日本と朝鮮

日本と朝鮮 / 日本と朝鮮半島(大戦後)日朝交渉史韓国併合日本統治時代の朝鮮日朝関係史朝鮮明治期の日本にとっての朝鮮半島大日本帝国崩壊
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日韓関係史

雑学の世界・補考   

日本と朝鮮半島との関係 (第二次世界大戦後)

第二次世界大戦後の関係を規定した条件
日本・朝鮮両国は、長い歴史を通して、基本的に平和な善隣関係を維持してきた。1910年(明治43)8月の「韓国併合」から満35年にわたった日本の朝鮮統治は、両国の歴史に重大な汚点を残した侵略であり、その本質は同化主義に基づく過酷な植民地支配であった。朝鮮民族に苦難の暮らしを余儀なくさせたこの植民地支配は、武装闘争を含む朝鮮人民の不断の抵抗と第二次世界大戦における連合国の対日勝利、とくに大戦末期のソ連軍の朝鮮半島北部攻略によって、1945年(昭和20)8月崩壊した。そのことは、本来ならば単一の主権国家としての朝鮮の再建の契機となり、また、日本・朝鮮両国の伝統的な善隣関係の回復に向けての新たな出発点になるべきものであったが、現実はそれとは異なった。朝鮮は日本の支配から脱したものの、大戦終結前後の複雑な国際情勢のもとで、南半部の韓国と北半部の北朝鮮とに分断されてしまった。そして、戦後の日本は、その一方の韓国とだけ関係を緊密化させたのである。これは、日本が戦後の占領期を通じて西側陣営に組み込まれ、政府の対外政策の基調が対米協調に置かれたことと深くかかわっていた。
戦後初期の日本と朝鮮半島との関係
1951年(昭和26)9月のサンフランシスコ対日講和会議で調印された「日本国との平和条約」第2条a項には、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵(うつりょう/ウルルン)島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と明記された。この条項は、その時点での既成事実を法的に確認したものにすぎない。実際に朝鮮が日本の支配下から離れたのは、第二次世界大戦終結前後に米ソ両軍が朝鮮半島を分割占領したときである。それに続いて1948年8月には韓国が、同年9月には北朝鮮が樹立された。日本の支配はいち早く完全に払拭(ふっしょく)され、その点で朝鮮は、戦後の政治的独立のあとも旧宗主国の影響力がさまざまな形で残された、他の多くの旧植民地の場合とは違っていた。他方で、敗戦日本を占領した米軍が同時に南朝鮮で軍政を敷いたため、日本と南朝鮮=韓国との間には、戦後のきわめて早い時期から新しい関係が生まれた。
占領下日本は外交権を失い、対外関係はすべて米軍を主力とする連合国最高司令部(GHQ)が管理した。これによって、ソ連軍が管理していた北朝鮮との政治的、経済的関係は遮断されたが、米軍軍政下の南朝鮮との間では早くも1945年秋から貿易が再開された。1950年6月には朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)し、日本はたちまちこれに巻き込まれ、国土と産業はあげて韓国を支援する国連軍の作戦のために使われた。さらに、この戦争の真っただ中の1952年4月28日に対日講和が発効して日本の外交権が回復すると、日韓両国政府は同日付けの交換公文によって、それまでGHQ向けの外交機関として東京に設置されていた韓国政府在日代表部を日本政府向け代表部に切り換えて存続させることに合意した。日本政府の公的説明によると、この措置は日本が韓国に対して、国際法上のいわゆる「黙示の承認」を与えたことを意味した。日本が戦後初期の段階から南北朝鮮の一方の側に傾斜したことは、その後の日本と朝鮮半島との関係のあり方を大きく規制した。
韓国との関係
日韓国交樹立への歩み
対日講和会議直後の1951年10月、GHQの斡旋(あっせん)で、国交樹立について協議する日韓両国政府間の交渉(日韓会談)の予備会談が東京で始まり、これは翌1952年2月から本会談に移行した。これをすすめたGHQの目的は、「日本国との平和条約」には盛りきれなかった日本と韓国の国交樹立を、同条約の発効までに個別の交渉で実現させることにあった。GHQは同じ目的で日本と台湾(中華民国)との交渉も斡旋した。しかし、日台交渉が簡単に妥結したのに反して日韓会談は難航し、中断と再開を繰り返したあげく、1953年10月いったん決裂した。交渉不調の最大の原因は、日韓双方の立場と利害がまっこうから衝突したことである。韓国側は、国交を開くためには、かつての日本の朝鮮植民地統治に対する謝罪と賠償が必要であると主張したが、日本側は、日本の統治には朝鮮の近代化に寄与した面もあったゆえ、一面的に非難されることはないと反論した。いわゆる久保田貫一郎(1902―77)発言であるが、これが韓国側を激高させた。また、当時の韓国大統領李承晩(りしょうばん/イスンマン)は、自分の独裁政治を正当化するために対日報復を呼号しており、1952年1月には韓国近海の広い公海上に立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)を一方的に設定し、その線を越えた日本漁船の拿捕(だほ)を繰り返して日本側を強く刺激した。
日韓会談は、岸信介(のぶすけ)内閣時代の1958年4月に再開された。日米安全保障条約改定を推進した岸内閣は、韓国の親米反共政権との連携を「新安保体制」の一環と考えていた。だが、このときの日韓会談も難航を続けたあげく、1960年4月韓国の「4月革命」(4・19革命)による李承晩政権の崩壊と日本の「60年安保闘争」のなかでの岸内閣退陣によって、挫折(ざせつ)した。交渉が軌道にのったのは、1961年5月の軍事クーデターで登場した朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)政権が対日接近に動き出してからである。その背景にはアメリカの対韓政策の軌道修正があった。アメリカ政府はアジア戦略における韓国の位置を重視する反面、財政難から対韓経済援助を削減せざるをえなくなり、韓国に自助努力としての経済開発の実施を求めるとともに、対韓援助の肩代りを日本その他の同盟諸国に働きかけた。日米新安保条約と日韓国交正常化に基づく日米韓地域統合戦略の実現こそが、アメリカの主眼であった。そこで、朴正煕政権は1962年1月から韓国初の経済開発計画である第一次五か年計画に着手し、その所要資金の一部を日本から引き出すために、日韓会談の妥結を急いだのである。こうして、1965年2月佐藤栄作内閣と朴正煕政権の間で国交樹立をうたった日韓基本条約(正式名称は「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」)の仮調印が行われ、同年6月同条約と四つの付属協定(経済協力、文化協力、漁業、在日韓国人の法的地位・待遇の各協定)の本調印となった。
日本政府は日韓基本条約のなかで、韓国政府の施政権の及ぶ範囲が朝鮮半島南半部に限定されている事実に留意しながらも、同政府を「朝鮮にある唯一の合法的な政府である」と確認した(第3条)。この条文は、北朝鮮の存在を否認したものと解釈できる。植民地統治に対する謝罪と賠償については、その法的根拠となった1905年(明治38)の第二次日韓協約と10年の韓国併合条約に関連して、「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国の間で締結されたすべての条約および協定は、もはや無効(null and void)であることが確認される」(第2条)と規定した。これは条約・協定の失効時期を明記せず、日韓基本条約締結時における無効を確認するのみのものであった。したがって、条文の解釈において、韓国側は条約・協定の締結当初に遡及(そきゅう)して無効であるという「源泉的無効論」を採用し、他方日本側は条約・協定自体は完全な意思と平等な立場において締結されたという「合法正当論」を展開した。この「玉虫色の解釈」が、後日の歴史認識をめぐる対立の淵源(えんげん)となるのである。このような解釈のずれは、経済協力に関する付属協定にも持ち込まれた。「源泉的無効論」に立脚して賠償責任の発生を主張する韓国側に対して、賠償権問題の不在を唱える日本側はこれを拒否し、そのかわりに「韓国の独立へのお祝い金」という名目で経済協力資金を供与するという態度を示した。そして、結局韓国側が譲歩し、日本側の主張に沿った決着をみた。
これらの条約・協定に対しては、日韓双方の国内で激しい反対運動が展開され、北朝鮮が強く反発したのをはじめ、国際的にもさまざまな批判の声があがった。しかし、日韓両政府はそれを押し切ってそれぞれの国内手続を終え、同年12月18日批准書交換、発効にこぎ着けた。
日韓関係の緊密化
国交樹立に伴う日本の対韓資金供与は、具体的には、1965年末から向こう10年間に、3億ドル相当の物資と役務を無償で提供し、また2億ドルの長期低利の公共借款を供与するものと決められた(韓国側はこれらの資金を国内向けに「対日請求権資金」と名づけた)。それとあわせて、同じ期間内に日本から3億ドル以上の民間商業借款を供与するよう努力するとの取決めもなされた。これによって、日本は韓国の経済開発に対してある程度の発言権をもつことになった。両国政府は多面的な協力を発展させるという理由で、1967年から定期閣僚会議の開催を制度化し、それに対応して双方の政財界、文化界にも各種の協力推進団体が生まれた。日本の民間企業の韓国への進出は、当初はおもに商業借款供与という形でなされたが、韓国政府が1960年代末に外国人直接投資誘致の方針を打ち出して投資環境の整備を進めたことから、1970年代には直接投資も急増した。とくに1977年からは、韓国の重化学工業化計画の始動によって、日本の大企業の対韓進出が本格化した。それより先1971年日本政府は、韓国側の要請により「対日請求権資金」とは別枠の公共借款供与を続けることに同意した。こうして、国交樹立から1984年末までの20年間に韓国に投入された日本の資金は、政府資金が累計7182億円(うち無償分1067億円)、商業借款が累計32億5700万ドル、民間直接投資も累計10億0723万ドルに達し、日本はアメリカに次ぐ対韓投資国となった(民間直接投資だけをとればアメリカよりも多い)。貿易面でも、日米両国は韓国の輸出、輸入における第1位、第2位を争っている。
この間、1973年8月には韓国中央情報部(KCIA)が来日中の野党指導者金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)を拉致(らち)するという事件を引き起こしたが、当時の田中角栄内閣は韓国政府の「遺憾」表明だけで事件を不問に付した。また、1979年10月の大統領朴正煕射殺と翌1980年5月の将軍全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)の権力掌握で韓国政情が混乱したとき、従来両国の政界を結んでいた人的パイプが切れて日韓関係は一時冷却した。1983年1月、首相就任後まもない中曽根康弘(なかそねやすひろ)は訪米に先だってソウルに飛び、向こう7年間に総額40億ドルという巨額の公共借款供与を約束して、韓国政府との関係を修復し、全斗煥との間で「新次元の日韓関係の幕開き」をうたい上げた。
日韓関係緊密化の根底には安保問題がある。1969年11月に訪米した首相佐藤栄作はアメリカ大統領ニクソンとの共同声明のなかで「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」と言明した。ともにアメリカの同盟国である日韓両国の「運命共同体」的関係を確認したこの文言は「韓国条項」とよばれ、以後、歴代の日米、日韓政府間で絶えず再確認されるようになった。日本政府の対韓借款供与は単なる経済的支援ではなく、「反共の防壁」とされる韓国に対する安保借款として供与されたのである。1983年1月の中曽根・全斗煥共同声明に掲げられた「新次元の日韓関係」ということばも、その直後にワシントンで「日本列島不沈空母化」論を唱えた中曽根康弘と、「北東アジア安保」のための韓国の戦力増強を図る全斗煥との提携を意味した。全斗煥が翌1984年9月、現職の韓国大統領として初めて日本を公式訪問したとき、昭和天皇は歓迎の挨拶(あいさつ)のなかで、かつての朝鮮植民地支配に対する「遺憾」の意を表明した。天皇自身がどう考えていたかは別として、全斗煥が天皇のことばを日韓安保協力強化に対する韓国国民の抵抗感を柔らげる材料として使おうとしたことは、確かである。
1988年2月盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)の大統領就任式に首相竹下登が出席(同年9月オリンピック・ソウル大会開会式にも出席)し、以後ほぼ歴代の首相が韓国を訪問する慣例が定着した。1991年(平成3)1月首相海部俊樹(かいふとしき)は、盧泰愚との会談で在日韓国人の法的地位の改善を約束し、これは同年11月すべての在日朝鮮人(韓国籍・朝鮮籍)に対する「特別永住」資格の付与と、1993年4月指紋押捺(おうなつ)制度の廃止として結実した。さらに、サハリン残留韓国人や在韓被爆者に対する支援も約束された。1992年1月首相宮沢喜一の訪韓は、いわゆる「従軍慰安婦問題」に対する韓国世論の厳しい批判のなかで行われ、同問題を含む日本の植民地支配に対する首相の公式謝罪の後、対日貿易赤字解消のための「実践計画」の策定などに関して合意をみた。
他方、盧泰愚も1990年5月と1992年11月の二度にわたり日本を訪問した。初訪日の際、天皇は昭和天皇の発言より一歩踏み込んで、過去の植民地支配に対して「痛惜の念を禁じえない」と述べ、以後、首脳会談の際の日本側の「謝罪」が論議を醸すこととなった。
非自民連立政権と文民政権という新しいパートナーの組合せとして注目された、1993年11月首相細川護熙(ほそかわもりひろ)と大統領金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)との韓国の慶州での会談では、日本側の植民地支配に対するこれまでになく率直な陳謝が評価され、「未来志向型」の関係構築で両者は合意した。これと前後して、同年3月には、韓国政府は「従軍慰安婦問題」に関して日本の物質的補償を求めないことを言明した。一方、日本政府は初の聴き取り調査に基づき、同年8月「従軍慰安婦」に関する調査結果を発表した。このなかで、政府は「慰安婦募集」に「強制」の側面があったことを認定、謝罪した。
これに対して、1994年3月金泳三も日本を訪問し、細川護熙と北朝鮮の核問題などをめぐって会談した。
さらに、1994年7月首相村山富市も韓国を訪れ、前政権の対朝鮮半島政策を踏襲することを表明した。これは、長年北朝鮮と密接な関係を保ってきた社会党の変貌(へんぼう)として、評価された。村山富市は、同年8月「従軍慰安婦問題」に関して、民間基金による見舞金支給の構想を発表し、1995年7月「女性のためのアジア平和国民基金」として発足した(1997年1月韓国人元「慰安婦」7名に「償い金」支給)。これに対して、韓国内の元「慰安婦」と支援者の団体は、あくまでも日本政府の個人補償を要求して、激しい抗議行動を展開している。1995年8月村山富市は植民地支配など「国策の誤り」を謝罪する談話を発表し、「戦後50年プロジェクト」の一環として、日韓歴史共同研究を推進することで韓国政府と合意した。また、同年10月国会で「日韓併合条約は当時、法的には有効に締結された」と発言したことは、韓国世論の激しい反発を引き起こし、韓国国会は「併合条約の無効と日本の歴史認識の正しい確立」を求める決議案を採択するに至った。
1996年6月首相橋本龍太郎も韓国済州島を訪問し、大統領金泳三と会談、4月に米韓両国が提唱した四者会談(南北朝鮮・アメリカ・中国)の早期実現に向けて緊密に協力することで合意をみた。この間、5月には2002年サッカー・ワールドカップ日韓共同開催も決定し、両国が新たな友好関係を築くことが期待された。さらに、1997年11月から顕在化した韓国の経済危機に際しては、日本政府は国際通貨基金(IMF)と韓国政府との経済構造改革をめぐる合意を受けて、100億ドルの金融支援を行うことを決定した。
「未来志向型」に転換した日韓関係
1984年(昭和59)の大統領全斗煥の訪日に始まる日韓両国首脳の会談では、「未来志向型」「同伴者型」の新たな両国関係の構築が話題とされることが多かった。これは、逆説的にみれば、「過去」の残影がなお両国の間に立ちはだかっていることの現れでもあった。実際、「未来志向」というスローガンとは裏腹に、歴代の首脳会談や天皇との会見では、「過去」の植民地支配に対する謝罪の内容が最大の関心事となっており、その評価をめぐり両国はむしろ対立することが多かった。
とくに、旧朝鮮総督府庁舎の撤去断行など「歴史の立て直し」を追求していた金泳三政権においては、「反日」カードが政権の正統性の確保とその基盤の強化にしばしば利用された。先にも述べたように、元「慰安婦」に対する補償問題において、「女性のためのアジア平和国民基金」による事業が、日本政府の責任を隠蔽(いんぺい)するものであるとして、かえって韓国側の強い反発を招く結果となったことは、その一例である。これに対して、韓国の激烈な「反日」民族主義に当惑する日本国内では、ややもすれば「嫌韓」ムードが高まることとなり、1990年代後半に至り日韓関係は急激に悪化した。
ところが、1998年(平成10)3月金大中が大統領に就任すると、日韓関係は大きく変化していくこととなった。
懸案の一つであった日韓漁業協定の改定問題は、金泳三政権末期には決裂状態にあり、1998年1月日本はいったん協定破棄を通告した。韓国はこれに強く反発し、両国の水産業界では緊張が高まった。しかし、同年3月外相の小渕恵三(おぶちけいぞう)が訪韓して大統領金大中と会見し、4月実務者協議が再開された。交渉は、両国が領有を主張している竹島(韓国名・独島(トクト))周辺の共同管理水域の設定と両国の排他的経済水域(EEZ)内での漁獲量の割当てをめぐり紛糾したが、9月基本合意に達し、1999年1月ようやく協定が発効した。
1998年4月金大中は、映画・歌謡曲・漫画など日本の大衆文化に対する段階的開放の方針を指示し、12月には日本映画(北野武(きたのたけし)監督『HANA―BI』)が初めて劇場公開された。その後開催された日本人歌手のコンサートも概(おおむ)ね好感をもって迎えられた。1998年5月には韓国に対するIMF(国際通貨基金)の融資条件を履行する一環として、外国人の株式投資限度枠が完全に撤廃された。その結果、日本と韓国との合弁企業などを通じて日本企業による増資や株式の買取りが増大し、日本からの直接投資が増加した。6月には事実上の対日輸入禁止政策であった輸入先多角化制度が見直され、日本製自動車などの輸入が解禁された。
1998年10月には金大中が来日し、天皇と会見したほか、小渕恵三と会談し、共同宣言を発表した(日韓共同宣言)。その際、金大中は、従来両国首脳の会談のたびに大きな課題となっていた植民地支配に対する謝罪の問題を今後は持ち出さない旨の発言を行った。ここに、「未来志向型」の日韓関係が初めて実現されることになったと評価できる。そして、「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップのための行動計画」を作成し、日本は韓国に対する官民の投融資の促進を約束した。また、このなかで、両国首脳が少なくとも年1回は会談することを取り決めた。
1999年3月には首相小渕恵三が訪韓した。大統領金大中との会談で、日本側が、「テポドン発射」問題をめぐって悪化する北朝鮮に対する牽制(けんせい)として韓国の協力を求めたが、北朝鮮に対して柔軟な「太陽政策」を進めていた韓国側は、日本の「強硬」な姿勢には同意しなかった。これは、冷戦的思考からの脱却が東アジアにおいてもようやく完了し、かつての「反共」を基盤とする日韓同盟関係が完全に消滅したことを意味するものであった。加えて、この会談で、韓国側は、在日韓国人に対して地方参政権を与えるように要請した。このことも、韓国における強烈な民族主義に基づく同胞意識に徐々に変化が生じつつあることを示唆するものであった。
2000年に入って、5月に首相森喜朗(よしろう)が訪韓して大統領金大中と協議し、対北朝鮮政策に関して、日韓の連携を緊密にすることを確認した。9月には金大中が来日し、森喜朗との会談において、永住外国人に地方参政権を与える法案について、年内の成立を要望した。また、金大中は、6月の南北首脳会談の成果を踏まえて、日朝国交正常化交渉を積極的に支援する姿勢を示し、あわせて北朝鮮に対する日本の積極的な経済支援を要請した。南北和解の進展に伴い、韓国には資金問題の重圧がのしかかることが予想される。そこで、巨額の日本の資金が北朝鮮に流入し、その経済的困窮が少しでも改善されることを期待したのである。これは、南北関係の改善に日本を関与させようとする韓国の戦略の一つであろうと思われる。ただし、永住外国人地方選挙権付与法案に関しては、法案提案者である自民党など与党内の一部から強い反対論が表明された。
残された課題
以上のように、日韓関係は、2002年に行われたサッカー・ワールドカップ共同開催もあって、基本的には緊密さを深めている。しかしながら、一方では現在でも未解決の問題が少なくない。これらは、大きく三つに分けて考えることができる。
第一は、歴史認識にかかわる問題である。日韓会談中の久保田貫一郎発言に端を発し、1982年(昭和57)と1986年の教科書問題を経て、歴代の閣僚・政治家の靖国(やすくに)神社参拝や日本の朝鮮植民地支配を擁護する「妄言」に対する批判にみられるように、韓国の世論は日本の為政者や国民の歴史認識に拭(ぬぐ)いがたい不信感を抱いてきた。また1990年代に入ると、「自由主義史観」に基づく歴史教育の見直しを唱える勢力が登場して一定の支持を集めつつあることも、韓国の世論を刺激している。2000年(平成12)9月「新しい歴史教科書をつくる会」が提案する、韓国併合を正当化する内容の中学校用歴史教科書が、文部省に検定申請中であるという報道がなされると、韓国政府はただちに「憂慮の意」を表明した。日韓の歴史学界や研究者・教育者の学術交流の深化にもかかわらず、この問題はいつでも再燃する危険性があるといわざるをえない。
第二は、政治的・軍事的膨張の問題である。自衛隊の海外派遣を通じた国連のPKO(平和維持活動)などへの日本の参加やそれに付随する憲法の改定論議の高まりは、日本が「軍事大国化」への道を歩むものであるという韓国世論の疑念を強めている。また、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目ざす日本の外交戦略は、「経済大国」から「政治大国」の復活を企てる動きとして、韓国側のいっそうの反発を招いている。これには、長年の懸案である竹島(独島)問題も関連する。1999年1月日韓新漁業協定の発効においては、竹島(独島)の帰属問題をひとまず棚上げすることで決着したものの、2000年1月島根県の一部住民が竹島に戸籍を移すと、韓国外務省がただちに日本政府に厳重抗議をしたように、今後領土問題がふたたび浮上し、両国関係が悪化する可能性も否定できない。
第三は、経済摩擦の問題である。韓国経済の急成長に伴って、日本資本による「経済再侵略」のおそれよりも、むしろ両国の産業構造の類似に基づく「競合」の問題が深刻化してきている。他方で日本の技術や部品、工作機械への依存による対日貿易赤字の累積の問題やその解決策である技術移転の遅滞などの問題は、いまだ完全に解決されたとはいいがたい。ただし、造船業・製鉄業や最先端の情報集約型の電子機器産業の一部では、すでに韓国は日本を凌駕(りょうが)しつつある。いわゆる情報技術(IT)化においては、日本を圧倒する高速インターネットの普及にみられるように、1997年の経済危機以来韓国社会の構造変化は目覚しい。これに対して、政府のたび重なる「IT革命」の提唱にもかかわらず、日本は完全に出遅れた。したがって、「先進日本―後進韓国」という垂直的な経済摩擦の問題には変化がうかがえる。
さらに、これまで政治・経済に偏りがちであり、またヒト・モノ・カネ・情報など日本から韓国への一方的な流入が顕著であった両国の関係に、変化の兆しがみえる。たとえば、日本の教育研究機関での朝鮮関連講座の拡大や、高校生の修学旅行をはじめとする両国間の頻繁な人的往来など、民間レベルでの相互交流が盛んになってきたのは、その表れである。2000年9月の日韓首脳会談で、2003年より大学入試センター試験に朝鮮語を採用することが決定されたのも、高校レベルでの朝鮮語学習者の増加を反映したものである。
若年層を中心に日本人の観光旅行の渡航先として韓国が絶大な人気を博していることや、キムチ・焼き肉など朝鮮料理が日本人の食生活に完全に定着したことは、日韓関係が一部専門家のかかわる種類のものではなく、一般庶民のものとなっている証拠として、注目に値する。量的側面では、日韓関係はきわめて緊密であるといってよい。次の課題は、質的側面の充実である。
北朝鮮との関係
日朝国交正常化への遠い道程
日本と北朝鮮の間には国交がなく、政府レベルの二国間実務協定もほぼ皆無である。第二次世界大戦後すでに半世紀が経過し、世界中のほとんどすべての国と国交が開かれ、往来が自由になったもとでのこの異常な状態は、他方での日韓関係の緊密さの裏返しである。1960年(昭和35)日米新安保条約の締結や、1961年5月韓国軍事政権の登場とそれに対するアメリカの承認によって構築された日・米・韓の「三角安保体制」は、北朝鮮にとって大いなる脅威であった。1961年7月に北朝鮮が中国・ソ連と締結した二つの「友好協力相互援助条約」も、この体制を警戒した軍事同盟条約であった。その後も1965年日韓基本条約の締結によって北朝鮮は危機感を募らせていき、1969年在日米軍基地を組み込んだ米韓合同軍事演習(チーム・スピリット)の開始とともに、「日本軍国主義の復活」を激しく非難し、またこれに対峙(たいじ)する軍事力の強化に邁進(まいしん)した。
他方、北朝鮮が安全保障の確保のために、かねてから日本との関係改善を提唱してきたことも見落とせない。早くは、朝鮮戦争休戦後の1955年2月、外相南日(なんにち/ナムイル)が声明を発表して、「貿易・文化関係およびその他の関係の樹立と発展のために話し合う用意がある」と日本政府に呼びかけた。同趣旨の発言はその後もたびたび行われたが、日本側はいつも黙殺してきた。だが、この間、両国の間になんの変化も起こらなかったわけではない。徐々にではあるが、人の往来と経済・文化の交流が進展した。それは日本の民間の努力が政界を動かし、政府を動かしてきた結果である。
1959年8月には、それまで海外渡航が許されなかった在日朝鮮人に北朝鮮への集団帰国の道を開く、在日朝鮮人帰還協定が日朝両赤十字間で締結された。その結果、1960・1961年の2年だけで7万名を超える人々が帰還し、その総数は、1984年までに約9万3000名に達した。これらの人々は、朝鮮戦争からの復興過程で不足していた労働力を補充するものであったが、帰還事業を機とする日朝関係の緊密化は韓国政府を狼狽(ろうばい)させ、韓国では激しい「北送」反対運動が展開された。1963年1月には、札幌での国際競技開催を契機に、北朝鮮スポーツ選手団の入国が認められるようになった。さらに1971年から1974年にかけて、一般民間人の北朝鮮への渡航と北朝鮮からの入国に対する規制が一部緩和され、北朝鮮政界人の入国もケース・バイ・ケースで認められることになった。1977年には超党派の日朝友好促進議員連盟の協力で、日本漁船の北朝鮮近海での操業に関する民間協定が、両国の漁業団体の間で締結された。北朝鮮との貿易は、日本の業界が1956年に日中貿易の形を借りて始めたのが最初で、1961年には政府の許可を得た直接取引に変わり、1974年には輸出入計3億6000万ドルにまで成長した。ただし、この貿易は取引品目に制約が多く、日本輸出入銀行(現国際協力銀行)の融資も1974年に2件について認められただけであった。おまけに1970年代後半から北朝鮮側の貿易代金決済の停滞という悪材料が加わったため、その後の取引は低迷を続けた。北朝鮮は、1984年1月外交関係のない資本主義諸国を含む諸外国との経済・技術交流の拡大に努力するという新政策を決定し、同年9月には合営法を制定して日本からの資本・技術の受け入れにも意欲をみせたが、日本経済界の反応は鈍かった。そして、事実上債務不履行となった決済に対して、日本側の商社は政府の保障を求めるに至った。
ついに、1986年1月通産省は、朝鮮貿易を行う商社30社に対して総額300億円に上る輸出保険を適用した。その結果、貿易の停滞はいっそう深刻になり、北朝鮮の対外債務の累積は破産同然の状況に至った。1988年1月日本政府は前年11月に発生した大韓航空機爆破テロ事件に関連して、北朝鮮に4項目の制裁措置をとると発表した。これと関連して、1987年10月から始まった日本人観光客の受入れも一時中断された。
このように冷却した関係を大きく転換させたのが、日朝国交正常化交渉である。1990年(平成2)9月自民党(金丸信)と社会党(田辺誠)の代表団が北朝鮮を訪問し、朝鮮労働党との間で、「自主・平和・親善」の理念に基づく国交正常化を推進することを訴える「三党共同宣言」を発表した。これに基づき、1991年1月政府間会談が平壌(へいじょう/ピョンヤン)で開始された。会談は、1992年11月まで8回行われたが、両者の交渉は曲折の連続であった。すなわち、北朝鮮側が植民地支配など過去の歴史的関係の再評価と清算(交戦権に基づく戦時賠償と戦後の敵対政策に対する「償い」)を行ったうえでの関係樹立を求めたのに対して、日本側は核開発疑惑問題や大韓航空機事件の犯人の日本語教育係とされる「李恩恵(りおんけい/リウネ)問題」を討議することを要求し、両者の議論がかみ合わないまま、交渉は中断した。その後1995年3月連立与党3党(自民党・社会党・新党さきがけ)の代表団が訪朝し、朝鮮労働党との間で日朝会談再開のための「四党合意書」を採択したが、新たな進展はみられなかった。
これと前後して、食糧危機にあえぐ北朝鮮は、1995年5月日本にコメ支援を要請した。日本政府は、これにこたえて同年6月30万トン(無償15万トン・有償15万トン)、10月20万トン(有償)の供給を行った。しかし、韓国の同様の支援に対する北朝鮮の処置や、1996年9月の北朝鮮潜水艦の韓国への侵入事件に反発した韓国政府の牽制(けんせい)、さらに北朝鮮による日本人拉致事件(らちじけん)(当時は北朝鮮政府が拉致の事実を否定していたため「拉致疑惑」の呼称が使われていた)の浮上などで、1996年度は政府レベルの支援は中断した。
そうしたなか、1997年8月になって、ようやく国交正常化交渉再開に向けた両政府代表者の予備会談が開催された。日本側は、本来の国交交渉再開問題に加え、北朝鮮在住の日本人配偶者の里帰り問題や日本人の「拉致疑惑」問題も議題とした。その結果、日本人配偶者の里帰りは、11月第一陣15名の一時帰国が実現した。また、同月訪朝した連立与党代表団との交渉により、「拉致疑惑」も一般の「行方不明者」として調査される可能性がでてきた。この背景には、食糧支援を求める北朝鮮の柔軟な対応があった。
積極外交に転じた北朝鮮
1998年(平成10)1月には、2回目の北朝鮮在住日本人配偶者の一時帰国が実現した。その一方で、6月、日本人「拉致疑惑」問題に関連して、北朝鮮赤十字会は「北朝鮮国内に行方不明者はいない」との調査結果を発表し、また3回目の一時帰国対象者が申請を取消したとの発表も行われた。日本政府はこれに反発し、国交正常化交渉の再開や食糧支援を見合わせる措置をとった。8月には北朝鮮のいう人工衛星「光明星1号」が発射されて日本の上空を通過したが、日本政府はこれを中距離弾道ミサイル「テポドン1号」であると主張して北朝鮮に抗議した。そして、KEDO(ケドー)(国際事業体「朝鮮半島エネルギー開発機構」)への資金供与の凍結などの対抗措置をとった(10月凍結解除)。9月には1994年に急死した金日成(きんにっせい/キムイルソン)の後継者である国防委員長金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)の指導体制が正式に発足したが、事実上断絶状態にある日朝関係の進展はみられなかった。
1999年3月日本海で発生した「不審船」侵入事件をめぐり、日朝両国は相互に非難しあう結果となり、日朝関係は悪化の一途をたどった。これに対して、8月北朝鮮は、日朝関係に関して「対北朝鮮圧殺政策の放棄、過去の罪に対する謝罪と補償」などを求める政府声明を発表した。この声明は、文言の厳しさとは逆に、日本政府の対応しだいでは関係改善の用意があることを示唆するものであり、水面下では、3、4、10月に日朝外交当局者の非公式協議が行われた。12月には元首相の村山富市を団長とする超党派の代表団が訪朝し、国交正常化交渉の早期再開を促すことで、朝鮮労働党と合意した。同月の日朝赤十字会談でも、食糧支援と「拉致疑惑」をめぐる論議が交わされ、国交正常化交渉再開に向けた予備会談も開始された。これを契機に、北朝鮮に対する制裁は全面的に解除され、関係改善の糸口がようやくみつかった。
1999年から2000年にかけて、北朝鮮は積極的な外交政策に転じた。1999年9月の米朝高官協議に始まり、2000年に入ってからは、1月イタリア、5月オーストラリア、7月フィリピンと相次いで国交を樹立し、10月にはイギリス、ドイツ、スペイン、ベルギーなど、EU諸国とも早急に国交を樹立する方針が明らかになった。また、6月の首脳会談の実現に象徴される南北の急速な和解、10月の国防委員会第一副委員長である趙明録(ちょうめいろく/チョミョンロク)(1930― )の訪米とアメリカ合衆国国務長官オルブライトの訪朝を契機とする米朝交渉の進展など、日朝関係をめぐる環境は大きく変化した。とくに、南北首脳会談の模様が全世界にリアルタイムで報道されたことは、国防委員長(労働党総書記)金正日のイメージ・アップに貢献し、「謎の独裁国家」とみられがちであった北朝鮮に対する日本の世論の印象を大いに好転させた。
しかしながら、植民地支配に対する「過去の清算」問題や「拉致疑惑」問題が横たわる日朝間では、硬直した関係がなお続いた。2000年3月日本政府は、国交正常化交渉の再開と「拉致疑惑」問題の解決を期待して北朝鮮に対するコメ支援を決定し、北京(ペキン)で開催された日朝赤十字会談でその旨を伝達した。これに対して、北朝鮮赤十字会は、「行方不明者」の調査再開を約束した。そして、3月には、1992年11月以来途絶えていた日朝国交正常化交渉の第9回本会談が再開された。会談では、植民地支配など「過去の清算」が論議の焦点となり、北朝鮮側が謝罪と補償を求めたのに対し、日本側は財産請求権として処理すべきであると主張した。そのため、議論は平行線をたどった。それでも7月には、バンコクで日朝両国の外相、河野洋平と白南淳(はくなんじゅん/ペクナムスン)(1929―2007)が初めて会談し、8月には日朝国交正常化交渉の第10回本会談が再開された。ここでも、両国は基本的立場の表明を繰り返した。
2000年9月に予定されていた日朝首脳級会談は、最高人民会議常任委員長金永南(きんえいなん/キムヨンナム)(1928― )の訪米取り止めにより中止されたものの、同年約2年7か月ぶりに3回目の北朝鮮在住日本人配偶者の一時帰国が実現した。前述の副委員長趙明録訪米時の米朝会談では、アメリカによる北朝鮮に対する「テロ支援国家」指定解除の条件として、1970年(昭和45)3月よど号ハイジャック事件以来、北朝鮮内に滞在している元赤軍派関係者の国外退去の問題が論議された。日朝関係正常化の「障害」の一つとされる問題が、ようやく解決に向けて動き出したことになる。
他方、2000年10月「拉致疑惑」問題に関連して、1997年11月の訪朝団(森喜朗総団長)が「行方不明者として第三国で発見」とする「解決案」を提案していたことが明らかにされ、外交上の「失策」として問題となった。また同月、日朝国交正常化交渉の促進のためという外交上の判断から、世界食糧計画(WFP)の要請量を大幅に上回る50万トンのコメ支援が決定された問題でも、1997年の訪朝団がコメ支援を前もって約束していたという密約説が登場し、政界は紛糾した。さらに、同月再開された日朝国交正常化交渉の第11回本会談は、1997年訪朝団問題をめぐる日本側の「混乱」と米朝交渉を優先する北朝鮮側の姿勢により、結局なんら合意に到達することができぬまま終了した。このように、日朝関係の正常化交渉は一進一退を繰り返し、早期の実現は容易ではなく、他国の関係改善に比べて「立ち遅れている」との指摘さえあった。
ただし、一方で規模ははるかに小さいながらも、NGO(非政府組織)など民間主導の交流の動きが徐々に広がりつつあることにも注目すべきである。食糧危機の克服を図る農業指導の実施など地道な活動が、両国政府間の硬直した関係の扉を開く鍵になる可能性は否定できない。
こうしたなか、2002年9月、日本の首相小泉純一郎と金正日による日朝首脳会談が実現した。両首脳は、日朝の国交正常化交渉を再開する、北朝鮮によるミサイル発射実験の凍結期間を延長する、などを内容とする日朝平壌宣言に署名した。また、同時に北朝鮮は日本人を拉致(らち)した事実を認め、拉致した日本人の生死に関する情報を提示した。2002年10月には事件被害者のうち5人の日本への帰国が実現。2004年5月、小泉はふたたび訪朝し、金正日との会談において日朝双方が日朝平壌宣言を履行することなどを確認、このとき、拉致被害者の家族8人のうち、5人の日本帰国が実現し、同7月には残り3人の帰国・来日が実現した。  
 
日朝交渉史

 

日本と朝鮮の関係は、最近の言語学、歴史学、文化人類学、民俗学など諸分野の研究が進歩するにつれ、東アジア諸地域文化交流のなかで多角的に探究され、戦前の既成概念を大きく改めるようになってきている。視点を新たにした、日本の『古事記』『日本書紀』や朝鮮の『三国史記』『三国遺事』(さんごくいじ)などの古典批判や、中国古文献の研究も進み、遺物・遺跡の発見による検証も深まってきた結果である。
倭との関係
中国文献(『魏志東夷伝』(ぎしとういでん)など)に基づく日本と朝鮮との関係を追究することは限界にきている。紀元前後から「倭(わ)」が朝鮮北部の中国属領を経て中国の首都に朝貢し、朝鮮南部には金属資源を求めて触手を伸ばした。北部にできた高句麗(こうくり)王国は、4世紀に入ると南下してきた。また、中・南部には馬韓(ばかん)に百済(くだら)王国、辰韓(しんかん)に新羅(しらぎ)王国が興り、いずれも中国に朝貢して冊封(さくほう)を受け、3国はそれぞれ勢力を競った。倭は、南部にあった弁韓(べんかん)の狗邪韓(くやかん)国(任那加羅(にんなから))に拠点を得て、3国に対抗し、同じく中国に朝貢して冊封を受け、その権威を借りて文物の摂取に努めた。日本の古墳文化発展の時期に相当する。倭王国形成の過程については諸説が出ていて、いまだ定説はない。朝鮮国家の日本での分国形成に由来するとか、北方騎馬民族の移動によるという着想もある。
古代日本の朝鮮観
日本に大和(やまと)政権の統一支配が形成されるに伴い、日本が高句麗、百済、新羅を朝貢国とする伝統的朝鮮観の中核ができて『古事記』『日本書紀』のなかに古伝承として定着した。新羅は、高句麗と結んで日本の勢力を破り、唐の勢力を導入して、百済を攻め滅ぼし、百済の復興を策動する日本を退けた。ついで高句麗を滅ぼして、7世紀に統一国家を建設し、日本との修好を続けながらも、その地位を高め、対等儀礼の形成に努めた。日本は、6〜7世紀に朝鮮進出工作に挫折(ざせつ)してからも、これを朝貢国とみる観念を固く持続し、後世長く公式外交を開かなかった。10世紀のころ、後百済(ごひゃくさい)王国の要請も、高麗(こうらい)王国の希望も拒否している。
東アジア通商圏の一環
同じころ、中国への遣使をやめ、唐・宋(そう)の交替後は、中国商船の高麗、日本への往来により、経済的、文化的交流があり、12世紀になると、受動的関係から転じて高麗、宋へ商船の進出が始まった。南宋と高麗・日本との海上交通による接近は、13世紀に、中国本土の支配を目ざすモンゴルに、高麗征服に続いて2回の日本攻撃(元寇(げんこう))を断行させた。元の成立で東アジア通商圏が形づくられても、外交関係は断絶したまま、鎌倉幕府による武家の国防活動も反映し、日本商船の無秩序な進出となり、14世紀後半は、朝鮮、中国の沿海で「倭寇(わこう)」の海賊的行為が展開された。日本では、1367年(正平22・貞治6)に、元および高麗から倭寇禁制の要請を受け、足利(あしかが)政権が朝廷から一任されて、天竜(てんりゅう)寺僧の名義でこれに応じた。武家政権が外交権を接収する端緒になった。
交隣関係――日本国王と朝鮮国王
中国では明(みん)が興り、元を打倒して漢人支配を回復すると、李成桂(りせいけい)(太祖)が親明政策をとって朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建て、対日交隣政策を国是とし、日本では足利義満(よしみつ)がこれに応じた。この前後に、義満と朝鮮王太宗(たいそう)とは、それぞれ明から冊封を受けて、日本国王と朝鮮国王になり、対等の国交が成立した。足利政権は、伝統的観念に基づく批判のため、儀礼上に特例をつくりながらも、宮廷から外交権を接収し、対外的元首としての地位を持続した。これは徳川政権に継承されて明治政府の外交権回収まで続いた。外交上の実務担当は、局務家(太政官(だいじょうかん)中の外記(げき)の上席の者)から五山禅僧を経て儒臣へと推移している。
定約通商の体制
朝鮮は、15世紀初め、日本からの渡来者を優遇したので、貿易を目当てにその数が急増した。世宗(せいそう)は、その統制策を講じ、通交者と商人を区分して自主規制を求め、常時通交者に図書(としょ)(印)を与えて保障とし、また、出入浦所(ほしょ)(港)を指定して薺(せい)(乃而(だいじ))浦(ほ)、富山(ふさん)(釜山)浦(ぽ)、塩浦(えんぽ)の三浦(さんぽ/みつうら)に限り、一方、対馬(つしま)の位置を利用し、島主の文引(ぶんいん)(日本で吹挙(すいこ)・吹嘘(すいこ)、渡航証明書)の発給を認めた。続いて積極的に「歳遣船定約(さいけんせんていやく)」(年間渡航船数の協定)で使船を制限した。1443年(嘉吉3)、対馬島主宗貞盛(そうさだもり)との「癸亥(きがい)約条(嘉吉(かきつ)条約)」で歳遣50船と限定し、その後、世祖は定約を日本本土の通交者に及ぼし、77年(文明9)、成宗(せいそう)がすべての通交者と船数を約定し、15世紀後半は、定約通商の体制が確立していた。
当時の貿易は、朝鮮からの絹、麻布、苧布(からむし)、新興の木綿機業による織物類、朝鮮人参(にんじん)などが主要輸入品で、日本からは金、銅、錫(すず)、銀、硫黄(いおう)などの鉱産、および博多(はかた)貿易を中継として南洋特産の蘇木(そぼく)(丹木(たんぼく))、胡椒(こしょう)、黒角(こくかく)(水牛角)、諸種香料などが輸出された。朝鮮では官営貿易(一時的に私貿易も)が原則で、政府の財政負担が漸次に過重となり、滞貨も増して紛争を招いた。また朝鮮国内流通経済の発展に伴い、潜商(せんしょう)(密貿易)が常習的になり、浦所居留の恒居倭(こうきょわ)や通事と漢城(ソウル)の貴族や商人との結託も目だってきた。
約条の制限強化
16世紀の初め、中宗の対日秩序回復政策に反発して、1510年(永正7)に三浦で日本人の暴動(三浦の乱)が起こり、対馬との通交貿易が絶たれた。12年に「壬申(じんしん)約条(永正(えいしょう)条約)」が成立し、制限が強化され、浦所は薺浦一港とし、恒居倭の居留を廃し、対馬島主歳遣船を25隻に半減し、また定約者は本土の35船に更新し、継続者も再審査して図書を改給した。島主宗氏は通商体制の復旧を図り、21年(大永1)に釜山浦の再開、23年に島主歳遣船5隻の増加に成功したが、44年(天文13)海賊の蛇梁(だりょう)侵犯で疑惑を受け、通交を絶たれた。47年に、「丁未(ていび)約条(天文条約)」が成立して、島主歳遣船25隻を回復し、釜山浦一港となり、本土定約者が更新された。その後、55年(弘治1)に、日・明海賊の連合による全羅(ぜんら)道沿海の侵寇(乙卯達梁(いつぼうたつりょう)の倭変)が起こると、海賊捕斬(ほざん)の功を理由として5隻を回復し、歳遣船が30隻になった。
通商圏の変貌と対馬の貿易独占
16世紀後半は、日・明の国交が絶えたが、中国沿海の通商は新来のポルトガル人を加えて発展し、東アジアの通商圏は変貌(へんぼう)を遂げていった。中国も海禁を緩めたが、日本船は往来を許されないため、中国海賊と連合して活動し、日本の五島(ごとう)列島が、その根拠地になった。そのころ、対馬島主は、朝鮮渡航者に対する文引発給権を媒介にして、日本本土の定約者などの名義を集中的に継承し、家臣に給付して領国支配の確保に利用し、朝鮮貿易独占の体制を固めていった。豊臣(とよとみ)秀吉が、1587年(天正15)征明計画を意図し、朝鮮の従属要請交渉を宗氏に命じたのは、このような時期であった。やがて92〜98年(文禄1〜慶長3)の朝鮮出兵(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役、朝鮮では壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)倭乱)となった。
戦後、対馬島主宗氏は、その財政的基礎として朝鮮貿易の復活を急ぎ、和平の成立に尽力し、1609年に「己酉(きゆう)約条(慶長条約)」により、通交の体制を更新し、島主歳遣船20隻を復活し、釜山浦一港が開かれ、極度に制限されたが、徳川政権から朝鮮との外交事務の管掌を認められ、引き続き貿易を独占することができた。
徳川政権の外交体制
日本軍の朝鮮撤兵にあたり、明軍との停戦協定が和平の端緒になった。当時、秀吉の遺命を受けた徳川家康が、対馬島主宗氏と老臣柳川調信(やながわしげのぶ)らがその折衝にあたることを認めており、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後は、積極的に継続を指令し、ちょうど明軍が帰還したので朝鮮との直接交渉が進展した。やがて家康が征夷(せいい)大将軍となり、07年には、「日本国王」の名義で送った国書に対する回答使が渡来し、交隣関係が復旧した。その後も相次いで朝鮮使節がきたが、当初から対馬島主宗氏らが、足利(あしかが)政権の慣行に基づいて策謀を巡らし、日本国王の国書を偽作あるいは改作していた。これが35年(寛永12)に暴露し、徳川家光(いえみつ)は関係者を処刑し、外交体制を刷新し、新規の儀礼に基づく「通信使」を迎えた。
このとき、征夷大将軍の対外称号を「日本国大君(たいくん)」と定めて朝鮮の承認を得た。足利政権の例により外交を専断し、中国との復交に成功しなかったので、新例を開いたのである。徳川政権は後世、近代国際社会参加の際もこれを用いた。新井白石(あらいはくせき)が朝鮮外交儀礼を改革したとき、1回だけ日本国王号を称した。通信使は1811年(文化8)までに9回渡来し、新将軍の即位を賀し、来使に答書を託送した。
明治の外交
明治新政府は、外交権を接収すると1868年(明治1)、対馬の宗義達(よしさと)(重正)に外交関係刷新を朝鮮に交渉させ、未解決のまま外務省に継承した。朝鮮では、国王の生父興宣(こうせん)大院君李応摂政(りしおうせっしょう)時代で、排外政策を強くとっており、交渉の停滞が日本の「征韓論」を誘発した。大院君隠退後、政局が変化して76年の日朝修好条規(江華条約)が成立した。近代国際関係展開の転機になったが、一面、対中国宗属関係との矛盾が波乱を生んだ。列強の進出が政界の党争に関連して、開化・保守の対立を生み、農民の不満と苦悩から甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、94年、日清(にっしん)戦争を誘発した。親日開化派は甲午更張(こうごこうちょう)の改革を断行して自主独立を図り、日本は独占的支配をねらったが、列強の圧力(三国干渉)で後退し、97年には「大韓帝国」が成立した。その後、日本は近代産業の発展を背景として大陸進出を目ざし、1904年ロシアと戦って勝利すると、乙巳(いっし)保護条約を押し付け韓国を保護国とし、10年これを併合した。
日本支配と独立回復
併合後は朝鮮総督府が置かれ、明治憲法の勅令に基づく法令により、琉球(りゅうきゅう)・台湾を先例とする同化政策をとり、日本資本主義の発達に高度の寄与を続けた。地方自治拡充、官吏任用、財政制度、経済開発、兵役制度、および貴族院議員の勅選などがその基本線に沿っている。しかし、帝国主義的支配の進展につれ、民族的抵抗は高まり、独立運動とその弾圧が繰り返された。1945年(昭和20)日本の敗戦により解放された。その間、1919年(大正8)の三・一独立運動は、武断的支配から文治政治に転回させ、第二次世界大戦中の皇国臣民化と労働要員徴用の強制や徴兵制度の施行は、深刻な影響を残している。
独立回復後、米ソ両国の対抗から1948年に韓国(大韓民国)と北朝鮮の分裂を生じ、50年の朝鮮戦争以来、長期化した。65年に日韓協定が成立し、複雑微妙な関係を生み、南北両国と日本の間には、永住権、民族教育、出入国などに関し、過去にも連なる重要問題が多い。
 
韓国併合

 

1910年(明治43)8月22日「韓国併合ニ関スル条約」が調印され(公布は29日)、朝鮮が名実ともに日本の植民地となった事実をさす。
日本は1876年(明治9)朝鮮に対して最初の不平等条約である日朝修好条規(江華島条約ともいう)を締結して以来、朝鮮支配をめぐって日清(にっしん)・日露戦争を引き起こした。日露戦争開戦直後の1904年(明治37)2月23日には、すでに朝鮮政府が局外中立を宣言していたにもかかわらず、日韓議定書を強要、軍事上必要な地点を収用し、同年8月22日、第一次日韓協約を結び、日本政府推薦の財政・外交顧問を置くことを認めさせた。日露戦争後ポーツマス条約で朝鮮における優越的立場を認められ、さらに英米の了解を取り付けた日本は、朝鮮の外交権剥奪(はくだつ)を焦眉(しょうび)の急として、05年11月17日第二次日韓協約(保護条約ともいう)を日本軍の圧力の下で締結した。これにより翌年2月韓国統監府が開設され、日本政府の代表者たる統監が外交権を掌握して、朝鮮を保護国とした。諸外国にあった朝鮮の外交機関は全部廃止され、同時に外国公使はソウルを去った。この亡国条約を知った朝鮮の民衆は反日運動を展開、条約に調印した李完用(りかんよう/イワニョン)ら5大臣は「乙巳(いっし)の五賊」とよばれ、民衆の怒りの的となった。この時期には、政治権力を背景に、日本の経済的侵略が一段と強化された。まず日露戦争遂行のための鉄道敷設、通信機関の掌握、港湾の占領などが行われた。また従来の朝鮮の通貨であった葉銭、白銅貨を回収、日本の通貨を通用させた貨幣整理事業(1905)は、日本の商品流通と資本輸出のための軌道をつくり、朝鮮のブルジョアジーに打撃を与えた。さらに土地家屋証明規則などが施行され、日本人は朝鮮内で自由に土地を所有する権利が認められ、08年には日本政府の国策代行機関として東洋拓殖株式会社が設立された。
このように朝鮮の植民地化が進むと、反日闘争はいっそう激化した。1907年ハーグの万国平和会議に朝鮮の独立を訴える密使を送った高宗は帝位を奪われ、同年7月24日、第三次日韓協約を強要され、内政の権限も統監が握った。さらにその秘密覚書で、(1)朝鮮軍隊の解散、(2)司法権の委任、(3)各部次官に日本人を任用、などが取り決められた。8月1日不意を打って軍隊の解散が強行されると、下級兵士を中心に軍人が暴動を起こし、それが民衆の反日運動と合流、全国的な義兵闘争に発展した。日本は正規の軍隊を投入してこれを徹底的に弾圧しながら、秘密裏に併合の準備を進めた。義兵闘争が山を越したころから、朝鮮を名実ともに植民地とする最後の計画が具体化した。09年3月30日、極秘裏に併合案が小村寿太郎外相から桂(かつら)太郎首相に提出され、7月6日には正式に閣議で、「適当ノ時期ニ於(おい)テ韓国ノ併合ヲ断行スル事」を骨子とする「対韓政策確定ノ件」が決定され、同日天皇の裁可を受けた。あとはただ併合のタイミングをうかがうだけとなった。ところが、同年10月安重根(あんじゅうこん/アンジュングン)によって伊藤博文(ひろぶみ)が暗殺されると、日本政府はこれを巧みに利用、併合へさらに歩を進めた。10年5月、併合の使命を帯びて第3代統監になった寺内正毅(てらうちまさたけ)は、6月、朝鮮の警察権を掌握、厳重な警戒体制の下で総理大臣李完用と交渉を開始、8月22日「韓国併合ニ関スル条約」を調印。統治機関として朝鮮総督府を設置(初代総督は寺内正毅)し、その支配は1945年(昭和20)8月15日まで及んだ。
 
日本統治時代の朝鮮

 

1910年8月29日の大日本帝国による韓国併合から、1945年9月9日の朝鮮総督府の降伏まで、35年間続いた。
日本では主に日韓併合、または韓国併合や日本統治時代などと呼んでいる。一方、現在の韓国においては、日帝時代、日帝暗黒期、日帝植民統治時代、日本植民地時代、日本統治時代、日政時代、倭政時代、対日本戦争期、対日抗争期、国権被奪期など様々な呼称があるが、国立国語院が管理する大韓民国標準語では「強制的に占領されていた時代」という意味で「日帝強占期」とされている。
概要
1910年、大日本帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって大韓帝国を併合し(韓国併合)朝鮮総督府の統治下に置いた。日本による統治期間は1919年の三・一独立運動までの武断統治期、それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期、および日中戦争、太平洋戦争(大東亜戦争)から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる。
併合当初は憲兵警察制度(併合年で7,712名。その内、朝鮮人は4,440名)や言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた抗日運動を抑えようとした。1919年には三・一独立運動が起こったが、日本の憲兵警察により鎮圧された。1920年の尼港事件では朝鮮人パルチザン400~1,000人程が加わった赤軍は日本軍守備隊を襲撃し全滅させている。
三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は三・一運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。朝鮮は日本統治以前は厳しい身分制度に支えられた専制政治が行われており、李氏朝鮮時代は独立協会などの団体が民主主義運動を行っていた。1933年に日本政府によって民主的選挙が導入されると、道議会議員の8割以上が朝鮮人となり、忠清南道知事は初代以下ほとんどが朝鮮人によって占められており、その他の道知事も同様であった。朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。満州国と接する北部国境地帯ではソビエト連邦の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。
日本は統治下に置いた朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し日本本土への流入も抑え本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとした。
1929年、カーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。・・・また朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしていることは明らかである」などと、李氏朝鮮時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われているとの評価をしている。
1931年7月2日に中国吉林省長春市郊外で、朝鮮移住民と中国農民の衝突事件(万宝山事件)が起こり、その報復として、朝鮮人による華僑虐殺事件(朝鮮排華事件)が朝鮮および日本本土で起き日中間の外交問題となった。
1931年9月、満州事変が勃発すると、満州に居た多数の朝鮮人小作人は親日へと転化した。朝鮮半島でも「内鮮一体」が主張され、皇民化推進団体が結成された。三・一独立運動の首謀者の一人である崔麟も大東亜戦争開戦のときには親日家となっており、大東亜戦争を「聖戦」と讃え、日本の支援を積極的に行った。また、玄永燮(韓国語版)は朝鮮語を禁じるべきだと主張し、李東華(韓国語版)は朝鮮人にも日本人と同様に兵役の義務を与えるべきだと主張し、朝鮮神宮では「国威宣揚武運長久祈願祭」が挙行されるようになった。李覚鐘(韓国語版)は「私共は大日本帝国の臣民であります」「私共は互いに心を合わせて、天皇陛下に忠誠を尽くします」「私共は忍苦鍛錬して、立派な強い国民となります」と書かれた皇国臣民ノ誓詞を書いた。
1936年に朝鮮に行った神戸正雄は「事変前には日本反抗の気分もあったが、第一に満州事変、次に支那事変によりて日本と合体することの朝鮮人にとりて有利ということが明らかになって、今では全く日本内地と協調しつつある」と述べている。
韓国併合後、朝鮮語は公教育で必須科目として教授されていた。第二次世界大戦中は、戦時下における国策として皇民化教育や創氏改名などが推進された。戦争激化に伴い物資・情報統制が強まった為、多くの刊行物が廃刊され、1940年には朝鮮語媒体の『朝鮮日報』『東亜日報』も廃刊させられたが、『毎日新報』と官報は存続した。
日本政府は李氏朝鮮時代から朝鮮人にも日本軍の幹部を養成する陸軍幼年学校や陸軍士官学校への入学を許可したので、李王垠や洪思翊など日本軍の将官に栄達した者も多かった。1937年に日中戦争が勃発すると、朝鮮人から志願兵の申し出が行われるようになり、朝鮮人の朴春琴衆議院議員から「朝鮮人志願兵制度」の請願が出され、1938年からは朝鮮人にも兵卒の志願を許可する陸軍特別志願兵令が公布され、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した。当時は陸軍を中心に、日本内地人の徴兵適齢者は枯渇しつつあり、朝鮮人を始めとする外地人も兵力の給源とせざるを得ないとする意見が広まっており、朝鮮における徴兵制をその帰結とする意見もある。しかし朝鮮人に徴兵制が施行されたのは1944年4月から、台湾人に対しても同年9月からであり、他の植民地保有国と比較して、植民地人の軍事利用には消極的であった。1944年9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られた上に、朝鮮半島か日本内地における訓練中に終戦を迎え戦場に派遣されなかった。
労働力としての徴用については、適用が控えられていた朝鮮においても1944年9月から1945年8月にかけて国民徴用令が実施された。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関−釜山間の連絡線の運航が止まるまでの7か月間であった。1959年の外務省の調べによると、戦後、日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であった。内地(日本)に渡航して来た朝鮮人の大半は職を求めての個別渡航や、工鉱業、土木事業等の募集に応じてきた者であった。その一方で、2009年1月30日に韓国国務総理室の日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は、およそ12万人の朝鮮人が徴用されたと発表し、それを強制動員の被害者としている。
日本兵を相手に慰安婦として働く朝鮮婦人も存在した。韓国では、慰安婦について政府とマスコミは「日本軍の行った人権侵害である」という見解を取り、「従軍慰安婦問題」として日本に補償を求める動きがある 。これに対し一部の韓国の学識者と日本の右派・保守派は、慰安婦について「自主的に応募してきた売春婦である」という見解をとり、慰安婦を勤労奉仕の女子挺身隊と混同しているとする見解もある。また、日本における「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」といった主張については、日本版の歴史修正主義とする指摘がある。
1945年8月15日、第二次世界大戦の終結により日本の朝鮮半島統治は終焉を迎えた(8月15日は現在、韓国では「光復節」として祝日となっている)。日本のポツダム宣言受諾により、朝鮮半島の統治権は連合国側に移った。1945年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリの甲板上で日本政府が公式にイギリスやアメリカ、中華民国やソ連をはじめとする連合国との間で降伏文書に調印した。1945年9月9日、降伏文書調印に伴い朝鮮総督府は解体され、京城の朝鮮総督府庁舎には日章旗に代わり星条旗が掲揚された。まもなく、アメリカ軍は降伏条件には定められていなかったが日本政府および日本人の資産を没収した。終戦後、朝鮮半島や日本に在住する朝鮮人は日本人と同じ敗戦国民にもかかわらず「自分達は戦勝国民だ」と主張し、日本人引揚者たちは検問でソ連兵や朝鮮人への女性や金品の供出を強要され、日本上陸後に15歳以上の女性は妊娠・性病検査や堕胎手術を受けた。
終戦直後、朝鮮総督阿部信行と朝鮮軍司令官上月良夫により朝鮮へは自治権が与えられ、朝鮮人によって朝鮮人民共和国が建国されたが、アメリカはこれを認めず、進駐の翌日9月9日に軍政を布告。ソ連と共に朝鮮半島を北緯38度線を境に南をアメリカが、北をソ連が占領(分割占領)した。その後、連合軍軍政期を経て北緯38度線より南側が大韓民国(韓国)、北側が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)としてそれぞれ独立を宣言する。アメリカが韓国を、ソ連が北朝鮮を支援し、1950年に朝鮮戦争が勃発した。
韓国政府は、1951年にサンフランシスコで行われた連合国と日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結の際に、自国を「第二次世界大戦における戦勝国(=連合国の1国)」として参加させるように求めた。同年にアメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官補は、韓国は日本と交戦状態にあったわけではなく、また連合国共同宣言に署名しておらず、講和条約の署名国とはなれないことを通知した。
産業資源の多くが北部に集中していたため、北朝鮮は朝鮮戦争からしばらくの期間、工業生産力・軍事力などの点で韓国を圧倒していたが、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を達成した。その理由として、輸出を重視した工業政策、ベトナム戦争への派兵にともなう特需、戦後賠償を含むアメリカや日本の経済・技術援助などが挙げられている。
李王家
李王家は王公族として日本の皇族に準じた華族より上位の身分とされ、貴族院に議席を持つとともに帝国陸軍軍人として奉職した。李王家の李王垠には皇族梨本宮家から方子女王が嫁入りしている。東京赤坂には李王家の邸宅が設けられた。李鍝は日本陸軍中佐として太平洋戦争で戦死(軍務中に広島にて被爆死)している。
一方、朝鮮人の過激派からは、純宗が李完用へ全権委任状を出すなどした経緯から、日韓併合の主犯とも見做され、暗殺の対象とされた。李王世子暗殺未遂事件などが起きている。日本の敗戦後には連合国によって華族が廃止されたために爵位を失った。連合国の承認を得て建国された大韓民国は、軍事独裁政権の障害になることを懸念して長年にわたり李王家の帰還を許さなかったため、李王垠や方子は在日朝鮮人となり、韓国への帰還を許されたのは晩年のことであった。
社会政策
朝鮮総督府により教育(日本統治時代の朝鮮の教育(韓国語版))や戸籍制度などの整備がおこなわれた。1937年には、李氏朝鮮時代から続く白白教を白白教事件で取り締まった。一方で公立学校を中心とした同化政策や、独立運動に対する警戒・取締は植民地化の経緯とあいまって朝鮮民族の日本(本国)への反感を強める人々もいた。また、統治者としての在朝日本人の間では朝鮮人への侮蔑意識が本国の日本人以上に広まったとされ、そのことも反感を招いたともされる。朝鮮総督府側も、朝鮮人に対する侮蔑意識が統治への反感を無意味に掻き立て、円滑な統治を妨害しかねないと懸念を表明することがあった。
身分解放
統監府は1909年に戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。これにより、身分開放された白丁の子弟も学校に通えるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された。
教育制度
○教育制度の整備と識字率向上
朝鮮では1895年の甲午改革により近代教育制度が始まったが、1906年の時点でも小学校が全国で40校未満であり、両班の子弟は書堂と呼ばれる私塾で漢籍の教育を受けていた。
初代統監に就任した伊藤博文はこの状況について、大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、学校建設を改革の最優先事項とした。伊藤が推進した学校建設事業は併合後も朝鮮総督府によって継続され、朝鮮における各種学校は1940年代には1000校を超えていた。
朝鮮総督府は朝鮮人による自主的な教育については警戒、統制を行いつつ、教育内容の整備を進め、日本語、朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史(朝鮮史は「朝鮮事歴」という名前で教育されていた)、修身などの教育を公立学校を中心に展開した。
○初等中等教育
併合当初、朝鮮における初等中等教育制度は日本内地人に対する学校と朝鮮人に対する学校が別個に存在していた。基本的に内地人対象の小学校、中学校と、朝鮮人対象の普通学校、高等普通学校であった。しかし例外もあった。1938年の朝鮮教育令改正により普通学校、高等普通学校は廃止され 、共学制が採用された。
日本統治下で初等教育が順次拡充され、初等教育への就学率は日本統治時代の最末期で男子が6割、女子が4割程度であった。初等学校(普通学校・小学校・国民学校)の教員は、朝鮮の師範学校で養成される教員と日本内地から派遣される教員が混在していた。
1946年度からは日本内地と同様の八年制義務教育制度(国民学校初等科及び高等科)を導入することが予定されていた。
○高等教育
高等教育については、官公私立の旧制専門学校が多数設立されたほか、1924年に京城帝国大学が、朝鮮唯一の旧制大学として、また日本で6番目の帝国大学として日本内地の大阪帝国大学や名古屋帝国大学よりも早く設立された。朝鮮人による民立大学設立運動については、民族精神の再生産を行い、植民地統治への妨害になりかねないとして抑圧する姿勢を採ったため、京城帝国大学は日本統治下の朝鮮で唯一の旧制大学となった。日本統治時代後期において、京城帝国大学における内地人学生の比率は6割程度、朝鮮人学生の比率は4割程度であった。
○朝鮮語
李氏朝鮮は清国の従属下にあり漢字が重視される一方、ハングルは軽視され、公文書でも採用されることもなかったが、李朝末期(1886年)になって開化派と井上角五郎の協力により朝鮮で初のハングル使用の新聞・公文書(官報)である『漢城周報』(1886年創刊)が発行された。また、一般人(特に女子)のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった。
日本統治下になると学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた。1911年に朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、朝鮮語は必修科目としてハングルが教えられることとなった。朝鮮語の時間以外の教授言語としては日本語が使用された。総督府は1912年に、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成し、それを用いた。
日中戦争以降、総督府は日本軍の兵士として朝鮮人を動員することなども視野に入れ、朝鮮人の"皇民化"を進めた。
同時期、日本語を母語化するよう求める意見が朝鮮人教育職者や日本人学者たちから提出されるようになったが、1938年の第三次教育令でも朝鮮語教育は廃止されていない。「第八十六回帝国議会説明資料」(1944年12月、朝鮮総督府)によれば、1938年には「国語を解する朝鮮人」の割合が前年度の8%弱から13%強にまで伸びて(1943年末で22%)いる。1945年の「解放」当時、南朝鮮の12歳以上の総人口の78%はハングル文盲とのであったとの米軍の簡易調査もある。普通初等学校への就学率は1910年で1.0%、1923年で2ケタ台にのり11.2%、1935年で21.7%、1943年で49.0%であった。
1942年10月には朝鮮語学会の主要メンバーが治安維持法違反で逮捕されるという事件が起こった(朝鮮語学会事件)、これは上海の大韓民国臨時政府と連絡をとりあっていたメンバーが朝鮮語学会を仮装組織としていた事で逮捕されたものであり(16名に対して予審を申請(予審申請のうち2名は死亡)、14名を起訴猶予、3名を不起訴)、朝鮮語の研究や普及の活動について検挙されたものではない。
統治末期には、学校の会話で朝鮮語の使用が罰せられたとの証言もあるが、朝鮮語が日常会話や新聞などから完全に排除されたわけではなく、朝鮮総督府においても、1921年から1945年の日本統治終了に至るまで、朝鮮語能力検定に合格した職員を昇進・給与において有利に処遇していた。
1943年時点で、日本語を解する朝鮮人は1,000人当たり221,5人(「朝鮮事情」1940-1944年版)で、8割の朝鮮人は日本語を話すことが出来なかった。
文化保護
1934年に朝鮮総督府は李氏朝鮮の主な文化財の保護のための総督府令を出している。国宝に指定されたものには南大門などが含まれていた。 日本人学者とその朝鮮人の弟子達によって歴史・語学・文学などの韓国学研究の基礎が作られた。
日中戦争の長期化による物資欠乏への対策や情報統制の必要から日本内地では1938年4月に国家総動員法が制定され、8月からの新聞用紙制限令による用紙制限や新聞の整理統合を通じ、739紙あった新聞を最終的に54紙にまで削減するなど、新聞紙法や出版法を厳しく適用しながら新聞・出版・言論統制を強めた。朝鮮においても、1940年には「朝鮮日報」「東亜日報」が総督府命令により廃刊となり、朝鮮語新聞は総督府が発行する毎日新報と官報だけとなったが、硫黄島の戦いにおける日本軍の玉砕は朝鮮語でも報じられた。
創氏
創氏は、朝鮮の宗族による管理システム(本貫と姓)に新たに家族名である「氏」を加え、日本及び欧米で一般的な家族単位の管理システム下に組み入れるものである。この過程で中国式の夫婦別姓を名乗っていた妻も夫と同じ一つの家族名の下で管理されることになった。改名とは姓名を届け出する際に名を日本風に変更することを可能にする制度である。それまでは日本内地に見られる姓名は許可しないこととして厳しく制限されていた。1940年に取られたこれらの措置を創氏改名と呼ぶ。
前者は制度上必須であり、全ての朝鮮人に適用された。後者は任意であり、当初南次郎総督自身もそのように言明していた。水野直樹によれば、1940年2月11日の届出開始以降全戸数の中で姓名を届け出た人々の割合が4%程度と著しく低かったことから、朝鮮総督府は方針を転換し、下部機関を中心に朝鮮人に日本的な名字を名乗るよう推奨するキャンペーンを開始し、結果として80%以上の朝鮮人は日本的な氏の届出をしたとしている。一方、残りの2割(日本内地では約85%)は法定創氏により朝鮮式姓がそのまま氏として設定された。朴春琴や洪思翊など、朝鮮式の氏を設定創氏して使い続けた事例もあった。また、朝鮮に居住している朝鮮人では改名者の割合は9.6%だった。
創氏改名の第一目標であった朝鮮人の名字を日本式に改めることに関しては、朝鮮に日本風の家制度を導入することが主眼とされていた。
○創地改名
植民地支配時、朝鮮固有の地名を日本式に強制的に変更したとして中央日報が2009年10月の記事で指摘した事例。例として慶北青松郡盈徳郡(キョンブク・チョンソングン・ヨンドククン)の周王山(チュワンサン)の竜湫(ヨンチュ)滝、中竜湫、竜淵(ヨンヨン)滝(あるいは上竜湫)を3つの滝について、第一の滝を仙女湯に変更した。これは名前に竜が入っており、植民地民の気が強くなる懸念が高いという口実で改名したとする。慶尚北道慶山郡竜城面(キョンサンプクト・キョンサングン・ヨンソンミョン)にある争光里(ジェングァンリ)を「日光里」(イルグァンリ)に変更したが、「景色が良くて美しい日本の“日光”とまったく同じだ」として名前を変更したとする。大田(テジョン)の鶏足山(ケジョクサン)の地名はもと鳳凰山(ポンファンサン)だったが、鳳凰を鶏(ニワトリ)に「格下げ」し鶏足山にしたとする。
宗教政策
李朝では崇儒抑仏政策により仏教が抑圧され、民衆は風水、巫覡、祭祀などの民間宗教や、儒教・仏教・道教の流れを汲む新興宗教に傾斜していた。その代表的な教義に「後天開闢」があり、天が直接光臨する時代が到来し、理想郷の地上天国が実現されるとする思想である。東学は後天思想に基づく新しい宗教の代表格であった。江華島事件から19世紀末頃の情勢はこのようなものであり、キリスト教はすでに朝鮮半島に渡来していたが李朝はあへんと同じようなものと警戒しており本格的な宣教が始まるのは1884年に長老派の医師Allenの朝鮮入国以降とされる。朝鮮におけるキリスト信者の成長率は世界のキリスト教宣教史上類まれなものであり、1895年に公称1590人の信徒が1910年には22万6791名に達した。神道は日本人居留民によりわずかに保持されているのみであり、明治初期に朝鮮宣教に乗り出したのは真宗大谷派などの仏教会である。朝鮮神社が設置されたのは併合から遅れること15年後の1925年であり、それ以前には朝鮮半島に社格をもつ神社はなかった。朝鮮総督府が神社・神祠制度を確立するために法令を整備したのは1938年8月であり、神社参拝を公然と求めはじめたのは1937年以降である。総督府による「宗教への介入」は直接的には合理的な利害を目的とした、朝鮮統治の警察権にもとづいた介入と懐柔融和策であった。
宗教団体は抗日活動における特異な位置を占めた。キリスト教や仏教は朝鮮軍内の同調者により保護され、しばしば治外法権的地位を占め抗日活動家を保護した。キリスト教教会はアメリカなど海外の所有施設であるとみなされ東学党の乱や日清戦争のさいに民衆の保護所となった。日本軍の中にも篤実なキリスト教信者がおり教会員や財産の保護を約束した。仏教寺院は李朝の政策により抑圧されていた影響から人里離れた山奥に点在していたが、真宗大谷派など布教の成果もあって朝鮮の仏教寺院の多くは日本の仏教教団の末寺となっており保護を受けていた。これらの末寺は1907年の大韓帝国国軍の解体以降の義兵運動の根拠地として格好の隠れ家となった。朝鮮総督府は抗日活動を取り締まるためキリスト教や仏教などを統制する必要があり、一方で帝国憲法に規定された信教の自由の制約から介入と懐柔を繰り返さざるを得ない状況にあった。
1911年に起きた105人事件を口実とした宗教弾圧においてはアメリカ人宣教師により世界に報道され国際世論が日本の司法制度を厳しく批判した。キリスト教教会は朝鮮人知識層を大量に受け入れ、民衆を動員した三・一独立運動のような大規模な抗日・独立運動を展開した。当時の朝鮮総督斎藤実は、当初は三・一独立運動を鎮めるべく騒擾中に宣教師たちと会合を持ち、彼らを懐柔しようとしていたが、1920年に入って方針を転換し、キリスト教会が三・一独立運動の主要な組織者であったとして、キリスト教会への苛烈な弾圧を加えるようになった。この弾圧によって、47の教会が破壊された。朝鮮京畿道水原(Keiki-do Suigen)の提岩里(Teiganri)教会では、閉じ込められた村人が教会ごと焼き殺された(提岩里教会事件)。当時、朝鮮のキリスト教従は人口比で1.3%であったが、三・一独立運動で検挙された者のうちキリスト教従は17.3%であった。総督府による苛烈な弾圧の模様は、中国に逃れた宣教師たちによって世界に報じられた。
神道の朝鮮半島への普及は進まず、1925年にようやく朝鮮神宮が設置された。この時、朝鮮神宮にいかなる祭神を祭るかで論争(朝鮮神宮御祭神論争)が発生し、小笠原省三は「朝鮮神宮と内鮮融和」を取り上げて檀君の合祀を主唱した。しかし総督府としては非公認宗教団体の中には檀君信仰をもつ教団もあり、民族運動勢力と結び付いたものと理解していた檀君信仰を認めることは不可能であり、鎮座祭直前の9月28日に京城本町警察署長から「一部学生」が「不逞計画」を立てているとの風説ありとの報告を上げ、総督府は神社界の主張を抑えて祭神論争に終止符を打った。1937年盧溝橋事件を期に日中戦争は全面化し、朝鮮における皇民化教育の一環として皇国臣民ノ誓詞が発布され、日韓合邦の実を挙げ帝国臣民化を図る目的として国家神道が利用され、神道非宗教説をもとにキリスト教会や仏教会は神社参拝が強要された。1938年前後から朝鮮各地に官幣神社が増設されてゆき「皇国臣民化」「内鮮一体」の重要な役割を担うようになる。キリスト教は一神教であり、キリスト教従にとっては他の神のために祈ることは、今まで築いた神との信頼関係を失うことであり受け入れがたいことであった。
造林事業
1910年当時の朝鮮全体の山林面積は1585万ヘクタールで、全面積の71%に達していたが、木材資源を示す林木蓄積量は1ヘクタールあたり17立方メートルであり、2009年の韓国の16.5%水準に過ぎず、特に南部の海抜の低い低地帯では若い木と禿げ山が大部だった。 朝鮮半島の造林事業は当初は河川保持などの砂防目的が主眼であり、地形調査の結果、朝鮮半島は花崗岩台地の山岳地帯で、緑が育ちにくいことが判明したことが始まりとされている。森林が無ければ、降雨で土砂が流れ込み、農林業に影響を及ぼす。1924年の京城日報によれば、造林事業は1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は個人の造林事業などを含めると約36万町、10億本に至ったと報告されている。造林方法は植林・接木や普通播種などもおこなわれたが、国有林制の導入などによる自然復元によるところが多い。朝鮮半島北部では軍部が木材伐採事業を直接経営しており、ここでは当時の山林経営の常識として自然収奪(伐出)的側面のつよいものであった。一方で保安林の確保や林道整備など評価される点も多いが戦争末期には朝鮮半島の造林事業は放置される傾向が強くなった。
経済
「朝鮮は日本の脇腹に突きつけられた匕首だ」と云われ日本本土防衛の為の重要な要であり、また日本の中でも最も遅れている地域の一つであると政府は捉え、富国強兵政策に従い多額の国家予算を朝鮮半島に投じた。鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島を近代化していった。
鉄道路線の路線は幹線ばかりでなく生活用の支線も多くが敷設され地方経済を活性化させた。三菱製鉄(兼二浦製鉄所)や日本製鐵(清津製鉄所)による製鉄所の建設、日本窒素肥料(現:チッソ)の進出による水力発電所建設などが行われ、朝鮮総督府からの補助金による1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、5億9千万本以上の植林や砂防ダム建設などの水利事業も行われた。これは、それまでの欧米諸国による収奪的植民地政策には見られないものであった。1920から30年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4%で、同じ期間の欧州(1%台)や日本・アメリカ(3%)に比べて、より高い成長をしており、朝鮮半島1人当りの生産成長率も約2.4%と高い成長率を記録していた結果が出ている。他方、これらの開発工事において、主な労働力は当然ながら朝鮮人の中に求められた。統治の前期においては賦役(無償労働)による工事なども行われており、過酷な負担であるとして3・1独立運動の原因の一つともなった。賦役の廃止後も、労働者の人権という概念の未発達と植民地人であるという要因などが重なり、朝鮮人労働者は多くの場合劣悪な環境に置かれた。
李朝末期時点では大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城は、区画整理が行われ路面電車(ソウル市電)が走る都市となった。衛生面では、生活面における衛生指導や集団予防接種が行われ、当時朝鮮半島で流行していたコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病による乳児死亡率が減少し、平均寿命は24歳から56歳まで伸びた。また農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増したことで、人口は併合時(1910年)の調査では13,128,780人、1944年の調査では25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた。
総督府は土地所有者の調査を実施し、所有者のいない土地は接収して東洋拓殖に買い取らせ、日本人移住者や朝鮮人有力者に分配した。総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどである。李朝末期の朝鮮は道路、農地、山、河川、港湾などが荒廃しており、民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)による収奪を受けていた。そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、朝鮮人農民に多大な利益をもたらすようになった。また、水利組合の設立により安心して農耕ができるようになった。大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の利益を得ていた。その代表的な人物がサムスングループの創始者である李秉浮ナある。彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に1938年に大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった。
このように農地が新たに開墾され、水利事業によって生産能率が向上したことにより、食糧生産は年々増加し、併合前の1909年には745万7916石であった収穫高は、1918年には1529万4109石と2倍以上になったが、米の多くが日本(内地)に輸出されたため朝鮮人1人当たりの米の消費量は1919年〜1921年の平均0.68石(米1石は約150kg)に対して、1932年から1936年にかけては0.40石まで減少した。この状況を指して、「飢餓輸出」と呼ぶ研究者もいるが。逆に全相仁らの研究によると日本時代の米の消費量は平均0.58石の水準を保ち、後半期にはむしろ消費量が若干増加している。また朝鮮経済全体で見た場合、米以外の雑穀が大量に輸入されており、高価な米を売った代金で安い雑穀をより多く購入することで増加する人口を養っていたと考えられる。ソウル大学の李栄薫教授は韓国の「日帝による土地収奪論」は神話であるとし「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ」としており「食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくもの」と述べている。加えて、朝鮮人の身長が伸びていることから、少なくとも1920年代中頃までは「朝鮮人の生活水準が着実に向上していたのは明らか」である。
一方で増え続ける人口を農村では吸収できず、京城などの大都市で労働者として生活の糧を求める人が出たが、都市でも産業が未発達で人口を十分に吸収することができず、火田民(山間部で焼畑農業を行なう)となるもの、職を求めて日本や満州に渡航した者が数多く出た。京城等における農村出身の労働者層の中には都市周辺部に粗末な小屋を建てたスラム街を形成し、「土幕民」と呼ばれるものも存在した。
植民地近代化という性質上、この時期の朝鮮における経済発展の成果は多くが資本を出した在朝日本人や日本企業に分配され、朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低く、日本人と現地人たる朝鮮人の間の所得格差も非常に大きなものがあったとされる。一方では、市場を通じた商行為であるという指摘もある。利益を得ていた朝鮮人も存在し、統治時代後期には多くの朝鮮人資本家が存在した。
朝鮮では株式会社にほとんど馴染みがなく、朝鮮総督府は詐欺行為が多発するのを警戒して1910年に会社令を公布し株式会社を届出制でなく許可制とした。1910年従業員5人以上の工場は朝鮮人経営39に対して日本人経営は112であったが1939年には朝鮮人経営4,185に対して日本人経営2,768と工場数が増加する一方で比率は逆転していた。ただし、1939年においても規模が大きくなるほど日本人による経営が多かった。
2004年、ソウル大学は、1911年から1937年にかけての朝鮮における産業構造の変化が、第1次産業で75%から45%、第2次産業で7%から22%、第3次産業で18%から33%にそれぞれ上昇し、資本経済化が急速に進んだこと、1912年から1937年にかけての年平均実質GDPが4.10%、実質GDEが4.24%の成長(同時代の日本本土やアメリカは3%台、欧州は1%台)をなしており、世界恐慌下においても飛躍的な成長を遂げていたとの調査結果を発表した。
韓国や北朝鮮では、現在も朝鮮の資本主義の萌芽を李氏朝鮮時代に求め、「芽生えた朝鮮の資本主義は成長する前に日韓併合による植民地化によって1945年まで大きく抑制されていた」という説が通説となっている。これに対し、ハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートは、研究の結果、李氏朝鮮時代の経済規模は同時代の日本や中国と比べて小さく、当時の商人と後の時代の資本家とのつながりがほとんど無いため、資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、上記のような日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものであると発表している。
通貨
日韓併合以前から、日本の国立銀行である第一銀行韓国総支店が、朝鮮での通貨として1902年から第一銀行券を流通させていた。大韓帝国時代の1909年には第一銀行にかわって中央銀行の韓国銀行が設立され、のち1911年に朝鮮銀行となった。世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するためにブロック経済を進めており、朝鮮は日本円を中心とする日満支経済ブロックに含まれた。朝鮮には日本円を導入する案もあったが、経済的な混乱が日本に波及するとの理由で採用はされなかった。朝鮮銀行では、日本円と等価の朝鮮圓(円)が発行されていた。この通貨は内地(日本本土)では使用できなかったが、日本銀行の円、そして金、銀との等価交換が保証されていた。
戦費を調達するために、朝鮮銀行は中華民国臨時政府の中国連合準備銀行と預け合い契約を交わした。この契約は相互に預金口座に記帳することで、戦費に用いる通貨の発行を目的としていた。預け合い契約によって日本本土へのインフレーションは避けられたが、同時に中国で通貨を濫発することになり、インフレーションによる経済混乱と日本統治下の通貨制度に対する信用低下を招いた。
人口推移
1905年までは李氏朝鮮による調査。李氏朝鮮による調査は徴税を目的としているため申告式であり、身分と収穫率にしたがって軍役と無関係な一部の女子、賎・奴などの疎外層は申告から除外されたり漏らされたりしているので、実際は調査結果の1.3倍程度の人口があった可能性がある。1905年第二次日韓協約によって大韓帝国は日本の保護国になる。これ以降は日本(韓国統監府および朝鮮総督府)による調査。1910年に韓国併合。
   朝鮮半島の人口推移
   西暦 朝鮮半島居住の朝鮮人 1904年との対比
   1753  730万人  102
   1864  802万人  113
   1904   710万人  100
   1911  1383万人  194
   1925  1854万人  261
   1942  2553万人  359
交通
鉄道
朝鮮半島での鉄道は、李氏朝鮮から日本が「日韓暫定合同条款」に基き鉄道敷設権を1894年8月20日に得て、鷺梁津(漢江西岸)〜済物浦間の鉄道を1899年に開通させたことに始まる。これは後に京仁線となった。
1905年には京釜線が全通、翌1906年には日露戦争の軍事輸送を目的として京義線を日本が全通させた。
京釜線・京義線は日露戦争後に日本が得た南満州鉄道(満鉄)への接続を図り、大陸進出の足がかりとしての役目を担うようになっていき、1910年の韓国併合で日本が朝鮮の統治権を得ると、京元線や中央線・湖南線などを敷設した。
路線数が少なかった1925年(大正14年)までは、朝鮮での鉄道経営を一体化する目的で南満州鉄道に委託したこともあったが、その後は朝鮮総督府の直轄の朝鮮総督府鉄道となって、地域経済の発展や住民の足を確保するために多くの路線が建設されていった。
朝鮮総督府鉄道は朝鮮への観光客の誘致にも力を入れ、朝鮮ホテルなどの西洋風ホテルの建築も行った。また、朝鮮王朝末期には大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城は区画整理が行われ、路面電車が敷設された。
自動車
乗合自動車やタクシーが走っていた。

日本内地と朝鮮の間には、関釜連絡船(釜山・下関間)を始めとする多くの航路が運航されていた。
航空
日本のフラッグ・キャリアの日本航空輸送(とそれを引き継いだ大日本航空)が日本内地から釜山、蔚山、京城などの間を結んだほか、満州国の満州航空が乗り入れていた。朝鮮独自の航空会社は存在しなかった。
日本内地との関係
朝鮮人の日本内地への移入
李氏朝鮮時代から貧しかった南朝鮮から多くの朝鮮人が日本に移入した。日本への渡航には渡航証明書が必要だったが、多くの朝鮮人が日本内地へ密航した。多くの密航業者が密航を斡旋し、巨万の富を築いた。2,000人を密航させた密航業者は一万数千円を荒稼ぎして妾を10人抱えるほどであった。密航は1930年代に入ると激増し、毎日のように摘発されるようになった。このため、1934年には岡田内閣は朝鮮人の密航の取り締まりを強化するために「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定したがその後も密航は増加していった。余りの密航の多さに日本政府は渡航制限を緩和したが、渡航条件を満たさないものたちによる密航は止まらなかった。第二次世界大戦中にも密航が行われており、密航朝鮮人が検挙されている。
朝日新聞の取材によって遠賀工業所で雇われていた朝鮮人鉱夫が高待遇で雇用されていたことが明らかにされている。一方で旅費負担や高賃金などを謳った甘言募集に乗せられ、低賃金の中で宿代や食費など様々な名目で天引きされ、実際に自由に使える金額はほとんど無かったとする主張もある。
1944年9月から1945年3月にかけては国民徴用令により徴用された朝鮮人が渡航した。
1951年に講和条約が締結され連合軍による占領が終了すると日本に在留していた朝鮮人は朝鮮籍となり、1948年に建国された韓国の国籍を取得する者もいた。朝鮮から渡航した人々の多くが九州、中国、近畿地方に在留していたため、戦後に韓国から密航した朝鮮人もこれらの地方に住む場合が多かった。これらの朝鮮人は在日韓国・朝鮮人となった。
在日1世2世の中には朝鮮総督府による土地調査事業や日本軍などによる食料の収奪(徴用・供出)などにより生活に困窮し、日本に来たのだと主張する者もいる。
朝鮮人の政治参加
1910年の大韓帝国の併合により大韓帝国の統治権は日本国皇帝に譲与され、大韓帝国により編纂されていた戸籍は日本国政府が担任することとなった。朝鮮は併合の経緯から大韓帝国を日本国皇帝が譲与され統治することとなったため、「併合」(併合条約2条)とはしたものの、一つの帝国のもとに二つの国家が存在するかのような状態であり、なおかつ連邦的なものではなく保護国・被保護国を前提とした従属的国家結合にとどまり、選挙法など統治関連法は内地のものは直接適用されなかった。併合条約締結の直後である1910年8月29日には韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件(明治43年勅令第318号)が発せられ即日施行されている。
朝鮮人は「帝国臣民」に編入され、日本人の朝鮮移住も進んでおり1910年12月末時点で朝鮮在留日本人は50,992戸(171,543人)に上っていた。併合後の朝鮮統治は朝鮮総督府が直裁しており、朝鮮在住の「協力的朝鮮人」はむろん、在朝日本人さえ朝鮮半島における政治への参政権をもっていない状況にあった。1913年には日本人社会の居留民団が解体され、事実的な自治権は剥奪された。1920年代以降の協力的朝鮮人を含む植民地朝鮮での参政権問題は政治的課題となり、ひとつの方法として日本国内の縁故地で衆議院議員として選出をめざし「植民地政策決定過程」に介入する手段を目指した。朝鮮半島では1931年に制限選挙による地方議会が開設されたが、議会選挙などの政治参加は戦争体制のため事実上凍結された。
朝鮮人も帝国臣民の地位が付与されたため、内地に居住していれば参政権・被参政権とも認められており(→1925年普通選挙法)衆議院選挙に参加することは可能であった。唯一朝鮮人として朴春琴が衆議院議員に選出されている。それまでは内地の選挙区からしか出馬できなかったが、1945年(昭和20年)4月1日に改正された衆議院議員選挙法によって台湾と朝鮮にも帝国議会の議席が与えられ、選挙によって外地からも衆議院に議員を送ることが出来るようになった。ただし有権者は1年以上直接国税15円以上の納税という制限が課されており普通選挙ではなかった。また議席数は、衆議院の定数466に対し台湾5名、朝鮮22名とされた。また1943年(昭和18年)に内地に編入された樺太でも同時に3名の議席が認められた。しかし敗戦のため実施されずに終わった。また貴族院でも台湾と朝鮮から勅撰議員を選出することが決められ台湾、朝鮮から合わせて10名の議員が選出された。そのほか地方議会の議員を務めたり、中央官庁や地方公共団体に勤務する者もいた。その外にも多数のロビイストが「朝鮮通」として朝鮮統治に関するあらゆる法案や議案について提言をおこなっていた。
1933年5月11日の朝鮮朝日(朝日新聞の外地版)によれば、朝鮮の13の道(日本で言えば「都道府県」)の当選議員のうち、約80%が朝鮮人となっている。
朝鮮人の独立運動
義兵闘争などに見られるように、併合以前から日本の朝鮮支配計画に反抗する朝鮮人の運動は存在していたが、第一次世界大戦終結後にはアメリカ系キリスト教会の宣教師によりアメリカ大統領ウィルソンの提唱する民族自決理念が伝わり、更に高宗の死によって朝鮮人の独立要求は高まった。1919年には三・一独立運動が起こって大規模な暴動にまで発展し、朝鮮中を巻き込んだ。この独立運動は約一年間続き、暴動と総督府側による取締りによって多くの死傷者がでた(運動家に殺害された者も多い)。事件直後に行われた調査結果を記した資料によれば、8,437人が逮捕された。逮捕者への刑罰は主犯でも最高で懲役3年以下という軽いものであった。死者数は553人(運動家に殺されたものも含む)、負傷数は1,409人である。当時上海に亡命中の朴殷植は『韓国独立運動之血史』に46,948人が逮捕され、7,509人が死亡し、15,961人が負傷したと記している。女学生・柳寛順(ユ・ガンスン)は三・一独立運動を扇動した罪で投獄・拷問され16才で殺されたとされ、しばしば日本の蛮行についての象徴的物語として扱われることがある。なお柳寛順の物語には誇張が多く史実の裏づけに乏しいとの批判がある。
三・一独立運動時、暴徒と化した民衆によって警察署・村役場・小学校などが襲撃され、放火・投石・破壊・暴行・殺人が多数行われている。こうした暴動を鎮圧し治安を維持する為に武力を使うことはどこの国でも普通に行われることであるとする意見も存在する。
こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名な堤岩里事件は4月15日に小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑で堤岩里の成人男性住民30余名を教会堂に集めたところ、取調べ中に容疑者1名が逃げようとし憲兵に斬殺され、それを見た他の容疑者が暴徒化した為に全員が射殺され、放火などにより15村落317戸が延焼し、39人が死亡した事件である。その違法性については日本側も認識していたらしく「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。…之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上部に報告している。
三・一独立運動は大韓民国臨時政府樹立のきっかけとなり、また満州や沿海州を拠点とし、中朝国境では抗日ゲリラ組織の活性化にもつながり1920年の尼港事件のように日本軍を全滅させることもあった。一方総督府も、過酷な統治だけでは植民地体制を持続させることはできないとして、文治政治と呼ばれる一連の懐柔策を打ち出した。朝鮮における憲兵警察制度は廃止され、限定的ながら言論や結社の自由が与えられた。
三・一独立運動後に活発となった満州や沿海州における朝鮮独立を掲げた抗日ゲリラは国境地帯で、良民や官公吏への襲撃・殺害といったゲリラ行為を繰り返すようになり、ついには1920年10月に満州の琿春で、馬賊の襲撃により、領事館警察署長を含む日本人13人が殺害される事件(間島事件)が発生した。これにより総督府は中国側と折衝して吉林省都督から作戦の許可を取り付け、ゲリラ掃討を開始した(青山里戦闘)。彼らが潜んでいるとされた村に対する焼き討ちや村民処刑なども含む態度で臨み、キリスト教の宣教師などからの抗議を受けたこともあるが、徹底的な討伐戦の結果、抗日ゲリラのほとんどはソ連領内へと逃げ込み中朝国境からは一時姿を消した。朝鮮人武装勢力は1921年6月28日にはスヴォボードヌイにいたが、ロシアの赤軍と衝突しほとんどが壊滅した(自由市惨変)。その後、1937年に普天堡が襲撃される事件も起きている。
大韓民国臨時政府の主張では第二次世界大戦において、1941年12月9日に連合国側に立ちドイツと日本に対して宣戦布告を行い、軍事部門である朝鮮解放軍は東南アジアの一部や中国等で中国共産党や国民党の軍隊に加わり、日本軍との戦闘に参加したという。しかし具体的にどのようにして宣戦布告を行ったかも不明であり、宣戦布告も戦争相手国には伝わっておらず、大韓民国臨時政府が組織的に日本軍と戦闘した記録は見つかっていない。そのため戦後に韓国が「戦勝国」として国際的には認められることはなかった。
行政
総督府は朝鮮半島の行政・司法・立法をすべて総覧し、朝鮮半島駐留の日本軍の統率・防備権限を付与されていた(朝鮮総督府官制3条)。総督府は鉄道や通信事業を経営し朝鮮銀行の監督権を有した(1924年まで)。また林野事業(営林廠)や専売事業(タバコ・塩・朝鮮人参)などを経営していた。朝鮮十三道には道長官(1919年から知事)が任命されそれぞれの支所で行政任務に従事した。総督府令により1年以下の懲役もしくは禁錮、拘留、200円以下の罰金または科料の罰を課すことが認められていた(4条)が、それ以上の罪過あるいは総督府令によらない法令については日本内地の制定法による必要があった。政務のすべては内閣総理大臣を経て天皇に直接上奏すれば良い(3条)とされたが、実際の実務は拓務省や内務省など内地行政機関の依命通牒に従うことが多かった。 李氏朝鮮時代の朝鮮八道は高宗32年(1895年)に二十三府となり、続く高宗33年(1896年)に制定された十三道制を引き続き行政区画とした。
また、これら13道の下には府(日本語版)・郡が置かれ、郡の下に邑・面が置かれた。なお、13道は内地の都庁府県に、府・邑・面は内地の市町村にそれぞれ相当する。
戦後、韓国では京畿道の一部がソウル特別市に、全羅南道の一部が済州道(後に済州特別自治道へ改組)に分離し、北朝鮮では咸鏡南道の一部が両江道に、平安北道の一部が慈江道に、黄海道が南北に分離した。
警察
1905年(明治38年)11月、韓国統監府に警察を設置。1910年(明治43年)7月、大韓帝国より警察権の全面委託を受け、中央に警務総監部、地方に警務部を置いた。このときに憲兵警察制度も採用した。一般警察と憲兵が同一の地域に混在していたわけではなく、フランスのフランス国家憲兵隊(ジャンダルムリ)のように担当の地域が決まっていた。軍警の地域分担は、おおむね以下の通りであった。
1910年(明治43年)8月韓国併合。この年、「憲兵警察」と「一般警察」を合わせた人数は、7712名(その内、朝鮮人は4440名)。うち「憲兵警察」は2019名(その内、憲兵補助員としての朝鮮人が1012名)であった。1915年(大正4年)3月、中央の警務総監部直轄だった京城府の警察事務を京畿道警務部に移譲。1919年(大正8年)3月、三・一運動が起こる。同年8月には警務総監部を廃止し、警務局を置く。地方の道に警察権を移譲し、道庁に警察部を置き、また、三・一運動後、朝鮮総督府の「武断統治」に批判が高まったこと、日本の警察制度としては異例の形態であったことから憲兵警察制度を廃止した。
警察組織や道知事職は三・一運動後人気が高まり、例えば1922年の巡査職の競争率は約2.1倍水準だったが、文化統治が本格化した1920年代中盤以後は競争率が10倍を上回った。
1945年(昭和20年)8月の終戦により、朝鮮総督府は解体され、朝鮮総督府警察は南北朝鮮の国家の警察に引き継がれた。
軍事
日露戦争を機に大韓帝国に駐留した韓国駐剳軍(ちゅうさつぐん)を前身とし、明治43年(1910年)の韓国併合に伴い朝鮮駐剳軍に名称変更、大正7年(1918年)に朝鮮軍となった。司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。
1937年に日中戦争が勃発すると、朝鮮人からも志願兵を募集、1942年に行われた朝鮮出身者に対しての募兵では募集4,077名に対し、254,273名の朝鮮人志願兵が集まり、倍率は62.4倍に達した。ほか軍属として戦地に赴いた者も存在した。1944年4月の法改正によって1944年9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られたため、訓練期間中に終戦を迎え、実戦に投入されることはなかった。
昭和20年(1945年)2月、戦況逼迫に伴い第17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。  
 
日朝関係史 (日韓関係史) 

 

