■百人一首 | |
(ひゃくにん いっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。 | |
小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。
室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。 小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。 定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。 |
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■『百人一首』の歌
百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。 歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。 100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。 万葉の歌人 / 『万葉集』の時代はまだおおらかで、身分の差にこだわらずに天皇、貴族、防人、農民などあらゆる階層の者の歌が収められている。自分の心を偽らずに詠むところが特徴。有名な歌人は、大伴家持、山部赤人、柿本人麻呂など。 六歌仙の時代 / この時代になると、比喩や縁語、掛詞などの技巧をこらした繊細で、優美な歌が多く作られた。選者の紀貫之が「六歌仙」と呼んだ、在原業平や小野小町などが代表的な歌人である。 女流歌人の全盛 / 平安時代の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎える。文学の世界では、女性の活躍が目ざましく清少納言が『枕草子』、紫式部が『源氏物語』を書いた。『百人一首』にはそのほかにも、和泉式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔といった宮廷の才女の歌が載っている。 隠者と武士の登場 / 貴族中心の平安時代から、武士が支配する鎌倉時代へとうつる激動の世情の中で、仏教を心の支えにする者が増えた。『百人一首』もそうした時代を反映し、西行や寂蓮などの隠者も登場する。藤原定家自身も撰者となった『新古今和歌集』の歌が中心で、色彩豊かな絵画的な歌が多く、微妙な感情を象徴的に表現している。 |
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■『百人一首』は秀歌撰ではない
タイトルを御覧になって、首をかしげる人も少なくないでしょう。そして直ちに、「百人一首は秀歌撰に決まっている。それも大歌人・藤原定家が編纂した最高の秀歌撰だ。なんてとんちんかんなことを言っているんだ。」とお叱りを受けそうです。ですが、はたしてそう言い切れるでしょうか。百人一首は本当に秀歌撰の定義にあてはまるのでしょうか。 私が今さらこんなことを問題にするのは、百人一首を安易に秀歌撰としてまつりあげてしまった結果、知名度が高い割に研究が停滞・遅延してしまっているからです。せっかくの百人一首の面白さが、秀歌撰という安易な定義によって、かえって見えなくなってしまっているのではないでしょうか。そこであえて挑戦的なタイトルを設定してみた次第です。 1度秀歌撰という枠をはずして、あらためて百人一首を見直してみると、いわゆる秀歌撰とは異なる点が多々あることに気付きます。例えば百人一首はほぼ年代順に配列されていますが、従来の秀歌撰はすべて歌合形式になっており、左右の組み合わせが重視されています。藤原公任(きんとう)撰の『三十六人撰』(いわゆる「三十六歌仙」)では、1番左に柿本人麿、2番右に紀貫之という好取組になっています。さらに後鳥羽院撰の『時代不同歌合』は1番左に人麿・2番右に源経信(つねのぶ)になっていますが、これは新旧歌人の歌合(対)を意図してのことでしょう。 もっと奇妙なことがあります。本来、秀歌撰の1番は人麿が定位置でした。それは『古今集』において人麿を「歌聖」と認定していることに起因します。それにもかかわらず、百人一首では人麿を3番にずらし、巻頭に天智・持統という親子天皇を据えているのですから、これだけでも単なる秀歌撰とは大きく異なっていることになります。しかも百人一首では、巻末にも後鳥羽・順徳という親子天皇を配しており、巻頭と巻末が親子天皇でシンメトリーになっているのです。 そもそも秀歌撰の代表・嚆矢(こうし)たる『三十六人撰』に、天皇の歌は一首も撰ばれていません。『時代不同歌合』に至って、5人の天皇が撰入されています。それは撰者である後鳥羽院自身を歌人として撰入させるための方便でしょうし、また意図的に天皇歌人の存在を強調するためと思われます。それでも『時代不同歌合』では、巻頭・巻末に天皇が配されることはありませんでした。百人一首に至って、天皇が5人から8人に増加したのみならず、親子天皇をもって巻頭・巻末を飾っているのですから、それこそ一般的な秀歌撰の編纂意識とは大きく異なっているわけです。 歌人ならざる天皇の歌を無理に撰ぶために、もう1つの作為も行われています。従来の秀歌撰は一歌人三首が原則でした。それに対して百人一首は一人一首となっています。つまり歌が一首しかなくても、撰ぶことができるのです。持統天皇・阿倍仲麿・喜撰法師・陽成院のように、この方針で拾われた歌人も少なくありません。気付いていない人も多いようですが、百人一首はこういった特殊な編纂方針のもとに成立しているのです。これでもまだ百人一首を秀歌撰であると言い張ることができますか。 |
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■六歌仙
「六歌仙(ろっかせん)」とは、古今和歌集の仮名序において紀貫之が挙げた六人の歌人のことで、そこには「近き世にその名聞こえたる人」として紹介されています。 僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12) 在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17) 文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22) 喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8) 小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9) 大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明) ( *歌番号は百人一首の歌番号です) の六人ですが、紀貫之自身はこの六人を「六歌仙」とは呼んでいません。「歌仙」とは、もともと仮名序で柿本人麻呂と山部赤人の二人に限って使われていて、「六歌仙」という名称は後世になってからの名称です。 紀貫之はこれら六人の歌人を選んだ理由として、身分の高い公卿を除いて、当時においてすでに歌人として名が知られている人たちを選んだとしています。ですから、六歌仙の中には女性や僧侶も含まれていますが、歌人としても様々で、各人の歌風に共通性などがある訳でもありません。また、身分の高い人たちを対象にしなかったことについては、「官位高き人をば、容易きようなれば入れず」として、敢えて評価をしなかったようです。 ところで、六歌仙についての仮名序における紀貫之の評価は、決して芳しいものでないのですが、これは柿本人麻呂と山部赤人の歌仙を念頭に置いたもので、この二人には遠く及ばないとしているようです。しかし、これら六歌仙以外の人たちの評価は更に厳しく、「歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし」として、全く取り上げようともしていないので、逆説的な言い方ですが、六歌仙について評価をしていると言えます。 参考に、下に「古今和歌集・仮名序」において六歌仙について書かれている部分を紹介しておきますが、いずれにしても、これら六歌仙と呼ばれる人たちの和歌は素晴らしく、百人一首などによっても、身近に親しまれているのではないでしょうか。 「古今和歌集・仮名序」 ここに、古のことをも、歌の心をも知れる人、僅かにひとりふたり也き。然あれど、これかれ、得たる所、得ぬ所、互いになんある。彼の御時よりこの方、年は百年あまり、世は十継になんなりにける。古の事をも歌をも、知れる人よむ人、多からず。今この事を言うに、官位高き人をば、容易きようなれば入れず。 その他に、近き世にその名聞こえたる人は、すなわち、僧正遍照は、歌のさまは得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。 在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色無くて臭い残れるがごとし。 文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。 宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし。 小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず。言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。 大伴黒主は、そのさまいやし。言わば、薪負える山人の、花のかげに休めるがごとし。 この他の人々、その名聞こゆる、野辺に生うる葛の、這ひ広ごり、林に繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし。 |
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■三十六歌仙
「三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)」は、平安時代中期の公卿・藤原公任(ふじわらのきんとう・966〜1041年)が著した「三十六人撰(さんじゅうろくにんせん)」に紹介されている、優れた三十六人の和歌の名人を指しています。藤原公任自身も優れた歌人で、百人一首の中でも歌番号55「大納言公任(だいなごんきんとう)」として紹介されています。関白太政大臣・藤原頼忠の長男で、和歌のほか、漢詩や管弦などにも優れていました。 さて、三十六歌仙の元になった「三十六人撰」ですが、これは、同じ公任が著した「三十人撰」を改めて編集しなおしたものです。この「三十人撰」は公任が既に著していた「前十五番歌合」を発展させたもので、これを具平親王に贈りましたが、具平親王はこれに手を加えられ、公任に贈り返したと言われています。そして、公任は再度これを増補して「三十六人撰」を完成したと伝えられています。 以下にそこで紹介されている三十六人を紹介しておきますが、百人一首の中にも紹介されている歌人も多く、いずれも素晴らしい和歌を残しています。 三十六歌仙 柿本人麻呂 (歌番号3) / 山部赤人 (歌番号4) / 大伴家持 (歌番号6) / 猿丸大夫 (歌番号5) 僧正遍昭 (歌番号12) / 在原業平 (歌番号17) / 大中臣頼基 / 坂上是則 (歌番号31) 源重之 (歌番号48) / 藤原朝忠 (歌番号44) / 藤原敦忠 / 藤原元真 小野小町 (歌番号9) / 藤原兼輔 / 紀貫之 (歌番号35) / 凡河内躬恒 (歌番号29) 紀友則 (歌番号33) / 壬生忠岑 (歌番号30 / 源信明 / 斎宮女御 藤原清正 / 藤原高光 / 小大君 / 中務 伊勢 (歌番号19) / 藤原興風 (歌番号34) / 藤原敏行 (歌番号18) / 源公忠 源宗于 (歌番号28) / 素性法師 (歌番号21) / 藤原仲文 / 清原元輔 (歌番号42) 大中臣能宣 (歌番号49) / 源順 / 壬生忠見 (歌番号41) / 平兼盛 (歌番号40) |
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■1.天智天皇 (てんじてんのう) | |
秋(あき)の田(た)の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は 露(つゆ)にぬれつつ |
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● 秋の田の傍にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてゆくばかりだ。 / 刈り取られた稲の見張り小屋で、ただひとりで夜を明かしていると、葺いてある屋根の苫の編み目が粗いので、私の着物はぐっしょりと夜露で濡れ続けていることよ。 / 秋の田んぼのそばにある小屋は、田んぼの番をするために仮に建てられたものだから、苫(屋根の編み目のこと)が荒くて、すきまだらけ。わたしの衣の袖が、夜露にぬれてしまっているよ。 / 秋の田の側につくった仮小屋に泊まってみると、屋根をふいた苫の目があらいので、その隙間から忍びこむ冷たい夜露が、私の着物の袖をすっかりと濡らしてしまっているなぁ。
○ かりほ / 仮庵。収穫のために建てた仮小屋。「刈り穂」との掛詞とする説もある。 ○ 苫をあらみ / 「AをBみ」で原因・理由を表す。「AがBなので」の意。Aは名詞、Bは形容詞の語幹。「苫の目が粗いので」の意。 ○ わが衣手 / 「が」は、所有格の格助詞「〜の」の意。「衣手」は、袖。 ○ ぬれつつ / 「つつ」は、反復・継続を表す接続助詞。 ※ 実際の作者は、天智天皇ではないというのが定説。万葉集の詠み人知らずの歌が変遷して御製となったもの。天智天皇と農民の姿を重ね合わせることで、庶民の痛み・苦しみを理解する天皇像を描き出している。大化の改新以降の社会の基盤を構築した偉大な天皇である天智天皇の御製が、百人一首の第一首とされた。 |
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天智天皇(てんちてんのう / てんじてんのう、推古天皇34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。 ■大化の改新と即位 舒明天皇の第2皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。 百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図った。百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)斉明天皇が崩御した。 その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制したが、天智天皇2年7月20日(663年8月28日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、同6年3月19日(667年4月17日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、翌同7年1月3日(668年2月20日)、漸く即位した。同年2月23日(668年4月10日)には、同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、同9年11月16日(671年1月2日)に第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、同10年10月17日(671年11月23日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。 なお、斉明天皇崩御(661年)後に即日中大兄皇子は称制して暦が分かりにくくなっているが、日本書紀では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、崩御翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。 白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。 また、皇太子時代の斉明天皇6年(660年)と天智天皇10年(671年)に漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせたことは著名で、後者の日付(4月25日)をグレゴリオ暦に直した6月10日は時の記念日として知られる。 ■崩御とその後 671年9月、天智天皇は病気に倒れた。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。12月3日、天智天皇は近江大津宮で崩御した。 天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となる。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。 称徳天皇崩御後に、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、以降は天智系統が続く。 大海人皇子から額田王を奪ったという話も有名だが、事実ではないという説もあり真偽ははっきりしない。 |
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■ 2 中大兄皇子(天智天皇)は、乙巳の変にて蘇我氏を滅ぼし、大化の改新といわれる政治改革を行いました。 661年に斉明天皇は崩御されますが、中大兄皇子(天智天皇)は即位することなく皇太子のまま政務に励みます。 663年には、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)にて、友好国の百済を救うため唐・新羅の連合軍と争うことになりますが、日本は大敗してしまいます(白村江の戦い)。その後、日本は唐からの攻撃を警戒し、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置き唐からの侵攻に備えました。また、水城(みずぎ)といって、筑紫に大きな堤を築いて水を蓄えたりしています。(しかし、結局、唐からの攻撃はなかった) 667年には、外国からの襲来に備えて、歴代の天皇が都を構えた大和の地から近江の大津宮に移しました。この大津宮にて中大兄皇子は正式に即位し天智天皇となりました(668年)。 実に20年以上も皇太子のまま政務を行っていた中大兄皇子ですが、なぜ即位するのをそれほど先延ばしにしたかについては、色々な説がありますが、そのひとつに暗殺を恐れていたという説があります。乙巳の変にて蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子には敵が多くいたのは間違いないでしょう。天皇を頂点とする政治改革を進めていた中大兄皇子にとって、自身が天皇となり暗殺された場合、その政治改革が後退してしまうと考えたという訳です。 また、天智天皇は即位した668年に「近江令」を完成させ671年から施行されます。これは、後に「大宝律令」の基礎となる法典です。 669年に、乙巳の変にて共に蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足が56歳でなくなります。天智天皇(中大兄皇子)は、亡き鎌足に「大織冠(だいしきのこうぶり)」という大臣の位を授けます。この大織冠は、最高の冠位であると共に古代、この位を授かったのは鎌足が唯一でありました。また、天智天皇は、鎌足に「藤原」の姓を授け、そのご藤原氏は長きに渡り繁栄していくことになります。 そして、671年、天智天皇46歳の時、亡くなるのですが、天智天皇は、亡くなる前に弟の大海人皇子を皇太子としていましたが、その後、自身の子である大友皇子も太政大臣という最高の官に任命します。いったんは、大海人皇子は、大友皇子に皇位を譲る素振りをみせるのですが・・・。 その後、この2人は皇位をめぐり内乱となっていくのです。(壬申の乱) |
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■ 3 阿倍比羅夫の朝鮮出兵によって、結果的に旧来の倭国は滅び、日本国が登場する契機となる。そして、それは「東北の鬼」の誕生につながっていく。 663年、倭国は百済復興のため大軍を派遣したが、白村江の海戦で新羅と唐の連合軍に壊滅的な惨敗をきした。 664年5月、唐軍の総責任者である百済鎮将の劉仁願が使者を派遣してきた。 12月、劉仁願の使者が戻っていった。 665年9月、唐国が朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高らを派遣してきた。 12月、唐の使節が大和王朝の送使らを伴って戻っていった。 667年、中大兄皇子は九州北部から瀬戸内海にかけて国防施設を配置したが、ついに飛鳥を離れ、近江大津(滋賀県大津市)の近江宮へ遷都した。琵琶湖の東岸から鈴鹿に出れば伊勢湾、湖東から敦賀に出れば日本海、当時の大津は陸海路の要衝の地で、連合軍が迫った場合に備えた遷都である。 11月 9日、唐軍の劉仁願が熊津都督府の熊山県令の法聰等を派遣してきた。 11月13日、戻っていった。 668年、中大兄皇子が天智天皇となり、同母弟の大海人皇子を皇太弟に任じた。 この年の9月、高句麗が唐によって滅ぼされた。 669年、遣唐使として小錦中河内直鯨らが大唐に派遣された。 671年、天智天皇は、大友皇子を太政大臣にして後継者とする意思を示した。 天智天皇は亡命百済人らに免税などの優遇をして、東国の開拓を委ねた。陸奥国から朝廷に黄金を献上する「百済王敬福」は、このとき陸奥国に入植した百済王族の一員である。 11月、大唐の郭務悰が軍線47隻、2,000名を率いて大宰府に寄港した。 12月、天智天皇が死去、大友皇子(弘文天皇)が跡を受け継いだ。 672年3月、阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇崩御を郭務悰に告げた。郭務悰らは、みな喪服を着て、三度哀の礼を奉じ、東に向って首を垂れた。 5月、郭務悰らが戻っていった。 6月、粛清の危機を感じた大海人皇子は、吉野から伊賀、鈴鹿関(三重県亀山市)を経由して美濃に逃れ、不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)で叛旗を掲げ、東国の豪族に挙兵を求めた。壬申の乱の勃発である。 瀬田橋(滋賀県大津市唐橋町) の戦いで朝廷軍が大敗、弘文天皇が自決した。 673年、大海人皇子は『天武天皇』として即位する。 676年、新羅が朝鮮半島を統一。倭国の半島への介入の道が閉ざされる。 690年、白村江で捕虜となった倭人たちが唐から帰還。 天武王朝は、彼らの情報に刺激を受け、律令制を布いた中央集権国家の構築を目指し、亡命百済高官らの知識を活用して律令制の成立に着手した。 701年、大宝律令が制定。国号を日本と定める。天皇制もこの時期と思われる。 この激動の40年が、井の中の蛙になっていた倭国を、新たな日本国を誕生させるための「生みの苦しみ」の期間だったともいえるが、白村江での敗戦以降の大唐の動きはなんだろう。 天智天皇の死去の直前に多勢で寄港し、まるで「壬申の乱」の勃発を未然に察知していたかのような帰還。 『唐会要』倭国・日本国伝 / 日本国の国号は、則天武后(624〜705年)の時代に改号したという。日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの国名が優雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国は(倭国とは無関係ではと)疑う。 このように唐王朝も従来の倭国と日本国の関係に疑問を感じており、『倭の五王』の時代の倭国と、新生日本国は関連性がなかったことをうかがわせる。 なにはともあれ、唐の先進的な統治制度に習った律令国家とするためにも、王朝の歴史を記録した『正史』の編纂が必須とされた。 ただし、天武天皇は正統な天皇であり、天武朝廷につながる代々のヤマト王朝が信奉した神の系譜につながる神々だけが日本国の正統な神であること。これを明記することが『天皇家の正史』の絶対的要件だった。 その根拠は、天武天皇が皇位簒奪者ではないことを説明するのに『日本書紀』は最大のページ数を費やしており、大海人皇子は皇太弟(こうたいてい)に任じられたとするのも『日本書紀』の創作だとされる。 ちなみに、皇位継承者とされた子女は「皇太子」、弟の場合は「皇太弟」という。大友皇子を正規の天皇「弘文天皇」であると認めたのは明治以降のことである。 『日本書紀』 / ● 天武天皇の十年(682年)条 / 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子ら12人に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。大島・子首が自ら筆をとって記した。 ● 持統天皇の五年(691年)条 / 大三輪、上毛野、膳部、紀、大伴、石上、雀部、藤原、石川、巨勢、春日、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、安曇の18氏に命じて、先祖からの事績を記した『墓記』を奉らせた。 このように『記紀』の編纂に先立って、「帝紀」や墓記(氏族史)に類する歴史書を作成させているが、ほとんどが現存しない。 後世、多くの氏族が秘匿していた残存記録を元に系譜を復元したようだが、上古の系譜が不鮮明な家系が多いのは、提出された纂記を焼却したことが原因だと推察される。『続日本紀』には次のような一文がある。 『続日本紀』元明天皇 / ● 慶雲四年(707年)7月条 / 山沢に亡命して、軍器を挟蔵して、百日首せずんば、罪に復すること初の如くす。 ● 和銅元年(708年)正月条 / 山沢に亡命して、禁書を挟蔵して、百日首せずんば、罪に復すること初の如くす。 軍器とは軍隊に要する器物のことだが、慶雲四年の軍器は禁書の誤写とされる。 禁書を秘匿し、天皇家の命令を拒否して王朝の支配地域外に逃亡した者は、百日以内に自首しなければ、本来の罰を科すぞと言っている。半年後にも同文の勅詔が出されていることから、百日以内に自首する者がいなかったのだろう。 禁書とは、天皇家に禁じられた本のことで、天皇家の大義名分に相反する書籍、すなわち「諸家の帝紀や本紀」や上記の『日本書紀』に記された『墓記』である。 このことから、天武と持統の夫婦が命じて提出させた歴史書の内容は、彼らには不都合な記述があったものと推察できる。 |
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■2.持統天皇 (じとうてんのう) | |
春過(はるす)ぎて 夏来(なつき)にけらし 白妙(しろたへ)の
衣干(ころもほ)すてふ 天(あま)の香具山(かぐやま) |
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● 春が過ぎて夏が来たらしい。夏に純白の衣を干すという天の香具山なのだから。 / いつの間にか春が過ぎて夏が来たらしい。どうりで、夏になると白い衣を干すと言い伝えのある天の香具山の麓に、目にも鮮やかな真っ白な衣が干してあるのが見えるよ。 / もう春が過ぎて、夏が来たようね。夏になると白い衣服を乾すと聞いている天の香具山に白い衣服が干してあるわ。 / もう春は過ぎ去り、いつのまにか夏が来てしまったようですね。香具山には、あんなにたくさんのまっ白な着物が干されているのですから。
○ 春 / 陰暦の春、すなわち、一・二・三月。 ○ 夏 / 陰暦の夏、すなわち、四・五・六月。 ○ けらし / 「けるらし」がつづまった形。「ける(過去の助動詞)+らし(推定の助動詞)」で「〜してしまったらしい」の意。 ○ 白妙の / 「衣」にかかる枕詞。その他、「雪・雲」など白いものにかかり、「真っ白・純白」の意味を表す。「白妙」は、楮類の樹皮の繊維で織った純白の布。 ○ 衣ほすてふ / 「てふ」は、「といふ」がつづまった形。直前には会話文・心内文などがあり、伝聞を表す。 ○ 天の香具山 / 耳成山、畝傍山とともに大和三山の一。持統天皇の御世に都があった藤原京の中心から見て東南に位置する。万葉集には大和三山を男女の三角関係に見立てた歌があり、持統天皇の歌の背景には、額田王をめぐって争った天智天皇(持統天皇の父)とその弟、天武天皇(持統天皇の夫)の関係が連想される。 |
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持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。 ■壬申の乱の前まで 父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。父母を同じくする姉に大田皇女がいた。 大化5年(649年)、誣告により祖父の蘇我石川麻呂が中大兄皇子に攻められ自殺した。石川麻呂の娘で中大兄皇子の妻だった造媛(みやつこひめ)は父の死を嘆き、やがて病死した。『日本書紀』の持統天皇即位前紀には、遠智娘は美濃津子娘(みのつこのいらつめ)ともいうとあり、美濃は当時三野とも書いたので、三野の「みの」が「みや」に誤られて造媛と書かれる可能性があった。美濃津子娘と造媛が同一人物なら、鸕野讃良は幼くして母を失ったことになる。 斉明天皇3年(657年)、13才のときに、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。斉明天皇7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。天智天皇元年(662年)に筑紫の娜大津で鸕野讃良皇女は草壁皇子を産み、翌年に大田皇女が大津皇子を産んだ。天智天皇6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、鸕野讃良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。 ■壬申の乱 天智天皇10年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠棲したとき、草壁皇子を連れて従った。『日本書紀』などに明記はないが、大海人皇子の妻のうち、吉野まで従ったのは鸕野讃良皇女だけではなかったかとされる。 大海人皇子は翌年に決起して壬申の乱を起こした。皇女は我が子草壁皇子、母を異にする大海人の子忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃に向けた脱出の強行軍を行った。疲労のため大海人一行と別れて桑名にとどまったが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったことが知られる。 壬申の乱のときに土地の豪族尾張大隅が天皇に私宅を提供したことが『続日本紀』によって知られる。この天皇は天武天皇とされることが多いが、持統天皇にあてる説もある。 ■天武天皇の皇后 大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、鸕野讃良皇女が皇后に立てられた。 『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した。 679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。6人は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子である。天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。続いて皇后も皇子らを抱擁した。 皇后は病を得たため、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。 681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編纂を始め、当時19才の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかった。皇后の強い要望があったと推測される。 685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。 ■大津皇子の謀反 大津皇子は草壁皇子より1歳年下で、母の身分は草壁皇子と同じであった。立ち居振る舞いと言葉遣いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と『日本書紀』は大津皇子を描くが、草壁皇子に対しては何の賛辞も記さない。草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない。2人の母は姉妹であって、大津皇子は早くに母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていた。草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画したが、皇太子としての草壁皇子の地位は定まっていた。 しかし、天武天皇の死の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺した。川島皇子の密告という。具体的にどのような計画があったかは史書に記されない。皇位継承を実力で争うことはこの時代までよくあった。そこで、大津皇子に皇位を求める動きか、何か不穏な言動があり、それを察知した持統天皇が即座につぶしたのではないかと解する者がいる。謀反の計画はなく、草壁皇子のライバルに対して持統天皇が先制攻撃をかけたのではないかと考える者も多い。いずれにせよ、速やかな反応に持統天皇の意志を見る点は共通している。 ■持統天皇の称制と即位 天武天皇は、2年3ヶ月にわたり、皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼を経て葬られた。このとき皇太子が官人を率いるという形が見られ、草壁皇子を皇位継承者として印象付ける意図があったともされる。これに対して、「草壁皇子の立太子」そのものが、後に皇子の子である軽皇子(文武天皇)への皇位継承を正当化する為に作為されたもので、実際の持統天皇の構想は草壁皇子に葬礼を主宰させることで初めて後継者であることが明らかにされたとする説もある。 ところが、689年4月に草壁皇子が病気により他界したため、皇位継承の計画を変更しなければならなくなった。鸕野讃良は草壁皇子の子(つまり鸕野讃良の孫にあたる)軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7才)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から鸕野讃良は自ら天皇に即位することにした。 その即位の前年に、前代から編纂事業が続いていた飛鳥浄御原令を制定、施行した。 持統天皇の即位の儀式の概略は、天武天皇の葬礼とともに、『日本書紀』にかなり具体的に記されている。ただし以前の儀式が詳しく記されていないので正確なところは不明だが、盾、矛を立てた例は前にもあり、天つ神の寿詞を読み上げるというのは初見である。また前代にみられた群臣の協議・推戴はなかった。全体に古式を踏襲したものとみなす見解もあるが、新しい形式の登場に天皇の権威の上昇を見る学者が多い。 即位の後、天皇は大規模な人事交代を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった。 ■持統天皇の治世 ●天武天皇の政策の継承 持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である。 新しい京の建設は天武天皇の念願であり、既に着手されていたとも、持統天皇が開始したとも言われる。未着手とする説では、その理由が民の労役負担を避けるためだったと説かれるので、後述の伊勢行幸ともども、天武の治世と微妙に異なる志向がある。 また、官人層に武備・武芸を奨励して、天武天皇の政策を忠実に引き継いだ。墓記を提出させたのは、天武天皇の歴史編纂事業を引き継ぐものであった。 民政においては、戸籍を作成した。庚寅の造籍という。687年7月には、685年より前の負債の利息を免除した。奴婢(ぬひ)身分の整とんを試み、百姓・奴婢に指定の色の衣服を着るよう命じた。 こうした律令国家建設・整備政策と同時に持統天皇が腐心したのは、天武の権威を自らに移し借りることであったようである。天武天皇がカリスマ的権威を一身に体現し、個々の皇族・臣下の懐柔や支持を必要としなかったのとは異なっている。 持統天皇は、柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせた。人麻呂は官位こそ低かったものの、持統天皇から個人的庇護を受けたらしく、彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として天皇とその力を讃える歌を作り続け、その後は地方官僚に転じた。 天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸である。夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われる。他に伊勢に一度、紀伊に一度の行幸を記録する。『万葉集』の記述から近江に一度の行幸も推定できる。伊勢行幸では、農事の妨げになるという中納言三輪高市麻呂のかん言を押し切った。この行幸には続く藤原京の造営に地方豪族層を協力させる意図が指摘される。 持統天皇は、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。 ●外交政策 外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。日本書紀の持統4年(690年)の項に以下の主旨の記述がある持統天皇は、筑後国上陽東S(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して、「百済救援の役でその方は唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時その方は富杼らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上してほしい』といった。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、その方はひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。自分は、その方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して、土地などの褒美を与えた。 新羅に対しては対等の関係を認めず、向こうから朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで関係を結んだようである。日本からは新羅に学問僧など留学生が派遣された。 ■文武天皇への譲位 持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる。 その高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去した。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった。この一連の流れを持統天皇による一種のクーデターとみなす説もある。 持統天皇は8月1日に15才の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。 ■譲位後の持統上皇 譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執った。文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる。しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる。 持統天皇は大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行った。翌年には三河まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった。 ■崩御 大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御した。1年間のもがりの後、火葬されて天武天皇の墓に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった。 陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。夫、天武天皇との夫婦合葬墓である。持統天皇の遺骨は銀の骨つぼに収められていた。しかし、1235年(文暦2年)に盗掘に遭った際に骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄されたという。 藤原定家の『明月記』に盗掘の顛末が記されている。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子が書かれている。 |
