力の価格はその価値以下に下がる。この状況は、労働者に、まず第一に、この災難が単に一時的(当座の不便)なものであるというごく普通の希望的観測を広げる。第二には、機械はその与えられた生産領域全体を確保はするが、少しずつで、その破壊的な広がりと激しさは先細りとなるだろうという希望的観測である。最初の希望的観測が第二の希望的観測を無に帰する。機械が少しずつ産業領域を捉える時、それと競合する労働者には、長期的な窮乏状況が生じる。機械への転換が急激な地域ではその影響は深刻で、大勢の人間が影響を受ける。歴史が示したこれ以上の悲劇はない。英国の手織り工達に降りかかった徐々に進行する絶滅以上の悲劇はない。数十年もかけて絶滅は進行し、1838年に終止符を打った。多くの者が飢死した。多くの家族が日21/2ペンスでくる日もくる日も命をつないだ。*117 もう一つの面で、機械による英国綿織物業は、激烈な影響をインドに造り出した。インド総督は、1834-35年に次のような報告をした。
本文注116 / 「機械と労働は常に競争関係にある。」リカード既出
本文注117 / 英国に於ける手織りと機械織りとの間の競争は、1833年の救貧法が議会で承認される以前は、大きく最低限を下回った賃金を教区の補助金が多少の補足をすることで、長引くことになった。「ターナー師は、1827年工場手工業地区であるチェシャー地区ウイルムスローの教区牧師であった。転出移住に関するの委員会の質問と、ターナー師の回答は、機械に対する人間の競争がどのようにして維持されたかを示す。"質問:力織機の使用が手織機の使用を駆逐しなかったのか?回答:確かに。もし、手織り工達が賃金の減額に応じなければそれ以上に駆逐したであろう。質問:しかし、彼の生活を支えるに足りない賃金額を受け入れたことと、その不足分を小教区の給付が支えているということか?。回答:その通り。事実、手織りと機械織りとの間の競争は救貧税の支給によって維持されている。"この様な屈辱的な生活困窮者を続けるか、国外に移住するかが、機械導入から勤勉なる人々が受けた恩恵なるものである。自らの尊厳をあきらめ、それなりの独立した技能者であることをあきらめ、慈善の品質の悪いパンのためにへつらう恥知らずとして生きる恩恵とは。これが、彼らの言う当座の不便なのである。」(「懸賞論文競争と協同作業の利点に関する比較」ロンドン1834年)
(10)「この悲惨さは、商業史において、同様のものを見出すことはできない。綿手織工の白骨がインド平原を漂白している。」と。
(11)まさに文字通り、この束の間の現世からの彼等の追い出しは、「当座の不便」以上のものを彼等にもたらしてはしていない。このこと以外で云うならば、機械が新たな生産領域を確保すれば、その当座的な影響は、実際には永久的な影響となる。この様にして、資本主義的生産様式の独立した、他を寄せつけない性格が、全体として労働手段や生産物に係わり、労働者をはじき出して、機械によって発展させられて、絶対的な敵対物となる。*118 従って、機械の出現により、初めて、労働者は労働手段に反対して獣のように反逆するのである。
本文注118 / 「国の収益を増加させるであろう同じ原因」(すなわちリカードが同じ文節で説明しているようにその収益とは、地主や資本家の収益であり、彼らの富が、経済学的視点から、国家の富を形成する。)「その同じ原因が、同時に、人口を過剰にし、また労働者の生活条件を悪化させるかもしれない。」(リカード既出)「機械のあらゆる改良の変わらぬ目的と傾向は、事実、人の労働をことごとく不要にする。または、その価格を低下させる。成人男子の労働を婦人や児童の労働に置き換え、熟練労働者のそれを非熟練労働者の労働に置き換えることによってその価格を低下させる。(ユア既出第1巻第1章)
(12)労働手段が労働者を打ちのめす。この両者間の直接的な対立は、新たに導入された機械が手工業や工場手工業と競い、その古き時代に引導を渡す時はいつでも最も強烈なものとなる。さらに同様、近代工業の内部においてさえも、機械の絶え間なき改良と自動化システムの進展が類似の対立をもたらす。
(13)「改良された機械の目的は、手の労働を減らすことであり、人間器具に代わって、鉄を用いて、工程を遂行し、工場内の各連結を完成させることにある。」*119 「これまでは手によって動かされていた機械への動力の採用は、殆ど日常的な事柄であり、….動力を節約したり、生産方法を改良したり、同一時間内により多くの物を作り出したり、子供、婦人、成人男子の仕事にとって替えたりといった小さな改良が機械には常に生じている。時には、あまりたいしたことではないものが、かなり重要な結果をもたらすことがある。」*120 「ある工程が特別なる手の器用さや定常性を求める時はいつでも、様々な不安定要素を持った小賢しい労働者の手からできるだけ速やかに取り上げて、子供でも監視できるような自動補正メカニズムを持った装置に置き換える。*121 「自動化計画が、漸次、熟練労働者にとって替る。」*122 「機械改良の効果は、以前と同じ数の成人労働者の雇用の必要性を排除するのみでなく、ある結果を作り出すことにある、一つの明確なる人間の労働を他のものと置き換え、熟練工を非熟練工に、大人を少年に、男性を女性に。この事が、賃金体系にあらたな変動をもたらす。」*123 「普通の紡績機を自動紡績機に置き換えることによる効用は、成人男子紡績工の大部分を解雇して、若年者や児童を雇うことにある。」*124
本文注119 / 「事実に関する工場査察報告書1858年10月31日」
本文注120 / 「事実に関する工場査察報告書1856年10月31日」
本文注121 / ユア既出「煉瓦製造に使用される機械の大きな利点は、次のような点にある。すなわち、雇用者を全く熟練労働者から独立させることができる。」(「児童雇用調査委員会第5次報告書」ロンドン1866年)グレートノーザン鉄道の機械部門の監督であるA.スタロック氏は機関車その他の製作に関して、こう言う。「賃金の高い英国の労働者は日々に使われることが少なくなっている。英国の工場での生産は、改良された道具の使用によって増加しており、これらの道具は低級労働者によって一層使用される。….以前はそれらの熟練労働者がエンジンのあらゆるパーツを生産するのに必要であった。いまではそのエンジンパーツは低技能労働者によって、但し、良き道具によって作られる。私が道具と云っているのは、エンジニアが使う機械のことで、旋盤、平削り盤、ドリル等のことである。」(「鉄道に関する王室委員会」ロンドン1867年証拠細目ナンバー17,862及び17,863)
本文注122 / ユア既出
本文注123 / ユア既出
本文注124 / ユア既出
(14)積みかさねられた実地の経験や、既に獲得している機械的手段や、絶え間ない技術の進歩等に起因する工場システムの拡大という異常とも云える大きな力は、労働日短縮の圧力下、そのシステムの大きな進展を見せつけることで我々にはっきりとその実力を認識させた。だが、1860年、英国綿産業の絶頂期に、その後の3年間に、アメリカ市民戦争の刺激を受けて、生じた機械改良の急速な進展とそれに伴う労働者の解雇は、誰が予想したであろうか?この点に関しては、工場査察官の報告書から二三の例を挙げれば十分であろう。あるマンチェスターの工場手工業主はこう述べている。
(15)「我々は以前は75台の梳綿機を持っていたが今では12台だ、それで同じ量の生産をしている。労働者は14人で、週10ポンドの賃金を節約できている。我々は屑綿量を綿消費総量に対して約10%程度に減らしていると見ている。」「マンチェスターの別の細糸紡績工場で、私はこう言われた。増速され、かつ、ある自動化工程の採用によって、ある部門では人数を1/4減らすことができた。他では1/2以上も。そして第二梳綿機(secondcarding)に替えて新梳綿機(combingmachine)の導入で、以前梳綿機室で雇用していた人数を、大きく減らすことができた。」
(16)別の紡績工場では、労働者の節約効果は10%と見積もっている。マンチェスターの紡績業者ギルモア氏はこう言う。「ボイラー室部門では、我々は、我々の出費を新しい機械にすることで、賃金も人数も完全にその1/3を減らせると考えている。….抜き型染めや描き染め室では、約1/3出費を減らした。そしてその上に労働者数をも1/3減らした。紡績室でも約1/3出費を減らした。しかしこれだけが全部ではない。我々の撚糸が工場手工業者の所に行けば、我々の新しい機械で作ったものが、よりよい結果をもらたす。より大量の布を生産したり、古い機械で作った撚糸よりも安く生産することができるであろう。*125 レッドグレーブ査察官は、この同じ報告書でさらなる記述をしている。
本文注125 / 「事実に関する査察報告書1863年10月31日
(17)「生産の増大に対して労働者の減少は、実際に、絶え間なく起こっている。羊毛工場では少し前に削減が始まり、今も続いている。二三日前、ロッチダール近隣にある学校の校長は私にこう述べた。女子校での大量の退学はこの不況によって生じたものではなく、羊毛工場における機械の変更によるもので、その結果70人の短時間工が解雇された。*126
本文注126 / 前出 綿花恐慌の期間にも、機械の改良が急速に進んだが、アメリカ市民戦争の終結後忽ちにして、殆ど直後から世界の市場に商品を溢れさせた。布は、1866年の最後の6ヶ月間は、殆ど売れなかった。そこですぐに商品はインドや中国に転送された。当然ながら忽ち市場に溢れかえった。1867年の初め、工場手工業主等は、この困難をなんとかするために、いつもの手を取りだした。すなわち、賃金の5%減額である。労働者達は抵抗し、唯一の治療策は、週4日への労働時間短縮であると主張した。彼らの理論は正当なるものであった。かなりの時間が経過した後、産業の自選代表者等は、労働時間短縮を、賃金減額を伴うにしろ伴わないにしろ、受け入れると心を決めざるを得なかった。
(18)次の表は、アメリカ市民戦争に起因するところの、英国綿産業における機械改良の全結果を示す。
表工場数力織機台数紡錘数雇用者数の推移 (略)
(19)この表から分かるように、1861年から1868年の間に、338ヶ所の綿工場が消失した。他の言葉で云えば、より生産的な大きな規模の機械が少数の資本家の手に集中されて、多くの力織機が減少した。その減少台数は20,663台。しかし彼らの生産物は同じ期間内で増加しているのであるから、一台の改良された力織機は古いもの以上に生産を上げたことになる。最終的には、雇用者数が51,505人減る一方で紡錘数は1,612,547個も増大したのである。綿恐慌が「一時的」な困窮を労働者押しつけたが、それが一層ひどいものとなった。一時的なものは永久化したからだし、機械の急速な絶え間なき進歩が続いたからである。
(20)確かに、機械は常に労働者を不必要にする巧みな作業方という労働者の競争相手を演じるが、単にそれだけではない。彼に敵対する力でもある。そのように、資本はそのことを屋根の天辺から公言してはばからず、またそのように使用する。資本の専制に抗議する労働者階級の定期的な反乱、ストライキを抑圧する最も強力な武器である。*127 ガスケルによれば、蒸気エンジンはことの初めから人間力に対する敵対物であり、資本家をして、新たに生まれた工場システムを危機に至らしめる労働者の増大する要求を足で踏みにじることを可能にした敵対物なのである。*128 1830年以後の発明については、労働者階級の反乱を鎮圧する武器を資本に供給するだけの目的のためになされたという歴史を書くことができるやも知れない。この歴史の最初で重要なことは、自動紡績機の登場である。なぜならば、自動機械という新しい時代の扉を開いたからである。*129
本文注127 / 「手吹き硬質ガラス瓶業の主人と労働者の関係は、慢性的なストライキ状態にある。」その結果として工場手工業主にはプレス式瓶製造法への転換が勢いとなる。そこでの主作業者は機械なのである。ニューカッスルのある工場では以前、350,000重量ポンドの手吹き硬質ガラス瓶を生産していたが、いまではそこで、3,000,500重量ポンドのプレス式硬質ガラス瓶を生産する。(「児童雇用調査委員会第四次報告書)1865年」
本文注128 / ガスケル「英国の工場手工業人口」ロンドン1833年
本文注129 / W.フェアバイルンは、彼自身の工場でのストライキに直面した結果、機械構築のための極めて重要なる器具のいくつかを発明したのであった。
(21)蒸気ハンマーの発明家であるネイスミスは、業界労働組合委員会で、彼が機械に施した改良や、1851年の技術者達の広くかつ長期のストライキの影響を受けて行ったことなどについて、次の様に証言をした。
(22)「我々の近代的機械改良の際立った特徴は、自動化道具機械の導入である。全ての機械労働者が今日しなければならないことは、全ての子供たちができることである。彼自身が仕事をする分けではなく、機械の素晴らしき労働を見守ることである。彼らの技能に依存していた全労働者階級は、今では、その技能と共に追い出された。以前は、私は全ての各機械工に4人の少年を雇用していた。この新たな機械の組み合わせに感謝するのだが、私は成人男子工を1,500人から750人に減らした。その結果はまことにもって、利益の大きな増加を私にもたらした。」
(23)ユアは、更紗捺染で使われる機械についてこう云う。
(24)「遂に、資本家達はこの我慢ならない屈従[即ち、彼らの目には、彼等が労働者たちと交わす煩わしい契約条項のことであるが]から抜け出す方法を、科学の利用に見出し、そして彼らが正統とする支配を急速に再興したのである。下の階級の者どもに対する頭の地位を確保したのである。」
(25)縦糸に糊づけする機械の発明については、こう云う。
(26)「その結果、古き分業前線陣地という難攻不落の塹壕の中にいると思っていた、不平結合連中が、連中の横腹に、新たな機械の戦術を受けて、彼らの防御が無効なものとなり、無条件降伏する他ないものとなったのを知ったのである。」
(27)自動ミュール紡績機の発明については、彼はこう云う。
(28)「産業における各階級に秩序を回復するよう運命づけられた創造物であり….この発明は、資本が科学を彼女の活動に徴兵する時、手に負えない労働者は常時従順を教育されることになるであろうという既に提出された偉大なる学説を確認するものである。」*130
本文注130 / ユア既出
(29)ユアの著作が登場したのは30年も前のことで、工場システムは今と較べるならば、殆ど発展しては居なかったのであるが、工場のなんたるかをすでに完璧に表現しているのは、あからさまな皮肉屋の故のみではなく、資本家的頭脳の愚かな自己矛盾をうっかりしゃべるという純朴さの故でもある。例えば、上に述べたような「学説」つまり資本が、科学の助けにいくらかを支払うことによって、いつも手に負えない労働者をおとなしくさせたというものだが、それを提出した後に、彼は憤慨を禁じ得なかった。なぜならば。
(30)「それが(機械物理学)が、それ自体が、貧乏人を困らせる道具として、富裕な資本家に手を貸すと非難された。」からである。
(31)労働者階級にとって、急速な機械の発展がいかに有益かという説教をながながと力説した後、彼は彼等に警告した。彼らの頑迷さとストライキが、その発展を早めたと。
(32)彼は云う。「暴力的な反乱へと向かうその気質こそ、自らを苦しめる浅はかな人間の卑劣なる特徴を示すものである。」
(33)その二三ページ前では、彼は正反対のことを云っている。
(34)「工場労働者に見られる誤った見解に起因する暴力的な衝突や妨害がなかったならば、工場システムはより以上に急速に発展し、全ての関係者にとってより有益なものとなったであろう。」そして、彼は再び叫ぶ。「幸いにして、英国の綿工業地域社会においては、機械に関しての改良は緩やかである。」「それは(機械の改良は)成人労働者のある部分を解雇し、彼らの賃金率を低下させ、またその結果として彼らの数を彼らの労働需要数に較べて過剰足らしめる。明らかにそれは児童の労働需要を増加させ、彼らの賃金率を増加させる。」
(35)その一方で、この同じ慰め係りが、両親をして彼らの子供たちを早々に工場には送り出さないようにさせる程の子供たちの低賃金を擁護する。彼の著作の全体が、無制限労働日の擁護論なのである。すなわち、議会が日12時間労働によって13歳の子供たちを使い切ることを禁止すべきと云う時、彼の自由な魂には中世の暗黒の日々が思い出されるようだ。かくて、彼は、工場労働者に向かって、神のご意志に感謝するよう呼びかけることに躊躇がない。機械が彼等に与えた「永遠の利益」という自由なる時間のことを考えても見よと。*131
本文注131 / ユア既出 
第六節 機械によって解雇された労働者に対する補償説

 

(1)ジェイムスミル、マカロック、トレンズ、シーニョア、ジョンステュアートミル、そしてこの系列に並ぶ全てのブルジョワ政治経済学者は、労働者を解雇するすべての機械について、同時に、そして必然的にその同じ解雇された労働者を雇用するに十分な大きさの資本を自由に使えるように準備しているはずと云って、そのことに固執する。*132
本文注132 / リカードは、元々はこれと同じ意見であったが、後になって、科学的な公平さと真理を愛する彼の性格から、この見解を明確に否定した。既出第31章「機械に関して」を見よ。
(2)どう言うことをいわんとしているか考えて見よう。ある絨毯工場で一資本家が一人当たり年30ポンドの賃金で100人の労働者を雇用すると想定してみよう。年間の可変資本は従って、3,000ポンドが計上される。そしてここで、50人の労働者を解雇すると想定して見よう。そして残った50人の労働者を雇用し、資本家が支払った1,500ポンドの機械がそこにあるとしよう。計算を簡単にするために、建物や石炭他を勘定には入れないことにする。さらに、年間3,000英ポンドの原材料を使用するが、条件変更以前も以後も同じとしておこう。*133 この資本の変成によって、自由に使えるように準備された資本は本当にあるのか?変成以前の資本総額は、6,000英ポンドうち半分が不変資本で、あとの半分が可変資本である。変成後は、4,500英ポンドの不変資本(3,000英ポンドの原材料と1,500英ポンドの機械)、それと1,500英ポンドの可変資本である。可変資本に関して云えば、半分に代わって全資本のわずか1/4になった。自由に使えるように準備されたものに代わって、その資本の一部は、ここでは、労働力に対して交換されることを止めていわば固まってしまった。労働力に用いられる可変資本は固定資本に変えられている。他になにも変わらないならば、6,000英ポンドの資本は、将来50人以上の労働者を雇用することはできない。機械の改良の度に雇用者数はより少なくなる。仮に、新たに導入された機械が、それによって置き換えた労働力や道具よりも費用が安すければ、もし例えば、1,500英ポンドに代わって、僅か1,000ポンドになるとすれば、可変資本1,000ポンドは不変資本に転化され、そして500ポンドが自由に使えるものとしてそこにある。 (余談で触れる)賃金が変わらないとすれば、後者の総額は、解雇された労働者50人の中の16人を雇用するに足る基金を形成するであろう。いや、資本として雇用されるためには16人以下であろう。この500ポンドのある部分は雇用のためには、直ぐに不変資本とならざるを得ない。かくて労働力用として残されたものは僅かな部分のみである。
本文注133 / 注意せられたし私が取り上げているこれらの内容は、上に名前を挙げた経済学者達によって書かれたものなのである。
(3)これとは違うが、他の点についても考えて見よう。新しい機械の製作が大勢の機械工の雇用をもたらすだろうか。それが街頭に投げ出された絨毯織工を救済する補償と呼べるものだろうか?どんなに多く見積もっても、機械製作の雇用者数は解雇した労働者数より少ない。前の話で見て分かるように、解雇された絨毯織工の賃金総額は、1,500ポンドは、今では機械の形として存在している。(1)その一部は機械製作のために使用された生産手段の価値として、(2)その製作に雇用された機械工の賃金、(3)「ご主人様」の取り分として消えた剰余価値として存在している。さらに云えば、機械は寿命が尽きるまでなにも新たにする必要はない。従って、増加する機械工を常に雇用するためには、絨毯工場主等は、次から次と機械によって労働者を解雇せねばならない。
(4)本当のところ、この弁護論者達は、これを、自由に使えるものを準備する(余談で)とは考えてはいない。
(5)彼等は心の中では、自由にされた労働者の生存手段のことであると知っている。上の例で分かるように、機械は単に50人の人を自由にするだけではなく、他の誰でもが自由に使える者にするだけでなく、云うまでもないが、同時に彼らの消費を止めさせる。そして全くの自由なる者とされる。1,500ポンドの生存手段から自由な者とされる。このことを否定することはできはしない。新しくもない単純な事実は、機械は労働者達を彼等の生存手段から切り離す。従って、経済学的専門用語で同等の内容を表せば、機械は労働者の生存手段を自由にする。または、これらの手段を彼の雇用という名の資本へ組み込む手段に転化する。お分かりのように、表現様式と云うだけのこと。大した顎がなんでもを柔らかくして見せる。
(6)自由に使えるものとして準備された云々なるこの理論は次のことを言おうとしている。つまり、生活手段の価値1,500ポンドは解雇された50人の労働によって拡大されるはずの資本であった。であるから結果として、その資本は資本の休日状態を強いられるやいなや雇用局面から脱落する。だが、新たな投資先を見出すまでは休まるものではない。再びこれらの同じ50人を生産的に消費できるような投資先を求め続ける。従って、遅かれ早かれ資本と労働者は必ず再会せねばならない。そこで、だから、補償は完成する。つまり、機械によって解雇された労働者達の受難は、この世の富者達の世界と同様、一過性のものである。
(7)解雇された労働者達から見れば、この1,500ポンドなる生活手段の価値は、資本であるはずもない。実際に労働者にとって資本として直面しているものは、今やそこに鎮座する総額1,500ポンドの機械であった。もっと詳しく見れば、この総額は50人の解雇された労働者によって一年間で生産される絨毯の一部を意味しており、労働者が現物に代わって貨幣で雇用主から賃金として受け取る部分であった。彼等は貨幣形式の絨毯でもって1,500ポンドの価値となる生活手段を購入した。と、見えてくるであろう。であるから、これらは、彼等にとっては、資本ではなく、商品を意味する。そしてこれらの商品に関して云えば、彼等は賃労働者達ではなく、買い手達なのである。機械によって自由にされた、購入手段から自由にされた彼等の状況が、彼等をして、買い手から、買い手にあらざる者・買えない買い手・名ばかり買い手に変えた。かくて、それらの商品の需要も減る。---さらに航路が続く。もしこの需要縮小が他のどこかからの増加によって補完されなければ、商品の市場価格は低下する。もしこの状況がしばらく続くならば、そして広がるならば、これらの商品を生産するために雇用された労働者の解雇が始まるだろう。以前から必要なる生活手段の生産に取り組んでいた資本のいくつかは、別の形の生産を余儀なくされよう。価格が低下し、資本が転出を余儀なくされている間は、必要な生活手段の生産に雇用されている労働者達が、彼等の賃金部分から「自由にされる」と言う順番になる。従って、機械が労働者を彼の生活手段から自由にする時、同時にこれらの資本が自分等のより一層の雇用に変換されると云うことを証明することに代わって、我が弁護者達は、全く逆に、月並みの需要と供給の法則を用いて、機械が労働者達を街頭に投げ出すのは、機械が導入された生産部門のみではなく、機械が導入さてもいない諸部門もであることを証明する。
(8)経済学者の楽観論によってでっちあげられたものの真実の方は以下の通りである。機械によって作業場から追い出されると、労働者達は、労働市場に投げ入れられる。資本家達の使い捨て労働者数の上に加えられる。この本の第7篇では、ここに示されているような労働者階級への補償があると云う、機械によるこの影響が、それとは全く逆に、最も恐ろしい笞となることを読むことになろう。ここでは私は単に次のように云うに止める。産業のある部門から投げ出された労働者達は、なんの制約もなく、他のある部門に職を捜すことはできる。もし、彼等がそれを見つけたならば、そして彼等と自分達の生活手段との間に新たな連結が生じるとしたら、それは新たなそして追加的に加わった、投資先を求めていた資本を介して成されたものであって、以前彼等を雇用していた資本によるものでも、その直後に機械に転化された資本によるものでも全くない。そして職を見つけた者の目にする状況のなんと貧弱極まることか!分業によってかたわにされたこれらの貧しき変人達は彼等の以前の仕事以外では殆ど価値がない。彼等はいろいろな産業で実力を示すことはできず、誰にでもできるような仕事しかない。つまりは僅かな賃金に甘んずるその他大勢の労働者となる。*134 さらに、毎年、あらゆる産業部門は新たな人の流れを引き起こす。その者達は欠員を補充したり、拡大のための必要を満たすための予備的人員となる。産業のある部門で、機械が、雇用していた労働者を自由に放り出すやいなや、予備的人員群もまた新たな雇用の通路に細分化されて、他の部門に吸収される。だが一方、最初の失業者の殆どは、この転換期間の間に、飢えて消え去る。
本文注134 / リカード派のある弟子は、J.B.セイのこの無意味な論述に対して、次のように述べた。「分業がよく発達したところでは、その労働者のその技能はそこで獲得した特殊な部門でしか役には立たない。彼がいはばそんな機械なのである。従って、ものごとには彼等の技能レベルを見つけ出す傾向があると云う一文句を鸚鵡のように繰り返してもなんの助けにもならない。我々の回りを見れば、いつまでたっても彼等が彼等の技能レベルを見出すことができず、見つけたとしても、そのレベルは彼等がその工程を始めた頃よりも常に低級であることだけはしかと知っている。」(「自然の要求に関する諸原理の考察)他ロンドン1821年)
(9)云うまでもなく、機械はその様に、労働者をして彼の生活手段から自由にしてしまう様なことについては、なんの責任もない。機械は、その部門の生産物の価格を安くし、生産物の数量を増やすが、他の部門で生産される生活手段の量を直ぐには変化させない。かくて、機械が導入された後も、その社会は、より多くはならないかもしれないが、以前と同じ量の生活必需品を、街頭に投げ捨てられた労働者の分をも含めて保持している。労働者以外の者によって浪費される年間生産物の巨大なる量を全く別にしてもである。そしてこのことが、我等が経済学的弁解者達の寄り掛かる論点なのである!機械を資本家的に用いることから切り離すことができない矛盾や対立を、彼等は、そんなものは機械から生じることはないのだから、あり得ない、と云うのである。だがそれこそ資本家的使用から生じる他には生じはしない! かって機械は独力で労働時間を短縮する存在と見なされていた。しかし、資本の御用ともなれば、それを延長する。かって機械はそれ自体で労働を軽減すると考えられたが、資本に用いられれば労働の強度を高める。かって機械はそれ自体、自然力を超える人間の勝利であると見られたが、資本の手に掛かれば、人をしてそれらの力の奴隷とする。機械はその存在自体で、生産者の富を増大させると見なされたが、資本の手の中にあっては、生産者を困窮者にする。これらの根拠や他の諸関連を目の前にしながら、ブルジョワ経済学者達は、なんの思別もなく、こう言う。これらの全ての矛盾は単なる実体の外観であり、事実として、現実的存在でも理論的存在でもないことは白昼日を見るごとく明らかである。と。かようにして、彼等は彼等の頭脳をさらなる難問から救出する。そして、あろうことか、彼の敵対者に対してついつい云うつもりもなしにこう宣告する。お前等は資本家的機械使用と戦うのではなくて、機械そのものと戦う大馬鹿ものだ。と。
(10)疑うまでもなく、ブルジョワ経済学者は、今日の不合理な状況が機械の資本家的使用から生じているであろうことを否定はしない。ところで、裏のないメダルなどどこにあると云うのだ!彼にとっては、いかなる機械をも資本以外が使用することなどあり得ない話なのだ。機械による労働者の搾取は、であるから、彼にとっては、労働者による機械の搾取と同じなのである。従って、機械の資本主義的使用と言う現況を曝露する者は誰でも、とにもかくにも機械の利用に反対しているのであって、社会の進歩の敵なのである。*135 まさに、著名なるビルサイクスの論法である。「寛大なる陪審員の皆さん、疑いもなく、この行商人の咽は切られています。しかしそれは私の罪ではありません。それはナイフの罪です。このような一時的な不都合で、我々はナイフの使用を止めなければならないのでしょうか?ここが考え処です。ナイフなしの農業や商売があり得るでしょうか?外科手術は成り立たないし、解剖して調べることはどうなります?そして更に加えて、宴卓の演出を助けるのでは?もしナイフを廃止するならば、--あなた方は我々を野蛮時代の深淵に追い返すことになります。」*136
本文注135 / 他にも大勢いる中の一人、このてらったクレチン病患者の昔の達人、マカロックは8歳のこどもの純朴さを気取ってこう言う。「もし、もしも、それが労働者の技能を更に、更に、発展させ、同じかあるいは少ない労働量をもって、商品の量を絶えず増加させることができるのに役立つならば、彼をしてこの結果を最も効果的に支援する機械の援助を彼が利用することは必ず有益であるに違いない。」(マカロック「政治経済額の原理」ロンドン1830年
本文注136 / 「紡績機械の発明はインドを崩壊させた、事実である。とはいえ、そのことに関しては我々にはなんの関係もない。」A.ティエール財産について-ティエール氏のここは、紡績機械と力織機とを混同しているが、「事実ではあるが、とはいえ、そのことに関しては我々にはなんの関係もない。」
(11)機械が導入されたそれらの産業では、労働者を必然的に仕事から投げ捨てるのであるが、それにもかかわらず、他の産業においては依然として雇用の増大をもたらすことはありうる。とはいえ、その効用はいわゆる補償理論とはなんの関連もない。なぜならば、機械によって生産されるあらゆる品物は、手加工で生産される同様のものよりも安い。我々は以下のごとき明確なる法則を引き出す。もし、機械によって生産される物の全量と、以前手加工または工場手工業で生産されていた全量とが同じならば、そして今ではそれらが機械で作られているのであれば、そこで支出される全労働量は縮小される。労働手段、機械や、石炭やその他のものに費やされる新たな労働は、機械の使用によって解雇された労働よりも必ず小さくなければならない。そうでなければ、機械による生産物は手加工による生産物よりも貴重なものに、より高いものになってしまうだろう。そうではなくて、実際のところは、機械と縮小された労働者数とで生産される物の量は、同量に留まるものではなく、今は消え去ってしまった手加工の生産物の全量を遙かに超える量となるのである。さてここで、布10万ヤードを手織機で織る職工数よりも、より少ない職工数と力織機とで40万ヤードの布が生産されたと考えて見よう。4倍もの生産物には4倍の原料が用いられている。ならば、原材料の生産も4倍にしなければならない。しかし、労働手段に関して云えば、建物とか、石炭とか、機械その他付属品等々は、原材料とは違う。これらの生産を増加させるに要する追加的労働には限界がある。それは、機械によって生産される量とその同じ品物を手加工で同数の労働者によって生産できる量との関係によって規定され、変動する。
(12)かくして、ある既与の産業において機械の使用が拡大するに従って、まずは直接的なその効果は、生産手段を供給する他の産業の生産物を増大させるということになる。そこでどの程度の雇用が労働者の増加数として見出されるかは、労働日の長さと、労働の強度が与えられているとすれば、投入される資本の構成に依存する。すなわちその資本の可変部分に対する不変部分の比率に依存する。その比率はと云うことになれば、機械がどの程度それらの職種においてすでに用いられているか、また採用されつつあるか、その広がりの度合いによって大きく異なってくる。英国工場システムの進展に応じて、炭鉱や金属鉱山へと追いやられた労働者の数は莫大な数へと増大した。とはいえ、ここ二三十年ではその増加がやや急速ではなくなって来た。新たな機械が鉱山に採用されたことによる。*137 新たな種類の労働者が機械とともに誕生した。すなわち、機械を作る労働者である。我々はすでに学んだところであるが、機械もまた自身機械にとりつかれる。この生産部門の規模も日々大きく成長する。*138 さらに、原材料について見るならば、*139 疑う余地もなく、綿紡績の急速な進展は、合衆国に、熱帯熱に冒されたかのような綿の生育を、アフリカ奴隷商売ともども押し進めるとともに、奴隷制諸州の境界諸州での奴隷飼育を彼等の主な商売にまで仕上げた。1790年に合衆国で最初の奴隷の調査が行われたが、彼等の数は697,000人であった。それが1861年ではほぼ4百万人に達していた。一方、前者に少しも劣るものではない事実として、英国羊毛工場の増大は優良耕作地の牧羊地への転換が徐々に進むことから余剰農業労働者を大勢、都市へと追い出すことになった。アイルランドでは、ここ20年間で人口をほぼ半分に減らし、今もさらに住民を減らす過程が進行している。それはまさに、そこの地主等と英国羊毛工場手工業者等の要求そのものだからである。
本文注137 / 1861年の国勢調査(第二巻ロンドン1863年)によれば、英国及びウェールズの炭鉱に雇用される労働者数は、246,613人で20歳未満の者が73,545人、20歳以上の者が173,167人であった。さらにその20歳未満の者の20,835人が5歳から10歳の子供であり、10歳から15歳の者が30,701人15歳から19歳の者が42,010人であった。鉄、銅、鉛、錫、その他記載された鉱山の全労働者数は、319,222人であった。
本文注138 / 英国及びウェールズでは、1861年、機械の製造に、支配人や事務員等も含めて、60,807人が雇用されていた。この数字には、これらの産業の機械販売代理人や販売員が含まれているのであるが、ミシン等の小さな機械の労働者等は含まれておらず、また紡錘といった機械部品の労働者も含まれていない。これらのうちの技術者総数は、3,329人であった。
本文注139 / 以下のことにも触れておく、英国及びウェールズにおいて、1861年、鉄は最も重要な原材料の一つであって、125,771人の製鉄労働者がいた。うち123,430人は男性であるが、2,341人は女性であった。20歳未満の者が30,810人、20歳以上が92,620人であった。
(13)労働の対象が、その完成に至る過程として通過せねばならぬ最初のまたは中間のいかなる段階であろうと、そこに機械が採用されれば、それらの各段階への原材料の生産が増大し、同時に、また、機械の生産物の供給を受ける手工業または工場手工業における労働の需要も増大する。例えば、機械による紡績が撚糸を安く大量に供給したので、手織工達は、その初期の時点では、余計な出費もなしに時間の許す限り働くことができた。彼等の稼ぎもそれに応じて増大した。*140 かくて、綿織物業に人々が流れ込んだ。そして80万人もの織工が、ジェニー、スロッスル、そしてミュールと云った織機のために集められた。が、結局は力織機によって絶滅へと追いやられた。また、同様、機械による多量の布の生産の結果として、仕立職人、女性裁縫工、そしてお針子女工がミシンの出現までの間増大し続けたのである。
本文注140 / 「4人の成人と、糸巻役の二人の子供の一家族が、前世紀の終りから今世紀の初めにかけての頃、日10時間労働で、週に4ポンドを稼ぎ出した。もし仕事がもっと立て込めば、それ以上を稼いだ。….それ以前は、彼等は常に、撚糸の供給不足に悩まされていた。」(ガスケル既出)
(14)比較的小人数の労働者で足りる機械の導入が進むにつれて、原材料や中間生産物や労働手段等の量を増大させ、これらの原材料や中間生産物の量が登場するに及んで、それぞれが様々な部門へと分化する。社会的生産が多種多様なものへとその巾を拡げる。工場システムが、かって工場手工業が作り上げた社会的分業を遙かに超える分業種域へと押し進める。機械が機会を得た産業の生産性を、今までとは較べることのできない程の遙かに高い水準にまで増大させるからである。
(15)機械の直接的成果は、剰余価値と、その剰余価値を実体化する生産物の量を大きなものにしたことにある。そして、資本家どもが消費するもの、彼等が依存するものがより大きなものとなり、社会のこれらの階級も大きなものとなる。彼等の成長する富が、そして生活必需品の生産を行うべき労働者数の相対的な減少ということから、新たなそして贅沢なるものへの渇望を一斉に沸き立たせて、それらの欲求を満足させる手段を生じさせる。社会的な生産物のかなり大きな部分が剰余生産物へと変化させられる、そしてその剰余生産物のかなりの部分が緻密なる形状の多様なる物の消費のために供給される。別の言葉で云えば、奢侈品生産が増大する。*141 緻密で様々な形状の生産物がまた、新たな世界市場との関係を、近代工業によって創出された関係を、もたらす。大量の外国の奢侈品が国内の生産物と交換されるだけではなく、外国から大量の原材料、混成物、そして中間生産物が国内産業の生産手段として用いられる。これらの外国市場との関係から、運搬業種における労働需要が増大し、それが更に多種類へと細分化する。*142
本文注141 / F.エンゲルスは、「イギリスの労働者階級の状態」で、これらのまさに奢侈品生産で働く多くの労働者の悲惨な状態を指摘している。また、「児童雇用調査委員会報告」の多くの例を見よ。
本文注142 / 1861年、英国とウェールズで、94,665人の船員が海運業に雇用されていた。
(16)労働者数の相対的な減少を伴う、生産及び生活手段の増加は、運河、港湾施設、隧道、橋梁等々の、かなり先になって成果が得られる産業に係る労働需要を引き起こす。機械によるかまたは機械によってもたらされた全般的な産業上の変化の直接的な成り行きとして、新たな労働領域を生む全く新たな生産部門もまた造り出される。とはいえ、全産業において、これらの産業部門によって占められる部分は、最も発達した国々においても重要と云うには程遠い。これらに雇用された労働者数は、これらの産業によって創造されたのであるが、最も粗雑な形式の肉体労働の需要に比例する。この種の産業の代表的なものは、現在のところ、都市ガス業、電信業、写真業、蒸気船運航業、そして鉄道業である。1861年の英国とウェールズの人口調査によれば、次のデータを見出す。都市ガス業(都市ガス業、ガス器具類の生産業、ガス会社の従業員他)が15,211人、電信業2,399人、写真業2,366人、蒸気船運航業3,570人、そして鉄道業70,599人、半長期雇用の非熟練「工夫」達と、管理者と事務スタッフ全員28,000人を含む。従って、これらの5種類の新たな産業部門に雇用された人数は計94,145人となる。
(17)そして最後に、次の点にも触れておこう。近代工業の桁外れの生産性が、他のあらゆる生産全域におけるより広範かつより強烈というべき両面からの労働力の搾取を伴いながら労働者階級のより大きなかつ大部分をして、非生産的な雇用へと向かわせる。すなわち、下男、下女、従者、他からなる召使階級と言う名の、昔の家内奴隷のような雇用を、恒常的に拡大再生産させる。1861年の人口調査によれば、英国とウェールズの人口が20,066,244人、うち男性が9,776,259人女性が10,289,965人であった。仮に、ここから働くには年寄り過ぎる者や若過ぎる者を除外し、非生産的な女性、年少者や児童を除外し、政府高官とか僧侶とか法律家とか兵士などの「観念的」な階級を除き、さらに地代や利子という形式で他人の労働を消費するだけで仕事を持たない者や、そして最終的に生活困窮者、浮浪者、犯罪者を除けば、およそ8,000,000人の男女の各年令の者が残り、このなかには産業や商業や金融に係わる全資本家も含まれている。その内訳を見れば、
(18)以下の表となる。(略) 表中の人口数に関する注:*143 このうちの僅か177,596人が13歳以上の男子である。
表注144 / このうちの30,501人は、女性である。
表注145 / このうちの137,447人が、男性である。この1,208,648人には個人宅以外で仕える召使は含まれていない。1861年から1870年の間に、男性召使の数がほぼ2倍の267,671人に増えた。1847年には、(地主の保護地のための)猟場番人が2,694人いたが、1869年には4,921人となった。ロンドンの中流の下の家庭で働く少女召使は一般用語としても「奴隷ちゃん」と呼ばれた。
(19)繊維工場と鉱山に雇用される労働者を合計すれば、1,208,442人、繊維工場と金属工業に雇用される者を合計すれば、1,039,605人、この二つの場合でも、近代家庭奴隷の人数よりは少ない。機械による資本主義的搾取のなんと素晴らしき結果であろうことか! 
第七節 工場システムによってもたらされた
 労働者の排除と吸引綿商売における恐慌

 

(1)出自がどうであれ、全ての政治経済学者は次のことを認める。すなわち、新たな機械の導入は、この機械の最初の競争相手となった古き手工業や工場手工業の労働者に破滅的な影響を及ぼした。と。そしてほとんど全ての学者達は、工場労働者の奴隷労働に同情する。さて、ここで、彼等が遊ぶカードゲームで取りだす偉大なる切り札は何か?それは、その導入と発展というどうなるのか分からない期間の後に、労働奴隷の数を、減らすのではなく、長い期間を経て、増やしたことがはっきりしたというものである!そしてそう、政治経済学者はこう浮かれる。醜悪極まる論理として、資本主義的生産に不可欠な永遠の聖なる自然と信ずる醜悪極まる完全なる「博愛主義者」として、おほざきなさる。成長と移行の時期を経て、実に王冠を被せたような成功において、機械に基づく工場システムは、最初の導入期に街頭に放り出した労働者以上の労働奴隷を挽き出した。と。*146
本文注146 / 1861年、ガニイは、全く逆に、工場システムの最終的目標は労働者数の絶対的縮小であると考える。労働者数の減少によって、「名誉ある人々」の数が増加し、生活をしまた彼等の「完全となりうる完全なるもの」を身に付ける。彼は、生産の進展をまるで理解しておらず、感じるだけなのであるが、もし機械の導入が、忙しく働く労働者を困窮者に変換するならば、もし機械の発展が、かって抑圧された状態よりもさらなる奴隷労働という状態にしてしまうならば、機械はまさに致命的な制度と云わねばならないと言う。彼の視点のお馬鹿さ加減は彼自身の言葉以外では表しようもない。「生産し消費するよう宣告された階級は縮小し、労働を指導し、全人口の苦難を取り除き、慰め、活気づける階級が倍増し、….労働コストの削減、潤沢なる生産物、生活用品の低廉化から生じるすべての便益を私有化する。この方法で、人類は天才的創造の高みへ登り、宗教的な深淵なる深みを極め、そして滋愛に満ちた道徳の原理を確立する。自由を守る法を、正義と従順のための権力を、義務と人間性のための権力を確立する。」このどうにもならないたわ言は、「政治経済等のシステムCh.ガニイ著」第二版パリ1821年第一巻。
(2)我々が英国の毛糸及び絹工場の例から知っているように、あるケースでは、工場システムの並外れた拡大は、ある一定の発展段階において、雇用される労働者数の相対的な減少のみではなく、絶対的な減少を伴った。1860年議会命令によって行われた英連合王国のすべての工場に対する特別調査では、工場査察官ベイカー氏の管轄域に該当するランカシャー、チェルシャーそしてヨークシャーの工場数は、652,570ヶ所、力織機台数は85,622台、紡錘数6,819,146個(複撚紡錘を除く)で、使用蒸気力27,439馬力、同水力1,390馬力、そして雇用者数94,119人であった。1865年これらの同じ工場群は力織機95,163台、紡錘7,025,031個、蒸気出力28,925馬力水力1,445馬力、雇用者数88,913人となっていた。従って、1860年から1865年の間、力織機は11%増え、紡錘は3%そして機関出力は3%増加したが、雇用者数は51/2%減少した。*147 1852年と1865年の間に、英国羊毛工場手工業の顕著な拡大が起こった。だが、そこでの雇用者数は殆ど増加しなかった。
本文注147 / 「事実に関する査察調査報告1865年10月31日」。だが、このとき同時に、雇用者数を増やす雇用手段が、新たな110工場で、力織機11,625台、紡錘628,576個、蒸気力・水力合計出力2,695馬力が準備されていた。(前出)
(3)「新たな機械の導入が、前代の労働者を駆逐するのだが、それがいかに凄いかまざまざと見せつける。」*148
本文注148 / 「事実に関する査察報告書1862年10月31日」79ベージ1871年末工場査察官のレッドクレーブ氏は、ブラッドフォードで行った新機械協会の講演で次のように述べた。「しばらく前のことであるが、羊毛工場のすっかり変わってしまった様子には驚かされた。以前そこは、女達と子供たちで溢れていたが、今では機械が全てに取って変わったかに見える。この事について工場主に説明を求めたところ、彼は、次のようなことを教えてくれた。古いシステムでは、私は63人を雇っていたが、改良された新たな機械を導入してからは、人手を33人に減らした。そして最終的には、さらなる新たな拡大的な更新の結果、この33人を13人に減らすことにした。」
(4)あるケースでは、雇用労働者数の増加は単なる外観にすぎず、すでに操業している工場の拡大からではなくて、関連商売の少しずつの合併化であったりする。例えば、1836年から1856年にかけての綿工業で、力織機の増加とそれらに雇用される人手の増加があったが、その内容は分岐部門の単純な拡大によるものであった。他の工業では、以前は人力でやっていた絨毯織り、リボン織り、亜麻布織りへの蒸気力の採用であった。*149 従って、後者の工業における人手の増加は、単なる総雇用者数の減少の徴候でしかない。最後に、これらの減少という事実とは全く別に、あらゆるところで、金属工業は例外だが、若い人(18歳未満)、女性、そして子供たちがこれらの労働者階級の主要な要素になっているという問題にも目を向けて置こう。
本文注149 / 「事実に関する査察調査報告書1856年10月31日」
(5)とはいえ、機械によって解雇されたり、排除されたも同然の多数の労働者がいるにもかかわらず、我々は次のような事も理解できる。より多くの工場の建設や、ある工業の古い工場の拡大によって、工場労働者の数が、解雇された工場手工業労働者や手工職人数よりも多い存在となると云うことを。例を上げて捉えて見よう。古い様式の生産においては、週500英ポンドの資本が投じられて、その内の2/5は不変資本として、そして3/5が可変資本として用いられたいたとする。すなわち、200ポンドは生産手段として、そして300ポンドが、一人1ポンドとして、労働力に用いられたとしよう。機械の導入によって、この資本の構成が変化する。そこで、4/5が不変資本、1/5が可変資本となったと想定すれば、ここでは、100ポンドが労働力に用いられる。その結果は、2/3の労働者が解雇される。もし、商売が拡大して、用いられる総資本が、1,500ポンドとなり、以前の条件が変わらないものとしたら、機械導入前と同じ、300人の雇用となるであろう。もし用いられる資本が2,000ポンドと大きくなったとしたら、400人が雇用れさるであろう。または古いシステムの場合よりも1/3多い雇用となるであろう。この雇用者の増加数100人なる事実は、よく見れば、相対的なもので、投下された総前貸し資本額に比例しており、古き状態ならば、2,000ポンドの資本は、400人ではなく、1,200人を雇用したであろうものが、800人を減らしての400人なのであると分かるはずである。かくて、労働者数の相対的な減少は、現実の増加と一体のものなのである。これらの想定においては、我々は資本総額が増加しても、生産条件が不変として、その構成比は同じに留まるものとした。しかし我々は既に見てきたように、機械使用の絶え間なき発展があり、機械や原材料等の不変資本部分は増加し、他方の可変資本部分は縮小する。我々はまた、次のこともよく承知している。工場システムと同じように、他の生産システムの改良は連続的なものではないし、そこに用いられる資本の構成も常に変化するものではないと。さらに、これら諸々の変化といえども、いつものことながら、現存する技術的基盤による単なる量的な拡大に留まる停滞期によって中断を余儀なくされる。そうした時期には労働者数は増大する。数字で見れば、1835年英王国における、綿、羊毛、梳毛、亜麻、絹の工場にはわずか354,684人の労働者しかいなかった。が他方、1861年では力織機の織り手だけで、(男女、あらゆる年令、8歳以上で)230,654人である。おっしゃる通り、この増大は、1838年で、彼等の家族を含めて、手織り職人の数が、800,000人も居たのから見れば、大して重要なことでもない。*150 言って置くが、ここでは、仕事を追われたアジアの労働者数やヨーロッパ大陸の労働者数には触れていない。
本文注150 / 「手織り職人の困窮が王立委員会の調査対象になったが、しかし、彼等の窮乏が認識され慨嘆されたが、にもかかわらず、彼等の生活状態の改善は先送りされた。今こそ援助が求められたのに、そのようになるであろう機会と時の変化に任された。」[20年後の!]「この悲惨さはその頃には消滅しているだろう、だがこれこそ、現在の力織機の偉大なる大拡張が、引き起こしたものなのだ。」(事実に関する工場査察報告書1856年10月31日)
(6)この点について、以下の二三の記述をもって触れて置きたい。私はある実際に存在している関係について述べることにする。この存在関係については、我々の理論的な追究はまだその解明に至ってはいない。
(7)ある工業部門の工場システムが古き手工業や工場手工業を踏みつぶして自己拡大をする限りにおいては、その結果は機関砲を装備する軍隊と弓矢しか持たない集団との交戦結果と確実に同じである。機械がその戦闘領域を制圧する初期期間は、その戦闘を作り出す元となる莫大な利益のための決定的に重要な期間である。これらの利益は加速的な蓄積の源泉を形成するのみではなく、定常的に創造される追加的な社会的資本の大きな部分を生産局面へと誘引し、新たな投資先へと向けさせる。この初期期間の狂うがごとくすざましい活況による特別なる利益は、機械が侵略を果たしたあらゆる生産部門で実感された。だが、工場システムがある一定の頭打ちに、ある程度の完成レベルに達するやいなや、そして特に、その技術的な基盤、機械が機械によって生産される状況に達するやいなや、炭鉱や鉄鉱山、金属工業や運搬手段に大変革が起きるやいなや、もっと端的に云えば、近代工業システムによる生産に必須の一般的条件がはっきりして来ればすぐに、この生産様式は、伸び縮みする性質を取得する。障害物知らずだった飛び跳ねるがごとき急拡大能力が、原材料の供給と生産物の売却という障害物に直面する。一方において機械の直接的な影響は、例えば綿繰り機が綿の生産を増大させるのと同様に、原材料の供給を増大させる。*151 他方、機械によって生産される品々の安価なることや、改良化された交通・通信手段は外国市場を席巻する武器となる。他国の手工業生産物を破滅させることによって、機械はそれらを強制的にその原材料の供給地に変えてしまう。この様にして東インドは大ブリテンのための綿、羊毛、大麻、黄麻、そして藍の生産を強要された。*152 近代工業が蔓延るあらゆる国では絶え間なく労働者数の一部分を「過剰労働者数」にすることで、移民に拍車をかけ、外国地の植民地化を押し進める。その結果、外国地は母国の原材料を増大させるための開拓地へと変換される。丁度、例えばオーストラリアが羊毛増産の属領に変換された様にである。*153 急激に成長した近代工業の支配領域の要求に応える、新たな、国際的な分業が、世界の一隅を主に農業生産地域へと変えて行く。主に工業地域になっている他の一隅のために食料を供給する為である。この両方に係わる変革は急進的な変化で、農業にも同じ様に作用する。だが、農業への作用については、本章では、これ以上追究する必要はない。*154
合衆国から大ブリテンへの綿輸出量
合衆国から大ブリテンへの穀類等の輸出量[cwts]
     1850年    1862年
小麦   16,202,312  41,033,503
大麦   3,669,653   6,624,800
オート麦 3,174,801   4,496,994
ライ麦  388,749    7,108
小麦粉  3,819,440   7,207,113
米そば粉 1,054     19,571
玉蜀黍  5,473,161   11,694,818
ビーア麦 2,039     7,675
えんどう豆811,620    1,024,722
豆類   1,822,972   2,037,137
計    35,365,801  74,083,441
(単位cwtsは、合衆国単位で100ポンド(=112英ポンド)またビーア麦は、表中では、ビーアまたはビッグ(大麦の一種)と書かれているのを短縮してこのように示している。)
本文注151 / その他の、機械が原材料の生産に影響を与える様々な点については、第三巻で記述されるであろう。
本文注152 / インドから大ブリテンへの綿輸出量 / インドから大ブリテンへの羊毛輸出量
本文注153 / 南アから大ブリテンへの羊毛輸出量 / オーストラリアから大ブリテンへの羊毛輸出量
本文注154 / その他の、アメリカ合衆国の経済的発展は、ヨーロッパ、いや、より以上に特別なるものと云うべき英国近代工業の生産物そのものである。1866年現在の合衆国は、依然として、ヨーロッパの植民地と云わねばならない存在なのである。[ドイツ語版第四版には次のような記述が付け加えられている。−「その後、アメリカ合衆国は、工業において、世界第二の地位にまで発展したが、彼等の植民地的な性格は、その数字がどうであれ、、全くのところ失われてはいない。」−F.エンゲルス」
(8)グラッドストーン氏の動議で、英下院は、1867年2月17日、英連合王国の、1831年から1866年の間の、あらゆる種類の種子、穀類、穀粉の、輸入量・輸出量統計の作成を命じた。その結果の概要を下に示す。穀粉は穀類換算である。数字の単位は1/4トン(800ブッシェル)単位。各5年ごとの年平均数値と1866年(単年)のものがある。(略)
(9)工場シテスム生来の飛躍的な拡大という巨大なる力と、そのシステムの世界市場への依存は、必然的に、熱狂的な大量生産をもたらす、がすぐに市場に溢れかえることが伴う。その結果、市場は縮小し、生産が損なわれる。近代工業のライフサイクルは、適度期、繁栄期、過剰生産期、恐慌、停滞期という各期間の繰り返しとなる。かくて、機械が支配する雇用の不確実性と不安定性が、この工業サイクルの定期的な変化が、労働者の生活そのものを翻弄する。それが労働者にとっての普通の生活となるに至る。繁栄期を除き、資本家間ではその他の期間中、市場のシェアを争う激烈な闘いが続く。シェアはその商品の安さに直接比例する。この闘いの上に、その闘いは労働力を減らす改良型の機械の採用と、新たな生産方法の採用という競争を生じさせる。そこでは、また全ての工業サイクルが伴い、商品を安くするために、賃金の、労働力の価値以下へとする強制的な賃金の縮小がいつでも狙われる。*156
本文注156 / 1866年7月工場ロックアウトによって街頭に投げ出されたレスターの製靴労働者達の、英国商工協会に提出した抗議書は、次のように述べている。「20年前、レスターの靴づくりは縫いの部分に鋲を打つ方式を導入したことで大改革された。その時はよい賃金を稼ぐことができた。各それぞれの商会で、どこが最もきちんとした物を作れるかの大競争が見られた。だが直ぐ後に、立ちの悪い競争が始まった。すなわちあちこちの市場での安売りである。その不当な結果がすぐに賃金縮小という形で明らかになった。そして労働の価格の下落が一遍に進み、多くの商会は元の賃金の1/2しか払わない。ところが、賃金は下がりに下がったが、賃金率が下がるにつれて、利益は増加となっている。」不況期すら、工場手工業者等によって、賃金を過度に下げることで、労働者の生活手段の直接的な窃盗で、法外な利益を作り出すために利用される。一例として示す。(コベントリーの絹織物業の恐慌に言及しているものである。)「私が、労働者達から得た情報と同様に、工場手工業者等から得た情報によれば、疑いもなく賃金は、外国商品との競争やその他の必要と思われる状況から見ても、より過剰に削減されたと思われる。大部分の織り工たちは彼等の賃金の30-40%も削減されて働いている。5年前のリボン織りでは、織り工たちは6シリングないし7シリングを得ていた。だが今では、わずか3シリング3ペンスないし3シリング6ペンスである。他の仕事では以前は4シリングないし4シリング3ペンスであったものが、今では、2シリングないし2シリング3ペンスである。賃金の削減が、そのような需要の増大による必要性に較べて遙かに大きな額で決められているものと思われる。本当のところ、多くのリボンについて見るならば、織りコストの縮減は、生産されたそれらの品物の売値の低落とは実際に何の関連性もない。(F.D.ロングス氏の報告「児童雇用に関する調査委員会第五次報告書1866年」)
(10)それゆえに、工場労働者数の増大の必要条件は、工場に投資される資本のより以上に早い拡大に大きく比例する。とはいえ、この資本の拡大は、工業サイクルなる干潮と満ち潮に左右される。その上、それは時にそれなりの新人労働者の雇用を供給したり、別の時には、現実として、古い労働者を排除する技術の進歩によっていつも制約される。この機械工業における質的変化は、絶え間なく工場から労働者を解雇する、またはフレッシュな新人労働者の流入に門戸を閉じる。純粋に工場の量的拡大期には仕事から投げ出された労働者のみでなく、新たな分隊をも吸収する。この様に、労働者達は、常に、排除されたり、吸引されたりする。あっちこっちと、小突かれる。と同時に、常に性別、年令、金銭取り立ての技能に変化が生じる。
(11)工場労働者達のこの先は、英国綿工業の経過を一瞥することで、最もよく表されることになろう。
(12)この綿工業の不況または沈滞は、1770年-1815年では、僅か5年間である。この45年間英国工場手工業者達は機械と世界市場を独占した。1815年から1821年不況、1822年と1823年は繁栄、1824年商売組合を規制する法律の廃止、いずこの工場も大拡張、1825年恐慌、1826年工場労働者達には悲惨と暴動が、1827年僅かながら改善、1828年力織機の大増加、輸出の大増加、1829年輸出特にインド向けは以前のすべての年度を上回った。1830年市場が飽和、そして大苦難、1831年から1833年引き続き不況、東インド会社はインド及び中国の商売独占から撤退。1834年は、工場や機械が大増大、労働者が不足、新救民法が農業労働者を工場地域に移住を促進した。田園地帯から子供が一掃された。白人奴隷売買も、1835年大繁栄、その裏で手織り工達の餓死。1836年大繁栄、1837年と1838年不況と恐慌。1839年回復1840年大不況、暴動、軍隊の出動。1841年と1842年は工場労働者にとっては恐ろしき受難。1842年工場手工業者等は、穀物法の取り消しを求めるために工場をロックアウト、労働者を放り出した。労働者達はランカシャー、ヨークシャーの町に数千名の集団となって流れ込んだが、軍隊によって押し戻された。デモのリーダーはランカシャーの裁判に付された。1843年大悲惨、1844回復、1845年大繁栄、1846年初めの内は改善継続だが、直ぐに穀物法廃止の反動。1847年恐慌、「でぶ」の名誉のために、賃金の10%からそれ以上の%分を一斉にカット。1848年不況が続く。マンチェスターは軍隊の保護下に置かれる。1849年回復、1850年繁栄、工場数増加。1851年価格下落、低賃金、度重なるストライキ。1852年改善始まる、ストライキは続く、工場手工業主達は外国人労働者を受け入れるぞと嚇す。1853年輸出増加、プレストンで8ヶ月のストライキ、そして大悲惨。1854年繁栄市場飽和。1855年合衆国、カナダ、東アジアから破産連鎖のニュース。1856年大繁栄、1857年恐慌1858年改善、1859年大繁栄、工場数増。1860年英国綿商売の絶頂期、インド、オーストラリア、その他市場では商品が溢れかえっていて、1863年ですら、その全部を吸収できなかった。フランスと通商条約、工場と機械の巨大成長。1861年繁栄がしばらく続く、がその反動、アメリカ南北戦争、綿飢饉、1862年から1863年完全なる崩壊。
(13)綿飢饉の歴史は余りにも特徴的なので、しばらくは、ここに留まって時間を使うことにする。1860年と1861年の世界市場の状況に関する指標から見れば、綿飢饉は、工場手工業者にとってはちょっとした節目であり、彼等にとってはそれなりの利益があったように我々には見える。事実は、パーマストンとダービーによって、議会において、宣言された内容や各行事でも確認されたことが、マンチェスター商工会議所報告の中に認められる。*157 確かに、1861年英王国には2,887の綿工場があって、その中には、小規模工場も沢山あった。A.レッドグレーブ氏の報告によれば、彼の管轄下の2,109工場のうち392工場または19%はそれぞれ10馬力未満のものを使用し、345工場または16%は10馬力から20馬力未満を使用、他方1,372工場は20馬力以上を使用した。*158 小さな工場の大多数は織物小屋で、1858年後の繁栄期に建てられたもので、殆どが投機家によって建てられた。投機家等は、あるものは撚糸に、他のものは機械に、三番目のものは建物に投機した。これらの小工場は前監督者や、僅かに銭をだした他者によって仕事が進められた。これらの小工場手工業者等はみな事業に失敗した。綿飢餓からなんとか生き残った小工場主もいたが、商業恐慌は彼等に同じ運命を課した。彼等が全工場手工業主の1/3を形成したいたとはいえ、彼等の工場が吸収した資本は綿商売に投資された資本のごく小さな部分でしかない。機械停止の広がりについては、信頼できる推定から、1862年10月で、紡錘の60.3%、織機の58%が休止していた。この事は綿商売全体として示したもので、勿論、個々の地域では、それなりの違いが求められる。ほんの僅かとはいえ、ある工場はフルタイム(60時間/週)で作業をしていた。その他の工場は断続的な作業をしていた。その僅かなフルタイム工場でさえ、通常の出来高払い賃金率は、労働者の週賃金は、必然的に収縮した。それは、良い綿が悪い綿で置き換えられたからである。シーアイランド産(西インド諸島産)の綿がエジプト綿に(極細糸紡績工場の場合)、アメリカ綿やエジプト綿がスラート綿(インド西部産の粗い綿)に、そして純綿がごみやスラート綿混じりのものに置き換えられるからである。スラート綿の短い繊維とその汚れた条件、糸の極めて弱いこと、縦糸の糊に用いる小麦粉に換えてあらゆるものから出来上がった重い混合物の使用、これらが機械の速度を落とさせ、または一人の織工が監視できる織機の数を減らし、機械の不具合増による労働が増え、それらの結果生産量が減り、出来高払い賃金も減らされた。スラート綿が使用されるならば、フルタイムとして労働者の損失分は20%、30%、あるいはそれ以上に達した。しかしその上、多くの工場手工業主等は出来高払い賃金率をも、5%、71/2%、10%と下げた。これらのことから、我々は、週3日、3日1/2、4日、または1日の6時間しか雇用されない労働者たちの状況がいかなるものかを想像することができよう。比較的改善が始まった1863年でさえ、紡績工や織工たちの週賃金は、3シリング4ペンス、3シリング10ペンス、4シリング6ペンスそして5シリング1ペンスであった。*159 このような悲惨極まる状況にあっても、それにもかかわらず、ご主人らの創意精神は休すむことなく、賃金からの差し引き額づくりに励んだ。彼の悪い綿品質、彼の機械の不適切さによる最終製品の不出来に対してまでも、そのような罰則を課した。さらに加えて、工場手工業主が労働者たちの小屋を所有している場合は、その家賃を悲惨なる賃金から取り上げることで、勝手に彼は彼自身に支払った。レッドグレーブ氏は、自動機監視工たち(一対の自動織機を扱う労働者たち)のケースについて、我々に次のように語っている。
本文注157 / 「事実に関する査察報告書1862年10月31日」
本文注158 / 前出
本文注159 / 「事実に関する査察報告書1863年10月31日」
(14)「14日のフルタイムの仕事の稼ぎは8シリング11ペンスである。そしてそこから下宿家賃料が引かれて、もっとも、その半額はギフトとして工場手工業主が戻してきたが。監視工は計6シリング11ペンスを持って帰った。1862年後半期では、多くの工場の、自動機監視工は週5シリングから9シリングの範囲、そして織工は週2シリングから6シリングの範囲であった。」*160
本文注160 / 前出
(15)ショートタイムの仕事でも労働者の賃金から家賃が差し引かれることは度々であった。*161 ランカシャーのある地方では一種の飢餓熱病が発生したのも驚くには当たらない。この全てよりも特徴的なことは、生産過程において労働者の犠牲による実験がなされた事である。その実験とは、解剖学者が蛙で行うような、体を痛めつけて試すようなものが、日常的に行われた事である。
本文注161 / 前出
(16)「私はいくつかの工場労働者の実際の稼ぎについて述べたが、さらに加えて、」とレッドグレーブ氏は言う。「その同じ額を今週、翌週と稼いでいると言うことにはならない。労働者たちは、工場主の絶え間ない実験という大きな変動を受け入れることを余儀なくされる。….労働者の稼ぎは綿混合物の品質によって上下する。そきにはそれが以前の稼ぎの15%以内に届くこともあれば、1週か2週後は、以前の50%から60%に落ちる。」*162
本文注162 / 前出
(17)これらの実験は、労働者の生活手段の持ち出しのみでなされたのではない。彼の五感もまた罰金を支払った。
(18)「スラート綿を使用する工場で働く人々は激しく苦情を言う。彼等は私にこう言う。綿の梱包を解く時、耐えがたい悪臭がする。それが病気を引き起こす。….混合室、粗梳き室、梳綿室では、埃や異物が舞い上がり、通風を阻害し、咳が激しくなり、呼吸が困難となる。….疑いもなく、スラート綿に含まれる汚染物質の刺激による皮膚炎、その他にも、….繊維が非常に短いので、大量の糊付けをする。動物性のものも、植物性のものも使われる。….気管支炎が埃からより広く蔓延する。同じ原因で、誰もが炎症性咽頭炎に罹っている。横糸の切断が頻繁に生じ、それによって吐き気や消化不良が発生する。「小麦粉の代用品が糊として使われるその裏で、糸の重量が増加することによって、工場主に運命と偶然の女神の財布がやってくる。15ポンド重量の原材料が織り上げられるとその重量は26ポンドとなる。*163
本文注163 / 前出
(19)1864年4月30日の工場査察報告書に、次のように書かれているのを我々は読む。
(20)「この商売は、現時点でも、この種の方法を、まったく信じ難いことにまで拡げている。私はこう聞いている。ある優良な権威もある8ポンド重量の布が、51/4ポンドの綿と23/4ポンドの糊で出来ており、他の布51/4ポンドは2ポンドが糊であった。これらは通常の輸出用のシャツ地であった。その他の記述された布では、時には、50%もの糊が加えられていた。そう言うことであるから、工場手工業者は、彼が支払ったそのままの糸に較べてポンド当たりではより安い生地を売ることで富を成すことができたであろうし、そうしたと碑にしっかりと刻んだ。」*164
本文注164 / 「事実に関する工場査察報告書1864年4月30日」
(21)しかし労働者は、工場内において、工場主の実験のみによって苦難を受け入れねばならなかったのではなく、同様に、工場外の行政当局からの苦難をも受け入れねばならなかった。賃金の減額、仕事の欠乏のみではなく、日用品やら、慈善やら、上院・下院の称賛溢れる演説やらの受難が待っていた。
(22)「綿飢餓の結果、その労働開始の矢先に雇用から投げ出された不幸な女性たちは、どうにもできず、社会から除け者にされ、そして現在、景気が立ち直り、仕事は沢山あるものの、不幸な階級のメンバーを続けているか、続けているような状態にいる。街中には、私がここ25年間で見てきた以上に多くの若い売春婦たちがいる。」*165
本文注165 / ボルトン管区警察本部長ハリス氏の手紙から「事実に関する工場査察報告書1865年10月31日」
(23)英国綿業の、1770年から1815年の最初の45年間においては、僅か5年間の恐慌と停滞であったことを見出す。但しこの時期は独占の時代であった。ところが、第二の時期1815年から1863年では、48年間で、僅かに20年間の復興と繁栄に対して28年間の不況と停滞を数える。1815年と1830年の間には、ヨーロッパ大陸やアメリカ合衆国との競争が始まった。1833年以後は、「人類の破壊」(大量販売がインド人手織り工たちを絶滅した。)によるアジア市場の拡大があり、1846年から1863年穀物法の撤廃後は、8年の穏やか期と繁栄期があり、これに対して9年の不況・停滞となった。成人男子労働者の状況については、この繁栄期にあってすらどのようであったかは、追記された注より判断されよう。*166
本文注166 / 1863年の日付があるランカシャー他の工場労働者たちの、組織的な移民のための協会設立に関する請願書には、次のように書かれているのを我々は見出す。「今日においては、工場労働者たちの大規模な移民は、彼等を現在の打ちのめされた状況から救出するためには絶対的必要事項であり、否定する者はいないだろう。だが、我々は皆さんに、次のような付加的事実に注目してもらいたいのである。いつの時代にあっても継続的な移民の流れが必要であり、通常時にあっても彼等の地位を維持するためには移民なしでは不可能だということを。−事実はこうである。1814年輸出綿商品の公式価値は、17,665,378英ポンドであった。一方実際の市場で売られるはずの価値は、20,070,824ポンドであった。が、1858年では、輸出綿商品の公式価値は、182,221,681ポンドで、実際の、または市場で売られるはずの価値は僅か43,001,322ポンド、つまり以前の10倍の量が、以前の2倍以下の価格で売られたのである。様々な原因が連動して生じたこの様な結果は、一般的に、国にとっても、そして特に工場労働者にとっても不利益なことであり、それらの原因について、状況が許されるならば、我々は皆さんの目前によりはっきりと示していきたい。現時点では、労働の不断の過剰が最も明白な原因であるということで十分足りていよう。労働過剰なしでは、商売は余りにも破滅的で、続けて行くことができない。そしてまた商売は、全滅から自身を守るためにも絶え間なき市場の拡張を要求する。我々の綿工場は周期的な商売の沈滞によって休止に直面させられるであろう。現在のような決着方法(arrangements)では、商売そのもの死は避けられない。しかるに人間の願望(mind)は常に作用(atwork)する。そしてにもかかわらず、我々は、この25年間で6百万人もの人がこの国を離れたと言う状況の流れ(mark)の中にいると思っている(believe)。人口の自然増加があるとはいえ、また生産を廉価にするための労働解雇であるとはいえ、成年男子の大部分は最も繁栄した時ですら、いかなる条件であれ、工場に仕事を得ることは不可能であると分かる。」(「事実に関する査察報告書1863年4月30日」)我々は以後の章で、我々の友人達、工場主達が綿商売の破局にあっても、あらゆる手段を用いて、国家的な妨害をも含めて、労働者たちの移住の阻止にどのように努力したかを見ることになろう。 
第八節 近代工業による工場手工業
 手工業、そして家内工業に及ぼした大変革

 

A.手工業と分業とを基礎とした協働作業の破壊
(1)どのようにして、機械が手工業に基づく協働作業を破壊したか、また手工労働の分業に基づく工場手工業の協働作業を破壊したかを今まで見てきた。その第一分類の例は、草苅機で、草苅労働者の協働作業に取って代る。第二分類種の驚くべき例は、縫い針作り機である。アダムスミスによれば、彼の時代、10人の男子らが協働作業によって、一日48,000本以上の縫い針を作った。一方、一台の縫い針作り機は11時間作業日一日で145,000本を作る。一人の婦人または一人の少女がそのような機械を4台監視し、従って、日に600,000本近くを作り、週に3,000,000本以上を作る。*167 一台の機械が、工場手工業の協働作業に取って代るなら、それ自体が手工業的性格の工業の基礎の役割を務めることになろう。そのような手工業への回帰である限りは、それは工場システムへの過渡期でしかない。工場シテスムは、大抵の場合、機械的な原動力、蒸気とか水とかが機械を駆動する力として、人間の筋肉に取って代るやいなや、自身を実現する。とはいえ、あちらこちらで、最初のうちは、いずれも機械的原動力を使った小規模な工業が行われたにすぎない。バーミンガムの商売人達のいくつかで行われていた蒸気力の賃借りもその一つであり、ある織り工業部門のいくつかでは小型熱機関を用いたりした。*168 コベントリーの絹織物工業では、「小屋掛け工場」の実験が試みられた。小屋の列に囲まれた正方形の空間の中央にエンジンハウスが設置され、エンジンは複数のシャフトによって各小屋の織機と連結されていた。いずれの場合も、その原動力は各織機ごとに賃貸され、織機の稼働・不稼働によらず、賃貸料は週単位で支払われた。各小屋は2台から6台の織機を持っていて、あるものは織り工に属するものであり、あるものは借金で買われたものであり、あるものは賃借りされたものであった。これら小屋掛け工場群と単独所有の工場との間の闘争は12年以上にも及んだ。が、300の小屋掛け工場群の完全なる崩壊をもって終った。*169 工程の性質が大規模生産を伴わない場合では、新たな工業は最近の二三十年になって出現した。例えば、封筒づくり、鋼製ペン作り等で、一般的な経過として、最初は手工業段階を経て、ついで工場手工業段階に入り、短い移行期間の後、工場段階へと進んだ。ここに挙げたような業種は、品物を作る上で、段階的に進められる一連の工程から構成されておらず、連結されない多くの工程で構成されているため、その移行が極めて困難なのである。このような事情が、鋼製ペン工場の成立にとって大きな障害となった。それにもかかわらず、約15年後前に、6工程の別々の作業を一辺に自動的に行う機械が発明された。1820年の手工業システムによって供給された鋼製ペン1グロスは7ポンド4シリングであった。1830年それらは工場手工業によって1グロス8シリングで供給され、今日工場システムは1グロス2ペンスから6ペンスで仲間内の取引に入る。*170
本文注167 / 「児童労働調査委員会第三報告書1864年」
本文注168 / 合衆国では、この様な、機械による手工業の再現が、数多く見られ、それゆえ、工場シテスムへの避けようもない移行が始まるだろう。その集中度はヨーロッパはおろか英国と較べても長足の進展となる(strideoninseven-leagueboots英文は一足で21マイルを跳ぶ靴でとある)のは確実であろう。
本文注169 / 「事実に関する査察報告書1865年10月31日」
本文注170 / ジロット氏が、最初の鋼製ペン大工場を、バーミンガムに設立した。1815年という早い時期に、年間1億8千万本以上のペンを作った。120トンの鋼材を消費した。バーミンガムは、英王国においてこの産業を独占しており、現在では、10億本のペンを生産する。1861年の国勢調査によれば、1,428人の労働者を雇用しており、その内の1,268人は5歳から上の年令の女性であった。
B.工場手工業、家内工業への工場システムの侵入
(1)工場システムの発展とそれに伴う農業の大変革によって、その他の全ての工業部門における生産が単に拡大するのみならず、その性格をも変える。工場システムにおいて遂行される原理があらゆる場面で判断を下す原理となる。生産工程をその構成段階ごとに分解して、機械、化学、そして自然科学のあらゆる領域を応用することによってその問題を解決しようする。かくして、機械はまず初めに、工場手工業のほんの僅かな部分に自分自身を割り込ませ、そしてさらに他の部分にも割り込んで行く。そのようにして、古き分業に基づく固いその結晶、彼等の組織は、次第に溶解され、そして不断に変化する道を余儀なくされる。これとは全く別に、協働作業の構成に、急激な変化が起きる。結合的に働いていた労働者たちに変化が生じる。工場手工業時代とは対照的に、それ以後、分業は、どこであれでき得る限り、女性の、あらゆる年令の児童の、そして非熟練の労働者の、はっきり云えば、英国内で独特の言い回しの、安い労働(cheaplabour)の雇用に行き着く。このようなことは、機械使用の有無に係わず、全大規模生産には伴うものであるが、それのみではなく、いわゆる家内工業、それが労働者の家または小さなワークショップであれ、そこにおいてもそれが現実化している。この近代的家内工業と呼ばれるものは、その名前以外は、かって知られたような、古き時代の家内工業とも、それなりに独立を前提とした都市の手工業者や、農園手工業者の存在とも異なる。とりわけ、労働者や彼の家族の住居としての存在とも無関係である。古き時代の家内工業は今では、工場の、工場手工業の、倉庫業の外部部門となっている。工場労働者、工場手工業労働者、そして手工業職人等を一ヶ所に大勢集めて直接的に指揮する他に、資本は、見えない糸を用いて、別の大群をも支配する。すなわち家内工業労働者を。彼等は大きな町や田園のあちこちに散らばって住んでいる。一つの例を挙げる。ロンドンデリーのティリー旦那のシャツ工場は、1,000人の労働者を自身の工場で雇用する他、また9,000人の人々をも使用する。これらの人々は国中のあちこちに散らばっており、彼等自身の小屋で働く。*171
本文注171 / 「児童雇用調査委員会第二次報告書1864年」
(2)近代工場手工業におけるチープかつ未熟労働力の搾取は、一般工場におけるよりもより恥知らずな方法で行われる。それは何故かと云えば、近代工場手工業には、ほとんど全くと言っていいほど、工場システムの技術的な基盤がない。すなわち筋力に代る機械の代置も、労働の軽減という性格もないからである。そして同時に、女性や年長児童は最も非良心的なやり方に服従させられる。有毒であるとか有害である物質に晒される。いわゆに家内工業における搾取は、工場手工業よりもさらに恥知らずなものとなる。なぜというなら、そこの労働者の抵抗力が、彼等のばらまかれている状況から言っても少なくされている。また、様々な多くの略奪的な寄生者が自身を菌のように雇用者と労働者の間にもぐり込ませてくる。また、家内工業はいつも工場システムと、または同じ生産部門である工場手工業と競合させられる。また、その貧弱さが労働者から、彼の労働にとって最も本質的なもの、空間とか照明とか通風とかの条件を強奪する。また、その雇用状況はますます不規則なものとなるからである。そして最後に加えるすれば、近代工業と近代農業によって「過剰」とされた人々の最後の楽園において、仕事を求めての競争がその最高度レベルに達するからである。このような生産手段における経済体制は、最初は、工場システムとして実行されるが、その初めから、まさにコインの表裏のように、もっとも野蛮な労働力の浪費と一体であり、労働に通常必須の条件の強奪を伴っている。−この経済体制は今や、労働力の社会的生産性が低ければ低いほど、そして工程を結合する技術的な基礎の発展が少なければ少ないほど、そのような一工業部門では、その敵対的で残忍な側面をより強烈に示す。
C.近代工場手工業
(1)さて、私は、上に述べたことに横たわる原理を説明するために、二三の例を上げて話を進めて行くことにする。すでに読者の皆さんは労働日の章で、読まれた多くの事例をよくご承知であることは言うまでもなかろう。バーミンガムとその周辺地域の金属工場手工業では、多くの非常に困難な作業に、三万人の児童と年少者が雇用されている。さらに加えて一万人の女性も雇用されている。そこでは、彼等は、真鍮鋳造、金属ボタン工場、エナメル引き、亜鉛メッキ、ラッカー塗装などの健康にとって問題のある作業に就いているのが見られるであろう。*172 成人であろうとなかろうと、とあるロンドンの家は、そこでは新聞と本が印刷されているのだが、労働者の過重労働の故に、不運なる呼称「食肉解体処理場」を頂戴している。*173 同様の過重労働は製本工場でも行われており、ここでの犠牲者は主に、婦人、少女、そして子供たちである。年少者は、塩鉱山、蝋燭工場手工業、そして化学工場で、ロープ作業、夜間作業のきつい仕事をしなければならない。絹織物工場では、まだ機械によって運転されていない頃は、年少者たちが、織機を回す作業という死の作業をさせられた。*174 最も恥ずべき労働の一つに、最も不潔な、最もひどい賃金の労働の一つに、ぼろ切れの選別が挙げられるが、そこでは婦人や年少の少女たちを好んで雇用する。大ブリテン島は、自身自分のぼろ切れの巨大なる倉庫なのだが、それはそれとして、全世界のぼろ切れ商売の一大商業地としてよく知られている。ぼろ切れは、日本から、最も遠く離れた南米の州から、カナリア諸島から、流れ込む。しかしぼろ切れの主要な排出元は、ドイツ、フランス、ロシア、イタリー、エジプト、トルコ、ベルギー、そしてオランダである。それらは肥料、ベッドの詰め物、打ち直し糸、そして紙の原料として用いられる。ぼろ切れ選別工たちは天然痘を蔓延させる媒介者であり、またその他の伝染性の病気の媒介者となる。そして彼女たち自身が最初のいけにえとなる。*175 幼児期から続く、労働者の長時間労働、過重労働、不適切労働の古典的な例とその残酷な影響は、炭鉱やその他の鉱山のみではなく、瓦工場、レンガ工場でもしばしば見られる。こうした工場等では、最近発明された機械は、英国では、わずかにあっちに一つこっちに一つといった程度でしか使われていない。5月から9月の間、仕事は朝の5時から晩の8時まで続く。そして乾燥が屋外でなされる場合は、しばしば朝4時から夜9時まで続く。朝5時から晩の7時までの作業は、「短縮された労働」または「適度な労働」と考えられている。少年も少女も6歳から、中には4歳の子供も雇用されている。子供たちは成人と同じ時間働き、しばしばそれ以上長く働く。仕事はきつくそして夏場の熱気は消耗を一層激しいものにする。モーズレーのある瓦づくりの現場では、例を挙げると、24歳の若い女性は日に2,000枚の瓦ををきっちりと作る。二人の小さな少女を助手に使う。少女二人は彼女のために粘土を運び、出来上がった瓦を積む。少女たちは日に10トンの粘土を、滑りやすい穴沿いの傾斜路を登り、粘土ピット深さ30フィートから運び上げ、さらに210フィートの距離を運んだ。
本文注172 / そして、今や信じ難いことだが、シェフィールドでは、子供たちが、ヤスリの目立て作業に使われる。
本文注173 / 「児童雇用調査委員会第五次報告書1866年」
本文注174 / 前出
本文注175 / 公衆衛生第8次報告書ロンドン1866年付録ぼろ切れ商売についての報告と多くの詳細を見よ。
(2)「子供たちにとっては、瓦づくりの現場の煉獄を、道徳心の大きな堕落もなしに通過することは不可能な事である。….卑猥な言葉、子供たちは最も感じやすい年頃からそんな言葉に習慣づけられる。不潔で、不適切で、不遠慮な習慣、無知で半野蛮な中で成長すれば、それが彼等をしてその後の人生で、無法、無頼、放埒を作り上げることになる。….退廃の恐るべき原点は、生活様式である。型づくり工それぞれは、彼等は永遠の熟練工であり、グループの長であるが、彼等それぞれは7人の手下を彼の小屋に食事付きで宿泊させる。彼の家族であろうとなかろうと、成人男子、少年、少女全員がその小屋で寝る。小屋は通常部屋が二つ、例外的に三部屋で、全て一階で通風が悪い。これらの人々はその日の重労働で疲れ果てていて、健康のルール、清潔さのルール、礼儀正しさのルールは少しも見られない。この様な小屋多くのは乱雑で、汚れていて、埃も….の見本である。この様な作業に年少少女を雇うことの最も大きな悪影響は此処にある。通例として彼女たちを幼児期の初めからその後の一生をこの最も破廉恥ななべに繋ぎとめる事にある。自然が彼女たちに、自身が女性であると教えて呉れる前に、彼女たちは粗雑で、口ぎたない少年となる。わずかなぼろ切れを身にまとい、脚は膝のかなり上までむき出しで、髪や顔は汚れにまみれ、上品さや恥といった感情の全てを軽蔑することを学ぶ。食事の時は地面に長々と寝そべるか、近くの運河で少年たちが水浴びするのを眺める。彼女たちの一日の長い重労働が終ると、よりましな服を着て、男どもと連れ立って居酒屋に行く。」
(3)この種の連中全てにおいて、子供の頃からそれ以後も、大酒飲みが蔓延するのは、ごく当たり前の事である。
(4)「最悪なのは、瓦工自身が自暴自棄になっている事である。よりましな方の一人がサザールフィールドの牧師にこう云った。先生!瓦工にやるのと同じように、悪魔を元気づけて改善して見ればいいんじゃない。」*176
本文注176 / 児童雇用調査委員会第5次報告書1866年さらに第3次報告書1864年を見よ。
(5)近代工場手工業(ここでは大規模な作業場全てを含め、厳密な意味での工場における必須の労働をいかに経済的なものとするかの資本のやり方については、公的な最も豊富なそのことに関する材料が、公衆衛生報告書第4次(1863年)、第6次(1864年)に見出される。作業場の記述、そのより特別なるものに、ロンドンの印刷工と仕立工のそれがある。我等が小説家の最も忌まわしい想像すら絶する。労働者の健康への影響は自明である。英枢密院の首席医務官であり「公衆衛生報告書」の公式編集者であるサイモン医師はこう述べる。
(6)「私の第4次報告書(1863年)で、私は、労働者たちが彼等の最も重要な衛生上の権利を主張することが、実際的にはどれほど不可能なことであるかを示した。即ち、彼等の雇用主が労働者を集める理由がなんであれ、そしてその雇用主に従属する限りにおいて、排除できうる不適切な状況の全てから解放されていなければならないとする権利の主張に関することである。私は、労働者が実際的に彼等自身のこの衛生的正義を行使することはできない一方、有給衛生警察行政官からいかなる効果的な援助を得ることもできないことを示した。….無数の成人男子労働者と成人女性労働者の命が今、無駄に苦しめられており、また彼等の単なる職業から受ける終ることのない肉体的な労苦によって命が縮められている。」*177
本文注177 / 公衆衛生第6次報告書ロンドン1864年
(7)作業室が健康状態にいかなる影響を与えるかの説明に、サイモン博士は、次のような死亡率に関する表を示す。*178
本文注178 / 前出 サイモン博士は次のように記している。25歳から35歳にかけてのロンドンの仕立職人や印刷工の死亡率は実際にはもっと大きい。なぜならば、ロンドンの雇用主らは、30歳までの若い人々の多くを、「見習い工」とか、手職の仕事をより完全なものにするためにと云う「徒弟」としてロンドンから離れた田舎から獲得する。これらの数値は国勢調査ではロンドン人としてカウントされる。ロンドンの死亡率を計算する場合にはこれらの労働者数が膨れあがるのだが、そこでの死者数を比例的に加えることはない。彼等の多くは実際には田舎に帰っている。重病の場合は特にそういうことになる。(前出*177)
(8)各産業に雇用されたすぺての年令の労働者数(略)
D.近代家内工業
(1)私は今、いわゆる家内工業の実状を示すところに帰ってきた。近代機械工業の裏庭で資本家が励むその搾取局面の恐怖に満ちた状況を知るためには、釘づくり商売の、外見上はまったく田園風景としか映らない現場に行って見なければならない。*179 それは英国の遠く離れた二三の村々で行われている。その釘づくりの実状も述べたいところなのであるが、ここでは、レースづくりと麦わら編みの家内労働から二三の例を述べることで十分であろう。これら後者の産業は未だに機械の助力によって行われてはおらず、また依然として、工場や工場手工業による部門にも打ち負かされるには至っていない。
本文注179 / 私がここで取り上げるのは、ハンマー打ちの釘のことである。機械によって切断されて作られる釘とははっきりと区別されている物である。「児童雇用調査委員会第三次報告書」まえがき。
(2)英国で、レース織り生産に雇用される15万人のうち、約1万人は1861年の工場法の適用を受ける。残りのほとんどの14万人は婦人、及び男女の若年層と子供達である。とはいえ、男性とあるのはは虚弱者を意味している。この安上がりの搾取材料の健康状態については、ノッティンガムの一般無料診療所に所属する医師トルーマン博士が計算した下記の表から分かる。レース織り女工の患者686名、多くの者は17歳から24歳で、そのうちの、末期的患者数の割合を示したものである。(略)*180
本文注180 / 児童雇用調査委員会第二次報告書
(3)末期的患者率の推移は、最も楽観的な進歩主義者が見ても、またドイツの自由商売受け売り主義者仲間の中の最もとんでもない嘘つき野郎が見ても、理解するに足りるものであろう。
(4)1861年の工場法は、英国内において、機械を用いて行われる限りにおいて、現存のレース織り業を規制する。我々が調べようとしている支部は、もっぱら家庭において働いているそれらの人々に係わるものであって、工場手工業または問屋で働く者たちではない。それらの支部は二つの区分に分かたれる。すなわち、(1)仕上げ、(2)小物づくりである。前者は機械編みレースの仕上げの手作業を行うもので、様々な細支部門が存在する。
(5)レース織りの仕上げは、「女主人の家」または婦人たちの自分たちの家のいずれかで、彼女らの子供たちの手伝いがあろうとなかろうとに関係なく、行われる。「女主人の家」を持っている婦人たち自身も貧乏である。作業室は個人の家の中にある。女主人は工場手工業者とか問屋主人から注文をとり、部屋の大きさと増えたり減ったりする仕事の量に応じて、婦人たち、少女たち、年少の子供たちを雇用する。これらの作業室に雇用される女性たちの人数は、ある場所では20人から40人となり、別の場所では10人から20人となる。仕事を始める子供たちの開始年令は平均6歳からであるが、多くは5歳以下からなのである。通常の作業時間は、朝8時から夕方8時までで、うち食事時間が1時間半だが、その時間間隔は不規則で、しばしばほこりっぽい作業室での食事となる。仕事が忙しくなると、朝8時から、時には朝6時からとなり、夜の10時、11時、12時までも続くことになる。英国兵舎では各兵士当たり500-600立法フィートの空間が法で割り当てられている。そして陸軍病院では、1,200立法フィートである。しかしそれらの仕上げ場では一人当たり67-100立方フィートである。同時に、酸素がガス灯で消費される。レース織りが汚れないようにするために、床はタイル張りや開口部があったりするが、それにも係わず、子供たちはたびたび、冬でさえも、靴を脱ぐように強いられる。
(6)「ノッティンガムでは、14-20人の子供たちが小さな部屋に、それは多分、12フィート平方よりは大きくないが、そこに、ごちゃごちゃと詰め込まれて、24時間のうちの15時間退屈極まりない単純作業にこき使われ、それに加えてありとあらゆる有害な条件の下に置かれているのを見ることは全く当たり前のことなのである。….最年少の子供でさえ、張りつめた注意力とおどろくべき速度で作業をする。指は休むこともなく、またはその動きが鈍ることもない。もし、かれらは何か質問されたとしても、彼等は目を上げることはしない。その一瞬をも失うのを恐れている。」
(7)女主人の「長いステッキ」が、労働時間が長くなればなるほど、ますます刺激剤として使われる。
(8)「子供たちは次第に飽きて、その単調な、目が疲れる、同一姿勢を保つことで消耗する仕事の長い拘束が終る頃ともなると、鳥のように落ち着かなくなる。彼等の仕事はまるで奴隷の苦役である。*181
本文注181 / 児童雇用調査委員会第二次報告書1864年
(9)婦人たちと自分たちの子供とが自宅で作業する場合、今日の意味では借り上げられた家のことで、多くは屋根裏部屋なのだが、そこでの作業等の状態は、その他のことも加わって、よりひどいものとなる。この種の仕事は、ノッティンガムから半径80マイル以内に出されている。その問屋の作業場から家に帰る夜9時または10時に、子供たちには大抵家に持って帰って仕上げるレースの束が渡される。資本家のパリサイびとは、彼の下僕に代理させて、この束を渡す時に、勿論のことだが、例の脂ぎった言葉「それはお母さんへの分」と云い添えるのだが、彼は、この貧しい子供たちが寝ずに起きて手伝うことはよく分かった上でのことなのである。*182
本文注182 / 前出
(10)枕飾り用のレースづくりは、主に、英国の二つの農業地域で行われている。一つはホニトンのレースづくり地区で、デボンシャーの南海岸に沿って20-30マイルに広がっている。そして北デボンのいくつかの小さな場所をも含んでいる。もう一つは、バッキンガム、ベドフォードとノーサンプトン各州の大部分と、隣接するオックスフォードシャーとハンティンドンシャーの一部から成り立っている。通常は、農業労働者たちの小屋で、仕事が行われている。多くの工場手工業者らは3,000人以上のレース織り工を雇う。子供たちと年少女性ばかりを雇う。もろもろの状況は、レース仕上げのところで述べたのとおんなじであるが、「女主人の家」に代わって、「レース学校」と呼ばれるものが登場する。彼等の小屋の中にあり、貧しい婦人たちによって仕切られる。子供たちは、5歳いや多くはより早くから、12歳または15歳になるまでこの教室で働く。特に若い者は最初の1年間は、4時間から8時間を、以後は、朝6時から夜の8時までそして夜10時まで働く。
(11)「部屋は通常、小さな家の普通のリビングルームで、煙突は気流を防ぐために塞がれていて、収容者が暖をとるには自分の動物としての熱によるしかなく、冬でも大方そのようなものである。その他の場合では、いわゆる教室は暖炉のない小さな物置といったところである。….これらのむさくるしい部屋に人を過剰に詰め込むため、空気は極端に汚染する。さらに加えて、この小さな小屋の周りから、廃水、トイレ、腐敗物や、その他の汚物の有害な影響を受ける。」空間に関しては、「あるレース学校では18人の少女と女主人が一人で、一人当たり35立方フィートであり、他の学校では匂いが耐えがたく、18人で、241/2立法フィート/人である。この種の産業では2歳や2歳半の子供たちの雇用も見出される。」*183
本文注183 / 前出
(12)バッキンガムやベドフォード州内で、小物のレースづくりが終ってしまった処では、麦わら編みが始まる。そしてハートフォードシャーの大部分に広がり、そしてエセックス西部・北部にも広がった。1861年そこでは、40,043人が麦わら編みや麦わら帽子づくりに雇用されていた。そのうち3,815人があらゆる年令の男性で、その他が女性、7,000人の子供たちを含めて20歳以下が14,913人であった。レース学校に代わって、「麦わら編み学校」が登場。子供たちは、一般に4歳から、多くは3歳から4歳の間に麦わら編みの教育を受ける。教育、勿論なんの教育も受けはしない。子供たちは自分たちでは、小学校を「普通の学校」と呼んでこれらの血を搾り取る施設とは区別している。後者の学校では、子供たちは、目標を達成するために、通常は日30ヤードと、半分飢えた母親たちに命令されて、単純な作業を続けさせられている。これらの同じ母親たちは、大抵は、家でも子供たちを働かせる。例の学校が終った後、夜10時、11時、12時までも働かせる。麦わらが子供たちの口や手を傷つける。麦わらに息を吹きかけて湿らしながらやるために口を切る。バラード博士は、ロンドンの医学官団体の総意として次のように述べている。寝室や作業場では一人当たりの最小空間は300立方フィートであると。しかしこの麦わら編み学校の空間は、レース学校よりも乏しく、「122/3、17、181/2ないし22立方フィート/人以下である。」
(13)「これらの数字の小さい方は、調査委員の一人であるホワイト氏はこう言う。一人の子供がもし3方向3フィートの箱に入れられるとするなら、その半分の空間よりも小さい。」
(14)子供たちが12歳から14歳に至るまでの生活を享受する実状がこの様なことなのである。哀れな半分飢えた両親は、何も考えることはなく、彼等の子供たちからできる限りのものを得ようとするばかり。であるから、子供たちは成長するやいなや、彼等の両親のことはほんの1ファージング銅貨程度もかえりみず、それが、そうするのが当たり前として、両親を放棄する。
(15)「そんなふうに育てられた人々に、無知や不道徳が広がっているとしてもなんの不思議もない。….かれらの道徳性はまさに干潮のごとき状態である。….多くの女性は私生児を持っており、犯罪統計に最も詳しい者でさえも驚かされるほどの幼年少女がそうした私生児を抱えているのである。」*184
本文注184 / 前出
(16)それでもって、こうした典型家族の故郷は、ヨーロッパの模範的なキリスト教徒の国なのである。すくなくともモンタランベール伯、確かキリスト教精神の申し分なき権威を持っているお方が、そのようにおっしゃる国のことなのである!
(17)ここに述べて来たこれらの産業の賃金は、惨めなものである。(麦わら編み学校のこどもの最高額は、まれにみる高額の場合でも3シリングである。)賃金は、どこでも行われている現物支給システムの蔓延によって、名目賃金にくらべて遙かに低い額に引き下げられている。なかでもレース織り地域は特にひどい。*185
本文注185 / 児童雇用調査委員会第一報告書1863年
E.近代工場手工業、近代家内工業の近代機械工業への移行
 それらの産業に対する工場法適用によるこの変革の加速
(1)まぎれもなき女性と子供たちの労働の乱用、まぎれもなき仕事や生活のためのあたりまえの様々な必須の条件の強奪、まぎれもなき過重労働や夜間労働の野蛮さによってなされた労働力の低廉化も、ついには乗り越えられることができない自然の障害物にぶつかる。そのように、これらの手法による商品の低廉化も、資本家の搾取も当然とはいえ、同じものにぶつかる。この点に到達するやいなや、−実際には長い年月が掛かるのであるが、−まさに時代が機械導入の鐘を鳴らす。そして、それゆえ、地方に散らばった家内工業やまた工場手工業を工場工業へとの急速なる移行の鐘を鳴らす。
(2)この移行の動きの最も大きな規模の一例は、服飾品の生産から与えられる。児童雇用調査委員会の分類によれば、この産業は、麦わら帽子メーカ、婦人帽メーカ、縁無し帽子メーカ、仕立業、頭飾りや外套やドレス等のメーカ、シャツメーカ、コルセットメーカ、手袋メーカ、靴メーカ、それに加えて多くのマイナーな枝部門がある、ネクタイとかカラーづくり等々。1861年英国及びウェールズで、これらの産業に雇用されていた女性は、586,299人で、このうちの115,242人は少なくとも20歳未満で、16,650人は15歳未満であった。1861年英王国でこれらの女性労働者の数は、750,334人であった。一方、英国及びウェールズで、雇用される男性の数は、縁無し帽子メーカ、靴メーカ、手袋メーカ、そして仕立業で、437,969人、うち14,964人が15歳未満、15歳から20歳までが、89,285人、20歳以上が333,117人であった。但し多くの小さな枝部門はこれらの数字には含まれていなかった。さて、ここにあるままの数字を見れば、英国及びウェールズのみで、1861年国勢調査によると、これとほぼ同じ人数の計1,024,277人が農業と牧畜業で仕事をしているのが分かる。我々はやっとこのことの意味が分かって来た。この厖大な量の商品が機械の魔法によって生み出され、この厖大な労働者たちを機械が解雇することの。
(3)服飾品の生産は、一部は工場手工業で行われるが、その作業室にはその分業の部分的再生産しかなく、その骨のない皮膚がただ散らかっているのを見るばかり。他の一部は小規模手工業者によって行われるが、以前とは違って、個々の消費者のために仕事をするのではなく、工場手工業者や卸問屋のために仕事をする。町全体や地方域までにも広がった、ある一つの支部となることも多い。例えば、靴メーカである。特別に、そして最終的には非常に大きな規模で、家内工業労働者と呼ばれる人々によって行われる。彼等労働者は、工場手工業者、卸問屋、そして小さな仕事場の主人すらをも含む、その外部部門を形成する。*186
本文注186 / 英国の、頭飾りや外套やドレスづくりは殆どが雇用者の作業所内で行われ、一部は、そこに住む女性労働者によって行われ、他は、その作業所とは別に住む女性労働者によって行われる。
(4)原材料他は、機械工業から供給され、大勢の安い人間材料(感謝と憐憫の尾ひれがついた)は、機械工業や改良された農業によって「自由とされた」個人から造られた。ここに集まった工場手工業者達は彼等の主なる資本家としての必要から、いかなる需要の増大に対しても備えとするための一群を手元に確保しておきたいとする必要から、これらの労働者群を支配したのであった。*187 需要に対する補完的なものとしてにも係わず、これらの工場手工業者らは、あちこちに散らばった手工業や家内工業を、広大な基礎として、継続して存続させることにしたのである。これらの支枝細々に及ぶ厖大なる剰余価値生産の仕組み、彼等の品物の一層の低廉化の仕組み、昔も今も最低限の賃金払いのための最主要なる仕組みであり、惨めな生存のための必須の条件以上のなにものでもなく、また人間器官の耐えうる最大の作業時間の拡張を図る以上のなにものでもない。まさに事実はこうであった。人間の汗と人間の血を値切ることによって、それが商品に転換されて、市場は常に拡大され、そして日々その拡大が続いたのである。そのより顕著な例は、英国植民地の市場である。そこでは、それらに加えて英国趣味や英国習慣も蔓延した。そうしてついに、最終点に到達した。その古き手法の基礎、これでもかの激しい労働者の搾取、そのための多くの組織的な分業、は、もはや、拡大する市場に対応できず、より一層急速な拡大を見せる資本家間の競争にも対応できなくなった。機械降臨の時の鐘が鳴った。決断を下す革命的な機械、その機械は、ドレスメーカー、テイラー、靴メーカー、縫製業、帽子づくり、その他多くの、あらゆる同様の生産部門の支部細部に至るまで全く同様に襲い掛かかったその機械とは、ミシンである。
本文注187 / 調査委員の一人であるホワイト氏が、軍服をつくる工場手工業を訪ねた。そこには1,000人から1,200人の労働者が雇用されており、殆どが各年令層の女性であった。靴の工場手工業は、1,300人が雇用されており、ほぼ半数が子供と少年であった。
(5)その即時的な労働者への影響は、全ての機械のそれと同様である。近代工業の始まり以降、商売の新たな部門を機械が獲得して行ったのと同じである。幼い子供たちは不要とされた。ミシン工の賃金は、貧困中の最も貧困に属する多くの労働者である家内工業労働者のそれと較べればやや上となる。ミシンが競いあうようなかなり良い地位にあった手工職人の賃金は没落する。新たなミシンの使い手はもっばら少女と若い女性に限られる。機械力の助力を得て、資本家らは、重労働を担っていた男性労働者の独占を崩し、老婦人や幼い子供たちの大勢を軽労働から放り出す。この圧倒的な力の競争が、か弱き手工労働者たちを粉々にする。ここ10年間のロンドンでの飢餓による死者の恐るべき増加は、ミシンの拡大と平行して進行した。*188 機械を手と足または手だけで動かす新たな女性労働者は、時には腰掛けて、時には立ったままで、ミシンの重量や大きさや特別なる型に応じて動かし、そして多大な労働力を支出する。彼女たちの業務は、古いシステムでの時間よりそれほどは長くないにもかかわらず、その大きな消耗が長時間に及ぶため健康を損なう。ミシンがおのれを設置する場所がどこであれ、狭く、すでに混み合った作業場であって、健康を損なうような悪影響を追加する。
本文注188 / 一例として、戸籍官による1864年2月26日付死亡週報には、5件の餓死が含まれている。同日のタイムス紙は、別の1件を載せている。週に6人の餓死犠牲者とは!
(6)「その影響は」とロード氏は云う。「天井の低い30人から40人のミシン工が働いている作業場に入れば、とても耐えられない。….熱気が、アイロンを加熱するガスストーブも一因だが、ひどいものである。….このような場所では通常の一般的な朝8時から夕方6時までの作業時間であってさえ、それでも毎日決まって3名ないし4名の者が卒倒する。」*189
本文注189 / 「児童雇用調査委員会第二報告書1864年」
(7)生産器械変革の必然的結果であるこの工業的方法の大変革は、一連の様々な移行形式を通じて実現される。これらの形式は様々で、ミシンがある産業の一部門またはその他の産業への普及の程度お応じて、それらが稼働した期間に応じて、労働者の以前の状況に応じて、工場手工業の手工業の家内工業の下準備状況に応じて、または作業場の賃貸料*190 に応じて、その他諸々に応じてで、いろいろと多様なものとなる。例えば、婦人服仕立業の場合、すでに多くの労働が概ね単純な協働作業として組織されていたので、ミシンは最初の段階では、その工場手工業的な産業内においては単なる新しい要素となっただけである。テイラーやシャツメーカーや靴メーカー、その他においては、あらゆる形式が混在させられていた。工場システムそのものもここにはあり、大親分の資本家から原材料を受け取って、「借り小屋」とか「屋根裏」とかに10人から50人以上の労働者を、自らのミシンの周りに集めた中間業者も居る。そしてさらに、これが最終的な存在だが、そしていつもながらの機械の存在形式なのだが、システムとして組織されず、かつ矮小なる部分で使われ、手工業者、家内労働者、そして彼等の家族といっしょに、ミシンが用いられる場合、それに加えてミシンから見放されたわずかばかりの労働者を引き込んでミシンを使わせる場合など。*191 英国で当時実際に広く用いられていたシステムは、資本家が数多くのミシンを彼の建物に集め、そしてそのミシンで出来上がった物をさらに手縫いして仕上げるために家内工業労働者たちに分配する。*192 確かに様々な移行形式があるが、それが工場システム集中への転換傾向を覆い隠しはしない。この流れは、ミシンの性質そのものによって成長する。その多様な使用が集中を促進する。一つの屋根の下に、一つの管理体制の下に、以前はその業種が様々に分かれていたものを集める。また同様、ミシンを掛ける前の待ち針作業やその他の作業もミシン作業の建物内にあれば最も便利であることから、一層その傾向が強まる。云うまでもないが、縫工労働の、そして自分のミシンで作業する家内工業労働の搾取という狙いからも当然ながらそのような展開となる。彼等労働者たちの運命はすでに殆どその津波の中に置かれて居る。増大が続くミシンへの資本投入は、*193 ミシン生産への拍車をかけていたし、一方で市場はそれが供給過剰となっていた。ゆえ、自前ミシンによる家内工業労働者対してはその自前ミシンを売りに出す合図ともなった。ミシンそのものの過剰生産は、ミシン生産者に対しても、売上の減退から、多くのミシンを週それなりの賃料で貸し出しせざるをえず、ミシンを抱えた小業者との究極の闘いに突入して行くことになった。*194 ミシンの構造の絶えざる改良、そして絶えざる一層の低廉化が日々古い型の価値を下落させ、その大量のミシンを大きな資本家らにバカみたいな値段で売るはめとなる。資本家らは嬉々としてそれらを使って儲けを得る。そして最終的には、人間に替る蒸気機関がここにもやって来る。全ての同様の大変革で起きたように、最後の一吹きがやって来る。最初のうちは蒸気力の利用は純技術的な困難に遭遇する、その不安定さ、速度制御の困難性、軽量機械の早い損耗等が問題となる。だが、それらの多くは忽ち経験によって克服される。*195 一方で、多くのミシンが大きな工場手工業へと集中することが蒸気力の導入となるならば、他方、大きな工場では、蒸気と人間筋力との競争が労働者とミシンの集中をせき立てる。かくして、現在、英国は、巨大なる服飾産業ばかりでなく、あらゆる産業が、この変革を経験しつつある。工場手工業、手工業、そして家内工業の工業システムへの変換、これらの生産形式の変換が、全面的な変化や分解が、近代工業の影響(大文字)の下に、何年も前から再生産され、それ以上のことを成す。当然あるべき社会的進歩のいかなる要素も参加させずに、この恐怖の工場システムが突き進む。*196
本文注190 / 「作業場に必要な土地・建物の賃貸料は、その決断のための究極の要素と思われる。そしてその結果として、この古きシステム、小雇用主や家庭に仕事を出すことが、首都においては最も長く維持され、最も早く消滅することになったのである。」(前出)この「」の中に述べられたまとめの文章は、他でもなく、靴メーカーについて書かれたものである。
本文注191 / 救済を受ける生活困窮者とほとんど区別が点かないような労働者の状態にある手袋メーカーやその他の業種ではこの様なことは起こらない。
本文注192 / 前出
本文注193 / レスターの深靴と短靴の卸売品向け商売だけで、1864年時点で、すでに800台のミシンがすでに使われていた。
本文注194 / 前出
本文注195 / 例えば、ロンドンのピムリコ陸軍被服工廠、ロンドンデリーのティリー・&・ヘンダーソンのシャツ工場、そして1,200人の労働者を雇用するリメリックのテイト諸氏らの衣服工場。
本文注196 / 「工場システムへの傾向」(前出)「現時点、全雇用は、移行状態にある。レース産業、織物産業、他で生じた同じ変化(大文字)が進行しつつある。」(前出)「完全なる大変革」(前出)1840年の児童雇用調査委員会の頃は、靴下づくりは依然として手作業によってなされていた。1846年以降、様々な種類の機械が導入された。いまではそれらは蒸気によって動かされる。男女の3歳以上のあらゆる年令の、靴下づくりに雇用された労働者の総数は、1862年英国で約129,000人であった。これらのうちのわずか4,063人が、1862年2月11日の議会公式報告書によれば、工場法の下で働いていた。
(8)まさにこの工場法が、婦人たち、若者たち、子供たちが働くあらゆる工業に適用されることになって、この自然発生的に起ったかの様な工業革命は、人為的に助長されるところとなった。労働日の強制的な規制、その長さ、休息、始業と終業、子供たちのリレーシステムの廃止、一定年令以下の子供たちの就業禁止、等々は、一方では機械のより以上の利用を余儀なくし、*197 そして、筋力に対して、原動力として蒸気が取って替る。*198 そして、一方で機械利用が進められ、他方では、時間のロスを補うために、一般的生産手段である、炉、建物等、の拡大が生じる。一言で云えば、生産手段の一層の集中化とそれに対応する労働者一層の集合となる。工場法に脅かされるそれぞれの工場手工業者の、利益を守ろうとして喘ぎ、繰り返し、激しく主張する反対の主な点は、事実こうである。つまりは、以前の規模の商売を続けるためには、より大きな資本の支出が必要になるであろうと云う事である。さて労働に関して云えば、工場手工業(頭文字が大文字)といわゆる家内工業及びその中間的な労働形式の間に関しては、労働日や児童雇用の制限が決まるやいなや、それらの中間形式は壁にぶつかる。安価極まる労働力の無制限な搾取が彼等の力を完結させる唯一の基礎なのだから。
本文注197 / 一例を挙げれば、製陶業、グラスゴーのコクレン諸氏らの英国陶器製造所はこう報告する。「量を維持して行くためには不熟練労働者が使用する機械利用を拡大することにした。そして古い方法によるよりもより多くの量を生産することができると日々確信するところである。」(「事実に関する査察報告書1865年10月31日」)「事実、結果として、工場法は一層、機械導入を強いることになった。」(前出)
本文注198 / かくてこのように、製陶業への工場法施行後は、多くの手ろくろ作業場に機械ろくろが増加した。
(9)工場システムの存在のための一つの必須の条件は、労働日の長さがまさに決まった時に、結果として確実となったことは以下のことである。すなわち、与えられた時間で、与えられた量の商品、または与えられた有益なる結果の生産であると。そしてそれ以上に、労働日内における法的な休止が、定期的かつ突然の作業の中断が生産過程にある品物に損害を与えないと云う前提を意味する。この結果としての確実性は、つまり作業中断によるこの可能性は、当然ながら、純機械的な工業においては、他の、化学的な、そして物理的な過程が主要であるところの、例えば、製陶業、漂白業、染色業、製パン業や多くの金属工業と較べれば、より容易に達成されよう。労働日の長さの制限がない世界なら、夜間作業が続けられ、人間の命の浪費に制限がない世界なら、どこであれ、作業の性質(thenatureofthework)から生じるその内容をより良いものにしようとするほんの僅かな試みも直ちに大自然によって築き上げられたものに対する永久的な障壁と見なされる。工場法がこのような永久的障壁を取り除くが、これ以上に確実に害虫を殺す毒薬はない。製陶業者連中ほど「不可能」と大きく怒鳴った人はいない。とはいえ、1864年、彼等も法の下に置かれ、16ヶ月のうちにはあらゆる「不可能」は消滅した。
(10)「陶器用粘土をつくる改良された方法」工場法によって呼び出されたその方法は、「蒸気に替わって、圧力によるもので、またその他、形づくったものを乾燥させるための新たな構造の竈等、製陶技術上の大いなる改良のそれぞれは、前世紀ではこれらに立ち打ちできなかったような進展が打ち出されている。竈の温度を相当に低くし、明らかに燃料を節約し、焼成前品への順応的効果もある。*199
本文注199 / 「事実に関する調査報告書1865年10月31日」
(11)あらゆる想定にも係わず、陶器の値段は上がらなかったが、その量は増大した。その結果は、1865年12月までの12ヶ月の輸出の進捗に表れており、前3年の平均額よりも138,628英ポンド上回った。マッチ工場手工業では、少年たちが、彼等の食事を噛まずに飲み込む時間でさえ、マッチを溶けた燐に浸しに行かねばならないということが、絶対に欠かすことができないことと考えられていた。そこでは燐の有毒な蒸気が少年たちの顔に襲いかかる。工場法(1864年)は、必然的に時間の節約が図られており、その結果浸し機の導入が強いられ、労働者たちはその蒸気に接触せずに済むこととなった。*200 同様のことではあるが、現時点では、未だに工場法の下に置かれていないレース編み工場手工業部門においては、食事時間を決めることができない状態に留まっている。レース乾燥の様々な工程がそれぞれ違った時間であるためである。その時間は3分から1時間そしてそれ以上と様々なのである。これについて児童雇用調査委員会委員はこう答えた。
本文注200 / この機械の導入やその他の機械をマッチづくりに導入した結果、230人の若い労働者たちが14歳から17歳までの少年少女たち32人に置き換えられた。この労働の節約は、1865年、蒸気力の採用によって継続的に一層進められた。
(12)「この場合の事情は、正確に、我々が最初の報告書で取り上げた壁紙印刷業の事情と同じである。この商売のある主だった工場手工業主等は、使用材料の性質とか、彼等の様々な工程とかの状況があり、そのため、食事のためのいかなる与えられた時間であれ、重大なる損失なしには、作業を中止することはできない、と繰り返し喚いた。しかし、懸念されるような困難は、当然とるべき見直しや事前の準備等によって克服されるであろうことは証拠から云っても明らかであろう。今国会開会期間中に可決された工場法付帯法第六節第六条に従って、この付帯法が可決されてから、工場法で決められた、食事時間の確定を求められるまでに、18ヶ月の期間が与えられた。」*201
本文注201 / 「児童雇用調査委員会第二次報告書1864年」
(13)工場法が議会を通過するかしないかという時期に、我が友、工場手工業主等は以下のことを見出していた。
(14)「工場法の我が工場手工業部門への施行で生じると思われた不都合は、こう言えるのは幸いだが、起こらなかった。我々は生産において、問題になることは何も見当たらなかった。あっと云う間に、同じ時間で今まで以上を生産した。*202
本文注202 / 「事実に関する調査報告書1865年10月31日」
(15)英国立法府は、経験によって、単純な強制法が、労働日の縛りと規定に対する工程上の性質による反対、云うところの障害物を取り去るに十分足りると結論を出していたのである。誰もこの天才的なやや過激な先取りを非難しようとは思わないだろう。かくて、工場法導入に際しては、工場法の執行のための技術的な障害を除去する義務をはたすために工場手工業主等には6ヶ月から18ヶ月の様々な期間がそれなりの産業に応じて与えられた。ミラボーの言葉「不可能!そんなことを云うなんて、むしろ感謝すべきものを!」こそ、近代技術には特に適切なものと言える。とはいえ、このような経過を経て、工場法はかくて、工場手工業システムを工場システムに転換するに必要な物質的要素を人工的に熟成したのであり、またさらに同時に、より大きな資本の支出を迫られるという必須の条件から、小さな事業主の没落を急がせることにおいて、まさに資本の集中化を促進するのである。*203
本文注203 / 「しかし、はっきり云って、それらの改良は、大きく実行できる事業者は僅かに限られ、一般的な事業主にとってはとてもできはしない。多くの古くからの工場手工業主にとっては現に抱えている多くの生産手段全額を越える投資なくしては、それらを持ち込むことはできはしない。」「だから、私は、」と調査官補であるメイは、こう書いている。「この様な方法の、(工場法及び工場法付帯法のごときものを)導入にあたっての不可避な一時的な混乱だとしても、喜ぶことはできない。そしてまさにそうなのだが、対処しようとした問題そのものになっている。(事実に関する調査報告書1865年10月31日)
(16)技術的な方法によって除去できる純粋に技術的な障害はそれなりに解決できるが、労働者自身のへんてこな習慣が、労働時間の規則を妨げる。このことは、特に、出来高払い賃金が支配的なところに見られる。そこでは、日または週の一部で失った時間のロスを、その後の超過時間とか夜間労働で埋め合わせる。その工程が成人男性労働者をして残酷なる野獣に化す。そして彼の妻や子供たちの命をすり減らす。*204 この労働力の支出にかかる規則性の不在は、単調なきつい仕事の倦怠からくる自然かつ粗暴な反作用であるばかりではなく、それはまた、生産の無秩序に大きく起因している。その無政府的な状況とは、資本家による労働力の搾取のし放題という前提条件ゆえの無政府性から生じている。一般的には、定期的な産業サイクルの変化、そして特に各産業が対処する市場の特別な変動、我々はそれを「季節」として認識できるのだが、航海のための年に於ける定期的な適切な季節や、または流行といったものに依存する。これとは別に、最小限の時間でなんとかしなければならない突然の大きな注文がある。このような降って湧くような注文の習慣は鉄道と電信の広がりに応じてより頻繁になってきた。
本文注204 / 例えば溶鉱炉の場合、「週末に向かう時期は一般に仕事時間が長くなる、それは月曜日と時々は火曜日の一部またはその全体も同じ様に、仕事をしないという労働者の習慣の結果である。」(「児童雇用調査委員会第三次報告書」)「小親方らは大抵、時間を不規則に使う。彼等は二三日を無駄にしてから、徹夜でそれを取り返す。もし彼等が自分の子供たちを持っていたら、常にそう使う。」(前出)「仕事が生じる規則性の欠如を長時間労働でなんとかすると云う可能性とその実行がこれらの不規則性をさらに助長する。」(前出)「バーミンガムでは、….莫大な量の時間の損失….仕事をしない時間、それ以外の奴隷的時間」(前出)
(17)「国中に張りめぐらされた鉄道の広がりは、短期日の注文を出すのを少しも躊躇させなくなった。買い手達は、グラスゴー、マンチェスターそしてエジンバラから二週間毎にやって来るか、または我々が供給している市の卸売店の倉庫に行く。だがいつも彼等がやっていたように在庫品を買うのではなく、小さな注文を出し、直ぐに造れと要求する。以前我々は、いつも売れ行きが鈍る時期でも働くことができるようにと、次のシーズンの需要に備えているのだが、今や先の需要がどうなるのか事前に誰も云うことができない。」*205
本文注205 / 「児童雇用調査委員会第四次報告書」ベージxxxii「鉄道システムの拡大は突然的な注文の習慣に大きく貢献したと言われる。そしてその結果として、大急ぎとなり、食事時間の無視や労働者の時間外労働となる。」(前出)
(18)依然として工場法に服属しない工場や工場手工業においては、季節と呼ばれる期間中は、突然の注文がやってくるため、最も恐るべき過重労働が頻繁に襲いかかる。工場、工場手工業、卸問屋の外には、いわゆる家内工業労働者たちがいて、かれらの仕事は最も不規則極まりなく、全くのところ、彼等の原料や資本家の気まぐれな注文に依存している。この家内工業に関しては、資本家は、建物や機械の償却を心配することもないし、仕事が無くなるリスクも考えなくていいし、ただ彼自身が身に被った皮膚とも云うべき金儲け略奪仕事以外はなにも気にしない。かくして、彼は、彼自身をもって、何かの時に使える産業予備力を作るために組織的に例の仕事をする。年のある時期、彼はこの産業予備力を最も非人間的な労苦で殺傷し、それ以外の時期では、仕事飢餓に喘がせる。
(19)「雇用者らはこの習慣的なる家内労働の不規則性に悪のりする。至急を要する臨時作業があれば、作業は午後11時、12時、午前2時までにも及ぶ。さらにいつもの決まり文句「全時間」にも及ぶ。」そしてその場所は、「悪臭人を昏倒させるに足り、もしあなたがドアーのところに行き、それを開ければ、多分、それ以上は身震いするばかりで踏み込めない」ところ。*206 「彼等の頭の中はどうかしている。」と一人の証人、靴づくり職人が、主人らのことについてこう述べた。「彼等は、少年をして、年の半分を猛烈に働かせ、あとの半分を殆どぶらぶらさせても、なんの損傷も受けないと思っている。」*207
本文注206 / 「児童雇用調査委員会第四次報告書」
本文注207 / 「児童雇用調査委員会第四次報告書」
(20)技術的な障害と同様に、それらの「商売の成長とともに成長したそのしきたり」もまた、以前も今も、依然として、利益追究ばっかりの資本家によって、仕事の正当なる性質にとって障害であると主張される。この文句は、当時、最初に工場法によって脅かされた綿君主らのお気に入りの叫びである。彼等の産業は他の産業よりも大きく航海に依存しており、すでに経験がそのうそをうそとしているのに、である。かくて以来、商売に関するあらゆる障害を工場査察官は単なる言いがかりとして取り扱っている。*208 児童雇用調査委員会の非常に良心的な調査によれば、労働時間規制によって、ある産業においては、以前に雇用された労働者の労働量に対しても全年間を通してより平均化される効果が広がったと証明されている。*208a そのことこそ、殺人的で無意味な気まぐれの習慣に対する最初の理性的な拘束であった。*208b 流行は近代工業システムにとっても非常に始末の悪い存在であったこと、大洋航海や通信手段の発達が一般的なものとなって、季節作業を実際に支えていた技術的な基礎を一掃したこと。*209 (:報告書の証明が続く。)そして、その他の全ての、いわゆる克服しがたい困難が、大きな建物、追加的な機械によって霧消したこと。労働者の雇用数が増大したこと。*210 (:報告書の証明が続く。)そして卸売り商売の対応様式上の諸々によって様々な措置変更がなされる。*211 (:報告書の証明が続く。)とにかく、資本はそのような変化に甘んじるものではない。−そしてこのことを彼等の手の内の代表者を通じて繰り返し繰り返し認めさせる。−但し、「議会の一般法の圧力のもと」*212 (:報告書は、こう述べている)法の圧力のもとでのみ、彼等が、労働時間の強制的規制に、従うこと証明する。
本文注208 / 船便の調達が間に合わなかったための未就航で生じる商売上の損失については、私は、1832年と1833年の工場主らの愛玩したご議論を思い出す。このご議論についてはなんの進歩もない。蒸気が全ての距離を時間的に半減し、運搬に関する新たな調整法が確立される以前なら多少の力はあったろうが。当時ですら、そのことが調査された時に証明に失敗していた。改めて調査すべきとなれば、はっきりと失敗することになろう。(「事実に関する調査報告書1862年10月31日」)
本文注208a / 「児童雇用調査委員会第四次報告書」
本文注208b / ジョンベラーズは、はるか以前の1699年にこう述べている。「流行の不確実性が必然的貧困を増加させる。そこには二つの大きな災難がある。第一は、旅職人たちには冬場は仕事が無く悲惨である。呉服商や織物業主は春が来て、彼等が流行なるものがどうなるのかが分かるまでは旅職人たちを雇うために彼等の財を投じようとはしない。第二に、春ともなれば、旅職人たちでは不足となり、織物業主らは多くの未熟労働者を引っぱってこなければならない。王国の需要を四半期か半年で満たすそのような者をである。つまりは農民を狩り出す。農業地域の労働者は枯渇する。そうして都市には多くの乞食なる大きな貯留物を作り出す。そうして、冬には、物乞いを恥じる者の何人かを餓死させる。」(「貧困、工場手工業、その他に関する論考」)
本文注209 / 「児童雇用調査委員会第五次報告書」
本文注210 / ブラッドフォードのある輸出商会の証言は、次のようなものである。「これらの状況においては、少年たちが朝の8時から午後7時とか7時半まで、仕事を仕上げるために働かされる必要は全くない。それは単なる追加的な人手と追加的な支出の問題である。もしあるご主人がそれほどに強欲でなかったならば、少年たちが遅くまで働かないだろう。追加する一台の機械の価格は僅か16ないし18英ポンドである。そのような追加労働時間は機械の不足と空間の不足で生じている。」(「児童雇用調査委員会第五次報告書」)
本文注211 / ロンドンのある工場手工業主、彼は別の視点からこの労働時間規制の強制を、工場手工業主達に対する労働者たちの保護と見なしており、また卸売り商売に対する工場手工業主自身の保護とも見なしているのだが、こう述べる。「我々の商売上のプレッシャーは船便業者によって引き起こされる。彼等船便業者は、商品を帆船で与えられた季節に彼等の目的港に届くようにしたがる。つまりは、帆船と蒸気船の船賃の差額をポケットに入れたがる。あるいは、彼等の競争相手よりも早く外国市場に届けるために二つの蒸気船のうち出航の早い方を選ぶ。」
本文注212 / 「このことは、なんとかできるだろう。」と、ある工場手工業主は云う。「議会の一般法の圧力のもとで、工場拡大の支出によって。」(前出) 
第九節 工場法その衛生と教育条項 それらの英国全土への拡大

 

(1)工場に係る立法、それは、自生的に発展してきたかのような生産工程に対する、社会の、最初の、意識的・方法論的な反応で、我々が見て来たように、綿の紡ぎ糸、自動機械、そして電信のように、近代工業の必然的生産物と同じである。英国全土に広がったこの立法について考察する前に、我々は工場法に含まれた、労働時間とは関係がない、ある条項について簡単に触れて置くことにする。
(2)法文の単語が、資本家が簡単にその法の網をくぐり抜けうるものであることは言わずもがなであるが、その点を脇に置いたとしても、衛生条項は極めて貧弱なものである。事実、壁を白く塗ることとか、ある物を清潔にしておくこととか、換気とか、危険な機械からの保護といった項目に限られる。労働者の手足を保護するための装備に関する僅かな支出を工場主に課している条例に対しての彼等の気が狂ったような反対、自由商売原理主義への幼稚で際立って狭い見解からの反対、そこには、利害の衝突が伴う社会では、他でもなく、各個人はただ自分自身の個人的利益を追究することによってのみ必然的に共通の福得を増大する!という論法からの反対である。この反対については、我々は第三巻で改めて取り上げることにする。一例で足りよう。読者諸君は、ここ20年の間にアイルランドで、亜麻産業が非常に増加し、また亜麻打ち工場も相当数に増えた。1864年ではそこに1,800ヶ所のこの種の工場があった。いつも秋・冬になると機械に全く無縁な階級の人々が、婦人たち、「若い人たち」、近隣の小作人たちの妻たち、息子たち、娘たちが、畑仕事から亜麻打ち工場のローラーに亜麻を噛ませる仕事に連れ込まれる。事故、それは数においても、種類においても、全く機械の歴史上に前例がない程であった。コーク近傍のキルディナンにある亜麻打ち工場では、1852年から1856年の間に、6件の死亡事故と60件の手足を失うような重傷事故が発生した。そのいずれも、簡単そのものの、2、3シリングの器具によって防ぐことができたであろうものだった。W.ホワイト博士、ダウンパトリックにある工場群の公認外科医は、1865年12月15日の彼の公式報告書で次のように記している。
(3)「亜麻打ち工場での重大事故は、最も恐るべき性質のものである。多くの場合、四肢の一本が胴体からちぎり取られる。そして死亡か、不具と苦痛の将来かが待っている。この国の工場の増加は、当然ながら、このようなひどい結果を拡大する。そして、法の下に置かれることになれば、その恩恵は大きいであろう。私は、亜麻打ち工場に対する適正な監視がなされることによって、生命の損失や不具と云う大きな犠牲は避けられるものと確信している。」*213
本文注213 / 前出
(4)清潔と健康を維持するための最も簡単な器具のために、議会の法律をもって、それを強制しなければならないということほど、資本主義的生産様式の性格を明確に示すものが他に何かあるか?(余談を追加する)製陶業においては、1864年の工場法が、「200工場以上を白塗りにして清浄なものとした。多くの場合、何とかして、全く、20年間このような清浄化を節制した後のことであった。」(これが資本家の「節制」なるものである!)そこには、27,800人の職人が雇用されており、これまで、長引かされた昼間の労働とたびたびの夜間労働を通して有害な空気を呼吸させる。他と比較すれば無害な仕事と見られていた場に、病気と死を孕ませた。法は換気装置を驚くほど改良した。」*214
本文注214 / 「事実に関する調査報告書1865年10月31日」
(5)法のこの部分は、同時に、資本主義的生産様式を、その根源的性質から、ある一点を越えるあらゆる合理的な改良を排除することをもってはっきりと示す。英国の医師達は、繰り返し繰り返し、全員が、継続的に作業する場所では、一人当たり500立方フィートが最低限の空間であると断言している。さて、もし工場法が、その強制的な条項をもって、間接的に小さな作業所を工場へと変換を急ぐならば、すなわち、間接的に小資本家の財産権を攻撃し、大資本家の独占を保証するならば、そのように、あらゆる作業場で各労働者に適切なる空間を与えるように義務づけられるとすれば、数千の小雇用者等はたちまち一挙に財産を収奪されるであろう!まさにここは、資本の大小に関係なく、資本主義的生産様式の根源とも云うべき、「自由な」労働力の買いと消費による資本の自己拡大そのものが攻撃されることになるであろう。工場法は、故に、これらの500立方フィートの呼吸スペースを前にして立ち往生する。衛生管理官達、工業調査委員達、工場査察官達は、この500立方フィートの必要性と、資本のそれを縛ることの不可能性について幾度も口にする。彼等は、かくて、こう宣言する。労働者が被る消耗と疾患は資本の存在の必要条件である。と。*215
本文注215 / 健康な平均的個人の普通の強さの一呼吸では、約25立方インチの空気が消費される。そして1分間に約20回の呼吸がなされる。これは実験によってはっきりした。従って、各個人は24時間では、720,000立方インチ、または416立方フィートの空気が肺に入る。云うまでもないだろうが、一度呼吸された空気は、大自然なる偉大なる作業場で清浄化されないうちは、同じプロセスにはもはや使えはしない。バレンタインとブルンナーの実験によれば、健康な一人の成人は、1時間当たり1,300立方インチの炭酸ガスを吐き出す。これは24時間で肺から吐き出される炭酸ガスが固形炭素換算で約8オンスとなる。「全ての人間は少なくとも800立方フィートを確保していなければならない。」(ハクスレー)
(6)工場法の教育条項として示されたものは全体の中では僅かなものであるが、ともかく、初等教育は児童雇用の分かちがたい条件であると宣言している。*216 それらの条項は、初めて、教育と体育を*217 手作業と組み合わせることの成果を証明した。かくて、その結果として、手作業に教育と体育を組み合わせることの成果をも証明した。工場査察官達は直ぐに学校教師に質問することで、以下のことを見出した。すなわち、工場児童は普通の全日生徒のわずか半分の教育しか受けていないにも係わず、同じ程度か、時にはより以上に学んでいた。と云うこと見出した。
本文注216 / 英国工場法に従って、両親は彼等の14歳未満の子供たちを、この法の支配の下にある工場に送りこむことはできない。但し例外として、法は、同時に、両親は、子供たちが初等教育を受けるためならば、そこに、送り出すことができるとしている。工場手工業主は法を応諾するにあたっては責任をもつ必要がある。「工場教育は必須である。であるから、労働の一条件となる。」(「事実に関する調査報告書1865年10月31日」)
本文注217 / 強制的な、工場児童及び貧困学生の教育に、体育(少年の場合は教練が加わる)を組み合わせることの非常に有益な結果については、第七回「全国社会科学推進協会」年定例会議での、N.W.ショーニアの演説を見よ。「議事その他の報告」ロンドン1863年63、64ベージ。また、「事実に関する調査報告書1865年10月31日」
(7)「このことは、半日しか学校にいない生徒は常に新鮮で、また常に授業を受ける用意ができていて、その意志も強い、と云う簡単な事実によるものと思われる。このシステムでは、半日を手作業で、半日を学校でとなるが、それぞれの活動が他方の休息と気晴らしになっており、その結果として、この二つの組み合わせが子供たちにとって非常に快適で、常に一ヶ所に置かれっぱなしの子供たちよりも良い結果を生むということである。午前中通して学校にいる少年は、(特に暑い日の場合は)仕事をしてからやってくる新鮮で快活な少年たちに、対等に競争して勝つことができない。」*218
本文注218 / 「事実に関する調査報告書1865年10月31日」ある絹工場手工業主は児童雇用調査委員会に、無邪気にも次のように語った。「労働者の生産効率の真の秘密は、子供の頃からの教育と労働の結合に見出されるものとしっかり確認している。勿論仕事は余りに厳しかったり、うんざりのものだったり、健康によくないものであってはならない。だが、結合の利点については疑いがない。私は、自分の子共たちが、彼等の学校にバラエティを与える遊びと同様に仕事が多少でもできれば良いと思う。」(「児童雇用調査委員会第五次報告書)
(8)この点に関するうんざりな話は、1863年エジンバラで開催された社会科学会議のシーニョアの演説に見出されよう。そこで彼は、とりわけ、上級中級クラスの児童の単調で無益な長い学校の時間が、どれほど、教師の労働に無益なものを加えているかを説明する。「教師には何のやりがいもないばかりでなく、子供たちの時間、健康、そして活気を奪う、絶対的な害悪ですらある。」*219 ロバートオーエンが、詳細にわたって我々に示したように、未来の教育の萌芽はこの工場システムから発芽した。教育とは、あらゆる子供のあらゆる与えられた年令に応じて、生産的労働に学習と体育とが組み合わされたものであろう。単に生産の効率を増大させる一方法のみではなく、全面的に発達した人間を作り出す唯一の方法であると。(訳者小余談:私は、ここの英文が大いに気に入っている。生産的労働、全面的に発達した人間、あらゆる子供のあらゆる与えられた年令に応じて、等の語句はこの歳になった子供に帰って、それらの教育を受けたいと思うことしきりである。
本文注219 / シーニョア前出 ある程度の確かなレベルに到達した時点で、近代工業が、その生産様式や社会的生産条件への革命的な影響において、さらにまた人間の心への革命的な影響において、どの程度のことができたのかは、シーニョアの1863年の演説、彼の1833年の工場法に対する反対の攻撃的な演説、またさらに工場法に関する会議での論文から見ても、また英国のある農村地区では、貧乏人が、彼等の子供たちに教育を与えることを、飢餓死の罰を与えるぞと嚇して、禁じた事実から見ても、驚くべきものであると分かる。以下の様に、すなわち、スネール氏はその様なことを報告している。サマセットシャーで起こったことは全く普通のことで、貧乏人が地区行政に救済を求めると、彼は彼の子供たちの退学を強要される。フェルザムの牧師ウッラートンもまた、次のようなケースについて話している。あらゆる救済がある多数の家族に対して拒否された。「なぜならば、彼等は彼等の子供たちを学校に送っていたから!」
(9)我々が見てきたように、近代工業は、それぞれの人間が、一つの細目作業に手足を生涯にわたって縛りつけられる工場手工業の分業を技術的手段によって一掃する。と同時に、その近代工業の資本主義的形式が、より以上に怪獣のような体型でこの同じ分業を再生産する。その近代工業の工場では、人を機械の生きた付属部品に改造することによって、そしてそれらの工場(頭文字が大文字)以外の様々な工場での、その一つは、機械と機械労働者の勝手極まる使い方によって、*220 また他の一つは、新たな基盤、婦人たち、子供たち、そして安い未熟労働者の全般的な導入の上に、分業を再建することによって、特殊な分業を再生産する。
本文注220 / 人によって可動されるあらゆる手工芸的機械は、直接的に、または間接的に、機械力によって可動するより発展した機械と競合する。機械を可動する労働者には大きな変化が出現する。最初は蒸気機関がこの労働に取って代ったが、その後、彼がその蒸気機関に取って代らねばならなかった。その結果、その強度と労働力の量は、とんでもない大きなものとなった。そして特に、この労苦に運命づけられた子供たちの場合は云うまでもなかろう。このことを、児童雇用調査委員の一人であるロング氏は、コベントリーとその周辺の10歳から15歳の少年たちがリボン編み機を動かす仕事に使われていることを見つけた。比較的小さな機械を動かさねばならなかった年少の子供たちのことについては触れないが、「それは普通ではあり得ないくらい疲れる仕事である。その少年はまさに、蒸気力の代理以外のなにものでもない。」(「児童雇用調査委員会第五次報告書1866年」)この絶望的な「現奴隷システム」の経過については、この本を見よ。
(10)工場手工業の分業と近代工業の方法との両者の極端な違いが、いよいよはっきり分かるようになる。その違いを、他でもなく、それ自体の、次のような驚くべき事実によって証明する。近代工業や近代工場手工業に雇用される多くの子供たちは、早くから最も簡単な操作にリベットを打ち込むように嵌め込まれる。そして何年も搾取される。そこでは、仕事に関しては、彼等が将来同じ手工業工場や工場の仕事の役に立つであろうことすらなにも教えられることがない。例えば、英国凸版印刷商売を見れば、昔はシステムが存在した。現在のそれに匹敵する古き工場手工業や手工業では、見習い工が簡単な仕事から相当難しい仕事に進ませるシステムがあった。彼等はその教育コースを経て、印刷工として一人前になった。読み書きができるようになることは彼等の商売の要求でもあった。これとは違って、11歳から17歳の多くの少年たちは単一なビジネスに付く。紙を印刷機械の下に拡げて置くか、印刷された紙を取り出すかである。彼等はこの単調な作業を行う。ロンドンでは、日14時間、15時間、そして16時間一杯、週5日から6日、時には36時間、それもたった2時間の食事と仮眠で。*221 彼等の大部分は、文盲で、大抵は、全く粗暴で、実に異常な生き物となる。
本文注221 / 前出
(11)彼等がしなければならない仕事に彼等自らを適応させるには、彼等として何の知的訓練の必要もない。技能の余地も殆どない。判断することもない。彼等の賃金は、少年としては多少高いが、彼等が成長するに応じてのそれに見合う昇給もない。そして、彼等の大部分は、より良い給料や機械専任工というより責任のある地位への昇進を望むこともできはしない。なぜならば、各機械にわずか一人の専任工がいる一方で、その機械には少なくとも2名、大抵は4名の少年たちが張り付けられているからである。*222
本文注222 / 前出
(12)そのような子供の仕事には歳を取り過ぎるやいなや、それは17歳になるやいなやのことであるが、この印刷会社から解雇される。彼等は犯罪新兵になる。彼等をいずれかの雇用にと斡旋するいくつかの試みは、全くのところ、彼等の無知と粗暴により、また彼等の精神的及び肉体的な退廃のため何の役にも立てられなかった。
(13)工場手工業の工場内部における分業は、社会内部の分業と同じである。手工業や工場手工業が社会的生産の一般的な基礎を形成している限りでは、生産者が排他的に一つの部門を支配することや、彼の種々にわたる雇用の細分化は、*223 (本文途中の注だったため、以下括弧内訳者追加:生産者が排他的に一つの部門を支配することや、彼の種々にわたる雇用の細分化は、)発展における必要なステップである。そのような基礎の上で、各分断された生産部門は、それに適する技術的な形式を経験から修得する。ゆっくりと完全化する。そしてある与えられた成熟度に達するやいなや、その形式を結晶化する。時々そこに変化をもたらすものは、市場で供給される原材料によるもの以外は、唯一つ、労働手段の漸進的な更新のみである。とはいえ、それらの形式は、ひとたび経験によって絶対的なものとして固定されれば、それらが一つの世代からさらに千年も続けて同じ形式で、多くの場合で、人の手を通じて伝えられることで証明されたように、ちょっとやそっとのものではない強固なものとなる。その特有なる特徴は、18世紀に入ってさえ、その特異な商売は「秘伝」(秘儀)と呼ばれた。*224 彼等の秘密の内部には、正式に加入を許された者を除いては誰も入ることができない。近代工業は、彼等自身の社会的生産過程を、その過程が様々に自然発生的に生産部門を分け、多くの謎にしていて、外部に対してのみでなく、正式な職人にとってすらも謎としていたものを、人々の目から隠していたものを、そのベールを切り裂いた。その原理が、各過程を動きの構成要素に分解し、それらが人の手によって実行できるかどうかについては一切考慮せず、新しく、技術に関する近代科学を創造した。種々雑多で、明らかになんの連携もなく、固まった工業過程の形式が、今、それらを、与えられた有益な効果の達成のために、多くの意識的かつ系統立った自然科学の活用へと分解された。科学技術は、また、かって使われていた多種多様な道具にも係わず、人間の体のあらゆる生産的活動で必然的に用いられているいくつかの主な基本的な動きを発見した。それはあたかも機械科学が最も複雑な機械を、他でもなく、単純な機械力の連続的繰り返しに他ならないと見破ったのと同じである。
本文注223 / 「スコットランド高地のある地方では、何年も昔のことではなく、統計報告書によれば、全ての百姓は自分自身の革靴を自分でなめして作った。多くの羊飼いと小屋住農夫もまた、彼の妻や子供たちを連れて教会に現われる時の、その衣服は、他の手で作られたものではなく、自分の手で作ったものである。それらの衣服は、羊から刈り取られたものや、亜麻畑に撒いた種から作られている。これらを用意するに当たっては、僅かなほんの簡単なものが買われる以外には何も追加されない。その例外的なものとは、穴あけ錐、針、指貫、そして織りに使うほんのいくつかの鉄製部品だけ。染料、黒染め剤は主に、女性たちによって木、低木、ハーブなとから抽出された。」(デュガルドスチュワート「著作集」ハミルトン編第8巻)
本文注224 / エティエンヌボワローの著名な「手工芸の奥義」の中に、我々は次のように記述されていることを見つける。すなわち旅職人は親方たちの門下として認められるにあたって、こう誓わねばならない。「彼の仲間を兄弟愛をもって愛し、彼等のそれぞれの商売とともに彼等を支え、商売の秘密を故意に洩らさず、そして、その上、全ての者の利益のために、買い手に、他の者が作った物を悪く云って注意を引きつけ、彼自身の物を、推奨するようなことはしない。」
(14)近代工業は、存在している過程形式を最終的なものとも見ていないし、そのようにも取り扱わない。従って、工業の技術的基礎は革命的であり、一方の初期の様式は、根本的に保守的である。*225 近代工業は、機械、化学的プロセス、その他の方法によって、絶え間なく、生産の技術的な基礎にばかりでなく、労働者の仕事にも、労働過程の社会的な構成にも変化を引き起こす。それゆえ、同時に、社会内部の分業をも変革する。そして、絶え間なく、大量の資本と大量の労働者を一生産部門から他の生産部門へと送り出す。だが、近代工業が、その根源的な性格から、それゆえに、労働の変化、労働内容の流動性、労働者のどこへでもの移動性を必要としているはずなのに、他方で、その資本主義的形式では、それが、硬直化した特異性そのものの古い分業を再生産する。我々はすでに、この、近代工業の技術的な必要性と、その資本主義的形式の固有とも云うべき社会的な性格との間の絶対的矛盾が、どのように労働者の状態の安定と安心を吹き散すかを見てきた。どのように、それが、絶え間もなく、労働手段を奪い去り、彼の生活手段を彼の手から、ひったくろうと脅すのかを、*226 そして、どのようにして、彼のちっぽけな仕事(detail-function部分機能)を廃止し、彼を無駄な存在とするのかを見て来た。我々は同様に、この対立関係がいかにして、その猛威をさらけ出して、とんでもないものを作り出してきたかも見て来た。産業予備軍しかり。資本の勝手な取捨のために作られた悲惨である。労働者階級の中からの絶え間なき人間御供、労働力の途方もない濫費、そして社会の無政府状態が作り出す荒廃はあらゆる経済的な進歩を社会的災難に変えてしまう。これらは否定的な側面である。しかし、仮に一方で、現在の仕事の変化が圧倒的な自然法則のごとく立ち現れ、そして盲目的で破壊的な自然法則の作用を果たすとしても、あらゆる点で抵抗に、*227 直面する。他方、近代工業は、その破壊的な作用を通じて、生産の基本的な法則として、仕事の変化を認識する必要性を知らしめる。その結果、労働者は様々な仕事の適応性を、その結果、彼の様々な適性をでき得る限り発展させることの必要性を知らしめる。このことが、この生産様式をこのような法則として当たり前のように作用させることが、社会にとっては生きるか死ぬかの問題となる。近代工業は、明らかに、死の刑罰をもって社会にかく強要する。今日の細目労働者を、一つのそしていつも変わらぬ取るに足らない作業のくりかえしに生涯をがんじがらめにされている労働者を、そして単なるどうでもいい人間にまで追いやられた労働者を、個人として完全に発達させられた者、労働の変化に適応した者、生産のいかなる変化にも対応するように準備できている者に置き換えるよう社会に迫る。そして、彼が行う異なった社会的機能を果たす者に置き換えるよう社会に迫る。だが、このことが彼自身の自然な能力、獲得した能力に、自由な視野を与えるまことに多くの様式なのである。
本文注225 / 「ブルジョワジーは、生産手段を絶えず革新し続けねば存在することができない。そしてそれゆえ、生産関係を、そして全ての社会関係を改革し続けねば存在することができない。これとは逆に、古き生産様式の、不変の形式の維持は全ての前期の諸産業階級にとっては第一の存在条件であった。生産の絶えざる変革、全ての社会的条件の防ぐことができない混乱、永遠の不安定さと騒動、これらがあらゆる以前の時代からブルジョワ時代を識別する。固定化した、硬く氷ついた関係、彼等の古き昔の連鎖、古びた偏見と信念は掃き捨てられ、全ての新しく形式化されたものも、それが硬直化する前に時代遅れとされる。あらゆる固形物は空気に溶け、ありとあらゆる神聖なるものは異端とされ、そして遂に人間は、彼の現実の生活条件や、彼の仲間との関係をありのままに受け入れることを強いられる。」(F.エンゲルスとKarlマルクス「共産党宣言」ロンドン1848年)
本文注226 / 「命を取りあげるも同じことでございます。命をつなぐ財産を取り上げるとおっしゃるのですから。」シェークスピア
本文注227 / サンフランシスコから帰る途中のあるフランス人労働者は、次のように書いている。「私は、カルフォルニアで雇われてやった様々な仕事ができる等とは思ってもいなかった。私は凸版印刷以外の仕事には適していないと固く信んじていた。....この冒険者たちの世界に一度入れば、彼等はシャツを取り替えるのと同様に何回も彼等の仕事を変える。即ち、私もそう言った者たちと同じ様にした。鉱山の仕事の報酬が十分ではなかったので、そこを離れて街に出た。そこで、次々に、印刷技術者、スレート葺き、配管工他になった。この結果、私はあらゆる種類の仕事に適することを見出した。私は、軟体動物の一種とは少しも思わないが、人間なんだなと強く感じる。」(A.コルボン「職業教育について」第二版)
(15)この革命を効果的なものとしたのは、自発的に既に実行された一ステップ技術学校、農業学校の設立である。この職業学校で、労働者たちの子供たちが労働の様々な用具の実用的な取り扱いとか、多少の技術とかの授業を受けることである。工場法は、資本からもぎ取った最初の僅かばかりの譲歩とはいえ、工場内の仕事に初歩的な教育を混ぜ合わせたものに限られるとはいえ、労働者階級が権力に参加したことには疑いがない。そしてそれは、避けようもなく、技術的な教育であり、理論的にも実際的にも労働者階級の学校として、将来、適切な位置を占めることになるに違いない。同時にまた、この革命的な酵素が、最終的に過去の分業を廃止するものが、生産の資本主義的形式に、そしてその形式に呼応する労働者たちが置かれた経済的状況に、真っ向から対立するものとなることも疑いようがない。ではあるとしても、この対立関係の歴史的発展、与えられた生産形式に内在するものこそ、そのような生産形式が解消されて、新たな生産形式を確立する唯一の道なのである。「基礎となる型を越えて何ものも縫い合わせるな」−この他を寄せつけぬ上に極端とも云うべき手工業の智恵をば、時計屋のワットが蒸気機関を、床屋のアークライトが織機を、宝石工のフルトンが蒸気船を発明した瞬間から、完全にナンセンスなものとした。*228
本文注228 / ジョンベラーズ、政治経済学の歴史において特に非凡さを示した彼は、17世紀末にあって、最も明確に現在の教育システムと分業を廃止する必要性について述べた。それらがもたらす社会の両端に生じた二つの正反対の、肥大と衰退のゆえである。なかでも、彼はこう言った。「怠惰な勉強は怠惰を学ぶことと代わりはなく、....肉体労働は、神のいにしへからの教えである。....労働は、肉体的健康にとって適切なるもので、生きるために食事するのと同じである。安逸によって得たものを、人は病気の時に苦痛として見出す。労働は人生のランプにオイルを加える、丁度それに灯を点す様なもの。....子供じみた馬鹿げた仕事は、」(この言葉についての注意、これは彼の予感からの、俗悪なの人達に対して、また彼等の現代の模倣者に対しての言葉)「子供たちの心をもバカにする。」(「全ての有益なる商売と倹約のための産業大学設立に係る提案」ロンドン1696年)
(16)工場立法が工場、工場手工業、他の労働を規制する限りでは、それは単なる資本の搾取する権利の邪魔物としか見られなかった。が、それがいわゆる「家内労働」を規制するに及んで、*229 忽ち、祖国の権威への直接的な攻撃と見なされる。つまり、親権への直接的な攻撃と。優しき心を持った英国会が、長い間、このステップに踏み出すのを躊躇していたものであった。しかしながら、事実の力はそれを強く押し進め、近代工業が、伝統的な家族が成り立っていた経済的基礎を覆すことによって、またそれに対応する家族労働をも覆すことによって、伝統的な家族の絆をもまた、解き崩すことを最終的に知らしめた。子供たちの権利は、かくて宣言されねばならないものとなった。1866年の児童雇用調査委員会の最終報告書は、以下のように述べている。
本文注229 / この種の労働は、多くは小さな仕事場で続けられており、我々がすでに見てきた、レース作りや、麦わら編みがあり、シェフィールドやバーミンガムの金属細工商売をより細かく見て行けば見ることができるであろう。
(17)「誠に不幸なことであるが、それもかなりの苦痛を伴うものであるが、証拠の全体を通して見て明らかなことは、男女の子供たちに保護が必要なのは、彼等の両親からに対してであって、他の誰からに対してでもない。」一般的に子供たちの労働の無制限の搾取シテスムと、とりわけ言えることであるがいわゆる家内労働システムは、「ただ一つ、両親は何のチェックも受けずに、彼等の若くもろい子孫たちに、この横暴で悪辣な力を振るうことができるが故に維持されている。….両親は彼等の子供たちを「多くの週賃金を稼ぐための単なる機械」にする絶対的な権力を持つべきではない。….子供たちや若い人は、であるから、全てのこのようなケースにおいて、正当にこの立法の権利を要求することを、自然の権利として認められている。すなわち、彼等の肉体的な力を早々に損なうことや、彼等の知的な状態、道徳的状態を低下させられるようなことから、免れていることを、彼等のためにもしかと確保すべきである。」*230
本文注230 / 「児童雇用調査委員会第五次報告書」
(18)とはいえ、直接的であろうと間接的であろうと、子供たちの労働の資本主義的搾取を作り出したのは親の権利の誤用のゆえではない。そうではなくて、逆であって、親の権利の経済的基礎を一掃する搾取の資本主義的様式が、その権利のとんでもない誤用へとその行為をねじまげたのである。かように資本主義システム下における家庭の絆の分解が、恐ろしくかつ情けないものであるとも、それにも係わらず、近代工業は、生産過程における重要な役割を果たすがごとく、家庭領域の外で、女性たちを、若い人々を、そして男女の子供たちを仕事に就かせることによって、より高度な家庭の形式や男女の関係の形式のための新たな経済的基盤を作り出す。ゲルマン−キリスト教的な家族形式が絶対的、最終的なものであるとするのは、丁度、古代ローマとか、古代ギリシャとか古代東洋とかの、その上、歴史的発展の経過とともにある形式の特徴を現在に適用することと同様に、勿論のこと、馬鹿げている。さらに云えば、あらゆる年令の両性の個人で構成される協働作業グループは、適切な条件下で、必ず必要で、それが人間発展の源泉となるという事実は明白なのである。それが自然発生的に発展した、残酷な、資本主義的形式下で、そこでは労働者は生産過程のために存在し、労働者のための生産過程ではなく、事実上、堕落と奴隷と云う伝染病の生産過程となっているとしてもである。*231
本文注231 / 「工場労働は家内労働と同様、純粋で卓越したものと言えよう。そして多分それ以上であると。」(事実に関する調査報告書1865年10月31日129へージ)
(19)機械紡績や機械織り−それらが最初の機械の創造物−に対する例外的な法から、社会的生産全体に及ぶ法への移行という、工場法の一般化への必要性は、我々が見てきた様に、近代工業が歴史的に発展させられたその様式から現われた。その産業の後尾でも、工場手工業の、手工業の、そして家内工業の伝統的な様式は完全に変革される。工場手工業は確実に工場システムに向かい、手工業は工場手工業へ、そして最後には、手工業や家内工業の領域も、比較して云えば、驚くべき短き時間のうちに、資本主義的搾取の最も野蛮で暴虐な自由競技が行われる悲惨な檻の中に移った。最終的に決定的なものとしたのは、二つの理由がある。その一つは、資本は、ある一つの点で、自分自身が法の支配に置かれることを知るやいなや、自分自身を他の点ではより勝手に補填するという悪癖をいつも繰り返すことであり、*232 その二番目は、競争条件の平等性を求める資本家らの嘆願である。即ち、労働の搾取の全てに関して平等性が保持されるべきと云う叫びである。*233 この点については、二つの、心臓も張り裂けんばかりの叫びに耳を傾けて見よう。ブリストルの釘と鎖他の工場手工業主ら、クックスリー旦那らの、彼等の工場への工場法の規制を自発的に受け入れた時の、叫びである。
本文注232 / 「事実に関する調査報告書1865年10月31日」
本文注233 / 「事実に関する調査報告書」の中に、極めて多くの例が発見されるであろう。
(20)「古い反則的なシステムが近隣の工場では支配的なので、クックスリー旦那衆の会社は被害を被っている。彼等の少年たちは彼等の労働を午後6時以降、他でさらに続けるよう唆される。「これは」彼等はごく当たり前のようにこう言う。「不正であり、我々にとっては損害である。少年の力の余分はそこで使い果たされる、それは我々が全部の利益を受け取る権利があるものなのだ。」」*234
本文注234 / 「児童雇用調査委員会第五次報告書」
(21)J.シンプソン氏(紙箱と紙袋のメーカー、ロンドン)は、児童雇用調査委員会の委員達の前で次のように述べる。
(22)「彼は、それ(法的な干渉)に対するどのような嘆願書にも署名するであろう。…何故かと云えば、彼は、夜中気持ちが休まらない、彼が彼の工場を閉めた後、残りの誰彼が彼よりも遅くまで仕事を続け、彼の注文を奪い去るかも知れないというわけで。」*235
本文注235 / 「児童雇用調査委員会第五次報告書」
本文注229 / この種の労働は、多くは小さな仕事場で続けられており、我々がすでに見てきた、レース作りや、麦わら編みがあり、シェフィールドやバーミンガムの金属細工商売をより細かく見て行けば見ることができるであろう。
(23)児童雇用調査委員会は、以下のように要約する。
(24)「大手の雇用主らにとっては、彼等の工場が法の支配下に置かれるべきものである一方で、彼等自身の商売部門でもある小さな作業所では労働時間がなんら法的制限を受けないというのは、不正なのであろう。それに、労働時間に関する不公平な競争条件から生じる不公平、小さな作業所の労働が除外されるならば、法から除外されたそのような場所に引き抜かれた年少労働者や婦人労働者を彼等のところにいかにして連れ戻すか、その方法を見出すことが困難と云う不利益が大手の工場手工業主らには加わると云うのであろう。さらに、こう云いたいのであろう。このような小さな作業場所の繁殖への刺激が賦与され、その小さな作業所群は、人々の健康、安楽、教育、そして一般的な改良にとっては、殆ど不変のもっとも好ましからざる場所であると。」*236
本文注236 / 前出 大規模工業の、小規模工業との比較における有利さについては、以下のところで見ることができる。「児童雇用調査委員会第三次報告書」
(25)児童雇用調査委員会は、その最終報告書で、子供たち、若い人々、及び婦人の1,400,000人以上の人々を工場法の規制下に置くように提案している。これらの人々の約半分は小さな工業そしていわゆる家内工業において搾取されている。*237 上の最終報告書はこう云っている。
本文注237 / 法の下に置くようにと提案された商売は、次のものである。レースづくり、靴下編み、麦わら細工、衣服織り工場手工業とその数えきれない程の下部部門、造花づくり、靴づくり、帽子づくり、手袋づくり、洋服仕立、全ての金属工場、溶鉱炉から針づくり、他に至る工場、製紙工場、ガラス工場、煙草工場、消しゴム工場、織り用の組紐づくり、手作りカーペット、雨傘とパラソルづくり、紡錘と糸巻づくり、凸版印刷、製本、文具工場手工業(紙袋、カード、色紙、他を含む)、ロープづくり、黒珠石装飾品工場手工業、煉瓦づくり、手作りによる絹織物工場手工業、コベントリー織り、製塩工場、獣脂蝋燭工場、セメント工場、精糖工場、ビスケットづくり、多くの木材加工に係わる工場、そしてその他のいろいろのものが混ざり合った商売に関係する工場
(26)「もし、そのような多くの子供たち、年少者たち、そして女性たちの全てを、前に述べたように法の保護の下に置くことが、議会の意向に沿うものであるべきというならば、….そのような法の制定は、若くそしてか弱い者たち、彼等がその法のより直接的な対象であるが、彼等に最も有益な効果をもたらすであろう。さらに、彼等のみではなく、依然として大多数を占める成人労働者たち、彼等はこれらの雇用全体に含まれる者たちであり、それが直接的雇用であろうと、間接的雇用であろうと、直ちにその法の影響下に入るであろう。この全体に及ぶ影響を疑うことはできない。法は彼等に正式で適切な労働時間を実施するであろう。法は彼等の作業場を健康的で清潔な状態に維持するよう仕向けるであろう。従って、法は彼等自身の安寧と国の安寧が非常に大きく依存する肉体的な力の貯蔵を大事にしかつ改良することであろう。法は成長期にある世代を、早くから彼等の体を痛めつけ早過ぎる衰弱をもたらすような過重労働から救出するであろう。そして最終的には、法は--少なくとも13歳に至るまでの者に-様々な教育を受ける機会を保証するであろう。それによって、あの驚くべき無知を終わらせるであろう。….わが調査委員会の補助調査員が忠実に示したように、深き痛みと深刻なる国家的退廃の感覚なしには見ることができないその無知を終わらせることであろう。」*238
本文注238 / 前出
(27)トーリー内閣は、*239 1867年2月5日の国王臨席の英国国会開会演説で、工業調査委員会の提案を*240
本文注239 / ここは、(トーリー内閣から….ナッソーW.シーニョア宛の)英文テキストがドイツ語版第四版と一致するように改変されているものである。−エドワード(ネット版英文資本論の収録者が、付けた注である。)
本文注240 / 工場法拡大化法は、1867年8月12日に議会を通過させられた。それは、全ての鋳造所、鍛冶屋、そして金属工場手工業を規制するもので、機械製造工場をも含み、さらにガラス工場、紙工場、ニューギニア産ゴムやインドゴムの工場、タバコ工場手工業、凸版印刷や製本の工場、そして最後に、50人以上を雇用する工場が含まれる。1867年8月17日に通過した労働時間規制法は、小さな作業所といわゆる家内工業を規制する。私はこれらの法と1872年の新たに制定された鉱業法については、第二巻でもう一度捉えなおして見るつもりだ。法案にすると公表した。そこに至るには、20年間の人体実験細胞が必要とされる。すでに1840年には児童労働に関する議会内調査委員会が任命されている。その報告書は1842年、ナッソーW.シーニョアの言葉によって明らかにされている。
(28)「一方に、工場主や両親の、最も恐ろしい貪欲、勝手、残虐の絵が、そして他方に、年少者や幼児の悲惨、退廃、破滅の、あり得ないような絵がそこにある。….この絵は過去の時代の恐怖を描いているかのように見えるかも知れない。だが、過去と同じくらいおぞましく、これらの恐怖が続いているというべき不幸な証拠が歴然として存在する。約2年前にハードウィックによって出版されたパンフレットは1842年に告発された虐待が今日満開の季になっていると述べている。これは労働者階級の子供たちのモラルや健康を世間全般が見殺しにした異様な証拠である。この報告書は20年間も省みられることなく、放置されている。この間、そこにいた子供たちは、'モラルなる単語が何を意味するのかほんの僅かな理解の欠片も持つことなく育ち、何の知識も、宗教も、自然の情愛も持つことは無かった'その子供たちが現世代の両親になることを許されたのであった。」*241
本文注241 / シーニョアの、「社会科学会議」
(29)社会的条件が変化して行き、議会は1840年に委員会の提案を棚上げしたようには、1862年のそれを敢えて無視することはできなかった。かくて、1864年委員会は依然としてその報告書の一部以上のものを公表してはいなかったが、土器類工業(製陶業を含む)、壁紙張りメーカー、マッチ、弾薬筒、雷管、そして繊維工業の中の粗織ビロードの剪毛業が工場法の規制下に入った。1867年2月5日の国王臨席下、トーリー内閣は法の概要説明を行った。それは1866年にその作業を完成した委員会の最終的な勧告文に基づいたものであった。
(30)1867年8月15日工場法拡大化法が、8月21日には作業所規制法が国王の同意を受けた。前者が大きな産業を、後者が小さい産業を規制する。
(31)前者は溶鉱炉、鉄工場と銅工場、鋳造工場、機械工場、金属工場手工業、ニューギニアゴム工場、製紙工場、ガラス工場、タバコ工場手工業、凸版印刷(新聞を含む)、製本、端的に云えば、上記の全ての工業の事業所で同時に、少なくとも年100日を超えて50人かそれ以上の労働者を使用する工場等に適用する。
(32)作業所規制法の適用が包含する領域の広がりがどの程度のものかを示すために、我々は、その条項の解釈を以下引用する。
(33)「手工業とは、商売として、または利益を得る目的のために、またはそれに付随するあらゆる品物または品物の一部を作ること、またはそれに付随するあらゆる品物を売るための改造、修理、装飾、仕上げ、またはその他のため
(34)「作業所とは、屋外であろうと覆われた処であろうと、その内部であらゆる手作業が、あらゆる子供、若年者、婦人によって行われ、その子供、若年者、婦人が雇用されていて、ある者が彼等を利用しかつ支配する権利を保有するあらゆる部屋または場所を意味するものである。」
(35)「雇用されているとは、賃金のためであろうとなかろうと、あらゆる手工業に、主人または、以下に定義された両親の下に、占有されていることを意味するものである。」
(36)「両親とは、あらゆる子供または若年者の両親、保護者、または後見者や監督者、その他、を意味するものである。」
(37)第七条は、法の各条項に反して子供、若年者、婦人を雇用することに対して罰則を課している。その作業所の所有者に、その者が両親であろうとなかろうと、罰金を規定しているのみでなく、
(38)「子供、若年者、婦人の両親、彼等の労働から直接的になんらかの利益を引き出す者、彼等を監督する立場にある者にも罰金を規定している。」
(39)大きな会社等を取り締まる工場法拡大化法は、悪質な例外規定の混ぜ合わせと資本家どもとの卑劣な妥協によって、工場法から見れば劣化したものとなっている。
(40)作業所規制法は、その全細則が貧弱で、これを施行するよう命じられた都市または地方官庁の手の内で死文化されたままにされた。1871年議会はこの権限を工場査察官に賦与するために、それら官庁から引き上げた。工場査察官の査察範囲はかくて一挙に10万を越える作業所が加わり、さらに300の瓦作業所も加わった。この時、これを査察するに要するメンバーとして、既に人手不足状態のメンバーに加えて、8人以上の助手が配属されることはなかった。*242
本文注242 / このスタッフの「人事構成」は、査察官2名、査察官補佐2名、助手41名である。追加された8人の助手は1871年に任命された。英国、スコットランド、アイルランドにおける工場法施行の全コストは1871−1872年間で:25,347ポンドを越えず、資本家の攻撃的な訴訟に対する裁判費用をも含んでいた。
(41)かくして、1867年の英国立法において、我々に気付かせるものは、一方において、資本主義的搾取の過剰に対して、支配階級の議会に、普通では考えられない程の原理原則を採用し、その範囲も広く、その制定の必要を負わせたことであり、その反面で、その立法の実施に向けてそれを支える場面では、躊躇、反抗、不誠実だったことである。
(42)1862年の調査委員会は、鉱業に対する新たな規制をも提案していた。この独特なる産業は地主と資本家の利益がここでは手をにぎりあっているという例外的な性格によって他の産業とは区別される。工場法にとっては、これら二つの利益の対立は都合がよかった。だが、そうではなかったので、そのような対立関係の不在こそ、鉱業に対する規制の遅れと言い逃れを説明するに十分なのである。
(43)1840年の調査委員会は、非常におぞましく、ショッキングな事実を曝露して、全ヨーロッパをしてそのスキャンダルに巻き込んだ。英国議会は自らの良心の呵責を多少なりとも軽減するために、1842年鉱業法を通過させた。とはいえ、その内容は、10歳未満の子供たちと女性たちの鉱山の地下作業への使用を禁じることのみに限られていた。
(44)かくて、もう一つの法、1860年の鉱山査察法が規定され、鉱山は、それらの目的のために特別に任命された公的職員によって査察を受けねばならず、10歳から12歳にある少年たちは、彼等が学校の証明書を持っていなければ雇用されてはならないか、または一定時間を学校に行かせねばならないと規定された。この法は完全なる死文であった。なぜならば、全く馬鹿にした少数の査察官と貧弱な権限しか与えず、他にも理由がある。このその他の理由については以下我々が見て行けば明らかになろう。
(45)鉱山に関する最近の青書は、「1866年7月23日の鉱山に関する特別委員会からの報告書とそれに加えてその他の報告書及び証拠書類」である。この報告書は、上院議員から選ばれた者、証人を喚問し精査する権限を持つ者による議会の委員会の労作である。その報告書は分厚い見開き版の大冊なのであるが、その中の報告そのものは、たった5行しかなく、そこに書かれている文字は、委員会は何も云うことはない。さらにより多くの証言を精査しなければならない!とあるばかり。
(46)証人を訊問するやり方は、英国裁判所での証人に対する反対訊問そのものを思わせる。反対訊問者は遠慮もなく、予期せぬことを、曖昧で、複雑怪奇な質問を用いて、なんの脈絡もなしに、脅迫したり、不意打ちを喰らわしたりして、証人を混乱に陥れる。そして無理やりな回答を証人から引き出そうとする。この訊問では、委員会メンバー自身が、反対訊問者であり、彼等の中には鉱山のオーナーらや採掘業者らが居り、証人は殆どが炭鉱で働く者達なのである。この茶番劇全体がまことに資本家精神のあまりにも明確な特性を示すところであり、この報告書から二三を引用しないで済ます分けには行かない。簡明化のために、私はそれらを分類化して示す。また、私は、全ての質問とその回答に清書では番号が付けられているので、それを加えることにするが、この点もご容認いただきたい。
(47)T.鉱山における10歳以上の少年の雇用について−
鉱山の仕事は、行き帰りを含めて、通常14時間か15時間続く。時には、朝の3時、4時そして5時からさえも始まり、夕方の5時か6時までに至る。(n.6,452,83)成人労働者の仕事はそれぞれ8時間の2交代、だが少年たちには交替はない。出費がその理由である。(n.80,203,204)年少の少年たちは主に、鉱山の様々な場所で換気扉の開閉の仕事に当てられる。年長少年は、石炭等の運搬と云うきつい労働に当てられる。(n.122,739,1747)彼等はこれらの長い時間を地下で働き、18歳か22歳になると、鉱山作業の本業に配置される。(n.161)子供たちや若年層の者たちはかってのいかなる時期よりも現在、待遇は悪化し作業はきつくなっている。(n.1663-1667)鉱山労働者は、14歳未満の子供たちの鉱山への雇用を禁止する議会の法を殆ど満場一致で要求する。さて、そこで、ハッシービビアン(彼自身は採掘業者の一人)はこう質問する。
(48)「そもそも子供たちを働かせたいのは労働者の家族が貧乏だからというのとはちがうんかい?」ブルース氏はこう言う。「片親が負傷した場合とか、父親が病気または死亡して、母親だけになった場合とかでは、12歳から14歳の子供が日1シリング7ペンスで家族を助けるのを妨げるのは非常に厳しいやり方ではないと云うんかい?….規則通りにせねばならんのかい?....彼等の両親の状態がどうであれ、12歳未満と14歳未満の子供たちの雇用を禁止すると云う法を貫き通す覚悟があるんかい?」「そうだ。」(ns.107-110)ビビアン「14歳未満の子供たちの雇用を禁止する法案が通ったとしたら、子供たちの両親は子供たちのために他の方向で、例えば工場手工業で雇用を探す….というようなことにはならないんのかい?」「普通、私はそうは考えない。」(n.174)キンナード「何人かの少年たちは換気扉の係りなのか?」「そうだ。」「扉の開け閉めというのはいつも一般的には大した苦労なんかないんだろう?」「いや、一般的には、ある。」「なんか簡単な作業に思えるが、事実は多少骨が折れるのか?」「彼はそこに閉じ込められる。あたかも牢獄の独房に入れられるのと同じである。」ブルジョワのビビアン「少年のところには灯火があるだろう、彼は本を読めないのか?」「勿論彼は読むことができる。もし彼が彼自身を蝋燭のところに置くならば:….彼がもし本を読んでいるところを見つかれば、罰を与えられるものと私は思う。彼はその場所で彼の仕事に専念せねばならない。彼にはそれを行う義務がある。なにはともあれ、その仕事に当る。そして、そこを離れることが許されているとは思わない。」(ns.139,141,143,158,160)
(49)U.教育−
鉱山労働者たちは、工場手工業と同様の、彼等の子供たちの必修の教育に関する法を求めている。彼等は、10歳から12歳の少年を雇用する前に履修されねばならないとして学校終了証書を求めている1860年の法の条項については、全く実体のないものであると断言している。この主題に関しての証人尋問は全くの茶番である。
(50)「それは(法は)より工場主に対して要求しているのか、またはより両親に対してなのか?」「両者に対してであると私は思う。」「あんたは一方に対して他方よりもより強く要求しているかどうか答えることができないんか?」「できない。私にそのような質問に答えさせるとはどう言う意味。」(ns.115,116)「子供たちが学校に行けるような時間を与えると云う雇用主たちの側にそのような何らかの欲求があるのかね?」「ない。そのようなことのために時間が短縮されることなどあり得ない。」(n.137)キンナード氏「炭鉱夫らは彼等の教育を全般的に改良するとか、仕事に就いて以降全般的に彼等の教育を改良した仲間の例があるとか、あるいは仕事から離れず、得るべき利益というあらゆる機会を失うことが無かったとか云うべきではないんか?」「彼等は概して悪くなる一方である。彼等は改良などしない。彼等は悪い習慣を修得する。彼等は飲酒、ギャンブルとかそのようなものに嵌まる。そうして彼等は完全にボロボロとなる。」(n.211)「彼等は、夜、学校へ行きその種(用意されている授業)のものを得ようとなんらかの試みはするんでは?」「学校はあっても、そんな炭鉱夫はまずいない。そして多分そうした炭鉱夫の中には、僅かながら学校へ行く少年も多少は居る。だが、彼等は肉体的に疲れ果てていてそこに行く目的が失われている。」(n.454)「そう言うことなら、お前たちは」とブルジョワは決めつける。「教育に反対なのか?」「全然、そうではない。だが」云々。(n.443)「しかし、彼等(雇用主達)はそれら(学校修了証書)を要求するよう強制されていないとでも?」「法ではその通り、しかし雇用主から要求された者を私は知らない。」「そう言うならば、お前の意見としては、修了証書を要求するとある法のこの条項は、一般的に炭鉱夫においては実施されていないと云うのか?」「実施されていない。」(n.443,444)「人々はこの質問(教育)に大きな関心を持っているのか?」「彼等の大多数はそうだ。」(n.717)「彼等は法が実施されるよう強く切望しているのか?」「大多数はそうだ。」(n.718)「お前たちは、お前たちが通したこの国のいかなる法律であろうと、….国民自体の、それを実施させるための協力なしに実際に効力が発揮されると思うんか?」「多くの者は少年の雇用に反対したいと思っている。だが、そうしたら多分マークされることになる。」(n.720)「誰によってマークされるのか?」「彼の雇用主によって。」(n.721)「お前たちは、雇用主たちが、法律に従う者に対して何か過失があると云うとでも思うんか?」「私は彼等がそうすると信じる。」(n.722)「お前たちは、今までに、読み書きもできない10歳から12歳の子供たちの雇用に対して反対した者がいたことを聞いたことはあるんか?」「そんな選択の余地はない。」(n.123)「お前たちは、議会の干渉が必要だと云うんか?」「私は、炭鉱夫の子供たちの教育が有効に実施されることになるのなら、議会の法によって強制的にそのようになるべきものと思っている。」(n.1634)「お前たちは、その責務を炭鉱夫の子供たちだけに向けさせようというのか、それとも全ブリテンの労働者らに果たせというのか?」「私は炭鉱夫のために証言する者として来ている。」(n.1636)「なぜお前は彼等(少年炭鉱夫)と他の子供たちとを区別すべきと云うのか?」「それは彼等が規則から外されていると私が考えるからである。」(n.1638)「いかなる点でか?」「肉体的な点で。」(n.1639)「なぜ彼等の教育が他の若者の集団よりもより価値が高いものであるべきと云うんか?」「私はそれがより価値が高いかどうかは知らない。しかし、炭鉱での激しい労働が続く中では、そこに雇用されている少年たちにとっては、教育を獲得するために日曜学校に行くのも、昼間の学校へ行くのもその機会はほとんどない。(n.1640)「法に基づいてこの様な要求を受け入れることは絶対に不可能ではないか?」(n.1644)「学校は十分にあるのか?」−「ない。」….(n.1646)「仮に国家が全ての子供を学校にやるべきだと要求されるならば、その子供たちが行く学校はあるんだろうか?」「ない。しかし私は、その状況が明確に存在するならば、学校は必ず設立されるものと思う。」(n.1647)「彼ら(少年たち)のある者は全く読み書きができないと思うのだが?」「大部分はできない。….大人たちの大部分自体もできない。」(ns.705,725)
(51)V.婦人の雇用−
1842年以降、婦人たちは地下の労働に雇用されてはいない。しかし彼女たちは地上で石炭の荷役その他に回されている。運搬車を引いて運河や鉄道の無蓋貨車へ運んだり、選鉱、他の仕事をさせられる。ここ3-4年の間、彼女たちの数はかなり増大してきた。(n.1727)彼女たちの大半は炭鉱夫として働いている者の妻たち、娘たち、そして寡婦たちで、彼女たちの年令は12歳から50または60歳までの巾がある。(ns.645,1779)
(52)「婦人たちの雇用については炭鉱夫の間ではどう感じているのか?」「私は、彼等は一般的にそれを非難していると思う。」「お前はそれに対してどのような反対意見を持っているのか?」「私は、それが女性の品位を汚していると思う。」(n.649)「特異な衣服のことか?」「そうだ。…それははっきり云えば男の服装だ。そしてそれが多くの場合、上品さの全ての感覚を流し去っていると信じている。」「婦人たちは喫煙するか?」「何人かはする。」「で、わしはその仕事がかなり汚い仕事ではないかと思っているのだが、そうなのか?」「非常に汚い。」「彼女らは黒く汚れ、垢にまみれるのか?」「炭鉱地下に入る者と同じように黒くなる。….女性は子供を持っている(だからそっち側で、やることが沢山ある)でも彼女の子供にしてあげなければならないことを何一つできない。」(n.650-654,701)「先程の寡婦たちのことだが、彼女たちは他のどこかで仕事を見つけることができると思うのか、すなわち彼女たちと同じ程度の賃金(週8シリングから10シリング)をもたらすような?」「私はその点については話すことができない。」(n.709)「お前たちは、それによって彼女たちが生計を手に入れているのを妨害しようとし続けるのか、そうだろう?。(このガチガチ頭め!)」「そうしたい。」(n.710)「地域としてはどう感じているんか、...婦人の雇用については?」「品位を貶めると感じている。そして、我々は炭鉱夫として、炭鉱に置かれる彼女たちを見るよりも、けがれのないしとやかな女性を敬いたいと望んでいる。...ある仕事は非常にきつい、その少女たちは日に10トンもの鉱石を持ち上げる。」(ns.1715,1717)「お前たちは、炭鉱に雇用れさている婦人たちの方が、工場に雇用されている婦人たちよりも道徳観が低いと思うのか?」「….低い方の比率が…工場で働く少女と較べて多少大きいかもしれない。」(n.1732)「しかし、お前たちは工場における道徳状況にすっかり満足しているわけではないんじゃないか?」「満足などしていない。」(n.1733)「お前たちは、工場での婦人の雇用も同様禁止したいと思うのか?」「そうしたいとは思わない。」(n.1734)「なぜ、そう思わないんだ?」「工場での婦人たちの仕事はより誇らしいものと私は思う。」(n.1735)「それでも依然として彼女たちの道徳性を傷つける、そう思うだろ?」「炭鉱の仕事に較べれば少ない、いや、それよりも、それは社会的地位に係わることとして私は取り上げたい。単に道徳性だけの地点で取り上げたくはない。少女たちに対する社会的な位置づけと云う点でも、その退廃は極めて嘆かわしい。これらの400ないし500人の少女たちが炭鉱夫の妻になれば、男たちはこの退廃から大きな苦痛を受ける。そして男たちをして彼等の家庭を放棄させ酒に走らせる原因となる。」(n.1736)「お前たちは、炭鉱での婦人たちの雇用を停止すると云うなら、同様に製鉄所での婦人たちの雇用をも停止すると云うはずである。違うんか?」「私はいろいろある他の商売について話すことはできない。」(n.1737)「お前は、製鉄所に雇用される婦人たちの境遇と、炭鉱の地上の仕事に雇用される婦人たちの境遇にどんな違いがあると云うのか?」「それについて私は、なにも確かめたことはない。」(n.1740)「お前は、ある一つの集団と他の集団との間に違いを作り出すものを見い出すことができるのか?」「それを確かめたことはない。だが、家から家と訪ねれば、我々の地域は嘆かわしい状態にあると分かる。…」(n.1741)「お前たちは婦人たちの雇用が品位を貶めていたならそれをことごとく邪魔すると云うのか?」「その事が悪い状態を作り出すと私は思う。英国男性たちの最上の感情は母親の愛育から与えられて来たものである。….(n.1750)「農業の雇用についても同様に適用するのか、そうではないのか?」「適用する。しかしそれは二季節のみであって、我々は全四季節働く。」(n.1751)「彼女たちは度々昼も夜も働く、皮膚までずぶ濡れになり、彼女たちの体を傷つけ、彼女たちの健康は破壊される。」「お前たちは、そのようなことについては多分、なにも調べてはいないんだろう?」「私は、私が働いてきたことについてはしっかりと分かっている。だから、はっきり云うが、炭鉱での婦人たちの雇用の影響に匹敵するようなものは他では何も見たことはない。…それは男の仕事…それも力のある男の仕事なのだ。」(ns.1753,1793,1794)「お前たちの諸々の提起についての感触は、炭鉱夫のより良い層の者たちは自分たちを向上させ、自分たちが人間らしくありたいと望んでいる。なのに、婦人たちからの援助を受け取るのではなくて、彼女たちによって足を引っ張られていると云うのか?」「その通りだ。」(n.1808)これらブルジョワらの、ひねくりまがった質問がいくつか続いた後に、彼等の寡婦や貧しい家庭他に対する「同情」の秘密が最後になって現われる。「鉱山所有者は、ある紳士達をこの仕事を監督するために任命する。そして彼等紳士達のやることは、雇用主の意図を見抜いて、出来得るかぎり最も節約的な支払い法を採る。これらの雇用された少女たちには、日1シリングから1シリング6ペンスを。これが男性ならば日2シリング6ペンスで雇用されねばならないものを。」(n.1816)
(53)W.検死官の査問−
(54)「お前たちの地域での検死官の査問について、事故時のそれらの査問の進め方に労働者たちは信頼を置いているか?」「信頼していない。」(n.360)「なぜ?」「主な理由としては、通常選ばれる人は、鉱山について何も知らないか、そのようなものだからだ。」「労働者たちは陪審員として全く召喚されないのか?」「呼ばれることは今まで無かった。私の知る限りでは、ただ証人としてである。」「通常はどういう者がこれらの陪審として召喚されるのか?」「大抵は、近隣で商売している者たちである。….彼等の置かれた状況から云えば、時には彼等の取引先…鉱山所有者から言いくるめられて嘘をつく。」彼等は一般的に云って何の知識もなく、彼等の前に呼び出された証人の証言を殆ど理解できず、また使われる用語の意味も理解できない。そう言うことだ。」「お前たちは鉱山に雇用されたことがある者たちによる陪審員たちとしたいのか?」「何人かはそうして欲しい。….彼等(労働者)は、多くの場合、与えられた証拠に基づかない評決であると思っている。」(ns.361,364,366,368,371,375)「査問における一つの大きな反対は、陪審員が公平でないと。それともそうじゃないのか?」「公平ではないと私はそう思っている。」「もしも陪審員を労働者にも拡げて選ぶことになったとしても、彼等は公平でないと思うか?」「労働者が公平でない振る舞いをするいかなる動機も見出さないが、…必要なことは彼等が鉱山の一連の作業について良く知っていることである。」「お前たちは、労働者の側に立った不公平な厳しい評決を下す傾向があるとは思わんのかね?」「いいえ、私はそうは思わない。」(ns.378,379,380)
(55)X.不正な重量と容量−
労働者たちは二週間払いに代わって、週払いを要求する。そして運搬桶の大きさに代わって重量での支払いを要求する。彼等はまた、不正な重量その他の使用防止を要求する。(n.1071)
(56)「もし、運搬桶が詐欺的に大きくなれば、誰でも14日通告によって仕事を止めることができるのではないか?」「しかし、そうは云っても他の場所へ行けばそこでも同じことがまかり通っている。」(n.1071)「しかし、彼は不正が行われている場所を離れることができるだろ?」「それが一般的に行われている。どこへ行っても。彼はそれに従わねばならない。」(n.1072)「14日通告によってそこを去ることができるだろ?」「できる。」(n.1073)でもだからと云って彼等は依然として納得してはいない!
(57)Y.鉱山の査察−
爆発による人身事故だけが労働者が被る被害ではない。(n.234以下)
(58)「我々の仲間たちは炭鉱の換気が悪い点について多くの不満を述べていた。….:全般的に換気が非常に悪く、呼吸すらままならない。それらは全くあらゆる仕事において不適切で、彼らの仕事の諸々において長い時間そこにいれば、実際のところ、私が働いている炭鉱のそのような場所では、仲間たちはその仕事を放棄して家に、そのために、帰らねばならない。…ある者は数週間も、爆発性のガスがないのに、換気が悪い状態のため、仕事をしていない。主坑道には通常多くの空気があるが、依然として、仲間が働いている場所へは空気が送り込まれないため、苦痛は取り除かれてはいない。」「何故、査察官に申し出ないんだ?」「本当のところ、多くの仲間たちは、その点に関しては、躊躇する。そうする仲間がいないわけではないが、犠牲にされる。査察官に訴えることの結果として彼らの仕事を失う。」「なぜ苦情を述べることで彼がマークされるんだ?」「わかった。…その結果、彼は他の炭鉱でも仕事を得ることが困難になるんか?」「そうだ。」「お前たちは近隣地区の炭鉱では法の条項に基づく苦情を確認するための査察を十分に受けていると思うか?」「思うはずがない。全く査察を受けていない。…査察官は一度坑道に降りた。が、7年間が過ぎた。…この地域では、私が属する地域では、十分な数の査察官がいない。一人の70歳以上の老人がいるが、査察する炭鉱が130ヶ所以上ある。」「お前たちは査察官補クラスの者を望むのか?」「そうだ。」(ns.234,241,251,254,274,275,554,276,293)「ところで聞くが、労働者からの申し出でもないのに、お前たちが欲するもの全てに対応するそのような一群の査察官を維持することが政府にとって可能であると考えるのか?」「そうは思えない。ほとんど不可能だろう。….」「査察官が度々来るべきであるというのが望ましいのか?」「そうだ。そして呼ばれなくてもだ。」(n.280,277)「お前たちは、これらの査察官たちが炭鉱を何度も調べると云うことが、適切な換気を供給する責任(!)を炭鉱の所有者から政府の役人に転嫁することになるとは考えないのか?」「私はそのようには考えない。私は、かれらはすでに存在している法を執行するために彼らの仕事をやるべきであると思う。」(n.285)「お前たちが云う査察官補のことだが、給料が安くそして現査察官よりも劣るとされる人のことを云っているのか?」「私は劣っている者を欲しているわけではない。そうならあなたが他の方法で選ぶことができるはずでは。」(n.294)「お前たちは単により多くの査察官を望んでいるのか、それとも低いクラスの者を査察官として求めているのか?」「自分でドアーをノックして回り、ものごとが正しく維持されているかどうかを見る人間をである。そして自分が解雇されるかどうかにびくびくすることのない人間をである。」(n.295)「もし、お前たちが劣ったクラスの任命された査察官を求めていて、それが得られたとしたら、技能他の欠如からの危険はないと考えるんか?」「危険があると私は思う。私は、政府がそれを管轄し、その職位に適う者を任命するものと思う。」(n.297)
(59)このような尋問はついには委員会の議長にとっても聞くに耐えないものとなる。そして助言をもって割り込む。
(60)「あなたたちは、炭鉱の詳細すべてを見に来て、その全ての坑道や隅々まで見に行き、真の事実を調べ、….彼らはそれを主任査察官に報告し、主任査察官は彼の科学的知見をもって、彼らが報告したものを把握する。そのようなクラスの者を求めているのですね?」(ns.298,299)「もしこれらの古い仕事場の全ての換気を維持するのに莫大な費用が伴わないとでも思うんか?」「確かに費用を要するだろう。しかし同時に、生命が維持される。」(n.531)
(61)炭鉱労働者は,1860年の法の17節に異議申し立てをして、こう云う。
(62)「現時点で、もし炭鉱査察官がそこで働くのに不適切な箇所を見たとしたら、それを炭鉱所有者と内務大臣に報告しなければならない。その後、所有者に20日間がそのことを調べるために与えられる。20日間経過時点で炭鉱内のいかなる変更も拒否する権利が彼にはある。しかし、拒否する場合は、炭鉱主は内務大臣宛に書面を提出し、また同時に5人の技師を推薦し、鉱山主が名前を記したそれらの5人の技師の中から、内務大臣が一人を任命する。私は思うのだが、調停人または彼らの中から任命された調停人は、この場合、我々は思うのだが、炭鉱主が彼自身の調停人を事実上任命しているのではないか。」(n.581)
(63)ブルジョワ尋問官、彼自身とある炭鉱のオーナー、が云う。
(64)「いや、それは….それは単なる推測的な言いがかりではないか?」(n.586)「ということは、お前さんは炭鉱技師の誠実さに関しては随分つまらんご意見をお持ちのようじゃないか?」「それは最も確かなる不正と不公平である。」(n.588)「炭鉱技師たちは一種の公的な性格を持たないというのか。であるのに、お前たちは、彼らがお前たちの懸念に対して不公平な判断をするはずもない人達であるのに、そうは思わんのか?」「私は、その種の質問には答えたくはない。それらの人々の個人的な性格には敬意を払っているのだから。だが、多くの場合、彼等は非常に不公平に扱う。明確にだ。そして労働者の命が危うくなっている場合は、彼等にその件を取り扱わせるべきではないと私は信じている。」(n.589)
(65)この同じブルジョワは恥ずかしげもなく、この質問を口にする。「お前たちは、炭鉱主もまた爆発によって被害を被るとは考えないのか?」最後に、「ランカシャーの労働者諸君は、政府に助けを求めずに、自分の利益は自分でけりをつけることはできんのか?」「できない。」(n.1042)
(66)1865年時点で、英国には3,217の炭鉱があって、査察官は12人であった。あるヨークシャーの炭鉱主は自身次のように計算している。(タイムス1867年1月26日)査察官らの全時間を費やすところのオフィスワークを別に置いておくとしても、各炭鉱は一人の査察官によって10年に1回しか訪問されることはないと。爆発事故が数においてもその度合いにおいても(時には200-300人の人命が失われるほどの)ここ10年の間で加速度的に増加しているのも不思議ではない。これらは「自由」資本主義的生産の美学なのである![この文言は、ドイツ語版第四版に準じて英語版に追加されている。]
(67)1872年に通過した法は非常に欠陥の多いものではあるが、炭鉱に雇用される子供たちの労働時間を規制した最初のものであり、またある程度はいわゆる事故の責任が採炭業者や炭鉱所有者にもあるとしている。
(68)1867年に、農業に雇用されている子供たち、若年者たち、そして婦人たちについて調査するよう任命された王立委員会はある非常に重要な報告書を発行した。工場法の原則を適用するいくつかの試み、とはいえ修正版なのだが、は、農業に関しては何の結果ももたらすことなく、完全な失敗に帰した、とある。私がここで特に注目してもらいたいと思う点は、それらの原則を一般化するという抗しがたい傾向が存在していると云うことなのである。
(69)もし、労働者階級の心身ともどもを保護するために、工場法の全商売への一般的拡大が避けられないものとなるならば、他方では、既に我々が指摘したように、多数の散在する小さな工業の、大きな規模で操業させられる数少ない結合的工業への一般的転換も急速に拡大する。かくして、それは資本の集中と工場システムの排他的で圧倒的な支配を加速する。それは、資本の古くからのかつ移行形式を破壊する、その背後に依然としてある部分は隠されていた資本の支配ではあったが、資本直接の露骨な支配力をもってそれら形式を置き換える。であるからはっきりと、この支配力に対する直接的な敵対もまた一般化することになる。かくして、各工業の作業場は、画一性、規則性、秩序、そして節約を強要し、労働日の制約と規制という巨大な拍車によって技術的な改善、全体的には資本主義生産の激変と無政府性、労働の強度化、機械はと労働の競争を増大させる。小さな家内工業の破壊は、「余剰人口」の最後の避暑地を取り潰し、唯一残っていた全社会的メカニズムの安全弁をも失わせた。それはさらに、生産過程の社会的規模における物質的条件とその結合を成熟させ、資本主義的生産形式の矛盾と対立を成熟させ、かくて新たなる社会形式のための各要素とともに、その古き形式を爆破するための力を供給する。*243
本文注243 / ロバートオーエン、協同工場・協同商店の父、は前にも触れたが、彼の後継者たちが描き出したような以下の点については全く関知していなかった。これらの孤立的な移行要素の位置づけを、単に工場システムが彼の実験の唯一の実際的な基礎であるばかりでなく、そのシステムこそが理論的に社会革命の出発点であると宣言していることを。ライデン大学の政治経済学教授フィッセリング氏は、彼の「実用経済学ハンドブック1860-62」で、といっても全くの俗流経済学の俗語を再生産したものであるが、この点になにか気がつくことがあったらしく、彼は、工場システムに対峙する手工業者たちを強く支持している。
[ドイツ語第四版に追加された部分−各法律間の矛盾というこの「絶望的な困惑の絡まり」工場法、工場法拡大法、作業場法の各相互間の紛争が呼び込んだその絡まりは、最後にはもう我慢できないものとなった。かくてこの事柄に関する立法機関による全法律は1878年の工場法と作業所法に再編纂された。当然ながら、今ここではこの英国工業法典に対する詳細な批判を示すことはできない。次のいくつかの指摘で十分であろう。法は以下の事項を含んだものである。
1)織物工場これらの工場については、ほとんど全てが以前のまま残っている。10最以上の子供たちは日5時間半、または6時間。土曜日は休み。年少の者と女性は平日は10時間、土曜日は最長6時間半である。
2)織物工場に該当しない工場これらの工場に関する事項は以前に比べれば、1)のそれとほぼ近いものが当てはめられた。だが、いくつかの例外があり、資本家の都合とか、あるケースでは英国内務省の特別許可によって労働時間が延長された。
3)作業所以前の法に沿って規定された。子供たち、年少労働者、女性たちが雇用される場合、そこでは2)の規定と同様であるが、細かく見れば、条件は再び緩んだものとなった。
4)作業所子供たちや年少者が雇用されておらず、男女18歳以上のみ雇用されている場合では、依然としてゆるい条件を楽しんだ。
5)家内作業所家族の者のみが家族の家に雇用される場合は、依然としてより弾力的な規制と、同時に、工場査察官は、内閣か裁判所の特別の許可なしには、住居目的で使われてはいない部屋のみにしか、立ち入ることができないという制約がある。かくて、束縛されることのない自由が、家族の者による麦わら編み、レース編み、手袋づくりで続くことになった。この法はその全ての欠陥によりこの分野の法の最上のもの、1877年3月23日のスイス連邦工場法に比べれば、遥かに遠く隔たっている。ここに挙げたスイス連邦法との比較は特別に興味を引く。なぜかといえば、その二つの法の立法過程のメリットとデメリットを明確に表示するからである。英国の場合の「歴史的」方法は様々な要求が介入する。大陸のそれは、フランス革命の伝統の上に作られた、そしてより一般化された。不幸にして、不十分な査察官の配置のため、英国法典は依然としてその作業所への適用に関しては、大きな死文のままである。−フレデリックエンゲルス] 
第十節 近代工業と農業

