塩狩峠

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三浦綾子 / 三浦綾子名言作品「命ある限り」「ちいろば先生物語」「愛の鬼才」「夕あり朝あり」「泥流地帯」「細川ガラシャ夫人」「ひつじが丘」「道ありき」「氷点」「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」「母」「銃口」「生きること思うこと」
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雑学の世界・補考

塩狩峠 1
北海道上川郡比布町(旧石狩国)と上川郡和寒町(旧天塩国)の境にある峠。天塩川水系と石狩川水系の分水界である。
1898年(明治31年)、国道40号の前身となる仮定県道天塩線が開通。当初は悪路であったが、1973年(昭和48年)に改良改修。1991年(平成3年)には現ルートが完成し、勾配やカーブが緩やかな峠になった。鉄道は、1899年(明治32年)に宗谷本線の前身となる北海道官設鉄道天塩線(蘭留 -和寒間)が県道と並行して開通した。高速道路は、2000年(平成12年)に道央自動車道(旭川鷹栖 - 和寒間)が開通。峠付近は大規模な切通しになっている。
鉄道事故と小説『塩狩峠』
1909年(明治42年)2月28日、塩狩峠に差し掛かった旅客列車の客車最後尾の連結器が外れて客車が暴走しかける事故がおこった。その車両に乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)職員の長野政雄(ながの まさお)が、暴走する客車の前に身を挺して暴走を食い止めた。下敷きとなった長野は殉職したが、これにより乗客の命が救われた。
三浦綾子の小説『塩狩峠』はこの事故の顛末を主題としたものである。
類似した事故が、1947年(昭和22年)9月1日に長崎県旧時津村(現・西彼杵郡時津町)の打坂峠で起こっている。  
 
塩狩峠 2

 

塩狩峠列車事故 / 暴走列車を己の体で止めた伝説のクリスチャン鉄道員
塩狩(しおかり)峠の列車事故を聞いたことがあるでしょうか?
鉄道の歴史の中で、日本は悲惨な列車事故を幾つも体験してきました。その中で、鉄道員自らの命をもって暴走列車を止める、という今でも語り継がれる伝説の事故があります。小説家の三浦綾子の『塩狩峠』はこの実話を題材にした作品で、映画化もされています。
塩狩峠は北海道にあります。時は1909年(明治42年)2月28日、鉄道職員の長野政雄(ながおまさお)は、客として名寄(なよろ)駅で列車に乗り、旭川へと向かいました。彼を載せた列車が急勾配の塩狩峠を登っているとき、事故がおきました。
客車をつなげる連結器が外れて最後尾の客車が峠を下り始めてしまったのです。動力を失った客車はどんどん勢いを増しながら峠を下っていきます。このままではカーブを曲がりきれずに脱線し、大惨事になることは誰の目にも明らかでした。ここで、長野政雄は乗客を助けるべく、とんでもない行動にでるのです…。
長野政雄の生き様
長野政雄は鉄道の庶務主任として働いていました。その一方で、彼は熱心にキリスト教を信仰していました。収入は比較的多かったにもかかわらず、生活は質素を保ち、母への仕送りや教会への献金に当てていました。特に、教会への献金額は多額だったと言われています。キリストの教えに従い、彼は無償の愛を人々に与え続ける人生を選んだのです。
彼は常日頃、自身の遺書を携帯していました。常に死を意識し、日々の生活を充実なものにし、いつ何時でも後悔なくその生涯を閉じる、長野はこのような人生観を持ち、後悔の無いよう、常に遺書を携帯していたのです。
事故の日
事故の起こる1909年(明治42年)2月28日、彼はいつものように、協会へ向かうために旭川行きの列車に乗りました。そして、列車が塩狩峠を登っている最中、連結器が外れ客車が急勾配の峠を下ってしまいます。
長野政雄は日頃の死への意識のせいか、冷静でした。客車のデッキにハンドブレーキがあるのを素早く見つけ、それでブレーキをかけました。しかしブレーキの力が足りず、列車は完全に止まらない。そればかりか、またいつ暴走しだすか分からない不安定な状態です。
彼は一瞬、乗客の方を振り向き、別れを告げるように頷いた、との目撃証言が残っています。次の瞬間、「ゴトッ」と鈍い音とともに列車が完全に停車しました。乗客が車外に出てみると、そこには無残な姿の長野の遺体がありました。己の命を犠牲にした長野に涙しない乗客はいませんでした。
そして、ちょうどこの事故のあった時分、教会で不思議なことが起こっていました。
教会で起きた不思議な出来事
事故の知らせが教会に伝えられた時、実は教会は長野の死を信じませんでした。なぜなら、事故の時間の少し前、長野はいつもどおり教会に現れ、いつもの席でお祈りをしているのを多くの人々が目撃していたからです。見間違いだったといえば簡単ですが、長野の祈る姿は多くの人が目撃しているのは事実なのです。
長野政雄の無償の愛が多くの人々を救ったこの事故から学ぶべきことは、この現代社会においても多いのではないかと考えさせられる実話です。
 
塩狩峠 3 / 小説「塩狩峠」モデルの事故から100年

 

たったいまのこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができる、と信夫はとっさに判断した――暴走し始めた列車を止めるため、線路に身を投じて乗客を救った鉄道員を描いた三浦綾子さんの小説「塩狩峠」。1909年2月28日に上川管内和寒町の塩狩峠で起きた列車事故が、小説のモチーフになった。事故から100年の節目を機に、各地でイベントが計画され、小説の意義を再考しようとする動きが盛り上がっている。今もなお、「塩狩峠」が関心を呼ぶ理由は何か。その背景を探った。
テーマは犠牲
列車事故で実際に命を落とした鉄道員、長野政雄さんを主人公のモデルとした「塩狩峠」は、1966年から3年間、日本基督教団の月刊誌に連載され、その後、新潮社から単行本が出版された。連載を前にした三浦さんは、月刊誌に執筆の決意を寄せている。「今回は『犠牲』をテーマとして書いてみたいと思ったわけである」
三浦さんの夫で三浦綾子記念文学館(旭川市)館長、三浦光世さん(84)は塩狩峠を口述筆記し、執筆過程を最も近くで見守った。「綾子は、教会の知人から長野さんの話を聞いて感動した様子だった。熱心に犠牲について考えていた」と当時を振り返る。
「塩狩峠は三浦文学で最もメッセージ性が強い。『犠牲の愛』や『人はいかに生き、いかに死ぬべきか』を問うている」と文学館特別研究員の森下辰衛さん(46)は解説する。さらに「人権思想に照らせば犠牲は悪だが、『命を投げ出せて幸せ』と感謝していた場合は否定できない。切迫した状況で犠牲になることを選択した行動は尊く、読者の心を動かす」と説明する。
受け止め方変化
世代を超えて読み継がれる塩狩峠だが、最近は自己犠牲のあり方に疑問を呈する見方もある。文学館で12日に行われた「塩狩峠100年メモリアルフェスタ」実行委事務局長、中島啓幸さん(39)の講演で、年配の男性が意見を述べた。「犠牲死、という考え方がある。言葉は素晴らしいが抵抗感を抱く」
この意見に中島さんは口をつぐんだ。事故から100年で、小説の出版から41年。「当時と比べると『自己犠牲』の響きは劇的に変わった。社会は小説の伝えたかった精神とは別の方向へと進んでいる」と肩を落とす。
01年9月11日の米同時多発テロ、08年6月8日に東京・秋葉原で起こった無差別殺傷事件……。中島さんは「塩狩峠で描かれた自己犠牲は、何も言わないでこっそりと人に尽くす姿。残念だが、『命で命を奪う行為』を自己犠牲と解釈する人もいる」
だが、「だからこそ小説の価値が増す」と中島さんは強調する。勝ち組と負け組に色分けされ、努力しても現状を変えられないもどかしさでよどむ社会。世界的な不況がさらに追い打ちをかける。内向きになりがちな時代に、私心を捨て自己犠牲を選んだ主人公の純粋さが、より際立つというわけだ。
今だからこそ
「塩狩峠に感動しました。あの一冊のおかげで自殺を思いとどまりました」。光世さんは数年前、旭川市の自宅を訪ねてきた若い旅行者の言葉が忘れられないという。「長野政雄の生き方、特にその最期に心を打たれたからだろう」と喜ぶ。
和寒町の「塩狩峠記念館」に備え付けられたノートには小説に励まされた、という記述が多い。「死に場所を求めてさまよったが、死にきれずに朝を迎えた。朝の光の中で塩狩峠を読み、もう一度、生きてみようと思った」「自分の弱さに泣くことしかできない者だが、少しでも長野さんに近づきたい」
北海道教育大旭川校の片山晴夫教授(61)=日本近代文学=は「塩狩峠は決して感動を押しつける作品ではない。だからこそ、著者が表現に託した思いを読者は率直に受け止めているのではないか」と分析する。
国内の自殺者は98年以降、10年連続で3万人を超え、不景気でさらなる増加が懸念される。先行きが不透明な世相を反映してか、塩狩峠が関心を集めていることについて、片山教授は説明を加える。「主人公の生き方が命を捨てようとする人を反省させる。自己犠牲への感動が生きる力に変わる」

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯(ただ)一つにて在らん、もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし」。三浦さんは作品の冒頭に新約聖書の言葉を引用している。
◇ゆかりの地で追悼行事
事故から100年の09年は、三浦さんの没後10年でもある。出身地の旭川市や事故現場の上川管内和寒町では、追悼行事やイベントが計画されている。
三浦綾子記念文学館は、3月末まで三浦さんの取材ノートや創作メモを集めた「塩狩峠100年特別展」を開催中。2月末には殉職した実在の鉄道員、長野政雄さんを追悼する「塩狩峠100年メモリアルフェスタ」を旭川市と和寒町で催す。
27日は文学館特別研究員、森下辰衛さんの案内で、市内にある長野さんの旧住所や旭川教会跡を巡る「文学散歩」を実施。事故の発生した28日は三浦さんの夫、三浦光世さんや森下さんが市内の「神楽市民交流センター」で講演する。その後、和寒町の「塩狩峠記念館」で予定されている交流会では、追悼行事実行委事務局長、中島啓幸さんが、長野さんの持っていた血のりのついた新約聖書を初公開する。問い合わせは、文学館(0166・69・2626)か、森下さん(0166・62・3754)まで。
作品の人気も根強く、1914(大正3)年に創業した旭川市の老舗書店「冨貴堂」では、三浦さんの書籍を集めた特設コーナーを設置している。担当者は「地元出身の作家でみなじみ深く、コンスタントに売れる」と説明する。  
 
塩狩峠 4

 

国道40号線「夢ロード桜」の比布町と和寒町の境にある、標高273mのなだらかな峠。 天塩と石狩の国境であったことから、この名が与えられました。
この峠の名を有名にした三浦綾子の小説「塩狩峠」は、国道40号線に並行する宗谷本線で明治42年に起こった客車空走事故で、乗り合わせた鉄道員の長野政雄氏が身を挺して客車を止めた実話に基づいて書かれました。 宗谷本線塩狩駅近くの線路沿いには、長野氏の殉職碑が建てられています。 また、駅近くの丘の上に建つ三浦綾子旧宅は「塩狩峠記念館」として公開されています。
塩狩峠は桜の名所としても有名です。 塩狩駅周辺にはエゾヤマザクラ・チシマザクラなどの多数の桜が植樹され、「一目千本桜」と呼ばれています。 花の見頃は例年5月中旬です。 桜の季節には、宗谷本線のイベント列車「塩狩峠さくらノロッコ号」が運転されるので、車でなく列車で訪れるのも一興でしょう。
国道40号線の塩狩峠付近は最近になって大規模な付け替えが行われ、見通しがよく、走りやすくなっています。 並行する旧道は通行止めとなっています。
比布町側の頂上付近には駐車帯「塩狩パーク」があり、三浦綾子の題字による「塩狩峠」の石碑が建っています。  
 
塩狩峠 5

 

「塩狩峠」をご存知だろうか? 読んで字のまま地名で在り、峠だ。「塩狩峠」は北海道にある。明治42年2月28日この場所で大きな一つの事件が起きた。この事件は僕に大きな衝撃と考えと経験を与えた、「無償の愛」の話だ。
"たったいまこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると信夫はとっさに判断した。一瞬、ふじ子、菊、待子の顔が大きく目に浮かんだ。それをふり払うように、信夫は目をつむった。と、その瞬間、信夫の手はハンドルブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。"
この文章は僕の大好きな三浦綾子さんが書いた「塩狩峠」の後半に出てくる文章。これを読んでいただければ事件の大体の概要は掴んで頂けると思って掲載。
この事件は実際に在った話です、フィクションではありません。長野政雄さんは小説の中では永野信夫と名前を変えています。彼はクリスチャンでした。
ここではこの事件について詳しく紹介していきたいと思います。この事件を知って皆様が何かしら考えてくださったら幸いです。彼の死に答えを求めたり、クリスチャン云々を言うつもりは毛頭ありません。ただ、皆さんに知っていただきたいと思いこのコンテンツを製作しています。
塩狩峠
塩狩峠は、北海道、天塩と石狩の区界にある峠で、この峠を境に、南は石狩川水系へ、北は天塩川水系という分水嶺でもあるそうです。
峠自体の標高は大して高い方ではないのですが、士別側からは塩狩峠へ登りが連続して続き、蒸気機関車にはキツイ道のりだったそうです。
今現在、峠付近は、宗谷本線・塩狩駅となっています、駅周辺には三浦綾子さんの家屋を移築して造られた「塩狩峠記念館」や「長野政雄殉職の地の記念碑」などがあります。
駅には思い出ノートなどもあるらしく、三浦綾子さんのファンや、鉄道マニヤ、観光客などが色々書き込んでいるそう。運転士さんが身を投じて観客を守ったという点から、おそらく鉄道マニヤの方にとってもある意味で聖地なのでしょう。
三浦綾子さんがどこかでおっしゃっていたのですが、ここの風景は、三浦綾子さんが若かった頃初めてここをSLで通ったときから、いや・・塩狩峠の事故があった75年前からずっと今まで、変わっていないそう。今行ってもその時の景色が残ってるとはなんだか嬉しいです。
長野政雄
明治42年2月28日夜、塩狩峠に於いて、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。 乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。 乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。「苦楽生死 均(ひと)しく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ。」上は、その一節なり。30才なりき 
これは塩狩峠に立てられた長野政雄殉職の記念碑に刻まれた言葉だ。この記念碑は、ちょうど彼が犠牲の身を投じた地に立てられている。記念碑の画像は検索サイトで「塩狩峠」やら「長野政雄」と検索すればヒットするのでそちらを見ていただきたい。
経歴
長野政雄さんは明治13年7月31日、尾州愛知郡水穂村に生まれました。
三歳の時に父が死去、母は政雄の後見人として親戚の一人を立てるが裏切られ全財産を失ってしまいました。
そのため、彼は十三歳で、尋常高等小学校を卒業すると同時に名古屋監獄の給仕として働き、母と妹を養い始めます。
16歳の時、名古屋控訴院で働いているときに判事に認められ学僕となり函館に来て学舎に入る。
そして勉強をしながら、19歳の時に大阪貯金管理所登用試験に合格、判任官の資格を取得した。
大阪時代、親友であり熱心なクリスチャンである中村春雨さんに誘われて教会へ行く。
中村さんの忍耐強い働きかけにより、大阪天満教会で洗礼(注釈:1)をうける。
その後、大阪時代の先輩が北海道鉄道部に勤務しており、明治31年5月、招かれて札幌へわたる。
信仰的に成長(注釈:2)した長野さんは不言実行の域に達した。
それは、言葉に頼るのではなく、自らの行いにより神の愛をこの世の中で実際に示していく(注釈:3)ものであり、これにより、長野さんの信仰の基礎が築かれたと思われる。
明治34年11月に旭川に転勤して、明治42年2月28日まで、旭川の鉄道事務所に勤務していた。
これは公式に発表されている彼の経歴です、でもキリスト教を知らない方には微妙に「?」だろうと見受けられる部分もあるので、えせクリスチャンの僕が軽く噛み砕いてみます。
(注釈:1)の洗礼。簡単にいえば水につかって自分の罪を洗い流すというキリスト教の儀式です。洗礼をうけることを受洗、英語ではバプタイズムとかパプテズムとかいいます。
(注釈:2)の「信仰的に成長」ですが、これはようするにクリスチャンとして成長したということ。神様の教えを守るだとか、自分の中で神様の存在が疑いの無い頑ななものになったということでしょう。
(注釈:3)の「自らの行いにより神の愛をこの世の中で実際に示していく」ということですが聖書の中でこうしましょうと書かれています。「今からここに倒れている人を救います!」とか「この人はお金がなくてかわいそうだから1万円あげます」といって善行をしちゃいけません。というようなことがかいてあります。どうしてかというと自分を偉くしてしまうから、クリスチャンは神様の素晴らしさをみんなに見せるべきだから自分を高めるなという事です。
「ああ、あの人はなんであんなに親切で寛容なんだろう」「あの人はクリスチャンだ、神様を信じてるんだ」「神様がついてるとああなんだ、凄いな神様って。」と思われるように心がけなさいという事です。
”えせ”なので合ってるかどうかは微妙ですがこんな感じです。長野さんを理解する手助けになればと思って宗教的なことを書きました。
遺書をいつも携帯していた
長野さんは遺書を常に持っていたそうです。それは、愛のためなら、いつでも死ねるという覚悟の現れでした。彼の給料の大半は、教会の子供達のために寄付され、慎ましやかに生活した人で、あなたの隣人を愛せというキリストのことばを実行していました。それができていたのは、キリストを人生の方向として、しっかり定めていたからだと思います。
彼が線路に身を投じたその日も遺言書は彼の内ポケットに入っていたそうです。その為、彼の死は自殺だったのだろうと言う方もいらっしゃったそうですが、最後線路に飛び込む時長野さんが後ろをふり向きうなずいて、別れの合図をしたのを見た方も数名いらっしゃるそうです。
これらの事が証明する通り自殺ではありません。
事故は起こった
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ それはひとつのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。【ヨハネの福音書 12章24節】
これは聖書の一節です。三浦綾子さんが書かれた「塩狩峠」の見開きの一番初めのページ、そして「塩狩峠記念館」などにて目にすることができます。おそらくこれは長野さんがいつも心に留めていた一節なのでしょう。
これが意味するものは皆さん読んですぐおわかりになるでしょう。でもこの一節は「死ね」といっているわけでは絶対に在りません。
この一節が意味するものは受け手によって千差万別でしょう。正解、不正解はありません、読んだ方それぞれの感じ方が答えなのです。
この一節を長野さんはどう受けとられたのでしょうか。少しですが分かる気がします。
2月28日
事故は起こりました。長野さんの乗った列車(客車部分)の連結が、塩狩峠を越えようとしていたときに振動で外れてしまう。
機関車は前に進むが長野さんや乗客の乗った客車は、坂をバックし始めた。ハンドブレーキを使うが減速するだけで、列車は止まらず後ろ向きで坂をどんどん下っていく。塩狩峠はSL機関車にとっては大変な急勾配、大きな大きなカーブがいくつもある。そして勾配によって加速した客車は大きな急カーブに向かっていく。乗客の中には、女子供も含まれていた。そしてみんな怯えきっていた。
「たったいまこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができる」と判断し、自らの命を犠牲にして列車(客車)を止める。
客車は不気味にきしんで、彼の上に乗り上げ、完全に停止した。
客車が止まって、乗客がほっとして外を見ると、そこには血で真っ赤に染まった雪とレールの上に横たわる彼の姿があった。
遺言
血に染まった遺言状にはこんなことが書かれていたそうです。以下は三浦綾子さんの「塩狩峠」から抜粋。彼女は入念な情報収集を行っておりこれらの内容は事実とされています。
一、 余は感謝して凡てを神に捧ぐ。
一、 余が大罪は、イエス君に贖はれたり。諸兄姉よ、余の罪の大小となく凡てを免されんことを余は、諸兄姉が余の永眠によりて天父に近づき、感謝の真義を味ははれんことを祈る。
一、 母や親族を待たずして、二十四時間を経ば葬られたし。
一、 吾家の歴史その他余が筆記せしもの及信書(葉書共)は之を焼棄のこと。
一、 火葬となし可及的虚礼の儀を廃し、之に対する時間と費用とは最も経済的たるを要す。湯灌の如き無益なり、廃すべし。履歴の朗読、儀式的所感の如き之を廃すること。
一、 苦楽生死、均しく感謝。余が永眠せし時は、恐縮ながらここに認めある通り宜しく願上候 頓首
これが事故の概要です。
皆さんはどう考え、どんなことを感じただろうか?彼がこのような行動を取れたのは「無償の愛」の賜物以外のなんでもない。
人にはそれぞれ命をかけても守らなきゃいけないものがある。恐らくあなたにもあの人ためになら死ねるという人が一人は居るだろう。しかし彼は見ず知らずの乗客たちのために死んだ。
彼は全ての人たちに分け隔てなく自分が死ぬだけの価値を意味を見出していた。全ての人たち(全人類)を分け隔てなく愛していたと言い換えられると思う。
それってどんなことだろうか。
僕がこの事件を知ってから考えたのが無償の愛であり人生のあり方だった。何の為に生きるのかは人それぞれであり、人が人生に求むるモノも人それぞれ。個人個人にとっては当たり前すぎて意識しない部分である人生のあり方を非常に考えた。
こういった事件があったこと、こういった人が居たことをみんなには覚えておいて欲しい、そして何かを得て欲しいと思います。きっとあなたの人生に役に立つ筈だから。そして三浦綾子さんが出されている小説、「塩狩峠」もぜひ読んでいただきたいと思います。 
 
塩狩峠 6

 

1 塩狩峠とは
塩狩峠は北海道比布町と和寒町の間にある。国道40号、JR北海道宗谷本線及び道央自動車道が通過している。国道40号の峠の標高は263m。地名の由来は、明治時代初期に北海道が一時期分国されていたころの天塩国と石狩国の境界にあることから来ており、天塩川水系と石狩川水系の分水界上にも位置している。
1898年(明治31年)、国道40号の前身である仮定県道天塩線が、1899年(明治32年)に宗谷本線の前身である官設鉄道天塩線が、2000年(平成12年)には道央自動車道が開通。交通の要所である。
この峠の名が不朽のものとなったのは、1909年(明治42年)2月28日にここで起こった鉄道事故と、その実話を元に三浦綾子が著わした小説『塩狩峠』(1966 - 1969、のち新潮文庫)によってである。
2 塩狩峠鉄道事故
まだ雪深き早春のことであった。夜のとばりの中、小雪が舞っていた。
列車が塩狩峠の上り急勾配に差し掛かったとき、今では考えられないことが起こった。連結器が突如はずれ、列車の最後尾の客車が前の車両から分離し、長い坂を急速に下り始めたのだ。
乗客はパニックに陥った。総立ちとなり、救いを求めて叫び出した。
そのとき、一人の乗客が立ち上がった。二十代後半と見える丸刈りの青年。目撃者たちの証言を総合すると、彼の行動は次の通りである。
まず、彼は客車のデッキに出た。そして、そこにあるハンドブレーキを力一杯締め付けた。これにより客車の速度は弱まり、徐行程度にまでなった。
しかし、完全には止まらなかった。このまま走り続ければ、その先の急勾配でまた客車は暴走を始めるかも知れない。そのことは誰の目にも明らかだった。
そのとき、乗客たちは見た。青年がデッキ上から振り向き、うなずいたのを。
次の瞬間、青年の姿が闇に消えた。何が起こったのか、みな、考える間も無かった。
「ゴトン」という衝撃とともに、客車が完全に停止した。
乗客たちは我先にと外に飛び出した。助かったのだ。
しかし、客車の下にあるものを見て、彼らは凍りつき、言葉を失った。それは、姿を消した青年の、血まみれになった無惨な遺体であった。
人々は茫然自失し やがてその意味するところを理解するや、雪と闇のうちに声を上げて泣き崩れた。
この一見平凡な青年は、なんと自らの身を線路に擲って歯止めとし、文字通り身を呈して暴走する客車を止め、何十人という乗客の生命を救ったのだ。あのうなずきは別れの挨拶だったのだ。
闇のうちに突っ伏して泣く乗客たちは、やがて近づいてくる救援列車の汽笛と人々の声にさえ気づかなかったに違いない。
3 青年・長野政雄
──後にあまねく知られるに至ったことである。
青年の名は長野政雄。鉄道省旭川運輸事務所庶務主任であった。この日、乗り合わせたのはまったくの偶然で、いつものように教会の祈祷会に向かうところであった。
──教会。
そう、彼はキリスト教徒だった。明治も末年に近きこのころにおいてさえ、まだ「邪蘇教」と呼ばれ、入信しようものなら親子の縁を切られることさえあった宗教の信者である。
しかし、彼は部下にも上司にも信頼されていた。その人格と熱意は上司・同僚・部下のすべてを打った。
実際、彼は、札幌勤務時代、ある同僚が悪質な酒乱の果てに発狂し、職場はもとより親兄弟からも疎まれ見捨てられたのを、献身的な看護によって完全に立ち直らせ、復職させた。やがて、手に負えない怠惰な者や粗暴な者など問題職員は、みな長野の所に回されてきた。彼の所に送ればすべて解決できるとの定評があったからである。
だから長野の在職中、運輸事務所長は幾度か変わったが、みな彼を得難い人物として深く信頼した。ある所長など、転勤の際、後任に「旭川には長野というクリスチャンの庶務主任がいる。彼に一任すれば、あとの心配はいらない」とまで言ったという。
長野政雄は熱心で敬虔なキリスト教徒であった。収入は比較的多いほうであったが、極めて質素な生活で、そうして浮かせたお金で国元の母に生活費を送り、教会に多額の献金をしていた。実際、日露戦争の功により金60円を下賜されたが、これをそっくり旭川キリスト教青年会の基本金として献金。また、教会のすべての集会に出席。往復には計画的に道を選び、よく人々を教会に誘った。しばしば自費で各地に伝道し、鉄道キリスト教青年会を組織。講壇での彼の話は、火のように激しく、熱誠を帯びていたという。
そう、長野政雄は熱誠の人であった。例えば、日露戦争直後、北海道の伝道に尽くした宣教師ピアソンがスパイの嫌疑をかけられ、小学生までがピアソンの家に投石するという事態に陥ったことがある。これを憂えた長野は直ちに新聞に投書してピアソンの人格を讃え、使命の尊さを訴え、自分がスパイの仲間と誤解される危険を一切省みず、警察に出向いて誤解を解くよう努めた。
長野政雄は徹底した愛の人であった。実際、彼の友人・旭川六条教会員の山内は「君は愛の権化と言ひて可なり」と書き残している。また、同教会牧師・杉浦義一の三男で長野の人柄をよく知る杉浦仁は、こう書いている。「長野政雄先生は、父杉浦義一の最も信頼していた愛弟子であり、片腕でもあった関係で、ひとしお感銘深いものがあります。一個の人間像において、長野氏のようにあらゆる美徳を兼ね備えた人物は、絶無といっても過言ではありません」「上司、同僚、下僚、友人……彼を知る限りの人から敬われ、愛され、親しまれた事実は、そのことを雄弁に物語っています。自己に関しては非常に厳格でしたが、他に対しては寛大でした。長野氏がかつて人を非難し、批評したことを私は知りません」。
そして、長野政雄は覚悟の人であった。彼の遺体からは遺書が一通発見されたが、客車の遺品の中には聖書、妹への土産の饅頭などがあった。明らかに、日頃から内ポケットに秘めていたのである。神と隣人のために、いつでも命を捧げる覚悟だったと考えられている。
長野政雄の死が伝えられたとき、鉄道、教会等の関係者はもちろん、一般町民も深く心を打たれ「こんな立派な人がいるのなら邪蘇教は大したものじゃないか」という評判が燎原の火のごとく広がった。そして、旭川、札幌の鉄道職員が何十人もキリスト教の洗礼を受けた。長野政雄の部下であった藤原永吉など、感激のあまり、70円あった自分の貯金を全部日曜学校のために捧げたという。
彼の死は名誉の死、殉職として扱われた。今日、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅の近くには『長野政雄氏殉職の地』と題する記念碑が建てられ、その裏面には次の通り刻まれている。
【明治四十二年二月二十八日夜、塩狩峠に於て、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。乗客全員、転覆を恐れ色を失い騒然となる。時に乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。「苦楽生死均しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ」右はその一節なり 三十才なりき】
4 『塩狩峠』とその批判
長野政雄をモデルにして書かれたのが三浦綾子の『塩狩峠』である。この小説は読んだ人々に深い感動を与え、彼女の最高傑作と讃えられている。また、映画にもなった(1973年)。
しかし、この作品に対しては、強い批判もある。長野政雄は事故死だ、『塩狩峠』は犠牲死を美徳とし強制しさえする日本的文化の中で《美談》に仕立てたものに過ぎないというものだ。
実際、藤原永吉の手記『僕の見た長野政雄兄』によれば、長野は自ら線路に身を投げて亡くなったのではなく「ハンドブレーキの反動により身体の重心を失いデッキの床上の氷に足を滑したのであろう、兄はもんどり打って線路上へ真逆様に転落し、そこへ乗りかかってきた客車の下敷きとなり、その為客車は完全に停止して乗客全員無事を得たるも兄は哀れ犠牲の死を遂げられた」とする。
しかし一方、藤原栄吉は、そのとき長野がデッキ上から後ろを振り向き、一瞬うなずいて乗客らに別れの合図をした姿を目撃した者があったともいう。
新約聖書にはナザレのイエスそのひとの言葉として、自己犠牲を説くものが随所に現われる。
『よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。』(ヨハネによる福音書第12章24節)
『人がその友のために自分の命を捨てること。これよりも大きな愛はない』(ヨハネ福音書15:13)
『わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』(10:11)
したがって、熱心で敬虔なクリスチャンである長野政雄が常に遺書を懐に秘めて生きていたとすれば、覚悟の死という可能性は、事故死である可能性と同じかそれ以上にあると見るべきでないか。
なお、1947年(昭和22年)に長崎県西彼杵郡時津町(旧時津村)で起きた殉職事件、急坂で逆行し崖から落ちようとしていたバスをやはり身をもって止め、乗客・運転士の命を救った長崎バス瀬戸営業所(現:さいかい交通)鬼塚道男車掌(享年22歳)の場合も、敢えて事故と見るより自己犠牲死と見るべきであろう。彼を称え、1974年(昭和49年)10月、長崎自動車は事故現場付近に地蔵菩薩尊像を建立した。打坂地蔵尊である。
5 自己犠牲批判の裏にあるもの
ムキになって自己犠牲という《美談》を攻撃する人は、おそらく、《犠牲死》を美徳とする文化が神風特攻隊の悲劇を生んだことが心の底にあるのだろう。
《特攻》で散華した兵士たちが当時もっとも勇敢で優秀な若者たちだったことは、鹿児島県南九州市知覧町にある「知覧特攻平和会館」に行けばよく解る。10代後半から20代前半にかけての特攻隊員1,036柱の遺影はみな凛々しく清々しく、遺書は文字といい内容といいまことに立派で、検閲によって綺麗事しか書けなかったろうということを割り引いても、賛嘆の一言である。
──こんな若者たちを1000人以上も死なせたのだ。発案者である大西瀧次郎海軍中将自身が「統率の外道」というほどの《特攻》によって。彼らが生きていればどれほど日本の復興に役立ったろう。
戦争の最大の問題は逆淘汰だということだ。勇敢で優秀な人間、自己犠牲の精神に溢れた勇者から死んでいくことになりかねないのだ。そして、長引けば長引くほど人的・物的資源が損耗してゆく。そのことは戦争論の古典にして白眉の『孫子』が既に厳しく指摘したところである。曰く「兵は國の大事、死生の地、存亡の道、察せざるべからず」。どんな言い訳をしても、この原則に反した戦争をやれば、敗けるに決まっている。
自己犠牲の精神は尊い。しかし、長野政雄や特攻隊員たちのような人物は、生きて生きて生き抜いて世のため人のために尽くすべきであった。長野の場合は咄嗟のことで、他にどうすることもできなかったかも知れないが、少なくとも《特攻》には別の選択が有り得たのだ。
なお、前述の杉浦仁によれば、塩狩峠の事故があった夜、長野の通っていた旭川六条教会で不思議な出来事があった。多くの教会員が彼の祈る姿を目撃したというのである。
「ちょうどその日二月二八日、集会の終わりに近い午後九時前後かと思いますが、駅からの使いで急変が知らされました。しかし最初、一同はいっこうに驚きませんでした。」
「なぜなら、少し前に長野氏が遅れて教会にやって来て、前方のいつもの席でお祈りしていたからです。ところが、あらためてその席を見ると彼の影も形もなく、初めてびっくりしたという事件がありました」。
懐疑主義者はこの話をオカルト、作り話か集団幻覚と決めつけるだろう。
──だからわたしは彼らを嘲笑してやまないのだ。  
 
塩狩峠 7

 

私事で大変恐縮ですが、私が小学低学年(2年生?)の頃、私たち家族は両親と共に上川郡和寒町の菊野から、同じ和寒町の塩狩(峠)に引っ越して来ました。そこで、開拓農家の貧しい生活を強いられたわけですが、最初の頃は、土壁を塗った掘立小屋のような所で生活したので、真冬には風雪が土壁の隙間から入って来るようなこともありました。氷点下30度を下るシバれる(凍るような寒さ)日もありましたが、朝目覚めた時には、吐いた息が布団の襟に凍りついて、ガバガバになっていたことも度々ありました。塩狩は田舎でしたので小学校も、中学校もなく、当時は汽車(SL)で和寒の小学校、中学校まで通学したのです。高校時代もやはり、士別高校までSLで通学したのです。私にとって、その頃の一番懐かしい思い出となって脳裏に焼きついて残っているのは、実は「塩狩峠」を黒煙をあげて驀進するSLの情景です。  
この旭川→稚内間を結ぶ鉄道・宗谷本線の塩狩峠は、旭川から北へ約30キロの地点にあり、かなり険しい急な勾配がある峠で、塩狩峠を汽車が上る時には、先頭の蒸気機関車一台で列車を引っ張ることができないので、ふもとの駅から列車の後端にもさらに一台の機関車を繋いで、深い山林の中をいく曲がりもしてあえぎあえぎ上るのです。ところで、子供の頃、昔(明治時代)一人のクリスチャンの鉄道員がいて、その峠で殉職したという話を聞いたのを漠然と記憶していました。のちに、クリスチャン作家の三浦綾子さんが「塩狩峠」という小説を書いていますが、その中に書かれている一部のことは、小説ではなく、本当にあった感動的な実話であり、大人になってからその小説を読んで、子供の頃うろ覚えで聞いた話を思い出して、改めて感動したのを覚えております。
明治時代の終わり頃ですが、旭川に長野政雄という鉄道職員(庶務主任)がいました。彼はクリスチャンでしたが、大変信仰厚く、性格は極めて温容で人徳のある立派な人物であったと伝えられています。彼はその生活も実に質素で、洋服などもみすぼらしい服装であったと言われています。また、非常に粗食で、弁当のお采なども、大豆の煮たものを一週間でも十日でも食べていたほど質素であったそうです。というと、甚だ吝嗇(りんしょく)のように思われるかもしれませんが、そうではなく、国元の母に生活費を送り、神様に多くの献金をしていたと聞きました。そして、伝道にも熱心で、略伝を引用すれば、「其の立ちて道を説くや猛烈熱誠、面色蒼白なるに朱を注ぎ、五尺の痩身より天来の響きを伝へぬ。然るに壇をくだれば、あい然たる温容うたた敬慕に耐えざらしむ。」とあります。氏の人柄と信仰を垣間見ることのできる一文です。
そして、長野政雄氏は、稀に見る立派な人格の持ち主であったのか、他の勤務地で問題のある怠惰な者、粗暴な者、酒乱な者など、どうにもならないような余され者が彼の所に回されて来ると、たちまち変えられ真面目に働くようになったと伝えられています。次のようなエピソードがあります。彼が札幌に勤務していた頃、職場にAという酒乱の同僚がいました。彼は同僚や上司からは無論のこと、親兄弟からも、甚だしく忌み嫌われていました。益々、やけになって酒を飲み、遂には発狂するに至ったとうことです。当然職を退かざるを得ないことになりました。Aの親兄弟は彼を見捨てました。ところが一人長野政雄氏は、親兄弟までに捨てられたAを勤務の傍ら真心をこめて看護し、彼に尽くしてやまなかったというのです。しかも、全治するまで、彼を看護し続け、上司に何度も懇願し、復職するまでに至ったのであります。まさに、愛の権化のような人格を持った人物であったのです。
さて、このような長野政雄氏ですが、明治42年2月28日夜、鉄道職員として、その信仰を職務実行の上に現し、人命救助のために殉職の死を遂げたのです。その日の夜は、なぜか最後尾に機関車がついていなかったため、急坂を登りつめた列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめたのです。そのとき、偶然、乗り合わせていた鉄道職員の長野政雄氏がとっさの判断で、自らの体をブレーキ代わりにしようとして線路に身を投じて、自分の体で客車を止めたのです。そして彼は殉職し、乗客は救われたのです。何か、思わず身震いするような感動を覚えないでしょうか。「愛の大きさは、その人の払った犠牲の大きさによって量られる。」と言われますが、他人のために自分のいのちを捨てるほど、大きな犠牲はありません。
彼は乗客を救うために身代わりになって死んだのです。この長野政雄氏の殉職の死は、後々まで多くの人に感銘を与え、語り継がれました。長野政雄氏が塩狩峠において犠牲の死を遂げたことは、鉄道関係者、キリスト信者などはもちろんのこと、一般町民も氏の最後に心打たれ、感動してやまなかったと伝えられております。彼の殉職直後、旭川、札幌に信仰の一大のろしが上がり、多くの人が信仰に入ったと伝えられています。三浦綾子さんの小説は、もちろん大部分がフィクションですが、長野政雄氏が、多くの乗客を救わんがために、自らの命を投げ出して、殉職したことは紛れもない事実なのです。
ところで、これは非常に感動的な話ですが、今から約二千年前に、世界の歴史上、このようなこととは比較にならないほど、大きな出来事があったことをご存じでしょうか? それは、天地万物を創造された神の御子イエス・キリストが、神に背を向けて歩んでいる全人類の救い主として、この世にお生まれになられ、33年半の罪のない完全に聖よいご生涯を送られたのですが、最後に私たち罪人の罪のために十字架に掛けられて、私たちの身代わりに神の刑罰を受けて死んでくださったという事実です。これは、作り話ではなく、単なる宗教や道徳の話でもなく、人類の歴史上に現実にあったことなのです。
アダムがエデンの園で神に背いて、園を追放された時から今日まで、人類は急な坂を転げるようにどんどん滅亡に向かっているのですが、キリストは、身代わりに十字架に架かって人類を永遠の滅びから救ってくださるために死んで、しかも三日目によみがえられた御方でなのす。これほど、感動すべき出来事は、この人類の歴史上他にありません。そして、この出来事は、あなたの将来の人生と無関係ではないのです。あなたが、この事実に対してどのような態度を取るかによって、あなたの死後の永遠が決定されるほど、重大なことなのです。どうか、この事実を真剣に受け止めていただきたいのです。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)。
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のため には、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への 手紙5:6〜8)。
「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにあ りますように。アーメン。」(ガラテヤ人への手紙1:4、5)。
「人知を越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ人への手紙3:19)。  
 

 

長野政雄 1
すべてを神に捧ぐ 長野政雄
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。ヨハネ」
「塩狩峠」は三浦綾子さんの小説のひとつですが、この小説の主人公・永野信夫には原型のモデルがおられました。「塩狩峠」について三浦綾子さんはこのように語っておられます。
この小説で私は犠牲について考えてみたいと思っている。現代にはいろいろと欠けたものが多い。愛、しかり。節、しかり。犠牲にいたっては、現代人の辞書にはもうこの言葉は失われているかのように、私は思われる。「人の犠牲になるなんていやだ」とか、「そんな犠牲的な精神はつまらないわ」というように、犠牲という言葉につづいて否定の言葉が用いられているのが、みられる程度ではないだろうか。
三浦さんがテーマにされた「犠牲」はどこまでも聖書が示している「神への捧げもの」としての犠牲であることを思います。そして、この犠牲は自らの命を捨てて、人間の罪のために、永遠の犠牲になった十字架のイエス・キリストが、そこにはっきりとさし示されています。
小説「塩狩峠」の中で主人公の永野信夫は犠牲の死を遂げられますが、主人公のモデルとなった長野政雄氏は真実に人命救助のために、犠牲の死を遂げられました方でした。三浦さんは旭川六条教会を通して長野氏の信仰人生を知り、深く激しく感動し、小説の構成をはじめらたほどでした。
鉄道員であった長野氏は庶務主任の職についておられましたが、洋服などはほとんど新調しないで、また非常に粗食であり、お弁当のお菜なども、大豆の煮たものを壷の中に入れておき、一週間でも十日でもその大豆ばかりを食べていたと言います。かと言って、物惜しみするような人物ではなく、氏は故郷の母に生活費を送り、その外に教会には常に多額の献金をしていました。日露戦争の功により、金六十円(今の七十万円位)が与えられた時、氏はこれをそっくりそのまま旭川キリスト教青年会の基本金に献じました。
長野氏が信仰に熱心だったことは、その教会の各集会のすべてに出席したという一事でもわかります。しかもその集会の往復には、計画的にその道を考え、必ず人々を教会に誘ったとのことです。また、しばしば自費で各地に伝道し、鉄道キリスト教青年会を組織されました。その話は火のように激しかったと伝えられています。
しかし氏は、教会だけに熱心であったのではなく、職場においても、まことに優秀な職員でした。氏の在職中、運輸事務所長は幾度か代わりましたが何れの所長にも得難い人物として深く信頼されました。「ある所長は、後人の所長に『旭川には長野というクリスチャンの庶務主任あり。これに一任せば、余事顧慮するを要せず』とさえ言われていたと伝えられている」氏は上司だけに信頼されていただけでなく、いかなる部下をもよく指導し信頼を得ていた人物だったのです。
氏が所属していた六条教会の兄弟は氏のことを「君は愛の権化と言いて可なり」と言い表しています。信仰に燃え、勇気があり、神の愛を人々に与えていた長野氏は人生の最後の時に、最も大きな愛を残されました。
明治四十二年二月二十八日、列車は塩狩峠の上り急勾配を進行中、突然分離し、最後部の客車が急速度で元の峠の方に逆走する中、乗客は脱線転覆はまぬかれまいと全員救いを求め叫ぶ有様で車内は騒然とする大混乱でした。その時、その車両に同乗していた長野氏は客車のデッキにハンドブレーキの装置があるのを見ると、ただちにデッキに出て、ブレーキを力一杯締め付けたのです。客車の速度は緩み、徐行程度になりましたが、この先の勾配でまた加速をすると判断した長野氏は、自分の身を線上に投げ出し、そこへ列車が乗りかかり、長野氏は下敷きとなり、列車は完全に停止をし、乗客全員の無事が守られました。長野氏が線路にとびこむ寸前、うしろを振り向きうなずいて別れの合図をしたのを目撃した乗客がありました。
長野氏の犠牲の死は、鉄道、教会等の関係者はもちろんのこと、一般町民も氏の最後に心を打たれ、感動してやみませんでした。長野氏の殉教直後、旭川・札幌で何十人もの人々が洗礼を受けたのです。この出来事から百年以上の歳月が流れていますが、長野氏の信仰の火は今も燃え続けています。
長野氏は新年ごとに遺言を書き改めては、肌身離さず持っていました。氏が天に召されたのは30歳ですが、最後遺言にあった言葉です。
「余は諸兄姉が、余の永眠によりて、天父(神)に近づき、感謝の真義を味あわれんことを祈る」
長野氏はもっとも大事なご自身の「命」を捧げました。今日の生活の中で、私は神に何をお捧げできるでしょうか。神は捧げる心のあるものに、神の栄光のあらわれる機会を、御心にしたがって与えてくださる事を思います。 
 
長野政雄 2
 乗客を救うために自らの命を犠牲にした鉄道員 

 

明治四二年二月二八日、北海道の塩狩峠において、坂を上りつつあった列車に事故が起きた。最後尾(さいこうび)の客車の連結器がはずれ、分離したその客車は、単独で長い坂を下り始めたのである。客車のハンドブレーキは、完全にはきかず、それだけでは客車は止まらなかった。しかし、大事故は未然に防がれた。その客車に乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄(ながのまさお)が、自らの体を線路に投げ出し、それをブレーキにして客車の暴走を止めたからである。彼のことを知る旭川六条教会の小川牧師は、昭和一四年にこう書いている。
「今を去ること満三〇年前、明治四二年二月二八日は、私どもの忘れることのできぬ日であります。すなわちキリストの忠僕(ちゅうぼく)・長野政雄兄(けい)が、鉄道職員として、信仰を職務実行の上に現わし、人命救助のため殉職の死を遂げられた日であります」。
鉄道職員・長野政雄
長野政雄という人は、どういう人だったのであろう。
彼は、鉄道の庶務(しょむ)主任をしていた。収入は比較的多いほうであったが、きわめて質素な生活であったと、同じ下宿だったある信者が述懐している。洋服なども、ほとんど新調しなかったらしい。
食事も粗食で、弁当のおかずなども、大豆の煮たものを壷の中に入れておき、一週間でも一〇日でもその大豆ばかり食べていたことがあるという。そうして浮いたお金で、彼は国元の母に生活費を送り、また教会に多額の献金をしていたのである。
その献金額は、裕福な実業家信者よりも多かったと聞く。彼はまた、日露戦争の功により金六〇円を下賜されたが、これをそっくり旭川キリスト教青年会の基本金として献金した。六〇円といえば、今のどれほどにあたるか。かなりの大金のはずである。
彼は、教会のすべての集会に出席する熱心な信者であった。集会の往復には、計画的にその道を考え、よく人々を教会にさそった。しばしば自費で各地に伝道し、鉄道キリスト教青年会を組織した。講壇での彼の話は、火のように激しく、熱誠をおびていたという。
職場でも、彼は部下に、また上司に信頼されていた。
彼が札幌に勤務中のこと、職場にAという酒乱の同僚がいた。Aは、同僚や上司からはもちろん、親兄弟からさえも、はなはだしく嫌われていた。
Aは酒におぼれ、ついには発狂するに至った。当然職を退かざるを得ない。Aの親兄弟は、病気の彼を見捨てた。ところがひとり長野政雄は、親兄弟も顧みない狂人のAを、勤務のかたわら真心こめて看護し、彼に尽くした。
Aは、飲めばからみ、乱暴を働いたが、長野は決して彼を見捨てなかった。しかも全治するまで、Aを看護し続けたのである。
全治するやいなや、長野は上司に対してAの復職を懇願した。全治したとはいえ、ふつうなら復職はかなり困難である。しかし長野の人格と熱意に打たれた上司は、ついにこれを聞き入れた。
長野はただちに、苗穂村に一軒の家を借り受け、Aと共に自炊生活を営み、その指導援助を続けた。そしてついに、Aを完全に立ち直らせたのである。このようなことは、一時の親切心だけでは、到底できないことであろう。
こうした長野の徹底した愛の姿は、同僚や上司の間でよく知られるところとなった。長野の在職中、運輸事務所長は幾度か変わったが、いずれの所長も、彼を得難(えがた)い人物として深く信頼していた。ある所長は転勤の際、後任の所長に、
「旭川には、長野というクリスチャンの庶務主任がいる。彼に一任すれば、あとの心配はいらない」とまで言って信頼を示した。
どこの職場にも、手に負えない怠惰な者や粗暴な者がいるものだが、長野の所には、よくそうした問題のある者がまわされてきた。長野の所に送ればすべて解決できる、との定評があったからである。
また日露戦争直後のこと、北海道の伝道に尽くした宣教師ピアソンが、スパイの嫌疑をかけられたことがあった。当時は外国人と見れば、スパイ扱いするのが常だったのである。ピアソンはたちまち人々の反感と憎悪を買い、小学生までがピアソンの家に投石する、という事態におちいった。
長野はこれを深く憂い、ただちに新聞に投書して、ピアソンの人格と使命を訴えた。また警察に出向いて、誤解を解くように努めた。こうした行為は、下手をすればスパイの仲間と誤解されるかも知れなかった。しかし長野は、勇気を出してピアソンのために奔走したのである。
徹底した愛の人
このような徹底した思いやりと愛を、彼は生まれつき持っていたのか。そうではないであろう。彼は、主イエスの愛を思うにつけ、自らの身を打ちたたき、実行的信仰の階段を一歩一歩上りつめていったに違いない。
残念ながら、長野政雄の日記や手紙等は、彼の遺言(ゆいごん)により、彼の死後一切が焼却された。そのため今日、彼自身の心の内面を詳しく知ることはできない。
もしそうした手記等が残っていれば、心の内面をもっと知ることができたのに、と惜しまれる。彼はどのように回心に至ったのか。彼にも心の葛藤や、悩み、信仰の成長の段階等があったはずだが、それらはどうだったか。それらは今日知るよしもない。
しかし、彼の心の内面をよく象徴していると思われる、ある事実がある。それは彼が、日頃から遺書を、自分の内ポケットに秘めていたことである。
彼は、神と隣人のためには、いつでも命をささげると心に決意していた。それは自分の人生を忌み嫌っての遺書ではない。自分の命を愛のために捧げる、との決意をあらわす遺書だったのである。
彼は遺書を、いつも自分の身につけることにより、愛のためにはいつでも死ねる覚悟をしていた。彼は、いつ死んでも自分の人生の清算はできている、と言えるような生き方を欲したのである。
人生の終わりを見つめて生きている人と、人生の終わりを考えないで生きる人とは、たしかにその生き方に大きな差がある。死は、それまでの人生の集約である。いかに死ぬかは、いかに生きるか、ということである。
彼の心には、いつもあのキリスト・イエスの十字架の姿が映じていた。主イエスは、私たちのために命を捨ててくださった。私たちを、罪と滅びの人生からあがない出すために、身代わりに命を投げ出してくださったのである。
主イエスの愛により、私たちは「愛」ということを知った。いまや長野の心には、主イエスが生きておられたのである。
長野の人柄をよく知っていた杉浦仁氏は、こう書いている。
「長野政雄先生は、父杉浦義一の最も信頼していた愛弟子であり、片腕でもあった関係で、ひとしお感銘深いものがあります。一個の人間像において、長野氏のようにあらゆる美徳を兼ね備えた人物は、絶無といっても過言ではありません。・・・・ 上司、同僚、下僚、友人・・・・彼を知る限りの人から敬われ、愛され、親しまれた事実は、そのことを雄弁に物語っています。自己に関しては非常に厳格でしたが、他に対しては寛大でした。長野氏がかつて人を非難し、批評したことを私は知りません」。
また当時の彼の友人だった旭川六条教会員の山内氏は、「君は愛の権化(ごんげ)と言ひて可なり」と書き記している。
塩狩峠
ついに、明治四二年二月二八日、長野の隣人への愛が最終的に試される時がやってきた。その日の夜、彼は汽車に乗り、いつものように教会の祈祷会に向かっていた。
汽車が、塩狩峠(しおかりとうげ)の上り急勾配(きゅうこうばい)にさしかかったときのことだった。最後尾の客車の連結器が突然はずれ、客車は前の車両から分離して、逆方向に急速度で走り始めたのである。もはや脱線転覆(てんぷく)はまぬがれまいと、乗客は総立ちとなり、救いを求め叫ぶ有り様に車内は騒然たる大混乱となった。
外は夜のとばりの中、小雪が舞っている。そのようなとき、神を信じる者とそうでない者との相違があらわれる。その客車に乗り合わせていた長野は、すでに覚悟が決まっていたと見え、いささかも動揺することなく、思いはただ乗客を救助することに馳(は)せていた。
神が示されたのか、その客車のデッキにハンドブレーキの装備があるのが、目に入った。長野はただちにデッキ上に出て、ブレーキを力一杯締め付けた。客車の速度は弱まり、徐行程度にまでなった。
しかし、完全には止まらない。もしこのまま走り続ければ、この先の急勾配でまた客車は暴走を始めるかもしれない・・・・。
「どうしたらいいのか」――これ以上ブレーキはきかない。彼の心には、幾つもの思いが通り過ぎたであろう。
当時のことをよく知る藤原栄吉氏の証言によれば、そのとき長野がデッキ上から後ろを振り向き、一瞬うなずいて乗客らに別れの合図をした姿を、目撃した者があったという。
次の瞬間、客車は「ゴトン」という衝撃とともに完全に停止した。乗客は外に出て、自分たちが助かったことを知った。しかしその客車の下に見えたのは、自らの身を線路に投げ出し、血まみれになって客車を止めた長野の無惨な遺体であった。
彼の犠牲の死を見て、感泣(かんきゅう)しない者はなかったという。
客車内に残されていた彼の遺品は、その後関係者に届けられたが、遺品の中には聖書と、妹への土産(みやげ)の饅頭(まんじゅう)などがあった。
彼の死が伝えられたとき、鉄道、教会等の関係者はもちろん、一般町民も深く心を打たれた。氏の殉職直後、旭川、札幌に信仰の一大のろしが上がり、何十人もの人々が洗礼を受けた。藤原栄吉氏なども、感激のあまり、七〇円あった自分の貯金を全部日曜学校のために捧げたという。
その夜の不思議な出来事
長野政雄のこの生涯をもとに、作家の三浦綾子氏は、小説『塩狩峠』を著した。この小説は、長野政雄の生涯そのものではないが、それをもとにして描かれたものであり、読んだ人々に深い感動を与えている。この作品はまた、映画化された。
じつは塩狩峠の事故があった夜、長野の通っていた旭川六条教会で、ある不思議な出来事があった。
当時のその教会の牧師・杉浦義一氏の三男・杉浦仁氏は、こう述べている。
「ちょうどその日二月二八日、集会の終わりに近い午後九時前後かと思いますが、駅からの使いで急変が知らされました。しかし最初、一同はいっこうに驚きませんでした。なぜなら、少し前に長野氏が遅れて教会にやって来て、前方のいつもの席でお祈りしていたからです。ところが、あらためてその席を見ると彼の影も形もなく、初めてびっくりしたという事件がありました」。
この出来事は、一体何だったのか。皆の勘違いだったのか。しかし、長野の亡くなった夜、多くの教会員が彼の祈る姿をそこで目撃したというのである。
余談だが、このようなことは、長野政雄以外にも起こっている。本書で先に取り上げた「ある死刑囚」の手記にも、同様な体験が載せられている。
この死刑囚は、獄中で回心し、キリスト者となって残された短い日々を過ごした人であるが、その回心の背景に、当時の偉大なキリスト者・永井隆博士(長崎で原爆症の研究をした人)との、手紙を通じての心温まる交流があった。
その死刑囚は、回心以来、尽きぬ平安に満たされて、眠れない夜というものがなかった。ところがある夜、彼は何か心にざわめきを感じて、どうしても寝つけなかったという。
体に何の異状もなく、何の思い煩いもないというのに、寝つけなかったのである。彼はとうとう起きて、一睡もせず、朝まで聖書を読み明かした。
翌朝のこと、彼は永井博士の召天の報を、耳にしたのである。そのときのことを、彼は手記に次のように記している。
「私は、博士の短冊(彼が博士からもらった聖句入りの短冊)の下で机の前に座し、頭を深く垂れて、『ああ、そうであったか! 昨夜私があのように一夜眠れなかったのも、博士との友情を、主がよみされたからに違いない。不自由な身体を離れた博士の霊が、第一番にこの獄舎に来て、「覚めて祈れ」との主の御言葉を教え、励ましてくださったのだ』と思い、感謝の涙を抑えることができずに祈りました」。
彼は、前の晩不思議にも眠れなかったことを、博士の霊が獄舎に来てくださったから、と解釈したのである。同様に、長野の死後、長野の祈る姿が教会で見られたという先の出来事も、はたして肉体を離れた彼の霊であったのか。
臨死体験者(ニアデス体験者)は、肉体の死後も霊はしばらくこの世にいることがある、という証言をしばしば行なっている。こうした出来事は、そうした証言をも思い起こさずにはいられない。
長野が教会で祈っていたというあの出来事は、彼の人生全体を象徴するものである。彼の人生は、愛と祈りの生涯だった。
列車の事故は突然のことであり、長野は自分の人生の最期を前にしたあのとき、充分な祈りの時間を与えられなかった。それで死の直後、天国に召される前、彼の霊は神のご配慮によって、しばらくの間教会で祈る時が与えられたのかもしれない。
長野政雄の霊は、今は主の御(み)もとで深い安息を得ているであろう。私たちも死後天国へ行けば、彼に会えるのである。
長野政雄の生き方は、今日も私たちの心に生き続けている。主イエスが言われたように、
「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていない」(ヨハネ一五・一三)。
彼の生き方に、私たちは少しでも学びたいものである。 
 

 

 
 
■小説「塩狩峠」

 

「塩狩峠」1
1909(明治42)年2月28日、官営鉄道天塩線(現・JR北海道宗谷本線)の名寄駅を発車した列車は旭川へ向かっていた。しかし、途中の塩狩峠で最後尾の客車の連結が外れて逆走し、勾配を下って暴走した。満員の乗客に死が迫る。そのとき、鉄道職員の長野政雄が線路に飛び降り、その身体で車輪を止め、自らの命と引き換えに乗客の命を救った。
小説『塩狩峠』は、この実話を元に著された小説である。この事故は当時の人々に衝撃を与え、長野政雄の死は自殺説、事故説などもあったという。著者の三浦綾子は、クリスチャンであった長野の行為を自己犠牲と理解し、なぜ、彼が犠牲となる心境に至ったかを描いた。
"その日"を描くために、物語は10歳の少年時代から始まる
実話を元にしている小説だが、主人公の名は永野信夫となっている。三浦親子が新潮文庫版のあとがきで説明するように、事故後半世紀を過ぎていたため、長野政雄に関する資料は少なく、近親者も見つからなかった。実際の事故の資料と、長野がクリスチャンとして活動した記録がわずかに残っていたという。『塩狩峠』で描かれる永野信夫は、長野政雄の行為を理解するために創られた人物だ。
物語は永野信夫が10歳の頃から始まる。前知識を持たずに同作品を読めば、男の子が北海道の鉄道員として成長していく姿を描いた作品だ。再会した母が、当時は社会から蔑まれていたキリスト教徒であることに悩みつつ、友を得て、恋心を抱き、思春期の性に悩み、そして聖書の教えに救われる。成長した青年が幸福をつかみかけたところで、衝撃の結末が待っている。あまりにもせつない話だ。
しかし、塩狩峠の事故はあまりにも知られており、同作品の発表時は誰もが結末を知っていた。ただし、知っていても理解できたわけではない。永野信夫がなぜ、犠牲的な行動を成し得たか? この事故の最大の謎を解き明かすために、三浦綾子はこの物語を10歳から始めた。クリスチャンである三浦綾子が、永野信夫とキリスト教との関わりを描く。そして、「神が与えたもうもの」として、永野信夫の強い意志を示した。「これが俺の運命だ。命の正しい使い方だ」と。
冒頭に聖書の一節が示される。クリスチャンならその意味が理解でき、物語を読み進む助けになるのかもしれない。筆者のようにキリスト教を知らない読者にとっては、その真意はわかりにくい。しかし、最後まで読み、あらためてその言葉が現れたときには、少し理解できたような気がした。鉄道員が命と引き換えに乗客を救った。それは仕事に対する使命感と誇りの表れだけではなかった。それを理解するために、三浦綾子は物語を10歳から始めたのであった。
事故と対策の積み重ねが、今日の安全な鉄道を築いた
塩狩峠の事故は、いくつかの不遇が重なって起きてしまった。同作品では、この区間は本来、列車の前後に機関車を連結していると書かれている。2台の機関車が客車を挟み、汽笛で合図を交換して協調する。ところが、名寄発の始発列車は客車が少ないため、後部の補機は連結されなかった。客車が少ないとはいえ、乗客は多く満員。それが逆走時の加速につながった。乗客数が少ないなら、速度が低いうちに雪に飛び込めばよかった。
決定的な原因は、故障しやすい連結器と非常ブレーキの不備だった。当時の連結器は大きな鎖のついた鉄製の輪をカギに引っかけて固定するタイプ。簡単に言うと、「プラレールの連結器の鉄製巨大版」のようなものであった。鎖部分の腐食や金属疲労を見逃せば、連結が切れるという事態になりやすかった。また、引っ張り方向をつなぐ機能のみで、客車同士が接近するときの支えにはならない。客車同士が衝突しないように、連結面には大きなダンパーがあって、突っ張り棒のように作用して車両の間隔を維持した。
官営鉄道時代、連結器に係員が挟まれる事故や、列車の分離などの事故がしばしば起こった。そこで連結器については、5年の歳月をかけて事前準備した上で、1919(大正8)年7月17日(九州は7月20日)に、約6万の鉄道車両について、いっせいに自動連結器へ交換したという。
また、当時のブレーキは列車全体に作用するものではなく、機関士の合図で、車掌が客車のブレーキをかけた。永野信夫が乗った車両に車掌がいなかったことも不遇であろう。
その後、鉄道車両において自動空気ブレーキが採用された。列車全体に圧縮空気のパイプを通し、つねに一定の圧力を与えておき、減圧するとブレーキがかかるしくみになっている。車両が分離すればパイプが外れるため、そこから空気が漏れて減圧となってブレーキがはたらく。パイプのつなぎ目から空気が漏れるなど、整備不良状態でもブレーキが発動する。
現在の鉄道の安全技術は、突き詰めれば塩狩峠の事故のような犠牲と、その対策の積み重ねである。築き上げた安全対策は、その趣旨を蔑ろにすれば崩れてしまう。これは鉄道に限らず、すべての安全対策に共通する。私たちは塩狩峠を忘れてはならない。長野政雄の命を無駄にしてはいけないのだ。 
 
「塩狩峠」2

 

三浦綾子は、キリスト教徒の作家です。そしてこの作品も「信徒の友」という、日本基督教団出版局の月刊雑誌に連載されていたものだけあって、極めて宗教色の強い物語です。
一人の少年がキリスト教と出会い、初めは遠ざかろうとするのですが、人生における様々な苦悩の中で信仰心に目覚め、やがては隣人に愛を注ぐために生きようと決意する、そういうお話。
ぼくもそうですし、みなさんもそうだと思いますが、人間というのは悩む生き物ですよね。その悩みは、別に大きなものとは限りません。
たとえば、物語の主人公の永野信夫は、子供時代にとても些細なことで悩みます。
遠くへ行ってしまった友達の吉川から、久し振りに手紙が来てうれしかったのですが、そこには吉川の父が死んだ知らせが書かれていたんですね。
そこで返事には、お悔やみの言葉を添えたのですが・・・。
『信夫は書いた手紙を読み返してみた。吉川の手紙を見て、ほんとうはうれしかっただけなのに、いかにも吉川の父の死を悲しんで、吉川のことを思いやっているような自分の手紙に、信夫は心がとがめた。自分が不正直のような気がした。(変だなあ)信夫は書いた手紙を机の上においたまま、窓の外をみた。雨がしとしと降っている。待子がつくったてるてる坊主が軒に濡れていた。(変だなあ)信夫はふたたび、そう思った。信夫は吉川が好きだった。ときどき思い出して会いたいと思っていたことも事実である。それなのに、その吉川の父の死を聞いても、信夫は吉川の上に起きた不幸を心から悲しんでやることができない。(友情ってこんないいかげんなものだろうか)信夫はそう思った。人の身になって、共に泣いてやることのできない自分が、冷たい人間なのだろうかとも思った。』
信夫がつまらないことで考えすぎな少年のようにも思えますが、この「変だなあ」という感覚、これは実はとても大切な感覚のような気もします。
たとえばテレビのニュースでは、悲しいニュースを読む時、ニュースキャスターは厳粛な面持ちをしますよね。
にやにやしながら悲しいニュースを読んだら、たちまち視聴者から顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまいます。
日常生活でもそれは同じで、会話している相手が楽しい話をしている時はこちらも楽しい顔を、辛い話をしている時は、こちらも辛そうな顔をして聞くのが、当たり前ですよね。
でもそれは、嘘とまでは言いませんが、一種の「ポーズ」に他なりません。言わば、「悲しいふり」「嬉しいふり」をしているだけなのです。
信夫の「変だなあ」は、自分の気持ちと自分の態度との”ずれ”に違和感を感じ、さらに言えば、「悲しいふり」ではなく、どうして「悲しい気持ち」になれないのかと、そう思っているわけです。
これはとても些細な一例ですが、こうした、心で思うことと実際の行動の”ずれ”は、ぼくらの人生でも、たくさん起こることではないでしょうか。
正しいことが何か分かっているのに、それが出来なかったりとか、間違っていると分かっているのに思わずやってしまったりとか。
そうした様々な問題に苦悩し、それを自分なりに乗り越えていこうと模索する主人公の物語ですから、とても共感できますし、思わず引き込まれるものがあります。
信夫が出した答えは信仰への道でしたが、信仰のあるなしにかかわらず、誰もが深く考えさせられる、そんな物語だと思います。
あらすじ
明治維新によって武士の世が終わりましたが、武家の誇りを忘れていない祖母のトセに、厳しくしつけられて永野信夫は育ちます。
「永野家は士族ですよ。町人の子とはちがいます」が口癖のトセの考えを受けて、自分と町人の子供を区別した信夫は、父の貞行に頬を叩かれました。
士族の子と町人の子は、「どこもちがってはいない。目も二つ、耳も二つだ。いいか信夫。福沢諭吉は天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、とおっしゃった。わかるか、信夫」(20ページ)と貞行は言うのです。
トセが脳溢血で亡くなると、家に女の人がやって来ました。見知らぬ人が突然家に入り込んで来たわけですから、早くに亡くなった母を想い、信夫は反抗します。
『「ぼく、二度目のおかあさまなんて、いりません」と、信夫が腹だたしげにいった。貞行は女と顔を見合わせた。「信夫さん。わたしがお前を産んだおかあさまですよ」女の人は、にじりよるようにして信夫の手をとった。「うそだ! ぼくのおかあさまは死んだのだ!」信夫はその手をふり払って叫んだ。「死んだのではない。よく顔をみてごらん。お前とそっくりではないか」』
信夫の母である菊が、信夫を産んですぐ死んだことにされていたのには、ある理由がありました。菊は実はキリスト教徒だったのです。
キリスト教徒への反発が強い時代ですから、キリスト教徒であることが分かると、トセによって追い出されてしまったんですね。
しかしそれからも貞行は、ひそかに菊の面倒を見ていて、信夫の妹にあたる待子も産まれていたのでした。
菊と待子と一緒に暮らすようになって、信夫の生活は一変します。強要されはしないのですが、菊と待子は食前にお祈りをしたり、日曜日に教会へ行ったりするのです。
菊に対して愛情を感じないではない信夫ですが、素直に甘えられず、また、菊の言動はトセとはあまりにも違うものですから、ぎこちない距離感の関係のまま、日々は過ぎていきました。
ある時、信夫は何人かの友達と肝だめしをすることになります。ところが、約束の時間、夜八時に近付くにつれ、外では激しい雨が降るようになったんですね。
この雨じゃ誰も来ないだろうと思い、行くのをやめようと思った信夫でしたが、貞行に「守らなくていい約束なら、はじめからしないことだな」(67ページ)と説教され、渋々出かけて行きました。
約束の時間、約束の場所へ来ていたのは、信夫と吉川修だけでした。これがきっかけとなり、信夫は吉川と、一生を通しての親友になります。
家庭の環境の変化で勉学の道を閉ざされ、苦労を重ねた信夫でしたが、大人になると吉川に誘われて北海道に行き、炭鉱鉄道株式会社で働き始めました。
上司に気に入られ、その娘との縁談の話が出ますが、吉川の妹で、肺を悪くしてずっと寝たきりのふじ子のことが気になって、縁談の話を断ってしまいます。
「そうだ、おれはふじ子一人を自分の妻と心に決め生きて行こう。たとえ一生待つとしても!」そう思った信夫は、ふじ子の病気が治る日を、いつまでも待ち続けることにしたのでした。
生まれつき足が悪く、そして病気で長い間寝たきりの状態が続き、いつしかキリスト教を信じるようになっていたふじ子。
母や妹だけでなく、ふじ子もキリスト教徒であると知った信夫は、ようやくキリスト教と真剣に向き合うこととなります。
そんな折、会社で仲間の給料を盗み、三堀峰吉という男が首になってしまいました。
ただの泥棒ならまだしも、仲間の金を盗んだわけですから、普通だったら軽蔑して終わりでしょう。
ところがキリスト教に関心を寄せるようになっていた信夫は、こんな風に考えたのでした。
『信夫は、聖書を読みながら、次第に、峰吉が重傷を負って道に倒れているけが人に思われてきた。(おれは、ほんとうに彼の隣人となることができるだろうか。この聖書の中の、隣人となったサマリヤ人は、見も知らぬ人を助けたのである。まして、自分にとって、三堀は同僚であり、恩義さえ感じている人間である。よし、おれはこの聖書の言葉に従って、とことんまで彼の立派な隣人となってみせよう)そう信夫は、堅く心に思い定めたのであった。』
信夫はとことん峰吉の親身になって考えてやり、仕事を続けられるよう、上司に直談判しに行きます。
一時は信夫のやさしい態度に感謝した三堀でしたが、次第に、信夫が自分より優れた人間だという、劣等感を覚えるようになります。
そして、信夫の汚れのない清く正しい行いが、偽善者の態度に思え、酒に酔ってはしつこくからんで、信夫を困らせるようになり・・・。
はたして、信夫は三堀の「立派な隣人」であり続けることができるのか? そして、ふじ子との愛の行方はいかに!?
とまあそんなお話です。三堀は元々ちょっと歪んだ性質の持ち主ではありますが、三堀が信夫を見る目というのは、ぼくら読者が信夫(そしてキリスト教徒)を見る目線と、ほとんど重なります。
激しく信夫を責め立てる三堀。偽善者ではないかと疑い、口で立派なことを言っているだけなのではないかという、三堀の言葉の一つ一つに、傷つけられる信夫の心。
物語の最後で、信夫と三堀の関係がどう変化するのか、ぜひ注目してみてください。
宗教色の強い物語ですが、とても深く心に残る物語ですので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
ちなみに、北海道の塩狩峠で実際に起こった出来事を元にした話ということもあり、新潮文庫の裏表紙には、オチまで書かれてしまっています。まだラストを知らない方は、見ないで読んだ方が、より一層心を動かされる感じがあるかも知れません。 
 
「塩狩峠」3

 

宗谷本線・和寒駅を発車した2両連結の上り列車は、ほどなく勾配をせりあがるように進んだ。二本の線路は大きくうねって緑の山合に延びる。塩狩駅の無人駅舎はその向こうにぽつんとみえた。
塩狩峠(北海道和寒町)は天塩と石狩の国境にある険しく大きな峠である。明治四十二年二月二十八日の夜、急坂を登りつめた列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめた。偶然、乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄がとっさの判断で、線路に身を投げ出し自分の体で客車をとめた。長野は殉職、乗客は救われた。
三浦はこの話を旭川のキリスト教会で、長野の部下だった信者から聞いた。「熱心なキリスト者」、「犠牲死」の二つのキーワードが作家の心をうったのだろう。病身の綾子さんは、さっそく夫の三浦光世に付き添われ現場に足を運んだ。そして評論家佐古純一郎の勧めで月刊誌「信徒の友」に連載、「永野信夫」を主人公にした物語がはじまった。
東京生まれの永野信夫は、十才になるまで祖母のもとで育った。母が「ヤソ」であるために祖母に疎まれ家を出てしまったからだ。祖母の死後に母との生活がはじまるが、やはり宗教観の違いに戸惑う。やがて友人吉川の誘いで北海道に渡り鉄道会社に勤めるようになる。片足が不自由なうえに結核に冒されている吉川の妹ふじ子に思いを寄せる。明るく振る舞うふじ子や町で出会った伝道師の生き方に魅せられ、キリスト教をうけいれるようになる。
三浦は、娘時代から肺結核、脊髄カリエス、直腸癌、パーキンソン病とつぎつぎに難病におそわれる。だがその病気をありのままに受けとめ、時にはそれを糧にして小説やエッセイを書いてきた。「塩狩峠」もそんな一作。ふじ子の病苦に自身を重ね、自身の信仰への歩みを主人公に添わせた。信仰をめぐる心の揺れもわがことのように書いた。出版された文庫本のとびらには、三浦さんの希望で新約聖書の一節が添えられた。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」。自らを「伝道者」とよんだ綾子さんのキリストへの思いをこの小説に託したのである。
敬虔なキリスト教徒になった永野はふじ子と結婚を約束、結納のために札幌に向かう。事故は結納に向かう列車で起きたと設定、小説は悲しみを募らせる。「遺言で長野さんの手紙類はすべて焼き捨てられていたんです。でも長野さんの生き方に思いが深かったんでしょう。悩むことなく、とどまることなく、連載を完結しました」と夫の光世はいう。著作の多くは口述筆記で仕上げられたが、「塩狩峠」はその最初の一冊であった。
二年前に旭川にオープンした「三浦綾子記念文学館」を訪ねた。針葉樹林のなかにしょうしゃな教会を思わせる造り。木づくりの館内はあったかい雰囲気に包まれていた。「塩狩峠は三浦文学の基調をなすものです。愛や犠牲死は三浦さんが訴え続けたテーマでした。それを率直に分かりやすく。だから心を打つんです」。高野斗志美館長はいう。
そんな思いが通じて「塩狩峠」は文庫本で63刷、250万冊のロングセラーを続ける。この本がきっかけになって牧師になった人もいる。塩狩駅の無人待合所にあったノートには「三浦綾子さんの本を読んでキリスト教を信仰することになりました。新婚旅行の途中に立ち寄りました。ありがとう」とあった。 
 
「塩狩峠」4

 

先週の土曜日、ガン末期の状態で苦しむ畏友Aさんを見舞った。枕元には三浦綾子さんの『氷点』が置かれていた。上巻を読み終え、下巻に移るということ だった。その梗概を彼が私に話してくれた。すでに余命宣告を受けて一年経とうとしている。人生の晩年にイエス・キリストの福音に接し、信仰をいただき、今 またこうして枕元に『氷点』をひもとく幸せを語られた。そしてわが人生には「高慢」しかなかったが、聖書は唯一「へりくだり」の主イエス様を伝えてくれたと喜んで語られた。私もまた福音に接し、彼女の作品『塩狩峠』に深く感動した当時のこと、今から37年前にこの書物を手にしたことを思い出していた。
2005年4月、痛ましい福知山線列車脱線事故が起きた。その当時従兄も某鉄道会社の責任を負っていた。いつもとちがい他人事に思えなかった。ために新聞初め多くのジャーナリストの見る目と一線を画しながら事態を眺める自分がいた。それから四年足らずJR西日本の事故調査に関する姿勢が次々明らかにされている。多くの鉄道マンは今の事態をどのように見ているのであろうか。以下小説『塩狩峠』を抜書きさせていただく

塩狩峠はいま、若葉の清々しい季節だった。両側の原始林が、線路に迫るように盛り上がっている。タンポポがあたり一面咲きむれている。汗ばむほどの日ざしの下に、吉川とふじ子は、遠くつづく線路の上に立って彼方をじっと眺めた。かなりの急勾配だ。ここを離脱した客車が暴走したのかと、いく度も聞いた当時の状況を思いながら吉川は言った。
「ふじ子、大丈夫か。事故現場までは相当あるよ」
ふじ子はかすかに笑って、しっかりとうなずいた。その胸に、真っ白な雪柳の花束を抱きかかえている。ふじ子の病室の窓から眺めて、信夫がいく度か言ったことがある。
「雪柳って、ふじ子さんみたいだ。清らかで、明るくて」
そのふじ子の庭の雪柳だった。
ふじ子はひと足ひと足線路を歩き始めた。どこかで藪うぐいすがとぎれて啼いた。最初信夫の死を聞いた時、ふじ子は驚きのあまり、自失した者のようになった。ふじ子は改札口で、たしかに信夫を見たと思った。信夫はふじ子にとって、単なる死んだ存在ではなかった。失神から覚めた時、ふじ子は自分でもふしぎなくらい、いつもの自分に戻っていた。大きな石が落ちたようなあの屋根の音は、まさしく信夫の死んだ時刻に起きたふしぎな音だった。改札口で見た信夫と言い、あの大きな音と言い、やはりふじ子は、信夫が自分のもとに戻ってきたとしか思えなかった。そして、そう思うことで、ふじ子は深く慰められた。
ふじ子は、ふだん信夫が語っていた言葉を思った。
「ふじ子さん、薪は一本より二本のほうがよく燃えるでしょう。ぼくたちも、信仰の火を燃やすために一緒になるんですよ」
「ぼくは毎日を神と人のために生きたいと思う。いつまでも生きたいのは無論だが、いついかなる瞬間に命を召されても、喜んで死んでいけるようになりたいと思いますね」
「神のなさることは、常にその人に最もよいことなのですよ」
いまふじ子は、思い出す言葉のひとつひとつが、大きな重みを持って胸に迫るのを、あらためて感じた。それは信夫の命そのままの重さであった。
ふじ子は立ちどまった。このレールの上をずるずると客車が逆に走り始めた時、この地点に彼はまだ生きていたのだと思った。そう思うと言いようのない気持ちだった。だが彼は、自分の命と引き代えに多くの命を救ったのだ。単に肉体のみならず、多くの魂をも救ったのだ。いま、旭川・札幌において、信仰ののろしが赤々とあがり、教会に緊張の気がみなぎっている。自分もまた信仰を強められ、新たにされたとふじ子は思った。ふじ子の佇んでいる線路の傍に、澄んだ水が五月の陽に光り、うす紫のかたくりの花が、少し向こうの木陰に咲きむれている。
ふじ子はそっと、帯の間に大切に持って来た菊の手紙に手をふれた。信夫の母親は、本郷の家をたたんで、大阪の待子の家に去った。大阪は菊のふるさとでもある。
「ふじ子さん。お手紙を拝見いたしまして、たいそう安心をいたしました。あなたが、信夫の生きたかったように、信夫の命を受けついで生きるとおっしゃったお言葉を、ありがたくありがたく感謝いたします。信夫は幼い時からキリスト教が嫌いでございました。東京を出る時も、まだキリストのことを知りませんでした。これはすべて、わたくしの不徳のいたすところでございます。ふじ子さんの純真な信仰と真実が、信夫を願いにまさる立派な信者に育ててくださったのです。ふじ子さん、信夫の死は母親としても悲しゅうございます。けれどもまた、こんなにうれしいことはございません。この世の人は、やがて、誰も彼も死んで参ります。しかしその多くの死の中で、信夫の死ほど祝福された死は、少ないのではないでしょうか。ふじ子さん、このように信夫を導いてくださった神さまに、心から感謝いたしましょうね・・・・・」
暗記するほど読んだこの手紙を、ふじ子は信夫の逝った地点で読みたいと思って、持って来たのだった。
郭公の啼く声が近くでした。郭公が低く飛んで枝を移った。再びふじ子は歩き出した。いたどりのまだ柔らかい葉が、風にかすかに揺れている。
(信夫さん、わたしは一生、信夫さんの妻です)
ふじ子は、自分が信夫の妻であることが誇らしかった。
吉川は、五十メートルほど先を行くふじ子の後から、ゆっくりとついて行った。
(かわいそうな奴)
不具に生まれ、その間長い間闘病し、奇跡的にその病気に打ち克ち、結婚が決まった喜びも束の間、結納が入る当日に信夫を失ってしまったのだ。
(何というむごい運命だろう)
だが、そうは思いながらも、吉川はふじ子が、自分よりずっとほんとうのしあわせをつかんだ人間のようにも思われた。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん」その聖書の言葉が、吉川の胸に浮かんだ。ふじ子が立ちどまると、吉川も立ちどまった。立ちどまって何を考えているのだろう。吉川はそう思う。ふじ子がまた歩き始めた。歩く度に足を引き、肩が上がり下がりする。その肩の陰から、雪柳の白が輝くように見えかくれした。やがて向こうに、大きなカーブが見えた。その手前に、白木の柱が立っている。大方受難現場の標であろう。ふじ子が立ちどまり、雪柳の白い束を線路の上におくのが見えた。が、次の瞬間、ふじ子がガバと線路に打ち伏した。吉川は思わず立ちどまった。吉川の目に、ふじ子の姿と雪柳の白が、涙でうるんでひとつになった。と、胸を突き刺すようなふじ子の泣き声が吉川の耳を打った。
塩狩峠は、雲ひとつない明るいまひるだった。 
 
「塩狩峠」5

 

主人公の永野信夫には実在のモデル(長野政雄)があって、この主人公は塩狩峠で犠牲の死を遂げた。
明治42 年2月28 日、この峠で連結器に故障を生じ、最後尾の客車が峠を逆走したのである。乗客の命を救うため、主人公永野信夫は、己が身を鉄路に投じてその客車を止め、全員の命を救った。

それはいったい何のゆえの相違だろうかと信夫は思った。
「そんなことはないよ.君の方がよっぽど君子だ」
「いや、ぼくには、君のような広やかさや、暖かさがないよ。君は何とも言えない暖かいいいものを持っているよ」
「そうかなあ、だとしたら、それはふじ子のせいだよ。ぼくは小さい時から、ふじ子の足がかわいそうで、何よりも先にふじ子のことをしてやりたかった。菓子をもらってもふじ子にたくさんやりたくたる。外を歩いても、ふじ子には道のいい所を歩かせたくなる。ぼくが何かを買ってもらうよりも、ふじ子が先に買ってもらったほうがうれしかったものだ。そんなふうにいつの間にかなってしまったんだな。君だって、万一妹さんが…待子さんと言ったっけ…体が不自由ならそうなるよ」
「そうかなあ」
自信なく信夫は答えた。
「そうだよ。考えてみると、永野君、今ふっと思いついたことだがね。世の病人や、不具者というのは、人の心をやさしくするために、特別にあるのじゃないかねえ」
吉川は目を輝かせた。吉川のいうことをよく飲みこめずに、信夫がけげんそぅな顔をした。
「そうだよ、永野君、ぼくはたった今まで、ただ単にふじ子を足の不自由な、かわいそうな者とだけ思っていたんだ。何でこんたふしあわせに生れついたんだろうと、ただただ、かわいそうに思っていたんだ。だが、ぼくたちは病気で苦しんでいる人をみると、ああかわいそうだなあ、何とかして苦しみが和らがないものかと、同情するだろう。もしこの世に、病人や不具者がなかったら、人間は同情ということや、やさしい心をあまり持たずに終るのじゃないだろうか。ふじ子のあの足も、そう思って考えると、ぼくの人間形成に、ずいぶん大さな影響を与えていることになろような気がするね。病人や、不具者は、人間の心にやさしい思いを育てるために、特別の使命を負ってこの世に生れて来ているんじゃないだろうか」
吉川は熱して語った。
「なるほどねえ。そうかもしれない。だが、人間は君のように、弱い者に同情する者ばかりだとはいえないからねえ。長い病人がいると、早く死んでくれればいいとうちの者さえ心の中では思っているというからねえ」
「ああ、それは確かにあるな。ふじ子だって、小さい時から、足が悪いばかりに小さな子からもいじめられたり、今だって、さげすむような目で見ていく奴も多いからなあ」
紺がすりの袖から陽にやけた太い腕を見せて、吉川は腕組みをした。
茶の間の方から、待子たちの何か話す声が聞える。
「うん、そうか」
吉川が大きくうなずいた。
「じゃ、こういうことはいえないか。ふじ子たちのようなのは、この世の人間の試金石のようなものではないか。どの人間も、全く優劣がなく、能力も容貌も、体力も体格も同じだったとしたら、自分自身がどんな人間かなかなかわかりはしない。しかし、ここにひとりの病人がいるとする。甲はそれを見てやさしい心がひき出され、乙にそれを見て冷酷な心になるとする。ここで明らかに人間は分けられてしまう。ということにはならないだろうか」
吉川は考え深そうな目で、信夫の顔をのぞきこむようにみた。信夫は深くうなずいた。
うなずきながら、自分がきょう感じたバラの美しさを思い出していた。

「悪しき者に手向うな、人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ。汝を訴えて下着を取らんとする者には、上着をも取らせよ」
この言葉が、信夫の目をひいた。それはまことにふしぎな言葉であった。小さい時信夫はよく祖母のトセに言われたものである。
「信夫、男の子という者は、ひとつなぐられたら、ふたつなぐり返してやるのですよ。三つなぐられたら、六つなぐってやるものです。それでなければ男とは言えません」
何と、その言葉と聖書の言葉とはちがうことだろうと、信夫は驚いた。
(なぐり返すことよりも、なぐり返さぬことの方が、男らしいことだろうか)
信夫は目をつむって考えてみた。だれかが自分の頬をひとつなぐる。何をとばかりにこっちは二つなぐり返す.そしてまた別の自分は、頬をひとつなぐられる。悠然と微笑して、もうひとつの頬をいきり立つ相手の頬に向ける。はたしてどちらの自分になりたいかと、信夫は自分自身に問うてみた。信夫はそう自問した時、自分が祖母に受けたしつけや、その影督を受けた考え方が、いかに薄手なものであるかに気がついた。
(それにしても、なぐられてもなぐり返さず、下着を取ろうとする者に、上着までくれてやるとは、悪人をただ甘やかすことではないだろうか)
深い教えのようでいて、その辺がどうもわからない。だが信夫は、この聖書の中に、自分の考えとは全くちがった考え方が、たくさんあるのを認めないわけにはいかなかった。
つづいてすぐに、
「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」という言葉があった。この言葉にいたっては、信夫は、日本人の感情と全く相容れないものを感じた。日本人は仇討ち物語が好きである。もし、赤穂の浪士四十七人が、この聖書の言葉を守ったとしたらどうだろうと、信夫はまじめになって考えた。浅野内匠守の無念は、あの吉良の首を上げなければ晴れないものであったはずである。
あの四十七人が、吉良上野介を許し、しかも愛し、その者のために安泰を祈るとしたなら、世間は決して、四十七士を許さなかったにちがいない。武士の世界では、仇討ちは大いなる美挙であったはずだ。このイエスという男は、自分の父が殺され、殿様が殺されても、その仇を討たないのだろうか.その仇を愛することができるのだろうか。何といぅ妙な人間だろうと、
信夫は思った。

見かけによらず、三堀は強情だった。当の本人があやまるといわないのに、首に縄をつけて和倉の家に連れていくわけにもいかなかった。信夫は、キュッキュッと鳴る雪の道を歩きながら、駅前通りに出た。暮れもおし迫って、人通りもいつもよりにぎやかである。馬橇がリンリン鈴を鳴らしながら、いく台も通る。赤煉瓦で有名な興農社の所までくると、何か大声が聞えた。みると、一人の男が外套も着ないで、大声で叫んでいる。だれも耳をかたむける者はない。
信夫は、ふと耳にはいった言葉にひかれて立ちどまった。
「人間という者は、皆さん、いったいどんな者でありますか。まず人間とは、自分をだれよりもかわいいと思う者であります」
寒気の強い午後だ。年のころ三十ぐらいか、いや、三つ四つは過ぎているだろうか。その男が口をひらくたぴに、言葉は白い水蒸気となってしまう。足をとめた信夫をみて、その男は一段と声を大きくした。
「しかしみなさん、真に自分がかわいいということは、どんなことでありましょうか。そのことを諸君は知らないのであります。真に自分がかわいいとは、おのれのみにくさを憎むことであります。しかし、われわれは自分のみにくさを認めたくないものであります。たとえば、つまみぐいはいやしいとされておりましても、自分がつまんで食べるぷんには、いやしいとは思わない。人の陰口ということは、男らしくないことだと知りながらも、おのれのいう悪口は正義のしからしむるところのように思うのであります。俗に、泥棒にも三分の理といぅ諺がある
ではありませんか。人の物を盗んでおきながら、何の申しひらくところがありましょう。しかし泥棒には泥棒の言いぶんがあるのであります」
信夫は驚いて男をみた。男の澄んだ目が、信夫にまっすぐに注がれている。
(まるでこの人は、いまのおれの気持ちを見とおしてでもいるようだ)
信夫と男を半々にみながら、赤い角巻をまとった女や、大きな荷物を背負った店員などが、いそがしそうに過ぎていった。しかし、いま信夫は、自分がどこに立っているのかを忘れて、男の話にひきいれられていった。

 「みなさん、しかしわたしは、たった一人、世にもばかな男を知っております。その男はイエス・キリストであります」
男はぐいと一歩信夫の方に近よって叫んだ。
「イエス・キリストは、何ひとつ悪いことはなさらなかった。生れつきの盲をなおし、生れつきの足なえをなおし、そして人々に、ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とは、どんなものか、みなさんおわかりですか」
信夫は、この男がキリスト教の伝道師であることを知った。男の声は朗々として張りがあったが、立ちどまっているのは、信夫だけである。
「みなさん、愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは、自分の命を吾々に下さったのであります。彼は決して罪を犯したまわなかった。人々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くはないという者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。彼は、自分は悪くないと言って逃げることはできたはずであります。しかし彼はそれをしなかった。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる。ここにハッキリと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。しかもみなさん、十字架につけられた時、イエス・キリストは、その十字架の上で、かく祈りたもうたのであります。いいですかみなさん。十字架の上でイエス・キリストはおのれを十字架につけた者のために、かく祈ったのであります。
「父よ、彼らを許し給え、そのなす所を知らざればたり。父よ、彼らを許し給え、そのなす所を知らざればなり」
聞きましたか、みなさん。いま自分を刺し殺す者のために、許したまえと祈ることのできるこの人こそ、神の人格を所有するかたであると、わたしは思うのであります…」
突如として、伝道師の澄んだ目から涙が落ちた。信夫は身動きもできずに立っていた。
「わたしはこの神なる人、イエス・キリストの愛を宣べ伝えんとして、東京からここにやってまいりました。十日間というもの、ここで叫びましたが、だれも耳を傾けませんでした」
彼は両手を胸に組んて祈り始めた。
「ああ在天の父なる神よ、大いなる恵みを感謝いたします。いまわが前に立てる小羊を主は見たまいました。主よこの小羊をとらえたまえ。主よこの小羊を用いたまえ。わが唇の足らざるところを、主おん自ら訓したまえ。尊きみ子キリストの名によって、この祈りをおん前に捧げ奉る。アーメン」
大声でアーメンと叫んだ時、道を行くいく人かが笑った。
「ヤソだ」「ヤソの坊主だ」
聞こえよがしに言い捨てていく男もいる。だが伝道師は気にもとめずに信夫をみて、頭を下げた。そのとたん、信夫の耳をかすめて雪玉が飛んだ。ハッと思った瞬間、つづいて雪玉が信夫の肩に当った。信夫はキッとしてふりかえった。
「痛かったでしょう」
男は眉根を寄せて、信夫の肩に手をかけた。
「ひどいことをする」

信夫は怒ってあたりを見回した。すぐ横町をかけていく子供たちの姿が見えた。
その夜、信夫は興奮のあまり眠れなかった。伝道師は伊木一馬と言った。信夫は伊木一馬をともなって自分の下宿に来た。そこで信夫は言った。「先生、ぽくは、先生のお話をうかがって、イエスが神であると心から思いました。いや、この人が神でなければ、だれが神かと思いました」
信夫は、真実心の底からそう思った。子供の投げた雪つぶてが、自分の肩を強く打った時、思わず信夫は怒りに満ちてうしろをふりかえった。そして初めて、十字架の上てイエスが言ったという、「父よ、彼らを許し拾え、そのなす所を知らざればなり」の言葉が、痛いほど身にしみた。全くの話、子供は何もわからずに、ただおもしろ半分に雪つぷてを投げたのだ。だが、もしま近にいたとしたら、自分は果して子供たちを許したことだろうかと、信夫は思った。彼らをつかまえて問いつめ、あるいはゲソコツのひとつもくれてやったことだろう。
しかしイエスは、いままさに殺されんとする苦しみの中にあって、殺す者共を憐れんだのだ。
もしこれが神の人格でないとしたら、どれが神の人格といえようと、信夫はいたく感動した。
このイエスは、マタイ伝の中で、「汝の敵を愛せよ」と言っている。その数えのごとく、敵を愛して死ぬことのできたイエスを思うと、信夫はだまされてもいいから、このイエスの言葉に従って生きたいと、痛切に感じた。

「では、永野君、君はイエスを神の子だと信ずるのですか」
「信じます」
キッパリと信夫は言った。
「では、あなたはキリストに従って一生を暮すつもりですか」
「幕すつもりです」
「しかし、人の前で、自分はキリストの弟子だということができますか」
伊木一馬はゆっくりとたずねた。
「言えると思います」
信夫はたじろがなかった。
「しかしね、いま聞いたばかりで、すぐにイエスを信ずることができますか」
「ぼくは、ぽくの父も母も妹も、妹の夫も、そして…ぼくの未来の妻も、みんな信者です。ずいぶん以前から、ぽくはキリスト教に関心は持っていたのです」
しかしその関心には、たぶんに反感がふくまれていた。特に、キリスト教が外国の宗教だということに、信夫は強い抵抗を感じていたのであった。だが先日、ふじ子がこんなことを言った。
「お先祖様を大事にするということは、お仏壇の前で手を合わせることだけではないと思うの。お先祖様がみて喜んでくださるような毎日を送ることができたら、それがほんとうのお先祖様への供養だと思うの」
この言葉が、信夫の心の中にあった。そんなことも、信夫は伊木一馬に語った。
「すると、君の心は、ずいぶん昔からキリストを求めていたわけですね」
一馬はやっと、信夫の告白にうなずくことができたようであった。

パチパチとストープの中で火が爆ぜていた。
「そうですか。では、もう一度質問しなおしますがねえ。永野君、君はイエスを神の子と信ずると言いましたね。そして、キリストに従って一生暮すと言いましたね。人の前でキリストの弟子だということもできると言いましたね」
信夫はハッキリとうなずいた。
「しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか」
信夫はちょっとためらってから、
「先ほど先生は、この世のすべての罪を背負って十字架にかかられたと申されましたが…」
「そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか」
伊木一馬の目は鋭かった。
「とんでもない。ぼくは、キリストを十字架になんかつけた覚えはありません」
大きく手をふった信夫をみて,伊木一馬はニヤリと笑った.
「それじや、君はキリストと何の縁もない人間ですよ」
その言葉が信夫にはわからなかった。
「先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生れのぼくが,キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか」
「そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ。君は自分を罪深い人間だと思いますか」
正直言って、信夫は自分をまじめな部類の人間だと思っている。性的な思いにとらわれた時は、自分自身でも罪の深い人間に思うことはある。しかし、こうして他人から問われると、さほど罪深いような気はしない。
「そのへんのところが、ぽくにはよくわからないのです。ぽくは自分が特別に罪深い人間だとは思っていないのですが…。聖書に、色情を抱いて女をみる者は、すでに姦淫した者だという言葉を読んで、これはずいぶん高等な倫理だと思いました。そして、あの義人なし一人だになし、という言葉が、ぽくなりにわかったような気はしているんです。でも、いま先生に、自分を罪深いかといわれると、ハッキリとうなずくほどの、罪意識は持っていないように思うのです」
伊木一馬は、いく度か大きくうなずきながら聞いていたが、ふところから聖書を出した。
「わかりました。永野君、これはぼくも試みたことなんだが、君もやってみないかね。聖書の中のどれでもいい、ひとつ徹底的に実行してみませんか。徹底的にだよ、君。そうするとね、あるべき人間の姿に、いかに自分が遠いものであるかを知るんじやないのかな。わたしは、『汝に乞う者に与え、借らんとする者を拒むな』という言葉を守ろうとして、十日目でかぶとを脱いだよ。君は君の実行しようとすることを、見つけてみるんだね」
伊木一馬は、夕食を食べ、そして帰って行った。その一馬の数々の言葉を思いながら、信夫は、一夜ほとんど眠ることができなかった。

隣人となったサマリア人の話
よし、おれはこの聖書の言葉に従って、とことんまで彼の立派な隣人となってみせよう。(と決意する)

(遺言状)
葬儀は三月二日、旭川の教会においてとり行われた。会衆は会堂の外にまで溢れ、その中には信夫を募って泣く日曜学校の生徒の可憐な姿もあった。司会者が信夫の遺言状を読みあげた。その遺書は、入信以来新年毎に書きあらため、信夫が肌身離さず持っていた遺言状であった。血糊がべっとりとついていたありさまを司会者は語った後、その遺言状は読みあげられた。
遺言
一、余は感謝して凡てを神に捧ぐ。
一、余が大罪は、イエス君に贖はれたり。諸兄姉よ、余の罪の大小となく凡てを免されんことを。余は、諸兄姉が余の永眠によりて天父に近づき、感謝の真義を味ははれんことを祈る。
一、母や親族を待たずして、二十四時間を経ば葬られたし。
一、吾家の歴史(日記帳)その他余が筆記せしもの及信書(葉書共)は之を焼棄のこと。
一、火葬となし可及的虚礼の儀を廃し、之に対する時間と費用とは最も経済的たるを要す。湯灌の如き無益なり、廃すべし。履歴の朗読、儀式的所感の如き之を廃すること。
一、苦楽生死、均しく感謝。
余が永眠せし時は、恐縮ながらここに認めある通り宜しく願上候   頓首
                                   永野信夫
愛兄姉各位

遺言状が読みあげられると、全会衆のすすり泣く声が会堂に満ちた。
柩が会堂を出た時、人々はそれを担おうとして吾先にと駆けよつた。郊外の墓地まで担って行こうというのである。その中に父を助けられた虎雄の姿があった。三堀も、吉川もその一部をかついでいた。大勢が担っているので、柩は軽かったが、その死は心にめりこむように重かった。
一力月後に、信夫の遺言状と写真が、鉄道キリスト教青年会から絵葉書となって関係知人に配られ、更に多大の感銘を与えた。
吉川は三堀が言った言葉を思い出した。
「ぼくの見た永野さんの犠牲の死は、遺言状よりも何よりも、ぼくにとってずっと大きな遺言ですよ」
その後の三堀の人格の一変が、それを如実に物語っている。

ふじ子は、ふだん信夫が語っていた言葉を思った。
「ふじ子さん、薪は一本より二本のほうがよく燃えるでしょう。ぼくたちも、信仰の火を燃やすために一緒になるんですよ」
「ぼくは毎日を神と人のために生きたいと思う。いつまでも生きたいのは無論だが、いついかなる瞬間に命を召されても、喜んで死んで行けるようになりたいと思いますね」
「神のなさることは、常にその人に最もよいことなのですよ」
いまふじ子は、思い出す言葉のひとつひとつが、大きな重みを持って胸に迫るのを、あらためて感じた。それは信夫の命そのままの重さであった。
ふじ子は立ちどまった。このレールの上をずるずると客車が逆に走り始めた時、この地点に彼はまだ生きていたのだと思った。そう思うと言いようのない気持ちだった。だが彼は、自分の命と引き代えに多くの命を救ったのだ。単に肉体のみならず、多くの魂をも救ったのだ。いま、旭川・札幌において、信仰ののろしが赤々とあがり、教会に緊張の気がみなぎっている。
自分もまた信仰を強められ、新たにされたとふじ子は思った。ふじ子の佇んでいる線路の傍に、澄んだ水が五月の陽に光り、うす紫のかたくりの花が、少し向うの木陰に咲きむれている。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん」

(あとがき)
昭和十四年、わたしたちの旭川六条教会月報に、当時の小川牧師はこう書いている。
「いまを去ること満三十年前、明治四十二年二月二十八日は、私共の忘れることのできぬ日であります。即ちキリストの忠僕長野政雄兄が、鉄道職員として、信仰を職務実行の上に現し、人命救助のため殉職の死を遂げられた日であります」死後三十年と言えば、普通近親の者にも忘れ去られる年月ではないだろうか。長野政雄氏の死は、いかに後々まで多くの人に大きな感銘を与えたことであろう。

他教会から六条教会に転じたわたしが長野政雄氏のことを知ったのは、昭和三十九年七月初めのことであった。
同じ旭川六条教会の、現在八十九歳になられる藤原栄吉氏宅を訪問した際、氏はわたしに信仰の手記を見せてくださった。その中に、若き日の藤原氏を信仰に導いた長野政雄氏の生涯が書かれてあった。わたしは長野政雄氏の信仰のすばらしさに、叩きのめされたような気がした。深く激しい感動であった。
「そうか、こんな信仰の先輩が、わたしたちの教会に、現実に生きておられたのか」
わたしは、それ以来毎日長野政雄氏のことを思いつづけた。そして、小説の構想を考え、氏に関する資料を調べてみた。残念ながら資料は少なかった。氏の遺言により、その手紙や日記帳は一切焼却されたということだったし、血縁の人の行方もわからなかった.ただ僅かに、氏の死後発行された「故長野政雄君の略伝」という小冊子、氏の写真と、遺言の載っている記念の絵葉書が二枚、そして旭川六条教会史の氏に関する短い記録、及び追悼の言葉に過ぎなかった。
わたしの書いた「塩狩峠」の主人公永野信夫は、いうまでもなく小説の中の永野信夫であって、実在した長野政雄氏その人そのままではない。実在の長野政堆氏のほうが、はるかに信仰厚く、且つ立派な人であった。わたしはさらに、長野氏の人柄やエピソードを、先に述べた資料の中から少しく紹介して後記に代えようと思う。なぜなら長野政雄氏は、永野信夫の原型であるからである。

長野政雄氏は実に質素な人であった。
「庶務主任と言えば、相当の地位であったが、いつもみすばらしい風態をしておられた」
と、同じ下宿だったある信者が述懐しているとおり、洋服などもほとんど新調しなかったらしい。
また非常に粗食で、弁当のお莱なども、大豆の煮たものを壷の中に入れておき、一週間でも十日でもその大豆ばかり食べていたという。というと、甚だ吝嗇に思われるかも知れないが、決してそうではなかった。氏は国元の母に生活費を送り、その外に教会には常に多額の献金をしていた。その献金額は、裕福な実業家信者よりも多かったときく。日露戦役の功により、金六十円を下賜された時、氏はこれをそっくりそのまま旭川キリスト教青年会の基本金に献じた.当時の六十円と言えば、いまのどれほどにあたるか、氏は決して金を惜しんで質素だったのではない。
長野政雄氏の信仰に熱心だったことは、その教会の各集会のすべてに出席したという一事でもわかる。しかもその集会の往復には、計画的にその道を考え、必ず人々を教会に誘ったとのことである。
また、しばしば自費で各地に伝道し、鉄道キリスト教青年会を組織した。その話は火のように激しかったと伝えられる。
しかし氏は、教会にだけ熱心であったのではない。現場においても、氏はまことに優秀な職員であった。氏の在職中、運輸事務所長は幾度か変ったが、何れの所長にも、得難い人物として深く信頼された。
「ある所長の如きは、後任の所長に『旭川には長野といふクリスチャンの庶務主任あり。これに一任せば、余事顧慮するを要せず』とさへ言ひぬと伝えられたり」と、略伝の中に記されているのを見ても、その一端がうかがえる。
但し、単に上司にうけがよいというだけの人ではなかった。どんなに多忙でも、午後五時になれば部下を全部帰し、その残した仕事を深夜に至るまでも処理して怠らなかったという。何しろ現代とちがい、超勤手当など一銭も出なかった時代である。しかもそれが、ほとんど毎晩のことだったというから、これだけでも部下を心服させずにはおかなかったのであろう。
氏はまた極めて温容の人であった。小説の中にも引用したが、略伝の言葉を再び引用しておこう。
「其の立ちて道を説くや猛烈熱誠、面色蒼白なるに朱を注ぎ、五尺の痩躯より天来の響きを伝へぬ。然るに壇をくだれば、靄然(あいぜん)たる温容うたた敬慕に耐へざらしむ」
この長野政雄氏は、いかなる部下をもよく使いこなした.どこの職場にも、いわゆる余され者といわれる怠惰な、あるいは粗暴な者がいるものだが、長野政雄氏の所には、これら問題のある職員がいつも回されて来た。氏の所に送れば、すべて解決できるという定評になっていたためであった。氏の配下になると、その余され者たちはたちまちよく働くようになったというから、氏は確かに稀にみる人格の持主であったにちがいない。
特に次のエピソードは、わたしの心を強く打った。これは氏が札幌に勤務中の時の話である。
職場にAという酒乱の同僚があった。彼は、同僚や上司からは無論のこと、親兄弟さえからも、甚だしく忌み嫌われていた。Aは益々酒を飲み、遂には発狂するに至った.当然職を退かざるを得ない。
Aの親兄弟は病気の彼を見捨てた。ところが一人長野政雄氏は、親兄弟も顧みない狂人のAを、勤務の傍ら真心こめて看護し、彼に尽してやまなかった。飲めばからみ、乱暴を働くだけのAを、氏は決して見捨てなかった。しかも遂に全治するまで看護しつづけたのである。
全治するやいなや、長野氏は上司に対してAの復職を懇願した。これは小説の中の三堀の場合よりも、(この三堀の一件も、長野氏の体験をもとにして書いた)はるかに困難なことであったろう。しかし長野氏のふだんがふだんである。上司も氏の人格と熱誠に打たれ、遂にこれを聞きいれ、その復職を認めた。氏は直ちに苗穂村に一軒の家を借り受け、Aと共に自炊生活を営み、その指導援助をつづけ、遂に全くAを立ち直らせたのである。略伝にはこれについて次のように書いてある。
「ともかく、子供よりも導くに困難なる友を、一身に引受けて教導訓育せるの美挙に至っては、天父の愛を実行せる者にして、はじめて可能なるところにして、情に激して一時を救済する者などの到底なし得ざるところなり。ああ君は、かくの如くにして実行的信仰の階段を歩一歩昇り得て、遂に純金の生涯に達せられたるなり」
また、六条教会員の山内氏は語っている。
「君は愛の権化と言ひて可なり」と。
純金の生涯、愛の権化とまで、当時の友人たちが書き記さずにはいられなかった長野氏の日常生活は、実に想像に余りある。
氏はまた甚だ勇気の人でもあった。北海道の伝道に尽された宣教師ピアソン先生が、スパイの嫌疑を受けたことがあった。日露戦争前後の頃のことである。たちまち人々の反感と憎悪を買い、小学生までがピアソン先生の家に投石するという事態におちいった。
長野氏はこれを深く憂い、直ちに新聞に投書してピアソン先生の人格と使命を訴え、また警察に自ら出頭して誤解を解くために努め、奔走した。それが当時、いかに勇気のいることであったかは想像に難くない。
この長野政雄氏が、塩狩峠において犠牲の死を遂げたのである。鉄道、教会等の関係者はもちろんのこと、一般町民も氏の最後に心打たれ、感動してやまなかった。氏の殉職直後、旭川・札幌に信仰の一大のろしが上り、何十人もの人々が洗礼を受けた。藤原栄吉氏なども、感激のあまり、七十円の貯金を全部日曜学校のために捧げたという。

きょうもまた、塩狩峠を汽車は上り下りしていることであろう。氏の犠牲の死を遂げた場所を、人人は何も知らずに、旅を楽しんでいることだろう。だが、この「塩狩峠」の読者は、どうかあの峠を越える時、キリストの僕として忠実に生き、忠実に死んだ長野政雄氏を偲んでいただきたい。そして、氏が新年毎に書き改めては、肌身離さず持っていた遺言の、
「余は諸兄姉が、余の永眠によりて、天父(神)に近づき、感謝の真義を味わわれんことを祈る」
という一条を心をひそめて思い出していただきたい。
最後に、この小説を書くために何かとご配慮くださった藤原栄吉氏、草地カツ姉、祈りをもって励ましてくださった教会内外の諸兄姉、ニ年半にわたる小説連載中、数々のご協力をいただいた「信徒の友」編集部の方々、挿絵を描いてくださった中西清治兄、単行本発刊のために、ひとかたならぬお心くばりをいただいた新潮社の桜井信夫氏にあらためて厚く御礼を申しあげたい。  
 
「塩狩峠」6

 

『塩狩峠』は三浦綾子による小説およびそれを原作とする映画である。小説は塩狩峠で発生した鉄道事故の実話を元に、1966年(昭和41年)4月から約2年半にかけて日本基督教団出版局の月刊雑誌『信徒の友』に掲載された。これを記念し、塩狩駅近くには、塩狩峠記念館および文学碑が建てられた。
永野信夫
本作品の主人公。永野家の長男。待子の兄。1877年(明治10年)2月、東京府東京市本郷区本郷弓町(現・東京都文京区本郷)生まれ。祖母のトセから、母の菊は信夫を産んで二時間後に死んだと聞かされ、士族の子として厳しく、しかし愛情をもって育てられる。トセの死後、母が本当は生きていたと知り、祖母と父が嘘をついていたとショックを受ける。尋常小学校4年生時、級友たちとの約束がきっかけで修と仲良くなる。その年の夏、修一家は夜逃げ同然で蝦夷(北海道)へ引っ越してしまうが、修の父が死んでからは文通で親交を深める。旧制中学校卒業後、裁判所の事務員に就職。その数年後、10年振りに修と再会。修の勧めで北海道に行くことを決める。3年後、1900年(明治33年)7月の23歳で北海道の札幌に移住し炭鉱鉄道株式会社に就職。その1年後、和倉の強い勧めにより旭川へ転勤。元々はキリスト教嫌いであったが、後に、父母、ふじ子の影響で、鉄道会社に勤めながら、キリスト教信者になる。1909年(明治42年)、ふじ子との結納の2月28日当日、名寄駅から鉄道で札幌へ向かう途中、塩狩峠の頂上にさしかかろうという時、信夫の乗る最後尾の車両の連結部が外れる事故が起きる。信夫は乗客を守るため、レールへ飛び降りて、汽車の下敷きとなり自ら命を落とした。享年32。乗客は無事に助かったが、彼の死のショックは大きいものとなった。その年の3月2日に葬儀が行われ、郊外の墓地に埋葬された。
永野待子
永野家の長女。信夫の妹で、彼より4歳年下。母の菊が実家を離れて生活していた頃に生まれた。そのため、信夫は妹がいることは全く知らなかった。信夫と対照的に明るく人懐っこい性格。1899年(明治32年)、18歳で帝国大学出身の医者の岸本と結婚。
永野菊
貞行の妻。信夫と待子の母。キリスト信者のため、信夫が物心が付かない頃に、姑のトセに実家を追い出された。その後、彼女が亡くなるまで実家を離れて別居していた(この間、第2子で長女の待子を出産)。幼な子の信夫を置いてまで信仰を守る強さを持った女性。
永野貞行
菊の夫。信夫と待子の父。旗本七百石の家に生まれる。心優しい性格であるが、士族も平民もみな同じ人間だと信夫を教育する。日本銀行に就職している。
永野トセ
貞行の母。信夫、待子の祖母。大のキリスト教嫌いで、嫁の菊がキリスト信者のため、実家を追い出した。後に、嫁の第2子の待子の存在を知り、そのショックにより脳溢血で亡くなる。
吉川修
吉川家の長男。ふじ子の兄。信夫の同級生。子どもの頃はお坊さんになるのが夢であった。尋常小学校4年生時、級友たちとの約束がきっかけで信夫と仲良くなる。しかしその年の夏、父の借金のため蝦夷(北海道)へ移住することになる。10年後、東京で一時信夫と再会し北海道に行かないかと勧め(その後すぐに北海道へ戻った)、さらにその3年後、北海道の札幌にて再び交流が深まるようになった。妹や母を大切にする心優しい青年。
吉川ふじ子
吉川家の長女。修の妹。生まれつき足に持病があり、成長してからは肺結核とカリエスを患い、病床でキリスト教に目覚める。元々明るい性格であったが、キリスト教信者になってからはより心豊かになり、信夫のキリスト教入信に多大な影響を与える。信夫との結納の日が決まり、信夫が旭川から帰ってくることを心待ちにするが・・・。
松井
信夫と修の同級生。クラスのガキ大将的な存在。
大竹
信夫と修の同級生。クラスの副級長。
虎雄
信夫の親友であり、幼馴染み。信夫より2歳年下。幼い頃、時々信夫と遊んでいたが、その後足が遠ざかって行ったまま交流を途絶えてしまう。しかし、信夫が裁判所の事務員に就職していた頃、窃盗と傷害で逮捕され囚人とされていた頃に信夫と再会(但し、お互い話しかけることはなかった)。その後、結婚して2児の父親となり、札幌の小間物屋で働いていた。後に、信夫のお葬式にも参加した。
浅田隆士
母・菊の甥。信夫と待子の従兄。大阪在住。登場人物の中、唯一関西弁で話す。
中村春雨
実在する人物。隆士と同期。「無花果」を信夫に読ませた。
和倉礼之助
北海道・札幌の炭鉱鉄道株式会社の信夫と修の上司。
和倉美沙
礼之助の娘。1901年(明治34年)、峰吉と結婚し2児の母親となる。
三堀峰吉
北海道・札幌の炭鉱鉄道株式会社の信夫と修の同僚。ある不祥事件がきっかけで一時は解雇されそうになったが、信夫や母からの説得で礼之助から許しを得た後、復職するとともに旭川へ栄転することになった。後に、礼之助の娘・美沙と結婚し、2児の父親となる。後に、キリスト信者となる。
伊木一馬
伝道師。  
 
「塩狩峠」7 / 一粒の麦

 

  1909年(明治42年)2月28日のことです。「塩狩峠」を走っていた列車の最後尾の連結が外れてしまい、その結果、客車が逆行し始める、といった事態が起こりました。そのとき、その列車に乗り合わせていた長野政雄氏というキリスト者が、列車の下に身を投げ出し、自らが客車の下敷きとなって列車を止め、乗客の命を救って殉職する、といった衝撃的な出来事がありました。
  塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅の近くには、『長野政雄氏殉職の地』と題された記念碑が建てられています。その記念碑には、以下のような文章が刻まれています。なお、この実話を元にして書かれた小説が、三浦綾子さんによる『塩狩峠』です。
「明治四十二年二月二十八日夜、塩狩峠に於て、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。乗客全員、転覆を恐れ色を失い騒然となる。時に乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。「苦楽生死均しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ」右はその一節なり 三十才なりき」
  アクシデントによって、頸から下が麻痺状態となり、口に絵筆をくわえて、美しい詩画を生み出してこられた星野富弘さんという人がおられます。その星野さんの詩の中で、私が好きな詩に『竹』と題された詩があります。理由は、そこに“支え合いのまなざし”を感じ取ることができるからです。
「竹が割れた こらえにこらえて倒れた
 しかし竹よ その時おまえが 共に苦しむ仲間達の背の雪を
 払い落しながら倒れていったのを 私は見ていたよ
 ほら倒れているおまえの上に あんなに沢山の仲間が起き上っている」
  この詩から、自らが倒れることによって他者を活かす、といった“支え合いのまなざし”を学ぶことができます。さて、今朝(こんちょう)の御言葉(聖句)を拝読してみます。
『よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。』(ヨハネによる福音書 第12章24節)
  これは『一粒の麦』として、よく知られている聖書個所です。主イエス様は、やがてご自身の十字架上での死を通して、全ての人々への救いの業(わざ)を成就するのだ、ということを、この喩えをもって示されたのでした。すなわち〈死ぬことが、真の意味での生きることである〉といった福音の真理をここで示されたのです。
  さて、本日のメッセージ・テーマは『塩狩峠』です。私自身も『塩狩峠』を、これまで3度、訪れました。週報には、1909年(明治42年)2月28日に、標高263mの『塩狩峠』において、客車の連結が外れ、逆行暴走し転覆しそうになった列車を止めようとして客車の下にわが身を投げ出し、犠牲的な死を遂げた長野政雄氏について、簡単に記載しました。そして、この長野政雄氏の行為こそが、まさにこの『一粒の麦』を具体的に実行したところの歴史的事実なのです。
  クリスチャン作家であった三浦綾子さんは、1968年(昭和43年9月)に、この題材を元にして『塩狩峠』(新潮社)という、三浦文学を代表する名著を著しました。その小説の中では「永野信夫」となっていますが、その信夫が主イエス様を、自らの救い主として受け容れようとする様子を、以下のように描写しています。※なお、長文引用の関係で、以下の引用は「中略引用」となっています。
 
信夫は、キュッキュッと鳴る雪の道を歩きながら、駅前通りに出た。・・赤煉瓦で有名な興農社(こうのうしゃ)の所までくると、何か大声が聞えた。みると、一人の男が外套も着ないで、大声で叫んでいる。だれも耳をかたむける者はない。
信夫は、ふと耳にはいった言葉にひかれて立ちどまった。
「人間という者は、皆さん、いったいどんな者でありますか。まず人間とは、自分をだれよりもかわいいと思う者であります」
信夫は驚いて男をみた。男の澄んだ目が、信夫にまっすぐに注がれている。
「みなさん、しかしわたしは、たった一人、世にもばかな男を知っております。その男はイエス・キリストであります」「イエス・キリストは、何ひとつ悪いことはなさらなかった。・・人々に、ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とは、どんなものか、みなさんおわかりですか」
信夫は、この男がキリスト教の伝道師であることを知った。男の声は朗々として張りがあったが、立ちどまっているのは、信夫だけである。
「みなさん、愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは、自分の命を吾々に下さったのであります。彼は決して罪を犯したまわなかった。人々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くはないという者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。彼は、自分は悪くないと言って逃げることはできたはずであります。しかし彼はそれをしなかった。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる。ここにハッキリと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。しかもみなさん、十字架につけられた時、イエス・キリストは、その十字架の上で、かく祈りたもうたのであります。
いいですかみなさん。十字架の上でイエス・キリストはおのれを十字架につけた者のために、かく祈ったのであります。
『父よ、彼らを許し給え、そのなす所を知らざればなり。父よ、彼らを許し給え、そのなす所を知らざればなり』
聞きましたか、みなさん。いま自分を刺し殺す者のために、許したまえと祈ることのできるこの人こそ、神の人格を所有するかたであると、わたしは思うのであります…」
突如として、伝道師の澄んだ目から涙が落ちた。信夫は身動きもできずに立っていた。
伝道師は伊木一馬と言った。信夫は伊木一馬をともなって自分の下宿に来た。そこで信夫は言った。「先生、ぼくは、先生のお話をうかがって、イエスが神であると心から思いました。いや、この人が神でなければ、だれが神かと思いました」信夫は、真実心の底からそう思った。
「そうですか。では、もう一度質問しなおしますがねえ。永野君、君はイエスを神の子と信ずると言いましたね。そして、キリストに従って一生暮すと言いましたね。人の前でキリストの弟子だということもできると言いましたね」
信夫はハッキリとうなずいた。
「しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか」
信夫はちょっとためらってから、
「先ほど先生は、この世のすべての罪を背負って十字架にかかられたと申されましたが……」
「そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか」
伊木一馬の目は鋭かった。
「とんでもない。ぼくは、キリストを十字架になんかつけた覚えはありません」
大きく手をふった信夫をみて、伊木一馬はニヤリと笑った。
「それじゃ、君はキリストと何の縁もない人間ですよ」
その言葉が信夫にはわからなかった。
「先生、ぼくは明治の御代(みよ)の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生れのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか」
「そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という間題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ。
  幼き頃にかかった集団赤痢による後遺症で、全身麻痺となったために、五十音図表を使って「まばたき」による合図で、数多くの素晴らしい詩を遺された水野源三さん(「まばたきの詩人」と称されました)という人がおられました。その源三さんが、次のような詩を書いておられます。
   私がいる
 ナザレのイエスを 十字架にかけよと
 要求した人 許可した人 執行した人
 それらの人の中に 私がいる
  さて、こうしてクリスチャンとなった信夫は、やがて塩狩峠に向かう客車の中にいたのです。そのときの描写です。
凍てついていた窓の氷もいつのまにかとけ、乗客たちはそれぞれなごやかに話し合っていた。汽車はいま、塩狩峠の頂上に近づいていた。この塩狩峠は、天塩の国と石狩の国の国境にある大きな峠である。旭川から北へ約三十キロの地点にあった。深い山林の中をいく曲りして越える、かなりけわしい峠で、列車はふもとの駅から後端にも機関車をつけ、あえぎあえぎ上るのである。
「おや、この汽車はうしろに機関車がついていませんよ」
六さんは後部の方を見たまま言った。
「ああ、車両が少ないからでしょうね。しかしうしろに機関車がつかないで上るのは、珍しいですね」信夫は六さんにあいづちを打った。汽車はいまにもとまるかと思うほど、のろのろと峠をのぼっていく。
汽車は大きくカーブを曲った。ほとんど直角とも思えるカーブである。そんなカーブがここまでにすでにいくつかあった。
「ありがとうございます。坊っちゃま、虎雄がどんなに・・」六さんがこう言いかけた時だった。一瞬客車がガクンと止ったような気がした。が、次の瞬間、客車は妙に頼りなくゆっくりとあとずさりを始めた。体に伝わっていた機関車の振動がぷっつりととだえた。と見る間に、客車は加速度的に速さを増した。いままで後方に流れていた窓の景色がぐんぐん逆に流れていく。
無気味な沈黙が車内をおおった。だがそれは、ほんの数秒だった。
「あっ、汽車が離れた!」
だれかが叫んだ。さっと車内を恐怖が走った。
「たいへんだ! 転覆するぞ!」
その声が、谷底(たにぞこ)へでも落ちていくような恐怖を誘った。だれもが総立ちになって椅子にしがみついた。声もなく恐怖にゆがんだ顔があるだけだった。
信夫は事態の重大さを知って、ただちに祈った。どんなことがあっても乗客を救い出さなければならない。いかにすべきか。信夫は息づまる思いで祈った。その時、デッキにハンドブレーキのあることがひらめいた。信夫はさっと立ち上がった。
「皆さん、落ちついてください。汽車はすぐに止ります」
壇上で鍛えた声が、車内に凛とひびいた。
信夫は飛びつくようにデッキのハンドブレーキに手をかけた。信夫は氷のように冷たいハンドブレーキのハンドルを、力いっぱい回し始めた。・・信夫は一刻も早く客車を止めようと必死だった。
次第に速度がゆるんだ。信夫はさらに全身の力をこめてハンドルを回した。・・かなり速度がゆるんだ。信夫はホッと大きく息をついた。もう一息だと思った。だが、どうしたことか、ブレーキはそれ以上は、なかなかきかなかった。信夫は焦燥(あせり)を感じた。・・いま見た女子供たちのおびえた表情が、信夫の胸をよぎった。このままでは再び暴走するにちがいない。と思った時、信夫は前方約50メートルに急勾配のカーブを見た。
信夫はこん身の力をふるってハンドルを回した。だが、なんとしてもそれ以上客車の速度は落ちなかった。みるみるカーブが信夫に迫ってくる。再び暴走すれば、転覆は必至だ。次々に急勾配カーブがいくつも待っている。たったいまのこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると、信夫はとっさに判断した。一瞬、ふじ子、菊、待子の顔が大きく目に浮んだ。それをふり払うように、信夫は目をつむった。と、次の瞬間、信夫の手はハンドブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。
客車は無気味にきしんで、信夫の上に乗り上げ、遂に完全に停止した。
5月28日、信夫が逝った2月28日から、ちょうど3ヵ月たったきょうである。
信夫の死は、鉄道員たちは勿論、一般の人たちにも激しい衝撃を与えた。ふろ屋に床屋に、信夫のうわさは賑わい、感動は感動を呼んだ。
「ヤソは邪教だと思っていたが、あんな立派な死に方をする人もあるんだなあ。ヤソも悪い宗教とは言えんなあ」
そう人々は語り合った。キリスト信者になれば、勘当もされかねない時代である。だが信夫の死は、その蒙(もう)を切りひらいた。そればかりではなく、旭川・札幌を中心とする鉄道員たちは、一挙に何十名もキリスト教に入信した。その中にあの三堀峰吉もあった。
三堀は、信夫の死を目(ま)のあたり見たのだった。客車が暴走し、誰もが色を失い、三堀もまた夢中で椅子の背にしがみついた。しがみつきながら、ひょいと見た三堀の目に、静かに祈る信夫の姿があった。それはほんの二、三秒に過ぎなかったかも知れない。しかしその姿は、実に鮮やかに三堀の脳裡に焼きつけられた。つづいて凛然(りんぜん)と、いささかの乱れもなく乗客を慰撫(いぶ)した声。必死にハンドブレーキを廻していた姿。つとふり返って、三堀にうなずいたかと思うと、アッという間もなく線路めがけて飛びおりて行った姿。そのひとつひとつを、客車のドア口にいた三堀は、ハッキリと目撃したのだった。
人々は、汽車が完全にとまったことが信じられなかった。恐怖から覚めやらぬ面持ちのまま、誰もが呆然としていた。
「とまったぞ、助かったぞ」
誰かが叫んだ時、不意に泣き出す女がいた。つづいて誰かが信夫のことを告げた時、乗客たちは一瞬沈黙し、やがてざわめいた。ざわめきはたちまち大きくなった。バラバラと、男たちは高いデッキから深い雪の上に飛びおりた。真白な雪の上に、鮮血が飛び散り、信夫の体は血にまみれていた。客たちは信夫の姿にとりすがって泣いた。笑っているような死顔だった。
  さて、対人支援実践に携わる者にとって、この『一粒の麦』の喩えに示された、主イエス様の視点は、非常に重要なまなざしです。もちろん、だからと言って、この長野氏と同様に、自らの命を失することが直ちに要求されるものではありません。そうではなく、日常的な対人支援実践において、主イエス・キリスト様が、あのカルバリ山の十字架上で示された〈愛のまなざし〉が必要であるということを意味しているのです。
  しかし気をつけなくてはならないことは、何かそのことによって自分が評価されよう、高められようとするような意識をそこに働かせてはならない、といったことです。あるいは、これとは逆に、自己犠牲的なヒロイズム意識、すなわち、「だれも自分の働きを理解してくれなくても良い、自分さえ分かっていれば良いのだ」、といった考えや、「自分がやらなくては」といった意識をもってするような実践も、やはり同じく自己満足的な実践なのです。そして、それは主イェス様が示された『一粒の麦』とは異なるものなのです。
  主イエス様は私たちに、何よりもまず第一に愛なる神様に忠実に従うことを求められました。そしてご自身が十字架上での「赦し」を通して、その模範を示されました。そのことによって、私たち一人ひとりに対する救いの道を開いて下さったのです。
  聖書には「人がその友のために自分の命を捨てること。これよりも大きな愛はない」(ヨハネ福音書 15:13) という主イエス様のお言葉が記されております。さらには「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10:11) 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(第1ヨハネ 3:16)との御言葉(聖句)が示されています。
  主イエス様が示された「友」とは、全ての隣り人(となりびと)を意味します。ゆえに、必ずしも自分に対して好意を寄せてくれる人とは限らないのです。そうした隣り人の全てを「友」としてとらえ、そうした「友」のために自らが『一粒の麦』となって生きることを主イエス様は言われたのです。ここに「他者を活かす」、といったまなざしがあるのです。そして、その奥義(おうぎ)さえ掴めば、だれしもが『一粒の麦』となることができるのです。ですから、私たちもまた、この福音の奥義をしっかりと掴もうではありませんか!
お祈りをささげます。
「恵み豊かなる、愛なる神様。今朝のチャペル・メッセージで、愛なる神様を証しする機会が与えられましたことを、心から感謝いたします。もしも私たちが『一粒の麦』のたとえのごとくに、他者の喜びのうえに、自らの喜びを重ね合わせ、また悲しみを有する人の悲しみを我が事としつつ、共に歩みを進めるならば、その歩みが神様に喜ばれ、そして祝福に満ちた人生を歩むことができることを教えられましたから、ありがとうございます。今日ひとひの私たちの歩み、そして明日からの歩みをも豊かにお導きくださいますように・・。この切なる祈りを、尊き主イエス・キリスト様のお名前によって、信じてお祈りを申し上げます。ア〜メン!」  
 