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人物像 (日本書紀) ■女帝持統の役割と野心 持統天皇は、7世紀から8世紀の日本古代に特徴的な女性天皇(女帝)の一人である。他の女帝についてしばしば政権担当者が別に想定されるのと異なり、持統天皇の治世の政策は持統天皇が推進した政策と理解される。持統天皇が飾り物でない実質的な、有能な統治者であったことは、諸学者の一致するところである。『日本書紀』には天武天皇を補佐して天下を定め、様々に政治について助言したとあり、『続日本紀』には文武天皇と並んで座って政務をとったとあるので、持統の政治関与は在位期間に限られていない。持統天皇は天武天皇とともに「大君は神にしませば」と歌われており、天皇権力強化路線の最高到達点とも目される。 政治家としての持統天皇の役割・動機は、天武天皇から我が子の草壁皇子・孫の軽皇子に皇位を伝えることであったとするのが通説である。持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣ぐことを望み、夫に働きかけて草壁を皇太子に就け、夫の死後に草壁のライバルであった大津皇子を排除した。天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだったが、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自らが即位したと解する。 近年では、女帝一般が飾り物ではなく、君主として実質的な権力を振るったと考える傾向もあり、鸕野讃良皇女自身が初めから皇位に向けた政治的野心を持っていたとする説が出てきた。天武天皇が自らを漢の高祖になぞらえたらしいことから、持統天皇は自らをその妻で夫の死後政治の実権を握った呂太后になぞらえたのではないかと推測する学者もいる。 ■持統天皇による謀略説 持統天皇の積極的性格と有能さを前提として、彼女による様々な謀略が説かれている。 壬申の乱では鸕野讃良皇女が大海人皇子に協力したとするのが通説だが、彼女こそが乱の首謀者であるという説がある。 大津皇子の謀反については、持統天皇の攻撃的意図を見ない人の方が少ない。大津皇子の無実を説くか、そうでなくともわずかな言葉をとらえて謀反に仕立て上げられたと考える学者が多い。 関連して『万葉集』の歌にまつわる対大津監視スパイ説がある。万葉学者の吉永登は、石川郎女と寝たことを津守通に占いで看破されて大津皇子が詠んだ歌について、津守は占いではなく密偵によって知ったのではないかという。直木孝次郎がこれを支持して持統の指示によるのではないかと推測している。 さらに、持統天皇が高市皇子を暗殺して軽皇子を立太子させたと主張する説まである。 |
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■ 3
子孫 持統女帝の子は早世した草壁皇子ただ1人のみであったが、女帝の孫の系統は天武系の嫡流として奈良時代における文化・政治の担い手となった。しかしながら玄孫の孝謙・称徳天皇のあとは系譜が途絶え、天武天皇系から天智天皇系の光仁天皇に移ってしまい、持統天皇系列の終末を迎えることになる。 光仁天皇の皇后として、持統系称徳天皇の妹である井上内親王が立てられ、その子の他戸親王(持統天皇の来孫)が天智・天武皇統融合の象徴として立太子された。しかしながら皇太子他戸親王は、謀反の罪に問われて庶人に落とされ、母子共々早々に亡くなった。また、他戸親王の姉酒人内親王は桓武天皇の妃となり朝原内親王(平城天皇の妃)を産んだが、朝原内親王は子を成していない。 臣籍降下した中では、吉備内親王を通じて承和11年(844年)に昆孫の峯緒王が高階真人姓を賜り高階氏の祖となった。しかし、子の高階茂範(持統天皇の仍孫)は養子に家督を継がせたため、彼を最後に女帝持統天皇の系統は断絶している。但し、皇族の身分をはく奪された来孫の氷上川継、曾孫の説のある高円広成・高円広世など、歴史からは姿を消したものの、彼らを通じて現在でも持統女帝の血をひく子孫がいると思われる。 |
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■ 4 壬申の乱を制した天武天皇が聖徳太子以来築きあげられて来た日本国家の基礎工事に最後の仕上げをしてから亡くなった後、皇后であった讃良(さらら)皇女は、自分の子供の草壁皇子に皇位を継がせる為、ライバルの大津皇子を殺します。 しかし、肝心の草壁皇子が病死してしまったため、その草壁皇子と自分の妹の阿陪皇女との間の子供軽皇子に望みを託し、彼が成人するまでの間自らが即位して持統天皇となり、政務を執るのです。 持統天皇の父は天智天皇、母は乙巳の変の功労者の一人蘇我石川麻呂の娘遠智娘(おちのいらつめ)です。物心つくかどうかの頃、石川麻呂が父の天智天皇に殺されます。更に叔父の大海人皇子に嫁いだとはいえまだ少女時代の多感な時期に、今度は壬申の乱が起こり、幼な妻はけなげに夫の吉野行き、山越えの進軍と行動を共にします。そして目の前にさらされる兄・大友皇子の首。否応なく血で血を洗う争いに巻き込まれたさらら姫はその後も激しい潮流の中での生涯を送ることになりました。 大和朝廷がそれまでの「倭」という国号をやめて「日本」という国号を名乗るようになったのは天武天皇の時からであるとされます。天武はまた伊勢神宮の祭祀を非常に重要視し、また初めて風水に基づく本格的な都を作ろうとしました。しかしその計画は自らの死によって中断してしまいました。持統天皇はその遺志を引き継ぎ、4年かがりで初めての固定的な都・藤原京を作ったのです。それまで都は天皇が変る度に移されるのが常でした。豪族たちはそれぞれ自分の本拠地に住んでいて、天皇が作った宮へ通勤してきていた訳ですが、ここに大規模な都が作られ、そこに官吏とその家族が住めるようになったことで、政府というものの質がこれ以降変っていくことになります。 さて、そうこうしている内にやっと孫の軽皇子が15歳になります。うまい具合に自分の孫の最大のライバルと思われた太政大臣高市皇子がなくなりました。天皇は群臣たちに皇太子を誰にするか諮ります。天皇としては当然軽皇子をその位に付けたいのですが、天武天皇と大江皇女との間の子供弓削皇子を推す声もあり、議論は紛糾します。この議論に終止符を打ったのは、大友皇子と十市皇女との間の遺児・葛野王でした。彼は「皇位は基本的に子・孫へと受け継ぐべきもので、兄弟で受け継げば、それぞれの子供の間に皇位をめぐる争いが必ず生じる」と言い、彼の一言で軽皇子が皇太子と決定します。 持統天皇は軽皇子に譲位、文武天皇が誕生し、持統は史上初の太上天皇として引続き実質の政務を執り続けます。この間、都の造成に引き続く大事業、法令の編纂が行なわれ、まずは天皇支配をうたった浄御原令に続き、日本で初めての法体系大宝律令が完成、大化以来とだえていた年号もこの「大宝」によって再開されます。 持統上皇はその年、文武と藤原不比等の娘宮子媛との間に首皇子が生まれたのを見届けて、生涯を閉じるのです。 持統天皇というと、自分の子供・そして孫を皇位につけるために「次々と」皇位継承権のある皇子を血祭にあげていった恐怖政治家、という印象を持っている人がけっこうあるのですが、彼女が実際に殺したのは大津皇子一人で、この時も死を賜わったのは彼一人で、妃の山辺皇女(天智天皇の娘)が後を追って死んでしまった他は、側近の行心という僧が飛騨に流されたくらいでできるだけ余計な血を流さないようにしています。 また高市皇子に対しては最後まで手を出さず、自分が先に死ぬか高市皇子が先に死ぬか賭けをしていたような感じです。大海人皇子の吉野行きと壬申の乱にずっと付き従っていたのなどを見ても彼女の我慢強い性格を表わしています。 彼女は古代の多くの女帝の中でも、もっとも強力な指導力を発揮した女帝であったと思われます。藤原不比等はまだ若く、頼れる補佐官としては高市皇子くらいでしたし、彼女がやるしかない状況でした。その中で都作りと法令編纂というどちらも日本で初めての大事業を実行したのは大きく評価されるべきでしょう。 持統天皇の遺体は夫天武天皇の陵に合葬されました。 |
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■3.柿本人麻呂 (かきのもとのひとまろ) | |
あしびきの 山鳥(やまどり)の尾(を)の しだり尾(を)の
ながながし夜(よ)を ひとりかも寝(ね)む |
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● 山鳥の尾の垂れ下がった尾が長々と伸びているように、秋の長々しい夜を一人で寝ることになるのだろうか。 / 垂れ下がった山鳥の尾羽のような長い長いこの秋の夜を、離ればなれで寝るという山鳥の夫婦のように、私もたった一人で寂しく寝ることになるのかなあ。 / 山鳥の長く垂れ下がっている尾のように長い長い夜を愛するひとと離ればなれになって、ひとり寂しく寝るのだろうなぁ。 / 夜になると、雄と雌が離れて寝るという山鳥だが、その山鳥の長く垂れ下がった尾のように、こんなにも長い長い夜を、私もまた、(あなたと離れて)ひとり寂しく寝るのだろうか。
○ あしびきの / 「山」にかかる枕詞。万葉集では「あしひきの」で、「ひ」は清音。中世以降に濁音化し「び」となる。 ○ 山鳥 / キジ科の鳥で尾羽が長い。雄と雌が夜になると谷を隔てて別々に寝るとされることから、独り寝を象徴する語として用いられることがある。 ○ しだり尾の / 「しだり(ラ行四段の動詞“しだる”の連用形)+尾」で、「長く垂れ下がった尾」の意味。「の」は、比喩を表す格助詞。初句からこの三句までが序詞で、次の「ながながし」を強調。 ○ ながながし夜 / 「ながながし」は、形容詞の終止形を名詞化することで、「夜」と合わせて複合語となる。終止形を連体形の代わりに用いたとする説もある。 ○ ひとりかも寝む / 「か」と「む」は、係り結び。「か」は、疑問の係助詞。「も」は、強意の係助詞。「む」は、推量の助動詞の連体形。 |
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柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ、斉明天皇6年(660年)頃 - 養老4年(720年)頃)は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。 ■出自・系譜 柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。また、同文献では人麻呂の子に柿本蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。 ■経歴 彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。 賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。 『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。 ■歌風 彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。 人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。この天皇即神の表現については、『記紀』の歌謡などにもわずかながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多く、この歌人こそが第一人者である。また人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という律令国家制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であるといえる。 恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていたが(たとえば斎藤茂吉)、近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。ただし、人麻呂の恋歌的表現は共寝をはじめ非常に性的な表現が少なくなく、窪田空穂が人麻呂は夫婦生活というものを重視した人であるとの旨を述べている(『万葉集評釈』)のは、歌の内容が事実・虚構であることの有無を別にして、人麻呂の表現のありかたをとらえたものである。 次の歌は枕詞、序詞を巧みに駆使しており、百人一首にも載せられている。ただし、これに類似する歌は『万葉集』巻11・2802の異伝歌であり、人麻呂作との明証はない。『拾遺和歌集』にもとられているので、平安以降の人麻呂の多くの歌がそうであるように、人麻呂に擬せられた歌であろう。 万葉仮名 / 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 平仮名 / あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 訳 / 夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝るのだろう。 また、『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に248首が入集している。 代表歌 天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ 東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。今昔秀歌百撰で柿本人麻呂は6番で、「あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が獄に雲立ち渡る」。 |
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■ 2 ■官位 各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。 江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱え、以降現在に至るまで歴史学上の通説となっている。 1.五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名は正史に見られない。 2.死去に関して律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっているが、『万葉集』の人麻呂の死去に関する歌の詞書には「死」と記されている。 ■終焉の地 その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。 その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し日立金属安来工場の敷地内にあるとされ、正確な位置は不明になっている。 また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作の中で反論の的になっている。 ■人麻呂にまつわる異説・俗説 その通説に梅原猛は『水底の歌−柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。 『続日本紀』元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。しかし当時、藤原馬養(のち宇合に改名)・高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。このため、井沢元彦は『逆説の日本史』(2)で、「サル」から「人」麻呂に昇格したと述べている。しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。柿本猨については、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことは明らかでない。 |
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■ 3 『旧天孫本紀』 / 物部木蓮子大連 (イタビノオオムラジ)。ニギハヤヒ(饒速日命)十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘の全姫。仁賢天皇の代に大連となり、石上神宮を奉斎し、御大君の祖の娘の里媛を妻にして、二児を生んだ。 『姓氏録』では、依羅連は百済人の素彌志夜麻美(ソミシヤマミ)の君の後裔とあり、大阪府松原市天美は依羅連が居住した依羅郷で、現在も依羅宿禰を祭神とする田坐神社、酒屋神社、阿麻美許曽神社がある。『新撰姓氏録』では、日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人の素彌志夜麻美乃君より出ずる、また饒速日命十二世の孫の懐大連の後とある。万葉歌人の柿本人麻呂の妻は依羅娘子(ヨサミノオトメ)といい、『万葉集』に短歌3首を載せているが、依羅娘子もやはり百済系渡来氏族の出である。 『大依羅神社』由緒 / 依羅氏は、丹比郡依羅郷に繁栄した百済系渡来氏族で、後に住吉区庭井に移住したことから大依羅郷と称された。依羅吾彦が祖先の建豊波豆羅別命(系譜では崇神天皇の兄弟)を祀るため、大依羅神社を建てたが、別名は『毘沙門の宮』、崇神天皇62年、ここに農業灌漑用の依羅(依網)池を造った。 ここでは崇神天皇の兄弟を依羅連の祖先だとしているが、物部氏の系譜では一族諸氏に「物部依羅連」の名があり、物部氏の系譜につながっている。物部氏が扶余系であるなら、なぜ依羅連は百済系だとなっているだろう。 中華王朝の史書には、「百済とは扶余の別種で、仇台(キュウダイ)という者がおり、帯方郡において国を始めた。その尉仇台を始祖とする」とある。 『三国史記』百済本紀は「温祚(おんそ=高句麗の始祖の庶子)が百済を建国した」とするが、それでは百済の王姓が「扶余」であることの説明がつかない。 百済では、支配階級は扶余語を使い、庶民は馬韓語を使うというように、言語や風習が二重構造の社会だと記録されており、王族の姓は、後に漢風に一字姓の余に改姓するが、代々が扶余を名乗っていることからも、扶余族が馬韓を統一したことものと思われる。扶余王の依羅は、倭国では百済王族だと名乗ったのだろう。 『晋書』馬韓伝 / 太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を入朝させ、方物を貢献した。同七年(286年)、八年(287年)、十年(289年)、また頻繁に到った。太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上した。 これが中国史籍での馬韓に関する最後の記述で、この後は百済が登場する。そして、東夷校尉の何龕に献上したとの記述があるが、扶余王の依羅が扶余国の再興を嘆願した相手が、この東夷校尉の何龕であることから、おそらくこの段階ですでに馬韓は扶余の分国になっていたものと考えられる。 『通典』百済条 / 晋の時代(265年−316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。今の柳城(龍城)と北平の間である。晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。 上記は、朝鮮古代史の研究者を悩ませる記述だが、扶余が一時的に滅亡するのが285年、その前後の期間に渤海を渡って遼寧省の西部を占領支配していたとすれば、百済が二国あったことになる。 『日本書紀』は、朝鮮半島の百済を「百済」、遼西の百済を「呉」と区別している。 この「呉」を中国江南の三国時代の「呉」と錯覚している人も多いが、倭の五王の時代に、現在の上海まで簡単に渡航できる船も航海技術もない。従って、呉服は中国伝来ではなく、遼西百済からの伝来である。 ちなみに、『梁書』百済伝には「百済では全土が王族に分封され、その領地を檐魯(タンロ)という」とある。これは国内に止まらず、異国にも檐魯を有している。 中国の広西壯族自治区に百済郷があり、ここの住民は大百済(テバクジェ)と韓国語で呼んでおり、済州島の古名も耽羅(タンロ)国で、常に百済の支配下にあった。 また、大阪府の南端には百済の大門王が統治したという淡輪(タンノワ)があり、田村(たむら)や外村(とむら)などの姓は「檐魯」の住民だったことの名残とされる。 このことから、坂上「田村」麻呂も、百済系だったことになる。 |
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■4.山部赤人 (やまべのあかひと) | |
田子(たご)の浦(うら)に うち出(い)でて見(み)れば 白妙(しろたへ)の
富士(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ |
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● 田子の浦に出てみると、まっ白な富士の高嶺に今も雪は降り続いていることだ。 / 田子の浦の海岸に出て、はるか向こうを仰いで見ると、神々しいばかりの真っ白な富士山の頂に、今もしきりに雪は降り続いているよ。 / 田子の浦(現在の静岡県の海浜)に出てみて、はるか遠くを眺めてみると、富士の高い高い峰に、それは真っ白な雪が降りつもっているなぁ。 / 田子の浦の海岸に出てみると、雪をかぶったまっ白な富士の山が見事に見えるが、その高い峰には、今もしきりに雪がふり続けている。(あぁ、なんと素晴らしい景色なのだろう)
○ 田子の浦に / 六音で字余り。「田子の浦」は、駿河(現在の静岡県)の海岸。 ○ うち出でてみれば / 八音で字余り。「うち」は、語調を整える接頭語で、広々とした場所に出る場合などに用いられる。「みれば」は、「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。この場合は、そのうちの偶然条件「〜と」で、「みると」の意。 ○ 白妙の / 「富士」にかかる枕詞。本来は、「雪」にかかる語であるが、「白妙の富士の高嶺に雪は…」とすることで、富士に雪が降って真っ白になるさまを強調する効果をもたらしている。 ○ 降りつつ / 「つつ」は、反復・継続の接続助詞。実際に田子の浦から富士の降雪状況を遠望することは不可能であるが、今まさに雪が降り続いている様子を「つつ」を用いて想像させることによって、富士の白さ、美しさを際立たせている。 |
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1 山部赤人(やまべ の あかひと、生年不詳 - 天平8年(736年)?)は、奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。姓は宿禰。大山上・山部足島の子とし、子に磐麻呂がいたとする系図がある。官位は外従六位下・上総少目。後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある。 その経歴は定かではないが、『続日本紀』などの史書に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。神亀・天平の両時代にのみ和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。『万葉集』には長歌13首・短歌37首が、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に49首が入首している。自然の美しさや清さを詠んだ叙景歌で知られ、その表現が周到な計算にもとづいているとの指摘もある。 柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。紀貫之も『古今和歌集』の仮名序において、「人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と、赤人を人麻呂より上に評価している。この人麻呂との対は、『万葉集』の大伴家持の漢文に、「山柿の門」(山部の「山」と柿本の「柿」)とあるのを初見とする。 平安時代中期(『拾遺和歌集』頃とされる)には名声の高まりに合わせて、私家集の『赤人集』(三十六人集のひとつ)も編まれているが、これは万葉集の巻11の歌などを集めたもので、『人麻呂集』や『家持集』とおなじく万葉の赤人の作はほとんど含んでいない。『後撰和歌集』まではあまり採られることのなかった人麻呂ら万葉歌人の作品が、『拾遺和歌集』になって急増するので、関連が考えられている。 滋賀県東近江市下麻生町には山部赤人を祀る山部神社と山部赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺がある。なお、赤人の墓と伝わる五輪塔が奈良県宇陀市の額井岳の麓に存在する。 ■ 万葉集 / 山部宿禰赤人、不尽(ふじ)の山を望(み)る歌一首 并せて短歌 天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き 駿河(するが)なる 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 (はら) 降(ふ)り放(さ)け見れば 渡る日の 影(かげ)も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継(つ)ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は 反歌 田子(たこ)の浦ゆ打ち出(いで)て見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける |
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■ 2
山部赤人は、柿本人麻呂とともに万葉を代表する大歌人である。大伴家持に「山柿の門」という言葉があるが、これは人麻呂、赤人を以て万葉を象徴させた言葉だとされる。古今集の序にも、「人麻呂は赤人が上にたたむこと固く、赤人は人麻呂が下にたたむことかたくなむありける」と、赤人は人麻呂と並んで高く評価されている。とくにその叙景歌は、後の時代の人々に大きな影響を与え続けてきた。 山部赤人は、柿本人麻呂より一世代後、平城京時代の初期、元正女帝から聖武天皇の時代にかけて活躍した。叙景歌を中心に旅の歌などを多く残しているが、本領は人麻呂に次ぐ宮廷歌人だったことにある。万葉集には、元正天皇の行幸に従って詠んだ歌や、聖武天皇の詔に答えて作った歌が幾つも載せられている。 続日本紀などにその名が見られないことから、人麻呂同様下級の官人だったのだろう。だが、その歌風は人麻呂の遺風を伝え、時に荘厳な趣に満ちていた。それ故に、宮廷歌人として、天皇によって認められたのではないか。 家持が「山柿の門」といって、この両者を並べたのは、宮廷儀礼歌の伝統の中で、この両者の持った重みに配慮したからではないかとも思われる。 万葉集巻六雑歌の部に、山部宿禰赤人がよめる歌二首が載せられている。その最初の一首について、北山茂夫は養老七年(723)における元正女帝の吉野行幸の際の歌ではないかと推論している。歌は吉野の宮を懐かしんで詠っており、女帝の思いを代弁しているかとも思える。おそらく、宮廷歌人として、赤人も女帝の行幸に従っていたのであろう。 ―山部宿禰赤人がよめる歌二首、また短歌 やすみしし 我ご大王の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠り 川並の 清き河内そ 春へは 花咲き撓(をを)り 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益々に この川の 絶ゆること無く 百敷の 大宮人は 常に通はむ(923) 反歌二首 み吉野の象山の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒く鳥の声かも ぬば玉の夜の更けぬれば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く かつて持統女帝の吉野行幸に従って人麻呂が詠んだ歌を髣髴とさせる。人麻呂の歌にあった神話的な荘厳さはないが、叙景のなかに、吉野の宮への懐旧の思いが満ち溢れている。特に、二首目の短歌は優れた叙景歌として、後の世の人々に影響を与えた。 万葉集巻三には、飛鳥の神岳に登った時の歌が載せらている。この歌は、先の歌にあった吉野行幸に際して、平城京をたって飛鳥にとどまった折詠われたのでないか。飛鳥は、天武、持統両天皇の故宮である。 ―神岳に登りて山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 三諸(みもろ)の 神名備山に 五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 栂(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ 明日香の 旧き都は 山高み 川透白(とほしろ)し 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清(さや)けし 朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒ぐ 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ 古思へば(324) 反歌 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに この歌に至っては、人麻呂のような神話的な雰囲気は見られず、自然を歌うことによって、人びとの懐旧の情に訴えている。人麻呂の時代にはまだ生きていた天皇の神性が、赤人の時代には弱まっていたのかもしれない。 万葉集巻六には、聖武天皇の紀伊国行幸が歌われている。続日本紀によれば、この年即位したばかりの聖武天皇は、遊覧を兼ねて紀伊国に遊び、仮宮をたてさせて、そこに十四日もの間滞在した。 ―神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸せる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 やすみしし 我ご大王の 外津宮(とつみや)と 仕へ奉(まつ)れる 雑賀野(さひかぬ)ゆ 背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山(917) 反歌二首 沖つ島荒磯の玉藻潮干満ちてい隠(かく)ろひなば思ほえむかも 若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る 仮宮のある雑賀野から、海中に浮かぶ島を臨む光景を歌ったものである。天皇の国見を寿ぐ気持が素直に現れている。雄大な風景を詠うことによって、国土の豊かさと、天皇の偉大さを強調することが、この歌の眼目だと思われる。同時に、二首目に見られるような生き生きとした叙景が、歌に新たな命を吹き込んでいる。 同じく、万葉集巻六に、聖武天皇の吉野行幸に際して、天皇の詔を受けて詠んだという歌が載せられている。 ―八年丙子夏六月、芳野の離宮に幸せる時、山部宿禰赤人が詔を応(うけたまは)りてよめる歌一首、また短歌 やすみしし 我が大王の 見(め)したまふ 吉野の宮は 山高み 雲そ棚引く 川速み 瀬の音(と)そ清き 神さびて 見れば貴く よろしなへ 見れば清(さや)けし この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ 百敷の 大宮所 止む時もあらめ(1005) 反歌一首 神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川を吉(よ)み この歌は、赤人の作品の中で、製作年次(736年)のわかる最後のものである。赤人は先に、元正天皇に従って吉野に赴いた際にも儀礼歌を作っていた。 |
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■ 3