 

(1)近代工業によって引き起こされた農業部門での大変革と農業生産者の社会的関係の大変革についてはこの先で調べていくことになろう。ここでは、いままでの経過からの予期されるいくつかの成り行きを示すだけにしておきたい。農業への機械使用が多くの場合、工場労働者に降りかかったような肉体的な悪影響を免れ得たのか、取って替わった機械の動きが労働者たちにより強度に作用したのかまたより少ない抵抗を見いだしたのかは、この先で詳細に見ていくものとなろう。例えば、ケンブリッジやサフォーク州では耕地はここ20年(1868に至る間)非常に拡大した。その同じ期間で農業人口は、単に相対的にではなく、絶対的に減少した。合衆国では、農業機械は依然として単に労働者たちを事実上置き換えただけに留まり、別の言葉で云えば、大きな面積を耕すことを農業者に許したが、実際に雇用した労働者を放り出しはしなかった。1861年英国とウェールズで、農業機械の工場手工場に雇用された人の数は1,034人、その間、蒸気機関を装備する農業機械の使用に雇用され農業労働者の数は1,205人を超えてはいなかった。
(2)農業領域においては、近代工業は他のどこよりもより革命的な影響を及ぼした。その理由は、古い社会の城壁でもある農民を、壊滅させた。そしてかれを賃金労働者と置き換えた。かくて、社会的変化と階級対立への衝動が田園においてもまるで都市と同様に持ち込まれた。資本主義的生産は、共に維持していた農業と工場手工業の初期的な結合の古き紐帯を完璧なまでにばらばらに切り裂いた。しかし同時にその破壊が未来へのより高度な結合への物質的条件を作り出すのである。すなわち、かれらの一時的な分離において互いに熱望された形式のより完全な基礎の上に農業と工業の結合がと云うことである。資本主義的生産は、人口を大きな中心地に集中させ、都市人口の絶えざる増加を準備することによって、一方で社会の歴史的推進力を凝集し、他方で人と土壌間の物質的循環を阻害する。つまり、人が食料や衣料の形で消費した土壌要素類が再び土壌に戻る過程を妨げる。従って土壌の豊穰を末長く維持するための必要条件を侵害する。この行為によって同時に、都市労働者たちの健康と田園労働者の知的な生命を破壊する。*244 このような天地動転が生じても、しかし、まただからこそ、物質循環を維持する自然的条件もまた成長する。その復旧をあたかもシステムが起動するかのように呼び出す。社会的生産を規制する法のごとく。そして人類の全的発展のための適切な形式の下に復旧を呼び出す。農業においては、工場手工業と同様に、資本の支配の下生産の転換は、同時に、生産者の殉教を意味し、労働手段は労働者の奴隷化の、搾取の、そして貧困化の手段となる。社会的結合と労働過程の組織化は労働者の個人的バイタリティ、自由、そして独立を粉砕する組織様式へと転化させる。広い地域に散在していることが、農業労働者の抵抗の力を削ぐ。一方の集中は、都市労働者のそれを増大させる。近代農業においては、都市工業と同様、増加した生産性とそこで直ぐに使われる労働者の量は、労働力そのものの退廃的な消費と廃棄の費用で購入される。それ以上に、資本主義的農業のすべての進歩はとんでもない進歩芸術で、労働者を略奪するのみではなく、土壌の略奪をも含んでいる。与えられた時間において獲得された土壌の豊穰度の全増大はその豊穰度の末長く続くであろう源泉の荒廃への行程である。国土がその発展を近代工業の基礎の上に置くと云うことがより激しいものとなれば、例えばアメリカ合衆国のように、破壊のこの行程がより急速に進むこととなろう。*245 従って、資本主義的生産が技術を発展させ、社会全体に様々な過程をなにもかも結合すれば、与えられた全ての天来の富の源泉を枯渇させるのみではなく、−土壌と労働者をも失うこととなろう。
本文注244 / 「あなた方は、人々を互いに敵対する二つの野営軍に分断する。半馬鹿の田舎者と無気力な小人に。まったくもう!国が農業と商業の利益に分断され、それを正気と云う。いや、それを教化され文明化されたとかっこよく云う。この奇怪で不自然な分断にもかかわらずというのみでなく、その結果をそのような当たり前なものとして云う。」(デビッドアーカート前出)この一節は強さと同時に弱さを見せている。いかに判断し現実をとがめるかを知っているものの、その現実をどう理解するかを知らない批判の辛辣さともろさを持っている。
本文注245 / リービッヒの「化学の農業と生理学への応用」第七版1862年、そして特に、「農耕自然法則概論」第一巻を見よ。自然科学の視点から展開された、その否定的な側面、すなわち近代農業の破壊的な側面への言及は、リービッヒの不朽の功績である。また、彼の農業の歴史に関する要約はひどい間違いから免れていないものの、光輝くものを含んでいる。とはいえ、次のようなでまかせ仮説からの冒険は残念である。「より多くの粉砕と何回もの鋤き返しによって、多孔性土壌内部の空気の循環が助長され、そして表面が外気の作用に晒されることが増加し、沃土へと更新される。だが、その土地の増加した生産量は、その土地に費やした労働に比例したものにすることはできないことは容易に分かる。しかしより小さな率で増加はする。この法則は」とリービッヒは追加する。「ジョンスチュアートミルが、彼の「政治経済学原理」第一巻で、次のように述べたことが、その最初の発表である。「土地の生産量は、つまるところ(ラテン語で、全ての支払いを済ませればの意)、雇用労働者の増加率を縮小することで増加する。」(ミルがここで間違った形式で紹介したのは、リカード派が唱えた法則で、以前から農業の進展とともに「雇用労働者の減少」が英国では同じようなペースで続いており、そこで法則が発見され、そこに応用したが、当の英国においてはそのような法則の適用などいずれにしてもできはしない話である。)「土地の生産量は、つまるところ、雇用労働者の増加率を縮小することで増加する。」というのが農業産業部門の世界的法則である。」このことは非常に驚くべき事である。なぜかと云えば、ミルはこの法則の理由を知らなかったからである。」(リービッヒ前出第一巻と注書き)リービッヒの「労働」という言葉の誤訳は別としても、その言葉によって政治経済学がやっていることから全く別のなにかを理解し、それがどうであれ、非常に驚くべき事に、彼はA.スミス時代にジェームスアンダースンが最初に発表した一理論を、ジョンスチュアートミル氏が最初に発表したとしてしまったらしい。この理論はいろいろな著作で、19世紀始めに至るまで繰り返され、そんな理論をマルサス剽窃名人(彼の人口理論の全てが恥知らずの剽窃もの)も自分の1815年の著作に流用した。ウエストは、アンダースンとは別に同時期この理論を発展させ、1817年に発表し、それがリカードの一般価値理論と繋げられ、リカードの理論として世界を一周した。そして1820年ジェームスミル彼の息子がジョンスチュアートミルだが、によって俗化され、そして最終的にジョンスチュアートミル他によって再生産され、学説として、全くの陳腐ものとなり、どこの学生でも知らぬものはいない。ジョンスチュアートミルの、いずれにしても、彼の「驚くべき」権威は全くのところ、このような借用品(ラテン語:貸し借り)から出来上がっていることは否定されえない。
 
第十六章 絶対的剰余価値と相対的剰余価値

 

(1)労働過程の考察について、我々はそれを、人間と自然との間の過程として、その歴史的な形式からは離れて、抽象的な概念として取り扱うことから始めた。(第七章を見よ。)我々はそこではこう述べた。「もし、労働過程の全体を、その結果と云う視点から調べるとすれば、労働手段と労働対象は共に生産手段であり、労働自体は生産的な労働であると云う素朴なものとなる。」そして同じページの注2で我々はさらにこう付け加えた。「労働過程だけの視点から、何が生産的労働であるかを決定するこの方法は、資本主義的生産過程のケースに直接適用することは決してできない。」そこで我々は、今、この主題をさらに発展させることにしよう。
(2)労働過程が、純粋に個人的なものである限りにおいては、一人のそして同じ労働者は彼自身のうちに、後には分離される機能の全てを結合している。一人の個人が自然物を彼の暮らしに用いようとする時、彼自身以外には誰もそれを制御する者はいない。後には、彼は他の者に制御される。単独の人間は彼自身の頭脳の制御の下で彼自身の筋肉を動かすことにしなければ大自然に働きかけることはできない。自然の肉体、頭脳、そして手は互いに助け合うが、そのように労働過程は手と頭脳の労働を互いに結合する。後には、それらは仲間を分かち、そして致命的な敵にすらなる。生産物は、個人の直接的な生産物であることをやめ、そして社会的な生産物となる。一つの集合的労働者による共同の生産物となる。すなわち、労働者の組み合わせで、彼等はそれぞれ一部分のみの作業を担い、その量に多少はあるものの、彼等の労働対象を取り扱う。労働過程の協同的性格がより顕著になるに従って、同様に、必要な一つの連携として、我々の生産的労働の意味も、それを担う生産的な労働者の概念も様々となる。生産的に労働するためには、あなた自身のために手作業をする必要はもうなくなる。もしあなたが協同的労働者の一器官であるならば、その一つの副次的な機能をなせば十分である。最初に述べた生産的労働者に与えた定義、物質的な生産の性質から引き出された定義は、依然として、全体を見た場合の、協同的労働者にあっては正しい。だが、それぞれの各個人メンバーにとってはもはや正しさを保持することはできない。
(3)とはいえ、他方、我々の生産的労働の概念は狭くなる。資本主義的生産は単に商品の生産なのではなく、本質的に剰余価値の生産なのである。労働者は、彼自身のためではなく、資本家のために生産する。であるから、もはや、彼が単純に生産するのであろうでは十分とは云えない。彼は剰余価値を生産しなければならない。資本家のために剰余価値を生産する労働者のみが生産的なのである。資本の自己拡大のための労働がまた生産的労働なのである。仮に、物質的な物の生産領域から外に出て、例を取り上げて見るならば、教師は、彼の学生の頭脳に働きかけるのに加えて、学校経営者を富ませる馬として働くときにのみ、生産的労働者となる。後者が彼の資本を、ソーセージ工場に替えて教育工場に投資しても、この関係は変わらない。かくして、生産的労働者の概念は、単に労働と有用な結果との間の、労働者と労働の生産物との間の関係のみでなく、特別なる、生産の社会的関係、歴史的に出現し、労働者に剰余価値創造の直接的な手段であることを刻印する社会的関係を意味する。従って、生産的労働者であることは幸運の見本ではなく不幸の見本である。第四巻では、この理論の歴史を取り扱う。そこでは以下のことがより明白になろう。剰余価値の生産が、古典派政治経済学者らによって、生産的労働者の際立った性格として四六時中言及される。かくして、彼等の生産的労働者の定義は、彼等の剰余価値の性状によって変えられる。たとえば、重農主義者らはただ農業労働が生産的であると言い張る。それだけが剰余価値を生産すると云い続けて来た。なぜそのように云うかと云えば、彼等にとっては、剰余価値の実体はただ地代形式で存在しているだけだからである。
(4)彼の労働力の価値に見合う等価分を生産するであろう時点を超えての労働日の延長と資本家によるその超過労働の占有、これが絶対的剰余価値の生産である。それは資本主義的システムの一般的基礎を形成し、また相対的剰余価値生産の開始点を形成する。後者にあっては、労働日は予め、必要労働と剰余労働の二つの部分にわけられているものとして想定されている。剰余労働を延長するために、必要労働は、賃金に相当する等価分をより少ない時間で生産する方法によって縮小される。絶対的価値の生産は他でもなく労働日の長さの上にのみあり、相対的剰余価値の生産は、労働過程の技術的な変革に次ぐ変革と、社会構成の変革の上にある。従って、特別な様式、資本主義的生産様式が、その方法、手段そして条件の他に、労働の資本への形式的な従属によってもたらされる基礎の上にあたかも自然のように相対的剰余価値を生成し発展させるような様式が前提される。その発展につれて、労働の資本への形式的な従属が実際の労働の資本への従属に置き換えられる。
(5)剰余労働が生産者から直接の強制力によって強奪されておらず、また生産者自身依然として資本に対して形式的な従属にも至っていないある種の中間形式については触れておくだけで足りよう。そのような形式では資本は労働過程への直接的な制御権をまだ獲得してはいない。手工業や農業を伝統的な旧式な方法によって行う独立の生産者達のそばには、金貸しや商人が、金貸し資本または商人資本を持って現れ、寄生虫のごとく生産者達にとりつく。社会において、このような搾取形式が顕著であることは資本主義的生産様式を排除している。とはいえこの形式は資本主義的生産様式に向かって、中世の終りに向かってあたかも移行への役割を果たすものであろう。最後に、近代「家内工業」で見たように、ある種の中間形式は近代工業の背後であちこちに再生産される。とは云っても、それらの外観は全く違ったものにされているのではあるが。
(6)一方において、もし、労働の資本に対する単なる服従形式が絶対的剰余価値の生産に十分なるものとするならば、すなわち、以前は自分自身の利益のために働いていた手工芸業者または親方の徒弟として働いていた者が資本家の直接的支配の下で働く賃金労働者になったことで絶対的剰余価値の生産に十分なるものとするならば、他方において、我々が見て来たように、相対的剰余価値の生産方法が、なんと、同時に絶対的剰余価値の生産方法となる。いやそれ以上のものとなる。労働日の大幅な延長が近代工業の特異な生産物となったのである。一般的に云えば、明確なる資本主義的生産様式が、生産の全部門を征服するやいなや、さらにあらゆる重要部門を征服するやいなや、単なる相対的剰余価値の生産手段であることを止める。そしてその様式が一般化し、社会的にも生産の主要形式となる。相対的剰余価値の特別なる生産方法として有効に残る場合は、単に、その一つは、以前は形式的に資本に従属していた工業を支配下に置いたにすぎない場合、つまり宣伝係としてであり、その二としては、その工業が資本下に捉えられて、生産手段の変更によって変革される途上にある場合のみである。
(7)一つの見地から見れば、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との間のいかなる違いもはっきりしないだろう。相対的剰余価値は絶対的剰余価値となる。なぜならば、労働日の絶対的延長が彼自身の生存に必要な労働時間を超えて強制されるからである。絶対的剰余価値は相対的剰余価値である。なぜならば、必要労働時間を労働日の狭い部分に閉じ込めることを許すような労働生産性の発展が不可欠となるからである。だが、もし我々が剰余価値の挙動をしっかりと見るならば、このそれぞれの個別的な外観は消え去る。一旦資本主義的生産様式が確立され、一般化すれば、いかに剰余価値率を高めるかと云う問題に直面すれば、立ち所にして、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との間の違いは自ずから関知されるものとなる。労働力の価値が十分支払われるものと仮定すれば、以下の選択肢に対面する。労働生産性と労働の標準的強度が与えられるならば、剰余価値率は労働日の実際の延長によってのみ上昇されうる。他方、労働日の長さが与えられるならば、労働日の構成部分の相対的大きさの変化のみによって、剰余価値率は上昇されうる。すなわち、必要労働と剰余労働の。その変化は、仮に、賃金が労働力の価値以下に下落しなとすれば、労働生産性または労働の強度のいずれかの変化に依存する。
(8)もし労働者が彼自身および彼の種族のための必要な生活手段を生産するのに彼の全ての時間を必要とするならば、他人のために無償で働くような時間は彼には残っていない。彼の労働にある程度の生産性の向上がなければ、彼にはそのような余分な時間も持つことはできない。そのような余分な時間もなく、余剰労働もなければ、その結果として資本家はおらず、奴隷所有者も、封建領主もいない。別の一つの言葉で云えば、大きな財産を持つ階級はいない。*1
本文注1 / 「資本家ご主人のご存在、明確なる階級としての存在は、工業の生産性に依存している。」(ラムゼー既出)「もし各人の労働が単に彼自身の食料を生産するだけのものであるならば、そこに財産はできないであろう。」(ラベンストーン既出)
(9)剰余価値は、自然の基礎の上に置かれていると、我々は云うことができよう。だが、それはごく一般的な感覚でのみ許されることで、人が自分自身の生存のための必須の労働の荷を下ろして、他人に負わせることに対する絶対的な自然障害はないと云うことや、さらに、例えば、人をして、他人の肉体を食すること*2 を妨げるような越えがたい自然障害はないという感覚の話である。時々見られることだが、神秘的な観念はこの歴史的に発展した労働生産性には決して結びつけてられてはならない。一人の剰余労働が他人の生存の条件となることが生じるようになるには、ただ、人が自分自身をして動物の状態を超えて、従って彼等の労働はある程度までに社会化されて後の事である。文明の曙光時点、労働によって獲得されたその生産性は小さく、また同様に彼等を満足させる手段によってまたそれとともに発達する欲望も小さい。さらに、初期的段階では、他人の労働の上で生活する社会の一部分の比率は直接的な生産者集団と比べれば、無限小と云える。労働生産性の進歩につれて、かの社会的小比率部分も絶対的かつ相対的に増大する。*3 更に加えて、資本およびその付帯関係は長き発展過程の生産物である経済的土壌から撥ねだしてくる。労働生産性こそ、その基礎としての、出発点としての役割を果たす。労働生産性は、自然の贈り物ではなく、何千世紀の時間を束ねた歴史の贈り物なのである。
本文注2 / 最近の計算によれば、既に探索された地球の様々な場所で依然として少なくとも4,000,000人の食人人種がいる。
本文注3 / 「アメリカ原住民インディアンにあっては、あらゆるものが労働者のものである。99%は労働によって分配される。英国では、多分、労働者は2/3も受け取れない。」(東インド商売の利益云々)
(10)社会的生産の形式において、その発展の度合の大小を考えないものとすれば、労働生産性は物質的条件に拘束される。これらの全ては人そのもの(人種他)の体つきと辺りの自然に関係する。外的物質条件は二つの大きな経済的区分に落とし込める。(1)生存手段における自然の豊かさ、すなわち肥沃な土壌、豊富な魚あふれる水、その他、そして(2)労働手段としての自然の富、例えば落水、航行できる河川、木材、金属、石炭他である。文明の夜明け時点では、第一の区分が決定的であり、より高い発展段階では、第二の区分が重要である。例として、英国とインドとを、または古代のアスネとコリントを黒海周辺地と比べて見よ。
(11)充足への避けがたい自然な欲望の数が少なければ少ない程、そして土壌の自然な肥沃度と気候の好順さが大きければ大きい程、生産者の維持と再生に必要な労働時間は少なくなる。従って、彼自身のための彼の労働を超えて、他人のための彼の超過分の労働を大きくすることができる。ディオドロスは遥か昔古代エジプト人におけるこの関係について触れていた。
(12)「全くのところ、彼等の子供たちを育てるための障害と支出が彼等にとってはほとんどないのは信じがたいほどである。彼等はまずは子供たちのための簡単な食事の料理を手で行う。火で焙ることができるならば、彼等は子供たちにパピルスの下の方の茎を食べ物として渡す。沼地の植物の根や茎を、時には生で、あるいは茹でたり焼いたりする。ほとんどの子供たちは、履物もはかず裸である。それだけ空気が温暖なのである。であるから、一人の子供が成長するまでに彼の親が必要とする費用は全くのところ20ドラクマを越えることはない。このことは、何故エジプトの人口が多いかを、それゆえ何故多くの巨大な作業が行えるのかをよく説明している。」*4
本文注4 / ディオドロス既出第一巻第一編第80章
(13)とはいえ、古代エジプトの巨大建造物はその人口の多さによるものと云うよりは、その人口の大きな部分が自由に使えたからと云える。個人としての労働者は彼の必要労働時間が少ないのでそれに比してより大きな剰余労働ができたからである。労働人口についてもその様に云える。生存手段として必要な生産のための時間が小さければ小さい程、それだけ、より大きな時間部分を他の仕事のために当てることができる。
(14)資本主義的生産が以前にもあったと仮定してみるならば、そしてさらに、他のすべての状況が同じに留まるものとし、労働日の長さが与えられているものとすれば、剰余労働の量は労働の物理的条件によって変化するであろう。特に、土壌の肥沃度によって変化するであろう。しかし、最も肥沃な土壌が生産の資本主義的様式の成長に最も適合していると云うことには全くならない。この様式は人間が自然を支配することの上に成り立っている。自然があまりにも豊かであれば、自然は人をしてあたかも引き綱に繋がれた子供の様にそのままにしよう。自然は彼に彼自身を発展させる必要をなにも課すことはない。*5 植物の繁茂する熱帯ではなく、温帯こそ、資本の母国なのである。単なる土壌の肥沃さではなく、土壌の違い、自然の産物の多様性、季節の変化、これらこそが社会的分業の物理的基礎を形成したのである。そして、この周囲の自然の変化が、人をして彼の必要を倍加し、彼の可能性を、彼の労働手段や様式の倍加に拍車をかける。自然の力を社会的な制御の下に置くために取り込む必要がある。無駄なく、相手を上手に利用したりねじ伏せたりし、人間の手の労働によって広範なものとする必要がある。それが工業の歴史においては最初の決定的な役割を演ずる。例えばエジプトにおける潅漑であり、*6 ロンバルディア、オランダの潅漑であり、またはインドやペルシャの人工的運河による潅漑で、土壌に不可欠な水と共に土壌を供給するのみならず、沈殿物の形で山から鉱物性肥料をも運び下ろす。アラビア人支配下のスペインやシシリーの産業の繁栄状態の秘密は彼等の潅漑事業の数々にある。*7 更に加えて、資本およびその付帯関係は長き発展過程の生産物である経済的土壌から撥ねだしてくる。労働生産性こそ、その基礎としての、出発点としての役割を果たす。労働生産性は、自然の贈り物ではなく、何千世紀の時間を束ねた歴史の贈り物なのである。
本文注5 / 「第一は(自然の富は)、最も高潔で有益なものであるが、それゆえ、人々をして無頓着、高慢、そして過剰に埋もれる。ところがこれに反して、第二は、宗教心、文学、芸術そして政策を強いる。」(外国貿易による英国の富、または、我々の外国貿易の均衡は我々の富の法則であるロンドンの商人であるトーマスマンの著作.今ここに、彼の息子であるジョンマンによって公益のために出版された。ロンドン1699年)「また、私は、生存のための品々と食料がほとんどのところ自然そのままにあり、気候も衣服や住まいの覆いをなんら要求せず、それを認めるような、そんな場所に放置された人々よりも大きな災いを思いつかない。….極端にこれとは違う側もあるかもしれない。とはいえ、土壌が労働によってしても生産が不可能なことは、何の労働もなくして有り余る程の産出がある土壌と全く同じ災いなのである。」(現在の食料高価格に関する研究ロンドン1767年)
本文注6 / ナイル川の季節的な水量の上昇・下降を予測する必要がエジプト人の天文学を創り出した。そしてそれと共に農業の管理者としての僧侶の統治をも創り出した。「天の始点はその年の重要なる時点であって、ナイルが上昇し始める時であり、エジプト人たちにとっては最大の注意をもって監視するべき重要な時点なのである。….それは太陽の回帰年が更新される時であり、彼等の農作業をそれに合わせて実施するするよう明確に確定しなければならない。従って、彼等は、天の始点の回帰の目に見える兆しを天に探し求めねばならなかったのである。」(キュビアー天の回帰に関する研究オーフエル版パリ1863年)
本文注7 / インドの小さな他とつながりを持たない生産組織への国家の力の物質的な基礎の一つは水の供給の調整であった。インドの回教徒の支配者はこのことを、後の英国の後継者よりもよく分かっていた。英国下のベンガル行政区のオリッサ地区で起こった百万人以上のヒンズー教徒の命を奪った1866年の飢餓事件を思い起こせば十分であろう。
(15)好都合な自然条件だけでは、単に我々にその剰余労働の、剰余価値の、剰余生産物の可能性を与えるだけであって、その実体を与えるものでは決してない。労働の自然的条件の違いの結果は、違う国々で、同じ労働量が、必要なものの違う量を、充足することになる。*8 従って、他の事柄が同様だとしても、各環境下において必要労働時間は異なる。これらの条件は剰余労働に対して自然的な限界としてのみ影響する。すなわち他人のための労働を始めることができる時点を決める。工業が進んだ段階ではこれらの自然的限界は後退する。我々の西ヨーロッパ社会の中では、労働者は彼自身の生活のために剰余労働をもってただ支払うことのために、働く権利を購入する。この考え方は剰余生産物を供給することが人間的労働の生来の性質であるとする思考を容易に定着させる。*9 しかし考えても見よ。一例を上げるが、アジア群島の東の島の住民のことを考えて見よ。そこでは森の中にサゴ椰子が野生している。
本文注8 / 「同じ数の生活に必要なものを各同じ量で、そして同じ労働量で供給する二つの国はない。人の必要は彼等が住む気候の温度の厳しさによって増えたり減ったりする。それゆえ、異なる国の住民が必要のために遂行を迫られる仕事の量は同じものとはなり得ない。また、暑さ寒さの度合以上にその変化の度合を説明する有意なものは見当たらない。ここから人は次のような結論を得るであろう。一定数の人々のために必要な労働の量は寒い気候では最大となり暑い気候では最小となる。なぜならば、前者の人々はより多くの着るものが必要であるばかりでなく、後者よりも多くの土地の開墾を要する。(自然がもたらす利益率の支配的な原因に関する評論ロンドン1750年)この画期的な匿名の書の著者はJ.マッシーである。ヒュームは彼の利子論をここから着用した。
本文注9 / 「全ての労働は必ず(このことは市民の権利と義務の一部分として現れる)剰余生産物を残さなければならない。」プルードン
(16)「木に穴をあけて、髄が熟していると住民が確信すれば、幹は切り倒され、いくつかの部分に分けられ、髄液が取り出される。水と混ぜて、濾過すれば、サゴ粉として使用に適合するものができる。一本の木は通常300ポンドを産出する。時には500から600ポンドの木もある。だから、そこでは、丁度我々から見れば薪を刈るように、人々は森に行って彼等のパンを切るのである。」*10
本文注10 / F.ショウ「土地、植物、そして人」第二版ライプツィヒ1854年
(17)それでは考えて見よう。この様な東洋のパン刈り人が、彼の全欲求を満足させるために週12時間の労働を必要としているとする。自然の彼に対する直接的なギフトは沢山の暇な時間である。彼はこの暇な時間を生産的に自分自身のために用いることができるが、その前に、歴史的な全経過の様々なものが必要とされる。彼がその時間を剰余労働として見も知らない人達のために費やすには、その前に、強制が必要とされよう。もし仮に、資本主義的生産が導入されたならば、この正直な友は多分、1労働日の生産物を彼自身のものとするために、週6日働かねばならないであろう。自然の恩恵は、何故彼が週6日働かねばならないのか、や、また、何故5日の剰余労働を供出しなければならないのかを説明しない。ただ、何故彼の必要労働時間が週1日に限られているかを説明するだけであろう。つまり、彼の剰余生産物が人間労働の生来の神秘的な性質から生じると説明することはないであろう。
(18)この様に、歴史的に発展した社会的生産性だけではなく、自然由来の生産性もまた、かように労働と混ぜ合わされて、資本の生産性として現れる。
(19)リカードは全くこの剰余価値の起源についてはなんら気にもとめない。彼はそれをあたかも資本主義的生産様式に本来備わったものとして取り扱う。彼の目にはこの様式は社会的生産の自然形式なのである。彼が労働生産性について議論するときはいつも、彼はその中に剰余価値の原因があると云うのではなくて、只々、価値の大きさを決める原因があるとしてそれを捜し求める。その一方で、彼の学派は率直に労働生産性は利潤捻出(ここは、剰余価値(頭文字は大文字)と読むところ)の原因であると宣言する。このことはなにはともあれ、重商主義者らに比べれば進歩の痕はある。重商主義者らはかく云う。生産物をその価値以上に売ることから、取引行為から、生産物の生産に要したコストを越える価格の上前を引き出すと。なのに、そこまで云っていながら、リカード学派はこの問題を全く回避した。彼等はこの問題を解かなかったのである。は、本当のところは、このブルジョワ経済学者達は、剰余価値の起源と云う火中にある問題を深く突つき回すとことは非常にやばいと本能的に睨んで、正しく対応したのである。しかし、リカードから半世紀も後になってやってきて、リカードの初期の低俗で卑劣な回避の弁を下手くそに繰り返し、重商主義者らを超越したと勿体ぶって主張するジョンスチュアートミルをなんと考えたらいいだろう?
(20)ミルはこう言う。
(21)「利益の原因は、労働が労働の維持に必要なもの以上を生産することにある。」
(22)この限りでは、古き物語と何も違わない。しかしミルは彼自身のなんやらを追加したがる。そしてこう言う。
(23)「定理の形式を変えて云えば、資本が何故利益を生み出すかの理由は、食料、衣料、材料、そして道具が、それらを生産するに要する時間よりも長持ちするからである。」
(24)彼は、このように、労働時間の長さとその生産物の寿命の長さとを、つまり長さの概念をごちゃ混ぜにしている。この見解に従えば、わずか1日しか持たない生産物をつくるパン屋は彼の労働者たちから、機械屋が20年もそれ以上も長持ちする生産物をつくるような利益を引き出すことはできないであろう。勿論のことだが、以下のことは全くもって正しい。もし鳥の巣が、それを作るに要する時間よりも長持ちしないならば、鳥は巣なしで居なければならないだろう。
(25)ひと度この基礎的事実が確立されると、ミルは重商主義者らに対する彼自身の優越を次のように確立する。
(26)「我々は、このように、見る。」と彼は続ける。「利益は生み出される。偶然的な交換からではなく、生産的労働力から生産される。そして、国の一般的利益は、常に、交換がなされようとなされまいと、生産的労働力が作り出すものなのである。もし仕事の区分がなく、買いも売りもないとしても、そこには依然として利益が存在するであろう。」
(27)かように、ミルにとっては、交換、買い、売り、それらの資本主義的生産の一般的条件は、ただの偶然であって、労働力の買いも売りすらもなしに常に利益があるのであろう!
(28)「もし」と彼は続ける。「国全体としての労働者たちが、彼等の賃金よりも20%多く生産したとしたら、利益は、価格がどうであれどうでなかろうと20%となるだろう。」これは、一方では、稀に見る見事な同義反復である。もし労働者たちが資本家に対して20%の剰余価値を生産するならば資本家の利益は労働者の全賃金額に対して、20:100となるであろうから。だが他方では、「利益は20%になるであろう。」というのは絶対的な誤りである。なぜならば、それらの利益は、前貸し資本全総計に対して計算されるからである。もし、例えば、資本家が500ポンドを前貸ししたとして、そのうちの400ポンドを生産手段に投じ、100ポンドを賃金に当てたとしよう。そして剰余価値率が20%とすれば利益率は20:500となるであろう。それすなわち4%であって、20%ではない。
(29)そして、ミルの、社会的な生産の様々な歴史的形式を取り扱う方法の見事な例が続く。
(30)「私は、一貫して、もののあり方を仮定して論を進める。そこでは、わずかな例外を除いて、世界的に、労働者たちと資本家達とに分けられた二つの階級が存在している。そして言うなれば、資本家は、労働者の全給料も含めて、すべての支出を前貸しする。」
(31)珍妙なる目の錯覚、あらゆるところに二つの階級があるとは。我が地球上においては全く例外的なもののあり方としてしか存在していないものを。*11 それはともかくとして、我々は最後まで見ていこう。−ミルが正論と思っているところを。
本文注11 / 資本論の以前の版では、ジョンスチュアートミルからの引用文「私は、一貫して、もののあり方を仮定して論を進める。….労働者の全給料も含めて、すべての支出を前貸しする。」は正しくはなかった。「労働者たちと資本家達とに分けられた二つの階級が存在している。」の部分が抜け落ちていた。マルクスは、1878年11月28日付けの手紙で、資本論のロシア語翻訳者であるダニエルソンにこれを付け加えるように伝えた。
(32)「彼がそのようにすべきと云うことは生来必要としている事柄ではない。」今度は逆で、「労働者は、彼の全賃金がその必要分以上にあるならば、そしてまた、ともかくも彼が彼の一時的な生活費として十分な蓄えを持っているならば、生産物が完成するまで待つであろう。特に、後者の場合、労働者は、ある程度までは、その事に関して、まことに資本家である。その蓄えの一部を生活費のための必要として支出するからである。」
(33)ミルは、さらに踏み込んでこう付け加えたかったようだ。労働者が彼自身の生活に必要なものだけでなく、生産手段としても、彼自身に前貸しするならばと。そんなものはありもしない彼自身の賃金労働者の話である。彼はまた次のように云うのかも知れない。アメリカの小作農民所有者は、本当のところ、彼の領主のためにではなく、彼自身のために労働を強いる奴隷である。
(34)ミルは、かくのごとく、資本主義的生産が存在すらしていなくても、依然として常に存在しているであろうことを明瞭に証明したのち、今度は逆に、存在を持たぬものを、何時なりと存在すると示すことにもまことに首尾一貫的である。
(35)「そして、一貫して、前者のケースですら」(労働者が、生活必需品のすべてを資本家から前貸しされる当の賃金労働者である場合の労働者そのものであっても)「同じように見えるであろう。」(すなわち、資本家として)「なぜかと云えば、彼の労働を市場価格よりも安く提供するからである(!)彼はこの差額(?)を、彼の雇用主に貸したものと見なされ得る。そして利益他とともにそれを返してもらう。」*12
本文注12 / J.St.ミル政治経済学の原理ロンドン1868年
(36)実際には、労働者は彼の労働を、例えば一週間、週の終りにその市場価格を受け取るために、無償で資本家に前貸しする。それが、ミルに従えば、彼を資本家に変換したとなる。平原ではただの土の盛り上がりが山に見える。そして現在のブルジョワジーの馬鹿げた平面はその偉大なる知性の高さによって計測される。  
 
第十七章 労働力の価格と剰余価値とにおける大きさの変化

 

(1)労働力の価値は、平均的労働者が習慣的に必要とする生活必需品の価値によって決められる。これらの必需品の量はある与えられた時代の与えられた社会によって知られ、それゆえ、一定の大きさとして扱われることができる。変化するものはこの量の価値である。さらに、労働力の価値を決めるのに二つの他の要素が加わる。一つは労働力を発展させるための支出で、その支出は生産様式によって様々である。もう一つは、労働力の自然的な差異である。男性と女性間の労働力の違い、そして子供と大人のその違いである。これらの異なる種類の労働力の雇用は、そのある雇用は結果的には生産様式によって必要なものとされるのだが、労働者の家族を維持するコストと成人男子の労働力の価値との間に大きな違いを作る。とはいえ、これらの両要素は以下の考察では排除される。*1
本文注1 / ドイツ語版第三版の注で取り上げられたケースは、勿論ここでは、取り上げられてはいない。−F.エンゲルス
(2)私は、以下のように仮定する。(1)商品はその価値で売られる。(2)労働力の価格は時にはその価値以上に上がるが、それ以下には決して下がらない。
(3)この仮定の上では、我々は剰余価値の相対的大きさと労働力の価格の相対的大きさは以下の三つの状況によって決まることを見てきた。(1)労働日の長さ、または労働の拡張される大きさ。(2)労働の標準的強度、その労働の強さの大きさ、与えられた時間において消費される与えられた労働の大きさ。(3)労働生産性、そこにおいて定量の労働が、与えられた時間において、生産する多いかまたは少ない生産物量は、生産条件に係る発展の度合に依存する。様々な異なる組み合わせが明白に存在可能であり、三つの要素のうち、一つが一定で二つが変化する場合、または二つが一定で一つが変化する場合、または最終的に三つが全て同時に変化する場合がある。そしてこれらの多くの組み合わせは、これらの要素が同時に変化し、その量と方向がそれらそれぞれによって異なる場合があるわけで、多岐にわたる。以下はその主たる組み合わせについてのみ考察される。  
第一節 労働日の長さと労働強度が一定で、労働生産性が変化する場合

 

(1)これらの仮定から、労働力の価値と剰余価値の大きさは以下の三つの法則によって決められる。
(2)(1.)与えられた長さの労働日は同じ価値量を創出する。労働生産性がどうであれ、それに従って、生産物の量と生産された各一商品の価格は変化するであろう。
(3)もし、12時間労働日によって創出された価値が、例えば、6シリングであるとすれば、それは、生産された品物の量が労働生産性により変化したとしても、唯一の結果は、6シリングで表される価値は多いかあるいは少ない数の品物全ての上にふりまかれていると云う事である。
(4)(2.)剰余価値と労働力の価値は逆の方向に変化する。労働生産性の変化、その増加または減少は、労働力の価値には逆の方向に変化をもたらし、そして剰余価値には同じ方向に変化をもたらす。
(5)12時間労働日によって創出される価値は一定量である。例えば、6シリングである。この一定量は剰余価値に労働力の価値を加えた総計である。後者の価値は労働者がある等価で置き換えるものである。もし、二つの部分から成り立つ一定量があるとすれば、それらは他方の減少がなければ増加はない。自明である。二つの部分が最初同じであるとして見よう。労働力の価値が3シリング、剰余価値が3シリングであると。そうであれば、労働力の価値が3シリングから4シリングに増加することは剰余価値が3シリングから2シリング減少することなくしてはできはしない。そして剰余価値は、労働力の価値が3シリングから2シリングへの減少なくしては3シリングから4シリングへ増加することはできない。この状況では、従って、剰余価値または労働力の価値のいずれにとっても絶対的な大きさとなっており変化は起こらない。同時にそれらの相対的価値、すなわちお互いの相対的大きさに変化がなければ変化は生じない。それらにあっては、増加または減少が同時に生じることは不可能である。
(6)さらに云えば、労働力の価値は労働生産性の増加なくしては低下し得ないし、また、その結果として、剰余価値も増加できない。例えば前述のケースでは、労働力の価値は、労働生産性の増加なくしては、以前は6時間を要した生活必需品と同じ量を4時間で生産することができなければ、3シリングから2シリングへと縮小させることはできない。また逆に、労働力の価値は、労働生産性の減少なくしては、以前は6時間で足りた生活必需品の生産と同じ量の生産に8時間を要することにおいてしか、3シリングから4シリングへと増加させることはできない。このことは、次のことを示す。労働生産性の増加は労働力の価値の下落を引き起し、そしてその結果として剰余価値の増加を引き起こす。ところが、他方、そのような生産性の減少は労働力の価値の増大とまた剰余価値の下落を引き起こす。
(7)リカードは、この法則を公式化するに当って、一つの重要な点を見落とした。剰余価値または剰余労働の大きさの変化は、労働力の価値または必要労働の量の大きさと反対に変化するのではあるが、その変化率は決して同じ比率とはならない。それらは同じ量だけ増加・減少する。しかしそれらの比率は、増加にしろ減少にしろそれらの元の大きさ、労働生産性が変化する前の大きさに依存している。もし、仮に、労働力の価値が4シリング、または必要労働時間が8時間で、剰余価値が2シリング、または剰余労働が4時間であるとしよう。そしてもし、この状況下で労働生産性が上昇すれば、労働力の価値は3シリングに下落し、または必要労働時間が6時間となれば、剰余価値は3シリングに増加し、または剰余労働は6時間となるであろう。全く同じ量の、1シリングまたは2時間が、一方には加算され他方では減算される。しかしその変化率は各々違った大きさである。さて、労働力の価値は4シリングから3シリングへと下落、すなわち、1/4または25%の変化率、剰余価値は2シリングから3シリングへと増加、すなわち、1/2または50%の変化率を示す。従って、以下のようになる。剰余価値の増加率または下落率は、与えられた労働生産性の増加または減少の結果として、剰余価値としてそれ自体を実体化する労働日の該当部分の元の大きさに依存している。その部分が小さければ小さい程その変化率はより大きくなり、その部分が大きければ大きい程その変化率はより小さくなる。
(8)(3.)剰余価値における増加・減少は常に結果として存在しており、決して原因にはならない。労働力の価値の減少または増加に対応している。*2
本文注2 / 上の(3.)の法則について、マカロックは、とりわけ、以下のようなばかげた追加を加えている。剰余価値の増加は労働力の価値の下落が伴わなくても生じる。資本家が支払うべき税金の廃止によっても生じると。そのような税金の廃止は資本家が最初に労働者から強奪した剰余価値なるものには何一つ変化を生じさせない。それは単に彼自身と第三者とで剰余価値を分け合った部分を変えるのみである。であるから、剰余価値と労働力の価値との相互関係にはなんの変更も生じない。マカロックの例外は、結果として、彼の法則理解の間違い、丁度アダムスミスの論を低俗化したJ.B.セイが陥った不運と同様、リカードの論を低俗化した彼に始終起こってくる不運を証明するだけの事である。
(9)労働日の大きさが一定でかつ一定の大きさの価値によって表されており、剰余価値の大きさのあらゆる変動が、労働力の価値の逆変動に対応しているものであるから、さらに労働力の価値は、労働生産性の変化と云うものがなければ変化することはできないのである。これらのような条件下では、剰余価値の大きさのあらゆる変化は、労働力の価値の大きさの逆変化から生じることは明らかである。であるから、もし、我々が既に見てきたように、労働力の価値の絶対的大きさの変化がないものとすれば、そして剰余価値にはそれらの相対的な大きさの変化が伴わないのであるから、それに先立つ労働力の価値の絶対的な大きさの変化がなければ、それらの相対的大きさの変化は存在しないことになる。
(10)第三の法則によれば、剰余価値の大きさの変化には、労働生産性の変化によってもたらされる動静であるところの労働力の価値の動静が想定される。この変化の限界は労働力の価値変化によって与えられる。にもかかわらず、法則の作動を許す状況であっても、付随的な動静が生じるかも知れない。例えば、労働生産性の増加の結果、労働力の価値が4シリングから3シリングへ、または必要労働時間が8時間から6時間へとなったとしても、労働力の価格は、3シリング8ペンス、3シリング6ペンスまたは3シリング2ペンス以下には下がらないかも知れない。そしてその結果として、剰余価値は3シリング4ペンス、3シリング6ペンスまたは3シリング10ペンス以上には上がらない。この下落額は、最低限度は3シリング(新たな労働力の価値)であるが、一方の資本側の圧力と、他方の側の労働者の抵抗という吊り秤に投げ入れる相対的重量に依存している。
(11)労働力の価値は与えられた生活必需品の量の価値によって決められている。それは価値であって、労働生産性によって変化するこれらの生活必需品の量ではない。とはいえ、労働生産性の増加によって、労働力または剰余価値の価格になんら変化がなくても、労働者も資本家も同時にこれらの生活必需品の大きな量を享受することはできるだろう。仮に、労働力の価値が3シリングで必要労働時間が6時間ならば、同様剰余価値が3シリングで剰余労働が6時間ならば、そして労働生産性が必要労働の剰余労働に対する比率を変えることなく2倍になったとしても、剰余価値の大きさと労働力の価格にはなんの変化もないだろう。唯一の結果は、それぞれに以前とくらべて2倍の使用価値があることであろう。これらの使用価値は以前と比べて2倍安くなっているであろう。とはいえ、労働力の価格が変わらなくても、その価値以上であるかも知れない。例えば、労働力の価格が1シリング6ペンスに、その新たな価値と一致する最低点にまで下落するのではなく、2シリング10ペンスまたは2シリング6ペンスへと下がることはありうる。このより下がった価格が、そのまま、生活必需品の増加量を表すことになろう。この事から、労働生産性の増加によって、労働力の価格は下落し続けることもありうる。そしてこの下落は、それでも、労働者の生活手段の量の一定の成長を伴っている。しかしそのような場合でも、労働力の価値の下落はそれに対応する剰余価値の増加を生じる。そして、であるからこそ、労働者の位置と資本家の位置の間にある断裂帯は広がり続けて行くであろう。*3
本文注3 / 「工業の生産性にある変化が起きれば、そして労働と資本の与えられた量によって生産されるものはより多くなるかより少なくなれば、その賃金の割合で示されるところの量が同じであっても、賃金の割合は明らかに変化するかも知れない。また、その割合が同じ場合でも、その量が変化するかも知れない。」(「政治経済学概要、他」)  
第二節 労働日が一定、労働生産性が一定で、労働の強度が変化する場合

 

(1)労働の増加した強度とは、与えられた時間における労働の増加した支出を意味する。それ故より強度の大きい労働は、より強度の少ない労働に比べてより多くの生産物に体現化される、それぞれの労働日の長さは同じで変わりはない。労働生産性の増加は、同様、与えられた労働日で、より多くの生産物を供給するであろうことはその通りである。しかし後者の場合は、各一生産物の価値は、以前に比べれば少ない労働しか要していないので、低下する。前者の場合は、価値は不変のままに留まる、各一物品は以前と同じ労働を要しているからである。ここでは我々はその数において増加した生産物を持つことになるが、それらの個々の価格の低下を伴っているものではない。それらの数は増加し、それらの価格合計もそのように増加する。しかし生産性が増加する場合は、与えられた価値がより多くなった生産物全体にふりまかれる。かくして、労働日の長さが一定で、増加された強度の一労働日は増加した価値に、そして、貨幣の価値がそのままに留まるものとして、より多くの貨幣に体現化される。創出される価値は、その社会の通常の労働強度からの逸脱の程度によって変化する。与えられた労働日は、それ故、もはや一定の価値を創出するのではなく、変化する価値を創出する。12時間労働日において通常の労働強度で創出される価値は、例えば6シリングであるが、増加した労働強度においては創出される価値は7、8、またはそれ以上のシリングとなるかも知れない。もし仮に、一労働日の労働によって、例えば6シリングから8シリングへと増加し、そしてその価値を二つの部分に分けるとするならば、つまり労働力の価格と剰余価値の二つに分けるとするならば、共に平等に、あるいは不平等にであっても、それらは同時に増加するであろうことは明白である。それらは共に同時に3シリングから4シリングに増加するかも知れない。さてここでだが、労働力の価格の増加は労働力の価値以上にその価格が増加することを意味する必然性はない。全く逆で、価格の上昇は価値の下落を意味するであろう。このことは、労働力の価格の増加がその増加した消耗に見合わない場合にはいつでも生じる。
(2)我々は、一時的な例外として、労働生産性の変化が労働力の価値になんの変化も起こさないし、またその結果として剰余価値の大きさになんの変化も起こさないことを知っている。工業の生産物が労働者達によって習慣的に消費されてしまい生産物に影響しない場合である。ここ第二節で言及しているケースではこの条件は少しも適用されない。労働の長さまたは労働の強度のいずれであれ、そこに変化があるのであれば、その価値を体現する品物の性質からは独立して、創出される価値の大きさには常にそれに対応する変化が生じる。
(3)もし労働の強度が工業のあらゆる部門で同時に同程度増加したと云うことならば、新たな、高いレベルの強度はその社会にとっては普通のものと云うこととなろう。であるから、特に取り上げることでもなくなる。しかし、依然として労働の強度が違った国で異なる場合があるとするならば、国際的な価値法則の適用は違ってくる。ある国のより強い強度の労働日は強度のより少ない国とくらべれば、より大きな貨幣合計として表されよう。*4
本文注4 / 「全てのものが釣り合っているとして、労働日の違いに関しての釣り合い条件が、英国では週60時間で大陸では72または80時間であると云うことならば、英国の工場手工業者等は外国の工場手工業者等にくらべて与えられた時間により驚く程の大きな労働を捻り出すことができる。(事実に関する工場査察報告書1855年10月31日)英国と大陸の労働時間の質的な違いを解消する最も間違いのない手段は、大陸の工場における労働日の長さを量的に短縮する法ということになろう。
(14)資本主義的生産が以前にもあったと仮定してみるならば、そしてさらに、他のすべての状況が同じに留まるものとし、労働日の長さが与えられているものとすれば、剰余労働の量は労働の物理的条件によって変化するであろう。特に、土壌の肥沃度によって変化するであろう。しかし、最も肥沃な土壌が生産の資本主義的様式の成長に最も適合していると云うことには全くならない。この様式は人間が自然を支配することの上に成り立っている。自然があまりにも豊かであれば、自然は人をしてあたかも引き綱に繋がれた子供の様にそのままにしよう。自然は彼に彼自身を発展させる必要をなにも課すことはない。*5 
第三節 労働生産性と、労働強度が一定で、労働日の長さが変化する場合

 

(1)労働日は二つの方向に変化するであろう。そしてそれはいずれの方向でも伸びたり縮んだりするであろう。我々の現在のデータと前に(本章最初の部分(3)で記述されたもの)仮定した範囲内において、我々は以下の法則を得る。
(2)(1.)労働日はその長さに比例して、より大きいか、より少ない量の価値を創出する。−すなわち、変化し一定ではない価値の量を。
(3)(2.)剰余価値の大きさと労働力の価値との間の関係における全ての変化は剰余労働の絶対的大きさの変化から生じる。その結果として変化は剰余価値にも及ぶ。
(4)(3.)労働力の絶対的価値は、労働力の消耗を伴う延長化された余剰労働によって生じる反作用という結果においてのみ変化することができる。この絶対的価値の全ての変化は、従って、剰余価値の大きさにおける変化の、結果であり、決してその原因とはならない。
(5)我々は労働日が短縮されたケースから見ていく。
(6)(1.)上のように与えられた条件の下での労働日の短縮は、労働力の価値もまたそれに伴う必要労働時間も変えないままである。それは剰余労働と剰余価値を縮小する。後者の絶対的大きさとともに相対的大きさも低下する。すなわち、その大きさは変化しないままの労働力の価値の大きさに相対して変化することになるからである。唯一労働力の価値以下に労働力の価格を低下させることによってのみ、資本家は彼自身の損傷を回避できることとなろう。
(7)労働日の短縮化に反対するよくある議論は、我々が上に書いたように、そのような条件下において生じると仮説を立てたもので、実際のところは全くそうではなく、ほとんどの場合は、生産性と労働強度が、労働日の短縮となると、事前にまたは即刻変化する。*5
本文注5 / 「そこには様々なそれを補う事案が、….10時間法による労働の話が持ち上がると」(事実に関する調査報告書1848年10月31日)
(8)(2.)続いて労働日の延長。必要労働時間を6時間、または労働力の価値を3シリング、そしてまた剰余労働が6時間、または剰余価値が3シリングとしよう。全労働日はかくて12時間、そしてそれは6シリングの価値として表される。さて仮に、今、労働日が2時間延長されるとしよう。そして労働力の価格がそのままに留まるとすれば、剰余価値は絶対的にも相対的にもともに増大する。とはいえ、労働力の価値にはなんの絶対的変化はない。それは相対的には下落させられる。1.のように設定した条件の下では、労働力の価値は、その絶対的な大きさに変化がなければ、相対的な大きさに変化は生じなかった。逆に、ここでは、労働力の価値の相対的な大きさの変化は、剰余価値の絶対的な大きさの変化の結果である。
(9)労働日が実体化された価値はその労働日の延長に応じて増大するのであるから、剰余価値と労働力の価格は同時に増加するのは明らかである。それが同量であろうとなかろうと。であるから、この同時の増加には二つのケースが可能である。実際の労働日の延長がその一つであり、もう一つはそのような延長を伴わない労働の強度の増大である。
(10)労働日が延長されると、労働力の価格はその価値以下に低下するであろう。たとえ価格が名目上は変化しないかまたは上昇したとしても。日労働力の価値は、忘れようもなく、標準的な平均時間または労働者たちの標準的生活時間、そしてまた、有機的な肉体物質の動作への、人間の自然に適う動作ということであるが、それへの標準的な移管に応じて算定される。*6 ある程度までは、労働力の消耗の増大は労働日の延長と切り離すことはできず、高い賃金によって補填されるであろう。だが、この点を超えた幾何学的な進行を見せる損耗ともなれば、標準的な労働力の再生産と機能維持のための全ての適切な条件は抑圧される。労働力の価格とその搾取の度合は釣り合いの取れた量であることを止める。
本文注6 / 「一人の人間が24時間の間で行った労働の量は、彼の肉体に生じた化学変化の検査によって、おおよそ次のことに帰着するであろう。肉体的物質における変化の形が結果として、その結果をもたらす大きな運動力の行為を指し示す。」(グローブ「肉体的な力の相互関係について」) 
第四節 労働日の長さ、生産性そして労働の強度における同時的な変化

 

(1)ここでは、非常に多くの組み合わせが可能であることは云うまでもなかろう。いずれかの二つの要素が変化し、第三の要素が不変であるとか、三つの全てが同時に変化する場合とか。それらがいずれも同じ程度に変化する場合や異なる程度で変化する場合や、同じ方向に変化する場合や反対方向に変化する場合など。その結果もその変化が互いに消し合う、全面的にそうなったり、または部分的にそうなったりする。ではあるものの、ほとんどの考えられるケースは、既に与えられた第一節、第二節そして第三節の結果を参考にすれば簡単である。全ての可能な組み合わせの結果は、各要素が変化するものとし、他の二つの要素については当分の間変化しないものとして考えれば良い。従って、我々はそれらを踏まえて、簡単にまとめることにしよう。だが二つの重要なケースがある。
A.労働日の延長と同時に労働生産性が低下するケース
(1)労働生産性の縮小に関しては、ここではそれらの工業の生産物が労働力の価値を決定する工業の縮小に関して言及する。そのような縮小は、例えば、土地の肥沃度の低下、またその商品の高額化によるものとかである。労働日が12時間として、そしてそこから作り出される価値が6シリングとする、その半分は労働力の価値を、あとの半分が剰余価値を形成するとしよう。土地の生産物の価格が高騰し、その結果労働力の価値が3シリングから4シリングに上昇する、そしてその結果必要労働時間が6時間から8時間になるとしよう。もし労働日の長さに変化が無ければ、剰余労働は6時間から4時間に下落し、剰余価値は3シリングから2シリングとなるであろう。もし、労働日が2時間延長される、すなわち12時間から14時間になるならば、剰余労働は6時間のままで、剰余価値は3シリングのままである。*note(MIAが英語版資本論をuploadした側の注) しかし、剰余価値は、必要労働時間として計量される労働力の価値と比較すれば減少する。もし仮に、労働日が4時間延長されて、つまり12時間から16時間になれば、剰余価値と労働力の価値の比例的大きさは、剰余労働と必要労働の比例的大きさは変化しないままとなる。ただし、剰余価値の絶対的大きさは3シリングから4シリングに上昇し、剰余労働は6時間から8時間へ331/3%の増加となる。従って、労働生産性の低下と同時に生じる労働日の延長の場合は、剰余価値の絶対的大きさに変化は起こらないこととなろう。と同時に、その相対的大きさは減少する。その相対的大きさが変化しないならば、その絶対的大きさは増大する。そして労働日の延長が充分大きければ、共に増大する。
本文注note / 初期の英語版訳は、3シリングではなく「6シリング」となっている。この誤訳はある読者によって我々に指摘された。我々は1872年のドイツ語版他を再確認し、この明らかな間違いを正した。さて、誰がこの間違いの張本人か?
(2)1977年から1815年の期間、英国では、食料価格の値上がりが賃金の名目的な上昇をもたらした。とはいえ、実質賃金は生活必需品の範囲に圧縮され、下落した。この事実から、ウエストとリカードは、以下のような結論を引き出した。すなわち、農業労働の生産性の低下が剰余価値の比率の下落をもたらしたと。そして彼等はこの事実の仮説を、ただ彼等の想像上の存在でしかない仮説を、賃金、利益、地代の相対的な大きさを追求ための重要なる考察への出発点としたのであった。しかし、実のところは、この時点では、剰余価値は、労働強度の増大に、そしてまた労働日の延長に感謝すべきである。剰余価値は絶対的にも相対的にもその大きさがともに増加したのであった。この時期は、労働時間の延長をどこまでも延長する権利が確立された時代であった。*7 この時期は、一方では資本の加速的な集積によって、他方では重積する貧困によって特別に記述される。*8
本文注7 / 「穀物と労働が鼻先を並べて行進することはまずない。とはいえ、明確なる限界が存在する。その限界を越えてまで両者が別々に離れて行進することはできない。賃金の下落となるような物価高の時期における労働者階級の通常を超えた努力については証言にも記されている。」(すなわち、1814−1815年の議会委員会の諮問に応えたもの)「彼等個々には最大の称賛を惜しまない。そしてまさに、資本の成長と云う贈り物をもたらしてくれた。しかしながら、人間愛を抱く者は誰も、絶え間なく続く許されることもない彼等の姿を見ることを望むことはできないであろう。彼等のそれは一時の緊急対応としては最大の感謝に値するが、しかしもしそれが絶え間なく打ち続くのであれば、その結果としては、一国の人口が食料の限界のぎりぎりまで追い込まれたことと同じような結果となろう。」(マルサス「地代の性質とその進展に関する研究」ロンドン1815年)この様に、マルサスが労働時間の延長に注目し、事実、彼の小論文のあらゆるところで注意を喚起していることは、彼の大きな名誉と云える。一方のリカード他は、この最も悪名高き事実に直面ながら、彼等の考察の全ての基礎において労働日の長さに変化はないものとするのと比べれば、その名誉は揺るがない。だが、マルサスが侍る保守層の利益が彼をして強大なる機械の進展や婦人たちや子供たちの搾取と一体化した労働日の制限のない延長を捉える目を妨げた。その保守層の利益が必然的にこの労働者階級の大部分を「過剰人口」とするであろうこと、特に戦争が終結したり、世界市場での英国の独占が終わることになったりした場合にそうなることを把握し得なかった。当然のことながら、この過剰人口について資本主義的生産の歴史法則から説明するよりは、永遠の自然(頭文字は大文字)法則によって説明する方が、マルサスが真の聖職者として崇拝する支配階級の都合により合致したであろうし、非常に便利な説明であったであろう。
本文注8 / 「戦時中、資本の増大の主要な原因は、あらゆる社会において最も人口の大きな労働者階級のより大きな努力とそして多分、より大きな困窮から発している。多くの婦人たちや子供たちが貧困の事情から追い込まれて骨の折れる仕事についた。以前の労働者たちも同じ理由で彼等の時間の大部分を生産増加に献身を余儀なくされた。」(政治経済学に関する評論ここには現在の国家的な困窮の主要な原因について説明されているG.ロバートソン(著者名については訳者加記)ロンドン1830年)
B.労働日の短縮と同時に労働強度と労働生産性が増大するケース
(1)増大した生産性とより強度を増した労働は、ともに同じような効果をもたらす。それらはともに、あたえられた時間内に生産される品々の量を増大させる。従って、それらはともに、労働者の生活手段またはそれらの等価を生産するに必要な労働日のそれに該当する部分を縮小する。労働日の最小の長さはこの必要によって決まるが、実際にはその該当部分の収縮いかんによって決まる。もし全労働日がこの該当部分の長さにまで縮小することになれば、剰余労働は消失するが、資本主義の制度下においてはその達成は全くもって不可能である。唯一資本主義的生産形式を廃止することによってのみ、労働日の長さを必要労働時間にまで減らすことができるであろう。しかし、その場合であってさえも、必要労働時間はその制限を拡大するであろう。一方の理由は、「生活手段」の概念がそれなりに大きなものとなり、労働者がこぞって今までとは違う生活基準を求めることになるからであり、他方、今の剰余労働部分を必要労働と考えるからである。私の意味するところは、予備や備蓄のための諸々を構築するに要する労働と云うことである。
(2)より労働生産が増大すればするほど、労働日はより短縮することができる。そしてより労働日が短くなればなるほど、労働の強度をより高めることができる。社会的視点から見れば、労働生産性は労働の節約に応じて同じ比率で増大する。節約の内訳には、生産手段の節約のみではなく全ての無益な労働の排除をも含んでいる。資本主義的生産様式は一方で各それぞれの個々の業務所においては節約を強要するが、そのくせ、他方、競争と云う無政府的なシステムによって、労働力と社会的生産手段の最大級の途方もない浪費を生じさせる。現時点では避けようもないことだが膨大な雇用創出が何ものであるかは云うまでもなかろう、まさにそれらは不要物なのである。
(3)労働の強度と生産性が与えられているものとして、共同社会の物質的生産に割くべき時間がより短くなるならば、その結果として、知的に・社会的に自由に発展させるために使える個人の時間はより長くなる。共同社会の全ての身体強健なメンバーに仕事がより公平に分担されていればいるほど、そしてまたある特定の階級が労働の普遍的な負担を自分の肩から共同社会の他の階級の肩に転嫁する支配力が剥奪されていればいるほど、その比率に応じて自由に発展させるために使える個人の時間はより長くなる。このような方向で進展すれば、労働日の短縮は最終的には労働の一般化に応じた限界点に到達するであろう。資本主義的社会にあっては、ある階級の余裕な時間は、大勢の全生活時間を労働時間に変換することで獲得されている。 
 
第十八章 剰余価値率に関する公式

 

(1)我々は剰余価値率が次のような公式で表されることはすでに見てきたところである。
T剰余価値/可変資本(s/v)=剰余価値/労働力の価値=剰余労働/必要労働
(2)これらの公式の最初の二つは価値の比率を表し、三番目のものはそれらの価値の生産に要する時間の比率で表わされている。これらの公式は、互いに補完しあいつつ、厳格に定義されており正確である。従って、我々は古典政治経済学においてもこれらの公式が実質的には認められていると分かるのだが、認識的にはそうではないことが分かる。そこでは我々は次のようなご都合的な派生公式に出会う。
U剰余労働/労働日=剰余価値/生産物の価値=剰余生産物/全生産物
(3)ここでは、一つの同じ比率が、労働時間の比率、それらの労働時間が体現されている価値の比率、そして価値が存在する生産物の比率として表されている。勿論のこと、分母の「生産物の価値」は、労働日において新たに創造された価値のみを意味することは分かっているところで、生産物の不変資本部分の価値は入らない。
(4)これらの公式(U)の全てにおいては、実際の労働搾取度、または剰余価値率と云ったものが誤った形で表されている。労働日が仮に12時間とすれば、前者の公式によって計算するならば、真の労働搾取度は次のような比率で表わされるだろう。
6時間の剰余労働/6時間の必要労働=3シリングの剰余価値/3シリングの可変資本=100%
(5)公式(U)からは、我々は非常に違った結果を得る。
6時間の剰余労働/12時間の労働日=3シリングの剰余価値/6シリングの創造された価値=50%
(6)これらのご都合的派生公式が表すものは、実際のところ、単に資本家と労働者の間で、分けられる労働日の比率とかその中で生産された価値の比率を表すだけのものである。もしそれらが資本の自己拡大の度合を直接表すものとして取り扱われるならば、このような間違った公式は正しい面を持つことであろうが、これでは、剰余労働または剰余価値は決して100%に達することがない。*1 剰余労働は単に労働日の割り切れる部分なのだから、または剰余価値は単に創造された価値の割り切れる部分なのだから、剰余労働は労働日より常に必然的に少なくなければならない。または剰余価値は常に創造された全価値よりも少なくなければならない。しかしながら100:100の比率を得るためには、分母分子は等しくなければならない。剰余労働が全日を占めるならば、(いかなる週または年の平均日ということだが)必要労働はゼロにまで達しねばならない。しかし必要労働が消失すれば、剰余労働もまた消失する。それが唯一の公式の機能なのだから。比率剰余労働/労働日または剰余価値/創造された価値は、従って100/100の限界に到達することはない。いつまでも(100+x)/100以上よりは少ない。しかし剰余価値率はそうではない。実際の労働搾取度はそんなことはない。例を上げれば、L.ドゥラベルニュの計算によれば、英国の農業労働者は生産物の1/4しか受け取っておらず、資本家(農場主)はその一方で生産物の3/4を収奪する。*2 またはその3/4の価値を収奪する。その強奪物をさらにその後いかに資本家と領主とその他の者の間で分配するかはともかく。このことによれば、この英国農業労働者の剰余労働と彼の必要労働との比率は、3:1すなわち、搾取率にすれば300%の数値を示す。
本文注1 / このことは、たはえば「ロドベルトゥスからフォン.キルヒマン宛の第三書簡リカード学派による新地代論の基礎的理論とその確立をと言う説への反論」ベルリン1851年に書かれている。この書簡については後に立ち返るつもりだが、間違った地代理論にも係わらず、資本主義的生産の本質を見通している。ドイツ語版第三版に追加されたノート:このことからいかにマルクスが彼の先輩たちを好意的に評価しているかよく分かるであろう。それらの中に真の進歩や新たなそして正しい概念をマルクスが見出した時はいつでもそうなのである。その後公開されたロドベルトゥスからルドルフ.マイヤー宛の手紙には、マルクスが上に認めたような点がいくらかは限定されるものが書かれていた。それらの手紙には以下の文章がある。「資本は労働から救われなければならないのみでなく、資本自体からも救われねばならない。そしてそれは最も効果的に救われなければならない。工業資本家の行為が経済的かつ政治的機能として取り扱われることで、彼が彼の資本によってその立場に任命されている者として、彼の利益を俸給の形式で取り扱うことで救われることになる。なぜならば、我々は依然としてそれ以外の社会的組織を知らないからである。しかし俸給は規制されるかも知れないし、またもし賃金よりもあまりに多ければ減額される。マルクスの社会への乱入は、私は彼の本のことをそう云ってもいいと思うが、それは防ぎ倒さなければならない。全体的に見て、マルクスの本は資本に対する考察であるよりも、現在の資本形式に反対する論であり、それと資本と言う概念そのものとを混同した資本形式に反対する論である。」(「ドクター.ロドベルトゥスからヤゲッツォフへの書簡他ドクター.ルドルフ.マイヤー編」ベルリン1881年第一巻ロドベルトゥスの書簡)この観念的な俗論に至れば、ロドベルトゥスが彼の「社会的書簡」の中で行った大胆な発言は、結果として、品質が低下する。−F.エンゲルス
本文注2 / この計算では、生産物のうちの前貸しした不変資本部分を単に置き換える部分については勿論のこと計算には入っていないが、L.ドゥラベルニュ氏、盲目的な英国賛美者は、資本家の取り分をかなり高く見積もるよりはかなり低く見積もる傾向がある。
(7)労働日の大きさが一定であるかのように取り扱うお気に入りの方法は、公式Uを用いることによって、定番化する。なぜならば彼等にあっては、常に、剰余労働を与えられた長さの労働日と対比させたいからである。生産された価値の再分配では他でもなくそれが全部自分のものであるとするのに都合がいい。すでに与えられた価値であるところの労働日は必然的に与えられた長さの一日でなければならない。
(8)剰余価値及び労働力の価値を創造された価値の一部分として表す習慣は、−この習慣は資本主義的生産様式そのものに始点がある。この彼等の詐術的な習慣の持ち込み動機はいずれ将来明白なるものとなるだろう。−資本の特性そのものである取引の実態を隠蔽する。すなわち、可変資本と生きた労働力の交換と云う実態を遠ざけたり、生産物からなんとしても労働者を排除したがることと結びついている。真の事実に代わって、我々は偽の協同体という見せ掛けの形を見る。その協同体では労働者と資本家は生産物をそれぞれ違う要素、その公式に対するそれぞれの貢献度という要素に応じて分け合う。*3
本文注3 / 全てのよく発達した資本主義的生産形式は、協同体形式を示す。勿論のこと、それらの対立する性格を見落としたり、それらを自由協同体なる形式に文字上で変換することほど容易なものは他にはない。それが、A.ドゥラボルドの「あらゆる協同体の完全形における協同精神について」パリ1818年の著作となっている。H.ケアリー北米人は、時々この悪質なトリックを用いてこの成果を納めている。奴隷制度という協同体ですらも。
(9)さらに云えば、公式Uはいつでも公式Tに再変換することができる。例えば、仮に、我々が次の式を見るならば、剰余労働力としての6時間/労働日なる12時間 直ぐに、必要労働時間が、12時間より剰余労働の6時間少なことが分かるのであるから、次の結果を得る。
剰余労働6時間/必要労働の6時間=100/100
(10)私がすでに度々前にも取り上げたように、第三の公式が存在する。それは、
V剰余価値/労働力の価値=剰余労働/必要労働=不払い労働/支払い労働 である。
(11)この考察の結果を得れば、不払い労働/支払い労働と明記することによって、もはや間違われることはなくなる。あたかも資本家が労働に支払うのであって、労働力に支払うのではないと云うような結論には行き着かない。この公式は単に一般的な表現をとれば、剰余労働/必要労働となる。
(12)資本家は、その価値に価格が一致する限りにおいて、労働力の価値に支払う。そして、交換と云う形で生きた労働力そのものの自由処分権を受け取る。彼の使用権は二つの期間に分けられる。一つの期間では労働者は彼の労働力の価値に見合う価値を生産する。つまり労働者はその等価分を生産する。資本家は、これを、かれが労働力の価格として前貸した部分として受け取る。市場で並んでいる生産物としての労働力の価格を受け取る。もう一つの別の期間では、剰余労働の期間では、労働力の使用権が資本家のための価値を創造する。資本家はその等価分を一銭も要さずに受け取る。*4 この労働力の支出が彼にはただでやってくる。このことは、剰余労働が不払い労働と呼ばれ得ることを示している。
本文注4 / 重農主義者らはこの剰余価値の秘密に切り込むことはできなかったが、それでもこのことをより鮮明に把握していた。すなわち、「彼(所有者)が買ってはおらず、それを売ると云う独立した処分自由の富である。」(デュルゴー「富の形成と分配に関する考察」)
(13)であるから、資本は、アダムスミスが云うような、労働に関する支配権ではないばかりか、それは、不払い労働に関する本質的な支配なのである。全ての剰余価値は、それがどんなに特殊な形式(利益、利子、または地代)であろうと、その結果としてどのような結晶体になっていようと、不払い労働の物質化という実体に他ならない。資本の自己拡大という秘密は他の大勢の人々の明白なる不払い労働量の支配そのものであることにつきる。 
 
第十九章 労働力の価値(とそれぞれの価格)の賃金への変換

 

(1)ブルジョワ社会の表層を見れば、労働者の賃金は労働の価格として見える。ある一定量の労働に対して支払われるある一定量の貨幣として見える。それゆえ、人々が労働の価値について語る場合、その貨幣表現されたものを、当然の価格とか当たり前の価格と呼ぶ。一方、労働の市場価格について語る場合には、そこではその価格はその当たり前の価格より上になったり下になったりと変動する。
(2)そもそも商品の価値とは何か?そのものの生産に支出された社会的労働の客観的形式である。さて、この価値量を我々はどのようにして計量するか?そこに込められた労働の量によって計量する。ならば12時間労働日の価値はどのようにして決められるのか?12時間からなる一労働日に含まれる12時間による。これでは馬鹿げた同義反復に陥入る。*1
本文注1 / 「リカード氏は、彼の学説としてこう述べている。−価値はその生産に雇用された労働量に依存している。--もしこの原理を厳格に応用するならば、労働の価値はその生産に雇用された労働の量に依存していると云うことになる。これでは明らかに馬鹿げた同義反復となる。−この一見して窮地の恐れを呼び兼ねないやっかいな点をリカード氏は巧妙卓越なる方法で逃れる。そのために彼は頭の回転の妙を用いて、労働の価値は賃金の生産に要する労働量に依存すると言い換える。つまり、リカード氏は労働者に与えられる貨幣または商品の生産に要する労働量に依存すると云いたいのである。これでは次のように云うのと似たようなものである。布の価値はその生産に授けられた労働量によってではなく、布と交換される銀の生産に授けられた労働量によって判断されると。」−「価値の性質等に関する批判的論説」
(3)市場で商品として売られるためには、必ず、売られる前に、労働が、とにもかくにも存在していなければならない。とはいえ、労働者がそれを客観的な独立した存在として与えることができたとしたら、彼は労働を売るのではなく一つの商品を売ることになろう。*2
本文注2 / 「あなたが労働を一商品と呼ぶとしても、それは交換するためにとりあえず生産されそして市場に持ち込まれ、その時市場に居合わせた他の商品のそれぞれの量と交換せねばならないと云った種類の商品ではない。労働は市場に持ち込まれたその瞬間に作られる、いやそうではい、労働は作られる前に市場に持ち込まれる。」「ある種の口論に関する観察」
(4)これらの自家撞着はともかく、貨幣すなわち具体化された労働と生きた労働の直接的な交換は、唯一資本主義的生産の基礎の上に価値法則を自由に発展させるに至った結果の産物であるその価値法則も、また賃労働の上に直に居座る資本主義的生産それ自体をも、廃除することとなろう。12時間なる労働日がそれを実体化する、すなわち6シリングの貨幣価値と云う実体となる。相互の等価が交換される。そして、労働者は12時間の労働に対して6シリングを受け取る。彼の労働の価格は彼の生産物の価格と同値であろう。この場合彼は彼の労働の買手になんの剰余価値をも作り出さない。買手が支払った6シリングは資本に転化されることはない。資本主義的生産の基礎は消失する。云うまでもなく、この資本主義的生産の仕組みの上で彼は彼の労働を売るのであり、彼の労働は賃労働なのである。さて、これとは別に、彼が12時間の労働の対価として6シリングより少ない金額を受け取る、すなわち12時間の労働より少ない価格を受け取るとしたら、12時間の労働が10時間とか6時間の労働と交換されるとしたら。この不等価を等価とするならば、価値の決定則をまさに廃棄することになる。このような自己破壊的な矛盾は法則として口にされることも理論化されることもできはしない。*3
本文注3 / 「労働を一つの商品として取り扱い、労働の産物である資本をももう一つの商品として取り扱うならば、もしこれらの二つの商品が同じ量の労働として調整されているならば、ある与えられた労働の量は、….同じ量の労働によって作り出された資本の量と交換されるであろう。以前になされた労働は、….現在の労働と同じ量のものとして交換される。しかし、他の商品群との関係においては、労働の価値は、….同量の労働によっては決められない。」E.G.ウエイクフィールド版アダムスミスの「諸国民の富」第一巻ロンドン1836年
(5)より多くの労働とより少ない労働との交換を、それらの形式の違いから、一つはすでに実現された労働で他方は生きた労働の違いから説明することは何の意味もなさない。*4 商品の価値は、すでにそのなかに実現された労働の量によって決められるのではなくその生産に必要な生きた労働の量によって決められるのであるから、死んだ労働と生きた労働の価値の交換を持ち出すなどまったく馬鹿げている。ある商品が6時間の労働を表しているとしよう。もしある発明によって、それが3時間で生産できるとしたら、その価値は、すでに生産されている商品でさえも、半分に下落する。以前には必要であった6時間の社会的労働を表していたものが、それに代わって、3時間の社会的労働で表される。その生産に要する労働量によって、すでに形成された労働によってではなく、その商品の価値量が決められる。
本文注4 / 「なされた労働となされるべき労働との交換においては、いつでもそこに新しい合意(新版社会契約!)がなければならない。後者(資本家)は前者(労働者)よりも高い価値を受け取るものとなっている。」−シモンド(ドゥシスモンディ)「商業の富について」ジュネーブ1803年第一巻
(6)市場で貨幣の所有者に直接面と向かうことになるのは、実際には労働ではない。そうではなく、労働者である。後者が売るのは彼の労働力である。彼の実際の労働が始まるやいなや、それはもはや彼に属することを止める。であるから、それは彼によって売られることはできない。労働は実体でありかつそれは価値の基準であるが、でも、そのものに価値はない。*5
本文注5 / 「労働は他とは替えられない価値の基準…あらゆる富の創造者であるが、商品ではない。」トーマスホジスキン「一般政治経済学」
(7)「労働の価値」と云う表現では、価値の概念が完全に抹消されているのみでなく、実際には全く逆のものを表す。まるで土地の価値と同様の想像上の表現となっている。とはいえ、このような想像的な表現は生産関係そのものから生じる。それらの表現は、本質的な諸関係の現象形式を表す言葉の選択である。それらの外観的表現においては、諸物はそれ自体とは逆転されて表現されることはあらゆる科学領域ではよく知られている形式である。だがどういう分けか政治経済学領域だけはそうではないようだ。*6
本文注6 / 他方、このような単なる詩的免許を振り回すような表現で説明を試みることは分析の無能を示すだけのものにすぎない。であるから、プルードンの言葉「労働が価値と呼ばれるのは、それがあたかも商品そのもののように見えるからではなく、価値と云う概念から見て、それがそのなかに潜在的に包含されていると思われているからである。云々」に対する答えとして私はこう云う。「労働、商品はおぞましき現実なのであるが、彼(ブルードン)は何も見ておらず、単なる文法上の省略記号だけを見ている。ありとあらゆる実存する社会は、労働商品の上に成り立っているのだが、それがこれでは詩人免許者のことば遊びの表象表現の上に成り立つことになる。社会はトラブルのもとになる不都合なことを除去しようと欲するのか。ならやることは簡単、あらゆる不快な音となる単語の全てを排除することである。言葉を取り替えよう。そのためには、アカデミーにそのことを伝えねばならない。そして新たな辞書への改版を求めればよい。」(カールマルクス「哲学の貧困」)価値と云う概念をもってものごとを理解しようと全くしなければ当然ながらより以上に心地よかろう。かくて何の困難もなく全てのものをこの範疇に取り込むことができる者が現れる。以下のようにすなわちJ.B.セイはかくおっしゃる。「価値とは何か?」答え「それは価値のある物のことである。」そして「価格とはなにか?」答え「貨幣によって表される物の価値である。」そして,なぜ農業は価値があるのか?答え「それはそれに価格を付けたからである。」かくて価値は価値があるところの物であり、そして土地はその「価値」を持つ。なぜならその価値が貨幣で表現されるからである。」これは、なにはともあれ、ふざけ半分の、物事の何故とかどうなるかを説明する際の非常に単純な方法となる。
(8)古典政治経済学は毎日の生活から「労働の価格」という範疇をなんの批判もなしに借用した。そして単純にこう質問した。どのようにしてこの価格は決められたのか?そしてすぐに気づく。他のあらゆる商品と同様にある中央値を上下する市場価格の変動のように労働の価格が需要と供給の関係における変化として説明されても、その変化以外はなにも分からないと気がつく。もし需要と供給がバランスし、他のすべての条件も不変のままなら、価格の変動は止まる。ゆえに、需要と供給は同様になにかを説明することもやめる。労働の価格は、需要と供給の平衡がとれた瞬間、その当たり前の価格は需要と供給の関係から独立して決められる。さて、どのようにしてこの価格は決められるのか、まさにこの質問となる。また例えば1年と云う長い期間の市場価格の変動から見れば、平均的な値からはずれる上下のそれぞれを相殺して、相対的な一定値が見出される。当然ながらこのことはそれらの自己補正的な変動とは別のものとして決められなければならない。この価格は、労働の偶然的な市場価格を、常にそして決定的に支配し、それを規定し、労働の「当然の価格」(重農派)または労働の「当たり前の価格」(アダムスミス)は、他の全ての商品と同様、その価値を貨幣において表される以外のなにものでもない。これについて政治経済学は、偶然的な労働の価格に縦横に分けて中に入り込み労働の価値を見つけ出せると考えた。他の商品について云えば、その価値は生産のコストによって決められた。そこで、労働者の生産コストとはなにか、つまり労働者自身の生産または再生産のコストとはなにか?この問題は政治経済学において無意識的にその最初の問題が別のものにすり替えられた。なぜならば、労働の生産コストを追及しても同じところを堂々巡りするばかりでそこを離れられなかったからである。そこで、その結果として、経済学者が労働の価値としたものは事実上労働力の価値である。それは労働者の個体の中に存在しており、その機能とは別のものである。あたかも機械と云うものが、その動くという作業とは別のものであるのと同じである。労働の市場価格とそのいわゆる価値と呼ぶものとの違いに、また価値とその利益率の違いに、また労働によって生産された商品たちの価値との違い等々に忙殺される限りは、彼等はその分析コースにあっては、その価値と思われる労働の市場価格からなにも引き出せないのみならず、ただただ、労働の価値そのものを労働力の価値に溶解させることにならざるを得ない。古典経済学はそれ自体の分析の結果の意識的認識にたどり着くことがなかった。なんの批判もなしに、「労働の価値」「当たり前の労働価格」などなどの範疇を受け入れた。そして最終的に、そして適当な表現として、価値関係を考察し、そして後に見るように、脱出不能の混乱と矛盾へと導かれた。基本的には外観のみを崇拝するかれらの浅薄な考察の停止状態ばかりが、この間延々と俗流経済学者らに提供された。
(9)それでは次に、我々は、いかにして労働力の価値(そして価格)それ自体が、変換された状態として、賃金として現れるのかを見ていくことにしよう。
(10)我々は、労働力の一日の価値がある一定の長さの労働者の生涯を元に算出されることを知っており、また繰り返すが、労働日のある一定の長さに相当することを知っている。習慣的な労働日が12時間であると仮定する、一日の労働力の価値が6時間の労働を実体化した価値の貨幣表現である3シリングであると仮定する。もし労働者が3シリングを受け取るならば、それは彼が12時間は働く彼の労働力の価値として受け取ることになる。今もし、この一日の労働力の価値が一日の労働そのものの価値として表されるならば、我々は次の公式を得る。12時間の労働は3シリングの価値を有する。かく労働力の価値は労働の価値を決定する。またはその当然なる価格が貨幣として表現される。もし、他方、労働力の価格がその価値と異なるならば、当然ながら、労働の価格はそのいわゆる労働の価値とは異なる。
(11)このように労働の価値は労働力の価値を表す単なる不合理値なのであるから、当然以下のように相成る。労働の価値はそれが生み出す価値よりも常に少なくなければならない。なぜならば、資本家は常に、労働力をそれ自身の価値を再生産するために必要な時間よりも長く働かせるからである。上の例では、12時間働かせる労働力の価値を3シリングとする。再生産に必要とされる6時間の価値とする。労働力が生産する価値は他方、6シリングである。なぜならば、事実として、12時間の作業とその価値は、それ自身の価値ではなく、働くことになる時間の長さに依存する。このように我々は、ただ眺めるだけでは、6シリングの価値を作り出す労働が3シリングの価値を持つと云う馬鹿げた結論に至る。*7
本文注7 / 「経済学批判」を見よ。そこで私は資本によって取り扱われる仕事のある部分について、以下の問題がいずれ解き明かされるであろうと述べた。「単純に労働時間によって決められる交換価値の基礎の上で、どのようにして、生産が、労働の交換価値がその生産物の交換価値よりも少ないと云う結論を導きだすのであろうか?」
(12)さらに突っ込んで見ていくことにしよう。労働日の一部分すなわち6時間の労働に対して支払われる3シリングの価値が12時間労働日の全体の価値または価格であるかのように現れる。かくしてその中には支払われない6時間の労働が含まれる。その結果として、賃金形式が労働日が必要労働と剰余労働とに、支払い労働と不払い労働とに分けられる痕跡を覆い隠している。全ての労働が支払い労働のごとくに現れる。賦役労働の時代にあっては労働者自身のための労働と、彼の領主のための強制的な労働は、場所も時間も違っているので最も分かりやすいものであった。奴隷労働においては、彼自身の生存のための価値とするわずかな部分でさえも、彼のご主人様のための労働として現れる。であるから、全ての奴隷労働は不払い労働として現れる。*8 賃金労働においては、奴隷労働・全不払い労働とは逆に、剰余労働、不払い労働すらも支払い労働として現れる。奴隷労働においては、奴隷自身のための労働を所有関係が隠蔽している。賃金労働においては、賃金労働者の報酬なしの労働を貨幣関係が隠蔽している。
本文注8 / モーニングスター紙は、ロンドン自由商売連の機関紙だが、素朴を通り越して愚かと云うものだが、アメリカ市民戦争の間、繰り返しくり返し、有らん限りの道徳的な怒りを込めて、労働者たちに向かってこう叫んだ。「南部同盟州」の黒人たちはなんの報酬をも求めずに働くと。そのような黒人の日々のコストとロンドンのイーストエンドで働く自由労働者の日コストを比べるべきであった。
(13)それ故、労働力の価値と価格を、労働そのものの価値と価格を賃金形式に変換することが極めて重要であることを理解することになろう。この変換現象が、現実の関係を見えなくし、そしてそれどころかその関係を直接的に反対物として示す。そしてこれが、労働者に対する資本家の全法律的詐欺の基礎を形成する。資本主義的生産様式を全面的に神聖化する基礎を形成する。自由に関する全ての勘違いの基礎を形成する。俗流経済学のあることないことのふざけた言い逃れの基礎を形成する。
(14)賃金の秘密の最後まで行き着くのに歴史は多くの時間を費やしたとしても、他方、この現象の必然性、存在理由を理解する以上に簡単なものは他にはない。
(15)初めて見る限りは、資本と労働間の交換は、あたかも他の全ての商品の買いと売りと同じ様なものとして表れる。買手はなにがしかの貨幣を与え、売り手は貨幣とは性質の違うなにがしかの品物を与える。法学者の意識としては、これを、大抵の場合、物こそ違え、法律的な等価公式を表すものと認識する。「望むならあたえ、つくりしものを与える。望むなら捧げ、つくりしものを捧げる。」*9
本文注9 / あなたが与えるであろうものに応じて私は与える。あなたがつくるであろうものに応じて私は与える。あなたが与えるものに対して私はつくる。あなたがつくるものに対して私はつくる。
(16)さらに加えて云えば、交換価値と使用価値は本質的に比較しえない大きさであるのみならず、「労働の価値」「労働の価格」と云う表現は、「綿花の価値」「綿花の価格」と云う表現に較べてなにも不合理であるようには見えない。その上、労働者には彼の労働を与えた後に支払われる。支払い手段の機能として、貨幣は供給された品物の価値または価格をそれらの交換の直後に実現する。すなわちこの特殊なケースでは、労働が供給された後で労働の価値または価格が実現れさる。最終的に、労働者によって資本家に供給された使用価値は、事実、彼の労働力ではなくその機能であり、ある明確な有益労働である。仕立屋とか、靴づくりとか、紡績とかその他の仕事である。他方この同じ労働が、全世界共通の価値創造要素である、従って、他の全ての商品とは異なる特性を持っているのであるが、普通の知力による認識レベルを越えている。
(17)さて、それでは我々自身を、12時間の労働の報酬を受け取る労働の立場に立たせて見よう。そうすれば、6時間の労働で生産された価値、すなわち3シリングを受け取る。彼にとっては、事実、彼の12時間の労働は3シリングの購買手段である。彼の労働力の価値は変化するであろう。彼の生活手段の価値によって、3シリングから4シリングへ、あるいは3シリングから2シリングへと。または、もし彼の労働力の価値が一定に保持されるとすれば、価格が需要と供給の変化する関係に応じて変化するであろう。4シリングに上昇したり、2シリングに低下するであろう。彼は常に12時間の労働を与える。かくして、彼が受け取る等価の量における変化は、彼にとっては、彼の12時間の仕事の価値または価格の当然の変化として表れる。この状況がアダムスミスを誤らせる、彼は労働日を一定の大きさのもののごとく取り扱う。*10 そして、生活手段の価値が変化したとしても、労働の価値は一定であるとの主張に至る。その結果、同じ労働日が、労働者対しては、それ自体を、多いか少ないかの貨幣で表わすことになる。
本文注10 / アダムスミスは、彼が出来高払い賃金を取り上げる際に、労働日の変化に、偶然のニアミスで言及しているにすぎない。
(18)さて、それでは他方の、資本家の立場を考えて見よう。彼はできるだけ少ない貨幣でできるだけ多くの労働を受け取りたいものだと欲している。であるから、実際に彼が興味を持つことはただ一つ、労働力が創り出す価値と労働力の価格の間の差額のみである。要するに、彼はあらゆる商品をできる限り安く買いそして常に彼の利益を単純なる詐欺によって得ようと考える。価値以下で買いそれ以上の価値で売る。そればっかりゆえに、資本家は、もし労働の価値が実際に存在しているとして、そして彼が実際にその価値を支払うならば、資本は存在することがないだろうし、彼の貨幣が資本に転化されることがないだろうと云うことには少しも気が付かない。
(19)さらに加えて、賃金の現実の動きは、労働力の価値が支払われるのではなく、その機能の価値、労働そのものに支払われるように見える現象を示す。我々はこれらの現象を二つの大きな区分に集約することができよう。1.)労働日の長さの変化に応じた賃金の変動。ある者はこう結論づけるかもしれない。機械の価値が支払われるのではなく、その動きのそれに対して支払われるのであると。なぜならば、一日機械を賃借りするよりも一週間賃借りする方が高く付くからである。2.)同じ種類の仕事をする異なる労働者の賃金における個人的な相違額。奴隷制度においてはこの個人的な相違額を見つけるが、それによって詐欺に会うことはない。そこではあからさまに、そして公然と、なんの婉曲的表現も抜きに、労働力そのものが売られる。ただ一つ、奴隷制度では平均以上の労働力の利益も、平均以下の労働力の不利益も奴隷所有者に影響する。賃金労働システムでは労働者自身に影響する。なぜならば、この賃労働システムでは、彼の労働力は彼自身によって売られるからであり、奴隷制度では第三者によってそれが売られるからである。
(20)そして最後に、「労働の価値と価格」または「賃金」の現象形式を、そこで明かされようとしている本質的関係を対比的に表しているとて考えると、つまり、労働力の価値と価格は同様に、上と同じものを持っており、あらゆる現象とそれらの隠された実体があるのである。前者は世俗的な常識的な思考のごとく直接的に、無意識的に表れる。後者は科学によってまずなによりも発見されねばならない。古典政治経済学は物事の真の関係にほとんど触れかけてはいるが、それでもそれを意識的に明確な言葉で示せていない。この論理的追及はブルジョワジーの皮膚を身に纏っている限りはできはしない。 
 
第二十章 時間賃金

 

(1)賃金それ自体はさらにまた様々な形式を採る。ただただ物量サイドだけに関心を持つ一般経済学はすべての形式の違いを無視するためこの事実は認識不能である。とはいえ、これらの全ての形式を説明することは賃金労働に関する特別なる学問に属するものであるからここではこの考察はしない。ではあるが、二つの基礎的な形式については、ここで、簡単に調べて置かねばならない。
(2)労働力の販売は、既にご承知のように、ある一定の期間を決めて行われる。日とか週とかである。労働力の価値はそれ自体を、この様に、時間賃金として表す。それが日賃金などである。
(3)次いで、第17章で述べた労働力の価格と剰余価値の大きさの相対的変化における法則が、単純な形式の転換によって、賃金の法則に入り込むことに注意しておいて貰いたい。労働力の価値とその価値が転化した生活必需品の総額との対比が、今度は名目賃金と実質賃金という形で表れる。すでに現実の形式で表れているのであるから、それらの現象形式について、ここで繰り返しても意味はない。従って、我々は時間賃金のニ三の特徴的な点に限ることにする。
(4)労働者が受け取る彼の日または週の労働の貨幣総額*1 が、彼の名目賃金額となる。または、彼の、価値として評価された賃金となる。しかし、労働日の長さ、彼が現実の日労働量として提供した量に応じてと云うことは明らかなことで、同額の日または週賃金は労働の価格とは全く違ってくる。つまりは、同じ労働量に対して貨幣額は全く違ってくる。*2 従って我々は、時間賃金を考える上においては、日または週の賃金総額その他と労働の価格とを、もう一度、はっきりと区別しておかなくてはならない。さて、どのようにしてこの価格を見出すのか、すなわち与えられた量の労働の貨幣価値をどのようにして見出すのか?労働の平均価格は、平均日労働力価値を、労働日の平均時間数で割れば見つけられる。もし、つまり、日労働力の価値が3シリングで、6時間の生産物の価値であり、そして労働日が12時間であるとすれば、1労働時間の価格は3/12シリング=3ペンスとなる。このようにして見つけられた労働時間の価格は労働の価格を表す尺度の単位としての役割を果たす。
本文注1 / ここでは、貨幣価値自体は一定であると仮定されている。
本文注2 / 「労働の価格はある与えられた一定量の労働に対して支払う総額である。」(エドワードウエスト卿「穀物価格と労働賃金」ロンドン1836年)ウエストは「オックスフォード大学のある学友による資本の土地への応用に関する評論」の匿名の著名なる著者
(5)それ故に、日賃金や週賃金、他が、労働の価格が連続的に低下したとしても、そのままに留まるかもしれない。例えば、習慣的な労働日が10時間であり、また労働力の日価値が3シリングであれば、単位労働時間の価格は33/5ペンスとなる。労働日が12時間にと長くなればすぐに、それは3ペンスに、15時間とさらに長くなればすぐに、22/5ペンスになる。これらのことがいろいろとあっても、日または週賃金は変化されることなくそのままに留まることがあるやもしれない。これとは逆に、労働単位価格が一定または下落したとしても、日賃金または週賃金が上昇するかもしれない。もし、仮に、労働日が10時間で、日労働力の価値が3シリングとすれば、労働単位あたりでは33/5ペンスである。もし、商売の増大に伴って、労働者が12時間働き、労働単位価格がそのままに留まり、そこでは、彼の日賃金が3シリングと71/5ペンスとなる。労働単位価格にはなんら変化がないにもかかわらずに。同じ結果が労働量の拡大に代わってその強度が増大することによっても生じるであろう。*3 であるから、日または週の名目賃金は、労働単位価格が静止状態または下落があったとしても増大する。同じことが労働者の家族の収入に関しても、家族の頭数によって労働量が増えるやいなや、彼の家族の人数の労働によって増大する。従って、日または週の名目賃金の減少とは独立して労働単価の低下の方法があることになる。*4
本文注3 / 「労働賃銀は労働単位価格行われた労働の量に依存しており、….労働賃金の上昇は労働単価の引き上げを必ずしも前提とはしない。フル雇用とより大きな力を発揮することで、労働賃金は相当に増加するかもしれない。」(ウエスト前出)とはいえ、主要なる質問「いかにして労働単位価格は決まるのか?」については、ウエストは単なる陳腐な言葉で切り捨てる。
本文注4 / 18世紀の熱狂的な産業ブルジョワジーの代弁者によってこのことが感知された。我々によっても度々引用されているこの「商売と通商に関する評論」の著者は、ものごとを混乱して書いているが、こう云う。「それは労働の量であって、その単価ではない。」(彼は日または週の名目賃金のことを述べているのである。)「それは食料とその他の生活必需品の価格によって決められる。生活必需品の価格が縮小すれば、勿論、それに応じてあなたは労働量を縮小する。工場手工業のご主人は労働価格の上げや下げの様々な方法があることを知っている。その名目量の変更以外にもいろいろと。」(前出)N.W.シーニョアは、彼の「労働賃金率に関する三つの講義」ロンドン1830年の中で、ウエストの著書からの引用であることには触れずに用いているのであるが、こう云う。「労働者と云う奴は、基本的に賃金の量に興味を示す。」すなわち、労働者は基本的に彼が受け取るものに興味を持つ。賃金の名目合計額にである。彼が与えるもの、労働の量にではない!
(6)一般的法則としては、こうなる。日または週労働その他の量が与えられるなら、日または週賃金は労働価格、それ自身労働力の価値、またはその価格と価値の差異、のいずれによっても変化する労働単位価格に依存する。他方、労働単位価格が与えられるならば、日または週賃金は、日または週の労働量に依存する。
(7)時間賃金の計量単位、労働単位価格は、日労働力の価値を平均労働日の時間数で割った商である。後者が12時間であるとしよう。そして日労働力の価値が3シリングであるとしよう。そしてそれが6時間の労働の生産物の価値に当たるとしよう。この設定から、一労働時間の価格は3ペンス、そして一労働時間で生産された価値は6ペンスと云うことになる。もし、労働者が新たに、12時間以下の条件で(または週6日より少ない条件で)雇用されたとすれば、例えばただの6時間ないし8時間としたら、彼は、この一労働単位価格では、日当たり、たったの2シリングまたは1シリング6ペンスを受け取ることになる。*5 我々が前提としたところでは、彼の労働力の価値に単に対応する日賃金を生産するためには、平均6時間働かねばならない。同様に前提としているところに従えば、彼は毎時間のわずか半分を彼自身のために、そして半分を資本家のために働く。もし彼が12時間より少ない条件で雇用されたとするならば、彼は彼自身のための6時間の生産物の価値を得ることはできないのは自明である。前各章では過重労働の破壊的な結果を見た。ここでは我々は、不十分な雇用が労働者にもたらす結果である苦難の原因を見出す。
本文注5 / このような異常な少時間雇用の影響は、法によって規制される労働日の一般的短縮とは全く異なるものである。前者は、労働日の絶対的な長さとは全く関係がなく、それが15時間労働日であれ、6時間労働日であれ、起こり得る。普通の労働価格は、最初のケースでは労働者の平均15時間の労働を元にして計算され、第二のケースでは彼の平均6時間の労働で計算される。従って、結果は同じで、もし、彼は一つのケースでは71/2時間ならば、他方では僅か3時間雇用される。
(8)もし時間賃金が決まっていて、それゆえ資本家はなんら日または週賃金を支払うことに縛られないとして、ただ単に資本家が労働者を利用した時間のみの賃金を支払うとしたら、時間賃金の基礎とした、労働の価格の計量単位の基礎とした時間よりも短い時間労働者を雇用することができることになる。その労働価格の単位がどのように決められているかと云えば、その比は、労働力の日価値/労働日として与えられた時間数 であり、その労働日にその明確にされた時間数が含まれないと云うことになれば、即勿論のこと、その全ての意味が失せる。支払われた労働と支払われなかった労働の関係も見えなくなってしまう。かくて資本家は労働者の生存に必要な労働時間を考慮することもなしに、労働者から一定量の剰余労働を巻き上げることができるようになる。彼は雇用に関する全ての正常なあり方を廃止し、彼の勝手な都合とか、気まぐれとか、その時の興味にまかせて、最大の加重労働を、相対的または絶対的な失業を、交互に混ぜ合わせて労働者に強いる。彼は、労働者に、それ相応の対価を支払うことなく、「通常の労働価格」を支払うと見せかけて労働日を異常に長くすることができる。かくして、完璧なありうるべき暴動が起こった。資本家の、労働者に、時間によるこの種の賃金を支払おうとする企てに反対して、1860年、ロンドンの建設業界に雇用された労働者の暴動が起こった。法的な労働日の制限がこのような悪癖を終わらせた。とはいえ、当然ながら、機械の競争によって惹起する雇用の縮小や雇用される労働者の質の変化によって生じる雇用の縮小や部分的または一般的な恐慌による雇用の削減を排除することはできない。
(9)日または週賃金が増大したとしても、労働の価格は名目上一定に留まるであろうが、それでも、通常以下に低下することもありうる。このことは、労働の価格(労働時間単位として計算されたところの)が一定で、労働日がその通常の時間数を越えて延長される場合にはいつでも起きる。もし、分数値 労働力の日価値/労働日 において、分母が大きくなるとしたら、分子の方がそれ以上に早く大きくなる。労働力の価値は、その消耗度に依存しているのであるから、その機能の継続が長くなれば、その継続時間以上に早い比率で消耗する。法的な制限のない時間給が一般的な多くの各工業部門においては、それゆえ、この習慣が一般的な労働日をある一定点までとする見方がごく自然に発生する。すなわち10時間(「標準労働日」、「一日の仕事」、「正規の労働時間」で終わる労働日とか。この制限を越える労働時間が超過時間であり、一単位時間ごとに多少よりよい支払い(「割り増し払い」)が振る舞われる。とはいえ、多くの、その率は馬鹿馬鹿しいぐらい小さい。*6 ここでは、標準労働日は実際の労働日の一部分であって、後者が1年中続き、前者よりも長いものとなる。*7 ある一定の標準労働日の制限を越える労働日の延長による労働価格の増加は、種々の英国工業に次のような形をつくり出す。いわゆる標準時間での安い労働価格がよりよく支払われる超過労働時間での仕事に労働者を駆り立てる。彼が十分な賃金を得たいと思えばまったくそう云うことになる。*8 労働日の法的な制限がご主人様らのこの種のお楽しみを終わらせた。*9 
本文注6 / 「超過時間の支払い率は、(レース編み業種では)非常に小さく、時間当たり1/2ペンスとか3/4ペンスから2ペンスと云ったところであり、労働者の健康や持久力に生じる多大な障害から見れば苦痛に満ちた対比となっている。….このようにして稼いだ小さな額は、また大抵、更なる滋養剤に支払うことを余儀なくされる。」(児童雇用調査委員会第二次報告書)
本文注7 / 例えば、着色紙製造業では、工場法がこの業種に導入された最近より前までは、「我々は食事のための停止時間もなしに働く。だから10時間半の日労働は午後4時半には終了とされるが、その後が超過時間で、午後6時以前に仕事から離れることはほとんどない。だから、我々は実際には年中通して超過時間で働く。(児童雇用調査委員会第一次報告書に於けるスミス氏の証言)
本文注8 / 例えば、スコットランドの漂白業では、「スコットランドのある地区の、この商売では、(工場法が導入される以前の1862年)超過労働システムが横行していた。すなわち日10時間が正規の作業時間であって、標準賃金は1シリング2ペンスが成人男性に支払われる。そこには毎日超過労働時間が3ないし4時間あって、時間あたり3ペンスの率で支払われる。この支払いシステムの効果は、….成人男性は、通常時間数では、週に8シリング以上稼ぐことはできなかった….超過時間なしにはそこそこの日賃金を稼ぐことはできなかった。」(「工場査察官報告書」1863年4月30日)「成人男性にとっては、長時間働き、その高い賃金を得ることは、非常に抵抗しがたい誘惑であった。」(工場査察官報告書1845年4月30日)ロンドンのシティにある製本業は14歳から15歳の若い少女を大勢雇っており、そしてある決まった労働時間を縛る徒弟制度で働かす。それにもかかわらず、毎月末の週は夜10時、11時、12時または1時まで、年上の労働者たちと、ごちゃごちゃに入り乱れて一緒になって働く。「ご主人様方は、彼女らを割り増し賃金と夕食とで誘惑する。」その夕食を彼女らは近所の居酒屋で食べるのである。かくして、偉大なる猥雑が、これらの「若き不朽の者たち」の間に蔓延するが、(児童雇用調査委員会第五次報告書)その中で特に、聖書や宗教書を彼女たちが製本すると云う事実によって、清められる。
本文注9 / 「工場査察報告書」1863年4月30日を見よ。まことに正確な状況の把握の下、建設業に雇用されるロンドンの労働者たちは、1860年の大ストライキ及びロックアウト期間に、次のように宣言した。彼等は時間による賃金を以下の二つの条件の下でのみ受け入れるであろうと。(1)労働時間の価格については、9または10時間それぞれの標準労働日が決められなければならない。そして10時間の時間価格については、9時間労働日のそれよりも高くすべきである。(2)標準労働日を越える毎時間は超過時間として認められ、それなりの比率でより高く支払われるべきものとする。
(10)次のような事実は一般に知られている。労働日が長ければ長い程、様々な工業部門で、賃金は低い。*10 工場査察官A.レッドグレーブは、このことを1839年-1859年の20年間を回顧再調査して説明する。この調査によれば、10時間法の下にある工場では賃金が上昇し、一方の14時間も15時間も労働が続く工場では下落している。*11
本文注10 / 「長時間が規則なら、小さな賃金もまたそうなる。」と言うことはまた、特に注目に値する。工場査察報告書1863年10月31日)「食べ物にも事欠くような賃金しか得られない仕事は、ほとんどの場合、極端に長い時間となる。」(公衆衛生第六次報告書1864年)
本文注11 / 「工場査察報告書」1860年4月30日)
(11)「労働の価格は、日または週賃金は支出された労働の量に応じて与えられるものである。」と云う法則から、第一に、次のようなことが引き出される。労働の価格が低ければ低いほど、労働の量はより大きくなる。または惨めなほどの平均賃金をなんとか手にする労働者にとっては労働日はより長くならねばならない。労働の価格の低さはここでは労働時間の延長への刺激剤の役割を演じる。*12
本文注12 / 例として、英国の手加工による釘造り工は、労働の価格が低いために、彼等の惨めな週賃金をハンマーで打ち出すためには日15時間働かねばならない。「1日に非常に多くの時間(午前6時から午後8時)を費やし、11ペンスまたは1シリングを得るためにその時間きつい労働をしなければならない。そして、道具の磨耗とか、燃料のコストとか、そこから廃棄される鉄くずとかがあり、21/2ペンスとか3ペンスとかがまとめて差し引かれる。」(「児童雇用調査委員会第3次報告書」)同じ労働時間で、女性はわずか週賃金5シリングを得るにすぎない。(前出)
(12)他方、そして、その成り行きとして、長時間労働は労働価格を下落させる。また、日または週賃金を下落させる。
(13)労働の価格は、次の比により決定される。労働力の日価値/労働日として与えられた時間数 この比は、何の補正も加えられなければ、労働日の延長は単なる労働価格の低下となることを示している。結局は資本家をして労働日を延長することを許すこの状況が、最初は資本家に許すこの状況が、最終的には彼を駆り立てるこの状況が、増加した労働総時間数の総価格が低下するに至るまで、従ってすなわち、日または週賃金を低下させるに至るまで、労働の名目価格を低下させる。ここでは以下の二つの状況について見ておけば十分である。一人の人間がもし、11/2人分または2人分の仕事をこなせば、労働の供給量は増大し、労働力の市場価格が不変であるならば、労働力の供給量もまた増大する。この労働者間に創出される競争が資本家をして労働の価格を値切ることを許す。低下する労働価格が彼をして、その一方で、さらなる労働時間を捻り出させる。*13 とはいえ、直ぐにこの異常なる不払い労働に対する指図は、すなわち社会的平均量を越える量の不払い労働に対する指図は、資本家自身達の間の競争の原因となる。商品価格の一部は、労働の価格で成り立っている。労働価格の不払い部分は商品価格に組み込む必要がない。買手にプレゼントされよう。これが最初の競争の始まりである。第二の競争は、なにはともあれ、労働日の延長によって創り出された異常な剰余価値部分を商品の売値から排除することになる。この方法によって、商品の異常に低い売値が横行する。最初は突発的に、そしてそれが常態化したものとなる。低価格は、かくて、長時間労働のための惨めな賃金の一定の基礎となる。これらの状況が創り出したものがさらなる超過時間労働である。この連鎖運動についてはここで簡単に明示したが、この競争の分析については我々のこの篇の主題には属していない。ではあるものの、もうしばらくは、資本家の心情とやらを。「バーミンガムでは主人同士の競争が激しく、雇用者としていろいろとしなければならないことが多い。中には恥ずかしいこともあるが、とにかく儲からない。ただ単に公衆に利益を差し上げているばかりなのである。」*14 読者の皆さんは、二種類のロンドンの製パン業者のことを思い出すであろう。その一つはパンをそのままのあるべき価格で売る製パン業者(「正規価格」業者)と、それ以外の標準価格以下で売る業者(「価格以下」、)安売り」業者)である。「正規価格」業者は議会の調査委員会において、彼等のライバルをこう非難する。「まずは公衆を欺いているやつらであること。次いで12時間の賃金で労働者を18時間働かせているやつらであること。….労働者に対する不払い労働が、….この競争をもたらす原因で、….それが今日でも続いている。製パン業主人たちの競争は、夜間労働を取り除くことを困難にしている原因である。安売り業者は、彼のパンを原価価格以下で売る。小麦粉の価格なみで売るには、労働者からより多くの労働を巻き上げなければならない。….もし私が私の労働者からたったの12時間労働を引き出していて、私の隣人が18時間から20時間の労働を引き出しているとしたら、彼は私の価格で売るこの商売をぶちのめすことになるにちがいない。もし、労働者たちが超過労働に対しての支払いに固執することができるならば、このことは正しく修正されよう。…安売り業者に雇われる多くの人々は、得ることができるいかなる賃金でも受け取ることを余儀なくされた外国人や若者たちである。」*15
本文注13 / 例えば、もしある工場労働者が、継続的に行われる長時間労働を拒否したとしたら、「彼は、たちどころにして、長時間働く誰かに交代させられ、当然解雇される。」(工場査察報告書1848年4月30日証言)「もし一人の人間が2人分の仕事を行うならば、….一般的に云えば、利益率は上昇させられる、….その結果として、追加的な労働がその価格を低下させる。」(シーニョア前出)
本文注14 / 「児童雇用調査委員会第三次報告書」証言
本文注15 / 「製パン旅職人によって告訴された苦情に関する報告書、その他関係書類」ロンドン1862年、そしてそこにある証言ノート479、359、27なにはともあれ、正規価格製パン業は、上に書かれた通りで、そしてかれらのスポークスマンとしてベネット自身が認めているように、彼等の労働者を「通常は午後11時から働き始めさせて、翌朝の8時に至るまで働かせる。….さらに、彼等は一日中仕事に従事し、夕方の7時までも続ける。」(前出)
(14)この嘆き節もまた、興味深い。なぜならば、資本家の頭脳に、生産関係の単なる外観それ自体がどのように写っているかを示すからである。資本家は、労働の標準価格がまたある一定量の不払い労働を含んでいることを知らない。またこの不払い労働が彼の利得の標準的源泉であることも知らない。剰余労働時間という概念が彼には全く存在していない。彼が日賃金として支払ったと思っている標準労働日の中に含まれているからである。しかし、超過時間は彼にとっても存在している。通常の労働価格内の限度を超えた労働日の延長として。彼の安売り競争相手には面と向かって、この超過時間への割り増し給にこだわる。彼はまた、この割り増し給が、通常の労働時間価格と同様に不払い労働を含んでいることを知らない。例えば、12時間労働日の単位労働時間の価格が3ペンスであり、それが半時間労働の生産物の価値とするなら、一方の超過時間の価格が4ペンスまたは2/3時間労働の生産物の価値となる。最初のケースでは、資本家は労働時間の半分を何ら支払うことなしに占有し、第二のケースでは1/3労働時間分を同様に占有する。 
 
第二十一章 出来高払い賃金

 

(1)出来高による賃金は、時間賃金が、労働力の価値または価格から転化されたものであるのと同様、時間給から転化した形式以外のなにものでもない。
(2)ちょっと見ただけでは、出来高払い賃金は、労働者の労働力の機能、生きた労働と言う労働者から買い取った使用価値ではなく、まるで、あたかも労働がすでに生産物に実現したところの労働者の使用価値のように見える。また、次式のような時間賃金として決定された労働の価格ではなく、日労働力の価値/労働日として与えられた時間数 まるで、あたかも生産者の労働の力量によって、ここに決定された労働の価格のように見える。*1
本文注1 / 「出来高払い労働シテスムは労働者の歴史における一つの画期的な時期を説明する。それは資本家の意図に依存する単なる日労働者と協同的な職人、遠くない将来、その職人たちをまとめると誓った職人と資本家とを一身に兼ねた職人との間の中間地点を示す。出来高払い労働者は事実上自分自身が主人なのである。雇用者としての資本家の下で働いているとしてもである。」(ジョンワッツ「商売社会とストライキ、機械と協同的社会」マンチェスター1865年)私がこの小さな指摘を取り上げるのは、それが遠き昔に言い古された言い草が腐って沈殿したものだと云いたいからである。この同じワッツ氏は初期にはオーウェン主義に傾倒し、1842年には別の小冊子「政治経済学の事実と虚構」を出版した。その中で、他のことはともかく、「財産とは略奪である。」と述べている事である。それは遠き昔の事。
(3)この外観を信ずると云う自信は、直ぐに強烈なるショックを受け取ることにならざるを得まい。と言うのも、同じ産業の各部門において、両方の賃金形式が、隣り合わせで、同時に存在していると云う事実に直面するからである。例えば、
(4)「ロンドンの植字工は、一般的には、出来高払いで働く。時間給は例外である。一方地方では彼等は日賃金で働く。出来高払いは例外である。ロンドン港の船大工は、請け負いまたは出来高払いで働く、一方その他の全ての場所で働く彼等は日賃金である。*2
本文注2 / T.J.ダンニング「各商売の労働組合とストライキ」ロンドン1860年
(5)ロンドンの同じ馬具製造所では、しばしば、同じ仕事に対して、フランス人には出来高払い賃金が支払われ、英国人には時間給が支払われる。出来高払い賃金が支配的である正規の工場において、特殊な作業に関してはこの賃金の形式が不適当であるとして、そのため時短給が支払われる。*3 さらに加えておくが、賃金の形式の一つがもう一つの形式よりも資本主義的生産の発展にとって都合がいいからと云って、それらの賃金の支払い形式の違いがそれらの基本的な性質を少しも変えるものではないことは自明である。
本文注3 / この、隣り合わせの、同時の、これら二つの賃金形式の存在がいかにご主人様の詐欺に取って喜ばしいことか。「400人の人々を雇うある工場で、半分の仕事は出来高払い賃金で、長時間労働に直接的な関心を持たせる。残りの半分の200人は日賃金が支払われる。他の人々と同じく長時間働き、彼等の超過時間はなんの金銭も支払われない。….これらの200人の一日半時間の労働は、一人の50時間の労働と同じである。または一人の一週間の労働の5/6と同じである。そしてこれは、雇用する側にとってはまことに建設的なる利得である。」(工場査察報告書1860年10月31日)「超過時間労働は非常に多く依然として蔓延しており、ほとんどの場合、法が行う摘発や処罰から免れている。私は以前からの多くの報告書を見ており、….出来高払い賃金ではなく、週賃金を受け取る労働者を痛めつけていることは明らかである。(レオナードホーナーの「工場査察報告書」1859年4月30日)
(6)通常の労働日が12時間で、そのうちの6時間分が支払われ、残りの6時間が不払いであるとする。労働日の生産物の価値が6シリングであり、従って、1時間の労働が6ペンスであるとする。我々の経験から見て、我々は次のように考えるとする。一人の労働者が平均的な強度と技量で働くならば、彼はその品物の生産に事実上必要な社会的時間において、12時間労働で24個を作る。その品物が別々の物であれ、全体として一体のものであっても計量可能な部分であっても、どちらでもよい。その結果、これらの24個から、その中に含まれる不変資本分を差し引いた分が、6シリングであり、一つの品物が3ペンスとなる。労働者は品物当たり11/2ペンスを受け取る。そしてこのようにして12時間で3シリングを得る。丁度あたかも時間給としてこの価格を得る。彼自身のために6時間働き、資本家のために6時間働いたとする我々の見方は、そこでは、そうであろうと無かろうと一切問題にならない。また、毎時間の半分を彼自身のために働き、他の半分を資本家のために働こうと、一切問題にならない。かくてそこでは、各個別の品物の半分が支払われ、他の半分が不払いであろうと、また、12個分がその労働力の価値と等価であり、他の12個分が剰余労働を成しているとしても問題にならない。
(7)出来高払い賃金という形式は、時間賃金と同様、まことに不合理なものである。我々が取り上げた例では、2個の商品は、その生産に使われた生産手段の価値を差し引いた後、6ペンス、丁度一時間の生産物なのであるが、労働者はその出来高の価格として3ペンスを受け取る。出来高払い賃金は、事実、価値との関係を明らかに表わしてはいない。従って、その中に実現された労働時間によって、その品物の価値を量るという事ではなくて、逆に、彼が創り出した品物の数によって、彼がそのために費やした労働時間を量るというものである。時間賃金にあっては、労働は直接的にその長さによって量られ、出来高払い賃金にあっては、与えられた時間内に彼の労働がそのなかに実現した物の数によって量られる。*4 労働時間そのものの価値は、次の公式によって決められる。日労働の価値=日労働力の価値によってである。出来高払い賃金は、従って、時間賃金の単なる変形形式に過ぎない。
本文注4 / 「賃金は二つの方法によって決められる。労働時間またはその生産物のどちらかによってである。」(政治経済学の原理概論パリ1792年)匿名の著作の著者はG.ガルニエである。
(8)さて、我々は出来高払い賃金の特異な性格について、ここで、もう少し詳しく検討して行くことにしよう。
(9)労働の質は、ここでは、労働そのものによって左右される。一つ一つの品物に対して十分に支払ってもらうためには、平均的な完全さが求められる。この観点から見れば、出来高払い賃金は、賃金減額と資本家的な詐欺の最もおいしい果実的源泉そのものとなる。
(10)出来高払い賃金は、資本家に、労働の強度を正確に量る方法を提供する。予め決めた商品の量に実現された労働時間、そして経験的に取り決められた労働時間のみが、社会的必要労働時間としてカウントされそのように支払われる。それゆえ、ロンドンの大きな仕立屋の作業場ではある一定量の労働、例えば一着のチョッキが1時間仕事とか半時間仕事とか呼ばれ、1時間仕事が6ペンスである。実際の仕事から1時間の平均生産物数がどの程度のものかが分かる。新たなファッションとか修理とかその他の場合とかは、主人と労働者の間でどの程度の出来高が1時間仕事なのか言い争いになる。そしてそれが経験によって決まるまで続く。その結果、ロンドンの家具工場他では、もし労働者が平均的な能力を持っていないとか、一日の労働で一定の最低数を達成できないとなれば、彼は解雇される。*5
本文注5 / 「それなりの量の綿が彼(紡績工)に渡される。」「そして彼は一定時間で、そこにおいて、与えられた重量の、一定の出来ばえの、より糸または撚糸を、返さなければならない。そしてその彼が戻したものの重量に応じて、その分が彼に支払われる。もし彼の労働が品質において欠陥があれば、ペナルティが課せられる。もし与えられた時間内で最低量として決められた重量よりも少なければ、彼は解雇され、よりできそうな労働者が斡旋される。」(ユア前出)
(11)かくして、労働の質と強度は、ここでは、賃金の形式そのものによって制御され、労働監督者は全くの余計者となる。その結果、出来高払い賃金は、前に述べた近代「家内労働」の基礎を布設する。搾取と抑圧の上から下への組織的な階級システムと云ったものの基礎を構築する。後者の階級システムには二つの基礎的な形式がある。その一つは、出来高払い賃金は資本家と賃労働者の間に寄生者が介入することを容易にする。つまり「下請け労働」である。中間者の利得は、全くのところ、資本家がその労働価格として支払う額と、中間者が労働者に実際に渡す部分の額との差額から生じる。*6 英国では、このシステムに独特の言葉を当てる。「汗のシステム」(sweatingsystem)と。もう一つの形式はこうである。出来高払い賃金は、資本家をして、その出来高ごとに労働者の頭と契約することを許す。−工場手工業主と労働者のグループの頭と、炭鉱主と石炭搬出者と、工場主と実際の機械管理工と、−労働者の頭が、自分で、補助労働者たちを徴集し、賃金を支払うことを請け負う額において契約がなされる。*7
本文注6 / 「何人かの手を経由して、その手のそれぞれが利益の分け前を分捕り、最後の者だけが労働すると云うことになると、その最後の女性労働者に届く支払い額は不公平甚だしい惨めな額となる。」(児童雇用調査委員会第二次報告書)
本文注7 / ワッツですら、謝罪を込めてこう云う。「もし、一人の人間が彼自身の利益のために大勢の仲間に過重労働を課すのではなく、その仕事に雇用され全ての者がパートナー契約に基づいて、それぞれが彼の能力に応じて働くならば、出来高払い賃金システムは大いに改善されるであろう。」(前出)このシステムの悲惨さは、以下を参照されたし。「児童雇用調査委員会第三次報告書」
(12)与えられた出来高払い賃金は、ごく当たり前に、彼の労働力を出来うるかぎり高い強度で発揮することに個人的な関心が行く。だからこのことが資本家をして、より容易に労働の強度の一般的な度合を高めることを可能にする。*8 それ以上に、現実に、労働者の個人的興味として労働日を長くすることに向かう。何故と云えば、それによって彼の日または週賃金が上がるからである。*9 この事がゆっくりと反作用をもたらす。時間賃金のところですでに述べたことと同様である。労働日の延長に気付かなくても、出来高払い賃金が一定に留まるとしてさえも、生活必需品も含めて、労働の価格は低下する。
本文注8 / この自然発生的な結果は、往々にして人為的に助長される。例えば、ロンドンの機械製造業での、いつものトリックはこうだ。「体力に優れ、敏捷な者を選んで、何人かの労働者の職長に選び、上乗せ分を加算した賃金を四半期またはその他の期間支払い、通常の賃金しか支払われない他の労働者を、彼に追い付くようにできるだけ仕向けるように彼自身をして力を発揮すること了解させた上で、….以下何の説明も不要、これこそが雇用主から労働者に向けられた不満の数々をどこまでも説明している。無駄を省き、優れた技量で、持続力をと。」(業界労働組合ダニング誌既出)著者自身が労働者でまた業界労働組合の書記であるから、誇張があると思われるだろう。しかし、読者は「特別なる尊敬を受けている」「農業百科辞典」J.C.モートンの論作の「労働者」をとり上げたところと較べてみるといい。そこにはこの方式が農業労働者に対して公認された方法であると推奨されている。
本文注9 / 「出来高払い賃金を支払われる全ての者は、….労働の法的な制限を逸脱することで利益を得る。超過時間労働をいとわないこのやり方は、織り工や糸巻き工として雇用される女性たちに特に適用しやすいことが分かる。」(工場査察報告書1858年4月30日)「このシステム」(出来高払い)は、雇用主にとっては非常に有利なもので、….直接的に若き陶工をして過重労働に自分自身を追い込むことになりやすい。出来高払いで雇用された4年ないし5年の期間そのようにして働く、それがなんと低賃金であることか。….これは、….また、他面から見れば、陶工たちを縛りつける不健康の大きな原因なのである。(児童雇用調査委員会第一次報告書)
(13)時間賃金の場合、僅かな例外を除いて、同一賃金が同じ種類の作業に関して保持される。一方の出来高払い賃金は、出来高に関する時間は、一定量の生産物によって計量されるため、ある者は与えられた時間に最低量の生産物のみを供給し、他の者は平均の、第三の者は平均以上を供給するから、日または週賃金は個々の労働者の違いによって変化するであろう。従って、実際の受け取り額には大きなばらつきが、各労働者それぞれの異なる技量、力、努力、持続力他によって生じる。*10 この事が、一般的な資本と賃労働の関係を変えることは、勿論ない。第一に、個々の違いは、工場全体として均分され、与えられた労働時間内に平均的な生産物量を供給する。そして支払われる全賃金は、その工業の特定の部門の平均賃金となるであろう。第二に、賃金と剰余価値間の比率は不変のままである。各特定の労働者から、それぞれが各対応分を賃金として受け取った労働者から、剰余労働の全量が供給されるからである。しかしながら、広い視野で見れば、出来高払い賃金は一方では個々に個性を、自由のセンスとか、独立性とか、また、労働者の自己制御性など発展させることになるが、その反面、互いに競争しあうことにもなる。それゆえ、出来高払い賃金は個々の賃金を平均以上に高める傾向を示す。またそれ故、平均そのものを引き下げる。だから、長い期間伝統的に特別なる比率の出来高払い賃金が固定化している所で、かつそれゆえ、その減率を提示することが極めて困難な場合、ご主人様は、そのように例外的な場合、強制的に時間賃金への移行という回帰を図る。かくて、例えば、1860年、コベントリーのリボン織り工の間で広がったストライキはこれらの問題に起因する。*11 出来高払い賃金は結局のところ、前章で記述した時間賃金システムを支える主な柱の一つなのである。*12
本文注10 / 「あらゆる商売で、仕事に応じて出来高払い賃金が支払われる所では、….賃金は非常に実質的にその額は異なるかも知れぬ。….しかし日賃金の場合は、一般に一定の率で、….雇用主や雇用者の双方から、その商売で普通に働きつづけの労働者にとっての賃金の基準として認められている。(ダニング誌既出)
本文注11 / 「旅職人の仕事は、日給または出来高払い賃金と決められている。これらの親方職人は各職種で1日当たり旅職人がどの程度できるかは知っており、大抵は、彼等がこなす仕事に応じて彼等に支払う。であるから、旅職人はでき得る限り働き、受け取り額だけに関心があり、それ以上のことについては何の気にもかけない。」(カンティヨン「各商売一般に関する検討」アムステルダム版1756年、初版は1755年)ケネー、ジェームススチュアート、そしてアダムスミスらは、カンティヨンから多くを引用しているが、当のカンティヨンはそこで既に、出来高払い賃金は単純なる時間賃金の変形であると述べている。フランス語版で、カンティヨンは、そのタイトル部分で、英語版からの翻訳であると述べているが、英語版「商売、商取引他に関する分析」最近のロンドンシティの商人フィリップカンティヨン著は発行年(1759年)が最近であることのみではなく、その目次から、それが最近の改定版であることを証明している。すなわち、フランス語版ではヒュームについてはまだ触れられていないが、これに対する一方の英語版ではペティはほとんど姿を見せない。英語版は理論的には重要性はほとんどないが、英国商業金塊商売他に関する多くの細部が含まれており、これらについてはフランス語版には入っていない。英語版のタイトルページにある文字、この著作は、「主に、卓越した知性を持つ紳士、すでに物故したが、その原本から主に引用された改作である云々」は、それゆえ、虚構のように見えるが、当時はごく普通のことなのである。
本文注12 / 「ある作業場で、その作業に実際に求められる人数より遥かに多くの人間が募集されたか、我々はそれを何度見たことか?多くの場合、労働者たちは将来の、実際に実現することもない将来の仕事に集められたのである。なぜならば、出来高払い賃金だからである。なんのリスクもなく、無駄な時間は仕事をしない者のリスクなのだから。」(H.グレゴワール「ブルッセルの準備法廷に出頭した印刷工たち」ブルッセル1865年)
(14)これまで示してきたところから、次のようなことがはっきりする。出来高払い賃金は、資本主義的生産様式にもっともよく調和する賃金形式であると。とはいえ、新しいものでもなんでもない。−出来高払い賃金は時間賃金に寄り添って、14世紀のフランスや英国の労働規則として公式に記されている。それが大きな領域を制することになったのはまさに工場手工業の時代と呼ばれる頃のことに過ぎない。近代工業の青雲の頃、特に1797年から1815年にかけての頃で、それが労働日の延長と賃金切り下げの梃子の役割を果たしたのである。この時期の賃金の変動を示す重要な材料が、青書「穀物法にかかる嘆願についての特別委員会報告書と証拠」(1813-14年の議会会期期間)それと「穀物の成長状況、商業取引、消費、及び関係諸法規に関する国王臨席委員会報告書」(1814-15年の議会会期期間)の中に見出だされる。ここで、我々は、反ジャコバン戦争が始まった頃からの労働価格の打ち続く低下の文書証拠を見つける。例えば織物業では、出来高払い賃金が非常に低い状態まで低下し、その一方で労働日の非常に大きな延長があるにもかかわらず、日賃金は以前よりも低くなったのである。
(15)「織物工の実際の稼ぎは今では、かってよりも遥かに少ない。彼の、普通の労働者に較べての優越は、最初は非常に大きなものであったが、今ではもうそれもほとんど無くなった。まさにその通り….技量を持った者と普通の労働者との違いは以前の時期と較べれば、遥かに少ない。」*13
本文注13 / 「大ブリテンの商業政策に関する評論」ロンドン1815年
(16)出来高払い賃金による労働強度の増加と労働時間の延長は、農業労働者には何の益も無いものだった。領主と借地農業主の側から書かれた著作には、次のような文章がある。
(17)「遥か昔からずーっと、大部分の農作業は日賃金または出来高払い賃金によって雇われた人々によって行われていた。彼等の週賃金はおよそ12シリングである。しかし、労働への刺激が大きい出来高払い賃金の下では、週賃金よりも1シリングまたは多分2シリング多いと思われるかも知れない。ところが、彼の全収入について計算して見れば、年間では彼の雇用が欠落する部分があって、この利得がことの他大きいことが見つかる。…さらに、次のことも見出すこととなろう。これらの人々の賃金は、生活必需品の価格のある一定部分を成すため、彼は、行政地区の生活給付を受けずに、家族の二人のこどもたちを育てるのに精一杯である。」*14
本文注14 / 「大ブリテンの地主と借地農業者の弁明」1814年)
(18)当時、マルサスは、議会が公表した事実に関して次のように述べた。
(19)「私は、出来高払い賃金の実行がかくも大きく広がっていることを心配しながら見ていることを告白する。日12時間から14時間、またはそれ以上に及ぶ労働は非常に過酷であり、人間としてあまりにも過重な労働であると思っていることを告白する。*15
本文注15 / マルサス「地代の性質と進歩に関する研究」ロンドン1815年
(20)工場法下にある作業所では、出来高払い賃金が一般的なルールとなる。何故かと云えば、資本にとっては、その賃金形式のみが労働強化によって労働日の効率を増やすことができるからである。*16
本文注16 / 「出来高払い賃金を支払われる者たちが、….多分、工場に於ける労働者の4/5を占めるだろう。」(「工場査察報告書」1858年4月30日)
(21)労働生産性の変化に応じて、同じ量の生産物が様々な労働時間を表す。であるから出来高払い賃金もまた変化する。なぜなら、それが決められた労働時間の貨幣表現だからである。前に示した我々の例では、12時間に24個の品物が生産され、一方、12時間の生産物の価値は6シリングであった。労働力の日価値は3シリングで、一労働時間の価格は3ペンス、品物1個当たりの賃金は11/2ペンスであった。1個には半時間の労働が吸収されていた。今、もし同じ労働日の労働生産性が2倍になったことで、24個に代って48個を供給するとしたら、他の状況が不変であるとすれば、かくて1個あたりの出来高払い賃金は11/2ペンスから3/4ペンスに下落する。あらゆる品物が、今では、1/2労働時間に代って単に1/4労働時間を表すのであるから。24個×11/2ペンス=3シリングが、今では48×3/4ペンス=3シリングなのだから。別の言葉で云えば、同一時間で生産される個数が増える割合に応じて、出来高払い賃金は引き下げられるから。*17 そして、それゆえ、同じ個数に必要な時間は減少する。出来高払い賃金におけるこの変化は、純粋に名目額に関する限りにおいて、資本家と労働者の間の絶え間ない戦いを引き起こす。なぜかと云えば、一つは、資本家は現実に低下した労働の価格の言い訳としてこれを用い、もう一つは、増加した労働の生産性そのものに労働の強度の増加が伴っているからである。この両者があるからである。または、労働者たちは出来高払い賃金の実際の額に強い固執があり、(すなわち、彼の生産物に対して支払われるものであって、彼の労働力に支払われるものではないとして)そして、それゆえ、当該商品の売値の低下がないにもかかわらず、一方的な賃金の低下に対しては反抗するからである。
本文注17 / 「彼の紡績機械の生産力は正確に計量され、それによって成された仕事に対する支払い率は、その生産力の増加とは逆に減少する。」(ユア前出)このユアの最後の謝罪的な文章は彼自身によって、再び、取り消された。ミュール紡績機を大きくすればある程度労働の増加になることを彼は認めている。従って、生産性の増加と同じ比率で労働が減少しない。さらに、「この機械の生産力の増加が1/5であるとしたら、事実そうなったとしても、紡績工には以前のように同じ比率で支払われることはないであろう。しかしその1/5の比率と同じ比率で引き下げられることはないであろう。この改良がある与えられた時間の労働に対する彼の稼ぎ額を大きくするであろう。」しかし「前述の発言は多少の変更が必要….かの紡績工は多少の額を年少の見習い工に彼の付け加えられた6ペンスの中から支払わねばならず、また成人労働者の何人かの失業も伴っている。」(前出)それらに、賃金を上げる傾向は見当たらない。
(22)「労働者たちには….原材料の価格や生産物の価格を注意深く観察しており、そして、彼等のご主人らの利益を正確に見積もる計算の方法が、かくして、備わるようになる。」*18
本文注18 / H.フォーセット「英国労働者の経済的地位」ケンブリッジとロンドン
(23)資本家は、そのような抗議は、賃労働の本質にかかる大きな思い違いであると、一瞬にして、端から、はねつける。*19 彼、資本家は、これについて、工業の進歩に税金を課すようなとんでもない代物であると、わめくのである。そして労働生産性は労働者には一切関わりのないことと大声で宣言するのである。*20
本文注19 / 「ロンドンスタンダード紙」1861年10月26日付けに、ロッジデール治安判事に提出されたジョンブライト協同会社の訴訟の記事がある。「カーペット織工労働組合代表を脅迫の罪で告訴するとある。ブライト社の協同経営者が新しい機械を導入した。その機械は、以前は160ヤードのカーペットを生産するに要した時間と労働!で240ヤードを作り出す。労働者には新たな機械の改良に雇用主が投資したことから生じる利益を分け合うことに関しては何らの請求権もない。そこで、ブライト旦那達は、以前と同じ労働なのであるから、以前と正確に同じ稼ぎのままとして、1ヤード当たり11/2ペンスの比率を下げて1ヤード当たり1ペンスとする案を提出した。しかし実際には労働者数の減員狙いで、そんなことは以前にはなにも知らされておらずフエアではないとの抗議がなされた。」
本文注20 / 「労働組合の連中は、賃金を維持したいばっかりに、機械改良の利益を分捕ろうとする。」(なんとおぞましいことか!)「….労働が少なくなったのに、より高い賃金を要求する。他の言葉で云えば、機械的な改良に税金を掛けると云うものだ。」(「商売等の結合について」新版ロンドン1834年) 
 
第二十二章 賃金の国別の違い

 

(1)第17章では、労働力の価値の大きさに様々な変化をもたらす多様な条件の組み合わせについてしっかりと見てきた。−この大きさの変化を絶対的にも相対的にも、剰余価値の大きさの絶対的・相対的な変化とも比較して見てきた。その一方、労働の価格が実現される生活手段の量は労働の価格の変化とは違ってあるいは独立して変動を繰り返す。*1 すでに示されている様に、労働力の価値、それに対応する労働力の価格を俗論的な賃金形式への単純なる翻訳は、これらの全ての法則を賃金の変動の法則にすり替える。ある一国で、変化する各組み合わせの結果として現れるこれらの賃金の変動は、違う国においても国家賃金の同時期的な変化として現れる。異なる各国の賃金の比較に際しては、であるから、我々は、労働力の価値量の変化を決定する全ての要素を勘案しなければならない。主な生活必需品の、自然的かつ歴史的に形成されたそれらの価格やその幅、労働者の教育に掛かる費用、婦人や子供たちによって行われる労働部分、労働の生産性、その広がりの程度と強度の大きさ等々を。最も表面的な比較においてさえも、まず最初に、それぞれの異なる国の同様の産業における平均日賃金の補正、労働日の一様化が求められる。これらの補正を同じ日賃金に対して行った後に、時間賃金は再度出来高払い賃金に換算されねばならない。後者は生産性と労働の強度の両方に関する唯一の計量器とすることができるからである。
本文注1 / 「賃金が増大された」(彼はここではそれらを貨幣表現で取り扱う)「と云っても、正確とは言えない。なぜならば、より安い品物を買うのだから。」(ディビットバチャナン版アダムスミスの「国富論」1814年第一巻)
(2)あらゆる国にはある一定の平均的な労働強度があって、それ以下の強度の労働による商品の生産には社会的な必要時間以上の時間が必要となる。従って、そのような強度の労働は普通の労働品質としては認められない。ある与えられた国では国の平均を上回る強度の場合のみ、そしてその労働時間の長さに関してのみが価値の尺度に適う。個々の国々が全体の部分である世界市場においてはそうは行かない。平均的な労働強度は国々によって違う。こっちの国はより労働強度が高く、あっちの国ではより低い。これらの各国の平均が基準を作り出す。その計量単位が全世界労働の平均単位となる。従って、より強度の高い国の労働は、より低い強度の国と較べれば、同じ時間でより大きな価値を生産する。すなわち、それ自身がより大きな貨幣額を表す。
(3)しかし、価値法則の国際的な場での適用には、以下の事実によってなお一層修正される。世界市場においては、より生産的な国の労働はまたより強度の高い労働と見なされる。より生産的な国がその商品の売値を競争によってそれらの価値のレベルまで下げさせられることを強いられない限りにおいては、強度の高い労働と見なされる。
(4)ある国の資本主義的生産が発展させられるのに比例して、そこでの労働の国家的な強度や生産性も同様の比率で発展させられ、国際的なレベル以上に高まる。*2 同じ労働時間において、各国で生産される同種商品の異なる量は、それゆえ、国際的には不等価な国際価値を有する。それらはそれぞれ違った価格で表される。国際的な価値に応じた様々な貨幣額で表される。貨幣の相対的価値は、従って、資本主義的生産様式が発展させられた国では、発展の低い国に較べてより小さなものとなる。かくして,以下のように云うことができる。貨幣額で表現される労働力の等価である名目賃金は、同様、第一の国では第二の国よりも高いものとなるであろう。とはいえ、このことは、同様、両国労働者が購入できる生活必需品を表す実質賃金を意味すると、証明しているわけでは全くない。
本文注2 / 我々は、生産性との関連において、いかなる状況が、工業の個々の支部に係るこの法則を修正するのかどうか、いずれ他のところで、検討することにしたい。
(5)しかし、各異なる国の貨幣価値の相対的な差は別にして、次のことは頻繁に発見されることであろう。日賃金、または週賃金、その他の賃金では第一の国では第二の国よりも高い。その一方、労働の相対的価格、すなわち、剰余価値や生産物の価値のいずれとも比較しての労働の価格は第二の国の方が第一の国よりも高くなっている。と、発見されることであろう。*3
本文注3 / ジェームスアンダスンは、アダムスミスに対する反論でこう述べている。「同様に、注意に値することは、通常貧しい国の外見上の労働価格はより低く、土地の生産物も穀物も一般的に安いにもかかわらず、依然として、事実は、貧しい国の多くの地域では他の国よりも実際には高いのである。なぜならば、そこの労働者に与えられる日賃金は実際の労働の価格を構成するものではないからである。それはその外見上の価格なのである。実際の労働の価格は、現実に実行された労働の一定量に対して雇用主が支払う価格であって、その点から見れば、ほとんどの場合、穀物やその他の食料が通常貧乏な国では裕福な国よりもかなり安いにもかかわらず、労働は裕福な国では、貧乏な国よりも安い。日単位で量られる労働はスコットランドではイングランドよりもかなり安く、出来高による労働は一般にイングランドの方が安い。」(ジェームスアンダスン「国の産業精神を鼓舞する方法に関する観察所見」他エディンバラ1777年)これとは逆に、賃金の安いことが、その結果として、労働の高価を生み出す。「労働がアイルランドではイングランドよりも高くなる。….なぜならば、賃金が非常に低いからである。」(鉄道に関する臨席委員会覚書No.20791867年)
(6)1833年の工場調査委員会のメンバーであるJ.W.コウエルは、紡績業に関する注意深い調査の後で、次のような結論に到達した。
(7)「英国では、ヨーロッパ大陸と較べて、賃金は実質的に資本家にとっては低いものであるが、労働者としては高い。」*4
本文注4 / (ユア前出論文)
(8)英国の工場査察官アレキサンダーレッドグレーブは、1866年10月31日の彼の報告書で、大陸各国との統計比較によって次のことを証明している。大陸の労働者は英国より安い賃金と長い労働時間にもかかわらず、生産物との比率で見れば、その賃金は英国よりも高い。と。オルデンブルクの綿工場の、ある英国人マネージャーは、こう述べている。そこの労働時間は朝5時半から夕方8時までで、土曜日も同じ。そしてそこの労働者は英国人監督の元でも英国の10時間に較べてもそれだけの生産物を供給せず、ドイツ人監督の場合はもっと少ない。賃金は英国と較べてかなり低い、多くの場合は50%、機械当たりでは、労働者数はより多く、ある部門での比率は5:3である。
(9)レッドグレーブ氏はロシアの綿工場に関して非常に詳細な事柄を提供している。そこに最近まで雇われた英国人マネージャーから彼に与えられたデータである。ロシアなる土地は、あらゆる醜悪なる果実に溢れ、英国の工場初期の満開期にあったような古き恐怖に溢れていた。マネージャー達は、勿論英国人。なぜならば、土着のロシア資本家は工場商売には何の役にも立たないからだ。昼夜なしの過重労働にもかかわらず、労働者の賃金は恥知らずもいいところの安さにもかかわらず、ロシアの製造業者は外国の競合品を排除することでなんとかかろうじてやっていける程度であった。
(10)私は、その結論として、レッドグレーブ氏の、ヨーロッパの様々な国の工場当たりの平均紡錘数と紡績工当たりの平均紡錘数の比較表を示す。彼自身、彼が集めたこれらの数字は二三年前のもので、その後、英国では工場の大きさや労働者当たりの紡錘数が増大していることを注記している。とはいえ、彼はこれらの大陸各国にも大凡同じような進歩があると見れば、これらの数字は依然として比較するだけの価値を与えているであろうと想定している。
各国の工場当たりの平均紡錘数 / 各国の紡績工当たりの平均紡錘数
(11)「この比較表は」とレッドグレーブ氏云う。「依然としてグレートブリテンにとっては不利なものとなっている。そこには紡績と一体で機械織りも行っている大きな工場がある。」(つまりこの表では織り工の人数を差し引いていない。)「そして他国の工場は主として紡績工場なのである。同じものを同じものとして比較することができるならば、その一つを取り上げるならば、我が地区には多くの紡績工場があり、そこでは一人の男子工(監督)と二人の助手だけで、2,200本の紡錘を取り扱う。日220重量ポンドの紡糸を紡ぎ、その長さは400マイルに達する。*5
本文注5 / (工場査察報告書1866年10月31日)
(12)英国の会社が、東ヨーロッパやアジアで、鉄道建設を請け負い、それを作るに当っては、現地の労働者の雇用と、それに応じてある一定数の英国労働者を雇用することはよく知られている。実際にその必要性があるからでもあるが、彼等は労働の強度の国的な違いをなんとかしたいと考えてのことなのであるが、結果的には何の損分をももたらさなかった。彼等の経験が示すところは、たとえ賃金の高さが多少なりとも労働の平均強度に応じて決まるものとはいえ、労働の相対的価格は一般に労働の強度とは逆の方向に変化すると云うことである。
(13)H.ケアリーは、彼の最初の経済学的な著述「賃金率に関する評論」*6 において、あらゆるところの賃金は労働の生産性に比例して上下すると言う結論を国際的な関係から引き出すために、各国の賃金は、国ごとの労働日の生産性の度合に直接的に比例していることを証明しようと試みる。我々の剰余価値の生産に関する分析は、この結論の馬鹿らしさを明示している。たとえケアリーがいつもの批判的考察なしの皮相的な方法で混沌たる統計材料のあれこれ並べ替えた後に、それとは違う彼の前提を証明したとしても、どうにかなるものではない。この著述の最良の核心は、現実の事柄が彼の理論に従って存在していると主張していない点である。また国家的な介入は自然な経済関係を偽装する。各国の賃金は、であるから、その一部は税金の形で国家に帰属するとしても、労働者その人に帰属するものとして認識されねばならない。ケアリー氏は、そのような「国家経費」が資本主義的発展の「自然」の果実ではないかどうかなどと、さらに考慮する必要はなかったのではないか?資本主義的生産関係は自然と理性の永遠の法則であると最初に宣言し、その自由で調和溢れる労働が唯一国家の介入によって乱されるなどと云ったあとで、世界市場における英国の不快な影響(出現した影響は資本主義的生産の自然法則から飛び出したものではない)が、国家の介入を必要とする、すなわちそれらの自然と理性の法則を国家によって保護する必要、別名で云えば保護シテスムが必要と云うような人物にとっての全くご立派な理屈である。さらに彼は、社会的な対立や矛盾についても論及されているリカード派の定理は、現実の経済的運動の観念的産物ではなく、それとは全く逆に、現実の英国他の資本主義的生産に対する対立がリカード他の定理の結果であることを発見する!そして最終的に、彼は、結局のところ、生産の資本主義的様式なる先天的な美と調和を破壊するものは商業であることを発見する。もう一歩進めば、彼は、多分、資本主義的生産の中にあるただ一つの害悪は資本そのものであることを発見するであろう。この恐るべき批判能力を欠いた、この見せ掛けばかりの博識故に、異端の保護貿易主義者にもかかわらず、この人物が、バスティアやその他の今日の自由商売楽観主義者の調和的見解の秘密の源泉になり得たのである。
本文注6 / 「賃金率に関する評論全世界の労働人口の状況に於ける違いの原因の調査を含む」フィラデルフィア1835年 
 