「塩狩峠」8

 

三浦文学の「完成」
『氷点』、『ひつじが丘』に続く『塩狩峠』で、三浦文学の形式は完成していると言って良いだろう。
今まで論じてきたように、三浦文学はキリスト教文学ではあるが、その興味関心や執筆動機はキリスト教そのものを語るのではなく、キリスト教との関わり方を問うところにある。ゆえに三浦文学はマクロ的には、戦後のアイデンティティが不安定になった日本に対して、キリスト教と出会う日本人、という可能性を提示してみせる、重要な意味合いを持っている。
こうした観点から上記の初期三作品を見てみると、まず『氷点』は「原罪」をテーマにして有名になった作品であり、その意図するところは、罪観が希薄な日本人に対して如何に原罪という問題をえぐり出し、理解させていくか、というところにあったと考えられる。また『氷点』においては、主要人物はキリスト教の信仰をもたず、キリスト教者はあくまでサブに廻され、信仰を持たない一般人がキリスト教的内容につながる土台作りになっている。次に『ひつじが丘』は、キリスト教信者を主要人物に据えて、キリスト者の生活と教えの有りようなどをダイレクトに扱っており、そこでは神なき人生の虚しさや人間の罪深さだけでなく、キリスト者が案外、信仰と人格の有機的つながりを為し得ていない現実、そして、キリスト教が現代の若者にとってどの程度魅力があるのか、といった問題に切り込んでいる。『塩狩峠』では、現実にあった殉教の様子を掘り起こすことで、キリスト者としての一つの完成された生き方の例、アイデンティティとして矛盾のない人生を描き、『ひつじが丘』で提起された問題に対して解答を示す形になっている。そして、この三作品が大体、その後の三浦作品の基本スタンスを代表する形になっているし、また三浦綾子本人も「自分は伝道のための文学しか書かない」と明言している。ゆえに、『塩狩峠』をもって、三浦文学が「完成」した、とまとめられるのである。
こうした流れの中で書かれているため、『塩狩峠』は全くのキリスト教文学でありながら、読んでいてヤソくさくない。一般に非常に受け入れられている。
「愛」の問題を扱う
さて、前作の『ひつじが丘』では、聡明であるはずのヒロインが、刹那的なロマンに流されて不幸な人生を選択する、という経緯が描かれている。彼女は父親から、彼女自身が「愛する」と「好き」の違いを区別できていないと言われ、反発心から恋人のもとへ走ってしまう。また『氷点』で主人公の陽子は、自らの出生の秘密を知る中でどうしようもない「寂しさ」を感じ、自殺へ追い込まれる。『氷点』で扱った原罪の問題について三浦氏は、原罪とは要するに本当の生き方が出来ないことである、という風に説明している。
E・フロムという哲学者によれば、「愛」とは私自身がなぜこの世に生きているのか、という問いに対する解答だとのことであるが、三浦氏はその人生の答えとしての「愛」の問題を深く掘り下げているのだ。
では『塩狩峠』ではその「愛」がどのような形で描かれているだろうか。『塩狩峠』は、キリスト者である鉄道職員が、ブレーキの壊れた列車の下に飛び込み、殉教によって乗客の生命を守ったという、実話に基づいている。あらすじなどの詳細は次回以降に述べるが、ここでは言うならば無意識の愛ということが表現されているのではないだろうか。
『塩狩峠』に表現された無意識の愛
『氷点』『ひつじが丘』でも明らかなことであるが、三浦氏は「愛」の問題を思弁的に、哲学的に、机上の論理として論じることを嫌い、生活圏の実感の問題として小説に表現している。愛することとは何か、と言ったときに、人は利他的な精神云々ということを頭で哲学的に考えるよりも、もっと直感的な世界で行動するのではないか。三浦氏の中では、その一つの頂点としてこの『塩狩峠』の殉教事件があったに違いない。殉教は生命を投げ出すことであるが、自殺はキリスト教においても罪であるはずである。しかし殉教者は結果的に殉教しただけであって、その瞬間に自らが死ぬということを意識しないはずである。鉄道事故というのは一瞬の出来事で、列車の下に飛び込めば私は死ぬだろうか、などと考える余裕自体がないはずである。その瞬間は考える暇もなく、乗客を救わなければならない、という思いが行動に直結したはずである。
つまり、三浦氏がここで訴えたかった、一つの完成された愛の形とは、意識的な次元のものではなく、いざという時に無意識下から条件反射のように出てしまう、身に染み込んだものだ、ということである。
かつて孔子が学を志し、研鑽と試行錯誤を経て「思うところに従っても道を外れない」次元へと到達した。こういうのを道成人身者と言うそうである。こうした世界こそが、キリスト教に限らず、いわゆる教えを学ぶ者が普遍的に到達すべき愛の境地である。三浦氏はこのように訴えたかったのではないだろうか。
実話を基に構成
『塩狩峠』(一九六八年)は、長野政雄という実在した人物をモデルに書かれた小説である。
このひとは旭川の鉄道職員を勤めたキリスト教信徒で、一九〇九年二月に塩狩峠の鉄道事故で殉職されている。坂道を逆走する列車を止めるために線路に身を投げ、乗客の生命を救った。この事件について三浦氏が知ったのは一九六四年七月で、『氷点』の朝日新聞入選直後のことだそうである。事件からは半世紀経っていることになる。
三浦氏は本作の「あとがき」で、「わたしは長野政雄の信仰のすばらしさに、叩きのめされたような気がした。深く激しい感動であった」と述懐している。さらに本作品の主人公の原型がこの長野政雄氏であることを紹介しつつ、「私の書いた『塩狩峠』の主人公・長野信夫であって、実在した長野政雄氏その人そのままではない。実在の長野政雄氏のほうが、はるかに信仰厚く、且つ立派な人であった」と断っている。
しかしながら『塩狩峠』は本質的にはやはり実話である。もちろん三浦氏は、本作品が実話を基に構成しなおしたものであり、主人公の永野信夫は実在の長野政雄とは別人であることを明記しておられる。しかし、本作で語られる殉教の生き様がここまで感動を呼び、本作が日本で広く受け入れられているのは、とりもなおさずこれが実話、まさに事実そのものとして、疑いようのない真実の感動を与えてくれるからである。
三浦文学の「役割」
本連載では三浦作品の特徴が『氷点』『ひつじが丘』『塩狩峠』の三つに集約されている、ということを何度か論じてきた。
これに関して、三浦文学研究の第一人者、高野斗志美氏は『塩狩峠』についてこのように解説している。「『氷点』のあと、『ひつじが丘』(一九六六年)が出版されるが、その同じ年にはやくも『塩狩峠』が着手され、『信徒の友』に連載がはじまっている。(中略)本格的な作家活動にのり出していく時期に、『氷点』や『ひつじが丘』にきびすを接するようにして『塩狩峠』が書かれているのは注目されていいことであろう。それというのも、この作品を書くことによって、三浦綾子はおそらく、なぜ小説を書くのかという問いに対して、キリスト者としての確答をえたと思われるからである。」
ここで敢えて(あくまで筆者の私見として)整理すれば、『氷点』は人間が持つ罪の問題を普遍化して描いてみせた。『ひつじが丘』ではその罪の問題をさらに様々な観点で浮き彫りにすると共に、その解決として示されるはずのキリスト教にも、日常の信徒が持つ「傲慢さ」「マンネリ化」のような問題が生じていることを描いた。その更なる解答として『塩狩峠』では、本物の信仰とは何かを証として提示してみせた。これらの共通項となるのは、「正しい生き方」への真摯な模索であり、三作品目で具体的な解答が示されたことになる。
さらに高野氏は、三浦文学が文学のための文学という既成概念を打ち破り、伝道のための文学を掲げたことの意義を評価すると共に、ある人物の信仰の素晴らしさを讃える英雄伝を手掛けるのではなく、等身大の主人公を描き、どのように信仰を持ち、信仰が培われていったのかという部分に焦点を当てる作品創作の方法を評価している。その両方が揃うことによって、同時代に向けて、「人間はどのように生きるべきか」という問いを普遍化し、積極的に大衆化していくことが可能になった、というのである。
三浦文学と日本人アイデンティティ
では、この連載で何度か論じてきた日本人のアイデンティティ問題と、三浦文学の方式はどのような関わりがあるだろうか。
表面的には日本人が異国の教えに従うかのような三浦のキリスト教文学というのは、日本人アイデンティティと相いれないのではないか、という疑問が生じる。
明治以降、日本は怒涛のような欧米文化にさらされて、今までの日本の歴史に根ざした、日本らしさを主張できる何らかの拠り所を見失いがちであった。これに対して日本の正統性とも言うべきものを証明しようとする試みが様々な形で、文学のみならず学術全般、そして政治・経済にいたる幅広い分野でなされてきた。
こうして考えると、キリスト教に伝道され教化されるというより、主体的に選び取ったという部分にこそ重きを置くのが三浦文学の方法であった、ということが改めてポイントになってくる。そしてそれは、教えを選び取るのではなく、愛の実践、生き方を選び取るという動的な行為に他ならない。動的な、というのは木の実を取るのに座して待つのではなく、危険をおかして木に登って取るという意味である。
思えば三浦文学の主人公達はみな、悩み苦しみながら、キリスト教に示唆される、徹底した利他主義の生き方をいかにつかみ取るか、これをテーマとして生きている。言い換えればこれは、正しい生き方への動的探求である。日本近代史には、例えば内村鑑三や新渡戸のように、キリスト者であることが立派な日本人になるということに何の矛盾もなく結びついた人たちがいたはずである。こうしたアイデンティティのあり方が可能であることを等身大で示して見せたのが、三浦文学なのだ。
このように『氷点』『塩狩峠』を始め「正しい生き方」を問いかける三浦文学作品群は、戦後の復興期にあって経済的には繁栄しながらも精神的な危機感を抱えつつあった当時の日本において、非常に時宜を得た、日本人としてのアイデンティティ再構築を担っていたのである。
無私の生き方とは
本作『塩狩峠』は、他の人々を助けるため自らの命を投げ出す、殉教という無私の生き方の究極を表現したものである。これは、キリスト教徒の生き様、あるいは人間としての正しい生き様を社会に証していくという、「証の文学」としての三浦文学の形式を完成させた作品として、特に意義深い作品である。
折しも、この記事を書いている途中に新潟での震度7震災のニュースが飛び込んできた。四日間、車ごと土砂に埋もれていた、二歳十一ヶ月の皆川優太くんが無事救出されたとのことである。残念ながら母親の貴子さんとお姉ちゃんは助からなかったが、幼い子供を、レスキュー隊二十人が命がけで作業し、生命をつなぐリレーを行った、その姿は全国に感動をもたらした。また、もちろん定かではないが、お母さんは事故当時即死ではなかったらしく、優太くんが車のドアの外にできた空間に立っていたことから、お母さんが自分も助からない決死の状況下で、それでも息子を助けるために行動していた、ということは十分に考えられる。もちろん定かではないが、もしそうだとすれば、レスキューの人々と合わせて、ここにも究極の無私の行動がある。そのように、まことに感慨を新たにさせられる、そうしたニュースであった。
『氷点』に示された無私の境地
こうした無私の行動は、三浦氏のデビュー作『氷点』の中にも見られる。「台風」という章で語られる、青函連絡船「洞爺丸」の遭難で宣教師が殉教した事件である。ここで主人公の養父・啓三がこの連絡船に乗って遭難を体験するが、ある外国人宣教師が自らを犠牲にして若い女性に救命具を譲るという事件を目撃する。実は、この連絡船遭難および宣教師の殉教は実在の事件で、『氷点』朝日新聞懸賞当選の時点では含まれていなかったという。三浦綾子氏が当選後に改めて、新聞掲載にあう形で書き直している際に、夫・光世氏の勧めに従って実地に生存者などの意見を取材し、小説に取り入れた。このことによって『氷点』は、キリスト教を意識したストーリー展開も自然な流れとなったし、利他的生き方を一つのテーゼのような形で打ち出すことになった。リアリティと深みを増し、作品としてより素晴らしいものになったのである。また、塩狩峠の事件と同じく、この殉教事件によって北海道の教会には大きなリバイバルが起ったという。
ここには様々なヒントが隠されているように思われる。夫の助けによって小説が完成するということに、本稿でテーマにしている「女性像」の一つの答えが暗示されている。また、こうした利他的精神は、開拓地・北海道の風土で、厳寒の激しい海という熾烈な環境に置かれて、キリスト教のより健全な本質部分が表現されたことに他ならない。人間が自然を克服しようと格闘している環境においては、人間は助け合わなければ生きられない。そうした中で、利他的精神はある意味生活において必要なものであり、健全な形での利他的な精神、また信仰が育ちやすい。逆に、利便に優れた環境に置いては、人は孤立し自己中心に流れやすい。
武士道に通じる精神
さて、武士道とは「見事に死ぬこと」だと説明した人がいる(下村湖人のこと)。新渡戸稲造博士の『武士道』においてもやはり、武士道が仁義礼智などの精神に拠っていることを説明した上で、後半は切腹などを取り上げ、「見事に死ぬこと」を強調している。
死んでしまう自分、死ぬべき自分というものを知り、それを覚悟した時、その人がやるべきこととはたった一つしかない。それは自分以外の人の為に尽くすことである。なぜならその人はもう自分を守る必要がなく、自分の為に便宜をはかる必要が全くない。それを悟り覚悟を決めた時、死ぬ決意をしたとき、徹底的に利他的に生きる、究極に美しい、見事な生き方ができる。キリスト教における殉教とはそうした精神であると説明できる、と思われる。もちろん最初から実際に自分が死ぬ前提で、ということになると自殺であって、神から授かった命を自らないがしろにするようなことは罪になるが、自分があれば、美しく正しく生きることはできない。徹底した無私の境地に立つことで、文字どおり一〇〇%利他的に生きる生き方ができる。「死ぬ覚悟」は、その無私の境地を端的に表現した形、ということである。
要するに、キリスト教の生き方は武士道に通じる世界があると思われるのである。そして日本の武士道、欧米のキリスト教、他にも様々な伝統的美徳・教えが、この利他的な、無私の生き方を指し示している、ということである。
先ほども触れたように、利便に優れた現代の日本においては、ある意味人間が孤立して自己中心に向かってしまう。先ほどの新潟のニュースは、そうした、埋もれた人間の良心を掘り起こす、心の琴線に触れる内容を持っていたと思う。神戸震災や今回の新潟震災で多くの若者がボランティアに志願している様子や、また「韓流」に代表されるアジア・ブームなども、不便であるがゆえに人間の心が健全だった日本の古き良き時代に立ち戻ろうとする、社会の自衛本能のようなものではないか。このように思われてならない。  
 
「塩狩峠」9

 

鉄道職員 水野信夫は結納のために札幌へ向かう。途中、塩狩峠にて列車が暴走し、水野は自らの身を挺して列車を止めて、そして死ぬ。結納を前にした、決意の死である。
というのがあらすじで、この物語にはモデルがいます。長野政雄という人物です。水野のように死んでしまった長野はしかし、乗客のために命を投げ出したわけではないという説もあるようです。本書はあくまで物語です。
水野の生い立ち、家庭の事情に、教育について考える契機を見出すことができます。この物語にもキリスト教が登場します。
「いいか。人間はみんな同じなのだ。町人が士族よりいやしいわけではない。いや、むしろ、どんな理由があろうと人を殺したりした士族の方が恥ずかしい人間なのかも知れぬ」
(もし自分だったら……)
読書は、人と自分の身をおきかえることを、信夫に教えた。
「人間はいつ死ぬものか自分の死期を予知することはできない。ここにあらためて言い残すほどのことはわたしにはない。わたしの意志はすべて菊が承知している。日常の生活において、菊に言ったこと、信夫、待子に言ったこと、そして父が為したこと、すべてこれ遺言と思ってもらいたい。
わたしは、そのようなつもりで、日々を生きて来たつもりである。とは言え、わたしの死に会って心乱れている時には、この書も何かの力になることと思う」
(おれは自分の日常がすなわち遺言であるような、そんなたしかな生き方をすることができるだろうか)
信夫は、父の死を悲しむよりも、むしろ父の死に心打たれていたのである。
「そうか、吉川君でも死ぬのが恐ろしいのか」
信夫はホッとしたように吉川をみた。二人は顔を見合わせて笑った。
「吉川君と話していると気が楽になるなあ」
「そうか。しかしそれは楽な気がするだけだよ。ほんとうに気が楽になったのとはちがうよ」
「そうだろうか」
「そうさ。ただこうして話し合っただけで、死などという問題が解決されるわけはないじゃないか。やはり何のために自分は生きてるのだろうかと思うと、何のためにも生きていない気がして淋しくなるだろう。生きている意味がわからなきゃ、死ぬ意味もわかりはしない。たとえわかったところで、安心して死ねるというわけでもないさ」
そう思いながらも、あのふじ子が死を目の前にして、
「確かに死はすべての終わりではない」
と、信ずることができたなら、それはどんなに大きな力になることだろうかと信夫は思った。そして自分では信じていないその言葉を、ふじ子に告げてやりたいような気がしてならなかった。
(だがはたして、その言葉が人間にとって、ほんとうに生きる力となるだろうか。生きる力はいったい何なのだろう)
「みなさん、愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは、自分の命を吾々に下さったのであります。彼は決して罪を犯したまわなかった。〔略〕何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。〔略〕悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる」
先日、ふじ子がこんなことを言った。
「お先祖様を大事にするということは、お仏壇の前で手を合わせることだけではないと思うの。お先祖様がみて喜んでくださるような毎日を送ることができたら、それがほんとうのお先祖様への供養だと思うの」
この言葉が、信夫の心の中にあった。
*「いざり」……「躄」。足が不自由で立てない人。膝や尻を地面に着けたまま進むこと。
*「万年青(おもと)」……園芸植物の一種。 
 

 

塩狩峠 感想1
「永野君、君はイエスを神の子として信ずると言いましたね。そして、キリストに従って一生暮らすと言いましたね。人の前でキリストの弟子だということもできると言いましたね」
信夫はハッキリとうなずいた。
「しかしね、君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか」
信夫はちょっとためらってから、
「先ほど先生は、この世のすべての罪を背負って十字架にかかられたと申されましたが・・・」
「そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか」
伊木一馬の目は鋭かった。
「とんでもない。ぼくは、キリストを十字架になんかつけた覚えはありません」
大きく手をふった信夫をみて、伊木一馬はニヤリと笑った。
「それじゃ、君はキリストと何の関係もない人間ですよ」
その言葉が信夫にはわからなかった。
「先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか」
「そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ。君は自分を罪深い人間だと思いますか」
正直言って、信夫は自分をまじめな部類の人間だと思っている。
性的な思いにとらわれた時は、自分自身でも罪の深い人間に思うことはある。しかし、こうして他人から問われると、さほど罪深いような気はしない。
「そのへんのところが、ぼくにはよくわからないのです。ぼくは自分が特別に罪深い人間だとは思っていないのですが・・・。聖書に、色情を抱いて女をみる者は、すでに姦淫した者だという言葉を読んで、これはずいぶん高等な倫理だと思いました。そして、あの義人なし一人だになし、という言葉が、ぼくなりにわかったような気はしているんです。でも、いま先生に、自分を罪深いかといわれると、ハッキリとうなずくほどの、罪意識は持っていないように思うのです」
伊木一馬は、いく度か大きくうなずきながら、ふところから聖書を出した。

三浦綾子の小説『塩狩峠』に描かれている、一つの「キリスト者像」“厳しい”素直な感想です。
私もクリスチャンだが、返上しなければならないと思った。
「キリストが私のために十字架にかかり、十字架につけたのは私自身」
信夫と同じように、私はこのように思えない。
今日、義兄の堅信式が教会でではなく、施設で執り行われた。
家族など数人しか出席しない堅信式。
とても温かく、感動的だった。
義兄は仕事以外のことは面倒くさく、理屈っぽさは全くない。
妻はクリスチャンで妻が教会に行くことはどうでもいいのだが、自分が行くことはなかった。
子ども二人は教会で結婚式を挙げたが、だからといって教会に親近感を持ったわけではない。
今年3月、急に「ボク、洗礼受けたい」と言い出した。
はっきりと理由は言わないが、「ただ、受けたい」とだけ。
妻は喜んだ。何故?はどうでもよかった。
「夫が洗礼を受ける」それだけでよかった。
「心の清い人たちは幸いである。彼らは神を見るであろう。」(マタイによる福音書5章8節)
主教が聖書を読んだとき、聖霊が義兄に下ったような気がした。
義兄は話すことも出来ず、ただひたすら涙をぬぐっていた。
妻も同じだった。
信仰に、知識や理屈は要らない。
義兄夫妻のように、「単純に、素直に、」が一番いい。  
 
塩狩峠 感想2

 

海外の翻訳小説をメインに読んでいると、たまに日本の小説を読んだとき、その読みやすさに驚く(笑)。この作品もあっというまに読み終えた。とりわけ三浦綾子は、日本人作家の中でも読みやすい部類に入ると思う。奇をてらわない平易な文章は、途中でつっかえることなく、すらすらと読み進められる。登場人物の思っていることを丸括弧で表記する文体も、「分かりやすさ」の理由の一つだろう。これは別に三浦独自の手法というわけじゃないだろうけど、でも私の拙い読書歴の中で、丸括弧で心のうちをあらわす手法は三浦だけだ。一般的に、作家というのは文章に丸括弧を使いたがらない傾向があるように思う。そういう記号に頼らずに、文字だけですべてを伝えることにこだわっているというか。確かに、文字の中に頻繁に記号が混じっていると違和感がある。なので「文章の美しさ」にこだわる作家の中には、会話文ですらかぎかっこを使わず、地の文に混ぜてしまう作家もいるほどだ。(たとえば日本だと谷崎潤一郎、海外だとジョゼ・サラマーゴなど)
だが三浦はそんな「作家としてのこだわり」よりも、読みやすさ、分かりやすさを優先させて小説を書いていると感じる。それが、デビュー当初から「伝道のために小説を書く」と公言してきた彼女の強さ、たくましさだ。伝道の「手段」としての小説は、まず何よりも分かりやすくなくてはならない。だからこそ、「丸括弧で登場人物の思いをあらわす」手法を貫いてきたのではないだろうか。かくいう私も昔、初めて彼女の小説を読んだときには、「丸括弧で登場人物の思いをあらわす」手法を安易だと感じ、以来、彼女の著作をあまり読んでこなかった。だが年を経た今になって、三浦綾子のような平易で読みやすい文章こそ、実は書くのがもっとも難しいのだと分かる。この『塩狩峠』を読んで、なおさらその思いを強くした。
とはいえ、やっぱり私には根強い「三浦綾子アレルギー」があるらしい。いやアレルギーというほど深刻なものじゃなく、「違和感」とでも言おうか。そのこともまた、久しぶりに彼女の著作を読んで再確認した。
まず、クリスチャンの登場人物がみな聖人君子すぎること。三浦綾子の小説を読んでキリスト教に興味を持つノンクリスチャンは多いが、そういう人たちが教会に来てもなかなか定着しないのは、小説に出てくるクリスチャンと、現実のクリスチャンとの違いに幻滅するからではないだろうか。まあ小説だから、ある程度はデフォルメしなきゃならないのは分かるけれど。
そして主人公と、彼(彼女)をとりまくクリスチャンが、なぜか美男美女ばかりなこと(笑)。特に女性が主人公の作品に多い。まあこれも小説だから、ヒロインが美人でないと読者を惹きつけられないという理由だろうか。さらにヒロインは性格も良いから、当然、作品中でも異性にモテる。でも当の本人は自分が魅力的であるという自覚や、モテているという自覚はなし。謙虚で素直で、天使のように清純無垢。そんなヒロインは異性の読者からすればたまらなく魅力的なのかもしれないが、同性の読者からするとあまり共感できないーーというのが、これまで何作か三浦の著作を読んできての感想だった。登場人物には、作者自身が何らかの形で投影されることが多いという。たぶん、三浦自身も若い頃は美人でモテていたのだろう。そう思えるのは、美人な「愛されヒロイン」の描写に全く嫌みがないからだ。
この作品では、主人公・永野信夫の母親である菊、そして永野の恋人のふじ子が、そうした「心清らかで容姿も美しい」クリスチャン女性として登場する。「心清らか」なのはまあいいとしても、容姿まで美人という設定にする必要性を、あまり感じないのだけれど^^; いつも穏やかで心優しくて、それでいて芯は強く、忍耐強い。まさに理想のクリスチャン女性ーーというより、日本女性の理想って感じ。でもそういう完璧な女性だからこそ、物語の最後、それまで凛としていたふじ子が突然、感情を噴出させるシーンに心打たれるのだけれど。
そんな、心清らかなクリスチャンを敵視する登場人物たちがいかにも「悪役然」としているのにも、違和感を感じた。永野の祖母とか、会社の後輩の三堀とか。彼らが意地悪であればあるほど、そんな彼らにも穏やかに接するクリスチャンたちの心の清らかさが引き立つのだろうけど。でもちょっと極端すぎて、まるで昔の少女漫画のようだ(笑)。
ーーと、文句ばっかりつけちゃいましたが。でもそんな私も、物語が終盤になるにつれ目に涙が盛り上がってきて、最後には涙ボロボロになったことをここに告白いたします。前述したような多少の違和感は吹き飛ばすほど、物語に人を引き込む力があったということだろう。この作品が実話を元にしているということ、そしてそれを知った上で読み進めていったことも、物語にのめりこんだ理由だと思う。そう、この作品は全くのフィクションではない。実際に塩狩峠で、乗客を救うために犠牲の死を遂げた長野政雄をモデルにしている。そのことを知った上で読み始めたから、冒頭から「この無邪気な少年が、最後は壮烈な死を遂げるのか」と胸が痛んだ。そしてどのようにして、犠牲の死を遂げるほどの「愛の人」に変えられていったのかが気になって、ページをめくる手が止まらなかった。そしてこれは、三浦綾子の筆致が巧みだからだと思うのだけど、永野の家族や友人とのエピソード、ふじ子との恋愛なども、すべて実話だと思って読み進めていたのだ。健康な女性との縁談を蹴って、不治の病で寝たきりのふじ子を選び、彼女の回復を待ち続けるという「美談」すぎる話ですら、実話だと思って読んでいた。それは、周囲に反対されてもなお、ふじ子を愛し続ける永野の心理描写が巧みだったからに他ならない。
終盤、ようやく訪れたふじ子との結納の日、彼女の元に向かう途中の列車で事故に遭遇したというのも、あまりにも悲劇的で運命的で、「実話にしてはできすぎている」と思ったけれど。でも「事実は小説より奇なり」というし、これも実話だと思っていた。そうではないと知ったのは、作者によるあとがきを読んだとき。長野政雄はその遺書で、自分が書いた手紙や日記は全て焼却するよう命じたため、残ったのはごくわずかな資料だけだったという。長野の血縁の行方も分からなかったとか。それでも、長野政雄の信仰の生涯に心打たれた作者は、残されたごくわずかな資料をふくらませて、この小説を書き上げた。当然、架空の人物やエピソードも多い。というか、ほとんどがそうだろう。だから主人公の名前はあえて実名の長野政雄ではなく「永野信夫」という架空名なのだ。実在の長野政雄は、あくまでもモデルである。だが三浦綾子がこの小説を書いたことで、長野政雄の名前とその死は、日本中に広まった。これは私の推測だけれど、三浦が長野のことを知った1964年頃には、彼の名はすでに世間から忘れられ、かろうじてキリスト教界、それも地元旭川の教会内でしか知られていなかったのではないだろうか。三浦自身も、たまたま自分が通っていた旭川六条教会の信徒の家に訪ねた際に、その信徒から「若き日に信仰に導いてくれた先輩」として、初めて長野のことを教えてもらったという。だが三浦が彼をモデルに『塩狩峠』を書いたことで、長野政雄の名前はクリスチャンではない人の間にも広まった。今では長野政雄について説明する際、必ず初めに「三浦綾子の『塩狩峠』のモデルになった」という枕詞がつくくらいだ。そのことだけを取ってみても、この小説が果たした意義は果てしなく大きい。
以下、感じたことを箇条書き。
やっぱり文語体の聖書は格調高くて良い。しかし聖書になじみのない読者のことを考えると、読みやすい口語体で聖書の言葉を載せた方が、より意味がよく伝わるのではないだろうか。でも当時の聖書は文語体だったので、仕方ないか。
ハンドブレーキをまわしてかなり汽車の速度がゆるんだのなら、乗客はデッキから雪の上へ飛び降りることもできたのでは。私は昔、5年ほど北海道に住んでいたけれど、あの時期の山はかなり雪が深く、しかもパウダースノーだ。なので雪がフカフカのクッションとなって、乗客を受け止めたのではと思ってしまう。まあ、乗客に順に飛び降りてもらうような時間の余裕はなかったということだろうか。永野には生きていてほしかっただけに、つい「他にもっと方法が」と考えてしまう。
子どもの頃からタイトルは知っていたけど、なかなか読む機会のなかった『塩狩峠』。初めてそのタイトルを知ったのは子どもの頃、教会で、この小説を元にした映画の上映会があったとき。私の祖父が牧師をしていた教会で、私も「お客さん」ではなかったので、上映中は他のお客に席を譲り、全編通しては見ていない。と書くと謙虚なようだが、実は私もそんなに見たいと思わなかったのだ。その頃から外国映画の方が好きだったし、チラシを見ても、なんだか怖くて暗い映画のようだったし。だが白い雪が真っ赤に染まるシーンは、今も鮮明に覚えている。
原作を読み終えた今、改めてあの映画を見てみるのもいいかもしれない。  
 
塩狩峠 感想3

 

塩狩峠、読み終わった。久々のガチ読書の味は格別でしたよ。全く意識してえらばなかったんだけどキリスト教登場するんだよね。前期のレポートで遠藤周作とかキリスト教文献読みまくったんだど再びめぐり合うとは。実話をもとにした小説、です。
明治10年、永野信夫は士族の子として生まれる。そして厳格な祖母トセに、信夫の母親は産後すぐ死んだと聞かされ育てられる。しかし信夫が小学校に進んだある日、ひょんなことから信夫の母親は生きているということがわかり、そのことを知ったトセは脳卒中で死ぬ。
開明的な考えを持った信夫の父貞行はクリスチャンである信夫の母菊と結婚したのだが、トセはキリスト教を耶蘇と呼び、二人の結婚を認めず、幼い信夫を引き取り離縁させていたのであった。
菊は再び貞行との生活を始め、信夫の母親となるが、キリスト教を忌み嫌う当時の風潮とトセの教育からキリスト教信者の母の生活になじめず、母は自分よりキリスト教が大事なのではないかと疎外感を感じ始める。
そのため亡きトセの「士族」としての教育が生きる上での指針となった信夫は自分の気持ちは決して表に出さず、何事にも屈することのない強い意思力を持った人間に成長する。しかし大学に進学しようかというその矢先、貞行が急死し、信夫は進学を断念する。この時信夫の心には、不可避である死への恐怖が深く根ざした。
裁判所に勤めることになった信夫は、ひょんなことからクリスチャン小説家と知り合い、彼の書いた小説に深い感銘を受ける。そして自分が、キリスト教のことを何も知らずに毛嫌いしていたことに気づき、未知の神という存在を気にするようになる。
二十歳になった信夫は、北海道に引っ越していた小学校時代の親友と出会い、親友の妹ふじ子に恋をする。ふじ子は生まれつき片足が悪かったが信夫はふじ子に惹かれていた。
しかし北海道に帰ったふじ子が当時死病とされていた肺結核と脊椎カリエスを併発したと聞き、信夫は衝動的に北海道へ渡り、ふじ子を見舞いつつ鉄道に勤める。またキリスト教信者であるふじ子や町の伝道に感化されクリスチャンになる。
信夫の意志力は仕事にもキリスト教の伝道にも発揮され、鉄道員にも入信者が増え始めたころ、不治とも思われたふじ子の病が完治した。
結納のため信夫は旭川から札幌への列車に乗った。しかし急勾配の塩狩峠で、客車は機関車から離れ逆走を始める。パニックの中祈るだけでは駄目だと思った信夫は単身車外のハンドブレーキを操作し、暴走する客車の速度を緩めることに成功する。しかし客車は完全には止まらず、すぐ先には再び急勾配が見えていた。この遅い速度ならば、自分の体で客車を止められないかと考える。
目に浮かぶ親族やふじ子の姿を振り払い、信夫は線路に飛び込む。信夫の体に乗り上げ、客車はゆっくりとその動きを止めたのだった。

ぶっっちゃけ長編だから全然まとまってないけど、この小説のテーマは「愛の限界」ではないかと思う。信夫は強固な自制心を持った人間であるからこそ、自らの思い通りにならない死や、性欲などに関し恐怖や違和感を持っていた。その恐怖を越えさせてくれたのがみずからを超えた存在への信仰であり、愛だったのかもしれない。
愛とは人間が他人を思いやる行為であると同時に、自分の権利を犠牲にする行為だ。キリストは全ての人の罪を背負い磔刑になり「汝の敵を愛せ」という言葉を残した。この極限とも言える愛の形をつねに念頭に置くことでキリスト教は自己犠牲としての愛をあがめているのだと思う。キリスト教のシンボルは十字架で、十字架は犠牲であると同時に愛なのかも。
作中には「神は愛なり」という言葉がよく出てくる。つまり、現実世界に存在する愛という行為を通して、人間は神を知ることになる、そういうことではないだろうか。だからイエスは死なずによみがえり、人々の心に生きるっていうことになってるのかも。ラブよりサクリファイズだね。大事なのは。
神学って難しいけど愛と信仰って紙一重なのかね。あ、でもちなみに僕はクリスチャンじゃないから、タスク。
作者の三浦綾子はクリスチャンであり、肺結核と脊椎カリエスで13年の闘病生活をしている。漱石にせよ志賀直哉にせよ太宰にせよ、作家の病や人生におけるターニングポイントが必ず作品に現出してくることを思うと、この塩狩峠は三浦綾子の渾身の作であるように思えてならない。
名作には名作と呼ばれる所以があるとおもった 
 
塩狩峠 感想4

 

まもなく小説『塩狩峠』50年。
 “人はいかに生きるか”が問いかけられる。
月刊誌「信徒の友」の連載開始から50年を迎えようとする小説『塩狩峠』。三浦綾子のデビュー作『氷点』と並んで、代表作の1つです。これまでの販売部数は約370万部(日本国内での売上数。これには電子書籍は含まない)。新潮文庫の「100冊」にも毎年選ばれ、今も変わらず読み継がれている名作です。
かくいう私も、三浦作品との出会いは、この本でした。まさか、北海道に移り住んで、しかも、この舞台であるまさに「塩狩峠」のすぐそばで生活することになるとは思ってもみませんでした。人生とは、不思議ですね。
先日、母がなにげに、「塩狩峠って、不思議な名前やね」とつぶやきました。ま、たしかに、聞き慣れない単語ですね。母も兵庫の出身ですから無理もありません。
塩狩の“塩”は、「天塩(てしお)」の塩。“狩”は、「石狩(いしかり)」の狩です。そう、「天塩国」と「石狩国」を分ける峠なのです。
JRの線名も、旭川までが「函館本線」であり、以北は「宗谷本線」となりますが、明らかに風土の異なる別の国となります。
石狩川は、大雪山系を水源地とし南下します。一方、天塩川は士別市と滝上町の天塩岳(北見山地)を水源地とし北上します。どちらも日本有数の大河ですね。
この小説の舞台は、ほぼ東京と札幌、そして旭川であり、塩狩峠自体はクライマックスに登場するだけです。けれども、この峠を境に、人々の人生が大きく変わることを思えば、作品の意味をこれだけ鮮やかにあらわすタイトルは、ほかにつけようがないかもしれません。
連日、人が殺される出来事が報道されています。テロ事件、殺人事件、交通事故などなど。なぜ、そうなってしまうのだろうかと、心がふさぐ思いです。『塩狩峠』の永野信夫は、“人を生かす”ことの難しさに直面し、一生の課題とします。『氷点』の陽子もそうですが、自らの生き方を問うだけでは、答えは容易に見つからないのですね。人を生かそうとするときに初めて、人は自らの存在を定義することができるのかもしれません。命というのは、関係性なのだとあらためて教えられます。
「文学は何ができるのか」という大きなテーマのようなものに、最近は頭の中が占拠されています。もちろん、私は文学者ではありませんから、基礎的な土台がなく、体系だった道筋を見つけられるわけもありません。しかしながら、文学館という場に属する者として、やはり考えざるを得ません。
その昔、教科書で出会った作品に『絵本』という小説があります。『豆腐屋の四季』で有名な松下竜一さんの作品ですが、印象に強く残っていて、この名前はずっと忘れませんでした。いつか読みたいと願っていて、20数年を経てようやく書店で探したところ、彼の作品は棚から消えていました。見つけたときに買っておかなければならないというルール(自分なりの)の大切さを思い知りましたが、後の祭りでした。※最近、別の方が教科書の名作を集めて本になさったようで、そちらで読むことができます。
文学作品のすべてに力があるのかというと、それはわかりませんが、しかし、人生において“出会う”といいますか、“出会わされる”ということがあるような気はします。生き方というところにまで昇華させることはできないにしても、物の見方、感じ方というアンテナの角度といえばいいのでしょうか、自分を作り上げる一つの領域として存在するような。
そういう力を信じるのであれば、やはりそれを伝えなければならない。経済的な事情や、社会的な力関係の弱さによって、土俵から外れ、忘却の波に押し流されてしまう、あるいは変質を強いられることに対して、それでよいのかと常に問い続けながら、抗いながら、伝え続けなければならない、そのように思います。というか、それは結局、“使命”として持たされるかどうか。
“たしかな言葉”を欲するときが、人にはきっとある。そのときに、それを差し出せるかどうか。差し出すということは、その言葉をもって生きているかどうかなんですよね。その言葉と関わり合って生きているかどうか。命を持っているかどうか。
これからの文学館というのは、これまでもそうだったのでしょうけれど、やっぱりそこが問われていくのだと思います。命があるかどうか。“たしかな言葉”を欲する人に、すっと差し出す場。教えるのではなく、押しつけるのでもなく、放り出すのでもなく、手のひらを開いて差し出す。
建物や施設が言葉を差し出すのではありません。やっぱり、人。人が人に差し出す。言葉に関わり合って生きている人が、“たしかな言葉”を欲する人に差し出す。かつては自分が“たしかな言葉”を欲する人だったからこそ、いや、今でも“たしかな言葉”を欲する人だからこそ、その心がわかる。そういう場でなければならない。そう思うのです。
文学館たらしめるものは何か、それは、“命のある言葉”ではないか、そこに立脚するかぎり、文学館は存在意義を失わないように思うのです。
長くなりました。では、また! 難波真実でした。 
 
塩狩峠 感想5

 

三浦綾子氏に捧ぐ
お久しぶりです。言い訳も無く、また何事も無かったように書き進める筆者をお赦し下さい…。
ということで、標題の三浦綾子さんについて、最近彼女の名前を(もう何回目か…に)聞き、その著作を初めて読んだ際の衝撃を、筆足らずな中でもお茶の間の皆さまにお伝えしたく。
凄いです。何がって、そりゃもおう、凄いのです。パワポのプレゼンのように、箇条書きだけの紹介では、全く役不足なのです。
後藤の三浦綾子歴は、まず草加神召教会リバーサイドチャペルで、友人O氏の娘さんが かの有名な「塩狩峠」を演ずるのを聞いたことから始まりました。そのスキット内で、娘さんはお一人で何役もこなされ、精力的な活動をしておられました。
しかも(折り悪く)その上演日、母教会では子ども祝福会で食事提供があり、その中で娘さん、少し緊張した面持ちでお手伝いしていたのです。(心ここにあらず)と言った様子…が印象的でした。そりゃそうだ。
そこで改めて三浦綾子氏の名前が刷り込まれたわけですが、その直後、偶然彼女の著作を2冊拾った(=ブックオフで購入した)のです。大人買いです。一冊は「ひかりと愛といのち」、もう一冊は牧師 榎本保郎の人生を描いた「ちいろば先生物語」でした。
ここで告白せねばなりませんが、それまでの私の三浦綾子観は(非常に冷ややかなもの)でした。上記 塩狩峠のあらすじを聞いただけで、「列車を止めることは物理的に不可能」と裁いてしまい、そんな作品を書いた筆者を、荒唐無稽のおとぎ話作家と決め付けていたのです(しかし「塩狩峠」は、上記リンクでもご覧になれる通り、実話を元にされています。)
そんな偏見から入ったわけですから、「ちいろば」を読み始めてから、その時代背景の重厚さと緻密さ、つまり三浦氏の調査の量と質に圧倒されたわけです。主役である榎本氏の、生まれの地・淡路島の三原郡の原景。当時の学生の生活の様子、風俗。太平洋戦争に本格的に突入したときの、若者たちの心情や、周囲の環境。満州領内での榎本氏の活動の一つ一つが、あたかも実際に目で見、耳で聞いた如くに描き出されているのです。この深みは、歴史の表面をなでただけの調査では、決して埋まるものではありません。
この話は、1925年に生まれ、戦中戦後の日本を行き抜きながら、持ち前の情熱と信仰で開拓伝道をされた、榎本保郎牧師の人生を描ききった物です。軍国主義体制の日本で、祖国のため、天皇のためと教え込まれ、盲信のまま自身教鞭を振るって子どもたちに誤った思想を与えてしまった後悔や、8月15日に敵地深くで敗戦の玉音放送を聞いた後の、価値観/人生観の喪失・荒廃を経て、主イエス・キリストに救いを見出した喜び、その信仰の道をダイナミックに歩まれていく彼の人生が描かれています。
榎本氏は、作中の人物として存在しながらも、あたかも私が彼の傍にいて、その人生をともに歩んだかのような印象を受ける―――そんな偉大な作品でした。
以前、塾講師として、歴史を学ぶ機会が与えられ、年表にある以上の情報を持たねばならなかった。それ故に読み込んだ軍国日本 近代史が、この作品を読むことで「現場レベル」で砥がれたことは言うまでもありません。
その中から、幾つかの場面・登場人物のことばに触れたいと思います。少しでもエッセンスが伝わればと希望を託して。
クリスチャンとしてその信仰の道を貫いた友人・奥村氏が、未だ八百万の神々を祀っていた榎本氏に、こう言います。ちょうど二人が満州領内の別々の戦地に、その最前線に送り出される前の話です。
「奥山もごろりと横になって、
『あのな榎本、親鸞上人がな、<己がよくて人殺しをせぬにあらず>とか言わはっとるんや。分かるか?』
『己がよくて人殺しをせぬにあらず?なんやそれ?』
『これはな、つまり、今まで自分が人殺しもしないで生きて来られたんは、自分が良い人間だからというわけではない、そういう立場に立たんかっただけや、ということやないかな。』
『ふーん、つまり、一旦そんな状況に遭遇すれば、人殺しをしたかもしれへんということか。』
『そうや。そのとおりや。みんな人殺しの可能性があるいうことや。<己がよくて強姦せずにあらず><己がよくて盗まぬにあらず>ともいえるわな。』」
義人はいない。一人もいない。その真理の一端を、榎本青年が受け取っていくひとコマです。
榎本氏が同志社大学の神学部に入学し、半就学半宣教に走り回っていた頃。子どもたちの為に日曜学校を開いて、分かり易く神さまとその御国について説明されています。
「『先生!うちはなぁ、神さまってきらいなんや』
『何でや!?何できらいなんや』
保郎は目を丸くして見せた。
『何できらいなんや』小さな子が保郎の口真似をした。みんながどっと笑った。女の子は笑いもせずに、
『そうかて先生、神さまってばちを当てはるやろ。うちのお父さんもお母ちゃんも、何か言うたら、神さまのばちが当たる、神さまのばちで目が見えんようになるって、言わはるもん。うち、神さま嫌いや』
(中略)
『ほなら先生、人殺しをしてもばちを当てはらへんのどすか』
『そうや、人殺しは悪い悪いことやけどな、神さま、ごめんなさい、もう悪いことしまへん言うたら、よろし、ゆるしたると言わはる神さまや』
みんながまた、へぇーと声を上げ、件の女の子が言った。
『ほんまどすか?ほんまにそんな神さまいやはるんなら、うち、その神さまの話聞きたいわ』
子どもたちが、『聞きたいわ』『聞きたいわ』と声を合わせ、保郎の顔を見つめた。
聖燈社(キリスト教系出版社)の仲綽彦(のぶひこ)氏が、榎本氏に半生を振り返って出版されたらどうか、と話したときのこと。
「『商売根性で言うんやないけど、先生の話、本にしたらおもしろいやろなあ』と言った。
『本?僕の話など、本になどなるかいな』
保郎は本気にしなかった。世辞だと思った。
『なります、なります。先生はいわゆる失敗談ばかり語らはったやろ。僕は、キリスト信者いう者は、自慢話をするもんやないと思っています。僕の経験によると、失敗談を語る先生はみな本物ですのや』
仲綽彦は真っ直ぐに保郎を見て言った。失敗談を語った保郎としては、相槌の打ちようがない。
『先生を前にして何やけど、失敗談を語るような人にしか、神はほんまの姿を現さんのと違うやろか。一生懸命に祈って、信者に肥をかけられたり、何度も詐欺に遭うたりしていたら、何と間抜けな奴やと、神さまは手を貸さずにはいられなくなる、そういうもんやと僕は思う』」
このように、作品中のいたるところに散りばめられた、信仰への導きのことば。一人の人間の視線を、人生を通して、私たちに語られる、神の御愛の恵み。…
病魔に冒され、人生の過半を病床で過ごされた三浦綾子氏。その遺作たちは、今も尚輝いています。
それは、神の与えてくれた光を、一作一作が湛えているからでしょうか。 
 
塩狩峠 感想6

 

「塩狩峠」へ
どうしても塩狩峠を通ってみたいと真剣に思うようになった。小説『塩狩峠』を読んだからだ。クリスチャンである三浦綾子さんのこの小説は、長野政雄という実在の鉄道員をモデルに書かれたものである。北海道天塩(てしお)の国と石狩の国の国境にある塩狩峠は天塩川水系と石狩川水系の分水界上でもある。ここを列車が走る時は、前後に機関車がつかなければならないほどの急勾配なのだ。
明治四十二年二月二十八日、この峠の急勾配を走行中、列車の連結器が突然はずれ暴走した。それを止めるため長野政雄は自ら線路上に身を投じて多くの乗客の命を救った。小説の中の主人公永野信夫はこの長野政雄という実在の人物を原型としているという。そして信夫はこの日、自身の結納のために妻となる吉川ふじ子の家に行く途中だったのだ。
死んでしまった信夫はどんなことがあっても戻らない。ふじ子の悲しみ、信夫の無念さを思う時私の心は大きくゆさぶられ、どうしてもその峠を通ってみたいと思い続けていた。
そんな時、定年退職後毎日好きな絵を描いていた夫が「北海道の利尻、礼文の島へ行ってみないか。花がきれいだし、いい風景に出会えるらしいよ」と言い出した。思いがけない誘いだった。もう二十年ほど昔のことである。「行く、行く、プランは私が立てるから」と心が弾んだ。
五月末のよく晴れた日、一度乗ってみたいと思っていた北斗星で私と夫は上野駅を出発し、札幌で特急宗谷に乗り継ぎ旭川から宗谷本線に入った。
いよいよ塩狩峠を通ることができる。現地の様子が全くわからないまま、私はゴミにならないように、自然にかえるようにと考えて小さな花束を用意した。信夫の妻になるはずだったふじ子が、殉職した信夫に捧げる雪柳を線路上に置いて泣き伏す場面があるが、その心情が切なくて、私は庭にある散りかけた雪柳の枝を二、三本花束の中に加えた。しおれないように大切に、ぬれた新聞紙に包んで旅行カバンの中にしのばせた。
札幌を出て間もなく私は、二輌ほど後へ戻った所にある車掌室へ向かった。車内はどこも乗客は少なく静かだった。私は、『塩狩峠』という小説を読んで感動したこと、この特急電車は塩狩駅を通過してしまうので、窓から小さなお花をあげたいのだけれどだめでしょうかと車掌さんにたずねた。五十歳前後と見える優しそうなEさんというその車掌さんは「ここへ来てこの車掌室の窓から献花していいですよ。ホームのはずれに碑があるから」と柔和な笑顔を向けた。「ありがとうございます、私の座席からでもできそうですから」とお礼を言う私に、「蘭留(らんる)の次が塩狩駅ですから通過する駅も見逃さないように気をつけてくださいね」とEさんの話は続く。「事故のあった場所は小説が出てから一層関心が持たれるようになった。長野政雄の死は鉄道員としての責任感からきたもので、これまで長く語り継がれてきた。我々鉄道員の誇りなんですよ。そこへ花を捧げに来てくれる人がいるなんて嬉しいことです。ありがとうございます」と逆にお礼を言われ、こちらも大いに感激したのだった。話している間、特急はどこへも止まらず順調に走り続けた。そしてこの車掌さんは、話をしながらも、絶えず窓外や室内のあちこちに目を配り片時も緊張をゆるめることはなかった。私は職務の邪魔にならないよう厚くお礼を述べて席へ戻った。
旭川を過ぎてから夫と二人ずっと窓外を見続けたが、蘭留までそう遠くはなかった。その駅を過ぎると山間部に入り、小説にある通り七曲りのような、しかも急勾配を登り出した。両側には樹林が迫っていて暗く、何とも言えぬ圧迫感がある。あの時代の列車なら、この勾配、このカーブは人間が走るくらいの速度だったかも知れない。下りでブレーキがきかなくなったとしたら一体どうなるだろう。想像するだけでも恐ろしくなる。
峠が近くなって突然思いもかけず車内のスピーカーが声をあげた。「間もなく塩狩峠です。塩狩駅は通過しますが、かつて我が身を犠牲にして多くの乗客の命を救った鉄道員の碑があります」。あの車掌さんの声だ。そして列車は今にも止まるかと思うほど速度を落とし静かにホームを通過した。「塩狩峠」と書かれた標識とその奥に横長の碑が見えた。夫が上まで開いてくれた窓から私は碑の端の土の上目がけて小さな花束を捧げた。ほんの少し雪柳の白い花びらが風に舞ったように見えた。ふじ子が雪の上にうつ伏して泣いているような錯覚におそわれた。いつの間にか列車はスピードをあげ、何事もなかったかのように北へ向かって走り続けていた。 
 
塩狩峠 感想7

 

「塩狩峠」を読む
1 始めに
前回から、読書が嫌いだった私が、どのようにして読書を楽しみ、現在の研究活動にまで活かすことができるようになったのか、「男読み」という概念を生み出し、読書術を構築してきたプロセスについて詳述している。今回は、三浦綾子の長編小説『塩狩峠』を「男読み」しながら、自己の男性性と暴力性について記述する。
『塩狩峠』を読んだきっかけは、中学校2 年生の夏休み、担任の女性教師に勧められたことであった。
この本は、実在した長野政雄の自伝を小説化した内容である。ざっと要約すれば以下のような内容である。
時代は明治の中期で、キリスト教を「耶蘇」と言って忌み嫌われていた時代である。主人公の長野信夫は、東京の本郷で生を受ける。小学生時代まで、父方の祖母と父の3 人で暮らしていた。その暮らしの中で、信夫は祖母のトセから「お前の母はお前を産んで2 時間で死んだ」と聞かされて育つ。しかし、祖母の死後、死んだと聞かされていた母が、突然自分の前に現れる。そこで彼は、母がキリスト信者であったことを理由に、彼の出生時、祖母が母を長野家から追い出したことが分かり、ショックを受ける。祖母の死後、信夫は両親と彼の知らない間に生まれた妹と暮らすが、どうしてもキリスト信者である母になじむことができずにもんもんとしながら、キリスト教への入信はありえないことを公言する。
小学校時代の親友との別れ、性への目覚めを経験し、20 歳を過ぎて小学校時代に分かれた親友と再会する。そこで、親友の妹に恋をするが、肺病とカリエスで寝たきりの状態であることが分かり、親友の住む北海道に引っ越し、一人暮らしをする。しばらくして、あれほど嫌がっていたキリスト教に入信し、キリスト教青年会などで活躍する。親友の妹の結婚が決まったその日、塩狩峠で鉄道事故が起こり、鉄道職員として乗務していた信夫は、線路に飛び込み、殉職した。
この小説でもっとも共感したのが、事項で詳述するように、小学生時代まで祖母と暮らしていたこと、その暮らしの中での男性性の刷り込み体験、そして、あれほど嫌がっていたキリスト教への入信を前に、聖書の言葉との激しい葛藤の場面である。
2 男の子が女の先生を思うのは「恥」ではないのか
前項で要約したように、主人公の信夫の出生時、祖母は、彼の母親をキリスト教信者であることを理由に、長野家から追い出した。彼は小学生時代まで、祖母と父の3 人暮らしの環境の中で育つ。
秋も終わりの日曜日、信夫は父に小学校1 年生のときに担任だった根本芳子先生が退職し、お嫁に行ってしまうことを、つまらなそうに話していた。そこに、縫い物をしていた
祖母が、「それはおめでたい話じゃありませんか」と言って、2 人の話に割り込んだ。根本先生が好きだった彼は、祖母の言葉に「おめでたくなんかない」と反発した。その様子に、祖母は彼のそのような口調を戒めながら、他の学年の先生が退職することと、彼とは何の関係があるのかとたしなめる。そして、「そんな女の先生のことなど、男の子は考えるものではありませんよ」という祖母の言葉が、彼をなんとなく不快にさせ、(なんで女の先生のことを男の子が考えたら悪いんだろう)という疑問を持たせる。
そんな彼の様子に、「お母様、先生を慕うことはよいことではありませんか」と助け舟を出したのは父だった。母親のいない彼が女の先生を慕う哀れさ、祖母では母親の代わりにはならないという父の思いがその言葉にこめられている。にも関わらず、祖母は父の言葉に、「男の子が女の先生を思うなんて、女々しい恥ずかしいことですよ」と一蹴する(三浦,1972 pp22-24)。
私の祖母も、この作品に登場する主人公の祖母とまったく同じ考えの人であり、私自身も小学校の3 年生くらいまで、信夫と同じような環境で育った。だから、この場面は人事とは思えないほどの共通点が多かった。
しかし、彼との相違点は次のようなことである。たとえば私は、祖母から「女やったらくよくよ考えるもんやない、まして好きになった男の子のことなんて」というフレーズの「女やったら、、、」というフレーズを、「男やったら、、、」とわざわざ代入した上で、女性性の高い男性に対する恋愛感情を口に出すことを禁じていた。また、この作品に登場する彼とは異なり、父との関係性も決してよいとはいえなかったので、たとえ誰かを好きになっても、それを誰にも言うことはなかった。そのような積み重ねが、誰かを好きになることを「恥」とし、まして、男の子が女の子のことを思うことを「女々しい」という心性を構築したといえるだろう。それに加えて私の場合、FTM トランスジェンダーという事情から、当時の自己の女性への身体変容を否定すべく、更に女性を異質な存在とみなした上で、女性を好きになる心性を初めから持ち合わせていなかったことが、ますます女性に対する恋愛感情を「女々しいもの」として意味づけていったことも事実である。
したがって私は、この場面では、祖母の信夫に対する厳しいまでの接し方を擁護し、信夫に対しては、男の子であることを理由に、恋愛感情を淫らに口にするものではない、という厳しい見解を示していた。
3 聖書の言葉から浮かび上がってきた自己の暴力性
次に、信夫が小学校時代に分かれた親友と再会し、その親友の妹に恋をするが、肺病とカリエスで寝たきりの状態であることを知り、東京から親友の住む北海道に引っ越し、一人暮らしをしていたときの場面である。
23 歳を過ぎたある日、信夫が北海道の一人住まいの借家で、妹の夫から送られた聖書を手にとって読んでいた。つまらないと思っていた聖書の中に、次のような成句が信夫の目を釘付けにした。「悪しきものに抵向かうな。人、もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。
汝を訴えて、下着を取らんとするものには、上着をも取らせよ」この成句に、彼は、子どものころに教えられた祖母のトセからの言葉を重ね合わせる。「信夫。男の子というものは、一つ殴られたら二つ殴り返すものですよ。三つ殴られたら六つ殴ってやるのです。それでなければ男とはいえません」って。彼は、この2 つの言葉の間でシミュレーションしながら、「果たしてどちらの自分になりたいか」と自問自答している場面である(三浦, 1972pp296-297)。
聖書の言葉の口語訳は以下である。
悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して、下着を取ろうとするものには、上着もやりなさい。(新約聖書、マタイの福音書、5 章39-40 節)
この場面で私は初めて「主体的な録音図書の『男読み』」を実践した。つまり、信夫の自問自答している場面は、そのまま私の自問自答にも繋がり、「殴られることより、殴り返さないことの方が『男らしい』のか」という共通した自問自答をしていたことに気づかされた。
ここで、父との関係性が浮かび上がってくる。当時の私は、父から殴られると、自らも殴り返していた。また、父から物を投げられたりすると、自らも父に食事を投げて応戦していた。つまり、「目には目を、歯には歯を」というように、やられたらやり返すことが、「男らしい」と信じて疑わなかった。そこには、「お父さん、なんで私を殴るのか」などの言葉は不要、といわんばかりに、殴りあったり、物を投げつけあったりしている最中は、言葉をさしはさむ予知は与えられていなかった。たとえ、言葉があったとしても、それは互いに攻撃し合う手段としての言葉でしかなかった。つまり、「男は、ものの「言い方」ではなく、「言った内容」ですべてが決まる」という荒っぽさだけが際立っていた。
このような父との関係性から、聖書を否定し、主人公の祖母の教えに同意した。すなわち、「男だったらやられたらやり返すのが当然」という、当に、仕返しが可能かどうかで男性性の有無が決まるというごく単純な根拠に基づいた結論を出したことで、自己の暴力性が浮かび上がってきた。(確かに聖書は正しいことを言っているだろう。しかし現実は、そんな綺麗事ではすまない。「殴られること」より、「殴り返さないこと」の方が「男らしい」という一面はあるのかもしれないが、少なくとも、FTM トランスジェンダーの私に、そんな悠長な考え方は通用しないだろう)
4 終わりに
現在でも時々、『塩狩峠』を再読することがある。本稿では言及しなかった部分で、自己の男性性や暴力性に関して考えさせられる場面は多々ある。しかし、前項で詳述した聖書の言葉から浮かび上がってきた自己の暴力性に関しては、現在でも大きな課題となっている。 
 
塩狩峠 感想8  
「塩狩峠の主人公28歳の長野政雄」の遺書
2月1日に新しい信仰の糧「マナ」を開きました。今年から初めのページを飾っているのは「この人。この転機」というタイトルです。1月は戦争混血児の命を守る使命にその生涯を捧げた沢田美喜さんでした。このブログに取り上げさせていただきました。2回目はクリスチャン作家として知られ、「氷点」でおなじみの三浦綾子さんの「塩狩峠」の主人公となった長野政雄氏が取り上げられていました。塩狩峠は多くの人々に読まれ、映画化され、若い世代の人気ミュージシャン椎名林檎さんが「絶対おすすめ!『塩狩峠』」と言っているのも手伝ってか、いまだにこの本は人気があるそうです。ストーリーは雪深い2月の塩狩峠で、列車がブレーキがきかなくなり、止暴走する列車に身を投げた主人公の28歳の長野政雄さんが、自分の命を車輪の下敷きにして乗客の命を救ったという実話にもとづく小説です。
長野政雄さんはいつも「遺書」を携帯していたそうです。その遺書は新年毎に書き換えられていました。その中には「余は感謝してすべてを神に献ぐ。…余は諸兄姉が余の永眠によりて天父に近づき、感謝の真義を味わわれんことを祈る。」(抜粋)としたためられていたそうですが、真に自分の死を覚悟したものと思え、毎年このような気持ちで生活されていたのかと感動を覚えたことでした。長野氏の中には、れっきとした武士の血が流れていると紹介されていました。長野家は尾張徳川家の教育家老として7百石を得ていたそうです。明治になったとはいえ、長男であった彼は武士道精神で育てられたと思います。そして、時代はキリスタン禁制が解かれて間もなく彼は誕生しています。彼は耶蘇は邪教と教えられて育つのですが、友人の熱心な伝道により、その反論の材料を探すため聖書を読み始めたそうです。そして、ついに17歳の時にイエス・キリストを信じクリスチャンとなったのです。
当時の北海道旭川教会はあばら家で入るにも躊躇した教会だったそうですが、彼は「この教会で自分を磨き、人間として根をはり、人間として悔いのない人生を送りたい」と、誠実に全ての集会をまもり、熱く燃え、嬉々として教会学校や伝道に奔走し、祈りの人となり、愛の実践者となるため励んだとのことです。彼は坂本竜馬の甥に当たるキリスト教の牧師であった坂本直寛牧師やピアソン宣教師ともに活動したそうです。そして、28歳の若さで自分の命を挺して多くの人々の命を救ったのでした。私たち夫婦は一昨年にこの塩狩峠と旭川教会に訪れました。彼の殉教の場所に立ち、その崇高な生き方に心から敬意をもって帰ったことでした。
聖書は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と書いてあり、神様が私たちのためにご自分のひとり子の命を提供されたことを教えています。そして、更に「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって愛がわかったのです。」と言って、キリストの殉教の愛を説明しています。また、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛をだれも持っていません。」と言って人間の持つ最大の愛を語っています。神様が私たちを愛いされました。そしてキリスト様も私たちのために死なれました。私たちは本当の愛とは何かを知ったのです。その愛を神と人のために使い尽くし、誰かのために死を覚悟したいと思っています。一日に祝福を祈りつつ。 
 
塩狩峠 感想9  
小説「塩狩峠」の事故の状況
「塩狩峠の区間に差し掛かった旅客列車の客車最後尾の連結器が外れて客車が暴走しかけたところ、当時鉄道院(国鉄の前身)職員でありキリスト教徒であった長野政雄という人物が列車に身を投げ、客車の下敷きとなり乗客の命が救われたという事故」
長野政雄氏の部下であった藤原永吉氏の証言は、教文館から出ている、宮嶋裕子著『神さまに用いられた人 三浦綾子』にも記載されています。ちなみに原宿テルマは私です。私は、以下のお二人の回答には満足していません。私は塩狩峠の小説は美談であると思っています。三浦綾子さんは著書の『光あるうちに』の中で、この塩狩峠の主人公のモデルである長野政雄氏が自ら線路に飛び降りて、小説の永野信夫と同様の自己犠牲の死を遂げたと断定的に書いておられるが、その客観的根拠についてはまったく疑問です。そして同じく、この本の中で三浦綾子さんが、自己犠牲の死を遂げたと断定的に言っておられる『氷点』に登場する宣教師のモデルのストーン宣教師およびリーバー宣教師は、小説のように自分の救命具を他の乗客にゆずって犠牲の死を遂げたなどという事実はなかったことが最近、生き残った別の宣教師の証言から明らかになりました。ですから三浦さんは、長野さんの場合も確たる証拠もないのに、美しき自己犠牲の英雄に祀り上げておられるのだと思います。あくまでも科学的に検証されなければ、そのような小説家によって創作された美談に惑わされて真実を歪曲してはならないと思うのです。
疑問
小説『塩狩峠』の主人公、永野信夫のモデルとなった長野政雄さんに関する質問です。この小説が書かれるための資料になったという藤原永吉氏の「僕の見た長野政雄兄」という証言によれば、長野さんは永野信夫のように自ら線路に身を投げて亡くなったのではなく、「ハンドブレーキの反動により身体の重心を失いデッキの床上の氷に足を滑したのであろう、兄はもんどり打って線路上へ真逆様に転落し、そこへ乗りかかってきた客車の下敷きとなり、その為客車は完全に停止して乗客全員無事を得たるも兄は哀れ犠牲の死を遂げられた」とされています。確かに長野さんの死は「犠牲の死」と言うべきものかも知れません。たとえ自ら身を投げたのではなくても、危険を冒してデッキのハンドブレーキを引いた行動だけで、十分、尊敬にあたいするものだと思います。しかし、永野信夫と長野政雄さんとが混同されてしまったという可能性はないのでしょうか?そして美談とされてしまったという可能性はないのでしょうか?もし、美談とされたのなら、それは長野さんの厳粛な死を本当の意味で悼むことになるのでしょうか?犠牲の死はけっして美徳として奨励されるべきことではないと思います。それとも、永野信夫のように長野さんが自発的に身を投げたと言い切れるだけの証言があるのでしょうか?あるなら教えて下さい。そもそも、一個の身体を敷いて止まる程度の徐行速度であったなら、客車のドアでも窓でも開けて、乗客は外に脱出できたはずだし、そうすべきだったと思うのですが。どなたかお答え願います。
回答 1
三浦綾子さんも述べているように、事件の真相には諸説があるようです。事故説もあれば、常に遺書を携帯していたという日常から、彼は覚悟の上の行動であったという説、飛び降りる前に目配せをしていた姿を見たという乗客の説。綾子さんはその中から「誰が、その人の隣人になったと思うか」というイエスの問いかけをテーマに選び、小説としました。事件の状況は彼女が書いているように「今の速度なら止められる」だったのかもしれません。しかしながら、今となっては真相を詮索してもはじまらないのではないでしょうか。連結器が外れた車両、パニックに陥った乗客、そこに信仰に燃えたキリスト者の国鉄マンがいて事故を回避しようと努力をし、結果として車両が止まり乗客は助かり、国鉄マンは殉職した。この事実だけは変えられないのですから。その後、彼に倣って多くの同僚や地域の人がキリスト者になったと聞きます。また、当時の軍国主義高揚の中でこの話を美談に作り上げ、勘違いの方向に国民を導いていこうとした思惑もあったかもしれません。そのような話はこの事件に限らず数限りなくあったことです。人を助けるために身を挺し、結果として死を招いた行為はいつの時代にもあります。線路に落ちた人を助けようとしてはねられた事件、最近では川に流された親子を救おうとして自分も流され、命を落とした人がいましたね。こうした一瞬に自分の命を顧みず、身を挺する人がいる。この事実こそ重いものはないでしょう。見ず知らずの人が困っている時に、集団で見殺しにしたというニュースには事欠きませんが、その反対に、人にはその選びができるということがあるのです。私には、神がいて何事かをされるとしたら、その時がそうなのだと思わざるを得ません。
回答 2
私も、原宿テルマさんと同様に「塩狩峠」を読んで、大変感動したものです。藤原永吉さんの手記の件については、文庫本の塩狩峠の解説でも触れられていたように思います。手元に何の資料もないまま、この文章を書いていますので、不正確なところや私の認識に誤りがあるかもしれませんが、その点はご容赦ください。私は長野政雄さんの死は「犠牲の死」であったろうと考えています。その理由は二つあります。一つは時代的、国家的背景で、もう一つは逆説的になりますが、当時の明治国家が長野さんの死を犠牲的な死として英雄視していないことにあります。私の本から得た乏しい知識や経験からいえば、明治憲法下の日本は大変行政権の強い国家でした。一応、天皇のもと、帝国議会、内閣、大審院の三権分立の形式を取っていましたが、現在の最高裁判所と違い、大審院には違憲立法審査権もありませんでしたし、裁判官の人事権も大審院ではなく、最終的には内閣の司法省(現在の法務省)に握られており、確か、給料の点でも司法官より行政官の方が優遇されていたはずです。そして、国相手の行政訴訟は行政裁判所という特別な裁判所が担当していて、勝訴する確率も現在に比較してさえ大変低かった時代です。つまり、国の行うことには誤りがないと国民全体に思わせたいという時代でした。鉄道は、鉄道省という組織があったことからも分かるように、極めて重要な国策を担う部門でした。その鉄道で事故があり、しかも、ハンドブレーキでも坂道を止めることができないような構造的問題があったため、一人が犠牲となり、それによって多くの乗客の命が救われたなどということは国として認めることができない時代であったと思われます。それは、主権在民、公務員は国民全体の奉仕者であることが明確に定められている現憲法下であっても、薬害エイズ、薬害肝炎のような問題が生じることからも想像できるように(行政が自らの過ちを認めることをしないように)、現憲法以上に行政権の強かった明治憲法国家では到底期待できないことでしょう。そのような時代的背景、国家的背景がある中で、鉄道の構造的問題を示唆するようなことをしないように、藤原さんに有形、無形の圧力があったり、感じたりしても仕方ないことでしょう。そのため、藤原さんの手記が微妙なものとなったとしても仕方ないことだと思います。そして、さきほど述べた鉄道の構造的問題がなければ、仮に、長野さんの死が犠牲の死ではなく、事故死であったとしても、英雄的な犠牲の死として国はこれを大々的に宣伝し、教科書にも載せたのではないでしょうか。長野さんの死を英雄的な犠牲として国が宣伝しなかったのに、地元では「犠牲の死」と考えられていたことが、事情をよく知る人たちには「犠牲の死」と考えられる根拠があったことを示すものだと思います。一人の死で止められるような速度なら、乗客が降りたらよいということはいえるかもしれませんが、客車が坂道を降りていけば段々加速して乗客全員が降りられなくなる可能性があったのではないでしょうか。そのため、長野さんは一身を犠牲にしたのだろうと思います。原宿テルマさんの疑問への明確な回答になっているか疑問もありますが、現在、私の考えていることです。」以上、御参考まで。 
 
 
■三浦綾子

 

三浦綾子
日本の女性作家(1922-1999)。北海道旭川市出身。旧姓堀田。結核の闘病中に洗礼を受けた後、創作に専念する。故郷である北海道旭川市に三浦綾子記念文学館がある。
1922年4月25日(大正11年)に堀田鉄治とキサの第五子として北海道旭川市に生まれる。両親と九人兄弟姉妹と共に生活した。1935年に妹の陽子が夭逝する。1939年、旭川市立高等女学校卒業。その後歌志内町・旭川市で7年間小学校教員を勤めたが、終戦によりそれまでの国家のあり方や、自らも関わった軍国主義教育に疑問を抱き、1946年に退職。この頃肺結核を発病する。1948年、北大医学部を結核で休学中の幼なじみ、前川正に再会し、文通を開始。前川は敬虔なクリスチャンであり、三浦に多大な影響を与えた。1952年に結核の闘病中に小野村林蔵牧師より洗礼を受ける。1954年、前川死去。1959年に旭川営林局勤務の三浦光世と結婚。光世は後に、綾子の創作の口述筆記に専念する。
1961年、『主婦の友』募集の第1回「婦人の書いた実話」に「林田律子」名義で『太陽は再び没せず』を投稿し入選。翌年、『主婦の友』新年号に「愛の記録」入選作として掲載される。
1963年、朝日新聞社による大阪本社創刊85年・東京本社75周年記念の1000万円(当時の1000万円は莫大な金額であった)懸賞小説公募に、小説『氷点』を投稿。これに入選し、1964年12月9日より朝日新聞朝刊に『氷点』の連載を開始する。この『氷点』は、1966年に朝日新聞社より出版され、71万部の売り上げを記録。大ベストセラーとなり、1966年には映画化された(監督:山本薩夫、出演:若尾文子)。 また数度にわたりラジオドラマ・テレビドラマ化されている。 ちなみに、日本テレビ系番組『笑点』は、このころベストセラーであった『氷点』から題名を取ったと言われる。
1996年、北海道文化賞受賞。
結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら、1999年10月12日に多臓器不全により77歳で亡くなるまでクリスチャン(プロテスタント)としての信仰に根ざした著作を次々と発表。クリスチャン作家、音楽家の多くが彼女の影響を受けている(例えば、横山未来子、椎名林檎など)。
2014年、彼女の名にちなんだ三浦綾子文学賞が設立された(1回のみ)。
2014年10月に三浦光世が死去し、その遺言により夫妻が生活していた自宅は三浦綾子記念文化財団に寄贈された。2016年2月、三浦綾子記念文化財団は三浦家家屋検討委員会を設置して自宅の保存と活用を協議したが、現地保存は維持管理や費用面から難しく、全面移築にも多額の費用がかかるため、書斎などを三浦綾子記念文学館に移築して保存することとなった。 
 
三浦綾子の名言集

 

九つまで満ち足りていて、十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、人間はまずその不満を真っ先に口からだし、文句をいいつづけるものなのだ。自分を顧みてつくづくそう思う。なぜわたしたちは不満を後まわしにし、感謝すべきことを先に言わないのだろう。
私たちは、毎日生きています。誰かの人生を生きているわけではないのです。自分の人生を生きているのです。きょうの一日は、あってもなくてもいいという一日ではないのです。もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、きょうという一日がどんなに貴重かわからない。
ちょっとした一言を言うか、言わぬかが、その人、その家の幸、不幸の岐れ路になることが案外多い。一言の言葉は五秒とかからぬものだ。お互い、言うべきときに言える素直さと、謙遜さを与えられたいものである。
ほんとうに自分の行為に責任をもつことができる人だけが、心から「ごめんなさい」と言えるのではないだろうか。「ごめんなさいね」なんと美しく、謙虚で、素直な言葉だろう。
言葉を交わすことによって私たちは、勇気づけられ、慰められ、喜びを与えられます。と、同時に、人を傷つけ、見下すという愚かな過失も犯します。言葉は人間の運命をも変えるほど大きなものです。
秀れた人間というのは、他の人間が、愚かには見えぬ人間のことだろう。
今日という日には、誰もが素人。
やれるかも知れない、と思った時、自分でも気づかなかった力が出てくるものなのだ。初めから、できないと言えば、出来ずに終わる。
苦難の中でこそ、人は豊かになれる。
人間てね、その時その時で、自分でも思いがけないような人間に、変わってしまうことがあるものですよ。
片目をつむるというのは、見て見ないふりじゃなく、つむっている片目では、自分の心の姿も見るといいのね。
少なくとも、人間たる者は、医者になるとか、政治家になるとかいう目標よりも、どんな生き方の医者になりたいとか、どんな生きかたの政治家になりたいかを、問題にすべきではないだろうか。
長い間その人を慰め、励まし、絶望から立ち上がらせる言葉を、胸にたくさん蓄えておかねばならない。一生涯使っても、使い切れぬほどたくさんに。
人間は弱い者である。たとえ幾多の才があっても、大きな意欲があっても、「ダメな奴」と言われればたちまちしぼんでしまう。逆に、才がなくても気力がなくても、相手の一言によって生きる力を与えられる。
何十億の人に、かけがえのない存在だと、言ってもらわなくてもいいのだ。それはたった一人からでいい。「あなたは、わたしにとって、なくてはならない存在なのだ」と言われたら、もうそれだけで喜んで生きていけるのではないだろうか。
今までふり返ってみて、大きな不幸と思われることが、実は大切な人生の曲がり角であったと、思われてならない。
つまずくのは、恥ずかしいことじゃない。立ち上がらないことが、恥ずかしい。
夫婦関係でも、嫁姑の関係でも、労使関係でも、友人関係でも、相手は人間である。この相手を知り、自分を知ることが、人との関係を保つ基本ではないか。
人生というものはすべて、待つ間に熟して行く。
人生における病気、失恋、浪人、破産などのさまざまの失敗も、それにうちひしがれては単なる失敗で終わる。世界一のホームラン王は、失敗もまた他の人より多かった。失敗を恐れて何もしない人間こそ、全生涯が失敗となる。
思い立って、すぐ実行に移す人間は、必ずしも実行力があるとはいえないのだそうである。むしろ意志薄弱で、自己抑制がきかないのだという。行動力があるなどといわれて、いささかうぬぼれていたわたしは、実は意志薄弱型の人間なのだと、思い知らされたのである。本当の実行力とは、一つのことをなすに当たって、綿密な計画と、周到な準備をもってなされるものでなければならない。わたしなどのやることは、行動というより、たんなる思いつきに過ぎない。いや、わがままと言ってもいい。
困難の中でこそ、人は豊かなのです。 
 
作品

 

道ありき
三浦文学をこのコーナーでは順に紹介させていただきますが、三浦文学を読むために必読の書がここでご紹介する「道ありき」です。この本は三浦綾子の自伝で、それ以前の教師時代の話も含まれていますが、その中心は24歳から37歳までの彼女自身の人生が赤裸々に描写されています。これから様々な書をこのコーナーでご紹介させていただきますが、すべての書がこの書を土台として書かれていることをまずは覚えておいて下さい。
さて、この書で必ず知っておかなければならない重要人物は、前川正と三浦光世の二人ですが、以下に多くの人々が感動したこのお二人の言葉を書き記しておきます。
「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たかわかりませんよ。綾ちゃんが生きるためになら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ち付けてやるのです。」(前川正)
「綾ちゃん お互いに、精一杯の誠実な友情で交わって来れたことを、心から感謝します。綾ちゃんは真の意味で私の最初の人であり、最後の人でした。綾ちゃん、綾ちゃんは私が死んでも、生きることを止めることも、消極的になることもないと確かに約束して下さいましたよ。万一、この約束に対し不誠実であれば、私の綾ちゃんは私の見込み違いだったわけです。そんな綾ちゃんではありませんね!一度申したこと、繰返すことは控えてましたが、決して私は綾ちゃんの最後の人であることを願わなかったこと、このことが今改めて、申述べたいことです。生きるということは苦しく、又、謎に満ちています。妙な約束に縛られて不自然な綾ちゃんになっては一番悲しいことです。」(前川正)
「神様、わたしの命を堀田さんに上げてもよろしいですから、どうかなおしてあげてください。」(三浦光世)
「ぼくの気持ちは単なるヒロイズムや、一時的な同情ではないつもりです。美しい人なら職場にも教会にも近所にもいます。でもぼくは、それよりもあなたの涙に洗われた美しい心を愛しているのです。」(三浦光世)
「あなたが正さんのことを忘れないということが大事なのです。あの人のことを忘れてはいけません。あなたはあの人に導かれてクリスチャンになったのです。わたしたちは前川さんによって結ばれたのです。綾子さん、前川さんに喜んでもらえるような二人になりましょうね。」(三浦光世)  
三浦綾子の自伝小説。同作は三部作のひとつ。第一部は「道ありき−青春編−」 / 第二部は「この土の器をも−結婚編−」(最初の題名は「わが結婚の記」) / 第三部は「光あるうちに−信仰入門編−」 
この土の器をも
前回は三浦文学の必読書である「道ありき」を取り上げさせていただきましたが、今回はその続編である「この土の器をも」をご紹介しようと思います。(ちなみに、この書の副題は「道ありき第二部結婚編」となっています。)
「道ありき」は三浦綾子氏の三浦光世氏と結婚するまでの独身時代の記録ですが、「この土の器をも」は結婚後処女作「氷点」入選までの結婚生活初期の記録です。
というわけで、「道ありき」からは独身時代に私達がしっかり学ぶべきことが何であるかを学べますが、「この土の器をも」では結婚生活にどうしても必要なものが何であるかを私達は深く学ぶことができます。
この書は次のような書き出しで始まっています。
「青春とは自己鍛錬による、自己発見の時だと、臼井吉見氏は言っておられる。わたしの青春の記「道ありき」は、確かに自己発見の記録であった。その自己は、愛と信仰の告白をなす自己であった。これから書きつづけるこの記録も、わたしたち夫婦の、愛と信仰の告白と言ってもいいだろう。わたしはこの中で、結婚生活とは何か、家庭を築くとはどういうことか、夫婦のあり方はどうあらねばならぬかを、自己に問いつづけながら書き綴ってみたいと思う。」
そして、その後には三浦綾子氏が結婚する前に中嶋正昭牧師から教えられた有名な言葉が記されています。
「結婚したからといって、翌日からすぐに夫婦になったといえるものではない。わたしたちが真の夫婦になるためには、一生の努力が必要である。」
このような教えを受けた三浦夫妻は、結婚式の夜、正座して次のような祈りをささげています。
「神様、きょうの喜びの日をお与えくださいましたことを、心から感謝申しあげます。きょうより一体となって、神と人とに仕える家庭を築き得ますように、わたしたちをお導きください。」
この書から学べる結婚生活のあり方は以下のポイントでまとめることができます。
1 性生活よりも祈りによる人格と人格の結合を結婚生活の根本にする。
2 自分達の家庭を、多くの人を受け入れ、愛する教会のような家庭とする。
3 お互いの過去をそのまま受け入れ、すべてを許し合う生活を行う。
4 お互いの家族や友人、恩人を大切にし、感謝の念をもって交際し続ける。
5 神を第一とし、与えられた互いの才能を生かし、共にキリストを証しする。 
光あるうちに
前々回は三浦綾子氏の自伝である「道ありき」、前回は「道ありき第二部結婚編」である「この土の器をも」を取り上げさせていただきましたが、今日は「道ありき三部作」の完結編である「道ありき第三部信仰入門編」の「光あるうちに」をご紹介したいと思います。
この書は副題の通り信仰入門書と言うことができますが、普通の信仰入門書とは異なる点が2つあります。
まず1つは、この書の前に豊かで、感動的な信仰の証しの書があるということです。三浦綾子氏の信仰とは単なる理論や教理などではなく、実際の体験に裏打ちされた筋金入りのものだと言うことができるでしょう。そこに多くの人々が引き付けられ、納得させられる力があるのだと思います。
また、この書の前に信仰の証しがあるだけでなく、この書の中にも彼女の信仰の証しははっきりと記されています。「道ありき」や「この土の器をも」の中ですでに触れられた事柄を初め、彼女が実際に体験した証しが随所にちりばめられています。
とにかく、この書は三浦綾子氏の実際の信仰の証しの上に書かれた書だということを私達は心に留めておく必要があります。
そして第2の異なる点は、この書の構成です。アメリカなど西洋の普通の信仰入門書は「神」という項目から始められています。しかし、三浦綾子氏はその常識を覆し、「人間」という項目から書き始めます。しかも、その項目に割くページ数は尋常ではなく、実にこの書の半分を占めています。
「罪とは何か」「人間この弱き者」「自由の意義」「愛のさまざま」「虚無というもの」という5つの章で、人間とは「罪人」であり、「弱い者」であり、「不自由な者」であり、「愛のない者」であり、「虚無的な者」であることを明確に論証しています。
「神」という概念の希薄な日本人に対して西洋風の「神」から始まる伝道方法をやめ、三浦氏は日本人が普段から関心の高い「人間」というテーマで十分に日本人の注意を引き付けておいて、その後から「神」について徐々に語り始めるという伝道方法を採用していると言えるでしょう。このあり方は、彼女の作品すべてに共通しているものであり、彼女が現在日本で最も成功した伝道者だと言われる所以だと思います。
三浦氏は「人間」の後「神」「キリスト」について述べて行きますが、普通西洋風伝道書にありがちな「信仰のための祈り」をその後に置かず、次には「教会」という項目をしっかりと据えています。信仰とは教会において持ち、そして養い育てられるものであるという彼女の確信がそこに表されているように感じます。彼女は、この書で他の人々に勧めたように、有名人となってからも所属教会での礼拝を第一とする生活を貫き通しました。そこに彼女が人生の終わりまで主に豊かに用いられた秘訣が隠されていたと言えるでしょう。  
氷点
これまでの3回は三浦文学の土台とも言える「道ありき」3部作を取り上げさせていただきましたが、今回からは三浦文学の代表作を紹介させていただこうと思います。
その第1回目は、三浦文学の処女作でもあり、最も有名な作品でもある「氷点」ですが、この作品は朝日新聞社が行った1千万円懸賞小説で入選した衝撃の作品です。最近では2001年にテレビで再びドラマ化されたのが記憶に新しい方々もおられるでしょう。
さて、この作品のテーマは「原罪」という聖書の重要な教えです。「人間がその先祖アダムとエバ以来生まれながらに持っている罪」のように「原罪」は定義することができますが、このように単なる短い言葉によってではなく、文学という豊かな手法を用いて、キリスト教のバックグラウンドのない日本人にもその意味をわかりやすく説き明かしたことにおいて、非常に評価されるべき作品だと言えるのではないでしょうか。
「風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝やいて、つくりつけたように動かない。ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃く短かかった。その影が生あるもののように、くろぐろと不気味に息づいて見える。」
この作品はこのような言葉で始まっていますが、ここにはこの作品のテーマがすでに明らかにされています。それは「光と影」です。この世界にも、そして人間にも「光と影」を私達は見ることができます。わかりやすく言い換えれば「良いものと悪いもの」「善悪」と言ったらよいでしょうか。
この作品に登場する人物には、必ずこの両方が見られます。例えば、辻口啓造という人物は、家庭でも職場でもすばらしい人格者(これは「光、善」に相当)として描かれていますが、その反面不倫をした妻夏枝に対しては驚くべき復讐を図る恐ろしい人物(これは「影、悪」に相当)として描かれています。その彼の心の中の思いは、この作品の冒頭の言葉のように、実に「生あるもののように、くろぐろと不気味に息づいて見える」ものと言えます。
このような「生あるもののように、くろぐろと不気味に息づいて見える」影は、すでに述べたようにすべての登場人物に見られますが、最後にその影が全く見られないかのように思われた辻口陽子という人物に三浦綾子氏はやはり影があることを示していきます。その影を辻口陽子は「自分の中の罪の可能性」「私の血の中を流れる罪」と自殺前に書いた遺書に記していますが、彼女はそのような汚れた自分の存在に気付いた時、自殺によって自らを裁かずにはいられなくなってしまうのです。
「氷点」で自殺前の陽子が求めていたものは自らの罪の「ゆるし」でしたが、「続氷点」ではこれがテーマとなっていきます。  
続 氷点
前回は処女作でもあり、代表作でもある「氷点」を取り上げさせていただきましたが、今回は引き続きその続編である「続氷点」をご紹介させていただこうと思います。
この作品を元々三浦綾子氏は書く予定ではなかったようですが、「氷点」の読者からの強い要望と、出版社からの勧めによって「続氷点」は誕生するに至ったのです。
この作品はこんな書き出しで始まります。「窓の外を、雪が斜めに流れるように過ぎたかと思うと、あおられて舞上がり、すぐにまた、真横に吹きちらされていく。昨夜からの吹雪の名残りだった。」
「氷点」の最後で主人公の辻口陽子が自殺を図りましたが、そこで「吹雪」は終わったのではなく、その名残りは「続氷点」で続いていくことを暗示しているのです。
「氷点」では人間の原罪が扱われ、他人を裁く罪、自分を正しいとする罪などが、様々の出来事を通して、すべての登場人物を通して明らかにされています。しかし、この「続氷点」ではそれらがより如実なものとなり、特に「氷点」では不十分に示されていた主人公陽子の原罪がより明瞭にされていきます。それは、自分を不義の中で生んだ母親に対する憎しみという形ではっきりと浮かび上がって来たのです。
最後の解説で原田洋一師(盛岡教会の原田陽子師のお父様)は、「こころの友」誌の三浦綾子氏の言葉を引用しています。「裁くことは、自分が正しいという位置に座し、自分が正しいという確信を持つことだ。裁きの座につくかたは、神おひとりだけである。人間が裁くということは、神を押しのけ、その神の座にすわることなのだ。神を信頼しないものは、神に裁きを任せておけないのだ。この傲岸さは日常の私たちの姿でもある。そんなことを思いながら、私は陽子を書いていった。また裁くのは陽子だけではない。登場人物同志がお互いに随所で裁き合っている。私は人間の恐ろしさを自分の中に見ないではいられなかった」 このようにして陽子を含むすべての登場人物の罪が明らかにされてから、三浦綾子氏はそのゆるしを明らかにしていきます。それは、最後の「燃える流氷」という章で、キリストが十字架で流された血潮によって、私達の心の中のとてつもなく大きな冷たい流氷(氷点、原罪)が燃やされ、溶かされていくという霊的体験を、文学的に、しかも実にドラマチックに描いてみせたのです。
陽子は友人でクリスチャンである順子から聞いていた十字架の罪のあがないを信じ、不思議な安らぎを体験します。そして、今までゆるすことのできなかった生みの母に対して「おかあさん!ごめんなさい」という言葉が湧き上がって来たのです。
このようにして三浦綾子氏はキリストの十字架のゆるしの恵みを陽子を通して明らかにしています。その1つは神にゆるされたという平安であり、もう1つは人をゆるすことのできる愛だということです。  
 

 

銃口
前々回は処女作である「氷点」を、前回はその続編である「続氷点」を取り上げさせていただきましたが、今回は三浦綾子氏の最後の長編小説となった「銃口」を紹介させていただきたいと思います。
この作品のあとがきで三浦綾子氏は、この作品を編集者から「昭和を背景に神と人間を書いてほしい」と言われ、そのようなテーマで書き上げたことを明らかにしています。しかし、この作品に限らず三浦文学というものは、この「昭和」という時代を背景として書かれていると言えるでしょう。
それは、彼女がまさに「昭和」という時代を生き抜き、その中で時代を超えた「永遠」のものを見つけ出し、それを証しせずにはいられない者とされたからに他なりません。
このことはすでに取り上げた彼女の自伝「道ありき」に詳しく記されています。彼女は戦前、軍国主義的な思想の下に生徒達を天皇陛下のために死ねる人間として育てる愛国的教師でした。しかし、敗戦という出来事を通して、彼女は信じ切っていたものが全く信じるに値するものではないことを悟るようになります。そして、戦後は何ものも信じることができない虚無的な存在となってしまい、実に退廃的な生き方をするに至ります。そんな中、彼女はクリスチャンである幼馴染みの前川正と再会し、彼の中に戦前、戦後を超えた永遠の光を見い出すようになったのです。そして、彼女はその永遠の光であるキリストを信じ、そのキリストを宣べ伝える人へと変えられていきます。彼女は自らが文学を通してなしていることは「伝道」であると公言していますが、それは昭和の軍国主事的な戦前と退廃的な戦後を超えたキリストを信じて歩む生き方というものを是非とも証ししたいという彼女の実に強烈で率直な告白なのです。
まず、この作品は誰が読んでも昭和の戦前に対する強烈な否を叫んでいるものであることがわかります。主人公北森竜太の上官だった山田曹長が、主人公に対し手紙でこのように語りかけています。
「何としても戦争はしてはならん。人間は武器を取ってはならんのだ。自分自身、武器を持っていた者として、痛感してならない。」この言葉は軍国的教育を行い、教え子を戦争で殺してしまった体験を持つ三浦綾子氏の正に叫びと言えるのではないでしょうか。
それと共に、三浦綾子氏は戦後の退廃的生活に対しても否を叫んでいます。主人公が戦後虚無的な思いに沈みそうになった時、彼はある出来事を通して再び真剣に生きることを願い、恋人の通っている教会に行くことを決意し、このように彼女に語ります。
「キリスト教の神というのは、自分の想像を超えた、とてつもなく存在のようで、すべてを委せてみたいと思うようになった。」これもまた、恋人である前川正氏によって退廃的生活から救い出された三浦綾子氏の心からの真実の告白だと言えるでしょう。  
塩狩峠
今号で取り上げさせていただいた「塩狩峠」は、言わずと知れた三浦綾子氏の代表作ですが、私自身にとっては三浦綾子氏の作品の中で最初に読んだ本であり、主を自らの救い主、そして人生の主として受け入れるきっかけとなった本でもあります。
この本の中で私がイエス様について知ったことは、以下の3つのことでした。
まず第1は、イエス様が私の罪を赦して下さる方だということでした。
この作品の中では主人公が自らの性欲や憎しみの問題で悩む様子が描かれていますが、この本を読んだ中学3年生の私もちょうど同じ問題について悩んでいました。私はこの作品の中でイエス様が十字架にかかって私の罪の身代わりとなって死んで下さったことを知り、主を私の罪からの救い主として信じ受け入れることができたのです。
そして第2は、イエス様が私の人生を導いて下さるお方だということでした。
私は中学2年生の時、小学校時代からのいじめっ子達から解放されることができ、その後幸せな人生が訪れるかと思いましたが、しばらくして私は決して幸せにはなっていない自分の存在に気付きました。それは、自分がどう生きていったらいいかが全くわからない状態だったからです。
そんな中で私はこの本を通して「彼らは何をしているのか自分でわからずにいるのです。」と祈っておられる主を知ったのです。この祈りはまさに私のためにささげておられる祈りだと直感しました。そして、こう祈っておられるお方はこれから私がどう生きていったらいいかもすべてご存じのお方であることを確信し、私はこのお方を私の人生の主としてお迎えしたのです。
最後に第3は、イエス・キリストが人知をはるかに超えた愛で私を愛して下さるお方だということでした。
私には中学3年生の時とてもすばらしい先生との出会いがありました。その先生は当時流行っていた金八先生のように私を本当に愛して下さった先生でした。私はある時先生の愛を試すために、先生に次のような質問をしたのです。「先生が1人だけを助けられる状況だったら、自分の息子を助けますか。それとも、私を助けますか。」私は99パーセント「息子を助ける」という答えだと思っていましたが、先生から返って来た答えはまさにその答えでした。その答えは当然だと納得しながらも私の心はとても淋しい思いで満たされたのです。
しかし、この「塩狩峠」の中で私は、私がまさに望んでいた愛で私を愛して下さったお方を知ったのです。それは神様でした。神様はその愛するひとり子イエス・キリストを十字架で犠牲とされても、この私を救おうとして下さったのでした。
このように「塩狩峠」を通して私は自らの救い主、人生の主に出会うことができました。あなたもこの書を通してこのすばらしいお方に出会うことができますように。  
ひつじが丘
この「ひつじが丘」は、三浦綾子氏があの有名な「氷点」に続いて書いた第2作目です。多くの作家がある作品を称賛されつつも、その後の作品がふるわずに終わってしまうのとは対照的に、三浦綾子氏はこの作品で確かな作家としての能力を明らかにしたと言えるでしょう。
私自身は「塩狩峠」や「道ありき」に感動したのに負けず劣らず、この作品に高校時代感動を覚えさせられました。いわゆる青春時代に多くの人々が体験する恋愛と結婚、そしてそれにまつわる悩みと葛藤が見事に描かれており、読者の心を全く離さないその筆致は実に見事と言う他ありません。特に若い方々には、恋愛と結婚を考えるためにも是非一読をお勧めしたいと思います。「愛するとはね、相手を生かすことですよ」
「愛するとは、ゆるすことでもあるんだよ。一度や二度ゆるすことではないよ。ゆるしつづけることだ。」
これら主人公の両親の言葉は、私達が心にしっかりと心に刻み込まなければならないものではないでしょうか。
また、この作品は人間の罪というものをしっかりと読者に覚えさせる作品ともなっています。三浦綾子氏は後に「続氷点」を書かれますが、それが書かれる前にはこの作品が「氷点」の続編だったと言えるのではないかと思います。「氷点」のテーマは「原罪」ですが、この「ひつじが丘」はこの「原罪」についてさらに明確に私達に示してくれる作品です。
主人公である広野奈緒実は、いわゆるプレイボーイ的な杉原良一という男性に求婚され、結婚に至るのですが、その後悲劇的な結婚生活を送ることになります。彼女は両親から言われた言葉のように彼を愛することができず、かえって彼を憎むようになります。そんな中で彼女は実家に戻り、彼女を追って来た良一もその家で共に生活するようになります。奈緒実の両親である牧師夫妻の愛によって良一は徐々に変えられて行きますが、奈緒実は相変わらず彼をゆるすことができません。最後は良一が悲劇的な死を遂げることになるのですが、彼が遺した彼女へのクリスマスプレゼントである絵を見た時、彼女は言いようのない衝撃を覚えるのです。そこには、まるでキリストの前で罪のゆるしを切に乞うているかのような彼の姿が描かれていたのです。その時、彼女は彼を全くゆるすことができず、自らを正しい者としていた罪にはっきりと気付かされたのでした。
彼の葬儀で奈緒実の父親である牧師が語ったメッセージは私達の心を激しく打たずにはいられません。「人の目には、彼とくらべると、わたしたち夫婦や娘は、善人であるかのように見えましょう。けれども神はご存じであります。神の最もきらいたもうのは、自分を善人とすることであります。そして、他を責め、自分を正しとすることであります。」  
愛の鬼才
三浦綾子氏に影響を与えた人物としては、自伝「道ありき」に登場する前川正氏と三浦光世氏がその代表として挙げられますが、その他の人物として筆頭に挙げなければならないのは、今日取り上げた「愛の鬼才」の主人公西村久蔵氏だと言えるでしょう。「道ありき」を読めば、西村氏が三浦綾子氏の受洗にあたってどれ程大きな影響を与えたかがわかりますが、この「愛の鬼才」を読む時、この偉大なる西村久蔵氏がどのようにしてこれ程の聖徒となり得たかを知ることができます。
西村氏にまず影響を与えたのは、そのすばらしい両親でした。西村氏が中学4年で落第した時、父親はこのように語り、彼を力強く励ましたのです。「なあに、人間、ちゃんと生きて行けば、失敗もいつか勲章になる。人様の前で、おれは中学の時落第をしたことがあると、言える人間になってみろ。ああ、あの人でも落第をしたことがあるのかと、どれだけの人間が勇気づけられるか、わかりゃあしねえ。お父さんはな、失敗は人間になくちゃあならねえものかもしれねえと、思っている。一度も失恋もしたこともなければ、金のやり繰りに苦労したこともない人間なんてえのは、どんなものかねえ。人の涙も、悲しみも、思いやることができねえんじゃねえか」
そして第二に影響を与えたのは、彼の牧師であった高倉徳太郎牧師でした。高倉牧師は「福音的キリスト教」という名著を残した牧師ですが、それ以上にこの西村久蔵氏を初め多くの偉大な聖徒達を育てた牧師として名を残しました。ちょうど西村氏がある家庭集会に訪れた時、悪天候もあり、普段10人程集まっていたのが3人だけであったにもかかわらず、高倉牧師は熱くキリストの十字架についてメッセージをしたのでした。そのメッセージに捕らえられた西村氏は、召される前にこう語っていたそうです。「もうぼくにはただ一つのことしかない。キリストの十字架だけだよ。」
その他様々な出来事や人々の影響を受けながら、西村氏は「愛の鬼才」と名付けられる程のクリスチャンに成長して行きます。この書ではいくつかのエピソードが記されていますが、それらは皆読者を大きな感動で満たさずにはおけないものばかりです。
この西村氏は、神様の不思議な導きで、召される1年程前に三浦綾子氏と出会うことになります。そして、初対面の彼女に対して「今日から私を親戚だと思って、何でもわがままを言ってください」と言われ、その召される時まで精一杯の愛をもって三浦綾子氏に仕えられたのです。
西村氏がよく語っていたという次の言葉は、西村氏自身をよく表現しています。「クリスチャンという者はね、ストーブのような存在でなければならないよ。ストーブは暖かくて、みんな傍に寄って来たくなるでしょう」 
夕あり朝あり
前回は三浦綾子氏に大きな影響を与えた人物として「愛の鬼才」の主人公である西村久蔵氏を紹介しましたが、今日は西村氏に負けず劣らず大きな影響を与えた「夕あり朝あり」の主人公である五十嵐健治氏について書いてみようと思います。
三浦綾子氏は自伝「道ありき」の中で、洗礼前に影響を受けた人物として前川正氏と西村久蔵氏を挙げ、洗礼後に影響を受けた人物として三浦光世氏と五十嵐健治氏を挙げておられます。五十嵐氏はその生涯を通じて三浦綾子氏を励まし導き続けた偉大な人物でした。
それと共に、五十嵐氏は「白洋舎」の創立者として一般の人々にもその名を残した人物でした。このようにクリスチャンとしても実業家としてもすぐれた人物であった五十嵐氏は、どのようにしてそのような人物となり得たのでしょうか。その答えはこの「夕あり朝あり」という書にあります。この書は五十嵐氏が一人語りをしている形式で書かれており、非常に楽しみながら読み通すことができます。
彼は8ヶ月で生母と別れ、5歳で養子となるような大変な家庭環境の中で育ちますが、16歳で一攫千金を夢見て家を出、各地を放浪するようになります。そんな中で住吉屋旅館の主人であり、上毛孤児院の創立者である宮内文作氏に出会い、宮内氏の「貧しい者たちにも食事が与えられるように」「親のない子をお守りください」という祈りに大きな衝撃を覚えます。それから、日清戦争と北海道でのタコ部屋生活を経て、彼は人生に絶望し、小樽の海で自殺を図りますが、死出の土産にと小樽の街を歩いてみたのがきっかけでクリスチャンである中島佐一郎氏との出会いが与えられます。そして、この中島氏との信仰問答を通して五十嵐氏は主を信じ受け入れ、洗礼を受けることになります。
彼がクリスチャンになった後の変化は、クリスチャンとはどのような者であるのかがよく示されています。「ところが、洗礼を受けてから、私は朝起きると先ず神に祈りました。「今日の一日を導いてください」と祈りました。何かあると神に相談した。「このことはなすべきでしょうか、なさざるべきでしょうか」と、祈るようになった。・・・まあ、大したことはできませんが、大きなことをするより、小さくてもよい、目に立たなくてもよい、よき行いをしなければならない、と思うようになった。本気で神の教えに従うということが、真の意味で人さまや社会のために益となるのではないかと、考えるようになった。」
三浦綾子氏が追記に記した五十嵐氏の晩年の言葉、「何もかも忘れましたが、しかしキリストさまのことだけは、忘れてはおりません。」という言葉の中に、私達は五十嵐健治氏の偉大な人物像の秘密を大いに学ぶ必要があるのではないでしょうか。  
 

 

愛すること信ずること
今回は三浦綾子氏の「氷点」「ひつじが丘」に次ぐ3番目の作品であり、最初のエッセイでもある「愛すること信ずること」をご紹介したいと思います。この本は単行本の後講談社新書で出されていたのですが、最近同じく講談社から文庫化され、より多くの方々に読まれるようになりました。
この文庫本の帯には「結婚するあなたへ」とあり、結婚についての学びには最高の教科書と言えます。理想の夫婦像をその生き方を通して私達に示して下さった三浦夫妻の「すばらしい結婚生活の秘訣」がこの書には余す所なく書き記されています。
その秘訣の中で最も大切なものは、「互いにほめ合う」ということです。三浦夫妻はお互いの長所を著作や講演を通して幾度となくほめ合っていますが、この書はその先駆けのようなものです。ほめ合うことの基調にあるのは、自分は相手に愛される価値のない者であるとの認識です。その認識からこんな自分を愛してくれる相手に対する感謝の思いが湧き起こって来るのです。多くの夫婦関係に問題が起こるのは、自分は当然相手に愛される価値があると思っており、それをしてくれない相手に不平不満と怒りが募って来るからに他なりません。三浦夫妻の「互いにほめ合う」生き方は、現在の多くの夫婦に重要な指針を与えるものです。
また、三浦綾子氏は「互いに責め合わない」ことを提案しています。ある章のタイトルで「家庭は裁判所ではない」とありますが、このタイトルは多くの家庭が抱えている問題を見事に言い表しています。家庭は相手を断罪する所ではなく、相手を赦し、生かす所であることを三浦綾子氏ははっきりと教えて下さっているのです。
これと関連することとして、相手をけなさないことも語られています。「鳴らずのバイオリン」という章がありますが、そこでは何かをできる人が結婚相手にけなされることによって何もできなくなってしまうことがわかりやすく表現されています。光世さんは綾子さんに「綾子は鳴らないバイオリンをも鳴らすほうだよ」と言ってくれたそうですが、私達も是非そのような者にならせていただきたいものです。
そして、三浦綾子氏は「共通の目的を持つ」ことの重要性も述べています。私自身ある本で離婚しない夫婦の特徴ということで心に留まったのが、この「共通の目的を持つ」ということでした。「性生活のない夫婦の愛情」という章で、三浦綾子氏は3組のすばらしい夫婦を挙げ、性生活が持てないような状況下でも共通の目的を持ち、愛し合い続けた夫婦がいたことを証ししています。「忘れえぬ夜」という章では三浦夫妻がクリスマスの夜トラクト配布をする姿が描かれていますが、ここに共通の目的を持って生きておられる理想の夫婦像をはっきりと見ることができます。
この書は既婚未婚を問わず必読の書です。 
積木の箱
今回は三浦綾子氏の4番目の作品である「積木の箱」をご紹介したいと思います。
この書は三浦綾子氏の代表作である「塩狩峠」や「道ありき」と平行して書かれた作品で、これらと同様すぐれた作品と評価されてしかるべきでしょう。
この作品は「氷点」「ひつじが丘」以上にはっきりとした罪ある人々を描いており、真面目な読者であれば目を覆いたくなるような場面も登場して来ます。この作品は人間の醜さを徹底的に描いた、三浦文学のいわゆる「ドロドロ系」作品の元祖とも言えるものです。「どうしてこのような作品が書かれなければならないのか?」とかつては私も疑問に思っていましたが、今では三浦綾子氏がこうした作品を数多く書き残して下さったことに感謝せずにはいられない思いでいっぱいです。
なぜなら、三浦文学のベースとなっている聖書を思い起こしてみるならば、そこにはきれいで立派な教えだけではなく、いやそれ以上に人間の様々な罪深い状態が描かれているのを見い出すことができるからです。三浦文学は「塩狩峠」等を通して福音を語っている聖書的文学であると同時に、この「積木の箱」等を通してどうしようもない人間の罪深さ、醜さをはっきりと示している聖書的文学なのです。
さて、この書のタイトルである「積木の箱」には、三浦綾子氏のこの書に寄せるメッセージが凝縮されています。そのことをよく表しているのは、作品のほとんど終わりに書かれている以下の文章です。
「いくら教師が、全員まじめに生徒を導こうとしたところで、家庭が動揺していてはどうにもしようがない。積木細工のように、がらがらと、すぐに崩れてしまうのだ。小さな崩れなら、ある程度教育で防ぐこともできるだろう。しかし、人間の心の奥底から、なだれるように崩れ落ちてくるものを、果して教育だけでくいとめることができるだろうか。できるわけはないと悠二は思った。」
戦前に教師であった三浦綾子氏は、戦後の日本の問題点を家庭の中にはっきりと見い出しています。問題のあり過ぎる家庭の子供には、学校教育でそれを覆す程のものを与えることができない、これがこの作品が語っている大切なメッセージです。
しかし、この書の感動的なラストシーンにはもう一つのメッセージがあります。それは、上記のような人間をも変えるものがあるというメッセージです。それは和夫という少年のやけどをした右手に象徴されている主イエス・キリストの御手です。この御手に触れられた時、私達の傷ついた心はいやされ、屈折した心は素直な心へと変えられるのです。罪を犯した一郎という人物が「おれだ!おれが火をつけたんだ!」と絶叫しながら走り続ける最後の場面は、主の救いの偉大さをまさに絶叫的に私達に語っているのではないでしょうか。 
病めるときも
今回は三浦綾子氏の初めての短編集である「病めるときも」をご紹介します。
私にとってこの書は思い出のある書なのですが、読書会発足に先立つこと約10年前、私がキャンパス・クルセードという大学生への宣教団体でスタッフとして働いていた時に、この書を課題図書として学生達と一緒に読書会を行ったことがありました。この体験は読書会発足のまさに最初のきっかけと言えるものです。
その時取り上げたのは「羽音」という作品でしたが、その他この書にはタイトルにもなっている「病めるときも」を含めて5つの短編が収められています。これらの短編はいずれも「偽りの愛」と「真実の愛」について私達に語りかけてくれるものです。
以下はタイトルにもなっている「病めるときも」という短編について書こうと思いますが、ここでは神の前での「結婚の誓い」に対して最後まで誠実であろうとする女性(姉妹)の殉教者のような美しい姿が描かれています。「健やかなる時も、病める時も、汝夫を愛するか」という結婚式での誓約に対しそのようにすることを誓った彼女は、相手が重度の精神病となった後も彼を愛し続けます。幸せを願いつつも、多くの悲しみを背負うようになる結婚の代表例を三浦綾子氏はこの作品で示していると言えるでしょう。そして、結婚とは結婚後に起こるすべての出来事、それがプラスであろうとマイナスであろうとすべてを受け止める覚悟の上に成り立つものであることを読者に力強く語りかけています。結婚後何かの問題が起こるとすぐに離婚という安易な方向に走ってしまいやすい私達に三浦綾子氏は警鐘を鳴らし、真実の愛はお互いの間に困難な出来事がある時ほど必要であることを私達に教えています。その背後には、彼女が病めるときも愛し続けてくれたかつての恋人前川正氏や、夫である三浦光世氏の真実の愛が指し示されていることを決して見逃してはならないでしょう。
また、この書の登場人物の名前には重要な意味が込められているように思います。
主人公は「明子」という名前ですが、彼女は生まれつき明るい子ではありませんでした。ある時から信仰を持ち、すべてを肯定的に考えるよう変えられていったのです。私達も結婚をする時には、このような性質を持つ「明子」でなければならないのです。
そして、彼女が結婚した相手は「九我克彦」という人物でしたが、「九我」という変わった名前には三浦綾子氏の特別な意図があったと思われます。つまり、私達が結婚する相手とは9つの「我」を持つような人物、すなわち様々に変わる可能性のある文字通り「九我」克彦だということです。ですから、私達はこのような相手と一緒になることが結婚というものであることをはっきりと理解しなければなりません。
この書を通して結婚について私達は多くのことを教えられることでしょう。 
裁きの家
今回は「裁きの家」という作品をご紹介させていただきます。この作品は三浦作品の中では極めてマイナーな本なのですが、私としては三浦文学の隠れた傑作として高い評価をしている本でもあります。
この本は基本的に人間の罪深さを描いたいわゆる「ドロドロ系」と言われる作品と言えますが、その元祖である「氷点」との違いはその家庭環境にあろうかと思います。「氷点」が医者というエリートの家庭を描いているのに対して、「裁きの家」はより一般的な家庭をその物語の中心に据えています。そういうわけで、共に「罪」というものを明らかにしながらも、「裁きの家」の方がより具体的で、わかりやすく、説得力に富んだ形で示すことに成功しているのです。おそらく読者は自らの家庭でも似たようなことがしばしば起こっていることを覚えさせられずにはいられないでしょう。
この「裁きの家」というタイトルには、大きく分けて2つの意味が込められているように思います。まず1つは、現代の家庭はお互いがお互いを裁き合っている「裁きの家」だということです。作品の中で親子、兄弟、夫婦、嫁姑がそれぞれ裁き合っており、そこには赦しも安息ありません。
そして第2は、そのようにお互いを裁き合っている家庭は、神に裁かれているまさに「裁きの家」だということです。聖書は「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:18)と言っていますが、この神のひとり子の御名を信じない家庭はすでに神様からさばかれているのです。このさばかれている結果こそ、お互いに裁き合い、傷つけ合い、全く安息のない状況に他なりません。この作品には神様のことがほとんど出てきませんが、このような作品が明確に語っていることは、神不在というのがどれほどむなしく、悲しむべき悲惨な状態であるかということなのです。
この書には重要で示唆に富んだ言葉が数多く登場しますが、次の2つの言葉は特に覚えなければならないものでしょう。
まずは、「自己主張の果ては死」という言葉です。これはこの書の主題的な言葉と言えますが、聖書の「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)を日本人によりわかりやすく三浦綾子氏が翻訳した言葉のように思います。この書を読みながら、私達は自己主張をする結果は、自らをもまた他人をも死に追いやる結果となることを痛感させられずにはおられないでしょう。
もう1つは、「対話なんかないよ。あるのはモノローグだけさ。」という言葉です。親は子供に一方的に説教し、断罪します。そこには対話はなく、モノローグだけがあります。私達はエデンの園での神と人との会話から、罪を犯した人を救い出し、真に生かす対話とは何かを学ばなければなりません。「あなたは、どこにいるのか。」  
生きること思うこと
今回は以前ご紹介した「愛すること信ずること」に続くエッセイである「生きること思うこと」をご紹介しようと思います。
新潮文庫の終わりには「新潮文庫からの出版にあたって」という特別な章が三浦綾子氏によって書かれていますが、そこでこの書に収められているエッセイが元々どういう書物に掲載されていたかが紹介されています。そこを見ると、前半34篇が「信徒の友」誌に、後半10篇が「アシュラム」誌に掲載されていたことがわかりますが、これらはいずれもクリスチャン向けの雑誌ですので、この書は基本的にクリスチャン向けのものであると言えます。ですから、この書は三浦綾子氏が自らの体験に基づいて信者向けに書いた、信仰成長と信仰復興(リバイバル)のための書なのです。
実際この書を読み進めて行くと、このことはすぐに明らかになって来ます。
例えば、「弱さのゆえの旗じるし」という章を読むと、そこでは人々の前で信仰告白することの重要性が語られています。「それはともかく、はじめて小説を書き始めた時から、私は、自分がクリスチャンであることを、ハッキリと言明してきた。私が三浦の妻であることを常にハッキリいうことも、キリスト教徒であることをハッキリいうことも、ある意味では、私の弱さの表明なのかもしれない。」「私がもし、クリスチャンであることを言明しなかったら、あるいは「氷点」一作でこの世から消え去っていたかもしれない。イエスはキリストであると告白した時に、神はかくも豊かに恵みたもうたのだ。」
そして、「わたしは牧師夫人になれぬ」という章では、牧師や牧師夫人を尊敬すべきであることが強く教えられている。「わたしは、今まで講演で全国の小さな教会や大きな教会に招かれている。そして、時おり、牧師や牧師夫人に対する苦情を聞かされることがある。無論、牧師や牧師夫人は絶対的存在ではない。神ではない。やはり人間なのだから、多少の欠点はあるのが当然だ。全く批判してはならないとは言えないが、わたしも神を信ずる者の端くれとして、一つの基本線を持っている。それは、牧師は神のみ言葉をとりつぐ尊い使命を持って居られる。聖書を尊ぶ信者は、牧師を尊敬しなければならない。故に、みだりに牧師を批判してはならないということである。」「牧師は貧苦に耐えてこそ、すばらしい説教が生まれると堅く信じている信者がまだいることは、確かで、私も直接、そういう言葉を聞かされたことがある。「じゃ、あなたは、そのすばらしい説教を、よくよくわかるためには、牧師の何倍も貧しくなる必要があるわけね。」私はこうズケズケと皮肉りたくなる。」
この書は信仰生活に悔い改めとリバイバルを与える、全クリスチャン必読の書です。
三浦綾子著、生きること思うことから
「同労者」の掲載記事のアンケートに、"デボーションに関するもの"という要望があり、何らかの形でそれに応えたいと思ってきました。それで今回、三浦綾子さんの著書から祈りについて参考になることがらを引用紹介させて頂こうと思います。
コラムタイトルの「祈りの小部屋」は次のことを覚えてつけました。亡くなられた仙台教会、森田咲子姉は、ご主人と共に生花業を営んでおられました。現在そのお店は別の場所に引っ越されましたが、前のお店では、階段の側に普通なら物置程度に使われる小さな部屋がありました。姉妹はそこを自分の祈りの部屋として使えるように確保しておられました。商売をする家庭のおかみさんは、大変忙しいことは言うまでもありません。妻をつとめ、子育てをします。店では電話番はもとより帳簿をつけ、経理もし、客の接待も店の売り子もします。クリスチャンの悩みは忙しいだけではありません。クリスチャンとして、自分は、夫は、子供たちは、商売はなどなどについて、こうあらなければならないというものをもつが故に悩むのです。姉妹はその忙しい中に時間を確保して、その悩みを抱えてその祈りの小部屋に頻繁に入っておられたとうかがっています。

(三浦綾子著、「生きること思うこと」、新潮文庫、p.188〜) ・・(自宅に)帰り着いたとたん、たくさんの手紙が待っている。その中に同姓の二通の手紙があった。・・(以下にその手紙をもらうことになったいきさつが書かれている。)
今日は五月八日である。あれは何か月前だったろうか。北陸地方のある婦人から、手紙をいただいた。わたしの「この土の器をも」を読み感動した。そこで一つ願いがある。そのねがいというのは他でもない。やくざで暴力団に入っている息子がパウロのような鮮やかな回心ができるように祈ってほしい。その祈りを三浦光世に祈ってほしいというのである。
「この土の器をも」には、三浦が「氷点」の入選を祈り、その祈りはすでにかなえられたと確信していたと書いてある。その時、三浦は、
「なんでも祈り求めることは、すでにかなえらえたと信じなさい」という聖書のみ言葉を与えられたとも書いてある。
これは確かにそうなのだ。三浦はそんなことを書いてはいけないといった。
「どうして?あなたは確かにこの作品は入選したぞって、言ったじゃない。そして確信していたじゃないの。その確信通りになったことを、証しとして書くことはかまわないと思うけれど」
わたしは不満だった。
「それは確かにそうだったが、わたしは常にそのように信心深い人間ではない。そんなことを書かれると、すばらしい信仰を常に持っていると、錯覚する人も出てくるよ」
三浦は固辞した。無論、三百六十五日、常に強い信仰だとは言えない。けれども確かに神は私たちの祈りをきいてくださった。その事実だけは書いておかねばならない。わたしはそう三浦にいって強引に書いたり、語ったりしてきたのだ。
そういう、いきさつがあったので、この御婦人の手紙を見た時は、「さあ、大変よ。光世さん、がっちりとお祈りしてあげてよ。これは大変なお祈りですからね」
秘書の夏井祐子さんも、早速、自分の机の上に、その婦人の名を書き、祈ってくれることになった。
いままで、神様は、たくさんの祈りをきいてくださった。が、しかし、暴力団に入っている青年が、パウロのように回心するという祈りは、実のところ、むずかしいとわたしは思った。
神様は、風邪を治すのも、癌を治すのも、同じく容易なのだ。そう、常々は思うことがあっても、いざとなると、わたしはやっぱり神を人間よりややすぐれたかたぐらいにしか、信じていないところがある。
「あの人ならすぐ入信するかもしれない。しかし、この人ならとても救われようがない」
などと、傲慢にも思うことがわたしにはあるのだ。あれは、アル中だから駄目だ。これは大嘘つきだからだめだ。良心のひとかけらもないから、絶望だ。乱暴者だから神など信じまい。わたしは、いつも、そんなことを思って、はじめから祈りの中に入れていないことがある。
これではまるで、神の全能を信じていないのと同じなのだ。考えてみると、わたしのように生きることに消極的で、男友達が多く、でたらめな生活としていた人間でさえ、神さまはとらえてくださったのだ。クリスチャンが大きらいで、キリスト教の悪口ばかりいっていて、教会の長老に「度しがたい人間」といわれたわたしが救われたのだ。
信仰というのは、人間の方に、まず救わるべき何か功績があるわけではない。これは、牧師からも幾十回となく聞いてきたことなのに、やはり、わたしは、傲慢にも、あの人は救われがたい、この人はむずかしいと、決定的な判断をくだして、その判断をまちがっているとも思わずに暮らしているところがある。この思いが、肉親に対しては、特にいちじるしく働いていることを、わたしは、いま深く反省している。
とにかく、この婦人の手紙は、わたしたちを驚かせた。そして少なくともその当時は祈った。が、この祈りをどれだけ真剣に祈ったかと問われると、わたしは、申し訳ないような気がする。
ところで、今日のその同姓の手紙は、その婦人からであり、もう一通はやくざだった息子さんからである。わたしはここに「やくざだった」と過去形で書いた。次の、彼の手紙を読んでいただきたい。彼は「やくざだった」が、今は、そうではない。ここに、恐ろしいまでの、神のみ業があらわれているのだ。
はじめて、お便り申し上げます。ぼくは、○○○子の息子、○○○○と申します。愚か者ですが、一月ぐらい前から、キリストを信じ、そして、お祈りできなかった僕が、お祈りできるようになりました。
いろいろ職を変え、ヤクザに入っていましたけれど、今やっと小指をつめカタギの世界に入り、イエスを信じて涙があふれてなりません。今までの自分と、今の自分とをくらべて見ると、ほんとうに恥ずかしく愚かものでした。
けれど、三浦さんや教会の人たちが、やさしく迎え入れてくれるので、涙があふれ出るのをこらえられなく、泣き出してしまいました。
母がいつも僕に、パウロでさえ変えられたではないかと言って、ヤクザ渡世にいた時も僕を、ゆるしてくださいました。しかし、今は僕の母以上に、主をみつめることに決心しました。・・
ありがとうございました。ありがとうございました。ほんとうにありがとうございました。
わたしは、神が全能のおかたであることを、いま改めて知らされたような気がする。神にとって、手に余る人間は一人もいないということを、はっきり知らされたのだ。
もう一通の、この青年の母親の手紙を抄してみよう。
前略
先生に、おねがいのお手紙を出してのち、息子は病院に入院しておりましたが、昨日退院しました。となりのベットには、聖書のことを少し知っている大学生がおり、受け持ちの医師はクリスチャンでありました。
そのために、信仰を持つようになり、日曜日には、外出許可をいただいて、わたくしと一緒に行っておりました。退院しても一日何回も祈り、今朝は、早朝、祈りの集会に進んで行きました。
昨日の礼拝後、泣いて今までバカだったと私にあやまり、牧師先生にも、両手をついて、先生許してください、許してくださいと泣きつづけました。
後略
「預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」 (ルカ4:27)とのイエスのことばが思いされます。このイエスの言葉には、他のらい病人たちも潔められることができたはずなのに・・というニュアンスが込められています。私たちは多くのユダヤ人の側に入るのか、シリヤ人ナアマンの側に入るのか、どちらでしょうか。三浦綾子さんのこのお証詞は、彼女たちがナアマンの側に入ったことを物語っています。デボーションはこの差をよく考えて信仰による勝利者の例に倣うことからはじまると思います。
三浦綾子さんの証詞の青年が救いに与るに至った背景を考えてみると、まずとなりのベットの青年とクリスチャンの医師という働き人が遣わされたことがあげられます。この働き人も祈りによって派遣されたものでしょう。もし祈りがなかったなら、働き人がこの青年をキリストに導くことができたでしょうか?つまり主導的働きは祈りにあります。出エジプトしたイスラエル人がアマレク人と戦ったとき、ヨシュアが指揮する実際の戦は、モーセが祈ると勝ち、祈りが止まると負けたように。 
 

 