日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。
■古代
先史時代
稲作は長らく朝鮮経由と言われてきたが、稲遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の東南アジア経由にて伝来し、さらに日本から朝鮮に伝わったという学説が、考古学的には主流となりつつある。しかし、日本への水稲伝来ルートに関しては様々な学説がある。池橋宏によれば、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達した。池橋宏は、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」と述べている。また、佐藤洋一郎によると風張遺跡(八戸)から発見された2800年前の米粒は「熱帯ジャポニカ(陸稲)」であり、「温帯ジャポニカ(水稲)は、弥生時代頃に水田耕作技術を持った人々が朝鮮半島から日本列島に持ってきた」と言う。
ただし、佐藤洋一郎は稲作が大きな人類集団の渡来を伴ったことには否定的であり、ルートに関しては池上曽根遺跡や唐古・鍵遺跡から出土した弥生米のDNA分析して朝鮮半島には存在しない中国固有の品種が混ざっている事から、朝鮮半島を経由しないルートがあった根拠の一つとしている。 君島和彦、鄭在貞らが共同して造った『日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史』によると、朝鮮半島では前7Cの麻田理遺跡などで水田遺跡が存在しており、縄文時代後半期に稲作とともに北九州に伝わった石包丁などの石器群・農耕具は、朝鮮半島南部で見つかる石器群・農耕具と類似しており、「これらの技術と道具も朝鮮半島から伝わったものであると考えられる」と書いた。
また、放射性炭素年代測定による分析においても、日本での炭化米は紀元前4000年程度まで溯る事が確認されており、これらの証左をもって、東南アジアから南方伝来ルートが日本への稲作伝来ルートであったようである。以上のことから逆に日本から朝鮮半島へ伝わった説も有力視されている。(佐藤洋一郎『稲のきた道』裳華房/『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会)、(松尾孝嶺『栽培稲の種生態学的研究』)。そのため、各種歴史教科書の稲作の伝来経路も修正されつつある。
文字の記録がほとんどないため詳細は不明だが、現在の佐賀県から産出した黒曜石が朝鮮半島(プサン 東三洞 貝塚)からも出土しており、かなりの縄文・弥生人が暮らしていたと考えられる。黒曜石は土地によって成分が変わるため、成分の同じものは出土場所が同じである。日韓の間で、成分の同じ黒曜石が発見されるのは、先史時代の日韓交流を示す証拠であるとされる。
古墳時代・三国時代
古墳時代には、鉄や紙の生産技術、仏教、医学などの大陸文化(ユーラシア大陸の文化)は、中国大陸や朝鮮半島を通じて、もしくは中国大陸から直接東シナ海を経て日本に伝わったとされる。やがて日本の国力が増大すると、逆に日本の文物が朝鮮にも影響を与え始めた。前方後円墳などが、朝鮮から発見されている。互いに隣国である日本と朝鮮半島との間には伝承を含めて歴史的な関係が深く、戦争や相互の侵略の経験も多い。
○神功皇后(170年-269年)による新羅出兵が行われ、新羅・高句麗・百済が戦争に勝利した日本に朝貢したと伝える三韓征伐の伝承が「日本書紀」には記されている。『日本書紀』に記録された神功皇后の三韓討伐は単なる逸話に過ぎず、内容的にも日本の船団の太鼓の音で洪水が起こり、新羅が洪水で恐れて日本に降伏したなどという荒唐無稽な内容が多いので、史実とは認めがたい。韓国の『三国史記』には1世紀から3世紀にわたる倭国の新羅侵略が数多く記録されているが、すべて侵略には成功していない。
○3世紀中ごろ狗邪韓国が朝鮮半島南部に存在したと中国の「魏志倭人伝」、「後漢書」に記されている。
○313年には高句麗(紀元前37年 - 668年)が楽浪、帯方郡を併合している。
○369年から562年にかけて任那日本府が朝鮮半島南部に設置された。この話は『日本書紀』に出ているが、任那日本府は安羅日本府とも書かれており、安羅国、つまり韓国でいう阿羅伽倻に任那日本府があったことになるので、伽耶全体が任那日本府であったとはいえない。さらに任那日本府は大和王朝の指示に従っていない。すなわち任那日本府は日本の植民地などではなかったことが『日本書紀』の記述からでも言える。
○372年に百済の王子 近仇首より倭王に七支刀が贈られる。
○391年に倭国が百済とともに加羅・新羅を破り服属させた。倭国による併合以前は、女真族系の百済、新羅は同じ女真族系の高句麗の属民で朝貢していた(好太王碑文参照)。好太王の碑文で倭国に関する部分は碑文自体が読めなくなっているため、推測による解釈がほとんどである。そのため百済と新羅が日本に朝貢したという解釈は日本だけの解釈である。(好太王碑)
     ■■■
任那日本府の真実
日本の一部では、1400年前の広開土大王(高句麗19代王)碑石の碑文と日本書紀を根拠に、4世紀から6世紀までの200年間、固体日本が古代韓国の南部を支配していたという任那日本府説を主張している。広開土大王碑の発見以降、現在まで続いている韓日歴史学界の最大の争点となっている任那日本府説、その真実はどういうものなのだろうか。
広開土大王(好太王)碑の謎
1300年前、現在中国の吉林省の集安は高句麗の首都であった。集安には現在もその痕跡である高句麗の遺跡や古墳群が多く残っている。広開土大王碑も集安にあり、これは長寿王(高句麗20代王)が父親の広開土大王の業績を称えるために414年にたてたものであった。中国で広開土大王碑は好太王碑と呼ばれており、大きさは高さ6メートル39センチで1800字が刻まれている。これは現存する韓国の歴史記録の中で、一番古いものの一つである。
碑文の解釈と石灰変造説
広開土大王碑で問題になっている部分は、1884年日本の砲兵少尉酒匂景信が持ち帰った拓本の「而倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅而為臣民」の部分で、日本の学者らは、この内容を広開土大王が即位して一年目であった391年の辛卯年に、倭が海を渡って百済と新羅を撃破し、臣民にしたと解釈している。これに対して初めて反論を出した最初の韓国側の歴史学者鄭寅普(1892-1950)は高句麗を守護にして、倭が辛卯年に来ると高句麗が海を渡って来て倭を撃破し、百済と新羅を攻撃し臣民にしたと解釈した。1972年在日史学者の李進煕白紙は、碑文の解釈に問題があるのではなく、同碑文の拓本とその後の拓本を比較すると、字体が一定でないことや消えてなかったはずの字が現れていることから、碑文の造作の疑いがあることを指摘した。そして1999年、碑文の赤外線写真を通じて、多量の石灰を利用し碑文の造作が行われたことを明らかにした。しかしこの変造説について、一部の中国の学者らは当時清末の時代的状況から考えて、碑文の変造というのは不可能であると反論した。この解釈については現在も確実な結論が出ないまま論争は繰り返されている。、
高句麗の南征
当時碑文の背景になる韓半島3ヶ国関係を整理しておこう。碑文の辛卯年(391年)から5年が過ぎた396年、広開土大王は、強力な水軍を率いて京畿道に上陸し、百済を攻撃した。百済の多数の城を占領し、この戦闘は高句麗の勝利となったのである。このような戦争が続いたのは25年前の371年からで、百済の近肖古王(百済13代王)が率いた3万名の軍事により、高句麗は平壌まで攻撃され。広開土大王の祖父である故国原王が亡くなってしまい、それから高句麗は百済に対して持続的な戦争を続けて行ったのである。百済の北方領土(現ソウル地域)をほぼ占領した広開土大王は、さらに南に大々的な征伐を進め、新羅も高句麗の勢力圏内に編入されるようになった。広開土大王碑文には百済を服属させたのは、倭つまり日本でなく高句麗であったと言える。当時倭は倭寇等で呼ばれていた少数分散的略奪集団で、百済と新羅を審問にする程の大規模な軍事集団を持っていなかった。従って広開土大王碑には新羅を侵略した倭を高句麗が退けたという内容がいくつも出てくるのである。よって広開土大王碑でわかった高句麗の南征事実を通じて、当時の酒匂少尉の拓本通り広開土大王碑は、任那日本府が韓半島の南側を支配していたという事実はなかったことを語る証拠であるといえる。
日本書紀の"日本府"と"安羅国"
日本書紀は任那日本府と安羅日本府を一緒に記録している。この安羅(今の咸安)は韓国南部にあった安羅国のことで、南海岸とつながっていた海上交易の要衝であった。当時の伽耶地域の盟主国・金官伽耶の滅亡(4世紀末)の5世紀からは、実際に伽耶地域を代表していた安羅国の存在は、三国史記や三国遺事などの各種記録から明らかになった。当時作られたと見られる咸安の巨大な古墳群は、新羅の王級の墓に匹敵するほどの規模を持っており、安羅国勢力を伺わせる。また古墳からは5〜6世紀頃と推定される安羅国の独特な咸安式土器や鉄の鎧などが出土しており、任那日本府説と関連、咸安地域はもちろん金海や高嶺、釜山など伽耶地域全体の発掘作業が行われたが、日本遺物の前方後円墳の日本式墓など、日本支配の証拠になるものは一切発見されなかった。安羅国は新羅の伽耶地域に吸収される6世紀末まで独立的な勢力を維持していたと考えられる。また、日本初期に日本府は"大和の御事持"であると記録していることから、日本府は総督府のような軍事統治の支配組織ではなく、王の使臣を称するものであったことが確認できた。これは日本が伽耶出身で、主に吉備、河内地域にいた伽耶系日本人を外交使節として安羅に派遣し、鉄器や土器の輸入を担当させていたと考えられる部分である。一方安羅国はこのような日本との特別な関係を利用し、百済と新羅との対外関係にも活用したと言われている。
辛国神社
大阪にある辛国神社は、伽耶人たちが交流の多かった日本に移住したした6世紀頃、故郷を偲びながら祖先を祀っていたのが始まりであると伝えられている。特に安羅国が滅亡する6世紀末、多くの伽耶人が日本に移住し定着していたという。従って日本が伽耶の鉄器文化に影響されたのは、北九州博物館や奈良の橿原博物館に展示されている鉄製の鎧や兜から確認できるが、これらは大抵5世紀頃作られたもので、伽耶のものより100年も後れて伽耶の鉄と技術で作られたものである。この他にも伽耶の鉄と先進文物が、日本の古代国家形成に決定的な役割をしたということは、様々なところから推定することが出来るであろう。また日本で伽耶土器と知られている須恵器の大量出土は、伽耶の須恵器製造集団の日本移民を意味するものであろう。こういう関係から考えて古代日本が古代韓国を支配したということは、考えにくいのではないだろうか。
任那日本府切の証拠とされていた広開土大王碑文にも日本書紀にも、また伽耶地域から確認した文献や考古学的遺物からも、任那日本府を明確にする証拠はなかった。むしろ任那日本府の真実を追跡しながら確認できたことは、任那日本府は日本書記の欽名記に書いてあるように、"安羅諸倭臣"で、鉄と土器など先進文化を必要としていた古代日本と古代韓国との交流の窓口としての歴史であった。日本が外国を称するに"から"(韓・唐)を使うようになったのも、安羅国との関係が影響したのではないだろうか。日本でも信憑性を失いつつある任那日本府説を原点からもう一度考え直してみる必要があると思う。
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高句麗、百済(346年 - 660年)、新羅(356年 - 935年)が分立していた三国時代は、7世紀頃まで続いており、倭国は百済との外交関係を7世紀頃まで続けていた。倭は百済から仏教(6世紀)と漢字(4世紀)などの先進文化を受け入れ、飛鳥文化(538年〜710年)を起こし、百済は新羅との戦争の時(7世紀)倭からの軍事人材を提供されたと思われる。基本的に倭国の朝鮮に対しての外交政策は、百済とは友好関係を結び、高句麗、新羅とは敵対するというものであった。日本の高句麗征伐から5年後の396年、高句麗の広開土王は反撃、再び百済は高句麗に服属を強いられ、399年に再び百済が独立し、同国要請により日本の援軍が派遣されるも400年に高句麗に敗北している。404年にも日本から百済援軍の形で高句麗に侵攻し、帯方郡まで侵入するが無数の将兵を失った。
三国時代の前半は、高句麗が満州にまで領土を広げて最大の国家であったが、6世紀には新羅が強大になり、高句麗の領土が削られたため、高句麗は百済と倭に接近し、友好関係を結んだ。
この時期の中国の歴史書隋書倭国伝には「新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來」(新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。)とある。
なお、倭と高句麗との関係については、421年、倭王賛が高句麗について南朝の宋に対して使節を派遣したとの記録もあり、安東大将軍倭国王の封号を贈られている。また、478年5月にも雄略天皇と目される倭王の使者が宋に上表し、対高句麗への戦争計画を誇示している。南宋が日本の王に安東大将軍の称号を与えて朝鮮半島の国々に対する支配権を承認したという記録だが、この記録は実効性がない。なぜなら安東大将軍の支配権が及ぶという国々は、新羅を除いて、皆当時はすでに滅んだ国々か、実在しない国々であった。実在の国は新羅だけであり、百済の名は除かれていた。すなわち南宋の王は、友好関係にあった百済を除いて、当時、敵対関係にあった新羅の名をあげ、後は存在しない国々の名をあげて安東大将軍の支配下とした。これらは実際の話ではなく、南宋が日本に新羅を打ってほしいという希望的な要請であった可能性が高い。
倭は528年にも新羅により侵略を受けていた伽耶を防衛するため朝鮮半島方面への出兵を企図するが、筑紫国造磐井の謀反に合い、出兵を妨害されている(磐井の乱)。この反乱は物部麁鹿火率いる6万の大軍により鎮圧されたものの、出兵は取りやめとなり、加羅は562年までに全域を新羅により併合されることになる。
その後も倭は550年に高句麗を破り、朝鮮半島に一定の勢威を有しており、新羅もまた557年に影響下に入れた伽耶の調を倭に献ずるなど倭を立てる外交も行われていた。557年には百済から倭に経論や律師、造仏工が献じられ、579年には新羅からも倭に対し調と仏像が献じられている。552年、百済の聖王(聖明王)が欽明天皇に仏像、仏画、経典などを送り、正式に日本へ仏教を伝えた。そののち、高句麗は僧侶たちを送り、聖徳太子とはじめとする日本の王朝に仏教の教理を伝えた。新羅も600年を過ぎると、日本に仏像などを送った。三国はすべて日本に文化を伝え日本を自国の側に引き付けようとする政策をとった。
しかし、推古朝の8年(600年)に新羅と任那との間で戦端の火ぶたが切られると倭は任那救援軍を派遣し、新羅の5城を打ち破った。推古10年(602年)2月には来目皇子を撃新羅将軍とする2万5000の兵が朝鮮に派遣されるが九州の地で来目皇子が病になり軍の派遣は中止された。
その後、日朝関係はしばらく戦闘状態は止むものの、その代わりとして百済から僧 観勒が入朝した他、高句麗からは僧 曇徴が入朝し、さらに百済からは味摩之の入朝により伎楽が伝えられ外来芸能として発展していった。
その後はしばらく倭そのものに直接的な影響を及ぼすことはなかったものの、皇極朝の2年(643年)6月13日、高句麗にて謀反があり、永留王に対し宰相の泉蓋蘇文が王弟を擁立し宝蔵王が即位したことが報じられ、倭国内でも東アジア外交に対する緊張感が高まったとされる。
唐・新羅の同盟と白村江の戦い
その後、朝鮮半島は、中国の唐と新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)が成立したことで統一に向けて動き出した。唐・新羅連合軍は劉仁軌率いる山東の唐兵7000と金法敏率いる新羅兵が百済に侵入し、660年に王都 扶余を陥落させ、義慈王と太子隆が洛陽に送られて百済が滅ぼされた。660年、百済再興をめざす日本は百済の故地へ、安曇連比羅夫、河辺臣百枝、阿倍連比羅夫、物部連熊、守君大石らの軍勢を派遣するとともに、百済の遺臣 鬼室福信の要請により、日本への人質としていた旧百済王子 余豊璋を護送する狭井連檳榔、秦造田来津ら5000の別働隊を派遣した。余豊章(≣豊)が旧百済の地に帰国する直前に、斉明天皇は、彼を百済王として即位させたと『日本書紀』に記録されている。
豊が660年に旧百済の地に帰った後、3年間は百済復興運動が起きるのだが『日本書紀』はその3年間の日本の歴史を記録せずに、豊を主人公にした百済復興運動の歴史を旧百済の地を舞台に記録している。これらの事実から、豊は中大兄皇子と同一人物であるというファンタジーに過ぎない説が生まれたが、「扶余豊璋が中大兄皇子と同一人物である」確証は皆無である。
『日本書紀』において、孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に百済義慈王の王子として扶余豊璋が出席しているが、中大兄皇子の立場での出席ではない。また、扶余豊璋は日本で太安万侶の一族多蒋敷の妹を娶っているが、中大兄皇子(天智天皇)が多蒋敷の妹を娶った記録は無い。 なお、660年、扶余豊璋を朝鮮半島へ送り返した中大兄皇子は百済救援指揮目的で筑紫に滞在した。翌661年8月24日に中大兄皇子の実母である斉明天皇が崩御し、662年3月28日(天智天皇元年3月4日)には天智天皇が百済の余豊璋に布を下賜した。
さらに、668年に高句麗が滅亡し、扶余豊璋は高句麗王(宝蔵王)と共に唐の都(長安)へ連行・断罪されている事実から中大兄皇子と扶余豊璋は別人と考えるべきである。ちなみに百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある。 
余豊璋は663年に百済復興運動が失敗に終わった後、高句麗に逃亡したと『日本書紀』にも記録されている。しかしその後の行方は不明である。余豊璋が高句麗に逃亡した6か月後に、中大兄皇子の日本での政事が3年半ぶりに記録されている。そのため、余豊璋が再び日本に戻って中大兄皇子として行動を開始したという説も無視することはできないとの考えは、「余豊璋が再び日本に戻った」確証が皆無であるため、ファンタジーに過ぎない。
中大兄皇子の血統は現在の明仁天皇まで繋がる天皇家の正当な血統である。乙巳の変(645年)の際、古人大兄王子は「韓人殺鞍作臣」(韓人が入鹿を殺した)と発言しているが、この『韓人』は『蘇我韓子』を先祖に持つ蘇我倉山田石川麻呂を指す説がある。蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子の義父であり、乙巳の変の際、入鹿の近くで上奏文を読み上げる時の不審な挙動を詰問された事実が日本書紀に明記されている。しかも、入鹿を殺害したのは佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田であり、中大兄皇子ではない。ちなみに、中大兄皇子自身が「韓人」、すなわち「百済人」であったという解釈も十分に成り立つとの説は「中大兄皇子が百済人」とする確証が皆無であるため、ファンタジーに過ぎない。
663年、2万7000人に及ぶ大軍を送った日本は百済復興運動を進める百済軍と共に、白村江(現在の韓国・錦江)で唐・新羅連合軍と戦った。この白村江の戦いで倭国・百済連合軍は400隻もの軍船が炎上し敗北した。倭国は撤退したが、領土までは攻め込まれず、事なきを得た。倭国は国を失った百済人の亡命移住を受け入れ、唐や新羅による侵略に備えて九州に防人を配置し、律令制の整備など中央集権国家化を進めた。また、国号も8世紀初頭には日本へと改めた。このとき中大兄皇子は百済からの亡命人たちを受け入れ、彼らが百済で持っていた官職と同じ官職を日本でも得られるようにする法律を作った。また、中大兄皇子は、対馬と壱岐に城を作り、唐・新羅連合軍の侵攻に備えた。これらの城は百済由来の建築物として知られている。 
新羅・渤海・耽羅と日本
高句麗は、百済が滅亡したことで軍事的に孤立し、668年に宝蔵王らが唐に投降(唐の高句麗出兵)したことで滅び、唐は平壌に安東都護府を、百済の地に熊津都督府を設け、さらに新羅も鶏林州都督府として、新羅の文武王自身も鶏林州大都督とし、朝鮮半島全体を支配しようとした。(唐・新羅戦争)
668年、新羅人の道行が日本の熱田神宮から神剣を盗み、新羅へ持ち去ろうとした。(草薙剣盗難事件)
668年、高句麗が滅ぶと日本は遣新羅使を新羅へ送り始めたが、8世紀の779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。
669年、日本は第7次遣唐使派遣後、670年から8世紀(702年)の第8次(朝鮮半島沿岸を避ける航路選択)まで遣唐使派遣を中断した。
670年、朝鮮半島で唐・新羅戦争が始まり、日本は遣唐使派遣を中断した。
676年、新羅は唐を撤退させて朝鮮半島を統一した。(戦争中も、新羅は唐との朝貢冊封関係を維持し、唐の年号を使い続けていた。)
新羅と日本の緊張関係は続き、702年には遣唐使が朝鮮沿岸を経由できなくなるなどの悪影響があったが、日本からの遣新羅使、新羅からの新羅使は9世紀半ばまで断続的に続いた。
698年に朝鮮半島北部に建国された渤海は唐や新羅と対立したため、日本は渤海と同盟関係を結び、盛んに渤海使・遣渤海使を交換した。日本は、7世紀半ばに済州島に成立した耽羅との間にも遣耽羅使・耽羅使を交換した。
日本・新羅の国家間貿易(遣新羅使・新羅使)が滞るに伴い、唐との交易ルートを確立していた張保皐などの新羅商人が活躍した。新羅商人を通じ、中国に入ってくるペルシア、インドなど南国の産物も日本にもたらされた。また円仁は、新羅商人の助けにより唐からの帰国を果たした。
天平(731年)3年、朝廷の命を帯びない日本側の兵船300隻が突如、新羅に侵攻し、大敗したとの報が朝廷にもたらされ、日本海側の沿岸防衛に緊張が走った。翌天平4年(732年)朝廷は東海道、東山道に節度使を置き臨戦態勢を整えるという。その後、天平9年(739年)、朝廷は東国の防人に対し九州で蔓延した天然痘の打撃があったことから東国の防人を廃止し、壱岐、対馬の防衛は筑紫の人々を防人にすることを決定した。
天平勝宝4年(752年)6月14日、新羅王子 金泰廉ら320人の新羅使が入朝、上洛し日本に朝貢するなど一定の外交関係が生じた。「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、同年、東大寺の大仏開眼供養会に王子を含む700人もの新羅の使節団が来日し、大仏を礼拝したと記されている。
東大寺は華厳宗の総本山として建立されたが、日本における華厳宗は新羅の第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。
翌年、天平勝宝5年(753年)1月1日、藤原清河を大使とする遣唐使が派遣され、唐の都 大明宮含元殿にて玄宗の拝謁をする席上、日本側副使 大伴古麻呂と新羅使との間で外交席次をめぐる争いが起こった。この時の席次は東畔の第一が吐蕃、第二が日本で西側の第一が新羅、第二が大食(サラゼン)であった。古麻呂は新羅は古来、日本の朝貢国であるのに日本が下位であるのはおかしいと抗議し、唐の将軍 呉懐実は古麻呂が中々引く気配がないことから席次を改め日本を第一の席に変更したという。この翌年、小野田守が遣新羅使として派遣されるが新羅国王への謁見は礼に適わずとの理由で叶わなかったという。
藤原仲麻呂による新羅征討計画と悪化する対新羅外交
天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。さらに天平宝字3年(759年)新羅使 金貞巻が日本に入朝したが、翌天平宝字4年(760年)、大宰府に派遣された藤原仲麻呂(恵美押勝)の子 藤原朝狩が貞巻を尋問したところ、貞巻は国書を持参せず、17階中11階と下級官吏であることが判明したため、賓待に値せずと追い返すということがあり、日本ではこの外交の非礼に新羅遠征の機運が高まった。翌天平宝字5年(761年)1月9日には武蔵・美濃両国の少年20人に新羅語を収得させるとともに同年11月17日には東海道、南海道、西海道に節度使を設置した。そして対新羅遠征に軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と遠征の主導者 仲麻呂との不和により実行されずに終わる。その後も宝亀5年(774年)再び新羅使が入朝するがまたも無礼があり、これを追い返したという。延暦18年(799年)、大伴峰麻呂を大使、林真継を副使として予定していた遣新羅使を突如停止し、日本は新羅との国交を断絶した。
日本の王朝を見ると、764年に天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位する。天武天皇の血統が途絶えたため、再び天皇家は天智系の血統に戻った。そして光仁天皇の側室であった高野新笠が皇后となる。高野新笠は百済の武寧王9代孫に当たる。その子の桓武が次の天皇として即位する。高野新笠の子である桓武天皇の子孫は現天皇家や皇族に繋がっているだけでなく、臣籍降下して源氏や平家の武家統領などになった子孫もおり、高野新笠の血筋は繁栄した。平成13年(2001年)12月23日、明仁天皇は「続日本紀」に高野新笠が百済の武寧王9代孫と記されていることについて述べ、ゆかりを感じているという趣旨の発言をおこなった。
また、高句麗の遺臣らが建国に加わったとされる渤海国が宝亀2年(771年)6月27日、325人、17隻の使節団で日本に訪れ、出羽国能代に漂着したといい、宝亀8年(777年)4月22日、渤海使が日本に貢物が献じられた上、日本を宗主国として仰いだことから国交や貿易が盛んになった。渤海貿易では日本の絹織物が輸出される一方、渤海からは貴族の間で珍重された虎や貂が輸入されたという。
新羅の入寇
9世紀(平安時代)に入ると、新羅人が九州や対馬に進出し、日本は対策に追われた。この新羅の入寇は812年から906年まで繰り返された。承和9年(842年)8月15日、国交を絶った後も新羅商人の入国・貿易は認めていた朝廷も貿易にかこつけて日本の政情をうかがう新羅人の存在につき、大宰少弐藤原衛の奏上に基づき、以後の商人以外の新羅人の入国を禁止した。
弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。翌12月7日未明、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日補足した。そして、島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけた。また遠く新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知した。
弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民100余人を殺害した。島民は新羅人9人を打ち殺し101人を捕虜にした。この日は、基肆団の校尉貞弓らの去る日であった。また、4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本より新羅へ帰国した、と大宰府より報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した。事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した。承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した。弩師とは、大弓の射撃を教える教官である。
弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧する事ができなかった。賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。しかし、相模・武蔵等七国の援兵が動員され追討した結果、全員が降服した。
貞観5年(863年)に丹後国にやってきた54人は「新羅東方の細羅国人」と主張した。
貞観8年(866年)には、肥前基肆郡擬大領山春永・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが、新羅人と共謀し、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している。
○貞観の入寇
貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦二艘に乗り筑前國那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと卜(うらない)が伝えたとある。また、同年の貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日)には、貞観地震や肥後で地震が発生している。これに対し政府は囚人を要所に防人として配備することを計画したり、沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決め、賊徒を射た「海辺の百姓五、六人」を賞した。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥国などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶の内応を告発した。
870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備させ、対馬守小野春風ら有力武人を励まして現地を警護するよう指示した。また、八幡、香椎、神功陵などに奉幣および告文をささげ、「日本は神の国であり、敵国の船は未然に漂没する」と訴えた。
また、貞観の入寇の三年前の貞観8年(866年)には応天門の変が起こっており、こうした日本国内の政権抗争と同時期に起こった貞観の入寇などの対外的緊張の中で、新羅排斥傾向が生み出されたとされる。
○寛平の入寇
寛平5年(893年)5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。
翌寛平6年(894年)年4月、新羅の賊が対馬島を襲う。賊は、唐の将軍も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる大軍であった。沿岸国に警固を命じ、参議藤原国経を権帥として下すなどを定めたが、賊は逃げていった。同年9月5日の朝、対馬守文屋善友(ふんやよしとも)は郡司士卒を励まして賊徒45艘を弩をかまえた数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。この間遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を窺うためであったともいう。同年9月19日、大宰府の飛駅(はやうま)の使が突如征伐の成功を伝え、遣唐使も中止された。翌年の寛平7年(895年)9月にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた。
延喜六年(906年)7月13日、隠岐国の坤方より猛風が吹き、天健金草神の託宣があった。「新羅の賊船が北海にあり、我、彼の賊を追退せんがため大風を吹かせた」その後、帆柱等が流れ着き、神威の大きさを知らしめた。と伝えられている。
高麗
935年に新羅が滅び、翌年には高麗が半島を統一する。9月23日に高麗の南原府の咸吉兢が対馬に漂着し、10月15日には金海府の李純達が大宰府に到着の報が届いたという。さらに天禄3年(972年)10月20日、高麗使が日本に入朝して国交を求めるも日本は朝貢以外認めないとしてこれを拒絶したという。997年から1001年にかけて高麗海賊による日本への入寇が続いた。1019年には高麗人と女真族による刀伊の入寇が起こっている。
長徳の入寇
長徳3年(997年)、高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。数百人の拉致は前例がない。これは長徳の入寇また南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。同年11月に政府は南蛮の討伐を、翌9月には貴駕島(喜界島)に命じて南蛮の捕縛を求めた。
寛長保3年(1001年)にも高麗人の海賊行為が見られ、「小右記」は高麗国の賊、と断定している。
刀伊の入寇
1019年には高麗人と女真族による刀伊の入寇が起こっている。
承暦4年(1080年)、高麗より国王の病につき報があり、良医の多い日本に医師派遣の要請が届き、朝廷は高麗との信義に基づき医師派遣を一旦は決めるものの、藤原師通が故父 藤原頼通の夢を見てこれを止めたとの話をしたところ、急に派遣に対する機運は覚め、結局、礼にかなわずとして贈答品を返させた上、これを拒否した。 
926年に渤海が滅んだあと、日本は1404年まで朝鮮半島とは国交を持たなかった。日本の王朝貴族たちは、朝鮮半島の複雑な情勢を避け、日本の孤立政策を支持した。そのため高麗と日本の正式な国交は開かれなかった。 また1093年には『高麗史』が、「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは口実であるとされる。
■中世
元寇
中世には元が1274年と1281年の2度にわたる日本侵略行為(元寇)を行う。『高麗史』及び『元史』によれば、高麗の趙彜(官僚)や王世子(のちの忠烈王の)執拗な要請があったため、日本侵攻が決定された。この間、日本では1276年3月5日に幕府内で高麗遠征計画が持ち上がり、少弐経資を大将として南海道の御家人や非御家人の武家を動員しようとしたが、御家人の間で否定的な反応が強く、また、時を同じく九州沿岸に石塁を築く工事も始まったことから取り止めとなった。
元に服属していた高麗は日本へ元の国書を送るなど外交交渉を担当し、日本の鎌倉幕府は国書を黙殺したために戦端が開かれる。蒙古襲来においては高麗軍も南宋人とともに尖兵として日本へ攻め込み、壱岐・対馬や博多において九州の御家人を中心とする鎌倉幕府の兵と戦った。高麗軍は壱岐・対馬の民の男は殺し、女は手に穴を開けて船の舷に吊るし矢除けにしたと伝えられている。また、女や子供は捕虜にし、高麗軍に連れ去られ献上された。結果的に日本は、元・高麗軍の兵力不足や暴風雨もあったことで侵略を免れた。元・高麗軍が暴風雨によって大きな被害を受けた際、高麗人の兵はモンゴル兵とともに殺したが、南宋の兵は捕虜として助命した。蒙古襲来に先立ち、1271年に高麗において反モンゴルを掲げて蜂起した三別抄が日本へ救援を求めたが、日本の鎌倉幕府はこれも黙殺している。
倭寇
日本の南北朝時代から室町時代には、朝鮮の高麗から李朝においては倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海賊、海上勢力が、中国沿岸や朝鮮半島沿岸を荒らした。倭寇は日本人、朝鮮人、中国人、のち欧州人などが混在していた。高麗や室町幕府は懐柔と弾圧で対策を行う。九州探題として派遣されていた今川貞世(了俊)は高麗使節を迎えて交渉し、大内氏らとともに倭寇を討伐した。
○1375年には藤経光誘殺未遂事件が発生し、これによる倭寇の活動の活発化も指摘されている。
○1389年(元中6年、康応元年)2月には康応の外寇が発生。慶尚道元帥朴威率いる高麗軍が浅茅湾の製法から対馬国に侵入し、日本側が対馬守護 宗経茂の弟、宗永が討たれ、和船100隻が焼き討ちされた。一方、高麗軍は高麗人捕虜男女100人を救出し奇襲作戦を成功させている。
李氏朝鮮
高麗では倭寇や紅巾賊の討伐に功績のあった李成桂らが宮中で台頭、滅亡に瀕した元王朝の要請で征明軍を率いて北上するが、途中で引き返して実権を握り、1393年に李氏朝鮮(李朝)を創建する。
1396年に李成桂は壱岐・対馬討伐を命じた。
李朝も室町幕府に対して倭寇の禁圧を求め、また中国の明も同様の要請をした。こうした要請を受けて、室町幕府は、3代将軍の足利義満が倭寇を鎮圧した。義満は朝鮮へ使節を派遣し、制限貿易であったが日朝貿易が行われる。義満は朝鮮と交隣関係を結び、中国とは冊封関係を結んだ。李朝からも通信使が派遣され、宗希m『老松堂日本行録』や『海東諸国記』などの日本渡来記も書かれた。日本側からの使者には夷千島王遐叉と呼ばれる人物が同行したことがあるが、これがどういう民族なのか、あるいは偽使なのかは定かではない。
応永の外寇
1419年、朝鮮国王の世宗は倭寇の根拠地と見なされていた対馬に侵攻した(応永の外寇、己亥東征)。朝鮮軍は上陸時に多くの民家を焼き払うなどして焦土化を図ったが対馬守護の宗貞盛による反撃に合い撃退された。1443年には嘉吉条約(癸亥約定)が締結された。
李朝は朱子学を重視し、仏教を弾圧したために、高麗時代の仏教文化財が国外に多く流出することになった。特に木版印刷の『大蔵経』や鐘楼などは高値で取引されたために大量に日本に流れ込んだ。また日本との交易には1426年の三浦(釜山浦、薺浦、塩浦)を利用していたが、現地役人の締め付けが厳しかったという。
文明2年(1470年)、朝鮮が対馬守護 宗家に使節を派遣し、日本の密航者の取り締まりを求めた。 永正6年(1509年)4月、朝鮮は対馬島主 宗材盛に在留期限を超えた恒久倭の帰国を求める使節の派遣を予定していたが、材盛の急逝で使節派遣を延期するという。翌永正7年(1510年)には現地在住の対馬の民などにより三浦の乱が発生している。三浦の乱の後、三浦での日本人居住が禁止された。
○1544年の蛇梁倭変
○1547年の丁未約条
○1555年の達梁倭変
○1557年の丁巳約条
○1588年の秀吉による海賊停止令
■近世
文禄・慶長の役(壬辰戦争、唐入り)
日本を統一した豊臣秀吉は明の征服を企図し、対馬の宗氏を介して朝鮮に服従と明征伐の先鋒となることを求めた。対馬は秀吉の命令を変えて、朝鮮に秀吉の天下統一を祝賀するための朝鮮通信使を送ってほしいと要請した。その結果、約150年ぶりに日本を訪れた朝鮮通信使を秀吉は、戦わずして自分に降伏しに来たものと錯覚した。対馬が中間で虚偽の報告を双方に行っていた。秀吉は明に行くために朝鮮を通らせろという要求を行ったが、朝鮮王朝から良い回答がなかった為、1592年から朝鮮半島に侵攻した(文禄・慶長の役/壬辰・丁酋倭乱)。緒戦で日本軍は各地の朝鮮軍を破って平壌や咸鏡道まで進撃したが、遠い戦線に明の救援や義勇軍の抵抗によって補給路が断たれたこと、小西行長などが戦争の長期化を望まず、明や朝鮮との講和交渉を優先させた為、戦線を後退させたまま戦局は膠着した。日本軍は最終的に秀吉の死去に伴い撤退した。日本は、李瞬臣などが率いる朝鮮水軍には幾度も敗戦し、苦戦を強いられた。日本と中国・朝鮮連合軍との間で展開したこの国際戦争は16世紀東アジア最大の戦闘ともいわれる。
明・朝鮮の連合軍と日本軍の交戦、そして治安悪化による食糧再分配と生産の崩壊と民衆反乱などもあり、朝鮮の国土は疲弊した。また、この時の騒動で役所に保管されていた戸籍なども燃やされ、その結果朝鮮半島では白丁が低減し、両班を自称する者が増加したと言われている。 日本軍の諸大名は朝鮮から儒学者などと供に多くの陶工を連れ帰り、日本各地で陶芸が盛んになる。このころ、唐辛子やタバコが日本から朝鮮に伝わった。
徳川政権による国交回復
秀吉の死後、日本では1603年に徳川家康による武家政権(徳川幕府)が成立した。秀吉の朝鮮侵攻に消極的で朝鮮半島に派兵していなかった徳川家康は、朝鮮との国交回復を望み、宗氏を介して使節を派遣した。こうして徳川家康と朝鮮王朝の間で国交回復の交渉が進められた。光海君は捕虜の送還や貿易交渉に応じ、1609年には己酉約条が結ばれて貿易が再開され、日本の銀と中国の生糸や絹などが流通する。
交渉を仲介した日本の対馬藩は、早期の国交回復をさせるために徳川幕府の国書やそれに対する朝鮮王朝の返答書を偽造、改竄していたが、1635年には事実が発覚し、関係者が処罰される柳川一件が起こる。柳川一件ののちに貿易は幕府が管轄した。
1607年以降、室町幕府時代には4回訪日した朝鮮通信使が、江戸時代の初期には将軍の代替わりごとに日本へ来訪するようになり、公式の外交関係が保たれた。江戸時代には合計12回朝鮮通信使が日本を訪問した。1764年には朝鮮通信使によりサツマイモが日本から朝鮮に伝えられた。だが、1811年に最後の通信使が来訪して以来、通信使の来訪は途絶えた。これは朝鮮側の理由ではなく、江戸幕府の財政が困窮したために江戸幕府が朝鮮通信使を呼ばなくなったためである。
李氏朝鮮は、鎖国政策を採っていたが、日本とは正式な国交を保っていた。ただし文禄・慶長の役からの警戒もあって、日本人は首都漢陽(ソウル)に入る事は出来ず、日本からは朝鮮王朝が準備した釜山の倭館まで往来することができた。そのため、朝鮮との交易や情報は入手しづらい状態であった。
対馬藩は幕府から朝鮮との貿易を許され、朝鮮との貿易の窓口になった。また、薩摩藩による武力侵攻で幕藩体制に組み込まれた琉球とも通交が有ったようである。
■近代
日本と朝鮮の開国
日本は江戸時代末期に開国した。王政復古により成立した日本の新政府は近代化を目指した。李氏朝鮮を影響下に置く清国や南下政策を取り続ける帝政ロシアに対する日本の国際政策の一環として、日本は朝鮮半島に注目した。朝鮮では大院君が排外的政策を行い鎖国体制が維持されていたが、閔氏政権となると、1875年の江華島事件を経て、76年に日朝修好条規を結び朝鮮は開国し、開化政策が行われる。
1880年に日本公使館を漢城に設置する。
日清戦争から韓国併合まで
1894年に、朝鮮を巡る対立から、清国と日本との間で日清戦争が勃発した。日清戦争で日本は勝利した。1895年に日本と清は下関条約を結び、朝鮮が清との冊封体制から離脱すると実質的に日本の影響下に置かれた。1895年、三浦吾郎公使の指揮によって日本は韓国の王妃(明成皇后)を殺害した。これによって起こった義兵活動により、日本の勢力は韓国から退却せざるを得なかった。朝鮮にはアメリカに亡命していた徐載弼が帰国し、独立協会を設立した。徐載弼が協力し、高宗は1897年に朝鮮を大韓帝国という国名に改め、帝国を宣布した。これは朝鮮が清の勢力から脱皮した表示であり、高宗は王の赤い衣装から皇帝の黄金の衣装に着かえた。
ロシアは下関条約後の三国干渉や1900年の義和団の乱の後も満州(中国東北部)の占領を続けた。ロシアは大韓帝国にも影響を強め、日本と対立する。日本は1902年にイギリスと日英同盟を結び、アメリカやイギリスの支持を得て、1904年に開戦された日露戦争において勝利した。日本は1904年2月に韓国に日韓議定書を強要し、戦争中に日本が韓国の土地と施設を自由に使えるように協定した。これが日本軍が韓国を実質的に占領するきっかけとなった。1904年8月に、日本は韓国に第1次日韓協約を強制し、日本の推薦で韓国に対する財政と外交の顧問を置くことにした。この外交顧問と財政顧問が承諾しない限り、韓国は何も決められないということを協約で強制した。その後日本は、韓国に対する日本の侵略に関して欧米諸国が口出しをしないように、欧米諸国への外交面での働きかけを強めた。その結果、1905年7月、日本は米国と桂ータフト密約を結び、日本が米国のフィリピン支配を認める代わりに、米国は日本の韓国保護国化に口出ししないことを約束した。この密約には英国も署名した。こうして米英という2大強国が、日本の韓国侵略を黙認するように、日本は働きかけ、それに成功した。さらに日本は、日露戦争に勝利し、1905年9月のポーツマス条約において、大韓帝国に対する排他的権利をロシアに認めさせた。 こうして朝鮮半島に干渉する列強の口を封じた日本は、伊藤博文を韓国に送り、皇帝高宗を排除した形で韓国の外交権をはく奪した第2次日韓協商、即ち乙未保護条約を強要し、韓国を隷属化することに成功した。
その後、韓国皇帝は1907年3月のハーグ平和会議に、日本の干渉を排除し韓国の外交権保護を要請する密使を送ったが成功せず、密使たちは平和会議の外で高宗の密書を読み上げた(ハーグ密使事件)。1907年7月、日本はハーグ平和会議に密使を送った高宗を退位させることを決定し、高宗を退位させた。同じ7月に日本は韓国軍を解散させ、第3次日韓協約を結んで韓国の内政まで完全に掌握した。日本は1910年に韓国と日韓併合条約を結んで朝鮮半島を併合し(韓国併合)、1919年まで武断統治を施行、武力で韓国を統制し、反対者を処断した。そして大韓帝国という名前を強制的に朝鮮と再び変えてしまった。
日本統治時代
日本は朝鮮総督府を通じて朝鮮半島全域を統治し、当初は軍事力を前面に押し出した武断統治を行った。1919年3月1日、朝鮮で3.1.独立運動がおこり、朝鮮の民族代表33人は独立宣言文を発表し、日本からの平和的独立を宣言した。朝鮮の各地では日本からの独立を叫ぶ『万歳運動」が起きたが、日本は軍隊でこれを徹底的に弾圧した。この3.1独立運動は、米国ウィルソン大統領の提唱した民族自決原則に則って行われたものであった。 この3.1独立運動ののち、日本は朝鮮統治方針を「武断統治」から「文化統治」へと変更した。「文化統治」、「文化政治」の下で、朝鮮に対する日本の弾圧は表面上緩和され、言論の自由が一部解除され、朝鮮では新聞や雑誌が再び発行され始めた。 日本は「内地延長主義」と称して、日本ですでに実験済みの旧法を朝鮮に施行し、常に法的に日本と朝鮮や台湾の間に30〜40年の開きがあるように法的差別政策を採ったた。 朝鮮では1919年に三・一独立運動が発生し、同年には李承晩による大韓民国臨時政府の設立が宣言された。朝鮮における朝鮮北部から満州にかけては金日成が指揮する抗日パルチザン運動が展開され、1920年にはシベリアにおける尼港事件で赤軍ロシア人と共同して日本軍を駆逐してニコラエフスクの占拠に成功する。武断政治の失敗は認識され、国際的には第一次世界大戦を受けて民族自決の機運が高まり、日本の国内では大正デモクラシーの風潮も反映して、民生面の安定を重視した内地延長主義へ転換した。
この期間に日本は朝鮮半島のインフラの整備と産業の振興をすすめた。教育制度も整備され、小学校(国民学校)網や京城帝国大学(ソウル大学校)は独立後の韓国政府に引き継がれた。 朝鮮にも日本内地同様に民主主義を導入するなどして市民権を与え、朝鮮人にも高級将校や高級官僚への門戸を開放し、後の朝鮮発展の礎となる人材を養成したともいわれるが、日本の朝鮮近代化は朝鮮のためではなく日本のためであった。京城帝国大学(現在のソウル大学の前身)などは、朝鮮人のためではなく、朝鮮在住の日本人のために建設された。教育制度も朝鮮人には上級の教育を施す意思がなく、高等教育は在韓日本人のために整備された。日本は朝鮮人を満州に移住させ、その空いた場所に日本人を移住させるという移住政策を採ったが、成功しなかった。朝鮮にはその人口の10分の1にあたる約200万人の日本人を移住させて雑居政策で朝鮮を日本に同化させようとしたが、戦争のために移住は進まなかった。日本の敗北時に朝鮮に在住していた日本人は約70万人であった。 文化政治期には、初等教育をはじめ日本語教育とともに朝鮮語の教育が行われ、ハングルの普及が進んだ。また、朝鮮人は、日本軍の陸軍士官学校に入学卒業することができ、朝鮮人士官の多くは後に韓国軍にそのまま引き継がれた。やがて朴正煕大統領を筆頭に韓国政界の中枢を占めた。日本、アメリカ、オーストラリア、ヨーロッパをはじめ世界の朝鮮史研究では、日本のインフラ整備が朝鮮の近代化の基礎となったとされる。
住所地にかかわり無く朝鮮人には1945年まで兵役は免除されていた。また、土地詐欺を防止するための啓導・啓蒙を繰り返し、農民たちは自分の土地が測量されて地籍に上がるのを見て、喜んで積極的に協調した。 日中戦争がおこると、日本は朝鮮人や台湾人をも戦争に動員するために、日本語教育を強制し、日本人式の名前に変えさせる創氏改名を強制的に行った。1944年には朝鮮に徴兵制を敷く代わりに朝鮮人に日本本土の衆議院議員選挙権を与えるという約束がされたが、1945年の第二次世界大戦敗北によって日本統治は終了し、その約束は果たされなかった。 日中戦争以後、「内鮮一体」の名の下、それまで公教育で必須科目として教授されていた朝鮮語は朝鮮教育令の改正によって1938年には随意科目となり、皇民化政策などの同化政策も行われた。朝鮮人にも志願兵の募集が行われ、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した。また、終戦前には徴兵制が施行され朝鮮人が入営し訓練が行われたが終戦により戦闘に投入されることはなかった。密航や徴用により内地(日本)に向かった労働者や、慰安婦として働く女性も存在した。しかし、本人の意思に反して慰安婦として動員された朝鮮女性たちが多数存在したのは事実であり、だまされて慰安所に連行された例が少なくない。慰安婦の動員は業者たちによって行われたので、日本政府や軍に責任はないという主張があるが、そもそも業者たちに慰安婦募集を命令したのが軍であり動員数も命令しているために、強制動員やだまして連行する事例に関して軍に責任がなかったとは言えない。右寄りと言われる秦郁彦の慰安婦関連の著作においても、だまされて連行された事例を認定している。 1945年9月、日本がポツダム宣言を受諾して全日本軍は連合国に降伏、金日成は赤軍(ソ連軍)の士官として朝鮮北部の中心都市平壌に入城し、次いで降伏した日本に代わりアメリカ合衆国が朝鮮半島南部で軍事統治を開始すると李承晩や金九などの独立運動家がソウルへ戻った。
■第二次世界大戦後
1946年2月3日には朝鮮人を主体とする共産勢力により日本人数千人が虐殺される通化事件が起きた。1948年の済州島四・三事件によって多くの済州島民が南朝鮮政府の虐殺から逃れるため日本に密入国した。また、経済的な成功を目指して南朝鮮から日本に密入国するものも多数いた。密入国者による外国人登録証の偽造が横行したことが、指紋押捺制度の設立理由とされ、これが後の時代には差別的待遇として指紋押捺拒否運動となった。
大韓民国
○大韓民国の建国
1948年、朝鮮半島の南部に大韓民国(韓国)が建国され、李承晩が大統領に就任した。アメリカの強い影響下にあり、反共主義を掲げる点では韓国は日本との共通性が高かったが、韓国では独立運動家出身の李承晩を筆頭に反日感情を持つ政治家が主導権を握り、実際の政策にも反映され親日勢力は粛清された。また、反李承晩政権の思想をもつ市民に対する弾圧が行われ、麗水・順天事件のような韓国軍の反乱事件の際にも日本への密航者が生み出された。1949年1月17日、李承晩は対馬の韓国領を主張し日本に返還要求する。
○朝鮮戦争
1950年には朝鮮戦争が勃発し、多くの反政府的な立場をとる韓国人が日本へ密入国した。日本政府は掃海部隊や港湾労働者を韓国に送り込むとともに日本国内での韓国軍の軍事訓練を受け入れるなど韓国を支援した。1952年に朝鮮戦争の休戦交渉が行われ戦闘が終息すると李承晩は韓国領域周辺の公海上に李承晩ラインを設定すると、韓国政府による日本漁船への銃撃・拿捕事件が多発し、数十人が殺傷され数千人が抑留された。1954年には同ラインで韓国側に取り込んだ日本固有の領土竹島(韓国名:独島)に軍隊を送り込んで同島を占拠した。その後も現在に至るまで韓国の武装警察が駐在し、日本はこれを韓国の武力による不法占拠と抗議している。しかし1952年1月に同ラインが宣布された時点では、国際的な海洋法自体が存在しなかったため、同ラインが不法という主張には限界がある。1940年以降、米国や中南米の国々の多くが李承晩ラインと似た海洋ラインを宣言しており、李承晩ラインの先例が多数存在する。当時の1955年位に政権を握った鳩山一郎内閣は同ラインが国際法違反かどうかを確かめるため、国際司法裁判所に提訴しようとした。このとき日本政府は「もし、同ラインが同法であると判決が出たなら従う」という記録を残している。これは同ラインが不法か合法かを日本政府自体が判断できなかったことを物語っている。当時は結局、日本政府が国際司法裁判所へ提訴せず、同ラインが不法いうようないかなる判断も下されなかった。(竹島問題)。1959年には韓国の工作員によって新潟日赤センター爆破未遂事件が引き起こされた。両国間の険悪な関係は、1960年の李承晩失脚までは大きな改善は見られなかった。
○国交回復
1961年に5・16軍事クーデターで韓国大統領となった朴正煕は、旧日本軍出身で、日本の事情にも精通していた。また、北の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)からの圧迫から国家を守るためには、日本との国交回復による経済支援の実現が不可欠と判断していた。一方、日本の自由民主党政権も、北東アジアでの反共同盟強化や第二次世界大戦における負の遺産の清算のために、韓国との国交回復を望んでいた。1964年3月24日にソウル大学・高麗大学・延世大学の学生5000人余りが「対日屈辱外交」反対デモを行う。1965年に日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)が締結され、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定が締結され、日韓両国及びその国民間の請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認するとともに、日本は韓国に有償無償5億ドルの金額を支払った(日本政府は賠償ではなく経済協力と位置づけている)。この際、日本は韓国を朝鮮半島唯一の合法政府と認めた。1966年3月24日に日韓貿易協定を締結する。
この日韓国交正常化により、韓国は1979年まで続く朴正煕の軍事独裁政権下で、日本からの経済協力(円借款など)も利用してや各種交通インフラ(地下鉄・高速道路等)を整備し、「漢江の奇跡」と呼ばれる工業化・経済発展を実現した。日本の商社は韓国に進出し、労働力の安い韓国は日本への重要な輸出基地となった。
○現代の国民感情
国交は外交と投資に関しては正常化したものの、金大中事件や文世光事件といった外交問題に発展した事件も発生し、必ずしも両国の国民感情は良好ではなかった。交流の拡大には犯罪組織の国際化などの側面もあり、日本側では韓国から進出してきた統一協会による霊感商法批判も起こった。ただし、統一協会は国際勝共運動で自由民主党政権とつながり、日韓両国の政治協力拡大に貢献する一面も持っていた。
韓国は日本文化の流入阻止を理由に、厳しい統制策を堅持しながら、日本が著作権を所有するTV番組・歌謡曲等の著作物の不正コピー・盗用・盗作等が横行しており、その海賊版の流通を根絶出来ない韓国側の閉鎖性にも批判が起こった。1988年にはソウルオリンピックが行われたが、選考の決選投票で日本の名古屋を下して開催されたこの大会では韓国人観衆による日本選手への非難が止まなかった。1992年には韓国文化放送 (MBC)が、李朝の末裔が天皇を狙撃するテレビドラマ番組『憤怒の王国』を放送し、これに実際の明仁親王の天皇即位式の映像を用いた為、日本の外務省から抗議を受けた。
1995年、国際サッカー連盟 (FIFA)は、日韓両国が激しく争っていた2002年開催のFIFAワールドカップを両国の共催とする決定を行った。これは両国に波紋を広げ、大会の運営方式や呼称問題で両国間は深刻な対立を抱え、「事実上の分催」という指摘も上がった。これらの経緯を通じて韓国への反感を強めた日本国民の一部からは、ソウルで開催された開会式に日本への配慮がほとんど無い上、横浜での決勝戦と閉会式の際には貴賓席着座の際に韓国大統領の金大中が後に続く天皇に進路を譲らずに自分の後ろを通らせた行為は無礼だという一方的な非難の声が出た。ただし、圧倒的に韓国有利に働いた誤判問題などにより、インターネットを中心に「嫌韓」感情を増幅させたことも事実であるが、このワールドカップを通じ、協議を続けた両国の大会関係者の努力は、2国開催というハンディを乗り越えて大会の運営や友好ムードの創出をある程度成功させたともいわれる。これを機に、公式には長らく禁止されていた日本の文化が韓国で開放されるようになった。日本文化の解放は、1998年10月の金大中-小渕会談で決定された内容であった。そのとき、「21世紀に向かう新しい日韓パートナーシップ宣言」が日韓両首脳によって公式的に宣言され、日本が過去、韓国を侵略した加害者だったことが公式に文書化され、日本側が韓国に初めて公式文書で謝罪した。(「韓国での日本文化の流入制限」も参照)その後、日本でも韓国の映画やドラマが多く輸入され、韓国の俳優や歌手が日本で活躍するようになった。彼(女)らは韓流スターと称賛された。この大会期間に実施された両国民の「査証(ビザ)なし相互訪問」は大会後に恒常化され、特に観光面での交流拡大に貢献した。両国の都市には英語と並んで相手国の言語による案内標識などが整備されるようになり、それまで日本側からの訪問人数が圧倒していた観光も、日本の観光地に韓国人観光客の姿が増えるなどの変化が見られるようになった。
1998年10月8日、日韓共同宣言が小渕恵三首相と金大中大統領により発表され、両国間のパートナーシップが再確認される。
2010年9月10日にSKE48が「2010ソウルドラマアワード」授賞式で「強き者よ」「青空片想い」を日本語で歌う姿が韓国の地上波テレビで生中継された。韓国は、2004年1月の日本大衆文化第4次開放で日本語の歌の放送を許したが、放送局側で録画だけに制限していた。生中継されたのは、これが初めてである。事前に放送通信審議委員会を通した上で、放送が決定された。
このような経緯を経て、日韓関係は良好になったといわれるが、韓国側では総督府統治への否定(あるいはそれ以前からの民族的蔑視)に根ざす反日感情が根強く残っている。歴史教科書問題や靖国参拝問題、竹島(韓国名:独島)や日本海呼称問題(韓国名:東海)、日本の国連常任理事国立候補への反対、何でも日本文化を韓国発祥だと主張する、著名人を根拠なくコリアンやコリアン系の同胞だと主張する等、日本と韓国の論争がいくつかある。また盧武鉉政権は日本統治時代・親日派問題の清算として「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」及び「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定し、反民族行為認定者の子孫の土地や財産を国が事実上没収する事を可能にし、実際に「親日派」10人の子孫が所有する約13億6000万円相当の土地を没収する(2007年8月13日 読売新聞)など適用がはじまっている(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を参照のこと)。また、日本側ではマスメディアなどを通じて韓国の大衆文化が浸透する一方で、韓国への融和姿勢を保つマスメディアへの不信の高まりもあって、嫌韓感情も強まっており、インターネットに両国間への拒絶感情が顕在化するなどしている。韓国を敵と看做すインターネット利用者もいる。それでも、在日韓国人が一方的に引き起こしていた流血事態や官公庁襲撃といったかつての先鋭的な対立は徐々に影を潜めている。日本統治のありようを客観的事実に基づいて明らかにしていこうとする韓国人研究者もごく一部だが現れている。2011年、2012年に起きた靖国神社・日本大使館放火事件では韓国政府は日本への韓国人テロ容疑者の引き渡しを拒否した。
2012年には李明博大統領による竹島上陸と天皇謝罪要求が行われるなど、韓国政府が反日運動を沈静化する立場から反日運動を先導する立場に変化してきている。また、韓国の司法も日韓基本条約で完全に解決された韓国人への賠償問題について、ソウル高裁が新日鉄住金に対して4000万円の支払いを命じ、大韓弁護士協会の魏哲煥協会長が和解案を提示してくるなど、日本への態度が変化してきている。
2013年12月、読売新聞とギャラップが共同で実施した世論調査では、日本で韓国を「信頼する」という人は16%であり、72%が「信頼できない」とした。また、「軍事的な脅威になる国」では中国、北朝鮮に次いで韓国は3位になり、ロシアを上回る結果となった。日本企業の韓国への投資も後退しつつあり、日本の国際協力銀行が行った「日本の製造業の投資有望地域・国ランキング」の調査において、韓国は過去最低の13位となり、フィリピン、ミャンマー、マレーシアに抜かれた。韓国経済の不透明感とともに、朴槿恵大統領が推進する反日政策の影響も指摘されている。
韓国を訪れる日本人観光客も急減している。2012年には352万人が訪韓するなど、日本人は年々増え続けてきたが、2013年には275万人と前年比で21.9%も減少している。2012年末から円安になったことも原因とされるが、観光関係者の中には「両国関係の悪化の方が大きい」とする者もいる。
朝鮮民主主義人民共和国
この項目では、南の大韓民国と対比させるため、朝鮮民主主義人民共和国の略称を「朝鮮」とする。
○朝鮮民主主義人民共和国の建国
1945年、朝鮮半島北部を制圧したソ連は、従来の日本による統治システムを解体し、共産主義による新体制の建設を進めた。朝鮮北部は旧満州国からの日本人移住者・在住者の帰国経由地ともなったが、その中で多くの生命が失われた。1949年には金日成を首相とした朝鮮民主主義人民共和国が成立したが、1950年には南の大韓民国との間で朝鮮戦争が勃発し、1953年の休戦まで首都平壌を含む国土の広い範囲が戦場となった。朝鮮戦争中の1952年に日本はサンフランシスコ平和条約の発効で独立を回復したが、反共主義国家となった日本の自由民主党政権は朝鮮民主主義人民共和国を承認せず、マスメディアと共に「北鮮」と呼んだ。一方、日本社会党や総評など、日本の社会主義勢力や労働組合はこの国を朝鮮半島唯一の合法政権と考え、「朝鮮」と呼称して、大韓民国(韓国)をアメリカの軍事支配下にある「南朝鮮」とした。
○朝鮮総連
朝鮮民主主義人民共和国の成立は日本国内の政治状況にも影響を与えた。第二次世界大戦後に再建された日本共産党には多くの朝鮮人活動家がいたが、やがて分離し、朝鮮への帰還か日本国内での在日朝鮮人運動の展開を選択した。その中で、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯、朝鮮総連)が成立した。朝鮮総連による強力な指導により、在日朝鮮人は民族差別解消・生活状況改善などをめざした暴力もいとわない闘争を全国各地で展開したが、その姿勢が暴力的・強圧的とする日本人からの反発も強く、在日朝鮮人社会は日本の中で隔絶性が高い集団となった。韓国での混乱や圧政は日本でも報じられていたため、朝鮮半島南部の出身者でも朝鮮総連に参加する者が多かった。なお、金日成に率いられた朝鮮の指導政党、朝鮮労働党はやがて日本共産党の議会重視・平和革命路線を批判し、関係を断絶したため、朝鮮労働党の交流相手は日本社会党が中心となった。
○帰還事業
1959年、在日朝鮮人の帰還事業が開始された。これは日本赤十字社が所管した、韓国政府による帰還拒否により帰還出来なかった人々を朝鮮民主主義人民共和国への帰還を支援する事業で、日本政府も積極的に協力した。数十万人の在日朝鮮人が海を渡ったとされるが、「地上の楽園」と自己宣伝していた朝鮮側の経済状況は厳しく、日本での貧困や差別からの解放を願ったとされる帰国者は一層困難な状況に追い込まれた。さらに、独裁色を強める金日成政権は、日本からの帰国者の多くを「潜在的スパイ」などと見なして警戒し、その多くを処刑、あるいは強制収容所での長期拘禁に処したとされるが、定かではない。いずれにせよ、厳しい情報統制をかいくぐって漏れてくる現地の状況を知った在日朝鮮人の間では帰国への情熱が徐々に退き、高度経済成長に伴って日本での生活状況が改善されていった事もあって、帰還事業は1960年代半ばに終了した。ただし、帰国者の再来日は実現せず、日本国籍を持ったまま家族と共に渡航した配偶者(日本人妻)や子どもの問題が発生した。
○日韓国交回復以降
1965年には日韓基本条約が締結され、日本は大韓民国との国交を締結した。この中で日本政府は大韓民国を朝鮮半島唯一の合法政府としたため、朝鮮民主主義人民共和国との国交締結を求める朝鮮総連や日本社会党などの強い抵抗を受けたが、佐藤栄作政権は国会での強行採決でこれを押し切った。この条約により日本は大韓民国の国籍を認めたため、在日朝鮮人の中には朝鮮籍からの切り替えを行う者が表れた。また、これを機に大韓民国は「韓国」という表記が一般に定着し、朝鮮民主主義共和国は「北朝鮮」と表記される例が増えた。
1970年、日本航空の航空機が乗っ取られるよど号事件が発生した。犯人は日本国内での革命運動に行き詰まり、国外に新たな根拠地を求めた田宮高麿などの新左翼に属する共産主義者同盟赤軍派グループで、朝鮮民主主義人民共和国は彼らの亡命を受け入れる一方、機体や乗員の日本返還に応じた。田宮達の思想や行動方針は朝鮮側とは一致せず、いわば「招かれざる客」だったが、やがて田宮らは平壌郊外に小グループを形成し、北朝鮮の意を受けた対日宣伝・工作活動に従事した。
1972年、東西冷戦がデタント期に入り、南北共同声明により大韓民国との対立がある程度緩和され、日本が中華人民共和国との国交を回復する中、日朝関係も徐々に貿易額を拡大した。日本の工業製品が徐々に朝鮮側に入り、朝鮮産の安価なマツタケや海産物が日本へ輸出された。在日朝鮮人の集団帰国事業は、万景峰号による祖国・親族訪問へと変化して続いたが、朝鮮帰国者の再訪日は認められず、旧態依然としたプロパガンダが唱えられた。
○日本人拉致問題
また、この頃から韓国の経済力が朝鮮を逆転し、大きく引き離していく。これに危機感を持った朝鮮側は対南工作に日本人を拉致して自らの工作員に置き換え、韓国に入国させる事を計画した。1973年、小浜市で2児拉致事件発生。1975年、松生丸事件で日本漁船を銃撃・拿捕した。1977年、後に日朝両国政府が事実認定を行う最初の日本人拉致事件が発生した。同年11月15日には、新潟市で13歳の横田めぐみが拉致され、後にこの問題のシンボル的存在として取り上げられるようになったが、1983年まで続く一連の事件が明らかになるのにはさらなる年数を要した。この事件には、よど号事件の犯人グループ、及びその妻達が関与したともされ、日本の検察庁から起訴されている。
○1980-90年代
1980年代に日朝間の大きな懸案事項になったのは、拉致問題ではなく、第十八富士山丸事件だった。1983年11月1日、日朝間を航行中だった日本の貨物船、第十八富士山丸が船内に朝鮮人民軍兵士の閔洪九が潜んでいるのを発見した。閔洪九は日本で拘束されたが、日朝間には国交が無く、さらに閔が亡命申請をしたため、日本は彼の国内滞在を認めて放免した。一方、11月11日に再び北朝鮮へ入港した第十八富士山丸は乗員が拘束された。紅粉勇船長と栗浦好雄機関長には朝鮮国民を拉致したスパイ容疑で教化労働15年の判決を下され、船体は没収された。日本の国民世論は日本人船員の釈放を求めたが、外交関係が無い両国間では交渉の糸口すら見つけるのが困難だった。この第十八富士山丸事件は、前月に起こったラングーン事件、つまり第三国ビルマの閣僚も巻き込んだ韓国大統領全斗煥暗殺未遂爆破テロ事件が朝鮮工作員の犯行と発表された直後の事件だった。この重複で日本の対朝鮮警戒感は再び高まり、日本の対朝鮮輸出額は減少した。さらに、1987年の大韓航空機爆破事件も日朝関係を冷え込ませた。テロ実行犯としてバーレーンで拘束され、服毒自殺を図ったのは日本人を名乗る「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」だったが、生き残った蜂谷真由美は韓国に送致され、自らが朝鮮工作員の金賢姫であることを自白した。さらに、その高度な日本人化教育は李恩恵という日本人女性から受けたと述べたため、謎に包まれた彼女の出自を含め、日本側の対朝不信は増幅した。
90年代に入り苦難の行軍と呼ばれた北朝鮮の経済情勢・食糧事情の悪さが頻繁に報道され、脱北者と呼ばれる亡命者も多く出るようになり、1998年には北朝鮮によるミサイル発射実験_(1998年)が行われ、北朝鮮による日本人拉致問題が表面化するようになると、日本側の北朝鮮に対する不信はより一層増加した。
○2000年代
2002年9月、小泉純一郎首相は北朝鮮を訪問して、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現し、17日日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を「一部の英雄主義者が暴走した」として公式に認め、5人の拉致被害者の帰国となった。しかし「8人死亡・1人行方不明」とする北朝鮮側の回答は日本側から見て到底承諾しかねるものに映り、拉致被害者の家族の帰国が拒まれるなど、関係者を中心に不満が噴出し、世論も北朝鮮に対して強く反発を見せた。
一方、2005年頃まで貿易関係は存在しており、日本への船舶の入港は年間千数百隻に上っていた。内訳は、日本からの輸入は輸送機器が中心で、日本への輸出は水産物が中心であった。
しかし、2006年10月9日の北朝鮮の核実験やテポドンなどのミサイル発射事件を受けて、日本政府は抗議の意を表明し、安倍内閣から本格的な拉致被害者の解放を目指し、日本独自の制裁が行われ、日本国民の北朝鮮への渡航自粛が勧告され、また北朝鮮船籍の船舶の入港は禁じられ、輸出入も停止された。
2009年6月、アメリカ国際政策センターのセリグ・ハリソンは米下院外交委員会の公聴会で証言し、北朝鮮が戦争状態に陥った場合、「北朝鮮は報復として韓国ではなく日本か在日米軍基地を攻撃するだろう」と予測した。 2009年春には、北朝鮮による「銀河2号」発射計画につき、国連安保理決議第1695号と第1718号に基づき日本は打ち上げの中止を要請し、発射の場合は追加制裁を行うと表明したが、「飛翔体」は発射された。東北や東京でミサイル防衛システムを配備するなどの対応を行ったが、追撃は行われなかった。  
 
朝鮮

 

〔朝鮮語でチョソン〕 アジア大陸の東部に突き出た半島と、周辺の島々からなる地域。北はロシア連邦・中国と国境を接し、南は朝鮮海峡を隔てて、日本に対している。朝鮮民族の居住地であり、古くから大陸文化の日本への伝来に密接な関係をもってきた。紀元前二世紀初め、伝説的王朝箕氏きし朝鮮を滅ぼして衛氏朝鮮が成立したが、前108年漢の武帝が侵入してこれを滅ぼし、楽浪・真番・玄菟げんと・臨屯の四郡を設置した。中国の支配に対抗して、四世紀初めには高句麗こうくり・百済くだら・新羅しらぎなど朝鮮の諸族が台頭してきたが、七世紀後半新羅が三国を統一。936年高麗がこれに代わり、1392年には朝鮮王朝(李氏朝鮮)が興って社会・文化は発展をとげた。日清戦争以降は日本が進出し、1910年韓国併合がなされた。45年日本の敗戦により解放されたが、米ソ両大国の分割占領により、北緯38度線を境に48年朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の二つの国が成立。50〜53年の朝鮮戦争ののち、38度線の付近に軍事境界線が引かれて、現在も、二つの国として相対峙たいじしている。面積22万平方キロメートル。
■自然
朝鮮の呼称
朝鮮の名は字のとおり「鮮(あざ)やかな朝」の意で、中国の古い文献『史記』や『魏略(ぎりゃく)』などに登場している。また李氏朝鮮(りしちょうせん)王朝500余年間も使われたなじみ深い国名である。「韓国」の韓も、古代朝鮮の南部地方に馬韓(ばかん)、弁韓(べんかん)、辰韓(しんかん)の三韓があったように、「朝鮮」とともに古代から使われていた。「韓」はアルタイ語のkkanの音写といわれ「大きい」「高い」の意をもつ。古代の三韓時代やいまの韓国の国名など身近に感じる名である。国名の異称として『韓国地名沿革考』によると194もあり、そのうち一般化されたのは林(けいりん)、青丘(ともに新羅(しらぎ)の別称)、槿域(くんいき)(ムクゲが咲く所)、三千里錦繍江(きんしゅうこう)山(南北が3000朝鮮里)などである。英語のKoreaは高麗(こうらい)の発音Koryoからとったものであろう。
地形
朝鮮の地体構造は、東部アジア大構造体の一部分である後期原生代の中国陸塊の東側縁辺部に属し、北東地塊はシホデアリン地向斜帯の上部古生代褶曲(しゅうきょく)帯であり、南東地域は環太平洋褶曲帯の中生代褶曲帯の一部地域に属している。
地形的特徴は、山地が全土の75%を占めているが、峻厳(しゅんげん)な山地は少なく、晩壮年地形を呈していて、北高南低であり、また東西が非対称性を示している。
朝鮮でもっとも高峻な地形をなしているのは北東部の咸鏡山脈(かんきょうさんみゃく)で、東海岸に沿いながら北東から南西方向に走っている。南東斜面は急傾斜をなし、北西斜面は緩やかである。朝鮮第二の高峰冠帽峰(かんぼうほう)(2541メートル)をはじめ渡正山(2201メートル)、机上峰(2333メートル)など30余の火山が玄武岩台地上に連なっている。南東部には吉州(きっしゅう)・明川地溝帯が形成されているが、その東側にアルカリ粗面岩と玄武岩からなる七宝山塊がある。
最高峰白頭山(2750メートル)は溶岩台地の中心を占めているが、南南東へ延びて摩天嶺山脈(まてんれいさんみゃく)となり、広大な白頭溶岩台地を形成している。この台地は第三紀から第四紀初めにかけて噴出した玄武岩アルカリ粗面岩で、噴出量は朝鮮だけでも4000立方キロメートルに達している。火山活動は、頭流山(2309メートル)、七宝山(906メートル)をつくり、海を渡って南下し、鬱陵島(うつりょうとう)の聖人峰(984メートル)に達する白頭火山脈となった。「朝鮮の屋根」といわれる蓋馬高原(かいまこうげん)は起伏量の少ない晩壮年期の地形で平均高度1200メートルである。蓋馬高原の南界は赴戦嶺(ふせんれい)山脈、西界は北〜南に走る狼林(ろうりん)山脈である。狼林山脈は東西間の分水界をなしている。さらに西方へ江南、南西方向には狄踰嶺(てきゆれい)、妙香(みょうこう)の支脈が走っている。
白頭山麓(ろく)に発する朝鮮第一の大河鴨緑江(おうりょくこう)(790.7キロメートル)は、中国と国境を界し北西流し、開析谷を刻みながら、中江から黄海に向かっては構造谷を流れている。この地域は包蔵水力の豊富な所であり、水豊ダム、雲峰ダムをはじめ、長津江、赴戦江系の水力発電など重要な動力資源基地である。また豆満江(とまんこう)(520.5キロメートル)も白頭山麓より発し、東―北流して日本海に注ぐが、中流は嵌入(かんにゅう)蛇行しながら急下し、会寧(かいねい)からは側侵削剥(さくはく)により川幅を広め沖積地を展開している。この流域は代表的な褐炭埋蔵地である。
半島中部から南端にかけて東海岸沿いに走っているのが太白山脈で、南部の脊梁(せきりょう)をなしている。500キロメートルの長い山地で、東斜面は急傾斜をなし、西斜面は緩やかである。これは衝上運動による東西非対称の傾動地塊である。西斜面の嶺西高原は晩壮年期の地形で、忠州西部には低位準平原面を残している。太白山脈中には世界的な名山金剛山(こんごうさん)(1638メートル)をはじめ雪岳山(1708メートル)、太白山(1561メートル)などを連ねている。太白山脈の支脈である車嶺(しゃれい)・蘆嶺(ろれい)・小白山脈が南西に分かれて、それぞれ南海岸や南西の多島海に没しリアス式海岸を形成している。
朝鮮半島の東部がほとんど山地地形であるのに反し、西部は準平原や沖積平野の優勢な地域である。典型的な準平原は平壌南方の力浦を中心とする約500平方キロメートルに達する平壌準平原(楽浪(らくろう)準平原)である。古来から穀倉地帯といわれる湖南平野は万傾江と東津江の広い沖積層と周辺の丘陵性平野からなっている。大同江(431.1キロメートル)下流地域の載寧(さいねい)平野、漢江(514.4キロメートル)下流の金浦平野、錦江(きんこう)(401.4キロメートル)下流の内浦平野、洛東江(らくとうこう)下流の金海平野がある。
南部を流れる河川はおおむね緩やかな地帯を流れるが、河床が高いので集中豪雨のときは水害を被ることが多い。
気候
気候の特徴は、ユーラシア大陸の小肢のように海中に南北に延びた半島なので、おおむね大陸性気候の支配下にあるが、南部の海岸地域は海洋性気候の影響を受けている。
冬はシベリア寒気団によって晴れた日が続き、降水量の少ない乾期であるが、夏は太平洋の熱帯性気団の波及により多量の雨量をもたらし、いわば湿潤な雨期である。
年平均気温は10℃内外である。北部の山岳地帯や蓋馬高原の年平均気温は10℃以下であるが、中央部は10℃内外、南海岸は14℃で、最暖地は済州島(さいしゅうとう)の14.6℃、釜山(ふざん)、麗水(れいすい)も1月の平均気温が零下に下がることはない。これは緯度上の位置や地形上の特性からくる影響と、季節風によってである。通俗的に三寒四温の国といわれているが、これは、大陸気団の強弱により気温が変化をきたし、三寒四温の現象が現れるもので、かならずしも周期的なものではない。
気候にもう一つ大きい影響力をもつものは、周期的な季節風である。冬季間の季節風は10月から3月にかけて大陸に発生した高気圧が北西風となって吹き、夏季は4月から8月にかけて南方から湿気の多い亜熱帯海洋性気団が上陸する。南東季節風である。両季節風によって、冬は寒波で気温が下がって晴れた日が続き、夏は気温が上昇し暑く、雨を多く降らせている。
朝鮮の年降水量は1000ミリメートル内外である。この60%は雨期である6、7、8月の南東季節風がもたらす降雨である。乾期の冬は年降水量の10%にも満たない。雨期の降雨の特徴は豪雨的で驟雨(しゅうう)性を帯び不規則である。そのため年によっては洪水や干魃(かんばつ)を招いている。多雨地域は南海沿岸地方の1400ミリメートル、寡雨地域は北部の豆満江上・中流の500ミリメートルである。
植物
植物帯は、北半球の同じ温帯地域に位置する他の地域より縦的構成が豊富で、多様な群落を形成しているのが特徴である。植物の種は約4200余種で薬用植物700余種、山菜類700〜800種、特産変種1100余種、その他に野性飼料植物などがある。
植物分布は東北アジア亜区に属し、シベリア、中国の北部、東北部、南部、日本と共通するものが多い。朝鮮における植物分布区は次の4区に分けられている。
亜寒帯針葉樹林区
朝鮮北部の蓋馬高原、白茂(はくも)高原、白頭溶岩台地。モミ、エゾマツが優勢な群落をなしている。
温帯北部闊葉樹林区
咸鏡山脈と赴戦嶺山脈の南縁部から西南山地に至る地帯。おもな群落は小葉闊葉(かつよう)樹林、コナラ、シナノキ、アベマキ、クヌギなどである。
温帯南部闊葉樹林区
黄海南道南部、西南低地帯、小白山脈南部から金海平野を経て東南地帯に至る地域。モミ、ネズ、チョウセンマツの針葉樹林と、コナラ、サンショウ、アカシデなどの闊葉樹林である。金剛山には朝鮮で1属1種しかない特産種コゴメウツギと金剛チョロン(ハナブサソウ)がある。
常緑闊葉樹林を含めた亜熱帯区
3地区の残りの全地域で、済州島、鬱陵島を含む。雨量も多く温暖な地域で、ツバキ、ヒサカキ、マサキなど、いわゆる暖帯照葉樹林を形成している。済州島植物は海岸から漢(かんな)山(1950メートル)に向けて垂直に規則正しく分布している。山麓帯には亜熱帯のアカガシ、アラカシなど常緑闊葉樹林、中腹帯はアカシデ、イヌシデ、コナラなどの落葉樹林、山上地帯はダケカンバ、シラベとゲンカイツツジの大群落がある。
鬱陵島は300余種中特産植物40余種である。ブナ、オニイタヤは特産植物で、ユリ(原産地)、ササ、ツバキ、シャクナゲと、山麓にはイヌグス、シロダモ、モチノキなどがある。
動物
朝鮮の動物は脊椎(せきつい)動物1088種で、哺乳(ほにゅう)類87種、鳥類419種、爬虫(はちゅう)類27種、両生類15種、魚類522種といわれる。動物の分布は高地小区(西シベリア亜地帯)と低地小区(北中国亜地帯)に分けている。
高地小区
狼林山脈以東と赴戦嶺山脈以北地域である。ジャコウジカ、ハクトウサンシカのシカ類とヤギがおり、トラ、イノシシ、ヒョウ、ヌクテ(コウライオオカミ)などの猛獣類がいる。トラは李朝中期までソウル近辺にも出てきたが、いまは高地小区でも数少ない。鳥類ではキジ、チョウセンクロライチョウ、コアカゲラ、シベリアムクドリなどがある。
低地小区
一部の山地帯を除いてはほとんど低山地や平野地帯である。アナグノロ、イノシシ、アカギツネなどと、鳥類ではコウライキジ、カラシラサギ、イワミセキレイなどがいる。
■民族と文化
朝鮮民族の形成
5000年の歴史と単一民族といわれているが、その歴史や言語、文化の跡をたどってみると、いろいろな紆余曲折(うよきょくせつ)がある。
朝鮮半島に人が住み着いたのは旧石器時代(咸鏡(かんきょう)北道屈浦里、忠清南道石壮里遺跡)で、約50万年前といわれる。明確な結論は出ていないが、朝鮮民族はアルタイ系といわれている。アルタイとは、中国とモンゴルの国境にあり、ロシア連邦に一部かかるのアルタイ山脈からとった名であるが、古代朝鮮族は、アルタイ地方から東方へ移動した一派が満州を経て朝鮮半島に到達したものと推定されている。
中国の古い文献で東夷(とうい)族とよばれたのは、満州地方に住んでいた古代朝鮮族をさしたものである。時代は下るが『大明実録』「太祖実録」には「朝鮮は山でふさがれ海に没しているので、昔から独自な東夷族を形成している。中国で治めるべきでなく、声教は彼らの自由である」とあり、自立を認めている。東夷族の祖先が松花江(しょうかこう)、冬佳江周辺から南下し、一部は朝鮮半島へきたものと思われる。
東夷族には夫余(ふよ)族のほかに(わい)、貊(はく)(穢貊とも記載される)、韓族がいる。族は松花江、遼河(りょうが)、大遼河の沿岸平野が定着地であったが、戦乱を避けて朝鮮半島に南下し、太白山脈の海岸沿いには族、西方の嶺西地方(江原道、忠清北道)には貊族が進出している。東夷族の部族のなかでもっとも文化が進んでいたのは夫余族で、いまの長春西方の農安に進出し、3世紀ころには戸数8万、2000里四方を領有し、支配体制や身分制度も確立していたという。高句麗(こうくり)を創建した東明王とその第2子で百済(くだら)王になった温祚(おんそ)も夫余族の一員であったといわれる。
一方、朝鮮半島の南部には以前から馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)の三韓があったが、馬韓の54部族中「伯済(はくさい)」に制覇され百済国に、辰韓の12部族中「斯廬(しろ)」によって新羅(しらぎ)国に統一された(『三国史記』)。これら南部地方の部族のなかには文身(いれずみ)の習俗があり、海洋文化の伝統の名残(なごり)であるといわれる。また言語学的にも三韓地方の古地名の研究から、南部の先住民は大陸より移動した民族でなく南インドのドラビダ系またはポリネシア諸島から移住したものとの説(ハルバート)がある。新羅の昔氏(せきし)始祖起源伝承や済州島の高・梁・夫三姓氏の伝説も南方からの移動を物語るものである。また新石器文化の遺物のうち有肩石斧(ゆうけんせきふ)、抉入(えぐりいり)石斧は海洋民族のものといわれている。
身体的特徴
朝鮮族はモンゴロイドに属しており、形質的にはアルタイ系諸族とは区別しにくい。世界諸民族の身長分布のうち、中等大身長のうち大きいほうで、首が比較的細く、背側深層筋群が発達しており姿勢が正しい。また下肢が長く身体各部の比率配分が、欧米人に比べて均衡がとれている。頭部は短頭で、長径の短い特異な短頭が多い。顔はモンゴロイドの特徴である広顔だが、長顔でもあり、頭腔(とうくう)容積も大きく脳重も重いほうであるといわれている。
原始宗教
原始社会における宗教には、霊魂を認めるアニミズムや呪術(じゅじゅつ)と、祖先を動植物と考えるトーテミズムがある。朝鮮における原始社会でもこれらの原始宗教や儀式が行われていた。
開国神話での檀君(だんくん)は、熊女を母に檀樹下で生まれたといわれる。夫余王や高句麗開祖の東明王や新羅開祖の赫居世(かくきょせい)誕生については卵生説話で、太陽に照らされて生んだという太陽神話に結び付いている。また高句麗では毎年10月、東盟という祭天儀式を行い、でも舞天という祭天を行い、昼夜飲食歌舞をしていた。また馬韓では5月、畑作の春耕が終わり神を祭祀(さいし)して、昼夜酒宴を開き歌舞を楽しみ、10月に収穫が終わったあとも神を祀(まつ)って歌舞飲食した。このほか山川、大木や風、雨、雲なども天に左右されるものとして、信仰の対象であった。また大木を立て(ソッテ=蘇塗)、その木先に鈴をかけて神壇として祈っていた。
路傍や郡界に立っているチャンスン(長)は、男女一対で、男は頭部に冠をかぶり胴体に「天下大将軍」と刻み込み、女は「地下大(女)将軍」と書いたのがある。これは神域表示や逐鬼の意をもつ原始宗教である。ソナンダン(城隍壇)も村の入口の小高い所か峠に小石をたくさん積んであるもので、子供が生まれるよう祈願したり、福を招き厄除(やくよ)けを祈る原始宗教である。
シャーマニズム
原始的宗教現象として今日も大きな影響力をもつものはシャーマニズムである。
朝鮮におけるシャーマン(巫覡(ふげき))は巫祭、医巫、予言者の三つの職能があり、原則としてムーダン(巫堂)がそのすべてをつかさどるが、予言者にはパンス(判数)という男の盲人がなる場合もある。巫祭のことをクッまたプリというが、この儀式でムーダンが神の意志を人間に伝達し、医巫は祭供と祈祷(きとう)によって悪霊を駆逐するものであり、予言者は直感と卜筮(ぼくぜい)で未来の吉凶を予言する役である。
巫俗信仰はいまも民間で盛んであるが、歴代王朝でも厚遇保護したり、あるときには排斥もした。新羅時代は2代王南解王が巫者で王を兼ね、高麗(こうらい)時代は巫俗信仰が王室や民間の生活面に広がり、治病や国家的な祈雨祭もつかさどっていた。李朝(りちょう)時代は政府専用の巫庁を置いた。しかしムーダンは民衆を眩惑(げんわく)し、狂信のあまり破産する民家も出た。政府はやむなくムーダンを城外に追放したことがある。
仏教
朝鮮の仏教はインドや中国仏教の単純な延長ではなく、朝鮮半島の風土と社会に溶け込んだ独特な発展をしている。
高句麗、百済、新羅の三国のうちいちばん早く仏教を取り入れたのは高句麗で、小獣林王の2年(372)に前秦(しん)王符堅(ふけん)が派遣した僧順道と仏像・経文を公的に受け入れ、それが朝鮮仏教の出発点となった。その後、百済は枕流(ちんりゅう)王の1年(384)に、新羅は訥祇(とつぎ)王の1年(417)に伝来しているが、仏教国家として基盤を整えたのは新羅の真興王5年(544)である。その年興輪寺が創建され、王は国民が出家して僧尼になる自由を国法で保障した。その後、皇竜寺、祇園(ぎおん)寺、実際寺などの寺院が創建された。統一新羅時代に入ってからの仏教はいっそう隆盛発展して支配的な思想になり、社会・文化的にも大きな役割を果たした。寺院は都城中心に建てられていたが、統一新羅以後は個人的な寺院が地方各地にも建てられた。また寺院経済も施納財産によって経済的基盤が強固になり、多くの田畑を保有するようになった。また元暁(がんぎょう)をはじめとする傑出した高僧が輩出し、仏典の著述も多かった。仏教文化が頂点に達し開花したのは景徳王代(742〜764)である。慶州の吐含(とがん)山の仏国寺と石窟庵(せっくつあん)は寺院建築の代表的なものであり、仏像彫刻の精緻(せいち)な手法と線感覚は新羅美術の粋である。
高麗時代も仏教が国教になり、仏教を信仰していたが、崇儒政策を併用していた。成宗(在位982〜997)は儒教を尊び、燃燈(ねんとう)会、八関会などの仏教儀式を廃したが、顕宗(けんそう)(在位1009〜31)のとき太祖王建の訓要10条の国是になっていた燃燈会、八関会を復活した。前者は4月8日釈迦(しゃか)生誕日を燃燈で祝い、後者は10月西京(平壌(へいじょう))、11月中京(開城)で土俗神に対する祭祀で、歌舞を伴う国をあげての大祭である。高麗中葉には僧侶(そうりょ)を優遇した結果、僧侶が民衆に横暴を極め人民の糾弾を受けた。民俗仮面劇『鳳山(ほうざん)タルチュム』はこのときの僧侶を風刺した内容である。しかしモンゴル軍襲来のとき、首都を開城から江華島に遷都させながら『高麗版大蔵経』の木版を完成させ、今日に残して貴重な民族文化遺産になった。
儒教
儒教が朝鮮へ伝来したのは仏教と同じく高句麗の小獣林王の2年といわれるが、儒教が国是になり開花したのは李朝時代である。
朱子学によって男女有別、長幼有序の上下の身分秩序をたて、仁をもってすべての道徳に通じる理念とし、修身、斉家、治国、平天下を目標にした一種の政治倫理の樹立である。
儒教を統治理念とした李朝500余年間に培われたものは、朱子家礼による冠婚葬祭をはじめ、人倫道徳や清廉節義の尊重など、朝鮮人の精神生活を今日まで大きく支配している。
キリスト教
キリスト教は、1869年9月イギリスのロンドン宣教会トーマス牧師が、シャーマン号に乗り込み平壌で殉教したのが開教の始まりである。トーマス殉教以来いろいろの布教活動はあったが、合法的な宣教開始は、1882年、アメリカと朝米修好条約を締結してからである。
聖書の朝鮮語訳も進み布教が進んだが、国教の儒教と背反する教旨から斥邪政策によって、宣教師や信者に多くの殉教者を出した。改新教(プロテスタント)は、アンダーウッドH. G. UnderwoodやアペンセラーH. D. Appenzellerらが1885年に来朝して始まった。そして彼らによって87年9月最初の長老教(プレスビテリアン)新門内教会が、同年10月には最初の監理教(メソジスト)の貞洞教会が発足した。以後、釜山(ふざん)、大邱(たいきゅう)、平壌、義州へ拡大されていった。そして1896年には信者8000人を擁し、キリスト教の布教の基盤が固まった。布教と同時に医療・教育事業も進み、今日の延世(えんせい)大学の土台をつくったのはアンダーウッドやアペンセラー牧師らである。
天主教(カトリック)も神父の潜入布教から始まったが、1866年の大弾圧により2万5000人の信徒中1万余人が犠牲になった。1868年朝仏修好条約締結以後緩和され、93年ソウル市を見下ろす丘の上に薬(やくけん)天主教堂、98年には明洞大聖堂がつくられた。その後、大邱、元山と三教区を置いた。
天道教
民族宗教である天道教は、1860年崔済愚(さいせいぐ)によって創立された東学を継承した、輔国(ほこく)安民の宗旨の民族主義新興宗教で、西学の宗教(キリスト教)に対抗しての東学とし、儒、仏、道の三教を中心に、天主教を加味して創設したものである。
慶尚北道竜潭(りゅうたん)で始まった東学は、第2世崔時亨(じこう)のとき全国に布教された。しかし東学に対する政府の弾圧政策と悪政に対して、1894年全羅北道古阜(こふ)の信徒全準(ぜんほうじゅん)によって引き起こされた農民反乱(甲午農民戦争)は、輔国安民の旗印に社会制度と国家体制の改革を求めた一揆(いっき)で、湖南地方や嶺南地方の農民も加担した大規模のものであったが、日本などの外国勢力の干渉により失敗に帰した。一時沈滞を免れえなかったが、いまも多くの信徒を擁している。
このほかの新興宗教として南学系、甑山(そうざん)系、檀君系、覚世系、水雲教、仙道教、弥勒(みろく)教などがある。
民俗
朝鮮半島では夫余系の種族が南下して先住部族を制圧して新羅や夫余の国を建設した。先住民族の残した遺跡からは抉入(えぐりいり)石斧、有肩石斧のような海洋民族のものと思われる遺物が出土しており、言語学的にも南方系の名残とも思われる語彙(ごい)が残されていることから、先住民族は海洋文化系の民族であるといえる。しかし、民俗習慣として残っているものは北方系の原始宗教や文化の遺産であり、李朝時代に入ってはほとんど中国文化の影響による民俗である。
チャンスンやソナンダンは、北方系の原始宗教であり民俗である。これらのトーテミズムやアニミズムは、ツングース人やモンゴル人にも共通のもので、現在もわずかではあるが残存している。
民俗習慣でもっとも広範に今日まで伝承されているのは年中行事である。正月の茶礼(祖先に対する祭祀)、元日の雑煮の朝食、立春の日大門に「掃地黄金出」「開門万福来」などの春帖(しゅんちょう)字を貼(は)り、3月の寒食の墓参り、4月8日釈迦(しゃか)生誕日の燃燈会、5月端午のグネ(鞦韆、吊縄(つりなわ)の長いブランコ)など、12月まで伝承された行事があるが、洪錫謨(こうしゃくも)の『東国歳時記』に網羅されている。これらの民俗行事は歳時記の序文で引き合いに出されているように、中国南方の楚(そ)国の『荊楚(けいそ)歳時記』と比較していることから、朝鮮民俗の淵源(えんげん)が察知できそうである。
儒教思想から男女有別が判然としているが、家庭では女子はアンバン(内房)、男子はサランバン(舎廊房)を専有していた。年中行事でもノルティギ(板戯)、タルマジ(月迎)、グネは女子の遊びで、封建社会における女子解放の機会ともいわれていた。
古い民俗習慣でいまも現存するのはシプチャンセン(十長生)とトンサンレ(東床礼)である。シプチャンセンは一種の敬老民俗で、日、山、水、石、雲、松、不老草、亀(かめ)、鶴(つる)、鹿(しか)の長生不老のものを描いたり刺しゅうにして壁掛けにする風習で、一種のアニミズムである。トンサンレは、結婚式後、新婦宅に泊まる新郎に対して、新婦の親族、集落の若者、新郎の友人が新郎を縛り上げ、または足を吊り上げて乱暴し、新婦宅から酒食をせびる風習である。
衣食住の生活も古代朝鮮の遺習が今日まで残存している。朝鮮人の常用服であるチョゴリ(襦)、チマ(裳)、ツゥルマギ(周衣)は、古代朝鮮民族の居住地が亜寒帯に属していたことによって北方系の衣服である。住宅は朝鮮の気候風土にあう独特のものであるが、オンドル(温突)は、型は違うが満州の女真も使っていたものである。冠婚葬祭は朱子家礼によるものである。
言語と文字
朝鮮語は朝鮮半島および周辺の島嶼(とうしょ)や半島外の朝鮮民族の集団居住地(中国吉林(きつりん)省延辺朝鮮族自治州、アメリカのロサンゼルスなど)の約5000万朝鮮民族の言語である。朝鮮語は感情的な表現に富んでいる。
朝鮮民族と同様明確な結論はないが、朝鮮語はアルタイ語族に属しているといわれている。アルタイ山脈から発して東に進んでモンゴル語、ツングース語となり、さらに南下して朝鮮語となった。アルタイ語系のトルコ、モンゴル、ツングースの3語群は構造上母音調和があり、前置詞を用いず後置詞の助詞を用い、アクセント音の長短によって意味が変わる場合がある。膠着(こうちゃく)性があるのは日本語と同様である。
古代朝鮮語は、満州北西部にいた夫余族、咸鏡南・北道沿海地方の沃祖(よくそ)族、江原道一帯にまたがる穢貊族らの北方系朝鮮語と、慶尚南・北道東海岸一円の辰韓語と、洛東江(らくとうこう)下流を基点とする弁韓語、忠清道、全羅南・北道一円にわたる馬韓族の南方系といわれる朝鮮語とがある。『梁(りょう)書』の「百済伝」に「現在、その言語や衣裳(いしょう)は高句麗とほぼ同じ」とあり、『三国志』「弁辰伝」には「弁辰は辰韓と雑居している……言語や法俗もともに似ている」と述べ、類似性を指摘している。この北方系の民族が朝鮮半島へ南下して、生活土台が半島部に限られることにより、ことばの差は縮まり、新羅が三国を統一してからは新羅語を中心とした統一朝鮮語が形成されたものという。
古代朝鮮では、中国人との言語接触の結果、早い時期に漢字が輸入されて使われている。朝鮮語は話すことばだけで、記録を残すには漢字しかなかったのである。つまり文語漢字と口語の朝鮮語の2言語使用であった。その結果、漢字要素が大量に朝鮮語に浸透したので、今日の朝鮮語のなかには膨大な漢字語が混じっている。
高句麗以来、漢字によって自国語を表記する努力がなされた。新羅時代の吏読もその一つである。7世紀の薛聡(せっそう)の創案といわれ、漢字の音と意を借りて朝鮮語を表記した。この吏読は高麗、李朝を通じて19世紀まで使用されていた。そして1443年、李朝世宗(せいそう)のとき、表音文字の訓民正音(くんみんせいおん)(ハングル)の創製によって、言文一致の今日の朝鮮語と文字が完成された。 
 
明治期の日本にとっての朝鮮半島

 

陸奥宗光外相らの努力により日清戦争の始まる直前に、英国との間に治外法権を撤廃する条約改正が成就した。キンバレー英外相は「この条約は、日本にとっては、清国の大兵を敗走させたよりも、はるかに大きい意義がある」と述べたのだそうだが、この言葉の意味を理解するためには当時の朝鮮半島のことを知る必要がある。
明治政府は欧米諸国が朝鮮半島に進出することを警戒し、鎖国政策を採っていた李氏朝鮮に強く開国を迫ったのだが、当時の同国の実権は国王(高宗)の父・大院君によって握られていて、その外交方針は「鎖国攘夷政策」であり、欧米の先進文化の受容に努めていたわが国も西洋と同様に「攘夷」の対象とされていたようだ。そのため、同国にわが国が使節を送っても、侮辱され威嚇されて国外に追いだされたという。しかし当時の李氏朝鮮はあまりにも弱体であった。もしこの国がこのまま鎖国を続けていては、いずれ朝鮮半島はいずれ欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立をも脅かされることになってしまう。そう考えて、西郷隆盛や板垣退助が武力を用いてでもこの国を開国させようと政府部内で「征韓論」を唱えたとされ、明治6年(1873)に欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対し、議論に敗れた西郷らは政府を去ったというのが通説になっている。
しかし、西郷らを退けた大久保らを中心とする明治政府は、明治7年(1874)には台湾に出兵し、明治8年(1875)には李氏朝鮮に向かって公然と武力挑発に出た(江華島事件)うえに、不平等条約(日朝修好条規)締結を強要している。教科書などで記述されているように、大久保ら欧米視察組は「国内改革を優先」しようとしたという内容を鵜呑みにしてはならないのだと思う。
明治政府が朝鮮に対して出力挑発をし、不平等条約を締結したことについて、西郷隆盛が政府を厳しく非難している文章が残されている。勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』に、明治8年(1875)10月8日付けで篠原冬一郎に宛てた西郷の書簡が紹介されているので引用しておきたい。
「…全く交際これなく人事尽し難き国と同様の戦端を開き候議、誠に遺憾千万に御座候。(中略) 一向[ひたすら]彼[朝鮮]を蔑視し、発砲いたし候故(ゆえ)応報に及び候と申すものにては、是迄(これまで)の交誼上実に天理において恥ずべきの所為に御座候。(中略) 何分にも道を尽さず只弱きを慢(あなど)り強きを恐れ候 心底(しんてい)より起り候ものと察せられ申し候。」
西郷は、大久保らの明治政府がやったことは、日本に開国を迫ったペリーやハリスと同じやり口であり「天理において恥ずべき所為」だと書いているのである。
西郷の考え方が変わったわけではない。もともと西郷は政府にいた時も、西郷は、武力を用いて朝鮮を開国させよとは言っていないようなのだ。明治6年(1873)6月12日に初めて朝鮮問題が閣議に諮られた時に、板垣退助の「居留民保護の為に軍隊派遣した後に修好条約の談判にかけるべきだ」という発言に対し、西郷は真っ向から反対したという。西郷は軍隊派遣を明確に否定し、朝鮮には礼を尽くして全権大使を派遣すべきであるとし、その全権大使に自分を任命してもらいたいと主張したのである。
西郷の考えは内容的には「征韓論」ではなく、「遣韓大使派遣論」「遣韓論」と呼ぶべきとする説があるが、その説の方が正しいのだと思う。征韓論争で「現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である。」と主張して西郷らを退けておきながら、その数カ月後には台湾に出兵しさらに翌年には江華島事件で朝鮮に武力挑発勝利した岩倉や大久保を「内治派」と呼ぶことに違和感を覚えるのだが、歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、為政者にとって都合の良いように叙述されるものであり、敗者や死者には理不尽なレッテルが貼られるものであると考えるしかない。
ではなぜ、当時のわが国で朝鮮半島が重要視されたのか。この点については、菊池寛の次の文章が分かりやすい。
「朝鮮半島はその地形上、日本列島に対して短刀を擬したような恰好をしている。もし、この地が支那やロシアに占領されたとしたら、その時の日本はどうであろう。脇腹に匕首(あいくち)を当てられたようなもので、たえずその生存を脅威されるであろう。朝鮮問題が明治史のほとんど全部を通じて、終始重大問題を孕んだのは、実にこの日本国家の生存という根本に触れたためであって、日清戦争も日露戦争も、全く朝鮮問題を中心として惹起されたのである。」
この地政学上の問題は、秀吉の時代も同じことが言えるし、現在のわが国の安全保障についても絡んでくる話であるのだが、この時期の李氏朝鮮は弱体でかつ王朝内部に開国派と攘夷派との対立が深く、ある時は清に靡き、ある時は南下するロシアに屈服するといった状態であったのだ。
もっとも李氏朝鮮に自国を守れるだけの国力があれば明治政府はそれほど深刻に考えなかったのだろうが、当時のこの国はあまりに弱体で、もし清国やロシアが攻め入ったら、簡単に滅ぼされていたことは確実だ。
イギリスの旅行家・イザベラ・バードが1894年から1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅行し、首都ソウルについてこのように記している。
「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の『地べた』で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。…」
明治政府がそんな李氏朝鮮と締結した日朝修好通商条規の第一款には「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」とあるのだが、その後もこの国は独立国だという気力も実力もなく、清国は相変わらずその宗主権を主張して隷属国視していたのである。
李氏朝鮮では1873年に大院君が失脚し、以降、国王(高宗)と皇后(閔妃[びんぴ])が国王親政の名のもとに一族とともに政治の実権を握っていた。後に初代内閣総理大臣となった金弘集(きんこうしゅう)は、明治13年(1880)に修信使として来日して開国の必要性を認識し、国王に日朝支が連携すべきであると進言してそれが閔妃一派に採用され、朝鮮もようやく積極的開国に転じるようになる。翌年には日本から軍事顧問を招き、新式の陸軍を編成するとともに、日本に大規模な使節団を派遣している。金玉均(きんぎょくきん)はその使節団のメンバーであったのだそうだ。ところが1882年(明治15)7月23日に大院君によるクーデターが勃発し、日本公使館は焼き討ちされ、日本人軍事顧問や公使館員が多数殺害されている。(壬午[じんご]事変) 清国は、閔妃の頼みを受けて乱を鎮圧し、大院君を拉致・監禁することでクーデターは失敗に終わったのだが、以後朝鮮には清国に阿(おもね)る「事大党」が跋扈するようになり、清国はこの事件をきっかけに対朝鮮干渉を強化した。ソウルに3000名の清国軍を駐留させたまま袁世凱に指揮を執らせ、ソウルを軍事制圧下に置き、不平等条約を締結し、条文には朝鮮が清国の属国である事が明記されていたという。そのために、わが国が江華島事件の後で締結した日朝修好条規の効果が吹き飛んでしまうのだ。
呉善花さんの『韓国併合への道』を読むと、この清国の駐留軍がソウルで随分乱暴狼藉を働いたことが書かれている。
「駐留清国軍は、ソウル各所で略奪、暴行を働き、多くのソウル市民がその被害にあうことになってしまったのである。清国の軍兵たちが集団で富豪の家を襲い、女性を凌辱し、酒肴の相手をさせ、あげくのはては金銭財貨を奪うなどの乱暴狼藉が日常のごとく行なわれたのである。…中国には伝統的に、軍隊は略奪を一種の戦利行為として許されるという習慣があったから、将官はそうした兵士の乱暴狼藉は見て見ないふりをするのが常だった。…清国兵士たちの暴状は際限なくエスカレートしていくばかりであった。さすがの清国軍総司令官の呉長慶もそれを放っておくことができなくなり、ついに特別風紀隊を編成して自国軍兵士たちの取締りを行なったほどである。」
これに対する反動で、1884年(明治17)に甲申事変(こうしんじへん)が起き、再び多数の日本人が犠牲になっている。菊池寛の文章を引用する。
「今度の変は、日本政府の援助を過信した、朝鮮開化党の軽挙に原因しそれに乗じた、支那の駐屯兵と朝鮮軍隊の暴動によって、日本人男女四十余人の惨殺という犠牲を出したのである。時の公使、竹添進一郎は直ちに居留民を公使館に集めて、悲壮な演説をして、避難を決行することになった。村上中隊長の率いる百四十余名の守備隊と四十余名の警官隊、それが公使館員、家族、居留民百三十名を中央に挟み、三百名の総員が死を決して、城内から脱出しようというのである。…城内光化門にさしかかると、朝鮮兵営から、大砲を二発打って来た。幸い目標は外れ、これに対して日本軍の前衛は一斉射撃を以て応じて、これを沈黙させた。西大門に達すると、門は堅く閉ざされ、鉄索でごていねいにも封じられてある。竹添公使はかねてこのことを予想して、大工に斧を持たせてあったので、これを以て打ち破って城外に出で、麻浦から八艘の船に分乗して、川に張った薄氷を砕きながら、仁川に向かって避難して行ったのである。振り返って京城(ソウル)の空を見ると、黒煙濛々と上り、爆音しきりに起って、凄愴極まりない。これは一行が立退いた後、暴徒が日本公使館に火を放ったのである。この公使館は、十五万円を投じて前月やっと落成したばかりのもので、京城における最初の洋風2階建ての建築だったのである。」
少し補足すると、2年前の壬午事変以降、閔氏一族は親日派政策から清への事大政策へと方向転換していたのだが、それでは朝鮮の近代化は難しいと考えた金玉均らがクーデターを計画して、守旧派の一掃を企てたのがこの甲申事変である。
日本兵は150名だけで1300名の清軍と戦わざるを得なくなったため、形勢は次第に不利となり、竹添公使は撤退の意志を固めて、金玉均らとともに脱出を図った。菊池寛の文章は、その脱出の場面である。日本公使館は2年前の壬午事変で焼かれて、建て替えたばかりであったのにまた焼かれてしまったのだ。
「甲申政変」に、この時日本公使館に逃げ込まなかった日本人居留民は、特に婦女子30余名は清兵に凌辱され虐殺されたと書かれている。たとえば明治43年(1910)に菊池謙譲氏が著した『大院君伝 : 朝鮮最近外交史 附王妃の一生』にこのような記録がある。
「…日本居留民の一官舎に逃げ込みし四十余名は或は銃殺せられ石打せられ竹槍にて惨殺せられ、婦人は悉く強姦せられて尚…より竹貫して殺されたるあり、…を斬剥して殺されたるあり、二三の小児と一婦人を除くの外三十九名は清兵の汚辱の為に殺さる。」
このような猟奇的な虐殺の手口は、この事件の53年後に冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)によって日本人居留民の223名が惨殺された通州事件と酷似している。このような史実を知らずして、なぜ日清戦争が起こったかを真に理解することは難しいと思うのだが、このような史実が日本人にあまり知らされないのは何故なのかを良く考えておく必要がある。
年が明けた明治18年(1885)、わが国は伊藤博文を全権大使に任じて清国の全権大使・李鴻章と天津で談判し、4月に調印された天津条約では
・日清両国とも4か月以内に朝鮮より撤兵すること
・日清両国とも、朝鮮軍を指導するために軍事顧問は派遣しないこと
・将来朝鮮に重大変乱があり、日清両国において派兵の必要ある時は、まず互いに報告し合うこと
を取り決めている。
この2つの壬午事変と甲申事変が起こってから、高宗も閔妃も日清両国の干渉に耐えられなくなり、次第にロシアに近づくようになっていった。それを察知した李鴻章は、清国に軟禁していた大院君を、朝鮮に国賓待遇をもって帰国させている。そのことがまた新たな火種となっていくのである。  
征韓論争は大久保が西郷を排除するために仕掛けたのではなかったか
一般的な教科書の記述を読んでみよう。
「欧米諸国の朝鮮進出を警戒した日本は、鎖国政策をとっていた朝鮮に強く開国をせまった。これが拒否されると、西郷隆盛、板垣退助らは、武力を用いてでも朝鮮を開国させようと政府部内で征韓論をとなえた。しかし1873(明治6)年欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは、国内改革の優先を主張しこれに反対した。」
この教科書の記述では西郷も板垣も武力で開国を迫り、岩倉や大久保は国内改革を優先したというのだが、史実はそれほど単純なものではなかったようだ。
菊池寛の文章を引用しながら説明したい。(原文は旧字・旧かな)
「征韓論は一応合理的であった。韓国が小国であること。無礼であること、更に征韓に対して、清国はじめ諸外国が文句をつけぬと言っていること等が理由である。当時の韓国の実権は、国王の生父大院君によって握られており、甚だしい欧米嫌いであった。だから日本の開国を欧米模倣であると罵り、禽獣に近づいたといって、蔑視しているのである。だから、維新政府が宗対馬守を派遣して、いくら国交を調整しようとしても、剣もホロロの挨拶である。」
朝鮮国が無礼であった点については「近代デジタルライブラリー」で板垣退助『自由党史』第二章などを読めばわかるが、要するに当時の朝鮮国の外交方針は「鎖国攘夷政策」であり、欧米の先進文化の受容に努めていたわが国も西洋と同様に「攘夷」の対象であって、わが国が使節を送っても、侮辱した上威嚇して国外に追い出そうとしたことが書かれている。
しかし朝鮮国がこのまま鎖国を続けていてはいずれ朝鮮半島は欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立も脅かされることになってしまう。
そこで「征韓論」の議論が沸騰する。しばらく、菊池寛の文章を読んでみよう。
「ここにおいて、明治六年六月十二日、朝鮮問題に対する会議が開かれることになったのである。劈頭まず板垣退助は、『居留民を保護するのは政府の義務だから、早速一大隊の兵を釜山に送り、それから談判をやろう』と出兵論を唱えた。これに対して西郷は、『それは少し過激だ。それより、まず平和的に堂々使節を派遣して、正理公道を説き、それで聴かなかったら公然罪を万国に鳴らして討伐すればよい』と述べた。三條*は、『大使を派するなら、兵を率いて軍艦に乗っていったらよかろう』と言葉を挟むと、西郷は敢然として、『いや兵を率いて行くのは、所詮穏やかでない。大使たるものは宜しく烏帽子直垂を着し、礼を厚くし道を正さねばならぬ』と反対した。…すると誰かが、『これは国家の大事であるから、岩倉大使**の帰朝を待って決すべきであろう』この言葉は西郷を怒らせた。『堂々たる一国の政府が、国家の大事を自ら決めかねるなら、今から院門を閉じ、百般の政務を撤するがよい』と叱し、一座は粛として静まり返ったのであった。西郷は更に言葉を進めて、『この遣韓大使には、ぜひ自分を遣って貰いたい。』再三再四、西郷はくどく三條に迫って、この件を上奏して欲しいと希望するのであった。この日の会議は、このまま終わったが、西郷は尚熱心に朝鮮行きを希望してやまない。『副島**君(遣清大使)の如き立派な使節は出来申さず候えども、死する位のことは、相調い申すべく』とある様に、いつでも命を投げ出す位の覚悟を、淡々たる言葉の中に洩らしているのである。大使になって行けば韓国は必ず自分に危害を加える、そうしたら立派な征韓の名分が立つ、西郷の信念はここにあったのだ。」 *三條實美(さんじょう さねとみ):公家出身。当時太政大臣。 / **岩倉具視:公家出身。当時右大臣外務卿で、全権大使として大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らとともに欧米視察中。 / ***副島種臣(そえじま たねおみ):佐賀藩出身。当時外務卿。
この西郷の発言内容は、先ほど紹介した板垣退助の『自由党史』と内容はほぼ同じであり、菊池寛の文章は当時の記録に忠実に書いている。『自由党史』には、この六月十二日の会議で、釜山に軍隊を送ろうとした板垣も自説をその場で引込めたとあり、この会議では平和裏に遣韓大使を送るとする西郷案で一旦決着し、誰を大使とするかについては8月17日に西郷とすることで決着したと書いてある。「征韓論」が決裂するのはそれからあとのことなのである。欧米視察を終えて帰国した、岩倉具視、大久保利通らがこの決定を許さなかったのだ。10月14日に岩倉らの帰朝後第1回目の内閣会議が開かれる。
しばらく菊池寛の文章を引用する。
「まず三條から一応の報告があると、岩倉は敢然として起ったのである。『大使を韓国に派遣するについては、大戦争を覚悟した上でなければならん。朝鮮の背後には、支那もあるし、ロシアもある。迂闊に手を出して国家百年の大計を誤ってはならぬ。現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である』初めて聞く、堂々たる反対意見である。西郷は、『しかし、朝鮮大使派遣は八月十七日の廟議ですでに決していることである。今更是非を議する必要がどこにあろう』岩倉すかさず、『いや、その為のみの、今日の廟議である』『くどいようじゃが、その廟議は決まっているのだ』この時、大久保、『前閣議でどう決まったか知らんが、それは拙者らの知ったことではない』『それは貴公、本気で言われるか』西郷は血相を変えた。『留守に決めたが不服と言われるのか。拙者も参議だ。これ程の大事を、貴公らの帰国するまで待てるか。留守の参議がきめたことに、なんの悪いことが御座るか。三條太政大臣も同意で、既に聖上の御裁可まで経たことであるぞ』…」といった議論が続いていく。
翌日の会議も水掛け論で終わる。菊池寛はこう書いている。
「…問題は、奏問の手続き問題に入ってくる。こうなると、事務的にも政治的にも、征韓派は、岩倉や大久保の敵でない。かくて二十三日、岩倉は参内して、征韓不可の書を奉り、大勢は決した。聖上は一日御熟慮の上、岩倉の議を御嘉納あらせられたのである。二十三日、西郷は参議、陸軍大将、近衛都督の職を辞するの表を奉り、翌日、板垣、副島、後藤、江藤の諸参議もそれぞれ辞表を奉った。…これと同時に、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹なども、疾と称して、辞表を呈出し、これに倣って、近衛士官などは総辞職である。…そこで陸軍卿山形有朋は、新たに近衛兵の再編成に着手し、かくて長州人が今度は陸軍部内に確固たる地位を占め『長の陸軍』の淵源をなしたのである。」
明治政府は25日に非征韓派を中心にした内閣改造を行っている。大久保利通が内務卿となり、また幕臣であった勝海舟を海軍卿に据え、榎本武揚を遣露大使としたほか、西郷を牽制するために元薩摩藩主の島津久光を左大臣、内務顧問に登用した。産業を奨励し、反対党の弾圧にいよいよ本腰を入れるとともに、強引にも華族、士族の家禄まで税金をかけた。そこで明治7年(1874) に佐賀で不平士族の叛乱が起こる。
「(明治)七年二月征韓論者の政府反撃の第一声として、大規模な佐賀の乱が勃発している。江藤新平、島義勇らの暴発であるが、大久保はかねて期していたものの如く、直ちに熊本、広島、大阪三鎮台の兵を動かし、同時に久光を帰国させて西郷を抑える一方、自ら急速に兵を進めて三月一日には佐賀城に入っている。文官である大久保としては一世一代の武勲であると言って良い。江藤は後に捕えられ、極刑ともいうべき、梟首(きょうしゅ:晒し首)に処せられた。往年の同僚、参議江藤新平の首をさらして、あえて動ぜぬ、不適の面魂はいよいよ凄みを増してきたと言えよう。」
教科書では大久保らは国内改革を優先したと書くのだが、実際はそうとも言えない。征韓論反対の舌の根も乾かぬうちに、大久保は台湾に出兵しているのだ。再び、菊池寛の文章を引用する。
「殊に征韓論を排撃して二ヶ年ならぬのに、大久保は、台湾出兵をやっている。これは全く国内士族の不平を、海外にはけさせるためにやった仕事で、征韓論反対の言い分は何処へやったといわれても仕方がないであろう。神経衰弱で少し気の弱くなった木戸など。『切に希くは、治要の本末を明かにせよ』と悲壮な言葉を残して、幕閣を去ったが、大久保は断固として、この出兵をやり、しかも戦後の談判に、自ら清国に乗り込んで、李鴻章と大いに交驩し、五拾萬両の償金と、台湾征討は義挙であるという、支那側の保証まで得て帰ってきているのである。昭和の外交官、顔負けである。内治によく外交によく、大久保の幕閣における地位は、この時において、圧倒的、独裁的な域まで達したのである。」
大久保にとっては、朝鮮よりも台湾の方が制圧が容易で、他国の干渉を受ける可能性も低いとの判断があったのかもしれないが、「現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である。」と言っていた反征韓論者が、西郷が職を辞した4カ月後の明治7年(1874)2月に台湾出兵を計画し、5月に出兵したというのはどう考えても違和感がありすぎる。
当時、廃藩置県により失業した士族は全国に40万人から50万人程度いたというのだが、それまで各藩が支払っていた禄は政府の支出となっており、その支出額は国家予算の大きな部分を占めていた。明治5年(1872)の地租収入は2005万円に対し禄の支出は華族・士族合せて1607万円にも達していたのだ。このままでは維新政府が長く続くはずがなかった。
大久保にとっては、西郷の力を借りて廃藩置県の大改革が終われば、次にやるべきことは政府支出構造の抜本的改革であっただろう。そのためには士族の既得権に大ナタを入れざるを得なかった。そのためには、政府内の抵抗勢力を出来るだけ早い時期に排除することが必要であったのではなかったか。
大久保らの欧米視察中に、西郷らが留守中に決定した遣韓大使派遣のような重大事を追認しては、主導権を西郷らに握られることになりかねず改革が遅れてしまう。もちろん出兵には多大な費用がかさみ、戦争となって勝利しても士族の地位が再び高まっては困るのだ。
大久保は征韓論争を仕掛けて、政府内の抵抗勢力を切り、士族の既得権にもメスを入れることをはじめから狙っていたのではないだろうか。西郷、江藤らが下野したのは明治6年10月23日だが、2日後に新政府を組閣し勝海舟を入閣させのちに島津久光を内務顧問に任じている。また2か月後の12月には「秩禄奉還の法」を定めて禄に課税が行われている。ちょっと準備が良すぎると思えるのである。
大久保は、不満をもった旧士族が各地で反乱を起こすことを覚悟していたからこそ、元薩摩藩主の島津久光を登用したのだ。明治7年2月に江藤新平が佐賀の乱を起こした際に西郷が動かなかったのは、大久保の指示で島津久光が薩摩に帰ってきたからではなかったか。また大久保は、征韓論にはあれだけ反対を唱えながら、佐賀の乱があった2月に木戸の反対を押し切って台湾出兵を決定し、5月には出兵している。教科書などでは大久保利通らは「国内改革を優先した」と叙述されるのだが、その記述をそのまま鵜呑みにしては、明治時代を正しく理解したことにならないのではないか。  
 
大日本帝国崩壊

 

昭和二十年(1945年)八月十五日正午、玉音放送が流れ大日本帝国臣民は敗戦を知らされた。大日本帝国の崩壊はただ日本の敗北を意味するだけではない。大日本帝国の崩壊によって大日本帝国による植民地支配体制が崩れ、新しい国家、新しい国際秩序が東アジア地域に誕生することになった。その八月十五日前後の経過を通して大日本帝国下の日本、朝鮮、台湾、満州、樺太・千島、南洋諸島、東南アジア諸地域が迎えた敗戦と変化を概観した一冊。
まず序章としてポツダム宣言の公表に至る諸国の駆け引きが、第一章ではそれを受けての日本政府の対応が描かれる。
ポツダム会議の議題はヨーロッパの戦後処理とともに唯一抗戦する日本をどうするかであった。米国内では天皇の地位を保障して早期停戦に持ち込むべきとするグルー国務次官・スティムソン陸軍長官派と天皇の地位保障を盛り込むべきでないとするバーンズ国務長官・ハル前国務長官の無条件降伏派との対立があり、ポツダム宣言草案は前者スティムソン主導で起草されていたが、トルーマンの考えは後者に近い。
トルーマンの懸案は日本降伏後のソ連をいかに掣肘するかにあり、原爆開発の成功が対ソ外交強硬姿勢へと動かしていた。無条件降伏に拘るべきでないとするチャーチルの忠告を丁重に無視し、対日参戦を約したヤルタ密約の同意を求めるスターリンに言質を与えず、米国単独での日本撃破にこだわってポツダム宣言草案から天皇の地位保障条項を外し、独自にポツダム宣言文を作成、欧州戦後処理に注力したいチャーチル、中国から動けない蒋介石両者の消極的な同意を得て公表された。
トルーマンの独善的な姿勢に怒り心頭の蒋介石のせめてもの抵抗が、「米英華三国宣言」を「米華英三国宣言」に「合衆国大統領、グレート・ブリテン国総理大臣及中華民国国民政府主席」を「合衆国大統領、中華民国国民政府主席及グレート・ブリテン国総理大臣」並べ替えさせることだけだった、というエピソードは面白い。
ポツダム宣言が公表された時、日本はソ連を通じての和平工作を進めようと動き出したところだったから、「ポツダム宣言」に対して和平交渉の進展次第ということで曖昧な対応を取ることにした。すでにソ連への和平交渉の打診はいいようにはぐらかされていたし、陸軍もソ連軍が満州国境付近に集結しつつある情報を得ており、外務省でも対ソ交渉の見通しは暗いとする意見が大勢だった。にも関わらずの問題の先送りは大きな失敗だった。
メディアが早速日本政府はポツダム宣言を「黙殺」したと報じ、これを受けてトルーマンは広島へ原爆投下を命じる。一方、ポツダム会議で対日参戦の確約を得られなかったスターリンは対日参戦の口実を探していたが、ポツダム宣言無視という日本政府の不手際が最高の大義名分になった。八月七日、スターリンは「平和の敵日本打倒」を名目に、対日軍事作戦発動を極東ソ連軍に指示、翌八日、対日宣戦布告がなされ、八月九日、長崎に原爆が投下されるとともに、満州・樺太へ一気にソ連軍が雪崩れ込んできて、さらに陸軍内急進派によるクーデタ計画の噂も走るなど日本政府はパニックに陥った。
結局二度の「聖断」を経てポツダム宣言を受諾、無条件降伏へと至るが、事態がこれほど切迫してもなお、陸軍・海軍・外務省・宮中・内閣の間の路線対立をまとめられず無駄に時間だけが過ぎることになる。
「聖断が下されるまでに無駄ともいえる時間を徒に費やし、原爆やソ連参戦を経なければ実現されなかったことは、近年の研究でいわれているような指導層の優柔不断や自己保身が原因といったレベルの問題なのではない。最大の原因は、天皇大権を軸としつつ実は巧妙に天皇の政治介入を排除した明治憲法体制が、天皇を輔弼すべき者が国家運営の責任を放擲し、セクショナリズムのなかで利益代表者として振る舞った場合、制度的に機能麻痺が起こるという根本的な欠陥を抱えていたことにあった。戦争終末期、政府や外務省は陸軍の暴発をいかに防止するかに精神を集中し、陸軍は本土決戦を叫びつつも実際は自己の組織利益をいかに維持するかに腐心していた。戦争という外国相手の政治闘争を行っているにもかかわらず、彼らは同じ日本人相手の政治闘争に終始した結果、重大な政治判断ミスを積み重ね、大日本帝国を完璧な崩壊へと導いていった。」
無条件降伏へ至る過程はまた、大きな問題をはらんでいた。すなわち、「本土決戦を譲らない軍部を押さえて戦争をいかに終結させるかに関心が集中した結果、国体護持という抽象的な問題だけが争点となってしまい、敗戦にともなって想定される問題の洗い出しも対応策の具体的な検討も政府内部で行われなかった」。その結果、「帝国臣民」の切り捨てが始まる。
台湾ではスムーズな体制移行が出来た。安藤利吉総督の下、いち早くポツダム宣言受諾へ至る過程をキャッチして林献堂ら台湾人有力者との協力体制を築き、社会不安を抑え、治安維持に努め、国民党政府への的確な引き継ぎを行った。むしろ日本軍撤退後の国民党統治の稚拙さと国共内戦の展開にともなう蒋介石政権の強権体制が台湾を混乱させ後に本省人と台湾人の根深い対立を産むことになり、この対立の構図が親日感情の醸成へつながることになった。
逆に朝鮮では無責任に過ぎた。ソ連軍は満州の後背を扼すべく朝鮮北部へも軍を進め、続いてポツダム宣言受諾が知らされて、緊迫する情勢の中、阿部信行総督が倒れる。政務総監遠藤柳作が指揮を執ることになるが求心力の低下は否めない。遠藤は呂運亨ら民族運動家への権限移譲を進め、呂らはこの依頼を受けて「朝鮮建国準備委員会(建準)」を結成、これが裏目に出た。新政府樹立とも取れる建準の結成が朝鮮での民族意識に火をつけ、朝鮮人団体が乱立して治安が不安定化、この事態の収拾に関して総督府は積極的な意思を示さず、事実上出来たばかりの建準に丸投げしたから、在留日本人の間でも総督府への信頼が失墜し独自に「内地人世話会」が結成されて、在朝日本人の支援が行われるようになる。
三十八度線以北ではソ連軍の侵攻が本格化、朝鮮総督府は統治能力を低下させる一方だったが、八月二十二日、三十八度線以南に米軍が駐留する旨の連絡を受けて、ソ連軍の京城侵攻の危機が回避されたことがわかると、権限移譲する対象を建準ではなく米軍に切り替えて終戦事務処理委員会を創設、建準切り捨てにかかる。九月九日、朝鮮総督府で米軍と朝鮮総督府・駐留軍との間で施政権移譲の降伏文書調印が行われ、米軍軍政下に置かれることになった。
この対応に我慢がならないのが建準で、これに先立つ九月六日、建準は「朝鮮人民共和国」建国を宣言するが、まずは信託統治下で治安を安定させることが急務と考える米軍によって鎮められた。以後建準は求心力を失って分裂、朝鮮半島における独立運動は米ソ両国の思惑に左右され、両国はそれぞれ李承晩と金日成という二人に南北に傀儡政権を樹立させ、現代まで続く朝鮮半島の分裂状態を引き起こすことになった。ともに強い支持基盤を持たず、冷戦を背負わされたがゆえに、必然的に独裁体制となり、自らの力で建国を成し遂げられなかったがゆえに「建国の神話」を必要とせざるを得なかった。
ほか、文字通り崩壊した満州国と関東軍。玉音放送が流れるまさにそのとき、熾烈な地上戦を戦っていた樺太・千島。沖縄県民が犠牲者の大半をしめたがゆえに沖縄戦の前哨戦として位置づけられる南洋諸島ではみな収容所で玉音放送を聞いた。穏やかな政権移譲が出来た地域はほとんどない。また、東南アジアに目を向けても、インドシナでは日本軍の後ろ盾を失った傀儡政権越南帝国に対し、八月三十日、ホー・チ・ミン指導の下で一斉蜂起が行われて皇帝バオ・ダイが退位、以後ベトナムは戦後の独立と統一を目指してインドシナ戦争からベトナム戦争と続く長い長い戦いが始まり、インドネシアでも八月十七日、スカルノによって独立が宣言、1949年まで続く独立戦争が開始される。ビルマではビルマ国の崩壊後英国統治下に戻ったが、1948年にアウン・サンの独立義勇軍を母体としてビルマ連邦が成立し、やがてネ・ウィンの軍事独裁政権へと至る。
大日本帝国の「臣民」は日本人だけではなかった、というのは自明のことながら誰もが忘れようとしていることのように見える。しかし、本書ではあらためて切り捨てられた側の動きに注目することで改めて、大日本帝国の崩壊がどういう現象であったのかに気づかせようしていている。
樺太・千島では日本人だけでなく「アイヌ・ウイルタ・ニブフなどの少数民族」とロシア人、ポーランド人、タタール人などの帝国臣民がいて、本土で玉音放送に日本人が泣き崩れているそのとき、彼らを巻き込んでの日ソ地上戦が展開されようとしていた。南洋諸島では日米開戦時で約十四万人の帝国臣民がおり、その構成は約八万四千人の日本人と四万七千人のカナカ族、四千人のチャモロ族だが、日本人のうち約五万人が沖縄県民で、六千人が朝鮮人であった、という。
帝国崩壊の中で歴史の闇に隠れたマージナルな人々、例えば1974年12月にインドネシアのモロタイ島で発見された元日本兵中村輝夫一等兵こと台湾の少数民族アミ族出身のスニヨン氏や、対ソ諜報員として召集されてシベリアに抑留されたあと樺太から帰国した北川源太郎ことウィルタ族ゲンダーヌ氏などを紹介しているところもとても興味深い。彼らは二人共日本人として扱われることは無かったという。中村輝夫(スニヨン)一等兵は台湾で李光輝としての後半生を送り、日本政府は何の補償もしなかった。北川源太郎(ゲンダーヌ)氏は「軍人恩給の認定を政府へ訴え続けたが最後まで認められず、網走に小さな少数民族の資料館と慰霊碑を建ててこの世を去る。」
大日本帝国の崩壊とは何だったのか、アジアから考えるために非常に多くの発見と理解を得ることができる。 
 
韓国大統領

 

  大統領名 在任期間 与党   / 功績
李承晩 初代〜3代 (1948〜1960) 自由党 / 韓国独立・反共産主義
尹潽善 4代 (1960〜1961) 民主党 / 人事を公平にする
朴正煕 5代〜9代 (1963〜1979) 民主共和党 / 漢江の奇跡(経済成長)
崔圭夏 10代 (1979〜1980) 民主共和党 / 活動家の釈放
全斗煥 11代〜12代 (1980〜1987) 民主正義党 / 経済再建・民主化への糸口
盧泰愚 13代 (1987〜1993) 民主正義党 / 国連加盟 / ソ連・中国との国交樹立
金泳三 14代 (1993〜1998) 民主自由党→新韓国党 / 汚職などの不正・腐敗を一掃
金大中 15代 (1998〜2003) 新政治国民会議→新千年民主党
    / 南北首脳会談 / ノーベル平和賞受賞
盧武鉉 16代 (2003〜2008) 新千年民主党→開かれたウリ党
    / 太陽政策を継承 / ネットを使った政治活動を積極的に取り入れる
李明博 17代 (2008〜2013) ハンナラ党
    / BSE問題 / 韓国通貨危機 / 韓国哨戒艦沈没事件 / 4大河川再生事業
朴槿恵 18代 (2013〜) セヌリ党 / 初の女性大統領 / 親子2代での大統領  
  崔順実
李承晩 (り・しょうばん 1875-1965)  
朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。本貫は全州李氏。号は「雩南」(ウナム、우남)。字は「承龍」(スンニョン、승룡)。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「リ・スンマン」と呼ばれるが、これは韓国では語頭子音ㄹの脱落が起こるためである(朝鮮語の南北間差異参照。)。韓国でも1950年代以前には「리승만(リ・スンマン)」と綴られていた(英文での本人の署名も“Syngman Rhee”となっている)。
出自から独立運動
李承晩は黄海道平山郡馬山面大経里陵内洞の全州李氏の没落両班の家に生まれた。父李敬善( 1839年 ~ 1912年)、母(金海金氏、1833年 ~ 1896年)の3男2女の末っ子(ただし兄二人は天然痘で夭逝)である。族譜では太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の16代末裔である。譲寧大君の長男富林令李順の子孫にあたる。王族としては、13代前の樹州正李允仁、その孫で丙子の役の時に武功を立てて全豊君を追贈された李元約などがいる。その後、数人の子孫が官職に就くも、6代前の李徴夏が陰職で県令となったのを最後に、没落した。李承晩自身は李氏朝鮮の王族の分家出身であることを誇りにしていた。
父敬善は、財産を放蕩で使い果たし、2番目の息子が死ぬと、地神を棒で叩き壊し、大刀を振り回し、その後、3ヶ月の間寝込んだ。
少年時代の李承晩は科挙合格を目指していたが、1894年に朝鮮に於ける科挙制度が廃止されたため、アメリカ人宣教師によるミッション・スクール培材学堂に入学した。培材学堂の第一期学生となり、1896年に設立された独立協会にも参加したが、時の親露派政権が高宗皇帝に讒言したため、1898年11月には独立協会の解散、指導者の逮捕が命じられ、独立協会は同年12月、強制的に解散させられた。李承晩も1899年に逮捕され、拷問を受けながら1904年まで獄中にいた。
同1904年の日露戦争の勃発後に日本が軍事的・外交的・経済的に大韓帝国に浸透するのに危機感をいだいた高宗らは、1882年の朝米修好通商条約の第1条の「周旋条項」に基づいて、アメリカ合衆国に朝鮮 の独立維持のための援助を求めることを構想した。そこで英語が話せた李承晩を釈放し、アメリカに派遣した。ハワイを経由して、アメリカに渡った李承晩は1905年8月、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、「我々は皇帝の代表者ではなく、一進会という団体の代表者である」とし、「皇帝は朝鮮人の利益を代弁する事ができない」と、大韓帝国と高宗を積極的に否定した。
その後李承晩はアメリカに残り、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学を経てプリンストン大学で博士号を取得した。このプリンストン大学による哲学博士号授与により、李承晩は朝鮮人初の博士号取得者となった。この時期にプリンストン大学の総長であったのが、後に大統領となるウッドロウ・ウィルソンである。なお、ジョージ・ワシントン大学における成績は、平均「C」と低い成績だった(Cの下はFで落第)が、上記のように修士課程を修了し博士号を取得した。なおアメリカ留学中の1910年に日本と大韓帝国の間で締結された日韓併合条約により、大韓帝国は大日本帝国に併合されることとなる。
大学院卒業後の1911年(明治44年)に日本領となった朝鮮半島へ戻り、ソウルのキリスト教青年会で宣教活動についた。しかし1年半の後、当時の寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件(朝鮮では「105人事件」と呼ばれている)の関与を疑われ、再び渡米した。アメリカに渡る途中に日本本土へ立ち寄り、下関、京都、東京に観光のため滞在し、鎌倉市で開催された朝鮮人学生大会にも参加した。渡米後の1913年(大正2年)に、ハワイの日本人としてホノルルに居を構え、学校職員として勤務する傍ら、朝鮮独立運動に携わった。
臨時政府と再度の渡米
1919年4月10日、上海で結成された「大韓民国臨時政府」(略称:臨政)の初代大総理に就任し、9月11日からは臨時政府大統領となった。上海臨時政府は、短期的にではあれ、朝鮮独立のための統一戦線として左右両翼を糾合できたという点で独立運動における画期的な存在であった。これまで独立運動に於いてそれまでほぼ無名であった李承晩が大統領に選ばれたのは、第一次世界大戦終結に際して民族自決をはじめとした「十四か条の平和原則」を唱えたアメリカ合衆国のウッドロウ・ウィルソン大統領と人脈があると考えられ、さらにかつての大韓帝国皇帝高宗とも繋がりがあるという事が指摘されている。実際、同時期に成立していた各種の朝鮮独立運動の「臨時政府」において、李承晩はリストのナンバー1か2に必ず名を連ねている。
一方で李承晩は、国際連盟による朝鮮の委任統治を提案していた。これは独立達成のためには委任統治というステップを踏むことが必要であるという考えであったが、これは左派の李東輝らの強い反発を受け、「第二の李完用」であると非難された。李承晩は完全に政府から浮き上がり、1920年12月8日に上海に入ったばかりであったが、1921年5月に上海を去った。やがて弾劾を受け、1924年からは1925年3月21日には、大統領職も追われている。以降はアメリカでのロビー活動に専念することになった。李承晩は「日本はいずれアメリカと敵対する、その時には朝鮮を戦友とするべきだ」、「日本の侵略を容認して朝鮮を見殺しにしたアメリカも同罪である」(桂・タフト協定)などと強い調子でアメリカの支援を要請したが、アメリカの支援は得られなかった。
1944年9月、カイロ宣言の「適切な手続きにより(in due course)」朝鮮の自由と独立を保障するとした文言に「なぜ彼ら(連合国)は、われわれを実質的に助けたり激励したりして、自分たちの真心を示そうとしないのか」と懸念を感じ、米国の官僚に対し「われわれ朝鮮は、国際社会で泣いている子どもと同じだ。われわれが望むのは、正義と公正だけだ。泣く子は、時や場所をわきまえない。朝鮮は、諸大国が集まりさえすれば、時も場所もわきまえることなく泣き立てるだろう」と語った。
大韓民国建国まで
第二次世界大戦勃発後、1945年8月15日に日本が降伏し、その後連合国首脳によるヤルタ協定に基づき、朝鮮半島は北緯38度線を境界に、北部はソ連軍、南部はアメリカ軍による連合国軍政に置かれることとなった。
朝鮮独立から2ヵ月後の1945年10月に李承晩は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に戻り、独立建国運動の中心人物となった。彼は他の運動家に比べて活動歴が長いこと、大韓民国臨時政府の初代大統領であったこと、「朝鮮建国準備委員会」(略称「建準」)に名を連ねたことがあること、アメリカでのロビー活動によってアメリカ国内では関係者に知られる存在であったことから、アメリカ国内においては「大統領に就任すべき正統性を備えている」とみなされていたと言われている。李承晩は帰国するやアメリカの意を受けて建準とも臨政とも距離をおき、反共統一を掲げた。朝鮮には他に有力な反共の右派が存在しなかったこともアメリカの支持を受けた理由の一つだったと思われる。即時独立を求める民族派の金九や中道派の呂運亨、左派の朴憲永といった有力活動家がアメリカと正面から対立する中で、李承晩はアメリカ軍政をある程度容認していた事も大きい。
李承晩は日本統治時代には朝鮮半島にいたことが殆ど無く、地盤も基盤も富も持ち合わせていなかった。これを支えたのが全羅道を本拠としていた金性洙率いる湖南財閥と、それが中心になって組織された韓国民主党(韓民党)である。韓民党は建準に対抗して臨政を支持していた。また解放後に新聞が行った各種世論調査において、李承晩は他の指導者に比べて圧倒的な支持を受けていた。反日民族派の金九による親日派粛清に恐れをなした日本統治時代の対日協力者が李承晩の支持基盤となったのである。
しかし、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁はおそらく当初の予定どおり李承晩を支持し、彼と韓民党を仲介した。臨政と韓国民主党は信託統治反対運動の路線などをめぐって対立しており、臨政と左派との合作が始まると、韓民党は李承晩に接近する。両者の連合は独自の勢力作りに動き出し、李承晩の下に政府準備組織「独立促成中央協議会」(独促、後の大韓独立促成国民会)を発足させた。このことで、アメリカ軍政下には独促・臨政・建準という3つの政府組織(政府準備組織)が存在することになり、ソウルは大混乱に陥った。
李承晩と韓民党の連合は「建準」で勢力を誇っていた左派と、その他の「大韓民国臨時政府」出身者に対抗し、アメリカ軍政開始直後のソウル政界で主導権を握った。
在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948年5月10日に行われた国際連合監視下での総選挙に臨んだ(初代総選挙)。この選挙は朝鮮半島の南北分断を固定化するとの理由から、民族派の金九や中道派の金奎植らの有力者も含めた大反対の中で強行され、各地で反対派による武装闘争が展開された。
南朝鮮単独での初代選挙に至る過程で起きた最も悲惨な事件が「済州島四・三事件」である。1948年4月3日には朝鮮の南北分断を固定するとの理由から、南朝鮮単独での総選挙実施に反対する過程で済州島四・三事件が発生し、少なくとも3万人の島民が南朝鮮国防警備隊やその後身の大韓民国国軍、南朝鮮の民間右翼などによって虐殺された。この事件は済州島だけは島民だけで今後は動こうとする運動を北朝鮮の介入と見て南側の軍部や自警団が島民を虐殺し済州島は後の大韓民国領土になった。この虐殺事件によって日本に逃れた島民には現在の在日韓国・朝鮮人になった者が多い。
総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制した。そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていた。
1948年8月13日に、アメリカ合衆国の後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国が建国された。李承晩は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。李承晩政権は地主・資本家および大日本帝国統治下の朝鮮人官僚を勢力基盤としていた。大韓民国建国の翌月、9月9日に朝鮮半島北部を実行支配していた北朝鮮人民委員会を母体に、朝鮮半島北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
1948年8月15日の大韓民国(南朝鮮)と9月9日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国後、大韓民国の李承晩大統領は「北進統一」を、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は「国土完整」を唱え、それぞれが互いに互いを併呑する形での朝鮮半島統一案を提示した。
大韓民国建国直後の政治的対立
李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れ続けた。対立派は多くの場合、反体制派というよりもむしろ議会政治家たちであった。
大韓民国建国直後の1948年9月に反民族行為処罰法が制定され、この法律によって1949年1月に反民族行為特別調査委員会が創設され、以後大韓民国では「親日反民族行為者」が法的に認定されている 。また、1948年に発生した麗水・順天事件を契機に、大韓民国国内の南朝鮮労働党員などの反李承晩左翼勢力除去を目的として、1948年12月1日に国家保安法 (大韓民国)を制定している。
1949年1月5日に朝日新聞を通じた日本への新年メッセージでは過激な反日姿勢を見せてなかった。そこでは「日本の皆さん新年おめでとう。韓国人は日本人が韓国人へ抱いてるのと同様に善良な皆さんに対してては何の呵責もない」、「過去40年、韓国人がうけた痛手は日本の軍国主義者の罪であって、日本人もまた政府の同様に被害をうけた。隣人の両国民はお互いに仲良くしなければならないことを日本人は忘れてはならない」としていた。
韓国政府の最初の対立は大統領制を採り続けるか議院内閣制を採用するかを巡って起きた。李承晩を支えていた韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される。
初代内閣組閣の時にも韓民党との対立は起こった。韓民党は金性洙を国務総理に推していたにも拘らず李承晩は李允栄を国務総理に任命、27対120の大差で否決される。しかし、李承晩は続いて李範奭を国務総理に任命、110対84で可決。初代内閣からは韓民党はほぼ排除され、金度演が財務部長官に任ぜられたのみとなった。
1949年には反李承晩勢力が団結して政界再編が起き、民主国民党(民国党)が生まれた。民国党には臨時政府出身者の一部も加わり、申翼煕、趙炳玉らがリーダーとなった。民国党は改憲案を上程したが、在席者中3分の2の賛成を得られず、改憲案は否決された。
更に、1949年6月26日には右派陣営で李承晩最大の政敵であった金九が安斗煕によって暗殺されている。安斗煕は反共団体の西北青年会の元会員で、思想的は李承晩に近い人物だった。
朝鮮戦争
1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が大韓民国(南朝鮮)に圧倒的な戦力で攻撃を開始、朝鮮戦争が勃発した。北から朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の侵攻を予想だにしなかった大韓民国国軍(韓国軍)は瞬く間に総崩れになり、李承晩も開戦2日後の6月27日午前3時に特別列車でソウルから逃亡し、6月28日に首都ソウルは陥落した。李承晩自身は大統領就任前から「北進統一」を主張していたが、いざ南北で軍事衝突が起こると漢江にかかる橋を爆破(漢江人道橋爆破事件)し、多くの軍人・民間人を置き去りにして自らが先に後方へ逃亡した。またアメリカ軍や大韓民国国軍上層部とも齟齬を来たすなどして、寧ろ厄介者扱いされることになった。
首都ソウルの陥落後、李承晩は政府を水原に移すと共に、自らは大邱に逃亡するもソウル北方の防御戦で北朝鮮軍を食い止めているとの情報を受けて大田まで戻った。しかし7月1日に大邱や大田にも北朝鮮のゲリラが浸透しているとの情報を受け、ジープと列車で木浦まで向かった後、海軍警備艇に乗船して再び逃亡した。翌7月2日の昼前、釜山に到着した。
また釜山陥落に備えて日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側に準備要請を行った。
1950年7月7日の国際連合安全保障理事会による国連軍創設決議案決議後、アメリカ合衆国のハリー・S・トルーマン大統領の指名により、ダグラス・マッカーサー元帥が7月10日に初代国連軍司令官に任命された後、7月14日に李承晩大統領は大韓民国国軍の指揮権を国連軍司令官に移譲した。1950年9月15日のダグラス・マッカーサー国連軍司令官による「仁川上陸作戦」により形成が逆転し、9月26日に国連軍が奪還し、9月28日に北朝鮮軍の掃討を経た後、9月29日に李承晩大統領は釜山からソウルへと首都を再遷都した。
国連軍のソウル奪還後、開戦以前の南北両政府の事実上の国境線であった北緯38度線を国連軍が北上することはソ連や中華人民共和国など共産圏の介入を招くのではないかと国連軍内部で問題となったが、「北進統一」を望む李承晩大統領は丁一権参謀総長に大韓民国国軍の38度線北上を指示したため韓国軍は38度線を越え、既に国連軍司令官のダグラス・マッカーサー元帥も38度線突破を決意していたこともあってこの大韓民国の独断突破は事後追認された。大韓民国国軍と国連軍は朝鮮半島の北進を続け、1950年10月19日には北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の首都機能の存在した平壌に入城し、10月26日に林富澤大佐率いる大韓民国陸軍第6師団第7連隊(英語版)は楚山を攻略、中朝国境の鴨緑江に到達した。
「抗美援朝」と大書された朝鮮戦争(1950年-1953年)当時の中華人民共和国のプロパガンダ・ポスター。李承晩大統領の指示による大韓民国国軍の38度線北上突破とその後に続いた国連軍の北進は、1949年10月1日に建国されたばかりの成立間もない中華人民共和国の毛沢東主席に「保家衛国、抗美援朝」の標語の下で、彭徳懐司令官率いる中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)の直接介入を決断させ、朝鮮戦争を最初の東西冷戦の代理戦争とするに至った。
しかしながら、この1950年10月以降の大韓民国軍、及び国連軍の38度線北上に際し、毛沢東主席や周恩来総理ら中華人民共和国の首脳部は台湾に逃れた中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国(台湾国民政府)の占領よりも、朝鮮戦争を重視する観点から、中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)の参戦を決意しており、「保家衛国、抗美援朝」の標語の下で同1950年10月19日には彭徳懐司令官率いる抗美援朝義勇軍が鴨緑江を渡って朝鮮入りし、10月25日より本格的に国連軍と衝突した。国連軍はこの抗美援朝義勇軍の人海戦術に敗北を重ね、12月5日には占領した平壌から撤退し、同年12月中に中朝連合軍は38度線にまで南下、翌1951年1月4日に中朝連合軍はソウルを再占領するに至った。この間に李承晩大統領は慌てふためき、日本への亡命を訴えて米軍将校にたしなめられた。1951年1月10日、李承晩大統領はアメリカトルーマン大統領宛にソビエト連邦首都への原子爆弾を使用した民間人大量殺戮を示唆する書簡を送っている。
「今ならまだ韓国軍は戦線を維持できます。しかしこの機を逃せば、中国と北朝鮮の共産主義者共は、我が軍を壊滅させ、反共主義勢力を滅ぼすでしょう。 (中略) マッカーサーに、共産主義侵略を阻止する原子爆弾使用許可を与えるべきです。モスクワに原子爆弾を数発落とせば、世界の共産主義者共は震え上がるでしょう。」
こうして中華人民共和国の直接介入後、朝鮮戦争は東西冷戦下の代理戦争の様相を呈し始め、李承晩の存在感は徐々に薄れていき「李承晩が朝鮮人民軍に捕まった」と言う噂までが流れる始末だった。
朝鮮戦争期の政争
戦争の最中でも李は野党の弱体化を目論見、野党の民国党のスポンサー的存在だった湖南財閥の中核・京城紡織(京紡)の預金引き出しを停止する。このため京紡は李承晩派に資金供給先を変更し、民国党は強力な経済的基盤を失うこととなる。
1952年1月18日には李承晩ラインを宣言した。このラインが撤廃(日韓基本条約)されるまでの13年間に日本漁船の捕獲事件など日本人抑留者は3929人、死傷者は44人を数え、人間として満足な生活をする権利すら与えられず、家族が送ってくる差し入れ品すら韓国警察によって中身が抜かれて届かなかったりした。当時、李承晩が「アメリカは余り信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本は必ず再起する。注意せよ!」が韓国で流行語になった。
同年には再び議会との対立が激化したが、政府は釜山に逃亡していた。任期切れを控えていた李承晩は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を提出した。これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。李承晩は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した(釜山政治波動)。1952年7月4日、国会が警察に包囲されている中、与党議員がほとんどを占めている国会で改憲案は可決された。大統領の選出は直選制となった。この頃までに李承晩派は自由党を組織している。この時期、アメリカは戦時下において議会との対立を解消できない李承晩の排除を考え始めたと言われている。国民防衛軍事件や居昌良民虐殺事件によって韓国陸軍本部では李承晩に対する反感が高まっていた。
朝鮮戦争初期に大韓民国に侵入した朝鮮人民軍兵士は、その後、韓国内でパルチザン闘争を繰り返した。同じ朝鮮民族によるパルチザン闘争の衝撃は強く尾を引いた。また、李承晩が傷病兵の慰問としてある病院を訪れた時、その中に韓国出身の在日朝鮮人の義勇兵が混ざっていた。
一方で李承晩は1953年1月5日から1月7日までの間、国連軍総司令官マーク・W・クラーク大将の招きの形で非公式に訪日し、1月6日にクラークの公邸で吉田茂首相と約1時間対談した。内容は未だに明らかではないが険悪なやり取りであったとされる。
李承晩がエキセントリックな再登場を果たすのは、1953年、膠着した朝鮮戦争について国際連合主導による休戦提案が出始めてからである。「停戦反対、北進統一」「休戦は国家的死刑」を口に最後まで休戦に反対し、「北進統一論」に基づいた朝鮮半島の大韓民国による統一にこだわった。しかし、それを尻目に国連は粛々と休戦への道筋を作り、6月8日に両軍の捕虜送還協定が締結された。すると李承晩は、6月18日にアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令して、抑留捕虜2万5000人を北へ送還せずに韓国内で釈放するという事件を起こした。正式に決まった協定を反故にする暴挙だったことから国際世論の非難が高まった上に、北朝鮮内の中国人義勇兵(抗美援朝義勇軍)の全面撤兵を李は要求し、早期休戦を望む国連軍やアメリカと激しく対立した。7月16日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は以下の様に報じている。
「ここ3年というものは李承晩について聞いたことがなかった。3年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、「国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない」と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ。」
しかし、あまりにも尊大で強引な李承晩は、件の捕虜釈放事件で孤立することになった。 李承晩はやむなく休戦に同意し、1953年7月27日に大韓民国の要人が署名しないまま、中朝連合軍代表の南日朝鮮人民軍大将と国連軍代表のウィリアム・ハリソン・Jr(英語版)アメリカ軍中将が朝鮮戦争休戦協定に署名した。
朝鮮戦争休戦後も李承晩はアメリカ議会に出向き、再び「北進統一」を訴えたが、もはや彼の言葉に耳を貸す者は誰もいなかった。
朝鮮戦争休戦以後
1954年10月14日には「韓国の生徒達へ日本帝国主義の侵略性とその韓国への悪意を教えるよう命令した。これは韓国経済を独占を望む日本の陰謀への対抗措置で教師・大学教授に命じて生徒を激動させようとするもの」と発表させた
1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。しかし、生涯大統領を望む李承晩及び与党自由党は「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。11月27日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、136票が必要だった。わずか1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。しかし、李承晩派の国会議長は、135.33票とは社会通念上の概念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えているとして改憲案の可決を宣言した(四捨五入改憲)。
1956年、80才を過ぎた李承晩が三選を狙った大統領選挙に際して、民国党を中心とする野党勢力は「やってられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、「民主党」を結成した。一方、自由党は「替えても変わらにゃ、長老(李大統領)がマシ」というスローガンで対抗した。
民主党は大統領候補に申翼煕、副大統領候補に張勉、自由党は大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬という布陣だった。
選挙直前の5月5日、民主党の大統領候補・申翼煕が遊説に向う途中の列車の中で脳溢血で倒れ、急死するというトラブルがあり、民主党は副大統領候補だけの選挙を余儀なくされた。官憲の介入もあり、選挙の結果、李承晩は大統領三選を果たしたが、副大統領の李起鵬は民主党の張勉に敗北。大統領が与党、副大統領が野党という一種のねじれ現象が起きた(1956年大韓民国大統領選挙を参照)。
高齢の李承晩に万一の事態が起これば副大統領の民主党の張勉が繰り上げて大統領になる上に、次の大統領選で李が当選するかさえも怪しくなり自由党は危機感を抱いた。同年9月28日には退役軍人による張勉副大統領暗殺未遂事件を起こし、1959年4月30日には張勉系の野党紙『京郷新聞』を廃刊処分させ、同年7月には前年に進歩党事件で逮捕しだ奉岩・進歩党党首を処刑するなど、李は徹底的な政敵潰しを行った。
李承晩は25才年下のフランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、遠縁にあたる側近で副大統領候補でもあった李起鵬の長男・李康石(イ・ガンソク)を子に迎えた。李康石は1957年にソウル大学校に入学をするが、その入学が特恵措置によるものであったことから騒動となった。しかし李承晩の独裁下では批判が出来ようもなく、案の定「独裁者の息子」はたびたび問題を起こし、朝鮮日報社『韓国現代史119事件』ではこう記されている。
「1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。」
この風潮に便乗する格好で、1957年8月末に姜聖柄という22歳の男が李康石になりすまし、「父から密命で公務員の不正を調べている」と地方の道知事や警察署長などを騙し、厚い接待を受けたり金品を要求するという事件を起こした。事件発覚後、慶州知事の「貴いお方が一人でいらっしゃったのだから」という発言が取り沙汰され、かねてからの李康石への無法への反感や政権への不満感から「貴いお方」という言い回しが流行語となった。
1959年12月4日には、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の南日外相の呼び掛けに応じた日本政府による在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために、李承晩政権は密かに日本に民団所属の在日韓国人と協力して、「北韓帰還阻止工作員」を送り込んで新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こした。
四月革命による失脚
1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李承晩は選挙期間を早めた。野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。
この選挙では与党の不正工作は前回の大統領選挙よりも徹底された。副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した(1960年大韓民国大統領選挙を参照)。
1960年3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正が酷かった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。
同年4月11日、このデモを見物に行きそのまま行方不明になっていた高校生・金朱烈が、馬山の海岸で頭に催涙弾を打ち込まれた状態で遺体で発見された。市民・学生などは、当局に彼の死因を究明する要求を掲げ、再度デモを行ったが、当局は再び「デモは共産党主義者の扇動」とこれを鎮圧し、デモの主導者を逮捕した(馬山事件)。
馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学とソウル市立大学の学生が国会前で座り込み(帰宅途中に暴漢に襲われ、多数の負傷者が出た)、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(4・19学生革命)。
同年4月20日、ウォルター・P・マカナギー駐韓アメリカ大使(英語版)が景武台を訪れ、「民衆の正当な不満に応えないのなら、アイゼンハワー大統領の訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する。一時しのぎは許されない」と、李承晩に対して事実上の最後通牒を突きつけ、頼みの綱だったアメリカにまで見放された形となる。4月23日には「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をし、民衆の怒りは最高潮に達する。
政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。デモは約1週間続き、同年4月25日には、ソウル大学を中心とした全国27大学の教授団が呼びかけた「李承晩退陣」を要求する抗議デモが発生、ソウル市民3万人が立ち上がり、韓国全土に一気に退陣要求の声が広がった。このとき、学生代表5名と会見した李承晩は「若者が不正を見て立ち上がらなければ亡国だ。本当に不正選挙ならば君たちの行動は正しい。私は辞職しなければならぬ。」と語り、覚悟のほどを示した。(金大中『私の自叙伝』)翌4月26日には、パゴダ公園にある李承晩の銅像が引き倒され、腹心である李起鵬副大統領の邸宅が襲撃される事態にまで発展。国会でも大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択された。このことを受けて午前中に、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、漸く下野した。建国以来12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。2日後の4月28日に、養子の李康石が一家心中を図って李起鵬一家(実父母と実弟)を射殺、自らも命を絶った。
李承晩は1960年5月29日早朝に妻とともに、金浦空港からアメリカ・ハワイに亡命した。韓国で李の見送りに訪れたのは、大統領代行となった許政外務部長官だけだった。
1965年7月19日、李承晩はハワイの養老施設で90年の生涯に幕を閉じた。臨終に立ち会ったのは妻のフランチェスカと養子であった。妻のフランチェスカは李承晩の没後、故郷であるオーストリアを経て1970年5月16日に韓国へ戻り、1992年3月19日にソウルにおいて92歳で死去している。
政策
経済政策
韓国併合時代に日本が建設した重化学工業施設の多くは鉱物資源が比較的豊富な半島北部に集中して立地し、他方南部に於いてはその多くが農地と山林で占められ、日本が建設した社会インフラ(港湾や橋・交通網)が整備されたとは言え工業施設は繊維産業などの軽工業が中心だった。このため建国直後の韓国は非常に困難なスタートを余儀なくされ経済力では北よりも劣悪だったにも関わらず、反共政策が優先される中で経済振興策は等閑にされていた。そこに朝鮮戦争が追い討ちをかける格好となり、工場建物の44%、機械施設の42%、発電設備の80%が被害を受けるなど農地の荒廃や工場施設や社会インフラの破壊を招いた。
朝鮮戦争の休戦を同意(署名は最後まで拒否)するにあたり李承晩はアメリカからの経済支援を要求し、朝鮮戦争休戦後の1953年10月1日に米韓相互防衛条約が署名されたことを契機としてアメリカからの多大な経済支援が始まった。自給できる資源が全く存在しない中ではアメリカの経済支援を原資とする「三白産業」(製粉・製糖・紡績)が主要産業となり、「実需要者制」に従い援助物資が割り当てられる建前だった。しかし実需要者の中でも政治力のある業者団体が独占的に配分を仕切り、しかもその中でも圧倒的な財力を誇る財閥系の企業が独占的に買い取ることが常となった。加えて実勢レートに比して公定為替レートでドルが過小評価(つまりウォンの過大評価)されたばかりか低金利政策によって、政権と癒着した財閥が多大な利益を得ることとなる。
こうした手厚い保護を受けた財閥系の企業による「三白産業」は圧倒的な速度で工業化し1957年には経済成長率は8.7%に達したものの、政権末期になると過剰設備投資が顕在化し加えて援助の削減から深刻な不況が起きた。また商工業が盛んになったのとは裏腹に、農業政策はほぼ無策に等しかった。インフレ抑制の一環として(なおかつ「三白産業」の発展を利することもあって)米価は低価格に抑えられたものの、結果として農業従事者の収入の低下・不安定化を招き、春窮農民が増大化することになった。李承晩政権の末期には、春窮農民が農業従事者の半数に達した。こうした経済政策の無策もあって、1961年の朴正煕政権成立まで一人当たりのGNPも80ドル前後に止まる事となる。ただし、韓国経済が解放・分断・戦争の過程を経て、1953年から1955年における一人当たりの実質所得がほぼ1910年代の水準にまで後退し、これが1940年代のレベルにまで回復するのは1965年を待たねばならなかったという状況を留意する必要がある。李承晩政権期から朴正煕政権期の1970年前後まで、南側の大韓民国よりも北側の朝鮮民主主義人民共和国の方が経済的な体力では勝っていたのである。ただし、そのような状況は、あくまで北朝鮮が日本から受け取った物質的な遺産が豊富だったからだともいわれる。例えば1930年代後半から推進された軍需工業化の結果、解放後の1946年当時、北朝鮮ではおよそ800か所以上の大規模工場が稼働中であり、製鉄、精錬、電気、化学など、当時世界の先端レベルの工場群が存在した。1939年以降に日本からもたらされた電気・化学工業の大規模工場は、従業員数が3000、あるいは6000を超える場合もあり、現在確認されたものだけでも200か所を超える。北朝鮮に敷かれた鉄道網は一人当たりの鉄道の長さでは日本内地より高い水準にあった。一人当たりの発電量も、北朝鮮では日本を凌駕するレベルであった。反面、南朝鮮が日本から引き継いだ物質的な遺産は貧弱だった。南朝鮮で最も大きな産業は米穀の輸出であった。工業施設は醸造所・精米所のような食品加工業か、印刷業・陶磁器業のようなものがほとんどであった。
このような経済状況を反映してか当時の韓国では砂糖が大変な高級品とされており、外国人記者団との会談の最中にコーヒーと角砂糖が差し出され、外国人記者達が自国で行っている通りに複数の角砂糖をコーヒーの中に入れている光景を目の当たりにして、「貴方たちの国ではコーヒーの中に砂糖を入れるようだが、私たちの国では砂糖の中にコーヒーを入れる」と自身が自虐的とも取れる冗談を発言したことがある。日本からの多額の無償援助や借款による急速な経済発展を達成した朴正煕と比べて経済の停滞を解消できなかったとして韓国内での評価はきわめて低く、「漢江の奇跡」に象徴される躍進の1960年代とは対照的に、停滞の1950年代と捉えられることが多い。
対日政策
朝鮮の独立運動に併合前後から関わっていた経歴から、李承晩は日本を激しく嫌った。アメリカ滞在中には併合以前の李朝を「東洋の理想国家」であったと積極的に言論活動を展開し、これがハースト系新聞によって宣伝された日本=野蛮国論の一部となりアメリカが極東に政治介入する政策の根拠となった。また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものを抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。加えて権威主義政権として基盤の脆弱であったことや、保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件の様な失政から国民の目をそらすべく、今日でも李承晩の民族主義的政策による影響は根強く残っており、日本と韓国間に横たわる問題の多くが李承晩時代に端を発している。
代表的な対日政策の1つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。日本の軍隊が解体された隙を突いて、国連海洋法条約や排他的経済水域が成立する以前に豊富な水産資源の漁場の確保を目的として一方的にとられた措置であった。李ラインを越えて操業している日本漁船は従来は公海とされている領域であっても拿捕され、長期間に渡って抑留されたり韓国官憲による銃撃によって判っているだけでも44人の死傷者を出している。李承晩失脚時の1960年4月27日にはダグラス・マッカーサー2世駐日アメリカ大使が国務省に向けて機密電文3470号を送信した。その中で彼は、李承晩政権が力ずくで日本の漁民を拘束していることを非難し、人質となった漁民たちを「李承晩による残酷で野蛮な行為を受け苦しんだ」と表現し、李承晩在任中の8年間日本人は李承晩の擁護できない占領主義的手法で苦しんできた、と報告している。
また李ラインの目的の一つには竹島(韓国名:獨島)を自国領に取り込むということがあったが、それ以前にサンフランシスコ条約の交渉文書であるラスク書簡で竹島を日本領とすることなど今迄の経緯を無視する格好となった。李ラインの設定で韓国の実効支配下に置かれることとなった竹島の処遇は、現在に至るまで日韓の懸案問題になっている。領土問題に関しては、他にも対馬ばかりか沖縄までも韓国固有の領土と発言するなど、幾度となくマッカーサーから叱責を受けるほど日本を占領したいと発言していた。
対日関係は領土問題や李ライン絡み以外でもしばしば対立が起き、こと北送事業(北朝鮮帰国運動)に関しては二度にわたる通商関係の中断や予定されていた日韓会談を「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難して中止(1959年8月)するなど激しく反発した。そればかりか工作部隊を密航させ、北送事業を主導していた日本赤十字社施設の破壊や日本側担当者の暗殺、帰国船が入港する新潟港に通じる鉄道網の破壊を謀った。
李承晩の日本への反感は留まることを知らず、1954年のFIFAワールドカップ・予選アジア予選では「植民地支配した日本人を領土に入れるわけにはいかない」として敵地日本で2試合戦うことを条件にサッカー大韓民国代表の参加を許し、当時の代表監督に「もし負けたら、玄界灘に身を投げろ」と言ったというエピソードがある。出場を決めた際には歓迎式と祝賀パレードが行われた。日本の大衆文化は「公序良俗に反する表現」として規制を受け、教育面でも反日教育を徹底。日帝時代を懐かしむことを公にすることさえ共産主義者などの反政府分子と同様に政治犯となり、韓国成立後のわずか2年で投獄された者の総数が日本統治時代の約35年間の投獄者数を超えるくらいだった。独立直後は、日本の朝鮮統治時代を具体的に知っている韓国国民が大多数だったが、こうした政治的弾圧から今の韓国では親日派として断罪される事が社会的に抹殺されるに等しくなってしまった。その一方で日帝時代に官僚として務めていたエリートや少なからず国策に協力していた財閥や企業は、その多くが独立後も李政権下で重用されたり政権の支持基盤となるなど、独立直後に謳われていた親日派処分は不十分に終わっている、今日の韓国の教科書では「李承晩政権は反共に徹するあまり、親日派の処分が不十分であった」といった趣旨の記述があり(金大中も自著の中で同じ内容の批判を述べている)、親日派の糾明は現代の韓国で主要な政治議題となっている(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法を参照)。
後の朴正煕政権は日本との妥協点を模索し、1965年に佐藤栄作内閣総理大臣との間で「日韓基本条約」を批准した。朴正煕政権は日本からの多額の無償経済援助や借款を得るとともに、対日貿易が経済発展の唯一の方法として積極的に推進した。このような朴正煕政権の政策と対比して、李承晩政権の対日政策と1950年代の経済低迷との因果関係が指摘されている。
また日本の大衆文化を規制したことも、結果としてその剽窃や海賊版などが横行する事態に陥った。後に大韓民国でも著作権の概念が浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなったこともあって、今日では次第に改善されてきている。
評価
李承晩の政策は彼個人の反共産主義を軸にした「反共に執心して全く見えていない」物で、まず南半部による単独政権を樹立してから軍事力による北半部の併合を構想した(北進統一論)。1948年8月15日の大韓民国建国の翌9月9日に建国された朝鮮民主主義人民共和国を国家として認めず、「朝鮮半島北部の反国家団体による不法占拠」であるとした上で、大韓民国は朝鮮半島における唯一の合法的な国家であるとし、国際連合もこれに従った。
朝鮮戦争の前後から反共政策・プロパガンダは激しさを増し、激しい戦禍を経験した韓国社会には共産主義者を敵視する強い反共意識が芽生えほぼ国民的合意となった。だが、北朝鮮の侵攻を受けた韓国が混乱し半島南端の釜山にまで追いつめられるほどの醜態をさらしたのは、李承晩個人の資質によるところが大きい。劣勢に陥ると誰よりも早く逃げ出し、首都ソウルが北朝鮮に侵攻されつつある中で自分は在韓米軍基地に避難しながらも避難民で大混乱状態の漢江の橋をかまわず爆破、犠牲者を出すばかりか多くの非戦闘員が取り残されてしまった。その一方で優勢になると見るや誰よりも目立とうとして先頭に立ち、仁川上陸作戦で北朝鮮軍の掃討が成功しつつある際に連合軍としての規律を無視して大韓民国国軍部隊を勝手にソウルに先行させた。韓国から38度線を越えた北朝鮮への逆進攻が敢行されたのも、国連軍のマッカーサー司令官の意図もあったものの、最初にそれを決断したのは李承晩の独断専行であった。
建国の父となるべき反共の大統領・李承晩は、生涯大統領を望み、次第に非民主的・権威主義的な性格を現し始めた。大統領であり続けるために憲法改正の強行や選挙への不正介入を繰り返し、国会での政敵や選挙の民主化・不正の真実を求める民衆を「容共的」「北のスパイ」「平和統一論を唱えた」「パルゲンイ(共産主義者の蔑称)」等と斬り捨て激しく弾圧した。しかし、最終的に彼を大統領の座・建国の父の座から追い落とすことになったのは、4・19学生革命での民衆の力であった。
李承晩政権下の混乱を観察したグレゴリー・ヘンダーソンは日本による大日本帝国統治の歴史は朝鮮の政治意識・構造を変えることがなかったと考え、李承晩政権は朝鮮の伝統的政治体質を引き継ぐものと指摘した。
独裁者李承晩は「本当に貴いお方」朝鮮国(李氏朝鮮)最後の王位継承者李垠とその夫人李方子の帰国を許さなかった。王政復古を疑っていたという側面もあるが、李承晩には朝鮮半島の2度の支配(日本による併合、米軍による軍政)から大韓民国という独立国家を立ち上げたプライドがあった。李氏朝鮮時代の残滓、特に従属国主義などは真っ先に忌諱すべきもので、それを支えていた王家の人間などは自分が築き上げた独立国家に入国させるべきではないと考えていたが、政治・経済に関する実務能力のある人間が自派に皆無であったことから結果的に日本施政下で官僚として働いたり実業家として致富を為した人間に依存せざるを得ず、日本が撤退してからは世界最低の最貧国の一つに数えられるほど貧しい財政基盤ではアメリカの後ろ盾や援助なしには国家の運営もままならない状態であった。そのためアメリカに見放された後、傀儡政権でしかなかった彼には大韓民国を運営できなくなり、亡命するに至った。李承晩には大清皇帝功徳碑を恥さらしだとして埋めたという逸話が残っている。
しかし李承晩とその他の政治家との対立を、かつての李氏朝鮮時代における王(君主)と両班(官僚-貴族層)との権力争いになぞらえる論者、『朝鮮王朝最後の君主』とする論者も多数存在する。事実、李承晩の政権は文治国家であった李氏朝鮮の系譜の延長線上にあり、その系譜が絶たれたのは次の独裁者朴正煕の軍事政権でのことである。
現代の韓国において、李承晩は「建国の父である」という評価と、「民衆を恐怖に追い遣った独裁者である」というものに分かれている。これに共通して、朴正煕の評価も韓国では2つに分かれている。 
 