山部赤人にも、柿本人麻呂同様旅を歌った長歌がある。おそらく、人麻呂と同じく官人としての立場で、地方の国衙に赴任する途中の歌と思われる。それも、上級の役人としてではなく、中級以下の役職だったのだろう。赤人は、儀礼歌の作者として宮廷の内外に知られていたから、旅にして作った歌も、それらの人々に喜ばれたに違いない。 儀礼歌と異なり、自由な発想の歌であるから、そこには、赤人の個性がいっそう強く表れている。すでに、儀礼歌においても、赤人は人麻呂の神話的なイメージを捨てて、叙景に新しい境地を開いていた。旅の歌には、その叙景的なイメージが美しく盛られている。 まず、万葉集巻六から、辛荷の島を過ぐる時の歌をあげよう。辛荷の島は、兵庫県室津の沖合に浮かぶ三つの小島からなる。赤人は、大和をたって、難波津から瀬戸内海を西へ向かっていたと思われる。 ―辛荷(からに)の島を過ぐる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 あぢさはふ 妹が目離(か)れて 敷細(しきたへ)の 枕も巻かず 桜皮(かには)巻き 作れる舟に 真楫(かぢ)貫き 吾が榜ぎ来れば 淡路の 野島も過ぎ 印南嬬(いなみつま) 辛荷の島の 島の際(ま)ゆ 我家を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり来ぬ 榜ぎ廻(たむ)る 浦のことごと 行き隠る 島の崎々 隈も置かず 思ひそ吾が来る 旅の日長み(942) 反歌三首 玉藻刈る辛荷の島に島回(み)する鵜にしもあれや家思はざらむ(943) 島隠り吾が榜ぎ来れば羨(とも)しかも大和へ上る真熊野の船(944) 風吹けば波か立たむと伺候(さもらひ)に都太(つた)の細江に浦隠り居り(945) 桜皮とは、字の通り桜の皮を巻いた粗末な船のことだろう。そんな船をこぎつつ、辛荷の島までやってくると、そこからは妹が住む大和はもう見えない。周囲には、浦々と島の崎々が見えるのみだ。そんな折に、鵜を見ると、自分も鵜になって家のほうに泳いでいきたい気分になる。ざっとこんなところが、この歌に寄せた赤人の思いだったろうか。 自然や生き物に仮託しつつ、自らの思いを述べる、赤人の態度が良く現れた歌であるといえよう。 上の歌に続いて、敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時の歌が載せられている。敏馬の浦もやはり瀬戸内海沿いの浦である。 ―敏馬の浦を過ぐる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 御食(みけ)向ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松(ふかみる)摘み 浦廻には 名告藻(なのりそ)苅り 深海松の 見まく欲しけど 名告藻の 己が名惜しみ 間使も 遣らずて吾は 生けるともなし(946) 反歌一首 須磨の海人の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ(947) この歌も、自然の叙景に事寄せて、妻に寄せる夫の思いを詠み込んだものである。間使とは、男女の間を取り持つ使いのこと。それをやらずてとは、妻に対して、別れの挨拶を尽くせなかった悔いの気持だろうか。この時代、妻問婚が結婚の普通の形態であった。だから、赤人は別居していた妻と、十分別れをおしむ機会がなかったのかもしれない。 最後に、万葉集巻三から、伊予の温泉に至ったときの歌をあげよう。温泉とは道後温泉をさす。古くから名湯として知られ、今でも多くの人びとを集めている。赤人は、四国の国衙に赴任して後、この名高い温泉を訪ねたのだろう。 かつて、舒明天皇がこの地に遊び、また、斉明女帝は百済へ出兵すべく西へ向かう途中、伊予の熟田津に立寄った。赤人は、そうした歴史的な事実を踏まえてこの一篇を作っている。全体の調子が、儀礼歌を思い起こさせる。 ―山部宿禰赤人が伊豫温泉(いよのゆ)に至(ゆ)きてよめる歌一首、また短歌 皇神祖(すめろき)の 神の命の 敷き座(ま)す 国のことごと 湯はしも 多(さは)にあれども 島山の 宣しき国と 凝々(こご)しかも 伊豫の高嶺の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思はしし み湯の上の 木群を見れば 臣木(おみのき)も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ 行幸処(いでましところ)(322) 反歌 ももしきの大宮人の熟田津(にきたづ)に船乗りしけむ年の知らなく(323) 道後温泉は、今では松山の市街地の一角にあるが、赤人の時代には山に囲まれた湯だったのだろう。赤人は、その温泉を囲む山の上から湯煙が立ち込める木群を眺め下ろして、遠き世の行幸を思い出した。 |
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■ 4
山部赤人には、富士の高嶺を詠んだ歌がある。特に短歌のほうは、赤人の代表作の一つとして、今でも口ずさまれている。おおらかで、のびのびとした詠い方が、人びとを魅了する。万葉集の歌の中でも、もっとも優れたものの一つだろう。 この歌を、山部赤人が何時の頃に作ったかはわかっていない。赤人には、下総の真間の手古奈を読んだ歌があるから、東国に赴任したことがあったのだろう。この歌は、その東国への赴任の旅の途中に歌ったのかもしれない。 この時代、富士山は活火山であった。山頂からは常に白煙が立ち上り、天空に聳ゆるその威容は都の人々にも聞こえていただろうと思われる。それなのに、この山を直接に歌った歌は、東歌を含めて数少ない。赤人の歌は、その意味でも貴重なものである。 万葉集巻三雑歌の部から、この歌を取り出して、鑑賞してみよう。 ―山部宿禰赤人が不盡山を望てよめる歌一首、また短歌 天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠(かく)ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は(317) 反歌 田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける(318) 「天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き」という歌い出しは、人麻呂の儀礼歌のように荘重に聞こえる。赤人は、この名高い山を最もよい角度から見るために田子の浦に立ったのだろう。そこからは、富士の山容が周囲の自然を圧倒して見えたに違いない。大和にあっては決して見られないこの威容を、赤人は人麻呂振りに神格化して歌わずにはいられなかった。 「渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず」とあるのは、山頂から噴出する煙が、日や月の光をも隠してしまうほどすさまじかった様子を詠ったものだ。「白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける」とあるからして、恐らく晩秋か初冬の一日だったのであろう。そんな富士の頂に雪が降っている。そのさまが、富士の威容をいよいよ神さびたものにしている。 赤人は感動のあまり、「語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ」と絶叫する。最小限の言葉の装飾を以て、眼前の威容を最大限に表現しえているのではないだろうか。 |
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■ 5 山部赤人は、儀礼歌を中心にして多くの長歌を書いた。それらの歌は、人麻呂の儀礼的長歌と比べると、荘重さというよりは、叙景の中に人間的な感情を詠みこんだものが多かった。そして、この叙景という点では、赤人の本領は短歌において、いっそう良く発揮された。赤人は、人麻呂の時代と家持の時代を橋渡しする過渡期の歌人として、短歌を豊かな表現手段に高めた人だったといえる。 山部赤人の叙景歌は、長歌に付された反歌の中に優れたものが多い。それらは、先稿において言及したところであるから、ここでは、独立の短歌を取り上げたい。 まず、万葉集巻八から、一首を取り出してみよう。 ―山部宿禰赤人が歌一首 百済野の萩の古枝に春待つと来居し鴬鳴きにけむかも(1431) これは、鶯の鳴き声にことよせて、春の訪れを詠んだ歌である。かように、赤人の叙景歌は、自然や動物を生き生きと描きながら、そこに作者の思いを込めるというものが多い。 万葉集巻十七以後は、大伴家持が越中在任期間中に書き溜めた歌記録であるが、その中にも、赤人の歌が収められている。 ―山部宿禰赤人が春鴬を詠める歌一首 足引の山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声(3915) 右ハ年月所処、詳審カニスルコトヲ得ズ。但聞キシ時ノ随ニ茲ニ記載ス。 追記には、年月所処をつまびらかにせずとあるが、赤人の歌として伝わっていたものを、自分の歌日記に書きとめたのであろう。赤人の歌は、流行歌のように人々に迎えられ、口ずさまれていたのかもしれない。 野づかさとは、小高い丘を指す。その丘の上を鳴きつつ飛んでいく鶯に、赤人は春の到来を喜んだ。素直な気持がそのまま伝わってくるような、優れた歌である。 万葉集巻三には、柿本人麻呂の旅の歌と並んで、山部赤人の歌六首が納められている。いづれも、旅の途中に自然を詠んだ叙景歌と思われる。 ―山部宿禰赤人が歌六首 繩の浦ゆ背向(そがひ)に見ゆる沖つ島榜ぎ廻(た)む舟は釣しすらしも(357) 武庫の浦を榜ぎ廻む小舟粟島を背向に見つつ羨(とも)しき小舟(358) 阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこのごろ大和し思ほゆ(359) 潮干なば玉藻苅り籠め家の妹(も)が浜苞(はまつと)乞はば何を示さむ(360) 秋風の寒き朝開(あさけ)を狭野(さぬ)の岡越ゆらむ君に衣貸さましを(361) みさご居る磯廻に生ふる名乗藻(なのりそ)の名は告らしてよ親は知るとも(362) (357)と(358)については、アララギ派の歌人中村憲吉が丁寧な解説を加えながら、絶賛している。「釣しすらしも」と詠いつつ、そこに人間の営みを見ることが、歌を単なる叙景に終らせず、味わい深い暖かなものにしている。また、武庫の浦の歌も、粟島を背向に見つつ行きかう舟々のイメージが、作品に人間的な温かみを加えているという。 「秋風の」の歌については、古来異なった解釈があわせ行われてきた。これを素直に赤人の歌と解すれば、「君に」とあるのは赤人の友人をさすということになり、赤人がその友人に衣を勧める歌だと解することになる。 一方で、赤人が旅の途中に仮初に知り合った女から贈られた歌だとする説もある。この場合、「君に」とは、女から男に呼びかける言葉だというのである。 |
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■ 6 山部赤人には、恋の歌もいくつかある。それらの歌が、誰にあてて書かれたものかはわからないが、中には相聞のやりとりの歌も混じっていて、色めかしい雰囲気の歌ばかりである。赤人は、叙景の中に人間のぬくもりを詠みこむことに長けていたと同時に、人間の心のときめきを表現することにもぬきんでていた。 まず、万葉集巻八から、赤人の恋の歌四首を取り上げてみよう。 ―山部宿禰赤人が歌四首 春の野にすみれ摘みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にける(1424) あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも(1425) 我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば(1426) 明日よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪は降りつつ(1427) 「春の野に」の歌は、赤人の恋の歌として、あまりにも有名な作品である。それ故、様々な解釈もなされてきた。中には、これは春の気分に浮かれるあまり、野原で寝てしまったことよと、春を強調するに過ぎないとする、うがった見方もある。 アララギ派の歌人山本憲吉は、これは恋愛の心を詠ったもので、一夜寝たのも無論女の家であると断定している。筆者にもそのように思われる。一首を素直に詠めば、誰しもそう思うであろう。また、そう読むことによって、この歌の趣も深まると思うのである。その女が誰かはわからぬが、そんなことを抜きにして、色めいたあでやかな歌だといえよう。 「あしひきの」の歌も、山桜が日ごと咲きひろがる様子に、春の訪れの喜びを感じ、そこに自然と女を思う気持ちが湧き出ている。春とは、不思議な季節なのだ。 「我が背子に」の歌は、赤人が友人に宛てて贈ったのだという説が有力である。だが、歌の趣旨からして、これは女が赤人にあてた歌ではないかという説もある。背子という言葉は、通常、女が男に向かっていう言葉だからだ。この歌の次にある「明日よりは」の歌は、女の呼びかけに答えて赤人が詠ったのであろうとも解釈される。 あなたとともに、春の気配がいっぱいに広がる野原に出かけていって、一緒に春菜を摘もうと思っていたのに、昨日も今日も雪が降り続いて、なかなかその思いがかなわない。赤人のこの残念な思いは、素敵なデートを何かの事情で邪魔された現代人にも通じるところがある。 同じく、万葉集巻八は、赤人の次の歌を載せている。 ―山部宿禰赤人が歌一首 恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり(1471) これは、藤が咲いたのをみて、女の面影を思い出した歌である。あなたの形見に植えた藤が今咲いたよ、と詠っているのである。その女は今、どうしているのだろう。それは、歌からはわからない。だが、藤の花に寄せて、恋心を詠うところは、いかのも赤人らしい。 この歌などは、万葉の世界を超えて、古今集の歌いぶりにもつながる歌だといえる。 赤人は、恋を詠った長歌も残している。万葉集巻三にある、次の歌がそうだ。 ―山部宿禰赤人が春日野に登りてよめる歌一首、また短歌 春日(はるひ)を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 容鳥(かほとり)の 間なく屡(しば)鳴く 雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 立ちて居て 思ひぞ吾がする 逢はぬ子故に(372) 反歌 高座の三笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも(373) 内容からみて、これは片恋の歌である。赤人は、いつ、誰に対して片恋をしたのだろうか。儀礼歌や旅の途中の叙景歌では、おおらかにのびのびと詠った赤人も、片恋を詠うときには、このように、臆病なほどの繊細さを発揮する。 「昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと」とは、人麻呂の修辞法を思い出させる。赤人が自らの感情をもてあまして、照れ隠しに使った言葉のようにも受け取れる。しかして、会うことができないあなたのために、わたしの心はこんなにも恋焦がれていますと結ぶ。しおらしい限りというべきではないか。この恋が、果たして実ったのかどうか、それは永遠の謎として残されている。 |
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■ 7 万葉集巻三に、山部赤人が葛飾の真間の手古奈伝説に感興を覚えて詠んだ歌がある。手古奈はうら若い乙女であったが、自分を求めて二人の男が争うのを見て、罪の深さを感じたか、自ら命をたったという伝説である。赤人は、鄙の地にかかる悲しい話が伝わっているのに接して、哀れみの情を覚え、歌にしたものと思える。 ―勝鹿の真間の娘子が墓を過れる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 古に ありけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯解き交へて 臥屋建て 妻問しけむ 勝鹿の 真間の手兒名が 奥津城を こことは聞けど 真木の葉や 茂みたるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我は 忘らえなくに(431) 反歌 我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ(432) 勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ(433) 勝鹿は葛飾とも書く。もと下総の一部分で、いまは千葉、埼玉、東京の三県にまたがっているが、この伝説は千葉県市川地方を舞台にしていた。現在でも、市川弘法寺の隣に手古奈を祀った霊堂が立っている。 古にありけむ人が臥屋をたてて妻問したというから、手古奈は誰かの思い人だったのだろう。歌には触れられていないが、この臥屋に別の男が通うようになったのかもしれない。 妻問とあるとおり、この時代は、男が女のもとに通うのが結婚のあり方だったから、夫の不在の折には、他の男が愛を求めて通うことがあっても、不思議ではなかった。だが、手古奈は、そんな自分に罪の深さを感じた。彼女は、罪を償おうとして自らの命を絶った。そこに、赤人は感動したのだろう。反歌には、手古奈の墓を見ての感動がいっそう強く歌われている。 手古奈の伝説は、広くいきわたっていたらしく、万葉集巻十四の東歌にも、それに触れた作品がある。 葛飾の真間の手兒名をまことかも我に寄すとふ真間の手兒名を(3384) 葛飾の真間の手兒名がありしかば真間の磯辺(おすひ)に波もとどろに(3385) 足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(3387) 東歌らしい無骨さの限りで、何らのロマンをも感じさせないが、伝説中の美女を思いやる気分は伝わってくる。 手古奈を詠った歌としては、もう一つ、高橋虫麻呂の作品が万葉集に載せられている。 ―勝鹿の真間娘子を詠める歌一首、また短歌 鶏が鳴く 東の国に 古に ありけることと 今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿の 真間の手兒名が 麻衣(あさきぬ)に 青衿(あをえり)着け 直(ひた)さ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 履をだに はかず歩けど 錦綾の 中に包める 斎(いは)ひ子も 妹にしかめや 望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 水門入りに 舟榜ぐごとく 行きかがひ 人の言ふ時 幾許も 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く湊の 奥城に 妹が臥(こ)やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも(1807) 反歌 勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手兒名し思ほゆ(1808) 「鶏が鳴く」は関東の枕詞、都に先立って夜が明けることから、そういわれた。この歌には、手古奈の面影が、赤人の歌以上に詳細に語られている。「麻衣に 青衿着け 直さ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 履をだに はかず歩けど 錦綾の 中に包める 斎ひ子も 妹にしかめや」とは、貧しい農民の女ながら、その美しさは着飾った富める女も及ばないと、手兒名のういういしさを強調している。 その手兒名が、「望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば」、どんな男も心を動かされたに違いない。「夏虫の 火に入るがごと」、彼女の魅力に引き寄せられた。 「行きかがひ人の言ふ時」とは、複数の男が、入れ替わり手古奈に言い寄るさまを詠んだのだろう。 ところが、手古奈は「何すとか身をたな知りて」命を絶った。自分の身の浅ましさをはかなんだのでもあろうか。 虫麻呂は手古奈の墓を見て、その薄幸に同情し、「奥城に 妹が臥やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも」と思いつつ、この歌を詠んだのである。 |
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■5.猿丸大夫 (さるまるだゆう) | |
奥山(おくやま)に 紅葉踏(もみじふ)み分(わ)け 鳴(な)く鹿(しか)の
声聞(こゑき)く時(とき)ぞ 秋(あき)は悲(かな)しき |
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● 奥山で紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞く時こそ、秋の悲しさを感じるものだ。 / 遠く人里離れた奥山で、一面散り積もった紅葉の枯れ葉を踏み分けながら、恋の相手を求めて鳴く雄鹿の声を聞くときこそ、秋の悲しさはひとしお身にしみて感じられるものだ。 / 人里離れた山の奥深くで、散って敷きつめられたような紅葉を踏みながら鳴いている鹿の声を聞いたときこそ、秋がひときわもの寂しく感じられるものだなぁ。 / 奥深い山の中で、(一面に散りしいた)紅葉をふみわけて鳴いている鹿の声を聞くときは、この秋の寂しさが、いっそう悲しく感じられることだ。
○ 奥山 / 人里離れた山。深山ともいう。人里に近い山を意味する外山・端山の対義語。 ○ 紅葉踏みわけ / 主語は鹿。人とする説もある。 ○ 鳴く鹿の / 秋に雄鹿が雌鹿に求愛して鳴く。 ○ 声きく時ぞ秋は悲しき / 「ぞ」と「悲しき」は、係り結び。「ぞ」は強意の係助詞。「悲しき」は、形容詞の連体形。 |
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■ 1
猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう)とは、三十六歌仙の一人。生没年不明。「猿丸」は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者の称。 元明天皇の時代、または元慶年間頃の人物ともいわれ、実在を疑う向きもある。しかし『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には六歌仙のひとりである大友黒主について、「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(つぎて)なり」と述べていることから、すくなくとも『古今和歌集』が撰ばれた頃には、それ以前の時代の人物として知られていたものと見られる。 「猿丸大夫」という名について六国史等の公的史料に登場しないことから、本名ではないとする考えが古くからある。さらにその出自についても、山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、天武天皇の子弓削皇子とする説や道鏡説、また民間伝承では二荒山神社の神職小野氏の祖である「小野猿丸」とする説など諸説ある。 猿丸大夫に関する伝説は日本各地にあり、芦屋市には猿丸大夫の子孫と称する者がおり、堺にも子孫と称する者がいたという。長野県の戸隠には猿丸村というところがあって、猿丸大夫はその村に住んでいたとも、またその村の出身とも伝わっていたとの事である。しかしこれらの伝説伝承が、『古今和歌集』や三十六歌仙の猿丸大夫に結びつくかどうかは不明である。 なお哲学者の梅原猛は、著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物であるとの仮説を示しているが、これにも有力な根拠は無い。 ■和歌と歌集 『小倉百人一首』には猿丸大夫の作として、以下の和歌が採られている。 おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき ただしこの歌は、『古今和歌集』では作者は「よみ人しらず」となっている。菅原道真の撰と伝わる『新撰万葉集』にも「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」の表記で採られているが、これも作者名はない。また三十六歌仙の歌集『三十六人集』には、猿丸大夫の歌集であるという『猿丸集』なるものがあるが、残されているいくつかの系統の伝本を見ても、その内容は全て後人の手による雑纂古歌集であり、『猿丸集』にある歌が猿丸大夫が詠んだものであるかは疑わしいとされる。なお「おくやまに」の歌は『猿丸集』にも入っているが語句に異同があり、 あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき となっている(御所本三十六人集に拠る)。 ■「猿丸大夫」の読み方 鴨長明の『方丈記』には、長明が俗世を捨ててののち近畿内の名所を尋ねるくだりで以下のような記述がある。 「…若(もし)ハ又、アハヅノハラヲワケツヽ、セミウタノヲキナガアトヲトブラヒ、タナカミ河ヲワタリテ、サルマロマウチギミガハカヲタヅヌ…」 このなかの「サルマロマウチギミ」というのは、猿丸大夫のことである。「サルマロ」は「猿丸」、「マウチギミ」は「大夫」に当たる。これは『方丈記』だけではなく、陽明文庫蔵の『古今和歌集序注』にも、この猿丸大夫の「大夫」の字の脇に「マウチキミ」という振り仮名が付けられており、ほかにも猿丸大夫を「サルマロマウチキミ」と読む文献がある。 『方丈記』が書かれた頃には、「大夫」は五位の官人の通称となっていたが、それ以前にさかのぼれば五位より上の高位の官人のことを称した。「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり」ということは、猿丸大夫は『古今和歌集』以前に遡るかなり古い時代の人物ということになる。ゆえに中世では猿丸大夫は五位ではなく、もっと位の高い人物のように見る向きがあり、「サルマロマウチギミ」と呼ばれたと見られる。「マウチギミ」とは天皇のそば近く仕える者、すなわち大臣や側近という意味である。 江戸時代にもなると、「猿丸大夫」は「さるまるだゆう」と読まれている。「大夫」はその漢字音に従えば「たいふ」とよむのが本来ではあるが、後世「太夫」とも表記され、また「たゆう」とも読むようになっていた。『国書総目録』および『日本古典文学大辞典』(岩波書店)においては、「猿丸大夫」(猿丸太夫)は「さるまるだゆう」という読み仮名が付けられている。 ■日光山にまつわる伝説 『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷のことだといわれる)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧めにより、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話がある。これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという。下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とすると伝わる。また宇都宮明神(下野国河内郡二荒山神社)はかつて猿丸社とも呼ばれ奥州に二荒信仰を浸透させたといわれている。『二荒山神伝』にも、『日光山縁起』と同様の伝承が記されている。『二荒山神伝』は江戸時代初期の儒学者林道春が、日光二荒山神社の歴史について漢文で記したものである。 ■柿本人麻呂との関連 謎の多いこの二人について、哲学者の梅原猛が『水底の歌-柿本人麻呂論』において同一人物との論を発表して以来、少なからず同調する者もいる。 梅原説は、過去に日本で神と崇められた者に尋常な死をとげたものはいないという柳田國男の主張に着目し、人麻呂が和歌の神・水難の神として祀られたことから、持統天皇や藤原不比等から政治的に粛清されたものとし、人麻呂が『古今和歌集』の真名序では「柿本大夫」と記されている点も取り上げ、猿丸大夫が三十六歌仙の一人と言われながら猿丸大夫作と断定出来る歌が一つもないことから(「おくやまに」の和歌も猿丸大夫作ではないとする説も多い)、彼を死に至らしめた権力側をはばかり彼の名を猿丸大夫と別名で呼んだ説である。 しかしながらこの説が主張するように、政治的な粛清に人麻呂があったのなら、当然ある程度の官位(正史に残る五位以上の位階)を人麻呂が有していたと考えるのが必然であるが、正史に人麻呂の記述が無い点を指摘し、無理があると考える識者の数が圧倒的に多い。 |
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■ 2
猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう、生没年不明)は、三十六歌仙の一人。猿丸は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者や伊勢神宮の神職のうち五位の御禰宜、神社の御師、芸能をもって神事に奉仕する者の称である。 元明天皇の時代、または元慶年間頃の人物とも言われ、実在した人物かどうかすら疑う向きもある。 さらに、その出自についても、その名が『六国史』をはじめとする公的史料に登場しないことから、これは本名ではなかろうとする考えが古くからあり、山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、天武天皇の子弓削皇子とする説や道鏡説、二荒山神社の神職小野氏の祖である「猿丸」説など諸説ある、謎の人物である。哲学者の梅原猛は、著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物であるとの仮説を示しているが、これにも有力な根拠は無い。 猿が古来より日枝(比叡)の神使であること、さらに、当初は京に住し、後に秦氏により京を追われ近江国比叡山北東麓に勢力範囲を移し、その子孫が金属採掘による富を求めて東国に広まり、二荒山神社の神職をも輩している小野氏と、二荒信仰を東国に広めたとも云われる猿丸の東国に纏わる史料が多いことから、猿丸大夫とは山王信仰や二荒信仰を東国各地に広めた日枝や二荒の神職を総称した架空の人物とする見方もある。 何れにせよ、『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には六歌仙のひとりである大友黒主について、「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり」とあることから、すくなくとも『古今和歌集』が撰ばれた時代までに、それ以前の古い時代の歌人として、あるいは架空の人物であったとしても一人の歌人として認知されていたことが分かる。 ■作品 奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷(おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき) 花札の「もみじに鹿」の取り合わせは、この歌による。ただし『古今和歌集』ではこの歌は「よみ人しらず」となっている。また三十六歌仙の歌集『三十六人集』の中には猿丸大夫の歌集であるという『猿丸集』なるものがあるが、残されているいくつかの系統の伝本を見ても、その内容は全て後人の手による雑纂古歌集であり、その中の歌が猿丸大夫が詠んだものであるかは疑わしいとされる。なお「おくやまに」の歌は『猿丸集』にも入っているが語句に異同があり、「あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき」となっている(御所本三十六人集に拠る)。 ■出自 『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷のことだといわれる)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島神(使い番は鹿)の言葉により、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話があり(これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという)、『二荒山神伝』にもこの戦いについて記されている。これにより下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とするという。また宇都宮明神(下野国河内郡二荒山神社)はかつて猿丸社とも呼ばれ奥州に二荒信仰を浸透させたといわれている。 歴史書『六国史』に拠ると、二荒神は承和3年(836年)に従五位上の神階で貞観11年(869年)までに正二位へと進階したが、赤城神の方は二荒神が従二位の階位にあった貞観9年(867年)にようやく従五位上、元慶4年(880年)の時点でも従四位上で二荒神と比べれば遥かに低位である。赤城神は11世紀に正一位を授かり二荒神と同列に序されるが、少なくとも平安時代末期までは二荒神の勢力が赤城神に勝っていたと考えられ、古今和歌集が成立する905年(延喜5年)までにこの説話の元となる出来事が実際にあり、『六国史』にはその名が見えない「猿丸大夫」という謎の人物像が定着し、紀貫之が古今和歌集にその名を載せたと推察するのは容易である。 また、歴史書『類聚国史』に拠ると、小野氏は弘仁年間に巫女であった猿女君の養田を奪って自分の娘に仮冒させたとあり、ここにも小野氏と猿、神事を司る者の関係が見て取れる。 猿丸大夫に関する伝説は日本各地にあり、芦屋市には猿丸大夫の子孫と称する者がおり、堺にも子孫と称する者がいたという。また長野県の戸隠には猿丸村というところがあって、猿丸大夫はその村に住んでいたとも、またその村の出身とも伝わっていたとの事である。しかしこれらの伝説伝承が、『古今和歌集』や三十六歌仙の猿丸大夫に結びつくかどうかは不明である。 |
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■ 3
猿丸神社 ■瘤(こぶ)取りの神「猿丸さん」 「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき」の歌で 有名な猿丸大夫(さるまるだゆう)は古来、歌道の神として崇められ、その徳を慕う多くの文人墨客がこの地を訪ねています。また、近世に入ってからは、瘤・出来物や身体の腫物の病気を癒す霊験が あるとして、"こぶ取りの神"更には"癌封じの神"と篤く信仰されるようになりました。 今日では、南山城地方を中心に遠方よりも広く篤く信仰を集め、 家内安全・無病息災・病気平癒、交通安全、厄除け、また学業・ 受験の守護神として、親しみを込めて"猿丸さん"の呼称で信仰されて、毎月13日の月次祭には多くの人々の参詣で賑わいます。 ■御祭神 猿丸大夫(さるまるだゆう) 出生来歴については不詳ですが、『古今和歌集』の「真名序」にその名がみえ、奈良時代末期から平安時代初期にかけての歌人とされ、天武天皇の皇子・弓削皇子、柿本人麻呂の世をしのぶ名、その他諸説があります。 平安時代中期には、藤原公任によって三十六歌仙の一人に数えられ、その後は藤原定家の『小倉百人一首』にも撰ばれて広く世に知られるようになりました。 ■御由緒 平安時代の末期、山城国綴喜郡"曾束荘"(現在の滋賀県大津市大石曽束町)に猿丸大夫の墓があったとされ、山の境界争論により、江戸時代初期にほぼ現在地に近い場所に遷し祀ったものと思われ、その霊廟に神社を創建したのが始まりです。 鎌倉時代前期の歌人・鴨長明は『無名抄』に、「田上のしもの曽束といふ所に、猿丸大夫の墓があり、庄のさかひにて、そこの券に書きのせたれば、みな知るところなり」と書き留めています。 神社に伝わる絵馬(正保2年=1645)には、禅定寺地区の氏子中が社殿を建立したとあります。 その頃、当社を参拝した伏見・深草住の日蓮宗高僧・元政上人は、「有猿丸祠。此亦大夫遊處之地。而村民奉祀也」『扶桑隠逸伝』と書き残しています。 |
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■ 4
猿丸大夫は古代の歌人ですが、その実体には謎が多いと言われます。というか、実際に存在したという根拠がほとんどないんですね。藤原公任撰による三十六歌仙 の一人で、『小倉百人一首』に採られているのは、「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」ですよね。ま、意味は解説するまでもないでしょう。ただ、この歌は『古今和歌集』では「詠み人知らず」となっています。また、『猿丸集』という個人歌集もあるのですが、採録された歌はほぼ別人のものであろうとされる、かなり怪しい代物です。ですから、猿丸大夫の正体というより、実在の人物かどうかが争点であるといえます。 さて、猿丸大夫の実在が疑われる最大の要因は、彼の記録が『六国史』などの公的資料に登場しないからです。「太夫」というのは五位以上の官人という意味なので、位階を持っているなら記されてしかるべきです。ならばこれは変名であろう、という考えは当然出てきます。何らかの理由で改名した、あるいは正史にその名を記すことができない理由がある。しかし、後者のほうはどうなんでしょう。日本の正史は基本的に、かなりの極悪人でもその名前は出てきます。例えば、歴史上初めて現役天皇を弑逆した蘇我馬子なんかもそうですよね。 この別人説でおそらく一番有名なのは、哲学者の梅原猛氏の著作である『水底の歌』に出てくる「柿本猨(さる)」説です。これは3人の人物が重なっていて、猿丸太夫=柿本猨=柿本人麻呂 となります。柿本人麻呂は歌聖とも称される人物で、実在であったことは間違いないと思いますが、正史には記録がないので、身分は低かったろうと考えられます。草壁皇子の舎人説を賀茂真淵が唱えており、これが定説に近いでしょう。柿本猨のほうは『日本書紀』にその名が出てきていて、実在の人物です。梅原氏の論は、柿本人麻呂が何かの罪を得て、無理やり猨(さる)に改名させられ、石見国で水死刑にされた、というものです。 ちなみに、人麻呂も三十六歌仙の一人で、猿丸太夫とはダブって入っていることになります。あと、10世紀成立の古今和歌集の序文にも2人とも登場していて、紀貫之のかな書きの序文には、柿本人麻呂「正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける」この人麻呂が正三位という高い位にされているのも謎な部分なのですが、これは余談。漢文の序文には「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり」ということで、人麻呂は7〜8世紀の人なのですが、後世にはそれぞれ別人と見られていたのではないかと思います。 確かに罰としての改名の例はあります。道鏡と宇佐神宮神託事件に関連して、「和気清麻呂」が「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に、姉の「広虫」が「狭虫」に、称徳天皇の命によって改名され、流罪になっていますね。「人」→「猿」という連想はたいへん面白いですが、反論として、猿などの動物の名は当時は特に不自然ではないというものがあります。時代は違いますが、前に出てきた蘇我馬子もそうですし、清麿の姉も広虫(ひろむし)です。広いが狭いにされてしまいましたが、虫の部分はそのままですね。梅原説のその他の部分も、綱渡り的な危うい論で組み立てられていて、定説となるのは難しそうですが、一部支持している史学者もいます。 これも余談ですが、もし人麻呂が刑死したのなら、命じたのは時代的に藤原不比等かもしれません。藤原不比等にも「羊太夫」という別人説があります。不比等→人ではない→羊 というわけです。「多胡碑」という古い碑文に、羊太夫が不比等から領地をもらった、という記載があり、伝承では、羊太夫は反乱を起こして誅殺されたことになっています。羊太夫はペルシャ人という話もあり、このあたりのことも調べるとなかなか興味深いですよ。 この他の猿丸太夫別人説としては、弓削皇子説、弓削道鏡説などもあります。弓と猿は関連があるみたいで、小野猿丸という弓の名手がいたようです。そこからきているようですが、まずありえないと思われます。 さてさて、梅原氏は論拠として、柳田国男の、「過去に日本で神と崇められた者に尋常な死をとげたものはいない」という説に着目して『水底の歌』に着手したということです。これは一般論としはそのとおりで、御霊である菅原道真、崇徳上皇など多くの例を上げることができますよね。しかし一方で柳田国男は、猿丸大夫とは「全国を巡って神事を行い、その際に歌を詠んだ集団についた名前ではないか」という説も出しています。ですから別々の複数人が詠んだ歌の作者として猿丸太夫の名が出ているのだろう、ということで、これはあってもおかしくない感じがしますね。 |