自我の構図
今回は「自我の構図」という作品をご紹介しようと思います。
この作品は三浦作品の中ではマイナーな作品と言えますが、この中に描かれているテーマは非常に重要なものだと言えます。
この作品の解説で久保田暁一氏が次のように述べていますが、これは三浦作品全体を理解するためにも重要な言葉です。
「三浦さんの諸作品は、大別すると二つに分類することができよう。一つは、罪のうちにある人間存在、自己中心でエゴイズムに堕している人間存在を凝視し、互いに愛し、連帯し合うべき人間同士が傷つけ合うドラマを描いた作品であり、他の一つは、キリスト者の理想像とも言うべき人物を主人公にして、その愛と献身の生涯を書いた系列の作品である。(例えば、『塩狩峠』『細川ガラシャ夫人』、『千利休とその妻たち』など)本書『自我の構図』は前者の系列に属する作品である。」
この作品に登場するすべての人物を通して、三浦綾子氏は自己中心でエゴイズムに堕している、この書のタイトル通りの「自我の構図」を見事に描き出していますが、何と言ってもその代表例は主人公である高校教師の南慎一郎に見られます。彼は作品の中で以下のように自問自答しています。
「恥とはつまり、自分の醜さを、まず自分自身が認めたくない思想なのではないのか。醜い自分を、なぜ素直に醜いと認めたくないのか。自分はこんなにも醜い奴なのだと、なぜ自分に認めさせ、人前に告白できないのか。」
このすぐ後で三浦綾子氏は罪とは何かをある人の口を借りて語っています。
「包み隠すということが罪なんですなあ」 この後で主人公の南慎一郎は次の重要な結論に達します。
「しかし、どのようにして自分自身の姿を、あるがままに受け入れることができるものなのか、それはおそらく、哲学の世界でもなければ、芸術の世界でもない、もっとちがった世界、つまり宗教の世界においてでなければ、判然としない問題のように慎一郎には思われた。」
三浦綾子氏はこの答えをこの書の中では書いていませんが、以前ご紹介した「光あるうちに」を初めとする信仰入門的な作品への動機付けがしっかりとなされていると言えるのではないでしょうか。
この作品はいわゆる「不倫」を扱っている作品ですが、これから結婚する人も、すでに結婚している人も、以下の言葉はしっかりと覚えておくべきだと思います。
「男と男の約束という言葉があるだろう。しかしなあ、南君。男と女の約束というのも大事なもんなんだよ。これがいわば社会の基礎だ。結婚はね、これは契約だ。約束だ。男と女が、一つの家庭を築いて行こうという、いわば一生をかけての約束だ。」 
帰りこぬ風
今回は「帰りこぬ風」という作品をご紹介しようと思います。
この書は日記形式というめずらしい形で書き綴られていますが、その最初の文は私達の心をその主題にしっかりと向けさせるものです。「今日はなぜか、一日淋しかった。」この「淋しさ」こそ三浦綾子氏が信仰以前に強烈に悩み苦しんだ出来事であり、信仰を持っていない人が必ずぶつかるであろう大問題であることを彼女は実体験を元にいろいろな著作で語っていますが、この書では主人公である西原千香子を通してそのことが明らかにされています。
看護婦である彼女はある医師に恋心を寄せますが、その後彼女は裏切られ、以前よりもより大きな「淋しさ」を担うようになります。そんな彼女に入院患者である広川は次のように語ります。
「何だか千香ちゃんを見ていると、生きるということがわかっていないような気がして、淋しくなりますよ」「千香ちゃん。あなたは、生きているという確かな手ごたえを感じますか。本当の意味で充実感がありますか」これらの言葉は、まるで「道ありき」で記されている、かつて三浦綾子氏を見舞った前川正氏の言葉であるかのように私達の心に響いて来ます。自分で「淋しさ」を感じている人は、生きているという手ごたえがなく、充実感がない人であると同時に、他の人のために生きていない人と言うことができるでしょう。
このような状態から脱するためには、どのようなことが必要なのでしょうか。千香子はある時重要なことに気付きます。
「何のために、わたしはこんな日記を書いているのだろう。いくら書いても、ちっとも自身に進歩がない。自分に対する厳しさも、自己凝視もないところに、何の進歩もないのは当然なのだ。ではなぜ、わたしには自己凝視をする厳しく鋭いまなざしがないのか。それはただ、次から次と起きて来る出来事に、右往左往しているからなのだ。足をとられ、渦に巻きこまれている弱虫だからなのだ。」
そこで、千香子は退院した広川に「憂いの街に至らぬ真実に生きる生き方を教えてほしい」と手紙を書き送ります。彼女はついに自分を凝視することに着手したのです。
しかし、千香子が返事を待っている所に、広川は重態で病院に運ばれて来ます。彼女はそんな彼を見てこのように思います。「ああ、わたしの命を譲り得るものならば ・・・。切実に、何者かに祈りたい思いがする。」
千香子はこの時初めて「真実な生き方」を見い出したのです。つまり、他の人のために生きるということ、そして神様に向かって生きるということをし始めたのです。
この書は「魂の求道の書」とも言える、三浦文学の隠れた傑作です。  
残像
今回は「残像」という作品をご紹介しようと思います。
まずこの作品は、「氷点」「積木の箱」「裁きの家」に引き続いて現代家庭の問題を鋭く指摘した書と言えます。
いわゆる事なかれ主義で、自分の立場と世間体を大事にする父親、何事にも無感動で、人生に退屈を覚えている母親、そしてただただ金と女を追い求める兄息子、無口で人に気兼ねさせる弟息子、このような構成メンバーの家庭を中心に展開するストーリーは、まるで典型的な現代家庭の悲惨な実状を暴露しているかのようです。
そんな中で三浦綾子氏はいつものように罪の問題を明らかにしていきます。「人間はすべて、罪を犯す可能性を多分に 持って生きている存在だよ」そして、そんな人間の中でも本当に悪い人間が栄えている現実を語りつつ、そのような者に何の罰も下されないことが、実は最も恐るべき罰だということを示しています。「いつか誰かの本に書いてあったんだがね。罰があたらないで、人間したいままに悪いことをしている状態が、最も恐ろしい罰だろうとね」
「ふーん。なるほどね。それ、わかる気がするわ。何事も起らず、悪をつづけていられるということの不気味さね、確かに不気味だわ。」ここでは悪人への神の正しい裁きがすでに行われていることが暗示されているのです。
そして、三浦綾子氏はこの作品の中で人生についての重要な問いかけを私達に投げかけています。
「人生は、いいことも悪いこともあるんだからね。明日に何が待っているかを、一喜一憂するというのでは、地に足をついた生き方は、できないことになると思うよ。・・・問題は、何が起きるかということに重点を置くのではなくてね。何が起きようと、とにかく、いかに生きるかという、生きる姿勢に重点を置くべきじゃないのかな。」「家庭は憩いの場所である筈だった。が、洋吉にとって、家庭はいとうべきところとなった。腹立たしく不愉快なところであった。いったい、人間はどこに身を置けば、安らぎを与えられるのであろう。」
「(神はあるはずだ)市次郎はそうも思うことがある。そして、そう思うことによって、ほっと安心することがある。もし、この世の最高の知恵ある者が、自分たち人間であったとしたら、何と心もとないことかと市次郎は思う。この地上で、最も偉いものがこの過ちに満ちた人間だとしたら、何と頼りなく侘しいものであろう、と市次郎は思う。」
特に最後の問いかけは最も重要なものだと言えます。地に足をついた生き方、そして本当の安らぎを得る生き方は、まさにこの「神」との出会いからもたらされることを三浦綾子氏は最も伝えたいのですから。 
死の彼方までも
今回は「死の彼方までも」(1973年発行)をご紹介しようと思います。この作品は表題作を含めた中短編集になっていますが、これは以前にご紹介した「病めるときも」(1969年発行)に続くものです。
今回は表題作についてのみ触れておきたいと思いますが、文庫本の解説を見るとこの書は「小説宝石」に掲載されたものであることがわかります。「小説宝石」は推理小説を掲載する雑誌であることから、三浦綾子氏は推理小説的な技法を用いて「人間存在の謎解き」に迫っています。ちなみに、「死の彼方までも」(69年10月号)以前に「小説宝石」に掲載されている作品は「どす黝き流れの中より」(68年11月号)と「奈落の声」(69年4月号)ですが、これらは両方とも「病めるときも」の中に収録されており、実に深く、重々しく、ドラマチックな作品です。推理小説好きな読者であれば誰でも、これらの作品に大いに引き付けられたことでしょう。
さて「死の彼方までも」ですが、この作品は三浦綾子氏が処女作「氷点」以来語り続けていた人間の「罪」というものを、また新たな形で私達に示してくれるものです。
まずは、表題のように「死の彼方までも」人を偽り、あざ笑う利加という人物を通して私達は人間の罪深さを思い知らされます。利加は癌で死んでしまうのですが、その死の床でさえ正直な人間になることができず、死の彼方までも人に復讐することを考え、そのための必要な手段を講じようとする恐ろしい女性なのです。しかし、実は私達も程度の差こそあれ皆等しく死ぬべき存在であり、本当はそれ故に正直で心優しい人間になるべき存在であるにもかかわらず、この利加のように「なんと底知れなく人間は悪いものであろう」と関係する人々から評されずにはいられない罪深い存在なのです。
そしてもう一人、この利加によって傷付けられる主人公の順子を通しても、私達は人間の罪深さを思い知らされます。彼女は「次々に現われるものに、・・・なんと意気地なく引き回されて生きていることだろう。こんなふうに、目の前のことにかき回されて、自分の人生は終わるのだろうか。」と自らの人生を省みていますが、最後には「利己心ゆえに人を信じ、利己心ゆえに人を疑い、利己心ゆえに人を憎んだ」と自らを評し、自らの存在を憎んでいます。
人を揺さぶる人も、人に揺さぶられる人も等しく罪人であり、どちらも罪の赦しが必要であることを三浦綾子氏はこの作品で語っているのですが、この書の最後には推理小説的な重要な謎が隠されています。それは主人公が最後に傍らに立ちどまり、しゃがみこむ「深紅のあおいの花」です。自らを憎んだ主人公が傍らにしゃがみこむこの花は、私達の罪を赦すための「イエス・キリストの十字架」を象徴しているのです。  
 

 

「命ある限り」 
最後のメッセージ
自伝エッセイ集『命ある限り』は、月刊誌「野生時代」に一九九五年から連載された内容をまとめて二冊に分けたもので、三浦綾子氏がパーキンソン病と闘いながら最後のメッセージを残したものだと位置づけられる。綾子氏の伝記は、実際には七部数えられるが、タイムラインでみると、三部作『道ありき』は綾子氏が伝道された前後から小説家として認められるまで、『道ありき』三冊の後が幼少時やキリスト者になる直前の内容を綴ったもので、『命ある限り』二冊が『道ありき』の第四部、五部のような形を成している。そして本作の最後<この多忙を極めた年の大晦日の夜、私は俄然三十八度の熱を出したのである。>という文章が事実上の絶筆と認められる。なお、<多忙を極めた年>とは一九八四年のことで、文章は一九九七年三月に発表されている。
綾子氏は肺結核、脊椎カリエス、直腸ガンなど病気との闘いを続けながら執筆生活を続けてきたが、一九九二年に難病パーキンソン病であることが判明。それ以来いよいよ創作活動が難しくなり、一九九七年から本格的な入院生活に入った。そして一進一退の中、一九九九年十月に七十七歳の生涯を終えた。本作を読むと、最後に近づくほど死や病との闘いを意識した文章が随所に見られ、非常に感慨深い。
綾子氏の結論
さて三浦綾子氏の意識を探る上で、いま注目したいのが、本書の二冊目、最後の二章の流れである。第十章「ちいろば先生を辿る旅」で綾子氏は、本論前回まで紹介していた伝記小説『ちいろば先生物語』執筆準備のため、その主人公であり綾子氏の恩師にあたる、榎本保郎牧師の足跡を辿ってアメリカに渡り、その死去の様子までを取材している。十一章「神の恵みの旅」で、綾子氏はアメリカに続けてローマに飛び、念願であったエルサレム巡礼を果たす。次に古い知己でありキリスト者かつ新聞記者である門馬義久氏の来訪を受けて、『氷点』『泥流地帯』『天北原野』など代表作に登場するゆかりの地を案内するが、そこで自らの作品をフラッシュバックのように振り返り、それぞれの作品に込めた思いを語っている。次にまた『ちいろば〜』の榎本牧師や『愛の鬼才』の西村久蔵氏、そしてこれらに登場する有名なキリスト者などについて語り、絶筆へつながっている。
戦前・戦中の自分を「石ころのような」人生と呼び、戦後のアイデンティティ喪失の中からキリスト教に出会ってアイデンティティの再生を果たした、代表的日本人としての三浦綾子が、最後に人生の結論であるかのようにエルサレム巡礼を果たし、またキリスト者としての証を綴った作品やキリスト者の知己を振り返って執筆を締めくくったというのは、実に象徴的に感じられる。
しかし最後に一つだけ疑問も生じてくる。いわゆるキリスト教にアイデンティティを移すことは、それまでの日本を全否定することにつながらないか? ということである。『命ある限り』は、敢えて言うなら人生の結論としてキリスト教に改宗し、エルサレム巡礼を果たすというストーリーである。しかし、現在の日本においてキリスト教人口があまりにマイノリティであること、また社会全体の流れが閉塞状況に向かっていることなどをみたときに、綾子氏のキリスト教オンリーのあり方が果たして正しいのだろうか? と考えざるを得ないのも事実なのである。
外せない疑問符
ここで改めて一言でいえば、三浦作品は証の文学であった。これまで本論では小説『氷点』、伝記小説『塩狩峠』、自伝『道ありき』、歴史小説『細川ガラシヤ夫人』、そして伝記『愛の鬼才』『ちいろば先生』などの三浦作品を紹介してきたが、これらは切り口こそ違え全て同じ原点、すなわち戦後日本人がいかにキリスト教と出会ったかを証そうとするものであったといえる。
「伝道のためでなければ文学を書かない」と三浦綾子氏は明言しておられたが、実際の作品を読むと、文字通りの伝道というより、実感としてのキリスト者の生き方にコミットする内容であることが分かる。キリスト者として生きることがいかに素晴らしいか、この感動を再発見し、恩恵として分かち合おうというスタンスである。つまり三浦作品は、キリスト教の正当性を証明しようとするよりも、個人の人生のアイデンティティ問題に関わる内容、意味ある生き方とは何かという訴えかけであった。しかし現実問題として、日本社会においてキリスト教が、三浦綾子個人においてそうである如く社会のアイデンティティを担い決定的な影響を与えているとは言い難い。ゆえに三浦作品は畢竟、外へキリスト教を紹介し伝道するというより、むしろ内部のリバイバルへの訴えかけへと向かわざるを得なかった。キリスト者が信仰生活を「守る」だけではなく、外に働きかけて、現代社会を実際に生み変えてみせなければならない、という訴えかけである。実はこのリバイバルが成功した時、はじめて綾子氏のキリスト教オンリーのあり方も正当性を得るのであって、現時点では、それは果たされていないと見るべきであろう。残念ながら、いまだ疑問符は外せないのである。
作家・三浦綾子の歩みを示す
『命ある限り』二部作は、三浦綾子氏が逝去の約三年前に、未完のまま終えた自伝であり、事実上の絶筆と認められている。それだけに、三浦綾子の何たるか、その本質部分を示す作品となっている。前回も紹介したように、本作の最後は、綾子氏が夫と共に宿願であったエルサレム巡礼を果たした(一九八四年のこと)時の様子、そしてキリスト教関係の知己や自らの書いた作品のハイライトを回想する形で締めくくられているが、これらはまさに綾子氏のアイデンティティに関わる部分であった。
改めて全体の流れを見直してみると、本作第一巻は『氷点』が朝日の懸賞小説に入選した瞬間から書き起こされている。その後、キリスト者の立場から文学作品を著す中で、取材での出来事、メディアとの関わり、夫が退職し夫婦で作家として自立した際の様子、そしてこれらに併せて教会生活での出来事が語られていく。第二巻も同じような内容が語られるが、第一章「苦難をテーマに」、第六章「激しき痛み」、第八章「死を覚悟して生きる」など章のタイトルからも分かるように、徐々に闘病生活や死への意識がメインを占めるようになっていき、クライマックスとして、先に述べたエルサレム巡礼と回想が語られている。
これに対比する内容として、以前書かれた伝記『道ありき』三部作は、本人が戦前熱心な教師だったころから書き起こされ、戦後のアイデンティティ喪失、キリスト教との出会い、そして『氷点』入選までが書かれている。『道ありき』がキリスト者である個人・三浦綾子の有り様を描いていたのに対して、『生命ある限り』はキリスト者である作家・三浦綾子の有り様を描いたということである。
キリスト者の個人としての生き方は、ある意味シンプルな求道生活がベースである。しかしキリスト者の信仰を活かしつつ作家として歩む場合は、社会との関わりが重要になってくる。メディアは諸刃の剣であり、どんなに良いものを書こうと心掛けても、思わぬ所で誤解を生んだり、人を傷つけることがあり得る。こと文筆によって生活の糧を得ている場合、キリスト者としてはその責任を感じずにはいられない。例えば恩師・五十嵐氏(『夕あり朝あり』の主人公)などからは、小説など書いては信仰を失うのではないか、と露骨に心配されたそうである。信仰を持った立場で、これを純粋に保ち、有機的に活かしつつ文学創作を続けていくのは、なかなか困難な作業なのである。
キリスト者としての自己証明
これに関連して、一九八五年に出された『ナナカマドの街から』という綾子氏のエッセイ集から、あるエピソードを拾ってみたい。
綾子氏はある時、奇妙な夢を見たのだが、夢の中で薄汚れた一軒の家を訪ねると、陰気な女性が「あんた、誰?」と、うさん臭げに聞いてくる。綾子氏は名刺を出したり、自分の書いた小説の題名をいろいろ挙げて自分が三浦綾子であることを証明しようとするが、彼女は「そんなものが、どうしてあなたが三浦綾子だという証拠になるのですか」と首を横にふり続ける。最後に綾子氏が聖書の言葉を「神は愛なり」「汝の敵を愛せよ」など口に出すと、ようやく三浦綾子であると納得してもらった。この夢について綾子氏は、「これは、キリスト信者である私の本質と深く関わるところであって、これをぬきにして、私自身を語ることはできないと、夢の中でも思っていたのだろうか。」と自己分析している。
また別のエッセイ集『夢幾夜』(一九七七年執筆)で紹介された夢も、同じくアイデンティティ的なものに関わる材料を示してくれる。
例えばある時夢の中で綾子氏は、真っ暗な、急な坂道を濁流に向かって転げ落ちていく。「あそこが地獄だ!」と直感し、もう駄目だと思ったとき、崖の途中で誰かにしっかりと抱きかかえられる。その人がイエス・キリストであった、という。この夢などは疑いようもなく、何も信じられず地獄へ向かっていた自分がイエスによって再生されたという、まさにその如くの意味である。
また綾子氏は共産主義に関わる夢も頻繁に見ていた。
同エッセイの別の夢の中で、綾子氏は、共産党員で立派な本を経営するK氏から、初対面で結婚を申し込まれる。結婚を受諾した後、よく話を聞いてみるとK氏は、本の置き場がなくて、書庫を作ってもらうために結婚するのだと言い、綾子氏はがっくりするが、それでも書庫だけは作ってやろうかなどと考えている。さらに別の夢の例として、ある時綾子氏は、戦前に勤めていた小学校の運動場でカール・マルクスをおんぶしてあげる。そこでふと綾子氏が「やっぱりマルクスは、キリスト教におんぶされなければ、駄目なのかしら」と言うと、マルクスが可笑しそうに笑った、というのである。
共産主義の創始者カール・マルクスは、同化ユダヤ人の出自であり、西欧のキリスト教的な文明社会のあり方に疑問を抱いて、無神論に基づく共産主義社会の到来を唱えていた。『道ありき』によれば、三浦綾子は戦後しばらく共産主義に浸って、神を信じない、すなわち虚無的な人生を過ごしていたという。
つまりこれらの夢を解釈するなら、まず結婚云々の夢は、綾子氏の、マルクス主義に影響されていた頃の自分に対する評価が示されていると思われる。書庫は、知性や知識の象徴であり、マルクス主義の本屋というのは、神を否定した人生の象徴であろう。それは知性・知識としてはステータスのある立場だが、神、すなわち根源的な愛を否定したことによって、非常に実利的かつ虚無的な人生に向かう。だから、結婚という人生の重大事において、面識もない相手と、本の置き場がないという実利的かつ虚無的な目的で結婚してしまうのである。次にマルクスを背負う夢であるが、綾子氏に背負われているのはマルクス主義に影響されていた頃の綾子氏自身であり、背負っているのはキリスト教によって再生した現在の綾子氏なのだ、と解釈できるだろう。
自らが何者であるか、何を出自とし、どこへ向かおうとするのか。綾子氏は、このアイデンティティの根拠として、キリスト教を選択した。そして綾子氏は、キリスト教に出会って再生を果たした人生、その素晴らしさを周囲に伝えたいという動機から執筆活動を続けていった。こうしたエッセイからも、また『命ある限り』の文章の流れからも、この原点が伝わってくる。
 
「ちいろば先生物語」 

 

「恩師」三部作のひとつ
本作品が書かれたのは一九八六年であり、三浦綾子氏の晩年の代表作となっている。これは、三浦綾子氏の恩師の一人である榎本保郎牧師の生涯を綴ったもので、同系列の作品として『愛の鬼才』(西村久蔵について)、『夕あり朝あり』(五十嵐健治について)があり、ほぼ同時期に書かれている。『ちいろば』はこの「恩師」三部作ともいうべきものの一つである。三浦綾子氏は一九六四年に四二才で文壇デビューを果たし、一九九六年まで文学創作活動を続け、一九九九年秋に多臓器不全によって死去されている。九〇年直前は、いよいよ綾子氏の闘病生活が過酷なものになってきた時期であり、死期を悟る中で、どうしても自分の恩師達について、作品として世に伝えておきたいという気持ちがあったのではないか。
さて三浦文学が多くの独創的な特徴を持っていることを、これまで何度か論じてきた。そのうち特に重要と言えるのが、三浦文学の「証の文学」そして「キリスト教と出会う日本人」という執筆姿勢である。そして、これらの要素は独立してあるのではなく、密接に関係し合っている。まずそれらのベースになっているのは、三浦綾子が通過した戦前戦中と、敗戦後の日本人としてのアイデンティティ喪失、そしてキリスト教に出会って新たな自分を見出したという経験である。その綾子氏が、正しい生き方、意味のある生き方とは何なのかを真摯に探し求めてきた自分の姿を、小説の形で表すことで、三浦文学が成立してきた。それをフィクションの形で表したのが『氷点』『ひつじが丘』などであるが、真実の生き方をテーマとする三浦文学は必然的に、その題材を架空のものではなく、実体験に基づいたものに求めるようになった。自分自身の人生を題材として書いたのが幾つかの自伝やエッセイ、そして他者を題材としたのが歴史小説や伝記小説である。実はキリスト教には、日常の生活の中での様々な出会いを「証」として共有する伝統があり、三浦文学はこれを文学創作に展開したものだった。ゆえに三浦文学は「証の文学」とも呼ぶことができる。
三浦文学の変遷
上記のような観点で三浦文学のクライマックスを挙げていくなら、まずデビュー作でもあるフィクション『氷点』(一九六四年)、ここで綾子氏は原罪というテーマを取りあげた。次に『塩狩峠』(一九六六年)、これは名前こそ違うが実際にあった、人命救助の殉教の話であり、最も初期の伝記小説とみなすことができる。次には自伝小説の代表『道ありき』三部作(一九六七年〜)、そして最初の本格的な歴史小説が『細川ガラシヤ夫人』(一九七三年)である。この後、これらの形式を取り混ぜる形で文学執筆がなされ、晩年まで続いている。敢えて言えば、初期は史実ではなくフィクション的に書いていた、これが本格的にノンフィクションとして確立したのが『細川ガラシヤ』の時である、ということである。
しかしこれらの作品群にはフィクション、ノンフィクションを問わず、一貫して「証の文学」という姿勢が貫かれており、両者の本質的差違は認められない。例えば歴史小説において綾子氏の描いた人物像は、無論、実際の史実とはある程度違うものであるといわざるを得ない。しかし綾子氏は、最も自らの琴線に触れ、私自身に良いものをもたらすものは何かという観点で材料を取捨選択し、主観的枠の許す限度いっぱいに、「良きもの」として、その人の人生を描いていることが読みとれる。そして、この「証の文学」が晩年に結実したのが「恩師」三部作ということになる。であるので、三浦作品を深く味わいたい方にはここに挙げた作品群をぜひ読んでみていただきたい。
もう一つの三浦綾子ストーリー
さて本作『ちいろば』は、「キリスト教に出会う日本人」の証としては典型的なものとなっており、三浦綾子氏自身の人生を想起させる内容が多い。綾子氏は、戦時中は日本の正しさを信じ切り、終戦と同時にガラガラと価値観が崩壊し、虚無的な人生に転落する。その後知己との出会いを得てキリスト教によって生まれ直した。『夕あり朝あり』にも、その三浦ストーリーが展開されていたが、本作は物語の前半分近くが終戦までの話に費やされ、その後、榎本保郎氏が劇的にキリスト教に改宗し、二年後には精力的に牧師として開拓伝道をはじめる。またその姿にかぶるように、日本各地で様々なキリスト者によって伝道が進んでいく様子が描かれており、さながら日本全土をキリスト教に改宗するかのような勢いで描かれている。三浦ストーリーが社会・国家スケールのものとして展開されているのである。
なお、「ちいろば」の意味は、榎本牧師が神学生時代に、イエスがエルサレムに入城する際、立派な馬ではなく小さなロバにまたがっていった逸話から来ており、才能も実力も何もない自分だが、神の命ずるままに、そのみこころを成していきたいという決意をして、榎本牧師自ら「ちいろば」と名付けた小冊子を作っていたことから来る。
ちいろばとアシュラム
前回、本作『ちいろば』がキリスト教に出会う日本人の典型であることを説明した。
しかし一つ注目すべきこととして、この物語後半では、「ちいろば」こと榎本牧師が展開していた、アシュラムという運動に焦点が置かれている。三浦作品の一つの特徴として、単にキリスト教の素晴らしさを訴えるだけでなく、現状のキリスト教会が抱える問題に対してもシビアな目を向け、イエス・キリストの愛を実践的に伝えるという、教会のリバイバル運動を志向していたことが挙げられる。アシュラムへの言及は、そうした意味合いを持っていると考えられるのだ。
アシュラムは強いて訳せば「退修会」という意味で、簡単に言えば祈りの集いである。これは名高い宣教師のスタンレー・ジョーンズ博士によってはじめられたもので、牧師の説教を聞くことが主ではなく、一人ひとりが聖書の言葉を読み、深い瞑想と祈りの時間を持つというものである。榎本牧師はこのスタンレー博士のアシュラムに参加し、これこそがいまの日本のキリスト教に必要な内容だと確信し、三〇代という牧師としてはひよっこの年齢にも関わらず、この祈りの集いを精力的に展開していく。この集いは大きな反響を呼び、「保郎は、今後自分は、二度、三度、いや一生、この方法を日本のキリスト教会に広げる運動を続けるに違いないと思った」とのことである。
アシュラムは成功したか
では榎本牧師のアシュラムは成功したのだろうか。アシュラムによってキリスト教をリバイバルすることはできたのか。その答えはとりあえず保留のまま、というところであろうか。晩年、榎本牧師は一般教会を抜け出て、一九七五年にアシュラムセンターを設立し、七七年七月にはブラジル伝道へ向かうが、持病が悪化して果たせず、内臓出血によってロサンゼルスで没した。壮絶な人生である。この人生に触れて熱烈なキリスト者になった方々もあり、今も精力的に活動を続けているのは事実である。三浦綾子がこの本を残したことで、榎本牧師の人生は半永久的なものに昇華したともいえる。
榎本牧師の原点もまた、三浦綾子の志向する、素朴な神との出会いなのだといえる。しかし、キリスト教は厄介な理論をもっており、プロテスタントにおいては人間が神に出会うことは基本的にできない、という捉え方がある。アシュラムはこの観点から、牧師や教会など、人間的なものを通してではなく、聖書のみ言という絶対的なものを通じて神に出会うべきである、という切り口でリバイバルを進めていると考えられる。しかし聖書を読んだ後、祈るのは個人であり、そこにどういう個人の主観が入るのかを客観的に正すことができない、というジレンマを抱えている。確かにその個人個人は祈りによって恩恵を得たと感じるかもしれないが、それが主観の域を超えないということである。きついことを言えば、全くの思いこみであり、分派や反社会的方向に向かう可能性は、ゼロではない。
いまだ外せない疑問符
前回説明したように、『ちいろば』には、主人公である榎本保郎牧師の劇的入信と伝道、また彼の同志たちの働きによって様々な奇跡的証と伝道が展開される様が描かれている。榎本牧師の開拓伝道も、もとは神学生時代に信仰の訓練として山間での寮をはじめたことから始まっている。この期間に、知り合いの宣教師夫妻からいただいた作業ズボンの中に偶然、一ドル紙幣が入っていた。これを資金に、子供向けの小さな山間学校をはじめたところ、親たちから熱心な願いを受けて継続・拡大し、やがて寄付を募って保育園兼教会をつくるようになった。また、例えば榎本牧師がキリスト教に入信する切っ掛けをつくった、戦時中の友人・奥村光林の話も出てくるが、彼は戦後、千人の村をまるごとキリスト教に改宗するという奇跡的伝道を成し遂げる。このまま行けば、日本が丸ごとキリスト教になってしまうかのような勢いである。
しかし現実はいささか厳しいようだ。キリスト教はカソリック、プロテスタント合わせて日本の人口の一%に満たないというデータがある。特に一九六〇年代以降は、アメリカにおいてキリスト教理念を相対化するカウンター・カルチャー的な流れがあり、今も米国の思想的また社会風潮をつくっているといっても過言ではない。このあおりを受けて、日本はアメリカ以上にキリスト教に対する相対化が進んでしまった。いま日本では、クリスチャンというものは古くさい伝統道徳に過ぎないとして排除し、あるいは関わるにしても神を信じず人格的にイエスの人生だけを尊敬する、といった捉え方がほとんどなのではないか。
こうした状況を、ポストモダンと呼ぶ。モダンは何かしら時代をリードするイデオロギーがあり、これによって理想的な社会などを構築していくことが可能である、という雰囲気をもった時代である。しかし、そうした真に正しい価値観など結局ないのだ、という深いあきらめの時代、これがポストモダンである。キリスト教人口の伸び悩み、また信仰の変質というものは、キリスト教がこのポストモダンの時代に対応しきるには何かが欠けている、ということを端的に示している。
三浦綾子を含めた現代のキリスト教は、具体的には、共産主義のように社会を具体的に変えることを切り捨てた、神本主義のような限界点があったのではないか。申し訳ないが、現代の風潮を見るにつけ、筆者としてはこう疑問符を置かずにはおれない。
神を信じる人生を選ぶ
「証の文学」たる三浦作品において、信仰の問題は、神が実在するかどうかというよりも、神を信じる人生を選択するかどうか、という選択の問題に比重を置いて描かれることが多い。例えば本作『ちいろば〜』でも、後宮(うしろく)俊夫・日本キリスト教団議長(一九八八年まで在任)が、ちいろばこと榎本保郎牧師の人生に触れて信仰を持つくだりが描かれる。後宮俊夫氏は、榎本牧師の開拓教会における最も初期の女性信者の息子で、真珠養殖会社を経営していたが火事に遭い、以来保郎牧師の教会活動を手伝うようになる。しばらくして保郎氏が企画した一週間の春期農民福音学校が始まったが、全く生徒が集まらず、宛名書きを手伝っていた俊夫氏が急遽、生徒役を務めることになった。ここで講師に立った舛崎(ますざき)外彦牧師と、保郎牧師自身の伝道の証を聞いた俊夫氏は、感動と共にこう内省する。<(あの二人を、あのように喜ばせ、生き生きと奮い立たせ、動かしているものは何や。それこそがキリストではないやろか)>。そして、自らに新しい生き方の可能性を見出す。<(信じてみよう……神はいるか、いないか、その何れかや)いないと信じて生きるのも、いると信じて生きるのも人生なら、どちらの人生に賭けるべきか。いないと信じて生きる人生に平安と希望があるかどうか、榎本保郎に見る活力に満ちた人生、舛崎外彦に見る喜びにあふれた人生、それが欲しければ、いるほうに賭けるべきだ。俊夫はそう思った>(文庫版p474)。そしてその夏に俊夫氏は正式に入信し、牧師の道を歩むのである。
人生を捧げる価値のあるもの
あるいは保郎牧師においても、そうした転機が描かれている。終戦後、喪失感と荒んだ心にさいなまれていた保郎氏は、戦地で出会ったクリスチャンの友人に影響されて、『浦上切支丹史』『長崎二十六聖人の殉教』という本を読む。ここに描かれた、十代前半にして殉教した幾人もの少年たちの姿に、保郎氏は自らの半生を比較して、<これだ、ここにこそ自分のいのちをささげるものがある>と、涙ながらにキリシタンになることを誓ったという(文庫版p272)。
ここに一つのキーワードがある。すなわち、保郎氏も、前述の後宮俊夫氏も、また三浦綾子氏も、自らの人生を捧げるに足る何かを探し求めていた、ということである。これらいずれの人々も、戦後という日本のアイデンティティ喪失期にあって、そうした人生を捧げる価値あるものの存在を信じられなくなっていた。しかしキリスト者の生き様に出会い、このような生きがいある人生を持つためには、自らもキリスト者となり、神を信じる生き方をする以外にない、このように結論し、キリスト者としての人生を選択したということなのである。
三浦文学の「挑戦」
今回みてきたように、三浦文学においては、神の実在といった神学や哲学上の話はひとまず置いて、神に価値観を置く生き方、その生きる手応えというものに非常にコミットしている。それは、終戦後、人生に於ける喪失感の極限を通過し、キリスト者としての人生に生きがいを見出した、三浦綾子氏の半生と切っても切り離せないものとして文学形成がなされているからである。
しかしそれは時として、ある深みに踏み込むことがある。
『ちいろば〜』文中で綾子氏は保郎氏に、このような言葉を妻に向かって語らせている。<こないだもなあ、こんな短歌見て、ぎくりとしたわ。 神の御子(みこ)けだもの小屋に生れしさま 炉辺(ろべ)にぬくぬくとゐて吾は読む という歌な。ほんまやなあ思った。……ぼくたちは何のええ行いがなくとも救われる。けど、救われたあとは、それでええのやろか。なにもせえへんで救われたからというて、救われたあとも何もせえへんでええのやろか。救われた感謝の表れが、何か出てきて当然やないのか>(文庫版p667)。あるいは実話から採ったのであろうか。
実はこの話は、キリスト教義における行義・信義の問題に踏み込んだ内容である。中世カトリックが権威主義に流れた時代、聖書の学びを中心として信仰刷新運動が展開され、プロテスタントが形成されていった。この第一人者であるルターは、新約聖書の「パウロ書簡」を中心に信仰義認説を構築した。これは、ルターが人間の罪の問題を深刻に考え抜いた末の悟りであり、人間は善行ではなく信仰によってのみ義とされ、人間を義とするのは神からの一方的な恵みである、と考える捉え方である。この信仰義認説に従って、ルターは後年、同じく新約聖書に納められている「ヤコブ書簡」を攻撃、聖典から外そうとする排斥運動を展開している。実は、「ヤコブ書簡」はまさに榎本保郎が実感として語った、善行の必要性を訴えているのである。
つまり保郎氏、そしてこの実話?を敢えて採用した三浦綾子氏は共にプロテスタントの伝統的信仰義認に対して、キリスト者の実感として、やはりキリストの愛を実践し、生活の中で現していかなければ、真の意味で救われたとは感じないではないか、と主張しているのである。ここに、三浦文学の非常に挑戦的な姿勢というものを見出すことができる。三浦文学が単なるキリスト教伝道を旨とするのではなく、リバイバルの訴えかけと捉えることができる由縁である。 
 
「愛の鬼才」 1

 

恩師それぞれの半生記
前回まで扱った『夕あり朝あり』と同系列の作品として、今回取り上げる『愛の鬼才』、そして『ちいろば先生物語』が有名だ。同系列というのは、この三作品は、三浦綾子の人生を決定づけた三人の恩師のそれぞれの半生記なのである。
『夕あり朝あり』は、信仰初期に病床での励ましをいただいた、白洋舎創立者でもある五十嵐健治氏。『愛の鬼才』は、その実践的な愛と人格によって綾子氏を具体的なキリスト教受洗へ導いた、信仰の母親とも言うべき西村久蔵氏を描いている。『ちいろば先生』の榎本保郎牧師も、後年の綾子氏の恩師である。
この三作品をなぜ三浦綾子が書いたのか。もちろん、恩師の人生を小説家である自分が書くべきである、と考えたのは当然のことであろう。
『愛の鬼才』で、綾子氏は西村久蔵との最初の出会いについて語っている。病床で同僚の前川正からの真摯な伝道を受けながらも、綾子氏はどうしてもキリスト教の信仰に対して一歩踏み切れないものを残していた。そんな折、西村久蔵の見舞を受けた綾子氏は、「人に施しをもらうと心が卑しくなる」として見舞い品の洋菓子を突っぱねる。それは言ってしまえば貧者病者のひねくれなのだが、しかし久蔵氏は磊落(らいらく)に笑い、「太陽の光を受けるのに、しゃちこばる必要はない」と諭す。その姿勢に綾子氏は、療養生活が長引くにつれて心がゆがんで愛を素直に受けられなくなっている自分の愚かさを知り、西村氏から何とも言えない暖かさと慰めを見出したことであった。
三浦作品に込められたメッセージ
さらに同書で綾子氏は自身のキリスト教受洗の際の出来事に触れ、西村久蔵と自らの関わりについて、このように語っている。
<このような先生の愛に触れ、私は先生に会った年の七月五日、小野村林蔵牧師の手によって洗礼を授けられた。明日からギプスベッドに入るという日の病床受洗であった。小野村牧師の痩せた手が私の頭に置かれた時、私は深い感動に涙が噴きこぼれた。銀の洗礼盤を持った西村先生の頬にも、大粒の涙が伝わるのを見た。その席で西村先生は、私のために祈ってくださった。その祈りの言葉は、嗚咽の中に幾度か途絶えた。
「この病床において……この姉妹を……神のご用にお用いください」 祈りの中にこの一言が、今も私の耳に残っている。病床においても、用いられるのだという喜びが、この一言によって湧いたのだ。癒されるにせよ、癒されないにせよ、病床が働き場であるならば、自分の生涯は充実したものになると、私の心は奮い立ったのである。西村先生の生き方にわずかでもふれた私は、キリスト者とはすなわち、キリストの愛を伝える使命を持つ者であると、固く信ずるに至った。その信じた延長線上に、現在の小説を書く私の仕事もあることを思わずにはいられない>(新潮文庫版『愛の鬼才』p22)
同書では三浦綾子の西村久蔵との交流は一年四ヶ月とあり、翌年の七月西村氏は病没しているから、四ヶ月の交流で綾子氏は心を開かれ、受洗に至ったことになる。久蔵氏が、まさに母のような立場で、綾子氏の人生に信仰と希望とを生み育てたことが伝わってくる。
さらに注目すべき事として、綾子氏はその姿勢に接し救いを得た強烈な体験から、キリスト者はキリストの愛を伝える者である、との確信を得たという。ここには、三浦文学を読み解く重要なメッセージが含まれていると思われる。ここで敢えて「キリスト者とはかくあるべきもの」と言っているのは、そうでないキリスト者が大勢いることを受けてのことではあるまいか。つまりこの信念表明は、いわゆる、キリスト教の教えのみ学ぶが伝道をしない学者然としたキリスト者たちを対置してなされている、ということである。ここに、綾子氏がなぜ『夕あり朝あり』『愛の鬼才』『ちいろば先生物語』を書いたのか、単に恩師に対する情愛と言うよりも、もっと深い意味づけというものを読みとることができる。
現代キリスト教会への復興運動
翻ってみると、『夕あり朝あり』は単なる白洋舎の成功談ではなく、その中心に貫かれた信仰をずっと追いかけている。また『ちいろば先生』の榎本牧師もやはり、アシュラムという祈りを中心とした信仰復興運動を行い伝道半ばに海外で没した、実践的な人生の典型であった。
この極めて実践的なキリストの愛のありようを恩師として仰ぎ、文学の題材として好んで取り上げた三浦綾子の文学は畢竟、伝道=キリストの愛を伝えることの情熱を失いかけた、悩める現代キリスト教会への復興運動なのだと位置づけられる。同『愛の鬼才』あとがきにおいても解説者によって「教会を母として持たない者は、神を父としてもつことはできない」というキプリアヌスの言葉が紹介されているが、三浦綾子はキリスト教の教えを伝えるというより、教会生活に目を向け、キリストの愛を伝える生の人生を訴えていたのだと言えるだろう。
行動の人、西村久蔵
『愛の鬼才』主人公の西村久蔵は、キリスト教の信仰を行動に直結させる、徹底した行動の人として描かれている。久蔵氏は一九一五年(大正四年)、十八才の時に受洗している。その当時はキリスト教は耶蘇と蔑まれ、嫌われている時代だったが、久蔵は堂々と当時の中学校にパンフレットを持ち込み伝道を開始する。当然、知人から「耶蘇」とあざけられることになるが、聖書のマタイ伝のイエスの言葉を胸に思い浮かべて、自らがイエスや預言者と同じ苦難を分かち合うことに、深い喜びを感じたとある。その姿にふれて、母親も、続いて父親も、数年後には篤実なキリスト教信徒となっていた。十代にして、当時の環境下で、ここまでの行動を起こせたというのは驚きである。
祖父とのやり取り
さて西村久蔵の祖父である四国高松の西村真明は、儒学者・広瀬淡窓門下の有名な秀才であり、政界にも権力を持っていた。また祖父は大変一本気な性格であり、キリスト教も嫌っていたため、久蔵の両親はこの祖父の怒りをかうことを恐れ、一家のキリスト教信仰については黙っていた。しかし久蔵が二十才のとき、祖父のもとでしばらく過ごす機会があり、久蔵は隠しきれず信仰を証すこととなる。
当然、真明は烈火の如く怒り、それから十日間、改宗せよとの半ば脅迫のような勧告に始まって、教理について、人生への姿勢、先祖への姿勢など、ありとあらゆる問いかけが続く。「神は創造者だというが、何の目的をもって人間を造ったのか」「聖書はいつ、誰がどこで書いたのか。誰かの作り話ではないのか」「聖書の最も重大なる教えは何か」「罪とは何か」「なぜ二千年前に十字架にかけられたそのことが、お前の救いと関わりがあるのか」「天皇に忠義であることとキリストを信じることは相反しないのか」「自分が死んでも死者や祖先を祀ってはくれないのか」などなど。
久蔵はその一つひとつに諄々と答えていく。ついに祖父・真明はこう尋ねる。
「お前は、この十日間ただの一度もわしの質問に答えられなかったことはない。わずか二十歳のお前が、受洗して二年だというのに、そうした知恵をどこから得たのか」(新潮文庫版『愛の鬼才』p105)
そして祖父は快く久蔵の入信を許し、それから久蔵を人々に紹介しては「この孫は本物のヤソぞ」と誇ったという。
祖父・真明は孫を「本物」と誇った。真明は当初、自らが儒学を真剣に学んできたその姿勢に頼み、久蔵を改宗させることを試みた。しかし孫の真理を求める姿勢が、あるいは自分以上に真剣なものであることを見極めた。久蔵が本物であることを見抜いたのである。
三浦綾子の焦点
さてこうしたエピソードから分かるのは、久蔵が徹底した行動の人であり、またどのような環境においても迫害や対決を恐れない基本姿勢を持っていた、ということである。
祖父との対決を乗り越えたことによって、久蔵は一つの大きな殻を破り、生涯キリスト者たるの自覚を持ちえたものと思われる。信仰ゆえの迫害や対決に対して逃げない姿勢が信仰を磨き上げ、信仰者として、一つの自立の域にいたらしめたということである。これは、彼の両親が事が大沙汰になるのを恐れて信仰を隠そうとしたのに比して、対照的な姿勢である。もし彼が両親の言を入れて信仰を隠し通していたなら、後の彼の人生はなかったであろう。
三浦綾子は、この西村久蔵の逃げない姿勢、実践的な姿勢に、非常に共感するものをもっていたと思われる。実はこの後のストーリーで、大戦中に日本のキリスト教会が神社崇拝を認め、結果的には戦争にも賛成し、久蔵氏もまた召集に応じるなどして、終戦後に、これらのことに対して悲痛な悔い改めをするという下りが続く。戦時中に、信仰と信念を貫けず現状になびく行動をとったこと、つまり逃げてしまったことが大きな過ちであった、というのである。
このように読んでいくにつれ、三浦綾子がこの本を通して訴えたかったことが焦点を結んでいくように思われる。『愛の鬼才』の最初で、綾子氏は久蔵氏を通して「キリスト者とはキリストの愛を伝える者のことである」との確信を持った、と一つの宗教的原体験を語っている。これは信念が行動に結びついており、両者が矛盾しないことを意味する。その現れとして、「逃げない」姿勢があるのである。
このように見ていくと本書には、現代のキリスト教会が教勢において伸び悩み、様々な問題を抱えているのは、どこかで「逃げる」姿勢をとってしまったのではないのか、との問いかけが込められていると言わざるを得ない。場面場面を追うごとに、やはりそのように結論せざるを得ないのである。
西村久蔵の歩んだ道
『愛の鬼才』主人公の西村久蔵は二十六歳の時、札幌商業に教師として勤務する。家の経済的事情から仮に選んだ職であったが、その後、十三年に渡り教鞭をとることになる。
当時の札幌商業は、他の学校を退学になった生徒の受け皿になっていた。校舎すらなく、北海中学の空いた教室を借りて使う状態であった。
生徒は時に校舎のトタン屋根を踏みならして騒ぐほど荒れており、教師たちも半数しか出勤しない有り様であったが、久蔵は率先して指導に乗り出し、生徒たちを激しく叱咤した。体を張って、時には涙しながら生徒を叱る中で、叱られた生徒たちは西村久蔵の心酔者となり、「兄貴」と慕うようになった。さらに、ある生徒の死をきっかけに、久蔵は課外授業として聖書を教えるようになった。
また有名な講談というものがある。久蔵は同僚が欠勤した際に、進んでその授業の穴埋めに行き、代わりにスティーブンソンの『ジキルとハイド』やディケンズ『クリスマス・キャロル』、『清水の次郎長』まで語って聞かせた。久蔵の担当科目は経済と歴史だったが、HGウエルズの『世界文化史大系』や河上肇『貧乏物語』など幅広い教材から魅力的な講義をおこなっていた。しかし人間のなんたるかを生徒に理解させるために、科目を超えてこうした「講談」を行うようになったのである。
そうした中で校風は変化し、生徒の成績も飛躍的に向上していった。いつしか札幌商業は北海道随一の名門校となり、体育部も全国大会で活躍するようになった。これらの精神的基盤を築いたのが西村久蔵だったと、多くの証言が語っている。久蔵は野球部顧問なども歴任し、「野球で勝ったと言っては泣き、負けたと言っては泣いた。生徒が病気になったと言っては泣き、治って復学したと言っては泣いた。教え子が良いことをしたと言っては泣き、悪いことをしたと言っては泣いた。実に吾等の兄貴は涙の人であった」(新潮文庫版『愛の鬼才』p152)と、教え子の一人は語っている。
さて次に久蔵が始めたのが、禁酒運動である。当時、親の大酒のために生徒が学校を辞めたり、身売りを強要されそうになり入水自殺をした娘があったためである。久蔵は札幌の繁華街に立ち、路傍演説をおこなった。多い時には五百人以上の通行人が足を止め、その演説に聞き入ったという。
あるとき一人の男が、自分のただ一つの楽しみである酒をやめろというのか、それが悪いのか? と食って掛かった。久蔵は大音声で「悪い!」と答え、はらはらと涙をこぼす。呆気にとられた相手に、人間は酒を飲むことだけが楽しみだとと言ってはいけない、と両手を握りしめる。妻はいないのか、子供はいないのか、病気ならば今すぐ一緒に診療所へ連れていこう、と畳み掛けるように問う久蔵の姿に、その場で酔漢は禁酒を決意し、久蔵の禁酒会員となる。このような姿勢が久蔵の行動には一貫していた。まさに久蔵は本の題通り、涙という特異な才能を持つ、愛情の鬼才であった。
久蔵の歩みを支えたもの
西村久蔵の家は貧しい牛乳配達店であった。大正一五年頃の不況の中で、久蔵の弟・真吉は、売れ残った牛乳で洋菓子を作ってはどうかと発案する。西村一家は多額の借金により「洋生のニシムラ」を開店するが、当時としては破格の値段とおいしさによって一気に有名店となり成功していく。最初は素人の発案に過ぎなかった洋菓子店のアイディアが単なるアイディアで終わらなかったのは、当時洋菓子が庶民の手に届かない高級品であり、これを庶民のものにしたいという理想・情熱に支えられてのことであった。『夕あり朝あり』の白洋舎も、「人様の垢を洗濯して喜ばれたい」という利他的精神によって事業が成功していったが、ニシムラ洋菓子店も同様であった。
ある時、上野勇次郎というクリスチャンの青年が就職進路に悩み久蔵に相談に来た。彼の悩みをじっと聞いていた久蔵は、『ジョン・ワナメーカー伝』という本を彼に手渡す。ジョン・ワナメーカーは百貨店を創設したアメリカ人であり、この本には「真のサービス」「市民に仕える」「庶民に喜びと信用を与える」などキリスト教精神に則った教えが書かれてあった。驚喜した勇次郎は何度も頼んでニシムラの一員となり、生涯、店のために尽くした(『愛の鬼才』p219)。
このような西村久蔵の人格や理想によって、ニシムラには多くの人材が集い、これがさらに事業を支える形で、大きく発展していったのである。
このように、西村久蔵の人生における、教育面や事業面での歩みを追うなかで、そこに貫かれた一つの発展・成功の法則をみることができる。久蔵の様々な情熱と創意工夫というのは、利他的精神から自然に生じたものであり、その精神ゆえに大きな実を結んでいった、ということである。
霊的現象と西村久蔵
さて西村久蔵は、霊的にも何か感性の鋭いものを持っていたらしく、『愛の鬼才』にも幾つかの不思議なエピソードが紹介されている。
まず大正四年に、久蔵がキリストを信じるようになった事件である。そのころ久蔵は、中学での留年や友人の死などを経験して内的生活を深めるようになり、知人宅のキリスト教求道会に参加するようになっていた。ある嵐の晩、高倉徳太郎牧師の講義を聞きながら、久蔵はある神秘的な体験をする。この時のことを久蔵自身がこのように語っている。
<その晩はイエス・キリストの十字架について、訥々とどもりながら話されました。(略)そして十字架上のイエスの痛々しい姿が、私の心の目に、はっきりと映し出されたのです。その時私は、この神の子を十字架につけて殺したものは人類の罪であり、その罪のさばきをあがなうために、罪なきイエスが、苦しみ、捨てられ、死にたもうたという、それまで何度が聞いた話が急転しまして、私、即ちこの西村という汚い罪人の犯せる罪や、心がイエスを殺したのだ、下手人は私であるという殺人者の実感、しかも、わが救い主、わが恩人、わが父を殺した恐ろしい罪をわが内に感じて、戦慄いたしました。(略)その晩はまんじりともせず、炬燵に足を入れて背を丸めながら、布団で涙をぬらしつつ三時頃まで祈りました。主イエスにお詫びしたのです。この殺人罪、主を売り、救い主なる恩人を殺した己が罪を主の潔き血によって許して頂くほかに、生きる道がなかったのでした>(新潮文庫版『愛の鬼才』p73)
翌早朝、久蔵は高倉牧師に受洗を申し入れ、次の日に受洗した。
また大正一〇年頃、小樽高商の学生時代に別の霊的体験をする。風邪を引いて寝ていた久蔵は、家族の苦労を思い真摯に祈り始める。
<と、突然、何か故知らぬ力が久蔵の体に加わり、体がぴょんぴょんと兎のように跳ね始めた。これはどうしたことかと驚いて、とめようとするがとまらない。とまらぬままに久蔵は祈り続けた。すると、今までそこにあった窓も取り払われ、校庭の木の下を歩むイエス・キリストの姿がありありと見えた。その姿は、絵にも彫刻にも見たことのない、実に光そのもののような清らかな姿だった。>(『愛の鬼才』p116)
また昭和五年、公園建設事業中に、作業員が巨大な石碑の下敷きになるという事故が発生する。一人は即死し、もう一人を久蔵らが救出した。その死者の血の付いたシャツを保管しておいたところ、数日後の集会中に、シャツからうめき声があがる、という事件があった。(『愛の鬼才』p208)。
霊的実感を認める基本姿勢
さてこうした逸話はどのように捉えておくべきだろうか。誤解や論争につながりやすいため、久蔵はこうした体験を多くの人に語ってはいないことを、三浦綾子も紹介の際に強調している。
久蔵は十字架について「私がイエスを殺した」という生々しい実感、罪悪感をもったというが、これは実は正統なキリスト教とすこし違う。罪深い私、このままでは神からの罰によって死ぬしか私というものがあり、これを神が主体的に人間として顕現され、十字架にかかってくださった。そのことによって神が人間を許すということが表示されたのだ、これが神の聖なるご計画なのだ、というのがキリスト教の伝統的教えであり、これに対してさらに罪悪感を感じるというのは、神のなさることに人間の意見を差し挟むようなもので、不敬である。
また、基本的にはイエス死後しばらくして啓示のようなものは止まり、後は聖書のみが神を知る手だてとなった、というのがプロテスタントの伝統的スタンスである。つまりこうした霊的体験は、本人の「思いこみ」であり、正統的なものと認められないのである。
しかし久蔵本人において、実際にこうした宗教的原体験が、信仰を深め、聖書の言葉を理解する大きな助けとなったのは事実である。三浦綾子も、誤解を避けたいと言いつつも、これらが極めて重要な原体験であることを隠していない。教えは単なる教えではなく、生活のなかで実感を伴った、リアリティでなければならないという信念が、ここにも見られると思わざるをえない。霊的実感というべきか、そこには、実践的生活の中で、なにか五感でもまざまざと認識できるような、そうした確かな手応えと共にあるもの、それが真の教えである、というポリシーがあったと考えられるのだ。
いわゆる、宗教とはこうした霊的現象と切り離せないもので、教え以外のこうした実感と深く結びついたものなのだということに改めて気付かざるを得ない。
誤解を避けるためにあまり周囲に言うことはしないが、西村久蔵も、そして三浦綾子も、祈りと結びついた生活の中において、こうした霊的手応えというものが根底にあった。それは教え云々よりキリストの愛の実践に重きをおいた三浦綾子の文学の基本姿勢とも矛盾するものではなかったと思われる。
西村久蔵と三浦綾子
今回は『愛の鬼才』で語られる、恩師・西村久蔵と弟子・三浦綾子の関係を追ってみたい。
昭和二七年、三浦綾子が堀田綾子であった頃、脊椎カリエスの療養中に西村久蔵から初めての見舞を受けた堀田綾子は、洋菓子の社長がお見舞い品としてシュークリームを携えてきた事に反発し、「人からもらうことに馴れると人間が卑しくなる」として失礼な断りかたをした。それに対し久蔵はこう接する。
<他の人なら、必ずやむっと顔に出すところであろうが、先生は違った。私の言葉を聞くと、大きな声で磊落(らいらく)に笑い、「ハイハイわかりました。しかしね、堀田さん。あなたは太陽の光を受けるのに、こちらの角度から受けようか、あちらの角度から受けようかと、毎日しゃちこばって生きているのですか」と尋ねた>(新潮文庫版『愛の鬼才』p18)
その姿勢に綾子氏は、療養生活が長引くにつれて心がゆがんで愛を素直に受けられなくなっている自分の愚かさを知り、西村氏から何とも言えない暖かさと慰めを見出したのであった。その頃の西村久蔵の愛情溢れた様が次のように描かれている。
<その翌年の七月、先生は亡くなった。その亡くなるまでの一年四ヶ月、先生は、初めの日に約束されたように、親身になって私をいつくしんでくださった。来るたびに見舞の品を持参された。三人部屋の時は三人分の、六人部屋の時は六人分の品を携えて来、同室の一人一人にもやさしい言葉をかけられた。ある時は、鍋物を鍋のまま、こぼさぬようにそろそろと運んできてくれたり、正月には正月料理を運んでくれたり、痰壷の汚物を捨ててくれたりさえした>(『愛の鬼才』p19)
西村氏はまさに肉親のような情で堀田綾子に接し、彼女の心を解きほぐしていったのである。
得難い師弟関係
西村久蔵は単に愛情を注ぐだけでなく、教理面でも具体的に、また厳格に堀田綾子を指導した。
札幌商業で教師を十三年勤めた西村久蔵氏は、キリスト教の教えにおいても良き導き手であり、綾子氏も得難い熱心な弟子であったと思われる。綾子氏と西村氏の師弟関係について、当時の様子を伝える北一条教会の婦人伝道師からの手紙はこのようである。
<わたくしがとりとめもない質問をくり返しているところへ、西村先生が何か風呂敷包みを持ってそそくさと入ってこられました。その時のあなたのパッと輝いた顔。先生はわが家の者でも入院しているように、あなたの床頭台の戸を開けると、「ああ食べてあるね」とおっしゃりながら、持っていらした包みから小丼を出して、何やら説明されて、空になった瀬戸物と交換されて、やおら椅子にかけるといきなり聖書を取り出して、「ロマ書何章」とか言われ、あなたも枕元の聖書を手に取られ、そのまま聖書に突入し、わたくしは傍であっけにとられ、なす術もなく呆然と見守るばかりでした。そして、西村先生の伝道の姿勢に強く打たれたことでした>(『愛の鬼才』p20)
西村氏の師としての姿勢にも驚かされるが、これを熱心に学ぶ綾子氏もまた、得難い弟子であった。この師弟は強い絆で結ばれていたといえる。
綾子氏は西村氏と出会ってから四ヶ月で受洗にいたる。この時も、洗礼を授ける小野村牧師の隣に西村氏がおり、その席で涙と嗚咽をもってこのように祈っている。
<「この病床において……この姉妹を……神のご用にお用いください」 祈りの中にこの一言が、今も私の耳に残っている。病床においても、用いられるのだという喜びが、この一言によって湧いたのだ。癒されるにせよ、癒されないにせよ、病床が働き場であるならば、自分の生涯は充実したものになると、私の心は奮い立ったのである。西村先生の生き方にわずかでもふれた私は、キリスト者とはすなわち、キリストの愛を伝える使命を持つ者であると、固く信ずるに至った。その信じた延長線上に、現在の小説を書く私の仕事もあることを思わずにはいられない>(『愛の鬼才』p22)
振り返ってみれば、三浦文学の中核にはキリスト教の殉教の精神、己を犠牲にして他のために尽くすという、利他的精神の極地が描かれている。これは西村久蔵が生涯において示した利他的精神とつながっている。恩師の実践的な愛を受け継いだ結果、西村久蔵の正統的な弟子として、作家・三浦綾子の業績があった。『愛の鬼才』から、こうした感動的な事実が分かるのである。 
 
「愛の鬼才」 2

 

西村久蔵(1898-1953)はキリスト者で、北海道の人。私立札幌商業学校でも教鞭を取ったり(1923-1936)、道議会議員になったり、事業を興したり、キリスト村を作ったり、といった人です。ちなみに、札幌商業は現在の北海学園札幌高等学校。
さらにちなみに、久蔵の父である伸夫は19歳のときに北海道へ渡り、南部与七——養父は源蔵——の四女カクと結婚しましたが、この源蔵の三男が忠平といって、1932年のロス五輪の陸上競技三段跳び15m72の世界新記録を樹立して優勝した、あの南部忠平です。
西村が死んで20年後に開催された記念会では式典のあとに「語る会」が開催されました。集まった遺族、教え子、社員などが次々にスピーチをしたこの会では、「絶句する人、涙にむせぶ人が幾人もいて、あたかもついこの間死んだ人の思い出を語っているかのような錯覚を感じさせた」と著者は書いています。著者のスピーチは最初の引用文のようなものでした。西村は、平野啓一郎の分人主義とは対極にある生き方をした人のようです。あるいはそれは、時代背景の違いというのはもちろんあるにしても、分人主義がキリスト者には到底受け入れられないものであることを示唆しているのかもしれない、とも思います。
「愛とは過去にならないものだと思います。妙な言い方ですけれど、私たちの西村先生は、言って見れば大根のような方でした。大根はどこを切っても大根です。ま、人参も牛蒡も同じことですけれど……とにかく先生の生涯のどこを切っても同じ顔が現われるのです。私たちはともすれば、時と所によって異なった顔を見せるのですけれど、先生はそういう方ではなかった」
「しかしね、堀田〔=著者の旧姓〕さん、あなたは太陽の光を受けるのに、こちらの角度から受けようか、あちらの角度から受けようかと、毎日しゃちこ張って生きているのですか」
と、〔西村は〕尋ねた。私はその笑顔を、この言葉に、自分の愚かさをはっきりと知った。受けるということがどんなことか、私はそれまで知らなかったのだ。生れてからその時まで、私は父母兄弟を始め、多くの人から数々の好意や親切を受けて来た。それはあたかも、太陽の光をふんだんに受けるのに似ていた。だが、療養生活が長びくにつれ、私は受ける一方の生活の中で心が歪んできていたのである。私は太陽の光をおおらかな気持で受けるように、多くの人の慰めや励ましを、おおらかに受けるべきであったのである。人の愛を受けるのに必要なのは、素直な感謝の心であった。そのことを私は忘れて、初対面の先生に、見舞の品を非礼にも突き返したのである。
以降、久蔵の生い立ちから時間的に展開していきます。受洗した久蔵が祖父真明と会う場面が第四章で描かれています。キリスト教をまったく認めてこなかった真明とのやりとり、また、久蔵の説明を聞いたあとの真明の対応は——引用はありませんが——「本物」という言葉にふさわしいものだと思いました。また、213-5ページのニコライ・ザハロフについての場面は、本当に悲しい気持ちで読みました。
死は年の順に来るものだと、久蔵はなんとなく思っていた。今生きているすべての大人が死なない限り、子供の自分たちは死なないもののように思っていた。ところが、家族の中で最も年の行かない高松が死んだ。何者かにさらわれるように死んだ。何者かがまさに襲いかかるように高松を奪って行った。
この高松の死が、久蔵を読書する人間に変えた。〔略〕小説でも講談でも何でもよかった。そこには教科書にない人間の世界があった。死があり、別れがあり、恋があり、友情があった。それらを読むことによって、久蔵は高松がどこに行ったのかを知ろうと思った。
「たいていの失敗は取り返しがつく。しかしなあ久蔵、高松を死なせたのは取り返しがつかねぇ。命だけは……命だけは……」
不意に伸夫の顔が歪んだ。久蔵はその時の父の言葉を生涯忘れることができなかった。
「西村、罪が何か知っているか?」
「いや……あまり……」
「じゃ、性欲は罪だと思うか」
久蔵は思わず動悸した。
「罪のような気がする」
「じゃ、食欲は罪か。まさか罪とは言うまい。食欲も性欲も罪じゃないよ、西村。腹が減ることは罪じゃないんだ。女にかつえる〔餓える/飢える〕ことは罪じゃないんだ」
「…………」
「ただし、腹が減ったからといって、人の物を盗んだり、人を殺してまで金を奪ったりすれば別だがね。女にかつえたからといって、女を襲ったり、主〔ぬし〕ある女に手を出したりしては罪だがね。一人楽しむことぐらい、寛大なる神は許してくれるだろう」
進藤が声を上げて笑った。
一年間の志願兵生活において、久蔵が寸暇を見つけて学んだのは、軍人への道ではなく、経済学への道であった。とはいえ久蔵は、軍隊生活を愛した。それは一般社会人のように、駆引の要らぬ社会であったからだ。軍人は純真で清潔だと若い久蔵は信じていた。久蔵にとって軍隊は、嘘を言わずに生きていける世界であった。自分の命を投げ出してまで君国に報ずるというのは、これこそ絶対利他の生活だと思った。確かに、軍隊生活を愛することが、即軍国主義を愛することではなかった。
不良行為があって、他の学校を退学させられた生徒が、北海中学に入学して来た。まじめな生徒たちは憤って、「他の学校で退学になるような者を入学させるとは何事か、北海中学の名に関わるではないか」と騒いだ。戸津〔高知〕校長は生徒たちの前に、
「諸君、教育というものは、そんなものだろうか。追い出された生徒は一体どこへ行くのか。私は、教育というものは、悪い者をこそあたたかく迎えて、よい者になるように育て、よい者はますますよくなるように育てるものだと信じている。学力のない者には学力をつけ、学力のある者には、よりその学力を伸ばしてやる。これが私の教育だ」
と、諄々と諭した。生徒たちは黙して、誰一人まともに戸津校長の顔を見ることができなかったという。
「諸君、人間にとって一番大事なのは知識ではない。いかに生き、いかに死ぬかが確立されていなければ、学問は空なるものに過ぎない。だから私は、明日から一時間早く学校に来て、聖書について君たちに語ろうと思う。生きるとは何か、死ぬとは何かについて語ろうと思う。そのことに耳を傾けたいと思う者は、明日から一時間早く登校してほしい。その一時間が、やがては君たちの生涯の宝となるはずだ。しかし、志のある者だけでいい。聞きたくないのに、無理に来なくてもいい。このことは戸津校長にも許しを得ている。〔略〕」〔略〕
戸津校長は、この久蔵の申し入れを聞いた時、
「西村君、私が校長である限り、君は君の思ったとおりにやりたまえ。君の自由を阻む者があれば、私が説得しよう。誰にも気がねなく、存分にやりたまえ。吾々私学に携わる者の、それは特権なのだから」
と言ってくれたのだった。こうして久蔵のバイブル教室が始まったのである。
「わたしはね、実に恥ずかしい人間だった。女の体を想い浮べては、汚い想いに捉われる恥ずかしい人間だった。小狡いことを考えて、要領よく立ち廻る軽蔑すべき人間だった。いや、今だって、時にはそんな自分がひょいひょいと顔を出す。わたしはね、本当は君たちに兄貴と言われるような人間ではないんだ。君たちの純真な視線に会うと、その純真さが限りなく尊く思われてね」
「私は今、北京の清水安三先生のもとに身を寄せている」
清水安三とは、桜美林の学園を創設し、現在(一九八三年)も高齢九十二歳の身をもって、桜美林大学学長を勤めておられる清水安三氏のことである。当時清水安三氏は、北京に崇貞学園を創設して、中国人の子供たちをこよなく愛し、朝陽門外の聖人と呼ばれ、中国人に敬愛されていた稀に見る教育者であった。現在も朝陽中学という学校が北京にあり、生徒数三千もの大きな学校になっているという。このキリスト信者である清水安三氏のもとに岡〔仮名〕がやって来たのは、血の出るような真剣な祈りの結果であった。
「西村、君は軍隊に籍があったばかりに、殺戮の戦場に立たねばならん。私はその友人として、君の罪の償いのために、中華の人々に奉仕するべくやって来た」
この言葉に久蔵は、脳天を打ち割られたような思いがした。
敗戦後日が経つにつれ、久蔵の信仰はいまだかつてない深まりを見せた。すべての人々が闇物資によって生きる時、久蔵は統制品外の南瓜や馬鈴薯によって飢えをしのいでいた。しかもこんな中で、誰であろうと、一宿一飯を乞う者をすべて受け入れた。
「この小さき者になしたるは、即ちわれになしたるなり」
とのキリストの言葉に従ってなした。伝道もした。だが、久蔵の心は言いようもない悔恨に眠れぬ夜さえあった。それは、ラジオの放送により、新聞の記事により、雑誌の記録により、しだいに「聖戦」なるものの実態があらわにされていったからである。
(なぜ私は、命をかけてでもあの戦争に反対しなかったのか)
くり返しくり返し、久蔵はこの問いを以て自分を責めた。北支にあって、久蔵は自分の可能な限りに中国人を愛したつもりであった。つとめて軍刀を外して、丸腰のまま群衆の中に入って行った。また中国の子供たちには、出張のたびに土産に菓子を買って帰った。中国人街、露店街の雑踏の中を、中国人の一人のように歩きもした。ほとんど中国人ばかりが観客という大入り満員の芝居を見、それと知った中国人たちが幾人も握手に来た。
だがそれが一体何であったというのか。所詮は他人の家に泥棒でずかずかと入ったも同様の行為ではなかったか。いや、そこで日本軍は何百万もの中国の人々を殺戮したのだ。もしこの日本に、他国の人間が武装して攻め入ったとしたら、どれほどの親切を受けても、それを親切と感ずることができるだろうか。
第一、聖書には「殺すなかれ」と書いてある。戦争とは殺すことである。殺すことが悪であると知っていながら、なぜ自分は戦争をよしとしたのか。なぜ軍役を拒否しなかったのか。
 
「夕あり朝あり」 1

 

白洋舎創立者の証
いままで『氷点』以来『塩狩峠』『細川ガラシヤ』『泥流地帯』、また自伝作品などを見ながら、戦後のアイデンティティ不在に陥った代表的日本人としての三浦綾子氏がキリスト教に出会い立ち直った経緯、そしてキリスト教自体の復興という意味を込めて「証の文学」を確立していった経緯を説明してきた。
他にも多々作品があるが、今回はぜひ『夕あり朝あり』を取り上げたい。
本書は白洋舎の創立者で、熱心なクリスチャンでもある五十嵐健治氏が、病床の三浦綾子氏を訪れて、一人語りに語る半生記である。これは実際に綾子氏が入信した頃、五十嵐氏が数回、入院中の無名であった彼女に面会し、そのように語られた内容を基に書き起こしたということであるから、ここまで細部にわたって長編を綴ったというのは驚きである。あるいは詳細にノートをとったのであろうか。いずれにせよ、当時の三浦綾子氏がいかに精神的に飢え乾いており、五十嵐氏の話を真摯に受け取ったかが示されている、と言わざるを得ない。
戦後荒廃期のなかで、キリスト教の信仰を原動力に、白洋舎という今では全国に広がる大会社を半生でうち立てた五十嵐氏の証は、三浦氏にとってはまさに、失われたアイデンティティを回復する日本人像の典型例ではなかったか。ゆえに、この作品もまた、三浦氏にとって、特別の意味を持つものであると思われるのだ。いわば、もう一つの三浦ストーリーである。
素朴な原点回帰への訴えかけ
さて本書で描かれる、五十嵐氏とキリスト教との出会いは、実に素朴な魅力を持っている。
主人公の五十嵐氏は、八ヶ月で生母と別れ、五才で養子となり、一攫千金を夢見て一六才で家を飛び出す。日清戦争での軍夫、北海道でのタコ部屋生活と苦難を通過し、キリスト教に出会う。
まず五十嵐氏は、キリスト教への導き手となった行商人の中島氏から聖書の冒頭の言葉、<元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり>を示され、仰天する。日本には高等な霊を神として拝む伝統があるが、五十嵐氏は苦難の中で、神よりも太陽が偉大であると感じ、拝むようになっていた。そして、さらに天と地を創造した存在として神を示された時、驚き喜んだ。その時まで五十嵐氏は何度かキリスト教に触れる機会があったが、その真意を悟ることはなかった。氏は、様々な人生経験を通し、この時ようやく自らにとって深いつながりのあるものとして、時宜を得た出会いができたのだと述懐している。
やがて五十嵐氏は、自らの信仰と利他的な精神に根ざすものとして、「人様の垢を洗う」クリーニング業を始める。創業期はまだ日本にドライ・クリーニング業が定着しておらず、研究のため経営も赤字が続く。しかし請求書に囲まれた年の暮れ、妻の助言を得て氏は聖書を共に読む。<……何を食(くら)ひ、何を飲み、何を着んとて思ひわづらふな。……まづ神の国と神の義とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり>。そして五十嵐夫婦は天に感謝の祈りを捧げ、借金のある店毎に、額面の五分の一、一〇分の一と僅かな金額をもって謝っていく。不思議に取り立てはなく、却って信用が増し、会社は大きく発展していく。
現代キリスト教の抱える問題
いまキリスト教は、教義論争や性倫理問題なども相まって伸び悩んでいると言われる。例えば米国では、一九七〇年代以降、テレビを通じてのキリスト教伝道が一世を風靡していたが、その最中、八七〜八年にジム・べーカーとマービン・ゴーマンという代表格のテレビ伝道師の不倫が相次いで発覚。世論調査では視聴者がテレビ伝道師を不信する割合が七割に達した。九二年にはカトリック教会の神父がそれまで十一年にわたり聖職に使える児童に対して性的虐待を続けていたことが発覚、これを機に神父や宣教師が児童や修道女に性的交渉を強要する事例が二十数ヶ国で報告され大きな問題となった。九七年にはベルギーのプロテスタント牧師が十人以上の連続殺人を行っていたことが発覚している。キリスト教界でこうした性にまつわる不祥事が近年、後を絶たないなかで、欧米でのキリスト教への信頼は大きく低下している。
また、九〇年代後半からインターネットの急激な普及によって、「性倫理」の確立が急務とされている。しかし端的に言って、現代のキリスト教はその要請に充分に応えられていない現実がある。
こうした悩める現代キリスト教に対して、三浦綾子文学は素朴な宗教的感動へと立ち戻る原点回帰の道を提示している、といえるのである。
信仰の手引きとしての本書
本書は、白洋舎の創業者として有名な五十嵐健治という人物の半生を描きつつ、同氏のキリスト教との出会いをいきいきと伝えるなかで、結果的に教理や信仰のあり方についても分かりやすく解説するという役割も果たしている。間接的とは言え、三浦綾子氏が一般向けに信仰初歩を教授する形になっている。
本書で健治氏がキリスト教に入信するあたりでは、創造神という考え方、偶像崇拝についての捉え方、また罪と十字架の意味、あるいは人間の自由意思と罪の関係についてまで、平易に紹介が為される形となっている。読んだ手応えとして、三浦綾子氏がキリスト教の教えをかなり踏み込んで紹介した本として、これは特異なものではないかと思われる。
あるいは、別の場面で、祈りに対する姿勢として、健治氏は声を出して祈るべきこと、妻と一緒に祈るべきことなどを強調する。本書は健治氏が一人語りをするという形式であり、聞き手である三浦綾子氏がクリスチャンであることを受けて、この場面は信仰者が信仰者に向けての話し方となっている。実践生活を踏まえた信仰生活の手引きにもなっているわけである。
特別な存在としての健治氏
次に述べるのは憶測である。五十嵐氏は案外、三浦綾子氏がキリスト教の信仰を確立して間もない頃、無名の堀田綾子だった頃から親交を持っている。三浦(堀田)綾子氏は二十四才の時から肺結核と脊椎カリエスのため入退院を繰り返していた。彼女は二十七才頃からキリスト教を正式に学び始め、三十才にて病床受洗。そして綾子氏三十四才の時に、友人の紹介によって始めて五十嵐健治氏の見舞いを受けている。本書のあとがきによれば、健治氏はその一年以上前から綾子氏に会いたいという意向を示していたが、健治氏に対して財産家という悪印象をもった綾子氏は面会を断っていた。しかし健治氏は丁重な書状やキリスト教誌を綾子氏に送り続け、さすがに良心の呵責を感じた綾子氏は健治氏に会い、その人格に触れて親交を結ぶようになった。健治氏は多忙な中、病床の彼女を何度も訪れて、彼自身の人生とキリスト教との出会いを語り励ました。綾子氏はその助けを得て病を克服し、日常生活が可能になったのは三十六才の頃で、三十七才でキリスト教誌の誌友であった三浦光世氏と結婚した。そして四十二才の時、『氷点』入選となる。
こうして見ていくと、綾子氏の人生における、重要な信仰の導き手としての五十嵐健治氏が浮かび上がってくるのだ。その貴重な導きを本にした、というのは、三浦綾子氏にとって大変意味のあることだったと思われる。健治氏の人生のなかで培われた信仰のエッセンスが綾子氏に受け継がれ、また本書を通して多くの読者に受け継がれる。言ってしまえば、綾子氏が本書において「私は健治氏に伝道された」と信仰の告白をしているようにすら思われる、ということである。
もちろん既に健治氏に出会う前に、綾子氏は受洗まで通過しているわけだが、しかし健治氏は綾子氏の他のエッセイ、自伝などにもたびたび登場し、小説中の人物モデルにもなり、様々な助言を受けるなど、綾子氏にとっては実に得難い知己であった。そうした読み方もあながち間違いではあるまい。
「証の文学」の一つの頂点
クリスチャンの批評家・佐古純一郎氏は三浦文学を「証の文学」と呼び、その背景や創作方法に触れている。それによれば、キリスト教会では一般的に、個人の有益な日常での体験を「証」として他者に伝え、恩恵を分かち合おうとする流れがある。三浦綾子文学は、まず自らの人生を「証」として伝えるところから出発し、やがて歴史小説や、人物の半生記という形で他者の人生をいったん吸収し、感情移入し、昇華させる中で「証」として伝えていく、という方式を確立していった。すなわち「証の文学」こそ三浦文学の本質である、ということである。
三浦綾子氏は、歴史小説などを書く際に、独特の取材方法をとっている。資料一つひとつを読み解くより、まず故人のゆかりの地や史跡を訪ね、そこで祈り、思いをめぐらし、涙するのである。主観的といえばそうであるが、そうした感情移入によって、作品の何か重要な部分が心の琴線に触れ、そこから一気に高い完成度をもった作品がほとばしりでていく。
健治氏の逝去後十数年たって書かれた本書『夕あり朝あり』も、そうした作品の一つであり、健治氏への深い敬愛に満たされ、その生き様を感じ取ることの出来る、「証の文学」としての三浦文学の一つの頂点なのだ。
キリスト教教理の平易な説明
前回少し触れたが、本書はクリーニングの白洋舎創業者・五十嵐健治氏の半生を描きつつ、同氏の信仰的内面にも触れ、平易なキリスト教の解説書となっている。
まず健治氏がキリスト教に出会う場面で、健治氏は聖書の冒頭、神が天地を創られたという一文に触れ、キリスト教の「創造神」という概念を理解し感激する。その場で健治氏は、信仰の導き手である中島氏に「太陽を拝むのは悪いことなのか」と尋ね、中島氏はこう答える。
「君は人から提灯を借りて、暗い夜道を歩いて、無事に家に帰った時、提灯にお礼を言いますかな」「いいえ」……「それと同じことです。日光の恵みも、雨の恵みも、太陽に感謝したり、雨に感謝したりするのではなく、それを創られた神に感謝することが大切なのです」(『夕あり朝あり』新潮文庫版p176)
偶像を拝むのは、悪いという前に意味のないことなのだ、という平易な反撥心の生じにくい解説である。
キリスト教にとって本当に必要なものを問いかける
さらに教理に踏み込んだ内容についても、本書は平易に解説している。
キリスト教では人間がなぜ罪深いのか、という健治氏の問いかけに、中島氏は神を「お父さん」だと言う。お父さんが家の中にいても、何の挨拶もせず、語りかけても知らないふりをしたなら、親不孝である。このことをキリスト教では罪の素(もと)、原罪と呼ぶのだ。このように説明している(同p177)。
次に「全知全能の神様ならば、キリストを無惨な十字架などにかけずに、『人類の罪はゆるしてやるよ』というわけには、いかなかったのですか」という健治氏の問いに中島氏は答える。神と罪とは熱した鉄鍋に油と水を入れるとはじけるような関係である。聖なる方が罪を無条件で受け入れるわけにはいかないのだ、というのである(同p178)。
さらに、愛なる神がなぜ人間を、罪を犯す存在として創られたのか、という問いに、逆に愛の現れとして人間の人格を尊重して自由を与えられたのだ、という解答を示している(同p182)。
これらは、いわゆる神学者や正統なクリスチャンを自負する者には苦笑いされるような、素朴かつ不完全なたとえ話にすぎないと言われるかも知れない。しかしこれ以上のものが果たして必要なのだろうか?
何となれば、素朴にキリスト教の素晴らしさに触れ、その感動を伝えようとした原始キリスト教の時代から下って、あるいはイエスが神か人かを巡ってニケア・カルケドンで教理闘争を展開したり、あるいはイエス以外の人に啓示を認めるか否か、救いは予定されるか否か、聖書のミスをどう捉えるかなど、難解な教理闘争を行ううち、クリスチャンはその素朴な感動を損なってしまったのではないか。
カトリックとプロテスタントの対立
例えば結婚に対する教義や考え方も、カトリックとプロテスタントは対立している。カトリックは婚姻をサクラメント(イエスによって定められたとされる神の恩寵としての教会の儀式)の一つと認め、洗礼や正餐式と同様に神聖なものとみなしている。しかしルターは結婚によって救いの恩寵など受けはしないとして、これを排除。両者の対立は今も続いている。
またカトリックで相次ぐ性的不祥事は、聖職者の伝統的な独身制から来ており、これはルター以降、プロテスタントが独身制を否定する聖書解釈を主張したことに対抗して決定されてきた経緯がある。
深刻なのは、この両者の橋渡しが極めて難しいということである。教義が絡んでいるために、どちらかが正しく他方は間違っているという議論に向かいがちであり、そうなれば間違っているとされた側が信仰的、組織的に大きな打撃を被ることになる。双方引っ込みが付かない状態なのである。
このように、出発点においては素朴な感動を保持していたものが、教理を突きつめていくと、なにか対立や分裂が生じ、自己保存の争いのようなものが生じてしまう。逆に、教理としては一見未分化な、原始的な教え以外、キリスト教は必要としていないのではないか。三浦綾子氏が訴えたかったのはそのことではないのか。そのように思われてならないのである。
素朴な信仰の書
本書は、クリーニングの白洋舎創業者・五十嵐健治氏の半生を描き、素朴な信仰の素晴らしさを訴えかける本である。
いま日本のキリスト教は、明治以降熱烈な信仰者によって伝道が進められたにもかかわらず、教勢はカトリックとプロテスタントを合わせても日本人口の約一%未満とされる。例えば一九三〇年から組織化された創価学会が八百万世帯を誇るのに比べ、見劣りを感じるのは否めない。近年キリスト教伝道が劇的に進んだという話も、さほど聞かれない。
日本の風土や文化がキリスト教に馴染まない、という指摘は、芥川龍之介『神々の微笑』『おぎん』『おしの』、遠藤周作『沈黙』、また丸山真男『日本の思想』など、様々な知識人によってなされてきている。しかし一方で、キリスト教自体の魅力の限界とは言わないまでも、難解な神学論争を重ねた結果、かえって魅力を喪失したということがあり得るのではないか。
キリスト教のもつ排他性
二十世紀前半、スイスの有名な神学者K・バルトは、近代以降起こった合理主義的な聖書解釈を批判し、自由主義神学によってキリスト教の信仰が危機にさらされているとして、信仰の回復を訴えた。その活動は同志を得て新正統主義、危機神学、あるいは弁証法神学と呼ばれる流れになり、戦後の世界、日本のキリスト教(プロテスタント)に大きな影響をもたらした。彼らは人間の理性の限界を訴えたが、それは第一次世界大戦の悲惨の現状によって、それまでの楽観的な理性万能主義がうち砕かれたことと密接な関係を持っている。K・バルトの神学研究は非常に高度かつ膨大なものであり一言で説明するのは困難であるが、あえて言えば、まず人間がもつ理性には限界があり、個人が神に直接出会うことは不可能だという切り口である。いわゆる理性の全堕落説である。しかしこの世には神から人間に対して一方的に与えられた啓示というものが一つだけ存在する。それはイエスの実際の言行であるが、ただし聖書筆者や編者がこれを不完全な形で伝えてしまったという。リベラルな聖書研究に対して、聖書の随所に見られる非合理性や矛盾点、ミスとされるものをこのように説明しているわけである。
弁証法的神学という呼称には正確な定義が存在しないとされるが、弁証法は、広義には、人間の実存を問う、宗教に近い哲学、と言い換えて理解することができる。単なる学問ではなく、私はなぜここに生きているのか、何の為に生きているのかを実際に解き明かそうという姿勢である。つまりK・バルトは、それまでの自由主義的神学が、単なる学問のための学問に陥っているとして、真に人生の意義に直結するものとしての神学を求めたのだといえよう。それは神と人間の関係を、危機意識をもって見つめ直すということである。
K・バルト個人は熱烈な牧師であり、実際の宣教活動や説教のなかで実践的にこうした内容を打ち立てて行った。つまり信仰回復が旨であった。が、改めてみてみれば、彼の言う内容とは徹底した理神論、つまり創造神は認めるが創造後の神と人間の決定的な断絶を説く理論であり、イエス以外に啓示の存在を認めない。すなわち日本の自然環境と結びついた伝統的な信仰や、様々な宗教指導者によって成立した他の宗教との橋渡しを許さない、極めて先鋭的な、排他的なものなのだといえる。K・バルトは晩年、「自分の膨大な著書も、小さな子供たちの歌う『主われを愛す』の讃美歌以上のことを語ろうとはしていない」と述懐している。素朴な信仰から出発したものが、自由主義陣営と議論を重ね、様々な経緯を経る中で、いつの間にか難解な、排他的な神学に変貌している矛盾に気付かざるを得ない。
さらに大きな枠で言えば、プロテスタントは中世のカトリック腐敗に対して起こった信仰回復運動である。そのため、使徒の延長たる人を介してイエスを伝えるおおらかなカトリックの信仰観に対して、プロテスタントは聖書のみを信仰の基とし、人が神に直接出会うことはできないという厳格な姿勢をもっている。ここに排他性が内包されている。またキリスト教全般が、イエスは神と同質な存在であり、イエスの十字架を信じなければ救いはない、といったドグマに陥りがちである。
三浦綾子文学の重要な一側面として、素朴な信仰者の生き様に焦点をあてることで、この現代キリスト教が陥ってしまった難解さ、あるいは、言ってしまうなら自己権威化のようなものに対して、「幼子の讃美歌」を復興しようという、信者たちへの訴えかけとみることができるのだ。  
 
「夕あり朝あり」 2

 

キリスト者であり、クリーニング会社「白洋舎」の創業者である、五十嵐健治(1877〜1972)の物語。五十嵐は、離縁された生母けいと生後8カ月のときに別れ、5歳で五十嵐幸七・ゆみ夫妻の養子となります。話は五十嵐の独り語りのようにして進みます。旭川の病める三浦綾子を見舞ったこともあったようです(三浦の別の著作でも五十嵐が登場していたように記憶しています。そして、当初三浦は五十嵐をよくは思っていなかったと書かれていたようにも記憶しています)。 私には、ゆみという母は、私を育てるために、神からこの世に遣わされた天女ではないかと思われるほどでした。ですから、私の出奔は、母の精神的な生命を絶ったようなものだったかも知れぬと、どんなに悔いたことでしょう。母は私を育て上げたが故に、若くして死んだような気がしてなりません。
縁者の少ない母の葬儀には、集まる親戚こそ多くはありませんでしたが、名もない貧しい者の妻としては、多くの人が集まったようです。特に女たちが目を真っ赤に泣きはらしていたのを覚えています。そして、思いがけぬことに、まだ十二、三歳の子供たちが葬列に加わって、しゃくり上げていたのが、まなうらに焼きつけられています。
母を焼く煙が、六月の空に立ち昇るのを、しゃがみこみたい思いで私は見つめていました。この時、私の胸に初めて、
「人間は誰もが必ず死ぬのだ」
という、厳粛な事実が植えつけられたのでした。
(死んで人間はどこへ行くのか)
そう考えるようになったのも、母が死んでからでした。
不思議なもので、いや、当然かも知れませんが、買いに来るのはほとんど女か子供。しかもたいてい、みすぼらしい身なりの女や子供が多い。むろん男もやって来る、が、その男たちは店先で一杯きゅっと引っかけて帰って行く。これもまた決して金持の男は来ない。近頃はいざ知らず、昔の酒屋の客という者は、何か物悲しいものでしたなあ。小さな子供が、欠けた徳利などを持って来て、手に握って生あたたくなった銅貨を私に渡す。そんな時、妙に胸がちりちりして五勺の酒を六勺にしてやりたくなる。私にはそんな弱さがありましたなあ。
思うのは出世した暁の自分の姿ばかり。いかに若いとは言え、いや恐ろしいものですなあ。金だけが幸せをもたらすものと、思いこんでいたのですからなあ。金を儲けることが、人間唯一の道だと思っていたのですから、お恥ずかしい次第です。まだ私には、人間の求むべきものが、少しも見えてはいなかった。
「御主人、まことに申し訳ないが、どこか、この上田で奉公口を世話してもらえまいか」
「奉公口? おせわしないものでもないですが、この上田に住みつきなさるかね」
と問われた。
「いやいや、実は何と叱られても、仕方のないことだが、わたしは一銭も持たずに、昨夜泊めていただきました」
「何!? 一銭も持たずに?」
主人はさすがに驚いた顔をしたが、形相は変わらなかった。
「はい、それで、その宿賃を返すために、働き口をおせわしていただきたいのです」
叱られるのを覚悟で、私は小さくなって言った。と、私の様子をじっと見ていた宿の主人が、こう言いましたな。
「人間一銭も持たずに旅をするというのは、よほどの事情があってのことでしょう。夜の明けぬうちに逃げられてしまっても仕方のないところを、あんたは正直に詫びてくれた。わたしはあんたを信用します」
しかし何ですな。小さな宿屋をしているからと言って、人物が小さいとは限らぬものですな。また大きな会社を経営しているからと言って、大人物であるとも限らぬものですな。
それと驚いたことには、食事が奉公人と全く同じだった。私の経験によりますと、主人の食事は、奉公人と全くちがう献立か、あるいは奉公人の膳より、一品や二品、魚だの煮物などが多くつけられるのが当り前。が、この家ではそうではなかった。そして主人夫妻は、食事の度に何やら祈るのですな。珍しいことなので、ある時私は、給仕をしながら耳を傾けた。
祈りというのは、商売繁盛、家内安全を祈るものだと思っておりましたが、ちがいました。あの時まで私は、あんな祈りがこの世にあるとは夢にも思っておりませんでした。
住吉屋の夫婦の祈りはこうでした。先ず貧しい者たちにも食事が与えられるように、と祈るのですな。〔略〕次いで主人が祈ったのは、「親のない子をお守りください」という祈りです。〔略〕
が、内心私は、そんなに心にかかるなら、親のない子を引取るとか、貧しい者に何か恵むことをしたらよいではないか、などと思わぬでもなかったのです。
ところが、この住吉屋に来て、半月も経った頃でしょうか、私は番頭さんに思わぬことを聞かされました。
「旦那さまはな、上毛孤児院を建てられて、何十人もの親なし子を、育てていられるのだよ」
私は耳を疑いました。明治二十五、六年のあの頃、孤児院という名すら、ほとんど聞いたことはなかった。
「神さまが愛なる方だと、中島さんは言われますが、それならどうして人間が、罪を犯さぬようにお創りにならなかったのですか」
中島氏は大きくうなずいて、
「健治君、神さまはね、人間をご自分に似せて創られたのだ。いいかね、神に似せて創られたのだから、正しい者に創られたわけだ。しかし神は人間を、自由意志を持つ者としてお創りになった。悪いことをしようとした時に、手足が動かなくなるようには創られなかった。つまり人間の人格を尊重して、自由を与えられたのだ。それとも健治君、人の悪口を言おうとする時、舌が動かなくなるように創って欲しかったとか、悪い所に行こうとする時、足が動かなくなるように創って欲しかったと思うかね。それとも、良いも悪いも、自分の分別で、自由に生きるほうがよかったと思うかね」
とこう反問されましたな。私は、はっとしました。自由な人間に創られたことの尊さに気がついたのです。
私共キリスト信者は、祈る時、よく声に出して祈ります。むろん、黙祷をすることも少なくありませんが、あの口に出して祈るのがいいのですなあ。黙祷ですと、祈っているうちに、祈っているのか、思っているのか、わからなくなることがある。〔略〕しかし声に出して祈る時は、やはり神の前にひれ伏す心になりますわなあ。自分の祈った言葉に促されて、いよいよ祈りに身が入りますわなあ。しかも、自分の祈りを口に出す、その祈りを耳にする、そのことがまた祈りを自覚する。これが大事です。祈るということと、思うということとは、別ですな。
祈りは神に捧げられるもの、清められた言葉でなければなりません。神への願いであり、神への問いかけであり、その問いかけに対する答を聴き取ろうとすることでもありますな。単なる思いは神ぬきでもできます。いかに誰かに同情していても、神ぬきで思っているだけでは……これは祈りとはちがいます。
ええと、何をお話するつもりで、こんなことを申し上げたのでしょうか。そうそう、妻と共に、言葉に出して祈り合うようになってから、平安になったと申しましたな。
藤村常務は、
「ところで五十嵐君、三越をやめて何をするつもりなのだ」
と、心配そうに尋ねてくださった。実は私も、辞職願を出す前に、何を自分の一生の仕事としていくか、ずいぶんと考えていたのです。第一に考えたのは、日曜日の礼拝を守ることのできる職業ということでした。そして、キリストの御言葉を宣べ伝えることのできる時間を生み出せる仕事でした。
次に条件としたのは、十年近くおせわになった三越の営業と抵触しないもの、ということでした。ま、私は、呉服について、特に高級呉服については、宮内省のご用を現実に承ってきた者ですから、人に負〔ひ〕けは取らなかった。だからと言って、呉服物を取扱おうとは、夢々思わなかった。三越の営業に、いささかでも敵対するようなことは、したくなかった。そして、でき得るならば、三越に生涯出入できるような仕事をしたかった。
次に、みんながやりたいと思う仕事よりも、むしろ遠ざけるような仕事をしてみようと思った。人のやりたくない仕事だからと言って、その仕事がこの世に不要とは限らない。否、必要でも人がやりたくない仕事があるものです。
藤村常務は、その紙片を持ったまま、二分、三分、五分と、黙りこんでおられました。が、やがて顔を上げられると、
「五十嵐君、わたしは今まで、いろいろな人の、自分の店を持ちたいという相談に、何度乗ったか知れない。しかし君のように、三越の営業に抵触しないこと、などという条件のもとに仕事を決めた人を見たことがない。誰でも、長年の経験を生かしたいのが人情というもの。中には三越時代に親しくなった問屋と相談して、さっさと店を持つ者もあるのに……」
こう言われて、またしばらく沈黙された。が、再び顔を上げられて、
「ところで、五十嵐君、資本はどのぐらいあるのかね」
と、お尋ねになった。資本を尋ねるというのは、これはもう他人事として扱ってはいない証拠です。私は胸にじーんとくるものを覚えながら、
「はい、お店にお預けしてあります保証金が三百円ほどございますので……」
と申し上げた。と、藤村常務は言われた。
「……三百円ですか。わかりました。五十嵐君、わたしはキリスト教のことを詳しくは知らないが、今、この何箇条かを見ていて、おぼろげながら、何かわかってくるものがある。これからは、及ばずながら君の事業を応援させて欲しいと思うのだが、どうだろう」
親きょうだいに捨てられたこの〔ハンセン氏病の〕患者たちを、フランス人の院長〔ドルアール氏〕はその肩を抱き、笑顔で話しかけ、まことに春風駘蕩たるありさまです。この姿を見た時、私はこれが事業の根幹だと思った。この愛、この奉仕の精神こそが、白洋舎精神でなければならぬと思った。
同じ頃、私はもう一人の感動すべき人物の話を聞いた。その人は、第二代目の衆議院議長片岡健吉氏です。氏は熱心なキリスト信者であった。彼は必ず祈りをもって議会にのぞんでいると言われていた。
ある日曜日のこと、ある人が時間をうっかりまちがえて、一時間早く教会へ来た。ひっそりとした教会堂内には誰もいなかった。いや、いないと思ったが、下駄箱の傍にひざまずいて、草履の鼻緒を二足三足と、すげ替えている人がいる。誰かと思ったら、日本に誰一人知らぬ者のない片岡健吉氏であった。
この話を聞いた私は、キリストの弟子であるとは、このように隠れた所で、愛の業をなすものだということを知った。フランス人ドルアール氏、そしてこの片岡健吉氏の姿は、白洋舎の土台であると、固く固く思ったわけです。
「先進国の、イギリス、フランス、アメリカなどの人に対しては、親切な日本人はいくらもいた。しかし、乗松〔雅休〕先生のように、貧しい朝鮮人を愛してくれた日本人を、かつて見たことがない」
ぬいは、「レプタ」と書いた箱を置いておきましてな、収入の十分の一はこれに入れて置く。人様からお菓子をもらっても、おおよその金額を見積って、それが千円のものなら百円その箱に入れる。これをすべて教会に捧げた。
ところで、丈夫が中学を卒業し、大学に行きたいと言った時、私はクリーニング屋に大学は要らぬと言って、反対した。勉強するなら、アメリカのクリーニング学校に行けばよいと思った。それはですな、当時同信会の信者たちは、あまり息子たちを大学にやりたがらなかった。大学にやると信仰を失うことが多いと思っていたからです。ところがぬいは、「学資はすべて自分が出す」と言いましたな。
こうして丈夫は、慶応大学を卒業することができた。お陰で他の五人の男の子たちも、慶応で学ぶことができた。しかもですな、のちに丈夫がアメリカに半年留学することになった時、またまたぬいは金を出してやったのですなあ。自分のためには、何一つ贅沢をしない女でしたが、子供のため、また人様のために、よく尽くした女でしたな。
信仰を持つと艱難がなくなるわけではなく、周囲の状況が少しも変らずとも、自分自身に艱難を乗り越える力が与えられる。
私は明治の人間ですからな、若い人たちに何と言われようと、皇室に対する敬愛の念は決して人後に落ちない。〔略〕私がキリストを信じているということと、かしこき辺りを尊敬申し上げることには、何の矛盾もなかった。唯一の神を拝することと、何の矛盾もなかった。しかし、敬うことと、拝することとは全く別のことなのです。これをわかってもらわねばならないですなあ。
「小説など書いては、信仰が失われるのではないかと、それを心配していました」
明治生まれの先生にとっては、小説は人を堕落させるものと思っておられたようである。とにかくこの親身な言葉は、どんな祝辞よりもありがたく聞いた。のちに、私は「続氷点」を書いたが、そこにヒロイン陽子の祖父「茅ヶ崎のおじいさん」なる人物を登場させた。そのモデルとして頭に描いたのは、ほかならぬこの五十嵐健治先生であった。私は小説の中で、ヒロインの陽子に、「茅ヶ崎のおじいさん」から聞いた言葉として、「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」というジェラール・シャンドリーの言葉を、手紙に書かせている。
私は、このジェラール・シャンドリーの言葉こそ、五十嵐先生の生き方に似ていると思う。死刑囚のS兄や、貧しい療養者の私などと親しくしてくださった先生は、いつも財布が軽かった。送るところが余りに多かった。S兄とは互いに百通もの手紙をやり取りしていた。 
 
「泥流地帯」

 

三浦綾子が『泥流地帯』を書いた理由
『泥流地帯』(一九七五年一月より北海道新聞日曜版に連載)は、三浦綾子氏の最もお気に入りの作品の一つだったという。
ここでいったん本稿の観点で整理すれば、一九六四年に『氷点』が入選して後、綾子氏はキリスト教を単に教義としてではなく、いかにビビットな生き様として伝えるか、という挑戦を行うなかで、信仰を持つ者の生き様、またもっと大枠では人生の真理といったものを求める者の真摯な生き様を描く、「証の文学」というスタイルを確立していったといえる。さらに、デビュー十年後に『細川ガラシャ夫人』(一九七三年)によって、綿密な取材や歴史考証によって実在の歴史人物の生き様を描くというスタイルが一応の完成を見せた、このようにいえるだろう。
本作品『泥流地帯』もまた、この流れの上に立つ三浦文学の代表例とみることができる。
さて、本作品は、大正十五年の十勝岳噴火の中で試練に耐え開墾を続ける北海道入植者達の姿を描いている。一見、キリスト教の信仰を持たない人々が主人公なので、キリスト教を旨とする三浦文学のメインストリームから外れているように見えるかも知れないが、実は深いところでキリスト教につながっている。
ヨブ記の苦難をテーマに
実は、本作は聖書の『ヨブ記』に示されている、「罪なき者がなぜ災いを受けなければならないのか」という問いかけが執筆動機となっている。エッセイ集『明日をうたう』には、綾子氏が北海道新聞社から連載の依頼を受けた際に、夫の光世氏から「十勝岳爆発の様子を、ヨブ記に示される苦難をテーマに書いてみてはどうか」と勧められ、執筆に至った経緯が記されている。
例えば三浦文学でたびたび取り上げられる殉教という生き方も、このテーマに深い関わりを持っている。殉教とは自分が悪くないし、罰を受ける必要もないのに、敢えて他者の為に自らを投げ出すという行為である。この精神は、聖書の中では、イエス・キリストが自ら進んで十字架にかけられた生き様において、最も端的に示されている。
『続泥流地帯』では、十勝岳爆発によって滅茶苦茶になった泥流地の復興に意義を感じないとして難色を示す主人公・耕作に対して、彼の兄・拓一がこう答える。
「耕作の言うことは筋が通ってる。お前は頭で考えるからなあ。だがなあ、耕作、俺は心で考えたいんだ。ほかのいい土には、俺は何の心も動かん。こんだけ、じっちゃんやばっちゃんや、姉ちゃんや良子の命ば……奪った泥流だから……だからなあ、耕作、俺は元の土地に戻してみたいんだ。燃える土だから、俺はやってみたいんだ。」(p34)
そして拓一は別の機会にも同じように、耕作に対して答える。
「お前の言うとおりだと、俺も思うよ。だがなあ、耕作。大変だからと言って投げ出せば、そりゃあ簡単だ。しかしなあ俺は思うんだ。大変だからこそ、いや、大変な時にこそ持ちこたえる馬鹿がいないと、この世は発展しないんじゃないか。(中略)俺はその馬鹿になるよ。馬鹿になるんだ。」(p61)
こうした生き様、これを掘り下げていくと、「悪い人間だから罰として災いを受ける」という因果応報の発想を越えた、キリスト教の自己犠牲の生き方につながっていく。功利主義的な因果応報とは畢竟、自己中心的価値観の範疇に属するものであり、人生における真の意義を生み出さない。一見無意味に見える、功利主義に反した、馬鹿な生き方にこそ、利他的価値観に属するところの人生の真の意味が見いだせるのだ。本作にはこのようなメッセージが隠されているのである。
自然とキリスト教
さらに注目しておきたいのが、いわゆる自然と宗教の相性の良さ、過酷な自然のなかで宗教が健全な生育を遂げていくという点である。
宗教者はその傾向として、過酷な環境下に置かれても不満を持つのではなく、天から与えられたものとして甘受し、乗り越えていくという基本姿勢を持っている。
この観点から改めて、先程触れた殉教事件について、三浦文学において実際に扱われている箇所を見てみても、青函連絡船遭難時の人命救助であるとか、塩狩峠での鉄道事故における殉教など、いずれも開拓者が自然と闘う中での宗教的利他的精神の発露なのだ、ということに気付かされる。詳しくは次回に譲る。
信仰心と自然
三浦綾子のキリスト教文学は、北海道の厳寒かつ雄大な自然と切っても切り離せないものである。それは前回も触れたように、過酷な自然環境の中で信仰心が健全に育つという事実に深い関わりを持っている。
かつて明治期に日本で行われていった北海道開拓の雰囲気というのは、十七世紀にクリスチャンが北アメリカに移民、開拓を進めていった時の状況に通じる内容がある。ピルグリム・ファーザーズに代表されるクリスチャン移民たちは、広大な原野に夢を抱き、教会と学校を中心に町を作り上げ、家族や地域社会が信仰を中心に互いに助け合いながら、自然と格闘し、社会を築き上げていった。
北米の開拓歴史に根付いた典型的なクリスチャン家庭像は、例えばワイルダーの『大草原の小さな家』などに見ることが出来る。そこには素朴な信仰心や利他的犠牲精神を柱に、父親が外の世界を開拓する中心となり、妻と子がそれを尊敬し支えるという、一つの理想的家庭像があった。
そこには、自己を律して努力すれば豊かになる、というシンプルなセルフヘルプの発想が根ざしていた。このシンプルな発想はアメリカの自由社会発展の基礎となったし、綾子氏の『泥流地帯』でも同様に、このシンプルな発想が基調を成している。
セルフヘルプのメッセージ
『泥流地帯』に見られるセルフヘルプのメッセージについて、例えば主人公・耕作は、小学校の担任から旧制中学に進学しないかと勧められる。父親に死別し、母親が出稼ぎの中、祖父と共に暮らす小作農の家庭である彼は、学費がないために逡巡する。そのとき担任の教師はこう励ます。
……「誰でもなあ、耕作、勉強したいもんが勉強できる世の中だといいんだ。そんな日本にするためにも、お前に勉強してもらいたいと、先生は思うんだ。」(p47)
そして兄・拓一と祖父に相談した彼は、そこで思いがけず賛成を得る。
……「耕作ば中学さやったって、みんな飢え死にするわけでもないべさ」
拓一は、ちゃぶ台の上に乗り出して、熱心に頼む。それだけで耕作は、充分にありがたかった。
「んだな、飢えるわけでもあんめえな。じゃ、清水の舞台から飛び降りるつもりで、上げてやっか、耕作」
(中略)「ほんとか、ほんとか、じっちゃん」
耕作の声が泣いていた。祖父も拓一も泣いていた。(p55)
こうした場面には、かつて漱石が高等遊民と表現したような、現代の我々が直面している精神の閉塞感、自己を見いだせない悩みなどといったものは見あたらない。そんなことを考えている前に、助け合い、自然と格闘しなければ生き抜いていけない環境なのである。また過酷な自然から来る苦難は、自分自身や社会自体を揺るがせに捉えるような負の方向には向かわない、ある意味健全なものである。
このような生活への向上心という共通の、そして切実な目標を家族が掲げ、努力し支え合うなかで、家族の結束が高められ、個々の人格を深める良き材料が与えられる。そのような利他的精神は自然な形で健全な信仰心につながっていく。
美しい自然を通して神に出会う
もう一つ、美しい自然が信仰心を育てるという点も見逃せない。自然は見るもの・触れる者の情感を豊かにし、信仰者の場合、その美しさや雄大さを通して神に出会う機会を与えてくれる。法華経を土台にした宮沢賢治の文学の場合もそうであったし、アッシジの聖フランシスコも故郷の美しい自然を通して信仰を育んだ。ここに、北海道の自然を題材にしたキリスト教文学が確立し得た由縁である。綾子氏はよく、言いたいことを直接に言葉や論理として示すのではなく、自然の造形や様態を描写する中にロゴスを示唆している。そうすることで、情感が五感に訴える形で定着し、文学としての深みを増している。
なお、綾子氏は『泥流地帯』とほぼ同時期に『天北原野』という大戦直後の樺太を扱った作品(一九七四年十一月より「週刊朝日」に連載)もこなしているが、この二作品は信仰と自然、あるいは信仰と苦難の結びつきといった観点から書かれた、同系列のものと言って間違いないだろう。
『氷点』における自然描写
以前、三浦文学がブームになった一要因として、北海道というそれまであまり注目されなかった特異な風土を舞台にしていることを少し紹介した。
改めて作品のクライマックスとして有名な部分を見てみよう。綾子氏本人はエッセイ『明日をうたう』で、処女作『氷点』の冒頭と結びについてコメントしている。
……<風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝いて、つくりつけたように動かない。ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃く短かった。その影が生あるもののように、くろぐろと不気味に息づいて見える>
これが長編小説「氷点」の冒頭の文章である。そしてこの小説は次の文章で終わっている。
<ガラス戸ががたがたと鳴った。気がつくと、林が風に鳴っている。また吹雪になるのかも知れない>
書出しを受けるこの最後の締括りが、以外に難しかったことを覚えている。(『明日をうたう』p256)
これらはある意味で三浦文学を象徴する文章である。ある心理分析家によれば、この風のない林の描写が、不気味な夢のような心の中の不安を表現して、このあと林の奥で起こる事件へつながっていく役割を果たし、最後に風が吹くことで、また現実が変わり動き出すことを表示しているのだそうだ。
また、『氷点』半ばのクライマックスとも言える青函連絡船遭難のシーンはこのように語られている。
……水が遂に腹をひたした。腹まで水につかると、むしろ啓造の心は落ちついた。ふっと気づくと、夜光虫が模様のように、青く光って揺れていた。死に面した人々の前に、夜光虫は非常なまでに美しかった。突然ガーンという音と同時に船は遂にてんぷくした。
こうした名場面は、いずれも北海道ならではの風物が「小物」として配置され、独特の雰囲気を醸し出している。
自然描写が醸し出す情感
綾子氏は『泥流地帯』と同時期、週刊朝日に連載していた『天北原野』のクライマックスについても、こう説明する。
……これは悲恋物語である。この小説の始めと終わりに、私はエゾカンゾウの花を配した。ラストシーンにはこんな文章を書いている。
<……オレンジ色の花群が、道の左右に、遙か彼方の地平線まで、敷き詰めたように続いていた。その果てしないエゾカンゾウの大群落を眺めながら、二人は言葉もなかった>(『明日をうたう』p259)
言いたいことを直接に言葉や論理として示すのではなく、自然の造形や様態を描写する中に主張を託していく。読む側には、著者が実際に日常生活での経験、自然を通した情的出会いを踏まえて言っているのだ、ということが伝わり、深みや情緒、説得力が生じるのだ。
神の臨在を示す自然描写
もう一つ重要な観点として、信仰者という立場においては、人生の重要な局面において自然の美しさに出会うことは、神が私を確かに見ておられるという情的な手応えになる。
例えば『続氷点』最後で、主人公・陽子が旅をする中でオホーツク海の夕陽に光る流氷に出会う。そして「流氷が燃える!」と感動し、イエスキリストの十字架の血を
連想する中で物語が終わる。この場面が、『氷点』『続氷点』を通しての、主人公の神との出会い、神の流された血による贖罪という、ある結論を表示する形になっている。
この場面は決して作者の想像ではなく、実際に取材する中で出会った光景なのだという。三浦文学においては、小説を書きながら著者自身も信仰者としての出会いがあり、それを読者が追体験するという形で、いわゆる血の通った、本物の文学として成立しているのだと言えよう。
情景描写と綾子氏自身の「出会い」
さて、『塩狩峠』での主人公の殉教の場面について、綾子氏はエッセイ『それでも明日は来る』で、その情景の描写がどのように生まれたかを語っている。
……十八歳の冬、私は女学校時代の恩師を訪ねて名寄に行った。寒い日だった。汽車の窓が厚い氷紋で覆われ、外は少しも見えなかった。(中略)僅かにひろがったガラス越しに、私は息をのむような光景を見た。黒ぐろとつづく針葉樹林に、きらめく氷を見たのだ。(中略)その白い深雪の中の道を、角巻(かくまき)を着た女と、二重廻しを着た男が、小走りに走ってくるのが見えた。真っ白な雪の中に、赤い角巻が印象的であった。走る女の下駄が、雪を軋ませた。(p50)
そして綾子氏は『塩狩峠』、そして『井戸』という短編を読み返して言う。
……私は、自分が体験した若い日の塩狩峠を、二度も小説の中に使ってしまった。帰巣本能のようなものかと、私は苦笑するのである。(p54)
若き日に塩狩峠の情景に触れ、その荘厳さと、赤と白のコントラストが強烈な印象として胸に刻まれた経緯があった。そして主人公の殉教の血の赤と生命のない雪の白、という暗示的なコントラストを思うと、多少不自然だったとしても、そうした情景として描かざるを得なかった。そのように綾子氏は説明している。
このように、本人のビビットな体験をもとに、小説のなかで自然描写や情景描写を配置することで、綾子氏の言いたいことは、より深みのある情感となって読者に伝わるのである。
『続氷点』のラストシーンにおける「出会い」
また綾子氏の執筆には、執筆活動自体を有機的なものと捉え、そこでの様々な出会いを通して心の糧にしようとする姿勢が見られる。
例えば、『続氷点』ラストは流氷が夕陽に映えて燃え上がるように見え、主人公が神の臨在を感じるというシーンであるが、この時の取材の様子について綾子氏はこう説明する。
……あの曇り空のしたの灰色の流氷が、突如炎を吹き出すとは到底信じられないところである。私は旭川に帰ってからも、しばらくの間は気がふれたように、この燃える流氷を人に話し、また思い返した。そして一緒にあの光景を見た三浦と、飽きずに話し合ったものだ。あの情景は決して虚構ではない。たといまずくとも、私が見たそのままの自然描写なのである。ともあれ「氷点」「続氷点」全編を受ける終章は、かかる思いもかけない事実によったことを、やはり大いなる恵みとして、今も尚感謝せずにはいられないのである。(『命ある限り』p163)
取材・執筆をする中で、綾子氏本人における信仰者としての出会いがあったのである。
『泥流地帯』執筆の様子
一九七六年五月、北海道新聞で『泥流地帯』の連載を終えた綾子氏は同紙「『泥流地帯』を書き終えて」で次のように書いている。
……この小説も他の私の小説と同様に口述筆記であった。筆記者は三浦である。三浦は私の言葉のとおりに、原稿用紙に書いて行く。ひと区切り毎に「ハイ」とか「うん」とか返事をするのだが、時折返事をしないことがある。見ると三浦は涙をこぼしているのである。そんな時は、むろん私も涙ぐんで口述している。(中略)農の苦しみ喜びにさえ、私は涙が出た。こうして生きていた人たちに、待っていたのはまぎれもなくあの過酷な災害であった。それを思うだけで、涙がこぼれたのだ。つまり、私や三浦の涙は、農に生き、悲惨な最後を遂げた人々への共感の涙であった。
一九八四年には、上富良野町の草分神社に、十勝岳爆発災害復興六十周年を記念して、『泥流地帯』の山津波を描いた一節を刻んだ碑が建てられた。エッセイ『明日をうたう』で綾子氏はその前後の様子を感慨深く振り返っている。これらもまた、執筆活動を通しての様々な出会いである。
「言われなき苦難」がテーマ
さて、『泥流地帯』では何が中心的テーマにされているのか。それは続編において何度も、主人公・耕作自身の問いかけとして現れてくる。
『続泥流地帯』は大正十五年七月、十勝岳の大噴火で泥流に流されて死んだ村民、百四十四名の葬儀が行われるところから始まっている。耕作はそこで「じっちゃんも、ばっちゃんも、姉ちゃんも、良子も、みんな死んだ」と、これまでの苦難を振り返る。残された兄・拓一と共に復興作業を進める中で主人公はこう自問する。
……遠く、ふるさとの福島を離れて、はるばると北海道までやって来た祖父たちが得たものは何だったか。苦しい開拓の仕事と、貧困だった。その挙句が、息子の夭折であり、続いて嫁の佐枝との別離だった。幼い孫たちを抱えて、祖父たちは更に農に励んだ。一番上の孫が嫁に行き、拓一と耕作が、何とか一人前になり、末の孫が十五になって、いくらか生活にゆとりらしいものができようとした頃、一挙に、何もかも押し流された。肌理(きめ)こまかく耕してきた畠も、地獄のような石河原になってしまった。更にこれから、拓一が辿ろうとしているのは、あの流木の散乱する、硫黄と硫酸に荒れた泥田だ。なぜ、こんな苦しみを、孫子の代まで負っていかなければならないのか。(p71)
やがて耕作は、クリスチャンである母・佐枝から聖書のある箇所を読むようにと渡される。それは「ヨブ記」であった。耕作はそれを読みながら、「正しい者が災難に会う」というヨブの苦難に自分たち家族の人生を重ね合わせながら共感し、また苦難を甘受するヨブの信仰に驚く。
本作の中心的テーマは、まさにこの聖書のヨブ記に示されている「人はなぜ言われなき苦難を受けるのか」という問いかけである。
ヨブ記に示される「言われなき苦難」の理由
実は、聖書ヨブ記には、サタンと神とのある取引きが導入として描かれている。サタンが「この世に義人など一人もいない」と主張するのに対して、神が「ヨブを試してみよ」と応える。これを受けてヨブの苦難が始まるのである。ヨブは子供を失い、財産を失い、病に見舞われる。最初のうち「裸で神から生まれたのだから、裸で神の下に還ろう」と信仰心ある決意を示していたヨブは、さらに不幸が続くと神を呪うようになる。それは単に不幸を呪うのではなく、自分自身が誰よりも品行方正で信仰ある正しい人間だ、と信じる故の義憤の訴えである。ヨブを訪れる人々は「正しい者がこのような災難を被るはずがない。自らの罪を悔い改めよ」と責めるが、ヨブは真っ向から反論する。このとき神が現れ、神との会話を通してヨブは改心し、以前の倍の幸福を与えられる。というのがヨブ記の大筋のストーリーである。
さて、このとき聖書の中でヨブに対しては、なぜ自分がこのような苦難を受けるのかという理由が、最後まで示されていない。神は確かにヨブと会話を交わすのだが、その要旨は「はっきりと全ての事情を知らないのに自分勝手な判断を下すものではない」という程度の漠然としたものである。神は、ヨブの「なぜ正しい者が言われなき苦難に会わなければならないのか」という問いかけに答えてはいないのである。理由としては、サタンと神とのやり取りという事情がきちんとあるのだが、神はこれを敢えてヨブには示さないのである。ここに、逆に何というか文学的深み、人生の深みといったものが感じられるように思われる。
『泥流地帯』とヨブの人生
実際に生きている我々にとって、理不尽な苦難や不幸、不平等な現実を目の当たりにすることは日常茶飯事である。こんな世の中に神などいるはずがない。実際に神がいるのなら、なぜ神は人間の問いかけに応えないのか。なぜ神は沈黙しているのか。世の中多くの人々がこうしたものを実感として持っていることだろう。聖書での一見不充分なやり取りは、こうした現実を無視することなく、真摯に応えているからこそであるように思われる。
家族と財産を失い、燃える土をよみがえらせようと奮闘する中で、兄・拓一は耕作を争いからかばおうとして脚を怪我し、一生の不自由を背負う。まさにヨブの災難に満ちた人生そのものである。『続泥流地帯』最後で、ようやく細々と育った稲が刈り取れるまでになり、幼なじみで愛しく思っている女性が買春宿から解放されたという報に接し、拓一は稲の中に泣きくずれる。それは単に希望の涙と言うにはあまりにも重い、血を吐くような人生の苦難を表現した涙であるために、胸に生々しく迫ってくるのだ。
三浦綾子自身の示す「言われなき苦難」への解答
さて、本作『泥流地帯』のテーマとは、聖書ヨブ記にある「正しい者がなぜ言われなき苦難を受けるのか」という人生の苦難の問題であることを、これまで説明してきた。
この難しい問いに対する解答は、本作中にははっきりとは示されていない。ただ『続泥流地帯』には、この問いを受けて耕作の母・佐枝がこのように説明する箇所がある。
……「母さんもね、これはいろいろ考えたことだし、お話も聞きましたよ。母さんに話してくれた牧師さんはねえ、『神は愛なり』って。そのことだけを信じていたらいいって。(中略)人間の思い通りにならないところに、何か神の深いお考えがあると聞いていますよ。ですからね、苦難に会った時に、それを災難と思って嘆くか、試練だと思って奮い立つか、その受けとめ方が大事なのではないでしょうか」(p423)
教育的措置としての苦難
しかし多くの読者は、これだけでは解答として不十分に感じるだろう。一つひとつの言葉の意味も分かりづらいかも知れない。この問いに対して、綾子氏は『道ありき 第三部』において、あくまで自分の意見として、幾通りかの説明を試みている。
……幼い子が一万円札を指さして、これがほしいと言った時、親は果たしてその願いをきくであろうか。(中略)人間の親でさえ、賢い親は、わが子にいつ何を与えるべきかを知っている。(中略)神は、わたしたち人間の魂の生活に、もっともよいと思われるものを、よい時に与えてくださらない筈はない。わたしの十三年の病気は、確かに精神的にも肉体的にも、そして経済的にも苦しいものであった。だが、今過去を顧みて、あの十三年の病気の月日は、やはり必要な、なくてはならぬ時であったと、つくづくと思い知らされることがある。(p188)
つまり、苦難は私に何かを教えるための教育的措置なのだ、という解釈である。これが前述「神は愛なり」の意味であると考えて良いだろう。
殉教としての苦難
『道ありき 第三部』でもう一つ、綾子氏は苦難についての興味深い説明を試みている。
……なぜ神が、神を信ずる者をこのように苦しみにあわせるかは、わたしたちには明確にはわからない。もしここで、わたしなりの苦難についての考えを述べることを許してもらえるなら、それはやはり、神の御心であるという以外に、言いようのない気がする。正しい人や、熱心な信徒の苦しみは、この世を浄化するためにあるのではないか。その人々は特に、神に見こまれた人々ではないのか。わたしはどうも、そんなような気がしてならないのだ。(p190)
神の前にどんなに正しい者であっても、苦難を被ることがある。それはこの世を浄化するための措置だ、というのである。ヨブ記の冒頭にある神とサタンとのやり取りの結果、義人ヨブが試練を受ける(本人には理由が知らされないため本人においては言われなき苦難となる)という経緯が、この「神に見込まれた人」という発想と軌を一にすることは明らかであろう。また、実は、何も罪科のないはずのイエスキリストが人類の救いのために進んで十字架についた、というのもこれと同じ発想である。つまり、言われなき苦難は、一種の殉教の精神によって越えることができる、というメッセージである。改めて見返すと、やはり『泥流地帯』でも、主人公の祖父が同じ趣旨でイエスの十字架に言及する。
……「じっちゃんは国にいた時、論語だの聖書だのよんだもんだがな。聖書には『正しき者には苦難がある』って、ちゃんと書いてあったぞ。(中略)キリストは神の子だっていうべ。神の子といやあ、こりゃあ何の罪もねえ正しいお方だ、それが十字架にかかってころされっちまった。(中略)祟りなんかねえ。聖書に書いてある限りではな。神罰があるだの、仏罰があるだの、人間の弱みにつけこむような教えは、本当の教えじゃあんめえ」
こうした主張を、『泥流地帯』の中で綾子は、平易と言うよりかなり抑えた、ロゴスが伝わりづらい形で作品の中に隠しているように思われる。推測であるが、これは教義にも関わる内容であるので、綾子氏もここでは一介のクリスチャンとして、抑えた書き方にせざるを得なかったのではないか。
最後にもう一つ、『泥流地帯』は、実在の人々の苦難を形に残すことで、この苦難を意味あるものたらしめていることに注目しておきたい。 
 
「細川ガラシャ夫人」

 