第二十三章 単純再生産 1

 

(1)ある貨幣額の、生産手段と労働力への変換は、その価値量が資本として機能しようとする場合の最初の一歩である。この変換は、市場で、流通局面で行われる。続く第二歩は生産過程で、生産手段が商品に変換されるやいなや完結する。それらの商品はそれらの各構成要素を越える価値を持っている。つまり、前貸しされた当初資本に加えて、剰余価値を含んでいる。これらの商品は流通に投入されねばならない。それらは売られねばならず、それらの価値は貨幣で実現されねばならない。その貨幣が再度資本に変換されねばならない。そしてそのように何回も何回も繰り返されねばならない。この円運動が、その順で、同じ局面を連続的に巡って行き、資本の循環を形成する。
(2)資本集積の最初の条件は、資本家がなんとしても彼の商品を売り捌かねばならず、そしてまた、その結果受け取った貨幣の大部分をなんとしても資本に戻さねばならないことである。我々は以下のページでは、資本が通常の方法によって循環するものとして取り扱う。その過程の詳細な分析は第二巻で読むことになろう。
(3)資本家は剰余価値を生産する者。すなわち彼は労働者たちから直接不払い労働を引き抜き、そして商品に封じ込める。明らかに彼はこの剰余価値の最初の占奪者ではあるが、決して究極の所有者ではない。彼はそれを資本家ら、地主ら、他と山分けしなければならない。彼等は社会的生産複合体にあってその他の機能を果たしている連中なのだから。従って、剰余価値は様々な部分へと剥離して行く。それらの断片は様々な範疇の人々に行き着く。そして様々な形式を取る。それぞれは他からは独立している。利益、利子、商人の利益、地代、その他となる。だが、我々がこれらの剰余価値の変形した形式について詳しく見ることができるのは、第三巻でとなる。
(4)それから、ここでは、我々は資本家が、彼が生産した商品をそれらの価値で売るものと仮定する。流通局面において資本家が横領を図る新たな形式や、これらの形式の下に隠蔽された再生産の具体的な諸条件については触れないでおくことにする。他方、我々は、資本主義的生産者を全剰余価値の所有者と見なし、多分この方がより良いと思うが、彼と共に横奪する仲間ら全ての代表者と見なす。従って、我々は、なにはともあれ、余計なものを削ぎおとした視点から、つまり現実の生産過程に於ける単なる一局面としての視点から集積について考えることにする。
(5)集積が生じると云うならば、資本家は彼の商品の販売に成功しなければならない。そしてまた、売り上げ貨幣額を資本に再変換しなければならない。それ以上に、集積の要素となるために持っているその性質や条件を変えてしまうような断片とならぬよう、剰余価値の霧散を防止しなければならない。彼こそは、なにはともあれ第一の、剰余価値の占奪者なのである。工業資本家として自身のためにそのいかなる比例部分を取ろうと、他の者にいかなる比例部分を配分しようと変わりはない。従って、我々は、実際に目に見えて起こったこと以上にはなにも仮定しない。とはいえ、単純な集積過程の基礎的形式はそれをもたらす流通の出来事によって、また剰余価値の分割によって隠されてしまう。そのため、これらの過程の正確な分析が、我々に、こうした内部メカニズムの作動を隠してしまうような全ての現象については、しばらくは、度外視して置くよう求めている。 
 
第二十三章 単純再生産 2

 

(1)社会における生産過程の形式がなんであれ、生産過程は連続的な過程でなければならず、同じ局面を周期的に連続させて行かなければならない。社会は消費を止めることができないのと同様に生産を止めることもできない。それゆえに、連続する全体として、絶え間ない更新の流れとして見るならば、あらゆる社会的生産過程は、同時に、再生産過程なのである。
(2)生産の諸条件は同時にまたそれらの再生産の諸条件なのである。滞ることなく生産物の一部を生産手段や新たな生産物の要素に変換することなしには、社会は生産を続けることはできない。別の言葉で云えば、社会は再生産することができない。他の全ての状況が同じに留まり、その富を再生産し、その規模レベルを一定に保つ唯一の様式は、生産手段の更新による。すなわち労働手段、原材料、年を通じて消費される補助材料、同じ種類の年当たりで同量を示す品々の更新である。これらの物は年間生産物の量とは区別されねばならない。そして生産過程に年ごとに新たに繰り返し投入されねばならない。それ故に、各年の生産物の一定部分は生産領域そのものに所属する。そもそも最初から生産的消費に回されるように決められている部分もあり、そうしたものの多くは全く個人的な消費には適さない物の形をしている。
(3)もし生産が資本主義的形式であるならば、その様に、同様、再生産もまたそのような形式となるであろう。生産においては労働過程がまさに資本の自己拡大の手段を形成するが、再生産においてもまさに資本としての再生産、つまり価値の自己拡大として、まさに、前もって見込まれる付加される部分を含む価値の再生産の手段を形成する。とある人間に資本家と言う経済的外観が随行するのは、単に、彼の貨幣が常に資本として機能するからである。例えば、もし100ポンドが今年資本に変換されて、そして20ポンドの剰余価値を生むなら、そのように次の年もずっとそれを続けるに違いなく、更にその次の年も、同じ作動を繰り返すに違いない。前貸し資本の周期的な増殖または定期的な資本の果実を得る過程からして、剰余価値は資本から流れだす収益の形式を獲得する。*1
本文注1 / 「金持ち、他人の労働を消費する者は、それを交換によってのみ得ることができる。….彼等の得たそして集積された富を、彼等の気まぐれな願望にかなう新たな生産物との交換に放逸するため、早々に彼等の保有額が底をつくかのように見える。我々が既に述べたように、彼等は働かず、また働くことができない。それゆえ、彼等の以前の富は毎日減り続け、最終的には何物もなくなる日が来るであろうし、彼等のためにのみ働く労働者に支払うものもなくなるだろうと普通はそう思う。….だがそうではない。社会的秩序にあっては、富は他人の労働を通じて、その所有者の助けを必要ともせず、それ自身を再生産する力を獲得している。富は、労働のように、労働によって、毎年果実を獲得する。さらにこの果実は毎年、見て分かるように、金持ちを貧乏人にすることもなく放逸される。この果実は資本から生じる収益なのである。(シスモンディ「政治経済学の新原理」パリ1819年第一巻)
(4)もしこの収益が資本家をして、彼の消尽のために用意された基金の役割を果たし、そしてその収益が得られたように周期的に用いるならば、そのような支出の準備ができていれば、単純再生産は起動する。そして、この再生産が以前と同じ規模の生産過程の単なる繰り返しに過ぎないとしても、依然として単なるこの繰り返しまたは連続性が、その過程に新たな性格を付与する、いやむしろ、以前は一つの隔離された不連続な過程であったその簡単に分かるいろいろな性格を消し去る原因となる。
(5)ある一定期間の労働力の購入が、生産過程への序走である。そしてこの決められた期間が終了に至れば、ある明確な生産期間、週とか月とかが経過すれば、この助走は決まって繰り返される。しかし労働者には彼が彼の労働力を支出し、そしてその価値のみでなく剰余価値をも商品に実現するまでは、何も支払われることはない。従って、彼は、我々が現時点では資本家の個人的な消費に適う基金とみなす剰余価値を生産するだけではなく、彼は、彼に賃金の形で戻ってくる前に、彼自身が支払われる基金、可変資本をも生産する。そして彼がこの基金を再生産する限りにおいて彼の雇用が継続される。かくして、第18章での述べた経済学者の公式のように、賃金は生産物の中の分け前として現れる。*2 賃金の形として労働者に戻ってくるのはものとは生産物の一部分であり、そして引き続き生産物の生産がさらに彼によって行われる。資本家は、確かに、彼に貨幣で支払う。しかしこの貨幣は彼の労働の生産物の単なる変容化された形式にすぎない。彼が、生産手段の一部を生産物に変換する一方で、彼の過去の生産物の一部が貨幣になりかわったのである。先週または去年の彼の労働が、今週または今年の彼の労働力に対して支払うのである。貨幣の介入によって生じるこの幻想は、一人の資本家と一人の労働者に替わって、資本家階級と労働者階級という全体像を捉えるならば、一瞬にして霧消する。資本家階級は常に労働者階級に対して注文書(order-note)を渡す。ただしこれを貨幣形式で渡す。後者によって生産され、前者によって占有される商品の一部を表す注文書を。労働者はこの注文書を常に資本家に戻し、そして彼等自身の生産物のうちの彼等の分をこの方法によって獲得する。生産物の商品形式と商品の貨幣形式がこのやりとりを隠蔽する。
本文注2 / 「利益同様、賃金も、それぞれ実際のところ、完成した生産物の一部分のごときものと考えられている。」(ラムゼー前出)「生産物の分け前、それは賃金の形式で労働者のところにやってくる。」(J.ミル「要素、他」パリソー訳パリ1823年)
(6)結果的に可変資本は、生活必需品を確保するための基金という外観の、唯一の、特別なる歴史的な形式となる。あるいは彼及び家族を維持するために労働者が求める労働基金、そしてそれは社会的生産システムの如何に係わらず彼が彼自身を生産し再生産せねばならないがゆえの基金という外観の、唯一の、特別なる歴史的な形式となる。労働基金がなにゆえ彼の労働に支払われる貨幣と云う形式で常に彼に流れ込むのかと云えば、その理由は彼が創造した生産物が常に彼から資本の形式で逃げ去るがゆえである。しかしこれらのことが以下の事実を変えはしない。それは労働者自身の労働が生産物に実現されているということであり、それが資本家によって彼に前貸しされたものであるということである。*3 我々は一人の小作農民を取り上げて見ることにしよう。彼は彼の領主のための強制使役に従わねばならない。彼は彼の土地で、彼自身の生産手段をもって、例えば週3日働く。他の3日は領主の領地で強制使役として働く。彼は常に彼自身でもある労働基金を再生産する。彼の場合、その労働基金は決して他人の前貸しのような彼の労働に対して貨幣による支払いという形式は取らない。その代わり領主のための彼の不払い強制労働は、両者にとって、決して自発的な無報酬の労働と云う性格も取らない。ある晴れた日、領主が、この農民の土地、牛、種、一言で云えば、彼のその生産手段を領主自身の占有物としたとすれば、この時を境に、この農民は彼の労働力を領主に売ることを義務づけられよう。彼は、そうする他なく以前のように週3日を彼自身のために、3日を彼の領主のために働いたようにやることになるだろう。かくて彼の領主は賃金を支払う資本家となる。以前と同じ様に、彼は領主の生産手段をかっての自分の生産手段同様に使い、それらの価値を生産物に移管するであろう。以前と同じ様に、生産物のある一定部分は再生産のために用いられるであろう。だがしかし、この瞬間から、強制労働は賃金労働へと変化する。この瞬間から、彼自身が以前に継続していた労働基金の生産・再生産は、領主の賃金形式なる前貸し資本形式を取ることになる。ブルジョワ経済学者の狭き知筋では、そこに現れる物事からその外観形式を取り去ることはできない。事実に目を閉ざし、それでも地上のそこここにあるものを、資本形式の中に労働基金が結実していることを、今日においてさえも、把握することができていない。*4
本文注3 / 「資本が労働者の賃金に前貸しとして用いられるなら、労働を維持するための基金には何物も加えない。」(ケズノーブ彼の版によるマルサス「政治経済学の定義」ロンドン1853年の注書き)
本文注4 / 「労働賃金が資本家よって前貸しされているが、その範囲は、地球上の労働者の1/4よりは少ない。」(リチャードジョーンズ「諸国の政治経済学に関する講義テキスト」ハートホード1852年)
(7)確かに、可変資本は、我々が資本主義的生産過程をその絶えざる更新の流れとして見る時は、全くのところ資本家の基金*5 から前貸しされた価値と言う性質を失う。とはいえ、この生産過程はいわゆる物の初めなるものがなければならない。従って我々の現視点からは、その昔、資本家が貨幣を持つ者として現れたように見える。その資本集積は全く他人の不払い労働から独立しているかのように見える。それゆえ、その貨幣をして労働力の買い手として何回となく市場に出入りできたわけが分かるように見える。しかしながら、これはその過程の単なる連続の結果と考えてもいいだろう。単純な再生産が全く別の驚くべき変化をもたらしたのであり、可変資本に影響するのみならず、全資本を創り出したのである。
本文注5 / 「工場手工業者(ここでは労働者の意味)は、彼の賃金を、彼のご主人様が彼に前貸ししたものとして受け取るのではあるが、実際のところご主人様はなんの出費も負担していない。この賃金の価値は一般的には、彼労働者の労働によって生産物の上にもたらされ増大した価値、つまり利益とともに取り置いていたものである。」(A.スミス既出第二巻第三章)
(8)もし1,000ポンドの資本が、毎年200ポンドの剰余価値をもたらすとしたら、そしてこの剰余価値が毎年消費されるとしたら、5年末には消費された剰余価値は5×200ポンドまたは当初に前貸しした1,000ポンドの額になるだろうことは明らかである。もしある部分、例えば半分が消費されたとすれば、同じ結果が10年末にはついてくるだろう。10×100ポンド=1,000ポンドなのだから。一般的規則はこうなる。前貸し資本の価値を年に消費する剰余価値で除算すれば、その答は年数を与える。または再生産期間を与える。その満期時点、すなわち資本家の当初の前貸し資本が彼によって消費され消滅する時点を与える。資本家はこう考える。他人の不払い労働の生産高、すなわち剰余価値を彼が消費しつつ依然として彼の当初の資本を無傷のままに保持していると。しかしどう彼が考えたとて、事実を変えることはできない。一定年数の経過後、そこで彼が所有する資本価値はその年数間で彼によって占有された剰余価値の総計と同価値であり、かれがその間に消費した全価値は彼の当初の資本のそれと同価値である。事実、彼が手にした資本量にはなにも変化がない。その一部でもある建物、機械、その他がすでに、彼がその商売を始めた時には存在していたのだから、彼の資本量に変化はない。しかし我々が見ていかなければならないものは、物質的要素ではなく価値の方である。資本の価値の方である。一人の人間が彼の全財産をその財産の価値と等しい借金によって得たならば、彼の財産は他でもなく彼の借金総額を示す以外の何物でもない。そして資本家についても同様、彼が当初の資本と等価分を消費したのであるから、彼の現資本の価値は他でもなく、不払いによって占有した剰余価値全量を意味するばかりである。彼の古き資本価値の一原子もそこには存在し続けてはいない。
(9)そこにどんな集積があろうとなかろうと、生産過程の単なる繰り返し、別の言葉で云えば単純再生産が、遅かれ早かれ、必然的に、あらゆる資本を、集積された資本に、または資本化された剰余価値へと変換する。当初資本が雇用主の個人的な労働によって取得されたものですら、遅かれ早かれ、他人の不払い労働の物質化したもの、それが貨幣であったり、その他の物であったりするが、それになんら等価を支払うことなしに彼の占有価値となる。我々は第四章−第五章で、貨幣を資本に変換するためには、商品の生産や流通に加えてより以上の何物かが必要とされることを見て来た。我々は、一方の側に、価値または貨幣の所有者が、他方に価値を創造する本体の所有者が、一方に生産手段と生存手段の所有者が、他方に労働力以外のなにものも所有しない者が互いに買い手と売り手として対面しなければならないことを見て来た。従って、労働者の生産物から労働者の分離が、客体的な労働条件から主体的な労働力の分離が、事実として、資本主義的生産の真の基礎そしてその真の出発点となったのである。
(10)まさにその、単に出発点に過ぎなかったものが、単なる過程の継続によって、単純再生産によって、更新され続け、永続されることによって、資本主義的生産となるのである。一方においては、この生産過程が物質的な富を資本に変換し、より大きな富の創造手段に変換し、そして資本家のための美味しい手段となるのである。他方、労働者は、その過程に入り、富の源泉となるのだが、その富を自分のものとする手段は全く持っておらず、その過程からはじき出される。この過程に入る以前に、すでに、彼自身の労働は、彼の労働力を売ることで、彼自身からすでに疎外されており、資本家によって私物化されており、資本と一体化されている。この過程にあっては、生産物として実現れさるものは彼に属してはいない。また、すでに、生産過程は資本家が労働力を消費すると云う過程になっており、労働者の生産物は絶え間なく商品に変換されるのみではなくまさに資本に変換され、価値創造力を吸い込む価値に、労働者の人間性を買い取る生活手段に、生産者に命令する生産手段にと変換される。*6 労働者は、従って、物を絶え間なく生産し、物的な富を生産したが、しかしただ資本形式のそれを生産し、エーリアンの力が彼を支配し搾取するばかり。そして資本家は絶え間なく労働力を生産するが、しかしただ自分勝手な富の源泉形式として生産し、彼は自己の存在を表す物から隔離される。端的に云えば、労働者を、単なる賃金労働者として生産するばかり。*7 この絶え間なき再生産、この労働者の生産の永続化こそ資本主義的生産の無では済まない一句なのである。
本文注6 / 「これは生産的労働の驚くべき特異稀なる属性である。生産的に消費されたものは他でもなく資本である。そして消費によってそれが資本となる。」(ジェームスミル既出)しかしながら、ジェームスミルは、この「驚くべき特異稀なる属性」のトリックについては何も得ることはなかった。
本文注7 / 「確かにそれは真実である。工場手工業が最初の段階で多くの貧しい人々を雇用したが、貧乏を停止させることは無かったし、さらなる多くの貧しき者をつくり続けた。」(「羊毛輸出制限の理由」ロンドン1677年)「農業者は今日、馬鹿げたことを主張する。貧乏人を養っていると。確かに彼等は貧窮のままに置かれている。」(最近の貧民率の増加に関する理由または労働価格と穀物価格の比較的検討)ロンドン1777年)
(11)労働者の消費は二重構造になっている。生産において、彼は彼の労働によって生産手段を消費し、それらを前貸しされた資本よりも高い価値を有する生産物に転化する。これは彼の生産的な消費である。同時にこれは彼の労働力を買った資本家による彼の労働力の消費でもある。他方では、その労働者は彼に支払われた彼の労働力のための貨幣を生存手段へと変える。労働者の生産的消費と彼の個人的な消費とは、であるゆえ、全く異なるものである。前者の場合、彼は資本の原動力として振る舞い、資本家に従属している。後者の場合は、彼自身に所属しており、生産過程の外で彼の必須の生命機能を実行する。その結果一つは資本家の生活であり、他の一つは労働者としての生活である。
(12)労働日を取り上げた時に、我々は、労働者がいつも彼の個人的な消費が単なる生産の一部であることを余儀なくされていることを見てきた。そのような場合、彼は彼自身に生活必需品を供給するのだが、彼の労働力を維持するために供給する。丁度石炭や水を蒸気機関に供給するようにまた車輪にオイルを供給する様に。かくして、彼の消費手段は単なる生産手段として用いられる。彼の個人的な消費は直接的な生産のための消費となる。とはいえ、このことは資本主義的生産に本質的な関係はなくよくある悪癖のように見える。*8
本文注8 / もし、ロッシが、この「生産的消費」の秘密に本当にするどく切り込んでいたならば、労働者のこの消費に対してこんなふうに侮辱的な激しい言葉を使うことにはならなかっただろう。
(13)この事情は、我々が一資本家とか一労働者とかを考えるのではなく、資本家階級と労働者階級として考えると、社会から隔絶した生産過程としてではなく、資本主義的生産が現実の社会的規模で全開しているとして考えると、全く別の局面を見せる。資本家は彼の資本の一部を労働力に転換することによって、彼の全資本の価値を増大させる。彼は一石二鳥を得る。彼は労働者から受け取るものからのみでなく、労働者に与えるものからも利益を上げる。労働力と交換されたその与えられた資本は生活必需品に転換され、それらの消費によって、生きている労働者の筋肉、神経、骨、そして頭脳が再生産され、新たな労働者たちも生まれる。厳密に生活必需品であるものに関する限りで云えば、従って、労働者階級の個々の消費は、労働力と交換されさた資本によって与えられた生活手段を、資本の搾取に供される新たな労働力への再転換と言える。それこそ資本家にとって不可欠な生産手段、労働者そのものの生産及び再生産と言える。労働者の個々の消費が、作業所でなされようと、作業所外でなされようと、それが生産過程の一部においてなされようと、そうでなかろうと、結果として、資本の生産及び再生産の一要素を形成する。丁度、機械の清掃と同じで、機械の稼働中にそれがなされようと、休止中になされようとどうでもいいように。事実、労働者が彼自身のために生活手段を消費し、なにも資本家を喜ばすものではないとしても、その事情を変えるものではない。家畜が食べるのを喜んでいるとしても、家畜の飼料の消費は生産過程に必要な要素そのものである。労働者階級の維持及び再生産は資本の再生産の必要な条件であり、かつどこまでもなされなければならない条件なのである。そしてその条件に関しては、資本家は、なにもせずに、労働者の自己保存と繁殖の本能にまかせるのみ。全ての資本家が気にかけることは、出来うる限り、労働者個人の消費を減らし、厳密な必要品に限ることである。これら資本家は、南米の暴君の残虐とはかなり違う。南米の暴君は彼の労働者たちにより滋養のある食料を滋養の少ないもの以上に多く食べるよう強いる。*9
本文注9 / 「南米鉱山の労働者らは、毎日ある作業(多分、世界一過酷な)を行う。それは地下450フィートから180-200重量ポンドの鉱石を肩に地上まで運ぶ仕事で、そらまめ他の豆類のみが与えられる。彼等は多分パンを好むと思われるが、彼等のご主人はパンではこれほどの作業はできないことを知っている。彼等を馬のように使うために、かれらに豆類のみを食べるように強いる。とにかく、パンよりは骨に良い(リン酸石灰)成分が豊富だから。」(リービッグ既出第一巻)
(14)かくて、資本家と彼の観念論を代弁する政治経済学者は、労働者階級を永続させるための労働者個々必須の部分たる消費のみを生産的な消費と云う。すなわち、この消費は資本家が労働力を消費することができるようそのためにはなくてはならないものなのである。それ以外の労働者個々の勝手な楽しみのための消費は非生産的な消費なのである。*10 もし、資本の集積が賃金の上昇を招ねき、労働者の消費を増大させたとしても、資本による労働力の消費の増加が伴わないならば、追加的な資本は非生産的に消費されたと云うことになってしまうだろう。*11 実際のところは、労働者の個人的な消費は彼自身にとっても非生産的である。なぜならば、それが再生産するものは彼自身のさらなる困窮以外のなにものでもないからである。それは同時に、資本家や国家にとっては生産的である。なぜならば、彼等の富を創り出す力の生産なのだから。*12
本文注10 / ジェームスミル既出
本文注11 / 「もし、資本の増加との兼ね合いもなしに、労働の価格が非常に高く上昇するならば、なにものの雇用もなしえない。私はこのような資本の増加は結局のところ非生産的な資本の消費であると云わざるをえない。(リカード既出)
本文注12 / 「生産的消費と適切に言える唯一のものは、富の消費または破壊である。(彼は生産手段のことをそっと匂わす。)資本家の富の再生産のための富の消費・破壊と云う意味で。….労働者は、….彼を雇った人物や国家にとっては生産的な消費者である。彼自身にとっては、厳密に云えば、決してそうではない。(マルサス「定義他」)
(15)従って、社会的視点から見れば、労働者階級は、直接的に労働過程には組み入れられていない時でさえ、一般的な労働の道具と同様、資本の付属物そのものである。個人的な消費といえども一定の条件はあるものの、単なる生産過程の要素ですらある。とはいえ、その生産過程では、これらの自意識がある道具が変な気を起こさぬよう監視して、それらの生産物をできるだけ早く彼等の側から反対の資本の側へ移す。個々の消費は一方で彼等自体の維持と再生産のための手段を供給し、他方では、生活必需品を全消費させて労働者が労働市場に再び登場せざるを得ない仕組みを確立する。ローマの奴隷は足かせで繋がれ、賃金労働者は彼の雇い主の見えない糸に繋がれる。独立の外観は雇い主の絶えざる交代によって維持され、また契約という名称の虚構の法によって維持される。
(16)以前、資本は、必要があればいつでも自由労働者の所有権を強行に主張できる法律を作った。例えば、英国では、1815年に至るまでは、機械製作に雇用された機械工の外国への移民が、とんでもない苦痛と罰則を以て、禁じられた。
(17)労働者階級の再生産には、技能の蓄積が含まれている。一世代から次世代に手渡しされる。*13 どの程度資本家が彼の権利を以て様々な生産要素の中で、これらの熟練者階級の存在を認めていたか、またどの程度実際に、可変資本としての存在と見なしていたかは、恐慌が彼のその損失を脅かすやいなやはっきりする。アメリカの南北戦争によってもたらされた恐慌と、それによる綿花不足とによる恐慌は、よく知られているように、ランカシャーの殆どの綿業労働者を路頭に迷わせた。当の労働者階級からも、それ以外の社会的階級からも国家による援助や国家的な有志による寄付を求める声が沸き上がった。「余剰化」した労働者たちを植民地または合州国への移民を可能にするためにと。ザ・タイムス紙1863年3月24日発行は、マンチェスター商工会議所前会長のエドモンドポッターの手紙を載せた。この手紙は正しく工場手工業主らのマニフェストと、下院で命名された。*14 我々は、いくつかの特徴的な文章、労働力を資本が占有する権利云々と、恥知らずに主張するところを、以下抽出して示す。
本文注13 / 「予め蓄積され、準備されている唯一のものは、誰もが知っている通り、労働者の技能である。….熟練労働の蓄積と貯蔵、この最重要な作業は、かくも大勢の労働者たちがやってのけるのだが、そこにはいかなる形の資本すらの何らの関与もなく成就される。」(Th.ホジスキン「擁護された労働、他」)
本文注14 / 「この手紙は、工場手工業主らのマニフェストと見なされるものである。」(フェランド「綿花欠乏に関する動議」下院1863年4月27日)
(18)「彼」(仕事から放り出された者)「は、こう言われるかもしれない。綿業労働者の供給量はあまりにも大き過ぎる。…そして、…事実、多分、その1/3は減らさなければ…ならない。その結果、残った2/3に対してはそれなりの需要があるであろう。…世論は、…移民を懇請する。…工場手工業主は彼の労働供給が取り去られることには納得がいかない。彼は多分こう考えるものと思う。それは不正であり、かつ健全とは言えないと。….それでももし、移民を支援するために公債が用いられるとなれば、彼は質問し、多分抗議する権利を持ち出すであらう。」
(19)ポッター氏は、さらに、綿商売がいかに有益かを示す。いかに「この商売が、疑いもなく、アイルランドから、そして農業地域から余剰人口を引き受けたか」その発展がいかに巨大なものであったか、1860年には英国の全輸出の5/13を産出するに至ったか、さらに二三年後にはいかに市場を広げたか、特にインド市場を、多量の綿供給を1重量ポンド当たり6ペンスで獲得することで拡大したか。彼はさらに次のように続ける。
(20)「時間が立てば、1年、2年あるいは3年も立てば、その量を生産することになるかも知れない。….そこで質問するが、それはこう言う質問である。−この商売は保持するに値するか?その間機械(彼は生きた労働機械のことを云っている。)は、そっくりそのまま維持するに値するか?私は値すると思う。私は労働者たちは財産ではないことを、ランカシャー州や工場手工業主達の財産ではないことを正当に認める。しかし彼等はそのいずれにとっても力の源である。彼等は一代では取り替えることができない精神を持ちかつ鍛えられた人数である。単なる働く機械の大部分は12ヶ月で取り替えた方がよく、いや改良されるだろう。」*15 「労働力の移住を奨励または許可(!)したなら、資本家には何が起きるのか?….労働者のおいしい処を取り去れば、固定資本はかなりの価値の低下に見舞われるだろう。そしてまた流動資本は劣悪なるしかも短期の労働をもってしては競争に打ち勝つことはできない。…我々は労働者たちがそれ(移民)を望んでいると聞いている。」「彼等がそうするのは極めて自然のことである。….労働力を取り去って、綿商売を縮小し、圧縮し、彼等の賃金支出を減らせば、例えば1/5に、または5百万ポンドを減らせば、彼等の上の階級、小商店主には何が起きるのか、地代にはなにが起きるのか、小屋の家賃には何が起きるのか。….どのような影響が、上の方にも、小借地農業者や、比較的大きな家主に生じるのか考えても見よ。さらに、…地主へも。国の最良の工場手工業の人々を輸出して、そして、その最も生産的な資本と富を破滅させ、国を弱体化して、この国の全階級を自滅させることよりも悪い方法があるなら何んなのか云うてみい。….私は国債(5、6百万スターリングポンドの)発行を検討してもらいたい。それは二、三年を越えることになるやも知れないが、綿業地域の貧民保護局に特別の委員会を設立してその監視の下、特別立法の下、国債を受け取る者のモラルを維持する手段としての特別の就業または労働を強制する。….地主達または工場手工業主達にとって、最良の労働者を手放なし、その他の労働者を堕落させ、失望させるような底知れぬ枯渇的な移民、全国の資本や価値を放出してしまうような移民よりも悪いものが他にあるか?」
本文注15 / この同じ資本がいつものことだが、こと賃金減額の問題になると全く別の歌を歌う。どうしたことかご主人達は異口同音に、「工場労働者達は、以下のような健全なる記憶を肝に命じておけ、おまえらの技能は最も低い技能労働でしかない。これ以上簡単に雇用しうる者は他にはいない。または、その程度の技能を持つ者はいくらでもいる。わずかな訓練で出来上がった最低の技能者はいつでも、有り余る程いるし、獲得しうる。…一方のご主人様の機械」(我々が12ヶ月たらずで取り替えた方がいいと今学んだところのもの)「は、労働者や技能労働者」(30年間もの間、取り替えることができないと今いったばかりの)「と較べれば、生産ビジネスの場では、遥かに重要な役割を実際に果たしている。お前らのは6ヶ月の教育で十分で、どんな労働者でも習得しうる。」
(21)工場手工業主らに選ばれたマウスピースなるポッターは、二つの種類の「機械」を区別する。いずれも資本家に属するものであるが、その一つは彼の工場でぼうーっと立って居り、もう一つは夜間と日曜日、工場の外の小屋でくたっと横になっている。前者は死んでおり、後者は生きている。死んだ機械は日々磨耗し、その価値をも日々下落させるのみでなく、その大部分は絶えざる技術的進歩によってたちまちの内に時代遅れとなり二三ヶ月後にはより経済的な、新たな機械によって更新される。生きた機械はそれとは違って、長ければ長いほど良くなり、それにつれて技能としても優れたものとなり、一世代から次世代に手渡していくことができる。そしてそれが積み重なっていく。これに対して、タイムス紙は綿君主に次のように答えた。
(22)「エドモンドポッター氏は、綿業主なる階級を保持しようとするほどにもまた彼等の職業を不朽のものとするほどにも、特例的でかつこの上なき重要性がある云うご主人たちの主張に、強い印象を受けたようだ。彼は50万人もの労働者階級を、彼等の意向に反して、狭く高道徳なる救貧院に閉じ込めて置きたいらしい。「この商売は続けるに値するか?」とポッター氏は問う。「正直に云ってその通り。」と我々は答える。「しばらくの間、機械をそのままに維持する価値はあるか?」と再びポッター氏は問う。我々はこの問いには即答を躊躇する。「機械」とは、ポッター氏が云うそれは人間機械のことである。なぜ躊躇するかと云えば、彼は労働者をあたかも財産のように使うことは意味しないとも主張しているからである。ここは正直に云わねばならない。我々は、人間機械をそのままそれが必要となるまで給油して閉じ込めて置くことは、「多少の期間ならば」でも、実際のところ可能であるとも思ってはいない。あなたが油を注し磨いたとしても人間機械は止めていれば錆びる。さらに、我々が良く知っているように、自分の気分で酔っぱらい、吐瀉し、我々の偉大なる街を汚しまくる。ポッター氏が云うように、労働者たちを再生産するには多少の時間が必要となるかも知れないが、機械設計者と資本家が間に合っていれば、我々はいつでも我々が必要とする以上の工場手工業主らを揃えるに足る、つつましく、屈強で、勤勉な労働者たちを見つけることはできるだろう。ポッター氏は商売の回復を「一年、二年、ないし三年」と話し、そして我々にこう要望する。「労働力の移民を奨励したり、許したり(!)」しないようにと。」*16 「彼は、労働者たちが移民したいと欲することになるのは極めて自然なことと云う。しかし彼は、彼等の要望とは逆に、国に、50万人の労働者と彼等の家族たち70万人を綿業地域に閉じ込めて置くべきであると云う。そしてそのことのために、彼は、国が、彼等の不満を力で抑えつけて、彼等を慈善金で維持するべきであると云う。−そして綿業主がいつか彼等を必要とする時期に至るまで….この「労働力」を、あたかも鉄や石炭や綿のごとく取り扱う者らから、今こそ、救い出さねばならないと、この島々の大きな世論が立ち上がったのである。」
本文注16 / 議会は移民支援のための1ファージング銅貨も票決せず、逆に、労働者たちを半飢餓状態に置き、すなわち、標準賃金以下で彼等を搾取する権限を、地方自治体に与えるいくつかの法律を単純手続き的に通過させた。これとは違って、3年後に、牛疫が発生した時には、議会はいつもの慣習もどこへやら、たちまちのうちに百万長者の大地主に損害補償として百万ポンドの支出を票決した。かれらの土地を借地する農業主らはいずれにしても何の損失もないばかりかうまく便乗することができた。肉の価格が上昇したのだから。1866年の議会開催時の、土地所有者の牛のごとき咆哮は、まるで、雌牛サバラをあがめるにヒンズー教徒たるを要せず、みずから雄牛と化すにジュピターとなるを要せずと云う有り様だった。
(23)タイムズ紙の記事は、ただの気取り遊びに過ぎなかった。「大きな世論」とは、事実上は、ポッター氏の論であり、工場労働者は工場に付属する動産の一部と云うことだ。労働者たちの移民は阻止された。彼等は綿業地域の「道徳的救貧院」に閉じ込められた。そして、以前と同様、ランカシャー工場手工業主らの「力そのもの」となっている。
(24)この様に、資本主義的生産は、その存在自体をもって、労働力と労働手段との分離を再生産する。そのためにもそれは労働者を搾取するための条件を再生産し、また永久化する。それは絶えず、彼に彼の労働力を生活するために売るようにと強いる。そして、資本家には彼自身を富ませるであろうために労働力を買うことを可能にする。*17 ここまで来れば、資本家と労働者がたまたま市場で互いに買い手と売り手として対面することになるとは、もはや、言えるものではない。絶えず労働者を彼の労働力の売り主として市場に投げ返すと云う過程そのものであり、またそれは、彼自身なる生産物を他人が彼を買うことができる手段へと変換する過程そのものである。実際のところ、労働者は彼が彼自身を資本に売る以前に資本に帰属している。彼の経済的束縛*18 は、それが実現すると同時に、彼自身の定期的な売りとか、資本家なるご主人様の交代とか、労働力の市場価格の変動とかによって、彼の経済的束縛が隠蔽される。*19
本文注17 / 「労働者は生きるための生存手段を求め、ボスは利益を作るために労働を確保しようとする。」(シスモンディ既出)
本文注18 / この縛りの粗野ででたらめな形式がダーハム州に実在している。この州は、農業労働者に対する正規の所有権が借地農業主に保証されていない状況にある二・三の州の一つである。鉱山業主も農業労働者にその選択を認める。この州では、借地農業主は、どこでもある慣習とは違って、労働者の小屋を建てる部分のみの農地を借地する。小屋代が彼の賃金の一構成部分となっている。小屋は「後ろ足の家」として知られる。それらの家は労働者へ、ある種の封建的な奉仕の対価として貸し出されている。「縛り」と呼ばれる契約で、いろいろとあってもその核心は労働者を締めつけ、彼が他のいずれかの場所に雇用されている間は、誰かを残すと云うもので、彼の娘や他の者を借地農業主のところに差し出すというものである。労働者自身は「保証者」と呼ばれる。この関係はまたいかに労働者の個人的消費が資本のためのもの−または生産的消費となっているか−全く新たな視点から見て、それをよく示しているものである。「とんでもないことであるが、両後ろ脚の間から落ちる糞尿も、保証者も抜け目なき算段腹領主の超過収入であり:….そしてこのご領主様は近隣一帯では彼の借地以外には屋外便所の設置を許さず、彼の領主権を少しでも弱めることのないようにと、僅かばかりの肥料をあちこちの園芸に提供する。
本文注19 / 児童・他の労働に関して云えば、無償の売りであるという形式すらも消失する。このことは銘記されよう。
(25)かくして、資本主義的生産は、一連の連続した過程、その再生産の過程という面から見て、単に商品を生産するのみならず、単に剰余価値を生産するのみならず、資本主義的関係を生産し、また再生産する。その一方に資本家を置き、その他方に賃金労働者を置くという関係を生産し、また再生産する。*20
本文注20 / 「資本は賃金労働を前提条件とし、賃金労働は資本を前提条件とする。一方は他方の存在の必要条件である。それらは互いに互いを求めて各存在となる。綿工場の労働者は他でもなく綿製品を生産するのか?そうではない、彼は資本を生産する。彼は彼の労働に対してあらたな命令を下す価値を生産する。そしてそのような命令によって新たな価値を創造する。」(カールマルクス「賃労働と資本」新ライン新聞第266号1849年4月7日)この表題で新ライン新聞に掲載した記事は、私が1847年にブラッセルのドイツ「労働者協会」で、このテーマで行ったいくつかの講演の一部である。この出版については二月革命のため中断された。 
 
第二十四章 剰余価値の資本への変換

 

第一節 累進的に規模を拡大する資本主義的生産
 商品生産を特徴づける所有法則の資本主義的私物化法則への推移
(1)これまで我々は、いかにして資本から剰余価値が飛び出してくるかを調べてきた。さて今我々は剰余価値からいかにして資本が発生するかを見なければならない。剰余価値を資本として用いること、剰余価値を資本への再変換は、資本の集積と呼ばれる。*1
本文注1 / 「資本の集積、収入の一部を資本として用いること」(マルサス「定義、その他」ケイズノーブ版)「収入の資本への変換」(マルサス「政治経済学の原理」第二版ロンドン1836年)
(2)まず最初に我々は、この変換を資本家個人の立場から考えてみよう。ある紡績業者が1万英ポンドを前貸ししたと仮定しよう。そのうちの4/5(8,000英ポンド)は綿や機械他に、そして1/5(2,000英ポンド)を賃金に前貸ししたと仮定しよう。彼に年12,000英ポンドの価値をもつ24万重量ポンドの撚糸を生産させるとしよう。剰余価値率を100%とすれば、その剰余価値は剰余生産物または4万重量ポンドの撚糸に存在しており、全生産物の1/6を占め、2,000英ポンドの価値を有している。それを売ることによってその剰余価値は実現される。その2,000英ポンドはただの2,000英ポンドである。我々はその額の貨幣の中に剰余価値の痕跡を見出すことも嗅ぎ出すこともできはしない。そのある与えられた価値が剰余価値であると知ったとしても、どのようにしてその所有者がそれを入手したかを知ったとしても、その貨幣やその価値の性質を変えるものではない。
(3)この新たに追加された2,000英ポンド分を資本に変換するために、紡績業主は、全ての事情が以前と同じものとすれば、その4/5(1,600英ポンド)を綿その他の購入に前貸しし、そして1/5(400英ボンド)を追加する紡績工たちの購入に前貸しするであろう。紡績工たちは市場で生活必需品を見つけることになるだろう。その価値は紡績業主が紡績工たちに前貸ししたその分である。
(4)かくして、新たな資本2,000英ポンドは紡績工場で機能し、今度は、剰余価値(400英ポンド)をもたらす。
(5)当初、資本価値は貨幣形式を以て前貸しされた。これとは違って、剰余価値は最初は全生産物のある一定部分の価値である。もしこの全生産物が売れ、貨幣に変換されれば、資本価値はその最初の姿を再取得する。この瞬間から、資本価値と剰余価値は共に貨幣額となる。そしてそれら両者の資本への再変換は全く正確に同じ過程を経る。一方も、他方と同様、資本家によって、新たな彼の品物の製造の開始地点に彼をして立たせる様々な商品の購入に支出される。ただ今度はより拡大された規模において支出される。しかし、それらの商品を購入することができるためには、彼はすでに市場に持ち込まれているそれらのものを見つけ出さねばならない。
(6)彼が所有する撚糸が流通するのは、他の全ての資本家が彼等の商品に対してするのと同じ様に、唯一の理由ゆえである。彼が彼の年生産物を市場に持ち込むからである。しかし、これらの商品は、市場に来る以前に、すでに全一般年生産物の一部を成していた。あらゆる種類の全量の品物群の一部を成していた。そこに個々の資本の総額が、つまり社会の全資本が入り込んで居り、それらが年間に変換されたものであり、それは個々の資本家がその一片部分を所有していると云うものである。市場の取引は単に、この年生産物の個々の部分をある者の手から他の者の手へ移管するという交換のみを取り扱う。それだけで、全年間生産物を増大させることもできはしないし、その生産物の性質を変えることもできはしない。であるから、全年間生産物によって出来上がったその利用法はそれら自体の構成に全面的に依存しており、流通の上に成り立っているものではない。
(7)年生産物は、とにもなおさず、それらによって、年間に更新されねばならない資本の物的構成要素である諸々の物(使用価値)を供給しなければならない。これらのものを除き、そこに残ったものは純益生産物または剰余生産物であり、その中に剰余価値がある。さて、この剰余生産物にはどのようなものが含まれているのだろうか?資本家階級の欲望や名声を満足させる宿命的な物のみ、その結果として、それらのものが資本家の消費財源となってしまうもののみであろうか?もしそうだとすれば、剰余価値が入ったコップから泥水を捨てるがごときことになってしまう。ただの単純再生産が続くだけになってしまう。
(8)集積とするためには、剰余生産物の一部を資本に転化する必要がある。しかし、奇跡以外には、それを資本に転化することは出来ない。ただその品物を労働過程(すなはち生産手段)に用いることだけしか転化の方法はない。また、それらの品物をさらに労働者の生存に合致するもの(つまり生存手段)に用いることだけしか転化の方法はない。であるから、前貸しした資本を返済するに必要なそれらの量の他の年間剰余労働の一部分は追加的な生産手段と生存手段の生産に用いられなければならない。一言で云えば、剰余価値はそれがそのまま剰余生産物であるが故に、資本に変換されうる。その価値がすでに、新たな、物質的な資本要素を持っているからである。*2
本文注2 / 我々は、ここでは、貿易取引を度外視する。貿易取引によって国は奢侈品を生産手段や生活手段に変換したり、その逆の変換をしたりするからである。我々は、我々の考察対象を厳密に捉えるために、また攪乱をもたらす些細な状況などに惑わされることなく捉えるために、我々は全ての世界が一つの国であるかのように、また資本主義的生産が全域において確立しているものと仮定し、それがあらゆる産業分野に行き渡っているものと仮定して取り扱わねばならない。
(9)さて、ここで、これらの要素を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は追加的な労働を必要とする。もし、労働者たちの搾取がすでに時間延長でも労働強化のいずれでも増やすことがすでにできなくなっているならば、その時は追加的な労働力が見出されなければならない。このために前もって資本主義的生産メカニズムが用意されている。労働者階級をして賃金に依存する階級に転化している。その階級の通常賃金は、その保持のためのみならず、その増加のために足るものともなっている。資本にとって唯一必要なことはこの追加的な労働力を、あらゆる年齢の労働者と云う形式をもつ労働者階級によって年に供給される労働力に、年間の生産に含まれる余剰生産手段とともに一体化することだけである。かくて剰余価値の資本への転換は完璧なものとなる。その現実の視点に立って見れば、集積そのものは漸進的にその規模を増していく資本の再生産であることが見えてくる。単純再生産が循環するこの輪がその姿を変え、そしてここでシスモンディの表現を使えば、螺旋形にその姿を変える。*3
本文注3 / シスモンディの、集積の分析は大きな欠陥を背負っている。彼は彼自身の「収益の資本への変換」という文句に限りなく満足しすぎていて、この運動の物質的条件を探ることがなかった。
(10)それでは我々は我々の説明例に戻ることにしよう。それは古い話である。アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、それからそれと続く話である。当初の資本1万英ポンドは剰余価値2千英ボンドをもたらした。それは資本化された。新たな資本2千英ポンドは剰余価値400英ポンドをもたらした。そしてこれも資本化された。二度目の追加的な資本に転化されたそれらは、今度はさらなる剰余価値80英ポンドを産み出す。そしてそのようにボールは転がり続ける。
(11)ここでは、我々は、資本家によって消費される剰余価値部分については考えないこととする。しばらくの間、我々は以下のことも考えない事とする。追加的資本が当初の資本に合体されるか、独立した機能を発揮するためにそれから分離されるかや、それを集積した資本家がそれを用いるか、またそれを他の資本家に手渡すかはどうでもいい。我々が忘れてはならない唯一の点は、新たに形成された資本と並んで、当初資本もまた自己の再生産を続けており、そして剰余価値を生産することを続けていることであり、すべての集積された資本がそれを継続していることであり、追加される資本もまたそれによって産み出されると云うことである。
(12)当初の資本は前貸しされた1万英ポンドによって形成された。いかにしてその所有者はそれを所持することになったのか?「彼自身の労働と先祖たちのそれによって」と云う答えが政治経済学のスポークスマンから満場一致で返ってくる。*4 そして、事実、彼等の根拠もない説が商品の生産にかかる法則にただ一つ適うものとして生じる。
本文注4 / 「当初の労働、そこに彼の資本の起源がある。」シスモンディ前出パリ版第一巻
(13)しかし、追加的資本2,000英ポンドに関しては全く別物である。それがどのようして生じたかは、我々はその一部始終を完壁に把握している。そこには、その実体が不払い労働に起因していない価値の一分子も存在しない。労働者たちを維持する生活必需品ともども、追加労働力が一体化された生産手段は、他でもなく、剰余生産物の構成要素なのである。資本家階級によって労働者階級から毎年厳しく取り立てられた貢ぎ物の構成要素なのである。後者がその貢ぎ物の一部をもって追加的労働力を購入するということになれば、たとえそれがその全価格で購入されるとしても、等価物と等価物が交換されるとしても、依然として、その取引は全くもって、彼等が被征服者から盗んだ貨幣をもって被征服者から商品を買うと云う征服者の古き詐術以外のなにものでもない。
(14)もし、その追加的資本が、それを生産した者を使用するとしたら、この生産者は、当初資本の価値を増大し続けなければならないばかりでなく、かれの以前の労働の果実を、その果実に費やした労働以上の労働をもって買い戻さねばならない。資本家階級と労働者階級との間の取引として見れば、以前に雇用された労働者たちの不払い労働によって追加的労働者たちが雇用されると云ったとしても違った言い方にはならない。資本家は追加的資本を、その追加的資本の生産者たちを仕事から放り出すことになる機械にさえも変換するかも知れない。そして彼等労働者たちを二三人の子供たちと置き換えてしまいかねない機械にさえも変換するかも知れない。いかなるケースにおいても、労働者階級はその年の剰余労働によって翌年には追加的労働を使用するように運命づけられた資本を創造するのである。*5 そして、これが、資本から資本を創造すると言われている所のものである。
本文注5 / 「資本が労働を使用する前に、労働は資本を創造する。」E.G.ウエークフィールド「英国とアメリカ」ロンドン1833年第二巻
(15)最初の追加的資本である2,000英ポンドの集積は、資本家に所属する彼自身の徳をもって始まる「そもそもの労働」なる一万英ポンドの価値と、彼によるその前貸しを前提とする。第二の400英ポンドの追加的資本は、これとは違って、以前の集積である2,000英ポンドだけがその前提であり、その2,000英ポンドの剰余価値の400英ポンドが資本化されたものである。これをもって以後、過去の不払い労働の占有が、生きた不払い労働の私物化の唯一の条件となり、その規模を着実に増大させている。資本家が集積すればする程、彼はより集積することができる。
(16)No.1の追加的資本の価値を構成する剰余価値が、当初資本の一部によって購入された労働力の結果である限りでは、その購入は商品の交換法則に適合する。そして、法的視点からは、自由な取引以上のなにものも前提されてはいない。労働者の側からは彼自身の能力であり、貨幣や商品の持ち主の側からは彼に属する価値である。No.2以降の追加的な資本が、No.1の単なる結果であり、従って、前記の条件の結果である限りにおいては、それぞれの各単一の取引が一定不変に商品の交換法則に適合する限りでは、資本家は労働力を買い、労働者はそれを売る。我々もそれぞれの価値がその通りであると仮定しておく。これらの全てが正当である限りでは、私物化または個人的な財産の法則が、商品の生産や流通に基づく法則が、それら自体の内部的かつ冷徹なる弁証法によってそれらとは全く対立するものとして表れることは明らかである。等価物の交換、我々が始めた当初の交換操作は、今や、ぐるりと回って、ここに表れたように、単なる外観的な交換となった。このことは以下の事実に起因している。まず第一に、労働力と交換された資本が、それ自体ではなく、等価交換されたものではない私物化した他人の生産物の一部だからである。第二には、この資本がその生産者によって置き換えられねばならないのみならず、剰余も含めたものと置き換えられねばならないからである。資本家と労働者の間に存在しているこの交換関係は流通過程に関する単なる見せかけとなる。単なる形式、取引の真の性質からかけ離れたもの、単なるその神秘化である。絶えず繰り返される労働力の買いと売りは、かくして、単なる形式となる。実際に起こっていることはこうである。−資本家は何回も何回も、等価交換なしに、以前に物質化された他人の労働を私物化し、これをもって生きた労働の大きな量と交換する。最初は私有財産の権利が、我々には、その人自身の労働に基づいているように映る。わずかにそのような見方が必要なのは、互いに同等の権利として他人と直面する商品所有者たちで、それが、他人の商品を、自分自身の商品を手放すことによって獲得する唯一の手段だからである。そしてこれらのものは労働よってのみ置き換えられることができるからである。今では、しかしながら、財産が資本の側では他人の不払い労働またはその生産物を私物化する権利にすりかわる。そして労働者の側では彼自身の生産物を私物化することは不可能事となる。労働からの財産の分離がそれらの明らかな同一性に起因する法則の必然的な帰結となる。*6
本文注6 / 他人の労働の生産物に関する資本家の財産化は、「私物化の法則の厳密なる帰結である。この基本的な原理は、これとは逆に、あらゆる労働者の彼自身の労働の生産物に対する排他的な権利であったものである。」(シェルブリエ「富者か貧者か」パリ1841年。しかしながら、弁証法的な反転的展開については、この中では、適切には追及されていない。)
(17)それゆえ、*7 私物化の資本主義的様式(注*7)の多くが、商品生産のそもそもの法則に激しく逆らうように見えるのではあるが、それは、それにも係わらず、規則に違反することから生じるのではなく、それどころか、これらの法則の適用から生じるのである。我々はこの点をもう一度、一連の諸々が資本主義的集積に至るこの運動を簡単に振り返ることによって再確認することにしよう。
本文注7 / 以下の文言「資本主義的私物化の法則」は、ドイツ語版第4版に合わせるために英語版のテキストに加えられている。
(18)我々は、最初のところで、価値総額の資本への原初変換が交換の諸法則に完全に従って成し遂げられたことを見てきた。契約の一方が彼の労働力を売り、他方がそれを買う。前者は彼の商品の価値を受け取る。彼の使用価値−労働−は従って、買い手に譲渡される。生産手段はすでに後者に属しており、生産手段は彼によって、同様に彼に属する労働の助力を得て、新たな生産物へと変換される。その新たな生産物は同様にして、合法的に彼のものとなる。
(19)この生産物の価値は、第一に、生産手段が消費されたことによる価値を持っている。有益なる労働はこの生産手段の価値を新たな生産物に移管することなしに生産手段を消費することはできない。しかもその新生産物は売ることができるように、労働力は工場の雇用された各現場で有益なる労働を供給するようにしなければならない。
(20)新たな生産物の価値は、労働力の価値の等量といっしょに、さらに、剰余価値を持っている。これが労働力の価値であるがゆえに、−日とか週とかその他の明確なる長さを定めて売られた労働力の価値は、−その使用時間によって作られた価値よりも少ない。まさに、労働者は彼の労働力の交換価値の支払いを受け取るが、そうすることによって、その使用価値とは切り離なされる。−これが売りと買いのあらゆる場面で生じていることである。
(21)事実、この特殊なる商品、労働力は、労働を供給すると云う特有なる使用価値を持っており、それゆえ価値を創造するのだが、商品生産の一般法則にはなんの影響も与えない。であるがゆえに、もし賃金として前貸しされた価値の大きさが生産物において再び見出されるのみではなく、剰余価値によって増大された価値がそこに見出されようと、このことは売り手が騙されたのではなく、彼は彼の商品の価値をまさに受け取ったがゆえのことである。このことは全てこの商品が買い手によって使用されると言う事実に帰すべきことなのである。
(22)交換の法則は、ただ一つ、互いに交換することになった商品の交換価値間の等価性を求めている。そもそもの交換に先立って、それらの使用価値については互いに違いを想定しており、取引が決着し履行された後でのみ始まるそれらの消費に関してなにをしようと関知していない。
(23)この様に、最初の貨幣から資本への変換は、最も厳格に商品生産の経済的諸法則と、それによってもたらされる所有の権利に従って成就される。それにもかかわらず、その結果は、
 (1)その生産物は資本家に属し、労働者には属さない。
 (2)この生産物の価値は、前貸しされた資本の価値の他に、剰余価値を含んでいる。その剰余価値のために労働者は労働と云うコストを支出しているが、資本家はなにも支出してはいない。それにも係わらずそれが資本家の合法的な占有物となる。
 (3)労働者は彼の労働力を保持しており、もし彼が買い手を見つけることができるならば、それを再び売ることができる。
(24)単純再生産は、この最初の作動の定期的な繰り返しに過ぎない。毎回、貨幣は新たに資本に変換される。ここでは、法則は破られることがない。そうではなく逆に、単なる連続的な作動が可能とされるだけである。「個々の相次ぐ交換行為は単に、最新のものが最初のものを再現するに過ぎない。」(シスモンディ「新経済学原理、他」70ベージ)
(25)それにもかかわらず、我々は単純再生産が、隔絶された工程として見る限りにおいてはこの最初の作動を刻印するにはなんの不足もないのに、全く変化した性格をも伴っていることをすでに知っている。「自分たちの中で、国民所得の分配に預かる人々について見れば、一方(労働者たち)は、毎年、新たな労働によって彼等の取り分の新たな権利を獲得し、他方(資本家ら)は、最初の作動によって彼等の永遠の配分の権利をすでに獲得している。」(シスモンディ前出)これはただただ、長子相続の不可思議が労働分野のみではないことは周知の奇習と云うより他ない。
(26)また、例え、単純再生産が拡大された規模の再生産、集積による再生産に置き換えられたとしても、何の問題もありはしない。前者のケースでは資本家は全剰余価値を遊興に浪費するが、後者では資本家はその一部分のみを消費し、その他残余を貨幣に変換することで、彼のブルジョワ道徳を誇示する。
(27)剰余価値は彼の占有物である。それは他の誰にも所属したことは今までずーっと無かった。もし彼がそれを生産の目的のために前貸しするとすれば、その前貸しは、彼が最初に市場に行った日と全く同様に、彼自身の所持金から出たものである。この場合その所持金が彼の労働者の不払い労働から得たものであるが、その事実は全くもって何の違いも生じさせない。仮に、労働者Bが労働者Aが生産した剰余価値で雇われたとしても、まず、第一に、Aがその剰余価値を、彼の商品の価格を半ペニーも値切られることもなしに提供したのであり、第二に、その取引には、Bは何一つ関係がない。Bが請求することは、そして請求の権利として持っているものは、資本家は彼に彼の労働力の価値を支払うべきであると云うことである。「いずれの者も依然として利益の獲得者である。なぜならば、労働者には彼の労働の果実を前貸しされた。」「労働がなされる前に」(次のように読むべきである。「彼自身の労働が果実を結ぶ前に」)「なぜならば、雇用主(彼のご主人様)には、この労働者の労働に彼の賃金よりもより大きな価値があったのだから。」(次のように読むべきである。「彼の賃金の価値よりもより大きな価値を生産したのだから。」)(シスモンディ前出)
(28)もし我々が資本主義的生産を隔絶された更新の流れの中で捉えたり、また個々の資本家と個々の労働者との場で考えたりするのと、それらを全体として見る場合、資本家階級と労働者階級が互いに対面していると見る場合とでは、確かに、事態は全く違った様相を示す。もしそうすると云うならば、我々は商品生産とは全く性格を異にする基準を適用するべきである。
(29)商品生産の場では、買い手も売り手も、単に、互いに独立して、相手と向き合うにすぎない。彼等の関係は、彼等が締結した契約に明記された期限が切れる日をもって終了する。もし取引が繰り返されるならば、以前になされた契約とは関係のない新たな合意の同じ様な結果として繰り返されるものであり、単に同じ売り手と同じ買い手が共に偶然に再会したことに過ぎない。(the-resultとハイフンが付されている。)
(30)それゆえ、もし、商品生産またはその一連の工程の一つがそれ自体の経済的法則によって判断されるとしたら、我々は各交換の行為をそれ自体において考察しなければならない。交換行為に伴っているそれ以前のことやそれ以後の関係とは切り離して考察しなければならない。そして、売りや買いはもっぱら特定の個人間で決着がつけられてきたのであるから、ここに全社会の階級間の諸関係を持ち出すのは容認しがたい。
(31)いかに長く、今日機能している資本が周期的な再生産とそれに先立つ集積を経てきたかも知れないとはいえ、その原初の処女性は常に維持している。交換の法則が各単一の交換行為において認められる限り、商品生産に係わる所有権にいかなる影響も与えることなしに、私物化様式は徹底的に大変革され得る。これらの同じ権利は依然として有効で、生産物が生産者に所属する当初にあっても、生産者が等価と等価を交換しても、彼自身を豊かにすることができるものはただただ彼自身の労働によるものであり、そしてまた、社会的富が絶え間なく資本家の財産を拡大し、彼等がいつでも私物化し、他人の不払い労働を何回も何回も手に入れる地位に立っているこの資本主義時代にあっても、そのいずれにおいても依然としてその権利は生産者においては有効なのである。
(32)この結果は、労働力をまるで商品のように自由に売ると云うことが労働者自身によって行われるやいなや、避けることができないものとなる。しかし、それはまたそれ以降、商品生産が一般化され、典型的な生産形式となる唯一のものとなる。それはまたそれ以降、最初から、あらゆる商品が売るために生産され、そして生産された全ての富が流通の局面を通過する。唯一、賃金労働がその基礎となる時間的空間的な場にあっては、商品生産がそれ自身をまるでそれが全てであるかのように社会に押しつける。しかしまたかくしてそれが商品生産の隠された可能性の全てを解き放つ唯一のものとなる。賃労働によって商品生産が奇形化すると云うならば、もし奇形化を招かないようにしたいならば、商品生産を発展させてはならないと云うのと同じである。商品生産がそれ自身の固有の法則に従って、さらに発展し、資本主義生産へと至るに応じて、商品生産の各所有法則は資本家の私物化諸法則へと変化する。*8
本文注8 / それ故、我々はブルードンの賢明さに驚かされるだろう。彼は商品生産に基づく永遠なる所有法則を強化することによって資本主義的な私物化を廃棄しようとするのだから。
(33)我々は、単純な再生産のケースでさえも、全ての資本は、その最初の源泉がなんであれ、集積された資本へと、資本化された剰余価値へと変換されることになる。しかし、生産の洪水にあっては、端的に集積された資本、すなわち、資本化された剰余価値または剰余生産物、それが集積者の手によって機能していようと、そのような他人によって機能していようとに関わりなく集積された資本と較べれば、当初において前貸しされた資本は消滅点ほどの大きさ(数学的感覚における徐々に消え去る大きさ)となる。それゆえこれ以後、政治経済学は、資本を一般形式化して「集積された富」(変換された剰余価値または総収入)のように書き、「それは剰余価値生産に繰り返し投入されるもの」*9 のように書く。そして資本家を「剰余価値の所有者」*10 のように書く。それは単に、存在するあらゆる資本は集積されたものまたは資本化された利子である、と云う表現の単なる別の言い方でしかない。なぜならば、利子とは単なる剰余価値の一断片にすぎないのだから。*11
本文注9 / 「資本とは、すなわち、利益を企てるよう用いられる集積された富である。」(マルサス既出)「資本….総収入から蓄えられた富から成っており、そして利益を企てるように使われる。」(R.ジョーンズ「政治経済学序論」ロンドン1833年)
本文注10 / 「剰余生産物または資本の占有者」(「国家的困難の根源と救済策ジョンラッセル卿への手紙」ロンドン1821年)
本文注11 / 「資本、蓄えられた資本のあらゆる部分の複利合計額は、収入が生じる世界の富のすべて表しており、太古より資本の利子にいとにあはし。」(ロンドンエコノミスト誌1851年7月19日) 
第二節 累進的に規模を拡大する再生産についての
 政治経済学に見られる間違った考え方

 

(1)我々が、剰余価値の資本への集積や資本への再変換についてさらなる考察をする前に、我々は古典経済学者らによって持ち込まれた曖昧さの一面を見ておかなければならない。
(2)資本家が剰余価値の一部をもって彼自身の消費として買う商品は少しも生産の目的や価値の創造にはならない。資本家が彼の生まれつきのまたは社会的な理由で購入する労働は同様に少しも生産的労働とはならない。剰余価値を資本に変換するのとは違って、彼は、全く逆に、それらの商品や労働を買うことによって、それを収入として消費または支出する。古き封建貴族階級の習慣的な生活様式に対して、ヘーゲルが臆面もなく、「手に入れたものを消費することから成り立っており」そして個人的な持ち物としてそれを己の快楽のために見せびらかした、と、実相を喝破したが、ブルジョワ経済学にとっては、次のことが至上の重要事項なのであった。資本の集積が各市民の第一の義務であると云う教義を広め、そしてどこまでも、もし彼が彼の収入を、その実り多き部分を、それに支払う以上の多くのものをもたらす追加的な生産的な労働者たちの確保に用いることなく、食べ尽くしてしまうならば、人は集積することができないと説教することをやめない。その一方で、経済学者らは、資本主義的生産を困惑させる秘蔵*12 とか、集積された富とは、その存在形式を破壊されることから、すなわち、消費されることから救出されたものであるとか、流通から回収された富であるとかのさまざまな幻想と云うべき俗世間の先入観と論争せねばならなかった。貨幣の流通からの排除は同時に、資本としてのその自己拡大を絶対的に排除することになろう。だが、商品の形のままの秘蔵の集積というのも全くの愚行であろう。*13 大量の商品の集積は、過剰生産かあるいはまた流通の閉塞かの結果である。*14 世間の人々の心は、そこに存在する見た目の有様によって印象づけられるものではあり、ある一面では、大量の品物は徐々に消費される富裕層*15 の消費のために積み上げられているように見えるだろうし、そして他の一面では、予備貯蔵の整然たる配列に見えるであろう。この後者の場合、全ての生産様式において一般的に見られる現象である。この点については、直ぐ後で、流通の分析の所で詳しく触れるものとする。古典経済学は従って、非生産的な労働者たちとは違って、剰余生産物の消費を生産的に維持することは、集積過程の特有なる特徴として全く正しい。しかし、この点から間違いが始まる。アダムスミスは以下を流行句に仕上げた。集積は生産的労働者による剰余生産物の消費のため以上のなにものでもなく、資本化する剰余価値は単に剰余価値を労働力に換えるものであると云う句を。
本文注12 / 「今日の政治経済学者には、貯蓄を単なる秘蔵と解する者はいない。そしてこの、けちくさいそして不適当な行為を表す用語の他に、国民的富なるものを適当にイメージさせうるものはない。しかし、そこに貯蓄されたものの異なる利用から生じるにちがいないことが、それによって保持された異なる種類の労働間の現実的な差異として見出される。(マルサス前出)
本文注13 / 例えば、貪欲の様々な陰の部分を熟考し尽くしたバルザックは、こんな風に、老高利貸しのゴブセックが商品の秘蔵を積み上げ始めたことを、まるで子供返りしたかのように書く。
本文注14 / 「貯蔵品の集積….交換上の….過剰生産」(Th.コルベット既出)
本文注15 / この意味で、ネッカーは「華麗で豪奢な物」は「時間をかけて集積された」のであり、それらの物は、「所有の法則によって、社会の一つの階級に手にのみもたらされた。」と云う。(オーブレドゥネッカーパリとローザンヌ1789年第二巻)
(3)それでは、リカードの云うところを、例として、とりあげて見よう。
(4)「一国の全ての生産物が、消費されることは理解されねばならない。しかしそれらが再生産を行う者たちによって消費されるか、または更なる価値を再生産しない者たちによって消費されるかでは、考えうる限りの大きな違いが生じる。我々が収入は貯蓄されそして資本に加えられると云う時、我々が意味するのは収入の相当部分が,つまり、資本に加えられると言われる部分が、非生産的労働者たちによって消費されるのに代って、生産的労働者たちによって消費されることを意味する。資本は消費ではないものによって増加すると考えること以上に大きく間違った捉え方は存在しえない。」*16
本文注16 / リカード既出
(5)A.スミスが云ったことを真似して、リカードとそれに続く全ての経済学者が云うこと以上の大きな間違いは存在しえない。すなわち、スミスは「収入の相当部分、資本に加えられたと云われるものは、生産的労働者たちによって消費される。」と云ったのだから。
(6)この論に従えば、資本に変化されたすべての剰余価値は、可変資本となる。このようなケースとなるはずもない。剰余価値は、当初資本と同じ様に、それらは不変資本と可変資本とに分けられ生産手段と労働力となる。労働力は生産過程の期間中ずーっと存在している可変資本の形式となる。この過程において、労働力は資本家によって消費されるそのもの自体であり、労働力、その機能労働が実行され、その労働力によってその間生産手段が消費される。同時に、労働力の買いに支払われた貨幣は生活必需品に変換される。「生産的労働」によってではなく、「生産的労働者」によって。アダムスミスは、根本的に間違った分析から、馬鹿げた結論に到達する。各個々の資本は不変資本部分と可変資本部分に分けられるのに、社会資本はそのまま可変資本に変形する、すなわち、他ではなくすべて賃金の支払いに当てられるというのだから。例えば、あるウール布工場手工業主が2,000英ポンドを資本に換えたとして見よう。ある部分を彼は織工たちを買うためにぶち込み、その他の部分を羊毛撚糸、機械、その他にぶち込む。ところが、人々、その人々から彼が撚糸や機械を買うその人々は、撚糸や機械の買い入れ金なる貨幣の一部を労働に支払い、全2,000英ポンドが賃金に支払われるまでそれが繰り返される。すなわち生産的労働者たちによって全生産物、2,000英ポンドが、消費されたとはっきりするまで繰り返されると云うことになる。この議論の全旨は「繰り返される」という右往左往させられる単語にあるのは明らかである。本当のところ、アダムスミスはまさに、論の欠陥点がはじまるところで彼の論的考察を止めている。*17
本文注17 / ジョンSt.ミルは、彼の「論理学」が泣くと思うのだが、先輩らによって作られた、ブルジョワ的な科学的視点からも修正を求められている、このような欠陥のある分析内容すら全く検出することが無かった。あらゆる場で彼はこの教義のドグマを、彼の先輩らの混乱を、振り回す。そして、こう言う。「資本そのものは、長い行程を経るが、全て賃金となる、そして生産物の売りによって置き換えられ再び賃金となる。」
(7)我々が単に年間総生産高を見ている限りでは、毎年の再生産過程は簡単に把握される。しかし、この生産物の各一つ一つの構成要素は商品として市場に持ち込まれなければならない。そしてその困難が始まる。個々の資本、そして個人的な収入の動きは、交差し、混ざり合い、そしてそれらの多くの移転の中で、社会の富の流通の中で、どこに行ったのか分からなくなる。このことに目がくらむ。そのため解決を要する非常に複雑な問題が提起される。第二巻の第三篇で、私はこれらの事実の実際の関連についての分析を示すつもりである。重農主義者達が作った経済関連表は大きな価値があるものの一つである。彼等は年生産物を、流通過程を追うようにして我々に明らかにするという形で、それを描き出そうと試みた最初の人々であった。*18
本文注18 / アダムスミスには、彼の再生産過程及び集積過程についての記述に関しては、様々な角度から見て、彼の先輩達と比較すれば、なんの進歩ないばかりでなく、かなり後退している。特に重農主義者達に対しては。彼の書物に書かれた妄想について云えば、全く不可思議なドグマであり、それが政治経済学に彼によって遺産として残されたのだが、そのドグマはこう云う。商品の価格は、賃金、利益(利子)、そして地代、すなわち賃金と剰余価値から出来上がっている、とある。この基礎から始めて、ストルヒは無邪気にこう告白する。「….当然の価格をその最も単純なる要素に分けることは不可能である。」(ストルヒ既出ペーテルスブルグ版1815年第二巻)上質なる経済科学、これが、商品の価格をその最も単純なる要素に分けることは不可能だ!と宣言する。この点については第三巻第七篇でさらに考察されるであろう。
(8)最後に一言、云うまでもないことだが、政治経済学は、資本家階級の利益のために侍り、アダムスミスの次のような教義を利用するのに抜かりは無かった。すなわち、その教義とは、資本に変換された剰余生産物の全ての部分は、労働者階級によって消費される。となっているのだから。 
第三節 剰余価値の資本と収入への分割 / 禁欲理論

 

(1)前章では、我々は剰余価値(または剰余生産物)を単なる資本家の個人的な消費に用いるための所持金として取り扱っていた。本章では、我々はそれをどこまでも単なる集積のための所持金として取り扱っている。とはいえ、それはその一方でもなければまた他方でもなく、共に一体のものである。ある部分は資本家の収入*19のごとく消費され、他の部分は資本として用いられ、集積される。
本文注19 / 読者は、収入と云う言葉が二重の意味で使われていることに気が付くであろう。一つは、それが定期的に資本によって生み出される果実である限りでの剰余価値を表し、二つ目は資本家によって定期的に消費される果実部分を表す、または、彼の個人的な消費を支出する所持金に加えられるものを表す。私はこの二重の意味をそのままにしている、なぜならば、それが英国やフランスの経済学者の言葉遣いと一致するからである。
(2)剰余価値の大きさが与えられているものとすれば、これらの部分の一つを大きくすればする程、他方は小さくなる。支払い残、この部分の比率が集積の大きさを確定する。しかしその分割は、剰余価値の所有者、資本家のみによってなされる。それは彼の故意の行為である。彼によってなされたその貢物部分、集積部分は、彼によって救出されたものと言われる。なぜなら、彼はそれを食べてはいない。すなわち、なぜなら、彼は資本家としての機能を実行し、彼自身をより富ませるからである。
(3)人格化された資本であることを除けば、資本家には何の価値もない。そして歴史的な存在としての権利もない。皮肉たっぷりのリクノフスキーの表現を使えは、「日付なしを得てはいない。」そして、ただ彼自身の一時的な存在と云う必然性は、資本主義的生産様式と云う一時的な必然性からもたらされたものなのである。しかし、彼が人格化された資本である限り、それらの使用やそれらを楽しむことに意味はない。そうではなくて、交換価値とその拡大化が彼を行動に駆り立てるばかりなのである。価値自体の拡大に狂信的な倒錯から、彼は冷酷に人類に生産のための生産を強制する。であるから、社会の様々な生産力の発展を強制する。そしてそれらの物質的条件を創造し、その物質的条件のみが社会の高いレベルの形式の基礎を形成することができる。その社会にあっては、完全なそして自由な各個人の発展が支配的な原理となる。ただ単に、人格化された資本であることこそそれなり資本家なのである。そのように、彼は富としての富のために守銭奴的情熱をもってその居場所にいる。ただし、その守銭奴的なるものは単なる性癖であって、資本家としてのそれであって、社会的メカニズムの結果であって、実際のところ彼は幾つもの車輪の一つでしかない。その上、資本主義的生産の発展は、それを常に与えられたある工業企業家をして資本量の増大を維持する必要があり、そして競争が資本主義的生産の内部法則をして各資本家個人によってあたかも外部からの強制的な法則と感じさせるようにする。それが彼をして、彼の資本の絶えざる拡大の維持を強いる。それを保持するためには、かれはそれを拡大するのだが、累進的な集積手段以外の方法によってそれを保持することはできない。
(4)従って、彼の様々な行為が単に資本機能である限り、−資本であるとして賦与され、彼の役にある、自意識と意志においては−彼自身の私的消費は集積に仇をなす狼藉でしかなく、複式簿記上は、資本家の私的支出は、彼の資本に対しては逆の、彼の勘定の借方側に記される。集積することは社会的富の世界の制服であり、彼によって搾取される大勢の人類の増加であり、そしてかくして、資本家による直接的・間接的統治のいずれをも拡大する。*20
本文注20 / 資本家の見本、高利貸し、古風とはいえいつも新しい姿を見せる高利貸しについて、ルーサーは、彼の書物の中で、非常に適切にこう書いている。力への熱愛は富を獲得する欲求の一つの要素であると。「異教徒達は理性の光によって、高利貸しは二重に染められた盗賊であり殺人者であると結論することができた。ところが、我々クリスチャンは彼等に名誉を与えて崇める。我々は、彼等を彼等の貨幣ゆえにはっきりと崇拝する。….誰であれ、他人の慈しんだものを食い尽くしたり、略奪したり、掠め取ったりした者は、人を飢餓に陥れたり、人を破滅させたりするとんでもない殺人者(彼が直接手を下し、あの世に送った限りでのことだが)と同じである。そのような行為をなす高利貸しは、絞首台に吊るされ、そして彼が盗んだギルダー貨幣の数と同じ数の烏に食われて然るべきなのに、もっとも彼にそれほどの肉がくっついていて、それだけの沢山の烏がつっつきそれなりの分け前に行き着けばの話だが、その間も彼は安穏に椅子に座っている。その間も我々は、こそ泥を吊るしている。….こそ泥はさらし台に載せられ、大泥は金や絹をこれみよがしにみせびらかしながら大道を行く。….従って、この地上には、全ての人を支配する神になろうと欲する銭を握る者と高利貸し以上の人類の敵(悪魔に次ぐ)はいない。トルコ人や兵隊や大君もまた悪人であるが、それでも人々を生かさねばならず、そして彼等が悪人で、敵であると告白し、そしてそのようにする。いやそうではなく、今こそ誰かに哀れみを見せなければならない。しかるに、高利貸しと銭鼬は、すべての世界を飢えと渇きで苛み、悲惨と困窮を蔓延させ、彼の手が届く限りの人々をあの世に送る。それ故、彼は全てを自分の手に入れるだろう。そして全ての者は彼から、まるで神からかのように受け取ることになろう。そして永遠の彼の奴隷となる。きれいな外套をまとい、金の鎖や金の指輪を身に付け、口を拭い、立派で敬虔な者に見せかけ、そう思わせる。….高利貸しはとんでもない大きな怪物である。まるで狼男のよう。彼はすべてを浪費する。それはあらゆるカクスやゲリオンやあるいはアンティウス以上である。しかも着飾って、敬虔と思わせ、それ故人々は牡牛がどこえ行ったのかを見ることはできないだろう。彼は牡牛を尻の方から彼の小屋に引き入れるのだから。しかし、ヘラクレスは牡牛や彼の囚人の叫びを聞くであろう、そして断崖や岩石の中からさえもカクスを見つけ出すであろう。そして牡牛を悪漢の手から解き放つであろう。なぜならばカクスとは敬虔な高利貸しで、横取りし、略奪し、食い尽くす悪漢を意味するから。そして彼がそのようにしたからと(云って、彼自身ではそれを持ってはいないであろうし、彼を究明することは誰にも出来ないと思っている。なぜならば、彼が彼の小屋に引き込んだ牡牛は、見た目には、牡牛の足跡から、牡牛は外に出ていったようになっているからだ。そのように高利貸しは、世間を欺く、一人で引きちぎって食べてしまった牡牛をまるで世間の使用に与えたかのように欺く。….昔から我々は、追剥や殺人者や押し込み強盗らを車裂きにしたり首を刎ねたりしてきたが、我々がそれ以上に車裂きにし、殺すべきものは、….捜し出し、罵り、斬首するべきは全ての高利貸しらである。」(マルティンルーサー既出)
(5)しかし、原罪はどこへでもついて回る。資本主義的生産、集積、そして富の成長に応じて、資本家は単なる資本の化身としての存在を止める。彼は彼の内なるアダムに仲間意識を持ち、彼の学識が禁欲の激情に置かれている彼に微笑を可能とし、その禁欲を古風な守銭奴への単なる偏見のごときものとする。古典的なタイプの資本家が個人的な消費を彼の機能に対する罪のごときものとして烙印を押し、また集積のために「制欲すべきもの」とするが、一方の近代資本家は集積を快楽に対する「制欲」と見ることができる。
(6)「ああ、悲しいかな、二つの心が彼の胸に宿る。その一つはもう一つからいつも離れて行く。」*21
本文注21 / ゲーテの「フアウスト」を見よ。
(7)資本主義的生産の歴史的黎明期においては、−成り上がったどの資本家も、個別的にはこの歴史的な段階を通らねばならない。−貪欲と富者への願望が支配的なる激情である。しかし資本主義的生産の進展は歓喜の世界を作り出すのみではなく、投機と信用のシステムを据え,突然の富の何千という源泉を開く。その発展がある段階に到達すれば、習慣的な範囲の浪費、それもまた富の展示であり、それゆえ信用の源泉でもあるが、その浪費が「不幸な」資本家の必要な商売となる。贅沢が資本家表現の支出項目に入り込む。さらに、資本家は豊かになり、自分の労働と消費の抑制に比例する守銭奴とは違って、だが同じ様な比率をもって、他人の労働力を搾り取り、そして労働者に対しては、全ての生活の娯楽に関して制欲を強いる。それ故、資本家の浪費は封建領主の物惜しみしない誠意をもった性格を決して持たず、これとは逆の、最も汚い貪欲と最も狡賢い打算がいつも隠されている。にもかかわらず、依然としてかれの支出は彼の集積に応じて大きくなり、一方の必要を縛る他方もありはしない。しかし、この成長につれて、そこには同時に、彼の胸に、フアウスト並の葛藤が、集積への熱情と娯楽への欲望との間で大きさを増す。
(8)エイキン博士は、1795年発行の彼の著作の中で、次のように云う。
(9)「マンチェスターの商売は、四つの期に分けることができるだろう。第一期は、工場手工業者達が彼等の生活のために激しく働くことを余儀なくされていた。」
(10)彼等は、主に、子供たちが彼等に見習い工として奉公させられるのだが、その親たちから略奪することで富を成した。両親たちは、高いブレミアム料金を支払ったのだが、見習い工たちは飢えに苦しんでいた。その一方で、平均利益は低く、また、集積のために、極端なけちが不可欠であった。彼等は守銭奴のように暮らし、彼等の資本の利子さえ消費することからは遠い生活であった。
(11)「第二期は、彼等が多少なりとも家具を備え始めた時期である。しかし以前と同じ様に激しく働いた。」−奴隷使用主ならだれでも知っているように労働の直接的搾取にはそれなりの労働をせねばならぬ。−「そして以前と同様な質素な生活をしていた….第三期には、贅沢が始まった。そして商売は、王国のあらゆる市場都市に注文取りの騎馬ライダーを回らせることによって、活況を呈した。1690年以前ここで、商売によって得られた3,000ないし4,000英ポンドの資本なるものは殆ど無かったであろうし、あるいは全く無かったであろう。とはいえ、この頃またはほんの少し後の頃、すでに商売人らは以前からの貨幣を手にしていた。そして木と漆喰の家に替わって、近代的な煉瓦づくりの家を建て始めた。」
(12)18世紀初期にあってさえ、彼の特別なる客達に1パイントの外国製ワインを出したあるマンチェスターの工場手工業主は、近隣の全ての人々の注視と左右の首振りに晒された。機械が登場する以前は、工場手工業主達が集う酒場での夕時の支払いは手頃なグラス一杯は6ペンスを、そして一包みのタバコは1ペニーを越えることは無かった。1758年にはまだなっていなかったが、画期的なことが起こった。というのも、ある人物が、彼の商売に、現実に、自前の完全装備の四輪馬車を用いたと知られたことだった。
(13)「第四期は、」18世紀末の30年間だが、「その頃は浪費と贅沢が非常に冗長した。ヨーロッパのあらゆるところをめぐる騎馬ライダーや代理人を使って拡大された商売がそれを支えた。」*22
本文注22 / エイキン博士の「マンチェスターから30ないし40マイルの地域に関する記述」ロンドン1795年
(14)もし、美徳溢れるエイキン博士が彼の墓から起き出して、今日のマンチェスターを見たらなんと云うだろうか?
(15)集積せよ、集積せよ!それこそ予言者モーゼの言葉なり!「勤勉が集積を助ける素材をもたらす。」*23 それゆえ、倹約、倹約、それが剰余価値または剰余生産物のできうる限りの大きな部分を資本に再変換する。集積のための集積、生産のための生産、この公式によって、古典的経済学はブルジョワジーの歴史的ミッションを表わし、また一瞬も、富の誕生の苦しみに関してはその公式を欺くことはなかった。*24 しかし、歴史的必然を目の当たりにして嘆いたとしても何の役に立つと云うのか?仮に古典経済学にとって、プロレタリア階級が単に剰余価値の生産のための装置であるとするなら、他方の、資本家階級も同様に単なるこの剰余価値を追加的な資本へと変換する装置である。政治経済学は資本家の歴史的職務を、苦々しきことの始まりと解する。彼の胸の内なる享楽欲望と富の追及との恐ろしい葛藤に魔法を施すために、1820年となった頃、マルサスは、その苦労の分割を主唱した。(英文は、なんとadivisionoflabourなのである。なるほど。やつらの分業とな。)すなはち、実際に生産に係わる資本家には集積のビジネスを、そして剰余価値を分け合う他の者達、地主等や高い地位に居座る者等や属領所有聖職者等には浪費ビジネスを割りつける。これが最上段の重要事項と彼はのたまってこう言う。
本文注23 / A.スミス既出第三巻第三章
本文注24 / J.B.セイですら、こう云っている。「金持ちの蓄財は貧乏人の支出から作られる。」「ローマ時代のプロレタリアはほとんど全くのところ社会の支出によって生きていた。….このことはほとんど次のようにも言える。近代社会はプロレタリアの支出によって生き延びている。その上にありながら、近代社会は労働の報酬のあるべき姿を締め出している。」(シスモンディ「学問他」第一巻)
(16)「浪費熱情と集積熱情の分離を維持するために」*25
本文注25 / マルサス既出
(17)長らく良き生活を送り、また世界に知れた人物ともなっていた資本家等は大きな叫び声をあげた。リカード学派の、資本家の代弁者は絶叫する。マルサス氏の高い地代や重い税金等々の説教は、非生産的消費者による、勤勉を常に維持せよとのプレッシャーに拍車をかけるというものだ!なにはともあれ生産、常にその規模を拡大する生産をと古くさい文句を云うが、しかし、
(18)「生産はそのようなやり方では拍車を掛け続けるよりもよっぽど妨害されることになるだろう。他人から搾り取るだけの多くの人々を怠惰にしておくこのようなことが果して公平と言えるものか。もし彼等を働かせるように強制することができるならば、なんらかの結果を残すように働かせることができるならば、彼等が彼等の勤勉法なるものからして、なんとかなるはずなんじゃないのか。」*26
本文注26 / 「需要の性質に関する様々な原理の調査その他」
(19)勤勉なる資本家に、彼のパンとバターを奪うことによって拍車をかけるというのは不公平なことと彼は気付くのではあるが、依然として彼は労働者の賃金を、「彼の勤勉を維持するために」最低限まで減らすことが必要であると考えている。そしてまた、この時ばかりは、不払い労働の私物化が剰余価値の秘法であると云う事実をも隠そうともしない。
(20)「労働者たちからの増大した要求は、彼等自身のために、彼等自身が生産した生産物を多少なりとも手に入れたいと云う以上のものを意味するものではないし、実際にはその生産物の大部分を彼等の雇用主に残している。もしそれが、消費(労働者たちの)を減らすことによって供給過剰をたらすと云うなら、私はただ、その供給過剰とやらは大きな利益と同義語であると答えるのみである。」*27
本文注27 / 前出
(21)労働者から汲み上げた戦利品はいかように、集積にとって最も有利となるように、勤勉なる資本家と怠惰な富者との間でどのように分配すべきかと云う学問的論争は、七月革命に直面して沈黙させられた。直ぐ後に、リヨンで、都市プロレタリアは、革命ののろしを揚げ、英国で、農村ブロレタリアは、農具置場や穀物倉庫に火を懸け始めた。海峡の英国側ではオーウェン主義が拡がり、あちら側ではサンシモンズ主義やらフーリエ主義が広がった。俗流経済学の授業は終わっていた。マンチェスターで、ナッソーW.シーニョアが、資本の利益(利子を含む)が、12時間のうちの最後の1時間の生産物であると発見したその丁度1年前、彼は別の発見を世界に発表していた。
(22)「私は、」と彼は誇らしげに云った。「生産の道具と考えられている資本なる文字に替えて、節欲と云う文字を当てる。」と。
(23)これは、他に類似を見出すこともできないほどの俗流経済学のとんでも発見のいい例である!まるで経済学的用語に替えて、おべっか修句を当てている。大売出しの旗ばっかり。(フランス語sailallなのだが、ここは無理やりsaleallで)
(24)「野蛮時代では、」とシーニョアは云う。「人は弓矢を作るに、勤勉をもって行う。が、彼は節欲はしない。」*28
本文注28 / (シーニョア「経済学の基礎的原理」伝統的なるアリバベネ版パリ1836年)この言葉は旧古典経済学派の者には余計なことであった。「シーニョア氏はそれ(労働とその利益と云う表現)に替えて、労働とその節欲なる表現を用いる。彼、彼の収入を変換する者、が、楽しみのために支出を許されているのにそれを節欲する。そもそも利益の原因は、資本の生産的な使用であって、資本にありはしない。」(じョンケイズノーブ既出)これとは違って、ジョンSt.ミルは一方でリカードの利益論を受け入れ、他方ではシーニョアの「節欲の報酬」をも追加する。彼は弁証法の出発点でもあるヘーゲルの矛盾の海で見出すものを、あたかも自分の家の回りで見つかる馬鹿げた矛盾と同一視する。どういう分けかあらゆる人間行動が、その反対物の「節欲」のごときものとして表れるという簡単な思考が俗流経済学者には決して生じない。食事は断食の節欲、歩行、じっと立っていることの節欲、労働、怠惰の節欲、怠惰、労働の節欲等々。これらの紳士諸君はたまには、スピノザの「確定は否定なり」なる言葉についてよく考えてみるがよい。
(25)「節欲しない」と云う言葉が説明しているものは、初期状態の社会にあっては、労働の道具が、いかにして、かつ何故、資本家に生じる節欲なしに作られているかである。
(26)「社会がより進歩すれば、より節欲が求められる。」*29
本文注29 / シーニョア前出
(27)すなわち、他人の企業の果実を横取りしようと狙っている輩からの節欲の要求と云うお話。これでは、労働過程を維持継続する全ての条件は、たちまちにして、資本家の様々なる節欲行動へと変換される。もし穀物が全て食べ尽くされるずに、いくらかは種蒔きされるなら、−資本家の節欲。もしワインが熟成時間を得るならば、−資本家の節欲。*30 資本家が「労働者に生産道具を貸す(!)場合はいつでも、資本家は彼自身の持ち物を盗む。すなわち、それらを労働力と一体化させる場合はいつも、それらを食べ尽くすのに替えて、それらをその労働力から剰余価値を引き出すために使用する。蒸気機関、綿、鉄道、肥料、馬、など全てを。また俗流経済学の子供じみた表現で云うならば、それらの価値を贅沢品とかなんとかの消費で散財する代わりに用いる。*31 資本家らが階級として、いかにこの偉業を実行するかは、俗流日米欧中ロ経済学領域の特定秘密である。俗流経済学は、今に至るもその秘密の漏洩を頑なに拒んで来た。資本家にとっては、この資本家なる近代ヒンズービシュヌ教改心者の自己節欲だけで依然として世界は前進していると云うことで十分なのだ。集積のみでなく単純なる「資本の維持でさえも、それを消費しようとする誘惑に抗する努力が、間断なく必要なのである。」 従って、ごく単純な人間的な命令が、資本家の苦悶と誘惑からの解放をもたらすことは明らかである。これと同じような命令が最近ジョージアの奴隷所有者に通達された。奴隷制度の廃絶と云う命令である。そして、剰余生産物をどぶに捨てるか、黒人奴隷を鞭打つことに使うか、シャンパンに散財するか、はたまたはそれをより多くの黒人奴隷とかより多くの土地とかにつぎ込むかの苦痛のジレンマから解放した。
本文注30 / 「何人も、….追加的な価値他の獲得を考えることもなく、様々な物とかそれらの等価を直ちに消費する代わりに、例えば、小麦を蒔きはしないだろうし、また畑に12ヶ月も放置もしないし、またワインを何年も貯蔵室に置きっぱなしにはしないだろう。」(スクロープ「政治経済学」A.ポッター編ニューヨーク1841年)
本文注31 / 彼自身に生じる貸すと云う剥奪を資本家的に表わし、(この婉曲法は、俗流経済学の公認表現法であって、労働者が工業資本家から搾取されるのを、工業資本家が搾取するのであるが、その資本家に他の資本家が金を貸すと云うことを表すのに用いられる。)それらの価値を、使う物や遊びの物に替えてしまう彼自身の消費に支出する代わりに、労働者に彼の生産道具をくっつける。(G.ドゥモリナリ既出)
(28)最も異なる種類の社会の経済形式においても、そこには単純な再生産のみではなく、刻々と変化するものや、累進的に規模を拡大する再生産も生じる。その度合に応じて、沢山の物が生産されればされる程、より沢山の物が消費される。そしてその結果として、より沢山の生産物が生産手段に変換される。とはいえ、この過程にあっては、それ自体を資本の集積なるものとして現しはしないし、資本家の機能なるものとしても現しはしない。労働者の生産手段である限りでは、そしてそれらと共にある限りでは、彼の生産物であり生活手段である限りでは、それらが、彼に対して、資本の姿で立ちはだかることはない。*33 リチャードジョーンズは、二三年前に亡くなったが、マルサスの後継者で、ヘイリーバリー大学の政治経済学部の学部長を務めていた。そして彼はこの点について二つの重要な事実の光を当てて論じている。大多数のヒンズーの人々は彼等自身達の土地を耕す農民であり、彼等の農産物を育て、彼等の労働用具を作り、そして生活必需品を得るのであるから、「収益を貯めて、集積過程の前身へと進展するような基金を形成するようなことなどはあり得ない。」*34 他方、英国の支配が古きシステムを殆ど乱すことが無かった地域の非農業労働者達は、剰余農業生産物が年貢とか地代とかの形で提供されるお大尽らに雇用される。この生産物の一部は、様々なお大尽方によって消費され、またこれらの労働者によって、彼等のための贅沢品とかそんなものに変換される。また残りは労働用具を持つ労働者達の賃金を形成する。この部分では、生産及び再生産は次第に、苦悩に満ちた騎士面で、資本家に「節制」をほざく、生臭聖者らの介在もなしにその規模は大きくなる。
本文注33 / 「国家資本の進展に最も多大なものをもたらす特殊ないくつかの階級は、それらの進歩の異なる段階に応じて変化する。そしてそれ故、その進歩において異なる地位を占める国々も全く異なる。….利益….社会の初期の段階では、賃金や地代とくらべても集積の源泉としては取るに足らない。….国家的な工業の力が大きな進歩となるに及んで、利益は集積の源泉として比較的重要なものとして登場してきた。」(リチャードジョーンズ「教科書その他」)
本文注34 / 前出 
第四節 

 

剰余価値を資本と収入に分ける比率から独立して、集積の大きさ、労働力の搾取度、労働生産性、充当される資本と消費される資本間の差額の増大、前貸し資本の大きさ、等を決める諸事情[Dr.エイブリング訳エンゲルス監修]
(1)資本と、収入とに、剰余価値を分ける比率が与えられているものとすれば、集積資本の大きさは云うまでもなく剰余価値の絶対的大きさに依存する。仮に、80%が資本化され、20%が腹に納まるものとすれば、集積された資本は、全剰余価値が3,000ポンドまたは1,500ポンドであれば、2,400ポンドまたは1,200ポンドとなるであろう。であるから、ここでは、剰余価値の大きさを決める全ての諸状況が集積の大きさを決める作用をなす。我々はこれらの点についてもう一度要約して置こう、但し集積に関して新たな視点を提供するもののみに限るものとする。
(2)剰余価値率が、まず第一に、労働力の搾取の程度に依存していると云うことが思い起こされよう。政治経済学はこの事実をことのほか高く評価するため、たびたび、労働者の搾取増大による集積の加速を、労働生産性の増大による集積の加速と、同一視する。*35 剰余価値に関する各章では、賃金は少なくとも労働力の価値と等価であると前提されている。しかしながら、我々にとっては、この価値以下に賃金を強制的に引き下げることが実際に生じており、非常に重要な点になっており、それを見過ごすことはできない。事実、それが、ある範囲において、労働者の必要な消費基金を資本集積の基金へと変換している。
本文注35 / 「リカードは云う、「社会の様々な段階で、資本の集積または労働雇用」(すなわち搾取)「手段には、様々な成長速度があり、そしてそのすべてのケースで、労働の生産的諸力に依存しているにちがいない。労働の生産的諸力は、一般的に云って、肥沃な土地が豊富にある場所で最大となる。」もしこの文章において労働の生産的諸力なるものが、それを作り出した、肉体労働を行った者たちに帰属する部分が小さいことを意味するならば、この文章は同義反復に近い。なぜならば、残りの部分は、もし所有者が望むなら、資本が集積されるうる基金であるからである。だが、最も肥沃な土地では一般的に云ってこうしたことは起こらない。」(「ある種の言葉争いに関する観察、その他」)
(3)「賃金は」と、ジョンスチュアードミルは云う、「何も生産的な力を持っていない。それらは生産的な力の価格なのである。賃金は労働と一緒になっても、商品の生産に貢献することはない。道具の価格が道具と一緒になってもそれ自体がなんら貢献しないのと同様である。もし、労働が購入することなしに手にすることができるならば、賃金なんぞ無くて済むだろう。」*36
本文注36 / J.スチュアードミル「政治経済学のある未解決の問題に関する評論」ロンドン1844年
(4)確かに、労働者たちが空気を食して生きて行けるならば、いかなる値段でも買われることはない。彼等のコストがゼロであることは、確かに数学的感覚としての限界であり、いずれにしても到達することはないが、にもかかわらず、我々は常にそれにより近づくようにと考えることはできる。資本の常に変わらぬ傾向としては、労働のコストをこのゼロに引き下げようとする。18世紀のある著者は、すでに度々引用したが、「商売と取引に関する評論」の著者は、英国の賃金をフランスやドイツのレベルに引き下げることが、英国の歴史的なミッションであると述べるのだが、まこと、英国資本主義の最も深く秘められた精神情報を漏らしたものである。*37 その他の事に関しても、彼は、無邪気にもこう云う。
本文注37 / 「商売と取引に関する評論」ロンドン1770年これと同様、タイムス紙1866年12月号1867年1月号には、英国の炭鉱所有者の精神の明白なる吐露が載せられていた。幸せに満ちた多くのベルギーの炭鉱労働者は、彼等の「ご主人様」のために、彼等が生きていくに厳密に足りるものしか要求せず、その額を受け取っていると書かれていた。ベルギーの労働者たちはさらに苦痛を耐えねばならない、なのにタイムス紙上ではあたかも労働者のモデルであるとは!1867年2月の初め、その答えが返ってきた。ベルギーマルシェンヌの炭鉱労働者のストライキである。火薬と鉛弾で鎮圧されたが。
(5)「確かに、もし、我が貧乏人(労働者たちを表す技術用語)が将来贅沢に暮らすことになるならば、….労働は、当然ながら、高いものとなる。….工場手工業労働者らの下層階級どもが例えば、ブランディー、ジン、紅茶、砂糖、外国産の果物、度の強いビール、ブリント柄のリネン、嗅ぎ煙草、煙草、他、のものを贅沢に消費する時のことを考えても見よ。」*38
本文注38 / 前出
(6)彼はノーザンプトンシャーのある工場手工業主の著作を引用する。その工場主は天を上睨みしながら、呻いた。
(7)「フランスでは、英国よりも労働が1/3も安い。なぜかと云えば、彼等の貧乏人はよく働き、食べ物に関してはよき粗食である。着物も同様である。彼等の主な食べ物は、パン、果物、ハーブ、根菜類、そして魚の干物である。肉は殆ど食べない。また小麦が高ければ、パンも僅かしか食べない。」*39 「それに加えて」と、このエッセイストは続ける。「彼等の飲み物は水か少し酒が混じった水みたいなもので、それゆえ、殆ど。お金は使わない….このような事が簡単にできるわけではないが、出来ないと云うものでもない。それらはフランスやオランダのいずれも証明されている。*40
本文注39 / ノーザンプトンシャーのこの工場手工業主は、偽善的な誇張を犯している。そう言う気持ちは分かるので大目に見ておこう。彼は、英国とフランスの工場手工業労働者の生活を名目的に比較しているが、彼が表現しようとして引用した事は、彼自身が混乱して自白しているごとく、フランスの借地農業者のことを引用している。
本文注40 / 前出 ドイツ語版第三版の注 今日では、世界市場における競争に感謝している。その樹立以後、我々はより以上の前進を満喫している。「もし中国が」と、国会議員スタップルトンは彼の選挙区の人々に次のように云う。「中国が偉大なる工場手工業国になるならば、いかにしてヨーロッパの工場手工業労働者が、彼等競争者のレベルにまで生活を低下させずしてその競争を維持できるか、私には分からない。」(タイムズ紙1873年9月3日)英国資本が熱望する目標はもはや大陸賃金どころか、中国賃金なのだ。
(8)20年後、アメリカ人の詐欺師、男爵となったヤンキーのベンジャミントンプソン(別名ラムフォード伯)は、同じ博愛の道をたどり、神と人類を満足させる偉大なる解答に到達した。彼の「エッセイ」は、労働者のいつもの高い食料を適当な代用品に置き換えるためのあらゆるレシピの料理本なのである。次のレシピはこのすばらしい哲学者の特別の好例なのである。
(9)「5重量ポンドの大麦ミール、71/2ペンス。5ポンドのインドトウモロコシ、61/4ペンス。3ペンスの燻製にしん。1ペンスの塩。1ペンスの酢。2ペンスの胡椒とハーブ。計203/4ペンス。これでスープ64人分となる。そして大麦とインドトウモロコシの平均価格をもってすれば、….このスープは、20オンス当たり1/4ペンスとなろう。」*41
本文注41 / ベンジャミントンプソン「評論集政治的・経済的・哲学的・その他の」全3巻ロンドン1796-1802年第一巻F.M.イーデン伯は、彼の著「貧民が置かれた状況、または英国の労働者階級の歴史、その他」でラムフォード風の乞食スープを労働者ハウスの運営委員達に強く推奨している。そして、英国労働者たちに非難を込めてこう警告する。「多くの貧しき人々、特にスコットランドで暮らす人々が幾月も続けて、単に水と塩に混ぜたオートミールや大麦ミールを食べて、非常に快適に暮らしている。」と。(前出第一巻第一冊第二章)19世紀のこれと似たものに、「最も健康に良い小麦粉の混合物はいつも(英国の農業労働者には)受け入れられてはいない。スコットランドでは、教育がよりいいので、多分、この偏見は知られていない。」(チャールスH.パリー医師「現穀物法の必要性に関する問題点の考察」ロンドン1816年)がある。この同じパリーが、それにもかかわらず、こう嘆く。現在(1815年)の英国労働者は、イーデンの時代(1797年)よりももっと悪い条件に置かれている。と。
(10)資本主義的生産の進歩とともに、食品への混ぜ物混入による粗悪化が大手を振るうようになり、トンプソンの提案を余計なものにしてしまった。*42 18世紀末から19世紀初めの10年間、英国借地農業者らと地主らは絶対的極小な賃金を強制した。農業労働者には最低限以下の額を賃金として支払い、残りは教区の救済金の形で支払った。英国のドグベリー達が演じたところの賃金体系を「法的」に決めたでたらめなやり方の一例は。
本文注42 / 最新の議会調査委員会の報告書は、生存手段への混入物による粗悪品化について、医薬品ですらこうした混入物からなる粗悪品が見られるであろう。と述べている。英国では普通に行われており、例外的ケースではない。例えば、阿片の34個の見本、ロンドンで様々な異なる薬局で購入したもの、の検査の結果は、31個ではけしの頭部、小麦粉、ゴム、粘土、砂その他が混入されていた。何個かはモルヒネの1分子も含んでいなかった。
(11)バーク氏は云う。「東部ノーフォーク州の大地主らが賃金の率を決めるには、食事を取った後とするが、1795年スピーンナムランドで賃金等の率を決める時、南部のバークシャー州の大地主らは、どうしたことか、労働者たちにはそんなものは必要ないと考えた。そこで彼等は「(週の)手当ては一人当たり3シリングにすべきである。」と決定した。1ガロンまたは8ポンド11オンスの半塊パンが1シリングの場合で、それが1シリング5ペンスに至る間はそれなりに手当てが増加するものとした。それ以上の場合は2シリングに至る間減額するものとした。かくて、彼の食料は1/5少なくなるはずであろう。」*43
本文注43 / G.B.ニューナム(弁護士)「穀物法に関する両院調査委員会に提出された証拠に関する評論」ロンドン1815年)
(12)上院調査委員会において、1814年例の人物A.ベネット大借地農業主、治安判事、救貧院院長、そして賃金の調整委員は、以下のような質問を受けた。
(13)「労働者たちに対する日労働の価値の比率は救貧院の給付金率に関係があるのか?」答え、「はい、あります。全ての家族の週手当ては、一人当たり1ガロンのパン(8ポンド11オンス)と3ペンスとなるようになっています。そのガロンパン/週については、我々は、家族の皆を一週間養うのに十分だと思います。そして、3ペンスは衣料分で、もしも教区が衣料を見つくろう方が適当ならば、その3ペンスは差し引かれます。このやり方はウイルトシャーの西部一帯で行われており、私は英国中で行われているものと信じています。」*44 「何年にも渡って」と、当路のあるブルジョワジー著者は叫ぶ。「彼等(その農業主ら)は、彼等の高潔な農業労働者階級の人々に、救貧院を当てにするよう強いることによって、堕落させた。….農業主は、自分の収益の増大が続く間、彼の依存者たちの側のわずかな集積をも踏みにじった。」*45
本文注44 / 前出
本文注45 / C.H.パリー前出。地主らは、彼等の側に、英国の名のもとに行った反ジャコバン戦争の損失を「賠償」させたのみならず、それどころかとんでもなく彼等自身を大金持ちにした。彼等の地代は、2倍、3倍、4倍、「ある例ではこの18年間で6倍にもなった。」(前出)
(14)我等の今日にあっても、剰余価値を形成する基金にのうちの、従って資本の集積基金を形成するものでもあるのだが、そのうちの労働者が必要とする消費基金から鷲掴みして奪い取る役割を演じる者については、以前のいわゆる家内工業と呼ばれるものがこれをよく示している。(第15章第8節c)このテーマについての更なる現実がこの先で示めされよう。
訳者注 / 第15章第8節cの一部をここに置くことにした。「彼等それぞれは7人の手下を彼の小屋に食事付きで宿泊させる。彼の家族であろうとなかろうと、成人男子、少年、少女全員がその小屋で寝る。小屋は通常部屋が二つ、例外的に三部屋で、全て一階で通風が悪い。これらの人々はその日の重労働で疲れ果てていて、健康のルール、清潔さのルール、礼儀正しさのルールは少しも見られない。この様な小屋多くのは乱雑で、汚れていて、埃も….の見本である。この様な作業に年少少女を雇うことの最も大きな悪影響は此処にある。通例として彼女たちを幼児期の初めからその後の一生をこの最も破廉恥ななべに繋ぎとめる事にある。」
(15)全ての工業各部門において、労働手段を構成する不変資本の大きさは、(その部門の意図する商売の大きさによって決められる)労働者数に見合ったものでなければならないが、とはいえ、雇用労働者数に合わせて同じ様な比率で、常に、増大させる必要は全くない。ある工場では、100人の労働者が日8時間働き、800労働時間を産み出しているものとしよう。もし資本家がこの量をもう半分増加させたいと欲するならば、彼はさらに50人を雇用することもできる。だが、そうするならば、彼は更なる前貸し資本を投入せねばならない。賃金だけではなく、労働手段にもである。しかし彼はまた、その100人の労働者を8時間に替えて12時間働かせるかも知れない。そして、労働手段はすでに手持ちのもので十分かも知れない。単にそれらはより急速に損耗するかも知れないけれど。かくして、それなりに増加させねばならぬ固定資本分なしに、追加労働は、労働力にはより大きな緊張をもたらすが、剰余生産物と剰余価値(それが集積の狙いである。)を増大させることができる。
(16)採掘業、鉱山その他では、そこでの原材料は前貸し資本には当たらない。この場合の労働対象はそれに先立つ労働の生産物ではなく、金属、鉱石、石炭、石材、その他、のケースでは、自然が無料で用意したものである。これらのケースでは固定資本はもっぱらそのものずばりの労働手段で構成される。それら労働手段は労働量の増加を非常にうまく吸収することができる。(例えば、労働者たちを昼夜交代シフト制で働かせるとか)他のものが全て同じであるならば、生産物の量と価値は、つぎ込んだ労働量に直接的に比例して増大するであろう。生産の第一日目のように、新たに、当初の生産者・形成者が、資本の物質的要素の創造者へと変わる。−人間と自然−が依然として共に働く。労働力の伸張性に感謝する。集積の持ち分が、なんらそれに先立つ固定資本の拡大なしに拡大したのである。
(17)農業では、種子と肥料の更なる前貸しなしでは、栽培によって生産物を得る土地を増やすことはできない。しかし、一度この前貸しがなされれば、純機械的にその土地自身が生産物の量に驚くほどの結果をもたらす。以前と同じ数の労働者によってなされるより大きな労働量が、労働手段の新たな前貸しを何ら必要とせずに、土地の肥沃度を増大させる。いかなる新たな資本の介在もなしに、より大きな集積の直接的源泉となるものは、前にも指摘したように自然に働きかける人間の直接的な行為なのである。
(18)そして最後に、いわゆる工場手工業を捉えてみよう。そこでは追加的労働に対してはそれに対応する追加的な原材料が前提される。しかしだからと云って労働手段が必ずしも必要ではない。つまり、採掘業や農業は工場手工業にそれらの原材料やそのための労働手段を供給する。前者の追加的な生産物は追加的前貸し資本なしで作られているのであるから当然ながら後者の工場手工業にもそれなりの効用が及ぶと語っている。
(19)一般的な結論。資本は、二つの根本的な富の創造者、労働力や土地と一体化することによって、あきらかなる自身の大きさによって規定された限界を越えて、または、それが資本そのものの存在なのであるが、既に生産された生産手段の価値と大きさによって規定された限界を越えて、資本の集積の諸要素を拡大することを可能とする拡大力を獲得する。
(20)資本の集積におけるもう一つの重要な項目は社会的な労働生産性の水準の高低である。
(21)生産性の高い労働力によって、生産物の量は増大する。その生産物には、それなりの価値、そして、であるから、与えられた大きさの剰余価値も実体化されている。剰余価値率が同じに留まるか、または下落していてさえ、生産的労働力の上昇に比較してよりゆっくりと下落する限りでは、剰余生産物の量は増加する。この剰余生産物の収入と追加的資本への分割が以前と同じであるとすれば、資本家の消費部分は、従って、集積基金にはなんらの減少を伴うこともなしに、増大する。集積基金の相対的大きさは、消費基金の支出がどうであれ、さらに増加するであろう。またその一方で、商品の低廉化が、資本家の享楽手段への支出をいつものようにもたらすか、またはいつも以上にさえももたらすことになる。しかし、我々が見てきたように、労働生産性の増大と一体そのものであるところの労働者の低廉化も進む。であるから、現実の賃金が上昇していてさえ、より高い剰余価値率となって表れる。現実の賃金は決して労働生産性に比例して上昇することはない。従って、同価値の可変資本はより多くの労働力を使い回す。つまりより多くの労働を飲み込む。同価値の固定資本は、より多くの生産手段となる。すなわち、より多くの労働手段、労働対象、補助材料となる。であるから、また、より多くの生産のための要素、使用価値と価値のいずれをも、そしてまた労働の吸収剤をも供給する。従って、追加資本の価値が、以前と同じかまたは多少減少ですらあっても、集積の加速は依然として出現する。再生産の規模が物質的に拡大するのみではなく、剰余価値の生産が、追加資本価値よりもより急速に増大する。
(22)労働の生産的な力の発展は、また、すでに生産過程に用いられている当初の資本にも撥ね返る。労働手段を構成する固定資本として機能しているそのある部分は、例えば機械、その他、は消費されずそれ故再生産されることもなく、または同じ種類の新たなものに、その長い期間を経過しない前に置き換えられる。とはいえ、これらの労働手段の一部は毎年、損耗し、あるいは生産的機能の限界に達する。従って、その年に周期的な再生産の時期に該当するものは同じ種類の新たなものによって置き換えられることになる。もし、労働の生産性が、これらの労働手段が使用し尽くされる間に、増大するならば、(そしてそれが絶えず遮ることのできない科学と技術の進歩によって発展する。)またより効率的で、(それらの増大された効率を考慮すれば)より安い機械、道具、機器が古きものを置き換える。すでに使用されている労働手段の細かな継続的改良は別として、古き資本はより生産的な形で再生産される。その他の固定資本部分、原材料や補助材、は、絶え間なく、1年未満の内に再生産される。農業によって生産されたそれらのものは、殆どのものが毎年再生産される。従って、改良された方法のあらゆる導入は、新たな資本にも、すでに稼働している資本にも、殆ど同時に作用する。あらゆる化学の進歩は、単に多くの有用なる物質を、すでに知られたそれらの有益なる応用を倍増するのみでなく、そのようにして投資局面において資本の成長を拡大する。同時に、化学は生産過程や消費過程からの廃棄物を再生産過程の循環に投入することを教える。かくして、なんら先立って投入する資本もなしに、新たな資本材料を創造する。あたかも自然の富を、単に労働力の強度を高めるだけで搾取するがごとく、科学と技術が資本に、現実に機能している資本の与えられた大きさからは独立して、その拡大力を与える。丁度更新時期に到達した当初資本の部分にも同時にそれらが撥ね返る。古き形が使い尽くされる間に起こった社会的進歩が無償で、成り行き的に新しい形で当初資本に一体化される。勿論この生産的な力の発展には、機能している資本の一部に減耗が伴う。この減耗が資本家間の競争において苦痛に感じられる場合には、その重荷が労働者に被せられる。資本家が彼の損失補填を労働者に対するより大きな搾取に求めるからである。
(23)労働は労働手段を消費することによってその労働手段の価値を生産物に移転する。他方、与えられた労働の量によって用いられる労働手段の大きさとその価値は、労働がより生産的となるにつれて増大する。同量の労働は常にその生産物に同量の新たな価値を追加するのみではあるが、にもかかわらず、古き以前の資本の価値も、労働によって生産物に移転され、労働の生産性の成長に応じてその移転される旧資本の価値も増大する。
(24)すなわち、一人の英国人紡績工と一人の中国人紡績工は同じ時間同じ強度をもって働くであろう、その結果として、ともに週当たり同額の価値を創造する。この等価にも係わらず、巨大なる差異が両者の間には生じるであろう。強力なる自動機械をもって働く英国人の週生産物の量と、他方紡車しか持たない中国人の週生産物の量とでは。同時間では中国人は1重量ポンドの綿を紡ぎ、英国人は数百ポンドを紡ぐ。古き価値の数百倍の価値が彼の生産物の価値を膨らませる。そこに新たなものとして再現される。有益なる形式で再現される。そしてこの機能が再び資本を資本として登場させることができる。
(25)「1782年」フレデリックエンゲルスが我々に教えるがごとく、「英国の前三年間の羊毛の収穫の全てが、労働者不足によってなんら手を掛けられずにそのまま放置されていた。そしてそのまま放置されたに違いない。もし新たに発明された機械が来てそれを助けそれを紡ぐことが無かったならば。」*46
本文注46 / フレデリックエンゲルス「英国における労働者階級の状態」
(26)「機械の形式で体現された労働は、残念ながら、たった一人の人間にさえ生命を与えるような直接的な力を及ぼしはしない。だが、それが、より少数の労働者たちによって、比較的少ない生きた労働の追加によって、羊毛を生産的に消費するのみではなく、またその新たな価値を付与するのみではなく、その古き価値を撚糸その他の形式で保存することを可能にする。と同時に、それは羊毛の拡大再生産を引き出し促進したのである。新たな価値を創造するとともに、古き価値を移転するのは生きた労働の自然的特性なのである。それ故、生産手段の効率、範囲、価値、の増大とともに、またそれによる生産的力の発展に伴う集積の増大とともに、労働は、常に増大する資本価値を何時までも新しい形式で保存し永久化する。」*47 この労働力なる自然が、労働と一体化した資本の固有の属性と云う外観をもって表れる。丁度、社会的労働生産力が資本の生来からの属性と云う外観をもって表れるがごとくである。そしてまた、資本家による絶えざる剰余労働の搾取が、資本の絶えざる自己拡大の外観をもって表れるがごとくである。
本文注47 / 古典経済学は、労働過程と、価値創造過程の欠陥だらけの分析のせいで、この重要なる再生産要素を適切に把握したことが無かった。リカードに見られる通りである。例えば彼はこう言う。生産的力にいかなる変化があろうとも、「百万人の人間は常に工場手工業において同じ価値を生産する。」これはもし、彼等の労働の範囲と強度が与えられたものであるならば、正確である。しかし、だからと云って、以下のことを排除するものではない。(この点こそ、彼が引き出したそのような結論では見逃したところなのである。)つまり、彼等の労働における生産力が異なれば、百万人の人間は彼等の生産物に非常に異なった生産手段の大きさを移転し、そして、それゆえ、非常に異なる価値の大きさを生産物に保存する。従って、そこに産出された生産物の価値はまさに様々であると云うことを。ついでに触れるが、リカードは、J.B.セイの提起した、格好の例、使用価値(セイは、ここで、これを富または物質的豊かさと呼ぶ)と交換価値との違いについて、明確にすることに失敗している。セイの解決案「リカードが次のように云うように、「より良い生産方法を用いることによって、百万人の人間が2倍または3倍もの富を、何らのさらなる価値を生むことなしに生産できる。」としたこの論の難点については、この点を誰もが思い当たるように、当然のごとく、生産は交換であるとすれば解消する。彼の労働、彼の土地、彼の資本の生産的サービスを、生産物を得るために提供すると云う交換のことである。この生産的サービスによって、我々はこの世界にある全ての生産物を得る。従って、生産と呼ばれるところの交換を通じてもたらされる有益なる物の量が多ければ多いほど、我々はより豊かになり、我々の生産的サービスはより大きい価値を持つ。」(J.B.セイ「マルサスへの手紙」パリ1820年)そのセイが云いたい「難点」−それは彼において存在しており、リカードにおいてではない−を明解に示すなら次のようになろう。なぜ交換価値は使用価値を増大させないのか、労働の生産的な力の増大に応じてそれらの量が増えたのに、なぜ?答え。難点は、失礼とは存じますが、交換価値を使用価値と呼ぶことによって生じます。交換価値とは、様々な方法によって交換に係わるもので、もし生産を、労働や生産手段と生産物の交換というのならば、生産がより多くの使用価値を生めば生むほど、それに比例してより多くの交換価値を得るのは日中陽を見るより明らかである。別の言葉で云えば、使用価値が増えれば増えるほど、この場合は靴下ですが、労働日が靴下工場手工業主に靴下を生み出せば生み出すほど、彼は靴下に関してより裕福なる者となる。ところが、突然、セイは思い当たる。「大量の」靴下、それらの「価格」(勿論、それらの交換価値とは何の関係もない!)が、下落する。「なぜならば、それらの生産物を作るに要した価格で売ろうとする彼等(生産者ら)を競争に駆り立てるからである。しかし、もし、資本家が商品を原価で売るならば、利益はいかなる場合に生じるのか?ご安心あれ、セイは次のように宣言する。生産性の増大の結果として、全ての者は今、以前の一足の靴下に代って、与えられた等価として、二足の靴下を受け取る。彼がたどり着いた結論は、論駁しようとしたリカードの命題そのものである。この偉大なる思考の奔走の後で、彼は勝ち誇ったように、マルサス宗匠に、こうのたもうた。「宗匠、これはしっかりした事実により確立された学説で、これなくしては。と、私は云いたい。政治経済学上の大きな難点、そして特に、生産物の価値が下落し、それでも富が価値である時、いかにして国はより裕福となるかを説明することは不可能である。」(前出)ある一英国人経済学者は、この右往左往する悪癖、セイの「手紙」にもあるのと同じ種類の学説について次のように批判する。「セイ氏が好んで自分の学説と呼び、マルサスにハートフォードで教えるよう熱心に勧めたそれらの気取ったものの言い方は、すでに「ヨーロッパのあらゆる所で」教えられており、「もし、この種の命題が逆説的に表れるならば、そのものが表しているものを見よ。そして私はそれらがいずれ最も単純に最も論理的にそれらを表すと、どこまでも信じる。」何の疑問もない。そして同じこの方法を通じて、それらはあらゆるものを表すであろう。ただその起源を除いては。(「需要の性質に関する諸原理についての研究」)
(27)資本の増大とともに、資本として用いられている部分と消費された資本との差も増大する。別の言葉で云えば、物質的な労働手段の量と価値は増大する、すなわち、建物、機械、排水管、役牛、機器などのあらゆる種類の、長期あるいは短期に生産行程に絶えず繰り返し用いられるもの、または特殊の用途のために用いられるものである。それらのもの自体はただ少しずつ磨耗し、従ってそれらの価値は少しずつだけ失われ、従って、生産物に移転する価値もまた僅かずつである。これらの労働手段が、過去の生産物として、生産物に価値を加えることなくそこに存在していることに比例して、すなわち、同じ比率でそれらは使用されており、ただほんの僅かな部分のみ消費される。それらは、我々が以前見てきたように、あたかも、自然の力、水、蒸気、空気、電気等々のように無料の仕事を行う。過去の労働の無料の仕事は、生きた労働によって魂に捉えられ、魂に満たされ、集積の更なる前貸し局面とともに増大する。
(28)過去の労働はそれ自身を資本のごとく見せかけるので、すなわち、A、B、C、その他の者の生気を失った労働が、生気(なまき)を見せる非労働者Xの現実的な所有の形式を取るのであるから、ブルジョワジーや政治経済学者はこの死んだ労働、過去の労働の貢献を満面の賞賛で迎える。このことを、スコットランドの天才マカロックが述べる所に従えば、利子や利益その他の形で特別なる報酬を受け取るべきものである。となる。*48 労働手段と云う形式のもとに、生きた労働過程に持ち込まれる過去の労働によって与えられる強力かつ常時拡大する助力は、であるから、労働者自身からの、不払い労働であり、すなわち、資本的形式で譲渡された過去の労働という形式であると云える。資本主義的生産の実際上の代表達や彼等のために屁理屈を並べる観念論者達は、この生産手段を、それらが今日纏っている反社会的な仮面を、そこからはぎ取って、見ることは出来ない。丁度、奴隷所有者が、労働者そのものを、奴隷という性格を外して、考えることが出来ないのと同じである。
本文注48 / マカロックは「過去の労働の賃金」と云う特許を取得した。シーニョアが「節制の賃金」と云う特許を取得したよりもかなり前のことである。
(29)労働力の搾取の度合が与えられているものとすれば、生産された剰余価値の大きさは、同時に搾取されている労働者数によって決められる。そしてこれが、その比率は変化するが、資本の大きさに対応している。従って、次々なる集積によって資本が増大すればするほど、消費基金と集積基金に分かたれる価値の総額も増大する。であるからして、資本家はよりど派手な生活を送りかつ同時により大きなど「節制」をして見せることができる。かくして究極のところ、前貸し資本の規模が大きくなればなるほど、あらゆる生産バネがより大きな伸張性を演じて見せる。 
第五節 俗に云うところの労働基金

 

 [Dr.エイブリング訳エンゲルス監修]
(1)資本が固定された大きさではないことは、これまでの考察において見てきたところである。その上、それは社会的富の一部であり、新たな剰余価値が収入と追加的資本とに分かたれることで、弾力性があり常に変動していることも見てきたところである。さらに、機能している資本の大きさがたとえ与えられた大きさであっても、労働力、科学、そして土地(それは経済学的に云えば、人間から独立して、自然として、あらゆる労働の条件を与えるものとして理解されるべきものである。)を、そのなかに取り込んでおり、資本の弾力的な力と云う形式を取り、一定の限界の内において、それ自身の大きさとは独立した活動領域を資本に与えている。これまでの考察において、我々は流通過程の様々な効果を無視してきた。その効果は同じ資本の大きさにおいても非常に異なる効率の度合を生じさせるであろう。また、我々は資本主義的生産によって規定される限界を予め想定しており、つまり、純粋に自然成長的な発展形式における社会的生産過程を想定しており、そのため、我々はそれ以上のいかなる理論的な結合、直接的かつ組織的に生産手段として用いることができるものや現時点で使用できる労働力の大きさと云った点については無視してきた。古典経済学はいつも、社会的資本を固定した効率度合の固定した大きさであると見るのをを好む。しかしこの先入観はアーチ門付きペリシテ家のご亭主ジェレミーベンサムのドグマの一つとして最初に確立されたものである。つまらない、もったいぶった、19世紀の平凡無比なるブルジョワ知識人のなめし皮舌のご宣託である。*49 ベンサムの哲学者としての位置は、マーティンタッパーの詩人としての位置のごときものである。共に英国においてのみ工場手工業生産されることができた。*50 彼のごとき独断勝手論者の目には、最も普通な生産過程の現象も、すなわち、突然の拡大や縮小、そして集積そのものも、完全に、想像すらできないものになってしまう。*51 この独断勝手論は、マルサスや、ジェームスミルやマカロック、その他と同様に、ベンサム自身によっても、資本の一部、すなわち、可変資本または労働力に転換される部分が固定された大きさのものであることを言い表すために、言い訳的な目的のために使われている。可変資本の素材、すなわち、労働者のための生存手段の大きさ、または、俗に云うところの労働基金は、社会的富とは分かたれ、自然の法則によって決められ、変動することができないものとの、作り話にされていた。固定資本として機能させるための、またはそれを生産手段として物質的な形式で表現するために、社会的富を実際に起動させるためには、一定量の生きた労働の大きさが必要となる。この大きさは技術的に与えられる。しかし、この与えられた労働力(それも個々の労働力の搾取の度合によって変化する)の大きさを活用ならしめる労働者数としては求められてはいないし、与えられた労働力の価格としても求められてはいない。ただ単に、その最小限のみにしかすぎない。その最小限というものも他以上に極めて変化するものである。この独断勝手論の底にあるものは以下の通りである。一方において労働者は、社会的富を非労働者のための享楽手段と、生産手段とに分割することに関してはなんら口を挟む権利を持たないし。*52 さらに他方においては、労働者は、何かの折りに、例外的に、資本家の「収入」の支出として、俗に云うところの労働基金を拡大する力を持つだけのことである。
本文注49 / いろいろとあるが、ジェレミーベンサム「何も与えないことと報酬を与えることの理論」Et.デュモン仏訳第三版パリ1826年第二巻第四部第二章
本文注50 / ベンサムは、いつの時代にあっても、いずれの国にあっても、最も平凡なありふれたことをいつも全く自分勝手に気取って云う我等が哲学者クリスチャンウルフを除くまでもなく、純粋なる英国現象である。有用性の原理は、ベンサムの発見ではなかった。彼は単に、エルベティウスやその他のフランス人達が18世紀に風刺を込めて表したものを、再生産したに過ぎない。何が犬にとって有用であるかを知りたければ、犬の性質を知らなければならない。その性質そのものは有用性の原理から引き出されるものではない。これを人に応用するならば、有用性の原理によって全ての人間の行為、動作、諸関係等を批評しようとするならば、まず最初に、一般的な人間の性質を取り扱わねばならない。そして次いで、その人間の性質なるものがそれぞれの歴史的な時代によって制約を受けたものであるとして取り扱わなければならない。ベンサムはそれをあっと云う間に片づける。彼は乾燥しきった素朴さそのままに、近代小売り商店主を、特に英国人小売り商店主を標準的人間として取り扱う。この奇妙奇天烈な標準人間にとって有用なるものはなんでも、そして彼の世界にとって有用なるものはなんでも、絶対的に有用なのである。そしてこの英国ヤード物指しを、彼は、過去、現在、未来に適用する。すなわち、キリスト教は「有用」である。「なぜならば、法の名において罰則が有罪と宣言する過失を、その同じ過失を宗教の名において禁じるからである。」芸術批評は「有害」である。なぜならば、マーティンタッパー他を楽しもうとする立派なる人々に迷惑を及ぼすからである。こんなごみを書き並べてこの勇敢なる男は、「1行も書かぬ日は来ぬ」をモットーに山なす本を書いたのである。もし私が、私の友であるハインリッヒハイネの大胆さを持っていたら、私はジェレミーベンサム氏をブルジョワの馬鹿馬鹿しさにおける大天才と唄うであろう。
本文注51 / 「政治経済学者らは一定量の資本と一定量の労働者たちを、一定の力の生産的手段、または一定強度によるそれらの作動と見てしまう傾向が強い。….その連中は、….商品が生産の唯一の動機であるとか、….生産は決して拡大されないこと、なぜならば、予め必要とされる食料、原材料、道具といった絶対的条件が必要となるからである。つまり先立つ増加が無ければ生産の増加は起こらないと云うのが事実だからである。別の言葉で云えば、増加は不可能なのである。」(S.ベイリー「貨幣とその変動」)ベイリーは、主に、流通過程の視点からこの独断勝手論を批判している。
本文注52 / ジョンスチュアートミルは、彼の著「政治経済学の原理」でこう云っている。「本当に疲労し、そして本当に不快な仕事をする労働者たちは、他の者よりもよい支払いを受ける者とは違って、殆ど変わることのない最悪の支払いを受ける。….ぞっとするような仕事になればなるほど、最低限の報酬を受け取ることがより確実である。….労苦と報酬は直接的な比例に代って、彼等が願うであろう社会的正義の名において、一般的に逆比例となって表れる。」誤解をさけつつ、私に次のように言わせてほしい。ジョンスチュアートミルは彼等の伝統的な経済学の独断勝手論と彼等の近代的な傾向に見られる矛盾があって、非難されるべきではあるのだが、俗流経済学弁護者の群れの中に入れたままにして置くのは全く間違っている。
(2)労働基金の資本主義的限界をあたかも自然かつ社会的な限界として表す試みから生じる馬鹿げた同義反復は、例えば、フォーセット教授の著書で見ることができよう。*53
本文注53 / H.フォーセットケンブリッジで政治経済学の教授「英国労働者の経済的位置づけ」ロンドン1865年
(3)彼は云う。「一国内で流通する資本は、国の賃金基金である。であるから、もし我々が、各労働者によって受け取られる平均貨幣額賃金を計算しようと思うなら、我々は単純に、この資本総額を労働人口で割り算すればその答えを得る。*54
本文注54 / 私は、ここで、私が初めて示した、「可変資本と不変資本」と云う資本の区分を、読者に思い起こさせねばならない。政治経済学は、アダムスミスの昔からこの方、これらの区分に係わる本質的な区別を認識するまでに至らず、ごちゃ混ぜにしていて、単なる呼称上の違い、流通過程の、決められかつ流通している資本の外に表れるものと、みなしていた。この点のさらなる詳細については、第二巻第二部で見よ。
(4)云っていることを別の言い方で云い換えれば、我々はまず実際に支払われた賃金を全て加え合せ、その結果総額を得る。すなわちそれが、全「労働基金」として、神と自然によって決められ、下賜された全価値をなす。そしてもう一回、我々はその得られた総額を、再びそれぞれが平均でいくらが手にしたかを求めるために、労働者数で割る。なんじゃこれは、とんでもない故意のごまかしと云うべきものである。だから、この思考は、フォーセット氏が同じ口で次のように云うのを妨げることはなかった。
(5)「英国で、毎年蓄えられる全体の富は、二つの部分に分かたれる。ひとつは、我々の工業を維持するための資本として用いられ、そしてもう一つの部分は、外国に輸出される。….この国で毎年蓄えられる価値の一部分、多分それは大きな部分ではないが、その部分のみが我々自身の工業に投資される。*55
本文注55 / フォーセット前出
(6)毎年次第に増大していくその大きな部分、横領された部分、なぜならば、英国労働者へ何の等価を支払うことなく剥ぎ取ったものなのだから、は、資本としてこのように、英国ではなく、外国において用いられる。かくて、このように、特別なる資本が、輸出されるのに付随して、神とベンサムによって発明された「労働基金」の一部もまた輸出される。*56
本文注56 / 資本のみではなく、労働者もまた移民の形で、毎年英国から輸出されたと云うことができよう。とはいえ、移民者の財産については、その大部分が労働者ではない者のそれである点は疑問の余地がない。その者の大部分は、借地農業主の息子らである。毎年の資本集積の中においても、利子を求めて毎年輸出される特別なる資本は、毎年のごとに増大する移民人口に較べても、より大きな伸び率を示す。 
 
「資本論」解説

 

資本論序文
「資本論」は、「経済学批判」の続編である。まず、「第一版の序文」に述べられている、「経済学批判」と「資本論」の関係に、注目しよう。「まえのほうの著作の内容は、この第一巻の第一章に要約してある。・・・著述が改善されている。」だから、第一章では、この著述の改善された部分に注目して検討する。
その後に、この本の例証に、イギリスを取り上げる理由が述べられている。
「この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である。その典型的な場所は、今日までのところイギリスである。これこそは、イギリスが私の理論的展開の主要な例解として役立つことの理由なのである。」
物理学者が、自然過程を研究する場合に、撹乱のない純粋な状態で実験を行うように、マルクスは、イギリスに、撹乱の少ない状態、いわゆる典型例(モデル)を見ている。この資本主義的生産様式のモデルは、産業の「発展のより低い国」にとって「未来の姿」であり、すべての国が従うことになるモデルである。なぜなら、そこには、「資本主義的生産の自然法則」「この法則そのもの、鉄の必然性をもって作用し自分をつらぬくこの傾向」が貫かれているからである。
マルクスは、ブルジョア社会の経済的諸形態を「抽象力」によって分析し、ブルジョア社会の「経済的細胞形態」である「商品の価値形態」にまで到達した。そこで、今後は、抽象過程を逆に辿って、「商品の価値形態」からブルジョア社会の経済的諸形態にまで論理的に再構成する。そこで、「もっとも単純なものから複雑なものへと上向していく抽象的な思考の歩み」すなわち、「論理的取り扱いは、実は、ただ歴史的形態と攪乱的偶然性というおおいを取り去っただけの歴史的な取り扱いにほかならない」(エンゲルス「経済学批判」書評)のであれば、この論理的再構成は、「実際の歴史的過程に照応して」いることになる。歴史は論理的であるということは、歴史は法則性を持っているということである。ヘーゲルは、このことを、歴史の背後に論理=法則そのものが存在し、「理念という名のもとに一つの独立な主体」があり、歴史は、その自己運動であるというように解釈した。マルクスは、ヘーゲルの「理念」は否定するが、歴史の法則性の存在は、認めている。そこで、歴史の論理的な再構成が「うまくいって、素材の生命が観念的に反映することになれば、まるで先験的な構成がなされているかのように見えるかもしれないのである。」(「資本論第一巻第2版後記」)この論理的再構成の成果が、この「資本論」である。このような「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程」すなわち、人間の個人的な主観的な意志から独立した過程と考える歴史認識から、マルクスは、「社会的には個人はやはり諸関係の所産」であり「ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。」としている。  
 
第1章 商品

 

第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
さて最初に、使用価値が交換価値の「素材的な担い手」であることをのべた後で、諸交換価値が、相互の諸使用価値の等値から、第三の物に還元できることが帰結される。
「使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んでいないのである。」
したがって、それを有用物=使用価値にしている質を捨象すると、商品体に「労働生産物という属性」だけが残り、このことは、労働という観点からでは、「抽象的人間労働に還元」されていることが導かれる。
「これらの労働生産物に残っているもの」は、「同じまぼろしのような対象性」であり、「無差別な人間労働の、・・・ただの凝固物」である。「ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値−商品価値なのである。」
この「価値」としての概念は、「経済学批判」では、あまり明確にのべられていない。「資本論」では、特殊な商品に対して「交換価値」を当て、それらの諸交換価値を一般的に取り上げる場合には、「価値」を当てているように考えられる。つまり、使用価値と価値の統一(矛盾)として商品が把握されている。この価値に対して、労働は「価値を形成する実体」として把握されて、「抽象的人間労働」の更なる規定が、与えられる。
ここに、三つの、外見上まったく見分けが付かない宝石があったとしよう。1番目は、人の手で磨かれ町の宝石商で売られていたもの、2番目は、物々交換の大昔の時代から発掘されたもの、3番目は、偶然川原で発見されたままのもの、である。資本論によれば、このうち、価値があると見なせるのは、1番目の宝石だけである。では、なぜ、1番目の宝石だけが価値を持っているかといえば、それは、人の手によって作られ売られていた(抽象的人間労働が対象化されている)からである。2番目は、物々交換の時代だから、労働の対象化であっても抽象的人間労働ではないから価値は持っていないし、3番目は、労働が対象化されていない。では、その抽象的人間労働は、宝石のどこに存在しているのか。この宝石の価値である抽象的人間労働は、もともと、それを作った人の労働の中にしか存在しない。だから、その作った人の労働の中にしか存在しないものが、この宝石に、ちょうど切手がはがきに貼られているように、直接くっついているわけではない。この三つの宝石は、外見上まったく同じものであり、化学的物理的性質は、まったく同じである。異なっているのは、それぞれの履歴である。それぞれの宝石の履歴は、物理的化学的に証明できなくても、それぞれの宝石に関係として結びついている。履歴が結びついているからこそ、1番目の宝石の履歴を辿って、抽象的人間労働が結びついていることを証明することができるのである。価値は、この関係そのものである。1番目の宝石を作り出した抽象的人間労働は、この関係を作り出した実体である。「流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、価値ではない。それは凝固状態において、対象的形態において、価値になる」。1番目の使用価値である宝石は、その実体との関係を担っているのである。
「商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成り立っているのではあるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされるのである。これらの個別的労働力のおのおのは、それらが社会的平均労働力という性格をもち、・・・1商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間・・・。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。」
このことから「1商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動する」ということがわかる。また、「商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。」この部分は、第4章に対応する。「独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働」の社会では、「彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が・・・他人のために有用でなければならないという形態で反映させ、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、・・・諸労働生産物の、共通な価値性格という形態で反映させる」。つまり、商品とは、価値と社会的使用価値という二重の、矛盾した性格を併せ持ったものである。
第2節 商品に表される労働の二重性
使用価値を生む出す労働は、「有用労働」である。この「有用労働の総体」が、「社会的分業」の全体であり、それが、「いろいろに違った使用価値」の総体として現れてくる。「社会的分業は、商品生産の生存条件である。」「独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対する」。「社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、・・・独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的相違が、一つの多肢的体制にすなわち社会的分業に、発展するのである。」
「労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間のすべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然との間の物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。」
これに対し、「商品―価値は、ただの人間労働を、人間労働一般の支出を、表している。」「それは、平均的にだけでも普通の人間が、特別の発達なしに、自分の肉体のうちにもっている単純な労働の支出である。」 使用価値と価値が、それぞれ労働の有用労働と(抽象的な)同質な人間労働一般という労働の二面的な性格(矛盾)に帰せられている。
商品の価値は、個々の使用価値の等価交換の習慣から固定化したものであるが、それは、他人同士が、抽象的人間労働の労働時間の同量を交換しあうという意味を持っている。個々バラバラの私的生産者の間では、直接に労働ないし労働生産物を交換することはできないので、労働生産物を商品に変え、商品の等価交換という媒介によって、労働の交換を達成するのである。異なった商品の価値は、それを作り出した私的生産者の労働の特殊性を捨象した関係である抽象的人間労働が、反映されたものである。
「素材的富の量の増大にその価値量の同時的低下が対応することがありうる。このような相反する運動は、労働の二面的な性格から生ずる。」
生産力は、「つねに有用な具体的労働の生産力」であり、「労働の具体的な有用形態に属する」。これに対し、労働の抽象的形態は、生産関係に属する。生産力は、個々人の特殊な労働として存在する。労働の生産力が増大すれば、同じ時間で、より多くの生産物(使用価値)を生産できるようになる。しかし、逆に、労働の生産力が減少すれば、同じ時間ならば、少ない使用価値しか生産できない。すなわち、生産力の大小は、対象化された形態では、使用価値の量の大小となって表れる。一方、生産関係は、個々人の労働の相互の関係である。異なった労働の相互の関係は、抽象的一般労働という同質な労働の時間的差異となって表され、それは、対象化された形態では、異なった使用価値の価値の大小となって表れる。ただし、使用価値が交換されるという条件下において、すなわち、使用価値である生産物が生産者の私的所有であるという条件の成立する社会において、である。生産関係と生産力とは、相対的に独立している。生産力が増大して上着とリンネルが共に多く生産されても、生産関係である労働時間の比率が変わらなければ、上着とリンネル相互の価値の比率は変わらない。
第3節 価値形態または交換価値
この節では、使用価値=現物形態と価値形態とをもつ商品から、貨幣形態への生成が論じられる。「批判」と異なるのは、個別的段階から特殊的段階を経て一般的段階へと、論理的に展開されている点にある。商品同士の物々交換から出発し、その交換過程の中に生ずる、使用価値と価値の矛盾が原動力となって、その矛盾を個別的、特殊的、普遍的段階へ推し進め、最後に貨幣が生み出されていく。この貨幣こそ、価値の現象形態である。
商品から貨幣が生ずる論理的過程は、個別から特殊へ、特殊から普遍へと展開される一般的な論理に従って記述したものと考えられる。この発展段階は、現象的には、二つの商品、多数又は無数の商品、一般化された商品の形成という段階を経ていく。個別のものは、それぞれ特殊性を持ち異なっているが、一方共通する普遍性を持っている。しかし、普遍性は、そのままでは抽象のなかで現れるだけで、表面には現れてこない。この普遍性で個々のものを実際に取りまとめるとすると、どこかにその普遍性を現して、その普遍性との関係に中で、個々の特殊性を位置づけることになる。では、その普遍性は、どこにどういう形で現れるのか。それは、対象の持つ特殊性に依存する。対象の特殊性に合わせて、普遍性の現れ方は、変化する。ここでは、普遍性は「価値」である。「価値」は「使用価値」という特殊性が担っている関係でしかない。この普遍性は、どこに現れるのか。商品の世界では、商品(使用価値)だけしか存在していないわけだから、普遍性を現わすのも、商品(使用価値)しかない。そこで、特殊な商品を選び出し、商品の世界と貨幣の世界と、世界を二重化させて、貨幣の世界で普遍性を表す。しかし、最初から、選び出された一つの特別な商品(使用価値)があるわけではない。それは、選挙の結果である。最初は、選挙民とその候補者がいるだけである。そこで、すべての一般的な商品の代表というべき1商品Aの「価値」と、将来貨幣になるはずの、しかし、今は候補者でしかないある商品Bの「使用価値」との関係から、この選挙が出発する。「誰でも選挙に立候補できるが、まず、君Bが立候補せよ。私Aは、君Bを皆の代表として推薦するから。」この関係が、x量の商品A=y量の商品Bという等式である。Aは、まず、自分がBに投票することを宣言したのである。このような一般的な論理が、この節での内容なのである。ここで、使用価値の特殊性は、有用労働(生産力)の特殊性に対応し、価値の普遍性は、抽象的人間労働(生産関係)の普遍性に対応する。
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
まず、二つの商品が、等式の左辺Aと右辺Bとして、示される。この二つの商品の等置において、商品Aの使用価値とその中に内在する価値との矛盾が分裂して表面化し、二つの商品の上に割り振られている。これが、等式の意味である。特殊性と普遍性は、最低、二個の異なったものがなくては、表現できない。この二個の関係の中に、特殊と普遍とが、現れてくる。一方Aを特殊と把握すれば、他Bの方は、普遍性を担わなくてはならない。ただし、この段階では、商品Aにとっては、個別的関係である。商品Aは、選ぶ方であるから、能動的であり、商品Bは、選ばれる方であるから、受動的である。
 1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
左辺Aは、相対的価値形態であり、右辺Bは、等価形態である。
相対的価値形態とは、「Aは自分の価値をBで表わして」いるということで、自分で自分を表わしていない、つまり相対的である(自分を他のもので表わす)という意味で、このように表現されている。価値とは、諸商品の交換関係、すなわち、異なった商品の一定量を等値するところから抽象してきたものである。諸商品の使用価値とは別個に、価値が存在するわけではない。あくまで、使用価値同士の関係をいっているだけである。したがって、20エレのリンネルの価値は、1着の上着という使用価値の一定量でしか、表現できないのである。このことは、「BがAに対して等価形態にあるということを前提している」。
等価形態とは、「Bは、Aの価値表現の材料として役立っている」ということで、「等価物として機能している」ので、そう表現されている。Bは、「同時に相対的価値形態にあることはできない。」
「同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現われることはできないのである。この両形態はむしろ対極的に排除しあうのである。」しかし、両形態は「互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機である」。
この相対的価値形態と等価形態との対立は、使用価値と価値の対立の発展形態である。使用価値と価値の両者の相互規定の関係が、論理的に発展し始めたということである。この対立は、エンゲルスによって、端的に以下のように表現されている「一切の両極的な諸対立一般が相対して置かれた両極相互の相交流する活動によって条件付けられているということ、これら両極の分離と対置とはただこれら両極が組をなして互いに所属し合っているという共属性と両極の合一との内部でだけ成り立つこと、そして逆にそれらの両極の合一はただそれらの分離においてだけ、それらの共属性はただそれらの対置においてだけ、成り立つということ」(エンゲルス「自然弁証法」)
 2 相対的価値形態
 a 相対的価値形態の内実
この「等式の基礎」は、リンネルA=上着Bということである。
リンネルAは、価値がないものかもしれない。一方、上着Bは、「価値物」であることが証明されているとする。すると、この等式が成り立つとすると、リンネルAも、価値を持っていることになる。この等式の意味することは、こういうことである。
この等式上では、Bは、「価値物」、「交換されうるもの」であり、商品Bは価値の存在形態として認められている。商品Aに商品Bが等値されることによって、商品Aも価値を持っていることが示され、Aが価値存在であることが、現われてくる。なぜなら、ただ価値としてのみ、Aは、等価物としてのBに関係することができるからである。異なった使用価値が、お互いに等しいと置かれたわけだから、使用価値とは別に、等しいとされる実体が、存在しなくてならない。すなわち、価値(実体)が使用価値の形態とは区別されて把握される。
この等置によって現われてくるものは、商品Aの価値実体であるが、それは、まず、Bに含まれている労働を人間労働という両者に共通な性格に還元し、次には、Aに含まれている労働も抽象的人間労働であることを言うことによって、「回り道をして」表現する。「この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の諸労働を、実際に、それらに共通のものに、人間労働一般に、還元するのだからである。」
しかし、「流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、価値ではない。それは凝固状態において、対象的形態において、価値になる」。
したがって、Bは、その現物形態で価値を表わしている物としてみとめられており、Bのなかには人間労働が積もっていることがわかっており、価値形態として認められている。しかしそれは、あくまで、Aと等置されることによって、その範囲内で、である。すなわち、この個別的関係においての、相互規定の関係である。
Aは、Bのうちに「同族の美しい価値魂をみたのである。」こうして、Aの価値がBの身体で表わされ、1商品の価値が他の商品の使用価値で表わされる。このようにして、Aは自分の現物形態とは違った価値形態を受け取る。
「要するに、さきに商品価値の分析がわれわれに語ったいっさいのことを、いまやリンネルが別な商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。」
「こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言い換えれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。」
ここで「価値鏡」という表現が用いられている。鏡というのは、直接に物を映す鏡という意味でも使うが、「武士の鏡(鑑)」という使い方のように、転じて、直接目には見えないような模範、理想的な手本を映すものという意味でも使う。ここでは、商品Bの身体が商品Aの価値を写し出すという意味で、鏡という例えを使っている。
この論理の例として、大変興味ある注が書かれてある。
「見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は、鏡を持ってこの世にうまれてくるのでもなければ、私は私であるという、フィヒテ流の哲学者としてうまれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。」
「人の振りみてわが振りなおせ」という諺がある。これは、他人のふるまいの善し悪しを通して自分のふるまいを改めるという意味であるが、ここには、「人の振り」は、自分とまったく関係のない「振り」ではなく、周囲の条件によっては、いずれ「我が振り」となるかもしれない「振り」であり、そう思って、「我が振り」を反省する材料とせよ、という知恵がある。人は、同じような状態に置かれると、同じようにふるまうものである。「人の振り」は、将来の自分の「振り」の「鏡」なのである。
人は、なかなか自分の行いを冷静に判断することはできないものである。しかし、他人の行動については、容易に客観的に正しく批判することができる。だから、この諺のように、他人の振りを自分の未来の振りの一つのあり方として考えると、自分の振りに対する反省が、容易にできるようになる。「人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみる」のである。人は皆、本質は同じようなものであるという認識、「人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって」、そう考えて、他人の振りを我が振りの反省材料とし、はじめて、反省する=「人間としての自分自身に関係する」ことができるのである。その場合、他人の振りは、本質的には同じような状況に置かれれば同じようにふるまうという「人間という種属の」ふりまいのあり方=「現象形態として認められるのである。」
人は鏡に自分を映すことによって、自分の姿を自分で見ることができる。しかし、自分の心の中を映す鏡はない。「人間は、鏡を持ってこの世にうまれてくるのでもな」いから、 「人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみる」、すなわち、他人を媒介にする認識の実践によって、自分を冷静に振り返ることができ、それを繰り返すことによって、私は私であるという自我の認識が生み出されるのである。
この人間の論理は、商品の論理と同じである。商品Aは、自分で自分の価値を表すことができない。そのため、同等な価値を持つ他の商品Bに関係することによって、商品Bに自分の価値を映し、こうしてはじめて、自分の価値に関係することができる。商品Bは、その使用価値のままで、商品という「種属の現象形態として認められるのである。」
 b.相対的価値形態の量的規定性
同質性が明らかになった後に、量的関係が考察される。この価値量は、それを形成する実体の観点から測られる。
「等式は・・・ちょうど同じ価値実体が含まれているということ、・・・等量の労働または等しい労働時間が費やされているということを前提する。・・・生産に必要な労働時間は、・・・生産力の変動につれて変動する。」
価値は、価値を形成する実体である抽象的人間労働に依存し、その労働時間は、生産力と媒介関係にある。生産力は、使用価値の産出力と言い換えることができる。一方、生産関係は、その個々の使用価値同士の産出力の量的関係を表現する。人間同士の生産力と生産関係が、対象的表現である商品同士の関係に、置き換えられている。そこで、ここでは、4つのケースにわけて、論じられている。
「いろいろな場合を比べてみれば、相対的価値の同じ量的変動が正反対の原因から生じうるということがわかる。」等式の両辺は、お互いに反対の量的関係を持っている。更に、「こういうわけで、価値量の現実の変動は、価値量の相対的表現または相対的価値のおおきさには、明確にも完全にも反映しないのである。」
 3.等価形態
「商品Aは、その価値を異種の商品Bの使用価値で表わすことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押し付ける。」「1商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である。」
等価形態は、交換価値の表出化であり、これが貨幣形態への理論的準備となっている。このことを「等価形態の考察にさいして目に付く第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になることである。」と表現されている。このBに、使用価値と等価形態を取った価値との対立が生じている。
ここで、尺度の例を挙げている。
「棒砂糖を重さとして表現するために・・・それを鉄との重量関係におく。この関係のなかでは、鉄は、重さ以外のなにものをも表わしていない物体とみなされるのである。」
重さというのは、「価値」に似ている。ある物体を離れて別個に、「重さ」というものがあるわけではない。あくまで、個々の物体の「中」にしか、「重さ」はない。この「重さ」は、天秤で測れば、測ることが出来る。天秤の一方に測ろうとするものを載せ、もう一方に「その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片」、すなわち分銅を載せるのである。ここでは、分銅は、「重さ以外のなにものをも表していない物体とみなされるのである。」この重さだけを現象させるために、分銅は永久に重さが変わらないように錆びない工夫などがされ、重さを測定する時以外は、箱に保管されている。分銅は、「砂糖の重量尺度として役立ち、砂糖体に対して単なる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。」砂糖の重さは、分銅が、キログラムで表現されていれば、砂糖もキログラムで、ポンドで表現されていれば、ポンドで表現されよう。もし、分銅の重さの基準に不安があれば、砂糖のキログラムを表したあとで、括弧書きで、どこそこの分銅によれば、という但し書きをつければよい。つまり、砂糖の重さは、分銅の重さを借りて、表現されるのである。「鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然的属性、それらの重さを代表している」。
商品Bは、商品Aの価値表現では、両商品に共通な超自然的な、すなわち社会的な、属性である価値を代表している。
「しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではな」いので、「上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、・・・生まれながらにもっているように見える。」
この注に、マルクスは、反省規定の性格を記述している。
「たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人が彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分達は臣下なのだと思うのである。」
王と臣下は、相互規定的(相互浸透の関係)である。切り離せば、王でも臣下でもなくなる。臣下があって王であり、王があって臣下である。しかし、臣下としては、あくまで王がいるからこそ、臣下なのだと思っている。生まれつきの王様がいるからこそだと思っている。臣下の立場からすると、王様は生まれつきの身分だと感じられるのである。ちょうど、商品Bが、等価物という属性を本来持っているかのように。しかし、「このことは、・・・価値関係のなかで認められているだけである。」
ヘーゲルも、「本質論」補遺で、「本質の立場は一般にReflexion(反省)の立場である。Reflexionという言葉はまず、光が直進して鏡面にあたり、そしてそこから投げ返される場合、光に関して用いられる。」と解説している。
「等価物として役立つ商品の身体は、つねに抽象的人間労働の具体化として認められ、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。つまり、この具体的労働が抽象的人間労働の表現になるのである。」「具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは、等価形態の第二の特色なのである。」「私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、等価形態の第三の特色である。」
直接交換可能性というのは、私的労働が、本来は反対の社会的労働であるということから、生ずる。私的な個人の労働が、実は皆の労働であるという矛盾の表出が、相互交換という運動を生むのである。この第二及び第三の特色に関して、「すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等な概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会関係であるような社会において、はじめて可能なのである。」この社会こそ、近代ブルジョア社会である。
 4.単純な価値形態の全体
「商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。・・量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの一定量の交換可能性によって表現される。言い換えれば、1商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。」
ここで、価値と交換価値という関係がいっそう明確になっている。「厳密に言えば、・・・商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。商品は、その価値が商品の現物形態とは違った独特な現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、そのあるがままのこのような二重物として現われるのであって、商品は、孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたない」。つまり、孤立的な商品一個だけを取ってみれば、使用価値と価値との直接的統一としての商品が得られる。そこから、2商品の等置関係を介して、使用価値と交換価値との媒介的統一へ展開されている。交換価値は、価値の現象形態というわけである。
「商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表わされる・・・一方の商品は直接的にはただ使用価値として認められる・・・他方の商品はただ交換価値として認められる・・・。」
単純な価値形態は、「1商品の単純な相対的価値形態には、他の1商品の個別的な等価形態が対応する。」ことを示す。この発展は、商品Aに対する第二の商品が、他のいろいろな商品になることによって、生ずる。
B.全体的な、または展開された価値形態
Z量の商品A=U量の商品B等。
 1.展開された相対的価値形態
この「無限の列」の表現から、相対的価値形態は、新たな規定を受け取る。「こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固としてあらわれる。」「商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。」
商品Aの価値が、多数の商品の使用価値によって表現され、個々の使用価値はそれぞれ特殊的関係に置かれるが、それは、価値が、その一般性を表わし始めたからである。個別なものの中に一般性が見え始めたとき、それが、特殊性の段階である。「商品価値はそれが現われる使用価値の形態には無関係」である。対立物の相互規定が、個別的段階から、特殊的段階へと論理的発展をしたのである。
そこで、「二人の個人的商品所有者の偶然的な関係」であったものが、必然へと転化しはじめる。
 2.特殊的等価形態
一方、等価形態の方も、新たな規定を受け取る。各商品Bがそれぞれ特殊的関係に置かれることによって、商品Bの価値も特殊的関係に置かれており、逆に言えば、その価値に相応しい形態ではないということが、明確になりつつある。
個別的から特殊的への転化である。「これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものとならんで一つの特殊的等価形態である。」
 3.全体的な、または展開された価値形態の欠陥
この節では、特殊の段階の限界性が、述べられている。無限の系列の等式による表現は、ヘーゲルのいうところの「悪無限」である。
「94 この無限は悪しきあるいは否定的な無限である。というのは、それは有限なものの否定にほかならないのに、有限なものは相変わらず再び生じ、したがって相変わらず揚棄されていないからである。」
端的に言えば、特殊的形態は、個別的形態の寄せ集めである。したがって、相対的価値形態も等価形態の方も、あくまで特殊であるという限界にとどまっていて、完結しない、いくらでも引き伸ばされる系列であり、ばらばらな系列であり、果てしがない。ここから先は、個別から特殊を媒介にして一般へという展開であるが、一般的形態へは、飛躍がある。それは、等式自体の普遍性をうることであり、この等式を逆転させることを通じて、すなわちその位置を交代させることを通じて可能となる。
C 一般的価値形態
U量の商品B=V量の商品C=・・・=Z量の商品A
対立物の相互規定の関係が、特殊的段階から、一般的・普遍的段階へ論理的発展を遂げる。
ここで、個別、特殊、普遍という概念の展開を、ヘーゲルが概念論のなかで詳しく説明しているということを指摘しなければならない。
「163 概念そのものは、次の三つのモメントを含んでいる。1 普遍―これはその規定態のうちにありながらも自分自身との自由な相等性である。2 特殊―これはそのうちで普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている規定態である。3 個―これは、普遍および特殊の規定態の自己反省である。」
「164 普遍、特殊、個は、抽象的にとれば、同一、区別、根拠と同じものである。しかし、普遍は、同時に特殊と個とを自己のうちに含んでいるという意味をはっきりもつ自己同一者である。また特殊は、区別あるいは規定態ではあるが、しかし、自己のうちに普遍を内在させ、また個として存在するという意味を持っている。同時に個も、類と種とを自己のうちに含み、そしてそれ自身実体的であるところの主体であり根拠であるという意味を持っている。」
マルクスがここで、貨幣という概念に到達するために、個別、特殊、普遍という側面を区別して展開しているのは、まるで、ヘーゲルの論理学に対応しているようである。ヘーゲルの論理学は、有論から出発し、質と量との考察を経て、本質論へ至る。本質論では、「他者への反照」が語られ、その結果、「発展」である概念論へ到達する。資本論のこの章では、商品から出発し、価値の質的量的考察を経て、使用価値と交換価値の相関が語られ、それが全体として、個―特殊―普遍の段階を経て、貨幣へ到る。
 1 価値形態の変化した性格
相対的価値形態は、ここで一般的性格に変化する。「いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に・・・(2)統一的に表わしている・・・したがって一般的である。」
個別的形態は「実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。」 特殊的形態は「はじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的にいろいろな他の商品と交換されるようになったときのことである。」
この一般的形態において、「どの商品の価値も、・・・いっさいの使用価値から区別され、・・・その商品とすべての商品とに共通のものとして表現される・・・。諸商品を互いに交換価値として現われさせるのである。」
「一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。ひとつの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分達の価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらのものの純粋に「社会的定在」であるからこそ、・・・したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてくるのである。」
多数の選挙民である商品の投票行動によって、代表者である一つの商品が「価値」の代表として選ばれたのである。
「いまやすべての商品が質的に同等なもの、・・・同時に量的に比較されうる価値量として現れる。」
「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品・・・に、一般的等価物という性格を押し付ける。リンネル自身の現物形態がこの世界の共通の価値姿態なのであり、・・・いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な蛹化として認められる。・・・商品価値に対象化されている労働は、現実のすべての具体的形態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表されているだけではない。この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支出に、還元されたものである。」
ここでは、一般的等価物が、他の商品から除外され、別個の世界を作っている。つまり、世界が二重化されている。この価値鏡の中では、上着を写そうと、茶を写そうと、コーヒーを写そうと、すべて、リンネルの異なった量としてしか、写ってこない。
 2 相対的価値形態と等価形態との発展関係
「相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。しかし、これは注意を要することであるが、等価形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしかないのである。」これは、どちらの方に能動性があるかという意味で、重要である。
「しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その二つの極の対立、相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。」
第一および第二、すなわち個別的および特殊的段階は、「両極の対立」が固定されていない。第三すなわち、普遍的段階が「最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである。したがって、1商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またその限りでのことなのである。」
「反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた相対的な価値形態からは排除されている。」この排除は、否定である。個別的対立物の関係が、特殊的対立物の関係に発展し、特殊的対立物の関係が、一般的対立物の関係に発展した。
 3 一般的価値形態から貨幣形態への移行
「この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。・・・商品世界の中で一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。・・・すなわち金である。」
D 貨幣形態
形態Vから形態Wへの「前進は、ただ、直接的な一般的交換可能性の形態または一般的価値形態がいまでは社会的慣習によって最終的に商品金の独自な現物形態と合生しているということだけである。」
「すでに貨幣商品として機能している商品での、・・・1商品・・・の単純な相対的価値表現は、価格形態である。」
価値鏡は、ここではどのような商品を写そうと、金の一定量として、写し出す。この写し出されたものが、価格形態というわけである。こうして最終的に、貨幣が誕生した。以上が、貨幣誕生の論理である。交換価値の一般的形態としての貨幣は、使用価値と価値の対立の相互浸透の発展形態であり、商品と区別された別の世界に、対立物の一方である「価値」が一般的等価物として定立されたことを意味する。商品の矛盾が、別世界の矛盾を生み出す端緒である。
第4節 商品の呪物的性格とその秘密
さて、いままで、商品が使用価値と価値の矛盾を含んでいるという事実から出発し、価値を形成する実態である労働の性格にまで遡って検討し、更に、商品の矛盾が貨幣を生み出すことを論証した。では、労働生産物は、なぜ価値という形態を取らねばならないのか、なぜ価値は自立した形態を持つようになるのか、これが、この節の課題である。
たとえば、机は、私が使っている限りは、商品ではない。商品にするためには、誰かに買ってもらうために、しかるべき売り場、卸や小売、中古品であれば、質屋などに、出さねばならない。売り場に出されて、商品となった瞬間から、机は価値を持つ。
たとえば、古ぼけたガラクタのような茶碗がある。ある人がそれを高名な鑑定師のところへ持っていって、鑑定してもらったとしよう。数百円で買った茶碗を鑑定してもらったところ、骨董品として、数百万円という値段がついたとしよう。その持ち主は、それ以後、その茶碗の扱い方を変えるだろう。家の隅に押しやっていた存在から、床の間の真ん中へ。いや、その持ち主だけではない。そのことを知ったすべての人が、それを粗末には扱わなくなるであろう。特にそれを欲する者は、手に入れようと、自ら出向いて、交渉するであろう。価値を持つ物は、このように、人々の手から手へ扱われる際に、あたかも自立した存在のように自ら渡り合って行くのである。まるで、価値を持つ物は、その中に神が宿っているかのようである。「それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える。」価値とは、不思議なものである。このことは、何がしかの価値を持つすべての商品にも、当てはまる。「机は、自分の足で床の上に立っているだけでなく、他のすべての商品に対して頭で立って」いるのである。このことを、マルクスは商品の呪物的性格と呼んでいる。
このような商品の神秘的な性格は、「商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずる」と結論する。商品の価値は、「互いに独立に営まれる私的諸労働」(者)同士の生産関係の対象化であり、反映である。
「労働生産物が商品形態をとるとき、・・・いろいろな人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量という形態を受け取り、最後に、生産者たちの・・・諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。」
「商品形態は人間に対して人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き換えによって労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。・・・ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。」
ある一定の数の人間がいる集団を考えよう。この人間達の間に、一人に一つずつ職業を割り振り、それを固定するとして、それぞれ自分勝手に職業を選択してもらうとしよう。すると、例えば、ある人数の漁師ができ、またある人数の猟師ができる。また、かれら個々人は、それぞれ別個のものを生産するが、生産したものは、それぞれの生産者の自身のもの(私的所有)になるとする。そこで、生産活動を行わせる。その際、お互いに事前に相談せず、いわゆる生産調整をしないとしよう。すると、生産は無計画に行われ、生産物は、全体として余ったり足りなかったりするであろう(商品生産)。
ところで、個々の独立した生産者たちは、必要な生活資料を手に入れるために、自分の産物を他人の産物と交換せねばならない。そこで、彼らは自分の職業によってそれぞれ異なった産物を持ち寄って、それをお互いに交換するとしよう。
そのとき「生産物交換者たちがまず第一に実際に関心をもつのは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。この割合がある程度の慣習的固定性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。」「じっさい、労働生産物の価値性格は、それらが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである。」
これが、生産物が価値を持った、つまり商品になったということなのである。「使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。」「生産者達は自分達の労働生産物の交換を通じてはじめて社会的に接触するようになる」。
ところで、生産物が足りなかったり余ったりするということは、実際に交換してみればわかる。ここで、足りなければ、価値が上がるだろうし、余っていれば、価値が下がるであろう。生産物が足りなかったりあまったりするということは、それを生産する職業に従事する人間の数が、足りなかったり余ったりしているということになる。したがって、価値が上がれば、生産者が増え、価値が下がれば、生産者が減ることになろう。
そして最後には、ある一定の生産者の数に到達しよう。つまり、彼ら全部が日々生活していくために必要ないくつかの種類と量の生活資料に対して、それを生産するに必要な種類の労働とその必要時間を数え上げ、それらの合計(社会的総労働)を、人間の1日当たりに従事できる労働時間で割って算出した場合の職業人の必要数である。この状態で彼らが均等に労働すれば、この集団の必要な生活資料が日々供給されるはずである。
「この価値量のほうは、交換者たちの意思や予知や行為にはかかわりなく、絶えず変動する。・・・彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、たえずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、・・・規則的な自然法則として強力的に貫かれるからである・・・」
ここでは、「私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。」個々人は、私的労働に従事しながら、しかし、全体としてみると、決して私的ではない。全体から、個々人の私的労働を見れば、それは、社会の必要性に則って、定められていることになる。
この「彼らの私的労働の独自な社会的性格」は、交換において「社会的労働の諸環として実証される。それだから、生産者達にとっては、彼らの私的労働の社会関係は・・・諸個人の物的な関係・・・として現われる」。
「労働生産物は、それらの交換の中ではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。このような有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さを持つようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され・・・るようになったときに、はじめて実際に実証されるのである。この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は実際に一つの二重の社会的性格を受け取る。それは、一面では、一定の有用労働として・・・他面では、・・・特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働と交換可能であり・・・。」「私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換で現われる諸形態でのみ反映させ、・・・彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が・・・他人のために有用でなければならないという形態で反映させ、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、・・・諸労働生産物の、共通な価値性格という形態で反映させる」。ここに商品としての使用価値と価値、それに対応した有用労働と抽象的人間労働一般との矛盾が表面化するのである。これは、人間は各人の労働を交換せねばならないのに、各人の労働は私的である、つまり、互いに独立して行われ依存しあっていないという矛盾に基礎付けられている。
「彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等置するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである。」
マルクスは、「商品生産のいっさいの神秘、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧の中に包み込むいっさいの奇怪時」をより明確にするために、生産物の交換を行わない人間の集団のあり方を、示している。個人に割り振られる労働のあり方、すなわち、社会的生産関係としては、論理的に次のように分類できる。まず、一人の人間が、いくつかの異なった種類の労働を行い、その産物も自己消費する場合。これは自給自足の生活であり、島の中のロビンソンである。「必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな(生産的)機能のあいだに配分するようになる。」「ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭なので・・・」このような人間の集団を考えると、その集団の内部で、それぞれ人間同士が孤立していて、自給自足の生活を送っている。生産物は、交換されていない。
次に、いくつかの異なった生産活動とその消費が違った人間に割り振られているが、一方は生産のみを行い、もう一方は消費のみを行う場合。この場合、このような人間の集団の内部では、生産物が生産する側の人間から、消費だけをする人間の側に、一方的に流れる。あるいは、生産する人間が消費する人間のところに直接行って、生産活動を行う。これは相互の交換ではなく、したがって生産物は商品とならない。マルクスは、この集団の例として、ヨーロッパの中世を挙げている。中世は、同職組合のような団体的動産所有が存在する社会であるが、賦役や貢納がある。賦役は、労働を一方的に提供させられることであり、貢納とは、生産物を一方的に提供させられることである。生産物は行き先が決まっており、したがって、消費先が決まっている生産物は、商品ではない。
ここでは、「人的従属関係が物質的生産の社会的諸関係をも、その上に築かれている生活の諸部門をも特徴付けている」。これは、分業が特殊な身分として固定されており、各人の労働は、身分として誰の目にも社会的に明らかになっている。生産物の交換も、庶民の間で自由になされているのではなく、身分から身分へと一方的に流れている。ここでは、社会的分業が発展しているが、交換価値は生み出していない、少なくとも、主要ではない。
次に、生産と消費が違った人間に割り振られているが、お互いに平等に生産と消費を行う場合。
この場合、更に原理的に二つに分かれる。一つは、それが計画的に行われる場合。もう一つは、無計画に行われる場合。
まず、計画的に行われる場合として、家族内分業が挙げられる。「農民家族の素朴な家長制的な勤労」=家族内分業。家族も小さな人間集団である。男と女との自然的な分業に基づいて、家族共同体という社会のなかでは、生産に自然発生的な計画性があり、生産された生産物は、すべて家族内で自給自足的に消費される。その家族社会の中では、糸やリンネルが家族内の「社会的生産物」である。しかし、その生産物は、例えば他の家族と交換される必要がなく、商品を店頭に並べるといったような必要がなく、したがって交換価値という性格を持っていない。
「すべての文化民族の歴史の発端で見られるような労働の自然発生的な形態」。ここでは、おそらく部族社会が想定されているのであろうが、ここでも、家族内分業と同様に、各人の労働は、直接的な結びつきのなかにあり、交換価値は生まれていない。
最後に、無計画に行われる場合。無計画とは、各個人が生産者でもあり消費者でもあるという関係であり、各人はそれぞれ特殊な分業を割り当てられている集団でありながら、それぞれ勝手に生産を行い消費を行うという状況である。これが、商品生産の前提する社会であり、「職業選択の自由」が保障される社会である。
最初のロビンソン(彼には「諸労働を意識的計画的に配分するという明瞭さ」がある)と、この最後の人間の集団以外の集団では、生産と消費に関して集団的に何らかの調整と取り決めがなされているはずである。これが、集団すなわち共同体の役割である。
以上のように、「生産の前提になっている共同体」の存在が「個人の労働が私的労働となること、および個人の労働生産物が私的生産物になること」をさまたげているのである。だから、こういう自然発生的な共同体がまったく存在しないブルジョア社会では、私的労働のみがばらばらに存在し、すべての労働生産物は、商品として店頭に並べなければならないことになる。
マルクスは「最後に」として、理想とする将来の社会を描き出している。「共同の生産手段で労働し自分達のたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。」「ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分け前は各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。そうすれば・・・労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望に対するいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、・・・共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的分け前の尺度として役立つ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。」
「社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめて神秘のベールを脱ぎ捨てるのである。しかし、そのためには、社会の物質的基礎または一連の物質的存在条件が必要であり、この条件そのものがまた一つの長い苦悩に満ちた発展史の自然発生的な所産なのである。」
「商品生産者の社会にとっては、抽象的人間に対する礼拝を含むキリスト教・・・が最も適当な宗教形態である。」キリスト教の神は、抽象的人間であり、価値が抽象的人間労働であるのと同様であるという。
素朴な宗教、自然宗教では、山に神がおり、海に神がいるという。たとえば漁師は、海が荒れないように、海の神にささげものをし、海の神に大漁を祈る。
海が荒れて漁にいけなくなるのは、漁師にとっては死活問題である。海の神に祈りを捧げることによって、自然現象に働きかけようとしたのである。
人は何か気に食わぬことがあると、不機嫌になったり怒ったりする。海に嵐が起こるのも、海に神がいて神が怒るからだと考えたからである。これは、人間にしか存在しない意思を、人間の頭から外に持ち出して、自然の中においた(意識の対象化)ものである。無論、誰でも知っているように、嵐などの気象や魚などの増殖は、自然現象であり、人為の及ばぬところであるが。「ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える。」
これに論理的に対応するのが、個々の商品の価値である。海に神が宿り、山にもまた別の神が宿るように、個々の商品の中には、個々別々の価値が宿る。これは、個々の労働生産物を交換する場合に、習慣として固定化したものである。これは、人間にしか存在しない労働を、人間の外に持ち出して、労働生産物の中においたもの(労働の対象化)である。商品交換はまるで自然現象のように、人知の及ばぬところだからである。
自然宗教と一神教であるキリスト教とはどこが異なるのか。それは、自然宗教では、個々の自然現象に個々の神が宿るところから多くの神が生まれたが、それらの間に親子関係や夫婦関係、友人関係、上下関係が生まれて整理され、更にキリスト教では、それらが抽象的に統一されて一神教になったものである。カトリックでは、マリア信仰に現れているように、神はまだ偶像崇拝と完全に手を切っていないが、プロテスタントでは、キリストに対する直接的な偶像崇拝が存在しないように、神に対する偶像崇拝は完全に否定され、神は抽象的にしか存在しないものとされている。神に対する人間は、神の前にすべて平等とされている。
このキリスト教に対応するのが、貨幣を媒介にする商品交換である。貨幣は、個々の商品の別々の価値が整理され、抽象的に統一されて特定の商品である金の上に固定したものである。この貨幣の前には、すべての価値は同一であり、「この物的な形態において彼らの私的労働を同等な人間労働として互いに関係させる」のである。
ここには、商品と宗教の論理的な同一性がある。
「およそ、現実の世界の宗教的な反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表わすようになったときに、はじめて消滅しうるのである。」 
 