尹潽善 (ユン・ボソン 1897-1990)

 

大韓民国第4代大統領。本貫は、海平尹氏。号は海葦(해위 ヘウィ)。尹致昊·尹致旺の従甥、尹致暎の甥。尹致昭(尹致暎の異母兄)の長男。忠清南道牙山郡(現在の牙山市)生まれ。独立後初代のソウル市長として政界入りし、商工相・大韓赤十字社総裁を経て民主党最高委員に。4.19革命で李承晩が失脚・亡命すると、民主党旧派の代表格として8月12日に大統領に選出された。しかし、新派の代表格で政治的実権を握っていた張勉首相との確執が絶えず、自ら民主党を離党して新民党を結成。5・16軍事クーデターの遠因を作った。大統領辞任後は野党の指導者として2度朴正煕に挑戦するなどし、軍事政権への抵抗と民主化運動に取り組んだ。
生涯
尹潽善は、李氏朝鮮時代の1897年(建陽2年/光武元年)8月26日に、忠清道牙山郡屯浦面新項里にて、父・尹致昭と母・李範淑の子として生まれる。1903年(光武7年)、漢城府(現在のソウル)の漢城府校洞普通学校に入学し、1907年(光武11年/隆熙元年)に卒業する。その後、1910年(隆熙4年)4月に京城の京城日之出小学校の5年生に編入した。
独立運動、アメリカ軍政時代
1917年、上海に渡り、1919年には三・一運動の直後に設立された「大韓民国臨時政府」の設立に携わり、大韓民国臨時政府議政院議員に選出された。その後、1921年6月に上海を離れ、欧米に留学する。1932年に帰国する。
第二次世界大戦で日本が敗戦した後の1945年9月1日に、許政や金度演などの保守系人士を結集して韓国国民党を結成した。10月4日にアメリカ軍政庁から農商局上級顧問に任命される。1948年5月10日、制憲国会議員総選挙に韓国民主党から出馬するが、落選する。その後、1949年6月6日には商工部の長官となるが、1950年5月9日に李承晩大統領との対立により商工長官を解任される。
1950年11月、大韓民国赤十字社初代総裁に就任するが、2年後の1952年9月2日に辞任している。
政治家として
○政界入り
1954年5月20日、第三代国会議員選挙において、ソウルの鍾路甲区から民主国民党(民国党)の公薦で出馬し、当選を果たした。その後、1955年9月に民国党など保守野党勢力が結集して民主党が結成されると、初代議員部長に就任した。
1958年5月2日の第四代総選挙ではソウル鍾路甲区から民主党の公薦で出馬し、再選を果たした。その後、1959年に民主党の最高委員となった。
○大統領在任中
その後、4・19革命後に行なわれた1960年7月29日の第五代国会議員選挙で3選、同年8月12日には両院の合同会議で大統領に選出される。民主党旧派の指導者である彼は野心がないように行動、新派の指導者から簡単に支持を得た。翌1961年5月16日に5・16軍事クーデターが発生、クーデター軍からの要請もあり大統領の座に留まるが、翌年3月に軍政が制定した政治活動浄化法に抗議するため下野した。
○野党政治家として
1963年9月12日、民政党を結成し、同党の大統領候補に指名された。同年10月15日の第五代大統領選挙では朴正熙候補(民主共和党)に僅差で敗れた。翌月11月25日に行われた第六代国会議員選挙で当選(全国区、民政党)。
1965年5月3日、野党第二党の民主党と合同して結成された「民衆党」の党首(代表最高委員)を選出するための選挙で朴順天(旧・民主党代表)に敗れる。同年7月28日、日韓基本条約の国会批准に反対し、議員辞職で抗議の意志を示すとして自ら民衆党を離党する。そして翌年3月に彼と共に議員辞職した議員と「新韓党」を結成、党総裁に就任した。
1967年2月7日、民衆党と新韓党が合同して「新民党」が結成され、尹潽善は新民党の大統領候補に指名された。しかし同年5月3日に行われた第六代大統領選挙では、朴正熙大統領に大差をつけられて敗北した。
1971年1月6日に国民党を結成、同党の総裁に就任。
1976年3月1日、3・1民主救国宣言を金大中らと発表。1978年2月24日、民主救国宣言を咸錫憲とともに66人で発表する。このことは政府から「憲法秩序を破壊しようとする非合法活動である」と厳しく非難されて緊急措置9号違反で立件され実刑判決を受けた。
1990年7月18日に死去した。満92歳没。
評価
こだわりが強いという評価と原則主義者という評価がある。 
 
朴正煕 (パク・チョンヒ 1917-1979)

 

大韓民国の軍人、政治家。国家再建最高会議議長。第5代から第9代までの大韓民国大統領。本貫は高霊朴氏。号は「中樹(チュンス、중수)」。創氏改名による日本名は高木 正雄(たかぎ まさお)。1番目の妻に金好南。2番目の妻に文世光事件で暗殺の犠牲となった陸英修。金好南との間に長女の朴在玉。陸英修との間に、次女で第18代大韓民国大統領に就任した朴槿恵と、長男でEGテック現会長の朴志晩。親日派と勘違いされるが、巧みな話術で日本側から経済協力や資金を手に入れた用日の達人であった。
日韓併合後の朝鮮半島に朴成彬と白南義の末っ子として生まれる。朝鮮名では朴正煕、日本名では高木正雄と名乗った。大邱師範学校経て学校教師を務めていたが、やがて軍人を志して同じく日本の影響下にあった満州帝国の軍官学校(士官学校)に志願入隊する。卒業後は成績優秀者が選抜される日本の帝国陸軍士官学校への留学生となり、第57期生として日本式の士官教育を受ける。帰国後は満州軍第8団(連隊)副官として八路軍や対日参戦したソ連軍との戦闘に加わり、内モンゴル自治区で終戦を迎えた。
第二次世界大戦後、中国の北京に設置されていた大韓民国臨時政府(朝鮮系住民による独立組織)に加わり、朝鮮半島の南北分離時は南部の大韓民国を支持して国防警備隊の大尉となった。国防警備隊が韓国国軍に再編された後も従軍を続け、朝鮮戦争終結時には陸軍大佐にまで昇進、1959年には陸軍少将・第2軍副司令官の重職に就いた。一方、内戦を終えた韓国内では議会の混乱によって一向に復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化していた。これらの状態に対して軍の将官・将校・士官らの改革派を率いてクーデターを決行し軍事政権(国家再建最高会議)を成立させた(5・16軍事クーデター)。形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党による事実上の独裁体制を形成し、第5代から第9代大韓民国大統領(在任:1963年 - 1979年)と大統領任期を5期に亘って務め、権威主義体制による開発独裁を推し進めた。
独裁政権下では日本国の佐藤栄作内閣総理大臣と日韓基本条約を批准して日韓両国の国交を正常化し、更にアメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領の要請を受けて1964年にベトナム戦争に大韓民国国軍を出兵、日米両国の経済支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成した。大韓民国は1960年代から1970年代にかけての朴正煕執政下の高度経済成長により、1970年頃まで経済的に劣位であった同じ朝鮮民族の分断国家、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を経済的に追い越し、最貧国グループから脱した。
一方で統制的な軍事政権下では民主化などの運動は徹底して弾圧され、人権上問題のある拷問や政治犯の投獄なども行われた。また対外政策においてもアメリカとの強固な同盟関係を作り出したベトナム戦争において、米軍同様に虐殺や戦争犯罪に関与させる結果となり、ベトナムとの外交関係は悪化した。また日本との友好姿勢も国内の民族主義(左派ナショナリズム)から敵視される背景となった。政権後半には単独での核武装などの自主国防路線や、日本に滞在していた民主化活動家の金大中を諜報機関(KCIA)により拉致し国家主権を侵害する(金大中拉致事件)など強硬な政策を進めた。
1979年10月26日、大規模な民主化デモの鎮圧を命じた直後、側近である金載圭情報長官により暗殺された。享年61。
生涯
幼年時代
朴正煕は、日本統治下の朝鮮の慶尚北道善山郡亀尾(クミ、現在の亀尾市)で、貧しい農家の5男2女の末子として生まれた。父親は科挙に合格したが、韓国が日本に併合された後に没落し、墓守をしていた。
1924年に7歳にして普通学校に入学した。小学生の頃は、学校に弁当を持って行けないほど生活は苦しく、後世、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという。小学生時代の朴正煕は李舜臣とナポレオンと軍人になることへの憧れを抱いた。家が貧しい上に病弱だったが、亀尾小学校を優等で卒業した。
教員時代
小学校卒業後、教師からの薦めを受けて大邱師範学校を受験し、1932年に100人中51番の成績で合格した。大邱師範学校での生活は朴正煕の気質に馴染まず、3年次には成績不振から官費支給生を脱落、4年次には成績最下位となったものの、師範学校卒業後の1937年4月に慶北聞慶国民学校に赴任、日本人の校長に不満を抱きつつも日本軍の軍人に憧れを抱く熱心な教師として勤務した。なお、師範学校4年次に結婚している。しかし、日中戦争下での「総力戦」の掛け声の下で推進されていた坊主頭を拒んだため、1939年に聞慶を訪れた視学監に頭を丸めず長髪を続けたことを問題にされたことに怒り、酒宴の席で視学監と衝突、その後教師の職を辞した。
軍人時代
○満州国軍
1939年の教師失職後、大邱師範学校で軍事教練を受けた有川圭一の推薦を受け軍人になることを決意、日本国籍のまま1940年に満州国の首都新京の陸軍軍官学校に合格者240人中15番目の成績で合格した。
満州軍官学校入校の翌1941年に創氏改名で高木正雄の日本名を名乗り、その後更に岡本実に名を改めている。朴正煕が合格した満州国軍軍官学校2期生には、朴正煕を含め12人の朝鮮人学生がおり、彼らは満系生徒として生徒中隊に配属された。朴は第3中隊第3区隊の所属だった。1942年3月に非日本人の首席で卒業、満州国皇帝溥儀から恩賜の金時計を授けられている。当時満州国軍中尉だった丁一権は朴正煕と親しく、新京で会う際にはしばしば、いずれ日本帝国主義が滅び、韓国が独立するとの旨を朴正煕から酒の席で聞いたと証言している。
満州国軍軍官学校卒業後、日本の陸軍士官学校に留学、第57期生編入を経て、1944年に卒業した。日本陸軍士官学校卒業後、チチハル駐屯の関東軍部隊に見習士官として配属され、3か月間勤務した。1944年3月に満州国軍少尉に任官、朴正煕は満州国軍第5軍管区隷下の歩兵第8団(所在地:熱河省興隆県半壁山鎮(中国語版)、団長:唐際栄上校)の朝鮮人将校4人のうちの一人となった。1944年7月下旬から8月初旬ごろまで行われた八路軍討伐作戦では第8団第2連排長として参加。しかし朴の部隊は八路軍と交戦しなかったという。1945年7月に中尉に昇進、ソ連対日参戦により1945年8月9日にソ連軍が満州国に進攻した後、1945年8月15日の日本の降伏時は第八団の副官を務めていた。副官には甲乙の2種類があったが、朴は乙種副官であり、主に隷下部隊への作戦命令通達や団旗の管理をしていた。
○大韓民国国軍
1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受託した後、現在の中華人民共和国の内モンゴル自治区に相当する地域で終戦を迎えた朴正煕は満州国軍の中国人将校に武装解除された後、同1945年8月29日に北京に向かい、北京で「大韓民国臨時政府」の崔用徳によって「大韓民国臨時政府光復軍」第三支隊に編入された。
日本降伏による朝鮮解放後、1945年2月の連合国首脳によるヤルタ協定に基づいて北緯38度線を境に、朝鮮半島の南半部の連合国軍政のために1945年9月8日にアメリカ軍が仁川に上陸し、アメリカ軍は既に存在した朝鮮建国準備委員会(建準)を解体した後に南朝鮮を在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁の直接統治に置いた。「大韓民国臨時政府」はこの在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁と対立していたため、朴正煕は「大韓民国臨時政府」の「軍隊」としての帰還を許されず、1946年5月8日に「個人資格」で釜山に上陸した。
帰国後、1946年9月に、南朝鮮国防警備隊の幹部を育成するためにアメリカ軍政庁が設置した教育機関、「朝鮮警備士官学校」に2期生として入学した。翌月の1946年10月1日に大邱で共産党が指導した暴動事件、いわゆる「10・1暴動事件」が発生し、この事件で亀尾地域の有力な呂運亨支持者であった三兄の朴相煕が警察に殺害された。その後朴正煕は1947年9月に大尉に任官された。一方で三兄朴相煕が殺害された後、呂運亨が結成に関わった南朝鮮労働党が朴相煕の遺族の世話をしていた繋がりから、朴正煕も南朝鮮労働党に入党していたが、1948年8月15日の南朝鮮単独での大韓民国建国と翌9月9日の北朝鮮に於ける朝鮮民主主義人民共和国建国後、同1948年10月19日に南朝鮮労働党に呼応した大韓民国国軍の党員将校が麗水・順天事件を引き起こすと、軍内党細胞であったことが粛軍運動により発覚し11月11日に逮捕、ソウルの西大門刑務所に送られた。この際、転向して南朝鮮労働党の内部情報を提供したことと、朴正煕の軍人としての能力の高さを評価した白善Y、元容徳、金一煥ら軍内の要人の助命嘆願により武官免職と共に1949年4月に死刑を免れた。
免職後は「陸軍情報課北韓班状況室長」として北朝鮮の情報分析に勤しんだが、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発後、少佐として軍役に復帰し、同年中に陸英修と再婚している。朝鮮戦争中の7月14日に現役軍人に復帰した後、1950年9月15日に中佐に昇進、1951年に作戦教育局次長へと昇進し、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定調印までに大佐に昇進した。朴正煕はこの朝鮮戦争時にアメリカ軍の軍人も認めるほどの筋金入りの反共産主義者となっている。
朝鮮戦争休戦後、アメリカ合衆国の陸軍砲兵学校に留学した。アメリカ陸軍留学からの帰国後は、1955年7月14日には第5師団長、1957年に陸軍大学を卒業して第7師団長、1959年7月1日には第6管区司令官、1960年1月21日には釜山軍需基地司令部司令官、同年12月15日には第2軍副司令官となった。1953年に准将、1959年に少将に昇進している。
政界時代
○5.16軍事クーデターと国家再建最高会議(1961年 - 1963年)
1960年4月に大韓民国初代大統領、李承晩が四月革命によって失脚した後、学生たちが南北朝鮮会談を開こうとする政治的騒乱の中、1961年5月16日に朴正煕少将は張都暎陸軍中将(当時)を議長に立てて「軍事革命委員会」を名乗り、軍事クーデターを起こした(5・16軍事クーデター)。反共産主義、親米政策、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを決起の理由とした。
当時、陸軍少将の階級にあり第2軍副司令官だった朴正煕は、韓国陸軍士官学校第8期生を中心とするグループに推されてクーデター・グループのリーダーになった。韓国陸士8期生は1945年の解放後初めて大韓民国が自前で訓練した軍人たちであり、その中心人物が金鍾泌だった。1961年の時点で約60万人の人員を擁した軍隊そのものの規模に比して、クーデターに動員された人員は必ずしも多くはなく、成功も覚束ぬ筈であった。朴正煕少将率いるクーデター部隊が1961年5月16日に国営放送局(KBS)を占拠した際、朴正煕少将と共に決起した兵士は全軍のうち3,600人に過ぎなかった。既に1960年の四月革命の直後、朴正煕少将は軍内人事の一新を求め、陸軍参謀総長の宋堯讃中将に対して書簡で辞任を要求していたが(「清軍運動」)、四月革命後に発足した第二共和国で8月23日に首相に就任した張勉政権下では、朴正煕や朴正煕を支持する韓国陸士8期生の求める軍内人事の変更がなされる様子がなかったために、1960年9月10日の「忠武荘決議」にて朴正煕少将は将来の軍事クーデターを決定した。
また、この5・16軍事クーデターは韓国陸軍士官学校校長が反対していたものの、陸軍士官学校11期生の全斗煥は朴正煕少将による軍事クーデターを支持し、全斗煥の呼び掛けによって陸軍士官学校生徒達がクーデター支持行進を行った。韓国陸軍士官学校11期生には後に大統領になる全斗煥、盧泰愚らが含まれており、朴正煕が嶺南(慶尚道)出身であったこともあり、同郷の全斗煥は「ハナフェ」(一心会)を結成し、尹必繧站熄゚泌、朴鐘圭ら他の嶺南出身者との軍内政争の中で「嶺南軍閥」を築き上げた。これら軍人たちには地方の貧困層出身者が多く、彼らの信望を集めていたのが朴正煕であった。
朴正煕少将率いるクーデター部隊は軍首脳の懐柔に成功し、後に軍首脳を軍事革命委員会から一掃することで主導権を握った。クーデター・グループは自らを「革命主体勢力」と呼び、戒厳令を布いた。金融凍結、港湾・空港を閉鎖、議会を解散し、政治活動を禁止し、張勉政権の閣僚を逮捕した。当時アメリカのジョン・F・ケネディ政権は1961年4月のプラヤ・ヒロン侵攻事件の失敗により、キューバ革命後に構築されつつあったフィデル・カストロ体制の打倒に失敗したためにその後始末に忙殺されており、アメリカ国内で張勉政権を支持する反クーデター派をクーデター支持の中央情報局(CIA)が制した結果、アメリカ合衆国は朴正煕少将によるクーデター政権を認めるに至った。
軍が突然に政治の舞台に踊り出たことは多くの人々を驚かせた。大韓民国国軍は朝鮮の政治史において例を見ない巨大勢力だった。
こうして政権を奪取した朴正煕は「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称し、自ら議長に就任した。国家再建最高会議として朴正煕は治安維持と経済改善のためとして「国家再建非常措置法」を施行した。6月10日には秘密諜報機関・大韓民国中央情報部 (KCIA) を発足させ、初代部長には金鍾泌が就任した。7月3日にはクーデター当時に議長に立てた張都暎中将を失脚させ、軍事政権のトップに立った。これらの権力奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていった。この軍事政権に抗議するデモが頻繁に起きるようになるが、朴正煕はKCIAを用いて押さえ込んだ。また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を目的とした風俗店摘発なども行い、「ヤクザも敵わぬ朴将軍」と言われるようになる。
朴正煕国家再建最高会議議長は政権奪取後、日韓国交正常化に意欲を見せ、1961年10月から11月にかけて日本側の大平正芳外務大臣と金鍾泌大韓民国中央情報部(KCIA)長官の交渉の結果、「金・大平メモ」が作成され、日本による植民地支配への賠償請求権を「無償3億ドル、有償2億ドル、民間協力資金1億ドル以上」の内容で合意した。朴正煕はこの賠償請求によって大韓民国経済を立て直そうと考えていたが、「金・大平メモ」の合意額は李承晩政権期の対日賠償請求額であった20億ドルや、第二共和国期の38億5000万ドルに比べて少なかったために大韓民国国内の世論の反発を招いた。
また、朴正煕議長は1962年に李承晩初代大統領が1948年の大韓民国建国時に採用した「檀君紀元」から「西暦」へと暦法を変更している。
その後、政権へのアメリカの支持を取り付けるために訪米することとなり、アメリカ合衆国大統領と釣り合う階級を与えるべきとの軍長老の進言に従い、大将に昇進した。訪米の往路、日本に立ち寄り、11月12日に池田勇人首相と会談、日韓両国の早急なる国交正常化で合意した。この時に一部日本語を使って会談したため、大韓民国国内の反日勢力から批判を買うこととなった。訪米では民主党のケネディ大統領との会談を実現した。
○第三共和国時代(1963年 - 1972年)
1962年12月17日に「第三共和国憲法」が国民投票によって承認され、大統領任期を2期までに定めた第三共和国が成立した。1963年に軍事政権である国家再建最高会議が、民政に復帰した。朴正煕は8月に軍を退役して民主共和党から1963年大韓民国大統領選挙に立候補し、民政党の尹潽善前大統領を約15万票差で破って自ら第5代大韓民国大統領の座に就いた。
第5代大統領就任後、1964年1月10日の「年頭教書演説」にて自由主義陣営の結束を求めるアメリカ合衆国の意向を念頭に、朴正煕は日韓関係の改善を訴えた。これに対し、1964年4月に高麗大学の李明博学生会長が日韓国交正常化反対デモを指導したため、朴正煕政権は1964年6月3日に学生運動に対して戒厳令を発し、李明博を含む学生運動指導者らを逮捕した。
このような国内の反対を抑えつつ、1965年6月22日には、日本の佐藤栄作内閣総理大臣との間で「日韓基本条約」を調印し、8月14日に与党民主共和党単独参加の国会でこの日韓基本条約を批准した。日韓基本条約は日本統治時代を清算するものでなく、わずかばかりの金で国を売るものであるとして、韓国国内では広範な反対運動が発生した。民主化活動家の大学生や市民、「平和線」(李承晩ライン)の堅持を求める野党民政党の金泳三議員たちは「汎国民闘争委員会」を結成し、大韓民国国内で「屈辱外交」への激しい抵抗が繰り広げられる中、日本との条約締結が強行され、日韓国交正常化は実現した。また日本国内でも、条約に基づく巨額の資金提供は独裁政権を利するとして反対運動が起こり、大学生を中心に大々的な反対運動が展開されていた。同年12 月18日には在日朝鮮人の存在を本国政府(李氏朝鮮・韓国)の責任とし、日本へ不法入国したことや共産主義運動に加担したことも赦すとして韓国への帰国を促す談話を発表した。
その後、1963年11月22日のダラスでのケネディ大統領暗殺事件後、副大統領から大統領に昇格した民主党のリンドン・ジョンソン政権の要請に応じて1964年に大韓民国国軍のベトナム戦争への派兵を決定した。
大韓民国のベトナム戦争派兵に際しては、南ベトナム軍以外ではアメリカ軍に次ぐ約5万人の大韓民国国軍将兵を南ベトナムに派遣し、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)との戦いに従事させたが、アメリカ軍と南ベトナム軍の北ベトナムへの敗色が濃厚となるに従い、韓国の民族主義的な立場からアメリカから離れていった。また、この大韓民国国軍のベトナム派兵に際し、大韓民国国軍は「フォンニィ・フォンニャットの虐殺」などの非武装のベトナム人に対する戦争犯罪を行い、ベトナム戦争終結後の越韓関係(英語版)に禍根を残すことになった。
4年の任期満了に伴い、1967年大韓民国大統領選挙では与党の民主共和党から立候補し、新民党から立候補した尹潽善を再び破り、第6代大韓民国大統領に就任した。
1968年1月21日には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が「対南工作」で派遣した朝鮮人民軍のゲリラ部隊に青瓦台の大統領官邸を襲撃され、暗殺されかけている(青瓦台襲撃未遂事件)。この暗殺未遂事件への報復のために朴正煕大統領は「北派工作員」として北朝鮮の金日成首相暗殺のために空軍2325戦隊209派遣隊(684部隊)を創設したが、1971年8月23日に684部隊は処遇を巡って反乱を起こしている(実尾島事件)。
この間、経済政策では日本を模範とした経済政策を布いた。開発独裁と言われる朴正煕の経済政策は、ソビエト連邦の計画経済をモデルにしている。例えば、1962年から始まった数次にわたる五カ年計画計画方式がそれである。また、朴正煕の経済開発手法が実際に見聞した満州国の経済からヒントを得ているとする分析がある。それまでの輸入代替工業化政策を大胆に輸出型重工業化による経済離陸政策に切り替える柔軟性を見せた。国家主導で産業育成を図るべく、経済開発院を設立した事を皮切りに、財閥や国策企業を通じて、ベトナム戦争により得たカネとモノを重工業に重点的に投入した。これによって建設された代表的施設に、八幡製鐵所をモデルとした浦項製鉄所がある。また、「日本の経済急成長の秘密は石油化学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。西ドイツへ炭鉱労働者と看護婦を派遣し、その給与を担保に借款を受けたことに始まり、1965年の日韓基本条約の締結により得た資金を不足していたインフラストラクチュアの整備に充てたことや、ベトナム参戦による特需などが「漢江の奇跡」と呼ばれる大韓民国の高度経済成長に繋がっていく。特に日韓基本条約に基づいて1966年から1975年2月までの間に日本から支払われた5億ドルの「対日請求権資金」は浦項総合製鉄工場、昭陽江多目的ダムの建設など韓国の第二次五カ年計画の実現に際し、「韓国の国民経済の向上発展に少なからざる寄与をしたといえる」と1976年に韓国政府によって発表された『対日請求権白書』に記された。また、韓国科学技術院を創設するなど韓国の科学技術政策を確立した。
また、1970年代初頭よりセマウル運動」なる農村振興運動を開始し、1976年の農村電化率は91%に達した。
1969年に自らの大統領三選を可能とするために3選改憲を実施した後、1971年大韓民国大統領選挙では新民党の金大中を破って思惑通り三選を果たし、第7代大韓民国大統領に就任したが、4月27日の大統領選挙は辛勝だった上に、直後の1971年5月25日に実施された国会総選挙で野党が躍進し、与党が議会の2/3以上を占めることができなかったため、朴正煕の大統領四選は不可能となった。他方、ベトナム戦争の行き詰まりの中、アメリカのリチャード・ニクソン大統領は1970年3月26日に在韓米軍の削減を大韓民国に伝え、翌1971年にはアメリカ合衆国と北ベトナムとの秘密交渉が進み、さらにニクソン大統領訪中計画が発表された。このような冷戦のデタントの最中、1970年8月15日の演説で南北朝鮮の平和共存を提案している。
第8代総選挙による野党躍進により朴正煕の大統領四選不可能が決定したことは朴正煕大統領の権力基盤を揺らがせ、国内での反体制学生運動が加速、危機感を覚えた朴正煕は1971年12月6日に「北朝鮮の脅威」を口実に国家非常事態宣言を発するなど独裁色を強めた。既に1971年2月6日に発表された米韓共同声明に従って在韓米軍の第7歩兵師団は撤退されており、北朝鮮の脅威に宥和策で臨んだ朴正煕大統領は1972年7月4日に朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相と共に南北共同声明を発表した。
○第四共和国時代(1972年10月17日 - 1979年10月26日)
しかし、南北共同声明発表後も朴正煕大統領の内憂外患への疑念は収まらず、1972年10月17日には非常戒厳令を宣布し(十月維新)、大統領の任期を6年に延長するなどの憲法改正を行って維新憲法を制定、第四共和国に移行した。この直前の1972年10月6日に朴正煕大統領と陸英修大統領夫人の訪日計画が発表され、田中角栄内閣総理大臣との会見及び、昭和天皇主催の宮中晩餐会への出席が言及されたが、朴正煕大統領にとってこの訪日計画の発表は11日後の維新クーデターのための陽動作戦であった。
○金大中拉致事件
1972年10月の維新クーデター後、政治的なスローガンとして「維新体制」を標榜した。「維新体制」の下で権力基盤を強化した朴正煕は自らを脅かす者に対しては、政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていた。1971年大韓民国大統領選挙ともに立候補者となった政敵金大中に対しては、東京のホテルグランドパレスに滞在していた1973年8月8日に大韓民国中央情報部(KCIA)による金大中拉致事件を引き起こし、日本の保守勢力は日本国に対する主権侵害だと朴正煕政権を批判した。金大中拉致事件によって悪化した日韓関係は朴正煕大統領と田中角栄総理大臣の間の政治的決着によって決着したが、日本のマスメディアはその後の金大中収監に対して朴正煕政権批判を重ね、朴正煕の「維新体制」はこの金大中拉致事件によって国際的に孤立し始めた。なお、この日本側からの金大中拉致事件に際する「主権侵害」の声に対し、KCIAの李厚洛部長は日本による韓国併合こそが主権侵害だと反批判している。また、この金大中拉致事件に際し、北朝鮮は朝鮮統一問題の北側からの対話中断の意志を韓国に伝えている。
○文世光事件
1974年8月15日、日本統治から解放されたことを記念する光復節の祝賀行儀に参加した際、在日韓国人・文世光に銃撃され、朴正煕自身は無事だったものの、夫人の陸英修が頭部を撃たれて死亡した(文世光事件)。なお、この際に用いられた拳銃が、文世光が日本の警察官を襲撃し強奪したものであったことや、事件に関与したと見られる朝鮮総連を、自由民主党の一部や日本社会党などから圧力を受けた日本政府及び警察側が擁護し続けたこともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。またこの事件は日本のマスメディアによる金大中拉致事件批判によって悪化していた韓国の世論を更に対日強硬的なものとし、在韓日本大使館にて韓国人群衆によって日章旗が焼き払われるなど、日韓関係をより悪化させることになった。ただしこのデモは金大中事件による国内の混乱や朴正煕に対する批判を交わすための官製デモだったという説が日韓の左派勢力の一部等で唱えられている。
金大中拉致事件のみならず、国家保安法や反共法などの法令による反政府勢力に対する強権的な弾圧は「維新体制」期には苛烈を極めた。共産主義者ないし「北朝鮮のスパイ」摘発に名を借りた不法な拷問・冤罪事件は枚挙に暇がない。そのうち、大韓民国中央情報部(KCIA)による1975年11月22日の「学園浸透スパイ団事件」は同時代の日本でも大きく報道された。
国内でのマスメディアへの言論弾圧も自由主義国家としては極めて異例なほどに行われ、映画の台詞ひとつまで国の検閲が及び、海外の新聞、特に朴正煕政権に批判的であった日本の『朝日新聞』『読売新聞』などは韓国への輸入が禁じられるほどであった。
○核武装構想とコリアゲート事件
国防政策では、北朝鮮と同盟関係にあった中華人民共和国の核兵器開発に対抗して、密かに核兵器・ミサイル開発に着手し、韓国の核武装を望まないアメリカと衝突した後に中止するなど、ベトナム戦争派兵で緊密となった米韓関係を損ないつつも、ハリネズミのごとく武装する「小強国」ビジョンに基づく独自の自主国防計画を推進した。
さらに1976年には在米韓国人ロビイスト朴東宣がアメリカ下院議員を買収しようとした「コリアゲート事件」が発覚し、朴正煕が構想していた韓国の核武装構想と共に、既に悪化していた日韓関係のみならず、米韓関係をも悪化させた。1976年10月の事件発覚によって悪化していた米韓関係は、1977年に大統領に就任した民主党のジミー・カーターが「人権外交」の見地から同年5月3日に韓国、ローデシア、ブラジルの三国を名指しで批判したことにより更に悪化し、カーター政権時代には在韓米軍撤退も取り沙汰されるようになった<。
このような米韓関係の悪化の中で、アメリカの圧力により、朴正煕大統領は核兵器開発を一度断念したが、その後も自主国防のために1978年まで核武装を構想していた。また、水面下では対米自主外交も進め、三菱商事の当時の藤野忠次郎社長の後押しで中華人民共和国の新たな指導者となったケ小平と経済協力を目的に接触し、暗殺直前まで中韓のホットライン開設も交渉していた。中韓のホットラインは2015年に娘の朴槿恵大統領が開設するまで実現されなかった。
○暗殺
釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が起こっていた1979年10月26日、側近の大韓民国中央情報部(KCIA)部長金載圭によって射殺された(10・26事件)。享年61。暗殺後、国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。なお、朴正煕は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。
1979年10月26日の朴正煕暗殺事件後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化の雰囲気が大韓民国に充満したが、翌1980年5月17日の全斗煥将軍による「5・17非常戒厳令拡大措置」とその直後の「5.18光州民主化運動」(光州事件)を経て、大韓民国は再び軍人出身の全斗煥による第五共和国に突入した。
死後の評価
2011年現在の大韓民国においては政治的な事情もあり、評価は各人の立場においてまちまちではあるが、一般論においては、政治面では目的のためには不当な手段も厭わなかったものの、私人としては清廉であると評価されつつある。
1999年にはアメリカの雑誌『タイム』で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」に韓国人から唯一選ばれている。
肯定的な評価
○大韓民国の高度経済成長
朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人全斗煥が、1980年5月17日に「5・17非常戒厳令拡大措置」で実権を掌握した後、第11代、第12代大韓民国大統領として朴正煕の開発独裁路線を継承したため、強圧的な独裁政治は批判され続けていた。しかし、1987年6月29日の「民主化宣言」以後、その達成感によって民主化運動が退潮し始めたこと、生活が豊かになったと国民が感じ始めたことで、開発独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長により、大韓民国を中華民国(台湾)・シンガポール・香港と並ぶ「アジア四小龍の一つ」とまで言わしめることとなる足がかりを作ったことや、軍事政権下の治安の良さを再評価する動きが出て来た。
特に政敵であった金大中が、1997年大統領選挙を控えて保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。
内政は典型的な開発独裁であった。軍備増強よりも経済基盤の建設を優先した。軍人としては珍しく強い経済マインドを持つ人物だった。クーデター直後、最初に着手したのは農村における高利債整理法(一種の徳政令)であった。工業化にある程度成功した頃には農業の遅れが目立つようになり、それを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の近代化を果たした。また、高速道路の建設にも力を入れた。教育政策にも、高等学校を大幅に増設し、高等教育機関への進学率をアジア随一のものにさせるなど力を入れた。また人事面においても、釜山市の都市建設で力量を発揮した工兵将校出身の金玄玉をソウル市長に抜擢するなど、格式を無視して有能な人材を要職に登用した。
この結果、1961年には国民1人あたりの所得がわずか80ドルだったという世界最貧国圏から、1979年には1620ドルになるといったように、20年弱で国民所得を約20倍にまで跳ね上げるという「漢江の奇跡」を成し遂げた。
終生のライバルであった同じ朝鮮民族の分断国家、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の初代最高指導者、金日成に体制競争を挑み、1961年の5・16軍事クーデターの時点では北朝鮮よりも経済的に貧しかった大韓民国を「漢江の奇跡」による高度経済成長の実現で経済格差を付け、南北朝鮮の力関係が大きく変化したことは、東アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。経済的な成功を体制の正統性の根拠としてアピールしたのは、むしろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、「漢江の奇跡」によって大韓民国に追い抜かれた北朝鮮は、経済面のみならず人民に対して支配を正当化する上でも慢性的な苦境に陥った。
支持者からは「独裁政権」ではあるものの、日本から経済援助を引き出し、韓国に秩序と経済発展をもたらしたのも事実であり、見直すべきとの声も根強い。かつて朴正煕批判で職を追われたことがある趙甲濟も、「日本の一流の教育とアメリカの将校教育を受けた、実用的な指導者だった」と、暗殺事件の取材を通じて以前の否定的な見解を変えている。ネットユーザーからは「親日派として罵倒するのは問題がある」「朴正煕大統領が親日派だったら、日本統治時代に生まれ育ち、日本の教育を受けた人はみんな親日派である」「親日派であるかもしれないが、国民生活の向上に力を入れたことは評価すべき」「韓国が発展できる基盤を作ったことは重要」と、功と過を正しく評価すべきとの声も多く上がっている。
歴代大韓民国大統領の人気ランキングでは、朴正煕が75.8%と断突の1位であり、2位の金大中(12.9%)に大差をつけている。
娘の朴槿恵が2012年大統領選挙に保守派のセヌリ党から立候補して勝利し、大統領になれたのも、朴正煕への国民の回顧が助けになった。
朴正煕の経済政策は「圧縮成長」と呼ばれる。これは、世界でも類まれなほどの誇らしいほどのスピードで経済成長を成し遂げた意味のほかに、さまざまな問題に目をつむって「効率最優先」の路線を走ったという批判的意味合いも含む。
否定的な評価
○民主化運動弾圧
朴正煕が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ、韓国の民主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因となった。
批判的な見地からは、独裁者としての批判に加えて、朴正煕を日本統治時代における対日協力者・親日派とする意見もあり、実際2005年8月29日に韓国の市民団体民族問題研究所、ならびにその傘下の親日人名辞典編纂委員会より発表された「親日人名辞典」の第1回リストに記載された。2004年に日本統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍士官学校で学び、満州国国軍に参加していた朴正煕もそれに含まれる(最終的には保守派の反対を受け、該当しないように配慮されることとなる)という一幕もあった。
これらは韓国で行われている歴史見直しの一環であるが、次期大統領選絡みで、朴の娘であり有力候補の一人であったハンナラ党(当時名称)党首・朴槿恵の人気低下を狙ったという見方もある。朴正煕大統領を初め、韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、大日本帝国による朝鮮統治が手法・理念その他でどれだけ影響を与えていたかは、歴史家によって意見がまちまちである。
国外からは、反共産主義同盟の強化を意図するアメリカ政府や日本政府などを除けば、朴正煕政権は批判的に評されることが多かった。特にセマウル運動については、農業近代化であるよりも相互監視を機能させるための農村の強制的な組織化であるとして、全体主義的な組織化になぞらえる論考も日本では生まれた。
○大韓民国国軍のベトナム戦争派兵
金完燮によれば、ベトナム戦争に大韓民国国軍(大韓民国陸軍及び大韓民国海兵隊)を2個師団プラス1個旅団の延べ31万名、最盛期には5万名を派兵した。韓国軍は30万人を超すベトナム人を虐殺したとも言われ、ベトナムでは村ごとに『タイハンの残虐行為を忘れまい』と碑を建てて残虐行為を忘れまいと誓い合っている、としている。
アメリカは見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4000万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)などによって韓国は高度成長を果たした。
ハンギョレ21のク・スジョン通信員は、派兵された韓国軍部隊が現地でベトコンと見なした一般市民を女性や子供も含めて虐殺する事件やベトナムの女性を強姦する事件、その他数々の蛮行を起こし、生存者の韓国軍の行為に関する証言で共通な点は、無差別機銃掃射や大量殺戮、女性に対する強姦殺害、家屋への放火などを挙げている。
また、強姦により韓越混血児ライタイハンが数万人が生まれたことが確認されている。
ベトナム戦争自体にベトナムの独立運動を妨害・抑圧する性格(フィデル・カストロやチェ・ゲバラらによる1959年のキューバ革命など、東西冷戦期のアジア、アフリカ、ラテンアメリカの植民地や低開発国に於ける民族解放運動は共産主義との関連が強かった。ベトナム戦争も参照)があったのではないかという問題もあって、ベトナム人の視点からすれば朴正煕大統領はまぎれもない「侵略者の一員」であるとベトナム人の大多数及び韓国・日本の左派歴史学者を中心に指摘されている。とりわけ、韓洪九は自著『韓洪九の韓国現代史』(元は『ハンギョレ新聞』連載コラム)でベトナム戦争の植民地解放運動への圧迫としての面を重視し、日本による侵略に苦しんだ韓国の近現代史と重ねながら、朴大統領のベトナム戦争参戦を批判している。
日本に関する逸話
用日
金完燮『日韓「禁断の歴史」』によれば、福田赳夫が韓国を訪問した際、酒席において日韓の閣僚たちが日本語で会話をしている最中、韓国側のある高官が過去の日本統治時代を批判する旨の発言を始めたところ、その高官を宥めた上でこう語っていた、としている。
「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」
また、無名の若者たちが国の近代化を推し進めた明治維新を「明治維新の志士を見習いたい」と称賛していた。特に、中心人物の一人である西郷隆盛を尊敬し、西郷が語った「子孫のために美田を残さず」という言葉を好んで使っていた。こうしたことから、前述の浦項製鉄所や石油化学工場の建設の推進、さらに維新体制の確立など、経済政策やメンタリティ等あらゆる部分で日本の影響を色濃く受けていた事が伺える。
日韓国交正常化のための日韓基本条約の立役者で朴大統領の命令で日本側と秘密交渉に当たった大韓民国中央情報部初代部長を務めた金鍾泌は「反日より用日こそが困難な道」という話をよく朴大統領と交わしていたほど朴は用日をするために国内(後述の反日教育)を隠して日本側と接触する時には親日だと錯覚させる言動をして日本側を欺いていた。朴は巧みな話術で日本側の信頼を得て、日韓基本条約で得た莫大な資金・投資・技術供与、アメリカ・ヨーロッパの援助を元手に経済優先するなど親日派の振りをして経済協力を引き出す用日に非常に卓越した人物だった 。
竹島問題
竹島をめぐる領有権問題について、民主統合党の文在寅は2012年の大統領選挙戦に於いて米国立文書保管所の国務省機密対話備忘録を引用し、「朴正熙元大統領は1965年にラスク米国務長官に対して1965年6月の韓日協定妥結直前に米国を訪問し独島爆破発言をした。」と提示、「その島(独島)を爆破してなくしたかったと話した」とした。これに対し朴槿恵陣営の趙允旋(チョ・ユンソン)報道官は、「外交文書によるとこの発言は日本側がしたことになっている」として文候補の主張を「明白な虚偽事実流布と嘘」と規定している。
また、椎名悦三郎外相が日韓基本条約署名1日前の1965年6月21日に李東元外務部長官と交わした対話を記録した日本外務省文書(1965.6.22.15-226)によると、李長官は、「朴大統領は竹島問題を日韓会談の議題外とするように指示されるとともに、本件は韓国政府の安定と運命にかかわる重大問題であり、もし韓国側として受諾しうる解決策がないならば日韓会談を中止してもよいとまでいわれている。」と日本側に明らかにしている。
反日教育
韓国出身の日本評論家である呉善花は、朴正煕執政下の1960年代には韓国国内にて、韓国を日本に比較し文化的に優位に位置づける反日イデオロギーが教育の中で国民に教えられたとしている。
一方で、李承晩時代に禁止されていた日本語教育を中高等教育において再開させている。
金大中拉致事件に於ける日本国への主権侵害
2007年10月、韓国政府は、朴正煕政権の方針に反発して日本で民主化運動を推し進めていた金大中が1973年8月8日に日本国内で拉致された金大中事件に関して、大韓民国中央情報部 (KCIA) の関与があり、同時にそれを統括・指揮していた朴正煕から暗黙の了解を得て行っていたとする公式発表を行った。日本の田中角栄首相は金大中事件を政治決着したが、当時の日本の保守派からは「主権侵害」だとして朴正煕政権批判の声が挙がった。
福田恆存との親交
朴正煕は日本の英文学者・劇作家で保守思想家としても評価の高い福田恆存と親交を結んだ。福田は1979年10月26日の朴正煕暗殺事件の報せを聞き、追悼文「孤獨の人、朴正煕」を書いている。福田はその中で、朴と昼食を共にした時のことを回想し、以下のように書いている。
「故人に對して、そしてまた一國の元首に對して、頗る禮を缺いた話だが、私は敢へて書く、正直、私はその粗食に驚いた、オムレツは中まで硬く、表面がまだらに焦げてゐる。もし日本のホテルだつたら、「これがオムレツか」と私は文句を言つたであらう。が、それを平氣で口にしてゐる青瓦臺の「獨裁者」をまじまじと眺め(後略)」 
 
崔圭夏 (チェ・ギュハ 1919- 2006)

 

大韓民国の第10代大統領。本貫は、江陵崔氏。号は「玄石」(ヒョンソク、현석)。字は「瑞玉」(ソオク、서옥)。日本統治時代に使用した日本名は梅原圭一(うめはらけいいち)。
江原道原州邑の生まれ。両班で祖父は成均館学者。1937年に旧京城第一高等普通学校(1938年から京畿公立中学校、現・京畿高)を、1941年に東京高等師範学校文科第三部(英語・英文学)を卒業。一時教職に就く(大邱公立中学校教諭)が、満州国に渡り大同学院に入学。1945年に卒業し、同年にソウル大学師範学部教授になったが、46年より33年間官吏を務めた。独立後は農林部糧政課長を振り出しに外務部通商局長、外務次官、外相を歴任。1971年に外交担当特別補佐官に就任し、1975年に金鍾泌の後任の国務総理(首相)。1979年10月26日に朴正煕が暗殺(朴正煕暗殺事件)されると大統領権限代行となり、金鍾泌に次期大統領を依頼したが本人に固辞されたため12月6日に大統領に就任し約8ヶ月間在任した。韓国の歴代大統領の中で在任期間は最も短い。
就任時には早期の改憲と民主化を約したものの、戒厳令下で殆どイニシアティヴを発揮できないまま全斗煥の粛軍クーデターを追認せざるを得なかった。時代の中で翻弄され、自らの意思とは関係なく大統領職に就き自らの意思に関係なく辞任したと捉える立場の人からは「非運の大統領」と呼ばれた。
また、大統領就任中サウジアラビア、クウェートへの訪問も実現している。なお、中東歴訪から帰国二日後、光州事件が発生している。
歴代の大統領の中では、在任期間が短かったこともあり、影の薄い人物といわれているが、寝たきりになった洪基夫人の介護に尽力するなど、人間的な側面で再評価されていた。
1979年12月12日の粛軍クーデターでは、全斗煥ら新軍部の再三の説得に対しても「国防長官の裁可がなければ鄭昇和(陸軍参謀)総長の逮捕を認可することはできない」と頑として譲らなかった。
2006年10月22日、急性心不全のためソウル特別市で死去した。87歳没。 
 
全斗煥 (チョン・ドゥファン 1931- )

 

大韓民国(韓国)の軍人、政治家。韓国第11・12代大統領(在任:1980年 - 1988年)。本貫は、旌善全氏。号は「日海」(イルヘ/イレ、일해)。
慶尚南道陜川生まれ。朝鮮戦争中に陸軍士官学校に入学(11期)。同期には盧泰愚らがいた。1960年6月、陸軍大尉として崔世昌、張基梧、車智Kと共にアメリカ合衆国ジョージア州フォート・ベニングの特殊戦教育機関で6ヶ月間、沼地、山岳・サバイバル訓練などの「レインジャー・トレーニングコース」課程を受けた。また落下傘降下訓練(これはオプションと思われる)を受け、空輸団創設要員となった。朴正煕がクーデターを起こすと、陸軍士官学校の生徒を率いて支持を表明。この功績が認められて最高会議議長秘書官になった。ベトナム戦争に第9師団第29連隊長として参加し、帰国した。1969年、特戦団司令部が創設された。第一空輸旅団を母体として次々と旅団が生まれてゆき、自らも第一旅団長を務めた。この特殊戦略司令部を経て1979年に保安司令官になる。
朴正煕暗殺事件が起きると、暗殺を実行した金載圭を逮捕・処刑するなど暗殺事件の捜査を指揮する。12月12日に戒厳司令官鄭昇和大将を逮捕し、実権を掌握(粛軍クーデター)。1980年5月17日に5・17非常戒厳令拡大措置を実施。9月に大統領就任。翌1981年から第五共和国政府がスタートした。
全斗煥が第11代大韓民国大統領に就任した直後の1980年10月10日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金日成主席は連邦制による朝鮮統一案として「高麗民主連邦共和国」設立を訴えたが、この案は大韓民国側に拒否された。
1982年には長年続いた夜間外出禁止令を解除した。1984年、戦後の韓国元首として初めて日本を訪れ、昭和天皇との晩餐会に臨むなど、日本と向き合う姿勢を強調した。同年、政治活動被規制者202人の規制を解除する。ほぼ同時期に第一次教科書問題が発生。中国共産党に連携する形でこれを批判した。ただしこれは純粋な歴史認識問題というよりも、日本に60億ドルの経済援助を求めていたが日本は呑めないということで膠着していた全斗煥が、自らの独裁権力の強化のために日本からの援助を引き出させる手段として用いたとする説もある。
日米との連携を強め経済の活性化に成功するが、1983年にミャンマーのアウン・サン廟へ赴いた際、北朝鮮の工作員による全斗煥を狙ったラングーン爆弾テロ事件が発生する。彼自身は難を逃れたものの、事件で多くの閣僚を失った。さらに1987年には北朝鮮の工作員金賢姫らによる大韓航空機爆破事件が起き、南北関係は緊迫度を増した。
反政府活動の取り締まりも強化し、大学生の副業の禁止や卒業の制限、学生運動に関連した学生を強制的に入営させて密告やスパイを奨励させる「緑化事業」を行った。1980年には、非常戒厳令拡大措置にともない、社会的に弱者とされる失業者やホームレス、あるいは犯罪者や学生運動家、労働運動家など約4万人を一斉に逮捕させ、軍隊の「三清教育隊」で過酷な訓練と強制労働を課した。特に後者は暴行などで52人の死者を出し(後遺症の死者は397人)、2768人に精神障害を残すなど計り知れない傷跡を残した。あまりの酷さに人々から「一旦入ったら生きて出られぬ」と恐れられたという。逮捕された者の中には光州事件に連座した高校生や主婦、14歳の女子中学生も含まれていた。
また、全斗煥政権下では国家保衛立法会議によって朴正煕政権時代に制定された反共法が国家保安法 (大韓民国)に統合される形で廃止されると共に、言論基本法が制定され、言論統廃合が行われている。全斗煥の大統領在任中テレビでは、全政権批判は一切許されず、夜九時のニュースが必ず全斗煥賛美のニュースで開始されたため、テンジョンニュース等と揶揄された。 クーデター後に金大中を含む野党側の政治家を逮捕また軟禁し、非常戒厳令を全国に拡大させ、これに反発していた光州での民主化要求デモを鎮圧するため陸軍の特殊部隊を送り、市民が多数虐殺された(光州事件)。金大中は軍法会議で死刑判決を受ける(後に無期懲役に減刑)ものの、1982年にアメリカに出国。1987年以降には改憲・反政府運動も活発化し、7月には政権移譲を表明。
退任後には自ら財団を設置し院政を狙うが、利権介入などが発覚し親族が逮捕されるに至って、1988年11月23日に私財の国庫への献納と隠遁を表明した。その後も光州事件や不正蓄財への追及が止まず、死刑判決を受けた(金大中の計らいにより、減刑の後、特赦)。2004年にも子息の不正貯蓄について検察から出頭を求められている。
2013年、いわゆる「全斗煥追徴法」が成立し、一族の不正蓄財に対する強制捜査が行われ、同年9月10日、滞納が続いていた追徴金の未納分1672億ウォンについて、完済すると発表した。
全斗煥に対しては独裁者、虐殺者、在任中の汚職など否定的なイメージで見られることが多いが、その反面、経済発展やオリンピック誘致・スポーツ振興などの功績を評価すべきだという保守派からの擁護論もある。
経済の建て直し
全斗煥が大統領に就任して第一に目標としたのは、漢江の奇跡以来の経済成長の夢の再来だった。就任当時、経済成長率はマイナス4.8%、物価上昇率は42.3%、44億ドルの貿易赤字を抱えていた。経済成長をなくして国は成立しないと考えた全斗煥は、執務の合間に経済学博士や財界の実業家などを呼び、大幅に時間を割いて経済の勉強を開始した。この際、「国民総生産600億ドルを目指し、日本から学んで、日本に追いつこう」をキャッチフレーズとした。
経済政策は、朴正煕時代に作られた経済企画院ではなく、青瓦台の経済首席に任せ、自らが事実上経済政策の主導権を握った。
この結果、1987年の経済成長率は12.8%、物価上昇率0.5%、貿易黒字は114億ドル、国民一人当たりGNPは3098ドル、国民総生産は1284億ドルと、主要な経済指数のほとんどを上向かせることに成功した。
対日姿勢
全斗煥は、韓国の歴代大統領としては初めて、現在の韓国を含む朝鮮半島が日本の領土となったことは、自分の国(当時の大韓帝国)に責任があったと認め、当時日本でも大きく報道された。
1981年8月15日の光復節記念式典の演説では、「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と主張している。
また、翌年の光復節記念式典においても、歴史教科書問題により、日本人に対するタクシーの乗車拒否が起こるなど、反日感情が渦巻いていた韓国において、前述の通り強硬的な姿勢を見せながらも、「異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないため確実な保障は、我々を支配した国よりも暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない」と述べ、「克日」を強調した。
1984年9月に全が国賓として初訪日した際、昭和天皇は同年9月6日、宮中晩餐会の席上「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことはまことに遺憾であり、繰り返されてはならない」と述べた。韓国の外交文書によると、韓国政府が日本側に対し昭和天皇が日本の朝鮮半島統治などについて反省を示すよう事前に求めていた。また、拳骨拓史によれば、全は宮中晩餐会の前日に安倍晋太郎外務大臣と会談し、「弱い立場だと豊かな人、強い人に対してひねくれを感じ、相手が寛大にしても誤解をもつこともある。だから強かったり、豊かな人が少しくらい損をしても寛大な気持を持つべき。」「韓日の過去の誤解は大部分そういうものだった」と述べたという。
拳骨は、韓国はこれ以降、大統領が交代するごとに日本に対して謝罪要求をおこなうようになったと述べている。 
 
盧泰愚 (ノ・テウ 1932- )

 

大韓民国の軍人・政治家。第13代大韓民国大統領(在任:1988年 - 1993年)。同国最後の軍人出身の大統領。ハナフェの一員。本貫は、交河盧氏。号は「庸堂」(ヨンダン、용당)。
日本統治時代の大邱出身。朝鮮戦争勃発に伴い入隊し、陸軍士官学校で全斗煥と同期(11期)。空輸特戦旅団長・第9師団長などを歴任し、1981年に退役。政務第二長官を経て体育相・組織委員長としてソウルオリンピックの実務全般を取り仕切った。
1987年、高まりつつある民主化要求に対し、次期大統領候補として「オリンピック終了後、然るべき手段で信を問う用意がある」と声明(6・29民主化宣言)を発表。直後の1971年大韓民国大統領選挙以来、16年ぶりに行われた民主的選挙で民主正義党から立候補し、大統領に当選した。選挙のときは親しみやすさと自身の耳の大きさ(韓国では話を聞く人は耳が大きいとされる)を前面に押し出し、朴正煕政権から続いていた軍人出身大統領と異なる印象を国民に持たせることに成功した。翌1988年2月25日に第13代大韓民国大統領に就任した。
大統領就任後、前大統領であった全斗煥政権時代の不正容疑を徹底追及する一方で、激しく対立していた金泳三・金鍾泌を与党に取り込むなど国政の安定を図った。
外交面ではマルタ会談での冷戦終結を受けて、「北方外交」を提唱して共産圏との関係改善に乗り出し、1990年にソビエト連邦、1992年には中華人民共和国(中韓国交正常化)と国交を樹立した。なお、中国との国交樹立により韓国は中華民国(台湾)とアジアで最後に断交した国となった(台韓関係)。
また朝鮮統一問題では、1991年9月17日には朝鮮民主主義人民共和国との国際連合南北同時加盟を実現し、同1991年12月13日に南北基本合意書を締結している。
1993年2月24日の大統領退任後、1995年に政治資金隠匿が発覚。さらに粛軍クーデター・光州事件でも追及され軍刑法違反として懲役刑を受け、1997年12月に特赦された。
2012年6月、大統領在任中に作った秘密政治資金の一部を、長男の妻の父親に預けたとして、検察に捜査を依頼した。
2013年9月、未納となっていた追徴金230億ウォンについて、親族が代納すると発表した。この後、同じく追徴金の未納があった全斗煥元大統領側も、完済を発表した。
対日姿勢
1990年5月15日の日本人記者団との懇談形式での会見で「私の前任者の訪日時、昭和天皇が不幸な歴史に遺憾の意を表明したが加害者が被害者に「すみません」とか慰めの言葉をいうのは当然のことだ。謝罪がはっきりしないので被害者は加害者の真心を疑わざるを得ない。真心から「すみません」と言えば被害者としても感動して「もう結構です。これから上手くやりましょう」と言える。「間違っていた」「すみません」という寛大な心を見せれば、日本へ韓国だけでなく中国やアジアでの認識を変える契機になる。力があり、強いほうが寛大な心を見せるべきだ。」などと述べている。 
 
金泳三 (キム・ヨンサム 1927-2015)

 

大韓民国の政治家。元大統領(在任1993年 - 1998年)。本貫は金寧金氏(韓国語版)。号は「巨山」(コサン、거산)。略称はYS。実家は網元。日本統治時代における創氏改名時の日本名(1945年まで)は金村康右(かねむら こうすけ)。早稲田大学特命教授。称号は名誉法学博士(早稲田大学)。
大統領になるまで
慶尚南道巨済島(現在の巨済市)出身。ソウル大学哲学科卒業。1952年に張沢相国務総理(当時)の秘書官に就いたのを経て、1954年第3代国会議員選挙で自由党候補として巨済にて立候補して、当時の最年少国会議員として当選、政界入りする。後に、自分のもとを訪れた日本の大学生達に「反日の話を相当しないと、当選できないような時代だった」と述懐した事がある。
議員となって以後、長らくは野党の立場で活動し、軍事政権時代には『ニューヨーク・タイムズ』紙記者とのインタビュー記事等をめぐり国会議員除名(金泳三総裁議員職除名波動)となったり(1979年)、自宅軟禁を受けたりといった弾圧を受けたりもしたが、1970年代から1980年代にかけて金大中とともに代表的な野党政治家の一人であった。1985年3月6日に全斗煥大統領により政治活動を解禁される。1987年に全斗煥の退任に伴って行われた第13代大統領選挙にて金泳三と金大中が共に盧泰愚に敗北した後、1990年に、盧泰愚、金鍾泌と手を握り、三党合同に参加することとなる(盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党、金泳三の統一民主党が合同し、巨大与党である民主自由党が誕生した)。この後、民主自由党の大統領候補となり、1992年の第14代大統領選挙にて大統領に当選した。
大統領時代
○内政
朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権は消滅し、金泳三政権は文民政権と呼ばれることになった。金泳三は軍部政権の残滓を徹底して排除するため、軍内の派閥「ハナ会」を潰し、会員を退席させるなど、軍の改革を進めた。また、野党政治家や政治運動家などを積極的に登用し、国家安全企部長、外務大臣、統一院長官などに大学の教授を迎えた。さらには、高級官僚の不正の追及にも乗り出し、大法院院長や検事総長、警察庁長官などが辞任することになった。
政治と経済の癒着を嫌悪し、「任期中はいかなる献金も受け取らない」と宣言、質素さをアピールするため、「青瓦台での昼食はカルグクスにする」と明言した 。また、歴代大統領が議員に配っていた「モチ代」の制度も無くすなど、政治の無駄の部分を排除していった。 経済面でも、不正の温床となっている仮名口座での金融取引をなくすため、「金融実名制」を実施した。
○外交
金泳三政権は「歴史の立て直し」を主張し、行動した。まず、対北朝鮮の懸案となっていた非転向長期囚李仁模を1993年3月19日に北朝鮮に送還した。次いで、1993年8月には旧朝鮮総督府の解体を決定。1995年8月15日には解体が行われた。
1993年3月19日に北朝鮮が核拡散防止条約から脱退し、朝鮮半島全土に核危機が訪れるが、危機回避の会談はアメリカと北朝鮮間のみで行われ、韓国は一切手出し出来なかった。1994年7月8日に金日成が死去すると、金泳三政権は哀悼の意も表明せずに全軍に厳戒態勢を指示し、弔問のため訪朝しようとした勢力を弾圧。朝鮮半島情勢が一時期悪化した。1996年9月18日に発覚した江陵浸透事件に際しては、翌月の1996年10月1日の「建軍四八周年祝賀演説」にて、金泳三は対北朝鮮政策の軍事的見直しを発表している。
○対日姿勢
日本に対しては、常にその歴史認識を問題にし、1995年11月14日には、当時の中華人民共和国・江沢民国家主席との会談の中で、「日本の腐った根性(朝鮮語:ポルジャンモリ、日本語で「バカたれ」などに相当する、上の立場の者が下の者を叱る朝鮮語の俗語)を叩き直してやる!」などと発言したこともあり、常に反日的な姿勢を顕著にしていた。この発言に対しては、日本の対韓感情が悪化しただけでなく、韓国内からも批判の声が上がった。
また、現在まで続く両国の領土問題である竹島問題についても、任期中の1995年に大韓民国政府として強硬態度を打って出た。この際、韓国政府は「日本をしつけ直す」と、自らの立場が上であるとの自負のもとに大々的にキャンペーンを行い、韓国国内では歓喜をもって迎えられた。
就任前後に、日本で高まった「統一教会による誘拐事件」への対応では、日本側に不興の声も上がった。また、いわゆる「光復」50周年を記念して行われた歴史立て直し事業では、上述の旧朝鮮総督府解体のほか、風水に基づく全国規模での鉄杭除去などを推進した。
○アジア通貨危機
任期終盤の1997年、東アジアや東南アジア各国を襲った経済危機(アジア通貨危機)にて、韓国も起亜自動車の倒産を皮切りに経済状態が悪化。国際通貨基金(IMF)の援助を要請する事態となったことは韓国国民からは恥辱的とも受け取られ、そのまま任期で大統領を退任した。
IMFの指導を受け入れる前、日本から単独金融支援を獲得して事態を彌縫しようとつとめたが、これは拒絶された。
このような経済政策の失敗から、1999年6月3日午前には日本に向けて出発しようと金浦空港に着いて沿道の人々と握手をしていた時、71歳の男がペンキ入りの卵を金泳三の顔に炸裂させるという事件が起きた。彼の顔とスーツが真っ赤に染まった姿は世界中に配信され、男は「金融危機を招き、国を危機に陥れた罪を償い、深く反省しなければならない」と叫びながら、「IMF事態にまで国を滅ぼした金泳三は、国民に対して謝罪しなければならない」という内容のビラをばら撒いていた。この事件には、一部の国民の間には拍手を送るような雰囲気すら感じられた。
退任後
直情径行の面があり、退任後の行動などでも韓国国民の不評を買う場面もあり、現在の韓国内の評価は高くないとも言われる。
2002年より早稲田大学の特命教授に就任。公共経営研究科への特別講義や大学全体への公開講演会の開催など年に約2回の訪日時には、本人は「もう大分忘れてしまった」と謙遜気味に語ってはいるが、流暢な日本語での講義を受け持っており、テレビ出演もしている。
2015年11月22日午前0時21分、ソウル大病院で死去。87歳没。
逸話
○後任の金大中が公式・私的な場にもあまり日本語で話さないのに対して(但し、非公式な場での日本人記者からの取材には日本語で応じていた)、上記の早稲田大学での講義や日本人ジャーナリストとのインタビュー等では基本的に日本語で対応するため親日的だと日本人に勘違いされやすい。しかし、1995年11月24日の江沢民中国国家主席との会談では「日本は反省し、歴史認識を正しくすべきだ」「日本側の妄言が建国以来30数回続いている(日本側の)悪い癖を直してみせる」などと発言し、一九九五年には花崗岩で出来ており、近代建築の観点からも文化的見地からも取り壊しに反対する声が多かった朝鮮総督府府庁を解体する行為に及んだ。さらに同年に竹島に接岸施設設置や軍隊の常駐化などの要塞化を推進した。現在まで続く竹島問題を引き起こした。各地の工事のために埋め込まれた測量用の杭がを朝鮮を呪うものであるとして除去作業を命じるなど実際には反日姿勢が強かった。
○韓国マスコミでは金大中が「智将」とされるのに対して、金泳三は「徳将」と呼ばれる。ほとんど読書をしないので有名。そのため発言には稚拙な部分が多いといわれている。ただし読書はしないが多数の著書を出しており、「金泳三の出した本の数と金大中の読んだ本の数は同じ」といわれる。
○祖父が当時としては珍しいクリスチャンで教会に通っており、母も教会で仕事をしていたこともあり、敬虔なプロテスタント教徒として知られる。就任当初ネオン街追放に乗り出したのはその熱心な信仰が原因と言われている。
○日本統治下の1943年から1945年まで統営市にあった統営中学校に通った。統営は戦前、小いわし漁で栄え、広島県人が多く移住していたが、統営中学の教頭が広島高等師範学校出身の渡辺巽で、渡辺は韓国人と日本人学生を絶対に区別せず、金は敬慕の念は抱いた。まだ日韓間に国交はなく、反日感情も厳しかった1954年、金が国会議員に初当選した後、渡辺夫妻を韓国に招いている。大統領就任後も渡辺の遺族を官邸に招待した。金は「私の一生を通じても強く印象に残る」「両国にとっても先生のような方がいてくれてよかった」と述べている。
○小泉純一郎元総理の靖国神社参拝には反対姿勢を表明し、戦犯を神社から除名することは「問題ない」と外すべきとしている。
○盧武鉉を見出したのも彼であるが、後年のJNN報道特集記者団とのインタビューでは「彼を政治家にしたのは大きな間違いだった」と発言している。
○当初は北朝鮮に対して宥和姿勢で臨み北朝鮮も久々の文民出身大統領であることから非難を差し控えていた。しかし、党内強硬派の圧力が強まるに従い対北朝鮮強硬姿勢に転じたため、平壌放送で「人間のくずの金泳三」と放送されたことがある。同時に(就任後時間が経ってから)お決まりの「反動」規定を受けた。
○金大中大統領が南北首脳会談の実績によってノーベル平和賞を受賞した際に「ノーベル賞の権威は地に落ちた」と批判したことがある。これは1994年に行われるはずだった南北首脳会談が金日成の急死によって開催できなかったことと仮に開催できていれば金泳三自身がノーベル平和賞を受賞していた可能性があることも背景として挙げられる。
○2000年10月13日、高麗大学校政経学部政治学科の教授の招待によって、大統領学という講義で特別講演をする予定だった。しかし、キャンパスに到着した午前11時頃、総学生会の主催で集まったメンバー約150人余りが「IMFを招いたYS(泳三)、我々はあなたを招待した覚えはない」などの立て看板が掲げて正門に立ちはだかり、12時間以上もの間、金泳三が乗った車を学校に入れないようにした。こうして、車の中で籠城した挙句、講義ができないまま帰宅させられてしまった。
○応接間には故郷の巨済島の港町を描いた洋画が飾られており、日本人記者団に「私は死んだら、ここに埋めてもらうつもりです」と語ったことがある。
○孫命順夫人とは、大学生時代に知り合い、恋愛結婚だった。
○日韓国会議員サッカー大会の前日に山本順二を自宅に招き日本語で会話するなど、日本とは非常に親しい関係である。
対日姿勢
1995年11月19日の日韓首脳会談では「日韓関係は未来志向であるべきだが、日本の正しい歴史観が前提にある。日本は経済力だけでは、これまで以上に世界の尊敬は受け難い。日本の指導者が正しい歴史認識を持って政策を進めるべきだ」 1996年12月17日の竹下登元首相らとの会談では「『近くて遠い国』を『近くて近い国』にするには指導者・政治家の言葉が重要で、歴史を重んじるべきだ」。 
 
金大中 (キム・デジュン 1925-2009)

 

大韓民国の政治家、第15代大統領(在任:1998年 - 2003年)。本貫は金海金氏。号は「後廣」(フグァン、후광)。日本名は豊田大中( - 1945年)。ニックネームは「忍冬草」。略称は「DJ」。カトリック教徒で、洗礼名は「トマス・モア」。立命館大学第37号名誉博士。慶煕大学大学院修了。
政界入り
1925年、全羅南道荷衣島(現在の新安郡)に生まれるが、本貫はこの地域と対立していた慶尚道の金海市である。1943年に木浦公立商業学校(現全南第一高校)卒業、慶煕大学大学院経済学科2年課程修了。
運送業を経て、1954年の総選挙で国会議員に初挑戦するも落選。張勉に引き立てられ、民主党スポークスマンを務める。以降も、当時の李承晩大統領の政策に反対する姿勢で活動したが、1959年、1960年と立て続けに落選を経験した。1961年に補欠選挙で国会議員に初当選したが、朴正煕による軍事クーデターにより無効となった。
その後、野党の代表的な政治家として頭角を現し、1963年と1967年の第6代、第7代、国会議員選挙で連続当選した結果、1970年9月に新民党の大統領候補に指名された。翌1971年の大統領選では、現職の朴正煕に97万票差にまで迫った(朴正煕634万票、金大中537万票)が、落選。以後、朴正煕の政敵としてつけ狙われるようになり、大統領選の直後には交通事故を装った暗殺工作に遭い、股関節の障害を負った。
民主化運動家として
朴正煕による十月維新の後は、日米両国に滞在しながら民主化運動に取り組んだ。1973年(昭和48年)8月8日、東京に滞在中、ホテルグランドパレスで何者か(複数)によって拉致され、行方不明となった。この犯人たちは、謀殺を意図した韓国中央情報部 (KCIA) の工作員であった事が後に判明する。拉致後、神戸から出港した工作船の上で殺害される寸前であったが、日本の自衛隊機が船の上を旋回して威嚇したため、犯人らは殺害は中止。その後、ソウルで解放されて九死に一生を得たが、ソウルの自宅で日本人記者らに会見を行った後、2ヶ月間、軟禁状態に置かれた。
1976年3月には尹潽善らと共に「民主救国宣言」を発表、逮捕され懲役判決を受けるも、1978年3月に釈放された。1979年に朴正煕暗殺事件が起きると、民主化の機運が高まってソウルの春が訪れ、韓国政界で金大中・金泳三・金鍾泌の三人のリーダーが注目される、いわゆる三金時代が始まった。
1980年2月19日に公民権を回復。政治活動を再開するが、5月18日に再び逮捕。これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が武力鎮圧する、流血の大惨事となった。このため、軍法会議で首謀者として、また1977年に発生した学園浸透スパイ団事件での“摘発スパイ”の自白から「韓国民主回復統一促進国民会議」の議長とされ、死刑判決を受けた。日本の当時の鈴木善幸首相はこれを憂慮して、11月21日に崔慶禄駐日大使と会談し、「日韓親善からみて、金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ない」と発言し、その旨を全斗煥大統領に伝達するよう要請した。この事を受け、朝鮮日報は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉である」と批判した。しかし、次第に民主化弾圧の死刑判決であると国際的な批判が強まって、1982年1月23日の閣議決定により無期懲役に減刑される事が決定し、12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止された。
1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが、3月6日に全斗煥大統領により政治活動を解禁された。1987年には再び公民権を回復。16年ぶりに直接選挙制で行われた大統領選挙で平和民主党を結成して、軍人出身の盧泰愚に挑むものの、保守系の金泳三と分立したことが文民勢力の分裂を招いて敗北した。
1989年1月8日、昭和天皇崩御により在韓日本大使館に設置されていた焼香所で90度のお辞儀をして拝礼をした。
1992年にも金泳三、鄭周永らを相手に大統領選を戦うも再び敗北。これをもって金大中は一時、政界引退を表明した。その後、研究生活に入り、論文を書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まっていた1995年に、新政治国民会議を結成して、総裁に就任。政界復帰した。
大統領として
1997年の大統領選挙では、与党ハンナラ党の李会昌と、ハンナラ党内での予備選に敗退した李仁済を相手に選挙を戦った。与党の強力な集票力に当選が危ぶまれたが、保守派であり朴正煕の片腕だった金鍾泌と手を結び、また度重なる敗北を逆手に取り「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、アジア通貨危機への対応能力をアピールした。結果、自らの地盤である全羅道地域で圧倒的な支持を得てことに加えて、金鍾泌の地盤である忠清道地域、浮動票の多い首都圏での支持を得ることに成功した。また、李仁済の立候補により保守票が割れたことにも助けられ、当選した。
大統領に就任したのはアジア通貨危機の直後であり、経済的な危機は続いていた。金大中政権は引き続きIMFの介入を全面的に受け入れた上で、経済改革に着手した。IT産業奨励やビッグディール政策(財閥間の事業交換、統廃合)をもって経済建て直しを図った。危機を脱した韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり、サムスン電子や現代自動車の世界市場での地位を高めた。しかし、急激な産業構造の転換は貧富の格差の増大などを招いた。そのため、医療保険や年金など福祉政策の拡充にも重点を置いた(DJノミクス)。
1998年、小渕恵三内閣総理大臣と日韓共同宣言を発表し、韓国でそれまで禁止されていた日本文化開放を推し進めた。
自ら大韓民国中央情報部(KCIA)に拉致され、命を狙われた経験のある金大中は、1999年に国家安全企画部(旧・中央情報部)を廃止し、権限や機能を大幅に縮小した国家情報院を大統領直属機関として新設した。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対しては「太陽政策」と称される緊張緩和政策を志向した。2000年6月に朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌で金正日国防委員長との南北首脳会談が実現し、6.15南北共同宣言を締結した。南北首脳会談などが評価されて、ノーベル平和賞を受賞した。これは現時点で韓国人唯一のノーベル賞受賞である。
ただ、太陽政策は議論の余地があり、その後の報道では、会談実現のために金大中大統領から現代グループを通じて4 - 5億ドルを金正日に渡していたとされる。(後述)
朴正煕、全斗煥、盧泰愚、金泳三と4代続いた慶尚道地域出身の大統領から、全羅道地域の金大中へ権力が移ったことにより韓国の地域対立の打破が期待されたが、当選時の経緯や、共に与党である新政治国民会議と忠清道地域に影響力を持つ自民連の統合が頓挫したことにより、この分野では目覚しい成果を上げることが出来なかった。
大統領退任後と晩年
退任後は政界を引退した。延世大学校付属の金大中図書館設立に携わるなど政治とは距離を置き、研究生活を送っていた。
2006年6月に北朝鮮を訪問する予定であったが、北朝鮮のテポドン発射問題によって取り消された。
2008年11月27日に、民主労働党指導部に対して「民主労働党・民主党・市民社会団体がしっかりと手を組んで広範囲の民主連合を結成し、逆走を阻止する闘争をすれば必ず成功するはずだ。李明博政府の非核・開放3000政策は失敗した米ブッシュ政権の政策である」と述べた。
2009年7月13日に三たび持病の肺炎を患う。同年8月18日にソウル市内の延世大学校医療院セブランス病院で、多臓器不全により、死去。85歳だった。また、盧武鉉の死去(同年5月)と同じく、韓国の大手サイト(ネイバー、ダウム、ネート、Yahoo!、Google、MSN)では、トップのロゴを白黒に差し替え、特設ページも設けた。太陽政策を推し進めた大統領経験者が4ヶ月足らずで相次いで死去したことになる。
2009年8月23日、ソウル市の国会議事堂前広場にて、韓国史上2人目の国葬に処された。
対日関係
金大中は併合時代の朝鮮における日本語教育を受けており、戦後日本での滞在も長く、流暢な日本語を話すことができたため、非公式な場における日本のマスコミ向けのインタビューでは日本語で応じる事が多かった。盧武鉉、江沢民のように強固な反日姿勢はとっておらず、二度命を救われている日本に対しても寛容な立場で、潜在的親日派とされているが、国の事情により、親日に踏み込んだ発言まではしなかった。ただし、小泉純一郎の靖国神社参拝問題には反対の姿勢であった。また前述の金大中事件がKCIAの犯行と判明した際には、当時の首相田中角栄等を角栄の没後であったのにも拘わらず、痛烈に批判している(ただし、日本語訳版も出た大統領就任直後に出版された自伝『死線を越えて』では「金大中事件の際には日本の皆様には世話になった。」と日本に対する謝意は表明している)。大統領就任後の来日時には日本統治時代の恩師を訪問し、「豊田です。」と日本語で創氏改名時の苗字を名乗ったため、一部から批判を浴びた。
1998年の来日に先立って、政府として天皇を表す「日王」の呼称を取り止め、「天皇」を使用することを公式に宣言。また、来日前から「過去の清算」に強い意欲を持っていたとされる。皇居での晩餐会での天皇の言葉に対する答辞では、植民地支配など過去の歴史の傷には触れなかった。愛子内親王の誕生に際しては「皇室と国民が待ちこがれた皇孫が誕生した事を、韓国国民とともに心よりお祝いします。皇室がこの度の慶事を機に、一層繁栄することを確信します」との祝電を送った。また、金は日本の常任理事国入りに対する韓国国内の支持を求めていた。
映画や音楽などの日本文化を受容することも表明。そのためか、日本に対する嫌悪感が薄れる若者が、過度な反日教育・報道にもかかわらず増えた。日韓ワールドカップも共同開催するなど、金泳三と同様に民間交流で日韓関係を好転させ、金大中時代が過去最も良好な外交関係であった。
対北送金疑惑
金大中は南北首脳会談の直前に現代グループが北朝鮮へ5億ドルを違法に送金をするのを容認した。現代グループはこれにより、北朝鮮における事業の権利を得た。このため首脳会談は送金の見返りだったという見方があり、ノーベル賞受賞に疑問を投げかけた。
2004年3月28日、最高裁判所は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への不法送金事件で起訴された林東源元国家情報院長、李瑾栄元産業銀行総裁、朴相培元産業銀行副総裁、金潤圭現代峨山社長に対し有罪を確定したと発表。判決文では「高度な政治性を帯びた国家行為に対し、司法審査を抑制するという統治行為概念は認めるとしても、適法な手続きに沿うことなく、北朝鮮に4億5000万ドルを送金した行為自体は法的審査の対象となる」としている。
2004年6月12日のMBCのインタビューにて、金大中は「対北送金に対する特別検事捜査は、それ自体やってはならないことだった。国政を遂行していれば、外部には知らせられない多数の問題がある。これを一々特別検事が捜査し、問題視すれば、国政は難しくなる。1億ドルを提供しようとしたのは事実だが、実定法では難しい部分があり、政府レベルでは提供できなかった。現代が通信に関する権利を北朝鮮側から提供される対価として支払ったと聞いている」と関与を認めた。
2011年12月、金大中政権が発足当時からノーベル平和賞受賞のために組織的な「工作」を行っていたことや、北朝鮮に5億ドルを不法送金した内幕、安全企画部による盗聴などをメディアに次々と暴露した元国家情報院職員がアメリカへの政治亡命が認められた。この元職員は機密漏洩の容疑で国家情報院より告発されている。 
 
盧武鉉 (ノ・ムヒョン 1946-2009)

 

大韓民国の政治家、第16代目韓国大統領(2003年-2008年)。本貫は光州盧氏。カトリックの洗礼名を持っていて、洗礼名はユストだが、妻は仏教徒で遺骨も実家近くの仏教寺院に納められている。一部の進歩陣営では、盧武鉉を"ノチャン"と呼ぶ。妻の権良淑(クォン・ヤンスク)とのあいだに1男1女。 歴代大韓民国大統領で最初に日本統治時代を経験していない世代の大統領である。
生い立ち・弁護士として
慶尚南道金海郡(現:金海市)進永邑(チニョンウプ)烽下(ポンハ)の貧しい農家に生まれる。母親は身ごもっている最中に胎夢を見たという。6歳ですでに千字文を諳んじた神童であった。小学校では生徒会長を務め、中学校では成績トップを争うほどだったが、貧困により1年の休学を余儀なくされている。苦しい家計を思い、一度は高校進学を諦めるが、兄の強い説得と助力で名門の釜山商高に進学した。当時商業学校からの花形コースであった銀行マンを志し、農協の就職試験を受けるも叶わず、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。司法試験への挑戦を決意する。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし、日雇い労働をしながら1966年11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、1971年に三級公務員の一次試験に合格。兵役をはさんで勉強を続け、1975年司法試験に合格した。司法研修院で研修を終えた後、1977年大田地方法院(裁判所)判事に就任。1978年判事を辞めて弁護士事務所を開業。当初は不動産や租税関連の訴訟を専門とし、ヨットが趣味で琵琶湖でのイベントに参加するなど、釜山でも稼ぎのいいブルジョア弁護士として知られていた。
しかし1981年に別の弁護士の代理として釜林事件の弁護を引き受けた事が転機となり、徐々に政治・社会問題への関わりを深めていく。1982年の釜山アメリカ文化院放火事件では被告側弁護人を担当。1985年には釜山民主市民協議会の常任委員長となり、本格的に民主化運動に足を踏み入れた。1987年には大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導し、大宇造船事件では逮捕と拘留も経験している。盧武鉉は後年、人権派弁護士への変身は覚悟や決意を要求されたものではないと語った。平凡な常識と良心、そして「拷問されて真っ黒になった学生の足の爪」を見ての憤りと怒りであったという。
政界進出
1988年に統一民主党(当時)の金泳三に抜擢され、同年4月に行なわれた13代国会議員選挙で当選し、政界入りした。国会の労働委員会では、李海瓚や李相洙とともに「労働委員会三銃士」と呼ばれ、活発な活動を行った。同年、第五共和国の不正調査特別委員会の委員となり、第五共和国聴聞会における全斗煥時代の不正追及の場面がテレビ中継されたことがきっかけで、国民的スターになった。
1990年に民主党の金泳三派が盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党と合党し(三党合同)、大与党・民主自由党を結成した。盧武鉉はこれを野合として合同への参加を拒み、他の議員とともに1990年6月に改めて結成された民主党に加わり野党に残った。盧武鉉は金大中率いる新民主連合党との野党統合運動を推進し、1991年9月に統合野党としての新・民主党を発足させた。
その結果、恩師でもあった金泳三に睨まれることになり、1992年には14代国会議員選挙で落選。1995年の釜山市長選挙および翌1996年の15代国会議員選挙も落選した。1998年の補選にてようやく国会議員(ソウル市鍾路区で当選。新政治国民会議)に復帰した。2000年の16代国会議員選挙でソウル・鍾路区ではなく釜山市の北・江西乙選挙区から出馬(新千年民主党)し、再度落選するが、勝てなくても立候補し続ける姿が一部の国民の共感を得て、2000年にインターネット上で盧武鉉のサポーター組織「ノサモ」(ノムヒョヌル・サランハヌン・モイム=盧武鉉を愛する集まりの意)が結成された。
2000年8月、盧武鉉は金大中政権の海洋水産部の長官に任命された。これは湖南(全羅道)を地盤とする民主党が、民主党の支持が薄い嶺南(慶尚道)出身者を次期大統領候補(のひとり)として遇しようとしたためと言われている。
大統領選挙
2002年大統領選挙に際し、新千年民主党(以下、民主党)の大統領候補の選出は、アメリカ合衆国の予備選挙制に似た国民参加選挙(国民競選)を通じて行われた。立候補登録を行ったのは、金重権、盧武鉉、鄭東泳、金槿泰、李仁済、韓和甲の各常任顧問と柳鍾根全羅北道知事の7名だった。世論調査では李仁済が優勢とされ、またハンナラ党の大統領候補李会昌による忠清圏票の独占を防げるということで、「李仁済大勢論」(李仁済以外にいない)と思われた。だが、李仁済では李会昌に勝てず、進歩主義陣営の票を取りこぼすと主張する意見もあり、それは急速に「盧武鉉代案論」として浮上した。
全国で行われた予備選挙で、盧武鉉は蔚山、光州と勝利を重ねた。嶺南と湖南で勝利したことにより、民主党候補が地域対立を越えて大統領に当選する期待を抱かせた。苦戦する李仁済は盧武鉉の思想、財産、盧武鉉の義父の左翼歴にいたるまで取り上げて批判した。だが大勢を覆すに至らず、盧武鉉は勝利を重ねて「盧風」(盧武鉉旋風)を巻き起こした。そして4月27日に民主党の大統領候補に選出された。
しかし金泳三との和解を演出した「YS腕時計事件」は、進歩・改革の旗手として支持者が描いていた盧武鉉のイメージを傷つけた。また、金大中の側近や親族の逮捕は民主党の大統領候補である盧武鉉への逆風となり、6月の統一地方選や8月の補選に惨敗した民主党では候補の交代や、鄭夢準との候補一本化が取り沙汰されるようになった。
このような事情から、盧武鉉は鄭夢準との候補一本化を模索した。調整の結果、二人はテレビ討論会を行い世論の支持を集めた側を統一候補として擁立する事にした。テレビ討論会は11月22日に行われ、その後の世論調査で盧武鉉は46.8%、鄭夢準は42.2%の支持率となり、盧武鉉が統一候補に決定した。そして大統領選挙戦は、事実上盧武鉉とハンナラ党の候補李会昌の一騎討ちとなった。
11月20日、在韓米軍の軍事法廷は6月に女子中学生を交通事故死させたアメリカ兵に無罪の判決を下した。これは米韓行政協定(SOFA)のもとに行われたことだったが、民主活動家たちが運動を活発化させるきっかけを与えた。労働組合や左派団体はソウルや各地の都市で繰り返しキャンドルデモを扇動し、メディアもそれを報じて反米機運を増幅した。アメリカは11月27日にハバード駐韓大使とラポート在韓米軍司令官が謝罪し、さらに大統領(当時)のジョージ・W・ブッシュの謝罪声明を発表して事態の沈静化を図ったが、デモの主催者たちはこれを欺瞞とし、デモを続けた。投票日を前に発生したこの事件は、有権者の投票行動に少なくない影響を与えた(→議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件も参照)。
2002年11月27日および28日、盧武鉉と李会昌、民主労働党の權永吉ほか4名が大統領選挙の候補に登録を行い、選挙戦が正式に開始した。盧武鉉は金大中による太陽政策(包容政策)の継承、行政首都を忠清圏に移転するといった政治改革や、7%の経済成長を公約に掲げた。一方、比較的親米的な李会昌は金大中政権の路線を全面的に転換することを望み、対北・対米方針の違いが、大統領選挙の主要な争点の一つとなった。
投票日前日の12月18日、鄭夢準が盧武鉉への支持を撤回するというハプニングが起きた。対北朝鮮政策の違いや、将来の大統領をめぐる盧武鉉の発言など原因であるといわれている。しかし土壇場での「裏切り」はかえって盧武鉉への同情を呼び起こし、またノサモによる盧武鉉への投票の呼びかけが功を奏して、盧武鉉は約57万票差の僅差で李会昌を制し、第16代大統領の座を射止めた。なお、地方での得票率においては盧武鉉は湖南地域で軒並み90%以上を獲得する一方、大邱広域市の一部で20%を下回るなど一部地域間での差が顕著に表れた。
大統領職
○就任
盧武鉉は相対的に高い国民の支持を得て大統領職に就任したが、与党の新千年民主党は国会では少数派だった。国会ではハンナラ党が過半数を占めており、選挙訴訟、人格攻撃、大統領としての適性を取り上げ、あるいは言葉尻をとらえて盧武鉉を攻撃した。さらに与党の新千年民主党では、全羅道を基盤とする金大中派と盧武鉉を中心とする主流派との間で与党内抗争が激化し、主流派が「ヨルリン・ウリ党」を結成したことによって新千年民主党は下野した。議会での基盤を大幅に損なった盧武鉉は苦境に立たされた。
与野党共に大統領選挙における不正資金疑惑が浮上した。経済運営も難航した。イラクに韓国軍を派遣したことが支持者離れを引き起こし、支持率は急落した。起死回生を図るべく、盧武鉉は国民投票による再信任を提案するが、各方面から批判を浴び撤回を余儀なくされた。盧武鉉は与野党代表と会合を行い「われわれが昨年の大統領選挙で使った不法資金の規模がハンナラ党の10分の1を超えれば、大統領職を退き、政界を引退する」と述べたが、調査が進んで8分の1に迫ると、敵対的なメディアでの主観的な計算の問題としてその数字に異議を唱えた。
イラク追加派兵問題をめぐり、外交通商部と国防部の「韓米同盟派」と、大統領府・国家安全保障会議(NSC)を中心とした「自主派」が軋轢を起こした。2004年1月、盧武鉉は外交通商部幹部の失言と監督責任を理由に尹永寛外交通商部長官を更迭し、後任に潘基文を任命した。
○弾劾
総選挙を控えた2004年3月9日、野党であるハンナラ党、新千年民主党は国民の理解を得られると踏んで大統領の弾劾訴追を発議した。3月12日、投票(賛成193、反対2)の結果、大統領弾劾訴追案が可決され、一時的に大統領職務を停止された。これにより、当時国務総理(首相)だった高建が大統領職務代行を務めた。
しかし、党利党略から大統領を弾劾し、国政を混乱させた野党に世論が反発、総選挙でのウリ党の地滑り的勝利に繋がり、これをもって事実上の信任と見なされた。5月14日には憲法裁判所により大統領弾劾訴追が棄却され、職務に復帰した。結果として、盧武鉉は政治基盤を大幅に強化し、政策を推進する体制を整えることとなった。
○改革
盧武鉉は自らの政権を「参与政府」(国民が政治に参与する政府)と称し、より進歩的かつ理念的な改革を指向した。「ノサモ」などのインターネットの力を借りて政権の座に就いたこともあり、ホームページを通して積極的な情報公開を行うだけでなく、重大な政策論争に行き当たるたびに、国民に直接語りかける機会を設け、ネットを利用したポピュリズムを形成して、既存の保守勢力の抵抗を突破しようとした。
○大連立論争
与党のウリ党はすべての補選で敗北を喫した。2005年4月30日の補選も例外でなく、ウリ党は6選挙区すべてで議席を獲得できず、惨敗を喫した。不人気に直面した盧武鉉は、野党ハンナラ党に権力を渡すことを含めた選挙制度改革と大連立(挙国連立)政権を提案した。国民一般の世論とかけ離れたこの提案は、国論を沸騰させた。憲法学者は違憲の疑いを指摘し、ハンナラ党は繰り返し連立政権の交渉を辞退した。与党議員の3分の2が連立政権に反対したが、盧武鉉はこの提案に執着した。
2005年9月7日、盧武鉉とハンナラ党の朴槿恵代表との単独会談が行われ、2時間30分にわたり二人は意見を交わしたが、双方は合意を見出せずに物別れに終わった。大連立構想はいずれの政治派閥からも支持を得ることなく廃棄された。
○レームダック
2006年5月31日に行われた統一地方選挙では、盧武鉉政権の経済無策への批判やハンナラ党代表の朴槿恵への襲撃事件も重なって、与党のウリ党は歴史的惨敗を喫した。事実上大統領および政府与党への信任選挙であったため大統領の責任論が浮上したが、「一度や二度の選挙結果に惑わされるようでは民主主義とはいえない」と述べ、与野党双方からさらに批判が巻き起こった。この選挙結果により以前から言われていた「レームダック(死に体)政権」のイメージがますます強くなってしまい、支持率は20%を切るようになった。
2006年8月、盧武鉉は任期切れとなった尹永哲憲法裁判所所長の後任に、全孝淑憲法裁判所裁判官を内定した。しかし任命手続きに法的な瑕疵があったことを理由に国会が同意せず、憲法裁判所所長の座が空位となった。
2006年10月、国家情報院は386世代民主化闘士が北朝鮮と通じてスパイ活動をしたとして、民主労働党の幹部などを国家保安法違反で逮捕した。しかし、捜査の指揮を執っていた金昇圭国家情報院院長が突如辞意を表明し、その後情報機関の長としては異例にも朝鮮日報へのインタビューに応じて捜査内容を語るという事件が発生した。同月、尹光雄(英語版、韓国語版)(ユン・グァンウン)国防部長官が辞任した。宥和政策に対する批判の高まりから統一部長官の李鍾奭も辞意を表明し、国連事務総長へ転出するため辞任した外交通商部長官の潘基文と合わせて、外交・安保の責任者がすべて入れ替わることとなった。
2006年11月、盧武鉉は憲法裁判所所長の指名を撤回した。盧武鉉は議場を占拠して任命同意案の採決を阻んだ国会を非難するとともに、指名撤回を「屈服」と表して、任期を終えることのできない最初の大統領にはなりたくないと述べた。
2006年12月、盧武鉉は民主平和統一諮問会議の席上で、韓国の国防力に自信を示すと共に、在韓米軍基地移転や戦時作戦統制権の返還に反対する退役軍人に対し「アメリカの後ろに隠れて『兄貴、兄貴のパワーだけ信じるよ』とばかりしてはいられない。一度は度胸をみせるべきじゃないか」「自国軍隊の作戦統制さえきちんとできない軍隊を作っておいて、『私は国防長官です』、『私は参謀総長です』と威張りたいというのか」と反論した。
○党争
度重なる補選の敗北と次期大統領選挙を見据えて、与党ウリ党では金槿泰を中心に、かつて袂を分かった民主党との再統合を模索する動きが活発化した(統合新党論)。盧武鉉は再統合を地域主義への回帰であるとして非難し、長文の手紙を発して党員への呼びかけを行った。また次期大統領選挙の有力候補であり、進歩主義陣営結集の核と目された高建を激しく攻撃し、大統領選挙への出馬辞退に追い込んだ。
ウリ党の親盧勢力も、盧武鉉の意を受けて党を死守するとの立場を見せた。金槿泰らが党の進路を決める全党大会を前に、外部人材の受け入れを妨げるとして基幹党員制の撤廃に踏み切ると、改正手続きに不備があると仮処分を申し立て、法院はこれを認めた。ここに至り、ウリ党の現職議員が全党大会を待たずに脱党を始めた。盧武鉉は党の現状を知り、青瓦台に親盧勢力を招いて党の分裂を防ぐように方針転換を促した結果、党憲の改正は改めて議決されたが、現職議員の脱党を完全に押し留めるには至らなかった。
内政
盧武鉉は金大中の後継者として、「左派新自由主義」路線を推進した。
○経済政策
アジア通貨危機以来の新自由主義政策を継承した。
○社会政策
左派が課題としてきた問題に取り組み、過去の軍事政権下における人権抑圧について検証を進めた。
朝鮮日報、東亜日報という既存の保守系メディアとは鋭く対立し、その力を殺ぐべく言論改革を唱えた。これは後に大手新聞社の発行部数を抑制し、政権に融和的な中小言論を経済的に支援する「新聞法」や、報道被害に訴訟で対抗する道を拓く「言論仲裁法」といった言論改革法の成立に結びついた。北朝鮮の工作員から反米活動の大衆化や金泳三元大統領と黄長Y元北朝鮮労働党秘書に圧力をかけることなどの指令を受けていた南北共同宣言実践連帯などの親北朝鮮団体に政府補助金を支援した。
一切の良心的兵役拒否を認めない徴兵制度を有する韓国は、国連の自由権規約人権委員会や人権理事会から、繰り返し良心的兵役拒否を認めるよう勧告を受けている。これらの要請を受けて、盧武鉉政権では代替服務制を推進したが、その次の李明博政権は「代替服務制導入は時期尚早」として、この議論は衰退した。
○首都移転計画
最大の公約である地域主義を解消するべく、極度に人口が集中するソウル一極集中を正すために首都移転計画を進めたが、2004年10月21日に憲法裁判所が「ソウルは朝鮮王朝以来の慣習的首都」として「違憲」と判断、修正を余儀なくされた。
○歴史認識問題
盧武鉉は歴史の見直しにも強い意欲をもって臨んだ。民主化以降の文民政権は、政権の正当性を確立するために現代史の見直しや清算を進めてきたが、盧武鉉はこれを一歩進めて日韓併合や日本統治時代の親日派、朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明を主張した。韓国国会は過去清算に関わる立法を進め、金泳三・金大中政権で成立したものを含めて13の特別法が効力を持つことになった。また、これらの法律を総括するために、植民地時代から軍事政権期にいたる全ての事案に適用して真相究明や責任の追及、補償を行うための過去史基本法(真実・和解のための過去史整理基本法)を成立させた。
2006年3月20日、全斗煥元大統領ら170人の叙勲を取り消す。
外交
対北朝鮮政策においては金大中の太陽政策を継承、かつさらに極端なまでに発展させ、北朝鮮に対しては徹底的な宥和路線で臨んだ。また、独自外交路線を推し進め、米韓同盟を見直しつつ、日本とは一定の距離を置いた。
日本
就任当初は歴代の大統領と同様に「未来志向」を謳い、日本と良好な関係を結ぶと期待された。初めての訪日が顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり批判を浴びたが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」と主張して、訪日の重要性を強調した。日韓首脳が頻繁に会談し意見交換する必要があるとの認識から、当時の日本の首相である小泉純一郎との間でシャトル首脳会談を推進することで合意し、相互を往復して会談を重ねた。
従来から日韓双方がこれまで必要に応じて棚上げしてきた問題について、人権派弁護士として軍部独裁に反対する学生とともに歩んできた盧武鉉は文民政権の正当性を確立するために歴史の清算にこだわった。
また、セヌリ党の鄭夢準によると、盧武鉉は司令官が出席する長官会談でアメリカに日本を共通の仮想敵国に規定しようと提案し、アメリカは非常に当惑していたと語った。韓国や日本では報道されていなかった。
2005年3月、盧武鉉は三一節の演説で日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求し、ついに対日強硬政策へと舵を大きく切り直した。丁度この時期は小泉首相が靖国参拝を続け、かつ国連の常任理事国入りを目指しており、韓国では反日デモが起こる等国内での反日感情が増幅していた時期であった。しかし演説への論評を求められた当時の小泉首相は、盧武鉉の発言は「国内向け」と応じて取り合わなかった。両者の亀裂は決定的なものとなり、盧武鉉は「外交戦争も辞さない」というきわめて強い表現で日本への批判を続け、最終的には小泉の靖国神社参拝を理由として首脳会談を中止した。北朝鮮による拉致が明らかになることで日本の世論は小泉支持に変わっていった。盧武鉉は日韓首脳会談で靖国神社について「過去の戦争を誇り、栄光のように展示していると聞いている」と述べ、続けて「(靖国神社は)過去の戦争と戦争英雄を美化し、これを学んだ国が隣りにあり、こうした国が膨大な経済力と軍事力を持っている。(韓国など)その近隣国が過去に何度も苦しめられたことがあるならば、国民は未来を不安に思わざるを得ない」と強い懸念を示し、日韓シャトル外交も以後中止となり、盧武鉉は退任までにシャトル外交に出席しなかった。数ヵ月後には小泉は靖国参拝は「不戦の誓い」だと主張、これに対し盧大統領は「いくら小泉首相の考えを善意に解釈しようとしても韓国の国民には決して受け入れられないだろう」と言明した。
2005年4月、盧武鉉がドイツを訪問し日本の国連常任理事国入りに反対を表明し(一方でドイツの常任国入りは支持すると発言)更に日本をナチスドイツと同様に批判しようと共同宣言を持ちかけるもドイツ政府から猛批判・猛反発を受け相手にされなかった。ドイツ在住ユダヤ人代表団からは「ナチスドイツによるホロコーストは人類史上最大で他に例をみない反人類的な犯罪であって、これを日本の韓国統治と同一視することは、ユダヤ人虐殺の人類史的意義を不当に貶める、きわめて非国際的で悪辣な議論である」という厳しい批判を受け、ドイツのメディアからも発言また訪問それ自体が無視され、何の成果も得られなかった、としている。
2005年の8月15日の3日後の18日に親日派財産を取り戻すための汎政府機構である「親日反民族行為者財産調査委員会」 が本格発足した。盧武鉉政権では日本統治時代の「親日派」の子孫を排斥弾圧する法律(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)が施行された。しかしこの法律は明らかに法の不遡及の原則に反し憲法違反である。そのためか韓国のメディアや親日派名簿のリストに載った者から批判を受けた。
ジャーナリストの池東旭と評論家の金完燮によると、盧武鉉がこのような強固な反日政策をしたのは、韓国社会の主流が日本統治時代に生まれた日本語世代から戦後から日韓国交正常化までに激しい反日教育を受けたハングル世代へと入れかわったため、としている。大の日本嫌いであった初代大統領の李承晩は反日教育を行ったが、朴正煕、金泳三と金大中達はそれ以前の日本統治時代の生まれで対日感情は悪くなかった。
2006年4月25日に盧武鉉は特別談話を発して、日本にこれ以上の新たな謝罪を求めないとしながらも、幾度か行われた謝罪に見合った行動を求めた。
2006年7月5日には竹島(韓国名:独島)周辺の日本の排他的経済水域および領海内で、韓国船が日本の抗議を無視し海洋調査を行った。日本が海洋調査を実施しようとした際には「武力行使もありうる。国際法上合法だというならば、そんな国際法に意味はあるのか」本側の制止を無視して竹島の海洋調査をおこない、事実、島根県内の防衛庁(現防衛省)施設に対して軍事攻撃を行なうよう検討 と猛反発したことから、一連の動きは露骨な対決姿勢の表れとみなされ日本との外交関係は更に悪化した。同日に北朝鮮が行ったミサイル乱射に対しても両国は連携できず、国連安保理での制裁議論に際しても日本は韓国に対する配慮を行わなかった。 また、2006年4月21日付のワシントンポストにおいて、盧武鉉政権が海上保安庁の竹島周辺海域海洋調査を阻止するために日本政府への具体的な圧力として、「島根県内の防衛庁(現防衛省)施設」に対する軍事攻撃を検討していたことが明らかとなり、仮に攻撃が行なわれたとして自衛隊との軍事的衝突はおろか国際的な非難と信用の失墜及び最悪経済制裁を受けていた可能性もあり、韓国国内からも盧武鉉政権の独断ぶりに憂慮の声が強く挙がった。
2006年10月9日、小泉のあとを受けて首相に就任した安倍晋三とのあいだで約11カ月ぶりに日韓首脳会談が行われた。しかし盧武鉉は同日に北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった。
2007年1月、盧武鉉が前年ハノイで行われた安倍との会談の席で、日本海呼称問題の解決のために日本海(韓国名「東海」)を、日韓どちらの名称でもなく新しく「平和の海」と呼称するよう提案し、即座に拒否されたことが報じられた。この提案は政府内の調整を経ておらず、国際社会に「東海」への改名を働きかけている韓国官民の努力を無にするものであると保守派・右派を中心に非難された。
俳優・草g剛との対談を行った時は、両国で生中継された。
アメリカ
盧武鉉は大統領選挙の前から反米主義で知られ、それは選挙戦の間も不利な条件とはならなかった。特に在韓米軍による女子中学生死亡事故と、北朝鮮に対するブッシュの強硬姿勢によって高まった反米機運が、2002年には一般的であり、盧武鉉の当選は反米路線であるが故ともされている。盧武鉉は大統領に当選する前「反米だからどうだと言うのだ?」と述べ、それは盧武鉉への支持に繋がると同時に、多くの国民に彼がアメリカとの関係に独立した一線を導くと信じさせた。
しかし大統領就任後、この様な見解が負債として彼に圧し掛かった。韓国の保守派とアメリカは疑念を抱き、反共の野党ハンナラ党はたびたび盧武鉉を極左として非難した。盧武鉉はこの否定的なイメージを覆すべく、初訪米の際に「もし53年前にアメリカが韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」と発言したが、アメリカからの支持は得られず、発言自体があまりにも自虐的かつ国家的自尊心を侮辱するものとして、国民に受け取られた。そしてこの「転向」はマスコミ向けのポーズをするためだけにアメリカを訪問しないと述べていた大統領選挙戦中の発言と一致せず、一層警戒されることとなった。また、アメリカ政府も3度に渡って訪米した盧武鉉を、いずれも実務訪問という外交プロトコルで扱った。盧武鉉は、元国防長官のロバート・ゲーツと会った際、「アジアで最大の安全保障上の脅威はアメリカと日本だ」と述べ、ゲーツは2014年1月に出版した回想録で、「私は彼が反米的でちょっと頭がおかしいという結論を下した」と書いている。
盧武鉉がアメリカのイラク戦争を支持して軍を派兵する事を決めた時、多くの国民は裏切られたと感じた。あくまでも平和維持任務であることを説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、アメリカの支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉をアメリカの傀儡と非難した。イラクに派遣された韓国軍は3260人に及び、これは英米以外で最大の規模である。
アメリカとの関係は、北朝鮮の核危機が進むにつれ悪化した。アメリカは、韓国の宥和政策はアメリカの強硬政策と両立せず、韓国による北朝鮮への経済援助が、北朝鮮の頑なな態度を強化させて交渉のための協調を傷つける、と繰り返し主張した。
韓国が北東アジアのバランサーの役目を果たすという盧武鉉の宣言は、さらにアメリカを苛立たせた。周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築くという基本方針は、アメリカが紛争当事者になったときに韓国は中立的立場を維持する可能性があると受け取られた。国防次官補のリチャード・ローレスは露骨に不快感を示し、米韓同盟の役割に疑問を呈した。
盧武鉉は親北、親露政策をとり、共産圏を擁護する発言が見られた。韓国の中央日報が2005年9月に伝えた報道によると、「朝鮮半島分断の責任はどこの国にあるか」というアンケートにおいて、アメリカ53%、日本15.8%、ロシア(ソ連)13.7%、中国8.8%という結果になっている。統一に最も友好的な国としてロシア(37.1%)が挙げられ、反面、最も敵対的な国は米国(44.7%)、日本(28.8%)などの順だった。ヘリテージ財団のピーター・ブルックス上級研究員はダグラス・マッカーサー将軍の銅像撤去論争に言及して「恩を忘れる者ほど悪いものはない。今週の『恩知らず大賞』は韓国が獲得した」と皮肉った。 ダグ・ベンド米カント研究所研究員は、 「アメリカにおいて韓国は莫大な費用と犠牲を注ぐほどの 死活的な利益の対象ではない、韓米両国は友好的な決別を準備しなければならない」と述べた。。そのためかアメリカでは嫌韓感情がわきあがり、韓国はアメリカの三番目の敵国と見なされた。
2006年3月、韓国はアメリカとの自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を開始すると発表した。盧武鉉の元経済政策助言者を含む多くは、政府があまりにも拙速であり韓国経済に否定的な影響を与えると懸念を表明した。そのような反対にも関わらず、盧武鉉は繰り返し自由貿易協定を支持し、それが韓国経済に良い影響を与えると主張した。
アメリカとの伝統的な関係が変化する過程で、戦時作戦統制権の移譲問題が浮上した。盧武鉉はこの問題を「自主国防」という視点で捉えて積極的に推進した。アメリカは当初、韓国にその能力が整っていないと消極的だったが、盧武鉉が「作戦統制権こそ自主国防の核心、自主国防こそが主権国家の花」と政治テーマに掲げて自国のメディアに喧伝するにつれ、積極姿勢に転じた。これは、韓国が自国の防衛に主要な責任を持つことはアメリカにとって損とならず、北朝鮮の侵攻を抑止するために朝鮮半島に固定された在韓米軍を抽出して、他の目的に再活用し得ると意識されたことが大きいとされる。 冷却化する米韓同盟に危機感を覚えた歴代の国防長官や退役軍人などの一部が、尹光雄(英語版、韓国語版)国防長官に戦時作戦統制権の返還推進を中止することを求めたが、この意見は容れられず、10月の米韓定例安保協議会(SCM)で、移譲が正式に決定した。これにより、現在まで韓国の安全保障を担保してきた米韓連合司令部は近い将来に解体され、韓国防衛における在韓米軍は副次的地位に引き下げられることとなった。
2006年9月14日(日本時間15日0時)、盧武鉉は欧州歴訪についでアメリカを訪問し、ブッシュと6回目の首脳会談を行った。冷却化する米韓関係を象徴するようにアメリカのメディアの扱いは冷淡であり、同日付のニューヨーク・タイムズ紙では「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評された。また、会談後の共同文書の発表に至らず、一つの時代の終わりと、同盟構造の解体を視野に入れた「白鳥の歌」を世界に知らしめることとなったと評す者もいた。
北朝鮮
北朝鮮に対しては金大中の太陽政策を引き継ぎ、関与政策と包容政策を継続している。2004年11月にはロサンゼルスで「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べ、北朝鮮の主張に理解を示した。経済破綻状態にある北朝鮮を安定させるべく、肥料や米などの物質的支援、開城工業団地や金剛山観光開発といった経済的支援を行い、北朝鮮への圧力を強めるアメリカと意見の違いを見せた。
このような盧武鉉の配慮にも関わらず、北朝鮮は2006年7月5日、ミサイルを発射し、盧武鉉の立場を苦しいものとした。しかし、7月9日、政府見解として「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に大きな隔たりのある見解を発表し、韓国国内からも批判を受けた(当時、着弾海域付近では韓国漁船が操業していた)。日本政府が国連安全保障理事会へ北朝鮮への制裁決議案を提出した事については強い警戒感を示し、包容政策を継続する韓国政府と、制裁論に向かう日本政府との間で明白なズレが生じた。
7月13日には第19次南北閣僚級会談が決裂。「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という恩を仇で返される言葉をもらい、宥和政策の行き詰まりを示す出来事となった。それでも8月15日の第61周年光復節では「決して容易なことではない」としながらも、北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を赦すと演説し、宥和的姿勢を維持した。そして同時期に発生した北朝鮮の水害に対する援助として、米、セメント、重機などの支援を行った。
10月9日、北朝鮮は「核実験実施」を発表した。それを受けて国連安全保障理事会は2006年10月15日に制裁決議を採択した。一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、アメリカから求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている。
中国
「北東アジアバランサー論」に沿って、日本や伝統的な同盟国であるアメリカとの関係を見直しながら、中国との接近を図っている。北朝鮮の核開発問題では宥和的姿勢で協調し、また靖国神社問題や歴史教科書問題では暗黙の共闘を演じた。2006年11月には、自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を始めることで合意している。
中国の推進する東北工程では高句麗を古代中国の地方政権と見なし、これを自国の歴史の一部であるとする韓国側と意見の相違がある。2004年には、中国外交部がこれまで韓国の歴史として紹介していた高句麗の記述をホームページから削除し、韓国政府がこれに抗議するという騒ぎが起こった。しかしその後、両国外交部の間で「民間レベルの学術討論で解決していき、政治問題としない」という口頭の合意を交わして関係の修復を図った。この合意は2006年10月に盧武鉉が中国を訪問した際にも、胡錦涛国家主席との間で再確認された。
大統領退任後と死
退任後は故郷に戻り、金海市の生家近くに新居を建設した(盧武鉉タウン)。李明博政権の不人気で、インターネット上での再評価が進んだ一方で、国庫補助金で地熱を利用した冷暖房設備を設置していたことが報道され、非難の的となった。
不正献金疑惑
退任後、盧武鉉の側近・親族が相次いで逮捕された。2008年11月、盧武鉉政権の側近の一人が贈賄容疑で逮捕された。また、盧武鉉の兄盧建平が証券会社「世宗証券」の買収を韓国農協幹部に働きかけ、約20億ウォン(約1億3000万円)相当の見返りを得ていた疑惑が浮上し、後に逮捕された。兄の盧建平は、逮捕されるまでは「ポンハ大君」「大先生」「慶南大統領」と呼ばれていた。2004年に朴淵次泰光実業会長に対して慶尚南道知事補欠選挙に出馬したヨルリン・ウリ党候補を全面的に支援するよう要請し、8億ウォン(約5700万円)を出させた。2005年の4・30補欠選挙では、5億ウォン(約3600万円)を同じように出させた。2006年1月には農協による世宗証券の買収にも介入し、30億ウォン(約2億2000万円)近い裏金を自らの懐に入れたことも分かっている。2009年8月25日、盧武鉉の秘書官が大統領特殊活動費を着服したことや盧武鉉の支援者から金品を受け取ったことで横領と収賄罪で懲役6年の実刑判決を受けた。
さらに盧武鉉自身も捜査対象となり、2009年4月30日には韓国最高検察庁が合計600万ドル(約6億円)を超える不正資金疑惑について、包括収賄罪の容疑で本人に事情聴取を行なった。盧武鉉支持派の人々は一連の捜査を李明博政権下でおきたスキャンダルに対する煙幕だとして抗議している。
死去
その後、盧の逮捕も近いのではと思われていた矢先の同年5月23日早朝、慶尚南道の金海市郊外の烽下村にある自宅の裏山のミミズク岩と呼ばれる岩崖から投身自殺を図り、頭部を強打するなどして3時間後に死去した。先の事情聴取から1ヶ月足らずの出来事であり、韓国の報道機関は一般の番組を中断して特別報道番組を組むなど、韓国国内に大きな衝撃を与えた。
これに際して、盧が常用したとされるPCから自身が書いたと思われる遺書が発見され、その全文が公開されている。「非常に多くの人に面倒をかけた。(以下略)」と、上記の贈賄疑惑に関する心境が書かれていた。尚、その内容については、全文公開以前の側近により一部公表されていたものとは、大きく文面が異なる部分もあった。
韓国国民の56%が李明博大統領は盧武鉉前大統領の死について謝罪するべきだとしている。6月3日には、学界からはソウル大学教授124名が李明博大統領に謝罪を求める宣言文を出し、中央大学校教授68人も謝罪と総辞職を求める宣言を出した。同日、林采珍検察総長が辞表を提出することとなり、「原則と正道、節制と品格に基づいた正しい捜査、政治的不公正論争のない公正な捜査で、国民の信頼を一段階高めようとしたが、力不足だった」などとした声明も出した。
葬儀
盧武鉉前大統領の死去に対する韓国社会の反響は大きく、遺体が安置された慶尚南道金海市郊外の烽下村には連日多数の弔問客が詰め掛け、死亡当日の5月23日から28日までの6日間の弔問客の数は100万人を超えた。韓国の大手サイト(ネイバー、ダウム、ネート、Yahoo!、Google、MSN)では、トップのロゴを白黒に差し替え、特設ページも設けた。また、エヌシー・ソフトは5月29日の10:00から17:00(UTC+9)まで全てのゲームのサービスを一時停止とし、オンラインゴルフゲーム『スカッとゴルフ パンヤ』も白黒背景と献花に差し替えた。
一方、韓国政府は、5月24日の臨時閣議で、盧前大統領の葬儀を国葬に次ぐ格式の「国民葬」として執り行うことを決定し、国民葬の期間を23日から29日の7日間に定めた。5月26日、韓国行政安全部が告別式の日時と会場を正式に発表した 。
告別式は、5月29日午前11時頃、ソウル中央部にある景福宮の興礼門前庭で執り行われた。盧前大統領の遺体は、同日午前5時頃、烽下村にある安置場所を出発し、ソウルの葬儀会場に移送された。告別式には、李明博大統領夫妻や金大中、金泳三の両元大統領、各界の要人、外国の使節ら約3,000人が参列した。日本からは、特派大使として福田康夫前内閣総理大臣が参列した。共同葬儀委員長は、当時の首相の韓昇洙と、盧武鉉政権下で首相だった韓明淑が務めた 。
告別式を終えた葬列は、徒歩でソウル広場に移動し、午後1時30分、出棺の際に路上で行なう祭祀である「路祭」が執り行われた。多くの市民が追悼に詰め掛け、警察の推計では約18万人が集まった。ソウル広場を出発した葬列は、多数の市民が見守る中、ソウル駅へ向かった。午後6時5分頃、遺体が水原市に到着し、故人の遺言により火葬された。5月30日午前1時40分頃、遺骨は烽下村に戻され、烽火山にある浄土院の法堂に安置された。四十九日に、自宅の裏山に葬られた。  
 

 

 
李明博 (イ・ミョンバク 1941- )

 