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■6.中納言家持 (ちゅうなごんやかもち) | |
鵲(かささぎ)の 渡(わた)せる橋(はし)に 置(お)く霜(しも)の
白(しろ)きを見(み)れば 夜(よ)ぞ更(ふ)けにける |
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● かささぎが連なって渡したという橋、つまり、宮中の階段におりる霜が白いのをみると、もう夜もふけてしまったのだなあ。 / かささぎが翼を並べて架けたといわれる天の川の橋。それにたとえられる宮中の橋に真っ白な霜が降りて、その白の深さを見るにつけても、夜もいっそう更けてきたことよ。 / 七夕の夜に天の川に橋を掛けるというカササギ。そのカササギが天界のような宮殿に掛けた橋に霜が降りているなぁ。その白さにを見ると、夜がずいぶんと更けたなぁと思う。 / かささぎが渡したという天上の橋のように見える宮中の階段であるが、その上に降りた真っ白い霜を見ると、夜も随分と更けたのだなあ。
○ かささぎの渡せる橋 / カラス科の鳥。中国の伝説では、七夕の夜に翼を広げて連なることで天の川に橋をかけ、織女を牽牛のもとへ渡すとされた。この歌では、橋は階(はし)を意味し、宮中の御階(みはし)を、かささぎが渡した天の川の橋に見立てている。 ○ おく霜の / 「おく」は、おりる。霜がおりるさまを表す。「の」は、主格の格助詞。 ○ 白きをみれば / 「白き」は、形容詞連体形の準体法。「白いの・白い光景」の意。 ○ 夜ぞふけにける / 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「ぞ」は強意の係助詞。「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「ける」は、過去(詠嘆)の助動詞。 |
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大伴家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 - 延暦4年8月28日(785年10月5日)は奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。 父・旅人が大宰帥として大宰府に赴任する際には、母・丹比郎女、弟・書持とともに任地に従っている。後に母を亡くし、西下してきた叔母の大伴坂上郎女に育てられた。天平2年(730年)旅人とともに帰京。 天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙せられる。天平18年(746年)3月に宮内少輔、6月に越中守に任ぜられ、天平勝宝3年(751年)まで赴任。この間に223首の歌を詠んだ。 少納言に任ぜられ帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、『万葉集』の防人歌収集につながっている。天平宝字2年(758年)に因幡守。翌天平宝字3年(759年)1月に因幡国国府で『万葉集』の最後の歌を詠む。 天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱には参加しなかったものの、藤原良継(宿奈麻呂)・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺計画を立案したとされる。暗殺計画は未遂に終わり、天平宝字7年(763年)に4人は逮捕されるが、藤原良継一人が責任を負ったことから、家持は罪に問われなかったものの、翌天平宝字8年(764年)に薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。天平宝字8年(764年)9月、藤原仲麻呂の乱で藤原仲麻呂が死去。 神護景雲1年(767年)大宰少弐に転じる。神護景雲4年(770年)称徳天皇が没すると左中弁兼中務大輔と要職に就き、同年正五位下に昇叙。光仁朝では式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の守を歴任する一方で、宝亀2年(772年)従四位下、宝亀8年(777年)従四位上、宝亀9年(778年)正四位下と順調に昇進、宝亀11年(780年)参議に任ぜられ公卿に列し、翌宝亀12年(781年)には従三位に叙せられた。 桓武朝に入ると、天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われて一時的に解官され都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。同年4月には罪を赦され参議に復し、翌延暦2年(783年)に中納言に昇進するが、延暦4年(785年)兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没したという説と遙任の官として在京していたという説がある。したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがある。 没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国に配流となった。延暦25年(806年)に罪を赦され従三位に復された。 ■歌人 長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七〜二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。勅撰歌人として、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に60首が採られている。太平洋戦争中に玉砕を報せる大本営発表の前奏曲として流れた「海ゆかば」(作曲:信時潔)の作詞者でもある。 |
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海行かば 『海行かば』(うみゆかば)とは、日本の軍歌ないし歌曲の一である。詞は、『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。この詞には、明治13年(1880年)に当時の宮内省伶人だった東儀季芳も作曲しており、軍艦行進曲の中間部に今も聞くことができる。 当時の大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲。信時潔がNHKの嘱託を受けて1937年(昭和12年)に作曲した。信時の自筆譜では「海ゆかば」である。出征兵士を送る歌として愛好された(やがて、若い学徒までが出征するにおよび、信時は苦しむこととなる)。放送は1937年(昭和12年)10月13日から10月16日の国民精神総動員強調週間に「新しい種目として」行われたとの記録がある。本来は、国民の戦闘意欲高揚を意図して制定された曲だった。本曲への国民一般の印象を決定したのは、大東亜戦争(太平洋戦争)期、ラジオ放送の戦果発表(大本営発表)が玉砕を伝える際に、必ず冒頭曲として流されたことである(ただし真珠湾攻撃成功を伝える際は勝戦でも流された)。ちなみに、勝戦を発表する場合は、「敵は幾万」、陸軍分列行進曲「抜刀隊」、行進曲『軍艦』などが用いられた。曲そのものは賛美歌風で、「高貴」ないし「崇高」と形容して良い旋律である。それゆえ、敗戦までの間、「第二国歌」「準国歌」扱いされ、盛んに愛唱されたが、戦後は事実上の封印状態が続いた(関連作品参照)。創立以来1958年まで桜美林学園は旋律を校歌に採用していた。 海行(うみゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山やま行ゆかば 草生(くさむ)す屍(かばね) 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死(し)なめ かへりみはせじ (長閑(のど)には死(し)なじ) 歌詞は2種類ある。「かえりみはせじ」は、前述のとおり「賀陸奥国出金詔書歌」による。一方、「長閑には死なじ」となっているのは、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)による。大伴家持が詔勅の語句を改変したと考える人もいるが、大伴家の「言立て(家訓)」を、詔勅に取り入れた際に、語句を改変したと考える説が有力ともいわれる。万葉学者の中西進は、大伴家が伝えた言挙げの歌詞の終句に「かへりみはせじ」「長閑には死なじ」の二つがあり、かけあって唱えたものではないか、と推測している。 [原歌] 陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持) 葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る みつき宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 武士の 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み [現代語訳] 葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された 天照大神からの神様たる天皇の祖先が 代々日の神の後継ぎとして 治めて来られた 御代御代、隅々まで支配なされる 四方の国々においては 山も川も大きく豊かであるので 貢ぎ物の宝は 数えきれず言い尽くすこともできない そうではあるが 今上天皇(大王)が、人びとに呼びかけになられ、善いご事業(大仏の建立)を始められ、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され 御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に 黄金があると奏上があったので 御心のお曇りもお晴れになり 天地の神々もこぞって良しとされ 皇祖神の御霊もお助け下さり 遠い神代にあったと同じことを 朕の御代にも顕して下さったのであるから 我が治国は栄えるであろうと 神の御心のままに思し召されて 多くの臣下の者らは付き従わせるがままに また老人も女子供もそれぞれの願いが満ち足りるように 物をお恵みになられ 位をお上げになったので これはまた何とも尊いことであると拝し いよいよ益々晴れやかな思いに満たされる 我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」と誓って、ますらおの汚れないその名を、遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、そのような祖先の末裔であるぞ。大伴と佐伯の氏は、祖先の立てた誓い、子孫は祖先の名を絶やさず、大君にお仕えするものである と言い継いできた 誓言を持つ職掌の氏族であるぞ 梓弓を手に掲げ持ち、剣太刀を腰に佩いて、朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ 大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊くありがたい |
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大伴家持の生涯と万葉集 ■大伴氏の跡取り二上山の家持像 大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、生まれ年は養老(ようろう)2年(718)といわれています。母は旅人の正妻ではなかったのですが、大伴氏の家督(かとく=相続すべき家の跡目)を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)のもとで育てられました。けれどもその郎女とは11歳の時に、また父の旅人とは14歳の時に死別しました。家持は大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、しっかりと学んでいました。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に『万葉集』編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得することができたようです。またその歌をたどっていくと、のびのびとした青春時代をすごしていたようです。 ■越中に国守として赴任 越中国庁址(雪の勝興寺) 天平10年(738)に、はじめて内舎人(うどねり=律令制で、中務(なかつかさ)省に属する官。名家の子弟を選び、天皇の雑役や警衛に当たる。平安時代には低い家柄から出た。)として朝廷に出仕しました。その後、従五位下(じゅごいげ)に叙(じょ)せられ、家持29歳の年の天平18年3月、宮内少輔(しょうふ=律令制の省の次官)となります。同年6月には、越中守に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、越中国に在任しました。着任の翌月にはたった一人の弟書持(ふみもち)と死別するなどの悲運にあいますが、家持は国守としての任を全うしたようです。この頃は、通常の任務のほかに、東大寺の寺田占定などのこともありましたが、この任も果たしています。家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります。 ■帰京後、政権の嵐の中で 家持は越中守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位に昇進しますが、帰京後の昇進はきわめて遅れ、正五位下に進むまで21年もかかっています。しかもその官職は都と地方との間をめまぐるしくゆききしており、大伴氏の氏上としては恵まれていなかったことがうかがわれます。橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、さらに藤原氏の大伴氏に対する圧迫を受け続けていたのでしょう。家持は一族を存続するため、ひたすら抗争の圏外に身を置こうとしますが、そのため同族の信を失うこともあったようで、一族の長として奮起しなくてはならぬという責務と、あきらめとの間を迷い続けていたことを、『万葉集』に残した歌(4465・4468など)からうかがうことができます。 ■因幡国守、そして多賀城へ因幡国庁址 天平宝字3年(759)正月1日、因幡の国庁における新年の宴の歌を最後に『万葉集』は閉じられています。この歌のあと家持の歌は残されていません。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどうかもわかりません。家持は晩年の天応元年(781)にようやく従三位の位につきました。また、中納言・春宮大夫などの重要な役職につき、さらに陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍を兼ねます。家持がこの任のために多賀城に赴任したか、遙任の官として在京していたかについては両説があり、したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがあります。 ■家持の没後 延暦4年(785)68歳で没しました。埋葬も済んでいない死後20日余り後、藤原種継暗殺事件に首謀者として関与していたことが発覚し、除名され、領地没収のうえ、実子の永主は隠岐に流されます。家持が無罪として旧の官位に復されたのは延暦25年(806大同元年)でした。 ■家持と万葉集、越中時代 家持の生涯で最大の業績は『万葉集』の編纂に加わり、全20巻のうち巻17〜巻19に自身の歌日記を残したことでしょう。家持の歌は『万葉集』の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位です。しかも家持の『万葉集』で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首です。その関係で越中は、畿内に万葉故地となり、さらに越中万葉歌330首と越中国の歌4首、能登国の歌3首は、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっています。 ■異境の地で深まる歌境 越中守在任中の家持は、都から離れて住む寂しさはあったことでしょうが、官人として、また歌人としては、生涯で最も意欲的でかつ充実した期間だったと考えられています。そして越中の5年間は政治的緊張関係からも離れていたためか、歌人としての家持の表現力が大きく飛躍した上に、歌風にも著しい変化が生まれ、歌人として新しい境地を開いたようです。 ■越中の風土 国守の居館は二上山(ふたがみやま)を背にし、射水川(いみずがわ)に臨む高台にあり、奈呉海(なごのうみ)・三島野(みしまの)・石瀬野(いわせの)をへだてて立山連峰を望むことができます。また、北西には渋谿(しぶたに)の崎や布勢(ふせ)の水海など変化に富んだ遊覧の地があります。家持はこの越中の四季折々の風物に触発されて、独自の歌風を育んで行きました。『万葉集』と王朝和歌との過渡期に位置する歌人として高く評価される大伴家持の歌風は、越中国在任中に生まれたのです。 |
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大伴宿禰家持 (おおとものすくねやかもち) 718(養老2)?〜785(延暦4) 大伴宿禰旅人 (665(天智4)〜731(天平3))の長男。母は不詳(丹比氏の郎女か)。同母弟に書持、同母妹に留女之女郎がいる。正妻は坂上大嬢。子に永主と女子の存在が知られる。 727(神亀4)年冬か翌年春頃、父旅人は大宰帥として筑紫へ下向し、家持もこれに同行したと思われる。730(天平2)年6月、父は重態に陥り、聖武天皇の命により大伴稲公と大伴古麻呂が遺言の聞き役として派遣されたが、間もなく旅人は平癒し、二人の駅使が帰京する際催された悲別の宴には、大伴百代らと共に「卿の男」家持も参席した。同年末、旅人は大納言を拝命して帰京の途に就き、家持も同じ頃平城京佐保の自宅に戻ったと思われる。父は翌年7月死去し、家持は14歳にして佐保大伴家を背負って立つこととなった。 732(天平4)年頃から坂上大嬢や笠女郎と相聞を交わす。736(天平8)年9月には「大伴家持の秋の歌四首」を作る。これが制作年の明らかな最初の歌である。 739(天平11)年頃、蔭位により正六位下に初叙されたと思われる。この年6月、亡妾を悲傷する歌があり、これ以前に側室を失ったらしい。同年8月、竹田庄に坂上郎女・大嬢母娘を訪ねる。間もなく大嬢を正妻に迎えた。 740(天平12)年までに内舎人に任じられ、同年10月末に奈良を出発した関東行幸に従駕。11月、伊勢・美濃両国の行宮で歌を詠む。11.14、鈴鹿郡赤坂頓宮では供奉者への叙位が行われており、おそらくこの時正六位上に昇叙されたか。同年末の恭仁京遷都に伴い、単身新京に移住する。 741(天平13)年4月、奈良にいる弟書持と霍公鳥(ほととぎす)の歌を贈答する。この年か翌742(天平14)年の10.17、橘奈良麻呂主催の宴に参席し、歌を詠む(注1)。743(天平15)年7.26、聖武天皇は紫香楽離宮への行幸に出発するが、家持は留守官橘諸兄らと共に恭仁京に留まり、8月には「秋の歌三首」、「鹿鳴歌二首」・恭仁京賛歌を詠んでいる。同年秋か冬、安積親王が左少弁藤原八束の家で催した宴に参席し、歌を詠む。この時も内舎人とあるが、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁に留まっていることから、当時は親王専属の内舎人になっていたかと推測される。 744(天平16)年1.11、安積親王の宮があった活道岡で市原王と宴し、歌を詠む。ところが同年閏1月の難波宮行幸の途上、主君と恃んだ安積親王は急死し、これを悼んで2月から3月にかけ、悲痛な挽歌を作る。この時も内舎人とある。この後、平城旧京に帰宅を命じられたらしく、4月初めには奈良の旧宅で歌を詠んでいる。 745(天平17)年1.7、正六位上より従五位下に昇叙される。746(天平18)年1月、元正上皇の御在所での肆宴に参席し、応詔歌を作る。同年3.10、宮内少輔に任じられるが、わずか3か月後の6.21には越中守に遷任され、7月、越中へ向け旅立つ。8.7、国守館で宴が催され、掾大伴池主・大目秦忌寸八千嶋らが参席。同年9月、弟書持の死を知り、哀傷歌を詠む。この年以降、天平宝字2年1月の巻末歌に至るまで、万葉集は家持の歌日記の体裁をとる。 747(天平19)年2月から3月にかけて病臥し、これをきっかけとして大伴池主とさかんに歌を贈答するようになる。病が癒えると「二上山の賦」、「布勢水海に遊覧の賦」、「立山の賦」など意欲的な長歌を制作する。5月頃、税帳使として入京するが、この間に池主は越前掾に遷任され、久米広縄が新任の掾として来越した。 748(天平20)年春、出挙のため越中国内を巡行し、各地で歌を詠む。この頃から、異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌がしばしば見られるようになる。同年3月、諸兄より使者として田辺福麻呂が派遣され、歓待の宴を催す。4.21、元正上皇が崩御すると、翌年春まで作歌は途絶える。 749(天平21)年3.15、越前掾池主より贈られた歌に報贈する。同年4.1、聖武天皇は東大寺に行幸し、盧舎那仏像に黄金産出を報告したが、この際、大伴・佐伯氏の言立て「海行かば…」を引用して両氏を「内の兵(いくさ)」と称賛し、家持は多くの同族と共に従五位上に昇叙される。5月、東大寺占墾地使として僧平栄が越中を訪れる。この頃から創作は再び活発化し、「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」など多くの力作を矢継ぎ早に作る。 同年7.2、聖武天皇は譲位して皇太子阿倍内親王が即位する(孝謙天皇)。この頃家持は大帳使として再び帰京し、10月頃まで滞在。越中に戻る際には妻の大嬢を伴ったらしく、翌750(天平勝宝2)年2月の「砺波郡多治比部北里の家にして作る歌」からは、国守館に妻を残してきたことが窺える。同年3月初めには「春苑桃李の歌」など、越中時代のピークをなす秀歌を次々に生み出す。5月、聟の南右大臣(豊成)家の藤原二郎(継縄)の母の死の報せを受け、挽歌を作る。 751(天平勝宝3)年7.17、少納言に遷任され、足掛け6年にわたった越中生活に別れを告げる。8.5、京へ旅立ち、旅中、橘卿(諸兄)を言祝ぐ歌を作る。帰京後の10月、左大弁紀飯麻呂の家での宴に臨席。以後、翌年秋まで1年足らず作歌を欠く。 752(天平勝宝4)年4.9、東大寺大仏開眼供養会が催される。同年秋、応詔の為の儲作歌を作る。11.8、諸兄邸で聖武上皇を招き豊楽が催され、これに右大弁八束らと共に参席、歌を詠むが、奏上されず。11.25、新嘗会の際の肆宴で応詔歌を詠む。11.27、林王宅で但馬按察使橘奈良麻呂を餞する歌を詠む。 753(天平勝宝5)年2.19、諸兄家の宴で柳条を見る歌を詠む。2月下旬、「興に依りて作る歌」、雲雀の歌を詠む。以上三作は後世「春愁三首」と称され、家持の代表作として名歌の誉れ高い。同年5月、藤原仲麻呂邸で故上皇(元正)の「山人」の歌を伝え聞く。同年8月、左京少進大伴池主・左中弁中臣清麻呂と共に高円山に遊び、歌を詠む。 754(天平勝宝6)年 1.4、自宅に大伴氏族を招いて宴を催す。3.25、諸兄が山田御母(山田史女島)の宅で主催した宴に参席、歌を作るが、詠み出す前に諸兄は宴をやめて辞去してしまったという。以後、家持が諸兄主催の宴に参席した確かな記録は無い。4.5、少納言より兵部少輔に転任する。 755(天平勝宝7)年2月、防人閲兵のため難波に赴き、防人の歌を蒐集する。また自ら「防人の悲別の心を痛む歌」・「防人の悲別の情を陳ぶる歌」などを作る。帰京後の5月、自宅に大原今城を招いて宴を開く。この頃から今城との親交が深まる。同月、橘諸兄が子息奈良麻呂の宅で催した宴の歌に追作する。8月、「内南安殿」での肆宴に参席、歌を詠むが奏上されず。この年の冬、諸兄は側近によって上皇誹謗と謀反の意図を密告され、翌756(天平勝宝8)年2月、致仕に追い込まれる。家持は同年3月聖武上皇の堀江行幸に従駕するが、同年5.2、上皇は崩御し、遺詔により道祖王が立太子する。翌6月、淡海三船の讒言により出雲守大伴古慈悲が解任された事件に際し、病をおして「族を喩す歌」を作り、氏族に対し自重と名誉の保守を呼びかけた。11.8、讃岐守安宿王らの宴で山背王が詠んだ歌に対し追和する。11.23、式部少丞池主の宅の宴に兵部大丞大原今城と臨席する。 757(天平勝宝9)年1月、前左大臣橘諸兄が薨去(74歳)。4月、道祖王に代り大炊王が立太子する。6.16、兵部大輔に昇進。6.23、大監物三形王の宅での宴に臨席、「昔の人」を思う歌を詠む。7月、橘奈良麻呂らの謀反が発覚し、大伴・佐伯氏の多くが連座するが、家持は何ら咎めを受けた形跡がない。この頃、「物色変化を悲しむ歌」などを詠む。12.18には再び三形王宅の宴に列席、歌を詠む。この時右中弁とある。12.23、大原今城宅の宴でも作歌。 758(天平宝字2)年1.3、玉箒を賜う肆宴で応詔歌を作るが、大蔵の政により奏上を得ず。2月、式部大輔中臣清麻呂宅の宴に今城・市原王・甘南備伊香らと共に臨席、歌を詠み合う。同年6.16、右中弁より因幡守に遷任される。7月、大原今城が自宅で餞の宴を催し、家持は別れの歌を詠む。8.1、大炊王が即位(淳仁天皇)。 759(天平宝字3)年1.1、「因幡国庁に国郡司等に饗を賜う宴の歌」を詠む。これが万葉集の巻末歌であり、また万葉集中、制作年の明記された最後の歌である。 760(天平宝字4)年から762(天平宝字6)年頃の初春、家持が因幡より帰京中、藤原仲麻呂の子久須麻呂が、家持の娘を息子に娶らせたい意向を伝えたらしく、家持と子供たちの結婚をめぐって歌を贈答している。家持の返歌は娘の成長を待ってほしいとの内容である。 762(天平宝字6)年1.9、信部(中務)大輔に遷任され、間もなく因幡より帰京する。9.30、御史大夫石川年足が薨じ、佐伯今毛人と共に弔問に派遣される。763(天平宝字7)年3月か4月頃、藤原宿奈麻呂(のちの良継)・佐伯今毛人・石上宅嗣らと共に恵美押勝暗殺計画に連座するが、宿奈麻呂一人罪を問われ、家持ほかは現職を解される。 764(天平宝字8)年1.21、薩摩守に任じられる。前年の暗殺未遂事件による左遷と思われる。同年9月、仲麻呂は孝謙上皇に対し謀反を起こし、近江で斬殺される。10月、藤原宿奈麻呂は正四位上大宰帥に、石上宅嗣は正五位上常陸守に昇進し、押勝暗殺計画による除名・左降者の復権が見られるが、家持は叙位から漏れている。10.9、上皇は再祚し(称徳天皇)、以後道鏡を重用した。 765(天平神護1)年2.5、大宰少弐紀広純が薩摩守に左遷され、これに伴い家持は薩摩守を解任されたと思われる。二年後の神護景雲元年まで任官記事なく、この間の家持の消息は知る由もない。 767(神護景雲1)年8.29、大宰少弐に任命される。 770(神護景雲4)年6.16、民部少輔に遷任される。同年8.4、称徳天皇が崩御し、道鏡は失脚。志貴皇子の子白壁王が皇太子に就く。9.16、家持は左中弁兼中務大輔に転任。 同年10.1、白壁王が即位し(光仁天皇)、同日家持は正五位下に昇叙される。天平21年以来、実に21年ぶりの叙位であった。以後は聖武朝以来の旧臣として重んぜられ、急速に昇進を重ねることになる。11.25、大嘗祭での奉仕により、さらに従四位下へ2階級特進。 772(宝亀3)年2月、左中弁兼式部員外大輔に転任する。774(宝亀5)年3.5、相模守に遷任され、半年後の9.4、さらに左京大夫兼上総守に遷る。 775(宝亀6)年11.27、衛門督に転任され、宮廷守護の要職に就いたが、翌776(宝亀7)年3.6、衛門督を解かれ、伊勢守に遷任された。 777(宝亀8)年1.7、従四位上に昇叙される。778(宝亀9)年1.16、さらに正四位下に昇る。779(宝亀10)年2.1、参議に任じられ、議政官の一員に名を連ねる。2.9、参議に右大弁を兼ねる。 781(天応1)年2.17、能登内親王が薨去し、家持と刑部卿石川豊人等が派遣され、葬儀を司る。同年4.3、光仁天皇は風病と老齢を理由に退位し、山部親王が践祚(桓武天皇)。4.4、天皇の同母弟早良親王が立太子。4.14、家持は右京大夫に春宮大夫を兼ねる。4.15、正四位上に昇進。5.7、右京大夫から左大弁に転任(春宮大夫は留任)。この後、母の喪により官職を解任されるが、8.8、左大弁兼春宮大夫に復任する(注2)。11.15、大嘗祭後の宴で従三位に昇叙される。この叙位も大嘗祭での奉仕(佐伯氏と共に門を開ける)によるものと思われる。12.23、光仁上皇が崩御し、家持は吉備泉らと共に山作司(山陵を造作する官司)に任じられる。 782(天応2)年閏1月、氷上川継の謀反が発覚し、家持は右衛士督坂上苅田麻呂らと共に連座の罪で現任を解かれる。続紀薨伝によれば、この時家持は免官のうえ京外へ移されたというが、わずか四か月後の5月には春宮大夫復任の記事が見える。6.17、春宮大夫に陸奥按察使鎮守将軍を兼ねる。続紀薨伝には「以本官出、為陸奥按察使」とあり、陸奥に赴任したことは明らかである。程なく多賀城へ向かうか。 783(延暦2)年7.19、陸奥駐在中、中納言に任じられる(春宮大夫留任)。784(延暦3)年1.17、持節征東将軍を兼ねる。785(延暦4)年4.7、鎮守将軍家持が東北防衛について建言する。8.28、死す。死去の際の肩書を続紀は中納言従三位とする。『公卿補任』には「陸奥に在り」と記され、持節征東将軍として陸奥で死去したか。ところが、埋葬も済んでいない死後20日余り後、大伴継人らの藤原種継暗殺事件に主謀者として家持が関与していたことが発覚し、生前に遡って除名処分を受ける。子の永主らも連座して隠岐への流罪に処せられ、家持の遺骨は家族の手によって隠岐に運ばれたと思われる。 806(延暦25・大同1)年3.17、病床にあった桓武天皇は種継暗殺事件の連座者を本位に復す詔を発し、家持は従三位に復位される(『日本後紀』)。これに伴い家持の遺族も帰京を許された。家持は万葉集に473首(479首と数える説もある)の長短歌を残す。これは万葉集全体の1割以上にあたる。ことに末四巻は家持による歌日記とも言える体裁をなしている。万葉後期の代表的歌人であるばかりでなく、後世隆盛をみる王朝和歌の基礎を築いた歌人としても評価が高い。古くから万葉集の撰者・編纂者に擬せられ、1159(平治1)年頃までに成立した藤原清輔の『袋草子』には、すでに万葉集について「撰者あるいは橘大臣と称し、あるいは家持と称す」とある。また江戸時代前期の国学者契沖は『萬葉集代匠記』で万葉集家持私撰説を初めて明確に主張した。 なお914(延喜14)年の三善清行「意見十二箇条」には家持の没官田についての記載があり、越前加賀郡100余町・山城久世郡30余町・河内茨田渋川両郡55町を有したという。 (注1)万葉集の歌の排列から、この宴を738(天平10)年のものと見る説も多いが、恭仁京から平城旧京に参集して開かれた宴であると見られ、天平13年か14年とみる契沖などの説に従う。 (注2)喪葬令によれば実母の服喪は一年、養父母は五ヶ月、嫡母・継母一ヶ月。家持が左大弁に任じられたのはこの年5月なので、服喪による謹慎は三ヶ月以内。従って生母・養父母の死ではないとする説もあるが、服喪期間が短縮される例は多かったとみられるので、断定は出来まい。 |