第2章 交換過程

 

いままでは、理論的に商品の二つの側面を取り扱ってきた。ここでは実際の商品の交換過程の論理を追跡することになる。
商品所有者は、「これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。・・・どちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介にしてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認め合わなければならない。契約・・・は、・・・経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。・・・人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対する・・・」
ここで、ヘーゲルの「哲学入門」から該当する部分を抜書きして見よう。
「8 意志は或る物件を自分の下に包摂することによって、それを自分のものとする。占有とは、このように或る物件が私の意志の下に包摂されることである。」
「11 私が私のものとしたところの物件が私のものであるということが、私が他人の占有を彼らのものとして是認するのと同じように、他のすべての人から是認されるかぎり、占有は所有になる。言い換えると、その場合には所有は合法的になる。」
「12 私は私の所有を譲渡することができる。つまり、所有は私の自由意志によって他人に移動することができる。」
「15 他人への譲渡に当たっては、物件を他人に譲渡するという私の同意と、それを受け取るその人の同意とが必要である。この二重の同意は、それが相互に表示され、有効に言明されているかぎり、これを契約という。」
ヘーゲルは、意志を実体として把握し、意志そのものが移動すると解釈するが、マルクスではこれを唯物論的に修正し、関係が延長されると解釈する。そこで、商品の所有権を持っている商品所有者同士が相対し、「一つの意志行為を媒介にして」商品の売買契約を結び、所有権の移転を行う。マルクスは、この契約を、「経済的関係がそこに反映している一つの意志関係」と見るのである。
ところでヘーゲルは、売買契約と貨幣について、次のような興味ある見解を示した。 「売買とは、商品と貨幣との交換という交換の特殊な様式である。貨幣は一般的商品である。それゆえにそれは抽象的な価値であるから、それ自身は何か特殊な欲望をそれで充足するために使用することはできない。貨幣はそれと交換に特殊な必要品を得るための一般的手段にすぎない。だから、貨幣の使用は単に間接的なものである。物質はそれ自身これらの性質をもつものではないから、そのまま貨幣ではない。物質はただ協定によって貨幣としての通用を認められるにすぎない。」
これは、おそらく、ヘーゲル独自の貨幣理論ではなく、ヘーゲルが生きた時代に行われていた解釈を、彼が観念論の限界内で独自に取り上げたものであろう。しかし、抽象的理論に鋭いヘーゲルであるから、きわめて興味深い。
商品の交換という過程は、矛盾を持っている。
前節で示されたように、商品は「他人のために有用でなければならないという形態」と「共通な価値性格という形態」を持っている。
だから、「彼の商品は、他人にとって使用価値をもっている。」「すべての商品は、その所持者にとっては非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である。・・・この持ち手の取り替えが商品の交換なのであり、・・・商品を価値として実現するのである。それゆえ、商品は、使用価値として実現されうるまえに、価値として実現されなければならない。」
「他方では、商品は、自分を価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならない。」
また、特定の欲望を満たす使用価値であるということから、「交換は彼にとってただ個人的な過程でしかない。」また、等価物であるということから「交換は彼にとって一般的な社会課程である。だが、同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。」
また、「どの商品所持者にとっても、他人の商品はどれでも自分の商品の特殊的等価物とみなされ、したがって自分の商品はすべての他の商品の一般的等価物とみなされる。だが、すべての商品所持者が同じことをするのだから、どの商品も一般的等価物ではな」い。
この部分は、「批判」において、「こうして一方の解決が他方の解決を前提とするところから、そこに問題の悪循環が生じてくるばかりでなく、ひとつの条件をみたすことが直ちにその反対条件を満たすこととむすびついているところから、矛盾しあう諸要求の全体があらわれるのである。」とマルクスが書いた部分に対応している。
この「資本論」では、「商品所持者達は・・・考える前にすでに行っていたのである。」と記述されている。「他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分達の価値を全面的に表わすのである。・・・こうしてこの商品は、貨幣になる」。
「貨幣結晶は、・・・交換過程の必然的な産物である。交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っていた使用価値と価値の対立を展開する。この対立を交易のために外的に表わそうとする欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。」
商品に内在する使用価値と価値の矛盾は、自己を展開させ、貨幣と他の商品と言う矛盾を生み出し、交換過程という運動形態の中で解決されるのである。
ここから、マルクスは、交換の歴史を、論理的にさかのぼって見ていく。これはいままで論理的に展開してきたものが、実際に歴史上に現われる過程を見ることになる。
「直接的生産物交換の形態は、・・・交換以前には商品でなく、交換によってはじめて商品になる。ある使用対象が可能性からみて交換価値であるという最初のあり方は、・・・その所持者の直接的欲望を越える量の使用価値としての、それの定在である。・・・(諸物を)手放すことが相互的であるためには、・・・諸物の私的所有者として相対するだけでよく、・・・このように互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない。・・・商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる。しかし、物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる。・・・そのうちに、他人の使用対象に対する欲望は、だんだん固定化してくる。交換の不断の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的課程にする。・・・時がたつにつれて、労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産されなければならなくなる。この瞬間から、・・・諸物の使用価値は諸物の交換価値から分離する。・・・慣習は、それらの物を価値量として固定させる。」
独立した私的生産者の私的所有は、商品の交換の論理的出発点であるが、歴史的には、共同体自体が私的所有者としての役割を負うのである。
これは、生産(及び消費)から交換の分離・独立化の過程である。直接的生産物交換(物物交換)というのは、生産(及び消費)と直接的に同一な交換として把握しうる。交換と生産は分離されておらず、直接的に一体である。ところが、「交換の不断の繰り返しは」量質転化を起こし、交換が社会過程として確立することによって、生産と一体であった交換である物物交換から、交換過程が相対的に独立し、商品流通過程となって、生産と媒介関係に置かれるようになる。
しかし、分離されたとはいえ、交換過程は生産過程と媒介関係にあり、交換過程は、交換する商品を生産から供給されてはじめて成立するという意味で、生産過程と直接に同一の側面を持っているということになる。
それに対応して、生産物の生産が、交換を目的とする過程へ変化しはじめる。「労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産され」るようになっていく。生産が、生産物の生産過程から、交換の産物である「価値」の生産過程へと変貌するということは、生産の中に、交換と直接に同一の側面を確立するということである。こうして、生産と交換が相互規定的となり相互浸透を始め、その発展が始まるのである。なお、労働過程と価値生産過程との統一の論理は、第3篇第五章で展開される。
「直接的生産物交換では、・・・それ自身の使用価値や交換者の個人的欲望にかかわりのない価値形態をまだ受け取っていないのである。この形態の必然性は、交換過程にはいってくる商品の数と多様性とが増大するにつれて発展する。・・・交易は、いろいろな商品が・・・一つの同じ第三の商品種類と交換され価値として比較される・・・このような第三の商品は、・・・直接に、一般的な、または社会的な等価形態を受け取る。・・・一時的に、一般的等価形態はあれこれの商品に付着する。しかし、商品交換の発展につれて、それは排他的に特別な商品種類だけに固着する。」偶然性は必然性に転化する。「貨幣形態は、域内生産物の交換価値の実際上の自然発生的な現象形態である外来の最も重要な交換物品に付着するか、または、域内の譲渡可能な財産の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものに付着する。」「商品交換がその局地的な限界を打ち破り、・・・貨幣形態は、生来一般的等価物の社会的機能に適している諸商品に、貴金属に、移っていく。」「金銀の自然属性が貨幣の諸機能に適している・・・。」
「貨幣商品の使用価値は二重になる。それは、商品としてのその特殊な使用価値、・・・のほかに、その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取る」。 貨幣は、その他の商品と同様な特殊な使用価値であると共に、一般的価値形態から規定される使用価値という矛盾を抱え込むようになる。
「一商品の等価形態は、その商品の価値の大きさの量的な規定を含んではいない。・・・貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固している他の商品の量で表現される。このような、貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物物交換で行われる。それが貨幣として流通に入るとき、その価値はすでに与えられている。」
貨幣商品にも、商品が持つ一般性は貫かれているのである。 
 
第3章 貨幣または商品流通

 

第1節 価値の尺度
「第3節の3.等価形態」にて議論されたように、等価形態は尺度の機能を持つから、金が貨幣、すなわち一般的等価物であるということは、金が諸価値の一般的尺度の機能を持つことである。「金は諸価値の一般的尺度として機能し、・・・金という独自な等価物商品はまず貨幣になる」。「すべての商品は、自分達の価値を同じ独自な1商品で共同に計ることができ・・・、この独自な1商品を自分達の共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させる」。ここでは、貨幣が導入されたことによる新たな規定が問題となる。
「1商品の金での価値表現・・・は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。」貨幣が成立することによって、商品の方にも反作用を及ぼす。それが、商品の相対的価値形態に新たに「価格」という形態を与えるのである。「等価物商品である金は、すでに貨幣の性格をもっているから・・・諸商品の一般的な相対的価値形態は、いまでは再びその最初の単純な、または個別的な相対的な価値形態の姿をもっているのである。他方、展開された相対的価値表現、または多くの相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。しかし、この列は、いまではすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。」
貨幣が導入されたことによって、商品の個別的な相対的な価値形態が、価格という形態で復活する。これは、商品自身の価値像=金の一定量である。
「商品の価格または貨幣形態は、・・・単に観念的な、または想像された形態である。鉄や・・・などの価値は、・・・これらの物のうちに存在する。この価値は、これらの物の金との同等性によって・・・想像される。それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには、・・・これらの物に紙札をぶらさげる・・・。商品価値の金による表現は観念的なものだから、この機能のためにも、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、金を用いることができる。・・・それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、貨幣として役立つのである。」
しかし「価格はまったく実在の貨幣材料によって定まる」。そこで、「金や銀や銅のどれが価値尺度として役立つかによって、・・・全く違った価格表現を与えられる。」「それゆえ、もし二つの違った商品、たとえば金と銀とが同時に価値尺度として役立つとすれば、すべての商品はふたとおりの違った価格表現・・・をもつことになる。これらの価格表現は、金と銀との価格比率・・・が不変であるかぎり、無事に相並んで用いられる。しかし、この価格比率の変動が起きるたびに、それは諸商品の金価格と銀価格との比率を撹乱して、この事実によって、価値尺度の二重化がその機能と矛盾することを示すのである。」つまり、この価値尺度の機能のためには、貴金属の種類は、一つでなければならないのである。
諸商品は「いろいろな大きさの想像された金量に転化されている・・・このようないろいろな金量として、諸商品の価値は互いに比較され、計られるのであって、技術上、これらの金量を、それらの度量単位としての或る固定された金量に関係させる必要が大きくなってくる。この度量単位そのものは、・・・度量標準に発展する。金や銀や銅は、それらが貨幣になる以前に、すでにこのような度量標準をそれらの金属重量においてもっている。・・・重量の度量標準の有り合わせの名称が、また貨幣の度量標準または価格の度量標準の元来の名称にもなっているのである。」
20エレのリンネルが店頭に並べられてあり、そのリンネルに金2オンスと書いた名札が貼ってあるとすれば、それは、価値を測る一般的等価物=一般的尺度に金という商品を採用しているという意味と、その価値を、金という金属重量の度量標準を用いて表現しているという矛盾した構造を示しているのである。
「価値の尺度および価格の度量標準として、貨幣は二つのまったく違った機能を行う。」「価値尺度としては、種々雑多な商品の価値を価格に・・・転化させるのに役立ち、価格の度量標準としては、この金量を計る。」「価格の度量標準のためには、・・・度量比率の固定化が決定的である。・・・価値の尺度として・・は、・・・可能性からみて一つの可変的な価値であるからこそである。」
ここで、度量標準は、金属の属性の側面から由来しており、価値の尺度は、価値の側面から由来していることに注意する必要がある。この「二つのまったく違った機能」は、相互に相対的に独立しており、その矛盾が、以下の結果を説明する。
「金の価値変動は、金が価格の度量標準として機能することを決して妨げない」。「金の価値変動はまた金が価値尺度として機能することも妨げない。」したがって「商品価格の運動に関しては、一般に、以前に展開された単純な相対的価値表現の諸法則があてはまる」。
「個々の金属重量の貨幣名は、いろいろな原因によって、しだいにそれらの元来の重量名から離れてくる」。「歴史的過程は、いろいろな金属重量の貨幣名がそれらの普通の重量名から分離することを国民的慣習にする。貨幣度量標準は、一方では純粋に慣習的であるが、他方では一般的な効力を必要とするので、結局は法律によって規制されることになる。」
「こうして価格・・・は、いまでは金の度量標準の貨幣名または法律上有効な計算名で表現される。・・・そして、貨幣は、ある物を価値として、したがって貨幣形態に、固定することが必要なときには、いつでも計算貨幣として役立つのである。」
つまり、実際には、店頭に並べられた20エレのリンネルには、金2オンスではなく、2ポンド・スターリングという貨幣名が示されているのである。
「価値が、商品世界の雑多な物体から区別されて、このなんだかわからない物的な、しかしまた純粋に社会的な形態に達するまで発展をつづけるということは、必然的なのである。」
一方、価値とその表現である価格とは、矛盾する可能性を含む。「商品の価値量の指標としての価格は、その商品と貨幣との交換割合の指標だとしても、逆にその商品と貨幣との交換割合の指標は必然的にその商品の価値量の指標だということにはならない。」「1商品とその外にある貨幣商品との交換割合・・・・では、商品の価値量が表現されうるとともに、また、与えられた事情のもとでその商品が手放される場合の価値量以上または以下も表現されうる。だから、価格と価値量との量的な不一致の可能性、または、価値量からの価格の偏差の可能性は、価格形態そのもののうちにあるのである。このことは、・・・この形態を、一つの生産様式の、すなわちそこでは原則がただ無原則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の、適当な形態にするのである。」
価値量と価格との関係の中に、すでにそれが量的に一致しない矛盾が、内包されている。「しかし、価格形態は、・・・一つの質的な矛盾、すなわち、貨幣はただ商品の価値形態でしかないにもかかわらず、価格がおよそ価値表現でなくなるという矛盾を宿すことができる。」つまり、労働の産物ではない物でも、商品として価格を与えることができるということである。これは、価値関係が、本来は価値のないものまでも、形式的に延長されるということを意味している。
この商品の価格と貨幣の度量標準が確立すると、次には、その運動の考察へと進むことができる。「実際の交換価値の働きをするためには、商品はその自然の肉体を捨て去って、ただ、想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。」「価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。」
第2節 流通手段
a 商品の変態
前節で、貨幣の価値尺度の側面を規定した。次に、貨幣の運動を考察することによって、貨幣のもう一方の側面である「使用価値」の側面を規定する。
「商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは、一般に現実の矛盾が解決される方法である。」
これは矛盾の運動を、端的に、見事に表現している。
いままでの矛盾の構造化は、次の文章に総括されている。
「交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化、すなわち商品がその使用価値と価値との内的な対立をそこに表わすところの外的な対立を生み出す。この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対する。他方、この対立のどちら側も商品であり、したがって使用価値と価値との統一体である。しかし、このような、差別の統一は、両極のそれぞれに逆に表わされていて、そのことによって同時に両極の相互関係を表わしている。商品は実在的には使用価値であり、その価値存在は価格においてただ観念的に現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在の価値姿態としての対立する金に、関係させている。逆に、金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、・・・ただ観念的に現われているだけである。」
このような矛盾の構造化によって、はじめて商品の運動が可能になる。それが「社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態転換」という否定の否定の運動である。「商品の交換過程は、対立しつつ互いに補い合う二つの変態−商品の貨幣への転化と貨幣から商品へのその再転化」である。
「商品―貨幣―商品」「W―G―W」これが否定の否定の全運動であり、これは、W―G、販売、第一の否定、とG―W、購買、第二の否定から構成されている。
まず、W―G、販売、が考察される。
これは、「商品の命がけの飛躍である。」「分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。」
「商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言い換えれば、売りは買いであり、W―Gは同時にG―Wである。」
「いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た二枚の金貨は、一クウォーターの小麦の転化された姿であると仮定しよう。リンネルの売り、W―Gは、同時に、その買い、G―Wである。しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始まったものである。・・・1商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の1商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である。」
すなわち、この過程では、販売は、直接的に、購買である。そしてこの購買は、別の商品の第二の変態である。
次にG―W、購買が考察される。「商品の第二の、または最終の変態」「或る商品の最後の変態は、同時に他の1商品の最初の変態である。」「商品所有者はある一つの方向に偏した生産物だけを供給するので、その生産物をしばしばかなり大量に売るのであるが、他方、彼の欲望は多方面にわたるので、彼は実現された価格すなわち手に入れた貨幣額を絶えず多数の買いに分散せざるをえない。・・・こうして1商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなすのである。」
すなわち、この過程では、購買は、直接に販売である。そしてこの販売は、別の商品の第一の変態である。
「ある商品・・・の総変態を考察するならば、・・・互いの補い合う二つの反対の運動、W―GとG―Wとから成っているということである。商品のこの二つの反対の変態は、・・・商品所持者の二つの反対の経済的役割に反射する。」
商品所持者の経済的役割が分裂して、売り手と買い手になり、商品流通の中で、その役割を取り替える。人間の行為に転化するためには、すべて人間の意識を通過せねばならないのであるから、この過程は、その役割を担う人間の意識に反映するであろう。それが「第3節.貨幣」の議論へと繋がっていく。
「商品変態の二つの逆の運動形態は、一つの循環をなしている。」「ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。」「こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみあっている。この総過程は商品流通として現われる。」
「商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている。」「商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って人間労働の物質代謝を発展させるのがみられる。他方では、当事者たちによっては制御されえない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。」
こうして、否定の否定の運動の連鎖によって、商品流通の全体の運動が、論理的に導かれるのである。
物々交換から商品流通への発展は、単なる二つの商品の交換ではなく、多数の商品の交換として表れる。それは、物々交換では直接的に同一であった販売と購買を、二つに分裂させ、相互に関連させるということである。ここにも、直接的同一から媒介的統一への弁証法的展開が見られる。「流通は、生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同時に又、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動することをも意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれるー恐慌というものによって。」ここには、二つの過程への分裂から、諸過程の独立へ、外的対立へ、外的独立化へ、そして恐慌へとの弁証法的発展の理論的根拠が描かれている。
「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる。」ここに、貨幣の「使用価値」の側面としての「流通手段」の規定が、実際の運動の中で論理的に形作られる。
b 貨幣の流通
貨幣の世界の運動は、商品世界の運動である商品流通を反映する。ではどのように、反映するのか。
「商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣がたえず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んでいくこと、または貨幣の流通である。」
「商品はいつでも売り手に側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また、別な商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずる・・・。」「商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるようにみえ、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、・・・つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移していくというように見えるのである。」「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。」
「貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。」「同じ商品の二つの反対の形態変換は、反対の方向への貨幣の二度の場所変換に反映するのである。」
「同じ貨幣片の場所変換のひんぱんな繰り返しには、・・・商品世界一般の無数の変態のからみあいが反映しているのである。」「貨幣は流通手段としてはいつでも流通部門に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。そこで、この部門はつねにどれだけの貨幣を吸収するか、という問題が生ずる。」全体としての貨幣の量的規定である。
「1国では毎日多数の同時的な、したがってまた空間的に並行する一方的な商品変換が、言いかえれば、一方の側からの単なる売り、他方の側からの単なる買いが、行われている。・・・商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表わされている金総額を実在的に表わすだけである。」「諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。この場合には流通手段の量の変動は・・・流通手段としての貨幣の機能からではなく、価値尺度としての機能から生ずるのである。」
「こういうわけで、この前提のもとでは、流通手段の量は実現されるべき諸商品の価値総額によって規定されている。そこで、さらにそれぞれの商品種類の価格を与えられたものとして前提すれば、諸商品の価格総額は、明らかに流通の中にある商品量によって定まる。」「商品量を与えられたものとして前提すれば、流通する貨幣の量は、諸商品の価格変動につれて増減する。」
「同じ貨幣片が繰り返す場所変換は、商品の二重の形態変換、二つの反対の流通段階を通る商品の運動を表わしており、また、いろいろな商品の変態のからみあいを表わしている。この過程が通る対立していて互いに補い合う諸段階は、空間的に並んで現われることはできないのであって、ただ時間的にあいついで現われることができるだけである。それだから時間区分がこの過程の長さの尺度になるのであり、又、与えられた時間内の同じ貨幣片の流通回数によって貨幣流通の速度が計られるのである。」「流通過程の或る与えられた期間については、(諸商品の価格総額)/(同名の貨幣片の流通回数)=流通手段として機能する貨幣の量となる。」「流通しつつあるすべての同名の貨幣片の総流通回数からは、各個の貨幣片の平均流通回数または貨幣流通の平均速度がでてくる。」
「貨幣流通では一般にただ諸商品の流通過程が、すなわち反対の諸変態をつうじての諸商品の循環が、現われるだけであるが、同様に、貨幣流通の速さに現われるものも、商品の形態変換の速さ、・・・である。」
「要するに、それぞれの期間に流通手段として機能する貨幣の総量は、一方では、流通する商品世界の価格総額によって、他方では、商品世界の対立的な流通過程の流れの緩急によって、規定されているのである。」「また、諸商品の価格総額は、各商品種類の量と価格との両方によって定まる。ところが、この三つの要因、つまり価格の運動と流通商品量とそして最後に貨幣の流通速度とは、違った方向に、違った割合で変動することができる。したがって、実現されるべき価格総額も、したがってそれによって制約される流通手段の量も、非常に多くの組み合わせの結果でありうるのである。」
こうして、貨幣固有の運動が、全体としての貨幣量を規定することが示された。それはそもそも商品世界の全体としての運動を反映したものである。これで、否定の否定の運動の、商品と貨幣の両側面が、説明されたことになる。
c 鋳貨 価値章標
この部分から「世界貨幣」までの展開は、「批判」の方に詳しい。「資本論」では、「批判」の内容が要約されている。
「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通の中では同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。価格の度量標準の確定と同様に、鋳造の仕事は国家の手に帰する。金銀が鋳貨として身につけ世界市場で再び脱ぎ捨てるいろいろな国家的制服には、商品流通の国内的または国民的部面とその一般的な世界市場部面との分離が現れる。」
重複することにはなるが、ここで、再度、国家の役割を確認しておきたい。生産関係が労働の社会的分割=私的所有に変化して以来、特殊な利益と共同の利益の和解しがたい分裂が、社会に潜在するようになる。その内、特殊な利益が階級という形態で現出する一方、共同の利益は、国家という形態を取るようになる。従って、国家は、社会を構成する諸個人の相互依存性=生産関係を観念的に代表するものであるから、内外からの国家に対する攻撃から共同の利益を守り、共通の制度を設立し、政治的な秩序を保つ必要がある。そのための機関が、国家権力である。
当然のことながら、階級と国家権力とは、相互規定の関係にあり、相互浸透が進行する。諸階級はそれぞれの特殊な利益を普遍的なもののように見せかけ国家に押し付けるが、国家は見かけ上普遍的な利益を諸階級に押し付ける。
「金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができるのである。・・・流通しているうちに金鋳貨は、・・・摩滅する。金の称号と金の実体とが、・・・その分離過程を開始する。・・・鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、・・・」
「貨幣流通そのものが鋳貨の実質純分を名目純分から分離し、その金属定在をその機能的定在から分離するとすれば、貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料から成っている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる。」 「銀製や銅製の章標の金属純分は、法律によって任意に規定されている。それらは、・・・摩滅する。・・・金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値な物、紙幣が、金に代わって鋳貨として機能することができる。」「ここで問題とするのは、ただ、強制通用力のある国家紙幣だけである。」
「紙幣が・・・現実に同名の金の額に代わって流通するかぎり、その運動にはただ貨幣流通そのものの諸法則が反映するだけである。紙幣流通の独自な法則は、ただ金に対する紙幣の代表関係から生じうるだけである。・・・紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないであろう量に制限されるべきである、というのである。」「紙幣は金章標または貨幣章標である。」
「金はそれ自身の単なる無価値な章標によって・・・代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりでのことである。」「だから、その運動は、ただ商品変態W−G−Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品に対してその価値形態が相対したかと思えばそれはすぐに消えてしまうのである。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。・・・だから・・・貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の機能的定在が貨幣の物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。」
第3節 貨幣
ここからは、貨幣の今まで論じてきた側面とは異なった側面を、論ずる「価値尺度として機能し、・・・流通手段として機能する商品は、貨幣である。それゆえ、金は貨幣である。」しかし、逆に、金商品は、必ずしも貨幣ではない。価値尺度と流通手段という矛盾が貨幣であり、金はその矛盾を担っている土台であるから、金と貨幣の間にも矛盾がある。金が貨幣である場合とは、「金が・・・貨幣商品として、現われなければならない場合であり、・・・その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値として他のすべての商品に対立させて固定する場合である。」ここでは、価値尺度と流通手段の統一としての貨幣のその他の機能的側面、発展形態が、論理的に取り上げられていく。それが、資本の準備段階となっている。
a 貨幣蓄蔵
「商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物、商品の転化した姿態または商品の金蛹を固持する必要と熱情が発展する。商品は、商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態と取り替えるために、売られるようになる。この形態変換は、物質代謝の単なる媒介から自己目的になる。商品の離脱した姿は、・・・こうして、貨幣は蓄蔵貨幣に化石し、商品の売り手は貨幣蓄蔵者になるのである。」
「商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が、増大する。」「貨幣は、それ自身商品であり、だれの私有物にでもなれる外的な物である。こうして、社会的な力が個人の個人的な力になるのである。」
「貨幣蓄蔵の衝動はその本性上無際限である。質的には、またその形態からみれば、貨幣は無制限である。・・・しかし、同時に、どの現実の貨幣額も、量的に制限されており、・・・。このような、貨幣の量的な制限と質的な無制限との矛盾は、貨幣蓄蔵者を絶えず蓄積のシシュフォス労働へと追い返す。」
この貨幣の矛盾の衝動が、貨幣蓄蔵者の意識に「勤勉と節約と貪欲」として反映する。
「蓄蔵貨幣の直接的な形態と並んで、その美的な形態、金銀商品の所有がある。」「一方では、金銀の絶えず拡大される市場が、金銀の貨幣機能にかかわりなく形成され、他方では、貨幣の潜在的な供給源が形成されて、・・・」
「貨幣蓄蔵は金属流通の経済ではいろいろな機能を果たす。まず第一の機能は、金銀鋳貨の流通条件から生ずる。・・・商品流通が、・・・絶えず変動するのにつれて、貨幣の流通量も休みなく満ち干きする。だから、貨幣流通量は、収縮し膨張することができなければならない。」「現実に流通する貨幣量がいつでも流通部面の飽和度に適合しているようにするためには、一国にある金銀量は、現に鋳貨機能を果たしている金銀量よりも大きくなければならない。この条件は、貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。」
連続する流通は、休止と統一されている場合に可能である。貨幣蓄蔵は、絶え間ない流通の条件なのである。
b 支払手段
「商品流通の発展につれて、商品の譲渡を商品価格の実現から時間的に分離するような事情が発展する。」「一方の商品所持者は、現に在る商品を売り、他方は、貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として、買うわけである。売り手は債権者となり、買手は債務者となる。」「貨幣は、支払手段になる。」
以前は、販売と購買は直接的に同一であった。ここでは、それが媒介的な統一に変えられている。
「例えば、古代社会の階級闘争は、主として債権者と債務者との闘争という形で行われ、そしてローマでは平民債務者の没落で終わり、この債務者は奴隷によって代わられるのである。中世には闘争は封建的債務者の没落で終わり、この債務者は彼の政治権力をその経済的基盤と共に失うのである。ともあれ、貨幣形態・・・ここでは、ただ、もっと深く根ざしている経済的生活条件の敵対関係を反映しているだけである。」
古代社会と中世封建社会の崩壊の原因となった私的所有の発展は、商品流通としては未だ全面的な展開にまで至っていなかったが、最後の論理的展開において現れる債権者と債務者という矛盾にまでは到達していたのである。
「貨幣は、第一には、売られる商品の価格決定において価値尺度として機能する。契約によって確定されたその商品の価格は、買手の債務・・・を示す。貨幣は、第二には、観念的な購買手段として機能する。それはただ買手の貨幣約束のうちに存在するだけだとはいえ、商品の持ち手変換をひき起こす。支払期限が来たときはじめて支払手段が現実に流通にはいってくる。すなわち買手から売り手に移る。」「貨幣はもはや過程を媒介しない。貨幣は、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、過程を独立に閉じる。」「債務を負った買手がそうしたのは、支払ができるようになるためだった。・・・貨幣は、・・・売りの自己目的になるのである。」
「流通過程のどの一定期間にも、満期になった諸債務は、その売りによってこれらの債務が生まれた諸商品の価格総額を表わしている。この価格総額の実現に必要な貨幣量は、まず第一に支払手段の流通速度によって定まる。この流通速度は二つの事情に制約されている。第一には、・・・債権者と債務者との関係の連鎖であり、第二には支払期限と支払期限との間の時間の長さである。」
「多くの売りが同時に並んで行われることは、流通速度が鋳貨量の代わりをすることを制限する。」「同じ場所に諸支払が集中されるにつれて、自然発生的に諸支払のための固有な施設と方法が発達してくる。」「・・・債権は、ただ対照されるだけで或る金額までは正量と負量として相殺されることができる。こうして、あとに残った債務差額だけが清算されればよいことになる。」
「諸支払が相殺されるかぎり、貨幣は、ただ観念的に計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。現実の支払がなされなければならないかぎりでは、貨幣は、・・・絶対的商品として現われるのである。この矛盾は、生産・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する。」
「次に、与えられた一期間に流通する貨幣の総額を見れば、それは、流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば、実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから相殺される諸支払を引き、最後に、同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額を引いたものに等しい。」
「信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生するものであって、それは売られた商品に対する債務証書そのものが、さらに債権の移転のために流通することによって、発生するのである。」
「商品生産が或る程度の高さと広さとに達すれば、支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を越える。貨幣は契約の一般的商品となる。地代や租税などは現物納付から貨幣支払に変わる。」
「支払手段としての貨幣の発展は、債務額の支払期限のための貨幣蓄積を必要にする。」
c 世界貨幣
「国内流通部門から外に出るときには、貨幣は・・・国内流通部面でできあがる局地的な形態を再び脱ぎ捨てて、貴金属の元来の地金形態に逆戻りする。世界貿易では、諸商品はそれらの価値を普遍的に展開する。」「世界市場ではじめて貨幣は、十分な範囲にわたって、その現物形態が同時に抽象的人間労働の直接に社会的な実現形態である商品として、機能する。貨幣の定在様式は、その概念に適合したものとなる。」これが、国家間の枠を超えた貨幣の性格であり、国家という枠がないところでは、いままで論じてきた貨幣の発展形態ではなく、本来の素朴な形態へ帰る。
「世界市場では二通りの価値基準が、金と銀とが、支配する。」
「世界貨幣は、一般的支払手段、一般的購買手段、富一般の絶対的社会的物質化として機能する。支払手段としての機能は、国際貸借の決済のために、他の機能に優越する。」
「各国は、・・・世界市場流通のためにもそれ(準備金)を必要とする。・・・この・・役割のためには、つねに現実の貨幣商品、生身の金銀が要求される。」
ここまでで、貨幣のすべての機能が説明された。それはすべて、商品の矛盾が展開されたものに他ならない。マルクスは、論理的に、すなわち弁証法的に、それを展開し、解説したのである。 
 
第4章 貨幣の資本への転化

 

第1節 資本の一般的定式
ここからは、いよいよ資本が論じられる。商品流通の否定の否定の運動から、もう一つの否定の否定の運動が分離され、それが相対的に独立化する条件を探していく。これは、この独立化を可能とする内的矛盾を見出す探索の道である。
「商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。」「商品流通の・・・過程が生み出す経済的な諸形態だけを考察するならば、われわれはこの過程の最後の産物として貨幣を見出す。この、商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態である。」
資本の歴史的な前提は、論理的な前提でもある。その前提は、商品生産と商品流通である。第1篇で示されたのは、独立して相互に依存していない私的労働者の労働生産物は、使用価値と価値の統一として商品となり、直接的生産物交換は、価値の結晶として貨幣を生み出し、商品流通へと展開されるということであった。この貨幣が、資本の論理的出発点だというのである。逆に言えば、商品生産と貨幣を媒介にした商品流通とが存在しないと、資本は生まれないということである。
「貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。」
資本の歴史的過程を論理的に把握すれば、その論理的過程は、現在の社会の中で、ある一つの資本が成立する中にも再現されているということである。「個体発生は、系統発生を繰り返す」という表現を借りれば、個々の資本の発生は、資本の歴史的発生を、論理的に繰り返すということになろうか。
「商品流通の直接的形態は、W−G−W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。」すなわちW−Wを達成するために、否定の否定という二重否定の形態で運動を行う。この第二の否定を先にして第一の否定を後にすると、「第二の独自に区別される形態、すなわち、G−W−Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見出す。この運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化する」。
ここでは、二重否定が二つに分裂している。この後の方の二重否定が達成するのは、「貨幣と貨幣との交換、G−G」のはずである。W−Wには異なった使用価値を交換するという独自の目的があった。このG−Gの二重否定が意味を持つ運動であるためには、独自の目的、メリットがなければならない。
そこで「循環G−W−GとW−G−Wとの形態的相違の特徴づけ」をおこなう。
「まず両方の形態に共通な物」は「どちらの循環も同じ二つの反対の段階、W−G、売りとG−W、買い」から成り立つことである。
「二つの循環・・・を区別する物は、同じ反対の流通段階の逆の順序である。」「流通W−G−Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役立つ。だから、貨幣は最終的に支出されている。これに反して、逆の形態G−W−Gでは、買手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。」「彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほかならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである。」
「単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれ(商品)を一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。」「これが、資本としての貨幣の流通と異なる貨幣としてその流通との感覚的に認められる相違である。」
「循環W−G−Wは、・・・それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環G−W−Gは、・・・それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。」
「単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態を持っている。それらは、・・・同じ価値量の商品である。しかし、それらは質的に違う使用価値・・・である。」「流通G−W−Gでは、・・・どちらの極も同じ経済的形態をもっている。」「その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容を持つのである。」「それゆえ、この過程の完全な形態は、G−W−G’であって、ここではG’=G+ΔGである。すなわちG’は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値と呼ぶ。それゆえ、最初に前貸しされた価値は、・・・自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。」
つまり、G−Gである第二の否定の否定が意味を持つためには、貨幣が価値増殖すること、最初の貨幣額に剰余価値を付け加えることが必要である。こういうことが可能かどうかはともかく、こうしなければ、第二の否定の否定が意味ある運動にならないということである。
また、この第二の否定の否定の運動は、量質転化が決定的な限界をなしている。G−W−Gという形態を維持しても、最初と最後が同じ量の貨幣であれば、それは資本ではない。最後の貨幣量が最初の貨幣量を超えた場合に資本になる。つまり、貨幣の量的な変化が、質的な変化を引き起こすのである。
だから、第二の否定の否定が量質転化して資本になる運動は、流通の中での、私的所有という制度の中での流通以外の特別な制度がなくても起こりうる自然的な現象ということになる。
「W−G−W・・・で、・・・両極が等価だということは、ここではむしろ正常な経過の条件なのである。」
「売りのための買いでは、始めも終わりも・・・貨幣、交換価値であり、・・・この運動は無限である。」「貨幣は、運動の終わりには再び運動の始めとして出てくるのである。」「単純な商品流通―買いのための売り―は、流通の外にある最終目標、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役立つ。これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動の中だけに存在するのだからである。それだから、資本の運動には限度がないのである。」
つまり、資本の運動は、自己増殖運動であり、それ自体自立した自己増殖反応である。これは、第一の否定の否定の運動とは、決定的に異なる属性である。
「この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。」「あの流通の客観的内容―価値の増殖―が彼の主観的目的なのであって、・・・彼は資本家として、または人格化され意志と意識を与えられた資本として、機能するのである。」
資本家は、資本の人格化であり、彼の意識は、資本の運動の反映である。こうして、資本家が誕生する。
「流通G−W−Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。価値は、この運動の中で・・・絶えず一方の形態から他方の形態へ移っていき、・・・一つの自動的な主体に転化する。」「実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程の中で絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を自己増殖するのである。」 「このような過程の全面をおおう主体として価値は何よりもまず一つの独立な形態を必要とするのであって、この形態によって価値の自分自身との同一性が確認されねばならないのである。そして、このような形態を、価値はただ貨幣のおいてのみもっているのである。それだからこそ、貨幣は、どの価値増殖過程でもその出発点と終点とをなしているのである。」
「単純な流通では、商品の価値は、せいぜい商品の使用価値に対立して貨幣という独立な形態を受け取るだけであるが、その価値がここでは、突然、過程を進行しつつある、自分自身で運動する実体として現われるのであって、この実体にとっては商品や貨幣は両方ともただの形態でしかないのである。」「価値は、過程を進みつつある価値、過程を進みつつある貨幣になるのであり、そしてそのようなものとして資本になるのである。」
「実際に、G−W−G’は、直接に流通部門に現われているとおりの資本の一般的な定式なのである。」
商品流通の中で生まれた価値が、ここでは前面に出てきて運動の実体となり、それが貨幣―商品―貨幣の形態をとり、価値増殖する。これが資本というわけである。「第2章 交換過程」で記したように、生産(及び消費)過程と交換流通過程は、相互浸透の関係にある。流通過程の中で起こる資本の発生は、生産過程に浸透しそれを変化させる。これが、第5章へと繋がっていく。
では、この価値増殖という運動がどうして可能になるのか。これが次の問題である。
第二節 一般的定式の矛盾
「どうして、このような純粋に形態的な相違がこれらの過程の性質を手品のように早変わりさせるのだろうか。」
資本が生まれ出る過程は、まるで、南の海に台風が発生するようなものであり、太古の海に、自己増殖能を持つ原始的生命である細胞が誕生するようなものであるし、人体の中に、自己増殖する癌細胞が発生するようなものである。どうしてこんな不思議なことが起こるのか。
「われわれは、流通にはいっていく価値の増殖したがって剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見極めなければならないのである。」
「流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合、」「単純な商品流通の中で行われるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもない。」「この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものではない」。「商品の流通は、・・・等価物どうしの交換を引き起こすのである。」「等価物と等価物とが交換されるとすれば、・・・剰余価値の形成は行われない。」
「そこで、互いに等価ではないものどうしの交換を想定してみよう。」この考察の結果、「要するに、・・・貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価格よりも高く売るということによっても、また、買手が商品をその価格より安く買うということによっても、説明することはできないのである。」「流通または商品交換は価値を創造しない。」
そこで、次の矛盾が発生する。「資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通の中で発生しなければならないと同時に流通の中で発生してはならないのである。」
第3節 労働力の売買
「資本へ転化するべき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。」「同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じ得ない。」「そこで、変化は第一の行為G−Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかし、その商品の価値に起きるのではない。」「だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるほかはない。」
その様な商品「価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような1商品」「その現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような1商品」が「労働能力または労働力」である。「人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在して、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。」
労働力商品とは、人間である。人間が、商品、すなわち物品として、物として扱われるということである。
「貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。」
第一に、「労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な処分者でなければならない。労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、・・・両方とも法律上では平等な人である。この関係の持続は、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。」
「第二の本質的な条件は、労働力所持者が・・・、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである。」
「だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。」
この労働市場の形成は、「明らかに、それ自体が、先行の歴史的発展の結果なのであり、・・・たくさんの過去の社会的生産構成の没落の産物なのである。」「資本主義時代を特徴付けるものは、労働力が労働者自身にとって彼の持っている商品という形態をとっており、したがって彼の労働が賃労働という形態をとっているということである。他方、この瞬間からはじめて労働生産物の商品形態が一般化されるのである。」
労働力商品も商品であるからには、第1章第1節・第2節に記述されてある商品の一般論が、妥当するはずである。では、労働力商品の価値は、どのように規定されるか。
「労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。」「労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。」「生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するに足りる物でなければならない。」「労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。」
商品の価値は、抽象的人間労働の対象化であり、関係概念で把握すべきものである。人間の労働力商品の再生産には、直接的に人間の労働が対象化されているわけではない。しかし、その生産には生活必需品を必要とするから、生活手段の消費によって、生活手段に対象化されていた労働時間が更に再対象化されて価値が形成される。生活手段の使用価値に結びついていた価値の関係が、人間の労働力商品にまで、延長されるのである。労働力商品にも、商品一般の規定が貫かれている。
「彼が市場に現われることが連続的であるためには、・・・絶えず補充されなければならない。だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのである。」
「労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのである。」
「労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。」「どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。」
生きた人間が労働力商品である、つまり、再対象化された労働時間であるということは、人間が活動を交換しているということである。
「この独自な商品、労働力の特有な性質は、買手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということをともなう。」「しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実的引渡しとが時間的に離れている商品の場合には、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する。資本主義的生産様式の行われる国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払を受ける。だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。」「とはいえ、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかは、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではない。」
「われわれは、労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の規定の仕方を知った。この価値と引き換えに貨幣所持者の方が受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。」「労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部門の外で行われる。」
労働力商品の売買は、商品流通の必然的な発展から導かれるもので、商品交換の原則である等価交換に完全に則っているのである。
第2章で述べたように、商品の生産過程と流通過程は、媒介関係にあり、それぞれ相互に直接的同一の側面を持っている。そうして、商品の生産過程と流通過程が相互に浸透する構造を有したとき、生産から流通へ、及びその逆の過程、すなわち否定の否定が可能になる。このように、生産と流通とは、対立物の統一として把握すべきである。
そこで、商品の流通過程に労働力商品が現れ、労働力市場が形成されれば、それは生産過程を変貌させる。生産過程において労働力商品を使用して価値を増殖させるとすれば、商品の生産過程は、同時に、剰余価値の生産を目的とすることとなり、資本の生産過程となる。これが、第一部で論じられる。
一方、資本の生産過程は、商品の流通過程を変化させる。剰余価値は、商品の流通過程ではじめて実際に証明され分離され、決して、生産過程の中で証明・分離されるものではないからである。これが、第2部で論じられる。
最後に、対立物の統一として、資本の生産過程と流通過程との媒介関係が、同時に相互に直接的同一の側面を持ち、相互浸透の構造化から否定の否定の構造へと把握され、資本の現象形態が展開される。こうして、資本の自己増殖運動の全体が説明されるのである。これが、第3部の内容である。
商品の世界の側に立っていた労働力商品は、「貨幣所持者」につれられて「隠れた生産の現場に、無用の者は立ち入るなと入り口に書いてあるその場所に」入っていくことになる。
 
第5章 労働過程と価値増殖過程

 

第1節 労働過程
まずここでは、「使用価値をつくるための合目的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然との間の物質代謝の一般的条件であり、人間社会の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なものである」労働過程が論じられる。
「労働は、まず第一に自然と人間とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。」これは、自然と人間とを対立的に捉え、両者を対立物の統一として把握し、労働をその対立物の媒介運動として理解する視点である。
最初に確認すべきは、自然(A)と人間(B)とは、直接的同一の関係ではなく、媒介的関係にあるということである。それは人間(B)が自然(A)から相対的に独立した存在であり、人間(B)はそのままでは自然(A)に適合していないからである。
1 直接の同一性
対立物Aが、B´の側面を持ち、BはA´の側面を持つ。
原初においては、自然Aは、人間B´の側面を持っていない。しかし、人間Bは、A´の側面を持っている。「人間(B)は、自然素材(A)に対して彼自身一つの自然力(A´)として相対する。」
2 相互依存性
AはBを媒介する。相互は依存しあっている。ここに一つの媒介運動が起こる。
彼(B)は「彼の肉体に備わる自然力、腕や脚、頭や手」(A´)を動かすことによって、「自然素材(A)を、彼自身の生活のために使用され得る形態(B´)で獲得する」。
3 相互の完成
媒介運動を基礎にして、AとBが完結し、更にAとBが最後の仕上げを受ける。
「人間(B)は、この運動によって自分の外の自然(A)に働きかけてそれを変化(B´)させ、そうすることによって同時に自分自身の自然(A´)を変化させる。彼は、彼自身の自然のうちに眠っている潜勢力(B)を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる。」
労働は、なにより、自然(A)の人間による人間化(B´化)の媒介運動として、歴史的自然の創出運動として、把握される。したがって、「ただ人間だけにそなわるものとしての形態にある労働」とは、この3によって仕上げられた労働ということになり、それは、人間が他の動物と区別される大きな特徴である精神を持つことから来るはずである。
それは「建築師は蜜房を蝋で築く以前にすでに頭の中で築いている」ということである。「労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心象の中には存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。」この「労働者の心象」は観念的なBであり、それを「自然的なもの(A)のうちに、同時に彼の目的を実現する」結果は、現実的なB´である。だから、「労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的な意志が労働の継続期間全体にわたって必要である。」これが、「合目的的な活動]としての労働ということであり、自然(A)の人間化(B´化)の媒介運動としての労働である。つまり、労働の対象化は、肉体的な労働の対象化であると同時に、精神的な労働の対象化を伴うのである。
このような人間の労働における能動性は、マルクス以前の旧い素朴な唯物論では説明することができず、観念論に席を譲っていたのであった。「これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのをふくめて)の主要欠陥は対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえられて、感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえられないことである。それゆえ能動的側面は抽象的に唯物論に対立して観念論―これはもちろん現実的な感性的な活動をそのものとしては知らない―によって展開された。」(フォイエルバッハに関するテーゼ) 以前の唯物論には、弁証法が欠けていたので、唯物論の立場から人間の、なかんずく精神の能動性を、理論的に取り込み、解明する武器を持ち得なかったのである。
こういう観点から整理すると、「労働過程の単純な諸契機は、合目的な活動または労働そのものとその対象とその手段である」ということは、労働対象である自然(A)と、人間の労働主体(B)と彼が保持する自然力(A´)、A´の延長としての、媒介運動を可能にする労働手段を位置づけることができる。
「人間のために最初から食料や完成生活手段を用意している土地は、人間の手を加えることなしに、人間労働の一般的な対象として存在する。労働によってただ大地との直接的な結びつきから引き離されるだけの物は、すべて、天然に存在する労働対象である。」これは無垢の自然(A)である。「これに反して、労働対象がその自体すでにいわば過去の労働によって濾過されているならば、われわれはそれを原料とよぶ。」すなわち、原料とは、人間(B´)が加わった自然(A)といえよう。「労働対象が原料であるのは、ただすでにそれが労働によって媒介された変化を受けている場合だけである。」
「労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼のために役立つ物またはいろいろな物の複合体である。」「労働者が直接に支配する対象は、―完成生活手段、たとえば果実などのつかみ取りでは、彼自身の肉体的器官だけが労働手段として役立つのであるが、このような場合は別として―労働対象ではなく、労働手段である。こうして、自然的なものがそれ自身彼の活動の器官になる。その器官を彼は、・・・彼自身の肉体器官に付け加えて、彼の自然の姿を引き伸ばすのである。」すなわち自然Aの人間化B´の仕上げられたもの、完成品として、人間の側の自然力A´の延長線上に労働手段が捉えられ、最初はそのままの自然(A)がそれを供給し、後に加工された自然であるAのB´化したものを利用するようになることを示している。「およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでにそれは加工された労働手段を必要とする。」
マルクスは、対立物の浸透の結果として、労働手段を把握している。「労働手段の使用や創造は、・・・それは人間特有の労働過程を特徴づけるものであり、・・・。・・・重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の遺物がもっているのである。なにがつくられるかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を区別するのである。労働手段は、人間の労働力の発達の測定器であるだけではなく、労働がそのなかで行われる社会的諸関係の表示器でもある。」
「もっと広い意味で労働過程がその手段のうちに数えるものとしては、・・・およそ過程が行われるために必要なすべての対象的条件がある。・・・この種類の一般的な労働手段はやはり土地そのものである。なぜならば、土地は、労働者に彼の立つ場所を与え、また、彼の過程に仕事の場を与えるからである。この種類のすでに労働によって媒介されている労働手段は、例えば作業用の建物や運河や道路などである。」
生産物は、「形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材」であり、労働の結果であり、労働の対象化されたものであり、労働の否定である。「労働は対象化されており、対象は労働を加えられている(AのB´化)。」「この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。」このように、生産物の立場から、生産的活動Bと生産手段Aとが、新たに概念的に把握されている。このことは、労働自体が自然Aを含む人間Bという対立物の統一=矛盾であるが、その労働を否定した生産物Bがそれ自体またAを含むという矛盾した存在であり、生産的活動とその結果である生産物とは、再び対立物の統一として、矛盾として把握すべきであり、この二つの区別は相互浸透的、相互転化的ということでもある。
「ある一つの使用価値が、生産物として労働過程から出てくる」。これは、この過程の否定である。また、「別の使用価値は生産手段としてこの労働過程にはいっていく。」「それだから、生産物は、労働過程の結果であるだけでなく、同時にその条件でもあるのである。」すなわち、生産物は、労働過程の結果であり、その条件でもあるという矛盾を持つことができ、そこでは労働過程に入って生産手段に転化しており、このことは生産物が別の生産的活動を生み出すということであり、否定の否定でもある。
「その労働対象が天然に与えられている採取産業を除いて、他のすべての産業部門が取り扱う対象は、原料、すなわちすでに労働によって濾過された労働対象であり、それ自身すでに労働生産物である。」「特に労働手段について言えば、その大多数は、どんなに浅い観察眼にも過去の労働の痕跡を示しているのである。」「原料は、ある生産物の主要実体をなすことも、またはただ補助材料としてその形成に加わることもありうる。」
労働手段が「すでに労働によって媒介された変化を受けている」だけでなく、労働対象がそうである場合は、それは原料である。このような過去の生産過程の結果であるとともに、現在の生産過程の対象でもある場合の労働対象および労働手段が、時間的に多様な生産活動の間を移動し、相互の生産過程が媒介関係に置かれる。すなわち、否定の否定の連鎖が、過去と現在を結びつけるのである。
「同じ生産物でも、非常にさまざまな労働過程の原料になることができる。」「同じ生産物が同じ労働過程で労働手段としても原料としても役立つことがある。」「消費のために完成された形態で存在する生産物が、・・・新しく別の生産物の原料になることもある。または、労働がその生産物を、再び原料として使うよりほかには使いようのない形態で手放すこともある。この状態にある原料、たとえば綿花や繊維や糸などのようなものは、半製品とよばれるが、中間製品と呼ぶほうがよいかもしれない。」中間製品は、生産物であり労働過程の原料でもあるという矛盾が定立されたものである。「要するに、ある使用価値が原料か労働手段か生産物かのうちのどれとして現われるかは、まったくただ、それが労働過程でおこなう特定の機能、それがそこで占める位置によるのであって、この位置が変わればかの規定も変わるのである。それだから、生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失うのである。」
生産物はさまざまな労働過程の労働対象および労働手段となることによって、相互の生産過程を媒介関係におき、こうして否定の否定が、空間的に諸労働過程を結びつける。(無論ここでは、生産物の交換や流通は考慮していない。)
「このように、現にある生産物は労働過程の結果であるだけでなくその存在条件でもあるとすれば、他面では、それを労働過程に投げ入れることは、つまりそれが生きている労働に触れることは、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのである。」これが、3すなわち、労働過程と生産物が対立物の統一として相互規定の関係にあることが、否定の否定を保証するのである。
「労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを食い尽くすのであり、したがって、それは、消費過程である。この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の働きつつある労働力の生活手段として消費することによってである。それゆえ、個人的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は消費者とは別な生産物である。」
「われわれは将来の資本家のところに帰ることにしよう。」
資本家は、商品市場で、生産手段と労働力商品を買った。そこで、資本家は、商品を消費する、つまり、労働力商品と生産手段を消費する。これは、「個人的消費」ではないが、「生産的消費」であるかぎりでは、間違いなく、一般の商品の消費となんらかわりはない。
「ところで、労働過程は、資本家による労働力の消費過程として行われるものとしては、二つの特有な現象を示している。」
一つは、「労働者は資本家の監督の下に労働し、彼の労働はこの資本家に属している。」「第二に、生産物は資本家の所有であって、直接生産者である労働者のものではない。」資本家の「立場からは、労働過程は、ただ自分が買った労働力という商品の消費でしかないのであるが、しかし、彼は、ただそれに生産手段を付け加えることによってのみ、それを消費することができるのである。」
第2節 価値増殖過程
さて、前節では、自然対人間としての労働を扱ったが、それを人間対人間の立場から、「労働者を他の労働者との関係の中で示す」ことではなかった。以前に示したように、人間対人間の立場から、正確に言うと、人間の相互浸透の立場から労働を扱ったとき、そこに労働の特殊性を媒介とした生産関係の一般性が浮かび上がってくる。
第1篇で論じた商品論の理論的前提は、「独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働」の社会的分業社会であった。そこでは、生産物の生産者は、まだ、労働力商品になってはいなかった。だが、労働生産物は商品になっていたのであるから、労働過程は、価値形成過程でもあったはずである。「商品そのものが使用価値と価値との統一であるように、商品の生産過程も労働過程と価値形成過程との統一でなければならないのである。」
労働過程は、必ずしも価値形成過程ではない。それは、使用価値を生産したとしても、必ずしも商品を目的として生産するとは限らないからである。労働過程と価値形成過程の矛盾が定立したとき、それが商品の生産過程となる。
第2章で指摘したように、生産物の交換が貨幣を媒介とした商品流通との統一(直接的同一)になったのであるから、生産物の生産過程も、労働過程と価値形成過程の統一(直接的同一)でなければならない。こうして生産と流通が媒介関係におかれ、相互浸透が可能な構造になる。
ここでは、糸を生産する紡績労働の過程を取り上げているが、それを価値形成の観点から、ながめてみる。
糸の生産では、綿花から、紡錘を使って、糸を生産する。その生産手段と、必要な労働力を、次のような等式で表すことができるとする。
10ポンドの糸=10ポンドの綿花+消耗する紡錘量+紡績工の6労働時間
ここで、以下のように仮定している。
10ポンドの綿花=10シリング
消耗する紡錘量=1/4個の紡錘=2シリング
まず、生産手段の価値が、生産物の価値に寄与する部分を取り上げる。
「糸の価値、糸の生産に必要な労働時間が考察されるかぎりでは、綿花そのものや消費される紡錘量を生産するために、最後には綿花や紡錘で糸をつくるために、通らなければならないいろいろな特殊な、時間的にも空間的にも分離されている、いくつもの労働過程が、同じ一つの労働過程の次々に現れる別々の段階とみなされることができるのである。」「要するに、12シリングという価格で表わされる綿花と紡錘という生産手段の価値は、糸の価値の、すなわち生産物の価値の成分をなしているのである。」
商品には、多数の労働者の手を経て生産されるものが多い。そのような多数の他人の労働の対象化による生産物は、人間対自然の相互浸透が、多数の人間同士の相互浸透を媒介として進行したものとして把握することができる。(人間対自然の相互浸透と人間同士の相互浸透は、対立物の統一として把握すべきである。)その場合、その商品の使用価値には、多数の労働者の対象化された労働時間が、関係として結びついていることになる。
このためには「第一に、綿花も紡錘も或る使用価値の生産に現実に役立っていなければならない。」「第二には、与えられた社会的生産条件のもとで必要な労働時間だけが用いられたということが前提されている。」
多数の労働の対象化された労働時間は、有用な使用価値によって担われていなければならず、社会的に必要な労働時間でなければならない。この条件が保たれている限り、例えば、糸の生産の過程で消費される綿花や紡錘量に対象化されていた労働時間は、糸の使用価値の上に、関係が延長され結びつき保存される、弁証法的な意味で、否定されるのである。これは、第1篇で確認したことでもあるが、次節ではこの点が更に規定を受ける。
次に、紡績工の労働を取り上げる。
「労働過程の場合には、綿花を糸に転化させるという合目的的活動が問題だった。・・・紡績工の労働は他の生産的労働とは独自な相違のあるものだった。そして、この相違は、紡績の特殊な目的、その特殊な作業方法、その生産手段の特殊な性質、その生産物の特殊な使用価値のうちに、主観的にも客観的にも現れていた。・・・これに反して、紡績工の労働が価値形成的であるかぎり、すなわち、価値の源泉であるかぎりでは、・・・綿花栽培者や紡錘製造工の労働と少しも違ってはいない。ただこの同一性によってのみ、・・・糸の価値の、ただ量的に違うだけの諸部分を形成することができるのである。ここで問題になるのは、もはや労働の質やその性状や内容ではなく、ただその量だけである。」
「労働過程では、労働は絶えず不静止の形態から存在の形態に、運動の形態から対象性の形態に転換される。」「過程が続いている間に、すなわち綿花が糸に変えられてゆくあいだに、ただ社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは、いまや決定的に重要である。」「原料はここでは一定量の労働の吸収物として認められるだけである。」
紡績労働力=3シリング。ここでは、前節同様、「毎日の労働力には半日(=6時間、一労働日=12時間)の社会的平均労働が対象化されて」おり、「この労働力の日価値」は、3シリングと仮定されている。
これを単純に合計すれば、10ポンドの糸の生産には、15シリングかかったことになる。
ここでは、10ポンドの糸の紡績に必要な労働時間は、6時間=3シリングと仮定されている。「しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり、労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。」「決定的なのは、この商品の独自な使用価値、すなわち価値の源泉でありしかもそれ自身がもっているよりも大きな価値の源泉であるという独自な使用価値だった。」ここでは、「労働力の使用が一日に作り出す価値」(6シリング)が「労働力自身の日価値」(3シリング)の「二倍」であるとする。
10ポンドの糸の価値は15シリングであるが、これは、紡績工は、労働力の交換価値=半日働いただけである。そこで、もう半日働かせて、糸を10ポンドでなく20ポンド生産させたとすれば、20ポンドの糸の価値は30シリングであるが、「この過程に投入された商品の価値総額は27シリングだった。」「それは3シリングの剰余価値を生んだ。」「貨幣は資本に転化された。」
「この全過程、彼の貨幣の資本への転化は、流通部門のなかで行われ、そしてまた、そこでは行われない。流通の媒介によって、というのは、商品市場で労働力を買うことを条件とするからである。流通では行われない、というのは、流通は生産部面で行われる価値増殖過程をただ準備するだけだからである。」ここに、「矛盾の展開であるとともにその解決」である例が示されている。
「価値形成過程と価値増殖過程とを比べてみれば、価値増殖過程は、ある一定の点」すなわち「資本によって支払われた労働力の価値が新たな等価物によって補填される点」「を越えて延長された価値形成過程にほかならない。」この量質転化が、価値を増殖させるのである。
資本主義的生産過程の特殊性は、ひとえに、労働力商品という特殊な商品の出現にある。
ところで、労働生産物は、商品となる以前から、労働の対象化物である。商品は、労働生産物の一部が、商品化したものにすぎない。それと同様に、労働者も、労働力商品となる以前から、労働の対象化物である。すなわち、働く人間は、他の人間の労働の対象化である生活手段を消費して生活してきたのであり、人間同士の相互浸透は、人間の自然化(前節)を媒介して、進行するのである。ただ、資本主義的生産過程が一般化して、他人の労働の対象化の側面が、労働者の交換価値として現象したにすぎない。
「価値形成過程を労働過程と比べてみれば、後者は、使用価値を生産する有用労働によって成り立っている。運動はここでは質的に、その特殊な仕方において、目的と内容とによって、考察される。同じ労働過程が価値形成過程ではただその量的な面だけによって現れる。もはや問題になるのは、労働はその作業に必要とする時間、すなわち労働が有用的に支出される継続時間だけである。」質と量は矛盾=対立物の統一として把握される。
「労働力は正常な諸条件のもとで機能しなければならない。」「もう一つの条件は、労働力そのものの正常な性格である。労働力は、それが使用される部門で、支配的な平均程度の技能と敏速さをもっていなければならない。」
「要するに、前には商品の分析から得られた、使用価値をつくるかぎりでの労働と価値をつくるかぎりでの同じ労働との相違が、今では生産過程の違った面の区別として示されているのである。労働過程と価値形成過程の統一としては、生産過程は商品の生産過程である。労働過程と価値増殖過程の統一としては、それは資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態である。」この統一という言葉は、直接的統一すなわち同一という意味である。ここで展開された剰余価値の形成の論理こそ、資本の生産過程の本質であり、これ以後の節は、本質から現象への段階的展開である。 
 
第6章 不変資本と可変資本

 

この節では、労働過程の構成要素を、価値形成への寄与という観点から、把握する。糸の生産では、生産手段のうち、綿花が労働対象、消耗する紡錘が労働手段であり、労働力としては、紡績工の労働力がそれである。紡績労働は、「労働対象に新たな価値を付け加える。」その間に、生産手段は消費され消えてなくなるが、その「生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存される」。「それは労働によって媒介されている。」
「労働対象に新たな価値を付け加えることと、生産物の中に元の価値を保存することとは、労働者が同じ時間にはただ一度しか労働しないのに同じ時間に生み出す二つのまったく違う結果なのだから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明のできるものである。」労働は「価値を創造」するという機能と「価値を保存または移転」するという機能と、二つの機能を持つわけである。これも、直接的同一である。
「労働者は、・・・労働時間を・・・付け加えるのか、いつでもただ彼の特有な生産的活動様式の形態でそうするだけである。」すなわち、労働時間という労働の一般性は、労働の特殊性の下で、付加される。「彼らが労働一般を、・・・付け加えるさいの、目的によって規定された形態によって、すなわち紡ぐこと・・・によって、生産手段、すなわち綿花と紡錘・・・は、一つの生産物の、一つの新しい価値の形成要素になる。」過去の労働の一般性である労働手段の価値も、生きている労働の特殊性の下で、保存され延長される。前節でコメントしたように「ある使用価値が新たな使用価値の生産のために合目的的に消費されるかぎり、消費された使用価値の生産に必要な労働時間は、新たな使用価値の生産に必要な労働時間の一部をなしており、したがって、それは、消費された生産手段から新たな生産物に移される労働時間である。」
過去の労働時間が積み重なった生産手段は、生きている労働の否定である。その生産手段を消費するのは、否定の否定である。その否定の否定が、過去の労働時間を移転し保存するのは、特殊性の形式において、ということである。
「その抽象的な一般的な性質において、人間労働力の支出として、紡績工の労働は、綿花や紡錘の価値に新価値を付け加えるのであり、そして、紡績過程としてのその具体的な特殊な有用な性質において、それはこれらの生産手段の価値を生産物に移し、こうしてそれらの価値を生産物のうちに保存する」。「労働の単に量的な付加によって新たな価値が付け加えられ、付け加える労働の質によって生産手段の元の価値が生産物のうちに保存される。」
この労働の特殊性と一般性の二面性は、生産力の特殊性と生産関係の一般性の対立でもあり、この両側面をバラバラに切り離すことなく相互規定の関係として把握することである。
価値の付加と保存という二つの性質が矛盾しているということは、紡績工の生産性=生産力が上がっても、生産物に移される綿花価値は変わらないというような現象に現れる相対的に独立した関係に、表れている。
「労働過程で価値が生産手段から生産物に移るのは、ただ生産手段がその独立の使用価値といっしょにその交換価値を失うかぎりでのことである。」つまり、使用価値の有効な形態転化が起こる限りで、価値の移転があるのである。「しかし、労働過程のいろいろな対象的要因は、この点ではそれぞれ事情を異にしている。」
「原料や補助材料は、それらが使用価値として労働過程にはいってきたときの独立の姿をなくしてしまう」が、「本来の労働手段は・・・それらが死んでからも・・・生産物とは別に存在している。今このような労働手段が役立つ全期間を、それが作業場にはいってきた日から、がらくた小屋に追放される日までにわたって考察するならば、この期間中にその使用価値は労働によって完全に消費されており、したがってその交換価値は完全に生産物に移っている。」これが、いわゆる「減価償却」である。(このことが、実際の会計のなかでどのように考えられ扱われているか、他の一般の経済の図書で見てみるとよい。マルクスの与えた分析が、いかに論理的で優れたものであるかが理解できよう。)
「労働過程のある要因、ある生産手段は、労働過程には全体としてはいるが価値増殖過程には一部分しかはいらないということがわかるのである。労働過程と価値増殖過程との相違がここではこれらの過程の対象的な諸要因に反射している。というのは、同じ生産過程で同じ生産手段が、労働過程の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては一部分ずつしか数えられないからである。」
「他方、それとは反対に、ある生産手段は、労働過程には一部分しかはいらないのに、価値増殖過程には全体としてはいることがありうる。」
「生産手段が労働過程にあるあいだにその元の使用価値の姿での価値を失う限りでのみ、それは生産物の新たな姿に価値を移すのである。」
「生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる。・・・この転生は、いわば、現実の労働の背後で行われる。労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働を付け加えることは・・・できない。なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態で付け加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態で付け加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることによってそれらの価値をその新たな生産物に移すことなしには、できないからである。だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。」
「それゆえ、生産手段の価値は、生産物の価値のうちに再現はするが、しかし、正確に言えば、再生産されるのではない。生産されるものは、元の交換価値がそのうちに再現する新たな使用価値である。」
これは、労働力商品の価値形成においても妥当する。「人間自身も、労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象であり、たとえ生命のある、自己意識のある物だとはいえ、一つの物である。そして、労働そのものは、あの力の物的な発現である。」労働力商品の価値も、生活手段の消費によって生ずるという意味で、生活手段のなかに積み重なった過去の労働の否定であり、この否定の否定が価値を移転し保存するのである。
「労働過程の主体的な要因、活動しつつある労働力のほうは、そうではない。・・・それは、この過程で発生した唯一の本源的な価値であり、生産物価値のうちでこの過程そのものによって生産された唯一の部分である。」
「生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴付けた」。
「生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。」
「労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。・・・資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化していく。それゆえ、私はこれを可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本部分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのである。」
労働過程が、価値増殖の過程、すなわち資本の観点から、新たな現象的な概念区分を与えられている。対立物の統一におけるそれぞれの側面の規定の反射である。 
 
第7章 剰余価値率

 

第1節 労働力の搾取度
この節に書いてある要素をまとめると、次のようになる。
C:前貸資本、c:生産手段に支出される貨幣額(生産中に消費された価値のみ)=不変資本、v:労働力に支出される貨幣額=可変資本、C´:生産物総価値、m:剰余価値
C(500ポンド)=c(410ポンド)+v(90ポンド) → C´(590ポンド)=c(410ポンド)+v(90ポンド)+m(90ポンド)
ここで、「充当される不変資本のうちの労働手段から成っている部分は、ただその価値の一部分を生産物に移すだけで、他の部分は元のままの存在形態で存続している。このあとのほうの部分は価値形成ではなんの役割も演じないのだから、ここでは捨象してよい。・・・それゆえ、われわれが価値形成のために前貸しされた不変資本と言う場合には、それは、前後の関係から反対のことが明らかでないかぎり、いつでも、ただ生産中に消費された生産手段の価値だけを意味しているのである。」
このmは、「労働力に転換される元来は不変な価値の自己運動」から生じるものである。
「剰余価値は、ただvすなわち労働力に転換される資本部分に起きる価値変化の結果でしかないのであり、したがって、v+m=v+况(vプラスvの増加分)である。ところが現実の価値変化も、また価値が変化する割合も、総資本の可変部分が増大するので前貸総資本もまた増大するということによって、不明にされる」。
また可変資本のvは、「一つの与えられた量、すなわち不変量であり、したがって、それを可変量として取り扱うことは不合理のように見える。しかし、・・・可変資本は、ここではじつはただこの価値が通貨する過程の象徴でしかないのである。労働力の買い入れに前貸しされる資本部分は、一定量の対象化された労働であり、したがって、買われる労働力の価値と同じに不変な価値量である。ところが、生産過程そのものでは、・・・死んでいる労働に代わって生きている労働が現われ、・・・不変量に代わって可変量が現われるのである。・・・資本主義的生産の立場から見れば、この全過程は、労働力に転換される元来は不変な価値の自己運動である。」
前貸し資本、すなわち、生産手段と労働力の合計の否定により、生きている労働が現われる。その労働過程の否定により、剰余価値を含む生産物が現われる。この否定の否定は、第4章で示した資本の一般的定式の否定の否定を媒介する。
このうち「不変資本部分をゼロに等しいとする。」これは、量質転化を見る場合に、変化しない部分を否定してみるということである。転化部分が、明確化する。すると、
C=v(90ポンド) → C’(価値生産物)=v(90ポンド)+m(90ポンド)
mは「ここでは、生産された剰余価値の絶対量を表わしている。しかし、その比例量は、すなわち可変資本が価値増殖した割合は、明らかに、可変資本に対する剰余価値の比率によって規定されている。または、m/vで表わされている。」これがマルクスの言う「剰余価値率」である。ここで剰余価値率=m/v=100%。マルクスは、量を否定し、それを比に転化させたのである。
可変資本の部分は、労働者の「日価値」「必要生活手段の価値」「生活手段の生産のために必要な一日平均の労働時間」であり、「一労働日にうちこの再生産が行われる部分を私は必要労働時間と呼び、この時間中に支出される労働を必要労働と呼ぶ」。
「労働者が必要労働の限界を越えて労苦する期間は、・・・労働日のこの部分を私は剰余労働時間と呼び、また、この時間に支出される労働を剰余労働と呼ぶ。」
「ただ、この剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げられる形態だけが、いろいろな経済的社会構成体を、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から、区別するのである。」
このような剰余労働の考え方は、単に、資本主義を嫌悪する観点からでは出てこないものである。マルクスは、あくまで科学的な歴史観に基づいて議論していることが明確である。労働者が「自分の必要生活手段の価値を生産するだけ」ならば、それは自給自足的な、維持的な再生産を行っている社会であって、拡大再生産をおこなっている社会ではない。この必要労働は「労働の社会的形態にかかわりなく必要だからである。」拡大再生産を経済的な進歩と呼ぶなら、剰余労働がすべての歴史的社会の進歩の源泉と言ってもよかろう。社会の進歩は、いつの世も、労働者が支えているのである。
したがって、剰余価値率m/v=剰余労働/必要労働
「剰余価値率は、資本による労働力の搾取度、または、資本家による労働者の搾取度の正確な表現」である。
これは、資本の価値増殖の本質的な規定である。この規定が、のちに現象的規定にまで、媒介される。
「要するに、剰余価値率の計算方法は、簡単に言えば、次のようになるのである。まず、生産物価値全体をとって、そこにただ再現するだけの不変資本価値をゼロに等しいとする。残りの価値額は、商品の形成過程で現実に生産された唯一の価値生産物である。剰余価値が与えられていれば、われわれはそれをこの価値生産物から引き去って可変資本を見出すことになる。可変資本が与えられていてわれわれが剰余価値を求める場合は、逆である。もし両方とも与えられていれば、可変資本に対する剰余価値の比率m/vを計算するという最後の運算だけをやればよいのである。」
マルクスは、そのあとに、計算例を挙げて、読者になじみやすいようにしている。
第2節 生産物の比例配分的諸部分での生産物価値の表示
先の例をまとめると、次のようになる。
20ポンドの糸価値30シリング=20ポンドの綿花20シリング+1/2消耗紡錘量4シリング+紡績労働力の日価値3シリング+剰余価値3シリング=c)24シリング+v)3シリング+m)3シリング
「いろいろな価値要素もまた生産物の比例配分的諸部分で表される」。資本主義的生産過程が、労働過程と価値増殖過程の統一であるから、その否定である生産物も、価値増殖過程の構成を反映することができるのである。
20ポンドの糸30シリング=16ポンドの糸c)24シリング+2ポンドの糸v)3シリング+2ポンドm)3シリング
16ポンドの糸c)24シリング=13.1/3ポンドの糸)20ポンドの綿花20シリング+2.2/3ポンドの糸)1/2消耗紡錘量4シリング
「このように生産物―生産過程の結果―が、ただ生産手段に含まれている労働または不変資本部分だけを表している生産物量と、ただ生産過程でつけ加えられた必要労働または可変資本部分だけを表しているもう一つの生産物量と、ただ同じ過程でつけ加えられた剰余労働または剰余価値だけを表している最後の生産物量とに分かれるということは、のちにこれが複雑で未解決な諸問題に応用されるときにわかるように、簡単なことであると同時に重要なことでもある」。
「われわれはまたこの総生産物といっしょにその成立過程をたどりながら、しかもいくつかの部分生産物を機能的に区別された生産物部分として示すこともできるのである」。
12時間労働)20ポンドの糸(総糸価値)=8時間労働)13.1/3ポンドの糸(綿花の総価値)+1時間36分労働)2.2/3ポンドの糸(1/2消耗紡錘量の価値)+1時間12分)2ポンドの糸(必要労働の生産する価値)+1時間12分)2ポンドの糸(剰余労働の生産する剰余価値)
この方式は「生産物の諸部分ができ上がって並んでいる空間から、それらが次々にできてくる時間に翻訳したものにすぎない。」 これを「曲解」することによって、次の節のような議論が出現する。
第3節 シーニアの「最後の一時間」
この節は、シーニアという大学教授が書いた「綿業に及ぼす影響から見た工場法についての手紙」という小冊子の「分析」に対するマルクスの批判なのであるが、批判の内容を要約すると、以下のようになる。マルクスがこの節で指摘したのは、労働者が一定の労働時間に価値を生産することと、同じ時間に一定の価値を持った労働生産物を生産することとを混同してはならないということである。後者には、労働者が対象化した価値とは別に、労働者が生産手段から移転させた価値が含まれている。だから、労働者が一定の労働時間に生産した生産物には、彼が対象化した価値より多くの価値が含まれているのである。前節の例では、8時間労働)13.1/3ポンドの糸(綿花の総価値)+1時間36分労働)2.2/3ポンドの糸(1/2消耗紡錘量の価値)は、労働者が生産手段から移転させた価値に相当する。 これを混同することによって、シーニアにように、誤った結論に導かれる。
しかし、ここで指摘しておかねばならないのは、その内容より、その形式にある。すなわち、「批判」という形式である。
科学が対象とするのは、現在であれ過去であれ、現実の事実である。事実と突き合わせるというのが、科学とその他の小説などとの本質的な違いである。一連の事実になんらかの共通性が発見されれば、それを掬い取って理論化すること、そこに科学が成立する。例え、フロギストン説のように、誤った説であっても、それが、燃焼現象を合理的に説明できるならば、りっぱな科学である。
しかし、「合理的な説明」は、当然、人によって異なろう。そこに論争が発生する。論駁には、相手の理論が間違っているという指摘だけでなく、なぜ、どうしてそういう誤りが導かれたのか、その道筋を証明する必要がある。例えば、宗教が誤りというだけでなく、どうして宗教が生まれるのか、その必然性を合理的に説明できて、はじめて科学的説明と言えるということである。
そういう観点から、この節以降を読んでいかねばならない。これが、「資本論」が科学の書である所以なのである。
第4節 剰余生産物
「生産物のうち剰余価値を表している部分をわれわれは剰余生産物と呼ぶ。」「剰余生産物の高さは、・・・必要労働を表している生産物部分に対する剰余生産物の比率によって規定される。剰余価値の生産が資本主義的生産の規定的な目的であるように、生産物の絶対量によってではなく剰余生産物の相対量によって富の高さは計られるのである。」
「必要労働と剰余労働との合計、すなわち労働者が自分の労働力の補填価値と剰余価値とを生産する時間の合計は、彼の労働時間の絶対的な大きさ―一労働日―をなしている。」
したがって、剰余価値の相対量を増大させるために、労働時間の絶対的な大きさの増大と、労働力の補填価値の減少が、必然化される。 
 
第8章 労働日

 

第1節 労働日の限界
労働日、すなわち「労働時間の絶対的な大きさ」が、ここでの問題である。
労働日には限界がある。その限界の一方は、必要労働時間によって与えられている。
「労働日は、不変量ではなく、可変量である。その二つの部分の一方は、労働者自身の不断の再生産のために必要な労働時間によって規定されてはいるが、しかし労働日の全体の長さは、剰余労働の長さまたは持続時間とともに変動する。」
「労働日は・・・それはただ或る限界のなかで変動しうるだけである。」
労働日のもう一方の限界は、労働者の自然的=肉体的、社会的限界である。
「労働日には最大限度がある。労働日は、ある限界を越えては延長されえない。この最大限度は二重に規定されている。第一には、労働力の肉低的限界によって。・・・一日のある部分では、体力は休み、眠らなければならない。また、別の一部分では、人間はそのほかの肉体的な諸欲望を満足させねばならない。・・・労働日の延長は精神的な限界にもぶつかる。労働者は、精神的および社会的な諸欲望を満足させるための時間を必要とし、これらの欲望の大きさや数は文化水準によって規定されている。それゆえ、労働日の変化は、肉体的および社会的な限界のなかで動くのである。」
商品の使用価値と価値の矛盾が、それ以後の論理的展開の根本的矛盾となったように、資本主義的生産様式の根本的矛盾は、特殊な商品である労働力商品の使用価値と価値の矛盾、すなわち、生きている労働と必要労働時間との矛盾である。資本は、この限界の中で、最大限の剰余労働を行うように強制する傾向を持つ。
「資本家は労働力をその日価値で買った。」「資本家としては彼はただ人格化された資本でしかない。彼の魂は資本の魂である。ところが、資本にはただ一つの生活衝動があるだけである。すなわち、自分を価値増殖し、剰余価値を創造し、自分の不変部分、生産手段でできるだけ多量の剰余労働を吸収しようとする衝動である。資本はすでに死んだ労働であって、この労働は吸血鬼のようにただ生きている労働の吸収によってのみ活気づき、そしてそれを吸収すればするほどますます活気づくのである。」
しかし、労働者は同じ商品交換の法則の中で「労働力の毎日の販売価格によって、・・・毎日労働力を再生産し、したがって繰り返しそれを売ることができ」るように「正常な長さの労働日を要求する」。
「商品交換そのものの性質からは、労働日の限界は、したがって剰余労働の限界も、出てこないのである。」資本家は「買い手としての自分の権利を主張」し、労働者は「売り手としての自分の権利を主張する」。「同等な権利と権利のあいだでは力がことを決する。こういうわけで、資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争―総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級とのあいだの闘争―として現れるのである。」
すなわち、労働日の限界をめぐる資本家階級と労働者階級とのあいだの闘争は、労働力商品の矛盾の現象形態のひとつなのである。これ以後の節では、この結論が科学的であるということ、すなわち、この法則が現実の事実と突き合わせて証明されている。
第2節 剰余労働への渇望 工業主とボヤール
「資本が剰余労働を発明したのではない。いつでも、社会の一部の者が生産手段の独占権を握っていれば、いつでも労働者は、自由であろうと不自由であろうと、自分自身を維持するために必要な労働時間に余分な労働時間を付け加えて、生産手段の所有者のために生活手段を生産しなければならない。この所有者がアテナイの貴族であろうとエトルリアの神政者であろうとローマの市民であろうとノルマンの領主であろうとアメリカの奴隷所有者であろうとワラキアのボヤールであろうと現代の大地主や資本家であろうと。」
剰余価値の概念は、マルクスの研究のキーポイントである。そのことは、エンゲルスの資本論第2巻の「序文」に詳しい。剰余価値の発見は、マルクスのものではない。しかし、彼以前の研究者は、それをうまく説明できなかった。マルクスだけが、剰余価値を検討して、資本主義のしくみの解明に成功したのである。長くなるので引用は控えるが、端的にエンゲルスが解説しているので、そちらを読んでほしい。更に、剰余価値の源泉である剰余労働の確定は、資本主義の仕組みの理解だけでなく、それ以前の社会の仕組みの理解に、鍵を与えるのである。
「ブルジョア社会は、もっとも発展した、しかももっとも多様な、生産の歴史的組織である。だから、この社会の諸関係を表現する諸カテゴリーは、この社会の仕組みの理解は、同時に又、すでに没落してしまったいっさいの社会形態の仕組と生産諸関係とを洞察することを可能にする、そうして、こうした過去の社会形態の破片と諸要素とをもってブルジョア社会は築かれているのであり、それらのうち、部分的にはなお克服されない遺物がこの社会でも余命を保っているし、ただの前兆にすぎなかったものが完全な意義を持つものにまで発展している等々である。要するに、人間の解剖は、猿の解剖に対するひとつの鍵である。これに反して、低級な種類の動物にある、より高級な動物への暗示が理解されうるのは、この高級なものそのものがすでに知られているばあいだけである。こうしてブルジョア経済は、古代やそのほかの経済への鍵を提供する。」(「序説」)
第7章第1節に、以下の文章があった。
「ただ、この剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げられる形態だけが、いろいろな経済的社会構成体を、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から、区別するのである。」
ここで今一度、唯物論的な歴史把握の論理を思い出そう。
「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、つまり、かれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。」(「序言」)
この有名な文章の中に、「とりむすぶ」という、あたかも生産に従事する生産者同士が先にいて、その人達が後で意識的に契約するような、そういう人間関係を思い浮かべるような言葉がある。が、これはあくまで論理的に言っているだけであって、頭の中で抽象的論理的に考えると、まず、生産諸力、すなわち、自然に対する人間の対象化(労働)諸力が最初に存在し、次に、それに対応する生産諸関係、すなわち、人間同士が労働を対象化しあう関係が形成されるという、きわめて抽象的な論理的段階性を表現しているにすぎない。つまり、この生産諸関係には、生産者同士が、直接働きかけあったり、直接、生産現場で協力するような関係だけでなく、遠く外国に離れて暮らしている見も知らぬ人間同士が、商品の購入を通して結びつくような、そういう関係も含んでいる。
生産諸力と生産諸関係の矛盾という把握の前提には、人間と自然の相互浸透と人間同士の相互浸透の二つの相互浸透の論理構造が存在する。この二つの相互浸透相互の関係は、前者が後者を媒介し、後者が前者を媒介し、相互の浸透が進行するという論理的な構造を持つ。すなわち、それを対立物の統一として、第三の相互浸透として把握するところに、「経済学批判序言」の「一般的結論」が導かれていることを押さえておかねばならない。この構造を正面に据え、それを人間の全歴史を貫く傾向、すなわち歴史の法則性として把握するのである。「生産諸力」という概念は、直接的には、自然と人間の相互浸透を人間同士の相互浸透の観点から把握したものであるが、人間同士の相互浸透に浸透し浸透されるという構造が論理的に組み込まれており、また、「生産諸関係」という概念は、直接的には、人間同士の相互浸透を取り上げたものであるが、人間同士の相互浸透には、自然と人間の相互浸透が浸透するという構造が論理的に組み込まれている。このことを、根本的原動力として把握し定式化した「社会の物質的生産諸力」と「社会的生産諸関係」の矛盾という表現は、第三の相互浸透を取り上げたものなのであり、論理的に高度な立場から把握したものである。マルクスは、「この生産諸関係の総体」を「社会の経済的機構」「土台」として把握し、物質的生産諸力と生産諸関係の在り方を、「物質的生活の生産様式」として把握する。
この本質論を、現象にまで媒介すると以下のようになる。
まず、論理的に最初に検討せねばならないのは、生産力の質である。
労働諸力が自然的基礎に多く依存する初期の形態では、農耕が主要な労働である。そこでは、農業と手工業が直接的に結合しており、したがって、それに対応する生産諸関係においては、なんらかの共同体が必要である。
その際、計画的か無計画的か、更に、自然発生的か目的意識的かという区分が加わる。
具体的には、血縁的な共同体が部族として形成され、自然発生的な計画性のもとに、同質なまたは未分化の労働の協働が行われるという形態が、自然に生ずる。
また、多くの場合、異質の共同体が接触し始める時点で、部族共同体の崩壊が始まる。無論、その部族共同体が維持されたままで、生産諸力の特殊化・分業化が進行することがあり得る。それは、共同体が孤立している場合である。
また、この自給自足的共同体を単位として、あたかもブロックを積み上げるごとく、共同体同士が結合することがあり得る。これを論理的な基礎として調整が進行した発展形態を概括したとき、アジア的形態と称している。
この場合の生産諸力の発展は、同質の生産諸力の協働ないし分業が未分化のままの生産諸力の協働の強化という形式を取り、この協働方式は、巨大な建造物の原動力であり、多くの共同体を傘下に収めた上位の共同体同士の不断の興亡の土台である。
論理的に、その次に位置づけられるのが、農業と手工業の分離、ただし、農業に規定された手工業の分離である。同時に、自然発生的に、無計画性が発生する。この無計画性が、私的所有である。
厳密に言えば、社会的な私的所有には、個々人は、部族から脱して、私的家族を形成するという前提がある。家族とは、血縁関係を基礎とした、自然の性的差異に基づく分業を前提とした、自然発生的な計画性を持った小規模な共同体である。
無計画性の下に置かれた私的家族は、直接的には集団力=社会的力を制御できず、それに対応して、共同の利益=相互依存性は、国家としてイデオロギー的に対象化・表出される。この国家は、後に、私的家族が特殊な階級を形成する程度に応じて、国家権力を成長させる。
このような私的家族を単位とする生産諸力は、依然として農耕を主要な労働としている初期の形態では、土地の私的所有として現れるが、それは共同体から媒介されてのみ成立する限定的な平等な私的所有である。ここでの古代的共同体は国家と直接的に同一であり、土地の私的所有者の共同住宅地が、都市国家である。
第3は、同じく農業と手工業の分離に基づくものではあるが、共同体は全体を媒介せず、同質労働ないし直接的関連を有する分業が、制限された共同体を媒介する。これが、身分制に基づく農奴と封建的位階性であり、それに対応した都市的位階性を持った同職組合である。この上に、封建的国家が君臨する。
以上の基本形態に、相互浸透の進行を当てはめると、制限された生産諸関係は、早晩崩壊することがわかる。なぜなら、与えられた一定の生産諸関係に対応する共同体は、あくまで、拡大しない再生産が前提になっているからである。
このような論理的理解の上に、労働者の必要労働と剰余労働という量的視点を加えると、余剰生産ないし余剰労働は、生産手段の所有者すなわち、古代では都市国家の支配層であるアテナイの貴族、エトルリアの神政者、ローマの市民に、封建時代ではノルマンの領主に、供給されていたということが理解される。しかし、以前のどの経済的社会構成体でも、論理的に、私的所有はある制限を持っており、資本論で展開された如く、近代になって商業が独立し、ブルジョア的生産様式が始まるまでは、剰余労働の無制限の増殖体制は存在しないのである。
「ところが、その生産がまだ奴隷労働や夫役などという低級な形態で行われている諸民族が、資本主義的生産様式の支配する世界市場に引き込まれ、世界市場が彼らの生産物の外国への販売を主要な関心事にまで発達させるようになれば、そこでは奴隷制や農奴制などの野蛮な残虐の上に過度労働の文明化された残虐がつぎ木されるのである。」
低級な生産形態に、資本主義的労働形態が浸透し、前者を後者が利用するのである。
「ドナウ諸侯国でみられる剰余労働への渇望とイギリスの工場でのそれとの比較」を行っている。  「剰余労働は夫役において一つの独立な感覚的に知覚することのできる形態をもっているからである。」ドナウ諸侯国での剰余労働とは、ワラキアの農民がボヤールのために行う夫役のことである。クリミア戦争以前では、「元来の生産様式は共同所有を基礎としていた」。「土地の一部分は自由な私的所有として共同体の諸成員によって独立に管理され、他の部分は彼らによって共同に耕作された。この共同労働の生産物は、一部は・・・予備財源として役立ち、一部は・・・共同体支出をまかなうための国庫として役立った。」これはゲルマン的形態である。「時がたつにつれて、軍事関係者や教会関係者の高職者たちは共有財産といっしょに共有財産のための仕事を横領した。・・・それと同時に農奴制諸関係が発展した。」この夫役を表している「夫役の法典」「レグルマン・オルガニク」では、ワラキアの農民は、法典にはい年に14日の夫役日が割り当てられているが、それは実際には、56日以上であった。これは「剰余労働にたいする渇望の積極的な表現だった」。
これに対し「イギリスの工場法は同じ渇望の消極的な表現である。」「現在(1867年)も有効な1850年の工場法は、週日平均10時間を許している。」それが、「この法律の特別な番人として内務大臣直属の工場監督官」の記述によると、「労働者の食事時間や休息時間を資本が」盗み取っていると報告している。マルクスは、「労働者はここでは人格化された労働時間以外のなにものでもない。」と断言している。前節に述べたように、マルクスの科学的理論は、現実の資本家のコソ泥的行動の事実がなぜどうして行われるのかを解明しているのである。
第3節 搾取の法的制限のないイギリスの諸産業部門
この節では、資本の「労働日の延長への衝動、剰余労働に対する人狼的渇望」を「労働力の搾取が今日なお無拘束であるか、またはつい昨日までまだ無拘束だったいくつかの生産部門」について、記述している。それは、レース製造業、陶器製造業、マッチ製造業、壁紙工場、製パン業、農業労働、鉄道労働、婦人服製造業、鍛冶工での例である。ここで引用される報告は、当時の実態をまるで目に見えるように描き出しており、特に、現代からすれば驚くべき児童の過重労働の悲惨な実態が、資本からの強制として記述されてある。それが、資本というものの本質を生のままさらけ出した現象である。特に、過度労働が引きこした鉄道事故の事例は、今日の事例と比較して、きわめて興味深い。
第4節 昼間労働と夜間労働 交替制
「不変資本、生産手段は、価値増殖過程の立場から見れば、ただ労働を吸収するために、・・・存在するだけである。生産手段がそれをしない限り、その単なる存在は資本家にとって消極的な損失である。・・・この損失は、この中断によって作業の再開のための追加支出が必要になれば、積極的となる。・・・だから、1日まる24時間の労働をわがものにするということこそ、資本主義的生産の内在的衝動なのである。」こうして、夜間労働が必然化される。
資本主義的生産過程は、労働過程と価値増殖過程の統一である。したがって、価値増殖過程が、伝来の労働過程を捻じ曲げ支配下に置くのである。
ここでは、「イングランドやウェールズやスコットランドの溶鉱炉や鍛冶工場その他の金属工場に、制度として存在している」例を、示している。そこでは、特に少年や婦人の夜間労働の例が、記述されている。
第5節 標準労働日のための闘争 14世紀半ばから17世紀末までの労働日延長のための強制法
マルクスが第1節で導きだした労働日の標準化の法則、すなわち、「資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争―総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級とのあいだの闘争―として現れる」という法則が、歴史の中で検証される。
まず、資本の側の「労働日」に対する要求を確認する。
「資本は、次のように答える。労働日は、毎日、まる24時間から、労働力がその役立ちを繰り返すために絶対に欠くことに出来ないわずかばかりの休息時間を引いたものである。」「ところが資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望を持って、労働の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越える。」「ここでは労働力の正常な維持が労働日の限界を決定するのではなく、逆に、労働力の一日の可能なかぎりの最大の支出が、・・・労働者の休息時間の限界を決定する。」
「つまり本質的に剰余価値の生産であり剰余労働の吸収である資本主義的生産は労働日の延長によって人間労働力の萎縮を生産し、そのためにこの労働力はその正常な精神的及び肉体的な発達と活動との諸条件を奪われるのであるが、それだけではない。資本主義的生産は労働力そのものの早すぎる消耗と死滅とを生産する。」
「しかし、労働力の価値は、労働者の再生産または労働者階級の生殖に必要な諸商品の価値を含んでいる。だから、資本がその無際限な自己増殖衝動によって必然的に追求する労働日の反自然的な延長が個々の労働者の生存期間を、したがってまた彼らの労働力の耐久期間を短縮するならば、損耗した労働力のいっそう急速な補填が必要になり、したがって労働力の再生産にはいっそう大きい損耗費がはいることになり、・・・それだからこそ、資本は、それ自身の利害関係によって、標準労働日の設定を指示されているように見えるのである。」
すなわち、資本は剰余労働を無制限に求める傾向を持っているが、それは、労働力商品の極端な損耗を生ずることになり、その結果、資本は剰余労働の無制限の吸収に自らブレーキをかけるのではないか、というのである。これは、労働力商品の供給市場に対する資本の要求へと繋がる。
マルクスは、当時のアメリカの奴隷労働に対する奴隷貿易の影響という観点から、奴隷貿易が盛んになり、奴隷の補充が容易になれば、極度の奴隷虐待が必然的になっていることが示されている文献を示しながら、「ひとごとではないのだ」と警告し、ロンドンの労働市場に、アイルランドやイングランドの農業地方や、更にドイツから、労働者が供給されている現状と、ロンドンの製パン業や製陶業などの第3節で引き合いに出した業種で過度労働が行われる現状との類似を指摘している。
彼は、イギリスの綿業の好況期には、労働市場が欠乏する時もあったが、その時には、農業地方から労働者が供給され、更には、救貧院からも孤児などが供給されたことを指摘し、次のように結論する。
「経験が資本家に一般的にしめすものは、一つの恒常的な過剰人口、すなわち資本の当面の増殖欲に比べての過剰人口である。といっても、この過剰人口は、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟なうちに摘み取られてしまう何世代もの人間でその流れを形作っているのではあるが。」「資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されない限り、顧慮を払わないのである。」
資本主義的生産様式が、アジア的、古代的、封建的生産様式と大きく異なる点は、人間労働力を特殊な商品として、剰余価値の増殖のための生産様式の一環として組み込んでいるという点である。
それぞれの特殊な生産様式は、それぞれの人間(労働)の生産様式、すなわち人間同士の相互浸透の一環としての人間同士の直接的相互浸透の様式、例えば、結婚し家族を作り子供を育てる様式や家族の中で体を休める様式や他の共同体から奴隷労働を奪ってくる様式など、を持っている。しかし、資本主義的生産様式以外の生産様式は、労働力の生産については、根本的には、自然成長性に任せられていた。私的所有から発展した資本主義的生産様式だけが、労働力の搾取という形態で、人間労働(力)の生産過程に人為的に大きく関与する。剰余価値の増殖のためには、労働力の再生産が必要不可欠だからである。これが、相対的な「過剰人口」の原因である。
「資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されない限り、顧慮を払わない」という資本の法則は、無計画性、すなわち私的所有の社会では、個々の資本家にとって没落しないとすればそうせざるを得ない必然性として迫ってくる。「自由競争が資本主義的生産の内在的諸法則を個々の資本家にたいしては外的な強制法則として作用させるのである。」
人間労働力の生産過程を組み込んだ資本主義的生産様式は、労働力の所有者としての労働者とその意識も再生産する。そこで、労働日の限界をめぐって、資本家階級と労働者階級の闘争が必然化するのである。
「標準労働日の制定は、資本家と労働者との何世紀にも渡る闘争の結果である。」
資本主義的生産の揺籃期、すなわち14世紀の半ばから17世紀の末までのイギリスでは、資本は国家権力の援助の下に、労働時間を延長させようとした。
「現代の工場法が労働日を強制的に短縮するのに、以前の諸法令はそれを強制的に延長しようとする。」「14世紀の半ばから17世紀の末まで資本が国家権力によって成年労働者に押し付けようとする労働日の延長が、19世紀の後半に子供の血の資本への転化にたいして時折国家によって設けられる労働時間の制限とほぼ一致するのは、当然のことである。」
最初の「労働者取締法」は、ペストが人口を減少させたことを口実に、1394年に制定され、すべての手工業者と農業労働者の労働時間は10時間から11時間となっていた。これは、1496年の法律でも繰り返されている。労働者は、「ずっと有利だった」。これは「18世紀の大部分を通じて、大工業の時代に至るまでは」そうであった。「労働者たちは4日分の賃金でまる1週間暮らすことが出来た」。
「1770年の恐怖の家では、一日に12労働時間」。これが19世紀後半には、少年労働時間の制限になった。
ところで、引用文によく出てくる工場監督官報告書等について、一言触れておく必要がある。マルクスが引用する一連の報告書は、明らかに労働者階級に同情的に書かれてある。おそらく彼ら報告者は、分類からすれば、ブルジョア階級に属することになるであろう。しかし、彼らは、労働者階級の現状をつぶさに観察して、その結果、労働者階級に同情的な立場に立つようになったものと考えられる。これは、マルクスやエンゲルスについても、同様と考えられる。実は、ブルジョア階級の中から、労働者階級の味方になり彼らのために働く知識人が出てくること、これも資本家階級と労働者階級の対立の結果であり、対立物の相互浸透の一つの在り方なのである。
第6節 標準労働日のための闘争 法律による労働時間の強制的制限 1833−1864年のイギリスの工場立法
このあたりは、マルクスが最も力を入れて書いた部分であろう。労働者階級に向かって、自分たちの階級が置かれた立場を自覚させるという観点からして、一般民衆が読むにはあまりにも難しすぎるこの本の中でも、最も読みやすく理解しやすい個所だからである。ここでは、その要旨のみを記述する。
「資本が数世紀を費やして労働日をその標準的な最大限度まで延長し、次にはまたこの限界を超えて12時間という自然日の限界まで延長したのちに、今、18世紀の最後の3分の一期における大工場の誕生以来は、なだれのように激しい無制限な突進が起きた。」
「生産の騒音に気を取られていた労働者階級がいくらか正気に帰ったとき、この階級の反抗が始まった。さしあたりまず大工業の生国イギリスで。とはいえ、30年間というものは、この階級が奪い取った譲歩はまったく名目的なものでしかなかった。」
1833年の工場法(綿工場、羊毛工場、亜麻工場、絹工場に適用)になって、標準労働日が現れ、この法律では、労働日は15時間(朝5時半から晩8時半まで、その間、1時間半の食事時間)で、少年(13歳から18歳まで)は12時間、9歳から13歳までの児童は8時間、9歳未満は例外を除いて禁止、夜間労働は9歳から18歳までで禁止された。
しかし、資本はまず、リレー制度を作り出した。こうして工場主が法律を無視したため、議会は、1836年3月以降には、13歳未満の子供の労働を1工場で8時間と制限した。その後、資本の抵抗はあったが、1836年に1833年の法律が完全に施行され、1844年6月まで変わらなかった。
この間に、資本は、異なった工場で取り替える新しい「リレー制度」を案出し、工場法を「無効にしてしまった」。工場労働者たちは、十時間法案をスローガンにした。1833年の法律に従っていた工場主や、穀物法廃止のために労働者の援助を必要としていた工場主階級の代弁者は、この十時間法案を支持した。
こうして1944年の「追加工場法が成立した」。ここでは18歳以上の婦人を、少年と同様に12時間労働とし、夜間労働を禁止した。13歳未満の児童の労働は、6時間半に制限された。また、リレー制度の乱用が、事実上制限された。
「既に見たように、労働の時限や限界や中休みを鐘の音に合わせてこのように軍隊的に一様に規制するこれらのこまごました規定は、決して議会的思案の産物ではなかった。それらは、近代的生産様式の自然法則として、諸関係のなかからだんだん発展してきたのである。それらの定式化や公認や国家による宣言は、長い期間にわたる階級闘争の結果だった。」だいたいにおいて、1844〜47年は、12時間労働は一般的に行われた。工場主たちは、対抗して、児童労働の年齢を9歳から8歳に引き下げた。
1846年に、穀物法は廃止され、「チャーチスト運動と十時間運動とが頂点に達した」。そして「十時間法案が議会を通過した」。
1847年の新しい工場法は、47年の7月1日からは、少年とすべての婦人労働者を11時間労働に、更に48年5月1日からは、10時間労働に制限した。資本側の工場主たちはこれに抵抗したが、10時間法案は発効した。
その間に、チャーチスト運動の失敗、6月のパリ暴動と鎮圧とは、支配階級を統合させ、工場主たちの反逆を許した。工場主たちは、少年と婦人労働者を解雇し始め、夜間労働を復活させた。
また、児童労働をめぐって、「合法的に」反逆した。これに対し、工場監督官たちは抵抗したが、大臣や裁判所はこの抵抗を無効にした。こうしたリレー制度が事実上復活した。2年間の資本の反逆は、1850年2月の財務裁判所で勝利を与えられた。
これに対し、労働者は威圧的な抗議を行い、工場主と労働者との妥協が成立した。1850年8月5日の新しい追加工場法では、少年と婦人の10時間労働と6時間半の児童労働を保証した。
絹工場主たちは、特別に、児童労働を10時間にしてきた。これは多少変化して、原則的に今でも続いている。
成年労働者の抵抗によって、1853年に児童を少年や婦人より早くまたは遅く労働させることが禁止された。
「1853年から1860年の大工業のすばらしい発展」は、原則を勝利させた。資本の抵抗は次第に弱っていき、労働者階級の攻撃は、増大してきた。
第7節 標準労働日のための闘争 イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応
「標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級とのあいだに多かれ少なかれ隠然と行われていた内乱の産物なのである。この闘争は近代的産業の領域で開始されるのだから、それはまず近代的産業の祖国、イギリスで演ぜられる。」
「フランスはイギリスのあとからゆっくりびっこを引いてくる。12時間法の誕生のためには2月革命が必要だったが、この法律もそのイギリス製の原物に比べればずっと欠陥の多いものである。それにもかかわらず、フランスの革命的な方法もその特有の長所をしめしている。」
「北アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部をかたわにしていたあいだは、独立な労働運動はすべて麻痺状態にあった。・・・しかし、奴隷制度の死からは、たちまち一つの新しく若返った生命が発芽した。」
こうして、「大西洋の両岸で生産関係そのものから本能的に成長した労働運動」から、マルクスは、次のように結論する。
「われわれの労働者は生産過程にはいったときとは違った様子でそこから出てくるということを、認めざるをえないであろう。・・・彼らを悩ました蛇に対する「防衛」のために、労働者たちは団結しなければならない。そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない。」
標準労働日に関する制限は、最終的は、国家によって法律として承認され保障される。ここにも、国家の役割がある。「一つの時代の全市民社会はその形態の中でまとまるものである以上、あらゆる共通の制度は国家の手を介してとりきめられ、なんらかの政治的な形態をもたせられることになる。」(「ドイツ・イデオロギー」)  
 
第9章 剰余価値率と剰余価値量

 

「可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働者の総価値を表す貨幣表現である。だから、可変資本の価値は、一個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい。」
第一の法則:「生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。」
剰余価値量:M、一人の労働者が平均して一日に引き渡す剰余価値:m、一個の労働力の買い入れに毎日前貸しされる可変資本:v、可変資本の総額:V、平均労働力一個の価値:k、その搾取度:a’/a(剰余労働/必要労働)、充当労働者数:n、
M=m/v×V=k×a’/a×n
「それゆえ、一定量の剰余価値の生産では、一方の要因の減少は他方の要因の増加によって埋め合わせることができる。可変資本が減らされて、同時に同じ割合で剰余価値率が高くされれば、生産される剰余価値量は不変のままである。」つまり、労働時間の延長である。「とはいえ労働者の数または可変資本の大きさを剰余価値率の引き上げまたは労働日の延長によって補うということには、飛び越えることのできない限界がある。」それは一日は24時間しかないということであり、これを越えて労働時間も延長できないのである。「本来つねに24時間よりも短い平均労働日の絶対的な限界は、可変資本の減少を剰余価値の引き上げによって補うことの、または搾取される労働者数の減少を労働力の搾取度の引き上げによって補うことの、絶対的な限界をなしているのである。」これが第二の法則である。
後に、この法則から、「できるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする」資本の傾向とは矛盾した、「資本の使用する労働者数または労働者に転換される資本の可変部分をできるだけ縮小しようとする資本の傾向」が説明される。
第三の法則は「いろいろな資本によって生産される価値および剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい場合には、これらの資本の可変成分の大きさに、すなわち生きている労働力に転換される成分の大きさに、正比例する。」
剰余価値の生産には、最小限の貨幣が必要である。すなわち、資本家になるためには、必要最小限の貨幣を持っていなければならない。
「資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の搾取、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件とする。手工業者親方が資本家になることを、中世の同職組合制度は、一人の親方が使用してもよい労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、強圧的に阻止しようとした。貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最小額が中世的最大限をはるかに超えるときに、はじめて現実に資本家になるのである。」この文の後に、これはヘーゲルの量質転化、「単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されるのである」といっている。(マルクスは、この法則について、注の形で、「分子説」を紹介しているが、エンゲルスは、更にわかりやすく説明を加えている。)
この章の最後で、マルクスはこの3篇の要点を、次のように強調している。
「生産過程のなかでは資本は労働に対する、すなわち活動しつつある労働力または労働者そのものにたいする指揮権にまで発展した。人格化された資本、資本家は、労働者が自分の仕事を秩序正しく十分な強度で行うように気をつけるのである。
資本は、さらに、労働者階級に自分の生活上の諸欲望の狭い範囲が命ずるよりも多くの労働を行うことを強要する一つの強制関係にまで発展した。」 「資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させる。したがって、資本は直接には生産様式を変化させない。それだから、これまでに考察した形態での、労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現れたのである。」
「生産過程を労働過程の観点から考察すれば、労働者の生産手段に対する関係は、・・・自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段に対する関係だった。・・・われわれが生産過程を価値増殖過程の観点から考察するや、・・・生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化した。・・・資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならないのである。」 
 
第10章 相対的剰余価値の概念

 

いままでの議論には、労働力の価値、「労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、・・・不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、・・・不変量なのである。」
ところで、労働日の延長に限界が与えられ、その大きさが一定の場合、剰余労働を延長するには、どうすればよいか。その場合、これは「必要労働の短縮が対応する」。
労働力の価値、労働力の生産に必要な労働時間の短縮ということは、等価交換、すなわち、「諸商品は、したがってまた労働力も、その価値どおりに売買されるという前提」にたつならば、「ただこの価値そのものが下がる場合」である。
「このように労働力の価値が・・・下がるということは、・・・同じ量の生活手段が今では」(より少ない)「時間で生産されるということを条件とする。」「これは労働の生産力を高くすることなしには不可能である。」
「労働の生産力の上昇というのは、ここでは一般に、1商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより小量の労働により大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことである。」「必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産」の「ためには、資本は労働過程の技術的及び社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのである。」
「労働日の延長によって生産される剰余価値」を絶対的剰余価値、「必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値」を相対的剰余価値と呼ぶ。
「労働力の価値を下げるためには、労働力の価値を規定する生産物、したがって慣習的な生活手段の範囲に属するかまたはそれに代わりうる生産物が生産される産業部門を、生産力の上昇がとらえなければならない。」「これに反して、必要生活手段も供給せずそれを生産するための生産手段も供給しない生産部門では、生産力が上がっても、労働力の価値には影響はないのである。」
相対的剰余価値は、いわゆる日常の必要生活手段の価値が下がることに起因するが、「必要生活手段の総計は、・・・さまざまな商品から成って」いるのだから、それぞれの「価値は、その再生産に必要な労働時間が減るにつれて低くなるのであり、この労働時間全体の短縮は、かのいろいろな特殊な生産部門のすべてにおける労働時間の短縮の総計に等しい。」
しかし、この法則は、個々の資本家の脳裏には直接意識されるものではないが、「しかし、彼が結局はこの結果に寄与するかぎりでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与するのである。資本の一般的な必然的な諸傾向は、その現象形態と区別されなければならないのである。」
このマルクスの指摘は、科学を理解しようとするものにとって、重要である。「競争の科学的な分析は資本の内的な本性が把握されたときはじめて可能になるのであって、それは、ちょうど、天体の外観上の運動が、ただその現実の、といっても感覚では知覚されえない運動を認識した人にだけ理解されるようなものだ、ということである。」これが現象の本質的把握ということである。
絶対的剰余価値と相対的剰余価値は、矛盾=対立物の統一として、把握する必要がある。この二つの剰余価値は、いずれも労働力商品の使用価値と価値の矛盾から生じた、新たな矛盾の両側面である。したがって、絶対的剰余価値と相対的剰余価値は、相互規定の関係にあり、論理的に相互浸透すべきとして扱うべきである。
このことに関係して、今一度、いままでの資本論の論理=弁証法を振り返っておこう。
以前に引用したように、エンゲルスは、「経済学批判」の書評で、「経済学批判の根底にある方法」を以下のように指摘している。
「この方法において、われわれは、歴史上、事実上われわれの前にある最初のしかももっとも単純な関係から出発する。したがってここでは、われわれの目に前にある最初の経済的関係から、出発する。この関係をわれわれは分析する。それが一つの関係であるということのうちには、すでに互いに関係しあう二つの側面を持つということが含まれている。これらの側面のひとつひとつは、それ自身として考察される。そこから、それらが互いに関係しあう仕方、それらの交互作用があらわれてくる。そして解決を求める矛盾がうまれてくるであろう。・・・これらの矛盾もまた、実際問題としては、自己を展開し、おそらくその解決をみいだしているであろう。われわれは、この解決の仕方をたどって、それがひとつの新しい関係をつくりだすことによっておこなわれたことをみいだすであろう、そしてわれわれは、こんどは、この新しい関係のふたつの対立する側面を展開しなければならなくなり、こうした過程が続くのである」
「資本論」の「第1章商品」論では、使用価値から(交換)価値へ論が展開し、その両者の交互作用を論じ、使用価値と価値の矛盾は、商品の交換過程の矛盾となって反映した。そこで、まず、価値は、特殊な商品である金に、価値尺度の役割を与え、また、交換過程から、金に、流通手段の役割が生ずる。こうして、商品の世界が二重化し、貨幣の世界が生まれ、価値尺度と流通手段の矛盾を背負った貨幣が生じた。
商品の交換過程という運動の中に、貨幣が生まれることによって、交換過程は、商品の流通過程となって、交換過程の矛盾を解決する否定の否定の運動として表れた。
この商品流通の運動の中で、貨幣と商品および貨幣の両側面同士の相互浸透が進行する。価値尺度としての貨幣は、他の商品の価値に価格表現を与え、逆に、金は、価格の度量標準という形態を受け取り、これが、金の重量尺度の形を借りて、金属重量の貨幣名=計算貨幣となる。
一方、流通手段としての貨幣は、流通過程の中で、まず、購買手段として表れる。そこで、貨幣は、計算貨幣の度量標準に従って、鋳貨という形態を取る。しかし、流通手段としての貨幣の現実の運動から、金鋳貨は、銅や紙幣のような価値表象の形態となる。
貨幣の運動から、貨幣は、非流通手段としての側面をも持たされ、貨幣蓄蔵、支払い手段としての性質が発展する。これは、私的契約をよび起す。
貨幣の流通過程の運動、すなわち、貨幣から商品へ、商品から貨幣へという否定の否定の流通の形態から、貨幣の増加=剰余価値によって、資本の運動形態が分裂・分離・独立化する。そのためには、市場で、貨幣所持者は、商品の消費が価値の源泉である労働力という特殊な商品を見出さねばならない。労働力は、特殊な商品であり、その価値は、生活手段に対象化されていた労働時間が更に再対象化されて形成された価値、すなわち、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。こうして、否定の否定の運動が、二重化した。(「第2篇」)
労働力商品は、生きている労働=労働力の支出(使用価値)と労働力の維持費(価値)との矛盾の統一であり、ここで貨幣の矛盾から、労働力商品の矛盾へと論が展開されたことになる。
ところで、労働力の消費は、否定の否定の中間点、流通の外で行われる。それに対応して、労働過程と価値形成過程の統一としては、商品の生産過程であり、労働過程と価値増殖過程の統一としては、それは資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態である。ここではじめて労働者と資本家が相対する。
労働過程と価値増殖過程の矛盾が、生産手段と労働力の区別を、不変資本と可変資本の区別とする。剰余価値は、可変資本の自己運動から生じるのだから、剰余価値率=剰余価値/可変資本=剰余労働/必要労働として、労働力の搾取度、または、資本家による労働者の搾取度の正確な表現が得られる。これは、生産物の価値の比例配分的諸部分で表されることもできる。このうち、剰余価値を表している部分を剰余生産物という。
資本の衝動は、できるだけ多量の剰余価値を吸収しようとする。すなわち、絶対的剰余価値の側面である剰余労働時間の延長である。しかし、労働日の限界は、商品交換の法則からは出てこない。そこで、労働日の限界の設定、労働日の標準化は、資本家と労働者の闘争となって表面化する。(「第3篇」)
以上が、「第4篇」までの論理的展開である。この後、相対的剰余価値が論ぜられ、その後、絶対的剰余価値と相対的剰余価値の交互作用へと論が進む。絶対的剰余価値は、生きている労働=労働力商品の使用価値の側面に基づいて発生する側面であり、相対的剰余価値とは、労働力の価値=労働力商品の価値の側面に基づいて発生する側面である。両者の対立は、両極的な対立であり、この対立の中に資本の運動、つまり単純再生産と更に拡大再生産、その結果の剰余価値の細分規定が行われる。
すなわち、商品の矛盾が貨幣の矛盾となる過程は、「第1章商品」から「第3章」「第1節価値の尺度」、「第2節流通手段」、「第3節貨幣」と展開され、貨幣の矛盾が労働力商品の矛盾となる過程は、「第2編」から「第3編絶対的剰余価値の生産」「第4編相対的剰余価値の生産」「第5編絶対的および相対的剰余価値の生産」へ展開されるのである。このように、エンゲルスが指摘した「経済学批判の根底にある方法」は、「経済学批判」=資本論「第1篇」だけでなく、資本論全体を貫く方法である。弁証法とは、エンゲルスの3定理および中核である矛盾=対立物の統一の原理とも言い得るが、同時に、その展開である発展した論理構成の環をも必然化させるという論理を内に含んでいる。この最初の環が、「第1篇商品と貨幣」であり、その環を含んだ次の大きな環が、「第2編」から「第5編」なのである。したがって、この循環の全体系を同時に弁証法と呼んでも間違いではない。これが、ヘーゲルが弁証法という言葉で表そうとした概念の唯物論的解釈なのである。
商品の矛盾を逆に遡れば、生産力と生産関係の矛盾に行きつく。私的労働・私的所有の下での生産物の交換が、生産物に商品という形態を押し付け、生産力と生産関係の矛盾が、商品の中に使用価値と価値となって対象化されたのである。更に、生産力と生産関係の矛盾は、人間の特殊性と一般性の矛盾、すなわち、人間の相対的独立性に行きつくのである。すなわち、弁証法の環は、「第1篇商品と貨幣」から逆に遡っても、同様に展開されるということである。
ところで、「改良された生産様式を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて一労働日中のより大きい一部分を剰余労働として自分のものにする」ことができるので、「どの個々の資本家にとっても労働の生産力を高くすることによって商品を安くしようとする動機はある」。「彼は、資本が相対的剰余価値の生産において全体として行うことを、個別的に行う」。「労働時間による価値規定の法則、それは、新たな方法を用いる資本家には、自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるを得ないという形で感知されるようになるのであるが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新たな生産様式の採用に追いやるのである。こうして、その全過程を経て最後に一般的剰余価値率が影響を受けるのは、生産力の上昇が必要生活手段の生産部門をとらえたとき、・・・はじめておこることである。」
「商品の価値は労働の生産力に反比例する。労働力の価値も、諸商品の価値によって規定されているので、同様である。これに反して、相対的剰余価値は労働の生産力に正比例する。・・・商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのである。」
「労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することにできる残りの延長することを目的としているのである。」すなわち、相対的剰余価値の生産と絶対的剰余価値の生産は、相対的独立の関係にあり、対立していると同時に統一されているのである。
そこで、次に「商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産様式に表れる」の考察に移る。 
 
第11章 協業

 

「かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または、同じ労働場所で、と言ってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている。生産様式そのものに関しては、・・・同時に同じ資本によって働かされる労働者の数がより大きいということのほかには、ほとんどなにもない。・・・だから相違はさしあたりは量的でしかない。・・・とはいえ、ある限界のなかでは、ある変化が生ずる。」
単なる量的変化が、ある限界のなかで、質的変化を起こすのである。
「同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という。」
そこで、協業による、量質転化の条件を列挙すると、以下のようになる。
1、「価値に対象化される労働は、社会的平均質の労働であり、したがって平均的労働力の発現である。ところが、平均量というものは、つねにただ同種類の多数の違った個別量の平均として存在するだけである。」「だから、価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったとき、はじめて完全に実現されるのである。」つまり、単なる協業によって、社会的平均労働が実現するのである。
2、「労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命を引き起こす。多くの人々がそのなかで労働する建物や、原料などの倉庫や、多くの人々に同時にまたは交互に役立つ容器や用具や装置など、要するに生産手段の一部分が労働過程で共同に消費されるようになる。・・・一般に、大量に集中されて共同で使用される生産手段の価値は、その規模や有用効果に比例しては増大しないのである。・・・このような生産手段の充用における節約は、ただ、それを多くの人々が労働過程で共同に消費することだけから生ずるものである。そして、この生産手段は、別々に独立している労働者や小親方の分散した相対的に高価な生産手段とは違って、社会的労働の条件または労働の社会的条件としての性格を、多くの人々がただ場所的に集合して労働するだけで協力して労働するのではない場合にも、受け取るのである。」
3、「個別労働者の力の機械的な合計は、分割されていない同じ作業で同時に多数の手がいっしょに働く場合、・・・が必要な場合に発揮される社会的な潜勢力とは本質的に違っている。・・・ここではただ協業による個別的生産力の増大だけが問題なのではなく、それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造が問題なのである。」
4、「たいていの生産的労働では、単なる社会的接触が競争心や活力の独特な刺激を生み出して、それらが各人の個別的作業能力を高めるので、・・・。このことは、人間は生来、・・・社会的動物だということからきているのである。」
5、「多くの人々が同じ作業かまたは同種の作業を同時に協力して行うにかかわらず、各人の個別労働が総労働の部分として労働過程そのものの別々の段階をなしていて、これらの段階を労働対象が、協業の結果として、いっそう速く通過することがありうる。」「共同労働のこの最も単純な形態が、協業の最も発達した形態にあっても一つの大きな役割を演ずる」。
6、「多くの生産部門には或る決定的な瞬間がある。すなわち、労働過程そのものの性質によって規定されていてそのあいだに一定の労働成果が達成されなければならないという時期である。・・・労働期間の短さが、決定的な瞬間に生産現場に投ぜられる労働量の大きさによって埋め合わされる。この場合、適時の効果は多数の結合労働日の同時充用にかかっており、有用効果の大きさは労働者数にかかっているとはいえ、この労働者数は、同じ期間に同じ作用空間を個々別々にみたすであろう労働者の数よりつねに小さい。」
7、「一方では、協業は労働の空間範囲を拡張することを許すので、ある種の労働過程には、すでに労働対象の空間的関連によって協業が必要になる。・・・他方では、協業は、生産規模に比べての生産領域の空間的縮小を可能にする。このように労働の作用範囲を拡大すると同時に労働の空間範囲を制限するということは、多額の空費を節約させるのであるが、この空間範囲の制限は労働者の密集、いろいろな労働過程の近接、生産手段の集中から生ずるものである。」
「個々別々のいくつもの労働日の総計と、それと同じ大きさの一つの結合労働日とを比べれば、後者はより大量の使用価値を生産し、したがって一定の有用効果のために必要な労働時間を減少させる。・・・どんな事情のもとでも、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのである。この生産力は協業そのものから生ずる。」
これは、本質的にきわめて重要である。これが、人間が社会的な動物であるということだからである。個々の孤立した生産力でなく、全体として結合した、つまり、意識的かどうかに無関係に、社会的生産関係にはいるという、これで一つの社会を形成するという、人間の特性だからである。
協業するためには、労働者が一緒に集められるのが条件であるから、「協業する労働者の数、または協業の規模は、まず第一に、一人の資本家が労働者の買い入れに投ずることのできる資本の大きさによって、すなわち、一人一人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由に処分し得る程度によって、定まるのである。」
「そして、不変資本についても可変資本の場合と同じことである。」「個々の資本家の手の中にかなり大量の生産手段が集積されていることは、賃金労働者の協業の物質的条件なのであって、協業の程度または生産の規模はこの集積によって定まるのである。」
「最初は、同時に搾取される労働者の数、したがって生産される剰余価値の量が、労働充用者自身を手の労働から解放し小親方を資本家にして資本関係を形態的につくりだすのに十分なものとなるためには、個別資本の或る最小限度の大きさが必要なものとして現れた。いまでは、この最小限度の大きさは、多数の分散している相互に独立な個別的労働過程が一つの結合された社会的労働過程に転化するための物質的条件として現れるのである。」
協業の量質転化は、資本の形態的な量質転化と媒介関係にある、または、資本の量質転化は、協業の量質転化を媒介するということである。
「同時に、最初は、労働に対する資本の指揮も、ただ、労働者が自分のためにではなく資本家のために、したがってまた資本家のもとで労働するということの形態的な結果として現れただけだった。多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してくる。生産現場での資本家の命令は、いまでは戦場の将軍の命令のようになくてはならないものとなるのである。」
「すべての比較的大規模な直接に社会的または共同体的な労働は、多かれ少なかれ一つの指図を必要とするのであって、これによって個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とは違った生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのである。」
つまり、「集団力でなければならないような生産力」である協業を働かせるためには、「指揮や監督や媒介」の一般的諸機能が必要である。特殊な協業という生産関係が直接に生産力になるという矛盾を実現するために、指揮監督という一般的媒介器官を生み出し、指揮されるものと指揮するものという新たな矛盾を作り出し、両者の間に相互関係を実現することが必要とされる。そのことが、協業における量が質に転化する条件なのである。
「この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになる」。ここでは、協業の量質転化が、資本の量質転化を媒介する。すなわち、資本と協業の相互の量質転化は、相互規定の関係にあり、相互浸透の関係が発展する。これは量質転化の法則の重要な側面である。
「資本家の指揮は内容から見れば二重的であって、それは指揮される生産過程そのものが一面では生産物の生産のための社会的な労働過程であり他面では資本の価値増殖過程であるというその二重性によるのであるが、この指揮は形態から見れば専制的である。いっそう大規模な協業の発展につれて・・・資本家は・・・個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。・・・労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人)や産業下士官(職工長)を必要とする。監督という労働が彼らの専有の機能に固定するのである。」現代でいえば、いわゆるホワイトカラーである。「資本家は、産業の指揮官だから資本家なのではなく、彼は、資本家だから産業の司令官になるのである。」
この協業の集団力、「労働者が社会的労働者として発揮する生産力」=「労働の社会的生産力は」「資本の生産力なのである。」「この生産力は、資本が生来もっている生産力として、資本の内在的な生産力として、現れるのである。」
ここでマルクスは、協業の例を、アジアや古代から引用しているが、ここで、それらの理解のために、再度、唯物論的歴史観を振り返っておこう。
「人類の文化の発端で、狩猟民族のあいだで、またおそらくインドの共同体の農業で、支配的に行われているのが見られるような、労働過程での協業は、一面では生産条件の共有にもとづいており、他面では・・・個々の個人が種属や共同体の臍帯からまだ離れていないことにもとづいている。」
この場合、この労働過程の協業形態を保証するものは、自然発生的な血縁共同体である。この共同体が生産手段の共有の主体であるが、単に生産形態だけに留まるものではない。この部族共同体は、その他、諸々の社会的生活に関する規範を本質的に内包している。
「小農民経営と独立手工業経営とは、どちらも一部は封建的生産様式の基礎をなし、・・・同時にそれらは、原始的東洋的共有性が崩壊したあとで奴隷制が本式に生産を支配するようになるまでは、最盛期の古典的共同体の経済的基礎をなしているのである。」
古典的共同体と封建的生産様式の経済的基礎は、同一である。また、どちらも、私的労働(私的所有)に基づいている。両者の違いは、集中か散在かということである。
古典的共同体では、農業用地は都市を中心に集中しており、それは共同体の一員であることが前提条件である限りでの私的土地所有であるからでもある。ここでは、生産形態を包含する生活を規制するのは、部族共同体のように血縁ではなく、地縁ともいうべき都市国家である。すなわち、都市国家は、土地の私的所有を抱えた共同所有であり、その範囲で内外の諸問題を解決しようとする共同機関である。
一方、封建性の基礎となった小農民経営は、広大な土地に広く散らばっており、それぞれの経営体である家族は自立的である。共同の諸問題を解決する共同体は、この自立的家族を前提として成立する。ゲルマンは、もともとこのような生活の様式を把持しており、その上に移動と戦闘という、役割分担を常時固定化・身分化する必要が加わって、封建性が成立したのである。したがって、封建国家は、私的所有の無計画性を、身分の固定化という計画性で補おうとする共同体であるといっても過言ではない。
この「資本論」は、論理的には、私的労働者=私的所有者から出発する。私的所有の発展は、歴史的には、部族共同の秩序、古典古代的生産様式および封建的生産様式の秩序の崩壊の契機である。それらの崩壊した後に、私的所有の無計画性の全面的開花が出現する。それが、近代ブルジョア的生産様式である。
このマルクスが提案した歴史把握を全体としてながめれば、「原始的東洋的共有性」が崩壊した後、古典古代および封建的生産様式は、表面的・体制的な秩序維持を代表し、それに対し、内部に潜在する私的所有の発展はその秩序の崩壊・破壊を代表するとみなすこともできる。
部族共同体の崩壊後に、それに代わって生まれた国家は、私的所有の矛盾を内包させたまま、生活の生産関係で結ばれた秩序を全体的・社会的に維持させようとする。したがって、古代的、封建的生産様式が衰退するに反比例して、国家権力は強化され国家組織は発展するのである。
「協業によって発揮される労働の社会的生産力が資本の生産力として現れるように、協業そのものも、・・・資本主義的生産過程の独自な形態として現れる。それは、労働過程が資本への従属によって受ける最初の変化である。・・・一方では、資本主義的生産様式は、労働過程が一つの社会的過程に転化するための歴史的必然性として現れるのであるが、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働過程をその生産力の増大によっていっそう有利に搾取するために資本が利用する一方法として現れるのである。」
「協業の単純な姿そのものはそのいっそう発展した諸形態と並んで特殊な形態として現れるとはいえ、協業はつねに資本主義的生産様式の基本形態なのである。」 
 
第12章 分業とマニュファクチュア

 

第1節 マニュファクチュアの二重の起源
「分業に基づく協業」は、単一の協業に中に矛盾を発生させ、その矛盾のそれぞれの側面である部分労働を相互浸透の関係に置くことによって、それぞれの部分労働が生産物を媒介し、そうして否定の否定によって完成品を生産するということである。これは、最終的には、一つの有機体の全体と部分の矛盾に達する。
この労働形態は、「二重の仕方で発生する。」
その一つは、「ある一つの生産物が完成されるまでにその手を通らなければならないいろいろな種類の独立手工業の労働者たちが、同じ資本家の指揮のもとにある一つの作業場に結合される」ことから生ずる。「いろいろな独立手工業の結合体として現れた」ものが、「しだいに・・・そのいろいろな特殊作業に分割するものになり、これらの作業のそれぞれが一人の労働者の専有機能に結晶してそれらの全体がこれらの部分労働者の結合体によって行われるようになる。」
独立手工業の労働者が全体の中に置かれることによって、それぞれの部分労働を全体の中の特殊作業に変化させ、特殊と一般の矛盾の中に定立するようになるのである。
もう一つは、「同じことまたは同じ種類のことを行う、・・・多数の手工業者が同じ資本によって同じ時に同じ作業場で働かされる」ことから、発生する。「しかし、やがて外部的な事情が、同じ場所に労働者が集まっていることや彼らが同時に労働することを別のやり方で利用させるようになる。・・・いろいろな作業を同じ手工業者に時間的に順々に行わせることをやめて、それらの作業を互いに引き離し、孤立させ、空間的に並べ、それぞれの作業を別々の手工業者に割り当て、すべての作業がいっしょに協業者たちによって同時に行われるようにする。このような偶然的な分割が繰り返され、その特有な利点を現わし、しだいに組織的な分業に固まってゆく。」
「マニュファクチュアの発生様式・・・は、二重である」にしても、「その最終の姿は同じもの、すなわち、人間をその諸器官とする一つの生産機構」になる。
マニュファクチュアにおける分業は、「相変わらず手工業が基礎である。この狭い技術的基礎は、生産過程の真に科学的な分解を排除する。」この分業の特殊性は、手工業的活動を分解したそれぞれの部分作業は、依然として手工業的熟練を要求するという点にある。「どの労働者もそれぞれの一つの部分機能だけに適合させられて、彼の労働力はこの部分機能の終生変わらない器官にされてしまうのである。・・・その利点の多くは、協業の一般的本質から生ずるのであり、協業のこの特殊な形態から生ずるのではないのである。」前節で議論した協業の一般性とマニュファクチュアの特殊性との矛盾を、その区別と連関の上で正確に把握しておかねばならない。
第2節 部分労働者とその道具
部分と全体の矛盾に関しても、ヘーゲルは次のように言っている。
「直接的な相関は、全体と部分とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式)から成っている。諸部分は相互に異なっていて、独立的なものである。しかし、それらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし、総括は部分の反対であり否定である。」(ヘーゲル「小論理学」135より)
全体は部分から成るが、全体が有機的である限りは、部分を切り離しては部分ではなく、あくまで全体の中の一部として、全体の中に正しく適切に位置と機能を与えられなければならない。このことは、分業に基づく協業と言う形態でのマニュファクチュアにも当てはまる。
「一生涯同じ一つの単純な作業に従事する労働者は、自分の全身をこの作業の自動的な一面的な器官に転化させ、したがって、多くの作業を次々にやっていく手工業者に比べればその作業により少ない時間を費やす、ということである。・・・それだから、独立手工業者に比べれば、・・・労働の生産力が高められるのである。」
「部分労働がある一人の人の専有機能として独立化されてからは、部分労働の方法も改良される。限られた同じ行為の不断の反復と、この限られたものへの注意の集中とは、経験によって、目ざす有用効果を最小の力の消耗で達成することを教える。・・・このようにして獲得された技術上の手練は、やがて固定され、堆積され、伝達されるのである。」
「マニュファクチュアが部分労働をある一人の人間の終生の職業にしてしまうということは、それ以前の諸社会で職業が世襲化され、カストに石化されるか、または、一定の歴史的諸条件がカスト制度に矛盾する個人の変異性を生みだす場合には、同職組合に骨化されるという傾向に対応するものである。カストも同職組合も、動物の種や亜種への分化を規制するのと同じ自然法則から発生するのであって、ただ、ある発展度に達すればカストの世襲性や同職組合の排他性が社会的法則として制定されるという点が違うだけである。」
職業の世襲は、社会的分業が属人的に固定化され、必要以上の分化を排除することである。その基礎には、自給自足的な小共同体が存在し、そこでは、時間がたっても拡大することが決してなく、古いものをただ再生産するだけである。したがって、自然発生的な計画性が、機能の分化を形態の転化へと固形化するのである。このことは、自然的環境の条件が変化しなければ、自然の生態系は自給自足的に完結し再生産されるだけで、そこでは機能の変化を形態の分化へ、個々の種へと固定化し、保存されるというのと、同じである。資本主義以前の社会では、多かれ少なかれ、このような法則が貫かれていたのである。
「彼が一日じゅう同じ一つの作業を続けて行なうようになれば、これらの(労働日のなかの)すきまは圧縮されるか、または彼の作業の転換が少なくなるにしたがってなくなっていく。生産性の上昇は、この場合には、与えられた時間内の労働力の支出の増加、つまり労働の強度の増大のおかげか、または労働力の不生産的消費の減少のおかげである。」
「労働の生産性は、労働の技量にかかっているだけではなく、彼の道具の完全さにもかかっている。・・・労働用具の分化によって、同種の諸道具にそれぞれの特殊な用途のための特殊な固定的な形態が与えられ、また労働用具の専門化によって、このような特殊な用具はそれぞれ専門の部分労働者の手によってのみ十分な範囲で作用するようになるのであるが、このような分化と専門化とがマニュファクチュアを特徴づけるのである。・・・マニュファクチュア時代は、労働用具を部分労働者の専有な特殊機能に適合させることによって、労働用具を単純化し改良し、多種類にする。」
マニュファクチュアの特殊性の中では、部分労働の特殊化は、必然的に労働用具の特殊化を伴い、固定化するのである。
ここで、マルクスは、ダーウィンの「種の起源」から、「動植物の自然的器官」に関する記述を引用している。「同じ一つの器官がいろいろな働きをしなければならないあいだは、・・・一つ一つの形態上の小変異を保存または抑圧することが・・・念入りでな」く、「同じ器官がただ一つの特殊目的だけに向けられている場合」には「別の形態をもたねばならない。」
第3節 マニュファクチュアの二つの基本形態―異種的マニュファクチュアと有機的マニュファクチュア
マニュファクチュアには、製品の性質から生ずる二つの基本形態がある。
製品が「独立の部分生産物の単に機械的な組み立てによって作られる」場合、つまり、部分の単に足し算が全体になる場合、これが異種的マニュファクチュアである。一方、「相互に関連のある一連の諸過程や諸操作によってその完成姿態を与えられる」場合、つまり、部分の有機的組み合わせが全体になる場合、これが、有機的マニュファクチュアである。
異種的マニュファクチュアの例として、時計マニュファクチュアを挙げている。「このような、そのいろいろな種類の要素にたいする完成生産物の外的な関係は、この場合には、・・・同じ作業場での部分労働者の結合を偶然的なものにする。部分労働は、・・・互いに独立した手工業としても営まれうるのであるが、他方、・・・大きな時計マニュファクチュアができている。すなわち、一つの資本の指揮のもとでの部分労働者の直接的協業がおこなわれている。・・・この場合には、結合されたマニュファクチュア的経営は、ただ例外的な事情のもとでしか有利でない。というのは、競争は自宅で作業することを欲する労働者たちのあいだで最も激しく行われるからであり、・・・共同の労働手段の使用を許すことが少ないからであり、・・・資本家は作業用建物などのための支出を免れるからである。とはいえ、自宅でではあるが一人の資本家(製造業者、企業者)のために労働するこれらの細部労働者の地位は、自分自身の顧客のために労働する独立工業者の地位とはまったく違うものである。」
有機的マニュファクチュアは、「マニュファクチュアの完成された形態」である。この形態が、生産力の大幅な増大をもたらす。「この増大はマニュファクチュアの一般的な協業的な性格から生ずる。他方、マニュファクチュアに特有な分業の原則は、いろいろな生産段階の分立化を必然的にし、これらの生産段階はそれだけ多くの手工業的部分労働として互いに独立化される」。
次に、有機的マニュファクチュアを、全体的観点から考察している。以下マルクスが論ずる展開は、論理的に、量質転化の展開の好例を示している。有機的なマニュファクチュアの自然的発展は、その完成態へと展開されるのであるが、それを論理的に把握する時、量的展開が質的展開を伴って段階的に形成されることが示されている。その基礎には、部分労働のそれぞれ生産物の否定の否定の連鎖が、それぞれの部分労働自体の質的量的関係を媒介し、それぞれの部分労働の調整を行うということがある。
1、「一定量の原料・・・は、いろいろな労働者の手の中でいろいろな生産段階の時間的な順列を通る。これに反し、作業場を一つの全体的機構として見れば、・・・いろいろな段階的過程が時間的継起から空間的並列に変えられている。・・・その同時性は、たしかに総過程の一般的な協業的な形態から生ずるのではあるが、しかし、マニュファクチュアは、ただ協業の既存の諸条件を見出すだけではなく、その一部分を手工業的活動の分解によってはじめて創造するのである。他面、マニュファクチュアは、労働過程のこのような社会的組織を、ただ同じ細部作業に同じ労働者を釘付けにすることによってのみ達成するのである。」
マニュファクチュアの手工業的特殊性の範囲とはいえ、協業的分業の一般性が、生産力の増大に寄与するのである。ここでは、全体労働者の質的に異なる諸器官を形成させるために、それに相当する部分労働者の一定の量を作り出す論理が述べられている。
2、「マニュファクチュアの全体的機構は、一定の労働時間では一定の成果が得られるという前提にもとづいている。ただこの前提のもとでのみ、互いに補い合ういろいろな労働過程は、中断することなく、同時に空間的に並列して進行することができるのである。このような、労働と労働とのあいだの、したがってまた労働者どうしのあいだの直接的依存関係は、各個の労働者にただ必要時間だけを自分の機能のために費やすことを強制する・・・。ある一つの商品にはただその商品の生産に社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは、商品生産一般では競争の外的強制として現れるのであるが、それは、表面的に言えば、各個の生産者が商品をその市場価格で売らなければならないからである。ところが、マニュファクチュアでは、一定の労働時間で一定量の生産物を供給するということが生産過程そのものの技術上の法則になるのである。」
私的労働の社会的な無計画性が、労働生産物の価値、すなわち市場価格を社会的必要労働時間に制限する作用を果たすのであるが、マニュファクチュアでは、労働の協業的分業の計画性が、労働生産物の価値を直接実現するということである。これも、協業的分業の一般性から生ずるものである。
ここでは、質的に異なった部分労働者群同士が、相互に連関することが述べられている。
3、「もし同じ労働者は毎日毎日いつでもただ同じ作業だけを行うものとすれば、いろいろな作業に違った比例数の労働者が充当されねばならない。・・・マニュファクチュア的分業は、ただ社会的な全体労働者の質的に違う諸器官を単純化し多様化するだけではなく、またこれらの諸器官の量的な規模の、すなわち、それぞれの特殊機能を行う労働者の相対数または労働者群の相対的な大きさの、数学的に確定された割合をもつくりだすのである。マニュファクチュア的分業は、社会的労働過程の質的な編制とともにその量的な規準と均衡をも発展させるのである。」
ここでは、質的に異なる部分労働者の相互の量的な結合は一定の割合で進行し、均衡のとれた全体へと展開される論理が述べられている。
4、「各個の群、すなわち同じ部分労働を行う何人かの労働者の一団は、同質の諸要素から成っていて、全体機構の一つの特殊器官になっている。しかし、いろいろなマニュファクチュアでは、この群そのものが一つの編制された労働体であって、全体機構はこれらの生産的基本有機体の重複または倍加によって形成されるのである。」
5、「最後に、マニュファクチュアは、そのあるものがいろいろな手工業の結合から生ずることがあるように、またいろいろなマニュファクチュアの結合に発展することがありうる。・・・このような場合には、いろいろな結合されたマニュファクチュアは、一つの全体マニュファクチュアの多少とも空間的に分離された諸部門をなしていると同時に、それぞれが固有の分業をともなう互いに独立した諸生産過程をなしているのである。」
このような論理的展開は、あたかも同一の単細胞から多細胞が進化し、多細胞が機能分化を遂げる過程に対応するかのようである。
原始の世界、そこに生まれた生命は、単細胞であったろう。そこで、いろいろな種類の独立して生活していた細胞が一か所に集まり、あるいは集められ、その結果、次第に独立性を失っていき、最後は、それぞれの細胞が特殊な機能を持つものに変化・固定し、有機的全体の部分として組み込まれていく、あるいは、ほぼ同質でそれぞれ同種の機能を持っていた細胞同士が集まり、偶然的要因から、それぞれの細胞が部分的機能だけを発揮するようになり、その結果、組織的な分業に固まっていく、おそらく、単細胞から多細胞への進化は、論理的には、このような過程を経たのではなかろうか。
マニュファクチャのこれ以上の展開は、その特殊性に縛られている。
「結合マニュファクチュアは、多くに利点を示してはいるが、それ自身の基礎の上では現実の技術的統一を達成しない。このような統一は、結合マニュファクチュアが機械経営に転化するときにはじめて生ずるのである。」
「マニュファクチュア時代は、商品生産に必要な労働時間の短縮をやがて意識的原則として表明するのであるが、それはまた機械の使用をも潜在的には発展させる。ことに大仕掛けに大きな力を用いて行なわれなければならないようなある種の簡単な初歩的過程のための機械の使用を発展させる。」
発展したマニュファクチュアは、機械の使用を準備するが、それ自体、機械と同一の側面も持つという矛盾した存在になる。
「マニュファクチュア時代の独自な機械は、やはり、多数の部分労働者の結合された全体労働者そのものである。」「全体労働者は、特殊な労働者または労働者群に個別化されている彼のすべての器官をただそれぞれの独自な機能だけに用いるからである。・・・ある一つの一面的な機能を行うという習慣は、彼を自然的に確実にこの機能を行う器官に転化させるのであり、他方、全体機構の関連は、機械の一部分のような規則正しさで作用することを彼に強制するのである。」
この機械的な規則性は、労働者のヒエラルキーを形成させる。
「全体労働者・・・のいろいろな器官である個別労働力は、それぞれ非常に程度の違う教育を必要とし、したがってそれぞれの違った価値をもっている。だから、マニュファクチュアは労働力の等級制を発展させるのであり、これには労賃の等級が対応する」。「等級制的段階づけと並んで、熟練労働者と不熟練労働者とへの労働者の簡単な区分が現れる。・・・どちらの場合にも労働力の価値は下がる。・・・修業費の消失または減少から生ずる労働力の相対的な減価は、直接に資本のいっそう高い価値増殖を含んでいる。なぜならば、労働力の再生産に必要な時間を短縮するものは、すべて剰余労働の領分を延長するかたである」。
こうして、マニュファクチュアは、相対的剰余価値の生産に寄与するのである。
第4節 マニュファクチュアのなかでの分業と社会のなかでの分業
この節の理解のためには、「序言」の中の、あの有名な定式を、再度確認する作業が必要である。 「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、つまり、かれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。」(「序言」)
この文の、「物質的生活の生産様式」、すなわち「社会の物質的生産諸力」と「生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係」との矛盾が、ここで議論される内容である。
「社会の中での分業と、それに対応して諸個人が特殊な職業部面に局限されることとは、マニュファクチュアのなかでの分業と同じように、相反する諸出発点から発展する。」
ここで取り上げる、「すべての商品生産の一般的基礎をなす社会的分業」とは、「資本論」の出発点である私的所有・私的労働のことであり、「社会の中での分業と、それに対応して諸個人が特殊な職業部面に局限されること」という特殊な生活の生産様式は、以下のようにして発生する。
「一つの家族のなかで、さらに発展しては一つの種族の中で、・・・純粋に生理的な基礎の上で、自然発生的な分業が発生し、・・・拡大する。」「生理的分業が出発点となる場合には、一つの直接に結成されている全体の特殊な諸器官が、他の共同体との商品交換から主要な衝撃を受ける分解過程によって互いに分離し、分解し、独立して、ついに、いろいろな労働の関連が商品としての生産物の交換によって媒介する点に達する」。
「他方、・・・生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。・・・共同体が違えば、・・・生産手段や生活手段、・・・生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、・・・違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の・・・依存しあう諸部門にするのである。この場合に社会的分業が発生するのは、もとから違ってはいるが互いに依存し合ってはいない諸生産部面のあいだの交換によってである。」
前者は、「以前は独立していなかったものの独立化」であり、後者は「以前は独立していたものの非独立化」である。これは、論理的には、第1節にある、全体と部分の矛盾の定立に相当する。人類の歴史の初期には、生産諸力の発展は、分業という生産諸関係自体を生産力として利用することに依存する。これによって、私的労働に基づく社会的分業という生産様式が、成立するのである。
「すべてのすでに発展していて商品交換によって媒介されている分業の基礎は、都市と農村との分離である。社会の全経済史はこの対立の運動に要約されるということができる」。これは、「農業や工業などという大きな諸部門への社会的生産の分割」=一般的分業であるが、この対立が古典古代的共同体および封建的生産様式の経済的基礎に存在するのである。
「マニュファクチュアのなかでの分業のためには、同時に充当される労働者の一定の数が物質的前提をなしているが、同時に社会の中での分業のためには人口の大きさと密度とが物質的前提をなしているのであって、この場合には人口の密度が同じ作業場のなかでの密集に代わるのである。とはいえ、この密度は相対的なものである。」交通機関の発達によって、人口密度の相対的な大きさが決まるという。すなわち、生産の基礎は、交通と相互規定の関係にあるということである。
ドイツイデオロギーに、次の文がある。
「この生産は人口の増加とともにやっと始まる。人口の増加はそれはそれでまた諸個人相互間の交通を前提とする。この交通の形態はまた生産によって条件づけられている。」
以上、社会の中での分業とマニュファクチュアの中での分業とは、論理的に同一な側面を持っているということである。
また、社会の中での分業とマニュファクチュアの中での分業は、相互に媒介関係にある。
「商品生産と商品流通は資本主義的生産様式の一般的前提なのだから、マニュファクチュア的分業は、社会の中での分業がすでにある発展度まで成熟していることを必要とする。また逆に、マニュファクチュア的分業はこの社会的分業に反作用してこれを発展させ何倍にも複雑にする。労働用具が分化するにつれて、これらの用具を生産する産業もますます分化してくる。それまでは本業または副業として他の諸産業と関連していて同じ生産者によって営まれていた産業も、マニュファクチュア的経営がそれをとらえれば、ただちに分離と相互の独立化とが起こる。」などなど。こうして、社会の中での分業とマニュファクチュアの中での分業は、相互浸透して発展していくのである。
では、社会の中での分業とマニュファクチュアの中での分業の違いは何か。
「社会の中での分業と一つの作業場の中での分業とのあいだには多くの類似や関連があるにもかかわらず、この二つのものは、ただ程度が違うだけでなく、本質的に違っている。」
「前者では広い面にわたる部分労働の分散と各特殊部門の大きな従業者数とが関連を不明にしているのを見るのである。ではなにが・・・それぞれ独立した労働のあいだに関連をつくりだすのか、それは彼らのそれぞれの生産物としての商品の定在である。これに対して・・・(後者は)部分労働者は商品を生産しないということである。何人もの部分労働者の共同の生産物がはじめて商品になるのである。社会の中での分業は、いろいろな労働部門の生産物の売買によって媒介されており、マニュファクチュアの中でのいろいろな部分労働の関連は、いろいろな労働力が同じ資本家に売られて結合労働力として使用されるということによって媒介されている。マニュファクチュア的分業は、一人の資本家の手中での生産手段の集積を前提しており、社会的分業は、互いに独立した多数の商品生産者のあいだへの生産手段の分散を前提している。」
社会の中での分業とマニュファクチュアの中で分業との違いは、その生産諸力の質的量的大きさにあるのではない。その生産諸関係(生産様式)の違いにある。社会的分業というのは、社会全体の生産様式を指すが、マニュファクチュアというのは、社会の中の一部を占めている、狭い意味での特殊な生産様式の側面を取り上げたものである。前者は、私的労働に基づく私的生産者の商品生産の関係であり、商品生産は個々の多数の独立した生産者の偶然に委ねられており、後者は、例え一人の資本家にではあっても、人間の意志と計画の下に労働力が結合されている。
生産と消費の計画性には、なんらかの共同体が必要である。この共同体が、生産と消費の調整役の働きを行う。しかし、私的所有は、論理的・歴史的には、共同体を破壊する作用を果たしてきた。ところが、論理的に私的所有から出発しながら、この段階において、資本主義的生産様式と言う形態でではあるが、なんらかの生産の計画性を担保する共同体が復活するのである。
「作業場のなかでの分業ではア・プリオリに計画的に守られる規則が、社会のなかでの分業では、ただア・ポステリオリに、内的な、無言の、市場価格の晴雨計的変動によって知覚される、商品生産者達の無規律な恣意を圧倒する自然法則性として、作用するだけである。」
こういう観点から、マルクスは、資本主義的生産様式とそれ以前の生産様式における違いを次のように明示する。
「資本主義的生産様式の社会では、社会的分業の無政府性とマニュファクチュア的分業の専制とが互いに条件になりあうとすれば、これに反して、それ以前の諸社会形態では、諸産業の分化がまず自然発生的に発展し、次いで結晶し、最後に法的に固定されたのであって、このような社会形態は、一方では社会的労働の計画的で権威的な組織の姿を示しながら、他方では、作業場の中での分業をまったく排除するか、またはそれをただ矮小な規模でしか発展させないか、または散在的偶然的にしか発展させないのである。」
マルクスは、次に、インドの太古的な小共同体を示しながら、アジア的生産様式の特徴を述べている。
「たとえば、部分的には今日なお存続しているインドの太古的な小共同体は、土地の共有と、農業と手工業との直接的結合と、固定した分業とを基礎としており、この分業は、新たな共同体の建設にさいしては与えられた計画および設計図として役立っている。このような共同体は自給自足的な生産的全体をなしていて・・・。生産物の大部分は共同体の直接的自己需要のために生産され・・・。ただ生産物の余剰だけが商品に転化するのであり、しかも一部分は、いつともない昔から一定量の生産物が現物地代として流入してくる国家の中ではじめて商品に転化するのである。」
マルクスは、引き続いてインドの共同体の具体例を示してから、次のように述べる。
「このような、絶えず同じ形態で再生産され、たまたま破壊されてもまた同じ場所に同じ名称で再建される自給自足的な共同体の簡単な生産体制は、アジア諸国家の不断の興亡や王朝の無休の交替とは著しい対照をなしているアジア的社会の不変性の秘密を解く鍵を与えるものである。社会の経済的基本要素の構造が、政治的雲上界のあらしにゆるがされることなく保たれているのである。」
これがマルクスの「アジア的生産様式」の論理構造である。
次に、また、「それ以前の社会」の例として、封建的生産様式の同職組合を取り上げる。
「同職組合規則は、一人の同職組合親方が使用してもよい職人の数を極度に制限することによって、親方が資本家になることを計画的に阻止していた。」「商人はどんな商品でも買うことができたが、ただ労働だけは商品として買うことができなかった。」「同職組合組織は、それによる職業の特殊化や分立化や完成はマニュファクチュア時代の物質的存在条件に属するとはいえ、マニュファクチュア的分業を排除していたのである。だいたいにおいて、労働者とその生産手段とは、かたつむりとその殻のように、互いに結びつけられたままになっていた。したがって、マニュファクチュアの第一の基礎、すなわち労働者に対して生産手段が資本として独立化されるということは、なかったのである。」
第5節 マニュファクチュアの資本主義的性格
「マニュファクチュア的分業は、資本主義的生産様式のまったく独自な創造物なのである。」、すなわち、マニュファクチュアという特殊な協業の生産様式が、資本主義的生産様式と直接的同一の関係になるのであるが、マニュファクチュア的分業には、そもそも資本主義的生産過程となりうる技術的根拠がある。
「比較的多数の労働者が同じ資本の指揮のもとにあるということは、協業一般の自然発生的な基礎をなしているが、同時にマニュファクチュアのそれをなしている。逆にまたマニュファクチュア的分業は充用労働者数の増大を技術上の必然性にまで発展させる。・・・他方、さらに進んだ分業の利益は、労働者数のいっそうの増加を条件とし、しかもこの増加はただ倍加を重ねることによってのみ行なわれることができる。しかし、資本の可変部分が増大するにつれて不変成分も増大しなければならない。・・・原料が増加しなければならない。・・・個々の資本家の手にある資本の最小規模が増大してゆくということ、または、社会の生活手段と生産手段とがますます多く資本に転化してゆくということは、マニュファクチュアの技術的性格から生ずる一つの法則なのである。」
つまり、マニュファクチュアの生産力及び技術的性格は、本来、資本主義的であり、資本主義の中でこそ、その性格が発揮できるということである。一方、マニュファクチュア的分業は、資本主義的生産過程となることによって、直接、資本主義的性格を付与される。
「多数の個別的部分労働者から構成されている社会的生産機構は、資本家のものである。それだから、諸労働の結合から生ずる生産力は資本の生産力として現れるのである。本来のマニュファクチュアは、以前は独立していた労働者を資本の指揮と規律とに従わせるだけでなく、その上に、労働者たち自身のあいだにも一つの等級制的編成をつくりだす。・・・マニュファクチュアは・・・個人的労働力の根源をとらえる。それは労働者をゆがめて一つの奇形物にしてしまう。・・・個人そのものが分割されて一つの部分労働の自動装置に転化され・・・。その労働力は、・・・資本家の作業場のなかでしか、機能しないのである。・・・分業はマニュファクチュア労働者に、彼が資本のものだということを表している焼き印を押すのである。」
資本主義的生産様式は、マニュファクチュアに、資本主義的生産様式と直接的同一であり、分離不可能という宣言を表明させるのである。
更に、マニュファクチュアという生産力は、資本主義的生産様式の中で発展する結果、その限界に突き当たる。
「部分労働者たちに対して、物質的生産過程の精神的な諸能力を、他人の所有として、また、彼らを支配する権力として、対立させるということは、マニュファクチュア的分業の1産物である。この分離過程は、個々の労働者達に対して資本家が社会的労働体の統一性と意志とを代表している単純な協業に始まる。この過程は、労働者を不具にして部分労働者にしてしまうマニュファクチュアにおいて発展する。この過程は、科学を独立の生産能力として労働から切り離しそれに資本への奉仕を押しつける大工業において完了する。」
すなわち、マニュファクチュアは、精神的労働と物質的労働の分離を促進するのである。
「マニュファクチュアでは、全体労働者の、したがってまた資本の、社会的生産力が豊かになることは、労働者の個人的生産力が貧しくなることを条件としている。」
マルクスは、マニュファクチュアが資本主義の発展の歴史の中で果たした役割を、次のように総括する。
「分業にもとづく協業、すなわちマニュファクチュアは、当初は一つの自然発生的な形成物である。その存在がいくらか堅固さと幅広さとを増してくれば、それは資本主義的生産様式の意識的な、計画的な、組織的な形態になってくる。本来のマニュファクチュアの歴史が示しているように、それに特有な分業は、最初は経験的に、いわば当事者の背後で、適当な諸形態をとっていくのであるが、やがて、同職組合的手工業と同じように、ひとたび見出された形態を伝統的に固守しようとするようになり、また場合によっては数百年もそれを固守するのである。」
「マニュファクチュア的分業は、手工業的活動の分解、労働用具の専門化、部分労働者の形成、一つの全体機構のなかでの彼らの組分けと組合せによって、いくつもの社会的生産過程の質的編成と量的比例性、つまり一定の社会的労働の組織をつくりだし、同時にまた労働の新たな社会的生産力を発展させる。社会的生産過程の独自な資本主義的形態としては・・・マニュファクチュア的分業は、ただ、相対的剰余価値を生み出すための、または、資本・・・の自己増殖を労働者の犠牲において高めるための、一つの特殊な方法でしかない。」
「本来のマニュファクチュア時代、すなわち、マニュファクチュアが資本主義的生産様式の支配的な形態である時代には、マニュファクチュア自身の諸傾向の十分な発達は多方面の障害にぶつかる。すでに見たように、マニュファクチュアは、労働者の等級制的編制をつくりだすと同時に熟練労働者と不熟練労働者との簡単な区分をつくりだすとはいえ、不熟練労働者の数は、熟練労働者の優勢によって、やはりまだ非常に制限されている。マニュファクチュアはいろいろな特殊作業をマニュファクチュアの生きている労働器官の成熟や力や発達のいろいろに違った程度に適合させ、したがってまた女や子供の生産的搾取を促すとはいえ、このような傾向はだいたいにおいて慣習や男子労働者の抵抗に出会ってくじける。手工業的活動の分解は労働者の養成費を下げ、したがってまたその価値をさげるとはいえ、いくらかむずかしい細部労働にはやはりかなり長い修業期間が必要であり、また、それがよけいな場合にも、労働者達によって用心深く固執される。」
「同時に、マニュファクチュアは、社会的生産をその全範囲にわたってとらえることも、その根底から変革することもできなかった。マニュファクチュアは、都市の手工業と農村の家内工業という幅広い土台の上に経済的な作品としてそびえたった。マニュファクチュア自身の狭い技術的基礎は、一定の発展度に達したとき、マニュファクチュア自身によってつくりだされた生産上の諸要求と矛盾するようになった。」
「マニュファクチュア的分業のこの産物はまたそれ自身として生み出した―機械を。機械は、社会的生産の規制原理としての手工業的活動を廃棄する。こうして、一方では、労働者を一つの部分機能に一生涯縛り付けておく技術上の根拠は除かれてしまう。他方では、同じ原理がそれまではまだ資本の支配に加えていた制限もなくなる。」
資本主義的生産様式が要求する相対的剰余価値の生産の更なる増大に対し、マニュファクチュア的生産様式はその限界を露呈した。その後を継ぐのが、機械を駆使した大工業である。
節の途中に、「マニュファクチュア時代にはじめて独自な科学として現れる経済学」についての短いコメントがある。文献学的には興味があるが、ここでは取り上げない。しかし、マルクスらしい文章である。 
 
第13章 機械と工場

 