三浦文学を支えるもの
本作執筆の経緯であるが、実は『塩狩峠』執筆の後、キリスト教雑誌「主婦の友」の企画・紹介を得て、取材なども同誌のサポートのもと、ごく自然に執筆に向かったようである。これが三浦文学の一つの特徴を示しているように思われる。三浦綾子という文筆家一人が三浦文学を支えているのではなく、キリスト教を中心とする人々のつながりが、しっかりとこの文学を支えている。
三浦文学の本質とは「証の文学」であり、そこには実に様々な人々の実体験、生の人生が綴られており、フィクションを旨とするものではない。『夕あり朝あり』『愛の鬼才』『ちいろば』、また本作『細川ガラシャ』もそれが当てはまる。三浦綾子本人の筆力・才能はもちろん不可欠であるが、それは触媒のようなものであり、実在の様々なキリスト教に生きた人々、あるいは真摯に人生を生きた人々がいて、その証を受け継ぐことで、素材自体がいわば真の姿を明らかにする。文学を創作するのではなく、素材の真の姿を発見する形で、初めて文学として成立する。そういった、食品で言えば生物(なまもの)のような文学である。具体的には、デビュー前から本人が信仰告白を掲載するなど縁が深かった、この「主婦の友」が三浦作品を大きく支えていたと言える。
ともあれ、『塩狩峠』の後、次は『細川ガラシャ』を執筆するという流れは、自他が当然のこととして受けとめていた。ここから、三浦文学が『塩狩峠』まで書いた時点で、その「証の文学」としての本質が自他ともに自明のこととして理解されていた事実がうかがえる。
ガラシャの生き様
さて、本書の主人公・細川ガラシャは戦国時代後期の武将・細川忠興の妻であり、本能寺の変で知られる明智光秀の娘でもある。ガラシャはクリスチャン洗礼名グレーシア、「恩寵」という意であり、本名は玉子である。
秀吉のときにキリシタン禁制がとられると忠興は妻に信仰を捨てるよう要請するが、ガラシャはあくまで信仰を貫く。やがて秀吉が死に、石田三成と家康が反目すると、日本中の武将はどちらにつくか選択を迫られる。忠興は家康側につくが、石田方は京にのこされた武将の妻子を人質に取り始める。軍勢が迫る中、ガラシャは館に火を放ち命を断つ。
三浦作品では、このガラシャの人生を、権力と信仰の板挟みになりながら、社会的な無知や迫害に耐えて信仰を貫いた、という観点で描いている。特に忠興がガラシャに棄教を迫る場面は、もちろん台詞等は綾子氏自身の創作によるものであるはずなのに、真剣味に満ちたものである。忠興は妻に対して、何か物の怪に憑かれたかのように厳しく迫る。これは綾子氏の方に、そこまでの極限状況として描かざるを得ない動機があったと考えざるを得ない。
今日、憲法では信教の自由が保障されており、そこまでの迫害はあり得ないと一応は言うことができる。しかし日本の伝統風土としてキリスト教、大本教などに対する迫害は史実であり、現在もそうしたものを可能性として秘めている。半世紀前の当時もクリスチャンに対する迫害は水面下で続いており、三浦綾子氏自身も、こうした問題を身近なものとして捉えていたと考えるべきだろう。
他作品との比較
さて細川ガラシャについては、司馬遼太郎氏も『胡桃に酒』という短編を残している。比較すると、三浦綾子とのスタンスの違いが分かって面白い。
司馬遼太郎が描いたのは、ごく一般的な見方(ネガティブな)にひねりを加えた内容である。剛胆で嫉妬深い夫と、美しく優しいが気位の高い妻。どちらも悪い人間ではないのだが、組み合わせが悪い。そのガラシャがある時、腹痛をおこす。それが胡桃と酒の食べあわせだと知って、皮肉な暗合を感じる、というストーリーである。
三浦綾子の場合は、これら登場人物を決してこのようにネガティブに描かない。ガラシャと夫・忠興の関係は信頼と真心の上に成り立っており、夫婦間には外的な対立こそあれ、それは時代背景や社会的立場によって生じるものであり、本人同士は心で泣きあい、許しあいつつ、それぞれの行動を演ざるを得なかったのだ、という基本的な解釈の上に書かれている。ここに綾子氏が信仰、すなわち人間への信頼を前提として執筆していたことが感じとれるが、もう一つ、綾子氏の女性としての母性も感じられるように思われる。
司馬遼太郎の短編は、いわゆる男性的な見方の典型であるように感じられる。プロットとしては知的に面白いが、ごつごつとして感情移入しにくい。三浦綾子の長編は知的な面白味や独創性を旨とせず、穏やかな中に細やかな感情の機微を感じさせる。改めて女性ならでは、の感をうけるのである。
『塩狩峠』と『細川ガラシャ』の関連性
前回、三浦綾子氏が『塩狩峠』執筆後すぐに『細川ガラシャ夫人』取材に取りかかったかのように書いた。実際は『塩狩峠』の主婦の友連載が一九六六〜八年、『細川ガラシャ夫人』が一九七三〜七五年で、五年ほど開きがあり、その間に『道ありき』『続氷点』『聖書入門』など、十編ほどの長・短編執筆をはさんでいる。
この点、まず当時『氷点』に続く『塩狩峠』の人気は大きなもので、この作品にまつわる様々な講演会などが続き、また『ガラシャ』執筆前後にちょうど『塩狩峠』映画化が進められ、『塩狩峠』撮影と『ガラシャ』取材は同時並行的になされていた。
三浦綾子氏自身の中でも二作に対するタイムラグはなかったと思われるのだ。
伝記小説の確立
その一九七三年当時の同時並行作業のやりとりは自伝風エッセイ『命ある限り』で「細川ガラシャへの旅(十一章)」として詳しく紹介されている。これによれば、旭川への「塩狩峠」映画ロケ班が同年三月十四日から。四月六日には大阪への『ガラシャ』二度目の取材旅行(第一回目は前年十一月)。これについて綾子氏はこう述べる。
「取材と言っても、この取材の場合、一回目と同様既にお膳立てはできていた。生まれて初めて戦国時代を書かねばならぬ私のために、予め、主婦の友社側では、当然訪ねなければならぬ城や寺院、研究者等々に、ひとわたり当って、備えてくれていたということである。言ってみれば、私は歴史小説の取材の仕方を、イロハから教えてもらったことになる」。
取材方法をイロハから教わった、ということであるから、三浦作品に於ける本格的な取材に基づく伝記はここで確立されたと考えて良いのではないだろうか。この頃は『氷点』執筆時の一九六三年(入選が六四年夏)から十年の節目にあたっており、この『ガラシャ』以降、取材に基づく伝記という三浦文学の公式が確立されたのだ、とみることができる。
「伝記」と「証」
改めてみてみれば、『塩狩峠』も『ガラシャ』も、キリスト教雑誌の「主婦の友」の枠での、取材に基づいた「伝記」という性格を持つ執筆である。前述したように「主婦の友」はキリスト教出版社として三浦作品のメインストリームを生み出す特別な役割を果たしていた。そのなかで確立していった「伝記」という文学形式こそが、三浦文学が『氷点』『ひつじが丘』『塩狩峠』の初期三作品で出した結論であった。そうした観点から、『ガラシャ』は『塩狩峠』の次に来る主要作品と言って間違いない。
思えば三浦文学の初期作品においても、取材による伝記という形式はずっとあった。『氷点』で青函連絡船が遭難し、外国人牧師が他の命を守るため殉教するというエピソードも実話を取材したもので、本作品の重要なパートを担っている。『ひつじが丘』のプロットも身近な事実から生まれたし、言うまでもなく『塩狩峠』は半分ノンフィクションとして通用するものを持っている。『続・氷点』ラストのクライマックスも取材によって生まれている。そして『道ありき』も、取材こそないが個人の人生を綴った主観的伝記である。
一方で、綾子氏の「伝記」の取材方法は、三浦綾子氏の人生経験によって形成された、独自の性格をもっていたという。「調べる」といえば詳細に文献を調べ、現地へ赴く、また詳しい者の話を聞くなどの作業になるが、普通は一歩引いた客観的な史実理解を重んじるものである。これに対して三浦綾子は、主観性を重んじるという特色があり、その取材は常に祈りと涙の伴うものであったという。つまり綾子氏における伝記小説とは、理性に重きをおく客観的な歴史考証というより、情に重きをおき、進んでその人の人生に飛び込み、共感し涙を流すものであった。さらにそれは綾子氏の情的視点によって再解釈され、「証」としての形を与えられた。
『道ありき』などで自らの人生の証を描き、『氷点』『塩狩峠』などでも証を核として織り込む小説をものした綾子氏は、この方法に確信を得、様々な歴史人、特にキリスト者の生きざまを「証」として再解釈する作業へと進んでいった。それは時として、史実というには出来すぎの観があるが、「証」という観点では見事に統一性が見られる。
以上をまとめれば、「証」の文学という方法論は、すでに三浦綾子の初期三作品あたりで内的に確立されたものとなっていた。それが、十年かけて熟成し、いよいよ取材方法など外的な面でも確立した。その記念的作品がこの『ガラシャ』だったと説明できるのである。
司馬作品との違い
細川ガラシャについて、司馬遼太郎氏も『胡桃に酒』という短編を残しているが、両者のスタンスは全く違う。
司馬遼太郎の描いた構図とは、勇猛果敢だが所有欲と猜疑心が異常に強い武将・細川忠興と、美しく情感豊かだが自律心と意志力が並外れた玉子(ガラシャ)が、結果的に悲劇につながるというものである。
司馬作品のクライマックスでは、玉子が忠興から胡桃割りと葡萄酒を贈られ、胡桃と酒を同時に食したところ、食いあわせで病床に伏してしまう。腹痛の原因を知った玉子は、衰弱の中でえたいの知れない不快感が体中に広がり、「ちがう」と叫んで落涙する。その姿を見て、身の回りの世話をしておりキリスト教徒でもある小侍従は、食いあわせは食べ物ではなく、細川忠明と明智ガラシャの結婚自体なのだ、と思い至り、おぞましい地獄を見た思いがする。司馬作品は基本的にこのような感じであり、知的には面白いが読後感として殺伐としたものが残る。
三浦綾子作品の場合、忠興は齢八十三歳で没するまで他の妻を娶らなかったこと、玉子の死によって細川家に同情が集まり繁栄に貢献したことなどを紹介し、いかに忠興が玉子を愛していたか、玉子が良妻として内助の功を立派に果たしたかに筆が費やされている。一つのクライマックスとして、玉子が忠興から、金箔を貼った扇形の歌留多をプレゼントされる場面がある。結婚後、忠興が三年間かけて自筆で百人一首を書き、ようやく出来た品だと聞かされ、玉子は涙を流して感謝する。その姿を見ながら、忠興も今までの妻への評価を改め、この日以来、それまでぎくしゃくとしていた忠興と玉子の関係は、垣根が取り払われたようになった、という。三浦作品の場合は、捉え方が主観的ではないかという疑問が生じつつも、読後感としてさわやかな、心に残る内容がある。
三浦綾子にはこのように、人間の良い部分を見つめて書く、という信念が見られる。このポジティブな執筆姿勢は、三浦文学の際だった特徴であろう。
ガラシャ版の『道ありき』
さて、『細川ガラシャ夫人』において三浦綾子氏が訴えたかったことは、あとがきに明らかである。
まず綾子氏はこのように述懐する。
「どの時代にあっても、人間が人間として生きることはむずかしい。人形のように生きるのではなく、猫か犬のように生きるのでもなく、真に人間として生きるということは、実に大変なことなのだ。(中略)四百年前、女性は男性の所有物であり、政略の具であった時代に、女性が人間らしく生きるということは、極めて難しいことであったと、想像される。そうした時代に、霊性に目覚め、信仰に生きたガラシャの生き方は、わたしの心を深く打つ」(「終わりに」)。
ここで綾子氏は、故人の生(なま)の人生に触れることで、私の人生にどのように良い影響を与えるか、ということを見つめている。
「逆臣光秀の娘という恥を見事に雪(そそ)ぎ、立派な最後を遂げた玉子のことを思うと、わたしはふっと、あのホーソンの「緋文字」の女主人公が目に浮かぶ。罪ある女としての印の緋文字を、終生胸につけなければならなかったその女主人公は、信仰と善行とによって、その緋文字を罪のしるしから尊敬の印に変えてしまったことを思う」(「終わりに」)。
無論、綾子氏の描いた玉子像は、史実とは違うものなのかも知れない。しかし綾子氏は、主観的枠の許す限度いっぱいに、最も自らの琴線に触れ、私自身に良いものをもたらすものは何かという観点で材料を取捨選択している。
実は、もともとこの小説を企画したのはキリスト教出版社「主婦の友」側で、最初から「細川ガラシャ版の『道ありき』を」というコンセプトがあった。この話を受けて最初逡巡(しゅんじゅん)していた綾子氏は、主婦の友から取材日程や連載のスケジュールまで組まれて、否応なしにガラシャについて平易な本を読む所から始める。すると、「一読してガラシヤ夫人の生涯に、言い様もない感動を与えられたのである。感動が湧けばしめたものである。」(『生命ある限り』)と心が動く。さらに、光秀の温厚な人格が「知らぬ世界を恐れずに描こうとする意欲を引き出した」とある。その人の人生にいかに感動し、良き影響を受けたか、これが明確になったとき、綾子氏の文学創作は誰もかなわない、誰にも止められないものに変身する。このとき綾子氏にとって文学創作とは、個人の知的興味の次元ではなく、何としても為さねばならない、神から与えられた使命のようなものとして捉えられていただろう。このように綾子氏が本作品で実現しようとしたのは、私に良きものをもたらす、細川ガラシャの信仰と人生の証であった。
明智光秀の「証」
三浦綾子氏がガラシャの話を書くに当たってまず触媒の役割を果たしたのは、まず明智光秀の人生であった。「光秀の結婚は、私をして知らぬ世界を恐れずに描こうとする意欲を引き出した」とエッセイ集『生命ある限り』では語られている。
改めて本作品を紐解くと、第一節「痘痕(あばた)」がまさにその光秀の結婚のエピソードである。光秀の婚約相手は、当時の流行病である天然痘にかかってあばた顔になってしまった。これを苦に思った彼女の両親は結婚の夜、密かに妹娘を光秀の下に送る。しかし光秀は頑としてこれを拒み、自分の婚約した姉娘と結婚した。
第二節は「黒髪」と題した、妻の内助の功の話である。光秀が浪人の頃、仲間を集めて酒宴を開かざるを得ないはめになったが、必要な金子はどこにもない。しかし妻は夫に、案ずることはない、自分が全て引きうけたと言う。当日、宴は盛大に行われ、光秀は面目をほどこした。彼女は夫の面目のために、惜しげもなく黒髪を切って金に換えていたのである。
そして次の節では、母親の顔について「でこぼこして可笑しい」と一言もらした幼い玉子(ガラシャ)が、「人間の価は心にある」と父親からきつく諭され改心するというエピソードが配置されている。これらエピソードの順序は、「感動」という観点から、いかにも必然という印象を受ける。
「感動」という触媒
思うに、文筆家としての三浦綾子氏の筆力は潜在能力として恐ろしいものを持っており、それが「感動」という触媒に触れたとき、一気に芸術としてほとばしり出る、という感がある。
『氷点』が入選した際には、あたかも超新星のように騒がれ、また作品のあまりの完成度の高さに、「到底素人が書ける内容ではない」と代作説まで流れたという。しかし幼い頃からフランス文学等を親しみ、熱烈な教職時代を過ごし、長い闘病生活でさらに哲学や人生の問題と向き合った綾子氏の内面では、一流の文筆家として必要なものが充分に熟成され、育っていた。
『氷点』の冒頭の自然描写、洞爺丸沈没のシーンや、『続・氷点』の最後の流氷の様子など、特に北海道の自然を描く段では、非常に美しく、唸らせるような迫力に満ちた表現が多い。
綾子氏が筆力としてそれだけのものを持っているのは疑いを入れないことだが、綾子氏の場合は「その気」にならないと描けない謙虚さを合わせ持っているようだ。『細川ガラシャ』を書く際にも、企画は出版者側からもらい、「取材はまだか」「取材は後まわしにしても連載を始めて欲しい」とまで要請を受け、逡巡(しゅんじゅん)しながら取材に取りかかる。ところがいったんガラシャという題材が琴線に触れると、見事な文学作品がほとばしるように生み出されていく。これは三浦作品が心のこもらない小手先の文章を嫌い、一句一句心を込めた、体を張った生の文章を旨としていることを示している。
小手先の技術で書くのではなく、感動をバネに、身を削って文章にする。これぞまさに文学者、という感じがする。
人を動かす文学
さて真の文学ということについて、例えばエッセイ『孤独のとなり』で「わたしはなぜ書くか」として綾子氏は「一歩でも人を動かすものこそ真の文学」と訴える。
「わたしはこの福音を伝えずにはいられない。(中略)こうした態度が、文学的に問題視されることは知っている。主人持ちの文学、護教文学といった批判である。(中略)だがわたしは、文学的にどうであれ、この姿勢を変えるわけにはいかないのだ」(「わたしはなぜ書くか」)。
だが、綾子氏個人が「人間を真に生かす道、真に幸いにする道、すなわち福音である」(「わたしはなぜ書くか」)という確信を抱き、そこから三浦作品が生み出される限り、綾子氏の自覚する欠点もあり得ない。綾子氏の実感として、正しい生き方とは福音にイコールであるからだ。
このように三浦作品群とは、正しい生き方へのメッセージ、「証」の文学であり、この綾子氏の確信ゆえに、それらはまさに正統的な文学となるのである。
福音と小説の相性
前回は三浦綾子氏の福音を伝えるという目的に対して、小説という形式が矛盾するのではないか、という問題を紹介した。この問題を理解している証拠として、エッセイ『孤独のとなり』で綾子氏はこのように述べている。
「人間は確かに、罪の塊のようなものである。その罪の塊のような人間を描くとなると、きれいごとばかり並べられないのは当然である。(中略)ある人は、その醜さを見て人生に幻滅し、絶望するかも知れない。ある女性は卑劣な男性の行為におどろき、結婚を諦めるかも知れない。あるいは、私の小説を見て、姦通を真似るかも知れない。わたしは決して、性的欲望をあおる小説を書こうとは思わないし、書いてもいないつもりだが、考えてみると、わたしの知らないところで、いろんな影響を及ぼしているであろうことは想像できる」(「わたしはなぜ書くか」)
確かに『ひつじが丘』『積木の箱』などについては、読んでいてよく訳が分からないという声を聞くことがある。信仰について触れないわけではないのだが、かえって教会や信仰を相対化するようなネガティブな内容が心に残る。キリスト教について学ぶことを期待した読者は、これでは福音を伝えるにはマイナスではないか、と思わされるのではないか。
また現実に、妻妾同居を題材にした『積木の箱』が映画化される際に、セクシャルな女性の裸を配置したポスターなどを使って宣伝がなされ、三浦綾子氏自身も落胆したことがあるという。
実感に根ざした作品づくり
こうしたいわゆる「ネガティブもの」の作品で、綾子氏が、正しい生き方を語る前段階として、まず人間の醜さや罪、さらにはキリスト者の悩みについてまでよくよく知る必要がある、と考えていることが汲み取れる。これに焦点を当てた結果、作品が「人間とはどうしようもない罪な存在だ。(時には信仰を持ってしても)救いようもないのだ」という主張で終わっているかのような印象を与えることもだろう。
しかし、たとえ作品中に明確な解答が示されない場合も含め、三浦綾子の作品群は全てハッキリと、「正しい生き方とは何か」という問いを指向している。それは決して綾子氏が護教文学に流れることなく、まず個人として真摯に正しい生き方を志向する資質を持っていることを示している。キリスト教はあくまでその個人に枠を提供する役割であり、その結果として福音が伝わる形になっている、ということが分かる。だからこそ、三浦作品は多くの人々の共感を呼ぶ大衆文学として成り立つのである。三浦作品は、お仕着せの護教文学ではなく、個人の実感に根ざした、人生の真実との出会いをいかにコーディネートするか、ということを見つめているのだ。
ちなみに『塩狩峠』では、作中作品として中村春雨作『無花果』という小説が出てくる。これは実在の作品で、ある信仰篤い牧師が、昔犯した姦淫の罪によって身を滅ぼしていく、そしてその妻が信仰によって夫を愛し抜こうとするというストーリーが、ここではかなり詳細に紹介されている。これは明らかに『ひつじが丘』に重なる内容であり、綾子氏が教会やキリスト者の抱える矛盾を率直に見つめていた証拠となる。これに対するアンチテーゼのような形で、解答として示されるのが、実は『塩狩峠』の主人公自体の生き方なのである。つまり本書は、ただキリスト教に入信することを訴えるだけでなく、一般のキリスト者ですら乗り越えられない罪や現実を掘り下げ、その自省に立って、さらに一歩進んだ本物のキリスト者としての生き方を問いかけるという、リバイバル運動のメッセージとなっている。
『ひつじが丘』『積木の箱』、また『無花果』などで描かれる陰惨な人間関係は、ともすれば「そこまで書く必要があるのか」と反撥を受ける嫌いもある。しかしそこまで書かせるのは綾子氏自身の、ある潔癖さだと思われる。読者にただキリスト教を押しつけるのではなく、人生の真実の生き方としてキリスト教に出会って欲しい。この厳格な中立性を自らに課している、ということである。
正統的な女流文学としての三浦作品
さて有名な逸話として、『氷点』のラストについて、ヒロインの陽子が自殺し切れなかったという結末に不満を抱いたある読者が三浦綾子氏に手紙を送り、実際に自殺したという事件があった。もちろん『氷点』は、自殺を奨励するような小説ではなく、自殺の口実に使われたにすぎないだろう。しかしこの事件を綾子氏は深刻に受けとめていたという。そしてやがて、『塩狩峠』『細川ガラシャ』など、人々の琴線に触れ、正しい生き方へ導く、生(なま)の「証」としてのメッセージ文学を確立していく。
文学を世に出すということは生半可ではできない。糊口を凌(しの)ぐ手段としての、職業としての文学ということはあり得ない。綾子氏はこのような、社会的責任に対する真摯な姿勢を持っていた。「ネガティブもの」の作品群は、この真摯さに根ざした執筆なのだと言うこともできよう。この真摯さに、樋口一葉から続く正統的な女流文学の後継者としての三浦綾子を見いだすことができるのだ。 
 
「ひつじが丘」

 

三浦作品の系譜
さて、前回まで『氷点』を扱うと同時に、その作品の中心的テーマである原罪の問題を扱った。三浦自身が原罪とは「的を外れて生きることだ」とコメントしていることも紹介したが、言い換えれば原罪とは、本来生きるべき生き方があって、いまの私がその本来の私から外れてしまっている状態を指すのだと言えよう。
さらにここに、「孤独」というテーマが深く関わってくる。ドイツの心理学者エーリッヒ・フロムは自己の実存に対する唯一の回答が愛であると論じているが、本来あるべき私を喪失した私は、言うならばこの真実の愛を喪失し、虚無に陥る。「原罪」を本人の情感に照らして言った言葉が「寂しさ」なのである。『氷点』のヒロイン、陽子は自らのルーツを見つめ直すことで、自分の抱える原罪に気付き、どうしようもない寂しさを感じる。
この寂しさ、三浦作品の大きなテーマとなっており、例えば『孤独のとなり』や『石の森』といった作品がある。『石の森』の「石」とは、孤独に陥り他者とのコミュニケーションを失った人間を指し、そうした人間たちの群像が「石の森」に例えられている。
また、本人の女学校時代から終戦の頃までを扱った自伝『石ころのうた』は、このどうしようもない「寂しさ」を扱った作品として、三浦作品を読み解く上で重要な示唆を与えてくれる。戦時中、熱心に教師を勤めていた三浦が終戦と同時に、これまでの自分が間違っていたことに気づき、一気に虚無へ陥り、長い闘病生活に入る様が描かれている。ここにも題名の「石」と「孤独」の呼応が見られる。
そして『ひつじが丘』も、こうした系列から読み解くことができるのだ。
挫折に向かう刹那的人生
三浦が『氷点』の次に世に問うたのが『ひつじが丘』である。と言っても本作品はキリスト者向けの雑誌「主婦の友」に連載され、主人公も牧師の娘という、信仰の問題を直接扱った内容である。
『ひつじが丘』のヒロイン・広野奈緒美は、牧師の娘として育つが、教会に通うキリスト者達に対して、清廉潔白ではあるが人間味の薄い、魅力のない人々のように感じ、不満を覚えていた。その典型が、キリスト教徒であり高校の教師でもあった竹山哲哉である。女子高校卒業後、彼女は竹山から結婚の申し出を受けるが、ロマンを求める彼女は断ってしまう。そして、高校の同級生の兄である自称画家の卵・杉原良一と駆け落ちのようにして同棲生活に入る。しかし良一は「みどり児のように澄んだ目をもち」「小学生よりもあどけなく、人なつっこい」一面で、虚無的人生観に犯されていた。彼は自らの陥った退廃的な生活から立ち直るために彼女が必要だと言い、彼女もそれを一旦信じるが、やがて裏切られ、不倫や虐待が始まる。最後には良一が事故死をとげ、信仰告白としてキリストの十字架の絵を遺す形でストーリーが閉じているが、本作品は全体的に非常に痛々しい内容に満ちており、読者からの賛否両論も多かったという。
奈緒美が選択したのは、安定した真っ当な生き方ではなく、ロマンを求める刹那的な人生であった。やがてそれは挫折と屈辱に向かわざるを得ない。しかし、彼女の情感はその刹那的な人生を求めざるを得ない。それは彼女がその選択以前に、すでに「孤独」「虚無」に犯され、寂しさを抱えていたからだ。
『ひつじが丘』から『塩狩峠』へ
さて、本作品では、キリスト者に人間味が欠けるのではないか、という問題提起がなされている。案外多くのキリスト者において、本人の人格や人生に根ざした、信仰と人格の有機的なつながりが見えてこないという、言うならば信仰のマンネリ化といった問題だ。
『ひつじが丘』では、ヒロインがロボットのように清潔な、しかし魅力に欠けたものとして信仰者を嫌い、刹那的人生を選ぶ。しかしそこには挫折と屈辱の人生が待っている。
そして次の『塩狩峠』では、作者の琴線に触れるキリスト者の見事な生き様を追いかけることで、人生や個性と深く結びついた本物のキリスト者像が提示される。そこには、前作で提起された問題に対する三浦の解答が示された形になっている。これ以降、「証の文学」という形式が確立し、『細川ガラシア』『ちいろば』『夕あり朝あり』などの作品の系列が生まれていったと考えられるのである。
『ひつじが丘』に隠された問いかけ
前回、『ひつじが丘』をとおして「孤独」という問題を論じた。『ひつじが丘』(一九六五)のヒロインは、孤独と寂しさに犯されたために、正しい生き方から外れ、刹那的な人生を選択してしまう。
キリスト教の観点では、罪とは神というアイデンティティの喪失であり、そこから絶望的な寂しさ、虚無が生まれるということが説明できる。前作『氷点』で扱ったのもこの罪の問題であり、この作品も同様の問題を扱っていると言えるだろう。
しかし本作ではもっと信仰者の生活に根ざした問題が問われている。ヒロインは牧師の娘として信仰生活を見つめてきた、いわゆる信仰の第二世代である。第一世代は様々な人生や出会いを経て自ら信仰を選択した人々である。それだけに、案外普遍性のない、本人なりの信仰の持ち方を自分なりに認めてしまっている場合が多い。しかし、普遍性のある、誰にも納得し得る信仰でなければ、それを第二世代に伝えることはできない。生まれたときから信仰者に囲まれて生活をしてきた第二世代は、かえって教えだけでは納得せず、両親の生活、信仰者たちの生活をつぶさに見つめ、実感として、信仰がその人にとって本当にプラスかマイナスかをシビアに見つめる立場にある。そうしたヒロインに対して、両親も、また彼女の教師でありキリスト者である竹山も、彼女が納得するだけのものを示し得ていない。
本作品は、教えで説明が付くことであっても、実際問題としてキリスト者には自分なりの信仰に満足するだけの「偽物」が多いのではないか?いつの間にか信仰がマンネリ化してしまい、信仰者の人間としての魅力を損なうことがあるのではないか?といったシビアな問題を扱っているのだ。
解答として示された『塩狩峠』
こうした問いに対して生み出されていったのが、三浦文学の真骨頂とも言える「証の文学」である。
確かに現実の内容として、先に示した信仰のマンネリ化、また世代交代、信仰の相続などの問いはシビアな問題である。しかし「本物」もいるのだ。本当の信仰者について多くの人々が良く知り、感動を心に刻んでいくなら、ある正統的な伝統が確立され、こうした問題はやがて解決していくだろう。だからこそ、そういった人達を取り上げ、証をつまびらかにすることで、本物のキリスト教を伝えていくのだ。そういった動的な解答として、世に出されたのが次の『塩狩峠』(一九六六)であり、またこれに続く『道ありき(自伝)』『細川ガラシア』『ちいろば』『夕あり朝あり』などを精力的に継続的に執筆していくことが作者の姿勢になったのだ、と読み解くことが出来る。
日本人アイデンティティに通じるテーマ
さて前回、本人の前半生を扱った自伝『石ころのうた』に、虚無的人生観の問題が詳しく描かれていることを紹介した。
『石ころ』は本人が女学校に入った頃から、小学校教師として敗戦を迎えるまでを綴ったものであるが、作者が日本の軍国主義という大きな歯車の中で「無駄な戦争」の中で青春を費やし挫折するという流れを追っている。本作を読むと、本人が虚無的人生に陥った経緯は、当時の日本人全体が大なり小なり対面せざるを得なかった敗戦という問題に対して、作者の鋭敏な感性と教師としての自覚から、周囲よりも深刻な形で、自らの根底的なルーツの喪失として受け取ったことから生じている、ということが分かる。
本人はその後キリスト教と出会い、道を見出していく。道がない、と思っていたところに道があった。この時期に続く自伝『道ありき』とはそういう意味なのだといことが分かる。
つまり、三浦文学は、狭義においては「キリスト教に出会う私」を示す個人の証の文学であるが、広義においては「敗戦後の日本人のアイデンティティ回復」の道を志向するものとなっている。三浦文学が漱石の後継者と呼ばれることもあるのは、作品執筆がこうした原点に支えられているからであると推察されるのだ。
遠藤周作の問いかけ
遠藤周作氏は『黄色い人』以来、有名な日本人論を展開し、日本人にはキリスト教の文化的伝統がなく、罪を意識することが難しいのではないか、という問いを投げかけている。
これは有名な日本人論である。河合隼雄、丸山真男をはじめ社会学者に「母性の国」と評される日本は、母性をもって人間一人ひとりを慈しむ反面、犯罪を犯した人に対して、「あの人も人間だから」などと許してしまう、甘さを持っている。
例えば環境問題も然り、日本国土の豊かな自然にかき抱かれ、育まれた日本人は、自然を克服・管理せざるを得なかった西洋人に較べて、明らかに自然に対する甘えが見られる。無計画に、無分別に自然を破壊する。責任の所在を明らかにせず、問題を先送りにすれば、周囲の自然がそれを呑み込み、いずれ時と共に解決してくれる。このような考え方が至るところに見られる。
結果、日本人は西洋人のように罪などに悩むことなく、なんとなく日々の衣食住を満たすだけで生きていけてしまう。そして日本の殆どの人々は、罪を忘れて「私には関係のないこと」として生きている。日本がこのような国だというのである。
三浦氏はこの問題に対して、様々な人生経験を交えて正面から取り組んでいる。
罪をえぐる作品執筆
『ひつじが丘』のヒロイン、牧師の娘である奈緒美は、キリスト者の生き方に漠然と不満を抱き、刹那的人生に流されていく。彼女の両親や、彼女の教師でありキリスト者でもある竹山らも、彼女に魅力ある人生を提示することができない。結局、彼らの生きる姿はみな、迷えるひつじの群にすぎない、という意味で、三浦は作品を「ひつじが丘」と命名している。こうした「罪から離れられない私」を抉(えぐ)り出すような作品は、三浦作品の大きな特徴である。ここには明らかに、登場人物の生々しい苦しみを通して、罪に鈍感な日本人に対して罪の重大さを悟らせようという意図が見られる。
三浦流の伝道文学とは
ちなみに、三浦文学はこれほど読まれているにも関わらず、案外「正統的な伝道文学」の範疇に入れられることが少ないらしい。キリスト教文学のオムニバスなどを編纂する際、編集側は三浦を軽視するというより、他の作品との毛並みの違いに当惑し、選考から外してしまったりするそうである。どうも伝道文学という場合「キリスト教はこうで、こういうことで、だからあなたもキリスト教に入りなさい」という教義説明があって、信仰告白があって、という四角四面な枠があって、三浦文学はその枠に当てはまらないらしい。
三浦氏がキリスト者として、祈りの中から自然に湧き出る内容として書いたのならば、信仰告白などが項目としてあってもなくても、これは立派にキリスト教文学である。しかし三浦文学には、他の伝道文学と較べて大きな興味関心の違いがあると思われる。
結論的に言えば、三浦文学はキリスト教について語るのではなく、キリスト教に出会う私について語っているのだ。あるいはそれを指向しつつキリスト教が表面に現れないケースも多い。こうした可能性を探る形で、彼女自身の人生体験に北海道という特殊な風土・雰囲気が加わるようにして『氷点』『ひつじが丘』の後、『積木の箱』『泥流地帯』『天北原野』など、「罪ある私」を抉るような作品群が執筆されていったと思われる。これらの作品は確かにキリスト教が全く出てこず、形だけ見れば単なる小説の枠に入ると言わざるをえない。だから「キリスト教文学」と呼ぶことにためらいが生じるのだ。
また前回まで論じてきたように『ひつじが丘』では、キリスト者が教義的な「無責任な言葉だけ」の答えではなく、実際問題として「身を持って」こうした問題に解答を示すことが出来るか? という問いかけがあった。こうした問題提起も、キリスト教自体ではなく、キリスト教との関わりを語ろうとする三浦文学だからこそ、成され得たものだったと言えよう。 
 
「道ありき」 1

 

(一) はじめに
三浦綾子氏は、数多くの書物を世に送りだしている。その数は膨大な数字に及んでいる。中でも小説はいうまでもなく、そのジャンルの広さに目を見張るものがある。とりわけ本論では、 『道ありき』を通じて、作家「三浦綾子」の生き方に焦点をあてたい。特に、 次に示す『道ありき』の冒頭を引用する。

わたしはこの中で、 自分の心の歴史を書いてみたいと思う。
 ある人は言った。
「女には精神的な生活がない」
 と。果たしてそうであろうか。この言葉を聞いたのは、 わたしが女学校の低学年の頃であった。
その時わたしは、妙にこの言葉が胸にこたえた。なぜなら、 たしかに女の話題は服装や髪型、そして人のうわさ話が多いように少女のわたしにも思われたからだ。
(女にだって魂はある。いや、あるべきはずである)
その時わたしは、そう自分自身に言いきかせた。一『道ありき』より一

上記に示した文章は『道ありき』冒頭の箇所である。この作品が発表されたのは、 昭和四十四年である。この当時は、 まだ女性の立場が現代ほど自由ではなく、 まだ社会の規制、規範が根強く残っている時代である。こうした時期に、三浦綾子氏はきっぱりと自分の意思を伝えている。また、 この他にも、『道ありき』の中では無関心ではいられない数々の言葉に出会うのである。また、 三浦綾子と短歌に関わって作品の考察を深めたい。
(二) 三浦綾子文学の魅力
『道ありき』は、 『この土の器をも』、 とともに、 自伝小説『草のうた』。『石ころのうた』に続くもので、三浦綾子の青春期に位置する。作品に盛り込まれている含蓄のある言葉の数々に出会うのである。しかし、敗戦後に三浦綾子が現実に見てきた、社会の矛盾や不合理性に直面することになる。それは、教師としての立場からその屈辱と挫折に向き合わなければならなかった。同時に彼女自身が、脊堆カリエスの発病による十三年間にも及ぶ闘病生活虚無ζ絶望の果て、三浦綾子が求めた生きかたとは、どのようなものだったのか、作品を通じて生きることへのメッセージにふれることができる。そのことは、三浦綾子『道ありき』から無関心ではいられない言葉に出会う。少し、そうした言葉の一節を拾ってみよう。
・人間とは、悩み多いものであるべきだと思っていた。(四章)
 「人」を冷静な視点で見つめている。苦しみのない人生なんてあり得ないだろう。「悩み」があるからこそ「希望」という文字も生まれるのかもしれない。
・人間が中心の思想に、わたしは何の感動もなかった。(五章)
 など、 この頃「虚無というものは、 恐ろしいものである」と自ら述懐している。すべてのものが信じられなくなり、次第に心が荒れて行った当時の状況を筆者は語っている。また、 「忘れられない敗戦の、苦い体験が、わたしに人間というものの愚かさ、頼りなさをいやというほど教えてくれた」と懐疑的な側面にも注目をしなければならない。
・真剣とは、人のために生きる時にのみ使われる言葉でなければならない。(十二章)
 こうした言葉とともにこの章 Dでは「人間」について人間の弱さ、貧しさが語られ、人としての本性にふれることができる。
「人間の弱さ」そして「貧しさ」。また、「何ひとつ確かなものなんてありゃしない。だがほしいのだ」と。「永遠であるものが」とある。つまり、 「完全燃焼の中にこそ、永遠なるものがあるのではないか」と述べている。この当時、三浦綾子氏は手応えのある確かさを探し求めていたと考えられる。
他にも、
・まず誰よりも自分に絶望していたから、                   (十三章)
 こうした言葉は、 ごくあたりまえの表現のようだが、スムーズに口には出せない言葉である。自分自身と向き合い、 内省する中で表出された言葉であろう。また、 この章で三浦綾子氏は「聖書」のことや「神」にっいてもふれている。
・自分の意思よりも更に強固な、大きな意志のあることを感ぜずにはいられなかった。(十八章)
 日常生活の中にも、 自分自身の意志以外の、何かが加わっていることを示唆している。「決して自分の意志通りに事が運んでいない」ことをきっぱりと言っている。
・相手を精神的に自立せしめるということがほんとうの愛なのかもしれない。(二十八章)
 ここでは、幼ななじみ前川正氏の言葉が深く影響を与えている。「人間は.人間を頼りにして生きている限り、 ほんとうの生き方はできませんからね」と、人を頼ることは、 まだ本来の意味での愛のきびしさを知らないということなのだろう。
・自分はいったい何に安心して生きているのか。(三十章)
 「自分自身の魂が不安であるならば、安住の地を求めても、 もっと厳しい求道の生活をしなければならないはずであった」と記している。そして、 これまで漫然と読んでいた聖書を、真剣に学ぶようになった経緯が述べられている。
・いまわたしは小説を書くようになったが、 アララギに学んだことが実に大きな益となっている。(四十章)
 ここに示したものは、 まだほんの一部である。しかし、彼女の生き方が存分伝わってくることも根拠ある事実として受け止めなければならない。特に、 四十章にある三浦綾子にとっての短歌そして、三浦光世氏との出会いは、作家・三浦綾子の作品に大きく影響をあたえているといえよう。また、それらのことに関して、彼女は「病む吾の手を握りつつ睡る夫眠れる顔も優しと思ふ」と毎日は幸せ過ぎて、わたしは歌を忘れて行った。つまり、
「幸福な日々はわたしから歌をとり去ってしまった」と述べている。確かに三浦綾子は昭和三十六年を境に短歌を詠むことから遠のいている。
ここで、三浦綾子・つまり一人の作家が誕生するまでの道のり、それは、決して平坦な道のりではない。自らが、述べているように、虚無、絶望の最中に、生きる希望を与えているものは何だったのか。そのことは、 『氷点』をはじめ、一連の三浦文学に通じるテーマとも大いに関わってくるのではなかろうか。
 『氷点』が発表された時、『原罪』という言葉が注目された。この事に関して高野斗志美氏は次のように述べている。

ある集まりで初めてお会いした。ぶしつけに、 「原罪というのは、 どういうことですか」とたずねた。すると、すこし考えたあと、眼をあげ、おだやかだが、きっぱり答えてくれた。
「的(まと) をはずれて生きることです」
その言葉が、その時の、 きりりとした眼の輝きといっしょに、今も鮮明に記憶にある。

『氷点』のテーマに関わって、氏の『原罪』についての大変興味深い捉え方がある。(注一)
このことは、三浦文学の根本に流れるテーマとも通ずる。ここで、高野斗志美氏が直接、三浦綾子氏に尋ねて、返ってきた答えのように「原罪」とは、 「的(まと)」をはずれて生きることに尽きると考えられる。そのことは、 『道ありき』を読む中で、その意味する共通点が見い出せるのである。ここでは、三浦綾子氏は、 自身の言葉で「自分1 を語っている。それは、まさしく「虚無」、絶望から這い上がる再生の道であった。そうした三浦綾子氏の生きることへの軌跡そのものが「原罪」を考える上で抜き差しならぬ事実ではなかろうか。
『道ありき』は三浦綾子の青春期の内奥に刻みこまれた貴重な心の歴史として読みとることができよう。
また、三浦文学が多くの人に支持され、読み継がれてきた理由の一つに、作品の根底に流れるテーマが、人として「生きること」、 「生」と「死」にかかわって、 「生きること」への問いかけが作品の中に内蔵していると考えられる。そして、そのことは「原罪」を解き明かす内容とも相通ずると考えられる。
三浦綾子氏にとって、十三年間にも及ぶ闘病生活は、生活面で大きく変化をもたらした。
また、 そのことは、 「愛 つむいで」の四十九編の言葉からも、そうしたことの裏付けを読みとることができる。また、三浦光世氏と綾子氏の言葉を媒体とした相互の対話にも興味がそそがれる。
少し、そうした言葉を拾ってみよう。
・私たちは、毎日生きています。誰かの人生を生きているのではないのです。自分の人生を生きているのです。きょう一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、きょうという一日がどんなに貴重かわからない。『愛すること生きること』
 真に生きることの大切さを知るものこそ言える言葉ではないだろうか。また、 印象深いのは「誰かの人生を生きているのではないのです。自分の人生を生きているのです。」ときっぱり言えることの素晴らしさである。
・「死ぬよりほかに道がない」
などと考えるのは、 いかに人間が傲慢であるかということの証左である。道は幾つもある。
生きようとする時、必ず道はひらけるのだ。『孤独のとなり』
『道ありき』の中で、三浦綾子は絶望の果て、 「死」を選ぼうとしたことも事実である。上記にあげた一節は、そうした中で、 「生きる」ことの再生への道を深く考えさせられる一節である。
・一見、マイナスに見える体験というものが、 どんなに人を育てるための大事な体験であることか。
そのマイナスの体験が、やがて、多くのプラスに変わるのではないだろうか。『愛すること信ずること』
 この言葉にも同様なことが言える。三浦光世氏は「病気を始め綾子にはマイナスの体験が多かった。十人きょうだいの五番目に生まれ、 小学四年生の時から、女学校を卒えるまで、毎朝五時に起きて牛乳配達をした。これは即マイナスとはいえないが、その労苦も後には大きなプラスとして、綾子の人生に作用した」と述べている。
このことは、 「一見、マイナスに見える体験というものが、 どんなに人を育てるための大事な体験であることか」との一節と、決して矛盾をしていない。
・わたしたちひとりひとりの命はかけがえのないものだ。そのかけがえのない命を、生かされるままに、せいいっぱい生きて行くすなおさをわたしは持ちたいと思っている。『あさっての風』
 ここでは「命」の大切さを強く意識させられる。
・同じ一生でも、人によってちがうものだと思う。雨一つでも憂鬱になる人間と、喜ぶ人間がいる。
 同じ道を歩いているからと言って、 同じことを感じているとは限らぬものだ。『生かされてある日々』
 この一節は、人間の本性を見事に映し出している。人は時には身勝手なものかもしれない。しかし、こうした許容がやがて、三浦文学への魅力に通ずるのではなかろうか。
・言葉は確かに大切なものだ。しかし人間には、言葉よりも大切なものがあるのだ。
 このことも、 人としての根元的な重大さを説いていると考えられる。
・やさしさとは、相手の身になって考えると共に、そのやさしさを意志によって持続することにあると思う。意志と知性に支えられないやさしさは、それはいわば、気まぐれであって、真のやさしさではない。『孤独のとなり』
 ここでは「意志]、 「知性」の言葉が光っている。そして、岡時に真に求められる「やさしさ」についてふれることができる。このことについて、光世氏は「私は結婚生活において、意志的でも、知性的でもなかった。意志も知性も綾子のお株と言えた。そして綾子は真に優しかった。私にのみならず、多くの人に優しかった。だがこのような言葉を残したところを見ると、 やはり絶えず意志的であろうと、努力していたものと思われる。」と述べている。
・無関心ということは、 何と恐ろしいことだろう。つい、目と鼻の先の出来事であっ て、 関心を持たぬ限り、それは遠い世界の出来事である。この無関心はわたしの持つ大きな罪悪の一つのように思われる。『石ころのうた』
 「命」との関わりについても考えられる。生き方の一端そして、その喜びを示しているといえよう。
・「使命」という字は、命を使うと書くと聞いた。なるほど、使命とは命を使うことか。味わい深い言葉なり、一本の花が命を限りに咲いている。それもまた使命を果たしているということ。その人なりにひたすらに生きる、 美しいことだ。『この病をも賜として』
 この言葉にも、上記で示されているように、 「人」としての根元的なテーマが内蔵していると考えられる。
・鉄砲や刀では人の心まで変えることはできないが、 たった一行の詩が、 人の心の奥底にいつまでも生きることができる。『わが青春に出会った本』
・最も短い詩型は俳句であろう。二十歳代に、 私はこの俳句を三句作った。その一つは次の一句。
 灯の まだはるかなり 雪の道
 いかに道は遠くても、 目指す光がある限り、私たちは歩みつづけることができる。(光世)
綾子、光世氏の印象的な一節である。
こうして、 「愛 つむいで』からも数知れず名句に出会う。
(三) 三浦綾子と短歌
 さて、 ここで三浦綾子氏にとって短歌はどのような意味があったのだろうか。
三浦綾子さんと短歌との関わりについては、先に示した事柄でも知ることができる。
何首か三浦綾子氏の短歌にふれてみよう。
・見舞いに貰ひし飴は溜め置き弟等に用事頼む時少しつつ遣る
・毀れ箪笥古鏡台がある故に漸く女が住むと判るかも知れぬ吾が部屋
・ひる寝るを罪の如くに思ひつつ臥す哀れさを嫁ぎて知りぬ
ここに掲げた短歌に共通する事柄として、生活の実体験としての要素を多く詠まれている点である。特に、『道ありき』、『この土の器をも』にも続く作品にたびたび短歌が登場するのである。しかし、昭和三十六年を境に三浦綾子さんの短歌に出会わなくなる。そのことについて、綾子氏自身、 「毎日は幸せ過ぎて、わたしは歌を忘れて行った」と述べている。
わたくし達は、 こうした短歌(注二)にふれることにより、 これまでとは異なった三浦綾子さんに接することができる。しかし、 こうした一語一語にこめられた言葉の輝きが後々の三浦文学を大きく花開かせることになる。そのことは、 日々の言葉のつぶやきが、やがては短歌として、心の内面が詠み上げられるのと似ている。
昭和三十九年に『氷点』が発表され、作家として歩みはじめる。周知のごとく、『氷点』を発表する以前に、林田律子というペンネームで小説を発表している。もちろん、幼い頃からの文学的素養は並々ならぬものがあっただろう。そうして十三年間におよぶ闘病生活から得た人問に対しての鋭い洞察力や広い包容力は、三浦文学の原点だと考える。
また、三浦文学を考えることを通じて、 『道ありき』と有島安子『松むし』の共通点を見い出すことができる。
(四) 『道ありき』と有島安子著『松むし』の共通点
『松むし』は、有島武郎の妻、安子が大正四年一月に平塚杏雲堂病院に入院し、その後翌年の八月二日まで一
年六ヵ月間に及ぶ闘病生活の中で安子が書き記した手記などである。安子の死後、大正五年九月に武郎自身がまとめ、 遺稿集四百部が出版される。
『松むし』所収七十一首のからも、三浦綾子・有島安子が闘病していた時期に違いはあれ、いくつか詠まれた歌からの共通点を見出すことができる。それは、病魔との闘いでの中で、それぞれ筆者の言葉のつぶやき、 内面の表出が短歌にまで結晶している点である。そして、それらの詠まれているモチーフが生活している身の回りの事柄からしだいに内容が変化していることもあげられる。例をあげるならば、 『松むし』では、短歌を詠みはじめた頃の歌の内容がほんの身近なものから、 自分の心に内省し、冷静に自分自身を見つめ、我が命のあり方を凝視する歌が多くなってくる。こうしたことは、三浦綾子の『道ありき』の短歌にも通じるのではないだろうか。特に、 三浦文学で}よ短歌という形が小説やヱッセィの中で昇化され、奥行きのあるものへと結晶していると考えられる。
このことは、三浦綾子さんの文学から、希望や勇気が与えられる。この言葉にも象徴されているのではなかろうか。それは、 理屈ではない。どんなに苦難や困難が目の前にあろうとも、 やがてはそれらを解決すべき方向性を見つけることができる。人としての忘れてはならぬ大切なことを省み、 そして強く生きようとする望みが、いつれの作品からも窺われていることも記しておきたい。
(五) おわりに
こうして、『氷点』をはじめとする三浦文学を通じて多くのことを学ぶのである。『道ありき』から、それは女性として、人としての生き方に及ぶものであった。未来に向かって、人間としての根元的な問題を孕んでいる。またt 人を愛することの重大さ、そして、時には誰かを傷つけ、やがては自分自身も傷ついていくことを考えさせられる。人間がもつ哀しさにまで及び、かけがえのない「生」そのものについて深い感銘を受けるのである。
『道ありき』が、三浦綾子氏の自伝小説であることは、周知の通りである。他にも出生から少女期時代の『草のうた』、女学校を卒業し、教師になり、戦時中での混乱の最中、青春期での回想として『石ころのうた』、 『道ありき』はこれらの作品の続くものである。
ここで、三浦綾子氏にとって「書くこと」の意味がどのようなことだったのだろうか。もともと「書く」ことにより、 自分自身のことを知ったり、あるいは、 これまで気がつかない事柄の再発見に通ずるものだと考える。こうした一
連の自伝小説にふれるなかで、 「書く」という行為そのものが、 「生きること」とに関わり、 決して切り離すことができない。
三浦文学において、 『原罪』の意味を問うこと、 そして、北海道の土地で生まれ、育まれた三浦文学が、今日的にどのような意義をもつのか。こうしたことへの取り組みが、 さらに求められるであろう。
【注一】 「三浦綾子と旭川」の中で、高野斗志美氏は、次のように述べている。
見本林は、r氷点』の小説舞台である。しかし、それだけに終わっていない。たんにフィクションを色彩づける風景としてあるのではなくて、見本林は、小説の構造全体にかかわるシンポリカルな時空間であって、 いわば運命的なトポス(場) としてこの作品に内在化されているといわなければならない。そして、 ヒロインの陽子が次第に接近していく生の真実な姿、 原罪のありかを照らしだす思想のトポスとしての役割をはたしていることも認知されてくるのである。
『氷点』を書きあげるために三浦綾子は、 いくども見本林をたずねた、 という。そのことは、この作家が、見本林という実在の地を物語のトポスに変容させていくこと、 つまり、 フィクションを構成していく内的枠組の磁場へと再構成していったこと、そのプロセスを示している。とある。
【注二】 短歌に関して、三浦綾子は一九四九年一一九六一のほぼ十年間に相当数の短歌を「旭川アララギ会々報」に発表している。
・ 雨しぶく丘の小径に佇みて一つの想いに堪えていたりし
・ 風雨激しき丘を歩みて咳み込みし時午後四時のサイレン聴ゆ
・ 歩み行く丘の彼方の空の雲黒と黄に濁りて昏れ行く
・ 湯たんぼのぬるきを抱きて眼醒めいるこのひとときも生きていると云うのか
・ 命いたわりひたに生きむと思う朝障子に写りて島影よぎる
・ いつの日か逢う事あらむ片目細める表情も俄かに悲しきものとなにぬ
・ おやこんなに穏やかに微笑む時もあるのかと鏡の中の吾を見つめり
と多数。 
 
「道ありき」 2

 

「事実上の処女作」
これまで、三浦綾子の文学はデビュー作『氷点』、次の『ひつじが丘』、そして『塩狩峠』の三つに集約されていると説明した。しかし実はもう一作、加えるべきものがある。それが自叙伝『道ありき』である。
また、『氷点』が三浦綾子の初めての作品というのも実は、ある意味で正しくない。昭和三十九年七月に『氷点』が朝日新聞の懸賞小説に当選しているが、それよりも以前、キリスト教雑誌「主婦の友」昭和三十七年新年号に林田律子(はやしだりつこ)の名で信仰告白『太陽は再び没せず』を発表している。これは同誌が募集した「愛の記録」企画の第一回入選作だった。この作品を原型としてできあがったのが『道ありき』なので、『道ありき』の方を事実上の処女作と見る人もあるぐらいである。綾子氏自身は詳しく述べておられないが、流れから見て、これを契機として自他ともに文筆家としての可能性に手応えを感じ、『氷点』執筆に至ったというのは、非常にうなずけることである。
アイデンティティの破綻と新たな道による再生
さて、『道ありき』は最初このように前置きをして始まっている。
「私はこの中で、自分の心の歴史を書いてみたいと思う。ある人は言った。『女には精神的な生活がない』と。果たしてそうであろうか。」
そして、三浦綾子氏が日本敗戦の翌年に教員生活を辞し、その直後に寝たきりの長い闘病生活に入ったところから本書のストーリーが始まる。三浦氏は教員として戦前・戦中の七年間、愛情と熱意に溢れて子供を指導していた。しかし日本が敗戦を迎え、それまでの生きがいであった内容は全く裏返しの結果となって降りかかってくる。
「全校生徒に別れを告げる時、私はただ淋しかった。七年間一生懸命に、全力を注いで働いてきたというのに、何の充実感も、無論誇りもなかった。自分はただ、間違ったことを、偉そうに教えてきたという恥ずかしさと、口惜しさで一杯であった。」その後、虚脱感と虚無感を抱えた彼女は二重婚約をし、ちょうど結納の日に病に倒れる。
このように見ていくと、三浦綾子の人生前半はまさに、戦後の日本が陥ったアイデンティティ喪失を典型的な形で示している。江戸末期に開国した日本は、それ以来怒濤のような欧米の文明と武力の脅威にさらされ、憑かれたようにひたすら欧米化・強兵化の道を突き進んできた。しかしそれが敗戦によって一気に破綻した。それは、江戸末期から明治・大正・昭和前期まで夏目漱石や福沢諭吉のようなインテリ層によって一貫して指導され、続いてきた日本人アイデンティティの決定的な断続を意味している。この『道ありき』は、このアイデンティティ喪失を受けて、これまでの人生を全て否定された後、個人三浦がどのように新たな精神の「道」を見出し、再生していったのかを示している。
日本全体のアイデンティティ再生の道
さて、個人三浦は確固たる道を見出したわけであるが、実際の日本は、三浦綾子のような「道」を見出さず、道なきままに経済路線を歩んできたと言って間違いないだろう。終戦後に示された日本のあるべき姿、目標というのは、万人が平等で、それなりに裕福で、といった漠然としたものであったと思われるが、それは確かに一九八〇年頃までに果たされてしまった、と思われる。しかしその後の日本は、言うならば、目標を喪失してしまったかの感がある。少子化やデフレに象徴されるように、経済的にも冴えない、社会的にも若さや弾力やまとまりが乏しく、覇気のない国になりつつあるようである。
そのような中で近年は、戦前に対する再評価の動きや、国内のアジア・ブーム、また若い世代でサッカーを中心に愛国心の高まりが見られたり、海外に進出する若手ビジネスマンの活躍なども注目されるようになってきている。これらは、「道」なき後の日本のアイデンティティ再構築の様々な現れ方なのだ、と大枠で捉えることが出来る。しかしどれもメジャーな社会現象とは成り切れていないのではないか。今後アイデンティティを本格的に立て直すならば、日本は決定的な「道」を見出さなければならない。それが何なのか、まだまだ模索の段階だと言って良い。つまり、この『道ありき』は実に示唆に富んだ、現代の日本人が膝を正して読むべき良書である。
日本人アイデンティティ再構築をめぐって
前回『道ありき』が、戦後日本の知識人層が陥ったアイデンティティ喪失と再生を志向する物語である、ということに触れた。いったん、これらを具体的な事例を踏まえて概観し、本連載の骨子になる主張を整理しておきたい。
開国以来、近代日本は怒濤のように押し寄せる西洋文明、また侵略の危機にさらされて、対応策をとるというシビアな状況の中でアイデンティティが形成されていった。しかしそうした中でも近代日本は、様々な軋轢を超えて、勝海舟や坂本龍馬、西郷隆盛といった逸材によって導かれ、大政奉還や明治維新を通して、かなり高いレベルでこの状況に適応していったのではないかと言える。
その後も、文明同士がせめぎ合う中で、日本のアイデンティテイ確立の努力は続けられていった。例えば福沢諭吉は韓半島を巡る中国との軋轢の中で、『脱亜論』を展開するようになる。今の世の中はすでに弱肉強食であり、徹底した欧米化によって、列強のアジア進出に日本も自ら参加する以外に選択肢はない、という主張であった。
また例えば夏目漱石は英国留学を経て、重度の神経症に悩まされつつも『私の個人主義』を体得した。これをマクロ的に説明するなら、漱石が患った神経症とは日本が近代に圧倒的な他国の文明力にさらされて文明喪失の危機に陥ったことを端的に現しており、これに対していったん他国と競争するといった危機感を取り払い、日本の伝統文化の中で育まれた自分自身をシンプルに信じよ、というのが漱石の「個人主義」の主張であった。彼にとっての文学創作とは、自らの癒しをかけた行為であり、すなわち日本のアイデンティティ再構築の試みを活字に変換したものでもあった。また彼と交流の深かったインテリ達は「漱石山脈」と呼ばれ、文学にとどまらず広い学問分野にわたって業績を残し、当時の日本を指導していった。
当時の日本のインテリ層にとって、それぞれの個性や立場による主張の違いこそあれ、この日本のアイデンティティ再構築は暗黙の共通目的のようなものであったと言える。
日本人アイデンティティの破綻の中で
こうした中で日本は、外的には、日清・日露戦争を経て満州進出、そして第二次世界大戦へとなだれ込んでいった。文壇においては、漱石の後継者たる芥川・有島などが日本人アイデンティティ再構築を担う形になった。二人はキリスト教に縁が深く聖書や教会に題材を得た作品を多数残しているが、一方で共産主義に触発された社会小説もものしている。これはやはり当時の文明の軋轢の中から、日本独自のアイデンティティのあり方を問う試みであったと捉えることができるが、この二人は将来への漠然とした不安などを理由に、どちらも自殺を遂げてしまう。この事件は、この時点でいったん日本人アイデンティティが破綻してしまったことが象徴されている。この後、文学界はロマン派、自然派などに分裂し、小さな佳作を中心とした文学創作が主流になっていく。そしてこの構図はさほど大きな変化もなく現代へと持ち越されている。つまり近代以降の日本人アイデンティティはいまだに破綻したままなのだ。
ただ、そうした中でも独自の立場や個性によって、日本人アイデンティティの可能性を開拓した作家が存在した。例えば宮沢賢治は、法華教の信仰を土台に、自然との語らいの中から近代日本人に必要な魂の糧を抽出しようとした。仏教の世界観を前提に化学や農業を学んだ彼の中では、西洋の科学技術文明は、東北の厳しい自然環境から農作物を得、理想の国を建設するという構図で矛盾なく根付いていたと考えられる。
そして「漱石山脈の新山」と評される三浦綾子は、日本人の代表たる自分自身が、敗戦後の虚無感の中からキリスト教に出会い再生するというストーリーを提示した。彼女のホームグラウンドである北海道は江戸後期以降からの開拓の地であり、厳寒な自然と闘い、またコミュニティが助け合う中において、信仰心が非常に健全な形で支えになる、そうした伝統が根付いていた。
この二人はいずれも布教のためというよりも、信仰を土台とした一個人として、近代日本人にとって必要な内的糧を提供しようとする姿勢が執筆動機になっていた、そのために狭い枠を超え、広範な読者を獲得したと言えるだろう。また二者は東北と北海道という、いずれも厳しい限界状況を通して作品が生み出されており、ここに、安逸な現代社会では利己的な生き方が許容されるのに対して、そうした利己的な生き方が許容されない環境下でこそ、矛盾のない自己が確立するのだということも指摘できるだろう。すなわち、利他的精神が日本人アイデンティティ構築の鍵を握っているということが示唆されているのである。
作者の心の変遷を追う
さて、『道ありき』が日本人アイデンティティ喪失と再生の物語なのだということをこれまで説明してきたが、その過程がどのような段階を経て進んでいったのか、本書から琴線に触れる箇所をみてみたい。
まず、三浦綾子氏自身が非常に一本気な、自らのルーツや人生の歩みに対して真剣に考える性格を持っているということが目につく。
「何のためにこの自分が生きなければならないか、何を目当てに生きていかなければならないか、それが分からなければ生きていけない人間と、そんなことは一切関わりなく生きていける人間があるように思う。わたしはその前者であった。」(『道ありき』p25)
この生真面目さは戦前・戦中のインテリ層の基本的スタンスであったように思われる。戦争は人の生命を左右する重大問題である。関わる人間が良心的であればあるほど、こうした厳格さ、身を正す部分が自ずから要求される。そうならざるを得ないのである。三浦氏はそうした、日本に対して責任を自負する、良心的インテリだったのである。
虚無感の中で
しかし三浦氏は終戦後、今までの日本が間違っていたという事実に直面し、虚無感に陥る。そして教職を辞し、間をおかず重病の床に伏す。
その直前の生き方について三浦氏はこうも述懐する。
「窮極の生きる目的は依然として見いだせなかったが、さし当たっての毎日は仕事が沢山待っていて、結構忙しかった。忙しければ気も紛れて、私は時々自分でギョッとすることがあった。……私は今に、気の紛れることさえあれば、その日その日を暮らしていける、精神的日雇いになってしまうのではないか。今にその気の紛れることが、単なる遊びであっても、遊びによって自分を忘れた生き方をしてしまうのではないだろうか」(『道ありき』p41)
人生に目的などない。それでいいんだ。だから今をそれなりに楽しむしかないんだ。実際の日本は戦後、まさにこうした、三浦氏のいう精神的日雇いに流れていき、その延長線上に今の活力を失った、未来の見いだし難い日本がある。しかし三浦氏は、戦後のアイデンティティ崩壊の中にあっても、深刻さ・潔癖さを断固として守ろうとしていた。道を求め続けていたのである。その深刻さゆえに、三浦は恐ろしい虚無感と向き合うことになった。普通ここまでいくと自殺するしかないのではないか。三浦の場合は、運良くというか、不治の病を得て、自嘲気味に自らを「いい気味だ」と思っていた。これも一種の緩慢な自殺と言えるが、実際の死ではなく精神的な死であり肉体的には生きていた、この状況ゆえに再生へつながったのだから、やはり時宜にかなって病を得たと言えるであろう。
『伝道の書』による改心
三浦はそのような精神的死の中で、友人・前川正の助けを得、キリスト教に目覚めていく。とりわけ彼女の心を打ったのは『伝道の書』であった。
「何の気なしに読み始めたこの伝道の書に、わたしはすっかり度肝を抜かれた。『伝道者曰く。空の空、空の空なるかな。すべて空なり。日の下に人の労して為すところのもろもろのはたらきは、その身に何の益かあらん。』……私は自分が虚無的な人間だと思っていた。何もかも死んでしまえば終わりだと考えていた。だが、この伝道の書のように、『日の下には新しきものあらざるなり』とまでは、思ったことはなかった」(『道ありき』p81)
ここで伝道者が虚無的、というのは変に思われるかも知れないが、これは要するに、神を認めない生き方にそもそも意味など生じない、ということを言っているのである。三浦は自らが漠然と抱え込んだ虚無性の核心をズバリと言いあてられ、度肝を抜かれたのである。
そして三浦はこう続ける。
「虚無は、この世の全てのものを否定するむなしい考え方であり、ついには自分自身をも否定することになるわけだが、そこまで追いつめられた時に、何かが開けるということを、伝道の書にわたしは感じた。この伝道の書の終わりにあった、『汝の若き日に、汝の造り主をおぼえよ』の一言は、それ故にひどく私の心を打った。それ以来わたしの求道生活は、次第にまじめになっていった。」
彼女は聖書のこの箇所を、これを語る「伝道者」の、人生への宣言のようなものとして読みこんでいる。この「伝道者」は、神なき人生が無意味であること、神を離れた生き方があり得ないことを誇り高く宣言し、最後に、「あなたの若き日に神に出あいなさい」と激励の一言を贈る。これが彼女にはかけがえのない人生の先輩からのメッセージとして捉えられていた。「伝道者」の語る深い意味を生々しい実感として悟り得るのは、精神的日雇いをしている人間にはなし得ないことであって、やはり人生の極限を通過し目をそらさなかった三浦氏ならではのことであった。そしてまた、いったん破綻した日本の良心的インテリがただ死に向かわず再生を果たし得たのは、そこに時宜にかなった出会いや導きがあってのことでもあった。
言葉と行動
これまで三浦綾子の半生が日本の代表的インテリのアイデンティティ喪失と再生のストーリーであることを論じてきた。また前回、自伝『道ありき』の流れを追いながら、三浦が聖書の『伝道の書』から深い感銘を受けていること、その内容とは要するに神なき人生の無意味さを説き、「若き日に神に出合いなさい」と読む者を激励するメッセージであることを紹介した。
しかし伝道の書以上に彼女に影響を与えたのは、実は前川正、そして三浦光世氏、といった、キリスト教信者の知己を得て、その献身的介護や激励、祈りに触れたことであろう。言葉よりも、その言葉に伴った実際の行動こそが人の情を動かすのである。
無私の愛と殉教の精神
『道ありき』を読みながら殊に印象深いのが、前川氏の無私の愛である。三浦綾子の幼なじみでもある彼は、病床の彼女に対して厚く看護しつづけ、「このまま(無神論的な虚無感にさいなまれたまま)では本当に死んでしまう」とその思想を改めるように根気よく説き、「生きるというのは、人間の権利ではなく義務なのだ」と諭す。神から願われて生まれてきた私なのだから、その願いを果たし私が幸せになってみせる、そうした義務があるのだ、という、無神論の対極にある捉え方である。
三浦綾子氏はその姿勢に触れて次第に生きる勇気を取り戻していくが、逆に前川氏は彼女に生命を託したかのように、次の言葉を遺して病死してしまう。
「綾ちゃんは、もうぼくなどを頼りにして生きてはいけないという時にきているのですよ。人間は、人間を頼りにして生きている限り、ほんとうの生き方はできませんからね。神に頼ることに決心するのですね」(『道ありき』p158)
これもまた、無私の愛の一つの究極の形、殉教であると言えよう。三浦綾子は彼の死を聞き、自らも病床でうつ伏せの姿勢のまま号泣するしかなかったという。しかし彼女はその別れに耐え、病気を克服していった。彼の無私の愛、願いを受け取った彼女の為すべきことは、病気を克服し信仰者として生きること、それが義務であると悟ったからではないか。
その後、三浦綾子は『氷点』『ひつじが丘』『塩狩峠』『細川ガラシヤ夫人』などをものするが、どれも殉教というテーマをそれぞれの角度から見つめている。利他的な生き方を言葉だけではなく実際にできるのか、ということをいつも問いかけ、言葉だけでなく愛の実践を行うキリスト教のリバイバルを志していたのである。これは彼女が前川氏のメッセージを正しく受け取ったことの証拠でもある。
日本再生への兆し
このように三浦の作品群は、殉教の精神や無私の愛など、行動主義的な愛の実践を問いかけるメッセージがその核心部分にあった、と読みとくことができる。これは同時に、もしそうした無私の愛を受け取ったなら、我々は正しく生きる義務があるのだ、という現代に生きる日本人へのメッセージでもある。
残念ながら実際の戦後の日本は利己主義的風潮に流され、いま日本全体が衰退してしまった感がある。しかし断片的ではあるが、いまの日本にも利他的な精神に根ざした社会再生の兆しが見られる。
例えば今ブームになっている映画、「せか中」や「いまあい」にも、『塩狩峠』にある殉教の精神が息づいている。利他的な、自分のためではなく他のために生きる人生にこそ意味がある、というメッセージである。詳細はネタバレになるので伏せるが、自分を完全に省みず、愛する相手のために生きる生き方はとても感動的であり、まさに殉教の核心に通じる生き方である。映画・本はともにぜひお奨めしたい。
もう一つ、ネットを通じて話題が広がり、映画化が実現したという流れ(「いまあい」)も、時代性を感じさせられる。六〇・七〇年代の日本では、テレビの普及を通じて有吉佐和子などの作品がドラマ放映され、主婦を中心に多数の視聴者を得てフェミニズムのブームにつながっていった。現代もやはり、新しいメディアを通じて何らかのブームが起きることが期待される。定かではないが、インターネット世代の若者を通じて、日本を動かす何かコアな文化が起きる、という可能性も考えられなくはないように思われるのだが。
伝道を主眼とした作品
さて三浦綾子の『道ありき』は書き継がれて三部構成になっている。第一部「青春編」の内容は、これまで見てきたように、綾子氏がどのような変遷を経てキリスト教に出会い、また夫の光世氏に出会ったかが記された。これは同時に、日本の良心的インテリが虚無感のなかからキリスト教に出会い再生していくという精神史のストーリーでもあった。第二部「結婚編」の内容は、夫である光世氏と家庭をもった頃の生活から、やがて雑貨店を経営しながら朝日新聞懸賞に応募し、『氷点』が当選する様子が描かれる。これもただ事実が綴られるのではなくて信仰に根ざした立場、日々の生活を通していかに神様との出会い・導きを感じることが可能であるかということを眼目に書かれている。以前、キリスト教会にはそうした出会いや導きを語る「おあかし」の伝統があることを紹介したが、これはその伝統に則った、信仰者としての生活を語る証の文学となっている。第三部「信仰入門編」においては、自伝というよりエッセイ風に信仰を論ずる内容となっている。
つまりこの三冊を通して、読者に対して伝道がなされることになる。何度か述べてきたが、三浦文学の特色はこの伝道を教理を説明することでなそうとするのではなく、実生活を提示する中でなそうとする点にあり、それが結果的に文学の形態を取っているに過ぎない。
第二部のクライマックス
今回は三冊の中でも特に、第二部に描かれた「証」について見てみたい。
第二部は家庭生活に関する様々なエピソードすなわち「証」によって成り立っているわけだが、最もクライマックスと思われるのは次の箇所である。
三浦綾子氏はやがて雑貨店を営みながら傍らで朝日の懸賞小説を書き始める。やがてクリスマスの時期になるが、三浦夫妻は毎年、近所の子供を集めて子供クリスマスを行っている。小説の締め切り日はその年内である。折しも三十八度の高熱となった綾子氏は夫にこう尋ねる。
「『ねえ、光世さん。今年はクリスマスを、正月になってからしましょうよ。小説が間に合わないわ』
言下に三浦は答えた。
『神の喜び給うことをして、落ちるような小説なら、書かなくてもよい』
ふだんは優しいが、一朝時あると三浦は頑固なほどにきびしい。
『でもね、コピーも取らなきゃならないのよ。落選しても、原稿は返さないと、応募規定に書いてあったわ』
『綾子、入選するにきまっている原稿のコピーなど、どうして必要なんだ』」(214ページ)
実はこの半年ほど前に、夫の光世氏は聖書マルコ伝の<なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい>という言葉から天啓のようなものを受けて、妻が初めてものする小説が入選作になると確信していたのであった。そして三浦夫妻は百名近い子供たちを集めてクリスマス会をやり、十二月三十一日の深夜に原稿は書き上がり、コピーを取りきれないまま、原稿はその日の消印で送られ、そして入選したのである。
本当にそこまでの信仰があるのかと驚くばかりであるが、要するにそれは動機・発想の問題と言えるのではないか。実は綾子氏は、この小説の構想を得て書き始める際に光世氏に許可をもらい、このように祈ってもらっている。「……この小説が神のみ心に叶うものであれば、どうか書かせてくださいますように。もし神の御名を汚すような結果になるのであれば、書くことができなくなりますように……」。
綾子氏の文学全体が、こうした祈りから出発しているのだ。
普通に小説を執筆するなら、締め切り間近なら他のスケジュールを調整しようと考えるのは当然のことである。また、コピーをきちんと取り、保存できるようにしておくべきだろう。しかし、信仰の一表現として文学を著すのであれば、神を土台として行われている生活自体を乱した時点で、その作品執筆自体が意味を失うことになる。またそのような作品のコピーを残したところで、禍根を残すだけである。光世氏は信仰と言うより、このような信念によって発言したのだ、と考えるべきではないか。
ここでも、先ほども言ったように、信仰に根ざした生活の結果として現れてきたものが文学なのであり、文学を先立てることがあってはならない、という三浦文学のアイデンティティが端的にあらわれている。
信仰と生活
三浦綾子氏の自伝、『道ありき』の第二部は綾子氏が夫の光世氏と結婚生活を始めるところから始まっている。そこには様々な信仰生活の「証」がちりばめられている。
三浦夫妻は弟の使っていた家を改造して一緒に住むようになる。古く風呂もない寒い所だったという。最初に二人は正座して涙ながらに祈り、光世氏は「疲れているだろうから、きょうは静かにお休みなさい」と指一本ふれることなく、口づけもかわさずに自分の床に入った。その静かで敬虔な夜に綾子氏は深い安らぎを得たのだという。
やがて綾子氏は親族から「応募してはどうか」と朝日の一千万円懸賞小説募集社告を見せられ、その夜ふと、療養中に遠縁の者が殺された話から連想して『氷点』のプロットを思いつく。そして夫と共にこの小説が神の御名を汚すようなら書けないようにしてください、と祈り、一年間書き進めていく。その執筆は近隣の川谷牧師による日曜説教によって、毎週大きな支えと示唆を与えられたという。
ある朝、光世氏は聖書の<なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい>という言葉からひらめきを得、「綾子、この小説は入選する」と断言する。半年後、いよいよ締め切り間際に綾子氏は熱を出し、毎年のクリスマスの行事を延期したいと夫に相談する。しかし光世氏は「神の喜び給うことをして落ちる小説なら書かなくてよい」と言下に否定する。「コピーも取らなきゃならないのよ。落選しても原稿は返さないと応募規定に書いてあったわ」という綾子氏に、「入選するに決まっている原稿のコピーなど、どうして必要なんだ」と答える。クリスマス会は無事行われ、小説は締め切りの最終日に書きあがり、コピーを取り切れぬまま応募される。
そして本書は、『氷点』が朝日新聞懸賞に一位当選するところで終わる。
「遂に七月十日の朝が来た。早朝六時、店の雨戸がガンガンと叩かれた。新聞配達の人が、朝日新聞を一抱え持ってきてくれた。入選の記事がデカデカと出ていた。今日くらいは休んでくれるかと思ったが、三浦はいつものように、弁当を持って勤めに出て行った。……夕七時、予定どおり第一回目の第二金曜家庭集会が、川谷先生の説教によって始められた。……わが家にとって、大いなる祝いの日が、教会で定められた家庭集会の第一回目に当たっていたことを、わたしたち夫婦は意味ぶかく受け取った」。
このように最初から最後まで、夫妻の生活は信仰に貫かれている。淡々と、何事もなかったのように綴られているが、改めて吟味すると、奇蹟のような偶然の一致に満ちた、驚くべき生活であることがわかる。
「土の器」に宿る神
さて、本書の様々なエピソードをみると、信仰に根ざした理想的な夫婦像というイメージになってしまいがちである。しかし真に綾子氏が言いたいのは、そうした信仰の強さということではない。この本の真意は入選を果たした後、最後に光世氏が語る言葉に示されている。「綾子、神は、わたしたちが偉いから使ってくださるのではないのだよ。聖書にあるとおり、吾々は土から作られた、土の器に過ぎない。この土の器をも、神様が用いようとし給うときは、必ず用いてくださる。自分が土の器であることを、今後決して忘れないように」(226ページ)。われわれはこの土の器に過ぎない。それ自体は何の価値もなく、触れただけで壊れるような、土くれでできているのだ。その信仰も薄く才能もない、このような私たちに神様が働き、素晴らしいみわざを成してくださった。そうした謙虚さを忘れずにいることこそが大切なのだ。こうしたメッセージである。
三浦夫妻の生活をみながら気づかされるのは、生活の中のふとした思いつき、偶然の出会いなどを、偶然と思わないで神の働きと捉える謙虚な姿勢である。こうしたひらめきのようなものをユング的には「聖なる干渉」と呼ぶそうであるが、三浦夫妻はそれをきちんと受けとめることの出来る謙虚さを持っていた。その謙虚さがどこから来たのか、それはやはり綾子氏が通過した戦後の虚無感と長い闘病生活、この極限状況を通過し克服するなかでしっかりと根付いたものだった。その謙虚さが自然な形でしっかりと生活に根付いていたからこそ、生活の節目々々に祈りを中心とするということができ、また敏感に神の働きを感じることができた、と考えられるのである。
つまり、本書の中心メッセージとは、聖人君子たれ、という構えたものではなく、まず私たち一人ひとりに必要なものは神であることを認めよう、聖フランシスコが説いた「小さな信仰者」たれ、という地に足のついた呼びかけなのである。  
 
「道ありき」 3

 

わたしは生徒一人一人について、毎日日記を書いた。つまり、生徒の数だけ日記帳を持っていたことになる。生徒の帰ったガランとした教室で、山と積み重ねた日記帳の一冊一冊にわたしは日記を書きつづっていた。
自分は真剣なつもりで教育をしていたが、しかし、本当のところ、まだ教育とは何かということを、よくわかってはいなかったのではないかと思う。もし、教育ということが、どんなものであるかを知っていたならば、わたしは決して教師にはならなかったにちがいない。
昭和二十一年三月、すなわち敗戦の翌年、わたしはついに満七年の教員生活に別れを告げた。自分自身の教えることに確信を持てずに、教壇に立つことはできなかったからである。そしてまた、あるいは間違ったことを教えたかもしれないという思いは、絶えずわたしを苦しめたからであった。
そんなことを考えているうちに、わたしは、わたしの七年の年月よりも、わたしに教えられた生徒たちの年月を思った。その当時、受け持っていた生徒は四年間教えてきた生徒たちであった。人の一生のうちの四年間というのは、決して短い年月ではない。彼らにとって、それは、もはや取り返すことのできない貴重な四年間なのだ。その年月を、わたしは教壇の上から、大きな顔をして、間違ったことを教えて来たのではないか。
少なくとも人間である以上、理想というものを持っているべきではないか。理想を持てば、必然的に現実の自分の姿と照らし合わせて、悩むのが当然だとわたしは思っていた。わたしの悩みは、何とかして、信ずべきものを持ちたいということの反語ではなかったろうか。
わたしはその時、彼のわたしへの愛が、全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の愛ではないのを感じた。彼が求めているのは、わたしが強く生きることであって、わたしが彼のものとなることではなかった。
その戦争が終って、キリスト教が盛んになった。戦争中は教会に集まる信者も疎らだったのに、敗戦になってキリスト教会に人が溢れたことに、わたしは軽薄なものを感じていた。
(戦争が終ってどれほどもたたないのに、そんなに簡単に再び何かを信ずることができるものだろうか)
伝道の書と言い、釈迦と言い、そのそもそもの初めには虚無があったということに、わたしは宗教というものに共通するひとつの姿を見た。
世の男女の交際は、こんな〔読書の感想を書き合うという〕「宿題」を出すようなことはしないだろうと思いながらも、わたし自身も楽しかった。リルケの言葉に、
「学びたいと思っている少女と、教えたいと願っている青年の一対ほど美しい組合せはない」
とかいうのがあったような気がする。わたしたちは、ほんとうにそんな一対になりたいと思っていたのだ。
わたしのしあわせは、前川正という人間が存在するということにあった。それならば、やがて彼に去り、あるいは死別するかもしれない時がきた時、今立っている幸福の基盤は、あっけなく失われてしまうことになるではないかと、わたしは思った。わたしがこの人生において、ほんとうにつかみたいと願っている幸福とは、そのような失われやすいものであってはならなかった。その点わたしは、極めてエゴイストであった。束の間のしあわせでは不安なのだ。ほんとうの、永遠につながる幸福が欲しいのだ。
聖書にも、
「いっさい、誓ってはならない」
と書いてある。彼は、人間の心の移ろいやすさを知っていた。そしてまた人間というものは、明日のわからないものであることを知っていた。だから普通の人なら、
「あしたお赤飯を持ってきてあげますからね」
と言うはずのところを、彼は、
「約束はしませんよ」
と、念を押して帰って行ったのだ。にもかかわらず彼は来た。吹き降りの激しい中を、友を待たせて、彼は往復五kmの道をやってきてくれたのだ。何という深く、真実な愛であろう。真に真実な人間は、約束を軽々しくしないことを、わたしはハッキリと知らされたのである。
しかも、この少女の、教師としての彼に対する信頼を、余りにも軽々しく受けとってしまったのだ。信頼されているということが、どんなに恐ろしいことかを、この教師は知らなかったのだ。
「綾ちゃんは、もうぼくなどを頼りにして生きてはいけないという時にきているのですよ。人間は、人間を頼りにして生きている限り、ほんとうの生き方をできませんからね。神に頼ることに決心するのですね」
彼はそう言ったのである。
親が子を愛することも、男が女を愛することも、相手を精神的に自立せしめるということが、ほんとうの愛なのかもしれない。「あなたなしでは生きることができない」などと言ううちは、まだ真の愛のきびしさを知らないということになるのだろうか。
(罪の意識のないのが、最大の罪ではないだろうか)
と、思った。そしてその時、イエス・キリストの十字架の意義が、わたしなりにわかったような気がした。
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」
という聖書の言葉を、ある日彼は色紙に書いて持って来てくれた。そして自分で額に入れ、わたしを励ましてくれた。しかも会う度に、
「必ずなおりますよ」
そう元気づけてくれるのだった。  
 
「道ありき」 感想1

 

戦後、小学校教員として価値観の転換を強いられ、虚無的に生活していた中で、肺を病んで10年以上に渡る闘病生活に入る。13年間の闘病生活の中で、信仰の希望と愛に恵まれた自伝。作者を信仰へと導いたのは、前川正である。

深いため息が彼の口を洩れた。そして、何を思ったのか、彼は傍にあった石を拾い上げると、突然自分の足をゴツンゴツンとつづけさまに打った。さすがに驚いたわたしは、それをとめようとすると、彼はわたしのそのてをしっかりと握りしめて言った。
「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生き続けてくれるようにと、どんなに激しく祈ってきたかわかりませんよ。綾ちゃんが生きるためになら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」
わたしは言葉もなく、呆然と彼を見つめた。いつの間にかわたしは泣いていた。久しぶりに流す、人間らしい涙であった。(だまされたと思って、わたしはこの人の生きる方向について行ってみようか)
わたしはその時、彼のわたしへの愛が、全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の愛ではないのを感じた。彼が求めているのは、わたしが強く生きることであって、わたしが彼のものになることではなかった。
自分を責めて、自分の身に石打つ姿の背後に、わたしはかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと、わたしは思った。それは、あるいはキリスト教ではないかと思いながら、わたしを女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信ずるキリストを、わたしはわたしなりに尋ね求めたいと思った。

それから、約4年、師弟関係のような恋愛関係の中で、筆者も洗礼を受け、やがて結婚しようというころに、この前川正が死んでしまう。

「死んじゃったの?」自分でも思いがけない大きい声であった。姉が、顔を覆った。「いつ?」「今朝、午前1時14分だったそうだ」
突如として、激しい怒りが噴き上げてきた。そうだ、それはまさしく、悲しみというより怒りであった。前川正ほどに、誠実に生き通した青年がまたとあろうか。この誠実な彼の若い生命を奪い去った者への、とめどない怒りがわたしを襲った。・・・・
夜も更けて、やっとわたしは、彼の死を現実として肌に感じとった。毎夜9時には、わたしは祈ることにしていた。そして必ず、前川正の病気が1日も早くなおるようにと、熱い祈りを捧げていた。しかし今夜から、彼の病気の快癒をもう祈ることはないのだと思うと、わたしは声をあげて泣かずにはいられなかった。
堰を切った涙は、容易にとまらなかった。仰臥したままの姿勢で泣いているので、涙は耳に流れ、耳のうしろの髪をぬらした。ギブスベッドに縛られているわたしには、身もだえして泣くということすら許されなかった。悲しみのあまり、歩き回ることもできなかった。ただ、顔を天上に向けたまま泣くだけであった。

筆者の信仰への「魂のドラマ」こそ、ここでまとめるべきかもしれないが、膨大な量になりそうである。
それよりも、この作品の中に、「神は不必要なものを与えないはずである」という言葉がある。「神は必要なものを与え給う。不必要なものは与え給わず」が、この本を読んだときから、座右の銘になった。苦しいことや困ったことがあっても、そのままに受け止める。それは、神からの語りかけ、問いかけである。難問であればあるほど、答え甲斐もあると思えるようになったのである。
感動の書であると同時に、貴重な一言をもたらしてくれた作品である。 
 
「道ありき」 感想2

 

これは三浦綾子さんの自伝なんですが、またしても考えさせられることはたくさんあり、やはり思想が描かれているというか、真面目に生きたいなと思わされました。
「三浦綾子さんは小学校の教師だった。しかしその七年目に、日本は戦争に負けた。これは三浦綾子さんの価値観を変える大きな出来事だった。アメリカの司令により、教科書の至る所に墨を塗らなければならなかった。今までの日本が間違っていたのだろうか、アメリカが間違っているのだろうか。一体どちらが正しいのだろう。昨日まで上官に絶対服従していた兵隊が、敗戦と同時に軍律は破れ、上官を殴る者さえいた。昨日までの軍隊の姿が正しいのか、今の乱れたように見える姿が正しいのか。教師として、墨で塗りつぶした教科書が正しいのか、もとのままの教科書が正しいのか、知る必要があった。もしも、七年間教えてきたことが過ちなら、教えてきた生徒に申し訳ない。もし、正しかったとすれば、これから教えることが間違いになる。三浦綾子さんは翌年、退職した。自分の教えることに確信を持てずに教壇に立つことはできなかった。また、間違ったことを教えたかもしれないという思いは三浦綾子さんを苦しめた。」
敗戦の前後で日本人の価値観は大きく変わったという。それほど大きな変化というのは他にはないのではないか。高度経済成長前後や、バブル崩壊前後でも価値観は変わったかもしれないが、昭和60年生まれの私は経験してなかったり、実感がない。ITバブルや9.11テロ、現在の世界同時恐慌などはリアルタイムで経験しているが、敗戦前後の価値観の変化とは比べものにはならないだろう。その変化を経験しているというのは、しかも二十代で経験しているというのは大きいだろう。
何が正しいことなのかがわからない。正しいかどうかわからないことを教えられない。そう思って教師を辞めてしまったというのは、三浦綾子さんがあまりにも真っ直ぐな人間であることを象徴しているように思える。
私はこの文章を読んで、「何が正しいのか」について改めて考えさせられた。
はたして何が正しいのだろう?私は正しいものなんて何もないと思っている。全部正しくないし、間違いでもない。あるのは、自分の判断基準だけ。自分が正しいと思えるかどうか。自分が正しいと思えたらそれは正しいし、思えなかったらそれは間違っている。しかも人間は常に変化していくものだから、他人の考え方に影響を受ければ、自分の考え方にも変化が表れるかもしれない。そうしたら、正しいと思っていたことが間違いになるかもしれないし、間違いだと思っていたことが正しくなるかもしれない。正しいとか間違っているとか、簡単に分けられるものではないし、変化可能であると思っている。そんなやわらかい考え方を私は持っている。はたしてそのやわらかい考え方が正しいかどうかはわからない。
しかし、ともあれ、このわからない世界の中で、私たちは生きていかなければならないのだから。
「兄弟が多いことは人生経験を豊富にさせる。弟や妹の誕生はその世話などを通してなにかしらの精神的な成長を促すし、数が多いと誰かしら重い病気になる。三浦綾子さんの妹は6歳のときに病気で死んだ。三浦綾子さんは13歳のときに死を事実として知った。その三年後、弟が入院した。三浦綾子さんは弟が死んでしまうのではないかと恐れ、泣きながら祈った。」
ちょうど司馬遼太郎の『義経』も読んでいたのですが、昔は本当に子だくさんである。兄弟が5人とか10人とか当たり前。だから本来「家族」というのはもっと大きな存在、大きな共同体なのだろうと思う。しかし、現在は子どもが一人二人が普通で、三人もいれば子だくさんだねなどと言われる。家族の規模はとても小さくなっている。これでは地域一帯を一族で支配しようとか思われないだろう。だから現在は「個」の文化なのだ。ま、これは別の話。
兄弟が死ぬというのは大きいだろう。私は祖母が二人死ぬのを経験しているが、一緒に暮らしていたわけではなく、年に二三度会うだけだったので、それほど実感もなく、感情的にもならなかった。しかし、もし妹が死んだとすれば心穏やかではいられないだろう。一緒に暮らしてきた兄弟が死ぬのはとても大きい。
この文章を読んで私は改めて「死」というものについて考えさせられた。本当に、明日死ぬかもしれない。死なんていつ起こるかわからないのだから。信号待ちしてて突然酔っぱらった車に轢かれるかもしれない。駅のホームで電車を待ってたらおかしな人間に突き落とされるかもしれない。通り魔に刺されるかもしれない。本当に、何が起こるかわからない。もしも今この瞬間に自分が死んだとすれば、後悔せずにはいられない。あれもしていない、これもしていない、何もできていない。後悔だらけだ。何のために生きているのだろう。いつ死んでも後悔しないような、真剣な生き方というものができないだろうか。私はまだ未熟すぎる。死にたくない。
「酔っている!作者も小説の中の人物も、抱きあったまま酔っている、みんな酔っぱらっている。酔わすもの、それはいったい何なのか。酒を飲んだか、いや、飲む以前に酔っている人間。誰もが何かに酔っているこの世の中。もしも素面だったら、きっと恥ずかしくて、誰も彼も生きていることができない筈だ。それが本当ではないか。」
これは三浦綾子さんが手紙に書いた文章。太宰治のときにも思ったが、「酔っている」という表現が私は好きらしい。
「「きけわだつみのこえ」には、若い学徒たちの遺書や日記が載っていた。大方の若い魂は、戦争を一応は批判し、一応は否定していた。しかし彼ら学生は、その否定する戦争に赴いてしまった。徹底的に戦争を批判させるもの、否定させるものはここにはなかった。私はそのとき、究極においては学問さえも甚だ力弱いものであることを感じて、心もとない寂しさを覚えた。」
「本当に人を愛するということは、その人が一人でいても、生きていけるようにしてあげることだと思った。親が子を愛することも、男が女を愛することも、相手を精神的に自立せしめるということが、本当の愛なのかもしれない。「あなたなしでは生きることができない」などというのは、真の愛の厳しさを知らないのだろう。」 
 
「道ありき」 感想3

 

「前川正さんや三浦光世さんなど、綾子さんは次々に素晴らしい人に恵まれて、うらやましい」「しかもその人たちに愛されるんだから、本当に神様に選ばれた人だよね」
「三浦綾子読書会」でこの本を読んだ感想を語り合ったとき、他の人たちから出てきた意見である。確かに前川正や三浦光世は、クリスチャンの中でもかなり希有な存在で、ここまで「できた人物」はなかなかいない。その信仰はもちろん、性格もいつもやさしく穏やかで、それでいて芯はしっかりしており、堀田(三浦綾子の旧姓)綾子を守り励まし、背後から支えていく。とりわけ前川正は、彼女の「道しるべ」として、彼女を神の道へと導いた。彼は言う。「人間はね、一人ひとりに与えられた道があるんですよ」。堀田綾子に与えられた「道」とは、全国の人々をその著作や手紙で励ます「文書伝道家」としての道だった。そしてその働きのために、三浦光世が「パートナー」として備えられた。彼女の著作のほとんどは、病床にふした彼女が話す言葉を三浦光世が書き写す「口述筆記」のスタイルで書かれている。
素晴らしい人たちと出会い、結婚し、作家として活躍した彼女の生涯は、確かに一般人からみると「うらやましい」かもしれない。だがそれはこの自伝で、彼女の心の内面を読んでいるからこそ、そして後年の作家活動を知っているからこそ、そう思えるのではないだろうか。それらを一切知らずに端から見れば、彼女の前半生はうらやましいどころか、めちゃくちゃ過酷である。もし私が彼女のような試練を受けたら、「どうして私ばっかりこんな目に」とやさぐれること請け合い。13年間の闘病生活、しかも後半の7年間は、脊椎カリエスでずっとベッドに寝たきりだった。仰向けの状態で、ギプスで首から背中までをがっちり固定された「絶対安静」。ベッドに上半身を起こすことすらできない。人生でもっとも華やかなはずの20代〜30代にこれは辛い。さらに追い打ちをかけるように、彼女を支えてきた恩師や恋人が相次いで永眠し、彼女を置き去りにしていく。悲しみの極限にあってもなお、寝たきりの彼女は葬儀に行って最後の別れを告げることもできず、それどころか顔も動かせず、ただ天井を見上げて泣くしかない。最愛の人・前川正に先立たれたときも、シーツに顔をうずめて身もだえることすらできないと嘆く場面は、この物語の中でもっとも悲痛な場面である。
「確かに辛くて長い闘病生活だったけど、それでも素晴らしい人たちに支えられて、最終的にそのうちのひとりと結ばれたんだからいいじゃないか」という意見もあるかもしれない。だが前川正や三浦光世も、彼らを愛した彼女の筆で描かれるからこそ素晴らしい人格者に見えるが、いや実際にそうなのだろうが、世間一般の基準からすると「ちょっとヘンな人」に見えないこともない。前川正が「信仰のうすい僕ではあなたを救えない。だからふがいない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」と自分の足を石で打ちつけるシーンなど、私は感動するどころか、ちょっと引いてしまった。「なにこのウザったい自虐アピール。一歩間違えると、単なる“かまってちゃん”じゃん」と。だが堀田綾子は、彼のその行動に大きく心を突き動かされ、「そこまでして、自分を救おうとしてくれている彼の愛」を信じてみようという気になった。それは彼女もまた、真剣だったからではないだろうか。自分では「生きる目的を失い、虚無的に生きている」つもりでも、心の根っこの部分は昔と変わらず真剣だった。肺結核なのに煙草を吸っていた時ですら、「真剣に不良をしている」という感じ。だから前川正の「ちょっとやりすぎでは」というほどの真剣さに心打たれた。友人を救おうとする彼の真剣な魂と、生きる目的を探していた彼女の真剣な魂がふれあったのだ。
後に結婚する三浦光世にしても、世間一般の「魅力的な男性」像からは微妙にズレている。面白かったのは、作者が地の文で三浦を「気が弱い」と評しているところ。一般的に「気の弱い男」は男性的魅力に欠け、恋愛対象になりにくいといわれている。女性は、口では「やさしい人がいい」と言いながらも、心のどこかでは強い男に頼りたい、守られたいと思っているから、だそうだ。だが堀田綾子は、彼女自身が「気が弱い」と評している三浦に惹かれた。表面的な男らしさよりも、彼の真摯な信仰や誠実さといった、内面的な魅力を愛した。それはすでに当時、彼女がクリスチャンになっていたから……というのは理由にならない。クリスチャンでも、相手の表面的な部分だけを見てしまう場合は往々にある。しかし堀田綾子は違った。なので「綾子さんは素晴らしい人たちに恵まれた」というよりも、「素晴らしい人たちだと気づくことができた」という方が近い気がする。
よく「幸せかどうかは、その人の感じ方で決まる」という。「神に選ばれた」というのもそれと同じで、何も堀田綾子だけが特別に選ばれたのではなく、「選ばれたかどうかは、その人がそれに気づけるかどうかで決まる」と思う。それこそ、「人間には一人ひとりに与えられた道がある」のだから。彼女はその道を見つけることができた。私たちはどうだろうか。自分に備えられた「道」を見つけるためにも、もっと真剣に生きてみようか。そんなことを考えさせられた。
以上が、この作品への好意的な感想。ちょっと辛口な感想としては、もし堀田綾子(結婚前の彼女)が私の身近にいても、恐らく友達にはなれなかっただろうと感じる。私がというより向こうから、私と友達になることを遠慮しそうだ。「文学や哲学などの高尚なテーマについて話せる、高学歴の男」としかつきあいたくなさそう。そう思えるほど、彼女には男友達が多く、女友達は全くといっていいほど登場しない。「女友達が少なく、男友達が多い」女性というと、同性に嫌われるぶりっ子タイプを連想するが、決してそういうタイプではなく、むしろその逆。「なんでもズケズケと言えるワタシ」のシーンが随所に出てくる。でも実際、その率直ではっきりした性格が、周囲からは魅力的に映ったのだろう。寝たきりになる前はもちろん、寝たきりになってからも、たくさんの男友達が見舞いに来たらしいし。普通に「たくさんの友達がいた」とは書かず、わざわざ「たくさんの男友達がいた」と書くあたりが彼女らしい。しかもその後に、「わたしを愛しはじめている人もいたし、恋人がいながら私に惹かれて、苦しんでいる青年もいた」とか、別に書かなくてもいいようなモテ自慢が続く。だが書いている本人には決して「自慢」という意識はなかっただろう。つまりナチュラルにモテアピールしているわけで、彼女の小説のヒロインが揃いも揃ってモテるのも納得。ヒロインに自分を投影してたんですね。ナチュラルといえば、二人の男と同時に交際する、いわゆる「二股」もナチュラルだ(笑)。まあそれはいいとしても、二股かけていたうちのひとりの男が、実は人妻とつきあっていたのを知って憤慨し、その人妻をわざわざ「やや肥り気味の女」と形容するところが笑えた。性格わるっ。でもそういう欠点の多い女性だからこそ、彼女を救い、用いた神の計画の不思議さを実感できるともいえる。
総括としては、いろいろと考えさせられる、面白い作品だった。人によってはこの作品が、試練の時に自分を励ます「信仰の書」にもなるのだろうけど、私はあくまで「一女性の自伝」として面白く読んだ。それにしてもこの作品、10代の頃にも一度読んだはずなんだけど、全くといっていいほど内容を覚えてなかった。たぶん10代の自分には、作者の心情があまりピンとこなかったのだろう。今、この作品を書いた頃の作者と同じ年代になって、ようやくその心情がリアルに感じられるようになったということだろうか。優れた作品というのは、何度読んでも新しい発見がある。将来、またこの本を読み返すことがあったら、今度はどんな感想を抱くのだろうか。 
 
「氷点」 1

 

クリスチャン作家三浦綾子の小説。『朝日新聞』朝刊に1964年12月9日から1965年11月14日まで連載され、1965年に朝日新聞社より刊行された。また、続編となる『続氷点』が1970年5月12日から1971年5月10日まで連載され、1971年に朝日新聞社より刊行された。連載終了直後の1966年にテレビドラマ化および映画化され、以降繰り返し映像化されている。
1963年に朝日新聞社が、大阪本社創刊85年、東京本社創刊75周年を記念する事業として懸賞小説を募集した時の入選作品である。賞金は当時としては破格の1000万円であり、募集要領には「既成の作家、無名の新人を問わない」とあったが、実際に無名であった三浦の作品が入選したことは大きな話題となった。なお、挿絵は福田豊四郎が担当した。
継母による継子いじめ、義理の兄妹間の恋愛感情などの大衆的な要素を持つ一方、キリスト教の概念である「原罪」が重要なテーマとして物語の背景にある。続編のテーマは罪に対する「ゆるし」であり、これらのテーマには三浦の宗教的な立場が色濃く反映されている。
物語の舞台となった旭川市の外国樹種見本林には、三浦綾子記念文学館があり、本作の資料も数多く展示されている。
あらすじ
(『氷点』)昭和21年(1946年)、旭川市在住の医師辻口啓造は、妻の夏枝が村井靖夫と密会中に、佐石土雄によって3歳の娘ルリ子を殺される不幸に遭う。啓造は夏枝を詰問することもできず、内に妬心を秘める。ルリ子の代わりに女の子が欲しいとねだる夏枝に対し、啓造はそれとは知らせずに殺人犯佐石の娘とされる幼い女の子を引き取る。女の子は陽子と名付けられ、夏枝の愛情を受けて明るく素直に育つ。
陽子が小学1年生になったある日、夏枝は書斎で啓造の書きかけの手紙を見付け、その内容から陽子が佐石の娘であることを知る。夏枝は陽子の首に手をかけるが、かろうじて思いとどまる。しかし、もはや陽子に素直な愛情を注ぐことが出来なくなり、給食費を渡さない、答辞を書いた奉書紙を白紙に擦り替えるなどの意地悪をするようになる。一方の陽子は、自分が辻口夫妻の実の娘ではないことを悟り、心に傷を負いながらも明るく生きようとする。
辻口夫妻の実の息子である徹は、常々父母の妹に対する態度を不審に思っていたところ、両親の言い争いから事の経緯を知る。両親に対するわだかまりを持ちつつ、徹は陽子を幸せにしたいと願う。その気持ちは次第に異性に対するそれへと膨らむが、陽子のために自分は兄であり続けるべきだという考えから、大学の友人である北原邦雄を陽子に紹介する。
陽子と北原は互いに好意を持ち、文通などで順調に交際を進める。しかし、陽子が高校2年生の冬、夏枝は陽子の出自を本人と北原に向かって暴露し、陽子は翌朝自殺を図る。その騒動の中、陽子の本当の出自が明らかになる。
表題の「氷点」は、何があっても前向きに生きようとする陽子の心がついに凍った瞬間を表している。その原因は、単に継母にひどい仕打ちを受けたという表面的なものではなく、人間が生まれながらにして持つ「原罪」に気付いたことであると解釈される。
(『続氷点』)一命を取り留めた陽子であったが、実の父親が佐石ではないと聞かされても心が晴れないばかりか、不倫の関係であった実の両親やその結果生まれた自分に対して複雑な感情を抱く。徹は陽子の実母三井恵子に会い、陽子の近況を告げる。動揺した恵子は車の運転を誤り、事故を起こす。その経緯に不審を抱いた恵子の次男達哉は、大学で母にそっくりな陽子に出会う。事の真相に近付いた達哉は冷静さを失い、無理に陽子を恵子に会わせようとするが、それを阻もうとする北原を車で轢いてしまう。作中最後の場面で陽子は、夕日に照らされた真赤な流氷を見ながら、人間の罪を真に「ゆるし」得る存在について思いを馳せる。
辻口陽子
辻口家の養女(表向きは実子)。当初「佐石の娘」とされており、養父に妻への復讐の道具として引き取られたが、実際は無関係であった。いわゆる不義の子。芯が強く明るく素直、慈悲深く自己を律する模範的な性格の持ち主。独立心が強く努力家でもある一方で、人に対して頑なで、気性の激しい一面も見受けられる。肩まで垂らした黒髪、生き生きとした何かが絶えず燃えている様な瞳の魅力的な美人で、伸びきった美しい肢体や物腰から声音まで実母に酷似している。幼少期は形のいい濃い眉が偶然にも佐石とそっくりであった。啓造に言わせると幼い頃から「気味が悪いくらい善意に満ち溢れた子供」であり、他人の悪意をも善意に受け取る屈託のない少女。自分は常に正しくありたいという少女特有の傲慢な思いで養母の虐めに耐えてきたが、その姿勢こそが夏枝を悪人に見せる原因とも言える。自殺未遂を起こした後、自分自身の罪と向き合う様になる。自殺を図るまで他人を憎む事に否定的だったが、出生の事実を知った後、実母の恵子と夏枝を疎むようになる。読書と勉強が好きで幼少期から一貫して学業に優秀。養父母を除いた周囲の人々から純粋に愛され慕われている。本人曰く、南瓜と薩摩芋が好物。
辻口啓造
夏枝の夫で陽子の養父。徹とルリ子の実父。病院の経営者兼内科医として社会的に高い地位にあり、温厚柔和な人格者で通っているが、俗物的な内面を持つ。生来嫉妬深く、生真面目で神経質、自己を常に抑圧しており自罰的な傾向が強い。座右の銘である「汝の敵を愛せよ」を建前に、村井との逢瀬にかまけて娘を死に追いやった妻への復讐として佐石の娘とされる陽子を引き取った。幼い頃の陽子を生理的に拒否するが、美しく成長した彼女を異性として意識、独占感情を芽生えさせた。素性を知ってからも尚、徹と陽子の交際には難色を示している理由はここにある。陽子が小学2年生の時に、洞爺丸事故で九死に一生を得る。その際に出会った宣教師が自分の命を省みずに他人に救命具を与えたことに心を打たれ、キリスト教に興味を抱く。後に順子の告白を切っ掛けに教会へ出入りするようなった。
辻口夏枝
啓造の妻で陽子の養母。徹とルリ子の実母で啓造の北大時代の恩師の娘。旧姓は津川。家事万能かつ教育熱心、細やかな気遣いで表向きこそ評判のいい上流階級の婦人。本性は、夫の啓造が「他人を思いやる本当の優しさが欠落している」と指摘するように、自己本位で我儘、相当自己中心的である。母親を早くに亡くし、父子家庭で甘やかされて育つ。父親が教授職、夫は内科医という環境におり、現在に至るまで裕福で不自由な思いをした経験がない。深く考えないまま村井との密会を楽しみ、娘のルリ子を邪険に追い出したことが、のちの悲劇の遠因となる。真実を知ってからは、無償の愛情を注いだ陽子にも子供じみた嫌がらせを繰り返した。高木医師の告白で陽子の素性を知り、彼女にそれまでのことを償おうとするが、陽子の美貌と屈託のない性格に変わらず嫉妬心を抱く。北国育ちの色白、細面の若々しい和服美女だが自身の美貌に自惚れている。美醜で他人を判断しており、長い療養生活で体のむくんだ村井を嫌悪するが、元の体格に戻るといそいそと受け入れようとしたこともある。
辻口徹
辻口家の長男。陽子の五つ上の義兄。北海道大学医学部の学生。父親に似た神経質な顔立ちの繊細な容貌の青年。正義感と道徳心が強い一方で、病院の跡取り息子として何不自由したことがない故、世間知らずかつ女々しい。幼い頃から妹の陽子を可愛がってきたが、成長して行くにつれて恋情を抑えられなくなってゆく。義妹に対する独占感情に悩まされながらも、葛藤の末自分の思いを陽子に伝える。彼女の実の兄弟の存在を知った際には「陽子の兄であり恋人という地位」を脅かす存在として複雑な心境を見せる。幼い頃から学業優秀な模範生。父親の手解きで独逸語に習熟。両親の口論から辻口家の秘密を知り、反発して高校入試を一度ボイコットしている。
辻口ルリ子
辻口夫妻の長女。わずか3歳にして佐石に殺される。父親の啓造に似て厚ぼったい瞼と神経質な雰囲気を持つ反面、人懐っこい少女。
北原邦雄
北海道大学理学部の院生。大学寮のルームメイトかつ友人の徹とは同年齢だが、一学年上。千島からの引き揚げ者で父子家庭で育った。実家は滝川で肥料を取り扱う会社。妹みち子は後に東京に嫁いでいる。妹への独占感情を危惧した徹の紹介によって陽子と知り合い、彼女を真摯に愛する好青年。お互いに最も近しい間柄と認め合うが、陽子の自殺未遂後、徹への遠慮などから一時疎遠になる。又、作中の男性陣の中で唯一、夏枝の誘惑に惑わされない人物であり、不倫というものに嫌悪感を示している。浅黒い肌の爽やかな印象の人物。年齢よりもやや年上にみられることが多い。好物はカレーライス。
高木雄二郎
啓造の大学時代からの親友。産婦人科医で作中前半では嘱託で乳児院に勤めていたが後に独立した。熊にも例えられる、大柄な医者に見えない風貌の人物。学生時代に夏枝に求婚して断られた経緯があるが、その後も辻口家と交流がある。豪放磊落な頼りがいのある人物だが、実は物事をかなり繊細に考え、周囲を気遣っている。佐石の娘を引き取りたいという啓造に対し、表向き承諾した振りをしながら知人の女児を引き取らせた。女手一つで育てた茶道の師匠である母親に遠慮して、長らく独身を貫いてきたが、後に37歳の未亡人の郁子と再婚。彼女の連れ子の男子二人を実子同然に可愛がる。
藤尾辰子
夏枝の女学校時代からの友人。資産家の一人娘。花柳流の名取りで日本舞踊の師匠。自宅で研究所を開いている。きっぷのよい性格で人望があり、傍若無人な物言いの中にも温かみがある。彼女の家には常に雑多な人々が集まって、一種のサロンを形成している(夏枝は自らの美貌を讃えることがない「茶の間の連中」を毛嫌いしている)。陽子を可愛がり、のちに養子にしたいとまで申し出るが、それを表すまいとそっけない態度を装う。若い頃に人知れずマルキストと恋仲になって、相手の男子を生んで死なせた経験を持ち、その後独身を通している。親しみ易い丸顔の和服美人。
村井靖夫
辻口病院に勤務する優秀な眼科医。長身の彫りの深い映画俳優のような二枚目だが、虚無的で投げやりな所から啓造とは水と油。高木とは遠縁に当たるが、性格と容貌は似ても似つかない。博打打で女性にだらしないが夏枝に恋慕しており彼女にアプローチする一方で、松崎由香子に関係を強要する。ルリ子の死の直後に結核が発覚。洞爺湖の診療所で7年間の療養、高木の推薦で復職した。高木の知人女性の咲子と結婚して二女をもうけるが、その結婚生活も破綻する。事あるごとに辻口家の平穏を掻き乱し、幼いルリ子が死に追い込まれた悲劇の原因たる張本人。
松崎由香子
辻口病院の事務員で、啓造に憧れを抱いている。夏枝に近付く村井に釘をさすが、それを逆手に取った彼に肉体関係を迫られる。思い悩んだ末に啓造に告白し、直後に失踪。約十年後、盲目となりマッサージ師をしているところを啓造と再会。辰子と打ち解け合い、彼女の家に引き取られる。樺太からの引き揚げ者で兄が結婚して以来、天涯孤独の身の上。可愛らしい容貌の女性。
佐石土雄
ルリ子を殺した犯人。享年35。関東大震災で両親を失い、伯父に引き取られるが、16歳でタコ部屋に売られる。内縁の妻が女児出産とともに死亡し、育児と日雇い労働で日々を過ごしていた。発作的に行きずりのルリ子の首を絞め、自身も留置所で首を吊る。過酷な経歴によるものか若干老けて見えるものの、意外に端正な容姿の持ち主。
三井恵子
陽子の実母。夫の出征中に、札幌の実家に下宿していた知人の息子と不倫の末、女児を出産。中川は陽子が生まれる前に心臓麻痺で死に、恵子は陽子を育児院に預けた。夫との間には二人の男子がいる。夏枝が圧倒される程、陽子に酷似した若々しい美貌と優雅かつ洗練された物腰に加えて妖しい魅力の持ち主。
三井潔
恵子の長男。陽子の異父兄で容貌と性格共に、父親の弥吉に酷似しておりウェーブの掛かった髪と面長な顔の青年。常識人で達哉の言動に手を焼いている。実の妹と知らずに陽子と面識を得る。
三井達哉
恵子の次男。陽子の一つ下の異父弟で北海道大学の理類の学生。母の恵子を偶像視している。一年遅れて大学に入学した陽子と同学年になり、母に似ている彼女に興味を持って近付く。幼さが残る容貌の青年で顔立ちは父親似だが、感情的で粘着質なことから周囲から度々「異様」と評されることも多い。一途で激しい気性は恵子や陽子に通じるものがある。
三井弥吉
恵子の夫。小樽で海産物卸問屋の「三井弥吉商店」を経営している。戦時中、上官の命令により虐殺に加担した経験を持つ。妻の不貞を知りつつ、知らない振りをしてきた。終盤、その心境を綴った手紙を辻口家に送る。
相沢順子
佐石土雄とことの実子。4歳で薬局を営む相沢家に引き取られ、愛情深い養父母の元で育つ。現在は短大の保育科の学生。一見して何の悩みもなさそうな明るい娘。幼さが残る容貌に似合わず、思慮深く優しい女性。偶然に陽子や北原と友人になり、徹に好意を持つ。自らの出生を知り実父の佐石を憎んでいたが、キリストの贖罪により救われたと手紙で陽子に告白、自らの生き方に悩む陽子に大きな指標を与える。
黒江
辰子の自宅に出入りする文化人の集う「茶の間の連中」の一人。道立旭川西高校美術科の教師で陽子の高校時代の恩師。幼い頃から彼女を知る者の一人で陽子を気に入っており、かつては絵のモデルを依頼したこともあった。
咲子
村井の元妻。高木医師の知人の妹。虚無的で投遣りな村井に関心を抱き、互いに顔も知らないまま、結婚した。娘二人にも恵まれ、表面的には円満に見えたものの、不誠実な夫の姿に幻滅して離婚した。娘二人は辰子の日本舞踊研究所の生徒で親しい間柄。
次子
辻口家の住み込みの女中。控え目な人柄の女性。陽子が7歳の時に結婚が決まった後も近所に住み、辻口家に出入りする。陽子が養女であることは理解しており、徹が彼女を愛していることを案じていた。後に自身に代わって姪の浜子が辻口家に奉仕する様になった。
津川
夏枝の実父、徹とルリ子、陽子の祖父で、北海道大学医学部の内科の教授。啓造と高木の恩師。現在は引退、東京に勤務する医者の長男とその妻、夫妻の息子達と茅ヶ崎に暮らす。「内科の神様」と呼ばれた温厚篤実な人格者で、若き啓造ら生徒にキリスト教の「汝の敵を愛せよ」の教えの難しさを説いた。啓造を見込んで娘を嫁がせるが、「腹の底の知れないところがある」ことも見抜いていた。孫の徹とは頻繁に連絡を取り合っており、陽子の自殺やそれに関わる辻口家の内情を知らされていた。後に、東京観光の序でに茅ヶ崎に訪れた陽子に夏枝の態度を謝罪している。 
 
「氷点」 2

 

キリスト教と出会う私
三浦綾子文学のスタイルは、初期の作品『氷点』(一九六四年)、『ひつじが丘』(一九六五年)、『塩狩峠』(一九六六年)、そして自伝『道ありき』三部作(一九六九年〜)、このあたりですでに確立されている。
それはキリスト教信仰を第一義に書き、伝道にも念頭をおいて、「キリスト教と出会う私」を描くという執筆形式である。
三浦綾子文学は、伝道を念頭においてはいるが、あくまで個人としてキリスト教に出会っていくという形式を貫いている。『塩狩峠』、また自らの自伝『道ありき』などがそうである。いわゆるこれらの作品は、自己犠牲の愛を示す行動や信仰告白などがクライマックスとして配置され、「なぜそうなったのか。この人はどのように人生を過ごし、そのような内容を持つに至ったのか」を、人生行路を解きほぐしながらたどっていく、という書き方になっている。
また『氷点』の場合も、主人公・陽子が自らが養子であり、育ての親の実の子を殺した殺人犯の娘だと伝えられ(実際は違う)、自殺を図るというクライマックスが用意されている。それ以外にも、育ての母が幼い陽子の首を絞めようとして思いとどまる場面など、幾つかのクライマックスが配置されている。
これらの書き方から伝わってくるのは、英雄や超人のような、理由なく高い位置にいる人ではない。登場人物は読者と同じ、等身大の弱い人間であり、悩みながら、つまづきながら成長し、そうしたクライマックスに到達する。読者はその登場人物と共に人生を見つめ、共感する。
共感・感動を伝える文学形式
『氷点』と言えば、朝日新聞の一〇〇〇万円懸賞当選を果たした小説として有名であるが、当時その選者の一人だった、文芸部長扇谷正造氏は、『氷点』の感想を次のように書いている。
「……最終作品の三十編を、十日間の休みを取り、私はウンウン言いながら読み進んだ。二十三編か二十四編目だったと思う。三浦さんの『氷点』を読んでいるうち、(うん、これだ)と思った。第一歯切れがいい。一回ずつまとまりがある。場所は北海道である。登場人物も異色である。何より文章がこなれている。そう思った時、涙がポタポタと原稿用紙の上にこぼれ落ちた」
扇谷氏は、氷点は光り輝く未完成作であり、小説を読んで涙を流したのは、十年このかた始めてであった、と述懐している。
そうした共感・感動を伝えるために、三浦綾子の小説とは書かれなければならない類のものである。そういった性質によって、三浦文学は文学としての正当性を獲得している。何のための文学か、文学のための文学なのか、という問いに対しても、三浦綾子の場合は即座に「否」という答えが返ってくる。
さて、以前、宮沢賢治を扱った際に、近代日本精神の枠組みで考えると、賢治の文学は、「日本人のアイデンティティを示す文学」という、夏目漱石が出した問いに対する答えになっていることを説明した。法華経信仰と東北の風土から、人生における魂の糧を提供しようとした宮沢賢治。キリスト教信仰と北海道の風土・歴史からキリスト者としての感動を伝えようとした三浦綾子。この二人は様々な共通点を持っている。詳しくは次に譲る。
話題を呼んだ懸賞小説
『氷点』は、一九六四年朝日新聞の懸賞当選小説である。当時としては破格の一〇〇〇万円という賞金額、当選者が一見平凡な雑貨店の主婦であること、また小説のテーマが「原罪」という哲学的なものであること、などが話題となっており、六四年末から朝日新聞連載が始まると、テレビドラマ化もあって、一気に『氷点』ブームが巻き起こった。ちなみにNHKの長寿番組「笑点」は、この『氷点』ブームにあやかって名付けられたというから、そのブームぶりが窺われる。
当時の批評家によっては、このブームは単に、北海道という特異な風土、また継子いじめ、出生の秘密という大衆受けするテーマがもたらしたものだという者もあった。しかし、この作品はその後大河のように続く三浦作品の端緒に過ぎず、三浦文学はやがて文壇、そして日本人の近代意識に大きなステータスを占めるほどになっていく。それほど三浦綾子の文学は深いものであった。
『氷点』のあらすじ
まずは『氷点』のあらすじを紹介すべきだろう。
舞台になるのは、旭川の郊外にある辻口啓造という医者の家庭である。辻口家は父親の代から医院を経営し、啓造には夏枝という美しい妻、そしてルリ子という小さい女の子が居る。ある日夏枝の所へ、眼科の村井医師が訪ねてくる。彼は夏枝を慕っており、用事にかこつけて夏枝に会いに来たのだ。幼い性格の夏枝は、不倫という意識を持たず、ただ自分を慕ってくれる者がいるという優越感に浸ろうとして、ついルリ子を一人で外に遊びに出す。その間にルリ子は誘拐され、死体として発見される。この誘拐殺人の犯人はその後自殺するが、その男にも生まれたばかりの女の子があり、偶然、辻口の親友の産婦人科医・高木が世話をする孤児院に引き取られる。
一方、病気のため子供を産めない身体である辻口夏枝は、自分の子を死に追いやった罪滅ぼしとして養子をとりたいと夫に強く頼む。辻口啓造は何かに魅入られたように、高木を通じて、「この子が誰の親であるか、決して誰にも知らせない」という約束とともに、我が子を殺した殺人犯の子を養子にする。辻口は、イエスの言う「汝の敵を愛せよ」という言葉を一生の課題として生きようという思いを持っていた。しかしそれ以上に、妻が眼科医・村井と何度も不倫を重ねている、という憶測から、妻へ復讐しようとしていたのだった。
「原罪」をテーマに
引き取られた子は陽子と名付けられ、罪のかげりも見られないような明るい子に育つ。しかしやがて、夏枝が陽子の出生に気付き、憎み、ひどい仕打ちを始める。様々なプロセスを経て、最後に陽子は自分の父がルリ子を殺したと聞かされ、「人間の罪」ゆえに自殺を図る。養母の仕打ちに対して、自らのうちに一点も罪を認めないことで気丈に振る舞っていた陽子は、自らの中に罪の可能性、「氷点」を見出したとき、凍えてしまったのである。そして一足遅く高木が現れ、陽子の真の出生を証す。陽子は、今は亡き辻口らの同期の秀才、中川の忘れ形見であった。辻口啓造は高木が犯人の子を渡してくれたと信じ、高木は辻口が秘密を守ると信じたが、お互いが欺きあっていた。また啓造と夏枝の間も信じつつ欺きあった。こうしたすれ違いが歯車のように噛み合って、何の罪もないはずの陽子は自殺へと追い込まれていったのだ。陽子の容態は安定せず、助かる可能性を見せつつ、物語は終わりとなる。
陽子の言う「氷点」、これがキリスト教の「原罪」を言い換えたものとなっている。詳しくはさらに次に譲る。
朝日の評価は正しいか
さて、主人公が様々な行き違いの結果自殺を選んでしまうという『氷点』のあらすじについては前回紹介したが、朝日『連載小説の一二〇年』(朝日現代用語知恵蔵二〇〇〇・別冊)では、この作品をこのように評価している。
・・もし『氷点』がキリスト教文学であるなら、信仰告白の瞬間にすべてが収斂するようにストーリーを運ぶはずである。しかし、三浦はそれを避けたことで、キリスト教の教えは啓造の中に葛藤を絶え間なく生じさせ、内面のドラマを掘り下げていく牽引役を果たすことになる。それによって結果的に小説の面白さが増すことになったと言えるだろう。しかし、三浦はキリスト教の原罪を読者に十分に理解してもらえなかった『氷点』を、失敗作だと認めなければならず、『氷点』ブームは三浦のジレンマを拡大して見せることになった(『朝日新聞連載小説の一二〇年』九八頁)。
要するに大衆に合わせて分かりやすい内容に置き換えたために、キリスト教伝道文学としては失敗しているという見方である。また現実に、主人公が自殺してしまう経緯について、「これはキリスト教の原罪と違うものではないのか」といったキリスト教関係者の批判にあうこともあるそうだ。
これは果たしてそうなのか。本稿では、こうした見方には異を唱えたい。三浦綾子氏は最初から、『氷点』にはじまる全ての文学を人生に直結したものとして書いている。自伝を読めば、「キリストのみ意(こころ)に適わない文学なら、書かない」と言い切っていることが分かる。これはアイデンティティに直結した文学創作である。
そして、実際のストーリーをみれば明らかに、罪の問題からくる自殺に収斂しており、主題も明確であって朝日の指摘は当を得ていない筈なのだが、ここで朝日評者は「宗教は一般の日常生活とは別のものだ」と決めつけ、これを原罪の問題だと認めることを拒否しているように思われるのだ。
『氷点』における罪の問題
また朝日『連載小説の一二〇年』は、『氷点』が主張する最大の罪の一つがエゴイズムである、とし、その醜さゆえにかえって人に言えない、それが誤解や不信を生み、それらが歯車のように噛み合って復讐と裏切りを生んでいくのだ、と分析し、さらにこのように評する。
・・少しでも話し合えば解決するような問題も、伝達不可能と思い込むことによって、そこから抜け出すことができない。主人公たちは非常に孤独なのである(『朝日新聞連載小説の一二〇年』九九頁)。
要するに、罪などと言わず話し合えば解決できるはずの問題だ、思いこみと行き違いの問題だ、という見方である。どうもここで朝日評者は、こういった次元で問題の本質をボカそうとしているように思われる。この批評の裏に見えかくれするのは、どのようにして奇をてらったドラマ仕立てで読者の気を引くか、という、いわゆる「文学のための文学」からの発想ではないか。しかし、こうした批評が出てくるのは、こうした見方も可能なぐらい、実際問題として三浦文学の器が広いということにすぎない。
三浦氏は「伝道のための文学」しか書いてはいない。三浦文学においては、キリスト教文学とはキリスト教の教義を盛り込んだ解説書のようなものではなく「キリスト教と出会う私」を表現することである。ゆえに、三浦文学を通して得られる感動は真の感動であるし、三浦文学は、数少ない真の文学に数えられるべきものである。プロットの分析などに捕らわれて、純粋に物事を見る目を失うべきではない。また失敗作などとんでもない。このように言いたいのである。
「真の文学」としての三浦文学
前回、三浦綾子氏が「伝道のための文学」という立場から、「文学のための文学」を踏み越えたということを論じた。
例えば桝井寿郎氏は、『海嶺』の解説で、こう説明している。
・・三浦氏も「美しい魂に触れて感動し、生きる道を求める、そのような文学を創造していきたい」と願い、常に、神に祈りながら原稿の口述手記をしているという。このキリスト者の伝道実践としての文学精神は、現代の文壇が陥っている不毛の状態に、大きな光と世界文学への道をひらく明日への示唆を与えているのではないか、と思うのである。(『海嶺』解説より)
また自伝『生命あるかぎり』で三浦氏は、『氷点』受賞の際、当代一流の文学家に出会い、彼らは一様に「真理を求める先輩達」に見え、こうした知己を持てることを嬉しく思ったと述懐している。三浦綾子氏の中で文学者とは、人生の真理を求める真摯なアイデンティティから創作を行う人々であり、彼女は彼らを同志と感じている。実際にそうであるかどうかとは、温度差のあることとは思うが。
文壇への新しい解答を提示
このように、「文学のための文学」を廃した、真の文学として『氷点』は書かれた。プロの作家ではなく雑貨店の主婦がキリスト者としてのアイデンティティに即して書いた。この境遇や考え方は樋口一葉と通じるものをもっている。一葉との違いは、時代が明治ではなく戦後昭和だったこと、またキリスト教という礎を持っていたこと、そして夫・光世氏の理解と協力であった。だからこれは、日本の女性の生き方という問題に一つの解答を示していることになる。
また振り返れば、一九〇七年に漱石が朝日新聞に連載を開始してから、日本の近代文学をリードしてきた。漱石の抱えていた日本人のアイデンティティという問いに答えようとして破綻したのが芥川・有島であった。それ以降、文学界は分裂した状態で、各分野ごとに「文学のかけら」を作ってきた。三浦文学は朝日新聞で夏目漱石の出した宿題にも、誌上で解答を提示した形になった。また三浦は「漱石山脈」関係の書籍、特に太宰を愛読しており、『積木の箱』『ひつじが丘』などの人物造形に影響が認められるそうである。これらは偶然ではなく、必然とみることが可能なのである。大変なことである。
漱石と三浦文学
いま「漱石山脈」という言葉を使ったが、これについて佐古純一郎氏が詳しい論文を書いているので抜粋してみる。
・・三浦綾子がそのキリスト者としての意識から「罪」という言葉であらわしている問題はあの明治の文学において夏目漱石が、終始一貫して追及した「エゴイズム」の問題であった。もし近代から現代への日本文学の歴史にいわゆる「漱石山脈」ということが考えられるとすれば、三浦綾子の文学は、その漱石山脈の大きな支脈としての位置を保っているといってよいだろう。(中略)漱石が『虞美人草』から明暗にいたるまで、誠実に追求した近代人のエゴイズムの問題を、もっとくだけたかたちで、日本の戦後社会での人間の問題や姿として問い続けてきたのが三浦綾子の文学であった。漱石自身が、すでに『心』において、「罪の感じ」という問題を提起してあったのである。(中略)漱石の文学が、今日なお「国民の文学」として、広汎な読者層を持ち続けている事実を私たちは知っている。それは、漱石がその作品創作をとおして問い続けた問題が、今日なお私たち一人一人にとってまことに切実な問いであるからなのだと思う。その問題を聖書の信仰という立場から、誰にも理解できるような平易さで、物語りとして訴えているところに、三浦綾子の文学の普遍性があるのだと私は考えている。(『三浦綾子のこころ』補章「祈りの文学の創造」より)
佐古氏はエゴイズムという個人の内面の観点から述べているが、本稿では日本人のアイデンティティという社会・文化的側面という観点から、これに賛成している。以上、本稿の論点があながち論拠のないものではない由、示しておく。
『氷点』執筆の背景
さて、ここで『氷点』の成立の背景を具体的に見ていきたい。
『氷点』のクライマックスである主人公の自殺は、辻口夫妻が自らの子供を殺した犯人の子を、様々な行き違いのゆえに引き取って育てることになる、というプロットから生じている。
作者によれば、正月に実家で朝日新聞の懸賞小説募集の記事を見せられ、その晩床につきながら、療養中に遠縁の者が殺された事件を思い出して「もし、自分の肉身が殺されたら?」と思った。また父がたいへん子煩悩で、子供が少し風邪を引いてもおろおろとし、母親に責任があると言って八つ当たりすることがあったことから、「妻の不注意で子供が殺されるとしたら‥‥」と思った。ここから一気にあらすじが生まれたそうである。(『この土の器をも』より)
またこの作品のプロットを形作る上で、土台となった問いかけがあった。それは、罪なき者が罪ゆえに死んでしまうという状況が生じ得るのか、というものであった。大きな枠で言えば、キリスト教の原罪という概念をどのように現実に説明し得るか、というものであった。
もう一つ、作品執筆の重要な動機となったのが、本人の実の妹、わずか六歳で病を得てなくなってしまった、陽子だった。ただ一人の妹である陽子は非常に賢く、この年齢ですでに小学校四年生程度の読み書きができたそうである。
・・この妹の手が私の手の中で次第に冷たくなっていくのを、どうしてやることも出来なかった時、十三歳の私は、死というものを観念ではなく事実として知った。(『道ありき』)
ここから、三浦氏の中には「何の罪もない陽子が、なぜ突然死なねばならないのか?」という問いが生まれた。これが『氷点』クライマックスに直結している。『氷点』の主人公が「陽子」と名付けられたのは当然、必然のことであった。『氷点』読後の感動は、実の妹を失った悲しみを表現したものだったのである。
三浦文学と「あかし」
信仰者としての三浦氏は、罪というテーマ、また妹のことを書くという行為は、天から与えられた内容として捉えられていただろう。まず妹の死、という生の体験があり、その後の人生航路とキリスト教との出会いがあり、これを表現したいという気持ちが自然に『氷点』のストーリーを生み出していったと考えられるのである。
『氷点』に対して「キリスト教の教義を、大衆受けする形でうまくアレンジした」という穿った見方があるが、そうではなく内容一つひとつに意味があったのである。
また本人が述懐する「祈りつつ書く」という執筆方式は、無駄なものを一切排除し、文学の為の文学というジレンマをいとも簡単に破る、驚くべきパワフルな創造方式であった。
ただ、こうした書き方が、得てしてドグマチック、内輪受けになりがちであるのに対して、三浦文学の場合は、まず本人の真摯な性格に結びついた人生経験、また地道な信仰生活と交友関係に支えられ、また良き理解者であり助言者、また口述筆記者である夫の三浦光世氏を得て、その弱点を克服している。
以前、三浦文学においては、キリスト教文学とは、キリスト教の教義を盛り込んだ解説書のようなものではなく「キリスト教と出会う私」を書くことである、と論じた。
キリスト者が祈りの中から自然に湧き出る内容として書いたのだから、信仰告白などが項目としてあってもなくても、これは立派にキリスト教文学である。
キリスト者として生きる中で日常で会う出来事、考えること、そして感動を受けることを率直に示し、伝道がなされるなされないは結果として付随していく。これが三浦氏の考えではなかったか。
三浦氏の試みた伝道の小説、それは実は、まず心情を表現することが主体であり、その結果として伝道(客体)が付随してくる、という種類のものであった。そうした内容はどうやって生まれてきたのか。実はキリスト教会には「証(あかし)」ということが伝統的になされている。「おあかし」の会といえば、私はこのような出会いがあったのです、と個人の出会いを語る。その伝統から生まれた文学、つまり三浦文学とは「おあかし」の文学なのだということが分かるのである。
三浦綾子と宮沢賢治
前回は、三浦綾子文学のルーツが、キリスト教会の信徒同士の交流として行われる「あかし」の伝統にある、ということに触れた。こうした、心情という観点から人生を描くという「あかし」の文学に徹することで、三浦綾子氏は『氷点』にはじまる全ての文学を人生に直結したものとして書くことができた。つまり、意味のないものを一切書かなかった。
これに対して、宮沢賢治は法華経信仰を土台として、文学を通して人間の心の糧を提供しようという動機で「どうしても、こんなことがあるようでしかたがないということ」のみを執筆した。彼と同様に、三浦綾子氏も祈りを通じて文学を創作したのであり、祈りから生じないもの、意味のないものは書かなかった。それは、宮沢賢治をさらに先鋭化した、という言い方が当てはまるだろうか。
静と動
両者の違いを、静と動という風に言うことも出来る。
賢治の文学は、明治以降の啓蒙的な自然科学・化学をテリトリーとしながら、自然との融合を謳った。その背景には、まず法華教の篤い信仰を土台に、文学を通して人間の心の糧を提供しようという動機があった。そして、東北の厳しい自然環境で、明治以降開明的な学者たちが現れて農民を指導する雰囲気があり、こうした啓蒙思想が宮沢賢治文学の形成に大きく影響した。
三浦文学の場合、まず北海道という開拓の歴史をもつ風土が要因として挙げられる。江戸時代後半まで未開の地であった北海道は、東北以上に厳しく、また雄大な自然の環境であった。この北海道を舞台にして、例えば心理的な象徴として日本本土では珍しい自然現象、地名、また樹木などを作品に登場させることで、三浦作品はある独特の雰囲気を醸し出すことに成功している。ここにおける開拓者精神、特にキリスト者的な開明思想と結びついたそれが、厳しい自然と闘宇中でアイデンティティを確立していく、といった向きが感じられる。
言い換えるなら、宮澤は東北の自然・風土を題材として、その生命の声を聞き取ろうと務め、三浦は「祈り」という行為を通じ、より積極的に人生の意味を開拓していったのである。
賢治の後継者としての三浦
以前、宮沢賢治を扱った際に、近代日本精神の枠組みで考えると、賢治の文学は、「日本人のアイデンティティを示す文学」という、夏目漱石が出した問いに対する答えになっていることを説明した。三浦はこの正統的な後継者といえる。三浦の場合、伝道のための(外向けのいわゆる伝道ではなくキリスト者としての感動を伝える)文学を器とすることで、天性のストーリーテリングを発揮しつつ、キリスト教と出あう日本人の生き方を描いた。これが日本人のアイデンティティという問いに対する一つの解答を提示することになったのである。
そして両者の決定的な違いとして、三浦氏が夫婦で協力して文学を生み出していったことが挙げられる。賢治作品は生前ほとんど認められず短命で世を去ったが、三浦氏は文筆家として成功し、長寿を遂げた。この違いは明らかに、夫である三浦光世氏に由るところが大きい。
結果として、三浦文学は賢治の正統な後継者であり、夫婦の協力によって賢治も成し得なかった境地を開拓できたのである。
インナー・スペースとは?
今回は有吉佐和子と三浦綾子の比較を行ってみたい。
三浦の前に本稿で扱った有吉佐和子は、三浦と同じくキリスト教徒であったが、随分アプローチ方法が違うようだ。大枠で整理すれば、有吉はアウター・スペース、三浦はインナー・スペースに着目していると表現できる。
内宇宙(インナー・スペース)という言葉は、科学で厳密に定義された用語ではないが、その意味は明確なものをもっている。人間が歴史とともに科学技術を発展させ、外の空間(アウター・スペース)に対して進出していったのに対して、内宇宙とは、人間自身の内部、脳や精神の未知の領域のことを言う言葉である。アウター・スペース的な文学がある程度出そろった一九六〇年代頃から、インナー・スペースに目を向けた文学が、各分野で盛んになっていった。
ごくおおざっぱに言ってしまえば、外宇宙を扱う文学は男性的・分析的、あるいは単純明快であると言える。一方、内宇宙に向かう文学は女性的・感覚的、思弁的と言える。実際はこうしたおおざっぱなやり方で有吉と三浦の両氏を定義することは難しい。しかし、両者の執筆方法や動機に着目すると、やはりそうなるのである。
三浦と有吉の方法
三浦はキリスト者の伝記をよく著している。その人物がどのような人生航路を経て信仰やアイデンティティを確立するに至ったのかを追いかけていく。そのキーワードは「感動」である。心情をガイド役として、その人の人生を辿っていく。
しかし有吉の場合、その内容は大抵、小説的なエンターテインメント性に向かい、例えば『華岡清秋の妻』にしても伝記ではあるが、明らかに虚構の範囲に含まれるような、意外性のあるプロットに焦点が置かれている。そのキーワードは「好奇心」と言えようか。そこでは好奇心を持っている著者自身が明確に意識されており、三浦作品では書かれる対象を主体に立てて著者自身が感情移入していこうとするのに対し、有吉作品では外界に触れて興味を覚え、知識を拡大し、また自分自身が変わっていく、そうした著者自身を描くことに意識が向かう。
『夕あり朝あり』と『二代のいけり』
三浦の『夕あり朝あり』と、有吉の『二代のいけり』という作品に、その執筆姿勢は歴然と現れている。この二つは、どちらもいわゆる「一人語り」形式であり、著者が入院中にお見舞いに来て、退屈しのぎにと自分の半生を語って訊かせるという、奇しくもそうした作品誕生の経緯が同じであり、比較するのに相応しいと思われたのでここに挙げている。
『夕あり朝あり』は、クリーニングの白洋舎・創業者である五十嵐健治氏の半生を綴った長編である。日清戦争後に波瀾万丈の人生を経てキリスト教に出会い、利他的精神に基づいてクリーニングを開業、発展させていく様子が臨場感豊かに描かれている。
『二代のいけり』の方は、足袋屋の主人が戦地での生死を分かつ体験、戦後の復興期の様子などなど、これも波瀾万丈の半生を語る内容である。
分量・知名度などからして作品の格は多分、『夕あり朝あり』の方が上になるのだろうが、どちらがより優れているというより、これは執筆方法の違いということになるだろう。有吉は知性を立てて外へ向かう外界の開拓者であり、三浦は心情をもって内面を開拓する方法に拠った、内宇宙の開拓者だったのである。
罪とはなにか
さて、『氷点』の最後に、この作品のテーマである罪の問題について触れてみたい。
罪ある者、という考え方はキリスト者、また宗教者、あるいは良心家に広く見られる考え方だ。罪は現実の犯罪とは一線を画している。多くの場合は現実の犯罪まで発展しないが、人間は犯罪に向かう性質を内在している。『氷点』の主人公・陽子は、そのことに気づいて自殺へ追いつめられる。
エッセイ『生命ある限り』解説で、高野斗志美・三浦綾子記念文学館館長は三浦氏の罪に対する捉え方を紹介している。
・・『氷点』といえば、それでデビューしたとき、三浦綾子さんは四十二歳だった。ある集まりで初めてお会いした。ぶしつけに、「原罪というのは、どういうことですか」とたずねた。すると、すこし考えたあと、眼を上げ、おだやかだが、きっぱりと答えてくれた。「的(まと)を外れて生きることです」・・
三浦氏の答えは、人間として本来生きるべき正しい道があり、しかし実際の人間はどうしても、それを外れて生きてしまう、という意味である。
キリスト教の伝統的解釈
一般のキリスト教での説明をごく大ざっぱに紹介すれば、まずキリスト教ではエデンの園から追放される直前のアダムとエバに触れ、これが本来生きるべき人間の姿であったと説く。しかし彼らが神から離れた。そのことによって自分自身が分からなくなり、人間同士が理解しえなくなり、また人生の意味を見失った、と説明している。
このあたりキリスト教の大枠としては一致しているのだが、ここからさらに諸派の解釈として、神との契約を破ったことに起因するので預言者の伝える戒めに服従しなければならない、とか、情欲に起因するので修道生活が必要なのだ、とか、神が定めた教会に所属したり儀式を通して罪を清算するのだ、とか、罪とは不信仰を指すので信仰回復によって原罪がぬぐわれるのだ、とか、人間は実在する上で原罪を内在しなければならないという実存的解釈(つまり罪をなくすことは実存的にあり得ない)とか、いろいろ様々な説明がなされている。そこから、解決の道が様々に分かれているというわけである。
「罪」から「許し」へ
これらを見ていくと、本来あるべき人生を想定して、そこからどうしてもずれてしまう私を意識したとき「原罪」と呼ぶ、そしてそこから、その解決を目指す様々な試みが出発していることが分かる。
『氷点』に登場する辻口家の人たちは、一人ひとりはごく平凡な人間に過ぎない。しかし彼らのもつ何かが、本来あるべきものからずれており、その結果、陽子は自殺へと追い込まれていく。辻口家に限らず、ある場所に普通の家族がいて、一見幸せに暮らしているようでも、それは一つ間違えばバラバラと崩れ、大きな犯罪や死へと発展してしまうのだ、ということを示唆している。
以前に紹介したが、朝日新聞評者は『氷点』について「少しでも話し合えば解決するような問題も、伝達不可能と思い込むことによって、そこから抜け出すことができない。主人公たちは非常に孤独なのである」(『朝日新聞連載小説の一二〇年』九九頁)とコメントする。ここでは、伝達技術の不足や行き違いから生じた孤独、ということで、宗教を認めない立場から狭い意味での原罪の説明に留まっているようだ。
さて、『氷点』では、罪ある者に対する「許し」の必要性を示して終わっている。罪の問題を認める以上、罪の解決は避けられない課題だ。そのために、いずれ『続・氷点』は書かれなければならない運命にあった、と言えるだろう。
罪と疎外
さて前回は、『氷点』のテーマである罪の問題に触れた。前回は、本来あるべき人生を想定して、そこからどうしてもずれてしまう私を意識したとき「原罪」と呼び、そこから、その解決を目指す様々な試みが出発している、ということを説明した。
実はマルクス主義においても「人間疎外」という形でこの構図は受け継がれている。例えば『現代のエスプリ/人間疎外』(三秀社)で、松浪信三郎氏はこう説明している。
・・既存の社会秩序の中にありながら、自分がそこから疎外されている(のけものにされている)のを感じるとき、人は孤独感と同時にアウトサイダーの意識をもつ。<中略>そこから生じるのは、無気力、無責任、偏見、放浪性など、およそ社会心理学的な病的徴候であろう。けれども、一方、既存の社会秩序のうちにあって、それに順応している多くの人たち、アウトサイダーに対するインサイダーたちも、みずからそれと気づかないままに、自己を疎外している(自分をよそものにしている)のであり、いいかえれば自己を喪失しているのである。・・
いささかトートロジー的説明ではあるが、要するに全ての人が本来の自己を見失ってしまっている、という主張である。
さらに松浪氏は続けてこう説明している。
・・バッペンハイムは、疎外の問題を考察するにはまず「何からの疎外か?」を問わなければならないとして、疎外の三つの型をあげている。第一は「人間の自己自身からの疎外」、第二は「他の人たちからの疎外」、第三は「われわれの住んでいる世界からの疎外」である。・・
罪の解決とアイデンティティ問題
例えばキリスト教の説教ではこのように説明する。
聖書の創世記3章9節以降、「神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』。彼は答えた、『園の中であなたの歩まれる音を聞き、私は裸だったので、恐れて身を隠したのです』」とある。これは人が神から離れた結果、自分自身も分からなくなってしまったことを意味している。
さらに神がアダムに「食べるなと命じておいた木から、なぜ取って食べたのか」と尋ねると、アダムは「私と一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」と抗弁する。私が悪いのではない、誰それのせいだ、と自己を正当化する。この時、人間は人間同士の本来的関係を失っている。
そして神は人間に言う。「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみを生じ、あなたは野の草を食べるであろう」。苦しみに満ちた人生が待っている、というのである。
神から離れた結果、自分が何者であるか、という本来の私を喪失し、その結果、本来の人間関係を喪失し、また本来の生活を喪失した。この三つの項目が、先に挙げた人間疎外の三つの型と全く一致することは、実に興味深い。
私は何者なのか。私は何から生じたのか。これはアイデンティティに対する問いかけである。宗教においてはいわゆる神を念頭におくが、これは私個人にとっては、自らのルーツを再確認し、そこに立ち返ろうとする作業である。宗教であるなしは、そのルーツを神という言葉で表現するか、しないかの違いにすぎない。
さて、心理学者エーリッヒ・フロムは『愛するということ』(The Art of Loving)で、愛とは「孤独」、すなわち「私はどこから来てどこへ行くのか」という問題への唯一の正しい解答であると説いている。そしてこの「孤独」を完全に解決するためには本当の愛を身につけなければならないと説き、この具体的項目として、兄弟愛、母性愛、異性愛、自己愛(自己を尊重する延長線上で全ての人も愛する)と順番に掲げ、最後に親の愛を普遍化したものとして神の愛(神からの愛)の必要性を挙げている。フロムは神が実在するかどうかについては触れない。しかし、そうした愛が必要であることを示しているのである。
以上、今回は、原罪の認識とその解決という問題について、これはアイデンティティが深く関わる内容であり、宗教という枠を越えた、全ての人に普遍的な内容であることを説明してみた。 
 