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大伴家持と藤原久須麻呂 万葉集の巻の四の末尾に、ここ数年常に気にかかっている歌群がある。この国最古の歌集である万葉集を、おそらくは今我々が見る姿に近いものへと仕立て上げた歌人大伴家持と、平城の御代の中期から末期にかけて権勢を誇った恵美押勝こと、藤原仲麻呂の子、藤原久須麻呂との間に交わされた次の7首である。 大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首 春の雨は いやしき降るに 梅の花 いまだ咲かなく いと若みかも 夢のごと 思ほゆるかも はしきやし 君が使の 数多(マネ)く通へば うら若み 花咲きかたき 梅を植ゑて 人の言繁み 思ひぞ我がする 又家持贈藤原朝臣久須麻呂歌二首 心ぐく 思ほゆるかも 春霞 たなびく時に 言の通へば 春風の 音にし出なば ありさりて 今ならずとも 君がまにまに 藤原朝臣久須麻呂来報歌二首 奥山の 岩蔭に生ふる 菅の根の ねもころ我れも 相思はざれや 春雨を 待つとにしあらし 我がやどの 若木の梅も いまだふふめり まず、最初の「大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首」についてである。太字表記にした「報贈」とは何らかの働きかけに対して「報(コタ)へ贈」ることを言う。 天平17年あるいは18年(746)の春ごろに交わされたと推定されるこれらの歌の第1首に「梅の花 いまだ咲かなく いと若みかも 」とあるのは当時11、12歳であっただろうと推定される大伴家持の娘。それにしきりに降りかかる「春雨」とは藤原久須麻呂の求婚をさす。まだ自分の娘は若すぎると、父家持は丁重に断りを入れているのだ。続いて2首目においてしかしながら、その求婚に対しては充分に感謝している旨を述べ、その上で3首目において、幼い愛娘への、おそらくは突然に思えるような求婚に戸惑う親の心が歌い、理解を願っている。 しかし、久須麻呂からは、重ねて求婚の意思表示があったのだろう。家持は再び2首を久須麻呂に贈る。「又家持贈藤原朝臣久須麻呂歌二首」である。1首目はこうやって度々久須麻呂より求婚の使いに対して娘はまだ幼いからと断り続けなければならないつらさを歌い、2首目、しかるべき時期にしかるべきお言葉(歌)をいただければきっと意に添えるであろう旨を久須麻呂に告げている。 そして、その父親、家持の思いに応えられぬ久須麻呂ではなかったようだ。「藤原朝臣久須麻呂来報歌二首」がそれだ。「来報(コタ)」ふとは必ずしも実際に久須麻呂が家持の元に訪れたことを意味することとは思えないが、全くその可能性がなかったとは言い切れない。1首目、「菅の根の」はその根の長さから末長き変わらぬ心を示す。即ち家持が、もし待っていただけるのなら・・・と歌いかけてきたことに対しての返答である。そして、2首目、「春雨を 待つとにしあらし 」と歌い、しかるべき時期が来るのを待つとの意思表示がなされる。 かくして大伴宗家家・藤原南家(ただし久須麻呂の父仲麻呂は南家次男)との婚約は成立した。その後、この婚儀が滞りなく相成ったかどうかは推測の域を出ない。巻の十九の4214の「挽歌」と題された歌の左注に「右大伴宿祢家持弔聟南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也」とある、「藤原二郎」を一部でとなえられているように久須麻呂と考えるのならば、上記の歌群においてなされた婚約は履行されたものとみることはできるが、「藤原二郎」を久須麻呂と考えることには異論もあり、確かなこととは言えない。 ただ、両家の婚姻んが成立したかどうかは別のこととして、この時代の娘を持つ父親とその娘を求める男との微妙なやり取りを垣間見せてくれるこの歌群は、その歌の良し悪しをこえてまことに興味深い。 ・・・が、この歌群について私が抱いている興味はそこにあるのではない。ならば、私の関心の中心がどこにあるのか・・・ 万葉集中を見渡すに、男から女への誘いかけは直接当人にあることが普通である。しかるに冒頭の題詞に「報贈」とることは、今回の求婚がそのような通例には則らなかったことを意味する。「報」とは自分に対してなされた働きかけに対して応ずることを意味し、そのことを重視するならば、ここは女の父親である大伴家持に対して藤原久須麻呂の働きかけがなされたと考えざるを得ない。 久須麻呂の求愛の対象である家持の娘がまだ幼すぎたからそうなったのだと考えればそれまでであるが、だとすれば、そのような幼すぎる家持の娘を久須麻呂はなぜ自らの求婚の対象として選んだのか。そこに藤原氏(仲麻呂)側に政略的な思いがあっただろうことは容易に想像できよう。この時期、仲麻呂は息子久須麻呂を通じて大伴家持と積極的に関係を作ろうとしていたと考えるべきであろう。以下、両者の関係について説明しておこう。 当時、政界のトップに君臨していたのは橘諸兄(モロエ)であった。天平9年(737)天然痘の流行によって藤原四兄弟をはじめとした多くの実力者が世を去り、そのことを契機に大納言に昇進したこの皇親政治家は同10年(737)正三位右大臣に昇進し国政の実権を掌握する。その後。同15年(743))従一位左大臣まで上り詰める。そして、この橘諸兄こそが当の大伴家持の庇護者であった。家持は当代随一の権力者の派閥の構成員であったのだ。一方、藤原仲麻呂は天平9年の天然痘の流行により世を去った藤原武智麻呂の次男。叔母に当たる光明皇后の信任を得、天平13年(741)民部卿着任以降急速に力を伸ばし、橘諸兄の地位を脅かしつつあった。家持にとって、いわば対立する派閥の長であったと言うことが出来る。 大伴家持は最終的には従三位中納言まで昇進するが、それまでの道のりは平坦なものではなかった。天平17年(745)従五位下を賜り昇進の途についた家持は、越中国守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位上を賜るが、その後次の位である正五位下に進むまでに21年の歳月を要した。しかもその間その官職は地方と中央をめまぐるしく行き来しており、大伴宗家の長としてはあまりにも恵まれない21年であった。その要因として考えられるのが仲麻呂との関係にあったと言うのが通説である。 上述のごとく仲麻呂は光明皇后を後ろ盾に力を増し、当時最高位にあった橘諸兄と鋭く対立していた。天平勝宝元年(749)には光明皇后のもとに設けられた紫微中台長官と、中衛大将の地位に就いた仲麻呂は政治と軍事の大権を掌握し、左大臣橘諸兄を圧倒し、事実上の最高権力者となる。となれば、彼が次に行うのは対立する勢力の駆逐である。諸兄側の人間である家持がその影響を受けないはずがない。かなりの振幅を持ちながらも家持の昇進のペースが急速にその早さを増してくるのが、天平宝字8年(764)以降になっているのもその証左といえようか。 この間にこの二人の間にあった事件を以下に二つ紹介しておこう。 天平宝字元年(757)橘奈良麻呂の乱。 橘諸兄の子奈良麻呂が仲麻呂の専横に反発して、その排除を目指したものであるが、密告により関係者全員が逮捕される。この乱には家持は荷担することは無かったと言われるが、同族の佐伯・大伴のものが処罰されている。家持の最良の歌友大伴池主もこの欄に加わったとみられ、この後その消息が分からなくなった。この事件の取り調べは熾烈を極めたという。家持にもその嫌疑がかからなかったわけはない。家持がその翌年に因幡の国に左遷されたのは、その余波と考えられている。 天平宝字7年(763)藤原仲麻呂暗殺計画発覚。未遂に終わり家持も逮捕される。首謀者であった藤原良継が罪を一人で被り、罪には問われなかったが翌年薩摩の国守として左遷させられた。 以上、大伴家持と藤原仲麻呂の関係を見てきたが、そこには対立の構図しか見えてこないが・・・そのような状況を踏まえたうえで、この久須麻呂の求婚の意味を考えればどうなるのか・・・ 以下想像の幅を広げすぎるようになるかもしれないが、ひとつの可能性を示してみたいと思う。。 上にこの求婚が政略的な意図のもとに行われたものだと述べた。当時久須麻呂の父仲麻呂は参議(議政官)、政界では充分に勢力ある存在であった。しかし上には橘諸兄がいる。皇族出身の諸兄と官僚社会の実現を目指す自分とではあまりに政治的立場が違いすぎる。自らが権力を握り、その理想を実現するためには諸兄を上回る力を手に入れるしかない。そのための方策の一つとして・・・諸兄陣営の官人一人一人を自分の側に組み入れてしまうことがある。これは自らの陣営を増やすだけではなく、相手の陣営を減少させる意味合いも持っている。 そしてその対象として家持はもってこいの人物であった。家持はこの年やっと従五位下を賜ったばかりの少壮政治家ではあったが、なんといっても名門豪族大伴家の長だ。新進貴族である藤原氏としては家持が自分の側にいるといないとでは、その権威にかなりの違いが生じてくる。しかも、大伴家は軍事を以て朝廷につかえてきた家柄である。壬申の大乱も大伴家の活躍がなければその勝敗が変わって来たであろう。家持の父旅人もその軍人としての力量を充分に発揮して隼人の反乱を無事鎮めた・・・・そのような家筋と婚姻関係を結ぶことはそれだけで心強い事であっただろう。 ならば家持はこの求婚をいかに受け止めたのか・・・ 夢のごと 思ほゆるかも はしきやし 君が使の 数多(マネ)く通へば(787) と、この歌群の2首目に歌った心に偽りはなかったであろうと思う。たとえ対立する派閥の長の子どもからとはいえ、わざわざこうやって誘いかけてくれるということは、それだけ自分が評価されているということを示す。自分が諸兄陣営の人間であるとしてもそれは喜ばしい事には違いない。無碍にこの誘いを断るには少々気が引ける。そんな思いがこの歌群最初の3首「大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首」からは読み取れる。 かといって、己が敬愛するのは左大臣橘諸兄・・・狭間にあった家持の思いは必ずや揺らいだに違いない。 おそらくは更に繰り返されたに違いない久須麻呂からの働きかけに家持は政治家として、そして何よりも父親として畳みかけるようにその真意をただす。久須麻呂からの返事は実に誠意に溢れた2首であった。歌としてそれを評価するのであればそう高く評価できるものではない。けれどもその2首は家持の投げかけに誠実に答えたものであった。政治家として、父親として、家持は満足したに違いない。 ただ残念ながらこの婚儀が無事調ったものであるかどうか・・・資料はその結果を示してくれてはいない。ただいくつかの事実がひょっとしたら家持の娘が藤原の家に嫁いだであろうことを髣髴とさせる・・・そんな事実がある。 一つは前回の記事に示した巻の十九の4214の「挽歌」と題された歌の左注の「右大伴宿祢家持弔聟南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也」の「聟」の文字。ここにある「藤原二郎」が一部で言われているように久須麻呂のことであるならば、間違いなくこれらの歌群でのやり取りの結果この婚儀が成立したことを意味する。けれどもこの「藤原二郎」が誰であるかは異説もあって確証とは言い難い。 後は・・・少々遠回しな証左となるが、上に述べた「橘奈良麻呂の乱」「仲麻呂暗殺計画」の二つの事件である。いずれの事件の際にも、その直後家持は因幡・薩摩と遠国に左遷されている。しかしながら、事の重大さから見ればそれはあまりにも軽い対応であったように思われる。いずれも事件もが仲麻呂自身を除こうとした事件だ。橘奈良麻呂の乱にはかかわっていなかったとはされているが、その企ては当然家持に回ってきていたはずだ。敵に回せば厄介な大伴の家の長である。これ幸いと罪をかぶせなきものにすることも可能であったはずだ。暗殺計画に至ってはそのメンバーであったのだから、いくら藤原良継が一身にその罪を背負おうとしても仲麻呂側の追及のしようによっては家持をも罪に問うことは可能であったと思う。 そこに・・・私はこれらの歌群の持つ重要性を感じているのである。 すなわち、天平17年或いは18年春、件の歌のやりとりを通じ、大伴宗家と藤原南家との婚約は成立した。それから数年の後のしかるべき頃、娘は藤原の家に嫁ぐことになる。両家は久須麻呂と家持の娘という二人の若者によって結ばれることになる。この関係が上記の二つの事件において家持に対する処置が甘くなる要因になったのではないか・・・ 公において対立する派閥の構成員である家持を仲麻呂は冷遇はする。しかしながら家持は我が子である久須麻呂の義理の父にも当たる。その義理の父が罪人としてとらえられ処罰されると言うことはすなわち、その義理の息子(仲麻呂にとっては実子)久須麻呂の履歴に傷をつけることでもある。振り下ろした刃が自らに向いてしまうのだ。しかしながら事件にかかわったとも考えられる家持をそのまま野放しにするわけにも行かない。ここは体よく地方の国守として都から追い払ってしまうに限る・・・というのがことの実相ではあるまいか。国守の地位を保証するのであるからそれは罪を罰したことにはならない。 家持がその娘と久須麻呂との婚儀に踏み切ったのはおそらくは久須麻呂からの誠意あふれる2首があったからに間違いはない。立場上武人でもあり政治家でもある家持は、しかしより文学の人であった。その善し悪しはともかくとして歌を通じその真心が示されれば、彼にこの婚姻を否む理由はない。仮に背後に自らの、或いは一族の保身を思っての思慮があったにしても家持の心中にあったのは久須麻呂から示された誠意が主なものだったであろう。 若き日のほんの7首の歌のやりとりが家持を、そして大伴の家を守ったのである。家持は「歌の力」を再認識せざるを得なかった・・・ |
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晩年の大伴家持 ■その後の公人家持 天平宝字てんぴようほうじ六年(七六二)正月、大伴家持おおとものやかもちは因幡守いなばのかみから信部大輔しんぶたゆうとなって帰京した。在任期間三年半というのは短いほうである。信部省は中務なかつかさ省の別名で、他の七省より格が上であり、その大輔(首席次官)となって、家持は少し面目を施す思いがしたのでなかろうか。しかも、その長官(卿きよう)は、家持より三歳年長で、これまで彼に好意的であった藤原真楯ふじわらのまたて(八束やつか)である。だが、真楯は四年後に、正三位大納言だいなごん兼式部卿で薨こうじた。時に五十二歳、その死は朝廷の内外から惜しまれた。 真楯は北家の出だが、その従兄で南家出身の藤原仲麻呂なかまろは、常々、真楯の徳望篤あついことを嫉ねたんでいた。反対勢力を次々に却しりぞけ、権謀術数にたけた仲麻呂も、後ろ盾と頼む光明皇太后の崩御を境に失速し、謀反を起したが、近江おうみ国高島郡勝野かつのにおいて敗死した。彼が担ぎ出した淳仁天皇(舎人親王とねりのみこの子、大炊おおいの王おおきみ)も配所の淡路あわじで怪死する。あたかも、七年前に家持が「咲く花はうつろふ時あり」(四四八四)と詠よんだのが的中したような結果となったわけである。しかし、奈良朝末期の政界がそれで浄化したのではない。入れ代りに台頭した怪僧道鏡どうきようが法王となって実権を握った。その道鏡も、宝亀ほうき元年(七七〇)に彼を支えた称徳天皇(孝謙)が崩ずると失脚し、故志貴親王しきのみこの子、白壁王しらかべのおおきみが推されて皇位に即つく。光仁天皇がそれで、これまで天武天皇の系統が占めていた皇位が天智天皇の子孫の手に戻ったことになる。 その間、家持はさまざまの官職を歴任するが、位階は黄金出現の年、天平勝宝しようほう元年(七四九)従五位上に進んだきり、二十一年間据え置かれていた。真楯またてがこの一階を二年半で通過したのに比べて、大変なスローペースである。その原因は、必ずしも仲麻呂なかまろらの、橘たちばな・大伴おおとも氏を中心とする一派に対する抑圧とばかりも考えられない。とにかくその宝亀ほうき元年(七七〇)にやっと正五位下となり、翌二年に従四位下に叙せられて、遅過ぎた春が家持やかもちの上に訪れたのである。 天応てんおう元年(七八一)四月、光仁天皇は皇太子山部親王やまべのみこに譲位、桓武かんむ天皇の代となり、早良親王さわらのみこが皇太子に立てられる。家持は右京大夫だいぶ兼東宮大夫正四位上となり、その年の冬十一月従三位に進んだ。三年後の延暦えんりやく三年(七八四)十一月、長岡京に遷都する。家持が薨こうじたのはその翌四年八月二十八日で、時に中納言ちゆうなごん従三位兼東宮大夫、陸奥按察使むつあぜち鎮守府将軍でもあった。年六十八歳。死後二十余日、その屍しかばねが葬られないうちに、藤原ふじわらの種継たねつぐ暗殺事件が起り、その主謀者大伴継人・竹良らに連なるという縁で除名された。皇太子(東宮)側の人でもあり、不利な立場であった。ただし、翌年復位する。 ■万葉集の欠落あれこれ 家持が天平宝字てんぴようほうじ三年(七五九)に万葉集最後の歌を詠よんで以後、延暦四年まで二十六年間に歌を作らなかったとは考えられない。ただ、百人一首にも入れられている、 かささぎのわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更ふけにける は、『家持集』という家持と無縁な歌集の中にあるが、家持の実作とは認められない。しかし、それと関係なく、万葉集の自作歌ないし周辺の人々の歌を、折に触れて、直したり、また削ったりしたのでないかと思われる。 即ち、十代の若書きの自作を、後年に至って、未熟と反省して削ったとおぼしい証拠がある。たとえば、巻第四・相聞そうもん・五八一の題詞。原文で示せば、 大伴坂上家之大娘報二贈大伴宿祢家持一歌四首(大おほ伴ともの坂上家さかのうへのいへの大嬢だいぢやうが大伴宿禰家持おほとものすくねやかもちに報こたへ贈おくる歌四首) とあって、その中に「報贈」と見えることから推して、この前に家持からの贈歌何首かがあったと考えられる。それを後年、稚拙と認めて削ったに違いない。時には、後に家持と結婚する坂上大嬢の歌を、当人の要求によってか、削除することもある。大嬢の母、坂さか上郎のうえのいら女つめが跡見とみの荘園から奈良の留守宅の娘に贈った歌(七二三・七二四)のあとに、 右歌、報二賜大嬢進歌一也(右の歌は、大嬢が進たてまつる歌に報こたへ賜ふ) とあるのがそれである。同じようなことが、六二七の前の佐伯さえきの赤麻呂あかまろ、七六九の前の紀女郎きのいらつめ、七八六の前の藤原久須麻呂ふじわらのくすまろの歌についても言えよう。これらは皆、家持周辺の人と考えられ、削らないと不名誉だとか、あまりに個人的な関係が表面化するとかの考慮から、関係者であり、編纂へんさん者でもある家持の裁量で除いたと考えられる。 以上挙げたところは、巻第十六以前の諸巻における削除であり、あるいは越中えつちゆう滞在中などの宝字三年以前の手入れと考えることもできよう。しかし、巻第十七以降の四巻の上に同じようなことがあれば、宝字三年より後の削除の可能性が高かろう。ただ、この四巻中の件数は二つで、共に書写段階に至って誤脱したとも考えられないところがある。その一つは巻第十八・四一三一の左注の、 右歌之返報歌者、脱漏不レ得二探求一也(右の歌の返報歌は、脱漏だつろうし探り求むること得ず) である。これは、もと越中国掾じようで、その後、越前えちぜん国掾に遷うつった大伴池主いけぬしが書いた、訴状紛いの戯文と戯歌(四一二八〜四一三一)に対する、家持からの返信が散逸して見つからない、という断り書である。対池主に限らないが、家持の元に届いた書翰しよかんや歌が残るのは当然として、家持から出した書状類は、控えを取っていたのか、あるいはあとで返却してもらったものか、他のはほとんどすべて残っている。残っていないのは、これと巻第五の八六四の前の、大伴旅人たびとが都の吉田よしだの宜よろしに梅花歌三十二首と「松浦まつら川がはに遊ぶ序」とを贈るのに添えた書翰しよかんである。その実作者は山上やまのうえ憶良のおくらかもしれないが、それはこの際、問う所でない。その中身を宜よろしの返信の中から一部復原すると、 ……辺城へんじやうに羈旅きりよし、古旧こきうを懐おもひて志を傷いたましめ、年矢ねんし停とどまらず、平生へいぜいを憶おもひて涙なみたを落とす…… というような泣き言を吐露してあったのだ、ということが分る。それから類推して、家持やかもちも池主いけぬしの悪ふざけに対して、多少感情的なことを言い贈り、後に気がとがめて、散逸したと見せかけた可能性が大きいのでないか。その削除の時期を特定できないが、橘たちばな奈良麻呂のならまろの変の主謀者の一人として逮捕された池主が、多分、刑死したと思われる、それ以後かと想像される。 もう一つの「散逸」は、家持が越中えつちゆう守のかみを辞して上道する時に、下僚を代表して次官の内蔵くらの縄麻呂なわまろが詠よんだ「盞さかづきを捧ささぐる歌」(四二五一題詞)である。家持の失念でない、と言い切れないが、あるいは、掾じようの久米広縄くめのひろつななどに比べて多少、歌に不堪ふかんであったとも考えられる縄麻呂の歌の拙劣さをカバーしての工作ではないか。 ■後日推敲して差し替え 削除のほかに、差し替えたと思われるものが、古写本の上に残ることがある。これも家持関係に限られるようである。即ち、家持から池主に贈られた書翰類に限って見られ、池主から家持への返信には絶えてその事がない。巻第十七の(A)三九六二・(B)三九六九・(C)三九七六の各歌の前文がそれであるが、今はその最後の(C)だけ取り上げよう。右図に示したものは紀州本(部分)で、次にそれの書き下し文を示す。上に示した記号(X)・(Y)・(Z)は大体の段落を示す。 (X)昨暮ざくもの来使は、幸むがしくも晩春遊覧の詩を垂れたまひ、今朝の累信るいしんは、辱かたじけなくも相招望野さうせうばうやの歌を貺たまふ。一たび玉藻ぎよくさうを看みるに、稍やくやく鬱結うつけつを写のぞき、二たび秀句しうくを吟うたふに、已すでに愁緒しうしよを蠲のぞきつ。この眺翫てうぐわんに非あらずは、孰たれか能よく心を暢のべむ。但惟ただし下僕われ、稟性彫ひんせいゑり難く、闇神瑩あんしんみがくこと靡なし。翰かんを握とり毫がうを腐くたし、研げんに対むかひて渇かわくことを忘れ、終日目流もくるして、これを綴るに能あたはず。所謂いはゆる文章は天骨にして、これを習ふに得ず。 (Y)豈あに字を探り韻を勒しるさむに、雅篇がへんに叶和けふわするに堪あへめや。抑鄙里はたひりの少児せうにに聞くに、古人は言げんに酬むくいずといふことなしといへり。聊いささかに拙詠せつえいを裁つくり、敬つつしみて解咲かいせうに擬あてはからくのみ。 (Z)如今いまし言を賦ふし韻を勒し、この雅作がさくの篇に同どうず。豈あに石を将もちて瓊たまに間まじへ、声こゑに唱へ走わが曲しらべに遊ぶに殊ならめや。抑はた小児の濫みだりなる謡うたの譬ごとし。敬みて葉端えふたんに写し、式もちて乱に擬りて曰いはく、 これを書いたのは天平てんぴよう十九年(七四七)三月五日だが、その二日前にも家持は(B)を池主に書き贈っている。この(Z)部は、大部分の仙覚せんがく本(寛元かんげん本・文永ぶんえい本とも)が小字二行割書きにしており、広瀬本も不徹底ながらそれに近い書式になっている。ところが、元暦校本にはこの(Z)部がない。(Z)部は(Y)部の別案、と言うより初案であり、池主へ贈ったのは(X)+(Z)の形であったろう。それが(X)+(Y)+(Z)と並ぶ本は(Z)の消し忘れである。しかも、注目すべきことに、(Z)の中にある「石を将ちて瓊に間へ」の句は、二日前の(B)の終り近くにも見える。恐らく編纂へんさん段階で捨てるに忍びず、そちらに移したのである。推敲すいこうした揚句の差し替えであろう。 歌詞の差し替えも少ないながらある。その一つは、巻第十九の初めのほう、天平勝宝しようほう二年(七五〇)三月三日、家持の館やかたで飲宴いんえんした時の彼の作、ここは第五句だけ原文で示せば、次の如くである。 漢人からひとも筏いかだ浮べて遊ぶといふ今日けふそ我わが背子せこ花はな縵かづら世余せよ(四一五三) 広瀬本と仙覚寛元本とにはかくあり、元暦げんりやく校本も「余」であるらしい。しかし、類聚古集るいじゆこしゆうと底本など文永本系の諸本には「世奈」とあり、旧全集本はそれを採った。しかし、家持やかもちが下僚に呼び掛けた歌には「いざ打うち行ゆかな」(三九五四)とも「馬しまし止とめ」(四二〇六)ともあり、ナを用いた勧誘も、命令表現そのものもあるが、対象たる「我が背子」の語があれば、「せよ」のほうがふさわしかろう。もっとも、これには「奈」と「余」とが字形の上で相近く、誤写の可能性がなくもない。 それに比べると、巻第二十の長歌「防人さきもりが悲別ひべつの情こころを陳のぶる歌」(四四〇八)の中の三分の一辺り、 ……ちちの実みの 父ちちの命みことは たくづのの 白しらひげの上うへゆ 涙なみだ垂たり 嘆きのたばく 鹿子かこじもの ただひとりして 朝戸出あさとでの かなしき我あが子 あらたまの 年の緒を長く 相見あひみずは 恋こひしくあるべし 今日けふだにも 言こと問どひせむと 惜をしみつつ 可奈之備麻世婆かなしびませば 若草の 妻つまも子どもも…… この「可奈之備麻世婆」の部分にもう一つの異文がある。このマセバと同じなのは、底本などの仙覚文永せんがくぶんえい本の系統と広瀬本および多少不確実な点はあるが元暦げんりやく校本である。ところが、神宮文庫本などの寛元かんげん本とその末流に属する寛永かんえい版本などには「可奈之備伊麻世」とあり、類聚古集るいじゆこしゆうもその側に付くと思われる。このイマセはいわゆる已然形で言い放つ法で、上代語に珍しくない語法だが、それは概して原因・理由を表す。家持も「帰り来きて しはぶれ告つぐれ」(四〇一一)、「金くがねありと 申まうしたまへれ」(四〇九四)その他、三九六九・四一一一・四一二一などに用い、いずれも理由格を表している。家持はこのやや古風な確定条件の使用を好んでいたのでないかと思われる。しかし、右の場合は理由格では続かず、並立する複数の事柄の同時進行であり、イマセでは不適当だ、と家持は後に気づいたのでないか。その気づき・修整の時期の割出しは困難だが、あるいは天平宝字てんぴようほうじ三年(七五九)より後れるのではなかろうか。 家持がその晩年というべき時期にこのような手直しをしたのでないかと推測するわけは、原本が単一でなく、少しずつだが変化し、そのつど派生した結果、今日の多様な異文が生れた、と考えるからである。 |
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■7.阿倍仲麻呂 (あべのなかまろ) | |
天(あま)の原(はら) ふりさけ見(み)れば 春日(かすが)なる
三笠(みかさ)の山(やま)に 出(い)でし月(つき)かも |
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● 長安の天空をふり仰いで眺めると、今見ている月は、むかし奈良の春日にある三笠山に出ていた月と同じ月なのだなあ。 / 大空を仰いで見ると、こうこうと月が照り輝いている。かつて奈良の春日にある三笠山の上に昇っていたあの月が、今ここに同じように出ているのだなあ。 / はるか大空を見上げてみると、月がとても美しいなぁ。あの月は、故郷の奈良の春日にある三笠山にかかっている月と同じなんだろうなぁ。 / 大空を振り仰いで眺めると、美しい月が出ているが、あの月はきっと故郷である春日の三笠の山に出た月と同じ月だろう。(ああ、本当に恋しいことだなあ)
○ 天の原 / 天空。「原」は、大きく広がるさまを表す。 ○ ふりさけ見れば / 「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。この場合は、そのうちの偶然条件「〜と」で、「遠くを眺めると」の意。 ○ 春日なる / 「春日」は、現在の奈良市、春日神社の一帯。「なる」は、断定の助動詞「なり」の連体形で、この場合は存在を表し、「〜にある」の意。 ○ 三笠の山 / 春日神社近辺の山。 ○ 出でし月かも / 「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。この歌は、帰国直前に詠まれたもので、「し」は、日本での実体験を回想していることを示し、抑えきれない望郷の念を表している。(注)過去の助動詞「けり」は、間接的に知った過去の出来事を伝聞的に回想する場合に用いられる。「かも」は、詠嘆の終助詞。 |
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■ 1
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、文武天皇2年〈698年〉 - 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生。中国名は仲満のち晁衡/朝衡(ちょうこう)。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。弟に阿倍帯麻呂がいる。唐で科挙に合格し唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。 文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備や玄ムがいた。 唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕える。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。 天平5年(733年)多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。この時帰国した真備と玄ムは第1船に乗っており助かっている。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができた。天平5年(734年)には儀王友に昇進した。 天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。 しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めなかった。 仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。 なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と賞されている。また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている。 ■和歌及び漢詩 『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』(月岡芳年『月百姿』) 歌人として『古今和歌集』『玉葉和歌集』『続拾遺和歌集』にそれぞれ1首ずつ入首したとされるが、『続拾遺和歌集』の1首は『万葉集』に採られている阿部虫麻呂の作品を誤って仲麻呂の歌として採録したもの。 仲麻呂の作品としては、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が百人一首にも選ばれている。この歌を詠んだ経緯については、天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説だが、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え、今で言う福岡県の春日市より眺めた御笠山(宝満山)から昇る月を思い浮かべ詠んだとする説も存在する。 現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻まれている。 ■伝説 『江談抄』『吉備大臣入唐絵巻』『安倍仲麿入唐記』などによれば阿倍船守の次男として生まれ、好根という兄と日本において生まれた満月丸という子がいたという。 藤原不比等の推薦により元正天皇の勅命を受けて、唐の玄宗から『金烏玉兎集』を借り受けて持ち帰るために遣唐使に命じられた。唐に着いた仲麻呂は、その才能により玄宗に重用されることになる。このことにより、焦りをおぼえた唐の重臣である楊国忠と安禄山により酔わされた上で高楼に幽閉される。仲麻呂は恨みをいだいて断食し、34歳で憤死する。しかし、その後も鬼と化して『金烏玉兎集』を求めた。 仲麻呂が玄宗に重用されて朝衡という唐名を名乗り唐において昇進を重ねていたことから、日本では天皇の勅命を捨てたという噂が流れ、逆臣であるとして所領が没収された。代わりに吉備真備が遣唐使として派遣され、『金烏玉兎集』を持ち帰る勅命を受けた。その後、鬼と化した仲麻呂は唐に来た吉備真備を助け、難解な「野馬台の詩」の解読や囲碁の勝負など何度も助力し、『金烏玉兎集』を持ち帰ることに成功させている。また、仲麻呂の子である満月丸が後の安倍晴明の先祖にあたるとされる。 |
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■消えた仲麻呂 平城京跡に復原された大極殿(だいごくでん)をご覧になりましたか。先に復原されていた朱雀門(すざくもん)だけでも驚きましたが、大極殿は高さ27メートル、幅44メートルというスケール。1300年も前にこれだけの建築技術があったのかと圧倒される思いがします。 その一方で、復原された遣唐使船を見ると長さ30メートル、幅は10メートルに満たない木造船。600人近い人数が四隻の船に分乗して東シナ海の荒波を越えていったそうですから、こんなに小さかったのかと驚きます。 先ごろ放映されたNHKドラマ「大仏開眼(だいぶつかいげん)」は日本に戻る遣唐使船が嵐にもまれるシーンから始まりました。乗船していたのはドラマの主人公 吉備真備(きびのまきび)と僧玄ぼう(げんぼう)。ふたりを乗せた遣唐使船は種子島に漂着し、無事帰国を果たします。天平7年(735年)のことでした。 このとき四隻のうち三隻は難破。当時の船旅は文字どおり命がけでした。真備はこのあと天平勝宝3年(751年)に遣唐副使として再び入唐(にっとう)し鑑真(がんじん)をともなって帰国しますが、そのときも船は屋久島にまで流されています。 この年の遣唐使船にも一隻だけ帰ってこない船がありました。それに乗っていたのが今回の主役 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ=安倍仲麿)。かれはどこに行ってしまったのでしょう。 ■仲麻呂は留学生だった 仲麻呂が遣唐留学生として真備らとともに入唐したのは平城遷都から間もない養老元年(717年)のこ。仲麻呂はまだ19歳でした。 その後19年を経て真備と玄ぼうは帰国しますが、仲麻呂は唐にとどまりました。皇帝が仲麻呂の才能を愛して手放さなかったからだといわれます。楊貴妃(ようきひ)でおなじみの、あの玄宗(げんそう)皇帝です。 仲麻呂は官僚試験に合格して玄宗に仕え、李白(りはく)や王維(おうい)などの文人とも交流がありました。仲麻呂が30年以上滞在した唐から日本に戻ることになったとき、帰国を惜しんだ王維たちが送別の宴(うたげ)をひらきました。その際に詠まれたと伝えられるのが百人一首のこの歌。 天の原ふりさけみれば 春日なる三笠の山にいでし月かも (七 安倍仲麿) 空を仰ぎ見ると月が出ているが あれはかつて春日の三笠山に出ていた月なのだなあ この歌を載せた『古今集』にも唐の人々が送別会をひらいたときに詠んだと記してあり、平安時代にはよく知られた歌だったようです。ちなみに奈良市の姉妹都市である西安には阿倍仲麻呂記念碑があり、この歌が刻まれています。(1979年建立) ■生きていた仲麻呂 仲麻呂は遭難したと考えられ、友人だった李白はその死を悼む詩をつくりました。その中で李白は「明月帰らず 碧海に沈む」と仲麻呂を月にたとえています。 しかし仲麻呂の乗った船ははるか南方の安南(ヴェトナム)に漂着していました。船は壊れ、乗員は現地の住民に襲撃されて、生き残ったのはほんの10名ほど。幸運なことに仲麻呂はそのうちのひとりでした。 帰国をあきらめて唐の都にもどった仲麻呂は再び宮廷の要職に就いて活躍し、宝亀元年(770年)に亡くなっています。なんと54年間を異国で過ごしたことになります。 平安初期の『続日本紀(しょくにほんぎ)』には「わが国の学生で唐で名を上げたものは ただ大臣および朝衡の二人のみ」と記されています。大臣というのは吉備真備、朝衡(ちょうこう)は仲麻呂が唐で使っていた名前です。 仲麻呂と吉備真備は奈良時代のスーパーヒーローとして平安朝の人々の間では有名人でした。しかし平安末期になると、不思議な伝説が流布します。 ■仲麻呂伝説の誕生 「大遣唐使展」に合わせて、ボストン美術館から『吉備大臣入唐絵巻(きびのおとどにっとうえまき)』が里帰り中です。絵巻の主役はもちろん吉備真備ですが、真備のそばに貴族の衣裳を着けた赤鬼が描かれています。この赤鬼こそ阿倍仲麻呂その人。どうして鬼になってしまったのでしょうか。 伝説によれば仲麻呂の才能を妬む唐の大臣たちによって酒に酔わされ、高楼(たかどの)に幽閉されて、怒りのあまり死んで鬼になったというのです。 絵巻では鬼になった仲麻呂が窮地に追い込まれた真備を助けることになっています。物語としては面白く、絵もたいへん巧みです。国宝級といってもいいでしょう。 とはいえ、実際は真備が再度入唐したとき仲麻呂は存命中だったわけで、ずいぶん大胆な脚色をしたものです。 当時、唐といえば世界の先端を行く大国。日本にとっては憧れの国でした。その唐で妬まれるほどの才能を発揮した日本のエリートということで、仲麻呂と真備は伝説化しやすい人物だったと考えられます。 |
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■ 3
阿倍仲麻呂とベトナム 「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌は、阿倍仲麻呂が詠んだ望郷の歌として知られているが、この歌は、中国の地で詠まれた歌だ(古今和歌集・巻第9羇旅歌に「唐土んて月を見てよみける」としておさめられている)。在唐36年の阿倍仲麻呂は、753年の冬、第10次遣唐使団の帰国に際し、中国側の使節として同行がようやく許され、唐の都・長安から揚州に下り、船出をする長江南岸の黄泗浦(江蘇省鹿苑)でこの歌を詠んだと伝えられる。しかしながら、阿倍仲麻呂は故郷三笠の山にかかる月を見ることはできなかった。帰国途上の乗船した遣唐使船が遭難してしまうのだ。 阿倍仲麻呂は、文武天皇2年(698年)中務大輔・阿部船守の長男として大和の国に生まれ、幼少より秀才の誉れ高く、若干19歳で第8次遣唐使団(一行総勢557人。下道真備や僧玄ムらが同乗。南まわり航路)の一員として開元5年(717年)長安に到着する。入唐後、太学(文武官5品以上の子弟の最高級の教育機関)で学び、日本人でありながら超難関の科挙の進士科の試験にも合格を果たしてしまう。そして唐の高等官として、725年洛陽の司経局の校書(典籍を扱う役職。正9品下)への任官から、728年長安で左拾遺(従8品上)、731年左補闕(従7品上)、さらには秘書監、従三品、国立図書館長とより高い地位にと昇進していく。 日本人でありながら超難関の科挙に合格し、皇帝・玄宗(唐の6代目皇帝。685年〜762年、在位712年〜756年)の厚い信任を得ながら大帝国での高い地位に引き上げられるというのは、個人としての能力と魅力が計り知れないものであったことだろう。国や組織の威を借りるわけでもなくこうして個人として大国・唐に認められ異国で活躍した小国(当時)の日本人がいたということは素晴らしいし、また個人の才能で異国人でも抜擢する当時の唐の懐の広さや長安の国際都市ぶりも注目に値する。 こうして異国で玄宗皇帝の信任も得て出世を重ねていった阿倍仲麻呂も、56歳の高齢になり、ようやく上述の如く、「中国側の使節」という形での一時帰国とはいえ、祖国・日本に戻れることになったわけだ。しかしながら、無情にもこの船団は、阿児奈波島(沖縄本島)に到着後、北の奄美に向う途中で暴風雨に遭遇。阿倍仲麻呂が大使の藤原清河らとともに乗った第1船だけは遠く南に押し流され、驩州(現在のベトナム北部・ヴィン附近)に漂着する。 ベトナムに漂着した阿倍仲麻呂たち一行は、土地の盗賊に襲われたりして、170余人が死んだといわれる。しかしながら阿部仲麻呂と藤原清河は奇跡的に生き抜いて、755年6月、長安にたどり着く。阿部仲麻呂たちは、既になくなったと伝えられていたため(交友のあった唐の詩人・李白(701年〜762年)は遭難の知らせを聞いて「晁卿(仲麻呂の中国での名前)の行を哭す」という七言絶句を作っている)、この長安への帰還は、人びとを驚かせた。 玄宗の死後、左散騎常侍(皇帝直属の諌官で従3品)に昇進。更には、日本への帰途途中、流され苦難を味わったベトナム方面の最高長官として鎮南都護、安南節度使(正3品)に任じられる。最後は潞州大都督(従2品相当)にまでなった。日本でも死後、正2品を贈位している。阿倍仲麻呂は遂に日本に帰国することなく、長安で没した(享年72)。 尚、753年阿倍仲麻呂の乗った船団(計4船)の第2船には、鑑真(687年〜763年が乗っており、この時6度目にして待望の渡日を果たしている。また阿倍仲麻呂と苦難をともにした藤原清河(藤原房前の4男)の生涯も波乱に満ちている。752年第10次遣唐大使として入唐。玄宗に「日本はまことに有義礼儀君子の国である」と感じ入りさせ、また753年正月の朝賀の儀式で新羅と席次を争ったことでも有名だが、753年阿倍仲麻呂とともに上述の不幸に遭遇し、ベトナムまで漂流するが、苦難の末、755年長安にたどり着く。日本はこの藤原清河を迎える為だけの特別な遣唐使を759年派遣する。ところが唐ではちょうど安史の乱(755年〜763年、安禄山・史思明らの乱)の最中で危険なため、唐朝は藤原清河の帰国を許さなかった。日本は藤原清河を在唐大使のまま任官し、一方唐朝でも天子の文庫長、秘書監に昇進した。776年日本出発の遣唐使に託して藤原清河の帰朝を命じたが、778年彼の娘のみが来日し、藤原清河の唐での客死が確認された。 |
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■ 4