第1節 機械の発達
マニュファクチュアが示した限界は、協業の一般性と手工業の特殊性の矛盾に起因した。手工業を破棄することによって、この限界を突破したのが、「資本主義的に使用される機械」である。無論、機械の使用目的は、あくまで「剰余価値を生産するための手段」にある。
「生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点とする。」マニュファクチュアの労働手段は、特殊化した部分労働にのみ対応した特殊な手工業用道具であった。では、「なにによって労働手段は道具から機械に転化されるのか、または、なにによって機械は手工業用具と区別されるのか」。
「すべて発達した機械は、・・・原動機、伝動機構、・・・道具機または作業機」からなる。
「原動機は全機構の原動力として働く。・・・伝動機構は、・・・運動を調節し、必要があれば運動の形態を、・・・変化させ、それを道具機に分配し伝達する。機構のこの両部分は、ただ道具機に運動を伝えるためにあるだけで、これによって道具機は労働対象をつかまえて目的に応じてそれを変化させるのである。機械のこの部分、道具機こそは、産業革命が18世紀にそこから出発するものである。」
「そこで、道具機または本来の作業機をもっと詳しく考察するならば、・・・だいたいにおいて、手工業やマニュファクチュア労働者の作業に用いられる装置や道具が再現するのであるが、しかし今では人間の道具としてではなく、一つの機械の道具として、または機械的な道具として再現するのである」。「つまり道具機というのは、適当な運動が伝えられると、以前に労働者が類似の道具で行っていたのと同じ作業を自分の道具で行う一つの機構なのである。・・・本来の道具が人間から一つの機構に移されてから、次に単なる道具に代わって機械が現れるのである。」
すなわち、道具機というのは、マニュファクチュアの特殊化した部分労働を担う労働者に代わってその労働を担う機構ということである。
第5章第1節労働過程で、労働を、自然Aと人間Bとの対立物の媒介運動と把握した。そこでは、AのB´化として、人間化した自然の一環として加工された労働手段を把握した。この観点からすると、道具機または作業機は、論理的に相互浸透の最後の仕上げ、その完成品として把握することができる。
「多くの手工業道具では、ただの原動力としての人間と、固有の操作器をそなえた労働者としての人間との相違は、感覚的に別々な存在を持っている。・・・まさに手工業用具のこのあとのほうの部分をこそ、産業革命はまず第一にとらえるのであって・・・。蒸気機関そのものも、17世紀の末にマニュファクチュア時代のあいだに発明されて18世紀の80年代の初めまで存続したそれは、どんな産業革命も呼び起こさなかった。むしろ反対に、道具機の創造こそ蒸気機関の革命を必然的にしたのである。」「産業革命の出発点になる機械は、ただ一個の道具と取り扱う労働者の代わりに一つの機構をもってくるのであるが、この機構は一時に多数の同一または同種の道具を用いて作業し、またその形態がどうあろうと単一な原動力によって動かされるものである。」「作業機の規模とその同時に作業する道具の数との増大は、いっそう大規模な運動機構を要求し、この機構はまたそれ自身の抵抗に勝つために人間動力よりももっと強力な動力を要求する。・・・いまや自然力は動力としても人間にとって代わることができる。・・・マニュファクチュア時代は、大工業の最初の科学的な、また、技術的な諸要素を発展させた。・・・ウォットの第二のいわゆる複動蒸気機関の出現によってはじめて次のような原動機が見出された。それは、石炭と水を食って自分で自分の動力を生み出し・・・その技術的応用という点で普遍的であり、その所在地に関しては局地的な事情に制約されることの比較的少ない原動機だったのである。」「まず、道具が人間という有機体の道具から一つの機械装置の、すなわち道具機の道具に転化されてから、次には原動機も、また、一つの独立な、人力の限界からは完全に解放された形態を与えられた。」
「多数の同種の機械の協業と機械体系とは」異なる。
「前の場合には、一つの製品全体が同じ作業機でつくられる。この作業機がいろいろな作業のすべてを行なうのであって、・・・。」つまり、一つの作業機が、すべての作業を行い、一つの製品全体を作る。「工場では、すなわち機械的経営にもとづく作業場では、つねに単純な協業が再現するのであって、しかも、さしあたっては、・・・同時にいっしょに働く同種の作業機の空間的集合として再現するのである。・・・しかし、ここには一つの技術的統一がある。というのは、共同の原動機の心臓の鼓動が伝動機構をつうじて多数の同種の作業機に伝えられ、そこからこれらの作業機が同時に均等に衝撃を受けるのだからである。」
「本来の機械体系がはじめて個々の独立した機械に代わって現れるのは、労働対象が互いに関連あるいろいろな段階過程を通り、これらの段階過程がさまざまな、といっても互いに補い合う一連の道具機によって行われる場合である。ここでは、マニュファクチュアに固有な分業による協業が再現するのであるが、しかし、今度は部分作業の組み合わせとして再現するのである。」「マニュファクチュアでは各種の特殊過程の分立化が分業そのものによって与えられた原理だとすれば、それとは反対に、発達した工場ではいろいろな特殊過程の連続が支配するのである」。
「機械の体系は、・・・それが一つの自動的な原動機によって運転されるようになれが、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる。」「ただ伝動機の媒介によって一つの中央自動装置からそれぞれの運動を受け取るだけの諸作業機の編制された体系として、機械経営はその最も発達した姿をもつことになる。」
機械は、マニュファクチュアが生み出したが、生み出された機械経営は、マニュファクチュアを駆逐してゆく。機械体系は、マニュファクチュアによって技術的基礎を与えられ、その基礎をひっくり返し、新たなふさわしい土台を作る。大工場の生産様式は、それを生み出したマニュファクチュアの生産様式と相いれないという条件を持ち、マニュファクチュアの生産様式を、機械を使った工場経営に変革していくのである。
「ヴォーカンソンや・・・などの発明が実用化されることができたのは、ただ、これらの発明家たちの目の前に、マニュファクチュア時代から既成のものとして供給されたかなりの数の熟練した機械労働者があったからにほかならない。これらの労働者の一部分はいろいろな職業の独立手工業者から成っており、別の一部分はマニュファクチュアのなかに集められていて、このようなマニュファクチュアでは・・・分業が特に厳しく行なわれていた。発明が増し、新しく発明された機械にたいする需要が増してくるにつれて、一方ではさまざまな独立部門への機械製造の分化が、他方では機械製造マニュファクチュアマニュファクチュアのなかでの分業が、ますます発展してきた。だから、この場合にはわれわれはマニュファクチュアのなかに大工業の直接的な技術的基礎を見るのである。かのマニュファクチュアが機械を生産し、その機械を用いてこの大工業は、それがまず最初にとらえた生産部門で、手工業的経営やマニュファクチュア的経営をなくしたのである。こうして、機械経営は自分にふさわしくない物質的基礎の上に自然発生的に立ち現れたのである。機械経営は、ある程度まで発展してくれば、この最初は規制のものとして与えられ次いで古い形のままでさらに仕上げを加えられた基礎そのものをひっくり返して、それ自身の生産様式にふさわしい新たな土台をつくりださなければならなかった。」「大工業も、それを特徴づける生産手段としての機械そのものが個人の力や熟練のおかげで存在していたあいだは、・・・十分な発展をとげる力を麻痺させられていた。・・・しかし、ある発展段階では、大工業はその手工業的な土台やマニュファクチュア的な土台とは、技術的にも衝突せざるをえなくなった。道具機がその構造をはじめに支配していた手工業的な原型から離れて一つの自由なただ機械としてのその任務だけによって定められた姿を与えられるのにつれて、原動機や伝動機構や道具機の規模が増大し、それらの諸構成部分がいっそう複雑多様になり、いっそう厳密な規則性をもつようになるということ、自動体系が完成されて、使いこなしにくい材料、たとえば木材に代わる鉄の使用がますます不可避的になるということ、−すべてこれらの自然発生的に生じてくる課題の解決は、どこでも人的な制限にぶつかったが、この制限は、マニュファクチュアで結合された労働者群によっても、ある程度打破されるだけで、根本的には打破されないものである。」
「ある一つの産業部面での生産様式の変革は、他の産業部面でのその変革を引き起こす。」「ことにまた、工業や農業の生産様式に起きた革命は、社会的生産過程の一般的な条件すなわち交通・運輸機関の革命をも必要にした。」
「こうして、大工業はその特徴的な生産手段である機械そのものをわがものとして機械によって機械を生産しなければならなくなった。このようにして、はじめて大工業は、それにふさわしい技術的基礎をつくりだして自分の足で立つようになったのである。」
ここにも、一つの矛盾の解決が、更に別の矛盾を呼び起こし、その矛盾の解決が更に別の矛盾の解決へと結びつくという弁証法を見て取ることができる。 「機械としては労働手段は、人力のかわりに自然力を利用し経験的熟練のかわりに自然科学の意識的応用に頼ることを必然的にするような物質的存在様式を受け取る。マニュファクチュアでは社会的労働過程の編制は純粋に主観的であり、部分労働者の組み合わせである。機械体系では大工業は一つのまったく客観的な生産有機体をもつのであって、これを労働者は既成の物質的生産条件として自分の前に見出すのである。・・・機械は、・・・直接的に社会化された労働すなわち共同的な労働によってのみ機能する。だから、労働過程の協業的性格は、今では、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然となる」。
第2節 機械から生産物への価値移転
「協業や分業から生ずる生産力は、資本にとって一文の費用もかからない。それは社会的労働の自然力である。蒸気や水などのように、生産的な過程に取り入れられる自然力にも、やはりなんの費用もかからない。・・・自然力を生産的に消費するためには「人間の手の形成物」が必要である。・・・科学も自然力と同じことである。・・・これらの法則を電信などに利用するためには、非常に高価で大仕掛けな装置が必要である。・・・道具は、・・・人間のつくった一つの機構の道具に成長するのである。・・・自分の道具を自分で扱う機械をもって、いまや資本は労働者に作業をさせるのである。・・・機械は価値を創造しはしないが、しかし、機械を用いて生産される生産物に機械自身の価値を引き渡す。」すでに第3篇第6章で論じたように、生産手段の価値は、生産物に移り保存される。だから、価値の増大した機械設備は、生産物に大きな価値を付け加える。しかし、価値を持たない社会的労働の生産力や科学の生産力は、生産物に価値を付け加えない。
「機械は労働過程にはいつでも全体としてはいっていくが、価値増殖過程にはつねに一部分ずつしかはいってゆかない・・・。・・・このような、使用と損耗とのあいだの差は、道具の場合よりも機械の場合の方がずっと大きいのである。・・・この両方から、すなわち機械と道具とから、それらの毎日の平均費用を引き去れば、・・・機械や道具は、人間の労働を加えられることなく存在する自然力とまったく同じに、無償で作用することになる。・・・大工業においてはじめて人間は、自分の過去のすでに対象化されている労働の生産物を大きな規模で自然力と同じように無償で作用させるようになるのである。」
「機械の価値と、それの一日の生産物に移される価値部分との差が与えられていれば、この価値部分が生産物を高くする程度は、まず第一に、生産物の大きさによって、いわば生産物の表面積によって、定まる。」 「機械が生産物に価値を移す割合を与えられたものとすれば、この価値部分の大きさは機械自身の価値の大きさによって定まる。」
「手工業的またはマニュファクチュア的に生産される商品の価格と、同じ商品でも機械で生産されるものの価格との比較分析からは、一般的に、機械生産物では労働手段から移される価値成分が相対的には増大するが絶対的には減少するという結論が出てくる。」
「もしある機械を生産するのにこの機械によって省かれるのと同じだけの労働がかかるとすれば、その場合にはただ労働の置き換えが行なわれるだけで、商品の生産に必要な労働の総量は減らないということ、すなわち労働の生産力は高められないということは、明らかである。とはいえ、機械の生産に必要な労働と機械によって省かれる労働との差、すなわち機械の生産性の程度は、明らかに、機械自身の価値と機械によって代わられる道具の価値との差によって定まるものではない。この差は、機械の労働費用、したがってまた機械によって生産物につけ加えられる価値部分が、労働者が自分の道具で労働対象につけ加えるであろう価値よりも小さい限り、なくならない。それゆえ、機械の生産性は、その機械が人間の労働力にとって代わる程度によって計られるのである」。
機械は生産手段の一部であるから、機械の消費は、ただそれに対象化された労働時間を生産物に移すだけである。したがって、機械に対象化された労働時間と、機械の消費によって省かれる労働時間が同じならば、機械の生産性は変わらないが、この文の後に例示されているように、実際には、機械は、労働の生産力を大幅に向上させる。しかし、機械の消費によって省かれる労働時間と、機械に代わって雇われる労働力に対象化されている労働時間とは、同じではない。その差は、機械の価値と労働力の価値(必要労働時間)の差であり、機械に代替される労働力の剰余労働時間である。
「ただ生産物を安くするための手段だけとして見れば、機械の使用の限界は、機械自身の生産に必要な労働が、機会の充用によって代わられる労働よりも少ないということのうちに、与えられている。だが、資本にとってはこの限界はもっと狭く表される。資本は、充当される労働を支払うのではなく、充当される労働力の価値を支払うのだから、資本にとっては、機械の使用は、機械の価値と機械によって代わられる労働力の価値との差によって限界を与えられるのである。・・・機械の価格と機械によって代わられる労働力との価格との差は、たとえ機械の生産に必要な労働量と機械によって代わられる労働の総量との差は変わらなくても、非常に違っていることがありうるのである。」
したがって、機械によって労働力の生産性が向上するにしても、労働力が相対的に安価な場合、資本家が必ずしも機械を採用するとは限らない。労働過程と価値形成過程の矛盾として現れる限界は、価値増殖過程として現象する場合にはその限界が異なり、更に実際の資本主義的生産過程として現れる場合には、非常に異なることがあるということである。
第3節 機械経営が労働者に及ぼす直接的影響
第8章同様、このあたりは、マルクスが、労働者階級に対して、彼らのおかれた立場を説いたところであり、マルクスが導きだした法則の適用として具体的な例を示しながら、わかりやすく書かれてある。以下では、具体例をはぶいて、要旨のみをまとめる。
a. 資本による補助労働力の取得 婦人・児童労働
機械体系の採用による生産力の増大は、労働者にとっては必ずしもいいとは限らない。
「機械が筋力をなくてもよいものにするかぎりでは、機械は、筋力のない労働者、または身体の発達は未熟だが手足の柔軟性が比較的大きい労働者を充当するための手段になる。」つまり婦人や児童の労働である。「こうして、労働と労働者とのこのたいした代用物は、たちまち、性の差別も年齢の差別もなしに労働者家族の全員を資本の直接的支配のもとに編入することによって賃金労働者の数をふやすための手段になったのである。」
「労働力の価値は、個々の成年労働者の生活維持に必要な労働時間によって規定されていただけではなく、労働者家族の生活維持に必要な労働時間によっても規定されていた。機械は、労働者家族の全員を労働市場に投ずることによって、成年男子の労働力の価値を彼の全家族のあいだに分割する。それだから、機械は彼の労働力を減価させるのである。」
「機械はまた・・・労働者と資本家とのあいだの契約をも根底から変革する。・・・今では資本は未成年者または半成年者を買う。・・・彼は今では妻子を売る。彼は奴隷商人になる。」
工場法では、13歳未満の児童の6時間労働を認めているが、そのため、証明資格のある医師が、「資本家の搾取欲や親の小商人的要求に応じて」子供の年齢をずらせるという現実を紹介している。また、イングランドでの「幼少期における労働者児童の異常に高い死亡率」についても、その原因が「特に母親の家庭外就業、それに起因する子供の放任と虐待、ことに不適切な食物、食物の不足、阿片剤を飲ませることなどであり、そのうえに、自分の子供に対する母親の不自然な疎隔。その結果としてわざと食物をあてがわなかったり有毒物を与えたりすることが加わる」という政府の報告書を紹介している。 更に、「工場法の適用を受けるすべての産業で初等教育を14歳未満の児童の「生産的」消費の法定条件」になったが、実際には、字の書けない教師やあまりにひどい学校の現状があったことを紹介している。
「結合された労働人員に圧倒的な数の子供や女を加えることによって、機械は、マニュファクチュアではまだ男子労働者が資本の専制にたいして行なっていた反抗を、ついにうちひしぐのである。」
b. 労働日の延長
「機械は、労働の生産性を高くするための、すなわち商品の生産に必要な労働時間を短縮するための、最も強力な手段だとすれば、機械は、資本の担い手としては、最初はまず機械が直接とらえた産業で労働日をどんな自然的限界を越えて延長するための最も強力な手段になる。機械は、一方では、資本が自分のこのような不断の傾向を赴くままにさせることを可能にする新たな諸条件をつくりだし、他方では、他人の労働に対する資本の渇望をいっそう激しくする新たな動機をつくりだすのである。」
「まず第一に、機械では労働手段の運動と働きが労働者に対して独立化されている。労働手段は、それ自体として、一つの産業的な恒久運動機構となり・・・不断に生産を続けるはずのものである。だから、それは、資本としては・・・反抗的ではあるが弾力的な人間的自然的制限を最小の抵抗に抑えつけようとする衝動によって、活気づけられているのである。そうでなくて、この抵抗は、機械による労働の外観上の容易さと、より従順な婦人・児童要素とによって、減らされているのである。」
「物質的な損耗のほかに、機械はいわば無形の損耗の危険にもさらされている。同じ構造の機械がもっと安く再生産されうるようになるとか、この機械と並んでもっと優秀な機械が競争者として現れるようになるとかすれば、・・・たとえ機械そのものはまだ若くて生活力をもっていようとも、その価値は、もはや、実際にその機械自身に対象化されている労働時間によっては規定されないで、それ自身の再生産かまたはもっと優秀な機械の再生産に必要な労働時間によって規定されている。したがって、それは多かれ少なかれ減価している。機械の総価値が再生産される期間が短ければ短いほど、無形の損耗の危険は小さくなり、そして、労働時間が長ければ長いほど、かに期間は短い。・・・機械の生涯の最初の時期には労働日延長へのこの特別な動機が最も急激に作用する」。
「労働日を延長すれば、生産規模は拡大されるが、機械や建物に投ぜられる資本部分は不変のままである。したがって、剰余価値が増大するだけではなく、その搾取のために必要な支出が減少することになる。・・・この場合にはいっそう決定的に重要である。というのは、ここでは労働手段に転化される資本部分が一般にいっそう大きな比重をもつからである。すなわち、機械経営の発展は、資本のうちの絶えず増大する一成分を、資本が一方では絶えず価値増殖を続けうると同時に他方では生きている労働との接触を中断されればたちまち使用価値も交換価値も失ってしまうような形態に、拘泥するのである。」
「機械が相対的剰余価値を生産するというのは、ただ、機械が労働力を直接に減価させ、また労働力の再生産に加わる諸商品を安くして労働力を間接に安くするからだけではなく、機械が最初にまばらに採用されるときには機械所有者の使用する労働を何乗もされた労働に転化させ、機械の生産物の社会的価値をその個別的価値よりも高くし、こうして資本家が一日の生産物のより小さい価値部分で労働力の日価値を補填することができるようにするからでもある。それゆえ、機械経営がまだ一種の独占となっているこの過渡期のあいだは、利得は異常に大きなものであって、資本家は・・・できるかぎりの労働日の延長によって徹底的に利用しようとするのである。」
「同じ生産部門の中で機械が普及してゆくにつれて、機械の生産物の社会的価値はその個別的価値まで下がる。」「ところで、機械経営は労働の生産力を高くすることによって必要労働の犠牲において剰余労働を拡大するとはいえ、それがこのような結果を生み出すのは、ただ、与えられた一資本の使用する労働者の数を減らすからにほかならないということは、明らかである。機械経営は、資本の・・・生きている労働力に転換された部分を、機械・・・不変資本に、変える。・・・剰余価値を生産するために機械を充当するということのうちには一つの内在的矛盾がある。というのは、機械の充当が、与えられた大きさの一資本によって生み出される剰余価値の二つの要因のうちの一方である剰余価値率を大きくするためには、ただ他方の要因である労働者数を小さくするよりほかはないからである。・・・この矛盾こそは、またもや資本を駆り立てて、おそらく自分では意識することなしに、搾取される労働者の相対的な減少を相対的剰余労働の増加によるだけではなく絶対的剰余労働の増加によって埋め合わせるために、むりやりな労働日の延長をやらせるのである。」
「こうして、機械の資本主義的充当は、一方では、労働日の無制限な延長への新たな強力な動機をつくりだし、そして労働様式そのものをも社会的労働体の性格をも、この傾向にたいする抵抗をくじくような仕方で変革するとすれば、他方では、一部は労働者階級のうちの以前は資本の手にはいらなかった諸層を資本にまかせることにより、一部は機械に駆逐された労働者を遊離させることによって、資本の命ずる法則に従わざるを得ない過剰な労働者人口を生み出すのである。」
「機械の資本主義的充当」という表現は、労働過程と価値増殖過程の矛盾(直接的同一)を表現したものであり、その矛盾から更に種々の矛盾が発生するのである。
c. 労働の強化
「機械が資本の手の中で生み出す労働日の無制限な延長は、すでに見たように、のちには、その生活の根源を脅かされた社会の反作用を招き、またそれとともに、法律によって制限された標準労働日を招くのである。この労働日の基礎の上では、・・・労働日の強化が。」
「機械の進歩と、機械労働者という一つの独特な階級の経験の堆積とにつれて、労働の速度が、したがってまたその強度が自然発生的に増大するということは、自明である。・・・だれでもわかるように、・・・毎日繰り返される規則的な均等性をもって労働が行なわれなければならない場合には、必ず一つの交差点が現れて、そこでは労働日の長さと労働の強度とが互いに排除し合って、労働日の延長はただ労働の強度の低下だけと両立し、また逆に強度の上昇はただ労働日の短縮だけと両立するということにならざるをえない。しだいに高まる労働者階級の反抗が国家を強制して、労働時間の短縮を強行させ、まず第一に本来の工場に対して一つの標準労働日を命令させるに至ったときから、すなわち労働日の延長による剰余価値生産の増大の道がきっぱりと断たれたこの瞬間から、資本は、全力をあげて、また十分な意識を持って、機械体系の発達の促進による相対的剰余価値の生産に熱中した。それと同時に、相対的剰余価値の性格に一つの変化が現れてくる。・・・ところが、生産力の発展と生産条件の節約とに大きな刺激を与える強制的な労働日の短縮が、同時にまた、同じ時間内の労働支出の増大、より大きい労働力の緊張、労働時間の気孔のいっそう濃密な充填、すなわち労働の濃縮を、短縮された労働日の範囲内で達成できるかぎりの程度まで、労働者に強要することになれば、事態は変わってくる。このような、与えられたある時間内により大量の労働が圧縮されたものは、・・・より大きい労働量として、数えられる。」
では、「どのようにして労働が強化されるのか」
「労働日の短縮は、最初はまず労働の濃縮の主体的な条件、すなわち与えられた時間により多くの力を流動させるという労働者の能力をつくりだすのであるが、このような労働日の短縮が法律によって強制されるということになれば、資本の手の中にある機械は、同じ時間により多くの労働をしぼり取るための客体的な、体系的に充用される手段になる。そうなるには二通りの仕方がある。すなわち、機械の速度を高くすること、同じ労働者の見張る機械の範囲、すなわち彼の作業場面の範囲を広げることである。機械の構造の改良は、労働者にいっそう大きな圧力を加えるためにも必要であるが、それはまた労働の強化におのずから伴うものである。」
マルクスは、「工場監督官報告書」の記述を引用して、更に次のように結論する。
「少しも疑う余地のないことであるが、資本に対して労働日の延長が法律によって最後的に禁止されてしまえば、労働の強度の系統的な引き上げによってその埋め合わせをつけ、機械の改良はすべて労働力のより以上の搾取のための手段に変えてしまうという資本の傾向は、やがてまた一つの転回点に向かって進まざるを得なくなり、この点に達すれば労働時間の再度の減少が避けられなくなる。」皮肉にも、量質転化の法則が貫徹されるわけである。
第4節 工場
工場は、「自動装置そのものが主体であり、労働者は・・・従属させられている」というのが、「機械の資本主義的充用」であり、工場制度である。「自動的な工場では、機械の助手たちがしなければならない労働の均等化または水平化の傾向が現れるのであり、・・・年齢や性の自然的な区別のほうが主要なものになるのである。」
「自動的な工場の中で分業が再現するかぎりでは、それは、まず第一に、専門化された機械のあいだに労働者を配分することであり、また、労働者群を、といっても編制された組をなしてはいない群を、工場のいろいろな部門に配分することであって、そこではこれらの労働者群は並列する同種の道具機について作業するのであり、したがって彼らのあいだではただ単純な協業が行なわれるだけである。・・・主要労働者と少数の助手との関係が現れている。本質的な区別は、現実に道具機について働いている労働者(・・・)と、この機械労働者の単なる手伝い(ほとんど子供ばかり)との区別である。・・・これらの主要部類のほかに、機械装置全体の調整や平常の修理に従事していてその数から見ればとるに足りない人員がある。技師や機械工指物工などがそれである。・・・この分業は純粋に技術的である。」
「およそ機械による労働は、労働者が自分の運動を自動装置の一様な連続的な運動に合わせることをおぼえるために早くから習得することを必要とする。・・・工場の全運動が労働者からではなく機械から出発するのだからこそ、労働過程を中断することなしに絶えず人員交替を行なうことができるのである。・・・最後に、機械による労働が年少時には急速に習得されるということも、特別な一部類の労働者をもっぱら機械労働者として養成する必要をなくする。」
「機械は、古い分業体系を技術的にくつがえすとはいえ、この体系は当初はマニュファクチュアの遺習として慣習的に工場の中でも存続し、次にはまた体系的に資本によって労働力の搾取手段としてもっといやな形で再生産され固定されるようになる。・・・今度は一つの部分機械に使えることが終生の専門になる。機械は、労働者自身を幼少時から一つの部分機械の部分にしてしまうために、乱用される。こうして労働者自身の再生産に必要な費用が著しく減らされるだけでなく、同時にまた、工場全体への、従って資本家への、労働者の絶望的な従属が完成される。」
「工場では労働者が機械に奉仕する。・・・労働手段の運動に労働者がついて行かなければならない。・・・工場では一つの死んでいる機構が労働者たちから独立して存在していて、彼らはこの機構に生きている付属物として合体されるのである。」
「資本主義的生産がただ労働過程であるだけではなく同時に資本の価値増殖過程でもあるかぎり、どんな資本主義的生産にも労働者が労働条件を使うのではなく逆に労働条件が労働者を使うのだということは共通であるが、しかし、この転倒は機械によってはじめて技術的に明瞭な現実性を受け取るのである。一つの自動装置に転化することによって、労働手段は・・・資本として、生きている労働力を支配し吸い尽くす死んでいる労働として、労働者に相対するのである。生産過程の精神的な諸力が手の労働から分離するということ、そしてこの諸力が労働に対する資本の権力に変わるということは、・・・機械の基礎の上に築かれた大工業において完成される。個人的な無内容にされた機械労働者の細部の技能などは、機械体系のなかに具体化されていてそれといっしょに「主人」の権力を形成している科学や巨大な自然力や社会的集団労働の前では、とるにも足りない小事として消えてしまう。」
「労働手段の一様な動きへの労働者の技術的従属と、男女の両性および非常にさまざまな年齢層の個人から成っている労働体の独特な構成とは、一つの兵営的な規律をつくりだすのであって、この規律は、完全な工場体制に仕上げられて、・・・監督労働を、したがって同時に筋肉労働者と労働監督者とへの、・・・労働者の分割を十分に発展させるのである。」
「工場法典は、ただ大規模な協業や共同的労働手段ことに機械の使用につれて必要になってくる労働過程の社会的規制の資本主義的戯画でしかない。」
更にマルクスは「工場労働が行なわれる場合の物質的諸条件」すなわち労働環境の悪化を指摘している。以上、労働過程に機械が導入され工場体系が進行するとき、同時に価値増殖過程でもある資本主義的生産様式がどのように労働者を扱うかが、具体的事例を持って誰にもわかりやすく、述べられている。
第5節 労働者と機械との闘争
「機械が採用されてからはじめて労働者は労働手段そのものに、この資本の物質的存在様式に、挑戦するのである。」
マルクスは、17世紀から19世紀まで、発明された機械バントミューレに対する「労働者の反逆」を挙げている。
「機械をその資本主義的充用から区別し、従って攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験が必要だったのである」。
「機械としては労働手段はすぐに労働者自身の競争相手になる。」「資本主義的生産の全体制は、労働者が自分の労働力を商品として売るということを基礎にしている」が、「道具を取り扱うことが機械の役目にな」るので、「労働力の使用価値」がなくなり、「労働者は・・・売れなくなる。労働者階級のうちで、こうして機械経営のために余分な人口にされた部分・・・は、・・・労働市場に満ち溢れ、したがって労働力の価格をその価値よりも低くする。」「機械が一つの生産分野をだんだんととらえてゆく場合には、機械はそれを競争する労働者層のうちに慢性的な貧困を生みだす。この推移が急速な場合には、機械は大仕掛けに急性的に作用する。」
マルクスは、この例として、「イギリスの綿布手織工の没落」、及び「イギリスの綿業機械」が「東インド」に与えた「急激な作用」(1834-1835年)を挙げている。「およそ資本主義的生産様式は労働条件にも労働生産物にも労働者に対して独立化され疎外された姿を与えるのであるが、この姿はこうして機械によって完全な対立に発展するのである。それゆえ、機械とともにはじめて労働手段に対する労働者の凶暴な反逆が始まるのである。」
「労働手段が労働者を打ち殺すのである。この直接的な対立は、たしかに、新しく採用された機械が伝来の手工業経営やマニュファクチュア経営と競争するたびに最も明瞭に現れる。しかし、大工業そのもののなかでも、絶えず行なわれる機械の改良や自動的体系の発達は同じような作用をするのである。」
イギリスの線工業の発展は、黒人奴隷を使ったアメリカの綿花栽培に拍車をかけ、その結果、アメリカの南北戦争(1861年〜1865年)を呼び起こした。マルクスは、「アメリカの南北戦争のおかげでイギリスの線工業で行なわれた機械改良の総結果」と「それに対応する手労働の駆逐」を「イギリスの工場監督官」の証言と統計資料から裏付けている。
「機械は、いつでも賃金労働者を「過剰」にしようとしている優勢な競争者として作用するだけではない。・・・機械は、資本の専制に反抗する周期的な労働者の反逆、ストライキなどを打ち倒すための最も強力な武器になる。ガスケルによれば、蒸気機関は初めから「人力」の敵手だったのであり、これによって資本家は、ようやく始まりつつあった工場制度を危機におとしいれようとした労働者たちの高まる要求を粉砕することができたのである。」
マルクスは、このような労働者の反逆に対抗するために「採用された機械の諸改良」の表明を、蒸気ハンマーの発明者ネーズミスの証言やユアの著書から引用している。
第6節 機械によって駆逐される労働者に関する補償説
マルクスは、「多くのブルジョア経済学者」が主張していた「労働者を駆逐するすべての機械設備は、つねにそれと同時に、また必然的に、それと同数の労働者を働かせるのに十分な資本を遊離させる」という説を、壁紙工場を例にして、検討している。
機械の設備の採用によって、可変資本に充当していた資本部分を不変資本に転化させると、その分だけ、可変資本が充当していた労働力が要らなくなる。その際、遊離されたのは、「労働者の生活手段」である。「機械は、50人の労働者を遊離させ、したがって「自由に利用される」ようにするだけではなく、同時に彼らと1500ポンドの価値の生活手段との関連をなくし、こうしてこの生活手段を「遊離させる」」のである。機械に転化した1500ポンドという金額は、「解雇された50人の労働者が一年間に生産した壁紙のただ一部分だけを代表していただけで、彼らはこれを現物だけではなく貨幣形態で自分達の雇い主から賃金として受け取っていたのである。1500ポンドに転化された壁紙で彼らは同じ金額の生活手段を買った。だから、この生活手段は彼らにとって資本としてではなく商品として存在していたのであり、そして彼ら自身もこの商品にとって賃金労働者としてではなく買い手として存在していたのである。・・・だから、かの商品に対する需要が減ったのである。・・・もしこの需要の減少が他の方面からの需要の増加によって埋め合わされなければ、これらの商品の市場価格は下がる。これが、いくらか長く続き、いくらか広い範囲にわたれば、これらの商品の生産に従事している労働者たちの移動が起きる。・・・だから、かの弁護論者は、機械は労働者を生活手段から遊離させることによって同時にこの生活手段を労働者を充当するための資本に転化させるということを証明しているのではなく、それとは反対に、きわめつきの需要供給の法則を用いて、機械はただそれが採用される部門だけではなくそれが採用されない部門でも労働者を街頭に投げ出すということを証明しているのである。」
「機械によって駆逐される労働者は作業場から労働市場に投げ出されて、そこで、いつでも資本主義的搾取に利用されうる労働者の数を増加させる。」しかし、「一つの産業部門から投げ出された労働者はもちろん別のどの部門かで職を求めることはできる」が、「この哀れな連中は、分業のためにかたわになっていて、彼らの元の仕事の範囲から出ればほとんど値打ちがなくなるので、彼らがはいれるのは、ただわずかばかりの低級な、したがっていつでもあふれていて賃金の安い労働部門だけである。」
マルクスは、機械そのものとその資本主義的充用とを明確に区別し、それを矛盾として把握することの重要性を指摘する。「機械は、それ自体として見れば労働時間を短縮するが、資本主義的に充用されれば労働日を延長し、それ自体としては労働を軽くするが、資本主義的に充用されれば労働の強度を高くし、それ自体としては自然力に対する人間の勝利であるが、資本主義的に充用されれば人間を自然力によって抑圧し、それ自体としては生産者の富を増やすが、資本主義的に充用されれば生産者を貧民化する」。
「機械は、それが採用される労働部門では必然的に労働者を駆逐するが、それにもかかわらず、他の労働部門では雇用の増加を呼び起こすことがありうる。」
「機械によって生産される商品の総量が、それによって代わられる手工業製品またはマニュファクチュア製品の総量と同じならば、充用される労働の総量は減少する。労働手段そのもの、すなわち機械や石炭などの生産のために労働の増加が必要になるかもしれないが、それは、機械の充用によって引き起こされる労働の減少よりも小さくなければならない。・・・ところが、減少した労働者数によって生産される機械製品の総量は、駆逐される手工業製品の総量と同じままではなく、実際にはそれよりもずっと大きくなるのである。」いずれにしても、機械生産によって、他の部門での雇用の増加を起こしたとしても、労働の総量は減少するわけである。
「こうして、ある一つの産業部門での機械経営の拡張にともなって、まず、第一に、この部門へ生産手段を供給する他の諸部門での生産が増大する。そのために従業労働者数がどれほど増加するかは、労働日の長さと労働の強度とを与えられたものとすれば、充用される諸資本の構成によって、すなわちそれらの不変成分と可変成分との割合によって、定まる。この割合はまた、かの諸部門そのものを機械がすでにとらえている程度、またはとらえつつある程度によって、さまざまに違ってくる。」「一つの新しい種類の労働者が機械といっしょにこの世に出てくる。すなわち機械の生産者である。・・・機械経営はこの生産部門そのものをもますます大規模に取り入れていく。さらに、原料について言えば、たとえば、綿紡績業のあらしのような突進が合衆国の綿花栽培を、またそれとともにアフリカの奴隷貿易を温室的に助成しただけではなく、同時に黒人飼育をいわゆる境界奴隷制諸州の主要な事業にしたということは、少しも疑う余地はない。」
「ある一つの労働対象がその最終形態に達するまでに通らなければならない前段階または中間段階を機械がとらえるならば、次にこの機械製品がはいってゆくまだ手工業的またはマニュファクチュア的に経営されている作業場では、労働材料といっしょに労働需要もふえてくる。」例として、イギリスの機械紡績業を挙げている。
「機械経営が相対的にわずかな労働者によって供給する原料や半製品や労働用具などの量の増加に対応して、これらの原料や半製品の加工は無数の亜種に分かれていき、従って社会的生産部門はまずます多種多様になる。機械経営はマニュファクチュアとは比べものにならないほど社会的分業を推進する。なぜならば、機械経営はそれがとらえた産業の生産力を比べものにならないほど高度に増進するからである。」この短い文の中にも、生産力の量的増大がその質を変化させ、社会的分業という新たな矛盾を発生させ、それらの矛盾した側面を相互浸透させるという弁証法の展開を見て取ることができる。
「機械のもたらす直接に結果は、剰余価値を増加させると同時にそれを表す生産物量をも増加させ、したがって、資本家階級とその付属物とを養ってゆく物資といっしょにこれらの社会層そのものを増大させるということである。彼らの富の増大と、第一次的生産手段の生産に必要な労働者数の不断の相対的減少とは、新しい奢侈欲望を生むと同時にその充足の新たな手段を生み出す。社会的生産物のいっそう大きな部分が剰余生産物に転化し、剰余生産物のいっそう大きな部分が洗練され多様にされた形で再生産され消費される。言いかえれば、奢侈品生産が増大する。生産物の洗練や多様化は、また大工業によってつくりだされる新たな世界市場関係からも生ずる。・・・この世界市場的関係にともなって、運輸業での労働需要が大きくなり、運輸業も多数の新しい亜種に分かれる。」
資本主義的生産様式の発展につれて、資本家階級も再生産され、世界市場が拡大し、その相互浸透を促す交通手段と交通分業そのもの生み出され発展する。
「労働者数の相対的減少につれての生産手段や生活手段の増加は、その生産物が運河やドックやトンネルや橋などのように遠い将来にはじめて実を結ぶような産業部門での労働の拡張を引き起こす。直接に機械を基礎として、またはそれに対応する一般的な産業変革を基礎として、まったく新たな生産部門が、従ってまた新たな労働分野が形成される。・・・これらの分野の従業労働者の数は、最も粗雑な手の労働の必要が再生産されるのに比例して増加する。この種の主要産業と見ることのできるものは、現在では、ガス製造業、電信行、写真業、基線航海行、鉄道業である。」
「最後に、大工業の諸部門で異常に高められた生産力は、・・・労働者階級のまずます大きい部分を不生産的に使用することを可能にし、従ってまたことに昔の家内奴隷を召使とか下女とか従僕とかいうような「僕脾階級」という名でますます大量に再生産することを可能にする。」
マルクスは、1861年の人口調査から、イングランド及びウェールズの総人口2千万人の約40%、800万人が資本家を含む「生産的」可能人口であり、そのうち約15%、120万人が「僕脾階級」であるとしている。ここでマルクスが導きだしている議論は、現在の資本主義的生産様式を目の前にするとき、いろいろな示唆を与えてくれるように思われる。
第7節 機械経営の発展に伴う労働者の輩出と吸収 綿業不況
「一定の発展度に達すれば、工場諸部門の異常な拡張は、充用労働者数の単に相対的な減少だけでなく絶対的な減少とも結びついていることがありうる。」
その例として、1860年から1865年の間に、ランカシャとチェシャとヨークシャとの工場地区において、蒸気織機、紡錘、蒸気機関、水車の馬力は増加したのに、従業員は減少したことを挙げている。
「経験的に与えられているいくつかの事例では、従業工場労働者の増加はしばしばただ外観的でしかない。すなわち、すでに機械経営の上に立っている工場の拡張によるのではなく、付随的な諸部門をだんだん合併して行った結果である。」
「とはいえ、だれにもわかるように、機械経営によって多数の労働者が実際に駆逐され可能的に代替されるにもかかわらず、同種工場数の増加または既存工場の規模の拡大に表現される機械経営そのものの成長につれて、結局は工場労働者も、彼らによって駆逐されたマニュファクチュア労働者や手工業者よりも多数になることがありうるのである。」「だから、従業労働者数の相対的減少はその絶対的増加と両立するのである。」
「ある産業部門で機械経営が伝来の手工業やマニュファクチュアを犠牲として拡張されるあいだは、その成功が確実・・・機械が最初にその勢力圏を征服するこの第一期は、・・・異常な利潤のために決定的に重要である。この利潤はそれ自体として加速的蓄積の一つの源泉になるだけではなく、絶えず新たに形成されて新たな投下を求める社会的追加資本の大きな部分をこの恵まれた生産部門に引き入れる。最初の疾風怒濤時代の特別な利益は、機械が採用される生産部門で絶えず繰り返し現れる。しかしまた、工場制度がある範囲まで普及して一定の成熟度に達すれば、ことに工場制度自身の技術的基礎である機械がそれ自身機械によって生産されるようになれば、また石炭と鉄の生産や金属の加工や運輸が革命されて一般に大工業に適合した一般的生産条件が確立されれば、そのときこの経営様式は一つの弾力性、一つの突発的飛躍的な拡大能力を獲得するのであって、この拡大能力はただ原料と販売市場とにしかその制限を 見出さないのである。」これは、機械経営によって資本主義的生産様式の量がある程度まで発展すれば、その質を変えるということであり、生産部門の機械による革命が、流通部門への浸透を始めるのである。「機械は一方では原料の直接的増加を引き起こす。例えば繰綿機が綿花生産を増加させたように。他方では・・・外国市場の手工業生産物を破滅させることによって、機械経営は外国市場を強制的に自分の原料の生産場面に変えてしまう。」この例を、東インドからイギリスへの綿花や羊毛の輸出の急増として挙げている。「大工業の諸国での労働者の不断の「過剰化」は、促成的な国外移住と諸外国の植民地化とを促進し、このような外国は、たとえばオーストラリアが羊毛の生産地になったように、母国のための原料生産地に転化する。機械経営の主要所在地に対する新たな国際的分業がつくりだされて、それは地球の一部分を、工業を主とする生産場面としての他の部分のために、農業を主とする生産場面に変えてしまう。」マルクスは、南北戦争が終わったばかりのその当時のアメリカをイギリスの植民地として位置づけ、アメリカからイギリスへの綿花や穀類の輸出の増加、イギリスの穀類の輸入超過の増大を例証している。
「工場制度の巨大な突発的な拡張可能性と、その世界市場への依存性とは、必然的に、熱病的な生産とそれに続く市場の過充とを生み出し、市場が収縮すれば麻痺状態が現れる。産業の生活は、中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化する。」資本主義的生産と流通の相互浸透の結果である。「機械経営が労働者の就業に、したがってまた生活状態に与える不確実性を不安定は、このような産業循環の諸時期の移り変わりに伴う正常事となる。・・・どの循環でも、労賃をむりやりに労働者の価値よりも低く押し下げることによって商品を安くしようとする努力がなされる一時点が必ず現れる。」
「このように、工場労働者数の増大は、工場に投ぜられる総資本がそれよりもずっと速い割合で増大することを条件とする。しかし、この過程は産業循環の干潮期と満潮期との交替のなかでしか実現されない。しかも、それは、ときには可能的に労働者の代わりをしときには実際に労働者を駆逐する技術的進歩によって、絶えず中断される。機械経営におけるこの質的変化は、絶えず労働者を工場から遠ざけ、あるいは新兵の流入にたいして工場の門戸を閉ざすのであるが、他方、諸工場の単に量的な拡張は、投げ出された労働者のほかに新しい補充兵をも飲み込むのである。」
このような、産業循環の好況・不況によって振り回される「工場労働者の運命」について、イギリスの綿工業の歴史を挙げて、記述している。特に、アメリカの南北戦争によって一時的に途絶えた綿花の輸入による不況「綿花飢餓」と代替する綿花の質の悪化で、労働者の賃金が低下したばかりか、労働者の労働環境も悪化した事例を示している。
第8節 大工場によるマニュファクチュア、手工場、家内労働の変革
a 手工業と分業に基づく協業の破棄
資本主義的生産様式以前の歴史が、農業からの手工業の分離を準備した。資本主義的生産様式の最初の形態であるマニュファクチュアは、独立手工業を分業に基づく協業の形態に変えた。機械経営の工場は、手工業そのものを道具機(作業機)に担わせることによって廃止し、協業の一般性を保存しながら、労働の特殊性を一様にする。資本主義的生産様式は、機械経営によってその本質を全面的に開花させることができる。そこで、それ以前の生産様式は、その役割を終え、歴史の舞台から退場する運命にあるといえる。
「機械は手工業にもとづく協業を廃止し、また手工業的労働の分業にもとづくマニュファクチュアを廃棄する。」「単一の作業機が・・・また手工業的経営の基礎になることができる。しかし、このように機械を基礎として手工業経営が再生産されるということは、ただ工場経営への過渡をなすだけであって、蒸気や水のような機械的動力が人間の筋肉に代わって機械を動かすようになりさえすれば、いつでも工場経営が現れるのが通例である。」
b マニュファクチュアと家内労働とへの工場制度の反作用
「工場制度の発展につれて、またそれに伴う農業の変革につれて、すべての他の産業部門でも生産規模が拡大されるだけでなく、それらの部門の性格も変わってくる。生産過程をそのいろいろな構成段階に分解し、そこに生ずる諸問題を力学や化学など、要するに自然科学の応用によって解決するという機械経営の原理は、どこでも決定的になってくる。」一つの産業部門で機械経営の工場制度が導入されると、他の産業部門にも浸透し、捕えた部門を変革していく。「マニュファクチュア時代とは反対に、いまや分業の計画は、婦人労働やあらゆる年齢層の子供の労働や不熟練工の労働、要するにイギリス人がその特徴をとらえて「安い労働」と呼んでいる労働の充用をできるかぎりするようになる。このことは、いわゆる家内工業にも・・・あてはまる。・・・家内工業は今では工場やマニュファクチュアや問屋の外業部に変わっている。・・・資本は、大都市の中や郊外に散在する家内労働者の別軍をも、目に見えない糸で動かすのである。」
「安価で未熟な労働力の搾取は、近代的マニュファクチュアでは、本来の工場で行なわれるよりももっと露骨になる。」「この搾取はまた、いわゆる家内労働では、マニュファクチュアで行なわれるよりももっと露骨になる。」「機械経営によってはじめて体系的に完成される生産手段の節約は、はじめから、同時に冷酷きわまる労働力の乱費なのであり、労働機能の正常な諸前提の強奪なのであるが、それが今では、一つの産業部門の中で労働の社会的生産力や結合労働過程の技術的基礎の発展が不十分であればあるほど、このような敵対的な殺人的な面をますます多くさらけ出すのである。」
c 近代的マニュファクチュア
ここでは、「前述の原則をいくつかの例によって説明」している。バーミンガムの金属マニュファクチュアの多数の子供や女の重労働、ロンドンの新聞・書籍印刷工場・製本工場での過度労働、などなど。特に、多数の女のぼろの選別労働。これは、極端な不健康な労働環境で、過度労働の低賃金である。また、同様な労働は、瓦・煉瓦製造での児童の過重労働。その結果引き起こされる、精神的退廃。
「近代的マニュファクチュア(これはここでは本来の工場以外のすべての大規模な作業場を意味する)における労働条件の資本主義的節約については、・・・ことにロンドンの印刷業者や裁縫業者の作業場」における衛生状態の悪さを、「公衆衛生報告書」から死亡率を引用しながら、農業と比較している。
d 近代的家内労働
「大工業の背後に作り上げられた資本の搾取部面と、その奇怪な状態」として、「レース製造業と麦わら細工業とのうちの、まだ全然機械経営になっていない部門かまたは機械経営やマニュファクチュア経営と競争していない部門」の例を挙げている。家内労働であるレースの仕上げ(機械で製造されたレースの最後の仕上げ)では、女や少女や小さな子供の不衛生な労働環境での過重労働が見られる。レース編み業においても、同様である。さらに、麦わら編み業でも、子供の不健康な過重労働が、精神的な荒廃を招いている。
e 近代的マニュファクチュアと近代的家内労働との大工業への移行 これらの経営様式への工場法の適用によるこの革命の推進
「女性や未成年者の労働力の単なる乱用、いっさいの正常な労働条件と生活条件との単なる強奪、過重労働と夜間労働との単なる残虐、このようなことによって労働力を安くすることは、結局は、もはや越えられない一定の自然的限界にぶつかり、またそれとともに、このような基礎の上に立つ商品の低廉化も資本主義的搾取一般も同じ限界にぶつかる。ついにこの点にきてしまえば、といってもそれまでには長くかかるのであるが、機械の採用の時が告げられ、また、分散していた家内労働(あるいはまたマニュファクチュア)の工場経営への急速な転化の時が告げられる。」
「この運動の最大の実例を提供するものは「衣料品」の生産である。・・・この産業に包括されるものは、麦わら帽・婦人帽製造業者、縁なし帽製造業者、裁縫業者、ミリナーおよびドレスメーカー、シャツ製造業者およびシャツ縫い婦、コルセット製造業者、手袋製造業者、靴製造業者、その他ネクタイやカラーなどの製造のような多くの小部門である。」これは、いままでは、マニュファクチュア、「マニュファクチュアや問屋のため」の「比較的小さな手工業親方」、同じくマニュファクチュアや問屋や親方の外業部の「家内工業」によって営まれていた。
「決定的に革命的な機械、すなわち、婦人服製造、裁縫、靴製造、縫い物、帽子製造、等々のような生産部門のすべてを一様にとらえる機械、それはミシンである。」
「新たなミシン労働者は、もっぱら少女と若い女である。」ここでも、ミシン彼女らの低賃金と不健康な労働環境が見られる。「今日イギリスで実際に広まっているのは、資本家がかなりたくさんのミシンを自分の建物の中に集中し、そのミシンの生産物を家内労働者軍のあいだに分配してそれからあとの加工をさせるという制度である。」「ミシンに投ぜられる資本量はますます増大して、生産を刺激し、市場の停滞を引き起こすのであるが、この停滞は、家内労働者にミシンを売る払わせる合図の鐘になる。」「最後に、蒸気機関が人間に取って代わって、それが、すべて同様な変革過程でそうであるように、ここでも決着をつける。」
「この自然発生的に起きる産業革命は、婦人や少年や児童を使用するすべての産業への工場法の拡張によって、人為的に促進される。」「マニュファクチュアと家内労働とのあいだのいろいろな中間形態や家内労働そのものについて言えば、それらの地盤は、労働日や児童労働の制限が現れれば陥没してしまのである。」
「工場経営の主要条件は、ことにそれが労働日の規制を受けることになってからは、結果の正常な確実性、すなわち与えられた時間内に一定量の商品または所期の有効効果を生産うることである。さらにまた、規制された労働日の法定の中休みは、生産過程にある製品をいためないで作業を突然休んだり周期的に休んだりすることを含んでいる。」「このような結果の確実性や作業の中断可能性」は、工場法規制前は資本家からは不可能との声が上がるが、規制後は機械の改良によってそれが達成される例を、製陶業、マッチ製造業、レース製造業について示している。「このようにして工場法がマニュファクチュア経営から工場経営への転化に必要な物質的諸要素を温室的に成熟させるとすれば、それはまた同時に、資本投下の増大に必要によって、小親方の没落と資本の集積とを促進するのである。」
「純粋に技術的な障害や技術的に排除の可能な障害は別としても、労働日の規制は労働者たち自身の不規則な習慣にぶつかる。ことに出来高賃金がおもになっていて、一日または一週のある部分での時間の空費をその後の過度労働や夜間労働で埋め合わせることができる場合である・・・。このような労働力の支出上の不規則は、・・・それとは比べものにならない大きな度合いで生産そのものの無政府性から生ずるのであり、この無政府性はまた資本による労働者の無拘束な搾取を前提するのである。」
いわゆる「シーズン」という突発的な「短期間に仕上げなければならない大口注文」があり、このような「「営業慣習」も、関係資本家たちによって生産の「自然制限」だと主張された・・・とはいえ、経験は彼らのうそをとがめた。それ以来、すべて「営業上の障害」と呼ばれるものは、イギリスの工場監督官たちからは無意味なごまかしとして取り扱われる。」 以上、マルクスは、具体例を挙げながら、工場経営の法則をわかりやすく示している。
第9節 工場立法(保健・教育条項) イギリスにおけるその一般化
「工場立法、この、社会がその生産過程の自然発生的な姿に加えた最初の意識的な計画的な反作用、それは、すでに見たように、綿糸や自動機や電信と同様に、大工業の一つの必然的な産物である。」
ここでは、労働日以外の保護条項について、取り上げている。現在の私達にとってはすでに常識となっている労働者の諸権利を守る法律ではあるが、当時のイギリスでは、「保健条項」「教育条項」などがそれぞれの法律として独立しておらず、未分化のままで現れる。この初期の段階である工場法がどのようなものであったかを知ることは、資本主義の本質を知る上でも、また、国家の役割を知る意味でも、大いに意味がある。マルクスの論理的展開が、歴史的にどのように現れてきたか、現代において、彼の推論が正しかったがどうかを判断するのは、私達の役目であろう。
「保健条項は、・・・まったく貧弱なもので、実際には、壁を白くすることやその他のいくつかの清潔維持法や換気や危険な機械に対する保護などに関する規定に限られている。」ここでは、アイルランドで発展していた亜麻工業によりスカッチングミルが増加したが、その機械による労働災害で少年や女が重傷を負う事件が多発したことを取り上げている。
「資本主義的生産様式に対しては最も簡単な清潔保健設備でさえも国家の側からの強制法によって押し付けられなければならないということ、これほどよくこの生産様式を特徴づけうるものがあろうか?」
1864年の工場法が、製陶業において、換気装置の設置を促したことを取り上げ、しかし、「イギリスの医師たちは、一様に、継続的な作業の場合には一人当たり500立方フィートの空間」が必要と言っているが、「保健関係当局も、もろもろの産業調査委員会も、工場監督官も、500立法フィートの必要を、そしてそれを資本に強制することの不可能を、いくたびとなく繰り返す。」「工場法のこの部分は、資本主義的生産様式はその本質上ある一定の点を越えてはどんな合理的な改良も許さないものだということを、的確に示している。」
「工場法の教育条項は全体としては貧弱に見えるとはいえ、それは初等教育を労働の強制条件として宣言した。その成果は、教育および体育を筋肉労働と結びつけることの、したがってまた筋肉労働を教育および体育と結びつけることの可能性をはじめて実証した。」マルクスは、ここに「未来の教育の萌芽」を見ている。「この教育は、一定の年齢から上のすべての子供のために生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法でもあるのである。」
「すでに見たように、大工業は、一つの人間の全身を一生涯一つの細部作業に縛り付けるマニュファクチュア的分業を技術的に廃棄するのであるが、それと同時に、大工業の資本主義的形態はそのような分業をさらにいっそう奇怪なかたちで再生産するのであって・・・。マニュファクチュア的分業と大工業の本質との矛盾は、暴力的にその力を現わす。この矛盾は、なかんずく、現代の工場やマニュファクチュアで働かされる子供達の一大部分が、非常に幼少の時から最も簡単な作業に固く縛り付けられ、何年も搾取されていながら、後年彼らを同じマニュファクチュアや工場で役に立つものにするだけの作業さえも習得できない、という恐ろしい事実に現れる。」
「大工業の原理、すなわち、それぞれの生産過程を、それ自体として、さしあたり人間の手のことは少しも顧慮しないで、その構成要素に分解するという原理は、技術学というまったく近代的な科学をつくりだした。社会的生産過程の種々雑多な外観上は無関係な骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された。」「機械や化学的工程やその他の方法によって、近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってまた、それは社会の中での分業をも絶えず変革し、大量の資本と労働者の大群とを一つの生産部門から他の生産部門へと絶え間なく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本性は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を必然的にする。」「しかし、今や労働の転換が、ただ圧倒的な自然法則としてのみ、また、至る所で障害にぶつかる自然法則の盲目的な破壊作用を伴ってのみ、実現されるとすれば、大工業は、いろいろな労働の転換、したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常な実現に諸関係を適合させることを、大工業の破局そのものをつうじて、生死の問題にする。大工業は、変転する資本の搾取欲求のために予備として保有され自由に利用されるみじめな労働者人口という奇怪事の代わりに、変転する労働要求のための人間の絶対的な利用可能性をもってくることを、・・・いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式としてかわるがわる行なうような全面的に発達した個人をもってくることを、一つの生死の問題にする。大工業を基礎として自然発生的に発達してこの変革過程の一つの要因となるものは、工学および農学の学校であり、もう一つの要因は「職業学校」であって、この学校では労働者の子供が技術学やいろいろな生産用具の実際の取扱いについてある程度の教育を受ける。工業立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、ただ初等教育を工場労働と結びつけるだけだとしても、少しも疑う余地のないことは、労働者階級による不可避的な政権獲得は理論的および実際的な技術教育のためにも労働者学校のなかにその席を取ってやるであろうということである。」
マルクスは、近代工業の発展が、工場法の教育条項の展開を促し、いずれ技術学・工学を教育する専門学校において労働者教育が行なわれるだろうと予言している。
これは、労働する子供に対する親権に関しても、同様である。
「事実の力は、ついに、大工業は古い家族制度とそれに対応する家族労働との経済的基礎とともに古い家族関係そのものをも崩壊させるということを、いやおうなしに認めさせた。子供の権利が宣言されざるを得なくなった。」「とはいえ、親の権力の乱用が資本による未熟な労働力の直接間接の搾取をつくりだしたのではなく、むしろ逆に、資本主義的搾取様式が親の権力を、それに対応する経済的基礎を廃棄することによって、一つの乱用にしてきたのである。」
「工場法を、機械経営の最初の姿である紡績業と織物業とのための例外法から、すべての社会的生産の法律に一般化する必要は、・・・大工業の歴史的発展工程から生ずる。」
手工業はマニュファクチュアに変わり、マニュファクチュアは工場に変わると同時に、手工業や家内労働は「苦難の洞穴」に変わっていく。「そこで、二つの事情が最後の決着をつける。」「資本は社会的周辺の個々の点だけで国家統制を受けるようになると他の点でますます無節制に埋め合わせをつけるという絶えず繰り返される経験」と資本家自身が「労働搾取の制限の平等を求める」という例として、二人の業者の意見を記している。
また、「指導労働調査委員会」の「1,400,000人以上の子供と少年と婦人を工場法のもとに置くこと」の提案を紹介している。
1867年工場法拡張法(従業員50人以上の全作業場)、作業場規制法、労働時間規制法(小さい作業場と家内労働)、議会通過。しかし、それを規制する工場監督官は増えなかったという。「この1867年のイギリスの立法で目に付くことは、一面では、資本主義的搾取の行き過ぎにたいしてあのように異常な広範な処置を原則的に採用する必要が支配階級の議会に強制されたということであり、他面では、次いで現実にこの処置を行うに当たって議会が示した不徹底、不本意、不誠実な態度である。」
さらに、鉱山業とそれを規制する1842年の鉱山法、1860年の鉱山監督法、1872年の法律を取り上げ、少年の過酷な重労働、子供の教育義務の無視、同様な状態の婦人労働、悲惨な労働災害、不当な支払い、鉱山監督の不十分さなどについての鉱山労働者による証言を引用する。
「とにかく、1872年の法律は、欠陥だらけのものではあっても、鉱山で従事する児童の労働時間を規制し、また採掘業者と鉱山所有者とにある程度までいわゆる災害の責任を負わせる最初の法律である。」 「労働者階級の肉体的精神的保護手段として工場立法の一般化が不可避になってきたとすれば、それはまた他方では、すでに示唆したように、矮小規模の分散的労働過程から大きな社会的規模の結合された労働過程への転化を、したがって資本の集積を工場制度の単独支配とを、一般化し促進する。」
エンゲルスは、注において、「1878年の工場および作業場法において、関係立法全体の単一法典化ができあがった。」と追加している。
ここで、近代工業と比較する意味で、「古典的共同体と封建的生産様式の経済的基礎」である「小農民経営と独立手工業経営」について、確認しておくのは意義のあることであろう。
「古い型の家内工業・・・は、独立な都市手工業と独立な農民経営、そしてなによりも労働者家族の家を前提とするものである。」
「手工業やマニュファクチュアが社会的生産の一般的な基礎になっているあいだは、一つの専門的な生産部門への生産者の包摂、彼の仕事の元来の多様性の分裂は、一つの必然的な発展契機である。この基礎の上では、それぞれの特殊生産部門は自分に適した技術的姿態を経験的に発見し、だんだんそれを完成してゆき、一定の成熟度に達すれば急速にそれを結晶させる。・・・ひとたび経験的に適当な形態が得られれば労働用具もまた骨化することは、それがしばしば千年にもわたって世代から世代へと伝えられて行くことが示しているとおりである。」
第10節 大工業と農業
マルクスは、農業も大工業と相互浸透し、同じような発展形態をたどると論理的に予測する。
「農業での機械の使用は、それが工場労働者に与えるような肉体的な損害をもたらすおそれはほとんどないが、・・・それは農業では労働者の「過剰化」にいっそう強く作用し、また反撃を受けることなく作用する。」「農業の部面では、大工業は、古い社会の堡塁である「農民」を滅ぼして賃金労働者をそれに替えるかぎりで、最も革命的に作用する。こうして、農村の社会的変革と社会的諸対立は都市のそれと同等にされる。・・・科学の意識的な技術的応用が現れる。」「農業でも、製造工業の場合と同様に、生産過程の資本主義的変革は同時に生産者達の殉難史として現れ、労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、貧困化手段として現れ、労働過程の社会的な結合は労働者の個人的な活気や自由や独立の組織的圧迫として現れる。」 
 
第14章 絶対的および相対的剰余価値

 

「労働過程が純粋に個人的な過程であるかぎり、のちには分離してゆく諸機能のすべてを同じ一人の労働者が一身に兼ねている。・・・およそ生産物は、個人的生産者の直接的生産物から一つの社会的生産物に、一人の全体労働者の共同生産物に、すなわち労働対象の取扱いに直接または間接に携わる諸成員が一つに結合された労働要員の共同生産物に、転化する。・・・前に述べた生産的労働の本源的な規定は、物質的生産の性質そのものから導き出されたもので、全体として見た全体労働者については相変わらず真実である。しかし、個別に見たその各成員には、それはもはやあてはまらないのである。」
「ところが、他方では、生産的労働の概念は狭くなる。・・・生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者だけである。」
ここまでの論理的展開が、生産的労働と生産的労働者の概念を拡張した。
絶対的剰余価値と相対的剰余価値の矛盾を発見したことは、マルクスのすばらしい業績の一つである。これは資本主義の歴史的発展の秘密・意義を、明らかにしたものだからである。それは、資本主義的生産様式が社会の隅々まで支配している現代社会が、それ以前の歴史的な社会と決定的に異なる点でもある。第4章で論じたように、貨幣からはじまる否定の否定の運動は、剰余価値の増殖が存在して始めて実質的に成立する運動である。そのためには、貨幣の否定により転化する商品は、労働力商品という、生きている労働と価値の矛盾を背負った特殊な商品でなければならなかった。この貨幣と労働力商品との否定の否定の運動が、単なる貨幣の世界と区別された資本の世界を開くのである。そのための資本の世界の実体論・構造論の論理的出発点が、剰余価値の構造化でもある絶対的及び相対的剰余価値の矛盾なのである。
絶対的剰余価値と相対的剰余価値は、相互規定の関係にある。
「労働者がただ自分の労働力の価値の等価だけを生産した点を超えて労働日が延長されること、そしてこの剰余価値が資本によって取得されること―これは絶対的剰余価値の生産である。それは、資本主義体制の一般的な基礎をなしており、また、相対的剰余価値の生産の出発点をなしている。」相対的剰余価値は、絶対的剰余価値が元となっており、それから導かれるという媒介関係にある。しかし、両者は、異なっており、相対的に独立した関係にある。「この相対的剰余価値の生産では、労働日ははじめから二つの部分に分かれている。すなわち必要労働と剰余労働に。剰余労働を延長するためには、労賃の等価をいっそう短時間に生産する諸方法によって、必要労働が短縮される。」
「絶対的剰余価値の生産はただ労働日の長さだけを問題にする。相対的剰余価値の生産は労働の技術的諸過程と社会的諸編成とを徹底的に変革する。」これが両者の違いである。
「だから、相対的剰余価値の生産は、一つの独自な資本主義的生産様式を前提するのであって、・・・最初はまず資本の下への労働の形式的従属を基礎として自然発生的に発生して育成されるのである。この形式的従属に代わって、資本の下への労働の実質的従属が現れるのである。」形式的従属というのが、絶対的剰余労働の形式に相当し、実質的従属というのが、相対的剰余労働の形式に相当する。
「絶対的剰余価値の生産のためには、資本のもとへの労働の単に形式的な従属だけで十分で、・・・他面では、相対的剰余価値の生産のための諸方法は同時にまた絶対的剰余価値の生産のための諸方法でもあるということが示された。じつに、労働日の無制限の延長こそは、大工業の最も固有な産物だということが示されたのである。」つまり、相対的剰余価値は、絶対的剰余価値と同一の側面を持っているということである。「一般に、独自な資本主義的生産様式は、それが一つの生産部門全体を征服してしまえば、ましてすべての決定的な生産部門全体を征服してしまえば、もはや相対的剰余価値生産の単なる手段ではなくなる。それは今や生産過程の一般的な、社会的に支配的な形態となる。それが相対的剰余価値生産のための特殊な方法として作用するのは、第一には、・・・その普及にさいしてだけのことである。第二には、・・・引き続き生産方法の変化によって変革されるかぎりでのことである。」ここに相対的剰余価値生産の特殊性が端的に指摘されている。
「ある観点からは、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との区別はおよそ幻想的に見える。相対的剰余価値も絶対的である。なぜならば、それは、労働者自身の生存に必要な労働時間を越えての労働日の絶対的延長を条件としているからである。絶対的剰余価値も相対的である。なぜならば、それは、必要労働時間を労働日の一部分に制限することを可能にするだけの労働の生産性の発展を条件としているからである。」すなわち、両者は、直接的に同一の関係にある。絶対的剰余価値と相対的剰余価値という、相異なる両者が媒介関係にあり、なおかつ、相互に直接的に同一の関係にあるとき、論理的に相互浸透の構造が成立する。「しかし、剰余価値の運動に注目するならば、このような外観上の無差別は消え去ってしまう。資本主義的生産様式がすでに確立されて一般的な生産様式になってしまえば、およそ剰余価値率を高くすることが問題となる限り、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との相違はつねに感知されざるをえない。」二つの剰余価値の相互規定の構造は、次のような剰余価値率との関係に反映する。
「労働力が価値どおりに支払われることを前提すれば、われわれは次の二つのどちらかを選ばなければならない。労働の生産力とその正常な強度とが与えられていれば、剰余価値率はただ労働日の絶対的延長によってのみ高められうる。他方、労働日の限界が与えられていれば、剰余価値率は、ただ必要労働と剰余労働という労働日の二つの構成部分の大きさの相対的な変動によってのみ高められ、この変動はまた、・・・労働の生産性かまたは強度の変動を前提する。」この相互の具体的な依存関係が、次の節で論じられる。
マルクスはここで、「必要労働時間を労働日の一部分に制限することを可能にするだけの労働の生産性の発展」における剰余労働と労働の生産性、「労働の自然発生的な生産性」について、議論している。絶対的及び相対的剰余価値の研究は、それ以前の社会の剰余労働の理解に、重要な視点を提供する。「文化の初期」は、すべてが未分化の状態として、また、「自然的条件」は、外部的要因として把握し得るが、「自然的基礎」は、いわば相対的剰余労働の側面を通じて、剰余労働に影響するということである。
「文化の初期には、労働の既得の生産力は小さなものであるが、欲望もまた小さいのであって、欲望はその充足手段とともに、またこの手段によって、発達するのである。さらに、このような初期には、他人の労働によって生活する社会的部分の割合は、大勢の直接生産者に比べれば目に入らないほど小さい。」
「労働の生産性はつねに自然的条件に結び付けられている。これらの自然的条件は、すべて、人種などのような人間そのものの自然と、人間を取り巻く自然とに還元されうるものである。外的な自然条件は経済的には二つの大きな部類に分かれる。生活手段としての自然の富・・・と、労働手段としての自然の富・・・とに分かれる。文化の初期には第一の種類の自然の富が決定的であり、もっと高い発展段階では第二の種類の富が決定的である。」
「どうしても充足されなければならない自然的欲望の数が少なければ少ないほど、そして自然的な土地の豊かさや気候の恩恵が大きければ大きいほど、生産者の維持と再生産とに必要な労働時間はそれだけ少ない。」例えば、古代エジプトがその例であるとして、「とはいえ、古代エジプトの大建造物は、その人口の大きさによるよりも、むしろ、人口のうち自由に利用されうる部分の割合が大きかったことによって、できたものである。」
「すでに資本主義的生産が前提されていれば、他の事情が不変で労働日の長さが与えられている場合には、剰余労働の大きさは、労働の自然的条件につれて、ことにまた土地の豊度につれて、違ってくるであろう。しかし、決して、その逆に最も豊穣な土地が資本主義的生産様式の成長に最も適した土地だということにはならない。・・・むしろ温帯こそは、資本の母国である。・・・土地の分化、土地の天然産物の多様性こそ、社会的分業の自然的基礎をなすものであり、人間を取り巻く自然環境の変化によって人間を刺激して人間自身の欲望や能力や労働手段や労働様式を多様化させるものである。」
「恵まれた自然的条件は、つねに、ただ、剰余労働したがってまた剰余価値または剰余生産物の可能性を与えるだけで、けっしてその現実性を与えるのではない。労働の自然条件の相違は、・・・その他の事情が同様ならば、必要労働時間が違うことの原因となる。自然的条件が剰余労働に作用するのは、ただ、自然的限界として、すなわち、他人のための労働を始めることができる時点を定めることによって、である。産業が進歩してくるにつれて、この自然的限界は後退していく。」
「労働の歴史的に発達した社会的な生産諸力がそうであるように、労働の自然によって制約された生産諸力も、労働が合体される資本の生産諸力として現れる。」
この後に、マルクスは、ブルジョア経済学者たちが、剰余価値を「自然的形態に見えた資本主義的生産様式に固有な一事象として取り扱っている」として、リカードを挙げ、労働の生産力が剰余価値の原因であることを認めた後継者たちも、その問題を解決していないとして、ジョン・スチュアート・ミルの混乱した議論を紹介している。 
 
第15章 労働力の価格と剰余価値との量的変動

 

絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産の要となるのは、労働力商品の特殊性である。労働力商品も特殊性はあっても商品であるからには、以前論じた商品の一般論が当てはまる。そこで、商品の価値と価格の矛盾の議論が、労働力商品にも妥当する。一方、労働力商品の一般性と特殊性の矛盾が、剰余価値にも反映する。
「労働力の価値は、平均労働者の習慣的に必要な生活手段の価値によって規定されている。」
「次のことを前提する。(1)商品はその価値どおりに売られるということ。(2)労働力の価格は、その価値よりも高くなることはあっても、その価値よりも低くなることはけっしてないということ。このように前提すれば、労働力の価格と剰余価値との相対的な大きさは次の三つの事情に制約されている・・・。(1)労働日の長さ、すなわち労働の外延量。(2)労働の正常な強度、すなわち労働の内包量。・・・(3)最後に労働の生産力。」
第1節 労働日の長さと労働の強度とが不変で(与えられていて)労働の生産力が可変である場合
この条件のもとでは、絶対的剰余価値は変動しないので、相対的剰余価値の変動のみを考えればよい。
「この前提のもとでは労働力の価値と剰余価値とは三つの法則によって規定されている。第一に、与えられた長さの一労働日は、・・・労働の生産性が・・・変動しようとも、つねに同じ価値生産物に表される。」
「第二に、労働力の価値と剰余価値とは互いに反対の方向に変動する。労働の生産力の変動・・は、労働力の価値には逆の方向に作用し、剰余価値には同じ方向に作用する。」
労働による増加した価値生産物=労働力商品の価値+剰余価値 であるから、「労働力の価値と剰余価値とは反対の方向に変動する」ので、労働の生産性が上がって労働力の価値が下がれば、その分だけ剰余価値が上がり、逆なら逆である。つまり、労働の生産力と相対的剰余価値は比例的に変動する。
「第三に、剰余価値の増加または減少は、つねに、それに対応する労働力の価値の低下または上昇の結果であって決してその原因ではない」。
「労働力の価値と剰余価値との絶対的な量的変動はそれらの相対的な大きさの変動なしには不可能だとすれば、今度は、労働力の価値と剰余価値との相対的な価値量の変動は労働力の絶対的な価値量の変動なしには不可能だということになるのである。」
「第3の法則によれば、剰余価値の量的変動は、労働の生産力の変動によって引き起こされる労働力の価値運動を前提する。しかし、・・・いろいろな中間運動が起こりうる。」価値と価格は矛盾しているから、労働の生産力が高くなったために、労働力の価値が減少しても、労働力の価格はそれほどまでには下がらないということも起こりうる。
「労働力の価値は一定量の生活手段の価値によって規定されている。労働の生産力につれて変動するのは、この生活手段の価値であって、その量ではない。この量そのものは、労働の生産力が高くなれば、労働力の価格と剰余価値とのあいだになんらかの量的変動がなくても、労働者にとっても資本家にとっても同じ割合で増大することがありうる。」
この後に、リカードの定式化を批判している個所があり、利潤率と剰余価値率の関係を指摘している。「利潤率は、前貸総資本にたいする剰余価値の比率であるが、剰余価値率はこの資本の可変部分に対する剰余価値の比率である。」
長期間に渡ってみて見ると、この法則の重要性が浮かび上がってくる。「労働者の抵抗」によって絶対的剰余価値が厳正に規定されていれば、剰余価値の生産は、専ら相対的剰余価値の生産に依存せざるを得ず、その際、労働の生産性の増大は、剰余価値の増大に寄与するからである。無論、労働力の価格が労働力の価値をどのように反映するかが問題ではあるが、労働日の長さが法的に規制され、更に労働手段の革新によって大量生産に至った現在から見て見ると、相対的剰余価値の生産の側面の重要性が理解される。
第2節 労働日と労働生産力とが不変で労働の強度が可変である場合
「労働の強度の増大は、同じ時間内の労働支出の増加を意味する。・・・生産物の数は、この場合には、生産物の価格が下がることなしに、増加する。・・・時間数が元のままならば、強度のより大きい労働日はより大きい価値生産物に具体化され、したがって、貨幣の価値が元のままならば、より多くの貨幣に具体化される。・・・労働力の価格と剰余価値とは、同じ程度にであろうと違った程度にであろうと、同時に増大し得るということは明らかである。」相対的剰余価値の生産の「制限は、ここにはない。」
「強度のより大きい一国の一労働日は、強度のより小さい他の国の一労働日に比べれば、より大きい貨幣表現に表される」。この法則は、思うに、「労働の平均強度が国によって違う」場合だけでなく、労働の強度を適切に測る手段があるかどうかを考えると、短期的には重要な意味を持ってくると考えられる。
第3節 労働の生産力と強度が不変で労働日が可変である場合
「(1)・・・労働日の短縮は、労働力の価値を・・・変化させない。それは剰余価値を減らす。」
「労働日の短縮に反対する従来のすべての決まり文句は、この現象はここで前提されているような事情のもとで起きるものと想定しているのであるが、現実にはこれとは反対に労働の生産性や強度の変動が労働日の短縮に先行するか、またはすぐあとに起きるのである。」
つまり、第1節と第2節の場合が、労働の短縮に前後して起きるというわけだ。
「(2)労働日の延長。・・・もし、労働日が・・延長され、労働力の価格が変わらないならば、剰余価値の絶対量とともにその相対量も増大する。労働力の価値量は、絶対的には変わっていないにもかかわらず、相対的には下がっている。第1節の諸条件の下では、労働力の相対的価値量は、その絶対量の変動なしには変動し得なかった。ここでは、それとは反対に、労働力の価値量の相対的な変動は、剰余価値の量の絶対的な変動の結果なのである。」
「労働力の価格と剰余価値とは、増加分が同じであるかないかは別として、同時に増大することもありうる・・・。・・・この同時的増大は二つの場合に可能なのである。すなわち、労働日が絶対的に延長される場合と、この延長がなくても労働の強度が増大する場合とである。」
「労働日の延長と不可分な労働力の消耗の増大は、ある点までは、代償の増加によって埋め合わせることができる。この点を超えれば、この消耗は幾何級数的に増大してゆき、それと同時に労働力のすべての正常な再生産条件と活動条件とは破壊される。労働力の価格と労働力の搾取度とは、互いに通約されうる量ではなくなる。」つまり、ある点で量質転化が起きて、過労死も起こりうるということである。
第4節 労働の持続と生産力と強度が同時に変動する場合
「この場合には明らかに多数の組み合わせが可能である。」
ここでは、重要な二つの場合を取り上げている。
「(1)労働の生産力が低下して同時に労働日が延長される場合。」 これは、第1節と第3節の混合の場合である。マルクスはここで、「土地生産物が騰貴する場合」を取り上げている。この場合には、「剰余価値の比率的な大きさは減少してもその絶対量は変わらないことがありうるのである。また、剰余価値の絶対量は増大してもその比率的な大きさは変わらないこともありうるし、延長の程度によっては剰余価値が絶対的にも比率的にも増大することもありうるのである。」
この例として、「1799年から1815年までの期間」のイギリスにおける生活手段の価格高騰と名目的な賃金引き上げについて述べている。
「(2)労働の強度と生産力とが増大して同時に労働日が短縮される場合。」
この場合に記述している例は、将来の社会主義社会の労働を示唆していて、非常に興味がある。
「労働の生産力の上昇と労働の強度の増大とは、一面から見れば、同じ形で作用する。両方とも各期間に得られる生産物を増加させる。したがって、両方とも、労働日のうち労働者が自分の生活手段またはその等価を生産するのに必要な部分を短縮する。」「資本主義的生産形態の廃止は、労働日を必要労働だけに限ることを許す。とはいえ、必要労働は、その事情が変わらなければ、その範囲を拡大するであろう。なぜならば、一方では、労働者の生活条件がもっと豊かになり、彼の生活上の諸要求がもっと大きくなるからである。また、他方では、今日の剰余労働の一部分は必要労働に、すなわち社会的な予備財源と蓄積財源との獲得に必要な労働に、数えられるようになるであろう。」
「労働の生産力が増進すればするほど労働日は短縮されることができるし、また労働日が短縮されればされるほど労働の強度は増大することができる。社会的に見れば、労働の生産性は労働の節約につれても増大する。」「資本主義的生産様式は、各個の事業では節約を強制するが、この生産様式の無政府的な競争体制は、社会全体の生産手段と労働力との最も無限度的な浪費を生み出し、それとともに、今日では欠くことができないにしてもそれ自体としてはよけいな無数の機能を生み出すのである。」
マルクスの時代から今日までの歴史的変遷を見ると、ここでマルクスが述べたことが歴史的事実として証明されているように思われる。「よけいな無数の機能」がいかに多いことか。
「労働の強度と生産力とが与えられていれば、労働がすべての労働能力ある社会成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、すなわち、社会の一つの層が労働の自然必然性を自分からはずして別の層に転化することできなければできないほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分はますます短くなり、したがって、個人の自由な精神的・社会的活動のために獲得された時間部分はますます大きくなる。」
すなわち、ワークシェアリングである。あくまで資本主義の下でではあるが、社会の矛盾を解決しようとすれば、社会主義的視点を導入せざるを得ないということであろう。 
 
第16章 剰余価値率を表す種々の定式

 

「T 剰余価値/可変資本=剰余価値/労働力の価値=剰余労働/必要労働」
これは、マルクスが剰余価値率について導きだした関係である。これに対し、古典派経済学では次の定式を挙げている。
「U 剰余労働/労働日=剰余価値/生産物価値=剰余生産物/総生産物」
「すべてのこれらの定式では、現実の労働搾取度すなわち剰余価値率はまちがって表現されている。」「これらの派生的な定式は、実際には、一労働日またはその価値生産物が資本家と労働者とのあいだに分割される割合を表している。」「剰余価値と労働力の価値とを価値生産物の諸部分として表すということ―・・・―この表し方は、資本関係の独自な性格、すなわち可変資本と生きている労働力との交換やそれに対応する生産物からの労働者の排除を覆い隠している。それに代わって現れるのが、労働者と資本家とが生産物をそれのいろいろな形成要因の割合に従って分け合う一つの協同関係というまちがった外観なのである。」
「V 剰余価値/労働力の価値=剰余労働/必要労働=不払労働/支払労働」
「資本家は、労働力の価値、またはその価値からずれるその価格を支払って、そのかわりに、生きている労働そのものに対する処分権を受け取る。資本家によるこの労働力の利用は二つの期間に分かれる。一方の期間では、労働者はただ自分の労働力の価値に等しい価値を、つまり一つの等価を、生産するだけである。こうして、資本家は、前貸しした労働力の価格のかわりにそれと同じ価格の生産物を手に入れる。・・・これに反して、剰余労働の期間には労働力の利用は資本家のために価値を形成するが、それは資本家にとって価値代償を必要としないものである。彼はこの労働力の流動化を無償で受け取るのである。こういう意味で剰余労働は不払労働と呼ばれることができるのである。」
「資本は・・・本質的には不払労働に対する指揮権である。いっさいの剰余価値は・・・その実体から見れば不払労働時間の物質化である」。
この短い章の中に、資本の本質が端的に表されている。 
 
第17章 労働力の価値または価格の労賃への転化

 

「ブルジョア社会の表面では、労働者の賃金は労働の価格として、すなわち一定量の労働に支払われる一定量の貨幣として、現れる。そこでは労働の価値が論ぜられ、この価値の貨幣表現が労働の必要価格とか自然価格とか呼ばれる。他方では、労働の市場価格、すなわち労働の必要価格の上下に振動する価格が論ぜられる。」
この章では、古典派経済学の「労働の価値」に対する批判がなされているが、ここではそれにこだわらず、「労賃」という現象形態の理解に必要な点について取り上げる。
「商品市場で直接に貨幣所持者に向かい合うのは、じっさい、労働ではなくて労働者である。労働者が売るものは、彼の労働力である。・・・労働は、価値の実体であり内在的尺度ではあるが、それ自身は価値をもってはいないのである。」
「「労働の価値」という表現では、価値概念はまったく消し去られているだけではなく、その反対物に転倒されている。それは一つの想像的な表現であって、・・・このような想像的な表現は生産関係そのものから生ずる。それらは、本質的な諸関係の現象形態を表す範疇である。現象では事物が転倒されて現れることがよくある・・・。」
古典派経済学は、重要と供給のバランスの上に、労働の市場価格が一つの不変量におさまることを見出し、「労働の偶然的な市場価格を支配し規制する価格、すなわち労働の「必要価格」(重農学派)または「自然価格」(アダム・スミス)は、他の商品の場合と同じに、ただ、貨幣で表現された労働の価値でしかあり得ない。このようにして、経済学は、労働の偶然的な価格を通じて労働の価値に到達しようと思った。」、が、彼らは、「労働の価値」を合理的に説明できなかった。この問題は、ブルジョア社会の「現象形態」に捕らわれていたのでは、解くことができない。マルクスだけが、その問題を解いた。
「だから、経済学が労働の価値と呼ぶものは、じつは労働力の価値なのであり、この労働力は労働者の一身のなかに存在するものであって、その機能である労働とは別物であることは、ちょうど機械とその作業とが別ものであるようなものである。」つまり、労働力とその機能である労働とは、矛盾として把握すべきだということである。
「労働力の価値と価格が労賃というそれらの転化形態」に現れる理由は、次のように理解される。
「人の知るように、労働力の日価値は労働者のある一定の寿命を基準として計算されており、この寿命には労働日のある一定の長さが対応する。」「いま、もしこの労働者の日価値が一日の労働の価値として言い表せるならば、12時間の労働は3シリングの価値を持つ、という定式が生ずる。労働力の価値は、このようにして、労働の価値を、または、貨幣で表せば、労働の必要価格を規定する。」
「労働の価値というのは、ただ労働力の価値の不合理な表現でしかないのだから、当然のこととして、労働の価値はつねに労働の価値生産物よりも小さくなければならない、ということになる。」「労働力の価値生産物は、労働力自身の価値によってではなく労働力の機能の継続時間によって定まる・・・」
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現れるのである。」「賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働さえも、支払われるものとして現れる。・・・賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係が覆い隠すのである。」
「このことから、労働力の価値と価格が労賃と言う形態に、すなわち労働そのものの価値と価格とに転化することの決定的な重要さがわかるであろう。このような、現実の関係を目に見えなくしてその正反対を示す現象形態にこそ、労働者にも資本家にも共通ないっさいの法律観念、資本主義的生産様式のいっさいの欺瞞、この生産様式のすべての自由幻想、俗流経済学のいっさいの弁護論的空論は基づいているのである。」
労賃と言う現象形態は、資本が支配している世界では、普通に矛盾なく感ぜられる。それはまず、「資本と労働とのあいだの交換は、人間の知覚には、さしあたりは他のすべての商品の売買とまったく同じ仕方で現れる。・・・法的意識はここではせいぜい素材の相違を認めるだけで・・・。」「さらに、交換価値と使用価値とはそれ自体としては通約できない量なのだから、「労働の価値」とか「労働の価格」とかいう表現も「綿花の価値」とか「綿花の価格」とかいう表現以上に不合理なものには見えないのである。・・・貨幣は、支払手段として機能する場合には、提供された物品の価値または価格をあとから実現するのである。したがって・・・提供された労働の価値または価格をあとから実現する。最後に、労働者が資本家に提供する「使用価値」は、実際には彼の労働力ではなくてその機能なのであり、・・・一定の有用労働である。その同じ労働が別の面から見れば一般的な価値形成要素であるということ・・・それは普通の意識の領域の外になるのである。」
「他方、資本家のほうを見れば・・・実際に彼が関心をもつのは、ただ労働力の価格と労働力の機能がつくりだす価値との差だけである。だが彼は、・・・いつでも、自分の利潤は価値よりも安く買って高く売るという単純な詐取から生ずるのだと考えているのである。」
「とにかく、「労働の価値および価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現れる本質的な関係としての労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通の思考形態として直接ひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されねばならない。」
これが科学というのものである。 
 
第18章 時間賃金

 

「労賃はそれ自体また非常にさまざまな形態をとるのであるが、・・・このような形態のすべてについて述べることは、新労働の特殊理論に属することであり、したがって本書の任務ではない。しかし、二つの支配的な基本形態についてはここで簡単に述べておかねばならない。」
「労働力の売りは、・・・つねに一定の時間を限って行なわれる。それゆえ、労働力の日価値、週価値、等々が直接にとる転化形態は「時間賃金」という形態、つまり日賃金、等々なのである。」
「労働力の交換価値とこの価値が転換される生活手段の量との相違も、今では名目労賃と実質労賃との相違として現れる。」
「労働者が自分の日労働や週労働などと引き換えに受け取る貨幣額は、彼の名目賃金、すなわち価値によって評価された労賃の額をなしている。」
「労働の平均価格は、労働力の平均的な日価値を1労働日の時間数で割ることによって、得られる。・・・このようにして見出される1労働時間の価格は労働の価格の尺度単位として役立つ。」
「一般的法則としては次のようになる。日労働や週労働などの量が与えられていれば、日賃金や週賃金は労働の価格によって定まり、労働の価格そのものは、労働力の価値の変動につれて、または労働力の価格が労働力の価値からずれるのにつれて、変動する。反対に、労働の価格が与えられていれば、日賃金や週賃金は日労働や週労働の量によって定まる。」
「時間賃金の度量単位、1労働時間の価格は、労働力の日価値を慣習的な1労働日の時間数で割った商である。」つまり、1労働時間の価格=「労働力の日価値÷与えられた時間数の労働日」。
この規定に基づいて、さまざまな労賃の問題が明らかになる。
「もし1時間賃金が、資本家が日賃金や週賃金を支払う約束をしないでただ自分が労働者を働かせたいと思う労働時間の支払いだけを約束するという仕方で確定されるならば、資本家は最初に1時間賃金つまり労働の価格の度量単位の算定の基礎になった時間より短く労働者を働かせることができる。この度量単位は労働力の日価値/与えられた時間数の労働日という比率によって規定されているのだから、それは、労働日が一定の時間数の物でなくなれば、もちろん何の意味もなくなってしまう。支払労働と不払労働との関連はなくされてしまう。・・・労働日の法的制限はこのような無法に終末を与える。」
「日賃金や週賃金は上がっても、労働の価格は名目上は変わらないで、しかもその正常な価格よりも下がることもありうる。それは、労働の価格または1労働時間の価格が変わらないで労働日が慣習的な長さよりも延長されれば、必ず起きることである。・・・労働力の価値は、その機能が長くなるにつれて、その消耗が増大するので増大し、しかもその機能の持続の増加よりももっと速い割合で増大する。それゆえ、労働時間の法的制限なしに時間賃金が広く行われている産業部門の多くでは、労働日が或る一定の点まで、・・・を限って正常と認められるという慣習が自然発生的にでき上がったのである。」マルクスは、注釈で、労働の時間外労働の価格の安さ、時間外労働の恒常化、標準時間中の労働の価格の安さのよる時間外労働への実質的な服従の例を、イギリスの児童労働調査委員会や工場監督官の報告書から引用している。
「一般に知られている事実として、ある産業部門での労働日が長ければ長いほど労賃は低い、ということがある。」ある工場監督官は、報告書の中でそのことを例証している。
「労働の価格が低ければ低いほど、労働者が単にみじめな平均賃金を確保するだけのためにも、労働量はますます大きくなければならず、言い換えれば、労働日はますます長くなければならない、ということである。」
「ところが、それとは逆に、労働時間の延長もまた労働の価格の低下を、したがってまた日賃金や週賃金の低下を引き起こす。」
この例として、マルクスは、資本家による労働者の競争の利用を挙げている。「もし一人が1+1/2人分とか二人分とかの仕事をするとすれば、市場にある労働力の供給は変わらなくても、労働の供給は増大する。このようにして労働者のあいだに引き起こされる競争は、資本家が労働の価格を押し下げることを可能にし、労働の価格の低下は、また逆に資本家が労働時間をさらにいっそう引き延ばすことを可能にする。しかし、このような、異常な、すなわち社会的平均水準を越える不払労働を自由に利用する力は、やがて、資本家たち自身のあいだの競争手段になる。」ここでは、「ロンドンの製パン業者」のうち、「パンを標準価格よりも安く売っている」業者への「標準価格で売っている」業者の非難から、その実例を指摘している。 
 
第19章 出来高賃金

 

「出来高賃金は時間賃金の転化形態にほかならないのであって、ちょうど時間賃金が労働力の価値または価格の転化形態にほかならないようなものである。
出来高賃金では、一見したところ、労働者が売る使用価値は彼の労働力の機能である生きている労働ではなくてすでに生産物に対象化されている労働であるかのように見え、また、この労働の価格は、時間賃金の場合のように労働力の日価値÷与えられた時間数の労働日という分数によってではなくて、生産者の作業能力によって規定されるかのように見える。」
資本主義生産様式は、労働力の価値において、さまざまな現象形態と仮象形態を生みだすということである。
「出来高賃金という形態も時間賃金という形態と同じように不合理である。・・・出来高賃金は、直接には実際少しも価値関係を表してはいないのである。ここで行なわれるのは、一個の価値をそれに具体化されている労働時間で計ることではなくて、逆に、労働者の支出した労働を彼の生産した個数で計ることである。時間賃金の場合には労働がその直接的持続時間で計られ、出来高賃金の場合には一定の持続時間中に労働が凝固する生産物量で労働が計られるのである。・・・出来高賃金はただ時間賃金の一つの変形でしかないのである。」
では、出来高賃金という表現形態は、どういうメリットがあるのだろうか。
「この場合には労働の質が製品そのものによって左右されるのであって、各個の価格が完全に支払われるためには製品は平均的な品質をもっていなければならない。出来高賃金は、この面から見れば、賃金の削減や資本家的なごまかしの最も豊かな資源になる。
出来高賃金は、資本家に、労働の強度を計るためのまったく明確な尺度を提供する。ただ、前もって確定された経験的に固定されている商品量に具体化される労働時間だけが、社会的に必要な労働時間として認められ、そういうものとして支払を受ける。」
「この場合には労働の質や強度が労賃の形態そのものによって制御されるのだから、この形態は労働監督の大きな部分を不要にする。従って、この形態は、前に述べた近代的家内労働の基礎をなすと同時に、搾取と抑圧との階層制的に編成された制度の基礎をなすのである。この制度には二つの基本形態がある。出来高賃金は一方では資本家と賃金労働者とのあいだに寄生者が介入すること、すなわち仕事の下請けを容易にする。仲介人たちの利得は、ただ、資本家が支払う労働の価格と、この価格のうちから仲介人たちが実際に労働者に渡す部分との差額だけから生ずる。・・・他方では、出来高賃金は、資本家が主要な労働者―・・・―と出来高当たり幾らという価格で契約を結び、その価格で主要な労働者自身が自分との補助労働者の募集や賃金支払を引き受けるということを可能にする。資本による労働者の搾取がこの場合には労働者による労働者の搾取を媒介にして実現されるのである。」
「時間賃金の場合には、わずかな例外を別とすれば、同じ機能には同じ労賃というのが一般的であるが、出来高賃金の場合には、労働時間の価格は一定の生産物量によって計られるとはいえ、日賃金や週賃金は、それとは反対に労働者たちの個人差・・・につれて、違ってくる。だから、この場合には現実の収入については、個々の労働者の技能や体力や精力や耐久力などの相違に従って、大きな差が生ずるのである。・・・出来高賃金のほうが個性により大きい活動の余地を与えるということは、一方では労働者たちの個性を、したがってまた彼らの自由感や独立心や自制心を発達させ、他方では労働者どうしのあいだの競争を発達させるという傾向がある。それゆえ、出来高賃金は、個々人の労賃を平均水準よりも高くすると同時にこの水準そのものを低くする傾向があるのである。」
「出来高賃金は資本主義的生産様式に最もふさわしい労賃形態だということがわかる。」
マルクスは、出来高賃金が、資本主義の発展につれて拡大し、「労働時間の延長と労賃の引き下げ」や「労働の強度の増大」に役立ったことを、例証している。「工場法の適用を受ける作業場では出来高賃金が通例のことになる。なぜならば、そこでは資本は労働日をもはや内包的に拡大するよりほかはないからである。」
「労働の生産性の変動につれて、同じ生産物量が表す労働時間も変動する。したがってまた出来高賃金も変動する。というのは、出来高賃金は一定の労働時間の価格表現だからである。」労働の生産性が上がれば、同じ時間で生産される生産物量が増え、「したがって同じ一個に充当される労働時間が減少するのと同じ割合で、出来高賃金は引き下げられるのである。このような出来高賃金の変動は、それだけならば純粋に名目的であるのに、資本家と労働者との間に絶え間のない闘争を引き起こす。」
こうして、労働力の価値は、労賃に転化し、時間賃金は、出来高賃金に転化する。本質は、現象形態、仮象形態になるにつれ、本質本来の敵対関係を覆い隠す。 
 
第20章 労賃の国民的相違

 

「諸国民の労賃を比較するにあたっては、労働力の価値の大きさの変動を規定するすべての契機を考慮しなければならないのである。すなわち、自然的な、また歴史的に発達した第一次生活必需品の価格と範囲、労働者の養成費、婦人・児童労働の役割、労働の生産性、労働の外延的および内包的な大きさがそれである。」
「どの国にも一定の中位の労働強度として認められているものがあって・・・強度のより大きい国民的労働は、強度のより小さい国民的労働に比べれば、同じ時間により多くの価値を生産するのであって、この価値はより多くの貨幣で表現されるのである。」
「ある一国で資本主義的生産が発達していれば、それと同じ度合いでそこでは労働の国民的な強度も生産性も国際水準の上に出ている。・・・貨幣の相対的価値は、資本主義的生産様式がより高く発展している国民のもとでは、それがあまり発展していない国民の下でよりも、小さいであろう。したがって、名目労賃・・・は・・・高いであろうということになる。・・・しかし、違った国国での貨幣価値のこのような相対的相違は別としても、しばしば見られるように、日賃金や週賃金などは・・・(発達している国のほうが)高いが、相対的な労働の価格、すなわち剰余価値に比べての労働の価格も、生産物の価値に比べての労働の価格も、・・・(あまり発達していない国のほうが)高いのである。」
マルクスは、イギリスの工場監督官アレグサンダー・レッドグレーヴの報告書を引用して、上記の事を証明している。 
 
第21章 単純再生産

 

第7篇 資本の蓄積過程 について
資本の運動は、生産における否定=労働力の商品への転化と、流通における否定の否定=貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化とを含む。この全過程が、資本の本質である剰余価値の生産の運動である。いままでは、前者の過程を扱ってきたので、後者の過程を扱わなければ、この全過程は完結しない。更にこの全運動が「絶えず繰り返されることが必要である。このような絶えず同じ継起的諸段階を通る循環は、資本の流通を成している。」そのためには、「蓄積」が必要である。この蓄積も矛盾である。「蓄積の第1の条件は、資本家が、自分の商品を売ること、また、こうして手に入れた貨幣の大部分を資本に再転化させることをすでに済ませているということである。」
この篇では、資本の蓄積が扱われるが、ここで取り上げられる形態は、具体的形態ではなく、抽象的形態である。「最初はまず蓄積を抽象的に、すなわち単に直接的生産過程の1契機として、考察するのである。」「蓄積過程の純粋な分析のためには、蓄積過程の機構の内的な営みを覆い隠すいっさいの現象をしばらく無視することが必要なのである。」
「商品を生産する資本家は商品をその価値どおりに売るものと想定し、それ以上に彼の商品市場への復帰には立ち入らないことにし」「資本家的生産者は全剰余価値の所有者とみなされる。または、別な言い方をすれば、彼と獲物を分け合う仲間全体の代表者と見なされる。」
いまでは、庶民も剰余価値の恩恵にあずかる。年金生活者がその僅かばかりの資金を貯金や投資信託に預け、少しでも目減りを減らそうとすれば、それは同時に、客観的には、資本家の仲間になっていることになる。
「剰余価値を生産する、すなわち不払労働を直接に労働者から汲み出して商品に固定する資本家は、・・・あとで、それを、社会的生産全体のなかで他の諸機能を果たす資本家たちや土地所有者などと分けなければならない。したがって、剰余価値はいろいろな部分に分かれる。剰余価値の断片はいろいろな部類の人々の手に入って、利潤や利子や商業利得や地代などという種々の互いに独立な形態を受け取る。」
だから、ここからは、現代にも直接通ずる過程を扱うことになる。
「生産過程は、その社会的形態がどのようであるかにかかわりなく、連続的でなければならない。・・・どの社会的生産過程も、それを一つの恒常的な関連の中で、またその更新の不断の流れの中で見るならば、同時に再生産過程なのである。」
再生産過程とは、循環過程ということであり、それは、否定の否定の過程が、同時に更なる否定の否定の過程であるということであり、二重否定の直接的同一ということである。この矛盾が成立するためには、蓄積=生産であって生産でない存在という矛盾の存在が必要である。
「生産の諸条件は同時に再生産の諸条件である。」再生産の条件は、生産過程で消費された(生産的消費)の生産手段を、生産物の一部分から現物で生産手段に再転化しなければならない。これは個人的消費からは分離されている。
「もし生産が資本主義的形態のものであれば、再生産もそうである。」「資本価値の周期的増加分・・・としては、剰余価値は資本から生ずる収入という形態を受け取る。」「この収入が、・・・周期的に消費されるならば、・・・単純再生産が行われる。この単純再生産は、・・・:この単なる繰り返しまたは連続がこの過程にいくつかの新しい性格を押印するのである。」
「生産過程は、一定時間を限っての労働力の買い入れによって準備され、・・・一定の生産期間・・・が終わるごとに、絶えず更新される。しかし、労働者は、彼の労働力が働いてそれ自身の価値も剰余価値も商品に実現してから、はじめて支払を受ける。」
この単純な生産が連続して行くとすれば、最初、労働力の買い入れのために資本家が準備した労働力の価値=労賃は、結局どこから出てくるようになるのか。
「労働者自身によって絶えず再生産される生産物の一部分、それが労賃の形で絶えず労働者の手に還流するのである。・・・労働者が生産手段の一部分を生産物に転化させているあいだに、彼の以前の生産物の一部分は貨幣に再転化する。先週とか過去半年間とかの彼の労働によって彼に今日の労働とか次の半年間の労働とかが支払を受けるのである。」こうしてはじめて、否定の否定の過程同士が、結びつけられるのである。だが、この労働者が過去に自分で生産した価値によって、未来の自分の労働が支払われるという本質は、貨幣で労賃を受け取っている限りは、理解しにくい。マルクスは、階級全体を考えれば、理解しやすいと言う。
「貨幣形態が生み出す幻想は、個別資本家や個別労働者に代わって資本家階級と労働者階級とが考察されるならば、たちまち消え去ってしまう。資本家階級は労働者階級に、後者によって生産されて前者によって取得される生産物の一部分を指示する証文を、絶えず貨幣形態で与える。この証文を労働者は同様に絶えず資本家階級に返し、これによって、彼自身の生産物のうちの彼自身のものになる部分を資本家階級から引き取る。」
この形態は、歴史的に見ると、次のようになる。
「可変資本は、ただ、労働者が彼の自己維持と再生産のために必要とし社会的生産のどんな体制のもとでもつねに自分で生産し再生産しなければならない生活手段財源又は労働財源の一つの特殊な歴史的現象形態でしかないのである。・・・このような労働財源の現象形態は、労働者には彼自身の対象化された労働が資本家によって前貸しされるのだということを少しも変えるものではない。」マルクスは、理解しやすいように、夫役農民の例を取り上げている。
「たしかに、可変資本が資本家自身の財源から前貸しされる価値という意味を失うのは、ただ、われわれが資本主義的生産過程をその更新の不断の流れの中で考察する場合だけのことである。・・・だから、われわれのこれまでの立場から見れば、資本家はいつかあるとき他人の不払労働にはよらないなんらかの本源的蓄積によって貨幣所持者となり、したがって労働力の買い手として市場を歩くことができたのだということが、いかにもありそうなことに思われるのである。」ここでいう本源的蓄積とは、資本の本質である剰余価値=不払労働の物質化によらない資本の出現と言う意味である。
だが、「単純再生産は、・・・可変資本だけではなく総資本をもとらえる奇妙な変化を引き起こす」。どういう変化かというと、単純再生産の過程のはずが、いつのまにか、剰余価値が資本に再転化していたというのである。
最初に資本家が準備せねばならない前貸資本は、単純再生産においても、年月がたてば、いずれ剰余価値の総額がそれを上回ってしまう。「一般的に言えば、前貸資本価値を毎年消費される剰余価値で割れば、最初の前貸資本が資本家によって食い尽されて消えてなくなるまでに経過する年数または再生産周期の数が出てくる。」「ある年数が過ぎた後では、彼が取得した資本価値は同じ年数のあいだに等価なしで取得した剰余価値の総額に等しく、彼が消費した価値額は最初に資本価値に等しい。」「だから、およそ蓄積というものを無視しても、生産過程の単なる連続でも、すなわち単純再生産でも、長短の期間の後には、どの資本をも必然的に蓄積された資本または資本化された剰余価値に転化させるのである。」
すなわち、最初に準備された資本が、再生産過程を経ることによって、剰余価値が資本に転化し、こうして最初の前提であった資本が「他人の不払労働の物質化」としての本来の資本として再出現するということになる。
「第4章で見たように、貨幣を資本に転化させるためには、・・・一方には価値または貨幣の所持者、他方には価値を創造する実体の所持者が、一方には生産手段と生活手段の所持者、他方にはただ労働力だけの所持者が、互いに買い手と売り手として相対していなければならなかった。つまり、労働生産物と労働そのものとの分離、客観的な労働条件と主体的な労働力との分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基礎であり出発点だったのである。ところが、はじめはただ出発点でしかなかったものが、過程の単なる連続、単純再生産によって、資本主義的生産の特有な結果として絶えず繰り返し生産されて永久化されるのである。」
単純再生産によっても、最初の資本が本来の資本として再出現するだけでなく、資本主義的生産の条件自体が、再出現するという。つまり、原因が結果を引き起こすだけでなく、結果が原因になるというのである。
「一方では生産過程は絶えず素材的富を資本に転化させ、資本家のための価値増殖手段と享楽手段とに転化させる。他方ではこの過程から絶えず労働者が、そこにはいったときと同じ姿で―・・・―出てくる。」「労働者は絶えず客体的な富を、資本として、すなわち彼にとって、外的な、彼を支配し搾取する力として、生産するのであり、そして資本家もまた絶えず労働力を、主体的な、それ自身を対象化し実現する手段から切り離された、抽象的な、労働者の単なる肉体のうちに存在する富の源泉として、生産するのであり、簡単に言えば労働者を賃金労働者として、生産するのである。このような、労働者の不断の再生産または永久化が、資本主義的生産の不可欠の条件なのである。」
労働者は、生産過程において、「生産手段を自分の労働によって消費し、それを前貸資本の価値よりも大きな価値のある生産物に転化させる。これは彼の生産的消費である。それは同時に・・・資本家による彼の労働力の消費でもある。他方では、労働者は労働力の代価として支払われた貨幣を生活手段に振り向ける。これは彼の個人的消費である。だから、労働者が行なう生産的消費と個人的消費とはまったく違うのである。」「一方の消費の結果は資本家の生活であり、他方の消費の結果は労働者自身の生活である。」
生産と消費は、直接的および媒介的に繋がっている。ここで言う生産的消費、すなわち、生産手段の消費と労働力の消費とは、生産における消費の直接的同一の側面であり、一方、消費的生産は、生活手段の消費=労働力の回復・生産であり、すなわち、個人的消費である。資本主義的生産様式では、労働力が商品と直接的同一となることによって、労働力商品と交換された貨幣が生活手段と直接的同一となる。したがって、資本が労働力の代価である貨幣を媒介にして、労働者の消費的生産を支配することになる。これも生産が消費を規定するあり方の一つである。
「労働者はしばしば自分の個人的消費を生産過程の単なる付随事にすることを強制されている。このような場合には、彼は自分の労働力を働かせておくために自分に生活手段をあてがうのであって・・・そのとき彼の消費手段はただ生産手段の消費手段でしかなく、彼の個人的消費は直接的に生産的消費である。とはいえ、これは、資本主義的生産過程にとって本質的ではない一つの乱用として現れる。」
このことは、資本家階級と労働者階級を取り上げれば、より明確になる。
「労働力と引き換えに手放される資本は生活手段に転化され、この生活手段の消費は、現存する労働者の筋肉や神経や骨や脳を再生産して新しい労働者を生み出すことに役立つ。それゆえ、絶対的に必要なものの範囲内では、労働者階級の個人的消費は、資本によって労働力と引き換えに手放された生活手段の、資本にとって新たに搾取されうる労働力への再転化である。それは、資本家にとって最も不可欠な生産手段である労働者そのものの生産であり再生産である。」「労働者階級の不断の維持と再生産も、やはり資本の再生産のための恒常的な条件である。資本家はこの条件の充足を安んじて労働者の自己維持本能と生殖本能とに任せておくことができる。彼は、ただ、労働者たちの個人的消費をできるだけ必要物に制限しておくように取り計らうだけで」ある。
「それゆえ、資本家も、その理論的代弁者である経済学者も、労働者の個人的消費のうちでただ労働者階級の永久化のために必要な部分だけを、つまり資本が労働者を消費するために実際に消費されなければならない部分だけを、生産的とみなすのである。そのほかに労働者が自分の快楽のために消費するものがあれば、それは不生産的消費なのである。」
こうして、単純再生産過程であっても、資本の前提条件であった賃金労働者を再出現させるのである。資本主義的生産様式と言う場合には、単なる工場の中での生産過程だけでなく、このような労働者の生活過程の生産と再生産の様式を含んでいるのである。
「こういうわけで、社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界のなかでは、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない。」「個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産が行なわれるようにし、他方では、生活手段をなくしてしまうことによって、彼らが絶えず繰り返し労働市場に現れるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。」
マルクスは、この後に、労働者階級の再生産過程を資本家がどのように見ているかを示す例を示している。「労働者階級の再生産は、同時に、世代から世代への技能の伝達と累積とを含んでいる。このような熟練労働者階級の存在を、どんなに資本家が自分の所有する生産条件の一つに数え、この階級を実際に自分の可変資本の現実的存在とみなしているかということは、恐慌にさいしてこのような階級がなくなるおそれが生ずれば、たちまち明らかになる。」として「アメリカの南北戦争と、それに伴って起きた綿花飢餓」の際に、「タイムズ」に掲載された「マンチェスター商業会議所の前会頭ポッター」の書簡を挙げている。
これは「人間の社会的存在がその意識を規定する」(「序言」)例として、極めて興味深い。
「こうして、資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。」「一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。」「こうして、資本主義的生産過程は、関連の中で見るならば、すなわち再生産過程としては、ただ商品だけではなく、ただ剰余価値だけではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し再生産するのである。」 
 
第22章 剰余価値の資本への転化

 

第1節 拡大された規模での資本主義的生産過程 商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への変転
剰余価値が周期的に消費されず、資本に転化される場合、すなわち、単純再生産が行なわれない場合、「剰余価値の資本としての充用、または剰余価値の資本への再転化は、資本の蓄積と呼ばれる。」
第4章第3節の最後で述べたように、生産と流通をそれぞれひとまとまりのものとみなすと、両者は矛盾しており、したがって資本の生産と流通は、否定の否定として把握することができる。単純再生産は、否定の否定の過程の直接的同一であった。この否定の否定が媒介的に統一されるのが、ここで扱う剰余価値の資本への転化過程であり、資本がその本質を自分自身に刻印する過程である。この循環過程は、螺旋的展開の形態をとる。
はじめ、剰余価値は資本から生じたが、ここでは資本が剰余価値から生ずる。論理的に言えば、資本と剰余価値の内在的理論的矛盾(第4章)が相互の分離・対立(絶対的剰余価値と相対的剰余価値)にまで発展し、相互に浸透する過程(剰余価値と資本の相互転化)を扱うことである。これは否定の否定の運動を通じて可能となる。この論理的展開方法をしっかりと掴んでおく必要がある。
単純再生産にどういう条件が加われば、資本の蓄積=剰余価値の資本への転化となるのか。
マルクスは、個別資本家として紡績業者の例を挙げて解説する。
「資本価値は最初は貨幣形態で前貸しされた。ところが、剰余価値ははじめから総生産物の一定の部分の価値として存在する。総生産物が売られ、貨幣に転化されれば、資本価値は再びその最初の形態を得るが、剰余価値のほうはその最初の存在様式を変えている。とはいえ、この瞬間からは資本価値も剰余価値も両方とも貨幣額であって、それらの資本への再転化はまったく同じ仕方で行なわれる。・・・・・・今度は拡大された規模で始めることを可能にする。だが、このような商品を買うためには、彼はそれらが市場にあるのを見出さねばならない。」
資本家は、剰余価値を資本へ転化させるための余分の商品を市場にて見出せるのか。
「彼の持っている糸が流通するのは、彼が自分の年間生産物を市場に出すからにほかならない。それは、他のすべての資本家も同じように各自の商品ですることである。しかし、これらの商品は、市場にやってくる前にすでに年間総生産物のうちに存在していたのである。」
「まず第一に、年間生産は、その年のうちに消費される物的資本成分を補填するべきすべての対象(使用価値)を供給しなければならない。これを引き去った後には、純生産物または剰余生産物が残り、それには剰余価値が含まれている。」
「蓄積するためには、剰余価値の一部分を資本に転化させなければならない。・・・資本に転化させうるものは、・・・生産手段と、そのほかには、労働者の生活維持に役立ちうる物、すなわち生活手段とだけである。したがって、年間剰余労働の一部分は、前貸資本の補填に必要だった量を超える追加生産手段と追加生活手段との生産にあてられていなければならない。一言で言えば、剰余価値が資本に転化できるのは、それを担う剰余生産物がすでに新たな資本の物的諸成分を含んでいるからにほかならないのである」
「次にこれらの成分を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は労働の追加を必要とする。・・・追加労働力を買い入れなければならない。そのためにも資本主義的生産の機構はすぐまにあうようになっている。というのは、この機構は労働者階級を労賃に依存する階級として再生産し、この階級の普通の賃金はこの階級の維持だけではなくその増殖をも保障するに足りるからである。・・・具体的にみれば、蓄積は、累進的に増大する規模での資本の再生産ということに帰着する。単純再生産の循環は一変して・・・一つの螺旋に転化するのである。」
つまり、資本主義の機構は、年間総生産物のうちの剰余生産物のうちに、追加生産手段と追加生活手段を含み、また、追加労働力を供給するというのである。
最初の資本は、前貸しによって準備された。この段階では「商品生産の諸法則に一致するただ一つのものであるように見える。」
「追加資本については、事情はまったく別である。・・・それは剰余価値の資本化されたものである。それは、最初から、他人の不払労働から生まれたものでない価値はみじんも含んでいない。・・・資本家階級がこの貢物の一部分で労働者階級から追加労働力を買うとすれば・・・それは、被征服者自身から取り上げた貨幣で被征服者から商品を買うという、征服者が昔からやっているやり方と変わらないのである。」
「追加資本第一号になる剰余価値が、原資本の一部分による労働力の買い入れの結果だったかぎりでは、すなわち、商品交換の諸法則に一致した買い入れ・・・の結果だった限りでは、また、追加資本第二号以下がただ単に追加資本第一号の結果であり、したがってあの最初の関係の帰結である限りでは、・・・明らかに、商品生産と商品流通とにもとづく取得の法則または私有の法則は、この法則自身の内的な、不可避的な弁証法によって、その正反対物に一変するのである。」
「最初の売買として現れた等価物どうしの交換」、そこでは、「所有権は自分の労働にもとづくものとしてわれわれの前に現れた。」「ただ同権の商品所有者が相対するだけであり、他人の商品を取得するための手段はただ自分の商品を手放すことだけであり、そして自分の商品はただ労働によってつくりだされうるだけだからである。」
ところが、「第一に、労働力と交換される資本部分そのものが、等価なしで取得された他人の労働生産物の一部分にほかならないからであり、第二には、この資本部分は、その生産者である労働者によって、ただ補填されるだけではなく、新しい剰余を伴って補填されなければならない」ということ、「所有は、今では、資本家の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として現れ、労働者の側では彼自身の生産物を取得することの不可能として現れる。」
これが商品生産における商品流通における所得様式と区別される、資本主義的生産様式における資本主義的取得様式なのである。この取得様式は、もともと商品から開始される商品流通の否定の否定の運動を逆にして、貨幣から開始される否定の否定の運動の連続によって起こることに注意しなければならない。否定の否定の運動の量的変化が、その質的変化をもたらしたのである。
「このように、資本主義的取得様式は商品生産の本来の諸法則にまっこうからそむくように見えるとはいえ、それはけっしてこの諸法則の侵害から生まれるのではなく、反対にこの諸法則の適用から生まれるのである。」
「交換の法則が要求する同等性は、ただ、交換によって互いに引き渡される商品の交換価値の同等性だけである。しかも、交換の法則は、これらの商品の使用価値の相違をはじめから要件としているのであって、取引が終了してからはじまるこれらの使用価値の消費とはまったくなんの関係もないのである。だから、貨幣の資本への最初の転化は、商品生産の経済的諸法則とも、そこから派生する所有権とも、最も厳密に一致して行なわれるのである。」
これが商品交換の原則であった。その結果は、
「生産物は資本家のものであって、労働者のものではな」く、「この生産物の価値は、前貸資本の価値の他に、剰余価値を含んでおり、・・・資本家の合法的な所有物にな」り、「労働者は引き続き自分の労働力を保持していて、・・・再びそれを売ることができる」のである。
「単純再生産は、ただこの第一の操作の周期的反復でしかない。」「単純再生産に代わって、拡大された規模での再生産、すなわち蓄積が行なわれても、少しも変わりはない。」
ところが、これを両階級の間で見ると、違って見える。
「われわれが資本主義的生産をその更新の不断の流れの中で考察し、個別資本家と個別労働者とのかわりに、全体に、つまり資本家階級とそれに相対する労働者階級とに、着目するならば、事柄はまったく違って見える。だが、そうすれば、われわれは、商品生産にとってはまったく外的なものである尺度をあてがうことになるであろう。」
「商品生産では、・・・売り手と買い手・・・の相互関係は、彼らのあいだに結ばれた契約の満期日がくれば、それで終りである。」「商品生産またはそれに属する過程は、商品生産自身の経済的諸法則に従って判断されるべきだとすれば、われわれはそれぞれの交換行為を、それ自体として、その前後に行なわれる交換行為とのいっさいの関連の外で、考察しなければならないのである。また、売買はただ個々の個人のあいだに行なわれるのだから、全体としての各社会階級のあいだの関係を売買のうちに求めることは許されないのである。」
「このような結果は、労働力が労働者自身によって商品として自由に売られるようになれば、不可避的になる。しかしまた、そのときからはじめて商品生産は一般化されるのであって、それが典型的な生産形態になるのである。・・・いっさいの生産された富が流通を通るようになる。賃労働がその基礎となるとき、はじめて商品生産は自分を全社会に押し付ける。しかしまた、その時初めて商品生産はそのいっさいの隠れた力を発揮する。・・・商品生産がそれ自身の内在的諸法則に従って資本主義的生産に成長してゆくにつれて、それと同じ度合いで商品生産の所有法則は資本主義的取得の諸法則に一変するのである。」
第2節 経済学の側からの拡大された規模での再生産の誤った把握
「次にわれわれは蓄積または剰余価値の資本への再転化に関するいくつかのいっそう詳しい規定に進むのであるが、その前に、古典派経済学によって生みだされた一つの疑義をかたづけておかなければならない。」
「古典派経済学によって生みだされた一つの疑義」とは何か。
ブルジョア経済(学)は、それ以前の商品流通の経済とは異なる。それ以前の経済、具体的には、古典古代及び封建的生産様式における経済は、「第1篇 商品と貨幣」で展開された商品流通の経済である。したがって、資本主義経済における蓄積は、「第3節 貨幣」で議論されたような貨幣蓄蔵とは異なる。
「その偏見は、資本主義的生産を貨幣蓄蔵と混同し、したがってまた、蓄精された富とは、その現在の現物形態の破壊を免れた、つまり消費を免れた富か、または流通に投ぜられることから救われた富だ、と考えるのである。貨幣を流通から締め出すことは、貨幣を資本として増殖することとは正反対であろうし、蓄財のつもりで商品を蓄積するのはただの愚行であろう。」
これに対して、「アダム・スミスは、蓄積をただ生産的労働者による剰余生産物の消費として説明すること、または、剰余価値の資本化を剰余価値がただ労働力に転換されることとして説明することを、はやらせた。」
これに対して、マルクスは言う。
「生産的労働者によって行なわれる剰余生産物の消費を蓄積過程の特徴的な契機として強調するかぎりでは、正しいのである」が、「この考え方によれば、資本に転化される剰余価値はすべて可変資本になるということになるであろう。そうではなく、剰余価値も、最初に前貸しされる価値と同様に、不変資本と可変資本とに、生産手段と労働力とに、分かれるのである。」
「アダム・スミスは、根本的にまちがった分析によって、次のようなばかげた結論にたどりつく。すなわち、各個の資本は不変成分と可変成分とに分かれるにしても、社会的資本はただ可変資本だけになってしまう、言い換えればただ労賃の支払だけに支出されてしまう、というのである。」
「年間生産を一括した全体だけを考察しているあいだは、年間の再生産過程は容易に理解される。しかし、年間生産のすべての成分が商品市場に出されなければならないのであって、そこから困難が始まるのである。」「年間生産の姿をそれが流通から出てくるときの形で示すという試みを彼らの経済表のなかではじめてやったということは、重農学派の大きな功績である。」
第3節 剰余価値の資本と収入とへの分割 節欲説
「剰余価値の一部分は資本家によって収入として消費されるのであり、他の部分は資本として充用され、蓄積されるのである。」ここで、「収入」とは、剰余価値「のうちから資本家によって周期的に消費される部分、すなわち彼の消費財源に加えられる部分を表わす」。 「剰余価値の量が与えられていれば、これらの部分の一方が小さければ小さいほど他方はそれだけ大きいであろう。他の事情はすべて変わらないと仮定すれば、この分割が行なわれる割合は蓄積の大きさを決定する。しかし、だれがこの分割を行なうかといえば、それは剰余価値の所有者、つまり資本家である。だから、この分割は資本家の意志行為である。」
「資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、一つの歴史的な価値とあの歴史的な存在権・・・をもっているのである。ただそのかぎりでのみ、彼自身の一時的な必然性は資本主義的生産様式の一時的な必然性のうちに含まれるのである。だがまた、そのかぎりでは、使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのである。」
「ただ資本の人格化としてのみ、資本家は尊重される。このようなものとして、彼は貨幣蓄蔵者と同様に絶対的な致富欲をもっている。だが、貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現われるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一つの動輪でしかないのである。そのうえに、資本主義的生産の発展は一つの産業企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然的にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則としで押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみそれを拡大することができるのである。」
論理的に言えば、資本家は、資本という経済的カテゴリーの人格化である。ここで言う「人格化」とは、資本家という人間を土台として、その社会的意識と意志に資本のカテゴリーが反映し、その行動を通して資本の本質=価値の増殖を行なうということである。言い換えれば、資本家とは、資本のカテゴリーをその人間の社会的機能として備えた人間である。
「資本論」を、社会的意識諸形態を含む上部構造から切り離して、土台を形成する経済的機構としてのみ解釈する者がいる。これは完全な間違いである。「資本論」は上向法で書かれているが、下向=抽象する対象が上部構造を含む土台であるから、抽象化した概念にも、上部構造の部分が必然的に含まれている。そこで、上向=具体化する過程で、上部構造の部分が姿を表すのである。
論理的進展によって、資本は、剰余価値の生産から、剰余価値の資本への再転化へと進んできた。そこで、資本家の意識も、それに対応して変化して行かねばならない。それが反映論の論理であり、ここでの議論の核心である。では、どのように変化するのか。
「それゆえ、彼のあらゆる行動が、ただ彼において意志と意識とを与えられている資本の機能でしかないかぎりでは、彼にとって彼自身の私的消費は彼の資本の蓄積から盗みとることを意味するのであって、・・・。蓄積は、社会的な富の世界の征服である。蓄積は、搾取される人間材料の量を拡大すると同時に、資本家の直接間接の支配を拡大するのである。」
「資本主義的生産様式が発展し蓄積が増進し富が増大するにつれて、資本家は資本の単なる化身ではなくなる。・・・古典的な資本家は、個人的消費に、資本家の職分に反する罪悪で蓄積の「抑制」だという熔印を押すのであるが、現代化された資本家は、蓄積を彼の享楽欲の「禁欲」として理解することができるのである。」
「資本主義的生産様式の歴史的発端―そして資本家に成り上がるものはそれぞれ個別的にこの歴史的段階を通る―では、致富欲と貪欲とが絶対的な熱情として優勢を占める。しかし、資本主義的生産の進展は、ただ享楽の世界をつくりだすだけではない。それは、投機や信用制度によって、いくらでもにわかな致富の源泉を開く。発展がある程度の高さに達すれば、富の誇示であり同時に信用の手段でもある世間並みな程度の浪費は、「不幸な」資本家の営業上の必要にさえなる。奢侈は資本の交際費の一部になる。もともと、資本家は、貨幣蓄蔵者とは違って、彼自身の労働や彼自身の非消費に比例して富をなすのではなく、彼が他人の労働力を搾取し労働者に人生のいっさいの快楽を絶つことを強要する程度にしたがって富をなすのである。・・・彼の浪費は、彼の蓄積といっしょに、しかも一方が他方を中断させる必要なしに、増大するのである。それと同時に、個々の資本人の高く張った胸のなかでは、蓄積欲と享楽欲とのファウスト的葛藤が展開されるのである。」
マルクスは、「ドクター・エイキンが1795年に公刊した書」から、マンチェスターの工業主たちが、貨幣蓄蔵者→営業の拡大、奢侈の始まり→機械の出現、「営業の拡張にささえられた非常な奢侈と浪費」へと変化してきたことを指摘している。
「古典派経済学は背本家の歴史的機能を大まじめに問題にする。資本家の胸を享楽欲と致富欲とのやっかいな葛藤から守ってやろうとして、マルサスは、今世紀の20年代の初めに、現実に生産に携わる資本家には蓄積の仕事を割り当て、その他の剰余価値を分け取る人々、すなわち土地貴族や国家と教会からの受給者などには浪費の仕事を割り当てるという分業を弁護した。」
「資本の利潤(利子も含めて)は、支払を受けない「最後の12時間目の一労働時間」の産物だ、ということを見つけだした」ナッソー・ウィリアム・シーニアは、その「時からちょうど一年まえに、彼はもう一つの別な発見を世に告げていた。「私は」、と彼はおごそかに言った、「私は、生産用具と考えられる資本という言葉のかわりに節欲という言葉を用いる。」これこそ俗流経済学の「発見」のなによりの見本だ! 俗流経済学は、経済学的範躊のかわりにへつらいものの文句をもってくる。ただそれだけだ。シーニアは次のように講義する。・・・「社会が進歩すればするほど、ますます社会は節欲を要求する。」すなわち、他人の勤労とその生産物とを自分のものにするという勤労に従事する人々の節欲を。労働過程のいっさいの条件は、そのときから、それらと同じ数の、資本家の節欲の実行に転化する。・・・ただ蓄積するためだけではなく、単に「資本を維持するためにも、それを食ってしまうごとの誘惑に抵抗するための不断の努力が必要である。」・・・」。
「非常にさまざまな経済的社会構成体のなかでただ単純再生産が行なわれるだけではなく、規模の相違はあるにせよ、拡大された規模での再生産が行なわれる。ますます多く生産されて、ますます多く消費され、したがってますます多くの生産物が生産手段に転化される。しかし、この過程は、労働者にたいして彼の生産手段が、したがってまた彼の生産物も彼の生活手段も、まだ資本という形で対立していないあいだは、資本の蓄積としては現われないし、したがってまた資本家の機能としても現われない。」マルクスは、この例を、リチャード・ジョーンズのインドでの生産様式を挙げて、指摘している。
第4節 資本と収入とへの剰余価値の分割比率とは別に蓄積の規模を規定する諸事情−労働力の搾取度−労働の生産力−充当される資本と消費される資本との差額の増大−前貸資本の大きさ
「剰余価値が資本と収入とに分かれる割合を与えられたものとして前提すれば、蓄積される資本の大きさは、明らかに剰余価値の絶対量によって定まる。・・・だから、蓄積の大きさの規定では、剰余価値量を規定するすべての事情がいっしょに働くわけである。われわれはこれらの事情をここでもう一度とりまとめてみる」。
資本と剰余価値の相互浸透の一側面として、剰余価値の資本への再転化の条件を再検討するのが、ここでの目的である。
「剰余価値率はまず第一に労働力の搾取度によって定まる。・・・剰余価値の生産に関する諸篇では、どこでも、労賃は少なくとも労働力の価値に等しいといということが前提されていた。とはいえ、実際の運動ではむりやりに労賃をこの価値より下に引き下げることがあまりにも重要な役割を演じている・・・。この引き下げは、事実上、ある限界のなかで、労働者の必要消費財源を資本の蓄積財源に転化させるのである。」
マルクスは、労働者の賃金をその価値よりも低下させる「資本の恒常的な傾向」を、「たびたび引用する18世紀の一著述家、『産業および商業に関する一論』の著者」やベンジャミンートムソン(別名ランフォード伯)の『論集』の中に指摘している。また、「18世紀の末ごろ、そして19世紀の初めの数十年間、イギリスの借地農業者や地主は、農業日雇い人たちに労賃の形では最低よりも少なく支払い、残りは教区扶助金の形で支払うことによって、絶対的な最低賃金を押しつけた」ときに、「イギリスのドクペリ〔愚直な小役人〕たちが賃金率を「合法的に」決定しようとするときに演じた茶番」や、1814年の上院の調査委員会での「A・ベネットという人物」の証言にも、その傾向を見て取っている。「今日、労働者の必要消費財源の直接的略奪が、剰余価値の、したがってまた資本の蓄積財源の形成の上でどんな役割を演じているかは、たとえば、いわゆる家内労働(第13章第8節dを見よ)によって示された。」
「労働力の搾取度」を上げることによる資本の蓄積は、最低賃金の引き下げ以外にもある。
「どの産業部門でも、不変資本のうちの労働手段から成っている部分は、投資の大きさによって決定されている一定の労働者数にたいして十分でなければならないとはいえ、それは必ずしも使用労働者と同じ割合で増加する必要はない。・・・労働力のいっそう大きい緊張によって生みだされる追加労働は、剰余生産物と剰余価値、つまり蓄積の実体を、不変資本部分の比例的増大なしに、増大させることができるのである。」つまり、長時間労働を強制することによって、労働手段の比例的増大なしに、資本の蓄積をおこなうことができる。それは、採取産業や農業においてもいえる。
「採取産業、たとえば鉱山業では、原料は前貸資本の構成部分にはならない。労働対象はここでは過去の労働の生産物ではなく、自然から無償で贈られたものである。金属鉱石、鉱物、石炭、石材などがそれである。ここでは不変資本はほとんどただ労働手段だけから成っており、この労働手段は労働員が増加しても(たとえば労働者の昼夜交替)十分まにあうものである。しかし、そのほかの事情はすべて変わららないとすれば、生産物の量も価値も充用労働に正比例して増加するであろう。・・・労働力の弾力性のおかけで、蓄積の領域が、あらかじめ不変資本が拡大されることなしに拡大されてきたのである。」
「農業では、種子や肥料の追加分の前貸しなしには、耕地を拡大することはできない。しかし、この前貸しがなされさえすれば、土地の純粋に機械的な耕耘でさえも、生産物の大量増加に奇跡的な作用を及ぼす。こうして、従来と同数の労俗者がより多くの労働を行なうことによって、労働手段の新たな前貸しを必要とすることなしに、豊度が高められるのである。」
「最後に、本来の工業では、労働の追加支出はつねにそれに対応する原料の追加支出を前提するが、しかし必ずしも労働手段の追加支出は前提しない。そして、採取産業や農業は製造工業にそれ自身の原料やその労働手段の原料を供給するのだから、前者が追加的資本補給なしで生みだした追加生産物は後者のためにもなるのである。」
一般的に言えば「資本は、・・・労働力と土地とを自分に合体することによって、一つの膨張力を獲得するのであって・・・生産手段の価値と量とに画されている限界を超えて、それ自身の蓄積の諸要素を拡大することができる」。すなわち、ここにも量質転化の事例が存在するわけだ。
「資本の蓄積におけるもう一つの重要な要因は、社会的労働の生産性の程度である。」
マルクスは、労働の生産力の増大が、蓄積の規模を拡大するという。「労働の生産力の増大」→「与えられた大きさの剰余価値を表わす生産物量は増大」→「剰余価値率が不変ならば、・・・剰余生産物の量は増大」→「収入と追加資本とへの剰余生産物の分割が元のままならば、資本家の消費は蓄積財源が減少することなしに増加」。
一方、第15章第1節でみたように、「労働の生産力の増大」→「労働者の低廉化」=「剰余価値率の上昇」→「同じ可変資本価値がより多くの労働力を動かすのであり、したがってまたより多くの労働を動かすのである。同じ不変資本価値がより多くの生産手段に、すなわちより多くの労働手段や労働材料や補助材料に表わされ、・・・それゆえ、追加資本の価値が変わらなければ、またそれが減少してさえも、加速された蓄積が行なわれるのである。再生産の規模が素甘的に拡大されるだけではなく、剰余価値の生産が追加資本の価値よりも遠く増大するのである。」
また、「労働の生産力の発展は、原資本すなわちすでに生産過程にある資本にも反作用する。」
「現に機能している不変資本の一部分」である「機械類などのような労働手段」について、「もし労働の生産力がこのような労働手段の出生の場所で増大したならば、そしてこの生産力は科学や技術の絶えまない流れにつれて絶えず発展するのであるが、そういう場合には、いっそう有効な、またその効率から見ればいっそう安価な機械や道具や装置などが古いものにとって代わる。・・・古い資本はより生産的な形で再生産される。」
「不変資本のもう一つの部分である原料や補助材料」については、「ここでは改良された方法の採用などはすべて追加資本にも前から機能している資本にもほとんど同時に作用するのである。化学の進歩は、すべて、有用な素材の数をふやし、すでに知られている素材の利用を多様にし、したがって資本の増大につれてその投下部面を拡大するが、ただそれだけではない。それは、同時に、生産過程と消費過程との排泄物を再生産過程の循環のなかに投げ返すことを教え、したがって、先だつ資本投下を必要としないで新たな資本素材をつくりだす。ただ単に労働力の緊張度を高めることによって自然の富の利用を増進することと同様に、科学や技術は、現に機能している資本の与えられた大きさにはかかわりのない資本の膨張力をつくりあげる。同時に、科学や技術は、原資本のうちのすでに更新期にはいった部分にも反作用する。原資本は、その新たな形態のなかに、その古い形態の背後で行なわれた社会的進歩を無償で取り入れるのである。もちろん、このような生産力の発展には、同時に、現に機能している諸資本の部分的な減価が伴う。この減価が競争によって痛切に感ぜられるかぎり、おもな重圧は労働者にかかってくる。すなわち、労働者の搾取を強めることによって、資本家は損害を埋め合わせようとするのである。」
ここに科学技術の進歩が、資本の蓄積に及ぼす影響が端的に述べられている。これは言いかえれば、科学技術という上部構造が社会的生産力という土台に与える影響である。
また、マルクスは、労働の生産力の増大が、生産手段の価値が生産物に移る量を増大させるという。
「労働は、労働によって消費される生産手段の価値を生産物に移す。他方、与えられた労働量によって動かされる生産手段の価値も量も、労働の生産性が上がるのに比例して増大する。だから、同じ労働量はいつでも同量の新価値をその生産物につけ加えるだけだとはいえ、その労働量が同時に生産物に移す古い資本価値は、労働の生産性が高くなるにつれて増大するのである。」
ここで「一人のイギリス人紡績工と一人のシナ人紡績工」の例を挙げて、そのことを例証しているが、むしろ注目すべきは、その後段の文章である。
「だから、労働は、その生産手段の効果や規模や価値の増大につれて、したがって労働の生産力の発展に伴う蓄積につれて、絶えず膨張する資本価値をつねに新たな形態で維持し不滅にするのである。このような労働の自然力は、労働が合体されている資本の自己維持力として現われるのであって、それは、ちょうど、労働の社会的生産力が資本の属性として現われるようなものであり、また資本家による剰余労働の不断の取得が資本の不断の自己増殖として現われるようなものである。労働のすべての力が資本の力として映し出されるのであって、ちょうど商品のすべての価値形態が貨幣の形態として映し出されるようなものである。」
商品流通の世界は、商品の世界と貨幣の世界とに二重化している。以前見たように、貨幣の世界(性質)は、商品の世界(性質)を反映している。資本の世界も同様である。商品の生産過程は、労働力の消費過程と剰余価値=追加資本の生産過程(価値増殖過程)とに二重化している。資本の増殖過程は、労働過程の性質を反映するのである。
「資本が増大するのにつれて、充用された資本と消費された資本との差も増大する。言い換えれば、建物とか機械とか・・・いうような労働手段の価値量も素材量も増大するのであるが、これらの労働手段は、・・・絶えず繰り返される生産過程で、そのもの全体として機能し、一定の有用効果の達成に役だつのに、他方、・・・それはただ徐々に損耗して行くだけであり、・・・その価値をただ少しずつ生産物に移して行くだけである。これらの労働手段が生産物に価値をつけ加えることなしに生産物形成者として役だつ程度に応じて、つまり全体として充用されながら一部分ずつしか消費されない程度に応じて、それらは、前にも述べたように、・・・無償の役だちをするのである。このような、過去の労働が生きている労働につかまえられて活気づけられるときに行なう無償の役だちは、蓄積の規模が大きくなるにつれて蓄積されて行くのである。」ちなみに、ここでは、部分と全体との弁証法的矛盾の例が示されている。
「労働力の搾取度を与えられたものとすれば、剰余価値の量は、同時に搾取される労働者の数によって規定されており、また、この労働者数は、いろいろに違った割合でではあるが、資本の大きさに対応している。だから、蓄積の連続によって資本が増大すればするほど、消費財源と蓄積財源とに分かれる価値総額もますます増大するのである。」
「最後に、前貸資本の増大につれて生産規模が拡大されればされるほど、生産のすべてのばねがますます精力的に働くのである。」
第5節 いわゆる労働財源
「この研究の過程で明らかになったように、資本はけっして固定した量ではなく、社会的富のうちの弾力性のある一部分であり、剰余価値が収入と追加資本にどうわかれるかにしたがって絶えず変動する一部分である。・・・資本の大きさは与えられたものであっても、それに合体される労働力や科学や土地・・・はこの資本の弾力的な力をなすものであって・・・ある限界の中では、資本そのものの大きさにはかかわりにない作用範囲を許すのである。」
これに対し、「古典派経済学は、以前から、社会的資本を固定した作用度をもつ一つの固定した量と考えることを好んだ。」「この説は、・・・資本の一部分である可変資本、すなわち労働力に転換される資本を、一つの固定量として説明するために、利用された。可変資本の素材的存在、すなわち労働者にとって可変資本が表わしている生活手段量、またはいわゆる労働財源は、社会的富のうちの、自然の鎖で区切られていて越えることのできない特殊部分にでっちあげられた。」 マルクスは、この説として、フォーセット教授の例を挙げている。
 
第23章 資本主義的蓄積の一般的法則

 

第1節 資本構成の不変な場合に蓄積に伴う労働力需要の増加
「この章では、資本の増大が労働者階級の運命に及ぼす影響を取り扱う。この研究での最も重要な要因は資本の構成であり、またそれが蓄積過程の進行途上で受けるいろいろな変化である。」
資本(生きた労働と必要労働時間の矛盾をかかえた労働力商品を含む)と剰余価値(絶対的剰余価値と相対的剰余価値の矛盾を含む)の対立と剰余価値の資本への再転化=資本の蓄積過程は、資本と剰余価値の否定の否定による資本の螺旋的増大となって現れる。その結果の法則的把握が、ここでのテーマである。商品の生産過程は、労働過程と価値増殖過程に二重化しているので、その構成においてもそれぞれの側面を区別して扱わねばならない。その上で、相互の関係を把握するとき、相互の側面における浸透過程が明らかになる。
「資本の構成は、二重の意味に解されなければならない。」
「資本の価値構成」とは、「価値の面から見れば、それは資本が不変資本または生産手段の価値と、可変資本または労働力の価値・・・とに分かれる割合」であり、「資本の技術的構成」とは、「生産過程で機能する素材の面から見れば、・・・生産手段と生きている労働力とに分かれる。この構成は、一方における充用される生産手段の量と、他方におけるその充用のために必要な労働量との割合によって、規定される。」「資本の価値構成を、それが資本の技術的構成によって規定されてその諸変化を反映する限りで、資本の有機的構成と呼ぶ」。
ここで問題とするのは、「すべての生産部門の平均構成の総平均」すなわち、「一国の社会的資本の構成」である。
まずここでは、追加資本の構成が不変の場合を扱っている。
「他の不変な諸事情といっしょに資本の構成も不変だということ、すなわち、一定量の生産手段または不変資本が動かされるためにはつねに同量の労働力が必要だということを前提すれば、明らかに、労働にたいする需要と労働者の生計財源とは、資本の増大に比例して増大し、資本が急速に増大すればそれだけ急速に増大する。資本は年々剰余価値を生産し、剰余価値の一部分は年々原資本につけ加えられるのだから、また、この増加分そのものも、すでに機能している資本が大きくなって行くのにつれて年々増大するのだから、そして最後に、・・・資本の蓄積欲望が労働力または労働者数の増大を上回り、労働者にたいする需要がその供給を上回り、したがって労賃が上がるということかありうる。むしろ、前記の前提がそのまま存続する場合には、結局はそうなるよりほかはない。毎年、前年よりも多くの労働者が使用されるのだから、おそかれ早かれいつかは、蓄積の欲望が通常の労働供給を上回り始める点が、つまり賃金上昇の始まる点が、現われざるをえないのである。」
しかし、これは労働者階級の地位を変えるものではない。
「賃金労働者が維持され増殖されるための事情が多かれ少なかれ有利になるということは、資本主義的生産の根本性格を少しも変えるものではない。単純再生産が資本関係そのものを、一方に資本家、他方に賃金労働者を、絶えず再生産するように、拡大された規模での再生産、すなわち蓄積は、拡大された規模での資本関係を、一方の極により多くの資本家またはより大きな資本家を、他方の極により多くの賃金労働者を、再生産する。労働力は絶えず資本に価値増殖手段として合体されなければならず、資本から離れることができず、資本への労働力の隷属は、ただ労働力が売られて行く個々の資本家が入れ替わることによって隠されているだけで、このような労働力の再生産は、事実上、資本そのものの再生産の一契機をなしているのである。つまり、資本の蓄積はプロレタリアートの増殖なのである。」
「労働者たち自身のますます大きくなり、そしてますます多く追加資本に転化するようになる剰余生産物のうちから、以前よりも大きい部分が支払手段の形で彼らの手に還流してくるので、彼らは自分たちの享楽の範囲を広げ、彼らの衣服や家具などの消費財源をもっと充実させ、小額の準備金を形成することができるようになる。しかし、衣服や食物や取り扱いがよくなり特有財産がふえても、それは奴隷の従属関係や搾取を廃止しないのと同じように、賃金労働者の従属関係や搾取をも廃止しはしない。」
「剰余価値の生産、すなわち利殖は、この生産様式の絶対的法則である。労働力が生産手段を資本として維持し自分自身の価値を資本として再生産し不払労働において追加資本の源泉を与えるかぎりでのみ、ただそのかぎりでのみ、労働力は売れるのである。だから、労働力の販売の条件のうちには、労働者にとってより有利であろうとより不利であろうと、労働力の不断の再販売の必然性と、資本としての富の不断の拡大再生産とが含まれているのである。労賃は、すでに見たように、その性質上、つねに労働者の側からの一定量の不払労働の提供を条件とする。労働の価格の低下を伴う労賃の上昇などはまったく別としても、労賃の増加は、せいぜい、労働者がしなければならない不払労働の量的な減少を意味するだけである。この減少によって制度そのものが脅かされるような点までこの減少が続くことはけっしてありえないのである。」
したがって、労賃の上昇は、次の二つの場合になる。
「その一つは、労働の価格の上昇が蓄積の進行を妨げないのでその上昇が続くという場合である。・・・この場合には、不払労働の減少もけっして資本の支配の拡大を妨げないということは明白である。」
もう一つの場合、「労働の価格の上昇の結果、利得の刺激が鈍くなるので、蓄積が衰える。蓄積は減少する。しかし、その減少につれて、その減少の原因はなくなる。・・・資本主義的生産過程の機構は、自分が一時的につくりだす障害を自分で除くのである。労働の価格は、再び、資本の増殖欲求に適合する水準まで下がる。」
「第一の場合には、・・・資本の増加が搾取可能な労働力を不足にする」。「第二の場合には・・・資本の減少が搾取可能な労働力またはむしろその価格を過剰にするのである。このような資本の蓄積における絶対的諸運動が、搾取可能な労働力の量における相対的諸運動として反映するのであり、したがって、労働力の量そのものの運動に起因するように見えるのである。」
「結局はただ同じ労働者人口の不払労働と支払労働との関係でしかないのである。労働者階級によって供給され資本家階級によって蓄積される不払労働の量が、不払労働の異常な追加によらなければ資本に転化できないほど急速に増大すれば、賃金は上がるのであって他の事情がすべて変わらないとすれば、不払労働はそれに比例して減少するのである。ところが、この減少が、資本を養う剰余価値がもはや正常な量では供給されえなくなる点に触れるや否や、そこの反動が現れる。収入のうちの資本化される部分は小さくなり、蓄積は衰え、賃金の上昇運動は反撃を受ける。つまり、労働の価格の上昇は、やはり、ある限界のなかに、すなわち資本主義体制の基礎を単にゆるがさないだけではなく、増大する規模でのこの体制の再生産を保証するような限界のなかに、閉じ込められているのである。だから、一つの自然法則にまで神秘化されている資本主義的蓄積の法則が実際に表わしているのは、ただ、資本関係の不断の再生産と絶えず拡大される規模でのその再生産とに重大な脅威を与えるおそれのあるような労働の搾取度の低下や、またそのような労働の価格の上昇は、すべて、資本主義的蓄積の本性によって排除されている、ということでしかないのである」。
マルクスは、結論する。
「人間は、宗教では自分の頭の作り物に支配されるが、同様に資本主義的生産では自分の手の作り物に支配されるのである。」
第2節 蓄積とそれに伴う集積との進行途上での可変資本の相対的減少
前節では、「資本の技術的構成が不変のままで資本の増大が生ずるという局面」を見た。「資本主義体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最も強力なテコとなる点がかならず現れる。」
つまり、量的増大が質的変化=技術的構成の変化を引き起こすというのである。
「労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化される生産手段の相対的な量的規模に表される。・・・生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。・・・条件であろうと結果であろうと、生産手段に合体される労働力に比べての生産手段の量的規模の増大は、労働の生産性の増大を表わしている。だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に・・・現れる」。
「このような、資本の技術的構成の変化、すなわち、生産手段の量がそれに生命を与える労働力の量に比べて増大するということは、資本の価値構成に、資本価値の可変成分を犠牲としての不変成分の増大に、反映する。」
「しかし、不変資本部分に比べての可変資本部分の減少、または資本価値の構成の変化は、資本の素材的諸成分の構成の変動をただ近似的に示すだけである。・・・労働の生産性の上昇につれて労働の消費する生産手段の規模が増大するだけではなく、その規模に比べてその価値が低下するということである。つまり、その価値は、絶対的には上かるが、その規模に比例しては上がらないのである。したがって、不変資本と可変資本との差の増大は、不変資本が転換される生産手段の量と可変資本が転換される労働力の量との差の増大よりも、ずっと小さいのである。」
「労働の社会的生産力の発展は大規模の協業を前提」する。「商品生産では生産手段は私人の所有であり、したがって手の労働者は単独で独立に商品を生産するか、または自己経営のための手段をもっていなければ自分の労働力を商品として売るのであるが、このような商品生産という基礎の上では、かの前提は、ただ個別資本の増大によってのみ、または、ただ社会の生産手段と生活手段が資本家の私有物に転化されて行くのにつれて、実現される。商品生産という地盤は、大規模な生産を、ただ資本主義的形態においてのみになうことができる。したがって、個々の商品生産者の手のなかでのある程度の資本の蓄積が、独自な資本士義的生産様式の前提になるのである。」
つまり、商品生産の基盤の上では、資本の蓄積→独自な資本主義的生産様式というのである。「それゆえ、われわれも、手工業から資本主義的経営への移行にさいしては、このような蓄積を想定しなければならなかったのである。それは本源的蓄積と呼ばれてもよい。」「この基礎の上で成長するところの、労働の社会的生産力を増大させるための方法は、すべて、同時にまた剰余価値または剰余生産物の生産を増加させる方法であり、この剰余生産物はそれ自身また蓄積の形成要素である。」つまり、独自な資本士義的生産様式→資本の蓄積である。すなわち、独自な資本士義的生産様式と資本の蓄積とは、矛盾の弁証法的関係にあるというのである。「こうして、ある程度の資本蓄積が独自な資本主義的生産様式の条件として現われるとすれは、後者はまた反作用的に資本の加速的蓄積の原因になるのである。それだから、資本の蓄積につれて独自な資本主義的生産様式が発展するのであり、また独自な資本主義的生産様式の発展につれて資本の蓄積が進展するのである。この二つの経済的要因は、互いに与え合う刺激に複比例して資本の技術的構成の変化を生みだすのであって、この変化によって可変成分は不変成分に比べてますます小さくなって行くのである。」
個別資本と社会的資本とは、部分と全体の矛盾の形態をなしている。
全体は、部分から成る。
「資本として機能する富の量の増加につれて、個別資本家の手のなかでのこの富の集積を拡大し、したがって大現模生産と独自な資本主義的生産方法との基礎を拡大する。社会的資本の増大は多数の個別資本の増大によって行なわれる。他の事情はすべて変わらないと前提すれば、個別資本は、またそれらとともに生産手段の集積は、それらの資本が社会的総資本の可除部分をなしている割合に応じて増大する。同時に、元の資本から若枝が分かれて、新しい独立な資本として機能する。そのさい、とりわけ、資本家の家族のあいだでの財産の分割は、一つの大きな役割を演ずる。したがって、資本の蓄積につれて資本家の数も多かれ少なかれふえるのである。」ここにも、資本主義の独自な人口法則の一端が現れている。
ところで、部分の単なる集合だけが全体ではない。部分の相互作用が、全体を構成するために不可欠である。
「このような集積は、直接に蓄積にもとづくものであり、またはむしろ蓄積と同じなのであるが、それは二つの点によって特徴づけられる。第一に、個別資本家の手のなかでの社会的生産手段の集積の増大は、他の事情が変わらなければ、社会的富の増大の程度によって制限されている。第二に、社会的資本の、それぞれの特殊な生産部面に定着している部分は、多数の資本家のあいだに配分されていて、彼らは互いに独立して競争する商品生産者として相対している。だから、蓄積とそれに伴う集積とが多数の点に分散されているだけではなく、現に機能している資本の増大と交錯して新たな資本の形成や古い資本の分裂が行なわれているのである。それゆえ、蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の増大として現われるが、他方では多数の個別資本の相互の反発として現われるのである。
このような、多数の個別資本への社会的総資本の分裂、またその諸部分の相互の反発にたいしては、この諸部分の吸引が反対に作用する。・・・それはすでに形成されている諸資本の集積であり、・・・少数のより大きな資本への多数のより小さい資本の転化である。・・・すでにただ存在し機能している資本の配分の変化を前提するだけであり、したがってそれが行なわれる範囲は社会的富の絶対的な増加または蓄積の絶対的な限界によって制限されてはいない・・・。・・・これは、蓄積および集積とは区別される本来の集中である。」
資本の蓄積と集中を理論的に完全な形で取り扱おうとすれば、それは資本の流通まで論じなくてはならない。だからマルクスは、ここで論じうる範囲内で、議論を進めている。
「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。・・・資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必荷な個別資本の最小量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。」
部分同士の相互作用は、部分が全体の中の部分で居続けるために、部分と全体の矛盾を維持し続けるために、一つの仕組みを生む出す。
「資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での一つの新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。」
資本主義的蓄積と資本の集中の関係も、マルクスは矛盾として把握する。
「資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中のテコが、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、今日では、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。」
「集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。・・・かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。」つまり、資本の独占である。
「集中は蓄積の仕事を補う。・・・それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行われようと、・・・または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、その物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。」
「蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移っていくことによる資本の漸次的増加は・・・集中に比べて、まったく緩慢なやり方だ・・・。・・・ところが集中は、株式会社を媒介にして、たちまちそれをやってしまったのである。・・・集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働に対する相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。」
「一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである。」
第3節 相対的過剰人口又は産業予備軍の累進的生産
資本論の第1巻の中でも最も重要な第23章を続ける前に、ここで今一度、展開された論理を振り返っておこう。
資本の本質は、剰余価値である。第4章、第5章、第6章、第7章では、剰余価値が、資本から分離されたが、それは理論的であった。すなわち、資本を考察している私達だけに対して、向けられたものであった。絶対的剰余価値と相対的剰余価値の矛盾も、あくまで理論的であった。ところが、第7篇から始まる資本の蓄積は、いままで理論的であった区別が、実際に現れてくる過程である。すでに21章単純再生産において、剰余価値が周期的に消費される場合にも、その端緒が現れてくる。そうして、22章に置いて、剰余価値が資本から分離され、更に資本に転化されるのである。言い換えれば、この過程は、資本の本質が、資本から分離・対立・浸透し、更に資本に転化して行く過程である。
この論理的過程は、商品の場合と同一である。
商品の本質は、価値である。第1章第1節、第2節では、価値が商品から理論的に分離された。それが、第3節では、理論的でしかなかった価値が、実際に特殊な金と言う商品の上に現れてくる過程を扱っている。すなわち、商品の本質が、商品から分離・対立・浸透するのである。
商品と貨幣の否定の否定の運動は、物々交換から商品流通へと発展し、貨幣の独自の流通運動へ質的発展を遂げる。資本と剰余価値の否定の否定の運動でも、資本の構成の上に、質的変化を呼び起こす。
貨幣の展開は、紙幣が出現するに及んで、「価値表章の流通では、真実の貨幣流通のすべての法則が、あべこべに、さかだちをしてあらわれる。」一方、剰余価値の運動では、商品生産の所有法則を資本主義的取得法則へ反転させる。この弁証法的運動の結果、どういう事態が招きいれられるか、それが、この章の課題である。
「木を見て森を見ず」ということがないように、このような弁証法的な論理構成をしっかりと把握して置く必要がある。
「資本の蓄積はただ資本の量的拡大として現れたのであるが、・・・資本の構成の不断の質的変化を伴って、すなわち資本の可変部分を犠牲にしての不変部分の不断の増大を伴って、おこなわれるようになる」。蓄積、すなわち、否定の否定の反復運動によって、資本の量が質を規定する。
「独自な資本主義的生産様式、それに対応する労働の生産力の発展、それによってひき起こされる資本の有機的構成の変化は、蓄積の進展または社会的富の増大と単に同じ歩調で進むだけではない。それらはもっとずっと速く進行する。なぜかといえば、単純な蓄積すなわち総資本の絶対的拡大は総資本の個々の要素の集中を伴うからであり、また追加資本の技術的変革は原資本の技術的変革を伴うからである。」「労働にたいする需要は・・・総資本の大きさに比べて相対的に減少し、またこの大きさが増すにつれて加速的累進的に減少する。総資本の増大につれて、その可変成分、すなわち総資本に合体される労働力も増大するにはちがいないが、その増大の割合は絶えず小さくなって行くのである。」「この増大する蓄積と集中とは、それ自身また資本の構成の新たな変化の、すなわち資本の不変成分に比べての可変成分のいっそう速くなる減少の、一つの源泉になるのである。」
資本の蓄積と集中という量的変化が、資本の有機的構成の変化という質的転化を促進する。その結果、どういうことが起こるか。
「このような、総資本の増大につれて速くなり、そして総資本そのものの増大よりももっと速くなるその可変成分の相対的な減少は、・・・絶えず、相対的な、・・・過剰な、または追加的な労働者人口を生みだすのである。」「この過剰人口の生産は、すでに就業している労働者をはじき出すという比較的目にたつ形をとることもあれば、追加労働者人口を通常の排水溝に吸収することが困難になるというあまり人目にはつかないが効果は劣らない形をとることもある。」「労働者人口は、それ自身が生み出す資本蓄積につれて、ますます大量にそれ自身の相対的過剰化の手段を生みだすのである。これこそは、資本主義的生産様式に特有な人口法則なのであって、じっさい、どの特殊な歴史的生産様式にも、それぞれ特殊な歴史的に妥当する人口法則があるのである。」「人口法則は、生活手段の取得・消費による人間の生産と再生産である。それが、可変資本と言う形態で資本の全体的運動に支配されているので、「可変資本の相封量の累進的減少の法則」が、労働者階級の相対的過剰人口という資本主義的に特有な人口法則として現象するのである。
「しかし、過剰労働者人口が蓄積の、言い換えれば資本主義的基礎の上での富の発展の、必然的な産物だとすれば、逆にまたこの過剰人口は、資本主義的蓄積のテコに、じつに資本生義的生産様式の一つの存在条件に、なるのである。それは自由に利用されうる産業予備軍を形成するのであって、この予備軍は、まるで資本が自分の費用で育て上げたものででもあるかのように、絶対的に資本に従属しているのである。この過剰人口は、資本の変転する増殖欲求のために、いつでも搾取できる人間材料を、現実の人口増加の制限にはかかわりなしに、つくりだすのである。」
「社会的な富のうちの、蓄積の進展につれてふくれ上がって追加資本に転化できる大量は、その市場がにわかに拡大された古い生産部門に、または、鉄道などのように、古い生産部門の発展によって必要になった新たに開かれた生産部門に、激しい勢いで押し寄せる。すべてこのような場合には、人間の大群が、突発的に、しかも他の部面で生産規模を害することなしに、決定的な点に投入されうるようになっていなければならない。過剰人口はそれを供給するのである。近代産業の特徴的な生活過程、すなわち、中位の活況、生産の繁忙、恐慌、沈滞の各時期が、より小さい諸変動に中断されながら、10年ごとの循環をなしている形態は、産業予備軍または過剰人口の不断の形成、その大なり小なりの吸収、さらにその再形成にもとづいている。この産業循環の変転する諸局面は、またそれ自身、過剰人口を補充するのであって、過剰人口の最も精力的な再生産動因の一つになるのである。」
「近代産業の全運動形態は、労働者人口の一部分が絶えず失業者または半失業者に転化することから生ずるのである。」「結果がまた原因になるのであって、それ自身の諸条件を絶えず再生産する全過程の変転する諸局面は周期性の形態をとるのである。」
マルクスは、この後に、「オックスフォードの元の経済学教授で後にイギリス植民省の役人になったH・メリヴェール」やマルサスの言葉を借りて、「経済学は、このように、労働者の相対的過剰人口の不断の生産を資本主義的蓄積の一つの必要物として」認めていると言っている。
「資本生義的生産にとっては、人口の自然的増加が供給する利用可能な労働力の量だけでは、けっして十分ではない。この生産は、その自由な営みのためには、この自然的限度に制限されない産業予備軍を欠くことができないのである。」
いままでは、「可変資本の増減には精確に従業労働者数の増減が対応する」つまり、労賃は変わらないという条件であった。労賃が増加する、つまり、可変資本が増大しても労働者数が増大しない場合、労働者がより多くの労働を供給するならば、労賃は増える。一定の労働をより廉価に多数の労働者から搾り出す場合ならば、流動させられる労働の量に比例して不変資本の投下が増加するが、前の場合には、この投下は緩慢である。「資本家は、同額の可変資本を投下しても個々の労働力の外延的または内包的な搾取の増大によって、より多くの労働を流動させる・・・または・・・資本家は同じ資本価値でより多くの労働力を買うようになる」。「蓄積の進行につれて、一方ではより大きい可変資本が、より多くの労働者を集めることなしに、より多くの労働を流動させるのであり、他方では同じ大きさの可変資本が同じ量の労働力でより多くの労働を流動させるのであり、最後により高級な労働力を駆逐することによってより多くの低級な労働力を流動させる」。
「それゆえ、相対的過剰人口の生産または労働者の遊離は、そうでなくても蓄積の進行につれて速くされる生産過程の技術的変革よりも、またそれに対応する不変資本部分に比べての可変資本部分の比率的減少よりも、もっと早く進行する」。「労働者階級の就業部分の過度労働はその予備軍の隊列を膨張させるが、その予備軍がその競争によって就業部分に加える圧力の増大は、また逆に就業部分に過度労働や資本への命令への屈従を強制する」。マルクスは、特に「注」において、1863年イギリスの綿花飢餓における労働者のパンフレットから、このことを例証している。
「だいたいにおいて労賃の一般的な運動は、ただ、産業循環の局面変転に対応する産業予備軍の膨張・収縮によって規制されているだけである。だから、それは、労働者人口の絶対数の運動によって規定されているのではなく、労働者階級が現役軍と予備軍とに分かれる割合の変動によって、過剰人口の相対的な大きさの増減によって、過剰人口が吸収されたり再び遊離されたりする程度によって、規定されているのである。」
反対に、労賃が労働者人口の絶対数によって規定されているという説、すなわち、「労働の需要供給が資本の膨張・収縮によって、つまり資本のそのつどの増殖欲求に従って規制されていて、そのために、あるときは資本が膨張するので労働市場が相対的に供給過少になって現われ、あるときは資本が収縮するので労働市場が再び供給過多になるというのではなく、逆に資本の運動が人口の絶対的な運動に依存するのだという法則」=この「経済学的独断」について、1849年から1859年の間のイギリスの農業地帯での名目賃金上昇の際に取られた借地農業者の措置を例に引いて、反論している。「あの経済学の作り話は、労賃の一般的な運動を規制する諸法則、または労働者階級すなわち総労働力と社会的総資本との関係を規制する諸法則を、労働者人口を特殊な諸生産部門のあいだに配分する諸法則と混同している。」「彼が実際に見ているのは、ただ、一つの特殊な生産部面の労働市場の局部的な変動だけであり、ただ、資本の欲求の変化に応じて資本のいろいろな投下部面に労働者人口が配分されるという現象だけなのである。」
「産業予備軍は沈滞や中位の好況の時期には現役の労働者軍を圧迫し、また過剰生産や発作の時期には現役軍の要求を抑制する。だから、相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背景なのである。それは、この法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界のなかに、押しこむのである。」ここで、「新しい機械の採用や古い機械の拡張によって可変資本の一部分が不変資本に転化される場合に、このような、資本を「拘束する」と同時にまさにそうすることによって労働者を「遊離させる」操作を、」「それが労働者のために資本を遊離させるというように説明する」「経済学的弁護論者」について、反論している。「どの場合にも、もしそうでなければ投下を求める追加資本が一般的な労働需要に与えるであろう活況は、機械によって街頭に投げ出された労働者でまにあうかぎり、中和されているのである。つまり、資本主義的生産の機構は、資本の絶対的増大に伴ってそれに対応する一般的な労働需要の増大が生ずることのないようになっているのである。」「一方で資本の蓄積が労働にたいする需要をふやすとき、他方ではその蓄積が労働者の「遊離」によって労働者の供給をふやすのであり、同時に失業者の圧力は就業者により多くの労働を流動させることを強制して或る程度まで労働の供給を労働者の供給から独立させるのである。この基礎の上で行なわれる労働の需要供給の法則の運動は、資本の専制を完成する。」「彼らが労働組合などによって就業者と失業者との計画的協力を組織して、かの資本主義的生産の自然法則が彼らの階級に与える破滅的な結果を克服または緩和しようとするやいなや、資本とその追従者である経済学者とは、「永遠な」いわば「神聖な」需要供給の法則の侵害について叫びたてるのである。」
第4節 相対的過剰人口の種々の存在形態 資本主義的蓄積の一般的法則
「相対的過剰人口は、考えられるかぎりのあらゆる色合いで存在する。どの労働者も、彼が半分しか就業していないとか、またはまったく就業していない期間は、相対的過剰人口に属する。相対的過剰人口が・・・産業循環の局面変換によってそれに押印される大きな周期的に繰り返し現われる諸形態を別とすれば、それにつねに三つの形態がある。流動的、潜在的、停滞的形態がそれである。」
流動的状態:「近代産業の中心・・・だいたいにおいて就業者の数は増加する。この場合には過剰人口は、流動的な形態で存在する。」「本来の工場では、・・・まだ少年期を過ぎていない男子労働者がたくさん使用されている。少年期を過ぎてしまえば・・・大半は型どおりに解雇される。」「そのうえ、資本による労働力の消費は非常に激しいので、中年の労働者はたいていすでに多かれ少なかれ老朽化してしまっている。」「このような事情の下では、プロレタリアートのこの部分の絶対的増大は、その構成要素が急速に消耗するにもかかわらずその数を膨張させるという形態を必要とする。つまり、労働者世代の急速な交替である。この社会的要求は、大工業の労働者の生活事情の必然的な結果である早婚によってみたされ、また、労働者の子供の搾取が彼らの生産につけるプレミアムによってみたされるのである。」
潜在的状態:「資本主義的生産が農業を占領するやいなや、または占領する程度に応じて、農業で機能する資本が蓄積されるにつれて、農業労働者人口に対する需要は絶対的に減少するのであるが、ここでは、農業以外の産業の場合とは違って、労働者人口の排出がそれよりも大きな吸引によって埋め合わされることはないであろう。それゆえ、農村人口の一部分は絶えず都市プロレタリアート・・・に移行しようとしていて・・・。」「諸都市へのその絶えまない流れは、農村そのものに絶えず潜在的過剰人口があることを前提するのであって、・・・それゆえ、農村労働者は、賃金の最低限度まで押し下げられて、片足はいつでも貧困の泥沼につっこんでいるのである。」
停滞的状態:「停滞的過剰人口は、現役労働者軍の一部をなしているが、その就業はまったく不規則である。・・・その生活状態は労働者階級の平均水準よりも低く、そして、まさにこのことがそれを資本の固有な搾取部門の広大な基礎にするのである。労働時間の最大限と賃金の最小限とがそれを特徴づけている。われわれは家内労働という項のなかですでにそのおもな姿を知った。・・・・この要素は、労働者階級の総増加のうちに他の諸要素よりも比較的大きな割合を占めている。」
「相対的過剰人口のいちばん底の沈殿物が住んでいるのは、受救貧民の領域である。・・・本来のルンペンプロレタリアートを別にすれば、この社会層は三つの部類から成っている。」「第一は労働能力のあるもの」「「第二は孤児や貧児」「第三は堕落したもの、零落したもの、労働能力のないもの」「受救貧民は、現役労働者軍の廃兵院、産業予備軍の死重をなしている。受救貧民の生産は相対的過剰人口の生産のうちに含まれており、その必然性は相対的過剰人口の必然性のうちに含まれているのであって、受救貧民は相対的過剰人口とともに富の資本主義的な生産および発展の一つの存在条件になっている。」
「社会的富・・・が大きくなれば・・・産業予備軍も大きくなる。・・・この予備軍が現役労働者軍に比べて大きくなればなるほど、固定した過剰人口はますます大量になり、その貧困はその労働苦に反比例する。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の受救貧民層もますます大きくなる。これが資本主義的蓄積の絶対的な一般的な法則である。」
「ますます増大する生産手段量が、社会的労働の生産性の増進のおかげで、ますますひどく減って行く人力支出によって動かされうるという法則―この法則は、労働者が労働手段を使うのではなくむしろ労働手段が労働者を使うという資本主義的基礎の上では、労働の生産力が高くなればなるほど、労働者が自分たちの雇用手段に加える圧力はそれだけ大きくなり、したがって、労働者の生存条件、すなわち他人の富の増殖または資本の自己増殖のために自分の力を売るということはますます不安定になるということのうちに表わされている。つまり、生産的人口よりも生産手段や労働の生産性のほうが速く増大するということは、資本主義的には、逆に労働者人口がつねに資本の価値増殖欲求よりも速く増大するということのうちに表わされるのである。」
「剰余価値を生産するための方法はすべて同時に蓄積の方法なのであって、蓄積の拡大はすべてまた逆にかの諸方法の発展のための手段になるのである。だから、資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえないということになるのである。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、・・・もっと固く労働者を資本に釘づけにする。それは、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。」
このように記述した後で、マルクスは、「資本主義的蓄積の敵対的な性格は、経済学者たちによっていろいろな形で言い表わされている。」として、「18世紀の偉大な経済学著述家の一人、ヴェネツィアの僧オルテス」、「高教会のプロテスタント牧師タウンゼンド」、経済学者「シュトルヒ」「シスモンディ」、「ブルジョア理論家デステュット・ド・トラシ」の言葉を引用している。
第5節 資本主義的蓄積の一般的法則の例解
a 1846−1866年のイギリス
科学の法則は、事実をその法則に則って合理的に説明できるかどうかにかかっている。そのためには、法則を事実と突き合わせてなければならない。マルクスは、その例をイギリスに見出し、この節でそれを紹介する。詳細は本分を参照してもらうとして、ここでは要点だけを取り上げておく。
「近代社会のどの時期を見ても、最近の20年間ほど資本主義的蓄積の研究に好都合な時期はない。・・・すべての国のうちで典型的な実例を提供しているのはやはりイギリスである。なぜならば、イギリスは世界市場で第一位を維持しているからであり、資本主義的生産様式が十分に発展しているのはただここだけだからであり・・・。」
マルクスは、この資本論を書いた時点から20年前までのイギリスの資本主義的生産様式の拡大期を取り上げ、議会への統計報告資料等を使用して、彼が見出した法則の例証とする。
まず、「政府の人口調査」を紹介して、「最近の半世紀間のイギリスの人口の絶対的増加は非常に大きかったにもかかわらず、その相対的増加すなわち増加率は引き続き減少した」という。この人口の増大は、労働者階級の増大を暗示させる。
それに対し、イギリスの富の増大を、「所得税を課せられる利潤や地代」すなわち剰余価値の観点から把握する。具体的に、「課税される利潤」「課税対象になる土地(家屋、鉄道、鉱山、漁場などを含む)の賃貸料」「利潤から生ずる所得」などの増加率、「連合王国の課税所得の総額」の増加を挙げ、イギリスの人口増加率よりも資本の蓄積の増加率が上回っていたことの証拠を示している。
更に、「資本の蓄積は同時に資本の集積と集中とを伴った。」として、「100エーカー未満の借地農場」の減少、「相続税を課された100万ポンドを越える動産」の増加、1864年と1865年の「課税所得」の増加を例証として挙げている。
また、1855年と1864年の「連合王国で生産された石炭」「銑鉄」の量と価値、1854年と1864年の「連合王国で経営されていた鉄道」の距離と払込資本、1854年と1865年の「連合王国の総輸出入額」を比較し、人口の増加に対し、いかに富の増大が大きかったかを指摘している。
これに対し、「この産業の直接の担当者またはこの富の生産者、つまり労働者階級」の状態はどうであったか。
グラッドストンの議会演説が「上層階級の不断の富の蓄積と資本の不断の増大」とともに「それは一般に消費される品物を安くするのだから、労働者人口にとっても」利益になり、貧困が軽減された」と言うのに対し、公式の「ロンドンの孤児院の報告」を引用し、この間の「必要生活手段の累進的な騰貴」は労働者階級の窮状を軽減しておらず、「ほとんど、彼らの債権者である小売商人の奴隷になる」としている。
以下では「工業プロレタリアートと農業労働者とのうちの最悪の支払を受ける部分、すなわち労働者階級の過半をなしている部分が考察される」が、その前に「公認の受救貧民、すなわち、労働者階級の中でも労働力の販売という自分の生存条件を失って公共の施し物で露命をつないでいる部分」に言及している。
「公認の貧民名簿」によると、イングランドでは、1855年の85万人から1864年の107万人へと増加し、1866年の恐慌により更に増加率が増大したとし、「貧民群の干満運動は産業循環の周期的な局面変換を反映する。他方では、資本の蓄積とともに階級闘争が発展し、したがってまた労働者の自覚が発展するにつれて、受救貧民の現実の範囲について公式の統計はますます欺瞞的になる。」と結論している。
b イギリスの工業労働者階級の低賃金層
「工業労働者階級の低賃金層」については、「公衆衛生報告」を使用する。
まず、ドクター・スミスの報告書から引用して、「ランカシヤとチェシヤの疲弊した綿業労働者」(1862年)・5事業部門の都市労働者と農業労働者(1863年)の栄養状態について、炭素や窒素の栄養摂取量が、飢餓を免れるための必要量かそれ以下になっていることを示している。このことは、彼らの衣類・燃料の不足や衛生状態の悪化を反映している。
「最も勤勉な労働者層の飢餓的苦痛と、資本主義的蓄積にもとづく富者の粗野または優美な奢侈的消費との内的な関連は、経済的諸法則を知ることによってはじめて明らかにされる。住居の状態についてはそうではない。偏見のない観察者ならばだれでも認めるように、生産手段の集中が大量であればあるほど、それに応じて同じ空間での労働者の密集もますますはなはだしく、したがって、資本主義的蓄積が急速であればあるほど、労働者の住居の状態はますますみじめになる。富の進展に伴って、不良建築地区の取り払い、銀行や大商店などの巨大な建物の建築、取引上の往来やぜいたくな馬車のための道路の拡張、鉄道馬車の開設、等々による諸都市の「改良」が行なわれ、そのために目に見えて貧民はますます悪い、ますますぎっしり詰まった片すみに追い込まれる。」
「ぎっしり詰まった住宅、あるいはまたとうてい人間の住まいとは考えられない住宅という点では、ロンドンは第一位を占めている。」「ロンドンでは、古い街路や家屋の「改良」とそれに伴う取り払いが進み、中心部の工場や人口流入が増加し、最後に家賃が都市地代とともに騰貴するにつれて、労働者階級のいくらかよい状態にある部分も、小売商人やその他の下層中間階級の諸分子といっしょに、ますますこのひどい住宅事情の苦しみのなかに落ちこんで行く。」「救貧院はもう超満員で、議会がすでに同意した「改良」もまだ着手したばかりである。労働者は自分の元の家の取りこわしのために追い出されても、自分の教区を立ち去らないし、また立ち去ってもせいぜいその境界に近く隣りの教区に住みつくのである。」
「ある工業都市または商業都市で資本が急速に蓄積されればされるほど、搾取される人間材料の流人はそれだけ急激であり、労働者の即製の住居はますますみすぼらしい。こういう理由で、ニューカッスル・アポン・タインは、ますます産出の多くなる採炭採鉱地方の中心地として、ロンドンに次いで住宅地獄の第二位を占めるのである。」
「資本と労働とがあちこちに移動するために、一つの工業都市の住居状態は、今日はがまんのできるものでも明日はひどく悪いものになる。あるいは、都市の衛生当局が最悪の弊害を除くためについに立ち上がったこともあるかもしれない。しかし、明日はぼろぼろのアイルランド人やおちぶれたイングランドの農業労働者がいなごの大群のようにはいってくる。人々は彼らを穴倉や納屋に追い込むか、そうでなければ、従来は見苦しくなかった労働者の家を、住人が三十年戦争当時の宿泊兵のように次から次へと入れ替わる木賃宿にしてしまう。」
「ブリストルは、住宅の貧困においてロンドンから数えて第三位を占めている。」
c 移動民
この項目の下に、「その起源は農村でありながら大部分は工業に従事している一つの人民層」=「資本の軽歩兵であって、資本はこれを自分の必要に応じてあるときはこの点に、あるときはあの点に投げ込むのである。」「移動労働はいろいろな建築工事や排水工事や煉瓦製造や石灰焼や鉄道建設などに利用される。」つまり、出稼ぎの季節労働者であろう。
「それは疫病の遊撃隊で、それが陣を敷く場所の近隣に天然痘やチフスやコレラや狸紅熱などをもちこんでくる。鉄道建設などのような投資額の大きい企業では、たいていは企業者白身が自分の軍隊に木造小屋の類をあてがうのであるが、それは衛生設備などはなにもない急造の部落であって、これには地方官庁の取締りも及ばす、請負人のだんなには非常に有利なもので、彼は労働者たちを産業兵士としてと同時に借家人として二重に搾取するのである。」
例として、ロンドン近郊の鉄道工事において、不衛生な労働者の住居に置いて天然痘が蔓延したことを、報告書から引用している。
「イギリスのプロレタリアートの最高給部類に属する」「炭鉱やその他の鉱山の労働者」の「住居の事情」については、「通例は、鉱山の採掘人が、鉱山の所有者であるか賃借人であるかを問わず、自分の労働者たちのためにいくつかの小屋を設ける。」「鉱山地方は、鉱山従業員そのものやその周囲に群がる手工業者や小売商人などから成る一大人口を急速に引き寄せる。人口密度の高いところではどこでもそうであるが、ここでも地代は高い。したがって、採鉱業者は、坑口の近くにあるできるだけ狭い敷地に、自分の労働者とその家族を詰め込むのにちょうど必要なだけの小屋を建てようとする。」「小屋を建てるにあたっては、ただ一つの観点だけが支配する。すなわち、どうしても避けられないもの以外のいっさいの現金支出にたいする資本家の「禁欲」がそれである。」
例として、報告書から、「ノーサンバーランドやグラムの鉱山にしばりつけられている坑夫やその他の労働者の住居」は、「住民の健康を保証するためのどんな手段も顧みられないということは、ごくわずかな例外を除いて、すべての部落にあてはまる。」
「「世論」やあるいはまた衛生警察とさえ衝突しても、資本は、自分が労働者の機能や彼の家庭生活に押しつける危険でもあれば侮辱的でもある諸条件を、労働者をもっと有利に搾取するために必要だということによって「正当化する」ことを、少しもはばからない。すなわち、資本が工場の危険な機械にたいする保護設備や鉱山の換気・保安装置などを禁欲する場合がそれである。ここでの鉱山労働者の住居についてもそうである。」
d 恐慌が労働者階級の最高給部分に及ぼす影響
「恐慌が労働者階級の最高給部分にたいしてさえ、労働者階級の貴族にたいしてさえ、どんな影響を及ぼすか」の例として、1866年の恐慌後の「ロンドンの大事業部門の一つ」である鉄船建造業の盛んなロンドン東部のポプラーにおいて、『モーニングスター』の一通信員の詳細な報道のなかから、救貧院の労働者の悲惨な状況を引用している。
また、ロンドンの東部は、「鉄船建造業の所在地であるだけではなく、つねに最低限以下を支払われているいわゆる「家内労働」の所在地でもある」のであるが、「われわれの目の前で、このすばらしい首都の一地区で、世界に類のない莫大な富の蓄積のすぐそばで、四万の人が飢えて途方にくれているのだ」というトーリ党系の一新聞からの抜き書を紹介している。
この状況は、イギリスだけでなく、ベルギーでも同様であった。
「ベルギーの監獄と慈善施設との総監督官でベルギー統計中央委貝会の委員だった故デュクペシオ氏の著書「ベルギー労働者階級の家計予算」」には、「ベルギーのある標準的な労働者の家庭の一年間の収支が非常に精確な材料によって計算されて次にその栄養状態が兵卒や水兵や囚人のそれと比較されている」。それによれば、「水兵や兵卒どころか囚人とでさえ同じ栄養をとることのできる労働者の家庭はわずかしかないことがわかる」といっている。「彼らは毎日の食物を切り詰め、小麦パンのかわりにライ麦パンを食い、肉類はほとんど食わないかまたは全然食わず、同様に、バターや薬味もほとんど用いない。家族は一つか二つの室に詰めこみ、そこで娘も息子もいっしょに、しかも往々同じわらぶとんに寝る。衣類も洗濯も掃除用具も節約し、日曜の楽しみもあきらめ、要するにどんなにひどい窮乏でも覚悟しているのである。」
e イギリスの農業プロレタリアート
「資本主義的生産・蓄積の敵対的な性格が野蛮に現われているという点では、イギリス農業(牧畜を含む)の進歩とイギリス農業労働者の退歩とにまさるものはない。」
「近代的農業はイギリスでは18世紀の中ごろから始まる。」
以前より貧困化した「とはいえ、1770年から1780年までのイギリスの農村労働者の状態は、その食物や住居の状態から言っても、その自尊心や娯楽などの点から言っても、その後二度とは到達されなかった理想なのである。」「救貧法」では、「労働者が露命をつなぐために必要な名目額まで教区が施し物の形で名目賃金を補ったのである」が、「借地農業者が支払った賃金」に対し「教区が補填した賃金不足額」は、「1795年には労賃の四分の1よりも少なかったのに、1814年には半分以上になっている。このような事情のもとでは、イーデンの時代(1797年)にはまだ農村労働者の小屋で見いだされたほんのわずかな安楽も1814年にはもうなくなっていたということは、言うまでもなく明らかである。それ以来ずっと、借地農業者が飼っているすべての動物のうちで、物を言う道具である労働者は、最も酷使され、最も悪いものを食わされ、最も手荒く取り扱われるものになってしまったのである。」
「穀物法の廃止はイギリスの農業に異常な衝撃を与えた。非常に大規模な排水、畜舎内飼育や人工飼料植物栽培の新方法、機械的な施肥装置の採用、粘土地の新処理法、鉱物性肥料使用の増加、蒸気機開や各種の新作業機などの使用、いっそう集約的な耕作一般、これらのものがこの時代を特徴づけている。」更に「この最近の時期には、農村労働者人口の積極的減少が、耕作面積の拡張、いっそう集約的な耕作、土地に合体された資本と土地耕作に投ぜられた資本との未曾有の蓄積、イギリス農業史上に比類のない土地生産物の増加、土地所有者の地代収入の増大、資本家的借地農業者の富の膨張と、手を携えて進んだのである。」
ところが、「ロジャーズ教授の到達した結論では、今日のイギリスの農村労働者は、・・・1770−1780年時代のその先行者と比べてみただけでも、その状態は非常に悪化していて、「彼は再び農奴になっており」、しかも食物も住居も悪い農奴になっているのである。」
1863年の「流刑および懲役刑に処せられた罪人の給養および従業状態に関する公式の調査」では、「普通の農村労働者の常食」は、「イングランドの監獄の罪人の常食」よりずっと悪いということであり、1863年のドクター・スミスの報告書では、「農村労働者家庭の一大部分の常食が「飢餓病を防ぐための」最低限度以下」であった。「この調査の最も注目に値する結果の一つは、イングランドの農村労働者が連合王国の他の諸地方に見られるよりもずっと粗悪な食物をとっているということ」として、その調査結果の表を示している。
更に、ドクター・サイモンの報告書や、純粋な農業地方だけではなくイングランドのすべての州で5375戸の農村労働者の小屋を調査したドクター・ハンターの報告書を引用して、いかに農村労働者の家屋が悲惨な状態にあるかを紹介している。
「都市への不断の移住、農業借地の集中や耕地の牧場化や機械の採用などによる農村での不断の「人口過剰化」、小屋の破壊による農村人口の不断の追い立て、これらのことが手に手を携えて進んで行く。一つの地域の人間が減れば減るほど、その地域の「相対的過剰人口」はますます大きくなり、この過剰人口が雇用手段に加える圧力も居住手段を超過する農村住民の絶対的過剰もますます大きくなり、したがって農村では局地的過剰人口と最も悪疫培養的な人間の詰めこみがますますひどくなるのである。散在する小村落や市場町での人問集団の密度の増大は、農村の表面でのむりやりの人問排出に対応している。農村労働者の数の減少にもかかわらず、しかも彼らの生産物量の増大につれて、絶えまなく進行する農村労働者の「過剰化」は、彼らの受救的貧窮のゆりかごである。ついにはやってくる彼らの受救的貧窮は、彼らの追い立ての一動機であり、彼らの住宅苦の主要な源泉であって、この住宅苦はまた最後の抵抗力を挫いて、彼らを地主や借地農業者のほんとうの奴隷にしてしまい、こうして労賃の最低限度を彼らにとっての自然法則として固定するのである。」
「他面では、農村は、その恒常的な「相対的人口過剰」にもかかわらず、同時に人口不足である。これは、都市や鉱山や鉄道工事などへの人間流出があまりにも急激に起きる地点でただ局地的に現われるだけではなく、収穫期にも春や夏にも、非常に念入りで集約的なイギリスの農業が臨時の人手を必要とする多くの時期にどこでも見られることである。農村労働者は、農業の中位の要求にたいしてはいつでも多すぎるのであり、例外的または一時的な要求にたいしてはいつでも少なすぎるのである。それゆえ、公的な文書のなかでも、同じ場所で同じ時に労働不足と労働過剰という互いに矛盾する苦情が記されてあるのを見いだすのである。一時的または局地的な労働不足がひき起こすものは、けっして労賃の引き上げではなく、女や子供に農耕を強制することであり、この強制がますます低い年齢層に下がって行くことである。女や子供を搾取する範囲が大きくなれば、それがまた男の農村労働者の過剰化とその賃金の抑制とへの新たな手段になるのである。」
この例として、イングランドの東部地方で行なわれている、いわゆるガングシステム(作業隊制度)について、記述している。
「この州(リンカンシャー)の大きな部分は以前は沼沢だった新しい土地か、または、前記の他の東部諸州でも見られるような、海から干拓されたばかりの陸地である。蒸気機関は排水のために奇跡を演じた。以前の沼地や砂地、が今では豊かに実る穀物と最高の地代とを生んでいる。」「新たな借地農場が設けられるにつれて、新しい小屋が建てられなかっただけではなく、古い小屋まで取りこわされたが、労働の供給は、丘陵の背をうねる田舎道に沿って何マイルも遠くにある開放村落から得られた。」「借地農場に定住している労働者は、もっぱら、常時の激しい馬でやる農業労働に使われる。」「土地は、草取りや土砕きやいくらかの施肥や石拾いなどのような多くの軽い畑仕事を必要とする。それは、開放村落に住居のある作業隊すなわち組織された隊によって行なわれる。」
「作業隊は、10人から40人か50人までの人員、すなわち女や少年少女(13−18歳)・・、最後に男女の子供(6−13歳)から成っている。いちばん上に立つのはガングマスクー(隊の親方)で、これはどれも普通の農村労働者であり、たいてしはいわゆる不良、ならずもので、だらしのない酒飲みではあるが、いくらかの企業心と手腕とをもっている。彼は作業隊を募集し、この隊は彼の下で働くもので、借地農業者の下で働くのではない。」「親方は農場から農場に移り歩いて、自分の隊を一年に6−8か月働かせる。」「この制度の「暗い面」は、子供や少年少女の過度労働であり、5、6マイルからしばしば7マイルも離れた農場への道を彼らが毎日往復するというひどい強行軍であり、最後に「作業隊」の風紀のわるいことである。」
「作業隊制度は近年ますます拡大されてきたが、それは明らかに隊の親方のために存在するものではない。それは大借地農業者かまたは大地生の致富のために存在するものである。借地農業者にとっては、自分の手もとにおく労働人員を正常な水準よりもずっと少なくしておきながら、しかもどんな臨時の仕事のためにもつねに臨時の人手を準備しておき、できるだけわずかな貨幣でできるだけ多くの労働を取り出し、成年男子労働者を「過剰」にするためには、この制度以上に気のきいた方法はないのである。一方では大なり小なり農業労働者の失業が認められていながら、同時に他方では男子労働の不足や都市への移動のために作業隊制度が「必要」だと言われるわけは、これまでの説明によって理解されるであろう。リンカンシャなどの、雑草のない畑と人間雑草とは、資本主義的生産の極と対極なのである。」
f アイルランド
はじめに、1861年から1865年に渡る人口減少、家畜数の減少、穀類・野菜類の作付面積及び生産物の減少、地代・借地農業者利潤・工業者等利潤の増加のデータを示して、マルクスは、アイルランドの経済的状況を次のように概括する。
「アイルランドは今ではただ幅の広い堀で区切られたイングランドの一農業地帯でしかないのであって、イングランドに穀物や羊毛や家畜を供給し、また産業と軍隊との新兵を供給しているのである。」
「人口の減少は多くの土地を耕作の外に投げ出し、土地生産物を非常に減らし、また、牧畜用地面積の拡張にもかかわらずいくつかの牧畜部門では絶対的減少を生みだし、その他の牧畜部門では絶えず退歩によって中断されがちな、ほとんど言うに足りない進歩を生みだした。それにもかかわらず、住民数の減少につれて地代と借地農業利潤とは絶えず増大した。といっても後者は前者ほど恒常的にではなかったが。その理由は簡単にわかる。一方では、借地農場の合併や耕地の牧場化につれて総生産物中のより大きな部分が剰余生産物になった。剰余生産物がその一部分をなしている総生産物は減少したのに、剰余生産物は増加した。他方では、最近20年来、また特に最近10年来、肉類や羊毛などのイングランド市場価格が上昇を続けたために、この剰余生産物の貨幣価値はその量よりももっと急速に上がったのである。」「人口の減少につれて農業に充用される生産手段の量も減少したのに、農業に充用される資本の量が増加したのは、以前は分散されていた生産手段の一部分が資本に転化されたからである。」
「農業以外で、工業や商業に投ぜられたアイルランドの総資本は、最近の20年間に、ゆっくりと、絶えず大きく動揺しながら、蓄積された。ところが、この総資本の個々の構成部分の集積は、ますます急速に発展した。最後にこの総資本の絶対的増大はどんなにわずかでも、柏対的には、すなわち人口の減少に比べれば、それは膨張したのである。」
「1846年にアイルランドでは飢饉が100万以上の人間を、といってもただ貧乏人だけを、殺した。」「その後20年間の、そして今もなお増大しつつある人口流出は」合衆国への移民であった。
「過剰人口から解放されたアイルランドの労働者たちにとっては、結果はどうだったか? 相対的過剰人口は今日でも1846年以前と同様に大きいということ、労賃は同様に低くて労働苦は増してきたということ、農村の困窮が再び新しい危機を呼び起こしそうだということ、これが結果だった。その原因は簡単である。農業での革命が移民といっしょに進んだのである。相対的過剰人口の生産が人口の絶対的減少よりも速く進んだのである。」「従来の耕地の大きな部分が休耕地や永久的草地に変えられると同時に、以前は利用されなかった荒れ地や泥炭地の一大部分が牧畜の拡張に役だっている。中小借地農業者・・・今でも総数の約10分の8を占めている・・は、以前とはまったく違った程度で、ますます、資本家的経営の農耕の競争に圧迫され、したがって賃金労働者階級に絶えず新兵を供給する。アイルランドのただ一つの大工業であるリンネル製造業は、成年男工を必要とすることが比較的少なく、・・・人口の比較的わずかな部分しか使用していない。」「農村民の貧困は巨大なシャツエ場などの台座になっており、これらの工場の労働者軍の大部分は農村に散在している。われわれは、前にも述べたような、過少支払と過度労働とを「人口過剰化」の組織的手段とする家内労働体制を、ここで再び見いだすのである。」「国外移住がこの国でつくりだすすきまは、地方的な労働需要を縮小するだげではなく、小売商人や手工業者や小営業者一般の収入をも減少させる。」
「アイルランドの農村日雇労働者の状態の明瞭な記述は、アイルランドの救貧法監督官の報告書のなかに見いだされる。」「以前は農村労働者は小借地農業者と融合していて、たいていはただ大中の借地農場の後衛になっているだけで、これらの農場に自分たちの仕事を見いだしていたのである。1846年の破局以後はじめて彼らは純粋な賃金労働者の階級の一部分に、すなわち、ただ貨幣関係だけによって自分の雇い主と結ばれている特殊な一階級に、なりはじめたのである。1846年の彼らの住宅状態がどんなものだったかは、人々の知るとおりである。その後、それはもっと悪くなってきた。農村日雇労働者の一部分、といってもこの部分は日に日に減って行くのであるが、彼らはまだ借地農業者の地所で小屋に詰めこまれて住んでおり、その小屋のひどさは、イングランドの農村地方でわれわれの前に繰り広げられたその種の最悪のものをはるかに上回っている。」
「農業革命、すなわち耕地の牧場化や機械の充用や最も厳重な労働節約などの前述のような結果は、自分の地代を外国で消費したりしないで情け深くもアイルランドで自分の領地に住んでいる模範地主たちによって、ますます激しくされる。」
「このように、救貧法監督官の報告書には、就業の不安定や不規則、労働中絶の頻発と長期継続、このような相対的過剰人口のいっさいの徴候が、それぞれアイルランドの農業プロレタリアートの苦痛として現われている。」「工業国のイングランドでは産業予備軍が農村で補充されるが、農業国のアイルランドでは農業予備軍が都市で、すなわち駆逐された農村労働者の避難所で、補充されるということである。イングランドでは農業の過剰人口が工場労働者に転化する。アイルランドでは都市に追い出された人々は、同時に都市の賃金に圧迫を加えはするが、やはり農業労働者なのであり、労働需要に応じて絶えず農村に送り返されるのである。」「こういうわけで、報告者たちの一様な証言によれば、暗い不満がこの階級の隊列にしみこんでいるということや、この階級が過去をなつかしみ、現在を憎み、未来に絶望し、「扇動家たちの悪い影響に左右され」、ただ、アメリカに移住するという一つの固定観念を抱いているだけだということは、少しも不思議ではないのである。」「アイルランドでの地代の蓄積と同じ足並みでアメリカでのアイルランド人の蓄積が進む。」  
 