「氷点」 3

 

妻のせいで娘が殺されたと思う夫は養女をもらう際に娘を殺した犯人の娘を引き取り妻に育てさせることを思い立つ、というふうに物語は立ち上がります。
「憎悪」という感情の一端を理解することができます。また、相手を苦しめるためにどうするか、という観点からの種々の行為は、相手を苦しめることには成功するかもしれませんが、結局自分をも苦しめることになるのだということが書かれています。自分を苦しめることになるから相手を苦しめるようなこともやめよう、という考え方はしかし自分本意であって、相手を本当に思ってのことではありません。相手を本当に思うとは一体どういうことなのでしょう。自他の関係が問われます。叶わぬ恋こそが愛、といったようなこともそこから導き出せるかもしれませんし、出せないかもしれません。
「そうだねえ。敵というのは、一番仲よくしなければならない相手のことだよ」
和田刑事の語ったようなことも、新聞に書かれてあった。
「通り魔のようなものだった!」
啓造はつぶやいた。
(もし、ルリ子が一分あとに家を出ていたならば、犯人の佐石と顔をあわすことはなかったろうに)
ルリ子の不運というよりほかはなかった。
(いや、佐石にとっても、やはり不運といえるかもしれない。ルリ子に会わなければ、彼も殺人を犯さなかったわけだからな)
そう思うと、啓造は「偶然」というものの持つおそろしさに、身ぶるいした。
「わざわざ遠い所へやることはないよ。神楽小学校でいいじゃないか」
「いいえ。付属は父兄も教育に熱心で、子供たちの成績もいいんですって」
「成績のわるい子がいたら困るのかね」
「だって、教育は環境が大切ですわ。父兄がそろって熱心で、お友だちの成績もそろっていたら、よい環境じゃございません?」
夏枝は陽子のこととなると、いつも急にはきはきと意見をのべる。
「そうかねえ」
啓造は気のりのしない返事をした。
「そうですわ。あんまり貧しい家の子も行っていませんし……」
「そうか。ではやはりこっちの学校に、わたしは入れるよ」
啓造はさえぎるようにいった。
「まあ、どうしてわかって下さいませんの」
「わたしはね。貧しい家の子や、成績のわるい子のいる学校の方が好きなんだ。今の日本にはいろいろな子がいるんだ。どんな子供とでも友達になるということが大事なんだ」
「…………」
「能力のない子は励ましてやればいいんだ。貧しい家の子というのは、金持の子よりは大てい自立心があるよ。それにみならうことだな。体の弱い子にはやさしくしてやる。それでいいじゃないか」
「…………」
「どんな人間でも拒まずに、一人一人を大事にするというのが教育の根本だよ。人間を大事にしないのは諸悪のもとだと、だれかがいっていたがね。いろいろな子がいる学校でいいじゃないか。大学だっていわゆる名門ほど、エリート意識が強くて、他の人間をバカにするんじゃないのかね」
「百円落さないと、わかんないけれど、ずっとせんに十円おとしたの」
「その時どう思った?」
「だれかが拾って喜ぶだろうと思ったわ」
「だれかが拾って喜んだら、つまらない?」
「だれかが喜んだらうれしいわ。乞食が拾えばいいなと思ったの」
「だってさ。落したら損だぞ。うれしくないよ、ぼくは」
「徹くん。十円落したら、本当に十円をなくしたのだから損したわけよ。その上、損した損したと思ったら、なお損じゃない」
「あ、そうか」
あの胃けいれんの女に、自分自身の救命具をやった宣教師のことを、啓造はベッドの上でも幾度も思い出したことだった。啓造には決してできないことをやったあの宣教師は生きていてほしかった。あの宣教師の生命を受けついで生きることは、啓造には不可能に思われた。
(愛するというのは……一体どうすればいいんだ?)
啓造は、みるともなしに折り紙をしている陽子の手もとを、ぼんやりみていた。
(愛するというのは、ただかわいがることではない。好きというのともちがう)
「自分が悪くなったのを人のせいにするなんていやだったの。自分が悪くなるのは自分のせいよ。それは環境ということもたしかに大事だけれど、根本的にいえば、自分に責任があると思うの。
陽子ね。石にかじりついてでもひねくれるものかというきかなさがあるの。〔略〕わたしは川じゃない。人間なんだ。たとえ廃液のようなきたないものをかけられたって、わたしはわたし本来の姿を失わないって、そう思ってたの。こんなの、やはり素直じゃないわね、おにいさん」
名あてのない遺書には、
「結局人間は死ぬものなのだ。正木次郎をどうしても必要だといってくれる世界はどこにもないのに、うろうろ生きていくのは恥辱だ」
と書いてあった。
啓造の話を、陽子は幾度もうなずきながらきいていた。
(結局は、その人もかけがえのない存在になりたかったのだわ。もし、その人をだれかが真剣に愛していてくれたなら、その人は死んだろうか)
「ここがアイヌの墓地だよ。旭川に住んでいる以上、一度は陽子にも見せたかったのだがね」〔略〕
「まあ」
一歩、墓地の中に足を踏み入れた陽子は、思わず、声をあげた。
墓地とはいっても、和人のそれのように『何々家』と境をしたものではなく、エンジュの木で造った墓標がつつましくひっそりと、並んでいるだけであった。それはいかにも死者がねむっている静かなかんじだった。死んでまで、貧富の差がはっきりしている和人の墓地のような傲岸な墓はない。
(死は解決だろうか——)〔略〕
(死は解決ではなく、問題提起といえるかも知れない。特に自殺はそういうことになる)〔略〕
(命をかけて問題提起をしたところで、周囲の人々も、社会もそれに答えることは少ないのだ)
(今の陽子に対するこの愛情は、時が与えたものではないか。すると、それはおれの人格とは何のかかわりもなしに与えられたものなのだ)
時が解決するものは、本当の解決にはならないと啓造は思った。
けれども、いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、氷点があったのだということを。
私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、「お前は罪人の子だ」というところにあったのです。私はもう、人の前に顔を上げることができません。どんな小さな子供の前にも。この罪ある自分であるという事実に耐えて生きて行く時にこそ、ほんとうの生き方がわかるのだという気も致します。
私には、それができませんでした。 
 
「氷点」 感想1

 

1ヶ月ほど前、なんとなく、ふと『氷点』について書いてみようかなあって思ったのですが、結局書きませんでした。でも、ネタもないので、やっぱり書いてみるのでした。
僕は、このお話が大好きです。
この小説は、17歳の時に読むのが良いです。そう、17歳の時に読むべきです。17歳で読まなければいけません。
なぜなら、17歳というのは、もっとも感受性が豊かで、感性が研ぎ澄まされ、繊細な年であるからです。
と、勝手に極め付けているのですが。
僕は、偶然、17歳の時に、この本を手に取りました。ちゃーんと、この本を17歳の時に読めた僕はなんて幸せ者なのだろう。これも日頃の行いのなせるわざかなあ。うーん、良かったぁ。
さあ、あなたがもし17歳であれば、迷わずにすぐに読んでみましょう、『氷点』。
さて、お話の内容について書いていくのですが、ネタバレなのです。でも良いのです。これくらいの名作になってくると、実際に読んでいなくとも、大体の粗筋とかは誰でも知っているもんでしょうから。もう、名作について書くときは、ネタバレなんて気にしなくとも良いのです、きっと。メロスは間に合いますし、ロミオとジュリエットは二人とも死んじゃいます。『Yの悲劇』は子供が犯人だし、『獄門島』の“きちがい”は“気違い”じゃなくって“季違い”だしね。ネタバレばんざいっ!
だからといって、『金田一少年の事件簿』はなあ・・・と根に持ったりして。
ええ、いつもながらに、わき道に逸れつつ、氷点について書き進めますと。
なんか、作者の三浦綾子さんは、キリスト教な方ですので。『氷点』ってのは、『聖書』の書き方とおんなじ性質があるらしいですね。
『聖書』は、神の言葉を述べ伝えるためのものらしくって、どんな人にでも非常に理解しやすいように書かれているんだそうで。同様に『氷点』も述べ伝えるために書かれた文学なんだそうです。例えば物事の結果をもたらした原因がなんだったのか、その因果関係が明確に書かれています。なんてっても、実に読み易いんですよね。
大体のお話の内容を簡単に書いてみると。
ヒロインの陽子は、正しく無垢に生きていると自分を信じていた。しかし、自分の出生の秘密を知り、自分の中にも罪があったことを知り、絶望し、遺書を残し、自殺を図る。
といった感じですが、まあ、簡単過ぎますけれど。
ああ、そういや、陽子が自殺を図ったのが、17歳か。うん、やっぱり、この小説は17歳で読むべきなんだなあ。
さて。この自殺を図った際に残した陽子の遺書を抜粋してここに記してみるのですが、この遺書がこの小説のすべてを集約しているし、それでお話の内容を追ってみることもできると思うのです。

「長い間、辻口家の娘として育てて下さった御恩に、何のおむくいすることもなく、死んでしまうということは、ほんとうに申し訳ないことと思います」
陽子は辻口家の実の娘ではなかった。
舞台は北海道旭川市。辻口病院の院長である辻口啓造とその妻夏枝には、元々二人の子供がいた。兄徹と妹のルリ子。
ある日、夏枝は、病院の眼科医村井と、部屋で二人きりの時間を過ごしていた。夫を裏切るつもりはなかったが、村井が首筋に口付けすることを許した。
その時間、幼かったルリ子は、誘拐犯佐石に連れ去られ、川辺で殺害される。
啓造は妻の首筋に残る口付けの跡に、妻の不貞を疑い、また、そのために娘から目が離れ不幸な結果がもたらされたと恨みにも思うが、堂々と問い質すことは出来ない。
既に子供のできない体となっていた夏枝は、新たに娘を貰い子することを夫にねだる。
啓造に、妻に仕返しをしたいという心が宿る。殺人犯佐石には、女の乳児が残されているという。その子を貰い子にしてはどうか。妻は、知らずに恨むべき殺人犯の娘を可愛がり育てるだろう。それで、妻への復讐心が満たされるのではないか。
親友の産科医高木は、殺人犯の娘を貰いたいという啓造の頼みに一度は首を振る。が、「汝の敵を愛せよ」という座右の銘を実行したいという、それは勿論啓造の建前であるのだが、言葉を聞き、辻口一家に佐石の娘を世話することになった。乳児は陽子と名づけられた。

「私は、小学校四年生の時に、自分が辻口家の娘でないことを、ある人の話で知りました。しかし、そのことは、もっと以前から漠然と感じとっていたように思います。けれども、私は、実の娘でないからこそ、決してそんなことでひねくれたりしまい、石にかじりついても、ひねくれたりすまいという、強い気持ちで生きて参りました。」
引き取られた陽子を、実の娘でもかくやというほどの愛情をもって夏枝は育てた。母の愛とはこういうものかと、啓造も驚嘆する面持ちであった。陽子は愛らしく利発な少女に育った。
啓造は、どうしても陽子の頭をなでてやることが出来ず、「汝の敵を愛せよ」の言葉を座右の銘とする自分のおこがましさを感じていた。
陽子が小学一年生の時、夏枝は、ついに陽子の出生の秘密を知る。陽子は実の娘を殺した憎むべき男の娘だった。そして、突発的に陽子の首を絞める。すぐに我を取り戻し、泣いて陽子に詫びる。が、その時から、陽子への意地悪が始まる。
給食費を忘れたふりをしてなかなか陽子に渡さない。小学四年生になっていた陽子は、いちいち給食費をねだるのを嫌い、自分でお金を稼ごうと牛乳配達を始める。雨の日も風の日も頑張り通した。が、冬の大雪の日、無理をして牛乳屋まで辿りついたものの、牛乳屋の主人に、今日の配達はせずに良いと言われた。その主人夫婦が、こんな大雪の日にも娘を寄越すのは、やはり貰い子だろうと噂するのを耳にしてしまった。家に帰ると、こんな大雪の日に陽子を出してしまったことを後悔し心配する夏枝が待ち構えていた。無事な陽子を抱きしめる夏枝。陽子は嬉しかった。

「中学の卒業式の時、答辞が白紙になっていた時には、おかあさん(今は、こう呼ぶことをおゆるし下さい)の意地の悪さにも驚きました。わたしは、生意気にも、「こんな意地悪い人のためには、どんなことがあっても、自分の性格をゆがませたりする愚かなことはすまい。私を困らせようとするならば困るまいぞ、苦しめようとするなら苦しむまいぞ」という不敵な覚悟で、少なくとも表面はかなり明るく振舞って生きて来たのでした。」
陽子は、学校の成績も良く、明るく、誰からも好かれる娘だった。中学の卒業生代表として、答辞を読むことが決定したのも、もっともなことだった。
しかし、夏枝にとって、実の娘を殺害した犯人の娘がそのような晴れがましい舞台に立つことは、ゆるせないことであった。夏枝は、卒業式当日の朝、答辞の原稿を白紙にすりかえる。
答辞を読むために演台に上がった陽子は、しかし、白紙に変わった原稿を見ても、落ち着きを失うことはなかった。
【(前略)実はただ今、答辞を読もうと思いましたところ、これは白紙でございました。(中略)このように、突然、まったく予期しない出来ごとが、人生には幾度もあるのだと教えられたような気がいたします。自分の予定通りにできない場合は、予定したことに執着しなくてもよいということも、わたくしはただ今学ぶことができました。それで、勝手なのですが、ただ今予定外の行動をとらせていただきました。(中略)わたくしは、少し困難なことにあいますと、すぐにおろおろしたり、あわてたり、べそをかいたりいたします。けれども、それはちょっと雲がかかっただけで、その雲が去ると、太陽がふたたび輝くのだと知っておれば、わたくしたちはどんなに落ちついて行動できることでしょうか。(中略)大人の方々の前で失礼ですけれども、大人の中には意地の悪い人もいるのではないかと思います。でもわたくしたちは、その意地悪に負けてはならないと思います。どんな意地悪をされても困らないぞという意気込みが大切だと思うのです。泣かせようとする人の前で泣いては負けになります。その時にこそ、にっこり笑っていけるだけの気持ちを持ちたいと思います(後略)】
陽子は、無事に総代の役目を果たしたが。悩んでいた。答辞を白紙にすりかえたのは、夏枝なのだろうか。だがしかし、自分がいくら貰い子だといって、そこまで憎むものだろうか。余程の事情があるのではないだろうか。

「しかし、私がルリ子姉さんを殺した憎むべき者の娘であると知った今は、おかあさんが、わたしに対してなさった意地悪も、決して恨んではおりません。ああなさったことは当然であると思います。当然というより、どんなにおつらい毎日であったことかと、心からお気の毒でなりません。おかあさんはすくなくとも、人間として持ち得る限りの愛情で、育ててくださったこととしみじみと思います。(中略)ほんとうにこのことだけは信じて下さい。陽子は死を前にして、おとうさんおかあさんの心持を思うと涙がこぼれるのです。心から感謝しないではおられないのです。」
徹にとって、美しく明るい陽子は、常に自慢の妹だった。
陽子が小学5年生の時、夏枝は自分が陽子の出生の秘密を知っていることを夫啓造に告げ、自分が犯人の娘を育てるほどの罰を受けることはしていないと、彼を非難する。
そして、それを偶然聞いてしまった徹は、激しく衝撃を受ける。感じやすい年ごろであった。これまで、尊敬できる両親だと思っていたのに。内にそのような軽蔑すべき情念を隠し持っていたのか。何より、陽子が可哀想ではないか。まさか、そのような出生の秘密を持っていたとは。陽子は、必ず自分が幸せにしてみせる。「ぼくは大学を出たら陽子ちゃんと結婚するよ」そう宣言し、両親への反抗から、また陽子への心密かなわびとして、内定していた中学卒業生総代を辞退し、高校入学試験を白紙提出したのだった。
徹がやがて北海道大学に進学する頃には、彼の心境に変化があった。何も、陽子を幸せにするのは、自分でなくても良いではないか。なにしろ、自分と結婚するということは、陽子に自分が辻口家の本当の娘でないことを告げなくてはいけない。それは陽子が自分が天涯孤独の身の上でなのを知ることにもなる。徹は、友人である大学の先輩北原を陽子に紹介する。それは、心底陽子を愛する徹にとって、苦渋の選択であった。陽子は、一目見て北原に淡い恋心を抱いた。
母を亡くしていた北原は、徹の美しい母夏枝を慕った。夏枝は、自分の美貌が未だ若者の気を捉えることに心地良い快感を覚えていた。が、北原が惹かれていたのは陽子であり、夏枝には母親への愛情に似た敬慕の念以上の想いはなかった。それを知った夏枝の感情は暴発した。
とうとう、夏枝は、陽子と北原に対し、彼女がルリ子を殺した男の娘であることを告げた。陽子が殺人犯の娘だと知れば、北原の心は陽子から離れるだろうと考えたのだ。
陽子は、自殺を決意した。
大学に入って実家を離れ、寮生活を始めていた徹が、冬休みに帰省した日の早朝。主のいない陽子の部屋で、両親と兄と北原に宛てられた三通の遺書を見つける。自分宛の遺書を引き裂くように開ける徹。
【今、陽子が一番お会いしたい人は、おにいさんです。陽子が、一番誰をおしたいしているか、今やっと分かりました。おにいさん、死んでごめんなさいね】
徹は、動転した。

「今まで、どんなにつらい時でも、じっと耐えることができましたのは、自分は決して悪くはないのだ、自分は正しいのだ、無垢なのだという思いに支えられていたからでした。でも、殺人者の娘であると知った今、私は私のよって立つ所を失いました。(中略)自分さえ正しければ、私はたとえ貧しかろうと、人に悪口を言われようと、意地悪くいじめられようと、胸を張って生きて行ける強い人間でした。そんなことで損なわれることのない人間でした。何故なら、それは自分のソトのことですから。しかし、自分の中の罪の可能性を見出した私は、生きる望みを失いました。どんな時でもいじけることのなかった私。陽子という名のように、この世の光の如く生きようとした私は、おかあさんからごらんになると、腹の立つほどふてぶてしい人間だったことでしょう。けれども、いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、氷点があったのだということを」
昭和39年。日本は、高度成長期の真っ只中。東京オリンピックが開催された年です。朝日新聞が募集した懸賞小説の当選作が発表されました。懸賞金が当時として破格の1千万円という高額だったこともあり、その発表は、広く世間の耳目を集めたそうです。当選作、『氷点』。
作者は、北海道に住む、雑貨店を営むどこにでもいそうな、取り立てて変哲のない主婦でした。三浦綾子。大正11年生まれ、そのとき42歳です。
20歳前半を戦争という時代の中で過ごし。教員であった彼女は、終戦後、皇国史観による教科書の墨塗りをさせなくてはならないという経験をし、戦争中に行ってきた自分の教育の過ちに気づき、教員を辞します。
その後、26歳からの13年間に渡り、脊髄カリエスにより、ほとんど全ての時間を病院のベッドの上で過ごすこととなりました。
その苦しみの生活の中で、北大医学部学生、前川正との交流が始まりました。彼の深い愛情と人間性を通じてキリスト教の信仰に目覚めたのだそうです。
『氷点』という小説の中で、唯一実在の人物が登場します。それが前川正。「前川正は、啓造の三期後輩だった。同じテニス部の頭のよい医学生だった」多くが語られることはなく、ただそれだけの記述です。
三浦綾子と互いに愛情を抱きましたが。前川正は、結核を患い、死にます、享年35歳。三浦綾子が32歳の時。彼の存在なくして、『氷点』という作品は、三浦綾子という作家は、生み落とされることはなかったであろうと言われています。
朝日新聞に『氷点』の連載が開始されるや、瞬く間に『氷点』ブームは巻き起こりました。後にテレビドラマ化され、その視聴率は40%を超えました。
当選作品が発表されてから、連載が開始されてその中身がヴェールを脱ぐまでに。人々はさまざまに噂しあったといいます。“氷点”という、耳慣れない言葉。それはどうやら、キリスト教でいう“原罪”という意味らしい。じゃあ、“原罪”ってなんなのだろう?
『氷点』の連載が終了した時、皆は、“氷点”という言葉の意味を、はっきりと理解することとなります。あの、非の打ち所がまるでない娘、陽子。そんな彼女にさえも、背負うべき、背負わなければいけない罪がありました。陽子の中にも、氷点はあったのです。

「おとうさん、おかあさん、どうかルリ子姉さんを殺した父をおゆるし下さい。今、こう書いた瞬間、「ゆるし」という言葉にハッとするような思いでした。私は今まで、こんなに人にゆるしてほしいと思ったことはありませんでした。私は今まで、こんなに人にゆるしてほしいと思ったことはありませんでした。けれども、今、「ゆるし」がほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪を、ハッキリと「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがほしいのです」
睡眠薬を呑んで昏睡状態で発見された陽子は、自宅に運び込まれ、処置を受けるが、家族や身近の者が見守る中、昏睡が続く。
北原に促された高木は、陽子が、殺人犯佐石の娘ではないことを告白する。
啓造は、親友高木のことを信じていたから、彼に世話された乳児を、間違いなく佐石の娘だと信じることができた。
高木は、人格者の啓造ならば、本当に『汝の敵を愛せよ』の言葉どおりに、殺人犯の娘を慈しみ育てるだろうと信じていた。だが、高木は、かつて学生時代に夏枝に惚れていたこともあり、なぜ優しい夏枝が、知らずに殺人犯の娘を育てなければいけないのかという思いで、結局殺人犯の娘ではない乳児を、辻口家に世話したのだ。
お互い、信頼しあっていた二人だが、結局はお互いを欺きあう結果となっていた。信頼しあったことさえ、悲劇になることもある、真の信頼とはどんなものなのだろう、とひとりごつ啓造である。
啓造と夏枝の夫婦も、傍目には誰もが羨む円満な夫婦であり、深刻な問題を抱えているなど想像もつかないであろう。
実際、啓造は病院の経営手腕も医師としての腕前も確かであり、人格者と看做され、人からの尊敬を集めている。夏枝は、いつまでも変わらぬ美貌の持ち主であり、また、夫の世話も家事も甲斐甲斐しく丁寧にこなす妻であった。そして、お互いに、深く愛し合ってもいた。
だが、啓造は、妻と村井の間になにかあったのではないかという疑念を拭いきれず、しかもそれを堂々と問い質すことができなかったために、殺人者の娘を引き取ろうとし、悲劇の原因を作ることになった。
夏枝は、貞淑な妻であり、夫を裏切るつもりは毛頭なかったが、自分の美貌に男性が惹き寄せられることに無上の喜びを抱いてしまう性質が、村井に対しての隙を生むことになった。
人間の存在そのものが、お互いに思いがけないほど深く、かかわり合い、傷つけ合っていることに、いまさらながらに、おそれを感じる啓造であった。
一見、穏やかな時が流れているような辻口家ではあったが、そこに暮らす家族の思惑は様々であり、それぞれがそれぞれにとって家族として必要不可欠な存在であり、それぞれに十分な家族愛を抱き合いながらも、真の相互理解に欠け、すれ違い、行き違いが重なった挙句、やがてそれは一つの大きな悲劇として結実してしまったのだ。

「では、くれぐれもお体をお大事になさってください。これからは、おしあわせにお暮らしになって下さいませ。できるなら私が霊になって、おとうさんおかあさんを守ってあげたいと存じます。陽子は、これからあのルリ子姉さんが、私の父に殺された川原で薬を飲みます。昨夜の雪がやんで、寒いですけれど、静かな朝が参りました。私のような罪の中に生まれたものが死ぬには、もったいないような、清らかな朝です」
僕は、以前、北海道に旅行した時に、『氷点』の舞台となった地に足を運ぶことができました。今までにも、何人ものこの作品の愛読者が、同じような行動をとったことでしょう。
徹が、陽子が、小さい頃から駈け抜け遊んだ見本林。林を抜けて美瑛川に抜ける、陽子が自殺におもむいた早朝通った道筋。陽子が、深い積雪を掻き分け何時間もかかったその道のりは、雪のない夏の日には、15分で歩くことができました。
そこにあった川原は、ルリ子が殺され、陽子が自殺を図った場所です。思わず厳粛な気分にならずにはおれませんでした。清冽な空気を感じました。
美瑛川を見た感想は、陽子のそれと同じでした。青く美しい流れでした。
見本林の中には、三浦綾子記念文学館があります。民営の施設で、全国の三浦綾子の愛読者の寄付により設立され維持されている施設です。
『氷点』を中心として、三浦綾子にまつわる様々な品が展示してあります。お土産として、『氷点まんじゅう』なる者が売られているのは、ご愛嬌。
僕が、もっとも関心を寄せられたのは、朝日新聞の懸賞に応募された原稿のコピーです。展示品の中にそれはあり、手に取って読むことができます。実際に、新聞に連載された際に、もともとの原稿から修正された点を知ることができます。佐石の境遇についての設定に、変化がありました。また、連載が最終回間近になったときに、朝日新聞社には、「陽子を死なさないで」という内容の投書が、実に沢山届いたそうです。その反響に対して、三浦綾子さんは、どう応えたのでしょう。最初の原稿と新聞小説のラストに、どのような相違があったかを知るのも、一興ではないでしょうか。
さて、『氷点』の物語は、まだ終わりません。『続氷点』へと続きます。
陽子が、遺書の中で切に願った【「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがほしいのです】という想い。
この“ゆるし”をテーマにして、『続氷点』の物語は展開します。またいつか、『続氷点』についても書いてみたいな、と思います。  
 
「氷点」 感想2  
「氷点」 不思議なキリスト教小説
三浦綾子の「氷点」は、これまでどうしても読み終えることの出来ない作品の一つだった。
私は面白そうな本には、すぐに食指をのばす野次馬人間だが、ベストセラーのトップに浮上するような本は敬遠して読まないことにしている。本が馬鹿売れに売れるというのは、これまで本を読まなかった「一般人」も喜んでその本を買うからなのだ。そして一般の人々が喜んで本を買うというのは、そのなかに通俗的な価値観がたっぷり詰め込んであるためのなだ。
毎日聞き飽きているような世俗的な価値観に従って書かれた本を、わざわざ買って読む必要があるだろうか。私は別に「一般人」を軽蔑しているわけではない。けれども、犬はワンワン式の型にはまった世間的思考法には心底うんざりしているのである。
しかし「氷点」には、ベストセラーになる前から関心を持っていた。
この作品は、1000万円懸賞小説の当選作であるという話題性のほかに、人間はどこまで他者を許しうるかという倫理的な問題をテーマにしていると聞かされていたからだ。わが子を殺された夫婦が、犯人の娘を引き取って養女にするところから物語は始まるらしかったが、そうだとしたら作品は確かに「許し」の問題を取り上げるに相応しい内容になるはずだ。
新聞に連載された「氷点」を何日かは努力して読んでみたが、どうしても読み続けることが出来ない。何となく薄手に感じられる文章のせいもあったが、それより話が一向に進展しないのが苛立たしかった。辻口病院長夫妻は、なぜ犯人の娘を養女に迎えるようなことをしたのか、何時までたっても肝心かなめの説明が伏せられたままなのである。
新聞の連載が終わり、「氷点」が本になると爆発的に売れ始めた。すると、私の勤めている高校で「氷点」をテーマにした読書会が開かれることになった。図書館係をしていた私は、これまでに読書会で生徒の希望する「ジェーン・エア」「嵐が丘」などを取り上げて来たが、正直に言ってこれら女子高校生向きののテキストを読むのはしんどかった。それでも、読書会までには、何とかテキストを読み終え、教師としての義務を果たして来たのだ。
私は本屋に出かけ「氷点」を買ってきて読みはじめた。だが、この本だけは期限までに読み終えることが出来ないのである。だから読書会当日は、列席の他の教師に指導を任せ、私は最後まで沈黙を守っているしかなかった。
その後も「氷点」の人気は高くなる一方で、作品は映画化され、テレビでも何度かドラマ化された。しかし、こちらはそれらを見逃していたから、院長夫妻が何故犯人の子を引き取って育てることにしたのかという当初からの疑問はいつまでも解けないままに残っていた。
新聞のテレビ欄で、民放の某局が今年の芸術祭参加番組として「氷点」をドラマ化したという記事を読んだときには、今度こそ、そのドラマを見て「氷点」のあらすじを掴もうと思った。「氷点」を開いて読む気にはなれなかったけれども、この作品の内容を知ることは、私の内部で一種の宿題のようになっていたのだ。
録画しておいた二夜連続のドラマを昨日になってやっと見たが、「芸術祭参加」というにしては少々お寒い内容だった。努力して見終わってから、このドラマが失敗に終わったのは、リアリティーのない原作の責任ではないかという気がした。
第一に、犯人が病院長の娘を何故殺したのか、訳が分からないのだ。妻に死なれて、男手ひとつで赤ん坊を育てることになった犯人が、疲労から常軌を逸して衝動的に院長の娘を殺してしまったというのだが、そして逮捕された犯人は留置場で首つり自殺をしたというのだが、こんなに説得力に欠けるバカげた話は聞いたことがない。
私が長い間疑問にしてきた院長夫妻が何故犯人の子を育てることになったかという理由に至っては、更に説得力がなかった。院長は妻が不倫をしていると思いこみ、その妻を罰するために犯人の子を妻に育てさせることにしたというのである。
だいたい、娘を殺された院長夫人が、その娘の代わりに養女を貰うことを切望するという筋立てからして、人間の心理を無視している。実の娘を無惨に殺された母親は、病気などで子供を失った母親とは全然違う。彼女は、事故に遭わずにすくすくと育っているよその娘を見れば、きっと目を背けたくなるにちがいないのだ。よその子を貰ってきて、娘の代わりに育てることなど考えつくはずがない。
病院長が、妻に犯人の子を育てさせ、その子への妻の愛情が深くなったところで事実を暴露することを計画していたとしたら、この院長は病的なサディストであり、性格異常者だ。妻が男と会っている間に娘が誘拐されて殺されたのなら、そのことを明らかにして、妻を離婚すればよいのである。妻は社会的に葬られ、二度と立ち上がることが出来なくなるのだ。
院長夫人は陽子と名付けた犯人の子を溺愛するようになるが、養女が10歳になったとき、偶然、夫の日記を読んでいっさいの事情を知ってしまう。彼女は、こうした悪辣な計画を立てた夫への怒りに燃え、彼女の方でも夫への復讐を決意するのである。
養女の陽子が犯人の娘だと知った院長夫人は、手のひらを返したように陽子をいじめ始める。この辺の描写は、日本演劇の伝統ともいえる「継子いじめ」の様式に則っていて、本の読者もドラマの視聴者もきっとハラハラしたはずである。
院長夫人が夫への当てつけとして陽子をいじめたなら、話は分からないこともない。だが、院長夫人は本気になって陽子をいじめている。そんなことが、果たしてありうるだろうか。
陽子は犯人の子供だというだけで、殺人には責任がないし、夫人はこれまでわが子同様に陽子をかわいがってきたのだ。仮に夫人に継子いじめの衝動が起きたとしても、彼女の感情は千々に乱れたろうと思う。そのへんの苦しみを描くのが本来の文学の筈で、単なる継子いじめの描写で終わらせてしまったら三文小説になってしまう。
三浦綾子は、この作品で人間は何処まで他者の罪を許しうるかという問題を提起したという。院長も院長夫人も、人を許すどころか人を憎むことに専念しているから、作者の問題意識を代弁する人物にはなり得ない。
すると、「許し」の限界を探る役割を背負わされた登場人物は、陽子ということになる。彼女は院長夫人からいくら過酷な扱いを受けても耐え続け、心の中で相手を許そうとしている。その彼女に相手を許せなくなる限界状況が出現するだろうか。そのとき彼女はどうするだろうか。
陽子が自殺をはかったのは、院長夫人が犯人の娘であることを暴露したからだった。出生の秘密を知った陽子は、一人になって悲嘆にくれる。その状況をドラマは大げさに描きすぎるのだ。彼女の嘆き方がオーバーなら、悲嘆のあまり陽子が薬を飲んで自殺をはかるという話の運び方もオーバーに過ぎる。
人は、赤ん坊のころに別れ、顔も記憶していない父親が極悪人だと知らされて、自殺を決意するほどのショックを受けるものだろうか。自分を彼女の立場に置き換えて考えてみれば、誰でも陽子の自殺企図に現実感のないことが分かるだろう。
だが、ストーリーに現実感のないことを理由に、作品を否定することは出来ない。小説とは元来そういうものなのである。だが、「氷点」は、フィクションというにしても、あまりに度を越した虚構を並べ過ぎる。それで、私は途中からこのテレビドラマを寓話として見ることにしたのだ。作者が自己の信仰を表白しようとした大人のためのメルヘン。
さて、自殺を企てていた時点で、陽子は兄の徹とその友人の医学生に愛されていた。彼女は、それまで自分をかけがえのない人と言ってくれた医学生を愛していると思いこんでいたが、自殺未遂を発見されて目覚めたとき、まず会いたいと思ったのが兄だったことから、自分が本当に愛しているのは兄であることを悟るのだ。
陽子は急を聞いて駆けつけてきた診療所の医師から、彼女が犯人の娘ではないことを知らされる。病院長から犯人の娘を引き取りたいという申し出を受けたとき、彼はこれが犯人の娘だといって別の赤ん坊を渡していたのである。
ドラマがこのくだりまで来たときに、私はペテンにかけられたような気がした。人間の罪と許しを描くのが「氷点」の狙いだとしたら、こんな見え透いた通俗的なオチを持って来るべきではないのだ。陽子を犯人の娘にしておくことによってのみ、その陽子を受け入れた院長夫人の「許し」が意味を持ってくるのだし、いじめに耐え抜いた陽子の行動にも価値が出てくるのだ。
二夜連続のドラマの第一夜はこうして終わる。
第二夜になると、陽子は北海道大学に入学し、札幌で学生生活を送ることになる。このあたりから、やたらに新しい登場人物が増えてきて、話がゴタゴタしてくる。そして、ドラマは唖然とするような結末を迎えるのだ。すべてに耐えてきたはずの優しい陽子が、彼女の前に姿を現した実母を冷たく拒絶する。そして、兄の徹を愛していたはずの彼女が、大地震で片足を失った医学生を目にするや、たちまち兄を捨てて医学生と結婚してしまうのである。
作者は、キリスト教式価値観に基づいて、陽子にこうした行動を敢えてさせたかもしれない。だが、こんなものはキリスト教的な美徳でも何でもない。陽子は一時の感傷から、血迷った行動に出たに過ぎないのだ。神というものが存在するとしたら、真に愛するもの同士の結婚をこそ祝福するはずなのだ。
この何とも奇妙なドラマは、最後に、次のようなナレーションを流してめでたく終わっている。
「人は生まれながらにして罪を背負っている」
「人間は、人とかかわり合っているから生きていける」
「許し合っていかなければ人は生きていけない」
私は、前述したように、この作品はキリスト教的な許しをテーマにしたメルヘンだと思った。だが、そのつもりで見ていると、いろいろおかしな点が出て来て、またまた混乱したのだが、幕切れのナレーションの語るように「人は生まれながらにして罪を背負っている」というのが作者のモチーフだとしたら、これはこれでいいのではないかという気がしてきた。
このドラマを見た後でインターネットで調べたら、三浦綾子は、「自らの罪を自覚することなしに神と交わることは出来ない」という意味のことを言っている。そして、「氷点」の陽子については、「自分だけは絶対に正しいと信じることを支えに生きた結果、自殺という大罪をおかすことになった」と解説している。
成る程、三浦綾子の作意がそこにあるとしたら、テレビドラマの制作者は陽子を描くに当たって、もっと原作者の意図に忠実でなければならなかった。つまり、陽子のうちに秘めた傲慢さを丁寧に描くべきだったのだ。そうすれば、兄を捨てて医学生に乗り換えた陽子の行動も、自己処罰の行為として理解できるようになる。
「氷点」は抵抗があって読めなかったが、三浦綾子の自伝的なエッセーの方は面白く読めた。彼女は高等女学校(今の女子高校)を卒業後、検定試験を受けて教員になり、数年間、小学校の教壇に立っている。三浦は自分が全身全霊をあげて教育に打ち込んでいた証拠として、授業を終えて帰宅後、毎日受け持ちの生徒の様子を一人一人思い出すことを習慣にしていたと語っている。
その日の生徒たちがどんなふうであったか、一人でも思い出せない生徒がいたら、注意がクラスの全員に行き届いていなかったからだ、そう考えて彼女は自分を責めていたという。これが本当だとしたら、三浦は実際すぐれた教師だったのである。
三浦の書き残したその恋愛体験も、驚くべき内容を含んでいる。
結核を病んで入院した彼女は、自暴自棄になって院内で酒を飲み、手に負えない不良患者になった。そういう三浦の前に一人の男性が現れる。以下は、インターネットからの引用である。
<突然の入院にも酒を飲み、たばこを吹かす綾子がいる。そんな時、病床に一人の男性が訪れた。前川正。三浦綾子の幼なじみで、彼女を救おうと現れたのである。彼女の心をいやし、キリスト教を彼女に与えたのは、前川であった。いつしか恋に落ちた二人、しかし、前川自身も結核に冒されており、病魔に命を奪われることになる。
再び虚無にとらわれ始めた綾子。しかし、前川の面影を持つ一人の男性が、再び綾子を救う。夫となる、光世であった。前川の後を引き継ぐように、綾子と心を通わせ、彼女にプロポーズする光世。そして奇跡が起こった。
13年彼女にとりついた結核が回復に向かい始めたのである。綾子36歳の時、二人は結婚>
前川正、三浦光世という二人の男性は、三浦綾子を宝物のように扱って誠心誠意、彼女に奉仕したというのだ。彼女はこの二人を完璧な男性として描き出し、そうすることで、こういう男性に愛された自分自身の魅力をそれとなくPRしている。
そればかりではない、彼女は自分を神に寵愛されている女性だという。彼女は自分が多病であることすら、神の愛の証左だと言い張っている。彼女は言うのだ。
「こんなに多くの病気にかかって、神様は自分をえこひいきしているのではないかと思います。」
ウイリアム・ジェームスの「宗教的経験の諸相」を読むと、神から特別に愛されていると自称するアメリカ人女性が続々と登場する。アメリカ女性にとって最大の勲章は、神から特別に愛されているということらしいのだ。だが、これはアメリカ女性に限ったことではなかった。その後知ったところによると、日本にもこの種の女性が想像以上に多いのである。
三浦綾子は神にすら特別扱いされている自分を誇らかに示しながら、同時に自らの罪を自覚することなしに神と交わることは出来ないという。この矛盾はどうしたことだろうか。彼女は高慢な自分を内心で恥じ、それで人はすべて罪を背負っていると述懐するのだろうか。
三浦綾子の作品は残念ながら余り評価できないが、三浦綾子という人間は実に興味ある人物であることに疑いない。  
 
「氷点」 感想3  
三浦綾子「氷点」を読んで
三浦綾子の小説は「塩狩峠」しか読んだことがなかった。「塩狩峠」は高校時代に友人に強く薦められて読み、強烈に感動したのだが、その友人に「どうだ。いい小説だったろう?」と得意げに言われて(若さゆえ)反発しあれこれと難癖をつけたことを思い出す。そして「氷点」は名作だと評判は聞いていたし、家人が本を持っていたにもかかわらず、結局、これまでページを開くこともなかった。それを今回、あづみさんの記事を見て読んでみようと思い立ったのだ。
読んでみてやはりすごい小説だと思った。登場人物の心理が実にリアルに描かれている。ごく普通の市井の人の心の中に潜む邪悪な部分、よこしまな部分、善良な部分、優しい部分が実に細やかに表現されているのだ。しかし、そんな点で優れた小説は何も「氷点」だけではない。この小説の本当に優れた部分は、もっと他にある。
さて、僕が「氷点(上・下)」を読み終わるころ、ちょうどTVでスペシャルドラマとして「氷点」の放送があった。このドラマは前編が「氷点」に、後編が「続・氷点」に対応しているのだが、前編を見終わったとき「何かとても大切なものがこのTVドラマからは伝わってこない」と強く感じた。それはいったい何だろう?それをずっと考え続けてきたのだが、やっとそれが何なのか思い当たった。伝わってこなかったのは、陽子の「自殺の理由」だ。
この話では、主人公陽子は「非の打ち所のない少女」として描かれている。陽子の父親・啓造が妻への嫉妬と復讐のために愛娘を殺した殺人犯の娘(陽子)を孤児院から引き取ったり、母・夏枝がそれを知って陽子を虐め続けたりするのと、鮮やかと言っていい対比を見せている。(陽子はいくら虐められても決して母親を恨まないけなげな少女として描かれている)しかし、そんな陽子が最後で「自分は啓造・夏枝の娘を殺した殺人犯の娘である」と告げられ自殺を計る。TVでは、この理由を書いた「陽子の遺書」はナレーションで読まれたものの、多くの視聴者は「自分が『殺人犯の娘』というショックで自殺した。健気で純粋な娘が可哀想に」程度にしか受け取れなかったのではないだろうか?それでは三浦綾子の意図は全く伝わらなかったことになる。
陽子の遺書の核心部分を抜き書きしよう。
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今まで、どんなにつらい時でも、じっと耐えることができましたのは、自分は決して悪くはないのだ、自分は正しいのだ、無垢なのだという思いに支えられていたからでした。でも殺人者の娘であると知った今、私は私のよって立つ所を失いました。
現実に、私は人を殺したことはありません。しかし法にふれる罪こそ犯しませんでしたが、考えてみますと、父が殺人を犯したということは、私にもその可能性があることなのでした。 自分さえ正しければ、私はたとえ貧しかろうと、人に悪口を言われようと、意地悪くいじめられようと、胸をはって生きて行ける強い人間でした。そんなことで損なわれることのない人間でした。何故なら、それは自分のソトのことですから。
しかし、自分の中の罪の可能性を見出した私は、生きる望みを失いました。どんな時でもいじけることのなかった私。陽子という名のように、この世の光の如く明るく生きようとした私は、おかあさんからごらんになると、腹の立つほどふてぶてしい人間だったことでしょう。
けれども、いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きてきた陽子の心にも、氷点があったのだということを。私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、「お前は罪人の子だ」というところにあったのです。私はもう、人の前に顔を上げることができません。どんな小さな子供の前にも。この罪ある自分であるという事実に耐えて生きて行く時にこそ、ほんとうの生き方がわかるのだという気も致します。
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陽子が死を選んだのには二つの理由がくみ取れる。ひとつは、いくら自分が無垢に純粋に正しく生きていても「実娘の殺人者の娘」という事実によって「自分の存在そのもの」が啓造・夏枝を苦しめてきたという事実。もうひとつは、いくら自分が意志的に正しく生きているつもりでも、自分とていつ何時罪を犯してしまうかもしれないという思いだ。
つまり陽子の苦しみは、「存在そのものが抱える罪(キリスト教で言うところの『原罪』)」に対する絶望なのだ。三浦綾子は陽子の性格を敢えて「非の打ち所のない少女」に設定することで、そんな人間でさえ原罪を抱えており、逃れられないことを指し示した。加えて、啓造や夏枝や他の登場人物たちの言動を通して、人間がいかに弱く、愚かで、肉と魂の分離した罪深い存在であるのか嫌というほど示すのだ。これが何より、この小説の優れていて、そして実に深い部分だと思う。
では、全ての人間が罪人であるならば、生きている意味などないのか?そうではない。だからこそ、陽子は死の淵から生還し、その解決が「続・氷点」で語られる。原罪をひとしく持つ人間が生きてゆくにはいったいどうすればいいのか?三浦綾子の答が「続・氷点」では示されることになる。  
 
「続 氷点」 

 

『氷点』の続編。自殺を図った陽子は一命を取り留め、自分が殺人者の娘ではないことがわかり、しかしそれですべてが落着するわけでもなく、という展開。自分の本当の親、血のつながった兄弟、血のつながらない兄、兄の親友、さまざまな関係。
そうだろうか、と陽子はタオルの襟布の端を折りたたんだり、ひらいたりしていた。陽子は、自分が不貞の中に生れたことが辛かった。自分が生れた時、父も母も、狼狽、困惑しただけであろう。できることなら、闇からやみに葬りたかったにちがいない。自分が胎内にあった間じゅう、自分の母親が何を考えていたか、陽子にはわかるような気がした。親にさえ喜ばれずに生れた子が、この自分であり、生んですぐに捨てられたのがこの自分なのだと、陽子はくり返して思って来たのだった。
いっそのこと、殺人犯の佐石の子として生れて来たほうが、よかったとさえ、陽子は思った。佐石夫婦に、喜びを持って迎えられた命のほうがましだった。少なくとも、裏切りの中に生れなかっただけでも、しあわせのような気がする。〔略〕
(たとえ、生れてすぐ捨てられても、生んでもらっただけで、感謝しなければならないのであろうか)
「だけどね、旦那。ゆるすって、人間にできることかしら?」
「想像力のないものは、愛がない」
といった誰かの言葉を啓造は思い出しながら、ため息をつき、自分に送られた浴衣を手に取った。
「ねえ、院長先生、もしわたしが村井と別れなかったら、うちの娘たちは、父親の姿に完全に幻滅を感ずると思いますわ。この間、何かで読みましたけど、やくざな親なら、いないほうがいいんですって。かえって、死んでいる場合のほうが、子供は強くまじめに育つんですってよ。死んだ親は美化されるからでしょうか」
「わたし、すごくまちがっていたのね。外に現れた行為だけが、自分の姿だと思っていたのよ。わたしは確かに、人を悪くいうことは嫌いだったわ。あたたかい言葉で、人に接しようと思ってきたわ。でもね、人間って、じっと身動きもしないで山の中にいたとしても、本当にどうしようもない、いやなものを持っているとわかったわ」
「とにかく人とかかわることがこわいのよ。どんなふうにつきあっても、結局は傷つけてしまうような気がするんですもの。だから縁の深い人ほどこわいの。おにいさんなんか、一番こわいわ」〔略〕
「わたしね、おにいさん。だから軽々しくは動きたくないの。どんなことにも。小樽のひとにも」
「一番大事な命を与えてくれたのは、何といっても親なんだからね」
「おにいさん。陽子はね、命よりも大事なものが、人間にはあると思うの」
静かだが、力のこもった声だった。
「わたし、生んでもらったのか、生む意志がないのに生れたのか、それは知らないけど、とにかくこの世に生れたわ。でも、こんな生れ方って、肯定はできないわ」
「ね、おにいさん。わたしたちは若いのよ。若い者は潔癖な怒りを知らなければ、いけないと思うの」
「ね、陽子さん、わたしね、幸福が人間の内面の問題だとしたら、どんな事情の中にある人にも、幸福の可能性はあると思うの」
「……しかしね陽子、おじいさんの育て方が、まちがっていたことはたしかだよ。夏枝は母親を早くになくしたものだからね。まあひとことでいうと、甘やかしたんだよ。恥ずかしい話だが、おじいさんは夏枝を叱れなくてね。何でもよしよしといって育てたんだ。注意すべき時にも注意せず、したいままにさせておく、これもひとつの捨子だね。手をかけないのと同じだよ」
何もかも、夏枝の父が知っているのを、陽子は感じた。
「一人の人間を、いい加減に育てることほど、はた迷惑な話はないんだね」
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」
ジェラール・シャンドリという人のいったこの言葉が、なぜかしきりに頭に浮かぶと、おじいさんはおっしゃるのです。
「母の日っていうのは、必要なのかね。プレゼントしてもらえる母親には楽しいだろうけれど、何もしてもらえない親には、淋しい日じゃないのかね」〔略〕
「老人の日に父の日、母の日に子供の日か。なんだ、一通りそろってるじゃないか」
「と、いうことは、老人も親も子供も、みんな大事にされていないということだな」
「そうだ、お手玉もしましたよ。赤や青の小布をはいでなあ。みんな、中にあずきを入れてなあ。だけども、うちは貧乏してたからね、豆のような小さな石をたくさん拾って、中に入れてね。うん、痛いお手玉でなあ。友だちは、だあれも、わたしのお手玉にさわらなかった。でも、せっちゃんね、あのひとだけは、時々わたしのお手玉で遊んだね」
「どうして若い人のほうが早く死ぬんかねえ。うちの息子も戦争で死んだ。シンガポールで死んだってね、役場からもらった遺骨の箱に、紙きれが一枚入っていたんですよ。わたしも、息子の死んだところまで、一度行ってみたかったけどね。いつのまにか、八十を過ぎてしまって、もう行けなくなりましたよ」〔略〕
「何しに生きてきたのかねえ。貧乏して、亭主に道楽されて、息子に死なれてなあ。それでもやはり、死にたくはないわね」
「真に美しいといいきれるものは、ないのかも知れない」
父母はわたしをもらう時、わたしの身の上を一切知った上で、こういったそうです。
「子供にめぐまれない親と、親にめぐまれない子供です。似合の親子ではありませんか」って。
父はうちの薬局に、こんな言葉を色紙に書いて飾っております。
「ほうたいを巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない」
わたしの好きな言葉でもあります。
「あのね、いつか何かの小説で〈自ら復讐すな。復讐するは我にあり、我これを報いん〉という言葉を読んだのよ。その言葉にぎくりとしてね。何かよくわからないけれど、その言葉は心理だと直感したのよ。それからは、ふしぎにすっと気持が軽くなっちゃった。何しろ、わたしが復讐するよりも、もっと厳正な復讐があるにちがいないと思ってね。そしてね、真に裁き得るものだけが、真にゆるし得るし、真に復讐し得るのだとも、思うようになったのよ」 
 
「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」 1

 

一つの疑問
これまで『氷点』『塩狩峠』など初期作品、『細川ガラシヤ夫人』以降の中期作品、また『愛の鬼才』『ちいろば先生』など晩年期の作品、そして『道ありき』『命ある限り』など自伝作を紹介してきた。その中で基本的な論ずべき内容はほぼ終わったと考えている。しかし最晩年の『われ弱ければ』『母』『銃口』については、本稿の共通テーマとしている女性像、近現代における女性の自立問題という観点も絡めて、もう一点、踏み込んで論じておく必要がある。
ここで改めて一言でいえば、三浦作品は証の文学であった。これまで様々な三浦作品を紹介してきたが、これらは切り口こそ違え全て同じ原点、すなわち戦後日本人がアイデンティティ喪失の中から、いかにキリスト教と出会ったかを証そうとするものであったと説明できる。
これまで本連載では三浦綾子氏のそうした姿勢に対して得難いものとして高く評価し、礼賛してきたつもりである。しかし、ここに一つの疑問が生じてくることも、前に述べた。そこまでキリスト教オンリーの立場は、逆に日本としての固有のアイデンティティを喪失することにつながらないか? ということである。丸山真男や遠藤周作、そして芥川らが指摘している通り、キリスト教の教義と日本の伝統的な宗教感性には大きなギャップがあり、彼らの指摘したとおり現実には、日本でのキリスト教人口はあまりにマイノリティである。ここから見ても、綾子氏の方法が、実際問題としてメジャーには成り得ないのではないか? 三浦文学ファンには真に申し訳ないが、こう評価せざるを得ないのである。
三浦文学に於ける危うさ
この疑問に対して、本連載では、一つにはキリスト教のリバイバルを促す、という動的な小説執筆姿勢を取ることで、三浦文学は成立し得ているのではないか、という論旨を展開してきた。しかし、三浦作品最晩年期の作品においてもう一つ、いや二つ気付かされるベクトルがある。それが、一つには反戦メッセージ、そして近代女性の自立問題である。具体的には、これが当てはまるのが『われ弱ければ』(一九八九年刊行/六七歳)、『母』(一九九二年刊行/七〇歳)、『銃口』(一九九四年刊行/七二歳)の最晩年作品である。
これらの作品は、これまでの作品と較べて何か毛並みが違うと評価されることが多い。確かに、キリスト教の信仰をテーマにしていることに変わりはないのだが、何かが違う。
たとえば『われ弱ければ』は、徳富蘇峰・蘆花らの叔母に当たり、桜井女学校などの校長として女性教育に務め、日本で婦人矯風会を指導した、矢嶋楫子の人生を綴っている。楫子は熊本の名家に生まれ、幕末の思想家として知られる横井小楠(よこいしょうなん)の弟子と結婚する。ところが相手は酒乱の悪癖があり、それが理由で一度離婚していた。楫子は三人の子を生み、十年この夫に仕えるが、ついに体をこわして自ら夫を離縁。この行いはそれまでの風習に逆らったものであり、親戚一同から非難を受けた。楫子は東京で左院議員を務める兄の許に身を寄せ、小学校教師の道を選ぶ。が、ここで妻子ある男性と不倫関係となり、子を生むことになる。こうした経緯を、甥にあたる徳富蘇峰・蘆花は、不実の人として非難し続けた。三浦綾子は逆に徳富兄弟が、人間の弱さや、当時の女性が置かれた社会的立場などについて、理解がなかったと擁護している。
四〇代で遅咲きながら教師となった楫子は、教育の才があったことから頭角を現し、当時できたばかりのキリスト教女学校、桜井女学校の校長に抜擢される。ここで多くの近代女性を育てながらキリスト教信仰を育て、やがて婦人矯風会を組織し禁酒と一夫一婦運動を展開するようになる。実はこのストーリー展開、そして語り口の中に、反戦とフェミニズムのメッセージがちらほらと見え隠れしているのである。
この傾向は、小林多喜二の母セキの人生を辿る『母』、文字通りの反戦文学『銃口』と、だんだん強まっていく。『母』においては、セキが反戦と革命を唱え拷問によって獄死した息子の姿を、十字架で殉教したキリストになぞらえ、入信していく(この観点は三浦綾子の推測である)という下りが描かれる。ここまで来ると解放神学と呼ばれる、共産主義に影響されて聖書を独自の観点で読み替え、キリストをメシヤではなく革命家と捉えるという、正統なキリスト教とは言い難い思想にまで踏み込んでしまっている。最晩年の三浦綾子作品は、実はこうした危うさを感じさせるものとなっているのである。
三浦文学「変質」の理由
これら作品群がなぜこのような傾向を持っているのか、一つの説明として、三浦文学の中心的メッセージが現実的に破綻に瀕したため、最後に変質したという見方があり得る。これまでの三浦作品はキリスト教リバイバルを志向するものであったが、リバイバルが遅々として進まない現実に対して、ネガティブながらキリスト教の存在意義を示すようになった。反戦・女性の自立といった、普遍的に賛同を得られる内容に訴えることで、日本におけるキリスト教の必要性・正当性を証明しようとの試みではないか、ということがある。
識者によっては、この最晩年の反戦とフェミニズムの訴えこそが三浦文学の本質ではないか、と捉える向きがあるが、これではまさに、三浦綾子がキリスト教を解放神学的に捉えていたことになってしまう。キリスト教の伝統的見解や共産主義についてよく知っていたはずの綾子氏がそこまで変質したとは考えづらい。三浦文学の読者も、ほとんどはこの見方をよしとしないようである。
もう一つの説明であるが、三浦綾子氏は、いつ死んでもおかしくないような状況下で闘病生活を続けながら『愛の鬼才』『ちいろば』『夕あり朝あり』の「恩師三部作」までを著した時点で、ある公的なノルマを果たしたと感じていたのではないか。『われ弱ければ』以降は、いわゆる別の手法によって書いたのではないか、ということである。証左として幾つか挙げると、まずこれ以前は定期刊行物への連載を編集したものであったが、本作からは書き下ろしとなっている。また本書の終わりで綾子氏は<単なる伝記の抄出のようでいて伝記でもない。小説に似て小説でもない。評伝のようであるがそれともちがう。ただ私は、矢嶋楫子なる人物を伝えたかった>という執筆姿勢を語っている。『母』においても、<何しろ(セキが逝去した時が)八十八歳の高齢である。ものの考え方も、キリスト信者とも、ちがったものがあるかも知れない。私はそれでもいいと思った。多喜二の母が、こんな思いで生きたのではないかという推測を、私なりにたどたどと書いてみた>とのことである。これらを鑑みても、やはり『夕あり朝あり』あたりまでは公的なキリスト教リバイバルのメッセージとして書かれており、『われ弱ければ』以降は、私的な意見として反戦・女性自立などが盛り込まれているのではないか。本連載ではこちらの見解によって論じてみたい。詳しくは次回以降に譲る。
三浦文学への疑問
いま、阿部晋三・新首相が執筆した『美しい国へ』がベストセラーとなっているが、ここでは戦後進められてきた、過度の伝統日本否定の流れに対する反省の必要性が訴えられている。そして、こうした日本アイデンティティの否定が、反戦やフェミニズムのメッセージと結びついて語られてきたことも、阿部氏は指摘している。こうした流れが、伝統的なものを否定することに焦点を当てすぎ、新しいものを打ち立てるという資質に欠けているのではないか。このように阿部氏は訴えている。
一方で三浦綾子文学は、晩年、阿部氏が難色を示すところの、一連の伝統日本否定色が濃い作品群を残している。それが『われ弱ければ』『母』『銃口』である。前回も、これら三浦綾子最晩年の三作について一つの疑問を紹介した。三浦綾子氏は解放神学、つまり共産主義に影響されているのではないか、ということである。
宮本百合子への傾倒
これについて、これも晩年期の作で『わが青春に出会った本』というエッセイ集がある。綾子氏が物心ついてから接し、最も影響を受けた本を十七冊(うち一単元は詩についてで、実際はさらに多い)紹介したもので、ヘルマンヘッセ、芥川、夏目漱石にヒルティ、ジイドなどの様々な名作が並ぶのだが、ここに林芙美子「放浪記」、「きけわだつみのこえ」、そして宮本顕治・百合子夫妻の往復書簡集「十二年の手紙」が含まれ、やはり、という感がある。特に、プロテスタント文学の宮本百合子については綾子氏が、最も尊敬する女流作家の先輩の一人だと明言しており、『出会った本』でも、かなりの傾倒ぶり、個人的な思い入れを語っている。
また綾子氏が「きけわだつみのこえ」を読んだ一九四九年に友人に送った読後感の一部をここで紹介しているが、次のように激しい言葉が並ぶ。
<どこの国もつぶれてしまえ 国とはいったい何なのだ 愛国心なんて豚に食われてしまえ 愛国心とはいったい何なのだろう 国家観が変わらぬうちはケチな戦争の連続だ 文化国家の建設などとゴタクを並べているうちはすぐさま戦争だ 民族の独立なんて、地獄の釜の中に落ち込んでしまえ>
信仰をもつ前とはいえ、あの三浦綾子氏がここまで激しい言葉を吐くというのは、書いていても胸が痛くなるようである。
聖書による新生の意味
ただし、『出会った本』において注目すべきなのが、最後で綾子氏が聖書を挙げ、このように述べている点である。
<ここでひとこと断っておかねばならない重要なことがある。それは、私にとって聖書は、他の本と同列に置くことの出来ない書物だということである。毎回私は「デミアン」だの、「田園交響楽」だの、「三四郎」だのを紹介してきたが、これらの本の一冊として、この聖書があるのではない。これらの本は私の人生にとって、正に出会いとも言うべき性質を持ってはいるが、しかしこれらの本に出会わなければ、私の一生はちがっていたというわけではない。……私を変えたのは、聖書による信仰である。聖書のみが私に真の力を与えた本である。>
この言葉をもって、綾子氏が宮本百合子を尊敬するのは、正しいと信じることを貫きつつ、女性としての心の豊かさを保ち、文学に活かしていった姿勢を尊ぶ、個人のメンテリティであって、人生観・思想においてもそのまま追随するという意味ではないということが了解できる。また、以前紹介した綾子氏の夢(夜みる方の夢)にまつわるエピソードでも、神を信じないマルクス主義には限界がある、と綾子氏が認識していたことが分かる。
綾子氏の場合、戦前の日本皇国思想をアイデンティティとしていたものが、敗戦でアイデンティティの喪失を通過し、キリスト教の神=創造主の愛に出逢うことで生まれ変わったというのが、あくまでもその出自である。決して短絡的に、国=現行の政治形態を憎む革命思想をアイデンティティとしたのではない。この二者は全く別物である。
さらに言えば、宮本夫妻の往復書簡は良き妻・良き夫という枠組みの中でこそ成立する内容だったのであって、これは戦後日本に広まった先鋭的なフェミニズム思想などとは毛並みが違う。阿部首相が懸念している、伝統的な日本を破壊するような文化の流れというのは、個人の権利を喧伝するあまり、結果的に家庭を崩壊させてしまうというものであり、宮本夫妻の場合、思想はともかく形として明らかにこの流れから外れている。
近代日本のフェミニズムの系譜
さて、近代日本の反戦・フェミニズム思想について、多くの識者はこれらが一律ではなく、幾つかの系統に分かれることを指摘している。特にフェミニズム思想は大きく分けてもリベラル派、ラジカル派、マルクス主義派、精神分析派、ポストモダン派などあり、細かく分ければ多くて目が回るほどである。またこれらを端的に動機面で分けると、本来的な意味での女性の自立を訴える場合と、革命思想などが先にあって、その口実に使っている場合の二つに大別できる。これらが実際の一個人において、その人生経験や性格などによって様々にミックス、アレンジを加えられ、生半可なことでは整理できないということも良くある。
女流文学においては、明治以降、樋口一葉、木村曙ら短命な女流作家、翻訳文学の若松賤子(しずこ)、革命家の福田英子、夏目漱石の失恋相手とされる大塚楠緒子(くすおこ)、森鴎外の妹・森喜美子、同じく妻のしげ、与謝野晶子、高村光太郎の妻である智恵子、そして「青鞜」の平塚らいてう、薄幸の詩人・金子みすずなどが有名である。昭和に入って宮本百合子、宇野千代、林芙美子、平林たい子、壺井栄ら。さらに戦後、幸田露伴の娘・幸田文(あや)、曾野綾子、有吉佐和子、瀬戸内晴海、新田次郎の妻・てい、そして三浦綾子などが現れ、それぞれが実に様々な立場から多様な文学を生み出してきた。これら各々がフェミニズムという切り口ではどのようなスタンスをとってきたのか、これを整理しなおす作業は、日本人アイデンティティを見直す上で非常に意義のあることだといえる。女性のみならず、男性の作家においても、もちろんこの観点は意義深い捉え方だといえる(ただし、女性作家の場合、ほぼ全ての作品において何らかの論ずべき材料が見いだせるのに対し、男性作家はそうでないことも多いようである)。
本連載では開始時から女性像ということを共通テーマにしてきたが、こうした近現代における女性の自立問題について各々の作品でどのように捉えているのか、明らかにするという試みが中心になっている旨、改めて示しておきたい。
女性の自立問題を訴える
さて本書ストーリーであるが、分量にして最初の三分の一は、矢島楫子の生い立ちから結婚の失敗、そして不倫を経てようやく明治初期の小学校教師になるまでを描いている。
楫子は江戸末期、熊本で名高い学者・横井小楠(しょうなん)の高弟で代官という名家に生まれた。出生時、矢島家には一男五女があり、楫子が女の子であると知った親戚一同は落胆し、一週間経っても名付けられないままだったので、十歳の姉が「かつ」と名付けたそうである。
成人したかつは二十五の時、父の知り合いで同じく小楠の弟子・林七郎と結婚するが、夫は酒乱であり、このため離婚歴があった。かつはこの夫を十年忍耐するが、ついに体をこわし目を患って家を出て、五年間、姉たちの家を転々とする。この時自ら夫に離縁を申し出、世間の風潮に反しているとして親族から嫌われたという。
また姉の久子、つせ子らも、男尊女卑の風潮によって苦労していたという。久子は惣庄屋・徳富家に嫁ぐが、厳しい家風のため衰弱し、眼病を患う。続けて女子を四人出産したため、離縁話まで持ち上がるが、長男(後の徳富蘇峰)が生まれると一転して凱旋将軍のように迎えられる。つせ子は横井小楠と結婚するが、親子ほども年齢差のある相手であり、また家柄が違うため正妻ではなく、妾の一人という扱いを受けた。本書によれば楫子はこうした風潮に強い疑問を抱いていたことになっている。
折しもその当時、日本に初めて学制が敷かれ、明治六年に小学校が全国に配置された。すなわち、教員伝習所を修了して試験に受かれば、女性でも社会で活躍できる道が開かれたということである。人生の再出発をかけて楫子と名を変えたかつは、上京して左院議員を勤める兄・直方のもとで勉学に励み、四十代ながら抜群の成績で試験に合格し、新しい女性教員の一人となった。しかしその一方で直方宅に出入りしていた、妻子ある書生と不倫関係を持ってしまい、子を生む。
ここまでの展開を読むと、かなり女性の自立問題に焦点を据えていることが分かる。ここまでの流れについて三浦綾子は、当時女性が虐げられていた社会情勢を思いやり、楫子のとった行動について、無理ないこととして、同情と弁護の意を示している。
では本書の題『われ弱ければ』に込められているのは、社会的に弱い女性の立場を訴え、女性はもっと強くならなければならないというメッセージが込められているのかというと、決してそうではない。この後、楫子は恩師、ミセス・ツルーとの出会いによって罪を悔い、キリスト教信仰をもち、教育・社会活動に専念していくことになるのだが、この流れを正しく理解するためには、キリスト教の信仰を持つとはどういう意味なのかを改めて考えなおしてみなければならない。
正統なキリスト教信仰とは
そもそも本書の核となるメッセージはどのようなものだろうか。楫子のような女性がいわゆる世間でいう罪に走ってしまったことに対して、それは社会の仕組みのせいで、本人も仕方なくその方向に向かってしまった、だから本人は悪くない、社会をこそ変革しなければならないのだ、という訴えかけなのであれば、これはキリスト教の信仰とは別のものとなる。
自らの罪を自覚し、生きていることも許されないほど罪深いと感じた時に、罪なきイエスキリストが敢えてその罪を一身に背負って十字架につかれたという認識に至り、神の愛によって許され生かされている自分を知る、というキリストによる救いを実感するようになるわけであって、その罪を自らに認めず弁護しているうちは正統なキリスト教信仰を持つことはできない。
一方で、キリスト教を無神論的に解釈し直した解放神学というものがあるが、これはこうした心の救いを見つめず、貧しき人々に平等な富をもたらすためにイエスが闘い、志半ばで捕らえられ十字架に架けられてしまったというのが基本的なスタンスである。ここには、この現世において様々な不幸や悲惨さが生じる原因は一人ひとりの心の問題であるとして、まず自らを振り返り罪を悔いるという姿勢が欠けている。
さて、楫子は敬虔なキリスト教伝道者ミセス・ツルーに出会い、新栄女学校という六歳から二十一歳までの女子三十余名を寄宿舎で指導する学校の校長に抜擢される。これが後に桜井女学校と合併して名門と謳われ、その中で楫子はキリスト教信仰に目覚め、日本キリスト教婦人矯風会を設立するなど多くの業績を残すまでになる。その原点は、キリスト教の正統的な信仰であった。
綾子氏のストーリーによれば、楫子は女学校校長になった際、髪を銀杏返しに結い、長煙管で煙草を嗜(たしな)むという、キリスト教系の学校の教師としてははなはだ相応しくない、当時流行の出で立ちをしていた。ところがある日、吸いかけの煙草を置き忘れたことからボヤ騒ぎを出し、これを咎めようとしないミセス・ツルーの姿勢に触れて大きく悔い改める。そして説教で、聖書ヨハネ伝にある姦淫の女についての話を聞く。姦淫を犯した女をつかまえ、律法にしたがって石で打ち殺されなければならないというパリサイ人に、イエスは「汝らのうち、罪なき者まず石を投げ打て」と答える。この逸話をまさに我がこととして聞き、楫子はキリストの救いを実感するようになる。この楫子の罪認識と回心が本書のクライマックスとして描かれているのは疑いを入れない。
やはり三浦綾子は楫子を、正統なキリスト教信仰を持つ人として描いており、本書の中心的メッセージもここにあるのだと言わざるを得ない。
ちなみに綾子氏は次作、小林多喜二の母の人生を描く『母』のあとがきでこのような述懐をしている。「本書は八十八歳の多喜二の母が、人を相手に自分の思いを語り聞かせ、遂にキリスト教で自分の葬式をしてもらおうとするに至る心情を述べている。何しろ八十八歳の高齢である。ものの考え方も、共産主義者とも、キリスト信者とも、ちがったものがあるかも知れない。私はそれでもいいと思った。多喜二の母が、こんな思いで生きたのではなかろうかという推測を、私なりにたどたどと書いてみた」とのことである。いわゆる正統なキリスト教とは違った個人の捉え方をも尊重する姿勢。矢島楫子の人生を描くにあたっても、綾子氏は、こうした執筆姿勢による方が、より深みのある楫子像というものを読者に提示し得る、と考えていたのではないだろうか。
矢島楫子の教育方法
矢島楫子はキリスト教信仰によって運営されていた桜井女学校で校長を勤めたが、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と言い校則を全廃し、それでも不品行や問題を起こす例がほぼ皆無である、という、見事な成果をあげた。
その当時、明治十年代は、どこの女学校もきびしい校則を定めていた。例えば、外出は月一度、外出時は必ず舎監の許可を得る、門限は七時厳守、外泊の際は舎監・両親の印鑑を押した証明書がいる、その他服装に至るまで事細かに定められており、楫子の教育姿勢は、まさに希有なものであった。このような思い切った教育姿勢に、「矢島楫子は百年も進んだ教育をした」として、現在のゆとり教育などの先駆と捉える一部識者もある。しかし、これは重要な点を看過している。
この校則全廃にあたって、教師や父兄からは当然、危惧の声があがった。校長へ談判しに来た教師達に向かって、楫子は聖書の例えを引きながら、誘惑さえあれば規則は必ず破られるものである、私達は自らの罪を知り、神の愛にすがるより罪を解決することは出来ない、神の愛を感じ自らの良心にしたがって善悪を判断する以外にない、そうした自立した人間を育てるのが私達の学校の役目ではないか。このように諄々と説き聞かせる。そしてこの決意に触れて教師達も納得し、実際に校則撤廃を実施後、生徒達の自立自治によって事故や問題はほぼ皆無となったとのことである。
この流れを見ていくと、楫子の教育は、キリスト教という絶対的な価値基準、価値体系を前提として成り立っているのだということがよく分かる。創造神という人格的存在を認め、その愛によって生じたのが人間である、という価値観に立って、神の願う内容が善であり、神の悲しむ内容が悪であると明確に規定した、その枠の中で個人個人の規範意識を育てていく中で、自立というものが実現できるという考え方である。こうした価値観が、これまでの歴史を通じて日本社会において主流になったことはない。日本、特に現代において主流になっているのは逆に、絶対的な価値観など存在しないのだ、というポストモダン的価値観である。矢島楫子の教育理想は、いまの日本の、価値相対主義と個人の権利思想の土壌の上に進められている「児童中心主義教育」とは、その深み、意味合いが全く違うのだということが納得できるのである。
教育の心得として仏教の説話などで語られる、有名な親の四訓というものがある。
「赤子は肌離すな、幼児は肌離して手離すな、少年は手離して目離すな、青年は目離して心離すな」
これはまさに至言である。この言葉に照らすと、楫子の「善悪を良心で判断できる人間を育て上げる」という精神に根ざした校則全廃は、自立した青年期における、一つの理想の教育を体現したという意味で評価される。これに対して、今どきの親や教育者が語る子供の自立というのは、家庭崩壊が進む中で、赤子のころから親が子供に煩わされるのを嫌い、「自立」を口実に手をかけず、最初から心が離れているという、要するに単なる放任の口実ではないか? 矢島楫子の行っていた教育に比べて、あまりに薄ぺっらいのではないか? こう考えざるを得ない次第である。
「告白」はなされたか?
さて話題がかわるが、矢島楫子は、かの徳富蘇峰・蘆花兄弟の叔母にあたるが、この兄弟は楫子を終始、批判し続けていた。
実はこの徳富兄弟は楫子より数年早くキリスト教に入信している。もともと徳富・矢島の両家は熊本で名高い儒学者・横井小楠(しょうなん)のつながりであるが、小楠の甥がアメリカ留学後に建てた熊本洋学校を通して、かえって青少年の間にキリスト教が広がり、わずか十数才の少年までが信仰宣言をして、「熊本バンド」と呼ばれるようになった。徳富兄弟はその代表格だったといえる。そうした自負もあってか、数年後に入信した楫子に対して徳富兄弟はまことに厳しい姿勢を取った。
楫子はやむを得ない事情から、十年仕えた夫に自分から離縁を申し出、またその後、妻子ある学士と不倫関係になり、子を成している。このことに対して徳富兄弟は機会ある毎に、その罪を責め、これらを世間に告白しないまま、教育者として高い地位にあるのは偽善であると問い尋ねていた。
このため蘇峰は楫子の葬式に招かれ弔辞を述べたが、楫子を誉めつつ、一方で彼女を「人を食った冷笑家」「渋柿のよう」などと評し、特に入信する前までの半生を揶揄する言葉を挟みこむような話であったという。
蘆花は兄より激情家として知られ、楫子の死後すぐ、<二つの秘密を残して死んだ叔母の霊前に捧ぐ>として、楫子の生前の秘密をつまびらかにして責める文を『東京朝日』と『婦人公論』に発表した。これに対してはさすがにやりすぎであるとして、蘆花の方にかえって批判が集まった。その文のなかで、楫子が逝去する三年前に蘆花が尋ねていき、罪の告白を迫ったところ、非常に心に響いた様子で「私の過去の秘密を知ってくれて感謝しますが、私のことは私が処理します」と言ったやり取りが記されている。蘆花としては、叔母は自分との約束を果たさなかった、と言いたかったのであろう。
この告白について、楫子が徳富兄弟に送った別の手紙から、例え告白がなされなくても楫子自身が罪を悔い改めてキリスト教に救いを見出している事実は変わらない、そしてこうした私事を公表したところで得るところはない、このように考えていたことが分かっている。
ではその告白はなされなかったのか。これについて楫子は、徳富兄弟のさらに姪に当たる久布白落実(くぶしろ おちみ)に、『矢島楫子伝』出版を託すという形で、事後的に果たしていると見る次第である。落実は楫子が建てた日本基督教婦人矯風会の役員として、楫子の手足となって働いた一人である。楫子は後年、本人の死後に自伝を出版する意向を示し、その準備として落実に口述筆記をしていた。二人は泣きながら口述を続け、時として書いている落実の方が耐えがたく、このまま書いてよいかと念を押す落実に、楫子は「事実を曲げることは出来ません」と毅然と答えたという。この涙ながらの口述筆記、その内容の出版をもって、やはり告白はなされていると考えるべきであろう。
ひとつ残念なことは、この伝記自体が楫子の没後十年程で出されており、この出版の企画や口述筆記の様子が徳富兄弟に伝わっていなかったのではないか。こうした流れを正しく知っていれば、蘇峰の渋柿のような弔辞や、蘆花の激した文章なども世に出ることはなかったのではないか。このように考えられるのである。 
 
「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」 2

 

矢嶋楫子(やじま かじこ 1833-1925)は、女子学院の初代院長であり、日本キリスト教婦人矯風会の創立者です。恥ずかしながら本書を読むまでその存在を知りませんでした。また、「女子学院」という名前は知っていたものの、どういう学校かは知らずにいました。いまでも都内近郊の私立学校はよくわかりません。本書は、その副題からも推察できるとおり、伝記です。矢嶋の生い立ちから女子学院に務めるようになって死ぬところまでが書かれています。良書です。教員を目指す人には読むことを強く勧めます。三浦綾子なら『銃口』も併せて勧めます。
私は子供が好きで好きでたまらないというだけで、小学校教師になった。もし体力があるなら、今でも幼稚園や保育園の先生をしたいと思うほど、子供に対する思いは熱い。だが矢島楫子を調べていて、やみくもに子供が好きなだけで教師になってはならなかったと、つくづくと思った。むろん、やみくもに子供がかわいいというそんな感情は、教師にとって実に重要な部分ではあるが、「人間とは何か」をとらえることのできない教師であってはならないと、矢島楫子は気づかせてくれた。
人間というものがいかなるものかわからずに、どうしてなにかを教えることができるだろう。第一、教えるということが、いったいどんなものであるかさえ、明確に知ることはむずかしいのだ。幼い子供を教えていても、その人間としての一生を洞察することが肝要なのだ。教師や母親は、いわゆる優しければよい、というぐらいのことでは、人間を育てることはできない。
イギリス人の作家サマセット・モームは、
〈情愛深い母親をもった以上に、子供に悪い結果をもたらす不幸はない〉
という鋭い警句を発している。この警句を理解できない母親や教師がいたとしたら、それは子供にのみならず、母親や教師にとっても、確かに大きな不幸であろう。愛は単なる情愛ではない。「愛は意志である」という言葉がある。矢島楫子こそはその意志的な愛をもった闊達な教育者であった。
この矢島楫子について、女子学院に学んだ九布白落実〔くぶしろ おちみ〕は、次のような一文を書いている。
〈当時、校長の矢嶋先生は口癖のように言われた。
「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」
そして校内には規則というものはなかった。しかし私が入学して卒業するまでの七ヶ年に、校風を乱して処分された者はただ一人しかいなかった。それも生徒間で処罰して〔ママ〕後に教師にせまって処分したものであった〉
「校長先生、わたし、学校を……やめなければ……」
しのぶは涙に言葉がつまった。楫子は父親の手紙をじっと読んでいたが、顔を上げてしのぶを見た。元来、楫子はあまり笑顔の多いほうではなかった。が、この時の楫子は、いまだかつて見せたことのない優しい笑顔をしのぶに向けて言った。
「あなた、お勉強はつづけたいのね」
しのぶは大きくうなずいた。楫子はまた言った。
「石川さん、ではやめなくてもよろしい。これからはね、お金が入っていてもいなくてもかまいませんから、袋だけは持っていらっしゃい。お父さんにはね、またお金が送られるようになった時に送ってくださいと、手紙を書いてあげなさい」
だが、もの言わぬ子供は、意外とものに感じやすい子供でもあるのだ。褒められてすごくうれしいと思う、なにかもらってほんとうにありがたいと思う。が、その思いは、なぜかぱっと顔には出ず、心の底の深い渕に、いったん沈めてしまう。傷ついた場合も同じである。疎外された淋しさも悲しさも、やはり渕の底に沈めてしまう。こうして悲しみも喜びも、じっくりと一人で味わうということがある。そんななかで耐えることを学んだり、人の心を凝視するという自分だけの世界が生まれ育ったりしていく。
ふつう、いつもにこにこしていれば、誰もが心をひらいて愛してくれるのだろうが……。しかしここで、人は一つ見落としていることがある。口に出して言う者より、口に出さぬ感謝のほうが、時に深いこともあることを。声を上げて泣くことより、じっと耐えている悲しみのほうが深いかもしれぬということを。
「みなさんはこの話をなんとお聞きになりましたか。わたくしは、罪ある者には人を罰する資格がないと、学びました。罪のない者が人間のなかにいるはずはありません。残念ながらわれわれは、毎日神に背を向けながら歩みつづける罪人である。ただの一人として、罪を犯さずに生き得る人間はおりません。外の行いはともあれ、心のなかは情欲と放縦に満ちております。欺瞞と傲慢、怠惰と不従順に満ちております。かかる人間に、どうして人を審〔さば〕く資格がありましょうや。人を審き得るのは、実に神のみであります。
ゆえにみなさん! われわれは人を審く時、それは神を審きの座より引きずりおろして、おのれがその座についているのであります。その罪深さをわたくしは深く思うのであります。
〔略〕最後にイエスは女に言い給うた。
『われも汝を罰せじ、行け、この後ふたたび罪を犯すな』
と。この言葉をわたくしたちの心に刻みつけようではありませんか」
教会を出た楫子は、不思議な喜びに満たされていた。
「わたしは、罪の問題は、神の力に、神の愛にすがるより、しかたのないことだと思います。わたしたちの罪を代わりに負ってくださったキリストの十字架を、しっかりと見上げる以外に、守られる道はないと思います。わたしは生徒たちに、『あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい』と、口を開くたびに申しているわけです」
教師たちは顔を見合わせた。
「考えてもごらんなさい。わたしたち人間は、規則があるから人を殺さないのですか。法律があるから泥棒をしないのですか。他に律せられれば罪を犯さないのですか。これは、人間として上等の生き方とは言えません。たとい法律になんと定められていようと。もし人間として、してはならぬことは絶対にしない。つまり善悪の判断は法律がするのではなく、わたしたちの良心がするべきではないでしょうか。神の愛に感じて、してはならないことはしない。またすべきことは断固としてする。そうした人間になるよう、わたしたちの学校は教育したいのです。聖書のない学校ではまた別でしょうが。校則は、学校にいる間、あるいは生徒たちを守るかもしれません。しかし生徒たちが大人になって、家庭の主婦になった時、一人で物事の判断もつけられぬ人間になっては困るのです。わたしは、一人で自由に外出もできないような人間に育てたくはありません。イエスさまが校長先生なら、校則をお作りになるでしょうかね」
(貧富の差がただちに人間の運命に関わる……)
それはこの矯風会の仕事に手を染めてから、幾度となく思わせられたことであった。遊郭に売られる女たちにも、貧しさがつきまとった。今見た幼い子守にも親の貧しさがつきまとっている。なんの不自由もなく学校に通って、勉強している生徒たちとは別世界に住んでいるのだ。
(人間はみな等しく神の子だ)
つくづくと楫子はそう思った。だがその等しく神の子であるはずの子守たちの姿は、決して等しくはない。
(そうだ、あの子たちにも学ばせる機会を与えねばならない)
子守は幼い命の守り手なのだ。尊い仕事なのだ。まずその自覚を与えたいと思う。子守には子守の、さまざまな心得があるはずだ。おむつの取り換え方、鼻のかませ方、汚物の扱い方、あいさつのしかた、簡単な看護法、読み書き算盤、話し方等、初歩的なものでも教えてやりたいと、切実に思った。
「矢嶋先生、教育というのは学問だけではありません。人間にとって何が大事かということを生活で覚える、これがミッションスクールの教育だと思います。人間は一人残らず同じ立場にあること、人間は神に仕立て上げられてはならないこと、それが大事だと思います」
参考 文部省訓令第12号(明治32(1899)年8月3日)(宗教教育禁止令)
一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件
一般ノ教育ヲシテ宗教外に特立セシムルハ学政上最必要トス依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ 
 
「母」

 

「母」をめぐる二つの説
本書は「蟹工船」を書いた小林多喜二の母、小林セキの一人語り(創作)という形式を取った、三浦作品の中でも特異な作品であり、最晩年の作にあたる。
有名な話であるが、三浦作品は綾子氏が作品を口述、夫の光世氏がこれを書き留めるという形で執筆されており、まさに「書き下ろし」という形となっている。これに対し、本作品は構想から一〇年かけたとのことであり、かなり書き下ろしとは違う雰囲気になっている。語り口もセキが生まれた東北の方言になっており、おそらく一〇年の間にかなり推敲・見直しを加えたのではないか、と思われる。
この本の評価は二分される。セキの生き様や愛に感動した、という感想と、三浦綾子の意図が見え隠れするようで泣けなかった、という感想である。
一人語りならば白洋舎創設者の五十嵐健治氏の半生を綴った『夕あり朝あり』もそうだが、これは本人の恩師ということもあり、基本的に取材に基づいた事実を扱った、ジャンルで言えば伝記小説である。しかし『母』は、本人も認める通り創作の部類にあたり、ほぼそのまま演劇の脚本として使われ、反戦メッセージと共に上演されることが頻繁にある。
客観的に見ると、明らかにこの本は反戦メッセージが核心になっており、セキという人物、社会的地位や学力はないが慈愛のかたまりであるという、現代の聖母マリアのような人物を立てて方言で語らせることで、このメッセージを、容易に反論できないような形で見事に飾り付けているのでは、と考えざるを得ない。このストーリーに乗っかれる読者は感動した、と言い切れるのだし、そこまで乗っかることに違和感を感じる読者もいる、ということである。
またこうした本の特異さが、三浦綾子論を二分させることにもなっている。大多数は、三浦綾子作品の核となるメッセージを、「氷点」のような罪の認識から神の愛に出会い救われる個人の生き方、といった正統的なキリスト教信仰にあると捉えているのだが、一部識者は、三浦作品は最後に、反戦という社会性のあるメッセージにたどり着いた、と主張している。
『母』は解放神学か?
『母』において、三浦綾子は共産主義の限界についてはよく分かっていたはずだが(綾子氏がこの数年前に出した「夢幾夜」というエッセイではマルクス主義・共産主義の限界性についてハッキリ指摘している)、敢えて小林セキに共産主義を擁護させている。
そして更に問題と思われるのが、セキのキリスト教に対する理解の示し方である。
本書の終わりの方では、セキが晩年、キリスト教牧師から聖書にある、イエスの生涯について説明を受ける様子が描かれる。イエスの癒しの業について、セキはこのように語る(もちろん三浦の創作である)。
「驚いたことに、直してもらった人は、みんな貧乏人ばかりなの。たまには金持ちの人も直してやったけど、イエスさまは体の弱い人を馬鹿にしたり、貧乏な人を嫌ったりしないのね。わだしは、多喜二が聖書ば読んでたことが、これでよっくわかった」
そしてセキは、イエスが裏切り者に手引きされて役人たちに捉えられた下りでも、こう語る。
「わだしは、ここでも多喜二のことを思いだした。多喜二もスパイの手で警察につかまってしまったからね。」
次にクライマックスとして、セキはピエタ(死んで十字架から降ろされたイエスを聖母マリアが抱きながら悲しむという構図の絵)を見てこう語る。
「死んだあと、むごったらしい傷だらけのイエスさまば……イエスさまば……お母さんのマリヤさんが、悲しい顔で抱き上げている絵があったの。手と足に穴があいて、脇腹に穴があいて、血が出て、むごったらしい絵なの。わだしはね、多喜二が警察から戻ってきた日の姿が、本当に何とも言えん思いで思い出された」
明らかに、綾子氏の描くセキは、息子である多喜二、共産主義者として貧しい者を解放しようとして虐殺された多喜二をイエス・キリストに重ね合わせている。このピエタが、この作品全体のイメージを形作っているといっても良い。
さて、ここで疑問がでてくる。これが綾子氏自身の思想的なものの表明であるなら、これは解放神学そのものではないのか、ということである。あるいは、綾子氏は普段の執筆ではさほど思想・教義的なものに踏み込んでいないが、それだけに文化人として、そういうイメージに魅力を感じていたというなら、これは三浦文学の危うさと言い得るのではないか。
三浦文学の弱点
確かにそれを疑う根拠は幾つかある。以前、戦前・戦中の自分を「石ころのような」人生と呼び、戦後のアイデンティティ喪失の中からキリスト教に出会って再生を果たした代表的日本人としての三浦綾子を紹介すると同時に、一つの懸念についても述べた。つまり、三浦文学はキリスト教のリバイバルという本義を果たせず、ジリ損状態に陥ったキリスト教の現状をみるにつけ、特に晩年期、戦前までの日本人アイデンティティ否定にこだわらざるを得なかったのではないか、ということである。
また、何度か論じてきたように、三浦文学はキリスト教そのものというより、一つの思想を信じる生き方、その人生における充実感に焦点を当てたものであった。『ちいろば先生』の紹介でも触れたように、綾子氏は、神がいる・いないということよりも、往々にして、神を信じる生き方を選択する、という心の姿勢にフォーカスする傾向があった。これは思想的には案外、無頓着である。結果論で言うならば、三浦綾子氏は解放神学に向かう土壌をもっていたのではないか。このように考えられるのだ。
しかし、ここで結論的にいうなら、本作品で三浦綾子氏は解放神学に陥らない、確固たる一線を守っている。詳しくは次回に譲る。
革命思想か、愛による救いか?
この作品は小林多喜二の母、セキの一生を本人の一人語り形式で描いた異色作であり、強い反戦色を持っている。
前回紹介したように、この作品全体の大きなモチーフとなっているのが、ピエタ、つまり十字架に掛かって死んでしまったイエスを聖母マリアが抱いて嘆き悲しむという構図の絵である。
これについて綾子氏自身があとがきで述べている。
「私の心を突き動かしたものは、多喜二の死の惨さと、キリストの死の惨さに、共通の悲しみがあるということだった。もし多喜二の母が、十字架から取りおろされたキリストの死体を描いた「ピエタ」を見たならば、必ずや大きな共感を抱くにちがいないということだった。」
ここで、綾子氏は晩年になって解放神学、つまりイエス・キリストを神ではなく、貧しい人々を解放するために社会を改革しようとして殺された人間である、と捉える革命思想に向かったのか? という疑念が生じるわけだが、前回、それは違うということを述べた。
例えば、セキが「山路越えて」という讃美歌を愛唱する下りがある。それはこういう歌詞である。
「やまじこえて ひとりゆけど 主の手にすがれる みはやすけし」
こうした歌詞には、解放神学のような、自分で社会を変革してやろうといった意志は感じられない。自らの罪深さ、弱さをまず悟り、イエスの手にすがることで安らかな心を得る、という、キリスト教の正統な救いを受けている。セキも、この讃美歌を正しく解釈して、死んで一人とぼとぼ歩いているが寂しくない、イエスの手につかまって一緒に天の国にいくのだ、この歌をうたうと何とも言えず安らかな気持ちになるのだ、と説明する。ちなみに、セキがこの讃美歌を好んで歌っていたのは事実に基づいている。
やはり本書も最終的には、神の愛によって個人が救われる、という点に帰着するのである。
神の親としての心情に踏み込む
では、セキが、人間であり革命家であった多喜二を、イエス・キリストに重ね合わせていた、という綾子氏の解釈はどうなるのか?
具体的には、ピエタを見たセキがこのように語る(無論この辺りは綾子氏の創作による)。
「わだしはね、多喜二が警察から戻ってきた日の姿が、本当に何とも言えん思いで思い出された。多喜二は人間だども、イエスさまは神の子だったのね。神さまは、自分のたった一人の子供でさえ、十字架にかけられた。神さまだって、どんなに辛かったべな」
ここで綾子氏の描くセキは、多喜二が人間であり、神の子であるイエスは別格であることをはっきり理解している。ピエタのイメージが重ね合わさるのは、貧しい人々を救おうとして受難にあった改革者、という部分ではなく、ひとり子を失った親の悲しみ、という部分であることに、改めて気付かされるのだ。セキは、解放神学に踏み込んだのではなく、神の親としての心情部分に踏み込んで、これにシンパシーを示しているということなのである。
母性愛の訴えかけ
さらにピエタの場面で、綾子氏の描くセキはこう続ける。
「人間を救う道は、こうした道しか神さまにはなかったのね。このことは、いきなりすっとはわからんかったども、イエスさまが、「この人たちをおゆるし下さい。この人たちは何をしてるか、わからんのですから」って、十字架の上で言われた言葉が腹にこたえた。わだしだって、多喜二だって、「どうかこの人たちをおゆるし下さい」なんて、とっても言えん。」
明らかに本書の中のセキは、神の愛を実践するイエスに対して、自らや息子にはかなわない、別格の存在と捉えている。
このように、三浦綾子は本作品で、解放神学には陥らない確固たる一線を守っている、ということが分かるのだ。
ここで逆に、三浦綾子は共産主義者に対する救いの可能性というものも考えていたのではないか、という仮説もなりたつ。窓口は解放神学的だったとしても、そこから正統的なキリスト教信仰につなげていく道がないか、模索していた、という読み込みである。
『母』で描かれるセキは母性愛の人であり、愛に敏感である。終わり近くでセキはこう述懐する。
「わだしが思うに、右翼にしろ、共産党にしろ、キリスト教にしろ、心の根っこのところは優しいんだよね。誰だって、隣の人とは仲よくつき合っていきたいんだよね。うまいぼた餅つくったら、つい近所に配りたくなるもんね。<中略>それだのに、人間は、その仲良くしたいと思うとおりには生きられんのね。ちょっとのことで仲違いしたり、ぶんなぐったり、あとから後悔するようなことばかりして、生きていくのが人間かね。」
思想はともかく、人間として和解する道を探っていきたい。この母性愛ゆえの包容力、超思想的な、愛による和解の訴えかけこそが、本書の一番言いたい内容なのではないか。このように思われてならないのである。 
 
「銃口」 1

 

『氷点』放映に思う
ちょうど二〇〇六年十一月二十五・二十六日の朝日放送で、『氷点』が連続放送された。オンエアを見た感想であるが、俳優の選択やエピソードの取捨選択も順当で、要所で北海道の風景がうまく取り入れられ、非常に綺麗に仕上がっているという印象を受けた。
なお、原作では、殺人犯の子供を引き取るという行為にはキリスト教の「汝の敵を愛せ」という精神に触発された部分があったのだが、これが割愛されており、通俗的に焼き直された感が強い。
また陽子役の石原さとみさんはインタビューで『氷点』に携わって感じたことが何か聞かれ、親子関係やいじめ問題がクローズアップされている中、対話が重要なのだ、という観点で答えていたが、これは本作の目的からみて、もう一歩踏み込みが欠けている。
というのも、本作品のテーマは「原罪」であり、何の罪もない者が自殺に走ってしまう、それは何か人間関係のようなものが原因なのではなく、人間が生まれながらに背負った罪ゆえなのであり、すべて人間はこの原罪を背負っているのだ、という主張が隠されているからである。それを、対話が重要なのだ、理解さえしあえば悲劇は避けられたのだ、という読み込みになってしまうのは、何というか、いかにも日本人的な捉え方である。
ということで今回のドラマ化は、本来的なテーマとしてはちらほらと骨抜きにされた部分があるが、それでも作品全体としての雰囲気やメッセージ性は残されていたといえる。罪の問題を提起して議論・意識の俎上に乗せたというだけでも、もともとキリスト教の土壌がなく罪観も乏しい日本人に対して、キリスト教の罪や赦しを少しでも啓蒙するという意味では、本作執筆の目的は十分果たされているとみるべきだろう。
綾子氏最後の小説
さて、三浦綾子『銃口』の紹介である。
本作は綾子氏の最後の小説であり、また問題作とされている。
作品ストーリーは、戦前の北海道で、熱心に子供を教えていた小学校教師、北森竜太が、当時成立した治安維持法によって共産主義運動を行っているとの嫌疑をかけられ、獄中生活を余儀なくされる。出所すると、同じ容疑で投獄された恩師の坂部は、拷問が原因で病死していた。ようやくそのショックから立ち直り、結婚を目前にして今度は兵役に召集。満州で終戦を迎えて、必死の思いで日本へ脱出する。最後に主人公竜太は、戦前・戦中の自分の姿への自戒をこめてキリスト教を学びはじめ、やがて教壇へ復帰する。
ここで綾子氏晩年十年の作品を概観すると、六一歳(一九八三年)のとき『愛の鬼才』(西村久蔵伝)刊行。六四歳で『嵐吹く時も』(祖父母を題材にした小説)と『草のうた』(自伝)刊行。六五歳で『ちいろば先生物語』(榎本保郎伝)と『夕あり朝あり』(五十嵐健二伝)刊行。六七歳で『われ弱ければ』(矢嶋楫子伝)刊行。七〇歳で『母』(小林セキ伝)刊行。七一歳で『夢幾夜』(エッセイ)刊行。そして七二歳で本作『銃口』(小説)刊行。細かいエッセイは省いたが、この十年間でほぼ全て自伝・伝記ものが続いており、骨太な長編創作(小説)は十年ぶりということになる。
とは言え、本作品の最も焦点になっている北海道綴り方教育連盟への無実の検挙、そして当時の教師の雰囲気、軍役の様子、満州からの帰還などはそれぞれ経験者への取材と、作者自身の経験を合わせて執筆したもので、個々の内容は史実に即したものとなっている。
竜太の辿るストーリー、心の遍歴は、自身も小学校教師であった三浦綾子氏と重なる部分が多い。具体的な人生経験としては違うが、最後にキリスト教に出会う竜太は、もう一つの三浦ストーリーだと言ってよい。
作品の転向?
前作『母』が共産主義者小林多喜二の母を扱ったもの、本作も実に骨太な反戦小説であり、三浦綾子は晩年になって強烈な体制批判に向かい左傾化したのではないか、という説もある。
しかし大枠ではキリスト教との出会いを語るストーリーに変わりはない。本作では、戦時中に日本の体制がいかに間違っていたか、ということを強烈に批判しているが、その根底に罪の問題があることを見失ってはいない。だからこそ主人公・竜太は最後に人間の罪の問題を省みてキリスト教に出会うのである。
なお本作の題名となっている「銃口」という言葉は、敵意や不信の象徴として使われている。満州から脱出する際、主人公達は敵意の象徴である銃を捨てることで急死に一生を得る。銃口を他人に向ければ、いずれ自らにも向けられる時が来る。
綾子氏は、人間の心の中にある原罪を「氷点」という言葉で表現した。この罪が他者への敵意として顕在化した時、「銃口を向ける行為」となる。三浦綾子作品において「氷点」と「銃口」は同じ意味合いを持っている。
以上、本作は反戦の形を取りつつも、やはり罪の問題を扱った正統的三浦綾子作品と位置づけることができるのである。
『氷点』ドラマ放映について
さて〇六年十一月にTV朝日で『氷点』がドラマ化されたが、視聴率は意外に低く一三-二〇%程度に留まったそうである。一九六六年ドラマ化の際は、最終回視聴率が四三%という空前の記録を打ち立て、キリスト教の原罪というテーマが大きく注目された。このもじりとして長寿番組「笑点」が生まれたほどである。現在は、ここまで影響力が下がっているというか、日本の世相には合わない部分が出てきていることに、改めて驚かされる。
いわゆる戦後二、三十年ぐらいの復興期には、日本が欧米の文化を取り入れながら先進諸国にキャッチアップしていこうという、健全な雰囲気があった。イメージで例えれば、都会の片隅で坂本九の「見上げてごらん夜の星を」などをバックにお父さんお母さんが共働きして家を買い子供を養う、といった苦しいながら楽しい小市民的家族像というものがあった。あるいは安倍総理が『美しい国へ』で絶賛した、映画「三丁目の夕日」も、そうした昭和中期の雰囲気を描いている。この頃は、その雰囲気の中でキリスト教会も一つの風景としてとけ込み、人生について深く考える場、人格を指導し社会を導く場として、ある程度の影響力を認めることができた。
しかしそれからさらに二世代ほど経た今は、ニート、少子化、離婚など社会を支える基盤がどんどん脆弱化し、社会全体がバイタリティを失いつつあると言われる。この根底にあると言われるのが、社会全体が持つ「大きなストーリー」の不在、簡単に言えばニヒリズムである。個人的には一九八五年の日本航空機墜落によって坂本九さんが事故死されたのがかえすがえすも日本の大きな損失であり日本凋落の大きな節目になったと考えるのであるが、やはり八〇年代頃から今までの健全な雰囲気が壊れはじめたとみることができるのではないか。
人々が、日本が国として発展すること自体に意味を見いだせなくなり、家族や社会的地位などにも魅力を感じなくなり、無感動・無気力・無道徳に侵されるようになった。キリスト教もこの流れに対抗することはできなかった。こうした風潮を生みだしていったのは、米国で生まれたカウンター・カルチャーにその流れを遡ることができるが、具体的にはこのカウンター・カルチャーに対抗できるだけの理念や文化を示すことができないために、キリスト教価値観は崩壊していったとみることができる。
『銃口』が意味するもの
さて、そうした流れから見ると、『銃口』が書かれた動機として、やはり否定できないのが、キリスト教の失地回復という観点なのである。
本作品は、直接には小学館の編集者から「激動の昭和を背景に神と人間を描いてほしい」という要請を受けて書かれている。そして本作は、もう一度三浦綾子自身の半生をなぞる形になった。『銃口』のストーリーを読むと、改めて三浦綾子の代表的な作品や、自伝と似た箇所が随所に表れていることに気付かされる。
例えば、主人公・竜太が復員後、許嫁との結婚に踏み切る。その際に牧師が「健やかなる時も、病める時も、汝妻を愛するか、また夫を愛するか」という誓約について説明し、人が正しい愛を保ち続けることがいかに困難であるか訴え、愛の本源である神に祈り求める必要性を説く。本作では竜太が結婚を目前にして治安維持法違反容疑で勾留、そして兵役招集など通過しながら自信を喪失していく。そして鬱々とした気持ちを抱えて、許嫁である芳子に、自分は夫として相応しくないと訴えるのだが、芳子は一貫して竜太を支え、励まして立ち直らせていく。他の三浦作品で文字通り『病める時も』という題名のものもあり、この「愛し続けることの難しさ」は三浦綾子文学の大きなテーマの一つである。
また注目したいのが後半、竜太の戦友だった近藤上等兵という人物が、トラックを運転している際に空襲に会い、助手席の同僚をかばって戦死する。復員後にその話を聞いた竜太は、これまでの鬱々とした思いを振り払い、教壇に戻り、またキリスト教を学ぶという決意を同時にしていく。教壇に戻るのは、近藤上等兵のような人の生き様を後世に伝えていくため、キリスト教を学ぶのは、今のままの自分では、近藤上等兵のような自己犠牲の生き方をすることができないと悟ったためである。とっさの自己犠牲による死、これは『氷点』『塩狩峠』などで繰り返し表れてくる、これも大きなテーマである。
三浦綾子氏は戦後、教壇を降りて文学創作へと進み、本作の主人公・北森竜太は戦後数年して教壇へ戻った。形の違いはあるが、両者はともに、愛することの難しさと神の必要性を悟り、キリストの愛を後世に伝えるために、教職あるいは文学の道へ進むという決断をした。北森竜太のストーリーは文字通り、典型的な、もう一つの三浦綾子ストーリーである。
しかしそのストーリー全体が、「銃口」という題名のもと、戦争時の国家による言論弾圧などを描きながら、反戦をベースとして書かれていることに、限界性を見て取ることもできる。
ある批評家は、「銃口」は国家弾圧の象徴であり、三浦綾子は最後に共産主義と同じ反体制的社会変革のメッセージに到達したと言っているが、これは読み込みすぎであり、罪の問題を強調する、その罪の一形態として戦争や弾圧の問題を描いているというのが妥当な線であろう。
いわゆる今の若い世代が、三浦綾子作品に対する評価として、「暗すぎる」「罪ばかり描きすぎる」という意見を持っているそうである。罪を強調するのは、三浦綾子の所属するプロテスタント派の特徴でもある。もっと希望的な、理想となる内容を描いた上で、ポジティブに、今よりもっと幸福になれる道があるのだ、と訴えかけるべきではないのか。
今、日本が陥っている閉塞的状況は、戦後の荒廃から欧米へのキャッチアップを果たすという、それなりの目標を果たした後の虚脱感、すなわち「五月病」のようなものに例えることができる。それなりの満足感と共に向上心を失った人々に対して、過剰に罪の問題を訴えることに、説得性があるとは思われないのだ。三浦作品についてはこれまで様々に肯定的評価をしてきた通りであるが、ややネガティブなアプローチという点で、画竜点睛に欠けるというのが、本稿の意見である。
蛇足ながら、『銃口』の題名は、綾子氏が宮本百合子を愛読しており、その小説『伸子』の中に出てくる、戦場跡に残された銃口の話から付けられていることを、綾子氏自身が述懐されている。
 
「銃口」 2

 

昭和10年代から20年へかけての北海道が主な舞台です。小学生の北森竜太は坂部久哉先生と出会い、自分も教師を志すようになり、実際に教師になります。しかし、戦争へと突入するなかで言論統制が敷かれ、「綴り方」授業も封殺されていきます。北森も勾留され、退職させられ、そして召集されます。教師を目指す人には本書はよいかと思われます。短大の講義(教職課程)でも紹介しました。教育をあきらめきれない自分に改めて気付かされました。それから、一角の人物との出会いの大切さにも改めて気付かされました。子どもにとってのその一角の人物には、教師が含まれうるのです。
「みんな、この坂部先生が怒る時はな、たとえばここに足の悪い友だちがいるとする。その友だちの歩き真似をして、からかったり、いじめたりした時は、猛烈に怒る。体が弱くて体操ができない子や、どうしても勉強ができない子を見くだしたりした時は、絶対許さない。また、家が貧乏で、大変な友だちをいじめたりしてみろ、先生はぶんなぐるぞ。只ではおかん」
坂部先生は本当に恐ろしい顔をした。
「ま、そんな生徒は、この組にはいないと思うが、念のために言っておく。宿題を忘れるより、零点を取るより、ずっと悪いのは弱い者いじめだ。よく覚えておけ。先生も気をつける」
みんなは大きくうなずいた。〔略〕
四年生の第一日はこうして始まった。
この坂部先生との出会いが、竜太の一生を大きく左右することになろうとは、むろん竜太は知る筈もなかった。
(坂部先生って、すごい!)
どうしてこんなにあたたかいのか、竜太は泣きたくなっていた。竜太には不思議だった。芳子はついこの間転校して来たばかりなのだ。それなのに坂部先生は、芳子が五時前に起きること、ご飯を炊いたり、病気の父親の面倒を見たりして、それから納豆を売りに出ること、それをちゃんと知っているのだ。
「な、みんな、学校に遅れるということでさえ、一概にいいとか悪いとか簡単には決められない。遅れて悪いのは、途中で道草したり、わざと朝寝坊したりした時だな。芳子が時々遅れるのは父さんの病気が治るまでだ。みんなわかったな」
「はーい」
竜太はやはり学校の先生になろうと思った。
番頭の良吉が、店が終って、銚子を傾けながら、
「あの納豆売りの芳子ちゃんね、貧乏人の娘だが、頭はいいね。賢い子だね」
とほめた。竜太は何となくうれしかった。ところが父の政太郎が言った。
「お前たち、今の番頭さんの言ったこと、何とも思わなかったかい」
いつもの声だった。が、どこか強い声だった。みんなは顔を見合わせた。〔略〕
「いいか、番頭さんはこう言ったんだよ。あの芳子ちゃん、家は貧乏だが頭はいいねとね。どっかおかしいと思わないかい。人はこういうかい? あいつは金持の家の息子だが頭がいいねとね」
「ああそうか」
竜太はやっと得心した。「あいつは金持だが頭はいい」とは人々は言わない。が、「あいつは貧乏な家の子だが頭はいい」というかも知れない。自分だってそう思ってきた。「あいつは貧乏だが勉強はできる」。それが普通の考え方だった。貧乏と、頭はいいという言葉はつながらなくて、貧乏と頭の悪いことが、密接な関係のように思ってしまう。一体どうしてだろうと、竜太は思った。貧乏人は何もかも劣っていると、勝手に思いこんでいる。だから、「あの子は貧乏だが頭はいい」という言葉が、少しも気にならなかったのだ。
「先生はな、竜太、自分の生徒たち五十人に、教科書を教えていればいいなんて、思えなくなっているんだ。芳子が納豆を売っていた時、先生は辛かったぞ。先生は何のために生徒を教えるか。自分の足でひとり立ちして、がっちりと歩いて行ける人間を育てるんだって、そうは思うけど、丸沢のように、突然おやじが逃げて行ったとか、いろいろ生徒たちが辛い目に遇うのを見ると……考えるんだよ先生も」
坂部先生はまた竜太の傍の椅子に坐って、
「竜太、竜太にはこの社会全体を幸せにする道を選んで欲しいんだな。何も金持にならんでもいい。有名にならんでもいい。誠実に、一人の男になって、社会に影響を及ぼして欲しいんだ。教師の道より、もっとお前に合う道がお前にあるかも知れない」
竜太は坂部先生を見た。先生は自分を信頼して、対等に話してくれているのがよくわかった。
「まあ、将来の道を決めるのに、六年生では少し早いかも知れん。今は一応中学に進んで、二、三年勉強してみて、それでもなお教師の道を選びたいのなら、そこで師範の二部に入っても遅くはない」
坂部先生は、竜太が教師になるより、もっとちがう道を選んで欲しいと思っているようであった。
「な、みんな、人はいろいろなものを拝んでいる。人間として何を拝むべきか、これは大変な問題だ。しかしな、人が信じているものをやめれとか、信じたくないものを無理に信じれとは、決して言ってはならんのだ」
「好きな人の思い出を、忘れられないままに結婚してもいいのかしら?」
「そうだなあ……美千代、ぼくたちは人間なんだよ。誰だって、過去に愛した人の思い出が、全くないとは言えないじゃないか。そんなことは飲みこんで、みんな結婚してるんじゃないか。結婚ってねえ、どこか、裏切りを伴っているところがあると、先生は思うんだよ。誰にでもねえ」
「日本はどこにいくんかなあ。矢内原教授は、北森先生、講演会でね、『日本は理想を失った。こういう日本は一度葬って下さい。再び新しい国として生まれ変わってくるために』と言ったんだとさ。こりゃあ愛国心だよね。戦争をおっぱじめるだけが、愛国心じゃないんだ。みんなそれぞれの考え方の中で、国を思ってるんだよ。燃えるような思いでね。自分の生まれ育った国を、愛さない人間がいるもんか。おれは泣きたくなるよ」
「校長は勤めて二年目に、運動会のお弁当は、全校生徒一人残らずおにぎりと決めたんですって。そしてそのおにぎりを、みんな教室に集まって食べることにしたんですって」
「どうしてだろう」
竜太は、もしかしたら校長が全校生徒の綴り方をいちいち念を入れて読むことと、何か関わりがあるのかと感じながら言った。
「それはね、さっきも言ったように、その校長は全校生徒の名前を全部覚えていた、しかも一人一人の家の経済状態も、ずいぶんと詳しく知っていた」
「なるほど」
「その時の職員会議では、先生たちは大反対をしたんですって。生徒の年に一度の楽しみを奪うのですかって」
「したら?」
「校長が、君たち寿司の用意をするために、前の日に質屋に金を借りに行く親たちのいることを知ってるかって、教師たちに言ったんですって」
竜太は黙ってうなずいた。竜太の家は質屋だ。そういえば、運動会の頃になると、羽織などを風呂敷に包んで、おどおどと金を借りに来る貧しい家の者たちのことを、父の政太郎から聞いたことがある。政太郎は、
「可哀相になあ。明日の運動会の用意だな」
と言っていたこともある。質屋の息子の自分が忘れていたことを、その校長は決して忘れてはいなかった。芳子が言葉をつづけた。
「そしてねえ竜太さん、校長はこうも言ったんですって。弁当の時間になって、生徒たちが喜んで親と一緒にお寿司をつまんでいる時、たった一人で、校舎の陰でにぎり飯を淋しく食べている生徒のいることを、君たちは知っているのか。たった一人の生徒にでも、そんな淋しい思いをさせてはならない。たった一人の親でも、悲しませてはならない。それがおれの教育だって、校長は泣いたんですって……」
芳子の声もうるんだ。子供の運動会だからといっても、日雇で一日何がしかの金で働いている親は、その仕事を休むことができないのだ。校長の涙に誰一人反対意見を述べる者はなかったという。以来数年、啓成小学校では、一番貧しい子供に合わせてものごとを考える傾向にあるということだった。
「しかし歴史というのは、教師たちがしっかりと踏まえていて、また変るかも知れない歴史教育というものを、それぞれの腹の中で、しっかりとつかんでおく必要があると、わたしは思う。生徒たちが大きくなった時、自分が小さい時に何を習ったか、はっきりと覚えておいて欲しいとわたしは思うんです」
木下先生が言った。
「今日のわたしの話は以上で終りますが、わたしの授業は平凡です。只、わたしは一人一人の生徒が、なんとか力をつけてくれるようにという思いだけは持っているんです。その思いが授業に表れているかどうか、大事なのはそのことです。教師が生徒をかわいく思っているか、生徒が先生に心をひらいてなついているか、結局教育はそういうことではないでしょうか。生徒はみんな、誰かが腹を痛めて生んだ子です。こんなにかわいい子はいないと思って、育てている子です。その親の心になって育てることはできなくても、その親の気持を察する教師になりたいのです」
「竜太さん、わたし今度、一年生を受持つのよ」
弾んだ声だった。芳子は小さい子が好きだ。芳子は言った。
「小さい子供って、まだ言葉の数をたくさんは知らないでしょう? 自分の気持を表現することが、上手じゃないでしょう? だから、すぐに泣いたり怒ったりすることがあるけど、教師はちゃんと察してやらなければならないと思うの」
弾んだ声のままに芳子は言っていた。
(芳子さんも、大したもんだ。木下先生と同じように、察する、という言葉を使っている)
「曹長殿、戦陣訓には……」
「ああ、生きて虜囚の辱めを受けず、と書いてあるな。それは、捕虜にならずに死ねということだが、そう簡単には死ねまいな」
竜太はまじまじと山田曹長を見つめた。曹長は言葉を継いで、
「それにな、おれは捕虜になることをそれほど恥ずかしいことだとは思わない。戦うだけ戦って、生き残ったから捕えられただけだ」
「恥ずかしくないのでありますか」
「北森上等兵、おれはね、恥ということは、捕虜になることなどではないと思う。人間として自分に不誠実なこと、人に不誠実なこと、自分を裏切ること、人を裏切ること、強欲であること、特に自分を何か偉い者のように思うこと、まあそんなことぐらいかな」
「そうだ。北森の言うとおりだ。人間恩返しをしたと思ったら、途端に恩を忘れたことになる」
「あ、その言葉、自分の父も時々言う言葉です。恩を返したと思うことが最大の忘恩だと、父はよく言うんです」
「曹長殿、一発で何万人も殺す兵器など、どんな人間が考え出したのでしょうか」
「うん……どんなに科学が発達しても、それが大量殺人のために利用されるとはな。殺す数が多ければ多いほど、人間の堕落だな」
広島出身の山田曹長の言葉だけに、身に沁みた。
「ところで『愛』とは何でしょうか。愛は人間を幸せにする意志とも言われています。しかし私たち人間は、本来極めて小さな愛しか持っていない者であると言えないでしょうか。では、先程の誓約は何のためでしょう。人間はたやすくは愛し得ない者であるとの自覚を促すものである、と言えるのであります」
雷鳴はいつしか止み、雨の音も絶えた。竜太は横尾校長の言葉を今また思い返していた。竜太には更に人に言えない一つの痛みがあった。それは、山田曹長と下関駅の待合室で握り飯を食べていた時のことだった。二人の男の子が、いかにも物欲しげに、竜太たちの握り飯を見つめていた。それに気づいた山田曹長は、直ちに一つを分け与えたが、竜太はためらった。自分の都合を先に考えたのだ。惜しむ心が働いたのだ。ばかりか、握り飯を与えられた子が、「妹もいる」と言った時、本当に妹がいるのかという疑念がかすめた。嫌悪に似た感情が湧いた。山田曹長のように、妹思いのいい兄だとほめ、その妹に半分分けることを教えるなど、竜太にはできなかった。
このことを竜太は今日まで、幾度も思い出してきた。竜太は自分を、もっとあたたかい人間だと思ってきた。少なくとも、子供に握り飯を分けてやるのをためらうようなことが、自分にあろうなどとは想像したこともなかった。
(もしあの子たちが自分の教え子なら……)
思って竜太は愕然としたのだった。自分の教え子に対する優しさは、恵まれた環境にあっての優しさだ。竜太はそこに気づいた。坂部先生ならどうするか。竜太は自分を恥じた。その竜太の気持を知る筈もなく、竜太の教壇復帰を人々は願っていた。竜太は、自分には生徒を教える資格がないと、次第に本気で思うようになった。  
 