日本の大阪府大阪市平野区出身の韓国の政治家。第17代大統領、ソウル特別市長を歴任。本貫は慶州李氏(韓国語版)。号は一松(イルソン、일송)。生誕時および1945年までの日本での通名は月山 明博(つきやま あきひろ)。
成長過程および教育
1941年、慶尚北道浦項出身の李忠雨(イ・チュンウ、이충우)を父親、蔡太元(チェ・テウォン、채태원)を母親とし、四男三女の三男(第五子)として大阪府中河内郡加美村(その後の大阪市東住吉区、現在の大阪市平野区加美南3丁目)の「島田牧場」の社宅に生まれる。李忠雨は1929年から島田牧場で働いていたが、終戦直後の1945年10月に一家は密航船に乗って、父親の故郷である浦項へ引き揚げた。
その当時、高等学校への入学は限られた少数の特権であった。彼のような大家族の場合、一般的に長男が家族の希望のような存在であった。この場合、下の兄弟たちは、兄や姉の教育費を賄うために自分の進学を諦めるのが普通で、彼も高等学校への進学を諦め、兄の教育費を稼ぐために母親の食品売りを手伝うつもりであった。しかし、中学校の教師が母親を説得し定時制の同志(ドンジ)商業高等学校に進学することになった。高校では奨学金給付を受け、昼間は仕事、夜は勉学に勤しんだ。
高校卒業後、ソウルの梨泰院に家族全員で移住した。その際に「金がなくて中退したとしても、高卒よりは大学中退のほうがましだ」として大学受験を決意し、清渓川の古本屋で参考書を買い受験勉強を始めた。市場で家業を手伝いながら、高麗大学校商学部経営学科に合格する。肉体労働のアルバイトで学費を貯めて1961年に進学した。大学在学中に兵役を務めたが、重度の蓄膿症と気管支拡張症により除隊となった。
1963年、高麗大学校商学部学生会長になった翌年に同大学校総学生会長代行となる。その当時学生による民主化運動はピークに達し日韓会談に対する抗議活動も非常に活発であった。1964年6月、朴正煕政権下の日韓基本条約締結に向けての日韓会談に対して、約1万2千人参加の反対闘争を主導し第6次日韓会談を中止させる(6・3事態)。これにより国家内乱扇動の容疑で逮捕され、最高裁で懲役3年・執行猶予5年(西大門刑務所(서대문형무소)に3ヶ月服役)の判決を受けた。このような経緯で彼は「民主化の一世代」とも言われるようになった。
ビジネス経歴
1965年に大学を卒業後、学生運動の経歴により就職難に陥る。社員が数十人という零細企業だった現代建設の面接に辿り着くが、そこでも経歴に難色を示されると朴大統領に手紙を送るなど紆余曲折を経て入社する。赴任先のタイで強盗から金庫を命がけで守り鄭周永の薫陶を受ける。
1965年、現代建設は韓国初の海外建設事業となるタイのパタニ・ナラティワート (Pattani-Narathiwat) 高速道路建設契約を520万ドル規模で受注し、1968年3月に完了した。この事業は、韓国の建設産業にベトナムや中東など新しい海外市場の開拓を促進させた。李は新入社員であったがプロジェクトチームの一員としてタイに派遣され、帰国後ソウルの現代建設重機事業所に配属される。
1960年代、現代建設はベトナム建設需要の停滞により中東地域へ目を向け、アラブ造船・修理所、バーレーンのディプロマットホテルやサウジアラビアのジュベイル (Jubail) 工業港プロジェクトなど積極的に国際的なプロジェクトを手がける。当時、韓国の建設企業は100億ドル以上のプロジェクトを受注し、石油危機を克服することに貢献した。1965年の入社当時、従業員90人程であった現代建設は、27年後に会長職を離れた時は16万人規模の大企業として成長した。
1970年、現代建設在職中に金潤玉と結婚して1男3女をもうける。
当時の韓国とソビエト連邦間の国交正常化過程においても一定の役割を果たし、リー・クアンユー元シンガポール首相、カンボジアのフン・セン首相、マハティール・モハマド元マレーシア首相、江沢民元中国国家主席、ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領など、海外の指導者らと交流を行った。27年間勤めた現代グループを離れた後、政界に進出することを決めた。
29歳で取締役、36歳で社長、47歳で会長に就任して現代建設を韓国では有数の企業に押し上げた経歴から、「現代の韓国を創った50人」に選ばれるなど立身出世した経済人として政界入り前から著名である。極貧の出身で、高校時代から5時間以上は眠らず、1日18時間働くと言われるほどの猛烈人生は既に何度もドラマ化された他(「野望の歳月」(1990年、KBS)、「火の鳥」(2004年、MBC))、現代建設を退職し政界入りする際に出版した自叙伝『強者は迂回しない』(日本語訳は2008年10月に『李明博自伝』として新潮文庫より刊行)は95年の出版以来、韓国内で200版近く版を重ねるベストセラーとなっている。
政界入門とソウル市長時代
1992年、現代建設を退社して第14代総選挙で与党民主自由党(民自党)から立候補し、国会議員に当選する。選挙期間中に、「ミハイル・ゴルバチョフという一人の人間がもたらした世界的な変革を見て、私も何かしなければと考えました」と言及している。
1996年、第15代総選挙で新韓国党(民自党が1995年に党名改称した政党)から出馬し、この時盧武鉉を破って当選する。しかし、彼の選挙参謀による不明朗な選挙資金の処理が明らかになり、選挙法の違反で700万ウォンの罰金が科される前の1998年に議員を辞職して渡米し、ジョージ・ワシントン大学客員研究員として1年間を過ごした。大学で参加した演習で「環境」の重要性に気付き、知人に誘われて訪れたボストンでの都市再生工事(ビッグ・ディッグ)から、後の清渓川復元工事をはじめとする一連の都市プロジェクトのヒントを得たという。
帰国後一時は金融界への進出を試みるが恩赦により政界復帰が可能となり、2002年、ソウル市長選で当選する。しかし、選挙活動を早期に開始したことで罰金を科される。ソウル市長在任中はインフラ整備を大々的に進めた。ソウル中心部を通り抜ける清渓高架道路を取り除いて「清渓川」を復元し、市民の憩いの場だけでなく生態系の宝庫にした。「ソウルの森」は、ニューヨークのセントラルパークやロンドンのハイドパークのような市民の憩いの場を目指して1年間の工事の後2005年6月にオープンし、ソウル市民に40万本の木々や鹿を始めとする100種以上の動物が生息する広大な自然空間を提供している。ソウル市庁前のロータリーは2002年のサッカーW杯大会の際に文化空間「ソウルプラザ」として整備され、2004年5月のテープカット以来、市民の憩いや文化行事に参加する場として利用されている。
英経済専門誌フィナンシャルタイムズの姉妹誌「fDi」は、「2005年世界の人物大賞 (personality of the year)」に選定した。2005年11月8日、2007年大統領選で左派政権継続阻止を掲げている新保守運動のニューライト全国連合創立大会に参加している。2006年5月、タイム誌アジア版は「ソウル、かつてのコンクリートジャングルのシンボルは緑のオアシスにその姿を変貌させ、他のアジア都市に環境に対する愛情を教え込んでいる」と、清渓川に素足を入れた李の写真を添えて紹介した。2007年10月、タイム誌はアメリカのアル・ゴア元副大統領とともに「環境の英雄 (Hero of the Environment)」に選定した。
大統領選挙
2007年5月10日、李は公式にハンナラ党 (Grand National Party) の大統領候補選の出馬を表明した。2007年末の韓国大統領選挙の前哨戦であるハンナラ党予備選挙(2007年8月20日)で、朴槿恵候補に勝利し、大統領選の党公認候補となった。李は予備選挙期間にソウル道谷洞の土地投機絡みで告訴される。
2007年8月、検察は中間発表で「我々は道谷洞土地について李の兄の主張を疑うが、土地の本当の所有者が誰であるかは確かめることができなかった」と述べた。2007年9月28日に検察当局は、道谷洞土地の借名保有の疑いについて「我々は土地の売却代金の追跡や通話内容の照会などすべての調査をして真相が究明された」と公式に事件を終結させた。2007年12月、大統領選挙の数日前に李は自分の資産全てを社会に寄付すると発表した。
李は大統領選挙を前にした各種世論調査でも人気は軒並み1、2位となり、その勢いをそのまま本番に持ち込み、同年12月19日施行の大統領選挙で与党系の大統合民主新党の候補である鄭東泳を圧倒的大差で下して当選を果たした。在日韓国・朝鮮人出身としては初の大統領である。
大統領として
李は2007年12月大統領選挙で48.7%の得票で大統領に当選した。しかし、投票率は韓国の大統領選挙史上最も低いものであった。2008年2月25日に、第17代大韓民国大統領に就任。就任式には、外国からの招待客や一般市民ら約6万人が参加。日本からは福田康夫首相のほか、中曽根康弘元首相、森喜朗元首相、重村智計早大教授らも出席した。彼は大統領就任式で、経済の回復を始めとして韓米関係の強化や北朝鮮との交渉を誓った。彼は特に「グローバル外交」を目指すと共に隣国である日本、中国、ロシアとの更なる協調を追求すると断言した。さらには、韓米関係を強化した上で北朝鮮に関してより厳しい政策を実行する、いわゆるMBドクトリンの促進を誓った。大統領の名前である明博 (Mb) のイニシャルと経済学 (economics) を結合したMbノミクスは、李大統領のマクロ経済政策を示している。
2008年4月に大統領就任後初の訪米・訪日を行い、日本のTBS系番組『筑紫哲也 NEWS23』に出演しタウンミーティング形式で日本市民と会話した。
李明博の経済回復の核心は「韓国747」計画。その計画は毎年平均7%の経済成長、一人当たり4万ドルの国民所得、そして韓国を世界7大経済大国にするものである。李政権は「国民が豊かで、温かい社会、そして強い」新しい韓国を目指し、政策において、進んだ市場経済、経験則に基づいた実用主義、民主的な行動主義など市場にやさしい政策を追求している。最近、李政権は新しい国家ビジョンとして「低炭素・グリーン成長」を掲げた。韓国政府は2020年の温室効果ガス排出目標を巡って繰り広げられている先進国と開発途上国間の激しい攻防のかけ橋になることを願っている。
「経済大統領」として大きな期待を背負ってスタートした政権だが、4月に米国産牛肉の全面的な輸入再開方針を決定したことで国民の猛反発を受け支持率も2割前後に急落、連日に渡って大規模なデモ隊の抗議運動を受けるなどして出鼻をくじかれることになった。韓米首脳は両国で一部議員らの反対に直面している両国間の自由貿易協定 (FTA) の批准を議論した。米国産牛肉輸入の部分的な解禁という首脳間の合意が米国における韓米FTA承認の障害を取り除くと予想されるなか、大勢の韓国人は米国産牛肉の輸入再開に強い反対を表明した。反対された理由としては出荷して30ヶ月以上経った牛肉は安全性に問題があるということ、そしてそのことを政府側が誤魔化していたということが挙げられる。
韓国政府は暴力的な集会は罰されると警告し、警察と集会参加者との衝突を防ぐための処置を取った。抗議集会への国民の支持は必ずしも高くなかったが集会は2ヵ月以上も続き、徹夜のローソク集会は本来の目的とは別に、反対勢力の激しい抗議に取り替えられた。集会場周辺に引き起こされた経済的な損害は大きく、そして社会的な損失は少なくとも約3兆7513億ウォンに達した。しかし、集会に参加した市民達が暴力的な行為に走ることはあまりなかったことや、集会参加者と警察の衝突は主に警察側の過剰な規制などから引き起こされたことはマスコミに公正に報道されていなかった。これは韓国で有力な新聞社3社〔朝鮮日報、中央日報、東亜日報〕とも保守的傾向が強く右翼路線の大統領と結びの強いことに由来する。また政府側は、ローソク集会に参加した若い主婦達を無罪であるにもかかわらず取り調べたり、ローソク集会の背後に過激な左翼団体が関わっていると信憑性の薄い話を拡散したりした。
しかし米国産牛肉の輸入再開以来、米国産牛肉を買い求める人々はますます増え始め、現在韓国国内ではオーストラリア産牛肉に次いで2番目の市場占有率を確保している。
秋にはリーマン・ショックによる世界同時不況とそれに伴う景気悪化、株価下落や急激なウォン安に苦慮するなど、頼みの経済でも活路を見いだせず、綱渡りの政権運営が続いた。
金融危機による傷は深かったが、2009年以降、OECD諸国の中では最も早くプラス成長に転ずるなど、堅実な経済運営で評価を回復した。日米との連携を強化しながらのぞむ対北政策も概ね支持されるなど外交も軌道に乗り、就任2年を迎えた2010年2月までには支持率も概ね4〜5割台で推移、安定した政権運営が可能になっている。
国内外政策
李政権はニーズに合わせた教育制度を導入し、学費の融資や相談サービスを提供する奨学財団を設立した。さらに、政府は授業料の支払いに苦労している人々を援助するための所得水準別奨学金計画などを進めている。一方、政府は農山漁村地域に82の寮制公立高校を指定した。指定校には総額3173億ウォン、平均38億ウォンの資金援助が行われる。
「MBノミクス」とは、李大統領のマクロ経済政策を示す言葉である。李大統領の名前、明博 (Myung-bak) のイニシャル「MB」と経済学 (economics) を組み合わせた造語で、姜万洙企画財政部長官は、「MBノミクス」の創案に一定の役割を果たしたとされる。
経済回復の目玉は「韓国747」計画。それは、平均7%の経済成長を成し遂げ、一人当たり4万ドルの国民所得、そして韓国を世界の7大経済大国にする計画である。李政権は「国民が豊かで、暖かい社会、そして強い」新しい国を作るため委任され、その実現のために、進んだ市場経済、経験的な実用主義、民主的な行動主義など実用的で市場にやさしい戦略を追求する。
彼は最近の米国発金融ショックと関連して、政治およびビジネスにおける強固な協力関係の重要性を強調した。彼は信用危機に対処するための政策調整を目指す韓国、日本、中国の金融担当大臣会議を提案した。
韓国政府の目指す外交は、朝鮮半島の非核化の重要性の強調による4強(米日中露)外交の回復として要約される。北朝鮮の核問題の解決には、6カ国協議のメンバー国との緊密な協力が絶対に必要である。普遍的な価値と相互利益に基づく韓米同盟の発展は、北朝鮮と北東アジア情勢のような問題における対応策や影響に最も重要である。
南北関係の究極の目的は、経済発展の達成や朝鮮半島に住む人々の幸福をもたらし、南北間で相互利益を伴う「非核・開放・3000」計画に基づく。現在、南北の情勢は大転換の過渡期である。韓国は、北朝鮮が核の野心を捨て心を開いたアプローチの採択による、一層生産的な政策の追求が平和的な統一に貢献することを明らかにしている。
主な政治的主張
747公約 (年7%成長、10年以内に1人当たり国民所得4万ドル、10年以内に世界7大国入り)。大統領選において公約で挙げた基本主張であり、また、大統領任期中の国家指針でもある。
中央省庁を18省から15省体制に統廃合するなど「小さな政府」を目指す。
「人類普遍の価値を具体化する」として、国連平和維持活動 (PKO) や政府開発援助 (ODA) への取り組みを強化する。
対日姿勢
しばしば「日本はドイツを見習うべき」という趣旨の発言を行っていた。 盧武鉉政権が当初は歴史認識問題に関してあまり積極的でなかったのにその後期に小泉純一郎内閣総理大臣の靖国神社参拝などを契機として歴史認識を問題視して批判的姿勢を強めたように、近年の歴代韓国大統領は就任当初の対日方針が協調的であろうと反友好的であろうと、大統領任期が末期に近づくにつれて、その出身政党にかかわりなく決まって反日強硬姿勢へと変わっている。李明博大統領もその例に漏れず、2006年11月に訪日して安倍晋三首相(第1次安倍内閣時)と会談した際には、「韓国国民の三大懸案(= 歴史認識・靖国神社・竹島)を未来志向的な解決に向け、積極的な努力をお願いしたい」と直接表現を避ける日本に配慮した姿勢を見せるなど硬軟織り交ぜた態度をとっていたのだが、任期があと1年になる頃から日本の歴史認識について大きく問題視し出して対日態度を硬化させ、これに大統領の意向で韓国側が故意に竹島問題を絡ませた上に韓国による天皇謝罪要求をしたことから、任期残すところあと半年の頃では日韓の高級官僚による政府間交流はほぼ断交状態となった。
○日本統治時代に建てられた現ソウル市庁舎を太極旗で全面覆うイベントを開催。
○日本の「歴史歪曲教科書」(具体的には新しい歴史教科書を作る会の教科書)採択阻止のため寄付金1億3200万ウォンを集金。
○ソウル南山に建設されるユースホステルに日本の修学旅行生を誘致して竹島(韓国名・独島)領有権や日帝(いわゆる「日本帝国主義」の韓国での呼称)の残虐性について学習する機会を設ける計画を考案。
○「北朝鮮の国民生活を改善させるための財源となる400億ドルを国際機構と日本に出させる」主旨をSBSの討論番組で発言。李明博は北朝鮮に対し、核放棄の見返りに一人当たり平均所得を3000ドルに向上させる事を大統領選公約としている。この実現に向け、経済支援の一部を日朝国交化に伴う日本の資金で充当するという案を提唱した。2008年1月7日に韓国統一部は同構想を受け、日朝関係改善による賠償資金として100億ドル(約1.1兆円)を日本に支払わせ、大韓民国政府による北朝鮮支援基金に充当する計画を明らかにした。ただし、李東官報道官は現実的ではないと批判している。
○「わたし自身は新しい成熟した韓日関係のために、『謝罪しろ』『反省しろ』とは言いたくない」「日本は形式的であるにせよ、謝罪や反省はすでに行っている」「(韓国側が)要求しなくても、日本が(謝罪と反省を)言うくらいの成熟した外交をするだろう」 - 2008年1月17日のソウルで外国メディアと会見にて未来志向の関係構築に向け、歴史認識問題で日本に謝罪を求める考えはないことを明らかにした一方、日本側の自発的取り組みを促す姿勢を示したとみられる発言を行ったが、当時まだ与党だった統合民主党や、左派政党の民主労働党などから批判された。
○ただし李明博の言う『未来志向』とは、『日韓貿易赤字の政治的介入による解消』、並びに『経済的・技術的援助の要求』を意味すると思われ、そうした発言を繰り返している。『両国間で自由貿易協定 (FTA) を1対1の条件で結ぼうとすればバランスが取れないため、日本に多くの譲歩をするよう求めた』『日本は世界の平和と繁栄に寄与する責任があり、また被害国の繁栄と平和に向けてもさらに大きな譲歩が必要だとの点を明示した』」。また、李明博大統領就任後すぐに駐日韓国大使として任命された権哲賢大使は、この言葉を補足する形で「過去に韓国が日本から受けた被害は『耐えられない』『忘れられない』内容だが、これに縛られず未来に進むということだ。その結果が良ければ過去の傷や恨みは和らぐだろうが、日韓の貿易不均衡が改善されず、日本側から歴史認識を巡る『妄言』が続くようなら『痛みはもっと大きくなる』。」と述べ、また北朝鮮に対する姿勢としては(李明博大統領が福田康夫首相との2008年4月21日の首脳会談で『拉致問題解決への協力』を述べたことについて)「日本が掲げる『拉致、核、ミサイルの包括的解決』を支持したわけではない。日本がその路線に固執するなら自縄自縛に陥るだろう。」とも述べている。
○2008年2月25日の韓国大統領就任式での演説で言及した順番は、アメリカ・日本・中国・ロシア・中央アジアだった。
○韓国大統領に就任すると、それまで滞っていた日韓間のシャトル外交を復活させた。
○韓国大統領就任後の2008年4月に訪日すると、天皇皇后両陛下との会見時に韓国訪問を招請した。
○世界中のサイトで竹島や日本海を韓国の主張に書き換える運動などを行っているVANKに対する予算削減案を大統領みずから撤回させた。
○2010年3月26日に起きた韓国哨戒艦沈没事件では日本政府は韓国を強力に支持している。
○2010年9月10日にロシアのヤロスラブリで鳩山由紀夫前首相(菅内閣時)と会談した時に「日韓両国は地球上で最も良好な2国間関係を築ける」と発言している。
○2011年10月、韓国での日韓首脳会談においてウォン急落が懸念される韓国を支援してほしいと野田佳彦首相に要請、これを受けて日本の民主党政権は通貨交換協定を130億ドルから700億ドルに拡大。
○2011年12月、訪日して日韓首脳会談で野田首相に「慰安婦問題について韓国の求める誠意を示さない限り、同年に駐韓日本大使館正面に建立された13歳の少女慰安婦と称する像の他にさらなる銅像の建立がなされる。」と述べて、同問題の解決を強く求めた。
○2012年7月、申珏秀駐日大使に対して日本側の慰安婦問題解決の意志について打診すると、日本の歴史認識は変わっていないと報告を受けた。
○2012年8月10日、竹島に上陸し韓国領であると改めて発言し、初めて竹島に上陸した韓国大統領となった。それまでの大統領は誰も上陸しなかった。
○2012年8月13日、日本政府は韓国への700億ドル(5兆5千億円)におよぶ資金支援枠の大幅な拡大は李明博大統領の竹島上陸がなされても見直さない旨を発表する。
○2012年8月14日、今上天皇について「日王」と呼称した上で、「日王が痛惜の念などという単語ひとつを言いに来るのなら、訪韓の必要はない。日王は韓国に来たければ、韓国の独立運動家が全てこの世を去る前に、心から謝罪(「ひざまずいて謝らなければならない」と表現)せよ。」と謝罪を要求する発言を行った。
○2012年8月15日、光復節(日本での終戦記念日)祝辞で「日本軍慰安婦被害者問題は人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為」であると述べた。日本政府は李明博大統領の天皇謝罪要求について謝罪と撤回を要求したが、金星煥外交通商相は大統領と同様の見解を示すとともに昭和天皇の戦争責任を主張した。日本政府は駐韓大使の一時的な帰国措置を取った。
○2012年8月17日、野田首相は李明博大統領に対して親書を送るが、日本外務省はホームページ上で「本17日(金曜日)、野田佳彦内閣総理大臣は李明博大統領に対し、最近の同大統領の島根県の竹島上陸及び日韓関係に関する種々の発言について遺憾の意を伝えるとともに、近日中に韓国政府に対し竹島問題について国際法にのっとり、冷静、公正かつ平和的に紛争を解決するための提案を行う旨伝え、また日韓関係の大局に立って日韓関係の未来のため、韓国側が慎重な対応をするよう求める」という書簡の趣旨を敢えて公開していた。韓国外交部は「李大統領が島根県の竹島に上陸した」という表現が3度も出てきている親書の処理方針を決めるための会議を繰り返し、「日本に口実を与えないためにも返送するのがよい」という結論に達した。李大統領は島根県の竹島という表現に「ここはどこだ?そんな島には行ったことがない。」とうそぶいたという。韓国側は親書を受領せず、駐日韓国大使館員が日本外務省に返却しに来たため、外務省は敷地内への立ち入りを拒否した。同日、玄葉光一郎外務大臣は申珏秀韓国駐日大使に抗議した。
○2012年8月23日、安住淳財務大臣は10月に期限が切れる日韓通貨交換協定の拡大措置について、10月以降は白紙とすることを表明するとともに、日本側から通貨交換協定を要請したとする韓国側の報道を否定した。
○2012年8月24日、キム・イルセン兵務庁長は韓国国会で、8月10日のロンドンオリンピックにおける男子サッカー日韓戦で勝利後に「独島は韓国の領土である」と記載されたプラカードを掲げた朴鍾佑の兵役免除を認めることを明らかにし、「勇気のある奇特な選手だ」と行為を評価した。
○2013年2月15日に李明博大統領は韓国核武装論を肯定した際に、「竹島上陸は日本への先制である。日王は(自分の発言以後)『謝る用意もあり韓国を訪問したい』と明らかにしたという。実際より少し誇張されて自分の発言が伝えられた面がある。」と東亜日報のインタビューで明らかにした。
北朝鮮に対する姿勢
前政権時代(金大中・盧武鉉)は、無原則な対北支援策であったが、李政権時代に非核を付加条件として北朝鮮の非核化を前提とする「共存共栄」を掲げ、1990年代からの「民族共同体統一構想」を踏襲したかたちを示した。2008年2月の大統領就任式では、北朝鮮による核の放棄と開放を条件に北朝鮮住民の所得向上を盛り込んだ「非核・開放・3000構想」を示した。翌月2月には、南北経済協力の象徴とされる開城工業団地において構想の実行について提案されたが、李政権の対北政策に不信感を抱いた北朝鮮側の理解が得られず、常住する韓国政府関係者の追放、後には武鉉政権下で開通した北朝鮮との直通列車の運行中断に至る。
○南北首脳会談にいつでも応じる考えを示したが、太陽政策を基礎に南北関係を最重視した盧武鉉前政権よりも、支援の透明性を重視する姿勢をとる。
○「非核・開放・3000」(北朝鮮が非核化と改革・開放を実現することにより、一人当たりの年間所得を3000米ドルにするための経済支援を行う政策)を掲げている。
○北朝鮮は、親米反北である李を、鼠(쥐、チュイ)と呼んでいる。
朝鮮半島大運河構想
2007年の大統領選挙に際し、李明博は韓国北部を流れる漢江と、韓国南部を流れる洛東江を運河で連結し、ソウルと釜山を水路で結ぶという構想を公約に掲げた。元々は李明博が国会議員時代から持っていた構想であり、国会で提案したこともあるが、当時は「現実的ではない」として却下された。韓国では、このソウル〜釜山間の運河を「京釜運河」と名付けるようである。最終的には、全羅道や北朝鮮にも運河を掘り、一つの運河として連結することを目標にしている。
2007年6月4日の韓国水資源公社、国土研究院、韓国建設技術研究院が行なった調査の結果も「収益性がない」としており、この構想自体に疑問を投げかけている
2008年6月19日、李明博は特別記者会見で「国民が反対すれば大運河事業を推進しない」と事実上の撤回を表明し、国土海洋部も大運河事業準備団の解体を決定した。2009年6月29日、「現政権ではそれを連結する計画ももっておらず、わたしの任期内には推進しない」と大運河建設を凍結することを明らかにした。
4大河川再生事業
韓国の4大河川(漢江・洛東江・錦江・栄山江)再生事業は最近地球温暖化などで洪水および日照り被害が頻発するによって根源的対策用意が必要な実情だ。従来の洪水対策中心の水政策とは異なり、水不足解決、洪水防衛、地域発展の3つを柱にした利水治水の多目的プロジェクトだ。総事業費は13兆9000億ウオンを予定で2012年完工をめざす。
基本方向は、当面した経済危機克服と未来成長エンジンの創出だ。李大統領は、この事業の意義について、「国家100年の大計と気候変動という人類の共通課題に対する備えになるということを認識しなければならない」と述べ、「これはわれわれに与えられた大きな義務」と強調した。大運河計画が頓挫したこともあるが、李大統領の今事業にかける意気込みは並々ならぬものがある。
今事業で最も力を入れているのは、将来の水不足に備えての用水確保と水質改善。そして、「文化が流れる4大河川」というコンセプトも加味している。地域発展および文化振興などを総合的に盛り込もうというもので、主要河川を生活・余暇・観光・文化・グリーン成長を組み合わせた多機能複合空間に作り変える。経済効果も大きい。新たに19万人分の雇用が創出され、23兆ウォンにのぼる生産誘発効果があると試算されている。
韓国の韓昇洙(ハン・スンス)国務総理は「4大河川整備事業は単なる建設工事ではなく、経済を回復させ、環境を復元し、文化の花を咲かせる韓国型ニューディール事業」だと言った。また、李大統領は「4大河川再生事業は選択的な事業ではなく気候変化と水の管理観点とともにさまざまな側面で必須的な事業だ」と発言した。
英語教育
李明博は英語教育にも非常な熱意を持っており、選挙期間中から英語教育の強化を訴えていた。当選後は一時、公教育の一部を英語で行うべきだとする意見を出したが、国民の反対にあい撤回した。また、高卒でも英語を使えるようにするべきだという主張も行った。
宗教政策
閣僚にキリスト教徒が多く、過去にキリスト教を持ち上げるような発言を行ったり(「ソウル市を神に捧げる」)、国家公務員の宗教調査を行なうなどしているため、自身のキリスト教信仰からキリスト教を優遇しているのではという批判もある。2008年8月には李に宗教差別をやめるよう訴える仏教徒のデモが勃発した。
これに対して李大統領は2008年9月に閣議で公務員の宗教差別を禁止する条項の新設を柱とする公務員服務規程改正案が緊急案件として上程され、審議した結果、服務規程に「公務員は職務の遂行において宗教差別行為をしてはならない」という条項が明記された。また、2009年1月に初めて公職者の宗教差別禁止を明示した国家公務員法と地方公務原法が国会本会議を通過した。これによって、今後、公務員による宗教への差別的言動は懲戒の対象となる。
不祥事・疑惑
実兄の逮捕
実兄で、韓国の国会議員だった李相得とその側近が、2012年7月、金融機関や企業から巨額の違法資金を受け取ったとして、斡旋収賄などの疑いで韓国最高検察庁により逮捕された。李明博はテレビ演説で謝罪している。 李相得(イ・サンドク)前国会議員(当時77歳)が政治資金法違反の裁判で、ソウル中央地裁は李前議員に懲役2年、追徴金7億5750万ウォン(約6300万円)の実刑判決を言い渡した。李前議員の弁護人は、控訴する考えを示している。
土地不正購入疑惑
2012年に入り、李明博が私邸として購入した土地の金額が、同地域の他の土地より安かったことや、土地の名義が別人だった事などから、購入資金を政府が不正に肩代わりしたとの疑惑が浮上している。韓国の検察は李明博の長男の自宅を捜索した他、先に逮捕された実兄の李相得からも聴取を開始している。 
 
朴槿恵 (パク・クネ 1952- )

 

大韓民国の政治家、大韓民国第18代大統領である。保守のハンナラ党代表、セヌリ党非常対策委員会委員長を経て、2012年韓国大統領選挙で民主統合党の文在寅に勝利し、2013年2月25日に韓国史上初の女性大統領に就任した。
韓国の第5代〜第9代大統領である朴正煕(パク・チョンヒ)と陸英修(ユク・ヨンス)の長女として、慶尚北道大邱市で産まれた。異母姉に在玉、妹に槿暎(槿令)がいる。現EGテック会長の朴志晩(パク・チマン、末弟)、甥二人(朴志晩の長男と次男)がいる。朴正煕の軍人時代の副官で元カナダ大使の韓丙起は、在玉の夫で義兄に当たる。
キリスト教系の聖心女子中学校・聖心高校を卒業後に西江大学校電子工学科に進学した。大学では中国語も専攻している。首席で卒業後に、フランスのグルノーブル大学に留学した。留学中の1974年8月15日に文世光事件が発生し、母親の陸英修が暗殺されたため、急遽留学先のフランスから帰国し、その後は父のファーストレディー役を務めた。1979年に朴正煕暗殺事件で父は金載圭(キム・ジェギュ)KCIA長官に暗殺された。父の死亡を耳にした際の第一声は、混乱に乗じて朝鮮人民軍が侵攻することを懸念した「休戦線は大丈夫か」だった。 また、1965年(中学時代)に キリスト教カトリック教会に改宗し、「ユリアナ」という洗礼名を授かる。
政界入りとハンナラ党代表就任
ガールスカウト団名誉総裁、 嶺南大学校理事長、財団理事長を務めた後、1998年に行われた国会議員補欠選挙(大邱広域市達城郡)に当選し政界入りし、ハンナラ党副総裁など党要職を歴任した。2002年2月にハンナラ党を離党した後、5月12日に平壌を訪問して金正日と会見し板門店経由で帰国している。同年末に行われる大統領選挙に向け新党「韓国未来連合」を5月17日に結成したが、11月にハンナラ党に復帰した。
2004年3月23日に、1965年に野党民衆党の代表最高委員(党首)に朴順天(パク・スンチョン)が就任して以来、韓国では39年ぶりの女性党首としてハンナラ党の代表に就任した。2004年4月の総選挙でも達城郡の選挙区から当選した。この選挙では、大統領弾劾を可決したハンナラ党に対する国民の批判が集まり惨敗が予想されていたが、朴槿恵の知名度と人気で惜敗に食い止め、「ハンナラ党のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。
2005年10月5日、ハンナラ党代表として韓国軍のヘリコプターを用いて「独島」へ上陸した。11月8日にはニューライト全国連合創立大会に参加する。また同年には中国を訪問して胡錦濤国家主席と会見した。
2006年5月17日に日本を訪問し、小泉純一郎首相と会談した。また訪韓した北朝鮮による拉致被害者家族会・横田滋代表らとも会見している。同年5月20日午後、第4回全国同時地方選挙の支援遊説中に、暴漢・池忠浩(後に傷害罪で懲役10年)にカッターナイフで切り付けられ、右耳下から顎にかけて10センチの傷を負い60針縫う手術を受けた。この際、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領支持団体(ノサモ)からは、「60針を縫ったのは整形手術」という声が挙がったが、それが逆に反感を呼び大統領支持派に対する批判拡大へと繋がり、地方選挙でのハンナラ党圧勝に繋がった。なお犯人の背後関係については、検察・警察の合同捜査本部による捜査の結果、「単独犯」との結論に達した。
2007年大統領選ハンナラ党予備選
襲撃事件による同情票や盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の経済失政に対する批判、さらに「整形発言」への反発もあって、2006年5月31日に行われた統一地方選挙ではハンナラ党を地滑り的勝利に導いた。この結果、同じハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)に次ぐ2007年の韓国次期大統領選の有力候補としての地位を固めたが、2007年8月20日に、党大会で行われた大統領候補党内予備選挙で李明博に敗れた。翌年(2008年)4月の第18代総選挙において得票率88.6%を集め4度目の当選を果たしている。
2010年12月27日、政策研究のためのシンクタンクとなる国家未来研究院を発足させ、2012年に予定されている大統領選挙に向けて本格始動を開始した。2011年4月27日の再補選でハンナラ党が敗北し安商守(アン・サンス)党代表が辞任したことを受けて行われる党内選挙への出馬がささやかれていたが5月20日、選挙への不出馬を表明した。同年4月28日に大統領特使として欧州3カ国(オランダ・ポルトガル・ギリシャ)を歴訪している。
セヌリ党非常対策委員長
2011年10月に行われたソウル市長補欠選挙における党公認候補の敗北と同市長選における中央選挙管理委員会ホームページへのサイバー攻撃に党所属国会議員秘書の関与が発覚するなど、ハンナラ党にとってマイナスとなる出来事が相次ぎ、7月の全党大会で選出された洪準杓(ホン・ジュンピョ)代表が12月9日に辞任した。12月12日に開かれた議員総会において、朴槿恵を委員長とする非常対策委員会を発足させることが決まったが、非常対策委員会においては党の方向性を巡り意見がまとまらず派閥間で対立が続いた。
2011年12月20日に開かれた全国委員会で、朴槿恵元代表を非常対策委員会委員長に選出した。党最高委員の全権が非常対策委員長にゆだねられたことで、朴槿恵は5年5ヶ月ぶりに事実上の党首職に復帰した。2012年2月7日、4月に行われる予定の総選挙に関し、自身は地域区(大邱市達城郡)から出馬しないことを表明した。同月13日に党全国委員会で党名改正と党憲・党規改正案が承認された。党名は「ハンナラ党」から「セヌリ党」へ改称され、朴槿恵は引き続き非常対策委員長の職に就いた。当初、比例代表名簿順位1位で立候補することが有力視されたが、最終的にセヌリ党比例候補者名簿順位11位で立候補した。
2012年大統領選挙
総選挙では非常対策委員長として選挙の陣頭指揮を執り、セヌリ党は最大野党である民主統合党を大きく上回る152議席(うち比例代表25議席)を獲得、選挙前議席(162議席)より減らしたものの単独過半数を維持することができた。この結果、年末に予定されている大統領選挙におけるセヌリ党の大統領候補として地位を固めた。7月10日にセヌリ党大統領候補予備選への出馬を表明し、3大目標として分配重視、雇用創出、国の実情にあった福祉を掲げ、李明博政権との違いを強調した。
予備選は8月19日に党員と一般有権者による選挙人団による投票が行われ、これに世論調査結果を加味した得票率を計算する方法で進められた。20日の全党大会で発表された選挙の結果、朴槿恵は得票率83.9%で、2位となった金文洙(キム・ムンス)ら他候補に圧倒的大差をつけ、セヌリ党の大統領候補に選出された。12月19日に執行された大統領選挙は、革新派である民主統合党候補の文在寅(ムン・ジェイン)との事実上の一騎討ちとなり、接戦の末に当選し、2013年2月25日に第18代大統領に就任した。 しかし、この選挙では、国家情報院の世論操作活動と前ソウル地方警察庁長キム・ヨンパンの虚偽の中間捜査発表が確認され、その正統性に疑問が提起されている。
大韓民国大統領
大統領就任後、初の外交・首脳会談としてアメリカ合衆国を4泊6日の旅程で2013年5月5日に訪問した。米韓首脳会談でバラク・オバマ米大統領が、北朝鮮の核・ミサイル問題解決のため米韓日の3ヶ国の結束の重要性を強調すると、朴大統領は「北朝鮮が正しい方向に向かうよう、韓国と米国が連帯して取り組む。」とした。この訪米中に、朴大統領のスポークスマンである尹昶重(ユン・チャンジュン)の性的スキャンダルが発覚し、本格外交デビューに汚点を刻んだ。また、5年ぶりに経済副首相を復活させ、韓国の国策シンクタンク「韓国開発研究院」の玄旿錫(韓国語版)(ヒョン・オソク)院長を起用した。玄副首相は主要国首脳会議などの国際会議に積極的に参加してアベノミクス批判を行い、円高ウォン安の維持を目論んだが賛同を得られなかった。また、効果的な経済浮揚策も打ち出すことができないため、厳しい批判を受けている。
2013年11月2日から8日までフランス、イギリス、ベルギーを訪問し各国要人と会見した。
就任式及び就任1年
朴槿恵大統領は、2013年2月25日大韓民国の第18代大統領に就任した。朴槿恵大統領は、国会議事堂で開催された就任式の演説で「経済復興」,「国民幸福」,「文化隆盛」を通じて新しい希望の時代を切り開いていくと宣言した。特に北朝鮮が核を放棄し、平和と共同発展の道に進むことを願いながら、「韓半島信頼プロセス」を通して韓民族がより豊かに、そして自由に暮らし、自身の夢を成し遂げられる幸福な統一時代の基盤をつくると語った。(2012.2.25、ニュース1コリア) このように彼女の原則に基づいた対応は、数多い韓国民はもちろん、アメリカ、中国、ロシアからも支持を受け、国連安保理の新たな北朝鮮制裁決議(2094号)を全会一致で採択(2013.3.7)することに貢献した。
朴槿恵大統領の強固な対応と国際社会の一致した圧迫の結果、北朝鮮は韓国に対する挑発と威嚇を中断し、開城工業団地再稼働の問題を協議するよう韓国に提案(2013.6.6)して来た。朴槿恵大統領の国政運営に対する国民の支持率は63%(KOREAGallup,2013.7.1-4調査)に達し、この数値は、彼女の大統領選挙の得票率(51.6%)より 遥かに高い。 これについて韓国メディアは、朴大統領が高い支持を得ているのは、原則に基づいた対北朝鮮政策、アメリカや中国訪問の成果、国内における政治的な論争から一定の距離を置いたこと等が要因であると説明する。(2013.7.11、朝鮮日報)
国政哲学
朴槿恵大統領は、国政運営のビジョンを「国民が幸せな希望の新時代」と提示した。つまり、韓国が堅持してきた国家中心の発展モデルから脱却し、 国政の中心を国家から個々人に転換することによって国民個々人が幸せになり、結果的に国家も発展する相生の構造をつくると明らかにした。(韓国大統領府)
また、成長と福祉の関係についても、成長の上に福祉ありという単線的かつ因果論的な認識から脱却し、成長と福祉が好循環するように努力し、全ての人が 共同体の中で信頼し合い、経済ㆍ社会的な不平等も補正される社会を建設すると約束した。特に朴槿恵大統領は、自身の構想する「新しい韓国」は、全ての南北住民が 幸せな「幸せな韓半島」を実現することに資し、延いては世界と人類の発展にも資する、信頼される模範国家になると説明した。
外交、対北朝鮮政策
朴槿恵大統領の外交政策は、彼女の国政哲学を反映している。韓国の外交部は、「国民幸福ㆍ韓半島の幸福ㆍ地球村の幸福の具現」を外交ビジョンとして提示し、外交活動の3大目標として「韓半島と東北アジアの平和と共同発展」,「人類の発展に貢献する信頼される韓国」,「国民幸福の増進と魅力的な韓国 実現」を提示した。
一方、朴槿恵政府の対北朝鮮政策は、彼女が提示した4大国政基調のうちの 一つである‘平和統一の基盤構築’の実現に重点を置いている。 具体的には、南北間の信頼形成を通じ、対北朝鮮関係を正常化させ、平和統一 のための基盤とそれに備えた韓国の力量を強化することに力を注いでいる。(韓国統一部)
韓半島信頼プロセス
堅固な安保を通じ、北朝鮮の核を許さない。北朝鮮の挑発には断固として対応する一方、南北間の対話と交流ㆍ協力を通じて信頼を築くことによって、韓半島に持続可能な平和を定着させ、平和統一の基盤を構築することである。
朴槿恵大統領は訪中(2013.6.27-30)の際に、中国メディアとのインタビューでも自身の構想について説明した。朴大統領は、「韓半島信頼プロセスは、北朝鮮が非核化を選択した場合を想定している。具体的には、北朝鮮に対する人道支援と低いレベルの経済協力、延いては交通ㆍ通信の大規模インフラ投資まで含まれた非常にマクロ的な対北朝鮮政策である。もし北朝鮮が核を放棄し、国際社会の要求に前向きに応えれば、韓国は北朝鮮を積極的に支援し、南北共同発展を実現していく計画だ」と説明した。
東北アジア平和協力のための「ソウルプロセス」
朴槿恵大統領は、「東北アジア地域には、経済的力量と相互依存が増大しつつあるにもかかわらず、過去の歴史から始まった葛藤はより深刻化され、政治ㆍ安保面の協力は後退する“アジアㆍパラドックス”が現れている。このような状況を克服するためのビジョンとして東北アジア平和協力構想を推進する」と断言した。
つまり、東北アジア平和協力構想は、東北アジアの重要性が増大する世界史的な転換期を迎え、域内国家との多国間の協力メカニズムを構築し、東北アジアの平和と協力を保障することである。
北東アジア列車フェリー構想
2007年の大統領候補予備選において、朴槿恵は李明博の「朝鮮半島大運河計画」に対抗して「北東アジア列車フェリー構想」を唱えた。これは鉄道や船舶を用い、韓国と日本・中国を結び、国家間の協力や交流を強化することを目的とする。 具体的には、東京で貨物や旅客を載せた列車を博多まで移動させ、博多湾から列車を船に載せて釜山に輸送する。釜山から韓国の鉄道を経由し仁川や平沢に移動し、今度は中国へ向かう船に列車を載せ、煙台・大連へと物資や人を輸送する、というものであった。最終的にはロシアや中央アジア、欧州まで列車で輸送できるようにするとした。この構想の実現により物資を船に積み替える作業が不要になる他、輸送費を34%削減でき輸送距離も64%縮められるというメリットがあるとされた。
現状では、貨物の場合、狭軌(日本の在来線)、標準軌(中国・韓国)、広軌(ロシア)の全ての軌間に対応する貨車が実用化されていないこと、旅客車両の場合、以前は青函連絡船などに車両航送の実例があったが(国鉄時代は郵便車、荷物車、貨車が主体)が、電車方式の新幹線(軌間は標準軌)は編成中間での頻繁な分割を考慮しておらず、低規格路線での運転や、異なる信号システムと電化方式にも対応していない。
北朝鮮
朴槿恵大統領の北朝鮮ㆍ統一問題に関する政策ビジョンと構想は、彼女の韓半島信頼プロセスに細かく盛り込まれている。 朴槿恵大統領は統一問題に対し、「統一は必ず実現すべきだ。統一の究極的目標は、南北ともに国民の生活の質を高めることで、それを実現するためには国際社会の協力と共助が必要だ」と言及した。
また、朴槿恵大統領は、「南北統一は、信頼構築と平和定着ㆍ経済共同体建設ㆍ政治統合の3段階を通じて成し遂げていく。そのために、対北朝鮮人道支援、離散家族再会の定例化、開城公業団地の国際化、地下資源の共同開発、北朝鮮の電力ㆍ交通ㆍ通信などのインフラ拡充を進める」と明らかにした。(2013.7.12、東亜日報) 朴槿恵大統領が原則に基づいて対応した結果、北朝鮮は韓国に対する挑発ㆍ威嚇を中断し、2013年6月6日、祖国平和統一委員会の報道官特別談話を通じて開城工業団地の正常化と金剛山観光の再開の問題を協議するよう韓国に提案した。
一方、2013年7月3日には、板門店連絡官を通じて開城工業団地に入居した韓国企業らと団地管理委員会職員らの開城工業団地への訪問を認めた。
朴槿恵は、韓国のアジア第4位の資本と技術力が北朝鮮の人的資源や天然資源と結びつけば、飛躍と活力の源泉になると主張しており、南北統一に意欲を見せている。
しかし、北朝鮮は2014年2月下旬より、短距離ミサイルやロケット弾の発射を繰り返し、3月3日、3月26日には弾道ミサイルノドンを発射した。3月27日、国際連合安全保障理事会は緊急会合を開き、ノドン発射を安保理決議違反として非難する談話を発表した。3月31日には、北朝鮮が北方限界線近くの黄海で射撃訓練を実施、計約500発を発射し、うち約100発が韓国側の海域に着弾した。これに対し、韓国側も応射した。この一連の動きは、日米韓の連携を牽制するとともに、北朝鮮との交流を主張しながらも、韓国主導の「吸収統一」構想や、非核化への言及、韓国独自の制裁の緩和・解除に言及しない朴槿恵に対する不満や失望の現れとも指摘されている。また、2014年4月12日、北朝鮮の国防委員会は、朴槿恵がドイツで行った南北統一に向け交流の拡大を訴えた演説について「民族反逆者のたわ言」と主張、朴槿恵は南北関係を悪化させていると批判した。
アメリカ
朴槿恵大統領は、韓半島での戦争防止と北朝鮮の核問題解決はもちろん、自身の推進する‘韓半島信頼プロセス’と‘東北アジア平和協力構想’を実現 するためには、アメリカの協力が極めて大切であると認識し、韓米関係の増進に関心を傾けている。
朴槿恵大統領は、大統領就任の慶祝使節で訪韓した米国のドニロン国家安保 補佐官に「北朝鮮の核武装は決して容認できず、北朝鮮の挑発に対して韓米共助に基づいて国際社会が断固として対応する」と強調した。(2013.2.28、ニューシース) 朴槿恵大統領は、就任後初の海外訪問先としてアメリカを選択し、2013年5月5日から9日までワシントンDC、ニューヨーク、ロスアンジェルスを訪問した。
朴槿恵大統領は訪米中、オバマ大統領との首脳会談と米議会上ㆍ下両院合同会議での演説等を通し、過去60年間維持された韓米同盟関係をより強固にし、未来志向的に発展していくことに合意した。一方、彼女は、自身の韓半島信頼プロセスと東北アジア平和協力構想に対するアメリカの支持を得た。(2013.5.8、韓国大統領府報道資料)
中国
韓国国内における朴槿恵は「親中派」の政治家として知られ、大統領選挙当選の直後から中国重視の姿勢を明確にしてきた。その結果、朴槿恵政権における中国の重要性は、日本を上回るだけではなく、同盟国であるはずのアメリカ合衆国に匹敵するほどである。
朴槿恵政権の韓国では日中韓FTAより先行させるとして李明博が交渉を進めた中華人民共和国とのFTAが締結され、中国が米国を抜いて韓国国債の最大保有国となっている。中国は韓国の最大貿易国(2012年、2,151億ドル)であり、最大投資相手国でもある。韓中間には、毎週800便以上の航空便が運行されており、6万人の韓国留学生が中国で、そして6万8千人の中国留学生が韓国で勉強している。
朴槿恵政権の対中外交努力は、2013年6月27日から30日にかけての中国国賓訪問ではっきりと表れた。朴槿恵大統領は、自身の訪中スローガンを「心と信頼関係を築く旅」(心信之旅)と定めた。中国共産党政府もまた「親中政権」の韓国での成立を積極的に支援し、訪中した朴槿恵は歴代の大韓民国大統領とは比較にならないほどの大歓迎を受けた。習近平国家主席との首脳会談及び「韓中未来ビジョン共同声明」の採択などにより、韓中間「戦略的協力パートナー関係」を充実させ、両国間の経済協力と文化交流を深めた。また、政治と安保面での協力の幅を広げ、中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典に主賓クラスの待遇で招待され、中国政府が改修費用を全額負担した大韓民国上海臨時政府庁舎の再開館式にも出席した。特に、朴大統領は、中国訪問期間中に今までタブー視された朝鮮統一問題について議論を始めた。尹炳世外務長官は、「韓中が統一問題に対する議論の口火を切った。両国の指導者が意見を交したため、統一問題について本格的に議論できるだろう」と言及した(2013.7.12、東亜日報)。朴槿恵政権が、冷え切った日韓関係の修復に必ずしも積極的に動き出さない理由は、彼女が中国との密接な関係を何よりも重視し、それを歓迎する保守派の世論動向にあるとの分析がある。
また、北朝鮮の核爆弾及び長距離弾道ミサイルの開発が継続している。つまり、朝鮮半島の安定と平和に対する挑発が続いている状況から、北朝鮮の核ㆍミサイル問題の解決と朝鮮半島の戦争防止のためには、北朝鮮に大きな影響力を持つ中国の努力が必要な状況である。しかし、2016年1月の北朝鮮の核実験後、韓国が中国に対北朝鮮制裁で協力を求めたが、中国側は対話を通じて解決することを強調した。また、2015年12月には父親の朴正煕がかつて開設を目指した中韓のホットラインを設置することに成功するも、ホットラインによる協議を北朝鮮の核実験後に韓国側が要請したが、中国からの回答待ちで機能しなかった。これについて、朝鮮日報は朴政権の対中外交に成果がなかったと批判した。その後、2月末に中国側が対北朝鮮制裁決議を全面的に履行するとの立場を明らかにした。これは米国によるTHAADの韓国配備について、米韓両国が公式協議の開始を決めたことがある程度の影響を及ぼしたと見なされている。中国とロシアはTHAAD配備の動きに反発して中露初のミサイル防衛合同演習を実施し、これに対抗して日米韓は初のミサイル防衛合同演習を行った。
2016年7月8日、韓国国防省と在韓米軍がTHAADミサイルを在韓米軍に配備することを最終的に決定したと発表したことに対し、中国側は「強烈な不満と断固とした反対」を示した。
日本
大統領就任前は、竹島問題や慰安婦問題における韓国政府の立場を堅持しながらも歴史教科書問題では親日派が多いニューライトの政治家とされ、教科書国定化の際はニューライト系の学者を重用している。「日本の正しい歴史認識を基にして、両国関係が未来志向的に発展することを望む」とし、日韓FTA締結などに積極的な姿勢を見せていた。日本も韓国に配慮して「竹島の日」政府式典を見送り、日韓議員連盟会長の額賀福志郎を特使として、2013年1月5日に派遣した。
しかし、朴は額賀の訪問を歓迎せず、会談でも日本の歴史認識に厳しい姿勢を示した。ただし、同年2月にソウルで開催された討論会で、韓国に対して謝罪を行った元衆議院議長の河野洋平は歓迎され、朴と会談している。
近年の歴代韓国大統領の対日姿勢は、その出身政党を問わず、就任当初は未来志向を掲げて比較的穏健な姿勢だったが、朴大統領は就任後、竹島問題や慰安婦問題に関して、強硬な姿勢を採っている。日韓の首脳会談は2012年5月に、李明博大統領と野田佳彦首相が北京市において会談して以来開催されていない。
2013年3月1日の三・一独立運動記念式典では、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と演説した。その後、韓国内では「千年恨」という言葉がブームとなり、韓国・北朝鮮連合軍による対馬「奪還」作戦を描いた小説『千年恨、対馬』がベストセラーとなった。
初の外遊となった2013年5月の訪米では、バラク・オバマ大統領との会談において、北朝鮮問題に関して中国やロシアの役割への期待を表明する一方、日本を連携国としては言及せず、「北東アジアの平和のために日本は正しい歴史認識を持たねばならない」と批判した。2013年9月30日には、訪韓したチャック・ヘーゲル米国防長官に対して「歴史や領土問題で後ろ向きの発言ばかりする日本指導部のせいで信頼関係を築けない」と発言した。
2013年11月に行った欧州歴訪においても、要人との会談において日本批判を繰り返した。11月2日のフィガロ紙に掲載された記事では「(日本の政治家が歴史問題に関して)不適切な言動を繰り返している」「欧州統合は、ドイツが過去の過ちを改める態度を示したからこそ可能になったと思う。日本も、欧州統合の過程をよく調べる必要がある」と答えた。
11月4日のBBCとのインタビューでは、北朝鮮に関して、「必要なら、いつでも会うことができるという立場だ」と会談に前向きな姿勢を示す一方で、日韓首脳会談においては「首脳会談をしても得るものはない」、「日本の一部指導者は謝罪する気もなく、元慰安婦を侮辱し続けている」と述べた。
11月7日に行われたベルギーのエリオ・ディルポ首相との会談では、「北東アジアでの政治、安保の対立が拡大している」と日本を暗に批判した。11月8日には欧州連合ヘルマン・ファン・ロンパウ欧州理事会議長との会談後の記者会見で、慰安婦問題に関して「日本には後ろ向きの政治家がいる」、「(安倍首相との会談は)逆効果」、「日本の指導者は考え方を変えるべきだ」と述べた。
大統領就任から日韓首脳会談を拒否してきた朴槿恵だが、2014年3月21日、日米韓の三カ国による首脳会談を発表。仲介に乗り出したアメリカ合衆国と日本に押し切られ、事実上の外交敗北との評価もある。 日本時間26日未明、オランダ・ハーグで会談。冒頭発言で、安倍首相がほほ笑みながら韓国語で挨拶するも、朴は硬い表情のまま目を合わせることもなかった。カメラマンが3氏による握手を求めても朴が応じないなど、冷え込んだ日韓関係を象徴する異様な首脳会談となった。
2015年11月2日には、安倍首相の訪韓に備えて韓国側は朴主催の昼食会などを交換条件に、慰安婦問題での「譲歩」を迫ってきたが首相は周囲に「昼飯なんかで国益を削るわけにはいかない」と苦笑し拒否した。 同年12月には慰安婦問題日韓合意を行い、2016年3月には日米韓が対北朝鮮はあらゆる分野で協力することで一致し、2016年6月には日米韓は初のミサイル防衛共同演習を行った。
ロシア
朴槿恵大統領は自らの「ユーラシア・イニシアチブ」構想に基づき、ロシアが韓国の重要な「協力パートナー」であるとの認識の下、東方政策(ロシア)と新北方政策(韓国)の接点を通じた両国の関係発展に大きな期待を寄せている。露韓首脳会談でも、朴槿恵大統領はロシア連邦大統領のウラジミール・プーチンとユーラシア経済連合と韓国のFTA締結を推進することで一致している。特に「韓半島信頼プロセス」と「東北アジア平和協力構想」などの国政課題を実現するためにもロシアの積極的な参与を重視しているとされる。
また、朴槿恵大統領は、就任式出席のために訪韓したイシャエフロシア極東 開発部長官と接見し、極東ㆍ東北アジア地域での協力など、両国の関心事及び 関係強化方案について意見を交した。朴槿恵大統領は、「ロシアは韓国の重要な戦略的協力対象国だ。最近、羅老号(ナロホ)発射成功は、両国の互恵的協力の産物であり、今後関係発展の前向きな手がかりとなる」と言及し、6カ国協議に対するロシアの積極的な参加が韓半島の緊張緩和に寄与すると期待感を示した。
イギリス
イギリスは、朝鮮戦争に対し、アメリカに次ぐ最大の兵力を派遣した友好国である。朴槿恵大統領は、2013年7月12日、ロンドンで開催された‘韓国戦争参戦イギリス老兵たちの6.25停戦60周年を記念する街頭行進行事’に感謝メッセージを寄せた。また、イギリスの6.25参戦の功を称え、6.25参戦碑の 設立を推進している。
朴槿恵大統領は、2013年の十一月、イギリスを国賓訪問した。韓国の大統領が国賓の肩書きでイギリスを訪問したのは、盧武鉉元大統領以降今回が2回目で、9年ぶりのことである。これは、両国間の緊密な友好関係を反映するものであり、朴槿恵大統領は、王室が招待したVIPとしてバッキンガム宮殿に滞在するなど、最高の儀典と礼遇を受けた。
フランス
朴槿恵大統領は、自叙伝をはじめ、各種演説でフランス留学経験について言及するなど、フランスに対し、格別な関心を示している。 朴槿恵大統領は、フランスの対北朝鮮政策について「フランス政府は、北朝鮮の核問題の解決·北朝鮮の人権改善や非政府機構(NGO)の活動保障を、対北朝鮮関係改善の先決条件として提示してきた。これは、韓国の対北朝鮮政策の方向とも一致しており、こうしたフランスの立場が韓国にも大きな力になっている」と評価した。(2013.7.12発刊フランス‘Politique Internationale誌’夏号)
ベトナム
朴槿恵大統領は、2013年9月訪越したが、ベトナム戦争時、韓国軍が犯した強姦及び虐殺への謝罪が一切なかった。朴槿恵大統領は、日本に対しては「過去を直視せよ」と迫る一方で、韓国軍に暴行されたベトナム人婦女子、虐殺されたベトナム人住民へ、「過去を直視する勇気、相手の痛みに対しての配慮」を示すことがなかった。
2015年にはベトナムとのFTAを締結した。
対内政策
朴槿恵大統領は、大統領選挙期間であった2012年11月18日、自身が執権した場合、推進する対内政策の主要内容を「国民幸福10大公約」と題して発表した。
国民幸福10大公約とは、△国民の心配事を半分に減らす△雇用の「ヌルジオ (増やし、守り、質を高めるの頭文字の略語)」△共に進める安全な共同体づくりで集約され、具体的には、国民の負債ㆍ教育費ㆍ育児負担の軽減、ライフサイクルに合わせた福祉実施、4大疾患の治療支援、ITㆍ文化ㆍサービス分野の投資拡大、創意教育ㆍ創造経済を通じた市場と雇用創出、労働者の暮らしの質の改善、4大社会悪(性暴力ㆍ学校暴力ㆍ家庭破壊犯ㆍ不良食品)の根絶、大企業ㆍ中小 企業の相生と原則が正しく確立された経済民主化の実現、社会統合ㆍ地域均衡 発展などを提示した。(仁川日報 2012.11.18)
こうした朴槿恵大統領の対内政策の構想は、大統領就任後に発表した国政ビジョン(国民が幸せな希望の新時代)と4大国政基調(経済復興、国民幸福、文化隆盛、平和統一の基盤構築)にも反映されている。特に、朴大統領は、「国民一人一人の夢が叶い、国民が自分の暮らしの主人公になれる国を作っていく」と強調し、「経済を建て直し、国民の暮らしを豊かにするㆍ確固たる福祉と、夢と才能を見いだし活かす教育で国民の暮らしを安らかで幸せにするㆍ文化と精神的資産を隆盛させる」と誓った。(韓国大統領府)
朴槿恵大統領の政策構想は、経済民主化立法、経済部署合同の創造経済実践 戦略樹立、国民幸福年金委員会(2012.3.20発足)活動などを通じて段々具体化されている。
韓国では、ソウル市の職員が北朝鮮に脱北者の個人情報を渡していたとしてスパイ罪で逮捕される事件があったが、2014年1月、この職員が中朝国境を移動していたとする証拠が偽造であることが判明した。国家情報院の指示で、中国国籍の脱北者がこの証拠を偽造、情報院から報酬を貰う約束だったという。民主党などの野党勢力は、朴槿恵の内政を、父の朴正煕と同様の公安統治と批判している。証拠を偽造した脱北者は、自殺未遂を犯している。国家情報院の院長南在俊は、検察に告発されている。この事件では国情院の職員4人が起訴され、起訴猶予となった職員の1人が自殺未遂を犯した。2014年4月15日、朴槿恵と南在俊は、謝罪に追い込まれた。
朴槿恵の政策の中には、父の朴正熙と同様、権威主義との指摘がされるものがある。大統領選では、韓国の諜報機関が、ソーシャルメディアで朴の対立候補を誹謗中傷していた事が暴露されている。この事件を告発した検察官は、不倫疑惑で辞任したが、大統領府の高官がこの検察官の私生活を違法に紹介していたことが明らかとなっている。また、朴槿恵は、朴正熙を事実上の終身大統領にした反民主的な憲法改正の草案メンバーを秘書室長に任命している。2013年12月には、北朝鮮を指示する国家反逆的な声明を出したという理由で、統合進歩党の解散請求を行っている。国家安全保障法に基づく立件は、2008年には31件であったが、2013年には102件へ増えた。
発言
○李明博大統領が2007年大統領選挙時に公約として掲げていた東南圏新空港建設を2011年4月1日に白紙化したことに対し、「国民との約束を破り遺憾だ」と述べ李明博大統領を批判するとともに、東南圏新空港を大統領選公約に掲げる用意があるのかとの質問に対し、「これは引き続き、推進すべきことだと思う」と述べ、公約に掲げる考えがあることを示した。
○2012年9月24日の記者会見の際に、父親の朴正煕元大統領が起こした5・16軍事クーデターや人民革命党事件について「当時の政権下で弾圧されて苦痛を受けた被害者とその家族に心から謝罪する」と述べた。
○「創造経済」を提唱
○金大中がベトナム社会主義共和国主席のチャン・ドゥック・ルオンに、朴正煕政権下での韓国軍のベトナム戦争参戦を謝罪した際、『これは6・25(朝鮮戦争)のとき、大韓民国の自由民主主義を守るために戦った16カ国の将軍や指導者が金正日(キム・ジョンイル)に「不幸な戦争に参加して北韓国民に苦痛を与えたことを謝過する」というのと同じくらいとんでもないこと』と批判した。
○2013年9月10日、朴槿恵政権の高官はベトナム戦争の際の謝罪をベトナム側から求められなかったことに関して「韓国とベトナムの成熟」が原因とし、日韓関係と自然に比較されるため「日本に対する圧迫」になるとの主張を展開した。
○2013年10月14日、韓国国会外交統一委員会の国政監査において元慰安婦の金福童から「(父である)朴正煕大統領の時に確実に解決していたら、年を取ってから(日本に)謝罪しろとわめき立てることもなかっただろう」「朴正煕大統領の娘が大統領になったが、(慰安婦問題について)これといった発言が一言もない」などの批判を浴びている(ちなみに金福童は1939年から8年に渡って慰安婦とされたと証言したことで知られる)。
○2013年10月27日、プロ野球韓国シリーズ第3戦に始球式で登場したが、運動靴が日本企業のアシックス製であったため直ちに批判を受けた。
評価
東洋経済は、朴の、大統領就任から1年を過ぎた2013年12月での経済面での評価は芳しくなく、韓国金融研究院の研究員は「新政権に評価できるだけの経済政策があるのか」と語った。韓国の一般家庭の家計所得は増えたが、家計負債はさらに増えており、青年失業率は増加した。貿易に関しても、輸出は増えたが輸入は更に増えるという、「不況型黒字」となっている、と報じた。
中央日報は、孔魯明元外務部長官と金永熙中央日報論説委員の対談によって、『日米と中国の間で韓国外交は高度な弾力的対応をしなければならない。』と報じた。
日経ビジネスは、朴は外交の成果として、中国との友好関係を強調していたが、その中国は、韓国と管轄権を争う離於島(中国名:蘇岩礁)の上空を防空識別圏に設定した。また、同じく友好を強調していたアメリカ合衆国も、韓国世論が反対する日本の集団的自衛権に賛成の立場を表明するなどしており、朴の外交成果に疑問符が付けられている、と報じた。
産経新聞は、朴槿恵を名指しすることは避けながらも、元総理大臣の野田佳彦が「女学生のような言いつけ外交」と批判するなど、朴の外交姿勢は評価されていない、と報じた。
韓国ギャラップの韓国国内の世論調査によると、朴の国政について「よくやっている」と回答した者が54%に達するなど、韓国内では概ね高評価となっている。しかし、同じく韓国ギャラップの調査では「朴大統領を支持しない」という回答が40%を超えるなど、否定的な評価も増えている。朴槿恵の政策で最も評価が高い分野は外交であり、特に北朝鮮政策の評価が高く、中央日報の世論調査では80.9%が朴の北朝鮮政策を「評価する」と答えている。しかし、労働者層や貧困層からは朴の退陣を求める声もあり、朴槿恵大統領就任1周年をむかえた2014年2月25日、民主労総系の労働組合など、合計867の事業場が、朴槿恵退陣を求めて同時ストライキに入った。
更に2014年4月16日に発生したセウォル号沈没事故での杜撰な対応や所在不明の7時間を鄭允会と過ごしていた疑惑 などで非難されており、2014年5月9日、韓国ギャラップが発表した世論調査によると、朴の支持率は46%に下落した。
告げ口外交
2013年に韓国大統領の朴槿恵(パク・クネ)が行った、日韓の歴史問題に関する外交政策で、日韓以外の第三国に日本の悪口を言い触らして回ることに対して日本の各メディアによって用いられる俗語である。「言いつけ外交」、「おばさん外交」とも呼ばれる。
○韓国人特有の伝統的な行動パターンについての指摘
自分の嫌いな人物を孤立させるために、まわりの人々に悪口を言い回る事を、朝鮮語で「イガンヂル」(이간질)という。「イガン」(이간)は漢字で「離間」、「ヂル」(질)は朝鮮語の固有語で悪い行動を指す。これは、韓国人特有の伝統的な行動パターンであり、韓国人同士でも毎日のようにやりあっているという主張もある。
○韓国の外交的課題
従来より、従軍慰安婦や強制連行と言われる歴史問題をめぐって、謝罪や賠償を求める韓国と、日韓基本条約にて全ての問題は解決済みとする日本との間で争いが絶えなかった。 韓国は積極的な外交政策により、朝鮮王室儀軌返還問題の件では要求を通すことができたが、こうした歴史問題については村山談話以降、総理大臣の靖国神社参拝が相次ぐなど、度重なる要求にもかかわらず日本の右派を押さえることができず、際だった外交的成果を上げることができずにいた。また、強制連行問題についても三菱重工社長が「韓国で賠償命令の判決が出ても、日本政府と同じ立場を取り、応じない」との声明をするなど、影響力の低下が著しくなっていた。
○日本の外交的弱点
要求を繰り返すだけの正攻法では効果がないと知った韓国は、新しい外交手段に出た。韓国大統領の側近によるとその狙いは「慰安婦問題を世界に訴えて国際世論を喚起し、日本に圧力をかけることで日本側の変化を促す」ことにあり、2007年のアメリカ合衆国下院121号決議のように、日本に影響力を持つ第三国において韓国に味方する世論を強くすることで、韓国直接の圧力ではなく第三国経由で日本に要求をのませ、または妥協的な姿勢に転換させようとする方法であった。
目的
「告げ口外交」は、慰安婦問題に対する「心からの謝罪」と「責任ある措置」を求めて行われている。しかし、日本側には「心からの謝罪」について「村山談話を出し、アジア女性基金を作ったのに、全く問題が解決しない」、「責任ある措置」については「日韓基本条約の件もある上に、法的責任を認めて韓国に賠償すれば、北朝鮮や中国でも賠償要求の大合唱が起こりかねない」といった懸念があった。
告げ口外交
2013年11月から、大統領の朴はアメリカ・ロシア・フランス・イギリスなどで首脳会談やインタビューの機会を得るたびに、「日本は正しい歴史認識を持つべきだ」と従軍慰安婦問題に言及し、自国の主張を説いて回った。このことは遅くとも11月末には日本国内の報道機関の知るところとなり、11月22日に経済評論家の小笠原誠治が「米国が口を出す限り日韓関係が改善することはない理由」という記事を発表し、その中で韓国の活動を「告げ口」と表現したことを皮切りに、さまざまな媒体で「朴大統領の告げ口外交」との報道がなされた。また、レコードチャイナによると、前首相の野田佳彦もこの外交方法を「女学生の告げ口だ」と表現している。2014年5月、民主党の岡田克也は「どうして第三国に行って日本の悪口を言うのか。そういうことが日本人の感情を非常に傷つけている。言うなら直接会って言われたらどうか」と朴大統領の補佐官に指摘したと語った。
結果
2014年1月時点で、「告げ口外交」はいまだ継続されているが、韓国の意を受けて日本へ公式な批難を声明する国は出ていない。他方でアメリカでは「有力シンクタンクの上級研究員」が「告げ口外交は外交的儀礼を欠いている」と発言したとされ、必ずしも韓国大統領・朴槿恵の望む結果になっているとは言えない状況である。 韓国は環太平洋パートナーシップ協定への参加を表明しており、アジア太平洋地域の各国が一堂に会するTPP交渉の場で歴史問題が持ち出されるか否かが注目されている。 2014年からは朴槿恵だけでなく韓国政府閣僚も「告げ口外交」を行うようになっているが、日韓関係の悪化による悪影響が主に韓国内で顕著になっている。これに対し韓国のシンクタンクであるアサン政策研究院の調査では、韓国国民の6割が日本との関係改善を求めていると報告している。
日本ではインターネットの掲示板などを中心に韓国の「告げ口外交」への批判が活発に行われ、近年では大手メディアも「告げ口外交」をニュースとして取り上げるようになり、日本国民の韓国に対する印象は年々悪化の一途を辿っている。 
 
崔順実 

 

(チェ・スンシル、女性、檀国大学校卒、1956- ) 韓国のシャーマン。1970年代からの朴槿恵に身内の喪失に取り入って、朴の韓国大統領としての権限を悪用して政商行為をしていたため数々の疑惑や不正が明るみに出て物議をかもした。
1974年に在日朝鮮人の文世光によって朴槿恵の母親の陸英修が暗殺された喪失による朴親子の虚をつき、朴槿恵の父親である朴正煕大統領に取り入って利権を貪って財をなし、朴槿恵が1970年代にファーストレディ代行をしていた時代に常に朴親子の側にいた故・チェ・テミン(崔太敏)牧師(大韓救国宣教会総裁)の娘(6回結婚した内の5番目の妻の5番目の子)として1979年に朴正煕大統領が大韓民国中央情報部(KCIA)部長の金載圭に暗殺されてさらに傷心になっていた朴槿恵と親しくなって40年以上の付き合いがある。(皮肉なことに金載圭の暗殺の動機の1つが「崔太敏の疑惑を進言したのにそれを朴正熙大統領が聞き入れなかった」ことだった)。
父・チェ・テミンはソウル仏光洞の壊れそうな狭い部屋で、電話も無く生活していたが 陸英修の暗殺の翌年の1975年、ファーストレディーの代理を務めていた朴槿恵に慰めの手紙を送ったことをきっかけに出会った。同年に大韓救国宣教団を設立し、翌年にセマウム(新しい心)奉仕団に名称を変えた。1975年5月、朴槿恵は大韓民国救国宣教団の名誉総裁に就任する。1970年代末には会員数300万人を擁した全国組織だったが、朴正煕大統領の暗殺後の粛軍クーデターによって誕生した全斗煥政権によって翌1980年に解体された。そして朴槿恵は父親の暗殺後、表舞台からの退場を余儀なくされたが1980年代後半、父のテミンは育英財団顧問、チェ・スンシルは財団付設の幼稚園園長を務めるなど育英財団であるである「陸英財団」を朴槿恵と実質的に共同運営するなどして側に居続けたが不正蓄財を続けるためだったとされる。
1990年8月、朴槿恵の妹の朴槿令と弟の朴志晩が連名で当時の盧泰愚大統領に宛て、「チェ・テミン牧師に騙され操られている姉を助けて欲しい」との主旨の嘆願書を送った。さらに同年にチェが朴槿恵財団理事長の側近として財団傘下の子供会館でソウル江南区狎鴎亭洞(アックジョン)で1987年から運営していた子供教育施設に特別な待遇を与えたなどという疑惑が起き、チェらの辞退を求めるデモが起こると、朴槿恵が11月7日に理事長職と陸英修女史記念事業会長を辞任したことがある 1998年に朴槿恵が韓国の国会議員に初当選し、政治の表舞台に復帰した時の秘書室長がチェ・スンシルの夫(当時)チョン・ユンフェだったほどだった。朴槿恵は2007年の大統領選の党内選挙の検証聴聞会で、チェ・テミンを『心に触れ会って見たくて会った方の1人』、2016年10月25日の緊急記者会見の謝罪の場で「チェ・スンシルさんは、苦難な時に助けてくれた縁」と全幅の信頼を置いていたことを示した。
2014年の大統領府文書流出事件に単を発した崔順実事件(英語版)やセウォル号沈没事故を巡って、産経新聞の加藤達也・ソウル支局長(当時)を起訴することになる7時間疑惑の朴槿恵の密会報道の疑惑の相手であるチョン・ユンフェの元妻で、2014年2月にチェ・スンシルからチェ・ソウォンに改名し、同年5月に邸宅や娘の親権などを貰ってチョンと離婚した。朴槿恵とは大統領府関係者が「門番3人衆は生皮で、チェ・スンシルは五臓六腑。生皮は抉れるが、五臓六腑は致命的」と語るほどの密接な関係だった。
2016年10月には同年1月に設立されたKスポーツ財団という朴槿恵の外遊の際にテコンドーの演武を見せたりするために設立された財団と同年10月に設立されたミル財団という韓国料理世界化を目標とする二つの財団に全経連会長のホ・チャンスに集めさせた774億ウォン(約80億円)の寄付金を親子で私的に流用したのではという疑惑を持たれた。ちなみにKスポーツ財団の理事長はチェ・ソウォン(チェ・スンシルの新名)がお気に入りのスポーツマッサージ・センターの経営者だったが親子はドイツに逃げた。
不正・疑惑・人事介入
朴大統領とチェ・スンシルは、長年の親しい特別な友人関係だった。チェ・スンシルの娘であるチョン・ユラをめぐる不正疑惑や、チェ・スンシルがかかわった2つの財団の設立に際して大統領府からの不適切な働きかけがあったとする疑惑などが取りざたされている。『朝鮮日報』は、両方の財団とブルーK(チェが設立した会社)、チェの家、チェの常連マッサージセンターと朴大統領の私邸が、半径1.7q以内に集中していると指摘している。
2013年2月25日の就任式に合わせて発行された大統領就任切手のデザインや朴槿恵大統領の演説文の内容、2014年に朴槿恵大統領がスイスの世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で持っていた紫のクラッチバッグや政治の場での私服や衣装までチェ・スンシルの指示や監督を受けてのものだった。
娘のチョン・ユラ (1996年生まれ)は、高校生の時に乗馬選手としてアジア大会に出場し、その出場実績で梨花女子大学校に入学している。しかし、これには実力がないにも関わらず親のコネで出場したという疑惑がもたれている。 ユラは過去にSNSで「能力が無ければお前らの両親を恨め。私達の両親をイチイチ不満を言うな。金も実力だ。不満なら種目を変えなきゃ。お前らは他人の悪口を言うのに忙しいから、いくら違うことをしてもそもそも成功できるのか?」と書いていたことが発覚し、不正入学疑惑をさらに炎上させた。
チェの不登校だった娘であるチョン・ユラに単位を与えた教授は、1年に55億ウォン(約5億円)の政府研究費を受けた。
梨花女子大学校では、2016年7月より大学運営への不満に対するデモが発生して加熱、学生のみならず大学教授らもデモに参加する事態に発展していたが、不正入学疑惑はこれをさらに加速させることとなった。10月19日、崔京姫(チェ・ギョンヒ)総長は、チョン・ユラ氏の入学や単位認定に特別な配慮が行われた疑惑によって大学に混乱を招いた責任を取り、辞任した。
ミール財団・Kスポーツ財団疑惑について 朴槿恵大統領は両方の財団が「財界主導で設立」されたと述べたが、実際には大企業は拠出させられていた。「青瓦台アン・ジョンボム首席が全経連に声をかけてそのお金を集めた大企業の役員の証言が国会で公開された。バクビョンウォン経済人総連会長はミール財団の募金は一日に数百億ウォン(数十億円)が集めたと明らかにした。大統領府が主導していなくては二日後に財団が設立されるのは不可能なので文化体育観光部は、世宗市の担当者をソウル出張にまで送ってミール設立書類を受け取るようにした。書類も出鱈目なのに全部無事通過させた。チェ・スンシルと文化界の王子というチャ・ウンテクの二人がミール財団・Kスポーツ財団の所有者を装った。ミール財団理事長は、チャが指名した人物だった。Kスポーツ財団理事長は、チェの行きつけのスポーツマッサージセンターのオペレーターだった人物であった。Kスポーツの従業員は、チェが設立した「ブルーK」という別の会社で働いていた。チェがトップである「ビデク」社に80億ウォン(約8億円)を追加融資の要請するなど公益財団であるはずのKスポーツ財団は実際にはチェの私物そのものだった。
朴槿恵の親友であるチェの要請を受け、韓国大統領府が民間航空会社の大韓航空に特定の人物を昇進させるなど民間企業の人事にまで関与していた。最初、大韓航空は昇進要請を受け入れなかったが、大統領府からの度重なる要求が何度もの「栄転人事」が行われた。 
 
崔順実ゲート 

 

韓国・朴大統領を窮地に追い込む“女ラスプーチン”の正体 10/29
韓国の朴槿恵大統領(64)が火ダルマになっている。40年来の女友達に機密情報を漏洩した疑惑が深まり、支持率は史上最低の17・5%まで低下。「韓国版ウォーターゲート事件」「韓国のラスプーチン」と大騒ぎだ。残り任期1年4カ月。死に体に拍車が掛かる。
コトの発端は、3大紙の一角を占める中央日報系列のケーブルテレビJTBCが朴大統領の友人の崔順実氏(60)のタブレットPCを入手したことだった。JTBCは大統領府や周辺発の機密情報が横流しされ、崔氏が朴大統領にあれこれ助言していたと報道。漏洩は2012年の大統領就任前に始まり、演説草稿や外交・軍事情報、ファッションチェックにまで及んでいた。
コリア・レポート編集長の辺真一氏は言う。
「崔氏はスポーツや文化系2財団の実質的オーナーなのですが、その財団にまつわる青瓦台(大統領府)との癒着疑惑を今年7月から朝鮮日報などが報じていた。財団の認可が1日で下りていたり、青瓦台の意向で全経連(日本の経団連に相当)が傘下企業に対し、財団への500億ウォン(約45億円)の寄付を呼び掛けていたのです。崔氏は朴政権のアキレス腱となり、9月にドイツに出国。その際、廃棄処分にしたタブレットが崔氏を追っていたJTBCに渡ったと聞いています」
崔一族の朴大統領への食い込み方は半端じゃない。
母親の暗殺で気を病んだ朴大統領に、新興宗教の教祖だった崔氏の父親が急接近。家族ぐるみの付き合いになり、朴大統領が1998年に国会議員に初当選すると、崔氏の夫(のちに離婚)を秘書に起用。セウォル号事件発生当日に動向不明になった「空白の7時間」を一緒に過ごしていたのは、この元夫だ。
世論も国会も一大疑獄に怒りを爆発させている。野党は弾劾訴追や特別検察官による捜査を求め、政権与党からも離党を促す声が上がっている。
「次期大統領候補のスキャンダルも改憲提起も吹っ飛んだ。朴大統領はセウォル号事件や新型ウイルスMERSでも窮地に立たされましたが、外的要因だったため生き永らえた。今回は身内の問題で、絶体絶命のピンチ。しかし、強情な朴大統領が自ら退くとは考えられない。そこで懸念されるのが、北朝鮮を利用した目くらましです。朴大統領は北朝鮮との緊張をあおってきた。自分の疑惑を吹き飛ばすために、北朝鮮との偶発的な有事に発展させる可能性もあります」(前出の辺真一氏)
韓国では歴代大統領の多くが暗殺やクーデターに遭い、刑事犯に転落。任期を全うし、日なたを歩いたのは2人しかいない。  
親友の愛人らが指図!?  朴槿恵大統領は「操り人形」だったのか 11/1
韓国検察は31日夜、朴槿恵大統領の友人で、法に反して機密文書を受け取っていた民間人女性の崔順実(チェ・スンシル)氏を緊急逮捕した。崔氏は国政介入などの疑惑の中心人物で、検察が真相解明に本腰を入れれば、朴氏は弾劾や辞任などの厳しい選択を迫られる可能性が高まる。
崔氏の国政介入は、対北朝鮮関係にも及んでいたと見られている。
素人集団の秘密会議
韓国紙ハンギョレは10月26日付けの「開城工団中断のミステリー、崔順実で解けるか」という記事の中で、2016年1月4日の核実験直後の7日、韓国政府が北朝鮮向けの拡声器放送の再開を打ち出した際の動きについて疑問を投げかけた。当日の午前まではそんな話はなかったのに、突如として出てきたというのだ。
続く同年2月10日の開城工団閉鎖も、7日までは国家安全保障会議で議論すらなかったのに、前触れもなく決まったと疑問を呈している。
ここに崔氏が影響力を及ぼしたのならば、それはどのような形で行われたのか。
驚くことに、崔氏と親しい財閥夫人や広告プロデューサー、彼女の愛人とされる元ホストが居並ぶ「素人利権集団」が、大統領にどのように指図するかを秘密裏に話し合っていたとの証言がある。
大統領は「邪教に騙された」
事実なら、朴氏は「操り人形」だったということになる。
朴氏と崔氏の関係は、40年にも及ぶ。もともとは、宗教家だった崔氏の父が朴氏に接近。唯一無二の相談役となり、それを崔氏が引き継いだ形なのだが、その隠微な関係に対する懸念は以前からあった。
そもそも、崔氏の父は仏教とカトリック、プロテスタントを渡り歩いたインチキ宗教家であり、韓国政界からは「朴槿恵大統領は崔氏親子の邪教に騙され、こんなこと(機密文書流出)をしたとしか思えない」との声も出ている。
筆者が最も懸念するのは、北朝鮮問題への影響だ。
歴史上最大のスキャンダルを前に報道合戦が行われる韓国を前に、北朝鮮が黙っているはずがない。率先して北朝鮮包囲網を全世界に呼びかけていた韓国の体たらくに対し、北朝鮮メディアは嘲弄に近い言葉を連日投げかけている。
金正恩氏にとっては「渡りに船」だろう。恒例行事となった国連人権決議案の上程が迫り、11月と12月という、国連を通じ北朝鮮の人権問題が世界中でクローズアップされる時期に、少なくとも韓国政府は北朝鮮を叩く余裕が無くなる。また、「インチキ宗教家の南北政策には従わない」と強弁することも可能だからだ。
少なくとも、朴槿恵大統領任期中に南北関係が何らかの進展を見せる可能性は完全にゼロになったとみてよい。
朴槿恵政権はセウォル号沈没事故などへの対応を誤り、国論の分断を招いてきた。今回のスキャンダルが、韓国社会に今後、長きにわたる混乱をもたらすのは間違いない。朝鮮半島はいま、南北分断のみならず、なんの求心力もなくバラバラになってしまう危機に直面している。 
朴槿恵政権の「崔順実ゲート」 11/3
 「メディアvs.青瓦台」3カ月の死闘
韓国の朴槿恵(パク・クネ)政権が「崔順実(チェ・スンシル)ゲート」で、任期を1年4カ月残し、機能不全に陥っている。側近の不正疑惑や経済不況などで苦境にあった朴槿恵大統領は10月24日、国会での施政方針演説で、それまでの姿勢を一変させ、再選を禁止した憲法を改正することを提案した。憲法改正を提案することで、政局の焦点を側近不正疑惑などから改憲に向かわせ、状況を転換する戦術とみられた。
1台のタブレットの破壊力
しかし、1台のタブレットが、朴槿恵大統領の思惑を壊しただけでなく、朴槿恵政権を根元から揺るがせる事態を生み出した。有力紙、中央日報系列のケーブルテレビ総合編成チャンネル(総編)「JTBC」は朴槿恵大統領の改憲提案演説の数時間後、朴槿恵政権の影の実力者といわれてきた女性、崔順実氏のタブレット・パソコンを入手したと報じた。それを分析した結果、崔順実氏が大統領の演説文を事前に入手していただけでなく、それを手直ししていた事実が明らかになったとした。
このタブレットには、約200件の文書が入っており、大統領の演説文も44件入っていた。韓国には「大統領記録物管理法」という法律があり、大統領府(青瓦台)の文書を流出させた者は7年以下の懲役または罰金刑が課せられる可能性がある。
李元鐘(イ・ウォンジョン)青瓦台秘書室長は10月21日、国会の国政監査の場で崔順実氏が大統領の演説文を書き直しているとの疑惑に対し「封建時代にもありえない話」と一蹴したが、封建時代にもあり得ないことが朴槿恵政権下で行われていたことが明らかになった。
1分40秒の謝罪会見
朴槿恵大統領や青瓦台は、これまで崔順実氏ファミリーとの関係に言及することを避けてきた。朴槿恵政権にとって、それはタブーであった。しかし、JTBCの報道で物証が突き付けられ、朴槿恵大統領ももはや逃げ切れなくなり、翌25日、国民への「謝罪会見」をせざるを得なくなった。
朴槿恵大統領は10月25日午後3時45分から青瓦台で国民への謝罪会見を開いた。朴大統領は「崔順実氏は、過去に私が苦しかった時に助けてくれた。その縁で大統領選の際に演説や広報分野で、私の選挙運動が国民にどう伝わっているのか、個人的な意見や感想を聞かせてくれた」と崔順実氏の助けを借りたことを認めた。遂に、朴槿恵大統領自身の口から「崔順実」という名前が出た。
朴槿恵大統領は「一部の演説文などで表現などについて助言を受けたことがある。大統領就任後も一定期間、一部の資料について意見を聞いたことがあったが、大統領府の補佐体制が整った後はやめた」と述べ、崔順実氏の助けを借りたのは青瓦台のシステムが稼働するまでの限定した時期であると強調した。
その上で「私としては、きちんと仕事をしようとの純粋な気持ちで行ったことだが、理由がどうであれ国民に心配を掛け、心を傷つけたことを申し訳なく思い、深くおわびする」と謝罪した。わずか1分40秒の短い謝罪だったが、読み終える時には目に涙をにじませたようにみえた。
朴槿恵大統領や青瓦台は、JTBCが24日に報道した内容が朴槿恵政権スタート時の演説文に関する内容であったために、問題をそこに限定して謝罪することで、この危機を乗り越えようとしたとみられた。
南北関係や外交関係まで流出
しかし、JTBCはこの数時間後にまたしても朴槿恵大統領に痛烈な一撃を放った。大統領に当選した朴槿恵氏は就任前の2012年12月28日、李明博(イ・ミョンバク)大統領と事務引継ぎのための会談をするが、この会談に関する文書も崔順実氏に渡っていたと暴露した。この文書には2012年に韓国軍が北朝鮮の国防委員会と3回にわたって秘密接触をした事実に関する内容も含まれていた。
さらに崔順実氏のタブレットには外交部など他の省庁が発信元の文書まで含まれており、崔順実氏に外交安保や人事案件など幅広い文書が渡り、崔順実氏が国政全般にわたり介入していた可能性が浮上した。
JTBCは10月26日には、朴大統領が大統領に当選した後の2013年1月、額賀福志郎元財務相が安倍晋三首相の特使として朴槿恵氏と会談することに備えた想定問答などのメモが崔順実氏に渡っていたことも明らかにした。
その後、各メディアは一斉に「崔順実疑惑」を報道、崔順実氏をめぐる様々な疑惑がこれでもか、これでもかと報じられた。それまでは大統領官邸の顔色を窺っていたメディアも「水に落ちた犬は打て」とばかりに批判した。有力紙・朝鮮日報の26日の社説は「大韓民国の国民であることが恥ずかしい」、東亜日報社説は「金秀南(キム・スナム)検察総長よ、崔順実氏の送還が先決だ」、中央日報社説は「朴大統領の崔順実国基紊乱釈明、納得できない」、進歩系のハンギョレ新聞社説は「朴大統領は果たして『大統領の資格』があるのか」と一斉に朴槿恵大統領を糾弾した。
3カ月前に出た「財団疑惑」
韓国では7月にゲーム会社「ネクソン」の創業者が検察幹部に賄賂を渡した疑いで検察幹部が逮捕された。それが禹柄宇(ウ・ビョンウ)・青瓦台民情首席秘書官の妻が不動産取引で便宜を図ってもらった疑惑などへと発展した。青瓦台でも各種の機密情報を集約する民情首席秘書官は大きな権力を持つ。その禹柄宇民情首席秘書官の疑惑が関心を集めたが、朴大統領は禹柄宇秘書官を擁護し続けた。
今回の「崔順実ゲート」で最初に火を付けたのは、朝鮮日報系列のケーブルテレビ局「TV朝鮮」だった。TV朝鮮は7月26日、文化支援財団「ミル財団」が設立2カ月で財界などから500億ウォン(約47億円)近い資金を集め、この資金調達の過程に安鍾範(アン・ジョンボム)政策調整首席秘書官が深く関与していると報じた。同じように、スポーツ支援財団「Kスポーツ財団」も青瓦台の介入で財界から資金を集めていたことが問題になった。この時点ではまだ、崔順実氏の名前は出ていなかった。
一方、TV朝鮮の親会社に当たる朝鮮日報は禹柄宇民情首席秘書官をめぐる疑惑を追及し、青瓦台との対立が深まっていた。そうした中で、与党・セヌリ党の議員が8月に2度にわたり記者会見し、朝鮮日報の宋熙永(ソン・ヒヨン)主筆が経営不振の大宇造船海洋から豪華な海外旅行招待を受けたと暴露した。情報の入手経路については明らかにしなかったが、青瓦台から出たのではという見方も出た。宋熙永主筆は8月29日、検察による大宇造船海洋への捜査の過程で自分と関連した疑惑が出ている状況では、主筆の職を正常に遂行できないとして主筆を辞職した。
また、検察当局は同日、朝鮮日報社会部記者の自宅を家宅捜索し、携帯電話を押収した。この記者は禹柄宇民情首席秘書官の妻の実家が所有する土地にまつわる疑惑を最初に報道した記者だった。禹柄宇秘書官の疑惑は大統領直属の特別監察官室が調査を行っていたが、この記者が特別監察官に電話取材した内容が監察内容の流出を禁じた特別監察官法違反になるという容疑だった。青瓦台関係者は8月30日には、朝鮮日報の宋熙永主筆が昨年、青瓦台高官に対して大宇造船海洋の役員再任を求めるロビー活動をしていたと明らかにし、朝鮮日報への攻撃を続けた。
一連の事態は、禹柄宇民情首席秘書官疑惑をめぐる青瓦台と朝鮮日報の熾烈な戦いであった。こういう状況が影響したのかどうか、「財団疑惑」に火を付けたTV朝鮮から有力な続報は出なくなった。
しかし、保守紙・朝鮮日報やその子会社のTV朝鮮と青瓦台との戦いを継承したのが、左派のハンギョレ新聞だった。
ハンギョレはTV朝鮮の報道内容を引き継ぎ、「ミル財団」と「Kスポーツ財団」の「財団疑惑」の取材を続け、9月20日に、崔順実氏の行きつけのスポーツマッサージセンターの院長が両財団の理事長に就任していることを暴露し、両財団と崔順実氏が密接な関係にあることを報じた。
崔順実氏の娘の不正入学疑惑へ飛び火
進歩的な色彩の強い京郷新聞がこれに加勢した。京郷新聞は9月23日、財閥・サムスングループが崔順実氏の娘・鄭(チョン)ユラ氏のためにドイツに乗馬場を購入して提供するなどの便宜を図った疑惑を報道した。この疑惑は鄭ユラ氏の梨花女子大入学不正疑惑へと発展していった。
鄭ユラ氏は崔順実氏と離婚した夫・鄭允会(チョン・ユンフェ)氏の間の娘である。鄭允会氏は朴槿恵氏が1998年に政界入りした際に秘書として朴槿恵氏を補佐した人物だ。鄭允会氏も一時は朴槿恵政権の影の実力者といわれた。
韓国の名門女子大・梨花女子大では7月末から生涯教育を目的とする単科大学(日本では学部に相当)の設立をめぐり、学内紛争が続いていた。学生が学内で籠城を続け、卒業生なども参加し、この単科大学の設置に反対するデモや集会が続いていた。そこに疑惑の渦中にある鄭ユラ氏の不正入学疑惑が持ち上がり、梨花女子大はさらに混乱を深めた。
乗馬の韓国代表だった鄭ユラ氏は、昨年3月に梨花女子大体育学科に乗馬特待生として入学した。梨花女子大では体育学科の特待生の選抜対象は11項目で、その中に乗馬は含まれていなかった。ところが鄭ユラ氏が入学した時に、選抜対象が23項目に増やされ、増やされた項目で入学したのは鄭ユラ氏1人だった。鄭ユラ氏の特待生入学を実現するために選抜対象の拡大が行われたのではないかという疑惑が出た。また、鄭ユラ氏が、国際大会出場などで授業に出ていないのに単位を取得していることも学内で問題になった。
さらに、こうした中で、鄭ユラ氏が特待生として梨花女子大に合格した時に、自身の特権的な立場を自慢するかのように、フェイスブックに「おまえの親を恨め」「カネも実力だ」などと書き込みをしていたことが分かり、批判を受けた。また、今年4月に、鄭ユラ氏に除籍を警告した指導教授に対して「教授とも言えないようなやつ」と暴言を吐いていたことなども明らかになった。
鄭ユラ氏は不正入学疑惑が提起されると9月下旬に語学留学のためとして休学し、ドイツに渡った。梨花女子大の崔ギョンヒ総長は10月19日、混乱の責任を取るとして総長を辞任した。名門・梨花女子大130年の歴史で、こうした理由で総長が辞任するのは初めてのことだった。
「誰であれ処罰」と正面突破試みるが
韓国メディアでは崔順実氏と鄭ユラ氏親子の様々な疑惑が報じられた。両財団への財界からの資金集めに青瓦台が介入しているのではないかという疑惑も提起された。両財団には800億ウォン以上の財閥系企業の資金が投入されており、崔順実親子が所有する企業がドイツに設立され、資金がその会社に流れるような仕組みになっていることも報じられた。さらに日本の経団連に当たる全国経済人連合会が、財閥企業に両財団の関係書類を処分するよう指示した事実なども報じられた。各メディアのこうした報道で朴槿恵大統領の支持率は低下の傾向を見せた。
しかし、朴槿恵大統領は10月20日に青瓦台で首席秘書官会議を開き、初めて財団問題に言及した。朴大統領は「文化・体育分野を集中支援し、われわれの文化を知らせ、育成が困難なスポーツ人材を育て、海外市場を開拓し、収益創出を拡大しようと企業たちが思いを集めてつくったのが財団の性格と承知している」と財団設立を正当化した。朴大統領はその上で「もし、誰であろうと財団と関連し、資金流用など違法行為があれば、厳重に処罰する」とも述べた。
朴大統領は疑惑の温床のように報じられてきた両財団の設立趣旨を国民に訴えると同時に、政権の支持率にまで影響の出始めている崔順実疑惑に対して司法的な対応を取るという姿勢を示し、事態の正面突破を図ろうとしたとみられた。冒頭で記したように、朴槿恵大統領はその後、憲法改正という提案までして政局の焦点を・移そうと試みた。
だが、状況は朴大統領が考えるほど甘くなかった。そこに「タブレット爆弾」が炸裂した。青瓦台は「影の実力者」など存在しないと主張し続けてきたが、朴槿恵大統領自身が崔順実氏の存在を認め「苦しかった時に助けてくれた」として、自身の演説への修正助言も認めざるを得なくなった。
朴大統領「すべての過ちは私の責任…特検の捜査も受ける」 11/5
朴大統領は4日、青瓦台春秋館で発表した国民向けの談話で「今回の崔順実氏関連の事件で、とても言葉にできない大きな失望とご心配をおかけしたことを、もう一度深く謝罪します」とし「これらの事態は私の過ちであり、私の手落ちで発生したこと」と述べた。そして「改めて私の過ちを素直に認め、国民の皆様に許しを請う」と話した。
先月25日の最初の国民向け謝罪から10日ぶりにまた頭を下げた朴大統領は談話で「どこの誰であれ今回の捜査を通じて過ちが明らかになれば相応の責任を取らなければいけない」と強調した。
「私もすべての責任を取る覚悟ができている。必要なら私も検察の捜査に誠実に臨む覚悟であり、特別検事による捜査も受け入れる」とも話した。現職大統領では憲政史上初めて検察の捜査を受ける不名誉を甘受するのはもちろん、野党の要求(特検)も受け入れるということだ。
朴大統領はミル・Kスポーツ財団疑惑に関し、「国家経済と国民の生活に役に立つという望みで推進されたものだったが、その過程で特定の個人が利権を得てさまざまな違法行為まで犯したというので、本当に残念で惨めな心情」と述べた。「何をしても国民の心をなだめるのが難しいと思うと、『私がこんなことをしようと大統領になったのか』と情けなくなるほど苦しい」とも語った。談話の最後に朴大統領は「与野党の代表とよく疎通しながら、国会の要求を重く受け入れる」と誓った。
今回の朴大統領の謝罪後、世論がどう反応するかが政局の分岐点になるとみられる。この日の謝罪を控え、朴大統領の支持率は歴代大統領で最低値になったという世論調査の結果が出た。韓国ギャラップが発表した週間定期世論調査で朴大統領の国政支持度は5%に落ちた。これは1997年の金泳三(キム・ヨンサム)元大統領の支持率6%(ギャラップ調査)より低い。野党では大統領の下野を要求する声がますます高まっている。
民心離れが加速する中、朴大統領は崔順実事態に対する責任を認め、自ら検察の捜査を受けると明らかにしながら出口戦略の摸索に入ったが、野党が要求してきた金秉準(キム・ビョンジュン)首相候補指名撤回問題と大統領の後退要求には言及しなかった。
秋美愛(チュ・ミエ)共に民主党代表は朴大統領の談話の後に記者会見を開き、「誠意がない個人反省文」とし「権力を維持するための一方的な首相候補指名を撤回し、大統領が国政から手を切り、国会が推薦する首相を受け入れなければ政権退陣運動に入る」と述べた。
こうした中、5日には朴大統領の退陣を要求するソウル都心のろうそく集会が開かれる。このため与党内部でも事態の早期収拾のためには金候補指名を原点から見直す必要があるという意見が出ている。青瓦台の関係者は「事態の深刻性は分かっている」とし「朴大統領の追加の立場表明も検討している」と述べた。  
国民の怒りは沸点…韓国・朴槿恵大統領に「暗殺」の恐れ 11/5
韓国の朴槿恵大統領(64)は国政介入疑惑の渦中にある親友の崔順実容疑者(60)が逮捕されたことを受け、4日午前10時半からテレビを通じて国民に向けた談話を発表した。
改めて国民に謝罪したうえで、「必要ならば、私も検察の取り調べに誠実に臨む覚悟だ」と語り、現職の大統領として初めて検察の捜査に応じる考えを表明。その一方で、国政に空白が生じてはならないと強調し、当面退陣する意思はないことを明らかにした。
崔容疑者は、大統領の最側近の1人と共謀して企業に圧力をかけ、2つの財団に資金を拠出させた職権乱用の共犯の疑いと、財団の資金、日本円でおよそ6300万円をだまし取ろうとした詐欺未遂の疑いで、3日夜遅く、検察に逮捕された。
一連の「青瓦台スキャンダル」に対する韓国国民の怒りは収まりそうにない。朴大統領の支持率は10.9%にダウンし、不支持率は84.2%に跳ね上がっている。「大統領も捜査すべき」は70%、「退陣を求める」は55%に達している。
なにしろ、操り人形のように崔容疑者という民間女性の指示に従い、その崔容疑者は私腹を肥やしていたと疑われているのだ。怒った45歳の男がショベルカーでソウルの最高検察庁の玄関に突っ込み、「朴槿恵を暗殺する」と大統領府に脅迫電話をかけた50歳の男が逮捕される事件まで起きている。
今回は「予告電話」だけだったが、恐ろしいのは本当に殺害を実行しようとする韓国国民が現れかねないことだ。朴大統領は父も母も暗殺され、本人も国会議員時代、暴漢に刺されて60針も縫う大ケガを負っているだけに、絵空事ではすまされそうにないのだ。
拓殖大客員研究員で元韓国国防省北韓分析官の高永侮≠ヘこう言う。
「いま朴槿恵大統領を暗殺しても得する政治勢力は見当たらないので、政治的なテロが起きる可能性は低いでしょう。心配なのは、激情にかられた跳ね返りや、『俺が天誅をくわえてやる』と英雄気取りで行動を起こす者が出てくることです。韓国人は気性が激しいですからね。昨年は、当時54歳の男が、駐韓アメリカ大使を刃物で切りつけるという衝撃的な事件が起きている。もちろん、大統領の警護は厳重なので近づくことも難しいでしょうが、SPもいつも以上に気を使っているはずです」
暗殺も気がかりだが、それ以上に危惧されるのは、南北が軍事衝突する恐れがあることだ。高永侮≠ェつづける。
「朴大統領が窮地を脱する近道は、北朝鮮と一触即発の状況をつくり出すことです。国家の危機となったら、国民はリーダーの下で結束するしかない。実際、過去には支持率が下落したり、国内が混乱した時、水面下で北朝鮮に打診し、危機を演出したリーダーもいました」
崔容疑者という心の支えと国民の支持の2つを失った朴大統領がどう動くのか、日本も要注意だ。 
朴槿恵氏スキャンダル スクープしたのは「韓国の池上彰」 11/7
韓国の朴槿恵大統領を境地に追い込んだ知人女性への機密情報漏洩スキャンダル。国政が「大統領の友人」によって左右されていたという、先進国ではありえない事態に韓国国民は大きなショックを受けた。
しかし、その知人女性・崔順実(チェスンシル)氏(60)とその元夫で朴氏の秘書室長だった鄭允会(チョンユンフェ)氏(61)の存在は、多くの主要マスコミが知る公然の秘密でもあったことは異様でもある。
韓国は大統領の権限が強く、大統領に批判的な記事を書くと拘束されたり、職を奪われることもある。大手メディアは権力に立ち向かおうとしない。ではなぜ、今回だけは報道されたのか。実は今回のスクープを報じたのは大手メディアとは言えないケーブルテレビ局だった。大手韓国紙のベテランデスクが言う。
「崔順実のパソコンという決定的な証拠を入手したのは、JTBCというケーブルテレビ。もともと政権べったりではない報道が多く、信頼性の高い報道機関だった」
しかも、今回のスクープは、「韓国の池上彰」と呼ばれる人気キャスターによるものだった。
「JTBCの社長兼キャスターである孫石煕(ソンソクヒ)氏です。彼は“韓国の良識”と評されるキャスターで、『パソコンの内容を公開するなら会社に税務調査を入れる』と当局に脅されても屈しなかった。今回の報道で孫氏の人気は沸騰し、次期大統領候補との呼び声まで出ている」(同前)
世論が動くと大メディアも黙っていられず、手のひら返しで追随した。その姿勢は検察にも通じると韓国政治が専門の新潟県立大学・浅羽祐樹教授が言う。
「以前から崔順実による財団の資金流用疑惑が告発されていましたが、検察は1か月間これを放置した。韓国の検察は事実上、大統領府にコントロールされています。今回もJTBCによるスクープがなければ検察は動かず、疑惑で終わっていた可能性が高い」
あらゆる面で法治国家とは思えない事態が続く韓国。現在、韓国内ではメディアと国民が一体となり、ヒステリックなまでの朴政権への抗議デモが続く。
あまりに感情的な反応は、日本人の目には奇異に映るが、韓国社会の特徴を作家の井沢元彦氏が解説する。
「問題が発覚すると、異様なまでのバッシングに走るのは韓国ならではです。韓国には『恨』という独特の感情があり、恨み辛みや不満を生きるエネルギーに転換する。今回は清廉潔白なはずの朴槿恵に裏切られた思いから、国民全体の『恨』が爆発した。韓国の歴代大統領がやめた瞬間にスキャンダルに塗れるのも、今回の騒動も、足を引っ張り合う国柄が背景にあります」
コンクリートより硬いと言われた朴政権の支持層は崩壊し、支持率は10%を切った。朴政権は風前の灯となっている。 
朴槿恵大統領のスキャンダル、韓国世論がここまで燃え上がった理由 11/7
「なんで、ここまで大きな騒ぎになってるの?」
韓国の朴槿恵大統領を巡る騒動で、こう聞かれることが多い。今や疑惑が次から次へと報道されているので支持率下落は当然としても、日本的な感覚では、ここまで急激な動きには戸惑いを覚えるということだ。
文書流出よりも問題とされたのは……
韓国の方が、何事においても日本よりスピーディーだということは前提として考えていいだろう。朴大統領のクリーンなイメージを裏切られたことへの反動や、韓国人が最も敏感な大学入試での不正まで出てきたことへの反発、格差拡大で閉塞感が漂っているという社会背景などが、合理的な理由として挙げられる。ただし、こうした理由だけで今回のような激烈な反応を生んだようには思われない。
クリーンなイメージ以外の要素は、過去の政権でもありえた話である。しかし、過去の政権末期のスキャンダルはここまで激しい反応を呼ばなかった。今回、韓国世論が燃え上がったのは演説草稿などの流出が分かった段階だ。この問題が出た時を境に大統領支持率は底を割ったように急落した。過去の政権と同じようなタイプの疑惑が拡大する過程では、朴大統領の固い支持基盤である保守派の支持が徐々に失われていったが、この日以降は保守派も一斉に背を向けた印象だ。
本当に問題にされたのは文書流出そのものではなく、大統領の背後に崔順実(チェ・スンシル)容疑者がいたというイメージである。実は、文書の重要度がさほど重視されていないように見えることからも、その点は明らかだろう。現段階で流出を指摘されているのは、演説草稿や外国使節を迎える時の応答要領といったものが中心だ。南北秘密接触に関する内容と言われるものも、「秘密接触を行った」と書かれていた程度である。いずれも「機密文書」ではあろうが、政策決定そのものとどれだけリンクしていたかは疑問を持たざるをえない。人事介入については状況証拠としてかなりあやしいと思われているが、現段階ではあくまでも疑惑である。
疑惑の内容は日本でも詳しく報道されているので、詳細には踏み込まない。ここではむしろ、全体の流れを振り返ってみたい。
「大韓民国の国民であることが恥ずかしい」 感情面での衝撃の大きさ
財団設立の問題が最初に報じられたのは7月下旬である。保守系大手紙・朝鮮日報系のTV朝鮮が報じた。ただ、この時は崔容疑者の名前は出ていなかったし、しつこく追求するわけでもなかった。他メディアも後追いせず、財団を巡る報道はしばらく消えた。
財団設立への崔容疑者の関与に関する報道が出始めたのは9月20日ごろ。もともと朴大統領に厳しい進歩派のメディアが中心になって疑惑を次々と報じていった。崔容疑者の娘の不正入学疑惑も大きく取り上げられたから、子育て世代や若者たちは怒った。
この段階で、「コンクリート」と称された朴大統領の支持基盤も若干の動揺を見せた。朴大統領の父である朴正煕大統領を慕う高年層を中心に「コンクリート支持層」は少なくとも3割と言われていたのに、10月に入ると世論調査の支持率で3割の維持があやしくなってきたのだ。この時の原因は、朴大統領のクリーン神話が崩れたことだとされた。朴大統領には妹と弟がいるが、ずっと疎遠なので不正を働く身内はいないと思われていた。そのために支持者たちは「裏切られた」と感じたのだという。一方で、子育て世代や若者たちからの支持はもともと低いから、政権の危機とまでは言えなかった。
ところが、10月24日に中央日報系のテレビ局「JTBC」が夜のニュースで大統領の演説草稿などを崔容疑者に見せていたと報じたことで一気に流れが変わる。最初に系列局が財団問題を報じたのに、その後は疑惑報道を避けようとしていると進歩派から批判されていた朝鮮日報も25日付け紙面にJTBC報道を基にした社説を掲載し、「封建時代にもありえなかったことが起きているというのか」と嘆いた。そもそも他社が夜のニュースで報じたことを基にして翌日朝刊に社説を載せるというのは極めて異例の対応であり、それだけ衝撃が大きかったことを物語る。
朴大統領は25日に演説草稿を崔容疑者に見せていたことを認めた。これが、火に油を注ぐ結果となった。朝鮮日報が26日付けで朴大統領の談話を論評した社説のタイトルは「恥ずかしい」という一言である。社説は「朴大統領はいまや国民を説得しうる最小限の道徳性を失い、権威は回復が難しいほどに崩れた」と断じ、「多くの人々がいま、大韓民国の国民であることが恥ずかしいと言っている」と締めくくった。理性より感情の面での衝撃が大きかったように読める。
大統領支持率も、この日を境に急落を始めた。韓国ギャラップ社の世論調査は3日間の平均値を最終日に出す形なので、24日夜の報道や25日の談話発表の影響が全体的に出るのは「25〜27日」の調査となる。これが一気に17%にまで落ち込んだのだ。25日までの3日間平均が24%、26日までは21%だった。この流れはその後も続き、1週間後の「11月1〜3日」には5%。まさにつるべ落としである。
根強い「序列意識」の影響
なぜ、文書流出の件で一気に反感が強まったのか。韓国の知人たちに聞くと、多くの人は「まったく専門性のない人間が国政の指南をしていたなんて信じがたいことだ」と拒否反応を示した。さらに「大学教授や元政治家ならともかく、ムーダンだなんて」と話す人も多く、基本的には同じことではあるものの別の表現で「エスタブリッシュメントの人たちは、自分たちと同じ階層ではない人間が大統領を操っていたということに怒っている」と指摘する人もいた。朴大統領の対外政策に関するブレーンと言われた人は「法律的には問題なくても道徳的に許されない」と話した。そのために、多くの人が「虚脱感」や「裏切られたという感覚」を抱いているのだという。
やはり、疑惑の中心にいる崔容疑者という人物に持たれている「エセ宗教」や「ムーダン」というイメージが決定的なファクターとなったようだ。ムーダンとは「職業的宗教者。クッとよばれる祭儀をつかさどり、激しい歌舞の中で憑依状態となり神託を宣べる」(『大辞林第3版』)という存在だ。ムーダンは朝鮮社会の中では下層に位置付けられる存在だった。そんな人間が大統領の背後に隠れていたというイメージが、さまざまな理由で積もり積もっていた朴大統領に対する不信感を爆発させる最後の一押しになったのである。そこには、韓国社会に根強い序列意識の影響も強いようだ。
崔容疑者は新興宗教の教祖だった父とともに1970年代、凶弾で母を失った若き日の朴大統領と親密な関係を築いたとされる。そして、1979年には朴正煕大統領も殺された。独裁者の娘にこびへつらっていた多くの人たちが手のひらを返す中、崔容疑者一家はずっと朴大統領に寄り添った。深刻な人間不信に陥った朴大統領が、年齢も近い崔容疑者に心を許したことは自然なことだ。他に信頼できる人脈がないから、政治家になってからも崔容疑者に近い人物が周囲を固めることになった。大統領だとしても私的な友人に相談すること自体を悪いとは言えないはずなのだが、今回は、崔容疑者と彼女の父のマイナスイメージに全てがかき消されている。
一方、朴大統領が検察の捜査を受け入れるという11月4日の談話を発表した直後に韓国の民間調査会社リアルメーターが行った世論調査では、談話を「真摯なものではなく受け入れられない」が57.2%、「不十分だが受け入れる」が28.6%、「十分だ」が9.8%だった。保守層や60代以上で「不十分だが受け入れる」が40%を超え、「受け入れられない」より多かったという。評価が難しい数字である。依然として朴大統領への逆風は強いものの、「コンクリート支持層」は再び同情し始めている可能性もある。あるいは、コンクリート支持層を中心にこれ以上の国政混乱を嫌う心理が出てきてもおかしくはないだろう。
ただ、耳の痛い意見を言う人たちと意思疎通をしないという意味で「不通」と呼ばれる朴大統領のスタイルは、こんな状況になっても依然として変わっていない面がある。このスタイルを押し通したまま根本的な打開策を導き出すなどということは想像しがたく、先行きは全く不透明だ。
文化的背景の違う社会に住む人々の琴線に訴えるものは、それぞれ違う。それは、米国大統領選におけるクリントン氏の私用メール問題を見ても分かるだろう。米国では大統領選の情勢に大きな影響を与える重大問題だが、日本人の何パーセントが米国社会の感覚を肌で理解できるだろうか。朴大統領を巡る韓国社会の動きも同じことである。良い悪いの問題ではなく、感覚というのは違うものだと考えるしかないだろう。その点は忘れないようにしたい。 
「悪手」を重ねる朴槿恵 保守の最後の勝負手は戒厳令? 11/7
韓国という旅客機の乗客が、パイロットを変えろと大騒ぎだ。操縦席にはまだ大統領が座っているようだが、意識があるかは不明だ。いつまで韓国が正常に飛び続けるかは誰にも分からない。
「国政壟断事件」の動き(2016年)
10月
24日 JTBC、大統領演説の草稿など機密資料が崔順実氏に漏えいと報道
25日 朴大統領が資料提供を認めて国民に謝罪
26日 検察が崔氏自宅など家宅捜索。外交資料なども漏洩とメディアが報道
28日 朴大統領は首席秘書官全員に辞表を出させる。秘書室長が辞表提出
28日 韓国ギャラップ「朴大統領の支持率が6週連続で落ち、過去最低の17%に」と発表
29日 青瓦台、検察の家宅捜索を拒否。ソウルで1万人強の退陣要求デモ
30日 青瓦台、検察に資料提供。朴大統領は一部首席秘書官らを辞任させる
30日 与党、挙国一致内閣を提案するも野党は真相究明が先と拒否
30日 崔順実氏帰国、31日に検察に出頭、逮捕状なしで緊急逮捕
31日 リアルメーター「潘基文氏の支持率が前週比1.3ポイント低い20.9%に」
11月
2日 朴大統領、首相を更迭し、後任に盧武鉉時代に要職を歴任した金秉準氏を指名
2日 野党各党、新首相の就任に必要な国会聴聞会を拒否することで一致
2日 検察、安鍾範・政策調整首席秘書官を緊急逮捕
3日 検察、崔順実氏を逮捕。容疑は「安鍾範氏と共に財閥に寄付を強要した」職権乱用など
4日 韓国ギャラップ「朴大統領の支持率は過去最低の5%、不支持率は89%」と発表
4日 朴大統領「検察の捜査受ける」と国民向け談話。野党は「退陣要求運動を展開する」
5日 ソウルで4万5000強人の退陣要求デモ。釜山など他都市にも拡散
6日 禹柄宇・前民情首席秘書官が検察に出頭
※注 デモの参加者数は警察発表
1週間で4倍に膨れたデモ
――11月5日にもソウルで朴槿恵(パク・クンヘ)大統領の退陣を求める大きなデモがありました。
鈴置:参加者数は主催者発表で20万人、警察発表で4万人強。その間を取るように、保守系メディアの多くは10万人と報じました。
その1週間前の土曜日、10月29日のデモの参加者数は主催者発表で3万人、警察発表では1万人強でした。4倍以上に膨れ上がったことになります。
――朴大統領は2度も国民に謝ったのではありませんか?
鈴置:ええ、10月25日に続き11月4日にも国民向けの談話を発表しました。テレビも中継する中、40年来の友人である崔順実(チェ・スンシル)氏への情報流出に関し国民に頭を下げました。
でも、いずれの謝罪も火に油を注ぐ結果となりました。10月25日の1回目の謝罪はたった90秒間でした。記者からの質問も受け付けなかったので「誤魔化し」と受け止めた韓国人が多かった。
2回目の11月4日の謝罪は9分間に延長しました。自らの捜査に応じるとも大統領は明言しました。が、やはり記者の質問は受け付けませんでした。国民の声に耳を傾けない「一方通行の指導者」との不満をますますかき立てました。
それに検察の捜査が本格化し、世間の関心は崔順実氏が財界に巨額の「強制的寄付」を要求していた事件に移っていたのです。
メディアが「(強制的な寄付に関しては)大統領の指示を受けた」との青瓦台(大統領府)元・高官の発言を報じていた。
というのに2回目の談話で大統領は「特定個人が利権をむさぼり、違法行為まで犯していた」とまるで他人事のように述べ、新たな国民の怒りを呼びました。
時局認識が安易か無知だ
――朴大統領は首相も交代させましたが。
鈴置:11月2日に首相を更迭し、後任に金秉準(キム・ビョンジュン)氏を指名しました。左派の盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代(2002―2008年)に副首相という要職を歴任した人なので、野党も受け入れると判断したのでしょう。
しかし、この人事も野党に攻撃材料を提供しました。与党、セヌリ党は「共に民主党」や「国民の党」など野党に対し「挙国中立内閣を作ろう」と持ちかけていました。
そこに突然、朴大統領が相談もなく新首相を指名したわけで、野党はさらに硬化しました。首相任命は国会の同意事項です。2016年4月の総選挙でセヌリ党は少数与党に転落しています。もともと野党への根回しなしに首相交代は不可能なのです。
東亜日報のホ・ムンミョン論説委員は「朴大統領は朴志晩(パク・ジマン)氏から会え」(11月4日、韓国語版)で以下のように書きました。
○金秉準首相の内定は順番を間違った。大統領がまず率直に(真相を)解明し、離党した後に与野党の代表と会って挙国内閣を前提に2、3人の複数候補の推薦を得て1人を選ぶという手順を踏めば、収拾の道が開けたであろうに。
○大統領の時局認識が安易なのか、あるいは無知なのか、理解できない。
恐慌状態の大統領
――なぜ、朴大統領は事態を悪化させる手ばかり打つのでしょうか。
鈴置:ホ・ムンミョン論説委員は同じ記事で、以下のように分析しています。
○大統領が国民の期待とは正反対の方に行くのはなぜだろうか。何といっても家族が一番よく知っている。実弟の朴志晩氏と親しい知人から聞いた同氏の話は以下だ。
○「崔順実氏がいない今、姉は精神が恐慌状態に陥っている。崔氏から(朴槿恵氏を)引き離すため10年かけたが失敗した」。
40年来の友人、崔順実氏だけではありません。10月28日から30日にかけて朴大統領は側近の全て――秘書室長や首席秘書官、それに国会議員時代から仕えていた秘書官を辞めさせる羽目に陥りました。
大統領が率直に相談できる人はどこにもいなくなったのです。難局の中、政権がどこに向かうのか、誰にも予測がつきません。
――孤立無援ですね。
鈴置:文字通り、そうなのです。野党は「水に落ちた犬を叩け」とばかりに「とにかく真相解明だ」と叫びます。「朴槿恵の悪行」が明るみに出るほどに、次の大統領選挙で野党が有利になるからです。
退陣60日以内に投票
――その選挙はいつですか?
鈴置:任期満了なら2017年12月。もし、任期途中で大統領が退陣すれば、退陣の60日以内です。仮に2016年11月末に退陣すれば、2017年2月末か3月初めに投票となります。
次期大統領に関するアンケート調査では、与党から出馬すると思われていた国連事務総長の潘基文(バン・キムン)氏がほぼ一貫してトップを走って来ました。「世界の大統領」を歴任した功績からです。
でも、国連事務総長の任期は2016年末まで。選挙が約1年も前倒しになり来年早々に投票となれば、潘基文氏はろくに選挙運動もできません。
それに、この人は朴大統領と近い関係にあると見られてきました。崔順実氏による「国政壟断事件」によって「朴槿恵の悪行」が明るみに出ると、さすがにダメージが大きい。最近のアンケート調査で、野党候補に人気で追いつかれました。
調査会社の「リアル・メーター」が10月24―28日に聞いた世論調査では、潘基文への支持率は20.9%と1カ月で6.5%ポイント落ちました。文在寅(ムン・ジェイン)前「共に民主党」代表の20.3%とほぼ並びました。
「孤立無援」と言えば、検察もそうです。当初はこの事件の捜査に及び腰でしたが、1回目のデモが起きた10月29日ごろから急にやる気を見せ始めました。
国民の怒りが検察にも向いたからと思われます。それに、いつまで朴政権が持つか分からなくなったのです。死に体の大統領より、次の政権を取りそうな野党の顔色をうかがう方が、組織と自分たちを守る「正しい」行動です。
違法デモに感謝した警察
――警察もデモを厳しく取り締まらなくなったとのことでした。
鈴置:左派系紙のハンギョレは、10月29日の1回目のデモで「朴退陣の主張に共感した機動隊」を報じました。
保守系紙の朝鮮日報も「変化した警察『国を愛する皆様のお心を理解します』」(10月31日、韓国語版)で「警察の変身」を伝えました。ポイントを要約して翻訳します。
○「尊敬する市民の皆さん、国を愛する皆さんの気持ちは十分に理解します」――。29日午後8時30分頃、ソウル・光化門付近の6車線を占領したデモ隊に対し、ホン・ワンソン鍾路警察署長が解散を要求し、こう述べた。
○この日、デモ隊は届け出ていたルートを変更し、光化門付近を違法に占拠して警察と対峙した。これは明白な集会デモ法違反である。が、警察の現場幹部は「人道に上がってほしい」と何度も放送しただけで、従来とは異なり放水銃は使わなかった。
○翌30日、ソウル地方警察庁は報道資料で違法行為には言及せず「市民の皆さんも警察の案内に従い、理性的に協力してくださったことに感謝申し上げる」と感謝を表明した。
次の土曜日にもデモ
――11月5日のデモではどうだったのですか?
鈴置:警察は集会は許可しましたが、デモ行進は不許可としました。しかし主催した左派団体はソウル市内の大通りを行進させました。というのに、今回も警察は阻止しませんでした。家族連れが目立つ「おとなしいデモ」だったこともあります。
警察は、支持率が5%、不支持率が89%の大統領に対する退陣デモを「弾圧した」と批判されたくないのでしょう。これらの数字は11月第1週の韓国ギャラップの調査結果です。
一方、左派団体は11月5日に続き、12日にも大規模なデモを計画しています。「おとなしいデモ」により参加人数をさらに増やし、政権により圧力をかける方が得策と計算しているはずです。戒厳令を引き出すような過激な行動は、とりあえずは避けると思います。
外交と国防にしがみつく朴槿恵
――そう言えば、保守運動の指導者である趙甲済(チョ・カプチェ)氏が「朴槿恵大統領が下野するか、あるいは戒厳令でデモを抑え込むか、との状況になりかねない」と指摘しました。
鈴置:2回目のデモの最中、趙甲済氏の主宰するネットメディアに「戒厳令」を準備すべきだと主張する記事が載りました。書いたのは「ヴァンダービルド」の筆名で縦横に論じる外交・安保の専門家です。
「刀を振りかざす相手には、同じように真剣で対さねばいけない」(11月5日、韓国語)の一部を翻訳します。
○朴槿恵大統領は今後、総理に強い権限を持たせて内政を任せる一方、自分は外交と国防を担うとの構想を持っているようだ。だが、そうなれば左派は「崔順実騒動」を煽った甲斐がない。
○韓米日の協調強化、北朝鮮の金氏体制崩壊への動き、北朝鮮への先制攻撃、韓日の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)、文在寅氏の北朝鮮とのつながりの追及など(左派にとって)危険な政策を無力化しようと狙ったのに、朴大統領が安保・外交を引き続き担うとすれば失望するしかない。
○一方、朴大統領は「崔順実事件」が完全に究明されていないというのに、白旗を掲げて投稿するように一方的に譲歩している。側近を処理し、核心ポストに野党系の人を指名した。捜査にも応じるとした。国民にも謝った。卑屈に見えるほどの譲歩だ。
下野闘争には戒厳令
――ヴァンダービルド氏にすれば「卑屈な譲歩」なのですね。
鈴置:当初、韓国には「上手に立ち回れば、首相の交代ぐらいで事態を収拾できる」と見た人も多かったのです。韓国では譲歩すれば「弱い」と見なされ、さらなる譲歩を迫られます。
ここまで下手を打ち続けて国民の怒りを買うと、政権としては打つ手がありません。大統領をかばうメディアもありません。左派系紙はもちろん、保守系紙も一様に大統領批判を強めています。
少しでもかばえば、国民から「御用メディア」と批判されるからです。さて、ヴァンダービルド氏の記事の続きに戻ります。
○これだけ大統領が譲歩したというのに、今後も「下野(げや)闘争」が続くというならば、ある種の不純な意図――国防や外交の権限まで掌握した後に「左旋回」しようとの意図が鎧の下にあると見るほかはない。
○もし、この目的のために今後も騒乱と混乱が続くなら、朴大統領は憲法で保障された緊急措置権の発動を準備すべきだ。国会の承認など面倒な手続きを考えると、緊急措置権の中で「警備戒厳令」が最も現実的な選択肢だ。
――戒厳令ですか。
鈴置:準備しておけ、との主張ですがね。ちなみに「警備戒厳令」とは敵との交戦状態にない場合に発動する「戒厳令」です。軍が公共の安寧秩序を維持するという点では、交戦状態下の「非常戒厳令」と同じです。
カブスだって逆転優勝
――本当に戒厳令まで行くのでしょうか。
鈴置:それは分かりません。もう一度言うと、ヴァンダービルド氏も「準備すべきだ」と言っているだけです。
この人も、戒厳令を布くような状態になると考えているというよりも、そんな状態になるのが保守政権の最後の生き残りのチャンス、と考えている感じです。
なぜなら「戒厳令」の記事と同じ11月5日に、朴大統領に対し「堂々と左派に立ち向かえ」と求める「大統領が国を売ったというのか? なぜ、下野しろと騒ぐのか」(韓国語)を書きました。その最後の1文が以下なのです。
○この世界は様々の逆転勝ちの記録に溢れている。シカゴ・カブスは1勝3敗の崖っ縁の危機から3連勝し、劇的にワールドシリーズに逆転優勝した。こんなことはスポーツだけに起きるのではない。そして韓国に起こらないという法は絶対にない。
ヴァンダービルド氏も、朴大統領が何とか政権を維持できるのはシカゴ・カブスの逆転優勝並みの確率と見ているのでしょう。
計り知れない大統領の心
左派もこのまま行けば朴政権は自滅すると考えています。これも先ほども言いましたように、左派としては戒厳令などを引き起こす過激なデモは、今のところは避けた方が得策なのです。
左派の作戦は、とにかくデモの参加人数を増やして大統領への圧力を高める。そのためにも検察のお尻を叩いて「朴槿恵の悪行」を暴かせる。それを左派系メディアが煽れるだけ煽る――だと思います。
――結局、今現在は戒厳令の可能性は低いということですね。
鈴置:その通りです。ただ注目すべきは、朴槿恵大統領には相談する相手がもういないことです。孤独な大統領がどんな判断を下すかは予測不能なのです。 
韓国の権力の序列「崔順実が1位、大統領は3位だ」 11/7
 検察OB更迭で朴槿恵大統領ら「盾」失う 
韓国検察は6日、不正蓄財などの疑いで禹柄宇・前大統領府民情首席秘書官(49)を事情聴取。検察OBの禹氏は朴槿恵大統領の親友、崔順実容疑者の意向で大統領府入りしたとされ、検察への強大な監督権限により捜査に圧力をかけてきたと疑われてきた。
朴氏は政権批判の高まりを受け、大統領府高官らを一斉に更迭。不正蓄財疑惑が持ち上がっていた禹氏も対象に含めざるを得なかった。朴氏が自身と崔容疑者を守る「盾」を手放したことが、検察捜査の加速につながっているようだ。
禹氏は2015年には検察など「捜査当局」を掌握する民情首席秘書官に出世。14年後半に、崔容疑者の元夫チョン・ユンフェ氏が国政に介入したとの大統領府の内部文書が報じられ問題になった際は、政権への打撃を最小限に防いだことが評価されたもようだ。当時処罰された元行政官は、韓国の権力の序列は「崔順実が1位、チョン・ユンフェが2位。朴大統領は3位だ」と供述。 
崔順実と女性家族部長官たち 11/7
「影の実力者」と言われている崔順実(チェ・スンシル)氏の娘であるチョン・ユラの問題が初めて浮き彫りになったのは2014年4月のことだった。「大統領府の指示で、国家代表になるには物足りないチョン・ユラ(当時は改名前で、チョン・ユヨン)氏が、乗馬国家代表になった」。国会で最大野党「共に民主党」の安敏錫(アン・ミンソク)議員が暴露すると、積極的に庇った人は、与党セヌリ党の金姬廷(キム・ヒジョン)議員だった。「この選手の両親がだれで、その先祖が誰だという理由で、これほど素晴らしい選手を批判することに、文化体育観光部(文体部)は手をこまねいていてはならないと思う。不公正な勢力が正常な勢力を追い出そうとする動きに、文体部は断固対処してほしい」。3か月後、金議員は女性家族部(女家部)長官に任命された。
与党セヌリ党の姜恩姬(カン・ウンヒ)議員も、「虚偽事実であることが明らかになったと思うので、名誉回復させるべきだ」と口添えした。そして総選挙立候補のため、昨年12月、金長官が辞任すると、そのポストを引き継いだ。4日、「崔順実ゲート」に消極的に同調したと野党から叱咤を受けると、「ポストにはこだわらない」と涙まで流さなければならなかったが、巷では、女家部長官はどうせ、大統領夫人の分なので、崔順実の威勢を考えれば、とんでもない人事ともいえないという嫌味まで出ている。李明博(イ・ミョンバク)政府では、金潤玉(キム・ユンオク)大統領夫人を補佐した金錦來(キム・グムレ)議員が女家部長官を務めた。
大統領は女性だけで十分だという意味だろうか。朴槿恵(パク・グンヘ)政府は女性長官の闇黒時代といえる。女家部を除けば尹珍淑(ユン・ジンスク)、趙允旋(チョ・ユンソン)二人だけが女性だ。「手帳人事」であることがはっきりしている尹元海洋水産部長官は、数々の資質を巡る議論の末、不名誉辞任し、趙長官は、女家部長官や政務首席を経て、文体部長官に任命され、「大統領の女」という異名まで手にした。
政治圏の内外からは、趙長官の重用も、崔順実作品の可能性が持ち上がっている。彼女は崔順実は「知らない」と主張したが、個人的な親しみはどれほどか知らないが、存在そのものは知らなかったはずがない。金鍾コ(キム・ジョンドク)前文体部長官は、崔順実の側近であるチャ・ウンテクといろいろと関わりのある人だ。文体部予算や事業に関心の多かった崔順実が、後任長官の人事にも関わっただろうという疑惑が、世間に出回っている。 
「朴大統領が指示した」 責任を避ける側近たち 11/7
キム・ジョン前文化体育観光部第2次官(55)が6日、中央日報のインタビューで、崔順実(チェ・スンシル)容疑者(60)の平昌(ピョンチャン)冬季オリンピック(五輪)開・閉会式工事利権介入疑惑に関し、「金尚律(キム・サンリュル)青瓦台教育文化首席秘書官が2月、『(崔氏と業務協約を締結した)スイス建設会社Nuslliを参加させる案を積極的に検討してほしい』と指示した」と述べた。そして「教育文化首席秘書官の指示なので大統領の考えだと思った」と付け加えた。
崔氏の国政壟断事件に関連し、主要関連者が「私は崔順実氏を知らない」とし「朴槿恵(パク・クネ)大統領が指示したことだ」と最終責任を大統領に転嫁する陳述や証言をしている。
青瓦台(チョンワデ、大統領府)関係者では2日に最初に召喚された安鍾範(アン・ジョンボム)前青瓦台政策調整首席秘書官(57、拘束)は検察で、「ミル・Kスポーツ財団の設立は朴大統領の指示によるものだ」とし「募金状況を随時報告した」と語った。これに関連し、朴大統領は2回目の国民向け謝罪談話(4日)で「両財団の設立は国家経済と国民の生活に役に立つと期待して推進された」とし「特定の個人が利権を握っていくつか違法行為まで犯したというので残念だ」と述べた。大企業が財団に出捐金を出したのは「善意」と表現し、事実上、募金の強制性を否認した発言だ。安前首席秘書官やキム前次官が「大統領の指示」と述べ、朴大統領は財団出捐金が「善意」だったと言及したことで、今後の検察の捜査では資金の性格をどう判断するかが最も大きな争点となる見通しだ。
朴槿恵政権の関係者の陳述は、歴代政権の大統領不正捜査当時の側近の陳述態度とも差がある。執権初期の2003年に盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の不法大統領選挙資金事件捜査を受けて拘束された安熙正(アン・ヒジョン)忠清南道知事、執権初期の2008年に李明博(イ・ミョンバク)大統領のBBK特検当時に捜査を受けた金伯駿(キム・ベクジュン)元総務秘書官らは大統領に不利な陳述をしなかった。安知事は当時、拘束されながらも「私が責任を取り、反省する部分は反省する」と述べた。
朴大統領の側近の態度は「政権の回復が事実上難しく執権4年目であるため得られる反対給付もない」という状況認識に基づくものではないかという分析が出ている。先週、朴大統領の支持率は歴代最低の5%に落ちた。検察の関係者は「与野党が特別検事の導入に合意して退路がないという判断が作用した可能性がある」と述べた。
野党は「朴大統領がミル・Kスポーツ財団の設立は善意だったと言いながら事実上不法ではなかったという趣旨で発言したのは、検察の捜査に影響を及ぼすためのものだ」と主張している。
しかし青瓦台の関係者は「大統領が『大企業に投資をお願いした』とすでに明らかにした通り、財団の設立は国政のための統治行為の一環」とし「安前首席秘書官の陳述もその延長線上と理解する」と述べた。
李元鐘(イ・ウォンジョン)前青瓦台政務首席秘書官は「全斗煥(チョン・ドゥファン)政権は張世東(チャン・セドン)の『盲目的忠誠』、金泳三(キム・ヨンサム)・金大中(キム・デジュン)・盧武鉉政権は『同志意識』があった」とし「陳述の目的または真偽はさておき、朴槿恵政権の政府公職者の姿は使命感がなく権力だけ享受して自分の生きる道を探す利益集団の特徴を見せている」と批判した。 
朴槿恵の心の闇につけ込んだ「霊夢」 崔順実ゲート事件の内幕
現在、韓国政界を揺るがせている「崔順実ゲート」事件。事件の内幕が徐々に明らかになるにつれて、朴槿恵政権をも揺るがしかねない事態になっている。
この事件は女性実業家・崔順実氏(60)が朴槿恵大統領を通して国家機密情報を入手し、国政の運営や政府の人事に関して大統領に助言を与えていたほか、崔順実の血縁者が文化・体育関係の財団を相次いで設立し、そこで不正をほしいままにしてきた、というものである。崔順実氏の娘・鄭ユラ氏にも不自然な特例入学や恩恵付与が報じられてもいる。
韓国では、過去に大統領の近親者や周辺人物が権力を背景に大規模な不正を行った事例があり、これだけでは特に驚くに当たらない。
今回の事件が特異だったのは、「大統領の周辺人物」が新興宗教関係者であったこと、親子2代にわたって濃密な関係を結んでいたことだろう。崔順実氏の父・崔太敏氏(1912〜1994)は1970年代に新興宗教・「永世教」を興し開祖となった人物。崔太敏氏は、朴槿恵氏の父・朴正煕大統領の時代から大統領府に出入りし、権勢をほしいままにしていたという。
1974年8月、朴槿恵氏の母親・陸英修女史が狙撃されて死亡する事件が起こるが、このころ崔氏は朴槿恵氏にも接近。1975年に「大韓救国宣教団」なる団体を創設して総裁に就任、朴槿恵氏を名誉総裁に迎えている。1977年には朴正熙大統領から不正疑惑を直接追及されているが、この際には処罰を免れている。1979年に「大韓救国宣教団」を「セマウム奉仕団」に改称し、大学や企業の内部でその勢力を伸長させた。
崔太敏氏は6人の妻との間に8人の子(3男6女)をもうけたが、崔順実氏は5女にあたる。崔太敏氏は自らの「霊性」を継承する存在として、崔順実氏を特に寵愛していたという。崔順実氏が朴槿恵氏と本格的に親交を深め始めたのは1977年ごろとされている。1977年に崔順実氏は「セマウム奉仕団」の全国大学生連合会会長となり、1979年6月に開かれた「セマウム奉仕団」の体育大会では朴槿恵氏の横の席に座っていたことが確認されている。
1979年10月に朴正熙大統領が暗殺された後、崔父娘はますます朴槿恵氏に食い込み、故・陸英修女史が設立した児童福祉財団・「陸英財団」の幹部も務めた。この財団の運営をめぐり、朴槿恵氏の妹・朴槿令氏と崔父娘との間に摩擦が起こり、朴槿令氏が崔太敏氏の処罰を求めて大統領府に嘆願書を出すという事態が起こっている。もっとも、朴槿恵氏はこの事態の経緯について、自叙伝などでも詳しく触れていない。
「一部では、私が育英財団の運営から退いたことについて、いろいろな憶測を流しています。母が生前建てた子供会館が、姉妹のあいだのいざこざを生んだかのように見られることは、あってはならないことだし、いかなる理由でも許されないことなので、妹にその職を譲った(1990年)。その後、問題が起きたというニュースに接する度、歯がゆい思いをするが、私は妹がよくやってくれていると信じている(朴槿恵氏の側近に対する槿令氏側の批判が発端となり、理事長職を辞任。その後も運営をめぐりトラブルが報じられていた)。」
自叙伝では一言も触れられていないが、朴槿令氏の嘆願書は「私の姉(朴槿恵)には何の罪もありません。崔太敏に徹底的に騙されていたという罪だけです。騙されている姉が可哀そうで仕方ありません」という文章で始まるものだった。
1980年、朴槿恵氏は大邱にあった私立総合大学・嶺南大学校の理事長にも就任しているが、ここにも崔太敏氏の近親者が食い込み、不正入学や奨学金横領などの不正を働いたことが明らかになっている。
崔太敏氏は1994年に死亡したが、崔順実氏はその後も20年以上にわたって朴槿恵氏との関係を保ち、朴氏が政界入りした後にはさらに大きな影響力を行使するようになった。ちなみに崔順実氏の前夫・鄭允会氏は崔太敏氏の元秘書であり、朴槿恵氏が国会議員であった期間には、朴氏の秘書室長を7年も務めた。このような癒着がすでに報じられているような数々の不正を生んだことは想像に難くない。
では、なぜ、崔父娘がここまで朴槿恵氏に食い込むことができたのだろうか。まず、朴槿恵氏が20代の若さで相次いで両親を失うという悲劇に見舞われたことが挙げられるだろう。朴槿恵氏は「無所不為(できないことは何もない)」とまで呼ばれた強権的な大統領の娘である。傷心の朴氏につけ入って何らかの利益をむさぼろうとする輩が現れたとしても、特段、不自然なことではない。
また、朴槿恵氏の自叙伝を読む限り、韓国で広範囲に信仰されているキリスト教や仏教など、既存の宗教を信仰していた形跡がない。崔太敏氏は母親・陸英修女史の「霊言」「霊夢」などを口実に朴槿恵氏に接近したが、特別な信仰のない朴槿恵氏にとっては受け入れやすいものだっただろう。また、朴槿恵氏は、とかく「親日派」「独裁者」などと批判を受けてきた父親の業績が正当に評価されることを望んでおり、こうしたことも父親の時代から関係を保ってきた崔父娘との関係を断ち切りがたいものにしたはずである。
「選挙の女王」などと呼ばれ、政治的な機微に優れているとされる朴氏であるが、政界入りする前までは、実質的な役職に就いたことがない。朴槿恵氏が政界入りする前に就いた代表的な役職は「陸英財団」「嶺南大学校理事長」であるが、いずれも名誉職的なもの。この二つの組織の内部で崔父娘とその近親者が不正をほしいままにしていたわけだから、朴氏には実務をつかさどる能力が欠けていたと言わざるを得ない。こうした実務能力の欠如が、甘言を弄する周辺人物の助言に依存する結果となったと思われる。それが数々の不正を生み、政権末期になってそれが一気に噴出し、ついには政権を揺るがす事態になった、というのが今回の事件の内幕であろう。
大統領夫妻の暗殺という悲劇と、親子2代にわたる腐れ縁が生んだ、更なる悲劇と言わざるを得ない。 
 