第24章 いわゆる本源的蓄積

 

第1節 本源的蓄積の秘密
この章では、本源的蓄積、すなわち、資本主義的蓄積に先行する蓄積、資本主義的生産様式の出発点である蓄積が論じられる。論理的に辿ってきた商品生産から資本主義的生産の展開を、歴史的に辿る過程である。
「二つの非常に違った種類の商品所持者が対面し接触しなければならない・・・。その一方に立つのは、貨幣や生産手段や生活手段の所有者であって、彼らにとっては自分がもっている価値額を他人の労働力の買い入れによって増殖することこそが必要なのである。他方に立つのは、自由な労働者、つまり自分の労働力の売り手であり、したがってまた労働の売り手である。自由な労働者というのは、・・・彼らはむしろ生産手段から自由であり離れており免れているという二重の意味で、そうなのである。このような商品市場の両極分化とともに、資本主義的生産の基本的諸条件は与えられているのである。資本関係は、労働者と労働実現条件の所有との分離を前提する。資本主義的生産がひとたび自分の足で立つようになれば、それはこの分離をただ維持するだけではなく、ますます大きくなる規模でそれを再生産する。だから、資本関係を創造する過程は、労働者を自分の労働条件の所有から分離する過程、すなわち、一方では社会の生活手段と生産手段を資本に転化させ他方では直接生産者を賃金労働者に転化させる過程以外のなにものでもありえないのである。つまり、いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならないのである。」
「資本主義社会の経済的構造は封建社会の経済的構造から生まれてきた。後者の解体が前者の諸要素を解き放したのである。」
「生産者たちを賃金労働者に転化させる歴史的運動は、一面では農奴的隷属や同職組合強制からの生産者の解放として現れる。」「他面では、この新たに解放された人々は、彼らからすべての生産手段が奪い取られ、古い封建的な諸制度によって与えられていた彼らの生存の保証がことごとく奪い取られてしまってから、初めて自分自身の売り手になる。」
「産業資本家たち、この新たな主権者たち自身としては、同職組合の手工業親方だけではなく、富の源泉を握っている封建領主をも駆逐しなければならなかった。この面から見れば、彼らの興起は、封建的勢力やその腹だたしい特権にたいする戦勝の成果として、また同職組合やそれが生産の自由な発展と人間による人間の自由な搾取とに加えていた拘束にたいする戦勝の成果として、現われる。」
「賃金労働者とともに資本家を生みだす発展の出発点は、労働者の隷属状態だった。そこからの前進は、この隷属の形態変化に、すなわち封建的搾取の資本主義的搾取への転化に、あった。」
「本源的蓄積の歴史のなかで歴史的に画期的なものといえば、・・・人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引き離されて無保護なプロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間である。農村の生産者すなわち農民からの土地収奪は、この全過程の基礎をなしている。」
第2節 農村住民からの土地の収奪
ここで、封建的社会の経済的構造について、振り返っておこう。
「小農民経営と独立手工業経営とは、・・・封建的生産様式の基礎」をなしている。エンゲルスの「起源」の記述を引用すると、「フランクの自由な農民は、その先行者であるローマのコロヌスと似た状態におかれていた。戦争や略奪によって零落した彼らは、新興の豪族または教会の保護に身をゆだねなければならなかった。王権があまりにも弱く、彼らを保護することができなかったからである。しかし、この保護にたいして彼らは高い代償を払わなければならなかった。以前にガリアの農民がしたように、彼らはその土地の所有権を保護主に譲渡しなければならず、この土地を彼から種々不定の形態の貢租負担地として、しかしつねに賦役と貢納の給付と引換えにのみ受け戻したのである。いったんこの従属の形態におちいると、彼らはしだいに人身的自由をも失っていった。数世代のちには、彼らは大部分がすでに農奴であった。」
このような「有力な領主とこれに仕える農民との関係」は、それが領主の圧政に陥ろうと、農業を基礎とする社会における生産手段としての土地を守護するための、いわば一種の政治的役割分担とも見なすことができる。これが、封建制の上部構造であり、「恩貸制と保護托身制の封建制度への発展」に繋がっていくのである。
「イギリスでは農奴制は14世紀の終わりごろには事実上なくなっていた。・・・15世紀ごろにはさらにいっそう、人口の非常な多数が自由な自営農民から成っていた。」
「ヨーロッパのどの国でも、封建的な生産は、できるだけ多くの家臣の間に土地を分割するということに特徴づけられている。封建領主の権力は、・・・彼の家臣の数にもとづいていたし、またこの家臣の数は自営農民の数にかかっていた。それだから、ノルマン人による征服の後には・・・この土地には一面に小農民経営がばらまかれていて、ただあちこちにいくらか大きい領主直属地が点在していただけだったのである。」
封建制という政治的上部構造の崩壊は、それを支える経済的土台(農業と手工業)が、資本主義を準備する土台(工業)の浸透によって、浸食されて行く過程でもある。しかし、封建的上部構造は、それに平行して変革されたのではなくむしろ抵抗したのであり、資本主義的上部構造によって不必要になったことを宣言され押しのけられるまで、遺物として残り続けるものである。この間の事情を、マルクスは以下に描き出している。
「資本主義的生産様式の基礎をつくりだした変革の序曲は、15世紀の最後の三分の一期と16世紀の最初の数十年間に演ぜられた。・・・「どこでもいたずらに家や屋敷をふさいでいた」封建家臣団の解体によって、無防備なプロレタリアの大群が労働市場に投げ出された。・・・大封建領主は、・・・農民をその土地から暴力的に駆逐することによって、また農民の共同地を横領することによって、比べものにならないほど大きなプロレタリアートをつくりだしたのである。これに直接の原動力を与えたものは、イギリスでは特にフランドルの羊毛マニュファクチャの興隆とそれに対応する羊毛価格の騰貴だった。・・・耕地の牧場化は新しい貴族の合言葉になったのである。」
「民衆の暴力的な収奪過程は16世紀には宗教改革によって、またその結果としての大がかりな教会領の横領によって、新たな恐ろしい衝撃を与えられた。」「教会領は古代的な土地所有関係の宗教的保塁になっていた。その崩壊と共に、この関係ももはや維持できなくなったのである。」
「17世紀の最後の数十年間にも、独立農民層であるヨーマンリは、まだ借地農業者の階級よりも人数が多かった。」「農村賃金労働者でさえも、まだ共同地の共同所有者だった。1750年にはヨーマンリはほとんどなくなっていたし、18世紀の最後の数十年には農民の共同地の最後の痕跡も消えてしまった。」
「スチュアート王朝復位のもとでは、土地所有者は・・・封建的土地制度を廃止した。」
「「名誉革命」は、オレンジ公ウイリアム3世といっしょに地主的および資本家的利殖者たちも支配者の地位につけた。彼らは、それまでは控えめにしか行われなかった国有地の横領を巨大な規模で実行することによって、新時代の幕を開けた。」「ブルジョア的資本家たちはこの処置を助けたのであるが、その目的は、なかんずく、土地を純粋な取引物に転化させること、農業大経営の領域を拡大すること、農村から彼らへの無保護なプロレタリアの供給をふやすことなどにあった。そのうえに、新たな土地貴族は、新たな銀行貴族や、孵化したばかりの大金融業者や、当時は保護関税に支持されていた大製造業者たちの当然の盟友だった。」
「共同地・・・は一つの古代ゲルマン的制度だったのであって、それが封建制の外皮の元で存続したのである。すでに見たように、この共同地の暴力的横領が、多くは耕地の牧場化を伴って、15世紀末に始まり16世紀にも続けられるのである。しかし、当時はこの過程は個人的な暴行として行なわれたのであって、これにたいして立法は150年にわたってむだな抗争を続けたのである。18世紀の進歩は、法律そのものが今では人民共有地の盗奪の手段になるということのうちに、はっきりと現われている。といいっても大借地農業者たちはそのほかに彼ら自身としての小さな個人的な方法も用いるのではあるが。この盗奪の議会的形態は「共同地囲い込み法案」という形態であり、言い換えれば、地主が人民共有地を私有地として自分自身に贈与するための法令であり、人民収奪の法令である。」
「一方では独立のヨーマンに代わって任意借地農業者、すなわち一年の解除予告期間を条件とする比較的小さい借地農業者で地主の恣意に依存する隷属的な一群が現われたが、他方では、国有地の横領と並んで、ことに、組織的に行なわれた共同地の横領が、かの18世紀に資本借地農場とか商人借地農場とか呼ばれた大借地農場の膨張を助けたのであり、また農村民を工業のためのプロレタリアートとして「遊離させる」ことを助けたのである。」
「最後に、農耕者から土地を取り上げる最後の大がかりな収奪過程は、いわゆる地所の清掃(−実際には土地からの人間の掃き捨て)である。」
「教会領の横領、国有地の詐欺的な譲渡、共同地の盗奪、横領と容赦ない暴行とによって行われた封建的所有や氏族的所有の近代的所有への転化、これらはみなそれぞれ本源的蓄積の牧歌的な方法だった。それらは、資本主義農業のための領域を占領し、土地を資本に合体させ、都市工業のためにそれが必要とする無保護なプロレタリアートの供給をつくりだしたのである。」
ここに記されている歴史的経緯を引き合いに、マルクスは、その「注」の中で、古代ローマの兵役の義務を負った平民の没落やカール大帝の下での自由農民の没落とを比較している。この部分は、エンゲルスの「起源」を読むと更によく理解される。
第3節 15世紀末以来の被収奪者にたいする血の立法 労賃引き下げのための諸法律
封建制の崩壊が、直接的に資本主義の引き金となったのではない。資本主義が起こるためには、資本主義の助走ともいうべきさまざまな経済的契機が用意されていなければならず、その土台的変革に対応した上部構造が形成されねばならない。その過渡期には、一見奇妙とも思える上部構造が一次的に形成されることがある。それは最終的には廃止されるのではあるが。
「・・・このような無保護なプロレタリアートは、・・・彼らは群をなして乞食になり、盗賊になり、浮浪人になった。それは・・・たいていは事情の強制によるものだった。こういうわけで、15世紀末と16世紀の全体とをつうじて、西ヨーロッパ全体にわたって浮浪に対する血の立法がおこなわれたのである。」「こうして暴力的に土地を収奪され追い払われ浮浪人にされた農村民は、奇怪な恐ろしい法律によって、賃労働の制度に必要な訓練を受けるために、焼印を押され、拷問されたのである。」
この節は、第8章第5節に繋がる部分であって、資本主義の揺籃期における労働時間をめぐる問題と直接関連している。
「興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を「調節する」ために・・・労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これこそは、いわゆる本源的蓄積の一つの本質的な契機なのである。」
「都市についても農付についても、出来高仕事についても日ぎめ仕事についても、法定賃金率が確定された。」
「16世紀には、人の知るように、労働者の状態は非常に悪くなっていた。・・・賃金は実際には下がったのである。それでもまだ、賃金押し下げのための諸法律は、「雇い手のなかった」人々の耳切りや焼き印といっしょに存続した。」
「本来のマニュファクチュア時代には、資本主義的生産様式は、労賃の法的規制を実行不可能なものにし不要なものにすることができるだけの十分な強さに達していたが、それでも、人々は、万一の場合のことを考えて、昔の武器庫をからにしようとは思わなかった。」
「ついに、1813年、賃金規制に関する諸法律は廃止された。資本家が自分の私的立法によって工場を取り締まるようになり、救貧税によって農村労働者の賃金をどうしても必要な最低限まで補わせるようになってからは、これらの法律はこっけいな変則だったのである。」
「団結を禁止する残酷な諸法律は、1825年にプロレタリアートの威嚇的態度の前に屈した。といっても、屈したのはただ一部分だけだった。古い諸法規のいくつかの美しい残片は、1859年になってやっとなくなった。最後に、1871年6月29日の法律は、労働組合の法的承認によってこの階級立法の最後の痕跡を消し去るのだと称した。」「要するに、イギリスの議会は、まったくいやいやながら民衆の圧力に屈して、ストライキや労働組合を禁圧する法律を放棄したのであるが、それは、すでにこの議会そのものが、五世紀の長きにわたって、労働者に対抗する恒常的な資本家組合の地位を恥知らずの利己主義で維持してきてからあとのことだったのである。」
第4節 資本家的借地農業者の生成
農業の分野で、工場における産業資本家の役割を負うのは、借地農業者である。
「借地農業者の生成について言えば、・・・それは幾世紀にもわたる緩慢な過程だからである。」「本来の借地農業者というのは、彼自身の資本を賃金労働者の使用によって増殖し、剰余生産物の一部分を貨幣か現物かで地主に地代として支払うものである。」
借地農業者が資本家に成り上がるのも、封建制の崩壊と、資本主義的の引き金となった経済的契機があった。
「15世紀の最後の三分の一期の農業革命は、16世紀のほとんど全体をつうじて続くのであるが、・・・この革命は農村民を貧しくして行くのと回し速さで借地農業者を富ませて行く。共同牧場などの鉄領によって彼はほとんどただで自分の家畜を大いにふやすことができ、同時にこの家畜は土地耕作のためのいっそう豊富な肥料を彼に供給する。」
「16世紀には・・・ 貴金属の価値、したがってまた貨幣の価値が引き続き低落したということは、借地農業者のために黄金の果実を結んだ。この低落は、前に論じた他の事情はすべて別にしても、労賃を低落させた。労賃の一部分は借地農業利潤につけ加えられた。穀物や羊毛や肉類など、要するにすべての農業生産物の価格の継続的な上昇は、借地農業者がなにもしないでも彼の貨幣資本を膨張させたが、他方、彼が支払わなければならなかった地代は以前の貨幣価値で契約されていた。こうして、彼は、彼の賃金労働者と彼の地主とを同時に犠牲にして、富をなしたのである。だから、16世紀末のイギリスに当時の事情から見れば富裕な「資本家借地農業者」という一階級がめったということは、少しも不思議ではないのである。」
第5節 農業革命の工業への反作用 産業資本のための国内市場の形成
農業と工業は、相互浸透しながら、資本主義的変革を成し遂げる。すなわち、資本主義的工業(マニュファクチュア)の発展が、農業の資本主義的変革(耕地の牧場化、農業革命、農業生産物の価格の高騰、その結果としての封建的土台の崩壊)を引き起こしたが、それがまた工業へ反作用する、プロレタリアと労働市場の形成であり、生活手段と労働手段のための国内市場の形成である。一方、工業の発展は、農業へ反作用する。こうして相互に浸透を繰り返しながら、資本主義的経済的土台が完成して行くのである。
しかし、その転換期=過渡期には、多少の変動を伴うものでもある。
「独立自営農村民の稀薄化には、・・・その耕作者の数が減少したにもかかわらず、土地は以前と同量かまたはより多量の生産物を生みだした。というのは、土地所有関係の革命が耕作方法の改良や協業の大規模化や生産手段の集積などを伴っていたからであり、また、農村賃金労働者の労働の強度が高められただけではなく、彼らが自分自身のために労働した生産場面がますます縮小したからである。つまり、農村民の一部分が遊離させられるのにつれて、この部分の以前の食料もまた遊離させられるのである。この食料は今や可変資本の素材的要素に転化する。追い出された農民は、この食料の価値を自分の新しい主人である産業資本家から労賃という形で買い取らなければならない。国内で生産される農産工業原料についても、事情は生活手段の場合と同じだった。それは不変資本の一つの要素に転化した。」
「小農民を賃金労働者に転化させ、彼らの生活手段と労働手段を資本の物的要素に転化させる諸事件は、同時に資本のためにその国内市場をつくりだすのである。」「これらの原料や生活手段は、・・・大借地農業者がそれを売るのであり、彼はマニュファクチュアに自分の市場を見いだすのである。糸やリンネルや粗製毛織物など、・・・このようなものが今ではマニュファクチュア製品にされてしまって、まさにその農村地方そのものがそれらの販売市場になるのである。・・・このようにして、以前の自営農民の収奪や彼らの生産手段からの分離と並んで、農村副業の破壊、マニュファクチュアと農業との分離過程が進行する。そして、ただ農村家内工業の破壊だけが、一国の国内市場に、資本主義的生産様式の必要とする広さと強固な存立とを与えることができるのである。」
「とはいえ、本来のマニュファクチュア時代には根本的な変化はなにも現われない。人々の記憶にあるように、この時代は国民的生産を非常に断片的に征服するだけで、つねに都市の手工業と家内的・農村的副業とを広い背景としてこれに支えられているのである。この時代はこれらのものをある種の形態や特殊な事業部門やいくつかの地点では破壊するにしても、よそでは再び同じものを呼び起こすのであって、それというのも、この時代は原料の加工のためにある一定の程度まではこれらのものを必要とするからである。それだから、この時代は一つの新しい部類の小農民を生み出すのであって、このような農民は耕作を副業として営み、生産物をマニュファクチュアに売るための工業的労働を本業とするのである。」
「大工業がはじめて機械によって資本主義的農業の恒常的な基礎を与え、巨大な数の農村民を徹底的に収奪し、家内的・農村的工業−紡績と織物―の根を引き抜いてそれと農業との分離を完成するのである。したがってまた、大工業がはじめて産業資本のために国内市場の全体を征服するのである。」
第6節 産業資本家の生成
この節では、商業と工業及びその相互浸透における本源的蓄積の側面が、資本主義の諸要素を列挙しながら、いわば網羅的に語られる。マルクスらしい観点の見事さから、全文を引用したい衝動に駆られるが、そうすると長くなるので、ここでは要点のみを引用する。
「産業資本家の生成は、・・・多くの小さな同職組合親方や、もっと多くの独立の小工業者たちが、あるいは賃金労働者さえもが、小資本家になり・・・文句なしの資本家になった。」「しかし、この方法の蝸牛の歩みは、けっして、15世紀末の諸大発見がつくりだした新たな世界市場の商業要求に応ずるものではなかった。しかし、中世はすでに二つの違った資本形態・・・非常にさまざまな経済的社会構成体のなかで成熟して資本主義的生産様式の時代以前にも資本一般として認められている二つの形態―高利資本と商人資本とがそれである。」
「高利と商業とによって形成された貨幣資本に、農村では封建制度によって、都市では同職組合制度によって、産業資本への転化を妨げられた。このような制限は、封建家臣団が解体され、農村民が収奪されてその一部分が追い出されると同時に、なくなった。新たなマニュファクチュアは輸出海港に設けられ、あるいはまた古い都市やその同職組合制度の支配外にあった田舎の諸地点に設けられた。」
「アメリカの金銀産地の発見、原住民の掃滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪との開始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらのできごとは資本主義的生産の時代の曙光を特徴づけている。このような牧歌的な過程が本源的蓄積の主要契機なのである。これに続いて、全地球を舞台とするヨーロッパ諸国の商業戦が始まる。それはスペインからのネーデルランデの離脱によって開始され、イギリスの反ジャコバン戦争で巨大な範囲に広がり、シナにたいする阿片戦争などで今なお続いている。」
「いまや本源的蓄積のいろいろな契機は、多かれ少なかれ時間的な順序をなして、ことにスペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスのあいだに分配される。イギリスではこれらの契機は17世紀末には植民制度、国債制度、近代的租税制度、保護貿易制度として体系的に総括される。これらの方法は、一部は、残虐きわまる暴力によって行なわれる。たとえば、植民制度がそうである。しかし、どの方法も、国家権力、すなわち社会の集中され組織された暴力を利用して、封建的生産様式から資本主義的生産様式への転化過程を温室的に促進して過渡期を短縮しようとする。暴力は、古い社会が新たな社会をはらんだときにはいつでもその助産婦になる。暴力はそれ自体が一つの経済的な潜勢力なのである。」
「植民制度は商業や航海を温室的に育成した。「独占会社」(ルター)は資本集積の強力な槓杆だった。植民地は、成長するマニュファクチュアのために販売市場を保証し、市場独占によって増進された蓄積を保証した。ヨーロッパの外で直接に略奪や奴隷化や強盗殺人によってぶんどられた財宝は、本国に流れこんで、そこで資本に転化した。」
「今日では産業覇権が商業覇権を伴ってゆく。これに反して、本来のマニュファクチュア時代には商業覇権が産業上の優勢を与えるのである。それだからこそ、当時は植民制度が主要な役割を演じたのである。」
「公信用制度すなわち国債制度の起源を、・・・それはマニュファクチュア時代には全ヨーロッパに普及していた。植民制度は、それに伴う海上貿易や商業戦争とともに、国債制度の温室として役だった。こうして、この制度はまずオランダで確立された。国債、すなわち国家・・・の譲渡は、資本主義時代にその極印を押す。いわゆる国富のうちで現実に近代的国民の全体的所有にはいる唯一の部分―それは彼らの国債である。」
「公債は本源的蓄積の最も力強い槓杆の一つになる。」「国家の債権者は現実にはなにも与えはしない。というのは、貸し付けた金額は、容易に譲渡されうる公債証書に転化され、それは、まるでそれと同じ額の現金であるかのように、彼らの手のなかで機能を続けるからである。」「国債は、株式会社や各種有価証券の取引や株式売買を、一口に言えば、証券投機と近代的銀行支配とを、興隆させたのである。」
「国立という肩書きをつけた大銀行は、・・・彼らは政府と肩を並べ、また与えられた特権のおかけで政府に貨幣を前貸しすることができたのである。」「これらの銀行の十分な発達はイングランド銀行の創立(1694年)に始まるのである。イングランド銀行は、自分の貨幣を8%の利率で政府に貸し上げることから始めた。同時に、この銀行は、同じ資本を貨幣に鋳造する権限を議会によって与えられた。というのは、この銀行はこの資本をもう一度銀行券という形で公衆に貸し付けたからである。イングランド銀行は、この銀行券を用いて手形を割り引くこと、商品担保貸付をすること、貴金属を買い入れることを許された。まもなく、この銀行自身によって製造されたこの信用貨幣は鋳貨となり、この鋳貨でイングランド銀行は国への貸付をし、国の計算で公債の利子を支払った。」「それは、だんだんこの国の蓄蔵金属のなくてはならない貯蔵所になり、すべての商業信用の重心になってきた。」
「国債とともに国際的な信用制度も発生したが、それはしばしばあれこれの国民のもとで本源的蓄積の隠れた源泉の一つになっている。」
「国債は国庫収入を後ろだてとするものであって、この国庫収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物になったのである。国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかしその結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自体のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。」「この制度の収奪的効果は、保護貿易制度によっていっそう強められるのであって、保護貿易制度はこの租税制度の不可欠な構成部分の一つなのである。」
「保護貿易制度は、製造業者を製造し、独立労働者を収奪し、国民の生産手段と生活手段を資本化し、古風な生産様式から近代的生産様式への移行を強行的に短縮するための、人工的な手段だった。」「間接には保護関税により、直接には輸出奨励金などによって、この目的のためにただ単に自国民からしぼり取っただけではなかった。属領ではあらゆる産業、が暴力的に根こぎにされた。」
「植民制度、国債、重税、保護貿易、商業戦争、等々、これらの、本来のマニュファクチュア時代に生まれた若芽は、大工業の幼年期には巨大に成長する。」
「資本主義的生産様式の「永久的自然法則」を解き放ち、労働者と労働諸条件との分離過程を完成し、一方の極では社会の生産手段と生活手段を資本に転化させ、反対の極では民衆を賃金労働者に、自由な「労働貧民」に、この近代史の作品に、転化させるということは、こんなにも骨の折れることだったのである。」
第7節 資本主義的蓄積の歴史的傾向
ここでは、資本主義的蓄積における過去と現在と未来が語られる。
「資本の本源的蓄積、すなわち資本の歴史的生成は、・・・それが意味するものは、ただ直接生産者の収奪、すなわち自分の労働にもとづく私有の解消でしかないのである。」
所有とは、労働の対象化という関係における、主体である労働者と対象である労働生産物(労働生産物として労働対象及び労働手段)との間に成立する関係である。これが基本であって、法的規制の中に置かれることによって、古代的・封建的生産様式の下でであるか、あるいは資本主義的生産様式の下でであるかによって、その取得形態が異なる。資本主義的生産様式の下では、労働生産物が、労働者にではなく、労働手段及び労働力商品の私有者に帰属するのである。
「社会的、集団的所有の対立物としての私有は、ただ労働手段と労働の外的諸条件とが私人のものである場合にのみ存立する。しかし、この私人が労働者であるか非労働者であるかによって、私有もまた性格の違うものになる。一見して私有が示している無限の色合いは、ただこの両極端のあいだにあるいろいろな中間状態を反映しているだけである。」
「労働者が自分の生産手段を私有しているということは小経営の基礎であり、小経営は、社会的生産と労働者自身の自由な個性との発展のために必要な一つの条件である。たしかに、この生産様式は、奴隷制や農奴制やその他の隷属的諸関係の内部でも存在する。しかし、それが繁栄し、全精力を発揮し、十分な典型的形態を獲得するのは、ただ、労働者、が自分の取り扱う労働条件の自由な私有者である場合、すなわち農民は自分が耕す畑の、手工業者は彼が老練な腕で使いこなす用具の、自由な私有者である場合だけである。
この生産様式は、土地やその他の生産手段の分散を前提する。それは、生産手段の集積を排除するとともに、同じ生産過程のなかでの協業や分業、自然にたいする社会的な支配や規制、社会的生産諸力の自由な発展を排除する。それは生産および社会の狭い自然発生的な限界としか調和しない。」
これが資本主義的生産様式以前の生産様式(経済的土台)の特徴である。
「ある程度の高さに達すれば、この生産様式は、自分自身を破壊する物質的手段を生みだす。この瞬問から、社会の胎内では、この生産様式を桎梏と感ずる力と熱情とが動きだす。この生産様式は滅ぼされなければならないし、それは滅ぼされる。その絶滅、個人的で分散的な生産手段の社会的に集積された生産手段への転化、したがって多数人の矮小所有の少数人の大量所有への転化、したがってまた民衆の大群からの土地や生活手段や労働用具の収奪、この恐ろしい重苦しい民衆収奪こそは、資本の前史をなしている・・・そのうちのただ画期的なものだけを資本の本源的蓄積の方法として検討したのである。」「自分の労働によって得た、いわば個々独立の労働個体とその労働諸条件との癒合にもとづく私有は、他人の労働ではあるが形式的には自由な労働の搾取にもとづく資本主義的私有によって駆逐されるのである。」
「資本生義的生産様式が自分の足で立つようになれば、それから先の労働の社会化も、それから先の土地やその他の生産手段の社会的に利用される生産手段すなわち共同的生産手段への転化も、したがってまたそれから先の私有者の収奪も、一つの新しい形態をとるようになる。今度収奪されるのは、もはや自分で営業する労働者ではなくて、多くの労働者を搾取する資本家である。」
資本と剰余価値の否定の否定の螺旋的発展が次第に加速度を上げ、資本の蓄積と集中による資本の有機的構成の変化を加速させ、ついに最終点に到達する。
「この収奪は、資本生義的生産そのものの内在的諸法則の作用によって、諸資本の集中によって、行なわれる。いつでも一人の資本家が多くの資本家を打ち倒す。この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と手を携えて、ますます大きくなる規模での労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利用、共同的にしか使えない労働手段への労働手段の転化、結合的社会的労働の生産手段としての使用によるすべての生産手段の節約、世界市場の網のなかへの世界各国民の組入れが発展し、したがってまた資本生義体制の国際的性格が発展する。この転化過程のいっさいの利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減ってゆくのにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大してゆくが、しかしまた、絶えず膨張しながら資本生義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗心また増大してゆく。資本独占は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本生義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。
資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共有と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。」
ここには、将来の共産主義的生産様式の特徴が語られている。労働手段・労働対象と労働者との関係は、形式的には、資本主義以前の状態に復帰する。すなわち、生産手段は個々の労働者の私有となる。しかし、労働手段も労働対象も、すでに多くの労働者の労働の対象化による労働産物であり、労働者自身がそういう労働生産物の再対象化の産物である。すなわち、どれを取ってみても、個々の労働者の私有ではない。労働者の私有であって私有ではない関係こそ、新しい社会の生産様式にふさわしい関係である。この矛盾を、マルクスは「協業と土地の共有と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎とする個人的所有」という表現で現わしたのである。
レーニンによるロシア革命の社会主義の実験は、ソ連邦の崩壊によって幕を閉じることになった。一方、資本主義陣営においては、社会主義革命勃発の反省からいわゆる福祉国家(相対的過剰人口の政治的維持・緩和)の実現へ舵を切ってきた。しかし、この個人的所有は、いままでのところ実現されてはいない。この実現こそ、われわれが目指すべき将来の課題である。 
 
第25章 近代殖民理論

 

「ここで問題にするのは、真の意味の植民地、すなわち自由な移住者によって植民される処女地である。合衆国は、経済的に言えば、今なおヨーロッパの植民地である。」ここでいう「合衆国」とは、南北戦争が終結した1865年から、大陸横断鉄道の開業(1869年)・西部開拓時代の到来を通し、「フロンティアの消滅」を宣言した1890年までのアメリカと考えればいいだろう。
「ヨーロッパの西部、経済学の生まれた国では、本源的蓄積の過程は多かれ少なかれすでに終わっている。そこでは、資本主義的支配体制は、国民的生産全体をすでに直接に自分に従属させているか、または、事情がまだそこまで発展していないところでは、この体制のかたわらに存続してはいるがしだいに衰退してゆく社会層、時代遅れの生産様式に付属している社会層を、少なくとも開接には、支配している。」
現在は、「資本論」が書かれた時代からすでに1世紀半経っているので、資本主義的体制は世界を支配しており、わずかに南米の一部、アジアの一部がそれから取り残されているだけである。社会主義的体制も、すでに資本主義に浸透されて崩れかかっている。今では「植民地」はすでに事実上は存在しないと見なしてよいであろう。
「植民地ではどこでも資本主義的支配体制は、自分の労働条件の所有者として自分の労働によって資本家を富ませるのではなく自分自身を富ませる生産者という障害にぶつかる。植民地では、この二つの正反対の経済制度の矛盾が、両者の闘争の中で実際に現れている。資本家の背後に本国の権力があるところでは、資本家は、自分の労慟にもとづく生産・取得様式を暴力によって一掃しようとする。」
「E・G・ウェークフィールドの大きな功績」を引き合いに出しながら、マルクスは植民地の経済的本質を指摘する。
「すでに見たように、民衆からの土地の収奪は資本主義的生産様式の基礎をなしている。これとは反対に、自由な植民地の本質は、広大な土地がまだ民衆の所有であり、従って移住者はだれでもその一部分を自分の私有地にし個人的生産手段にすることができ、しかもそうすることによって後から来る移住者が同じようにすることを妨げないという点にある。これが植民地の繁栄の秘密でもあれば、その癌腫−資本の移住にたいするその抵抗−の秘密でもあるのである。」
「賃金労働者から独立生産者への不断の転化、すなわち、資本のためにではなく自分自身のために労働して資本家さまではなく自分自身を富ませる独立生産者への転化は、それ自身また労働市場の状態にまったく有害な反作用をする。賃金労働者の搾取度がふつごうな低さにとどまっているだけではない。そのうえに、賃金労働者は、禁欲する資本家への従属関係といっしょに従属感情もなくしてしまう。」
しかし、そういう合衆国にも、資本主義が根付く土壌が生まれてくる。
「毎年アメリカに向けて追い出される絶えまない大きな人間の流れが、合衆国の東部に停滞的な沈澱を残している。というのは、ヨーロッパからの移民の波がたくさんの人間を、西への移民の波が彼らを洗い流すことができるよりももっと速く東部の労働市場に投げ込むからである。他方では、アメリカの南北戦争は莫大な国債を伴い、またそれとともに租税の重圧、最も卑しい金融貴族の製造、鉄道や鉱山の開発のための山師会社への公有地の巨大な部分の贈与など―要するに最も急激な資本の集中を伴った。こうして、この大きな共和国も、労働者移民にとっての約束の地ではなくなった。そこでは、賃金引き下げや賃金労働者の従属はまだまだヨーロッパの平均水準まで落ちてはいないとはいえ、資本主義的生産は巨人の足どりで前進している。」
この章で大事なことは、「植民地」の考察を通して、資本主義的生産・蓄積の条件がなんであるかを明確に把握できるということである。この視点は、現在の世界を見る場合にも、極めて有効である。
「ただ一つわれわれの関心をひくものは、新しい世界で古い世界の経済学によって発見されて声高く告げ知らされたあの秘密、すなわち、資本主義的生産・蓄積様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく私有の絶滅、すなわち労働者の収奪を条件とするということである。」 
 
第2部 資本の流通過程

 

第1篇 資本の諸変態とその循環
第1章 貨幣資本の循環
第1部では資本の生産過程を扱った。生産過程には、資本の流通の側面がすでに含まれているが、第2部で取り上げる資本の流通過程では、第1部から媒介されながらもそれとは区別された流通過程の側面が議論され、論理的に新たな現象が把握される。資本の循環の各段階は、資本の否定過程である。循環とは否定の否定の過程である。否定の連続過程では、具体的には、形態転換の諸現象を扱うことになる。その際、形態転換の前後で、矛盾を担う両側面が交互に位置を転換し、全運動を通してのみ矛盾が解決されるようになっている。だが、否定の否定の過程は、さまざまな段階に分かたれ組み込まれているので、注意深く見て行かねばならない。
「資本の循環過程は三つの段階を通って進み、・・・次のような順序をなしている。
第一段階。資本家は商品市場や労働市場に買い手として現われる。彼の貨幣は商品に転換される。すなわち流通行為G−Wを通過する。
第二段階。買われた商品の資本家による生産的消費。彼は資本家的商品生産者として行動する。彼の資本は生産過程を通過する。その結果は、それ自身の生産要素の価値よりも大きい価値をもつ商品である。
第三段階。資本家は売り手として市場に帰ってくる。彼の商品は貨幣に転換される。すなわち流通行為W−Gを通過する。
そこで、貨幣資本の循環を表わす定式は次のようになる。G−W…P…W´−G´。ここで点線は流通過程が中断されていることを示し、W´とG´は、剰余価値によって増大したWとGとを表わしている。」
「これからは、これらの諸形態がまず第一の研究対象になるのである。」
論理的には、第一段階と第三段階とが対になって否定の否定をなしていて、その中に第二段階の否定の否定の過程が組み込まれているという構造になっている。したがって現象的には、三段階に構造化されているのである。
第1節 第1段階 G−W
「G−Wは、ある貨幣額がある額の諸商品に転換されることを表わしている。買い手にとっては彼の貨幣の商品への転化であり、売り手たちにとって彼らの諸商品の貨幣への転化である。このような、一般的な商品流通の過程を、同時に一つの個別資本の独立した循環のなかの機能的に規定された一つの区切りにするものは、まず第一に、この過程の形態ではなく、その素材的内容であり、貨幣と入れ替わる諸商品の独自な使用性質である。」「労働力をAとし、生産手段をPmとすれば、買われる商品総額W=A+Pmであり、もっと簡単に表わせばW<A,Pm(テキストにはWがAとPmに分かれることを、<の上下両端にAとPmとを置くことで表現しているが、ここでは表現の仕方が難しいので、+の前後に置くことで表現する。以下同様。)である。・・・すなわち、G−WはG−AとG−Pmとに分かれるのである。・・・この二つの列に分かれる買い入れはまったく別々な市場で行なわれる。一方は本来の商品市場で、他方は労働市場で。」
「ところが、Gが転換される商品額のこのような質的な分裂のほかに、G−W=A+Pmはもう一つのきわめて特徴的な量的な関係をも表わしている。われわれが知っているように、労働力の価値または価格は、労働力を商品として売っているその所持者には、労賃という形態で、すなわち剰余労働を含むある労働量の価格として、支払われる。」
「こういうわけで、G−W=A+Pmは、一定の貨幣額、たとえば422ポンドが、互いに対応し合う生産手段と労働力とに転換されるという質的な関係を表わしているだけではなく、労働力Aに投ぜられる貨幣部分と生産手段Pmに投ぜられる貨幣部分との量的な関係をも表わしているのであって、この関係は、一定数の労働者によって支出される余分な剰余労働の総計によってはじめから規定されているのである。」
「G−W=A+Pmが完了すれば、・・・彼が貨幣形態で前貸しした価値は、・・・価値と剰余価値をつくりだすものとして機能する能力をもっている生産資本という状態または形態にあるのである。この形態にある資本をPと呼ぶことにしよう。」「GはPと同じ資本価値であって、ただ、存在様式が違うだけである。すなわち、貨幣状熊または貨幣形態にある資本価値―貨幣資本である。」
「それゆえ、G−W=A+Pm、またはその一般的形式から見ればG−W、いろいろな商品購入の総計、この、一般的な商品流通の過程は、同時に、資本の独立した循環過程のなかの段階としては、・・・ 貨幣資本から生産資本への転化なのである。」
資本の流通において、それぞれの段階、ここでは貨幣資本と生産資本の、商品流通と区別された概念規定を行わねばならない。
「この貨幣機能を資本機能にするものは、資本の運動のなかでの貨幣機能の特定の役割であり、したがってまた、貨幣機能が現われる段階と資本の循環の他の諸段階との関連である。」
「貨幣資本Gの流通は、G−PmとG−Aとに、生産手段の買い入れと労働力の買い入れとに、分かれる。」
「G−Aは、貨幣資本から生産資本への転化を特徴づける契機である。なぜならば、それは、貨幣形態で前貸しされた価値が現実に資本に、剰余価値を生産する価値に、転化するための本質的な条件だからである。G−Pmは、ただ、G−Aによって買われた労働量を実現するために必要なだけである。」
「G−Aは、一般に、資本主義的生産様式に特徴的なものとみなされる。」「労賃という形熊で貨幣で労働が買われるのだという理由からであって、これが貨幣経済の特徴とみなされるのである。」
「労働力がひとたびその所持者の商品として市場に現われ、その売り渡しが労働への支払という形すなわち労賃という形で行なわれるようになれば、労働力の売買は、ほかのどの商品の売買と比べても少しもそれ以上に異様に見えるものではない。労働力という商品が買えるものだということが特徴的なのではなく、労働力が商品として現われるということこそが特徴的なのである。」
「それゆえ、G−Aという行為では、・・・この生産手段は労働力の所持者にたいして他人の所有物として現われるのである。他方、労働の売り手はその買い手にたいして他人の労働力として相対するのであって、この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として働くために買い手の支配下にはいらなければならないのであり、彼の資本に合体されなければならないのである。だから、資本家と賃金労働者との階級関係は、両者がG−A(労働者から見ればA−G)という行為で相対して現われる瞬間に、すでに存在しているのであり、すでに前提されているのである。それは、売買であり、貨幣関係であるが、しかし、資本家としての買い手と賃金労働者としての売り手とが前提されている売買なのである。そして、この関係は、労働力の実現のための諸条件−生活手段と生産手段―が他人の所有物として労働力の所持者から分離されているということといっしょに、与えられているのである。」
「資本関係が生産過程で現われてくるのは、ただ、この関係がそれ自体として流通行為のうちに、買い手と売り手とが相対するときの両者の経済的根本条件の相違のうちに、彼らの階級関係のうちに、存在するからにほかならないのである。この関係の存在こそが、単なる貨幣機能を資本機能に転化させることができるのである。」
「つまり、ここでG−W=A+Pmという行為の根底にある事実は分配なのである。といっても、消費手段の分配という普通の意味での分配ではなく、生産諸要素そのものの分配であって、これらの要素のうち対象的諸要因は一方の側に集積されており、労働力は対象的諸要因から分離されて他方の側に孤立しているのである。」
「前にも見たように、ひとたび確立された資本主義的生産は、その発展途上でこの分離をただ再生産するだけではなく、それをますます大きな規模に拡大して、ついにこの分離が一般的支配的な社会的状態になったのである。しかし、事柄はもう一つ別の面を示している。資本が形成されて生産を支配することができるようになるためには、商業のある程度の発展段階が前提されており、したがってまた商品流通の、またそれとともに商品生産の、ある程度の発展段階が前提されている。なぜならば、物品は、売られるために、つまり商品として、生産されないかぎり、商品として流通にはいることはできないからである。ところが、生産の正常な支配的な性格としての商品生産は、資本主義的生産の基礎の上ではじめて現われるのである。」
「それゆえ、貨幣資本の循環を表わす定式、G−W…P…W´−G´はただすでに発展した資本主義的生産の基礎の上でのみ資本循環の自明的な形態なのだということは、おのずから明らかである。なぜならば、それは現に賃金労働者階級が社会的な規模で存在するということを前提しているからである。資本主義的生産は、われわれが見てきたように、ただ商品と剰余価値とを生産するだけではない。それは、賃金労働者の階級を再生産し、しかもますます拡大される規模でそれを再生産するのであって、直接生産者の巨大な多数を賃金労働者に転化させるのである。それゆえ、G−W…P…W´−G´は、その進行の第一の前提が賃金労働者階級の恒常的な現存なのだから、すでに、生 産資本の形態にある資本を前提しており、したがってまた生産資本の循環の形態を前提しているのである。」
商品の流通過程である第一の否定の否定W−G−Wは、資本家と賃金労働者という階級関係の前提の上で、資本の流通過程である第二の否定の否定G−W−Gへと媒介される。第一の否定の否定と第二の否定の否定は対立と統一、すなわち矛盾した関係にあり、相互浸透する。第一の否定の否定は、第二の否定の否定に成長発展するが、逆に第二の否定の否定は第一の否定の否定を促進し発展させる。
第2節 第2段階 生産資本の機能
「第1段階の結果は、第2段階の、資本の生産段階の、開始である。」
「この運動はG−W=A+Pm…Pとして表わされる。ここにある点線は、資本の流通は中断されているが、資本は商品流通の部面から出て生産部面にはいるのだから、その循環過程は続いている、ということを暗示している。だから、第一段階、貨幣資本の生産資本への転化は、ただ、第二段階すなわち生産資本の機能の先ぶれとして、その準備段階として、現われるだけである。」
「G−A。・・・労働力の維持−賃金労働者の自己保存には毎日の消費が必要である。だから、彼の受ける支払が絶えず比較的短い間隔で繰り返されて、彼が自己保存のために必要な購入−A−G―WまたはW―G―Wという行為−を繰り返すことができるようになっていなければならない。・・・また、他方、多数の直接生産者、賃金労働者が、A−G―Wという行為をすることができるためには、彼らにたいして、必要な生活手段が、買うことのできる形で、すなわち商品形態で、いつでも相対していなければならない。つまり、このような状態は、すでに、商品としての生産物の流通の、したがってまた商品生産の規模の、ある程度の高さを必要とするのである。賃労働による生産が一般的になれば、商品生産が生産の一般的形態でなければならない。商品生産が一般的として前提されるならば、それはまた、社会的分業が絶えず増進すること、すなわち商品として一定の資本家によって生産される生産物がますます特殊化されて行くこと、互いに補足し合う諸生産過程がますます独立な諸生産過程に分かれて行くことを必然的にする。したがって、G−Aが発展するのと同じ度合いでG−Pmが発展する。すなわち、同じ度合いで、生産手段の生産が、それを生産手段とする商品の生産から分かれて行く。そして、生産手段は、どの商品生産者にたいしても、それ自身商品として、すなわちこの生産者が生産するのではなく彼が自分の特定の生産過程のために買う商品として、相対する。」
G−Aが、A−G―Wという別の否定の否定を媒介するだけでなく、G−Pmが別の否定の否定を媒介する。それぞれの否定の否定の媒介項の直接的側面AおよびPmが、他の否定の否定の媒介項の直接的側面を媒介し、それぞれの否定の否定の過程が相互浸透するのである。
「他方、資本主義的生産の根本条件−賃金労働者階級の存在―を生みだすその同じ事情は、すべての商品生産の資本主義的商品生産への移行を促進する。資本主義的商品生産が発展するのにつれて、それは、すべてのそれ以前の、主として直接の自己需要に向けられていて生産物の余剰だけを商品に転化させる生産形態に、破壊的分解的に作用する。・・・しかし、第二に、この資本主義的生産が根を張ったところでは、それは、生産者たちの自己労働にもとづくかまたは単に余剰生産物を商品として売ることだけにもとづくような商品生産の諸形態を残らず破壊してしまう。それは、まず商品生産を一般化し、それからしだいにすべての商品生産を資本主義的商品生産に変えて行くのである。」
「労働力は、ただその売り手としての賃金労働者の手のなかだけで商品だとすれば、それは、逆に、ただ、その買い手であってその一時的な使用権を持っている資本家の手の中だけで資本になるのである。生産手段そのものは、労働力が生産資本の人的存在形態として生産手段に合体されうるものになった瞬間からはじめて生産資本の対象的な姿または生産資本になるのである。」
第3節 第3段階 W´−G´
「商品は、すでに価値増殖された資本価値の、直接に生産過程そのものから生じた機能的存在形態として、商品資本になる。」
「すべての商品流通のこの単純な過程を、同時に一つの資本機能にするものはなにか?」
「G−Wでは、前貸しされた貨幣が貨幣資本として機能するのは、それが流通の媒介によって独自な使用価値の諸商品に転換されるからである。W−Gでは、商品が資本として機能することができるのは、ただ、この商品が、その流通の始まる前に、すでにできあがった資本性格を帯びて生産過程から出てくるかぎりでのことである。」
「10,000ポンドの糸が商品資本W´であるのは、ただ生産資本Pの転化した形態としてのみのことであり、したがって、さしあたりはただこの個別資本の循環のなかだけに存在する関連のなかでのみのことであり、言い換えれば、自分の資本で糸を生産した資本家にとってのみのことである。・・・いわばただ内的な関係でしかないのであって、けっして外的な関係ではないのである。・・・その価値の絶対量によってではなく、その価値の相対量によって、すなわち、この糸に含まれている生産資本が商品に転化する前にもっていた価値量に比べてのこの糸の価値量によって、である。」
「wが貨幣で表現されたものをgとすれば、W´−G´は(W+w)−(G+g)となり、したがって、G−W…P…W´−G´という循環は、詳しく展開された形態では、G−W=Pm+A…P…(W+w)−(G+g)となる。」
「W´−G´の遂行によって、前貸資本価値も剰余価値も実現される。」「商品形態はwの最初の流通形態であり、従ってw−gという行為もwの最初の流通行為またはその最初の変態であって、この変態はまだこれから反対の流通行為または逆の変態g−wによって補わなければならないのである。」「剰余価値にとっては商品形態から貨幣形態への最初の転化であるものが、資本価値にとってはその最初の貨幣形態への復帰または再転化なのである。」「第一に、資本価値がその最初の貨幣形態に最後に再転化するということは、商品資本の一機能である。第二に、この機能は、その最初の商品形態から貨幣形態への剰余価値の第一の形態転化を含んでいる。つまり、貨幣形態はここでは二重の役割を演じているのである。」
「過程の出発点も終結点も貨幣資本(G)の形態であるからこそ、循環過程のこの形態はわれわれによって貨幣資本の循環と呼ばれるのである。前貸しされた価値の形態がではなく、ただその大きさだけが過程の終わりでは変化しているのである。」
「G´では資本は再びその最初の形態Gに、その貨幣形態に、帰っている。しかし、この形態は、それが資本として実現されている形態である。」「 第一に、そこには量的な差がある。」「G+gとしてのG´、422ポンドースターリングの前貸資本・プラス・その増加分78ポンドースターリンダとしての500ポンドースターリングは、同時に一つの質的な関係を表わしている。といっても、この質的関係そのものが、ただ、一つの同名の総額の諸部分の関係としてのみ、つまり量的な関係としてのみ、存在するのではあるが。」「G´は、それ自身のうちで分化される価値総額、それ自身のうちで機能的(概念的)に区別される価値総額、資本関係を表わす価値総額として、現われるのである。」
この論考は、ただ論理の遊びのように思われるかもしれない。しかし、ヘーゲルの論理学を紐解いた者なら、これが資本の概念的理解、言い換えれば、資本というものの本質的理解を表現したものだということがわかるであろう。
「概念が有および本質の真理である。というのは、概念においては自分自身への反省という反照が、それ自身同時に独立的な直接性であり、さまざまの現実のこうした有が、直接に自分自身への反照にすぎないからである。」(「小論理学」159)
「いまこの過程の終わりで実現された資本がその貨幣表現で現われるのは、資本関係の無概念的表現なのである。」「G=G+gは、資本の無概念的形態であるとはいえ、同時に、はじめて、実現された形態にある貨幣資本であり、貨幣を生みだした貨幣としての貨幣資本である。」「W´もG´も両方とも、増殖された資本価値の別々の形態、その商品形態と貨幣形態であるだけであって、この増殖された資本価値だということは、両方に共通である。それらは両方とも実現された資本である。なぜならば、そこには資本価値そのものが、それとは違った、それによって得られた果実としての剰余価値といっしょに存在しているからである。」「一方は貨幣形態にある資本であり、他方は商品形態にある資本である。それゆえ、それらを区別するそれぞれの独自な機能は、貨幣機能と商品機能との違い以外のものではありえないのである。商品資本は、資本主義的生産過程の直接の生産物として、このようなその起源を思い起こさせるのであり、したがって、その形態において貨幣資本よりもより多く合理的でより少なく無概念的である。というのは、貨幣資本ではこの過程のどんな痕跡も消えているからであって、それは、ちょうど、およそ貨幣では商品の特殊な使用形態はすべて消えてしまっているのと同じことである。」
第4節 総循環
「流通の列は(1)G−W1、(2)W´2−G´として表わされ、・・・ところが、資本がわれわれの前に現われた最初の現象形態(第1部第4章第1節)G−W−G´・・・では同じ商品が二度現われる。・・・二つの流通には、一方ではこのように貨幣がその出発点に還流してくることが共通であり、他方ではまた還流してくる貨幣が前貸しされた貨幣を超過しているということが共通である。そのかぎりでは、G−W…W´−G´も一般的な定式G−W−G´のうちに含まれて現われるのである。・・・価値変化はただ変態Pすなわち生産過程だけで起きるのであり、したがって、生産過程は、流通の単に形態的な諸変態にたいして、資本の実質的な変態として現われるのである。」
「総運動G−W…P…W´−G´またはその詳しく展開された形態G−W=Pm+A…P…W´(W+w)−G´(G+g)を考察することにしよう。ここでは資本は、互いに関連し制約し合う一連の諸転化、すなわちそれぞれが一つの総過程の諸局面または諸段階をなしている一連の諸変態を通る価値として、現われる。・・・この総過程は循環過程なのである。」
「資本価値がその流通段階でとる二つの形態は、貨幣資本と商品資本という形態である。生産段階に属するその形態は、生産資本という形態である。その総循環の経過中にこれらの形態をとっては捨て、それぞれの形態でその形態に対応する機能を行なう資本は、産業資本である。−ここで産業と言うのは、資本主義的に経営されるすべての生産部門を包括する意味で言うのである。
だからここにいう貨幣資本、商品資本、生産資本は、独立な資本種類、すなわち、それらの機能が同様に独立な互いに分離された諸事業部門の内容をなしているような独立な資本種類を表わしているのではない。これらの資本はここではただ産業資本の特殊な諸機能形態を表わしているだけで、産業資本はこれらの機能形態を三つとも次々にとって行くのである。」
否定の否定の運動を一塊の発展過程として把握すると、一つの概念となる。ここでは、循環という一塊の過程として、産業資本という概念に到達したというわけである。これが一つの到達点であり、また、次の出発点となる。
「他者への移行は有の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における弁証法的過程である。概念の運動は、これに反して、発展である。」(「小論理学」161補遺)
この概念の段階に到達すると、それは一般的に、普遍・特殊・個別の段階を理解することを可能にする。
「産業資本は、その諸段階のそれぞれで一定の形態に、すなわち貨幣資本、生産資本、商品資本として、拘束されている。産業資本は、そのつどの形態に相応した機能を果たしてから、はじめて、新たな転化段階にはいることのできる形態を受け取る。」
「一般的定式では、Pの生産物は、生産資本の諸要素とは物質的に違った物とみなされる。すなわち、生産過程から分泌された存在を持っており、生産要素の使用形態とは違った使用形態をもっている対象とみなされる。」
「ところが、独立の産業部門でも、その生産過程の生産物が新たな対象的生産物ではなく商品ではないような産業部門がある。そのなかで経済的に重要なのは交通業だけであるが、それは商品や人間のための本来の運輸業であることもあれば、単に報道や書信や電信などの伝達であることもある。」
一般的には、商品は、価値と使用価値の矛盾として現れ、生産過程(価値形成過程、価値増殖過程)と消費過程は分離している。ところが、交通業を、ここでは生産物の生産過程と消費過程の直接的同一という矛盾した特殊な商品として扱っている。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸禍程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。」「運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。」「それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される。だから、運輸業についての定式は、G−W=Pm+A…P…G´となるであろう。」
「産業資本は、資本の存在様式のうち、剰余価値または剰余生産物の取得だけではなく同時にその創造も資本の機能であるところの唯一の存在様式である。」「産業資本が社会的生産を支配して行くのにつれて、労働過程の技術と社会的組織とが変革されて行き、したがってまた社会の経済的・歴史的な型が変革されて行く。」「貨幣資本と商品資本は、それらの機能によって独自の事業部門の担い手として産業資本と並んで現れるかぎりでは、ただ、産業資本が流通部面のなかで取ったり捨てたりするいろいろな機能形態の、社会的分業によって独立化され一面的に形成された存在様式であるにすぎない。」
「循環G…G´は、一方では一般的な商品流通とからみ合っており、そこから出てそこにはいり、その一部分をなしている。他方では、この循環は個別資本家にとっては資本価値の特有な独立な運動を形成しており、この運動は一部分は一般的な商品流通のなかで行なわれ、一部分はその外で行なわれるが、しかしいつでもその独立な性格を保持している。」
「G−W…P…W´−G´を、後に研究される他の諸形態と並ぶ資本の循環過程の特殊な形態として見れば、その特徴は次の諸点に現われる。」
「(1) この定式が貨幣資本の循環として現われるのは、貨幣形態にある産業資本が、貨幣資本として、その総過程の出発点と帰着点とをなしているからである。
それは、さらに、使用価値がではなく交換価値が運動の規定的な自己目的だということを表わしている。価値の貨幣姿態が価値の独立な手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終点とする流通形態G…G´は、金もうけを、この資本主義的生産の推進的動機を、最も簡単明瞭に表わしているのである。生産過程は、ただ、金もうけのためには避けられない中間の環として、そのための必要悪として、現われるだけである。{それだから、資本主義的生産様式のもとにあるどの国民も、周期的に一つの眩惑に襲われて、生産過程の媒介なしに金もうけをなしとげようとするのである。}」
この文章をここであえて引用したのは、このような理解が資本主義的社会の価値観をよく表しているからである。ただ、論理的には重要でないが。
「(2) 生産段階、Pの機能は、この循環のなかで、G−W…P…W´−G´という流通の二つの段階の中断をなしているが、この中断はまたただ単純な流通G−W−G´の媒介をなしているだけである。」
「(3) 」「このことは、循環Gを別の二つの循環PとW´とから区別する。・・・定式G…G´の特徴として現われるのは、一方では、資本価値が出発点をなし、増殖された資本価値が帰着点をなしているということ、したがって、資本価値の前貸が全操作の手段として現われ、増殖された資本価値がその目的として現われるということであり、他方では、この関係が貨幣形態すなわち独立な価値形態で表わされ、したがって、貨幣資本が貨幣を生む貨幣として表わされているということである。」
「(4)」「貨幣資本の循環は、その1回だけの姿で見れば、形態的には、ただ価値増殖・蓄積過程を表わしているだけである。」「この定式は、G´で、すなわちすぐにまた増大した貨幣資本として機能できる結果で、終わっているからである。」「この消費過程は買われた物品の性質に応じて個人的なこともあれば生産的なこともある。しかし、この消費は、W´を生産物とする個別資本の循環にははいらない。この生産物こそは、売られる商品として循環から突き出されるのである。このW´は明らかに他人の消費のためのものと定められている。」
資本の循環過程は、それを構成する各段階の否定の否定を分離・特殊化するように発展し、それぞれの独自性を考察することを可能にする。
「資本の循環過程は、流通と生産との統一であり、この両方を包括している。」
「貨幣資本の循環は、産業資本の循環の最も一面的な、そのためにまた最も適切で最も特徴的な現象形態なのであって、価値の増殖、金もうけと蓄積という産業資本の目的と推進動機とが一目でわかるように示されるのである(より高く売るために買う)。」
「絶えず繰り返して可変資本は労賃に投ぜられる貨幣資本として現われ(G−A)、gは、資本家の一身上の必要をまかなうために支出される剰余価値として現われる。だから、前貸可変資本価値としてのGと、その増加分としてのgとは、どちらも必ず貨幣形態で保持されて貨幣形態で支出されるのである。」
「第一に、この全循環は、生産過程そのものの資本主義的性格を前提しており、したがってまた、その基礎として、この生産過程とそれによって制約された独自な社会状態とを前提している。」
「第二に、G…G´が繰り返されるならば、貨幣形態への復帰も第一の段階での貨幣形態と同じに一時的なものとして現われる。G−Wは姿を消してPに席を譲る。」
「第三に、G−W…P…W´−G´・G−W…P…W´−G´・G−W…P…W´−G´
すでに循環の二度目の繰り返しでは、Gの二度目の循環が終わる前に、P…W´−G´・G−W…Pという循環が現われるので、その後の循環はすべてP…W´−G−W…Pという形態のもとで考察できるようになり、したがって、最初の循環の第一の段階としてのG−Wは、絶えず繰り返される生産資本の循環の一時的な準備をするだけのものになる」。
「他方、Pの二度目の循環が終わる前に、最初のW´−G´・G−W…P…W´(短縮すればW´…W´)という循環、すなわち商品資本の循環が描かれている。このように、第一の形態はすでに他の二つの形態を含んでいるのであって、貨幣形態は、単なる価値表現ではなく等価形態すなわち貨幣での価値表現であるかぎり、消えてしまうのである。」
「産業資本の循環の一般的な形態は、資本主義的生産様式が前提されているかぎりでは、したがって資本主義的生産によって規定されている社会状態のなかでは、貨幣資本の循環である。・・・この生産過程の恒常的な存在は、P…Pという循環が絶えず繰り返されることを前提する。」 
 
第2章 生産資本の循環

 

「生産資本の循環は、P…W´−G´−W…Pという一般的定式をもっている。この循環の意味するものは、生産資本の周期的に繰り返される機能、つまり再生産であり、言い換えれば価値増殖に関連する再生産過程としての生産資本の生産過程である。」
「第一に・・・本当の流通は、ただ、周期的に更新され更新によって連続する再生産の媒介として現われるだけである。」
「第二に・・・価値規定を無視すれば、W−G−W(W−G・G−W)、つまり単純な商品流通の形態である。」
この二つが、第1章の形態T:G−W…P…W´−G´と異なる特徴である。
一般的に、否定の否定の構造の継起的な繋がりが循環過程として把握されると、それを構成する最初の否定の否定と、二度目の否定の否定とが、矛盾=直接的同一または媒体的統一に置かれる。ここに循環過程の新たな課題が浮き上がってくる。この同一性の矛盾の維持が、商品生産を一般的形態にすること、社会的分業が増進すること、生産手段が商品化すること、すべての商品生産を資本主義的商品生産にすることになることが、前章2節で確認された。
更に、循環過程の渦中に、隠されていた別の否定の否定の過程が浮かび上がってくるときがある。それは、その別の過程が、最初の否定の否定の過程とは異なった意味・目的・利益・利点を可能にするということが証明されたときである。そのとき、その別の過程が分離・独立化するのである。
むろん、実際に分離・独立する以外に、このような理論的考察が、我々にとって、別の角度からの考察を可能にする。その場合の否定の否定の過程の相互の関係は、最初から循環過程を前提しているとはいえ、それぞれの否定自体が持っている意味・役割を明確に浮かび上がらせる。
この章では、前章と異なって、「再生産過程としての生産資本の生産過程」、すなわち循環を前提する場合の第1章(形態T)とは異なった否定の否定(形態U)が、直接的同一としての単純再生産と、媒介的統一としての拡大再生産として、論じられる。
更に、さまざまな別の段階・別の種類の否定の否定の循環が絡み合う結果、実際の現象の全体が現れ、その把握が理論的に要求されるようになる。
第1節 単純再生産
「この流通の出発点は、商品資本、W´=W+w=P+wである。」「この循環ではW´−G´が第一の流通段階として現われ、それはG−Wによって補われなければならない」。
「生産資本の単純再生産をとってみよう。ここでも、第一章で前提したように、不変な諸事情と商品の価値どおりの売買とを前提する。この仮定のもとでは、剰余価値は全部資本家の個人的消費にはいる。商品資本W´の貨幣への転化が行なわれれば、その貨幣総額のうちの資本価値を表わす部分は、引き続き産業資本の循環のなかで流通する。もう一つの部分、金めっきされた剰余価値は一般的な商品流通にはいり、これは資本家から出発する貨幣流通ではあるが、彼の個別資本の流通の外で行なわれる。」
「g−wは貨幣に媒介されるいくつかの買いであって、この貨幣は資本家が本来の商品に支出したり、貴重な一身や家族へのサーヴィスに支出したりするものである。これらの買いは分散していて、いろいろに違った時期に行なわれる。したがって、貨幣は、一時的に、日常の消費のための準備金または蓄蔵貨幣の形態で存在する。」
「w−g−wは単純な商品流通であるが、その第一の段階w−gは、商品資本の流通W´−G´のなかに、したがって資本の循環のなかに、含まれている。これに反して、その補足段階g−wは、この循環の外に出て、そこから分離された一般的な商品流通の過程として行なわれる。Wとwとの流通、資本価値と剰余価値との流通は、W´がG´に転化してから分かれる。」
「全過程の目的である利殖(価値増殖)は、剰余価値の(したがってまた資本の)大きさといっしょに資本家の消費が増大することをけっして排除するものではなく、まさにそれを包含しているのである。」
「第二の段階G−Wでは、P(P…Pでは産業資本の循環を開始する生産資本の価値)に等しい資本価値Gが、剰余価値から解き放されて、したがって貨幣資本の循環の第一段階G−Wにあったときと同じ価値量で、再び現われている。その位置は違っていても、いま商品資本が転化した貨幣資本の機能は同じものである。すなわち、PmとAとへの、生産手段と労働とへの、貨幣資本の転化である。
こうして、資本価値は、商品資本の機能W´−G´ではw−gと同時にW−Gの段階を通り、そして今度は補完の段階G−W=A+Pmにはいるのである。だから、資本価値の総流通はW−G−W=A+Pmである。」
「貨幣資本Gは、形態I(循環G…G´)では、資本価値が前貸しされる最初の形態として現われた。それはここでははじめから、商品資本が第一の流通段階W´−G´で転化した貨幣額の部分として現われるのであり、つまり、はじめから、商品生産物の売りによって媒介される生産資本Pの貨幣形態への転化として現われるのである。」「それだからこそ、G−Wのうちの同時にG−Aである部分も、もはや労働力の買い入れによる単なる貨幣前貸としては現われないで、労働力によってつくりだされた商品価値の一部分をなしている・・・糸が貨幣形態で労働力の買い入れに前貸しされるという前貸として現われるのである。ここで労働者に前貸しされる貨幣は、ただ、労働者自身が生産した商品価値の一部分が転化した等価形態でしかないのである。」「G´はW´が転化した形態として現われ、このW´はそれ自身また生産過程Pの過去の機能の生産物である。だから、総貨幣額G´は過去の労働の貨幣表現として現われるのである。」
「流通W−G−W=A+Pmでは、同じ貨幣が二度位置を取り替える。資本家はまず売り手としてそれを受け取り、それから買い手としてそれを手放す。商品の貨幣形態への転化は、ただ商品を貨幣形態から再び商品形態に転化させるのに役だつだけである。だから、資本の貨幣形能、貨幣資本としての資本の存在は、この運動ではただ一時的段契機でしかない。すなわち、貨幣資本は、運動がよどみなく行なわれるかぎり、それが購買手段として役だつ場合にはただ流通手段として現われるだけである。」「貨幣資本の機能は、・・・それはただ商品資本が生産資本に再転化することを媒介するだけである。」
「循環が正常に行なわれるためには、W´は、その価値どおりに、そして残らず、売れなければならない。さらに、W−G−Wは、単にある商品を別の商品と取り替えるということだけではなく、同じ価値関係で取り替えるということを含んでいる。ここでもそうだということがわれわれの仮定である。しかし、実際には生産手段の価値は変動する。じつにこの資本主義的生産にこそ価値関係の不断の変動は特有なのであって、資本主義的生産を特徴づける労働の生産性の不断の変動だけによっても、そうなのである。」
「資本は、貨幣の姿でいるあいだは資本として機能しないのであり、したがってまた価値増殖もされないのである。資本は遊休しているのである。Gは、ここでは流通手段として働くのであるが、しかし資本の流通手段としてである。資本価値の貨幣形態がその第一の循環形態(貨幣資本の循環)でもっている独立性の外観は、この第二の形態では消えてしまい、したがって第二の形態は第一の形態の批判をなしており、第一の形態を一つの単に特殊な形態にしてしまうのである。」
「形態Iでは、G−W=A+Pmは、ただ貨幣資本から生産資本への第一の転化を準備するだけであるが、」「Uでは生産過程への復帰、生産過程の更新して、したがって再生産過程の先行段階として、したがってまた価値増殖過程の反復の先行段階として、現われるのである。」
「貨幣資本から生産資本への転化は、商品生産のための商品購買である。消費がこの生産的消費であるかぎり、ただそのかぎりで消費は資本そのものの循環にはいる。生産的消費の条件は、こうして消費される商品を媒介として剰余価値がつくられるということである。」
「AとPmとに転化させられるGの生産的消費のほかに、この循環は、G−Aという第一の環を含んでおり、これは労働者にとってはA−G=W−Gである。労働者の消費を含む労働者の流通A−G−Wのうちでは、第一の環だけがG−Aの結果として資本の循環にはいる。第二の行為、すなわちG−Wは、個別資本の流通から出てくるのではあるが、この流通にははいらない。しかし、労働者階級の恒常的な存在は資本家階級にとって必要であり、したがってまたG−Wに媒介される労働者の消費も必要である。」
「W´は、売られて貨幣に転化していれば、労働過程の、したがってまた再生産過程の、現実の諸要因に再転化させられることができるのである。だから、W´を買った人が最終消費者であるか、それとも再びそれを売るつもりでいる商人であるかは、直接には少しも事柄を変えないのである。資本生義的生産によって生産される商品量の大行きさは、この生産の規模とその不断の拡大欲求とによって規定されるのであって、需要と供給の、充足されるべき諸欲望の、予定された範囲によって規定されるのではない。大量生産にとっては、その直接の買い手としては、他の産業資本家たちのほかには、ただ卸売商人があるだけである。再生産過程は、そこから押し出された商品が現実に個人的または生産的消費にはいっていなくても、ある限界のなかでは同じ規模かまたは拡大された規模で進行することができる。商品の消費は、その商品が出てきた資本の循環には含まれていない。」「生産物が売れるあいだは、資本家的生産者の立場からは万事が正常に進行するのである。彼が代表する資本価値の循環は中断されない。そして、もしこの過程が拡大されているならば―それは生産手段の生産的消費の拡大を含む―このような、資本の再生産は、労働者の個人的消費(したがって需要の)拡大を伴うことかありうる。なぜならば、これは生産的消費によって準備され媒介されているからである。このように剰余価値の生産も、またそれとともに資本家の個人的消費も増大し、再生産過程全体が非常に盛んな状態にあるのに、それにもかかわらず諸商品の一大部分はただ外観上消費にはいったように見えるだけで現実には売れないで転売者たちの手のなかに滞留しており、したがって実際はまだ市場にあるということも、ありうるのである。そこで、商品の流れが次から次へと続いて行くうちに、ついには以前の流れはただ外観上消費に飲み込まれただけだということがわかるのである。多くの商品資本が市場で争って席を奪い合う。あとから押し寄せるものは、とにかく売ってしまうために、投げ売りをする。前からきている流れがまださばけていないのに、その支払期限がやってくる。その持ち主たちは、支払不能を宣言せざるをえないか、または支払をするためにどんな価格ででも売ってしまうよりほかはない。このような販売は、現実の需要の状態とはまったくなんの関係もない。それは、ただ、支払にたいする需要に、商品を貨幣に転化させることの絶対的な必要に、関係があるだけである。そこで、恐慌が起きる。恐慌が目に見えるようになるのは、消費的需要すなわち個人的消費のための需要の直接の減少によってではなく、資本と資本との交換の減退、資本の再生産過程の縮小によってである。」
「G−Wが次々に行なわれる一連の購入または支払を表わすとすれば、Gの一部分はG−Wという行為を行なうが、他の一部分は貨幣状態にとどまっていて、過程そのものの諸条件によって規定されたある時期になってからはじめて、同時にかまたは次々に行なわれるG−Wという行為に役だつことになる。この部分は、一定の時期に行動を起こしてその機能を行なうために、ただ一時的に流通から引きあげられているだけである。その場合には、この部分のこのような貯蔵は、それ自体、その流通によって規定され流通のために規定された一機能なのである。この場合には、購買・支払財源としてのこの部分の存在、その運動の中止、その流通中断の状態は、貨幣が貨幣資本としての諸機能の一つを行なっている状態である。」「流通から引きあげられた貨幣はすべて蓄蔵貨幣形態にある。だから、ここでは貨幣の蓄蔵貨幣形態が貨幣資本の機能になるのであって、・・・しかも、それは、資本価値がここでは貨幣形態で存在するからであり、ここでは貨幣状態が、その諸段階の一つにある産業資本にとって循環の関連によって規定されている状態だからである。しかし、それと同時にここで再び実証されることは、貨幣資本は産業資本の循環のなかで貨幣機能以外の機能を行なうのではないということ、そして、この貨幣機能にただこの循環の他の諸段階との開連によってのみ同時に資本機能の意義をもつのだということである。」
第2節 蓄積と拡大された規模での再生産
循環過程として把握される場合の否定の否定の媒介的統一は、最初の否定の否定と、二度目の否定の否定とが、直接的に一致してはいない。一致しない根拠は、相互の否定の否定の過程の間にあり、しかし、それでも統一されているのである。ここで扱う資本の拡大再生産の場合は、剰余価値がそのキーポイントであるが、それが資本に転化するには、量的拡大が質的に転化するまで待たねばならない。
「生産過程の拡大が可能になるために必要な比例関係は、かってに動かせるものではなく、技術的に規定されているのだから、実現された剰余価値は、たとえ資本化されることにはなっていても、いくつもの循環が繰り返されてからはじめて、現実に追加資本として機能することすなわち過程進行中の資本価値の循環にはいることができる大きさに成長することができる(したがってその大きさになるまで積み立てられなければならない)ということも多い。つまり、剰余価値は蓄蔵貨幣に硬化して、この形態で潜在的な貨幣資本をなすのである。潜在的というのは、それが貨幣状態にとどまっているあいだは資本として働くことができないからである。」
「P…W´−G´−W´=A+Pm…P´という定式は、生産資本がより大きい規模でより大きい価値をもつものとして再生産され、増大した生産資本としてその第二の循環を始めるということ、または、同じことであるが、その第一の循環を繰り返すということを表わしている。この第二の循環が始まるときには、再びPが出発点として現われる。ただ、このPが第一のPよりも大きい生産資本になっているだけである。」
「P…P´をG…G´すなわち第一の循環と比べてみれば、この二つはけっして同じ意義を持っておるのではない。G…G´は、それだけを単独な循環として見れば、ただ、貨幣資本(または貨幣資本としての循環のなかにある産業資本)Gは、貨幣を生む貨幣、価値を生む価値であり、剰余価値を生むものだ、ということを表わしているだけである。これに反して、Pの循環では、価値増殖過程そのものは、第一の段階である生産過程がすめばすでに完了しているのであって、第二の段階(第一の流通段階)W´−G´を通ったあとでは、資本価値・プラス・剰余価値は、実現された貨幣資本として、第一の循環では最後の極として現われたG´として、すでに存在しているのである。」
「P…P´でPが表わしているのは、剰余価値が生産されたということではなく、生産された剰余価値が資本化され、したがって資本が蓄積されたということであり、したがってまた、P´は、Pとは違って、最初の資本価値・プラス・その運動によって蓄積された資本の価値から成っているということである。」
「労働力は他人の労働力であって、資本家は自分の生産手段を他の商品所持者から買ったのとまったく同様にこの労働力をも労働力そのものの所持者から買ったのだということによって、生産要素の総体は自分が生産資本だということをはじめから明示しているのであり、したがってまた生産過程そのものも産業資本の生産的機能として登揚するのであって、それと同様に、貨幣と商品も同じ産業資本の流通形態として登場するのであり、したがってまた貨幣と商品との機能も、産業資本の流通機能として、すなわち生産資本の機能を準備するかまたはそこから生まれてくる流通機能として、登場するのである。貨幣機能と商品機能とは、ただ産業資本がその循環過程の別々の段階で行なわなければならない機能形態としての両者の関連によってのみ、ここでは同時にまたそれぞれ貨幣資本の機能であり商品資本の機能である。」
「どちらの場合にも、価値を生む価値であるという資本を特徴づける属性は、ただ結果として表わされているだけである。」「だから、実現された貨幣資本が再び貨幣資本としてのその特殊な機能を始めるやいなや、それはG´=G+gに含まれている資本関係をもはや表現しなくなるのである。」「生産資本の循環の場合も同じである。大きくなったP´は循環を再開するときにはPとして登場するのであって、単純再生産P…PでのPと同じである。」
第3節 貨幣蓄積
「gが元の事業の拡張に用いられるとしても、Pの素材的諸要因のあいだの割合やそれらの価値の割合はやはりgの一定の最小限の大きさを要求する。この事業で働いているすべての生産手段は、互いにただ質的な関係をもっているだけではなく、互いに一定の量的な関係をもっており、比例的な大きさをもっている。このような、生産資本にはいる諸要因の素材の割合と、それによって担われる価値の割合とは、gが生産資本の増加分としての追加生産手段と追加労働力とに、または生産手段だけに、転換されることが可能になるためにもっていなければならない最小限の大きさを規定する。」
「g自身の機能は、貨幣状態にとどまっていて何回もの価値増殖循環から、つまり外部から、十分な追加を受け取って、その積極的な機能に必要な最小限の大きさに達することであって、この大きさに達してはじめて、gは、現実に貨幣資本として、当面の場合ではすでに機能している貨幣資本Gの蓄積部分として、いっしょに貨幣資本の機能にはいることができるのである。それまでのあいだは、gは積み立てられて、ただ、形成過程にある成長中の蓄蔵貨幣の形態で存在しているだけである。つまり、ここでは貨幣蓄積、貨幣蓄蔵は、現実の蓄積すなわち産業資本の作業規模の拡張に一時的に伴う過程として現われるのである。」
「ここでは蓄蔵貨幣が貨幣資本の形態として現われ、また貨幣蓄蔵が資本の蓄積に一時的に伴う過程として現われるのであるが、それは、貨幣がここでは潜在的な貨幣資本の役割をするからであり、またそれをするかぎりでのことである。また、貨幣蓄蔵、すなわち貨幣形態で存在する剰余価値の蓄蔵貨幣状態は、剰余価値加現実に機能する資本に転化するために資本の循環の外で行なわれる機能的に規定された準備段階だからである。」
gが蓄積されて資本に追加されるのは、量質転化によるのであるが、ここでの量質転化は、媒介的である。すなわち、g自身による量的変化によって質的変化がもたらされるのではなく、gは他から媒介的に増加されて、媒介的な質的変化に結びつくのである。
第4節 準備金
二つの否定の否定が統一されるには、さまざまな条件が必要である。ヘーゲルの弁証法では、その点が十分に扱われていない。それは、否定の否定を担う実体が観念であることからくる。ところが、マルクスやエンゲルスの弁証法は、見る通り、この点が克服されている。
観念が運動を担う主体として実体化されると、例えば、本来は自然発生性・自然成長性であるものが目的意識性として取り扱われたり、矛盾を担っていないものが論理的強制によって矛盾を担うものと取り扱われたり、媒介的統一が直接的同一として扱われたり、敵対的矛盾が非敵対的矛盾として取り扱われたりする場合がある。ヘーゲルの観念的弁証法を見ていく場合、観念論的体系を無理やり構築する必要性のために、捻じ曲げられ窒息させられた弁証法の側面を、注意深く区別して考察せねばならない。
「もし過程W´…G´が正常な限度を越えて延びるならば、つまり商品資本の貨幣形態への転化が異常に妨げられるならば、あるいはまた、この転化は行なわれても、たとえば貨幣資本が転換されるべき生産手段の価格が循環の始まったときの水準よりも高くなっているならば、そのような場合には、蓄積財源として機能している蓄蔵貨幣を用いてそれに貨幣資本またはその一部分の代わりをさせることができる。このようにして、貨幣蓄積財源は、循環の撹乱を調整するための準備金として役だつのである。」 
 
第3章 商品資本の循環

 

「商品資本の循環を表わす一般的な定式は次のようになる。W´−G´−W…P…W´」
「W´は前述の二つの循環の産物として現われるだけではなく、それらの前提としても現われる。」「W´がある一つの産業資本の循環のなかでWとして現われるのは、この資本の形態としてではなく、生産手段がその生産物であるかぎりでの別の一つの産業資本の形態としてである。第一の資本のG−W(すなわちG−Pm)という行為は、この第二の資本にとってはW´−G´なのである。」
「どの場合にもつねにW´は資木価値・ブラス・剰余価値に等しい商品資本として循環を始めるのである。」
「ただWそのものの循環のなかでのみ、W=P=資本価値は、W´のうちの剰余価値をなしている部分、すなわち剰余価値がひそんでいる剰余生産物から分離されることができるのであり、また分離されなければならないのであって、・・・この二つのものは、W´がG´に転化しさえすれば、いつでも分離可能になるのである。」
「W´…W´という形態では、総商品生産物の消費が資本そのものの循環の正常な進行の条件として前提されている。労働者の個人的消費と、剰余生産物中の蓄積されない部分の個人的消費とは、個人的消費の全体をなしている。だから、消費は、その全体から見て−個人的消費としても生産的消費としても−W´の循環にその条件としてはいるのである。」
「形態TとUでは、総運動が前貸資本価値の運動として表わされている。形態Vでは、価値増殖された資本が、総商品生産物の姿をとって、出発点になっており、運動する資本、商品資本の形態をもっている。それが貨幣に転化してから、はじめて、この運動は資本の運動と収入の運動とに分かれる。一方では個人的消費財源への、他方では再生産財産への、社会的総生産物の分割が、また両者への各個の商品資本についての生産物の特殊な分割が、この形態では資本の循環のなかに含まれているのである。」
「W´…W´では、商品形態にある資本が生産の前提とされている。それは、第二のWとなって再びこの循環になかで前提として現われる。もしこのWがまだ生産または再生産されていなければ、循環は阻止されているのである。このWは大部分は別の産業資本のW´として再生産されなければならない。この循環ではW´は運動の出発点、通過点、終点として存在しており、したがって、いつでも存在している。それは再生産過程の恒常的な条件である。」
「循環W…W´は、その軌道のなかでW(=A+Pm)の形態にある他の産業資本を前提しているからこそ(またPmはいろいろな種類の他の資本、たとえばわれわれの場合では機械や石炭や油などを包括しているからこそ)、この循環そのものが次のようなことを要求するのである。すなわち、この循環を、ただ、循環の一般的な形態として、すなわち各個の産業資本を(それが最初に投下される場合を除き)そのもとで考察することができるような社会的な形態として、したがってすべての個別産業資本に共通な運動形態として考察するだけではなく、また同時に、いろいろな個別資本の総計すなわち資本家階級の総資本の運動形態として考察することを要求するのであって、この運動では各個の産業資本の運動はただ一つの部分運動として現われるだけで、この部分運動はまた他の部分運動とからみ合い他の部分運動によって制約されるのである。たとえば、われわれが一国の一年間の総商品生産物を考察して、その一部分がすべての個別事業の生産資木を補填し他の部分がいろいろな階級の個人的消費にはいって行く運動を分析するならば、われわれはW´…W´を、社会的資本の運動形態としても、また社会的資本によって生産される剰余価値または剰余生産物の運動形態としても、考察するのである。社会的資本は個別資本の総計(株式資本も含めて、また政府が生産的賃労働を鉱山や鉄道などに充用して産業資本家として機能するかぎりでは国家資本も含めて)に等しいということ、また、社会的資本の総運動は個別資本の諸運動の代数的総計に等しいということ、」
「W´…W´という循環では、最初に前貸しされる資本価値はただ運動を開始する極の一部分をなしているだけであり、したがって運動ははじめから産業資本の全体運動として示されているのであるが、このような循環はただW´…W´だけである。この全体運動は、生産資本を補填する生産物部分の運動でもあれば、また剰余生産物をなしていて平均的に一部分は収入として支出され一部分は蓄積の要素として役だつべき生産物部分の運動でもある。収入としての剰余価値の支出がこの循環に含まれているかぎり、それには個人的消費も含まれている。しかしまた、この個人的消費は、出発点の商品Wが、なんらかの任意の使用財として存在するということによっても、含まれている。しかし、資本主義的に生産された物品は、その使用形態がそれを生産的消費用にしようと個人的消費用にしようと、あるいはまたその両方にしようと、とにかくすべて商品資本である。」
「W´…W´では総生産物(総価値)が出発点なのだから、そこでは、生産性に変化がなくても拡大された規模での再生産が行なわれうるのは、ただ、(対外貿易を無視すれば)剰余生産物中の資本化される部分のうちに追加生産資本の素材的諸要素がすでに含まれている場合だけだということが示されている。したがって、ある年の生産が次の年の生産の前提として役だつかぎり、またはそれが同年内の単純再生産過程と同時に行なわれうるかぎり、剰余生産物は、ただちに、追加資本として機能することができるような形態で生産されるということも、示されている。生産性の増大は、資本素材の価値を高くすることなしに、ただ資本素材の量だけをふやすことができる。しかし、それは、そうすることによって価値増殖のための追加材料を形成するのである。」
「W´…W´はケネーの経済表の基礎になっている。そして、彼がG…G´(重商主義がそれだけを切り離して固守した形態)に対立させてこの形態を選んだということ、そしてP…Pを選ばなかったということは、偉大な正確な手腕を示すものである。」 
 
第4章 循環過程の三つの図式

 

否定の否定を循環過程・運動として把握することができると、それが全体・普遍を構成し、各部分・各契機はそれぞれその中で特殊な位置づけを与えられる。これはそれ以前と異なって、各契機が全体の中での相対的位置づけを与えられるということである。
その統一的運動は、その中に「中断」を含む矛盾した過程である。しかし矛盾を含む過程こそが、運動過程の正常な姿なのである。
しかし、その静止・中断が、運動にとっていつも非敵対的とは限らない。それが敵対的関係になると運動の中止・破壊につながる。
「総過程は生産過程と流通過程との統一として表わされる。生産過程は流通過程の媒介者になり、また逆に後者が前者の媒介者になる。」
すなわち、生産過程と流通過程は、循環過程の中で、矛盾した、相互浸透の関係にあるということである。その相互浸透の結果が、三つの循環過程であった。
「これらの循環のそれぞれが、いろいろな個別産業資本のとる特殊な運動形態と見られるかぎりでは、この相違もやはりただ個別的な相違として存在するだけである。しかし、現実には、どの個別産業資本も三つの循環のすべてを同時に行なっているのである。この三つの循環、資本の三つの姿の再生産形態は、連続的に相並んで行なわれる。」「どの形態、どの段階にある資本の再生産も、これらの形態の変態や次々になされる三つの段階の通過と同じに、連続的である。だから、ここでは総循環はその三つの形態の現実の統一なのである。」
「資本の循環過程は、不断の中断であり、一つの段階を去り、次の段階にはいることである。それは、一つの形態を捨て、別の形態で存在することである。これらの段階のそれぞれが次の段階の条件になるだけではなく、また同時にこれを排除するのである。」
「それゆえ、連続的に行なわれる産業資本の現実の循環は、ただ単に流通過程と生産過程との統一であるだけではなく、その三つの循環全部の統一である。しかし、それがこのような統一でありうるのは、ただ資本のそれぞれの部分が循環の相続く諸段階を次々に通り過ぎることができ、一つの段階、一つの機能形態から次のそれに移行することができ、したがってこれらの部分の全体としての産業資本が、同時に別々の段階にあって別々の機能を行ない、こうして三つの循環のすべてを同時に描くというかぎりでのことである。各部分が次々に続くことは、ここでは、諸部分が相並ぶことを、すなわち資本の分割を、条件としている。」「しかし、生産の連続性の条件をなす〔各部分の〕並列は、ただ資本の諸部分が次々に別々の段階を通って行く運動によってのみ存在する。この並列はそれ自体この継起の結果にほかならない。」「総生産過程が同時に再生産過程であり、したがってまたその各契機の循環でもあるということは、総生産過程のための、またことに社会的資本のための、一つの必然的な条件である。」「資本は全体としては同じときに空間的に相並んで別々の段階にあるわけである。しかし、各部分は絶えず順々に一つの段階、一つの機能形態から次のそれに移って行き、こうして順々にすべての段階、すべての機能形態で機能して行く。すなわち、これらの形態は流動的な形態であって、それらの同時性はそれらの継起によって媒介されているのである。」「三つの循環の統一のなかにはじめて総過程の連続性−前述のような中断ではない―は実現されている。社会的総資本はつねにこの連続性をもっているのであり、社会的総資本の過程はいつでもこの三つの循環の統一をもっているのである。」
「資本は、ただ運動としてのみ理解できるのであって、静止している物としては理解できないのである。」
「もし社会的資本価値が価値革命にさらされれば、彼の個別資本はこの価値運動の諸条件をみたすことができないためにこの革命に敗れて没落するということも起こりうる。価値革命がいっそう急性になり頻繁になるにつれて、独立化された価値の自動的な運動、不可抗力的な自然過程の力で作用する運動は、個々の資本家の予見や計算に反してますます威力を発揮し、正常な生産の進行はますます非正常な投機に従属するようになり、個別資本の生存にとっての危険はますます大きくなる。こうして、このような周期的な価値革命は、それが否定すると称するものを、すなわち価値が資本として経験し自分の運動によって維持し強調する独立化を、確証するのである。」
「過程を進行しつつある資本のこのような変態列には、循環の中で生じた資本の価値量の変化と最初の価値との不断の比較が含まれている。」
「過程がまったく正常に進行するのは、価値関係が不変な場合だけである。実際には、循環が繰り返されるあいだに諸撹乱が相殺されるかぎり、過程は進行する。攬乱が大きければ大きいほど、それらが相殺されるまで待つことができるためには、産業資本家はますます大きな貨幣資本をもっていなければならない。そして、資本主義的生産が進行するにつれて各個別生産過程の規模が拡大され、またそれにつれて前貸しされる資本の最小限が大きくなるのだから、前述の事情が他の諸事情に加わって、ますます産業資本家の機能を個々別々の、または結合された、巨大な貨幣資本家の独占に転化させるのである。」
「ここでついでに注意しておきたいのは、もし生産要素の価値変動が生ずるならば、一方の形態G…G´と他方の形態P…PおよびW…W´とのあいだに一つの相違が現われるということである。」
「貨幣資本として登場する新たに投下される資本の定式としてのG…G´では、」「ただ新たに投下される貨幣資本の量が影響を受けるだけである。」
「循環P…P´とW´…W´が」「ここでは、直接に影響を受けるのは、最初の投資ではない。それを受けるのは、すでに再生産過程にはいっていてもはや最初の循環にあるのではない産業資本である。つまりW…W´=A+Pmであり、商品から成っているかぎりでの自分の生産要素への商品資本の再転換である。」
「資本主義的生産様式がすでに発展しており、したがって優勢になっている時代には、流通段階G−W=A+PmではPmすなわち生産手段となる諸商品の一大部分はそれら自身が他人の機能中の商品資本であろう。」「産業資本が貨幣かまたは商品として機能している流通過程のなかでは、産業資本の循環は、貨幣資本としてのそれであろうと商品資本のそれであろうと、非常にさまざまな社会的生産様式−といっても同時に商品生産であるかぎりでのそれ―の商品流通と交錯している。」「産業資本の流通過程を特色づけるものは、諸商品の出生地の多方面的性格であり、世界市場としての市場の存在である。他国の商品について言えることは、他田の貨幣についても言える。商品資本は他国の貨幣にたいしてただ商品として機能し、この他国の貨幣はこの商品資本にたいしてただ貨幣として機能する。貨幣はここでは世界貨幣として機能するのである。」「しかし、資本主義的生産様式の傾向は、あらゆる生産をできるかぎり商品生産に変えることである。そのための主要手段は、まさに、あらゆる生産をこのように資本主義的生産様式の流通過程に引き入れることである。そして、発展した商品生産こそは資本主義的商品生産なのである。産業資本の侵入はどこでもこの転化を促進するのであり、それとともにまたすべての直接生産者の賃金労働者への転化をも促進するのである。」「産業資本の流通過程にはいる諸商品・・・は、その出所、それが出てくる生産過程の社会的形態がなんであろうと、産業資本そのものにたいしては、すでに商品資本の形態で、商品取引資本または商人資本の形態で、相対する。そして、この商人資本は、その性質上、あらゆる生産様式の商品を包括しているのである。」「資本主義的生産様式は生産の大規模を前提するので、また必然的に販売の大規模をも前提する。つまり、個々の消費者へのではなく、商人への販売を前提する。」
「産業資本の個別的循環過程のただ一部分をなすだけの産業資本の流通過程は、一般的な商品流通のなかの一連の過程を表わすにすぎないかぎりでは、前に(第一部第三章)展開された一般的な諸法則によって規定されている。」「しかし、一般的な商品流通の諸法則が妥当するのは、ただ資本の流通過程が一連の単純な流通事象をなしているかぎりでのことであって、これらの流通事象が個別産業資本の循環の機能的に規定された諸段階をなしているかぎりでは、妥当しないのである。」「個別資本を自分のただ独立に機能しているだけの構成部分として含んでいる社会的総資本のいろいろな構成部分が、−資本についても剰余価値についても―どのようにして流通過程で互いに補填されるかは、資本流通の諸事象にも他のすべての商品流通にも共通な、商品流通上の単なる諸変態のからみ合いからは、明らかにならないのであって、別の研究方法を必要とするものである。」
「人々はこれまで現物経済と貨幣経済と信用経済とを社会的生産の三つの特徴的な経済的運動形態として対比してきた。」「発展した資本生義的生産では、貨幣経済はただ信用経済の基礎として現われるだけである。したがって、貨幣経済と信用経済とはただ資本主義的生産の別々な発展段階に対応しているだけであって、けっして現物経済にたいする別々な独立な交易形態ではないのである。」
「資本家が自分の資本を価値増殖する率は、彼の供給と彼の需要との差が大きければ大きいほど、すなわち彼の供給する商品価値が彼の需要する商品価値を越える超過分が大きければ大きいほど、ますます大きい。彼の供給と需要との一致ではなく、可能なかぎりの不一致が、彼の供給が彼の需要を超過することが、彼の目的なのである。個々の資本家について言えることは、資本家階級についても言える。資本家がただ産業資本の人格化でしかないかぎりでは、彼自身の需要は生産手段と労働力とにたいする需要だけである。Pmにたいする彼の需要は、その価値の点から見れば、彼の前貸資本よりも小さい。彼が買う生産手段の価値は彼の資本の価値よりも小さく、したがって彼が供給する商品資本の価値に比べればもっとずっと小さいのである。」
ここで、マルクスは、「回転の考察」を入れているが、基本的には結論は同じである。
「だから、この回転は彼の総供給にたいする彼の総需要の割合を少しも変えるものではなく、総需要はやはり総供給よりも五分の一だけ小さい。」「とにかく、彼の総資本の回転が年一回ならば、彼の年間需要はつねに5000ポンド・スターリングで、彼の最初の前貸資本価値に等しいのであるが、この需要は資本の流動部分に関してはふえて行き、他方、資本の固定部分に関しては絶えず減って行くのである。」 
 
「経済学批判」

 

第1章 商品
1.使用価値と交換価値
「批判」は、まず、使用価値の考察から、論を進める。
使用価値は、端的に言えば、生活資料(生活手段)である。「使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある。」経済学的に見ると「直接には、使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が、それでみずからを表示する素材的土台なのである。」(交換価値は、経済的関係であるから、関係概念として把握しなければならない。使用価値は、その関係を担う土台である。)
これに対し、「交換価値は、使用価値がたがいに交換されうる量的比率としてあらわれる。」だから、使用価値の差異を無視して、どんな使用価値とでも交換される。つまり、商品としてみるということは、目に見える使用価値の実在の上に、交換価値と言う目に見えないものを、二重写しに見ているということである。
では、この交換価値の実体はなにか。
「諸商品は、・・・等価物として通用し、・・・おなじひとつのものを表示しているのである。」この同じひとつのものは、「対象化された労働」以外ではない。
この次に、交換価値を生み出す労働の性格が、議論されている。
異なった使用価値を生む出す労働は、「質的に違った、活動の差異」をもった労働である。金、鉄、小麦、絹を生み出す「金を掘り出すこと、鉄を鉱山から採掘すること、小麦を作ること、そして絹を織ることは、たがいに質的にちがった種類の労働」であり、それぞれ特殊な労働である。一方、交換価値を生み出す労働は、「同じ形の、無差別な、単純な労働」であり、「労働する者の個性の消え去っている労働」であり、一言で表せば、「抽象的一般労働」である。すなわち、それぞれ特殊な労働から抽象して把握した労働という意味である。言い換えれば、使用価値と交換価値の関係は、労働の特殊性と一般性の関係に還元されている。
「労働の量的定在は、労働時間である」から、「商品の使用価値のうちに対象化された労働時間は、その使用価値を交換価値たらしめ、したがって商品たらしめる実体であるとともに、その一定の価値の大きさをはかる。」交換価値は、「一定量の凝固した労働時間」である。 この労働時間が「価値を形成する実体」である。
次に、「交換価値が労働時間によって規定されている」ということを、更に3つの視点から詳論する。
1 諸労働の、無差別な、一様な、単純労働への還元
特殊な労働の抽象によって把握される抽象的労働というのは、単に人間の頭脳によって把握された理論的なもので現実には起こっていないのではないのか、この問いに対する答えがここで議論される。「商品の交換価値を、そのうちに含まれている労働時間で測るためには、さまざまな労働自体が、無差別な、一様な、単純な労働に、要するに質的には同じで量的にだけ差異のある労働に還元されていなければならない」が、この理論的な還元過程が「社会的生産過程のうちで日々行われている」のであり、実際に現実の中にこの抽象過程が現れており、ブルジョア社会に現れていることを指摘している。
「交換価値で表示される労働は、一般的人間労働という表現を与えることができる」労働である。それは、「ある与えられた社会のすべての平均的個人がおこなうことのできる平均労働」「平均的個人の単純労働」であり、「どんな統計からでもたしかめうるように、ブルジョア社会のあらゆる労働のうちとびぬけて大きな部分をなしている」。
労働の特殊性が捨象されて、すべてが「一般的人間労働」として扱われ、「平均的個人の単純労働」のレベルから把握される。これが、「交換価値で表示される労働」である。「労働するさまざまの個人が、むしろ同じ労働の単なる諸器官としてあらわれる」のである。
更にその労働は「生産に必要な労働時間」である。
2 交換価値を生み出す労働の社会的諸規定
ここでは、特殊な労働相互の関係=労働の社会的関係ということが取り上げられている。
「各個人の労働は、交換価値で表示される限り、同質性というこの社会的な性格をも」ち、「更に交換価値にあっては、一人一人の労働時間が直接そのまま一般的労働時間として現われ、また、個別化された労働のこの一般的性格が、その社会的性格として現われる」。
ここでいう特殊な社会とは、「個人の労働が私的労働となること、および個人の労働の生産物が私的生産物となる」という社会である。一言で言えば、私的所有の社会である。
こういう社会では、個人の労働の生産物は、その労働した個人の所有物となる。農夫の作った小麦は農夫のものであり、パン屋の作ったパンはパン屋のものである。しかし、農夫はパンを食わなければ生きていけないし、パン屋は小麦がなければパンが作れない。そこで、小麦とパンの交換が必要となる。小麦とパンを商品として市場に出さなくてはならない。そこで、交換価値が生まれるわけである。
商品を交換し合うということは、交換価値に結晶化している労働を交換し合うということである。個々の人が行う労働は、それぞれ特殊な、異なった労働であるから、交換し合う労働というのは、それぞれ特殊な労働を抽象した労働の共通性である。商品を交換し合うというだけの個人のつながりを前提する社会関係の特殊性がこれである。
人は、場所を越え時代を超えて、例え何ら個人的な繋がりがないように見えても、労働を交換し合うし、交換し合わなければならない存在である。他人同士という対立物が、媒介関係を発展させて、お互いの(特殊な)労働を交換し合い、他人の労働を自己の中に取り込む関係といってもいいだろう(これは弁証法的論点からすれば、人間相互の相互浸透である。)。これは、どういう社会であっても変わらない。しかし、労働を交換し合う有り方(=生産様式)は、時代によって変わってきた。
ここで、個人に割り振られる労働のあり方を、論理的に次のように分類してみよう。
まず、一人の人間が、いくつかの異なった種類の労働を行い、その産物も自己消費する場合。これは自給自足の生活であり、島の中のロビンソンである。このような人間の集団を考えると、その集団の内部で、それぞれ人間同士が孤立していて、自給自足の生活を送っている。生産物は、交換されていない。
次に、いくつかの異なった生産活動とその産物の消費が違った人間に割り振られているが、一方は生産のみを行い、もう一方は消費のみを行う場合。この場合、このような人間の集団の内部では、生産物が、生産する側の人間から、消費だけをする人間の側に、一方的に流れる。あるいは、生産する人間が消費する人間のところに直接行って、生産活動を行う。これは相互の交換ではなく、したがって生産物は商品とならない。
この集団の例として、中世を挙げている。中世は、同職組合のような団体的動産所有が存在する社会であるが、賦役や現物給付がある。賦役は、労働を一方的に提供させられることであり、現物給付とは、生産物を一方的に提供させられることである。生産物は行き先が決まっており、したがって、消費先が決まっている生産物は、商品ではない。
ここでは、「労働の一般性ではなく、特殊性が社会の紐帯となっている」。これは、分業が特殊な身分として固定されており、各人の労働は、身分として誰の目にも社会的に明らかになっている。生産物の交換も、自由になされているのではなく、身分から身分へと一方的に流れている。ここでは、社会的分業が発展しているが、交換価値は生み出していない、少なくとも、主要ではない。
次に、生産と消費が違った人間に割り振られているが、お互いに平等に生産と消費を行う場合。
この場合、更に原理的に二つに分かれる。一つは、それが計画的に行われる場合。もう一つは、無計画に行われる場合。
まず、計画的に行われる場合として、家族内分業が挙げられる。「農村的家父長制的な工業」=家族内分業。家族も小さな人間集団である。男と女との自然的な分業に基づいて、家族共同体という社会のなかでは、生産に自然発生的な計画性があり、生産された生産物は、すべて家族内で自給自足的に消費される。その家族社会の中では、糸やリンネルが家族内の「社会的生産物」である。しかし、その生産物は、例えば他の家族と交換される必要がなく、商品を店頭に並べるといったような必要がなく、したがって交換価値という性格を持っていない。「いわば、自家需要のために、家族のうちの女達は糸をつむぎ、男達は布を織っていた農村」では、紡績労働や織布労働は、生産物に労働を対象化しても、生産物の中に価値を形成してはいない。この場合の労働時間は、価値に結晶していない。つまり「上衣を、その交換価値を生産することなく生産していた。」
「歴史のあけぼのに見られるような、自然発生的な形態での共同労働」。ここでは、おそらく部族社会が想定されているのであろうが、ここでも、家族内分業と同様に、各人の労働は、直接的な結びつきのなかにあり、交換価値は生まれていない。
最後に、無計画に行われる場合。無計画とは、各個人が生産者でもあり消費者でもあるという関係であり、各人はそれぞれ特殊な分業を割り当てられている集団でありながら、それぞれ勝手に生産を行い消費を行うという状況である。これが、商品生産の前提する社会であり、「職業選択の自由」が保障される社会である。
私的な多様な生産活動は、多様な商品を生み出す。商品の中に結晶化している労働は、商品が交換されるという事実がしめしているように、同質、一般的性格であり、それが社会的性格なのである。
最初のロビンソンと、この最後の人間の集団以外の集団では、生産と消費に関して集団的に何らかの調整と取り決め がなされているはずである。これが、集団すなわち共同体 の役割である。生産物が商品になるのは、労働が私的な労働であるからである。労働が私的でない、つまり、共同体的な労働であれば、生産物は商品とならない。その生産物は、共同体の所有する生産物であろう。共同体内部では、その生産物は、ある個人の所有にはならず、共同体外部でのみ、その共同体の商品となる。
以上のように、「生産の前提になっている共同体」の存在が「個人の労働が私的労働となること、および個人の労働生産物が私的生産物になることをさまたげ」ているのである。だから、こういう自然発生的な共同体がまったく存在しない社会では、私的労働のみがばらばらに存在し、すべての労働生産物は、商品として店頭に並べなければならないことになる。
「交換価値を生み出す労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関係が、いわばあべこべに、言い換えれば物と物との関係として表示されるという点である。」例えば、紡績工と職布工が、直接話し合って生産調整を約束して生産し、それぞれの生産物である100ポンドの亜麻糸と100エレのリンネルを約束したとおりに交換するとすれば、人と人との社会関係が、物と物との関係として表れるということはない。そうではなく、それぞれが勝手に生産し、自由に交換し合うという契機を通して初めて、紡績工と職布工が相対するからこそ、人と人との社会関係が、物と物との関係として表れるのである。
100ポンドの亜麻糸と100エレのリンネルは、それぞれ、紡績工と職布工の労働が固定化=対象化されたものである。交換価値は、私的な特殊な労働相互の関係から抽象的に把握した一般労働の側面(生産関係)が、それぞれの労働生産物の中に固定化=対象化されたものである。これに対し、使用価値は、それぞれの労働(力)の特殊性の側面が対象化されたものである。つまり、私的労働の社会での生産力と生産関係が労働生産物に対象化されたものが、使用価値と交換価値ということである。いいかえれば、私的所有の下での生産力と生産関係の矛盾の対象化が、商品の中の使用価値と交換価値の矛盾なのである。
3 使用価値と交換価値をうみだす労働の違い
「使用価値を生む出す労働は、形態と素材のことなるにしたがって無限にことなった労働様式にわかれる具体的な特定の労働である」。
それに対し、「交換価値を生み出す労働は、抽象的一般的かつ同質な労働」である。この「労働の特殊社会的な形態の対象的表現」が交換価値である。この特殊社会こそが、人と人との労働関係を、「抽象的一般的かつ同質な労働」としているということになる。
使用価値と交換価値の関係が、労働の特殊性と一般性の関係に還元されている。
人間は、そのままでは、自然に適合していない。人間は、自然に働きかけ、自然を人間に都合のよいように変え、変えられた自然を人間の生活に取り込むことによって、初めて自然に適合できる。ここでいう人間とは、過去から未来までのすべての人間を総括し抽象的なレベルで取り上げたものであって、自然も同じレベルで考えている。この自然と人間のあり方は、時代を超えて同じであり、その有様が時代を経るに深く発展してきたのである。この観点から労働を把握するなら、それが「人間と自然とのあいだの素材転換」としての労働である。自然と人間の相互浸透という論点からすれば、使用価値は、自然の一部を切り取ってそれに人間というレッテルを貼ったもの、自然の一部に人間の側面を加えたもの、自然の一部の中に自然と人間との矛盾を背負わせ定立させたもの、ということができる。
資本論は、商品の分析から出発する。商品というものに存在する矛盾、使用価値と価値(交換価値)の矛盾から出発する。
そもそも原点となる根本的矛盾は、生産力と生産関係の矛盾である。資本論は、使用価値と価値の矛盾から論を出発させるが、それは、生産力と生産関係の矛盾が、商品という形態の中へ形を変えて出現したものということができる。最初の矛盾が、ステージを変える毎に、異なった矛盾へと展開し、それを論理的に追っていく、これが弁証法論理である。
商品という観点から把握される場合、生産力は特殊性の範疇で把握され、生産関係は普遍性(一般性)の範疇で把握されている。
生産力は、労働の生産力の意味で、それぞれ特殊な労働の生産力を指している。具体的な物品、例えば上着であれば上着という特殊な物品を生産する労働の能力であり、リンネルであれば、リンネルという特殊な物品を生産する労働の能力である。上着職人の生産力が発揮されて、上着が生産され、靴職人の生産力があって始めて、靴が市場に出回る。上着職人の生産力が上がれば、上着工房や上着生産工場の生産力が上がれば、市場に出る上着の量が増え、生産力が下がれば、市場に出回る上着の量が減る。
上着やリンネルや小麦等が商品となって市場に出る場合、これを使用価値と呼ぶ。従って、商品を取り上げる場合、それぞれの生産力の高低は、それぞれの使用価値としての商品の量の多少に表れてくる。上着の生産力は、その時の市場に出回る上着の量に表れてくる。そういう意味で、生産力自体は目に見えないが、商品の使用価値としての側面に、目に見える物品という形態で表される。一方、生産力の多様性は、使用価値の多様性に現れてくる。生産力は使用価値に対象化されている。
一方、生産関係は、労働の生産関係の意味で、それぞれ特殊な労働の相互の関係を指している。商品の中に現れる生産関係は、価値の形態を取っている。
上着の労働が上着を生み出し、リンネルの労働がリンネルを生み出す。その時の上着労働やリンネル労働の関係を普遍性(一般性)のレベルで把握すれば、それぞれ特殊な労働、上着労働や、小麦労働とか、そういう特殊な労働を捨象した「人間労働一般」「抽象的人間労働」が考えられる。上着労働もリンネル労働も、抽象的一般的人間労働という抽象のレベルでは、すべて同一である。職業や国や人種は違っても、人間労働としては、みな同じということである。これが、労働の生産関係である。
それぞれの特殊な労働によって、それぞれ特殊な商品が生み出されるが、それぞれ特殊な商品の中には、なにか同一なものがある。その同一なものが、価値(交換価値)であるが、それは、それぞれ特殊な労働の中にある同一性から起因したものである。すなわち抽象的一般的人間労働が、対象化されたもの、それが価値なのである。すなわち、生産関係の対象化である。
例えば、一着の上着と20エレのリンネルが価値としては同じとすると、一着の上着生産労働と20エレリンネル生産労働の労働時間は同じである、つまり、それぞれの特殊な労働の特殊性を捨象した抽象的一般的人間労働として同じ量だということである。これが、一着の上着と20エレのリンネルが、同じ価値を持つという意味である。従って、一着の上着と20エレのリンネルは、互いに交換できる。つまり、同じ交換価値を持つ。
2.価値と使用価値、生産関係と生産力との関係
生産力は、個々人の特定の労働として存在する。労働の生産力が増大すれば、同じ時間で、より多くの生産物(使用価値)を生産できるようになる。しかし、逆に、労働の生産力が減少すれば、同じ時間ならば、少ない使用価値しか生産できない。すなわち、生産力の大小は、対象化された形態では、使用価値の量の大小となって表れる。
一方、生産関係は、個々人の労働の相互の関係である。異なった労働の相互の関係は、抽象的一般労働という同質な労働の時間的差異となって表され、それは、対象化された形態では、異なった使用価値の相互の量的な差異、すなわち、交換価値の大小となって表れる。ただし、使用価値が交換されるという条件下において、すなわち、使用価値である生産物が生産者の私的所有であるという条件の成立する社会において、である。
生産関係と生産力とは、相対的に独立している。生産力が増大して小麦とリンネルが共に多く生産されても、生産の難易が両者に一様に作用すれば、生産関係である小麦とリンネル相互の価値の比率は変わらない。反対に、生産力が変わらなくても、価値関係、小麦とリンネル、コーヒーとリンネルの交換比率は、相互に異なっている。
この節では、生産力と生産関係の関係が、商品同士の中にどのように反映されるかが議論される。まず、一個の商品にどのように反映されるか、1商品の交換価値が生産力とどういう関係にあるかが取り上げられる。生産力の増減が、小麦とリンネルに別々に作用すれば、交換価値は「労働の生産力の増減に反比例して増減する。」
そこで、次に、1商品を、他の商品との媒介関係の中においてみる。すなわち、商品同志を等置する。そうすると、「一般的社会的労働時間の対象化」としての交換価値の規定が現われてくる。
「この商品の交換価値は、他の商品の使用価値のうちに自らを表現する。等価物というのは、実は、ほかの商品の使用価値で表現された1商品の交換価値のことである。」
交換価値というのは、もともと、諸商品をそれぞれが交換することができる一定の量で等置したところから、抽象して把握したものである。交換価値というものが、なにか使用価値のほかに別個に存在しているわけではない。あくまで、異なった商品同士の、使用価値同士の関係を言っているだけである。ある商品の交換価値は、その商品自身の使用価値と他の商品の使用価値の交換可能性を表現しているだけである。だから、ある商品の交換価値を表現しようとすると、あくまで、それ以外の商品の使用価値の一定量で表現することしか、できないのである。1エレのリンネルの交換価値は、2ポンドのコーヒーという使用価値の一定量でしか、表現できないのである。これが、等価物ということである。この等価物という表現のうちに、これが比率であるということが示されている。
更に、他の商品を考えに入れると、「この単一の商品の交換価値は、・・・あらゆる他の商品の使用価値がその等価物となる無限の多数の等式において、はじめてあますところなく表現される」ということになる。なぜなら、各商品とも、「一般的労働の対象化」としての価値を含んでいるからである。すなわち、この無限の比率においてはじめて、その商品の交換価値があますところなく表現される。
「1商品は、こうしてその交換価値をほかのあらゆる商品の使用価値ではかるとともに、逆にほかのあらゆる商品の交換価値は、みずからをそれによってはかったほうの1商品の使用価値ではかられる。」こうしてその1商品は、「価値の尺度」となる。すべてのリンネル以外の商品は、その交換価値をリンネルの一定量で表現されるのである。
ここには、交換価値の論理的な発展がある。量が比へ、比が尺度へ、展開されたのである。これはまた、使用価値と交換価値の矛盾の展開する運動の中で、尺度として貨幣がうまれてくる論理をあらかじめ示している。 「交換価値としては、どの商品もあらゆる他の商品の交換価値の共通な尺度の役をつとめる排他的な1商品であるとともに、他方では、他のそれぞれの商品が多くの商品の全範囲のなかで直接にその交換価値を表示する場合の、その多数の商品のうちのただひとつにすぎないのである。」
次に、先に取り上げた1商品の交換価値と生産力との関係が、他の商品との関係の中に置かれた場合にどういう関係にあるかが取り上げられている。特殊な生産力の多様さは、「その交換価値がみずからを実現している等式の系列が長いか短いか」に表現されている。
一方、「1商品の実現された交換価値、つまり他の商品の使用価値で表現された交換価値は、それ以外のすべての商品の生産に用いられる労働時間の変化する割合によっても左右されざるを得ない。」つまり、商品の交換価値は、他の商品の使用価値によって表現されるので、商品同士の交換価値は、媒介関係に置かれており、生産力の増減が個々の商品に別々に作用すれば、必要とする労働時間の大小も別々になり、「諸商品の価値は、それらが同じ労働時間で生産されうる比率によって、規定される」という結論が導き出される。
この後に、二つの商品AとBの交換価値が、労働時間の変化によって、どのように影響されるかが議論されている。こうして、生産力と生産関係が、使用価値と交換価値に転化される形態が示されたのである。
3.現実的な交流作用である交換過程
いままでは、使用価値と交換価値を「これらの側面のひとつひとつは、それ自身として考察」した。ここからは、「それらがたがいに関係しあう仕方、それらの交互作用」(エンゲルス「批判」書評)を扱うことになる。
「商品同士の現実的連関」である交換過程に入る。いままでは、理論的に商品の二つの側面を取り扱ってきただけである。この現実的な商品交換という過程において、人が商品を交換するということから生ずる問題に直面する。
ここで、商品所有者が「商品の定在」として、「交換過程の意識的な担い手」として現れることに注意しなければならない。意識的担い手とは、実体的人間が、商品の意識的な表現者として現れているということであり、彼の意識の内容は、商品の反映である。これは、「人間の社会的存在がその意識を規定する」という表現と通じている。
「これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。・・・どちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介にしてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認め合わなければならない。契約・・・は、・・・経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。・・・人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対する・・・」(「資本論」)
「自分たちの意志をこれらの物に宿す」というのは、法的に所有権を持っているということであり、「彼らは互いに相手を私的所有者として」、商品所有者として認めるのである。そこで、互いの商品の交換は、互いの所有する商品の所有権の移転であり、商品交換の契約は、「経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」。(ヘーゲルの法理論の物件、所有、譲渡を参照)
「商品としては、まさに使用価値と交換価値との直接の統一である」。そこで、商品を直接に交換、すなわち、物々交換しようとすると、以下のような矛盾が生ずることになる。
商品は、「その所有者にとっては、それはむしろ非使用価値であり、・・・単なる交換手段である。」「だから、使用価値としては、それはまず、他の人にとっての使用価値にならなければならない。」しかし、
1「使用価値として実現されるためには、交換価値として実現されなければならない。」
「商品は一定量の労働時間がそれに費やされている限り、したがってそれが対象化された労働時間である限り、確かに交換価値である。けれどもそれは直接そのままでは、特定の内容を持つ対象化された個人的労働時間であるにすぎないのであって、一般的労働時間ではない。だから商品は、・・・これからそれ(交換価値)にならなければならない。」
2「みずからを使用価値として証明することによってのみ、はじめて交換価値として実現されうる」。
更に3「使用価値としての商品の全面的な脱却においては、その特殊な属性によって特定の欲望をみたす特定の物としてのその素材的差異におうじて、諸商品はたがいに関連しあう。」4「だが商品が交換されうるのはただ等価物としてだけであり、・・・商品の使用価値としての自然的な属性についてのいっさいの顧慮・・・はまったく消え去ってしまっている。」「だから同じ関連が、一方では本質的にひとしくただ量的にだけ異なる大きさとしての諸商品の関連でなければならず、・・同時に他方では質的に異なるものとしての・・・簡単にいえば諸商品を現実的な使用価値として区別する関連でなければならない。だが、この等置と区別とはたがいに排斥しあう。」
「諸商品の全面的脱却(譲渡)」や「止揚」という表現に注意しよう。これは、商品同士の交換を、商品同士の否定として把握した表現である。商品が交換されるためには、使用価値を否定して交換価値とならねばならず、そうしてはじめて交換が可能となる。しかし、その否定は、交換価値を否定して使用価値となってはじめて証明されるものである。この矛盾を、物々交換では解決できていないのである。
「これらの矛盾は、・・・直接的交換関係の、つまり単純な交換取引の本性からうまれてくる困難を、すなわち、交換のこの最初の素朴な形態が必然的におちいる不可能を、反映している」(エンゲルス「批判」書評)。
だから、交換過程の自然発生的な形態である直接的交換取引(物々交換)では、商品同士の否定は困難であるということになる。この否定の困難は、後に流通過程における否定の否定によって、解決される。交換過程から流通過程への発展は、この単純な否定から、否定の否定という二重否定の過程への展開である。それが、商品の矛盾から必然的に要請される展開として、述べられている。
「こうして一方の解決が他方の解決を前提とするところから、そこに問題の悪循環が生じてくるばかりでなく、ひとつの条件をみたすことが直ちにその反対条件を満たすこととむすびついているところから、矛盾しあう諸要求の全体があらわれるのである。」
この二律背反は、「実際問題としては、自己を展開し、おそらくその解決を見出しているであろう。」(エンゲルス「批判」書評)「諸商品の交換過程は、これらの矛盾の展開であるとともにその解決でなければならない」
矛盾の解決というと、矛盾を破壊することだと考え、矛盾を担うものを壊してしまうことも方法としては考えられる。しかし、使用価値と交換価値の矛盾を解決するために、商品自体を破壊しても、問題の解決とはならない。交換過程の中で現われるこの矛盾の解決=「矛盾の展開であるとともにその解決」では、矛盾を破壊するのではなく、矛盾を展開させて、矛盾の成立をもって解決するという方法を取っている。
そのためには、まず、「こうした困難が、解決されたものと仮定」する。2が解決され、「社会的に有用な労働であるという素材的条件をみたしているものとする」。
しかし、それでも、まだ矛盾が生ずる。5「一方では商品は対象化された一般的労働時間として交換過程に入っていかなければならないのに、」6「他方では個人の労働時間が一般的労働時間として対象化することそのものが、交換過程の産物にほかならないということである。」
その解決は、「商品が実在を二重化する」ということで解決される。
商品が実在を二重化する、つまり、商品が使用価値を否定して交換価値として実在化することとは、「商品が、直接に対象化された一般的労働時間として表示され」ることである。ところが、「交換過程で相対立するのは商品同志だけ」であるから、それは、特定の商品に、「対象化された一般労働」の役割を負わせればいいのである。ここでは、「この場合リンネルは、ほかのすべての商品のリンネルへの全面的なはたらきかけによって、一般的等価物となるのである。」「すべての商品がその交換価値を特定の1商品ではかることによって、この除外された1商品が交換価値の恰好な定在、一般的等価物としてのその定在となるのである。」「だから交換過程の内部では、いまや諸商品は、リンネルの形態をとった交換価値としてたがいに存在しあい、あるいはお互いに現われあうのである。」これは、「単なる抽象から交換過程そのものの社会的な結果となる」。
諸商品がリンネルという定在に現実に転化する過程は、「一般的等価物として除外された商品も、その使用価値を二重化する。」「ひとつの一般的使用価値を持つにいたる。」「いまや交換過程そのものから生ずるひとつの一般的欲望の対象であって、だれにとっても交換価値の担い手であり、一般的交換手段であるという同じ使用価値をもっている。こうしてこの1商品においては、商品が商品としてそのうちにもつ矛盾、特定の使用価値であるとともに一般的等価物であり、したがってだれにとってもの使用価値、一般的使用価値という矛盾が解決されている。」
「すべての商品の交換価値の恰好な定在を表示する特定の商品、あるいは、特定の排他的な1商品としての諸商品の交換価値、それが貨幣である。」
「資本論」では、この部分の展開が、個別−特殊−普遍という各段階を通って発展するという一般的な形式をもって、記述されている。
しかし、ここでは、「1商品の交換価値が現実に表現されている等式の総和」から、「等式の無限の総和」へ、更に「等式の系列を単純に転倒することによって、・・・交換過程そのものの社会的な結果となる」という記述になっている。
この展開は、端的に言えば、量質転化の法則である。商品の交換価値を表現する等式は、商品の交換される領域を表現しているが、それが、次第に拡大し、遂には、無限の諸商品を捕らえるようになり、その結果、量が質に転化して、「諸商品の交換価値の結晶」が生ずるのである。
商品が使用価値と交換価値との直接的統一であるということから、交換過程での矛盾が、ある特定の商品を除外し、その特定の商品に一般的等価物と一般的使用価値(一般的交換手段)という矛盾を担わせ、こうして商品の世界と貨幣の世界の二つの世界への分裂が発生する。これは、商品の使用価値と交換価値との直接的統一が、諸商品と交換価値の結晶である貨幣という「媒介的統一」に発展したということでもある。商品の使用価値と交換価値との対立は、貨幣の一般的使用価値と一般的等価物という対立となって、貨幣の世界に持ち越された。これはまた、後に見るように、諸商品の側にも、(価格との)新たな直接的統一をも生み出すのである。
諸商品は、貨幣を媒介にして、交換される。まず、諸商品は、自己を否定し、貨幣となる。更に、貨幣は、再び自己を否定して、別の商品となる。この否定の否定の法則により、商品交換の運動が可能になるのである。
貨幣の物理的属性も、「交換価値の本性から」論理的に導かれる。「任意に分割しうること、各部分が一様であること、この商品のひとつひとつが無差別であること」。また、「交換過程の内部につねにとどまらなければならないから」という理由で、耐久性が要求される。従って、貴金属が貨幣として採用される。諸商品の交換価値の結晶としての貨幣の性格が、貨幣の役割を担っている特定の商品である土台に浸透するのである。
4.物々交換から商品交換への歴史
ここから後の文章では、論理と歴史の関係が問題となっている。
「交換過程の自然発生的な形態である直接的交換取引(物々交換)」は、「使用価値の商品への転化が始まっていることをしめす」。
「諸商品の交換過程は、もともと自然発生的な共同体の胎内にあらわれるものではなくて、こういう共同体がつきるところで、その境界で、それがほかの共同体と接触する少数の地点であらわれるものである。この地点で交換取引が始まり、そしてそこから共同体の内部に反作用し、これを解体するような作用をおよぼす。」
唯物史観に寄れば、人間の歴史の初期の共同体といえば、部族社会であるから、異なった部族共同体が「生産が消費のために必要とされる程度を超えること」になったとき、その部族の周辺で物々交換が始まり、「奴隷、家畜、金属等」が最初の貨幣として用いられていく。「交換取引がだんだんとひろがり、交換が増加し、そして交換取引にはいってくる商品が多様になるにつれ、商品は交換価値として発展し、貨幣を形成するまでになり、こうして直接交換取引にそれを分解させるような作用をおよぼすようになる。」
逆に、単独で孤立している部族社会では、他の部族社会と接触することがないから、部族内部で分業が発展し物物交換はあっても貨幣にまで発展しないことになる。「ペルーのように、何の貨幣も実在しないのに、たとえば協業や発展した分業等々のような経済の最高の諸形態がみられる、きわめて発展した、しかし、歴史的には未成熟な社会諸形態がある」(「序説」)
部族社会の解体は、共同体所有から私的所有への移行である。これは、共同体から私的家族への移行でもある。
発展した分業によって、分業の種類だけ異なった使用価値を持つ商品が生産され、人は労働を交換せざるをえない存在であるから、商品を交換せざるを得ず、お互い顔も知らず面識もない人と人との関係が、商品を交換するという関係でだけ保たれている。これが商品世界である。
「商品同志の過程的連関は、一般的等価物のさまざまな諸規定となって結晶し、こうして交換過程は、同時に貨幣の形成過程でもある。」「この過程の全体が、流通である。」
直接的交換関係つまり物々交換は、貨幣の形成で終了し、貨幣のない物々交換から、貨幣を媒介とした流通への展開が、次の章でなされる。  
第2章 貨幣または単純流通

 