名からして誤解がありがちだが小野妹子はれっきとした男性である。7世紀初めに遣隋使として中国に派遣、「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を提出し、煬帝(ようだい)を不快にさせたという。 それから百年余りが過ぎ、平城京に遷都したばかりのころ、数え16歳(19歳説もある)で遣唐留学生に任命されたのが阿倍仲麻呂。翌年の遣唐使に従って唐に渡り、太学(たいがく)(古代中国の官僚養成学校)に学んだ。中国文化が身になじんだのか、刻苦勉励のかぎりを尽くし、数年後にはなんと最難関の科挙にも合格したのだ。現地でも千人に一人しか及第しないほどの苛酷な試験だから、異邦人としてはすさまじい秀才だった。 隋より前の中国は貴族の門閥がはびこり、特権を世襲化していた。その弊害を認めた隋朝は、個人の才能に即して官吏を登用する科挙の制度を定め、それは清代まで1300年間も実施された。時代によって重視される資質が異なるが、唐では文才を重んじる傾向があった。唐代でもなお貴族社会の嗜好(しこう)に合うものが高く評価されたからだろう。 記録上、仲麻呂が最初に任官されたのは校書とよばれる書記官であった。書物の管理や高官の文筆を補佐する役目であり、知的で格式高いので希望者も多かったらしい。このころ唐人の友人の一人は、唐名で朝衡(ちょうこう)とよばれた仲麻呂をたたえる詩を詠んでいる(上野誠『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』角川学芸出版)。 「万国の使者たちは、わが唐の天子おわします朝廷に馳(は)せ参じて集まって来るけれど、その中でも、東隅の日本からの道は一番遠い。 おまえさん朝衡の凛々(りり)しさといったら、それは比べるものがないほどだ。そして、君は、今、気高きわが朝の皇太子さまにもお仕えしている。 さらには、蓬山の裏すなわち朝廷にも出入りできる身分となって、花の都・洛陽の伊水の河畔をそぞろに歩いている。 かの後漢の伯鸞(はくらん)が、父が死んだ後、さびしさにも貧しさにも負けることなく太学に学んだように、君も太学で学んでいたね。でも、夜ともなれば故郷・日本のことを一途に思っていたっけ」 美貌の青年が異郷の大国でかくべつに出世しながら、なお望郷の念をおさえがたくしている姿がよく浮かび上がってくる。いつのころ詠まれたかは定かでないが、仲麻呂作として伝わる名高い一首は彼の内心を映し出している。 「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」(古今和歌集) その後も唐朝の官吏として昇進し、博学多識と抜きんでた才知によって人望を集めたらしい。 官吏としての能力も文人としての才能も秀でた仲麻呂であるから、当時の名だたる文人名士からも目をかけられる。李白、王維などの著名な詩人たちも放っておかず、親密な交際を結んだという。 16年目の33歳のとき入唐した遣唐使とともに帰国を願い出たが、許されなかった。それほど仲麻呂は人材として見込まれていたのであろう。その後、仲麻呂51歳の年に入唐した遣唐使とともに帰国することを上奏してやっと許可された。このとき日本から招待を受けていた鑑真とともに蘇州から帰国の途についたが、不運にも仲麻呂が乗った船は暴風に見舞われ、安南(ベトナム)に漂着してしまう。やっとのことで長安に戻った仲麻呂だが、またふたたび高官に任じられる宿命にあった。 西域のソグド人をはじめ、唐代に任官して活躍した異民族出身者は少なくない。それだけ唐朝は国際色豊かな世界帝国であった。だが、日本人としてここまで朝廷のなかに入り込み、広く深い人脈をもった人物は仲麻呂よりほかに思いあたらない。 平城京が10万人にも満たなかったころ、唐の長安はすでに100万人の住民がいた。遣唐使の使節団が、いかに国家の存亡にかかわる使命を背負って旅立っていたか。 仲麻呂とともに唐へ渡った吉備真備(きびのまきび)も17年の留学の後に帰国し、日本の指導者教育の中核を担った。だが、仲麻呂には日本で公人として使命を果たす機会はなかった。 地球の裏側まで十数時間もあれば往来できる現代、むしろ仲麻呂の「三笠の山」にこめられた思いは望郷の念ばかりではあるまいという気がする。 |
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■ 5
阿倍仲麻呂が仰ぎ見た月 幕末から明治にかけて活躍し、最後の浮世絵師と呼ばれた月岡芳年(つきおかよしとし、1839 - 1892)が、晩年に描いた連作『月百姿』の中の一枚に、阿倍仲麻呂の詠んだ和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出(いで)し月かも」が似合う絵がある。万葉学者で奈良大学文学部教授でもある上野誠(うえのまこと)氏によれば、この歌は百人一首にも取り上げられたため、国歌「君が代」に次いで日本で最も良く知られている和歌だそうだ。 この和歌は、奈良時代の阿倍仲麻呂の作にも関わらず、『万葉集』には記載されておらず、『古今和歌集』の巻九の406番に載っている。歌の意味は、註釈の必要もないほど明快で、 ・広々とした大空をふり仰いで遠くを見ると、月が上っている。あの月はかって春日の御蓋(みかさ)の山に出ていた月だよなぁ といった内容だ。ところが、この歌にはさまざまな疑問があることを最近知った。 たまたま手にした一冊の本が、市立図書館から借りだした上野誠氏の角川選書『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』だった。さすがに今をときめく万葉学者の著作だけあって、従来の仲麻呂伝とはひと味違っていた。仲麻呂が遣唐留学生であるにも関わらず科挙に合格し、律令官僚として唐王朝で出世していった背景を見事にあぶり出している。その中に「天の原ふりさけ見れば」と題する一章があり、この和歌に関するさまざまな疑問を解説してある。 「天の原」歌は、阿倍仲麻呂が天空に上った満月を見上げて詠んだとされている。しかし、上野氏は、この歌には次の2つの疑問があるという。即ち (A) この歌を詠んだ時、作者が何処にいて、どこから見ている月か明示されていない (B) 作者がかって三笠の山に上る月を見たと云っているが、それが何時のことだったか明示されていない つまり、この歌にはWhenとWhereを示す要素が欠けていて、読者はこの歌に示された情景を思い描くことができない、と指摘されている。 (B)については、仲麻呂が遣唐留学生に選ばれる前に平城京の何処かに住んでいた時に眺めた月で、何か特別な思い出につながる月だったのであろう。あるいは遣唐使船に乗り込む前に、最後に訪れた恋人と春日野あたりで惜別の情を交わしながら眺めた月かもしれない。 阿倍仲麻呂の生年に関しては、2つの説があるそうだ。史料となる『古今和歌集目録』に矛盾した記載があるためである。、阿倍仲麻呂は、一方で「霊亀2年(716)に16歳で遣唐留学生となった」とあり、別の箇所では「唐の大暦5年(770)に73歳で没した」と記載されている。前の記述を信用すれば、大宝元年(701)の生まれとなり、後の記述を信用すれば、文武天皇2年(698)の生まれとなる。養老の遣唐使と称される第8次遣唐使が出発したのは養老元年(717)3月だから、仲麻呂は17歳、または20歳で唐に渡ったことになる。将来を約束した女性が一人や二人いてもおかしくない。 しかし、上野氏が指摘された(A)の疑問については、何故このような疑問をもたれるのかよく理解できなかった。と言うのは、『古今和歌集』にはこの歌の前に「唐土にて月を見てよみける」と詞書きが付いている。さらに、この歌の後に「明州という所の海辺でかの国の人々が送別会を開いてくれたとき、月があでやかにさし上がったのを眺めて詠んだ」と左注まで付いている。こうした詞書きや左注によって、阿倍仲麻呂が帰国の際、明州の港でゆかりの人々が送別の宴を催してくれたとき、海原から上る月を仰ぎ見てこの歌を詠んだというのが通説になっているのではなかったか? しかし、上野氏はこの歌の詞書きや左注に疑問を挟まれる。先ず、『古今和歌集』は、平安中期に醍醐天皇の勅命で、紀貫之(きのつらゆき)らが中心になって延喜5年(905年)ころ編纂された歌集だが、その時点で参考にした元資料には、詞書きなどついていなかったのでは・・・と推測される。なにしろ、仲麻呂が玄宗皇帝の許しを得て、藤原清河を大使とする第10次遣唐使の帰国船に便乗して帰国の途についたのは、唐の天宝12載(753年)11月で、およそ150年も前のことである。しかも仲麻呂が乗船した船は途中で難破して帰国できず、再び長安に戻り最後は唐土で客死している。そのため、当時流布されていた仲麻呂伝承に基づいて、紀貫之はこの詞書きを記したのであろう、と云われる。 さらに、左注についても、専門家の間では後人のものとされているそうだ。時代が降って、10世紀の末以降に藤原公任(ふじわらのきんとう、966 - 1041) あたりが、語りの際に挿入した註釈を付け加えたと考えられている。その結果、仲麻呂が仰ぎ見た月は、唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月、つまり海辺の月と理解されるようになった。月岡芳年もそうしたイメージで『月百姿』の一枚を描いている。 『古今和歌集』に「この歌は、中国の明州で詠まれた」との左注があることから、阿倍仲麻呂が帰国の途についたのは明州、すなわち現在の浙江省の寧波市と信じられてきた。しかし、上野氏も指摘されている通り、藤原公任の理解には大きな間違いがあった。4隻からなる第10次遣唐使船が帰国のために待機していた港は、明州ではなく、蘇州の黄泗浦(こうしほ)だった。1,000年以上の歳月を経て明州とする説の誤りに気付き、現在は長江下流の黄泗浦に特定されている。 ここで、第10次遣唐使たちの帰国の足取りを、少し詳しく追ってみよう。 ○ 一行が長安を出発して帰国の途に着いたのは、天宝12載(753年)6月中のことである。 ○ その年の10月15日までには、一行は揚州に到着している。10月15日、大使の清河、副使の大伴古麻呂、副使の吉備真備、そして安倍仲麻呂は、揚州の延光寺に滞在中の鑑真のもとを訪れている。そして、すでに五回も渡海に失敗している鑑真に、自分たちとともに遣唐使船に乗船することを勧めている。鑑真は喜んでその申し出を受けたという。 ○ 10月19日、鑑真は弟子の僧14名、在家の技術者ら都合24名を急ぎ集めて、揚州から蘇州に向かった。出発地が蘇州の黄泗浦だったためである。 ○ 10月23日になって事件が起きた。大使・副使らが会議を招集し、鑑真の下船を要請する決定を下した。理由は、鑑真の乗船が官憲に知られた場合、遣唐使に嫌疑がかかる恐れがあるからである。 ○ 11月10日、副使の大伴古麻呂は、自分の指揮する第2船にこっそり鑑真らをかくまってしまった。 ○ 11月13日、鑑真に来日を要請した普照(ふしょう)が遅れて蘇州に到着した。唐から優れた伝戒の師を招くために、天平5年(733)の第9次遣唐使船で普照と一緒に唐土に渡った留学僧栄叡(ようえい)は、すでに亡くなっていた。 ○ 11月15日 遣唐使は蘇州より出発する。ところが1羽の雉が第1船の前を横切ったのを不吉として、出帆を一日延ばして11月16日とした。その事が、仲麻呂の運命を大きく変えることになる。 すなわち、4隻の遣唐使船は翌日の11月16日に出港したが、大使や仲麻呂が乗った第1船は途中で暴風に遭い11月21日に沖縄に漂着する。12月6日に沖縄を出発したが、まもなく座礁し、漂流して現在の北ベトナム北部ヴインまで流された。乗組員180名の大半は現地で殺され、清河・仲麻呂ら10数名のみが755年6月頃長安に戻る。仲麻呂は、期せずしてまた玄宗に仕えることになった。 仲麻呂たちが船出していった黄泗浦は、かつて常熟(じょうじゅく)県に属していたが 、行政区改定で現在は常熟市に隣接する新興港灣都市の張家港(ちょうかこう)に属し ている。その張家港市の長江からかなり離れた内陸部の東渡苑景区に東渡苑東渡寺(鑑真記念館)がある。 この和歌の左注では、遣唐使船が出港する前に明州で帰国送別宴が催されたと想定している。しかし、明州は誤りで、送別宴が催されたとすれば、出発を一日延期した11月15日の夜で、場所は黄泗浦の楼閣だったであろう。その席上で、仲麻呂が振り返って見上げた月は、海上ではなく長江に浮かぶ満月だったはずだ。 上野氏は言及されていないが、筆者はこの帰国送別宴は設けられなかったのではないかと考えている。国禁を侵して何回も渡海を試みた鑑真一行の計画を阻止すべく、多くの官憲が港湾に配されていたはずである。その鑑真一行を副使の大伴古麻呂は第2船に匿った。当然、遣唐使たちの間には緊張感が漂っていたであろう。唐の関係者が送別の宴を用意してくれていたとしても、受ける気にはならなかったのではないか。 それに、遣唐使たちの公式の送別宴は、当時の外務省にあたる長安城内の鴻臚寺(こうろじ)ですでに済ませている。仲麻呂個人の送別宴も、長安を出発する前に何度も知人たちによって催されたはずである。当時は、高級官僚の旅立ちにあたって送別宴が催されるのが常だった。 阿倍仲麻呂の唐仕官経歴表を下に示す。彼は科挙の試験に合格して唐王朝に32年間も文人派官僚として仕えた。その出世の糸口になったのは、もと京兆尹(けいちょういん、長安の長官)だった崔日知(さいじつち)という人物が、玄宗皇帝に仲麻呂を推薦し、門下省に属する左補闕(さほけつ)という官職を得たことにあるとされている。左補闕の仕事は多岐にわたるが、基本的に皇帝に近侍して皇帝の移動に付き従う供奉(ぐぶ)や皇帝の政治の行き過ぎを諫める諷諫(ふうかん)などで、皇帝の側近として玄宗皇帝に寵愛されたようだ。 そのため、第9次遣唐使が733年に来たときは、一緒に帰国する願いを出しても許されなかった。第10次遣唐使の来朝で、752年にやっと玄宗皇帝から帰国の許可が下りた。この年、仲麻呂は宮中の蔵書を管理する役所の長官である秘書監(今日の国立国会図書館の館長相当)を拝命していた。その秘書官が、文人官僚として32年間も仕えた唐王朝を辞して帰国するのだ。多くの知人や友人たちが、彼の出発前に邸宅に仲麻呂を招いて連日連夜にわたって送別の宴を催してくれたであろう。だが、彼らが遠路はるばる黄泗浦までやって来て、また最後の別れを惜しんでくれたとは考えにくい。 この種の送別の宴では、送る側と送られる側の間で漢詩をやりとりするのが当時の習慣だった。仲麻呂は玄宗皇帝の宮廷内において広い人脈を築きあげ、詩のやりとりを通じて交際していた文人が多かった(李白(りはく)、王維(おうい)、儲光義(ちょうこうぎ)、趙■(馬+華)(ちょうか)、包佶(ほうきつ)、劉長卿(りゅうちょうけい)など)。そのため、日中の史料の中にも、7編の漢詩が残されている。その中に、王維(おうい)の「秘書晃監の日本国へ還るを送る」と題する五言排律がある。 送祕書晁監還日本國 (秘書晁監の日本国に還るを送る) 積水不可極 (積水 極む可からず) 安知滄海東 (安んぞ 滄海の東を知らんや) 九州何處遠 (九州 何れの處か遠き) 萬里若乘空 (万里 空に乗ずるが若し) 向國惟看日 (国に向かって惟(た)だ日を看(み)) 歸帆但信風 (帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ) 鰲身映天K (鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く) 魚眼射波紅 (眼は波を射て紅なり) ク樹扶桑外 (ク樹は扶桑の外) 主人孤島中 (主人は孤島の中) 別離方異域 (別離 方(まさ)に域を異にす) 音信若爲通 (音信 若爲(いかん)ぞ 通ぜんや) 【現代語訳】 ひろびろとした海はきわめようもない。東の海のさらなる東、君の故国のあたりのことなど、どうしてわかろうか。中国の外の九大州のうちでどここがいちばん遠いのだろう。君の故国へ万里はるかな旅路は、空中を飛んでいくように心ぼそいものだ。故国へ向かってただ太陽を目印として見るばかり。帰途につく船は、ただ風にまかせて進むのみ。途中、波間に大海亀の甲羅が大空を背景に黒々と見え、大魚の眼の光りは波頭を射るように輝いて紅に光る。君の古郷の木々は扶桑の国のかなたにしげり、その古郷の家のあるじである君は孤島の中に住むことになる。これからお別れしてしまえば、まさしく別々の世界の住人となるのだ。便りもどうして通わせることができようか。 王維 (699- 7599)は、唐王朝最盛期の高級官僚で、時代を代表する詩人だった。同時代の詩人李白が”詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から”詩仏”と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。開元7年(719年)に進士に及第し、その俊才ぶりによって名声を得た。ほぼ同じ頃進士に及第した仲麻呂とは、生涯の友人だったようだ。その王維が送別の宴で仲麻呂への思いあふれる詩を詠んだ。実はこの詩には105句、545字からなる長大で難解な”序”がついている。上野氏はその著書のなかで、その詩序の注解を試みておられる。 仲麻呂の送別宴で互いにやりとりされたのは、当然のことながら漢詩であって和歌ではない。仲麻呂はこのとき「銜命還国作」(命を衝(うけたま)りて国に還る作)と題する漢詩を返している。はるか後代の史料に「天の原 ふりさけみれば」の和歌は仲麻呂が作ったとあるからと言って、それがそのまま歴史的事実であるとは限らない。 そのため、仲麻呂が唐で詠んだ漢詩を誰かが「天の原」の和歌に翻訳したのだろうとする説が存在する。イギリス人の中国文学者だったアーサー・ウェイリーが唱えた説だそうだが、賛同者は多い。それとは別に、もともとあった作者不明の和歌を仲麻呂の作として仮託したとする説や、伝承上の仲麻呂が歌ったというように語り伝えられたとする説もある。 |
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■ 6
国際結婚 上記の王維の詩序には、次のような一文が含まれている。 ”名は、太学に成り、官は客卿に到りたり。必ず斉の姜(きょう)のみならむやと、高国に帰娶(めと)らざりき” 上野氏は、この箇所を「(仲麻呂は)太学に学び、外国からやってきた客臣という立場にありながら、卿まで登り詰めた。(結婚というものは)斉の姜氏のような力のある貴族と縁組みするのがよいとはかぎらないと、唐において貴族の娘と結婚しなかった。それは、高い志があるからであろう。また、仲麻呂は、日本に早く帰って、力のある貴族の娘と結婚して、出世しようともしなかった。それも仲麻呂の矜恃によるものだ」と現代語訳しておられる。そして、王維は仲麻呂が独身であったと推察していた、とコメントしておられる。 果たして、阿倍野仲麻呂は唐土において独身で過ごしたのであろうか。筆者にはどうしてもそうは思えない。遣隋留学生にしろ遣唐留学生にしろ、彼らが唐土に派遣された時はまだ20歳前後の青年であり、長い外国生活を余儀なくされた者が多い。中には、在唐生活20年、30年という者もいる。むしろ現地の女性と結婚して、家族を持って生活していたと考えるべきであろう。ただ、正史は留学生のプライベートな側面までは記録していない。 阿倍仲麻呂の周りには、唐土に渡り現地の女性と結婚した人物が何人かいたことが分かっている。例えば、仲麻呂の従者として同行した羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)は唐の女性と結婚して、翼(つばさ)と翔(かける)という2人の男子をもうけている。唐の法律は、外国の男性が唐の女性と結婚することを認めていたが、結婚しても女性を国外へ連れ出すことは固く禁じていた。そのため、734年に第9次遣唐使が長安に到着したとき、吉麻呂は仲麻呂の許可を得て、翼と翔だけを連れて17年ぶりに帰国した。長男の翼は719年の生まれとされている。ということは、吉麻呂が長安に着いてまもなく唐の女性と知り合って結婚したことになる。帰国したとき、長男の翼はすでに16歳に達していた。 大宝2年(702)の第7次遣唐使に従って唐に渡った弁正(べんしょう)という秦氏出身の学問僧がいる。彼は唐の女性を愛し、還俗して結婚し、朝慶と朝元という2人の男子をもうけた。弁正は養老元年(717)の第8次遣唐使に同行して入唐してきた阿倍仲麻呂の才能を愛し、親身になって世話をしたという。在唐すでに15年、望郷の念もひとしおだったが、異国の妻を迎えて帰国をきっぱりとあきらめた弁正は、遣唐使が帰国するとき、次男の朝元を単身乗船させて日本に渡らせている。日本に渡った朝元は父の俗姓を継いで秦忌寸朝元(はたのいみき・ちょうげん)を名乗り朝廷に仕えた。 それから16年後の733年、第9次遣唐使が派遣されるとき、朝元は判官として随行し、生まれ故郷に渡っている。 在唐53年にわたる阿倍仲麻呂に、唐土で愛した女性がいなかったはずはない。仲麻呂が唐の女性を娶ったという記録はないが、妻子の存在を裏付ける不思議な一文が『続日本紀』に記載されている。仲麻呂が大暦5年(770)に唐で客死して9年後の宝亀10年(779)5月26日に、「わが朝廷が、唐使に託して仲麻呂の遺家族の妻子らに葬礼費用として、東絁一百疋、・白綿三百屯を送った」というのである。その年に来朝した唐使孫興進から仲麻呂の遺家族が貧しくて葬礼を欠くことがあると聞いたことによる処置らしい。 そうであるならば、仲麻呂は長安で唐の女性と結婚し家族を持っていたことになる。17歳または20歳で海を渡り、その一生を唐土で過ごした仲麻呂に、愛する異国の妻子がいたのは当然であろう。だが、それ以上のことは何も伝わっていない。 |
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■ 7
遣唐使は西暦630年から西暦894年までの264年間に渡って20回、日本から唐に送られた派遣使節団である。こうした定期的な交流は、政治的な意味合いと同時に、唐からの文化吸収を行うという点でも大きく貢献したとされている。遣唐使には国の使者としての大使だけでなく、留学生も含まれ、多くの優秀な人材が海外で学び、新しい文化や知識を日本にもたらした。今後、何回かに渡りそうした留学生にスポットを当てるとともに、留学の意義についても 考察してみたい。初回は、阿倍仲麻呂を取り上げる。 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は20歳で第八次遣唐使の留学生として入唐、その後、超難関の科挙(官吏試験)に合格、唐朝の諸官を歴任した。当時の皇帝である玄宗にも一目置かれ、唐の大臣職という重責も担った人物である。 阿倍仲麻呂の優秀さは、長安で学んでいた時から顕著であった。当時、長安には大学高等機関に相当する「国子学」「太学」「四門学」の3校があり、阿倍仲麻呂は「太学」に入学する。「太学」のカリキュラムである九経(易経・書経・詩経・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝)を終了し、科挙(官吏登用試験)の受験資格を得ることが出来た。高等文官試験は、進士と明経という2つの科挙試験があったが、阿倍仲麻呂は最も難しいとされた進士科を受験し見事に合格している。 この科挙の競争率は熾烈を極めており、阿倍仲麻呂の合格した最難関の進士科は、最盛期には約3000倍に達することもあった。明経科が受験者二千人で合格率10〜20%であったのに対し、進士科は受験者千人で合格者が1〜2%しかいなかったという事からも、進士科がいかに超難関であったかが分かるだろう。「明経科は30歳でも年寄り、進士科は50歳でも若い方」と言われていた程、進士科は非常に難しい試験で何度挑戦しても合格できなかった者が多かった。受験者の大部分は一生をかけても合格できず、経済的な理由などにより受験を断念する者も沢山いたようである。そのため進士科の合格者は格別に尊重されていた。 進士科合格者は唐代では毎年、30名ほどであったとされているので、留学生で合格した、阿倍仲麻呂はスバ抜けて優秀であった訳である。しかも、阿倍仲麻呂は721年に科挙の後に左春坊司経局校書という役職についているので、24、25歳ぐらいで合格したと考えられる。 それから32年の年月が過ぎ、753年、阿倍仲麻呂は皇室の蔵書を管理し運営する長官職である「秘書監」という大臣位職に任命されることになる。これは現代では、いわゆる国立図書館長という地位がニュアンス的に近いよう思われる。 玄宗皇帝の阿倍仲麻呂への信任は厚く、第12回の遣唐使が唐を訪問した際には、日本の使者を、阿倍仲麻呂が、高官や貴族でさえ入室を許されない皇室文庫や、神聖な三教殿への案内するよう任された。こうした日本からの使者に対する異例の厚遇も、阿倍仲麻呂の働きと、玄宗の彼に対する信頼からもたらされたのである。阿倍仲麻呂が日本への帰国を願っても、玄宗皇帝が許可しなかったのは、信任の厚さがゆえに、阿倍仲麻呂を長安に留めておきたかったからに他ならない。こうして最終的に阿倍仲麻呂は、宰相クラスの高位高官にまで登りつめるのである。 官僚としての立場について述べてきたが、阿倍仲麻呂は単に役人として仕えた人物だったのではない。李白、杜甫、王維といった詩仙たちとの交友も知られている。彼は単に学問に秀でていただけでなく、文化的な才能においても認められていた人物だったのである。しかも、それは中国きっての綺羅星のような一流詩人たちからであり、その才能は推して知るべしである。 阿倍仲麻呂が35年ぶりに 日本への帰国を許可された際には、王維をはじめとする詩人仲間が酒宴をもうけ、彼に詩を送った。当時は詩酒の宴席で、作詩したものに序文をつけて編集し、 旅立つ友に贈るのが習わしであった。王維は546文字からなる序文をしたため、日本に帰国する阿倍仲麻呂ために以下のような詩を詠んだのである。王維と 阿倍仲麻呂の親交の深さの証として、以下の詩を引用したい。(晁とは阿倍仲麻呂の中国名) 送祕書晁監還日本國 秘書晁監の日本国に還るを送る 積水不可極 積水 極む可からず 安知滄海東 安んぞ 滄海の東を知らんや 九州何處遠 九州 何れの處か遠き 萬里若乘空 万里 空に乗ずるが若し 向國惟看日 国に向かって惟(た)だ日を看(み) 歸帆但信風 帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ 鰲身映天K 鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く 魚眼射波紅 魚眼は波を射て紅なり ク樹扶桑外 ク樹は扶桑の外 主人孤島中 主人は孤島の中 別離方異域 別離 方(まさ)に域を異にす 音信若爲通 音信 若爲(いかん)ぞ 通ぜんや 現代語訳 / 大海原の水はどこまで続くのか、見極めようが無い。その東の果てがどうなっているのか、どうして知れるだろう。わが国の外にあるという九つの世界のうち、最も遠い世界、それが君の故郷、日本だ。万里もの道のりは、さながら空を旅してるようなものだろう。ただ太陽の運行と風向きに任せて進んでいくほかはないだろう。伝説にある大海亀は黒々と天にその姿を映し、巨大魚の目の光は真っ赤で、波を貫いくことだろう。君の故郷日本は、太陽の昇る所に生えているという神木(扶桑)のはるか外にあり、その孤島こそが、君の故郷なのだ。私たちは、まったく離れた世界に別たれてしまうのだ。もう連絡の取りようも無いのだろうか。 ちなみに、この酒宴の席で、阿倍仲麻呂は望郷の念をこめて、有名なあの歌を日本語で詠んだとされている。 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも (古今集) 35年の間、唐に生き、日本で生きた20年間を遥かに超えた阿倍仲麻呂は、故郷に対する思いを歌で見事に表現している。三笠の山とは、春日神社の奥に広がる御蓋(みかさ)山をさすであろうと解されている。遠い異郷にあって月を見て故郷をしのぶと同時に、日本に帰国して見る月への期待も感じていたのかもしれない。また中国語でなく、日本語でこの歌を詠んだのは、祖国の言葉でなければ表現できないニュアンスがあり、それが阿倍仲麻呂をして、日本語で歌を詠ませたのだろうとも推測される。 私には、子供のころから英国に住んでいて、今は英国の大学で研究職についている友人がいる。彼女には弟がおり、その弟も英国に住んでいるので二人の通常の会話は英語で行うそうなのだが、祖母の事とか、日本のことを話すときには微妙なニュアンスがあるのか、どうしても日本語で話すと言っていた。阿倍仲麻呂が故郷を想い詠んだその心には、そのような思いがあったのではないだろうか。 753年、第12回目の遣唐使の帰国に合わせ、阿倍仲麻呂はついに帰国のチャンスを得た。しかし、その航海の途中に嵐に会い難破。唐南方の驩州(現在のベトナム北部)に漂着することになる。そこでさらに土人に襲われて船員の多くが殺害される。しかし、阿倍仲麻呂は何とか免がれ、再び長安にたどり着いたのである。 難破の知らせが届き、阿倍仲麻呂は死亡したと思われていた。彼の死亡の誤報は、友人の李白の耳にも入るところとなり、友人の死を悼んだ李白は、阿倍仲麻呂のために以下のような阿倍仲麻呂を悼む詩を詠んでいる。(晁衡とは阿倍仲麻呂の中国名) 哭晁卿衡 晁卿衡を哭す 日本晁卿辞帝都 日本の晁卿 帝都を辞す 征帆一片繞蓬壷 征帆 一片 蓬壷を繞る 明月不帰沈碧海 明月帰らず 碧海に沈む 白雲愁色満蒼梧 白雲 愁色 蒼梧に満つ 現代語訳 / 日本の友人、晁衡は帝都長安を出発した。小さな舟に乗り込み、日本へ向かったのだ。しかし晁衡は、明月のように高潔なあの晁衡は、青々とした海の底に沈んでしまった!愁いをたたえた白い雲が、蒼梧山に立ち込めている。 詩仙の李白が、阿倍仲麻呂の死を嘆き、詩を詠んでいる。その交友関係、親交の広さは凄いものがある。例えは良くないが、アメリカでオバマ大統領の補佐官をしながら、レディ・ガガとも親友というような立場に、阿倍仲麻呂はいたのではないだろうか。 その後、阿倍仲麻呂は長安に戻ったが、結局、再び日本に帰国することは出来ず、73歳でその生涯を閉じた。 ■我々の中に息づく阿倍仲麻呂の魂 阿倍仲麻呂は優秀な官僚であり、それだけでなく一流の文化人であった。そしてグローバルに活躍する、マルチリンガルな人でもあった。近年、海外志向が重要視されているが、我々日本人には先駆者がおり、そうした人物がどのように海外の文化に適応し、そこで受け入れらていたのかを振り返ってみると、現代における我々のグローバル化への立ち位置も見えてくるのではないだろうか。 最後に、中国にある記念碑に刻まれた、阿倍仲麻呂の詠んだ、あの名句を翻訳した五言絶句を引用したい。 翹首望東天 首を翹げて東天を望めば 神馳奈良邊 神(こころ)は馳す 奈良の辺 三笠山頂上 三笠山頂の上 思又皎月圓 思ふ 又た皎月の円(まどか)なるを 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 思わず口から出たのであろう大和の言葉。そのニュアンスは日本語でなければ表現しえなかったものだったに違いない。そして海外を知ることは、より自分の内面、ルーツに向き合うこと、つまり日本を知ることでもあると私は思う。それは阿倍仲麻呂が、なぜあの唐の詩人たちとの酒宴であるのに、日本語で句を残したかという事に答えがあるようにも思えてならない。彼の肉体は結局日本に帰ってこれなかったが、彼の残した詩(魂)が代わりに、海を越えて、千数百年経ってもなお、日本人的な心として我々の内に息づいている。そして、その我々は、今も阿倍仲麻呂と同じ月を見ているのである。 |
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■ 8
阿倍仲麻呂の国際結婚について |
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■一
阿倍仲麻呂の波乱万丈な生涯については、杉本直治郎氏の『阿倍仲麻呂伝研究』をはじめ、諸先学によってほぼ研究し尽くされており、今後はあらたな資料発見がないかぎり、さらなる研究を続行しにくい感がなしともしない。 「歴史家の行き詰まったところから、文学者がスタートを切る」と言われるが、現実も学界における仲麻呂研究が下火になりつつあるのとは対照的に、仲麻呂を主人公に仕立てた小説がつぎつぎと世に問われ、大きく話題を呼んでいる。 考えてみれば、十七歳の若さで唐へわたり、「天下の難関」と目される科挙試験を突破して栄達の頂点に達し、望郷の思いを抱きながら異国に骨を埋めた仲麻呂には、八世紀の日本人として体験しがたいロマンスがあり、また興味をそそる多くのなぞが残されている。したがって作家の想像力を発揮するには、恰好な題材であると言ってよかろう。 ところが、仲麻呂の未知な経歴、わけても文献記載の少ない在唐経歴について、文学創作の空間となる以外、研究者はただ嘆くばかりではいられず、想像のかわりにしばしば疑問を発する。 たとえば、青春時代のすべてを長安で過ごした仲麻呂が、恋の花を咲かせたことも異国の女性と結婚したことも記録に残っていなかったのに対し、高木博氏は困惑を感じてやまず、「その生涯をほとんど唐土で過ごした仲麻呂は、唐での女性がいなかったとするほうが、むしろふしぎであろう」(1) と述懐する。 ここで思い出されるのは、『続日本紀』にみられるつぎの記事である。仲麻呂が望郷の念をむなしく客死してから九年目、すなわち宝亀十年(七七九)五月二十六日の出来事として 「前学生阿倍朝臣仲麻呂、在唐而亡。家口偏乏、葬礼有闕。勅賜東絁一百疋・白綿三百屯。(前学生の阿倍朝臣仲麻呂、唐に在って亡せたり。家口偏に乏しくして、葬礼儀闕くることあり。勅して、東絁一百疋・白綿三百屯を賜う。) 」 とみえるのは、仲麻呂が世帯を持っていたことを明らかにしている。 家族(原文は家口)とは遺族のことであろう。杉本直治郎氏は「おそらく仲麻呂の死後、唐土の遺族少く葬礼も欠く始末を宝亀十年五月に見える来朝の唐使孫興進らに聞き、その帰国のさいに東?百疋等を托したのであろう」と述べ、仲麻呂に唐の妻子があったろうことを示唆している(2)。 仲麻呂に唐人の妻子がいたということは、仲麻呂が少なくとも一回は結婚した事実を意味することになるが、『続日本紀』の記事だけを推論の根拠としては、はなはだ論拠不足のきらいがあり、それを断言するにはためらいが感じられる。 人口百万を超す長安には十万人以上の異民族が移り住んでおり、国際結婚が盛んに行なわれ、唐王朝もそれを公式に認可していることを考えれば、筆者も高木博氏と同じように、若くして進士に合格し、エリート官吏として出世しつづけた仲麻呂が、異国にあって五十数年間も独身生活を送らなければならなかった理由はどこにもなかったと思わざるをえない。(3) 『続日本紀』の記事は明言さえしていないものの、「結婚しなかった」ことよりは「結婚した」ということに有利であることは確かである。しかし問題はそれ以外の裏づけがあるかどうかである。 本稿は唐人から仲麻呂(唐名は朝衡または晁衡)へ送られた漢詩に、仲麻呂が唐女と結婚した事実を示唆する史料が二点あったと主張し、それらをもとにして結婚時期および結婚相手を推論してみたものである。 |
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■二
多治比県守を押使とする第九次の遣唐使は、和銅三年(七一0)都を藤原から平城(奈良)へ遷してから初めての遣唐使節団であるだけに、朝野から寄せられた期待がことのほか大きかった。四隻の大きな船には五五七名が乗り分けており、人数からいえば空前の大規模な使節団であった。 養老元年(七一七)三月、押使以下は難波津から出帆して、入唐の途についた。いつ唐に到着したかは定かでないが、長安へ入京したのは開元五年(七一七)十月一日のことで、玄宗による「開元の治」と呼ばれる盛唐文化がその頂点に達しようとするころである。 ここで注目すべきは、この一行には『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国に播げる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と激賞され、秀才の名をほしいままにした吉備真備(のちに右大臣となる)と阿倍仲麻呂(のちに朝衡と改名)とが留学生として加わっていたことである。 当時わずか十九歳(4) の若き仲麻呂は王維の詩に「名を太学に成し、官は客卿に至る」と歌われているように、太学に進み、のちに科挙に及第してエリートコースを歩み出したのである。仲麻呂の太学への進学は儲光羲の詩『洛中にて朝校書衡に貽る』に「伯鸞(仲麻呂の喩え)は太学に遊び」と歌われ、楊憶の『談苑』にも「太学より出でて科挙に合格し」たとあって疑われない。 唐の最高の教育機関は国子監と呼ばれ、国子学・太学・四門学・律学・書学・算学という六つのカレッジがこれに属している。それぞれの学校には、家柄に応じて入学資格が設けられている。つまり国子学は三品より上の官吏の子孫、太学は五品以上、四門学は七品以下というふうになっている。このように太学への進学資格は五品以上の文武官吏の子弟と定められており、仲麻呂は日本人としては唯一の例でもあるから、なにか特別な事情があったのではないと推測される。 村上哲見氏は「どういう経緯があったかはわかっていないが、仲麻呂が右の六学のうちの太学で学ぶことになったのは複数の証があって、ほぼ間違いのない事実である」と認め、入学を許されたのは唐朝の「格別の優遇」として、 「もっともこれには、基本的には唐の政府が外国からの使者や留学生を歓迎し、優遇したということがある。中国の伝統的認識では、天子は天下(世界)に唯一の支配者であり、決して周辺の国々と対等に接することはない。しかし外国からの使者や留学生が訪れることは、天子の徳が海外に及んでいる証拠として大いに歓迎した。(中略)留学生や留学僧を優遇したのも、そうした思想にもとづくのである。 」 と唐側の事情を考慮しつつ、最後には「具体的なことは不明であるが、考えられることとしては抜群の学識を認められたということしかない」と結んでいる(5) 。 ところが、有力者の推薦による破格な出世がかなり流行った唐の風習であってみれば、推薦者として玄宗の寵愛を受けていた弁正がくっきり浮かびあがってくる。この点に目をつけた高木博氏は「仲麻呂が日本の一留学生の身でありながら唐の国立大学に入学し、進士に及第し、唐朝の官吏になるといった異例の道をふむにいたったのは、弁正の勧めとその援助に負うところが大であった」と推定している(6) 。 もう一つ可能性として考えられるのは、藤原仲実の『古今和歌集目録』に仲麻呂を「中務大輔正五位上船守の男」と記しているから、日本での位階をそのまま認められたら、仲麻呂は太学入学の資格を有することになる。 仲麻呂が唐の最高学府に入って学ぶことになった経緯については、さまざまな可能性が考えられようが、あるいは名門出を誇る家柄、大先輩の弁正による熱心な斡旋、唐人にヒケを取らぬ仲麻呂自身の才学、それらの要素がすべてミックスしてこそ、仲麻呂をしてもっとも輝かしい留学生活への第一歩を踏み出させたのであろう。 |