韓国が反日になった理由・諸話

 

本当に日本統治時代の影響で韓国人は日本人を憎んでいるのでしょうか?その背景を理解するには、終戦から現在の韓国に至る複雑で残酷な悲劇の歴史を理解する必要があります。大国の思惑で操作された政治体制や思想は韓国や日本に今でも残されているのです。
どういう文脈で、日本と韓国の対立が作られていったのか
本当に、日本統治時代の影響で韓国人は日本人を憎んでいるのか?
第二次世界大戦の終戦直前、アメリカ合衆国は核兵器の開発に成功します。戦争終結によって各国で生じた支配層の空白に一方的に欧米資本を流入するチャンスが生まれたのです。核の恫喝を利用した米国は、反共を口実とした諸国の民族による自立阻止、旧体制の影響力の排除を行います。体制維持のための暴力と圧制はエスカレートし、朝鮮半島は、ベトナムと並んでとくに激しい歴史を経験することになりました。
米国の朝鮮進駐から始まる、戦後の朝鮮史を追ってみよう。
混乱からの解放と海外資本の浸食
資本主義による国家の解放は、常に新しい資本による浸食を伴う
一時的に占領支配された国や、独裁的だった体制から民衆が解放されると、人々は、それまで支配していた資本から脱却することを目指します。
反資本の動きが、一見すると、社会主義への移行を自然に促しているように見えます。しかしそれはシステムの移行を目指しているのではなく、単に従来温存されていた利権を拒否するという態度に過ぎません。
新しい一歩を始めようとする諸国民と、侵入の機会を伺う海外資本
第二次世界大戦が終盤に近づくと、外国資本は次々と敗戦国やその支配地域の経済を視野においたビジネスの準備を始めます。戦争に疲弊した諸国は、終戦と同時にこれらの企業や国家の圧力を受け止めなければなりませんでした。
東欧の共産化
第二次大戦の後半になると、ポーランドやルーマニアなどで旧体制が崩壊していきます。しかし、戦争は激しく、西側諸国は、資本の種をまくことができませんでした。人々は新しい体制を自ら作り始めます。
混乱する資本主義
資本主義諸国は困惑していた。
戦争の後に、外国から資本を投入し、新しい体制を構築するところにこそ、戦争の利益があります。しかし、第二次世界大戦中に解放された諸国は、外国資本を求めずに、自ら自立へと動き始めてしまうのです。これは、第一次世界大戦中に発表された民族自決の考え方に従う動きでもありました。西側諸国は、これらの動きを「共産主義化」と呼び、弾圧しようとしました。結局、諸国民は当時成功していたソビエトの社会主義革命の指導を求めるようになっていくことも少なくありませんでした。
新しい対立構造の創造
アメリカ合衆国のルーズベルト大統領はヤルタ会談で、朝鮮半島は独立させず、連合国による信託統治とし、その期間は20年から30年くらい必要だと述べていました。一方、ソ連のスターリンは「(統治の)期間は短ければ短いほど良い」と回答しています。この違いはどのように生まれたのでしょうか?
第二次世界大戦終戦直前のソ連対日参戦
第二次大戦の最終局面の直前まで、ソ連と米国は協力していた。
終戦の半年前、まだ米ソは連合国として協力する立場にあり、決して強い対立関係にはありませんでした。アメリカは核兵器開発に成功すると、米ソの対立は朝鮮半島を飲み込みながら冷戦への道を歩むことになります。その変化は、終戦前後の短期間に急激に進みました。まずはその流れを追ってみましょう。
1945年2月 ヤルタ会談
終戦の半年前、現在のウクライナ、クリミア半島のヤルタ近郊でアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談が行われました。目的は、戦後体制の英米ソの利害調整を行うことでした。このとき、米ソは、連合国として協力関係にありました。終戦直前のこの会談の時点ではまだ、東西対立は明確ではなかったのです。第二次世界大戦で疲弊せず残った二大国アメリカとソ連が、分担して戦後処理をするという現実的な合意に至っています。
ソ連は諸民族の民族自決と無賠償・無併合を要求していました。実際のところ、なにも外国資本が介入しなれば、社会主義化していくことが見込める情勢にありました。アメリカ合衆国は、ソ連と戦後利益を分配することを要求するのが精いっぱいだったのです。米国の保守体制は苦しい情勢に置かれていました。すでに膨大な投資を行い、マンハッタン計画をはじめとした秘密予算も、容認されないほど膨れ上がっていました。戦争からの利益をなんらかの形で回収しなければ、合衆国経済どころか、資本主義体制が崩壊する情勢でした。
核兵器の完成
第二次世界大戦の終戦直前、核兵器を手に入れたアメリカ合衆国
1945年7月16日、アメリカ合衆国はトリニティ実験を行います。世界最初の核実験でした。この日付は、ポツダム会談開始の前日、そして広島への原爆投下のわずか20日前でした。この日を境目に、東西の立場が逆転します。世界は激動の数ヶ月を経験することになったのです。
7月16日 トリニティ実験
トリニティ実験の成功は、単に巨大兵器を成功させたという以上の意味を持っていました。戦後の権力の空白地帯を根こそぎ米国資本の下に置ける可能性が生まれたのです。莫大な費用を費やしたマンハッタン計画の成果として、米国はその見返りを必要としていました。
トリニティ実験によって、アメリカ合衆国は核兵器を手に入れただけでなく、実は、核兵器の量産体制を実証していました。米国は、カネと時間をかければできるガンバレル式ではなく、技術的難易度は高いが、一旦成功すれば量産可能である爆縮型プルトニウム爆弾を完成させたのです。こうして、戦後世界への強い影響力行使が始まりました。
ポツダム会談
戦後ドイツの占領を議論するはずだったポツダム会談の直前に原子爆弾が完成
日本への最後通告を突然議題にしたアメリカ合衆国
ヤルタ会談から5か月後、ドイツの降伏を受けて、ドイツのポツダムで会談が設けられました。これは、ドイツの戦後占領を議論するために設定された会議でした。しかし、突如日本への最終通告がテーマになります。
ポツダム会談が始まったのは7月17日、じつに人類最初の核実験であるトリニティ実験の成功の翌日でした。直前までトルーマン大統領は、スターリンに対日参戦を促していました。
そもそも対日問題を協議する場ではなかったポツダム会談で、突貫で作られたのがポツダム宣言だった。
英国のチャーチル首相が帰国、ソ連のスターリンに非通知、中華民国の蒋介石が不在、という状況で米国が一方的に公表したポツダム宣言。その背景には核兵器量産化成功という決定的な事実がありました。
米国は、日本への最終通告を発表する決定をする直前に、日本への原爆投下命令を発動。
ポツダム宣言の通告を各国に伝達する「直前」、合衆国大統領は日本への原爆投下命令を発しました。各国が受け入れなければ、アメリカ合衆国単独でも日本への最終通告を行うという強い意思がありました。
敗戦に向かう大日本帝国
それまでソ連に対日参戦を依頼していたアメリカは、ソ連の対日参戦に先んじて日本への原爆投下と占領支配の開始を行うべく、一刻を争って動き始めた。
ソ連のスターリンはこのとき、米国の核実験成功を感知していました。核開発の情報は、米国による核技術独占を怖れた科学者の一部によって密かにソ連に伝えられていたからです。米国は、ソ連の対日参戦によって米ソが終戦を導くという結果ではなく、米国の圧倒的な核兵器によって終結させるという終戦を欲します。
米国の依頼をうけて、ソ連が対日参戦に動き始めた・・・
日本は情勢悪化を把握、なんとか国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に持ち込もうと画策していました。一方、米国は、早期無条件降伏に持ち込むことを意図して、ソ連に北方からの参戦を求めていました。ソ連は、アメリカの原爆投下に先んじて対日参戦すべく、急ぎ始めました。
ポツダム宣言からわずか10日後、核実験に初成功してからわずか20日後、広島に原子爆弾が投下された。
 

 

原爆投下とほとんど同時にソ連が対日参戦
原爆投下とほぼ同時に、ソ連対日参戦も開始された。
このとき米国とソ連は協調していたわけではありません。互いに一刻を争っていました。ポツダム会談でアメリカの動きを察知したスターリンはただちにソ連極東軍に電話、一刻も早い対日参戦を命じています。ソ連のスターリンも米国のトルーマン大統領も、米国の核兵器が世界にもたらす影響力をよく理解していました。
実はとても慌ただしく行なわれた原爆投下
広島への原爆投下の三日後1945年8月9日未明にソ連の満州への侵攻が開始されました。同日ソ連侵攻のわずか11時間後に、日本では長崎に原爆が投下されることになります。
広島への一撃で、日本は降伏しませんでした。この機会に、ソ連は対日侵攻を開始します。ほぼ同時に、アメリカ合衆国はただちに長崎への二発目の投下を実施、先を争って両国は動いていました。連合国の首脳陣は、まだ朝鮮半島を強く意識していませんでした。ギリギリまで、日本の領土分割を議論することで精一杯でした。しかし、一転して、朝鮮半島が東西の最前線へと変化していくことになりました。
終戦直前の朝鮮半島の動き
ソ連軍の南下によって、在外邦人は危機的状況に陥った。
ソ連対日参戦
ソ連の対日参戦で日本の敗戦は決定的なものとなり、今や、日本軍の任務として在外邦人保護は最重要任務となります。8月10日、ついに大本営から避難の命令をうけました。
満州では首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していた
日本軍による脱出作戦で鉄道輸送されたのは、3万8000人。そのほとんどは満鉄の関係者と軍関係者で、それ以外の邦人は、結果的に見捨てられました。
朝鮮総督府
このとき、70万人の日本人が朝鮮半島に残留しており、平壌(現在の北朝鮮の首都)の防衛のために第34軍が配備されました。しかし、兵力は非常に低水準、補給も期待できない状況でした。そして、避難するにも朝鮮半島には退路がなかったのです。
追い詰められる日本の朝鮮総督府
日本の敗戦が濃厚となった1945年8月、大日本帝国領となった朝鮮を統治していた朝鮮総督府も、重大な決断を下さなければならない状況に追い込まれる。
総督府から朝鮮人への権限の移譲
ソ連軍が侵攻してくる一方、朝鮮半島には退路がありません。日本の朝鮮総督府は、ソ連軍による制圧を怖れて、それまで朝鮮総督府とパイプのあった朝鮮人活動家への統治権の移譲を計画しはじめます。
第一次大戦後すでに設立されていた大韓民国臨時政府が本格稼働へ
1919年、朝鮮の独立運動を進めていた活動家(李承晩、呂運亨、金九など)によって設立された臨時政府を作っていた。
李承晩、呂運亨、金九といった代表的な独立活動家は、第一次世界大戦後にはすでに中国の上海に臨時政府を作って日本支配に対抗していました。
人類平等(人均)・民族平等(族均)・国際平等(国均)という三均主義を理念としていた
三均主義は、経済・教育の均等を内容にした政治・経済・社会的民主主義原理でした。しかし、米国資本にとって、都合の悪いこの考え方は、戦後すぐに迫害の対象となっていきました。
朝鮮の独立活動家達
彼らは戦後の朝鮮の独立運動の中心となっていきました。太平洋戦争末期には、彼らの多くは亡命し、アメリカ、ソ連、中国などで政治活動を継続してました。国外で独立運動を戦っていた人々でした。
混乱する朝鮮総督府
約70万人もの在留邦人を抱え、有効な対抗勢力がないまま朝鮮全土がソ連に掌握されることを懸念し、朝鮮総督府は半島の突然の機能不全に動揺していた。
朝鮮総督府政務総監遠藤柳作は呂運亨なる人物と接触し、解放後の治安維持のため行政権の委譲を持ちかけたのです。
呂運亨
8月10日、朝鮮半島で独立運動を展開していた呂運亨のグループは、日本降伏を見越し密かに建国同盟を結成していました。終戦の5日前のことでした。日本の朝鮮総督府は、呂運亨に権限移譲を申し入れます。彼は政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件にこれを受け入れ8月15日、日本降伏の報を受けて直ちに朝鮮建国準備委員会を結成。党の垣根を越えて朝鮮人による建国を目指したのです。
呂運亨は考えた。朝鮮建国には、知日派の力を必要とする
呂は短期間で朝鮮の独立を達成するべく速やかに動き始める。
今や日本の降伏は刻々と近づいていました。朝鮮の独立活動家らにとって、国家建設のために使える時間は極めて限られていました。呂は、日本との提携及び宋鎮禹、゙晩植(以上明治大学卒)、金性洙、安在鴻(以上早稲田大学卒)など、日本留学を経験している知日派の力が、独立後の体制作りに必要不可欠と考えました。
当時は、朝鮮総督府が統治を行っており、その体制を引き継ぐことが速やかな国家建設に必要、そのための人材が不可欠だというのは現実的な判断でした。
朝鮮は外国の軍隊のないまま8月15日終戦を迎え、突然の「解放」というニュースのみがもたらされた朝鮮半島
終戦
朝鮮半島で独立の機運が急速に高まります。しかし、独立派はまったく準備のできない状態で「解放」を与えられてしまったのです。このとき、多くの朝鮮人は国外に逃れており、政治活動家はまだ中国やアメリカ、ソ連など国外に居ました。呂運亨だけが政府建設を率いることができるだろうと日本の朝鮮総督府が判断したのは当然のなりゆきでした。
独立に失敗した朝鮮人民共和国
呂運亨は朝人民共和国の独立を9月6日に宣言。しかし、連合軍側(アメリカ)は朝鮮人による建国を認めませんでした。樹立宣言の翌日の9月7日アメリカ軍は仁川に上陸。アメリカ合衆国極東軍司令部が南朝鮮に軍政を布くことを一方的に宣言します。
拒否された民族自決、始まった軍政と夜間外出禁止令
同日、夜間通行禁止令が出され、1982年に解除されるまで続くことになりました。ここに、米軍による軍政の時代が始まりました。軍政の目標は、戦後の朝鮮半島に、米国資本にとって都合のよい、米国のいいなりになる体制を構築することでした。
一時的に成立した朝鮮人民共和国
朝鮮人民共和国は、総督府から治安維持の権限を引き取り、放送局や新聞社などの言論機関を一時的に引き継いでいました。しかし、連合軍の命令によりあっという間に取り上げられてしまいます。
投降する日本軍と、上陸した米軍
9月9日、朝鮮総督府がアメリカ軍への降伏文書に署名。9月11日にアメリカによる軍政を開始し、朝鮮人民共和国及び建国準備委員会を否認しました。朝鮮人による独立は失敗に終わったのです。これに先だって、8月16日には米国がソ連に38度線での分割占領を通知。ソ連はそれに合意しています。
 

 

アメリカ軍政下の南朝鮮と、韓国民主党の成立
アメリカ合衆国の操り人形になる政権樹立への動き
李承晩とダグラス・マッカーサー
1ヵ月後の1945年10月に李承晩(イ・スンマン)なる人物がアメリカから朝鮮半島に帰国しました。「独立建国運動の中心人物」となります。李承晩は第二次世界大戦中、ほとんど朝鮮半島には居なかった人物でした。彼は、大韓民国臨時政府に名を連ねてこそいましたが、アメリカでロビー活動を展開していた活動家でした。
李承晩は米国の選ぶ最初の代理人となった。
彼の主張は、反共産主義での朝鮮半島統一。当時の朝鮮の活動家の中ではほとんど唯一の右派活動家であり、大韓民国臨時政府のメンバーの中で、もっとも米国支配に都合のよい政治家でした。米国は、日本の指名した呂運亨による新政府を認めず、米国社会と繋がる李承晩を利用した支配を求めたのです。
メディア王、金性洙(キム・ソンス)
長い間朝鮮半島を離れていたため、朝鮮にまったく資金的足がかりをもっていなかった李承晩は後ろ盾として、事業家だった金性洙に接近します。東亜日報や高麗大学校、韓国民主党の設立者としても知られる人物です。教育とマスコミを支配できる立場にいました。金性洙は、日本支配の大韓帝国で財を成した実業家でした。彼は、実利主義の商人であり、1947年にアメリカのトルーマン大統領が、 トルーマン・ドクトリン(反共宣言)を発表すると、当時韓民党主席総務だった金性洙は、トルーマンに対し賛辞を示す無線電報をただちに送りました。
モスクワ3国外相会議
終戦後の利害調整のために行なわれたモスクワ三国外相会議
アメリカが朝鮮問題を、東西問題としてとらえ、対立勢力の追い出しを積極的に行ったのに対し、ソ連は、朝鮮人による南北問題ととらえ、朝鮮人による統一国家設立の後押しをするという立場をとっていました。民族自決を押すことで自発的な社会主義化を促したいソビエトと、民族自決より前に資本を投入したいアメリカという構図が、対立しました。
モスクワ三国外相会議では国連での原子力委員会設置検討が声明として盛り込まれ、翌46年にはを安全保障理事会のもとに設立することが決議された。
第二次世界大戦直後の年、核兵器の国際的な統制の必要性が世界中で議論の的となりました。原爆開発に関わった科学者たちは、「原子力の国際統制」の必要性を説き、1945年11月には米英加3国によって原子力の国際管理を司る委員会の国連への設置が提案されていました。
クロスロード作戦
1946年夏にアメリカ合衆国は核実験を繰り返し行い、核の独占をアピールしました。今や、米国が核兵器を国際政治の道具として使っていることは明らかでした。
朝鮮半島の独立がなされるまでは、アメリカ・ソ連・イギリスに中国を加えた4か国による最長5年間の信託統治を要すると決定
ヤルタ会談に続き、朝鮮側の代表者不在の状態で、朝鮮の信託統治を決議しました。モスクワ3国外相会議では、米国も合意したかのようにみえますが、翌年には意見対立が明確化し、決裂します。
核実験に供される日本の艦船
この会議での合意事項は、原子力の国際管理と、朝鮮半島の最長5年間の信託統治、5年後の南北統一選挙でした。しかし、核の独占を背景に、アメリカはその全てを破り捨てます。
米ソ対立が表面化
核開発のリードを利用したいアメリカが、ソ連と対立
米国は国際管理体制が機能するようになるまでは原爆を保有し続けると主張、即時の国際管理を求めるソ連と意見対立します。国連原子力委員会は48年5月に無期限休会しました。ソ連は独自の核兵器の開発を進めることとなりました。
国連原子力委員会は無期限休会へ、朝鮮半島の未来も不確実になっていった。
核廃絶を要求するソ連と、挑発的核実験を繰り返す米国が対立
信託統治下で設置する臨時政府を樹立するための協議対象に信託統治に反対する政党や社会団体を参加させるべきでないとするソ連側と、参加させるべきとするアメリカ側との意見が対立。1946年5月には朝鮮半島をめぐる議論も決裂します。
歴史的な情報操作
李承晩を支援する事業家の金性洙が所有する東亜日報が「誤報」する。
東亜日報の「誤報」
朝鮮半島で、金性洙が所有する東亜日報がモスクワ三ヶ国外相会談でソ連、信託統治を主張 アメリカは即時独立を主張と報じます。実際はその様な事実はなく共同宣言では米英ソ中四ヶ国の監督下による暫定政府の樹立と、その後の朝鮮半島全体選挙による民主的政権への移行が謳われていました。親米派の李承晩は朝鮮の人々をミスリードする「誤報」を積極的に利用しました。
朝鮮半島の反発
朝鮮半島では反対運動が立ち上がる
1945年12月のモスクワ3国外相会議において朝鮮半島を信託統治する方針だと報じられると、これに反対する運動(反託)が韓国各地で展開されることになります。信託統治ではなく、朝鮮人が朝鮮半島を統治すべきだという考え方は、国連の謳う民族自決を訴えるごく当然の主張でした。しかし、彼らは意図的に勘違いさせられていました。モスクワ3国外相会議で決議されたのは、少なくとも5年後の南北統一選挙と独立でした。米国は、南朝鮮単体での独立を画策していました。
信託統治の決定に反対の声をあげる朝鮮の市民
民衆が、信託統治に反対するデモを始めます。米国の目論見、そして李承晩の目論見は、民衆に信託統治に反対させ、南北朝鮮統一選挙の実施をさせないことでした。そうすることで、南朝鮮単体での独立を目論んだのです。
実は、終戦直後から米軍は朝鮮半島の軍政による統治に失敗、民衆の不満は高まっていました。すでに支配下にある南朝鮮単体での分離独立は、米国にとって現実的で合理的な選択肢とみなされていました。
混乱するソウルは4つの勢力に分裂
1946年1月7日、(親米派の)李承晩が信託統治の反対声明書を発表
李承晩らは、政府準備組織として「大韓独立促成国民会」を結成。「大韓民国臨時政府」から離れ、李承晩と韓国民主党などは、南朝鮮単独の独立を強行する動きを始めます。「誤報」によって、南朝鮮独立という話にすりかえる李承晩。それは米国にとってもっとも都合の良い選択肢でした。
金九(大韓民国臨時政府系)は、信託統治に反対しつつ、南北統一政府樹立を主張する
李承晩らの進める南朝鮮の単独独立と対立する。「南北統一政府の即時独立」を求める金九はアメリカと対立します。南朝鮮の単独総選挙反対声明した金急は、結局、暗殺されることになります。
左翼系(朝鮮共産党・朝鮮民主主義民族戦線など)信託統治賛成、南北統一政府樹立
信託統治は受け入れ、南北統一政府を樹立しようとする立場。モスクワ三国外相会議の共同声明に従う方針を示したグループでした。結果的にソ連が支持することになり、結局北朝鮮の有力勢力となっていきました。
中間派(呂運亨、金奎植など)信託統治問題については意見を保留、左右合作による南北統一政府樹立
終戦直後の独立に失敗した大韓民国臨時政府系は、信託統治問題について意見を保留しつつ、朝鮮人による南北統一政府の樹立を望み、派閥を超えて国家建設をしようとする立場でした。だが、やはり独立を望んだため、アメリカと正面から対立することになります。呂運亨も結局、暗殺されました。
 

 

1946年2月、呂運亨と朴憲永
呂運亨と語り合う朝鮮の共産主義運動黎明期以来の活動家朴憲永。李承晩による朝鮮南半部のみの単独政府樹立に対し、民族を分裂させる行為であると強く反対したが、暗殺されてしまう。
米軍による軍政の信任低下
米軍による軍政は全く準備が不十分なまま開始していた。
米軍による軍政は歴史的背景や朝鮮半島の情勢を学ぶ間もなくはじまっていました。朝鮮内部での意見調整が進むより早く、アメリカ軍による軍政の信任の低下が進んでいきました。
1946年5月に南朝鮮全土にコレラ流行
1946年5月に南朝鮮全土にコレラが流行し、慶尚北道だけで、4000人が死亡。その後、水害による交通破綻や強制拠出などにより、米価が日本統治時代に比べて10倍以上に高騰。反軍政の動きが強まっていきました。
反軍政の声が高まる一方、親日・知日派や、共産主義勢力が、支持を集め始めた。
事態を収拾できないアメリカの軍政。親日・知日・共産はいずれも米国にとって望ましくない勢力という位置づけになりました。米国は、モスクワでは表向き朝鮮半島全体での統一国家樹立に合意していました。しかし、このまま選挙にもつれこみ、支持を失った李承晩は惨敗し、米国の影響力の及ばない政権が樹立されてしまうことになってしまいます。それは米国にとって受け入れられない可能性でした。
アメリカは、5年間で信託統治を終えるというモスクワ会談での合意のため、短期間で親米政権を樹立する地盤を作らなければならない状況にあった。
反米の高まった状況で最初の政権が樹立されることを最も嫌いました。軍政が完全に信任を失う一方で、一刻も早く、反米勢力を消し去る必要が生まれました。非合法手段を含む手段を問わない方法で。
南朝鮮労働党の結党
南朝鮮の社会主義勢力が一大勢力となっていきました。後に北朝鮮労働党と合併し、朝鮮労働党となります。現在の北朝鮮政府の前身となる政党でした。
1946年11月に朝鮮共産党・朝鮮新民党・朝鮮人民党が合併し、朴憲永(パク・ホニョン)を中心として南朝鮮労働党を結党します。彼らは米軍の軍政において政府の強い迫害を受けることになり、主要な反政府勢力の一つとなっていきます。
大邱10月事件
抗議デモで市民が射殺される事件が発生
10月1日に大邱府庁前での抗議デモに対して南朝鮮警察が発砲して市民を射殺します。
南朝鮮全土が収拾がつかなくなっていく
デモへの警察の対応に対して、南朝鮮全土で230万人が参加する騒乱が起きました。抗議活動が収拾がつかない事態となったため、10月2日にはアメリカ軍が戒厳令を布告しました。
蜂起する市民、武力鎮圧で殺害された数万人の民衆
蜂起する市民
米軍政の土地及び食糧政策の失敗に対して、1946年10月には230万人の朝鮮人が連合国に対して蜂起する大邱10月事件が起き100名を超える犠牲者が出ました。米国の推し進める南北分離独立に反対する市民による蜂起とそれに対する武力鎮圧が行われ数万人が殺害されました。
アメリカ軍支配下の南朝鮮で事態が悪化していく
アメリカは南朝鮮の分離独立を急ぎ始める
南朝鮮全体の混乱が高まり、米国による軍政の支持が失われてくると、朝鮮半島全体が共産化する可能性を危惧し始めます。これらの動きは戦後1年〜2年という極めて短い期間に進行しました。
その後、政府は南朝鮮労働党の関与だと断定して政府軍によって6万人を虐殺する
韓国軍などにより済州島で蜂起したものは弾圧されました。治安部隊は潜伏している南朝鮮労働党の遊撃隊員と彼らに同調したとみなした島民の処刑・粛清を行うことになります。これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われました。
最初の反日への動き
短期間で米国の軍政の支持を取り付けることは不可能な状態で、積極的に反米勢力排除を始めます。すなわち、反共と反「親日」の二つの活動を始めたのです。それは暗殺や虐殺という暴力を伴うものでした。
朝鮮建国準備委員会の呂運亨が1947年7月19日、韓智根によって暗殺された
呂運亨が暗殺される
重要人物の暗殺があいつぎました。建国準備委員会はその後も活動を続けていたのですが、軍政庁はこれを非合法とみなしていました。暗殺以前にも、荒縄・棍棒・拳銃・手榴弾・手製爆弾などによる計12回のテロに遭い、しかし当時の警察は、犯人を検挙したことはなく、時には犯人の肩を持つような態度を見せることもありました。その暗殺はドロドロと妖しいものでした。
こうして、反「軍政」の1勢力である、親日・知日派への弾圧が行われました。以後、南朝鮮では親日=反政府とみなされるようになっていきます。
1948年3月12日には独立運動家の金九、金奎植、金昌淑、趙素昂らが、南朝鮮の単独総選挙反対声明
あくまで、朝鮮人による民主的国家樹立を目指す独立運動家達は、李承晩による強引な南部分離に大反対する。
南北同時の独立を主張する金九らも暗殺された
李承晩の位置は親米であって、朝鮮半島の独立という観点は無視する立場でした。金九らの立場は朝鮮民族の独立というものでした。李承晩や米国と正面から対立することになる政治主張でした。金九も結局、暗殺されてしまいます。
南北朝鮮の独立を要求した活動家はことごとく暗殺された。
大規模弾圧事件の発生:済州島四・三事件
在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にあった南朝鮮は、政治活動家の暗殺に留まらず、南朝鮮の分離に反対する者が多い地域の市民を地域ごと弾圧した
済州島
歴史的な大量虐殺事件が発生します。1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にあった南朝鮮の済州島で、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺されたのです。
済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きる
韓国国内で起きていた、南北統一国家樹立を訴えるデモが韓国全土で党派を越えて発生していました。米国主導の南朝鮮分離政権に反対するデモは、当時の朝鮮半島ではありふれた出来事でした。警官による発砲事件は、単なる偶発的なものではありませんでした。李承晩政権は、暴動に持ち込もうとしていたのです。
この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。
島民は団結して警察による殺害を批判、合法的ストライキに突入します。済州島は、歴史的に政治犯の流刑地でした。三無、「泥棒がいない」「乞食がいない」「外部からの侵入を防ぐ門が無い」といわれていました。彼らのおかれた状況、厳しい自然環境を克服するための協同精神が発達していたと言われます。ゼネストに突入しました。
在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)を済州島に送り込み、白色テロを行わせた。
軍政は、鎮圧行動を正当化できるような暴動を求めていました。そのためには、合法的なストライキでは不十分でした。白色テロとは、政府側が支援して行うテロのことです。右翼青年団体を送り込みテロ行為をさせるという、非合法な弾圧が米軍主導で行われました。
住民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こす。
南朝鮮労働党は、ゲリラ戦で対抗するようになります。しかし、この動きはそもそも白色テロを企画した米軍にとって期待した蜂起でした。虐殺の口実を得ることができるからです。
韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、数週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺しました。
済州島は、政治犯の流刑地としての歴史を持ち、本土から差別されていました。また、島であるため本土に影響が飛び火しにくいという地勢にあります。この済州島は、米国による粛清の始まりとして非常に都合の良い土地でした。
 

 

韓国政府の弾圧に対して、軍の内部からも反乱が起きる
あまりにひどい韓国政府の弾圧に対して、軍の内部からの反乱が発生します。済州島で起きた済州島四・三事件鎮圧のため出動命令が下った全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊で、反乱が起きたのです。
韓国政府の左翼勢力摘発は過酷を極め、反乱部隊に加えて、非武装の民間人8000名が殺害された。
多くの者が日本へ密航・逃亡し在日韓国・朝鮮人となる背景となった
この時期に弾圧を逃れた者たちは、共産党勢力または親日とみなされた者たちだった。創氏改名により日本名をもち、日本語教育を受けた彼らは、日本へ逃亡し、多くの在日朝鮮人が生まれた。
麗水・順天事件
反乱は麗水郡から隣の順天郡(現在の順天市)にも及びました。李承晩は直ちに鎮圧部隊を投入し、1週間後の10月27日に反乱部隊は鎮圧されました。残兵はその後北部の山中へ逃げ込み、長くゲリラ抵抗が続きます。事件処理で韓国政府の左翼勢力摘発は過酷を極め、反乱部隊に加えて、非武装の民間人8000名が殺害されました。多くの者が日本へ密航・逃亡し在日韓国・朝鮮人となる背景となりました。
南朝鮮労働党への韓国政府の迫害に対抗すべく、金日成は朝鮮人民軍を創設
もう一つの勢力、金日成は南半部(北緯38度線以南)への送電を停止
南北統一選挙を望んだ金日成
後に北朝鮮を建国する金日成もまた、朝鮮半島の朝鮮民族全体での自立を訴える政治家の1人でした。南朝鮮における労働党迫害、米国主導の南朝鮮分離の動きをうけて、彼は南朝鮮への送電を停止して対抗しました。
北朝鮮の金日成もまた、朝鮮統一を望む
米国によるテロ・暗殺の動きは、北朝鮮にも波及しました。
ドロドロの情勢の中で米国主導で大韓民国が成立
アメリカ軍政が最も嫌った左派の排除に成功した状態で、1948年5月10日、総選挙が大反対の中で強行された。各地で反対派による武装闘争が展開されることになる。
国連監視下で行われた選挙
「国連監視下」決して、公平とも公正ともいえない、選挙がかぶった冠でした。
1948年8月15日に、アメリカ合衆国の後押しで大韓民国が建国された。李承晩は議会多数の支持を得て初代大統領に就任
総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制しました。そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていました。終戦から3年、米国傀儡政権の誕生でした。
大韓民国憲法とともに「反民族行為処罰法」が制定された。
統治機構は日本の朝鮮総督府を引き継いでいましたが、あまりにドロドロした状況で作られた親米独裁政権を維持するためには、「親日」勢力を行政から除去する必要がありました。すでに軍での反乱まで経験していた「新政権」は、積極的に思想弾圧を進め、暴力を行使してでも、親日派や共産主義勢力を徹底的に排除するしか選択肢がありませんでした。
アメリカ軍政庁傘下の韓国教育評議会(Council for Korean Education)が組み立てた教育制度を、全国で完全に実施する。アメリカとの強固な同盟関係を求める一方で、北朝鮮や日本を敵視する政策を実施した。
日本統治時代に朝鮮発展に貢献した主要人物は親日反民族行為者に認定され、罰せられることになりました。また、調査のために反民族行為特別調査委員会が置かれ、武装した特別司法警察職員が該当者を逮捕尋問することが法的に認められるようになるなど、親日と認定されること自体が社会的なリスクを伴うようになっていきました。
大韓民国に対抗して北朝鮮も成立
金日成は米国主導の大韓民国樹立に対抗し9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上当事国間の「国境」となった。
大韓民国の建国宣言まで、金日成は国家を名乗ることはなかったことに注意しましょう。ソ連の指導のもとで、統治機構を安定させることがもともとは彼の目標であり、北朝鮮を分離独立させようという動きはそもそもありませんでした。米国主導での南朝鮮分離は、金日成に国家建設の決断をさせることになったのです。
若き日の金日成(キムイルソン)
もともと、モスクワ三国外相会議での合意内容は、最長5年間の信託統治でした。それまでに基盤を安定させ、朝鮮人による全体選挙が行われるというのが約束されたストーリーでした。しかし、米国は、強硬に米国主導で大韓民国が強引に成立させることを選びました。正面から「民主的」な選挙を行うことで親米でない政権が樹立されることは絶対に受け入れませんでした。こうして、南北分離が固定化してしまうことになりました。
国連は無批判に、新政権の主張を受け入れた。
国連もまた、米国の操り人形としてふるまっていました。国連の謳う民族自決の原理は、いとも簡単に無視されてしまったのです。
大韓民国樹立後の国家統制
1948年、大韓民国刑法制定に5年先駆けて「韓国の国家保安を脅かすような反国家活動を規制することで国家の安全と国民の生存・自由を確保することを目的」と謳う、国家保安法が成立。
『国家保安を脅かすような反国家活動を規制する』
『国家の安全と国民の生存・自由を確保する』
「反国家団体」の構成、自発的支援、金品授受だけでなく、これを「称賛」したり「鼓舞」するだけで罪に問われるようになりました。この法律の成立をうけて、国家統制はより過激化していきました。
1949年の1年間に国家保安法によって検挙された人数を118,621人
国民の中から、李承晩政権に敵対しうるとみなされたものは、次から次へと検挙されていきました。
 

 

反体制勢力の登録制度
国民補導連盟
国家保安法の翌年、「転向者達を体系的に保護・管理・監視する機関」として「国民補導連盟」が作られます。これにより、左翼的とみなされる者を、登録し、データベース化することで、反李承晩・反米勢力を一元的に管理することができるようになりました。30万人以上が登録されました。この登録は、後の集団虐殺へと繋がっていきます。
国民保導連盟は転向者が義務的に加入することになっており、活動目標は大韓民国政府を絶対支持し北朝鮮政権を絶対反対し、共産主義思想を排撃することであった。
多様な反政府勢力を簡単に撲滅対象である左翼とすることができるようになり、李承晩政権の権力強化に寄与したところが大きかった。
繰り返される大虐殺
1949年12月24日には、韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こした。
共産匪賊に協力したなどとして、韓国陸軍第2師団第25連隊の第7中隊第2小隊第3小隊が非武装の女性、子供、老人の88人を射殺しました。李承晩政権下での虐殺の中では、小規模なものでした。
共産主義者による犯行であると情報操作した
李承晩政権は、陸軍部隊を派遣し、住民を虐殺、共産主義者による犯行と断定し、事態を隠蔽しました。強権的な独裁体制が構築されるとともに、親日あるいは共産主義を擁護する発言はタブーとなっていきました。
2009年8月6日、ソウル高等法院(高等裁判所)は不法行為を認めた上で、時効の成立とし、遺族による賠償請求を棄却します。
金日成による南進を許さなかったソ連
金日成は悲劇の続く南朝鮮で李承晩を倒し統一政府を樹立するために、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。
北朝鮮は、その後も南北統一政権の樹立を希求することになります。この時点では、まだソ連は原子爆弾を保有していませんでした。アメリカ合衆国に全面戦争をする口実を与えれば、米国が核兵器を行使することが予想されたのです。
すでに米国が核兵器を獲得していました。一方、ソ連はまだ、原爆を持っていませんでした。米ソの直接対決は避けるというのはソ連にとって、当然の判断でした。
継続する米国の核実験
日本や日本の旧植民地の統治は、ほぼ米国主導で進められていきました。米国は、第二次大戦後の利益を最大化するために核兵器の脅威を利用しました。ヤルタ会談までは議論されていた日本の分割統治計画も、廃案となっていった歴史を持っています。
韓国は、建国された朝鮮民主主義人民共和国を国家として認めず、反国家団体による不法占拠であるとした上で大韓民国は朝鮮半島における唯一の合法的な国家であるとし、国連もこれに従った。
金日成の北朝鮮は、南進の機会をうかがうことになります。そのチャンスはすぐに訪れました。
核開発競争、ソ連がアメリカにおいつく
1949年、ソ連も核実験RDS-1に成功
アメリカ合衆国は、原子爆弾を共同開発した英国やカナダにさえも、各技術の移転を禁止し独占保有しようともくろんでいました(マクマホン法)。しかし、脆くも米国の核兵器リードは戦後4年で失われてしまいます。
朝鮮戦争の勃発
アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない
このアメリカ国務長官の発言が、金日成に大きな決心をさせることになります。単なる米国の失言だったのか、それとも朝鮮半島全土を支配するための意図した発言だったのか、あるいは、何かを背景にした圧力があったのか、、
ディーン・アチソン国務長官
1950年1月12日、アメリカ政府のディーン・アチソン国務長官がこのように発言すると、金日成は「アメリカによる西側陣営の韓国放棄」と受け取りました。スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案します。米国は、すでに反米勢力の排除を終えたものと考えていました。今や日本占領に腐心しており、朝鮮半島にそれほど大きな注意を払っていなかったという事情もありました。
北朝鮮は、アメリカが傀儡政権の維持を放棄するのであれば、北朝鮮としては南北統一の機運と判断した。
ソ連の核開発の成功、アメリカ国務長官の無責任な失言、そして米国の支援する韓国政府による朝鮮人の弾圧、これらが、金日成による朝鮮戦争突入の原因となりました。
朝鮮戦争への突入
当時の北朝鮮は、中国での内戦に兵を派遣しており練度も高く、装備も充実していた。
充実した北朝鮮軍と脆弱な韓国軍
当時の北朝鮮は、中国での内戦に兵を派遣しており練度も高く、装備も充実していました。一方、米軍は情勢の安定しない韓国に対し、米軍は韓国に重装備をまったく支給していませんでした。これは、米韓軍事協定に基づくものでした。米国は、韓国がある日突然、反米政権を樹立し米国と敵対する悪夢をまだ捨てきれていなかったのです。韓国軍は内部の反政府勢力と相変わらずの闘争を続けており、ゲリラ討伐などで疲弊していました。さらに、反「親日」の必要性から、旧朝鮮総督府系の役職員を追放したことで、組織を一から作り直さなければならない状況にありました。
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。
米側の説明では、完全な奇襲ということになっている。約10万の兵力が突然、38度線を越えたとされます。
韓国軍はなすすべもなくソウルまで後退していきました。やがて首都も陥落することになります。
漢江人道橋爆破事件
朝鮮戦争開戦から二日後、政府はソウルを捨て、遷都を決定
6月27日深夜1時、中央庁において招集された非常国務会議で、政府の水原移転が決定されました。ソウル市民については当初より移動計画はなく、この席でも何らの対策も講じられませんでした。
反共の砦に過ぎなかった韓国
政府が水原への遷都を発表したことで、それまで楽観的な報道のみを聞かされていたソウル市民は、初めて首都の危機を知りました。
 

 

韓国軍によって爆破された漢江人道橋
避難路を求める市民が漢江の人道橋付近やソウル駅に殺到する一方、増援部隊の車両は北上を続けており、市内は大混乱に陥りました。その避難路の漢江人道橋は、約4000名の避難民が渡る状況で爆破され、約500-800名と推定される避難民が犠牲となりました。
民間人だけでなく、韓国軍部隊も退路を失う形となった。韓国軍主力は、北朝鮮軍の強圧もさることながら、自ら過早に退路を遮断したことが決定的な要因となって、信じられぬ速度で崩壊していった
爆破後の橋を必死で避難する市民
戦後米国に無理矢理擁立され、強権により反体制勢力を駆逐していった、李承晩政権の課題は、独裁体制の維持でした。一旦強権発動によって作られた体制は、さらにそれをエスカレートしなければ維持できません。悪夢のような悪循環が進みます。
6月28日、ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。
北朝鮮の進行中も止まらない、韓国政府と米軍による反政権派虐殺
収監されていた数十万人の政治犯が米韓連合軍(国連軍)の軍命で処刑されていた
米大使館武官室は、ソウル陥落後、敵軍によって釈放されないようにという名目で、政治犯を処刑させました。朝鮮半島から、李承晩体制に反発しうる大量の人々が、命を奪われて排除されました。
李承晩政権とアメリカ軍は、北朝鮮の侵攻の初動で失敗しました。その失敗をとりつくろうには、危険分子の処刑が必要であると判断されます。
李承晩政権は、この指示に応じ、すでに反李承晩派のデータベースと化していた「国民補導連盟」の登録者や、習慣中の政治犯・民間人を大量虐殺します。親日・知日派や、共産主義者が犠牲となりました。
保導連盟事件
爆破事件で、市民のみならず、軍部隊内部でも不信が拡大する中、より大規模な虐殺事件が発生します。その規模は、100万人を越えるとも言われています。
20万人から120万人に上る民間人が裁判なしで虐殺された。
傀儡国家における戦争の悲劇
6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「国際連合安全保障理事会決議82」を全会一致で採択した。
国連の非難決議
拒否権を持つ中ソ連が欠席、米国主導で行なわれた安保理決議は、「北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告」
アメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成。
李承晩政権を公然と軍事支援する名目を得た米国は、国連軍の名を用いて、軍隊を朝鮮半島に派遣することになりました。
大田刑務所虐殺事件
7月1日、軍部の指示に基づき、大田刑務所に収容されていた収監者中、一般犯を除外した思想犯1千8百余名を朗月洞の虐殺が決定される。憲兵と警察が銃殺した後、穴に埋めました。
アメリカ軍地上部隊が投入される。
烏山の戦い、大田の戦いで敗退し、アメリカ軍は後退を余儀なくされていく中、退路のない朝鮮半島内の韓国軍はさらに追い詰められていきました。
国民防衛軍事件
1951年初頭、北朝鮮・中国両軍の攻勢を受けた韓国軍は、前線の後退(1・4後退)作戦を敢行し、国民防衛軍は50万人余りの将兵を後方の大邱や釜山へと集団移送することになりました。しかし、防衛軍司令部の幹部達は、国民防衛軍のために編成された軍事物資や兵糧の米などを、処分・着服します。その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食糧・野営装備・軍服)の不足が生じ、9万名余りの餓死者・凍死者と無数の病人を出す「死の行進」となりました。
朝鮮戦争
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人の死傷者を出した。北朝鮮軍および中華人民共和国の義勇軍も多くの損害を出した。
朝鮮戦争前半
日本の朝鮮戦争参戦
GHQ支配下にあった日本も、朝鮮戦争に派兵した。
停戦
1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。
1952年1月18日に、実質的な休戦状態となったことで軍事的に余裕をもった韓国は、李承晩ラインを宣言します。竹島、対馬の領有を宣言したのです。連合国占領下にあり自国軍を持たない、かつての宗主国である日本への強硬姿勢を取るようになりました。
北朝鮮内部の粛正
続く米国による北朝鮮内部工作
表向きの戦争は終わりましたが、米国による南北朝鮮への諜報活動、北朝鮮の転覆を謀る工作活動は続きました。
個人崇拝の推進
初期の北朝鮮は、複数の派閥があったが、それでも韓国に対する共闘という立場を維持していました。対立が明確になったのは朝鮮戦争後でした。東西の諜報戦と工作が行われる中で、北朝鮮の政権中枢でもスパイによる内部崩壊の工作が頻発します。これに対抗するためには、金日成はスターリン型の政治手法を採用しなければらなくなります。疑惑のあるライバルを次々と排除し、個人崇拝を伴う金日成派による独裁体制を完成させていきました。
 

 

マッカーサー解任
朝鮮戦争中、米国軍部の暴走が目立ち始め、また、韓国政府もそれを利用しようとしました。マッカーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、さらに原子爆弾の使用の提言など、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視し、あからさまにシビリアンコントロールを無視した状況が相次いだのです。結果的にマッカーサーは解任されることになります。しかし、ソ連および東側諸国は、西側の核兵器コントロールに不審を抱くことになりました。
今ならまだ韓国軍は戦線を維持できます。しかしこの機を逃せば、中国と北朝鮮の共産主義者共は、我が軍を壊滅させ、反共主義勢力を滅ぼすでしょう。 (中略) マッカーサーに、共産主義侵略を阻止する原子爆弾使用許可を与えるべきです。モスクワに原子爆弾を数発落とせば、世界の共産主義者共は震え上がるでしょう。
李承晩大統領は、アメリカトルーマン大統領宛に、ソビエト連邦首都への原子爆弾を使用した民間人大量殺戮を示唆する書簡を送っています。
朝鮮戦争と核兵器
毛沢東は戦前には核兵器を「張り子の虎」と読んで軽視していたが、朝鮮戦争終了後には核開発を本格的に開始している
ソ連の核保有がなければ、米国は実際に核攻撃をしていた可能性があり、逆にソ連の核保有がなければ、スターリンは朝鮮戦争を許容しなかった可能性がありました。しかし、ソ連が核保有しなければ米国による一方的な世界支配がさらに進められていった可能性もありました。核保有の政治的意義は朝鮮戦争を通して明確化しました。
その後、中国、北朝鮮、フランスなども核保有への道を歩み始めます。
北朝鮮が核開発を開始する
1956年3月と9月、旧ソ連との間に原子力開発に関する基本合意を行い、数人の科学者を旧ソ連のドゥブナ核研究所に派遣した。
小規模の実験用原子炉であるIRT-2000研究用原子炉の供与を受け、寧辺に建設されました。ソ連は、原子力の協力は平和利用に限定されるべきとの立場を崩しませんでした。この年、アメリカは水爆の開発に成功し、その脅威を国際社会に宣伝するとともに、トルコや沖縄のようなソビエト近傍も含む同盟国への核兵器配備を進めようとしていました。米国の動きに対抗するためには、ソ連は必然的に北朝鮮に核兵器を移転する検討をはじめなければならなくなります。
ソ連は1957年に最初の人工衛星スプートニクを打ち上げ、大陸間弾道ミサイルの技術を獲得する。
スプートニクショック
スプートニク以前は、飛行機による爆撃による核戦争を想定しており、それは核兵器を敵国の付近に配備しなければならないことを意味していました。核兵器の大型化競争は、水素爆弾をすでに実現していましたが、いまや核兵器輸送や爆撃を困難にしていました。大陸間弾道弾の可能性を示したことで大型兵器の実用性を獲得したソ連は米国よりリードしたのです。その後ようやく、米国が、軍縮への動きを認めるようになり、同年IAEAを設立、米英ソは核実験を休止し、いわゆる「核実験モラトリアム」の時代を迎えます。
朝鮮戦争後の60年代、一時的に民主化の機運も軍事クーデターにより独裁へと戻る
1960年代から冷戦末期にかけて、民主化運動が高まると、軍事クーデターで再転覆されるというケースが繰り返されることになる。
壊れた操り人形
1960年の選挙のころには、李承晩政権は完全に支持を失っていました。独裁を維持するためには、あらゆる手法で不正選挙を行う必要がありました。その内容は笑い話かと思えるほど強引なものでした。
キューバ革命が成功し、日本では60年安保闘争が繰り広げられていた時期だった。
核の脅威によって米国が戦後体制を動かそうとしていた流れは、ソ連の人工衛星成功によって、逆流し始めます。
朝鮮戦争を通じて、韓国政府と米国の思惑が露呈し、12年続いた独裁体制は、もはや継続することが不可能な情勢となっていました。
与党自由党は全力を注ぎ、官憲や暴漢を動員した不正選挙を展開しました。
自由党は有力野党である民主党を封じるために早期選挙を計画した。
李承晩政権はそれまで慣習的に5月に実施されていた大統領選挙を2ヶ月も早めて3月15日を投票日とすることを決定。野党が想定しないタイミングでの選挙を強行するという手段をとります。
野党、民主党の趙炳玉候補が、アメリカで手術を受けた後、2月15日に急逝
李承晩の対立候補が、米国での手術後に、謎の死を遂げます。これにより大統領選挙は候補者1名の状態に陥りました。
信任投票となった選挙でも、あからさまな投票操作が行われた。
韓国の選挙法上、台頭両候補が1人の場合は有権者の1/3の得票を得る必要があります。しかし、これさえ達成できそうになかった李承晩政権は、さらに公務員・警察を動員した大規模な選挙不正を実施しました。
四月革命
1960年3月に行われた第4代大統領選挙における大規模な不正選挙に反発した学生や市民による民衆デモにより、当時、第四代韓国大統領の座にあった李承晩が、ついに下野します。四月革命と呼ばれる出来事でした。
民主化に失敗
求められたのは「アメリカに従う民主主義」キューバ革命のまっただ中、米国は韓国の民主化を許容しなかった。
アメリカは、この民主化の動きを容認するわけにはいきませんでした。キューバ革命では、アメリカの支援していたバティスタ独裁政権が打倒され、今やカリブ海のまさに米国の目と鼻の先に、共産主義国が誕生していました。韓国の民主化は、アメリカ資本に追従しない韓国の誕生につながる恐れがありました。アメリカが朝鮮半島を失うこと、それは絶対に認められないことだったのです。
韓国の民主化を認めない勢力は、再度クーデターによってこれを転覆した
民主化の動きは当然のように否定されました。すぐに軍事クーデターが行われ、親米の軍事政権が成立することになります。同じ頃、キューバ危機が勃発、米ソの対立は最高潮となっています。
1961 5・16クーデター
1961年5月16日、朴正煕らは、軍事革命委員会の名の下、クーデターを起こし、4月革命で成立した政権を奪取します。クーデターから三日目の5月19日、アメリカ国務省は軍事政権への支持を発表。「軍事政権による反共体制の強化」と「腐敗の一掃」、「合憲的政府」の再樹立を標榜する革命公約に大いなる期待を表明します。
新しい保守体制の構築
朴正煕
クーデターを首謀した朴正煕は、1963年に大統領となりました。自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていった人物です。2014年現在の大統領、朴槿恵(パククネ)の父親にあたる人物です。このとき、新しい保守の歴史が動き始めたのです。
ベトナム戦争への派兵
ベトナム戦争
朴正煕の独裁政権下はアメリカの要請に応じてベトナム戦争への派兵を決定します。ケネディ大統領は、韓国のベトナム戦争参加に反対の立場でした。しかし、米国でも怪しい動きが発生します。ケネディ大統領は暗殺されたのです。1964年 - 1973年にかけて、大量の韓国軍将兵をベトナムへ派遣することになりました。
ベトナムも第二次世界大戦後の一時的な解放と、欧米資本の再流入に伴う悲劇的な歴史を歩むことになります。ベトナムの独立を指導したホーチミンらは、旧宗主国であるフランスの支配を振り払いましたが、さらにフランスの空白を狙うアメリカ合衆国の驚異と長きに渡って戦わなければなりませんでした。
 

 

ケネディ大統領は、朴正煕からの韓国軍派遣進言を断っていた。
ケネディ大統領の副大統領だったジョンソンは、ケネディが暗殺されるとただちに大統領に就任しました。大統領宣誓を飛行機内で行い、きわめて速やかに権限が移行しました。ジョンソン新大統領は翌年から韓国軍を受け入れました
のべ31万人を派兵した韓国。後の全斗煥・盧泰愚大統領はそれぞれベトナム戦争で武勲をあげた軍人である。
米国に従い、「反共」「分断国家としてのシンパシー」を訴えてベトナムへの派兵を推進した朴正煕政権。この戦争は、韓国経済を高度に成長させるための戦争でもありました。
ベトナム戦争で形成した財閥
サムスン、ヒュンダイ、韓進、大宇などの後の財閥が誕生することになり、これらの財閥と軍部が結合して保守勢力を形成することになる。
軍部と経済界が結合した保守勢力が形成されていったのがベトナム戦争でした。ベトナム戦争特需による企業成長は、日本でも発生します。
サムスン / 米卸から電子機器製造へと拡大し、財閥化
ヒュンダイ / 現代自動車グループを中心とした大財閥へ
韓進財閥 / 国有だった大韓航空を所有することになる韓進財閥
ベトナム戦争と日韓経済の関係
Buy American政策
ベトナム戦争中、アメリカは自国経済を優先するBuy American政策をとりました。アメリカ合衆国は、キューバ革命という米国の失敗を意識せざるをえませんでした。朝鮮半島の共産化を避けるために、韓国をBuy Americanの例外としてあつかったのです。この結果、ベトナム戦争の物資の多くが韓国で生産されることになりました。韓国の財閥が急激に成長しました。
日本は、Buy Americanの例外ではありませんでした。しかし、韓国との貿易を介してベトナム戦争に参加しました。これが、日本の高度経済成長の原動力となったのです。日本の保守勢力と、韓国の保守勢力はこの期間に、経済的に強い相互依存の関係を結んでいくことになりました。
朴正煕政権と日本
親しかった朴正煕と岸信介
軍事クーデターで成立した朴正煕政権、日本ではやはり米国の諜報機関の支援をうけて成立した岸信介政権が誕生、1960年安保闘争を経て池田勇人政権が誕生しています。日本は、朴正煕政権に多額の支援を行いました。朴正煕は、現在の韓国大統領パククネの父、岸信介は現在の日本の首相である安倍晋三の祖父でした。
日本政府は、朴正煕政権に資金供給した。
2007年に米国務省は、日本を反共の砦とするべく岸信介内閣に秘密資金を提供し秘密工作を行い、日本政界に対し内政干渉していたことを公式に認めています。朴正煕政権と同様、岸信介内閣もまた、米国によって作られた政権だったのです。朝鮮戦争は、日本に軍需を生み、日本の保守勢力が資本を取り戻すことになりました。そこで生まれた資本が、朝鮮戦争後、朝鮮半島の保守勢力にも再分配されていったのです。
日韓の保守層の構造はこのようにつながっていきました。
朴正煕は、日本の陸軍出身でもありました。朝鮮戦争前の、10・1事件では逮捕され死刑判決までうけていましたが、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることがアメリカ軍当局に評価されて釈放されたという経緯を持っています。彼も米国の諜報機関と関係していた人物だったのです。
日韓基本条約が締結される(1965年)
「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」が締結された。
李承晩の独裁と、朴正煕の独裁は、いずれも米国に依拠したものでしたが、置かれていた状況に違いがありました。李承晩政権は、日本の朝鮮総督府の統治機構を引き継ぎ、そこから日本統治時代の勢力を排除する必要がありました。一方、朴正煕の時代には、朝鮮戦争によりほとんど国土も統治機構も破壊された状態から始まりました。朴正煕政権に米国が期待したのは、北朝鮮との間に経済的格差を作ることで、共産化しない土壌を作ることでした。
政府トップ主導の露骨な反日政策はおだやかになった
反民族行為処罰法は李承晩政権時代から引き続いており、あいかわらず親日だと認定されることは地位を失うリスクを伴いました。しかし、朴正煕以降の軍事政権には日本軍出身者や朝鮮総督府出身者が少なくありませんでした。米国は、経済政策を優先し、堅牢な保守を構築するためにこれらの勢力を必要としたのです。
日韓基本条約における北朝鮮の扱いの不当性
北朝鮮は '日本・南朝鮮「協定」' とよび、日本からの「強盗さながらの要求」によって結ばれた無効なものであると主張する。
北朝鮮政府は「日本はまだ北朝鮮に対して、戦後賠償や謝罪をしていない」と、北朝鮮による日本人拉致問題の解決の交渉の上で再三述べ、日朝国交正常化と日本の北朝鮮に対する戦後賠償と謝罪が何より先決だと主張しています。その背景には、日本と韓国の保守層が結合する一方で、北朝鮮を排除した経緯があります。
日韓両国は日韓基本条約第三条にて韓国政府の法的地位を「国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの」として朝鮮半島にある唯一の合法的な政府とすることで合意したとしています。
すでに朝鮮戦争が行われ、国家として「休戦」している状態であるにもかかわらず、あくまで北朝鮮は非合法な集団にすぎず、韓国だけにしか賠償しないという論理を使った
あくまで米国主導での南朝鮮単独選挙を唯一合法とする立場をとった日韓両国。すでに「戦争」が行われ、「休戦」というステータスにある中では、屁理屈のような考え方でした。日本の北朝鮮に対する戦後賠償と謝罪は、現実には全く行われなかったのです。これが、現在日本と北朝鮮の最も重要な争点となっている問題です。
韓国と北朝鮮の格差拡大が求められた。
韓国と日本を反共の砦とみなす米国の思惑は、朝鮮戦争で等しくダメージを負った南北朝鮮のうち、南朝鮮を劇的に経済発展させ、北朝鮮を引き離させるというものでした。日韓基本協定は、日本と韓国の経済圏を構築させるとともに、北朝鮮を日本と対立させるという意図もあったのです。
硬化した日朝関係
拉致問題の被害者は、北朝鮮の被害者であるとともに、日韓の行った国際政治の犠牲者でもあります。国として認めない、ゆえに謝罪も賠償もしない、という態度に対し、金日成政権は、日本への態度を硬化させました。そして、日韓両国をそのように誘導した、米国と国連の責任も少なからず存在します。米国も国連も、日朝問題の当事者であり、本来、他人事のように語る立場ではないのです。
論理を使うことはできる、だが、現実に韓国が北朝鮮の人達に被害補償を行うことが考えられないことは明白である。このような解決の放棄が、日朝国交正常化を不可能にした。
北朝鮮の非合法活動
拉致という作戦行動、それ自体は非難されるべき問題かもしれません。しかし、戦時中の賠償責任を、国際政治のカードとして用いた日韓両国の責任も確かに存在します。北朝鮮の立場から見れば、相手はただ屁理屈を放って解決を放棄しているのです。現実には、このような状況では、非合法活動でしか状況を変えることができません。西側体制への抵抗運動の方法の一つでもあるのです。
大韓民国の成立それ自体を合法と主張することは、日韓両国の保守層としては避けられない。しかし、そこにある歴史は、数多くの暗殺と弾圧の上に行われた非民主的なプロセスである。
相手国を単なる違法集団とみなし、それゆえにそこに住む人々に一切の賠償責任はない、という論理を主張しながら、一方で特定の犯罪について解決せよという主張は、解決されずに平行線で保留されることになります。作られた平行線状態を日本国民もまた、黙認しているのです。
 

 

韓国の核開発
1975年9月、米国は韓国がフランスから核再処理施設を導入しようという事実を知り、それに反対した。
1957年に国際原子力機関へ加盟した直後から韓国は、原子力エネルギーの開発を進めてきました。その後1962年には最初の研究炉が臨界に達し、商用の原子力発電は1978年に古里原子力発電所で始まります。フランスは、韓国へも再処理施設を持ち込もうとしましたが、米国は強硬に反対しました。この時点でも、アメリカ合衆国はまだ、韓国の共産化をいう可能性を排除していなかったことが伺われます。
再度民主化の機運
1979年〜80年、韓国経済を襲ったスタグフレーシヨンと第二次オイルショック、そして低賃金と悪労働条件のなかで諸権利を奪われた労働者の『生存権』を賭けたたたかいが、炭鉱、繊維を始めとして全国で拡大した。
1979年の革命
1979年、朴正煕の政権に抵抗する革命が勃発します。金泳三が、アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』の記者との会見(9月10日)で、8月に発生したYH事件と絡めて政局を非難した上で、アメリカ政府が公開的・直接的影響力を行使して、朴政権の反民主的行動を牽制するべきであると、発言したのです。与党は、金泳三の議員除名に動きます。しかし、学生・市民が反独裁・民主化を要求した大規模デモを実施し、抵抗し始めます。
朴正煕が暗殺された
10月26日中央情報部長官・金載圭(キム・ジエギュ)が、宴席で朴を暗殺したのは、このような民衆の反政府運動への対処を巡る意見の対立によるものということになっています。
朴正煕暗殺 10月26日
極右勢力により、朴正煕が暗殺される事件が発生します。これで韓国が軍事政権から民主的な政権へと移行する、、、かに見えました。しかし、そんなにやすやすと韓国の民主化を認めるアメリカ合衆国ではありませんでした。
ソウルの春
1979年10月26日、朴正煕大統領が暗殺(朴正煕暗殺事件)されると、崔圭夏国務総理が大統領権限代行に就任し、12月6日には統一主体国民会議代議員による選挙で第10代大統領に選出された。
拘束されていた政治犯68名を釈放するとともに、金大中の自宅軟禁を解除した事から、独裁体制が緩和されるという期待が膨らみ、ソウルの春と呼ばれる民主化ムードが台頭しました。
崔圭夏(チェ・ギュハ)
東京高等師範学校を卒業し、満州で学んだ、いわゆる知日派の大統領が選出されます。その後、ソウル大学で教授職に就き、その後官僚から首相まで出世していました。彼は朴正煕暗殺後の短期間大統領職に就くことになりました。
再び、軍事独裁政権が鎌首をもたげる
暗殺された朴正熙前大統領の寵愛を受けていた全斗煥や盧泰愚(ノ・テウ)を中心とする新軍部勢力が、公然と政治へと関与し始めたのです。今や保守勢力の背景は財閥と軍部であり、「民主化」の動きは資本と軍事力の両面で容易に転覆されてしまう構造ができあがっていました。
1979年12月12日に大韓民国で粛軍クーデターと呼ばれる軍内部の反乱事件が発生。
クーデターは、朴正煕暗殺事件において合同捜査本部長の任にあった保安司令官の全斗煥陸軍少将が首謀、第9師団長盧泰愚陸軍少将らとともに、軍内部を掌握することになります。
彼らは、朴正煕政権時代にハナ会と呼ばれる秘密組織を形成し、政府・軍の要職を独占しており、いわば朴正煕政権によって育てられた権力層となっていました。そして、彼らの背景には、韓国に興った財閥と、在韓米軍との繋がりが形成されていました。
5.18光州民主化運動
米国主導ではない民主化は、容認されるものではなかった。再び、悲劇的な弾圧事件が発生。
12月のクーデター後も、学生を中心とした民主化デモが頻発。翌年4月には5万人規模、5月には10万人規模へと拡大していきました。5月17日、戒厳司令部が非常戒厳令を済州島を含む全国に拡大します。
5月18日、戒厳司令部が金大中、文益煥、金鍾泌、李厚洛など26人を騒擾の背後操縦や不正蓄財の嫌疑で逮捕し、金泳三を自宅軟禁した。政治活動の停止、言論・出版・放送などの事前検閲、大学の休校などを盛り込んだ戒厳布告を発表。同日未明、光州市の全南大学と朝鮮大学に陸軍第七空挺旅団の三三大隊と三五大隊を配置。
群集は70万人以上に膨れ上がり、対峙した軍・警察は3万人。クーデター政権は、運動家を逮捕、言論統制を布き、学生運動の武力鎮圧に歩みを進めます。
光州(クァンジュ)事件
光州の町全体を道路封鎖で孤立させ、報道を一切遮断するといった極めて計画的な襲撃を行った
韓国軍の作戦統制権を持っていた在韓米軍のジョン・ウィッカム司令官が韓国軍部隊の光州投入を承認、アメリカ政府も秩序維持を名目にこれを黙認しました。アメリカ海軍は釜山港に空母を含めた第七艦隊を展開。後にクーデター政権を支持することになるアメリカや日本などではメディアが、光州暴動、光州騒乱と表現しますが、光州虐殺(The Kwangju Massacre)と表現されることもあります。
戒厳軍は、国際法で禁止されているダムダム弾を使用し、その証拠を残さないために負傷者も殺害した。死体は焼却されて捨てられたという。
 

 

全斗煥政権へ
セントファン政権
ソウルの春は、全斗煥の粛軍クーデターと、光州事件の武力鎮圧で挫折し、民主化は結局、1987年を待たなければなりませんでした。クーデター政権は、非常戒厳令拡大措置(1980年5月17日)を実施、政治の実権をも掌握しました。
全斗煥
全斗煥派による軍事政権によるデモ弾圧を米国や日本は支持しました。韓国の軍事政権を支援していたのは、アメリカ合衆国、軍部、そして財閥でした。結局、暗殺された朴正熙と同系統の政権が維持されることになったのです。強引にねじ伏せる形になった光州事件以降、強力な軍政によって政体を維持することになった全斗煥政権でしたが、米国は、軍事独裁による傀儡政権の維持という方法を取り続けることが困難になってきたことを意識し始めます。
日本の保守勢力との繋がりを拡大した全斗煥政権
オリンピックの誘致
1981年9月30日、国際オリンピック委員会総会で、日本の名古屋と開催地を争い、52対27の大差でソウルが開催地に選ばれます。このオリンピック開催は、韓国の政治体制を修正されるために利用されることになります。
我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である
異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないため確実な保障は、我々を支配した国よりも暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない
日本政府は、アメリカに追従し、この軍事クーデターを黙認支持する立場でした。全斗煥は、一方的な反日を避ける立場をとりました。戦後の韓国元首として初めて日本を訪れ、昭和天皇との晩餐会に臨むなど、日本と向き合う姿勢を強調した大統領となります。
抑えきれなくなる民主化の動き
光州事件以降、アメリカへの批判が起こり、韓国人の対米観が大きく見直されることとなった
強引にねじ伏せる形になった光州事件以降、強力な軍政によって政体を居辞することになった全斗煥政権でしたが、強硬措置を執り続けることはやがて困難になっていきます。
ソウル大学言語学科の学生だった1987年1月、治安本部に連行された
朴鍾哲拷問死事件
ソウル大学言語学科の学生だった1987年1月、治安本部に連行された。逃亡中の先輩の所在を尋ねられ、口を噤んだため、治安本部に水拷問をされ、死亡する事件が発生。
内務部長官に任命された鄭鎬容は、「人が人を殴れるわけがない」と拷問の事実を否定。しかし、鄭鎬容が光州事件時に特戦司令官であったことから、人々の疑念を招いた。
日本では、治安本部長が「机をぱたっとたたいたらあっと叫んで死んだ」と発表したと報じられたため「ぱたっとたたいたらあっと叫んで死んだ」というブラックユーモアが流行ったりしました。この事件をきっかけに、再び韓国の民主化運動が高まり始め、6月民主抗争へと発展します。
1987年 「民主化」を促した米国
6月民主抗争の結果、政権与党側の「6・29宣言」を引き出すことに成功し民主化が実現された
1987年、政権も翌年にソウルオリンピックを控え、強硬措置を執ることが困難になっていました。
レーガン大統領
アメリカ合衆国は、前年に発覚したイラン・コントラ事件の影響で、その海外戦略に対して批判が高まっていました。全斗煥政権の後ろ盾となっていたアメリカ合衆国もレーガン大統領が親書を送って戒厳令宣布に反対すると共に民主化を促進するよう促したことも、大きな影響を与えたとされます。
1986年に明るみになったイラン・コントラ事件は、当時米国が表面上対立していたイランに対し、武器を売却、中米ニカラグアでのゲリラ活動へとその利益を循環させていたという大規模なスキャンダルでした。世界中で展開していた米国主導の戦争の背景で、米国政府を含んだ利潤追求が行なわれたことが発覚し、米国の諸外国への強引な傀儡政権樹立が批判の対象となりつつありました。
米国が容認姿勢を示した「民主化」は親米保守勢力の温存を前提としたものだった。
1987年に高まりつつある民主化要求に対し、次期大統領候補として「オリンピック終了後、然るべき手段で信を問う用意がある」と声明(6・29民主化宣言)。
利用されたオリンピック
ソウルオリンピックは、韓国の体制維持に利用されました。「民主化」という体裁を作り出しながら、従来の保守勢力を温存することに成功したのです。
1988年 ソウルオリンピック
政権与党側が反政府勢力側に譲歩する形で「6・29宣言」を発表したことで、1960年の4月革命の時とは異なり「新軍部」勢力が民主化後も政治勢力(政党)の一員として参加することが可能となりました。形式上は、権威主義政権から民主主義体制へのスムーズな進展を可能としました。
盧泰愚政権の誕生
軍部の影響力を残しながら、「民主化」を行う
これが盧泰愚政権への移行で行われたことでした。「民主化」というのは、「選挙という手続きを行います」、ということでした。彼らは何年もかけて、選挙による保守層維持の仕組みを作ってきたのです。
1991年9月17日には北朝鮮と同時国連加盟した韓国
盧泰愚(ノ・テウ)大統領
盧泰愚は、16年ぶりに行われた選挙で大統領に当選します。結局、独裁政権の全斗煥の後継者である盧泰愚が当選してしまったのです。彼は、全斗煥政権時代の不正容疑を徹底追及する一方で、激しく対立していた金泳三・金鍾泌を与党に取り込むなど国政の安定を図りました。しかしそもそも彼は、ハナ会の一員として、全斗煥のクーデターで軍部を指導し、光州虐殺の中心的人物でもありました。
 

 

1993-1998 金泳三大統領
少しずつ進んだ脱保守・革新の流れ
強硬な保守体制から逃れようとする動きが投票活動に反映されていきます。かつて、反体制運動の中心的人物でもあった金泳三が、盧泰愚政権にとりこまれる一方で、国民の支持を集めていきました。
軍事政権時代から脱却
1991年にソ連が崩壊し冷戦が終結すると、いわゆる軍事独裁の色を排除する動きが強まります。
軍との距離を作ったキムヨンサム政権
1990年に、盧泰愚、金鍾泌と手を握り、三党合同に参加することとなる(盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党、金泳三の統一民主党が合同し、巨大与党である民主自由党が誕生しました。かつての野党側だった金泳三が、保守政権に取り込まれることで、保守層の影響力を残しつつ、市民の支持を維持することができます。朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権は息をひそめ、金泳三政権自身は文民政権と呼びます。金泳三は軍部政権の残滓を排除するため、軍内の派閥「ハナ会」を潰し、会員を退席させるなど、軍の改革を進めました。
北朝鮮との関係改善
カーター米大統領が訪朝、米国と北朝鮮の関係も改善が見られるようになる
ソウルオリンピック以降、少なくとも形式上は文民化したことで、南北の対話が可能になりました。軍事政権同士の状態の緊張状態がほぐれ、次の金大中の時代に最も関係が改善することになります。
金日成死去
北朝鮮の核問題に対しては米国が交渉にあたることになり、1993年6月から米朝交渉が開始されました。この中では北朝鮮がすでに開発していた原子炉の平和利用への転換などが模索され、1994年6月にはカーター元大統領が訪朝して金日成と会談するなど、対話の機運は熟していました。
軍事独裁政権時代の政治勢力の排除
独裁政権時代の政治家は、とかげの尻尾のように切り捨てられていった。
全斗煥、盧泰愚死刑判決をうける(後に恩赦される)。独裁政権時代の政治家は、次々と切り捨てられることになりました。
金大中のアジア融和政策
民間ベースで日韓の交流が進んだ
日韓共同ワールドカップの開催
日本に対する敵対感が薄れる若者が最も増えた時期でした。日韓ワールドカップも共同開催するなど、金泳三と同様に民間交流で日韓関係を好転させます。
金大中大統領は北朝鮮との融和を進め、疲弊した北朝鮮もそれを受け入れる
金大中政権が開始した太陽政策はその規模と内容がこれまでの北方政策に較べて大きく拡大しました。2000年には南北首脳会談が実現し、金剛山観光事業、開城工業団地事業、京義線と東海線の鉄道・道路連結事業という対北朝鮮三大経済協力事業が進められ、離散家族再会事業が継続して行われるなど、目に見える形で北朝鮮と韓国の距離が縮まったと韓国では広く認識されています。
アメリカの影響力から離れて地域ベースの国家間交流が強まっていった。
太陽政策
冷戦終了後、アジア諸国は独自の道を歩み始めるかに見えました。東アジア、東南アジア諸国はそれぞれに経済圏を判断し、それまで外圧によって作られたしがらみを切り離そうとしはじめていました。しかし、米国が求めていたのは、個別の連携ではなく、諸国の従属でした。この流れは、やがて環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)へと繋がっていきます。
アメリカの新しい対外政策
諸国の自由な連携を容認できない米国
冷戦構造は、反共産主義という名目を与え、米国は軍事独裁政権を支援するための口実を得ていました。韓国と同じように、米国主導で軍事独裁政権が維持されていた国々は朝鮮半島だけでなく、中南米や中東、アフリカに及んでいました。冷戦の崩壊は、米国の対外戦略の転換を要求しました。そのうちの一つは、財政破綻に導き、経済的に従属させるという方法、もう一つは、テロ国家であると認定し、対テロという新しい軍事的動機付けを与えることでした。
新しい米国の覇権主義
それまで、東南アジア諸国は通過をドルに連動させるドルペッグ制をとっていました。公式にはドルペッグではなかったものの、米国経済の強い影響下にあった韓国も実質的にドルに連動した変動をしていました。結果的に、これらの国々は、諸国は固定相場制の中で金利を高めに誘導して利ざやを求める外国資本の流入を促し、資本を蓄積する一方で、輸出需要で経済成長するという成長システムを採用していました。ソ連が崩壊し、米国の中国との関係が強化されるようになると、ビル・クリントン政権は、「強いドル」を前面に押し出す政策を採りはじめます。
新興国における通貨不安はアジア地域に留まらず、1998年8月17日からのロシア通貨危機、1999年1月ブラジル通貨危機を招いた。
アジア通貨危機
ドル高は、これらの国の通貨の上昇を招き、諸国の経済基盤を崩壊させるに至ります。独自に連携しようとしたアジア諸国の自立の流れが押さえつけられる形になりました。
1998−2003 金大中大統領のIMF受け入れ
任期終盤の1997年、東アジアや東南アジア各国を襲った経済危機(アジア通貨危機)にて、韓国も起亜自動車の倒産を皮切りに経済状態が悪化。国際通貨基金(IMF)の援助を要請する事態となった
これにより IMF が韓国の経済に介入し、現代グループなどに対して財閥解体が行われました。
ノーベル平和賞を受賞した金大中大統領
北朝鮮に対しては「太陽政策」と称される宥和・関与政策を志向しました。2000年に、北朝鮮の平壌で金正日総書記との南北首脳会談が実現。南北首脳会談などが評価されて、ノーベル平和賞を受賞します。危機を脱した韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり、サムスン電子や現代自動車の世界市場での地位を高めていきました。
古い財閥解体される一方、米国資本が韓国に深く入り込んだ。
 

 

BRICsの台頭と資源国としての北朝鮮の再評価
2001年9.11アメリカ同時多発テロ事件
9.11以降、アメリカは「対テロ戦争」を旗印に、アフガニスタン、中東、東アフリカなどで次々と武力行使に踏み切ります。一方で、それまで抑制されていた、インドや中国、ロシア、ブラジルなどのその他の地域の途上国が急速な発展過程に入りました。
BRICsの急速な発展と、レアメタルの不足
折しも、ハイブリッド車への移行などのテクノロジーの転換もあり、急速にレアメタルの需要が高まりました。ここで、北朝鮮の地下資源に各国の目が集まります。
北朝鮮の資源争奪で出遅れた日米
北朝鮮に対する各国の投資が目立ち始め、相対的に韓国の存在感が低下するようになっていきます。一方、米国が反発し始めます。
北朝鮮資源獲得競争に出遅れた米国が北朝鮮とぎりぎりの外交を展開する
ヨーロッパ諸国や韓国が北朝鮮への資源獲得に動き始める中、米国が出遅れる
アメリカ合衆国は、朝鮮戦争以降、北朝鮮と韓国の格差をいかにして拡大するか、という観点で韓国を支援してきました。しかし、朝鮮民族を統一したいという基本的な思想は、完全に破壊できるものではなかったのです。民主化した体制の下、韓国政府と米国のホンネは対立することになります。
米国は、民族の一体を求める韓国政府を直接批判できる正当性を持っていませんでした。そこで、北朝鮮を挑発するという方法に転換します。
2002年、米国が北朝鮮を悪の枢軸と名指しする
長期に亘るアメリカ合衆国とソビエト連邦の冷戦が終結すると、それまで世界各地で抑制されていた紛争が活性化しました。一方で、米国の覇権主義が改めて顕在化してきた時代でした。
挑発する米国
北朝鮮は、2003年1月10日、アメリカ合衆国の軍事的脅威を理由に挙げ、核拡散防止条約第十条を根拠にNPTからの脱退を通告します。西側のメディアは、「北朝鮮の脅威」を宣伝し、北朝鮮を孤立させていきました。
韓国と北朝鮮の融和を嫌うかのように、米国が朝鮮半島に干渉し続ける
北朝鮮は、2005年2月10日、公式に核兵器の保有宣言を行い、2006年10月9日に地下核実験を行った事から当条約上で定義された「核兵器国」以外の核保有国となりました。
核開発を再開した北朝鮮
金大中の進めた北朝鮮との融和政策は、米国の思惑と対立、北朝鮮は核拡散防止条約から脱退、核開発の再開を宣言するとともに、ミサイル実験を開始しました。
武力行使をちらつかせる米国に対して、北朝鮮もギリギリの外交で臨む。いつ政権が切り崩されてもおかしくない状況で、北朝鮮は米国との駆け引きを行い、結果的に国土・権力の保全に成功する。
冷戦の期間、不安定な情勢の中で体制を守り続けた朝鮮民主主義人民共和国指導部は、同様に悪の枢軸と名指しされた多くの国が取り崩されていく間、いつ軍事侵攻を受けてもおかしくない状況の中で、米国とのぎりぎりの駆け引きを維持し続けることに成功したのです。
太陽政策を引き継いだ盧武鉉大統領
改革の流れに、日米の外圧がかけられた。
盧武鉉大統領
2003年-2008年 / 金大中の太陽政策を引き継いだ盧武鉉大統領は、北朝鮮との融和をさらに進めようとしました。このころになると、韓国と米国との距離が生まれ始めます。その政権末期はドロドロし、妖しさが際立ちました。廬武鉉大統領は、最終的に不審死を遂げることになります。
核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある
こう述べ、廬武鉉大統領は、米国や日本による北朝鮮脅威説に強く反発。北朝鮮の主張に理解を示しました。経済破綻状態にある北朝鮮を安定させるべく、肥料や米などの物質的支援、開城工業団地や金剛山観光開発といった経済的支援を行い、北朝鮮への圧力を強めるアメリカと意見の違いを見せたのです。
敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い
盧武鉉大統領の発言を日本や米国のメディアは、「国際社会との差異」として強調し、廬武鉉政権を非難しました。しかし、南北朝鮮の融和を目指していた立場の、北朝鮮の孤立を狙う日米と声を揃えることはありえなかったのです。
2006年APECで行なわれた会談(盧武鉉・ブッシュ・安倍晋三)
朝鮮民族の融和と統合を求め、北朝鮮政策で日米と意見が一致しなくなっていった盧武鉉政権。内政的には、保守層の最有力者として、かつての独裁者朴正煕の娘である朴槿恵の勢力が拡大し始めます。
韓国大統領選にて盧武鉉の政策とは逆に北朝鮮に厳しい態度を示していた朴槿恵が有力な大統領候補となって盧武鉉の対抗馬となった。
盧武鉉は朴槿恵の父親である朴正煕元韓国大統領が日韓併合の時代に満州国の将校を務めていたことに焦点を当てて、この法によって朴槿恵を「親日派の娘」として攻撃する意図があると韓国の評論家や軍人からの批判の声も出ていました。
2005年以降の対日政策
盧武鉉政権は、日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求し、ついに対日強硬政策へと舵を大きく切り直す。
長年行われなかった総理大臣による靖国参拝の封印を解き、小泉首相が靖国参拝を続け、国連の常任理事国入りを目指していく一方、韓国では反日デモが起こる等国内での反日感情が増幅していきました。韓国でも「親日派問題」が再び取り上げられるようになっていきます。
盧武鉉政権では日本統治時代の「親日派」の子孫を排斥弾圧する法律(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)が施行された。
これらの法律は、現実的には日本への外交攻撃というより、韓国国内の親日・知日派勢力への圧力という効力を持つものでした。朴正煕以降の軍事政権の流れを汲む政治家は、日本統治時代の影響を受けており、彼らとその後継者への政治的な圧力を与えていました。
盧武鉉大統領の失脚と死
結局、盧武鉉は不正献金疑惑をかけられ、退任する
その後、謎の自殺という妖しい幕引きとなった
盧武鉉の失脚
自宅の裏山の岩崖から投身自殺を図り、頭部を強打するなどして3時間後に死去した盧武鉉。そもそも朝鮮人は一民族であり南北の融和を目指したいという思いは常に存在しました。軍政からの遅い解放は、金大中政権の時代に開花し、廬武鉉の時代には成熟するかにみえました。軍事政権が革命で倒れてはクーデターで復活するというサイクルは終わり、民主主義の名のもとに独立するというささやかな期待もありました。しかし、ここでも怪しく潰されてしまったのです。そして韓国は再び「強い保守政権」の時代へと逆行します。
民主化から始まった脱保守体制の流れが停止することになった。
国連事務総長
潘基文が国際連合事務総長となった
2006年 潘基文が国際連合事務総長となる
潘はアメリカ合衆国と縁が深く、アメリカ政府との関係の強い人物でした。10月3日、潘の当選が確実となった予備投票の結果を受けて、アメリカの国連大使ジョン・ボルトンは「米国はこの結果を歓迎する」と述べています。
米国政府の支持とは裏腹に、国際的な評価は高くはありませんでした。盧武鉉の自殺の後、米国の影響下に置かれる韓国という構図が再構築されていきました。
 

 

米韓自由貿易協定
米韓FTA
2006年2月2日、アメリカと韓国の間の自由貿易協定の交渉が始まります。翌年4月1日にはスピード締結することになり、段階的に、関税がなくなることが確定しました。冷戦解消後、諸国は独自の道を歩み始めようとしていました。その中でもとくに顕著に経済が発展した地域が中国でした。米韓FTAは、経済的独占を崩しつつあった米国にとって重要な新たな枠組みとなるとともに、環太平洋諸国に対して自由貿易協定を要求するための布石となっていきます。
米韓FTAに反対する市民
親米保守体制となった李明博政権は、農家などが反対する中、極めて短期間で米国とのFTAを締結してしまいます。
旧体制への回帰
李明博(イミョンバク)大統領
2008年2月25日 – 2013年2月24日、大統領選挙では、再び保守政党への劇的な巻き戻しが起こります。朴正煕系への復古が始まったのです。しかし、イミョンバク大統領は前大統領の自殺による政治的波紋と、北朝鮮による軍事的挑発の双方に同時に受け止める役回りとなりました。
金正日 死去 2011年
異例の支持率低下
李明博政権においては、旧体制への回帰はなかなか思うようにはいきませんでした。盧武鉉のスキャンダルによる失脚は、保守勢力の一大キャンペーンとなっていきました。結果的に李明博大統領の就任直後は異常に高い支持率を記録しました。しかし、廬武鉉大統領の自殺をうけて今度は国民の批判が急速に高まり、異常な支持率低下を体験することになります。
前大統領のスキャンダルによって演出された高支持率。国民が支持していたのは政策ではなかった。
しかし、すでに保守政権は成立していたのです。なんだかんだいっても、資本やマスコミの裏づけのある保守政権は、強い立場にあります。次の選挙では、ついに朴 槿惠に大統領の座にシフトすることになります。李明博は変化の衝撃を受け止めるための政権となったのです。
北朝鮮は、親米反北である李を、鼠と呼んだ
前政権までの太陽政策とはうってかわって、親米反北政権となった李明博大統領政権。「南北首脳会談にいつでも応じる」「支援の透明性を重視」と口先で述べる一方、北朝鮮へ落としどころを与えずに、複雑に絡み合った朝鮮問題を解きほぐす努力を停滞させるというのが、李明博政権のとった態度でした。北朝鮮は、決して、李明博政権を好意的には受け止めず、彼をネズミと呼び、非難しました。
わたし自身は新しい成熟した韓日関係のために、『謝罪しろ』『反省しろ』とは言いたくない
日本は形式的であるにせよ、謝罪や反省はすでに行っている
(韓国側が)要求しなくても、日本が(謝罪と反省を)言うくらいの成熟した外交をするだろう
李明博大統領の「親日的」発言が、当時まだ与党だった統合民主党や、左派政党の民主労働党などから批判されました。しかし、日本のメディアは、韓国中枢の高飛車な態度としてこれらの発言を引用します。日韓関係の冷却化が進みました。
東日本大震災
このころ、日本でも旧体制への巻き戻しが起こる
韓国に数年遅れて、日本でも旧体制への回帰が行われました。民主党政権が崩壊し、自民党体制が復活します。
2011年・福島原子力発電所事故・東日本大震災
東日本大震災を境に、急速に日本で反政府キャンペーンが展開されました。地震を背景として、ナショナリズムが台頭します。
歴史認識の相違と言える範囲を超えて、日韓両国の要人の不規則発言が増え始める
対立を望むかのような不規則発言が、日韓双方の保守層から発信されるようになり、メディアもそれをこぞって報じるという構造が作られました。しかし、日韓の市民の対立という構造は、ナショナリズムを背景としている双方の保守勢力にとって、自らを正当化するために都合のよいものでもありました。
日本でも、TPPへの加盟議論が行なわれるようになり、国政選挙では重要なテーマとなっていきました。
北朝鮮が人口衛星の打ち上げに成功する
2011年 金正恩の登場
2012年就任直後の4月衛星の軌道投入を試みるも失敗、だが同年12月には光明星3号2号機で軌道投入に成功します。宥和政策から後退し、米国に寄り添う韓国に対して、明確なメッセージを発することになりました。
太陽同期軌道への衛星投入に初めて成功。
投入された衛星の軌道
北朝鮮が人口衛星を太陽同期軌道へ投入することに成功、現在でも周回しています。日本のメディアはこれを「事実上のミサイル」などと報じましたが、北朝鮮が軌道投入に成功したことは間違いなく、また今後技術獲得が進むことは間違いない水準に達しました。衛星打ち上げ能力のない韓国との差が際立ちました。なんだかんだいわれながらも強気路線は変更ない北朝鮮。欧米側の報道と北朝鮮側の報道の双方に政治的意図が強く現れているため、実態としては不明な部分が多い。ギリギリの駆け引きをしながらも食糧援助を受けるなど、外交のバランス感覚のキレのよさは光っていました。
朴槿恵(パククネ)大統領の就任
かつての独裁者、朴正煕の娘パククネが大統領に就任
歴史を辿れば、反共・親米を基本とする軍事政権の支持母体が成長し、姿を変えて現代に繋がっています。
父:朴正煕と娘:パククネ
韓国史上はじめて二代で大統領になった。朴正煕は、独裁者としての批判に加えて朴正煕を日本統治時代における対日協力者・親日派とする意見もあり、実際2005年8月29日に韓国の市民団体民族問題研究所、ならびにその傘下の親日人名辞典編纂委員会より発表された親日人名辞典の第1回リストに記載されたこともあります。
父である朴正煕が親日認定されたことがある
朴正煕を批判する立場から、日本統治時代における対日協力者・親日派とする意見があります。実際に、盧武鉉政権時に可決された「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」は朴槿恵のバックグラウンドを狙い撃ちしていたとも言われます。
 

 

保守派全体の抱える弱さ
親日認定を逃れなければならないという事情は、保守派の政治家個々人にとっては弱さであり、保守派のバックグラウンドにある資本にとっては都合よさでもあります。神社参拝などの軽微な刺激に対してさえ、強く反発せざるを得ない構造は、日韓双方の保守勢力を支える財閥や大企業にとって、政治指導部をコントロールしやすいものにしています。
在日韓国人に波及する韓国ナショナリズム
もともと、知日派を主体としていた在日韓国人
もともと、日本に帰化した韓国人の多くは、米国軍政・李承晩政権時代において、迫害を逃れてきた人々でした。朝鮮総督府系、いわば日本政府に協力的で、韓国政府と敵対的だった人々の流れを汲んでいました。彼らは、韓国に独裁政権が維持されていた期間、日本社会の中に適応し、時として影響力を行使していたのです。彼らは、韓国国内の反日教育からは隔離された韓国人コミュニティとして戦後を生きていたはずでした。
メディア戦争に負けた日本
日韓双方の保守が復古する流れの中で、知日派として逃れてきた人々の二世・三世が、日本の保守勢力の作り出す嫌韓のムードに押され、一方で韓国のメディアが発する反日のムードの中に取り込まれる形で、2000年以降急速に韓国ナショナリズムに取り込まれていきました。
知日派を反日に変えるメディア
問題を単純化することで失ったものは大きい。
よく似た戦後を持つ日韓
わずか二世代で、極めて強大になった保守体制
朴正煕と岸信介
退役軍人や軍部、大企業をバックとする強い保守勢力の一旦を担うのは、安倍首相もパククネ大統領と同じです。朝鮮戦争とベトナム戦争を経て事実上、米国の代理人として成長し、保守勢力を形成していきました。かつてと異なるのは、日本の大企業と、韓国の大企業・財閥が、今や競合しているところにあります。そして、それぞれの保守勢力が対峙している構図となっています。
戦後人工的に作られた国民構造が、未だに保守勢力によって利用され続けている。
ヤルタ会談でルーズベルトは、長い信託統治が必要だと言い、ソ連のスターリンは短ければ短いほど良いと言った
結局、ルーズベルトの思惑通り、長い傀儡政権によって、西側資本が政治を感情や教育をコントロールする基盤が形成されていったのかもしれません。私たちは、長い期間、西側資本の強い圧力の下で二世代以上の時間を紡いできたのです。
頻繁に行われる「日米韓の会合」
政治家が政治家である限り、自分たちの勢力を形成した歴史を正面から語ることはありません。国家間の対立という構図によって、納税者と体制という構図を隠してしまおうとするとき、長い歴史と複雑さは都合のよい道具になります。国家間の対立のずっと下で押しつぶされているのは、国家のしがらみとは本来なら無関係でもよい、多くの人々かもしれません。 
 
韓国が反日にこだわる本当の理由は「日中に挟まれた地理」にある

 

二頭のクジラに挟まれた小エビ
北東アジアの地図を開いて、朝鮮半島を中心に逆さまに見てみると、まず韓国からすれば、北には国境沿いに大軍を張り付けた北朝鮮の存在が重くのしかかっている。西は黄海(こうかい)を挟んで中国と接している。青島(チンタオ)上空を経由して仁川(インチョン)に向かう飛行機で、黄海上空を飛んだことがあるが、眼下に広がる海には無数の島々や岩礁が散らばり、中国側から夥しい数の漁船が韓国方向に向かっている様子も手に取るように見られた。当然のことだが、この海域には韓国漁船も操業しており、両国は黄海を挟んで実に入り組んだ関係にあることが実感できた。
朝鮮半島の南と東には日本列島が横たわる。言うまでもなく日本の存在は大きく、朝鮮半島の政情に日本も深くかかわってきている。近代にいたっては日清・日露の両戦争が朝鮮半島の帰属を巡る争いが主な原因となっていた。つまり、朝鮮半島を中心に北東アジアを眺めてみれば、この半島は日本と中国という大国に挟まれて常に翻弄されてきたことが明確になる。
このような状況を、韓国の初代大統領李承晩(イスンマン)は「巨大な二頭のクジラに挟まれた小エビ」にたとえ、二頭のクジラが暴れるたびに小エビは右に左に波の上をアップアップしながら漂うしかないと表現している。
1945年の日本の敗戦により独立を果たした韓国は、この「小エビ」の状況から抜け出たいと切に願ったのはごく自然のことだろう。そのためには、まず国民が団結しなければならない。国民の意思を一つにするには極めて具体的な敵が必要だ。
長い間アメリカに留学し、敬虔なキリスト教徒であった李承晩大統領は、戦勝国アメリカの強力なバックアップがある。従って日本を諸悪の根源とした、戦勝国アメリカの論理に則って日本に対する敵対意識を盛り上げることとなった。
李承晩のライバル金日成は抗日戦線の英雄
韓国が反日にいたったもう一つの理由は、北朝鮮の金日成(キムイルソン)が終戦直後に日本軍を打ち破り、朝鮮を解放した抗日パルチザンの英雄として登場したことだ。
金日成はゲリラを指揮して日本軍を打ち負かし、独立を勝ち取ったという、北朝鮮の建国神話を作り上げ、権力者としての正当性を主張したのだ。だが冷戦の崩壊後にソ連の機密文書が暴露され、金日成はソ連の傀儡として仕立て上げられ、彼のパルチザンとしての実績も創作されたもので、実に危ういものであることが判明した。
李承晩大統領は、戦争中はアメリカに居住しアメリカ人妻を持つ留学生に過ぎず、アメリカに都合のよい人物と見られて、戦後にアメリカが連れてきて大統領に仕立て上げた。従ってライバルである北の金日成のようなカリスマ的なものはなく、建国神話も作れないない。このため、なお一層反日政策を採り、自らの正当性を示そうとやっきになった。
その具体的な表れが、1952年に李承晩大統領が「海洋主権宣言」を行い、一方的に引いた通称「李承晩ライン」という領海線の中に、竹島を取り込んだことである。
当時の日本は米軍占領下で、何も主張ができない状況であった。その後、李承晩は警備 隊を竹島に常駐させるという実力行使に出た。日本漁船を拿捕(だほ)したり、銃撃を加えて多数の死傷者を出すなど、日本人に対してむき出しの敵意を見せつけることで、自らのアイデンティティーを示したのである。
竹島問題を歴史問題としたい韓国
このように見てくると、竹島は自らが勝ち取った韓国独立の象徴であり、竹島の領有が崩れると、70年間にわたる韓国の基本的な理念が消滅するという実にきわどい状態なのだ。
竹島がこのような状況下にあることが原因で、時の政権が危機的状況に陥った時、問題の本質から国民の目をそらすために政治利用されてきた。その典型例が2012年(平成24年)8月10日に、当時の李明博(イミョンバク)大統領の竹島上陸だ。
そして14日のロンドンオリンピックのサッカー3位決定戦で、日本に勝った韓国代表チームの朴鐘佑(パクチョンウ)選手が、政治的活動禁止のオリンピックの場において「独島(竹島)は我らが領土」とアピールした。
この2つの出来事は、これまで長い間積み上げてきた日韓関係の根本を揺るがす事件であり、後者はオリンピックの精神そのものを踏みにじったことになる。
また李明博大統領は、同じ14日に「日王(天皇陛下)が韓国を訪問したいのなら、独立運動で亡くなった方々に膝を折って心からの謝罪をする必要があると、日本側に伝えた」と、天皇が韓国訪問を切望しているかのような事実無根のことを前提にした、一国の大統領としての見識も矜持(きんじ)も欠いた発言をしたのである。
だが実際には、李大統領が過激な言葉を使っているため、さすがの韓国メディアもその内容の意訳を報道し、日本のマスコミもそれに倣ったというのが真相だ。
これらの行為に対して、日本政府は駐韓大使を一時帰国させ、親書を送って抗議する旨を伝えようとしたが、韓国は受け取りを拒否した。これに対して日本のマスコミは、史上初の出来事と大騒ぎしたが、実は韓国が日本の国書受け取りを拒否した前例は存在する。
明治新政府成立直後の1868年に、日本政府は新しい体制のもとで国交を結ぶことを申し入れたが、当時の李朝朝鮮は鎖国をし、清朝中国を宗主国とする冊封(さくほう)体制にあった。
朝鮮側は国書の中に使われている「皇」や「奉勅」は、清国の王朝のみに許された言葉であるとして受け取りを拒否している。2012年に李明博大統領が「日王」という言葉を使ったのも、この故事に倣ったものだと考えてもあながち間違いではないと言えるだろう。
明治初年の、朝鮮の国書受け取り拒否事件をきっかけに、日本国内では西郷隆盛等から「征韓論」が唱えられ、ひいては福沢諭吉の「脱亜入欧」論に繋がっていく。当時の日本政府の申し入れは、朝鮮の鎖国体制を解き、清国に朝貢してお返しを貰うという冊封体制から、近代的な貿易が行なえるような新しい日朝関係を築こうとしたものであった。
竹島問題は韓国のアイデンティティーの問題と深く絡まり合っているが、日本人にとっては究極のところ、ハーグの国際司法裁判所で、近代国際法に照らし合わせて決着を付ければ済む問題であろう。
日本人の法意識からすれば、さまざまな意見があっても法的手続きがきちんとしていれば、最終的には竹島が韓国領になっても承認せざるを得ないとするだろう。つまり、日本人にとって、竹島で起こっていることは領土に関する揉め事であり、国際法という客観的な基準に準拠することが大前提である。しかし、韓国のこれに応じる気配がまったくない態度に、日本人が疑念を持つのは自然なことだろう。
しかし韓国は、竹島領有を歴史問題と絡めて捉えている。李明博大統領の天皇に対する発言もその典型例だ。歴史に対する認識は客観的事実を積み重ねることを大前提とするが、それをナショナル・ヒストリーとして物語にする過程で、まるで正反対となることも多々ある。それ自体は近代的なナショナリズムを基礎とした、国民国家形成の過程ではいたし方のないことでもある。
従って、「竹島」を歴史認識の問題として捉えると、永遠に決着のつかない問題となるわけだ。これによって日韓の関係がギクシャクし、日本人の間に嫌韓意識が強まり、韓国人の間に反日の感情が高まり、互いの間に言い知れぬ不安と苛立ちが募るという事態は不毛だと言えよう。と同時に、互いの本当の姿を見失ってしまうことになりかねない危険性をはらんでいる。 
 
中国の列島線と「真珠の首飾り」戦略

 

中国が出した「赤い舌」
中国を中心として、台湾からフィリピン、さらにブルネイに南下し、マレー半島の東側を北上してベトナムから海南(ハイナン)島にいたる海域に線を引いてみたらどうなるだろうか?
その形は中国からズルッと伸ばした舌の形になるだろう。そのことからこの線は「中国の赤い舌」と呼ばれている。赤い舌に囲まれた中にはスプラトリー諸島(南沙諸島)とパラセル諸島(西沙諸島)がある。現在中国はこの海域を自国領土だと主張しているのだ。
1992年に中国が制定した国内法「領海法」では一方的に尖閣諸島、南沙諸島、西沙諸島の領有権を主張するだけではなく、南シナ海においては大陸棚の自然延長を理由にして、沖縄近海の海域までの管轄権を主張している。さらには2007年11月、「赤い舌」の海域に「三沙(さんさ)市」を設定すると発表した。三沙市の行政区域は、西沙諸島、中沙諸島、南沙諸島にある260もの島やサンゴ礁を含んだものだ。
2012年7月になると、市長を選出して三沙市を正式に発足させ、実効支配を強化した。中国の発表によると、海産物を含む食料品などの物流を、西沙諸島に一番近い海南島の文昌市に拠点を置き、物流基地を整備するということだ。だが、現実はここから軍が出動しさまざまな軍事活動を行なっている。当然のことながらフィリピンやベトナムが反発し、不当な行動の即時撤回を求めている。
中国が「赤い舌」を出して、実効支配を始めたのはベトナム戦争中のことだ。仏領インドシナと呼ばれたベトナム、ラオス、カンボジアは、日本が第二次世界大戦で敗退した1945年に、フランスからの独立を宣言した。しかしフランスはこれを認めず、既得権益を維持しようと軍を派遣して再度植民地化を図ったのである。
中国で成立した中華人民共和国が、当時南北に分断されていたベトナムの北側を支持し、フランスとの戦いに勝利した。代わってアメリカが東南アジアの共産化を恐れて、南ベトナムを支持。米軍が投入されて大規模な戦いになった。
このどさくさに紛れて、中国は南ベトナム領とされていた西沙諸島を占領してしまったのである。島を守っていた南ベトナム軍は不意を突かれ、戦闘はあったものの、撤退を余儀なくされてしまったのである。
1973年にはパリ和平協定が結ばれて、米軍がベトナムから撤退すると、1975年に北ベトナム軍は南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を陥落させ、翌年には北が南を併合して現在のベトナム社会主義共和国が誕生した。
このような経緯をたどり、ベトナムは内戦中に中国から支援を受けたため、西沙諸島を占領されたことに抗議ができないでいたのである。
南沙諸島を実効支配した中国
1991年に中国は、同じように相手が弱体化した隙に島を占領するという行為を再度実行に移した。今度の標的はフィリピンだった。
米軍はフィリピンに駐留していたが、1991年のピナツボ火山の大噴火によって大きな被害を受けていた。さらにはソ連の崩壊で緊張が緩和されたことがきっかけとなって、フィリピン議会が米軍基地撤退を議決した。その結果、フィリピンから米軍が撤退したのである。
スービック湾の米海軍と、クラークフィールドの空軍基地が廃止されたとたんに、中国はフィリピンが領有する南沙諸島に進出し、島に軍事基地にもなるような建造物を構築して支配を固めていったのである。中国はフィリピンが実効支配しているミスチーフ諸島、スカボロー環礁などを占拠。中国人漁民を住まわせるなど、既成事実を作り上げ、実効支配を狙って着々と計画を進めている。
特にスカボロー環礁は南沙諸島全域の中央に属し、この地域の支配は戦略的に極めて重 要な場所であるだけでなく、フィリピンがここを失えば、領海の38%、さらには50万平方キロメートルにわたる排他的経済水域(優先的に資源を活用できる水域)を失うことになる。フィリピンにとっては実に死活的な問題なのだ。
親しいフィリピン人の学生が、この問題について「中国のこの行為を日本になぞらえてみれば、突然瀬戸内海の島の領有権を主張して勝手に入り込み、ここは俺たちの領土だから、瀬戸内海全域は中国のものだと主張しているのと同じことだ」と言っていた。フィリピン人がこう受け取るのも無理はない。
南沙諸島の領有権問題が起こったきっかけは、第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)である。この年日本は、第二次世界大戦で交戦した各国と講和条約を結んだ。戦争中、この地域を占領していた日本は、講和条約調印によって領有権を全面的に放棄した。その結果、力の空白ができ、周辺各国が次々と領有権を主張し始めたのだった。
1951年には、まずベトナムが南沙諸島の領有権を宣言。8月には中国が四島の領有権を主張した。1956年(昭和31年)5月、フィリピンが南沙諸島内の無人島の領有を宣言。その直後の6月には、フィリピンが南沙諸島内に滑走路を建設し、兵士や漁民を住まわせる行動に出たことが刺激となって台湾が派兵した。現在は中国、台湾、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、ベトナムの6ヵ国が係争中である。
中でも歴史的な背景も絡んで、中国とベトナムの争いは激しく、1974年と1988年に軍事衝突にまでいたっている。ベトナムはベトナム戦争遂行上、中国からの援助を必要としていたので、軍事衝突の件は表ざたにしなかった。だが、2009年9月ベトナム政府が戦闘の模様を動画その他で公表し、この問題に対して正式に中国と争うことを表明している。
南シナ海の南沙諸島支配を着々と進めている中国からすれば、「赤い舌」の中に入れている地域は現在の中国を支える生命線として極めて重要だ。何よりもまず、南沙諸島周辺海域は中国にエネルギーを運び込む輸送ルートである。世界の貿易用船舶の約25%が通過するとされ、石油資源の海上輸送など通商上の価値が高いこのルートが途絶えれば、中国の産業はたちまち立ち行かなくなって、経済成長どころではなくなる。このことを逆に見れば、この海域は中国の成長戦略のアキレス腱にもなり得るのだ。
200にもおよぶというこの海域の島や岩礁を手に入れて、思うがままに利用できれば、中東、アフリカ地域からのエネルギー供給ルートの安全が確保できる。これに加えて1970年代後半になって、この海域一帯の海底で油田と天然ガス田が発見された。
この海域に眠る石油資源は20億から2000億バーレルともいわれ、もっとも魅力的であるのは海底が大陸棚になっていて浅く、採掘コストが安く見積もられるところだ。だからこそ中国は、自前の石油資源が確保できるこの島々の支配権を何としてでも獲得しなければならない。中国は繁栄のために立てた長期戦略上の視点から、この地域の支配を核心的利益と決め込んでいるのだ。
中国の「真珠の首飾り」戦術
中国は安定した石油資源輸送ルートを確保するために「赤い舌」を伸ばした。だが「赤い舌」海域の地図を見ると一目瞭然だが、輸送ルートはマラッカ海峡からさらに西に延び、インド洋からアフリカ大陸、さらには中東の石油輸出基地ペルシャ湾にまで伸びている。
ここで中国にとって問題になるのはインドの存在である。インドと中国はヒマラヤを挟んで国境問題を抱えており、これまで何度も軍事衝突があった。中国から見たインドは生存圏拡大の障壁となっている国であり、海洋権益の獲得の上でも大きな壁となっている。
中東、アフリカからの海上輸送には、必ずインド洋を通過しなければならず、マラッカ海峡にはインドの海軍拠点が存在している。その上にあるアメリカの軍事基地ディエゴ・ガルシア島の存在も大きい。従って、中国の次なる目標はインドを軍事的に封じ込め、シーレーンの安定確保を図ることにある。そうなれば、「赤い舌」の実効性が増すのである。
そこで中国が着々と進行させているのが「真珠の首飾り」戦略だ。中国はインドと対立しているパキスタンと友好関係を結び、グワダルの港湾施設を一新させた。さらにはミャンマー、バングラデシュ、スリランカにも投資して港を整備している。
これらの国々と中国が整備した港を線で結ぶと、インドをグルッと取り囲む真珠のネックレスのような形になる。つまり、インドの首に下げられた首飾りが完成すると、インドは首根っこを押さえ込まれ、封じ込められてしまうのだ。
中国が展開する「真珠の首飾り」戦略で、もう一つ注目すべきは、ベンガル湾、アンダマン海における動きである。この海域はマラッカ海峡の出入り口を扼する戦略的に重要な海域で、ベンガル湾とマラッカ海峡を分かつ位置にインド領のアンダマン諸島、ニコバル諸島があり、インド本土からは遠く離れているが、インドネシアとミャンマーには至近の距離にある。
アンダマン諸島の北にミャンマー領のココ諸島がある。中国は1994年に、ココ諸島をミャンマー政府から貸与され、大ココ島に海洋偵察・電子情報ステーションを、小ココ島に基地を建設しているといわれる。これらの施設は、その位置から中国にとって戦略的に極めて重要である。
インドの「ダイヤのネックレス」戦略
現在までのところ、中国海軍にはこれらの数珠繋ぎの「真珠」を利用して、アラビア海 やアンダマン海周辺に常駐的なプレゼンスを維持する能力はないと見られるが、2005年11月から12月にかけて、中国海軍のミサイル駆逐艦が補給艦を伴ってインド洋においてパキスタンとインドの間で合同軍事演習を実施した。
2013年には、中国の潜水艦がスリランカのドックに入っていた。これはインド洋の港に、中国の潜水艦が公式にドック入りした最初の事例となった。2014年の初めには中国初の原子力潜水艦のパトロールがインド洋で実施された。こうしたパトロールは中国海軍の作戦領域が大幅に拡大したという象徴でもある。中国海軍のこの海域における活動が活発化しつつあるのだ。
一方のインドも、この海域での中国の動向に対応して、南アンダマン島の州都ポート・ブレアを拠点として、インフラの整備とともに海軍の活動を強化しつつある。インドはアフリカ東部や東南アジア諸国との連携を強め、アメリカや日本と協力して「真珠の首飾り」のさらに外側を包囲する「ダイヤのネックレス」戦略を採っているのだ。インドの「ダイヤのネックレス」戦略に協力しているのが日本とアメリカである。
アメリカは真珠とダイヤの鎖が重なり合うミャンマーに急接近し、金融、投資、貿易面での規制緩和に踏み切った。ミャンマーには、これまでは中国と深く結び付いた軍事政権が続いたため、アメリカをはじめ日本などの西側先進国が経済制裁を行なっていた。だがミャンマーは、2011年3月に軍事政権を脱して、中国離れを加速させてきている。
日本・アメリカ・インドは、ミャンマーの中国離れを加速させるために、今後一層のミャンマー援助を行なうことになるようだ。そうなれば「真珠の首飾り」の重要な一粒が取れて、首飾り全体がバラケてしまう可能性も出てきている。 
 
台湾が「親日」で、韓国が「反日」な理由

 