1 価値の尺度(貨幣の矛盾する一側面としての価値の尺度の展開)
「流通の最初の過程は、いわば現実の流通のための理論的準備過程である。」
ここでは、貨幣の運動としての、交換と区別された流通に関して、対立する2側面のうち、価値の尺度の側面が、展開される。もう一方の側面は、実際の流通を展開する中で、「流通手段」の項で、説明される。
ここで、論理展開を、先取りして記述する。
「価値の尺度」では、二重化によって生み出された貨幣の世界に、まず、価値尺度としての側面を確立する。次に、貨幣が生み出されたことによって、商品の方にも反作用を及ぼし、商品に価格という新たな規定を付与する。「自然弁証法 4 対立物の相互浸透の法則」の図式を使って確認しておくと、商品の使用価値Aの中の潜在的交換価値Bが顕在的B=貨幣となって諸商品の外に現われ、直接的統一であったAとBの関係が、媒介的に商品Aと貨幣Bの対立となり、逆に貨幣の価値尺度Bによって商品Aの中の潜在的BがB’=価格として顕在化し、商品は使用価値Aと価格B’の新たな直接的統一となる。
更に価値尺度Bが、実体としての金に存在していることから、価格B´の度量標準に転化するという展開がなされる。
まず、「使用価値として実在する諸商品は、まず、それらが互いに観念の上で交換価値として、対象化された一般的労働時間の一定量として現われるような形態を自分で創造する。」つまり、各商品は、実在する使用価値の上に、自身の交換価値から媒介された何らかの表現形態を獲得するという。これが、どうして可能となるのか。
個々の商品が「互いに交換価値として表示しあうのと同じ過程的関連が、金に含まれている労働時間を一般的労働時間として表示し、この一般的労働時間の一定量が、・・・・要するにすべての商品の使用価値で、自分を表わし、あるいは直接に商品等価物の無限の系列として自分を展開する。諸商品がそれらの交換価値を全面的に金で表現することによって、金は直接その交換価値をすべての商品で表現する。諸商品は互いに交換価値の形態を与え合うことによって、金に一般的等価物の形態、すなわち貨幣の形態を与えるのである。
すべての商品がその交換価値を金で、一定量の金と一定量の商品とが等しい労働時間をふくむような割合で持ってはかるので、金は価値の尺度となる。・・・価値の尺度としての金自身の価値は、直接に商品等価物の範囲全体ではかられるのである。他方、いまやすべての商品の交換価値は、金で自分を表現する。・・・このように、商品の交換価値が、一般的等価物として、同時にまたこの等価の度盛りとして、特殊な1商品で、または諸商品と特殊な1商品との間のただ一つの等式で、表現されたものが、価格である。価格とは、商品の交換価値が流通過程のなかであらわれる転化された形態である。」
「尺度」という概念の理解のために、温度を取り上げて見る。あらゆる物体は、熱を持っている。しかし、熱は目には見えない。そこで、物体の熱的な性質を表わすのが、温度であり、それを測定するのが、温度計である。温度は、温度目盛で表示する。絶対的に定義されている熱力学的温度では、ケルビン温度目盛(°K)で表示する。氷点は、273.15°Kである。それに対し、通常使用するのは、セルシウス温度目盛(°C)である。これは、0度を氷点に、100度を水の沸点に定めたものである。欧米では、今でも、ファーレンハイト温度目盛(°F)が使われているが、これは、0度を水と塩の混合物(寒剤)に、96度を人の体温に取ったものといわれている。
交換価値は、熱に、価値の尺度は、温度に、価格は、それぞれの温度目盛に比せられる。商品に価値が内在し、その価値を、金を価値尺度としてはかったものが、金価格であり、銅を価値尺度としてはかると、銅価格となる。物体に内在する熱を、熱力学を使って計ったものがケルビン温度目盛であり、水の性質に結び付けてはかったものが、セルシウス温度目盛である。ここでは温度を例にとっただが、「資本論」では、「重さ」の例を挙げている。
「使用価値として実在する諸商品は、まず、それらが互いに観念の上で交換価値として、対象化された一般的労働時間の一定量として現われるような形態を自分で創造する。」この表現は擬人的で、まるで、商品に魂が宿っているかのようである。これは、商品を扱うすべての場合にいえることであるが、背後に人間の意志を宿しているからである。商品を扱う場合には、背後に商品所有者が存在する。その意志の存在は、商品に対しては、形式的には否定されており目には見えないが、内容的に保存されている。「諸観念、諸表象の生産、意識の生産はさしあたりはじかに人間達の物質的活動と物質的交通−現実的生活の言葉―のうちへ編みこまれている。」(「ドイツ・イデオロギー」)。物質的活動である商品交換も、精神的交通から切り離して把握してはならない。
「金の価値変動については、まえに展開した交換価値の法則があてはまる。」これは、以前に展開された二つの商品AとBの価値変動を扱った部分の法則が、商品Aと貨幣Bとの関係にも妥当することを示している。
「商品の価格規定は、商品がただ観念のうえで一般的等価物に転化したものにすぎず、これからなお実現されなくてはならない、金との等置なのである。だが商品は、その価格において、ただ観念の上で金に、つまり表象されたにすぎない金に転化されているだけであって、・・・まだ金は、ただ観念的な貨幣に、ただ価値の尺度に転化されているにすぎない、そして一定量の金は、事実上なおまだ、一定量の労働時間にたいするよび名として機能しているにすぎない。」
「商品は、いまや二重の実在として、すなわち現実的には使用価値として、観念的には交換価値として、互いに対立しあっている。商品は今や、その中にふくまれている労働の二重形態をたがいに表示しあう。つまり、特定の現実の労働が商品の使用価値として現実に存在する一方、一般的抽象的労働時間は、商品の価格の中に表象された定在をうる。」
価格規定は、使用価値の労働の特殊性と交換価値の労働の一般性とを結びつけた規定であり、労働の特殊性と一般性の矛盾を定立した規定=表象である。
今までは目には見えなかった交換価値が、ここでは目に見える形で表されている。二重写しに見ていた、目に見えなかったものが、ここでは目に見える二重写しになっている。すなわち、商品の中の矛盾が、表面化、表出化しているのである。しかし、「そこにはむしろ現実の流通過程で商品をおびやかすあらゆる暴風雨が集中しているのである。」「商品はそのものとしては交換価値であり、それは価格をもっている。」「交換価値の価格としての定在、または価値尺度としての金の定在のなかには、商品が山吹色の金に向かって脱却されなければならないという必然性と、その商品が譲渡できないかもしれないという可能性とが、要するに生産物が商品であるということから生ずる、あるいは、私的個人の特定の労働が社会的効果を持つためにはその直接の反対物として、抽象的一般労働として表示されなければならないということから生じる、あらゆる矛盾が潜在的に含まれているのである。」商品は価格という矛盾した規定を持つことによって、必然性と可能性との矛盾を背負い、自ら自己の存在を否定しうる運動しうる存在となったということでもある。
価値の尺度としての金は、「商品を度量単位としての金の一定量に関連させられる必然性が技術的に発展し」、更に度量単位は、「度量標準にまで発展させられる。だが金量そのものは、重さによってはかられる。そこでこの度量標準は、金属の一般的な重量尺度の形で、すでにできあがったものとして存在しており、したがってまたこの重量尺度は、すべての金属流通において、もともと価格の度量標準としても役立っているのである。・・・金は価値の尺度から価格の度量標準に転化する。」
価値尺度としての金は、貨幣であり、二重化した世界の住人であるが、幽霊でない以上、なんらかの実体の上に乗っていなければならない。それが、実体としての金である。実体としての金と価値尺度としての金は、矛盾した存在=直接的同一である。そこで、すでに存在する金の実体としての側面である重量尺度が、価値尺度の側面を媒介にして、価格の度量標準に関係が結び付けられ延長・転化されるのである。
「価値の尺度としての金と、価格の度量標準としての金は、まったく違った形態規定性をもつ」。「金は対象化された労働時間としては価値の尺度であり、一定の金属重量としては価格の度量標準である。」価値の尺度としての金は、金の交換価値としての側面であり、度量標準は、交換価値とはまったく関係のない金の金属としての属性の側面である。「金が価値尺度であるのは、金の価値が変わりうるからであり、金が価格の度量標準であるのは、それが不変の重量単位として固定されるからである。」ここに新たな矛盾がある。「金価値がどう変動しようとも、いろいろな金量は、いつもたがいに同じ価値比率を表示する。・・・そして価格においては、ただいろいろの金量同志の比例だけが問題なのである。」
更に、「貴金属が価格の度量標準として機能する際にその重さがたえず変動し減少しても、これにたいして同じ重量名がそのままつかわれるという結果をもたらした。」「金属重量の貨幣名は、その一般的な重量名から歴史的に分離」し、更に「流通の中で一般性と必然性という性格を持たなければならないから、それらは法律的に規定されねばなら」ず、「運用は、政府の仕事に」なっていった。唯物史観が示すように、である。「したがって1商品の価格・・・は、いまや金の度量標準の貨幣名で表現される。」「こうしてすべての価格は同じ呼び名で表現される。商品がその交換価値に与える固有の形態は、貨幣名に転化されており、・・・貨幣の方では計算貨幣となるのである。」
これによって、価格は、貨幣名に転化し、貨幣の方は、計算貨幣となる。
「頭の中や、紙の上や、言葉の上での商品の計算貨幣への転化は、なんらかの種類の富が交換価値の視点の下に固定されれば、いつでもすぐ行われる。この転化のためには金という材料が必要であるが、それはただ表象された金として必要であるにすぎない。」
ここでマルクスは、「金の鋳貨価格」と呼ばれた現象を挙げている。「価格の度量標準としての金は、商品価格と同じ計算名をもってあらわれるから、・・・金のこの計算名は金の鋳貨価格と呼ばれてきた。」「金は、それが価格規定の要素として、したがってまた計算貨幣としての役割を果たす場合には、単になんらの固定した価格をもたないばかりでなく、総じて価格という物をまったくもたない。」
「貨幣の度量単位についての諸学説」はとばして、次の「流通手段」に入ろう。
2 流通手段(貨幣の矛盾する1側面としての「流通手段」の確立)
「商品が価格付与の過程において流通できる形態を得、金が貨幣の性格をえたのちには、流通が商品の交換過程の内包していた矛盾を表示し、同時に又それを解決するであろう。」
ここでいう矛盾とは、「3.現実的な交流作用である交換過程」で示した矛盾である。商品の矛盾の展開としての運動形態が、流通である。「流通は、全面的な交換行為とその更新のたえまない流れとを前提するものである。第二の前提は、商品が価格のきめられた商品として交換過程にはいりこむということ、または、交換過程の内部ではたがいに二重の存在として、現実には使用価値として、観念のうえでは−価格では−交換価値としてあらわれるということである。」ここからは、単なる商品交換ではなく、その発展形態である流通の全面的な運動を論理的に追跡していくことになる。運動の中から、貨幣のもう一つの性格が、浮き彫りになる。
a 商品の変態(商品の運動における否定の否定の運動)
「商品流通の直接的形態」では、「商品をW、貨幣をGと名づけるならば、」「W−G−W」が現われる。これは、商品から貨幣への第一の変換(販売)と貨幣から商品への第二の変換(購買)の統一である。この交換は、商品を否定して貨幣となり貨幣を否定して商品となるという、弁証法の否定の否定の法則の出現である。物々交換、すなわち「W−W、商品と商品との交換」である単なる否定の困難が、否定の否定という形態をとることによって、解決されるのである。
商品同士の交換が、貨幣の媒介による商品交換に取って代わった。前者が直接的交換取引(物々交換)であり、後者が流通である。前者から後者が発展してきた。前者では、二つの極にある異なった商品が同時に動くが、後者では、それぞれの商品が別々に動く。物々交換としては販売も購買もなく両者は溶け合っているが、流通では、貨幣を媒介にした販売(第一の否定)と購買(第二の否定)とに分離され、両者は媒介関係にある。すなわち、第一の否定と第二の否定は、媒介関係にある。
「流通の全体W−G−Wは、なによりもまず、個々の商品がその所有者にとって直接の使用価値となるために通過する変態の全系列である。」 価値尺度としての金は、今まではただ考えられただけの、理論的にすぎない金であった。しかし、この運動の中では、金が現実の貨幣として、二重化した世界の主人として、姿を現すのである。
「W−Gすなわち販売。」例えば、「1オンスの金という価格をもった使用価値」である「1トンの鉄」の第一の否定である販売において、「この困難、商品の「命がけの飛躍」は、販売が、この単純流通の分析で想定されているように、実際に行われるならば克服される。」「販売W−Gによって、価格という形で観念上金に転化されていた商品が、現実に金に転化されるばかりでなく、その同じ過程によって、価値の尺度としては単に観念上の貨幣にすぎず、実際には商品そのものの貨幣名として機能しているに過ぎなかった金が、現実の貨幣に転化される」。この過程によって、「いまや金は・・・絶対的に譲渡することのできる商品、つまり現実の貨幣となるのである。」
「商品がこのように商品と金とへ二重化することによってのみ、しかも、どの極をとってみても、その相手の極が現実的であるものは観念的であり、その相手の極が観念的であるものは現実的であるという、やはり二重の、対立した関連によってのみ、従って商品を二面的に対極的な対立として表示することによってのみ、商品の交換過程に含まれているもろもろの矛盾は解決されるのである。」
商品の否定の否定の運動は、商品の世界と貨幣の世界とへの二重化した世界を、行ったり来たりして行う運動である。ここに、矛盾の直接的形態から媒介的形態へ、相互浸透の構造化から両極の対立へ、相互転化へ、否定の否定へ、そして矛盾の解決へという矛盾の一般的な展開の論理が表されている。
販売は、ある側面では、購買としても把握される。「販売は、必然的に同時にその反対物である購買であって、一方はその過程をひとつのがわから見る場合、他方はそれをほかのがわからみるばあいである。」これは、販売と購買の直接的同一である。いいかえると、第一の否定と第二の否定の直接的同一ということである。
「だからわれわれは、商品の第一の変態である商品の貨幣への転化を、第一の流通段階W−Gを通過した結果として表示することによって、同時にほかの一商品がすでに貨幣に転化しており、したがってすでに第二の流通段階G−Wにあることを想定しているわけである。そこでわれわれは、前提の悪循環におちいる。流通そのものがこうした悪循環なのである。」第一の否定は、別の過程の第二の否定であり、第一の否定と結びついた(媒介された)の第二の否定は、また別の過程の第一の否定でもある。つまり、この直接的同一によって、否定の否定から、否定の否定の連鎖という運動が論理的に発生する。これが流通である。
「流通の第一の過程である販売の結果として、第二の過程の出発点である貨幣が生じる。第一の形態における商品にかわって、その金等価物が登場しているわけである。この第二の形態における商品は、独自の永続的な実在をもっているのだから、この結果は、さしあたってはひとつの休止点をなすことができる。」運動は、その対立物である休止を含む。休止と運動との統一が、循環である。これは、貨幣の新たな性質の出現である。
「商品が金というさなぎになることは、商品の生涯において、短いか長いかともかくとして、商品がそこにとどまることができる独自の一時期をなしているのである。・・・交換価値を生み出す労働の一般的性格は、購買および販売という行為が分離しているということ、しかもそれがたがいにばらばらであるということにあらわれている。」
一般的等価物としての貨幣が、販売と購買の過程を媒介関係に置いたのであり、単なる否定を引き裂き、第一の否定と第二の否定の媒介関係を生ぜしめたのである。
購買G−Wは、「商品の第二の変態、または最後の変態である。」「商品の譲渡の一般的産物は、絶対に譲渡できる商品である。金の商品への転化にとっては質的制限はすこしもなく、ただ、量的制限、つまりそれ自身の量または価値の大きさの制限があるだけである。」「商品は・・・その再転化によって、金を商品そのものの単に一時的な貨幣定在に転化する。商品流通は、発達した分業を前提とし、したがって個人の生産物の一面性に反比例するかれの欲望の多面性を前提とするものだから、購買G−Wは、あるときはひとつの商品等価物との1等式で表現され、あるときは買手の欲望の範囲とかれの貨幣総額の大きさによって限定された1系列の商品等価物に分裂する。」
すなわち、一般的等価物たる金は、再転化の際には、単に1商品に限らず、多くの商品に再転化する可能性を持っている。
「総流通W−G−W」を全体としてみると、第一の否定と第二の否定の媒介的及び直接的統一により、多くの二重否定の連鎖が形成されることがわかる。「ひとつの商品の総変態としての総流通W−G−Wは、つねに第二の商品の総変態の終わりであるとともに第三の商品の総変態の始めでもあり、したがって始めも終わりもない1系列なのである。」「商品世界の流通過程は、あらゆる個々の商品が流通W−G−Wを通過するのであるから、無限で異なった点で終了しつつも、またたえずあらたに始まってゆく、こうした無限にもつれあった連鎖のからみあいとして表示されるわけである。」だが、この運動は、統一されているだけでなく、分裂している。「だが、同時に又、個々の販売や購買はいずれも、相互に無関係でしかも孤立的な行為として存立しており、それを補完する行為は、時間的にも空間的にもそれから離れることができ、従ってその継続として直接にそれに結びつく必要はない。」「実際の流通過程では、W−G−Wは、さまざまの総変態の雑多にいりくんだ環の、限りもない偶然的な並存ならびに継起として表示される。だから実際の流通過程は、商品の総変態としてではなく、また、対立する局面を通過する商品の運動としてではなく、偶然にならびあったり、つぎつぎに起こったりする多数の購買や販売の単なる集合として現れる。」
個々の商品の総変態の連鎖は、その連鎖の量が重なることによって、流通の質を変化させる。このように、商品世界の変態の運動が、流通過程の総運動に反映することは、次節で議論される。
この商品の総変態W−G−Wを、(ヘーゲルの)推論の形式である特殊性−一般性−個別性に対応させている。まず、特殊な商品を一般的商品である貨幣に変え、一般的等価物たる貨幣は、どのような商品とも交換できるので、任意の商品に交換される。従って、最後に変換された個別の商品は、論理的には、一般性と特殊性の矛盾を商品の中に実現しているわけである。
商品の交換過程には、商品所有者という社会的性格で、入り込んだ。「この過程の内部では、彼らは、買い手と売り手という対立した形態で、・・・あいたいする。」「買い手と売り手というこの経済的、ブルジョア的性格・・は、・・・・社会的生産過程の一定段階を基礎とした個性の必然的な表示なのである。」
物々交換では単なる商品所有者であった人格が、この流通段階では、売り手と買い手の二つに分裂し、定立する。
W−G−Wだけを見ると、結局はW−Wに帰着する。否定の否定といっても、回り道をしただけであり、単なる否定と結論は同じである。貨幣は、ここでは「交換手段一般としてではなく、流通過程によって特徴づけられた交換手段、すなわち流通手段としてあらわれ」ている。この流通手段が、貨幣Bの使用価値A´であり、ここにおいて貨幣は、価値尺度Bと流通手段A´の統一であることが示されたのである。これはまた、貨幣が、非流通手段としての可能性も持つことになる。
流通過程の中での販売と購買の分裂は、「商業恐慌の一般的可能性」を表している。「販売と購買の分離は、本来の商業とともに、商品生産者と商品消費者とのあいだの最終的交換にさきだっておこなわれる多くの空取引を可能にする。・・・さらにまた、ブルジョア的労働の一般的形態としての貨幣とともに、この労働の諸矛盾の発展の可能性があたえられることを意味する」。諸商品の流通の量的増加は、その流通自体の質を変化させていく。
b 貨幣の通流(貨幣の運動の法則)
次に、貨幣の側に立った運動が記述される。それは、商品世界の変態の運動の反映であるが、連鎖の量質転化の結果、独自の運動を持ち、それ独自の法則を生み出す。これは、商品世界の運動の反映として媒介的に貨幣世界の運動を観察することであり、商品価値の運動の現象形態である。
商品価値=貨幣の理論は、価値尺度Bと流通手段A´の統一を確立することによって、実体論から現象論へと移行し始める。これ以降に展開される現象論は、次の「資本論」第2編の資本の本質論へと媒介される。
それでは、貨幣は、商品の運動をどのように反映しているだろうか。
貨幣は、買い手の側にいて、「流通手段としての貨幣はいつも購買手段としてあらわれ」る。
「貨幣は、商品が買手の手にうつるその同じ行為において売手の手にうつる。だから、商品と貨幣とは、反対の方向に進む」。「商品は・・・一気に、一回の位置転換で、流通から消費に脱落する。流通は商品のたえまない運動である。しかしつねにちがった商品の運動であって、どの商品もただ一度だけしか運動しない。・・・変態をとげた商品の運動は、金の運動である。・・・だから商品の形態運動、その貨幣への転化と貨幣からの再転化、つまり商品の総変態の運動は、ふたつの違った商品と二度位置を変える同じ貨幣片の外面的運動として現われる。・・・このように何回となくくりかえされる位置転換という形で、貨幣は商品の変態の連鎖を表現するのである。こうして同じ貨幣片は、運動した商品とはいつも反対の方向に、あるものはかなりひんぱんに、あるものはそれほどひんぱんにではなく、・・・・流通曲線を描くのである。」これが、購買手段としての貨幣の運動である。
「商品の形態転換が貨幣の単なる位置転換としてあらわれ、かつ流通運動の継続性がまったく貨幣の側に帰するというのも・・・・そうなると全運動は貨幣から出発するようにみえるのである」「さらにまた貨幣は、つねに購買手段という同じ関連で商品にあいたいするのであるが・・・・貨幣は、商品の価格を実現することによって商品を流通させているようにみえる。」「流通手段としては、貨幣はそれ独自の流通を持つ。・・・従って、商品の流通過程の運動は、流通手段としての貨幣の運動という形で、−貨幣通流という形であらわれる。」
「いまやかれら」(商品所有者たち)「の労働の素材転換を媒介するかれら自身の全面的運動は、ひとつのものの独特の運動として、金の通流として、かれらにあいたいするのである。・・・流通手段としての貨幣の使用価値はそれが流通することそれ自体である。・・・流通のなかでやすみなくうごきまわることが貨幣の機能となる。流通過程の内部におけるこの貨幣独特の機能は、流通手段としての貨幣にあたらしい形態規定性をあたえる」。
こうして、商品の矛盾が商品の運動を生み出し、それが、貨幣の世界で貨幣の運動に反映し、貨幣の運動の独自性、すなわち貨幣運動の法則が論理的に導き出され明らかになっていく。それが、貨幣の形態を規定していく。矛盾の論理的段階的発展である。
「まず明らかなのは、貨幣通流がかぎりなく分裂した運動であるということである」「すでにみたように、貨幣は空間的に雑然とならんでおこなわれる購買と販売において、あるあたえられた数量の価格を同時に実現し、ただ一度だけ商品と位置を転換する。けれども他方、・・・同じ貨幣片がさまざまな商品の価格を実現し、こうして多かれ少なかれ何回かの通流を遂げる。だからあるあたえられた期間、たとえば一日間のある国の流通過程をとってみれば、価格の実現のために、したがって商品の流通のために必要とされる金量は、一方ではこれらの価格の総額、他方では同じ金片の通流の平均回数という、二重の要因によって規定されている。」「流通手段としての金の定在は、・・・動いている商品世界における金の動的な定在によって規定されているのである。つまり、その位置転換で商品の形態転換をあらわし、したがってその位置転換の速度によって商品の形態転換の速度をあらわす金の機能によって規定されている。・・・流通している金の実際の量は、いまや総過程そのものにおける金の機能的定在によって規定されている」。
「流通のために必要な金の量は、まずもって実現されなければならない商品価格の総額によって規定される。」だから、「流通させられる商品の総量が、価格総額の増大よりさらに大きな割合で減少すれば、価格の騰貴にもかかわらず、商品流通のために必要な金の量は減少しうるし、また反対に、流通させられる商品の総量が減少しても、その価格総額がそれよりも大きな割合で増大するならば、流通手段の総量は増大しうるということになる。」
「同時に貨幣が通流する速度、つまりあたえられた期間内にこの実現の仕事をなしとげる速度によっても規定される。」
「流通する商品の総価格が騰貴しても、その騰貴の割合が貨幣通流の速度の増大よりも小さければ、流通手段の総量は減少するであろう。逆に、流通速度が、流通する商品総量の総価格よりも大きな割合で減少すれば、流通手段の総量は増加するであろう。」
以上の二つの法則が、現実に起こっている現象を説明できることが、例として、その後の文章のなかに与えられている。
「貨幣の通流速度があたえられ、かつ商品の価格総額があたえられていれば、流通する媒介物の量は一定である、という法則は、またこれを、商品の交換価値とそれらの変態の平均速度とがあたえられていれば、流通する金の量はそれ自身の価値に依存する、と表現することもできる。」これから「金属の流通手段の総量は、収縮と膨張のできるものでなければならない・・・という結論が生ずる。」
c 鋳貨。価値表章(流通手段としての貨幣のそれに相応しい形態の取得)
「金は、流通手段として機能するさいには、独特な身なりをとり、鋳貨となる。金は、その通流を技術上の障碍によってさまたげられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。」「1 価値の尺度」の節で説明したように、金は、価値尺度の側面を持つ金属実体という矛盾した存在である。この金属実体という側面を利用して、各商品の価格が、金の重量尺度を使って表現される結果、金は価格の度量標準に転化した。この金の度量標準の貨幣名をもつ流通手段=計算貨幣が鋳貨である。従って、金の価値尺度の側面と、価格の度量標準として現実化した流通手段という側面とは統一=矛盾しているのである。「貨幣の計算名であるポンド、シリング等々で表現された金の重量部分をふくんでいることをその刻印と形状で示す金片、これが鋳貨である。」
この段階での金地金と金鋳貨との間には乖離がなく、相互に転化できる。つまり、金地金と金鋳貨は、直接的関係にある。
この鋳貨の管理は、国家の役割である。「貨幣は、・・・鋳貨としても地域的で政治的な性格を帯び・・・。・・・貨幣が鋳貨として通流する領域は、国内的な、共同社会の境界によってかこまれた商品流通として、商品世界の一般的な流通から区別されるのである。」 「一つの時代の全市民社会はその形態の中でまとまるものである以上、あらゆる共通の制度は国家の手を介してとりきめられ、なんらかの政治的な形態をもたせられることになる。」(「ドイツ・イデオロギー」)二重化した鋳貨(貨幣)の世界は、同じく二重化した国家(政治)の世界から媒介され成立するのであり、その流通が国家の範囲に限定されるとき、国家から鋳貨としての保証を担保されるのである。
この鋳貨に先の法則を適用すると、「流通過程のなかにおける鋳貨の定在は、それにふくまれている金量にその通流の回数を掛けたものに等しい。だから鋳貨は、一定の重さを持った個々の金片としてのその実際の定在のほかに、その機能から生ずる観念的な定在をうけとる。」数式で表すと、ほかの商品の価格の総額=金量×金の通流速度ということになろうか。
価値尺度としての金は、観念的な存在であってもよかった。しかし、流通手段としての貨幣の存在は、現実的でなければならない。それは、鋳貨としての存在理由は、ほかの商品の価格の総額を実現するという機能によって媒介されているからである。鋳貨とは、金片としての存在自体は、あくまでただ直接的=物質的であるにすぎず、その本質は、商品価格の実現という媒介関係を持つ実存である。その実存の規定法則が、上の数式である。
ところで、鋳貨は、通流の中で、物理的に磨耗し、その中に含まれる金の量が、少なくなっていく。しかし、たとえ軽くなっても、「どの購買や販売でも、最初の金量として通用し続けていく。・・・うわべだけの金として、適法な金片の機能をはたしつづけていく。」「流通過程そのものによってなされる金属貨幣のこのような第二の観念化、つまり、名目的内容と実質的内容との分離」は、金地金と金鋳貨との直接的関係の、媒介関係への転化である。
「金の機能の内部におけるそのうわべだけの定在は、そのほんとうの定在と衝突するようになる。」
直接的であったものが、分離し、媒介的関係に転化していく。論理的に言えば、金片の形式は、鋳貨としての形式と直接一致しているが、金片の内容を形成する実体は金としての物理的存在であるのに対し、鋳貨としての内容は、示したように媒介的に規定されている。ここに、金片としての内容と鋳貨としての内容に乖離が生まれる根拠がある。金地金が、鋳貨としての機能を担っている実体であるということから来る矛盾である。鋳貨として機能するためには、物理的実質を必要とするが、物理的実質は何であってもよいということになる根拠がある。金の上には、鋳貨(貨幣)の世界が、いわば二重写しになって乗っているが、いまや、その乗り手を変えるのである。
「金の市場価格は、その鋳貨価格以上に騰貴するであろう。・・・鋳貨の計算名は同じままであるだろうが、しかもそれ以後はより少ない金量をさししめすことになるであろう。いいかえれば、貨幣の度量標準がかえられて、金はそれ以後はこの新しい度量標準に従って鋳造されるであろう。・・・そうなれば金は、価格の度量標準としての機能においても、流通手段としての機能においても、たえまない変動をこうむるわけであり、こうしてまえの形態での変動はのちの形態での変動をもたらし・・・。このことは、・・・あらゆる近代国家の歴史においては、金属実質がたえず減少してきたのに、おなじ貨幣名が残ってきたという現象を説明するものである。」
ここにも、量質転化の例が見られる。金量の減少という金片としての内容である物理的実質の量的変化が、ある点まで来ると、鋳貨としての内容と決定的に乖離し、その結果、貨幣の度量標準という質的変化を引き起こすのである。
これは、「鋳貨としての金と価格の度量標準としての金のあいだの矛盾」「鋳貨としての金と一般的等価物としての金の間の矛盾」に基づく。鋳貨は、あくまで一国内でしか通用しないからである。
「すべての金鋳貨は流通過程そのものを通して多かれ少なかれその実体のただの表章または象徴に転化される。だが、どんなものでも自分自身の象徴になることはできない。・・・金は、自分自身の象徴となるが、しかも自分自身の象徴としてのはたらきをすることはできない、そこで、金がもっともはやく摩滅する流通の範囲、つまり購買と販売がごく小さな割合でたえずくりかえされる範囲では、金は、金としての定在から分離された象徴的な、銀なり銅なりの定在をえるようになる。・・・これらの補助的な流通手段、たとえば銀徴標や銅徴標は、流通の内部で金鋳貨の一定の部分を代表する。だからそれらの鋳貨自身の銀実質や銅実質は、・・・法律によって勝手に決定されるのである。これらの徴標は、・・・たえず通流するだろうと見られる量にかぎって発行されうるにすぎない。・・・・金鋳貨は、それから貨幣たる資格をうばう金属滅失を法律で規定することによって、いつまでも鋳貨として機能することのないようにされているのであるが、逆に銀徴標や銅徴標は、それらが法律上実現できる価格の限度が規定されており、・・・」
金鋳貨は、「金の重量部分をふくんでいることをその刻印と形状で示す金片」であった。逆に言えば、鋳貨の形状と刻印は、一定重量の金と比較することによってそれと同量がふくまれているという一般性を表現している。しかし、その個別の金鋳貨が、それに示された重量部分を含んでいないにもかかわらず、実際にはそれを含んでいる金鋳貨と同じ機能を果たしているとすれば、それは偽者である。この偽者を排除するためには、二つの方法しかない。一つは、個々の金鋳貨が、いつも一定の重量範囲の金含有量を保つように監視することであり、もう一つは、金を用いずに鋳貨をつくることである。その場合、金以外で作られた鋳貨の形状と刻印は、金鋳貨と同様、一定重量の金を代表しており同量の金といつでも交換可能であるという一般性を表現していなければならない。そこで、銀や銅の鋳貨がつくられるとすれば、個別の銀鋳貨・銅鋳貨は、一定重量の金との一般的関係を持っている特殊な実体ということになる。これが象徴・表章・徴標としての鋳貨である。これは、ちょうど、平和とは何の関係もない白鳩を、平和の象徴として、扱うようなものである。
「銀徴標と銅徴標とは、法定の銀実質や銅実質をもってはいるが、流通にまきこまれると、金鋳貨と同じように摩滅し、かつ観念化され、その流通がはやくてたえまないだけに、いっそうはやく単なる影のからだとなる。・・・だから流通の発達したすべての国々では、貨幣流通の必要そのものから、銀徴標や銅徴標の鋳貨たる性格は、それらの徴標の金属滅失の程度とはまったく関係がないものとせざるをえないのである。・・・こうして紙券のように相対的に無価値なものが、金貨の象徴として機能することができるのである。・・・通流する鋳貨の数量がそれ以下にはけっしてさがらないという水準は、どの国でも経験的に与えられている。そこで、金属鋳貨の名目的内容と金属実質とのあいだの最初は目立たない相違が、絶対的分離にまですすむことができるのである。・・・金貨は、・・・単なる価値表章の形態を取るのである。」
「商品がその総変態の過程を通過するかぎり、商品がその交換価値を・・・貨幣の形で展開するのは、すぐにこの形態を再び止揚して、再び商品に、あるいはむしろ使用価値になるためである。だから商品のめざすことは、ただその交換価値をうわべだけ独立化することにすぎない。・・・金は、ただ鋳貨として機能するかぎり、・・・ただ商品の変態の連鎖と商品の単に一時的な貨幣定在とをあらわすだけであり、・・・どこにも交換価値の休止的な定在として、ないしそれ自身休止した商品としてあらわれることはない。・・・金は、・・・ただうわべだけの金として機能するにすぎず、またそれだからこそこの機能においては、自分自身の表章によっておきかえられうるのである。」
「鋳貨として機能する価値表章、たとえば紙券は、その鋳貨名に表現されている量の金の表章、従って、金表章である。・・・価値表章は、諸商品にたいしては、それらの価格の実在性を表示しているのであって、価格の表章である。・・・過程W−G−Wは、それがふたつの変態の過程的統一ないし直接の相互転形としてあらわれるかぎり、・・・商品の交換価値は、価格ではただ観念的な実在だけを、貨幣ではただ表象された象徴的な実在をうけとる。・・・価値表章は、直接にはただ価格表章であり、したがって金表章であって、ただまわり道をすることによってのみ商品の価値の表章であるにすぎない。・・・価値表章は、過程の内部で1商品の価格をほかの商品にたいして表示し、あるいはおのおのの商品所有者にたいして金を表示するかぎりにおいてのみ作用するにすぎない。相対的に無価値な或る一定の物・・・は、まず習慣によって貨幣材料の表章となるのであるが、・・・ただその象徴としての定在が商品所有者たちの一般的意思によって保証されるからに他ならず、つまりそれが法律上慣習的な定在を、したがって強制通用力をもつからにほかならない。強制通用力をもつ国家紙幣は、価値表章の完成された形態であり、・・・。・・・国内流通が一般的商品流通からはっきり分離・・・は、鋳貨の価値表章への発展によって完成される。」
以上が、あくまで国内流通の範囲内で、金鋳貨が、無価値な紙幣という価値表章によって置き換えられうる理由である。銅鋳貨や紙幣は、あくまで、諸商品の価格を実現するためであるから、それは価格表章であり、こういう媒介によって、金表章なのであって、直接的に価値を表章しているのではない。「金の実体そのものからはなれた価値表章としての金の鋳貨定在は、流通過程そのものから発生するのであって・・・」。マルクスは、その後に、適切な実例を挙げている。
「無価値の徴標が価値表章であるのは、ただそれが流通過程の内部で金を代理するかぎりにおいてであり、しかもそれが金を代理するのは、ただ金そのものが鋳貨として流通過程にはいりこむであろうかぎりにおいて、・・・ただ、金自身の価値で規定される量を限度としてのことである。」貨幣の通流の法則は、ここでは紙幣の通流の法則へと変形される。「こうして紙幣の量はそれが流通の中で代理する金貨の量によって規定され、しかも紙幣は金貨を代理するかぎりでだけ価値表章なのだから、紙幣の量は単にその量によって規定されることになる。だから流通する金の量は商品価格にかかるのに、流通する紙幣の価値はもっぱらそれ自身の量にかかることになる。」
「強制通用力をもった紙幣・・・これを発行する国家の干渉は、経済法則を止揚するかのように見える。・・・紙幣は強制通用力をもっているから、国家が勝手に多量の紙幣を流通におしつけ・・・だれもさまたげることはできない。ひとたび流通に投げ入れられた紙幣を、そこからなげだすことは不可能である。・・・流通にまきこまれると、価値表章または紙幣は、それに内在する諸法則に支配されるのである。」
「紙幣にせよ悪鋳された金や銀にせよ、価値表章が、鋳貨価格にしたがって計算された金や銀の重さを代理する比率は、それ自身の材料によってきまるのではなくて、流通にあるその量によって決まるのである。だからこの関係を理解することが困難なのは、貨幣が価値の尺度および流通手段という二つの機能をはたすにあたって、単にあべこべであるばかりでなく、この二つの機能と一見矛盾するような法則にしたがっていることによるものである。貨幣がただ計算貨幣としてだけ役立ち、金がただ観念的な金としてだけ役立つにすぎない価値の尺度としての貨幣の機能にとっては、すべてがその自然材料にかかっている。・・・逆に、貨幣が単に表象されているだけでなく、現実のものとしてほかの商品とならんで存在しなければならない流通手段としての貨幣の機能においては、その材料はどうでもよいのであって、すべてはその量にかかっている。・・・ただ考えられただけの貨幣にあってはすべてがその物質的な実体にかかり、感覚的に現存する鋳貨にあってはすべてが観念的な数的関係にかかる」。
「従って紙幣総量の増減−ただし紙幣が唯一の流通手段であるばあいのそれ−にともなう商品価格の騰落は、流通する金の量は商品の価格によって規定され、流通する価値表章の量はそれが代理する金鋳貨の量によって規定されるという法則が、外部から機械的にやぶられた場合に、流通過程によってむりやりになしとげられたこの法則の貫徹にほかならない。・・・価値表章は、・・・流通過程の内部では・・・それにかわって流通できるはずの金量の表章にまで圧縮される・・。価値表章の流通では、真実の貨幣流通のすべての法則が、あべこべに、さかだちをしてあらわれる。・・・なぜならば、紙幣は、正しい量で発行されるときには、価値表章としての紙幣に特有のものでない運動をする一方、紙幣に特有な運動は、商品の変態からは直接生ぜずに、金に対する紙幣の正しい割合がやぶられることから生ずるものだからである。」
価値表章としての紙幣の運動は、本来の貨幣の現象形態から見ると、あべこべの仮象を示す。このマルクスの表現は、まるで、価値表章の流通法則を、観念論にみたてているようにみえる。精神の能動性を頭の中から外部に持ち出し、物質の「魂」として能動的実体に転化させたところに観念論がうまれたが、究極の観念論であるヘーゲルでは、すべての法則がさかだちをして現われた。貨幣の流通から媒介された価値表章の流通は、鋳貨がその機能から受け取る観念的な定在から生じたものであり、この観念化が絶対的に分離したとき、すべての法則がさかだちをして現われる。
3.貨幣(価値尺度と流通手段の統一としての貨幣)
さて、貨幣の二つの対立する側面、商品の使用価値と交換価値に相当する、貨幣の価値尺度と流通手段としてのそれぞれの側面とその発展形態が取り上げられたので、これからは、対立する側面の統一としての貨幣の全体像の中からその発展形態が論じられる。
さて、「W−W、商品と商品との交換」である単なる否定の困難が、「W−G−W」という否定の否定という形態をとることによって、解決された。直接的交換取引(物々交換)という単なる否定が、販売W−G(第一の否定)と購買G−W(第二の否定)とに分離された。このことは、第一の否定と第二の否定とを入れ替えて、第二の否定から第一の否定が媒介されるという形態の可能性を表している。これが、G−W−Gという別の二重否定である。 W−G−Wという否定の否定の構造と、G−W−Gという否定の否定の構造とは、同じ運動の両側面である。しかし、後に「資本論」で展開されるように、前者から後者が分離し、独立化するとともに独自の展開を遂げることになる。ここにも二重否定が、直接的統一から媒介的統一へという論理構造が展開されている。
ここでは、「鋳貨と区別したばあいの貨幣」すなわち、価値尺度であり、同時に流通手段でもある実体としての金、すなわち金貨が「G−W−Gの出発点」から考察される。
G−W−Gの特徴は、「商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態」であり、「貨幣が貨幣になるのを商品が媒介」しており、貨幣は「流通の終局目的」、商品は「ただの手段」である。「その両極は金であり、しかも同じ大きさの価値の金である。」「売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められるであろう。」つまり、もうすぐそこに、資本が待ち構えている。
しかし、この分離されたG−Gは、「貨幣が商品と交換されるのは、この同じ商品をふたたびもっと大きな量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGは、質的にはちがっていなくても量的には違っている」のであり「非等価物の交換を前提している」。単なる流通は、等価交換を前提している。従って、非等価交換が可能となるためには、新たな生産諸関係の展開がなくてはかなわない。二種類の否定の否定は、その達成する目的が異なり、内容が異なっている。等価交換から出発した商品交換が、非等価交換を生み出すということが、どうして可能なのか。ここからは、「流通手段とは区別される貨幣を、商品流通の直接の形態であるW−G−Wから展開しなくてはならない。」
金商品は、「まず、価値尺度と流通手段の統一として貨幣になる」が、「金は、価値の尺度としては、ただ観念的な貨幣であり、・・・単なる流通手段としては、・・・象徴的な金」である。しかし、金は、価値尺度と流通手段の統一としての貨幣として、「これらふたつの機能におけるその定在とは違った、独立の実在をもっている。」
まず、「休止している商品たる金すなわち貨幣を、ほかの商品との関係で考察」する。「金は、抽象的富の物質的な定在である。」「貨幣自身の使用価値は、その等価物を形作る諸使用価値の無限の系列という形で実現されている。」「金は、その使用価値でもって、あらゆる商品の使用価値を代表しているのである。したがって金は、素材的富の物質的代表者なのである」。
a. 貨幣蓄蔵(非流通手段としての貨幣の側面、その1)
運動は矛盾である。運動は、瞬間瞬間でみれば、止まっており、しかし、動いている。そういう矛盾が運動である。貨幣の通流も、運動の特殊な形態であるから、この運動の一般性を持つ。
「商品がその変態の過程を中断し、金のさなぎになったままでいることによって、金はまず貨幣として流通手段から分離した。・・・だから金が貨幣として独立化するということは、なりよりもまず、流通過程または商品の変態が、ふたつの分離された、たがいに無関係に並存する行為に分裂しているということの明白な表現である。・・・ひとはいずれも、かれが生産するある一種類の商品の売手であるが、しかもまた、彼が社会的生存のために必要とするほかのすべての商品の買手でもある。」私的生産者の社会が前提されているので、商品所有者は、売り手としては、ただ一種類の商品を売るだけであるが、買い手としては、あらゆる多種類の日常品を買わねばならない。そこで、買手の中にある鋳貨は、時間的に分裂してその手を離れていく。従って、一時的に停滞するわけである。
「貨幣が鋳貨としてたえず流れるためには、鋳貨はたえず貨幣に凝結しなければならない。鋳貨のたえまない通流の条件をなすものは、鋳貨が、流通の中のいたるところで発生しながら流通を制約する鋳貨準備金という形をとって、大なり小なりの割合でたえず停滞することであるが、・・・。この場合貨幣は、事実上、停止させられた鋳貨にほかならず、・・・このような流通手段の貨幣への第一の転化は、貨幣通流そのものの単に技術的な要因を表わしているだけなのである。」
また、運動は、大きな流れという時間軸で見ても、矛盾である。流通は、時に速くなったり遅くなったりするところがあるために、その絶え間ない流れを維持しようとすると、どこかに緩衝地帯、すなわち停滞や滞留がなければならないはずである。この対立物との統一によって、はじめて運動が維持されるはずである。この長期の滞留は、富の出現である。
貨幣をもって、富が自然に発生するというのは、貧富の発生という意味で、貨幣の重要な機能である。ここから、持てる者と持たざる者との差が、生まれてくるからである。貨幣の発生以前には、商品交換者は存在するが、販売者と購買者の分裂と貧者と富者とへの発展は、論理的には存在しない。富の源泉としての貨幣が、必然的に、経済的に豊かな階級を生み出す。これも、非流通手段としての貨幣の機能である。
「貨幣としての金の使用価値は、それが交換価値の担い手であることであり、形態のない素材として一般的労働時間の体化物であることである。・・・このように貨幣として不動化された金または銀が、蓄蔵貨幣なのである。古代人のばあいのように、純粋な金属流通がおこなわれていた民族にあっては、貨幣蓄蔵は、個々人から国家に至るまですべてのものによってなされたことであり、国家は自己の蓄蔵貨幣の番をしていたのである。もっと古い時代には、アジアやエジプトでは、国王や僧侶が保管していたこのような蓄蔵貨幣は、それこそかれらの権力の証拠とみられていた。ギリシャやローマでは、過剰生産のつねに安全でいつでも好きなときに使える形態として国有の蓄蔵貨幣を作ることが、その政策となっていた。」
自由平等な私的所有者の結合である古代都市国家における貨幣経済では、貨幣も国家所有の形態を維持するというわけである。
「金は、一般的労働時間の体化物であるから、この金が交換価値としていつでも作用することが、流通過程によって保証されているのである・・・商品を金という転化された姿で回収、保蔵するためにこれを交換することが、流通の独自の動機となる。・・・金銀は、非流通手段として貨幣となる。」
「商品所有者は、・・・たえず売ることが、・・・貨幣蓄蔵の第一の条件である。他方、・・・貨幣が購買手段としての機能をはたすのをさまたげ・・・なければならない。・・・一般的形態における富を獲得するためには、素材的現実性における富をすてることが条件となる。・・・貨幣を流通の流れからひきはなして、社会的な素材転換からまぬかれさせることはまた、外面的には、埋蔵という形であらわれる。」
「貨幣、つまり独立化した交換価値は、その質からみれば抽象的な富の定在であるが、他方、それぞれの与えられた貨幣額は量的にかぎられた大きさの価値である。交換価値の量的限界は、その質的一般性と矛盾する、そこで、貨幣蓄蔵者は、この限界を、実際には同時に質的な障碍に転化する障碍、いいかえれば、蓄蔵貨幣を素材的な富の単なる制限された代表物とする障碍として感ずるのである。」つまり、一定の量として実際に存在する貨幣は、蓄蔵者の意識の中に、貨幣の抽象的な一般的性質と矛盾しているように感ぜられるというわけである。「貨幣がどこまで近似的にこういう無限の系列として実現されるか、つまり交換価値としてのその概念にどこまで近似的に対応するかは、交換価値の大きさにかかっている。交換価値としての、みずから動くものとしての交換価値の運動は、一般的にはただ、その量的な制限をのりこえようとする運動でありうるだけである。」量的増加が質的障壁を突破する。蓄蔵貨幣は、無限の量に向かっていく強度の傾向をもつ。
この蓄蔵貨幣の人格化、貨幣蓄蔵者の意識への反映が、「致福欲」である。「貨幣はただ致福欲の一つの対象であるだけではない、貨幣こそはその唯一の対象である。」
「蓄蔵貨幣をつくりだす活動は、一方ではたえず販売をくりかえすことによって貨幣を流通から引き上げることであり、他方ではただためこむこと、蓄積することである。富としての富の蓄積がおこなわれるのは、実際にはただ単純流通の領域内だけのことであり、それも貨幣蓄蔵の形態でだけである、・・・商品の形態をとった富は、もうひとつには、交換価値としてためこまれる、そしてこのばあいには、ためこみは、商人的な作業、つまり特殊な経済的作業としてあらわれる。この作業の主体は、穀物商人、家畜商人等々となる。」
「わが貨幣蓄蔵者は、交換価値の殉教者として、金属柱の頂上にすわった神聖な苦行者としてあらわれる。・・・しかし、実際には、貨幣のために貨幣をためこむ事は、生産のために生産の、つまり社会的労働の生産諸力が伝来の欲望の制限をこえてすすむ発展の、粗野な形態である。商品生産が未発達であればあるほど、交換価値を貨幣として独立化する最初のもの、つまり貨幣蓄蔵は、それだけいっそう重要である。だから貨幣蓄蔵は、古代諸民族にあっては大きな役割を演じており、アジアでは現在に至るまでそうである、また、交換価値がまだすべての生産諸関係をとらえるにいたっていない近代の農業諸民族にあってもやはりそうである。」
蓄蔵貨幣としての特殊な形態として、「奢侈対象としての金銀の使用」を挙げている。
「金銀でつくられた商品は、・・・それを構成する材料が貨幣の材料である限り、貨幣に転形することができる、・・。・・・富が増加するにつれて奢侈対象としての金銀の使用が増加する・・・」。
非流通手段としての貨幣は、流通から分離しているが、一方、流通と媒介的に統一されてもいる。貨幣蓄蔵の社会的機能といってもよい。
「貨幣通流は、・・・一方では流通する諸商品の価値総額の変動、・・・他方では、それら諸商品の形態転換のそのときどきの速度に応じて、流通する金の総量は、たえず膨張したり収縮したりしなければならない、しかしそれは、一国にある貨幣の総量の、流通にある貨幣の量に対する比率が、たえず変動するという条件のもとで、はじめておこりうることである。この条件は貨幣蓄蔵によってみたされる。」流通の変動を補完するのが、貨幣の蓄蔵という安定であるというのも、一つの矛盾である。蓄蔵貨幣は、貯水池に例えられる。「こうして蓄蔵貨幣は、流通している貨幣の流入、排出の水路としてあらわれ、その結果、流通そのものに直接必要とされる分量の貨幣だけが、つねに鋳貨として流通することになる。」
b. 支払手段(非流通手段としての貨幣の側面、その2)
いままで論じた非流通手段との貨幣は、鋳貨準備金と蓄蔵貨幣である。
鋳貨準備金=「流通を停止した鋳貨の形態」は、「購買G−Wが、一定の流通領域の内部では、必然的に一連のつぎつぎにおこなわれる購買に分裂するということを、反映していた。」「蓄蔵貨幣の形態」は、「単にW−Gという行為が、G−Wにすすまないで孤立するということにもとづくもの」「あらゆる商品の脱却した定在として生成した貨幣」である。
いままでは、「流通手段としては、貨幣は常に購買手段であった」。非流通手段として機能する可能性としては、非購買手段としての可能性がある。
「貨幣は、それが貨幣蓄蔵によって、抽象的社会的富の定在、および素材的富の代表物として発展するや否や、貨幣としてのこの規定性において、流通過程の内部で特有の機能をもつようになる。」「国内流通の内部では、貨幣は観念化され、ただの紙切れが金の代表物として貨幣の機能をはたすのであるが、それと同時に、この同じ過程は、貨幣なり商品なりの単なる代表者として流通にはいってくるところの、つまり、将来の貨幣なり将来の商品なりを代表するところの買手または売手に、現実の売手または買手としての能力をあたえるのである。」
「売手は商品を実際に譲渡するが、さしあたってはその価格を、またもやただ観念的に実現するにすぎない。かれは商品をその価格で売ってしまうのだが、その価格は将来のある決められた時期にはじめて実現される。売手は現在の商品の所有者として売るのに、買手は将来の貨幣の代表者として買うのである。・・・前には価値表章が貨幣を象徴的に代理したのであるが、ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である。しかも、前には価値表章の一般的象徴性が国家の保証と通用強制とをよびおこしたように、ここでは、買手の人格的象徴性が、商品所有者の法律的強制力をもつ私的契約をよびおこすのである。」
買手は、貨幣の支払という一般性を約束するが、それが実現するのは将来の或る時であるという特殊性を担保せねばならない。それを買手という経済的人格において行うのである。この一般性と特殊性の矛盾を定立させるものが、法的強制力を持つ私的契約なのである。
ここでは、販売と購買が分裂する、購買なしの販売と、販売なしの購買である。「流通のうちに直接あらわれる場合にはただ頭の中で考えられたものにすぎない購買と販売との違いが、いまや現実的な違いになるということ、そしてそれは、一方の形態では商品だけが、他方の形態では貨幣だけが現存しており、しかもそのどちらの形態においても、過程をはじめる極だけが現存していることによるものだということ、これである。」前述した販売と購買の直接的統一が、ここでは媒介的統一に変えられている。
「売手と買手は、債権者と債務者になる。」
「変化した形態W-Gでは、貨幣は、まず価値の尺度として機能する。商品の交換価値は、その尺度としての貨幣で評価される、だが価格は、契約上はかられた交換価値として単に売手の頭の中に実在するばかりでなく、同時にまた買手の義務の尺度としても実在する。第二に、この場合貨幣は、・・・購買手段として機能する。すなわち、貨幣は、商品をその場所から、つまり売手の手からひきだして買手の手にわたす。一旦、契約を履行する時期が来れば、貨幣は流通にはいっていく、・・・。・・・商品にとっての唯一の適当な等価物として、交換価値の絶対的な定在として、交換価値の最後の言葉として、要するに貨幣として、しかも一般的支払手段としての一定の機能における貨幣として、流通にはいるのである。・・・購買手段と支払手段との区別は、商業恐慌の時期には、はなはだ不愉快にめだってくる。」
契約を履行する場合、私的契約として担保した、支払手段としての一般性と、支払する状況の特殊性とが、姿を現すのである。
「契約期限に支払うためには、かれはまえもって商品を売っていなければならない。だから販売は、かれの個人的欲望とはまったく無関係に、流通過程の運動をとおしてかれにとってひとつの社会的必然となっている。かれは、・・・支払手段としての貨幣、交換価値の絶対的形態としての貨幣を手に入れるために、むりやりほかの商品の売手にされるのである。・・・支払のためにするという販売の動機と内容とは、流通過程そのものの形態から発生する販売の内容である。」
「販売の両極が時間的にはなれて実在するこのような掛売りが、単純な商品流通から自然発生的に生じる・・・。」「こうして商品所有者たちのあいだに債権者と債務者との関係が成立する、この関係はなるほど信用制度の自然発生的な基礎をなすものではあるが、・・・けれども、信用制度の成熟・・とともに、支払手段としての貨幣の機能が、購買手段としての貨幣の機能を犠牲にして、またそれにもまして貨幣蓄蔵の要素としてのその機能を犠牲にして、拡張されるということはあきらかである。」
「一般的支払手段として、貨幣は、契約上の一般的商品となる、・・・。・・・貨幣のこうした機能が発展するにつれて、他のすべての支払の形態は、だんだん貨幣支払に解消していく。」
「支払手段として流通する貨幣の量は、まず、支払の総額、つまり譲渡された商品の価格総額によって規定される・・・。だが、こうして規定された総額は、二重に修正される。第一には、同じ貨幣片が同じ機能をくりかえす速度によって、・・・他方では、さまざまな支払期日間の時の長さに依存している。」
「同時になされるべき諸支払がひとつの場所に集中すること・・・になれば、諸支払は、・・・プラスとマイナスの大きさとして相殺される。だから、支払手段として必要な貨幣の額は、・・・諸支払の集中の程度と、それらがプラス及びマイナスの大きさとして相殺されたあとにのこる差額の大きさとによって規定されることになる。この相殺のための特有な施設は、たとえば古代ローマでのように、信用制度がすこしも発達していなくてもできてくる。」
「もろもろの支払がプラス、およびマイナスの大きさとして相殺される限り、実際の貨幣の介入はまったくおこらない。・・・貨幣は、ただ観念的な計算貨幣となるにすぎないのである。こうして、支払手段としての貨幣の機能は、つぎのような矛盾をふくんでいる。すなわち貨幣は、一方では、諸支払が相殺されるかぎりでただ観念的に尺度として作用するに過ぎないが、他方では、支払が実際におこなわれなければならないかぎり、一時的な流通手段としてではなく、・・・貨幣として流通に入っていくという矛盾がこれである。だから、諸支払の連鎖とそれらを相殺する人為的制度がすでに発達しているところでは、支払の流れをむりやりにせきとめてそれらの相殺の機構をかきみだすような激動が生じると、貨幣は、突然、価値の尺度としてそのかすみのような、まぼろしのような姿から、硬貨つまり支払手段に急変するのである。・・・それらの富が実際に価値を減少し、価値を喪失するときである。これこそは、貨幣恐慌とよばれる世界市場恐慌の特別の契機である。」
支払手段としての貨幣の発展は、観念的に尺度として機能するが、或る期日が来ると実際の流通に姿を現すという矛盾を生む。
「支払は、それとしてまた、準備金を、つまり支払手段としての貨幣の蓄積を必要とする。・・・むしろ貨幣は、将来の一定の支払期日に手元にあるように、だんだんに蓄積されなければならない。・・・一般に商品流通の領域内で形成される蓄蔵貨幣の一部分が、支払手段の準備金として吸収される。」ここに新たな貨幣の滞留地域が発生する。
「単純な貨幣通流の考察から生じた、流通する貨幣の量についての法則は、支払手段の通流によって根本的に修正される。もし貨幣の通流速度があたえられていれば、・・・あるあたえられた期間内に流通する貨幣の総額は、実現されるはずの商品価格の総額プラスその同じ期間中に満期になる支払の総額マイナス相殺によっておたがいになくなる支払の総額、によって規定される。」
「金銀の価値の変動は、価値の尺度または計算貨幣としてのそれらの機能に影響するものではない。しかしこの変動は、蓄蔵貨幣としての貨幣にとっては決定的に重要になる・・・。支払手段としての貨幣にとってはさらにいっそう重要になる。・・・貨幣は、ふたつの異なる時期にふたつのことなる機能で、まず価値の尺度として、つぎにはこの測定に照応する支払手段として作用する。もしこのふたつの時期のあいだに、貴金属の価値・・・が変動するならば、おなじ量の金銀は、支払手段としてあらわれるときには、・・・契約のむすばれときに比して、より大きいか、またはより小さい価値をもつことになろう。この場合は、金銀のような特定の1商品の、貨幣つまり独立した交換価値としての機能が、その特定の商品としての、つまり価値の大きさが生産費の変動にかかっている商品としての本性と衝突するのである。」
以上、あまり説明を加えず、支払手段としての貨幣の発展を引用してきたが、それだけで、十分明らかであろう。
c. 世界貨幣(国内流通の範囲外の貨幣)
「商品の世界で一般的等価物として機能するために国内の制限をつきやぶること」によって、「金は世界貨幣となる。」ここでは、国家の制限が消えてしまう。この場合には、「世界鋳貨としての貴金属は、形状と刻印とをふたたびぬぎすてて、そういうことにかかわりのない地金形態に逆戻りする。・・・最後に貴金属は、国際的貨幣として、ふたたび、交換手段としてのその本来の機能を、すなわち商品交換そのものと同じように、・・・異なった共同体の接触点で発生した機能を、はたす。こうして貨幣は、世界貨幣として、その自然発生的な、最初の形態をとりもどすのである。」世界貨幣としての金は、「流通手段の原始的形態」へ逆戻りする。
「一国の国内流通では、ただひとつの商品だけが価値の尺度として役立つ」が、「ある国では金が、ほかの国では銀がこの機能をはたしているから、世界市場では二重の価値尺度が通用し、貨幣は、ほかのあらゆる機能においても、二重の実在をもつようになる。」
「国際的商品流通では、金銀は、流通手段としてではなく一般的交換手段としてあらわれる。けれども、一般的交換手段は、購買手段と支払手段というふたつの発展した形態においてのみ機能し、しかもこれら両者の関係は、世界市場では逆になる。・・・ここでは金銀は、素材転換がただ一方的で、そのために販売と購買が分離しているばあいに、購買手段としてあらわれるのである。・・・さらにまた貴金属は、たとえば不作のために一方の国が異常に多量のものを買わなければならなくなるというように、二国間の素材転換のこれまでの均衡が突然やぶられるやいなや、国際的購買手段として機能する。最後に貴金属は、金銀を生産する国々の手中では国際的購買手段である、・・・。さまざまな国民的流通領域のあいだでの商品交換が発展すればするほど、国際収支決済のための支払手段としての世界貨幣の機能は、ますます発展する。」
「国内流通と同じように国際流通も、たえず変動する量の金銀を必要とする。だからどの国民のもとでも、蓄積された蓄蔵貨幣の一部分が世界貨幣の準備金としてのはたらきをし、それが、商品交換の振動に応じて、あるいは空になったり、あるいはふたたび充たされたりする。世界貨幣は、国民的流通領域のあいだを往復する特定の運動のほかに、ひとつの一般的運動をもっている、この運動の出発点は金銀の生産源にあり、金銀の流れは、そこをでてさまざまな方向をとりつつ世界市場をかけめぐるのである。このばあい金銀は、商品として世界流通にはいり、等価物として、それらに含まれている労働時間に比例してもろもろの商品等価物と交換され、そのうえで国内的流通領域におちつくのである。」
「金銀は、・・・世界貨幣においては、普遍的商品というそれに適応した実在形態をえる。・・・世界貨幣としての金銀は、一般的商品流通の産物であると同時に、その範囲をさらに拡張するための手段でもある。・・・商品所有者が魔法にかけられた姿の商品を追いまわしているうちに、いつか世界産業と世界商業との泉が湧き出したのである。金銀は、その貨幣概念のうちに世界市場の定在を予想しており、それによって、世界市場の形成をたすける。」
「貨幣が世界貨幣に発展するように、商品所有者はコスモポリタンに発展する。人間同志のあいだのコスモポリタン的関連は、もともと、ただかれらの商品所有者としての関連にすぎない。」
この世界貨幣の節には、商品において最初に論じた観点が、再びあらわれている。
4. 貴金属(貨幣に適している理由)
最後に、貴金属が論じてある。これは「資本論」では、注にふれてあるだけで本文にはでてこない。
ここでの問題は、「なぜ、ほかの商品でなく金銀が、貨幣の材料としての働きをするのかという問題」であるが、それは「ブルジョア的体制の限界の外にある問題である。」
つまり、金銀が、価値尺度と一般的交換手段としての貨幣の担うべき実体として性質を備えているということである。
「一般的労働時間そのものは、ただ量的な区別を許すにすぎないから、それの特殊な化身として通用すべき対象物は、純粋に量的な区別を表わす事ができなければならず、したがって、質の同一性、一様性を前提としている。これこそは、一つの商品が価値尺度として機能するための第一条件である。・・・金銀は、単一体として常に相互に等しく、したがってそれらの等しい量は、等しい大きさの価値を表わしている。一般的等価物として働きをすべき商品にとっての、もう一つの、純粋に量的な区別を表わすという機能から直接に生ずる条件は、それが任意の諸部分に細分でき、しかも各部分が再び結合できるということであり、・・・金銀はこれらの属性を高度に備えている。」
「流通手段として、金と銀は、・・・その比重が大きく、・・・それに応じてその経済的比重も大きく、・・・大きな交換価値を、小さな容量のうちに包むことができるということ・・である。この長所によって、・・・流通過程の永久運動としての働きをすべき商品の必須条件である物質的な可動性が保証されている」。
「貴金属の高い価値比重、耐久力を持ち、相対的意味では破壊されず、空気に触れても酸化しないという性質、・・・こうした一切の自然的属性が、貴金属を貨幣蓄蔵の自然的材料たらしめている。」
「金銀は、・・・はるかにやわらかく、そのことが、金銀を生産用具として利用することを不可能にし、・・・。金銀は、・・・生活資料として、・・・なければなくてすむものである。・・・金銀に特有の使用価値が、それらの経済的機能と矛盾することはない。・・・金銀の美的な諸属性は、・・・余剰と富の積極的な形態たらしめるのである。」
「最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、また、その逆の方向に転化されうること、それゆえ一度与えられた一定の使用形態にしばられないという・・・点を持っていること、このことは、金銀を、貨幣というたえず一つの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な材料たらしめる」。
「金銀は本来貨幣ではないが、貨幣は本来金銀である。」
「金銀は、・・・ほかの商品を平均したものよりも、はるかに長い期間変わらない大きさの価値を持っている。・・・こういう価値変動の純経済的な根拠は、これらの金属の生産に必要な労働時間の変動に帰せられなければならない、・・・。・・・この労働時間そのものは、それらの金属の相対的な自然的希少性、及び純粋な金属状態で採取することの難易によって左右されるであろう。」
このあとの「流通手段と貨幣についての諸学説」をのぞけば、これで「批判」は終わりである。 
まとめ

 

最後に、経済学批判の弁証法論理をまとめておこう。
まず、根本的な矛盾は、生産力と生産関係の矛盾である。私的所有の下での生産物の交換が、生産物に商品という形態を押し付ける。そこで、生産力と生産関係の矛盾が、商品の中に、使用価値と交換価値となって、対象化される。
使用価値と交換価値の矛盾は、商品の交換過程の矛盾となって反映する。そこで、まず、交換価値は、特殊な商品である金に、価値尺度の役割を与える。また、交換過程から、金に、流通手段の役割が生ずる。こうして、商品の世界が二重化し、貨幣の世界が生まれ、価値尺度と流通手段の矛盾を背負った貨幣が生ずる。
商品の交換過程という運動の中に、貨幣が生まれることによって、交換過程は、商品の流通過程となって、交換過程の矛盾を解決する否定の否定の運動として表れる。
価値尺度としての貨幣は、他の商品の交換価値に、価格という表現を与える。そこで、逆に、金は、価格の度量標準という形態を与えられる。これが、金の重量尺度の形を借りて、金属重量の貨幣名となる。これが、計算貨幣である。
一方、流通手段としての貨幣は、流通過程の中で、まず、購買手段として表れる。そこで、貨幣は、計算貨幣の度量標準に従って、鋳貨という形態を取る。しかし、流通手段としての貨幣の現実の運動から、金鋳貨は、銅貨や紙幣のような価値表象の形態となる。
現実の運動から、貨幣は、非流通手段としての側面を展開させ、貨幣蓄蔵、支払手段としての性質が発展する。これは、私的契約をよび起す。
非流通手段としての貨幣の役割は、流通過程の運動の分裂から生ずるもう一つの否定の否定の運動を生み出す契機となるが、これは、次の資本論の中へ引き継がれる。
ところで、これは、一国内でおこることで、国外に出れば、金は、世界貨幣として、発展以前の形態にもどる。
弁証法論理という観点で見るならば、基本的な矛盾が、段階を上げる毎に、別の矛盾へと転化される。一方、段階を上げる毎に、本質から現象へと近づいていく。
以上が、商品から貨幣への論理的展開である。 
 
ドイツ・イデオロギー

 

1 唯物論的歴史観の大前提
「あらゆる人間歴史の第一の前提はいうまでもなく生きた人間的諸個体の現存である。従って最初の確認されるはずの事実は、これらの個体の身体的組織とそこから当然出てきているこれらの個体と爾余の自然との間柄である。・・・あらゆる歴史記述はこれらの自然的基礎と、歴史の流れの中での人間の行動によるそれらの変更から出発しなければならない。」
まず、歴史を論理的に考えるときの出発点が、自然に対する人間の働きかけであり、「生活手段の生産」なのである。 「人間自身は彼らの生活手段を生産し始めるや否や動物とは別なものになりはじめる。そしてこの生活手段の生産は人間の身体的組織のせいでどうしても取らざるを得ぬ一つの措置なのである。人間は彼らの生活手段を生産することによって、間接に彼らの物質的生活そのものを生産する。」
これに対し、次の指摘がある。
「動物はただ自分自身を生産するにすぎない、ところが人間は全自然を再生産する。動物の生産物は直接にそれの自然的身体に属している、ところが人間は自由に彼の生産物に立ち向かう。動物はただ、それが所属する種の尺度と要求に従ってかたちづくるにすぎない、ところが人間はあらゆる種の尺度にしたがって生産するすべを知っており、どこでも、内在的な尺度を対象に当てるすべを知っている。」(「経済学哲学手稿」)
すべての生物は、とりまく自然と物質的な代謝を行いながら生きている。しかし、人間以外の他の生物は、自然の懐である大地に密接にしがみついて生きており、従って、種を取り巻く特殊な環境に合わせ種自身を特殊な形態として現われさせている。植物と違って、自由に移動するようになった動物も、例えば、サバンナに住むトラは、鋭い爪と敏捷な足によって、他の動物を捕獲して食料とする。しかし、人間は、鋭い爪や敏捷な足を持っていない。人間は、自由になった手と直立して歩行する足を持っているが、爪は鋭くないしトラのように敏捷な足でもない。もし、トラのように他の動物を捕獲しようとすれば、猟師のように、猟銃を使わねばならない。しかし、トラは特殊な形態によって自身を特殊な環境に縛り付けている。だから、決して、海に住むアシカのように、魚を取ることはできない。アシカは、泳ぐことに適応した特殊な手足によって、水中の魚を容易に捕獲し食料とする。もし、人が、アシカのように魚を捕獲しようとすれば、漁師のように、魚網を使わねばならない。
人間は、特殊な環境に対して、自然物を特殊な形態に変えて、適応する。猟銃や魚網を作り出して、更に猟師や漁師となって、食料を獲得する。そうすることによって、人間はトラやアシカになれなくても、トラやアシカに代わる形態を作り出すのである。つまり、人間は、手に象徴されるように、どんな特殊な情況にも対応出来る一般的な形態を獲得するように進化することによって、自然から相対的に独立したが、それは、取り巻くあらゆる特殊な環境に適応できる道の選択であったといえる。猟銃や魚網は、人間の手の延長であり、人間の分身である。こういう道具によって、人間は自己を特殊化し、猟師にも漁師にもなれるのである。
一般的に言えば、人間が生活手段を生産するということは、自然の対象物を、人間が便利に使用できるものに変えていくということであり、自然を人間にとって特殊化していくということであり、自然の対象物に人間というレッテルを貼っていくことである。生活手段を生産しそれを消費し、その過程を媒介にして、人間の物質的生活が営まれる。
「人間が彼らの生活手段を生産する仕方はまず、既存の生活手段と再生産される生活手段そのものの性質に依存する。この生産の仕方はただ単にそれが諸個人の自然的身体的生存の再生産であるという方面でのみ考察されるべきではない。むしろそれはすでにこれらの諸個人の活動のある特定の仕方であり、彼らの生活を表わすある特定の仕方であり、彼らのある特定の生き方である。諸個人が彼らの生活を表わす仕方がすなわち彼らの存在の仕方なのである。従って彼らの何たるかは彼らの生産と一致し、彼らが生産するところのもの、ならびに又彼らが生産する仕方と一致する。従って諸固体の何たるかは彼らの生産の物質的諸条件の如何によってきまる。」
生活手段の生産は、人間が自己を物と化す、つまり、対象化するということであり、もともと可能性として持っていた自己を実際に外に現すということである。対象的活動を行う存在である人間が、実際に対象的活動を行い、その本質を表わすということである。(「フォイエルバッハは、・・・人間的活動そのものを対象的活動としてとらえない。」「フォイエルバッハに関するテーゼ」)
特殊化した自然を媒介にして、人間は自身を特殊化していく。人間は自己を対象化し、対象化された物を媒介にして、言い換えれば、対象化した物を再び自己に対象化することによって、人間は自分自身をそれに応じた人間として完成させる。魚網を作り、何度も練習を重ねることによってその使い方に慣れ、魚を捕獲することができるようになって、初めて一人前の漁師として認められる。そこで、庭先に魚が入った籠があり魚網が干してあれば、その家には漁師が住んでいることを確信することができる。人間が進化の中で獲得した一般性は、特殊化できてはじめて、その実を表わすことができる。
「この生産は人口の増加とともにやっと始まる。人口の増加はそれはそれでまた諸個人相互間の交通を前提とする。この交通の形態はまた生産によって条件づけられている。」
マルクスは、ここで「交通」という言葉を使っているが、これは、普通の交通という、単に人間の場所の移動という意味だけでなく、人間相互の間の関係、社会関係という、かなり幅広い意味で用いている。
「私はここで「交通」ということばを、われわれがドイツ語で「交通」というように、もっとも広い意味につかうのである。−たとえば、特権、同職組合や同業組合の制度、中世の数限りない準縄は、獲得された生産諸力に照応し、これらの制度が生み出されてきた先行する社会状態に照応した、社会関係であった。」(「マルクスからアンネンコフへの手紙」)
「労働における自己の生の生産にしても、生殖における他人の生の生産にしても、およそ生の生産なるものは直ちに或る二重の関係として―1面では自然的関係として、他面では社会的関係として―現われる。ここで社会的というのは、どのような条件のもとであれ、どのような仕方であれ、そしてどのような目的であれ、ともかく幾人かの諸個人の協働という意味である。」
猟師や漁師が、それぞれ特殊な生産活動を営んでいて、両者がそれぞれの捕獲物を交換する場合を考えよう。この場合、猟師は、同時に漁師になれないけれども、捕獲した動物を魚と交換することによって、漁師の獲得物を手に入れることができる。それは、猟師が獲得した獲物を漁師に与えることによって漁師の生活を支えることができ、それによって生活できる漁師が彼の獲物である魚を猟師に与えることによって、猟師の側から見ると彼が獲得した獲物が魚という別の獲物に形を変えて戻ってきて、猟師の生活が支えられることである。つまり、それぞれの生活が、それぞれの獲得物によって支えられているだけでなく、お互いの獲得物によっても支えられている。猟師は、漁師がいてはじめて生きていけるし、漁師は、猟師がいて生きていける。
これは、直接的には、生産物の交換であるが、間接的には、生産活動の交換である。猟師と漁師のそれぞれの特殊な活動、すなわち、狩猟と漁労を、一般的な労働と言う抽象的概念で把握すると、労働(活動)力の交換(労働の生産力の交換)による特殊な間柄が、維持されているということができる。特殊な労働(力)同士の抽象による一般的な労働(力)を現実的に交換し合う関係が成立しているということができる。この猟師と漁師の労働の交換による関係が、(労働の)生産関係である。
労働の生産関係は、二人の漁師が協力して漁労を行うというような、直接に人間同士が接触し協働することだけを意味するのではない。それぞれ特殊な労働を行っている人間同士の社会的な分業も、含んでいる。
人間以外の動物は、たとえば、トラが、その獲物を、アシカに与えたり、アシカが、その獲物を、トラに与えたりというような交換を行わない。もし、トラがアシカとその獲物を交換したら、トラの捕獲行動は、アシカの捕獲行動との比較で、特殊な行動として把握できるし、一般的な捕獲行動というものの中で、その特殊な位置を与えることができる。しかし、こういうことはありえないので、トラやアシカの捕獲行動の中から、一般的な捕獲行動を現実的に考えることはできない。つまり、特殊性と一般性の関係は、特殊なもの同士がなんらかの現実的な関係−直接的な関係としては接触、間接的な関係としては交換−を現実化したときに、成立するのである。人間は、猟師と漁師が獲物を交換し、こうしてそれぞれの労働を特殊な労働として位置づけあうのである。ここに、一般的な労働というものが成立する。この生産関係が形成されることは、人間が進化によって獲得した、人間の一般性、普遍性に起因し、その一般性の現実化=実現である。これが、人間が自然から相対的に独立したという意味である。
「人間は文字通りの意味で社会的な動物である。単に群居的な動物であるばかりでなく、社会の中でだけ自分を個別化できる動物である。」(「序説」)
人間は、他人を必要とし、そういう社会という結びつきの中でだけ、個別の人間として生きていけるのである。
「生産において人間は、自然に働きかけるばかりでなく相互にも働きかける。彼らはただ一定の仕方で共働し、また彼らの活動を相互に交換し合うことによってのみ、生産する。生産するためには、彼らは相互に一定の諸連関および諸関係を結ぶのであって、この社会的諸連関及び諸関係の内部でのみ、自然に対する彼らの働きかけが行われ、生産が行われるのである。」(「賃労働と資本」)
猟師の捕獲した獲物には、猟師の労働が対象化されて(例えば、一頭捕獲するのに一日かかったとすれば、捕獲物1頭には猟師の一日分の労働が対象化されている)おり、それが場所を移動して漁師の元へ運ばれ、漁師に消費されると、猟師の対象化された労働は、更に、漁師に再対象化される。このように、労働の生産関係は、対象化された労働という関係を担っている産物を媒介にして延長され、更に生産者同士に再対象化され、こうして生産者同士を結びつける。
「人間性は一個の個人に内在するいかなる抽象物でもない。その現実性においてはそれは社会的諸関係の総体である。」(「フォイエルバッハに関するテーゼ」)
一個の人間が社会の中で生きているということは、社会的分業によって、多くの人間の労働がその体に対象化されているということなのである。
つまり、人間は、自己を対象化した物を交換し合うことによってそれを媒介にして、他人に自己を対象化し、自己に他人を対象化するということができる。猟師が、猟師という特殊な人間として生きていけるのは、漁師というまた別な特殊な人間と獲得物を交換し合い、こうして関係しあうことに依存している。こうして、お互いの労働の対象化によって、はじめて個人は個別の生活を送ることができる。
猟師も漁師もともに家庭を持っていたとしたら、それは、お互いの獲得物を交換することによって、お互いの家庭が支えられている。交換によって、お互いの家庭の中で、お互いの獲得物を消費して、生活を支えあっている。その家庭の中で、子供たちが育って漁師や猟師になっていくだろう。漁師の子供が猟師の獲得物によって育てられるという意味で、次の世代の漁師は、猟師の活動の産物でもある。
生産された生活手段を消費して育てられた子供は、人間の子供として育てられる。狼の中で育てられた人間がはたしてどういう人間になったかを思い起こせばよい。人間は社会を形成するが、人間は社会の中で育てられる。人間同士が相互に浸透しあうのである。
「諸個人はたしかに身体的にも精神的にも相互に作りあう」。
人間は自然に対し対象的活動を行うが、この対象的活動も、対象化されたものの消費(再対象化)も、多数個人の協働という意味で、社会的に行われる。人間の物への対象化は、多数個人の集団としての社会的人間として、はじめて全面的に可能になる。
(資本論第2編第四章第三節「労働力の売買」の中に、労働力が商品と同様に価値を持つことが、述べられているが、それは、もともと、人間には、生産物と同様に、人間の労働が対象化されているからである。「労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。」「労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。」商品生産の下で、生産物が商品形態をとるように、資本主義生産の下で、労働力が商品形態をとるにすぎない。)
2 生産力と生産関係とはなにか
「一民族の生産力がどれほど発展しているかを最も歴然と示すものは、分業の発展度である。それぞれの新しい生産力は、それがそれまでにすでによく知られた生産力の単に量的な拡張であるのでない限り、分業の一つの新しい形成をもたらす。」
「したがって、或る特定の生産様式または工業的段階は、常に或る特定の協働様式または社会的段階と合わさっていることになるのであり―そしてこの協働様式はそれ自体、一つの「生産力」である―人間達の利用しうる生産力の総体は社会的状態を条件付けることになるのであって、したがって「人間の歴史」はつねに工業および交換の歴史とのつながりの中で研究され取り扱わねばならぬことになる。」
ここで、「社会的状態を条件付ける」「人間達の利用しうる生産力の総体」というのは、「或る特定の生産様式または工業的段階」すなわち総体としての労働の生産力=対象化する能力と、「この協働様式それ自体」と、二つからなる。前者が、本来の生産力とすれば、後者は、生産関係と直接的に同一のものとしての生産力=集団力ということができる。
生産力を総体として把握した場合、猟師と漁師のようなそれぞれの職業は、それぞれの特殊な労働力への社会的な分割である。従って、特殊な労働の生産力の相互の間に、それをつなぐ労働の生産関係が維持されなくてはならなくなる。この生産関係は、生産・消費・分配・交換を含み、労働の相互の対象化の繰り返しによって固く結ばれるようになった人間同士の関係、一言で言えば労働を相互に交換する関係をさしている。人間は活動を交換し合うという意味で協働関係にあるということであり、これは、知らず知らずのうちに、人間同士が一定の関係の下に包摂され、意識すると否とにかかわらず、社会的な協働を行っていることになっているという意味である。この生産関係の広がる全範囲が、一つの社会を形成する。
この社会的な分業の発生については、「資本論」第4編第12章第四節「マニュファクチャの中での分業と社会の中での分業」に、以下の指摘がある。
「ただ労働そのものだけを眼中におくならば、農業や工業などという大きな諸部門への社会的生産の分割を一般的分業、それらの生産部門の種や亜種への区分を特殊的分業、そして一つの作業の中での分業を個別的分業と呼ぶことがきる。」
「社会の中での分業と、それに対応して諸個人が特殊な職業部門に局限されることとは、・・・相反する諸出発点から発展する。一つの家族の中で、さらに発展しては、一つの種族の中で、・・・純粋に生理的な基礎の上で、自然発生的な分業が発生し、・・・拡大する。他方、・・・生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。・・・共同体が違えば、それらが自然環境の中に見出す生産手段や生活手段・・・生産物も違っている。・・・交換は、・・・違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存しあう諸部門にするのである。この場合に社会的分業が発生するのは、もとから違ってはいるが互いに依存しあってはいない諸生産部面の間の交換によってである。」「社会の中での分業のためには人口の大きさと密度とが物質的前提をなしている」。
このような社会的分業の下に、生産関係と直接的に同一のものとしての生産力、すなわち、集団としての生産力が生ずる。
「資本論」第4編第11章では、「同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態」である「協業」を取り上げて、「ただ協業による個別的生産力の増大だけが問題なのではなく、それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造が問題」だといい、「結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的な生産力または社会的な労働の生産力なのである。この生産力は協業そのものから生ずる。他人との計画的な協働の中では、労働者は彼の個体的な限界を抜け出て彼の種属能力を発揮する」といっている。また、それに続く第12章では、「分業にもとづく協業」として、マニュファクチュアを取り上げ、「この分業は、協業の一つの特殊な種類なのであって、その利点の多くは協業の一般的な本質から生ずる」としている。
例えば工場の生産現場では、工場内で分業が組織されているが、それは生産工程を分割し各個人が異なった単位行程を担うことによって、全体として生産力を上げるためである。これを社会全体で行うことを考えると、例えば、一人が農業と漁業を行うのでなく、それぞれを専門に担当する農業者と漁業者とに任せるということになる。これが意識的に行われようと意識されずにおこなわれようと、結果としては、生産力の向上になるであろう。これがここでいう、分業による集団力なのである。無論、この分業が生産力の発展に結びつくためには、生産物を相互に交換し合うということ、従って事実上協働していなくてはならない。農業者と漁業者が孤立していて互いに生産物を交換しないと、協働したことにはならない。
生産力は社会的分業の形態を媒介的に決定し、分業の様式は直接的に生産力であるという関係は、生産力と生産関係が相対的に独立しているものの、相互規定の関係にあり、相互に浸透し合うという基本構造を持っているということである。
人間と自然との関係が生産力の基礎にあり、人間同士の関係が生産関係の基本である。二つの対象化の論理が、生産力と生産関係を基礎付けている。そして人間の歴史は、この生産力と生産関係の歴史ということになる。
「人間の生産諸力の発展の一定の水準を仮定して見たまえ、そうすれば、人間的関係と消費の形態が得られる。人間的関係の生産と消費との一定の水準を仮定して見たまえ、そうすればこれに照応する社会制度の一定の形態、これに照応する家族、身分、階級の一定の組織、一言で言えば一定の市民社会が、得られる。一定の市民社会を仮定して見たまえ、そうすれば、市民社会の公的表現である一定の政治的状態が得られる。」(「マルクスからアンネンコフへの手紙」)
マルクスは「経済学批判序説」の中で、生産物の生産、消費、分配、交換を考察した後、最後に次のように述べている。
「われわれが到達した結果は、生産、分配、交換、消費が・・・一個の総体の全肢節を、ひとつの統一の内部での区別を、なしているということである。・・・過程はつねに新しく生産からはじまる。・・・だからある一定の生産は、一定の消費、分配、交換を、これらのさまざまな諸要因同志の一定の関係を、規定する。もちろん、生産もまた、その一面的形態においては、それはそれとして、ほかの要因によって、規定される。」
「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、つまり、かれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。」(「序言」)
「だから、そのうちで個々人が生産する社会的諸関係、すなわち社会的生産諸関係は、物質的生産手段の・生産諸力の・変化および発展とともに、変化し変動する。生産諸関係はその全体において、社会的諸関係・社会・と名づけられるものを、しかも一定の・歴史的な・発展段階における一社会を、独自な・別個な・性格を持つ一社会を、形成する。」(「賃労働と資本」)
すなわち、生産物(人間も含む)の生産、分配、交換、消費のあり方(生産様式)が、「社会の経済的機構」を形成し、建築物で言えば、それが「現実の土台」に例えられ、その上に「法律的、政治的上部構造」がそびえるというわけである。
この有名な定式は、以上のような理解があって、はじめて正しくその内容が把握される。なお、ここで「彼らの意志から独立した」といっているのは、当時常識であったヘーゲルの歴史理論に対しての唯物論的注意である。
3 人間と自然の対立とはなにか
ここで改めて、「人間と自然の対立」を考えてみよう。人間は自然の中から生まれ、自然と交渉しながら活きねばならず、永遠に自然の一部である。しかし、人間は自然から分離し、社会を発展させてきた。この自然と人間の関係をどのように把握するか、これがまず、根本的な問題である。
同様な問題にぶち当たって、それを解き得なかった哲学者がマルクス以前にもいた。彼らに対し、マルクスは、次のように批判している。
「人間対自然の関係という由々しげな問題(両者の関係どころかブルーノに言わせれば、まるで両者は二つの別々の「物」であって、人間は必ずしも一つの歴史的自然と一つの自然的歴史を眼前に持っているのではないかのように、「自然と歴史におけるもろもろの対立」という問題)のごときは、人間の生産力がそれ相応の土台の上で展開するに至るまで人間と自然の「闘争」が存在してきたと同様、音に聞こえた「人間と自然との一体性」なるものも産業の中で昔から存在してき、そしてそれぞれの時代に産業発展の高低に応じて違ったあり方をしてきたことが見抜かれればおのずから崩れてしまう。」
ここには、人間と自然との対立をどのように考えればよいかが、述べられている。この問題の回答は、歴史を謙虚に振り返り、それを総括すればよい。
「人間的歴史に先行する自然などというものはフォイエルバッハの住んでいる自然ではないこと、できたての二つ三つのオーストラリアの珊瑚島のようなところではいざしらず、今日ではもうどこにも存在しない自然・・・であることは確かである。」今や人間を取り巻く自然は、徹底的に人間によって変えられてしまっているのである。ここでは、人間化されてきた自然を、歴史的自然といっている。 また、「それほどにこの活動、この間断なく行われ続けている感性的な労働と創造、この生産は現に今存在するごとき全感性的世界の基礎なのであるから、もしもかりにそれがたった一年間でも中断されたとすれば、フォイエルバッハは単に自然界のうちにとてつもない変化が生ずるのを見るのみならず、また人間世界の全体を彼自身のものを見る力、いやそれどころか彼自身の存在すらもがたちどころに消えてなくなるのに気づくに違いない。」
人間世界と人間自身が、変化させた自然を人間生活に取り込むことによって、変えられてしまっているのである。このことは、人間が拠って立つ自然的基礎自体(これは人間生活の自然的条件と、人間の肉体自身が自然の一部であるという条件がある)が、より人間化されまた自然と一体化しているということである。ここでは、自然化されてきた人間の歴史を、自然的歴史といっている。
つまり、両者を浸透のない物として把握するのではなく、浸透する対立物として把握すれば、自然が人間によって変えられ、変化した自然を人間生活に取り込むことによって、人間自身が自然の中に強固に入り込んできたことが把握される。
この浸透は、人間と自然を媒介する生産活動に負っていると述べられている。この浸透が支障なく行われるためには、「人間の生産力がそれ相応の土台の上で展開するに至るまで人間と自然の「闘争」が存在してきた」わけで、浸透の成果の「人間と自然との一体性」も産業の歴史に負っているというわけである。
この人間と自然の浸透を可能にしたのは、「この間断なく行われ続けている感性的な労働と創造、この生産」である。
「類的生活は、人間にあっても動物にあっても、肉体的にはまず第一に、人間が(動物と同じく)非有機的な自然によって生きていくという点に存するのであって、人間が動物よりも普遍的であればあるほど、人間がそれで生きていく非有機的な自然の範囲はますます普遍的である。」「人間の普遍性が実践的に現れるのは、まさしく、全自然を人間の非有機的な身体にする−自然が(1)直接的生活手段であるかぎりにおいても(2)人間の生活活動の材料、対象、道具であるかぎりにおいても−ところの普遍性においてである。」(「経済学哲学手稿」)
「人間的な諸対象は直接に現れるままの自然諸対象であるのでもなければ、直接にあるまま、対象的にあるままの人間の感覚が人間的感性、人間的な対象性であるのでもない。自然は客体的にも主体的にも、直接に人間的存在に適合して現存していないのである。自然的なものはすべて発生しなければならないように、人間もまた彼の発生行為、歴史を持っている。・・・歴史は人間の真の自然史である。」(「経済学哲学手稿」)
4 私的所有とはなにか
「労働の分割はそれはそれでまた家族内での労働の自然発生的な分割と、個々の相互に対立する諸家族への社会の分裂に基づくのであるが、この労働の分割と同時にまた、労働とその生産物との配分、しかも量的にも質的にも不平等な配分、したがって所有が存在することになる。」
「労働の分割と言う言葉と私的所有という言葉とは同じことをいっているのであって、一方が活動に関して言っていることを、他方が活動の産物に関していっているだけのことである。」
「人間自身の仕業が人間に対立するようになるのはなぜかといえば、それは労働が配分され始めると、各人は自分に押し付けられるなにか特定の排他的な活動範囲を持つことになって、そこから抜け出ることができないからである。彼は狩人、漁師、または牧者、または批判的批判者なのであって、暮らしの方便を失うまいとすれば、それをやめるわけにはいかないのである。」
社会的分業は、労働の分割による特定の排他的な活動範囲の個人に対する押し付け、「個人が労働の分割のもとに服属せしめられ彼に押し付けられた特定の活動のもとに服属せしめられている状態」という意味を持っている。「自然発生的に行われる。ということは、自由に結合した諸個人の全体的計画に従ったものではないということである。」つまり、意識的、計画的に特定の労働を個人に割り振るのではなく、意識されずに自然に任せられたまま、労働を配分することが、私的所有ということである。
「ちょうど労働の分割のさまざまな発展段階の数だけ所有のさまざまな形態がある。ということは、労働の分割のその都度都度の段階は労働の材料、用具および産物に関しての諸個人相互の間柄をも規定するということである。」
ある人間の集団の中に、猟師と漁師がいて、お互いの技能を教えあって、いつでもお互いの職業を交換できるとしよう。そうすると、その集団の必要に応じて、ある時は猟師になり、あるときは漁師になるであろう。こうして、必要な獲物を必要な数だけ、捕獲するであろう。
ところが、お互いの職業を固定して、猟師と漁師が、何の連絡もないまま、その獲物を捕獲するとしたら、お互いの獲物は、不必要な数まで捕獲することになるであろう。そうすると、お互いの獲物の数が過不足かどうかは、お互いの獲物の交換によってのみ、はじめて理解できることになる。これが、私的所有であり、ここでいう労働の分割なのである。
前者の労働によって結ばれた集団の人間関係は、後者と異なっている。前者は、何らかの集団内の調整がなされており、後者は、それが自然にゆだねられている。つまり、労働の分割が、自然に任されている。
「労働の分割によって必須となったさまざまな個人の協働ということから生ずる幾層倍にもなった生産力、この社会的力はこれらの個人には、協働そのものが自由意志的にはでなく、自然発生的であるがゆえに、彼ら自身の一丸となった力としては現れないで、なにか余所の、彼らの外にある強引な力として現われる。この力については諸個人はその由来も行方も知らず、したがってもはやそれを統御することもできないのに反して、逆にその力の方は今度は、ある独自な、人間達の意志や行動とは独立な、いやそれどころかこの意志や行動をまずもって指揮するところの、諸局面と諸段階の順序を順繰りに経ていくのである。」
「そして最後に労働の分割は、人間達が自然発生的な社会のうちに在る限り、従って特殊な利益と共同の利益との分裂が存在する限り、従って活動が自由意志的にでなくて自然発生的に分割されている限り、人間自身の仕業が彼にとって何か余所者の、対立する力となり、彼がそれを牛耳るかわりにそれが彼を抑圧するということのまさに最初の例を、われわれに示している。」
自然発生的であっても、ともかくそれによって、生産力の限界を突破し、総体として分業形態が生産力を増大させるのであるが、その「一定の生産関係の下に個人を包摂すること」によって、人間はその集団力を制御できないのであり、生産力と生産関係は、敵対的な関係になるのである。
5 国家とは、階級とはなにか
私的所有、すなわち、労働の分割を扱ったので、ここで、国家の問題を取り上げておかねばならない。なぜなら、国家は、私的所有とともに始まったとされているからである。
「さらに労働の分割と同時に、一個の個人または一個の家族の利益と、交通しあうすべての個人の共同の利益との矛盾が存在することになる。しかもこの共同の利益は単に表象の中に、「普遍的なもの」として存在するだけでなく、むしろなによりもまず現実の中に、労働を分担する諸個人の相互依存性として存在する。」
「・・・そしてあたかも特殊な利益と共同の利益とのこの矛盾から共同の利益は国家として、現実的な個別的および総体的利益とは切れたあり方で、一つの自立的な形態をとるのであり、そして同時にそれは幻想的な共同性として存在するのであるが、しかし家族、部族の塊の一つ一つのうちに存在する諸紐帯・・・を常に現実的土台とし、またことに、後ほど述べるように、労働の分割によって当然すでになければならぬはずの諸階級を現実的土台に踏まえている。」
国家は、幻想的な共同性として存在するという。これはどういう意味であろうか。
労働の分割は、個人と個々の家族と、他のすべての多数個人および家族との対立を招く。しかし、「労働の分割によって必須となったさまざまな個人の協働ということから生ずる幾層倍にもなった生産力」は、意識されてはいないが、現実的な共同の利益である。この連関が失われた場合には、「労働の分割によって必須となったさまざまな個人の協働ということから生ずる幾層倍にもなった生産力」も破壊されるからである。そのことを「労働を分担する諸個人の相互依存性」として表現している。これは、生産物の生産を媒介とした生活の生産過程の重層的結合による、生産と消費の循環による強固な連関の必要性のことである。端的にいえば、生産関係である。
だが、「諸個人はただ彼らの特殊な利益、彼らにとって彼らの共同の利益とは一致しない利益のみを追求する」のであるから、この共同の利益はどこにも現われてこないはずである。しかし、それでは、この「相互依存性」が失われてしまいかねない。この共同の利益は、どこかに自分をあらわすはずであり、表わさなければならない。
この「普遍的な」相互依存性は、自己を対象化し、一つの特殊なものとして自己を顕される以外ない。人間は意識を持っている。そこで、人々の意識の中の「普遍的なもの」として表わされた表象が、幻想的な共同性である。
認識の中に受動的な認識と能動的な認識とがあるように、人々の行動を規制するためには、能動的な意識である意志のレベルで、特殊な利益を追求する諸個人を更に規制する、対象化された意志の形態として、この精神的レベルでも現実化されなければならない。またそれは、「活動が自由意志的にでなくて自然発生的に分割されている限り、人間自身の仕業が彼にとって何か余所者の、対立する力とな」っており、それゆえ「現実的な個別的および総体的利益とは切れたあり方で、一つの自立的な形態をとる」ということになる。
「国家すなわち政治的秩序は従属的な要素であり、市民社会、すなわち経済的諸関係の領域が決定的な要素である。・・・個々の人間の場合に彼の行為のあらゆる起動力が彼の頭脳を通過して、彼の意志の動機に変わらなければならないように、市民社会のあらゆる要求もまた、−どの階級が支配しているかにかかわりなく−法律の形をとって一般的な効力を得るためには、国家の意志を通過せねばならない。これは事柄の形式的な側面であって、自明のことである。」(エンゲルス「フォイエルバッハ論」)
これが、国家である。つまり、一つの生産力としての社会的な力である個々人の協働、相互依存性、共同の利益が、対象化され、観念的な力として自立化し、権力として現実化したものが、国家ということである。
それを、宗教と同じように、人間が観念的に生み出した物が逆に人間を支配することになることから、「幻想的な」共同性といっているのであると理解すべきであろう。いいかえれば、幻想的共同性が、他人同士の意志の諸関係のレベルで媒介されることによって、幻想的な共同体として精神的領域に現われる。それが、国家の表象であろう。
「世俗的基礎がそれ自身から脱して、自身のために一つの自立的な王国を雲の中にしつらえるということは、ただこの世俗的基礎の自己滅裂状態と自己矛盾からのみ明らかにされるべきである。」(フォイエルバッハの第四テーゼ)
労働の分割が、私的所有の始まりであり、それが、国家の始まりである。国家権力としての力は、相互依存性の社会的力が、形を変えたものでしかない。それが、私的所有から発するからこそ、人間に制御不能なものとして現われるのである。
猟師と漁師は、お互いの獲物を交換し合うことによって、お互いの生活を支えあっている。しかし、私的所有の社会では、彼らは、ただ、自分の生活を支えるためにだけ獲物を交換しているだけであって、それによってお互いの生活を支えあっているのだとは、思っていないであろう。なぜなら、それが、自然に自分の持ち分である特定の労働を分担しているということであり、もし、意識的に労働の配分を協議して決めたならば、お互いの生活を支えあっているという意識を最初から持っているであろう。しかし、この相互依存性は、彼ら漁師と猟師にとっては、意識されていなくても、共同の利益である。たとえば、その社会に中に猟師と漁師という職業の人間が彼らしかいなくて、どちらかが死んでしまった場合、もう一方は、もう、死んだ人間の獲物を手に入れられなくなり、自分の生活を送れなくなるからである。これは、どちらかが何かの事情でその限られた社会から離脱したとしても、同じことである。そこで、どういう事情があっても、かれらが社会から離脱しないようにするには、どうしたらいいであろうか。
彼らが彼らの住居を柵で囲むように、彼らの住む社会を何らかの柵で囲むことができればよいが、何らかの罰で刑務所に繋がれでもしない限り、彼らの移動を制限できない。そこで、それは、漁師と猟師に、自分達の意識の中に、自分はこの共同の社会の中で住んでいて、この共同の社会から絶対離れないという意識を持たせればよいのである。意識の中に「柵」を設けるのである。いやこういう風な意識が、「活動を交換」する生活を営んでいくうちに、自然とできあがり、持たせられていくものである。この意識の押し付けは、あたかも共同体に主人がいて、彼が猟師と漁師に、命令するようなものでもある。彼らが住む社会環境が彼らにとっていやなものであったら、それは、いやいやながら命令に従うような感じを持つであろう。これが、共同の利益がまるで社会の主人のように自立した形態を取るということであり、「幻想的な共同性」としての国家というものの正体なのである。その国家で使われる言語が、端的に国家としてのまとまりを表現しているように、私的所有が、つまり、各人が排他的な活動範囲を配分されている限り、国家はいわば共同性を体現せざるを得ないのである。
人間には、他の動物と異なって、労働と言う抽象物が、各人の労働の特殊性として現実に存在する。この労働を媒介とする生産関係が実際に姿を現したものが、共同体ということである。労働が分割されていない間は、共同体は、家族の延長である種族共同体であった。労働の分割が進行して、共同体は、国家として、その性格を根本的に変えたのである。
ここで、国家を構成する階級が出現する。その国家を構成する階級のレベルで見ることによって、更に国家の形態が明瞭になる。
まず、階級とは何であろうか。
階級とは、「現存の諸関係から決まってくる仕事の質によって、同時に、彼らすべてに共通でそして彼ら一人一人からは独立な」「生活条件」、すなわち「階級的条件」から規定される「同じ条件、同じ対立、同じ利益はだいたいにおいてどこでも同じ習俗を生じさせ」たものである。
「個々の個人は彼らがどれか他の階級に対して共同の戦いを行うことになる限りにおいてのみ一つの階級を形成するのであるが、さもない限りは彼らは彼ら自身で競争において敵対しあう。他面、階級の方は階級の方で諸個人に対して独立したものとなるので、諸個人は彼らの生活諸条件に、あらかじめ決まった条件として当面し、階級から彼らの社会的地位、従ってまた彼らの人格的展開をあてがわれ、階級の下へ服属せしめられる。これは、労働の分割のもとへの個々の個人の服属と同じ現象」である。
「これらの階級はそれぞれそのような人間集団の中でお互いに分かれあい、そしてそのうちのひとつが爾余のすべて階級を支配する。したがって国家の内部でのあらゆる闘争、民主制、貴族制、君主制間の闘争、選挙権のための闘争等々は、種々の階級間に遂行される現実的諸闘争がとるところの幻想的形態以外のものでもないことになるのであり、・・・そして更に、支配をめざすそれぞれの階級は、・・・まず、政治権力を獲得しなければならないということになる。それはそれの利益がまた普遍的なものででもあるかのように見せるためであって、最初の瞬間にはその階級にとってこれはやむをえないところなのである。諸個人はただ彼らの特殊な利益、彼らにとっての彼らの共同の利益とは一致しない利益のみを追求するのであり、総じて、普遍的なものは共同性の幻想的形態なのであるからこそ、この普遍的なものはなにか彼らには「余所者の」そして彼らとは「独立な」「普遍的」利益、なにかそれはそれでまた特殊で独特な「普遍的」利益として押し付けられるか、または彼ら自身、民主制の場合におけるように、この分裂の中で動かざるをえない。だからこそ他面、共同の利益と幻想的共同の利益とにたえず現実的にそむくところのこれらの諸々の特殊利益の実践的闘争は、国家としての幻想的「普遍的」利益による実践的な干渉と制御を必要ならしめる。」
つまり、政治的権力である国家は、超然とした立場から国家の枠をはみ出さず枠を崩さないという普遍的利益を諸階級に押し付け、諸階級の実践的闘争に干渉し制御する。これは、国家権力が、単に支配階級の操る道具ではないことを示している。
だから、最初の国家が出現する古代的民主制の場合には、「彼ら自身、この分裂の中で動かざるをえない」というのは、古代共同体は、「能動的国家公民達の共同の私的所有」であり、いわば平等な私的所有の公民国家であり、奴隷制はその枠のなかで保存されていたので、市民同士に上下関係はない。そこで、実践的闘争は、国家の分裂にいたりかねない。だから、闘争は、幻想的な共同体の枠の中で、平等な公民同士の個人的なけんか程度のものにしかなりえないという情況を、端的に表わしているのである。
漁師と猟師の集団という階級がお互いにすんでいる社会を考えよう。彼らが喧嘩をしたとしよう。そこで、漁師の階級が敗れたとして、漁師の階級がその社会から去っていってしまうと、もうだれも魚を取るものがいなくなってしまう。そこで、国家は、あたかも、社会の主人として、しかし、足がなくて空中に漂う幽霊のように、姿を現して喧嘩の調停をする、いや、調停をするというところまでいかないで、そういう喧嘩にならないように、決定的な敗者が生まれないように喧嘩の程度にタガをはめる必要が在る。その幽霊は、共同性を体現した幽霊である。その幽霊が皆の意識に乗り移ると、「皆のために喧嘩をやめよう」という意識をもって説得し、全員が納得してそういう意識を共有することになる。そういうことで、暴力的な喧嘩に干渉する事、あくまで口げんか程度にしようということ、それが、「国家としての幻想的「普遍的」利益による実践的な干渉と制御」ということである。口げんか、つまり精神的な喧嘩のレベルは、「現実的諸闘争がとるところの幻想的形態」ということである。
喧嘩の仲裁を誰か第三者に頼んで、中立的な立場から調停を行うようになると、それは共同体の幽霊が現実化したものということになる。その第三者は、普遍的な立場から、喧嘩の仲裁をすると宣言するであろう。猟師と漁師の階級は、第三者に従わねばならない。国家の内部に、すべての階級を従わせる国家権力が成立したことになる。
猟師と漁師だけでなく、いくつかの階級が住んでいた場合、ある一つの階級が、他の階級を支配しようとするときには、暴力を用いるのは、最後の手段である。まず、最初は、自分の階級が、漁師や猟師の階級にとっても利益になり、「普遍的な利益」であるということで説得することになろう。この階級が共同性の幽霊を体現しえたとき、この社会の主導権をにぎることができる。
「国家という形態において支配階級の人々は彼らの共通の利益を押したて、そして一つの時代の全市民社会はその形態の中でまとまるものである以上、あらゆる共通の制度は国家の手を介してとりきめられ、なんらかの政治的な形態をもたせられることになる。法というものが、あたかも意志、しかもそれの現実的土台からもぎはなされた自由な意志に基づきでもするかのような幻想はそこからくる。法が自由な意志に基づくと考えられると、今度は権利の方も、法あっての権利ということにされる。」
つまり、国家によって、あらゆる共通の制度が、普遍的、一般的形態を与えられるので、国家に裏打ちされた法と権利も、一般的な形態をとるとされている。
幻想的な共同性という幽霊が実体化されると、「行政、警察、租税等々約言すれば共同体組織、従ってまた政治一般」という形態で、自己を現してくる。ここに国家と政治(「法律的、政治的上部構造」)、それに対する諸階級ないし労働の分割(現実の土台としての生産諸関係の総体」)と、世界が二重化したと見なすことができる。
「国家の内に、人間を支配する最初のイデオロギー的な力がわれわれにたいして現れる。社会は、内外からの攻撃にたいしてその共同の利益をまもるために、自分のために一つの機関をつくりだす。この機関が国家権力である。この機関は、発生するとすぐに、社会に対して独立するようになる。」(「フォイエルバッハ論」)
「鋳貨価格をきめることはもちろん、鋳貨の技術上の事務もまた、国家がうけもつことになる。貨幣は、計算貨幣としてそうであるように、鋳貨としても地域的で政治的な性格を帯び、さまざまな国の言葉を語り、さまざまな国の制服をきる。だから、貨幣が鋳貨として通流する領域は、国内的な、共同社会の境界によってかこまれた商品流通として、商品世界の一般的な流通から区別されるのである。」(「経済学批判」)
鋳貨という経済的制度を支えるのは、国家の役割である。それは、当然のことながら、経済的な支配的階級の利益にもなるが、それだけではなく、「あらゆる共通の制度は国家の手を介してとりきめられ、なんらかの政治的な形態をもたせられることになる」という国家の本質に由来している。このように、国家は、諸階級の分裂に基づき、支配的階級の利益を主として押し出しながらも、共通の制度を支え、全階級を代表する普遍的形態を取る。これが、諸階級分裂の現実的土台から規定された、国家に背負わせられた矛盾なのである。
 

 

6 生産力の展開(労働の分割)と生産関係(所有形態)の対応
社会は、生産力が増大するにつれ、発展してきた。しかし、急速な生産力の増大は、近代の資本主義的生産様式になってからである。それ以前は、主たる産業は素朴な農耕であり、その生産力はあまり増大せず、初期には主として、生産関係と直接に同一の生産力の利用、すなわち、労働を分割しそれぞれを専門とする階級に任せることによって全体として集団力を利用する社会的分業により、徐々に生産力を発展させたのである。
なぜ、人類の初期には、本来の生産力の増大による社会の発展が期待できなかったか。「本来の生産力」の発展には、生産力の要素である生産手段の発展がなければならず、そのためには、科学技術の発展を待たねばならず、生産手段が自然そのままのものから人間化された自然のものへと発展せねばならない。それには、長い時間がかかるからである。(「3 人間と自然の対立とはなにか」参照)
「一民族内部での労働の分割はさしあたりまず農耕労働からの商工労働の分離、およびそれとともに都市と地方との分離と両者の利益の対立を招来する。分業のいっそうの発展は工業労働からの商業労働の分離へ導く。同時にこれらのいろいろの部門の内部での労働の分割」へと発展する。
「ちょうど労働の分割のさまざまな発展段階の数だけ所有のさまざまな形態がある。ということは、労働の分割のその都度都度の段階は労働の材料、用具および産物に関しての諸個人相互の間柄をも規定するということである。」
労働の分割には、それに対応した所有形態が存在する。人類にとって最初の労働は、農耕労働である。そこで、まず、農業生産力の要素である「自然発生的な生産用具」(生産手段(労働対象と労働手段))を、近代工場の中の機械のような「文明によって作り出された生産用具」(人間化された自然としての生産用具)と比較し、それに対応する生産関係のあり方を考えて見る。
機械には、「発達した分業と広がった商業という前提」が必要である。その機械の中の歯車一個にしても、鉄鉱石を掘り出す鉱業、鉄鉱石から鉄を取り出し精錬する製鉄業、鉄を加工する機械加工業によって、作られる。つまり、それぞれの分業が前提である。「工業はただ分業にうちにのみ存在し、分業によってのみ成り立つ。」また、鉱業は鉱山にあり、製鉄業や機械加工業は都市の工場にある。そこで、それぞれの分業間をつなぐ商業が必要である。
また、鉱業の鉱山や、製鉄業・機械加工業の工場にしても、また、この機械一つを動かすにしても、「諸個人は一つところにいっしょにされているのでなければなら」ない。つまり、集団によってはじめて可能になる労働なのである。
これが可能になるためには、二つの条件が必要である。一つは、「諸個人が相互に独立していて、ただ交換によってのみ一緒にされる」ということである。労働者が、同職組合に包括されている職人のように、労働手段と密接に結びついた身分として職業に固定されていたら、自由な労働者は調達できない。だから、労働者は、労働手段をうしなっていなければならず、自分自身では生産活動を行えない状態でなくてはならない。そうしてはじめて、多数の労働者を一箇所に集めることができる。
もう一つは、鉱業にしても製鉄業、機械加工業にしても、いずれも労働手段は巨大な機械であり、それは「労働の一生産物」であり、その労働手段は、「蓄積された労働としての資本」として現われている。歯車や、稼動させるための潤滑油など、それぞれの部品が集まって機械が構成されているということは、それぞれの蓄積された異なった労働が、一箇所に集合しているということである。これは、私的所有の特徴的な機能である集中、貨幣によって買われて来て、組み立てられること、である。そこで、この巨大な労働手段によって、つまり資本に支配されて、多数の労働者がその下で働くのである。
更に、機械を組み立てるには、設計という「精神的労働」が必要である。つまり、「精神労働と身体労働の分割が実際に遂行」されている。
この「文明的な生産用具」に対して、対極にある原初的な農耕労働の生産用具としては、自然発生的な、例えば、鋤や鍬をも含む土地そのものである。ここに「地域的限局性」がある。鋤や鍬を作る「小さな工業が存在するが、しかし、それは、自然発生的生産用具の利用の範囲に限られ」ている。農耕は、「諸個人が家族であれ部族であれ土地そのもの等々であれ、なんらかのきずなで一団となっていることを前提とする」。「諸個人は自然の下に服属せしめられ」ており、「所有(土地所有)は直接的、自然発生的支配として現われ」る。また、「精神労働と身体労働はまだ全然分かれていないし、」「並みの人知で足」るのである。
例えば、稲作を考えてみよう。昔は、手作業に頼る田植えは、村落が総出で行っていた。梅雨という短い間に、すべての個々人の所有する田の作業を終わらせなければならず、用水が限定されているという自然的条件により、共同作業が必要であったからである。また、農業用水にしても、取水権の確保、各人の田への分水は、村落としての共同所有がなくてはできないことである。このように自然的条件に左右される農耕は、村落としての共同体が必要になる。こうして、村落共同体は、相互扶助的であり、自給自足的である。
しかし、農村が機械化され田植え機が普及すると、その分だけ手作業が大幅に減少し、共同作業の必要性が少なくなる。それは、生産力が向上したということであるが、また、個々の農民が、それだけ村落としての共同体を必要としなくなるということでもある。田植え機という労働手段は、それだけ自然への依存から離れることである。だから、労働手段だけでなく、労働対象そのものがすでに労働の対象化の産物である原料として存在する場合、農耕のような村落共同体は、まったく必要ではない。農産物を冷蔵・冷凍倉庫に保管できるようになると、その加工食品は、時期を問わず製造できるようになる。
ここでは、生産力が生産関係を規定し、生産関係は直接生産力でもあると共に、生産力を規定するという生産力と生産関係の相互規定・相互浸透の論理的対応を重視する。そこで、このことが最も明確に示されている「資本主義的生産に先行する諸形態」を取り上げる。その上で、「家族・私有財産・国家の起源」を参考にするとよい。
(以下、「資本主義的生産に先行する諸形態」より)
「これらの形態においては、土地所有と農業とが経済制度の基礎をなしており、またそれゆえに使用価値の生産、個人がその基礎をなしている共同体に対して一定の関係にある個人の再生産、がその経済的目的である」。目的は、食料を生産しそれを消費して、共同体の一員としての個人を再生産するということである。
「これらすべての形態においては、次のことが存在する。・・・1・・・労働の前提をなすものとしての、労働の自然的条件の領有、本源的労働用具であって、また、仕事場であり、同じく原料の貯蔵場でもある土地の領有。・・・労働の主たる客観的条件は、それ自体労働の生産物としては現われずに、自然として現存する。・・・2・・・労働する個人の所有としての土地、大地に対するこの関係行為・・・は、一共同体の構成員としての個人の、自然生的な、多かれ少なかれ歴史的に発展し変形した定在、一種族の成員としてのその自然生的定在等によって、じかに媒介されている。」
「所有とは本源的には、自分に属するものとしての、自分のものとしての、人間固有の定在とともに前提されたものとしての自然的生産諸条件に対する人間の関係行為のことにほかならない。すなわち、自己の肉体のいわば延長をなすにすぎない、自分自身の自然的前提としてのこれら生産諸条件に対する関係行為である。・・・これら自然的生産諸条件の形態は二重である。すなわち、1一共同体の成員としてのその定在。・・・2共同団体を媒介とする、彼自身のものとしての土地に対する関係行為。共同体的な土地所有であり、同時に個々人の個別占有。」
「従って所有とは、ある種族(共同団体)へ帰属すること(・・・)であり、そしてこの共同団体の、土地、それの非有機的肉体である大地に対する関係行為を媒介にしての、個人の土地に対する関係行為・・・のことである。」
農業は、自然に依存し自然に従ってなされる生産活動である。労働材料と労働手段の大部分を自然に依存し、自然から提供されてはじめて成立する。そこでは、近代の労働者のように、労働手段と労働対象が個人から分離してはおらず、最初から自然から提供されて存在する。
また、自然が改変されていない。改変された自然、例えば稲の品種改良が進めば、それだけ凶作に強い品種によって、自然の威力から離れられるが、それは近代の話である。だから、自然から少しでも依存しなくなるように、例えば、農業用水を確保するために、延々と遠くから用水路を引いたり、貯水池を作ったりと、いろいろ知恵を絞って対策がとられてきた。それでも天候不順に寄って少雨になる場合には、凶作の可能性におびえてきた。凶作の場合には、村落全体で助け合わなければ、次の年の生産さえおぼつかなくなる。こうなれば、個人の再生産、個人が次年度の生活を送ることさえ、かなわなくなる。このような自然的条件に左右される農業には、個人の力は無力である。どうしても共同で対応するしかない。つまり、個人の労働は、所属する共同体に守られて、その中で初めて成立するのである。
近代の労働者においては、個人が労働だけをおこなう存在であり、雇われてきてはじめて労働手段と合体させられ労働が可能となるが、この農業では、個人が所有を行うための個人の労働の対象化の行為は、それ以前に、土地を含めた自然を共同で所有すること、村落共同体による土地所有が、前提になっているのである。
「われわれが歴史を遠く遡れば遡るほど、個人は―したがって生産する個人もまた、ますます非自立的な、ひとつのいっそう大きい全体に属するものとしてあらわれる。つまり、はじめには、まだまったく自然なあり方で家族に、および種族にまで拡大された家族に属するものとして、後には、諸種族の対立と融合とから生じるさまざまな形態の共同体に属するものとして現われる。」(「序説」)
「歴史の示すところによれば、・・・共有が、所有の本源的形態であって、この形態は、共同体所有という姿で、長い間一つの重要な役割を演ずるのである。」(「序説」)
「労働の客観的諸条件に対する彼の関係は、共同体成員としての彼の定在によって媒介されている。他方、共同体の現実の定在は、労働の客観的諸条件にたいする彼の所有形態によって規定されている。」すなわち、ここでは、個人は、共同体の構成員として媒介的に存在している。
この生産関係を保証する共同体は、その中での個人の所有形態によって、論理的に3つに区別される。
1 「共同体的所有」「この場合個人はただの占有者であり、そして土地の私的所有は存在しない。」「土地の共同的所有」
2 「国家的土地所有と私的土地所有との対立的形態」「国家所有と私的所有という二重の形態で、相並んで現われることもあるが、その結果、後者が前者によって措定されたものとして現われる。それゆえに国家市民だけが私的所有者であり、・・・」
3 「共同体所有が個人的所有の補充としてのみ現われることもある。しかし、この個人的所有こそがその基礎であって、共同体は共同体成員の共通の目的のための集会やその連合以外には、一般に対自的存在をもたないのである。」
この3段階は、生産関係と直接に一体化している共同体から、共同体が分離し自立化していくということでもある。その基礎には、生産力の人間化の過程が潜在し、私的所有の分離・発展が対応している。また、私的所有の発展に対応して、共同体所有がその性格を変えていく。
この段階のそれぞれは、部族所有、古代的共同体所有、封建的身分的所有、に対応する。また、「序言」の中の有名な唯物史観の定式の中で、「経済的社会構成が進歩していく段階として、アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的生産様式」が挙げられているが、その初めの3段階までに対応する。
農耕労働が主要産業として基礎を与えている社会の発展段階では、所有は、共同体所有の形態を取る。その下で、これを私的所有の論理的段階として説明すれば、次のようになろう。
まず、部族所有は、私的所有のまったく存在しない形態である。これは、種族全体で、生産手段を包括的に有する土地を所有している形態であり、種族共同体所有である。
古代的所有は、共同体から媒介されて存在する私的所有であり、共同体が依然として主力であり、共同体は私的所有者の都市であり、国家である。
封建的所有は、私的所有から媒介されて存在する共同体所有であり、共同体は主力ではない。ここでは、「農耕労働からの商工労働の分離」がなされ、労働は土地から分離した形態、つまり手工業として、労働手段の特殊性と結合して身分として現われている。国家は、都市と地方をその中に含んで、身分的各種共同体を含んで、その上に成立している。
「共同体が旧来の様式そのままで存続するためには、その成員を、まえもってあたえられた客観的諸条件の下で再生産することが必要である。生産そのものと人口の増進(この増進も生産のうちにはいる)は、必然的につぎつぎにこれらの諸条件を止揚する。それらの諸条件を再生産するかわりに、破壊する、等々。また、こうして共同団体は、その存立の基礎となっていた所有諸関係とともに、消滅していくのである。」
「これらすべての形態において、あらかじめさだめられた・・・個々人の共同体にたいする関係の再生産が、しかも労働の諸条件にたいする関係においても、その共働者、種族の仲間にたいする関係においても、彼にまえもってきめられた一定の客観的定在が、この発展の基礎である。だからこの基礎は、はじめから制限されたものであり、しかもこの制限がなくなるにつれて、衰亡と消滅をあらわすのである。」
労働の対象化と再対象化によってつながった人間同士の生産関係と対応する所有関係は、人口の増加を含む生産力の増進によって、破壊されるという。つぎつぎと殻を破って発展するのではなく、消滅する可能性もあるのである。これが、弁証法的な対応関係である。
「共同団体が、その生産諸条件との一定の客観的統一における諸主体を想定し、あるいは一定の主体的定在が共同団体自体を生産諸条件として想定しているすべての形態(多かれ少なかれ自然性的であるが、同時にすべてまた歴史的過程の結果でもある)は、必然的に、制限された、原則的に制限された生産力の発展にだけ照応する。生産力の発展は、これらの形態を解体するし、その解体自体が人間の生産力の一発展なのである。」
7 部族所有とアジア的形態とはなにか
「所有の最初の形態は部族所有である。これは人々が狩猟と漁労で、牧畜で、あるいはせいぜいのところ農耕で食っているような生産の未発達な段階に対応する。・・・労働の分割はこの段階にあってはまだほとんど発展しておらず、家族の中で行われている自然発生的な分業をもっと広げる程度に限られる。それゆえに、社会的編成は家族の延長以上には出ない。すなわち家父長制的部族長、そのもとに部族員、最後に奴隷。家族の内に潜在している奴隷制は、人口と需要の増大につれ、また戦争と交易といった対外的交通の広がりにつれて、はじめて徐々に展開する。」
この部族所有は、前節の1「共同体的所有」に対応している。この形態の土台である労働については、未発達であり、労働の分割はない。だから、いまだ労働が個人に固定されていないというより、むしろ労働の配分が自然成長性の範囲内であるが、計画的になされている共同体である。社会の編成は、家族の家父長制が原理となっている。
(以下、「資本主義的生産に先行する諸形態」より)
これは、「土地所有の第一の形態」である。この段階では、労働が分割されていないので、個々の家族の利益と共同の利益の対立は原理的になく、従って国家はない。国家に相当するのは、「自然生的共同団体」である。この共同団体が、秩序維持のための各利害の調停者として役割を演じているので、「個人は実体の単に偶有性にすぎないか、または純粋に自然生的に実体の構成分子を形成しているような、実体」となって現われる。
ここでは、すべてが自然成長的に未分化のままで一体化して現われる。個別の物は、全体の一部として全体の中に埋没されて表わされており、原理的に「私的所有」は存在しない。「個々人の所有は・・・それ自身直接に共同体所有である」。「直接の共同体所有では、共同体から分離された個人の所有はなく、むしろ個人はその占有者であるにすぎない。」
ここでは、生きた労働は、労働対象、労働手段、一般的労働手段としての土地、これら客観的条件のすべてを自然から提供され、これらを所有しているのは、個人ではなく共同体である。
共同体を構成する単位は家族であるが、この「自然生的共同団体」とは、「家族、および種族の形に拡大した家族、ないしは家族間の相互の結婚により種族の形に拡大した家族、または諸種族の結合」「種族共同社会」である。つまり、自然発生的に生じた、血縁により結びついた拡大家族とみなしてよい。
「自然生的種族共同社会、または群居団体といったものが、人間の生活と自己を再生産し対象化するその活動・・との、客観的諸条件を領有する最初の前提(血統、言語、慣習などの共通性)である。大地は、労働手段や労働材料を提供し、また居住地、共同団体の基地をも提供するところの大きな仕事場であり、兵器廠である。人間は、・・・共同団体の財産である大地と素朴に関係する。個々人は、いずれも所有者または占有者としてのこの共同体の手足として、その成員として振舞うに過ぎない。」
人間同士は、労働を対象化する過程で、労働を相互に交換することによって、結びついているが、各個人の対象化する活動と生活を再生産するためには、その労働を交換するという関係の維持・保証が、前提である。各人は、牧人、狩猟者、農耕者として、それぞれ別個の活動を行っているが、自然的共同団体の中でのみ、言語、慣習などを共有することによって、各人の労働の交換が可能になる。その生産関係が血統(血縁関係)によって直接、種族共同体として表され、維持されている。
この血統、言語、慣習などの共通性によって端的に表現される共同団体が、大地の所有者である。ここでは、生活の生産における関係の重要性が、そのまま誰の目にも明らかになるような形で現れており、各人の労働の社会性が、共同体所有というあり方で直接に表面化している。「労働と言う過程を通じておこなう現実の領有は、それ自身労働の所産ではなく、労働の自然的な、もしくは天与の前提として現われるところの、こうした前提のもとでおこなわれる。」
最初は人間は「遊牧生活」を行っていたと推定される。「遊牧生活、一般に移動というものは、種族がある一定の場所に定住しないで、見つけ次第の牧草を食わせるといった生存様式の最初の形態であると想定できる」。
「遊牧民族を例にとろう。(単なる狩猟民族や漁労民族は、実際の発展のはじまる点のそとにある。)かれらにあっては、農耕の一形態である散在農耕形態があらわれる。土地所有はこれによって規定される。それは共同体所有であって・・・。」(「序説」)
つまり、完成生活手段を自然に全面的に依存している狩猟や漁労でなく、何らかの生活手段の生産をはじめるのは牧畜であり、それが共同体の出発点である。その民族の定住が、散在農耕である。個人は民族や種族と分離しておらず、そのなかに溶け込んでおり、したがって、民族全体で、土地を含めた生産手段全体を所有している。ここに、部族という共同体の所有形態が発生する。
牧畜は、牛や馬や羊など家畜を飼育しその乳製品や肉を手に入れることができる。そのために必要とされるのは、家畜の食料である牧草だけである。そこで、牧草地という広大な土地を必要とし、牧草地を求めて移動しなければならない。移動による共同団体にとっての外的環境の変化は、必然的に、内的な結びつきを生ぜしめ強化したであろう。
「移動する遊牧種族―・・・―の場合には、・・・大地は、その他の自然条件と同様に原始的な無制限状態で現われる。・・・牧畜民族はまたこの畜群によって生存する。彼らは自分の財産としての土地に関係するのであって、ただ彼らはこの財産をけっして固定化しないのである。」「移動する遊牧種族のあいだでは、その共同体は、事実上つねに結集しており、遍歴団体、隊商、群団をなし、また上位下位の等級区別の諸形態は、これら生活様式の諸条件から発展する。領有され、また再生産されるのは、事実上ここでは畜群だけであって、大地ではない。しかしこの大地は、その時々の滞留地では、暫時の間共同的に利用される。」
「種族共同社会、自然的共同団体は、土地の共同体的領有と利用との結果としてではなく、その前提として現われる。人間が結局定住するようになると、この本源的共同社会が・・・変形される・・・。」
「共同団体が自分のものとしての自然的生産諸条件―大地―(もしわれわれが定住民族のところに一足飛びをすれば)にたいするその関係行為で見出しうる唯一の制限は、自然的生産条件をすでに自分の無機的肉体として要求する他の共同体である。だから戦争とは、財産を固守するため、また財産の新規獲得のため、これらの自然的な共同団体のどれもが行うもっとも本源的な作業の一つである。」
ただ、奴隷については、状況が異なる。
「むしろ社会の一部分は、社会の他の部分自体から、他の部分に固有の再生産のたんに非有機的かつ自然的な諸条件として取り扱われる。奴隷は、自己の労働の客観的諸条件にたいしては、どのような関係ももっていない。むしろ労働自体は、奴隷の形態においても農奴の形態においても、家畜と並んで、または土地の付属物として、ひとしく生産の非有機的条件としてその他の自然物の列中におかれる。」
すなわち、奴隷は、奴隷所有者から、ちょうど生産手段のように、生産の本源的諸条件として扱われる。「それは生産者の生身が、たとえ彼自身によって再生産され、また発展させられるものであろうと、もともと彼自身によって生み出されたのではなく、彼自身の前提として現われるのとまったく同じである。彼自身の(肉体的)定在は、彼が生み出したのではないひとつの自然的前提である」からである。
「もし人間自身が、土地の有機的付属物として、土地と一緒に征服されるとすれば、人間は生産条件の一つとして一括征服されることになり、こうして奴隷制や農奴制が発生するが、これらはあらゆる共同団体の本源的形態をやがてゆがめ、また変形させ、そしてそれ自体これら共同体の基礎となる。」 「種族団体・・・を基礎とする所有の基本条件・・・は、種族によって征服された他の種族、すなわち従属させられた種族をして財産を喪失させ、そしてこの種族自身を、共同団体が自分の物として関係を結ぶ、その再生産の非有機的条件の中に投げ入れる。だから奴隷制と農奴制とは、種族団体に基づく所有が一段と発展したものにすぎない。」
「この形態は同一の共同体的基本関係を基礎としているが、それ自体きわめてさまざまな形で実現されうる」。
マルクスは、アジア的生産様式を、種族共同体所有ともいうべき本源的形態からの展開・変形として、把握している。
「大多数のアジア的基本形態の場合のように、総括的統一体は、これらすべての小さな共同体の上に立ち、上位の所有者、あるいは唯一の所有者として現われるが、そのために現実の共同体が世襲的な占有者としてのみ現われる・・・。この統一体が現実の所有者であり、・・・これら多くの現実的な特殊な共同体の上に立つ、一つの特殊な物として現われる・・・。そこでこの場合、個々の物は事実上無所有である、つまり、所有―・・・−は多くの共同体の父である専制君主に具現される総合統一体が、特殊な共同体を介して個人に委譲する結果、個人にとって間接的なものとして、現われる。剰余生産物・・・は、そのためにおのずからこの最高統一体に帰属するのである。東洋的専制主義とこの専制主義の場合に法制上存在するように見える無所有とのただなかでは、実際にはこの種族所有、または共同体所有が基礎として存在しているのであって、この所有は、多くの場合、小さな共同体内部の工業と農業との結合によって作り出され、こうしてこの小さな共同体はまったく自給自足的なものになり、また再生産と剰余生産の一切の諸条件をそれ自身の中に持っている。」
ここに、この種族共同体の経済的基礎が、端的に述べられている。種族共同体が、自給自足的であり、種族共同体内部で、生活が完結しているのである。
「アジア的形態は、必然的にもっとも頑強に、またもっとも長く維持される。そうなるわけは、個々人が共同体にたいして自立していないこと、生産の自給自足的圏域、農業と手工業との一体性等というその前提にあるのだ。」
「生産様式自体が古来のものであるほど―そしてこれは農業で長く続き、農業と工業との東洋的補完関係にあってはさらに長く続く―すなわち領有の現実的過程が旧態のままであるほど、古い所有形態、それとともに共同団体一般は、いよいよ不変である。」「東洋的形態ではこのような喪失はまったくの外部的な影響による以外にはほとんど生じ得ない。共同体の個々の成員は、彼の結びつき(共同体に対する客観的な、経済的なそれ)がそのために失われることがあるかもしれぬような共同体との自由な関係には、けっしてはいりこむことがないからである。」
「このアジア的形態の基礎となっている工業と農業の自給自足的一体性のもとでは、征服と言うことは、・・・必須の条件とはならない。他方、この形態では個々人はけっして所有者とはならず、ただ占有者となるにすぎないから、結局彼自身が、共同体の統一を具現する者の財産、奴隷である。そして、奴隷制は、ここでは労働の諸条件を止揚することもなければ、また、その本質的な関係を変化させることもない。」
「こうした個人は、占有者であるにすぎない。存在するのはただ共同体所有と私的占有だけである。この占有様式は、共同体的所有に対する関係のいかんによって、労働自体を私的占有者が孤立して行うか、それともまた労働自体を共同体が指定するか、それとも個々の共同体の上に浮かぶ統一体が指定するかによって、歴史的に、地方的に、等の点でまったくさまざまな変形をうけることになる。」
第一の変形体は、「小さな共同体は相互に独立並存して生き、そしてその共同体自身のなかでは、個人は、彼に割り当てられた分有地で家族とともに独立してはたらく」。スラブ人やルーマニア人の共同体がそれである。
第二の変形は、「統一体は労働自体の共同化にまでひろがり、これがメキシコ、とくにペルーにおいて、古代ケルト人や若干のインド種族のばあいのように、正式の一制度となることもある。」
第三の変形体は、「種属団体内部の共同性はむしろ、統一体が種族的家族の一人の首長に代表されるか、または家父長たち相互の関係として代表されるというように現れることもある。・・・アジアの諸民族の場合にきわめて重要であった用水路、交通手段等は、この場合には上位の統一体、すなわち小さな諸共同体の上に浮かぶ専制政府の事業として現われる。」
8 古代的共同体所有および都市国家とはなにか
「第2の形態は古代的共同体所有および国家所有であって、このような所有は主として契約とか征服とかによっていくつかの部族が一つの都市を形成するように統合されるところから生じ、そしてその場合には、奴隷制はあいかわらず存続する。共同体所有とならんではやくも動産的所有そしてのちにはまた不動産的私的所有が展開するが、しかしそれは変則的な、共同体的所有にたいしては従属的な形態としてである。国家公民はただ一致共同してのみ彼らの働く奴隷達に対して力を持つのであって、すでにその理由からしても共同体所有の形態に頼らざるをえなくされている。それは、奴隷を向こうにまわしてのこの自然発生的な連合形式をもつつづけることを余儀なくされている能動的国家公民達の共同の私的所有である。」「古代が都市とその小さな領域から出発した」。
ここで実際に典型例「最も開花した古代」(「序説」)として挙げられているのは、ギリシャとローマである。
この文章だけを切り離して読むと、あたかも奴隷制が古代社会の必須条件であるかのように捉えられるが、むしろ、「能動的国家公民達の共同の私的所有」という表現を重視すべきである。
注目すべきは、私的所有が、この段階で正式に登場することである。しかし、それはあくまで共同体を前提とし、共同体所有から媒介された物として、現われている。だが、私的所有がここではじめて出現したことの意義は大きい。これによって、私的所有の発展が始まるからである。そして国家は、共同体である都市と一致している。
「所有の最初の形態は古代世界においても中世においても部族所有であって、この形態をとらせた条件はローマ人の場合には主として戦争であり、ゲルマン人の場合には牧畜である。古代諸民族の場合には、一つの都市の中に幾部族かがいっしょに住んでいるので、部族所有は国家所有として現われ、そしてそれに対する個人の権利は単なるポセッシオ(占有)という形を取る。しかしこのポセッシオは部族所有が一般にそうであるようにただ土地所有にのみ限られる。」
つまり、所有とは、この段階では、土地所有の形態を取っているのである。それは、農耕を基礎としているからである。
この古代社会の主人公である構成員は、農耕者である。かれらは、定住しており、その土地を私有している。このことは、各人が固定した労働を持っており、その労働の対象化が進行して、私的所有が成立していること、つまりは、そのような生産力を保持していることを示している。彼らは一つの地域に一緒に住んで居り、その土地所有者の定住地が、都市というわけである。
この都市共同体は、彼らには必須である。なぜなら、他の共同体が戦争を仕掛けるからである。農耕者の私的所有は、それが、共同体から媒介されている。部族所有が、戦争という対外的な交通形態から要請され、それがいくつかの部族がいっしょに定住する都市において、国家所有という形態になったのである。
個々の農耕者は、労働手段、鋤や鍬を自分で作るか都市共同体の中で作り、衣類を家族の中で作る。その土地は、都市国家から与えられたものであり、その限りで私的所有である。戦争の時には、直ちに農具を剣に持ち替えて、共同で外敵と戦う。個々の農耕者は、お互いに平等の政治的権利を持っている。
しかし、私的所有は、その中で自己を拡大し、それに伴って、共同体所有を破壊していく。古代的所有は、「不動産的私的所有が発展する度合いに応じて崩れていく。」「市民と奴隷と間の階級関係はすっかり出来上がっている。」「一方においては、私的所有の集中。これはローマにおいては非常に早く始まり・・・内乱以来、そしてことに帝政下に急速に進行した。他方、これと連関して平民的小農民のプロレタリアート化。しかし、このプロレタリアートは有産市民と奴隷とのあいだの半端な地位ゆえに、独立的な発展をするにはいたらなかった。」
(以下、「資本主義的生産に先行する諸形態」より)
「第2の所有形態・・・もまた、最初の前提として共同団体を想定しているが、・・・土地をその基礎とするのではなくて、農耕者(土地所有者)の既成の定住地(中心地)としての都市を想定している。農耕地は都市の領域として現われる」。
「共同団体が出会う困難は、他の共同団体からのみ起こりうる。すなわち、他の共同団体が土地をすでに占拠しているか、でなければ占拠している共同体を脅かすかするのである。だから戦争は、それが生存の客観的諸条件を占取するためであろうと、その占守を維持し、永久化するためであろうと、必要にして重大な全体的任務であり、重大な共同的作業である。だから家族からなっている共同体は、さしあたり軍事的に編成されている―軍制および兵制として。そしてこれが共同体が所有者として生存する条件の一つなのである。住居が都市に集合するのが、この軍事組織の基礎である。」
この段階の共同体は、第一の種族共同体とは、明らかに異なっている。第一の共同体では、労働の対象化によって自然的に形成された血縁関係が、各人のつながりであった。ここでは、他の共同体からの脅威という外部因が、各人のつながりの主要な形成因となっている。これは、共同体の性格が、種族的なものから、いわば人為的なものに変化したことを示している。都市国家同士が相争っているギリシャ時代を、思い浮かべればいいだろう。この生産段階で、はじめて国家が生み出され、論理的にはじめて近代国家への第一段階が設定されたことの意義は大きい。それが、直接的には、戦争と言う外部的要因によって、形成されるということである。
「種族団体自身は、上級氏族と下級氏族とになっていくが、この差別は、征服された種族との混淆によっていっそう発展する。」この征服された種族が、奴隷の起源であろう。「共同体所有は、国有財産、公有地として、ここでは私的所有から分離されている。」
マルクスは、この後に、第一の共同体所有と第二の所有形態の違いを述べているが、これが、第一の形態から第二の形態への変形の説明となっている。
「個々人の財産が事実上共同労働―たとえば東洋における用水路のように―によってのみ利用されることがすくないほど、また歴史的な運動や移動が種属の純粋に自然生的な性格を破壊することが多いほど、またさらに、種族がその最初の居住地から遠くはなれてよその土地を占領し、従って本質的に新しい労働条件のなかに踏み込み、個人への精力がますます発展するほど―種族の共同的性格が、外部に向かってはますます消極的な統一体として現われ、またそのように現われざるを得なくなるほど―いよいよ個々人が土地―個別の分割地―の私的所有者となり、その土地の個別的耕作が彼とその家族の手に帰する条件を与えられることが多くなるのである。」
この記述から、例えば、種族のなかの一部が、新たな耕作地を求めて、又は他の種属から追い払われて、本来の種族の住む土地から離れて遠くの土地に移り住み、しだいに本来の種族共同体から性格においても離脱していく状況を、想像できる。そういう家族集団は、従来と異なった新しい耕作条件の下で労働をせねばならず、共同労働に依存できず、従って、個々人の個別的耕作に多くを依存するようになるであろうし、個々人のエネルギーを強化させるであろう。だから、従来の種族共同体の影響が及ばなくなり、その家族が耕作する土地は、必然的に、種族から彼とその家族の手に帰するようになろう。これが私的所有の始まりであり、家族の、種族からの個別化ということになろうか。こうして形成された私的所有者またはそれらの家族から新たに形成される共同体が、第二の共同体、都市国家である。
「古代諸国家の種族は、二様の仕方で、つまり、氏族または地域を基礎としていた。氏族的種族は年代的には地域的種族に先行するけれども、ほとんどいたるところで後者から駆逐される。氏族的種族のもっとも極端でもっとも厳格な形態は、カスト制度であるが、この制度では、一つのカストは他のカストから分離され、カスト相互に婚姻する権利がなく、カストの格式からしてまったくちがっており、カストはそれぞれ排他的な、不変の職業をもっている。地域種族は、もともと地方を郡や村に区分するのに対応していた。」
「共同体は、国家として、一方ではこの自由平等な私的所有者相互の関係、外部に対する彼らの結合であり、また同時に彼らの保障でもある。その限りで共同体制度は、この場合次のことに立脚している。すなわち、その構成員が労働する土地所有者、分割地農民からなると同時に、またその分割地農民の自立性が共同体成員相互の交渉によって、共同社会の必要と共同社会の名誉等のために公有地を確保することによって、なりたっているということである。この場合、土地領有のための前提はやはり共同体の成員であることだが、しかも個々人は共同体成員として、私的所有者なのである。」
共同体、すなわち、国家は「ここでは、土地に対する所有の前提となる―・・・―。しかし、この帰属関係は、彼が国家の一員であることによって媒介されており、すなわち国家の存在によって―だから神授的等々であると考えられる前提によって―媒介されている。」
個々の農民は、分割地を私的所有しているが、あくまで国家の一員として、所有が保証されているということである。それとは別に、国家は、公有地を所有している。個々の家族は、第一の形態と異なって、家族だけで自立している。第一の形態では、個々の家族の自立はなく、種族共同体としてしか、自立していないのである。つまり、自立した分割地農民家族が、古典古代のモデルであろう。 「農村を領域としてもつ都市における集合、直接的消費のために働く小規模農業、婦女子の家内副業(紡糸と機織)としての工業、ないしは、個々の部門(手工業者等)に自立しているだけの工業。共同団体を存続させる前提は、その自給自足的な農民のあいだの平等の維持と、彼らの所有を存続させる条件である自家労働とである。」工業は、農業と未だ明確に分化しておらず、農業に依存している。これが、この段階の土台である。
「本来の土地所有は、都市の城壁周辺の地方を除けば、最初は平民の掌中にだけあった。」「ローマの平民階級の本質。農業を、古代人は一致して自由人の本来の生業、兵士の学校だと考えていた。」
「他方では、この小さな軍事的共同団体の指向は、この柵をのりこえてすすむ等(ローマ、ギリシャ、ユダヤ人等)。」
実際のローマやギリシャの軍事的都市国家は、このような共同体の発展形態として把握されている。
「共同体の存続は、自給自足的農民としてのその全成員を再生産することであるが、彼らの剰余時間は戦争等々の労働として、まさに共同体に帰属する。自己の労働に対する所有は労働の条件―1フーフェの土地―に対する所有によって媒介されており、この土地は、共同体の存在によって保証されており、そして共同体はまた共同体成員の軍務等々のかたちの剰余労働によって保証されている。それは、富を生産する労働―これによって共同体成員は自分を再生産する―における協業ではなくて、内外に対して団結を維持するという(仮想的な、また、現実的な)共通の利益のための労働における協業である。」
「古典的な古代の歴史は都市の歴史であり、しかも土地所有と農業とのうえにうちたてられた都市の歴史である。」
次のゲルマン的共同体との違いからいえば「ローマの共同体は、これら(自由な土地所有者の)集会のほかに、都市自体という定在と、その都市におかれている官吏等という定在のうちに存在している。」
9 封建的身分的所有と封建的位階制(封建国家)とはなにか
「第三の形態は、封建的または身分的所有である。」この形態ではじめて、「農耕労働からの商工労働の分離」が可能となり、この形態の崩壊によって、更に完全な私的所有が可能となり、資本主義的形態へと繋がっていく。生産様式は生産力と相対的に独立しているので、この段階の生産力が、直接この生産関係を生み出したのではない。しかし、この形態は、古代的所有形態が崩壊したところで一旦採用されるや、引きつがれた生産力に発展の基礎を与える。
「中世は地方から出発した。既存の、希薄な、広い地域にちりぢりに散らばった人口は、征服者達が加わってきても大して増えはしなかった。」「それはローマの征服と、初めはそれに結びついていた農業の伝播によってお膳立てされた地域である。衰亡していくローマ帝国の最後の数世紀と蛮族そのものによる征服は大量に生産力を破壊した。農耕は衰え、工業は販路の欠如のためにすたれ、交易はとだえるか、または無理やりに断たれるかし、都鄙の人口は減っていた。当時存在していたこの状態とこれによって条件付けられた征服組織のあり方がゲルマン的兵制の影響下に封建的所有を展開させることになった。このものもまた、・・・一つの共同体に基づくものではあるが、しかし、この共同体に対して生産に直接携わる階級として対峙するのは、・・・隷属的な小農民である。・・・土地所有の位階性的編成とこれにつながる武装した家臣団は貴族に、農奴を支配する力を与えた。この封建的編成は、・・・生産者である被支配階級を向こうにまわしての一つの連合であった。」
整理すると、まず、ローマの征服によって広大な地域に農業が伝播し、散らばった農業が営まれていた。そこでは征服民族が「旧来の生産様式をそのまま存続させて貢納で満足」(「序説」)していた。そこへ新たな征服民族がやってくる。「農奴を使う農耕が伝来の生産であり、田園の孤立した生活が伝来の生活であったゲルマンの野蛮人は、ローマ諸州でみられた土地所有の集積が古い農業関係をすでにまったくくつがえしていたために、それだけたやすくこれらの諸州をそういう条件にしたがわせることができたのである。」(「序説」)
ゲルマン征服民族の伝来の農耕のあり方とそれに対応していたローマの征服地における土地所有のあり方に対して、ゲルマン的兵制が浸透して、封建的な位階性的編成を生じた。
「封建制は、・・・征服そのものが行われていた間の軍隊の戦時編成に征服者の側からの起源を持っていたのであって、征服後この編成が、征服された諸地域にすでに存在していた生産力の影響を受けてはじめて本来の封建制へ発展したのである。」
このゲルマン的土地所有に基づく農耕は、古代より、より生産力が上がっており、各農耕者はより自立した自給自足的な単位となっていた。従って、共同体は、個々の私的所有から媒介されて成立していた。それが、封建制に基礎を提供したのである。
中世の都市は、古代の都市と異なって、手工業者の都市であった。そこでは、手工業者は、労働手段と固く結びついた職人であった。
「物質的労働と精神的労働という最大の対立は都市と地方の分離である。」「都市はすでに人口、生産用具、資本、享楽、必要物の集中の事実を示しているのに対して、地方はその正反対の事実、離隔と孤立をまざまざと表している。」つまり、都市は、生産用具や消費の集中、精神労働の集中を表している。「都市と地方の分離はまた資本と土地所有の分離としてもとらえることができるのであって、資本−すなわち単に労働と交換のうちにのみ土台を持つような所有−が土地所有とは独立に存在し展開していく発端とも解しうる。」
「土地所有のこの封建的編成に都市においては組合的所有が対応した。これは手工業の封建的組織なのである。所有はここでは各個人の労働に存した。・・・全国土の封建的編成は同職組合を生じさせた。個々の手工業者達が徐々にささやかな資本をためこんで行ったことと、人口の増加にかかわらず彼らの数が固定していたこととが職人徒弟関係を繰り広げさせることとなった。そしてこの関係は都市においても地方におけるのと似たような位階制を生じさせた。」
「中世において、往古から既成の形で伝わった都市ではなく、自由になった農奴達で新しく出来たような都市においては、各人独自の労働が彼の唯一の財産だったのであって、それ以外にはわずかに彼が携えてきたささやかな資本−必要不可欠な手道具類がそのおもなもの−があるのみであった。どんどんと都市へはいりこんでくる逃亡した農奴たちの競争、・・・手工業者が同時に商人というような時代では・・・・これらのものが、それぞれの手工業の労働者達が同職組合に結束した原因であった。」
「これらの都市は、財産保護の手を講じるという直接の必要から、そして個々の成員達の生産手段と防衛手段を増強するために生まれた本当の「結社」であった。」「職人と徒弟は、それぞれの手工業の中で親方の利益にもっともかなうように組織されていた。彼らと彼らの親方との間の家父長的な間柄は親方に二重の力を与えた。すなわち、一方では職人達の全生活をじかに左右するという点でそうだし、次にはまたそのような家父長的な間柄は、同じ親方のもとで働く職人達にとって、彼らを爾余の親方達の職人に対して結束させ、彼らをこれらの職人から分け隔てる一本の現実的なきずなであったからである。そして最後に、職人達は自身が親方になるという彼らのもっていた利益からしても現在の秩序に結びつけられていた。」
「労働の分割は諸都市にあっては個々の同職組合の間でまだまったく自然発生的であったし、そして同職組合そのものの中では個々の労働者達の間で全然行われていなかった。一人びとりの労働者は一定範囲の諸労働の全般に通じていなければならず、彼の諸道具でもって作りうるはずのものならどんなものをでも作りえなければならなかった。限られた交通、個々の都市相互間のわずかな結びつき、人口の不足と需要の乏しさのために労働の分割はそれ以上には進みえず、そのため親方になろうとする者はだれでも彼の仕事をすみずみまでこなせるのでなければならなかった。」「これらの都市における資本は、住居、手道具、および自然発生的な代々受け継がれうる得意先からなるような自然発生的な資本だったのであって・・・所有者の特定の労働とじかにつながった、それとはまったく切っても切れぬ、そしてその限りで身分的な、資本であった。」
土地所有の封建的編成は、手工業にも浸透する。「・・・中世にみられるように都市とその諸関係においても農村の組織を真似ている。中世においては、資本そのものが、・・・伝統的な手工業用具等々としてこうした土地所有的性格を帯びていた。」(「序説」)
「封建時代の間、主要な所有は一方においては土地所有プラスそれにつなぎとめられた農奴労働、他方においては自身の労働に職人達の労働を牛耳るささやかな資本をプラスしたものに存した。両者の編成は限られた生産関係―僅少で粗野な耕作と手工業的工業―によって条件付けられていた。」
封建社会での私的所有は、古代のように、共同所有に媒介された私的所有とは、異なっている。制限され固定的とはいえ、農耕労働と商工労働は分離しており、ただそれ以上の内部的分離はなされていない。手工業は、労働手段と密接に結びついている。この労働の分割の状態が、それぞれの共同体所有を媒介しているのである。
「農耕においては労働の分割は細分された耕作のために難しくされ、そしてそのような耕作と並んで農民達自身の家内工業が台頭したし、工業においては労働は個々の手工業そのものの内にあっては全然分割されておらず、諸々の手工業同士の間にごくわずかに分割が見られた程度である。」
「比較的大きな諸地域の封建的王国への統合は、土地貴族にとっても都市にとっても一つの必要事であった。それゆえ支配階級である貴族の組織はどこでも一人の君主を頭にいただいた。」つまり、土地貴族の支配する農村と、同職組合の支配する都市とのを併せ持つ封建王国が、国家として現われているわけである。
以上が、ブルジョア的生産様式を除く生産様式の、唯物史観的な把握である。
(以下、「資本主義的生産に先行する諸形態」より)
「中世(ゲルマン時代)は、歴史の場面としての農村から出発し、この歴史のその後の発展は、やがて都市と農村との対立という、かたちで進行する。近代の歴史は、古代人のばあいのような都市の農村化ではなく、農村の都市化である。」
「個々の家族長が遠い道のりでへだてられた森林のなかに定着していたゲルマン人の場合には、共同体は、よしんばその即時的に存在する統一が血統、言語、共通の過去と歴史、等のなかにあるとしても、外見しただけでわかるように、共同体成員のその時々の連合によってのみ存在するにすぎない。したがって共同体は、連合体としてではなく連合として現われ、統一体としてではなく、土地所有からなる自立的主体の統一として現われる。だから共同体は、古代人の場合のように、国家、国家組織としては事実上存在しない。なぜなら、共同体が都市として存在しないからである。」
「ゲルマン人にあっても、個人の財産とは別に、公有地、共同体用地、すなわち人民の共有地がある。それは、狩猟地、牧草地、伐採地等であって、もしこうした一定の形態でその共有地を生産手段として役立てねばならないとすれば、分割することのできない土地部分である。」「公有地は、ゲルマン人の場合には、むしろ個人的所有の補充としてのみ現われ、そしてその公有地は一種族の共同的占有物として、敵対種族に対して守られねばならぬかぎりで、所有の形をとるにすぎない。」「むしろ共同体と共同体所有と言う定在こそ媒介されたものとして、すなわち自立の諸主体相互の関係として現われる。経済整体は、基本的に各個人の家の中にあり、この家が対自的に一個の自立的な生産の中心をなしている。(工業はまったく婦人の家内副業としてある、等)。」
「古代的世界にあっては、農村共有地をもつ都市が経済整体となっているが、ゲルマン的世界にあっては、個々の住居こそ、この経済整体である。この住居自体は、付属する土地の中の点として現われるにすぎないが、多数の所有者の集合体ではなく、自立的単位としての家族である。」「ゲルマン的形態では、農民は・・・その基礎は、孤立した、自立的な家族の住居であり、それは同じ種族のほかのこの様な家族住居との同盟と、このような相互保証のための随時にひらかれる、戦争、宗教、法律的調停等に関する集会とによって保証されている。」「共同体は、これらの個人的土地所有者そのものの相互の交渉のうえにだけ存在する。そのものとしての共同体所有は、個人の世襲住居と個人の土地領有に対する共通の付属物としてのみ現われる。」「むしろ一面では、共同体が即時的に言語や血統等の共通性として、個人的所有者の前提をなしている。しかしその共同体は、他面では、ただ共通の目的のためにするその現実の集会のかたちでだけ存在しており、共同体が共同的に利用される狩猟地、牧草地等のかたちの特殊な経済的存在をもつかぎり、その共同体は、・・・各個人的所有者そのものによって、そのように利用されるのである。」
この段階の単位としての家族は、第二の形態より、より一層自立している。共同体は、この家族の内部的な関係、すなわち各個人の生産に対する共同の土地使用という関係から、媒介されている。
これまで論じたのは、「土地所有と農業とが経済制度の基礎」である場合であった。これに対し、封建時代には、同職組合制度が都市に成立する。
「労働者のこの用具所有は、手仕事としての工業労働の特殊の一発展形態を想定する。これと結びついているのはツンフト=同職組合制度等である。・・・この場合労働自体は、まだなかば技芸的であり、なかば自己目的である、等。親方制。資本家自身はまだ親方である。労働の特殊な熟練とともに用具の占有もまた保証されている、等々。それから、いわば労働様式なるものの世襲制が、労働組織と労働用具とともに保証されている。中世の都市制度、労働はなお彼自身の労働である。一面的能力の一定の自足的発展、等。」
「第二に、用具に対する所有、すなわち労働者が自分のものとして用具に関係する場合・・・(・・・)、所有者としての労働者ないしは労働する所有者というこの形態が、土地所有と並んで、また、土地所有の外部に、すでに自立的形態として措定されている場合−労働の手工業的また都市的発展−・・・−したがって原材料や生活資料もまた手工業者の所有としてはじめて媒介され、彼の手工によって媒介され、用具に対する彼の所有によって媒介されている−こうした場合については、第二の歴史的段階が第一の歴史的段階と並んで、また、その外部に、すでに前提となっているのである。すでにこの第一段階自体、この第二種の所有すなわち労働する所有者の自立化によって、いちじるしく変形されて現れざるをえない。用具自体がすでに労働の生産物であり、したがって所有を構成する要素はすでに労働を通じて措定されたものとしてあるから、共同団体はここでは、もはや第一の場合・・・のように、自然的な形態をとって現れることはできず、むしろそれ自身すでに生産された、できあがってきた、二次的な、労働者自身によってすでに生産された共同団体として現れる。」「ツンフト=同職組合制度の本質的性格、技能の主体としての、所有者を構成するものとしての手工業的労働の本質的性格は・・・生産用具−所有としての労働用具−にたいする関係行為にきせられるべきものである。生産諸条件の中のこの一契機にたいする関係行為が、労働する主体を所有者として構成し、所有者を労働する所有者とすること、この歴史的状態第二号、この状態はその本性上第一号の歴史的状態の対立物としてだけ、あるいは同時に、変形された第一の状態の補完としてだけ存在しうるのであるが・・・。」
ここで「歴史的状態第一号」とは、「労働する個人は、最善の場合には、労働者として土地に関係するだけでなく、土地の所有者として、労働する主体である自分自身に関係する。土地所有は、潜在的には原材料の所有も、原初用具たる大地自体の所有も、またその土地に自生する果実の所有も含んでいる。もっとも本源的な形態での措定では、土地所有とは、持ち主として大地に関係すること、大地のなかに原材料、用具、および労働によらずして大地そのものによってつくられた生活資料をみいだすということである。」
自然と人間の対立という構図で見れば、歴史的状態第一号というのは、改変されていない自然と素朴な人間との対立である。歴史的状態第二号とは、改変され人間化された労働手段と、それと密接に結びついた特殊化された人間との対立である。労働手段の生産もその中に含んだ農業労働から、農具を生産する労働が分離し自立化している過程ともいえるだろう。当然、本来の農業と手工業との相互関係が、新たにつくりだされているわけである。
その違いが、その労働を保証する共同体の違いに反映している。この後者の労働が、前者の労働と共存する社会が、ゲルマン的な封建的な制度に対応しているのである。
共通するのは、「彼が生産者として・・・生活するのに必要な消費手段を、生産のまえに占有しているということである。」
10 意識の生産とはなにか
唯物論では、人間の認識は外部の世界の反映であり、像であると考える。人間の脳は、この像を担っている特殊な物質(実体)であり、外部の世界は、反映像の内容を形成する実体である。しっかりと押さえておかねばならないのは、像の内容は、外部の世界から媒介されて成立するものであるから、実体概念ではなく、関係概念で把握すべきことである。(ヘーゲルの観念論では、認識を、関係概念としてでなく、実体概念として把握する。)
この原則は、個々の人間の認識においてだけでなく、社会的な認識においても貫かれる。
「諸観念、諸表象の生産、意識の生産はさしあたりはじかに人間達の物質的活動と物質的交通−現実的生活の言葉―のうちへ編みこまれている。人間達の表象作用や思惟作用、彼らの精神的交通はここではまだ彼らの物質的振る舞いの直接的流出として現われる。一民族の政治、法、道徳、宗教、形而上学等々の言葉のうちに現われるような精神的生産についても同じことが言える。人間たちが彼らの諸表象、諸観念等々の生産者であるが、しかしこの場合、人間たちというのは彼らの生産力とこれに照応する交通とのある特定の発展によって、交通のいちばん果ての諸形態にいたるまで条件づけられているような、現実的な、はたらく人間たちのことである。」
「現実に活動している人間達から出発して彼らの現実的な生活過程からこの生活過程のイデオロギー的反映と反響の展開をも明らかにするということである。人間達の模糊たる諸観念といえども、彼らの物質的な、経験的に確かめうる、そして物質的諸前提に結びついた生活過程の必然的昇華物である。」
「この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形作っており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。」(「序言」)
「物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。」(「序言」)
人間は物質的な生活と同時に、精神的な生活も行っている。唯物史観では、物質的生活過程の方を根本的なものと考え、精神的生活過程は、それを反映している(媒介されて成立する)と考える。
しかし、人間の精神は、単に、受動的な性格を持つだけではなく、能動的な性格も併せ持つ。物質的生活の生産において、人間を対象的活動を行う存在として把握したが、これは精神の側面においても言えることである。人間は精神のレベルでも、対象的活動を行う。つまり、精神を対象化し、精神的領域において、あたかも外部に存在するかのように、固定化する。このことはすべて、個人的精神だけでなく、社会的精神についても妥当する。すでに、この例を、他の箇所で示しておいた。
人間の精神のレベルの対象的活動には、もう一つの側面がある。それは、言語表現である。
人は宇宙人のようにテレパシー能力を持っていないので、他人とコミュニケーションをとろうとする場合、直接、意識や思考を交換することができない。そこで、まず、精神を対象化し、物質化する。精神の像を作り出し、物質(実体)に像を担わせ、その物質を交換することによって、コミュニケーションを取る。
「「精神」には物質が「憑き物」だという呪いがそもそもの初めから負わされている。そして、物質はここでは動く空気層、音、約言すれば言語の形式において現われる。言語は意識と同じほど古い。言語は実践的な意識であり、他の人間達に対しても現存するところの、従って私自身にとってもそれでこそはじめて現存するところの、現実的な意識であり、そして言語は意識と同じく他の人間達との交通の必要、必須ということから成立する。」
意識や認識を表現するためには、物質に対象化し、物質の形式を変化させて、物質に精神を担わせる形式を創造しなければならない。空気の振動を利用する音声として、羊皮紙やパピルスや石版や粘土板の表面を利用する文字として、物質化したものが、言語表現である。
言葉は、人間同士の精神的交通の必要性から生ずる。人間同士の精神的交通の必要性は、物質的生活の交通の必要性に対応している。共同体に同じ言語が使われることによって、猟師は自分の獲物を漁師の獲物である魚と交換したいという自分の意志を表現でき、漁師はその言語によって表現された意志を受け取って自分の認識の中で理解し、魚を提供することができる。このように、精神的な交通の必要性は、物質的な生活の生産に基礎付けられていると考えるのである。
「人間は、鏡を持ってこの世にうまれてくるのでもなければ、私は私であるという、フィヒテ流の哲学者としてうまれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。」(「資本論」)人間の精神は、対象的に表現されてはじめて、自分にとっての本当の理解が可能になる。
人間は物質的な生活の中で、生産物を交換することによって、活動を交換することによって、お互い同士の生活を生産する。こうした人間同士の相互浸透の構造の存在が、社会的という意味である。このことは、精神的生活についても妥当する。人は、人と直接話し合い、また、他人の手紙やメイルや他人の書いた本を読むことによって、間接的にも精神的な交わりを結び、こうしてはじめて社会的な精神が育てられる。「諸個人はたしかに身体的にも精神的にも相互に作りあう」。
人間同士が、物質的にも精神的にも、媒介関係に置かれるということは、人間が動物と異なって、一般性を獲得するように進化したということの証明である。
「なんらかの間柄が現存する場合、それは私にとって現存するのであり、動物はなにものにたいしてもなんらかの「間柄を持つ」ということがないし、そもそも「間柄というものをもつ」ような主体では全然ない。動物にとっては他のものに対する間柄は間柄としては現存しない。従って意識はそもそものはじめからすでに一つの社会的産物なのであり、およそ人間たちが存在する限り、社会的産物であることをやめない。」
「意識は当然まずはじめは、最も身近な感性的環境に関する意識、および意識的になりつつある個人の外に在るところの他の人間や事物との限られたつながりの意識であるにすぎない。同時にそれは、人間達にはじめは一つのとことんまで疎遠で全能で不可侵な力―・・・−そういう力として立ち向かってくるところの自然についての意識であり、したがって自然に対する一つの純粋に動物的な意識である。(自然宗教)」
宗教については、エンゲルスが「フォイエルバッハ論」「4弁証法的唯物論と史的唯物論」の中で論じているので、それを参照してほしい。
「労働の分割は、物質的労働と精神的労働の分割が現われて来る瞬間からはじめて現実的に分割となる。」「この瞬間から意識は世界から脱して「純粋な」観想、神学、哲学、道徳等々の形成へ移っていくことができる。」
「これら三つの契機、すなわち生産力、社会的状態および意識は、相互の間で矛盾におちいりうるし、また陥らざるを得ないということである。なぜなら、精神的活動と物質的活動、もっというならば、享受と労働、生産と消費が別々の諸個人となる可能性、いや現実性が労働の分割とともに存在するからであり・・・。「お化け」「きずな」「より高次の存在者」「概念」「疑倶」が、外見上孤立しているかにみえるところの個人の観念論的僧侶的表現、そのような個人の表象にすぎないこと、生の生産様式とそれにつながる交通形態との動きを枠付けているはなはだ経験的な桎梏と制限についての表象にすぎない・・・」。
僧侶などのように、自分自身は物質的生産を行わず消費だけを行い、専ら精神的活動のみを専門とする人間、イデオローグの出現は、労働の分割、すなわち、社会的分業の一つのあり方である。その結果、神学等々が、成立する。労働の分割によって彼らの存在基盤ができるということは、その社会が、彼らを生かしておくための剰余生産物が生み出されるような生産段階に至ったことを意味している。  
 

 

11 支配階級と支配的思想
「支配的階級の思想はいずれの時代においても支配的思想である。ということは、社会の支配的物質的力であるところの階級は同時に社会の支配的精神的力であるということである。物質的生産のための手段を意のままにしうる階級はそれと同時に精神的生産のための手段を自由に操ることができるのであるから、そのためにまた概していえば、精神的生産のための手段を欠く人々の思想は支配階級の思い通りにされる状態におかれている。支配的思想は支配的な物質的諸関係の観念的表現、思想の形を取った支配的な物質的諸関係以上のなにものでもない。」
「労働の分割は、この場合、支配階級の中にあっても精神的労働と物質的労働の分割として現われ、したがってこの階級の内部で一方の部分はこの階級の思想家(この階級のそれ自身に関する幻想の形式を主な口過ぎ仕事とするこの階級の積極的、構想的イデオローグ達)として登場するのに対し、爾余の人々はこれらの思想と幻想に比較的受身で受容的な態度を取る。というのは、この人々は現実においてこの階級の活動的な成員達であって、自分たち自身に関する幻想と思想を自分達につくるための暇がほとんどないからである。」
この説明は、補足的な解説がいらないほど、明確で論理的である。支配的階級は、物質的生産において支配的な経済的権力であり、同時に、支配的階級の中に、精神的生活に従事する成員を生じ、彼らを通じ政治的権力としても自らを組織すると共に、自らの支配階級の思想をも生産し、それを支配的思想としてその時代に流布する。その思想内容は、支配的な物質的諸関係の表現である。
「ところで、歴史的経過の理解にさいして支配階級の思想を支配階級から切り離し、それを独立化し、ある時代にはしかじかの思想が支配したというところにとどまるだけで、これらの思想の生産の諸条件とこれらの思想の生産者たちのことは気にも留めず、そのようにして思想の根底にある諸個人と世の中の状態を度外視するならば、たとえば貴族制の支配した時代のあいだには、名誉、忠誠等々の観念が支配したのに対し、ブルジョアジーの支配のあいだは、自由、平等等等の観念が支配したなどと言えることになる。支配階級自身が概してそう思い込む。・・・18世紀以来、共通なこの歴史観は、ますます抽象的な思想、すなわちますます普遍性の形式をとる思想が支配するという現象にいやおうなしにぶつからざるをえないだろう。なぜなら、従前の支配階級にとってかわるそれぞれの新しい階級はその目的を遂行するためだけにでも、その利益を社会の全成員の共通の利益としてあらわしてみせること、つまり観念的に言うなら、その思想に普遍性の形式を与え、それを唯一の合理的な、普遍妥当的な指導としてあらわしてみせることを余儀なくされているからである」。
マルクスらは、ここに、最終的にヘーゲルによって表現された「歴史哲学」、壮大な歴史観が生まれる根拠を見出している。
「支配的な諸思想が支配的な諸個人から、そしてことに、生産様式のある特定の段階より生じる諸関係から、切り離され、そうしてその結果、歴史の中ではつねに思想が支配するという結論がいったん成立したとなると、あとはきわめてやすやすとこれらのさまざまな思想から「思想そのもの」、理念そのもの等々が歴史のなかの支配的なものとして引き出され、こうしてあらゆるこれらの思想と概念が、歴史の中でそれ自身を展開する概念そのもののもろもろの「自己規定」としてとらえられることになる。・・・思弁哲学がやったのはこのことである。ヘーゲルは自身、「歴史哲学」の終わりのところで、自分は「概念の進行だけを考察し」歴史の中で「ほんとうの神義論」を叙述したと述べている」。
12 中世から近代へ、商業とマニュファクチュアの発展
近代にはいると、「工業労働からの商業労働の分離」が始まり、商業が工業に浸透し、工業を商業的に包み込む(商業と工業の相互浸透)。また、労働は、労働手段からも分離されて、自由な労働となり、賃労働として、出現する。私的所有からいえば、最後の段階であり、完成形態である。また、ここでは、見かけの上では共同体は消滅しているが、共同体は、労働手段の共同として現われ、工場などとしてその姿を変えている。一方、国家は、階級を含む国家として、現れている。
商業が分離(分割)し、それによって、諸都市が相互に浸透を始める。ここに市民階級、すなわちブルジョアジーが形成される。
「労働の分割が広がっていった次の段階は生産と交易の分離、商人という特別な階級の形成だったのであって、・・・。
一つの特別な階級の仕事として交易が行われるようになり、商業が商人によって都市周辺の近接地域以上に広がるようになると、またたくまに生産と交易の相互作用が始まる。諸都市はお互いに結ばれあうようになり、新しい道具が一方の都市から他方の都市へ持ち込まれ、そして生産と交易の分割は個々の諸都市の間にたちまち生産の新しい分割を生み出し、それぞれの都市はまもなくなんらかの有力な工業部門を開発していく。地域地域に限られていた初めの状態はしだいに溶け始める。
各都市の市民は、中世においてはわが身を守るために地方貴族を向こうにまわして団結せざるを得なかった。商業の拡大、通信の整備は、個々の都市をして同じ要求を同じ相手と戦って貫徹していた他の諸都市を知るに至らしめた。個々の諸都市の地域的市民集団が多数相寄っていつのまにかだんだん市民階級が成立してきた。」
「ブルジョアジーそのものはやっと彼らの諸条件とともにしだいに発達し、労働の分割に応じてまたぞろさまざまな分派に割れ、そしてつどのつまりは、あらゆる既存の所有が工業資本か商業資本に変えられていくに応じて、あらゆる既存の所有階級を自身のうちへ吸収する。」
交易と生産の相互作用から、新たな生産様式であるマニュファクチュアが生まれてくる。これが近代工業への過渡的段階である。
「さまざまな都市の間に労働が分けられるようになったその直接の結果として、同職組合制度の枠内におさまらないほどに成長した生産部門としてマニュファクチュアが発生した。」「なんらかの機械を、たといどれほどお粗末な形においてであろうと、そもそもの始めから前提とするような労働が最も発展性のあるものであることがたちまち明らかになった。それまで地方で農民達が自分達に必要な衣服をととのえるために片手間にやっていた機織仕事は、交通の広がりに刺激されていっそう完成してものになっていった最初の労働であった。機織は最初のマニュファクチュアであった・・・一つの新しい織り人階級が諸都市に台頭し、そしてこの人たちの織物は国内の全市場を目当てにしていたと同時にたいていはまた国外市場向けのものでもあった。
機織は概してほとんど技量を要せず、無数の部門に細分されることも容易な労働であったので、その性質全体からして同職組合の桎梏とは相容れなかった。それゆえまた、機織はたいていは村や市場町において同職組合的組織なしに営まれたが、これらの村や市場町はしだいに都市に、しかもまたたくまにそれぞれの国の最も繁盛する都市になった。」
マニュファクチュアは、近代的な資本と労働を生み出す。
「自然発生的身分的資本を越えていく第一歩は、商人の台頭によって踏み出されていた。彼らの資本はそもそものはじめから可動的であり、当時としてはそれなりに現代的な意味での資本だったからである。前進の第二歩はマニュファクチュアとともに踏み出された。マニュファクチャアはマニュファクチャアでまた相当量の自然発生的資本を可動化し、総じて可動的資本の量を自然発生的資本のそれにくらべてふやしたのだからである。」
「マニュファクチュアの開始と時を同じうしたのは浮浪者群の時代であった。これは封建的家臣団の終息、領民を向こうに回して国王に仕えていた参集した軍勢の解散によってひきおこされ、農業の改良と広い耕地の牧場化に誘発されて生じた。このことからも明らかなとおり、この浮浪者群は封建制の解体と切っても切れぬ関係にある。・・・普遍的かつ持続的にこの浮浪者群が現れるのはやっと15世紀の終わり、16世紀のはじめである。・・・彼らはいずれは働くところまでもっていかれはしたが・・・。マニュファクチュアの、ことにイギリスにおける急速な繁栄が彼らをしだいに吸収していった。」
「マニュファクチュアとともに、働く者と雇い主との間柄が変わっていった。同職組合においては職人と親方との間に家父長制的な間柄が存続したのに、マニュファクチュアにおいてはそれに労働者と資本家とのあいだの金銭関係が取って代わった。」
マニュファクチュアは、封建的生産関係(その所有形態)とは敵対的な関係にある。その経済権力は、封建的経済権力としての同職組合とは相容れない。マニュファクチュアが、古い生産関係(所有関係)を崩していく。
マニュファクチュアは、また、交通と交易に反作用する。
「マニュファクチュアおよび一般に生産の運動は、アメリカと東インド航路の発見とともに始まった交通の広がりによって巨大な躍進をなすに至った。アメリカと東インドから輸入された新しい産物の数々、ことに大量の金と銀、・・・探検旅行、殖民、・・・市場の、世界市場への拡大は歴史的発展の一つの新しい局面をもたらした・・・。」
「商業とマニュファクチュアは大ブルジョアジーをつくり、同職組合のなかには、小市民層が集中した。この層はいまではもう以前のように都市において支配的な地位をもつということはなく、かえって大商人とマニュファクチュア業者の支配に屈せざるをえなかった。」
諸国家間の交易関係は、まず始めは、金銀の輸出の禁止、同職組合的特権の全国化、関税の創設、次の時期は、航海条例、植民地独占によって特徴付けられる。
「マニュファクチュアは一般に保護なしではやってゆけなかった。というのは、それは他の国々で起こるごくわずかな変化によってでもその市場を失ってつぶれることがありうるからである。それは或る国にやや好都合な条件があれば取り入れられやすいが、それだけにまたつぶされやすくもある。同時にまたそれは、その営まれ方、ことに18世紀における地方でのその営まれ方を通じて非常に多くの人々の生活事情と切っても切れない関係を持つまでになってきたため、どこの国でも自由競争を認めることによってあえて多衆の生存を危機に瀕せしめるわけにはいかない。それゆえマニュファクチュアは、それが輸出を行えるところまでいっている限りでは、ピンからキリまで貿易の拡大もしくは制限に依存し、逆にそれが貿易に反作用を及ぼすことは比較的ごくわずかである。」
この発展段階では、マニュファクチュアより商業の力の方が、優位に在る。つまり、マニュファクチュアは、封建体制を崩したが、新たなそれに固有の交通関係を全面的に発展させるには不十分であった。そして、今度は、商業が、新たな生産力「大工業」を生み出す。
13 近代の大工業とプロレタリアの出現
「17世紀に商業とマニュファクチュアがイギリス一国へ絶え間なく集中していったために、この国にとって次第に一つの相対的世界市場ができあがり、それとともに、この国のマニュファクチュア製品に対する需要が生じたが、この需要は、それまでの工業生産力によってはもはや満たされえなかった。生産力をしのぐこの需要が原動力・・・のおかげで大工場―工業目的への自然力の使用、機械装置およびとことんまで広げられた分業―が生み出されたのだからである。この新しい局面の爾余の諸条件―国内での競争の自由、理論力学の仕上げ(・・・)等々−はイギリスにすでに存在した。・・・大工業はこの保護策にもかかわらず競争を一般化し(・・・)、通信手段と現代的世界市場をつくりだし、商業を支配下に置き、あらゆる資本を工業資本に変え、このようにして諸資本の迅速な流通(貨幣制度の完成)と集中とを生み出した。・・・それはどの文明国をも、またその中のどの諸個人をも、彼の必要物の充足という点で全世界に依存させ、個々の国々の従来の自然発生的排他性をぶち壊した。」
「(それの第一の前提は)オートメーションの仕組である。(それの発展は)大量の生産力を生み出したが、この生産力にとっては私的所有が一つの桎梏となった。・・・これらの生産力は私的所有のもとでは一面的な発展しかすることができず、大多数にとっては破壊力になるのであり、そしてそのような力の相当量は私的所有においてはまったく宝の持ち腐れに終わらざるを得ない。大工業は社会の諸階級の間に概してどこでも同じ関係を生み出し、このことによって個々の国柄の特殊性をなくした。そしてとどのつまりは、各国のブルジョアジーはまだ別々な国民的利害関係を持ち続けているのに、大工業は、国を異にしても利害を一つにし国籍というものをもうもたなくなっているような一つの階級・・・を生み出した。」「大工業によって生み出されたプロレタリアがこの運動の先頭に立って全大衆をひきずっていく」。
「この現代的所有に対応するのが現代的国家であって、この国家は税を通じて次第に私的所有者たちに買い取られ、国債制度を通じてすっかり彼らの掌中に落ち、そしてその存在は取引所での国債証券の騰落というかたちで、私的所有者であるブルジョアが国家に与える商業信用のいかんにすべてかかることになった。ブルジョアジーは、それが階級であってもはや身分ではないという理由からしても、いやおうなしに、もはや地域的ではなく全国的な規模で組織されざるを得ず、それの平均利益になにか普遍的な形態を与えざるを得ない。・・・国家は、・・・ブルジョアが対外的にも対内的にもその所有とその利益を相互に保障しあうためにどうしてももつことにならざるを得ない組織の形態にすぎぬ。」
「第一に生産力は諸個人から全く独立の、そして彼らからすっかりもぎはなされたものとして、諸個人と並ぶ一つの独自な世界として現われる。なぜそうなるのかといえば、それは生産力である諸個人の力はただ彼らの交通と連結の中でのみ現実的な力であるのに、その彼らがばらばらに、そしてお互いに対立した形で存在しているからである。かくて一方側に生産力の或る全体が存在し、このものはいわば一つの物的な姿をとってきていて、・・・。今一方の側にはこの生産力に対立して大多数の個人がいる。これらの人々は生産力をその手からもぎはなされており、・・・抽象的な諸個人となっているのであるが、しかしまさにそのためにこそ、彼らは個人として結ばれあうことができる立場におかれるのである。」
「したがって今や諸個人が、存在する生産力の全体をわがものとして占有しなければならないところまできた。・・・この占有は占有さるべき対象によってまず条件つけられている。ところでこの場合、占有さるべき対象というのは、一つのまとまった全体にまで伸びてきた生産力、そして一つの普遍的交通の枠内でのみ現存する生産力である。・・・こうした力の占有はそれ自体、物質的生産用具に適合した個々の諸能力の展開にほかならない。この理由からしても、生産用具の或る全体を占有することは諸個人そのもののうちなる諸能力の或る全体を展開するということである。・・・ただあらゆる自己表出から完全に締め出されている現在のプロレタリアだけが彼らの完璧な、もはや限られたものでない自己表出を成就しうる立場にある。」
「あらゆる従来の占有の場合には一群の諸個人がただ一つだけの生産用具の下へ服属せしめられたままであったが、プロレタリアの占有の場合には一群の生産用具が各個人のもとへ服属せしめられ、そして所有は万人のもとへ服属せしめられなければならない。」
「さらにまた占有は、それが遂行されねばならない様式によって条件づけられている。それが遂行されうる道はただ団結と革命のみであるが、しかし、この場合の団結はプロレタリアートの性格からしてそれ自身また一つの普遍的な団結たらざるをえないし、また革命は、一方では従来の生産様式や交通様式や社会的編成などの力を覆すような革命であるとともに、他方ではその革命の中でプロレタリアートの普遍的性格が伸ばされ、占有の徹底的遂行に必要なエネルギーが展開され、さらにプロレタリアートがその従来の社会的地位からしてまだその身につけたままでいるいっさいのものをみずから剥ぎおとす、そういう性のものたらざるをえない。」「団結した諸個人による全生産力の占有と共に私的所有はやむ。」
14 唯物史観と共産主義
「かくてわれわれの見方によれば、歴史上のあらゆる衝突はその源を生産力と交通形態のあいだの矛盾のうちにもっている。」「矛盾がまだ出てきていないあいだは、諸個人が交通しあう諸条件は彼らの個人性にとって当然なくてはかなわぬ条件であり、彼らにとってなんら外的なものであるのではなく、・・・彼らの物質的生活とそれにつながるものを生産しうるのであり、・・・彼らの自己表出の条件であり・・・」「生産力と交通形態とのこの矛盾は、・・・それは歴史の基礎を危うくするほどではなかったにせよ、それでもそのたびごとに革命となって炸裂せざるをえず、そのさい同時にその矛盾はあるいは諸衝突の総体として、さまざまな階級の衝突として、意識の矛盾、思想闘争等々、政治闘争等々として、さまざまな副形態をとった。」
ここで再度「交通形態」の意味を確認しておく。
「あらゆる従来の歴史的段階上に存在するところの生産力によって条件づけられているとともに、また、これらの生産力を条件付けもするところの交通形態は市民社会であり・・・この市民社会があらゆる歴史のほんとうの竈であり、現場であるということであり、・・・」
「市民社会は、生産力のある特定の発展段階の内部における諸個人の物質的交通の全体を包括する。それは一つの段階の商業的および工業的生活の全体を包括するのであって、その限りそれは、なるほど別の面でそれはそれなりに外に対しては国民団体という意味を持たざるを得ず、内にあっては国家として編成されざるを得ないとはいえ、国家と国民を越えたものである。」「いつの時代にあっても国家と爾余の観念論的上部構造の土台をなしているところの、じかに生産と交通から展開する社会組織がその間ずっとこの名称でよばれつづけてきた。」
漁師や猟師の獲物がお互いに交換されるためには、魚が自分で歩いて場所を移動しない以上、だれかが獲物を持って、移動しなければならない。つまり、人間の交通(商業)を伴う。また、獲物自体、労働の対象化の産物であり、交換が、過去の労働の産物の移動であるから、そういう意味でも、人間の労働の交通でもある。無論、この交通の必要から、国家が生ずるのであるから、この交通形態の全体が、「市民社会」という言葉の意味するところである。この物質的交通の全体は、「生産諸関係の総体」と実体的に同一であり、「諸個人の世界史的協働の自然発生的形式である全面的依存」であり、「従来とことんまで疎遠な力として人間たちを威圧し支配してきたこれらの力−それはじつは彼ら相互の働きかけあいから生み出された力」である。
「かくてこの歴史観の基本は、現実的生産過程を、それも直接的生の物質的生産から出発しながら、展開し、この生産様式と連関しそれによって産出された交通形態、すなわち、さまざまな段階における市民社会を全歴史の基礎としてつかみ、そしてそれを国家としてのそれの行動において明らかにしてみせるとともに、また、宗教的、哲学、道徳等々、意識のありとあらゆるさまざまな観想的な産物と形態を市民社会から解き明かし、そしてそれらからのそれの成立過程を跡付けるところにあるのであり、・・・」
人類の歴史の土台を、生産力と交通形態の矛盾という対立物の統一および相互浸透から把握すること、このような唯物論的歴史観にたってはじめて、共産主義が「現在の状態を廃止する現実的な運動」として現れることができる。
「人間は歴史的過程を通してはじめて個別化される。」(「先行する諸形態」)
この人間の個別化の歴史の全体が、共同体所有(生産の計画性)から私的所有(無計画性)へ(第一の否定)、私的所有から共産主義(計画性)へ(第二の否定)として、描かれる。この私的所有の発展段階として、古代、封建、近代ブルジョアの3段階を経て、共産主義に到る道である。
「生産力の発展の或る段階に達すると、そこでは生産力と交通手段は現存の諸関係のもとではただ災いの因となるだけで、かえって破壊力(機械装置と貨幣)であり、そしてこのことと関連して、そこに社会のあらゆる重荷を担わねばならないだけでいかなる利益をもうけえない一階級、社会から押し出され、他のあらゆる階級ととことんまで対立せざるをえないところへ追い込まれる一階級が呼び出される。この階級はあらゆる社会成員の過半数によって構成されるものであり、そして根本的革命の必要に関する意識、共産主義的意識はこの階級からでてくるのであるが、この意識は当然、他の階級のあいだにもこの階級の地位をみることによって形成される。」この他の階級の一員に、マルクスとエンゲルスがいる。
「共産主義が従来のあらゆる運動と異なるところは、それが従来のあらゆる生産関係と交通関係の基礎をくつがえし、あらゆる自然発生的前提をはじめて意識的に従来の人間たちの産物として取り扱い、それらの自然発生性を剥いで、一体となった諸個人の力に屈せしめるところにある。」
「労働の分割による人間的な力(関係)の物的なそれへの転化は・・・ただ諸個人がこれらの物的な力を元通り自分たちのもとに服属させて労働の分割をやめにすることによってのみなくすことができる。これは人々の共同なしにはできない相談である。」
マルクスらにとっては、私的所有の廃止は、労働の分割=社会的分業の廃止、つまり、特定の排他的な活動範囲の個人に対する押し付けの廃止である。
「共産主義は経験的にはただ主だった諸民族の仕事として「一挙に」そして同時にのみ可能なのであり、そしてこのことは生産力の普遍的発展とそれにつながる世界的交通を前提とする。もしそうでないとすれば、どうして例えば所有というものがそもそも歴史というものを持ち、さまざまな形態をとり、・・・おしすすめるなどということができたであろうか。・・・ところがこれに反して、土台をなす私的所有が廃止され、生産が共産主義的に規制され、これにともなう当然の結果として人間と彼ら自身の生産物との疎遠な間柄がなくされると、需要供給の関係の力は無に帰して、人間は交換、生産、彼らの相互関係のあり方を思いのままにしうる力を取り戻すことになるのである。」
では、マルクスらは、共産主義社会をどのように描いたのだろうか。
「各人がどんな排他的な活動範囲をも持つことがなく、どんな任意の部門においてでも己を陶冶することができる共産主義社会にあっては、社会が全般の生産を規制し、まさにそのことによって私に、今日はこれ、明日はあれをする可能性を与えてくれる。つまり、狩人、漁師、牧者または批判者についぞなることなしに、私の気のおもむくままに、朝には狩りをし、昼には魚をとり、夕べには家畜を飼い、夕食の後には批判をする可能性である。」
15 唯物史観と「資本論」
以上、「ドイツ・イデオロギー」に基づき、エンゲルスが「唯物論的歴史観」と名づけた歴史観を概観した。これは、ヘーゲルの「巨大な歴史的感覚」=観念論的歴史観に対抗して、唯物論の立場から、マルクスとエンゲルスが提出したものである。いままでの議論から明らかなように、これは、人間の歴史の論理的(弁証法的)把握である。
マルクスは、それまでブルジョア経済学が見出していた「全資本主義的生産の理解のための鍵」(エンゲルス「資本論」第2部序文)である「剰余価値」を検討し、更に「価値」にまで遡って分析した。「資本論」(及び「経済学批判」)は、この道を逆に辿り、商品の分析から、始まる。「商品の価値形態」から始まり、ブルジョア社会の経済的諸形態にまで論理的に再構成する。この議論の前提は、私的所有の生産者による社会的分業の社会である。このような私的所有という条件は、資本主義的生産様式の成立する社会においてのみ、全面的に展開されるとはいえ、歴史的には、部族共同体の崩壊の契機となり、古典古代社会である都市国家成立の主要な契機でもある。しかし、古典古代国家では、私的所有の発展が社会の崩壊の主要な原因の一つとなるとはいえ、資本にまでは発展しない。
「ローマ人の場合には私的所有と私的権利との展開は、さらにすすんで工業的および商業的諸結果をもたらすということなしに終わった。というのは彼らの生産様式は全体として変わらないままだったからである。」
一方、封建社会では、私的所有の発展は、封建社会の崩壊を促進し、資本主義的社会の準備をする。「中世から出てくる諸民族の場合、部族所有は封建的土地所有、団体的動産所有、マニュファクチュア資本といった種々の段階を経て、現代的資本、つまり大工業と一般的競争からきまってきた資本にまで発展していく。これは公共物とみえる外観をことごとく脱ぎすてて所有の発展にたいする国家のあらゆる干渉を排除したところの純粋な私的所有である。」
私的所有が一旦歴史の中に登場するや、それは自己を論理的に展開させ、遅かれ早かれ、資本主義的生産様式を完成させるということ、これが、マルクスが「資本論」で論証するところのものである。「資本論」は、資本の歴史の論理的把握、端的に言って、資本の論理学なのである。
唯物論的歴史観は、その資本の論理学を包括し、その基礎をなす。つまり、唯物史観は、資本論の前提なのである。 
 
レーニン「国家と革命」

 