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■三
仲麻呂が第九次の遣唐使に加わって、養老元年(七一七)に入唐したことは、すでに前節でふれた。吉備真備とならんで「名を唐国に播げる」英才の聞こえ高き仲麻呂は、『古今和歌集目録』に引かれた『国史』によれば、 「本名は仲麿といい、唐朝より朝氏の姓を賜わり、名は衡、字は仲満という。性は聡敏にして、読書を好む。霊亀二年(七一六)、留学生に選ばれる。ときに年は十有六なり。」 とある。『古今和歌集目録』にしばしば引用される『国史』は「六国史」のことをさすが、ここにみえるのは『日本後紀』の現在では散逸して伝わらない延暦二十二年(八0三)三月六日条からの転載だったといわれる(7) 。 中国へわたって名前を現地風に変えることはおそらく遣隋使の小野妹子(改名して蘇因高と名のる)に始まったと思われるが、遣唐使時代になると、かなり一般化しているようである。東野治之氏のつくった唐名一覧表(8) には、こうした実例が多くあげられている。ただし、仲麻呂の唐名を「仲満」とするのは間違いで、正しくは「衡」とすべきである。 また、東野治之氏はふれていないが、遣唐使のなかでは名だけでなく、姓を改めるケースもある。たとえば、七三三年に出発した第十次の遣唐大使をつとめた多治比広成は姓を丹?に変えていた。ところで、仲麻呂のように、姓と名をともに改めたのは特殊なケースであるらしく、『旧唐書・日本伝』にまで記載されている。 「その偏使朝臣仲満、中国の風を慕い、よって留まって帰らない。姓名を改めて朝衡となす。仕えて左補闕・儀王友を歴する。」 ここの「偏使」とは副使のことを指すのが普通だが、押使や執節使をその上にいただく場合は、大使を意味することもある。そのとき、仲麻呂はわずか二十歳未満の少年で、また留学生の身分であったので、たぶん一時は大使の候補にあがったものの、すぐに下ろされた阿倍安麻呂と混同されてしまったのであろう。 「朝」という姓は唐から与えられたのか、それとも仲麻呂自身がそう改めたのか、ことの詳細は定かでないが、それは由緒のある姓氏である。唐の元和七年(八一二)、朝廷の命令を受けて、林宝が歴代の姓氏を詳らかに網羅して『元和姓纂』という書物を作りあげた。その巻五のなかには、「朝臣」という日本人の姓もただ一例だけ記録されている。 「朝臣 日本国使臣の朝臣真人は、長安中に司膳卿同正に拝される。朝臣大父は率更令同正に拝される。朝臣は姓である。」 朝臣真人はすなわち粟田真人のことで、かれのひきいた第八次の遣唐使は唐の長安二年(七0二)東シナ海をわたって楚州に漂着していた。朝臣大父つまり巨勢祖父はそのとき副使の任にあった。これによって、朝臣を日本人の姓としては、唐の人々にひろく知られていることがわかる。 仲麻呂は『古今和歌集目録』に「安倍朝臣仲麿」とあるように、入唐してからは唐人になじみ深い「朝臣」を名のっていたようで、いつしかその一字をとって姓にしたと推察される。 こうして、留学生の仲麻呂は、弁正らの力強い応援をえて、日本人としてただ一人、高級官吏を養成する太学に進み、のちにきびしい進士の試験にも合格し、朝衡(または晁衡)を名のって唐朝に仕えることになった。かれの客卿としての略歴を、入宋僧の成尋がたまたま見かけた楊億という宋の文人の語った見聞を書きとどめた『楊文公談苑』(略して『談苑』ともいう)は、つぎのように書き記している。 「開元中に、朝衡という者がいる。太学から出て科挙に合格し、仕えて補闕に至る。国に帰らんことを求め、検校秘書監を授け、放ち還らせる。王維および当時の名流は、みな詩序を作って送別する。のちに帰国を果たさず、歴官して右常侍・安南都督に至る。」 朝衡の官歴は文人出世の初任官として人気の高い皇太子(瑛王)側近の図書管理係り、つまり左春坊司経局の校書という肩書きをふり出しに、登竜門の最短コースともいうべき皇帝の諫官(皇帝の得失を率直に諫める側近)である左補闕となり、さらに儀王友・衛尉少卿・秘書監・衛尉卿・左散騎常侍などを歴て、安南節度使にいたり、帰らぬ人となってからは、?州大都督を贈られている。 ここで、朝衡の歴任した官職を年代順にならべて示すと、つぎのようになる(9) 。 阿倍仲麻呂任官表 官 名 / 位 階 / 時 間 左春坊司経局校書 / 正九品下 / 七二一〜七二七年 左拾遺 / 従八品上 / 七二七〜七三一年 左補闕 / 従七品上 / 七三一年 儀王友 / 従五品上 / 七三四〜七五一年 衛尉少卿 / 従四品上 / 七五二〜七五三年 秘書監・衛尉卿 / 従三品 / 七五三年 左散騎常侍 / 従三品 / 七六0〜七六一年 鎮南都護・安南都護 / 正三品 / 七六0〜七六一年 安南節度使 / 正三品 / 七六六年 潞州大都督 / 従二品 / 七七0年以後 唐朝より官職を授けられた遣唐使人はそのほかにも数人かあげられるが、しかし粟田真人に司膳卿、巨勢祖父に率更令、大伴古麻呂に光禄卿、吉備真備に秘書などといった授官はいわゆる実務を伴わない名誉職にすぎず、唐の客卿として実質的に任官した日本人は、ともに異国に骨を埋めた阿倍仲麻呂と藤原清河の二人のみであろう。 藤原清河は帰国の望みをなくすと、唐の女性を妻にめとり、晩年ちかく「喜娘」という女子をもうけているが、藤原清河より遥か唐人になりきった阿倍仲麻呂はどんなロマンスを演じてみせたのか、かれの交友関係をふくめて次節であとづけてみたい。 |
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■四
東シナ海をわたってきた一介の留学生が最高学府の太学を堂々と卒業し、さらに天下の難関と目される科挙の試験を突破して官吏コースに乗り出したことは、まさに長安の文人貴族らをびっくり仰天させたのであろう。朝衡こと仲麻呂はその誠実な人格とすぐれた才能から、周りの人々に慕われ、当代一流の詩人たちと親交を結ぶことができた。 唐人から仲麻呂に贈られた詩のなかで、時期的にもっとも早いと思われるのは、儲光羲の『洛中にて朝校書衡に貽る』一首である。 万国朝天中 万国は天中に朝ぎ 東隅道最長 東隅の道最も長し 朝生美無度 朝生の美度る無く 高駕仕春坊 高駕は春坊に仕う 出入蓬山裏 蓬山の裏を出入り 逍遙伊水傍 伊水の傍を逍遙す 伯鸞遊太学 伯鸞は太学に遊び 中夜一相望 中夜は一に相望む 落日懸高殿 落日は高殿に懸り 秋風入洞房 秋風は洞房に入る 屡言相去遠 屡言う相去る遠く 不覚生朝光 覚わず朝光を生ず 詩題および「高駕(朝衡のこと)は春坊に仕う」とある一句によって知られるように、左春坊司経局校書(七二一〜七二七)在任中の仲麻呂に贈った詩である。また儲光羲が進士にあがったのは開元十四年(七二六)のことだから、この作品の時期はほぼ二年間に限定される。かりに七二七年だとすれば、仲麻呂はちょうど二十七歳前後である。ここで、「落日は高殿に懸り、秋風は洞房に入る」という二句はまさしく注目に値する。 洞房とは奥の居間または女性の閨を意味することもあるが、「洞房花燭の夜」という成語にイメージされるように、とくに新婚の部屋を指していう。ましてや、落日は一刻千金の宵をほのめかすが、立派な新居のあちこちに祝いの赤い灯籠がぶら下がっている情景まで連想させる。若くして出世した仲麻呂のロマンスはこの詩に詠み込まれているではないか。 進士の及第はあらゆる意味で、将来の栄達をかたく約束される。祝宴パーティの盛り上がり様子を、高木博氏はつぎのようなタッチで描いている。 「この日、長安の都の郊外にある曲江の池のほとりに設けられた祝賀場には、天子みずから大臣百官を従えて出御し、宮廷から派遣された教坊の多数の楽人や妓女たちの花やかな舞楽の中に、華麗な祝宴はいつ果てるともなくくりひろげられて行く。進士たちにとっては、まことにわが生涯の最良の日であったろう。」(10) 「春風に意を得て馬蹄疾し、一日に長安の花を見尽す」(孟郊『登科後』)と歌われるように、新しい進士らの酔歩の果ては、いつもと変わりなく長安の花町へ運んでいく。王仁裕の著わした『開元天宝遺事』によれば、妓女らが長安の平康坊にむらがり、年ごとに受かった進士がここを尋ねてくるので、「時の人はこの坊を風流の薮沢となす」とある。 「五十少進士」(『唐?言』)ということわざがある。つまり五十歳で進士の栄冠に輝くのは、まだ若いほうだという意味である。二十歳前後の若さで一躍して黄榜(進士合格者を発表する朝廷のふれ)にわが名を垂れる幸運児は、紳士淑女の注目の的となる。 仲麻呂は太学での苦学をみごとに実らせ、こうした幸運児の一人になっているのだ。ましてや儲光羲の詩に「美無度」と称えられる美貌の持ち主で、多くの美女から羨ましい視線を浴びせられたにちがいない。そして、開放的な唐の社会風習にふかく身を浸した仲麻呂は、いつしか恋を初体験したのであろう。 さわやかな秋風がこよなく吹く良宵に、高貴な友人たちにめでたく祝福されながら、仲麻呂がわが愛する長安の花嫁を擁して赤い灯籠にかざられた「洞房」へ姿を消していったと、洛陽にいた友人の儲光羲は想像を逞しくつつ、祝賀の詩を贈ってくれたと思われる。 |
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■五
仲麻呂をめぐる唐人の酬唱詩のうち、唐の詩壇における名声をほしいままにする王維の作品はあらゆる意味で筆頭にあげるべきである。その『秘書晁監の日本国に還るを送る』は、『唐詩選』のなかにも採録され、人口に膾炙する名作である。仲麻呂が秘書監となったのは天宝十二載(七五三)で、その六月にようやく帰国を許されて第十二次の遣唐大使をつとめた藤原清河とともに帰途についたのである。長安を発つ前に、親交を結んだ友人たちに『命を銜んで国に還るの作』と題する留別の詩を残している。 銜命将辞国 命を銜み将に国を辞せん 非才忝侍臣 非才ながら侍臣を忝くす 天中恋明主 天中にて明主を恋しがり 海外憶慈親 海外にあれば慈親を憶う 伏奏違金闕 伏奏して金闕をたち違り ?驂去玉津 ?驂は玉津を去らんとす 蓬莱郷路遠 蓬莱まで郷路はいと遠く 若木故園鄰 若木とは故園の隣りなり 西望懐恩日 西を望んで恩をしのぶ日 東帰感議辰 東へ帰って義に感ずる辰 平生一宝剣 平生ただ一振りの宝の剣 留贈結交人 交を結びし人に留め贈る しかし、すでに秘書監に衛尉卿を兼ねるという従三品の高い地位にあった客卿に、辞職還郷というようなことを認めずにはいかず、したがってここに「銜命」とあるのは唐の使者として日本使を送り返すというふうに理解される。この詩は唐代の文学に花ひらく漢詩をあまねく網羅した『全唐詩』のなかにも収録されているから、仲麻呂の詩人としてのすぐれた技量をこれで推して知るべし。 さて、ふたたび王維の送別詩に戻るが、それには五百字を超える長い序文がついている。「名を太学に成し、官は客卿に至る」につづく「必斉之姜、不帰娶於高国」とある注目すべき一文について、高木博氏は「必ズシモ斉ノ姜ノミナランヤト。帰リテ高国ニ娶ラズ」と読み下だし、「仲麻呂は、唐土に在る間ついに唐の女性を娶ることがなかったのであろうか」と文意を理解し、さらに「十九歳の若き留学生であった仲麻呂は、いつか五十五歳になっていた。その間、仲麻呂が唐の女性と親しく結ばれたという話を聞かない」とも述べている(11)。 高木博氏は「落日は高殿に懸り、秋風は洞房に入る」とある儲光羲の詩に気がつかなかったため、在唐三十数年の長きにおよんだ仲麻呂がずっと独身のままであったと思い込み、王維の詩序をうっかり誤読している。 「必斉之姜、不帰娶於高国」の一文には、二つの故事が含まれている。まず「必斉之姜」について考えてみよう。『詩経』の陳風・衡門に「あにその妻を取るに、必ず斉の姜ならんや」とあり、漢の鄭玄はこれに「なぜ大国の女でなければ、妻としないのか。貞順の女性ならば、妻にすべきだ」といった意味の注記をつけ加えている。固有名詞としての斉姜は、春秋時代のころ斉桓公の令嬢で、のちに晋献公の夫人となり、美しくて賢い高貴な女性である。後世では大国の皇族出身の美女のシンボルとされた(12)。 つぎに、「不帰娶於高国」について考察してみる。高国は高木博氏の考えたように一語として上国つまり大唐の意味に解するのではなく、高と国は春秋時代の斉国に重きをなした高氏と国氏の併称で、二語として理解すべきである。宋代の『北夢瑣言』(孫光憲撰)に「必ず高と国を娶り、婚を王と謝に求む」とあり、春秋豪族の高氏と国氏、六朝名門の王氏と謝氏の令嬢は長らく若き貴公子らの憧れる理想的な花嫁であったことがうかがわれる。 このようにみてくると、「必斉之姜、不帰娶於高国」の一文は「(妻は)必ずや斉の姜にして、帰って高と国に於いて娶らず」と訓むべきであろう。ここで、斉姜と高国とが対比的に用いられているが、斉姜とは皇族すじの姫、高国とは豪族出の娘ということになる。王維の詩序の文脈または仲麻呂の境遇に即して考えれば、斉の姜は宗主国なる唐の女、高・国は臣服する日本の女にそれぞれ譬えられていると読みとれる。 つまり、高木博氏の解釈とは正反対になるが、王維はこの序文で、帰国して日本の女性をめとらず、あえて異国にとどまって唐の女性を妻にした唐風かぶれの仲麻呂を褒め称えているのである。 さらに推論を許すならば、「斉姜」とは皇女のことで、唐王朝は周辺民族との政略結婚のため、李氏一族の女性を異域へ嫁いだり、また文武大臣への褒美にも李氏の女性を賜わった例がある。玄宗皇帝との関係、唐王朝における地位、王維の詩に用いられる「斉姜」の表現などを考えあわせれば、仲麻呂が妻に迎えたのは唐王朝の国姓を名乗る李氏の女性だった可能性を排除しがたいであろう。 話は飛び飛びになるが、天宝十二載(七五三)唐の送使の身分をもって藤原清河と同船して夢にも思いつづける故国へと向かったが、沖縄にたどりつきながら逆風にあって安南(ベトナム)にまで吹きつけられてしまった。藤原清河とともに長安に戻ってきたのは天宝十四載(七五五)のことである。のちに仲麻呂が鎮南都護・安南節度使などを授けられたのは、こうした九死の辛苦をなめつくした漂流の経歴と無関係ではあるまい。 高木博氏はこの安南漂着から命からがらと長安へ戻ってから、仲麻呂は帰郷の念をあきらめ、愛する唐の女性と契りを結んだと論じているが(11)、王維の詩序によれば、帰国を許された時点ですでに唐の女と結ばれているし、さらに儲光羲の詩にしたがえば、その時期は開元十四年(七二六)ごろにさかのぼれる。 |
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■注釈
(1)高木博著『万葉の遣唐使船−−遣唐使とその混血児たち−−』(教育出版センター1984年5月版)174頁。 (2)杉本直治郎著『阿倍仲麻呂伝研究−−朝衡伝考−−』(育芳社1940年12月版)参照。また新日本古典文学大系16『続日本紀(五)』(岩波書店1998年2月版、546頁)の補注35−五九には「『家口』を直木訳注は『日本に残っている仲麻呂の家族であろう』とする。しかし、仲麻呂が日本を出発したのは十九歳、また、生きているとすればこの年八十二歳の高齢となっているので、日本には甥姪等の傍系親族しかる遺っていない可能性が高い。本条での遺族への賜物が唐使の帰国の直前であるのは、杉本直治郎『阿倍仲麻呂伝研究』が指摘したように、この賜物は唐に遺された家族へのもので、それを唐送客使に託したものであることを示すか」と述べられている。 (3)長安在住の外国人数は拙著『唐から見た遣唐使−−混血児たちの大唐帝国−−』(講談社1998年3月版)6頁を参照。唐王朝の国際結婚政策は、貞観二年(六二八)六月十六日の徳宗勅に「諸蕃の使人、娶り得たる所の漢の婦女を妾と為す者は、並びに蕃に還らしむるを得ず」(『唐会要』卷100)と示されている。 (4)『古今和歌集目録』に「霊亀二年(七一六)、入唐留学生に選ばれる。時に年は十有六」とある。 (5)村上哲見著『漢詩と日本人』(講談社1994年12月版)72〜3頁。 (6)高木博前掲書、76頁。 (7)長野正「藤原清河伝について−−その生没年をめぐる疑問の解明−−」(和歌森太郎先生還暦記念論文集編集委員会編『古代・中世の社会と民俗文化』所収、弘文堂1976年1月版)。 (8)東野治之編『遣唐使船−−東アジアのなかで−−』(歴史を読みなおす4、朝日新聞社1994年1月版)71頁。 (9)杉本直治郎前掲書よび村上哲見前掲書(76頁)を参照。 (10)高木博著前掲書、74頁。 (11)高木博前掲書、173頁。 (12)諸橋轍次博士の『大漢和辞典』(大修館書店)では、斉姜を斉桓公の宗女、晋文公の夫人としている。楊知秋氏の『歴代中日友誼詩選』(書目文献出版社1986年9月版)もほぼ同説を唱えている。それらは間違いである。晋献公は斉国の公主(斉姜)をめとったが、のちに驪戎を征伐したとき、二人の美女(驪姫)をつれ戻し、日夜となく寵愛をしたあげく、国を傾けてしまった。それより先に文公の公子重耳は驪姫の迫害を恐れて亡命し、斉桓公の宗女(傍系の娘)を妻に迎え、のちに帰国して晋文公となった。つまり、固有名詞としての斉姜は晋献公の夫人となった斉桓公の直系の娘であるとみるべし。 |
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■ 9
阿倍仲麻呂帰朝伝説のゆくえ 『新唐書』『今昔物語集』『土左日記』へ |
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■1 はじめに
阿倍仲麻呂は、今日でも『百人一首』に載る名歌で名高い。 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも (7 番歌) これはもともと、最古の勅撰和歌集である『古今和歌集』(905)の巻9・羇旅に収載された和歌である(406 番歌)。『古今集』の詞書には「もろこしにて月を見てよみける」とあり、和歌を記した後、長文の左注として、次のように作歌事情が伝えられる。 この歌は、昔、仲麻呂をもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたの年をへて、え帰りまうで来ざりけるを、この国よりまた使ひまかり至りけるに、たぐひてまうできなむとて、いでたちけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人むまのはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろくさしいでたりけるを見てよめる、となむ語り伝ふる(旺文社文庫)。 仲麻呂は、留学生として中国に派遣された。長い間帰国しなかったのだが、日本からの遣唐使が来たついでに、一緒に帰国しようと、ようやく思い立って出立し、送別の宴を、明州の海辺で行った。夜になって、月が美しく姿を見せたのを見て詠んだのがこの「天の原」の和歌だと、『古今集』の左注は説明している。 『古今集』撰者の一人である紀貫之は、『土左日記』の中で、自らの航海になぞらえてこの和歌の異伝を引き、次のように仲麻呂をしのんでいる。 (正月)二十日の夜の月いでにけり。山の端もなくて、海のなかよりぞいでくる。かうやうなるを見てや、昔、あべのなかまろといひける人は、もろこしに渡りて、帰り来けるときに、船に乗るべきところにて、かの国人、むまのはなむけし、別れ惜しみて、かしこのからうた作りなどしける。飽かずやありけむ、二十日の夜の月いづるまでぞありける。その月は海よりぞいでける。これをみてぞ、なかまろのぬし、「わが国にかかる歌をなむ、神代より神も詠んたび、いまは、上中下の人も、かうやうに別れ惜しみ、よろこびもあり、かなしびもあるときには詠む」とて、詠めりけるうた、あをうなばらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかもとぞよめりける。かの国人、聞き知るまじくおもほえたれども、ことの心を、男文字に、さまを書きいだして、ここのことば伝へたる人にいひ知らせければ、心をや聞きえたりけむ、いと思ひのほかになんめでける。もろこしとこの国とは、こと異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。 土佐から京都へ向かう船の中は、海原の真ん中である。山もなく、月は海の中から昇る。都人には新鮮な情景だろう。『土左日記』は、二十日の夜の月だと書いている。夜遅くに出て有明に残る、下弦の月が昇るまで、宴会は感興尽きることがなかった。それまでは、漢詩などをやり取りしていたが、望郷の思いが募り、日本には、和歌という、伝統的な独自形式の韻文がある。神代の神々から、悲しいとき、嬉しいとき、思いあまるときは歌を詠むのだと説明して、ついに和歌を披露した。初句を「青海原」としたのは、日記の状況に合わせた、紀貫之の機転であろう。和歌の意味がわからない人々に対し、仲麻呂が漢文に書き直して、通事を通して伝えると、唐土の人々もいたく感心したと言い伝える。人の心はいずこも同じ。そう貫之は閉じている。 『土左日記』では、「船に乗るべきところ」とあるだけで、地名は特定されていない。『古今集』が「明州」(寧波)とするのは間違いで、本当は蘇州が正しいという有力な説もある。この和歌の作歌事情については、諸説紛々である1。 関連して、古来議論の対象となっているのは、この和歌がどのようにして日本に伝わったのか、ということである。以下にも述べるように、史実では、仲麻呂がこの時乗った船は難破してベトナムにたどり着き、彼は、その後もついに帰国することが叶わなかった。作歌事情と相俟って、この歌を、誰がいつ、どのように日本に伝えたのか。今日に至るまで、いくつもの推測が提出されている。ところが、その説明の一つに、仲麻呂は一度日本に帰国して、自らこの歌を伝えたのだとする記録が、古くよりある。いかにも荒唐無稽な説話・妄説として処理されがちな伝承であるが、そこには、確実な文献学的根拠が存する。本稿では、この阿倍仲麻呂帰朝伝説のゆくえを追跡して、その伝承に潜む、中世日本文学史上の一隅を剔抉したいと考えている。 |
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■2 阿部仲麻呂とベトナム――帰国する平群広成、帰国できない仲麻呂
まずは、阿倍仲麻呂の伝記について、先行研究2 を参照して略述しておこう。仲麻呂(701〔698〕〜 770)は、養老元年(717)、遣唐使に随行して、吉備真備(693〜 775)や玄ムらとともに唐に留学した。太学から科挙に登第して、玄宗時代に任官・重用される。数十年を経て、天平勝宝5 年(753)、藤原清河、鑑真らとともにようやく帰国の途に就いたが、清河と仲麻呂の乗った第一船は、ベトナム・安南の地に流されてしまう。言い知れぬ苦労の末に長安に戻った仲麻呂は、その後、安南節度使も歴任した。同じようにベトナムに漂着した、同時代の遣唐使・平群広成(?〜 753)とともに、仲麻呂は、日越交流史の巻首を飾る、最重要人物である。 平群広成は、天平5 年(733)、多治比広成を大使とする遣唐使として入唐する。翌年、第三船で帰国の途に就くが、難破して、崑崙国に流された。天平7 年、やっとのことで崑崙から唐へ戻る。阿倍仲麻呂が玄宗に進言したこともあって、天平11 年、苦難の末、渤海経由で無事に帰国を果たしている。同じ時の遣唐使で、第二船に乗っていた副使中臣名代も、やはり「南海」に流された。広州に戻った後、玄宗の勅書を得て、天平8 年に帰国している。その時、後に東大寺大仏の開眼供養の導師を勤めることになるインド僧菩提僊那とともに、その弟子で林邑(チャンパー)の僧・仏哲が来朝した3 のも、ベトナムとの関係で注意される。 対照的に仲麻呂は、遂に日本には帰れずに、長安で没する。 12 世紀初頭に成立した『江談抄』巻3・1 には、阿倍仲麻呂をめぐって、吉備真備を主人公とする著名な説話が伝わっている。それによると、仲麻呂は、唐土で楼上に幽閉されて餓死した。後に、吉備真備が同様に楼上に籠められた時、仲麻呂は鬼となって現れて言談し、真備の危機を救ったという。同巻3・3 には、関連の言談も載っており、「天の原」の和歌も引かれている。この説話を絵画化したのが『吉備大臣入唐絵巻』(ボストン美術館蔵)である。 奇妙きてれつなこの伝説は、真備が読解を課せられたという『野馬台詩』注釈書にまつわる言説とも関わって、長く命脈を保つ。江戸時代成立の『阿倍仲麿入唐記』という作品では、仲麻呂と真備の伝説に、秘伝書『簠簋内伝金烏玉兎集』の伝来を絡め、独自のグローバルな時空観に支えられた小説へと転じている。いずれにせよそれは、仲麻呂の中国の地での死が、絶対の前提となる説話である。 吉備真備は、仲麻呂とともに留学生として入唐し、天平5 年に帰国する。それから20 年ほどが経った天平勝宝4 年に、遣唐使の副使となって、再入唐している。伝説は、この事実を受ける。その時の大使が清河であった。この遣唐使の帰国時に、仲麻呂が一緒に乗った清河の船は難破して、ベトナムにたどり着いた。かたや真備は、ふたたび無事に帰国する。『江談抄』の伝説は、この対照的な因縁を昇華した物語なのである。 |
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■3 阿倍仲麻呂帰国伝説の発生(1)――『今昔物語集』の場合
ところが、『江談抄』と期を接して、12 世紀半ばに成立した『今昔物語集』では、その時仲麻呂はベトナムには行かず、日本に還って、自ら「天の原」の和歌をめぐる成立事情を語った、と明言する。仲麻呂自身の話がもとになって、人々は、この歌をめぐる逸話を語り伝えることができたというのである。 今昔、安陪仲麿ト云人有ケリ。遣唐使トシテ物ヲ令習ムガ為ニ、彼国ニ渡ケリ。数ノ年ヲ経テ、否返リ不来リケルニ、亦此国ヨリ□□□□ト云フ人、遣唐使トシテ行タリケルガ、返リ来ケルニ伴ナヒテ返リナムトテ、明州ト云所ノ海ノ辺ニテ、彼ノ国ノ人餞シケルニ、夜ニ成テ月ノ極ク明カリケルヲ見テ、墓無キ事ニ付テモ、此ノ国ノ事思ヒ被出ツヽ、恋ク悲シク思ヒケレバ、此ノ国ノ方ヲ詠メテ、此ナム読ケル、 アマノハラフリサケミレバカスガナルミカサノ山ニイデシツキカモ ト云テナム泣ケル。 此レハ、仲丸、此国ニ返テ語ケルヲ聞テ語リ伝ヘタルトヤ(『今昔物語集』巻24 「安陪仲麿、於唐読和歌語第四十四4」)。 下線を付した末尾の一行は、鎌倉初期以前成立の『古本説話集』や『世継物語』に載る同話には見えない。 いまはむかし、あべのなかまろが、もろこしにつかひにてわたりけるに、このくにのはかなきことにつけて思いでられて、こひしくかなしくおぼゆるに、月のえもいはずあかきに、この国の方をながめて思ひすめしてよめる、 あまのはらふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも となむよみてなきける(『古本説話集』45)。 今は昔、あべの仲麿をもろこしへ物ならはしにつかはしたりける。年をへてえ帰りまうでこざりけり。はかなき事につけても、此国の事恋しくぞおぼえける。めいしうといふ海づらにて月を見て、 あまの原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも となむよみて泣きける(『世継物語』)。 この二つの説話集が『今昔物語集』と共有する同話群は、おおむね同文性が高く、散佚「宇治大納言物語」という仮名説話集を共通母胎の出典とする可能性が高いと考えられている。だが、この仲麻呂説話に関しては、相互に微妙なズレがある。そして『古本』と『世継』の記述は、いずれも帰国の行為自体を記さない。帰国説は『今昔』のみの付加らしい。一方で、中世の『古今和歌集』注釈書では、仲麻呂は帰国して、出家した、という伝説まで生まれている5。 故国へ帰れないままに唐土で死んだ。とすれば、明州(実は蘇州)で詠んだという「あまのはらふりさけみれば」の歌は、どのようにして日本に伝えられたのか? 遣唐使一行の誰か、たとえば第三船に乗って帰った吉備真備が伝えたのか、帰国をあきらめてから誰かに託したのか。あるいはその歌が、実は渡唐以前の作であったのか。あるいはまた、仲麿が実際に作ったのではなく、仲麿伝説の中で成立していった歌なのであるか。決着のつけがたい見解が現にいくつも提示されている。『江談抄』三では、仲麿、漢家の楼上に幽閉されて餓死し、吉備真備が渡唐のとき、鬼の形に現れて真備を訪ね、この歌を詠むという。 中世における『古今集』注釈はきわめて説話的であるが、その説話的な了解のなかで、我々は仲麿の帰国を迎えることになる。日本へ帰ってこの歌を伝えたというのである。たとえば『弘安十年古今歌注』では、仲麿は帰国の後に出家し、多武峰に籠って法名を尊蓮と言ったとまで記す。『今昔』二二―四四は、かかる仲麿帰国説の最も早いものと言えるであろう(日本古典集成「説話的世界のひろがり」、1978 年)。 現代の研究書や注釈書では、『今昔』の付記する仲麻呂帰国説は、おおむね、編者の無知に由来する誤りで、説話の真実性を保持するための弁明として付記したものだと受けとられている。 仲麿は帰国せず、唐で没しているので、この記事は史実に反する。作者の無知に基づく誤記であろうが、同時に説話の真実性を強調するための結語でもある(日本古典文学全集頭注、1974 年)。 実際は中国で亡くなっているが、帰国して自ら語った体験談に設定。戻ってこそ物語が伝わるはずという論理。仲麿帰国伝承(中世古今注)がすでにあったか(新日本古典文学大系脚注、1994 年)。 仲麿は帰国せず、唐で没。この記事は史実に反する。編者がこういう和歌世界とは別の世界にあったことを物語るか。説話の真実性を強調するため、体験談の設定にした話末評語(新編日本古典文学全集頭注、2001 年)。 全集やそれを改編した新編全集は、「説話の真実性を強調」する類例として、巻20–11 の「此事ハ彼ノ僧ノ語伝ヲ聞継テ、語リ伝ヘタルトヤ」という表現を示している。新大系は、誤伝ながらも、中世の『古今集』注釈書のような日本側の伝承が、『今昔』以前に遡る可能性がなかったかと推量している。「中世古今注」にいち早く注目した、日本古典集成「説話的世界のひろがり」が、「『今昔』二二―四四は、かかる仲麿帰国説の最も早いものと言えるであろう」と指摘するのを承けてのことである。 『古今集』巻9 は、この仲麻呂の歌で始まっている。次歌は「隠岐国に流されける時に、船に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかはしける」という詞書を持つ、次の『百人一首』所収歌である。 わたの原八十島かけてこぎいでぬと人には告げよ海人の釣舟 『今昔物語集』でも、仲麻呂説話の次話は、この歌を含む小野篁の説話で、遣唐使の派遣をめぐる対の文脈である。そしてその末尾は、「此レハ篁ガ返テ語ルヲ聞テ、語リ伝ヘタルトヤ」と終わっている。『今昔』の注釈書が、仲麻呂帰国説をもって、『今昔』側の仮構の営みとして解釈しようとするのは、そこに、こうした「二話一類様式6」の『今昔』の論理が観察されることと関係する7。 先にも少し触れたように、『今昔』と『世継物語』『古本説話集』との共通母胎として知られるのは、宇治大納言源隆国(1004 〜 77)が説話を蒐集した、散佚「宇治大納言物語」である。『今昔物語集』の成立は、12 世紀半ばと推測される。隆国没して百年近くが経ち、「宇治大納言物語」を承けつつも、『今昔』において初めて仲麻呂帰国説が付記されたことになる。その年月と営為には、どのような意味があるのだろうか。単なる横並びの伝承性の強調か。あるいは、新大系が示唆するように、『古今和歌集』の注釈が展開して日本側の伝説が醸成され、『今昔物語集』はそれを採択したのだろうか。 |
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■4 阿倍仲麻呂帰国伝説の発生(2)――『旧唐書』から『新唐書』へ
そうではない、と思う。明確な文献学的徴証がある。そのポイントは、『旧唐書』と『新唐書』の東夷伝に記された、阿倍仲麻呂伝の解釈の推移である。あたかも隆国の晩年と期を重ねて、唐代の歴史について、正史の書き換えがあった。『旧唐書』(945 年成立)から『新唐書』(1060 年成立)への改編である。そして阿倍仲麻呂伝については、飛躍的な変化が、そこには刻されていたのである。 まず『旧唐書』東夷伝によって、その伝を示す。 開元の始、又た使を遣わして来朝す。[中略]其の偏使朝臣仲満、中国の風を慕い、因って留りて去らず。姓名を改めて朝衡と為し、仕えて左補闕・儀王友を経たり。衡、京師に留まること五十年、書籍を好み、放ちて郷に帰らしめしも、逗留して去らず。 天宝十二年、又た使を遣わして貢す。上元中、衡を擢んでて左散騎常侍・鎮南都護と為す。[下略8] 「慕中国之風、因留不去」(原文)と記されるように、当初から帰ろうとしなかった仲麻呂だが、50 年を経て、帰国を許される。だが、「放帰郷逗留不去」、ついに帰郷を果たさず、留まって帰国しなかったと、『旧唐書』には明記されている。そしてこの部分が、『新唐書』では大きく変わっているのである。 ……其副使朝臣仲満、慕華不肯去。易姓名曰朝衡、歴左補闕・儀王友、多所該識。久乃還。聖武死、女孝明立、改元曰天平勝宝。天宝十二載、朝衡復入朝。上元中、擢左散騎常侍・安南都護。 下線を付したように当該部は、『新唐書』になると改稿されて、「久乃還」となっている。さらに天宝十二載(753)に、仲麻呂(朝衡)は、「復た入朝」したと書いてある。一旦帰国して、再入国したと読むほかはない。 『旧唐書』には、「放帰郷逗留不去」といふから、これを文字通りに解すれば、朝衡は遂に帰国しなかつたことになる。『新唐書』では、「久乃還」とある故、これによれば、彼は勿論帰国したことになる。一は帰国しなかつたといひ、他は帰国したといふ。これが矛盾でなくて何であらうか(杉本直治カ『阿倍仲麻呂伝研究』)。 この「矛盾」が起こった理由については、杉本が、「解釈の仕様によつて、必ずしも﹃新唐書﹄が、﹃旧唐書﹄以外の史料に拠つたと考へなければならぬほどのものでもないやうである」と述べる通りである。直接的には、『旧唐書』で、「又遣使貢」と名前を出さずに記された、「次に見える天宝年間の使者を朝衡と解し」(杉本前掲書)、続く上元年中の仲麻呂の記事と短絡したために生じた『新唐書』の誤読だろう。しかしともあれ、正史として改定された『新唐書』自体の文意は明確である。仲麻呂の帰国説は、正史『新唐書』で変改された記述を根拠に据えた、正統の訛伝なのである。 ただし問題はそれでお仕舞いではない。ここには、唐代の歴史とそれを記した歴史書とその内容が、どのように伝播して受容されたのかという問題が残っている。宋代には「書禁」という制度があり、史書の輸出が禁じられていたからである。 宮崎市定の古典的論文によれば、宋代には「前代の歴史、唐書、五代史、新唐書、新五代史の編纂があり」、「日本などの諸国は、何れも斯かる新刊本を手に入れたいと熱望したのであるが、宋ではそれが遼に流入することを恐れて、遼以外の諸国に対しても同様に書籍の輸出を禁止していた9」。とはいえ、日本においても、唐の歴史への関心は高かった。宮崎が続けるように、「その新刊が日本に渡らなかったとすると日本人はいつも近代中国の歴史を知らぬことになる。仏教の教理や儒教の学説は、いつも日本では中国から最新の知識を得ているのに反し、中国の現状に対する研究は極めて不十分であった。中国が宋の時代に入っているのに日本では未だ唐代の歴史を知らず10」、などと手をこまねいていたわけではないだろう。宋代の禁書がどの程度の厳密性を保持していたかについても、個別の検証が必要である。 たとえば森克己は、「平安時代の貴族たち」の「宋朝の摺本」への「熱望」と、それに応える宋商たちの「贈物」活動を記している。また森は、「国外輸出は厳重に禁じられていた」『太平御覧』の流出を論じて、「宋朝が最も誇りとし、それだけにまた輸出防止に努めた太平御覧でさへこのように海外へ続々輸出されていたとすれば、太平御覧より巻数の遙かに少い史書の如きは一層容易に、また旺に輸入されたであろうことは想像するに難くない」と述べる。『太平御覧』の日本への到来は平清盛の時代であるが、同書は『旧唐書』を多く引き、阿倍仲麻呂の記事もそこに含まれている。さらに森は、藤原頼長の日記『台記』に見える「藤原頼長の閲読した史書」を拾い上げ、その中で「特に注意すべき点は五代史と新唐書である。五代史・新唐書は共に宋の欧陽脩が勅を奉じて嘉祐年中(後冷泉天皇時代)に編集したものである。この宋朝勅撰の正史が編集完成より八十余年後に禁書にもかかわらず宋商によってもたらされたことは、宋朝史書の国外流出の実情を示すものにほかならない。次に、頼長と同時代に相竝んで好学家・蔵書家として名高かった藤原通憲の通憲入道蔵書目録中より史書を拾い出して見ると11」、その中には「唐書目録」も見えていると指摘する。本稿にとって貴重な情報である12。 こうした時代状況に加えて、阿倍仲麻呂の在唐時期が、安禄山の乱(755 〜 757)と重なっていることも見逃せない13。安禄山の乱について、朝廷は深い関心を抱いており、情報も早く伝わっていた(『続日本紀』天平宝字2 年など)。一方で、阿倍仲麻呂と安禄山の同時代性と因果は、日本では長く記憶されて、特立されていく。近世の『阿倍仲麿入唐記』では、両者を直接絡ませて、虚像を膨らませた小説化がなされていた。 阿倍仲麻呂帰朝説を最初に記した『今昔物語集』には、玄宗と楊貴妃と安禄山の乱をめぐる説話も載っている(巻10「唐玄宗后楊貴妃依皇寵被殺語第七」)。その出典は『俊頼髄脳』という仮名書きの歌論書であるが、当該説話を分析した麻原美子は、そこに『旧唐書』や『新唐書』に由来する記述の接ぎ穂があると指摘する。概要部分のみを引用すると、『今昔』の説話には、「玄宗が貴妃に迷って国政が乱れ、反乱が生じたのも当然であれば、元凶の貴妃が殺されるのも政治道徳の上からはやむを得ないのだとする見方」が示されていること、そしてそこには、『旧唐書』九本紀などとの「間接的な何らかの関係が認められるのである」と述べている。麻原はまた、「﹃今昔﹄の説話からうかがえることは、平安末期になって﹁長恨歌﹂物語(説話)の上に﹁長恨歌﹂﹁長恨歌伝﹂以外の中国史書によって歴史的事実を新しく付加していこうという傾向が認められる」ことだという14。 『今昔』に影響したという『旧唐書』9・本紀9 の記述は、麻原自身が出典注記するように、「『新唐書』五、「本紀」五、『新唐書』七六「列伝」一の記事も」「同じ」である。さらに麻原は、やはり12 世紀後半に成立したと考えられている『唐物語』第18 話について、「『俊頼髄脳』の長恨歌説話を根幹として、すなわち「長恨歌」「長恨歌伝」を基軸に、平安末期の趨勢である『旧唐書』『新唐書』等の各種史書をつきあわせた方向線上に成立したのが、『唐物語』である」という。「しかし単なる長恨歌世界の物語化でないことは、『新唐書』(七六、「列伝」)の貴妃伝を参照し、楊貴妃が帝の弟の寧王の瑠璃の笛を吹きならした不遜僭上な振舞いによって帝から譴責処分に付された時、自らの髪を切って献じて罪を謝した話を付加し、『旧唐書』(「本紀」九、一三)によって、安禄山の変、楊国忠と貴妃が誅される経緯を記述していることであり、玄宗と貴妃の話を一つの歴史的事件として原因・経過・結果という因果関係で構想化して、長恨歌物語の決定版とした筆者の意気込みがうかがえる」と、麻原は、踏み込んだ評価を加えている。この人気のトピックについては、『旧唐書』と『新唐書』の読み合わせが行われていた可能性さえ示唆している。ちなみに私が調べた例でいえば、建保7 年(1219)の跋を持つ『続古事談』巻6–3 は、楊貴妃をめぐって、『長恨歌伝』を引用し、玄宗とのゆかりや安禄山との密通説などを伝える逸話摘記であるが、その冒頭には楊貴妃の尸解仙説を論じて「或唐書」を引く。これは記述内容から、『旧唐書』を指している15。 話を仲麻呂に戻そう。杉本直治郎は、『新唐書』が仲麻呂伝の記載に反映したとおぼしい小さな徴証を、次のように指摘している。 『扶桑略記』(巻六)元正天皇の霊亀二年八月の条には、「大伴山守為遣唐大使。多治比県守・安倍仲麿為副使。(下略)」とあつて、仲麻呂(即ち仲満)副使説を取つてゐる。これまさに『新唐書』の副使仲満説を支持するものであらねばならぬ(前掲『阿倍仲麻呂伝研究』)。 『旧唐書』には「偏使」とある。たった一字の違いだが、論じてここに至れば、重要な傍証というべきだろう。『扶桑略記』の最終記事は寛治8 年(1094)。それが同書成立の上限である。『新唐書』の仲麻呂伝はおそらく確実に浸透していた。そして阿部仲麻呂帰朝説は、『新唐書』による新しい知見なのであった。 しかし史実は異なっている。『続日本紀』以下の本邦の記録によって、そのこともまた厳然とした事実として認識されていたはずだ。日本の正史『続日本紀』には、「前学生阿倍朝臣仲麻呂在唐而亡」と記されている16。だがそこに書いてあるのは、仲麻呂が唐で死んだ、ということだけだ。安禄山と同時代の高官であった仲麻呂は、その乱の直前に帰国を試みて失敗した。李白は、彼が死んだと思い込んで哀悼の詩を作る。ところが仲麻呂は、その時、ベトナムに流されて生きていたではないか。一度は日本にもたどり着いていたって不思議じゃない。12 世紀以降の日本では、『新唐書』という中国の正史に由来する知識を根拠に、彼が実は真備のように、ひとたびは帰国していたのだ、という新説に思いを繋ぐ。その死は、二度目の入唐の時なのでは……。そして彼は、その一時の里帰りの時に、望郷の思いに溢れた哀しい和歌を本邦に伝えた。そんなロマンの訛伝の渦は、江戸時代の『百人一首』の注釈書の世界にも、根強い一説として、脈々と広がっている17。 |