『XINHUA.JP 』が配信していた「台湾と韓国、日本に対する“大きな違い”はどこからくるのか―香港メディア」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。
1 記事の紹介
香港の中国評論通信社(電子版)に掲載された台湾の元外交官の寄稿記事を紹介しているもので、内容は「日本による残酷な植民統治を経験した台湾と韓国が全く違った反応をみせている」というものです。
「韓国の朴槿惠大統領は就任から8カ月、頑として日本との首脳会談開催を拒否し続けている」一方で、「台湾では日本旅行業協会の越智良典事務局長が、日本統治時代に日本人が台湾で鉄道、水利、港湾、発電所などのインフラを建設したことが重点的に書かれた・・・本を発行したことにより、台湾観光協会から感謝状が贈られた」としています。
「台湾も韓国も同じように日本の植民地」で、「日帝は台湾人と韓国人を差別し、搾取した。その一方で帝国植民地の一部として、その強大な国力の先進的な技術を用いて、水利、電力、交通などのインフラ整備も行った」では何故、「両者にはこれほど大きな違いが生じている」のかと問題提起をします。
そして、「国民政府が台湾に移った後、共産党やロシアへの対抗に精力の大半を注いだため、台湾では日本植民統治を批判する余力が残っておらず、人々は徐々に歴史を忘れていった」ためだとしております。
2 両者の違い
これについては、以前も触れたことがありますが、最初に私の考えを書いておくと台湾と韓国の置かれた両者の違いが大きいと考えます。
2-1 台湾の場合
台湾の場合は、第二次世界大戦後、大陸から台湾にやってきた国民党という大陸の中国人の支配があまりにひどかったが故に、それに対する当てこすりとして、日本の植民地時代の方がよかったと言っているにすぎないという考えが一番しっくりきます(『「親日」台湾の幻想』)。
『「親日」台湾の幻想』
本の中で最初に興味を引かれたのが、いわゆる右よりの見方、左よりの見方を排除して、自分が長いこと住んでいる台湾の現実を、自分なりに見ようと努力なさっているところです。
台湾はいわゆる「親日」であるかどうかと聞かれれば、「親日」ですが、その原因として右よりの方がよく言うように日本人は植民地支配をしたが、良い統治をしたから、台湾の人々が日本を慕ってくれているのだという意見を否定し、植民地は当然収奪の一形態にすぎないのだから、あれを良いものだと評価して、再度日本の植民地に戻りたいと考える台湾の高齢者はまずいないと、述べております。
かといって第二次世界大戦中に中国にひどいことをしたという贖罪意識から、左よりの方が、以前よく主張した中国のすることは何でもかんでも正しくて、日本の植民地支配全てが悪であるという見方もおかしいとして、これも排除します。
その上で、台湾が日本に好意的なのは、第二次世界大戦後、大陸から台湾にやってきた国民党という大陸の中国人の支配があまりにひどかったが故に、それに対する当てこすりとして、日本の植民地時代の方がよかったと言っているにすぎないとしております。
この主張自体は特に目新しいものではなく、既に2000年に田中宇氏が同じような主張をされておられます。台湾で起こった2.28事件(1947年2月28日に国民党政府の政策や腐敗等に対して抗議した人々に対し台湾当局が発砲し、多数の死傷者を出した事件)が「親日」に与えた影響などについて言及している点も基本的に同じです。
どちらかというと、後半部分が氏の独壇場で、いかにも現在台湾に住んでいらっしゃる方という感じで、日本のサブカルチャー(はっきり言うとアニメと漫画)が如何に台湾の若者に大きな影響を与え、日本に対する好印象を形成しているかを詳しく紹介されております。
これまでにも、日本のことが好きな若者が「哈日族」と呼ばれ、台湾には如何に多くの「哈日族」がいるかということが話題になったことがありました。しかし、氏によると現在の状況は更に一歩進んでおり、日本アニメを理解したいが故に日本語を勉強し、かなりのレベルに達したものや、アニメの舞台になったところを訪問するいわゆる「聖地巡礼」までするものが現れており、氏は彼等は「哈日族」ではなく、もはや「萌日族」と呼ぶべきではないかと、新たな名称までつけられております。
ハーバード大学で教鞭をとられたジョセフ・ナイは、国の影響力(パワー)を計るときは、軍事力や経済力といったハードだけでなく、その国の文化の与える影響(ソフトパワー)も考慮に入れなくてはならないと主張しましたが、日本のソフトパワーここに極まれりといった感じの紹介です。
また、氏によると東南アジアも現在かなり「親日」となっており、その影響として、西欧植民地支配への反発としての「親日」を挙げておられます。議論を単純化するというのは物事をわかりやすくするという意味で大事ですが、東南アジアにもいろいろな国があり、それぞれ国情も違うわけですから、ここまで割り切ってしまってよいかどうかはわかりませんが、面白い本ではありました。
P.S. マーケット学的に面白かったのが、歌手がコンサート会場を満員にしようと思ったら、かなりのCDが売れていることが前提ですが、アニメファンの場合はコアな者が多いため、それほど売れていなくても声優のコンサート等ではかなりの人数を集めることができるという指摘です。商品を売るときに、広く浅く売るか、狭く深く売るか、マーケット戦略の永遠の課題です。
2-2 韓国の場合
韓国の場合は、中国の威光をもって日本に対し「先進国」として振る舞うことができていたのに、明治維新以降立場が逆転してしまい日本の下に置かれるような感じになり、それが納得できないという説が、うまく韓国人の心理を説明できるような気がします(韓国が日本や中国を嫌っている理由(中国人の分析))。
この指摘を最初に行ったのは、おそらく小室直樹氏かと思います。本書はかなり前のものなので、いろいろ経済予想とかは外れてしまいましたし、既に絶版となっているようです。しかし、韓国人のメンタリティ分析は未だに通用するものと考えます。
斯様に、日本の統治がどうだったかというより、統治を受けた対象の問題の方が大きいのではないでしょうか。そのため、この問題について韓国がいろいろ言ってきておりますが、私は基本的には韓国の問題という側面が大きいと思っています。
韓国が日本や中国を嫌っている理由(中国人の分析)
どうしても韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領の竹島上陸以来、否が応でも韓国に対する関心が強まっております(李明博大統領竹島上陸のもたらすもの、韓国大統領竹島上陸に対する対抗手段)。そうした中、中国人ブロガーが、どうして韓国人は日本人と中国人が嫌いなのかという記事(韩国人为什么不喜欢日本和中国)を書いており、いろいろ興味深かったので、これについて少し。
1 記事の紹介
最初にいつのもとおり記事を翻訳したものを簡単に紹介しますが、結構長い記事なので、いつも以上に省略させていただきます。
「世論調査によると、韓国が一番嫌いな国が日本(44.1%)、二番目が中国(19.1%)となっている。この理由を考えてみるに歴史と現在の状況の2つの観点から見ることが必要だ。国力が盛んな日本は虎視眈々と2度は朝鮮半島を狙ったことがある。1度目は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で、2度目は1894年で日本軍は李氏朝鮮の内乱に応じて首都を占領し、1910年には植民地とした。日本の敗戦まで植民地だったが、この間、資源を奪われただけでなく、精神面の奴隷化が進み、朝鮮語を話すことが禁じられ、日本人は統治者、朝鮮人は賤民となり、徹底的に尊厳を失った。これは朝鮮民族にとって屈辱の歴史だ。最も韓国人にとって耐え難いのが、戦後日本は依然として強く、東アジアで最も経済の発展した国となったことだ。韓国は経済発展のため、どうしても日本に依存しなけくてはならない。韓国人には面白くないがこれが現実で、韓国の現状だ。中国を嫌う気持ちはとても複雑だ。朝鮮半島は歴史的に見て長い間は中国の従属国だった。中国の保護を受け、毎年貢ぎ物を捧げていた。日本が植民地となる以前は、中国の文化の影響を受けており、建物だけでなく、文字も漢字を使っていた。韓国人は歴史的に中国に対して悪い感情を持っていない。中国は韓国に対し植民地統治をしなかったし、反対に「李氏朝鮮」の時代には、中国の儒家文化は韓国人の精神的支柱となった。中国文化の影響は、医薬・儀礼・生活等のあらゆる領域に及んだ。韓国人が中国を嫌う原因は朝鮮戦争だ。この戦争で中国は(北)朝鮮と同盟を結び、人民志願軍を派兵し、アメリカ軍を主力とする国連軍(含む韓国軍)と戦った。これ以降、中国は李承晚、朴正熙大統領を、「アメリカ帝国主義の犬」などと非難した。同時に韓国も中国を非難し、両国間の外交、政治、軍事、経済関係は徹底的に断ち切られた。冷戦終結後、両国はようやく国交を樹立し、互いに大事な貿易関係国となった。韓国は中国に先んじて経済発展を成し遂げ、人民は豊かになり、先進国の仲間入りをしたが、中国は、発展途上国だった。そのため、韓国人にとって、中国は大国だが、貧しい国だった。これが韓国人に優越感を呼び起こした。しかし、中国の急速な経済発展により、韓国人の優越感は衝撃を受けることとなった。中国はやはり、大国で、韓国はただ中国の省クラスでしかない。これは韓国人に複雑な感情を呼びさました。」
2 個人的感想
中国人視点からみるとこうなるのでしょう。日本からしてみれば、随や唐の高句麗遠征、元の朝鮮半島支配など、それこそ中国こそ何度朝鮮半島に出兵しているのだという話です。中国は「植民地支配」をしていなかったと言っても、当時は単に「冊封体制」が支配の方法だったにすぎず、自分でも「附属国」といっているわけですから、日本の歴史をどうこう言う資格はないと思います。個人的には、小室直樹氏が述べていたように、韓国の場合以前は、中国の威光をもって日本に対し先進国として振る舞うことができていたのに、明治維新以降日本の下に置かれるような感じになり、それが納得できないという説が、うまく韓国人の心理を説明できるような気がします。ただ、これを見て思ったが黒田勝弘氏が韓国の経済発展は日本のおかげという主張を良くしておりますし、個人的には私もそういう面はあるかと思っていますが、韓国人にしてみれば日本の援助を受ければ受けるほどかえって自尊心が傷つくという面もあるのではないかということです。嫌っている人から(頭を下げて)物をもらわなくてはならないということは屈辱以外の何者でもなく、日本にしてみれば、いろいろ手助けをしてやっているのに、何故という感じですが、何となくわかるような気がしないでもありません。そういう意味で韓国とつきあうのが難しいのは間違いないかと改めて思った次第です。
3 共産主義との対抗
ここで元記事に戻るわけですが、元記事では「共産党やロシアへの対抗に精力の大半を注いだため、台湾では日本植民統治を批判する余力が残って」いなかったとしております。
確かにそうした側面は否定できませんし、実際だからこそ台湾は、西側である日本との結びつきを強めたのは間違いないかと考えます。
ただ、だったら何故韓国はという話になります。韓国も朝鮮戦争を始めとして、共産主義国との対抗にかなりの労力を注いでいます。ところが台湾とは全く異なる反応を示しており、原因の指摘としてはどうかと考えたとうわけです。
4 冷戦の影響
ただ、1965年に韓国との間で締結された日韓基本条約も冷戦構造の中、アメリカの同盟国どうしがいつまでも国交が正常化できないは不都合との観点からアメリカによる働きかけがあったのは事実で、そういう意味で、共産主義(冷戦)とは無関係ではありません。
このとき、韓国では日本に妥協しすぎとの批判も起こっており、韓国では日本との国交正常化にいろいろな思いがあったのに、結ばされたという思いはなくはないようです(実際、日韓併合条約の無効の解釈などはかなり玉虫色となっております)。
また、中国が北朝鮮を支持していた関係で、韓国と中国との国交正常化も1992年と大幅に遅れており、そういう意味で、冷戦が韓国の日本に対する批判を封じていたという面は否定できません。
5 最後に
冷戦が終結したことを契機に各地で民族問題が発生したように、冷戦構造は確かに大きな問題でしたが、それがあったが故に、様々な問題が隠されていたという側面は否定できません。
韓国は、正直冷戦構造の中でやむを得ずアメリカにつき従っていたという側面も否定できず、アメリカとの結びつきを強めるとなると、「格下」と思っている日本がアメリカとの関係で韓国の上に来る可能性が高いので、あまり面白くないのでしょう。
そうであれば、中国との結びつきを強めるという話で、実際現在の朴槿恵大統領は明らかに中国との結びつきを強化しているわけですが、中国の高度経済成長がいつまで続くか、北朝鮮問題をどうするかと考えると、中国一辺倒というのは難しいのが現実かと思います(反日で中国寄りとなるも、徹底できない韓国のジレンマ)。
反日で中国寄りとなるも、徹底できない韓国のジレンマ
『読売新聞』の「対中韓、縮まらぬ距離…首脳会談見送り続く」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。
1 記事の紹介
安倍首相は、「各国首脳が集まるアジア太平洋経済協力会議(APEC)や東南アジア諸国連合(ASEAN)関連の会議に出席」しましたが、10日に、この「一連の外交日程を終えた」ことを受けての記事です。記事では「首相は、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉の首脳会合など経済に関する重要な日程をそつなくこなしたが」、「中韓両国との首脳会談は行わ」れず、「日中韓の関係改善の見通しはたっていない」としています。「首相は中国の習近平(シージンピン)国家主席、韓国の朴槿恵(パククネ)大統領と握手やあいさつを交わした」ものの、「いずれも儀礼的なもの」としております。日本は「事前に中韓両国の外交当局と会談を開くかどうか調整したものの、中国は尖閣諸島問題で、韓国は歴史問題で日本の譲歩を強く求め、『会談を開く雰囲気ではなかった』」と結んでいます。
2 関係悪化
外国に限らず、他者との関係は悪いより良いにこしたことはありませんが、無理をしても良いことはないと思っています。それに韓国は現在、貿易などでも日本より、中国を頼りにしているところがあり、日本に対する批判でも歩調をそろえてきているところがあるので(靖国参拝で中国が韓国と日本を批判、でも他の国は)、下手に一国に妥協するともう一国にも妥協しなくてはならなくなる可能性が大です。そのようなことをしていたのでは、ずるずる妥協を迫られる可能性が強いので、あまり無理をしないにこしたことはないと思っています。それに、菅官房長官が中国の崔天凱駐米大使の発言について、「自らの国の立場だけに立ち、まさにプロパガンダの一つではないかとさえ思えるような発言だ。論評するに値しない」と述べたのが典型ですが、普段なら相手を慮って言えないことも、ある程度関係が悪化していると平気で言えてしまうところがあります。これが批判の応酬になってしまっては、話になりませんが、本音で話し合うという意味では悪いことではないのではないと考えています(靖国参拝で中国が韓国と日本を批判、その他の国は2)。
3 反日
中国の場合、内政面でいろいろ問題を抱えており、更にこれまでの様な高度経済成長国民の関心をかうことができないとなると、共産党の正当性が第二次世界大戦(抗日戦争)で日本の侵略を防いだということを強調するようになります(白々しすぎる中国共産党礼賛記事)。江沢民時代の「愛国教育」がその典型なのでしょうが、尖閣諸島の国有化をかつての日本の「侵略」と関連づけてしまったため、もはや後戻り(妥協)できなくなってしまっています。以前も書きましたが、韓国も勝手に歴史認識問題でハードルをつくり、日本にその条件をクリアしないかぎり首脳会談を行わないと、妥協をせまっておりますが、勝手に韓国側が設定したハードルなので、それに付き合う必要はないと考えています(自分で盛り上げた「反日」に縛られる韓国外交)。実際、先に見たように、露骨に韓国は中国よりの姿勢をとっているため、これまで韓国が国是としてきた地域のバランサー、中国とアメリカ(日本)との間で均衡を取り合い、両陣営から利益を得るという戦略もとりにくくなっています。
4 最後に
韓国の場合、貿易依存度が高いので、他国とは良好な関係を維持しておくことが必要なわけですが、反日に拘るあまり日本との関係をおかしくし、ますます中国寄りになっている感が否めません。中国がこれまでのような高度経済成長を遂げることが可能ならば、こうした戦略もありでしょうが、現実問題として、不可能である以上、早晩修正を迫られるのは目に見えているような気がしてなりません。それに、韓国とアメリカの関係といった場合、経済的にも貿易の相手方として良好な関係を維持していく必要がある他に、北朝鮮問題があるので、軍事的(政治的)にもアメリカと決定的に関係を悪化させるわけにもいかず、「中国寄り」といっても限界があると考えています。
しかし、どうも「反日」が外交政策決定の中で占める割合が大きすぎるようで、韓国はもう少し考えを改めるべきではないでしょうか(自分で盛り上げた「反日」に縛られる韓国外交)。
自分で盛り上げた「反日」に縛られる韓国外交
『Record China』が配信していた「『日本は緊張関係の原因をよく考えよ』=会談実現の前提として韓国外交部が注文―韓国メディア」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。
1 記事の紹介
G20で、「日本の安倍晋三首相と韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が短い立ち話をし」ましたが、これを受けて「日本メディアは、安倍首相が朴大統領に早期の日韓首脳会談の実現を呼びかけた可能性があると」報道していました。そのため「韓国外交部の趙泰永(チョ・テヨン)報道官は記者会見の席上、“日韓首脳会談または外相会談実現の重要な前提”について、『日本の政府高官は日韓関係が緊張状態にある原因についてよく考えるべきだ』と強調した」というものです。記事では、こうしたことを受けて「韓国側は日本は歴史問題などで積極的な態度を示すべきだと主張しており、会談が実現するかは未知数だ」と終わっています。
2 外交
何度か繰り返しておりますが、外交とは駆け引きですので(領土紛争でアメリカを味方に引き入れようとする日中韓)、交渉カードを多く持った方が有利で、時にはいろいろ策略も必要となりますし、手の内をさらしてしまえばそれだけ不利にもなります。そういう意味で、以前韓国の尹炳世外相(当時は外相就任前)が書面で「米国、中国、日本、ロシア」と外交に優先順位を付けたことがあり、如何なものかと思ったことがあります(韓国外相候補の「外交の順位は米中日ロ」発言に対する意見)。ある意味、韓国のポカで、日本にとってはどうでも良いことと言ってしまえばそれまでですが、こうした発想の人と外交交渉をする必要が生じるのかと思うと、いろいろ思うところはあります。
3 歴史認識
実際、今の韓国を見ていると「歴史認識」で日本に何かをさせなくてはならないという「至上命題」にがんじがらめになっているようで、逆に自分の首を絞めているような気がしてなりません(竹島問題を抗議する韓国の自業自得)。首脳会談にしてもこのような形で、日本が投げかけても、先に日本が何かしなければ何も応じないという立場では、何一つ話が進むはずもありません。勝手に自分(韓国)が設けたラインを日本に超えてくれと言われても、日本がそれに従う義理などあるはずもなく、関係改善の芽を自分で摘み取っているだけとしか見えません。しかし、一度そうしたラインを設けてしまうと、メンツの問題もあるので、簡単に下げるわけにもいかず、自分で自分の行動範囲を狭めているだけといった状態です。
4 最後に
そこで先の外交の話にもどるわけですが、こういう形で自分の行動範囲をせばめてしまうとその分だけ自由がなくなるわけで、当然交渉の幅がせばまります。こうしたバカなことをしておいて、その解消を日本に求めるという形でツケをまわしているのが現在の韓国の状況で、「勝手にしろ」としか言えません。こうした行動をとっている結果、日本で韓国に対する悪感情を育成しているだけで、事態の解決には何の役にも立ちません。多分韓国政府もある程度そうしたことはわかっていながら、今更振り上げた手を下すわけにもいかないという状況かと思います。これが中国だと世論をあまり気にする必要もないため、いつの間にか、ナアナアでごまかすという荒業が使えるわけですが、自分たちで勝手に盛り上げた「反日世論」に縛られている韓国はそういうわけにもいかず、本当何をしているのかといったところです。
 
なぜ韓国は日本を許さないのか

 

日本がいくら韓国に対して謝っても、彼らは、いつまでも謝罪や賠償の要求を繰り返します。そのことに対し、多くの日本人が疑問に思うとともに辟易としているのが現状ではないでしょうか。なぜ彼らは日本を許そうとしないのか、どうすれば彼らの要求が終わるのか? それを理解しないことには日韓友好も何もあった物ではありません。
日韓両国は1965年に締結された日韓基本条約の付随協約により、当時の国家予算の二倍強の協力金(日韓は戦争しておらず賠償義務がないため賠償金とは呼ばない)を日本が韓国に支払うことにより日韓両国間の請求権問題が「完全かつ最終的」に解決されたことを確認しています。
本来であれば、その時点で両国の過去は清算され対等の付き合いを始めるべきなのですが、日韓それぞれの事情により、その後も日本は韓国に対して何度も謝罪や援助を繰り返してきました。それにもかかわらず、韓国は日本に対して、いつまでも謝罪と賠償を要求しています。そんな韓国という国が、我々日本人の目には理解不可能な国に映るのも当然と言えば当然でしょう。
韓国人の理屈
しかし、これは日本から韓国を見た感想であり一面的な物の見方でしかありません。では、反対に韓国から日本を見た場合はどうなのでしょうか。当たり前のことですが、彼らには彼らなりの理屈があります。そして、それを理解しないことには韓国人の日本に対する言動の本質は見えてきません。
その理屈を簡単に言うと「日本の植民地支配に起因する出来事は、すべて日本政府の責任であり、それに対して時効の概念はない」というものです。少し大げさに言えば、日韓併合時代に起こったことは、例え交通事故でも「日帝が道路を拡張したから事故が起こった」と言えば日本政府の責任になるということであり、しかもそれは永遠に請求できる権利であるということなのです。日本人からすれば「そんなアホな」という話ですが、韓国では裁判所も認める当たり前の話として通用しています。
ちなみに、日韓基本条約の交渉時に日本政府は未払い賃金等の個人債権は直接個人に対して保証すると提案しましたが、韓国側がそれを断った経緯があるので、条約締結後の個人補償義務は韓国政府にあります。しかし、韓国政府が意図的に自国民に条約の内容を知らせないでいたため、いまだに多くの韓国民が、その事実を認識していません。もう一つ付け加えれば、この時、韓国は朝鮮半島を代表する国家として北朝鮮の分も受け取っています。ですから百歩譲って日本が北朝鮮に協力金を支払う義務があるとしても、日朝の国交が開始された時点で支払い義務は日本にではなく韓国にあるのです。
なぜ韓国は日本が何度となく謝罪や賠償を行っても、許さないのか
それを一言でいえば「そういう国だから」という答えになります。ふざけた言い方に聞こえるかもしれませんが、一言で言いあらわそうとすると、本当にそうなるのです。これで話を終えれば本当に「ふざけるな」といわれるのは間違いないので、今から順を追って説明いたします。
韓国はどういう国なのか
その国がどういう国なのかを知ろうと思えば、その国民性を見る事も重要ですが、何と言っても、国家の成り立ち(歴史)や統治形態(法令等)を見るのが一番の近道です。特に憲法、中でも「前文」を読み解き現実と対比させれば、その国が、おおよそどの様な国であるのかという様な事がわかります。一例をあげると、いわゆる日本国憲法は前文で「(前略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(後略)」と謳い、まさに「自国の命運を他国に委ねる」という無責任国家の本質を端的に表しています。
では「大韓民国憲法」の前文はどうなっているのかというと、「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は己未三一運動で大韓民国を建立し(中略)檀紀4281年7月12日に憲法を制定する」となっています。
ここで、韓国の歴史を多少なりとも知っている人は、何かがおかしいと感じるはずです。韓国=大韓民国の独立の宣言は1948年8月15日に初代大統領の李承晩が行っているのですから、おかしいと思うのは当然の事です。では、大韓民国が建立されたという「己未三一運動」とは、一体何なのでしょうか? それは、1919年3月1日、日韓併合時代の朝鮮半島で起こった、反日暴動のことです。
この運動自体の評価は諸説いろいろとありますが、要約すると、33名の宗教家が独立宣言書を作成し、それに共鳴した民衆がデモを起こしたという事件です。デモに参加した人数は多いものの運動は約2か月で収束し、処罰された人数の少なさや量刑の軽さ、何の成果もあげられなかったことを客観的に見ると「建国」とはほど遠いのが実情ですが、彼らに言わせると宣言書を読み上げただけで、大韓民国臨時政府ができたということらしいです。
彼らの歴史では、その後、大韓民国臨時政府は上海、重慶と場所を移しながら光復軍を創設し、それをもって連合国の一員として日本と戦い、最終的に勝利したことにより自力で独立を勝ち取ったという話になっています。つまり、大韓民国という国は自国の建立の歴史を、国際社会が認めた李承晩の独立宣言ではなく、自分の都合のいいように書き換えていることが、この前文から分かるわけです。
このことを、分かりやすく書けば
朝鮮(清の属国)→大韓帝国→大日本帝国→アメリカ軍政→大韓民国
という本来の歴史を
朝鮮→大韓帝国→日本植民地→臨時政府→大韓民国
というふうに書き換えているということです。
以上、韓国が自国の都合のいいように歴史を書き換える国であるという説明です。
日韓の歴史認識の違い
次に、日本と韓国の歴史に対する認識の違いを整理しておきましょう。
日本において歴史というのは過去に起こった事実を客観的に検証し事実に迫ろうとするものですが、韓国においては事実とは関係なく「こうあってほしい」「こうあるべきだ」という結論をもとにストーリーを作ります。そして、その結論を決めるのは戦いの勝者、つまり時の権力者ですから、話がおかしいと思っても誰も文句は言いません。
彼らは往々にして、自分たちに都合の良い結論をもとに歴史をつくり、自分たちが政権の座から引き摺り下ろした過去の為政者を否定します。それは自分たちが新しく作った政権の正当性を担保するため、政権が交代する度に繰り返し行われる行為で、昔は一族皆殺しなどの残虐行為も珍しくありませんでした。民主化された今は、残虐行為こそ行われませんが、歴代大統領の末路を見れば、韓国の歴史に対する考え方が良くわかるかと思います。
ちなみに政権の正統性というのは、その政権が国を統治する根拠のことで、多くの国では国家設立の過程にその淵源を見ることができます。具体例を挙げると「アメリカ」は、植民地支配により自国を搾取していたイギリスに戦争で勝ち国民を救ったことを、「フランス」は、民を顧みない王家を革命によって倒し国民を救ったことを、根拠としています。
李氏朝鮮の場合は、高麗の将軍であった李成桂が、明との戦いのために集めた兵を己のために自国の王家に向け、いわゆる謀反により政権を簒奪したのですが、彼の国の歴史では高麗王朝は腐敗して民から見放されていたため、李成桂がやむなく高麗王家を討ったという筋書きになっています。
このように事実はともかく、新しく政権に就いたものにとっては、以前の政権が民を苦しめるダメな政権でなければならず、仮にそうでなければ現政権がおこなった行為(特に武力行使)が、君臣の秩序を乱した、ただの権力奪取になり、政権の正統性が疑われてしまいかねません。
大韓民国の場合はどうかというと、憲法前文で「三・一運動により建立された大韓民国臨時政府(後略)」と謳い、1919年に建国したことになっているので、現在の大韓民国にとっての前政権は日本であり、かつ彼の国の歴史では「光復軍」というものにより日本から武力で独立したという話になっていますから、先ほどの「政権の正当性」の話に当てはめれば、歴史の事実がどうであれ日本は民を苦しめる、倒されて然るべき政権であったという話でなければならないのです。
ですから日韓併合時代に朝鮮王国が近代化し、圧政に苦しんでいた民衆の生活が向上して民が暮らしやすい世の中になったという本当の歴史では、韓国政府としては非常に困るのです。まして大韓民国の建国後には国民の生活レベルが日韓併合時代より下がっているのですから、そんなことを認めれば日韓併合時代の方が良かったという話になりかねず、ひいては自分たちの政権の正当性が揺らぐため、何が何でも日本を悪者にしなければないのです。
そのため韓国政府は、歴史を書き換え、自国民を年端もいかない子供の頃から虚実交えて日本に反感を持つように教育しており、その成果とも言えるのが、平成25年にソウルで起きた「日本統治はよいことだった」と発言した老人が若者に殴り殺された事件です。
20代後半で終戦を迎えた日韓併合時代を実体験として良く知る95歳の老人が、自らの体験に基づいて述べた率直な感想に対して、それが真実か否かは関係なく、朴正煕政権末期に生まれた実際の日韓併合時代を直接知らない38歳の若者が日本をほめたという理由だけで殺意を抱くほどの怒りを覚え、それだけではなく、それを実行に移し、なおかつその行為を称賛する人が少なくないという事実は、実際の歴史である日本統治体験よりも、虚構をもとに行われている反日教育の方が、韓国人が日本を憎む原動力となっているという韓国社会の病根を如実に表していると言えるでしょう。
おまけに裁判所が、この若者に対して下した判決が懲役5年であるいうことと、韓国の裁判所が慰安婦訴訟やセウォル号事件で分かるように国民世論の影響を受けやすい体質であることを、重ね合わせて考えてみれば、韓国社会における、この反日無罪のような風潮は一部の人たちだけではなく広く世間一般の人々が容認しているという結論にならざるを得ません。
まともな人もいたが
では韓国人すべてが反日思想の持ち主かというと、そうではありません。このように日本人から見れば絶望的な韓国社会ですが、そんな中でも事実を捻じ曲げた一方的な日本悪玉論に異を唱える希望の光のような人がいるにはいました。
金完燮という作家は「親日派のための弁明」という日韓併合に肯定的な見解の書物を出版しましたが、その結果、本は事実上の発禁処分、本人は逮捕されました。(ちなみに日本ではベストセラーとなっています) また、韓国で国民的人気を誇った趙英男というタレントが「殴り殺される覚悟で書いた親日宣言」という本を出版しましたが、その後は親日派(=売国奴)として激しく糾弾され、芸能活動は休止に追い込まれました。
韓国社会において社会的地位の高い学者とて例外ではありませんでした。ソウル大学で韓国経済史を研究する李栄薫教授は「従軍慰安婦は売春業」と発言したため、元慰安婦らの前で土下座させられ、長時間にわたり罵倒を浴びせられ続けました。
このように韓国社会で日韓併合時代を良く言うことは自殺行為なのです。どんな人気者でも社会的地位の高い人でも、ひとたび日本寄りの発言をすればマスコミをはじめ司法に至るまで、ありとあらゆる方面から圧力を受け、集団リンチで社会的に抹殺されてしまうのです。韓国にも日本のことを正当に評価する人はいるのですが、怖くて声をあげられないというのが本当のところなのです。
このような社会に真の言論の自由などあるはずもなく、今この瞬間にも公教育により反日韓国人が生産され続けられているのです。彼ら韓国政府にとっては日韓併合時代こそが不都合な真実であり、特に日清戦争で日本が勝利したことによって初めて朝鮮が独立したことや、日本人として大東亜戦争を戦ったなどという歴史の事実は、彼らにとっては消し去りたい悪夢なのです。
ですから日韓併合時代に建設された建造物を「日本が建てた」という理由だけで取り壊し、日本に協力したとされる人たちを、親日(韓国では親日=売国)リストに載せ、子孫の財産を没収するなど、近代法の常識である「法の不遡及の原則」を捻じ曲げてまで、過去を消し去ろうとするのです。悲しいことに韓国は日韓併合時代を全否定しなければ国が成り立たないのです。
反日の理由
また、今なお戦争状態(南北間は休戦中であり、国際法上の戦争は終わっていません)にあり領土の北半分を占領しながら、韓国と朝鮮半島における政権の正当性を争っている北朝鮮の存在も見逃せません。北朝鮮建国の父である金日成は、日本軍と勇敢に戦い勝利した(事実かどうかは問題ではない)ことを政権の正当性としていますから、そのような歴史的事実がない韓国としては、何が何でも光復軍が日本軍に勝ったという話を創らなければならず、そのために日本人を殺した人物を英雄に祭り上げるなどして組織的な戦闘行為を行わなかった本当の歴史を、暗殺=戦争という歴史に書き換えるなどの作業を行っているのです。
つまり、国家として最も大事な政権の正当性のためには、彼らにとって事実がどうであれ日本が悪の帝国でなければならないのです。そのために彼らは、自分たちが一方的な被害者であると捏造した物語を武器に、国内では自国民に対して幼少期から徹底的に反日教育を行い、国外では諸外国(特にアメリカ)に対して、陰に陽に日本を非難し、日本が悪い国であるかのような印象を与えようとしているのです。
以上、ここまで述べてきたように韓国における反日の根本的な原因は、彼ら自身にあるのですが、それを大前提としたとしても、ここで忘れてはならないのが日本の責任です。言うまでもなく自己の保身のために歴史を書き換えて他国を非難する方が悪いのですが、それを助長してきたのが日本の政治家、官僚、マスコミ、学者、弁護士、市民活動家を名乗る人たちなどである事を忘れてはいけません。
政治家や官僚は保身のために目先のトラブルだけを回避しようとして、韓国の嘘を半ば認めるかのような対応を繰り返してきました。マスコミは日本が悪かったという話を捏造してまで日韓の両国民を洗脳し、時には日本の何気ない出来事を、悪意を持って韓国に伝え、反日感情を煽る一方、韓国の不都合な真実は日本で報道しません。学者は学問ではなく政治活動に走り日本を非難し、弁護士は海外に出かけ被害者を金で釣って集め、その人たちを自身の政治活動のために利用し、市民活動家を名乗る人たちはこれらの人たちの尻馬に乗って騒いでいます。
これでは韓国に対して「どうぞ日本を叩いてください」と言っているのと同じようなもので、実際に現在の日韓関係悪化の最大の原因と言われる慰安婦問題を創り出し育てたのも、これらの人たちです。この人たちは口先では「日韓友好」を唱えていますが、実際にやっていることといえば日韓両国民が互いに反発するようなことばかりで、結果的に日韓関係を悪くしているのです。
中でも日本政府は、今まで韓国の言いがかりを放置しただけではなく、さしたる根拠がないのにも関わらず、ただ単に日本が悪かったという内容の談話を発表するなど国家の責務を放棄したかのような振る舞いを続けてきました。
そのため「日本も自身の非を認めている」などと他国から誤解され、韓国には「日本は嘘でもなんでも大声を出せば、謝り金を出す」と馬鹿にされ、都合のいいように反日カードを使われてきたのです。いわば韓国を傍若無人な国に育てたあげた責任は日本にあるといっても過言ではありません。
そして、もう一つ忘れてはならないのが、日韓両国が友好な関係になれば困る国の工作活動です。典型的なのが、韓国でアジア女性基金を受け取ろうとした元慰安婦の老婆を脅迫して金を受け取らせず、問題の解決を妨げた親北団体の「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)で、彼らは事あるごとに「慰安婦」問題を持ち出し、無理難題な要求を突きつけて問題の解決を妨げてきました。
彼らのように表立って行動する人間は、まだ分かりやすくて良いのですが、本当に気を付けなければいけないのが、日韓の政府中枢やマスコミに深く潜り込んでいる人間です。スパイを取り締まる法令のない日本は言うまでもありませんが、金大中、廬武鉉と従北政権が10年も続き、国家の屋台骨であった国家安全企画部が縮小された韓国は昔では考えられないほど食い込まれています。日韓の主要なポストにいる人間の中にも、日々、日韓両国が離反するような活動を行っている人間がいる事を忘れてはいけません。
いずれにしても韓国は、国策として反日政策を行っているわけですから、そのような相手に対して共通の歴史認識など模索しても無意味な話です。あえて日韓共通の歴史認識を確立するとすれば、日本が韓国の言い分を丸呑みするしか方法がないでしょう。
また、単に嫌韓と言って感情論だけで対抗しようとしてもかなうはずがありません。日本も国家が中心となって戦略的に対抗しなければ、この先も彼らは日本に対しての謝罪や賠償を要求するだけではなく、執拗に反日工作を続けてくるでしょう。
この問題を解決するには彼らが言うように「日韓双方とも歴史を直視して、是は是、非は非と認めることから始めなければならないのです。ただし、それには長い長い時間が掛かるでしょう。 
 
韓国の朴槿恵大統領が反日的な4つの理由

 

朴槿恵(パク・クネ)大統領は選挙公約で「日本と協力し、未来に向けて共に協議する」ことを謳い、将来のビジョンとして「東北アジア平和・協力構想」の推進を誓っていました。5年間の任期中にこの構想を実現するには李明博(イ・ミョンバク)前大統領の竹島(韓国名:独島)上陸で悪化した隣国日本との関係修復を急がなければならないことは誰よりも承知しているはずです。
ところが、大統領に就任するや「北東アジアの平和のために日本は正しい歴史認識を持たねばならない」「日本の指導部が歴史や領土問題で後ろ向きの発言ばかりするので信頼関係を築けない」等、対日強硬発言が相次いでいます。挙句にはハルピン駅前に伊藤博文を暗殺した安重根の石碑を建てるよう中国政府に働きかけるなど関係修復どころか、両国の関係は悪化の一途を辿っています。
亡き父の「親日」を批判され
朴槿恵大統領が反日の姿勢を貫いているのには4つの理由があります。
一つは、大統領選挙期間中に父親の朴正煕大統領が「親日」であったことで野党陣営から激しい攻撃を受けたことと関係しています。韓国では「親日」イコール売国奴というレッテル張りがあります。支持率が低下している朴大統領としては反対勢力から「親日」の烙印を押されないようにするにはその逆の「反日」姿勢を鮮明にしなければなりません。
次に、領土問題の対立も朴大統領の「反日」の原因となっていることです。朴槿恵大統領は野党時代の2005年10月にハンナラ党代表として竹島に上陸しております。前任者の李明博大統領に先駆けて、上陸しているわけですから、領土問題では一歩も譲らないというのが彼女の一貫とした姿勢であることがわかります。領土問題で厳しい対応を取れば取るほど、支持率のアップに繋がり、国政運営がしやすくなります。
慰安婦問題を引き継いだ女性大統領
三つ目は、女性であるが故に、従軍慰安婦の問題では、これまた強硬に出ざるを得ないということです。
日韓関係悪化の引き金となった李前大統領の竹島上陸の原因の一つは、韓国側からすれば民主党政権下の2011年12月に行われた日韓首脳会談で李前大統領が善処を要望した慰安婦問題に野田総理が誠意を示さなかったことにあります。従って、懸案を引き継いだ朴大統領としては、日本側が誠意を示すまで、対日批判を強めざるを得ない立場にあります。
最後に、意外なことですが、経済的な理由があります。
韓国は日本と国交を結んで今年で48年となりますが、貿易額は1000億ドルに留まっています。一方、韓国と中国は修好からまだ21年ですが、貿易額は日韓の倍の2100億ドルを突破しています。貿易収支は日本とは慢性的赤字で、その額は近年、300億ドルに上ります。ところが、対中では400億ドル近い貿易黒字を出しています。金の切れ目が縁の切れ目といいますが、韓国人の対中重視、対日軽視の一端となっています。  

 

 
反日主義 

 

日本に敵対または嫌悪する思想、主張、政策、行動をいい、人種主義の一種。
韓国
特徴
鄭大均は「反日は韓国のアイデンティティと不可分な関係があり、反日と無縁な韓国人はいない」と述べている。
崔碩栄は「韓国の過激な反日感情は自然に発生した感情ではない。『反日国家』韓国では、日本は『悪い国』だという情報だけが与えられ、人々が自然に『反日型人間』になるように仕組まれた『反日システム』という社会構造が形成されている。そこから利益を得ている人々(北朝鮮や日韓の左派など)がシステムを維持強化している」と述べている。
黒田勝弘は「韓国は世界で最も日本非難論が活発で、韓国マスコミは日本非難なら何でもありで、極端な比喩による感情的論評を書き、反日報道ではデッチ上げなど内容が誤報と分かっても訂正はほとんどない。これは『反日病』だ」「韓国は、日本に対して執拗に過去史を追及し『謝罪と反省』を求めてきたが、中国とは1992年の国交正常化以来、首脳会談で過去史が問題になったことはない。中国は朝鮮戦争で北朝鮮を支持して軍事介入した南北分断固定化の元凶であるのに、韓国政府もマスコミも識者も誰も中国の戦争責任、侵略責任を語ろうとはしない」「韓国は中国が侵略戦争責任を追及しても応じないと分かっているので黙っているのだ。とすると結果的に日本のように応じると限りなく追及される」「経済や政治など実利のためには中国と仲良くし、ご機嫌をうかがわなければならないからだ」と述べている。
西村幸祐は「韓国にはタリバンのテロと本質的に同じ反日原理主義が根付いている。小中華思想からの日本人への蔑視感情がそのエネルギーの原動力になっている。韓国人の歪んだ歴史認識は、嘘を嘘と認めない彼らの文化から生まれたものであり、理性や論理を超越したところで仮想現実の構築に勤しんでいる。反日という宗教の原理主義が情報テロリズムという形態を取って日本に襲い掛かっている」と述べている。
鈴置高史は「『韓国の常軌を逸した「侮日・卑日」ブーム』は、「『夷』たる日本への根深い蔑視」という「精神的な先祖返り」が背景にある。韓国は、自分たちは精神文化では日本よりはるかに上だと考え、日本人は倫理性が低いので倫理性が高い韓国人が日本人のために『戦犯国家』日本を叱ってやっているのだ、という態度を取っている。2006年秋に韓国の最高指導者の1人から『韓国はもう、中国に逆らえない。だから日本も中国に逆らってはいけない』と厳しい口調で言われたが、『自分が中国に服しているのに、そうしない奴がいる』と考える韓国人は、中国人以上に日本に対し不快感を持つ」「韓国では論理の整合性は重要視されません。ケンカする時には相手を攻撃しまくるべきであり、自分の行いがどうであるかは関係ないのです」「韓国人は中国の朝貢国であったことに誇りを持っている。それを恥ずかしいなどとは思っていない」韓国は、『もっとも忠実に中国に仕えることで、世界の安定に大きく寄与してきた』という意識が根強いのです。この場合『世界』は『中華世界』、つまり『華夷秩序』を指します」」と述べている。
岡本隆司は「韓国人は、日本は格下で『礼・文化を知らない「夷」、野蛮人だと軽んじ、そういう連中には、礼を欠こうが、多少だまそうが、何を言ってもいい、してもいい、とまた考え始めた。 韓国は『日本の植民地支配から脱した』ことに正統性を置いているため、植民地化以前の『朝貢の時代』も美化して語らいがち」と述べている。
鈴置と木村幹は「韓国は、米中の間で上手に立ちまわって生き残るために、潜在的覇権国である中国には敵対せず、自分だけ「いい子」になり、日本を中国や米国と対立させて、日本を「バック・キャッチャー(「悪い子」、負担を引き受けざるを得ない国)」にして、中国の脅威を日本に向けさせようとしている」と述べている。
歴史と現状
歴史的にみると、朝鮮半島から日本への侵略が何度もあった。日本に来た朝鮮通信使も、たびたび日本を野蛮視したり、日本侵略の願望を記録している。近代に入っても、日本を「倭夷」と呼び排斥しようとする衛正斥邪思想が広まった。李恒老や崔益鉉は、「人獣之別」によれば西洋や日本は「人の顔をした禽獣」だとし、西洋や日本と貿易や交流をすると「人類の禽獣化」につながるとして、開港に反対した。日本と協力して朝鮮の近代化を進めようとした金玉均は、1894年に暗殺された上に、遺体をバラバラにして晒された(凌遅刑)。
韓国は1952年に、李承晩ラインを一方的に設定し、第一大邦丸事件など、多数の日本漁船を拿捕したり、銃撃して漁民を殺戮した。その後も、竹島 (島根県)(韓国名:独島)を占拠し、独島警備隊を常駐させている。韓国では『独島は我が領土』という歌や、「独島パンツ」「独島サンダル」「独島切手」「独島ケーキ」「独島生け花」なる物まで作られている。高月靖は、このような韓国の独島(竹島)に対する異常な執着心を「独島中毒」と名付けている。さらに韓国の一部では、対馬も韓国の領土だと主張し、対馬島の日を制定したり、対馬島返還要求決議案を出したりしている。
韓国語には、日本を蔑視(侮日)する表現として「チョッパリ」「ウェノム」等があり、大手新聞でも天皇を「日王」と呼んだりする。書籍、映画、テレビドラマ、歌などで反日作品が作られている。また、日本のドラマ、映画、歌などが禁止されるなど、日本大衆文化の流入制限が行われており、1998年から段階的に制限が緩和されてきているが、現在も制限が残っている。さらに、日本の物でなくても日本風だとみられる物は「倭色」と呼ばれて非難される。例えば、1960年代に李美子が歌った歌謡曲が倭色とされて発禁になっている。日本統治時代に日本から伝わった文化・文物は「日帝残滓」と呼ばれて非難され排除される。韓国語の中から日本語起源の単語を排除する国語醇化政策も行われている。
反日教育が行われており、学校の生徒に反日主義の絵を描かせて、地下鉄の駅に展示したりしている。
日本にある韓国で作られた仏像や美術品は日本が盗んだ物だから取り返さなければならないとし、返還要求したり、窃盗団が盗み出して韓国へ持ち込んだりしている。日本から盗んだものを大韓民国指定国宝としたり、日本への返還を拒否したりしている。
韓国は、慰安婦問題、竹島問題、日本海呼称問題、靖国神社問題、歴史教科書問題、旭日旗、など様々な問題で、韓国国内だけでなく世界各地で、反日宣伝を行っている。国際連合安全保障理事会改革でも日本の常任理事国入りに反対している。
2012年夏から世界各地で、体操のユニフォーム、電子機器のデザイン、美術展、格闘技の道着、弁当のパッケージ、プロモーションビデオ、菓子の広告、など様々な物が旭日旗に似ているとし、旭日旗はナチスのハーケンクロイツと同じく軍国主義や侵略の象徴である「戦犯旗」であるとして、韓国人が非難する動きが相次いでいる。
Voluntary Agency Network of Korea(略称 VANK)という会員数10万人の団体が、2005年から、世界で日本の地位を失墜させるための「ディスカウントジャパン運動」を開始し、日本海呼称問題、竹島問題、慰安婦問題、歴史教科書問題、などで、インターネットを通して、世界各地で反日宣伝を繰り広げている。2013年からは「アジアで日本をのけ者にさせる」戦略を拡大し、真珠湾攻撃、バターン死の行進、南京大虐殺、などの宣伝を通して世界各国で日本のイメージを悪化させようと図っている。
米国で、「ニューヨーク韓人会」、「韓国系米国人権利向上協会」、「韓米公共政策委員会(KAPAC)」、「KACE(korean american civic empowerment)」、「korean american coalition」などの在米韓国人団体が、従軍慰安婦非難決議採択、慰安婦記念碑建立、などの反日プロパガンダ、反日ロビー活動を行っている。
ソ・ギョンドク(徐敬徳、誠信女子大学教授、ko:서경덕 (1974년))は、竹島問題、日本海呼称問題、慰安婦問題、などで、ニューヨーク・タイムズに広告を掲載したり、タイムズスクエアにも大型広告を掲示している。第3回ワールド・ベースボール・クラシックでも、在米韓国人によって、準決勝と決勝が行われるサンフランシスコの球場のそばに、竹島の韓国領有を主張する大型広告が設置された。
韓国でも稀に反日主義を批判し日本を擁護する人物が現れる事があるが、「親日派」とされて強烈に攻撃され、社会的な立場を失い、法的な措置が取られる事さえある。韓国では「親日派」とは売国奴の同義語である。「親日反民族行為真相糾明委員会」や「親日派リスト」を作って「親日派」を糾弾し、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定して「親日派」の子孫の財産を奪っている。
中国
岡本隆司は「中国はなぜ反日になったのか?と問うこと自体がおかしい。中国は、歴史上ずっと反日だったのであり、何かのきっかけで反日に「なった」のではない。「倭寇」は実際には中国の貿易業者が多かったのに、日本だと決めつけて敵視する思考様式に反日の源流がみられる。『史記』以来の中国の史学はイデオロギーの表明であり、ありのままの事実から出発する近代歴史学が欠落しているのが、歴史認識問題の本質である。「正しい」歴史認識というスローガンがすべてを物語っている」、と述べている。
拳骨拓史は「中国が反日教育に初めて着手したのは1928年5月、国民党が南京において排日教育方針を決議したことに始まる(p.19)。中国が反日運動に狂奔する理由としては、中華思想と、日本に対する嫉妬心、多面的な視点がなく他人と視点や思想を共有できないこと、などがある」と述べている。
日清戦争中には、日本を「倭」、明治天皇を「倭酋」などと呼び、人種差別的なプロパガンダが行われ、中国にある日本の企業や商店が襲われる事件が相次いだ。
1908年に辰丸事件による日本製品不買運動が起こり、1928年には済南事件をきっかけに中国各地で「反日会」が結成させた。反日会は「奸民懲戒条例」を制定し、反日会の規則に違反した者に罰金を課したり、木製の檻に監禁して街路に曝す、等のことを行った。
1930年代には、日本人に対する暴行、虐殺事件が、中国各地で多発している。また、「漢奸狩り」として、日本に協力的とみなされた多数の中国人が虐殺された。
中国では日本を蔑視する(侮日)言葉として、小日本、日本鬼子、などがある。憤青と呼ばれる若者たちが過激な主張や行動をすることがある。尖閣諸島問題では、中国側の運動は「保釣運動」と呼ばれ、各地で運動団体が作られている。中国の一部には沖縄も中国の領土だとする主張もある。韓国と同じく、慰安婦問題、靖国神社問題、歴史教科書問題、なども問題になる。
反日映画や反日ドラマが多数作られている。また、中国でのサッカーの試合でたびたび反日行為がみられる。
近年の動きでは、2005年の中国における反日活動、2010年尖閣諸島抗議デモ、2012年の中国における反日活動などがある。2010年9月の尖閣諸島中国漁船衝突事件以後、頻繁に中国船が紛争地域に入している。
日本
反日主義は日本国内にも存在する。日本人でありながら反日主義の人物は「反日日本人」と呼ばれる。
日本と韓国や中国が対立する問題で、韓国や中国に同調して日本を非難する日本人もいる。韓国の反日を支持する日本人は、韓国の反日主義者から「良心的日本人」として称賛される。鄭大均は「反日日本人は、自分では友好や理解だと考えているが、実は韓国の日本に対する偏見を支持しているだけであることに気が付かない」と述べている。
自虐史観に立つ反日日本人が、日本の悪を誇張、捏造し、韓国や中国に反日の材料を提供して「反日ウイルス」を撒き散らしている、とする主張もある。南京大虐殺論争、百人斬り競争、強制連行、沖縄戦における集団自決、731部隊、三光作戦、慰安婦、靖国神社問題、などが問題とされることが多い。
東アジア反日武装戦線は日本人を「日帝本国人」として断罪し、1974年から三菱重工爆破事件をはじめとする連続企業爆破事件を犯した。大森勝久は、日本そのものが悪であり、日本を滅亡させなければならない、とする極端な反日思想である「反日亡国論」を唱えた。
在日韓国・朝鮮人は第2次大戦後、在日本朝鮮人連盟や在日朝鮮民主青年同盟などを結成し、自らを「解放民族」として日本人よりも上位に置き、日本の法律制度を無視して横暴にふるまい長崎警察署襲撃事件、浜松事件 (抗争事件)、阪神教育事件、本郷事件、台東会館事件、長田区役所襲撃事件など、日本各地で集団で、暴行、略奪、不法占拠、不法乗車などを引き起こした。
沖縄では、明治初期に日本に敵対して清に亡命し、清の介入を求める「脱清人」と呼ばれる人々がいた。現在も一部に「かりゆしクラブ」「琉球民族独立総合研究学会」などの琉球独立運動がある。
『反日マンガの世界(晋遊舎 2007年)』は雁屋哲や石坂啓のマンガを「反日マンガ」だとしている。
ドイツ
ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)は、黄禍論を唱え日本を敵視し、日清戦争後に三国干渉を行った。ナチスは、中独合作により中国に軍事顧問団を派遣し、中国軍の近代化を進め、日本を敵視した。
米国
1924年に排日移民法が制定された。
第二次世界大戦中に、アメリカ軍は、東京や大阪などの都市を無差別爆撃し、広島と長崎に原爆を投下して、一般市民を大量虐殺した。また、アメリカ軍は日本各地で子供にまで機銃掃射を浴びせ掛けた。米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断も行われた。米国国内では日系人の強制収容が行われ、『You're a Sap, Mr. Jap』『Tokio Jokio』などの人種差別的な反日プロパガンダ(en:American propaganda during World War II#Anti-Japanese)が行われた。
日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、マスコミだけではなく個人の手紙や電信電話まで検閲を行い言論統制した。また、全国の新聞紙上に『太平洋戰爭史』を連載させ、NHKラジオで『眞相はかうだ』(後に『眞相箱』)を放送させ、政治宣伝をおこなった。江藤淳は、これらを「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)としている。
1980年代には、貿易摩擦から「ジャパンバッシング」が起こった。
反捕鯨
捕鯨問題でオーストラリアが日本を国際司法裁判所に提訴している。1980年3月の壱岐イルカ事件のように日本で活動家が事件を起こす例がある。グリーンピースやシーシェパードが日本に対して事件を起こしている。特に過激なものは、エコテロリズムと呼ばれる。反捕鯨運動はレイシズムだとする見解もある。 
 
関東大震災の朝鮮人虐殺を生んだ流言

 

大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災時には朝鮮人が井戸に毒を入れた、放火をして回っている、暴徒化している等の朝鮮籍の人々を対象とする根も葉もない流言が非常に速い速度で広がり、関東一円で調査結果に幅があるが二三一名から最大六〇〇〇名とも言われる多数の被害者を出した虐殺事件が発生した。この関東大震災時の「朝鮮人流言」の拡散過程について、かなり詳しく判明しているようで広井脩著「流言とデマの社会学」に紹介されている。
九月一日午後七時頃
横浜市内山手本町警察署管内、本牧町の火災現場周辺で「朝鮮人が放火している」との流言が発生。
同日午後八時〜九時頃
隣接する加賀町、伊勢佐木町の警察署管内に波及
翌九月二日未明
横浜市内に朝鮮人が放火・強盗・強姦・殺人・投毒など様々なことを行っているという内容に拡大
同日午前
横浜市に隣接する神奈川町・鶴見町・川崎町方面に拡大。
同日午後
流言が以下の三つの方向に分岐して東京府内に侵入する。
1) 川崎町から東海道沿線を進み六郷川を通過、荏原郡蒲田町・大森町・大井町を経て東京市内の品川に流入
2) 鶴見町から分岐して神奈川県橘樹郡御幸村・中原町を通り、丸子の渡し場を通過して、荏原郡調布村から大崎方面へ流入
3) 神奈川村から分岐して町田街道を進み、二子の渡し場を通って荏原郡玉川村・世田谷村・渋谷町方面に流入
同日午後
東京市内全域に流言が拡大。市内に拡大した朝鮮人流言の経路として
1) 江東方面に属するもの
2) 小石川、牛込方面に属するもの
3) 東京市内西部に属するもの
4) 東京市内一般に属するもの
の四つがあり、1)は二日午後七、八時頃に「一部の朝鮮人が震災当夜混乱にまぎれて婦女子を強姦し、その所持品を強奪した」という流言が伝わり、その前に「津波がやってくる」という流言が流れたため、その津波流言は朝鮮人が故意に流したものとする流言が新たに発生したという。
以後二日中に千葉・茨城・群馬・栃木、翌三日には福島県まで到達した。
震災時、混乱に乗じて略奪行為を行うものが少なからず登場し、特に、横浜市の右翼団体立憲労働党総裁山口正憲一派が一日午後四時から四日までの間にかけて団員を武装させて十七回に渡り民家を略奪して回る事件が発生しており、この山口正憲一派等の行動が誤解されて朝鮮人の仕業として流言に転化したのではないかと推定されている。また、上記の小石川・牛込方面の流言は同じく立憲労働党本部が牛込区にあることから、山口正憲の使いがその流布に関与した可能性も指摘されている。ちなみに山口正憲は後に強盗容疑で逮捕されている。
同書によると流言には「噴出流言」と「浸透流言」という二種類のタイプがあり、前者は大規模災害等『いままであった社会組織や、われわれがふだん使っている社会規範が、一時的に消滅してしまうことで噴出する流言』で、『流言集団の非常に強い感情的興奮によって支えられて』高速で拡大するが、興奮が収まると流言も急速に消滅するとされる。後者の「浸透流言」は『災害の被害が比較的軽微であり、社会組織や規範が残っている状況で発生する』もので、拡大するスピードは遅く、比較的長期間持続するものだという。
流言で多いのは圧倒的に後者で、前者はごく少数であるとされ、「浸透流言」は興奮度が低いため暴動等の非合理的行動をもたらすことはほとんどない。一方で「噴出流言」は少数ながら恐怖など強い感情的興奮に支えられているため人々の非合理的行動に及ぶ可能性が高くなる。
『「コントロール不可能な避難行動(パニック)」や「群集の暴力行為(モッブ)」など、社会的混乱の引き金になるような流言は、一般に考えられるよりずっと少ないのである。わたしたちが流言の問題を考えるときは、まずこの事実を念頭に置くことが必要である。』
当時、政府・警察当局はこの朝鮮人流言は根も葉もないものとして取り締まりや朝鮮人を狙った暴動を阻止しようと一〇万枚のビラを配布したり、朝鮮籍の人々を保護するなど様々な努力したが(一方で警察が暴力の当事者となる例も多かったが)、このときの経験が流言飛語は全て暴動の引き金になるなど社会を混乱させる蔓延してはならないものという誤解を政府に抱かせ、後に治安維持法をはじめとする言論統制関連法の成立を大きく後押しすることになった。 
 
ナショナリズムを考える基本としての四類型と日本の単文化主義

 

アーネスト・ゲルナー著「民族とナショナリズム」 / 「ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的な原理である。」「端的に言って、ナショナリズムとは、エスニックな境界線が政治的な境界線を分断してはならないと要求する政治的正統性の理論であり、なかんずく、ある所与の国家内部にあるエスニックな境界線によって――これは原理を一般的に定義したときに、正式にはすでに排除された偶発的なケースではあるが――権力の握るものが他の人々から切り離されてはならないと要求するそれである。」
「民族とネイション―ナショナリズムという難問」によると、以上のアーネスト・ゲルナーによるナショナリズムについての定義を前提として政治的単位=国家の領域と民族的な範囲=ある民族の分布範囲の空間的な大小関係を基準とした場合、以下の四つの類型があげられるという。本書とは第三類型と第四類型を入れ替えて、特に第四類型を中心に紹介し、第一、第二、第三については簡単に概要のまとめ。
1) 第一類型
ある民族の分布範囲よりも国家の領域が小さく、複数国家分立状況である場合。
細かく分かれている場合、一九世紀のドイツ統一運動やイタリア統一運動、一九五〇〜六〇年代の汎アラブ主義運動など「民族統一運動」が発生する。ある程度の統一を成し遂げているが、当該民族と同系統の民族がまとまって住む地域が領域外にある場合、領土奪還や回復を求める「失地回復運動」が発生するか、領土まで求めずとも「在外同胞の保護」を求める動きになる。
2) 第二類型
ある民族の居住地域が他の民族を中心とする大きな国家の一部に包摂され、少数派となっている場合。
この場合、これまで属していた国家からの「分離独立運動」か、その国家内での「政治的自治権獲得運動」、あるいは緩やかに連邦制・文化的自治を求める動きになる。ただし、このような少数派が複数の国家にまたがって存在する場合、第一類型と第二類型の組み合わせで、既存国家からの分離独立と複数国家にまたがる民族統一の双方を求める運動になる。この顕著な例として現在のトルコ・イラン・イラクなどにまたがるクルド・ナショナリズム、ドイツ・オーストリア・ロシアに分割されていたポーランド独立運動などがある。
3) 第三類型
ある民族が広い空間的範囲にわたってさまざまな国に分散居住しており、どの居住地でも少数派という場合。
差別や迫害、虐殺によってディアスポラ化したユダヤ人、華僑、印僑、イスラエル建国によって土地を追われたパレスチナ人、トルコ人による虐殺やソ連侵攻などで国を失い世界中に散ったアルメニア人などがその例で、本国を持つ華僑、印僑は別として、多くの場合ナショナリズムの展開はシオニズムなどのように「本国建国」を求める運動になるか、本国とのつながりを維持・強化しようとする「遠距離ナショナリズム」が発生する。
第一から第三類型であげられる少数派民族はナショナリズムまで行かずとも、まずは既存の居住国家内で諸権利の獲得を重視する「公民権運動」が展開され、それらがナショナリズムへと発展することが多い。
4) 第四類型
ある民族の分布範囲と特定の国家の領土がほぼ重なっている場合。
特に顕著な例として日本である。ほぼ重なっていると言ってもまず民族と領域の完全な一致は考えにくいので、まず第一類型と第二類型の変形として、「在外同胞の保護」問題(中国残留孤児問題、日系ブラジル人・日系アメリカ人など)や「国内少数派民族」(アイヌ、琉球、在日韓国・朝鮮人など)の問題を抱えることになる。第四類型の場合、第一〜第三のような対外的なナショナリズム運動よりも、対内的なナショナリズムが発生しやすい。
「より重要なのは、国家の範囲と民族の範囲が基本的に合致するとみなされているような国でも、「われわれは一つの民族である(はず)にもかかわらず、その一体性を十分自覚していない連中がいる。そういう連中の民族的自覚を高め、われわれの一体性をもっと強めねばならない」という考えが発生することがあるという点である。特に、対外的に種々の競争ないし対抗関係におかれているときに、「こうした国際競争に勝ち抜くためには、国民=民族としての団結をもっと強めなければならない」という形のナショナリズムが生じやすい。」
「国民=民族の一体性」は単純なように見えて、その実、様々な要因が複雑に絡み合った結果として誕生する。
「エスニシティ」「民族」「国民」の違い
まず「エスニシティ(エスニック・グループ)」という社会集団の概念がある。「血縁ないし先祖・言語・宗教・生活習慣・文化」などを共有する仲間であるという主観的な意識が広まっている集団で、必ずしもそれぞれの共有する観念が客観的であるとは限らず、また共有しているとされる各要素について一律に存在するものではない。だが、これらを共有していない人々は他者であるという観念もまた共有している集団であるといえる。何にしろ単一指標でエスニシティかどうかを定義することは不可能であり、「多義性・可変性・重層性・流動性」を持つ他面的な現象であるとされる。
「民族」はエスニシティを基盤として醸成された「われわれ」意識を持つ一つないし複数の集団が「一つの国ないしそれに準じる政治的単位を持つべきだという意識が広まった」ことで成立する集団を指す。このエスニシティと民族の区別はそのまま独立国家を持つ資格と直結するため、非常に政治的で恣意性を帯びることになる。「民族」の一つの指標として同じ言語を持つ集団を民族とみなす場合がある。だがどこまでが言語でどこからが方言なのかの区別は言語学的にではなく、政治的に決められることが多く、一律に明確な基準があるわけではない。同じ言語を使用していても、文化や宗教的差異・居住地域によって主に政治的理由から民族が分けられる例も少なくなく、「民族」はエスニシティを基礎としつつも、ほぼ虚構として「人工的に作られる」集団であるといえる。
「国民」は「ある国家の正統な構成員の総体」であり、国民主権論と民主主義観念を前提とする場合、あわせて「その国の政治の基礎的な担い手」と定義される。ゆえに「必ずしもエスニックな同質性をもつとは限ら」ず、むしろ「文化・伝統の共有と近代国家の制度的枠組み」とは「一致しない方が通常である」。だが、フランス革命以後のヨーロッパ社会における「国民国家」の成立は強大なフランス軍への対抗のため、国民的団結を創出する必要性を生じさせた結果として登場する。
「「国民の一体性」という観念は、現実にはそれほど広く分かちたもたれたわけではない。しかし、それでも、いったん「国民国家」という自己意識をもった国家が登場すると、その国家が共通語(国家語)形成、公教育の整備、国民皆兵制度などを推進し、「国民」意識を育成するようになる。そのような政策がとられ出した後も、「国民の一体性」という観念は文字通り全国民に共有されるわけではなく、しばしば国民の中での亀裂が問題となるが、そうした亀裂をできるだけ覆い隠し、あたかも一体性が存在するかの如き外観が整備されていく。このようにして成立するのが「国民国家」である。」
このようにして国民が民族的共通性を帯びる「国民の民族化」と呼ばれる現象は、国民と民族とを重ね合わせる一方で、完全に網羅することは出来ず、その国民と民族との齟齬や少数派の切捨て、反発などを包括した現象が「民族問題」である。
このように「エスニシティ」「民族」「国民」という元来必ずしも一致しないはずの個々の要素があたかも一致するかのように見える現象としての側面がナショナリズムの最大の特徴として存在し、それはまるで当然のことであるかのように偽装されて、それを共有していない人々を「われわれ」ではない「かれら」として排除することになる。
民族宗教と民族
宗教の分類の一つに民族宗教と言うものがある。血縁的・地縁的つながりに基礎を置き、個人的な選択の余地なく生まれながらにしてその宗教の信徒であるとされるもので、たとえばユダヤ教やトーテミズム、日本の神仏分離以前の民間信仰などがある。民族宗教は「共同体の聖性を中心に成立」し、「集団の成員相互の間に社会的な連帯性を高め強めるはたらきをもつ」。民族宗教における連帯性とは共同体を構成する成員共通の血の絆のことであり、「共同体をして共同体たらしめるこの血の絆」を聖なるものとしている。
「民族」もまた同様に「エスニシティ」という血縁や信仰、文化など社会的連帯性を前提としてそのつながりが生まれながらに存在するものとして認識され、共同性を重視する点で民族宗教と強い類似点がある。「民族宗教」が他の宗教と違う最大の点は、生まれながらにして信者であるから、「布教」という概念が存在しないことで、信者であるにもかかわらず、信仰態度や理解が薄い人々に対しては布教ではなく「教育」という手法がとられることになる。
上記の「われわれは一つの民族である(はず)にもかかわらず、その一体性を十分自覚していない連中がいる。そういう連中の民族的自覚を高め、われわれの一体性をもっと強めねばならない」という考え方はまさに、同じ民族であるなら、この「民族」が共有している文化・習慣を生まれながらにして理解し、共有しているべきものであるという前提に立つ。例えば米国の宗教右派が公教育における祈りや進化論教育を重視するのも、アメリカ人は生まれながらにしてピューリタン的宗教観を共有しているはずだという民族宗教的認識を背景としているから、教育という手法が重視されることになるし、日本でも公教育における道徳教育というように、ナショナリズム運動において民族の共同性は教育という手法で広めようとする。同様の理由で公教育とともに、血縁共同体である家族もまた社会的・民族的共通性の教育の場として重視されることになる。
単文化主義の国、日本
英国の社会学者でリバプール大学教授ジェラード・デランティの「コミュニティ グローバル化と社会理論の変容」はおよそこれまでの様々なコミュニティ概念――アリストテレス、テンニース、デュルケームなどからはじまって、コミュニタリアン、都市コミュニティ、ポストモダンコミュニティ、多文化主義、コスモポリタニズムなどありとあらゆると言っていい――について総合的に体系立てて解説したコミュニティ論入門の良書だが、その多文化主義の章で多文化主義の対極として単文化主義の特徴がまとめられ、その単文化主義を取る国の例として日本をまず挙げている。
ジェラード・デランティ著「コミュニティ グローバル化と社会理論の変容」 / 「厳密に言うと、単文化主義は多文化主義とは正反対のものである。というのも、それが、政治的アイデンティティを支配的なエスニック文化のアイデンティティと同一視することで、多数派の文化的アイデンティティを特権化するからである。それは事実上、文化的多様性の否定である。日本のシティズンシップ(市民権)は今日もなお、その資格要件として、エスニシティと国籍を同一視することに大きく依拠している。」
例えば、アメリカ国籍を取得したポーランド系移民はポーランド系アメリカ人と呼ばれるが、日本国籍を取得したフランス人はフランス系日本人と呼ばれることはめったになく、社会通念上日本人であることにエスニシティが強く影響している。国籍取得に関して多くの国が出生地主義または血統主義と出生地主義の混交政策を取る中、日本、韓国など一部の国においては基本的に血統主義のみを取っており(日本の国籍法では例外として日本で生まれ、かつ両親の国籍が不明の場合のみ出生地主義で国籍が与えられる)、法的な影響とともに、上記の第四類型に見られるような国民と民族の一致や同化政策を背景とした文化形成の歴史が単文化主義化を強く促している。
多くの国の場合、上記の分類のように国民であること(市民権)と民族・エスニシティとは分離して捉えられており、これらが一致して捉えられるのは現代ではまれである。日本語ではnationの翻訳語として「国民」と「民族」が使い分けられるが、英米仏ではnationまたはそれに類する言葉は「国民」としての意味が強く、独露では「民族」としての意味が強まるという。
ただし、ここで日本を単文化主義の国と一様に捉えてしまうと、それもまた一時流行となった日本特殊論同様の自民族主義の罠に陥ってしまう可能性がある。単文化主義的に見える日本像はいわば「あたかも一体性が存在するかの如き外観」の整備された結果であって、その実覆い隠された亀裂が幾重にも存在しているというのが現状であると言えるだろう。
これまで簡単にまとめたような、ナショナリズムをめぐる多様な捉え方を踏まえて、亀裂を覆い隠すために緊張の糸で紡がれた日本という一体性を考え直す必要が高まりつつあると思う。「国家」「民族」「文化」を考えるスタートラインに立つための基本のキとして、このナショナリズムをめぐる基礎知識の整理は一度しておきたかった。 
 
「民度」という言葉

 

ここ数日の中国の反日デモ勃発から、特にtwitterやブログなどウェブ上でしきりに「民度」という言葉を見かけるようになった。反日運動が高じて暴力的な行為に及ぶ中国の人々、あるいはそれに対抗意識を燃やして日本で急進的な意見や行動に出る人々などを批難する文脈で「民度が低い」という表現がされているようだ。
Wikipediaによると「民度」とは『民度(みんど)とは特定に地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指すとされる。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。』とある。
「民度」という言葉の由来と成立過程は実は詳しくわかっていないらしい。その「民度」という言葉の登場から変遷について陳贇氏の論文『「民度」――和製漢語としての可能性』が詳しかった。同論文によると、「民度」と言う言葉は明治時代に日本で作られた造語であるらしい。以下『』内は同論文より引用。
「民度」という語は古くは明治五年(一八七二)の政府の議事録に産業政策等諸施策を『中央政府が民度を慮りつつ法律を定めていく』という文脈でいわゆる経済・貧富の度合いという趣旨で使われているのが最初で、その後明治十九年(一八八六)から明治二〇年(一八八七)にかけて、朝日・読売等の新聞で頻繁に使われているのが見られるという。その意味は多岐にわたり、物質的・経済的意味から社会全般、文化・文明的な意味まで文脈ごとに違う意味で使われており、そもそもの意味が曖昧であったことが指摘されている。
『当時(1886年)において、「民度」がすでに新聞記者、読者などの知識人の間である程度は知られており、話題性を持つ存在ともなっていたものの、しかし意味は今ひとつ理解されていない状況にあった』と推測されている。
『「民度」はおよそ明治十年前後に現れ、人民の経済、思想の程度を包摂する意味の語として、明治二十年前後から、地方から都市までの知識人の間では広く使われるようになっていたことがわかる。』
明治初期に啓蒙思想家の諸著作で「民度」に近い意味を持つ表現として、「人民開化の度」「人民貧富の度」「人民生活の度」といった表現が見られ、それらの語が、当時の民権、民心、民主、民政など民○という新語が次々作られていたことを背景として「民度」という言葉へと転化したと推測されている。ただし、『西洋に原語を有しない「民度」は意味の曖昧性ゆえの概念としての稀薄性により、明治初期の思想家たちの間で定着』しなかったという。
大正期になると「民度」という言葉は植民地統治関連の表現として新聞等メディアで多く使われるようになっていったという。台湾や韓国など植民地に対し現地の経済情勢や文化風俗、読み書き能力等教育レベルについて「民度」という言葉が使われていた。宗主国の目線から植民地を見る視点として「民度」の高低が述べられていたということだろう。
戦後は昭和三〇年代をピークとして「民度」という言葉の使用は減少していったが、一九八〇年代以降「民度」から経済的意味が薄れて『「文明、文化、教養」面が突出』して使われるようになり、一九九〇年代後半以降再び「民度」という言葉の使用は増加傾向にあるという。
同論文でも指摘されている通り、「民度」という言葉の由来や生成過程は不明確で今後より調査研究が進められる必要があるとのことだが、ここではっきりしている点としては「民度」という言葉はそもそも曖昧な意味で登場していること、大正期に宗主国から植民地を評価する表現として広まったこと、八〇年代以降文明・文化・教養といったソフト面の意味が突出し、再び使用が増加傾向にあること、ということらしい。
グローバル化にともなうネーションの弱体化、ネーションの弱体化に対する反応としての保守的傾向の強化、反知性主義の台頭、歴史・領土認識に関する近隣諸国との国際的対立など「民度」という言葉が増加傾向にある八〇年代以降様々な変化があるが、「民度」という言葉の復活は少なからずそのような世界的な動きを反映したものであるのかもしれない。「民度」というとき、それは相手国が一つの統一された文化・民族であることを想定しているという点で、特に八〇年代後半以降の保守的傾向の台頭と密接な影響があるようにも感じる。単純に相手への不満を伝える表現として使っているとしても、その言葉を選択するようになった背景として、もう少し大きな社会的な変化から、個々人が、知らず知らず影響を受けているのではないかと思う。
以上のようなことを踏まえて、「民度」という言葉はやはりその本質的曖昧さゆえに、恣意的に拡大解釈して相手の民族や国民全員にレッテルを貼ってしまう危険性と隣り合わせであると思う。それは本来批判しようとする対象となる人々を見えなくさせる。「民度」は歴史的経緯を見てもその意味とその言葉が指すものは非常に曖昧なのだ。ゆえに「民度」という言葉は「民度が高い」人々なら極力使うべきではないと思うのだがどうだろうか。
とはいえ、もはや人口に膾炙してしまっているようでもあるし、「民度」という言葉はこれからも他国や多民族、あるいは自国の一部の人々を批判する言葉として広く使われていくのだろう。それはどのような変化をもたらすだろうか。あるいは何も影響は無くただのスラングとして消費されていくだけなのだろうか。

韓国人の国民性

 

国民性
1. 日本の敗戦により生まれた国であるため、日本を否定するのが宿命でかれらのアイデンティティーとなっている。
日本製の漢字語が多いことを意識しないために、多くの文化遺産が理解できなくなっても、漢字は使わない。(韓国語語彙の80%が漢字語といわれる。韓国語語彙の70%が日本語由来。学術用語の90%以上は日本語由来。)
日本の文化を多く取り入れているが、知っていても言ってはいけない。日本文化は韓国が由来と主張する。
日本のアニメも韓国製として、著作権は無視されがちである。
代表的な新聞が、原爆は「神の懲罰」であり、さらに原爆を日本に落とすことが必要だ、と言って賞讃される。 (『中央日報』2013年5月20日、キム・ジン論説委員)
2011年に大地震と津波が日本で発生したとき、韓国の新聞は日本への天罰であると書いて賞讃される。
韓国大統領の批判記事を書いた韓国の新聞を引用した日本の新聞記者が罪に問われる。
日本の支配を経験した老人は、日本の支配をそれほど悪く思っていない。日本の支配を知らない世代への反日教育が徹底された。 そして老人は殺され、犯人は賞讃された。天皇を尊敬し、日本の首相を殺害したテロリストが韓国では英雄であることと同じである。
2. 細かなことは気にしない、「ケンチャナヨ精神」の国である。
良くも悪くも、大らかな国民性。ラテン系という人もいる。
建物、道路、乗り物の細かな欠陥から事故が多い。
捏造や偽物が多い。多くの模造品を売る店があるが、あまり気にしない。
3. 論理よりも感情が優先する。
日本は海に囲まれているため外部からの侵略の心配は少ないが、地震と台風などの災害が多い。災害を防ぐために、忍耐強い性格と論理·科学的に思考する性格が醸成された。一方韓国は地震と台風は少ないが、大陸と地続きのため、絶えず他民族の侵略があった。科学的・論理的な思考は発達せず、強い民族と上手に交渉する術が発達した。強い者には媚を売る事大主義。弱いとみた相手からは「ゆすり」「たかり」で金を巻き上げ、罵詈雑言を浴びせ、酷い仕打ちをする。
裁判は、法律によるよりもまず感情で結論が出る。
1953年、韓国政府は一方的に、武力を使用して竹島を占領したが、韓国領ということを論理的に説明することができない。
いわゆる慰安婦問題について、世界中に慰安婦像を建てようとしているが、科学的に証拠に基づいて説明することなく、感情だけで説明しようとする。
科学分野でノーベル賞を得る者がいないのは、論理的思考が苦手であることとケンチャナヨ精神のためと言われている。
4. すべて交渉によって何事も解決できると考える。
ロビー活動や宣伝によって、自分たちの主張が通ると考える。反対に自分たちの主張が通らなかった時は、主張の正当性ではなく、ロビー活動が弱かったと考える。
サッカーワールドカップやオリンピックの成績も交渉次第で得られると考える。韓国出場試合での審判の判定も交渉次第で何とかなると考える。 その結果、イタリア・スペインを破りベスト4を獲得した。
科学的、論理的に解決するよりも、交渉で解決しようとする。
日本人をたくさん拉致しておいて、返さず、交渉材料にして見返りを求める。(北朝鮮)身代金誘拐と同じことを政府が行う。
5. 中身よりも、外見を重視する。
韓国型新幹線(KTX)は、予定のスピードは出ず、エンジン冷却系統の事故が多いが格好が良ければよい。仁川空港磁気浮上鉄道は2013年9月に開通する予定だったが、多くの瑕疵事項が発見され延期された。2016年2月3日にやっと開通した。 最高速度はたった80kmで、しかも故障が多い。
ドアの蝶番のネジが、壁面に対して水平に収まっていないので「ここがダメだ」と、いくら言っても、不動産業者も施工業者も、決して悪意ではなく「えっ、どこが」と言う。
6. 中国など他民族の支配を受けた歴史が長いため、自民族を極端に主張する。そのためプライドが高い。
イエス・キリスト、サッカー、孔子、ジンギスカン、イギリス人 、飛行機、等あらゆるもののは、韓国に由来すると言う。
韓国に来た外国人に自国の自慢をする。ハングルは世界一の文字とか、韓国人は整形が盛んであることをさて置いて美人が多いと言う。  
現代韓国人の国民性格のマイナス面
依頼心が強い。 
すべきことをせず他人に期待し裏切られると恨んだり非難する。 
相手も自分と同じ考えだと思い「違う」と分かると裏切られたと思う。 
せっかちで待つことを知らず「今すぐ」とか「今日中」とよく言う。 
すぐ目に見える成果をあげようとし効果が出ないと我慢せず別の事をやろうとする。 
計画性がない。 
自分の主張ばかりで他人の事情を考えない。 
見栄っ張りで虚栄心が強い。 
大きなもの・派手なものを好む。 
物事を誇張する。 
約束を守らない。 
自分の言葉に責任をもたない。 
何でも出来るという自信を誇示するが出来なくても何とも思わない。 
物事は適当で声だけ大きくウヤムヤにする。 
綿密さがなく正確性に欠ける。 
物事を徹底してやろうとしない。 
“見てくれ”に神経を使う。 
「世界最高」とか「ブランド」に弱い。 
文書よりも言葉を信じる。 
原理・原則より人情を重んじ全てを情に訴えようとする。  
国民性を知る7つのニュース
1. 大韓民国の「原点」としての「光復」
8月15日といえば日本では「終戦記念日」とされていて、過去の戦争に想いをいたす日になっていますが、1910年以降、日本の統治を受けていた韓国にとって、日本の敗戦は日本による支配からの「解放」を意味しました。ソウルをはじめとする各都市では日本からの解放を喜ぶ市民が街頭に出て「独立万歳」を叫びました。韓国ではこのことを失われていた光が回復した、という意味で「光復」といい、8月15日は「光復節」として祝日になっています。このような植民地支配とそれからの解放という歴史的経緯から、韓国には「国」「祖国」あるいは「民族」という価値を非常に重視する国民性があります。
2. 韓国現代史最大の虐殺事件「済州4.3事件」
現在、南北に分断されている朝鮮半島の南側に位置する韓国。日本の敗戦後、北緯38度線を境界として北をソビエト連邦、南をアメリカが占領していましたが、米ソの対立が激化するなかで南北で別個の国家建設が進められていきました。ソ連側が朝鮮半島全体での総選挙を拒否したため、南朝鮮での単独選挙がアメリカ軍政当局によって決定されました。これに反発した左派の南朝鮮労働党勢力が1948年4月3日に済州島で武装蜂起し、鎮圧しようと派遣された軍や警察、右翼団体によって多くの島民が殺害されました(済州4.3事件)。
以降、済州島は「アカの島」などと呼ばれ、21世紀にはいって歴史の見直し事業がはじまるまで韓国社会で偏見にさらされることになりました。済州島で起こった同じ韓国人同士が殺し-殺されるという実際の経験をつうじて、韓国社会には異質なものを敵視する空気が支配するようになりました。次の3につづく、国民性形成の契機となった事件です。
3. 民族分断の悲劇「朝鮮戦争(韓国戦争)」
その後、南北にそれぞれ大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が建国され、分断国家体制が確定します。1950〜53年には直接戦火を交える朝鮮戦争(韓国戦争)が勃発し、朝鮮半島のほぼ全域が戦場となり国土は荒廃しました。
この分断と戦争によって韓国社会では反共主義が強化され、左派勢力が一掃された結果、極端な「共産主義アレルギー」という国民性が生まれました。現在も共産主義を擁護したり支持するような言動は国家保安法によって厳しく取り締まられます。また、緊急電話番号のひとつにスパイを通報する「111」があります。
4. 韓国の高度経済成長「漢江の奇跡」
1960年代に入ると韓国は朴正煕(パク・チョンヒ)のもとで経済成長期を迎えます。とくに1965年の国交樹立以降、日本から資本や技術の移転がなされ、韓国の経済発展が加速していきました。このような急速な経済発展をソウル市内を流れる漢江(ハンガン)の名前をとって「漢江の奇跡」と呼びます。
この時、集団行動を基本とした工業生産性向上や、集団労働による農村の振興を企図する「セマウル(新しい村)運動」が行なわれました。その結果、韓国では「集団性重視」という国民性が強化されました。最近の若者は少しづつ避けるようになってきているものの、やはり今でも日本とくらべて学校や職場で「みんなで〜する」という場を重視する傾向があります。
なお、このような経済発展を実現した朴正煕政権について評価する見解と、あくまで軍事クーデタによる独裁政権であることから否定する見解があり、現在の政界の与野党対立とも重なって2つの見解は対立しています。
5. 民主化運動の象徴「光州事件」
朴正煕が1979年に側近によって暗殺された後、軍事クーデタによって政権を握ったのが全斗煥(チョン・ドゥファン)です。この政権に対して、その後、学生を中心に反発した市民たちによって激しい民主化運動が展開されましたが、その象徴的な事件として歴史に名をのこすのが「光州事件」です。この事件自体は全斗煥政権発足以前のもので、1980年5月 18日から10日間、全羅南道光州(クァンジュ)市で発生した学生・市民の蜂起とそれに対する軍の容赦ない鎮圧による一連の事件です。朴正煕死後に韓国社会に高まった民主化要求を反映したものでした。まず、丸腰でデモをしていた市民に軍が発砲し、多くの市民が殺害されました。これに反発した市民が軍の兵器庫から武器を奪って武装し、道庁に立てこもって市街戦を展開しました。この時、市民を鎮圧する作戦を実行したのが当時、軍の将校であった全斗煥でした。民主化要求へのこのような弾圧と抵抗は全斗煥政権に対する抵抗運動の象徴となり、1987年の民主化宣言を実現しました。
この時、韓国人の国民性として民主化運動の原動力となったのはリーダーの「道徳性」でした。韓国には儒学のうち、正邪の別を重視する朱子学の伝統がありました。そこではリーダーは人々の意見を注意深くきき、暴力ではなく人格によってリードしていくべきだ、という倫理観があります。光州事件で全斗煥がとった行動は、このような倫理に反するもので、韓国の国民性からするとリーダーとして到底受容できるものではなかったのです。
6. さらに発展する韓国を襲った「IMF通貨危機」
1988年にソウルオリンピックが成功し、政治の民主化の流れは社会の民主化へと進んでいきました。93年には民主化運動の指導者の一人であった金泳三(キム・ヨンサム)が大統領に就任し、これまでの軍人が支配する時代に終わりを告げるべく「文民政権」と名乗りました。韓国は経済発展と民主化を成し遂げた新興国としてさらに成長する勢いだったのです。
そのような順風満帆にみえた韓国を襲ったのが1997年12月3日にはじまる、いわゆる「IMF通貨危機」です。これは韓国の通貨であるウォンの価値が急激に下落するという危機に陥って国家経済破綻の危機に瀕して、国際通貨基金 (IMF) からの資金支援を受けることにした事件です。その影響で当時第2位の規模を誇った大宇財閥グループが倒産・解体したのをはじめ、多くの倒産が相次ぎました。
そのような危機を克服しようと、韓国人は金製品を献納し、国の借金を減少しようと運動しました。これは上で述べた「祖国」を重視する韓国人の国民性によるものだと言われています。
国民生活は、以降、新自由主義的な激しい生存競争にさらされることとなり、若年層を中心に高い失業率や低賃金に悩まされることになりました。韓国人の国民性のひとつといわれる「チャレンジ精神」は、時に賞賛すべき結果を生み、人々を感動させます。しかし一方で、これまでみたような激動の現代史に加えて、非常に厳しい生存競争がその背景にあると考えられることから、手放しでは賛美できない側面もあります。
7. 韓国の事故処理のあり方を示す「セウォル号沈没事件」
この事件は2014年4月16日に大型旅客船「セウォル」号が、全羅南道珍島郡観梅島(クヮンメド)沖で転覆し沈没した事故です。数年前ですので、日本でもニュースになりましたよね。結果的には乗員・乗客の死者が295人、行方不明者9人、捜索作業員の死者8人という惨事となり国民的な悲しみの雰囲気にあふれました。
この悲しい事件をうけて、被害者やその家族に連帯しようという動きがいち早く起こりました。これは韓国の国民性としてよくいわれる「情」がはたらいたものであると思われます。その一方で、極めて韓国的だと思われる事故後の世論や被害者・家族の反応がありました。それはどういった構造で事故が発生したのか?という事故原因の追究よりも、責任者が誰でどのように責任をとるべきなのか?という責任追及の問題が全面的に押し出された、ということです。そこでは船会社の会長、船長、さらには監督官庁や救助にあたった海上警察(日本の海上保安庁に相当)、そして大統領にいたるまで、「誰に事故の責任があるのか」という問題に議論が集中しました。これもまた、おそらく「道徳性」を重視する国民性に起因するものだと思われます。
一方で事故の反省をうけて韓国社会の「安全不感症」を見直す動きもありました。韓国には「ケンチャナヨ精神」と呼ばれるものがあります。「ケンチャナヨ」というのは韓国語で「大丈夫」という意味で、韓国人の細かいことを気にしない精神を言い表したものです。これはいい意味では韓国人のおおらかさにもつながるのですが、こと「安全」という問題になると何度も確認作業をすることが求められますし、安全にかかわる決まりを「ケンチャナヨ」といって無視すると、いざという時に大変なことになる、という問題があります。韓国人の国民性として日本でも知られているこの「ケンチャナヨ精神」は事故を通じて大幅な見直しを迫られている、と言っても過言ではありません。
まとめ
日本の支配から解放されていこうの韓国の現代史は「激動」という一言では表せない、前途多難なものでした。そのような中を生き抜いた韓国人たちが今日のような国民性をみずから形成してきたのです。これからも韓国はグローバル化などによってさらなる変革を迫られることでしょう。
「国民性」というのは固定的なものではなくて、歴史や社会の状況によって変化してゆくものです。そしてこれまでお話してきたことはそのほんの一端に過ぎず、実際はもっと複雑な関係性のなかで形成されるものです。そしてこれからも、韓国人の国民性は変化してゆくことでしょう。
韓国人と深く向かい合っていく上で、韓国の歴史のなかで形成されてきた韓国の国民性について表面だけでなくその背景まで理解することは、たがいの関係をよりスムーズにし、真の隣人として日本と韓国が共生していくうえで不可欠なことではないでしょうか。  
「虚勢を張る」韓国人 2015/7
 命より体面が大事な国民性 負けを認めず相手を非難
昨年11月、アメリカにおいてインターネット上で日本人、中国人、韓国人に関するイメージ調査がありました。その結果、日本人は「礼儀正しい」「相手を敬う」、中国人は「騒がしい」「礼儀に欠ける」、韓国人は「情熱的」「プライドが高い」といったイメージを持っている人が多いことがわかりました。
韓国は、儒教の影響で体面や形式を重んじ、上下関係を非常に重要視します。1歳でも自分より年上であれば敬語を使い、年下に対しては決して敬語を使いません。親密な関係になっても、この言葉遣いは継続します。年功序列は美徳でもありますが、しばしば問題となるのは、体面の部分でしょう。
よく「命より大事な体面」と揶揄されますが、これは韓国人の気質を的確に表しています。この体面を重んじる姿勢が「プライドが高い」と受け取られるゆえんでしょう。韓国における体面とは、日本語の建前やメンツとはわずかにニュアンスが異なり、「虚勢」という言葉が近いと思います。
例えば、スポーツで試合に負けても素直に敗北を認められず、審判や相手の非を挙げて攻撃して自分は悲劇のヒーロー(ヒロイン)のように振る舞うというシーンは、世界的なスポーツの大会でよく目にするところです。決して自分の実力が劣っているのではなく、不運があったから負けたのだと訴えているように見えます。このような態度が、まさに体面重視の最たるものといえます。
韓国における価値判断は、常に「他者との比較」においてなされます。何かにおいて相手よりも自分が劣っていることを認めれば、全人格において相手より下回っているかのごとく尊厳が傷つきます。そのため、たとえスポーツといえども簡単に負けを認められないのです。
韓国が日本批判を繰り返す理由
朴槿恵大統領の父である朴正煕元大統領が『朴正煕選集』の中で「わが民衆は名誉観念が薄弱であり、したがって責任観念が希薄である」と指摘しているとおり、自分のプライドを最も重要とする体面の観念は、責任感の欠如を生んでいます。その結果、自分にとって都合の悪いことに向き合えないのではないかと思います。
そして、それは国家間の関係においても同様です。経済的・国際的立場において、日本が韓国より優位にいることは、韓国人にとって受け入れがたいことです。6月29日付当サイト記事『韓国国民のトンデモ思想「日本は序列が下」 無理な条件への“屈服”を要求し続ける異常さ』で言及したとおり、韓国人の多くは日本のことを韓国より序列が下にあると考えています。あらゆる面において、日本よりも劣っているとは承服できず、さまざまな言い訳をこじつけます。
「文化遺産が少ないのは、日本軍が破壊したから」「経済的に低迷しているのは円安の影響」「日韓関係が悪いのは、日本の歴史認識が誤っているから」など、言いがかりともいえるような論理がまかり通っているのが現状です。
4月29日、安倍晋三首相が米議会で演説したことを受けて、韓国メディアは一斉に「演説内容に慰安婦への謝罪」が入っていないとして批判しました。しかし、翌日米国メディアに安倍首相の演説を称賛する記事が並ぶのを見て、急激にトーンダウンしたのです。韓国において日本は“絶対悪”です。その日本に対して中国や米国と協調して迫り、優位な立場を築きたいというのが韓国政府およびメディアの本音です。そのため、米国が日本に対して厳しいコメントを発した時には鬼の首を取ったように歓喜の声を上げ、日米の親密な関係が報じられた時には非常に落胆した記事があふれます。
そして日米関係があらためて強固であることを示されるにつれ、「韓国が国際社会で孤立している」といった論調が高まっています。韓国の国内メディアは、ここ数カ月、朴槿恵大統領および外務省に対して、「韓国の孤立を招いた」といった批判をする傾向にあります。
実際に韓国が孤立しているかどうかよりも、敵視する日本が称賛されたり国際的評価を得るほどに、「自国の評価が落ちている」「孤立している」と感じるのです。逆に、日本の評価が下落すれば、自国の評価が相対的に上がることを意味します。絶対的に韓国の評価が上がるわけではないにもかかわらず、そのように考えてしまうのです。そのため、「告げ口外交」と揶揄されるような日本批判を繰り返しているといえます。
これは、前述したように、価値基準が「他者との比較」にあることによります。このような考え方を改め、韓国自体の絶対的評価を高めるように努めなければ、未来は明るいとはいえません。  
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
歴史諸話

 


文禄慶長の役朝鮮出兵
嘉吉条約
騎馬民族
元寇1元寇2
遣新羅使
遣唐使
冊封
三浦の乱
朝鮮通信使
柳川一件
倭寇1倭寇2倭寇3
応永の外寇
宗氏1宗氏2
薩摩島津氏の琉球侵攻
 500     1000     1500     2000
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朝鮮修信使
従軍慰安婦問題
「慰安婦」報道 朝日新聞
慰安婦問題 真剣白刃取り
 
文禄・慶長の役

 

文禄・慶長の役
1592年(文禄1)から1598年(慶長3)にかけ、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が明(みん)(中国)征服を目ざして朝鮮に兵を出した侵略戦争。この戦争の呼称について、朝鮮では当時の干支(かんし)をとって「壬辰(じんしん)・丁酉倭乱(ていゆうわらん)」とよび、明では宗属国朝鮮を守るという意味で「万暦(ばんれき)朝鮮の役」とよんでいる。これに対し日本では、その当時「唐入(からい)り」「高麗陣(こうらいじん)」などとよんだが、江戸時代に入り「征韓」とか「朝鮮征伐」とよぶようになった。近代に至って、朝鮮を植民地化の対象とみる考えが出てくると、「朝鮮征伐」という意識はいっそう高まった。また、日清(にっしん)・日露戦争を「日清役」「日露役」とよぶ風潮に影響されてか、20世紀に入り、秀吉の引き起こしたこの戦争を、辺寨(へんさい)を征する「役」をつけ、「朝鮮役」「文禄・慶長の役」とよぶようになった。今日では「文禄・慶長の役」とともに「秀吉の朝鮮出兵」とよぶのが一般的であるが、事の本質からみて、「秀吉の朝鮮侵略」とよんだほうが正しい。
侵略の構想
秀吉の大陸侵略構想は、1585年(天正13)の関白(かんぱく)就任直後からみられたが、1587年の九州征服を契機として具体化した。この年、秀吉は対馬(つしま)の宗(そう)氏に対朝鮮交渉を命じた。その内容は、朝鮮が日本に服属し明征服の先導をすることであった。しかし、旧来から朝鮮と深い交易関係をもっていた宗氏は、秀吉の意向をそのまま朝鮮に伝えず、家臣の柚谷康広(ゆたにやすひろ)を日本国王使に仕立て、秀吉が日本の新国王になったので統一を祝賀する通信使(親善の使い)を派遣してほしいと要請した。これに対し朝鮮側は、秀吉が日本国王の地位を纂奪(さんだつ)したものとみなし、これを断った。しかし、秀吉の強硬な命令により、1589年、宗義智(よしとし)は博多(はかた)聖福寺の外交僧景轍玄蘇(けいてつげんそ)、博多の豪商島井宗室(しまいそうしつ)らとともに朝鮮に渡り、通信使の派遣を重ねて要請した。その結果、黄允吉(こういんきつ)、金誠一(きんせいいつ)らが通信使として来日し、1590年11月、聚楽第(じゅらくだい)で秀吉の引見を受けた。その際、秀吉は彼らを服属使節と思い込んで「征明嚮導(せいみんきょうどう)」(明征服の先導)を命じた。これが朝鮮国王のもとに報告されることになるが、秀吉は翌1591年から肥前名護屋(なごや)(佐賀県唐津(からつ)市)に征明の基地の築城普請を始めた。一方、宗義智と小西行長(こにしゆきなが)は、秀吉の命じた「征明嚮導」を「仮道入明(かどうにゅうみん)」(明に入りたいので道を貸してほしい)という要求にすり替えて朝鮮側に交渉したが、それは拒絶された。
文禄の役
1592年(文禄1)3月、秀吉は約16万の兵力を9軍に編成し、朝鮮に渡海させた。4月12日、釜山(ふざん)に上陸した宗義智と小西行長の第一軍は、「仮道入明」の最後通牒(つうちょう)を朝鮮側に示したが返事なく、釜山城を落とした。ここに第一次朝鮮侵略(文禄の役)が始まる。このあと、加藤清正(かとうきよまさ)、黒田長政(くろだながまさ)らの軍も侵入し、5月3日、朝鮮の都漢城(ソウル)は陥落し、朝鮮国王は平安道に向けて逃亡した。その報告を受けた秀吉は、やがて明を征服したのち、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を北京(ペキン)に移し、日本の天皇は周仁親王(かねひとしんのう)か智仁親王(ともひとしんのう)とし、養子秀次(ひでつぐ)を中国の関白にして、日本の関白は羽柴秀保(はしばひでやす)(大和大納言(やまとだいなごん)、秀次弟、秀長養子)か宇喜多秀家(うきたひでいえ)を任じ、秀吉自身は日明貿易の港であった寧波(ニンポー)に入り、朝鮮は羽柴秀勝(ひでかつ)(岐阜宰相、秀次弟、秀吉養子)か宇喜多秀家に与えるなどの大陸経略構想を5月18日に示した。このときすでに、漢城を落とした日本の兵力は、京畿道(けいきどう)―宇喜多秀家、忠清道―福島正則(ふくしままさのり)、全羅道―小早川隆景(こばやかわたかかげ)、慶尚道―毛利輝元(もうりてるもと)、黄海道―黒田長政、平安道―小西行長、江原道―森吉成(もりよしなり)、咸鏡道(かんきょうどう)―加藤清正を部将として朝鮮全域に入った。その目的は、朝鮮全域を明征服の足場として固め、釜山から義州までの道筋と秀吉出陣の際の宿所を確保することにあった。そのために、朝鮮農民を農耕につかせて兵糧米(ひょうろうまい)をとり、日本軍に反抗する者を処罰する占領政策がとられた。咸鏡道の場合、鍋島直茂(なべしまなおしげ)は朝鮮農民を人質にとって牢(ろう)に入れ兵糧米をとっている。
このような侵略行為に対し、朝鮮民衆は両班(ヤンパン)層に率いられ、義兵を組織して民族的決起を行った。慶尚道の郭再祐(かくさいゆう)の義兵、全羅道の高敬命(こうけいめい)の義兵は日本軍の侵略の直後に決起したものであり、侵略が奥地へ進むにつれ、義兵の決起は朝鮮全域に広まった。また李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍は日本水軍を破って日本の補給路を断ち、明からもいち早く救援軍が朝鮮に入った。1593年1月、明軍は平壌の小西行長らの日本軍を破って漢城に向けて南下した。これに対し日本軍は、漢城の北方にある碧蹄館(へきていかん)で明軍を破り、ここに朝鮮を除外して、日明間で講和交渉の機運が持ち上がった。1593年6月、秀吉は名護屋において明使節に、朝鮮南四道の日本割譲、勘合貿易(かんごうぼうえき)の復活など7か条の要求を示した。それとは別に小西行長は、明側から外交にあたっていた沈惟敬(しんいけい)と画策し、偽作した秀吉の降表(表とは明皇帝に奉る文書)を家臣内藤如安(ないとうじょあん)に持たせて明皇帝のもとへ派遣していた。如安は、釜山周辺に駐屯する日本軍の撤兵、日本は朝鮮と和解し明の宗属国となり、冊封(さくほう)のほか貢市(こうし)を求めないと誓った。この結果、1596年(慶長1)、明皇帝から「茲(ここ)ニ特ニ爾(なんじ)ヲ封(ほう)ジテ日本国王ト為(な)ス」という誥勅(こうちょく)が秀吉のもとにもたらされるに至った。
慶長の役
自分の要求がまったく無視されたことを怒った秀吉は、翌1597年ふたたび兵を朝鮮に出し、第二次侵略(慶長の役)を起こした。第二次侵略の目的は征明でなく、朝鮮南四道の実力奪取にあった。それゆえ、残虐行為も惨を極め、朝鮮民衆の虐殺、鼻切り、捕虜の日本強制連行などが行われた。しかし、明・朝鮮側の抵抗も強く、朝鮮南部に侵入した日本軍はほとんど海岸線に釘(くぎ)づけとなった。このときの戦いとしては、南原城(なんげんじょう)の戦い、蔚山(うるさん)の籠城(ろうじょう)、泗川(しせん)の戦い、順天(じゅんてん)の戦い、露梁津(ろりょうしん)の海戦などが知られている。その間、1598年8月秀吉の死去により、日本軍は朝鮮からの撤退を始めるようになり、同年11月、島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終わった。 
 
朝鮮出兵

 

1 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
秀吉の朝鮮出兵については、晩年の秀吉は征服欲が嵩じて意味のない戦いをしてしまったようなニュアンスで学んだような記憶がある。歴史家も秀吉の誇大妄想と記述しているケースが多いようだ。
最近の高校教科書で確認してみよう。例えば『もう一度読む山川日本史』には朝鮮出兵についてこう書かれている。
「秀吉はまた外交の面でも積極的で、倭寇などの海賊的な行為を禁じるとともに、日本人の海外発展を援助したので、日本船の東南アジア方面への進出が盛んになった。秀吉はさらに明(中国)の征服をくわだて、まず朝鮮に対して国王の入貢と明への先導をもとめた。しかし朝鮮がこれに応じなかったので、秀吉は2度にわたって出兵をおこない、明の援軍や、朝鮮民衆のはげしい抵抗にあって苦戦を強いられた(文禄・慶長の役)。1598(慶長3年)年、秀吉の死によって全軍は撤兵したが、朝鮮出兵とその失敗は、明・朝鮮両国の反日感情をつのらせたほか、国内的にも豊臣政権がくずれる原因の一つになった。」
今年の2月にこのブログで秀吉が伴天連禁止令を出した背景について書いたことがある。当時の秀吉はポルトガルやスペインがキリスト教を布教させて住民を手なずけた後に日本を武力で侵略する意図を見抜いており、その流れを止めるために伴天連禁止令を出したことを、当時の記録などを参考にして記事を3回に分けて書いたのだが、そんな炯眼を持つ秀吉が、自らの征服欲のために朝鮮出兵を行ったとする説に違和感を覚えて、自分でいろいろ調べてみた。
スペインは1571年にフィリピンを征服し、直ちに明国(中国)の征服計画に着手している。織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺された翌年の1583年にマニラ司教のサラサールがスペイン国王に送った書簡(6月18日付)には
「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」と書かれており、その二年後にイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョも、フィリピン・イエズス会の布教長への書簡で、日本への軍隊派遣を求めるとともに「…もしも国王陛下の援助で日本66ヶ国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭の良い兵隊を得て、一層容易にシナを征服することが出来るであろう…」(1585年3月3日付)とあり、キリスト教の布教がスペインの侵略政策と密接に関係し、スペインが中国の征服を狙っていたことは明確なのだ。
当時の情勢からすれば、スペインは日本よりも明から攻める方が容易であっただろう。もしスペインが明を征服すれば、朝鮮半島も同時にスペインの支配下に落ちただろう。スペインに朝鮮半島から攻められればわが国も相当な犠牲が避けられないはずだ。
イエズス会日本準管区長のコエリョがスペインに軍隊派遣を要請した直後の1585年5月4日に、秀吉はコエリョと会っている。ムルドック「日本史」にはこう記されている。
「秀吉はコエルホ(コエリョ)に語りて曰く、予が日本全国を平定するの日は近きにあり。この上は…親から(みずから)進んで、朝鮮、支那の征服に従事する筈ぢゃ。今や大兵輸送の為めに、戦艦二千艙を造る可く、樹木伐採の命を布かんとする所である。予は師父等に、何等の註文なし、但だ彼等の力によりて、葡萄牙(ポルトガル)より二個の巨大にして、武装したる船を獲来る丈の事のみだ。…若し成功して、支那人悉く皆予に恭順せんか、予は支那人より支那を奪うを欲せず、又た予自ら支那にあるを欲せず。予は唯だ支那人をして、予を其の君主と認めしむるを以て、足れりとするのみ。然る時には、其の全土に教会堂を建てしめ、総ての人民に令して、邪蘇教徒たらしめ、聖律に遵由せしむ可し。」
秀吉は、コエリョの計画を逆手に取って自らの手で明を征服すべく、中国でのキリスト教の布教を認める代わりに軍艦を手に入れて、逆に彼等を利用しようとしたのだ。
さらに秀吉は朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)に、ゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて、応じなければ明征服のついでに征服するから後で後悔するな、と恫喝している。
このような降伏勧告状を突き付けても、スペインは日本には攻めて来なかった。今年の1月にこのブログに書いたが、鉄砲の大量生産に成功した日本は世界に輸出し16世紀末には世界最大の鉄砲保有国になっていたし、当時の英国の鉄砲保有数は肥前国の保有数の3分の2程度にすぎなかった。それほど日本の鉄砲保有台数は多かった。鉄砲だけではなく刀も鎧も日本の物の方が優っていた。ヨーロッパの剣も鉄砲の銃身も日本の刀剣で真っ二つに切り割かれる程度のものだった。さらに日本の武士の数は、人口の7%から10%近くもいたが、ヨーロッパはどの国も人口の1%を超えなかったと言われている。正面から攻めるやり方では、スペインは日本に勝てるはずがなかったのだ。
また、秀吉は李氏朝鮮軍も明軍も決して強くないことが分かっていた。スペインが先に攻撃を仕掛ければ、明も李氏朝鮮も簡単に征服されてしまうだろう。ならば、スペインに先んじてわが国から明を攻めて、支配下に置こうと考えたのではないか。
『明史』にはこう書かれている。
「秀吉は…年号を文禄と改め(1592年)、そのころから中国を侵略し、朝鮮を滅ぼして併合しようという野心を抱くようになった。そこで以前の汪直(倭寇の頭目)の残党を呼んで情報を集めた結果、唐人が倭人を虎のように恐れていることを知り、…着々と軍備を整え、艦船を修理し、家臣と謀略を練り、中国の北京に侵入するには朝鮮人を案内者とし、浙・閩等沿海地方の郡県に侵入するには中国人を案内役にするのがよかろうということになった。…」
前回までに記した通り、倭寇のメンバーの大半が李氏朝鮮や明国の民衆であり、もし明国を征伐したとしても協力する朝鮮・明国の勢力があったことを中国の正史である『明史』に書かれているのだ。
秀吉軍は文禄元年(1592)4月13日に釜山(プサン)攻撃開始後僅か20日の5月3日に首都漢城(現在のソウル)を陥落させているのだが、500km近いプサンからソウルの距離*をこんなにはやく進軍できたのは、相手の抵抗があまりなかったからではないのか。この時に日本軍兵士の半分は朝鮮の民であったという記録があり、多くの朝鮮民衆が秀吉軍に加勢したのである。この話を書きだすと長くなるので、別の機会に書くことにしよう。(*東海道五十三次の約500kmは旅人が通常15日程度で旅をしていたと言われている。)
秀吉の第一回目の朝鮮出兵の後に文禄五年(1596)土佐沖で起きた有名な事件がある。300人近い黒人奴隷を満載しメキシコに移送中であったスペイン船サン・フェリペ号が座礁してしまった。秀吉は家臣の増田長盛を派遣して、積荷一切を没収しようとしたが、それに抵抗しようとしたサン・フェリペ号の水先案内人が増田の前に世界地図を広げ欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土を示し、何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったかと増田の問いに対し、その水先案内人は「それはまず、宣教師を諸国に派遣し、その民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」と答えたと徳富蘇峰が書いているが、実際にそのようなやりとりがあったかどうかは日本側の記録には見当たらない。
しかし、同様の発言があっても不自然ではない史料はイエズス会側に残されている。日本にいたイエズス会のヴァリヤーニは翌年にイエズス会フィリピン準管区長ライムンド・プラドに宛てて、
「(日本などの)地域の王や領主はすべてフィリピンのスペイン人に対して深い疑惑を抱いており、次のことを知っているからである。即ち、彼等は征服者であって、ペルー、ヌエバ・エスパーニャを奪取し、また近年フィリピンを征服し、日々付近の地方を征服しつつあり、しかもシナと日本の征服を望んでいる。…何年か前にボルネオに対し、また二年前にカンボジャに対して攻撃を加えた。少し前に彼等はモルッカ諸島を征服するための大艦隊を有していた。…日本人やシナ人も、それを実行しているスペイン人と同様にその凡てを知っている。なぜなら毎年日本人やシナ人の船がマニラを行き来しており、見聞したことを語っているからである。このようなわけで、これらの国民は皆非常に疑い深くなっており、同じ理由から、フィリピンより自国に渡来する修道士に対しても疑惑を抱き、修道士はスペイン兵を導入するための間者として渡来していると思っている。…」と書いている。
秀吉はスペインの日本征服の魂胆を見抜き、修道士はその為に送り込まれたスパイだと認識していることをヴァリヤーニはプラドに警告しているわけである。この書簡から、秀吉は倭寇のメンバーからも情報を収集していることが伺える。
これらの一連の流れから考えれば、秀吉は単なる征服欲で明国に出兵したという教科書の記述は、当時の時代背景を理解していない浅薄な見方としか思えないのだ。
秀吉は当時のスペインの明征服計画が存在することを知っていたことは確実だ。もし明がスペインに征服されれば、朝鮮半島をスペインが支配することは時間の問題であり、そうなればスペインは朝鮮半島から最短距離でわが国を攻めてくることになってしまう。大量の食糧や武器弾薬をつぎ込んで大軍団でわが国を攻めてきた場合、一部の切支丹大名が離反することが想定されるので、そうなればわが国は分裂して、元寇のときよりもはるかに大きな危機に陥ると考えていたのではないか。そうならないために秀吉は、スペインの先手を打つことで明・李氏朝鮮を傘下に治めてわが国を西洋植民地化されることから守ろうとした、と考える方がずっと自然だと思うのだ。
晩年の秀吉が教科書などでロクな書かれ方をしないのは、当時の世界史の大きな流れの中で秀吉の朝鮮出兵や伴天連禁止令を考えないからではないのか。 
2 多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍
前回の記事で秀吉の軍隊に加勢した朝鮮の人々が多かったことを書いた。この点については教科書には全く記述されていないところである。第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の記録を見てみよう。
秀吉の朝鮮出兵については日本のみならず李氏朝鮮や明国にも記録が残されており、「文禄の役」の戦の経緯は次のサイトでコンパクトに纏められている通りで、日本軍は連戦連勝で平壌まで進んでいる。
朝鮮出兵については、山川の日本史をはじめ多くの教科書には「朝鮮民衆の激しい抵抗にあって苦戦した」と簡単に書いているのだが、それならばなぜ簡単に日本軍が平壌まで進む事が出来たのか。
まず、日本軍が上陸した釜山(プサン)では4月13日の早朝に攻撃開始後数時間で日本軍は釜山城に攻め入って勝利している。日本軍が短時間で勝利した理由は簡単だ。日本軍は大量の鉄砲があったが朝鮮軍は鉄砲を持っておらず、刀も槍も弓矢も性能は日本の武器の方がはるかに優秀だったからだ。
日本軍が釜山を橋頭保として北の漢城(ソウル)に軍を進めて行くためには、釜山から数キロ北にの東菜城を陥落させる必要があった。翌4月14日早朝に戦闘開始し、この戦いでは朝鮮軍は奮戦し8時間持ちこたえるのだが兵器の差で日本軍が勝利し、北から現地に向かっていた慶尚道の全軍の指揮官らは、その報を聞いて逃げたという。
その後、4月24日に「尚州の戦い」、4月28日に「弾琴台の戦い」があり、いずれも日本軍が簡単に勝利し、5月3日には現在のソウルである首都・韓城が陥落する。
韓城では戦いらしい戦いはなく、小西行長らの一番隊が漢城に到着した時には、守備隊は誰もいなかったという。前日に宣祖王は平壌に向かって逃亡していたのだ。
「…漢城は既に一部(例えば、奴婢の記録を保存していた掌隷院や、武器庫など)が略奪・放火されており、住民もおらず放棄されていた。漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却した。王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡した。全ての村々で、王の一行は住民たちと出会ったが、住民たちは王が民を見捨てて逃げることを悲しみ、王を迎える礼法を守らなかった。
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮は、日本軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢は、日本軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った…」
当時の李氏朝鮮は両班(ヤンパン)を最上位とする強固な身分制社会で、全人口の三割から五割は奴婢(ぬひ、奴隷の一種)身分だったと言われている。「宣祖実録」によると、このとき朝鮮の民衆は朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出したというのだ。
「宣祖実録」は宣祖帝の時代の出来事の李氏朝鮮国の公式記録だが、原文で良く引用されるのが宣祖帝が漢城を脱出するところの記述である。
「人心怨叛,與倭同心」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)
「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」(我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要があるのか?」)
したがって、日本軍が漢城に進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかったばかりか、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が半分近く含まれていたのである。
韓国の教科書には「(日本軍侵略の為に)文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているそうだが、史実は朝鮮の民が景福宮等に火をつけたものであり、秀吉の軍隊が漢城に入る前には既にそれらの建物は焼け落ちていたのだ。
多くの民衆が国王に対し、国民のことを顧みずもっぱら後宮を富ませたと罵声をとばし、石を投げたという記録もあるそうだ。日本軍は、朝鮮軍からの抵抗をあまり受けることなく北進を続け、6月15日には平壌が陥落した。日本軍より先に漢城から平壌に逃亡した宣祖王は、平壌に日本軍が迫ると再び逃亡し、冊封に基づいて明国(中国)に救援を要請。小西行長らの一番隊は和平交渉を模索して平壌で北進を停止した。
7月16日に明軍の援軍が平壌に到着するが、日本軍はこれを撃退する。
加藤清正らの二番隊が進んだ咸鏡道(半島の北東部)については『(道内)各地の土兵・土豪は役人を捕らえて降る。日本兵は刀剣を使わず』に快進撃したという記録があるそうだ。人々は日本軍の侵入前に、咸鏡道観察使(知事)柳永立・兵使(軍司令官)李渾さえも捕らえて一気に惨殺してしまい、この結果、咸鏡北道明川以北の八城市は従来の政府役人に代わって、日本軍の庇護のもとに蜂起した民衆が首長となったという。
という具合で、上陸した日本軍は各地で勝利し全羅道を除く全土を早い時期に制圧したのだ。
しかし日本軍の弱点は船にあった。日本の船の底は平らで、帆を一本かけるだけだから順風でないとロクに使えなかったし、船も小さかった。
一方朝鮮の船は李舜臣(りしゅんしん)が考案した亀の形をした有名な「亀甲船(きっこうせん)」といわれる大きな船で、日本軍の船よりも安定感があり、船体の上部に槍や刀を上向きに植えこんでいたので、日本軍が乗り移って戦うことが困難な構造になっていた。朝鮮の船は戦うことを前提にした船であるのに対し、日本の船は輸送船団に武士を乗せたようなものだ。海の戦いでは日本軍は劣勢が続き、全羅道から北上することが出来なくなって、そのために前線に充分な武器や食糧が運べなかったのだ。
日本軍は陸戦では勝ち進んで平壌まで来たが、これから先、明国に進もうにもまともな道路がないし、一方で兵糧は不足する。日本の船は来ないし寒さは厳しくなるばかり。ゲリラも現れ、疫病にも苦しめられたという。これでは日本軍の士気は上がらない。
文禄二年一月八日、李如松(りじょしょう)率いる明軍が平壌に総攻撃を仕掛けてきた。明軍は城の食糧庫に火を放ち、そうなると日本軍ももう長くは戦えない。日本軍は大同江を渡って逃げたが、明兵も朝鮮兵もそれ以上は追ってこなかったという。この平壌の戦いが、陸における日本軍の唯一の敗戦と考えてよい。
明がこの時の戦果を調べさせたところ、李如松が平壌でとった首の半ばは朝鮮人だったという報告があるそうだ。多くの朝鮮民衆が日本軍に加担していたことは確実なのである。
日本軍は一旦漢城に戻って体制を立て直す。補給に問題があるので籠城戦を避け、碧蹄館(へきていかん)で再び明軍と戦い日本軍は大勝し、明軍の李如松は命からがら逃走したという。
文禄二年の三月に漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれてしまい、窮した日本軍は講和交渉を開始する。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣し、小西行長・加藤清正の三者で会談を行い、4月18日に日本軍は漢城より釜山へ退却した。
しかし、秀吉には明が降伏したと言い、明朝廷には日本が降伏したと言って双方の講和担当者がそれぞれ偽りの報告したため、両国とも受け入れられない講和条件を要求してきたが、日本側の交渉担当の小西行長と小西如安は偽りの降伏文書を作製して戦争を終結させてしまう。文禄五年(1596)9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられておらず、自分が明の臣下の扱いであることを知り激怒する。秀吉は明の使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定したというのが、文禄の役の流れである。
このような史実を知ると、第二次世界大戦の日本軍がマレー半島からシンガポールに進み、ジャワやラングーンを電光石火で陥落させたが補給を軽視して失敗した歴史を思い出す人が少なくないだろう。歴史に学ばない国民は、何度も同じ過ちを繰り返すということなのか。
また当時の記録などを読めば読むほど、わが国で流布している教科書の「明の援軍や朝鮮民衆のはげしい抵抗にあって苦戦を強いられた(山川日本史)」という記述がばかばかしくなって来る。なぜ日本の教科書は朝鮮人口の多くが奴婢身分であり、民衆の多くが日本軍に加勢したという史実を書かないのか。
この朝鮮出兵で多くの朝鮮の陶工が捕虜として日本軍に連行されたとよく言われるのだが、彼等にとっては自国に残っても奴隷(奴婢)の過酷な暮らしが待っているだけではなかったのか。日本で技能者として優遇されるのであれば、日本での暮らしを望んだ人が多くいても不思議ではないのだ。秀吉の朝鮮出兵が終わって60年程度あとに、船が難破して李氏朝鮮に流れ着き1653〜66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていたオランダ人のヘンドリック・ハメルは「朝鮮幽囚記」に、こう記述しているという。
「奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の婦人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。…」
秀吉の朝鮮出兵の後も、李氏朝鮮には相変わらずの身分制度が相当強固に残されていた国だったのだ。 
3 第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった
前回は第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の概略を書いた。この戦いは陸戦では多くの朝鮮民衆が日本軍を支援して連戦連勝で勝ち進んだが、船の進路を阻まれて補給路を断たれて前線が孤立し、さらに前線の食糧倉庫を焼かれてしまったために一旦漢城に戻って体制を立て直すのだが、そこでも日本軍の食糧倉庫が焼かれてしまい、窮した日本軍は和平交渉に入るのだが、日本側の和平交渉を担当した小西行長と小西如安が早く交渉を終えるために偽りの降伏文書を作成したことが後に発覚し、秀吉が激怒する。秀吉は直ちに第二次朝鮮出兵を命じ、第二次朝鮮出兵と言われる「慶長の役」が始まるのだ。
第一回目の「文禄の役」は明の征伐が目的であったが、「慶長の役」は朝鮮征伐が目的であった。諸将に発せられた慶長2年(1597)2月21日の朱印状(『立花家文書』等)には「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城すること」とあり、朝鮮半島の西南部を侵攻し、半島南部に城を築き城主を定めてわが国の領土とするという計画だったようだ。
九州・四国・中国勢を中心に編成された総勢14万人の日本軍に、李氏朝鮮軍は釜山周辺に布陣する。最初の「漆川梁(チルジョンリャン)海戦」は7月16日に水陸から攻撃した日本軍が大勝し、朝鮮水軍の幹部指揮官の元均らを戦死させ、軍船のほとんどを撃沈して壊滅的打撃を与えている。
李氏朝鮮水軍勢力をほぼ一掃した日本軍は、8月16日に黄石山城、南原城の二城を陥落させ、さらに全州城に迫るとそこを守っていた明軍は逃走し、8月19日に日本軍は全州城を無血占領している。そしてまたたく間に朝鮮半島の南東部である全羅道、忠清道を占領してしまった。
海上では、李舜臣率いる朝鮮水軍の残存部隊が日本水軍を攻撃したが痛打を与えると速やかに退却し、この鳴梁海戦の結果日本軍は全羅道西岸を制圧した。また、拠点を失った朝鮮水軍は、全羅道北端まで後退した。
ここで日本軍は、当初の計画通り朝鮮半島南部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)の恒久領土化を目指して、城郭群の建築に取り掛かる。
しかし完成直前の蔚山倭城に12月22日に明・朝鮮連合軍56,900人が襲撃してきた。加藤清正をはじめ日本軍は、食糧準備の出来ていないままの籠城戦となり苦戦するが、1月3日に毛利秀元等の援軍が到着し、翌日に水陸から明・朝鮮軍を攻撃し敗走させて日本軍が勝利している。
その後城郭群が完成し、九州衆が城の守備のために朝鮮に残留し、四国衆・中国衆と小早川秀秋は予定通り順次帰国して、翌年以降の再派遣に備えたという。
秀吉は翌慶長4年(1599)に大軍を再派遣して攻撃する計画を発表していたが、8月18日に死去し、五大老や五奉行を中心に、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。
9月に入って明・朝鮮連合軍は総力を結集して三つの倭城(蔚山、泗川、順天)の同時攻撃をしかけるが、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
泗川の戦いでは島津軍7000が明・朝鮮連合軍20万を迎撃し、結果連合軍8万を討ち取り壊滅させた記録がある。
また順天を守っていた小西行長も順天城の戦いで勝利している。
上の図は順天城の戦いを描いた図だが、これだけ鉄砲で待ち構えられたら、明・朝鮮軍に勝ち目がなかったことが誰でもわかる。李氏朝鮮の公式記録『宣祖実録十月十二日条』には「…資糧、器械稱是,而三路之兵,蕩然俱潰,人心恟懼,荷擔而立…」(三路に分かれた明・朝鮮連合軍は溶けるように共に潰え、人心は恐々となり、逃避の準備をした)と書かれている。
10月15日秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令され、命令を受領した小西行長は明軍の陸将劉綎との交渉により無血撤退の約束を取り付けたのだが、引き揚げてくる日本軍を李舜臣率いる朝鮮水軍が明の大将陳璘(ちんりん)率いる水軍と共に海上を閉鎖し、撤退を妨害した。そこへ島津軍の引き揚げ船団が合流し、露梁津(ろりょうしん)の戦いが起こる。島津軍は苦戦するが、この戦いで朝鮮水軍の大将李舜臣も明水軍の副将ケ子龍(ていしりゅう)は戦死している一方、島津軍の主だった武将で戦死者はいなかった。この戦いでは日本軍が負けたと書く歴史家もいるが、この戦いにおいて日本軍は敗走したのではなく、目的は海戦海域を脱出して釜山に戻ることでありその目的はしっかり果たしているのだ。この戦いで敗れたのは、日本軍の進路妨害に失敗したにもかかわらず追撃もせず、主要な武将を失った明・朝鮮連合軍の方ではないのか。
かくして日本の出征大名達は無事に日本に帰国し、秀吉の計画は成功に至らぬまま秀吉の死によって終結してしまうのだ。
以上見てきたとおり、日本軍は慶長の役では一戦たりとも敗北していないのだが、何故五大老は日本軍に帰国命令を出したのであろうか。この点については、秀吉が死亡し、家康等有力大名間の権力を巡る対立が顕在化して対外戦争を継続できる状況ではなくなったと考えられている。
『明史・朝鮮伝』では秀吉の朝鮮出兵をこう総括している。
「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」(自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。)
このように中国の正史である『明史』で、明と朝鮮には「勝算がなかった」と総括している事実は重たいはずだ。なぜなら正史というものは、自国に都合の良いことは誇大に書き、都合の悪いことはあまり記述しない傾向にあるものであるからだ。事実は、明・朝鮮連合軍が大敗し、たまたま秀吉が死んだことで戦争が終わったということは明も認めている真実なのだ。
お隣の韓国の歴史教科書にはこの秀吉の朝鮮出兵をどう書いているか、興味があったのでちょっと調べてみた。
「…全国各地で儒生、農民、僧侶などが義兵を組織し、いたるところで倭軍をうち破り、苦しめた。義兵は自発的に立ちあがり、自分の家族と財産、そして村を守る一方、国家を守るために倭軍を迎え撃った。義兵は、自分の地元の地理に明るく、地形をうまく利用することができただけではなく、自然条件に合った武器と戦術を活用したために、少ない犠牲で大きな被害を与えた。…」
随分勇ましい記述であるが、日本軍の圧倒的な鉄砲の威力の前にほとんどの戦いで大敗している史実とはかけ離れた記述になっている。一部の地域で義兵があった記録はあるが、日本軍の大半の地域で朝鮮民衆が日本軍に味方した事実や、当時の朝鮮人口の3割から5割は奴婢身分であり、この時に国王や両班に多くの民衆が反旗を翻した史実を書かなければ嘘を書いているのと同じだ。
この韓国が、日本の歴史教科書に何度も修正要求書を提出している。
「壬辰倭乱」という用語は、韓国では「秀吉の朝鮮出兵」を意味するが、韓国政府は文部省検定済みの扶桑社の教科書の記述について、「出兵」ではなく「侵略」という言葉を使え、この原因は「秀吉の個人的妄想とだけ記述」せよ、「日本軍によりほしいままにされた人的・物的被害の様子を縮小」するな、などとコメントしている。
要するに「秀吉の朝鮮出兵」は日本軍の侵略行為であり、朝鮮民衆はその被害者でひどい目に遭っているとのイメージを日本人に広げたいのである。いずれ書くことがあると思うが、他の時代についても同様のスタンスだ。韓国にとっては、李氏朝鮮が劣悪な身分制度であったことを隠蔽し、秀吉を侵略者であるとすることが都合が良いと考えているのだと思う。韓国の教科書は国定教科書であり、いずれの時代の対日関係史の出来事はほとんどが日本が悪いと決めつけている。こんな教科書で全国民を指導すれば、韓国が「反日国家」となるのは当たり前のことある。スタンフォード大学のアジア太平洋研究センターの日・中・韓・米・台の高校歴史教科書についての報告で、韓国の歴史教科書については「韓国は日本が自国以外に行った行為には興味はなく、日本が自分たちに行ったことだけに関心がある。」とし、自己中心的にしか歴史を見ていないと指摘したそうだが、これは多くの日本人が納得する話ではないのか。
そもそも一方的な韓国側の主張に、なぜ日本の教科書が配慮する必要があろうか。私は「近隣諸国条項」を撤廃すべきだと思うのだが、それができないのであれば、中国や韓国の正史や公式記録等にいくらでも彼らの主張に反論できる根拠があるので、それを使うべきだと思うのだ。当時の李氏朝鮮国の身分制度のことはもちろんのこと、朝鮮出兵において韓国人の民衆の多くが日本軍に加担したことを出典や論拠を明確にしたうえで堂々と日本の教科書に書き、先方の教科書記述にも論争をしかけるくらいのことが必要ではないのか。いずれの国にとっても重要なのは、それぞれの時代の様々な出来事についてその時代背景を把握した上で、史実に基づいて真摯に真実を探求することであるはずである。
どこの国でも、他国の圧力で史実に基づかない歴史記述を押しつけられるようなことが続けば、次第に他国に軽んじられるようになり、国民は自国に誇りが持てなくなり、国がバラバラになって衰退していくだけだと思うのだ。史実に忠実であるならば、国によって歴史の見方に違いがあっても許容できるが、史実に基づかない歴史を無理に押しつけてくる国に対しては、わが国は史実を示して反論するしかない。政治家は安易に謝罪を繰り返すのではなく、もっと歴史を学んで言うべき事を言って欲しいものである。 
 
嘉吉条約 1

 

対馬(つしま)島主宗貞盛(そうさだもり)と李氏(りし)朝鮮との間で1443年(嘉吉3)に定められた日朝通交の条約。朝鮮側では癸亥約条(きがいやくじょう)という。応永(おうえい)の外寇(がいこう)後、対馬と朝鮮の通交は一時とだえたが、世宗(せいそう)の平和通交による交隣政策によって、嘉吉条約をはじめ数多くの通交統制規定が定められた。条約の内容は、(1)島主宗氏は毎年50船を朝鮮に派遣できる、(2)宗氏には世宗10年(1428)以来実施されている歳賜米(さいしまい)・豆あわせて200石が与えられる、などである。この条約は、朝鮮側が日朝貿易の統制を図ったものであったが、これによって、宗氏歳遣船(さいけんせん)が制度的に確立し、朝鮮通交での宗氏の独占的立場が定まったのである。 
嘉吉条約 2
日本史での室町時代、1443年(和暦 嘉吉3年)に李氏朝鮮と対馬国の宗貞盛との間で結ばれた貿易協定である。通交船や交易量の制限を定めたもの。また干支から名をとって癸亥約定(癸亥約条)とも。
対馬からの歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を李氏朝鮮から支給されることが確認された。これにより、文引制と合わせ対馬島内諸勢力の通交は宗氏本宗家の支配するところとなり、宗氏の所領が安堵され、領国支配が強化されることになる。それと当時に宗氏は李氏朝鮮の被官としての立場も持つようになり、対馬藩の版籍奉還でこの関係が解消されるまで、日朝間の申次的な役割を果たすことになる。
1510年には三浦の乱が起こり一旦は関係が断絶するが、1512年に壬申約条が結ばれ再び貿易は行われる。
 
騎馬民族

 

騎馬戦術を用いて農耕地帯を略奪するか、または征服、あるいはそこへ移住した多くの民族の総称。これには、(1)内陸ユーラシアの乾燥地帯を中心に活躍した遊牧民系の騎馬民族と、(2)もともと乾燥地帯と森林地帯または農耕地帯との接触地帯で牧畜、農耕、狩猟に従事していた非遊牧民系のものとがある。
(1)には、西方ではスキタイ、サルマート、パルティア、アバール、ハザールなど、東方では、匈奴(きょうど)、柔然(じゅうぜん)、突厥(とっけつ)、ウイグル、契丹(きったん)、モンゴル、ジュンガルなどがあり、
(2)には、東方の烏丸(烏桓)(うがん)、鮮卑(せんぴ)、夫余(ふよ)、高句麗(こうくり)、女真(じょしん)、満州などがある。この非遊牧民系騎馬民族も、多くの場合、隣接した遊牧民系騎馬民族の影響を受けて騎馬民族化したものであるから、騎馬民族の成立、発展に果たした遊牧民の役割は大きい。
しかし、遊牧と騎馬とは、初めから結び付いて行われていたのではない。騎馬術がいつどこで発明されたかは明らかではないが、それが古代オリエントで普及し始めたのは、紀元前10世紀ごろからであろうといわれている。そしてたぶんこの地方から騎馬術を採用して遊牧と結合させ、世界史上最初の典型的な遊牧騎馬民族国家を樹立したのが、アーリア系のスキタイである。スキタイは、前8世紀の末ごろ東方から南ロシア草原に現れ、前6世紀以後、南ロシア、北カフカスの草原を中心に強力な国家を建てた。遊牧民は騎馬術の採用によって、蒸気機関の発明以前における最大の機動力を獲得し、神出鬼没の騎兵軍団をつくりあげ、農業定着民の軍隊を圧倒した。
ところで、スキタイ系の武器、馬具、装身具などの特徴は、さまざまの動物の姿を透(すかし)彫り、または浮彫りにして表した動物文様がとくに好まれた点にある。この動物文様を特徴とする騎馬文化は、東方に伝わってモンゴル高原の遊牧民に影響を与え、前3世紀末に、匈奴の遊牧騎馬民族が成立した。匈奴が滅亡すると、鮮卑が南満州からモンゴル高原に進出して、2世紀の中ごろに騎馬民族国家を建てたが、これは、3世紀の中ごろにいくつかの部族に分裂し、それらのあるものは中国へ移住して五胡(ごこ)十六国のうちのいくつかをつくり、やがて、鮮卑の一部族拓跋(たくばつ)が華北に北魏(ほくぎ)を建てた。北魏は、北アジアの騎馬民族が中国内部に樹立した最初の大王朝である。一方、モンゴル高原では、柔然(5世紀初め〜6世紀中ごろ)、突厥(?〜8世紀中ごろ)、ウイグル(?〜9世紀中ごろ)、さらに、契丹、モンゴル、ジュンガルなどの遊牧騎馬民族が興亡した。これらのうち、匈奴、柔然、突厥、契丹、モンゴル、ジュンガルなどが、あくまでその本拠を確保したのは、それらがもともと遊牧民であったからであり、鮮卑がその本拠を見捨てて農業地帯へ移住したのは、それが元来、牧畜とともに農業をも行っていたからであろう。夫余や高句麗もまた、この鮮卑の型に属する非遊牧系の騎馬民族であった。とくに高句麗は東北アジア、「満州」にいたツングース系民族であり、4世紀から6世紀の初めにかけての最盛期には朝鮮半島の大半と南満州とを勢力圏に収めた。スキタイ系の騎馬文化が農耕地帯へ流れ込んだのは、おもに、これら非遊牧系の騎馬民族によってである。すなわち、それは南遷した鮮卑によって3〜5世紀の華北に流行し、また、高句麗、夫余などの手で朝鮮半島に伝播(でんぱ)した。さらに、動物文様を伴った武器、馬具、そのほかスキタイ系と思われる騎馬文化は、日本の古墳時代後期の文化を特徴づけている。
古代日本と騎馬民族
考古学的発掘の成果と、『古事記』『日本書紀』などにみられる神話や伝承、さらに東アジア史の大勢、この三つを総合的に検討した結果提唱されたのが、江上波夫(えがみなみお)の「騎馬民族説」である。その説によれば、夫余や高句麗と関係のある東北アジアの騎馬民族が、新鋭の武器と馬とをもって、東満州、朝鮮北部から南部朝鮮(任那(みまな))を経て北九州(筑紫(つくし))、さらに畿内(きない)へと侵入、征服、移動してきたのであるが、この過程は2段階に分かれる。第一段は任那から筑紫への侵入で、これは4世紀の前半に崇神(すじん)天皇によって行われ、第二段は筑紫から畿内への東征で、これは4世紀末から5世紀初頭にかけて応神(おうじん)天皇の手で遂行された。ここに日本国家の起源がある、という。この説に対しては、多くの日本史家は批判的であるが、井上光貞(みつさだ)のように、これを高く評価する学者もあり、また、水野祐(ゆう)(1918―2000)は「ネオ騎馬民族説」と称される説を唱えた。江上の「騎馬民族説」の細かい点については多くの疑問がある。しかし、いままで東洋史家と日本史家とによって別々に、それぞれの学問分野内部で論じられてきた多くの問題を、巧みに組み合わせ、総合的、統一的にとらえようとする江上波夫の方法には学ぶべき点が多い。日本国家の起源を考えるとき、この「騎馬民族説」を無視することはできない。 
 
元寇1

 