ここでは、レーニンの「国家と革命」を取り上げ、国家について論じたいと思う。国家については、すでに政治学者滝村隆一氏が十分に議論しているので、改めて論ずるのは多少気が引けるが、しかし、彼のよって立つ立場とはやや違ったところから論ずるのであるから、ここで取り上げてもいいであろう。最初に断わっておくが、私は、ソ連が崩壊した今でも、レーニンを偉大な革命家だと考えている。しかし、革命家レーニンには、指導者としての超多忙な生活があり、マルクスやエンゲルスのような学者生活を送れる余裕はなかったはずである。だから、その理論に誤りがあったとしても、或る意味では仕方のないことである。彼の国家論も、そういう意味で誤りを含んでいると考えている。
第1章第1節では、国家の発生の理由を取り上げているが、レーニンは、エンゲルスの「家族、私有財産および国家の起源」を引用した後で、次のようにいう。「国家は、階級対立の非和解性の産物であり、その現れである。国家は階級対立が客観的に和解させることができないところに、また、その限りで発生する。逆にまた、国家の存在は、階級対立が和解できないものであることを証明している。」「マルクスに寄れば、国家は階級支配の機関であり、1階級が他の階級を抑圧する機関であり、階級の衝突を緩和させながら、この抑圧を公認し強固なものにする「秩序」を創出することである。」 確かに、エンゲルスの本のその個所を読めば、そのように読めないことはない。また、レーニンの1917年の革命の経験からすると、当時のロシアを支配していたツアーの国家は、「1階級が他の階級を抑圧する機関」であるように見えたであろう。しかし、現象形態から直ちに本質を導いてはならない。
マルクス・エンゲルスの国家論は、直接的には、ヘーゲルの国家論の批判から導かれている。この辺を論ずるためには、少なくともフォイエルバッハにまで遡らねばならない。なぜなら、ヘーゲルに対する克服は、フォイエルバッハを媒介にして行なわれたからである。
1、フォイエルバッハの自己疎外の理論
フォイエルバッハは、宗教の本質を次のように把握した。
「われわれの宗教的空想がつくりだしたより高い存在というようなものは、われわれ自身の本質が空想のうちに反映されたものにすぎない。」
このことは、「フォイエルバッハに関するテーゼ」(以下、「テーゼ」と略す)では、次のように表現されている。
「フォイエルバッハは、宗教的自己疎外の事実、世界が宗教的、空想的世界と現実の世界とへ二重化されているという事実から出発する。彼の仕事は宗教的な世界をその現世的な基礎に解消するところにある。」
宗教では、神という絶対者の存在する世界が、この現世とは別に存在することになっているが、フォイエルバッハは、その神という存在は、人間自身の本質が空想的に反映したものだとした。人間自身の本質の疎外されたものが神だという意味で、これを自己疎外の理論と言う。神は絶対的で普遍的な存在ということになっているが、それは人間と言うものが絶対的で普遍的な本質を持っているからであり、神はその人間の本質を頭の中で空想的に人間から切り離して神と言う想像的な存在に与えたものであり、また、神はすべてのものの創造者であり、人間や動物や植物などは神が創造したことになっているが、それは、人がさまざまな役立つ生活手段を創りだす能力を持つことから、頭の中で空想的に、その能力を人間から切り離して神と言う想像的な存在に与え、それによってすべての人間や動物などの出現を説明したものということである。これは、宗教の本質を明るみに出したもので、マルクスをはじめ青年ヘーゲル学派はこの理論を「熱狂的に迎えた」のであった。
しかし、マルクスは、この後に、次のような批判を加えている。
「かれは、この仕事がなしとげられてからも、なお主なことがしのこされているということを見落としている。というのは、現世的な基礎が自分自身から浮き上がって、一つの独立の王国を雲の中に確立するという事実は、まさにこの現世的基礎の自己分裂と自己矛盾とからのみ説明されなければならないからである。」
これは、マルクスの立場からなされた批判であるが、フォイエルバッハにはこれを行なうことは不可能であった。なぜなら、フォイエルバッハが空想的な神から地上に降りてたどり着いた人間の本質は、「抽象物」だったからである。
エンゲルスは次のように言っている。
「したがってこの人間は、いつまでも、宗教哲学のうちで口を聞いていたのと同じ抽象的な人間のままである。というのは、この人間は母親の胎内から生まれたのではなくて、一神教的な神から脱皮したのであるから、したがってまた、歴史的に発生し歴史的に限定されている現実の世界に生活していないからである。」(「フォイエルバッハ論」)
たとえば、私の机の上にあるエンピツは、ボールペンやサインペンとともに筆記具という抽象にまとめることができる。さらに消しゴムやノートなどを加えて、更に筆記具の上の文房具という抽象物に組み入れることができる。こうして組み入れる物を拡大して行けば、最後には「物」というような抽象物に辿りつくことができる。フォイエルバッハが辿りついた人間は、こうして抽象のレベルを上げていって最後に辿りつく人類といったような高度に抽象的な人間だったのである。この抽象的な人間の本質を、空想的に人間から切り離して与えたのが、神と言う存在の絶対性と言う本質というわけである。
「かれはキリスト教の神が人間の幻想的反映、映像にすぎないことを証明している。ところでこのキリスト教の神そのものが、ながい間の抽象過程の産物であり、以前の多数の氏族神および民族神の集中的精髄である。したがって、神がその映像である人間もまた現実的人間でなく、同じく多くの現実的人間の精髄であり、抽象的人間であって、したがってそれ自身再び思想像である。」(「フォイエルバッハ論」)
フォイエルバッハは、この抽象的な人間のままで、現実の人間関係も説明しようとした。そうすると、どうなるか。彼が理論的に扱い得るのは、人類、せいぜい自然的な人間、すなわち男と女というような抽象のレベルの関係でしかなかったのである。
「だから彼の場合、人間の本質は、ただ「類」として、すなわち、多くの個人をたんに自然的に結びつける、内的な、無言の一般性としかとらえられない。」(テーゼ)
そういう抽象のレベルで捉えた人間の心の中は、依然として宗教的なままである。
「歴史の過程を無視して、宗教的心情をそれだけで固定し、そして抽象的な―孤立した―人間的個体を前提せざるをえなくなる。」(テーゼ)
これ以上のフォイエルバッハの得た結論については、「フォイエルバッハ論」の「3 フォイエルバッハの宗教哲学と倫理学」に詳しい。
フォイエルバッハは、こうして宗教を批判したが、それは宗教と神学をはじめあらゆる観念論を否定するものであり、唯物論へ至る道であった。
「フォイエルバッハが進んだ道は、一人のヘーゲル主義者が―もっとも全く正統派ではないが、―唯物論へと進んだ道である。この進行は、一定の段階に達すると、かれの先行者の観念論的体系との完全な決裂を引き起こさざるを得ない。あらそいがたい力に迫られて、ついにフォイエルバッハは次のような認識に達せざるを得なかった。ヘーゲルの「絶対理念」の先世界的存在、世界の存在以前の「論理的諸カテゴリーの先在」というようなものは、超世界的な創造者への信仰の空想的な残りものにすぎない。われわれ自身がその一部である物質的な、感覚的に知覚し得る世界が唯一の現実の世界であり、われわれの意識と思考は、それがどんなに超感覚的に見えようとも、物質的で肉体的な器官、脳髄の産物である。物質が精神の産物ではなくて、精神それ自身が物質の最高の産物に過ぎない。これは言うまでもなく純粋の唯物論である。」(「フォイエルバッハ論」)
つまり、フォイエルバッハは、観念論を否定したのである。しかし、彼は、そこで立ち止まってしまい、彼の把握した抽象的人間から現実的人間への橋を見出すことができなかった。
「フォイエルバッハは、彼自身が死ぬほど嫌っていた抽象の世界から生きた現実の世界への道を見出すことがなかったのである。かれは自然と人間に力いっぱいしがみついている。・・・しかしフォイエルバッハの抽象的人間から現実の生きた人間に達するには、人間を歴史のうちで行動しているものと見さえすればいいのである。しかしフォイエルバッハはこれを拒んだ。」(「フォイエルバッハ論」)
実は、彼が辿りついた唯物論には、根本的な欠陥があった。それは、従来の唯物論の欠陥でもあった。 「これまでのすべての唯物論―フォイエルバッハのも含めて―の主要な欠陥は、対象、現実性、感性がただ客体あるいは直観の形式のもとでのみとらえられていて、人間の感性的な活動、実践としてとらえられず、主体的にとらえられていないことにある。・・・フォイエルバッハは、思想的客体とは現実的に区別される、感性的な客体を欲している。しかしかれは人間の活動そのものを対象的活動としてとらえない。」(テーゼ)
「フォイエルバッハは、抽象的な思考に満足せず、感性的な直観に訴える。しかしかれは感性を実践的活動、すなわち人間の感性的活動としてとらえない。」(テーゼ)
「ドイツ・イデオロギー」には、次のようにある。
「フォイエルバッハが人間もまた「感性的対象」であることを見抜いている点で「純粋な」唯物論者たちを大きく引き離していることは確かであるが、しかし彼が人間をただ「感性的対象」としてのみとらえ、「感性的活動」として捉えないことは別としても、彼はこの場合も観想のなかであぐらをかいたままで、人間を彼らの与えられた社会的関連の中でつかむことをせず、彼らを現にあるごときものに仕上げた彼らの当面の生活諸条件のもとでつかむことをしないので、現実的に存在し活動している人間にフォイエルバッハが到達するときはなく、どこまでも「人間なるもの」という抽象物のところにとどまりつづけ、せいぜい感覚のなかの「現実的な、個人的な、生身の人間」を認めるにいたるのが関の山である。」
「感性的な直感」から「感性的活動」への把握の切り替えは、唯物論に弁証法を引き入れることである。私は、「ノート」で、人間は、手に象徴されるように、どんな特殊な情況にも対応出来る一般的な形態を獲得するように進化することによって、自然から相対的に独立したと書いたが、人間を自然から相対的に独立した存在と把握することは、人間を矛盾した存在として把握することである。フォイエルバッハの把握した抽象的人間は、実は、矛盾を排除した人間、正確に言えば、人間の一面、自然的側面を抽象しただけだったのである。だから彼は、対象的活動を行う人間を理論的に把握できなかったのである。
対象的活動=感性的活動とは、人間が自然に対して、自己を対象化することである。これは、物質的な自己疎外であり、ヘーゲルの観念論的な疎外の理論に対して、マルクスが与えた唯物論的な疎外の理論である。この場合の疎外とは、否定ということと同じ意味であって、敵対的という意味を持ってはいない。宗教の場合、人間と神とは敵対的な関係にある。なぜなら、本来の起源である人間の能力を神に与えれば与えるほど神は絶大になっていくが、逆に人間の能力は貧しくなっていくからである。
だから、フォイエルバッハにとって、感性的唯物論を克服する手段は、目の前に与えられていたのである。その手段こそ、ヘーゲルの弁証法であった。彼が創った自己疎外の理論は、ヘーゲルの疎外の弁証法を応用したものであった。しかし、結局、観念論とともに、「かれはヘーゲルを批判的に処理せず、無用のものとして簡単に投げ捨ててしまった」のであった。
フォイエルバッハが始めた作業は、マルクスとエンゲルスによって受け継がれることになる。
「フォイエルバッハが踏み出さなかった一歩は、どうしても踏み出さなければならなかった。フォイエルバッハの新しい宗教の核心をなしていた抽象的人間の礼拝は現実の人間およびその歴史的発展の科学によっておきかえられなければならなかった。このフォイエルバッハを越えてフォイエルバッハの立場をいっそう発展させるという仕事は、1845年マルクスによって「神聖家族」のうちではじめられたのである。」(「フォイエルバッハ論」)
「フォイエルバッハを越えてフォイエルバッハの立場を発展させる」という一見矛盾した仕事こそ、「現世的基礎の自己分裂と自己矛盾」から「自分自身から浮き上がって、一つの独立の王国を雲の中に確立する」ことを解き明かす仕事である。これこそ、フォイエルバッハの自己疎外の理論を完成させる仕事なのである。
2、マルクスの自己疎外の理論
「ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもう果たされているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提なのである。」(「ヘーゲル法哲学批判序説」)
マルクスは、フォイエルバッハの宗教批判のやり方を、法や政治や国家の批判に応用して行く。
「人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはぐことが、何より先ず、歴史に奉仕する哲学の課題である。こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する。」
フォイエルバッハは、「宗教的自己疎外の事実、世界が宗教的、空想的世界と現実の世界とへ二重化されているという事実」から出発した。マルクスは、政治の世界も、宗教の世界と同様に、世界が二重化されていると指摘する。
「完成された政治的国家は、その本質から言って、人間の類的生活であり、人間の物質的生活に対応している。この[物質的生活という]利己的な生活のあらゆる前提は、国家の領域の外部に、市民社会のなかに、しかも市民社会の特性として存続している。政治的国家が真に成熟をとげたところでは、人間は、ただたんに思想や意識においてばかりでなく、現実において、生活において、天上と地上との二重の生活を営む。天上の生活とは政治的共同体における生活であって、そのなかで人間は自分を共同的存在と考えている。地上の生活とは市民社会における生活であって、そのなかでは人間は私人として活動し、他の人間を手段とみなし、自分自身をも手段にまでおとしめ、疎遠な諸力の遊び道具となっている。政治的国家は市民社会に対して、ちょうど天上界が地上界に対するのと同様に、精神主義的にふるまう。・・・人間は、そのもっとも身近な現実のなか、市民社会の中では、一つの世俗的な存在である。人間が自分にも他人にも現実的な個人だとみなされている市民社会のなかでは、人間は一つの真実でない現象である。それとは反対に、人間が類的存在だとみなされる国家のなかでは、人間は想像上の主権の空想上の構成員であり、その現実的な個人的生活を奪い取られ、非現実的な普遍性によってみたされている。」(「ユダヤ人問題によせて」)
「完成された」国家とか「国家が真に成熟をとげたところ」といっているのは、その当時の政治的に遅れたドイツとの対比でいっているので、近代国家のことと考えてよい。また、「市民社会」とは「生産力の或る特定の発展段階の内側における諸個人の物質的交通の全体を包括する。」「いつの時代にあっても国家と爾余の観念論的上部構造の土台をなしているところの、じかに生産と交通から展開する社会組織」(「ドイツ・イデオロギー」)。すなわち、近代国家の中では、人々は、「抽象的な人間」として、言い換えれば、それぞれ平等な政治的権利を持つ個人として、普遍的な国家という政治的共同体を構成する一員として存在し、一方、市民社会の中では、現実的な人間として、すなわち、個々バラバラな私人として振舞っている。国家は神に、国家の中の人間はフォイエルバッハの抽象的人間に相当し、このような市民社会と政治的国家との現実の世界の二重化は、宗教的世界の二重化と論理的に類似していると考えるのである。
マルクスは更に論を進め、この二つの世界の二重化は繋がっていると指摘する。
「反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。しかも、宗教は、自分自身をまだ自分のものとしていない人間か、または一度は自分のものとしてもまた喪失してしまった人間か、いずれかの人間の自己意識であり自己感情なのである。しかし人間と言うものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない。人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家、この社会的結合が倒錯した世界であるが故に、倒錯した世界意識である宗教を生み出すのである。・・・宗教は、人間的本質が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したものである。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教と言う精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。」(「ヘーゲル法哲学批判序説」)
では、この世界の二重化に対応する「現世的基礎の自己分裂と自己矛盾」というのは、どういうものだろうか。この問題を根本的に解決するためには、前節に述べたように、弁証法を引き入れた唯物論が前提になければならない。今度は、自然に対してだけでなく、人間を相互に矛盾した存在として捉え、人間同士との相互浸透を前面に押し出し、人間を歴史の中で現実に生活しているものとして把握する必要がある。(ここからは、「ドイツ・イデオロギー」に頼ることになる。)
「社会的編制と国家はたえず特定の諸個人の生活過程から出てくる。ただし諸個人と言ってもそれは自他の表象のなかに現れ得るような諸個人のことではなくて、現実に存在しているような諸個人、すなわち、はたらき、物質的に生産しているような諸個人、したがって特定の物質的な、そして彼らの自由選択によるものではないところの諸制限、諸前提および諸条件のもとで活動しているような諸個人の事である。」
この「現世的基礎」の立場に立って初めて、天上の独立王国への道を説明することができるようになる。
「全イデオロギーのなかで人間たちと彼らの関係が暗箱のなかでのように逆立ちで現れる場合、この現象は、あたかも網膜上の対象の逆立ちが網膜の直接に生理的な生活過程から出てくるのとまったく同様に、彼らの歴史的生活過程から出てくるのである。
天空から地上へ下るドイツ哲学とはまったく逆に、ここでは地上から天空への上昇がおこなわれる。ということは、人間たちの語ること、想像すること、表象することから出発したり、また語られ、思惟され、想像され、表象された人間たちから出発したりして、そこから生身の人間たちのところへ到達しようとするのではなく、現実に活動している人間たちから出発して彼らの現実的な生活過程からこの生活過程のイデオロギー的反映と反響の展開をも明らかにすると言うことである。人間たちの頭脳の中の模糊たる諸観念といえども、彼らの物質的な、経験的に確かめうる、そして物質的諸前提に結びついた生活過程の必然的昇華物である。」(「ドイツ・イデオロギー」)
このような弁証法的な唯物論的歴史観の上に立って、政治的共同体たる政治的国家を把握すると、次のようになる。ここからは、すでに「ドイツ・イデオロギー」ノートで論じたところであるが、再度取り上げて見る。
「さらに労働の分割と同時に、一個の個人または一個の家族の利益と、交通しあうすべての個人の共同の利益との矛盾が存在することになる。しかもこの共同の利益は単に表象の中に、「普遍的なもの」として存在するだけでなく、むしろなによりもまず現実の中に、労働を分担する諸個人の相互依存性として存在する。そして最後に労働の分割は、人間達が自然発生的な社会のうちに在る限り、従って特殊な利益と共同の利益との分裂が存在する限り、従って活動が自由意志的にでなくて自然発生的に分割されている限り、人間自身の仕業が彼にとって何か余所者の、対立する力となり、彼がそれを牛耳るかわりにそれが彼を抑圧するということのまさに最初の例を、われわれに示している。」
「・・・そしてあたかも特殊な利益と共同の利益とのこの矛盾から共同の利益は国家として、現実的な個別的および総体的利益とは切れたあり方で、一つの自立的な形態をとるのであり、そして同時にそれは幻想的な共同性として存在するのであるが、しかし家族、部族の塊の一つ一つのうちに存在する諸紐帯・・・を常に現実的土台とし、またことに、後ほど述べるように、労働の分割によって当然すでになければならぬはずの諸階級を現実的土台に踏まえている。」
カッコでくくった「表象の中に「普遍的なもの」として存在する」というのは、ヘーゲルの、普遍性の実現が国家だとする表現に対応したものである。国家の普遍性は、「労働を分担する諸個人の相互依存性」、言い換えれば、労働の生産関係に現実的な基礎を持っており、労働の分割=私的所有によって、労働の生産関係の一般性が共同の利益として直接的に現れてこないがために、その共同の利益が、「現実的な個別的および総体的利益とは切れたあり方で、一つの自立的な形態」をとったものということができる。これが、世界の二重化に対応する「現世的基礎の自己分裂と自己矛盾」であり、マルクス・エンゲルスの国家観である。
「国家すなわち政治的秩序は従属的な要素であり、市民社会、すなわち経済的諸関係の領域が決定的な要素である。ヘーゲルもそれをとっているような旧来の見方では、国家が決定的な要素で、市民社会は国家によって決定される要素と見られていた。外見はそれに一致している。個々の人間の場合に彼の行為のあらゆる起動力が彼の頭脳を通過して、彼の意志の動機に変わらなければならないように、市民社会のあらゆる要求もまた、−どの階級が支配しているかにかかわりなく−法律の形をとって一般的な効力を得るためには、国家の意志を通過せねばならない。これは事柄の形式的な側面であって、自明のことである。」(エンゲルス「フォイエルバッハ論」)
エンゲルスが「フォイエルバッハ論」の中で階級の発生を取り上げた後でこの文を続けているということは、重要である。ヘーゲルの洗礼を受けていたマルクスやエンゲルスにとって、国家は「政治的秩序」であり、「市民社会のあらゆる要求は、法律の形を取って国家の意志を通過せねばならない」という形式的側面は、自明であった。これを広義の国家と考えてよい。
問題は次の点にある。
「ただ問題は、個人のであろうと、国家のであろうと、この単に形式的な意志がどんな内容をもっているか、どこからこの内容がくるのか、なぜまさにこれが意欲されて別のものが意欲されないのか、ということである。このことをしらべてみると、われわれは、近代の歴史においては国家の意志は、全体として見て、市民社会の要求の変化によって、どの階級が優勢であるかによって、そしてけっきょくは生産諸力と交換関係の発展によって、決定されることを見出すのである。」
「国家は、大体において、生産を支配している階級の経済的諸要求の総括的な形での反映にすぎない」。 ここでエンゲルスが国家の意志が「全体として見て」「総括的な形での」支配的階級の諸要求の反映と言っていることに注意しなくてはならない。市民社会のあらゆる要求は、あくまでそれぞれ個別的で特殊性の中にある。それを普遍性にまで高めて国家の意志を通過させることによってはじめて、一般的な効力を持つ法律に転化できるのである。法は、形式的には普遍的で一般的な共通利害を代表しているように見えながら、「現実的な個別的および総体的利益とは切れたあり方」にある、すなわち特殊な利害関係=経済的支配階級の要求を総括的に内に含んでいるのである。
ところで、私達は、すでに完成された自己疎外の理論を知っている。それは、「資本論」の第一章にある貨幣の理論である。
世界の二重化は、商品の世界でも同様である。そこでも、商品の世界と貨幣の世界と、世界が二重化している。貨幣は、商品の中に対象化されている抽象的一般労働が金(の使用価値)に表示(反映)されたものである。貨幣は、価値尺度と流通手段の統一であるが、それは、商品が使用価値と価値の統一であるからであり、それを生む出す労働が特殊な有用労働と抽象的一般労働の統一だからである。
この労働を、人間の意志に置き換えてみると、次のようになる。
人間は、労働を対象化するように、意志を観念的に対象化する。例えば、或る人が禁煙を決意したとする。「タバコを吸うのをやめよう」と意志を固めたが、酒の席で人がタバコをおいしそうに吸っているのを見たりすると、ついタバコに手が出そうになる。そこで、その禁煙の意志を頭の中で対象化し、「タバコを吸うのを止めよ」という、あたかも他人からの命令のような形にして、その対象化した意志を固定化して維持し、時々に起こってくるタバコへの誘惑の意志を抑えつけようとすることになる。この場合は、個人的な意志の観念的対象化であり、対象化された意志=個人的規範はその個人の行動に一定の秩序を与えるものであり、個人の行動にしか影響が及ばないが、政治的国家の中では、法という観念的に対象化された国家意志=国家規範が、多くの国民の行為を規制し、政治的秩序を支える。
さまざまな個人や特殊な集団の社会的規範は、それぞれの個人や集団の特殊な利益を反映しており、その範囲内でだけ有効である。しかし、個人や集団といえど社会の一員である以上、市民社会の生活の生産関係の一端を担っており、その特殊な利益は共同の利益と直接的あるいは媒介的に繋がっている。したがって、特殊な利益の普遍的側面を捉えれば、その対象化された意志である規範を、共同の利益を反映しているように見える国家の規範である法に転化させることが可能である。これはちょうど、価値形態が、個別、特殊、普遍へと論理的に展開される過程と同じである。
商品は労働の特殊性と一般性を使用価値と価値として反映させたが、それは、「独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物」だからである。
「労働の分割」とは、単なる社会的分業体制ということではない。「農村的家父長制的な工業」や「歴史のあけぼのに見られるような、自然発生的な形態での共同労働」のような、生産手段の共有に基礎を持つ分業は、「労働の分割」ではないからである。なぜなら、その場合には、各労働は独立していても直接的に依存し合っており、共同体全体の配慮の下に行なわれるからである。これが、原始的な共産制である。「たとえば、ペルーのように、何の貨幣も実在しないのに、たとえば協業や発展した分業等々のような経済に最高の諸形態がみられる、きわめて発展した、しかし歴史的には未成熟な社会諸形態がある」(序説)。生産手段の私的所有に基礎を置く分業体制が「労働の分割」であり、私的労働なのである。 同様に、独立に行なわれていて依存し合っていない私的労働者(及び家族)の生活規範は、その一般性を法として反映させる。法は生産関係の一般性に根拠を持つ共同の利益、それは私的所有を維持しつつ同時に社会的共同性を維持するという敵対的矛盾を背負っており、必然的に「生産を支配している階級の経済的諸要求の総括的な形での反映」することになる。このようにして形成された政治的秩序が国家である。
例えば、どこかの市長が露骨な教育条例を制定したが、それとて教育は市民の共同の利益である点に根拠を持っており、表面的には市民全体に利益があるように強調している。しかし、内実は、為政者に忠実に従うように市民を教育することを目指しており、支配階級の特殊な利益を内包するものという具合である。
市や県のレベルでは条例に相当するものが、国のレベルでは法である。立法府である国会を見ていれば理解されるように、法律案は国会の議決を経て国家意志となる。商品が貨幣での価値表現を持つように、法は国家の意志表現である。国会の議決は、法案を国家意志に転化させるための必要な手続きというわけである。これが「法の支配」である。
3、マルクス・エンゲルスの国家論
ここまで来てはじめて、マルクスらの国家観を、正しく記述することができる。
以上より明らかなように、彼らにとって、国家とは、政治的秩序を言うのであり、政治的共同体こそ、国家であると言える。これは、「経済学批判の序言」の中の「法律的、政治的上部構造」と言う表現に該当するものであり、「フォイエルバッハ論」で前節の引用に続く文の中での「国家および国法」「私法」に相当する。(このレベルは、ヘーゲルの法理論が前提になっている。)
その後で、エンゲルスは「国家権力」について説明する。
「国家の内に、人間を支配する最初のイデオロギー的な力がわれわれにたいして現れる。社会は、内外からの攻撃にたいしてその共同の利益をまもるために、自分のために一つの機関をつくりだす。この機関が国家権力である。この機関は、発生するとすぐに、社会に対して独立するようになる。そしてそれが一定の階級の機関となって、この階級の支配を直接に行使するようになればなるほど、ますますそうなってくる。」(「フォイエルバッハ論」)
ここで「国家権力」を「イデオロギー的な力」といっていることは、重要である。国家権力は、国家機関・制度であり、それを規定するのは国法である。時の為政者が個人的な意志を国家意志とするために、国法を捻じ曲げ時に無視してしまうことはあっても、それはあくまで例外である。国家権力が法によって支えられているからこそ、エンゲルスはそれを「イデオロギー的な力」と呼んだのである。国家の共同の利益を守るために創りだした相対的に独自な政治的制度・機関が、国家権力である。これを狭義の国家と言ってもいいであろう。論理的には、貨幣が、その必要から流通手段としての実体的機能を創りだしたように、国家は、その必要から国家権力と言う実体的機関を創りだすのである。それが支配階級の機関となっても、共同の利益をまもるという外観は保持されるのである。
国家と国家権力については、それが発生する以前の社会と比較すれば、より明確になる。それについては、「フォイエルバッハ論」の直前に書かれたエンゲルスの「家族、私有財産および国家の起源」(以下「起源」)が、詳しく教えてくれている。
以前の社会における国家に代わるものは、それは氏族制度であった。エンゲルスは、アメリカインディアンの氏族制度を総括して、次のようにいう。
「この段階では、アメリカのインディアンが実例として用いられなければならないが、そこでは氏族制度が完全にでき上がっていることが見出される。・・・この単純な組織が、それを発生させた社会的状態を完全に充足している。それは社会的状態自身の自然発生的な編成以上のなにものでもない。それは、このように組織された社会の内部で発生しうるすべての抗争を、調整することができるのである。外部に対しては戦争が調整する。この戦争は、部族の絶滅をもって終わることはあっても、その抑圧をもって終わることはけっしてありえない。氏族制度が支配と隷属を入れる余地をもたないことは、それの偉大な点であるが、しかしまたそれの限界でもある。内部に対しては、まだ権利と義務の区別がない。・・・同様に、種種の階級への部族および氏族の分裂も生じ得ない。」
「第3章イロクォイ族の氏族」の中で、エンゲルスは氏族制度を記述した後、次のように感想を述べている。
「そして、その無邪気さと単純さにもかかわらず、なんという驚くべき制度であろう、この氏族制度は!兵隊も憲兵も警察官もなく、貴族も国王も総督も知事も裁判官もなく、監獄もなく訴訟もなく、それでいて万事が規則正しくおこなわれる。すべての不和や争いは、それに関係するものの全体、つまり氏族か部族かによって、または個々の氏族相互の間で、決定される・・・。共同の事項はいまよりもはるかに多い―世帯は一連の家族の共同で、共産制であり、土地は部族所有であり、わずかに小園圃だけがさしあたり世帯に割り当てられている―にもかかわらず、現代の広汎で複雑な行政機構の形跡さえ必要とされない。決定は当事者たちがするのである。そして大部分の場合、数世紀にわたる慣習がすでに万事を規制していた。・・・」 ここでは、氏族制度は、「自然発生的な編成」であり、その「経済的基盤」である原始的な共産制が共同の利益と各家族の利益を本質的に非敵対関係に置く基礎を提供していた。
「人口はきわめて希薄である。・・・分業は純粋に自然発生的であって、両性間に存在するだけである。・・・世帯はいくつかの、往々にして多数の家族の共産制である。共同で作って利用するものは共同の財産である。家屋、園圃、長い小舟がそれである。」
氏族共同体を支えるのは、自然発生的な社会的規範の慣習であり、その規範は暗黙のうちに共同の利益を支えており、わざわざ、「法」、すなわち国家意志による特別の承認を必要としない。すなわち社会規範は、法に転化していないのである。それはちょうど、労働生産物が労働の対象化であっても、その対象化された労働が価値を形成していないようなものである。労働生産物は商品になっていないと同様、社会規範は国家意志としての法になっていないのである。したがって、強制力である国家権力も存在しない。
誰も、貨幣や資本の発生する現場に立ち会った人はいない。国家の発生にも似たところがある。だから、それについては、論理的に推論するしかない。
まず、私的所有の起源について、「起源」第9章の氏族制度の解体の「一般的な経済的諸条件」に関する論理を、マルクスの「資本論」を参考に振り返ってみよう。
「資本論」は次のように言う。
「これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認めあわなければならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。この法的関係、または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、したがって商品所持者としてのみ、存在する。」(第二章)
第2章の冒頭に出てくるこの文章は、所有というものの起源を、論理的に現わしている。生産物の交換によって、生産者が生産した生産物から、他の生産者が生産した生産物へ、所有関係が移転・延長される。論理的には、この瞬間に、所有と言う関係が発生するのであり、ここに(私的)所有の起源がある。交換と言う媒介関係が、所有と言う直接性を要求したのである。
「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる。しかし、物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる。」(「資本論」)
共同体内部でも商品になるということは、共同体内部にも所有と言う関係が延長・拡大されるということである。
ところで所有関係は、直接的生産者の生産物から、生産者の労働手段にまで、次第にその範囲を拡張させる。なぜなら、生産物の商品としての価値形成に、それらが寄与するからである。一方、この所有関係は、交換された商品の消費過程にも、延長されて行く。なぜなら、交換された商品も、生産者の生活過程または労働過程において生産者および彼の生活を支える家族員に消費され、商品に対象化されていた他人の労働が、生産者および家族構成員に再対象化され、家族構成員も生産者の所有関係に入りこむからである。かくして所有関係は、共同体から、所有に基づく新たな集合体としての個別家族を分離させるのである。
「遊牧民族は最初に貨幣形態を発展させるのであるが、それは、彼らの全財産が可動的な、したがって直接に譲渡可能な形態にあるからであり、また、彼らの生活様式が彼らを絶えず他の共同体と接触させ、したがって彼らに生産物交換を促すからである。」
この間の事情を、エンゲルスは、「起源」で更に具体的に描き出している。
「遊牧部族が他の未開人の群れから分離した。すなわち、最初の大きな社会的分業である。」「ここで遊牧部族が分離したのちには、種々異なる部族の成員のあいだでの交換のための、そして規則的な制度としてのこの交換の形成と確立のための、すべての条件がそろっていることが見出される。当初は部族と部族とが、相互の氏族首長をつうじて交換をおこなった。しかし畜群が単独財産に移りはじめると、個別的交換がますます優勢となり、ついには唯一の形態となった。だが、遊牧部族がその隣人に交換に供した主要物品は家畜であった。家畜は、他のすべての商品がそれによって評価され、またどこででも交換のときに他のすべての商品と引き換えに好んで受け取られる商品となった。」
「いまや畜群やその他の新しい富とともに、家族のうえに一つの革命がやってきた。生業はいつも男性の仕事であったし、生業のための手段は彼によって生産され、彼の財産であった。畜群は新しい生業の手段であり、さしあたりはその馴致が、のちにはその見張りが彼の仕事であった。したがって、家畜は彼のものであり、家畜と交換に得られた商品や奴隷も彼のものであった。いまや生業がもたらす剰余はすべて男性の手に帰した。女性もその享受にはあずかったが、その所有にあずかることはなかった。」
「家庭での男性の事実上の支配につれて、その専制にたいする最後の障壁が崩れた。この専制は、母権制の転覆、父権制の採用、対偶婚の単婚への漸次的な移行によって確認され、永遠化された。しかしそれとともに、古い氏族秩序に裂け目が生じた。すなわち、個別家族が一つの勢力となり、氏族にたいする脅威となって台頭したのである。」
家畜を養う遊牧部族と他の部族との間で、生産物の定期的な交換が始まり、その後、畜群が家族の財産に転化し始めると、氏族同士の交換から個別的な交換へと変化する。その際、家畜が貨幣機能を果たす。同時に、それは氏族から個別家族が徐々に分離しはじめることを意味する。更に、狩猟・漁労から農耕へと生産活動が変化するにつれて、その耕作地も氏族所有ではあっても、個別家族の手に委ねられるようになる。
生産力の増大と生産活動の多様化は、家族内で行なわれていた手工業を農耕から分離独立させると同時に、商品生産と商業を成立させる。さらにそれは、個々の家族の富の増大をもたらす。こうして徐々に個別家族間で貧富の差が現れ始めるとともに、農耕地も、氏族所有から個別家族の私的所有へと移行し始める。商業の活発化は、商人という特別な階級の形成を促し、同時に交換手段としての金属貨幣を普及させる。それは、貨幣の力の開化であり、貨幣の前貸し、利子と高利貸し、債務者と債権者、更に又、私的所有から土地の売却・抵当が発生し、こうして富の集積と集中が新たな少数の階級の派生へと繋がったのである。
こうして原始的な共産制の氏族社会に、労働の分割と、同じことだが、個別家族への生産手段の分割=私有財産が割り込んでくる。これによって、論理的には、氏族の社会規範が直接表していた制度としての共同の利益は、永遠に失われてしまった。すなわち、具体的に現に存在する個々の家族の特殊な利益と、どこにも現れてくる手段を持たないがそれでも現に存在する「労働を分担する諸個人の相互依存性」に現実的基礎をおく共同の利益との、敵対的な矛盾の発生である。これによって、長い間の慣習によって築かれてきた共同体制度が、それが変化するかそれとも押しのけられるかは別として、完成されれば宗教のように転倒された形態として、意識された自立した制度へ徐々に転化しはじめる。すなわち、その制度の中では、「現実的な個別的および総体的利益」を表しているかどうかとは関係なく、「共同の利益」を名乗る特殊な意志は、普遍性を持つという形式を制度自身から承認されたときに、制度の規範として確立される。ちょうどそれは、貨幣が価値尺度として各商品に価格形態を与えるようなものである。貨幣は商品から発生したのではあるが、後には貨幣が商品の価値尺度となるように、この新しい共同体的制度は、いわば社会の規範の尺度として意識の上から経済的社会を支えるのである。こうして貨幣が商品の流通を媒介するように、さまざまな特殊意志を独自の「共同の意志」の下に媒介するようになった時、それが国家の確立へと繋がる。
だが、国家と国家権力の矛盾が発生しても、それだけでは国家は転倒された形態、つまり市民社会の主人とならない。この現実性を与えるものは、国家形態を利用する主体である。すなわち、個々の私的家族が直接集結ないし代理人を媒介し、その特殊利益が現実的に形成・表現され、国家組織を媒介し、国家意志を通じて国家を支配せねばならない。そのためには、ちょうど、資本の理論=貨幣から資本への発展、すなわち貨幣が労働力と言う特殊な商品を見出し、自ら剰余価値を生産し自立した資本の形態を獲得するようにならなければならない。そうして「この瞬間からはじめて労働生産物の商品形態が一般化されるのである」。
論理的にそれに相当する過程が、経済的に支配的な階級の形成と、それに続く政治的な支配階級の形成およびその特殊な利益の国家意志への転化による政治的支配の確立である。このような支配階級の特殊意志の貫徹が、国家意志への媒介過程と国家権力による法的支配の強制を必要とするのである。このときはじめて、法による一元的支配が一般化する。
では、経済的に支配的な階級が、政治的にも支配するようになった時、国家意志は、現実的な、実際的な共同の利益を表さなくなってしまうのか。「ドイツ・イデオロギー」には次にようにある。
「諸個人はただ彼らの特殊な利益、彼らにとっての彼らの共同の利益とは一致しない利益のみを追求するのであり、総じて、普遍的なものは共同性の幻想的形態なのであるからこそ、この普遍的なものはなにか彼らには「余所者の」そして彼らとは「独立な」「普遍的」利益、なにかそれはそれでまた特殊で独特な「普遍的」利益として押し付けられるか、または彼ら自身、民主制の場合におけるように、この分裂の中で動かざるをえない。だからこそ他面、共同の利益と幻想的共同の利益とにたえず現実的にそむくところのこれらの諸々の特殊利益の実践的闘争は、国家としての幻想的「普遍的」利益による実践的な干渉と制御を必要ならしめる。」
「反デューリング論」にも次のような文がある。
「そして、国家と言うものは、同一部族に属するもろもろの共同体の自然発生的な諸群が、はじめはただその共同の利益(たとえば、東洋における灌漑)をはかり、外敵を防御することだけを目的としてつくりあげたものなのだが、このとき以後、国家は、それらの目的と並んで、支配する階級の生活および支配の諸条件を、支配される階級に対抗して暴力によって維持することをも、同様に目的とするようになる。」
国家意志としての法には、意識的かどうかとは別として、現実的な共同の利益も、支配的な階級の特殊な利益も、共に反映されるのである。当然のことながら、現実的な共同の利益も支配的階級の特殊な利益に奉仕させられる内容を持って、であるが。
氏族制度の中に私的所有が引き入れられると、氏族の内部だけでなく、対外的にも変化が生じてくる。氏族の戦争は、「部族の絶滅をもって終わることはあっても、その抑圧をもって終わることはけっしてありえない。」ときに征服が「その住民を一部は駆逐し、一部は貢納義務者にしていた」としても、おそらく氏族制度のなかでは経済的な重要性をもちえなかったであろうし、むしろ儀礼的・宗教的な色彩さえを帯びていたであろう。ところが、「富の獲得が第一の生活目的の一つとして現れる」と「略奪は労働による獲得よりも容易であ」るため、「戦争と戦争のための組織とが、いまや部族生活の規則的な機能と」なる。すなわち、戦争の性格が変化していくのである。
戦争は、共同体としての成員の対外的な共同行為といってよい。したがって、その共同体の経済的諸要求を総括的な形態で反映する。氏族には原理的に「支配と隷属」が要求として存在しないが、私的所有制度の下では、戦争による生産物や労働手段や奴隷の獲得の要求が存在するようになる。それが戦争の性格を変えさせたのである。
以上の論理的な構成が、実際にはどのように発展してきたのだろうか。「論理的取り扱いは、実は、ただ歴史的形態と攪乱的偶然性というおおいを取り去っただけの歴史的な取り扱いにほかならない。」(「経済学批判」書評)。貨幣と同様、ここからが国家であるという明確な線引きはできないだろうが、おそらく相当長い間かかって、歴史的に形成されてきたものであろうと想像される。
「起源」では、その国家の成立の端緒の典型を、古代ギリシャのアテネに見ている。
「第4章ギリシャの氏族」によれば、「ギリシャ人も、・・・すでに先史時代から、・・・アメリカ人と同じ有機的序列によって組織されていた。・・・しかしどんな場合にも氏族は単位であった。」しかし、「ギリシャ人が歴史に現れる時期には、・・・母権制は父権制に席を譲り、台頭しつつあった私的な富は、それによって氏族制度に第一の割れ目をつくった。」 「われわれはホメロスの詩から、ギリシャの諸部族が大部分はすでにいくつかの小さな統合部族に結集していたが、しかしそれらの内部では氏族・胞族・部族がその自立性をなお完全に保持していたことを見出す。彼らはすでに城壁で固めた都市に住んでいた。畜群や畑地耕作が拡大し、手工業がはじまるにつれて、人口は増加した。それとともに富の差が増大し、これにつれて、古い自然発生的な民主政の内部に貴族政的な要素が成長してきた。個々の部族団は、最良の地域を占有するために、そしておそらくはまた戦利品を得るためにも、たえまない戦争をしていた。捕虜を用いた奴隷制はすでに公認の制度であった。」
「これらの部族や部族団の制度」は、1常設の評議会、2民会、3軍指揮者(バシレウス)から成る。「バシレウスは、民衆によって選挙されるか、さもなければ、・・・民衆の公認の機関―評議会または民会―によって確認されるかしなければならなかった、という推測がなりたつ」。「バシレウスは、軍事的職権のほかに、なお神官と裁判官の職権をもっていた。」
エンゲルスは、氏族制度の崩壊の端緒を、次のようにまとめている。「すなわち、父権制と子への財産の相続、これによって家族内での富の蓄積が支援されて、家族が氏族に対立する一個の力となったこと。富の差が、世襲の貴族および王位の最初の萌芽を形成することによって、その制度に反作用をおよぼしたこと。奴隷制が、さしあたりはまだたんに捕虜をもちいた奴隷制にすぎなかったのに、すでに自己の部族員やさらには自己の氏族員をさえ奴隷化する展望を開きつつあったこと。昔の部族と部族との戦争がすでに変質して、家畜・奴隷・財宝を獲得するための陸上や海上での組織的な略奪に、正規の営利源泉になりつつあったこと。要するに、富が最高の善として賛美され尊敬されて、古い氏族秩序が冨の暴力的な略奪を正当化するために乱用されたこと、これである。」
「第5章 アテナイ国家の成立」によれば、国家は、テセウス、ソロン、クレイステネスの制度によって、確立されたとされる。
「書かれた歴史がさかのぼりうるかぎりでは、土地はすでに配分されて私有財産に移っていたが、これは未開の上位段階の末期ごろにすでに比較的発展していた商品生産とこれに照応する商品取引に、適合したものである。穀物とならんで、ブドウ酒とオリーブ油がつくられており、エーゲ海での海上交通は、ますますフェニキア人の手から奪われて、大部分がアッティカの手に帰していった。所有地の売買によって、また農耕と手工業との、商業と航海との分業の進展によって、種種の氏族・胞族・部族の所属者たちはたちまち交錯して、胞族や部族の区域は種々の住民を受け入れざるをえなかったが、それらの住民は、同じ民族のものではあっても、これらの団体には所属していなかったので、自分の居住地にいながら、よそ者であった。なぜなら、各胞族や各部族は、平時にはその関係事項を、アテナイの民衆評議会やバシレウスに送り込まずに、みずから処理していた。ところが、胞族または部族に所属しないでその領域に住んでいたものは、とうぜんこの行政にまったく参加することができなかったからである。
このため、氏族制度の諸機関の規則的な運営は混乱におちいり、すでに英雄時代にその救済が必要となった。テセウスによるといわれる制度が採用された。その変革の要点は、なによりもまずアテナイに中央行政機関が設置されたこと、すなわち、これまで部族が自主的に処理してきた事項の一部が、共同のものであると宣言されて、アテナイにある共同評議会に移管されたことである。・・・これによって、部族や氏族の法慣習に優先する、アテナイの一般的な部族法が生まれた。」
ここでエンゲルスは、部族や氏族の慣習的な規範が、いわゆる法規範に転換され、法規範を対象とする事務を扱う機関が設立されたといっている。それに伴って、おそらく、さまざまな共同事項が、氏族・部族の慣習的規範から法規範に掬い取られたことであろう。そしてなによりも、部族・氏族が表わしていた共同体としての共同の利益である秩序・統一性も、新たな国家が徐々に引き継いだことであろう。こうして、国家という、法規範に支えられた政治的共同体が部族を超えて成立して行くのである。
「テセウスによるといわれる第二の制度は、全民衆を、氏族・胞族・部族にかかわりなく、エウパトリダイすなわち貴族、ゲオモロイすなわち耕作農民、デミウルゴイすなわち手工業者、の三階級に区分して、公職就任の排他的権利を貴族に付与したことであった。なるほどこの区分は貴族による公職就任を除けば、効果なしに終わった。・・・それは重要である。・・・それは、氏族の公職に一定の家族が慣習的に就任していたことが、すでにその公職にたいするこれらの家族のほとんど争う余地のない要求権にまでなりきっていたこと、そうでなくても富によって有力なこれらの家族が、その氏族の外部で独自の特権階級に結束しはじめたこと、そうしてようやく芽生えたばかりの国家が、この越権を神聖化したことを示している。さらにそれは、農民と手工業者との分業がすでに十分強化されていて、氏族や部族による古い編制にたいして、社会的意義における優位を争うまでにいたったことを示している。最後にそれは、氏族社会と国家との両立しがたい対立を宣言している。」
見るように、エンゲルスは、国家の歴史的な出現を、論理的に構成している。すなわち、土地の私有→農耕と手工業、商業と航海の分業→貴族・農民・手工業者の分離確立→中央行政機関と共同評議会である。国家は、私的所有者である貴族・農民・手工業者の共同利益の施行と相互の調整役として現れている。
「畜群や奢侈品での私有の発生は、個々人のあいだの交換を、生産物の商品への転化をもたらした。そしてここに、それ以後の全変革の萌芽がある。生産者がその生産物をもはや直接に自分で消費しないで、交換のために手放すようになるやいなや、彼らはそれに対する支配を失った。・・・商品生産につれて、個々人による自分の計算での土地耕作が生じ、これにつれてやがて個々人の土地所有が生じた。さらに貨幣が、すなわち、他のすべての商品にたいして交換できる一般商品が生じた。・・・古い氏族制度は、貨幣の凱旋行列にたいして無力なことを証明しただけではなかった。それは、貨幣とか、債権者や債務者とか、債務の強制取立てとかいったものにたいして、自分の枠内に単なる余地を見出すことさえ、絶対に不可能であった。・・・全アッティカ領域、とくにアテナイ市自体では、氏族員や胞族員の交錯は世代を重ねるにつれてますますはげしくなっていった。農耕、手工業、手工業の中ではさらに無数の亜種、商業、航海行、等々の種々の生産部門間の分業は、工業と交通の進歩につれてますます完全に発展してきた。いまや住民は、その職業に応じてかなり固定的な諸集団に分かれ、これらの諸集団は、一連の新しい共通の利害をもっていたが、氏族や胞族にはそれをいれる余地がなかったので、その処理のために新しい公職を必要としていた。奴隷の数はいちじるしく増大して、当時すでに自由なアテナイ人の数をはるかにこえていたにちがいない。氏族制度は元来、奴隷制をしらなかったから、この大量の不自由民を制御する手段をも知らなかった。そして最後に、商業は大量の外来者をアテナイにひきよせ、彼らは金儲けが容易なのでここに定着したが、これもまた古い制度によって無権利・無保護のままであり、慣習的な寛容をもって扱われたにもかかわらず、民衆のなかの攪乱的な異分子にとどまっていた。・・・はじめは都市と農村の分業、つぎに都市の種々の労働部門間の分業によってつくりだされた新しい諸集団は、その利益の擁護のために新しい諸機関をつくりだし、各種の公職が設置されていた。そしてつぎに、若い国家はなによりも自己の力を必要としたが、これは航海を業とするアテナイ人にあっては、さしあたり個々の小戦争や商船保護のための海軍力でしかありえなかった。ソロン以前のいつかわからぬ時期に、ナウクラリアという小区画が、各簿族に12ずつ設けられた。・・・」
さて、その後はどうなったか。
バシレウスは、その後、貴族の中のアルコンが取って代わり、貴族に貨幣の富が集中し、その支配が強化された。貨幣と高利貸しが、アッティカの分割地農民を零落させた。「ますますはびこる貴族の貨幣支配は、債権者を債務者から保護するために、貨幣所有者による小農民の搾取を神聖化するために、新しい慣習法をもつくりあげた。アッティカの全耕地には抵当標柱が一面に立ち並び、それにはこの地所はだれだれにこれこれの金額で抵当にはいっている、と書かれてあった。」農民は、小作人となるか、足りない場合には、自分の子供や自分自身を奴隷として売らねばならなかった。
ソロンは、紀元前594年の改革で、「債務はあっさりと無効を宣言された。」また、「たとえば債務者の人格を抵当とする債務契約を禁止することによって、」自由なアテナイ人の奴隷化を阻止した。更に「1個人でも持てる土地所有の最大限度を確定」することによって、貴族の農地所有に制限を加えた。
ソロンの制度改革としては、「評議会は、・・・各部族から百人ずつで、四百人にされた。」また、「市民を、その所有地とそこからの収穫によって4つの階級に区分した」。「すべての公職には上位の3階級のものだけが、最高の公職には第1階級のものだけが就任することができた。」「貴族政的特権は、富の特権と言う形態で部分的に更新されたが、しかし民衆が決定的な力を保持していた。さらに、第4階級は新しい軍事組織の基礎をなしていた。」
ソロンに次いで、紀元前509年のクレイステネスによる革命によって、「貴族を最終的に転落させた。だが、それとともに氏族制度の最後の遺物もまた。」こうして、アテナイの国家の基礎が完成された。
クレイステネスは、氏族を無視した。「アッティカ全域は百の自治区、デモスに分けられ、その各々は自治行政を行なった。各デモスに居住する市民(デモテス)は、彼らの首長(デマルコス)と財務官、ならびに小さな係争事件について裁判権を持つ30人の裁判官を選出した。彼らはまた、自分たちの神殿と守護神または英雄をもち、その神官を選挙した。デモスでの最高権力はデモテスの集会にあった。」「この単位すなわちデモスが十で一つの部族を形成したが、これは古い血縁部族と区別するため、いまや地縁部族とよばれる。この地縁部族は、自治的な政治的団体であるばかりでなく、軍事団体でもあった。」「最後にそれは、アテナイ評議会に50人の評議員を選挙した。」「しめくくりをなすのはアテナイ国家であった。これは、10の部族が選出した500人で構成される評議会によって、そして究極的には、すべてのアテナイ市民が出席権と投票権とを持つ民会によって統治された。これとならんで、アルコンやその他の官吏が、種種の行政部門や裁判所をつかさどった。」
ところでエンゲルスは、「その社会的および政治的諸制度の基礎をなす階級対立は、もはや貴族と一般民衆との対立ではなく、奴隷と自由民との、居留民と市民との対立であった。」とし、最盛期の全アテナイの自由市民約9万人、奴隷36万5千人、居留民4万5千人としている。
ところが、訳注には、「アテナイの住民の構成」として、奴隷の数について、「アテナイの最盛期にあたる前五世紀後半でも、自由な市民15万前後、居留外人3万前後にたいして奴隷は10万前後であったといわれる。」とある。
すると、エンゲルスの「古代国家は、なによりもまず奴隷を抑制するための奴隷所有者の国家であった」という記述は、その直接的なイメージからするとやや奇異な印象を受ける。
むしろ、「小農民経営と独立手工業経営とは、・・・原始的東洋的共有制が崩壊した後で奴隷制が本式に生産を支配するようになりまでは、最盛期の古典的共同体の経済的基礎をなしている」という記述の方が、古代国家としてはふさわしいであろう。「奴隷国家」というのは、「商工業の発展につれて、少数者の手への富の蓄積と集積が、自由市民大衆の貧困化が生じ」それによって、自由市民がルンペン化した後の時代の表現として適切なのではあるまいか。
マルクスの資本論によれば、資本制こそ、私的所有の社会的貫徹であり、完成である。その経済制度に政治的に対応するのが、民主政を原則とする近代国家である。それには、労働力商品が一般化する資本制の普及を待たねばならない。それ以前の社会、特に農耕を主とする社会では、私的所有の発展は不完全であり、そのため近代から見れば、国家の発達も制限されて見える。
ここで、国家の成立とその後の発展の基礎・土台にある経済的条件を、確認しておこう。
経済的支配の条件は、生産手段の私的所有に基づく剰余労働の取得にある。「いつでも、社会の一部の者が生産手段の独占権を握っていれば、いつでも労働者は、自由であろうと不自由であろうと、自分自身を維持するために必要な労働時間に余分な労働時間を付け加えて、生産手段の所有者のために生活手段を生産しなければならない。」(資本論)
古代の場合、経済的支配層はアテナイの貴族であり、ローマの市民である。一方、被支配層は、いずれも奴隷であった。封建時代の場合、経済的支配層は領主であり、被支配層は、農奴であった。
国家の実体化である国家権力(常備軍・警察、官吏)は、直接的生産には携わらない。それも、剰余労働の強制的取得に依存している。したがって、独立した政治的国家の実体を成す国家権力の成立には、個々の社会全体が大量の剰余労働を生み出すことが前提条件である。しかし、労働生産物が価値形態を取ることが通常形態にならない限りは、剰余労働の生産は主とならない。だから、剰余労働が剰余価値としての形態を取った資本主義的経済にならない限りは、政治的国家の経済的独立化の条件は存在しない。
人間の生産諸力がまだ必要労働に全面的に捕らわれていて剰余労働を生む出す余裕さえなかった間は、人々の生活の生産諸関係は、論理的に一体であった。それに対応した上部構造が氏族制度であった。氏族制度自体は、この土台の上で発展しつつ、剰余労働によって養われる支配層が生まれに従い、次第に変形して行く。
奴隷制が支配的になる前の古典的古代の国家は、「自由平等な私的土地所有者相互の関係、外部に対する彼らの結合であり、また同時に彼らの保障でもある。」(「先行する諸形態」)
ここで前提としているのは、自ら土地を所有し、家族とともに働く小規模農耕者である。婦女子の家内副業として紡糸や機織などを営み、自給自足の生活を営む。ただ、個別の限られた部門においてのみ、自立的に手工業が行なわれている。しかし、それもあくまで小規模農業を支える範囲内での営業であり、通常、手工業や商業は蔑視され、解放奴隷などがそれに従事していた。
農耕者とその家族は、皆集まって暮らしており、都市を形成している。この都市こそ、氏族の絆に代替する国家そのものである。なぜなら、他の同様な都市国家による侵略の可能性が常に存在し、そのため戦争行為が重要な共同作業であるから。
このような経済的土台の上に、古代国家の政治的・軍事的制度が成立する。それは、内外の敵から個々の分割地農民の相互の自由と平等を守り維持するための必要不可欠な制度である。ここでの国家の意志・目的は、あくまで自由平等な自給自足的な農民を再生産することであって、そのため、国家は、個々の農民の剰余労働を戦争などの共同行為に振り向ける。
国家は、各家族の私有地とは分離された、共同利用する公用地を持っており、また、個々の分割地農民は、あくまで国家の市民としてのみ私的土地所有を認められている。だから土地所有とは、都市国家の市民の証明とも言える。
ところで、剰余労働は、都市の私的所有の側面がもたらした。そこで、土地の私的所有を認めつつ、共同所有も保存しようとした矛盾の上部構造が、古代の都市国家である。したがって国家は、私的所有を保証するという点を除けば、氏族制度と似たような形式と内容を持っていると言えよう。
ここで重要なのは、私的所有が個別的家族を相互に敵対関係に置く可能性を現実化し、その結果、経済から政治が分離し国家が成立したことである。慣習的な社会規範では社会の秩序が取れなくなり、法によって秩序を維持する必要性が発生したのである。
また、古典古代は小農民経営を基礎としていたので、そのための農地の分割所有の維持と制限が必要であった。貨幣経済の発展による、土地所有の拡大や消失、手工業の独立化・拡大は、いずれもこの土台を破壊することを意味する。したがって、法的にそれを制限し、そのための社会意識諸形態を整えることが、論理的に必要とされる。国家の市民としての土地所有しか認められなかったのも、貴族による貨幣支配を制限し、分割地農民の零落を救済するために、私的所有に制限を加えたのも、このような経済制度の維持が基礎にあったからである。
古代民主政とも称されるアテナイの国家制度は、まさしく分割地農民を土台に持った国家にふさわしい制度であった。始まったばかりの若い国家は、国家としての最低限の権力機関を備え、また、政治的共同体として、内外の敵に対抗するため、警察と海軍を持っており、内容的には、いわば氏族制度の生まれ変わりとして、氏族制度的国家と言ってよいであろう。
「いまやその骨組のできあがった国家が、アテナイ人の新しい社会的状態にいかによく適合していたかは、富と商工業が急速に開花したことに示されている。」(起源)
都市国家自体はこの土台の上で発展し、奴隷制度の本格的採用とともに、自国内の大規模な奴隷制ないし、他都市への奴隷的支配の拡大をもたらし、生産された剰余労働に依存した支配層=貴族・市民が政治的支配層を形成する。
一見すると、大量の奴隷労働による大規模な園圃耕作(ラティフンディウム経営)が、効率的な高い生産力をもたらすように思われるが、それには対応する需要、なかんずく都市人口の増加が必要である。したがって、都市が衰微するにつれ、奴隷制は衰退して行くのである。
こうして、一時は隆盛を極めた国家が広大な領地を獲得しながらも、政治的上部構造の故に、変形しながら衰退して行く。
一方、同じような経済的条件を持ちながらも、別の上部構造を構築したのが、封建制度である。
封建制のヒエラルヒーは、もともとゲルマンの民族移動時代の体制に由来する。常時移動しながらの戦闘行為は、常日頃から軍隊式に各人への明確な役割の割振りと固定を要請する。これが、軍指揮者につき従う従士制の形成を促進した。ゲルマン人は、征服したローマの領地を自分たちで分配したが、なお残る広大な領地は共有地として残された。軍指揮者から転化した王は、それを王領地とし彼の従者に分配した。こうして、忠誠と引き換えの恩寵及び階層的編制という従士制が、後の貴族の基礎となったのである。
もともと、ゲルマン人が慣れ親しんでいた経済的土台は、アテナイやローマと同様に自給自足的な小規模農業ではあったが、「個々の家族長が遠い道のりでへだてられた森林の中に定着していた」(「先行する諸形態」)ので、個々の家族はより自立的であった。彼らの狩猟地・牧草地等共有地は共同所有ではあったが、共同体所有というより、個々の家族の共同所有という性格がより強かった。彼らも氏族組織と同様な制度を持っていたが、それは定期的な集会によって保たれていた連合であった。このような土地所有農民が、ゲルマン人の軍隊の中核をなしていたのであった。
しかし、たび重なる内乱と征服戦によって、彼らは疲弊し零落して行った。そうして、後に農奴となっていく。エンゲルスは、その間の事情を、「起源」に次のように記述している。
「フランクの自由な農民は、その先行者であるローマのコロヌスと似た状態におかれていた。戦争や略奪によって零落した彼らは、新興の豪族または教会の保護に身をゆだねなければならなかった。王権があまりにも弱く、彼らを保護することができなかったからである。しかし、この保護にたいして彼らは高い代償を払わなければならなかった。以前にガリアの農民がしたように、彼らはその土地の所有権を保護主に譲渡しなければならず、この土地を彼から種々不定の形態の貢租負担地として、しかしつねに賦役と貢納の給付と引換えにのみ受け戻したのである。いったんこの従属の形態におちいると、彼らはしだいに人身的自由をも失っていった。数世代のちには、彼らは大部分がすでに農奴であった。」
「このことは、農耕ならびに工業の低い発展段階を前提としている。この全状態は必然的に、支配する大土地所有者と従属する小農民とを生産する。」
このような経済的土台が、農奴の剰余労働の取得の代わりに、彼らの土地を守護するという封建国家の基礎となったのである。封建領主の「戦争や裁判における最高司令」はこのような「土地所有の属性だった」(資本論)。「ゲルマン時代の国家の解体は、ノルマン・サラセン的な圧制に終らずに、恩貸制と保護托身制の封建制度への発展に、またそれから二百年たらずのちに十字軍の大流血に無事に耐えたほどのいちじるしい人口増加に、終ったのである。」
古典古代国家と封建制国家とは、分割地農民経営とそれを支える独立手工業経営の経済的土台という同じ経済的条件を持っていた。このことは、それぞれの国家が、自給自足的な閉鎖的社会を形成していることを意味している。したがって、その基礎を破壊する、私有財産の拡大・貨幣経済の進展は、注意深く避けるか、一定の枠の中に制限されなければならなかったはずである。これこそが、それぞれの国家の共同の利益だからである。
ちなみに、この歴史的過程は、論理的には人間の個別化の過程でもある。
「人間は・・・社会に中でだけ自分を個別化できる動物である。」(序説)
人間の個別化は、各家庭の個別化であり、農耕を基礎とする社会にあっては、生産手段である土地の私的所有化=分割化として現象する。その基礎の上で、農耕から手工業の分離・商業と工業の独立化=人間の生産力の多様化が開始される。だから私的所有は、この段階では、人間社会の進歩でもあったと言えるのである。
4、第1章 階級社会と国家
さて、ここではじめて、レーニンの検討するエンゲルスの文章を取り上げることができる。
マルクスやエンゲルスにとって常識であったヘーゲルやフォイエルバッハは、レーニンにとっては常識ではなかった。すでに「資本論」に記載されていた労働生産物→商品→貨幣→資本という展開された自己疎外の論理(=これこそ唯物論的弁証法の典型)を、彼は理解できなかった。そこで、レーニンは、エンゲルスの本に書かれた文を読み、それを自己流に解釈するしかなかった。ここで自己流とは、彼のいまだ抜け出していなかった俗流唯物論の立場のことである。
レーニンが引用する「起源」からの文を再掲してみる。
「国家はけっして外から社会に押しつけられた権力ではない。またそれは、ヘーゲルの主張するような、『人倫的理念が現実化したもの』、『理性が形象化し、現実化したもの』でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決できない矛盾に巻き込まれ、自分では払いのける力のない、和解できない対立物に分裂したことを白状するものである。ところで、これらの対立物が、すなわち相争う経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争によって自分自身と社会を滅ぼさないようにするためには、外見的には社会の上に立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』の枠内に保つべき権力が必要となった。そして、社会から生まれながら社会の上に立ち、社会にたいしてますます外的なものとなっていくこの権力が、国家である。」
この文が、「起源」で出てくる前には、氏族制度から国家への検討がなされている。そこで、この文を取り上げるためには、少なくともアテナイ位は取り上げる必要があったのである。
エンゲルスは、この文で、国家の起源と役割を端的に表現している。「解決できない自己矛盾」、すなわち単婚個別家族への分裂と私有財産制が国家の基礎にあり、それが階級対立を招き、「相争う経済的利害をもつ諸階級が無益な闘争によって自分自身と社会を滅ぼさないようにするため」、すなわち共倒れを避けるために、「この衝突を緩和し、それを『秩序』の枠内に保つべき権力」として国家が存在するとしている。
一方、レーニンは、国家は、「1階級が他の階級を抑圧する機関」であるとする。「国家は階級支配の機関であり、1階級が他の階級を抑圧する機関であり、階級の衝突を緩和させながら、この抑圧を公認し強固なものにする『秩序』を創出することである」。階級対立は和解できないものであるから、国家が果たすべき「秩序」とは、被支配階級を抑圧し、抑圧を公認し強固にするということになる。
この国家権力機関は、社会の上に立ち、社会に対して外的な機関である。
「エンゲルスは、国家と呼ばれる「権力」、すなわち、社会から生まれながら、社会の上に立ち、社会に対してますます外的なものになっていく権力の概念を展開している。この権力は、主としてなににあるのか。それは、監獄等を意のままにする武装した人間の特殊な部隊にある。」
すなわち、「常備軍と警察」である。これこそ、支配階級に奉仕する武装特殊部隊である。
レーニンにとって、国家は、実体的機関である国家権力と直接的に同一である。したがって、階級抑圧は、この国家権力の属性ということになる。この観点からすると、「常備軍と警察」を、支配階級が「自分に奉仕する武装した人間の特殊な部隊」として把握するのは、論理的に当然であろう。階級敵に対する直接的な取り締まり機関という認識である。
国家の公的暴力には、官吏も含まれる。これを維持するためには、租税と国債が必要である。
以上が、レーニンが第1章第1節〜3節で示している国家観である。
そこには、背景にある法の支配に基づく国家の存在がすっぽりと抜け落ちている。レーニンは、「秩序」を、抑圧を公認し強固なものにする階級的秩序=社会的序列に限定し、上部構造の問題を、土台の問題に解消してしまっているのである。
この極めて単純明快な国家観は、確かにレーニンの生きていた時代の帝政ロシアには、当てはまりそうである。いや、昔の時代だけではない。現在でもこれとよく似た権力構造を持った国家の例、一部の独裁的な支配者層が、軍隊と警察を武器に多数の非支配者層を強引に抑圧している構図を、新聞やニュースで見聞きしている。だからといって、これらの特殊な事例をもって、それを国家一般であるとすることはできない。あくまで特殊な条件下での特殊な国家、あるいは国家の特殊な現象であるからである。
レーニンは、自らの論理的限界から、この特殊性を誤って国家一般に拡大し当てはめた。その結果、国家の役割を非常に狭く限定することになり、国家の示すこれ以外のさまざまな現象・機能・構造を、無視したり捻じ曲げたりこじつけたりして解釈することになった。特に、国家の死滅のような本質から派生する議論について、誤謬が露呈することになった。
エンゲルスが言う「秩序」とは、政治的秩序=法的秩序のことを指している。このことは、レーニンの引用した「起源」からの文章が、「古い氏族制度と対比して国家」を取り上げていることからわかる。氏族制度は、自然発生的な慣習的な社会規範が支えていた。それに対して国家は、法規範が支える制度である。
法規範は、自然発生的な氏族制度と違って、共同体成員の自主的・自発的な実行・服従を期待できない。そこで、それを成員全部に強制・施行する実体的な権力組織が必要となる。エンゲルスが挙げた国家の特徴、すなわち、領域による国民の区分、公権力の樹立、国民の拠出、官吏組織などは、その実体的な国家権力の特徴なのである。
エンゲルスの取り上げた「公権力の樹立」は、「民兵」「艦隊」「憲兵」の「武装した人間」および「物的付属物、すなわち監獄や各種の強制施設からもなる。」
これは、慣習が支えていた自発的な抗争調整機能に代わって現れた法規範の強制力の実体的な機関である。氏族時代ならば、自主的に守られていた秩序は、支配者が支配するためには、国家意志である法を被支配者が守ってくれなければ成り立たない。したがって、従わない者には、強制力によってでも従わせ、違反者は処罰すると言う強力が必要となる。無論、強制力を使わなくても自ら進んで自主的に法に従ってくれればそれに越したことはないが。
レーニンの俗流唯物論では、エンゲルスの国家論は理解できないであろうが、エンゲルスは国家権力をイデオロギー的な力といっている。すなわち、支配階級は法規範を媒介にして、武装した人間や強制施設を設置して取り締まるのである。したがって法的性格の違いによって、軍隊と警察では、その利用の仕方が異なる。軍隊は、主として国家の対外的施策に利用するものであり、これに対して警察は対内的な施策に利用するものであり、後者については、更に裁判所が介在する。
こうように媒介的だからと言って、直接的支配より強力でないとはいいきれない。むしろ、相対的独立を示しているからこそ、より広範でより強力でより一貫性を持たせることができるともいえる。それがイデオロギー的権力の特徴である。
エンゲルスは続ける。
「この公権力を維持するためには、国民の拠出が必要である。―すなわち租税である。・・・租税でももはや足りなくなる。・・・すなわち国債である。・・・公権力と徴税権を掌握して、官吏はいまや社会の機関として社会の上に立っている。」
一つの国家を一人の人間に例えれば、人が活動する前に実践に至る意志を形成せねばならないように、国家は、まず、国家意志を対象化し法規範を成立させる(立法)。その後に初めて、法規範に従って自分の体を動かして活動を開始する(行政)。その後に、更に最初の意志がその結果と合致していたかどうかを検証する(司法)。その体とその活動が、国家権力を構成する官吏とその活動と言うわけである。(この部分は、滝村「国家論大綱」に詳しい。)この組織の実体的な全体が、国家権力を構成する。そのための経済的基礎が、租税と国債である。
「国家権力機関としての官吏の特権的地位の問題」については、レーニンは後の章で取りあげるので、ここでは議論しない。
エンゲルスは、氏族組織の「血の紐帯」に対し、国家は領域、すなわち居住場所による国民の区分を基礎に持つとする。
領域、具体的には領土・領海とは、国家が統治する地理的領域といってよいであろうが、それは、その国家が成立する時点で保持されていた比較的濃厚な労働の生産関係に基礎を持っている。それが秩序維持という共同の利益の礎になっているからである。労働の生産力及び生産関係の中には、労働の対象化のための諸手段も含まれる。ただ、労働の生産関係は本質的関係であって、目で見て手で触れる実体的なものではない。その現象形態すなわち実体的空間的領域、生産手段でもあり諸家族が生活する領域が、国家の領土・領海である。農耕を主とする初期の段階では、なかんずく土地である。むろん、それはその後の歴史的変遷によって大きく変化して行く。
歴史的には、国家の領域は、各国家の戦争を含む交渉の中で決定される。すでに見たように、ギリシャの諸都市国家は、その周囲を城壁で取り囲んでいたが、それは、低い段階での生産諸力をしか持ち得ない運命から必然的に要求される交通関係、すなわち隣り合う都市国家同士の絶え間ない戦争を行なっていたからである。
「軍事的民主政」「軍事的―というのは、戦争と戦争のための組織とが、いまや部族生活の規則的な機能となったからである。隣人の富は、富の獲得が第一の生活目的の一つとして現れる諸部族団の、所有欲を刺激する。・・・略奪は労働による獲得よりも容易であり・・・戦争は・・・今では単なる略奪のためにおこなわれ、恒常的な生業部門となる。」
したがって、領域内では、その都市国家としての統一的な国家権力が隅々まで及んでいなくてはならない。「このような所属場所による国民の組織」は、内部的にも支配権力の強化を促す。それをエンゲルスは次のように表している。
「略奪戦争は、最高軍指揮者の勢力をも下級指揮者の勢力をも高め」、それを世襲制にし、「全氏族制度はその反対物に転化する。すなわちそれは、自分達自身の事項を自由に処理するための諸部族の組織から、隣人の略奪と抑圧のための組織となり、またそれに応じてその諸機関は、民衆の意志の道具から、自己の民衆に対する支配と抑圧のための自立的な機関となる。」
レーニンは、この節の後半で「帝国主義」と第一次世界大戦について触れている。これについては、「帝国」=国家による他国家の征服の問題と絡んで、レーニンの「帝国主義論」を取り挙げねばならない。
レーニンについて言えば、国家と国家権力を同一視したため、独占資本主義を構成する資本家による階級的独裁が、単なるブルジョア階級の暴力機関の独裁と同一視され、帝国主義戦争が、単なる国別暴力機関の闘争に矮小化された。現象的には、それでも時の戦争を理解するに不十分ではなかったが、これは独占資本主義の過小評価と、暴力革命の過大評価を生んでしまう。いずれ「帝国主義論」の誤謬も議論するつもりである。
「国家は階級対立を制御する必要から生じたのであるから、しかしそれは同時にこれらの階級の抗争のただなかで生じたのであるから、それは通例、もっとも有力な、経済的に支配する階級の国家である。そしてこの階級は、国家をつうじて、政治的にも支配する階級となり、こうして、被抑圧階級を抑制し搾取するための新しい手段を獲得する。こうして、古代国家は、なによりもまず奴隷を抑制するための奴隷所有者の国家であったし、同様に封建国家は、農奴・隷農的農民を抑制するための貴族の機関であったし、近代的代議制国家は、資本による賃労働の搾取の道具である。」
エンゲルスは簡単に概括しているが、経済的階級形成→政治的階級支配に至る過程は、アテネ国家でも見たように、相当長くかかる歴史的過程である。
エンゲルスは続ける。
「このほか、歴史上の大部分の国家では、国民に認められる諸権利は財産による等級付けをうけ、これによって、国家は有産階級の、無産階級に対する防衛のための組織であることが、直接に表明されるのである。・・・しかし、このような財産上の区別の政治上での承認は、決して本質的なものではない。逆に、それは国家の発展の低次の段階を表している。最高の国家形態である民主共和政は、・・・公式にはもはや財産上の区別をまるで問題にしない。そこでは、富はその力を間接的に、しかもそれだけいっそう確実に行使する。一方では直接の官吏買収の形で。・・・他方では、政府と取引所との提携の形で。この提携は、国債が増加すればするほど、また株式会社がたんに運輸だけではなしに、生産そのものをもその手中に集中し、さらにその中心点を取引所に見出すようになればなるほど、ますます容易に達成される。」
これに対しレーニンは、「今日では、帝国主義と銀行に支配とは、どんな民主的共和国にあっても、富の無制限の権力を擁護し実現するこれら二つの方法を並々ならぬ技量に「発達」させている。」と書いている。
2節で述べたように、近代国家は、市民社会と政治的国家の完全な分離を達成し、政治=国家と経済の二重化を完成させる。
近代国家の経済的土台は、資本主義的生産様式である。その政治的上部構造は、形式的には、自由な商品交換の原則に一致する政治的自由が保障されている。そこでは、商品生産と商品流通の形式と同様に、一人一人は平等な「想像上の主権の空想上の構成員」であり、自分の意志は自分の良識に基づき決定し、あくまでその同等な主権を行使する。いわゆる「普通選挙権」である。
しかし、その内容は外観とは異なる。資本主義的生産様式は、資本主義的取得様式をもたらすからである。それは、一方に他人の不払労働=剰余労働の生産物を所得する資本家を、もう一方に、彼自身の生産物を所得することの不可能な賃金労働者を、再生産する。このような経済生活における不平等は、資本家階級と労働者階級の形成を促し、両者のさまざまな軋轢と闘争を引き起こす。その結果、それが政治的な領域での解決を求めるようになる。
政治的国家と市民社会は、相互に浸透しあう。
まず、資本家階級と労働者階級はそれぞれ自己を二重化させ、それぞれの政治的代理人を立て、その下で政治的権力として自らを構成し、国家意志と国家権力の支配を巡って政治的に相争う。(経済から政治へ)
一方、政治的権力である国家権力は、共同事務としての経済的権力としても自己を展開する。それは、市民社会を構成する諸家族及び諸階級はそれぞれの特殊な利益のみを追求するが、一方、国家がその目的の一つとしている「共同の利益」の実現は、その中に特殊性を持つ時のみ現実化できるからである。(政治から経済へ)
この二つの相互浸透は、また相互に関係している。
例えば、イギリスにおける標準労働日のための労働者階級の闘争と工場立法(資本論第8章)、その法律による保健条項や教育条項(第13章第9節)の側面がそうである。
「官吏の買収」や「国債」なども、この相互浸透のありかたの一つとして、理解すべきである。更に、その一つに「国有化」がある。
「とほうもなく成長して行く生産力がこのようにみずからの資本と言う性質に抵抗し、このようにみずからの社会的な本性を承認するようにますます強く迫っているということ、このことこそが資本家階級自身に、およそ資本関係の内部で可能なかぎりでこの生産力を社会的生産力として取り扱うことを、ますますやむなくさせるのである。産業の好況期は、信用を無制限に膨張させることによって、また恐慌そのものも、大規模な資本主義的企業の倒産を通じて、各種の株式会社においてわれわれが見るような、大量の生産手段の社会化の形態に向かって押しすすめる。これらの生産手段や交通通信手段のうちには、例えば鉄道のように、もともと非常に巨大なために、これ以外のどんな資本主義的利用の形態もとることのできないものもある。ある発展段階に達すると、この形態でさえももはや十分ではなくなる。資本主義社会の公式の代表者である国家が、それらの指揮を引き受けなければならなくなる。」(「反デューリング論」)
また、資本家階級と労働者階級という二つの対立物も、相互に浸透しあう。
資本論第11章協業で、次のような特別な労働者のことがでてきた。
「いっそう大規模な協業の発展につれて・・・資本家は・・・個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。・・・労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人)や産業下士官(職工長)を必要とする。監督という労働が彼らの専有の機能に固定するのである。」
このような労働者は、資本家の機能を持った労働者=資本家的労働者といってよい。社会的存在がその意識を規定する。彼らは、次第に労働者的意識とともに資本家的意識を併せ持つようになる。現在では、いわゆる管理部門に従事する労働者がそれにあたる。
「いまでは、資本家の社会的機能はすべて、給料をもらっている職員によって果たされている。」(「反デューリング論」)
また、労働者的資本家も生まれてくる。
労働者が給料の一部を銀行に預けるだけでなく、それで投資信託や株式を買うとしたら、それは労働者的資本家の始まりである。彼は自分の給与から資本家に資本を提供したのである。停年を迎え、退職金や年金を元に本格的に投資信託を始めたとしたら、それはもうりっぱな小資本家である。彼らも同じように、自然に資本家的意識を持つようになっていく。
もっとも資本家も労働者化する。
「資本主義的生産様式は、まず労働者を駆逐したが、いまや資本家を駆逐して、労働者の場合とまったく同じように、さしあたってはまだ産業予備軍のなかへではないが、過剰人口になかへ追いやるのである。」(「反デューリング論」)
現在では、このような資本家や労働者によって、市民社会と国家が支えられているのである。
エンゲルスは、「普通選挙権」について、次にように言っている。
「そして最後に、有産階級は普通選挙権を通じて直接に支配するのである。・・・彼らが自己解放へと成熟するにつれて、彼らは自らを独自の党に結成し、資本家の代表者ではなしに自分たち自身の代表者を選挙するようになる。こうして、普通選挙権は労働者階級の成熟の尺度である。それは今日の国家では、けっしてそれ以上のものであることはできないし、またそれ以上のものにはならないであろう。」
「選挙を通じて平和的に革命が起こせないか」という素朴な期待に対して、エンゲルスは明確に否定している。それは、私有財産制を守る使命を帯びている国家が自らを自己否定することはあり得ないという原理的な観点からだけでなく、階級対立は資本主義的生産様式が続く限りなくならないという経済的観点からでもある。レーニンも、彼の国家抑圧機関論からエンゲルスの見解を肯定している。これについても、後の章で再び取り上げることになる。
エンゲルスはその後で、国家がいずれ歴史上の遺物として博物館入りするといっている。そこで、レーニンとともに、次の「国家の死滅」の問題に移ろう。
レーニンは、エンゲルスの「反デューリング論」第3篇2理論的概説から引用しているが、そこでは、プロレタリアートがブルジョアジーから国家権力を奪い取って生産手段を国有化することで、国家を「揚棄」(レーニンの訳文では「廃絶」)し、無用になった国家権力は次第に眠り込んでしまい、「国家は死滅する」と説明されている。
レーニンも引用している部分を再掲すると、
「プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまずはじめには国家的所有に転化する。だが、そうすることで、プロレタリアートはプロレタリアートとしての自分自身を揚棄し、そうすることであらゆる階級区別と階級対立を揚棄し、そうすることでまた国家としての国家をも揚棄する。・・・国家が真に全社会の代表者として現れる最初の行為―社会の名において生産手段を掌握すること―は、同時に、国家が国家としておこなう最後の自主的な行為である。社会関係への国家権力の干渉は、一分野から一分野へとつぎつぎによけいなものになり、やがてひとりでに眠り込んでしまう。人に対する統治に代わって、物の管理と生産過程の指揮とが現れる。国家は「廃止される」のではない。それは死滅するのである。」
レーニンはエンゲルスの一部の規定に引きずられて、国家を「1階級が他の階級を抑圧する機関」として規定したため、この「国家の死滅」が理解できない。そこでレーニンは、資本主義から共産主義への過程を二つに分け、プロレタリアートが国家権力を奪取するプロレタリア革命で「廃絶」されるのはブルジョア国家であり、その後の社会主義段階では、ブルジョアジーを抑圧して置く必要から階級抑圧機関である国家権力は必要であるとして、その必要がなくなった社会主義革命後の段階で「国家は死滅」すると解釈した。「死滅と言う言葉は、社会主義革命後のプロレタリア国家組織の残存物にかんすることである。」
この社会主義革命後の時代では、完全な民主主義が実現するが、この民主主義と言う国家形態が、「死滅」するのだと考えたのである。
プロレタリアートが国家権力を掌握し、生産手段を国有化するということは、プロレタリアートが政治的・経済的権力を国家権力として確立するということである。その段階で、すでにブルジョアジーは主要な権力を失ったことを意味する。それは、論理的には、同時に国家そのものを「揚棄」(弁証法的な意味で「否定」)したということであって、その後の国家権力の役割は、社会関係への干渉、すなわち社会の社会主義的改造であって、ブルジョア階級の抑圧が主ではない。その干渉が余計なものとなった時、死滅するのは「国家」そのものである。エンゲルスが言う「国家としての国家の揚棄」とは、そういってよければ「階級抑圧機能」の否定と、国家権力の干渉後に現れる共同事務=「物の管理と生産過程の指揮」の保存のことであって、「国家の死滅」とは、「国家の揚棄」の現象形態なのであり、国家の死滅の過程は、プロレタリアートが国家権力を奪取したときから始まっているのである。だから、「国家の揚棄」というのは、レーニンの言う「ブルジョアジーの国家の廃絶」ではない。
一方、レーニンは、国家と国家権力を同一視したため、ブルジョア国家の「廃絶」の後も国家権力の役割が残ることを「国家」が残ることと解釈せざるを得なかった。そこで、国家が残る=階級抑圧機能が残ると考え、「国家」=「階級抑圧機関」という規定と両立させたのである。そのため、社会主義化の過程を自分流に解釈し、エンゲルスのテキストにも書かれていない「ブルジョア国家の廃絶」=プロレタリア革命から「プロレタリア国家組織の残存物」=「プロレタリア国家または半国家」の「死滅」という、「廃絶」から「死滅」の間の時期を捻出し、「プロレタリアートの独裁」と自分流の「プロレタリア国家または半国家」とを結びつけ、それを「プロレタリアートがブルジョアジーを『抑圧するための特殊な力』」として解釈したのである。
レーニンからしてみれば、「誰一人気がつかないのである。これは、一見はなはだ奇異に思われ」たのであろうが、レーニンが気がついたことに誰も気がつかなかったのは当たり前で、レーニンは枯れ尾花に幽霊を見たのである。
すでに説明したことであるが、国家は、社会に私的所有が導入されたために、共同の利益、すなわち労働の生産関係が同時に労働の生産力でもあるあり方が失われないように、社会が市民社会と政治的国家とに自己を二重化し、秩序を政治的に維持しようとしたものである。市民社会を構成する個人または家族およびその集団のあらゆる特殊な要求は政治的に押し出され、国家意志に転化することによって、法規範と言う一般化され対象化された意志の形態となる。国家権力は、その国家意志の実行のために実体化した機関=イデオロギー的な力である。
法の論理は、資本論の中の貨幣の論理として、おなじみのものである。労働生産物=対象化された労働が私的所有の下では商品と言う形態を取るように、社会規範=対象化された意志は二重化された政治的世界では法形態を取る。商品の価値が一般的等価物としての貨幣形態に結晶するように、法の一般性は国家と言う形態に結晶する。更に貨幣は、商品流通の中で、流通機能を実体化され、流通手段として現れるように、国家は国家意志を実現するため国家権力と言う実体的形態を取る。価値形態の転化した貨幣形態が、労働の生産関係の一般性を表現しているように、国家も、それを別の形で表現しているのである。価値を形成する実体は労働時間であり抽象的一般労働であるように、法を形成する実体は国家の意志(=認識)であり、個人又は集団又は階級は、その意志を社会へ押しつけようとすれば、国家の意志を通過させねばならないのである。
したがって、私的所有が廃止されれば、政治的二重化の土台の矛盾が解消し、国家も国家権力も原則的には不必要になる。「社会関係への国家権力の干渉は、一分野から一分野へとつぎつぎとよけいなものになり、やがてひとりでに眠り込んでしまう。人に対する統治に代わって、物の管理と生産過程の指揮とが現れる。」すなわち、階級的な特殊利益が消滅し、その陰に隠れていた共同の利益としての「共同の業務」が、直接、顔を現わすのである。
資本論にあるように、歴史初期の、労働が私的でない部族社会では、労働生産物は商品に転化していないように、社会規範は法律に転化していない。プロレタリア革命は、否定の否定、すなわち、高い段階での部族社会への回帰である。
マルクスらの「国家の死滅」の理論は、弁証法的な唯物論(自己疎外の理論)から論理的に導き出されたもので、エンゲルスは歴史を遡ることによって媒介的に理論的な基礎づけ(氏族制度と国家の起源)を与えたのである。
レーニンが資本論の中のこの弁証法の論理に気がついておれば、先のような解釈を取らなかったろうと思われるが、俗流唯物論から抜けだせなかったレーニンにとって、それは不可能であったろう。
更に、「反デューリング論」第2篇4暴力論から、「暴力は、マルクスの言葉を借りれば、新しい社会をはらんでいるあらゆる古い社会の助産婦であるということ、暴力は、社会的活動が自己を貫徹し、そして硬直し麻痺した政治的諸形態を打ち砕くための道具であるということ」という文を引用し、国家の廃絶と暴力革命とを結びつけ、自分の理論の正当性を強調する。
「プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能である。」
この議論は、次章以降に詳述されるので、ここでは、この結論はマルクス的な意味で正しいとだけ言っておこう。
補論1) 滝村国家論と近代国家の二重化
さて、すぐれた理論家である滝村氏の「増補マルクス主義国家論」から、関連する部分を取り上げておこう。
彼は、「近代的社会構成」を次のように説明する。
「近代的社会構成の歴史的特質は、社会構造を構成する〈経済的社会構成〉と〈政治的社会構成〉とが、構造的に分離・二重化したてんにある。このことは先ず第一に、社会的・経済的基底における・資本制的生産様式の高度な発展による社会的分業の全面的開花(すなわちMachtにとしての諸階級・階層の多元的展開ということ)に基礎づけられて、近代的社会構成を組成する資本制的な社会的権力が、経済的権力と政治的権力とへはじめて機構的に分化・二重化したことを意味している。」
「ところで近代社会構成の構造的特質としての・経済的社会構成と政治的社会構成との機構的な分離・二重化は、たんに社会的権カレヴェルにおける経済的権力と政治的権力との機構的な分化・二重化の成立のみを意味するものではない。それは第二に、右の如き社会的権カレヴェルでの〈二重化〉に基礎づけられ、かつまたそれに対応して国家権カレヴェルでも、―従来原理的には内に孕みつつも決して機構的かつ制度的に顕現することのなかった―〈政治的国家〉と〈社会的=経済的国家〉とが、はじめて機構的にも分離・二重化して現出したことをも意味している。かくして〈政治的国家〉を中心としたあらゆる(諸階級・階層の)政治的権力の有機的総体と、〈社会的国家〉を頂点として〈国民経済〉的連関において有機的に構成されたすべての経済的権力の体系とが、機構的に分離・二電化した形で成立するに到る。」
これに対比して、滝村氏は、「封建的社会構成の原理的特質を、〈政治〉と〈経済〉との未分化、ないし直接的一体化(同一性)と規定する」。それは、「封建的領主権力の・共同体成員(農民)に対する支配原理(すなわち支配=被支配関係を貫く原理)」であり「また、封主=封臣関係を中軸とした封建的諸関係(簡単にいえば封建的領主階級内部の諸関係)を貫徹する原理」である。
「中世の封建社会では、封建領主権力をはじめとする諸種の封建的な社会的権力は、社会的・経済的基底における交通諸関係の未発展(つまり社会的分業の未発展)に基礎づけられて、それぞれ相互に対立・抗争する独立的かつ閉鎖的な自給自足的共同体として散在しており、かかる封建的アナーキーとも称さるべき状態は、あくまで形式的ではあるが、政治的には伝統的な政治的権威としての〈国王〉によって、一定の秩序(体制)の下に包括されていた。」
「このように封建的支配体制の歴史的特質は、右の如き実質上の封建的アナーキーに立脚した、〈宗教的・政治的〉な〈第三権力〉としての・法王を頂点とする教会的支配体制と、〈現実的・政治的〉な〈第三権力〉としての・国王を頂点とする領主的支配体制との二元的支配体制を、構造的に成立せしめたてんにある。」
「ところでかかる二元的支配体制をも根権的に貫徹する、封建的社会構成の原理的特質は、社会的権力としての封建的諸権力が、〈政治的=経済的権力〉として直接的に一体化(同一性)していて、社会的権力を構成する政治的権力と経済的権力という(あくまで原理的に区別される)二つのモメントが、いまだ機構的に分化(分離)していないてんにある。すなわち農村に根拠をおく領主権力はもとより、商人層や職人層がたてこもる都市(共同体)権力にしても、あるいはまた、〈宗教的・政治的権力〉としての教会権力でさえ、右のエンゲルスの引用からも明らかなように、「最も強力な」封建的土地所有者として〈経済的権力〉でもあったのであり、それらはすべて、〈政治的(軍事的)=経済的権力〉として君臨していたのである。」
滝村氏は、封建的社会の〈政治〉と〈経済〉との直接的同一性を、「社会的・経済的基底における交通諸関係の未発展(つまり社会的分業の未発展)に基礎づけられて」いるとし、近代社会の政治と経済との分離・二重化を、「社会的・経済的基底における・資本制的生産様式の高度な発展による社会的分業の全面的開花に基礎づけられて」いるとしているが、これは実際上は正しくても、論理的には必ずしも正しくない。
これは、滝村氏にはない論理であるが、マルクスによれば、人間の物質的生活の生産過程には、それに対応する共同体が必要である。それは、労働の生産関係が同時に労働の生産力でもあること(生産力と生産関係の直接的同一性)を保証するためである。例えば、個々人が、お互いに遠く隔てられて住んでいて、それぞれ自給自足的な生活を送っていたとしても、継続して生きていくためには、最低限、家族という共同体を必要とする。すなわち、個々人の生活の生産過程にとって、共同性は本質的である。それは、人間の生活過程が相互に依存し合っているということである。
人間が歴史に現れてくるときは、この依存関係は直接的であった。素朴な農耕に基礎を持つ自然発生的共産社会、そこでは相互に直接的に依存し合った生活の生産過程が行なわれているが、その原初的社会の上部構造=原始的共同体の直接的表現こそ、氏族制度であった。エンゲルスが示してくれたように、氏族制度が個々の労働の特殊性を全体の関係の中で調整し一般化する役割を果たしていた。
この中に、「独立に行なわれていて互いに依存し合っていない私的労働」が割り込んでくる。
この労働様式は、直接的な依存関係に基づく共同性=素朴な計画性を破壊し、個々人の労働の生産関係をバラバラにする作用をする。しかし、いくら私的労働が拡大し蔓延しようとも、人間の生活の生産過程が相互に依存しているという本質は変わらない。ただ、それは媒介的になっており、隠されているだけである。
だが、媒介的で直接的でないからこそ、物質的(=経済的)依存関係を実質的に維持し保証する、いわば目に見える(政治的)仕組みが求められる。それは、社会的斥撥である私的労働を土台にしながらも、社会的牽引である共同性を維持するという敵対的矛盾を実現せねばならぬという矛盾した性格を本質的に持つ。これが国家である。古典古代の都市国家・中世の封建的国家・近代の資本制下での国家制度は、このような国家の矛盾の歴史的展開形態なのである。
農耕を基礎とする場合、生産手段の重要部分は土地である。したがって、(農耕)労働の生産関係の法的(=政治的)表現としての所有関係は、土地に関する所有として表れる。そこで、農耕における私的労働を独立的に維持しようとすれば、私的所有としての農耕地を内外の脅威から守る必要があり、そのための方策として二つが考えられる。
一つは、それを共同で守ることである。そのため、相互の独立的労働を保証する、依存形態=共同事務と外敵に対する共同防御(時に戦争による共同略奪)が必要となる。古典古代の都市国家は、それを土地の共同所有=国家所有として実現したのである。
農耕を基礎とする、もう一つの可能な形態は、誰か一人を守護者として(政治的に)定立することによって、その他の農耕者の私的所有の土地の守護を専任させることである。これは、分割農地の所有権の譲渡による安堵と引き換えに賦役と貢納の義務を負うということによって実現された。その農村の封建的土地所有形態の上部構造が領主による中世の封建国家である。封建国家といっても、これも特殊な共同性の実現であって、これが古代の都市国家と異なるのは、土地の私的所有の性格がより強化されていることである。また、古代も中世も、いずれも独立手工業は農耕に依存している。
このような生産関係では、政治は経済に従属しており、それが経済と政治の直接的同一を生み出すのであって、滝村氏のように必ずしも「交通諸関係の未発展(つまり社会的分業の未発展)に基礎づけられて」いるわけではない。社会的分業が発展し交通諸関係が発展していたとしても、農耕に基礎をおいている限りは、生産手段である土地を政治的に扱わねばならず、その結果、経済と政治の同一という特徴は、論理的におそらくなくならないと考えられるからである。
「すべての社会形態には、ある一定の生産があって、それがあらゆるほかの生産に、したがってまたその諸関係が、あらゆるほかの諸関係に順位をしめし、影響をあたえている。この生産はひとつの普遍的な照明であって、ほかのすべての色彩はこのなかにとけこんでおり、またこれによってそれぞれの特殊な色彩が変化をうける。それはひとつの特殊なエーテルであって、そのなかにあらわれるあらゆる定在の比重をさだめる。・・・古代社会や封建社会でのように定住農耕が優勢であるような定住農耕諸民族にあっては―・・・工業とその組織、ならびに工業に照応する所有の諸形態までが、多かれ少なかれ土地所有的な性格をおびており、古代ローマ人のばあいのようにまったく農耕に依存しているか、または中世にみられるように、都市とその諸関係においても農村の組織をまねている。中世においては、資本そのものが―それが純粋の貨幣資本でないかぎり―伝統的な手工業用具等々としてこうした土地所有的性格をおびていた。」(序説)
近代の資本制は、農耕から独立した手工業から出発し、マニュファクチュアから大工業へと生産の基礎を移してきた。その生産様式の特徴は、商品流通の展開により、労働者(生産者)自身が商品になるという最終点にまで到達したということにある。歴史的に生産手段から分離された労働者は、労働力商品となることによって再び生産手段と結びつくのであるが、その場合の共同性は工場制度として実現した。一方で、資本制は、資本家階級と労働者階級とその対立をも生産する。したがって、土地所有的な経済的足かせから解放された近代国家は、形式的には国家権力の第3権力としての性格を強化し相対的独立性を高めるとともに、社会的分業の無政府性と階級対立を緩和させ、資本による剰余価値の取得の永続化を保護するという資本制の下での共同性を実現する役割を演ずる。これが、政治の経済からの相対的独立と政治と経済の分離・二重化の基礎にある。確かに資本制は、論理的には貨幣から、歴史的には商業と発達した分業から出発するとはいえ、近代社会の政治と経済との分離・二重化が「社会的・経済的基底における・資本制的生産様式の高度な発展による社会的分業の全面的開花に基礎づけられて」いるわけでは必ずしもなく、あくまで基礎は資本主義的生産様式自体にある。社会的分業が未発展で交通諸関係が未発展であったとしても、工業に基礎をおく資本制を取る限りは、経済と政治の分離・二重化という特徴は論理的に成立せざるを得ないと考えられるからである。
例えば、マルクスは、イギリスの工場法を、剰余労働に対する「渇望の消極的な表現」とした。「この法律は、国家の側からの、しかも資本家と大地主との支配する国家の側からの、労働日の強制的制限によって、労働力の無際限な搾取への資本の衝動を制御する。」
工場法は、剰余労働を完全に否定するのではなく、認めつつもその無制限な搾取を制限し、永続的に可能な搾取に変えようとするものである。それは、資本主義的経済制度そのものからは直接的には出てこない。したがって、政治的=国家的立場から媒介的に、経済的な秩序を与えようというのである。むしろ、この生産様式は、国家という政治的秩序をもそれに見合ったものに作り替えるといったほうが適切かもしれない。
補注
1) 滝村隆一著「国家論大綱」第1巻上下2003年勁草書房
2) 滝村隆一著「増補マルクス主義国家論」1974年三一書房
5、第2章 国家と革命。 1848−1951年の経験
レーニンは、自らひねり出した国家の廃絶から死滅の社会主義過程の理論を元に、彼の革命家としての実践的課題、すなわち、国家権力を奪取する政治的過程の理論的解明目指しながら、マルクスらの「経験」から学ぼうとする。
まず、レーニンは、まず「哲学の貧困」と「共産党宣言」を取り上げる。その中に、レーニンにとって、自分の理論の確証を指示する重要な文言を見出した。それは次の言葉である。
「プロレタリアートの独裁」「国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアート」
彼は、次のように説明する。
「第一に、マルクスによれば、プロレタリアートに必要なのは、死滅しつつある国家、すなわち、ただちに死滅し始めるし、また死滅せざるを得ないようにつくられた国家だけであるということ、第二に、勤労者に必要なのは、「国家」、「すなわち支配階級として組織されたプロレタリアート」であるということ、これである。」
「国家は、特殊な権力組織であり、ある階級を抑圧するための暴力組織である。ではプロレタリアートはどの階級を抑圧しなければならないのか?もちろん、搾取階級すなわちブルジョアジーだけである、勤労者に国家が必要なのは、搾取者の反抗を抑圧するためにほかならない。だが、この抑圧を指導し、それを実行することができるのは、・・・プロレタリアートだけである。」
「マルクスが国家の問題と社会主義革命の問題とに適用した階級闘争の学説は、必然的にプロレタリアートの政治的支配、プロレタリアートの独裁の承認に、すなわち、何者とも分有を許さない、大衆の武装力に直接立脚した権力の承認にみちびく。ブルジョアジーの打倒は、プロレタリアートが支配階級に転化すること、ブルジョアジーの不可避的な死にもの狂いの反抗を抑圧し、新しい経済制度のためにすべての勤労被搾取大衆を組織する能力のある支配階級に転化することによって、はじめて実現することができる。」
「プロレタリアートには、国家権力、すなわち、中央集権的な力の組織、暴力組織が必要である。」
こうして彼は、次のように問題を提起する。
「だが、もしプロレタリアートには、ブルジョアジーに鋒先を向けた特殊な暴力組織としての国家が必要であるとすれば、この暴力組織の創出は、ブルジョアジーが自分のためにつくりだした国家機構をまえもって廃絶することなしに、それを破壊することなしに、はたして考えられるか、という結論がひとりでに出てくる。」
この問題に対し、彼は、マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリューメル18日」、エンゲルスの序文、マルクスの手紙などを引用しながら、次のように論を進める。
「ブルジョア社会に特有な中央集権的国家権力は、絶対主義の没落期に生まれた。この国家機構にとってもっとも特徴的な制度が二つある、―官僚制度と常備軍である。これらの制度が、ほかならぬブルジョアジーと数千の糸で結びついていることは、マルクスとエングルスの著作のなかで再三述べられている。」
「官僚制度と常備軍、これはブルジョア社会の肉体にやどる「寄生体」、この社会をひきさく内的諸矛盾によって生みだされた寄生体、だがまさに生命の毛穴を「ふさぐ」寄生体である。」
「封建制度の没落以来ヨーロッパが数多く経験したすべてのブルジョア革命をつうじて、この官僚・軍事機関の発展、完成、強化がすすんでいる。」
「そこで、すべてのブルジョア政党には、いな、「革命的民主主義」政党をもふくめた、もっとも民主主義的な政党にさえ、革命的プロレタリアートにたいする弾圧を強め、弾圧機関、すなわちほかならぬこの国家機構を強化することが必要になってくる。事件のこのような成行きの結果、革命は、国家権力にたいして「破壊力をことごとく集中」せざるをえないようになり、国家機構を改善することではなくて、それを破壊し廃絶することを任務とせざるをえないようになる。」
「一階級の独裁は、あらゆる階級社会一般にだけ必要なのではなく、またブルジョアジーを打ち倒したプロレタリアートにだけ必要なのではなく、さらに、資本主義と「無階級社会」、共産主義とをへだてる歴史的時期全体にも、必要だということを理解した人だけが、マルクスの国家学説の本質を会得したものである。ブルジョア国家の形態はさまざまであるが、その本質は一つである。これらの国家はみな、形態はどうあろうとも、結局のところ、かならずブルジョアジーの独裁なのである。資本主義から共産主義への移行は、もちろん、きわめて多数のさまざまな政治形態をもたらさざるをえないが、しかしそのさい、本質は不可避的にただ一つ、プロレタリアートの独裁であろう。」
レーニンは、国家を「特殊な権力組織であり、ある階級を抑圧するための暴力組織」と規定した上で、マルクスやエンゲルスの理論を解釈する。
その結果、マルクスの言うプロレタリアートの独裁が、「何者とも分有を許さない、大衆の武装力に直接立脚した権力」=プロレタリアートの暴力的組織の成立になってしまった。その結果、ブルジョアジーの国家=官僚制度と常備軍を武器を手にして暴力的に破壊し廃絶するという暴力革命の理論が出てくるのである。
国家は、マルクスが示したように、法による政治的秩序のことである。国家権力は、そのための実行機関であり、無論、その組織も法による規定を受けている。「暴力組織」はその国家権力の一環にすぎない。
レーニンは、ブルジョア国家権力の破壊を、あくまで実体的に、まるでビルのような建物を暴力的に破壊するようなイメージで把握しているが、これは正しくない。ブルジョア国家の破壊とは、その法の体系を徹底的に改造してプロレタリアートの支配に適ったものに作り替え、同時にそれまでの国家権力を支えてきた官僚と軍隊や警察を解散して、プロレタリアートの指示に従う新たな官僚と軍隊や警察に入れ替えることである。ただし、イデオロギー的な権力としての性格、すなわち、法による支配と「中央集権的な力の組織」はそのまま続くのである。当然のことながら、このような革命には、暴力的措置が不可避ではあろうが。
したがって、共産主義への過渡期でも、法による支配と政治的秩序、すなわち国家と国家権力は残っているし、私的所有の関係を完全に払拭し貨幣が消滅して共産的な共同体に席を譲るまでには相当長い年月が予想されるから、その段階までこの制度は続くのであって、必ずしもブルジョア階級を抑圧する暴力組織が残っているわけではない。
レーニンの文章の中に、気になる表現がいくつかある。
まず、プロレタリアートの「独裁」を「何者とも分有を許さない、大衆の武装力に直接立脚した権力」としていることである。レーニンの言う意味は、プロレタリアの権力はブルジョア国家の権力に拘束されないということであろうが、取りようによっては、独裁が、法を無視した専制ということになってしまい、スターリンのような粛清に道を開くことに繋がる。マルクスの言う「独裁」とは、階級支配ということであって、それが専制という政治形態を取るのか、それとも普通選挙制度という形式的な民主主義という形態をとるのかとは別問題である。
また、「官僚制度と常備軍・・・の制度が、ほかならぬブルジョアジーと数千の糸で結びついている」と言っているが、現実にブルジョアジーと数千の糸で結びついていることを認めるにしても、国家権力がブルジョアジーの支配の道具であるのは、その直接的な結果ではない。
国家の法は、それぞれが関連して組み立てられており、エンゲルスの言葉を借りれば「生産を支配している階級の経済的諸要求の総括的な形での反映にすぎない」。(「フォイエルバッハ論」)つまり、イデオロギー的な権力として、内容的には、ブルジョア・イデオロギーを内包しているのである。そこで、国家権力を構成する官吏は、仕事として専ら法を取り扱うが、その結果、意識的にか自然成長的にかを問わず、個人的にもブルジョア・イデオロギーを身につけて行き、特に上級官僚になればなるほどそうなるのであり、支配的なブルジョア・イデオロギーを身に付けた官僚が中央集権の中核にあってこそ、国家のブルジョア的な法律の細目が設定でき、また施行できるのである。すなわち、個々の官僚の精神と法律が相互に浸透していくのである。その結果、国家権力がブルジョアジーの支配の道具となり、更にその結果、「ブルジョアジーと数千の糸で結びついている」ことになっていくのである。このような媒介関係を無視して、階級支配を論ずるべきではない。  
 

 

6、第3章 国家と革命。 1871年のパリコミューンの経験。マルクスの分析
前節で示したように、プロレタリアートの独裁=労働者階級の政治的支配の具体的な形態を理論的に予想しようとすれば、その先に控えている「未来の国家組織」、マルクスやエンゲルスが「物の管理と生産過程の指揮」としての「共同体」といっている社会の形態を考慮に入れ、そこへの過渡的形態として把握せねばならない。
マルクス・エンゲルスは、その実例、正確に言えば、その萌芽形態を、パリコミューンに見た。そのことが、パリコミューンの崩壊直後にマルクスが書いた「国際労働者協会総評議会の呼びかけ」(「フランスにおける内乱」。以下、「内乱」とする。)に示されている。
レーニンに従ってパリコミューンの検討を進める前に、パリコミューンの基本的な性格を押さえておかねばならない。
エンゲルスは、「フランスにおける内乱」のドイツ語第3版への序文に、つぎのように書いている。
「パリ・コミューンを見たまえ。あれがプロレタリアートの独裁だったのだ。」
すなわち、パリコミューンはプロレタリアートの独裁であったと明確に述べている。
また、前後するが、レーニンも次章で取り上げているエンゲルスの「ベーベルあての手紙」の中に次の文章がある。
「自由な人民国家が自由国家にかえられています。文法的にいうと、自由国家とは、国家がその国民にたいして自由であるような国家、したがって、専制政府をもつ国家のことです。国家に関するこうしたおしゃべりは、いっさいやめるべきです。ことに、もはや本末の意味での国家ではなかったコンミューン以後は、なおさらそうです。プルードンを批判したマルクスの著作や、その後の『共産宣宣冨』が、社会主義的社会秩序が実現されるとともに、国家はおのずから解体し消滅する、とはっきりいっているにもかかわらず、われわれは「人民国家」のことで、無政府主義者からあきあきするほど攻撃されてきました。けれども、国家は、闘争において、革命において、敵を暴力的に抑圧するためにもちいられる一時的な制度にすぎないのですから、自由な人民国家についてうんぬんするのは、まったくの無意味です。プロレタリアートがまだ国家を必要とするあいだは、プロレタリアートは、それを自由のためにではなく、その敵を抑圧するために必要とするのであって、自由についてかたりうるようになるやいなや、国家としての国家は存在しなくなります。だから、われわれは、国家というかわりに、どこでも共同体ということばをつかうように提議したい。このことばは、フランス語の「コンミューン」に非常によくあてはまる、むかしからのよいドイツ語です。」
ここでは、パリコミューンは、本来の意味での国家ではなかったとし、しかもその後で、国家とは敵を暴力的に抑圧するためにもちいる過渡的な制度にすぎないとし、国家という代わりに共同体(共同社会)という言葉を使うよう提案しているのである。つまり、パリコミューンは、敵を抑圧するための暴力装置ではなく、その名の通り、コミューン=共同体であり、それがプロレタリアートの独裁であったというのである。
レーニンは、「フランスにおける内乱」の3章の詳細な検討に入る前に、まず、マルクスらの共産党宣言の序文(1872年)の次の言葉を取り上げる。
「とりわけコンミューンは、『労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま奪い取って、自分自身の目的のために動かすことはできない』ということを証明した。」
彼はそれに加えて、「マルクスの考えでは、労働者階級は『できあいの国家機構』を粉砕し、打ち砕くべきであって、それをそのまま奪取するにとどまってはならないというのである。」
彼は、マルクスがクーゲルマンへあてた手紙の中から、次の文を引用している。
「そこで、私が、フランス革命のつぎの試みは、もはやこれまでのように官僚・軍事機構を一つの手から他の手に移すことではなくてそれを打ち砕くことである、と述べていることに気がつくであろう。そして、これは大陸におけるあらゆる真の人民革命の前提条件である。まさにこのことがわれわれの英雄的なパリの党同志たちが企てていることなのだ。」
レーニンは、このことから、第一に、「あらゆる真の人民革命の前提条件」は、「できあいの国家機構」を打ち砕き、破壊することであるとする。
次にレーニンは「粉砕された国家機構をなにととりかえるのか」と問いを立てる。
そこで、官僚的軍事的国家機構の取り換えの第一は、次のとおりである。
「コンミューンの最初の命令は、常備軍を廃止し、それを武装した人民ととりかえることであった」。
これには若干の説明が必要だろう。(以下、補注3参照)
当時パリには、二つの軍隊があった。常備軍、すなわち正規の軍隊と国民軍である。国民軍というのは、1789年に大革命の際に自然発生的に組織され、その後政府によって公式に認められ、25歳から50歳のフランス国民が義務として加入するものとなっていたが、歴代政府はプロレタリアの手に武器が渡るのを恐れ、訓練も受けさせず、名目だけのものにしていた。しかし、プロシャとの戦争で正規軍がパリから国境に派遣・釘付けになり、パリに迫りくるプロシャ軍に対抗する軍隊が必要になり、国民軍が再び組織されたというわけである。しかしそれでも、できるだけプロレタリアに武器を渡さないように配慮されていた。
だからマルクスも次のように書いている。
「しかし、パリの労働者階級を武装させ、これを戦闘力ある軍隊に組織し、その隊列を戦争そのものによって訓練しないかぎり、パリを防衛することは不可能であった。だが、武装したパリとは、武装した革命ということであった。プロイセンの侵略者にたいするパリの勝利は、フランスの資本家とその国家寄生者にたいするフランスの労働者の勝利となったであろう。」(「内乱」)
しかし、プロシャ軍のパリ包囲を前に、国民軍はしだいに内部連絡網を作り、自主的に代表者の委員会=パリ20区中央委員会を選出し、自立性を高めてきた。この委員会は、マルクスらの指導するインターナショナルのメンバーの労働者代表によって支持されていたが、彼らはマルクスらの忠告にも関わらず、プロシャ軍と徹底抗戦を決意していた。その国民軍が切迫した状況によって武器を手にし、自ら軍事訓練を施し、旧軍人の天下り司令部を排除し、自らの指揮官を選出したのである。それは、プロシャ軍がパリに入場する日が目前となった時に、行動となって現れた。
「国民軍はみずから改組し、旧ボナパルト派部隊のいくらかの残片を除く全部隊によって選出された中央委員会に、その最高指揮権をゆだねた。プロイセン軍がパリに入城する前夜、中央委員会は、プロイセン軍が占領することになっていた当の諸地区内やその付近に投降者たちが裏切的に遺棄しておいたカノン砲やミトライユーズ機関砲を、モンマルトル、ベルヴィル、ラーヴィレットに移す処置をとった。これらの大砲は、国民軍の献金で調達されたものであった。」(「内乱」)パリのこの地区は、いわゆる労働者街であった。
この国民軍の大砲を奪おうとしたティエールの企てが失敗したとき、国民軍は自らをパリの支配者とした。
「ティエールは、ヴィノアをやって、多数の警官と戦列軍数個連隊とを率いてモンマルトルヘの夜襲をおこなわせ、そこの国民軍の大砲を不意打ちによって奪取させようとしたことで、内乱を開始した。この企てが、国民軍の抵抗と、また戦列車が人民と交歓したためとで失敗したことは、よく知られている。」
「パリがよく抵抗することができたのは、まったく、攻囲の結果パリが軍隊を厄介ばらして、大部分労働者からなる国民軍とおきかえていたおかげであった。この事実は、いまや一つの制度とされなければならなかった。そこで、コミューンの最初の政令は、常備軍を廃止し、それを武装した人民とおきかえることであった。」(以上「内乱」)
武器奪還の策謀が失敗したとき、ティエールらは、政府をパリから隣接するヴェルサイユに退却させた。国民軍は、各官庁の差し押さえは行なったものの、官庁の引っ越しは、公然と行なわれたようである。そこで、パリは、いわば政治的には、もぬけの殻になったわけである。それを埋めようとしたのが、パリコミューンであった。国民軍中央委員会は、そのための選挙を直ちに行なった。そうして選挙が終わったとき、中央委員会はその権限を新たに選出されたコミューン議会に譲ることになった。
だから、政府官庁に関して言えば、パリの労働者階級は、マルクスの言う「できあいの国家機構」の抜け殻だけを手にしたわけである。その中に、新たに自らの階級の中から選んだ代替を入れようとした。その上で、新たな政令を発して、「自分自身の目的のために動か」そうとしたのである。これが、「官僚・軍事機構を・・・打ち砕く」ということの意味である。
「コミューンは、市の各区での普通選挙によって選出された市会議員で構成されていた。彼らは、責任を負い、即座に解任することができた。コミューン議員の大多数は、当然に、労働者か、労働者階級の公認の代表者かであった。コミューンは、議会ふうの機関ではなくて、同時に執行し立法する行動的機関でなければならなかった。警察は、これまでのように中央政府の手先ではなくなり、その政治的属性をただちに剥ぎとられて、責任を負う、いつでも解任できるコミューンの吏員に変えられた。行政府の他のあらゆる部門の吏員も同様であった。コミューンの議員をはじめとして、公務は労働者なみの賃金で果たされなければならなかった。」(「内乱」)
このようなコミューンの議会と政府の性格について、レーニンは、「支配階級としてのプロレタリアートのこの組織化」と「もっとも完全で徹底した『民主主義をたたかいとること』」という観点から評価する。
「こうして、コンミューンは、破壊された国家機構をいっそう完全な民主主義ととりかえたに『すぎない』、すなわち、常備軍を廃止し、すべての公務員の完全な選挙制と解任制を採用したに『すぎない』ように見える。ところが実際には、この『すぎない』という言葉は、ある制度を、原則的に異なる他の制度と大々的にとりかえることを意味する。ここにほかならぬ『量から質への転化』の一事例が認められる。すなわち、民主主義は、およそ考えられるかぎりもっとも完全に、もっとも徹底的に遂行されると、ブルジョア民主主義からプロレタリア民主主義へ転化し、国家(=一定の階級を抑圧するための特殊な力)から、もはや本来の国家でないあるものへ転化する。」
実はここにも、レーニンの理論的限界が、示されている。厳密に言えば、マルクスは、パリコミューンに「量から質への転化」を見たのではない。その裏に隠れている「市民社会と政治的国家との現実の世界の二重化」の解消の萌芽(本論の2、3節参照)を、否定の萌芽を見たのである。
マルクスは言う。
「旧来の政府権力の純然たる抑圧的な諸機関は切りとられなければならなかったが、他方、その正当な諸機能は、社会そのものに優越する地位を簒奪した一権力からもぎとって、社会の責任を負う吏員たちに返還されるはずであった。普通選挙権は、支配階級のどの成員が議会で人民のにせ代表となるべきかを、三年ないし六年に1度きめるのではなくて、およそどこかの雇い主がその事業のために労働者や支配人をさがすさいに、個人的選択権が彼の役に立つのと同じ仕方で、コミューンに組織された人民の役に立たなければならなかった。」
「コミューンのほんとうの秘密はこうであった。それは、本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級にたいする生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった。」(以上「内乱」) このような政治形態=政治的上部構造に対応する経済的土台が、「多数の人間の労働を少数の人間の富と化する、あの階級的所有を廃止し」、「現在おもに労働を奴隷化し搾取する手段となっている生産手段、すなわち土地と資本を、自由な協同労働の純然たる道具に変えることによって、個人的所有を事実にし」、「協同組合の連合体が一つの共同計画にもとづいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自分の統制のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙摯〔恐慌〕とを終わらせる」ことなのである。このような土台と上部構造との矛盾には、根本的に敵対的なものは存在していない。このことこそが、重要なのである。
レーニンは、特に「すべての国家公務員の俸給の『労働者なみの賃金』水準への引下げ」に注目する。
「この点でとくに注目に値するのは、マルクスが強調しているコンミューンのとった措置、すなわち、あらゆる交際費や官吏の金銭上の特権の廃止、すべての国家公務員の俸給の『労働者なみの賃金』水準への引下げである。まさにこの点に、ブルジョア民主生義からプロレタリア民主主義への、抑圧者の民主主義から被抑圧階級の民主主義への、一定の階級を抑圧するための『特殊な力』としての国家から、人民の多数者である労働者と農民の全体の力による抑圧者の抑圧への急転換がもっとも明瞭に現われている。」
「資本主義文化は、大規模生産、工場、鉄道、郵便、電話その他をつくりだした、そして、これにもとづいて、旧『国家権力』の機能の大多数は、非常に単純化され、登録、記入、点検といった、きわめて単純な作業に帰着させることができるので、これらの機能は、読み書きのできる者ならだれにも容易にできるものとなり、またこれらの機能は普通の『労働者なみの賃金』で容易に遂行できるようになり、これらの機能から、特権的なもの、『上司』的なものの色合いを完全にとりのぞくことができる(またそうしなければならない)。」
この理解には、二つの側面を指摘しておかねばならない。 一つは、レーニンも言うように、政治的活動に専門家を必要としないということである。ただし、全く専門家がいらないということではない。特権的で高給を与えられる職業的な議員や官吏から、「労働者並みの賃金」を与えられる議員や吏員の「労働者、監督、簿記係」にするということなのである。
このことは、議会制度とも関係する。
「議会制度からの活路は、もちろん、代議機関と選挙制の廃棄にあるのではなく、代議機関をおしゃべり小屋から『行動的』団体へ転化することにある。」
「コミューンは、ブルジョア社会の金しだいの腐敗した議会制度を、判断と審議の自由が欺瞞に堕することのないような制度でおきかえる。なぜなら、議員は、みずから活動し、みずから法律を実施し、実際上の結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしみずから直接責任を負うべきものだからである。代議制度はのこっているが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動との分業としての、議員のための特権的地位としての、議会制度は、ここにはない。」
「資本主義は『国家』行政の諸機能を単純なものにする。それは『指揮統率』をやめて、社会全体の名において『労働者、監督、簿記係』を雇うプロレタリア(支配階級としての)の組織に万事を帰着させることを可能にする。」
もう一つは、「社会主義賃金論」の萌芽として把握することである。ここでは、三浦つとむ氏の「レーニンから疑え」から、多少長くなるが引用させていただく。
「社会主義社会においては、労働力を商品として等価交換するという、賃金制度の本質的な部分が打ち破られ、生産力の増大とともに生活資料として分配される部分も増大していく。しかし、労働に対して賃金を受けとるという形態はまだ残っており、やがてはこの形態も清算されることになろう。それゆえ、社会主義という過渡期における賃金政策は、賃金の本質に対する正しい理解の上に立って、賃金制度を克服する方向へ意識的・計挙Iに押しすすめられなければならない。・・・社会主義革命は生活の生産関係の根本的な変革であって、生活資料の生産関係ばかりでなく労働者自身の生産関係もまた根本的に変革されることを必要としている。そしてこの観点に立つとき、いくつかの重要な政策が必要になってくる。まず、社会主義の初期には、旧社会で個人あるいは家族が養育費を負担した労働者がすくなくないのであるから、賃金とは別にある程度の補償を行うことになろう。これは結果として熟練労働者がヨリ多くの収入を得ることになるが、その補償は一定の期間に限られているばかりでなく、賃金についての正しい教育が行われるわけである。つぎに、学校教育に必要な教科書・学用品その他をすべて無料とし、高級学校を卒業しても多くの賃金を与えないことにする。職場の労働者が働きながら教育を受ける場合も同じである。さらに労働力を健康に維持するために、医療もすべて無料でなければならない。これらは、資本主義的な発想からぬけ切れない観察者からは「社会保障」に見えるが、資本主義国家においては教育も医療も原則として個人負担であり、特殊の場合にのみある程度の公的負担が行われるのに対して、社会主義社会においては原則として無料だという点で本質的に異っている。」
「フルシチョフも賃金制度が歪められていることを自覚していない。彼は第21回大会で「同一労働に同一賃金という原則にもとずく社会主義的分配」といった。否、これは資本主義の原則である。 養育費を社会が負担する社会主義では、『異質労働に同一賃金』こそが原則なのである。」
ところで、パリコミューンが、マルクスらのインターナショナルに指導されたものでなかったことに注意せねばならない。
パリコミューンの指導層に思想的に影響を及ぼしていたのは、プルードン主義と無政府主義者のブランキであったと言われるが、プルードンはすでに死んでおり、ブランキは敵の獄中にあった。この二人の思想的な弟子は居たが、実際の活動に関しては、プルードンやブランキの影響はなかったようである。切羽詰まった中での自然発生的な革命主義とも言うべき雰囲気が全体を覆っていたものであろう。まさしく無産大衆の自発的蜂起であったのであろう。それだからこそ、彼らに見合った議会と政府を持つことになったのであろう。
ただ、コミューンの内部は一枚岩ではなかったようである。実質的な指導者であるドレクリュウズもコミューン全体を纏め上げていたとはいえないし、国民軍中央委員会もときどき口をはさんできていた。自然発生的であったが故に、レーニンのような政治的指導者と統一的な理論的指導原理を欠いていたのであろう。それだからこそ、内部的混乱を避け得なかったといえるし、また、レーニンが適切にも指摘したコミューンの原則が、法則性として把握できるということであろう。
それ故、コミューンは、その正直さと準備不足もあって、多くの決定的ともいえる誤りを犯した。
「当時完全に無力であったヴェルサイユにただちに進撃し、こうしてティエールとその田舎地主たちの陰謀の息の根をとめなかったという点」、「その賢明なことと穏健なこととで特筆すべきものである」「コミューンの財政方策」などである。ヴェルサイユへ逃亡できなかった市中にあるフランス銀行には夥しい資金が眠っていたのだが、コミューンの側はそれを知らず差し押さえなかった。
「コミューンの偉大な社会的方策は、行動するコミューンそのものの存在であった。コミューンの個別的な諸方策は、人民による人民の政府のすすむべき方向を示すことしかできなかった。」(「内乱」)
このことばに、2か月余という短命に終わったコミューンの政治的方策が、見事に示されている。
「国民の統一は破壊されるのではなく、反対に、コミューン制度によって組織されるはずであった。みずから国民の統一の具現であると、しかも国民そのものから独立し国民そのものに優越する具現であると主張しながら、そのじつ、国民の身体に寄生する肉瘤にすぎなかった、あの国家権力が破壊される結果として、この統一が現実となるはずであった。」(「内乱」)
レーニンは、「国民の統一を組織すること」という表題の下に、「内乱」のいくつかの文章を引用し、次のように説明を追加している。
「だが、もしプロレタリアートと貧農が国家権力を奪取して、まったく自由にコンミューンにならってみずからを組織し、すべてのコンミューンの活動を統合して、資本に痛撃をくわえ、資本家の反抗を打破し、鉄道、工揚、土地等の私有を全国民に、全社会に移すなら、これは中央集権制にならないだろうか? これはもっとも徹底した民主主義的中央集権制、しかもプロレタリア的な中央集権制にならないだろうか?」
「マルクスは、自分の見解が歪曲されるかもしれないことを予見するかのように、わざわざ強調して、コンミューンが国民の統一を廃絶し、中央集権制を廃止することを望んだかのようにコンミューンを非難することは、意識的な捏造だと言っている。マルクスは、意識的・民主主義的・プロレタリア的中央集権制を、ブルジョア的・軍事的・官僚的中央集権制に対置するために、わざわざ「国民の統一を組織する」という表現をつかっているのである。」
ところで、国民の統一は、コミューンによってはじめて組織されるものであろうか。
「大国民の統一は、はじめは政治的強力によってつくりだされたとはいえ、いまでは社会的生産の有力な一要囚となっているのであるが、コミューン制度は、この大国民の統一を、モンテスキューやジロンド党員が夢想したような小国家の連邦に分解しようとする試みのように、思いちがいされた。」(「内乱」)
マルクスが、「大国民の統一は、はじめは政治的強力によってつくりだされたとはいえ、いまでは社会的生産の有力な一要因となっている」と言っているように、「大国民の統一」は、資本主義的土台に対応する政治的上部構造の重要な一側面なのである。プロレタリア独裁は、ブルジョア国家の階級抑圧の側面は「切り取る」が、この側面は受け継ぐのである。
補注
3) パリコミューンの参考書
パリ・コミューンを理解するためには、「フランスの内乱」だけでは不十分である。そこで、私は、大仏次郎の「パリ燃ゆ」(朝日新聞社刊。旧版には、新装版にない挿絵があり、当時を想像するのに参考になる。)を参考にした。国民軍などの知識も、この本に基づくものである。このほかに、リサガレーの「パリコミューン」もある。
4) 「社会主義賃金論」については、「レーニンから疑え」三浦つとむ著(芳賀書店)から、引用した。
7、第4章 つづき。エングルスの補足的な説明
次にレーニンは、パリコミューンの経験に関するエンゲルスの説明を取り上げ、エンゲルスによる自らの理論の確証を得ようとしている。それは、1871年5月のパリコミューン以降のエンゲルスの諸論文に記載されているはずである。
前節で指摘したレーニンの国家論=階級抑圧機関論の欠点がここでも再現されている一方、そこから見落とされる点について、更に取り上げて見る。
レーニンが最初に取り上げたのは、「住宅問題」(1872年)である。この論文には、プルードンとブルジョアの論客の、貧困に陥ったドイツ労働者の住宅問題の解決法が取り上げられてあるが、この中では、エンゲルスは、コミューンの事は直接的にはあまり語っていない。
レーニンが取り上げた引用文とその解説の一部を引用する。
「しかし、いまでももう大都市には、それを合理的に利用しさえすれば真の『住宅難』のすべてをたちどころに緩和するのに十分な住宅があるということだけは確かである。これはもちろん、今日の所有者から収用するか、彼らの家に、家をもたない労働者、またはいままでの住宅に過度に詰めこまれていた労働者を住まわせることによって、はじめてできることである。そして、プロレタリアートが政治権力を奪取するやいなや、そうした公共の福祉の命じる方策は、今日の国家による他の収用や宿舎割当てと同様に容易に実行できるものとなろう。」(「住宅問題」レーニンの引用文から)
「ここでは、国家権力の形態の変更は考察されずに、国家権力の活動内容だけがとりあげられている。収用や宿舎割当ては今日の国家の指令によっておこなわれている。プロレタリア国家もまた形式的な面から見れば、宿舎割当てや家屋の収用を「指令する」であろう。しかし、従来の執行機関、ブルジョアジーと結びついた官僚は、明らかに、プロレタリア国家の指令を実行するには、まったく役にたたないであろう。」
「労働人民によるいっさいの労働用具の『現実の掌握』、全産業の占取は、プルードン主義者の『買い取り』とは正反対だということである。後者のばあいには、個々の労働者が住宅、農揚、労働用具の所有者になるが、前者のばあいには、『労働人民』が家屋、工揚、労働用具の総所有者なのであり、その用益権は、すくなくとも過渡期のあいだは、費用の弁償なしに個人または団体に委譲されることはほとんどないであろう。それはちょうど、土地所有の廃止が地代の廃止ではなく、形を変えてではあるが、地代を社会に委譲することであるのと同じことである。だから、労働人民がいっさいの労働用具を事実上掌握しても、それは、けっして賃貸借関係の維持を排除するものではない。」(「住宅問題」レーニンの引用文から)
「エンゲルスは、きわめて慎重な表現をつかって、プロレタリア国家は「すくなくとも過渡期のあいだ」は、住宅を無償で割り当てることは「ほとんどないであろう」と言っている。全人民のものである住宅を、個々の家族へ有料で貸し付けることは、家賃の取立てとか、一定の管理とか、住宅割当てのなんらかの基準とか、を前提とする。すべてこうしたことは、一定の国家形態を必要とするが、しかし、特殊な軍事・官僚機関ととくに特権的な地位にある公務員とを必要とするものではけっしてない。だが、住宅の無料貸付けが可能となるような状態への移行は、国家の完全な「死滅」と結びついている。」
ここでは、エンゲルスは、政治的国家と市民社会の二重化という観点に立って、政治的権力による市民社会の改造を取り上げているのであるが、レーニンは、それを「国家権力の活動内容」としてしか把握していない。
レーニンにとっては、国家=国家権力=国家機関という図式が成り立つ。そうすると、法による社会の政治的変革の過程が、単なる国家機関の行為=「国家権力の活動内容」に矮小化されてしまう。法による支配が、国家機関の「指令」になり、「一定の管理とか、なんらかの基準とか」が、国家機関による活動のみにより左右されるようになる。このことはまた、国家機関の過大評価ともなって現れる。国家機関の「民主主義」の完成・徹底が、過大評価され、それによって「量から質への転化」、ブルジョア民主主義からプロレタリア民主主義への転化として把握されてしまった。
ところで、エンゲルスが「けっして賃貸借関係の維持を排除するものではない」と言っている点に注意をしておこう。詳細はレーニンに沿って次節で議論することになるが、「過渡期」においては、資本主義的取得関係は廃止されるが、価値関係は維持されるのである。
次は、エンゲルスの「権威原理について」(1874年)に関して、である。
「マルクスは、―彼の無政府主義との闘争の真の意味が歪曲されることのないように―プロレタリアートに必要な国家の「革命的・過渡的な形態」をわざわざ強調している。プロレタリアートには国家は一時必要であるにすぎない。・・・われわれは、この目標を達成するために、搾取者に反対して国家権力の道具、手段、方法を一時もちいる必要があると主張する。マルクスは、無政府主義者に反対して、つぎのような、・・・問題提起を選んでいる。労働者は、資本家の束縛を断ち切るさい、「武器を棄てる」べきか、それとも、彼らの反抗を打ち砕くためにそれを彼らにむかってもちいるべきか、と。ところで、一階級が他の階級にむけて系統的に武器をもちいること、それは国家の過渡的形態でなくてなんであろうか?」
レーニンは、エンゲルスの次の文を引用し結論する。
「きたるべき社会革命の結果として、政治的国家が、それとともに政治的権威が消滅するであろうということについては、社会主義者はみな意見が一致している。これはつまり公的諸機能はその政治的性格を失って、社会の真の利益を監視する単純な管理機能に変わるであろう、ということである。しかし、反権威主義者は、権威的な政治的国家を生みだした社会的諸条件がまだ一掃されないまえに一挙にそれを廃止するように要求する。・・・革命は、たしかに、およそこの世の中でもっとも権威的な事柄である。それは、住民の一部が、小銃や銃剣や大砲、つまりおよそ考えられるもっとも権威的な手段をつかって、自分の意志を住民の他の部分におしつける行為である。そして、勝利した党は、その戦いをむだに終わらせたくないなら、彼らの武器が反動どもによびおこす恐怖によって、この支配を持続させなければならない。もしパリ・コンミューンがブルジョアにたいして武装した人民のこの権威を行使しなかったとしたら、コンミューンはただの一目でももちこたえたであろうか?それどころか、コンミューンは、この権威を十分広範に行使しなかったという点で非難されなければならないのではあるまいか?」(「権威原理について」レーニンの引用文から)
「エングルスは問題をこう提起した。無政府主義者は、革命というものを、その発生と発展において、暴力、権威、権力、国家についての革命の特殊な諸任務において、見ようとはしないのである。・・・エングルスはいわゆる牡牛の角をつかんで〔急所をつかんで〕、コンミューンは、国家の、すなわち支配階級として組織された武装したプロレタリアートの、革命的権力を、もっと行使すべきではなかったか、とたずねている。」
レーニンの観点からの論点は明確であるので、論評は不用であろう。しかし、ここでは別の観点からの注意を喚起しておきたい。エンゲルスは次のように、この短い論文の最初の方で確認している。
「ここで用いられている意味の権威とは、他人の意志をわれわれの意志に従わせることである。だから権威というものは、反面において従属を前提としているのである。」 「かりに、ある社会革命が、その権威がこんにち富の生産と分配のすべてをつかさどっている資本家たちを駆逐した、と仮定しよう。完全に反権威主義者の立場にたつために、土地と労働手段とが、それらを使用する労働者たちの共同所有に帰した、と仮定しよう。この場合に、権威は消滅するだろうか、それともそれはその形態だけをかえるのだろうか? 仔細に考察してみよう。」
「われわれがすでにみたとおり、なんびとによって代表されようと、一方におけるある種の権威、他方におけるある種の従属は、社会組織とは無関係に、われわれが財貨を生産流通させる物質的諸条件とともに、いやおうなしに自分をおしつけてくるところのものである。」
この文を前提にして先のエンゲルスの引用文を読むと、エンゲルスは、権威を意志の支配従属関係として理解し、それがあらゆる組織に必要であることを認めており、したがって、革命によって「公的諸機能はその政治的性格を失い、社会的利害を監視するという単純な行政機能に変わる」というのは、市民社会と国家への二重化が消滅することによって、国家における政治的意志の支配従属関係が政治的外皮を剥ぎ取られ、単なる管理機能に変化するということだと理解できる。
次にレーニンは、前節で掲げた、エンゲルスがベーベルへ宛てた手紙(1875年3月)を取り上げる。
これに対するレーニンの説明は、以下である。
「コンミューンが住民の多数者ではなしに、少数者(搾取者)を抑圧しなければならなかったかぎり、それは国家ではなくなりつつあった。コンミューンは、ブルジョア国家機構を粉砕した。特殊な抑圧力に代わって、住民自身が登揚した。すべてこうしたことは、本来の意味の国家からそれたことである。そして、もしコンミューンが強固なものになったなら、そのなかの国家の痕跡はひとりでに「死滅し」、コンミューンには、国家機関を「廃止する」必要はなかったであろう。国家機関は、なにもすることがなくなるにつれて、その機能を停止したであろう。」
レーニンは、あくまで自己流に、コミューンが「少数者(搾取者)を抑圧しなければならなかった」限りで「完全な民主主義」を実現し、「コンミューンが強固なものになった」ならば、この「完全な民主主義」が「死滅」すると解釈している。
これ以上の問題は、後節で取り上げるので、ここでは議論しない。ただ、レーニンは、エンゲルスの真意を理解していないとだけ言っておこう。それは、マルクスの手紙を取り上げるときに明らかとなる。
次に取り上げたのは、1891年6月に書かれたエンゲルスからカウツキーへの手紙、いわゆる「エンフルト綱領批判」である。レーニンは、その中の「政治的諸要求」を取り上げ、共和制、連邦制、地方自治の問題についてエンゲルスの意見を確認している。
「第一の点。もしこの世に、なにか確かなことがあるとすれば、それは、わが党と労働者階級とが、ただ民主的共和制の形態のもとでのみ支配権に到達することができるということである。この民主的共和制は、すでにフランスの大革命がしめしたように、プロレタリアートの独裁のための特有の形態でさえある。」(「エンフルト綱領批判))
「エンゲルスは、ここで、マルクスのすべての著作を赤い糸のようにつらぬいている根本思想、すなわち民主的共和制はプロレタリアートの独裁にまぢかに接近することであるということを、とくにはっきりしたかたちでくりかえしている。なぜなら、民主的共和制は、・・・不可避的に階級闘争のいちじるしい拡大、展開、露出、激化をもたらすので、いったん被抑圧大衆の根本的利益を満足させる可能性が生じるやいなや、この可能性は、かならずまたもっぱら、プロレタリアートの独裁によって、プロレタリアートによる被抑圧大衆の指導によって、実現されるからである。」
「私の考えでは、プロレタリアートがつかうことのできるのは、単一不可分の共和国の形態だけである。・・・ドイツにとっては連邦制的スイス化は、ひどい退歩であろう。・・・それに、だいたいわれわれの「連邦国家」にしてからが、すでに統一目家への過渡なのである。・・・だから、統一共和国ということになる。しかし、それは今日のフランス共和国のような意味の共和国ではない。これは、1798年に創立された帝国から皇帝を引きさっただけのものである。1792年から1798年までのあいだ、フランスの各県、各市町村は、アメリカ型の完全な自治をもっていた。そして、われわれもまたこれをもたなければならない。どのようにして自治制を組織すべきか、そしてどのようにすれば官僚なしにやってゆけるかは、アメリカとフランスの第一共和国とがわれわれに照明してくれたし、またオーストラリア、カナダ、その他のイギリスの植民地がいまなおこれを証明している。そして、このような州および市町村の自治制は、たとえばスイスの連邦制などよりはるかに自由である。」(「エンフルト綱領批判))
「マルクスもそうであるが、エンゲルスは、プロレタリアートとプロレタリア革命の見地から、民主主義的中央集権制、単一不可分の共和国を主張している。彼は、連邦共和制を、例外で発展の障害物であるか、さもなければ君主制から中央集権的共和制への過渡であり、一定の特殊な条件のもとでの「一歩前進」であるか、どちらかだと見ている。そして、この特殊な条件のうちでおもだったものは民族問題である。」
「連邦共和制よりも大きな自由を与えたのは、真に民主主義的な中央集権的共和制であった。言いかえれば、地方や州その他のものの歴史上最大の自由は、連邦共和制によってではなく、中央集権的共和制によって与えられたのである。」
エンゲルスは、マルクスの『フランスにおける内乱』ドイツ語第3版(1891年)への序文で、パリコミューンの経験を総括している。レーニンはこれを取り上げて、みずからの論点を整理している。
レーニンは、国家と国家権力を同一視し、国家権力、すなわち、官僚・軍事機構という国家機構を労働者に占拠させたのが、パリコミューンであるとする。確かに実体的にはその通りであろう。
しかし、何度も言うように、国家と国家機構とは同一ではない。第2節で示したように、国家は市民社会の政治的秩序である。そこで、重要なのは、政治的秩序をブルジョア的なものからプロレタリア的なものに変換することである。これは、政治的秩序を決定する国家意志にプロレタリアの利益(状況に支配される大衆の意志ではない!)を反映させることである。そのためにパリコミューンは何をしたか。
「それまで統治にあたってきた国民軍中央委貝会は、まずもって悪評高いパリ「風紀警察」の廃止を命令してから、コミューンにその権力を譲った。30日に、コミューンは徴兵制と常備軍を廃止して、兵役に耐えるすべての市民の属すべき国民軍が唯一の武装力であると宣言した。コミューンは、1870年10月から〔1871年〕4月までの家賃をすべて免除し、すでに支払ずみの金額は将来の賃借期間に充当することとし、また市設質屋が質物を売るのをいっさいやめさせた。同じ日、コミューンに選出された外国人たちがその職務を確認された。というのは、「コミューンの旗は世界共和国の旗である」からだった。−4月1日、コミューンの吏員の俸給、したがってまたコミューン議員自身の俸給も、最高6000フラン(4800マルク)をこえてはならないと決定された。その翌日には、教会を国家から分離し、宗教上の目的のためのあらゆる国家支出を廃止し、またいっさいの教会財産を国有財産とすることが命令された。その結果、4月8日には、いっさいの宗教的象徴、聖像、教理、祈祷、つまり「個々人の信念の領分に属するすべてのもの」を学校から追放することが命令され、しだいに実行された。・・・4月16日には、コミューンは、工場主の手で閉鎖された工場の統計表を作成することを命じ、またこれまでその工場で働いていた労働者を協同組合に結合してこれらの工場の経営にあたらせ、さらにそれらの協同組合を一大連合体に組織する計画の立案を命令した。−20日には、コミューンは、パン焼工の夜業を廃止し、また第二帝政以来警察の指定した手合―つまり、第一級の労働者搾取者たち―が独占的にいとなんできた職業紹介所を廃止した。この仕事はパリの20の区の区役所に移管された。―4月30目には、コミューンは質屋の廃止を命令した。質屋は、私人による労働者の搾取で、自分の労働用具を所有し信用をうける労働者の権利と矛盾するから、というのであった。・・・」
「こうして、それまで外国の侵略との闘争によって陰に押しやられていたパリの運動の階級的性格が、3月18日以後するどく、くっきりと現われてきた。コミューンに席を占めたのは、ほとんど労働者か定評ある労働者の代表者だけだったので、その諸決定も断然プロレタリア的な性格をおびていた。それらの決定が命じていた改革は、共和主義的ブルジョアジーが怯儒なためにだけ実行を怠ったもので、労働者階級の自由な行動のための欠かしえない基礎であるような改革−たとえば、宗教は国家にとっては私事にすぎないという原則の実施のような―であったか、あるいは、コミューンは直接に労働者階級の利益になり、部分的に旧社会秩序に深く切りこむような決定を公布したか、どちらかであった。しかし、敵の攻囲下の都市では、それらはみな、せいぜい実現の糸口をつけることしかできなかった。」(「内乱への序文」)
このような労働者階級の利益に奉仕する法を施行しようとすれば、それに見合った国家機構を持たねばならない。ブルジョア的には必要であっても、プロレタリア的には不必要という機構もあって、根本的な機構改革が要請される。どの機構を残し、どの機構を切り取るか、どのような新たな機構をつけ加えるか、このような課題を整理するためには、特に、国家機構を構成する吏員に対しては、彼らが身に帯びているイデオロギーを問題とせねばならない。もし、プロレタリア的な意識を持たない者が入り込むと、新たな機構の機能が失われるからである。そのためにコミューンは、次のような確かな保障を確保した。
「コミューンは、そもそものはじめから、次のことを認めないわけにはいかなかった。すなわち、労働者階級はいったん支配権を獲得したなら、古い国家機構を用いてものごとを運営してゆくことはできないということ、この労働者階級は、いま獲得したばかりの自分の支配権をまたもや失うまいと思えば、一方では、これまで彼ら自身にたいして用いられてきた古い抑圧機構をすべて取りのぞかなければならず、他方ではまた、彼ら自身の議員や役人はすべていかなる例外もなくいつでも解任できることを宣言することで、この人々からの自分の安全を確保しなければならない、ということである。」
「このように国家と国家機関とが社会の従僕から社会の主人に転化するのは、これまでのどの国家でも避けられないことであったが、コミューンは、そうならせないために二つの確実な手段を用いた。第一に、行政、司法、教育上のいっさいの地位への任命は、関係者の普通選挙権によっておこない、しかもその関係者がこれをいつでも解任できることにした。また第二に、その地位が高いと低いとにかかわりなく、あらゆる職務にたいしてほかの労働者なみの賃金しか払わなかった。総じてコミューンが払った最高の俸給は、6000フランであった。こうして、地位争いや出世主義をしめだす確かな閂がかけられたのであって、そのうえ代議機関への代表にたいする拘束委任制さえきめたのは、なくもがなのことであった。」(「内乱への序文」)
まず、レーニンは、エンゲルスが「フランスでは、どの革命のあとでも、労働者は武装していた」と書いていることに注目し、「被抑圧階級が武器をもっているかどうか?」に注意を促す。
更に、同じくコミューンが行なった「宗教は国家にとっては私事にすぎないという原則」を命令したと指摘していることに対し、「宗教は党にとって私事であると言言し、こうして革命的プロレタリアートの党を卑俗きわまる『自由思想家的』俗物根性の水準にひきおろした、ドイツ日和見主義の急所をついていた。この俗物根性は、すすんで無信仰状態を認めはしたが、しかし人民をおろかにする宗教的アヘンにたいする党の闘争という任務を否認するものであった。」と言っている。
その後で、彼はエンゲルスの総括から、次のような結論を引き出している。
「エンゲルスは、君主制ばかりでなく、民主的共和制でも、国家は依然として国家であること、すなわち、国家は公務員、『社会の従僕』、社会の諸機関を社会の主人に転化させるというその基本特徴を保持していることを、くりかえし強調している。」
「ここでエンゲルスは、徹底した民主主義が、一方では社会主義へ転化するが、他方では社会主義を要求するという、興味ある限界点に近づいている。なぜなら、国家を廃絶するためには、国家公務の諸機能が、住民の大多数のものに、あとでは全住民ひとりひとりにも、手におえる、こなすことのできる、統制と計算の単純な作業にならなければならないからである。ところで、立身出世主義を根絶するためには、国家公務上の『栄誉ある』職務が、たとえそれが無給であっても、銀行や株式会社内の高給をはむ地位へ跳躍するかけ橋となる―これがすべてのもっとも自由な資本主義国においてさえたえずおこなわれていることであるが―ことができないようにすることが必要である。」
前節で見たレーニンの「量質転化」の一例である。レーニンは、ブルジョア国家の「廃絶」の後に来るプロレタリア国家では、「完全な民主主義」が実現し、そのプロレタリア国家の「完全な民主主義」が「死滅」されて共産主義国家に至ると考えているので、こういう表現になるのである。だから、次のように言う。
「民主主義を徹底的に発展させること、そうした発展の諸形態をさがしだすこと、それらの形態を実践によって試験すること等々、すべてこうしたことは、社会革命のための闘争を構成する任務の一つである。個別的には、どのような民主主義も社会主義をもたらすものではない。だが、実生活では、民主主義は、けっして『個別的にある』ものではなく、他のものと『一体をなす』、それは経済にたいしてもその影響をおよぼし、経済の改革を促し、経済的発展の影響をうける、等々。これが生きた歴史の弁証法である。」
レーニンは、国家権力の改革、すなわち、「国家公務の諸機能」を、「全住民ひとりひとりにも、手におえる、こなすことのできる、統制と計算の単純な作業」とし、「交際費や官吏の金銭上の特権の廃止、すべての国家公務員の俸給の『労働者なみの賃金』水準への引下げ」を行なうことを強調しているが、国家と国家権力を規定する法を形成する実体を成す国家の意志については、注意を払っていない。
エンゲルスは、「内乱への序文」の最後に、次のような説明を加えている。
「ほかならぬドイツでこそ、国家にたいする迷信が、哲学からブルジョアジーの、それどころか多くの労働者さえもの一般意識のなかに、もちこまれているからである。哲学的な考え方からすれば、国家は「理念の実現」である。すなわち、哲学的な用語に翻訳された地上の神の国であり、永遠の真理と正義が実現されているか、あるいは実現されるべき領域である。そして、そこから次に、国家と国家に関連するあらゆる事物とにたいする迷信的崇拝が生まれてくる。そして、人々は子供のときから、社会全体の共同事務や共通の利害は、これまでやってきたようなやり方でしか、つまり国家とその上級官庁との手でしか処理することができないものと考えることに慣らされているだけに、なおさらそうした迷信的崇拝が生じやすいのである。そこで、世襲君主制にたいする信仰を捨てて、民主的共和制を信奉するようになりでもすれば、もうそれだけでまったくたいした大胆な一歩をすすめたように思いこむ。しかし、実際には、国家は、一階級が他の一階級を抑圧するための機構にほかならないのであって、しかもこの点では、民主的共和制も、君主制となんら選ぶところがないのである。いちばんいい場合でも、国家は、階級支配をめざす闘争で勝利したプロレタリアートがひきつぐ一つの害悪であって、プロレタリアートは、コミューンがやったのとまったく同じように、それの最悪の側面を、すぐさま、できるだけ切り取るほかはないであろう。そして、いつかは、新しい自由な社会状態のもとで成長してきた一世代が、ついに国家のがらくたをすっかり投げすててしまえるときがくるであろう。」(「内乱への序文」)
これは、単に「ドイツ人に対する警告」だけではない。この国家批判こそ、本論の第1節から3節で議論したように、マルクスの国家論の出発点である。そこを忘れると、誤りが生ずることを肝に銘ずべきである。
一方、これに対するレーニンの説明はこうである。
「さらに二つのことを注意をしておこう。(一)民主的共和制のもとでは、君主制のもとでと『すこしもおとらず』、国家は依然として『一階級が他の一階級を抑圧するための機関』である、とエンゲルスが言っているとしても、これは、ある無政府主義者たちが「教える」ように、抑圧の形態はプロレタリアートにとってどうでもよいということにはけっしてならない。階級闘争と階級的抑圧のより広い、より自由な、より公然たる形態は、プロレタリアートのために階級一般を廃絶するための闘争を非常に楽にしてくれる。
(二)なぜ新しい世代だけが、国家のこのがらくたをすっかりかたづけてしまうことができるのか?−この問題は、われわれがこれから論じようとする民主主義の克服の問題に関連している。」
この節の最後は、エンゲルスの序文「『「フォルクスシュタート」からとった国際問題論集』への序文」(1894年1月)である。 「もっとも、一般に社会主義的であるばかりでなく、直接に共産主義的な経済綱領をもち、すべての国家の克服を、したがって民主主義の克服をも、その政治上の終局目標とする政党にとっては、この言葉は、依然、不適当である。しかし、実際の諸政党の名称は、ぴったりと適合するものではけっしてない。党は発展するが、名称はもとのままだからである。」
「国家の廃絶は同時にまた民主主義の廃絶でもあり、国家の死滅は民主主義の死滅であるということが、いつも忘れられている。」(「序文」、レーニンの引用文から)
「民主主義は、多数者への少数者の服従と同じものではない。民主主義は、多数者への少数者の服従を認める国家、すなわち一階級が他の階級にたいして、住民の一部が他の一部住民にたいして系統的に暴力を行使する組織である。われわれは、国家の廃絶、すなわち、組織された系統的なあらゆる暴力の廃絶、一般に人間にたいするあらゆる暴力の廃絶を、終局目標としている。われわれは、多数者に少数者が服従するという原則がまもられない社会秩序の到来を期待しているのではない。しかし、われわれは、社会主義をめざしながらも、社会主義は共産主義へ成長転化すること、また、それにともなって、人間にたいする暴力一般の、ある人間の他の人間にたいする服従の、一部の住民の他の一部住民にたいする服従の必要はすべて消滅することを、確信している。なぜなら、人間は、暴力なしに、服従なしに社会生活の基礎的諸条件をまもる習慣がつくだろうからである。」
エンゲルスが言っているのは、国家の止揚であって、政治的国家と市民社会の二重化の克服である。そう意味で民主主義の克服を言っているのであって、「廃止」ではない。
政治的には、民主主義とは「多数者への少数者の服従」である。それがブルジョア的であると言われるとき、政治的民主主義が市民社会のレベルでの多数者の利害を反映しておらず、逆に少数者であるブルジョアの利害を反映しているのである。選挙による形式的な多数決が、必ずしも多数者の利害を反映するものではないからである。すなわち、あくまで市民社会の政治的国家への利害の反映という観点から、評価しなくてはならない。
更に、レーニンでおいては、その「廃止」の後には、「暴力なしに、服従なしに社会生活の基礎的諸条件をまもる習慣」が唐突にやってくる。はたして、国家規範=法抜きで、大衆的な習慣の獲得が可能なものだろうか。レーニンは、この認識論的過程を理解しているのであろうか。
レーニンは、規範論抜きの国家論を論じ、国家=国家権力=階級抑圧機関として解釈し、プロレタリア国家という過渡期の(半)国家を仮定したので、民主主義もこういう陳腐な解釈にならざるを得なかった。自ら弁証法家であろうとして努力しながら、「止揚」という弁証法の核心を把握しそこなったレーニンの論理的強制である。
補注
5)参考にしたのは、以下である。
「住宅問題」大内兵衛訳(岩波文庫) 「権威原理について」、「『「フォルクスシュタート」からとった国際問題論集』への序文」マルクス・エンゲルス選集第13巻(大月書店)
8、第5章 国家死滅の経済的基礎
最後に、いわゆる「ゴータ綱領批判」、マルクスがブラッケへ宛てて書いた手紙(1875年5月)が取り上げられる。
本論の6節、7節で確認したレーニンの誤謬について、本節でまとめておこう。
「エンゲルスは、国家についてのおしゃべりをまったくやめ、国家という言葉を「共同社会」という言葉ととりかえて、綱領から国家という言葉を完全に放逐するように、ベーベルにすすめている。エンゲルスは、コンミューンはもはや本来の意味の国家ではなかった、さえ言明している。ところが、マルクスは、「共産主義社会の未来の国家制度」さえうんぬんしている。すなわち、共産主義のもとでさえ国家が必要であることを認めているかのようである。
しかし、こうした見解は、根本的に誤りであろう。いっそう詳しく考察すればわかるように、国家とその死滅についてのマルクスとエンゲルスの見解は完全に一致していて、マルクスの前記の表現はまさにこの死滅しつつある国家制度をさしているである。」
これに相当するマルクスの文章は、以下である。
「つぎに問題になるのは、国家組織は共産主義社会においてはどんな転化をこうむるか? ということである。いいかえれば、そこでは今日の国家機能に似たどんな社会的機能がのこるか?ということである。この問題にはただ科学的にこたえることができるだけであって、「人民」ということばと国家ということばを千度もむすびあわせたところで、蚤の1跳ねほども問題に近づくことはできないのである。
資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない。
ところで、この綱領は、この後者についても、共産主義社会の将来の国家組織についても、なにも論じていない。」(「ゴータ綱領批判」)
素直に読めば理解できるように、マルクスは「共産主義社会においては今日の国家機能に似たどんな社会的機能がのこるか」といい、この「共産主義社会において残る社会的機能」を「共産主義社会の将来の国家組織」と言い換えている。
この文の前で、マルクスは「現存の社会」が「現存の国家」(上部構造)の(経済的)土台であり、「今日の社会」(土台)は資本主義社会であり、それゆえ「今日の国家組織」(上部構造)は「ある本質的な性格を共通にもっている」といっている。すなわちここでは、市民社会と国家の二重化という観点にたって、「今日の国家」の否定=止揚によって到達する共産主義社会における「社会的機能」を問うているのである。
国家は、市民社会に私的所有が引き入れられその柵に捕らわれてしまったためにどこにも現れることができなくなった人間の生産関係の本質=相互依存性が、政治的秩序=共同性として観念的に転倒された形態で現れたものにすぎない。したがって、国家は、共同性の実現と私的所有の保護という、根本的に敵対的な矛盾を背負っている。階級抑圧は、その矛盾した側面の1発展形態である。国家の止揚(形式的には否定するが内容的に保存する)とは、この敵対的な矛盾を破壊し、抑圧的な形態の下で発展させられてきた内容を掬い取って根本的に改造し、それを正しく共産主義の経済的土台の上に据え付けることである。それをマルクスは「共産主義社会の将来の国家組織」といい、エンゲルスは「共同体」といっているのである。したがって、これはレーニンの言う「死滅しつつある国家制度」を指してはいない。確かに「マルクスとエンゲルスの見解は完全に一致」しており、ただレーニンの見解とは一致していない。
レーニンは、あくまで自分の俗流的な国家理論に固執し、国家=階級抑圧機関として把握したため、国家の止揚が理解できず、マルクスの言う「共産主義社会の将来の国家組織」を「死滅しつつある国家制度」、すなわち「プロレタリア国家組織の残存物」と見なしてしまったのである。
「マルクスとエングルスの外見上の相違は、彼らがとりあげた主題の相違、彼らが追求した課題の相違によるものである。」
レーニンは、この「外見上の相違」を、自らの見解とマルクスらの見解との相違に求めず、マルクスとエンゲルスの「課題の相違」に求めている。
「では、この独裁と民主主義との関係はどうか?」
「資本主義社会がもっとも順調に発展する条件があるばあいには、この社会には民主的共和制というかたちである程度完全な民主主義がある。しかし、この民主主義は、つねに資本主義的搾取の狭いわくでせばめられているので、実際には、つねに、少数者のための民主主義、有産階級だけのための、富者だけのための民主主義にとどまっている。・・・近代の賃金奴隷は、資本主義的搾取の諸条件のために、いまなお窮乏と貧困におしつぶされているので、彼らには「民主主義どころではなく」、また「政治どころではなく」、諸事件が普通のかたちで平穏にすすんでいるばあいには、住民の大多数は公けの政治生活への参加からしめだしをくっている。」
「とるにたらぬ少数者のための民主主義、富者のための民主主義―これが資本主義社会の民主主義である。資本主義的民主主義の仕組みをよく調べてみると、いたるところ、どこにも、・・・民主主義が制限につぐ制限をうけているのを見るであろう。貧乏人にたいするこれらの制限、例外、除外、妨害は・・・これらの制限が総合されると、それは、貧乏人を政治から、民主主義への積極的な参加から除外し、おしのける。」
「しかし、プロレタリアートの独裁、すなわち抑圧者を抑圧するために被抑圧者の前衛を支配階級に組織することは、民主主義の拡大をもたらすだけではない。プロレタリアートの独裁は民主主義を大幅に拡大し、民主主義ははじめて富者のための民主主義ではなしに、貧者のための民主主義、人民のための民主主義になるが、これと同時に、プロレタリアートの独裁は、抑圧者、搾取者、資本家にたいして、一連の自由の除外例をもうける。人類を賃金奴隷制から解放するためには、われわれは彼らを抑圧しなければならないし、彼らの反抗を力をもって打ち砕かなければならない。―抑圧のあるところ、暴力のあるところに、自由はなく、民主主義はないことは、明らかである。」
「人民の多数者のための民主主義と、人民の搾取者、抑圧者にたいする暴力的抑圧、すなわち民主主義からのその排除―これが資本主義から共産主義への移行にさいして民主主義のこうむる形態変化である。」
レーニンが理解する「民主主義」というのは、通常言う「民主主義」とは異なっている。普通「民主主義」とは、法を形成する実体をなす国家意志の成立が、多数の国民の意志によって決し、全国民は成立した法に従わねばならないということ、具体的には、それを全国民による普通選挙による政治的代表者=議員の選出及び議員による多数決により行なうという形式的な政治的制度を指している。(エンゲルスの言う「民主主義の克服」というのも、この意味での民主主義を指している。)しかし、この政治制度は、その国家意志の内容まで決定するものではない。
「ただ問題は、個人のであろうと、国家のであろうと、この単に形式的な意志がどんな内容をもっているか、どこからこの内容がくるのか、なぜまさにこれが意欲されて別のものが意欲されないのか、ということである。」(「フォイエルバッハ論」)
国家意志の総括的な内容が、個々の資本家ではなく階級としての資本家階級の総意、すなわち資本の人格化としての資本家の利益に奉仕する内容を持っているなら、それはブルジョア階級の利益を反映しているのであって、ブルジョア階級の支配=独裁といってよい。例え、国民の大多数を占めるのが、少数の資本家ではなく、労働者であっても、同じである。労働組合や政党が、いわゆる管理部門のサラリーマンや小資本家としての退職者などの労働者の資本家的な意志の側面を反映し、それが国家意志を左右するならば、それはブルジョア階級独裁を支えることになる。だから、例え、労働者階級が国民の大多数を占めていなくても、国家意志が労働者階級の総意に基づいており、それが労働者階級の利益に奉仕する内容を持つなら、プロレタリア独裁である。
論理的には、国家意志の内容の決定と、国民の階級的構成とは、分けて考えなくてはならない。
「民主主義は、平等を意味する。平等のためのプロレタリアートのたたかいと平等のスローガンとが大きな意義をもっていることは、平等ということを階級の廃絶という意味に正しく理解するならば、明らかである。しかし、民主主義は形式的な平等を意味するにすぎない。そして、生活手段の所有にかんする社会の全成員の平等、すなわち労働の平等、賃金の平等が実現されるやいなや、ただちに人類のまえには、形式的な平等から実質的な平等にむかって、すなわち「各人はその能力に応じて、各人にはその欲望に応じて」という準則の実現にむかって前進する問題が不可避的に現われる。」
「民主主義とは、国家形態であり、国家の一変種である。したがってまた、それは、あらゆる国家と同じように、人間にたいして暴力を組織的・系統的にもちいることである。これは一面である。しかし他面、民主主義とは、市民間の平等の形式的承認を意味し、国家制度を決定し国家を統治する万人の平等な権利の形式的承認を意味する。そして、このことはまた、つぎのようなことと結びついている。すなわち、民主主義は、そのある発展段階で、第一には、資本主義に反対する革命的な階級であるプロレタリアートを団結させて、この階級に、ブルジョア国家機構―たとえ共和制的なブルジョア国家機構であっても−、常備軍、警察、官僚制度を破壊し、こっぱみじんに打ち砕き、地上から一掃し、それらのものを、やはり国家機構ではあるけれども、より民主主義的な―人民を一人のこらず参加させた民兵へと転化してゆく武装した労働者大衆というかたちの―国家機構をもっておきかえる可能性を与える。」
「計算と統制―これが、共産主義社会の第一段階を「軌道にのせる」ために、これを正しく機能させるために必要とされる主要なものである。ここでは、すべての市民は、国家―武装した労働者がそれである―に雇われる勤務員に転化する。すべての市民が、一つの全人民的な国家的「シンジケート」の勤務員と労働者になる。要は、彼らが仕事の基準を正しくまもって、平等に働き、平等に受け取ることだけである。これを計算し、これを統制することは、資本主義によって極度に単純化され、監視と記録、算術の四則の知識と適当な受領証の発行といったような、読み書きのできるものならだれでもできる、ごく単純な操作になっている。」
エンゲルスは、「国家の内に、人間を支配する最初のイデオロギー的な力がわれわれにたいして現れる。」(「フォイエルバッハ論」)といい、国家と、内外の攻撃から共同の利益を守る機関として国家権力とを区別して把握する。マルクスも、引用した文の後で、微妙な表現ながら、「政府機関、すなわち分業によって社会から分離した独自の機構を形作っているかぎりの国家の意味」として国家権力を指し、国家と国家権力を区別して把握している。
国家意志が転化した法を施行するのが、国家権力の役割である。この国家権力自体もまた、法による規定を受けている。だからエンゲルスは、国家権力を「イデオロギー的な力」と言ったのである。
国家意志と同様、国家権力を構成する機関が、「すべての公務員の完全な選挙制と解任制を採用し」、「すべての国家公務員の俸給の『労働者なみの賃金』水準への引下げ」が行なわれ、レーニンの言う徹底した「民主主義」が行なわれても、それだけで「プロレタリア民主主義」が実現するものではない。国家機関を構成する国家公務員は、国家の法に従う法の人格化した特殊な「労働者」であって、彼らの選出法や賃金とは区別して考えねばならない。だからこそ、ブルジョア独裁の法体系・政治的秩序から、プロレタリア独裁の法体系・政治的秩序に転換させることが、決定的に重要なのである。
レーニンは、国家=国家権力として把握したため、ブルジョア国家とそれの廃絶後のプロレタリア国家の違いを、国家権力の性格の違い、国家機関の「民主主義」的な程度の違い、民主主義が徹底しているかどうか、に求めている。したがって、レーニンがプロレタリア国家の民主主義として理解した属性は、過渡期の国家権力の階級抑圧機能以外の属性か、または「共産主義社会の将来の国家組織」の萌芽形態の属性か、そのどちらかである。
だから民主主義は「死滅」するのではない。それは「克服」すなわち、止揚されるのである。
「言いかえれば、資本主義のもとでは、本来の意味の国家がある。すなわち、一階級が他の階級を抑圧するための、しかも少数者が多数者を抑圧するための特殊な機構がある。もちろん、少数者である搾取者が多数者である被搾取者を組織的に抑圧するというようなことができるためには、抑圧がきわめて狂暴で、残忍であることが必要であり、血の海が必要である。そしてじっさい、人類は、奴隷制、農奴制、賃金労働制の状態のもとでは、こうした血の海を渡るのである。」
レーニンの国家権力の理解の誤りは、ブルジョア階級とプロレタリア階級をそれぞれ一人の人間として擬人化し、国家権力と言う暴力装置を巡って争う構図を想像するとよい。この構図から、何か連想しないだろうか。そう、エンゲルスが相手にしたデューリング氏である。デューリング氏の理論は、俗流唯物論の典型とも言うべきものであるが、レーニンのような理解は、デューリングのような理論への道に容易に繋がっていく。デューリング氏の克服は、そう簡単ではないのである。
レーニンは、「共産主義社会の第一段階」(普通、社会主義と呼ばれている)を、マルクスに寄りながら概括している。 ここで、レーニンに賛同して社会主義の詳細な説明をするわけにはいかないが、すでにソ連をはじめ主要な社会主義国家が崩壊した今、資本主義との根本的な違いを確認して置く事は、意義のあることであろう。それによって、キューバや現在の中国の社会主義の度合いを見ることもできようからである。
「ところで、この社会的総生産物からは、つぎのものが控除されなければならない。
第一に、消耗された生産手段をおきかえるための補填。第二に、生産を拡張するための追加部分。第三に、事故や天災による障害等にそなえる予備元本または保険元本。
総生産物の残りの部分は、消費資料としての使用にあてられる。」
「総生産物の残りの部分は、消費資料としての使用にあてられる。だが、各個人に分配されるまえに、このなかからまた、つぎのものが控除される。
第一に、生産に属さない一般行政費。この部分は最初から、今日の社会にくらべればきわめていちじるしく縮小され、そして新社会が発展するにつれてますます減少する。
第二に、学校や衛生設備のような、いろいろな欲求を共同でみたすのにあてられる部分。この部分は最初から、今日の社会にくらべていちじるしく増大し、そして新社会が発展するにつれてますます増加する。
第三に、労働不能者等のための元本。つまり、今日のいわゆる公共の貧民救済費にあたるものの元本。」(「ゴータ綱領批判」)
資本主義では、国家(地方自治体を含む)の収入は、個人(家族)や企業などの所得に対する税収という形態を取るが、社会主義では、国家が「社会的総生産物」の一次的な取得者になるので、必要な一般行政費や学校、障害者・高齢者保護費などはそこから削減される。当然ながら、資本主義において必要な複雑な徴税業務は、社会主義ではまったく無用になる。
また、障害者・高齢者などの「労働不能者」に対する保障は、資本主義の場合、個人や家族の所得に対する補填、いわゆる社会保障と言う形態を取るが、社会主義では国家がそれを負担する。
「ここで問題にしているのは、それ自身の土台のうえに発展した共産主義社会ではなくて、反対にいまようやく資本主義社会からうまれたばかりの共産主義社会である。したがって、この共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、それがうまれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだおびている。したがって、個々の生産者は、彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを―控除をおこなったうえで―かえしてもらう。彼が社会にあたえたものは、彼の個人的労働量である。たとえば、社会的労働日は個人的労働時間の総和からなり、個々の生産者の個人的労働時聞は、社会的労働日のうちの彼の給付部分、すなわち社会的労働日のうちの彼の持分である。彼はこれこれの労働(共同の元本のための彼の労働分を控除したうえで)を給付したという証明書を社会からうけとり、この証明書をもって消費資料の社会的貯蔵からひとしい量の労働を要するものをひきだす。彼は自分が一つの形で社会にあたえたのと同じ労働量を別の形でかえしてもらうのである。
ここではあきらかに、商品交換が等価の交換であるかぎりで、この交換を規制する同じ原則が支配している。内容と形式はかわっている。なぜなら、変化した事情のもとでは、だれも自分の労働のほかにはなにものもあたえることができないから、また他方では、個人的消費資料のほかにはなにものも個人の所有にうつりえないから、である。しかし、個人的消費資料が個々の生産者のあいだに分配されるときには、商品等価物の交換のときと同じ原則が支配し、一つの形の労働が、他の形のひとしい量の労働と交換されるのである。」(「ゴータ綱領批判」)
労働者が消費資料の社会的貯蔵からひきだすためのひとしい量の労働を要したという個人的労働時間の証明書は、資本主義下での労働賃金とどう違うのだろうか。
労働賃金は、労働者の労働力に対して、それを貨幣で評価した労働力の価格である。これは一般商品の価値に相当する。ところが、ここでいう個人的労働時間の証明書は、労働力の価値ではなく、労働の機能の継続時間=労働時間、すなわち労働産物の中に対象化された労働時間(正確には、労働対象や消耗する労働手段の価値を除いて)であり、労働力の使用価値に相当する。労賃と個人的労働時間の証明書の差は、剰余労働時間(剰余価値)である。これも、社会主義では、共同元本が控除された上で、労働者に還元されるのである。
これは、資本主義と社会主義との根本的な考え方の相違が基礎になっている。
生産手段の社会化(国有化)は、労働手段から分離された労働者を、資本抜きに、再び労働手段と結合することを可能にする。それは、本質的に社会的なものになった生産手段に、本来のあり方を回復されることである。労働対象や労働手段には、今や、多くの労働者によって多くの労働が対象化されており、多くの労働者によってしか生産できないものになっており、その生産物は多くの労働者の生活手段として消費される。個々の労働者の労働力も、多くの労働者の労働が対象化された生活手段の再対象化によって形成されるのだから、社会的なものになっている。だから、労働手段だけでなく、労働者の労働力も社会のものなのである。個々の労働者に許されるのは、労働力の使用価値の側面のみであり、それが個人的労働時間の証明書なのである。
労働手段の国有化は、消耗した労働手段の費用を国家が負担することに繋がる。それが、「社会的総生産物」からの第1〜第3の控除であった。労働力の社会化は、労働力の養成を国家が負担するということを意味する。「反デューリング論」にあるように、資本主義では、複合労働・熟練労働などの養成費は個人ないし家族が負担するので、その高い労賃もその個人のものになるが、社会主義では、その養成費は国家が負担するので、その成果であるより大きな価値も国家のものとなる。また、社会主義では、労働力の養育費としての教育費や、労働力の維持修理費としての医療費も、国家が負担することになる。これが、資本主義の教育費の公的負担や高額医療の社会保障と、根本的に異なるところである。ついでながら、資本主義の下での社会保障の複雑な制度は、社会主義の下では極めて簡素なものになる。
この総体の政策が、すべての労働者の「異質労働に同一賃金」、高級官僚も大学教授も医者もすべて一般労働者と同一賃金となるという「社会主義賃金論」なのである。
このような観点に立って現在の中国や北朝鮮を見るとき、はたして国家の社会主義度はいかがなものであろうか。
「それゆえ、平等な権利は、ここではまだやはり原則上、ブルジョア的権利である。もっとも、ここではもう原則と実際とが衝突することはないが。」
「しかし、こうした欠陥は、長い生みの苦しみののち資本主義社会からうまれたばかりの共産主義社会の第一段階では、避けることができない。権利は、社会の経済的構成およびそれによって制約される文化の発展よりも高度であることは、けっしてできない。
共産主義社会のより高度の段階において、すなわち個人が分業に奴隷的な従属をすることがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立がなくなったのち、労働がたんに生活のための手段たるのみならず、労働そのものが第一の生活欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって生産力も増大し、協同社会的富のあらゆる泉がいっそうゆたかにわきでるようになったのち−そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い限界を完全にふみこえることができ、社会はその旗のうえにこう書くことができる―各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(「ゴータ綱領批判」)
「そして、そのときはじめて、民主主義は、つぎの単純な事情の結果、死滅しはじめるであろう。すなわち、資本主義的奴隷制から解放された人間、資本主義的搾取の数かぎりない恐ろしさ、野蛮、不合理、醜さから解放された人間は、何世紀ものあいだよく知られ、何千年というものあらゆる格言のなかでくりかえされてきた、共同生活の基礎的な規則をまもる習慣、暴力がなくても、強制がなくても、隷属関係がなくても、国家とよばれる特殊な強制機関がなくても、これらの規則をまもる習慣を、徐々に身につけるであろうということが、それである。」
「なぜなら、すべての人が社会的生産を自主的に管理することを学び、また実際にこれを管理するようになり、計算と、・・・これに類した「資本主義の伝統の保持者」にたいする統制とを自主的におこなうようになれば―そのときには、このような全人民的計算と統制をまぬかれることは、不可避的に、信じられないほど困難で、きわめてまれな例外となり、おそらくきわめて急速で厳重な処罰をともなうために・・・人間のあらゆる共同生活の簡単で基本的な規則をまもる必要は、きわめて急速に習慣となるであろうからである。そしてそのときには、共産主義社会の第一段階からその高い段階へ移り、それと同時に国家の完全な死滅へ移る門戸はひろく開けはなたれるであろう。」
はたして、レーニンの言うように、「共同生活の基礎的な規則をまもる習慣」を獲得することがそんなに容易にできるものであろうかどうかはわからないが、この過程には、国家と国家権力がそれを媒介せねばならないという、プロレタリア国家の重要な役割が存在するのも確かである。
法とそれ以外の社会規範とは、明確に区別して把握せねばならない。法とそれ以外の社会規範とが異なるのは、法が国家意志への媒介を必要とするという点にある。だからこそ、法は、国家権力の強制力を伴うのである。プロレタリア国家には、法を将来の共同社会の社会規範に転化させる過程において、この強制力と国民教育を通ずる積極的な介在が、どうしても必要なのである。 
 

 

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