「生きること思うこと」

 

わたしは満十七にならぬうちに、小学校の教師になった。検定試験を受けたのだから、教授法も、児童心理学も一通り知っているはずであった。だが女学校四年を出ただけで、教生もしたことがなかったのだから、子供の扱い方など、皆目見当もつかない。授業の仕方もわからない。受け持たれた生徒こそ、とんだ迷惑である。〔略〕
ところで、わたしは女学校時代、音楽は乙だった。今でもわたしは、自分を音痴だと思っている。音痴の教師が、オルガンを弾かずに生徒たちに歌をうたわせた。これはゆゆしき罪である。むしろ音楽など教えないほうがよかった。それでもわたしは、月給三十五円なりをもらっており、生徒たちはわたしを先生と呼んだ。何が先生なものか!
「こわしたら弁償すればいいものではない。こわされたガラスと、弁償したガラスは決して同じものではない。そのガラスは君がこわさなければ、今後百年たっても、こわれずに済んだかも知れない。物といえども、その一つ一つに命があるのだ」
といった。そして、明日までに粘土で花びん〔ママ〕をつくるようにと宿題を出した。少年は一心こめて花びんをつくり、それを教育者のもとに持って行った。教育者はいった。
「君、この花瓶〔ママ〕をこわせるかね」
少年は、「いいえ」と答えた。
「では、わたしがこわしてもいいかね」
「いやです」
「どうして。これより立派な花瓶を弁償して上げるよ」
しかしわたしは、これら一連の愚かしい取り越し苦労の中に、人間のすべての苦労が、結局は、これに似たものではないかという一つの教訓を感ずるのである。
「いまより後のことは神の領分だ」
と言った人がいる。しかし人間はなんと神を無視していることだろう。神を信じていると言いながら、わたし自身、けっこう自分の知恵に依り頼んでいる。
宗教を持たないわたしにとっては、神もまた、宗教もまた、人間がよりよく生きるための人間の知恵、「自分の知恵」なのではないかと思われます。
「いいえ、いいんです。わたしさえじっとがまんをしていれば」
と、いうべきことも率直にいわず、いつも悲しげに生きるタイプ、これもまた一つの加害者タイプといえるのではないだろうか。
わたしは、天性、無頓着なので、人に着る物をあげることも、平気だったが、これは、言って見れば、石ころをあげるのと同じ気持ちである。三浦も着る物を人にあげるが、彼の場合は大事にしている物をあげるのである。彼のほうが、真の意味で、着る物に対して、自由と言えるような気がする。
着る物を大事にしながらも、それに執着しないということは、その人の全生活にかかわる問題であろう。〔略〕衣、食、住の現実的な目に見える生活の中で、勤勉に注意深く生きながらも、それらにけっして執着することなく、神のためには「すぐ網を捨ててイエスに従った」キリストの弟子のごとく、全生活を神にささげ得るという、自由な従順な生き方こそ、真にたいせつなのである。
もしほんとうにすべての人の恩を覚えているとしたら、わたしは三百六十五日、一日二十四時間を使って、お礼回りに歩いても回りきれないはずなのだ。そんな、ごく当然なことにも気づかずに、自分がさも恩を知っているようなつもりで暮らしてきたのだ。
「恩返しをしたと思うことが恩を忘れたことである」
というようなことを、パスカルは言っている。
〔略〕家を持っていない修道女がうらやましかった。この人たちは、与えられた仕事だけをしていればいい。うらやましいとさえ、わたしは思ったのだ。それは、修道女の生活は「この世からの逃避である」という誤解にもとづいたためであった。
ある時わたしは婦長に、はなはだぶしつけな、そして幼稚な質問をした。
「婦長さんは、この病院から月給をいただいているのですか」
彼女はさわやかに笑って、月給は出ているが、全部修道院にそっくりそのまま納められるのだと言った。
「じゃ、お小遣いは持っていないんですか」
わたしは驚いて聞いた。彼女は、金の必要はないと言った。〔略〕
「スーツを着たいと思いませんか」
「持っていたら、さぞ不自由でしょう」
この答えにわたしは驚嘆し、己れを恥じた。
「男性に心ひかれませんか」
「神が一番すばらしいと知ったら、人間はやはり最もすばらしいものに心ひかれるのが、自然ではないですか」
いつか川谷牧師が、説教のなかでこういわれたことがある。
「人と人との関わりは、弱い者が強い者に相談をする、頼む、依頼する、という形で出発することが多い」
わたしは自分が、何をこの人生において望んでいるか、もっときびしく自分に問いなおしてみる必要があると思った。もし自分の望んでいることが低ければ、人への親切も、低い次元でしか、なすことができない。〔略〕
わたしたちは、しばしば与えるべき時にこれを惜しみ、与えてはならぬ時に、自分をよいと思われたくて与えてしまう。与えるにも、与えないにも、自己本位にしかあり得ないとは何と情けないことであろう。なぜそうなのであろう。それはやはり、自分自身のしてほしいと望むことの低さにあるにちがいない。
K子は、級友のうちで一番成績が悪かった。字を一番憶えていなかった。しかし、どの級友よりも彼女は数多く、わたしに見舞状をくれた。自分の知っている限りの字を、かき集めるようにして書いた手紙をくれた。
彼女は、字を沢山は知らなかった。だが、
「人は何のために字を学ぶか」
ということだけは、知っていたと、わたしは思った。〔略〕
「信者は何のために聖書を学ぶか」
という問に、全生活で答えられるものを、自分は本当に持っているかと、K子によって考えさせられるのである。
大事にしながらもそれに執着しないとは、一体どういうことなのか、まだよくわかりません。これは、信仰がないとなしえないことなのでしょうか。その境地を想像してみたいです(まずは)。
 
 
■諸話

 

三浦綾子
三浦綾子「道ありき」の愛と希望
三浦綾子記念文学館 特別研究員の森下辰衛先生(元福岡女学院大学助教授)は、かつて女学生に、三浦綾子さんの自伝『道ありき』の感想文を書かせたことがある。すると、複数の学生が、「三浦綾子さんを導いた男性たちはなんて素晴らしい人たちなのだろう。綾子さんはなんて男運がいい人なのだろう。それに比べて、わたしはどうして男運が悪いのだろう、先生教えてください」と書いてきた。「綾子さんは本物でなければ受け入れない、という真剣な求め方をしていたからだ」というのが森下先生の答えだという。
三浦綾子、旧姓・堀田綾子は、大正11年(1922)、旭川市に生まれ、77年の生涯殆どを旭川市で過ごす。1年半ほど、歌志内(うたしない)という炭坑町で小学校の先生をした。16歳11か月で先生になった。ちょうど日中戦争が始まった頃であった。彼女は何の疑いもなく、「あなたたちはお国のために、天皇陛下のために戦争に行くのですよ」と子どもたちに教えた。しかし、昭和20年8月15日、敗戦の日を境に、軍国主義は間違っていた、と米軍に言われる。それまでの価値観を捨てさせられた堀田綾子は、私はもう子どもたちを教えることはできない、何も本当に信じることはできないと、敗戦翌年の3月、小学校の先生を辞める。やがて彼女は、二人の男性と同時に口約束で婚約する。結納を先に持ってきた方と結婚すればいいや、などとふざけたことを考えた。ところが、そのうちの一人が結納を持ってきた4月13日、突然彼女は高熱を発して倒れる。それが、その日から13年に及ぶ肺結核と脊椎カリエスが発病した日だった。当時、肺病は死の病だった。綾子さんは、自暴自棄になるが、三浦綾子さんの自伝小説『道ありき』(道があった)は、そんな自分にも、ずっと以前から、神様が道を用意してくださっていた、という内容になっている。「誰もが同じであるから、人生を投げ出してはならない」というのが、『道ありき』のメッセージなのだ。
最初の恋人、西中一郎さんは、婚約を解消しようと結納金を返しに来た綾子さんを責めたりしなかった。綾子さんがどんなに傷つき、どんな気持ちで婚約を解消しに来たか、痛いほど分かっていたからである。綾子さんはその晩、西中家に泊まるが、夜中、入水しようと家を抜け出し、海まで歩いた。しかし、水に入ったところで、後ろから来た人にガッと肩をつかまれる。それが西中さんだった。西中さんは綾子さんが出て行くのに気づき、これはまずいと思って、追いかけて来たのだ。その時に、綾子さんは言い訳を言った。「夜の海を見てみたかったの」と。西中さんは綾子さんを背負って砂山に登り、「海ならここからでも見えるよ」と言って、一緒に砂山に腰を下ろしてくれた。海など真っ暗で見えない。翌朝、斜里の駅で、西中さんはまた会う人のように、手を振って何も言わずに別れてくれた。しかし、彼の頬には、涙の跡があった。
西中さんは、ある意味、放蕩息子の母親のような存在だと、森下先生は言う。その気持ちが全部分かっていて、全部赦して、全部認めて、全部与えて送り出す。「真っ暗な海の中で、西中さんの背中に背負われた時、私の中から不意に死神が離れて行ったような気がした」と綾子さんは『道ありき』の中で書いている。西中さんの愛を通して、神の愛の一つの姿がはっきりと現われている。それは、赦して、送り出して行く、すべてをそのままで受け止めて行く。「わたしは、死にたいと思うあなたを、真っ暗な海の中で背負うことができるのだ」という神からのメッセージがそこにはある。(西中さんは毎晩祈る人だったという。クリスチャンかもしれない。)
自殺未遂の後、旭川に帰った綾子さんを待っていたのは、クリスチャンの前川正さんである。前川さん自身も肺結核で、北大医学部を休学中であり、先は長くはなかったが、幼馴染の堀田綾子を救おうと決めていた。もっとまじめに療養してください、自分を大切にしてください、と前川さんは綾子さんにお願いする。ところが綾子さんは、「まじめってどういうこと?私は戦争中、まじめに生きていた。その結果が、傷ついただけじゃないの」と言って、結核なのに酒・たばこをするという不真面目な療養態度だった。そのとき前川さんは、小石を拾い上げると、自分の足を続けざまに打った。綾子さんを救う力のない自分を罰していたのだった。さすがの綾子さんもそれを見て、「この丘の上で、わが身を打ち続けた前川正の私への愛だけは信じなければならない」と思ったという。「この丘の上で、わが身を打ち続けた私への愛」これは大切な表現である。前川さんの背後には、ゴルゴタの丘の上でわが身を打ち続けたキリストの愛があったのだ。そして、前川さんがくれた聖書をむさぼるように読み始めたのだった。
前川さんの愛は、ある意味で、父親的な愛だったと思う、と森下先生は言う。そのままで受け入れるのではなくて、あるべき姿において愛して行くというのだ。子があるべき姿になるためには、自分の体を投げ出すような愛なのだ。綾子さんは1952年7月5日、札幌医大病院のギプスベッドで洗礼を受けた。その後、2年たたないうちに、前川さんは肺結核の手術が失敗して亡くなる。そして現われるのが、外見が前川さんにそっくりな、三浦光世さんであった。
これら男性の共通点は、イエス様のような愛で綾子さんを愛したことであった。その愛によって、綾子さんに正しく接し、彼女は救われたのだった。  
結婚の祝辞
キリストへの信仰を強め、人への愛を育てるのは、天にある希望である。私たちは、神の祝福を望む希望がいつでも必要である。
 学校を選ぶとき、希望がいる。
 仕事を決めるときも、素晴らしい将来があるという希望が必要である。
 結婚する時、幸せになるという希望が必要である。
 子供が与えられた時、神に祝される子となる希望が必要となる。
 この世を去るときも、天にある祝福への希望である。
幸せな結婚とは何か。あまりに多くの人が、二人の幸福だけを求めて結婚する。しかし、二人の幸福以上に求めるべきものがある。それは、使命に生きることなのだ。
使命に生きるクリスチャンの結婚は、武士道に似ていると内村鑑三は言う。武士の家においては、結婚は第一に君主の為であった。第二が家のため、そして第三が当人の為なのだ。まるで個人の権利を無視しているように聞こえるが、君主に仕えるという尊い使命のために、固い夫婦の絆があった。クリスチャンの結婚も、まず神の為にある。まず、「神の国と神の義を求める」ために結婚がある。神の正しい報い、祝福が人々に及ぶことを求める時、必要なものは「みな加えて与えられる」(マタイ6・33)と主イエスは約束された。
だから、シューラー牧師は、神学生の頃、ある教授から結婚についてこう助言された。"Start with your head and your heart will follow."「理知(理性と知恵)を優先させなさい。そうすれば感情はついてくるものです」と。そしてシューラーは、良い牧師になるための助け手となる女性を示してくださいと祈り始めた。すると、 同じ信仰を持ち、伝道活動を喜んで助けてくれ、心、魂、外観も自分にとって魅力的な女性が生涯の伴侶として与えられたのだった。神の国と義を求めた時、真の愛が生まれ、結婚も幸福となるからだ。
真の愛とは相手が生きるように配慮すること、相手の素晴らしい面を引き出してあげることである。1ヨハネ4・9に「神はそのひとり子を世につかわし、…わたしたちを生きるようにして下さった。それによって、…神の愛が明らかにされたのである。」とあるとおりである。幸せな夫婦とは、「最高の相手」と結婚した人のことではなく、自分の中に眠っている宝を引き出すことのできる人と結婚した人のことなのだ。
三浦綾子さんは小説家となる前、三浦商店という雑貨屋を経営していた。ところが、近くに競合店ができ、売り上げを伸ばすために酒を販売したらよいと、綾子さんの兄弟たちは勧める。綾子さんは、何度かご主人、三浦光世さんの許可を得ようとするが、「駄目だね」と光世さんはきっぱりと言われる。「売る必要はない。もちろん聖書にも、絶対に酒を飲むなと書いてあるわけではない…しかし、綾子が酒を売ることはないんだ」三浦綾子自身も、父親が酒乱であったこともあり、酒は嫌いであった。少女時代から酒飲みの男とは決して結婚すまいと思っていた。「その自分が、たとえ父母の家を建てたいにせよ、酒を売ることに心を動かしたとは、何ということだろう」と、綾子さんは当時のことを反省している。「綾子、お前には酒を売る以外に仕事がないのか。もし綾子が酒を売らないなら、すべてはいいことになるよ」と言う光世さんに対し、綾子さんが、「それじゃ、小説家になれる?」と尋ねた。「なれるとも」と光世さんは確信に満ちて言った。当時の光世さんの日記に、次のような言葉がある。「綾子、何も売れなくてもよい。神をのみ第一義とせよ」と。
間も無く、三浦夫妻の結婚式をした旭川六条教会の中嶋先生から、教会の月報に小説を書いてほしいと言われたことがきっかけで、綾子さんは小説を書き始める。そして、昭和三十九年、『氷点』が懸賞小説に入選、クリスチャン小説家の道が開けたのだった。綾子さんはいつもご主人を頭とし、従っていた。光世さんも綾子さんの最善を願い、神のために賜物を引き出したのだった。このように神に仕える三浦夫妻は、誰からも仲の良い夫婦と言われていた。  
災害を災難ではなく、試練と受け止める
東日本大震災以降、三浦綾子の著書は多いものでそれまでの4倍も増刷され、より多くの人に読まれるようになり、再び注目されている。苦難に立ち向かう時にこそ読んで欲しいと、三浦綾子読書会では綾子さんの作品を被災地へ届ける活動をしている。結核で13年間の療養生活を送り、闘病中に洗礼を受けた綾子さんだからこそ、人の苦難を良く知っており、その作品は「苦難に立ち向かう希望の文学」となっている。『泥流地帯』(大正十五年に十勝岳が噴火し、貧しくも誠実に生きて来た家族が被災する―死者・行方不明者144名)は、綾子さんが何度も現地に取材に行き、事実関係を調査し、実話に基づいた小説となっている。その中で綾子さんは登場人物にこう言わせている。
「苦難に会った時にそれを災難だと思って歎(なげ)くか
 試練だと思って奮い立つかその受け止め方が大事なのではないでしょうか」と。
東日本大震災で被災した人たちにとって、生きる希望を与える作品を綾子さんは遺している。そして、クリスチャン医師の日野原重明先生は、『3・11後を生きる「いのち」の使命』(日本キリスト教団出版局)の中で以下のように記しておられる。
いのちの使命 
今回の震災では生きること、死ぬことがはっきり二分されてしまいました。残された人と死んだ人と、二つに別れた事実に対してそれをどう解釈するか、そのことを私なりに考えてきました。特に生き残った人、そのことを負い目として感じている人に伝えたいのです。あなたの人生には(生き残った者としての)使命がありますよ、と。
キリスト教の信仰では、すべてのいのちは神様がお造りになったと考えます。すべてのいのちは自分のものではない、与えられたものなのです。だから、与えられたものとして大切に生きていかなければならないのです。もちろんそれは、…今回のように震災で、また病気で、交通事故で、人のいのちが突然奪われることがあります。
しかしだからと言って、いのちに意味や使命などないのだ、人のいのちは陽炎(かげろう)のようにはかないのだと思い違いをしてはいけないと思うのです。むしろいのちが突然失われることがあるからこそ、生き残った人には亡くなった人のいのちと人生に意味を見つけ、自分に与えられたいのち、残されたいのちを十分に生ききる使命があると思うのです。
残された者がそういう意志をもって生きる、復興への努力を重ねる、そのことがまた、亡くなった人のいのちを意味あるものにするのではないかと思います。「一粒の麦」(ヨハネ12・24)とはまさにそのことです。麦の種は土に落ちて一旦は死んだように見えますが、そこから新しい芽が出てきて実を結びます。もし私たち生き残った者がこのことを信じて、亡くなった者のいのちと人生が一粒の麦であり、意味のあるものだったということを信じて、残された者としての使命に生きるなら、それによって死んでいった者のいのちは贖われるのではないでしょうか。いのちが贖われるとは、死んでいった者のいのちに意味が与えられるということです。  
「出て来なさい」が三浦文学のテーマ
三浦綾子の小説『氷点』の主人公・陽子という名は、綾子さんの実の妹の名である。妹・陽子は綾子さんが13歳のときに病死している(享年6歳)。綾子さんは近所の暗がりに行って、「幽霊でもいいから会いたい。陽子ちゃん、 幽霊でもいいから、出ておいでよ」と言うほど、妹の死を悲しんだという。そして、この「出ておいでよ」が三浦文学のテーマでもあると、三浦綾子記念文学館特別研究員の森下辰衛氏は言う。森下先生は、綾子さんが担任だったという教え子に会ったことがある。この男性は当時、登校拒否になると、綾子先生は大福餅を自宅まで持ってきてくれて、「坊ちゃん、学校に出ておいで〜」と優しく声をかけてくれたという。そして文学作品の中にも、恐れずに出ていらっしゃい、と登場人物に言わせる場面(『銃口』)がある。イエス様が、悲しみの涙を流した後に、墓に葬られたラザロに向かって「出てきなさい」と言われるとラザロは死から蘇った。この場面を読んだとき、「出てきなさい」と言ってきた綾子さんは、イエス様が大好きになったのではないか、と森下先生は言う。
この世的な恐れに縛られ、自由に賜物を発揮できない人たちに、イエス様は、その殻から出てきなさいと言われる。そして、十字架のあがないによって私たちに神の子としての復活の力を与えてくださるのだ。人々は神の子としての自尊心を回復し、賜物が用いられ、人を助けられるようになる。
榮 義之『輝き・可能性への変身』(グッドワーク研究所)の中に、人が神から与えられた素晴らしさを見出し、発揮するために、「鏡を使う技術」が記されている。  
医者が、この患者の病気は必ず治ると期待すると、回復が早くなる、心理学者の話では、こうしたことは現実に起こることだということです。私たちが自信を持ち、熱意を持って生きるためには、自分自身に対する期待を持たなければなりません。
ここでちょっとした秘訣をお教えします。それは鏡を使う技術です。鏡は、朝ひげを剃り、化粧をする道具だけにしておくのはもったいない秘密兵器です。鏡を使う時、そこに映っている自分に向かって期待のことばをかけるのです。「おまえはすばらしい男だ。ハンサムで上品な紳士だ。今日もおまえに期待している人がたくさんいるのだ。さあ勇気を出して、熱意に燃えた心と態度で出かけよう」。何でもいいんです。自分に期待のことばをかけることです。あなたが女性なら「私は美しい。ほほえみと笑顔は私のモットーです。やさしいことばはわたしの信条です。今日も私は素敵に輝いています」と、期待のことばをいっぱい語りかけて下さい。
また、鏡を使う時、自分の目をしっかり見る習慣をつけることです、目は心の窓で、あなたが心で考えていることを外に現します。あなたの値打を決める正札(しょうふだ)は目なのです。(マタイ6・22〜23「(22)体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、(23)濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」)この鏡の技術で、あなたの目をチャーミングにし、生き生きとした目にして下さい。鏡を用いると、あなたの目は何ものをも貫いて、すべてのものを奥まで見通すような深い目になります。相手の人は、自分の魂の底まで見透かされるのではないか、というような気持になるものです。
そうして、いつの間にかあなたの目には強い迫力がこもり、「期待しているよ」と言う一言も、より自信に満ちたものとなります。さあ、今日から鏡をもっと活用して下さい。
あなた自身に期待しましょう。そうすれば、あなたはいきいきと生きることができます。どんな偏見にも打ち勝つことができます。あなたが人の気持を明るくさせ、親切で熱心で、楽天的な人でしたら、きっと多くの人の心を喜びで満たし、偉大な人生を生きることができます。期待して、自分の心を毎日広い愛で満たして下さい。あなた自身に期待しましょう。そうすれば人を許すことが易しくなるでしょう。許すことは人生を豊かにします。自分に期待する人は、他の人にも寛大です。仏の顔も二度、三度というような有限の許しではなく、七度を七十倍するほどの無限の許しを体験して下さい。あなたが誰かを無条件で愛するなら、同じように愛してもらえるでしょう。  
死ぬという大切な仕事―三浦綾子・光世夫妻
「わたしにはまだ死ぬという仕事がある」と、以前にはよく妻(綾子・1999年召天)が言っていた。意識を失う幾日も前から、綾子は自分の死にざまも用いられるように、祈りに祈っていたのであろう。綾子はそれほど大きな仕事をしたとは思わないが、幾度もの病苦を忍び抜いて、読んでくださる人の幸せをひたすら祈りつつ、著作を続けたことは事実である。今後とも、綾子の本を読んでくださる方が、絶望から希望へ生きることができ、自殺など思いとどまってくださるなら、なんと幸いなことであろう。
「死ぬという大切な仕事」を成し遂げたと言えば、イエス・キリストに較べうる者は人類史上一人もいない(「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」ヨハネ3・16)。愛なる神は人間を罪から購おうとして、キリストをこの世に遣わした。購うとは「買い取る」ことと聞いている。買い取る以上代価がいる。その代価が、神のひとり子というわけである。ヨハネによる福音書の冒頭に、その次第が書かれている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。…この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(1章1〜4節、口語訳)「初めに言あり」の言はギリシャ語のロゴスで、もともと「宇宙に内在する神秘的原理」を指したものだという。つまり、私たちが口から出す、いわゆる人間の言葉そのものを指しているのではない。神の知恵を指しているのである。ロゴスを「言」と訳すまでには、真理、力、知恵、叡(えい)知(ち)などなどの訳語が候補に上ったという。問題はこの「言」が、神からきた救い主イエス・キリストであるということだ。十字架刑にキリストがかけられたのは、人類の罪のゆえであり、本来人間が受けるべきところを、キリストが代わって受けてくださった。十字架の重荷を背負われたのが、キリストの大いなる仕事であった。
人間は死後どうなるか。聖書の随所に復活について書かれている。この復活について思い出すことがある。赤ん坊で死んだなら、赤ん坊の状態でよみがえるのか、老人は老人の状態で復活するのかという、疑問をかつて読んだことがある。もう一つの考えとして、人間の最も盛んな状態で復活するという説も、何かで読んだことがある。今思うと、二つとも、現存する地上の命から、どうしても離れえない推論のような気もする(マタイ 22・30「 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」)。いずれにせよ、私たちの想像をはるかに超えた時間と空間が、未来に備えられているのは確かであり、それだけに、この貴重な人生を畏れをもって生きなければならないということであろう。
綾子が死んで、いま、どこにどうしているのか、さだかではないとしても、再会の望みをいつも確認していてよいのであろう。むろん、この世における妻としての存在を、そのままひきずるということではなく、もっと確かな存在としてである。そのためには、やはりこの世における生き方が問われるはずである。そして所詮、赦されなければどうしようもない人間であることに思いは至る。帰するところは、やはりキリストの十字架を仰ぐ以外にはない。
2000年5月2日      三浦光世
三浦光世『死ぬという大切な仕事』(光文社)より抜粋・要約
病気の問屋と言われた三浦綾子さんの人生も、神の愛を分け与えるために用いられた。その神にお委ねして、平安のうちに天に凱旋された綾子さんである。その生死に向かう姿勢によって綾子さんは、「神の愛を証する」という仕事を成し立派に遂げた。
星野富弘さんの詩「木の葉」がそんな生き方を表わしている。
  木の葉  
  木にあるときは枝にゆだね
  枝を離れれば風にまかせ
  地に落ちれば土と眠る
  神様にゆだねた人生なら
  木の葉のように一番美しくなって散れるだろう  
「清めの水と贖いの血」
1. ホームランは、神さまからの祝福
「あのホームランは神さまからの祝福です。神が打たせてくださいました」(“It was a blessing from God. He made it happen.”)とラミレスはインタビューに答えました。2008年10月、日本シリーズ進出を決めた読売ジャイアンツの四番打者、ラミレス(ベネズエラ出身)はクリスチャンなのです。また、時速161kmの速球を投げる抑えの投手クルーンは、試合に勝った瞬間、必ず天を指差します。これは、米国人クリスチャンが神さまにご栄光を帰するときにするサインであり、彼もクリスチャンのようです。神さまにご栄光を帰するのは、十字架の贖いによってのみ、神さまの祝福が与えられるからです。
2.聖書から
その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。  ヨハネによる福音書19章38節
 ユダヤ人議員ヨセフとニコデモは、共に最高法院の議員でしたが、議会でイエス様のことが審議されていたとき、恐怖心から弟子であることを隠していました。ところが二人は十字架上でのイエスの壮絶な死を見て、ヨセフは死体の処理をローマ政府に申し出て、ニコデモは、立派な贈り物を持って来ました。二人は、イエス様が人の罪を背負ったことで、自分たちにも救いが訪れることを知り、自ら命を掛けて最上のものをイエス様に献げたのです。イエス様の十字架は、臆病者を勇気ある者に変えました。
3. 三浦綾子記念文学館館長・三浦光世
三浦文学の一貫したテーマは、罪、赦し、愛といったキリスト教的なもので、いかに生きるべきかを読者に問いかけています。綾子さんが朝日新聞1千万円懸賞小説に当選し作家になると、光世さんは勤め先の営林局を辞め、体の弱い綾子さんのために、作品の殆どを口述筆記するようになります。三浦夫妻は、書くことは神さまからの使命であると受け止め、苦難の中にいる人のために、「必要な言葉が与えられ、読んでくださる方が力づけられる表現、言葉を与えてください。神の愛を小説の中で表わすことができるように」と祈ってから作品を書きました。そんな二人の出会いにはこんなエピソードがあります。
綾子さんが結核で倒れ、13年間に及ぶ療養生活を送っていたとき、光世さんは、共に投稿していた結核患者の同人誌の編集長から、名前から女性と間違えられ、見舞いを頼まれました。脊椎カリエスと肺結核で寝ていた綾子さんを見て、光世さんは「これは治るのだろうか」と思いました。
一回目の見舞いで、聖書を読んでくれませんか、と言われ、いつ治るか分からない重病人に、光世さんはヨハネ14章の「天国には住むところがたくさんある」という箇所を読みました。天国への希望を持って欲しいと思ったのだといいます。次の見舞いのときは、讃美歌を歌ってほしいと言われ、「主よみもとに近づかん」という、葬式でよく歌われる讃美歌を歌いました。そのことについて、結婚してから、綾子さんは光世さんに言いました。「初めて会ったとき、光世さんって変わった人ねえ、と思ったのよ」と。
三度目の見舞いでは、「わたしのためにお祈りしてください」と言われ、「全能の父なる神さま、この堀田綾子さんをどうぞ、御心にかなうならば、おいやしください」と光世さんは祈りました。そして、最後に、「もし、私の命が必要でありましたら、差し上げてもよろしゅうございます」と付け加えました。特効薬のお陰で結核が治った光世さんは、いつ死んでもいい、と本当に思ったのです。自分の命を引き換えにしてでも、治してほしい、という祈りに綾子さんは感動します。出会って四年目の正月、「来年もまた、元旦に来てくださいますでしょうか」と綾子さんが尋ねると、「いいえ、来年は…二人でお父さん、お母さんに、新年の挨拶に来ることにいたしましょう」と光世さんは答えました。それが光世さんのプロポーズでした。
魂が救われ、結核も癒された光世さんは、命を掛けて綾子さんの回復を祈り、生涯を神さまと三浦文学に献げたのです。
4.結び
十字架上でイエス様は、心臓が張り裂けるほど悲しまれました。そこに神さまの人への限りない愛があります。ヨセフとニコデモは、イエス様の、十字架上での壮絶な死を見て、キリストへの信仰を表明しました。イエス様によって救われた人は、命を掛けて最上のものをイエス様に献げるのです。 御翼2008年12月号その2より  
 
三浦綾子の文学

 

ご当地には北海道新聞社の北見支局のお招きを頂きまして一昨年の4月に、それから昨年の10月の母親大会にも参りました。本日は市民大学ということですが、既に私の講演をお聞き下さった方がおられましたら、同じようなお話になるかもしれませんので、予めお断り申し上げます。
先ずお礼を申し上げたいと思います。1998年に「三浦綾子記念文学館」を旭川市神楽の外国樹種見本林(1898年、旭川営林局によって造成された)の一角に建てて頂きました。全国から会員を募集いたしましところ、3,000人もの方が登録して下さいました。ご当地の皆様にも色々とご協力下さった方がおられると思いますが、この機会をかりてお礼を申し上げます。有り難う御座いました。
綾子のデビュー作はご存知のように『氷点』です。原作をお読みになったり、TVドラマ、映画をご覧になった方もおられると思います。1963年の1月元旦の夕食後、綾子と私は二人で綾子の両親の家に年始の挨拶に参りました。その時、彼女の母親が朝日新聞を見せ、「秀夫がね、ここを綾ちゃんに見せるようにと言って、出かけて行ったわよ」と言うのです。秀夫は綾子の10人兄弟の末弟です。
彼のその一言が綾子の創作活動に入る契機となり、彼女の運命を大きく変えることになりました。その記事は、朝日新聞大阪本社85周年(東京本社75周年)記念一千万円懸賞新聞小説募集の社告です。同紙に1年間連載、400字詰800枚から1,000枚の原稿を書いて出すようにということでした。応募資格はプロ、アマを問わず、締め切りは同年の12月31日です。当時の一千万円は今なら一億円にはなりますね。それを言いますと、当時より物価が20倍になっていますから二億円くらいでしょうと言われます。大変評判になった懸賞小説の募集でした。
綾子は言われるままに、その記事を読みましたが、「あら、私には無縁のことね。」と言って笑ったのです。その日は家に帰っていつものように床につきました。翌日、正月2日の朝になり、彼女は私に「光世さん。私夕べ、ひとつの小説の荒筋が出来たの。書いてもいい?」と言うのです。綾子は街でキャラメルひとつ食べたくなっても、伺いをたてるようないじらしいところがありました。小説を書くというめったにない機会ですから、私に相談したのだと思います。私はその時「多くの人の、幸せにつながることを書いたらいい。」と、普段は中々物事を決められない私が、何故かしら偉そうに、その時は即答しました。しかし、綾子が「私には無縁のことね。」と前の晩は笑っていたのに、一千万円の賞金と聞いて、頭にきたわけでは無いだろうが、不思議だなとは思いました。
綾子は直ちにどんな人物を出すか、職業はどうするかなど考え、「辻口啓造」という医師、彼の美しい妻「夏枝」、彼等の養女「陽子」、その他の登場人物を設定し始めました。舞台となる地は、旭川市神楽町の外国樹種見本林を想定し、全体の構想を考え始め、文体は小学校5年生なら読める程度の平易なものとしました。
執筆を開始したのは1月9日です。当時は雑貨屋を開業して1、2年経っておりました。綾子が書くのは夜です。床の中で腹這いになって、万年筆にインクをつけながら書いていたのを覚えております。午後10時、11時くらいから書き始めて12時、時には午前1時にもなっていたようです。私はその横でぐっすり眠っておりました。
タイトルの『氷点』は私の提案です。当時私は農林事務官として旭川営林局総務部経理課に勤務しておりました。綾子は先ずラストシーンを考え、ヒロイン「陽子」の遺書を書きました。その中に「私の心は凍えてしまった。」とのくだりがあった。それが頭にあって、1月12日の朝、通勤時のバスを待っている時、「氷点下」という言葉がある、心理描写にも使えるな、『氷点』という題はどうだろうかと、思い付きました。これを綾子は「あら素敵ね、それにするわ。」と喜んでくれました。綾子の古い随筆を見てみましたら「さすがは光世さんね。」と書いてくれています。そんなことで『氷点』という題に決った次第です。
その『氷点』を書いた家はとても寒かった。階下には貯炭式ストーブが部屋を暖めていたが、二階の寝室には火の気がありません。冬は軒下から冷たい隙間風が忍び込み、たちまち零下5度にもなり、インクが凍るような家なのです。凍ったインクをガチガチと万年筆のペン先で突き崩しながら綾子は書いていました。寒いのも当たり前かもしれません、私が職場から住宅資金として借りた、僅か50万円で建てた安普請の家なのです。まさに『氷点』を書くのに相応しく、すぐに氷点下になる、すこぶる寒い家で作品は生まれたのです。
8月頃でしたか、私は「綾子、この小説は入選するぞ」と言いました。実は、「神の御心に叶うものであれば、あの小説が用いられますように。」と祈っていたのです。その時、「求めたことは、もう叶えられたと思え。」というキリストの言葉が脳裡に閃き、「入選するのではないか。」と何か確信めいた予感がありました。こんなことを私が言うものですから、賞金一千万円がちらつき、私の方こそ頭にきたのではないかと綾子は心配したようです。
『氷点』の原稿は1963年12月30日には脱稿していたでしょうか。それを50枚宛にとじ、ダンボール箱に丁寧に重ね、ビニール袋に包み小包にしたのが大晦の午前2時です。少し休んで午前11時頃郵便局の本局に持って行きました。12月31日のスタンプがあれば有効ということでしたので、窓口の局員に「すみません、スタンプをはっきり押して下さい」とお願いをしました。するとその局員は「はい、分かりました。2回押しておきましよう」と言ってくれました。遂に矢は放たれたのです。
翌年1964年6月19日、朝日新聞紙上に第一次の発表がありました。731編の応募作から、佳作として選ばれた25編の中に『氷点』と三浦綾子の名前がありました。続いて6月30日、第二次の発表12篇があり、『氷点』と綾子の写真が新聞紙上に載りました。この時点で、彼女を含め何人かの有力入選候補者が絞られていたとのことです。
朝日新聞社は、第二次発表でリストアップされた入選候補者に対し、調べに歩いていたようです。綾子のところにも来ました。何を調べるかと言いますと、盗作ではないか、適当に他人のものを利用したでっちあげではないか、今までの文学歴はどうか、どんな文学修行をしたのか、同人誌に入っているかなどを調べるのです。雑談の中で、綾子はそれとなく尋ねられたようです。その時、私は職場に行っていておりませんでした。
この時の担当者は、朝日新聞東京本社学芸部の「門馬義久」というデスクでした。綾子は女学校時代から沢山の本を読んだ文学少女でしたが、申し上げるほどの文学歴は無いのです。小学校5年生の時、大学ノート1冊に『ほととぎす鳴く頃』という時代物の恋愛小説を書いたというし、女学校時代は作文好きだったそうですが、それは文学歴には入りません。『氷点』を書く2年前に「主婦の友」誌が公募した「婦人の書いた実話」で『太陽は再び没せず』と題する50枚の手記(のちに、自伝『道ありき』の土台になった)に応募し、入選いたしておりました。これは評価のポイントになったようです。門馬デスクは、間違いなく本人が書いたものだ、今後も期待出来るだろう、作品も良いと見てくれました。
しかしここで『氷点』のテーマに問題がありました。旧約聖書の創世期によると、神は最初の人間アダムと彼の妻イブに、「園にあるすべての木の実を取って食べても構わないが、善意を知る木からは、取って食べてはいけない。」と厳しく命じます。アダムが居ない時に、邪悪な蛇がイブに近寄り、「あの木の実は美味しそうだね。」と唆します。蛇は「私は食べなさいとは言っておりません。」と、後で言い訳が出来るよう、巧妙な言い方をします。イブは「これを食べたらきっと死ぬ。」とこたえます。蛇は「そんなことはない、この木の実を食べたら目が開けて、神のように善悪を知る者となることを、神はご承知なのです。」と言います。蛇の言葉に、イブは乗せられ、禁断の木の実をひとつ食べてしまうのです。そしてアダムにも食べさせました。これは許すことの出来ない、神への背信行為です。人間の祖先アダムとイブが神の命に背いて禁断の木の実を食べた結果、我々がみな生まれながら罪を負うことになりました。すなわち罪の元である「原罪」です。これが『氷点』のテーマであり、旧約聖書の思想なのです。
「主人持ちの文学」とか「護教文学」とかいう言葉があります。文学作品の中に、自分の思想とか信条を入れる文学ですが、それは文学として正道ではないと嫌う人がおります。そういう考え方を、もし門馬デスクが、持っていて、「まずいですな。」と言えば『氷点』は駄目だったのです。意外なことに、門馬氏は神学校出身者でした。当時、彼は朝日新聞社に勤めるかたわら、日曜日には鎌倉山教会というところで、牧師として奉仕もされておりました。門馬氏が牧師であったせいか、「アダムとイブの楽園追放」の話は誰でも知っているので、『氷点』は問題無いと判断して下さいました。もし担当者が別の人であったら、否定的な判断が下されたかもしれません。
1964年7月10日『氷点』が最終的に一位入選ということになり、賞金一千万円を頂きました。しかし国税地方税込みです。皆さん、税金はいくらだと思いますか。最近小学校5、6年生向けの講演の中でこのことを申しましたら、ある小学生は50万円と言いました。50万円なら良いのですが、税金は450万円でした。
ある講演に招かれまして、某教会の牧師さんと昼食を共にした時に、「先生、あの一千万円には実は国税に地方税も加算され450万円の税金がかかりました」と申し上げました。するとその牧師さんは「うーん」と唸り、「450万円ですか。それは酷税ですなあ。」と申されるのです。とてもジョークのお上手な先生でした。本当に酷税、重い税だったと思います。しかし差し引き550万円でもかなり大きい。危ないなと思いました。これを利殖にまわし、どんどん増やし、金の延べ棒でも買って、密かに悦に入ることも可能だったかもしれません。しかしこの賞金を元に金儲けの道に走っていたら、その後の綾子と私の人生は別のものになっていたと思います。
聖書には、「金銭を愛することは、すべての悪の根である。」と書いてあります。私と綾子は、「金銭欲は諸悪の根源」であると、戒めあいました。差し引き550万円、これでも大きな金です。下手をすれば人生を誤ると思いました。私は綾子に「お前の13年間に及ぶ結核療養生活の間にお父さんは多額の借金を背負ったと聞いている。先ずその返済を考えたらどうか。」そして「お前を暖かく見守ってくれた、教会や信仰の友の援助も忘れてはいけない。」と言いました。特に札幌北一条教会長老の「西村久蔵氏」(札幌西村洋菓子店創業者)は、「私を親戚だと思い、甘えなさい。」とまで言って下さって、生への希望を失いかけていた綾子を励まし、立ち直らせてくれたのです。「神から与えられたとしか言いようのないお金なのだから、この550万円は自分たちにではなく、今まで支えてくれた皆様のご厚意へのお返しに、幾分でも充て、人のために有効に使ったらどうか。」と私の考えを伝えました。
綾子は承知しましたが、ひとつだけ注文をつけました。「はい、分かりました。でも私、せめてテレビ1台は欲しいの。」と言うのです。テレビも無かったのです。それに対して私はいきなり「そんなものは買わなくていい。」と許さなかった。何故そんなことを言ったのか、横暴な亭主であったと思います。彼女はここで文句をつけても良かったのですね。「冗談ではないわよ、テレビ1台くらいどうだというの。私が苦心したのだから、各部屋に買うわ。」と言っても当然です。しかし綾子はそんなせりふを吐かなかった。それほど私に従順につき従っていました。
その後もテレビを買いませんでした。10年経った時に私たちが所属している旭川六条教会の会堂が新しくなりましたので、それを記念して、やっとテレビを買いました。皆さん恩赦という制度をご存知ですね。国家的に何か慶びごとがあれば、刑務所に10年入っている受刑者が7年とか8年ぐらいで出られるというものです。綾子は旭川六条教会が建ったお陰だと喜び「わあ、嬉しいわ。恩赦ね。」と言いました。一言多いといえばそんなところでした。
懸賞小説は新聞連載向けとして、一日分3枚半ということになっていましたが、『氷点』入選後、3枚半を3枚強にして、一年分全部を書き直してくれないかと言われ、綾子は快く引き受けました。これも一位入選に繋がったかと思います。「1,000枚もの小説を、全篇書き直すことは出来ません。」と断った入選候補者もおられたと聞いております。実のところ、字数は増やすよりも、減らすほうが難しいのです。ともあれ1964年12月9日から(翌年の11月14日まで)『氷点』の連載が始まったのです。
私は綾子の小説の場面について2回ほど注文をつけています。ひとつは『氷点』に、懸賞小説の時には無かった、1954年9月26日に北海道を襲った台風15号(通称洞爺丸台風)により、七重浜で座礁転覆した青函連絡船の「洞爺丸遭難事件」を組み込むことです。それは客船洞爺丸および貨物船4隻の遭難で、死者1,129名だったと異論もありますが、合計1,420人もの犠牲者を出した悲劇です。この事件は1912年北大西洋で氷山と激突沈没し、1,490人の犠牲者を出したタイタニック号に次ぐ海難事故でした。
書き直しながら、3ヶ月ほど経った頃でしょうか、私はふと、洞爺丸の遭難事件をこの小説の中に入れたらどうかなと思い綾子に話しました。この船にはアメリカから来ていた二人の宣教師が乗っており、二人とも自分の救命胴衣を日本人に譲って亡くなっていったのです。小説の本筋では無いが、その場面を登場人物に垣間見させたらどうかと思ったのです。綾子はそれを受け入れました。二人の宣教師はディーン・リーパーとアルフレッド・ストーンというお名前でしたが、『氷点』では名前を出さず一人のアメリカ人宣教師として登場します。
ディーン・リーパー宣教師のお嬢さんがアメリカから私たちの家に訪ねてこられたことがあります。「父は洞爺丸遭難の時、救命胴衣を人にあげて自分は死んでしまいました。私は幼い時に父がいないことで本当に苦労しました。神を恨み、父を恨みましたが、今は違います。父は神に用いられ、素晴らしい死に方をしたのです。今は神にも感謝しております。」と彼女は言いました。彼女の言葉を聞いて、洞爺丸遭難を作品に入れて本当に良かったと思いました。
私たちは「松本清張先生」に15年くらい前にお会いしたことがあります。その時に「貴方たちは、小説の筋について相談されることがありますか。」と聞かれました。私は「いいえ、洞爺丸の遭難事件を『氷点』に入れる相談をした以外はありません。」と答えました。私にはとてもそんな能力はありません。綾子が一人で考え、私はせいぜいそれを口述筆記で助けただけでした。
『氷点』を書いてから2年ほど経って、『塩狩峠』を「信徒の友」誌に連載している時、取材旅行で小樽に行きました。綾子は体調がすぐれず「今日は肩が凝っていて辛いから、私の言う通りに文章を書いて、ちょっと原稿用紙を埋めてみてくれないかしら。」と頼むのです。私は小樽のホテルで一字一句違えないように原稿用紙に書きました。はじめは点、丸も言っており、私は言われた通りに書いていました。それが綾子には大変楽だったようで、それからほとんど口述で小説を書き続けていきました。
口述者というのは英語ではデイクテイターと言います。これには独裁者という意味合いもあるようです。この言葉通り、こと口述につきましては、私は一切綾子に文句を言わず、ひたすら従っていました。だんだん上手になり慣れてきて、早く書いたほうが良いということが分かりました。聞き返しては彼女のリズムを崩します。それで私は、早く書くように努力しました。綾子が2行のセンテンスを言うとしますと、筆記が1行くらいのところで「はい」と言い、次のセンテンスを言わせるようにしました。2行目のセンテンスを書きながら、新しいセンテンスを耳に入れる方法です。それをどんどん繰り返し、間断なく彼女の言葉を引き出すよう努力しました。一種の合いの手です。気脈が通じ合わなくては出来ません。松本清張先生から「そうですか。それは簡単に出来ることではありません。ひとつの特技ですよ。」とおっしゃって頂いて嬉しく思いました。
もうひとつの注文は、綾子の最後の小説になった『銃口』です。小学館の「本の窓」誌編集部眞杉章氏から「昭和を背景に神と人間を書いて欲しい」とのテーマを示され、戦時に重点を置き、昭和の終わりまでを描いた作品にしました。連載を続け、あと150枚か200枚ほどで書き上げようと綾子は考えておりました。登場人物達は未だ満州(中国の東北地方)におります。彼等をいかにして満州から脱出させるかが難問でした。私は綾子の体調が良くないことも考え、彼女に主役を満州から早く引き上げさせてくれないかと頼みました。私も疲れていたのでしょうね。それで構想を若干変えて、鮮満国境から、5日で主役が汽車で旭川に帰ることにしました。終戦当時でも、一週間もかければ何とか帰れるのではないかと、私が言ったのです。この部分を30枚くらいに纏めて小学館に送り、やれやれと思いました。それ迄、小学館側では、「すばらしい発想、すばらしい展開、すばらしい文章だ。」と毎回誉めてくれています。私は、「ああ、文芸出版社の編集担当者というのは、こうやって作家をおだてあげて、書かせるものなのか。」と失礼ながら思っておりました。この『銃口』の終りに近い場面も、きっと喜んで貰えるだろうと思いました。
2、3日後、眞杉章氏から電話がかかってきました。彼は「1945年8月15日、日本敗戦の日、鮮満国境には汽車が走っておりませんでした。」と言うのです。それがいけなかったかなと思いました。「いや、実際に走っていなくても、フィクションですから、構いません。しかし、まだまだ、この小説には、書いて貰わなければならないことが、沢山あると思います。こちらから送った資料からも、あなたのほうの資料から言っても、このまま終わらせるのはいかにも惜しい、考え直してくれないか。」と言うのです。うーん、と考え込みました。致し方ないので、綾子に自分の責任は全く無いかのような顔をして眞杉氏の言を伝えました。彼女は「だから横からそんなこと、いらないことを言わなくていいのに。」というような愚痴は言いませんでした。彼女はよなべして資料を当たり、三日目には書き直し原稿を送りました。
敗戦当日の大混乱の中、汽車は走れる状況ではなかったのです。フィクションでも事実を極端に曲げて、その汽車を走らせるわけにはいきません。あらためて満州からの脱出方法を綾子は何とか考え出しました。そうやって出来たのが『銃口』です。その場面では、ああそんな苦心をしたのかということで、お読み頂けたら幸いです。
私が綾子に勧めて書かせた小説が2編あります。ひとつは『泥流地帯』という小説です。人生には、突然降りかかって来る不可解な苦難があります。旧約聖書詩編第34に「正しい者には災いが多い。」とあります。これをどう見るべきか、「人生の試練と生き方を問い掛ける、永遠のテーマ」だと私は思いました。時々、新聞などには霊感商法の記事が出ています。先祖が苦しんでいるから、供養のためと言って、1万円かそこらの壷を20万円で売りつけている。それを買っても暫くすると先祖が未だ苦しんでいるからと、また10万円出しなさいという商法があると聞いております。「因果応報」という言葉は、悪いことをしたら悪い結果が出るという意味です。暴飲暴食や不節制で健康を損ね、自ら苦しみを招くことはある。しかし、聖書は人間の苦難を即、罪の結果とはしていません。現実を見ても、そう簡単に割り切れるものではないでしよう。
1926年5月24日、十勝岳が大爆発しました。大量の泥流(山津波)が発生し、それが急斜面を落下し積雪、表土、樹木、岩石などを飲み込み勢力を増します。加速度をつけた泥流は、15メーターを越える泥壁となり、一気に山麓の農村、上富良野を襲い、一瞬にして家、田畑、橋梁、鉄道と何もかも押し流し、144人もの尊い命が失われた事件がありました。最も被害がひどかったのが泥流の直撃を受けた「三重団体」といわれていた村落の人達です。三重県から入植して、生活態度は村人の中で最も真面目そのもので、営々と30年もの年月をかけ開拓に励んできました。その勤勉な方たちが一番悲惨な目にあったと記録にあります。
旧約聖書の『ヨブ記』は、神の目から見ても完璧に正しく、賞賛に値するヨブという男が悲惨な体験をする物語です。サタンの企みにより、ヨブは突然侵入した来た他民族に財産である家畜を略奪されるばかりでなく、彼の子供たちも天災で非業な死をとげます。一瞬にして、持てるもの、愛するものすべてを失うのです。そればかりではなく、彼は悪性の病気に冒され塗炭の苦しみを味わいます。災難が連続して降りかかりますが、彼は神への敬愛は捨てませんでした。神は最後に彼を救済し、「すべてが神の試みの中にあった」ことをヨブは知るに至ります。しかし、ヨブ記を読んでも、「神が苦難を恵みとして与える。」という論理は、それは何故かの問いが先に立ち、中々理解出来ないでしよう。
「因果応報」の思想は古今東西にあります。しかし世の中、それだけで律しきれるほど単純では無いようです。キリストの弟子たちも、その考え方を持っていたことが新約聖書のヨハネによる福音書第9章にあります。ある時、キリストの後ろに弟子たちがついていきました。道端に盲人がおります。当時のイスラエルでは、盲人は道端で物乞いをさせられておりました。その盲人を見た弟子たちが、「ラビ(先生)、この人は親の罪で盲人になったのですか、それとも本人の罪なのですか。」と尋ねたことが書いてある。キリストの答えはこうでした。「親の罪でもない、本人の罪でもない。ただ神の御業が、彼の上に現れるためである。」と言われ、キリストはその盲人の目を癒したとあります。
この話は、綾子にとって13年間の療養中に希望になり、慰めになりました。彼女は肺結核と脊椎カリエスを患い、7年間はギブスベッドに釘づけでした。そのうちの4年間は寝返りひとつ出来る状態ではありませんでした。自分からは何も出来ず、じっと耐えていなければならないのです。「綾子さんは随分長いわね。何か悪いことの結果ではないか、何かの祟りね。」などと、心無い世間の風評も恐らく耳に入っていたでしよう。それだけに、キリストのこの言葉は、大きな救いであり希望になったのです。
ともあれ、人生の苦難を、どう受け止めていけばよいか、それを彼女に書いて欲しいと言ったのが『泥流地帯』なのです。綾子は「いや、私にはとても書けない。テーマが難し過ぎる。農業の経験も無いから。」とこの時は躊躇しました。でも、『氷点』で作家のスタートを切ってから、体験の無いことばかり書いてきたのです。様々な職種、境遇の人々、犯罪者も描いてきたので、これは答えにならないなと思いました。私はひたすら書いてくれないかと、繰り返し勧めておりました。その内に、北海道新聞の日曜版の小説を求められることになったのです。綾子は「ああ、あの山津波を書くわ。」と言い、そして題名を『泥流地帯』としました。前編が非常に好評で、後に、その続編も書きました。この作品で登場する家族をどうするかということになって、彼女は私の生い立ちを参考にしました。
私の父は、20歳の時に福島県から来道し、網走管内の滝上村(たきのうえむら、現在は町)に開拓農民として入植しました。原始林の大木を、鋸と斧で伐倒すると、空が広がる。その度に歓声をあげながら、次の大木に立ち向かって土地を開拓したそうです。父はそうやって三戸分(約15ヘクタールの面積。一戸分は約5ヘクタール)の農地を拓き、自分の両親一家、妻の両親一家を呼び寄せて入植させました。何年か農業をしておりましたが、割り当てられた土地が石地であったり、傾斜が多かったり、奥地であったりと恵まれず、農業だけでは生活出来ません。そこで、その土地を親たちにまかせ、東京へ出たのです。最初は専売公社に勤めたが月給が安いので、市電の運転手になったと聞きました。
私は1924年4月4日、東京目黒不動界隈に生まれました。すぐ1、2軒隣に「赤い靴」、「七つの子」などの童謡を作った著名な作曲家、本居長世が住んでいたそうです。父は慣れぬ東京暮らしと無理な仕事が祟ったのか体調を崩し、1927年に肺結核と診断されました。私も父から結核菌をうつされました。幼児感染です。これが原因で、後年私は腎臓結核を発症し右腎臓を摘出することになります。
当時の肺結核は特効薬も無く、死刑の宣告をうけたようなものです。未だ32歳の父には、やりばの無い苦悩があったと思います。人生とはいったい何なのかと悩み、キリスト教に救いを求めたようです。考えた末、父は自分の両親、妻の両親のいる滝上に帰る決心をして、その年の8月に東京を引き払いました。
滝上には、キリスト教信者で開拓地に派遣された開拓医がいて、その方にも色々なことを教えられたようです。父は体調の良い時は絵を描いて静かに過ごしておりましたが、病気の進行が意外に早く何回も喀血したらしく、1927年11月28日、両親の住む滝上に戻って三月も経たずして、未だ30歳にもならない母と3人の幼児を残し、32歳の若さで帰らぬ人になりました。私が3歳の時です。
近所の人たちが集まって来て棺桶を作ってくれました。座棺(遺体を坐らせて入れるる棺)です。とても大きく感じました。母にねだって見せてもらおうとしました。母は悲しかったと思いますが、私を抱き上げ棺桶の蓋を取り、父の死顔を見せてくれました。子供心にも安らかな父の表情を、今でもありありと思い出すのです。
母はその後1年ほど幼い子供3人を抱え、畑仕事をしておりましたが、女手一つで農業を営み、幼い子供を育てるのは無理でした。そんなことで、髪結いになろうと、私を母方の祖父母「宍戸」の家へ、兄と妹を父方の祖父母「三浦」へ預け、札幌へ出ました。その後、母は小樽、帯広、それからさらには大阪まで行きましたが、髪結いのほうはものになりませんでした。母によると、努力はしたが、その道はいつも閉ざされていたと言うのです。各地を転々としましたが、この間、母は牧師の家族の介護とか、外国から来た女性宣教師のお手伝いをしたりで、行く先々のキリスト教会に導かれ、信仰を深めたわけですが、経済的には得るところはありませんでした。
結局私は、10年ほど母方の祖父母の世話になりました。小学校6年生の時に、担任の先生が、「光世君を中学にやってくれませんか。」と祖父のところへ相談に来ました。私が少しばかり成績が良かったからです。祖父は「とても出来ないことだ。」と言いました。畳1枚無い貧しい家です。寝室にゴザを敷いて、冬は切炬燵に家族一同足を伸ばして寝ている状態です。米のご飯は正月か盆、お祭りなど特別の日だけで、普段は申し訳程度にぱらぱらと麦の上に米が乗っているだけです。当時の開拓農民の暮らしはそんなものでした。私は今でも米のご飯を残して捨てるなんて、とても耐えられません。必ず大事に食べ、捨てないようにします。
そのような境遇でしたので、中学(旧制)への進学は無理でした。中学に行くとなれば、滝上から名寄とか北見に行って、寄宿舎にも入らなければならないし、5年間の授業料、寄宿舎経費も必要です。そんな余裕はとてもありません。それでも、祖父は高等科に進ませてくれたので、私は小学校の尋常科と高等科とあわせて8年間の教育を受けられたわけです。
滝上からは、作家の小桧山博氏、児童文学者の加藤多一氏、そして吉井洋子氏などが文学関係で出ておられます。私は滝上育ちですが、残念ながら東京生まれです。それでもいつの間にか、本を7、8冊ほど出してもらいました。
祖父は私が高等科1年生の二学期に亡くなり、私は小頓別(しょうとんべつ)という町にいた母に引き取られました。その頃、母は兄と住むようになっておりました。妹も少し後で加わりました。兄は小学校を出たのち、家族のために、造材作業、運送作業、流送作業など、少しでも稼ぎの良い仕事を求め、出稼ぎであちこち転々としていました。兄は私を教師にしたいと思い、何とかして師範学校(もと、小学校教員を養成した学校)に行かせようとしました。しかし彼は徴兵されて、それは叶いませんでした。ともあれ小学校高等科を卒業した私は、兄の世話で1940年、中頓別営林区署の伐木事務所に勤めはじめました。
兄は絵も書道も文章も、すべてにおいて私より優れておりました。器用な人で古鑢の先を斜めに切り落とし、火に入れて鍛え、研ぎあげ小刀を作ったり、印鑑を堅い木の枝を伐ってきて彫ったりしました。音感も実に良かった。私はリズムが下手でして、小学校の高等科、今でいうと中学校1、2年生当時「麦と兵隊」という軍歌を適当に唄っていると、「その歌は兵隊の歩調に合わせ、行軍の時に唄う歌なのだ。お前の唄い方は駄目だぞ。」と言って「徐州、徐州と人馬は進む・・・」と唄ってくれました。綾子は私の生い立ちや、エピソードも取り入れて、「拓一、耕作」という主人公の兄弟に、祖父がいること、父親が森林伐採作業中に事故死したことなどを設定して『泥流地帯』を書いたのです。
1992年に出版した『母』も私の大好きな作品です。『母』は、プロレタリア文学作家、小林多喜二の母、せきさんの話です。多喜二は1933年2月20日、特高警察に逮捕され、その日のうちに拷問で亡くなりました、29才でした。丸太ん棒のように足が腫れ上がっていたそうです。千枚通しで、めったやたらに刺されたのではないかと言われています。せきさんは、我が子が特高に逮捕され、その日の内に、裁判にもかけられないで、惨たらしく殺されてしまった、辛い思いを生涯消すことが出来なかったと私は思いました。その思いを綾子に小説に書いてくれと頼んだのです。ところがこの時も『泥流地帯』以上に躊躇っていました。彼女は「私は小林多喜二をよく知らないし、共産主義にもうとい。勉強したくても、時間も体力も無いわ。」と言いました。
私も綾子同様、共産主義は分かりません。せいぜい共産党宣言の中にある、「働かざるもの食うべからず」という言葉、これは聖書の中にあることを知っている程度でした。東京大学の学長であった矢内原忠雄氏の著作「共産主義とキリスト教」という本を読んだことがあります。その中に、「共産主義で『唯物論』という言葉があるけれど、ただ物をさしているのではなく、哲学的に深い意味合いをこめており、事物の本質を言っているのだ。」ということが書いてあり、なるほどと思ったことがありました。
旭川に五十嵐久弥という人がいました。この人は農民運動の指導者で共産主義者でした。戦前、危険人物と見做され、天皇陛下の行幸があるから、乱暴をしないようにとか、大した理由もなく何度も拘束され、留置所に入れられたそうです。戦時中には、治安維持法(共産主義活動の抑圧を目的とした法律)に違反したと、4年間も投獄もされました。投獄された中には、1952年に綾子に洗礼を授けた札幌北一条教会の小野村林蔵という牧師もいました。小野村牧師は平和を唱えただけで、反戦的言辞ありとして投獄されたのです。共産主義者とか平和主義者は、国家体制に逆らう危険思想の持ち主と見做され、弾圧された暗い時代でした。五十嵐久弥氏は、私たちの家に来て下さった時「共産主義はキリスト教を母体に育ってきた思想なのだ。」とお話されるので、関心を持ちましたが、私はむしろ彼が拷問を受けても、信念を曲げなかったことに感服しました。
でもその程度の資料で、綾子に「大丈夫だ、書けるよ。」と請け合うわけにはいきません。私はせきさんが、「この世を白か黒かはっきりつけて下さる、全能の神がおられるのかどうか。」ということを、知りたかったのではないかと思い、そのことを綾子に言いました。彼女は最初、「共産主義者の母親ということだけで、書くのは難しい。」と、乗り気ではありませんでしたが、私が「多喜二の母は受洗した人だそうだね。」と言うと、実は洗礼は受けていなかったが「同じ信仰を持つ者として、生きる視点が同じである筈だから、何とか書けるかもしれない。」と言って、遂に承知しました。
私は綾子と大きな机に向かいながら口述筆記をしていました。彼女のいる側に多喜二の写真を置きイメージを膨らませ、書かせようとしました。でもなかなか筆を取りません。結局、綾子は、『母』の文体を語り口にすることを思い付きました。87歳のせきさんが、自分の思いを人に語り掛けるようにしたのです。言葉は秋田出身で小樽に住んでいた綾子の祖母を参考にしました。この発想は良かったと思います。
東京に取材に出かけた時に、多喜二の弟の三吾さんから、小林家の雰囲気が非常に明るかったことを伺い、救われた思いがしました。多喜二のお姉さんは、既に亡くなられていましたが、キリスト信者でした。このことも私が何とか綾子に書かせたいと思った原因のひとつです。
『母』は私が綾子に書いてくれと言い出してから、書き終るまでに10年もかかりました。彼女の作品の中では一番短く、3時間あれば読めます。私は殊更に共産主義を広めようという意図で書かせたのではありませんが、貧しい人を助けようとする聖書の思想はいつも頭から離れませんでした。
完成して3ヶ月後、これだけは贈呈しないでおこうとを思っていた『母』を私は四国の伊藤栄一牧師に送りました。私の知る伊藤先生の思想信条から考えて「こういうものを書いてはいけない、小林多喜二は共産主義者、即ち無神論者ではないか。」と言われると思っていましたが、先生は、すべてのことを読みとって下さいました。「本来すべての人間は、全能の神を仰ぐべきものである。」という考えで書いたのだなということをすぐに分かって頂き、何十冊も買って下さいました。
せきさんは漢字が読めなかったそうですが、好きな賛美歌である「山路越えて」を平仮名で書いた紙を壁に貼り、喜んで歌っておられたと聞き、そういう場面も書き入れました。口述筆記したものを修正し、推敲するときは、私が毎回朗読し、修正して欲しい箇所があれば綾子がその都度言います。朗読はせきさんになった積もりで秋田弁の語調でやっていました。
多喜二の死後、多喜二に理解のある、小樽シオン教会の牧師近藤治義先生がせきさんを時折訪ねて来ていました。せきさんが、近藤牧師の暖かい人柄に触れ、心の平安を取り戻し、キリスト教で自分の葬儀をしてもらうまでの軌跡を綾子なりに描き、『母』という作品が出来ました。ある読者からは「嗚咽して読みました。」と言う手紙がきました。「感動した、励まされた。」と書かれた読者のお手紙もたくさん頂戴しました。
『塩狩峠』についてお話します。これだけは特にお話したいのです。『塩狩峠』は『氷点』以上に読まれています。文庫本と単行本を合わせて今までに320万部です。『氷点』は300万部ちょっとです。主人公は国鉄職員、長野政雄氏(小説の中では永野信夫)です。長野さんは旭川六条教会の大先輩で、まだ30歳そこそこの青年でした。1909年の2月28日、名寄から旭川へ行く列車が塩狩峠の上り勾配を進行中、最後尾の客車が、連結器の故障で突然離脱して逆走する事件がありました。たまたまその客車に乗り合わせていた長野さんは、だんだん加速度がつく客車のデッキで、一生懸命ハンドブレーキで止めようとするけれども、止まるまでには至りません。行く手には急勾配のカーブが迫っており、脱線転覆は免れない状況でした。もう自分が犠牲になって止めるしか方法がないと、この青年はレール上に身を投げ出して客車を止め、乗客の命を救ったのです。長野さんは本当に立派な人物で、「どうか私の死によって、全能者を、愛なる神をどうか称えてほしい。」という意味のことを毎年元旦ごとに遺言として書きかえていたというのです。事故か、天災かで自分に突然の死が訪れることへの予感があったのでしようか。
これを書こうとした切っ掛けをお話しましよう。それは1964年、『氷点』が入選する年の6月の初め旭川六条教会での自由懇談の会がありました。日曜日の礼拝に行き、その午後、常盤公園で何分団かに分かれて話し合いをしました。私と綾子は違う分団でしたので、終わりましてから私は綾子に「お前の分団は良い話し合いが出来たか。」と聞きました。すると綾子は「一人、お年の方が自分だけ長々と話されるので、他の皆さんにも発言の機会をあげようと、割り振るのに苦労した。」と言いました。そういうこともあるだろうなと思いました。
その日から、2週間たった頃、牧師が彼女に「三浦さん、藤原栄吉さんから手紙が来ています。読んでみて下さい。」と言いました。手紙には「この間の研修会は誠に不愉快でした。あの三浦綾子というのは何者ですか。ああいう婦人との同席は今後ご免蒙りたい。」という激しい言葉がありました。藤原栄吉さんというのはその時の年配の方でした。綾子はそこで反論は出来たかもしれないのですが「まあ大変。どんなに不愉快な思いをさせたのか分かりません。先生、お詫びに行くのに一緒にいらして下さい。」と牧師と共にお詫びに参りました。藤原さんは中々家へ上げてくれません。どうにか上げて頂き、畳のうえでも綾子は何回もお詫びをしました。
その内に、ふと藤原さんの机の上に原稿用紙があるのに気づき、綾子は「藤原さん、何かお書きになっているのですか。」と聞いたそうです。その一言が藤原さんの顔を輝かせました。それは藤原さんの信仰の手記でした。その中に、塩狩峠で殉職した、藤原さんの上司であった、長野政雄さんの生涯について書かれたものがあったのです。それを聞いた綾子は深く感動し、数ヶ月後に自分も書いてみたいと申し出て、お許しを得ました。藤原さんは綾子を理解し、心を開いて下さったのです。彼女が藤原さんの心を和めなかったら『塩狩峠』は出来なかったでしよう。
そんなことで3編の作品の土台は、すべて聖書からきております。聖書は永遠のベストセラーです。誰でも、どの様に読んでも構いません。ある仏教大学の学長さんは禅の僧侶です。その方の講演会を聞いて、綾子と私は感動しました。大変意外だったのですが、その先生は家で聖書を愛読されているらしく、講演会の中で随所に聖書の言葉が登場するのです。
文学は人を生かすためのものであると言われています。人を生かすということであれば、聖書は世界最大の文学だといわれるのはもっともと思います。考えて下さい、皆さんは貴重な命を授けられ、それぞれ貴重な人生を歩んでいるのです。それは驚くべきものではありませんか。何もなかった存在から、私たちは命を与えて頂き、この世に生をうけたのです。
綾子は人間に与えられた、この人生というものを、人々が本当に大事に、幸せに生きて頂きたいと、自分の作品に祈りを込めました。このことを申し上げ、皆さまの今後の日々が幸せでありますようお祈りしまして、私の講演を終わります。ご清聴有り難う御座いました。  
 
三浦綾子文学とキリスト教
 遠藤周作文学を一つの視座として

 

一 三浦綾子文学の今日的意義
ケータイ(携帯電話)が若者たちの問に大量に出回っている。ケータイを持っていない若者は一人目いないのではないか、と思われる位である。
ケータイは確かに便利である。身構…えることなく、手軽に仲間たちと情報の交換ができる。メールもやりとりできる。距離の遠近など問題にならない。教育研究の場でも有効に活用できる。災害等の際にも役立つ。とにかく、ケ:タイは若者たちを中心に圧倒的に、否、完全にといってもいい位に支持され、使いこなされているのである。
このようなケータイの大量普及を、現代社会における物の過剰な豊かさの象微的な現象の一つとしてとらえることができる。,因みにケータイはブーム(にわか景気)に終ることはないであろう。
若者たちは、ケータイにハマっているのみならず、パソコンゲームに熱中するし、カラオケで遊ぶし、ファーストフ:ド店やコンビニがなければ食欲と空腹を満足させることができない。
このように、物の過ぎたる豊かさに囲まれているにもかかわらず、現代の若者たちは自分たちの生活に満足しているか、物の豊かさを満喫していて不足はないかといえば、実はそうではないのである。何かしら満足できず、どこか不安であり、これから先はどうなるのか、どのように過ごしていけばいいのか、彼らはそれぞれ手探り状態であり、悩んでいるのである。便利な物に大量に取り囲まれていても、である。
また、若者たちのみならず、職業について仕事に忙殺されている大人たちにも、心の飢えはある。この種の心の飢えの問題は、明治時代の大人たちにも存在したことが森鴎外の『妄想隔(明44)を読むとわかる。
自然科学のうちで最も自然科学らしい医学をしていて、o惹9な学問ということを性命にしているのに、
なんとなく心の飢を感じて来る。生というものを考える。自分のしている事が、その生の内容を充たすに足るかどうだかと思う。
生れてから今日まで、自分は何をしているか。始終何物かに早うたれ駆られているように学問ということに齪曝している。これは自分に逸る働きが出来るように、自分を織上げるのだと思っている。今一的は幾分か達せられるかも知れない。併し自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に、別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、皆その役である。赤く黒く塗られている顔をいっか洗って、一寸舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい。背後の何物かの面巳を覗いて見たいと思い思いしながら、舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている。此役が即ち生だとは考えられない。
みられるように、鴎外も「生というものを考え」、「自分のしている事が、その生の内容を充たすに足るかどうだかと思」い、「静かに自分というもの」の「生」のあり方を見直してみた時、「心の飢」をどうしょうもなく感じてしまうことを述べている。あるいは告白しているといってもよい。若者たちも大人たちも、鴎外の時代から今日まで、すべて紙(カレンダー)と小機械(時計〉によって動かされ、せかされてきているといってもよい。そして、この傾向は今後とも変わることはないであろう。
考えてみれば、カレンダーと時計にせかされて生涯を終えてしまうなど、生き方としては虚しいこと此の上もない。何のために自分がこの世に生を享けたか等をじっくりと考えることもできずに死ぬのは口卑しい。
命の糧が必要になるのは此時である。「生」とは何か、「死」とは何か、「愛」とは何か、人はどのように「病」と向き合い、どのように「死」を迎えればいいのか等々ーー三浦綾子文学が、生の糧となるのは産直である。しかも、三浦文学は「癒し」に留まらず、生きることを読者に熱っぽく訴え、「死」が一人一人にとって大事な仕事であることを説く。彼女の随筆作品ーー『愛すること信ずることs以降の文章は、心の飢えを抱えこんだ人々に対して、命の糧となること.は疑う余地がない。
一方、現代は物の豊かな時代であるが、行き先不安の時代であることも明白である。もしも事故や病気で寝つく状態になったら誰が世話をしてくれるのか、老後の自分はどうなるのか、年金は完全に支給されるのか等々。このような個人的な問題や不安を抱えこんでいない人は一人もあるまい。
また、他人と上手につき合えない子どもたちが増えている。他人を一両親や保護者でさえも拒否し、心を開かない若者たちも増えている。他人を傷つけても、そのことに全く気づかない人々もいる。一人前として自立した人間になることを恐れている若者たちもいる。
これらの人々は、それでは自分の現在に満足して満ち足りているかというと、そうではない。彼らは自らの現在にも満足できずにいるのである。したがって、彼らは宙づり状態にあるといってよい。とりあえず、不安や不満を抱えこんだまま、現在の時間を過ごしており、心の飢えを封印して生きているのである。彼らは物に管理された存在ともいえる。
彼らにどう蛸応ずるか。問題解決の糸口をどのように見つけていくか。この時、三浦文学は様々なヒントや励ましを与えてくれるだろう。
愛とは、ゆるすことであり、ゆるしつづけることである。
愛とは、しのぶことである。
苦難や病気は、神の賜である。
死とは大切な仕事であり、つとめである。
ころんだことが恥ずかしいことではない。立ちあがれないことが恥ずかしいことである。
三浦文学の中にみられるこれらのことばは、宗派や信仰といった枠を越えて、読む者の胸をうち、生きていく上でのヒントや励ましとなっていくものといえる。
しかも、三浦文学は、庶民の立場に立って創造されたものであり、謙虚な生き方をもとめる中で形づくられたものであることを見過ごすべきではない。三浦文学を構成していることばに、ある種の温かさと誠実さがこもっているのは、夫妻の謙虚な生き方による。それらは、上位の者が、下にいる人々に命ずるように、あるいは指示し教えこむように発されてはいない。謙虚であろうとし、誠実に、一人の人間として相手を迎えていくといったレベルから書き記されているからこそ、自ら温かさが伝わり、かけがえのない生をいとおしむことばとして読む者に語りかけてくるのである。
二 三浦文学と遠藤周作文学
 まず、三浦綾子と遠藤周作という二人の文学者の生涯を時系列で見た時に、共通あるいは近似していると思われる箇所を、以下に列挙する。結論めいたことを先に記すと、この二人は基督者であることは無論であるが、他に通じているところが四つある。
1 誕生に関して。
 三浦綾子 一九二二年四月二五日生れ。
 遠藤周作 一九二三年三月二七日生れ。
2 話題作・代表作の発表時期。
 三浦綾子 一九六四年『氷点隠入選、連載開始。翌年、単行本刊行。
 遠藤周作  (一九五五年『白い人』で芥川賞受賞)。一九六六年『沈黙』刊行。
3 太平洋を渡る登場人物たちの生涯を描いたスケールの大きな作品の発表時期。
 三浦綾子 一九七八〜八○年『海嶺』発表。翌年、単行本刊行。
 遠藤周作 一九八○年『侍』刊行。
4 晩年の代表作の発表時期。
 三浦綾子 一九九二年職母』刊行。九三年『銃口』完結。翌年、単行本刊行。
 遠藤周作 一九九三年『深い河』発表。
以上のように、二人は一歳違いであるが、小学校等でいえば同学年である。したがって生活圏は異なるものの同時代を生きた人であるといえる。遼藤は『白い人』で芥川賞を受賞し、一足先に作家としてスタートを切っていたが、三浦の『氷点』と遠藤の『沈黙』の発表と単行本刊行はほぼ同時である。『海嶺』と『侍』も同時代であり、『母隔『銃口』と『深い河』も、ほぼ同年発表あるいは刊行の作品とみてよい。
これらの事実が何を意味するかは後日の考察等に委ねなければならない。王浦と遠藤との間にあるこれら四つの共通・近似の関係は、単なる偶然なのか、それとも他に何かがあったのか。本稿では考察を進めることを控えておく。しかし、興味深い事実ではある。
その他に、二人は小学校時代から作文が上手であったが、結核、カリエス等の病気に若い頃から苦しめられ、闘病の日々を余儀なくされたことも共通している。この体験は、二人にとって、入間存在において普遍的な命題である生と死を凝視する契機となった。このことは、爾者の随筆作晶を一読すれば明らかである。また、神の存在について深く思いをめぐらす契機となったことについても、同様のことがいえる。
したがって、両者はともに病気であることから様々な学びを得たということができる。生命を持って生きるというよりは、生命を与えられて生かされていることを、病気の日々の中で深く感受したのである。換言すれば、両者ともに病気によって生かされた、ということもできよう。
さて、三浦綾子は病床で洗礼を受けた。その後の歩みは『道ありきs等の自伝的小説や随筆作品に記されている。
一方、遠藤周作は十歳の頃に母や伯母の影響を受けてカトリックの洗礼を受けた。遠藤は、三十歳で受洗した三浦とは異なり、カトリックの信者となったことが、次第に重荷に感じられるようになる。何故自分がカトリックの信者なのか、カトリックの教えとは何なのか等に迷いを覚え、居心地の悪さを意識するようになる。日本と西欧の宗教、歴史、文化、習俗の違いが、遠藤の心を落ち着かせなかった。後に、その頃のことを、自分は背丈に合わないダブダブの上衣を着ているようだった等と語っている。
この「ダブダブの上衣を着ている」の比喩は興味を惹く。何故ならば、その頃の自分は身体が小さくて、即ち精神的に小さく幼なかったので、カトリックの教えと信仰は「ダブダブの上衣」のように「身の丈」に合わなかったが、精神的に成長し成熟した後は、それは「ダブダブ」には感じられなかった、というのである。遠藤は、成長するにつれて「身の丈」に合うカトリックの教えと信仰を自らのものとしていったことが了解される。
このように、遠藤は、次第に自らの「身の丈」に合い、なおかつB本人たちの多数に受け容れることのできるカトリックの教えと信仰を求めていくようになる。戦後間もない一九五〇年からの二年半にわたるフランスでの日々は、遠藤に日本とカトリックの国・フランスの間に横たわる「深い河」を、したたかに認識させた。しかも、この体験こそが自分の「身の丈」に合致し、他の日本入の多数が受容できるカトリックの教えと信仰のあり方をもとめていく契機となっていったのである。
また、遠藤は、人問存在の内に秘む悪と弱さを見据えることが、まず第一に肝要であり、それらを抱えこんでいる入隊を、どのようにキリストの教えと信仰に導いていくかを次の課題として、文学創作の中でもとめていくようになる。
『白い人』『黄色い人』『海と毒薬』等の作品では、人道に反する悪の道を歩もうとする人物が登場する。日本人と西欧人との間に横たわる「深い河」も登場する。これらの作品群は、遠藤にとっては、エミール・ゾラの説くのとは溺箇の「実験小説」であったともいえる。人間存在の中にある悪と弱さを探求する試み、あるいは日本対西欧の対置と対峙、などが『白い人』『黄色い人』『海と毒薬』の中で描かれている。そして、その探求の糸が、後に一本の太い綱となっていく。即ち、神の存在という問題に至り着くのである。
『沈黙』では、フェレイラ、ロドリゴ、キチジローという三人の基督者が登場する。切支丹弾圧という苛酷な状況のもとで、三人はそれこそ筆舌に尽くし難い体験を余儀なくされるのだが、ここではキチジローについて考察する。
キチジローとは何者か。一言もってすれば弱者であろう。彼は、ころびと裏切りを繰り返しながら生きていく。そして、自らが永らえるためならば、ロドリゴさえも役人の手に渡す。また、殉教者たちのような強さを自分は持っていないのだと叫ぶ。それでも彼はキリスト者としての信仰を棄てない一人の貧しい庶民であった。迷える子羊の一匹(一人)たる存在ということもできる。
しかし、キチジローは、心は弱くずる賢いけれども、生きぬく力を持った、あるいは生きのびようと必死にもがいているキリスト者であり、したたかな生きる力を持った強者であるということもできる。キリストの教えに完全に従えないけれども、何とかキリスト者たろうとして努め、苦しんでいる人間と解釈することもできる。故に、『沈黙』の中でキチジローを弱者であり邪な者であると決めつけることは間違っているということができる。そして、キチジ十一の中に、キリストの教えの前で心迷い、一方で自らの心の中にある弱さと悪への欲望を痛切に自覚している遠藤周作自身が投影されていると読みとることができる。換言すれば、キチジロ:の生は、「身の丈」に合わない「ダブダブの上着」を着こなそうとして、必死でもがき苦しみ悶えるキリスト者の姿であり、「ストレイ・シーブ」そのものであると解釈できる。
『沈黙』は、従前より殉教者たちと背教者たちの生を対置させた作品であると評されてきた。また、その対置は遠藤周作の小説づくりにおける「種の方程式の如きものであると言われている。このことは、先行研究を一読すれば明らかである。
しかし、キチジローやロドリゴ、フェレイラたちが、ころび者であり背教者であるが故に、全否定されてしまうような人間かといえば、そうではない。というよりも、彼らの上にも神の恩寵と愛はもたらされるべきだ、と説くのが『沈黙』の主題であり、それ以後『深い河』までの遠藤周作の創作のモチーフであったといえる。
したがって、遠藤はこれ以後、教えに背けば厳しく罰を下すような「父なるもの偏から、同伴者として、すべての人々を許し、受け容れる「母なるもの」をイエス像あるいは神の愛としてもとめていくようになる。ころぶことや悪をなすことはよくない、しかし生きていく過程ではころぶことも悪をなすこともある、けれどもそこから立ち直って生きることが大切である、そしてそのように生きようとする人々の同伴者としてこそ、神の愛はあるのだ1遼藤は作品の中でこのように述べていくようになるのである。
『深い河』の中に、神とは「トマトでもいい、玉ねぎでもいい偏(三章)という登場人物の台詞がある。「神とは存在というより、働きです。玉ねぎは愛の働く諮りなんです」(同)という言葉もある。
これらの言説は、挑発的な表現であり突拍子もない比喩とも読める。あるいは眉をひそめる向きもあるかもしれない。
しかし、『深い河』の中のこれらの言葉は、「神とは何なのか偏という命題について、軌78藤が至り着いた地点を示している。「神」は人閲が生活を営む場から遠くかけ離れた、遙か彼方にあるものではなく、逆に、身近に親しく存在しているということを遠藤は読看に語っていると見てよい。換言すれば、「神」に対する固定観念を突き破ろうとの意図のもとに書かれた修辞法であるともいえるし、崇高なる権威としてではなく、人々が、即ち日本人たちが、身近で「神」の存在を把握できるようにとの配慮の下に発された比喩ともいえる。
別言すれば、トマトも玉ねぎも、人間の食生活の中では身近な食材である。しかもそれらは外来種の食材であり、人間の命を支えている食べ物である。「神」とは、人間が気づかないうちに一人一人の命を支え、命を命たらしめているところのトマトや玉ねぎの如きものであることを遠藤は述べたかったといえる。
『深い河』は、遠藤周作の最後の長編小説であり、彼の文学の集大成であると評されている。そうであれば、遠藤はトマトや玉ねぎという比喩の提示には期するところがあったであろう。作品冒頭に出てくる「やき芋」も同種の比喩と見られる。
そして、それらの比喩こそは、「神」の存在について、日本人にわかりやすく、あるいは挑発的に、あるいは余裕をもってユーモラスに説こうとする遠藤周作流の仕掛けであると解釈できるであろう。
三 まとめに代えて
三浦綾子と遠藤周作は、プロテスタントとカトリックの別はあるが、ともにキリスト教の教えと信仰のあり方について、様々なメッセージを読鷺に送り続けた。そして現在も作品を通じてそれらを送り続けている。それは今後も変わることはないであろう。
その源泉となったものは何か。それは即ち聖書である。聖書なくして、二人の生涯と創作活動はなかったといえる。換書すれば、両者ともに、文学者としての個性と表現方法は聖書の世界に根ざしているといえる。このことは、日本の文学史上において稀有な例である。
一方において、いくつかの相違点もある。その中で特筆すべきは、三浦流と遠藤流の違いである。野球の投手でいえば、速球(直球〉派と変化球派の違いと言い換えてもよい。
周知のように、三浦綾子は、文壇デビュー作となった隅氷点騙で、原罪を主題に据えて人間存在を問い、愛とエゴイズムを追求した。その真摯な姿勢は、夫の光世氏の献身的な支えもあり、一貫して変わるところがなかった。「人間はいかに生きるべきか」を文学において真っ向からもとめていったのである。
一方の遠藤周作は、『白い人』から『深い河』に至るまで、欝本人にとってキリスト教とはどのような宗教かを問い、臼本と西欧の間にある相違を明らかにしつつ、日本人に受け容れられるキリスト教の教えと信仰を粘り強くもとめ続けた。その結果、遂に「神」はトマトや玉ねぎと岡じであるという比喩の提示に辿り着いたのである。この点に、遠藤周作の文学者としての面目躍如たるところが表れている。三浦綾子であれば、この種の比喩や修辞は「神」をからかい冒漉するものと映ったことであろう。そこに速球(直球)派と変化球派の違いが最も顕著に表れているといえる。
しかし、前述したように、両者が聖書の世界を創作のモチーフとして、それぞれ文学者としての歩みを持続したことは、日本の文学史において画期的である。そして、このことは「神」が両者に与えた賜であるのかもしれない。   
 
「あなたの信仰があなたを救う」

 

近年、社会におけるキリスト教界の影響力が弱くなってきていると感じます。日本基督教団の教勢も、礼拝、教会学校共に右肩下がりと言われるようになって久しいです。「近年」と言ったのは、明治期のキリスト者たちは、数は未だ少なかったですが、世の光として大きな影響力を持っていたからです。教育や福祉の面での先駆けをしたのはキリスト者たちでした。それは学校や福祉施設にキリスト教主義のところが多いのでも分かります。
今日は教会総会ですが、私たちの教会も会堂建築をした後、「さあ、伝道!」と希望を持ちました。でも毎年、受洗者は起こされているのに、ここ数年、減少傾向にありました。信仰の流れの異なる人々が出て行かれたという事情もあります。でもこれは、新しい教会が一つ生まれたのだと、前向きに受け止めてゆきたいと思います。とは言っても、このような状況の中で、自分自身も弱いなと感じてしまいます。これは教会の主であるイエス様が弱いのではありません。イエス様は「わたしはすでに、世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われました。だから、このイエス様の力を私たちも頂きたいものです。
イエス様の力を引き出す秘訣はどこにあるとお思いですか? 「信仰」であります。信仰は、時として、常識はずれの行動をなさせることがあります。キリスト教主義学校・同志社を設立した新島譲氏は鎖国の日本を密出国しました。映画・塩狩峠の主人公の永野信夫さん(実在のモデル長野政雄氏)は、多くの人の命を救うため自らの命を投げ出しました。長崎の26聖人の中には少年でありながら、自ら殉教者の列に加わった人もいました。自らの命をも惜しまず、神と人のために仕え、投げ出した人々は数限りなくおります。
先週のサマリアの女は、律法的には汚れていないが、常識から外れており、自分で卑屈になって、人目を避けていた女性です。そんな人がイエス様に出会い、変えられ、人の中へと出て行き、福音の使者になりました。今日の箇所は、他人の迷惑も顧みず、律法を犯した、汚れた女性が登場しています。
12年間も不整な出血が続いていた女性。律法で汚れた者でした。他者と接してはならないとされた者です。他者をも汚れた者にしてしまうからです。でもこの女性は、自分が汚れた者と知りつつ、群衆の中へ紛れ込みました。そしてイエス様に触れたのです。「わたしの服に触れたのはだれか」(:30)とイエス様が言われた時、この女性は「叱られる」と思ったことでしょう。しかしこの女性は「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」(:33)のです。自分が12年も長血で汚れた者であること。イエス様のことを耳にしたこと。このお方なら私の病気を治してくださると信じたこと。イエス様にも、周囲の人にも迷惑を承知で来て、イエス様の服に触れたこと。そして信じたとおり出血が止まり、病気が癒されたと体が感じたこと等を話しました。
イエス様との関係で、自分に起こったありのままを話すことで、この女性も、サマリアの女性と同じく、いつしか主を褒め称え、イエス様が救い主であるとの証し人に変えられていたのです。イエス様はこの女性に宣言されました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(:34)
このお言葉は、イエス様を救い主として信じる者すべてに与えられているのです。マルコは1:15に「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とイエス様が言われたことを記しています。これは、イエス様がこの世に来られた意味が、人を悔い改めに導き、神の国をもたらすためであることを示しています。
天国は死んでから行くだけの所ではありません。天国はこの世に来るのです。主イエス様がこのように祈りなさいと教えた主の祈りの中にも「み国を来たらせたまえ」とあります。イエス様がこの世に来られた時、天国は近づき、イエス様が十字架で贖いの死を遂げられた時、天国の拠点が地上に生まれたのです。今は未だ小さくとも、確かに神の国はこの地上に来ているのです。悔い改めて、十字架による救いの福音を信じる者の間に、神の国はあるのです。主も「実に、神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)と言われました。私たちはこのイエス様が全権をお持ちの神の国の住人です。私たちは弱くとも、主イエス様の力が信仰により、私たちを通して働くのです。だから、信仰こそが私たちの力です。 
 
信仰

 

イエス様を信じるまで 
私がこれまでに受けてきた証を皆様にお伝えしたいと思います。
いろいろありますので、順序立ててお話しすることとし、今回はまず、イエス様をキリストと信じ、受け入れると、心の中で打ち明けるまでの歩みについてお届けしたいと思います。
断続的ながら、ここ16,7年に渡り、私はずっと救いを求め続けていました。それがなぜ、いままで達成されなかったか。一因として、キリスト教に対する私の誤解が挙げられます。
私が中学生になったばかりの頃の話です。家に訪問者があり、ある宗教のパンフレットを渡されました。見るとそれは、キリスト教についての簡単な解説のようでした。私は抵抗も感じず、順に読んでいったのですが、ふと、次の言葉にぶつかりました。
「人間は生前悪いことをしたから、死んだら火で焼かれるのです」
突然、猛烈な拒否感が沸き起こりました。私は、その少し前に父親を亡くしていましたから、まるで自分の父親が悪人だと言われたように感じてしまったからだと思います。「お父さんはなにも悪いことをしていないのに、、なんて教えだ!」と腹が立ち、また、丁重に経を上げて葬ってくれた仏教と比較するにつけ、「やっぱり西洋の神など日本には合わない!」とも思い、そのパンフは破って捨ててしまいました。
しかし、かなりあとで考えてみると、あれは”まともな”キリスト教ではなく、どうやら偽りの新興宗教だったようです。そうとも気づかず、その時の私はキリスト教の教えだと思いこみ、かなりの拒否感を植え付けられてしまいました。
そうなんです。実は、受け入れがたい、大っ嫌いな教えだったんです。小学生時代に読んだ「イエス」の伝記も、他のものに比べて、妙に哀れっぽく、そういうところもすごく嫌いでした。
このあと、私と本物のキリスト教との出会いは、三浦綾子氏の小説を通して、高校時代に与えられました。その時、三浦氏がクリスチャンであることは知らなかったのですが、それと知った後も、なぜかこの方の書かれるものには心惹かれるものを感じていました。
また、同じ時期、私には不思議とクリスチャンの友人・・それも、いつも一緒にいるような親友レベル・・が、いつもいるようになりました。しかし、その子たちはみな、熱心に神様について語ってくれてた、というのではなく、「クリスチャンなんだ」とか「教会に通っている」とか、普通の会話の中でときどき登場するくらいでした。だから、私は「へえ、そういう人もいるんだ」という程度にしか受けとめていなかったと思います。そのときからから現在に至るまで、私は3回、キリスト教に近づく機会を持っています。しかし、どれも心に受け入れるところまでには至りませんでした。
さて、仕事で韓国に来まして、2001年4月22日から、知り合いの教授の薦めで教会に通い始めました。しかし、教授の薦めた動機も、私の行こうと感じた動機も、信仰ゆえではなく、単に韓国語学習の一助になれば、というものでした。そのうえ、強制ではないから、気が向かなければ、即やめようとも思っていました。
実際、教会での礼拝の間、話される言葉のすべてを聞き取ることは、当初の私には不可能でした。だから、集中力もすぐ切れます。そこで、あれこれ自分について考えます。すると、長い人生の内で、どこかに埋もれていた、あるいは、これまで隠蔽していた自分の心の奥深い部分をのぞいたり、忘れていた過去を再び思い出したりすることがありました。そういう作業を続けて、自分をかなり初期の、もしかしたら、生まれた頃から振り返っていました。牧師様のお話も、その日の主題がわかると(たとえば、両親の愛、成人の意味、仕事について、等々)、自らについて思いめぐらせるわけです。すると、なぜか、驚くほどに明晰な回答が得られます。私はこれが気持ちが良くて、教会に行くのが結構好きになっていました。
ところが、同年6月17日、突如としてある疑問にぶつかりました。それは、「なんのために祈るのか」ということでした。
この時点では私はまだ神を受け入れてはいませんでした。よく理解の上、納得がいけば受け入れたいとかなり前向きで考えてはいましたが、この疑問にぶつかるまでは、そう慌てることもあるまいと、聖書すら殆ど読んではいませんでしたし、読みたいという気持ちもありませんでした。つまり、教会に通って、そこでなにがしか教えを受け、それを自分なりに解釈して心の平安が維持できるなら、信仰が得られなくても、それまでの自分の考えで十分と思っていたわけです。
あとから振り返ると、この疑問にぶつかったことは、神からの贈り物であったように思います。私は回答を見つけるべく、キリスト教とはどんな教えなのか、聖書には何が書いてあるのか、みんなどうやって神の存在を受け入れたのか、等々、ホームページを探して、まともそうなものを片っ端から読んでいくと同時に、日本語の聖書も手に入りましたので、新約から読んでいきました。
このように、もがく私を救ってくれたのは、韓国の信者の方でした。通っている教会の牧師様は、「祈ることは神様との対話だから、難しく考えなくてもいい」と教えてくださり、また、ある学生は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙第11章-1)という一節を示してくれました。
ここで私は、実は、自分が「祈ること、神に頼ること」を、本当にそのようにして求めてよいのかと、怖がっているのだということに気が付きました。本当は、「確かに信じてよいもの」がほしくて、救ってもらいたくてたまらないのですが、そうすることが、なにやら「苦しいときの神頼み」的で、ずるいような気もし、また、自分以外のものに頼ることは、自主性が破壊され、一層弱い人間になってしまうような気がしていたからでしょう。(この思いの解決には、もう少し時間がかかりました。また、別の機会にお知らせしたいと思います。)
このように、自分の中には、神を信じることを恐れる部分と同時に、信じたいと求めている部分があることがわかりました。怖がる心は、求める心の裏返しだったのです。その後、彼らと対話を続けるうちに、「祈っても、頼ってもいいのだ」ということが、なんとなくわかってきて、私の中で、神を受け入れたいという気持ちが強くなっていきました。
そして、6月21日深夜、私は明かりを消した自室で、初めてこれまでの自らの罪を告白し、その赦しを請い、「神を信じ、イエスをキリストと信じ、受け入れます」と唱えたのです。
救いを実感するまで
本日は、「イエス様の十字架」が自分を救ってくれるのだということが、実感を伴って胸に迫ってきた瞬間について証いたします。
2001年6月21日に、神様を心に受け入れようと初めて祈った私は、4つの福音書を読み終えました。流れの中で読んでいくと、聖書の言葉が何を意味するのかが、よくわかります。何故にこのたとえを用いられたのか、その意図も伝わってきます。少しずつでも聖書の言葉を自分のなかに取り入れていくに連れ、かつて、「祈っていいのか?信じていいのか?」と悩んでいたことも解消していきつつありました。
「イエス様が十字架にかかってくれて救ってくれた」というこの思いが実感を伴ってやってきたのは、その年の7月15日のことです。
通っている教会のその週の礼拝のパンフレットの挿し絵が、その日に限り、イエス様が羊をなでている、というものでした(その次の週からは再び変わっています・・今までどおり、教会に光が差している絵です)。私はその絵を見るやいなや、なぜか泣き出したい衝動に駆られました。
大勢の人の前で、突然、わけもなく泣くわけにはいかないと、どうにか切り抜けて家に帰りました。その夜、寝る前になって、ふとそのパンフレットを思い出し、鞄から取り出して、もう一度見てみました。すると、やはりこみ上げてくるものを押さえきれません。このときは部屋に一人でしたから、周りを気遣うこともなく、私は気の済むまで声をあげて泣きました。
なぜでしょう?
挿し絵は、優しげな眼差しのイエス様が、子羊を抱き、その元に寄ってきた別の(大人の)羊の頭をなでているというものでした。罪なきお方、私たちに救しを与えるため、人としてお生まれになり、救いの教えを説かれて、罪ある者の手で十字架にかけられた。それでも、慈愛に満ちあふれたお顔で、そばに寄ってくるものを受け入れておられる。私には、頭をなでてもらおうとイエス様に近寄っていった羊が、まるで自分であるかののように思えたのです。そして、その羊は拒否されることなく、優しげな眼差しをいただき、御手で触れてもいただけた。このとき初めて、私は赦され、そして、このお方が神に取り次いでくだされるのだと、理屈抜きで自分の中に受け入れられたように思います。
神はお一人なのであるとか、救いはイエス様の十字架なのだとか、当たり前のことのようでいて、そこを徹底的に理解しておかないと、根底から崩れてしまうときがあるように思います。私は、全能者(=神様)の存在は、比較的早くに受け入れることが出来たのですが、「神の子」とされるイエス様が、どうもいまいち理解できずにいました。十数年前、一度教会に行ってはみたものの、すぐにパス!となってしまったのも、これが一つの原因でした。
ですから、十数年前の挫折や、これまでの自分のイエス様に対するあやふやな認識・感情を知っている私にとって、今回、突然訪れた「気づき」は、奇跡と言いたいほどの出来事でした。
選ばれ、愛されていることの実感
本日は、私に、「自分が神から信仰を与えられる者として選ばれ、愛されているのだ」という実感がやってきたときのことをお話ししたいと思います。
2001年7月25日。夜、寝る前に聖書を読んでからと思って、コリント第一書を読みはじめたときのことでした。
「・・キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ・・」
ほんの触りを読んだところで、私は突然、泣き出したい感情に駆られました。
「神が私を愛してくださっている。私は神に愛されている」、そんな感覚が突如として心の奥底からわき上がってきたからです。
現在の世界人口が60億余。太古のアダムから数えたら、一体どれだけの人間がこの世に生を受けたのか・・その中の点に等しいような私、その私を神が選んでくださった。選んで信仰を与えてくださり、そればかりか、信仰を持つ以前の私の人生についても、すべてご計画くださっていた。これが「愛」でなくて何なんだろうか。
与えられたものは、私が主観的に、良いと感じたものも悪いと感じたものも、すべて神が私に良かれと、私だけのためにお考えになり、与えてくださったもの。そう思うと、これまでのすべてに感謝したい思いが溢れるようにわき出してきました。「罪つくりだ」と思った自らの行為ですら、私が救われるために計画していただいたのだと思うと、なんともいえず有り難くて・・。そういう罪を犯さなくては、私は悔い改めることが出来ず、それゆえ神は罪を犯すことさえも赦してくださった。これまで私が経験してきたことはすべて、私の今に不可欠であった。そのように考えると、何も否定することが見つからず、自分のすべてを受け入れようという気持ちに、自然と導かれたように思います。
人間は弱いのですね。他人に私は救えない。他人に頼っても無駄。ということは、人知(=学問のすべて)に頼っても、真の回答は出てこない。私にも私は救えない。たとえ自分のことであったとしても、自力で解決できることなど一つもない。人間に救いを求めても、絶対に見つからない。
心の底から、このように気がついて、私は人間に絶望するというよりはむしろ、今までよりも一段と、神を有り難く思い、神を求め、なにより、神の愛の深さ、そして、私自身が神によって愛されていることを溢れんばかりに味わったような気がします。
全的に依存するしかなく、しかもそのことは赦されているばかりか、それが神が望んでくださる人間のあり方であるように思います。事柄の大小を問わず、「自力でやるんだ」などと思うことは、人間の自立などでは決してなく、神への離反であり、、人間の傲慢にほかならないでしょう。なぜなら、私が一人で出来ることなど何もなく、私が一人でやっていることなど何もないからです。すべて、私を通して、神のみ技が現れているにすぎないのだからです。
そうであるとしたら、私を取り巻く状況、私の周りの人々も同じなのではないでしょうか?みんな気がついていないだけであって、自分の意志で生きているつもりでいて、実は神の支配下にあります。そうして、神はそれらの人達を通して、私を助けてくださる、私を鍛えてくださる、私を愛してくださる。彼らは皆、神の意志の伝達者であり、私に現れる状況は神からのご回答。
ああ、どうして私が、私を愛してくださる神の伝達者(=自分を取り巻く人たち)を憎むことがあろうか、愛さずにはいられません。また、なにゆえに私をこれほどまでに愛してくださる神が、神を受け入れ、すがる私に悪い状況をくださることがあろうか、すべては深く深くご計画の元に、私に良かれとくださるものに違いない。
なんて有り難いのでしょうか。これほどまでに私を愛してくださる方が、他に一体どこにいるといるでしょうか。私は断言できます、どこにもいないですよ。
そうすると、改めて告白したい気持ちになりました。
「罪深い私、その罪を過去から未来に渡り、すべてあがなっていただきました。ありがとうございます。神様によって完全をいただき、きよめていただきました。もはや私は神様にすがるしかありません。神様の愛を一身に受け、感じ、御心のままに生かされることを最大の喜びとして、兄弟姉妹を愛し、瞬間瞬間を感謝の気持ちで生きていきたいと思います。」
本当に自分が生まれ変わる思いでした。
神様を知って、イエス様を受け入れて、私は同時に"古い私"を十字架にかけたのかもしれません。最初の頃は、まだまだ古い時代が邪魔をして、ついつい自分の知識で解決を図ろうとすることが多く、「こんなことまで依存してはいけないのでは?」などと、妙な戒めを自身に課すこともあったのですが、だんだんとそれがなくなってきています。こうして、ひとつ気づかせていただくたびに、私がきよめられるような、み心に近づけたような、これまでには味わったことのない、幸福感に包まれています。
信仰のあり方について
今日は、私に「信仰のあり方」が聖書を介して伝えられたときの話をします。
2001年8月上旬、私は、信じているつもりでいて、すぐに迷ってしまう自分、なにより、一体どのように信じればよいのか、そのあり方に少しばかり戸惑いを覚え始めました。イエス様が信じられないとか、神様が信じられないというのではないのです。日々の生活の中で、どういう態度でいるのがいいのか、なぜかわからなくなってしまったのです。
暗中模索で答えを求めていた私。あるとき、使徒行伝が読みたくなりました。
16章19節以下です。伝導中のパウロとシラスは、むちで打たれ、足かせをつけられ、獄に入れられたあとも、神に祈り、賛美歌を歌い続けていました。その後、大地震が起きて、獄の扉が開き、他の囚人達が逃げ出したあとも、彼らはそこに留まります。彼らにおののきひれ伏す、獄吏の「救われるためになにをすべきか」との問いに、二人は「主イエスを信じなさい」と答えます。
私は、これだ、と思いました。同時に、獄につながれても、祈り、主への賛美を忘れなかったパウロの姿勢に打たれ、自分もこうありたいと心から祈らずにはいられませんでした。
一度信じて、それで終わりではないのです。この世を行く限り、誘惑は瞬間瞬間に襲ってきます。それに対し、無力な私は、神様を信じて、祈り続けるしかありません。否、有り難くも、神様を信じる以上は、祈り続けることが与えられているのです。
ふと、私は出来事の善し悪しに関する自己の視点からのどのような判断も、捨て去りたいと思いました。すべては神によって、私に良かれと作られている人生、そこに自身で意味を持たせては、罪の罠に陥るだけだということが、ぼんやりとわかってきました。
しかし、私はこのあとも、信じたあとも変わらず罪を犯す自分自身がはがゆく、行いと、罪の意識の関係について、すっきりと理解が得られず苦しみます。
受洗
本日は、私が洗礼を受けるに至ったプロセスについて、お話したいと思います。
私が神に出会い、その存在、そしてイエスがキリストであると信じ、心に受け入れるに至ったのは、意思疎通も満足にできない外国(韓国)においてでした。人間とは兎角、自身の経験からの知恵で、理解不能なことはいぶかる傾向にあるようです。私もご多分に漏れず、なぜ、言葉も通じない国で、信仰も無く、言葉の勉強のために通い始めた教会から、「信仰を持ちたい、終生に渡り、キリスト者として生かされてありたい」との思いが湧いてくるのかが、不思議でなりませんでした。言葉が通じる日本で受け入れられなかったのに、どうしてなんだ?という思いからです。
しかし、私がどれだけ自身を疑おうとも、私の心に灯った信仰の火は強まりはしても、消えようとはしませんでした。そして、ついには「洗礼を受けたい」との思いが生じ、それは次第に強くなっていきました。
「洗礼」・・この世的な考え方にとらわれ、霊的に盲目であった古い自分が死に、神にあって新しい自分が生まれる、なんと素晴しいことでしょうか。なんと有難ことでしょうか。そして私は、キリストに従い、永遠の命を得るのです。
そうは言うものの、正直に言えば、なんとなく躊躇する思いがないわけではなかったのです。その理由の筆頭は、イエス様をキリストと信じ、救われても相変わらず改まらない自分の罪深い行動にありました。当時、私の意識の中には、「洗礼を受けて正式なキリスト者になる(注:洗礼は、決してキリスト者であることの必要条件ではないので、この認識もおかしなものですが)」ということは、すなわち、欠点のない、もう罪を犯さない人間になること、という部分が少なからずあったように思います。つまり、まるで罪を犯さないようになることが、洗礼を受ける資格であるかのように思い込んでいたわけです。愚かな話ですが、意外と誰もが陥りやすい落とし穴ではないかと思います。そもそも、神の恵みによってしか義とされないというのに、この考え方では、まるで自分の努力により、救われると驕っていることになります。「驕っている」・・自分で思いついて、衝撃を受けた一言でした。良かれと思って考えていたことが、実は愚かであり、驕りであるという。神によって生きるということは、本当にこの世の常識という観念を完全に捨て去らないことには、感覚として得られないかもしれません。自分で頑張ることは、それこそが愚かなる驕りであり、ただひたすらに、自分の思いからの脱却と、神の想いに満たされることを願い求めなければなりません。これが何と難しいことでしょうか。
私はなかなか、この行動重視、罪を犯す=キリスト者失格、という発想から抜け出せませんでした。しかし、聖書を読み、み言葉を味わい、毎週送られてくる礼拝メッセージを読み、繰り返し繰り返し、行動が大事なのではなく、前提なのではなく、信じることがすべてなのだと自身に言い聞かせるうちに、だんだんと深く理解されていきました。
そういうわけで、「洗礼を受けよう」という思いはほぼ固まったのですが、次なる関門は「どこで受けようか」ということでした。当時私が通っていたのは、韓国にある教会でしたが、一時帰国の折りに通っていた日本キリスト教団七尾教会で、という選択肢もあるように思いました。いかがしたものかと、常時メールを通じてご指導を仰いでいた、ある伝道師様にお伺いしたところ、「そのことについても主にお委ねしては如何か」という名答が返ってきました。なるほど、早速そのような祈りを捧げ始めました。
反面、神様はどのようにして私に回答をくださるのだろうか?夢にでも現れてくださるのだろうか、また、私はそれが神様からの回答だとすぐにわかるのだろうか、と少しばかり案じてもおりました。
ところが、神様はすばらしかったです。回答は、すぐにそれとわかるものでした。 どういう具合だったかというと、その時から一番最初の日曜日、私は礼拝の場で神様に、「12月23日、日本で受洗したいのですが、それでいいでしょうか?」との最終の問いかけをしようと、教会へ向かいました。
ところで、着いた先で目にした光景は、教会の長老・執事を決める投票の受付をしている人々の姿でした。「そうか、今日は投票日だったのか。」投票権は教会登録者でかつ、洗礼を受けている人にしかありません。もとより、私には誰が候補であるのかすらわからなかったので、仮に投票権があっても、無縁のものだったでしょうが。
すると、その場を過ぎ去ろうとする私に、笑顔で右手を差し出す人があります。見ると、いつも私が教会の中で席を求めてさまよっていると、導いてくれる、執事の女性でした。その方は、右手で握手をし、左手で私の肩を抱きかかえながら、開口一番、「今度日本に帰ったら、洗礼を受けてきなさいね」と言いました。私は驚きました。そして、次の瞬間、私は、自らが抱えて出かけた問いかけの答えをいただいたことを知りました。誠に神様はすばらしいです。
そのときは、気が付かなかったのですが、今思うと、この出来事はすこぶる不思議なことでした。第一に、その日にそういった投票があるというのは、私はそこへ行くまで知りませんでした。洗礼が資格の一部になるという、そういう出来事がなければ、洗礼の話題など出てこなかったことでしょう。
さらに、意外なのは、実は、私はこの女性に対して、夏に、「韓国で洗礼を受けたい」と相談したことがありました。その際、この女性は韓国の牧師さまにその旨を伝えてくれ、韓国で洗礼が受けられるように取りはからってくれようともしたことがあるのです。それなのに、なぜ、いま、「日本に帰ったら」、「日本の教会で」、「受けて来なさい」(=これは、受けた後、再び韓国に戻ることを示唆しています。実際、女性の言葉は、あのあと、「そうすれば、投票もできるし、聖餐も受けられるし・・」と続きました)と言ったのか、ということです。「韓国で受けたい」という私の言葉を聞いているなら、「今度、ここの牧師さまから授けてもらいなさい」という言い方が、普通なのではないでしょうか。
このように、振り返ってみると、なにからなにまで不思議につながっています。そして、すべては「主のご計画」であることを実感します。今更ながらに有り難く、胸がいっぱいになる思いです。
こうして、私は2001年12月23日、日本キリスト教団七尾教会で洗礼を受けました。感激のあまり、号泣するのでは、と思ったのですが、そのとき胸に迫った思いは、感無量というよりは、あふれかえる喜びにも加えて、底知れず湧いてくる力でした。
苦境を越えて、再び信仰へ・・内灘教会との出会い
「忙しい」という字が、心を亡くすと書くのは、誠によくできているなと感心することがあります。韓国駐在2年目後半を迎えた私の状態は、まさに仕事等での多忙から、心を亡くしたものでした。
あれほど熱心に通っていた日曜毎の礼拝も、あるときには、ビジネス関係の来客の応対だったり、またあるときには、残り少なくなった駐在期間を活用しての韓国内旅行を優先したりして、行かなくなることが増えてきました。これに呼応するかのように、私の健康状態は徐々に、そして急速に悪化し、2002年8月末に派遣勤務を終えて、日本に帰国したときには、痛みで夜も眠れず、殆ど床から起きあがれないほどになっていました。
この状態は、一進一退を繰り返し、ついには入院生活までする羽目になりました。病室で、その年の初めから、私がしてきたことを振り返り、「なぜ仕事や遊びを優先して、教会に行かなかったのか」と、後悔しました。そして、これほどまでひどい病に陥ったのは、私に信仰がなかったからだとつくづく思いました。それから、一日も早く健康を取り返し、またぜひ礼拝に行きたいと、強く願い求めるようになりました。
3ヶ月にのぼる療養生活も収束に向かい、その年の暮れには退院、職場復帰も果たし、翌年(2003年)1月、どうにか日常生活に支障を覚えなくなってきた頃、そろそろ教会に行ってみよう、と思い立ちました。この間、金沢市内に転居もしていましたので、受洗した七尾教会に通うのはかなり骨が折れます。それで、家の近くでどこか良い教会がないかと、神様に、「どうか良い教会に導いてください」と祈りつつ、電話帳で探してみると、金沢市内にいくつか候補となる教会が見つかりました。当時、私には車がなかった(購入しようと発注はしていたが、納車がまだだった)ので、家から公共交通機関で行くしかないと思っていたのですが、バスを乗り換えて移動することは、まだまだ病み上がりの私には負担が大きいように思われたので、できることなら、車で通えるところがいいなというのが本音でした。
すると、その週の半ば頃、車を注文してあったディーラーから、「予想外に車が早く来たので、週末には持っていける」との連絡が来ました。当時、注文から納車には1ヶ月はかかるといわれていた人気車種だったのですが、結局1週間ほどで納車の運びとなりました。こうして、礼拝前日、土曜の夕方に、新車が届けられたのですが、その夜、「これは、車で行ける教会を探しなさい」ということにちがいないと思い、再び電話帳を開きました。そこで発見したのが、内灘教会だったというわけです。
教会までの道順を聞こうと電話をしてみると、牧師夫人らしき女性が明るい声で、親切に懸命に道案内をしてくれました。「こういう人がいる教会なら、選んで間違いはないだろう」と思いつつ、受話器をおきました。電話を切ってから、2年半ぶりにハンドルを握ることになる私が、無事に教会までの道のりを運転できるように、どうか雪が降りませんようにと、祈りました。
翌朝、北陸のこの季節には珍しく快晴の冬の道、私は新車で教会へと向かいました。そこは、韓国の教会に勝るとも劣らぬほどに明るく、温かい雰囲気で満ちあふれていました。忘れもしない、2003年1月最後の主の日のことでした。
その日より今日にいたるまで、出張や帰省で県外へ出ざるをえなかったときを除き、毎回礼拝へと招かれています。もはや礼拝が日々の生活の中心となっていますので、県外へ出たときでも、その土地の教会を訪ねています。そして、2003年夏、母教会である七尾教会と、内灘教会の承認を経て、教会籍をいただきました。天のみ国に既に居場所は作っていただいてはいますが、地上の教会に正式に自分の居場所が出来たということは、なんともいえない嬉しさでした。 
 
「氷点」論
 戦後状況における原罪意識の芽生え

 

1.はじめに
三浦綾子のデビュー作である『氷点』は、朝日新聞社の一千万円懸賞小説に応募し、当選した作品である。多大の注目を集めていたこの懸賞小説に、無名の一主婦が応じ、他の多数の応募作品を抑えて当選したことは、全国に大きな反響を呼び起こした。『氷点』は1964年12月9日から1965年11月14日まで朝日新聞に連載され、連載が終わった次の日に異例的な早さで単行本として刊行された。初版で5万部を印刷した本は当時17版まで続けて印刷し、約45万部が売れベストセラーとなった。そして、ラジオドラマ•映画•演劇などに領域を広げ、当時‘氷点ブーム’という社会現象まで巻き起こすほどの大変な人気を集めた。その後も持続的に放送の題材として話題にのぼり、最近でもテレビドラマとして脚色し放送された1。このように『氷点』は約40年あまりたった今でも影響力を及ぼしている作品として評価できる。
『氷点』は三浦綾子の代表作なだけに彼女の作品の中で一番よく研究がなされている作品である。しかし、研究のほとんどは作家の生涯と関連させ‘原罪’という主題をもとにキリスト教的な視覚で評価がなされている。これは作家自身が小説の主題について明確に提示しているとともに2、彼女は小説だけでなくいろんな自伝を通して、小説を書くようになった思想的背景や経緯、目的などをはっきりと示している作家であるため、このような観点から離れがたかったと思われる。しかし本稿では『氷点』の研究で主になされたきたキリスト教的な視覚から少し離れて、戦後文学の系譜に連なる作家としての評価に焦点を合わせて『氷点』を考察してみたいと思う。かつて『氷点』を戦後文学として評価した文芸評論家の高野斗志美は『存在の文学』で次のように述べている。
「『氷点』の作者はみずからいうように戦後の一時期を虚無と絶望のなかで生きた。おそらく氏は、戦中派としての自己の戦後意識を、キリスト者への転換によって原罪のうちへ秘匿し、単純化し、比較的純粋に自己に保有つづけたのだ。それゆえにと私はいわなければならぬのだが、『氷点』は、この意味で、あらゆる否定にもかかわらず戦後文学の変種であり、大衆が昭和三〇年代のおわりにおいて読むことができた戦後文学である。」3
戦後の虚無感と絶望感を経験した三浦綾子はキリスト教信者として生まれ変わることによって、戦後の意識がキリスト教的な概念である‘原罪’と繋がり、戦争や戦後の問題にこだわりながらこのような問題を‘原罪’の中に秘め、‘原罪’を正面に据えて描いていると説明している。また、彼は高度経済成長期に入り戦後の文学全体が停滞を経験せざるを得ない状況のなかで「『氷点』はまさに、戦後の文学総体の限界をつき破るかのような形」4であると論じ、戦後文学の突破口を提示した作品として評価を下している。
このように三浦綾子の『氷点』を戦後文学として評価する傾向がある。特に高野斗志美の主張を解釈したように、原罪という主題の中に三浦綾子の社会的な問題意識を含ませているという意味に同意する立場である。本稿では戦後文学としてのこのような脈略を継ぎながらも、『氷点』は戦後文学としての読みの可能性を考察し、作品の中心のテーマである‘原罪’を把握し、当時の日本の戦後意識を考察することを目的とする。‘原罪’というテーマを時代の中も投影してみることによって戦後の日本の人々の認識と時代の変化の様相が含まれていると見て、これらを通して戦後文学としての読みを拡張していくことを期待する。
2.作家の戦争体験:三浦綾子の文学の原点
「敗戦と同時に、アメリカ軍が進駐してきた。つまり日本は占領されたのである。そのアメリカの指令により、わたしたちが教えてきた国定教科書の至る所を、削除しなければならなかった。(中略)わたしは七年間、一体何に真剣に打ちこんできたのだろう。過ちを犯したということは無駄とは全くちがう。場合によっては、敗戦後割腹した軍人たちのように、わたしたち教師も、生徒の前に死んで詫びなければならないのではないだろうか。」5
これは三浦綾子自身が過去を回顧しながら自伝に記録したものである。三浦綾子は戦争中、小学校の教師として赴任し、教師として誠実に軍国主義教育の任務を果たしていた。しかし敗戦後、時代の流れが変わり、アメリカの占領軍は国定教科書の中に軍国主義が含まれている内容はすべて削除するように指令が下りる。教科書の内容を墨で塗り消すという事態に直面し、三浦綾子は今まで自分が学生たちに自負心を持って教えてきた教育が崩壊したことによって、教師としてまた人間としての信念が崩れ落ち、深刻に自己を反省し、結局は教職から離れ虚無的な人生を送り始める。このような敗戦直後の体験は三浦綾子にとって個人だけに限る問題ではなかった。彼女は直接学生たちに影響を及ぼす位置に当たっており、自分によって及んだ影響に対する責任感や罪悪感がのしかかり、戦争の記憶は自分の力では克服のできない辛い傷跡として残ったのである。そしてこの戦争体験は三浦綾子の人生において決して忘れることのできない大きな転換点となったのであった。
このような戦争体験をした三浦綾子の心境は、『氷点』の主人公である辻口陽子を通して現れているように思われる。
「一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、氷点があったのだということを。私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は「お前は罪人の子だ」というところにあったのです。この罪ある自分であるという事実に耐えて生きて行く時にこそ、ほんとうの生き方がわかるのだという気も致します。私には、それができませんでした。私はいきる力がなくなりました。凍えてしまったのです。」6
この引用文は『氷点』のクライマックスの部分で陽子が自殺を決意した後、遺書に残した文章である。どんなにつらいことがあっても自分は決して悪くない、自分は正しい、無垢であるという思いに支えられて生きてきた陽子であった。しかし、自分が殺人者の娘であることを知らされたとき、自分の力では阻止することのできない、自分の中の罪の可能性を見出し、生きる望みを失うほどの絶望感に覆われ自殺を試みるのである。このような様子は三浦綾子が敗戦後、教師として軍国主義教育という間違った方法で学生を教えてきたことを知ったとき、信念が崩壊し精神的な挫折感および虚無感を感じたことと一脈相通ずるものがある。
三浦綾子は長編小説である『氷点』を創作するとき、一番最初に書き上げた部分がこの陽子の遺書の章であったと述べたことがある。まさに、この遺書の部分を言い表すために小説を書いたといっても過言ではない。このような重要な場面が、作家の戦争体験と繋がっているということは示唆するところが大きい。それは、三浦綾子の人生においてターニングポイントとなった彼女の戦争体験は三浦綾子を作家として再び誕生させ、『氷点』を書き上げるようになった‘原点’であるということを示している。そして敗戦後に三浦綾子が感じた羞恥心や虚無感は三浦綾子の文学の中心のテーマとなっている‘罪’と繋がって表れているのである。
このように『氷点』は作家の直接的な戦争の体験や戦後の感情が含まれている作品であり、作家の戦争体験を基にした作品であるため戦後文学として十分読み取ることができる。
3.『氷点』の個人的な原罪
作家三浦綾子の戦争体験を原点にして書かれた『氷点』で設定された時期は、1946年(昭和21年)7月21日から17歳の陽子が自殺する1964年(昭和39年)1月までである。このような時期設定は作家が戦後を意識し、戦後の様子を描くために意図的に設定したものと考えられる。作家の三浦綾子が小説の主題について‘原罪’を訴えたかったとはっきり示しているように、作品に登場する人物はそれぞれ原罪を負っている人間として描かれていて、お互いが密接な関係で絡んでいる。ここでは特に主人公である夏枝と啓造に焦点を合わせ、人物の間の葛藤構造および小説のキーワードである原罪について明らかにしたいと思う。
まず、『氷点』のあらすじをみてみると、内科の医者で辻口病院長を務めている辻口啓造の妻である夏枝と眼科の医者の村井とが密会しているうちに、辻口夫婦の娘であるルリ子が絞殺されたまま発見される。啓造は自分を背信し、娘を死に追い込んだ夏枝に復讐をするため、友人の産婦人科の医者である高木を通して、ルリ子を殺した犯人の娘である陽子を養女として夏枝に育てさせる。しかし、7年後、偶然に啓造の日記を見て、陽子が殺人犯の娘であることを知り、巧妙な手法で陽子をいじめる。最後に陽子は自分が殺人犯の娘であることを知らされ、自分の中にある罪深さに絶望し、自殺を試み昏睡状態に陥る。しかし結局は陽子は殺人犯の娘ではなかったことが明かされるまでが『氷点』の大体の内容である。
1 夏枝の葛藤関係
夏枝は裕福な環境で育った平凡な人物でありながらも、典型的なエゴイズムの強い人間として描かれている。夏枝の原罪の様子は村井との関係の中でうかがえる。
「夏枝はあの時ルリ子を外へ出したのが自分であることを忘れたがっていた。責任を村井に転嫁したかった。村井のせいにすることによって夏枝は、心の負担を軽くしたかった。その身勝手さに夏枝は気づかなかった。」 7
夏枝と村井との密会が行われている間、わずか3歳であったルリ子が殺害されてしまう。しかし夏枝は母としてルリ子を守れず外に追い出したことについて痛感しようとはせず、ルリ子の死の原因が自分にあるということに対して‘心の負担’と感じ、罪の意識から逃れるため事件の責任をすべて村井に転嫁しようとしている。夏枝は自分の犯した罪を自覚していないだけでなく、自分を正当化する行為とともない他人に責任を追い詰めることもなお罪になるということを認識していない。夏枝の姿を通して、ごく平凡で優しくもあった彼女がだんだんと自己中心的な態度によって罪の堕落に陥る様子を見せることによって、人間はだれでも根本的な罪を犯しながら生きており、みんな潜在的に罪を犯すことのできる可能性を持っているということを訴えているように考えられる。
夏枝は陽子との関係の中でもっと強い自己中心的な姿を現す。陽子が殺人犯の娘であることを知った時、衝動的に両手で陽子の首を絞め殺そうとしたり、家族には平然と何の変わりもない生活をしているように見せかけながら、些細なことがらで巧妙にいじめはじめる。相手の立場は全く考慮せず、自己満足のために起こした行動である。特に、衝動的に陽子の首を絞めるという行為は、殺人犯である佐石がルリ子に犯した行為と重なり、これによって佐石が犯した犯罪行為は夏枝にも十分可能性があるということを証明している。このように瞬間的な衝動および潜在性によって罪を犯す姿を通して原罪という概念が提示される。夏枝の中にある原罪とは、自己中心的な姿であり、夏枝の自己中心的な心構えと行動は葛藤関係を複雑に絡む要素として作用するのである。次の場面は、夏枝のエゴイズムがピークに達した部分である。
「(何も死ななくてもいいのに)自分への面あてのように薬を飲んだ陽子を、夏枝は心の中で責めていた。かわいそうだと思うよりも、自分の立場も考えてみてほしいと夏枝は思っていた。(このまま死なれたら、人はわたしを何というだろう)」8
夏枝が陽子に出生の秘密を明かした後、陽子が自殺を試みた姿に接した夏枝の様子である。この部分は小説のクライマックスの部分で、17年間自分の娘として育ててきた陽子が自分の言行で自殺を図り死の間際にいるにもかかわらず、夏枝の姿には自己反省や過ちに対する悔いの様子はまったく見えない。むしろこんな瞬間でも自分が非難されるかもしれない状況を作り上げた陽子を責めているのである。普通、人間は死という存在の前では完全に無気力となり完全に降伏するものであるが、夏枝は最後までも自己中心的で自己愛が強く、自分の罪を罪と認識できない姿を現している。
2 啓造の葛藤関係
啓造は医者という職業に伴い、周りの人たちから信頼を得ている人物であるが、自我の理性的な感情と本能的な行動の間で葛藤している。次の文章はそのような葛藤をよく見せてくれる。
「その夜啓造は、自分自身の愚かさを悔いていた。
(何で佐石の娘を、夏枝に育てさせようと思ったのだろう)
(だが、あの時おれは夏枝をゆるすことができなかった)
(と、いって、ゆるさなかったばかりに、誰もかれも不幸にしてしまったではないか。
復讐しようとして、一番復讐されたのは自分自身ではなかったか)」9
啓造自身が犯した復讐劇が妻の夏枝に発覚した後、啓造の二つの内面がぶつかり合っている姿を現している。啓造は「汝の敵を愛すべし」10という聖書の言葉をいつも心の中にしまい、理性的に判断を行いそのような姿を保とうとするのであるが、彼の行動を結果的にみると本能的な衝動により動いている。夏枝が不倫を犯したことを知った時、面と向かっては何にも言わず自分の感情をあらわにしないのだが、そっと殺人犯の娘を育てさせることによって復讐を敢行する。また、理性的に考えたとき陽子には何の罪もない子だとわかってはいるのだが、殺人犯の娘ということを知っているため、無意識のうちに陽子に対して拒否反応を起こす。このように啓造の原罪は善と悪を区別することができる理性的な判断力をもっているにもかかわらず、本能的に悪の方を選択する彼の姿から原罪を見つけ出すことができる。
しかし啓造にはこのような原罪を克服しようとする意志が見られる。自分の中に潜んでいる二重的な内面と罪の意識とがぶつかり合いながら、自己の省察が行われている。特に、啓造は殺人犯である佐石に向かっていた感情が憎しみを含んだ敵対視する観点から理解関係へと移行する。その理由は佐石の容貌と成長過程(タコ部屋労働など)を知った後に、憎悪の感情より同情するようになったことと、啓造も佐石と似たような状況(小さい女の子が恐ろしい目で自分らをみつめた経験)におかれたとき、自分も殺人の衝動が起こったことを思い出す。ここで啓造は佐石と共感を形成し、自分も殺人の可能性を持っていることを認識し、人間にはそう大きな差がない存在であることに気づく。これで内面の罪を認識する段階に至る様子をうかがえるのである。
3 夏枝と啓造の相違
夏枝と啓造を中心として葛藤関係の様相とともに原罪意識について探ってみたが、彼らの共通する点として葛藤を起こす要素は自己中心的な態度だと言える。それぞれ自己愛が強いため、内面で受けている傷を表面には表さないのであるが、これによってお互いの誤解が積もり葛藤を生み出すのであった。しかし、この二人は原罪を認識する面において大きな差がある。夏枝の場合、他人に事件の原因と責任を転嫁し自分だけを正当化させ、罪の自覚が行われないのに対して、啓造の場合は人間の本能的な衝動で過ちを起こすのだが、だんだんと自分の罪の性質を問題化し省察するようになり、医者である自分も殺人犯とあまり違いのない罪を持っていることを発見する。夏枝の姿を消え去る罪意識と表現するならば、啓造は自覚する罪意識と言えるだろう。
このような夏枝と啓造が持つ原罪は、日常生活の中で起っていることを基に姿を現していることに着目してみたとき、このような事柄は小説の人物に限って起こることではなく、一般の大衆にも原罪の問題を呼びかけていることが感じ取れる。次の項目では分析した葛藤の様相を通して日本の戦後社会と結びつけて見ることによって、社会の内部に存在する問題点を対比して見てみたい。
4.戦後文学として読む:戦後に表れる社会的原罪
ここでは『氷点』に登場する人物と当時の社会像とを結びつけ、日本の戦後社会が持っている社会的不条理と繋がっている部分を考察してみたい。
1 社会的弱者に対する認識
「佐石は東京の生まれで幼時両親を関東大震災で一時に失い、伯父に養われて青森県の農家に育ち、昭和九年の大凶作に十六歳で北海道のタコ部屋に売られ、後転々とタコ部屋に移り歩いた。昭和十六年入隊、中支に出征中戦傷を受け、第二陸軍病院に後送、終戦直前渡道、日雇人夫として旭川市神楽町に定住、結婚した。内縁の妻コトは女児出産と同時に死亡」11
「タコの悲惨さは、想像以上であった。だから、憎い犯人であっても、佐石が十六歳の時、養父にタコ部屋に売られたということには同情ができた。(タコ部屋から軍隊に入り、戦地で負傷をして……とすると、なんだ、この男は自由な社会というものをほとんど知らないんじゃないか)」12
この引用文は『氷点』に記録されたルリ子の殺人犯である佐石の成長過程についての説明と、佐石の過去を知った啓造が感じた感情が記されたものである。佐石の生涯は関東大震災で孤児になり、東北の大凶作、北海道のタコ部屋労働、中支出征と戦傷、そして戦後の物不足と混乱の中で子供の出産とともに内縁の妻が死亡してしまう。佐石はまるで近代の日本が通った悲惨を一身に集約して背負わされたように見える。佐石が成長してきた周辺的な環境は彼を社会の下層民として落としいれ、彼は社会構造の中で力を行使できない弱者側に属するようになる。特に、彼の人生の大きな部分を占めていたタコ部屋労働は戦争が終了するまで北海道で行われた過酷な労働システムで、労働者をかなりの期間身体的に拘束して行われた非人間的環境下に置かれたものであった。彼らは北海道やサハリンの工場現場または炭鉱で過酷な肉体労働をさせられた。朝早くから晩遅くまで一日15時間以上仕事をさせられ、過酷な労働条件により労働者の脱走が相次ぎこの事態を防ぐため、外出禁止はもちろん作業場の出口を閉めたり監視するようになりご飯も立ったまま食べなければいけなかった。このような経験を持つ佐石によって小説の中心の事件であるルリ子の殺害事件が起こったということに注目をしてみる必要がある。佐石は原罪の始発点といえる事件を起こした主導者であるが、彼が犯行を起こした理由として彼の育ってきた周りの環境は佐石を鋭く荒い人間に育ち上げ、戦後疲れ果てた人生をいきているうちに神経衰弱にかかり犯行に及んだのである。結局、彼が犯罪を起こすことになった要因として、戦争時から続き戦後も弱者としての疲弊した生活から離れることのできない環境が関連していることがわかる。そしてこのような佐石の一連の生涯の課程は啓造によって説明され理解関係が形成される。娘を殺された啓造は憎しみではなく、同情の視線で佐石と向かい合い説明されることによって、弱者として代表される佐石を直視する大衆の視線は啓造と同じ観点としてみることになり、小説を通して大衆は戦後の状況において社会的弱者の存在について認識する段階に至ったのであろう。
2 記憶の忘却(消え去る罪意識)
「北原と陽子の前にすべてをしられる明日のことを思った。陽子は苦しむかも知れない。しかし被害者である自分たちだけが長い間苦しんできたのに、加害者側が何も知らずにいるということは、不当に思えた。陽子も苦しみをわかつのが当然だと夏枝は考えた。」13
「日本人のあいだに被害者意識が根を張り、この戦争の最大の犠牲者は自分たちだと多くの者が思ったとしても驚くにはあたらなかった。」14
この引用文はそれぞれ『氷点』と日本の敗戦後の状況を記録している『敗北を抱きしめて』から抜粋したものである。この文章の共通点として挙げられることは、客観的に見たとき加害者の立場にいるべき彼らが、自分たちは被害者であると思っていることである。夏枝は分析でもうかがえたように、自分の過ちについて気づかないまま自己中心的に思考し行動する人物として登場する。これらを総合して‘消え去る罪意識’を持つ人間として解釈したのであったが、このような姿は当時の社会像と照らし合わせて見たとき、戦争に対する記憶の部分と重なってくる。1950年代後半から日本は高度経済成長期に突入し、急速に成長を成し遂げ、1964年『氷点』が発表された同じ年にはアジアでは初めて東京オリンピックが開催され高度成長期の雰囲気はピークに至る。日本はもう戦争の傷跡を負っている敗戦国ではなく、戦後から脱戦後に向けて歩みだしていた。戦争の記憶を消し去るように社会や文化の面などで対外的に活発な動きがあった時期であった。日本の社会を表面的な部分を見れば、戦後すべての問題が克服されたかのように見えたが、内部の事情を踏み込んでみると戦争に対して過ちを犯した日本側の謝罪や戦争責任問題などが依然として残っていた。また急速に高度経済成長期を迎えた日本の人たちの心情には、戦後の絶望感や虚無感などが補われないまま社会の高揚された雰囲気についていかなければならない不安な心情的な問題なども発生した時期であった。このような状況の中で時期適切に登場したものが小説『氷点』であり、大衆は小説の人物を鏡のように照らし合わせ、人間ならば生まれながら持つ原罪という概念を接することによって、不完全で空虚な心情の回答を『氷点』の中で見つけたと思われる。
5.むすびに
三浦綾子の『氷点』の原点が作家の直接的な戦争体験であったということをベースにして、主に原罪というキーワードでテキストを分析し、これらを通して日本の戦後の状況および日本の大衆認識について考察した。特に、小説の中の人物を通してみた葛藤の様相と原罪意識を社会に適用してみたところ、社会の不条理を意識して表しているということがわかった。また、一般的に‘原罪’という言葉はキリスト教的な概念の枠内で使われるものであるが、ここでは‘原罪’いう概念を一般の大衆にまで拡大させ普遍性を持つ要素に仕上げている。
「他人の殺害を阻止するために生命を捧げず、腕を組んだままただ見ていただけだったならば、自分自身に罪があると思う。そのようなことが発生した後でもまだ私が生きているのなら、洗うことのできない罪となって私を覆う。」15
この文章は『記憶と忘却』という戦後処理問題について述べている本の表紙に書かれている文句で、戦争責任に対して開けた人たちの内部の心情が告白されているものである。まさに、このような罪の意識は、『氷点』で表している原罪と繋がりを持つ。この‘原罪’という概念は戦後の高度経済成長を果たし、安定的な生活風潮が定着していく中で、目まぐるしく過ぎ去ってきた戦後に忘れ去られていた過ち、つまり戦争や戦後の原罪を認識する要素として『氷点』は読者の大衆たちに役割を十分に果たしたと思うのである。