文永の役
弘安の役
鎌倉時代のなかば、1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2回にわたり行われた蒙古(もうこ)(元)の日本侵略。文永の役(ぶんえいのえき)・弘安の役(こうあんのえき)、蒙古襲来ともいい、当時は蒙古合戦、異国合戦と称し、元寇の語は近世以後定着した。
交渉の経過
13世紀中期、朝鮮半島の高麗(こうらい)を服属させた蒙古のフビライ・ハンは、日本に対しても朝貢させ国交を結ぼうとして、高麗を仲介とし日本に使者を派遣した。これは、蒙古が最大の目標とした南宋(なんそう)攻略の一環であったと考えられるが、そのほか、1227年(安貞1)と1263年(弘長3)に、日本の武士の来寇禁止を求める高麗の使者が来日したことがあり、そのことなどもフビライの日本への使者派遣の理由の一つといわれている。1266年(文永3)、蒙古使者黒的(こくてき)・殷弘(いんこう)、高麗使者宋君斐(そうくんひ)・金賛(きんさん)らがともに巨済島(きょさいとう)まで至るが、風濤(ふうとう)の険阻を理由に引き揚げたのを第1回とし、1273年趙良弼(ちょうりょうひつ)の再度の来日に至るまで、前後6回にわたる使者が派遣された。1268年の第2回には、高麗使潘阜(はんぷ)一行が蒙古の国書をもたらしたが、日本はこれを侵略の先触れとして受け取り、異国降伏の祈祷(きとう)を寺社に命ずる一方、西国とくに九州の防備体制を固めるなど、国内はにわかに緊張に包まれた。
文永の役
1274年(文永11)10月3日、蒙古・高麗の兵約2万8000よりなる征日本軍は、忻都(きんと)、洪茶丘(こうちゃきゅう)らに率いられて合浦(がっぽ)(慶尚南道馬山(ばさん))を出発。10月5日、対馬(つしま)に上陸。このとき、対馬守護代(しゅごだい)の宗助国(そうすけくに)以下が防戦のすえ戦死した。10月14日、壱岐(いき)が襲われ、守護代平景隆(たいらのかげたか)以下が戦死。対馬・壱岐2島の百姓らは、男はあるいは殺されあるいは捕らえられ、女は1か所に集められ、数珠(じゅず)つなぎにして舷側(げんそく)に結び付けられるなどの残虐な行為を受けたという。10月20日、元軍は、博多湾(はかたわん)西部の今津(いまづ)―百道原(ももじばる)などに上陸し、麁原(そはら)、鳥飼(とりかい)、別府(べふ)、赤坂(いずれも福岡市内)と激戦が展開された。日本軍は少弐経資(しょうにつねすけ)、大友頼泰(おおともよりやす)の指揮のもとに、経資の弟景資(かげすけ)が前線の指揮をとり応戦したが、石火矢(いしびや)を使う蒙古の集団戦法に大いに苦戦した。最終的な勝敗が決せぬまま、同夜、蒙古軍は撤退を開始したが、さいわいにもいわゆる「神風」なる大暴風雨が吹き荒れ、蒙古の兵船は壊滅的打撃を受けた。未帰還者1万3500余人といわれている。
防備体制の強化
日本遠征の失敗のあと、フビライは、高麗の再征中止の勧めにもかかわらず、南宋への最終的攻撃を進めるとともに、日本再征の準備を整えていった。1275年(建治1)4月、蒙古使者杜世忠(とせいちゅう)・何文著(かぶんちょ)が長門(ながと)室津(むろつ)に到着。使者一行は鎌倉へ送られ竜口(たつのくち)にて斬首(ざんしゅ)された。1279年(弘安2)6月にも、再度蒙古よりの使節一行が博多に到着したが、今回は鎌倉に上らすこともなく博多において斬(き)らせるなど、幕府は厳しい態度を示した。同年、蒙古は南宋を完全に滅ぼし中国全土の支配者となり、日本再征は日程の問題となった。一方、日本では、文永の役が終わると、幕府は同役の論功行賞を行い、蒙古の再襲に備えて防備体制(異国警固番役(いこくけいごばんやく))を強化した。博多湾沿岸の防備は、九州内各国がそれぞれ分担して順次番役を勤めるという制規が定められ、金沢実政(かねさわさねまさ)が防衛の指揮をとるため幕府より差し遣わされた。また長門の警備も強化され、これには長門、周防(すおう)、安芸(あき)(のち備後(びんご)も加わる)の勢をもって防衛すべき旨が定められた。また積極的に日本から元の遠征基地である高麗へ征戦する「異国征伐(せいばつ)」も企てられ、そのための船舶、水主(かこ)などの動員も行われたが、実現には至らなかった。1276年(建治2)3月よりは、博多湾沿岸の香椎(かしい)から今津に至る20キロメートルの地帯に石築地(いしついじ)(元寇防塁(ぼうるい))を築くことなども始められた。これは御家人(ごけにん)だけでなく、所領の広さに応じて一般荘園(しょうえん)公領にも賦課されたものである。
弘安の役
元の第2回の日本遠征軍は、金方慶(きんほうけい)、忻都、洪茶丘の率いる蒙・漢・麗合同軍4万の東路軍と、范文虎(はんぶんこ)の率いる旧南宋軍10万の江南軍とからなっていた。1281年(弘安4)5月3日、東路軍は合浦を出発。対馬・壱岐を経て、一部は長門を侵攻。主力は6月6日、志賀島(しかのしま)(福岡市)に来襲し、同海上および陸上の一部で交戦。肥後の竹崎季長(たけざきすえなが)、伊予(いよ)の河野通有(こうのみちあり)らが小舟に乗り、元の大船に切り込みをかけ武名をあげたのもこのときである。このように東路軍が九州本土への上陸拠点とした志賀島も、日本軍の猛攻にあい上陸侵攻を阻まれ、壱岐から肥前の鷹島(たかしま)へと退いた。一方、江南軍は主将の更迭などで発船が遅れ、6月18日に慶元(寧波(ニンポー))を出発。平戸島(ひらどしま)付近で東路軍と合流し、一挙に博多湾に押し入るべく、7月27日鷹島に移動した。これを探知した日本軍は、大挙して鷹島の敵船に猛攻を開始した。ところが7月30日夜から暴風が吹き荒れ、翌閏(うるう)7月1日、蒙古軍はほぼ壊滅した。主将范文虎は士卒10余万を捨てて帰還し、残された士卒らは日本軍によりことごとく殺害、捕虜とされたという。元軍の帰らざる者は約10万、高麗軍の帰らざる者7000余人と高麗の記録は伝えている。
戦後の状況
フビライは以後も日本遠征を断念せず準備を進めた。中国南方やベトナムの反乱があったにもかかわらず、出兵計画を具体化していったが、1294年(永仁2)彼の死とともにその計画は立ち消えとなり、フビライの後を継いだ成宗が、1299年(正安1)禅僧一山一寧(いっさんいちねい)を日本へ派遣して交渉を試みたのを最後に、元は日本との交渉を完全に断念した。一方日本では、異国警固番役は依然継続され、漸次弛緩(しかん)してはいったものの、防備体制は幕府倒壊までともかくも維持された。九州の御家人たちは、蒙古襲来以前は、訴訟のとき鎌倉や京都六波羅(ろくはら)に参訴していたが、訴訟のため所領を離れて番役をおろそかにすることを案じた幕府は、九州独自の裁判機関を設けた。1284年(弘安7)の特殊合議制訴訟機関、1286年鎮西談議所(ちんぜいだんぎしょ)を経て、いわゆる鎮西探題が成立した。また蒙古襲来を機に、九州各国守護職の北条氏一門への集中化が図られ、その九州支配は強化された。また異国警固番役の勤仕を通じて、庶子(しょし)が惣領(そうりょう)の統制を離れて別個に番役を勤仕する傾向が強くなり、庶子の独立化が進んだ。これは、幕府の存立基盤である惣領制の解体を促進する一因となった。戦後の恩賞配分も十分でなく参戦者の要求を満たすことができず、加えて、継続的な防衛のための経済的諸負担は御家人の窮乏に拍車をかける結果となった。九州の御家人たちを異国警固に専心させる目的で設置された鎮西探題は、北条氏の専制的九州支配の機関としての性質をあらわにして、九州御家人たちの支持を失い、鎌倉北条氏と運命をともにして、1333年(元弘3・正慶2)5月、滅亡した。鎌倉幕府体制の有していた諸矛盾は、蒙古襲来を契機として顕在化し、悪党(あくとう)とよばれる人々の出現に象徴される御家人体制の動揺のなかで、ついには幕府の倒壊をみるに至ったのである。なお、蒙古襲来を契機に大社寺は一斉に戦勝祈願に専念し、幕府が戦後これに対する報賽(ほうさい)の意味で寺社保護政策を推し進めたことと、いわゆる「神風」が直接的に戦勝に導いたことなどから、以後神国思想が広範に流布していった。 
 
元寇2

 

1 「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか
学生時代に学んだ歴史では二度にわたる蒙古襲来を終息させたのはいずれも「暴風雨」だったと記憶しているが、こんな国難の時に二度にわたり自然の力に救われたことは、人知を超えた偉大な力によって奇跡的に国が守られたようなイメージを多くの人が持つことだと思う。
「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があってはじめて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力なのだそうだ。
たとえば、市販されている山川出版社の高校教科書『もう一度読む山川日本史』では、文永の役に関する記述は昔の教科書とは異なるようである。「元寇」の復習も兼ねて、この教科書を引用してみる。
「1274年(文永11年)、元は徴発した高麗の軍勢をあわせて対馬・壱岐をおかし、九州北部の博多湾に上陸した。太鼓やどらを打ちならし、毒をぬった矢や火薬をこめた武器を手にして、集団でおしよせた。この元軍の戦法に、一騎討ちを得意とする御家人たちは苦戦の連続で、このために日本軍の主力は大宰府にしりぞいたが、元軍は海を渡っての不慣れな戦いによる損害や内部対立から、兵をひきあげた。(文永の役)」と、文章のどこにも「風」が吹いたとは書かれていないのだ。
では、当時の記録ではどうなっているのだろうか。
元(蒙古)側の公式記録(「元史」日本)では文永の役について、
「至元十一年(1274年)、鳳州経略使の忻都・高麗軍民総管の洪茶丘に命じ、二百人乗りの船、戦闘用の快速艇、給水用の小舟それぞれ三百艘、合わせて九百艘を擁し、一万五千の士卒をそれに乗せ、七月を期して日本に攻撃をかけさせた。冬十月、遠征軍は日本に進攻して日本軍をうち破った。しかし官軍も統率を失い、また矢も尽き、そのあたりを掠奪し、捕虜を得ただけで帰還した。」と書かれているだけだ。
元の軍隊が風で退却を余儀なくされたような情けない公式記録を残したくなかったのかなと思い、二度目の弘安の役(1281)についての記録に進んでいくと、そこには暴風が起こって舟が毀されたことが書かれており、将軍たちは部下を捨てて逃げ、残されたものは舟を作って帰ろうとしたが、日本軍がやってきて戦闘した結果全滅となり、生き残った二、三万の兵は日本の捕虜になって、元に生還できたのは遠征軍十万のうちわずか三名だったと明確に記述されている。「元史」を素直に読めば、文永の役には「神風」はなかったということになる。
高麗の正史である『高麗史』にも文永の役に関する記述がある。
船の中で軍議が行われ、高麗軍司令官の金方慶は抗戦論を唱えたのだが、総司令官の忽敦から「孫子曰く、〈小敵の堅、大敵の擒〉味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)を掻き集めて挑んでも、刻々と増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)には抗し得ず。退却するより他無し。」と却下され、「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定され、「たまたま、夜、大風雨に遭い、戦艦、巌崖に触れて大敗す」と記述されている。ある程度の風は吹いたようだが、それでも約半数が帰還し、日本で拉致した少年少女200人を高麗国王に献上したことなども書かれている。
では、日本側のこの当時の記録ではどうなっているのか。この点について「モンゴル襲来と神国日本」が、原典を口語訳されており読みやすい。
この本によると、当時の記録として判明している唯一の文書が、京都の公家・勘解由小路兼仲(たでのこうじかねなが)の日記『勘仲記』の中の「文永十一年十一月六日付」の記事で、そこには「或る人が言うには…、凶賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、にわかに逆風が吹いて、本国に吹き帰され、少々の船は陸に上がった。」とだけ、簡単に記されているそうである。11月6日ということは事件後17日目のことになるが、あくまでも人から聞いた話として書かれている。
『勘仲記』の次に古いとされる記録は『薩摩旧記雑録前編』のなかに収められている文永十二年の「国分寺文書」で、事件から一年後に書かれたものである。そこには「蒙古の凶賊等が鎮西に来嫡子、合戦をしたが、神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、その乗船は海底に沈んだり、あるいは入江や浦にうち寄せられた」と書かれているそうだ。
一方で、風について何も書かれていない文書もある。鎌倉末期に石清水八幡宮の社僧が記した八幡神の寺社縁起である『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』には、前日までの激しい戦闘の記録のあとで、翌朝の朝の様子をこう記しているそうだ。
「二十一日の朝、博多湾の海面を見ると、蒙古軍の船は一艘もなく、皆々馳せ帰ってしまっている。…皆、滅んでしまうのかと一晩中歎き明かしたというのに、(モンゴル軍は)どうして帰ってしまったのであろうか。ただ事とも思えない。皆、このことで泣き笑いをしたものだ。」と、文永の役に関する日本側の記述は様々だ。
最初に、最近の研究では文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力と書いたが、最初に「神風説」を否定したのは気象学者の荒川秀俊氏で、昭和33年にが「文永の役の終わりを告げたのは台風ではない」という論考を発表され、旧暦10月20日以降に西日本が台風に遭遇することは統計的にも存在せず、『八幡愚童訓』等の資料を見ても大風雨があった記録も、モンゴル軍の難破船が海岸になかったことなどを理由に、モンゴル軍船団が一夜にして博多湾から消滅したのは予定の行動であると主張したそうだ。この説が現在では有力説になっているようなのだが、ではなぜ「神風」があったような古い記録が残っているのだろうか。
三池純正氏は先程紹介した著書の中で、非常に興味深い指摘をしておられる。
「…モンゴル・高麗軍との戦いはわずか一日の戦闘だったものの、日本軍は明らかに敗北していたのだ。…ところが、事件後、幕府を糾弾する声はどこからも上がってこなかった。それはなぜであろうか。
翌日…の光景を、遠征軍が勝利の中で撤退したと心底思わない人々が見たとしたら、十中八九同軍が一夜の暴風雨のせいで壊滅したと思うのは無理もないことである。しかし、これは歴史上の大きな錯覚であり、勘違いであった。だが、この歴史的勘違いは幕府にとって、幾重にも幸運をもたらした。
幕府はこの戦いでは九州を中心とした御家人・武士たちを博多湾岸に派遣し、その一方全国の主要な社寺に命じて『蒙古調伏』の祈祷を熱心にさせていた。幕府に対する非難の声が止んだのは、その幕府が行った祈祷が功を奏して暴風雨=『神風』を吹かせ、モンゴル軍を壊滅させたと認識されたからであった。」
「(歴史学者の海津一朗によると)当時の考え方では、モンゴル軍との戦争で原動力となって活躍した神々は現場で同軍と戦った武士同様に恩賞をもらう権利があるとされていたという。
文永のモンゴル襲来からほぼ一年後の建治元年(1275)11月、薩摩国の天満宮と国分寺の神官・僧侶は『蒙古退散』の祈祷の成功、すなわち『神戦』への恩賞として、荒れ果てた建物の修理を朝廷に訴え、それが翌月認められたという文書が残っている。同じ理由で京都の東寺も寺の修理や僧侶の待遇改善を朝廷に訴えている。
記録には残っていないものの、全国各地の多くの社寺はこうして朝廷や幕府に『神戦』への勝利の恩賞を求めていったことは間違いない。また幕府も、伊勢神宮や宇佐八幡宮に実際にモンゴルと戦った現場の武士たちに与える恩賞そっちのけでいち早く所領を寄進している。」
わかりやすく言うと、幕府にとっても祈祷した寺社にとっても、「神風」が吹いてモンゴル軍が退却したことにした方が都合が良かったという事なのだ。当時はテレビもラジオもない時代だ。事実でなくとも都合のよい情報を流布させた方が強い世界ではなかったか。先程紹介した『勘仲記』はともかく、『薩摩旧記雑録前編』『八幡愚童訓』にせよ、『蒙古調伏』の祈祷の効果があったことにしたい人物が書いているという点がポインである。
ちょっと意外に感じたのだが、江戸時代文政十年(1827)に書かれた頼山陽の『日本外史』も文永の役について「風」のことは一言も書いておらず、敵将を倒したことで敵兵の統制が乱れたことが書かれているだけだ。天皇中心の国家体制を築こうとした明治政府も、文永の役の「神風伝説」に飛びついて、わが国が「神国」であるとのイメージを国民に広めようと考えたのではないだろうか。
前回の記事で荒れ果てていた奈良の西大寺が、鎌倉時代に叡尊によって復興され、今ある文化財の多くがこの時期に造られていることを書いたが、この叡尊は文永10年(1273)に伊勢神宮、文永11年(1274)に枚岡神社、住吉大社、広田神社、四天王寺、で大規模な『蒙古調伏』の祈祷を行い、それ以降も伊勢神宮、石清水八幡宮などでも祈祷を行って名声を得た僧侶である。その時に恐らく得たであろう祈祷料や恩賞が、鎌倉期の西大寺復興と大いに関係がありそうだ。
しかし、寺社には多くの恩賞が与えられた反面、よく戦った御家人たちにはほとんど恩賞がなかったらしい。学生時代に学んだときは、外国との戦いでは没収地があるはずもなかったので、御家人に充分な恩賞を与えることが出来なかったという説明を聞いた記憶が残っている。しかしよくよく考えると、外国からの侵略を防いだとしても没収地がないことは初めからわかっている話だ。祈祷に参加した社寺には金銭等の恩賞を実施したのであるから、蒙古軍と戦った御家人たちにも同様の恩賞を実施してもおかしくなかったはずだ。
肥後国御家人の竹崎季長(たけざき・すえなが)は文永の役の恩賞が何もないのを不服として、建治元年(1275)6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴し、同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たして、恩賞地として肥後国海東郷の地頭に任じられたそうだ。彼が作成させた『蒙古襲来絵詞』には安達泰盛と交渉している姿が描かれているが、このようにして恩賞を得た御家人は例外的だったようだ。 
2 熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち
前回は、蒙古軍が最初に日本を攻めてきた「文永の役」については、元や高麗の史料を見る限りでは「神風」が吹いて蒙古撤退させたとは考えにくく、最近の教科書では「神風」が出てこないことを紹介した。また当時の日本側の史料には「神風」が吹いて蒙古軍を撤退させたとする記録があるのは、幕府にとっても、また幕府の要請を受けて「蒙古退散」祈祷してきた寺社にとっても、「神風」があったことにした方が都合が良かったからではなかったか、ということを書いた。
いつから教科書の内容が変わったのかは良くわからないが、私も含めて、二度とも暴風雨が蒙古軍を退散させたと学んだ世代にとっては、元寇については大規模な戦闘は行われなかったし、わが国には大きな被害はなかったというイメージが強いのではないかと思う。
しかし「文永の役」に「神風」が吹かなかったことを知ってから、「元寇」のことをもう少し詳しく知りたくなって調べてみると、日本側の被害は結構大きかったし、鎌倉武士も良く戦ったことを知った。今回は、今の教科書にもほとんど書かれていない「元寇」の実態について書くことにしたい。
文永五年(1268)ジンギスカンの孫の世祖フビライ・ハンが高麗を通じて日本に国書を送ってきたが、当時17歳の執権北条時宗は国書の内容が無礼だとして黙殺し、その後も元は数年間にわたり何度か使者を送るも日本側が無視したため、怒ったフビライ・ハンは日本への武力進攻を命令する。
フビライ・ハンは高麗に命じて艦船を造らせ、この時高麗はわずか半年で大小900艘といわれる船を突貫工事で完成させたそうだ。
文永11年(1274)10月3日[旧暦:以下同じ]に、元・高麗連合軍は朝鮮半島の合浦(現在の大韓民国馬山)を出発した。連合軍の構成は『高麗史』によると蒙古・漢軍25千人、高麗軍8千人、高麗水夫6700人で総数は約4万人の規模であった。
連合軍は二日後の10月6日に対馬に上陸。対馬守護代宗資国は八十余騎で応戦するが討ち死にし、元・高麗連合軍は周辺の民家を焼き払って対馬全土を制圧した。対馬が襲われたことは、助国の郎等小太郎・兵衛次郎のニ人は急遽小舟を操って博多に渡りこの顛末を注進したという記録が残っている。
ついで連合軍は10月14日には壱岐に上陸した。守護代・平景隆は百騎で樋詰城に立て籠って応戦したが、翌日に攻め落とされて城内で自害した。
その後、10月16日から17日にかけて元軍は平戸・能古・鷹島を襲撃し、松浦党武士団を粉砕した。これらの侵略地において、連合軍が暴行を働いた記録が残されている。
例えば日蓮宗の宗祖である日蓮の記録にはこう書かれている。
「去文永十一年大歳庚戌十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、船オシヨセテ有ケルニハ、奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ、松浦党ハ数百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ、寄タリケル浦々ノ百姓共、壱岐・対馬ノ如シ…」
元蒙古連合軍のために、百姓ら男は殺されたり生け捕りにされ、女は一箇所に集めて掌に穴をあけられ革ひもを通して船に結いつけられたり生け捕りにされて、一人も助からなかったと書かれているのだ。
この記述はわずかの生き残りの証言をもとにして書かれたものかどうかは不明だが、「掌に穴をあけて革ひもを通す」という行為については、「日本書紀」巻第二十七の天智天皇二年六月に「百済王豊璋(ほうしょう)は、福信に謀反の心あるのを疑って、掌をうがち革を通して縛った」という記録があり、大陸ではこのようなこと残虐行為が古くから行われていたということなのだろうか。
話を文永の役に戻そう。対馬、壱岐、平戸、能古、鷹島を襲撃したのち、元・高麗連合軍は、10月19日夕刻に大宰府を目指して博多湾に侵入した。
九州での戦いの概要はわが国の同時代の文書では『八幡愚童記』に記述されているそうだが、前回の記事で紹介した三池純正氏の『モンゴル襲来と神国日本』や『元史』『高麗史』を参考に纏めてみよう。
日本軍の悠長な戦い方とは違い、先鋒を務めた高麗軍は集団戦法で「太鼓をたたき、銅鑼を撃って時を作」るというもので、集団で鳴らす太鼓や銅鑼の音に日本軍の馬は跳ね狂って使い物にならなかったようだ。また、「蒙古の矢は短いとは云っても、矢の根っこに毒が塗られ」ており、その矢が間断なく発射され日本軍を苦しめた。
しかも、高麗軍らは「逃げる時は鉄砲を飛ばして暗くし、その音が高く鳴り響くので」日本軍は「心を迷わして肝を失って、目も耳も塞がれて茫然と」するばかりだったそうだ。
この「鉄砲」とは、上の画像のようなもので、中に火薬を詰めて点火した後に相手に投げつける武器で、鉄製と陶器製のものがあったそうだ。
このような武器を用いて、元・高麗連合軍が日本軍よりも強かったことは間違いない。『元史』では「日本を打ち破った」と書き、『高麗史』では「倭は却走し、伏屍は麻の如く、」と戦いに勝利したと書いており、日本軍は戦闘には負けていたようだ。
しかし日本の武士もよくがんばった。『八幡愚童記』には、肥後国の御家人菊地次郎が敵陣に必死に切り込んで、多数の敵の首を取って凱旋したことや、肥後国の御家人竹崎季長はたった5騎で敵軍に突撃したことなどが書かれている。またいよいよ蒙古軍の大将らしき大男が十四五騎を引き連れて本陣まで迫ってきたとき、日本軍の大将小弐景資(しょうにかげすけ)は「馬に乗って、一鞭売ってその前に姿を現し、その大将を見返ってよく引き放った矢が一番に駆けだした大男の真中を貫き、(大男は)逆さに馬から落ちた」と景資の放った矢が命中したも書かれている。
この話は日本側の創作話ではなく、「高麗史」にも「劉復亨(りゅうふくこう)、流矢に中(あた)る。先に船に登り、遂に兵を引きて還る。」と書いてある。劉復亨は蒙古軍の左副元帥であり、副総司令官という地位の人物であるが、先に戦場を離れ元に戻っている。
日本軍は本陣も破られて大宰府まで退いていき、大勢は元・高麗連合軍の勝利に帰したいたのだが、元・高麗連合軍の戦闘における損害も小さくなかったし、ここまで戦うのにかなりの武器を使ってしまった。
そこで前回の記事の連合軍の作戦会議に戻る。『高麗史』によると高麗軍司令官の金方慶は抗戦論を唱えたのだが、元の最高司令官が「…味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)を掻き集めて挑んでも、刻々と増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)には抗し得ず。退却するより他無し。」と却下し、「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定されたのである。『元史』では撤退の理由を「統率を失い、また矢も尽き」と書いている。武器が底をつけば、これからまだまだ繰り出される日本軍には全滅することになると考えるのは当然ではないのか。
日本の武士たちは敵軍の予想以上に勇敢であり、強かったのである。だから敵軍は撤退したと考えるのが妥当だろう。元の総司令官である忻都は文永の役後にフビライ(元の世祖)にこのような報告をしたと言う話があるそうだ。
「倭人は狠ましく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。」
本当に忻都が言ったかどうかはわからないが、そういう話が元に伝わっていると言うことは興味深い。
文永の役については敵軍が撤退を決定したのち、帰路で強い風が吹いたことは前回に書いたので繰り返さない。大風が日本を救ったなどという誤った歴史解釈が長い間日本人の常識になっていたのだが、そのような考え方がこの戦いで犠牲になった対馬や壱岐等の人々のことや、武士が奮戦して敵軍の退却を決断させたことを風化させてしまい、元・高麗連合軍は多くが日本人の人質を本国に持ち帰ったという事実をも忘れさせてしまった。
元寇の真実を知り、日本の領土が多くの人の努力と犠牲によって守られてきた歴史について、もっと知ることが必要だと思う。政治家や官僚やマスコミがこういう歴史を熟知していれば、尖閣諸島や北方領土の問題などの対応や論評がもう少しまともになるのだと思う。 
3 「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か
前回までは「文永の役」について書いたが、結論として「文永の役」については鎌倉武士はよく元・高麗連合軍と戦い、「神風が吹いて敵軍を追い返した」という説は元・高麗・日本の史料を読む限りは考えにくいということだ。
では二回目の元寇である「弘安の役」についてはどうなのか。この戦いについては、『元史』も『高麗史』も「暴風」があったことを明確に書いているのだが、なぜ敵軍は台風の多い時期に日本に来たのかずっと疑問に思っていた。
この時遠征軍は数の上では14万人もの大軍で、中身は蒙古、(旧)南宋、高麗の混成軍である。内訳は東から日本を攻める蒙古・高麗の『東路軍』4万人と、南から日本を攻める(旧)南宋の『江南軍』10万人だ。『八幡愚童記』によると、蒙古は日本を占領しそこに移民するために、穀物の種や農耕具までを大量に船に積込んでいたと言う。
『高麗史』を読むと、東路軍が朝鮮半島の合浦を出発したのは(弘安4年)五月三日だ。太陽暦にすると5月29日で台風が上陸する可能性はほとんどない時期だ。また、江南の役で敵軍が暴風雨に襲われて壊滅状態になったのは八月一日(太陽暦の8月23日)だ。なぜ、こんなに時間をかけているのだろうかと誰しも疑問を持つ。文永の役では合浦を出発して対馬や壱岐で戦いながらも17日で博多に着いているのだ。連合軍がもたついている間に台風のシーズンに突入してしまったということではないのか。
今まで「弘安の役」については、日本軍はほとんど戦わずして「神風」が吹いて勝ったとばかり思っていたが、どうもそういうことではなさそうだ。調べてみると「弘安の役」においても、鎌倉武士たちはこの時も良く戦ったことが国内外で記録されている。
今回は、教科書や通史に書かれていない「弘安の役」の実態についてまとめてみることにする。参考にしたのは前回の記事で紹介した三池純正氏の『モンゴル襲来と神国日本』と『元史』『高麗史』である。
「文永の役」の後、元のフビライはすぐに再征を決意し、博多湾岸の戦闘から三ヶ月半たった建治元年(1275)の二月に日本に使者を送っている。その使者たちは鎌倉に到着するや、全員斬首され曝し首に処せられている。
また幕府は、同年の三月から博多湾沿岸から長門にかけて「石築地(石塁)」という石垣の要塞の建築を九州等の御家人たちに命じている。もちろん、元との戦いを想定してのことだ。
また元も同様に日本遠征の準備をしており、弘安元年(1278)の八月に元・高麗・(旧)南宋三国の作戦会議を開き、東路軍、江南軍の規模と、両軍が壱岐で合体した後に日本を攻めることが決定されている。
翌年に元は南宋を滅ぼしてさらに版図を拡大し、フビライは弘安二年(1279)に再び日本に使者を送るが、書状が京都に送られるも朝廷は受け取りを拒否し、この使者も斬首されたことが記録に残っている。
弘安四年(1281)に、フビライは日本遠征の命令を出した。両軍が壱岐で落ち合うのは予定では六月十五日だったのだが、東路軍はかなり早い五月三日に合浦を出発した。東路軍は至近にある巨済島で二週間ほど錨を下した後、五月二十一日に対馬に上陸し攻撃を開始している。
『八幡愚童記』にこの時の東路軍のうち高麗軍の狼藉ぶりが記されている。
「また弘安四年五月二十一日、蒙古の賊船おそひ来たる、このたひは蒙古大唐高麗以下国々の兵等を駆具して凡三千余艘の大船に、十七八万の大衆のりつれてそ来ける、其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民さゝへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こゑを聞つけて、捜りもとめて捕けり、さりけれハ片時の命ををしむ世のならひ、愛する児をさしころしてにけ隠れするあさましきありさまなり、此高麗の賊、捕へきほととりて宗像の沖にこきよす、蒙古大唐の船ともは、対馬にはよらず、壱岐島につく、されともらうせきせず、…」
高麗軍は、対馬や壱岐の人々を虐殺し、赤子の泣き声を聞きつけて彼らを探し求めていくので、住民は仕方なく愛するわが子を刺し殺して逃げ隠れたと言うのだ。蒙古人や漢人にはそのような狼藉はなかったらしい。
東路軍は江南軍との合流を待つことなく、六月五日単独で博多の侵攻を開始した。これを迎え撃つ日本軍は、博多に鎮西軍が4万人いた。
蒙古襲来に備えて築造した「石築地(石塁)」は高さが2メートルを超えるものであった。その長さは延々20km近くあったそうだが、モンゴル軍を威圧するには堅固な防備となっていた。敵軍は博多湾の正面からの上陸をやめて、比較的防備の薄い志賀島と能古島に停泊し、志賀島で両軍が衝突する。
『高麗史』を読むと、日本軍の奮戦ぶりがよくわかる。
「六月、…日本兵と合戦し、三百余級を斬す。日本兵突進し、官軍(東路軍)は潰え、[洪]茶丘(東路軍司令官)は馬を捨てて走る。王万戸、復た之を横撃し、…日本兵、乃ち退き、茶丘は僅かに免る。翌日、復び戦いて敗績す。…」と、高麗軍から見ても、両軍合い乱れての激戦だった。
『八幡愚童記』によると、「(六月)六日より十三日に至るまで、昼夜の間に合戦して、打ち殺した蒙古は千余人…」と、日本軍が頑張った記録が残っている。草野次郎という武士が舟二艘に夜討ちをかけて、敵軍の船に乗り移って敵兵の首を取って引きあげてきた。恩賞目当てとは言え、それから後も竹崎季長など東路軍に夜討ちをかける武士が後を断たなかったとのことだ。
志賀島でモンゴル軍を食い止めて、九州本土に一歩も踏み込ませなかったことが、後の東路軍の軍事行動に大きな影響を及ぼすことになる。六月十三日を過ぎると、東路軍は博多湾を引き上げて壱岐に向かう。
敵軍が博多を引き上げた理由は、『高麗史』には明確に書かれている。一つは東路軍で疫病が発生しており、病死と戦死とあわせて三千人を超えていたこと。もう一つは、江南軍を待たずに侵攻を開始したが、江南軍と壱岐で合流する約束の六月十五日が迫っていたからであった。
江南軍と合体し体制を立て直して再度出撃する予定であったが、予定の十五日に江南軍は慶元の港(現在の寧波[ニンポー])を出港もしていなかった。江南軍の出港の遅れは、作戦の変更もあるが、出発直前に総司令官の阿刺罕(アラハン)が病に伏し、司令官が交代するというアクシデントがあったという。江南軍の主力部隊が出航したのは六月十八日だった。ようやく七月初旬に両軍は平戸島の近海に集結し軍船の数は4400という数だったと記録されている。
しかし、両軍は何故かこの場所を1ヶ月近くも動かなかった。先に日本軍と戦った東路軍と江南軍との間で意見交換がなされ、疫病に罹った将兵の回復を待ったものと思われるが、この点については元にも高麗にも記録には残されていないようだ。それにしてもこの日数は長過ぎた。この大軍がようやく動き出すのは七月の末のことだった。そんな中、七月三十日に暴風雨が吹き始め、運命の八月一日(太陽暦の8月23日)を迎えることになる。
『高麗史』にはこう書いてある。
「八月、大風に値(あ)い、蛮軍(江南軍)皆な溺死す。屍は潮汐に随いて浦に入り、浦は之が為めに塞(ふさ)がりて、践(ふ)みて行く可し。遂に軍を還す。」
元や高麗の記録によると、全軍十四万のうち、三万数千名は無事に生還しているので、すべての船が破壊されたのではない。
生き残ったものの船を失ったために帰れなかった兵士も少なからずいた。八月五日から七日まで日本軍による掃討戦で千人近くが捕虜となり、日本軍は博多の那珂川付近で全員の首を斬ったという記録が残っている。
弘安の役に吹いた「台風」は確かにタイミングが絶妙であった。後世に「神風」と呼ばれるのもわかるのだが、三ヶ月も戦いが長引いたために台風シーズンに突入したことを考えると、モンゴル連合軍の作戦失敗や江南軍の出発の遅れもあるのだが、ここまで戦争を長引かせた日本の武士の頑張りを、もっと正当に評価すべき事ではないだろうかと思う。
すなおに『元史』や『高麗史』を読めば日本軍の頑張りが良くわかるのだが、日本を「神国」と思いたい人が多いのか、日本人に日本軍の活躍を教えたくない人が多いのか、「元寇」に関する教科書の記述にはあまりに緊迫感がなさすぎる。
わが国の国難とも言える状況下に政治家やマスコミにほとんど緊迫感が感じられないのは、元寇に限らず日本が侵略されそうになった時の歴史の真実を、しっかりと教えられていないからではないだろうか。 
 
遣新羅使

 

古代、日本の政権から新羅に派遣された公式の使節。記録に明らかな使節は、欽明(きんめい)朝の571年(欽明天皇32)以降に限ると、882年(元慶6)まで46回を数える。
朝鮮南部の加羅(から)諸国の中心勢力である金官(きんかん)(南加羅)が532年、安羅(あんら)が562年、新羅に服属すると、日本の大和(やまと)政権は前代以来の対任那(みまな)政策を継承して、使節による外交折衝を展開し、新羅の「朝貢」を要求し、征討軍を計画するなど強硬策をとった。
646年(大化2)孝徳(こうとく)朝の政権は新羅を含む東アジアの等距離外交に転じたが、663年百済(くだら)の役(白村江(はくそんこう)の戦い)によって日羅間の外交は中断した。668年(天智天皇7)国交を回復し、頻繁に使節を交換しあったが、当時、日本と唐との関係は30年間空白であったので、唐留学生・僧が新羅を通ったほか、新羅への留学生・僧も多く、古代国家の完成に向かう日本の政治、制度、文化などに直接与えた遣新羅使および新羅使節の影響はきわめて大きいものがある。
奈良時代に入った720年代、新羅北方の渤海(ぼっかい)が日本と国交を結び、新羅も日本の支配層と同様に中華意識を強めるようになると、日羅の国交は冷却した状態を生じた。759年(天平宝字3)から日本は渤海と提携して新羅征討を企てたが、遣新羅使も753年(天平勝宝5)以降しばしば新羅に拒絶された。779年(宝亀10)日本の遣唐使の送付のために両国使節が往来したのを最後に実質的な公的交渉は終わった。しかしこの間、日本に新羅の文化・文物が多数もたらされたことは正倉院の文書や宝物に証される。 
 
遣唐使

 

第十六次遣唐使
7世紀から9世紀にかけて日本から唐(618〜907)に派遣された公式の使節。630年(舒明天皇2)8月に犬上御田鍬(耜)(いぬがみのみたすき)を派遣したのを最初とし、894年(寛平6)に菅原道真(すがわらのみちざね)の建議によって停止されるまで、約20回の任命があり、うち16回は実際に渡海している。
組織
遣唐使の組織は、時期によって規模・内容を異にするが、『延喜式(えんぎしき)』によると、大使(たいし)、副使(ふくし)、判官(はんがん)、録事(ろくじ)、知乗船事(ちじょうせんじ)、訳語(おさ)、請益生(しょうやくしょう)、主神(しゅじん)、医師(いし)、陰陽師(おんみょうじ)、画師(えし)、史生(ししょう)、射手(しゃしゅ)、船師(ふなし)、音声長(おんじょうちょう)、新羅(しらぎ)・奄美訳語(あまみのおさ)、卜部(うらべ)、留学生(りゅうがくしょう)、学問僧(がくもんそう)、従(けんじゅう)、雑使(ぞうし)、音声生(おんじょうしょう)、玉生(ぎょくしょう)、鍛生(たんしょう)、鋳生(ちゅうしょう)、細工生(さいくしょう)、船匠(ふなしょう)、師(かじし)、人(けんじん)、杪(かじとり)、水手長(かこちょう)、水手(かこ)という構成であり、ときには大使の上に執節使(しっせつし)、押使(おうし)が置かれたこともあった。使節が渡航に用いる船数は、当初は2隻、のち奈良時代になると4隻編成が基本となる。船数の増加に伴って員数も240〜250人から500人以上になり、838年(承和5)の遣使では651人という多人数になっている。使の随員には、官人のほか技術者などがいるが、大多数は公民から徴発された師、杪、水手などの乗組員である。船の大きさは不明であるが、船数と使節団の総数から試算すると、1隻につき120人から160人程度乗り込める規模であったようである。
航路
使船の航路は、難波(なにわ)(大阪湾)から瀬戸内海を西下し、筑紫大津浦(つくしのおおつのうら)(博多(はかた)湾)に入り、ここから出航した。初期は壱岐(いき)・対馬(つしま)を経て朝鮮の西沿岸を北上し、渤海(ぼっかい)湾口から山東半島に至る北路(新羅(しらぎ)道)がとられた。ところが、白村江(はくそんこう)の戦い(663)ののち、新羅との国交がとだえると、九州南端から多(たね)(種子島(たねがしま))、夜久(やく)(屋久島)、吐火羅(とから)(宝島(たからじま)あるいは吐喇列島(とかられっとう))、奄美(あまみ)(奄美大島)、度感(とこ)(徳之島)、阿児奈波(あこなわ)(沖縄島)、球美(くみ)(久米島(くめじま))、信覚(しがき)(石垣島)などを経由して、東シナ海を横断して揚子江(ようすこう)口を目ざす南島路がおもにとられるようになった。『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』に記される鑑真(がんじん)の来日航路がこれにあたる。さらに奈良時代後半以降になると、大津浦をたち、肥前値嘉島(ちかのしま)(五島列島)付近から順風を利用して一気に東シナ海を横断して揚子江岸に向かう南路(大洋路)がとられるようになった。
遣唐使船の航海にはさまざまな困難が付きまとい、船酔いもさることながら、円仁(えんにん)の『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいぎょうき)』によると、糒(ほしいい)(蒸米(むしごめ)を乾かした携帯・保存食)と生水のみで飢えをしのぎながら風雨、高浪を乗り越えなければならず、航行中重病になればひとり異国に置き去りにされることもあった。また造船技術、航海術が未熟なため、難破漂流することも珍しくなかった。たとえば753年(天平勝宝5)11月、藤原清河(ふじわらのきよかわ)、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)らを乗せ、蘇州(そしゅう)から阿児奈波島へ向けて出帆した帰国船が暴風にあい、南方へ流され安南(あんなん)(ベトナム)に漂着した。結局、2人は辛苦のすえ帰唐し、望郷の念を抱きつつも生涯唐朝に仕えたのは有名である。
目的
このように使節はつねに死の危険と直面しながら渡唐したわけであるが、当初の遣唐使の主目的は、唐の制度・文物を導入することにあった。これは、日本の古代国家を形成するうえで唐帝国の国制を模倣しようとしたためにほかならない。とくに文化面でも、同行した留学生、学問僧らによる先進文化の習得、書籍その他の文化的所産の将来に多大な成果をあげた。
奈良時代に入ると、おもに政治外交上の使命を帯びて派遣されることが多くなった。とくに当時の日本の外交は、新羅との頻繁な交渉とともに、東アジアの国際社会で日本の地位を確保することが要請されており、新羅の「朝貢」を媒体とする宗属関係を唐に承認させる必要があった。このことは『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6年(754)条に記されている753年(唐の天宝12)正月、唐の朝賀の場における新羅との席次争いの一件に現れている。当日、諸蕃(しょばん)の席次で日本を西畔第二吐蕃(とばん)(チベット)の下に置き、新羅を東畔第一大食(たいしょく)国(サラセン)の上に置いたので、副使大伴古麻呂(おおとものこまろ)が抗議をし、双方の順位を入れ替えさせたのである。
さらに奈良時代末以降になり、政治外交上の使命が薄れてくると、僧侶(そうりょ)の留学および貿易的利益を目的として派遣されるようになっていった。
平安時代には804年(延暦23)と838年(承和5)の2回にわたって遣使されているが、それ以降はまったく中断した。これは、使の目的の実効性の喪失、政府の財政難などがあげられるが、新羅との公的交渉が779年(宝亀10)に終わり、唐も安史の乱(755〜763)後しだいに衰運に向かいつつあったので、遣使の外交政策上の意義もなくなってきたのである。また9世紀以降活発になった唐人・新羅人商人との私貿易により経済上の欲求も満たされるようになった。
かくして、894年(寛平6)大使に任命された菅原道真が唐の擾乱(じょうらん)、航海の困難などを理由に停止を要請し、それが承認されると遣唐使の制も廃絶されることになった。
遣唐使への歴史言及
飛鳥時代
…そして600年(推古8)を最初として小野妹子ら数次の遣隋使が派遣されるが、これは従来と異なり中国と対等の立場に立ってのものであった。隋に代わった唐に対しても、飛鳥時代全期を通じて前後7回の遣唐使が派遣され、とくに孝徳〜天智朝が頻繁であった。またこれら遣隋使・遣唐使に従って多くの留学生・留学僧が派遣されたが、彼らが中国滞在中にえた新しい知識や、帰国に際して将来した文物は、日本の国政の改革、文化の発展に大きく貢献した。…
漢文
…すなわち、聖徳太子の十七条憲法《三経義疏(さんぎようぎしよ)》などがその成果である。また、この時期にはじまる遣隋使(のちには遣唐使)などは、組織的な漢文受容として大きな役割を果たした。しかし、漢文らしい漢文を書くためには故事、出典を踏まえなければならず、文字どおり万巻の漢籍に通暁(つうぎよう)することは日本人にとって困難なことであった。…

…常にかよふべし〉と進言した。この進言は、630年(舒明2)の第1次遣唐使として実現し、これ以後9世紀半ばまでに十数回の遣唐使が派遣されることになる。また第1次遣唐使帰国の際には、二十数年間中国に滞在していた僧旻(みん)(新漢人旻(いまきのあやひとみん))ら留学生もいっしょに帰り、さらに10年後には、留学生の南淵請安(みなぶちのしようあん)、高向玄理(たかむくのくろまろ)らも唐から帰国した。…
奈良時代
…しかし8世紀半ばになると安禄山、史思明の反乱が起こり、政治は乱れた。この間、日本からの遣唐使の派遣は7回に及び、留学生、留学僧は進んだ中国の文物、制度を積極的に移入した。朝鮮では676年に統一を達成した新羅との間に遣新羅使、新羅使が頻繁に往復したが、対等を主張する新羅と、依然としてそれを認めようとしない日本との間に、緊張した関係が持続した。…
平安時代
…ことに平安末期には、庶民の遊芸であった田楽や今様が宮廷社会でもてはやされ、そこにも次代の文化のいぶきを感じとることができる。
対外関係 / 蝦夷征討も一段落した804年(延暦23)、桓武天皇は二十数年ぶりに遣唐使を派遣し、これに同行した最澄と空海が、帰朝後それぞれ新仏教を興したことはよく知られている。ついで838年(承和5)、また遣唐使が発遣されたが、この2度の遣唐使が持ち帰った唐の文物が、唐風文化の興隆に拍車をかけたことはいうまでもない。…
琉球
… 一方、《日本書紀》《続日本紀》など日本側文献には、掖玖(夜句)(やく)、多禰(たね)、阿麻弥(あまみ)、信覚(しがき)、球美(くみ)、度感(とから)など南島と総称された島々の名が登場する。その記述は南島人の入貢・漂着関係記事をはじめとして、遣唐使船の南路問題にからむ大和朝廷の南島経営記事が主体をなす。唐僧鑑真の乗った遣唐使帰国船が〈阿児奈波(あこなは)島〉に漂着し、そこから多禰に向けて出帆したと《唐大和上東征伝》(779)が伝える話もよく知られている。… 
 
冊封 1

 

近代以前の中国とその周辺諸国との関係を示す学術用語。冊封とは、中国の皇帝が、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、侯などの爵位を与えて、これを藩国とすることである。冊封の冊とはその際に金印とともに与えられる冊命書、すなわち任命書のことであり、封とは藩国とすること、すなわち封建することである。したがって冊封体制とは、もともとは中国国内の政治関係を示すものであり、これを中国を中心とする国際関係に使用するのは、それが国内体制の外延部分として重要な機能をもつものと理解されるからである。
周辺諸国が冊封体制に編入されると、その君主と中国皇帝との間には君臣関係が成立し、冊封された諸国の君主は中国皇帝に対して職約という義務を負担することとなる。職約とは、定期的に中国に朝貢すること、中国皇帝の要請に応じて出兵すること、その隣国が中国に使者を派遣する場合にこれを妨害しないこと、および中国の皇帝に対して臣下としての礼節を守ること、などである。これに対して中国の皇帝は、冊封した周辺国家に対して、その国が外敵から侵略される場合には、これを保護する責任をもつこととなる。このような冊封された周辺国家の君主は、中国国内の藩国や官僚が内臣といわれるのに対して外臣といわれ、中国国内の藩国を内藩というのに対して外藩とよぶ。そして内藩では中国の法が施行されるが、外藩ではその国の法を施行することが認められ、冊封された外藩の君主のみが中国の法を循守する義務を負うことになる。
周辺諸国に対する冊封関係は、国内で郡国制が採用された漢代初期から朝鮮、南越を対象として発生するが、武帝時代にはこれらは郡県化される。しかし西南夷(せいなんい)諸国に対しては冊封関係が継続し、また高句麗(こうくり)もこれに編入される。3世紀になると邪馬台国(やまたいこく)女王卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)王朝から親魏倭王(わおう)に封ぜられて金印を受けたのも冊封体制へ編入されたことを示すものである。その後、朝鮮半島では百済(くだら)、新羅(しらぎ)がその対象とされ、唐代には新羅、渤海(ぼっかい)がその主要な藩国となる。しかし日本は6世紀以降はこの体制から離脱していた。
10世紀初め唐帝国が滅亡すると、それ以後、中国を中心とする冊封体制は一時崩壊し、宋(そう)代にはかえって中国王朝が遼(りょう)や金の下位に置かれるという事態も起こるが、14世紀に明(みん)王朝が成立すると、冊封体制は強化され、足利義満(あしかがよしみつ)も明の永楽帝から日本国王に冊封され、日本もふたたびこの体制内に位置づけられる。しかし室町幕府の衰微とともにその関係は消滅した。清(しん)代では、この体制は日本とインドを除くアジアの大部分に拡大され、清仏戦争や日清戦争の原因の一つとなった。しかし東アジアにヨーロッパ勢力が及び、また中国の皇帝制度が消滅するとともに、この体制は消滅した。
冊封体制の歴史的意義は、10世紀以前では中国文化を周辺諸国に伝播(でんぱ)させる媒体となったこと、それ以後では中国を中心とする東アジアの交易関係を統制し秩序化する役目を果たしたことである。しかし中国を中心とする国際関係は冊封関係のみではなく、敵国関係(対等な関係)、父子、兄弟、舅甥(きゅうせい)関係(国家関係を親族関係に比定した関係)、および冊封を伴わない単なる朝貢関係などのいろいろの形態があり、冊封関係はそのうちの一つであったが、中国と朝鮮、日本との関係としてはこの関係が重視される。
 
冊封 2
称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(モンゴル帝国、清朝を含む)たちが自任した。
冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は
○「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上
○「正朔」を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること)
などを行った。 「方物」は元旦に行われる「元会儀礼」において展示され、「天子」の徳の高さと広がり、献上国の「天子」に対する政治的従属を示した。 「方物」の献上を「朝貢」といい、「朝貢」を行う使節を「朝貢使」と称する。 朝貢使は指定された間隔(貢期)で、指定されたルート(貢道)を通り、指定された「方物」を「天子」に献上し、併せて天子の徳をたたえる文章を提出する。これを「職貢」と称する。宗主国と朝貢国の相互関係は、つづめて「封貢」と称された。
冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。
冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の'''爵号'''を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。このようにして成立した冊封関係では、一般に冊封国の君主号は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。 したがって、冊封関係を結んだからといって、それがそのまま中国の領土となったという意味ではない。 冊封国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。 冊封関係はこの意味で外交関係であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。
冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもあるが、その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができる。
ただし、これら冊封国の義務は多くが理念的なものであり、これを逐一遵守する方がむしろ例外である。例えば、朝貢の頻度は、冊封国側の事情によってこれが左右される傾向が見られる。 正朔についても、中国向けの外交文書ではこれを遵守するが、国内向けには独自の年号・暦を使うことが多い。またこれら冊封国の違約については、中国王朝側もその他に実利的な理由がない限りは、これをわざわざ咎めるようなことをしないのが通例であった。
冊封が行われる中国側の理由には、華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である。中国を文化の高い華(=文明)であるとし、周辺部は礼を知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。これに対して王化思想は、それら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることができるという思想である。つまり夷狄である周辺国は、冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。
冊封国側の理由としては、中国からの軍事的圧力を回避できることや、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること、また、当時は朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことができる、などがあった。 また、冊封国にとっては冊封国家同士の貿易関係も密にできるという効果もあった。なお朝貢自体は冊封を受けなくとも行うことができ、この場合は「蕃客」(蕃夷の客)という扱いになる。また時代が下ると、朝貢以外の交易である互市も行われるようになり、これら冊封を受けないで交易のみを行う国を互市国と呼ぶようになる。
冊封の最も早い事例としては前漢初期に南越国・衛氏朝鮮がそれぞれ南越王、朝鮮王に冊封されたことが挙げられる。その後、時代によって推移し、清代にはインド以東の国ではムガル帝国と鎖国体制下の日本を除いて冊封を受けていた。 
「冊封」を媒介とした「天子」と周辺諸国・諸民族の外交の歴史
周〜漢と近隣諸国・諸民族
○朝鮮半島
朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、中国系商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた。戦国時代、燕は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた。秦代は遼東郡の保護下にあった。秦末漢初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢王朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、朝鮮王国が成立した。
○南越王国
中国南部から東南アジアにいたる交易ルートは、戦国時代、楚が掌握していたが、秦にいたり、百越とよばれた原住民を征服し、桂林郡(広西)、南海郡(広東)、象郡(ベトナム北部)の三郡を置いた。秦末の混乱期、南海郡の司令官趙陀はこの三郡を押さえて独立政権を樹立し、南越王と自称した。漢は建国初期、趙陀の政権を承認し、「南越王」の称号も認めた。
三国〜南北朝と近隣諸国・諸民族
隋・唐と近隣諸国・諸民族
唐の帝国秩序
1.貢賦(調庸物・貢献物)と版籍(地図と戸籍)とを定期的に中央政府に納入する内地諸州(10道315州県)
2.王朝に服属した蕃夷が貢賦(調庸物・貢献物)と版籍(地図と戸籍)を不定期に納入し、長官を世襲する羈靡諸州(800州府) 突厥・契丹・奚・渤海・回鶻・堅昆・突騎施
3.王朝から冊封を受けて中華秩序に組み込まれ貢献を定期的に行う蕃夷 靺鞨・吐蕃・室韋・新羅・南詔・吐火羅諸国
4.貢物のみを不定期に朝貢する遠夷(入蕃) 日本・林邑・扶南
宋・元・明と近隣諸国・諸民族
清と近隣諸国・諸民族
史上最後の朝貢使はネパールから清朝に派遣されたもので、
○光緒32年(1906年) - 6月1日付で「稟」を送り、「朝貢品」を携えて「陽布」(カトマンズ)を発足したことを清朝に通知。
○光緒33年(1907年) - ラサに駐扎している清蔵大臣聯豫は正月16日付で北京に報告。同年、ネパールの朝貢使、北京入り。
○光緒34年(1908年) - 8月16日、北京を出立。
○宣統元年(1909年) - 7月27日、チベットに到着。同年12月11日、チベットを発って帰国。
○宣統2年(1910年) - 四川総督趙爾豊、蜀軍を率いて1905年から四川の西隣に隣接するチベット諸侯(土司)たちの征服に着手していたのがついにラサまで到達。チベット政府ガンデンポタンとラサを占領した蜀軍の双方から情報収集したネパール王、蜀軍に援軍を申し出る。同年夏、皇帝名義で、ネパール王の恭順な姿勢はほめるべきものだが、援軍は不要とコメント。
○宣統3年(1911年) - ネパールの貢期は「五年一貢」であるが、次の朝貢使がチベットから四川省経由で中国入りを目指した。その途上、清朝からの独立を目指すチベット軍と、このとき四川からラサまでのルートを制圧していた蜀軍(四川省)との戦闘が勃発、巻き込まれたネパールの朝貢使が立ち往生している間に、1912年に清朝は滅亡した。 
冊封・朝貢をめぐる学説と批判
西嶋定生の冊封体制論
西嶋定生は前近代東アジアの国際外交関係を分析するにあたり、宗主国側の行為である「冊封」の語を用いて「冊封体制」という概念を提示した。この概念は「六-八世紀の東アジア」(1962年)にて提唱され、、単独の冊封を指したものではなく、冊封によって作られる中国を中心とした国際関係秩序のことである。
当時、前田直典が唐滅亡後の東アジア諸国の大変動に目をつけ、東アジア諸国の間に相互連関関係があると提唱していた(「東アジヤに於ける古代の終末」1948年)。
しかしこの前田論に於いては、そういった連関関係を作っている要因に付いては言及されないままであった。それに対して西嶋冊封体制論は冊封に着目することによってこれに一定の回答を与え、「東アジア世界」という「その中で完結した世界」の存在を提唱するに至った。
西嶋は「東アジア世界」を特徴付けるものは漢字・儒教・仏教・律令制の四者であるとし、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしていると見ている。「東アジア世界」の範囲は漢字文化圏にほぼ合致し、含まれる国は現在の区分で言えば、中国・朝鮮・日本・ベトナムであり、「東アジア世界」の中心にかけられる「網」が冊封体制であるとしている。
このように当初は「東アジア世界」を説明するためのものであった冊封体制はその後、唐滅亡後にも拡大され、清代のように明らかに東アジア世界と冊封体制の範囲とが異なる時代にまで一定の言及をしている。
以下、西嶋の「冊封体制」論による各時代の展開を記す。特に注記しない限り『西嶋定生東アジア史論集第三巻』を主点として記述されたものである。
冊封体制の始まり
周王朝では頂点である王がその下の諸侯に対して一定の封地を分割して与え、その領有を認める封建制が行われていた。その後の春秋戦国時代にはその形態が崩れ、再統一をした秦では封建制を否定する形で皇帝が天下の全ての土地を直接支配し、例外を認めない郡県制が行われた。
全ての土地を直接支配すると言うのはもちろん理念上の話であり、現実には匈奴を始めとして秦の支配に従わない周辺民族が多数存在した。しかしこの理念がある限りはこれら周辺民族に対しては征服するか無視するかのいずれかしか無くなり、国際関係の発生のしようが無かった。
秦に取って代わった漢では郡県支配をする地域と皇族を封建して「国」を作らせて統治させる地域に分ける郡国制を行った。この郡国制が登場したことにより、周辺民族の「国」もまた中国の内部の「国」として中国の「天下全てを支配する」と言う思想と矛盾無く存在できるようになるのである。
冊封の事例の始めとして、南越国に対するものと衛氏朝鮮に対するものが挙げられる。この二国はそれぞれ漢より「南越王」・「朝鮮王」の冊封を受け、漢の藩国となったのである。
両国は武帝の治世時に滅ぼされ、朝鮮の土地には楽浪郡・玄菟郡・真番郡・臨屯郡の漢四郡が、南越の土地には南海郡・交趾郡などが置かれ、漢の郡県支配の元に服すようになり、冊封体制も一旦は消滅する。
一方、武帝の治世時より儒教の勢力が拡大し始め、前漢末から後漢初期にかけて支配的地位を確立する。この影響により華夷思想・王化思想もまた影響力を強め、冊封が匈奴・高句麗などの周辺国に対して行われるようになり、再び冊封体制が形成され始める。この時期、倭の奴国の王が後漢・光武帝より「漢倭奴国王」の爵号を受けている(57年)。
冊封体制の完成
後漢滅亡後、中国は長い分裂時代を迎える。その一方、日本列島に於いては、239年?にいわゆる邪馬台国の卑弥呼が魏に対して使者を送り親魏倭王の爵号を受け、また朝鮮半島に於いては、4世紀半ばに百済・新羅が興るなど周辺諸国の成熟が進み、冊封体制の完成へと進んでいく。
五胡十六国時代には高句麗が前燕により征服されて冊封を受けるようになり、前燕を滅ぼした前秦に対しても朝貢した。新羅もまた高句麗にしたがって前秦に対して朝貢した。一方、二国への対抗上、百済は東晋に対して朝貢し、冊封を受けている。
南北朝時代に入ると、朝鮮三国は南朝から冊封を受けた。この時期、百済は倭の影響下、新羅は倭の支配下にあり、中華秩序下での支配権のお墨付きを得ようと南朝の宋から承認を得るため自ら冊封を受けた。新羅については承認されたが、百済は既に宋の冊封国であり倭の百済支配が承認される事はなかった。高句麗は北朝の北魏に対しても入朝し冊封を受け、百済に対抗する姿勢を見せた。一方百済もまた高句麗に対抗して北魏に朝貢している。
この後、北朝・南朝それぞれを頂点とする二元的な冊封体制が成立し、この時代が東アジア世界および冊封体制の完成期と見られる。
冊封体制の全盛
二元的な冊封体制は、589年に中国を統一した隋によって一元的なものへ纏められた。
高句麗・百済は隋成立の581年すぐに隋の冊封を受けたが、新羅はすぐには冊封を受けず、594年になって初めて隋の冊封を受ける。一方、高句麗は585年からは隋と対立する陳に対して朝貢するようになり、隋が陳を滅ぼした後も隋に対する朝貢を怠り、さらには隋領内に侵入する事件まで起きる。
これに激怒した文帝は高句麗に対する遠征軍を起こす。この軍は苦戦し、撤退を余儀なくされるが、高句麗が謝罪したことで高句麗の罪を赦した。しかし高句麗はなお朝貢を怠り、文帝に代わって煬帝が立った後の607年には突厥と結んで、隋に対抗する姿勢を見せた。煬帝はこれに対して二百万と号する大遠征軍(隋の高句麗遠征)を起こすが、三度とも失敗に終わり、隋滅亡の主要因となった。
他方、中国王朝との接触を行っていなかった倭国は、隋に対して遣隋使を送るようになる。この際煬帝に対して「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國)で始まる国書を送ったことが知られているが、これは、当時台頭し始めた俀國なりの大国意識に基づく、冊封体制への忌避感の表明と見られている。また、唐使の高表仁が倭国王(中国の史書のうち『旧唐書』は舒明天皇5年1月26日(633年)「與王子爭禮 不宣朝命而還」とし王子とする)と礼を争い帰国するなどした。ただしこの時期の倭国もまた東アジア世界の一員であり、「冊封体制の外部」にあったとしても、主に政治制度の確立という点で中国王朝からの影響は大きかった。
隋が滅び、唐が成立すると、624年に朝鮮三国は唐の冊封を受けた。しかし高句麗で泉蓋蘇文による権力奪取が起きるとこれを理由として2代太宗は高句麗遠征(唐の高句麗出兵)を開始するが、この遠征は再び失敗に終わる。
その過程で唐と新羅との関係が密になり(唐・新羅の同盟)、660年、唐は百済と戦争中の新羅からの救援要請に応じて兵を送り、百済を滅ぼした。その後も連合は維持され、668年には高句麗を滅ぼした。更に百済遺民の要請を受けて出兵した倭との白村江の戦いにも勝利する。
しかし新羅は二国の旧領が唐の郡県支配に置かれることを不快に思い、これに攻撃(唐・新羅戦争)を仕掛けて朝鮮半島を統一するに至った。唐は当然これに怒り、新羅の王号を剥奪し討伐軍を送るが失敗に終わり、最終的に新羅が謝罪して入朝するという形式をとることで和解し、拡大した支配領域を維持したまま再び新羅は冊封を受ける。以後、新羅と唐は冊封体制の中でも最も強固な関係となる。
一方、高句麗の遺民たちは北に逃れ、震国を建国した。唐は初めこれに対して討伐軍を送ったものの713年には王の大祚栄を渤海郡王に冊封する。震国はこれにより渤海と呼ばれるようになり、唐の冊封体制に入った。
また白村江の戦いに敗れた倭国では、大宝2年(702年)第8次以降の遣唐使により唐との関係修復を試み、これを朝貢の形式で行っているが冊封を受けることはなかった。
唐の隆盛とともに冊封体制も安定期を迎え、冊封体制を通じて各国に唐文化が伝えられた。各国では唐の制度を模した律令制が採り入れられた。
冊封体制の崩壊と再生
冊封体制の安定も唐の衰退と共に揺らぎを見せ、唐滅亡によって冊封体制のみならず東アジア世界が崩壊することになる。
五代十国時代の後、中国を統一した宋(北宋・南宋)では遼や金などに対して対等更に臣下としての礼を取らなければならなくなり、冊封体制の中心とは到底なりえなかった。
その一方で宋代・元代を通じて中国を中心とした交易網が飛躍的に発展しており、これが以後の冊封体制の再生に大きな役割を果たす。
洪武帝が元を北に追いやり(北元)、明が成立すると冊封体制と東アジア世界が再生される。朝鮮半島に於いては高麗に代わって李氏朝鮮が興り、明の冊封を受けて朝鮮王とされた。
この頃の日本では、朝廷が分裂した南北朝時代という特殊な状況もあり、南朝の征西将軍であった懐良親王が、明からの倭寇鎮圧の要請を機に、北朝に対し自勢力の正統性を主張するため日本国王として冊封を受けている。また後に北朝室町幕府3代将軍の足利義満も、明との貿易による利益を得るため、同じく日本国王として冊封を受けている。明は当初、義満の資格について天皇の陪臣に過ぎないとして通行を拒んだものの、国情を脅かす倭冦の鎮圧を、権力基盤を確立した義満に期待して妥協し、最終的には、位階上天皇との封建的関係性が明白な准三后を称する義満と関係を結んだ。以降日明間で勘合貿易が行われることとなったが、これは朝貢の形式をとっていたため、日本の体面を汚すとして4代将軍義持によって中断される。しかし幕府の財政状況の悪化を考慮した6代将軍義教によって再開され、1549年、13代将軍義輝の代まで続けられた。室町幕府の得た利益、即ち明の支出は多大であり、これには倭寇鎮圧の見返りという性格があったと見られている。
なお、日本では懐良親王が明の太祖からの朝貢を促す書簡を無礼と見なし、使者を斬り捨てたことに表れるように、中華中心の華夷観を否定し対等外交を志向する向きが強かった。南朝・北朝および室町幕府いずれも天皇は冊封を受けておらず、前者は天皇の尊厳を傷付けることなく、国内政治に利用し得る「日本国王」の称号を得るため、後者は、実権を握り、天皇に代替する立場としての「日本国王」になるためという思惑が、それぞれ指摘される。
明滅亡後、清代には冊封体制の範囲は北アジア・東南アジアなどに大きく広がり、インド以東ではムガル帝国と鎖国体制下の日本のみが冊封体制に入らなかった。
冊封体制の終焉
大きく広がった冊封体制の崩壊が始まるのは、19世紀、西欧列強の進出によってである。
清国はアヘン戦争での敗北により、条約体制に参加せざるを得なくなり、更にはベトナムの阮朝が清仏戦争の結果、フランスの植民地となる。この時点でも、未だに清朝はこれらを冊封国に対する恩恵として認識(あるいは曲解)していた。しかし、1895年、日清戦争で日本に敗北し、日本は下関条約によって清朝最後の冊封国であった朝鮮を独立国と認めさせ、ついに冊封体制が完全に崩壊することとなった。
批判1
西嶋冊封体制論に対して、『岩波講座日本歴史』に於いて旗田巍が、当時の新羅・渤海・日本を比較することによって当時の東アジア世界に構造的な物は存在しないと結論付けた。これに対して堀敏一は、旗田説を批判する形で、当時の東アジア世界に構造的な物は存在すると述べた。しかしあたかも唐の国際関係が冊封体制によってどの民族に対しても画一的に存在するかのような西嶋の論には反対し、突厥・吐蕃のような北・西に対する政策として羈縻政策や和蕃公主の降嫁なども視野に入れて、総合的な唐の異民族対策としてみるべきであると述べた。
批判2
冊封体制でアジア史を説明するのは日本の学者だけ
近代以前の東アジアの外交秩序は中国を中心とする「冊封体制」で成り立っていたという説明を聞かされて信じている人が多い。しかし、冊封体制という言葉は、中国の歴史教科書には出てこないし、韓国でもほんの少しだ。
「冊封体制論」は日本だけのガラパゴス理解なのである。1962年に西嶋定生という東大教授が提唱し、媚中ブームに乗って定説化しただけだ。冊封は中国の皇帝が家臣に肩書きと任命書を与えて領土の支配権を認め、挨拶にやってきたり軍役につく代わりに保護するという関係だが、それと類似の関係を外国君主にあてはめたものだ。
しかし、中国と周辺国の関係は時代や地域によってさまざまだし、中国の主観的な位置づけが相手に共有されているとは限らず、また、冊封された国が別の国にも支配されていることも多い。朝鮮では、新羅が七世紀に日本、百済、高句麗の同盟に圧迫され危機にあったので、唐に対して暦、服装、人名まで唐風に従い半独立国となる条件で生き延び、さらには、渤海攻撃に参加することで朝鮮半島の大部分を領土として認められた。
明や清の時代には、世子と呼ばれる皇太子は前王が死んでも中国の皇帝から任命を受けるまでは国王ではなかった。これは、ベトナムや琉球もそうだった。しかし、ベトナムは周辺国に対して同様の関係を強要していたし、琉球は実質的に薩摩支配にあったし、朝鮮通信使も徳川将軍に対するゆるやかだが上下関係が明白な遣使であった。
冊封なしの朝貢となると、本来は他国の君主にほかの国が使節を出して貿易をしたりご機嫌伺いをすることだが、もっと広い意味での遣使すべてに使われる。
日中関係では、奴国王、卑弥呼、倭の五王なども、別に中国の皇帝から認められる前から王だったので、対外関係に有利なので、肩書きをもらっただけで継続的な冊封関係でなかった。とくに五世紀の倭の五王の遣使の狙いは朝鮮半島の支配権を認めさせるためのもので、百済に対する支配権を中国が認めなかったから日本から国交を断絶している。
遣隋使や遣唐使については、本当に対等の関係というかどうかは別として、日本は向こうの使節は西蕃の遣使として扱うという建前を崩してもいない。懐良親王や足利義満の日本国王は、中国側もその上に天皇がいることを認識していたうえでの交流だった。いずれにせよ、日本は中国とは気ままに必要があればときどき交流していただけで、朝鮮などと同じ意味で冊封関係にあったことなどない。
そして、近代には、東洋の曖昧な国際関係を国際法秩序でどう位置づけるかが問題になり紛争も起きた。日本は、西洋諸国と同じ関係を要求し、中国はそれを受け入れた。中国はローマ帝国や大英帝国についても朝貢してきたと位置づけていたからそれでよかったのだ。
日清修好条約は対等の条約だったし、さらに、副島種臣は皇帝に三跪九叩頭なしに拝謁することを認めさせて、それまで外交使節が皇帝に会えなかった西洋諸国もこの問題から解放された。そして、日清戦争などを経て、朝鮮、琉球、ベトナム三か国との冊封関係も近代国際法において特別の意味を持たないことが確認されたのである。 
冊封への歴史言及
冊封
…冊書は本来は竹簡を編綴した竹冊であったが、後世は玉冊や綾錦の類も使用された。 西嶋定生は、中華帝国と冊封された周辺諸国の国際関係を〈冊封体制〉の概念でとらえる説をとなえた。冊封された諸国の君主は、定期的朝貢、中国の要請に応ずる出兵、臣礼遵守等の義務を課されるとともに、外敵の侵略に際し中国の庇護を保証される関係に立つ。… 冊書は本来は竹簡を編綴した竹冊であったが、後世は玉冊や綾錦の類も使用された。西嶋定生は、中華帝国と冊封された周辺諸国の国際関係を〈冊封体制〉の概念でとらえる説をとなえた。冊封された諸国の君主は、定期的朝貢、中国の要請に応ずる出兵、臣礼遵守等の義務を課されるとともに、外敵の侵略に際し中国の庇護を保証される関係に立つ。… 

…後半期は律令体制の崩壊期で、藩鎮が各地に割拠する社会であり、魏晋南北朝以来つづいてきた貴族制社会の終焉期であった。
冊封体制の確立 / 高祖李淵は、即位して7年の間に各地の群雄を平らげたが、その際に最も功績のあったのは次男の李世民であった。そこで即位して9年目に位を譲って太上皇となった。…
東アジア
…周辺諸国の政治権力は、中国の王朝から金印や官号、爵位を授けられることによって権威を獲得しようと努めた。このような政治的権威の授受関係によって秩序を与えられた近代以前の東アジア国際体系を、冊封(さくほう)体制と呼ぶ。また、周辺諸国は定期的あるいは不定期に中国の朝廷に朝貢使節を送った。…
琉球
…北部には今帰仁(なきじん)城を拠点とする〈山北(さんほく)(北山)〉が、中部には浦添(うらそえ)城(のちに首里(しゆり)城)を拠点とする〈中山(ちゆうざん)〉が、南部には島尻大里(しまじりおおざと)城(一時は島添(しまそえ)大里城)を拠点とする〈山南(さんなん)(南山)〉が割拠して互いに覇を競った。 1372年中山王察度(さつと)は中国に誕生した明朝の太祖洪武帝の招諭を受け入れて初めて入貢し、その冊封(さくほう)体制の一員となった。これにつづいて山南王、山北王も同様の関係を結び、三山の対立はいよいよ激化する形勢となった。…
 
三浦の乱 [さんぽのらん] 1

 

朝鮮の三浦に居住していた日本人が1510年に起こした反乱。1426年以来、日本と朝鮮の貿易は三浦(富山浦(ふさんぽ)=釜山(ふさん)、薺浦(せいほ)=熊川、塩浦(えんぽ)=蔚山(うるさん)の3港)で行われ、三浦には貿易などに従事する日本人が多数居住していた(恒居倭人(こうきょわじん))。当時、日朝貿易には、外交使節の贈答品、政府買上げの公貿易、政府監督下の私的貿易(私貿易)の3形態があり、なかでも私貿易は利益が大きく、盛んであった。しかし私貿易は禁制品の密貿易を伴いがちであり、種々の弊害が生まれたため、朝鮮政府は1494年、私貿易を最終的に禁止した。すると、対馬(つしま)島民や三浦の恒居倭人は密貿易に走り、朝鮮政府がそれを厳しく取り締まると、1510年、三浦の恒居倭人が反乱を起こした。このとき、対馬島主の宗(そう)氏は200余隻の軍船を送ってこの反乱を支援したが、朝鮮軍の反撃を受け、反乱は鎮圧された。これが三浦の乱である。この反乱のあと、対馬と朝鮮の通交はまったく断絶した。その後、対馬側の要請で1512年壬申(じんしん)約条を結び、対馬と朝鮮の通交は再開されたが、対馬の貿易船は半減され、三浦の恒居倭人もいっさい禁止され、貿易港も薺浦だけとされた。 
 
三浦の乱 2
1510年(中宗4年)に朝鮮国慶尚道で起きた、対馬守護宗氏と恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱。朝鮮名庚午三浦倭乱。
15世紀、朝鮮半島南部に三浦と呼ばれる日本人居留地が存在し、宗氏を始めとする西日本諸勢力は三浦を拠点に朝鮮に通交をしていた。朝鮮にとってこうした通交は多大な負担であり、次第に制限を加えていった。それに対し宗氏にとって通交の制限は受け入れられるものではなく、両者の間に確執が生まれた。また三浦居住の恒居倭の増加に伴い様々な問題が生じ、朝鮮は恒居倭に対し強硬な姿勢で臨むようになった。こうした中で蓄積された日本人の不満は、1510年に三浦の乱という形で爆発するが、朝鮮に鎮圧された。その結果、三浦居留地は廃止され、通交も大幅な制限を受けることになり、宗氏は偽使の派遣や、通交権の対馬集中といった活路を模索することになった。 
乱の背景
中世東アジアにおいて前期倭寇と呼ばれる海上勢力が猛威を奮い、朝鮮は討伐・懐柔・室町幕府への鎮圧要請など、様々な対応を余儀なくされていた。朝鮮は農本主義を国是としており、本来なら、国内で産出することの無い必要最小限の物資の入手を除けば、外国との交易を必要としていなかった。しかし倭寇沈静化を図り、通交権をもって西日本諸勢力から倭寇禁圧の協力を取りつけ、また倭寇自体を平和的通交者へと懐柔していった。特に対馬は倭寇の一大拠点と目されており、対馬守護であった宗氏に対してもこうした協力が要請され、宗氏もそれに応えて日朝交易に積極的に参加をしていった。
李氏朝鮮建国当初は、入港場に制限はなく、通交者は随意の浦々に入港することが可能であった。しかし各地の防備の状況が倭寇に漏れるのを恐れ、交易統制のためもあり、1407年、朝鮮は興利倭船(米、魚、塩など日常品の交易をする船)の入港場を釜山浦・薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の昌原市)に制限し、1410年には使送船(使節による通交船)についても同様の措置が取られた。1426年、対馬の有力者早田氏が慶尚道全域で任意に交易できるよう要求したのに対し、拒絶する代償として塩浦(蔚山広域市)を入港場に追加した。これら釜山浦・薺浦・塩浦を総称して三浦と呼ぶ。(浦は港の意味)
交易の制限
中世日朝交易は、通交使節による進上と回賜、朝鮮国による公貿易、日朝双方の商人による私貿易の三つの形態が組み合わさったものであった。朝鮮にとって公貿易は利益を産み出すものではなく国庫を圧迫する要因となっていた。また朝鮮国内における通交者の滞在費・交易品の輸送も朝鮮側が担っており、こうした負担も無視出来ないものであった。日本経済の発達に伴い交易量が増大した結果、朝鮮はこうした負担に耐えられなくなり、交易の制限を図るようになった。それに対し、対馬は山がちで耕地が少なく土地を通じた領国支配は困難であったため、宗氏は通交権益の知行化を通じて有力庶家の掌握や地侍の被官化を行い、領国支配を推し進めていた(宗氏領国)。また主家である少弐氏の敗勢により九州北部の所領を喪失し、家臣に代替として通交権益を宛がう必要もあり、通交の拡大を望みこそすれ制限は受け入れられるものではなかった。そのため、宗氏は様々な手段で通交の拡大を図り、朝鮮王朝と軋轢を引き起こすことになった。
1443年の嘉吉条約により、朝鮮は対馬から通交する歳遣船(毎年派遣される使送船)の上限を年間50隻に定めた。それに対し宗氏は特送船(緊急の用事で送る使送船)を歳遣船の定数外とし、島主歳遣船(宗氏本宗家名義の歳遣船)とは別に有力庶家名義の歳遣船を定約し、また島主歳遣船の上限を引き上げるよう要求したが、これは朝鮮から拒絶された。さらに対馬島外勢力や実在しない勢力名を騙った新たな通交者の偽使を仕立て上げ、通交の拡大を図った。
当時の日朝貿易における日本側の輸出品は胡椒・丹木・朱紅・銅・金等であり、朝鮮側の輸出品は綿布であった。朝鮮は綿布の国庫備蓄が底をつくことを恐れ、1488年に綿布の交換レートの引き上げを行い、1494年には金・朱紅の公貿易禁止、1498年には銅の公貿易も禁止した。それに対し宗氏は、それまでは外交交渉のために使用していた特送船を使って、銅の輸出を図った。1500年に朝鮮に訪れた宗氏の使者は、11万5千斤の銅を持ち込むが、朝鮮は3分の1を買い取り、残りは持ち帰らせた。2年後、再度訪れた使者は残余の買い取りを迫ったが、朝鮮は綿布の交換レートを引き上げた上での3分の1の買い取りを提示し、交渉は物別れに終わった。翌々年、三度交渉するが不調に終わった。資料が残っておらず結果は不明ながら、1508年にもまた同様の交渉が行われている。こうした大量の銅は、宗氏が新たに入手したものではなく、朝鮮が交易の制限を強化していく中、対馬・博多において大量に過剰在庫となって溜まっていたものと考えられる。こうした交易の制限を巡る軋轢が繰返される中、宗氏は不満を募らせ、三浦の乱の一因となった。
恒居倭の増加
朝鮮の当初の目論見では、三浦は入港場にすぎず、日本人の定住は想定していなかった。しかし対馬は土地が痩せていて、島内で過剰人口を吸収できず、交易従事者のみならず三浦に定住する日本人(恒居倭)が出現した。彼らは倭館の関限を超えて居住し、田地を購入して、耕作や朝鮮半島沿岸での漁業、密貿易など様々な活動を行った。朝鮮は、恒居倭の倭寇化を恐れ、検断権(警察・司法権)・徴税権といった行政権を行使できず、日本人有力者による自治に任せるままであった。朝鮮は恒居倭の増加を危惧し、宗氏に恒居倭を送還するよう度々要請した。宗氏は当初恒居倭を掌握しておらず、自身の支配下にある対馬への送還に熱心であった。しかし1436年の送還により宗氏の支配下にない者達が一掃され、以降三浦は宗氏の派遣する三浦代官の支配するところとなった。その結果、宗氏は送還に消極的になり、三浦人口は1436年の206人から1466年には1650余人、1494年には3105人まで急増することになった。
恒居倭の増加に伴い、恒居倭による漁場の占拠、恒居倭の倭寇化、密貿易の恒常化及び恒居倭と朝鮮人の癒着、三浦周辺朝鮮人の納税回避、朝鮮人水賊の活発化など、様々な問題が噴出する。朝鮮王朝は三浦の状況を、「譬えるなら、腫瘍が腹に出来、すぐにでも崩れそうな状況」と危機感を募らせていった。
15世紀末、こうした事態に耐えかねた朝鮮国は、恒居倭に対して強硬姿勢に転じた。辺将による納税の論告を行い、三浦代官の協力を得た上ながら海賊行為を働いた者を捕らえて処刑するなど、それまで恒居倭に対し行えなかった検断権・徴税権行使を試みるようになった。また三浦の辺将に中央高官を任命し、厳重な取締りを行わせた。こうした中、無実の日本人が海賊と間違われて斬られる、といった事件が起こって日本人の不満は爆発した。 
乱の展開
1510年。事の発端は釣りに向かう薺浦の恒居倭人4名を、海賊と誤認した朝鮮役人が斬殺した事にあった。日ごろから折り合いの悪かった三浦の恒居倭人は、この事態に憤慨し一斉に武器を持って立ち上がった。
さらに、4月4日、対馬から宗盛順率いる援軍を加えた恒居倭は、約4500の兵力をもって三浦の乱を起こした。これは宗氏主導で計画的に起こされたものと考えられている。彼らの目的は、強硬な取締りを行った辺将を討取り、朝鮮王朝の行なった交易の制限、恒居倭に対する検断権・徴税権の行使といった倭人抑圧政策の変更を迫る事にあった。
倭軍は、釜山浦・薺浦の僉使営を陥落させ、釜山浦では辺将を討取り、薺浦では生け捕りにした。さらに釜山浦から東萊城、薺浦から熊川城へ攻め進むが反撃に会い攻撃は頓挫した。4月9日頃、倭軍は兵の一部を対馬へ撤退させた。盛親は残りを薺浦へ集結させて自ら講和交渉に臨もうとしたが、朝鮮は講和に応じず、4月19日、朝鮮軍は薺浦へ攻撃をかけ、薺浦は陥落。倭軍は対馬へ撤退した。6月末、倭軍は再度来攻したが、撃退された。 
乱の顛末
この事件により日朝の国交は断絶状態となった。これは宗氏以外の全ての受職人(朝鮮から官位を貰っている者)・受図書人(通交許可を受けている者)に対しても同様であった。しかしながら、交易で生計を立てている対馬と、胡椒・丹木・銅などの輸入を対馬に全面的に依存している朝鮮の双方は、折り合いを付ける必要に迫られ、1512年、壬申約条により和解が成立した。
これにより交易は再開され倭館も再び開かれた。しかし、入港地は薺浦のみに制限され、歳遣船は半減、特送船の廃止、日本人の駐留の禁止、受職人・受図書人も再審査を受けるなど、通交は以前より制限されたものになった。また、暴動対策のため備辺司が設置された。その後、薺浦一港だけでは港受入れは難しいとの理由から、釜山浦も再び開かれるが、1544年に蛇梁倭変が起こり、再び国交は断絶した。1547年の丁未約条を以って交易が再開されるが、入港地は釜山浦一港に制限され、これが近代倭館へと続いていくことになる。
宗氏にとって三浦の喪失と通交の制限は大きな痛手であり、日本国王使の偽使の派遣、通交権の対馬集中といった方策を持って三浦の乱による損失の穴埋めを図ることになる。
偽使の派遣
壬申約条において通交に制限を加えられたのは、宗氏のように朝鮮にとって陪臣にあたる者達であり、朝鮮と同格である日本国王(室町幕府)の使節の通交を制限するものではなかった。宗氏はこの点に着目し、日本国王使の偽使を仕立て上げ通交を行おうとした。偽使の派遣は三浦の乱以前にも行われていたが、三浦の乱をきっかけに本格化することになった。
また交易目的だけではなく、三浦の乱や蛇梁倭変の講和のような重要な交渉時にも、交渉を有利にするため、偽の日本国王使を派遣した。その結果、三浦の乱後の1511〜1581年までの間、日本国王使は22回通交することになるが、その中で本物の日本国王使は2回に過ぎず、残りの20回は宗氏の仕立て上げた偽使であった。この偽使の派遣により、壬申約条による交易の制限は事実上有名無実化されることになる。
日本国王使の派遣には朝鮮が室町幕府に発行する象牙符が必要であった。象牙符は大友氏と大内氏が所持するものであり、偽の日本国王使の派遣には大友氏、大内氏の協力が欠かせず、宗氏は両氏との関係の緊密化に腐心することになる。
通交権の対馬集中
三浦の乱以前には、九州・中国地方の諸勢力も朝鮮から図書を受け通交していたが、三浦の乱を境に通交権は宗氏に集中し、日朝貿易の独占が行われるようになる。ただし、宗氏による通交権の集中は三浦の乱以前から行われていた可能性も指摘されている。こうして日朝交易から締め出された勢力の一部は明人海商と結びつき、後期倭寇の一翼を担うようになる。後期倭寇は主に明国沿岸部で活動したが、朝鮮半島沿岸部も活発に襲撃し朝鮮を苦しめている。後期倭寇はそれまでの倭寇と違い通交権を盾にした統制の効かない相手であり、朝鮮は有効な対策を打ち出せないまま、1588年の豊臣秀吉の海賊停止令により倭寇が終息するまで苦しめられることになる。 

朝鮮通信使

 

朝鮮通信使
李氏(りし)朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)が日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被人(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)を契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。
通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)」から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された。
朝鮮通信使への歴史言及
壱岐島
…また田畑割が〈数十年滞候場所も有之〉(田畑割御定法)と1847年(弘化4)に指摘される事態にもなった。ところで、壱岐は朝鮮通信使の往来の際の滞在地であり、1763年(宝暦13)のおりには一行480余人が11月3日勝本に着港し、12月3日まで滞在したように日本と朝鮮との交流上で重要な役割を果たした。1805年(文化2)に伊能忠敬が島内を実測し、61年(文久1)には外国船が入港した。…
海游録
…1719年(享保4)、徳川吉宗の将軍職襲位を賀す朝鮮通信使(正使洪致中)の製述官申維翰の日本紀行文。内容は日本の自然、物産、文物、制度、人情、世相、風俗の観察から、対馬藩真文役雨森芳洲、大学頭林信篤などとの筆談にまで及ぶ。…
国役
…普請費用の膨張に伴い、この限度額の制度は1866年(慶応2)に廃されたが、明治政府の下では高100石あたり金1両2分の賦率とされている。
朝鮮信使国役 / 将軍の代替りに来日する朝鮮信使(朝鮮通信使)の逓送については、従来、沿道諸国の大名の人馬供出をもってなされていたが、1719年(享保4)の来日時より請負の通し人馬によってこれを賄い、その費用が21年に畿内より武蔵国までの東海道16ヵ国の農民から高100石あたり金3分余の国役金として徴収された。その後この国役は信使の来日ごとに課されたが、1808年(文化5)のときには日本全国に対して惣国役として高100石あたり金1両が賦課された。…
大君
…江戸幕府が外交文書において将軍を表す語として用いた〈日本国大君〉の略称。3代将軍徳川家光のとき、朝鮮との国交修復に際し対馬藩主の宗氏が将軍の号を〈日本国王〉と改作した事件が起き、これを機に幕府は朝鮮に対し1636年(寛永13)来日の朝鮮通信使から〈日本国大君〉の称号を使用させた。以後6代将軍家宣のとき新井白石の建議で一時〈日本国王〉に変更されたが、8代将軍吉宗は大君を復活、幕末の日米和親条約以降欧米諸国との往復文書にも用いられ、1868年(明治1)天皇が外交権を接収するまで続いた。…
李朝
…朝鮮からは1607‐24年までに3回の回答兼刷還使、1636‐1811年までに9回の通信使(約200年間に合計12回、毎回総勢300〜500人に及ぶ使節団一行)が来日した。この朝鮮通信使を介しての国交は徳川将軍(日本国王あるいは日本国大君)と朝鮮国王との対等な善隣関係として行われ、日本は鎖国(1639)後も朝鮮とは唯一、正式の国交関係を保った。日本の要請にもかかわらず明は国交に応じなかったため、朝鮮との国交、朝鮮使節の来日は徳川将軍の国際的地位を示すものとして重視され、幕府は朝鮮使節を盛大にもてなした。… 
 
柳川一件 1

 

対馬(つしま)藩主宗義成(そうよしなり)とその重臣柳川調興(しげおき)の争論が発端で、宗氏(柳川氏)の日朝両国国書の改竄(かいざん)などの不正が露顕し、近世初期の日朝関係最大の問題となった事件。柳川氏は調興の祖父調信(しげのぶ)一代で家臣の筆頭にまでのし上がった存在で、調興の代には朝鮮関係から宗氏の家政まで擅断(せんだん)するようになっていた。また、調興は人質として幼少から徳川家康・秀忠(ひでただ)の膝元(ひざもと)に置かれており、幕府要路に強力な人脈をもっていた。義成と調興の確執は、調興がそのような地位を足場に幕臣化しようとした点に発しており、1615年(元和1)に義成が家督を継いでほどなくその兆しがみられ、31年(寛永8)に双方が幕府に訴えたことから争論となった。その際明らかになった日朝関係上の不正には、それまでの朝鮮使節来日の際の国書の改竄・取り替え、国王使(将軍使)を詐称しての使節の朝鮮派遣などがあるが、これらは宗氏あるいは柳川氏の罪というよりは、中世以来の日朝関係の諸慣例を放置していた幕府の姿勢に起因したものである。
争論は当初調興の有利が噂(うわさ)されたが、1635年将軍家光(いえみつ)の親裁によって義成の無罪、調興らの有罪が決定した(調興は津軽に流罪、そのほかにも死刑・流罪)。この裁定には、義成室が日野資勝(ひのすけかつ)娘で家光室の鷹司(たかつかさ)氏と親類にあたることが影響しているといわれるが、それだけではなく、当時の幕府の対外政策、大名統制策の基本路線に沿ったものであった。一件後、将軍の国際的称号を日本国大君(にっぽんこくたいくん)とし、外交文書に日本年号を使用すること、対馬以酊庵(いていあん)へ京都五山(ござん)の長老を輪番で派遣して外交文書を管掌させる以酊庵輪番制の設定など、日朝関係上の諸体制が整備された。 
 
柳川一件 2
江戸時代初期に対馬藩主・宗義成と家老・柳川調興が日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造を巡って対立した事件。
16世紀末、日本の豊臣政権による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日朝、日明関係が断絶した。戦後、日本で徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始する。日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。
朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。1605年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。使節は江戸城で2代将軍・秀忠、駿府で大御所の家康と謁見した。対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、1609年には貿易協定である己酉約条を締結させた。
対馬藩の家老であった柳川調興は主家(宗義成)から独立して旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立した。そのため、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た。
大名・幕閣の動向
当時、戦国時代の下克上の風潮が残存していた。柳川は、家康の覚えも良く、幕閣有力者からの支持もあり、「幕府も日朝貿易の実権を直接握りたいであろう」との推測から、勝算があると考えていた。一方、仙台藩主・伊達政宗など、宗義成を支持する大名もおり、彼らは、下剋上が横行する戦国時代が完全に終ったことを印象付けるために、この事件を利用する方向で動いた。
家光の判断
1635年4月27日(寛永12年3月11日)、3代将軍・家光の目の前で、宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われた。江戸にいる1,000石以上の旗本と大名が総登城し、江戸城大広間で対決の様子が公開された。結果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、宗義成は無罪、柳川調興は津軽に流罪とされた。また、以酊庵の庵主であった規伯玄方も国書改竄に関わったとして南部に流された。
宗義成は対朝鮮外交における権限を回復させたものの、対朝鮮外交に不可欠であった漢文知識に精通しており、かつ朝鮮側との人脈を有していた柳川調興や規伯玄方が持っていたノウハウを失った事で、対朝鮮外交は完全に停滞してしまった。そのため、義成は幕府に援助を求めた。そこで、幕府は京都五山の僧の中から漢文に通じた優秀者(五山碩学)を朝鮮修文職に任じて対馬の以酊庵に輪番制によって派遣して外交文書作成や使節の応接、貿易の監視などを扱わせた。その結果、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれた。幕府は国書に記す将軍の外交称号を「日本国王」から「日本国大君」に改めることとなる。 
 
柳川一件 3
江戸時代初頭、対朝鮮外交を担っていた対馬藩では李氏朝鮮と徳川政権との間の外交文書「国書」の偽造が慢性的に行われていた。それは幕府にも朝鮮王朝にも秘密裏に行われていたが、ある日、対馬藩家老柳川調興(やながわ・しげおき)によって暴露され、政権中枢を巻き込んで将軍家光自ら解決に乗り出すほどの徳川幕府を揺るがす一大スキャンダルへと発展する。世に言う「柳川一件」である。
第一章 朝鮮出兵「文禄慶長の役」の戦後処理
始まりは豊臣秀吉による朝鮮出兵「文禄慶長の役」である。日本列島を統一した豊臣秀吉は文禄元年(一五九二)、ついに朝鮮半島へ軍を差し向ける。侵略の目的は「勘合貿易復活説」「領土拡大説」「東アジア新秩序説」などあって現在でも定まっていないが、無謀とも言える侵略戦争の爪痕は大きく、朝鮮半島を荒廃させ、明国を衰退させ、また日本も前半は局地戦で圧倒したものの後半制海権を失い形成逆転されて消耗する一方で、慶長三年(一五九八)、秀吉の死によって撤退。敗戦による権威の失墜、莫大な戦費と五万人にも上る犠牲が重くのしかかり、豊臣政権崩壊の一因となった。
この戦争によって日本は外交的に孤立、資源等自給自足体制には程遠く、中国商人や朝鮮半島経由での輸入に多くを依存していた状況であったから、豊臣政権の後継となった徳川政権にとっては中国・朝鮮との講和と通交復活が外交上の最優先課題となった。
この対朝鮮外交を担ったのが対馬藩の宗氏であった。宗氏は古くから対馬を支配し、一四〜一五世紀に倭寇を利用して李氏朝鮮との関係を強め、一六世紀の対朝鮮貿易において、商人は宗氏が発行した渡航証を持参する外交ルールが定められており、実質宗氏の独占状態であった。成立したての徳川政権にとって対朝鮮外交は最重要課題でありながら、その複雑さから勝手がわからず、ゆえに宗氏に一任され、宗氏と実務を司る家老の柳川氏がともに幕府から非常に重きを置かれていた。
第二章 対朝鮮外交と国書偽造
対朝鮮貿易の復活は宗氏にとって死活問題であったこともあり李朝と徳川政権の講和に向けて、仲介として尽力し始める。慶長七年(一六〇二)、李朝から対馬へ講和に向けた使者が送られて事前交渉が始まり、慶長九年(一六〇四)、李朝の外交僧惟政らが対馬訪問、翌年、藩主宗義智(そう・よしとし)の斡旋で家老柳川調信(やながわ・しげのぶ)とともに惟政は京都伏見で徳川家康に謁見し、捕虜一四〇〇人の帰国を打診、家康は即時送還を決定した。
日本側の誠意を確認した李朝は慶長十一年(一六〇六)、講和条件を対馬側に提示する。それは以下の二点である。
(1)朝鮮国王の墓を荒らした犯人(犯陵賊)の引き渡し
(2)家康から朝鮮国王に宛てた国書の送付
この講和条件は非常に難題であった。当時の外交儀礼として、先に国書を送ることは相手への恭順を意味したから、第二の条件は幕府側も受け入れがたく難航が予想されるものであった。もちろん李朝側も簡単に進むとは思っておらず『難問をしめすことによって、対馬ないしは幕府の出方をみようとする心づもり』であったとされている。
ここで、交渉を焦る対馬藩は国書偽造に手を染める。まず対馬島内の罪人二名孫作(三七歳)、叉八(二七歳)を犯人にでっち上げて送致、あわせて家康の偽の国書を作成して送付した。偽書は日本国王家康の名義で日本国王印が押されていたという。この「日本国王印」は慶長元年(一五九六)、宗義智と小西行長の斡旋で停戦交渉のため明国の使者が秀吉の元を訪れた際に秀吉に与えられたものだが、秀吉は明国への従属を意味する日本国王の称号を拒否、さらなる戦争継続を望んだ。その際に宙に浮いた形の「日本国王印」が豊臣政権崩壊のどさくさで宗氏の元に渡っていた。
予想外の進展に李朝は驚き国書の真偽なども話題に上ったが、最終的に主張が通ったことから講和を進めようという機運が高まり、慶長十二年(一六〇七)、国書に対する返礼として四六〇名余りの使節団「回答兼刷還使」が派遣、将軍秀忠、大御所家康に謁見することになった。ここで対馬藩は再び国書偽造を行う。なにせ朝鮮側からの国書は「日本国王家康からの国書の返事」という体裁だったから、それを初の国書という内容にすり替えなければならない。改竄した朝鮮側国書をすり替えるタイミングがなかなか訪れず、すり替えが成功したのは秀忠謁見の日、江戸城登城の途中であったという。
慶長一二年(一六〇七)、対馬と朝鮮との貿易協定「己酉約条」が取り決められて通交が復活。以後、元和三年(一六一七)、寛永元年(一六二四)と二度に渡り李朝から「回答兼刷還使」が送られたが、いずれも対馬藩によって文書の改竄が行われている。この間対馬藩は藩主が宗義智から宗義成(そう・よしなり)へ、家老が柳川調信から嫡男智永を経て柳川調興へ、また朝鮮との交渉や文書作成を行う外交僧も景轍玄蘇(けいてつ・げんそ)から規伯玄方(きはく・げんぽう)へと替わったが、両国の和平と対馬藩の権益確保のため、幕府にも李氏朝鮮にも秘密で、藩ぐるみの国書偽造・改竄と隠蔽工作が繰り返された。
第三章 宗氏・柳川氏の対立と国書偽造暴露
柳川氏は宗氏譜代の家臣ではない。それどころか氏素性の知れない人物であった柳川調信から宗氏に仕えて一代で家老にまでのし上がった下剋上を体現した一族であった。初代調信は豊臣政権では石田三成に、徳川政権になると本多正純に取り入って中央との関係を強化、二代目の智永は主君である宗氏を差し置いて家康から直々に一〇〇〇石を受けている。中央の権威を後ろ盾としつつ宗氏と徳川政権、宗氏と李氏朝鮮、李氏朝鮮と徳川政権を繋ぐ媒介役として一家老職以上の存在感を発揮していた。
三代目の柳川調興は慶長十八年(一六一三)、十一歳で家督を継ぎ、家康、秀忠の小姓として仕え、元和三年(一六一七)、若干十五歳で朝鮮からの使節団を迎える際の担当者として巧みに政治力・調整力を発揮して朝鮮側使節を感心させている。朝鮮側の大使であった李景稜は調興を評して「調興はすこぶる怜悧(賢いこと)で狡捷(すばやい)」と後に書き記している。通常は江戸に居て将軍のそばに仕え、対馬のことは腹心の松尾七右衛門に任せていたが、次第に自身も対朝鮮外交に深く関与するようになり主君義成に断りなく文書の改竄を行って朝鮮との外交を行うなど独断的な振る舞いが目立つようになっていった。若くして外交官として抜群に高い能力を持っていたが、自らの有能さを誇り、主家を軽んじて将軍家の権威を笠に着るところがあった。
主君である宗義成は調興の一歳年下で慶長二十年(一六一五)、一二歳で藩主となった。元和三年の使節団来日の際には調興とともに応対したが、前出の李は「義成は癡?(愚かなこと)にしてすべてに精神(気力)なし」と酷評している。しかし調興との比較でどうしても見劣りして見えただけでそれほど愚かという訳では無かった。また人柄が良く、若くして伊達政宗ら大物を始めとして諸大名から人気があり、家臣からの人望も厚かった。義成は後に外交手腕を巧みに発揮していくことになるので、早熟の調興と晩成の義成といえるだろう。
上手く支え合えば非常に良い主君と家臣の組み合わせとなるはずが、両者はことあるごとに対立するようになる。調興の主家を軽んじる言動が多くなる、無断で李氏朝鮮と折衝したりするようになるなど専横的振る舞いが徐々にエスカレートして行き、外交僧規伯玄方はたびたび義成に調興の処分を諫言し、一度は対馬を去りたいとすら申し出ているが、柳川氏は対馬の外交実務の要であったため、むしろ義成は調興をかばい、玄方をなだめ、さらに妹を調興に嫁がせるなど家中宥和に心を砕いていた。
これが決定的に対立するようになったのは宗氏の重臣の一人吉田蔵人が義成の使いとして江戸に赴いて幕府と折衝を行い帰国したことからである。宗氏と幕府との仲介は柳川氏の権力の源泉である。調興は蔵人に公金横領疑惑があると噂を流し、義成に類が及ぶのを怖れた蔵人が自害して果ててしまう。さらに寛永元年(一六二四)の朝鮮使節来訪に際しても調興は途中で職務を放棄して義成をうろたえさせ、著しく体面を傷つける。柳川氏は宗氏の無能を強調するようになり、それに対して宗氏が柳川氏を批判する、中傷合戦が始まっていた。
寛永十年(一六三三)、柳川調興は日本中がひっくり返る爆弾発言を行った。対馬藩による国書改竄の秘密を暴露し、幕府に申し出たのである。政権を揺るがす大暴露に幕閣は騒然となった。五月五日、老中土井利勝と酒井忠勝が宗義成を呼び出して事情聴取が始まり、若年寄の安倍忠秋と知恵伊豆こと松平信綱、大目付柳生宗矩など錚々たる人物が事態の調査を開始する。その間も調興の暴露は止まらない。全ては宗家の独断、宗氏は対朝鮮外交を担う能力は無い、印鑑を偽造したのは誰誰で、対馬側使者の交渉内容も幕府に報告されてない対馬の利益確保に係る内容が含まれていて・・・などなどなど。
朝鮮半島との貿易・通交は一時中断され、対馬に土井利勝と松平信綱の部下二名が派遣されて徹底した調査が開始された。そこで証言として浮かび上がってきたのは、むしろ柳川氏が独断で改竄を行っていたというものだった。食い違う証言に混乱する幕閣、証拠物件が次々と運ばれ、証人や関係者が江戸に集められる。三代将軍徳川家光が決したのは、自ら宗義成と柳川調興の訊問を行うということだった。
第四章 江戸城大広間の対決
寛永十二年(一六三五)三月十一日、千石以上の旗本諸大名全員に登城命令が出され、江戸城大広間に集められた。上座には裁判長として徳川家光が座り、正面には宗義成、少し下がって柳川調興が座す。その周囲には幕府中枢が勢ぞろいした。座り順まで資料が残っている。
向かって徳川家光の左隣に老中格阿部忠秋、若年寄太田資宗、右隣に老中堀田正盛、同阿部重次、また位置不明だが老中筆頭土井利勝も家光の側に控えている。大広間座敷左手には奥から順に大政参与の井伊直孝、同松平忠明、京都所司代の板倉重宗、続いて井伊隠岐守、本多甲斐守、本多能登守、小笠原右近将監、以下譜代家臣が並ぶ。その背後には小姓衆、御側衆ら近習が控えていた。大広間座敷右手は奥から順に尾張大納言徳川義直、紀伊大納言徳川頼宣、水戸中納言徳川頼房の御三家、続いて仙台中納言伊達政宗、加賀中納言前田利常、薩摩中納言島津忠恒、長州候毛利秀就、肥後熊本候細川忠興、肥前佐賀候鍋島勝茂以下西国、東国の順に諸大名が並ぶ。諸大名の背後にはさらに側近衆、林羅山ら儒者、旗本らが揃う。宗義成の隣には取次として老中酒井忠勝、義成の左後ろには規伯玄方とその取次として大目付柳生宗矩、宗義成の後ろ柳川調興の横には若年寄松平信綱、大広間の外には松尾七右衛門が控え、その横に大目付井上政重が居る。
柳川調興は何故無謀とも見える暴露を行ったのか。彼には勝算があった。実は調興は幕閣の中枢に深く食い込んでいたのである。老中筆頭土井利勝、堀田正盛、板倉重宗と儒者林羅山はみな「調興の党」で、他の老中らも彼らを通じて調興側に近かった。歴史上「第一次鎖国令」として知られる老中発行の奉書(許可証)を持つ日本船以外の海外渡航禁止の通達が出されたのは寛永一〇年(一六三三)、調興の暴露と同じ年のことだ。調興は幕府中枢の政策を把握し、幕府に依る対外貿易・外交の管理統制を行おうという「鎖国」の方針を踏まえて、早晩、宗氏が独占している対朝鮮外交も幕府の関与が深くならざるを得なくなり、ひいては隠蔽していた国書改竄の露見も時間の問題と考えていたらしい。ならば、先に自身の有利な形で暴露してしまおう。
つまり彼は勇気ある内部告発者として、また自他ともに認める有能な外交官として、そして、大名では無く幕府の直臣として自身を位置づけることで、幕府の外交への直接関与の方針に沿った行動を見せたことになる。幕府の方針を踏まえ、政権中枢の多数派工作を完了させ、外堀を完全に埋めての一大冒険だった。この賭けに勝てば彼は三一歳にして幕府直臣として対朝鮮外交の総責任者となり、ゆくゆくは大名、そして老中すらも夢ではない。
これに対して宗義成には策は無い。しかし諸大名からの人望があった。この数日前、伊達政宗は義成を訪れこう伝えたという。
『「将軍家の御沙汰で、もし柳川が勝ったならば、調興を屋敷に帰さず、かならず切り捨てるように私の家臣に申し付けております。朝鮮の役のとき、我われはあなたのお父上の義智公に命をあずけました。朝鮮での私の働きに対して、太閤殿下は感状を賜われましたが、それも対馬守殿が少人数で危機を救ってくだされたおかげです。その恩に今こそむくいたいと存じております」(「柳川実記」)』
戦国武将伊達政宗、七一歳にして覇気未だ衰えず、である。政宗は実際に暗殺者の手配を完了していたという。また紀伊大納言徳川頼宣も、もし義成が敗れた場合には自分が預かると家光に申し出ており、庇護と助命に奔走、諸大名が次々と助力を申し出ていた。しかし、いずれも負けたときにどうするかという話であり、下馬評では老中たちを味方につけていた柳川調興圧倒的優勢であった。幕閣にあっては伊達政宗とともに井伊直孝と松平信綱が宗義成を支援していたという。
かくして、江戸時代最大の裁判劇が幕を開けた。
事前の取り調べで義成と調興の証言の相違点について将軍家光が問い、土井利勝がそれぞれ取次役、義成には酒井忠勝、調興には松平信綱が家光の質問を伝える。家光の質問は国書の改竄の事実関係、義成の監督責任などについて七点が問われ、義成は国書改竄は柳川氏の独断で行われたこと、柳川氏が独占していたことで自身の関与は不可能であったこと、自身の管理責任についてはその柳川氏が幕府の老中の影響力を背景として政敵を潰し、専横を極めていたことなどを答える。義成は柳川氏に責任を負わせるとともに、過去の国書改竄が幼少のことであったとして知らないと証言した。
完全公開された質疑が終わり、次は老中ら幕府中枢による審議を経て、判決が下されることになる。
第五章 紛糾する審議と徳川家光の判決
家光と老中ら政権中枢での審議では当然のことながら土井利勝、林羅山らが調興勝利を強く推し、宗氏への批難を浴びせた。これに対し家光自らが彼らをなだめるほどだったという。幕府にとって、国書偽造は威信を大きく傷つけるものであり、また宗氏という大名の関与を排除して対朝鮮外交を直接管理下に置くというのは外交政策として全くぶれていないどころか、幕府が目指そうとする方針そのものだった。しかし、当時の国際情勢を適切に分析して判断する必要があった。
一六三五年当時の東アジアは非常に不安定であった。一六一六年、女真族のヌルハチによって満州地域に後金(後の清)が建国されると、明国からの独立を宣言、一六二七年には後金軍が朝鮮に侵略し、翌寛永五年(一六二八)には家光の命で朝鮮に援軍の必要性などの是非を調査する使節が送られている。(この使節が規伯玄方を大使とした対馬の使節団で、この使節の交渉の過程で対馬が秘密裏に木綿六〇〇同を朝鮮から受け取り、調興の暴露のネタの一つになっていたものだ)この援軍増派については朝鮮側がまだ日本軍の出兵に忌避感が強いことから丁重に拒否されている。後金の存在は朝鮮と明国とを圧迫する不安定要因となっており、一つ間違えれば日本も巻き込んだ戦乱に陥る危険性を孕んでいた。実際、九年後の正保元年(一六四四)には明が滅亡、明遺臣鄭芝龍や崔芝らから援軍要請が届き、実際に派兵が検討されている。
調興もこの情勢を把握しており、宗義成ではなく、自身に任せてくれという主張として、このままでは再び戦争になると国際情勢の危機感を煽ることで宗氏の無能さを強調していた。
伊達政宗はこのような調興の言動を快く思っておらず、審議の場で家光にこう進言したという。
『「朝鮮は、与国(親密な国)でございます。それなのに秀吉は故なくして兵を動かし、まもなく滅んだのも天のむくいだと人は言っております。権現様(家康)はその誤ちを正されたお方です。いま、調興が言うように、また兵を動かすようなことがあれば、殿下は地下におわします権現様にどのようなお顔でまみえるおつもりですか」(金東溟「海槎録」)』
もう一つ重要なのが、当時の各国の国際秩序観である。徳川政権にしろ、李氏朝鮮にしろ、明国にしろ、根底にあるのは相手を下と見る中華主義的な秩序意識である。これがあるがゆえに、国書を先に送ることを講和条件として重視したのであり、明国を宗主国として李氏朝鮮は従属する一方で李氏朝鮮は日本を下と見る。一方で秀吉も徳川幕府も明国に従属することを良しとしないために、日本国王の称号を拒否し、対馬藩は国書を偽造してまで「日本国王」として、立場を朝鮮と並列に置く一方で、形式的に従属の態度に出ることで、朝鮮との関係を修復しようとした。宗氏の存在が、相互に見下そうとする国際関係において、緩衝剤の役割を担っていたのである。
宗氏が朝鮮に朝貢し、下手に出ることで、クッションとなり徳川政権と李氏朝鮮を対等にする。この役割は何者にも代えがたかった。宗氏を潰して、対朝鮮外交の窓口を幕府の管理下に置いた場合、それは徳川幕府が李氏朝鮮や明国に従属することになる。あるいはそれを良しとせず強気に出るならば、必ず国際関係の不安定化を呼ぶことになるだろう。それは徳川幕府の望むところでは決して無い。調興は抜群の国際感覚と政治力を持っていたが、この点を見誤っていた。しかも、それは致命的であった。
徳川家光の決断がなされた。
宗義成御咎めなし。これに対し、柳川調興財産没収の上津軽へ流罪。
また、宗義成の家臣で先代の義智の下で改竄に関与し病で余命いくばくもない老臣島川内匠と調興の腹心松尾七右衛門は死罪。義成の叔父宗智順と義成の外交僧規伯玄方、調興配下の外交僧玄晃が流罪となった。いわゆる喧嘩両成敗で、宗家は存続が許されたが、実務方の部下は全員処罰が与えられた。代わりに、京都五山の僧三名が実務担当者として交替で対馬に派遣されることになり、宗氏を存続させつつ、実務において幕府の関与を強化する、新たな方針が定められた。
以降、徳川将軍の外交文書における称号は「日本国大君」となり、李氏朝鮮との善隣外交が幕末まで続けられることとなる。
第六章 その後
宗義成はしかし、安泰とは言えなかった。本来であれば死罪は間違いなかった柳川調興が何故生かされたのかは誰の目にも明らかであったからだ。もし宗義成が満足に役目を果たせなければ調興を復帰させる、という無言の圧力であった。翌年寛永一三年(一六三六)の朝鮮通信使の来日は宗氏のテストの様相であったが、それを無事成し遂げると、義成は一気に外交官として飛躍する。
明滅亡後の緊迫する国際情勢下で家光は義成に援軍派遣の場合の朝鮮の動向について意見を求め、これに対し義成は「朝鮮は満州族の侵略でひじょうに疲弊しているので、中国に侵攻する日本軍の糧食を補給できないとして、家光を思いとどまらせ」、北京→漢城→釜山→対馬という情報収集ルートを開拓して刻々と変わる東アジア情勢を逐一収集分析して江戸に報告するなど、外交の要として重きを置かれるようになっていった。
また宗氏を介した対朝鮮貿易は爆発的に増大し、朝鮮経由で輸入された生糸は延宝七年(一六七九)時点で一四万斤超、同時期の長崎からの生糸輸入が年間一〇万斤程度であったという。この輸入生糸が日本の紡績・絹織物業発展の基礎となり、やがて生糸が国産化されるようになると江戸明治期を通じて日本の基幹産業として殖産興業の原動力となっていく。
宗義成は江戸初期の外交を支えた最重要の大名として名を遺すことになり、明暦三年(一六五七)、五四歳で亡くなった。その死に際しては十三人の家臣が幕府の禁令を破って殉死したといい、その人望がうかがい知れる。一方、柳川調興は津軽家に預けられ、長い長い孤独な余生を送ることになる。賓客として遇され、津軽氏に気に入られて深く交流があったらしく、津軽氏は調興の恩赦を何度も願い出たが生涯赦されることは無かった。貞享元年(一六八四)、死去。八二歳であった。彼の配流後、柳川という姓は対馬では逆臣の姓として禁忌となったという。
後に対馬藩朝鮮方佐役に就任した雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう:一六六八〜一七五五)は朝鮮との外交の要諦を簡潔にこう語った。
『「互いに欺かず、争わず」(「交隣提醒」)』
 
倭寇1

 

倭寇と勘合貿易
中国・朝鮮の文献にみえる名辞で、本来の意味は、日本人の寇賊(こうぞく)行為ないしその行為をする人物および集団をさすものであるが、実体は時代や地域によって相違し、かならずしも一定してはいない。倭寇の文字が古く用いられた例は高句麗(こうくり)広開土王(こうかいどおう)の碑文にあり、新しい例では日中戦争時の日本軍が中国で20世紀的倭寇とよばれている。なお豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵は万暦(ばんれき)倭寇であった。倭寇とよばれるもののなかで、もっともよく知られているのは、14世紀から15世紀初頭まで朝鮮半島と中国大陸の沿岸で行動したものと、16世紀の後半に中国大陸南岸や南洋方面で行動したものとである。
14〜15世紀の倭寇
『高麗史(こうらいし)』に倭人が朝鮮半島に寇した記事が初めてみえるのは1223年(貞応2)で、日本側の記録でも1232年(貞永1)に鏡社(かがみしゃ)(佐賀県唐津市)の住人が高麗から珍宝を奪って帰ったと記している。しかし、大規模な倭寇集団の行動が起こるのは1350年(正平5・観応1)以後で、この年以後毎年のように倭寇は朝鮮半島の沿岸を荒らしている。倭寇が略奪の対象としたものの第一は米穀である。租粟(そぞく)を収める漕倉(そうそう)とそれを運搬する漕船(そうせん)がまず攻撃の目標になった。ついで沿岸の住民が第二の略奪対象になった。捕虜にされた高麗人は日本に連れてこられただけでなく、遠く琉球(りゅうきゅう)にまで転売されることもあった。高麗では高官を日本に派遣し、倭寇を禁止するように求めるとともに、日本在住の高麗人捕虜を買って帰国させた。日本から捕虜を高麗に送還すれば相当の対価が支払われた。倭寇の構成員は、日本の名主(みょうしゅ)・荘官(しょうかん)・地頭(じとう)などを中心とする海賊衆、海上の浮浪者群、武装した商人などのほかに、高麗で禾尺(かしゃく)・才人(さいじん)といわれた賤民(せんみん)群が合流することがあった。禾尺は牛馬のと畜や皮革の加工、柳器の製作などに従った集団、才人は仮面芝居や軽業を職とした集団で、伝統的に蔑視(べっし)されていた。
1392年、王氏の高麗王朝にかわって李(り)氏の朝鮮王朝が成立すると、高麗時代からの外交折衝による倭寇鎮圧策を継承するとともに国防の体制を整備し、新たに倭寇を懐柔する政策を採用した。この政策により、倭寇は朝鮮に投降して官職や衣料、住居などを受けるもの、使人(しじん)や商人として貿易に従うもの、従来どおり海賊行為を続けるものなどに分解変質し、やがて消滅していった。朝鮮側では1419年(応永26)、倭寇の巣窟(そうくつ)ないし通過地とみなした対馬(つしま)の掃討を目的として大軍を対馬に送り込んだ。これが応永(おうえい)の外寇(がいこう)で、朝鮮では己亥東征(きがいとうせい)とよんだ。こののち朝鮮では対馬の宗(そう)氏を優遇して、日本からの渡航者を管理する役目を与え、倭寇再発の防止に備えた。
朝鮮半島を襲った倭寇は転進して中国大陸に向かい、元(げん)や明(みん)を攻撃した。明の太祖(たいそ)(洪武帝)は海岸の警備を厳重にするとともに、日本の征西将軍懐良親王と折衝して倭寇を防止しようとしたが、成果はあがらなかった。明の成祖(せいそ)(永楽帝)のときになって足利義満(あしかがよしみつ)との間に通交の体制ができ、以後中国大陸の倭寇も鎮静した。
16世紀の倭寇
16世紀になり、中国大陸の南岸から南洋方面にかけて、また倭寇とよばれる集団の活動が始まった。もっとも勢力が盛んだったのは1522年(明の嘉靖1年)以後約40年間にわたって行動したもので嘉靖(かせい)大倭寇といわれる。この時期の倭寇の特色は、構成員中に占める日本人の率がきわめて少なく、大部分が中国人であったこと、東アジアの海域に初めて姿を現したポルトガル人も倭寇の同類として扱われたことである。倭寇に捕らえられた中国人が、髪を剃(そ)られてにせの倭寇に仕立てられ、一群に加えられることも珍しくなかった。明では太祖のとき以来、海禁(かいきん)という一種の鎖国政策をとって中国人の海上活動を禁じていたが、経済活動が発達した16世紀ではこの政策の維持が困難となり、海上で密貿易を行うものが激増した。郷紳(きょうしん)、官豪(かんごう)などとよばれた地方の富豪層も密貿易者群と結んでその活動を助長した。ポルトガル人も明から正式の貿易許可が得られなかったので密貿易者となった。そこに日本商船が、当時国内で生産量を急増させていた銀を所持して南下し、合流した。これらの人々は中国の官憲から一括して倭寇とみられたのである。彼らは浙江(せっこう)省の隻嶼(そうしょ)、ついで瀝港(れきこう)を根拠地として盛んな密貿易を行った。この地が中国官憲の攻撃により壊滅すると、彼らは根拠地を日本に移し、中国大陸沿岸に出動して寇掠(こうりゃく)活動を行った。倭寇の集団は分裂・合体を繰り返し、その行動は複雑な様相をみせたが、もっとも有名だったのは王直(おうちょく)である。王直は日本の平戸(ひらど)や五島(ごとう)地方を根拠とし、大船団を組織してしばしば中国の沿岸を侵した。彼は、1543年(天文12)に種子島(たねがしま)に漂着して日本に初めて鉄砲を伝えたという外国船のなかの乗員の1人であり、五峰(ごほう)先生とよばれて尊敬を受けていた。彼は密貿易の調停者としての資格を備えた人物で、密貿易者の交易を保護代行したり、倉庫、売買の斡旋(あっせん)をしたりしたらしい。明では王直一派の掃討に手をやき、帰国すれば罪を許して貿易を許可するとして誘引し、彼が帰国すると投獄、斬首(ざんしゅ)した。
倭寇に参加した日本人は、鄭若曽(ていじゃくそう)の『籌海図編(ちゅうかいずへん)』によると、薩摩(さつま)、肥後、長門(ながと)の人がもっとも多く、大隅(おおすみ)、筑前(ちくぜん)、日向(ひゅうが)、摂津、播磨(はりま)、紀伊、種子島、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、和泉(いずみ)の人々であったという。船は3〜5月ころ五島または薩摩を発し、大小琉球(沖縄、台湾)を経て、江南、広東(カントン)、福建に至ったという。倭寇の残虐行為として類型化して伝えられているのは「縛嬰沃湯(ばくえいようとう)」と「孕婦刳腹(ようふこふく)」である。前者は幼児を柱にくくりつけて熱湯をかけ、その泣き声を聞いて喜ぶというもの。後者は妊婦の腹を裂いて、男女のどちらをはらんでいたかを当てる賭博(とばく)であるという。一方、倭寇が善良な住民に温情を示したという話もなくはなかった。明では胡宗憲(こそうけん)、戚継光(せきけいこう)、兪大猷(ゆだいゆう)らが海防にあたって成果をあげ、1567年には200年にわたった海禁令が緩められ、南海地方との貿易が許されて、倭寇活動は鎮静に向かった。この時代、明では数多くの日本研究書が発表され、中国におけるこれまでの日本認識は一変した。
朝鮮水軍、対馬の倭寇討伐
朝鮮初期、日本をはじめとする東アジアの情報を網羅している「海東諸国記」(1471年政治家申叔舟(1417-1475)が編纂)には、天然要塞と言われていた倭寇の本拠地である対馬の地図が載っている。高麗末から朝鮮初期まで、500回以上の侵略を恣行した対馬の倭寇を討伐するため朝鮮は、ついに大規模の遠征艦隊を編成した。
対馬の倭寇
朝鮮初期、李従茂((1360-1425)朝鮮の武臣)の大規模な討伐戦争の現場である日本の対馬は、韓国釜山から最短で49.5キロ日本の福岡からは134キロで、距離的には韓国側に近い島である。しかし高麗末、高麗とモンゴルの連合軍による日本征伐後、高麗との正常貿易が難しくなり、大変な物資不足に苦しんでいた対馬の人々は略奪を始めた。その対馬の海賊つまり倭寇を討伐するため、朝鮮は軍事を起こしたのである。
見乃梁出征
見乃梁は、巨済島(慶尚南道鎮海湾に位置)と慶尚南道の固城との間の狭い海のことだが、巨済島から引き潮の流れに乗り、大韓海峡から北東へ流れる黒潮海流に乗れば、たやすく対馬の中心までつけたという。つまり、巨済島に囲まれ敵の観測視点から離れており、堅固な防衛施設で征伐軍の安全を保障しながら、潮流と海流の流れを利用できた見乃梁は朝鮮水軍に大変有利な場所であった。それが、対馬征伐軍がより近距離であった釜山浦ではなく、見乃梁に集結した理由であった。
朝鮮水軍の対馬上陸
対馬討伐を担当した李従茂水軍の訓練と戦略については、記録がほとんど残っていない。しかし当時の朝鮮の王(太宗)は、戦艦の改良事業や陣法訓練に多くの関心を持っており、遠征艦隊の司令官李従茂が載っていた艦船は、100余名が乗れた。堅固な構造をもった当時最高の戦艦であったといわれている。体系化されていた動員システムと優秀であった戦艦が、倭寇の本拠地対馬を討伐させた力であった。巨済島を出発した朝鮮水軍は、海流に乗り一日で対馬に到着した。対馬は97%が山で、非常に複雑な海岸線を持つ島である。このような地理的条件に助けられ、当時対馬は外部の勢力に簡単には占領できない独立性を維持していた。そこで朝鮮水軍は対馬から帰化した日本人を案内役にたたせた。対馬に上陸した遠征隊は、敵船129隻の焼却や倭寇120余名射殺、131人の中国人の捕虜の救出など、倭寇を撃破していった。しかし対馬の複雑な地形に詳しくない朝鮮の水軍は、敵の埋伏にかかり180余名の戦死者を出した。この敗戦については日本側にも記録が残っている。またその記録によると、当時日本の本土では、朝鮮遠征艦隊のことを150年前の"蒙古の襲来"と同じような朝鮮と中国(明)の連合軍と把握していたと言う。
倭寇討伐の外交的複線
倭寇の根拠地を討伐するため遠征隊を派遣した朝鮮だが、それ以外の理由はなかったのだろうか。東京大学の史料編纂所には、当時の倭寇の実情がわかる「倭寇図巻」という絵巻が保管されている。この絵巻には中国(明)に現れた倭寇の出兵と航海や、上陸と略奪の全過程がとても緻密に描かれている。明は倭寇の激しい略奪に、海禁政策つまり海を統制し、倭寇の船の海岸への接近を禁じたのはもちろん、私貿易も一時禁止させた。これに打撃を受けた倭寇は、東南アジアにまで活動の範囲を広げていくことになり、ついに明は元(蒙古)の日本侵略と同じような日本(倭寇)征伐を始める意志を、朝鮮に伝えてきた。しかし朝鮮は明が日本征伐のための軍事を起こすと、朝鮮が膨大な負担を負うことになると考え、独自的に倭寇の本拠地である対馬の先制攻撃を行い、倭寇の海賊活動を阻止することによって、明の日本征伐の名分そのものを無意味化した。
倭寇の帰朝と遠征艦隊の撤収
対馬の上陸作戦に成功した李従茂の朝鮮征伐軍は、長期戦を準備しながら、対馬に駐屯していた。しかし遠征軍は対馬についてから、10日目に倭寇の降伏により撤収した。朝鮮初期に製作されたとされる「混一疆理歴代国都之図」は朝鮮と中国、日本の各地図をあわせて作った世界地図で、比較的朝鮮の南海岸の島が詳しく描かれており、その中には対馬が含まれている。一方、当時日本人が描いた地図には対馬が抜けていた。つまり対馬が朝鮮の領土と思われていたというのは、当時日本人が描いた地図からもあらわれているといえるであろう。豊臣秀吉が朝鮮侵略のためにしようした地図でも、対馬は朝鮮の領土として描かれていたという。また対馬征伐を宣布した朝鮮は当時の記録で、対馬の領土が朝鮮領土であるという認識を強調しながら、倭寇の降伏を慫慂した。結局倭寇は降伏し、彼ら自ら朝鮮政府に帰属されることを望む者もあらわれたという。従って、それ以上対馬に駐屯する必要性がなくなった朝鮮側は、直ちに撤収したとみられる。(対馬が正式に日本領土となったのは、明治時代以降と知られている。)
対馬討伐、それは10日間の戦闘に過ぎないものであったが、高麗末から続いた倭寇問題に終止符を打った遠征であった。 
倭寇への歴史言及
海南島
… 唐・宋時代を通じ海上交通の要衝にあたり、南海貿易に従事する中国船やアラビア船の仮泊地として利用された。また海賊の根拠地でもあり、唐代より多数の商船が略奪に遭い、明代には倭寇鎮圧のため海南兵備道を置き、警備を厳重にした。唐代には、有名な僧鑑真らが日本渡航の際、748年(天宝7)にここに漂着した。…
嘉靖の大倭寇
…16世紀中国、明の嘉靖年間(1522‐66)に中国大陸沿岸をはじめ日本・朝鮮・南洋方面などを舞台にして行動した倭寇。16世紀の倭寇の構成員は、日本人は10〜20%にすぎず、大部分は中国の浙江・福建地方の密貿易者で、当時東アジアに進出してきたポルトガル人もこれに加わった。…
高麗
…このころから新しい外患が起こった。のちに明を生み出す、農民運動の流れをくんだ中国の紅巾軍(紅巾の乱)が2回にわたって侵入し(1359,61)、また倭寇の襲来が激化した。高麗は室町幕府に禁圧を求める一方、防備をかためて反撃し、また倭寇の根拠地の対馬を討った(1389)。…
寺院建築
高麗時代に入って半島北部の開城に首都が遷り、仏教は国教として厚く保護され、全国各地に多くの寺院が建てられた。しかし、度重なる外寇、とくに高麗末期の倭寇の侵入によってその多くは焼失した。高麗時代後半の建築には強い胴張りをもつ柱、斗栱(ときよう)形式に三国時代以来の古い要素をなおも残しているが、三国統一前後から唐文化の影響を強く受けて統一新羅時代に定着した唐様式を継承している。…
戚継光
…字は元敬、諡(おくりな)は武毅。1552年(嘉靖31)以後のいわゆる後期倭寇の大侵攻に当たり、総兵官胡宗憲のもとにあって、その鎮定に努力した。57年には倭寇の大頭目王直を捕らえたのをはじめ、63年の平海衛の戦でも倭寇の主力を撃滅し、兪大猷とともに偉功をたてた。…
瀬戸内海
…これら海上勢力と幕府との関係に注目すると、一部は守護体制の枠内でとらえられていたが、守護体制の枠外にあって将軍直参(じきさん)として公方(くぼう)奉公の形をとったものもあった。鎌倉後期から大陸沿岸を荒らした倭寇(わこう)には瀬戸内の海上勢力も含まれていた。南北朝期に倭寇の禁圧と引きかえに貿易の利をおさめる政策がとられ、ついで義満の勘合貿易開始以後倭寇は減少したが、以後も瀬戸内住民の倭寇は跡を絶たなかった。…
籌海図編
…1562年に中国、明の鄭若曾によって編集された海防のための倭寇研究書。13巻。…
朝鮮
…山城は、異民族の侵略が度重なる北方では城壁や城門に巨石を用いた巨大なものが多く、異民族侵略の少ない南方では、小型の山城を使用していた。しかし、14世紀以降、倭寇の侵略にあうと、南方の山城も強大になり、組織化された。豊臣秀吉の侵略時には、これに対抗するため100城以上の山城が築城され、義兵の根拠地にもなった。…
対馬島
… この時期は日本・高麗間に国交はなかったが、1019年刀伊の入寇を契機に、九州や壱岐、対馬から貿易船が通うようになった。モンゴル襲来後この貿易は断絶、さらに高麗の弱体化と南北朝内乱などの原因が重なり、1350年(正平5‖観応1)以後、大規模な倭寇が高麗沿岸から中国遼東半島を襲った。倭寇は対馬、壱岐、松浦地方の住民が主体で、対馬を根拠地にして、米豆などの食糧と住民を略奪した。…
日元貿易
…また日本遠征の失敗後、元の官吏は日本商船に高い関税をかけるなどして圧迫し、日本商船との間に衝突がおこった。ときに武力衝突に至ることもあり、これが常習化してやがて倭寇(わこう)となった。元からの輸入品には銅銭、陶磁器、香料、薬材、書籍、経典、絵画、茶、織物などがあり、日本では唐物として珍重され、日本の経済や文化に大きな影響を与えた。…
日明貿易
…15世紀から17世紀にかけて、日本と中国の明との間で行われた貿易。勘合貿易と俗称されている勘合船による貿易と、倭寇(わこう)などによって行われた密貿易とがある。足利義満が明との通交開始に成功したのは、15世紀の初め博多商人肥富(こいつみ)が明から帰って通交の利を義満に説いたのが原因であったという。…
八幡船
…語源は外国語であるという意見が有力である。ただ江戸中期に書かれた《南海通記》が倭寇(わこう)が八幡宮の幟(のぼり)を立てていたので八幡船と呼ばれたと書いたところから、ばはん船は八幡船であり、すなわち倭寇の異名であるとする考えが広く流布するようになった。…
北虜南倭
…北虜とは明を北方から侵略したモンゴル族のこと。南倭とは東南沿海を侵略した倭寇を指す。1449年(正統14)、オイラート部のエセンが侵寇して土木の変を引き起こし、明は大きな打撃を受けた。…
松浦党
…しかし南北朝動乱の終結により軍事的結束を主目的とする一揆は消滅しているが、郡内各地に居住する小範囲の住人による惣的結合が結ばれ、惣構成員の行動を制約し、共同体の共存を図っている。室町時代の松浦党は倭寇として活躍しており、朝鮮、中国側では松浦地方を倭寇の根拠地と考えていた。室町幕府は中国側よりの倭寇取締り要求によって、勘合貿易を行うことになったが、松浦党は勘合貿易から締め出されていたので、従来どおり武装して密貿易を強行することを余儀なくされていた。…

…厳嵩は帝の信任を背景として権勢をふるったが、その力はもっぱら蓄財に注がれ、政治上は目前を糊塗するに終始し、最後は弾劾を受けて罷免された(1562)。 北でモンゴル人の侵入がくり返されている間に、東南沿海地方では後期倭寇の騒乱が起こった。両者は北虜南倭と併称されるが、経済的要求に対して明朝の対応が適切でなかったと考えられる点では、両者共通の契機があった。…
李朝
518年に及ぶ李朝時代は日本の室町時代から明治時代までにほぼ対応する。
高麗末・李朝初期 / この時期における日朝間の最大の問題は倭寇であった。高麗末期、高麗政府は軍備強化、対馬(倭寇の根拠地)攻撃、倭寇禁圧要求使節の日本派遣など、倭寇対策に力を入れたが、李朝政府もこの政策をひきつぎ、防備体制を固めるとともに室町幕府や西日本の諸大名に使節を送って倭寇禁圧を要求した。… 
 
倭寇2

 

一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。
倭寇の歴史は大きく見た時に前期倭寇と、過渡期を経た後期倭寇の二つに分けられる。
倭寇の構成員は、前期倭寇では主に日本人で一部が高麗人であり、後期倭寇は中国人が多数派で一部に日本人をはじめ諸民族を含んでいたと推測されているが、複数の学説がある。
名称
字句をそのまま解釈すれば、倭寇とは「倭(日本)による侵略」という意味で、中国、朝鮮では日本人海賊を意味する。使用例は5世紀の高句麗広開土王碑の条文にも見られるが、後世の意味とは異なる。
ここに見られる『倭、○○(地名)を寇す』という表現の漢文表記では『倭寇○○』のように「倭寇」の2字が連結しており、これが後に名詞として独立したと考えられている。
また、16世紀の豊臣秀吉の文禄・慶長の役や、日中戦争における日本軍も「倭寇」と呼ばれるなど、朝鮮半島や中国において排日感情の表現として使用される事がある。現代でも、韓国人や中国人が日本人を侮蔑するときに用いており、「野蛮人」のニュアンスを含む。
今日では中国人、朝鮮・韓国人が『倭』を侮蔑的または差別的に使用しているが、「倭」の本来の意味は説文解字にある通り、『倭は、(かたち・様子に従う)』であり、『矮』とは違い小柄やチビなどを意味していない。
倭寇の原因
元寇の報復説
安鼎福の「東史綱目」には『均指出倭寇的起因在於朝鮮人(高麗人)配合蒙古侵日行為所引發的報復』とあり、元寇の報復であると指摘されている。対馬や壱岐の元寇がどのようであったかは日蓮註画讃や一谷入道御書による記載が残っている。三田村泰助は、北部九州は元寇の最大の被害者だったから、対馬・壱岐・肥前国が根拠地の松浦党の海賊が「侵略者の片われである高麗に報復してあたりまえのことで、いささかのうしろめたさもなかったであろう。」「心がまえとしては、さらさら海賊行為ではなかった」としている。もともとは元寇に対する報復の意味があることは中国側も認めており、朱元璋が日本におくった文では、「倭兵は蛮族である元のおとろえに乗じただけだ」としている。
日蓮註画讃
第五「蒙古來」篇
『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害』「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし」
一谷入道御書
(建治元年五月八日)「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし」
明に抵抗する勢力による扇動説
「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した」。
藤経光誘殺未遂の報復説
「高麗史」によれば、1375年の藤経光誘殺未遂によって倭寇が激怒し、高麗住民の無差別殺戮に出るようになったと記している。
前期倭寇
前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。
前期倭寇と高麗
『高麗史』によれば1350(庚寅)年2月「倭寇の侵すは此より始まる」という記事があり、これが当時の公式見解であったようだが、庚寅年以前にも多数の記事がある。文献によると最も古いのは『高麗史』によれば高宗10年(1223年)5月条「倭寇金州」とあるのが初出である。これ以後史料には頻繁に現れている。
1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった。倭寇の被害を中心的に受けていた高麗では1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣、羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え、1389年の朴葳による対馬国侵攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還した。これ以降倭寇の侵入は激減する。
なお、『高麗史』によれば、高麗は宗主国である元や明に上奏し、元寇以降もさかんに軍艦を建造しており、日本侵攻を繰り返すことになるが、これは、対馬を拠点とする倭寇討伐や日本侵略を口実に元や明の大軍が再び自国に長期駐留して横暴を極めることをおそれたあまりの「先走り」だとされる。
南北朝時代の政治動乱と倭寇
斎藤満は高麗史にでてくる「倭国」を南朝(征西府)だと推定しており、ほかにも倭寇の首領が日本の精鋭部隊と同じ装備で、南北朝の争いによる統制の緩みに乗じて日本の正規の精鋭部隊が物資の略奪に参加したという意見もある。渡辺昭夫は「長い戦乱で食糧を確保することに限界を感じた兵士達が近くに位置する高麗に頻繁に物資を求めに行ったので高麗の水路と地理に詳しくなっていた」と説明している。
稲村賢敷は、倭寇が数十隻から数百隻で重装備の武士も加わって多くの食糧を略奪していることから、南朝方の菊池氏や肥前の松浦党(松浦氏)が北朝との戦いのための物資獲得を目的に行ったとした。なお稲村は倭寇の構成員について、規律があり、戦慣れした武士団だと述べている。稲村は北朝方の九州探題が倭寇と南朝方の征西府を同一視して敵と見做し、かつ明から倭寇の禁圧を求められても征西府が拒否したことも論拠として挙げている。
明朝と南北朝と前期倭寇
中国では1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称した。その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が1392年に南北朝合一を行うと、明との貿易を望んだ義満は、明に要請されて倭寇を鎮圧した。倭寇鎮圧によって義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から勘合貿易が行われようになる。
朱元璋は、福建に16個の城を築城して1万5千の兵と軍船100隻をおき、浙江には59の城を築城して5万8千の兵をおき、広東に軍船200隻をおいて防備を固めた。
応永の外寇
1419年、朝鮮王朝の太宗は倭寇撃退を名目にした対馬侵攻を決定し、対馬の有力者が明などに渡航し不在である時期を狙って、同年6月、李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢を対馬に侵攻させた。応永の外寇とよばれる。朝鮮軍は敗退するが、この事件により対馬や北九州の諸大名の取締りが厳しくなり、倭寇の帰化などの懐柔策を行ったため、前期倭寇は衰退していく。
こうして前期倭寇は、室町幕府や北九州の守護大名の日明貿易、対馬と朝鮮の間の交易再開などによって下火になっていった。
偽装倭寇
中枢府判事の李順蒙による上申文記載。『世宗実録(世宗二十八(1446年)十月壬戌条)』の記述には「倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱」[(※翻訳)倭人は1、2割(または1、2件)に過ぎず、本国(朝鮮)の民が、仮に倭服を着して党を成し乱を作す]とあり、前期倭寇もある時期からは、高麗人または朝鮮人が主体となっていたことが窺い知れる。(朝鮮王朝実録の『世宗実録』114卷二十八(1446年丙寅)十月壬戌条)
後期倭寇
日本では1523年に勘合を巡って細川氏と大内氏がそれぞれ派遣した朝貢使節が浙江省寧波で争う寧波の乱(寧波争貢事件)が起り、勘合貿易が途絶すると倭寇を通じた密貿易が盛んになり、さらに中央で起こった応仁の乱の為、再び倭寇の活動が活発化する事になる。
後期倭寇の構成員の多くは私貿易を行う中国人であったとされる。『明史』日本伝には「大抵真倭十之三,從倭者十之七」と記述され、真倭(本当の日本人)は10のうち3であり、これに従う者7としており、日本人は少ないながらも指揮官的立場にあり、当時日本が戦国時代であったことから実戦経験豊富なものが多く、戦闘の先頭に立ったり指揮を執ることで倭寇の武力向上に資していたことがうかがわれる。また大太刀を振りかざす倭寇の戦闘力は高く、後に戚継光が『影流目録』と倭刀を分析し対策を立てるまで明軍は潰走を繰り返した。この時期も引き続いて明王朝は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する中国(一説には朝鮮も)の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼や福建省南部の月港を拠点とした。
これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、さらに後期には、大航海時代の始まりとともにアジア地域に進出してきたポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や日本の博多商人とも密貿易を行っていた(大曲藤内『大曲記』)。後期倭寇の頭目には、中国人の王直や徐海、李光頭、許棟などがおり、王直は日本の五島列島などを拠点に種子島への鉄砲伝来にも関係している。鉄砲伝来後、日本では鉄砲が普及し、貿易記録の研究から、当時、世界一の銃の保有量を誇るにいたったとも推計されている。
1547年には明の将軍である朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗し、53年からは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な活動がはじまる。こうした状況から明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和による事態の打開を主張する論が強まる。その一人、胡宗憲が王直を懐柔するものの、中央の命により処刑した。指導者を失ったことから倭寇の勢力は弱まり、続いて戚継光が倭寇討伐に成功した。しかし以後明王朝はこの海禁を緩和する宥和策に転じ、東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認めるようになる。ただし、日本に対してのみ倭寇への不信感から貿易を認めない態度を継続した。倭寇は1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。
一方、朝鮮半島では1587年には、朝鮮辺境の民が背いて倭寇に内通し、これを全羅道の損竹島に導いて襲わせ、辺将の李太源が殺害されるという事件が起こった。1589年、秀吉からの朝鮮通信使派遣要請の命を受け朝鮮を訪れた宗義智は朝鮮朝廷からの朝鮮人倭寇の引き渡し要求を快諾、数カ月の内に朝鮮人倭寇を捕らえ朝鮮に引き渡した。この朝鮮からの要求は朝鮮通信使派遣要請に対する引き伸ばし策でもあったが、あっさりと解決を見たことにより翌1590年、正使・黄允吉、副使・金誠一が通信使として日本に派遣された。
倭寇の構成員に関する学説
初期〜最盛期の前期倭寇の構成員は、「高麗史」に見える高麗末500回前後の倭寇関連記事の内、高麗人が加わっていたと明記されているのは3件であり、構成員の多くが日本人であったと推測される。
高麗の賤民の関与(田中説)
東京大学教授の田中健夫は、1370年から1390年初めに倭寇の襲撃が激化したのは新たに高麗の賤民階級が加わったからだとし、高麗を襲った倭寇の構成員を日本人を主力として若干の高麗の賤民を含むとした。また、田中はのちに、倭寇の構成を日本人と朝鮮人の連合か、または朝鮮人のみであったともし、さらに、高麗(李朝)にとって倭寇は外患であると同時に内憂でもあり、李氏朝鮮が高麗から引き続いて倭寇が外患であることを強調することで倭寇が抱える内憂の性格を隠蔽し、それを梃子として国家体制を確立したとも述べている。
田中説について村井章介は、多くの人員や馬を海上輸送させる困難さの説明も含めて説得力があるとしたが、田中が主張の根拠とした朝鮮王朝実録に記されている世宗王代の判中枢院事・李順蒙の発言について、膨大な朝鮮の史料のなかで倭寇に占める倭人の比率が記載されているのは田中が挙げた一例しか存在せず、その上、その史料は倭寇の最盛期から50年以上後のものであることを述べ、また、その史料の文脈は賦役から逃亡する辺境の民が多い、という事態の模範として提出されており、賤民階級に対する蔑視が、基本的な考え方となっているため、「倭人が一割〜二割に過ぎない」という記述をそのまま受け入れることは出来ないと批判している。
「境界人」説(村井説、他)
倭寇の正体について、村井は、当時国家概念が明確ではなく、日本の九州、朝鮮半島沿岸、中国沿岸といった環東シナ海の人々が国家の枠組みを超えた一つの共同体を有しており、村井は彼らを「倭人」という「倭語」「倭服」といった独自の文化をもつ「日本」とはまた別の人間集団だとし、境界に生きる人々(マージナル・マン)と呼んでいる。村井によれば、倭寇の本質は国籍や民族を超えた人間集団であり、日本人、朝鮮人といった分別は意味がないと述べている。ほかに、高橋公明は倭寇の構成について、済州島の海民も倭寇に加わっていった可能性を唱え、倭寇の活動が「国境をまたぐ地域」で繰り広げられた国家の枠組みを越えた性格のものと述べている。
東郷隆は前期倭寇の首領のひとり、阿只抜都について赤星氏や相知比氏(松浦党)といった九州の武士、あるいはモンゴル系島嶼人や高麗人といった様々な推測をしている。
村井説の教科書記載への批判
2007年の日韓歴史共通教材は、村井説が作為的に利用されているとして扶桑社の中学歴史教科書を挙げ、同教科書における「(倭寇は)朝鮮半島や中国沿岸に出没していた海賊集団のことである。彼らには朝鮮人も多く含まれていた。」「16世紀の中ごろ、再び倭寇が盛んになったが、その構成員は殆ど中国人であった」といった記述について、倭寇に占める日本人の数を低くみせるために村井の理論を利用した上で、「日本人」「朝鮮人」「中国人」と国籍を強調していると批判した。
村井説への批判
濱中昇は倭寇の特徴である領主制が日本には存在するが、中世の朝鮮には相当するものが存在しないため倭寇の主体を朝鮮国内には求めるのは難しいとし、朝鮮の賤民が倭寇と偽って略奪を働いたとする高麗史の記録についても、倭寇の襲撃がまずあり、それから若干遅れて賎民の乱暴が発生していると指摘し、倭寇とは別のそれに乗じた泥棒の類とした。また、朝鮮半島南部の海民が高麗末期の倭寇に加わっていたとしても、倭寇の主力が日本人であることには変わらないし、多数の騎馬や船を擁することについては現地での略奪によってその数を増やしたともした。ほかにも、村井の言う「倭」と「日本」の違いについても、朝鮮が日本を国家を意識した場合とそうでない場合(蔑視の心がある場合)との使い分け、九州地方と近畿地方の文化的な差異に過ぎないとし、「倭」と「日本」は事物の本体としては同じもので、「倭」と中世の日本は別個のものではないとした。
北京大学教授沈仁安は、村井説のように倭寇を国境をまたぐ海上勢力とすることも全体的にみれば可能だが、13世紀から16世紀にかけて性質が変化している倭寇を包括的に解釈することは、具体的な歴史過程を隠すことになると批判した。また沈は、前期倭寇の主力は日本人とする。また、古代の「倭」呼称が日本列島以外の地域の呼称としても使われており、「日本」とは別の概念だとする村井説に対して、沈は、千数百年以降の歴史的事実を紀元前後の呼称「倭」で解釈することは不適当とし、更に、古代中国における「倭」は日本のこととした。
高麗前期には見られなかった「倭」という呼称が高麗後期になって現れて「日本」と併用されていることについて武田幸男は、「倭」という呼称が現れた原因は倭寇だと述べている。武田は高麗が日本を国家レベルで意識、または正式な通交相手と認識した場合は「日本」とし、国家レベルで意識せず「敵対者」と認識した時は「倭」と記しているとした。なお、武田は14世紀倭寇の首領の装備について「典型的な中世日本武士」だとしている。
後期倭寇
後期倭寇は、中国人が中心であり、『明史』には、日本人の倭寇は10人の内3人であり、残り7人はこれに従ったものである(「大抵真倭十之三、從倭者十之七。」)と記されている。
倭寇の影響
中国の明や韓国の高麗・朝鮮王朝、また日本の室町幕府に対し、倭寇は結果として重要な政治的外交的な影響力を与えた。明は足利幕府に対し倭寇討伐を要請する見返りとして勘合貿易に便宜を与えざるを得ず、また高麗王朝は倭寇討伐で名声を得た李成桂によって滅ぼされ、李成桂によって建国された朝鮮王朝は文禄の役の頃まで倭寇対策(懐柔と鎮圧)に追われた。朝鮮王朝による対馬侵攻(応永の外寇)も、倭寇根拠地の征伐が大義名分とされていた。
また、第二次世界大戦後、韓国では日本に略奪されたと主張される文化財の返還運動が展開し、高麗仏画や仏像など日本に保管される朝鮮由来の文化財の多くは倭寇に略奪されたとする見解が韓国ではなされているが、日本では当時の李氏朝鮮政府が仏教弾圧政策をとったため日本へ貿易品として輸出されたり、贈答されたとする見解がある。
活動地域
倭寇の根拠地は日本の対馬や壱岐・五島列島をはじめ、朝鮮の済州島、中国の沿海諸島部、また台湾島や海南島にも存在していた。
ボルネオ童話において、倭寇と思しきものが活躍する伝承もあり、この周辺まで広く活動していたと思われる。また倭寇であるかは不明であるが、現在のタイにおいてもスペイン軍が「ローニン」の部隊に襲われて全滅したとの記録もある。
武術
倭寇の中に日本の剣術を身につけていた者もいたようで、1561年に戚継光が、倭寇が所持していたという陰流の目録を得ている。(陰流の開祖・愛洲久忠も倭寇であったという説もある)戚継光が得た陰流目録は茅元儀が編纂した『武備志』に掲載された。この『武備志』は江戸時代に日本にも伝わり、掲載されている陰流目録について松下見林らが記している。この陰流目録については陰流から派生した新陰流の第20世宗家・柳生厳長によって真正の物と確認された。
また、日本の剣術を基にした苗刀という中国武術が明末から清初にかけて生まれた。
倭寇以後の東アジア海上世界
豊臣秀吉の海賊停止令により、倭寇の活動は一応は収束をみるが、東アジアの海上世界では林道乾や林鳳(リマホン)、明を奉じて清に抵抗した鄭芝竜、鄭成功の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、倭寇ではないが同時代の海上勢力である。また、後期倭寇に多く見られた中国南部(広東・福建・浙江・台湾など)出身者は日本(横浜・神戸・長崎の三大中華街)や東南アジアに多数渡り、現地で華僑のコミュニティを形成し、現在も政治や経済において影響力を及ぼしている。
八幡船
日本の室町時代から江戸時代にかけての海賊船は通称して「八幡(やわた)船」と呼ばれた。倭寇が「八幡(はちまん)大菩薩」の幟を好んで用いたのが語源とされるが、「ばはん」には海賊行為一般を指すとも考えられている。  
 
倭寇3

 

1 前期倭寇は元寇の復讐だったのか
中学や高校時代に日本史の室町時代の授業で「倭寇」を学んだ。その時はなぜ、日本人がこの時期に急に海賊行為を始め、その活動が大規模になったのかが良くわからなかった。
対馬や壱岐の歴史を振り返ると、平安時代の寛仁三年(1019)に「刀伊の入寇」という事件がある。この事件を調べると市販の山川の日本史教科書では「とつぜん刀伊(女真人)が、対馬・壱岐・筑前をおそった。…これは大宰府とその周辺の土豪の力によってしりぞけられたものの、平安になれた朝廷や貴族に大きな衝撃をあたえた。」と簡単に書かれている。
しかし「刀伊の入寇」を調べてみると、この戦いもかなり壮絶な戦いであったようだ。詳しいことは平安時代の藤原実資の『小右記』という日記や三善為康の『朝野群戴』という文書に書かれている。
「刀伊は賊船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を三度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は一人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼している。その後、筑前国怡土の郡に襲来、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らし回った。これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちに遭い、逃亡したと記されている。」とここでも風が吹いているのが面白い。
被害は、記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという。
彼らは「牛馬を切っては食い、また犬を屠殺してむさぼり食らう」と記録され、また「人を食う」との証言も見られるという。斬り込み隊、盾を持った弓部隊らが10-20組も繰り出してあっというまに拉致・虐殺・放火・掠奪をやってのけ、牛馬を盗み、切り殺して食うなどしては次の場所へと逃げてゆく、という熟練ぶりであった。逃げるのに邪魔になった病人や子供は簀巻きにして海に投げ入れたという記録も残されているそうだ。
彼らの正体は満州を中心に分布する女真族だとされているが、9月には高麗が拉致した対馬・壱岐の島民270人を日本に送り届けてきたので高麗政府として関与してきた可能性は少ないと考えられている。
上掲の記事が正しいとすると、彼らの乱暴狼藉ぶりは、以前私のブログで紹介した、文永の役で記録されている元・高麗軍の乱暴狼藉ぶりとかなり似ているように思える。
以前文永の役の記事で書いた通り、日蓮宗の宗祖である日蓮は「高祖遺文録」の中で、元蒙古連合軍のために、対馬では百姓ら男は殺されたり生け捕りにされ、女は一箇所に集めて掌に穴をあけられ革ひもを通して船に結いつけられたり生け捕りにされて、一人も助からなかったと書いている。また『高麗史』には日本で拉致した少年少女200人を高麗国王に献上したことも書かれている。
「刀伊の入寇」にせよ「文永の役」にせよ、野蛮とも思える乱暴狼藉を働いたのは相手国の軍隊の方だ。何故室町時代に入って日本人が朝鮮半島に行って収奪を繰り返すような事をしたのか長い間腑に落ちなかったのだ。
元寇の記事を書いている時に、読者の方から「初期の倭寇は元寇の復讐であった」とのコメントを頂いた。この説については初耳であったのでちょっとこの説を調べてみた。
「刀伊の入寇」の時とは違い、「文永の役」は高麗の正規軍であり、当然のことながら高麗は拉致された日本人を送り返しては来なかった。無能な政府は、蒙古調伏の祈祷をした寺社に恩賞を与えても拉致家族の奪還には動かない。では対馬や壱岐や松浦などで家族を拉致された人々は泣き寝入りだったのかという問題がある。
そこで、「倭寇は元寇の復讐であったのではないか」と言う説が出てくる。対馬や壱岐や松浦の人々が立ちあがっても何の不思議もないではないか、というのは確かに説得力がある。そういうことがなければ、日本人の私兵が急に他国を侵略するようなことは考えにくい。
対馬観光協会のHPを見ると、明確に倭寇は元寇の復讐だと書かれている。
「元寇では、日本は『神風』により侵略を免れたと言われますが、対馬・壱岐は全島にわたって甚大な被害を受けました。元寇への復讐の意味もあり、倭寇が盛んに朝鮮半島・中国大陸で略奪・人さらいを行うようになっていきます。高麗は倭寇の被害が原因のひとつとなって滅亡、倭寇討伐で名をあげた李成桂が李氏朝鮮を建国します。」
「前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、『三島倭寇』と総称された。朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる。また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下したために、これを補完する(奪還する)目的があったとも考えられている。」と、元寇の復讐であると推定している書き方だ。推定の根拠としては、「朝鮮半島で当時唯一稲作が盛んに行われていた南部沿岸地方を中心に襲撃し、食糧や人間を強奪しており、さらには連れ去られた家族を取戻した事例もあり、実際に家族に再会した記録もある。」というのだが、その記録の文献が記載されていないのは残念だ。
結局、倭寇が元弘の復讐だと言う説を裏付ける日本側の史料がなにかあるのかどうかはよくわからなかった。
しかし、清や李氏朝鮮には倭寇は元寇の復讐であると記載されている書物があると言う。つぎのURLによると、「朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する被害地方の復讐行為と考えられる。清の徐継畭の「瀛環志略」や李氏朝鮮の安鼎福の「東史綱目」には倭寇の発生原因は、日本人による元寇への報復であったという記述がある。」と記されている。
この部分の説明は「応永の外寇以前の形態は単なる局地的な奪還・復讐戦であり、これを倭寇と分類せず、それ以降を倭寇と考える説もある。清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為を行った高麗人(朝鮮人)への報復である」とは書かれているが、この文脈では、元寇に対する復讐とは読み辛く、応永26年(1419)「応永の外寇」に対する復讐とも読める曖昧な表現だ。「瀛環志略」「東史綱目」にどういう文章が書かれているか紹介されていればこの点がはっきりするのだが、ネットではいろいろ検索してもこの2つの書物の該当部分の文章は見当たらなかった。
刀伊の入寇や元寇の残忍さと、倭寇の残忍さのイメージが長い間重ならなかったのだが、前期倭寇の初期に於いて日本人が関与した理由は元寇に対する復讐であったという説はわかりやすく、その可能性を感じる。明確に書かれている当時の書物のテキストが分かれば、是非読んでみたいものである。
しかし田中健夫氏の倭寇の回数のグラフを見ると、倭寇の回数が急増するのは14世紀の後半からだ。これは元寇のあった13世紀後半とは、年数が離れ過ぎてはいないだろうか。私は『明史』日本伝に次の様に記述されているこの部分をもっと注目して良いと思うのだ。
「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した。」
中国の正史にこのように明記されている記述を、なぜ歴史家は無視するのだろうかと不思議に思う。『明史』の記述の正しさは、上記グラフで1368年頃から倭寇の回数が急増しているのをみれば明らかである。
倭寇の構成は、それから時代を経るにつれて日本人主体から、中国人、高麗人主体に移っていくと多くの本に書かれているのだが、なぜこの特定時期に回数が増えた背景については、『明史』を読んではじめて納得した。しかし教科書では、途中から倭寇の主体が日本人ではなくなって行くことがはっきり書かれておらず、そのために多くの人が、この時期の日本人が朝鮮半島で海賊行為を繰り返していたかのような印象を持ってしまうのは残念なことだと思う。 
2 「高麗史」を読めば朝鮮半島の倭寇をエスカレートさせた原因がよくわかる
『高麗史』を読んでいると、14世紀の半ばから倭寇の話が驚くほど頻繁に記述されている。高麗末期に500回前後の記述があるとのことだが、その内高麗人が加わっていたことが明記されているのは3件だけなのだそうだ。そのことから、前期の倭寇の主体は日本人だったと考えられている。
前回の記事で書いた通り、中国の正史である『明史』には明が興こった(1368年)頃に、「地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した」と記述されている。『明史』なので「山東地区」だけが書かれているが、この時期の倭寇は対馬・壱岐を拠点とし、山東地区や朝鮮半島に出没していた。
倭寇の回数が激増するのがこの時期であるから、元の末期あたりから中国人が相当数関与していたことが『明史』の記述から推察されるが、それまでは日本人が主体と考えて良いのだと思う。倭寇の初期には、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって家族を虐殺され奴隷にされた対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民がかなりいて、「三島倭寇」と総称されたそうだ。「三島」とは対馬・壱岐・松浦のことを指していたと言われているが、この「三島」の住民と、この地域に亡命してきた中国人とが手を組んだことも考えられるのだ。
弘安の役の失敗にもかかわらず、元も高麗も日本征服を諦めたわけではなかった。弘安の役の翌年の1282年に高麗の忠烈王は兵船150隻を造り元のクビライに三度目の日本侵攻を促し、クビライも大小3000隻の艦隊を準備したのだが、1283年に江南で内乱があり、その翌年にはベトナムで反乱などがあってその対応に追われ、日本侵攻は実行されなかったという。
三度目の元寇があるかどうかは、何度も住民を虐殺され、拉致された対馬・壱岐の人々にとっては死活問題であったろう。今回は、元寇後に起こった倭寇と朝鮮半島の事を書いて見たい。
元寇の後で、『高麗史』に「倭」について書かれている部分を抜き出してみた。この頃は、ただ倭の船が国境を越えてきただけのことが書かれている。
「忠烈王十五年(1289)[十二月]戊戌(23日)、倭船、蓮花・楮田の二島(いずれも朝鮮半島南端の島)に泊まる。」
「忠烈王十九年(1293)[七月]丁丑(24日)、鎮辺万戸の韓希愈、漂風せる倭八人を捕らえ来る。」
二度目の元寇である弘安の役(1281年)からまだ日が浅い時期の記録はこの程度のもので、倭人が特に危害を加えたわけではなく、単に国境を超えて様子を探る程度の記述だ。
『高麗史』に倭船が初めて具体的な掠奪行動を起こしたことが書かれているのは、次の部分だろう。この時は倭寇のメンバーの多くが斬殺されている。「忠粛王一〇年(1323)[六月]丁亥(27日)、倭、会原の漕船を群山島に於いて掠す。戊子(28日)、又楸子等の島に寇し、老若男女を擄(とりこ)にして、以て去る。秋七月庚子(10日)、内府副令の宋頎を全羅道に遣わし、倭と戦い、百余級を斬す。」
次の文章は「倭寇」という言葉を最初に使った、『高麗史』の記述である。「忠定王二年(1350)」二月、倭、固城・竹林・巨済に寇す。合浦千戸の崔禅と、都領の梁琯等、戦いて之を破り、三百余級を斬獲す。倭寇の侵すは、此れより始まる。」ここに書かれている通り、この年以降、倭寇の襲来が広域的・連続的かつ大規模となるのである。初期の倭寇の手口は家や船に火を付けて食糧などを奪い去るというものであった。船に火をつける行為は、当面日本に攻めて来させないための措置だと考えられている。
『高麗史』のこの頃の記述を読んで、初期の倭寇が重武装していたとはとても思えないのだが、高麗側からすれば、いつ、どこに現れるかわからない敵に対して準備することは容易ではなく、倭寇にかなり手を焼いていた。そこで高麗側は、倭寇の本拠地である対馬や壱岐を攻めてその勢力を根絶させようと考えた。
『高麗史』に次のような記述がある。(鄭地列伝)
「…近ごろ、中国は征倭を声言す。若し我が境に並(あつま)り、戦艦を分泊すれば、則ちただ支待すること艱しと為すのみに非ず、亦た我が虚実を覘(うかが)うを恐る。倭は国を挙げて盗を為すに非ず。其の叛民は、対馬・一岐(壱岐)の諸島に拠り…。若し…先に、諸島を攻め、その巣窟を覆し、また日本に移書して尽く漏賊を刷(はら)い、之をして帰順せしむれば、即ち倭患は以て永く除かるべし。中国の兵も亦た由りて至ることなし。…」(岩波文庫『高麗史日本伝(下)』111)
この記述にあるとおり、中国の「征倭」の申し出を受け入れれば、高麗に中国の戦艦が駐留し、その接待やら費用負担が大変である。日本は国を挙げて盗みを働いているのではないので、倭寇の拠点を叩けばその原因を断つことが出来るとの考えだ。高麗は倭寇を撃退するのに中国の力を借りる気はなかったようだ。
何度も倭寇との衝突があり、何度も倭寇の勢力は半島で人や食糧を奪い、あるいは高麗の勢力に斬られたり捕虜にされたりしている。その繰り返しだ。
『高麗史』・金先致伝に、倭寇は1375年までは高麗人を殺していなかったことが明記されているのに驚いた。一方で高麗人はそれまでに何人も倭人を殺す記述があるのにもかかわらずである。では、この1375年にどのような事件があったのか。
この年に高麗は全羅道の金先致という武官に対し、倭寇の藤経光という人物に食事をふるまって毒殺せよと命じたのだが、その謀が途中で見破られてしまい藤経光に逃げられてしまう。この事件が倭寇のメンバーを激怒させてしまった。
『高麗史』・金先致伝には、これ以降の倭寇は半島に来るたびに殺戮を繰り返すことになったと記述されている。
「此れより前、倭の州都に寇するに、人畜を殺さず。是より入寇する毎に、婦女・嬰孩すら屠殺して遺(のこ)すなし。」
そのために、全羅道・楊広道・慶尚道の3道沿岸地帯の人々は沿岸を離れて仮住まいし、村々は荒廃して「粛然一空」*となってしまった、とも書かれている。(*がらんとして何もないさま。)
読者の方からご指摘いただいたが、『高麗史』恭愍王9年(1360)と23年(1374)に倭が高麗人を殺した記録がある。実際には、もう少し前から、相互に激しい復讐行為を繰り返していたようだ。
さらに1389年には、高麗は戦艦百艘で倭寇の拠点であった対馬を攻撃している。
「…倭船三百艘、及び傍岸の盧舎を焼きて殆ど尽く。元帥の金宗衍・崔七夕・朴子安等継ぎて至り、本国の被虜男女百余人を捜して以て還る。…」
14世紀後半の『高麗史』は、このような記録ばかりだが、要するに元寇以降対馬や壱岐を中心とする人々と高麗とが相互に復讐行為を繰り返していただけのことではないのか、という印象を持った。また、これほどまでに倭寇をエスカレートさせた原因はどちらにあったのかというと、高麗側の方に多かったようにも思える。
文永の役で元・高麗連合軍が対馬や壱岐の多くの人々を虐殺し、若い男女を拉致して持ち帰り高麗王に献上したことからすべてが始まり、それから後の倭は偵察行為を行った程度だったが、最初に多くの人を斬殺したり、リーダーを饗応すると見せかけて毒殺しようとしたのは高麗側である。これらはすべて高麗の正史である『高麗史』に書かれていることなのである。
高麗は倭寇が原因で国力を弱め1392年に李成桂に滅ぼされることになるのだが、その後の倭寇のメンバーについては、朝鮮人の割合が圧倒的となっていたという記録が残っている。朝鮮王朝実録の『世宗実録』114卷二十八(1446年丙寅)十月壬戌条(10月28日(壬戌))には、
「臣聞前朝之季、倭寇興行、民不聊生、然其間倭人不過一二、而本國之民、假著倭服、成黨作亂、是亦鑑也。」とあり、真倭は一割、二割にすぎず、残りは我が国の賎民であると記述されている。
「朝鮮王朝実録」は韓国の歴史書で、世界遺産にも登録されている書物で、そこに15世紀の半ばには倭寇の構成員のうち日本人は二割程度で、残りの八割は李氏朝鮮国の賎民だと明確に書かれている事実は重要である。同じ「倭寇」という呼び名でありながら、途中で日本人中心の集団から自国民中心の集団に変質していたのだ。高麗時代についても、高麗の反政府勢力が倭寇の中心メンバーであったという説もあるが、その説も一理あると考えている。
こういう史実を知ると、次のような日本史教科書の「倭寇」の記述に、多くの人が違和感を感じるのではないだろうか。
「…海の道を舞台に活動する集団がいた。その出身は九州や瀬戸内海沿岸の土豪・商人で、彼らの一部は貿易がうまくいかなくなると、海賊的な行動をとり、倭寇とよばれておそれられた。李成桂はこの倭寇撃退に名をあげ、ついに高麗をたおしたのである。」
この記述では、李成桂は倭寇を撃退した英雄扱いだし、倭寇は日本人ばかりであったような印象を持ってしまう人が大半だと思うのだが、なぜ日本の教科書はこのような書き方になるのだろうか。高麗や李氏朝鮮の正史で、明らかに自国に不利な事を書いている部分を見落としてしまっては、歴史の真実が見えてくるとは到底思えないのだ。 
3 中国の史料では後期倭寇は中国人が中心だが、奴隷売買に関与はあったか
以前このブログで、「400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと」という記事を書いた。この記事は、ブラジルの日系人のための新聞である「ニッケイ新聞」に連載された記事の紹介から書き起こしている。
その記事とは16世紀の中頃から1600年頃までの間の50年間に大量の日本人が南米に奴隷として渡ったことを当時の記録などを引用しながら書かれた記事なのだが、この時期は南米ばかりではなく、ヨーロッパやインドにも大量の日本人が奴隷として存在していた記録が残されている。インドのゴアにはポルトガル人よりも日本人の奴隷の方が数倍多かったという記録があるそうだし、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕したという記録も残されている。
その記事を書いてから、日本及び海外の日本奴隷に関する当時の国内外の史料を調べて、「秀吉は何故伴天連追放令を出したのか」というテーマで3回に分けて書いた。布教の妨げになるとの理由からイエズス会の要請を受けてポルトガル国王が何度も「日本人奴隷取引禁止令」を出している事実からしても、この時期に奴隷として売られた日本人は半端な数ではなかったはずだ。
しかし、奴隷は日本人だけではなく中国人も朝鮮人もかなりいた。どうしても理解できなかったのは、これだけの奴隷を誰が何のために集め、どうやって運んだかという点であった。ポルトガル商人が、ポルトガルの船だけでそれを実行できたのであろうかと疑問を持っていた。当時の船は帆船であり、船が進みたい方向に進める季節は限られている。日本から西に向かう季節は冬、西から日本に向かうには夏しかあり得ないのだ。
前々回の記事で田中健夫氏による「倭寇の回数」のグラフを紹介したが、これをもう一度見てみよう。16世紀に於いて倭寇の活動が活発であった時期と、日本人・中国人・朝鮮人奴隷が世界に送られた時期とがほぼ一致するのだ。倭寇はポルトガルへの奴隷の供給を行うことに関わっていたのではないだろうか。
そのように考えれば、倭寇があれだけ長い期間にわたって金品の略奪のみならず、なぜ人攫いを何度も繰返したのかという疑問も氷解するのだ。
ネットで「倭寇」と「奴隷」をキーワードに検索を試みると、「倭寇」が「奴隷」の送り込みに関与した可能性を感じさせるいくつかの記述にヒットする。戦前に書かれた興味深い表題の論文もあったのだが、その内容までは紹介されていなかったので、ここでは当時の記録が紹介されているサイトを紹介しておこう。
明の人物で鄭舜功という人物が、日本にも滞在して自らの功績とともに日明間の密貿易の実態などを詳しく書いた『日本一鑑』という書物があり、次のサイトでその翻訳文が詳しい注記と原文とともに紹介されている。
「嘉靖21年(1542年)、寧波知府の曹誥は密貿易船が海寇を招いているとして、これと取引したり密航する者を大々的に捕縛したが、寧波の有力者たちが手を回して彼らを救いだしてしまった。曹誥は『今日もまた通番(外国との交易)を説く、明日もまた通番を説く。これはもう血が流れ地方を満たすまで止まらないだろう』と言った。
翌年(1543年)、トウリョウらが福建沿海を荒らしまわった。浙江海域の海賊もまた発生した。海道副使・張一厚は許一・許二らが密貿易を行うために地方に海賊の害を及ぼしていると考え、兵を率いてこれを捕らえようとした。許一・許二らはこれを撃退して気を大きくし、ポルトガル人たちと双嶼港に拠点を構えた。
その部下である王直は、乙巳歳(24年=1545年)に日本に行って交易し、はじめて博多の助才門ら三人を誘い、双嶼に連れて来て交易を行った。翌年もまた日本に行き、その地との結びつきを強めるようになった。直隷・浙江の倭寇の害がここに始まることとなるのである。」
詳しい内容は上記のサイトで確認願うこととして、この時期に中国沿岸部の民家を襲撃している倭寇のメンバーで名前が挙がっている人物はほとんどが中国人である。また、ポルトガル人たちと拠点を構えたという「双嶼港」は、倭寇の地図で種子島の西にある中国沿岸部の「舟山列島」にある港である。
「王直」は、日本に初めて鉄砲が伝わった際に、船でポルトガル人を種子島に導いた中国人だが、この男が「倭寇」の中心人物であった。
この『日本一鑑』という書物に著者の鄭舜功が、倭寇に連れ去られた明人たちが奴隷として酷使・売買されて施設が九州の高洲(現在の鹿児島県鹿屋市)という場所にあり、そこを訪れると明人の被虜者が二、三百人集められていたという記録があるらしいのだが、このサイトにはこの部分(窮河話海巻之四)の原文と翻訳が割愛されていたのは残念だ。
このサイトでは「明人の被虜者」と書かれているのだが、日本人奴隷がこの収容所にいた可能性はないのだろうか。相沢洋氏の「倭寇と奴隷貿易」という論文には、南九州では鎌倉時代から人身売買が行われていた記録があることが指摘されており、この高洲の奴隷収容所も大隅の戦国大名であった肝付氏が経営に関与していただろうと書かれているそうだ。
日本人奴隷については、九州でポルトガルに売却されていたことを以前私のブログに書いた。当時は火薬の原料となる硝石を手に入れるために、切支丹大名などが日本人捕虜をポルトガル人に売却していたのだ。ルイス・フロイスの『日本史』には「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却され…売られた人々の数はおびただしかった」と記述されている。日本の南蛮貿易拠点は島原半島の口の津にあり、そこに人々が連行されていったのだ。
しかし、それほど多いとは思えないポルトガル船に乗せるためにわざわざ肥後国に行かなくとも、倭寇はかなりの船を所有していた。日本から西に進めば中国の沿岸部にはポルトガル人の拠点がいくつもあったのだ。奴隷をマカオやゴアなどに運んだのは、倭寇の勢力が関与した可能性は小さくないと私は考えている。
次に、倭寇を構成していたのはどういうメンバーであったのか。前回にも書いたが、『明史』には14世紀後半から、明に抵抗する勢力が日本に亡命し、倭寇に関与していったことが明記されている。さらに『明史』を読み進むと、「後期倭寇」と呼ばれる16世紀の「倭寇」も、中国人が中心であったことが良くわかる。彼らは日本人の着物や旗しるし*を真似て、いかにも日本人の勢力であるかのごとく偽装して活動していたのだ。今も昔も中国人のやることはよく似ている。 *旗しるし / 天照皇太神・春日大明神・八幡大菩薩などが用いられた
「…大悪党の汪直・徐海・陳東・麻葉のごとき輩は、日頃から倭人の中にくいこみ、国内ではかってにふるまうわけにはいかないので、すべて海上の島に逃れて奸計の采配をふるった。…外海に出たこれらの大盗賊は、やがて倭人の着物や旗しるしをまねて用い、船団をいくつかに分けて本土に侵攻して掠奪し、一人残らず大いに懐を肥やした。…」
「これらの賊軍のあらましは、真の倭人は十人のうち三人で、残りの七人は倭人に寝返った中国人だった。倭人はいざ戦いとなると、捕虜の中国人を先陣に駆り立てた。軍法が厳しかったので、賊軍の兵士たちは死にもの狂いで戦った。ところが官軍の方はもともと臆病者ぞろいだったから、戦えば必ずなだれをうって逃げるという始末だった。」
『明史』を普通に読むと、倭寇のリーダーが中国人であることは明らかであり、「倭人」は必ずしも「日本人」と言う意味ではなさそうだということに気がつく。日本海から朝鮮半島、中国沿岸部で海賊行為を行っていたメンバーを総称して「倭人」と呼んでいるなどの諸説がある。
中国の当時の記録で采九徳が記した『倭変事略』には「この四十賊を観みるに亦た能く題詠する者あり。則ち乱を倡える者はあに真倭の党なりや。厥の後、徐海・王直・毛烈ら並べて皆華人なり。信ず可し」とあり、倭寇のメンバーはすべて中国人だと書かれている。
前回の「高麗史」においても同様なのだが、倭寇に関して、中国の正史である「明史」や当時の記録において、明の国民にとって不利な出来事や恥ずべき事実が数多く記録されているのだが、こういう書き方をする場合には嘘があるはずがないのだ。しかしながら、前回の記事で紹介したとおり、わが国の多くの教科書では倭寇は日本人が中心メンバーであったと思わせるような表現になっているのは非常に残念なことである。
この時代に限らず、わが国の歴史記述は他国の反応を配慮してか史実が歪められ、真実をありのままに綴ることが自主規制されているかのような文章が散見されるのだ。どの国にもその国にとって都合の良い歴史と都合の悪い歴史があるのだろうが、お互いその片方を知るだけでは、成熟した二国間関係の構築は難しいと思う。
歴史をどう書くか、どう教えるかは、その国の外交スタンスまで影響を与えるものとの認識が必要で、相手国の立場と自国の立場と第三国の立場から史実を検証し、真実を追求する姿勢を崩すべきではない。相手国が主張する歴史を鵜呑みにしては、わが国の外交的立場を弱めてしまうばかりだ。もっとわが国の政治家が歴史に詳しければ、尖閣や竹島や、北朝鮮問題などに対する対応が、今とは随分異なったものになるのではないだろうか。 
 
応永の外寇

 

室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による倭寇討伐を名目とした対馬攻撃を指す。実際の戦闘は、対馬の糠岳(ぬかだけ)で行われたことから糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(기해동정)と言われる。当時足利義持が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。
朝鮮軍は彼らが「島賊」と称した宗氏武士団の少数の抵抗に手こずり、台風の接近もあって、漁村と船を焼き払っただけで10日余りで対馬から撤退した。明らかに戦果は不充分であり、朝鮮側もすぐに再遠征を議論したが、結局実現しなかった。朝鮮は以後二度と対馬に対する外征は行わず、土地を与えたり米を送ったりと鎮撫策に終始した。前期倭寇はそれ以前からすでに衰退傾向であったが、朝鮮が終息したと公式に判断したのはこの遠征の25年後の世宗26年(1444年)である。一方、侵略を受けた対馬はその後の朝鮮との交渉を通じて日朝貿易を独占し、朝鮮との唯一の窓口へと成長した。
背景 / 前期倭冦
高麗史によると、倭寇は元寇以前にも存在したがその活動が目に立つほど頻繁になったのは、1350年からであった。その時期から高麗末まで倭寇の侵入は500回あり、特に1375年からは、倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという。このため、1389年に高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出した(康応の外冦)。
高麗が李氏朝鮮に代わった後にも倭寇は半島各地に被害を与えるが、対馬の守護宗貞茂が対朝鮮貿易のために倭寇取締りを強化した事や、幕府で足利義満が対明貿易のために倭寇を取り締まった事など、特に日本側の対策により、14世紀末から15世紀始めにかけて倭寇は沈静化していった。
しかし、新たに将軍となった足利義持は、応永18年(1411年)に明との国交を断絶した。対馬においても宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、宗貞盛が跡を継いだが、実権を握った早田左衛門大郎は倭寇の首領であった。
経緯(朝鮮側の記録)
対馬側には同時代資料がないため、ここでの記載は主として朝鮮王朝実録に基づく。
対馬侵攻の決定
朝鮮沿岸はおよそ10年間倭寇の被害を受けていなかったが、応永26年(1419年)5月7日、数千名の倭寇が朝鮮の庇仁県を襲撃し、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生した。この倭寇は5月12日、朝鮮の海州へも侵犯し、殺害されたり捕虜となった朝鮮軍は300人に達した。朝鮮の上王である太宗は、これが対馬からの倭寇という事を知り、5月14日、対馬遠征を決定。世宗に出征を命じた。
朝鮮側は5月23日に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝え、5月29日には宗貞盛(宗都都熊丸)に対してもその旨を伝達した。一方、朝鮮に来た倭寇集団は、以後に朝鮮を脱して遼東半島へ入ったが、そこで明軍に大敗する(望海堝の戦い、中国名:望海堝大捷)。
対馬に侵攻する朝鮮軍は三軍(右軍・中軍・左軍)で編成され李従茂を司令官とし、軍船227隻、兵員17285人の規模であり、65日分の食糧を携行していた。
太宗は朝鮮軍が対馬へ行く前に「ただ賊のみを討て。宗貞盛には手を出さず、九州は安堵せよ。」と命じた]。
糠岳での戦闘
朝鮮軍は6月19日巨済島を出航、6月20日昼頃に対馬の海岸(尾崎浦)に到着した(尾崎浦は当時、早田氏の領土であり、倭寇の一大拠点でもあった)。島の賊たちは、先行する朝鮮軍10隻程度が現れると、仲間が帰ってきたと歓迎の準備をしていたが、大軍が続いて迫ると皆驚き逃げ出した。その中50人ほどが朝鮮軍の上陸に抵抗するが、敗れ険阻な場所へ走り込む。上陸した朝鮮軍はまず、出兵の理由を記した文書を使者に持たせ、対馬の宗貞盛に送った。だが答えがないと、朝鮮軍は道を分けて島を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした。また同日、倭冦に捕らわれていた明国人男女131人を救出する。以後、朝鮮軍は船越に進軍し、柵を設置して島の交通を遮断し、長く留まる意を示す。その後、李従茂は部下を送り、島を再度捜索し、加えて68戸と15隻を燃やし、9人を斬り、朝鮮人8人と明国人男女15人を救出する。そして仁位郡まで至り、再び道を分け上陸した。しかしその頃、朴実が率いる朝鮮左軍が、糠岳で対馬側の伏兵に会い敗北、百数十人が死に、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死した。だが朝鮮右軍がこれを助けたため対馬側は退いた。
撤収
対馬側が朝鮮右軍との戦いで退いた後、宗貞盛は朝鮮軍が長く留まる事を恐れ、文を捧げ修好を願ったため、7月3日、軍船は対馬から巨済島に戻った。撤収した理由には、糠岳での戦闘以後、「7月は暴風が多いため、長期的に留まる事はない様に」と書かれている太宗の宣旨(手紙)が朝鮮軍に届いた事、宗貞盛が修好を求めた事などが表れる。
損害
『世宗実録』(1454年)では6月26日の戦いで死者百数十人、7月10日の記録として戦亡者180人となっている。
撤収後
糠岳での戦闘に関して朝鮮では「朴実が負ける時、護衛し共にいた11人の中国人が、我が軍の敗れる状況を見てしまったので、彼らを中国に返還できない」という左議政(高位官吏)の主張があった。その為、朝鮮の通訳が中国人に所見を聞くと「今回の戦いで死者が、倭人20余名、朝鮮人100余名」と言った。そうすると、崔雲等が「中国も北方民族との戦いで、多くの兵士たちを失った例があります。100人の死、何が恥になるでしょうか?」と言い、太宗がこれに賛同し、中国人たちを明へ帰す。朴実は軽率だった罪により投獄され李従茂は左軍関連で非難を受ける。しかし、東征(対馬遠征)にとって敗北は少く勝利は多かったと、朴実は免罪、李従茂は昇進する事になった。
対馬再征計画
7月4日、他の倭冦集団が朝鮮政府へ貢物を運搬する全羅道の輸送船9隻を略奪し対馬に向かって行った。また7月6日、中国から戻ってくる倭寇数十隻が現れたと言う報告を受け、追撃・殲滅する為に対馬再征も検討されるが、実現されなかった。
日本側の記録
対馬には同時代の記録はないが、『宗氏家譜』にこの戦闘の記載がある。日本側の同時代資料には少弐満貞の注進状がある。その内容は、以下のようなものであった。
「蒙古舟」の先陣五百余艘が対馬津に襲来し、少弐満貞の代官宗右衛門以下七百余騎が参陣し、度々合戦し、6月26日に終日戦い、異国の者どもは全て敗れ、その場で大半は討ち死にしたり、召し捕らえた。異国大将二名を生け捕りにし、その白状から、今回襲来した五百余艘は全て高麗国(朝鮮)の軍勢であること、唐船2万余艘が6月6日に日本に到着する予定であったが、大風のために唐船は到着せず、過半は沈没した。合戦中に奇瑞が起こり、また安楽寺(太宰府天満宮)でも怪異・奇瑞が起こった。
唐船2万余艘は事実ではないが、戦闘の日付は朝鮮側資料と合致する。これとは別に、満貞は自身が戦闘に参加したと足利義持に報告しているが、朝鮮軍が短期で撤退したこともあり、日本本土からの援軍は送られおらず、満貞も戦闘には参加していない。『宗氏家譜』(1719年)では、対馬側の反撃により糠岳で朝鮮左軍が大敗する等、苦戦を強いられた朝鮮軍は撤退したとしている。この際の日本側の戦死者を123人、朝鮮兵の死者を2500人余りとしている。朝鮮側の資料とは大きく食い違うが、前述の中国人の証言など、“そもそも少数の対馬方の軍勢に対し、和睦・撤兵を行うほどの損害”を、朝鮮軍は受けていたことは史実からうかがい知れる。
対馬侵攻が実施されたのは、丁度室町幕府と明王朝との関係が悪化していた時期であった。看聞日記の5月23日の記載には、「大唐国・南蛮・高麗等、日本に責め来るべしと高麗より告げる。室町殿仰天す」(日付の観点から朝鮮王朝実録にある「5月23日に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝えた」ことを反映したものではない)とあるが、8月7日に少弐満貞が対馬に「蒙古舟先陣五百余艘」と注進したために、幕府と朝廷は三度目の元寇かと恐れ、対馬侵攻をその前兆と考える向きもあった。この外寇の真相を究明するため、室町幕府はこの年、大蔵経求請を名目に日本国王使・無涯亮倪一行を朝鮮に派遣した。翌年朝鮮からは回礼使・宋希m一行が来日する。京都に着いた宋希mは、初め足利義持に冷遇された。その原因が、応永の外寇にあると知った希mは、陳外郎や禅僧らを介して、外寇の原因は倭寇にあることを力説し、義持の理解を得るに至った。こうして日朝関係は国家レベルでは和解した。
また8月13日の『看聞日記』は7月15日付けの「探題持範注進状」として、以下の内容を紹介しているが、当時の九州探題は渋川義俊であり、現在は少弐満貞の注進状を基にした偽書とみなされている。
6月20日、「蒙古・高麗」の軍勢500余艘が対馬島に押し寄せ、対馬を打ち取ったので、「探題持範」と太宰小弐(満貞)の軍勢がすぐに対馬の「浦々泊々の舟着」で日夜合戦したが、苦戦をしたので九カ国(九州)の軍勢を動員し、6月26日に合戦をし、異国の軍兵三千七百余人を打ち取り、海上に浮かぶ敵舟千三百余艘は、海賊に命じて攻撃させ、海に沈む者が甚だ多かった。雨風・雷・霰の発生や大将の女人が蒙古の舟に乗り移り、軍兵三百余人を手で海中に投げ入れるなど、合戦の最中に奇特の神変が多く起こった。6月27日に異国の残る兵はみな引き退き、7月2日には全ての敵舟が退散したが、これは「神明の威力」によるものである。
対馬の使臣
9月、朝鮮に『都伊端都老』という対馬の使者が来て降伏を請い、信印の下賜を求めた。そして翌年には『時応界都(辛戒道)』という対馬の使臣も朝鮮に来て、宗貞盛が朝鮮への帰属を願っていると伝えた。これを受け朝鮮では、貞盛に「宗都々熊丸」(都々熊丸は貞盛の幼名)という印を与えるとともに、対馬を慶尚道へと編入することを決めた。しかし、回礼使として日本へ派遣された宋希mが対馬に立ち寄った折、当時の対馬最大の豪族早田左衛門大郎から編入について抗議を受ける。さらに応永28年、対馬から朝鮮へと派遣された使者仇里安が朝鮮への帰属を否定。属州化は有耶無耶となった。これ以降も朝鮮では、対馬が慶尚道に属する朝鮮の島であるという認識が残り、現在でもそのような見方は「対馬島の日」条例などに代表されるように、一部には残っている。
その後
戦後、対馬と朝鮮の間には、貿易が一時的に縮小されるものの、使節は相変わらず往来する。
1426年、早田左衛門大郎の要請で朝鮮は釜山浦、乃而浦以外にも塩浦を開港し、両国間の貿易が再度活発化した。しかし、来往する日本人の数が日々増え、接待費などが朝鮮に負担となり1443年、朝鮮は対馬と嘉吉条約(癸亥約条)を結び解決する。なお、朝鮮は倭冦制御の一環として、対馬の色々な人に官職を与え、特に1461年、貞盛の子、宗成職(そうしげもと)にも官職を付与した。以後、朝鮮は定期的に、食料の少ない対馬に(海賊活動しないように)米を下賜することになったが、宗氏の側ではこれを朝鮮からの貢物と称して日本国内に喧伝した。
朝鮮においても帰化・救恤等の政策を行ったため前期倭寇は一応衰退していくが、これと応永の外寇の影響がどの程度関係があるのかは、歴史家の間でも意見が分かれる。しかしながら、条約を結んだ翌年である世宗26年(1444年)をもって倭寇終息を宣言し、明にも報告した。また海賊貿易である倭寇が減ったことで、正規の貿易はむしろ増加し、制限するために通交統制が用いられるようになる。
それが恒居倭人(朝鮮に居住する日本人)の増加を促し、三浦の乱が起きた原因となった。乱後の交渉は、対馬の宗氏が偽使を介して行ったので、以後の日朝貿易は事実上の対馬独占となった。これらの経緯から外寇を受けたことも、対馬にとってさほどの不利益とはならず、朝鮮に名を譲ることで、最終的には実利を対馬が得るという結末となった。
また15世紀前半の前期倭寇の衰退は一時的に過ぎず、明の海禁を破った中国人の集団が海に繰り出して後期倭寇として約1世紀後に勃興した。 
 
宗氏 1

 

かつて対馬国を支配した守護・戦国大名。秦氏の末裔惟宗氏の支族だが、室町時代中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになった。
12世紀頃に対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留氏を滅ぼし、対馬国全土を手中に収める。惟宗氏の在庁官人が武士化するさいに苗字として本家である惟宗氏から「宗」の一字を賜わり宗を名乗りだしたことが古文書からうかがえる。元寇の際には、元及び高麗の侵攻から日本の国境を防衛する任に当たり、当主宗助国が討ち死にするが、その後も対馬国内に影響力を保った。
南北朝時代、宗盛国が少弐氏の守護代として室町幕府から対馬国の支配を承認される。やがて少弐氏が守護を解任されると、鎮西探題成立とともに今川氏が対馬守護となるが、今川氏の解任後、宗澄茂が守護代から守護に昇格した。
対馬は山地が多く耕地が少ないため、宗氏は朝鮮との貿易による利益に依存していた。室町時代初期は、西国の大名、商人、それに対馬の諸勢力が独自に貿易を行っていた。しかし、宗氏本宗家が朝鮮の倭寇対策などを利用して、次第に独占的地位を固めていった。
戦国時代は幾度も九州本土進出を図ったが、毛利氏・島津氏・大友氏・龍造寺氏に阻まれて進出は難航した。九州征伐では豊臣秀吉に臣従して本領を安堵された。文禄・慶長の役では、宗義智が小西行長の軍に従って釜山城・漢城・平壌城を攻略するなど、日本軍の先頭に立って朝鮮及び明を相手に戦い活躍した。また戦闘だけでなく行長と共に日本側の外交を担当する役割も担い折衝に当たっている。
関ヶ原の戦いで西軍に属したが、宗氏が持つ朝鮮との取引を重視され、本領を安堵された。後年、朝鮮との国交回復に尽力した功績が認められ、国主格・十万石格の家格を得、朝鮮と独占的に交易することも認められた。江戸時代は対馬府中藩の藩主となり、参勤交代で3年に一度江戸に出仕することとされ、江戸に屋敷を構え対馬府中(厳原)との間を大名行列を仕立てて行き来した。
以後改易もなく明治維新まで断絶することなく続き、維新後華族となり、明治17年には伯爵に叙せられた。本来の叙爵基準では、現米(藩本来の米の収入)5万石以下であった対馬藩は子爵相当となっていたが、対朝鮮外交者としての家格が考慮され伯爵となった。
対馬宗家文書 / 対馬と宗家
宗家は鎌倉時代から明治時代まで、対馬などを支配した北部九州の豪族、大名であった。出自は平知盛とももりの後胤説もあるが、大宰府の役人であった惟宗これむね氏が武士化したといわれている。宗家は鎌倉時代に対馬国の地頭代、南北朝末期には対馬国の守護であった。15世紀初頭までは、筑前国宗像郡(福岡県宗像市)に本拠をおき、筑前国の守護代を兼ねていた。応永15年(1408)に対馬国上県郡佐賀(長崎県対馬市)に本拠を移した。
対馬における宗家の活動は、文永11年(1274)のモンゴル襲来で対馬国地頭代の宗資国すけくにが対馬で戦死したころから明らかになる。そして対馬移住以降、日本と朝鮮の外交や貿易に携わるようになり、嘉吉3年(1443)、宗貞盛さだもりは朝鮮と癸亥約条きがいやくじょう(嘉吉条約)を結び、特権的地位を獲得、16世紀中ごろには島外の朝鮮通交者の権利(図書)も集中し、朝鮮貿易をほぼ独占した。
天正15年(1587)宗義調(よししげ)は、豊臣秀吉の九州平定によって服属し、天正18年宗義智よしとしは朝鮮通信使来日の功により、従四位下侍従じじゅう・対馬守に任ぜられ、以後その官位が宗家の慣例となる。宗義智は朝鮮出兵回避のため努力したが、開戦となり、その結果日朝貿易は中断する。その後、日朝国交回復に努めて、慶長14年(1609)己酉約条きゆうやくじょうで貿易を再開し、江戸時代を通じて日本と朝鮮における外交の実務と貿易を独占する。宗義成よしなりは寛永12年(1635)、柳川一件に勝訴、また藩政改革を実施し近世大名となった。近世の宗家は外様大名として15代続いた。宗家は鎌倉時代から江戸時代まで、長期間にわたって対馬の島主であり領主であった。
対馬藩の城下町は対馬国府中、現在の長崎県対馬市厳原におかれ、金石屋形かねいしやかたと桟原屋形さじきばるやかたの居城があった。領地は対馬国無高、肥前基肄・養父郡1万石(佐賀県、田代領)、文化14(1817)年に肥前松浦郡(佐賀県)、筑前怡土郡(福岡県)、下野安蘇・都賀(栃木県)の2万石を加増された。対馬国は「無高」とあるように、江戸幕府から表向きは米がとれないという形で認められていた。江戸時代の大名の格式をあらわす際に使われる石高で表すと、宗家は10万石以上格となる。
また他の藩と同様、江戸に上屋敷などの藩邸、京・大坂に藩邸、蔵屋敷をおいた。そのほか蔵屋敷は博多、壱岐勝本、長崎にもあった。対馬藩独自の施設として日朝外交、貿易の拠点、釜山の倭館があった。 
 
宗氏 2

 

朝鮮半島との国境の島対馬を代々領した宗氏は、惟宗姓であったが、惟の字を省して一字姓の宗とした。大陸の一字姓に合せたもので、大陸との交易にはこの方が通りがよかったからである。
このように代々朝鮮を通じての交易に依存してきた宗氏は、一貫して対馬の国守として君臨し、朝鮮に対しては日本を代表する立場に立った。
豊臣秀吉が戦国の世を統一して目を征明に向けると、そのことが宗氏の立場を著しく苦しくした。朝鮮との交易に慣れた立場から朝鮮との交渉にあたらされ、朝鮮と戦端が開かれれば地理的な立場から朝鮮での先陣となった。秀吉が死去して日本軍が朝鮮から引き上げても、宗氏は戦後処理で苦労した。
江戸時代になると山国であった対馬は、1万2千石程度の実高であったが10万石の格式で遇せられ、のちには国持大名となった。  
対馬における宗氏の地位確立
宗氏の出自については宗氏家譜では平知盛が壇ノ浦で滅んだとき、その子鬼王丸が乳母の惟宗氏に護られて筑前国に逃れ、成人して知宗と名乗り武藤氏に仕え、その子の重尚は寛元3年(1245年)太宰少弐の命を受けて対馬に入り大宰府の命に叛いた対馬の国人阿比留(あびる)氏を討ち、対馬の地頭代になったのがその始まりという。また、安徳天皇より出たとする俗説などもあるが、現在では対馬に渡った惟宗氏がそのまま領主化していき、惟宗の姓を対外的な都合で一字姓の宗氏にしたものというのが定説である。阿比留氏討伐は史料的にはその確認が難しいものがあるが、建久6年(1195年)に惟宗氏が官人の名に見えることから、対馬に惟宗氏が入島したのは、かなり早い時期であったとも考えられている。
永仁6年(1298年)や元応3年(1320年)の文書(宗家御判物写)には惟宗盛国の署名があり、この両文書の間の延慶3年(1310年)の文書(八幡宮文書写本)には、阿比留氏4名、惟宗氏3名が署名し、大宮司は惟宗氏になっている。すでに鎌倉時代の後半であるが、惟宗氏=宗氏が対馬国での有力者になっていることが窺がえる。いずれにしても惟宗氏が鎌倉時代初期には本拠であった筑前宗像郡から対馬に入島し、その後島内で領主化の道を歩み、鎌倉末期には対馬の有力国人となっていたことは間違いない。一方で平氏であることや阿比留氏討伐などは、近世になって編纂された宗氏家譜が言っているものであることを考えれば、いずれも伝説的な事柄とすべきである。したがって知宗とその子重尚の存在も確認されたものではなく、その存在すら怪しいのである。
宗氏の歴史の中でその存在が確認される最初は宗助国である。助国は存在が怪しい重尚の末弟ということになっている。この助国は文永11年(1274年)に襲来した蒙古軍を迎え撃って戦死し、そのことが対馬での宗氏の地位の確立に寄与したとされる。蒙古がはじめて我が国に服従を求めてきたのは文永4年(1267年)12月のことであった。このとき服従を求める元の国書が高麗を通じて対馬の助国に渡された。助国はこれを大宰府の少弐資能に取り次ぎ、資能から鎌倉に達せられたが幕府はこれを無視した。2年後の文永6年には元の使者が再び対馬に来て、島民2名を人質にして返書を求めている。
しかし鎌倉幕府は再び黙殺し、元はその後も文永8年、文永10年と使者を向けて服従を迫った。それらも黙殺されると、元は文永11年(1274年)に我が国に来襲する。元軍は高麗軍と合せてその数4万、それが約9百艘の船に乗って対馬の佐須小茂田浜に現れた。このことは直ちに府中(厳原)の守護代宗助国に伝えられ、助国は佐須小茂田浜に急行する。このとき助国の動員能力はわずか80騎ほどだったという。蒙古軍は問答無用で助国勢に矢を放ち、助国一党はことごとく討ち死にした。助国とともにあった二男盛就も戦死したが、長男盛明は大宰府にあって宗氏の家督は守られた。この助国の行動は英雄視され、助国は江戸時代に入った元禄12年(1699年)に軍大明神として祀られ、またその死は対馬における宗氏の基礎を固めることにもなった。
助国の跡を継いだ二代盛明は対馬守護代となり、第二次蒙古襲来いわゆる弘安の役を迎える。弘安の役で盛明は対馬に来襲した高麗・元連合軍と戦っている。盛明の跡を継いだ三代盛国は先に書いたように惟宗姓で文書に署名するほどの実力を得ていた。すでの盛国の頃には対馬守護代として宗氏は島内で抜きん出た存在であったものと思われる。この盛国の代に鎌倉幕府が倒れ、南北朝の動乱期に入る。南北朝動乱は宗氏にも影響を及ぼし九州南朝方の雄菊池氏に感化されて南朝方となるものもいた。しかし一族の概ねは対馬守護少弐氏に従って北朝方に属した。
対馬の守護は少弐氏であり、少弐氏は代々大宰府にあったために対馬島内の政治は守護代の宗氏が行っていた。三代盛国は南北朝期を迎えても守護代としての地位は変らず、盛国を継いだ経茂は筑前守護代でもあった。そのために経茂は大宰府で政務を執ることが大半で、島内支配は弟の頼次(宗香)が代行したとされる。宗氏の存在感をさらに押し上げたのはこの経茂と宗香であった。経茂は少弐頼尚によく仕えて筑前に宗氏の権力を扶植することに成功した。一方対馬島内でも宗氏の絶対権力の確立に成功した。これは宗香の力も大きく寄与しており、少弐氏が九州探題の設置によって力を減殺されたことと相俟って宗氏は事実上の島主の地位に登りつめたとされる。また、宗氏による朝鮮貿易の開始も経茂の代とされ、経茂の事績は宗氏の対馬支配の上でも画期的とされている。 
対馬守護補任と少弐氏庇護
宗氏四代経茂の跡を継いだのは経茂の弟頼次(宗香)の子の澄茂であった。澄茂は筑前守護代であり、対馬の守護にもなったとも言われ、また守護代であったともいう。南北朝期に入り足利尊氏が弟直義と対立し、尊氏の庶子で直義の養子となっていた直冬が九州に追われるという、観応の擾乱が起きると筑前、対馬の守護であった少弐氏は直冬に与した。これは少弐氏が九州探題に対して強い反発心を持っていたためで、これによって少弐氏は幕府から追討される立場となり、さらに懐良親王を盟主とする南朝勢力も九州では根強く、南朝と幕府双方に敵対した少弐氏の勢力は衰退に向う。この間少弐氏は対馬守護から解任されるが、その後の守護の設置は不明で、また貞治32年(1364年)ごろには一時的に少弐冬資が守護に任じられてもいる。
これは少弐氏が与した直冬が失脚して九州を去ったために、少弐氏が北朝に帰順したためで、貞治6年(1367年)ごろには再び守護は不明となる。宗氏五代の澄茂が対馬守護であったのは、この守護不明のときのこととも思えるが、宗氏は少弐氏に与していたと考えられることから、この時は守護には任じられなかった可能性の方が高い。
九州では南北朝の戦乱が続き、菊池氏を中心とする南朝勢力は侮りがたく、幕府は応安3年(1370年)足利一門のホープであった今川貞世(了俊)を九州探題に任じた。貞世は翌応安4年に九州入りし、その後九州における武家の覇権の確立に成功し、一方で宮方は劣勢となり、菊池武光が没すると懐良親王は大宰府を出て、肥後に没落した。このときの対馬の守護も今川貞世が兼任し、守護代は澄茂が引き続き務めた。明徳3年(1392年)に南北朝が合一され、今川了俊は九州探題を解任されて京に去り、後任の探題には渋川満頼が任じられた。このときに澄茂がおそらく対馬守護に昇格したものと考えられる。以後対馬の守護は代々宗氏が相伝し、江戸期には対馬藩主として一島支配を継続する。
澄茂の跡を襲ったのはその子頼茂であったが、この頼茂の代に筑前から経茂の孫貞茂が入島した。四代経茂の死後、この系統は筑前で少弐氏に与し、頼次の系統は対馬で守護代を相伝していたと考えられる。経茂系は少弐氏との関係から九州探題と対立したが、頼次系は今川貞世の陣営に加わっていたようで、貞世から澄茂への守護交代も貞世の斡旋とも言われる。しかし貞世の失脚で経茂系は勢力を盛り返し、貞茂が対馬に入って頼茂と対立し、ついには頼茂から島主権を奪い守護になってしまう。この後両者間で一時的な対立はあったが結局は和解し、守護は経茂-貞茂の系統から守護代は頼次-頼茂の系統から出すことが慣例となった。ただし宗氏家譜では澄茂、頼茂の2人を正当な島主とは認めていない。
応永25年(1418年)に貞茂が死去し、八代貞盛が家督を継いだ。しかし貞盛は幼少であったために小船越の早田左衛門太郎が実質的な島内支配を担い、倭寇の跳梁となる。対馬は山がちであり自給自足が困難であったために、鎌倉時代に入った頃から島民は生活の為に海賊行為に走った。いわゆる倭寇であり、対馬はその最大規模の基地であった。鎌倉後期には元寇によって海賊行為どころではなかったが、元寇が終わると荒れ果てた島の生活を立て直すには再び倭寇に走るしかなかった。幼少の島主に代わって支配を担った早田左衛門太郎は海賊であったらしく、島民たちは我勝ちに倭寇に走った。
応永26年(1419年)明へ向う対馬の倭寇が途中で朝鮮を侵した。李氏朝鮮の世宗はこれを知り、同年6月李従茂を大将に1万7千人の軍勢で対馬を攻めた。このときは朝鮮軍と貞盛の間で戦闘となり、朝鮮側も狭少な平地に利なく、糠岳では激戦となって最後には兵を引いた。これを応永の外寇といい、朝鮮側では己亥の東征、対馬では糠岳合戦と呼んでいる。貞盛はこの後、成長するに従い島内支配を充実させ、朝鮮との間で毎年50艘の貿易船(歳遣船)の通交を約定している。また九州で衰退著しい少弐氏を援けて九州本土に出兵を繰り返し、永享5年(1433年)8月に大内持世が少弐氏を追いつめて少弐満貞とその子の資嗣を敗死させると、貞盛は対馬に逃げてきた満貞の子の嘉頼、教頼を庇護した。
宗氏はかつて少弐氏の被官であったが、このころには少弐氏の衰退著しく、かつての関係は逆転してしまった。貞盛はその後嘉頼、教頼とともに対馬の兵を率いて九州に出陣しては一時的に失地を回復しては敗れて逃げ帰るということを繰り返す。結局少弐嘉頼は失意のうちに嘉吉元年(1441年)に対馬で死去した。貞盛は嘉頼の跡を継いだ教頼を擁して筑前に出陣する。文安元年(1444年)に貞盛は弟盛国、盛世を九州に送り大規模な失地回復に成功するが、翌年には大内軍に反撃されて盛国、盛世は肥前春日山で戦死した。こののち貞盛も筑前での戦いに専念できなくなり、少弐教頼が貞盛の跡を継いだ貞国の画策により、八代将軍足利義政から赦されて大宰府に帰還したのは文安3年(1446年)のことであった。 
朝鮮との関係
宗貞盛が少弐教頼を援けて筑前侵攻を画していたころ、朝鮮との間で紛争が起きた。李朝の太祖が貞盛に対して、「対馬はもともと慶尚道に属する朝鮮領土であり、宗氏は朝鮮に降るか日本に帰るどちらか選択せよ。対馬にとどまるならば兵を出して討つ」と威嚇してきたのだった。これが宗氏が九州侵攻にいまひとつ専念できない理由であった。嘉吉3年(1443年)に朝鮮の威嚇に屈した貞盛は条約を結ぶ。対馬では嘉吉条約といい、朝鮮側では正統癸亥約条と呼ぶ。この条約で対馬は朝鮮の属州とされ、貞盛には宗氏都都丸の印が与えられ、貞盛の証明書(書契)を有する者のみが通商を許されることとなった。
朝鮮が貞盛に与えた印は銅製のもので、これを通交許可証に押すことで正式な通交証となり、これを図書(ずしょ)と呼んだ。貞盛は受図書人ということになり、朝鮮の代官という貌を持つことになった。朝鮮の意図は貞盛を受図書人とすることで倭寇の跳梁を抑え、統制貿易を行うにあったのだが、貞盛は特権を得たことで朝鮮貿易を独占でき、やがて特権を乱用した。公式に認められた歳遣船は50艘であったが、事情によっては特送船が認められていたために、貞盛は特例を最大限に活用し実質的には無制限の貿易が行えた。貞盛は朝鮮に屈服したがごとくであったが、実利を取ったのであった。
朝鮮との貿易に成功した貞盛は、漁船の出漁権も独占的に握って対馬の完全支配に成功した。貞盛の跡を成職が継いだが成職には嗣子がなく、その跡を肥前春日山で戦死した貞盛弟盛国の子の貞国が継いだ。貞国はそれまで島内で宗氏が本拠としていた佐賀から現在の厳原に居を移し、祖父貞盛の遺を継いで少弐教頼を援けて大内氏と戦い、教頼は八代将軍足利義政から赦されて大宰府に帰還する。応仁の乱が勃発すると、西軍についた大内氏に対抗して教頼は東軍に与した。貞国は教頼に従い大内氏と筑前で戦うが、応仁2年(1468年)12月に大内・大友連合軍に敗れて、教頼は戦死してしまう。
教頼戦死後の少弐氏の家督を継いだのはその子の政資であった。貞国は引き続き政資を支援し、文明2年(1469年)7月大内政弘が中央での戦いに注力した虚をついて、筑前にあった大内軍を攻撃して敗走させ大宰府を回復した。政資は大宰府の回復を背景にして、筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の五カ国の守護職を得ている。貞国は博多にとどまって政資を支援したが、政資が貞国の功績に対して充分に報いなかったことが原因で貞国と政資は不和となった。政資は貞国から離れ、肥前で力をつけつつあった龍造寺氏と結んで勢力の拡大を目指した。
文明9年(1477年)政資は大内政弘攻撃にあたり貞国に出兵を要請したが、貞国はこれに応じず、その結果政資は大敗した。大内政弘が九代将軍義尚を頼んで貞国に政資支援をやめさせたことが原因であった。これは貞国と政資の不和を知った政弘が幕府に働きかけて貞国を諭したためとされるが、貞国も大内に領内通行を認めて益を得た方が得策との判断があり、そのために少弐氏を離れ大内氏への接近を図ったものであろう。いずれにしても、政資と貞国との仲はすでに修復不能なほどになっていたのである。政資は大宰府を追われ、文明14年(1482年)には龍造寺氏を頼って佐嘉郡与賀荘に移っている。
少弐氏との関係を絶った宗氏は、少弐氏が永禄2年(1559年)に冬尚の死によって事実上滅亡すると、九州から撤退せざるを得なくなった。筑前進出は少弐氏を擁してこそ名分があったのであり、少弐氏亡き状態では大内氏の後を襲った毛利氏や大友氏、龍造寺氏などに対抗できる力は到底宗氏にはなかった。宗氏には朝鮮貿易で生きる道しか残されていなかったのであった。しかし朝鮮にとっては後進国である日本との貿易は望むものではなく、断交したいというのが本音であった。
永正7年(1510年)に三浦の乱が起きる。そのころ朝鮮では富山浦(釜山)、塩浦(蔚山)、乃而浦(昌原郡能川面)の三浦を日本との交易港に指定しており、そこには多くの日本人が居住していた。永正3年(1506年)に朝鮮の中宗は三浦や日本の貿易船に対する統制を強化し、これに対して三浦居住の日本人は不満を抱いていた。さらに銅の交易を朝鮮側が拒否し、朝鮮の役人が日本人を殺害するに及んで不満が爆発、三浦の日本人は暴動を起こした。この背後には宗氏十二代の当主義盛がいたとされる。暴動は朝鮮側によって鎮圧され、交易は断絶状態になった。2年後の永正9年(1512年)になって、ようやく壬申条約が結ばれて交易が再開されるが、歳遣船は25艘に半減され、三浦も閉ざされてしまった。 
朝鮮への出兵
日本が戦国時代の後期に入り、織田信長や豊臣秀吉によってようやく天下統一の道がついてきたころ、対馬で絶対的支配者となっていた宗氏は、朝鮮との貿易が唯一の頼るべき道であった。宗氏は交易の拡大を望んだが、朝鮮は基本的に鎖国を目指し、日本との交易を出来れば行いたくなかったというのが本音であった。だが朝鮮にとっても銅や銀、硫黄などは日本から輸入せざるを得ず、南方からの物資も対馬を仲介していたために、朝鮮としても完全に日本との交易を経つわけにいかなかった。このような不安定な状態の上に対馬での宗氏の基盤は成り立っていたのであった。
全国統一を果たしつつあった豊臣秀吉が、朝鮮や明への野望を明らかにしたのは天正13年(1585年)ころであったとされ、その2年後には九州征伐を終えた。秀吉の九州征伐は天正15年(1587年)のことであるが、その前年の天正14年6月に秀吉は宗氏の十六代当主義調に宛てて、高麗(朝鮮)に兵を出すことになれば忠誠を励むべしと伝えている。宗氏は九州征伐の際に秀吉に拝謁し、対馬の所領を安堵されたが、それは宗氏が秀吉の意を受けて朝鮮との交渉にあたる運命をも同時にもたらした。
天正15年(1587年)6月19日、秀吉から朝鮮との交渉を命じられた義調は家臣の柚谷康広を朝鮮との交渉にあたらせた。朝鮮王に対して日本に臣従せよと求めたのである。もちろん朝鮮が応じるわけもなく、宗義調としても成功するとは思っていなかったろう。秀吉は交渉の失敗を柚谷康広の裏切りとみなして康広を誅した。義調はこれを見て容易ならぬ事態と感じたろうし、それは朝鮮貿易に頼ってきた宗氏の苦衷の時代の始まりでもあった。義調はこの翌年の天正16年(1588年)12月に家督を義智に譲ると、その直後に57歳の生涯を閉じた。
義智は当主となると秀吉に対して、自ら朝鮮に渡り交渉することを誓い、いきり立つ秀吉にいささかの猶予を求めた。義智は天正17年(1589年)に僧玄蘇と家臣の柳川調信を伴って朝鮮に渡り交渉を開始する。秀吉は朝鮮国王が来日した臣従することを望んだが、そのような申し出には朝鮮が応ずるわけもないのはわかっていたので、秀吉の全国統一祝賀の通信使の派遣要請に摩り替えた。しかし通信使の派遣すら朝鮮に応ずる気はなく、義智は途方にくれながらも粘り強く交渉にあたった。やがて朝鮮側も妥協して、沙火洞と名乗って倭寇と行動する朝鮮の犯罪人の引渡しを条件に通信使派遣を了承した。
このことを義智は秀吉に伝え、秀吉は倭寇の首領を捕縛し、捕虜となっていた朝鮮人160人の送還した。天正18年(1590年)11月に朝鮮使節の黄充吉と金誠一が来日し、聚楽第で秀吉が引見した。朝鮮側は単なる秀吉への使者の派遣でしかないと考えていたが、秀吉は朝鮮王が日本に服従したと勘違いしていた。秀吉は朝鮮王に書簡を送り、朝鮮は日本に服属したので憂いはない。自分はこれから大明国四百余州に日本の風俗や政治を植えつけようと考えているから、その先導をせよと書いた。当然交渉など纏まるわけもなく、天正19年(1591年)に秀吉の補佐役で穏健派の秀長(秀吉弟)が病没すると、もう秀吉を諌めるものもなかった。
朝鮮との交渉は強圧的となり、義智も朝鮮に対して秀吉の意を伝えて、人質を差し出すように求めた。もちろん朝鮮の拒否にあたったが、すると義智は自ら釜山に出向き朝鮮との交渉にあたる。この時義智は目的は明国であり、朝鮮には明征服のために道を貸してほしい(仮道入明)と詭弁を使うが、これもあっさりと拒否される。ここに至り義智も腹を固めて秀吉に朝鮮の地図を渡し、会戦やむなしとの考えを示す。日本勢は文禄元年(1592年)3月に出陣し、一番隊1万8千7百名は4月12日に釜山に上陸する。宗氏の兵は5千人を数え、地理的な条件やこれまでの経緯から一番隊に属していた。一番隊は宗氏のほかに、肥後宇土の大名小西行長7千名のほか松浦、有馬、大村など肥前の大名が中心であった。行長は釜山に入ると圧倒的な兵力を背景に、最後の交渉をするが決裂し、一斉射撃を開始しここに文禄慶長の役が開始された。
一番隊は4月14日に慶尚道東來城攻め落とし、機張、左水営を無血開城、要害鵲院関も攻略し、密陽、清道、大邱を突破して進撃する。4月24日に尚州入城、27日には忠州を落とし都の漢城に迫った。このころには加藤清正、鍋島直茂らの二番隊や黒田長政、大友吉統らの三番隊も破竹の進撃を続け、5月初旬に相次いで首都漢城に入城した。義智は行長とともに講和論者であり、進撃をする傍らで常に講和の機会を窺がっていた。しかし朝鮮軍の戦意は喪失して戦わずに逃げ、講和の機会は得られなかった。6月に入って大同江上で朝鮮側の李徳馨と講和交渉の機会が巡ってきたが交渉は失敗し、義智は平壌に無血入城した。
このころから朝鮮側の抵抗が激しくなり、一方で日本軍の内部では不協和音が目立ち始めた。ここまで日本軍が破竹の進撃を続けてこれたのは、奇襲効果と100年の余り戦闘ばかりしてきた日本軍の戦なれ、それに朝鮮王朝の腐敗と民衆への略奪から来る朝鮮住民の反政府感情が相俟ったものであった。それが、ここに来て風向きが変わったのだ。朝鮮側は李舜臣の活躍による海戦の勝利、明軍の参戦、民衆ゲリラの蜂起で日本軍に対抗する。日本軍では講和論者の小西行長と武力征服論者の加藤清正の対立が激しくなった。結局、戦闘で押され気味の中で行長の清正排除工作が成功し、清正は秀吉から帰国を命じられ、以後は行長を中心に明との講和交渉が行われた。
なんとか講和交渉が纏まり、日本軍は撤退、明使が来日する。だがこの講和はいい加減なものであり、来日した明使は冊封使、つまり秀吉を日本国王に任命する明皇帝の使いであった。秀吉の方は明・朝鮮が日本の条件を全て受け入れた上で講和にやって来たと思っている。こんなことで纏まるわけもなく、講和交渉は決裂し、再び朝鮮出兵となった。これが慶長の役であり、義智も再度朝鮮に渡る。慶長の役は先の文禄の役に比べれば戦闘は朝鮮南部に限られ、日本軍の苦戦が目立った。前線はともかく日本国内には厭戦気分が漲り、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると直ちに朝鮮からの撤兵が決定され、7年に渡る朝鮮との戦いは終わりを告げた。 
関ヶ原と朝鮮との修交
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去し朝鮮からの撤兵が行われて朝鮮との戦役が幕を閉じても、宗氏にとっては平和な時代に戻ったわけではなかった。対馬では16歳から53歳までの全ての男子のが根こそぎ動員され、それがために耕地は荒れ果て、そのうえに兵站基地になったために度重なる挑発で人心は荒んだ。対馬の人口は極端に減少し、これが復興への大きな障害となった。一方で、対馬の経営には朝鮮との交易は欠かせなかったが、朝鮮との国交は断絶状態にあり、その修交は最優先課題であった。義智は慶長4年(1599年)には梯七太夫を朝鮮に派して宥和を図ったが、七太夫は殺されて講和は失敗に終わる。慶長5年(1600年)になると捕虜を送還したりもしたが、修交は実らなかった。
一方、文禄慶長の役の不満から諸大名間に対立が起きた。それはやがて吏僚派と呼ばれる石田三成らと武功派といわれる加藤清正らの派閥対立に発展する。これに天下人を狙う徳川家康の巧妙な策略が加わって、いつしか石田三成一派対徳川家康一派の対立となる。片や朝鮮との修交問題を抱え、片や国内での対立を見据えなければならない義智は、行長との関係もあって石田三成に与した。やがて慶長5年(1600年)に入り、家康は会津の上杉景勝謀反を言い立てて会津に出兵し、それを見た三成は毛利輝元を総大将に担ぎ上げ、大坂城で反家康の旗を挙げる。
同年7月に義智は大坂城に入り、西軍の将としての旗幟を鮮明にして、家康の上方での拠点伏見城攻略にあたる。その後、三成挙兵を聞いて会津征伐軍を反転させた家康は、輝元・三成の西軍と関ヶ原で決戦して家康が勝利する。この関ヶ原役には宗氏の兵は直接参加はしなかった。もともと遠国の故西軍も東軍も宗氏には出兵を期待してなかったし、先の朝鮮出兵で宗氏の動員力もほとんどなかった。だが義智の家臣柳川調信の子の景直が三成軍にいたために、戦後「義智は景直を使って三成を助け、鉛丸や火薬を大坂城に搬入した」と黒田長政に訴えられた。柳川調信は陳弁に勤め、その結果景直の件は不問に付され、義智は咎められず対馬は安堵された。これは、家康が宗氏に引き続き朝鮮との交渉を行わせるための処置であったのは明らかだ。
対馬の近世大名の地位を約束された義智は引き続き朝鮮との交渉にあたるが、朝鮮側の態度は暫くは頑なであった。だが、やがて朝鮮に駐留する明軍の横暴が激しくなるに連れ、朝鮮でも日本と早く修交して明軍撤兵を望む声が高くなってきた。慶長8年(1603年)に朝鮮から全継信、孫文惑が対馬に来て修交交渉が本格化した。朝鮮側は修交の条件として、日本から朝鮮へ国書を出すことと、文禄慶長の役で王陵を荒らした犯人の引渡しを挙げた。最初の条件である国書の提出は、当時の外交上の慣習では日本が降伏の意思表示をするという意味でった。幕府としても簡単に受け入れられる条件ではない。
朝鮮との一日も早い修交を望む義智は、幕府に相談もなく勝手に国書を偽造してしまう。さらに対馬にいた罪人を王陵破壊の犯人として朝鮮に引き渡した。朝鮮ではこれらの偽装工作を全て把握していたが、慶長11年(1606年)に回答使を派遣することを決め、翌慶長12年正月に呂祐吉を正使とする使節団が対馬経由で江戸に入った。このとき正使が持参した朝鮮国王の文書は、先の偽造文書への返書であり、そのまま幕府に提出というわけにはいかず、義智は今度は朝鮮国王の文書を改作した。
しかし、これをきっかけに交渉が進み、慶長14年(1609年)5月に慶長条約が結ばれ、ようやく朝鮮との修交がなった。条約の内容は第一として日本からの使者は国王使、対馬の島主使、対馬の受職人(朝鮮の官職を授けられたもの)のみとする。第二に対馬から歳遣船は20艘とする。第三に受職人は朝鮮との戦役中に朝鮮に協力するか戦後捕虜の送還など朝鮮に功績があったものに限るというのが基本条項であった。日本人の居住は釜山のみに許され、日本人の応接も釜山で行われ、漢城への道は閉ざされた。慶長16年(1611年)に戦後初の歳遣船が対馬を出て、通交が再開された。 
江戸期の宗氏
慶長19年(1614年)に家康は定期的な朝鮮通信使の来日を求めた。家康は義智の国書偽造や改作などまったく知る由もなく、朝鮮との関係も円満であると信じていたようだ。義智にしてみれば、苦しみながらもようやく朝鮮との修交にこぎつけたところで、通信使の定期的な派遣などまだまだの段階であった。第一、朝鮮は明によって属国化されていて、明が侵略者と断じている日本に使者など出すわけもなかった。ところが元和元年(1615年)に豊臣氏が大阪夏の陣で滅ぶと、朝鮮と明は侵略者豊臣氏を滅亡させた徳川幕府に好感を抱く。
これにより明も軟化して元和3年(1617年)に、朝鮮から回答使として呉允謙一行4百余名が派遣されてきた。このとき既に義智は亡く、その後の義成の代になっていた。日本と朝鮮の間にたって長年翻弄された義智は、元和元年(1615年)正月3日に、豊臣氏の滅亡を知ることなく没していたのだった。対馬経由で来日した呉允謙一行は伏見城で二代将軍秀忠と会見したが、このときにまた国書が問題となった。朝鮮側は国書の署名を「日本国王」とするよう求めてきたが、秀忠は「日本国源秀忠」と書いた。このために対馬で再び国書の改作が行われ、王の字を付け加える工作がされた。
さらに寛永元年(1624年)に家光の将軍就任を賀する回答使が来日した際にも、またまた国書の改作が行われる。このときは「日本国主」となっていた署名の点を削って「日本国王」と偽造された。積み重ねられた国書の偽造は、やがて幕府に発覚することとなった。宗氏の家老の地位にあった柳川調興が宗義成に不正ありと幕府に訴えたのだ。柳川氏はもともと商人であったが、先々代調信が宗義調に見出されて家臣となり、主に朝鮮との外交で活躍した。調信の子が関ヶ原役の際に疑惑の対象となった景直で、景直もまた外交面で活躍した。
景直の子が調興であったが、調興は義成と不和となり、さらに調興の所領の件で義成と衝突して幕府へ義成を訴えたのだった。将軍家光は寛永12年(1635年)に江戸城で老中列座のもと義成と調興を対決させた。義成は国書改ざんを隠し切れずにそれを認めた。しかし朝鮮との外交は柳川氏の所管であり、また義成は家督相続時12歳と幼年であったために、国書改ざんへの関与は否定されて義成へは咎めなく、調興は津軽へ流罪となった。この事件を柳川一件というが、すでに対馬での国書の偽造は幕府の知るところとなっていて、柳川調興が全ての罪を被ることで、宗氏の大名の地位を護ったものとされる。
柳川一件以降は国書への署名は「日本国大君」とされ。これが幕末期に諸外国が将軍を指す言葉として使った「タイクーン」の語源となる。寛永元年(1624年)に家光の将軍就任祝賀の回答使が来日し、その後は寛永13年(1636年)に泰平祝賀、寛永20年(1643年)と来日があった。以後はすべて将軍が代替わりした際の奉賀の使で、家康が望んだ定期的な通信使は寛永13年の泰平祝賀以降のことを指すとされる。通信使一行は正使以下4百人台で、釜山から対馬に渡り、宗氏の案内兼護衛で壱岐を経て瀬戸内海に入り、大坂から淀川を遡って京に入り、中山道から美濃路、東海道を上って江戸に達するというのが道筋であった。宗氏は江戸まで通信使と行動を共にし、この江戸入りを参勤に変える特例であった。
この朝鮮通信使接待の為の出費で、対馬藩の財政は苦しかった。享保5年(1720年)に藩主義誠は倹約令を出しているが、このころから朝鮮との交易の旨味も次第に失われていった。対馬藩は10万石格の国主大名であったが、対馬一国の実高は2万石程度であった。対馬は山がちで耕地に乏しく新田開発は不可能であった。肥前田代に1万2千8百石の飛地を持っていたが、財政の窮乏は著しく、文政元年(1817年)に幕府は肥前、筑前、下野に合せて2万石の飛地を加増した。これらによって対馬藩はよいやく領民を養い、通信使の接待を行うことができたのである。
宗氏にとって朝鮮交易は最大の特権であったが、先に書いたようにやがてその旨味は薄れていった。最大の理由は朝鮮から得るものが少なくなっていったことである。日本から見てかつては先進国であった朝鮮も鎖国体制であったために進歩がなく、やがて日本が追いついてくると朝鮮は取り得のない国に成り下がってしまう。例えば高価な輸入品であった朝鮮人参も国内で栽培され、なにも朝鮮から輸入する必要はなくなってしまった。さらに通信使接待の莫大な負担もあって、対馬藩の財政は窮乏し、宗氏の衰弱に繋がる。幕府は朝鮮貿易を国事とし、また海防強化の一環から宗氏を河内30万石に転封し対馬の直轄化を図ろうとしたが、対馬藩は頑強に抵抗する姿勢を示し沙汰闇になった。幕末期には長崎から西洋文明が奔流の如く流れ込み、朝鮮文明は時代遅れとなり、対馬と宗氏の特権的な地位はないに等しい状態で明治維新を迎えることになった。 
 
薩摩島津氏の琉球侵攻 [1609年]

 

1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄本島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。
主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日本:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年)
徳川政権の事情
秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピールすると、対馬宗氏と薩摩島津氏を通じて明・朝鮮との講和交渉に取り組んだ。何より1547年以来の対明公貿易の復活は悲願であった。ただし、秀吉時代から引き続き軍事力を背景とした威圧的・恫喝的な外交姿勢は崩さず、捕虜引き渡しなど融和的な態度に出るというものだ。
一方、明・朝鮮側も秀吉から徳川に政権が変わったとはいえ警戒心は緩ませていない。朝鮮とは対馬宗氏の尽力と秘密裏の国書偽造工作、明国軍撤退後の朝鮮国内の和平機運などもあって1607年、通交が回復するが、問題は対明交渉である。相変わらず捕虜引き渡しの代わりに公貿易の復活を求め、受けなければ朝鮮や福建・浙江に対し出兵、開戦も辞さずとする恫喝に明が屈するはずもなく交渉は難航する。そこで、家康は琉球王国に仲介をしてもらおうと考えた。
琉球漂着民事件
1602年、陸奥伊達領に漂着した琉球船の漂着民39名を家康は非常に丁寧に送還させる。琉球から送還を謝する返礼を期待してのことで、その返礼の使者との交渉を通じて琉球を対明講和交渉の糸口としたい意図だったが、琉球は警戒して返礼を送らない。それも当然で、さかのぼって1589年、秀吉の恫喝に屈して使節を送り、一方的に服属国とみなされて朝鮮への出兵命令や軍役・兵糧の徴発など次々無理難題を押し付けられた経験がある。今回も安易に返礼を送るとどうなるかわかったものではない。また、明との関係改善のためにも日本への接近は忌避された。
1604年にも琉球船が平戸に漂着、この漂着物を巡って島津氏主導の琉球への引き渡しの慣例を超えて徳川政権が直接琉球への引き渡しを行おうとし、この過程で琉球漂着民が勝手に無断帰国、これらの行き違いが島津氏をひどく追い詰めることになる。結局幾度か繰り返された漂着民の引き渡しでも、琉球の警戒感を解くことは出来ず、琉球との聘礼問題は暗礁に乗り上げたかに見えた。
島津氏の事情
九州制覇を目前にして秀吉に屈した島津氏に残されたのは薩摩大隅の二国と日向の一部だけだった。しかも太閤検地によって当初の倍以上の石高が計上、すなわち負担の増加を招き、島津家も家臣団も領地の総入れ替えが行われ、当主義久は薩摩鹿児島から大隅富隈へ、義弘が大隅帖佐から薩摩鹿児島へと領地替えとなったが義弘は家中の反発を懸念してこれを辞退して帖佐に留まり、次期当主とされた息子の忠恒が薩摩鹿児島に入ることとなった。また、親秀吉派の家老伊集院忠棟も日向都城に八万石が与えられ、さらに豊臣政権直轄地も定められるなど島津家は分割統治状態になった。特に義久(富隈)、義弘(帖佐)、忠恒(鹿児島)の三勢力は島津家の政策を巡って事あるごとに対立するようになる。
島津氏の分裂
島津家の統治構造の弱体化と分裂は朝鮮出兵によってよりあきらかなものとなる。家中に蔓延する強い反秀吉感情は家臣団のサボタージュとなり、一方で常にさらされる改易の恐怖の前に、面従腹背の綱渡りの対応を余儀なくされた。朝鮮出兵に際しても当初予定の半分以下の兵しか集められず、島津氏は石田三成に対し深く陳謝している。親秀吉派の義弘・忠棟、独立派の義久、反秀吉派の忠恒という対立の構図があり、この構図の中で朝鮮出兵時に三勢力が軍功を競い合った結果としての島津軍の苛烈な活躍がある。
中でも対琉球外交を担った義久の苦労たるや、ひたすら高圧的な恫喝外交に徹する秀吉の意図をいかに琉球に伝えて最大限の効果をもたらせるか、成果を出せなければ秀吉によって改易される危機と常に隣り合わせだっただけに、かなり大変なものであった。その過程で、絶妙な飴と鞭とを使い分けながら、琉球使節の来日、琉球からの軍役提供などを引き出していった。
亀井茲矩の琉球侵攻計画
1592年、かねてから琉球守を自称していた大名亀井茲矩が約三五〇〇名の兵で肥前名護屋城に到着、秀吉の許可を得て大型船で琉球に侵攻する動きを見せていた。島津氏としては、この動きをなんとしても阻止したい。薩摩と琉球での軍役負担を条件として亀井氏の琉球侵攻中止の命を秀吉から引き出し、これを琉球にも通達、難航していた琉球使節派遣にこぎつけた。この時、単なる使節派遣を琉球が従属したと勘違いした秀吉は琉球を薩摩の「与力」とする命を下している。以降、琉球との書簡で島津氏は亀井氏琉球侵攻阻止の一件を事あるごとに持ちだして交渉を優位に進めようと試みるようになる。
親徳川へのシフト
豊臣秀吉死後の1599年、島津忠恒が伊集院忠棟を斬殺、その子忠真の叛乱(庄内の乱)を鎮圧し、1600年の関ヶ原の戦いで敗走してきた島津義弘は引退を余儀なくされるなど島津家中の親豊臣派が後退、義久・忠恒があらためて主導権を握ることになった。特に関が原後の戦後処理として、親徳川路線へのシフトは非常に重要で、その最有力課題としての対琉球外交ということになる。
1602年の伊達領琉球船漂流民送還においても、義久は翌1603年、琉球に対して直ちに聘礼使節を派遣して家康の恩恵に感謝の意を表すよう催促をし、それでも琉球が使節を送らないため、翌年、業を煮やして琉球は薩摩の附庸国であるとする新説を唱えている。これは1441年、足利義教から島津忠国が琉球を賜ったとする説だが、琉球王国にはなんら関係ない話であり、さらにいうとその忠国の子の代に島津氏は分裂、義久の父貴久の代になるまで義久の島津相州家と琉球との交渉は途絶えるので、独りよがりの理屈であるし、むしろ苦し紛れに附庸国だから聘礼使節を寄越せなどと言い出したものだから、琉球の警戒心をより強めることになった。
平戸漂着事件
しかし、1604年の平戸漂着事件は問題が深かった。このとき幕府は平戸の松浦氏に対し長崎奉行を通じて送還させようと命じるなど、島津氏を介さず、琉球との直接交渉に乗り出そうとした。結局松浦氏と島津氏との「旧約」があって島津氏の元に漂流物が届けられるが、琉球漂流民は独断で帰国する。当時、領海権である漂着民・漂流物の取り扱いは個別に各大名に属していたが、豊臣政権以降これを中央政府に集中させようとする動きが起き始めていた。そのような分散していた領海権行使の独占の動きと、難航する琉球外交打開の動きが幕府の介入を招いた事件で、対琉球権益を喪失しかねない事態に島津氏は非常に危機感を持つことになった。
島津氏の隠知行と財政危機
脅かされる琉球権益とともに、島津氏の懸案となっていたのが慢性的な財政危機と弱体化した統治能力である。朝鮮出兵での島津軍の活躍は恩賞となる知行の不足をもたらし、相次ぐ叛乱と粛清、分裂した三派閥の深刻な対立が島津家の求心力を著しく衰えさせていた。そこに追い打ちをかけるように、1605年、年貢の徴収が困難な、荒廃し、かつ統制下にない領地「隠知行」の存在が発覚する。その数、全領地の二〇%にのぼる十一万八〇〇〇石。さらに江戸城普請のための運搬船三〇〇隻建造が命じられ、財政的に非常に追いつめられる。可及的速やかにこれらの諸問題を解決しうる抜本的な解決策を見出さなければ、島津家の存続自体危うい。
このような中、島津家中で浮上したのが奄美大島出兵計画である。唱えたのは武断派の当主島津忠恒であった。琉球王国領土の奄美大島を編入し略奪することで当面の財政危機を乗り切ろうとするものだが島津家中でも反対が大きかった。義久も「此の鬱憤止み難く、忠恒若年に任せ短慮の企て有るといえども、愚老往古の約盟に親しみ、種々助言を加え、敢えてこれを推し留む」と、侵攻計画の浮上とそれ短慮として止めたことを琉球に宛てた書状に恫喝的な意図ながら書いている。しかし、この「短慮の企て」が現実的な計画となっていくのに、それほど時間はかからなかった。
琉球王国の事情
中継貿易の独占で栄えた琉球王国も、倭寇の跳梁、西欧諸国のアジア進出、明国海禁政策の緩和、東南アジア諸国の台頭による多極化などで1560年代に入ると衰退の一途をたどり、当初琉球優位だった日琉貿易は、島津氏の台頭と対琉球貿易の独占によって次第に琉球が従属的立場に立たされるようになる。それでも島津氏ははるかにマシだったと思い知らされることになるのが、豊臣秀吉の登場だった。1588年、武力征服を明言しての服属要求が周辺諸国に発せられ、琉球も衝撃をもって受け取った。
尚寧王の脆弱な権力基盤
同年、秀吉の恫喝が届くのに続いて尚永王が死去。尚永王には後継者がおらず、代々琉球王を輩出していた首里尚家にかわりもう一つの王統浦添尚家から尚寧が琉球王に迎えられることになった。浦添尚家は遡れば1507年、廃嫡された王子尚維衝から始まる一族で王統とは名ばかりの傍流、これまでもずっと王家は首里尚家が受け継いできていた。ゆえに、尚寧は王に迎えられたとはいえ非常に脆弱な権力基盤しかもたなかったのである。
琉球王は明国の冊封を受けて初めて王として正当性を確保することができる。ひときわ脆弱な権力基盤の尚寧王としては一刻も早い冊封を受ける必要があったが、豊臣秀吉の登場から国際戦争へと怒涛の勢いで移り変わる東アジア情勢の変化によって明も琉球もそれどころではなくなってしまう。
また、冊封使節を迎え即位式典を挙行するだけでも莫大な費用がかかるから、貿易の衰退による琉球財政の悪化も冊封を受ける上での懸案であった。特に、この頃、琉球は対日貿易への依存が強まっており、その圧力が秀吉の恫喝への服従を余儀なくさせたが、一方で、琉球の秀吉への服従姿勢は明国にとっては不信感を募らせる要因になり、冊封使節の派遣を先送りさせることになる。日本と明、あちらを立てればこちらが立たず、文禄・慶長の役の間、琉球は苦しい外交を強いられていた。
対日強硬論の浮上
だから、秀吉の死と日本軍の朝鮮からの撤退は、琉球王国にとっては脱日本依存の大きなチャンスだったのである。長く先延ばしになっている冊封を受けて尚寧王の権力基盤を整え、明への接近を図ることで日本依存から独立外交路線に立ち戻ろう、特に貿易体制の再生が急務だ、という訳で、琉球国内でも謝名親方を代表とする対日強硬派が主導権を握り始める。
冊封問題
秀吉死後の1599年、琉球はあらためて明に冊封使節の派遣を要請、これに対して琉球への不信感が強まっていた明朝廷では従来の文官派遣ではなく武官派遣による冊封と琉球の大臣連名による推挙状の提出を求めてくる。慣行と違う武官派遣に対して、琉球は異を唱え、懇願と交渉と経て1601年、従来通りの文官派遣による冊封が決定、実際に冊封使の派遣は1606年のことになる。
このような背景で未だ明と講和ならない日本にどのような形であれ接近することは自殺行為でしかない。冊封が中止になれば王権はいよいよ正当性を失い、ただでさえ家臣の統率力が弱まっているなかで統治能力を喪失しかねない。その、琉球王権の統治能力の低下を浮き彫りにしていたのが、1590年代から1600年代にかけての相次ぐ琉球籍の漂着・遭難船の増加だったのである。
琉球船の漂流・漂着増加の背景
琉球王国の外交・航海実務は渡来中国人の職能集団「閩人(久米)三十六姓」が担っていたが、琉球交易の衰退とともに彼ら「閩人三十六姓」も衰退、十六世紀後半、外交・航海関連の実務能力の大幅な低下がみられるようになった。指導層の衰退は熟練航海スタッフの減少を招き、明が琉球優遇政策をとりやめたこともあって、明から船舶の提供も受けられなくなり、長距離の外洋航海に耐えうる船がほとんど残っていないという状況にまでなっていた。従来、琉球の交易は政府主導だったが、民間人材の登用を行うことでこれをカバーしようとするも、抜本的な改革・再編成にはいたらない。
自ずと遭難・漂着事故が増加することになり、それを口実としての徳川政権・島津氏の対応が武力と強権を背景とした聘礼使節の要求ということになる。当然、琉球政府としてはどのような形であれ日本に譲歩・接近することは慎重にならざるをえないから丁重に無視をする、という堂々巡りが繰り返されることになる。
琉球の新朝貢貿易体制構想
このような状況の抜本的改革として冊封を受けた1606年以後、琉球が乗り出したのが貿易体制の再編成であった。明に対し「閩人三十六姓」の再下賜と、文引制の適用を申請する。文引制は1567年の海禁緩和とともに始められた漳州から出港する民間商船に対する海外貿易許可制度で、台湾、フィリピン、シャム、インドネシアへの渡航のみ認められていた。これに琉球を入れて欲しいというものだ。これが受け入れられれば、琉球を中継しての日明貿易も可能となるわけで、琉球の貿易体制再編による立て直しが可能になるとともに徳川政権の日明貿易の希望も満たされることになり、ひいては戦争の危機を回避することになる。しかし、明はこれに難色を示した。琉球への民間商船の渡航を認めても、未だ講和ならぬ日本との密貿易が増大するだけではないか。日本を利するだけで明にとっては将来の禍根となるのではないか。
かくして、日本、島津、琉球、それぞれの外交は袋小路に陥ることになった。
侵攻前夜
島津忠恒が家康から琉球出兵の許可を得たのは、諸説あるが、慶長十一(1606)年六月一七日、家康から諱を受けて家久と改名したときだったという。家康の目的はあくまで琉球から聘礼使節を送らせて日明講和の仲介をさせる、そのための軍事力の行使の容認だったのに対し、島津氏にとっては家康の命を成功させることでの島津家の存続とともに、琉球権益の確保と領土の併合による財政危機の回避という目的が複雑に絡むことになった。この頃から奄美大島出兵ではなく琉球出兵へと島津家内での方針が変わっていった。
琉球・日本・明の冊封外交
1606年六月、島津忠恒あらため家久が家康から琉球出兵の許可を得たのと時を同じくして、琉球には念願の冊封使が訪れていた。これを好機として島津氏も琉球国王尚寧と冊封使夏子陽にそれぞれ宛てた文書を作成、文禄・慶長の役戦後の日朝間の捕虜交換交渉で活躍した鳥原宗安を使節として派遣している。尚寧に対しては聘礼使節の来日を出兵を匂わせつつ求めるとともに琉球が日明貿易の中継地となることを提案、夏子陽に対しては明商船の毎年の来日の要請という主旨で鳥原・夏会談も設けられたが、交渉は不調に終わったという。
夏子陽は琉球の高官たちが日本の侵攻の可能性を軽く考えていたことを戒めて、日本側に侵攻の野心があると考え、琉球側に防備の強化を命じるとともに、同行していた鉄匠に兵器製造を命じ、さらに冊封船に搭載していた武器の供与も行うなどかなり具体的な協力を行おうとしていた。
琉球出兵を巡る徳川・島津の思惑
1607年六月一八日、日朝国交が回復し、朝鮮通信使が江戸城を来訪すると、いよいよ懸案は琉球聘礼使節問題と日明講和に移る。家康にとっては日明講和が最優先であったので、琉球出兵を急ぐ島津家久に対しあらためて聘礼使節の来日要求を前提とするよう念を押している(慶長十三(1608)年八月一九日書状)。さらに、同年一一月二三日には、本多正純が家久に対して日明講和が実現したという虚偽の文面で出兵中止を求めており、徳川政権としてはぎりぎりまで島津の出兵を止めようとしていたようだ。家康にとって琉球出兵はかなりの賭けに映っていたのだろう。
琉球侵攻へ
一方琉球では、1608年九月、島津側使節が朝鮮出兵時の軍役の不履行分の履行と奄美割譲を迫り、琉球側代表はこれを拒否、代わりに米の献上でお茶を濁しつつ、聘礼使節の派遣をさらに回避しようとしていた。すでに冊封問題も解消されていることから、使節の派遣も現実的な選択肢であったはずだったが、これまでに対日強硬派が琉球政府の枢要を占めるようになり、外交が硬直化しはじめていた。とはいえ、繰り返される恫喝外交への譲歩というのは確かに困難極まるものだし、これをもって琉球を責めるのは酷である。
1609年二月一日、島津義弘から琉球尚寧王に宛てて最後通牒の文書が送られる。聘礼使節問題の他、亀井茲矩の件や朝鮮出兵時の軍役の件など半ば言いがかりともいえる問題を琉球の非として列挙しつつ、日明貿易・講和の仲介をすぐに行うならば出兵を回避するとの文書で、そう言われてもすでに明との文引制適用申請に失敗している琉球にとっては打つ手が無い。
あらためて徳川家康から琉球出兵の許可を取り付けたうえで、島津軍は出兵準備を整え、1609年三月二日、総勢三千の島津軍が薩摩山川港から出港した。
琉球侵攻の展開
島津軍の構成
総大将:樺山久高
副将:平田増宗
後陣:肝付兼篤
以下、鹿児島方(家久派)、加治木方(義弘派)、国分方(義久派)の三大派閥に属する武将が中核となり、一所衆(一門・外様の独立領主)、トカラ七島衆の混成集団となっている。
また、鉄炮七三四挺、弾丸・火薬三万七二〇〇放(一挺につき三〇〇放)、弓一一七張、ほか食糧現地調達用に鍬や斧なども準備された。火力重視の構成であった。
特に、総大将樺山久高は家久派であったのに対し、副将平田増宗は義久派で、義久派は琉球出兵に否定的だった。また、兵の一部は樺山の命に従うことを良しとせず平田に従った。平田増宗は戦後すぐ島津義弘によって謀反の疑いで殺害、増宗の子は家久によって殺害されている。要するに、統一された軍団ではなく、派閥相互に確執があったということで、その派閥毎の争いが軍功競争として島津軍の行動をより苛烈にすることになった。そして、統率が取れず軍律がほぼ守られなかったというのが、琉球出兵時の島津軍の特徴である。
琉球王国の軍備
琉球王国は代々王府中央の直轄軍「ヒキ」と、各地方の間切軍から構成されており、島津軍の侵攻時、記録に残る限りで那覇に三〇〇〇、徳之島に一〇〇〇の守備軍が展開し、他にも各島に少数の守備隊が分散していた。中央集権的な体制で統制が取れていたが、文字通りの死闘を繰り返してきた島津軍と比べると実戦経験は比較にならないほど少ないし、記録に残る限り弓:500に対し鉄炮200と武装も弓矢が中心であった。
最新鋭の武装で個々の武勇は優れているが、統制が取れず互いにいがみ合っている軍が分散して侵攻してくる、というと創作の世界だと天才軍師が颯爽と現れてちょちょいのちょい、という展開の超強力フラグなのだが、残念ながら現実は非情である。
奄美大島上陸
三月七日、奄美大島に上陸した島津軍は樺山久高(総大将、家久派)隊、肝付兼篤(一所衆)・伊集院久元(義久派)隊、平田増宗(副将、義久派)隊の三部隊に分けて進撃したが、すでに守備隊の大半は撤退した後で、十二日までに奄美大島北部を制圧、大和浜では百姓三〇〇〇が防御柵を設けて守備陣を敷いていたがこれを撃破して三月十六日までに奄美大島を完全に占領した。
徳之島攻防戦
三月十七日、奄美大島を支配下においた島津軍は各隊分散して各々船に乗り込み徳之島に向かった。三月十八日、肝付隊は徳之島の金間崎と湾屋に上陸、金間崎では戦闘がなかったが湾屋には琉球軍一〇〇〇が展開して、激しい戦闘となった。湾屋の島津軍は約二〜三〇〇だったが大量の鉄炮で圧倒し、ほどなくして琉球軍は敗走、これを容赦なく追撃して多くの首級を挙げた。
三月二〇日、徳之島秋徳で先行した島津軍船が琉球軍の攻撃を受けるもこれを撃退、しかし、これは前哨戦でこのあと秋徳では徳之島最大の激戦が繰り広げられる。秋徳に上陸した島津軍を待ち受けていたのが琉球の猛将掟兄弟こと左武良兼・思呉良兼兄弟で彼ら率いる刀や槍で武装した守備隊が左武良兼の号令一下島津軍に突撃を敢行、北郷久武率いる庄内衆や七島衆の多くに死者が出るなど、一時島津軍が押された。しかし、左武良兼が鉄炮で胸を撃ち抜かれ、続いて弟思呉良兼も海岸で討たれ、彼らの下で奮戦していた七〇歳の老将篠川勘津も島津兵三人を討ち取りつつ戦死。指揮官を失った琉球軍は総崩れとなり、島津軍の圧勝となった。このとき、島津軍による百姓の撫で斬りが行われており、この戦いで琉球側は二〇〇〜三〇〇の死者を出した。
三月二十二日、徳之島の行政府亀津が陥落し、逃亡した王府役人捜索のため大規模な山狩りが行われ、徳之島防衛の総指揮官が捕らえられている。彼は三司官(琉球の宰相)謝名親方(鄭迵)の娘婿だったという。徳之島攻略後、三月二十七日までに沖永良部島までの奄美諸島はすべて島津軍の手に落ちている。
沖縄島の戦い
三月二十七日、沖縄島今帰仁沖に登場した島津軍に対し、琉球から講和使節として三司官の一人名護親方と那覇行政の長である江洲親雲上、禅僧菊隠宗意らが送られるが、樺山はこれを拒否、名護親方が人質として捕らえられた。当初の島津軍目的から考えれば、十分に目的が達成されたも同然だったから、講和交渉に入ってもいいタイミングだったが、首里、那覇を攻略して講和をより有利に進める意図であった。また、派閥競争を背景としてより多くの軍功が必要であったという事情もある。
今帰仁グスクの琉球軍が退却したとの報を受けて樺山・伊集院久元隊が向かい、島津軍はその道中の村々を放火、今帰仁グスクもこの時炎上し、さらに乱取り(略奪)が行われた。また、今帰仁グスクの守将今帰仁按司朝容は三月二十八日に死亡しており、戦死か自害したものと考えられている。
三月二十九日、那覇港の閉鎖を確認した樺山は軍を二手にわけ一方を海路で那覇港へ、本隊は沖縄中部大湾からの上陸作戦を敢行、陸路で首里城へ向かわせた。
四月一日、尚寧王は謝名親方と豊見城親方盛続を司令官に約三〇〇〇の兵で那覇防衛を命じ、那覇港北岸に展開させるとともに、首里城には浦添親方の軍が入った。那覇港には両岸に砲台が築かれて両砲台間に鉄鎖を張って防衛線が敷かれた。午後二時、海路をとった島津艦隊が那覇港に突入するが、両砲台からの集中砲火で全艦撃沈している。「急処に愴忙し、船は各自連携り角いて礁に衝る。沈斃し及び殺さるるもの、勝げて紀す可からず(あわてふためいて狭い場所(港の出口)に殺到し、各船はぶつかってサンゴ礁に衝突した。溺死したり殺されたりしたものは数えきれなかった)」と「歴代宝案」は伝える。
一方、陸路の島津軍本隊は次々と村々を焼き払い、百姓十二、三人を斬殺したという記録も残っているなど、周辺を次々破壊しながら進撃、尚寧王の出身地である浦添グスクを焼き払い、さらに「堂営寺等荒らすまじきこと」という島津軍の軍律に反して、浦添の寺院龍福寺を焼失させた。
四月一日、首里城まで迫った島津本隊はまずは慎重に偵察・情報収集を行うと決めたが、ここでも軍律が徹底されず、命令を無視して足軽衆が首里城に攻撃を開始、両軍想定外の展開になった。琉球軍は島津軍が海路で那覇を突いてくると想定して、主力を那覇に展開させていたから、陸路での別働隊の登場に驚き、急ぎ軍を首里城へ移動させる。その間、周囲を切り立った丘陵地帯に囲まれた天然の要害首里城の防衛線は平良川にかかる太平橋になる。太平橋を守備する琉球軍に島津軍は集中砲火を浴びせ、被弾した指揮官城間鎖子雲上盛増は突入してきた島津兵に首を切られた。この首切り行為に驚いた琉球兵が城内に撤退、島津軍が首里市街に雪崩れ込み、万事休すとなった。
四月二日、講和交渉が開始されるが、講和会議のさなかでも統制の取れない島津軍の濫行が続き、首里市街は各地で放火、略奪が相次ぎ、少なからぬ犠牲者とともに貴重な文書や宝物、建築物が多数失われることになった。一方、首里落城の報を受けた北谷グスクの守将佐敷筑登之興道が自害して殉じたほか、散発的に各地で島津への抵抗が行われている。陥落直前に首里城から脱出した浦添親方の子真大和、百千代、真々刈の浦添三兄弟は島津郡の追手と識名原で戦闘となり、島津軍の武将梅北照存坊兼次、小松彦九郎を討ち取ったあと全員戦死を遂げた。識名原の戦いは島津軍の指揮官クラスが戦死した唯一の戦いとなった。また、首里城西端の島添アザナを守っていたのは日本人山崎二休守三という将であったとも伝わる。山崎は戦後囚われて処刑寸前のところを尚寧王が自ら金品で買収し助けだしている。
四月四日、尚寧王は降伏し首里城を下城した。
戦後処理
樺山は尚寧王に対し、自ら聘礼使節として日本へ渡航、使節団を編成するように求めるとともに、琉球政府の抗戦派だった謝名親方と浦添親方らを薩摩に連行した。
尚寧王の江戸行き
島津軍によって強制的に尚寧王とその随行約百余名の使節団は鹿児島から駿府城・江戸城へ赴き臣従を表明することになった。八月、駿府城にて徳川家康と、九月、江戸城にて徳川秀忠とそれぞれ謁見し、進物を献上した。家康も秀忠も尚寧王を一国の君主として対等な立場として丁寧に対応したが、やはり、尚寧王にとっては苦痛であったようだ。また、道中王弟具志頭王子が死去、随行員も少なからず病に倒れている。結局、尚寧王は1611年八月まで鹿児島に軟禁されることになる。
琉球検地と奄美諸島併合
秀忠によって琉球の仕置を命じられた島津氏は1609年から1610年にかけて琉球の検地を実施、奄美諸島を除いて総石高八万九〇八六石の知行が計上されるとともに、琉球王国全体に石高制が適用された。1610年、奄美大島を管轄する大島代官(1613年大島奉行)が設置、1616年、徳之島・沖永良部島・与論島を統治する徳之島奉行が設置され、1623年の奄美諸島検地の完了と法令「置目之条々」の制定をもって奄美諸島は島津氏に併合された。
「掟十五ヵ条」の制定
1611年九月十九日、尚寧王の帰国と琉球検地の完了をもって島津氏から琉球に統治方針「掟十五ヵ条」が通達、島津氏からの注文商品以外の中国での交易の禁止(第一条)、島津氏の許可なき商人の受け入れ禁止(第六条)、島津氏以外の諸大名との交易禁止(第十三条)など海外交易・渡航の制限を始めとして、琉球政府の人事や、年貢徴収、治安維持など全般に渡る法令が定められた。また、琉球政府首脳陣には島津氏への忠誠を誓う起請文への署名が求められ、唯一これを断固拒否した謝名親方が同日鹿児島で斬首された。
謝名親方の密書
鹿児島で因われの身となっていた謝名親方は斬首前、密かに明朝廷への琉球救援を求める密書を作成、1609年九月、南九州の華人ネットワークを駆使して長崎の福建人に託した。しかし、この密書は発覚してすんでのところで回収され、明国に届くことはなかった。
これは歴史を変える密書となる可能性があった。もし、明がこの密書を受け取っていれば、朝鮮に続いてまた冊封国、琉球への日本の侵攻である。当然、威信を賭けて琉球への救援軍を編成していただろうし、琉球奪還から薩摩への上陸作戦などもあり得るシナリオだ。現に文禄・慶長の役の際にも同じ計画が立てられていたのだし、今回は当時と違って朝鮮半島との二正面作戦にする必要がない。
徳川政権にしてみれば、最優先目標は明との講和であり、琉球をその仲介役とするための軍事力の行使でしかない。ゆえに、出兵に非常に慎重な姿勢を崩さなかったのである。ここで明と戦端を開くのはまったく本意でないはずだ。ただ、慶長十五(1610)年二月、本多正純が島津家久に日明講和交渉の難航から明への派兵構想を語ったという話もある。国内情勢的にも征夷大将軍職の世襲による権力基盤を築きつつあったものの未だ豊臣氏との二重公儀体制下にある。日明戦争となれば、国内の徳川批判は避けられないどころか、豊臣氏の求心力を増すことになりかねない。日明戦争の回避、可能ならばそこから講和交渉に持ち込みたい。となれば、悪いのは全部島津というのが落とし所になる。島津家改易と島津首脳陣の処刑、琉球の再独立と不干渉あたりで手を打つことになるのではなかろうか。明としても勢力を増す一方の女真族の脅威を考えれば、もう一方の脅威である日本と長々と戦争するわけにもいかない。
とはいえ、歴史はそちらの方向には行かなかった。
戦後の琉球・日本の対明関係
1609年十月、翌年一月三十日付で鹿児島の尚寧王は明に対して書状で島津との戦争を報告している。ただし島津氏との戦争になり伊平屋島を割譲したこと、島津軍の目的は領土の一部割譲であって琉球の支配ではないこと、戦後処理で貢納が遅れたが琉球の明への忠節はかわらないことなど、虚実入り混じった内容であった。
1611年、家久は尚寧王に対し、日明貿易復活のための対明提案として
1) どこか中継地となる島を設定しての日明貿易の実施
2) 文引制適用による琉球を中継地としての日明貿易の実施
3) 日明相互に使節船を派遣することでの日明貿易の実施
のいずれかの選択肢「三事」を選ぶよう明に提案、あわせて明が拒否すれば中国沿岸に対し日本が軍事侵攻を行う旨伝えるよう命じた。基本的に恫喝外交方針の堅持で、この使節は翌1612年に渡明、これが明政府でも大問題となり、琉球が日本の強い支配下にあることを示唆するものだったから、琉球の朝貢は二年ごと(二年一貢)から十年ごと(十年一貢)に大幅な減少となった。
明との講和と交易を希望しながら、外交上はひたすら武威を背景に恫喝外交してくるわけで、ツンデレは実際にいたら迷惑なだけだが、当時の日本はまさにリアルツンデレである。わざわざ危ない橋を渡って琉球侵攻までしながら、事態は悪化する一方だったが、素直になれないからこそのツンデレ、というわけで結局明の滅亡まで日明講和はならなかった。
両属支配体制へ
島津氏の実効支配下におかれた琉球だったが、1616年には村山等安の台湾出兵計画を明に通報するなど厳しい中で面従腹背を貫き、一方の明も結果として琉球を救えなかった負い目と、琉球を突き放してしまうことで日本の影響下に置かれてしまう恐れから、徐々に態度を軟化させ、十年一貢といいつつ実質的な対明貿易は行われ、1623年からは五年一貢、1635年に二年一貢となっていく。
1630年代、島津氏の財政構造は未だ好転せず琉球交易の重要性は上がり続けた。また、幕府も鎖国に向かう中で鎖国時の四つの口として琉球が重視されるようになり、島津家中でもむしろ琉球には自主性とより自由な貿易体制を求める傾向が強まっていく。島津氏の実効支配体制が緩み、一方で1654年には琉球に島津氏の交易出先機関「御仮屋(のち「琉球館」)」が設置される。琉球の自由貿易を促進しつつ利益を島津の財政と直結させる富の収奪体制が整えられていった。
琉球王国は、琉明関係の改善、島津氏支配の緩和と幕府の管理貿易方針に従う貿易重視関係への移行を通して、中国(明→清)の冊封体制下にありつつ徳川幕藩体制に従属する二重朝貢の「両属体制」時代を迎えることになる。両属体制時代の琉球王国は、中国と日本という二つの体制の間で琉球のアイデンティティを模索し現代沖縄の伝統文化が次々生まれていく時代であり、一方でその歪みが琉球を破壊的に追い詰めていくことになる時代でもある。この時代についてもまた別の機会に。  
 

 

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