1 朝日テレビ「氷点2001」2001年7月〜9月放映, 朝日テレビ「スペシャルドラマ氷点」2006年11月放映
2 「私は『氷点』において“原罪”を訴えたかった。−原罪をテーマにした小説」『朝日新聞』,1964 年7 月10 日朝刊
3 高野斗志美『存在の文学』三一書房, 1968年-上出恵子『三浦綾子研究』双文社出版, 2001年,p.67 再引用
4 高野斗志美『評点三浦綾子−ある魂の軌跡』旭川振興公社, 2001年, p.134
5 三浦綾子『道ありき<青春編>』新潮文庫, 1980年, p.16〜19
6 三浦綾子『氷点 下』角川文庫, 1982年, p.343
7 三浦綾子『氷点 上』角川文庫, 1982年, p.96
8 三浦綾子『氷点 下』角川文庫, 1982年, p.354
9 三浦綾子『氷点 下』角川文庫, 1982年, p.130
10 三浦綾子『氷点 上』角川文庫, 1982年, p.22
11 三浦綾子『氷点 上』角川文庫, 1982年, p.57
12 三浦綾子『氷点 上』角川文庫, 1982年, p.62
13 三浦綾子『氷点 下』角川文庫, 1982年, p.310〜311
14 ジョンダワー『敗北を抱きしめて 上』岩波書店, 2004年, p.132
15 田中宏 外5人, 李奎秀訳『記憶と忘却』(原題『戦争責任•戦後責任』)サムイン, 2000年
  
布施の功徳

 

注目されている御住職?
先日、車を運転しながらラジオを聞いていたら、或る女性レポーターが、「今日は、いま注目の御住職をご紹介します」と言ったので、「何が注目されているんだろう?」と興味を持って聞いていました。
女性レポーターが、「ラジオの前の皆さんは、何が注目されていると思われますか?」と、視聴者に問いかけるので、益々興味を引かれ、耳をそばだてて聞いていると、彼女は、おもむろにこう言ったのです。
「実は、これからご紹介する御住職は、最近、無料の人生相談を始められたそうなんです。そうしたら、それがたちまち評判となり、沢山の相談が寄せられるようになったそうなんです」
こう言って、無料の人生相談を始められたという御住職を紹介されたので、私は、呆気にとられ、思わず失笑してしまいました。
何故失笑したのかと言いますと、まさか無料の人生相談がそれほど注目されるとは、夢にも思っていなかったからです。
勿論、毎日配達されてくる新聞には、時々「僅かな相談料でお悩みを解決します」とか「30分の相談料はお幾ら、1時間はお幾ら」と言う誘い文句を印刷した折り込み広告が入ってきたり、新聞の広告欄に、そういう寺院が紹介されていたり、テレビによく出てくる六星占術師が来県し、一時間幾らで人生相談が受けられるというような記事が載っていたりしますので、有料の人生相談がある事くらいは存じております。
しかし、仏法を知らない世間一般のカウンセラーや、四柱推命、風水、占星術、易、手相、人相、骨相、姓名判断など、様々な占いによって未来を予測する占い師、或いは、仏法の裏付けのない霊感や霊視に頼る一部の霊感者や霊能者などは論外として、いやしくもみ仏を信仰する僧侶の立場にある者が、悩み苦しみを持つお方から人生相談を受けるとなれば、当然、そのお方を導く手立ては仏法(悟り)しかありません。
仏教では、この世の真理である「法(理法)」と、真理を悟って一切の苦を解脱した「仏」と、仏が説かれた法(仏法)を伝える「僧(僧伽)」の三者を、「三宝」と言って、この世で最も尊いものの代名詞の如く説いていますが、三宝は常に不二一体であり、法を離れた仏も、仏を離れた法も、仏と法を離れた僧もありません。
法舟菩薩様が、『道歌集』の中で、
  仏法僧 法をはなれて仏なく
    法をはなれて また僧もなし
  仏法僧 僧をはなれて衆生なく
    衆生はなれて また僧もなし
と詠っておられるように、僧侶が悩み苦しむ人々を導く依りどころは、占いでも霊感でもなく、仏法(悟り)以外にはありえません。
而して、この仏法は、相談するお方の立場から言えば、スーパーでお野菜やお魚や果物を買うように、お金を払って買うものではありません。
また相談を受ける僧侶の立場から言えば、相談料を頂いて売るものではなく、あくまで悩み苦しむお方に施すべきものです。
つまり、三宝の一人に数えられる僧侶が行う人生相談は、それが仏法によるものである以上、無料であるのが当たり前なのです。
無料だからと言って、世間から注目を集めるようなものではありませんし、そのようなものであってはならないのです。
無料の人生相談が注目されるのは、有料の人生相談が世の中にあふれ、それが当たり前のように受け止められているからであり、当たり前の事が当たり前に為されていない証拠と言えましょう。
仏法を知らない占い師や霊感者ならいざ知らず、少なくとも仏法を知っていながら、有料の人生相談を当たり前と受け止めている僧侶がいるとすれば、嘆かわしい限りと言わざるを得ません。
何故なら、相談料の名目で対価を求める僧侶に、相談者が抱える問題を根本的に解決し、悩み苦しみから救えるとは到底思えないからです。
見返りを求めない無所得の心
仏教に、「四摂法(ししょうぼう)」(注1)という、苦しむ人々を救済(済度)する四つの手立てがありますが、四摂法の最初にあるのが布施です。
また「六波羅蜜(ろくはらみつ)」(注2)という、菩薩に成る為の実践徳目の最初にあるのも、やはり布施です。
「四摂法」や「六波羅蜜」の最初に布施がおかれているのは、布施が、人々を救済する手立てとして最も重要視されている実践徳目だからですが、私達僧侶が、法の施しをする時に心しなければならない事が一つあります。
それは、施しをした相手から見返りを求めてはならないという事です。どんなに立派な法の施しをしても、無所得の心でしなければ施しにはならないからです。
布施の功徳は、三毒煩悩の一つである貪りの心を離れさせる事にあり、法を惜しまない、物を惜しまない、一切を惜しまないのが、布施の心です。
布施は、あくまで布施する側から布施される側への一方通行であって、施す者は、その見返りを求めてはならないのが布施の大原則です。
法舟菩薩様は、『涙の渇くひまもなし』の中で、
人は誰でも施しをするときには、一切無所得の心をもってしなければなりません。施しによって利益を得ようとか、名利のためにするというのであれば、それは結果の期待というものであって、せっかくの施しも功徳とならず、相手ばかりか自らの心をも害(そこ)ねるもととなりましょう。
と説いておられますが、要するに、真の施しとは、ただ与えるだけであって、与えれば、もうそこでお終いです。そこから先の見返りを求めれば、その行為は、施しではなく、取引になります。
皆さんは、お賽銭箱にお賽銭を入れた後、「私のお賽銭はどのように使われるのだろうか?」とか「これだけお賽銭をあげたのだから、きっとご利益を頂けるだろう」などと考えるでしょうか?
お賽銭を入れたら、もうそこでお終いです。お賽銭の使い道やご利益の事まで考えるのは、執着以外の何ものでもありません。それでは、せっかくのお布施が取引になってしまい、皆さんの功徳にはなりません。
ましてや僧侶が、相手から相談料の名目で対価を要求し、法を説くなどという事は、断じてあってはならない事です。
布施は人のために非ず
そもそも布施行は、人の為にする行為ではなく、自分自身の為にするものであり、この世のみならず、あの世までも相続されてゆく善根の種蒔きなのです。
相手の為に布施をしているのではなく、その人のお蔭で善根の種蒔きをさせて頂いているのですから、本来ならお礼を言って感謝をしなければならないところであり、お金をとって人生相談を受けるなど、もっての外と言わなければなりません。
法舟菩薩様が、同書の中で、
「人間は、人の世話をさせていただくのに、あれもした、これもした、といって怒ったり後悔するような世話ならば、初めからしないことであります。世間にはよく、世話をしてやったのに礼も言わないといって怒る人がありますが、自分が善いことをして徳を積ませていただきながら、礼を言ってもらおうと期待することが愚かであり、間違っているのであります。人生とはこだまであり、人から礼を言ってもらおうと思わなくとも、誠でした行いならば、感謝の心が返って来るのは当然のことであり、またそれが善の果報というものでありましょう。従って、人に世話になっても礼をいうことの出来ない人間ならば、自分の徳を損じるばかりか、懺悔しなければならないときが必ずまいります」
と説いておられるように、せっかく功徳の種蒔きをさせて頂きながら、如何にもお金を施した、物を施した、法を施した、あれもこれも施したと考えるのは、布施の意味をまったく知らない証拠と言わねばなりません。
また真心でした施しなら、結果を求めなくても、必ず何らかの形で返ってきます。すぐに返ってくるか、徐々に返ってくるか、忘れた頃に返ってくるか、或いはどのような形で返ってくるかはわかりませんが、必ずより良き結果となって報われてきます。
しかし、対価を求めるような施しなら、いくら施しても、よりよき報いを得る事は出来ないでしょう。というより、対価を求める施しは、もはや施しではなく、取引行為になりますから、功徳の種蒔きにはならないのです。
無畏施の心を示した人々
一口に布施と言いましても、財施、法施、無畏施(むいせ)の三つがあります。
仏教では、これを「三施」と言いますが、「財施」とは、富める人が貧しい人々に金銭や、衣類、飲食などを施すことをいい、「法施」とは、正しい法(おしえ)を説き聞かせて迷いを転じて悟りを開かせることをいい、「無畏施」とは、他人が危難急迫するときに、わが身や財産を顧みず、これを投げうって救済することを言います。
今年(2013)10月1日午前11時半頃、JR横浜線の踏切の先頭で、電車の通過を待っていた近くの会社員、村田奈津恵さん(44歳)が、遮断機の下りた踏切内に倒れている男性(74)に気付いて助けようとして電車にはねられ、死亡するという痛ましい事故がありましたが、彼女の心を動かしたのは、危難に直面する人を目の当たりにして、手を差し延べずにはいられない無畏施の心でした。
平成13年(2001)1月26日(金曜日)の午後7時14分頃、JR山手線の新大久保駅で、泥酔してプラットホームから線路に転落した男性を救助しようとして線路に飛び降りた日本人カメラマンの関根史郎さん(当時47歳)と韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン)さん(当時26歳)が、折から進入してきた電車にはねられ、3人とも死亡するという悲しい事故がありましたが、この二人を動かしたのも、やはり無畏施の心でした。
更に遡れば、昭和22年(1947)9月1日、大村湾から長崎市に入る手前の長崎県時津町にある打坂峠で、長崎自動車の木炭バスが突然エンストし、ブレーキが効かなくなってズルズルと後退し始め、あわや崖下に転落するという時、車掌として勤務していた鬼塚道男さん(当時21歳)が、自らの体をバスの下に投げ出し、車止めとなって30名の乗客の命を救って亡くなるという痛ましい人身事故がありました。
当時は貧しい時代で、鬼塚さんの死に対し、何も報いる事ができず、また鬼塚さんの死は一部の人にしか語り伝えられなかったため、次第にその出来事は忘れ去られようとしていました。
ところが、24年後、乗客の証言に基づいて、その事件が小さな新聞記事になり、たまたまそれを目にした長崎自動車の社長が、大きなショックを受け、「こんな立派な社員がいた事を、我々役員は決して忘れてはいけない」と、その日のうちに役員会を招集し、会社で打坂峠のそばに記念碑とお地蔵さんを建てて供養する事になりました。
それ以来、鬼塚さんの供養祭が毎年行われ、打坂地蔵尊は、いつも美しい花で飾られ、お線香の煙が絶えないそうですが、鬼塚さんを突き動かしたのも、やはり已むに已まれぬ無畏施の心だったのではないかと思います。
鬼塚さんの事故の更に40年ほど前の1909年(明治42年)2月28日には、北海道の塩狩峠に差し掛かった列車の客車の最後尾の連結器が外れ、客車が暴走しかけるという事故が起こりました。
客車にはハンドブレーキがついていましたが、ハンドブレーキだけでは完全に停まりませんでした。
ちょうどその客車に乗り合わせていた鉄道院(旧国鉄の前身)職員の長野政雄さん(当時30歳)が、自らの体を線路に投げ出し、体をブレーキにして客車の暴走を食い止めたため、大事故は未然に防がれましたが、残念ながら、長野さんは、帰らぬ人となりました。
この事故の顛末を主題にして書かれた三浦綾子さんの小説『塩狩峠』の主人公となった長野さんは、キリスト教会の集会には欠かさず出席するほどの熱心で敬虔なクリスチャンで、いつ自分が神の愛の為に身を捧げる事になってもいいようにと、片時も放さず遺書を身につけていたそうです。
現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くには、顕彰碑が立てられ、いまも現地を訪れて、長野さんの冥福を祈る人が絶えないそうですが、彼の行動も、やはり神の愛と無畏施の心に突き動かされた行動であった事は間違いないでしょう。
顕彰碑には、次のように刻まれているそうです。
「苦楽生死 均(ひと)しく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ」
無財の七施
このような無畏施の心を示された人々はみな、人間が到達し得る究極の愛(慈悲)の姿を私達に教える為に遣わされた神仏の使者とも言えましょうが、それだけに、誰も彼もが、このようは無畏施の行動をとれる訳ではなく、これは、神仏に選ばれた者にしか為し得ない聖なる行動と言っていいでしょう。
しかし、だからと言って、この人たちの真似は出来ないと思う必要はありません。「無財の七施」と言われる、誰にでも出来る立派な施しがあるからです。
1、眼施(げんせ) やさしい眼差しで人に接すること。
2、和顔施(わがんせ) にこやかな笑顔で人に接すること。
3、愛語施(あいごせ) やさしい言葉で人に接すること。
4、身施(しんせ) 荷物を持ってあげるなど、自分の体でできる奉仕をすること。
5、心施(しんせ) 人の気持ちを思いやり、心をくばってあげること。
6、床座施(しょうざせ) 席や場所を譲ってあげること。
7、房舎施(ぼうしゃせ) 自分の家を提供してあげること。
「無財の七施」のように、施すお金や物がなくても、何がなくても、施しの心さえあれば、いつでも、どこでも、誰でもすぐに実践できるのが、布施行なのです。
道元禅師が、「布施というは貪らざるなり。我物に非ざれども布施を障(さ)えざる道理あり。その物の軽きを嫌わず。その功の実(じつ)なるべきなり。然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし。此生佗生(ししょうたしょう)の善種となる。一銭一草の財をも布施すべし。此世佗世(しせたせ)の善根を兆(きざ)す。法も財(たから)なるべし。財も法なるべし」(注3)と説いておられるように、たとえ、施すものがどんなに粗末な物であっても、僅かなお金であっても、道端に咲く名もなき一輪の草花であっても、計り知れない功徳を頂けるのが、布施行です。
そればかりか、人が施す姿を見て心から喜ぶ事も、また立派な布施行となります。
以前、電車に乗った時の事です。高校生が数人、座席に座って、携帯電話をいじりながら友達同士で話をしていましたが、そこへ一人のおじいさんが乗ってきたのです。すると、一人の男子生徒が、おじいさんの姿を見るや、すぐに席を立ち、「おじいちゃん、こっちへおいで」と言って、何のためらいもなく、おじいさんに席を譲ってあげたのです。
彼は、知らず知らずの内に、無財の七施の一つ、床座施を実践していたのですが、その光景を眺めていた私は、心の中で「素敵な光景を見せてくれて、ありがとう」と彼にお礼を言いました。周りの人たちの心にも、きっと幸せな気持ちが波紋となって広がっていったに違いありません。
このように、相手の尊い布施行を見て、讃え、喜び、自らもそうなりたいと願う心を起こす事も、尊い布施行の一つなのです。 合掌  
 
 
■人柱

 

人柱
人身御供の一種。大規模建造物(橋、堤防、城、港湾施設、などなど)が災害(自然災害や人災)や敵襲によって破壊されないことを神に祈願する目的で、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言い、狭義では古来日本で行われてきたものを指すが、広義では日本古来のそれと類似点の多い世界各地の風習をも同様にいう。
この慣わしを行うことは「人柱を立てる」、同じく、行われることは「人柱が立つ」ということが多い。人柱になることは「人柱に立つ」、強いられてなる場合は「人柱に立たされる」ということが多い。後述するとおり、ここでの「柱」は建造物の「柱」とは違うので「立てる」という表現は本来的でないにもかかわらず、連想が強く働くためか、慣習的に使われている。「人柱が○本立つ」という表現も同じ。
史実はともかくとして、人柱の伝説は日本各地に残されている。特に城郭建築の時に、人柱が埋められたという伝説が伝わる城は甚だ多い。また、城主を郷土の偉人として讃える為、「人柱のような迷信を禁じ、別の手段で代行して建築を成功させた」という伝説が残っているものもある。また、かつてのタコ部屋労働に伴って生き埋めにされた労働者も人柱と呼ばれることがある。工事中、労働者が事故死した場合に慰霊と鎮魂の思いを籠めて人柱と呼ぶ場合もある。
この場合の「柱」とは、建造物の構造のそれではなく、神道(多神教)において神を数える際の助数詞「柱(はしら)」の延長線上にある語で、死者の霊魂を「人でありながら神に近しい存在」と考える、すなわち対象に宿るアニミズム的な魂など霊的な装置に見立ててのことである。こういった魂の入れられた建造物は、そうでない建造物に比べより強固に、例えるなら自然の地形のように長くその機能を果たすはずであると考えられていた。この神との同一視のため、古い人柱の伝説が残る地域には慰霊碑ないし社(やしろ)が設置され、何らかの形で祀る様式が一般的である。
上記の例とはややニュアンスが異なる人柱も存在する。上記のタコ部屋労働の人柱のように不当労働や賃金の未払いから「どうせなら殺してしまえ」という理由で人柱にされてしまった例や、炭鉱火災が発生した際、坑内に残る鉱夫を救助することなく、かえって酸素の供給を絶つために坑口を封鎖したり注水する殺人行為を「人柱」と称することもある(北炭夕張新炭鉱ガス突出事故など)。小説などのフィクションにおいては、城の秘密通路を作成した作業員を秘密隠蔽のために全員殺害し、その死体を人柱に見立てるといった例もある。
伝説の考察
南方熊楠は自身の著書『南方閑話』にて、日本を含めた世界で数多に存在する人柱伝説について紹介している。書かれている人柱の呪術的意図に関しては、「ボムベイのワダラ池に水が溜らなんだ時、村長の娘を牲にして水が溜まった」とあるように人柱により何らかの恩恵を求めたものや、「史記の滑稽列伝に見えた魏の文侯の時、鄴の巫が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め洪水の予防とした事」、「物をいうまい物ゆた故に、父は長柄の人柱 ― 初めて此の橋を架けた時、水神の為に人柱を入れねばならぬと関を垂水村に構えて人を補えんとする」、「王ブーシーリスの世に9年の飢饉があり、キプルス人のフラシウスが毎年外国生まれの者一人を牲にしたらよいと勧めた」とあるように人柱によって災難を予防、もしくは現在起こっている災難の沈静化を図ったもの、「大洲城を龜の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒヂと名づくる娘が当って生埋され、其れより崩るる事無し」、「雲州松江城を堀尾氏が築く時成功せず、毎晩その邊(辺)を美聲で唄い通る娘を人柱にした」、「セルヴイアでは都市を建てるのに人又は人の影を壁に築き込むに非ざれば成功せず。影を築き込まれた人は必ず速やかに死すと信じた」とあるように人柱によって建築物を霊的な加護によって堅牢にする意図があったことが明らかとなっている。神話学者の高木敏雄によれば、建築物の壁などに人を生き埋めにし人柱をたてるのは、人柱となった人間の魂の作用で建物が崩れにくくなる迷信があったからだという。
なお、南方熊楠は『南方閑話』において座敷童子は人柱となった子供の霊であると書いている。そのほか、罪人が人柱となる話や、ある特殊な境遇の人間の血を建物の土台に注いだら建物が崩れにくくなるといった人柱同様の迷信が存在していたことも語っている。
もっとも興味深いのは、人柱の呪術的意図が変化することを語っている点である。「晝間仕上げた工事を毎夜土地の神が壊すを防ぐとて弟子一人(オラン尊者)を生埋した。さらば欧州がキリスト教と化した後も人柱は依然行なわれたので、此教は一神を奉ずるから地神抔は薩張り(さっぱり)もてなくなり、人を牲に供えて地神を慰めるという考えは追々人柱で土地の占領を確定し建築を堅固にして崩れ動かざらしむるという信念に変わった」
上記のようにその時々により、人柱の意味合いも変化していくことがわかる。
布施千造は、1902年(明治35年)5月20日に発行された東京人類学会雑誌第194号の「人柱に関する研究」にて、「人柱の名称」「人柱の方法」「人柱の材料」「人柱の起源」「人柱の行われし範囲」「人柱と宗教の関係」について書いている。「人柱の方法」については、自動的なものに、「名誉を遺さんとして人柱を希望するもの」「他人の為、水利を計らんとして身を沈むる者」とあり。他動的なものに、「突然拿捕せられて強制を以って人柱とせらるる者」「止を得ず涙を呑んで埋めらるるもの」とある。
逆に最近の研究では、特に城郭建築の人柱においては否定的な見解が多く、井上宗和は、「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない。人柱に変えてなんらかの物を埋めたものが発見されることは存在する」と述べており、興味本位の出版物を除くと、城郭の人柱については全否定されている。(井上「日本の城の謎」祥伝社文庫)
逆に北海道常紋トンネルの人柱のように、タコ部屋労働で苦役の末に死亡した作業員を埋めたものについては、北海道開拓の苦労を偲ぶ目的で研究が多く行われている。
伝説一覧
各地に見られる人柱伝説のうち、比較的著名なものをここに列挙する。なお、前述のとおり城郭建築については、人柱の代用品を埋めているケースが多いので、それもここに含める。人柱が立ったと考えられる当時を基準に古いものから順に記載するが、工期が数年にわたる場合、どの年に人柱が立ったかを特定することは難しいのが普通であり、また、何時代といったおおまかな時期さえ特定できない場合もある。
難工事が予想される物件で着工前から予定されている人柱(例:茨田堤)もあれば、万事順調に推移したとしても霊的加護を期待して実施される人柱もあったと考えられる。人の身で果たせる努力を尽くしてなお叶わなかった末の神(人間の所業を不首尾に終わらせようとして現に力を発揮している荒魂)をなだめるための人柱(例:松江城の人柱にされた娘)もあった。信仰心のあり様が大きく変容した近代化以降の場合は、現代的感覚でもって「迷信」と断じる近世以前の純粋で残酷な人柱とは異質な、信仰とは乖離した面の多い打算的あるいは謀略的な犯罪色の強い人柱が起こり得る土壌があった(もしくは、ある)と言える。常紋トンネルの人柱伝説や同種の伝説をモチーフとした創作物はこの類いである。 
伝説 1

 

猿供養寺村の人柱 1
鎌倉時代のこと、越後国頸城郡の猿供養寺村(現・新潟県上越市板倉区猿供養寺)を訪れた遊行僧が、地すべり被害の絶えなかった土地の人々のため、自ら人柱となって災禍を止めた。この話は長らく伝説とされていたが、1937年(昭和12年)3月10日、地元・正浄寺裏の客土中から大甕に入った推定年齢40歳前後の男性人骨(脚が太く腕は細いことから旅人であり肉体労働者ではなかったと思われる)が座禅の姿勢で発見され、史実であることが確認された。
猿供養寺村の人柱 2
寺野地区に於ける地すべりの沿革は800年前、鎌倉時代に遡る。現在の猿供養寺部落には、次のような伝説が語り伝えられている。
当時、この付近は山寺三千坊と言い沢山の寺が建立され栄えていた。しかし、当時から地すべりが起こる土地で、そのの被害は山林だけでなく仏閣や宅地にもおよび、開墾した耕地も使いものにならなくなるという惨劇が繰り返されていた。村人たちは精も根も尽き果て、土地に愛着はありつつも離散せねばならぬような苦難に追い込まれていた。
一人の旅僧がいた。信州から猿供養寺村に入ろうと黒倉峠にさしかかった際、急な雷雨に襲われ風雨を防ぐためにしばらく林の中で休んでいると、あたりが急に騒がしくなった。
何事かと覗くと宇婆ヶ池(黒倉山山頂にあり宇婆神社あり)のほとりに大蛇共が集まり「丈六山に”大ノケ”を起こして我々の住む大溜をつくらん、但し人間達がこれを知って、栗の枕木を造ってこれを使い、姫鶴川に”四十八タタキ”をし、生きた人を人柱とされたのでは”大ノケ”も出来なくなる。まさか人間どもは知るまい」との話をしていた。驚いて逃げようとしたところ、運悪く大蛇たちに発見されてしまった。
「我々の話を聞いたからには無事にこの峠を超えて村へ下る事はならぬ」と言われ命も危ないところであったが、旅僧は「私は盲目でしかもおし(注.差別用語/言葉が不自由の意)であるので何も聞こえなかった、ましてや仏につかえる身であれば必ず他言せぬ」という約束をし、ようやく難をまぬがれて猿供養寺村に辿り着いた。
ところが村は聞きしにまさる惨状。村のあわれな姿を見、且つ村人達から衣の袖にすがっての嘆願を受けた旅僧は、黒倉峠での大蛇との約束も破棄し「栗の枕木で四十八タタキと人柱」の秘訣を授けたのだった。
村人はこれを聞き、早速村総出でタタキを始め仕事は順調にすすんで行きますが、人柱の人選については幾日幾夜相談しても決まりません。これを聞いた旅僧は「私は大蛇との約束を破ったからには一命は亡きものと覚悟をせり、且つこの無限地獄そのままの災害を見ては僧侶の身として何で黙過出来ようや、衆生の苦難は我が身の苦難である。我、人柱となりてこの地すべりを防ぎ、この村を守らんとの決意を語う、我亡き後は七月一七日を我が命日として香花なりと手向けてくれよ」とて、みずから進んで”人柱”となられたという。
猿供養寺村の人柱 3 新潟県上越市板倉区猿供養寺
上越の奥深くにあるこの地区は、古くから地滑り災害が多発している。この人柱供養堂も、その地滑りの災害を防ぐために命を賭した人物を祀るために建てられたものである。
猿供養寺地区には以下のような伝説が残されている。ある盲目の旅僧が信州から越後へ抜けようとしてこの近くの峠を通りがかった時、大蛇たちがこの辺り一帯で地滑りを起こして住処の池を作ろうという密議をしているところに出くわした。運悪く大蛇に見つかった旅僧は、この密議を口外しないと誓わされて解放された。しかし、猿供養寺での地滑りの惨状を知った旅僧は大蛇の密議を暴露して、大蛇のはかりごとを妨害した。そして最後に残された妨害である「人柱を立てる」ことを成就させるため、大蛇の秘密を漏らして既に命を狙われている自らを人柱とするように頼み、そして埋められた。このことによって、大蛇たちのはかりごとは叶わず、この地区における地滑りは起こらなくなったという。
ここまでの話であれば、全国に各地に残された人柱伝説と同じようなものであったが、昭和12年(1937年)3月、この伝承が残る土地で客土採掘中に大甕が発見され、その中に座禅を組んだ状態の人骨を確認したのである。そして昭和36年(1961年)に、この人骨が関西系の40〜50歳の男性のものであることが分かり、この人柱伝説が事実であることと確かめられたのである。
現在のお堂は平成になってから建て直されたものであり、隣接して「地すべり資料館」という自然科学系資料館がある。またこの人柱供養堂は地滑りを食い止めた僧を祀るということで、合格祈願(「すべらない」ということ)のお守りを授与しているとのこと。
吉田郡山城の人柱代用の百万一心 1
毛利元就が築城した時、石垣がたびたび崩れる為、巡礼の娘を人柱にする話が持ち上がった。ところが元就が人命を尊重して人柱を止めさせ、「百万一心」の文字を石に書いて埋め、築城を成功させたというもの。吉田郡山城築城開始直後の1524年のことか。
百万一心 2
戦国時代の大名毛利元就が吉田郡山城(安芸高田市)の拡張工事(普請)の際に人柱の代わりに使用した石碑に書かれていた言葉。
百万一心とは、「百」の字の一画を省いて「一日」・「万」の字を書き崩して「一力」とすることで、縦書きで「一日一力一心」と読めるように書かれており、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」ということから、国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得ることを意味している。吉田郡山城の改築で本丸石垣の普請が難航したときに、人柱に代えて、本丸裏手の「姫の丸」(姫丸壇)にこの句を彫り込んだ石を埋めたところ、普請は無事に終えられたと伝わる。同じく毛利元就の教えとされる三矢の教え(三子教訓状を参照)と共に、一致団結の大切さを訴えた教えとされている。
この石碑は、文化13年(1816年)に長州藩士だった武田泰信が姫の丸で発見、拓本の要領で写しを取った後に、明治15年(1882年)に写し取った拓本を毛利元就を祀る豊栄神社(山口市)に奉納した。ただしこの逸話は、毛利家文書や閥閲録その他の一次史料には記載されていない。
その後、吉田全町をあげて郡山全山を探索したものの、礎石の実物は発見されなかったため、観光パンフレットなどには「郡山城最大の謎」と書かれている。昭和6年(1931年)には、吉田郡山城跡の中にある毛利一族の墓所境内に、その拓本を元に模刻した石碑が建てられた。
上述の通り、武田泰信の自書以外に史料が乏しいため、実際に元就がこの言葉を語ったかどうかは定かではない。また、百万一心の語は元々神道でも見られる言葉であることから、百万一心碑を人柱の代用にすること自体も含め、吉田郡山城が尼子詮久の大軍に包囲された吉田郡山城の戦いにおいて陶隆房と共に毛利の救援に駆けつけた、白崎八幡宮大宮司も兼ねていた大内家の武将・弘中隆包が、懇意にしていた元就に助言したことが始まりという説もある。
逸話
12歳の松寿丸(元就の幼名)が厳島神社を参拝したところ、泣き続ける5〜6歳ぐらいの少女を見つけた。この少女は母親と巡礼の旅をしていたが、ある城の築城で母親が人柱に選ばれてしまったという。幼い頃に父母と死に別れている松寿丸は少女に同情し、郡山城に連れ帰った。15〜16年の年月が経って、元服した元就が吉田郡山城主となった頃、本丸の石垣が何度築いても崩落するので困っていた。やがて、人柱が必要だという声があがったため、普請奉行は巡礼の娘を人柱にすることにした。娘自身も、元就に助けて貰ったお礼として喜んで人柱になると答えたが、元就は「その娘を人柱にしてはならぬ」と厳命。翌日、元就は「百万一心」と書いた紙を奉行に渡し、その文字を石に彫って人柱の代わりに埋めるよう命じた。そして、人柱を埋めずに人命を尊び、皆で心と力を合わせてことにあたるよう教えた。
百万一心 3
山口市の野田にある豊栄神社(とよさかじんじゃ)には、周防・長門(山口県)をおさめていた毛利氏の先祖である毛利元就(もうりもとなり)がまつられている。
その境内に、「百万一心」とほられた大きな石碑がたてられている。
土地の人は、」これを「ひゃくまんいっしん」と読んでいる。
この石碑の石は、毛利氏のはじめのころのしろ「郡山城(こおりやまじょう)」(広島県)の石垣からでたてきたもので、幅約60センチメートル、長さ約1.8メートルの自然石である。
この「百万一心」ということばには、次のようないわれが伝えられている。
いまから450年ほど前、毛利元就は、毛利の本家をついで郡山に入城した。郡山城はせまくて不便だったので、まもなく城を大きく建てますことになった。建てましの工事は難行(なんこう)した。 本丸(ほんまる 城のおもな建物)の石垣が、きずいてもきずいてもくずれてしまうのだ。そんなことが何度かくりかえされるうち、人柱を立てねばなるまいという話が、家来たちの間にささやかれるようになっっていった。そのころは、城や橋などのむずかしい工事には、人柱といって生きた人間を工事現場の土の中にうめて、神のいかりをしずめ、工事の成功をいのることがおこなわれていた。その話を聞いた元就は、「城の石垣をかためるために、人を生き埋めにしなければならぬとは、あまりにもざんこくだ。人のいのちは、そんなにかるがるしくあつかうものではない。城がかたく強くきずかれるのは、人びとが助け合ってこそできるものである。人柱よりも人びとが心を一つに合わせることのほうが大切である。」と、家来たちに話し、紙に「百万一心」とう字を書いた。そして、この字を、幅約二尺(約60センチメートル)、長さ約六尺(約1.8メートル)の石にほりこませてうめ、人柱にかえたということである。
「百万一心」の四つの文字の意味は、「みんなが力を一つにし、一つの心になってやれば、どんなむずかしいことでもできないことはない。」という意味であったといわれている。この人柱にかわる「百万一心」の教えは、元就がなくなった後も、ながく毛利氏に受け継がれた。毛利氏が安芸(広島県)からうつってくると、周防・長門(山口県)にも広くひろまっていった。山口県の各地に「百万一心」の石碑が建てられているのも、この古いいわれが広められたことをものがたっている。
江戸城伏見櫓の人柱 1
かつての江戸城伏見櫓(現在の皇居伏見櫓)は、徳川家康が伏見城の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、1923年(大正12年)に発生した大正関東地震(関東大震災)で倒壊し、その改修工事の最中、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されたこともあり大騒ぎになった。伝説を信じれば、1603年〜1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたことになる。江戸城研究家たちの間では、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることや、伏見櫓を解体修理した結果伏見からの移築物ではないことが明らかであることが分かっているため、人柱説には否定的である。徳川家康の慶長期築城以前に、城内にあった寺院の墓地の人骨であろうとされており、『落穂集』などの史料には、慶長期築城以前には、複数の寺院が城内にあり、慶長期築城の時に全て移転させられたことが明確だからである(鈴木理生・黒田涼・井上宗和らの説)。一説には、皇居と深い関わりにあった黒板勝美は宮内省から調査依頼を受け、実地見聞を1時間半程度行っただけで人柱否定説を打ち出してそのまま公的調査は終了したといい、その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれた。喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し、批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。なお、見つかった遺骨は震災の混乱の中、芝・増上寺で手厚く供養されたという。
江戸城伏見櫓の人柱 2
発掘された白骨は十六体 黒板博士宮城前を調査 人柱ではない――と語る
宮城正門脇の二重櫓下から発掘された人骨に就て宮内省では帝大の黒板勝美博士に依嘱して史実及び考証学上からこの人骨を研究する事となり、同博士は廿九日午後二時内匠寮の鹿児島事務官に案内されて現場に至り二時間に亙って詳細に調査を遂げた、去る二十五日の宮内省からの発表によると人骨八体、貨銭廿八個、土器三個を発掘した事になってゐるが博士が実地に調査したところによると発掘された人骨は実に十六体である事が判った、宮内当局者は二十三日以後発掘されたものは人夫等が秘密にしてゐたのであると云ってゐるが十六体の人骨は何れも粉末に近いもので頭蓋骨、脊骨、歯などが比較的原形を存してゐるばかりのもので種々の状況から推して年代も寛永以前の人骨と推定される。
築城の時の死亡者を葬ったものか
博士はやぐら下の地形、土じょう、骨格、貨銭、土器等を資料として考証学的見地からは左の如く語った。
「問題の人骨発掘の真相を確かめる為現場に行って各方面から観察して見た 今まで伝へられたところには種々の誤伝があった 又真相と全く異った事も沢山ある 第一発掘されたのは十六体で立姿してゐるなど云ったが実は皆横臥して居りその状態も乱脈なものである 発掘された場所は自然土中二尺から四尺五寸位の深さの所である 発掘された所は元は沙面でその上に八九尺の盛土がして一方は石垣が積まれてある、さてその骨が何であるかは問題だが人柱とはどうしても考へられない 第一数が多すぎるしその埋葬方法があまり粗末である ここが築城以前墓地であったとも考へられる節があるが、自分は種々の点から考へて江戸築城の際過って死んだ者の亡がらを一箇所に集めて葬ったものではないかと思ふ 丁度やぐらの下から出る所を見るとあるひは人柱の故事にちなんでここに埋めたとも考へられる ただ墓場とすれば土葬なら何かその形跡があるはずであり火葬なら骨がこんなにまとまってゐる訳がない さうして見るとやはり過失死者を簡単に葬ったものと考へられる なほ今日自分が見たところではたしかにまだまだ沢山埋められてゐる模様である」(大正14年 東京朝日朝刊)
月遅れのお盆も近づいてきたし、納涼も兼ねて……というわけではありませんが、今回は大正末期の皇居で起こった怪事件をお伝えします。当時は関東大震災からまだ2年後で、元は江戸城だった皇居も各所の櫓(やぐら)や門などが壊れ、当時の宮内省が修理に追われていました。二重橋の奥の土手上にある伏見櫓もその対象でしたが、工事のため基礎部分を掘ったところ、6月11、12の両日に4体の古い人骨が見つかりました。23日にも4体の人骨が出土したので大騒ぎとなり、宮内省は東京帝国大学の教授で文学博士の黒板勝美氏に調査を依頼します。29日に黒板教授が現地で確認したところ、実際には倍の16体分あると分かった――というのがこの記事です。
とりあえず現代の校閲記者の目でチェックしてみましょう。
いきなり本文冒頭に現れ、見出しにも取られている「宮城」(きゅうじょう)。漢字の意味から皇居のことだろうと類推はできますが、現在ではまず聞かない言葉です。実は太平洋戦争までは普通に使われた名称でした。1888年の明治宮殿完成の際に出された宮内省告示という、れっきとした根拠がありましたが、終戦後の1948年に廃止されたため、以後は一般的に「皇居」と呼ばれています。
現在呼ばれている「伏見櫓」ではなく「二重櫓」と書かれているのも気になります。なぜかは分かりませんが、この事件を扱う一連の記事を追っても同じ表現でした。二重橋の奥にあるから二重櫓なのか?と考えましたが、本丸に残る「富士見櫓」は当時の記事に「三重櫓」と書かれているので、外見を表しているようです。京都にあった豊臣秀吉の伏見城から移築されたという言い伝えが「伏見櫓」の由来とか。
次に「帝大」。東大の前身、東京帝国大学のことですが、帝大は一つではなかったはず……と調べてみると、当時は既に京都、東北、九州、北海道の各帝大も創設済みです。東京帝大は元々ただの「帝国大学」だったのが、1897年の京都帝大創設の際に「東京帝国大学」と改称されました。記事が書かれた時代ではやはり「東京」があった方がよいでしょう。
黒板教授の談話に移ります。しゃべったままを書いたためか、全体的に分かりにくい文章です。特に発掘場所を説明した箇所がよく理解できません。「発掘された場所は……の所である発掘された所は」と、同じ言葉が繰り返されているせいでしょう。どちらか一方を抜くか、違う表現にするかして、整理してもらいましょう。
直後の「元は沙面でその上に八九尺の盛土」にも首をかしげます。「沙」は砂のこと。二重橋のあたりは築城時に埋め立てられた「日比谷入江」に面していたので砂地があったのかもしれませんが、櫓はかなり高い所にあり、そこまで砂が関係するのか疑問です。「沙面」を「斜面」の間違いと考えるとどうでしょう? これもよく分からない「自然土」という表現が、「盛土」をかぶせられる前の斜面のことなのではないかと思えてきます。石垣が「一方」だけに積まれているのも、斜面だからではないでしょうか。
「八九尺」も、「八十九尺」(約27メートル)と「八から九尺」(約3メートル)のどちらなのか……。石垣が水面から櫓までびっしり続くのではなく、水面と櫓の土台部分それぞれに積まれている現状からすると、3メートルが正解のように思えます。当時は「十」の有無で書き分けていたのかもしれませんが、「八から九尺」などとすれば紛れがありません。
こうして「築城時の事故による死者」という結論を一応出した黒板教授ですが、色々な可能性を検討して迷っているようでもあり、確信には至っていない印象です。わずか2時間の調査ですから仕方がないのかもしれませんが、実際のところ、これらの人骨はどうしてここに埋まっていたのでしょうか?
都市史研究家の鈴木理生さんは、著書「江戸の町は骨だらけ」の中で、太田道灌が築いた小さな江戸城の周囲にはいくつもの寺があったと指摘します。徳川の江戸城は、それらの寺をすべて立ち退かせて拡大していきますが、墓の下の遺体も一緒に移転していったわけではない、というのです。しかもその墓は、後に江戸城の堀となる谷筋を利用した「人捨て場」のような粗末なものでした。黒板教授はそうした昔の風習を知らなかったため、「埋葬方法があまり粗末である」ことにこだわって、事故で死んだ者を隠すように埋めた跡、と判断してしまったというわけです。
昔の人の、なかなかワイルド、というかドライな遺体観にはため息が出ますが、同時に私は、16体の骨が人柱(ひとばしら)ではなかったことに心底ホッとしました。なにしろ人柱とは、土木や建築の難工事の成功を祈り、神の心を和らげるために人を生き埋めにすることなのですから……。
常紋トンネルの人柱 1
難工事の末、1914年(大正3年)に開通した常紋トンネルは、1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷したが、1970年(昭和45年)に改修工事が行われた際、立ったままの姿勢の人骨が壁から発見され、出入口付近からも大量の人骨が発見された。タコ部屋労働者(略称:タコ)が生き埋めにされたことについて、当時のタコやその他関係者たちの証言もあったが、特殊な状況を示す遺骨群の発見によって、かねてより流布されてきた怖ろしげな噂のうち人柱の件は事実であったことが証明された。
常紋トンネルの人柱 2
北海道旅客鉄道(JR北海道)石北本線にある単線非電化の鉄道トンネルである。生田原駅と西留辺蘂駅の間にあり、常呂郡(旧・留辺蘂町、現・北見市)と紋別郡(旧・生田原町、現・遠軽町)を結ぶ常紋峠下を通る。本トンネルの西留辺蘂駅側には常紋信号場、金華信号場(旧・金華駅)がある。
同じ石北本線の石北トンネル(北見峠)同様、人気の全くないこの区間は同線の難所の一つであり、標高約347 m、全長507 mのトンネルを掘るのに36ヶ月を要し1914年(大正3年)に開通した。同年には標準軌複線の大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)奈良線の生駒トンネル(3,388 m)が33か月の工期で完成しており、10年以上前の1902年(明治35年)には既に中央本線の笹子トンネル(4,656 m)が71か月の工期を要しながらも完成している。これらに比べ本トンネルは工期は平均的である。
タコ部屋労働と現代の人柱伝説
本トンネルは凄惨過酷なタコ部屋労働で建設されたことでも有名である。施工当時、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく体罰を受け、死ねば現場近くに埋められたという。山菜取りに来た近隣の住民が、人間の手や足の骨を拾ったという話もある。1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷し、1970年(昭和45年)にその改修工事が行われた。常紋駅口から3つ目の待避所の拡張工事の際、レンガ壁から60センチメートルほど奥の玉砂利の中から、頭部に損傷のある人骨が発見された。ある保線区員は「みんなが『人柱』だといってました」「ほかにも埋まってる可能性があると思います」と語っている。1980年(昭和55年)、当時の留辺蘂町(現在は広域合併により北見市に編入)によって金華信号場西方の高台(金華小学校跡地)に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられた。 
常紋トンネル 3
北海道の常紋トンネルは囚人を人柱にして作ったトンネルなので幽霊が出ると言う話は有名です。今は閉鎖してますが。常紋トンネルは、囚人労働が廃止された大正元年から三年がかりで建設されたトンネルだから「人柱」の噂になっているのは、タコと呼ばれる労務者のことだよ。常紋トンネル付近には、苛酷な労働によって死亡したタコの死体が埋められているらしく、その数は百数十人と言われている。「常紋トンネル」という本の中に、トンネルの補修中、壁面から人骨が発見されたとの話が載っている。これが、人柱なのか、単なる死体遺棄なのか、タコを暴力でまとめるための見せしめなのかわからない。  
伝説 2

 

茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ) 1
『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれ、築堤に大変苦労したことが次のように記載されています。
この工事は非常に難しく、2か所の切れ目をどうしてもつなぐことができません。天皇はたいへん心配していたところ、ある日夢の中に神が現れて「武蔵人強頸(こわくび)と河内人茨田連衫子(まんだむらじころものこ)の二人を川の神に供えると、堤はできあがるだろう。」と言いました。
さっそく天皇は二人を探すように命じ、探し出された二人のうち強頸は泣く泣く人柱となり、堤の1か所はこうしてつながりました。
しかし、衫子は「私は二つのひさご(ひょうたん)を持ってきた。私を望んでいるのが真の神であるならば、これを流しても沈んでしまって、浮かばないだろう。もしも浮いて流れるのなら偽りの神だから、私は人柱になることはできない。」と言って、ひさごを流しました。すると急に旋風が起こり、ひさごを沈めてしまったと思うとすぐに浮き上がり、下流へ流れて行ってしまいました。
衫子は知恵を働かせたので人柱にならずにすみ、無事堤を完成させました。2か所の切れ目は強頸絶間(こわくびたえま)・衫子絶間(ころものこたえま)とよばれてきました。
仁徳天皇13年(『日本書紀』)には茨田屯倉(まんだのみやけ)が設けられ、この地域一帯が朝廷によって管理・運営されたことが記されています。
『古事記』には、「秦人(はだびと)を役(えだ)ちて茨田堤及び茨田屯倉を作れり」と記しています。秦人とは渡来人のことで、渡来人によって大陸の優れた土木技術が用いられ、完成することができたのでしょう。
淀川のそばに「太間」と書いて「たいま」と読む地名があります。これは「絶間」がなまってこのようによばれるようになったといわれています。当地では、この難工事の物語が伝説として語り継がれています。
昭和49年(1974)に「淀川百年記念」事業に関連して淀川堤防上に碑が建てられました。淀川の方を向いた表面に「茨田堤」と彫られ、その脇には「まむたのつつみ」と添え書きされています。
茨田堤と強頸・衫子 2
『日本書紀』「巻第十一の十 仁徳天皇(仁徳天皇11年10月の条)」の伝えるところによれば、暴れ川であった淀川の治水対策として当時は広大な低湿地であった茨田(まんた、まんだ。のちの河内国茨田郡[まんたのこおり]、現在の大阪府守口市・門真市の全域、寝屋川市・枚方市・大東市・大阪市鶴見区の一部に及ぶ範囲)に茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(ちぬのうみ。現在の大阪湾)に落とす工事にかかったが、茨田地域にどうにもならない絶間(たえま。断間とも記す。決壊しやすい場所)が2箇所あって万策尽きてしまった。そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神から「武蔵国の人・強頸(こわくび)と河内国の人・茨田連衫子(まんたのむらじ ころもこ)の2名を人身御供として川神に捧げて祀れば必ずや成就する」とのお告げを得、かくしてただちに2名は捕らえられ、衫子は策を用いて難を逃れたが、強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められたため、堤は完成を見たという。江戸時代の『摂津名所図会』によれば、強頸が人柱にされた「強頸絶間」の跡は絶間池(非現存。大阪市旭区千林)として残っていた。現在は千林2丁目の民家に「強頸絶間之址」の碑が建っている。
茨田堤 3
仁徳天皇(オオササギ王)が淀川沿いに築かせたとされる堤防である。
『日本書紀』仁徳天皇11年10月の記事に、「天皇は、北の河の澇(こみ)を防がむとして茨田堤を築く(天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた)」との記述があり、茨田堤の成立を物語るものとされている。
古墳時代中期は、ヤマト王権が中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期であり、ヤマト王権にとって瀬戸内海は重要な交通路と認識されていた。そのため、ヤマト王権は4世紀末〜5世紀初頭ごろに奈良盆地から出て、瀬戸内海に面した難波の地に本拠を移した。本拠となる高津宮は上町台地上に営まれたが、その東隣の河内平野には、当時、草香江(または河内湖)と呼ばれる広大な湖・湿地帯が横たわっており、北東からは淀川の分流が、南からは平野川(現代の大和川)が草香江に乱流しながら流入していた。上町台地の北からは大きな砂州が伸びており、この砂州が草香江の排水を妨げていたため、淀川分流や平野川からの流入量が増えると、容易に洪水や高潮などの水害が発生していた。
新たに造営された難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていたので、ヤマト王権は、治水対策の目的も併せて、河内平野の開発を企てた。そこで、草香江に流入する淀川分流の流路安定を目的として、堤防を築造することとした。堤防は、当時の淀川分流の流路に沿って20km超にわたって築かれており、当時、この地方を「茨田」といったので、「茨田堤」と呼ばれるようになった。茨田堤の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに現存しており、実際に築造されたことが判る。
このような長大な堤防を築くには、高度な築造技術を要したはずであり、かなりの困難も伴っただろうと考えられている。先述の『日本書紀』の仁徳天皇11年10月の項には、続いて次のような記述がある。
「どうしても決壊してしまう場所が2か所あり、工事が難渋した。このとき天皇は「武蔵の人コワクビ(強頸)と河内の人の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を、河伯(川の神)に生贄として祭れば成功する」との夢を見た。そこで早速二人が探し出され、それぞれの箇所に1人ずつ人柱に立てられることとなった。コワクビは泣き悲しみながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、「自分を欲しければ、このヒョウタンを沈めて浮き上がらせるな。もしヒョウタンが沈まなかったら、その神は偽りの神だ」と叫んで、ヒョウタンを投げ入れた。もちろんヒョウタンは沈まず、この機知によってコロモコは死を免れた。結果として工事が成功した2か所は、それぞれコワクビの断間(こわくびのたえま)・コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれた。」
そのまま史実ではないだろうが、類似した状況が発生していたと推測されている。「コワクビの断間」は現在の大阪市旭区千林、「コロモコの断間」は寝屋川市太間に当たるとする伝承がある。京阪電車大和田駅の東北にある堤根神社の本殿の裏には、茨田堤の跡と推定される堤防の一部が現存している。
『日本書紀』には、茨田堤を築造してほどなく、茨田屯倉(まむたのみやけ)が立てられたとある。茨田堤によって水害が防がれたことにより、茨田地域が開発され、屯倉として設定されたのだと考えられている。その後奈良時代に入っても茨田堤はたびたび決壊し、多くの人々が苦しんだとの記録が残っている。長岡京建設の直後である延暦4年(785年)にも茨田堤が決壊、この年、淀川の水を放流するために淀川と神崎川を水路で結ぶ大工事が行われている。
茨田堤の築造と同時に堀江の開削という事業も実施されており、この両者は、日本最初の大規模な土木事業だったとされている。
長柄橋 1
「キジも鳴かずば撃たれまい」という諺の語源となった。
「嵯峨天皇の御時、弘仁三年夏六月再び長柄橋を造らしむ、人柱は此時なり(1798(寛政10)/秋里籬島/攝津名所圖會)(なお推古天皇の21年架橋との説もある。)」と長柄橋の名は、古代より存在した。しかしこの長柄橋は、現在の場所とは異なる場所にあり(当時は川筋が現在とはかなり違った)、現在の大阪市淀川区東三国付近と吹田市付近とを結んでいたとされているが、正確な場所についてははっきりしない。
弘仁の時代に掛けられたこの橋は、川の中の島と島をつないだものだったようだが、約40年後の仁寿三年(853年)頃、水害によって廃絶。周辺がたびたび氾濫し川幅が広かったことや、9世紀後半が律令政治が弱体化した時期でもあったことで、杭だけを水面に残し中世を通じてついに再建されなかった。しかし、摂関時代以後の中世に、この存在しない橋が貴族たちの間で「天下第一の名橋」と称され、歌や文学作品に多数取り上げられることとなった。和歌のほとんどは、水面にわずかに残った橋桁を詠んだものであり、貴族階級たちが没落した我が世と対比して、長柄橋を建立した律令時代の華やかさへの憧憬と願望をこめたものとなっている。たとえば、赤染衛門は次のように歌を詠んだ。
「わればかり長柄の橋は朽ちにけり なにはの事もふるが悲しき」
また、鎌倉時代の歌人藤原家隆は次の歌を残した。
「君が代に今もつくらば津の国の ながらの橋や千度わたらん」
貴族階級のこの意識に支えられて、長柄橋は「幻の名橋」と位置づけられ、能因法師が「長柄橋架設の際に出た」と称する鉋屑を秘蔵していて、貴族たちをうらやましがらせたという話や、後鳥羽上皇が橋柱の朽ち残ったもので文台を作らせ和歌所に置いた話など、いくつもの挿話が形成されている。
民間での伝承では、長柄橋の人柱に関する伝説が残っている。これは南北朝期にはすでに東国方面まで知られていたもので、神道集には次のような説話が記されている。
「むかし長柄橋を架設するとき、工事が難渋して困惑しきった橋奉行らが、雉の鳴声を聞きながら相談していると、一人の男が妻と2、3歳の子供を連れて通りかかり、材木に腰掛けて休息しながら、「袴の綻びを白布でつづった人をこの橋の人柱にしたらうまくいくだろう」とふとつぶやいた。ところがその男自身の袴がそのとおりだったため、たちまち男は橋奉行らに捕らえられて人柱にされてしまった。それを悲しんだ妻は「ものいへば父はながらの橋柱 なかずば雉もとらえざらまし」という歌を残して淀川に身を投じてしまった。」
神道集のこの説話は大坂地方の人々の間に広く語り継がれ、若干変形した形で近世の随筆類に散見されることとなった。よく知られたものに、以下のようなものがある。
「推古天皇の時代(飛鳥時代)、長柄橋の架橋は難工事で、人柱を立てることになった。垂水(現在の吹田市付近)の長者・巌氏(いわうじ)に相談したところ、巌氏は「袴(はかま)に継ぎのある人を人柱にしなさい」と答えた。しかし皮肉にも、巌氏自身が継ぎのある袴をはいていたため、巌氏が人柱にされた。 巌氏の娘は父親が人柱になったショックで口をきかなくなった。北河内に嫁いだが、一言も口を利かないので実家に帰されることになった。夫とともに垂水に向かっている途中、禁野の里(現在の枚方市付近)にさしかかると一羽の雉が声を上げて飛び立ったので、夫は雉を射止めた。それを見た巌氏の娘は「ものいわじ父は長柄の人柱 鳴かずば雉も射られざらまし」と詠んだ。妻が口をきけるようになったことを喜んだ夫は、雉を手厚く葬って北河内に引き返し、以後仲良く暮らした。」
現在の大阪市淀川区東三国に、古代長柄橋の人柱碑が残っている。長柄人柱伝説は、「長柄の人柱」や「雉も鳴かずば撃たれまい」という「口は災いのもと」という意味のことわざの由来とされている。
長柄橋の人柱 2
推古天皇の時代(飛鳥時代)、古代の長柄橋の架橋は難工事で、人柱を捧げなければならないという状況になった。そのことを垂水(現在の吹田市付近にあたる)の長者・巌氏(いわうじ)に相談したところ、巌氏は「褌(はかま)に継ぎのある人を人柱にしなさい」と答えた。しかし皮肉にも、巌氏自身が継ぎのある褌(はかま)をはいていたため、巌氏が人柱になった。巌氏の娘は北河内に嫁いだが、父親が人柱になったショックで口をきくことができなくなったため実家に帰されることになった。夫とともに故郷に向かっている途中、1羽の雉が声を上げて飛び立ったので、夫は雉を射止めた。その様子を見た巌氏の娘は「ものいわじ父は長柄の人柱鳴かずば雉も射られざらまし」と詠んだという。妻が口をきけるようになったことを喜んだ夫は、雉を手厚く葬って北河内に引き返し、仲良く暮らした。現在の大阪市淀川区東三国に、古代長柄橋の人柱碑が残っている。長柄人柱伝説は、「長柄の人柱」や「雉も鳴かずば打たれまい」という「口は災いのもと」という意味のことわざの由来とされている。
長柄橋の人柱 3
むかし難波の入り江は八十島といはれたほど州が多く、そこに架けられた橋はよく流された。推古天皇の御代に、垂水たるみの里と長柄ながらの里のあひだに、橋を掛け直すことになったといふ。二度と流されることのないやうにと、垂水長者の岩氏いはじは、袴に継ぎのある者を人柱にすべしと進言した。ところが言ひ出した長者自身が継ぎ袴を着けてゐたため、人柱となったのである。
橋が無事に完成してのち、長者の娘は、北河内の甲斐田かひた長者に嫁いだが、いつまでたっても口をきくことができなかった。とうとう垂水の里に帰されることになって、里近くの雉子畷きぎしなはてまで来たとき、一羽の雉子が鳴き声をあげて飛び立った。甲斐田長者がこの雉子を射ると、それを見てゐた妻が突然歌を詠んだ。
ものいはじ。父は長柄の橋柱。鳴かずば雉子きじも射られざらまし
夫は妻が口をきけるやうになったことを喜び、甲斐田の里へ連れ戻って、幸せに暮らしたといふ。
『神道集』によると、垂水長者が人柱になったとき、その妻は幼児を背負ったまま川に身を投げたといふ。そのとき歌を残した。
ものいへば長柄の橋の橋柱。鳴かずば雉子のとられざらまし
この妻は橋姫と呼ばれ、里人は橋姫をあはれんで橋姫明神をまつったといふ。
水神の信仰には古く母子神が関ってゐるらしい。柳田国男によれば、各地の沼や河辺に伝はる竜神と人身御供の話は、類似の話が多く、諸国を巡遊した山伏や比丘尼びくにによって広まった物語であって、歴史的事実を伝へるものではなからうといふ。
久米路橋 1
1917年(大正6年)発行の『日本伝説叢書』に、犀川に架かる久米路橋(水内橋)にまつわる人柱伝説についての記述があるので、要約して以下に紹介する。
「梅雨のたびに流されてしまう久米路橋に、村人たちは困り果てていた。何とかして川の神の怒りを鎮めようと、村で知恵者といわれた老人に意見を求めた。するとその老人は、自分たちの川の神に対する敬意が足りない、次に橋を架けるときは一人の村人を人柱にして神に供えよう、しかし罪もない者を人柱にするのは可哀想だから囚人を使おう、と提案する。そこで、庄屋から小豆の俵を盗んだ罪で捕らえた男を牢屋から引き出し、橋の杭の下に生き埋めにした。その男は村の外れで暮らす貧しい百姓で、お菊という名の娘がいた。お菊が自宅で毎日赤飯を食べていると言いふらしていたため、不審に思った役人が話を聞いたところ、その男が愛娘のために盗みを働いたことが分かった。父親を人柱に失って以来、お菊はずっと悲しげな顔をして、一言も口をきかなくなってしまった。それから母親の手一つで育てられ、17歳になる頃には道行く人も思わず足を止めるほどの美人になっていたが、口のきけない娘を妻にする男は現れなかった。ある日、軒下で佇んでいたお菊は、鳴いたキジを狩人が鉄砲を使って撃ち落とす光景を目にする。黙っていれば命は助かったものを、父は私がしゃべったせいで死んだ、また誰かを死なせることのないよう、決して口をきくまい、と言ってお菊は再び口を閉ざし、それから一生口をきくことはなかった。」
この民話は1957年(昭和32年)発行の『信濃の民話』にも「おしになった娘」という題で収録されている。これは下高井郡山ノ内町上条の高橋忠治による話を作家の松谷みよ子が再話したもので、娘(お菊)が「もりい」、父親が「五作」、母親(故人)が「おてい」という名前になっていたり、物語の最後で娘(もりい)が失踪するなど、『日本伝説叢書』のものと異なる点がある。菅忠道は「おしになった娘」について、「民話の再話と再創造の分岐点に立っているといえるような記念碑的な作品」と評価している。
久米路橋 2
お菊は犀川に架けられた久米路橋のほとりに住んでいました。お菊の住んでいる村は川が荒れるたびに土手は崩れ、橋は流され、田畑は水をかぶり、村人の暮しは一様に貧しく、年貢が払えずに夜にげする者も沢山ありました。
お菊が九才にになったある冬、もうじき正月というのに、お菊は大病になってしまいました。お菊の家も貧しく、病気のお菊に米の粥一杯煮てやれません。熱にうなされたお菊が糸のようにか細い声で「赤まんま、赤まんま……。」と言ったのです。今までなにひとつねだったことのないお菊が、じっとがまんしていた「赤まんま」を聞いて、お菊の父親は夢中で名主の倉に走っていたのです。
役人達が小豆泥棒をつかまえるためにお菊の村にやって米ました。元気になったお菊はじっとしていられません。まりをもちだすとトントンつきはじめました。
″トントントン おらちじや 赤まんまくったぞ トントントン″
このうた声が役人の耳に入りました。
「こんな貧乏な家の子が、小豆まんまくえるはずがねえ。ぬすっとはこの家のもんだ!」こうして、お菊の父親はなわをうたれてしまいました。
ちょうどこの頃、久米路橋は大雨のために流されてしまいました。かけてもかけても大雨が降るごと橋は流されてしまいます。そこで村人達は集まって「こんなに大雨の降るたびに橋が流されるのは、村うちに不心得な者かおる。水神様の怒りであるから、その水神様の怒りを鎮めるために、橋の下に人柱をたてる必要がある。」と、とうとうお菊の父親は橋のたもとに生きながら埋められてしまったのです。
父親を久米路橋の人柱にささげたお菊は日ごと夜ごと泣き続け、この泣き声は村人の心をかきむしりました。こうしてどのくらいたったでしょう。お菊はある日、ふっつりと泣くのをやめました。いいえ、黒い大きな眼からたらたらと涙を流しながら、ひと声も出さなくなったのです。
お菊は口がきけなくなってしまったのです。
こうして何年かたちました。その唇は固くとざされたままでしたが、もう、お菊は美しい娘でした。
秋の日も暮れなずむころ、お菊は久米路橋の袂にじっと坐っていました。と、林の奥で一声きじの鳴く声に、すかさず鉄砲のはねる音がしました。お菊の頭上に、今撃たれたきじが、バサバサと落ちてきました。まるで、お菊目当てにとんできたとしか思えないきじを抱いて、お菊の固く閉じられていた唇が開きました。
「かわいそうに……。お前も鳴いたりしなけれぱ、撃たれることもなかったろうに……」
お菊の目から涙がこぼれました。
「わたしもねえ、一言言ったばかりにお父さんを殺してしまった。」
お菊はきじを、なんども優しくなでました。
「お菊、われ口がきけただか!」
おどろいて猟師がかけよりましたが、もう振り返りもせず、林の中に消えていきました。その日からお菊の姿は村から消え、だれ一人見た者はいなかったといいます。
もの言わぬお菊 3
お菊は犀川に架けられた久米路橋のほとりに住んでいました。その頃村人の暮しは一様に貧しい生活でした。そして、お菊の家もまた貧しかったのです。
あるとき村の金持ちの倉から小豆が一俵盗まれました。役人達は小豆泥棒をつかまえるためにお菊の村へやって来ました。お菊は村の子供達と遊びながら「おらあ毎日小豆のまんまを食べているだ」と話しました。
それを聞きつけた役人達は、お菊の父を犯人として牢獄へいれてしまいました。その頃の久米路橋は、大雨の降る度ごとに流されていました。そこで村の人達は集って「水神の怒りを鎮めるために、橋の下に人柱を沈める必要がある」として、罪人であるお菊の父を犀川に架ける久米路橋の支柱の下へ埋めてしまいました。
父親を久米路橋の人柱にされたお菊は、それから以後、唖のように物を言わなくなってしまいました。その後、雉の鳴声をたよりに狩人が、その雉を射とめたとき、それを見てお菊はたったひとこと口をきいたのです。
「雉も鳴かずばうたれまいものを」と言ったきり、また唖のようにだまってしまったそうな。
大輪田泊と松王丸 1
平清盛の治世下にあって日宋貿易の拠点港とすべく大輪田泊の建造が急がれていた頃、工事にあたって旅人を含む30名もの罪無き人々が人柱にされようとするのを清盛の侍童(さぶらいわらわ、じどう)であった松王丸(まつおうまる)が中止させたという伝説がある。しかし異説によると、松王丸が入水して人柱になったことで工事は成し遂げられたのだという。また、経文を記した礎(いしずえ)を人柱の代わりとして海に沈めたことが分かっており、そういった石は考古遺物としても確かめられている。このようにして造られた人工島は「経が島」と呼ばれるようになった。
松王丸 2
承安年間(1171〜75)、平氏(へいし)が、たいへん栄えていたころの話です。平清盛(たいらのきよもり)は、兵庫に都を移して、中国の宋(そう)と貿易をしようと考えていました。そのためには、大きな港が必要でした。
そのころの兵庫の港――大輪田の泊(おおわだのとまり)と呼ばれていました――は、北風は六甲(ろっこう)の山並みにさえぎられ、南西の風は和田岬(わだみさき)にさえぎられていましたが、南東からの風は防ぐものがなく、この向きから大風がふくと、船が出入りすることもできませんでした。清盛は、ここをもっと安全な港にしようと考えたのです。南東からの風や波を防ぐためには、港のおきに島を築いて防波堤にするしかありません。そのため、会下山(えげやま)の南にあった塩槌山(しおづちやま)を切りくずして、その土砂を海へ運ぶことになりました。
しかし、機械の力もない時代です。仕事はなかなかはかどりません。深い海に土砂をうめて、あと少しというところまでくるのですが、そのたびに潮に流されてしまいます。どうすれば工事がうまくゆくのか。清盛は陰陽博士(おんみょうはかせ)に占わせてみました。「島を築くには、海中の竜神の怒りをしずめなくてはならない。そのためには、三十人の人柱を、海にしずめて竜神に供えるとよいだろう。」 これが占いの答えでした。
清盛はさっそく、生田(いくた)に関所を設けて、人柱にするために旅人をつかまえ始めました。つかまえられた人たちや家族の泣き声が、和田の松原にひびきわたったといいます。
清盛には、そば仕えの少年が何人かいました。その中のひとり、讃岐国(さぬきのくに)の武将の子、松王丸(まつおうまる)という十七歳の少年は、つかまえられた人たちの悲しみを見かねて、清盛に言いました。「人柱などというむごいことは、おやめください。私が三十人の身代わりになりましょう。」
はじめ、清盛は聞き入れませんでした。けれども松王丸はあきらめず、何度も何度もくり返し、清盛にうったえました。
ついに、清盛も松王丸の申し出を聞き入れました。松王丸は、石の櫃(ひつ)に入れられ、白馬の背に乗せられて港へと運ばれました。そして、千人の僧侶の、読経(どきょう)する声がひびく中で、海の中へとしずんでいったのです。
人々は涙を流しながら、お経を書き写した大小さまざまの石を海へ投げ入れました。
こうして、波を防ぐための島は完成し、「築島(つきしま)」と呼ばれました。たくさんのお経をしずめたので、「経ヶ島(きょうがしま)」とも呼ばれます。
その後清盛が築島の完成を祝ったとき、西にそびえる高取山の山頂からわき上がった紫色の雲が、築島の上をおおい、美しい楽の音とともにたくさんの仏が現れました。その中に松王丸の姿もありました。やがて松王丸の姿は、如意輪観音(にょいりんかんのん)へと変わり、金色の光を放ったといいます。清盛は、松王丸をとむらうために、この地に寺を建てました。それが、経島山来迎寺(きょうとうざんらいこうじ)のはじまりだそうです。その境内には、今でも松王丸の供養塔(くようとう)が残っています。
庄内川の十五の森 1
昔、現在の愛知県春日井市松河戸町にあたる地域では、毎年のように庄内川が氾濫していた。明応3年(1494年)、村人がそのことで氏神の境内で話していると、陰陽師が通りかかったので相談した。陰陽師は「水神様に15歳の娘を捧げれば、水神様の怒りはおさまる」と告げ、15歳の娘をもつ親たちがくじ引きを行った。その結果、庄屋矢野家の娘が人柱に決定し、親子は泣く泣く受け入れる。6月29日、悲嘆のうちに白木の箱に入れられた娘は、頻繁に堤防が決壊する場所に埋められた。娘はそれから1週間棺の中で生き、一緒に入れた鐘を叩く音が地中から聞こえたという。それから水害がなくなり、村は平和となった。当時、埋められた場所に雑木林があったため、そこが「十五の森」と呼ばれるようになった。
庄内川の十五の森 2
昔このあたり一帯は、庄内川の水域で湿田が多く雨期になると毎年のように堤防が決壊し、多くの被害を出していました。
今からおよそ500年前の明応3年のこと。出水期を迎えた村人達が氏神の境内で相談していた時、一人の占い師が通りかかったので助けを乞うと、占い師は「水神に15歳の少女を生けにえとして捧げれば水神の怒りはおさまる」と説きました。そこで村人がくじを引いたところ、時の庄屋に当たり、親子は泣く泣くこれを承諾し、梅雨時に土手に埋められることになりました。少女は白木の箱に入れられ、埋められましたが、地上では娘の鳴らす鐘の音が7日7晩つづいたといいます。
それから水害もなくなり、平和な村となったということです。この跡を十五の森と呼び、村人達は小祠を建て薬師如来を安置しました。これを江戸時代の中頃に観音寺に移し、毎年命日には供養がなされ、供養の歌・踊りも奉納されて昔をしのんでいます。また、親子地蔵が昭和44年5月に建立され、そのかたわらには、「十五の森の由来記」が石に刻まれています。
庄内川の十五の森 3
話は、何百年もまゃぁのこと。ほの年はどえりゃあ雨の多え年でなも。まゃぁ日、まゃぁ日ザーザー・ザーザー、雨ばっか。庄内川の水がどんどん増えて村人は、不安でゆううつで、「えらゃぁこったなも。庄屋さま、どうにかならんかなも。」みんなはせつなゃぁため息ばっかり。
ほうしとる時、旅のうらない師が通りかからゃぁた。訳を話すと「こりゃあ、水神さまのたたりじゃ、ことし十五になる生娘を、庄内側の土居に埋めなされ!ほうすれば、治まる。ほうせなんだら、村は、おしまゃぁだぞ」
さあ、えらゃぁこっちや。十五の生娘を持った家の者は、みんな真っ青。ほりゃほうだわなも。いっくら村のため、みんなのため言ったとて、かわいい娘を生き埋めに・・・ こまった庄屋さんが、「くじ引きにしよう」言いやった。十五になる娘を持った親たちは、ぶるぶる、ぶるぶる手ふるわかゃぁて、くじ引かゃぁた。すると、庄屋さまの一人娘が、人柱のくじに当たってまゃぁた。「かんにんしてくれ。・・・かんにんしてくれ。・・・」庄屋様は、娘に手あわせて泣かゃぁた。
人柱になる日、庄屋さまの娘は、しろぇい着りもん、着せられて、白木の箱に入れられて庄内川の土居の・・・暗りぁ土の中に埋められゃぁた。みんなが悲しがって泣ゃぁとったらなも、息抜きに立てたる、竹筒から、かわええ声で歌う、娘のわらべ歌が、聞こえてきたんじゃと。
「つぼどん、つぼどん、お彼岸まゃぁりに、いこまゃぁか、・・・・・」土の中から聞こえてきたんじゃと。まっくらな土の中で、こわゃぁ怖ゃぁを、ちいさゃぁときに憶えたわらべ歌で、まぎらしとったんだわなも、かわゃぁそうに。・・・ 日たち、二日たちするうち、だんだん娘の声は、ちいさなってった。「つぼどん、つぼどん・・・」ほんで、三日目には、なんにも聞こえんようになってまった。 庄屋さまも、村の衆もみんな、泣ゃぁて、泣ゃぁて、泣きあかゃぁたと。
丸岡城 1
1576年(天正4年)、息子を武士に取り立てることを条件に人柱となったが、果たされなかった「お静」の伝説が残る。丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を立てることとなった。城下に住む貧しい片目の未亡人「お静」は、息子を士分に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出た。その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、天守の工事は無事完了した。しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を士分にする約束は果たされなかった。それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという。毎年4月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれをお静の涙雨と呼んだ。現在城内にはお静の慰霊碑が残っている。
丸岡城(霞ヶ城) 2
むかしむかし、丸岡城(まるおかじょう)が築城(ちくじょう→城を建てること)された時のお話です。
どうしたことか、丸岡城は何度建てかけても、城がくずれてしまって建ちませんでした。お城を建てる責任者は、最後の方法として人柱(ひとばしら)を立てることを考えました。そして、人柱の希望者をつのりました。でも、自分から命を犠牲(ぎせい)にして、城の下に入る者などいるはずがありません。ですから希望者が見つかるまで、築城は中断することになりました。
さてその頃、丸岡の城下町(じょうかまち)に、片目の女が息子と住んでいました。女は片目のうえ体も悪いので、とてもまずしい生活をしていました。その片日の女は、人柱のことを聞いて、(どうせ自分は長生きできない。このまま自分が死んでしまったら、かわいい自分の息子はどうなってしまうのだろう? もし息子が幸せになるならば) と、自分が人柱になってもよいと、奉行(ぶぎょう)に願いでました。
「私は人柱になります。そのかわりどうか、息子を武士(ぶし)に取り立ててください」
「うむ、約束しよう」
片日の女は奉行との約束を信じて、人柱になりました。城は無事に完成しましたが、どういうわけか、息子は武士に取り立ててもらえませんでした。
それからは夏になるたびに、お城の堀(ほり)の水面いっぱいにもがしげり、毎年一回は、もをからなければなりません。そしてその日はきまって、小雨がしとしとと降りだすのです。
「あら、いとし、片日の女の涙雨」と、町の人々は母心をいとおしみました。
また、お城には片目の蛇が住んでいたのですが、それは片日の女の怨霊(おんりょう)だといわれています。
伝説「人柱お静」 3
これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正四年(一五七六)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので人柱を入れるように進言するものがあった。そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮しをしていた片目のお静であった。お静は一人の子を侍に取りたててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。
お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は、"お静の涙雨"と呼び小さな墓をたて霊をなぐさめた。
「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。
丸岡城(霞ヶ城)の伝説 4
伝説 1
丸岡城の天守 一度ならず一度、三度と崩れ落ちる石垣に、ついに人柱を立てることになった。そこで選ばれたのが、美しい生娘でなく、お静という夫に先立たれた後家。しかも、二人の子持ちのうえ、片眼を失明していた。お静は、二人の息子を侍に取り立てることを条件に、石垣の底奥深く埋められた。お陰で石垣積みは見事に完成し、その上に天守も立った。だが、お静の約束は、果たされなかった。お静の怨みは、やがて亡霊となり、その姿は片眼の蛇となって城の井戸深く棲みつくようになった。そして時折現れては、恨みごとを述べたという。今もその井戸は、本丸跡に『蛇の井』と呼ばれて残っている。また、お静が人柱に立たされた四月中旬になると、きまって長雨が降り続き、これがまた、誰いうことなく『お静の涙雨』と呼ばれるようになった。堀の藻を刈り取る時の作業唄にも、『堀の藻刈りに降るこの雨はいとしお静の血の涙』と唄われるようになった。『蛇の井』と呼ばれていたかどうかは記憶にはないが、地元に育ち、お城のまわりを遊びまわった子供の頃、たしかにお城には、防護網を掛けたそう深くもない空井戸があった。
伝説 2
ある時、奇襲によって、城は幾重も包囲された。老いも若きも剣、弓を手にとって防戦につとめた。敵前にむかった男どもは全滅。美しい姫が女中どもの指揮をとった。姫はつぶらな眸に無念の露を湛えて『生きて落城の憂き目を見んよりは、死してなお城を守らん』と、して玉の肌の紅葉を散らせた。敵勢は破竹の勢いをもって、軍馬を進め、ついに出丸の攻略にかかった。その折、俄に霞が吹き出した。敵兵の一寸前は闇と化した。ここで、寄せ手は退却、城は無事であったが、この霞は姫の化身だった。今もこの伝説の井戸が天守入口近くに霞の井戸として残る。
伝説 3
城の別名『霞ヶ城(かすみがじょう)』にちなむもので、そのいわれは、もともとこのお城には守護神の大蛇が棲んでいて、いざの時に、霞を吐いて城を包み隠すからだというのである。元来、この地は『継体(けいたい)天皇』発祥の地で、城のあるこの丘は、天皇の第二皇子椀子(まるこ)王を葬った所と言い伝えられている。古くは、『麿留古平加(まるこのおか)』と呼ばれていた。それが『丸子の岡』となり、やがて『丸岡』という地名を生んだとされる。だから、この椀子皇子が大蛇に化身し、霞を吐いて、この地を守護してくれるのだという。しかし、実際には、この地方は九頭竜(くずりゅう)川の支流竹田川が流れていることもあって、気象的に朝な夕なに霞がよく立ち込める多雨多湿の土地であるというのが、本当のところのようだ。
芋川用水 1
一説に江戸幕府開府と同じ1603年(慶長8年)頃の伝説。信濃町戸草地籍に、鳥居川から芋川用水への取り入れ口がある。取り入れ口の脇に水神が祀られていて、毎年4月20日の水揚げに水神際がここで行われる。伝承によると、清水戸右衛門の妻ふみは、「用水の掘削事業に巨額な費用と多くの犠牲を払っても、取り入れ口に上水しない夫の苦労を見かね、自ら人柱となり入水した。すると用水には満々と水が上水した。」と伝えられている。
芋川堰悲話 2
今から三百五十年も昔のことです。芋川堰は、中村の大樋まで通じており、それより下流の二里は、野田喜左ェ門と、村人たちの血と汗によって開かれたのでした。山や原を足軽や、村々からの農民を労役に使い、数多く犠牲を出しながら、鍬ともっこで、二十年もの年月をかけて完成させたのでした。いよいよ水あげをしましたが、東柏原村で待つ野田喜左ェ門や村人のところまで、いくら待っても水は流れてきません。
「雨が降らなくて、もう一か月ほどになりますもの、ご心配なさらずとも」妻が声をかけますが、喜左ェ門には聞こえぬ様子です。
「これで水が来なければ、今までの百姓たちの苦労は水の泡だ」喜左ェ門はひとりつぶやきます。
「大丈夫ですよ、三年もかかって水が通った用水もあるというではありませんか」
ふっと我に帰った喜左ェ門、
「お前にも苦労をかけたな、ここ何年もお前を連れて、よそに行ったこともなかった」
「いいえ、我はお前様が、一生懸命百姓衆のために働いておられる姿を見ているだけで満足です」
小町美人と言われた妻の髪にも白いものが見えています。気丈夫な妻は、夫が渋顔をつくればつくるほど笑顔でこたえ、夫の心をなぐさめていたのです。下級武士の野田家では、用水工事の人々にふるまう酒代もままなりません。生活を切りつめ、やりくりをしているのは喜左ェ門の妻でした。
「私は、やはり人柱になろう」喜左ェ門の妻は水神様に願をかけながら思うのでした。
「野田様、水あげをしてから、もう二十一日にもなります」名主のひとりが、喜左ェ門に話しかけます。
「久しぶりの雨も昨日から降り続いている、今日こそはどうであろうか」喜左ェ門も、どう答えて良いかわかりません。
そのときです「来たぞ! 水が、水が米たぞ!」百姓たちの声が山にこだまします。
「水神様のご加護であろう」喜左ェ門の泪にかすむ目にも、はっきりと川底に広がりながら流れてくる水が映りました。
二十一日めにして、ようやく二里の用水に水が流れ通ったのでした。しかしそのころ、古間村戸草の芋川堰の取入口に入水自殺した中年の女が、野田喜左ェ門の妻とは、だれも思いませんでした。
彦根城 1
1603年(慶長8年)。大津城天守を移築して天守台に据え付けようとした時に工事がたびたび失敗するので、工事関係者が人柱を要望。城主の井伊直継が拒否し押し問答となった。家臣の娘が人柱を志願したので、直継がごまかして娘を箱に入れて人柱にしたと表向きは工事関係者に通知し、実際には空き箱を埋めて工事を成功させた。娘は密かに逃したという。
彦根城 2
慶長8年(1603)、井伊直継が築城を始めた彦根城。近隣の廃城の資材を寄せ集めて、築城に当たっていた。工事は順調に進んでいるかと思われたが、天守を造る段になって問題が発生した。土台は完成したものの、肝心の天守の築造が何度やってもうまくいかないのである。もともと、大津城の天守を移築する予定になっており、天守そのものの設計図に難があるということはあまり考えられないため、現場責任者である普請奉行は頭を抱えていた。そんな折、直継が築城の状況を見るため、視察にやってきた。奉行は直継に築城がうまくいかない現状を訴えることにした。
「…というわけなのでございます。」
「ふうむ…、とは申しても…。新しく設計からするような予算は当家にはないな…。」
直継も弱った。すると、共に視察にきていた直継の側近がいった。
「古来より、かような時は神頼み。されば、人柱を立ててはいかがでしょう。」
しかし、直継は首を縦にふらない。
「…人柱はならぬ。城のために一人を犠牲にするなど…。」
「されど、このままでは工事が進みませぬ。」
「人柱を立てても工事が進むとは限らぬ。」
「殿。」
話は堂々巡りで、その場でしばらく話し合われたが、ついに結論は出ぬまま、その日は屋敷に戻ることになった。
私を人柱にしてください!
ところで、人柱についての話し合いは現場で行われていたから、工事にあたっていた関係者や、他の現場監督の家臣もそれを聞いていた。そして、そのうちの一人がそのことを、夜に家に戻ってから妻娘に話した。
「殿は人柱を立てることに難色を示しておられたが、確かにこのままでは工事も進まぬ。されど、殿が自ら人柱を指名することはあるまい…。何かこの難局を打開するいい方法はないものか…。」
すると、話を聞いていた娘が言った。
「されば私を人柱にと、殿様に進言くださいませ。」
「!?」
両親はびっくりして娘の方を見た。しかし、娘はこともなげに続ける。
「殿様がお困りの時にこそ、お役に立たねばならぬと父上はいつもおっしゃいます。」
「いや、それはそうじゃ。それはそうじゃが…こればかりは…。」
「今こそ、真に殿様のお役に立てる時ではございませんか。殿様のお役に立てるなら本望です。どうか進言くださいませ。」
両親は、思いとどまるよう娘を説得しようとしたが、娘の固い意志を変えることはできず、やむを得ず、翌日ついに直継にその旨を進言した。
「城の人柱の件でございますが…。」
「人柱は立てぬ。私には人柱になれ、などと命ずることはできぬ。」
「はっ、それが…人柱になりたいと志願するものがおりまする…。」
「何?」
「わ、我が娘にて菊と申します。昨日、難工事の話をそれとなく話したところ、是非にと…。」
「なんと…。」
直継は黙ってしまった。そして、そのまま腕を組んで考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「まこと天晴れな忠心を持つ娘御じゃ。その気持ちに礼を申すぞ。」
直継はそう言うと、深々と頭を下げた。家臣に主君が頭を下げるというのは、主従関係が明確なこの時代には、通常ありえないことであるから、思わずお菊の父親の方も頭を下げた。
「もったいなきお言葉…。」
こうして彼の娘・お菊は人柱として彦根城の土の下に埋められることになった。
悲しみの別れ
数日後、お菊は父親とともに城にあがると、体を清めて、白装束に着替えた。門前では白木の箱と井伊家の家臣数人が待っていた。お菊はここでその箱に入らなければならない。箱に入るとき、お菊は父親の方を向いてこう言った。
「殿のお役に立ってまいります。」
お菊の最後の言葉であったが、父親の方は、言葉に詰まってしまって、返答をしてやることができなかった。お菊は一瞬微笑むと、箱の中に横になり、家臣が箱を閉めた。そのまま箱は運ばれていく。本丸入口の太鼓門櫓では直継が待っていた。父親が直継に一礼すると、直継もうなずく。父親はそのままその場から進もうとはしなかった。娘が入った箱が埋められるところなど見たくはない。直継もその心がわかったから、お菊の入った箱が太鼓門の中に入ると、門を閉めさせた。
「うっ…うっ…菊…。」
閉まった門の外からは、父親のむせび泣く声がしばらくの間、聞こえていた――。
涙の再会
お菊が埋められてから、さらに数日がたった後、お菊の父親のもとに直継から使いが来た。
「天守は無事据え付けられ申した。殿はおぬしにも改めて礼を言いたいと申されておられる。」
「天守が完成したは祝着至極にござるが、殿より改めてお礼とは…もったいなきお言葉…。」
「殿はな、今度からはおぬしに控屋敷に仕えてほしいと仰せでござるぞ。ご内儀と一緒に屋敷に詰めよとのことじゃ。」
「控屋敷でござるか…。」
ちょうど直継の義姉が江戸からきているという噂が立っていたころだったから、その世話役にでもしようというのだろう、と彼は思い、これを承諾すると、さっそく翌日屋敷にあがることになった。
「まずは殿の姉上様にご挨拶を」ということで、彼は屋敷に一室に通された。廊下に着物ズレの音がしたので、平伏して待っていると、その人物は彼の前に座って言った。
「お顔をお上げください…父上。」
「!?」
彼が思わずガバッと顔をあげると、そこにはお菊の顔があった。
「き、菊?お、お前生きていたのか!!」
「はい。」
お菊はにっこり微笑んだ。その顔を見て、父親の方も泣いて再会を喜んだ。ひとしきり喜び合った後、父親は娘に聞いた。なぜ生きることができたのか? お菊が言うには、最初から直継には人柱を埋める意思はなかったものらしい。本丸までお菊の入った木箱が運ばれた後、ひそかに空の木箱と交換され、埋められたのは空の木箱だったという。お菊が入った箱は別地に移され、お菊は救い出された。しかし、みんなは人柱が埋められたと思っていたから、その後工事は順調に進み、無事に天守の築造も終わったというわけであった。
そして、お菊は直継から、
「せっかくだから父親を驚かせてやろう。」 と言われて、今回の対面を演出することになったのである。
全てを聞いた父親は、涙を流して直継に感謝したという。お菊はそのまま控屋敷に入ることになり、再び彼ら親子は同じ屋根の下で生活することができるようになった。直継の心遣いが悲しみを喜びに変えたと言えるかもしれない。
松江城 1
1611年(慶長16年)。盆踊りの輪から連れ去られた娘、および、虚無僧の伝説がある。
天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった。(「小泉八雲/人柱にされた娘」など)。
天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」というのである。どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができたが、堀尾家は普請の途中に2代忠晴で絶え改易となった、というものである。
これには別に、虚無僧の尺八が聞こえてきたので捕まえて人柱にしたところ、尺八の音が聞こえるようになった、というものもある。
松江城 2
松江城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、論功行賞で出雲24万石を与えられた堀尾吉晴、忠氏の父子が宍道湖のほとりにある標高28メートルの亀田山に築きました。その優美な姿とは裏腹に、この城には悲しい伝説が残されているのをご存知でしょうか。
松江城に伝わる「人柱伝説」
積んでは繰り返し崩落する天守台の石垣。人柱を立てればうまくいくのでは、と考えた堀尾家の家臣たちは、盆踊りに集まった人々の中から踊りの上手な美しい娘を連れ去り、天守台に生き埋めにしたといいます。石垣は無事完成しましたが、それからというもの城下で盆踊りをすると天守が揺れるという怪異が発生。人柱にされた娘のたたりとのうわさが領内に広まり、以来、松江では盆踊りを踊らなくなったといいます。
別の言い伝えでは、人柱に立ったのは娘ではなく虚無僧で、天守から夜な夜な尺八の音色が聞こえてきたともいいます。また、工事が思うように進まないことに業を煮やした吉晴が築城の名人を招いて調べさせると、石垣が崩落した場所から槍の貫通した頭蓋骨が出てきたため、吉晴は祠を建てて丁重に供養したともいいます。
どれも不思議な話ですが、最近の研究によると城郭建築で人柱が立ったと証明されたケースはなく、実際は人形やお札などで代用されたようです。松江城でも人柱も裏付ける史料は確認されていません。では、なぜ人柱伝説が語り継がれたのでしょう?
人柱伝説が語り継がれた理由
松江城の完成は慶長16(1611)年ですが、吉晴、忠氏の父子はそれまでに相次いで死去。このうち忠氏は領内の見回り中、とある神社の禁足地に1人で入り、その直後に27歳の若さで謎の死を遂げました。3代目の忠晴は跡継ぎのないまま寛永10(1633)年に死去したため、堀尾家は断絶。続いて松江城に入った京極忠高は三の丸を完成させますが、数年後に亡くなり、京極家もお取潰しに。相次いで藩主を見舞った不幸は、当時の人々にとっては受け入れがたい怪異でした。軟弱地盤に悩まされた松江城の工事と結び付き、多くの伝説がそうであるように一連の出来事を「娘のたたり」と考えることで納得をしたのでしょう。また昔の盆踊りは男女が出会う場だったので、「風紀が乱れる」との理由で禁止されたこともありました。松江藩でも何らかの理由で盆踊りを禁止するため、人柱伝説と絡めて禁忌(タブー)としたのかもしれません。
伝説には続きがあります。
京極家の次に徳川家康の孫に当たる松平直政が松江藩主となりましたが、天守には人柱に立った娘の亡霊が現われ、直政たちを悩ませます。ある日、直政が娘の亡霊に「何者か?」と問うと、「この城の主」と答えました。そこで湖で捕まえたコノシロ(この城)を供えたところ亡霊は姿を見せなくなり、松平家は幕末まで10代続きました。
このエピソードには、人々が恐れていた亡霊を退散させたことを示すことで「松平家の統治こそが正当」と領民に知らしめる意味があるようです。
ちなみに松江市役所に問い合わせたところ「昔ながらの城下町エリアでは今も盆踊りはしていない」とのこと。理由を聞くと「人柱の伝説があるので」との答えでした。昔からの取り決めを律儀に守っているところに松江市民のきまじめな気質が垣間見えてきます。
福島橋 1
寛永時代(1624-1645年、江戸時代初期)。寛永の昔、福島・沖洲といった地域を結ぶ福島橋は徳島藩や住民にとって主要な橋梁であった。しかし、洪水などの災害が起こるたびに橋は崩壊し、渡り船に頼ったりしていた。当時、架替は難工事であり、藩や住民は崩壊する福島橋に手の打ちようがなく困っていた。工事に際し、「工事に取りかかる日の夜、亥の刻(午後10時頃)にここを通りかかったものを人柱にしよう」ということになり、六部という人物(山伏とも遍路ともいわれる)が鉦をたたき題目を唱えながら通りがかったのを、懇願して人柱としたとされる。六部は犠牲となって棺に入り、その日から49日間鉦が打ち鳴らされたという。
福島橋 2
むかしむかし、四国の徳島の町には、東の村とを繋ぐ道がありました。その道の途中の川には、橋がありました。しかし、橋は大雨が降って川の水が増えると、簡単に水に流されてしまいます。そのたびに村の人は新たに橋を架けねばなりませんでした。橋を架けるのは大変です。働く人がたくさん必要になります。お金もかかります。そして何よりも橋がない間は、川を船で渡らねばならず、気軽に行き来できないのが困りものでした。
「今度架ける橋は、どんな大雨でも流されない丈夫なものにしないといけないのう」
「そうじゃのう」
「そうは言っても、どうすればいいんじゃろうか」
村人たちは話し合いました。
「そういや、人柱を立てると橋が流されんと聞いたぞ」
ある男がこう言うと、
「それはわしも聞いたことがある。しかし、人を生き埋めにすると言っても、誰が喜んでその役を引き受けるんだい?」
「わしは嫌じゃ」
「わしもまだ死ぬのは困る」
そうやって皆が嫌だ嫌だと言い、結局、橋の工事が始まる前の晩の亥の刻(午後10時)に、そこを最初に通りかかった人を人柱にしようという結論になりました。すっかり夜も更けた亥の刻。村人たちが橋の側を見張っていると、一人の男が通りかかりました。
男は六部(ろくぶ)というお遍路さんで、村人が事情を説明すると、最初は驚いたものの嫌な顔ひとつ作らずに、
「事情はわかりました。私が人柱になりましょう」と答えたのです。
六部は念仏を唱えながら棺に入ります。村人たちは棺を抱え、掘った穴に埋めてしまいました。それから49日間は、ずっと六部を弔うために鉦(かね)が鳴らされました。その後、立派な橋が完成しました。大抵の大雨ではびくともせず、村人は六部のおかげだと感謝したのだそうな。
服部大池 1
1645年(正保2年)に完成。広島県福山市にあるため池。堤建設の際に埋められた「お糸の人柱伝説」。
服部大池の築造は大変な難工事であったために堤に「人柱」が捧げられたとの言い伝えがある。それによると人柱にされたのは病気の母親に代わり人夫として夫役に出ていた16歳のお糸であったとされ、彼女が選ばれた理由は『着物に横つぎが当たっていて、未婚の娘』(貧しい処女であるという意味)であったからだという。また、伝説には後日談があり、お糸には恋人の若者がおり毎夜池の堤でお糸の名を呼び続け、ついには池に身を投げてしまった。それを知った人々が二人の霊を慰めるために弁財天を祀ったうえで松と槙を植えた。後に2人の魂がひとつになろうとしているかのように2本の根が絡み合い、やがて『比翼の松』と呼ばれるようになったという(現在では枯れてしまい、お糸大明神に祀られている)。この話は地元では事実として信じるひとも多いが、江戸時代の文献にはこれに類する話は全く存在せず、石碑は何れも後年に造られたものである。また堤の改修工事で人骨が見つかったという話も存在しない。しかしながら話自体は昭和初期頃には市井に広まっていたようで、当時からその信憑性を疑う声はあったが、戦後には市内小学校の同和道徳教育の教材に用いられたことなどから、話の信頼性が高まったようである。
服部大池 2
寛永二十(1643)年に、福山藩初代城主・水野勝成が旱魃対策として、総奉行神谷治部に命じ、福山領内九郡・二百四十ヶ所の百姓を夫役として総動員し、服部川を堰き止め周囲約四km、備後最大のため池(服部大池)を築造することになった。ところが、大変な難工事で、当時の習しとして、水神さまに「人柱」を捧げて、「末代までの土手の安全」を祈願することとなり、病気の母親に代り、人夫として夫役に出ていた十六歳のお糸が『着物に横つぎが当たっていて、未婚の娘』という理由に当てはまると選ばれ、堤の底深く、生き埋めにされた。そして、大池は二ヵ年を費やし正保二(1645)年完成し、近隣20ヶ所の田畑を潤したという。ところが、お糸には恋人がいたのだそうです。若者は毎夜池の堤でお糸の名を呼び、ついにはお糸の後を追い、池に身を投げてしまいました。それを知った人々は、お糸と若者の霊を慰めるため、池の辺の丘に弁財天を祀り、その辺に松と槙を植えました。この二本の木は、お糸と若者の姿であるかのように根と根が絡み合い、枝と枝がもつれ合って大きくなり、『比翼の松』として、「人柱お糸」の話と共に語り伝えられました。
吉田新田 1
1659-1667年(万治2年-寛文7年)間の伝説。埋め立て工事に際しての「お三(女子名)の人柱伝説」が有り、鎮守の日枝神社は「お三の宮」と呼ばれる。
吉田新田 / お三の人柱伝説 2
新田開発が難工事だったことから、氏子中はもとより横浜に広く語り伝わる「おさんの人柱伝説」が生まれ、「日枝神社」が「お三の宮」と呼ばれるに至る、ひとつの要因となっています。諸説ありますが、そのひとつを紹介します。
「吉田新田埋立の最初の工事(明暦二年)は、大雨による川の氾濫により失敗に終わりました。そこで勘兵衛は、再度の埋立工事の成功を成就するために居住地の氏神赤坂の山王社(後の旧官幣大社日枝神社)に詣で、更に日頃念ずる日蓮宗総本山身延山久遠寺に参ったところ、訳あって夫の仇を討ちたいと諸国を流浪していた「お三」という女性にめぐりあいました。勘兵衛は、私の家に暫く身を寄せて時期を待つよう促し、家族の一員として迎えるに至りました。こうした機縁で、お三は勘兵衛家に仕える事となりました。再度の埋立開始が決まった万治二年のある日、お三は勘兵衛に向かい、「今度の事業は容易ではないと思います。神仏を深く帰依なさる旦那様には、必ずやご加護があることと信じますが、古来人柱をたてるとその験があると聞き及んでいます。」と日頃のご恩に報いるのはこの時と、自ら人柱になりたいと申し出ました。勘兵衛はお三の殊勝な心がけを喜び感謝しながらも、人命の尊さを説いて押し止めたがお三は聞き入れなかったといいます。同年九月十三日、波打ち際(現神社裏)より白衣に身をつつんだお三は、合掌して天を仰ぎ大海に身を投じ、埋立の大事業完遂の人柱となったとのことです。このように難航を続けた工事も、お三の人柱によって成し遂げることが出来たのであります。」
おさんの伝説は、吉田勘兵衛が両社のご創建にあたり、大乗経を其々の下に一部埋納して地鎮祭を行ったことから、この大乗経埋納が民間訛伝しておさんの人柱となり、お三の霊をまつったという異説も未だに残っています。ちなみに、明治・大正・昭和初期に地元伊勢佐木町の芝居小屋で多く演じられた「おさん」をモデルにした芝居によって多種多様な異説が生まれました。これは、地元の住民はもとより、東京や外国人への客寄せのため、また、盛大なお三の宮の大祭になると、氏子住民がまつりに没頭し、客が減ることから、色々と脚色されたのではないかという言い伝えもございます。
おさんの伝説 3
埋納大乗経説
神社改築の計画が起こり、大正9年(1920)11月23日、日枝・稲荷両神社の本殿内陣を調べた折、両神社のご神体の下から「大乗経」の木箱が発見されました。(実物は、改築の為に吉田家に保管中・、大正12年の関東大震災にて焼失)これは、初代吉田勘兵衛が埋め立ての成就に当たり、新田の鎮護を祈り両社の下に埋納したものです。1説には「万治2年再度の埋立てを身延山に祈願、その結願の日に勘兵衛自ら2部の大乗経を書写し、それを埋納した」とありますが真偽は不明です。
この「大乗経」発見により「この埋納が、おさんの人柱と誤伝されたものであろう」という説です。これは、昭和2年(1927)に吉田家より刊行された「吉田勘兵衛事績」(石原純編)に明記された説で、吉田家としては、大乗経の発見が、人権無視の人柱説を否定する好資料となりました。
この「吉田勘兵衛事績」は、初代古田勘兵衛良信が大正10年3月皇太子殿下(昭和天皇)ご成婚にあたって従5位を追贈されたのを記念して吉田家より刊行された「吉田勘兵衛翁事績」に「大乗経発見等の新事実」を加えたもので、昭和3年の「古田新田古図文書」昭和10年の「吉田新田図絵」とが3部作として出版され、関係者に配布されました。
下女 おさん(その1)
初代勘兵衛は熱心な日蓮宗の信者であったので、大埋立ての大願成就を祈願するために、身延山に年詣で(としもうで、願をかけて毎年お詣りに出かける)に参りました。その際、勘兵衛が駿河路を急いだある日の夕暮れのこと、行く手に突如として女の悲鳴が聞こえました。勘兵衛は供の下男等と共に駆けつけて、今しも悪者に辱められようとしていたその若い女の危機を救ってあげました。
その女は名を「おさん」といいました。こうした機縁で勘兵衛家の下女として仕えることになり、彼女は陰ひなた無く、まめやかに働きました。
彼女は、明暦2年の最初の埋立てに失敗した勘兵衛にいたく同情していましたが、たまたま、このような大工事には犠牲の人柱が必要だということを耳にしました。かつて駿河路での危難を救われた恩義に対し何かお返しをしなければと思っていた彼女は、万治2年の再度の埋立てにあたり、日頃のご恩に報いるのはこの時と、事業の成就をになって自ら人柱になりたいと申し出ました。
主人勘兵衛は彼女の殊勝な心がけを喜び感謝しながらも、人命の尊いことを説いておし止めたのですが彼女は聞き入れず、白無垢に装い、合掌して人柱となりました。かくてさしもの難工事も完成、大願を成就することが出来たのでした。
これが世間に噂されて来た伝説の大要で、昭和11年に刊行された「横浜旧吉田新田の研究」(石野瑛著)にも掲載されています。
下女 おさん(その2)
吉田新田の埋立ての大工事の最中のことである。その準備として今の都橋(吉田町先)のあたりから元町の方へかけて波よけの堤防を築いたが、雨風のたびごとにこの堤が壊されて工事が一向にはかどらず、幾度も同じ苦労を繰り返えさねばならず、これにはほとほと困り果てていた。
そこで誰云うと無く「これは海神のたたりだ。このたたりを防ぐには、昔から人柱を立てて患いを除くことになっている」と噂されるようになった。さりとて尊い人命・をむざむざ犠牲にすることも出来ず、思案に困って落胆する毎日だった。しかし、これを聞いた吉田家の下女「おさん」は、「長い間ご厄介になり、何の恩返しも出来ないのは不本意。進んで人柱に立ちます」と申し出た。
驚いた勘兵衛らは大反対したが、彼女の熱意と願望に動かされ、遂に思い切っておさんを人柱として工事を再開した。
この勇敢なる人身御供(ひとみごくう)の為か、今度はいかなる暴風雨に出会っても、堤防は破れることなく、工事は思いの外進み、遂に吉田新田の完成をみる事が出来たのであった。
勘兵衛はおさんの徳を深く感謝し、おさんの霊を祀って新田鎮護の神とあがめた。それが今の日枝神社である。故に日枝神社よりは、むしろ「おさんさま」又は「おさんの宮」と云う方が遥かに一般の通りがよい。
これは、昭和5年11月刊行の「横浜の伝説とロ碑」中区磯子区篇(栗原清2著)によります。この書には、次の「巡礼おさん」も、別説として紹介されています。
巡礼 おさん
吉田新田埋め立ての頃、現在平楽中学校のある平楽の台地に、巡礼の夫婦が住みついていた。その女房の名を「おさん」といった。彼女は、人が嫌う癩病(ライ病・ハンセン病)とあって外にも出られず、夫だけが丘を下り毎日巡礼してはこの哀れな女房を養っていた。
ある時夫が、吉田家が思案に暮れている話を聞いてきて、女房に寝物語に聞かせたところ「どうせ長くない我が身、こんな病身でもご用に立つものなら人柱となってお役に立ちたい」と熱心に夫に語った。
夫は早速、このことを吉田家へ申し出、かくして人柱のお役に立ったのが、現在の関内駅裏に架けられていた蓬莱橋の際、水門のあたりであったという。
かくして埋立ても成就、不欄にして勇敢なおさんの霊を新田の守り神として祀ったもので、女の名をそのまま「おさんの宮」と称したというお話。
芝居 おさん
「おさんの伝説」は、地元の芝居小屋で演じた「おさん」をモデルにした芝居により、多くの異説を生んでいます。
娘「おさん」と出会った勘兵衛がお詣りに行った先も、身延山久遠寺ではなく、信濃の善光寺だったり、芝居の作者によって色々です。
盛大なお三の宮の大祭になると、住民のすべてがそれに熱中し、伊勢佐木町の芝居小屋のお客が少なくなるのを嫌い、「おさんの芝居」を1つ加えたと伝えられています。また、境内の池のほとりの架け小屋の「見せ物」にも、祭礼に因む「おさんの芝居」を演じたものもあったということです。
昭和42年に刊行された「神奈川の伝説」(読売新聞社横浜支局編)には、「おさんの伝説と芝居」について、次のように書かれています。
勘兵衛11代目の吉田一太郎さんに、おさんの伝説について訊ねると次のように語られました。
「わが家におさんの伝説の資料はありません。小さい頃、横浜の劇場にその伝説を題材にした芝居がかかって何回も見に行きました。あるときは、もし芝居が吉田家の名誉をそこなうものなら告訴しようと弁護士同伴でね。
帰ると弁護士に「あれじゃ無理ですよ。むしろご祝儀を出した方がいい」とすすめられましたよ」
これは、同書の筆者が、吉田家の当主にインタビューされた記事として興味があります。
なお吉田家では、第2次世界大戦後、吉田新田の埋立てから現在の横浜市中心街に発展した姿を、記録映画として制作されていますが、ここにも「おさん」は現れていません。
このように「おさんの伝説」は、芝居を見た人々によっても、色々と伝えられて来ました。
烈女 おさん
明治より大正に入り、横浜1の繁華街伊勢佐木町に通じ、ハマの中心部一帯を氏子とするお三の宮の祭礼の評判に応えたものでしょうか、神奈川新聞の前身「横浜貿易新報」は、大正期に活躍した斯波南史(しば・なんそう)の筆で、お三の宮の伝説の女をモデルにした新講談を掲載しています。
題は「烈女お三」で、大正4年(1915)7月から12月まで130回にわたり連載されました。
これを賑町の喜楽座(現在の伊勢佐木町3丁目日活会館の所)の座付作者桂田阿弥笠が、連鎖劇7場に脚色。同じ大正4年9月、市川荒2郎・秋元菊弥一座が同所で上演いたしました。連鎖劇とは、舞台劇と映画とを組み合わせた演劇で、大正時代に流行しましたが、喜楽座での連鎖劇はこれが始めてのものだそうです。
主役のおさんは新派の秋元菊弥、養父の佐藤右近を市川荒2郎、吉田勘兵衛を新井敬夫がつとめましたが、菊弥は歌舞伎出身の人だっただけに、美しいおさんを演じて見せたそうです。
この劇を9月11日から開演した喜楽座は、折からの日枝神社の祭礼を当て込んだだけに「初日以来、鮨を詰めたような大入りだった」と伝えられています。
なお「お三」劇は、後に横浜歌舞伎座(昭和7年阪東橋電停前に開場)にても、昭和16年(1941)9月9日より日吉良太郎の率いる日古劇で上演されています。題名は「伝説お三様」でした。
烈女お三の大要
芝居とは少々異なりますが、新聞連載の大要を再現いたしました。
おさんの父はもと駿河の某藩に仕える武士、わけあって浪々の身となり、江戸へ出て芝金杉商いを営む叔父の世話になりながら寺子屋を開いて生計を立てていました。しかし不幸に、「振袖火事」の名で有名なあの明暦の大火に遭い夫婦ともども犠牲になってしまいました。
1人娘のおさんは、芝金杉の牧野家に寄食していて一命をとりとめましたが、両親を失って孤児となったおさんは途方に暮れていました。
おさんはかねて父から「お前は、父がもと仕えていた某藩の同藩士である関谷陽之進と結婚することになつていたが、関谷は上役と衝突して暇をとり、以来消息を絶っている」と聞かされていたので、自家の番頭忠兵衛との結婚を勧めるのをふりきり、風の便りに関谷が4国土佐の山内侯に仕えていることを知って、巡礼姿に身をやつし、はるばる土佐を訪ねたものの、彼は同藩の種田5郎3郎に武術の恨みから暗殺されたあとでした。
江戸材木町に木材・石材を営む豪商吉田屋勘兵衛は、後に吉田新田となる釣鐘湾の埋立てを笠恥府に願い出て、明暦2年7月工事に着手しましたが、翌3年5月10日から13日続いた集中豪雨のために大岡川が氾濫、せっかく築いた潮除堤が流されてしまい工事は中断してしまいました。
それでも勘兵衛はくじけずに、再度、工事を決意いたしましたが、前回のあのような天災を防ぐには神仏のご加護にすがるよりほかはないと、氏神の赤坂の山王社に詣で、さらに日頃念ずる日蓮宗本山甲州身延山久遠寺へ大願成就の年詣でを行うことにいたしました。
勘兵衛が参諸を終えて身延山を降りる途中、巡礼姿のおさんに出会いました。そこで、おさんは涙ながら「夫婦の契りはいたしておりませんが、夫の仇を討とうと決意、この様な姿で諸国を流れております。只今は身延山を参詣して大願成就を祈願して参りました」と、自分の身の上話を勘兵衛に語りました。
勘兵衛は身寄りのないおさんにいたく同情、「柚すりあうも他生の縁。江戸は諸国の人々が集まる所だから、何時かはあなたの仇に遭うやも知れない。私の家にしばらく身を寄せて時期をお待ちなさい。私も大名家に出入りする身、おカを貸しましょう」と江戸へ連れ帰り、家族のように遇しました。
それから、勘兵衛が出入りする大名屋敷をくまなく訪ね歩いているうちに、小田原藩大久保家の家臣宅に居候している種田5郎3郎」を発見、早速願い出て勘兵衛の助力により見事本懐を遂げることが出来ました。お三は大喜びでした。
お三は勘兵衛に深く感謝、第1回目の埋め立てに失敗後失意の底にあった勘兵衛への恩返しとして、ひそかに人柱となる覚悟を決めていました。
再度の埋立てが決まった万治2年のある日、おさんは勘兵衛に、「このたびの大事業は大変なこととお察し申します。神仏に深く帰依なさる旦那様には必ずや神仏のご加護があるものと信じますが、昔から人柱を立てると霊験あらたかと聞いております。私は両親も家族も無く、先には夫の仇を討っていただいたご恩がございます。その恩に報いたいと思います」と涙ながら訴えました。しかし勘兵衛は、人命の尊さを説き「その志はありがたいが、お箭も若い身空、もっと自分の幸せを考えて長生きして欲しい」と再3辞退したが聞き入れず、守り刀のサヤを払ってノドを突いて自害しょうとしました。
勘兵衛は、おさんの決意が固く、ひるがえすことは出来ないと知り、仕方なくおさんの申し出を受けたのでした。
万治2年9月13日、波打ち際(現日枝神社裏)に仮設された壇上には、この世の塵を洗い清めたおさんが、髪を長く背後にたらし、白衣に身を包んで静座し合掌していました。
日は西に傾き、空は一面に茜色(あかねいろ)に染まり、あたりは徐々に暮れかかって行く中、何処からともなく人々のお題目の声が聞こえてまいりました。
「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」・・・・・・・・・・・・・・・・
やがておさんは立ち上がり、天を仰ぎ、地に伏して、「今、われこの大海に身を投じ、この埋立ての人柱となりまする。哀れこい願わくば神明ご照覧ありて、ご加護を垂れさせ給え」と、高らかに叫び、海面めがけてザンブとばかりにおどり入りました。
波間にただよっていた白衣も、やがて海中に没し消え去りました。
かくして困難を極めた埋立ての大事業も、おさんのけなげな真心が通じたか、寛文7年に、前後1年余の歳月と8038の巨費を投じて、見事成し遂げることが出来たのでした。
芝居のあらすじ
おさんは常州笠間藩(現在の茨城県笠間市)の槍術指南番佐藤右近の養女。わけあって養父の元を離れ、吉田勘兵衛方の女中(お手伝い)として住み込み、陰ひなた無く働いていた。
万治2年6月、前日来の風雨で大岡川が決壊する危険な状態となり、村民が集まって思案に暮れていたところ、そこへ日枝神社の宮司が来て「卯の年卯の月生まれのおなごを人柱に立てれば、この洪水を防げるが……」と語る。
それを伝え聞いたおさんは、「主家への恩返しと村民の難儀を救うには、わたしが生きながら人柱となるよりほかになし」と人柱を志願。川岸に急ごしらえの祭壇の箭に巫女(みこ)の姿で現れ、神箭にぬかづき、山王の神に敬皮な祈りを捧げ、荒れ狂う大岡川に身を投げて水神の怒りを鎮めた。
その遺徳により、おさんは日枝神社に合祀される。
以上が、前述の喜楽座での芝居のあらすじ。
なお、日吉劇の「伝説お三様」の方は、設定は異なりますが新聞に連載の新講談に近いものでした。
いずれの「お三芝居」にも共通しているところは、主役の「おさん」または「お三」が、勘兵衛方の女中(召使い)であったということだけで、他の年代・背景・登場人物などは作者の筆に左右されています。
伝説の考察
このお三の宮日枝神社に残る「おさんの伝説」については、古文書にも何も残っておりません。
江戸時代の地誌として有名な、「新編武蔵風土記稿」(文政10年・1827)の、吉田新田の項にも何も記されておりません。
従って、比較的、新しいのではないか?とも推察されます。
「おさん」が飛び込んだ場所も、大岡川河ロ(日枝神社裏手、山王橋のあたり)とするものと、蓬莱橋の西のたもと(現在の関内駅裏)とするものとあります。
後者には、「昔は松の樹が、あたかも並木のように植えられていて、その根本におさんの墓があった」とか、「吉田家ではおさんの木像を刻んで朝タ供養を怠らなかった」というようなまことしやかな古老の話が、前出の「横浜の伝説とロ碑」に伝えられています。
これは、何か眉唾物(まゆつばもの)という気がしてなりません。
そこで、おさんの伝説が、埋立ての大事業にあやかった芝居から発祥したのではないかという説は、多くの人々の支持する所です。
するとこれらは、お三の宮の祭礼などに氏子の見物を当て込んで、吉田新田の中か、その近くの小屋で演じられたものと思われます。
おさんの伝説が、かなり古くから伝えられ、前出の横浜貿易新報に連載された「烈女お三」もこれにあやかったものとみますと、まず江戸末期か明治初期に焦点を合わせることになります。
旧吉田新田の芝居小屋のはしりは、明治3年(1870)今の羽衣町に誕生した下田座佐野松で、厳島神社(弁天社)わきの貸席佐野・松と関内にあった下田座が合併してできたものです(明治15年羽衣座と改称)。
明治9年には今の伊勢佐木町1丁目に蔦座が出来、明治15年には勇座(2丁目)賑町に賑座(伊勢佐木町3丁目)が出来ています。また、あまり知られていないものとしては、山中座・栗田座・伊勢村座というのもありました。
明治20年代になると、前記の賑座・勇座・羽衣座のほかに、賑座の前の両国座(後に喜楽座と改名)それに千歳座や吉田橋先の関内真砂町かどに立派に出来た港座などが盛りました。駿河町(今の弥生町2丁目)にあった横浜座は明治36年雲井座を改称、初興行。今の伊勢佐木町4丁目にあった敷島座が、活動写真から芝居に代わったのは昭和のはじめです。
しかし、これらの芝居小屋で「おさん芝居」が演じられたかも知れませんが、記録としては何も残されていません。
また、お三の宮の祭礼の折に、裏の池の周りに仮設の見せ物小屋が出るようになったのはかなり後のことですし、お三芝居らしき物を演じて伝説にあやかったとしても、伝説の根元とは到底考えられません。
従って、この「芝居が伝説のもと」という説は年代的に矛盾があり、むしろ「伝説が芝居の材料となった」というのが結論でしょう。
富士川の雁堤 1
1674年(延宝2年)の人柱伝説。堤防工事終了の際、神仏加護のために人柱として葬ったという話が富士市には残っている。堤防工事に莫大な費用と50年という歳月が掛かっているにもかかわらず、水害の解決には至っていなかった。そのため人々は、神仏のご加護に頼るしかないと考え、富士川を西岸の岩渕地域から渡ってくる1000人目を人柱にたてる計画をした。とある秋のこと、夫婦で東国の霊場を巡礼中に富士川を渡ってきた老人の僧が1000人目にあたった。地元の人々が説明をしたところ、最初は驚かれたが「私の命が万民のお役に立てば、仏に仕える身の本望です」と快く引き受けてくださり人々は涙した。 (人柱になった僧自身は999人目や1001人目で、1000人目が家族あるもので、それを見かね自ら人柱を志願したとも言われている。)人柱は、堤防を何度築いても流されてしまう、雁堤の特徴ともい言える曲がり角に埋められることになった。 僧は埋められる事前に「鈴の音が止んだ時が自分が死んだ時である」と言い残して地中へ潜った。木製の箱に入れられ、人柱として土に埋められた後も、約21日間ほどに渡って空気坑から鈴の音は聞こえたという。人柱が埋められた雁堤の曲がり角のり面には人柱を祭神とした護所神社があり、現在も地域住民により毎年7月に祭礼が行われている。
雁堤 2
17世紀後半の寛文年間のころ、岩淵の渡しから富士川を渡ってきた巡礼姿の老夫婦がいました。夫婦が松岡の代官屋敷の前を通ると、役人に行く手をさえぎられてしまいました。役人によると、富士川の氾濫を防ぐために堤防を築いているが、たびたび決壊して工事が進まないので、富士川を渡ってくる千人目の者を人柱に立てて河流を鎮めようと皆で決め、その日から千人目がこの老夫婦に当たったのだといいます。これを聞いた夫婦は、東国巡礼を終えたら人柱になると約束し、3ヶ月後に戻ってきました。夫は白木の棺に入れられ、堤が最も破れやすい箇所の地中に埋められました。夫は、自分が生きている間は地中から鉦を鳴らし念仏を唱え、それらが絶えたときは死んでいるだろうと言い残していましたが、21日間地中から鉦の音が響いていたといいます。
雁堤 (かりがねつつみ) 3
場所:静岡県富士市松岡。県道396号線(富士由比線、旧・国道1号線)の富士川に架かる「富士川橋」の左岸(東岸)に「水神社」があり、そこから県道396号線に並行して東に堤が続き、約900mで今度は県道176号線に並行して、「岩本山」(標高193m)下まで北西に堤が続く。この逆「く」の字の堤を、雁(がん)が群れ飛ぶ様になぞらえて「雁堤(かりがねつつみ)」という。
富士川は「駿河」の名の由来ともなったといわれるほどの急流で、その渡河は、薩た峠越えに続く難所だった。古代東海道については、承和2年(835年)の太政官符によれば、「富士川と相模川(鮎河)は急流で度々難船が起きるので、浮橋を置け」という命令が出ている。「浮橋」というのは筏や舟を並べて橋にしたものだが、富士川の渡河地点がどこであったか、不明である。富士川自体、現在の川筋よりも東を流れていたといわれているが、いくつかの枝川に分かれ、河口の三角州の上を乱流となって位置を変えていたのではないかともされる。現在でも、富士川の左岸(東岸)に五貫島、森島、宮島、水戸島などといった「島」の付く地名が多いのは、それぞれが川中の島だったからなのではないかと思われる。それが広い平野となったのは、江戸時代初期に、この地の豪族古郡氏が「雁堤」という堤防をが築き、富士川の川筋を変え、洪水を抑えた大工事を行った結果だという。戦国時代に加島荘籠下村を開いた豪族古郡氏は江戸時代には郷士となり、その当主であった古郡重高が元和7年(1621年)に富士川の治水工事に着手した。その後、家督を継いだ子の古郡孫太夫重政、孫の古郡重年の三代にわたって工事を続け、現存するような「雁堤」が完成したのは延宝2年(1674年)だったとされる。
この工事では、「(松岡)水神社」(写真1)の鎮座する「水神の森」の地下に巨大な岩盤があり、この大磐石を堤防の基礎としたという。このとき、この岩盤は川中にあり、富士川右岸(西岸)の庵原郡に属していたが、この工事後に富士郡に属するようになったという。なお、近世東海道では、ここに渡船場があったらしい。
さて、これだけの大工事で、その完成までには相当の苦難があったと推察される。それを示すのが、人柱伝説である。即ち、「今より3百余年前、大水が出て、この堤の辺りが切れそうになった。そのため、領主は人柱を立てて、堤を固めることとした。人柱は籤引で決めることになったが、当たったのは領主の信頼厚い家老だった。家老は潔く人柱になろうとしたが、そのとき、旅の六部(巡礼僧)が代わりに人柱になることを申し出、堤の底に埋められた。」(鈴木暹著「東海道と伝説」(平成6年3月))。籤引ではなく、千人目に通りかかった者を人柱にしたとか、人柱になったのは旅の武士であるとか、異なる伝承もあるが、それが単なる伝説だけではない遺跡がある。「(松岡)水神社」から堤防上を東に進むと、屈曲点に「護所神社」という小社があって、人柱の霊を祀っている。また、その境内に「人柱之碑」もある。
千貫石ため池 1
1682-1691年(天和2年-元禄4年)間の伝説。岩手県金ケ崎町にあるため池。「おいし」と呼ばれた女性が人柱として捧げられたといわれている。
1682年(天和2年)仙台藩主・伊達綱村の命により、胆沢郡相去村六原の灌漑用水源として着工。普請奉行は水沢領主・伊達宗景。初めの三年間は毎年大破したので「おいし」という若い女性を銭千貫で買い、牛とともに人柱にしたと言う悲しい伝説が残る(この池の名前の由来は「千貫で買ったおいし」から命名されていると伝わる。)
千貫石ため池 2
今から三百年以上も昔のことだったずも。田んぼさ水を引くべって、千貫石さ溜め池こしぇた(造った)んだど。仙台から来たお役人の指図で、村の人たちがみんな出はって稼いで、大っきな堤ができあがったど。ところが雨降りが続くと、すぐぼっこれて(壊れて) しまったずも。まだこしぇる。すぐぼっこれる。水増し(洪水)で何人も死んだり怪我したずもや。
村の人たちは「堤の神様さ、ぼっこれねぇようにお願いするべ」と、娘っこを人柱にすることにしたんだど。さがす役さ当たったわげもん(若者)は千貫文の銭で娘っこを買ってきたずも。釜石でめっけた十九になる「おいし」という娘っこだったどや。
堤ができて、いよいよその日がきたずも。おいしはおっきなカラド(唐匱、車のついた長持)さ、子牛と一緒に入れられ、ふたをされてしまったど。そして重てぇ石をくくりつけられて、カラドごと水の底さ深くふか〜く沈んでいったんだど。
そんでもおいしは、“親だち、長生きさせでくて買われてきたんだから、おれはええ。生き埋めされても、水神様にまつってくれればええ。供養さえしてもらえば、この堤、おらの魂で百年はもだせる”と思ってたんだど。
んだども、だれもさっぱり供養しねがったずもや。水神様は、九十年と九日目から七日七夜大雨降らせで、とうとう堤を破って出てきたずも。
それがらずっと経って、県の方で堤こしぇだ時、水神様をまつって供養したればぼっこれることねぇぐなって、みんな喜んでいたんだど。
ところが、昭和の終わり頃の話だ。千貫石に昔からある三軒の家さ、おいしが現れるようになったずもや。枕もとに立ってだり、堤のそばの林さ幽霊みだく出はったりしたずもな。おっかねぐなって、祈祷師にみてもらったずも。祈祷師に乗り移ったおいしは「水神様にしたはえぇども、供養してけねぇ(くれない)がら浮かばれね。こんだぁ、観音様にしてまつってけろ。毎年供養するのだぞ。しでねぇば、今年中に堤破れっちょ」と言ったずも。
そんで、みんなで金出しあって、堤の前の山のてっぺんさ、いまある「おいし観音像」を建てだのっしゃ。
千貫石堤のおいし 3
北上川は不思議な川で、縦に流れている。岩手県から宮城県へ。北から南へと流れている。北上山脈と奥羽山脈の水を集めて緩やかな勾配を持って南下していく。中央の山脈から海へ向けて流れ下る川の多い中でも特異な流れ方をしている。古代の東北の文化もこの川によって育まれてきた。蝦夷も、阿部一族も、奥州藤原氏も北上川を「母なる川」としてきたのだ。
岩手県平泉には、義経堂があり、北上川が一望できる。かつて松尾鉱山から強酸性の水が流れ込んでいて、その中和剤を直接赤川に投入したため、北上川本流は汚染され赤かった。その鉱毒で汚れた北上川本流の水も、本流に唯一つくられた四十四田(しじゅうしだ)ダムでの貯泥や松尾鉱山の中和処理施設が稼動したため農業用水として使用されるまでになった。重力式コンクリートダムとアース式ダムの組み合わされた構造を持つダムの湖底にはヒ素や重金属を含んだ汚泥が堆積し続けていることには変わりはない。半永久的に処理し続けなければ北上川が「死の川」になることはあきらかだ。原発が高度成長の遺産だとすれば松尾鉱山は日本の近代化の遺産ともいえる。
松尾鉱山は明治15年に硫黄の大露頭が発見された事から始まる。昭和44年の事実上の閉山まで、最盛期には国内の硫黄産出の1/3を占め、日本の近代化と発展に貢献してきた。閉山したとしても硫黄の鉱脈はその大半が残っており、雨や雪で流れ続ける鉱毒水の処理には莫大な経費が投入され続けている。八幡平の中腹、1、000メートルの位置にあるかつての東洋一の硫黄鉱山の中和処理施設の運転管理に毎年約6億円が使われているという。
北上川の開発は江戸時代から本格化するといってよい。上流・中流を盛岡藩南部氏が、下流を仙台藩伊達氏が統治した。両藩が治水・利水を継続的に実施した結果、仙台藩は表高62万石対し実高100万石、盛岡藩は表高10万石に対し実高23万石といわれるようになった。利水ではやはり鉱毒で本川は利用出来ず支流に頼っていた。治水・利水にからむ伝説のいくつかを、岩手の知人より教えられたことがある。それが千貫石堤建設にまつわる「おいし」の話である。
夏油(げとう)温泉は閉鎖され冬期の休業となっていたため(夏油温泉から夏油高原スキー場入口交差点の区間は冬期通行止となる)、同じ岩手県道122号線沿いにある瀬見温泉に腰を据えて金ヶ崎、江釣子あたりを散策した。
千貫石のため池は岩手県胆沢郡金ケ崎町千貫石にあるため池である。その建設にまつわる人柱の話は、僕は次のように教えられた。その娘、「おいし」は、19の時嫁入りさせると連れてこられ(買ってこられ)、堤事業の人柱として、石柩に封じ込められ、子牛と共に100年の年季を限り人柱として生き埋めにされた。暗い土の中に自分を埋めた主だった面々の跡目に崇って跡目を断ち、牛を連れて近くの赤い家の戸口に立ち、「寒いよ寒いよ」と訴えた「おいし」とその牛は観音として供養された。しかし北向きに建てられた「おいし」は東向きに直してもらうまで「寒いよ寒いよ」と迷い出たとのことである。
28の男が東向きになって落着いた「おいし」の首に縄掛けて縊れた。暴力団からの借金を苦に妻子を残しての死だったが、人々は婿が出来て「おいし」さんが喜んでると噂しあったとのことである。釜石から買ってこられたとも、久慈の人だともいわれる「おいし」さんはいずれにせよ、野田からの塩の道(ソルト・ロード)の展開を考えればいずれも塩が買われ、人が買われる古の道に結ばれている。その道を嫁入りの道と思って「おいし」は野宿を重ねてやってきたのであろう。観音となり婿が出来ても「おいし」はまだ風をまとっている。
北上川水系の宿内川は、駒ヶ岳と鉢森山の山あいから、千貫石溜池に流れ込む。それから六原扇状地を経て三ヶ尻で北上川へと合流する。灌漑用の水源として天和2年(1682年)、仙台藩主伊達綱村の命により築造されたが、初めの3年間は毎年破壊し、元禄4年(1691年)に「おいし」を銭千貫で買い牛とともに人柱にしたという伝説は北上川の治水・利水事業の大変さを物語るものでもある。水の乏しい六原一帯の扇状地の開拓は困難を極め、千貫石堤決壊とのたたかいの労苦がおいしの生涯とだぶって見えてくる。若狭土手を築く際には「お鶴」の生き埋めの話があるが、宿内川の千貫石堤では「おいし」が水神に捧げられたと伝わったのである。
伊達綱村は第4代藩主。寛文11年(1671年)の伊達騒動(寛文事件)の時の藩主であったといえばわかりは早いか。平泉にある源義経ゆかりの高館・義経堂建立も綱村によってなされた。
百太郎溝 1
熊本県球磨郡多良木町、あさぎり町、錦町に江戸時代に造られた、全長19キロの灌漑用用水路で、人柱になった人の名前に因む。伝説によれば、昔、この地方を流れる川の氾濫で、田畑が流される災害がたびたび起こり村人が困っていた。ある時、「裾に二本の線がはいった着物を着た人物を人柱に立てよ」という神のお告げがあった。その着物を着た人物、百太郎に白羽の矢が立った。轟音とともに、橋の柱にくくりつけられた百太郎の声が、一晩中、村に響き渡ったという。それからは、水害はぴたりとやんだ。
百太郎溝 2
昔、農民達が水不足の原野に溝を作って球磨川の水を引き入れ立派な耕地にしたいと考えたが、溝をつくるにも球磨川の急流をせき止めて水を流入させるとなると大変な事業である。
ところが工事を始めたところせっかく堰をつくっても大洪水で流失するなどして2回、3回と壊れてしまい失敗をくりかえしていた。
数年がたったある年の秋祭りの前夜、世話人の寝ている枕元に水神様が現れて、おごそかに「明日の祭りに、はかまに横縞のツギを当てた男が参詣する。その男を堰をつくる時の人柱にすればよい。」と申し渡した。
世話人は驚いて目がさめ、早速その事を村の人に話し、翌日の祭りで参詣する男達をよく見ていると、果たせるかな水神様のお告げのとおり縞のツギ当てのはかまをはいた男が現れた。
この男がすなわち百太郎であった。農民達は役所にもう一度堰を築くことと、さらに人柱を立てることの許しを得て工事は再び始められた。
冬も近づき球磨川の水が枯れた時期をみて、農民達は最後の希望をかけて懸命の努力をし、石が運ばれ太い材木が横たえられ工事は進められた。
この工事にまじめに働いていた百太郎は、水神様のお告げだと言うので人柱になる事を素直に承知した。
旧百太郎堰跡 この百太郎は日頃から正直者で、年老いた母をいたわり孝心のつよ男であったが、哀れにもその母親を残して尊い人柱となった。
堰の門の真中の大石柱、その下に胸に手を組んで観念のまなこを閉じた百太郎は生きたまま柱の下に埋められてしまった。
農民達は、このあわれ人柱となった百太郎の姿に手を合わせ念仏を唱えつつすすり泣いた。
尊い人柱のため、これまで幾度となく押し流されていた堰も今回は立派に出来あがり溝も完成したのである。
農民達も大雨の降るごとに人柱となった百太郎を思い起こして感謝し、この溝を百太郎溝と呼ぶようになった。
百太郎溝 3
宝永元年(1704)に完成し、昭和35年まで使われていた「百太郎堰」の樋門。難工事が続き、神様のお告げによって百太郎さんが人柱になったと伝えられます
澄み切った青空にくっきりと稜線を描く山々。さわやかな秋風が吹きはじめています。柔らかな朝の日差しの下に広がる水田にはしっかりと実を着けてきた稲穂が、朝露にキラキラと輝いています。
多良木町でコメづくりといえば、忘れてならないのが農業用水路の「百太郎溝」。ちょっと変わった名前ですが、これにはわけがあります。江戸時代初め〈1680年ごろ〉、農民たちは球磨川の水を農業に利用しようと用水路づくりに取りかかります。
しかし、川の水の取り入れ口(樋門=ひもん)が何度作っても洪水のたびに壊れてしまいます。そこで人柱を立て、石造りの頑丈な樋門を作ります。完成は1704年でした。その人柱の犠牲となったのが百太郎さん。それで樋門は「百太郎堰(ぜき)」、用水路は「百太郎溝」と名付けられました。この水は今も広大な農地を潤し続けています。
「昔は溝に流れる水で顔を洗ったり洗濯をしたりしていたそうですよ」と説明してくれたのは、多良木観光案内人協会会長の住吉献太郎さん(79)。「百太郎溝」の水は、以前はもっときれいで、農業だけでなく生活用水にも使われていたといいます。
江戸時代に造られた「百太郎堰」は昭和35年まで活躍して引退、現在は近くの水戸神社境内に設置されています。
凝灰岩で造られた樋門は、一見するとストーンサークルのようです。近づくと、一つひとつの石が巨大で、どのようにして組み上げたのか…先人の技と知恵は計りしれません。 
伝説 3

 

神戸と讃岐を結ぶ平清盛にまつわる伝承
瀬戸内海沿岸には人口100万人を超える政令指定都市が3つありますが、その一つ神戸は、港とともに近代以降に発展した都市といえます。幕末の慶応3年(1868)に兵庫港が開港した当時、神戸の人口は2万人程度だったようですが、約70数年後の昭和16年(1941)には100万人の人口を擁する都市へと発展しています。しかし、その歴史は古く、現在の神戸港は、瀬戸内海航路の物資集散地や大陸との交易の拠点として栄えた大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれた古代の港に始まります。
神戸市兵庫区に島上町というところがあります。ここに地元では築島寺(つきじまでら)の名称で親しまれている来迎寺(らいごうじ)という寺があります。本堂正面の上には平家清盛流の蝶の家紋が飾られている平家ゆかりの寺です。この寺の境内には、松王小児(まつおうこんでい)と祇王(ぎおう)・祇女(ぎにょ)姉妹のものといわれる供養塔があります。これらには平清盛にまつわる物語があり、讃岐にもこれらにつながる物語が残されています。

平安時代末期の二条天皇の御代、平清盛は、宋(中国)との貿易を拡大するため、その拠点となる大輪田泊の大修築を企てます。大輪田泊は旧湊川河口とその西側にある和田岬に挟まれた入江にあり、和田岬が西風を防いでいましたが、旧湊川の氾濫や風波で東北側の堤防がたびたび決壊していました。そこで、清盛は東南の沖合いに強固な人工島を築造して東南の風からの防波堤にしようとしました。なお大輪田泊は現在のJR兵庫駅の東、新川運河の辺りだと考えられています。
清盛が築造を企てた人工島の大きさは、甲子園球場が7〜9つ入るほどの規模だったといわれており、民役5万人を動員して塩打山(塩槌山)を切り崩し、約3キロにわたって海中に突き出す工事を行わせたといいます。しかし、潮流が早いため非常な難工事となり、完成目前に押し流されることが二度に及びました。
このため、さすがの清盛も逡巡し、今後の方策を当時の陰陽博士、安部秦氏に占わせます。すると、これは竜神の怒りであるから、30人の人柱と一切経を写書した経石を沈めて築くとよい、との言上でした。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構えて往来する旅人から30人を捕らえさせますが、さすがに罪の深さを知り、決行に踏み切ることを躊躇していました。
このとき、清盛の侍童(じどう)をしていた松王小児という当時17歳の少年がすすみ出て、「30人の身代わりにわたし一人を沈めて下さい」と申し出ました。松王小児は、讃岐の香川郡円座村(現在の高松市円座町)の出身で、その父は中井城主・中井左馬允といい、その祖父は香川郡辺河村(かわなべむら)(現在の高松市川部町)にあった中田井城の城主・中田井民部です。中田井民部のときに居城を辺河から隣接の円座に移し、中井姓を名乗っていました。中井氏は代々、平清盛に仕えてきた家柄で、松王小児も清盛に見出され、14歳のときからその側近として仕えていました。
なお、現在の高松市仏生山町の法然寺の南側には平池(平家池)というため池があり、この池は高倉天皇の御代の治承2年(1178)、平清盛の命令を受けた阿波民部田口良成(たぐちよしなり)によって築造されたといわれています。当時、この高松の辺りは平氏の支配下にあったのかもしれません。ちなみに、この池には、人柱になった少女の「いわざらこざら」の伝承が残っています。
松王小児の言葉に大いに感心した清盛は、その意志を入れ、応保元年(1161)7月13日、一切経を写書した経石と松王小児を入れた石櫃が沈められました。こうして、承安4年(1174年)、難工事であった埋立も竣工しました。その埋立地は経文を記した石を沈めて基礎としたので経が島(きょうがしま)と呼ばれ、その上にできた町は経が島の上にできた町という意味から「島上町」といわれるようになりました。ただし、一説には、平清盛は何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考え、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使い、その後、無事に工事が終わったためにお経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになったともいわれています。経が島は、おおよそ神戸市兵庫区の阪神高速道路3号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地であるとみられています。
二条天皇は自ら人身御供(ひとみごくう)になった松王小児に感動され、その菩提を永く弔うため寺を建立しました。その寺が、今の来迎寺だということです。讃岐にも現在の高松市円座町に松王小児の墓が残っています。 
舌食い池伝説
塩田平では、農業用水を確保するために中世から数多くのため池が作られてきた。手塚地区にある舌食い池には「堤を何度築いても崩れてしまうために人柱をたてるということになり、村はずれに住む一人住まいの娘に白羽の矢が立ったが、その娘は人柱になる前夜に舌を噛んで自死した。」という伝説が残っている。
橋をかけたり堤を築くなどの大工事の完成を願って、神の怒りを和らげその恩恵を求め、あるいは神の領分を侵す人の贖罪のために人をイケニエとして捧げたというものだが、いったん工事が完成した後は二度と壊れる事はなかったとして人柱の終焉、すなわちそういう暴力の終わりをも伝えているのが一般的な人柱伝説である。
人柱が実際にあったことなのかどうかについては肯定論否定論があるが、伝説がどのようにして起こってきたのかに関しては、稲作の始まりが大きく関与している、すなわち「稲作は、はげしく自然と対立するものであったがために、自然(神)をどのように和め、どのようにして自然の力を人間の側に引き入れるかということが問題となり、神のもっとも喜ぶ捧げ物としてイケニエは準備されたのである。」といわれている。
古事記等でも稲作の起源神話にイケニエが登場する。そこで「もともと伝承として発生しながら、常に生じる自然の猛威によって堤防や橋が壊された時には、語り継がれている人柱(人身御供)が想い起こされ、そうした伝承を根拠として、逆に現実の人柱を要求してしまい、ついには共同体の犠牲となって沈められる男や女たちがある時に生じたとしても、いっこうに不思議ではない、ということにもなり、そんな事はなかったとは言いきれない不気味さをもって今に言い伝えられている」ということなのだそうである。
舌食い池伝説の伝えるもの
「村はずれに住む…」という点について
人柱伝説には共同体の外部の人を材料にしたという譚が多くある。共同体内部の厄を外部の者に負わせるという形式の祭り(追難)もあるように、共同体の内部に厄を残さないという意味では、外部の人は人柱の材料になりやすい存在だったのではないかと思われる。舌食い池伝説で伝えている「村はずれ」という言葉は、共同体の周辺部、少なくとも共同体内部ではない所に住んでいたことを示して、白羽の矢が立つ条件を備えていたことを伝えているとも考えられる。
「一人で住む」という点について
中世には山と平野の境の山の根や、坂などは、大自然と、人々の生活の営まれる世界との境と捉えられ、いわばそこは神仏の世界と人々の世界、あの世とこの世の境界域と考えられていた。棄てられたこどもや身寄りのない人など、いろいろな事情で共同体から離れた人々が暮らすのは境界域だったとされ4、また災害や飢饉や疫病で死ぬ人も多く、一人暮らしをするに至った存在は珍しくなかったのではないかと思われる。
「娘」という点について
神に対するイケニエという意味は、神に人の血と肉を供す、つまり神の食物としてささげるという意味と、その霊を神に仕えさせる、つまり妻妾奴婢として贈呈する、という二面があるといわれる。後者の意味では、供物は娘が適していると考えられる。
「自死した」という点について
この伝説で不可解なのがこの点である。自ら望んで人柱にたった場合はもとより、捉えられて強制的に沈められた場合も、生きたまま埋めたり川に投げ入れたりするのが多くの伝説の伝える人柱の方法で、事前に舌を噛み切って自死したという譚は珍しい。本来生き埋めになるべきであるにもかかわらず自死したということは、白羽の矢がたったことを甘受したのではないことも想像される。
どういう状況がこのような言い伝えを残すことになったのかはわからないが、 この[舌を噛み切って 自死した]という点が千年の年月を越えてなお欠落することなく語り伝えられてきた以上、この伝説には欠かすことのできない要素なのだろうと思われる。  
オランダ人の紀行「人柱になる日本人」
オランダ人カロンが、すすんで人柱になる日本人のことを記している。
「日本の諸侯が城壁を築くとき、多少の臣民が礎として壁下に敷かれんと願い出ることがある。自ら志願して敷き殺された人の上に建てた壁は壊れないと信じられているからである。許可を得て礎の下に掘った穴のなかに横たわって重い石に潰される。ただしかかる志願者は、平素苦役に疲れた奴隷だから、望みのない世に永らえるより、死ぬほうがましと考えているのかも知れない」 
ハイヌウェレ
人柱とか人身御供っていうのは遡ればハイヌウェレまで行き着くのかもしれない。インドネシア・ウェマーレ族の神話に出てくる女。彼女の死体を埋めると、そこから沢山食べ物が出てきた。これを連想させる奇習がポリネシア地域に存在。縄文時代途中まで、日本にもあったといわれている。女の人形(土偶)を壊して埋めることでそれの代用とした。 
遠野物語
松崎村の字矢崎に、母也堂という小さな祠がある。昔この地に綾織村字宮ノ目から来ていた巫女があった。一人娘に婿を取ったが気に入らず、さりとて夫婦仲はよいので、ひそかに何とかしたいものだと思って機会を待っていた。 その頃猿が石川から引いていた用水の取入れ口が、毎年三、四間がほど必ず崩れるので、村の人は困り抜いていろいろ評定したが分別もなく、結局物知りの巫女に伺いを立てると、明後日の夜明け頃に、白い衣物を着て白い馬に乗って通る者があるべから、その人をつかまえて堰口に沈め、堰の主になってもらうより他にはしようもないと教えてくれた。そこで村じゅうの男女が総出で要所要所に番をして、その白衣白馬の者の来るのを待っていた。一方巫女の方では気に入らぬ婿をなき者にするはこの時だと思って、その朝早く婿に白い衣物をきせ白い馬に乗せて、隣村の附馬牛へ使いに出した。それがちょうど託宣の時刻にここを通ったので、一同がこの白衣の婿をつかまえて、堰の主になってくれと頼んだ。神の御告げならと婿は快く承知したが、昔から人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから、私の妻も一緒に沈もうと言って、そこに来合わせている妻を呼ぶと、妻もそれでは私も共にと夫と同じ白装束になり、二人でその白い馬に乗って、川に駆け込んで水の底に沈んでしまった。そうするとにわかに空が曇り雷が鳴り轟き、大雨が三日三夜降り続いた。四日目にようやく川の出水が引いてから行ってみると、淵が瀬に変わって堰口に大きな岩が現れていた。その岩を足場にして新たに堰を築き上げたので、もうそれからは幾百年でも安全となった。それで人柱の夫婦と馬とを、新堰のほとりに堰神様と崇めて、今でも毎年の祭を営んでいる。母の巫女はせっかくの計らいがくいちがって、かわいい娘までも殺してしまうことになったので、自分も悲しんで同じ処に入水して死んだ。母也明神というのはすなわちこの母巫女の霊を祀った祠であるという。  
魏志濊伝
日本の人柱の歴史は古い。文献と残っている中では「魏志濊伝」が最古だろう。その中に、濊(朝鮮半島東岸部)の国の更に東海の島での出来事が綴られている。「国人、嘗て船に乗りて魚を捕うるに、風に遭い吹かるる事数日、東の方、一島をうる。上に人有り、言語相覚らず。其の俗常に七月を以て童女を取りて海に沈む」と。地理的な点からこの島が日本である事は動かしようがない。旧暦の7月頃に行われていた日本海沿岸部での習慣がここに伝えられているが、これは魏志倭人伝と同じ時代の話だ。日本が史書に現れた最初が人柱習俗の特殊性だったといっても過言ではない。これは記紀にも、ヤマタノオロチ神話・クシナダヒメ入水説話と傍証できるものだ。 
魏志濊伝
濊南與辰韓北與高句麗沃沮接東窮大海今朝鮮之東皆其地也戸二萬
「濊は南は辰韓と、北は高句麗、沃沮と接し、東は大海に窮まる。今、朝鮮(楽浪、帯方郡)の東はみな濊の土地である。戸数は二万。」
昔箕子既適朝鮮作八條之教以教之無門戸之閉而民不為盗其後四十餘丗朝鮮侯準僣號稱王陳勝等起天下叛秦燕齊趙民避地朝鮮數萬口燕人衛蒲(滿)魋結夷服復來王之漢武帝伐滅朝鮮分其地為四郡自是之後胡漢稍別
「昔、箕氏は朝鮮に行き、八条の教えを作って、これを教えたので、入り口を閉めなくても人民は盗みをなさなかった。その後、四十余代、朝鮮侯の準は勝手に王を称していた。陳勝等が決起し、天下が秦に叛いため、燕、斉、趙の住民で地を朝鮮に避けたものが数万人いた。燕人の衛満は槌型の髷を結い夷人の服を着て、朝鮮に来て王になった。韓の武帝は(衛氏の)朝鮮を伐ち滅ぼし、その地を分けて四郡にした。これから後は、胡人と漢人がしだいに別れて住むようになった。」
無大君長自漢已來其官有侯邑君三老統主下戸
「大君主はいない。漢が来てから、その官に侯邑君、三老があり、下戸を治めている。」
其耆老舊自謂與句麗同種其人性愿慤少嗜慾有廉恥*不請句麗
「その古老は、むかし、高句麗と同種だと言っていた。その人々の性質はまじめで慎み深く、むさぼり欲しがることは少ない。恥をしる心があり、高句麗を頼ったりしない。」
*三国志集解の注には、後漢書では「不請匃」と記されており、匃を句と誤り、その後で麗が補われたのだろうとされています。この場合は「物乞いはしない」という意味になります。こちらが正しいと思われます。
言語法俗大抵與句麗同衣服有異男女衣皆著曲領男子繋銀花廣數寸以為飾
「言語や法習慣はたいてい高句麗と同じだが、衣服に違いがある。男女の衣服はみな曲がったエリ(丸襟か?)を付ける。男子は広さ数寸の銀の花をつないで飾りとしている。」
自單單大山領以西屬楽浪自領以東七縣都尉主之皆以濊為民後省都尉封其渠帥為侯今不耐濊皆其種也漢末更屬句麗
「単単大山嶺から西は楽浪郡に属し、濊領は以東の七県で、都尉がこれを統治していた。みな濊族が住民である。後、都尉を廃止して、濊の有力者を封じて侯にした。今、不耐濊は皆その種族である。その後、漢の末には高句麗に属していた。」
其俗重山川山川各有部分不得妄相渉入同姓不婚多忌諱疾病死亡輙捐棄舊宅更作新居
「その習俗は山川を重んじる。山川にはそれぞれみだりに入ることが出来ない部分がある。同姓は婚姻しない。禁忌が多い。病気で死亡した時はすぐさま旧宅を棄てて新居を作る。」
有麻布蠶桑作緜暁候星宿豫知年歳豐約不以珠玉為寶
「麻布がある。養蚕して絹綿を作る。夜明けに星座を見てその年が豊作か不作かを予知する。珠玉は宝としない。」
常用十月祭天晝夜飲酒歌舞名之舞天又祭虎以為神
「常に十月に天を祭る。昼夜、飲酒、歌舞し、これを舞天と呼んでいる。また虎を祭り神とあつかっている。」
其邑落相侵犯輙相罰責生口牛馬名之為責禍殺人者償死少寇盗
「その集落どうしで侵害行為があったときは、すぐさま生口(人員)や牛馬で賠償させる。これをセキカと言っている。殺人者は死をもって償う。強盗や盗みは少ない。」
作矛長三丈或數人共持之能歩戦樂浪檀弓出其地其海出班魚皮土地饒文豹又出果下馬漢桓時獻之
「長さ三丈(7.2mほど)の矛を作り、数人がかりでこれを持って、歩いて戦うのが得意である。楽浪檀弓はここで産出する。その海から斑の魚皮を産出する。土地には模様のある豹が多い。また、(小さな)果下馬がいて、漢の桓帝の時これを献じた。」
正始六年樂浪太守劉茂帯方太守弓遵以領東濊屬句麗興師伐之不耐侯等擧邑降
「正始六年、楽浪太守の劉茂、帯方太守の弓遵は単単大山領の東の濊が高句麗に属したため、軍を出してこれを伐った。不耐侯等のすべての集落が降伏した。」
其八年詣闕朝貢詔更拜不耐濊王居處雑在民間四時詣郡朝謁二郡有軍征賦調供給役使遇之如民
「その八年、宮城に来て朝貢した。詔により、不耐濊王に任ぜられた。その住居は人民の間にまぎれ込んでいる。季節毎に郡に来て挨拶している。二郡は軍事遠征や税の賦課があるので、人員を供給したり使用したりして、これを二郡の住民のように扱っていた。」  
 
 

 

 
人柱の話 南方熊楠

 

建築土工等を固めるため人柱を立てる事は今も或る蕃族に行なはれ其傳説や古蹟は文明諸國に少なからぬ。例せば印度の土蕃が現時も之を行なふ由時々新聞にみえ、ボムパスのサンタルパーガナス口碑集に王が婿の強きを忌んで、畜類を供えても水が湧かぬ涸池の中に乘馬のまゝ婿を立せると流石は勇士で、水が湧いても退かず、馬の膝迄きた、吾が膝まできた、脊迄きたと唄ひ乍ら、彌々水に沒した。其跡を追つて妻も亦其池に沈んだ話がある。源平盛衰記にも又清盛が經の島を築く時白馬白鞍に童を一人のせて人柱に入れたとあれば乘馬の儘の人柱も有つたらしい。但し平家物語には、人柱を立てようと議したが罪業を畏れ一切經を石の面に書いて築いたから經の島と名附けたとある。
今少し印度の例を擧げると、マドラスの一砦は建築の時娘一人を壁に築き込んだ。チユナールの一橋は何度かけても落ちたから、梵種の娘を其地神に牲にし、其れがマリー乃ち其處の靈と成り凶事ある毎に祭られる。カーチアワールでは城を築いたり塔が傾いたり池を掘るも水が溜らぬ時人を牲にした。シカンダールブール砦を立てた時梵種一人とヅサード族の娘一人を牲にした。ボムベイのワダラ池に水が溜らなんだ時村長の娘を牲にして水が溜つた。シヨルマット砦建立の際一方の壁が繰返し落ちたので或る初生の兒を生埋すると最早落ちなんだといふ。近頃も人口調査を行なふ毎に僻地の民は是は橋等の人柱に立てる人を選ぶ爲めだと騷ぎ立つ。河畔の村人は橋が架けらるゝ毎に嬰兒を人柱に取られると驚惶する。(一八九六年版クルックの北印度俗宗及俚俗卷二頁一七四。一九一六年版ホワイトヘッドの南印度村神誌六〇頁)パンジャブのシァルコット砦を築くに東南の稜堡が幾度も崩れたので、占者の言に據り寡婦の獨り子の男兒を牲にした。ビルマにはマンダレイの諸門の下に人牲を埋めて守護とし、タツン砦下に一勇士の屍を分ち埋めて其砦を難攻不落にし、甚しきは土堤を固めん爲め皇后を池に沈めた。一七八〇年頃タヴォイ市が創立された時、諸門を建るに一柱毎の穴に罪囚一人を入れ上より柱を突込んだ故四方へ鮮血が飛び散つた。其靈が不斷其柱の邊にさまよひ近付く者を害するより全市を無事にすと信ぜられたのだ。(タイラー原始人文篇、二版一卷、一〇七頁。バルフォールの印度百科全書三版四七八頁)
支那には春秋時代呉王闔閭の女藤王がすてきな疳癪持ちで、王が食ひ殘した魚をくれたと怒つて自殺した。王之を痛み、大きな冢を作つて金鼎玉杯銀樽等の寳と共に葬むり、又呉の市中に白鶴を舞はし萬民が觀に來たところ、其男女をして鶴と共に冢の門に入らしめ機を發して掩殺した。(呉越春秋二。越絶書二)生を殺して以て死に送る國人之を非とするとあるから無理に殉殺したのだが、多少は冢を堅固にする意も有つたらう。史記の滑稽列傳に見えた魏の文侯の時、鄴の巫が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め洪水の豫防としたは事頗ぶる人柱に近い。ずつと後に唐の郭子儀が河中を鎭した時、水患を止めて呉れたら自分の娘を妻に奉ると河伯に祷ると水が退いた。扨程なく其娘が疾ひなしに死んだ。其骨で人形を作り廟に祀つた。所の者子儀を徳とし之を祠り河涜親家翁乃ち河神の舅さまと名づけた。現に水に沈めずとも水神に祀られた女は久しからぬ内に死すると信じたのだ。又漢の武帝は黄河の水が瓠子の堤防を切つた時卒數萬人を發して之を塞がしめたのみか、自ら臨んで白馬玉璧を堤の切れた處に置かしめたが奏功せず。漢の王尊東郡太守たりし時も此堤が切れた。尊自ら吏民を率ひ白馬を沈め珪璧を執り巫をして祝し請はしめ自身を其堤に埋めんとした。至つて貴い白馬や玉璧を人柱代りに入れてもきかぬ故太守自ら人柱に立たんとした。元代に浙江蕭山の楊伯遠の妻王氏は、其夫が里正たる所の堤が切れて何度築ても成らず、官から責らるゝを歎き、自ら股肉を割て水に投入れると忽ち堤が成たから股堰と名けたとは、河伯もよくよく女の股に思し召が有つたのだ(琅邪代醉篇三三。史記河渠書。淵鑑類函三六、三四〇、四三三。大清一統志一八○)。本邦にも經の島人柱の外に陸中の松崎村で白馬に乘つた男を人柱にし、其妻共に水死した話がある。(人類學雜誌三三卷一號、伊能嘉矩君の説)江州淺井郡の馬川は洪水の時白馬現じて往來人を惱ます。是は本文に述べた白馬に人を乘せ、若くは白馬を人の代りに沈めた故事が忘れられて馬の幽靈てふ迷信ばかり殘つたと見える。其から大夏の赫連勃々が叱干阿利をして城を築かしめると、此者工事は上手だが至つて殘忍で土を蒸して城を築き、錐でもみためして一寸入ればすぐ其處の擔當者を殺し、其屍を築き込んだ。かくて築き立てた寧夏城は鐵石程堅く、明の哱拜の亂に官軍が三月餘り圍んで水攻め迄したが内變なき間は拔けなんだ。アイユランドのバリポールトリー城をデーン人が建た時、四方から工夫を集め日夜休みなし物食はずに苦役せしめ、仆るれば壁上に其體をなげかけ其上に壁を築かしめた。後ち土民がデーン人を追拂ふた時、此城が最後に落ち父子三人のみ生きて囚はれた。一同直ちに殺さうと言つたが一人勸めて之を助命し、其代りアイリッシユ人が常に羨やむデーン人特長のヘザー木から美酒を造る秘訣を傳へよと言ふた。初めは中々聴き入れなんだがとう/\承引して、去らば傳へよう、だが吾れ歸國して後ち此事が泄れたら屹度殺さるゝから只今眼前に此二子を殺せ、其上で秘訣を語らうと述べた。變な望みだが一向此方に損の行かぬ事と其二子を殺すと老父「阿房共め、吾二子年若くて汝等に説かれて心動き、どうやら秘訣を授けさうだから殺させた、もはや秘訣は大丈夫洩るゝ氣遣ひがないわい」と大見得を切つたのでアイリツシユ人大に怒り、其老人を寸斷したが造酒の秘法は今に傳はらぬさうだ。是等は人屍を築き込むと城が堅固だと明記はし居らぬが、左樣信じたればこそ築き込んだので、其信念が堅かつたに由つて極めてよく籠城したのだ。(近江輿地誌畧八五。五雜爼四。一八五九年版、ノーツ・エンド・キーリース撰抄、一〇一頁)予が在英中親交したロバート・ダグラス男が玉篋卦てふ占ひ書から譯した文をタイラーの原始人文篇、二版一卷一〇七頁に引いたが「大工が家を建て初めるに先づ近處の地と木との神に牲を供ふべし。其家が倒れぬ樣と願はゞ、柱を立てるに何か活きた物を下におき其上に柱を下す。扨邪氣を除く爲め斧で柱を打ちつゝよし/\此内に住む人々は毎も温かで食事足るべしと唱へる」とある。之に反し工人が家を建るに種々と其家と住人をまじなひ破る法あり、(遵生八牋七)紀州西牟婁郡諸村には大工が主人を怨み新築の家を呪して白蟻を招き害を加ふる術ある樣にきく。
日本で最も名高いのは例の「物をいふまい物ゆた故に、父は長柄の人柱」で、姑らく和漢三才圖會に従ふと、初めて此橋を架けた時水神の爲に人柱を入れねば成らぬと關を垂水村に構へて人を捕へんとす。そこへ同村の岩氏某がきて人柱に使ふ人を袴につぎあるものときめよと差いでた。所がさういふ汝こそ袴につぎがあるでは無かと捕はれて忽ち人柱にせられた。其弔ひに大願寺を立てた。岩氏の娘は河内の禁野の里に嫁したが、口は禍ひの本と父に懲りて唖で押通した。夫は幾世死ぬよの睦言も聞かず、姿有つて媚無きは人形同然と飽き果て送り返す途中、交野の辻で雉の鳴くを聞き射にかゝると駕の内から妻が朗らかに「物いはじ父は長柄の人柱、鳴ずば雉も射られざらまし」とよんだ。そんな美聲を持ちながら今迄俺獨り浪語させたと憤る内にも大悦びで伴返り、それより大聲揚げて累祖の位牌の覆へるも構はずふざけ通した慶事の紀念に雉子塚を築き杉を三本植付けたのが現存すてな事だ。この類話が外國にも有り埃及王ブーシーリスの世に九年の飢饉あり、キプルス人フラシウス毎年外國生れの者一人を牲にしたらよいと勸めたところが、自分が外國生れ故イの一番に殺された由。(スミスの希羅人傳神誌名彙卷一)左傳には賈太夫が娶つた美妻が言はず笑はず、雉を射取つて見せると忽ち物いひ笑ふたとある。(昭公二十八年)
攝陽群談一二に嵯峨の弘仁三年六月岩氏人柱に立つたと見え、卷八に其娘名は光照前、美容世に勝れて紅顏朝日を嘲けるばかり也とある。今二つ類話は朝鮮鳴鶴里の土堤幾度築ても成ず、小僧が人柱を立よとすゝめた處ろ、誰も其人なきより乃ちかの小僧を人柱に入れて成就した。ルマニアの古い唄に大工棟梁マヌリ或る建築に取懸る前夜夢の告げに其成就を欲せば明朝一番に其場へ來る女を人柱にせよと、扨明朝一番に來合せたはマヌリの妻だつたので之を人柱に立てたと云ふのだ。(三輪環氏の傳説の朝鮮二一二頁。一八八九年版ジョーンスとクロップのマジャール俚譚、三七七頁)
此程の本紙(大正十四年六月廿五日大阪毎日)に誰かゞ橋や築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬといふ樣に書かれたが、井林廣政氏から曾て伊豫大洲の城は立てる時お龜てふ女を人柱にしたのでお龜城と名づくと聞いた。此人は大洲生れの士族なれば虚傳でも無らう。
横田傳松氏よりの來示に大洲城を龜の城と呼んだのは後世で、古くは比地の城と唱へた。最初築いた時下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒヂと名づくる娘が中つて生埋され、其より崩るゝ事無し。東宇和郡多田村關地の池もオセキてふ女を人柱に入れた傳説ありと。氏は郡誌を編んだ人ときくから特に書付けて置く。
清水兵三君説(高木敏雄氏の日本傳説集に載す)には雲州松江城を堀尾氏が築く時成功せず、毎晩其邊を美聲で唄ひ通る娘を人柱にした、今も普門院寺の傍を東北を謠ひながら通れば必ず其娘出て泣くと。是は其娘を弔ふた寺で東北を謠ふ最中を捕はつたとでもいふ譯であらう。現に予の宅の近所の邸に大きな垂枝松あり、其下を夜更けて八島を謠ふて通ると幽公がでる。昔し其邸の主人が盲法師に藝させ八島を謠ふ所を試し切りにした其幽じるしの由。いやですぜ/\。
英蘭とスコットランドの境部諸州の俗信に、パウリーヌダンターは古城砦鐘樓土牢等にある怪で、不斷亞麻を打ち石臼で麥をつく樣の音を出す。其音が例より長く又高く聞ゆる時其所の主人が死又は不幸にあふ。昔しピクト人は是等の建物を作つた時土臺に人血を濺いだから殺された輩が形を現ずると。後には人の代りに畜類を生埋して寺を強固にするのが基督教國に行はれた。英國で犬又は豚、瑞典で綿羊抔で何れも其靈が墓場を守ると信じた。(一八七九年版ヘンダーソンの北英諸州俚俗二七四頁)甲子夜話の大阪城内に現ずる山伏、老媼茶話の猪苗代城の龜姫、島原城の大女、姫路城天守の貴女等築城の人柱に立つた女の靈が上に引いた印度のマリー同然所謂ヌシと成りて其城を鎭守した者らしい。ヌシの事は末段に述ぶる。
五月十八日薨ぜられた徳川頼倫侯は屡ば揮毫にてい(編輯者曰く、臥虎の二字を合せた字なれど活字なき故かなの儘にしておく)城倫と署せられた。和歌山城を虎臥山竹垣城といふ所へ漢の名臣第五倫といふのと音が似た故のことと思ふ。そんな六かしい字は印刷に困ると諫言せうと思ふたが口から出なんだ。是もお虎てふ女を人柱にしたよりの山號とか幼時古老に聞いて面白からずと考へたによる。なほ築城の人柱の例若干を集めて置いたが、病人を抱へて此稿を書く故引出し得ぬ。扨家光將軍の時日本に在つた蘭人フランシス・カロンの記に日本の諸侯が城壁を築く時多少の臣民が礎として壁下に敷かれんと願ひ出ることあり。自から好んで敷殺された人の上に建てた壁は損ぜぬと信ずるからで、其人許可を得て礎の下に掘つた穴に自ら横はるを重い石を下して碎き潰さる。但しかゝる志願者は平素苦役に飽果てた奴隷だから、望みのない世に永らへてるより死ぬがましてふ料間でするのかも知れぬと。(一八一一年版、ピンカートンの水陸旅行全集七卷六二三頁)
ベーリング・グールドの「奇態な遺風」に蒙昧の人間が數本の抗に皮を張つた小屋をそここゝ持ち歩いて暫し假住居した時代は建築に深く注意をせなんだが世が進んで礎をすえ土臺を築くとなれば、建築の方則を知ること淺きより屡々壁崩れ柱傾くをみて地神の不機嫌故と心得、驚懼の餘り地の幾分を占め用ふる償ひに人を牲に供へたと。フレザーの「舊約全書の俚俗」には、英國の脱艦水夫ジヤクソンが今から八九十年前フイジー島で王宮改築の際の目撃談を引き居る。其は柱の底の穴に其柱を抱かせて人を埋め頭はまだ地上に出て有つたので問合すと、家の下に人が坐して柱をささげねば家が永く立居らぬと答へ、死んだ人が柱をさゝげる物かと尋ねると、人が自分の命を牲にして迄柱をさゝげる其誠心を感じて、其人の死後は神が柱をさゝげくれると云ふたと。是では女や小兒を人柱にした譯が分らぬから、雜とベーリング・グールド説の方が一般に適用し得ると思ふ。又フレザーは敵城を占領する時抔のマジナヒに斯る事を行ふ由をも説いた。今度宮城二重櫓下から出た骸骨を檢する人々の一讀すべき物だ。
國學に精通した人より大昔し月經や精液を日本語で何と呼んだか分らぬときく。滿足な男女に必ずある物だが無暗に其名を呼ばなかつたのだ。支那人は太古より豚を飼ふたればこそ家といふ字は屋根の下に豕と書く、アイユランドの邊地でみる如く人と豚と雜居したとみえる。其程支那に普通で因縁深い豕の事をマルコ・ポロがあれだけ支那事情を詳述した中に一言も記し居らぬ。又是程大な事件はなきに、一錢二錢の出し入れを洩さず帳付けながら、今夜妻が孕んだらしいと書いておく人は先づないらしい。本邦の學者今度の櫓下の白骨一件などにあふとすぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱抔全く無かつたなどいふが、是は日記にみえぬから吾子が自分の子でないといふに近い。大抵マジナヒ事は秘密に行ふもので人に知れるときかぬといふが定則だ。其を鰻屋の出前の如く今何人人柱に立つた抔書付べきや。こんなことは篤學の士が普ねく遺物や傳説を探つて書籍外より材料を集め研究すべきである。
中堀僖庵の萩の栞(天明四年再版)上の十一張裏に「いけこめの御陵とは大和國藥師(寺か)の後にあり、何れの御時にか釆女御門の御別れを歎き生ながら籠りたる也」是は垂仁帝の世に土偶を以て人に代へ殉葬を止められたに拘らず、後代までも稀れに自ら進んで生埋にされた者が有つたのが史籍に洩れて傳説に存したと見える。所謂殉葬の内には御陵を堅むる爲めの人柱も有つたと察する。と書了りて又搜ると明徳記既に之を記し、藥師寺の邊りに其名を今に殘しける池籠めの御座敷是なるべしとあり。其より古く俊頼口傳集上にもいけごめのみさゝぎとて藥師寺の西に幾許ものかくありと見ゆ。
又そんな殘酷なことは上古蒙昧の世は知らず二三百年前に在つたと思はれぬなどいふ人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いて自ら二三度振廻し、我此劍で永く子孫を護るべしと顏色いと好かつたといひ、コックスの日記には、侍醫が公は老年故若者程速く病が癒らぬと答へたので家康大に怒り其身を寸斷せしめたとある。試し切は刀を人よりも尊んだ甚だ不條理且つ不人道なことだが、百年前後迄もまゝ行はれたらしい。なほ木馬水牢石子詰め蛇責め貢米賃(是は領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英國にもやゝ似たことが十七世紀までも有つて、ペピース自ら行つたことが其日記に出づ)其他確たる書史に書かねどどうも皆無で無かつたらしい殘酷なことは多々ある。三代將軍薨去の節諸侯近臣數人殉死したなど虚説といひ黒め能はぬ。して見ると人柱が徳川氏の世に全く行はれなんだとは思はれぬ。
こんな事が外國へ聞えては大きな國辱といふ人も有らんかなれど、そんな國辱はどの國にもある。西洋にも人柱が多く行はれ近頃まで其實跡少なくなかつたのは上に引いたベーリング・グールド其他の民俗學者が證明する。二三例を手當り次第列ねると、ロムルスが羅馬を創めた時ファスツルス、キンクチリウス二人を埋め大石を覆ふた。カルタゴ人はフヰレニ兄弟を國界に埋めて護國神とした。西暦紀元前一一四年羅馬がまだ共和國の時リキニア外二名の齋女犯戒して男と交はり連累多く罪せられた體吾が國の江島騷動の如し、この不淨を祓はん爲めヴェヌス・ヴェルチコルヂアの大社を立た時希臘人二人ゴール人二人を生埋した。コルバム尊者がスコットランドのヨナに寺を立てた時、晝間仕上げた工事を毎夜土地の神が壞すを防ぐとて弟子一人(オラン尊者)を生埋にした。去れば歐洲が基督教に化した後も人柱は依然行はれたので、此教は一神を奉ずるから地神抔は薩張りもてなくなり、人を牲に供えて地神を慰めるてふ考へは追々人柱で土地の占領を確定し建築を堅固にして崩れ動かざらしむるてふ信念に變つたとベ氏は説いた。是に於て西洋には基督教が行渡つてから人柱はすぐ跡を絶たなんだが之を行ふ信念は變つたと判る。思ふに東洋でも同樣の信念變遷が多少有つただらう。
なほ基督教一統後も歐洲に人柱が行はれた二三の例を擧げれば、ヘンネベルグ舊城の壁額(レリーヴィング・アーチ)には重賞を受けた左官が自分の子を築き込んだ。其子を壁の内に置き菓子を與へ父が梯子に上り職工を指揮し、最後の一煉瓦で穴を塞ぐと子が泣いた。父忽ち自責の餘り梯子から落ちて頭を潰した。リエベンスタイン城も同様で母が人柱として子を賣つた。壁が段々高く築き上らるゝと子が「かゝさんまだ見える」次に「かゝさん見えにくゝ成つた」最後に「かゝさんもうみえぬ」と叫んださうだ。アイフェルの一城には若い娘を壁に築き込み穴一つあけ殘して死ぬまで食事を與へた。オルデンブルグのブレクス寺(無論基督教の)を立てるに土臺固まらず、由て村吏川向ふの貧婦の子を買つて生埋にした。一六一五年(大阪落城の元和元年)オルデンブルグのギュンテル伯は堤防を築くに小兒を人柱にする處へ行合せ其子を救ひ、之を賣つた母は禁獄、買つた土方親方は大お目玉頂戴。然るに口碑には此伯自身の城の土臺へ一小兒を生埋にしたといふ。以上は英人が獨逸の人柱の例斗り書き集めた多くの内の四五例だが、獨人の書いたのを調べたら英佛等の例も多からうが餘り面白からぬ事ゆえ是だけにする。兎に角歐洲の方の人柱のやり方が日本よりも殘酷極まる。其歐人又其子孫たる米人が今度の唯一の例を引いて彼是れいはゞ是れ百歩を以て五十歩を責る者だ。
追記 英國で最も古い人柱の話は有名な術士メルリンの傳にある。此者は賀茂の別雷神同然父なし子だつた。初め基督生れて正法大に興らんとした際邪鬼輩失業難を憂ひ相謀つて一の法敵を誕生せしめ大に邪道を張るに決し、英國の一富豪に禍を降し、先づ母をして其獨り息子を鬼と罵らしめて眠中其子を殺すと、母は悔ひて縊死し父も悲んで悶死した。跡に娘三人殘つた。其頃英國の法として私通した女を生埋し、若くは誰彼の別なく望みさゑすりや男の意に隨はしめた。邪鬼の誘惑で姉娘先づ淫戒を犯し生埋され、次の娘も同樣の罪で多人の慰さみ物と成つた。季娘大に怖れて聖僧ブレイスに救ひを求め、毎夜祈祷し十字を畫いて寢よと教へられた。暫く其通りして無事だつた處、一日隣人に勸められて飮酒し醉つて其姉と鬪ひ自宅へ迯げ込んだが、心騷ぐまゝ祈祷せず十字も畫かず睡つた處を好機會逸す可らずと邪鬼に犯され孕んだ。斯くて生れた男兒がメルリンで容貌優秀乍ら全身黒毛で被はれて居た。こんな怪しい父なし子を生んだは怪からぬと其母を法廷へ引出し生埋の宣告をするとメルリン忽ち其母を辯護し、吾れ實は強勢の魔の子だが聖僧ブレイス之を豫知して生れ落ちた即時に洗禮を行はれたから邪道を脱れた。予が人の種でない證據に過去現在未來のことを知悉し居り、此裁判官抔の如く自分の父の名さへ知らぬ者の及ぶ所でないと廣言したので判官大に立腹した。メルリン去らば貴公の母を喚べと云ふので母を請じメを別室に延いて吾は誰の實子ぞと問ふと、此町の受持僧の子だ。貴公の母の夫だつた男爵が旅行中の一夜母が受持僧を引入て會ひ居る處へ夫が不意に還つて戸を敲いたので窓を開いて迯げさせた。其夜孕んだのが判官だ、是が虚言かと詰ると、判官の母暫く閉口の後ち實に其通りと告白した。そこで判官嚴しく其母を譴責して退廷せしめた跡でメルリン曰く、今公の母は件の僧方へ往つた。僧は此事の露顯を慙ぢて直ちに橋から川へ飛入つて死ぬと。頓て其通りの成行きに吃驚して判官大にメを尊敬し即座に其母を放還した。其れから五年後ブリトン王ヴヲルチガーンは自分は前王を弑して位に簒ふた者故いつどんな騷動が起るか知れぬとあつて、其防ぎにサリスベリー野に立つ高い丘に堅固な城を構へんと工匠一萬五千人をして取掛らしめた。所が幾度築いても其夜の間に壁が全く崩れる。因つて星占者を召して尋ねると、七年前に人の種でない男兒が生れ居る。彼を殺して其血を土臺に濺いだら必ず成功すると言つた。隨つて英國中に使者を出してそんな男兒を求めしめると、其三人がメルリンが母と共に住む町で出會ふた。其時メルリンが他の小兒と遊び爭ふと一人の兒が、汝は誰の子と知れず、實は吾れ/\を害せんとて魔が生んだ奴だと罵る。扨は是がお尋ね者と三人刀を拔いて立向ふとメルリン叮嚀に挨拶し公等の用向きは斯樣々々でせう、全く僕の血を濺いだつて城は固まらないと云ふ。三使大に驚き其母に逢ふて其神智の事共を聞いて彌よ呆れ請ふてメと同伴して王宮へ歸る。途上で更に驚き入つたは先づ市場で一青年が履を買ふとて懸命に値を論ずるを見てメが大に笑ふた。其譯を問ふに彼は其履を手に入れて自宅に入る前に死ぬ筈と云ふたが果して其如くだつた。翌日發送の行列を見て又大に笑ふたから何故と、尋ねると此死人は十歳計りの男兒で行列の先頭に僧が唄ひ後に老年の喪主が悲しみ往くが、此二人の役割りが顛倒し居る。其兒實は其僧が喪主の妻に通じて産ませた者故可笑しいと述べた。由て死兒の母を嚴しく詰ると果して其通りだつた。三日目の午時頃途上に何事も無きに又大に笑ふたので仔細を質すと只今王宮に珍事が起つたから笑ふた、今の内大臣は美女が男裝した者と知らず、王后頻りに言寄れど從はぬから戀が妒みに變じ、彼れは妾を強辱しかけたと讒言を信じ、大臣を捉えて早速絞殺の上支解せよと命じた所だ。だから公等の内一人忙ぎ歸つて大臣の男たるか女たるかを檢査し其無罪を證しやられよ、而して是は僕の忠告に據つたと申されよと言ふた。一使早馬で駈付け王に勸めて、王の眼前で内大臣が女たるを檢出して之を助命したとあるから餘程露骨な檢査をしたらしい。扨是れ漸く七歳のメルリンの告げたところと云ふたので、王早く其兒に逢ふて城を固むる法を問はんと自ら出迎へてメを宮中に招き盛饌を供し、翌日伴ふて築城の場に至り夜になると必ず壁が崩るゝは合點行ぬといふに、其は此地底に赤白の二龍が棲み毎夜鬪ふて地を震はすからと答へた。王乃ち深く其地を掘らしめると果して二つの龍が在り大戰爭を仕出し赤い方が敗死し白いのは消失せた。斯くて築城は功を奏したが王の意安んぜず。二龍の爭ひは何の兆ぞと問ふこと度重なりてメルリン是非なく、王が先王の二弟と戰ふて敗死する知せと明して消え失せた。後ち果して城を攻落され王も后も焚死したと云ふ。(一八一一年版エリス著、初世英國律語體傳奇集例、卷一、二〇五―四三頁)英國デヴォン州ホルスヲーシーの寺の壁を十五世紀に建てる時人柱を入れた。アイユランドにも圓塔下より人の骸骨を掘出したことがある(大英百科全書、十一版、四卷七六二頁)。
一四六三年獨逸ノガットの堰を直すに乞食を大醉させて埋め、一八四三年同國ハルレに新橋を立てるに人民其下に小兒を生埋せうと望んだ。丁抹首都コッペンハーゲンの城壁毎も崩れる故、椅子に無事の小兒を載せ玩具食品をやり他處なく食ひ遊ぶを、左官棟梁十二人して圓天井をかぶせ喧ましい奏樂紛れに壁に築き込でから堅固と成つた。伊國のアルタ橋は繰返し落ちたから其大工棟梁の妻を築き込んだ。其時妻が咀ふて今に其橋花梗の如く動遙する。露國のスラヴェンクス黒死病で大に荒され、再建の節賢人の訓へに隨ひ、一朝日出前に人を八方に使して一番に出逢ふ者を捕へると小兒だつた。乃ち新砦の礎の下に生埋して之をヂェチネツ(小兒城)と改稱した。露國の小農共は毎家ヌシあり、初めて其家を立てた祖先がなる處と信じ、由つて新たに立つ家の主人或は最初に新立の家に歩みを入れた者がすぐ死すと信ず。蓋し古代よりの風として初立の家には其家族中の最も老いた者が一番に入るのだ。或る所では家を立て始める時斧を使ひ初める大工が或る鳥又は獸の名を呼ぶ。すると其畜生は速に死ぬといふ。其時大工に自分の名を呼ばれたらすぐ死なねばならぬから、小農共は大工を非常に慇懃に扱つて己の名を呼ばれぬやう力める。ブルガリアでは家を建てに掛るに通掛つた人の影を糸で測り礎の下に其の糸を埋める。其人は直ちに死ぬさうだ。但し人が通らねば一番に來合せた動物を測る。又人の代りに鷄や羊などを殺して其血を土臺に濺ぐこともある。セルヴヰアでは都市を建てるに人又は人の影を壁に築き込むに非ざれば成功せず。影を築き込まれた人は必ず速かに死すと信じた。昔し其國王と二弟がスクタリ砦を立てた時晝間仕上げた工事を夜分鬼が壞して已まず。因つて相談して三人の妃の内一番に食事を工人に運び來る者を築き込もうと定めた。王と次弟は私かに之を洩らしたので其妃共病と稱して來らず。末弟の妃は一向知ずに來たのを王と次弟が捕へて人柱に立てた。此妃乞ふて壁に穴を殘し、毎日其兒を伴れ來らせて其穴から乳を呑せること十二ヶ月にして死んだ。今に其壁より石灰を含んだ乳樣の水が滴るを婦女詣で拜む。(タイラーの原始人文篇、二版一卷、一〇四―五頁。一八七二年版、ラルストンの露國民謠、一二六―八頁。)
其からタイラーは人柱の代りに獨逸で空棺を、丁抹で羊や馬を生埋にし、希臘では礎を据えた後ち一番に通り掛つた人は年内に死ぬ、其禍を他に移さんとて左官が羊鷄を礎の上で殺す、獨逸の古話に橋を崩さずに立てさせくれたら渡り初る者をやらうと鬼を欺むき、橋成つて一番に鷄を渡らせたことを述べ、同國に家が新たに立つたら先づ猫か犬を入らしむるがよいといふ等の例を列ねある。日本にも甲子夜話五九に「彦根侯の江戸邸は本と加藤清正の邸で其千疊敷の天井に乘物を釣下げあり、人の開き見るを禁ず、或は云く清正妻の屍を容れてあり。或は云ふ、此中に妖怪居て時として内より戸を開くをみるに老婆の形なる者みゆと、數人の所話如是」と。是は獨逸で人柱の代りに空棺を埋めた如く、人屍の代りに葬式の乘物を釣下げて千疊敷のヌシとしたので有るまいか。同書卅卷に「世に云ふ姫路の城中にオサカベと云ふ妖魁あり、城中に年久しく住りと、或は云ふ、天守櫓の上層に居て常に人の入るを嫌ふ、年に一度其城主のみ之に對面す、其餘は人懼れて登らず、城主對面する時姥其形を現はすに老婆也と云ひ傳ふ。(中略)姫路に一宿せし時宿主に問ふに成程城中に左樣の事も侍べり、此所にてハッテンドウと申す。オサカベとは言ず、天守櫓の脇に此祠ありて其の神に事ふる社僧あり、城主も尊仰せらると。」老媼茶話に加藤明成猪苗代城代として堀部主膳を置く、寛永十七年極月主膳獨り座敷に在るに禿一人現じ、汝久しく在城すれど今に此城主に謁せず、急ぎ身を淨め上下を著し敬んで御目見えすべしといふ。主膳此城主は主人明成で城代は予なり、外に城主ある筈なしと叱る。禿笑ふて姫路のオサカベ姫と猪苗代の龜姫を知らずや汝命數既に盡たりと云ひ消失す。翌年元朝主膳諸士の拜禮を受けんとて上下を著し廣間へ出ると、上段に新しい棺桶があり其側に葬具を揃えあり、其夕大勢餅をつく音がする。正月十八日主膳厠中より煩ひ付き廿日の曉に死す。其夏柴崎といふ士七尺許りの大入道を切るに古い大ムジナだつた。爾來怪事絶えたと載せある。垂加文集の會津山水記に云く、會津城以鶴稱之、猪苗代城以龜稱之と。これは鶴龜の名を付た二女を生埋したによる名か。又姫路城主松平義俊の兒小姓森田圖書十四歳で傍輩と賭してボンボリを燈し、天守の七階目へ上り三十四五のいかにも氣高き女十二一重をきて讀書するを見、仔細を話すと、爰迄確かに登つた印しにとて兜のシコロをくれた。持つて下るに三階目で大入道に火を吹消され又取つて歸し、彼女に火をつけ貰ひ歸つた話を出す。此氣高き女乃ちオサカベ姫で有らう。嬉遊笑覧などをみると、オサカベは狐で時々惡戯をして人を騷がせたらしい。扨ラルストン説に、露國の家のヌシ(ドモヴヲイ)は屡々家主の形を現じ其家を經濟的によく取締り、吉凶ある毎に之を知らすが又屡ば惡戯をなすと。而して家や城を建てる時牲にされた人畜がヌシになるのだ。類推するに龜姫オサカベ等も人柱に立てられた女の靈が城のヌシに成たので後ちに狐狢と混同されたのだらう。又予の幼時和歌山に橋本てふ士族あり、其家の屋根に白くされた馬の髑髏が有つた。昔し祖先が敵に殺されたと聞き其妻長刀を持つて駈付たが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬を刎ね其首を持歸つて置いたと聞いた。然し柳田君の山島民譚集一に馬の髑髏を柱に懸けて鎭宅除災の爲めにし又家の入口に立てゝ魔除とする等の例を擧げたのを見ると、橋本氏のも丁抹で馬を生埋する如く家のヌシとして其靈が家を衞りくれるとの信念よりしたと考へらる。柳田君が遠州相良邊の崖の横穴に石塔と共に安置した馬の髑髏などは、馬の生埋めの遺風で其崖を崩れざらしむる爲に置いた物と惟ふ。
予は餘り知らぬ事だが、本邦でも上述の英國のパウリーや露國のドモヴヲイに似た奧州のザシキワラシ、三河遠江のザシキ小僧、四國の赤シャグマ等の怪がある。家の仕事を助け、人を威し、吉凶を豫示し時々惡戯をなすなど歐洲の所傳に異ならぬ。是等悉く人柱に立てた者の靈にも非るべきが、中には昔し新築の家を堅めんと牲殺された者の靈も多少あることゝ思ふ。飛騨紀伊其他に老人を棄殺した故蹟が有つたり、京都近くに近年迄夥しく赤子を壓殺した墓地が有つたり、日本紀に歴然と大化新政の詔を載せた内に、其頃迄も人が死んだ時自ら縊死して殉し又他人を絞殺し又強て死人の馬を殉殺しとあれば垂仁帝が殉死を禁じた令も洵ねく行はれなんだのだ。扨令義解には信濃國には妻が死んだ夫に殉ずる風が行はれたといふ。久米邦武博士(日本古代史、八五五頁)も云はれた通り、其頃地方の殊俗は國史に記すこと稀なれば尋ぬるに由なきも、奴婢賤民の多い地方には人權乏しい男女小兒を家の土臺に埋めたことは必ず有るべく、其靈を其家のヌシとしたのがザシキワラシ等として殘つたと惟はる。ザシキワラシ等のことは大正十三年六月の人類學雜誌佐々木喜善氏の話、又柳田氏の遠野物語等にみゆ。
数年前の大阪毎日紙で、曾て御前で國書を進講した京都の猪熊先生の宅には由來の知れぬ婦人が時々現はれ、新來の下女などは之を家内の一人と心得ることありと讀んだ。沈香も屁もたきもひりもしないでたゞ現はれるだけらしいが、是も其家のヌシの傳を失した者だらう。其から甲子夜話二二に大阪城内に明ずの間あり、落城の時婦女自害せしより一度も開かず之に入り若くは其前の廊下に臥す者怪異に逢ふと。叡山行林院に兒がやとて開かざる室あり之を開く者死すと。(柳原紀光の閉窻自語)昔し稚兒が寃死した室らしい。歐洲や西亞にも佛語で所謂ウーブリエットが中世の城や大家に多く、地底の密室に人を押籠め又陷れて自ら死せしめた。現に其家に棲んで全く氣付かぬ程巧みに設けたのもあると云ふ。(バートンの千一夜譚二二七夜譚註)人柱と一寸似たこと故書添へ置く。
又人柱でなく、刑罰として罪人を壁に築き込むのがある。一六七六年巴里版タヴエルニエーの波斯紀行一卷六一六頁に盜人の體を四つの小壁で詰め頭だけ出してお慈悲に煙草をやり死ぬ迄すて置く、其切願のまゝ通行人が首を刎ねやるを禁ず、又罪人を裸で立たせ四つの壁で圍ひ頭から漆喰ひを流しかけ堅まる儘に息も泣くこともできず惱死せしむと。佛國のマルセルス尊者は腰迄埋めて三日晒されて殉殺したと聞くが頭から塗り籠られたと聞かぬと、一六二二年に斯る刑死の壁を見てピエトロ・デラワレが書いた。
嬉遊笑覧卷一上に「東雅に南都に往て僧寺のムロと云ふ物をみしかど上世に室と云し物の制ともみえず、本是れ僧寺の制なるが故なるべしと云ふは非也、そは宮室に成ての製也、上世の遺跡は今も古き窖の殘りたるが九州などには有ると云り、彼土蜘蛛と云し者などの住たる處なるべしとかや、近くは鎌倉に殊に多く是亦上世の遺風なるべし、農民の物を入れおく處に掘たるも多く、又墓穴もあり、土俗是をヤグラと云ふ。日本紀に兵庫をヤグラと讀るは箭を納る處なれば也、是は其義には非ず谷倉の義なるべし。因て塚穴をもなべていふ。實朝公の墓穴には岩に彫物ある故に繪かきやぐらといふ。又囚人を籠るにも用ひし迚大塔の宮を始め景清唐糸等が古跡あり」(下略)
紀州東牟婁郡に矢倉明神の社多し。方言に山の嶮峻なるを倉といふ、諸莊に嶮峻の巖山に祭れる神を矢倉明神と稱すること多し。大抵は皆な巖の靈を祭れるにて別に社がない。矢倉のヤは伊波の約にて巖倉の義ならむとは紀伊續風土記八一の説だ。唐糸草紙に唐糸の前頼朝を刺んとして捕はれ石牢に入れられたとあれば、谷倉よりは岩倉の方が正義かも知れぬ。孰れにしても此ヤグラは櫓と同訓ながら別物だ。景清や唐糸がヤグラに因はれたとあるより早計にも二物を混じて、二重櫓の下には因はれ居た罪人の骸骨が今度出たなど斷定する人もあらうかと豫め辯じ置く。
附記   本文は大正十四年六月三十日と七月一日の大阪毎日新聞に掲載のまゝで、其の引用書目と挿入註は七月十一、十二日に書き加へたものに本年八月又増補した者である。
 
人柱と薫り

 

1 崇り続ける人柱の怨霊
岩手県金ヶ崎町西根の千貫石地区には、天和二(一六八二)年に着工し、元禄四(一六九一)年に完成したとされる千貫石溜地の堤がある。この堤は、 「埴土手長さ六十八問、根置六十間、駒踏五間、水面石階二十七(一階につき三、四尺上り)、高さ十三丈」というほどの当時においては大規模なものであった〔金ヶ崎町町史編さん委員会 一九六五 五三五〕.境の工事は、難航を極めたらしく、苦心の末、釜石から買ってきたひとりの娘が人柱に立たされたという伝承が残っている。昭和九(一九三四)年発行の『金ヶ崎町史』によれば、その由来は次のとおりである。
「千貫石新大堰築立ノ由来ヲ尋ネルニ天和二年二取立成シ下サレテ元禄四年二十ヶ年ニテ出来成就相成然ルニ堤ノ主ヲ求メントテ牛ヲ求メ又女ヲ買フコトヲ世上二出シ候ガ南部釜石二行キ(一説二気仙トモイフ)其ノ辺こテ色々卜註文二及ビ家数問ノコトナレバ終二買ヒ求メ其ノ人相ノ悪シキコト近国近在二夫トナルベキ者ナシ其ノ女ノ父母ノ恩フ様他所へ売渡シ候へバ若ンヤ夫トイフモノヲ持ツベキヤト売渡候也人買ノモノ-買ヒ求メテ彼ノ千貫石二帰り俣ガ其ノ節ハ千貫石卜申ス所-唯三軒アリ(今ノ大屋ノ栄達殿ヒマシノ深松殿川前ノ栄五郎殿)此ノ三軒ヨリ女人達寄集リテ石ノ唐稽二仏壇ヲ装り地方ノ女人達ハ替り替り仏参仕り末座二釜石ヨリ買ヒ求メシ女二仏参サセ否ヤ石ノ唐植ノ蓋ヲ〆テ新大堤ノ主卜致候〔金ヶ崎町史編纂委員会 一九三四 一五八〜一五八〕」
すなわち、千貫石溜池の「堤ノ主」とするために、釜石まで出かけていき牛とともに女を買い求めてきて、それを村の女達が仏参りだとだまして唐碑のなかに閉じこめ人柱にしてしまったというのだ。しかも、この人柱となった女は、その両親も普通では嫁ぐことができないと心配するほど容姿の悪い娘だったという。この記述からは、両親は人柱にされることを知らずに、あわよくばどこかに嫁ぐことも叶うかもしれないという一線の望みをかけて娘を売った様子がうかがえる。ところが、せっかく遠方まで行って買ってきた娘を人柱に立てたのにもかかわらず、この金ヶ崎町の人柱伝説の場合、必ずしも人柱が成功したとは思えない後日談が語られているのが興味深い。『金ヶ崎町史』には、先はどの記述の後に次のようにある。
「普請役人川田勘祐様ノ御住所-仙台市御城下中島ナリ牛卜女トノ怨霊-毎晩「闇イゾ闇イゾ」と呼ぶ音ガアリ依ツテ隣町ノ人々マデ夜中ニハ物凄ク恩フコトナリ。其ノ罪ニテ川田様御親頬二十一廻リマデ皆死二絶工クリトアリ然ルニ其ノ女ノ子孫今ニアリソノ家-代々他人続キテ一切子供-生立ツ申サズナリ。新大堤-百年ノ年季ヲ結ビ候へ共安永六年五月晦日ヨリ昼夜引細雨七日七夜ノ大雨ニテ同六月六日ノ晩大破二相成り候然ル二大堤大破二相成ル時凡ソ二十尋計リノ青光ノモノ流レ出デ見エ候トアリ何レ其-牛卜女ノ怨霊ノ一念顕レ候モノト世二称セントゾ〔金ヶ崎町史編纂委員会一九三四 一五八〕」
築堤工事は成就したものの、その後工事にあたった役人の川田勘柘の子孫の他、その娘を人買いに売ってしまった娘の家にも代々子孫が絶えるといった人柱の怨霊による強烈な巣りが降りかかった。しかも、人柱の怨霊は人へ崇るばかりでなく、その後安永六(一七七七)年には、大雨が降り続いたために堤が大破してしまい、それが人柱の怨霊によるものだと噂されたという。
安永六年の大雨による決壊の後、千貰石境は風雪の荒れるがままに放置されたが、宿内川下流域の水田は、積年にわたる干害の影響を受け、不作減収を繰り返してきたため、昭和五(一九三〇)年の町議会において県営として築堤工事を行うことを決議し着工、その後も何度か工事を繰り返して、総貯水量五一〇万立方メートルを超える巨大なダムが完成し現在に至っている〔金ヶ崎町町史編さん委員会 一九六五 五三五一五三六〕。
ところが、その間にも、人柱の霊の強烈な巣りはおさまらず、戦後にいたっても、この地域の人々を悩ませていたのである。ダムの堤を見下ろす小高い丘の上には、その霊を供養するための観音像と、隣には一頭の牛の像が肥られており、そのすぐ側に立てられた「おいし観音建立の由来碑」には次のように記されている。前半部分の内容は初めに触れた『金ヶ崎町史』の記述とほぼ重なるが、資料として碑文全体を引用しておくことにする。
「千貰石堤は天和二年(一六八二年)に起工し、元禄四年(一六九一年)まで十ヶ年を要して竣工した。起工より三年間は毎年土手が破れたので貞享元年(一六八四年)伊達藩の普請奉行川田勘柘が取立てをなし、長さ六十四間(一二四米)高さ十三丈(四十米)の堤防を築き、石を裏込めし、更に人柱を立てたのであった。人柱は釜石から、おいしという十九才の女を(銭千貫)にて買い求め、石の唐権に封じ、二才の牛もろとも、百年の年季を限り、生き埋めにしたのであった。川田勘拓の邸は、仙台城下中島にあったが、それ以来毎夜「闇いぞ、闇いぞ」という声がしたので世間では女と牛の怨霊であろうといううわさをしたという。また、川田家一族は二十一回りまで死に絶えたとか。おいしに掛り合いを持った家は代々他人継ぎにて一切生い立たないとか言われている。この人柱後六十年、宝暦元年(一七五一年)に堤の底樋が大破、また百年の年季ながら、約九十年経た安永六年(一七七七年)五月三十日から七日七夜降り続いた細引雨で、六月六日の夜、堤防が絶破、田畑や採草地の荒敗甚大、流失家屋十二、人畜の被害多数とある。決演のさい、二十尋(三十六米)はどの青光りが流れ出たので、人柱の怨霊といわれたという。下って、昭和五年(一九三〇年)から、県営事業を以て大改築着工、同十年竣工、今日に及んでいるが、昭和五十年(一九七五年)に至り、千貫石部落の婦女の間に、たびたび人柱の夢枕が立っので同所の千葉時江、宮舘サヱ子、宮舘キワ等がおいし観音建立を発願、千貫石土地改良区に賛助を求めたところ、欣然同意、直ちに役員会にはかり、理事長、阿部久夫を建立委員長に推し、役員や関係者お呼び全組合員二十余名、並びに篤志者等の喜捨を仰ぎ、おいし観音を建立し、人柱の冥福と千冥右堤の永久安泰を祈願することになったものである。
   昭和五二年 題額 金ヶ崎町長 相原林美 渡辺房雄 撰文並書丹」
ここでは、人柱となった娘は、おいしと呼ばれている。釜石から買ってきた娘だからだろうか。そのおいしは、この地域の女性達の夢枕に度々立ち、苦しめたというのだ。碑文にも名の記されている宮舘キワさん(昭和七年生まれ)に当時の様子をうかがってみると、キワさんは重い口を開いて次のように教えてくれた。
昭和五〇年ごろ、千貫石地区の女性たちの身内に難病を患ったり、結婚が破綻になったりと、不幸が続いたという。それを比叡山で修業をしたことのあるという地元の拝み屋の女性に相談したところ、人柱のおいしの祟りであり、このままだと不幸も続くし、千貫石の堤が再び決壊するかもしれない、だから千貫石地区の人々でおいしの霊を供養しなければだめだと告げられたという。そこで、キワさんは、同様においしの祟りの影響を受けていた千葉時江さん、宮舘サヱ子さん、そしてサヱ子さんの夫の秋夫さん1)とともに、土地改良区や村の人たちにかけあって何とか説得し資金を集め、観音像を建てたのだそうだ。キワさんは、こんなところに嫁に来るんじゃなかったとつくづく後悔したが、拝み屋の女性に、あなたはそういう因縁があるのだ、他の家に嫁に行ったとしてもその因縁から逃れることはできないのだ、と言われ、一生懸命おいし観音を拝むようになったのだという。
科学技術の発達した現代社会において、かつての人柱の祟りのために観音像を建立するというのは当時地元でも大きな話題となった。昭和五一(一九七六)年五月八E]付の『胆江日日新聞』の記事には、五月六日に行われたおいし観音像の除幕式の様子が観音像の写真とともに次のように記されている。
「おいし観音や慰霊の碑 伝説の地に建立 金ヶ崎町千貴石部落の浄財で」
「現在、金ヶ崎町と北上市の一部約二千-クタールの水田をうるおしている金ヶ崎町千貫右溜池には江戸時代、いけにえを捧げて堤の主とした伝説"おいし物語"がある。このおいしや溜池殉難者を把る"おいし観音像"除幕式が六日午後、建立された千貫石堤南側鷹の巣山頂で行われた。式はおいし観音像、牛頭観音建立記念碑、溜池殉難碑がつぎつぎに地元の子等によって除幕され、導師によって開眼された。鷹の巣山は溜池が一望のもとに見られ、目を転ずれば胆江地方から北上市が眺望できる景勝の地、同町の新名所がまたひとつふえた。おいし観音像は高さ一・六五メートル、台座の高さ二・五メートル、奥行一・八メートル、幅三・六メートルの大きさで、高さ〇・四メートル、長さ一メートルの臥牛像と並んで経っている。そのそばにはおいしの由来を刻んだ祈念碑と殉難者碑が建てられた。 (後略)」
キワさんや秋夫さんによれば、観音像建立後、おいしの月命日である二八日には毎月、おいし観音を守る会が中心となってお参りを続けているそうである。そうした努力が実ったのか、その後、おいしが崇ることはなくなったという。
村や個人に起こった災いの原因が崇りだと判断されたり、その対処法が示されるのに宗教者が介在するのは、古代から現代にいたるまで変わらないだろう。だから、この現代の祟り事件を、うさんくさいといって切り捨てるわけにはいかない。むしろ、ここで重要なのは、人柱を立てた直後から崇りが始まり、それが三〇〇年近くもたった後にも、人柱となったおいしの怨霊が祟り続けているということである(この地域で起こる災いを人々が人柱の崇りとして理解し続けているということである)。別な言い方をすれば、この千貫石堤の場合、人柱の強い怨霊のためにせっかく築いた堤が破れてしまったというのだから、人柱という儀礼が結果的にうまくいかなかったことを示していると言えるだろう。なぜ、千貫石堤の人柱儀礼は成功しなかったのだろうか。人柱に立たされたおいしが人柱の条件を満たしていなかったのか。
2 人柱になる者の条件
人柱伝説は全国各地で伝承されているが、そこではどのような人間が人柱として選ばれていたのだろうか。いくつかの例を挙げてみると、例えば、青森県藤崎町の浅瀬石川に藤崎堰を作る際に立った人柱は、堰八太郎左衛門という武士だったという。しかも、太郎左衛門は、自発的に人柱に立ち、自ら腹に杭を打ちつけて壮絶な最期をとげたとされている〔藤崎町誌編さん委員会 一九九六三八五〜三九一〕 。
また、静岡県富士市を流れる富士川の雁堤の工事の際に立たされた人柱は、一〇〇〇人目に川を渡って来た東国巡礼の道心だった〔富士市史編纂委員会 一九六九 六一四〕。
広島県庄原市では、上原の国兼池の土手を築くために土手の底に人柱を立てたと伝えられているが、人柱にされたのは、村人きっての美しい姉妹として知られていた、二一歳のお国と一九歳のお兼であったという。彼女たちは、村人たちに懇願されて、村のためになるのならと人柱に立っことを引き受けたのだとされている〔荒木博之 一九八七 二五八〜二五九〕。
宮城県登米市(旧中田町)では、北上川河川敷にお鶴明神と呼ばれる小南が建っている。これは慶長年間に北上川の流路を変更するために堤防の工事をしていたときに、たまたま弁当を運んできたお鶴という娘を無理矢理人柱に立て、そのお鶴の霊を把ったものだとされている。お鶴の詳しい素性は不明だが、岩手県南部の出身で村の長者の家で下働きしていた娘だったという伝承が伝えられているそうである(お鶴明神社の説明文より)。
このようにいくつか挙げただけでも、人柱に選ばれるのは、村の外部の人間もあり村の内部の人間もあり、また、宗教者であったり、武士であったり、女性であったり、男性であったりする。また、強制的に人柱に立たされる場合も、自発的に立っ場合もある。つまり、人柱になる者のバリエーションは実に多様であり、そこに特に共通した規則性は見られないのである。
こうした人柱になる者のバリエーションの多さについて、笹本正治は、 「人柱伝説の背後に一普請・災害に対する意識の変化」において、災害-の対処の意識が古代から中世、そして近世へと変容していくこととの関わりから分析している。笹本は、まず柳田国男の「妹の力」を参照しながら、歴史的に最も古い人柱の形は稚児や娘や宗教者、また横継ぎの当たった着物を着ているなどの特別な印をもつ者など、神に選ばれた人間だったとした上で、次の様に述べている。
「神に選ばれた人間が人柱になるという考え方は、災害は神がもたらすもので、その神の意に従い、神を祭り鎮めるという供応に、災害や普請対処の中心が置かれている。それに対して、買ってきた女や乞食・孤児などを人柱にするという筋には、確かに先に見たように選ばれた者を人柱にすべきだという考え方が背後にあるものの、共同体の維持のためには人を買ってでもそれに当てるべきだという共同体重視、人間主体の視点がみられる0 (中略)男の中で、普請の責任者や庄屋、言い出した者などが進んで人柱になることは、神に選ばれた者という意識よりも、人柱が必要なら自分がなるという災害-の主体的な自己犠牲である。これは災害は人間が対処することによって無くなる、そして人柱は誰でもいいのだという考えにつながり、庄屋のような役割の者は進んで共同体の犠牲になってしかるべきだということで、先程の共同体維持のために人を買ってでもという考え方よりもう少し後、近世の人を中心とする考え方につながるのではないだろうか。それより更に進んだのが憎まれた者を人柱にする伝説と思われる〔笹本 一九九三 三五五〜三五六〕。」
すなわち、神々の領域へ人間が進出していく際に生じる、災害という形で現れる神の怒りをどのように鎮めるのかという目的で、その対処法として人間を犠牲にしていたのが本来の人柱であって、だからこそ、神の怒りを鎮められる存在として異人や宗教者、あるいは印のある者、そのなかでも特に巫女的な要素をもった女性といった、神に選ばれた者だけが人柱の役割を果たしていた。ところが中世から近世にかけて、災害は人間によって防げるという、自然災害に対する人間中心主義的な考え方になってくると、人柱になる者に特定の宗教性や異人性は求められなくなり、人の命であれば何でもよいという物語が生まれてきたのではないか、というのである。
古代から中世、近世にかけて、人柱を支えていた思想が神中心から人間中心へと変化していくのにともなって、人柱となる者も、宗教的色彩を帯びた存在(特に盛女的存在)から特定の宗教性のない多様な人間へと条件が広げられていったとする、この笹本の理解は大変興味深い。こうした笹本の理解にしたがって考えてみるならば、おいしを人柱に立てたというのは、千貫石堤の工事は一七世紀後期であるから、人柱となる者の条件が既に特に無かった(笹本の言葉で言えば「人柱は誰でもいいのだ」ということ)時期の伝承であると言えるだろう。しかも、おいしは、醜い容姿の持ち主だったというから、そこに、神に選ばれし聖痕の痕跡をうっすらと感じ取れそうにも思える。その意味でも、人柱を立てたのにもかかわらず千貫石堤の工事が成就しなかった理由は、おいし自身が、人柱としての条件を満たしていなかったからではないと言えそうだ。
さて、私は既に、拙稿「人柱の思想・序論-人を守り神にする方法」 〔六幸 二〇〇七〕において、先ほどの笹本の議論を参照しながら、中世以降に使われるようになった「人柱」という言葉に込められたイメージがどのようなものだったのかについて論じた。というのも、 「人柱」の文献上の初出は、一三世紀成立の『平家物語』であり、少なくとも茨田堤伝説など記紀の編纂された時代には、 「人柱」という語彙が用いられていなかったようなのであるが、 「人柱」が使われるようになってからも、伝説のなかで、人柱とはどのようなものなのか、そしてなぜ橋や堤の難工事に効果的なのかを具体的に説明する場面は一切語られないのである。つまり、伝説を語る側も聞く側も、人柱という言葉を用いただけで、人柱というものの知識や思想を共有できたと思われる。ということは、人柱という言葉には、人をどうすることが難工事を成就させるものなのかという具体的なイメージが含まれた言葉だったと考えることができるだろう。
そこで、拙稿で、いくつかの人柱伝説を並べて分析したところ見えてきた共通性は、橋や堤、堰の工事のための基礎の部分に人が立てられたり、埋められたりして、その人柱を立てた基礎の上に、人工的建造物が建築されていく様子である。そして、必ずと言っていいほど、人柱を立てた橋や堤の近くに祠を建て、人柱の霊を守り神として祀っているのである。つまり、 「人柱とは、人を工事の土台にすることであり、その土台となることで人柱となった者は建造物の守り神になる」 〔六車二〇〇七〕と考えられていたと言えるわけである。
こうした人柱の思想は、人柱という語彙の登場と呼応してより具体化し、人々の間で共有されていったと思われる。というのも、人柱という言葉の使われていない『日本書紀』の茨田堤伝説では、「河神」の要求に対して差し出された武蔵国の強頸は、 「泣ち悲びて、水に没りて死」に、すると、「乃ち其の堤成りぬ」とあり、強頸が河神の祟りを鎮めるために供犠となったことが強調されていて、工事の土台に埋められたというイメージは皆無なのである。ところが、人柱という語彙が使われるようになった中世以降の伝説では、川を支配している神の存在は薄くなる一方で、人を建造物の土台として埋めるというイメージが強調されるとともに、既存の神ではなく、その人柱となった(された)人間白身が建造物の守り神として祀られていくことが明示されるようになっていくのだ。それは、笹本の示した、古代から中世、近世にかけて、神中心から人間中心主義へという、人間の自然への進出における考え方の根本的な変容とまさに対応していると言えよう。
おいしも、 「堤の主」、つまり、堤の守り神とするために釜石から連れてこられたのであり、しかも、石の唐櫃に閉じこめられて堤の土台に埋められている。そうした点では、人柱を守り神にする方法に則っているように思われる。では、千貴石堤の場合、人柱の成功にとっていったい何が欠けていたのだというのだろうか。
3 負から正への転換
ところで、柳田国男は、 「人を神に肥る風習」のなかで、中世から近世にかけて流行した死者の霊を神として祀る信仰について論じており、その冒頭近くで、次のように述べている。
「死者を神として祀る慣行は、確かに今よりも昔の方が盛んであった。しかしそれと同時に、今ではもう顧みない一種の制限が、つい近い頃までは全国的に認められていた。 (中略)人を祀るものと信ぜられる場合には、以前は特に幾つかの条件があった。すなわち年老いて自然の終りを遂げた人は、まず第一にこれにあずからなかった。遺念余執というものが、死後においてもなお想像せられ、従ってしばしばタタリと称する方式をもって、怒りや喜びの強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることになるのであった〔柳田 一九二六 六四七〜六四八〕 。」
天寿を全うした老人ではなく、むしろ、人生半ばにして死んだ者、しかも崇りという形でこの世に強い感情を示す者こそが、神として祀られるに値した、と柳田は言う。橋や堤の守り神とされる人柱の場合も、おいしばかりでなく、しばしば崇りという形でその怒りや怨念を露出させ、周辺の人々を苦しめることもあった。たとえば、先述した青森県藤崎町の藤崎堰の場合では、自らが人柱となると宣言して自分の腹に杭を突き刺して川に沈んでいった堰八太郎左衛門は、その後、おいしと同様に崇りを起こしている。寛政九(一七九七)年に藤崎で人柱伝説について聞いた菅江真澄は、『都介路逎遠地』で人柱の崇りについて次のように記している。
「その頃おほん司より五千刈の田の町をこの社に寄せ給ふが、いかなることにてや、めしかへされたれば福田の社もあれにあれ、雨の大にふりつゞき、塘くづれ堰やぶれて、つけどもつけどもむかしのごとくならざりければ、田作りうれへて公にうたへ申しかば、福田の神の御たゝりならんと、うちおどろかせ、田地もとのごとく堰八が末の子にあたへ給ひ、正保乙酉年にふたたび社も給ふ。このみやしろのうちに、太郎左衛門、手づからつくれる木の形代あり、ふかくひめたり。その末の子堰八吉宮といへる、かみぬしとなりて、社のかたはらに家居してすめり。かくて神に奉る。」
すなわち、人柱となった堰八太郎左衛門の霊は堰の守り神である福田の神(堰八明神)として祀られるが、後年、藩主から賜った五千刈の田が後に没収されてしまい、太郎左衛門を祭神として祀っていた福田宮も荒れて祭りが行われなくなると、せっかく人柱によって築かれた堰が破れてしまい、また以前のような甚大な被害が出てしまったというのである。人々の間には、これは人柱に立った太郎左衛門の崇りだという噂が広まったため、藩主は太郎左衛門の子孫に、田地とともに社も与えて祀らせた。すると、堰が破れなくなったという。
ここで重要なのは、ではなぜ崇るのか、ということである。おいしのように強制的に、しかも騙されて人柱に立たされたのであればまだ想像がつくが、堰八太郎左衛門の場合は、誰に強制されることもなく、自主的に人柱になっている。では、何が堰八太郎左衛門の崇りの原因になったのだろうか。それは、堰八太郎左衛門が人柱に立った直後には堰の守り神である堰八明神として肥られたのにもかかわらず、時が経つうちに人々に忘れ去られて宮は荒れ果て祭りも行われなくなったからではないかと思われる。藩主の指示で、堰八太郎左衛門の子孫が祀るようになったことで、堰が破れなくなったという記述は、まさにそれを裏づけているだろう。
つまり、人柱となった者の霊は、一度祀られればそれでいいのではなかったのである。祀りを怠れば、再び、崇りによって災害を生じさせるような、やっかいな存在なのである。人柱を完全に成功させるには、人柱となる者の資質(宗教性、異人であること、肉体あるいは精神力頑強さ等)もしくは人柱の立ち方が重要であるとともに、共同体において、人柱となった者の霊を守り神として祀り続けることが欠かせない条件とされていたのではないだろうか。
ということは、千貫石において人柱となったおいしが三〇〇年も崇っていて、結局、人柱としての役割を果たさなかったのは、おいしの霊が神として祀られることも、供養されることもなかったからだと考えられる。だからこそ、昭和五一年になって観音像が建立され、月命日に示巳りが行われるようになって、漸く祟りがおさまったというわけだ。実際、人柱を立てたとされる堤や堰、橋などの近くには、神社や供養碑が建てられて、保存会などによって年に一回程度の祭りを行っているケースが現在でも多くみられる。それは、祀らなければ崇られるという、人柱のもつやっかいさが人々の間でいまだに共通認識としてもたれていることの証拠と言えよう。
ではなぜ千貫石では、最近まで人柱の霊が祀られることがなかったのか。それについて確かなところはわからないが、ただ、ひとつだけその理由を推測させることがある。それは、千貫石ダムの堤の上に、水神社、千貫石神社が祀られていることである。 『金ヶ崎町史』には、 「(水神社は一引用者注)千貫石大堤が出来た時に祀られたもので、祭神は水速女神である。昭和七年、県営溜池が築かれ完成した際、千貫石神社を合祀した。」 〔金ヶ崎町町史編さん委員会 一九六五 二三五〕とあり、近世に堤ができたときには水神が祀られ、更に昭和の改修工事が行われた際には、新しく千貫石神社が合祀されたことがわかる。また、宮舘秋夫さんの話によると、おいし観音へ月命日のお参りを行う以前から、毎年九月一九日に千貫石神社の例大祭を集落で行っており、神社で礼拝してから、公民館で踊りや神楽を舞ったり、地方廻りの芝居を招いたりしていたというのである。つまり、千貫石堤と周辺水田を維持していくにあたって、地元の人々は何もしていなかったのではなく、自然神である水神をその堤の守り神として祀ってきたのだった。ところが、人柱となったおいしの怨霊の方が水神に勝り、そのために堤が決壊したり、人々が災難に巻き込まれたりということがたびたび起こった。そこには、堤の主、守り神とするために人柱を立てるという近世的な信仰と、水神を守り神として祀るという古代的な信仰とのせめぎ合いを見て取ることができるのではないか。おいしの霊は、そのようなせめぎ合いのなかで、時に人々の心の中から忘れ去られ、その度ごとに崇りを起こす怨霊として鮮明に人々の記憶に蘇ってきたのだろう。
ここでもうひとつだけ付け加えておきたいのは、人柱伝説が、人々の間で負の記憶のまま伝承されているわけでは決してないということである。それは、人身御供譚との大きな違いである。人身御供譚では、人を神への生贄として捧げる祭りは、今は行われていない過去の蛮習として語られるのが定型である。したがって、その物語を伝承する人々の問では、共同体内の人間を犠牲にしたという記憶にともなううしろめたい負の感情が潜在化し続けることになる。
ところが、人柱伝説の場合は、川の氾濫を防いで水田開発を行ったり、交通手段である橋を工事を成就させたりと、周辺共同体に利益をもたらすために、ある特定の人を人柱という形で犠牲にしているにもかかわらず、その霊は神として崇められ、時に、村を救った義民として顕彰される対象にもなるのだ。
藤崎堰の人柱の場合は、その傾向が顕著である。昭和三三(一九五八)年に行われた三百五十年祭で、改修工事のされた新しい堰の近くに、堰八太郎左衛門の顕彰碑が建てられたばかりではなく、近世においても、度々藩に提出された神社の由緒書には、その正統性の根拠として、祭神が人柱となった太郎左衛門であり、祭主はその子孫であることが必ず記されていた。また、太郎左衛門が人柱に立ったという記述のある現存資料のなかで、四代引中主堰八豊後安隆が弘前神明宮斉藤長門へあてた口上書の覚書は最も古い資料だが、そこでも既に、京都で修業し習得した神楽を、長く他の宮でも行えるようにと願い出る際、自分がいかに正統な系譜にあるかを示すために人柱の様子が記されているのである〔成田 一九五九 三〜四〕。堰神社の人柱関係の資料については、別稿で改めて詳細に論じる必要があるだろうが、明らかなのは、ここには、自分の祖先が村人に犠牲にされたことに対する負の感情はみじんも感じられない、ということであり、そればかりでなく、神社の正統化の論理として、村人たちの人柱の記憶が巧みに利用されているということであろう。
宮田登は、 『生き神信仰-人を神に祀る習俗-』で、義民が死後神として祀られる傾向があることについて、次のように述べている。
「義民伝承には、多かれ少なかれ、 一揆の指導者が御霊になるというモチーフが語られている。民衆の先頭に立ち、権力と戦って敗れ、ついに目的が果たせないわけだが、かれらの遺執と祟りは、同時に抑圧された民衆の潜在的心意の表現でもある。しかしいっまでも祟る御霊では、民衆の側に精神的安定が与えられない。かくて宗教家の介在もあって、神と祀られ霊神となる。とくに民衆運動は、いかに挫折をくり返しても、あくまで民衆の立場から発する故、その指導者は、死後、民衆を守護するための神として存在意義を持っのであった。崇りを転じて民衆に幸いをもたらす霊神が成立する過程には、御霊の暗い影を否定するという、祀る人びとの側の意識の高揚があってはじめて可能となることは明らかである〔宮田 一九七〇 二九〕。」
人柱伝説と義民伝承、御霊信仰とが、どのような部分で重なり合い、またどのような部分で異なるのかということを論じる余力は私には既にないが、志半ばにして殺された義民が御霊になって崇るという点は、人柱との共通性として読むこともできる。義民の霊の祟りは、義民の無念さを残された人々が強く感じていることの表れであるとともに、自分たちのために犠牲にしてしまったといううしろめたさ、負の感情がぬぐいきれないためだと言えよう。人々はそうした苦しみから精神的な安定を得るために、義民の霊から、崇りを起こす御霊的な負の性格を否定し、自分たちを守護し、幸いをもたらす神へと転換していくのだという。祀り手側の意識の高揚があって、そうした負から正への論理の転換が可能になる、と述べる宮田の指摘は、人柱伝説について考える私たちにとっても示唆的である。
千貫石堤の伝承のように、崇りが起こり続けては人柱が成功したとは言えない。自分たちの利益のために人を犠牲にした(殺した)という共同体のもつ負の感情を正の論理へと転換できるかどうかというのが、人柱においても義民伝承と同様に重要な意味を持っていたはずだ。人柱となった者の霊を守り神として祀り続けるということも、自分たちの犠牲にしたことに対するうしろめたさから解放されるための負から正への積極的な論理転換であり、それができてはじめて人柱という習俗が完結するのだと言えるだろう。  
 
打坂地蔵尊

 

打坂地蔵尊(うちざかじぞうそん) 1
長崎県西彼杵郡時津町(事故当時は時津村)にある地蔵菩薩。1947年(昭和22年)にバスの乗客・運転士の命を救い、殉職した長崎自動車(長崎バス)瀬戸営業所の鬼塚道男車掌を称え、1974年(昭和49年)10月に長崎自動車が事故現場付近に建立した。
事故当時の交通事情​
長崎市と西彼杵郡時津町との境にまたがる打坂峠は、長崎への主要な交通路であった時津街道の時代から、急勾配の坂が続く街道最大の難所として知られていた。峠は急勾配なうえ、片側が深い崖になっており、長崎自動車の運転手らから「地獄坂」として恐れられていた。
当時の長崎自動車の路線バスは、戦中・戦後の燃料不足もあり、現在のようなディーゼルエンジンではなく、木炭を車体後部のガス発生炉で燃焼させ、発生したガスを動力源とした木炭バス(代燃車)であった。木炭バスは比較的入手が容易な木炭で走行できる反面、非力で坂道が連続する路線には不向きであり、走行中に停止することも多かったので、坂道では乗客が降りてバスを押すことも珍しくなかった。
事故​
1947年9月1日、満員の乗客約30名を乗せて打坂峠を登坂中の、長崎自動車の大瀬戸(旧西彼杵郡大瀬戸町)発長崎行きの路線バスのエンジンが停止した。
運転手はブレーキをかけたが動作せず、バスはずるずると坂を後退していった(後の調査でブレーキが故障し、ギアシャフトも折れてしまっていたことが判明している。)。現場は片側が高さ10mにもなる崖であり、バスが転落すれば大惨事は免れ得なかった。 この非常事態に、運転手は鬼塚車掌に対し、石などで処置を行うよう指示。鬼塚車掌はバスから飛び降り、指示通り石で輪止めを行ったが、すでに加速がついており、また多くの客がバスに乗っていたため効果はなく、バスは崖まであとわずかというころまで迫った。その時、鬼塚車掌は咄嗟に体を丸めるとバス後部に潜り込み、自分の体を輪止めにした。
その結果、バスは辛くも崖まであと数メートルというところで停止した。事態に気付いた運転手がジャッキで車体を持ち上げて鬼塚車掌を救出、時津営業所から救援に駆け付けたトラックで病院へ運んだが、まもなく殉職した。享年21であった。彼の犠牲により、乗客・運転手は全員無事だった。
殉職した鬼塚道男車掌は、素直で気の優しい、物静かな性格の青年と周囲に認知されていた。木炭バスの車掌は体を張って乗客の乗降を助けつつ、燃料の管理も行う激務であった。特に火焚きは難しく、失敗して叱りつけられることもあったが、口答え一つしたことがなかった。そのため、知らせを受けて救援に駆け付けた同僚は、運転手から事情を説明され「あのおとなしい道男が」と非常に驚いたという 。
その後​
自己犠牲を以ってバスの転落を防いだ鬼塚車掌の行為は、美談として地方新聞に報じられたが、遺族には長崎自動車からわずかな弔慰金が支払われただけで、やがて事故そのものが人々から忘れられていった。 しかし、後にこの事故を知る人物によりラジオ番組で取り上げられ、引き続きテレビ番組でも紹介されたことで、全国の視聴者からの反響を呼んだ。また当時の乗客からの鬼塚車掌に対する感謝を綴った新聞への投書などもあり、長崎自動車は社長があらためて遺族にお悔やみの言葉を述べるとともに、見舞金の支払いと慰霊碑の建立を約束した。
こうして1974年10月、鬼塚車掌の勇気ある行動を称えた記念碑と、交通事故の絶滅を祈る地蔵尊が建立された。以来、毎年9月1日には長崎自動車の社長、及び幹部らにより供養が行われ続けている。
打坂地蔵尊 2 〜勇気ある殉職、鬼塚車掌〜
昭和22年9月1日午前10時ごろ、当時21歳の鬼塚道男(おにづかみちお)車掌は、西彼杵郡時津村(現在の時津町)打坂で、乗客の生命を救おうとして殉職した。
当時の木炭バス瀬戸営業所勤務の鬼塚車掌は、この日の朝8時、大瀬戸発長崎行の木炭バスに乗務、満員に近い客を乗せ、打坂を約30メートル上っていた。ところが峠の頂上まであと数メートルというところで、突然、ブレーキがきかなくなり、バスはずるずると後退を始めた。
当時の打坂は急こう配で片側は10メートル以上の深い崖がひかえ、運転者仲間に”地獄坂”と恐れられていた坂だった。鬼塚車掌はすぐにバスを飛び降り、道わきの大きな石を車輪の下に入れたが、加速がついていたバスは石をはねのけ、崖まであと一歩と迫った。この時、鬼塚車掌はとっさに後部車輪の下に飛び込み、自らの体を輪止めにした。バスは間一髪のところでストップ、買い出しの主婦ら30数人は危うく難をのがれたが、鬼塚車掌は運転者とかけつけた同僚が病院に運んだ直後に息を引き取った。
敗戦後の荒廃した社会の中、自らの命を犠牲にして乗客を救った鬼塚車掌の殉職は人々に大きな感銘を与えた。当社では、この勇気のある鬼塚車掌の行為をたたえるとともに交通事故の絶滅を祈って、昭和49年10月、事故現場近くに地蔵尊を建立した。
乗客の命を救ったバスの車掌さん 3
長崎県の時津町に、打坂(うちざか)呼ばれる急勾配の坂があります。この坂の途中に、救命地蔵と呼ばれるお地蔵さんがあります。ここに、身を挺して大惨事をくいとめ、乗客30有余名の命を救った鬼塚道男(おにづかみちお)さんが祀られています。
終戦後、まだ間もない昭和22(1947)年9月1日午前8時のことです。大瀬戸発、長崎行きのバスは満員の乗客を乗せて、打坂峠を登っていました。当時のバスは、車体の後ろに大きな釜をつけて、木炭を焚いて走る「木炭バス」です。木炭バスというのは今のようなガソリンではなく、車体の後ろに大きな釜(かま)を付け、いまで言ったら備長炭のような炭を焚(た)いて走るバスです。性能はいちおう45馬力とされているのだけれど、釜の炊きが悪いと10馬力出るかで、それで30人乗りのバスを走らせた。バスの後ろに、ドラム缶みたいな釜を取り付け、そこに薪(まき)をいっぱい入れて釜だきしてエンジンを走らせた。それでもいちおう、薪をいっぱいにすれば50kmくらいの距離は走れたそうです。馬力は、いまでいったら原チャリ程度です。その非力なエンジンで、30人も乗ったら、満員になる小さなバスを走らせた。
そんな無茶な、なんて言ったらいけません。ABCD包囲網によって経済封鎖された日本は、当時でも年間2千万バレルの石油が必要だったのに、戦時中の昭和19(1944)年には164万バレルしか輸入がなく、昭和20(1945)年に至っては、輸入量がゼロなのです。木炭だって、走らないよりはいい。
一方、この頃の打坂は、もちろん舗装などなく、道は狭く、くねくねと曲がり、勾配は20度もあったそうです。バスの運転手たちからは「地獄坂」と呼ばれていた。それくらい怖い坂だった。この道を、大瀬戸から長崎まで一日一回往復のバスが通行していました。
車掌として勤務していた鬼塚道男(おにづかみちお、当時21歳)は、朝8時の大瀬戸発のバスに乗務するため、午前6時に木炭をおこして準備をし、火の調子を整えました。木炭バスというのはエンジンが温まるまで走れないし、走ってもよくエンジンが止まり、そのたびに釜のなかの火を長い鉄の棒で突いて木炭をならしながら走ります。釜の火の調子を整えることが、木炭バスの車掌の仕事だったのです。
そのバスが坂の半ばに差し掛かったときのことです。突然エンジンが故障し、バスが停まってしまいました。
運転手は直ぐにブレーキを踏みましたが、ブレーキが利かない。サイドブレーキも利かない。エンジンもかかりません。前進ギアも入らない。四重のトラブルです。ギアシャフトがはずれたのです。
上り坂でいったん停止したバスは、ズルズルと坂道を後退し始めます。
運転手はバスを止めようと必死になります。しかしバスはドンドン下がって行く。
坂道です。曲がりくねっている。乗客は30人あまり。
運転手は鬼塚車掌に向かって、「鬼塚!直ぐ降りろ!石ころでん棒きれでん、なんでんよかけん車の下に敷け!」と絶叫します。
鬼塚車掌はバスから飛び降り、近くにあるものを片っ端から車輪の後ろに置いて、バスを止めようとしました。
しかし急な下り坂で加速がついたバスの車輪は、石を粉々に砕(くだ)き、あと数メートルで高さ20メートルの険しい崖(がけ)のというところまで迫ります。崖からバスが落ちたら、乗客の命がない!
乗客はなすすべもなくパニックになります。「こいは、おしまいばい!」
乗客皆が、そう思ったとき、バスは崖っぷちギリギリのところで止まりました。運転手と乗客はホッとして「ヨカッタ、ヨカッタ」と我にかえります。
運転手はバスから降り、「鬼塚!どこに、おっとか!」と叫びます。乗客たちも、降りてきた。
ひとりの乗客が、「バスん後ん車輪に、人のはさまっとる」と指さしました。
車輪の下に、鬼塚車掌が横たわっていました。彼は自分の体を輪止めにしてバスを止め、崖からの転落を防いだのです。
時刻は朝の10時過ぎです。自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちた。早く救助に!」と長崎バスの時津営業所に駆け込みました。
時津営業所の高峰貞介は、すぐに木炭トラックに乗って急いで現場に駆けつけました。すると、バスは崖っぷちギリギリのところで止まっていて、運転手が一人真っ青な顔をして、ジャッキでバスの車体を持ち上げていました。

高峯さんは後に事故の様子と鬼塚さんについて次のように語っています。
たしか、朝の10時少し過ぎだったですたい。自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちとるばい、早よう行ってくれんか」って、駆け込んで来たとです。木炭のトラックの火ばおこしてイリイリしてかけつけると、バスは崖のギリギリのところで止まっとったとです。もうお客はだれもおらんで、運転手が一人、真っ青か顔ばしてジャッキで車体を持ち上げとったですたい。「道男が飛び込んで輪止めになったばい。道男、道男」って涙流しとったです。当時の打坂峠は胸をつくような坂がくねくねと曲がっとりましたけん、わしら地獄坂と呼んどったです。自分で輪止めにならんばいかんと思うたとじゃなかでしょうか。丸うなって飛び込んで。
道雄の体をバスの下から引きずり出して、木炭トラックの荷台に乗せました。背中と足にはタイヤの跡が付いていましたが、腹はきれいでした。十秒か二十秒おきに大きく息をしていたので、ノロノロ走る木炭トラックにイライラしながら、しっかりしろ、しっかりしろと声をかけて。9月といっても一日ですから、陽がカンカン照って、何とかして陰をつくろうと鬼塚車掌に覆いかぶさるようにして時津の病院に運んで、先生早く来てくれ、早く早くって大声を出しました。
その晩遅くに、みかん箱でつくった祭壇(さいだん)と一緒に仏さんを時津営業所に運んで来たとです。
道男君はおとなしかよか男じゃったですたい。木炭ばおこして準備するのは、みんな車掌の仕事ですけん、きつか仕事です。うまいことエンジンがかかればよかが、なかなかそげんコツは覚えられん。よう怒られとりました。それでもススだらけの顔で口ごたえひとつせんで、運転手の言うことばハイ、ハイって聞いとったです。ばってん、そげん死に方ばしたって聞いた時には、おとなしか男が、まことに肝っ玉は太かって思ったもんですたい。
鬼塚車掌は、炎天下のトラックの荷台で熱風のような空気を大きく吸い込んだのが最期でした。闇市への買い出し客や、市内の病院へ被爆(ひばく)した子どもを連れて行く途中の母親たち30人あまりの命と引き換えに、彼は若い命を閉じました。
この事故が起こった昭和22年は日本が敗戦後の虚脱の状態のときでした。みんな生きていくのが必死でした。まして原爆が落ちて日もない。他人のことなんかかまってる余裕なんてなかった。そんな時代でした。
乗客は皆、口々に身代わりになった車掌にお礼を述べましたけれど、物資が不自由な時代です。誰も何もしてあげることが出来ませんでした。
それから26年後の昭和48年、この事件を誰かが新聞に載せました。たまたまその記事を目にした長崎自動車(長崎バス)の社長は、その日の内に緊急の役員会を開きます。「私が発起人になる。浄財を集めて、鬼塚さんを供養する記念碑を造ろう!」一年後、事故が起きた打坂に記念碑とお地蔵さんが建てられました。以降毎年、鬼塚車掌の命日の9月1日に、長崎自動車の社長以下、幹部社員が地蔵の前で供養を行っています。
また、近くにある時津幼稚園の年長組みの園児たちも、毎年地蔵尊にお参りして花を手向け小さな手を合わせています。時津幼稚園の山口理事長は「近年、子供の犯罪が問題化しており、園児達に小さい頃から命の尊さを感じとって貰いたい」と鬼塚車掌の話を子供たちにして園児達の地蔵尊へのお参りを実施しているそうです。  
知られざる偉人「鬼塚道男」の物語 4
今回は、戦後間もない時期に長崎県で起きたとある事故に関する記事になります。この事故では、一人の長崎自動車でバスの車掌だった鬼塚道男(おにづか・みちお)さんが犠牲になるも、彼の捨て身の行動によってバスの乗客全員が救われました。その事実を知った私は、自分のブログを通して、名もなき偉人である鬼塚道男さんのことを多くの方に知ってもらいたいということで、取材して記事にしました。
いかにして事故は起きたのか?
今回の記事では、実際に事故が起きた現場付近の取材や鬼塚さんが車掌をしていたバス会社である長崎自動車への取材をも行いました。ただ、まずはその事故の詳細から話す必要があると思うので、鬼塚さんはなぜ身を投げ出して乗客を守らなくてはいけなかったのか。その辺りから説明していくことにしますね!
馬力が弱い木炭バス
今回紹介する事故が起きたのは長崎県西彼杵郡時津町という場所。長崎市から北側にある場所ですかね。
そんな時津町の周辺は大変坂が多い場所。時津町に限らず、長崎市周辺は全体的にすりばち状の地形をしているんですよね。そのため、今回の事故が起こった打坂のような急な坂は多かったんでしょうな。そんな急な坂が多かった長崎市周辺では、戦後の時代、長崎自動車のバスが走っていたわけですが、その時は知っていたバスは今のような馬力のある乗り物ではなかったんですね!
戦後間もない日本では、今のようなディーゼルエンジンのバスではなくバスの後方で木炭を炊いて走っていた「木炭バス」というバスがノロノロと走っていました。木炭を炊くガスの発生炉はよく故障をしていたらしく、さらには坂が急で馬力が足りなかった時は、乗客の方にバスの後ろを押してもらうなんてことも度々あったそうです。戦後の物資が不足していたということもあり、人の数に対してバスの数が足りず食料の買い出しや通勤の人で、いつも朝は通勤ラッシュのように超満員だったそうです。
物資が足りず、人が増えていたこの時代ではとにかく一台のバスでいかに大量の人数が運べるかということが課題だったこともあり、上の写真のようなトレーラーバスまで誕生。乗客車両と運転席が切り離された大型トラックのような作りになっているこのバス。しかし、これが原因でかつては神奈川県横須賀市で多くの死者を出す大火災事故が発生してしまうなどしてトレーラーバスは姿を消すことになります。
そんな戦後の時代に、鬼塚さんが犠牲となった事故が発生したんですね。
ブレーキが故障してバスが暴走!
んで、今回紹介する事故が起こったのは戦後の1947年9月1日でした。この日も、いつものように鬼塚道男車掌が乗っていたバスは運行していたわけです。ところが、いつもの運行ルートを通っていたバスは、午前10:00頃、運行ルートにある”打坂”と言われる坂を走っているさなかに問題が発生したのです。
実はこの坂、当時は非常に急勾配な坂であり、片側は10メートル以上の深い崖がひかえていたことから”地獄坂”とも言われていた坂だったんですね。その打坂を上っていた木炭バスですが、なんと坂を登り切る寸前でブレーキがまさかの故障。ずるずると坂を後退し始めてしまったのです。ゆっくりと後退しながら坂を下っていく木炭バス。鬼塚車掌はバスを飛び降りて、何とかバスを止めようと周囲にある石を車輪の下に入れるもバスは止まらない・・。
しかもこの打坂、超絶ウルトラへたくそな絵で申し訳ないですが、上の図のように上り坂の手前でカーブしていることから、バスはただ坂を後退していただけでなくその先に待ち受ける断崖絶壁の崖に向かって進んでいたのです。そのため、鬼塚さんも何とかしてバスを止めなくてはバスが崖から落っこちてしまう。しかしどうすることもできない、ところが、バスは止まったのです。崖に転落するまさに直前で、乗客の誰一人犠牲者を出すことなく無事に停車しました。一人の犠牲者を除いて。
自らの体を犠牲にして乗客を救った
そう、鬼塚さんは自身の体を輪留めにしてバスを停止させたのです。この時、乗っていた乗客は現場を去っていたようで、運転手さんが涙を流しながら一人でジャッキで車体を持ち上げていたとのこと。鬼塚さんの首と足には車輪の跡が残っており、鬼塚さんは病院に搬送される途中で息を引き取りました。事故直後の様子は、長崎自動車の社史に記載されています。
享年21歳。あまりにも若い死ではあるものの、バスの下に身を投げて乗客を救ったという勇気ある行動は、その後、長崎自動車の誇りある歴史として語り継がれることになるのです。翌日の長崎新聞にもこの事件は掲載されていました。この新聞は、長崎市立図書館で新聞のアーカイブをさかのぼって複写したもので、タイトルには「身を捨てて乗客を救ったバスの車掌」と書いてますね。
事故が起きた打坂へ!
事件の背景を知り、いてもたってもいられなくなった私。この鬼塚さんの話は数年前に知ってはいたものの、神奈川県に住んでいたこともあり取材をしたくてもなかなかそれが叶わなかったんですね。そこで、2019年3月に一旦フリーランスの仕事を切り上げて次の現場へと働くまでの間の期間を使って、2019年4月の一か月をこの取材をするのを一番の目的として九州取材に充てたわけです!独身だからこそなせる業(わざ)ということで、羽田空港からLCCを使って九州へと向かったのでした!
そんな経緯で九州で色々取材を済ませる中、時間を作って鬼塚さんを弔うお地蔵さんである打坂地蔵尊がある場所へ向かいました。場所は「長崎県西彼杵郡時津町」という場所。国道206号線の緩やかな坂が長く続く場所に、そのお地蔵さんは佇んでいました。
そしてありましたよ、これが、このお地蔵さんが鬼塚さんを弔うために建てられたものか。打坂地蔵尊はGoogleMapでも地点登録されているため一瞬で見つけることができましたよ。結構新し目な花が添えてあったので最近誰かがお線香をあげに来たんでしょうか。ひとまず、多くの命を救って亡くなった鬼塚さんに両手を合わせる。
今は打坂があった場所は整備されており、当時の坂は残っていませんでした。現在お地蔵さんがある場所も実際の事故現場というわけではなく、このお地蔵さんも今の場所に始めから建っていたわけではなく、別の場所から移転されたそうです。今の場所も緩やかな坂にあり、私は30分くらいいましたが非常に強い風がずっと吹き付ける場所でした。
「鬼塚道男君は、長崎自動車株式会社の車掌として勤務中昭和二十二年九月一日朝長崎市打坂付近の坂上に於て木炭バスが故障し断崖に転落せんとするや咄嗟(とっさ)に車体の下に挺身依って大惨事をくいとめ自ら乗客三十有余の生命に変わりて散華せり享年二十一 ・・・ 」 碑に書かれている文章
多少はかすれてしまっているものの、石板に刻まれている文字は今でも充分読むことができますね。
事故があった打坂は現存しないものの、周囲を見渡すととにかく坂が多いこと。そもそも長崎県は坂が多いことで有名でもあり、長崎市に至ってはすり鉢状になっていて平地が少なすぎて、ほとんどの方が自転車を利用しないという町。この時津町もとにかくアップダウンだらけで、以下に長崎県に坂が多いかを納得させるには十分な景色。
誰か人がいたらお地蔵さんのことをについて話しかけてみようと思ったんですが、誰もいなかったためお地蔵さんの裏にあるドン・キホーテで働くお姉さんにも少し話を伺いました。お姉さん:「あ〜あのお地蔵さんですね。このお店では特に話題にはなっていないですが、小さいときにお母さんから聞いたことがあります!地元の方は結構知っているみたいですよ!」 ということで、地元民の間では語り継がれている話ではあるようです。現地取材ではこれくらいしかできずちょっと満足には欠ける状態。とはいっても、お地蔵さん周辺はドン・キホーテやケンタッキーなどのお店はあるものの、このお地蔵さんにまつわる話を聞けそうな場所は皆無。
そこで、咄嗟にダメもとではありますが、鬼塚さんが勤めていた長崎自動車に話を聞くことができないか電話で聞いてみることに。すると、なんとまさかのOK!いや〜こういうのは電話してみるものですね。予定を聞くと、翌日の午後であれば時間が取れるということで、翌日に私は長崎自動車への本社へと出向くことにしたのです。
長崎自動車へ突撃取材!
打坂地蔵尊を訪問した後、鬼塚さんのことを長崎自動車の方にお伺いしたいと思い、取材をしに行くことに!長崎自動車の本社は、日本三大中華街の一つである「長崎新地中華街」のすぐ近くにありました!
建物の中に入って、取材の時間まで少しばかり時間を潰すことに。一階は高速バスのターミナルになっているようですね。この日は平日だったものの、結構多くの人でごった返しておりました。そんなターミナルで10分ほど時間を潰し約束した取材の時間に。取材の際の質問事項を改めて確認し直して、長崎自動車の本社を訪問することに!
本社では早速社員さんがお出迎えしていただき、応接室に通され一時間ほど取材を受けてくれました。電話した翌日に急遽取材を受けていただいたんですが、本当に柔軟に対応していただきありがとうございました。
電話でも伝えたものの、もう一度自分が鬼塚さんの物語りに興味を持った背景などを伝えてからいろいろ質問をすることに。
実は私は鬼塚さんのことは、フジテレビ系列の人気番組『奇跡体験アンビリバボー』で知ったんですよね!
社員さん 「あ〜そうでしたか。全国放送では奇跡体験アンビリバボーもそうですし、金スマで一回取り上げられたこともありました。でも、アンビリバボーではうちも取材は受けてはいたのですが放送では使われませんでしたね。」
私 「アンビリバボーでは、鬼塚さんを救助した高峰さんの奥さんがインタビューを受けていましたね。」
社員さん 「そうなんですよね。高峰さんのことはうちも連絡をとっているわけではないんですよ。なので、さすがテレビですよね、どこかから奥さんを見つけて取材されたんだと思います。」
話を聞くと、今でも鬼塚さんの教訓は会社の教習素材としても使われており、地域の方はご存知の方が多いとのこと。どこかの高校では、演劇の出し物でもこの物語を取り上げたことがあったそうです。
その他には、お地蔵さんを訪問した時に気になったことなどもいくつか質問を!
私 「打坂地蔵尊に行った際には、新しくお花が添えられていましたがどなたが管理されているのでしょうか?」
社員さん 「そうでしたか。今ではうちの会社の時津の営業所の方が定期的に手入れをしたり、あとは裏にあるドン・キホーテの方など周辺にいる方なども時折お花を添えてくれるそうです。周辺の方々には親しまれているお地蔵さんみたいです!」
お地蔵さんの隣には折り鶴も供えられていましたが、これは近くにある時津幼稚園で折られたもの。毎年、長崎自動車が9月1日に慰霊法要を行う前に折って持ってきてくれるんだそうです。長崎自動車もその前日か当日に、社長が鬼塚さんの偉業をたたえる紙芝居を時津幼稚園の園児たちに披露するのが毎年の恒例行事になっているそうです。そして、その紙芝居を見た後に園児たちが作った折り鶴をこうしてお供えしてくれるんですって!地元の会社と幼稚園がこうやって関わりができてるって素敵なことだな。
ここの一画だけは長崎自動車の管理地になっており、先ほども書いたように周辺の方々が今でもお花を添えてくれるようです。親族の方としては、鬼塚さんの兄弟の息子さん(つまり甥っ子ですかね?)が、今から10年ほど前にお参りに来たそうです。長崎自動車としても、交通の安全面における教訓だったり、経営理念を伝えるためにも大切な話として、今でも風化させることなく社員の方々に受け継がれている話なんですね。
それだけではなく、70年以上経った現在でも鬼塚さんの命日である9月1日には、長崎自動車から30〜50名ほどの社員の方が出席して慰霊法要を行っているとのこと。時津町のお寺の住職さんがお経を唱えて法要を仕切ってくれているそうです。遠く離れた神奈川県に住んでいる私にはなかなか知り得ない話ではありますが、地元ではこうやっていろいろな形で鬼塚さんの偉業は忘れ去られずにいるんですね。
現在もバスは急坂を登り続ける
現在、長崎自動車の本社がある長崎市内では、バス会社というと長崎自動車と県営バスの二つがあり、市内にある多くの急坂を登り続けています。ただ、今の時代にはあの事故のようなことはまず起こらないですけどね。
そんな長崎県では、坂が多いということで県営バスで「片道定期」という珍しい定期券も発行されているとのこと。というのも、家から駅に向かう際は下りなので坂を下ればいいですが、帰りの上りが辛いということでこのような定期券が販売されてもいたそうです。
以上で取材は終わりましたが、長崎自動車に取材することもできて、そして地元では鬼塚さんの話が語り継がれているということも確認できて本当に良かったです。
おわりに
打坂地蔵尊は何としてでも訪れたかった場所。知の冒険は、知られざる埋もれた日本の歴史や博物館などを掘り起こし、多くの方に埋もれている歴史やスポットに目を向けてほしいと思って続けていますが、鬼塚さんはまさにそんな方。
でも、長崎自動車の方に話を聞いて地元の方には知られているということを聞いてとても安心しました。私のブログを通じて、少しでも多くの方がこの事件に、そして亡くなった偉大な鬼塚さんに関心を持ってもらえたら幸いです。 
 

 

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