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■5 『 土左日記』の原本と「に」の孤例
最後に、仲麻呂帰朝説がもたらした影響の一例が、『土左日記』本文にも見出せることを指摘しておきたい18。その前提として、『百人一首』の注釈書には、『古今集』や『土左日記』の記述を踏まえて、仲麻呂帰朝説の傍証とすることがあるのを確認しておく。 御抄云。此仲麿、久しく在唐して、帰朝の時、利根無双の人にて、帰朝をせん事をおしみて殺さんとしたり。されども、奇瑞ありて帰朝せしなり云云。[中略]愚案、此説のごとくならば、仲麿、一度帰朝して、又入唐の後、唐にて卒する事あきらか也。『古今』『土佐日記』等にも帰朝せしよし侍り。或説云、聖武の朝に帰朝して、孝謙の天平勝宝五年、遣唐使にて入唐す云云。 一説栄雅云〈古今註〉、此集に書のせたるごとく、帰朝せんとしけるが、又思ひとまりて、つゐに漢土にて、唐の大暦五年に卒す。日本宝亀元年にあたる。年七十九(三イ)云云(『百人一首拾穂抄19』)。 『土左日記』通行本では、仲麻呂が和歌を詠む時の状況として、「もろこしに渡りて、帰り来けるときに」と書いている。一時帰朝説を念頭におけば、確かに誤解を招きやすい表現だ。『古今集』では「仲麻呂をもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたの年をへて、え帰りまうで来ざりけるを、この国よりまた使ひまかり至りけるにたぐひて、まうできなむとて、いでたちけるに」とある。比較すると『土左日記』では、表現の圧縮がなされている。せめて下線部が「帰り来むとするときに」などと表現されていれば、ずっと明瞭であっただろう。 そうした文脈の中で『土左日記』には、「もろこしに渡りて、帰り来にけるときに」と「に」を付加する伝本がある。「に」は、いわゆる完了の助動詞「ぬ」の連用形である。「にけり」という連語は文法上、「物事の完了し、それが存続することを詠嘆的に回想することを表わす20」。まさにこの本文形は、仲麻呂一時帰朝説と直結する表現なのである。 こうした本文は、どのように伝わっているのだろうか。実は、孤例で、為家本(青谿書屋本)のみに「かへりきにける」とあるのである。 少しだけ解説を加えておこう。昭和時代の『土左日記』の本文研究は、池田亀鑑『古典の批判的処置に関する研究』(岩波書店、1941 年21)によって確立した。同書は、紀貫之自筆本(蓮華王院本)を忠実に写したという藤原為家本を、江戸時代に忠実に写したという青谿書屋本をもとに、影印を用いて本文批評を試み、原本の復元を試みたのである。池田亀鑑の本文批評は次のようになされており、底本にはあったはずの「に」が消える理由がわかる。「青本」とあるのが、青谿書屋本を指す。 諸本はすべて「きける時」とある。為相本にも「に」がないのは、定家本その他による改修か、又は為家本の形の忠実な伝承か明かでない。もし、為家本の形を伝へるものとすれば、青本に「に」の字の存するのは、青本の書写者によつて犯された衍字かも知れない。いづれにせよ、貫之自筆本には「に」は存しなかつたと見るべきである22。 その後、所在不明になっていた嘉禎2 年(1236)書写の為家本そのものが、1984年に発見され、青山短期大学に収蔵された(現大阪青山歴史文学博物館蔵)。重文指定を経て、現在は国宝に指定されている(1999 年)。青山本の影印は出版されていないが、萩谷朴編『影印本 土左日記(新訂版)』(新典社、1989 年)の頭注で、その内容を確認することができ、為家本にも「に」があることがわかる23。それは、鎌倉時代の最重要本文であった。 しかし、池田亀鑑の最終的な結論は、おそらく正しい。「貫之自筆本には「に」は存しなかつたと見るべきである」。理由は、「に」を補読した本文では、「にけり」の文法的法則に従って、仲麻呂の帰国が「完了し、それが存続することを」表してしまうからである。紀貫之は945 年に歿している。彼は『旧唐書』さえ読むことができなかった。考えられるのは、『新唐書』の所伝を知りえた鎌倉時代の知識によってもたらされた、藤原定家・為家親子のいずれかによる誤伝24 である。それは一見、ささいな誤伝であるが、当時の人々が託した仲麻呂帰朝への思いが投影された、重い異文ではなかったか。 民間による対外交流が活発化したその時代に、帰国できずに美しい和歌を残したいにしえの仲麻呂のイメージは、より幻想の度合いを深めつつ、リアルで鮮明に投影される。本稿ではそんな歴史の風景を切り取ってみた。小さな宇宙ではあるが、たとえばこうした「に」の所在や痕跡にこそ、いかにも国文学的な世界がある。その学問的意義を、小さな声で誇らしげに語ってみたい。 |
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■ 1 この和歌をめぐる諸説については、北住敏夫「阿倍仲麻呂﹁天の原――﹂の歌私考」(『文学語学』88 号、1980 年10 月)など参照。 2 杉本直治郎『阿部仲麻呂伝研究』(手沢補訂本、勉誠出版、2006 年、初出は1940 年)、同『東南アジア史研究1』(訂補再版、巌南堂書店、1968 年、初出は1956 年)、同「阿部仲麻呂は安南節度使として任地に赴いたか否か」(『古代学』13–1、古代学協会、1966 年)、増村宏『遣唐使の研究』(同朋舎出版、1988 年)他。 3 以上は、東野治之『岩波新書 遣唐使』参照。なおこの仏哲について『大安寺菩提伝来記』には「瞻波国僧〈此云林邑〉北天竺国仏哲」と書かれており、このチャンパーは北インドを指し、仏哲もインド僧と見なすべきだとする説がある(林於菟弥「林邑僧仏哲について」『結城教授頌寿記念 仏教思想史論集』大蔵出版、1964 年)。 4 次話は小野篁の隠岐配流をめぐる歌話で、いずれも遣唐使説話である。 5 杉本直治カ『阿倍仲麻呂伝研究』は毘沙門堂本『古今集注』を挙例し、「帰朝ノ時ハ、桓武天皇ノ御宇也」と記すことを注意する。『日本古典集成 今昔物語集 二』付録の「説話的世界のひろがり」では、「﹃弘安十年古今歌注﹄では、仲麿は帰国の後に出家し、多武峰に籠って法名を尊蓮と言ったとまで記す」と指摘する。中世古今集注釈書の概観は、片桐洋一『中世古今集注釈書解題』1 〜 6(赤尾照文堂、1971 〜 1987 年)参照。 6 国東文麿『今昔物語集成立考 増補版』(早稲田大学出版部、1978 年)が提起した『今昔物語集』における説話配列の原理。 7 仲麻呂説話の前話は、紀貫之が土佐の守の任が終わる年に、幼い男子を亡くし、その悲しみを帰洛時に柱に書きつけた和歌の説話で、『土左日記』の仲麻呂譚引用と脈略が通じている。 8 以下、石原道博編訳『新訂旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝――中国正史日本伝(2)』 (岩波文庫、1986 年)の訓読と本文を参照した。 9 宮崎市定「書禁と禁書」(宮崎著、礪波護編『東西交渉史論』中公文庫、1998 年、初出1940 年)。 10 宮崎前掲論文。 11 森克己『日宋文化交流の諸問題』所収「日唐・日宋交通における史書の輸入」(刀江書院、1950 年、『増補日宋文化交流の諸問題 新編森克己著作集4』増補版、勉誠出版、2011 年)。 12 信西が、平治元年(1159)11 月15 日に描いたという「長恨歌絵」には「数家之唐書及唐暦、唐紀、楊妃内伝」が引かれていた(『玉葉』建久2 年〔1191〕11 月5 日条)ことも想起される。大江匡房の『江談抄』5–63(『水言抄』14)には「唐の高宗のときに通乾の年号有り。反音は不吉なり。よりて改む。この事、唐書に見ゆ」(新日本古典文学大系)とあるが、対応する記述は『旧唐書』『新唐書』ともに見えない。江談抄研究会編『古本系江談抄注解 補訂版』(武蔵野書院、1993 年)参照。 13 安史の乱と総括される、史思明、そしてその子史朝義の乱が終結するのは763 年。 14 麻原美子「我が国の﹁長恨歌﹂享受」(川口久雄編『古典の変容と新生』明治書院、1984 年)。 15 川端善明・荒木浩校注『新日本古典文学大系41 古事談 続古事談』当該脚注参照。また信西は「数家之唐書及唐暦、唐紀、楊妃内伝」を引いて「長恨歌絵」を書いている(本稿注12 参照)。 16 『 続日本紀』巻35、宝亀10 年(779)5月26 日条。 17 後掲する北村季吟『百人一首拾穂抄』参照。同書の記述は『阿倍仲麿入唐記』にも引かれている。 18 以下の記述については、拙稿「かへりきにける阿倍仲麻呂――『土左日記』異文と『新唐書』」(倉本一宏編『日記・古記録の世界』思文閣出版、2014 年3 月刊行予定)と題したコラムで別角度から論じており、参照を乞う。 19 引用は『百人一首注釈叢刊9 百人一首拾穂抄』(和泉書院、1995 年)。「御抄」は後水尾院の『百人一首抄』を指す。この一連についても『新唐書』が背景にある。前掲「かへりきにける阿倍仲麻呂――『土左日記』異文と『新唐書』」参照。 20 松村明編『日本文法大辞典』(明治書院、1971 年)。 21 現在はPDF ファイルが、ネット上で閲読できる。 22 『 古典の批判的処置に関する研究』第一部 土左日記原典の批判的研究・第四章 青谿書屋本の吟味と修正・第五節 獨自本文とその修正。 23 その後の研究状況については、伊井春樹「為家本﹃土左日記﹄について」(『中古文学』71、2003 年5 月)に詳しい。 24 為家本が写したのは紀貫之自筆本ではなく、貫之自筆本を模写した定家の本であるとの説がある。 【付記】本書に引用した古典本文は、明記した以外では、新日本古典文学大系(『続日本紀』『今昔物語集』)、講談社学術文庫(『古本説話集』)、続群書類従『世継物語』、新編国歌大観(和歌類)などに拠ったが、引用に際し、諸注釈や伝本を参照し、漢字を当てたり、句読点を施すなど、表記の変更を施している。 |
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■8.喜撰法師 (きせんほうし) | |
わが庵(いほ)は 都(みやこ)の辰巳(たつみ) しかぞ住(す)む
世(よ)をうぢ山(やま)と 人(ひと)はいふなり |
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● 私の庵は都の東南にあり、このように心静かに暮らしている。それにもかかわらず、私が世を憂いて宇治山に引きこもったと世間の人は言っているようだ。 / 私の庵は都の東南にあり、辺りには鹿もいるほど寂しいが、これこの通り静かに暮らしている。それなのに人は私を世の中をつらいと思って宇治に遁れていると言っているそうだ。 / 私が住んでいるお坊さんの住む庵は、都である平安京のはるか離れた東南にあるものだから、おかげさまで心静かに住んでいるのですよ。なのに、皆さんは、私が人々とのお付き合いがわずらわしいと思って、そんなところに住んでいると言っているようですね。 / 私の草庵は都の東南にあって、そこで静かにくらしている。しかし世間の人たちは(私が世の中から隠れ)この宇治の山に住んでいるのだと噂しているようだ。
○ 都 / 平安京 ○ たつみ / 東南。十二支の方位で辰と巳の中間。 ○ しかぞすむ / 「しか」は、副詞で、「このように・そのように」の意。この場合は、「心静かに・のどかに」の意。「鹿」との掛詞とする説もある。「ぞ」と「すむ」は、係り結び。「ぞ」は、強意の係助詞。「すむ」は、動詞の連体形。 ○ 世をうじ山と / 「う」は、「憂(し)」と「宇(治)」の掛詞。上を受けると「世を憂し」となり、下へ続くと「宇治山」となる。「憂し」は、「つらい」の意。「宇治」は、現在の京都府宇治市。「宇治山」は、「喜撰山」と呼ばれている。 ○ 人はいふなり / 「人」は、世間の人。「は」は、区別を表す係助詞で、この場合は、自分と世間の人が異なる見解であることを示している。「いふ」は、四段活用であり、終止形と連体形が同形であるが、あとの「なり」が伝聞・推定の助動詞であることから、終止形であると判断する。(注)「なり」が断定の助動詞の場合は、連体形に接続する。 |
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■ 1
喜撰(きせん 生没年不詳、伝不詳)は、平安時代初期の真言宗の僧・歌人。六歌仙の1人。伝承では山城国乙訓郡の生まれとされ、出家後に醍醐山へと入り、後に宇治山に隠棲しやがて仙人に変じたといわれる。下に掲げる二首の歌のみが伝えられ、詳しい伝記などは不明。なお「喜撰」の名は、紀貫之の変名という説もある。また桓武天皇の末裔とも、橘諸兄の孫で、橘奈良麻呂の子ともいわれる[1]。「古今和歌集仮名序」には、「ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評されている。 歌学書『倭歌作式』(一名『喜撰式』)の作者とも伝えられるが、今日では平安後期の偽書(仮託書)と見られている。また、『無名抄』によれば、宇治市の御室戸の奥に喜撰の住みかの跡があり、歌人必見であるという。今も喜撰洞という小さな洞窟が山腹に残る。 現在に伝わる詠歌は以下の二首のみ。 わが庵は都の辰巳しかぞすむ世を宇治山と人はいふなり (小倉百人一首8番)(古今983) 木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも (玉葉和歌集400) |
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■ 2
伝不詳。宇治山に住んだ僧ということ以外、確かなことは判らない。いわゆる六歌仙の一人で、古今集仮名序には「ことばかすかにして、はじめ、をはり、たしかならず。いはば、秋の月を見るに、あかつきのくもにあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず」と評されている。『元亨釈書』には「窺仙」なる僧が宇治山に住んで密咒をなし、長生を求めて仙薬を服し、あるとき雲に乗って去って行った旨書かれている。また『孫姫式』には「基泉」の作が載るという(『古今和歌集目録』)が、いずれも喜撰と同一人物かどうか判らない。歌は古今集の一首以外たしかなものは伝わらない。歌学書『喜撰式』の著者と永く信じられていたが、今日この書は平安中期の偽書とみる説が有力視されている。 |
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■ 3
成書としての百人一首は、宮廷を中心とした和歌の歴史を辿る形をとっています。当然百人の顔ぶれは皇族・廷臣・女官の三者でおおかた占められることになりますが、それ以外にも重要な歌人群が存在します。坊主めくりのゲームでは嫌がられる人たちです。 歌で名を揚げた僧侶――《歌僧》は和歌史において無視できない一つの大きな流れを成し、定家の生きた時代には西行・寂蓮といった大歌人が現れました。隠者を主要な担い手とする中世の文学がすでに始まっていたのです。喜撰法師は言わばその源流をなす歌人と言えましょう。 宇治山の僧、喜撰。伝不詳の人物で、古今集仮名序を書いた紀貫之も「よめる歌、多く聞こえねば、かれこれを通はして、よく知らず」と困った様子です。それでも六歌仙として取り上げたのは、当時喜撰が既に名立たる伝説的歌人だったからです。その名声ゆえか、平安時代最初の歌学書として重んじられた『倭歌作式』の作者に擬せられ、この書を別名『喜撰式』と称します。 喜撰の偶像化をさらに推し進めたのが宇治という土地柄です。 宇治は平安貴族たちの清遊の地であると共に、平等院に象徴される浄土経の聖地でもありました。しかも源氏物語宇治十帖の舞台となって、名所歌枕としての声価もうなぎのぼり。定家の時代、喜撰のネーム・バリューはいかばかり高まっていたことでしょう。 宇治山の喜撰が跡などいふ所にて、人々歌よみける 嵐吹く昔の庵いほの跡たえて月のみぞすむ宇治の山もと 寂蓮の家集より。宇治山の喜撰の庵跡を歌人たちが訪ね、皆で歌を詠んだというのです。喜撰が後世の歌人たちに慕われていたことを示す、ほんの一例です。因みに、喜撰山と呼ばれる山には今も喜撰の住んだ洞窟が残っているそうです。 確実な作歌は一首しか伝わりません。この喜撰法師や安倍仲麿のように、たった一首の歌によって和歌の歴史に名を刻んだ人のことを思うと、定家は百人一首の構想を立てた後で仲麿や喜撰を撰んだと言うよりも、彼らのような存在が定家に百人"一首"という構想を思い付かせたのでないか――そんなふうに思えてきます。 ■ 古今集の真名序は喜撰について「其詞華麗而、首尾停滞、如望秋月遇暁雲(其の詞華麗にして、首尾停滞、秋月を望みて暁雲に遇へるが如し)」と評しています。「其詞華麗」とは、修辞の巧みさと、華やかなばかりにリズミカルな調べを賞賛した語でしょう。 わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり 「我が庵は、都の巽。しかぞ住む。」二句・三句切れが歯切れの良いリズムを生んでいます。さて「しかぞ住む」とはどう住むことかと読み進めれば、そのことは言わず、「世をうぢ山と人は言ふなり」と世人の噂に話題を転じて一首を閉じてしまう。このはぐらかされたような感じを、古今集序文の執筆者は「首尾停滞」とか「秋の月を見るに、曉の雲にあへるがごとし」とか言ったのでしょう。しかしこの飄々とした歌いぶりこそが、喜撰の歌の魅力なのです。 「世をうぢ山と人はいふ」と伝え聞いた事柄について、作者は肯定も否定もせず、世間(の噂)に対して超然たる態度を示しています。「しかぞ住む」とは要するに、そのように俗世に対して恬淡てんたんたる心持で生きている、ということでしょう(「すむ」は「澄む」でもあります)。つかみどころのない伝説的隠者に如何にもふさわしい歌ではありませんか。 しかし「世をうぢ(憂し)山」の句には自分自身に対する苦い皮肉が含まれるようにも聞こえ、単純なライト・ヴァースには終らない、一癖ある歌です。「老来、中風で手足の不自由を嘆くことのひどかった定家の姿が、そこに見えるような気がする」との指摘(安東次男『百首通見』)は鋭い。『百人秀歌』で小野小町(「…我が身世にふる…」)と合せていることを考えれば尚更です。いずれも厭世観の漂う歌ですが、小町の歌では老いた我が身を、喜撰の歌では遁世した我が身を、「他人ごとのように」(安東次男前掲書)眺めている歌という点で似通っています。 ところで定家は七十二歳になる天福元年(1233)冬に出家、法名「明静」を称しています。定家にとって「世を憂ぢ山」の歌はいにしえの名歌である以上に、つよい親近感をおぼえる一首だったのではないでしょうか。 なお、定家はこの歌を『五代簡要』『定家八代抄』『秀歌大躰』に採り、また「春日野やまもるみ山のしるしとて都の西も鹿ぞすみける」「わが庵は峯の笹原しかぞかる月にはなるな秋の夕露」などと本歌取りしています。 ■ さて、最後に、この歌の配置について少し考察してみましょう。『百人秀歌』では第14番、小野小町の次に置かれている喜撰は、百人一首では第8番、仲麿の次に置かれています。この違いは何故生じたのでしょうか。 仲麿の次に喜撰を置いた理由について、たとえば『改観抄』の契沖は「宇治山をよめるをもて上の三笠山に類せられたるにや」と推察していますが、私の考えは全く異なります。百人一首の配列原理は次の二点にあると考えるからです。 1.和歌の歴史の流れを辿れるように、時代順に並べる。 2.和歌の多彩な変化を味わえるように、なるべく同季節・同趣向の歌は並べない。 但し、集中四十三首の多くを占める恋歌については、2の「同趣向の歌は並べない」が適用されず、同じ難波を用いた歌が続いたり(19番伊勢・20番元良親王)、同じ歌合に同じ題で出詠された歌が続いたり(40番平兼盛・41番壬生忠岑)しています(この理由については後述します)。 百人一首と『百人秀歌』の配列比較表を再び掲げてみましょう。今度は二十番目まで。 百人一首 百人秀歌 1番 天智天皇 秋(露) 左に同じ 秋(露) 2番 持統天皇 夏(衣) 〃 夏(衣) 3番 柿本人麿 恋(鳥) 〃 恋(鳥) 4番 山辺赤人 冬(雪) 〃 冬(雪) 5番 猿丸大夫 秋(鹿) 中納言家持 冬(霜) 6番 中納言家持 冬(霜) 安倍仲麿 旅(月) 7番 安倍仲麿 旅(月) 参議篁 旅(舟) 8番 喜撰法師 雑(山) 猿丸大夫 秋(鹿) 9番 小野小町 春(花) 中納言行平 別(松) 10番 蝉丸 雑(関) 在原業平朝臣 秋(紅葉) 11番 参議篁 旅(舟) 藤原敏行朝臣 恋(波) 12番 僧正遍昭 雑(節会) 陽成院 恋(川) 13番 陽成院 恋(川) 小野小町 春(花) 14番 河原左大臣 恋(染) 喜撰法師 雑(山) 15番 光孝天皇 春(若菜) 僧正遍昭 雑(節会) 16番 中納言行平 別(松) 蝉丸 雑(関) 17番 在原業平朝臣 秋(紅葉) 河原左大臣 恋(染) 18番 藤原敏行朝臣 恋(波) 光孝天皇 春(若菜) 19番 伊勢 恋(葦) 左に同じ 恋(葦) 20番 元良親王 恋(澪標) 〃 恋(澪標) ここでは仮に、『百人秀歌』が先に出来、それを改訂して今の百人一首が出来上がった、とする国文学界の有力説を基に考察を進めたいと思います。この説に今のところ不都合な点は見出せないからです。逆に、百人一首が先に出来たとか、両方が同時に出来たとかいった考え方には、両者の配列を比較する上で、合理性を見出せません。 さて番外編その一で書いたように、『百人秀歌』では赤人・家持と「白」を詠んだ冬歌が続いていたことを嫌って、百人一首の編者は時代不詳の人物である猿丸大夫を赤人・家持の間に割り込ませたと考えられます。『百人秀歌』ではさらに6番安倍仲麿・7番参議篁と旅歌が連続し、しかも仲麿(西暦698年生)と篁(802年生)では時代に百年以上の開きがあります。この二人を何とか引き離したい――百人一首の編者はそう考えて、さらに配置の転換を考えたでしょう。そこで再び時代不詳の人物が利用されます。伝説的歌人、喜撰法師・小野小町・蝉丸の三人をまとめて仲麿の後に移し、その次に篁を置いたのです。 猿丸大夫が前へ移ったために、篁の後には中納言行平(818年生)が来ますが、僧正遍昭(816年生)の方が行平より前の人なので、篁の次へ移します。遍昭の後には、行平が仕えた陽成院と光孝天皇、また行平とほぼ同世代であるが身分の高い河原左大臣を置き、行平・業平の兄弟は当然この順序のまま。業平の次に来るのは、業平の妹婿であった藤原敏行が適当ですから、この順番も『百人秀歌』を踏襲します。次に来る伊勢(870年代生)・元良親王(890年生)は時代順の原則に抵触しないので『百人秀歌』の位置のままに残されたのでしょう。 こう考えれば、少なくとも二十番までの百人一首と『百人秀歌』の配列の違いを説明できます。 |
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■9.小野小町 (おののこまち) | |
花(はな)の色(いろ)は 移(うつ)りにけりな いたづらに
わが身世(みよ)にふる ながめせしまに |
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● 桜の花はむなしく色あせてしまった。長雨が降っていた間に。(私の容姿はむなしく衰えてしまった。日々の暮らしの中で、もの思いしていた間に。) / 桜の花の色がすっかり色あせてしまったと同じように、私の容姿もすっかり衰えてしまったなあ。桜に降る長雨を眺め、むなしく恋の思いにふけっている間に。 / 春も終わりかしら。桜の花の色が、長雨にあたって、ずいぶんと色あせてしまったのね。その桜の花の色と同じように、私の美しさもおとろえてしまったわ。恋愛の悩みなんかに思い悩んで、むだに長雨を眺めながら、ぼんやりと暮らしているうちに・・・。 / 花の色もすっかり色あせてしまいました。降る長雨をぼんやりと眺めいるうちに。(わたしの美しさも、その花の色のように、こんなにも褪せてしまいました)
○ 花の色は / 六音で字余り。「花」は、桜。「花の色」は、女性の容色のたとえ。 ○ うつりにけりな / 「うつり」は、ラ行四段の動詞「うつる」の連用形で、「衰える・色あせる」の意。「な」は、詠嘆の終助詞。 ○ いたづらに / 「むなしく・無駄に」の意。「ふる」にかかる。 ○ ふる / 「経る」と「降る」の掛詞。上を受けると「世に経る」となり、下に続くと「降るながめ」となる。「経る」は、「時間が経過する・暮らす」の意。 ○ ながめ / 「長雨」と「眺め」の掛詞。「降る」を受けると「降る長雨」となり、「経る」を受けると「経る眺め」となる。 |
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■ 1
小野小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。 小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。 系図集「尊卑分脈」によれば小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は「尊卑分脈」にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦21年(802年) - 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘、あるいは小野滝雄の娘とする説もある。 血縁者として「古今和歌集」には「小町姉(こまちがあね)」、「後撰和歌集」には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在が疑わしい。さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている。 また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる(ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。前述の小町姉が実在するという前提で、姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の”町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある。 ■生誕地に纏わる伝承 生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しておりその周辺とも考えられる。この他にも京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、熊本県熊本市北区植木町小野とする説、神奈川県厚木市小野とする説など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。東北地方に伝わるものはおそらく「古今和歌集」の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小町の祖父である小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという。 湯沢市には小野小町にちなんだ建造物「小町堂」があり、観光の拠点となっており、町おこしの一環として、毎年6月の第2日曜日に「小町まつり」を開催している。また、米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車愛称「こまち」は彼女の名前に由来するものである。 京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。後述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。それにちなんで、毎年「ミス小野小町コンテスト」が開かれている。 山形県米沢市小野川温泉は、小野小町が開湯した温泉と伝えられ、伝説が残っている。温泉街には、小町観音があり、美人の湯と称されている。 ■墓所 小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される。 ○ 宮城県大崎市にも小野小町の墓があり、生地の秋田県雄勝郡横堀村に帰る途中、この地で病に倒れ亡くなったと伝えられている。 ○ 福島県喜多方市高郷町には、小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野の小町の供養塔がある。 ○ 栃木県栃木市岩舟町小野寺には、小野小町の墓などがある。 ○ 茨城県土浦市と石岡市には、小野小町の墓があり、この地で亡くなったとの伝承がある。この2つの地は、筑波山の峠を挟んでかなり近いところにある。 ○ 愛知県あま市新居屋に小町塚があり、背面には「小町東に下るとき此処で死せし」とあり、小野小町は東国へ下る途中、この地で亡くなったという伝説がある。 ○ 京都府京丹後市大宮町五十河も小野小町終焉の地と言われ、小町の墓と伝えられる小町塚がある。 ○ 京都市左京区静市市原町にある小町寺(補陀洛寺)には、小野小町老衰像と小町供養塔などがある。 ○ 滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。 ○ 和歌山県和歌山市湯屋谷にも小町の墓があり、熊野参詣の途中この地で亡くなったとの伝承がある。 ○ 鳥取県伯耆町にも同種の言い伝えがあり、小町地区に墓がある。また隣接して小野地区も存在する。 ○ 岡山県総社市清音黒田にも、小野小町の墓がある。この地の伝承としては、小町が「四方の峰流れ落ちくる五月雨の黒田の蛭祈りますらん」とよむと、当地の蛭は吸い付かなくなったという蛭封じの歌が伝えられている。 ○ 山口県下関市豊浦町川棚中小野にも、小野小町の墓がある。 ■作品 歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉、柔軟艶麗である。「古今和歌集」序文において紀貫之は彼女の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。仁明天皇の治世の人物である在原業平や文屋康秀、良岑宗貞と和歌の贈答をしているため、実在性が高い、とする説もある。実際、これらの歌人との贈答歌は多く伝わっている。 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを 「古今集・序」 色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける 「古今集・序」 わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらば往なむとぞ思ふ 「古今集・序」 わが背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも 「古今集・序」 いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞきる うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るがわびしさ かぎりなき思ひのままに夜もこむ夢ぢをさへに人はとがめじ 夢ぢには足もやすめずかよへどもうつつにひとめ見しごとはあらず うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき 秋の夜も名のみなりけりあふといへば事ぞともなく明けぬるものを 人にあはむ月のなきには思ひおきて胸はしり火に心やけをり 今はとてわが身時雨にふりぬれば事のはさへにうつろひにけり 秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば — 「古今集」 ともすればあだなる風にさざ波のなびくてふごと我なびけとや 空をゆく月のひかりを雲間より見でや闇にて世ははてぬべき 宵々の夢のたましひ足たゆくありても待たむとぶらひにこよ — 「小町集」 次の歌からも美女であった事が窺える。これは、百人一首にも選ばれている。 花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に — 「古今集」 ■著作 小町集 ■小野小町にちなむ作品 小野小町を題材とした作品を総称して「小町物」という。 ■能 小野小町を題材にした七つの謡曲、「草紙洗小町」「通小町」「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒都婆小町」「雨乞小町」「清水小町」の「七小町」がある。これらは和歌の名手として小野小町を讃えたり深草少将の百夜通いを題材にしたものと、年老いて乞食となった小野小町に題材にしたものに大別される。後者は能作者らによって徐々に形作られていった「衰老落魄説話」として中世社会に幅広く流布した。 ■歌舞伎 ○ 「積恋雪関扉」(つもるこい ゆきの せきのと) 通称「関の扉」、歌舞伎舞踊(常磐津)、天明4年 (1784) 江戸桐座初演 ○ 「去程恋重荷」(さるほどに こいのおもに) 通称「恋の重荷」、歌舞伎舞踊(常磐津)、文政2年 (1819) 江戸中村座初演 ○ 「六歌仙容彩」(ろっかせん すがたの いろどり) 通称「六歌仙」、歌舞伎舞踊(義太夫・長唄・清元)、天保2年 (1831) 江戸中村座初演 ○ 「和歌徳雨乞小町」(わかの とく あまごい こまち) 通称「雨乞小町」、歌舞伎狂言、明治29年 (1896) 東京明治座初演 ■御伽草子 「小町草紙」 ■美術 鎌倉時代に描かれた、野晒しにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、蛆虫がわき、腐敗して風化する様を描いた九相詩絵巻は別名を「小野小町九相図」と呼ばれる。モデルとしては他に檀林皇后も知られ、両人とも「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」の歌の作者とされた。 ■裁縫用具 ○ 裁縫に使う「待ち針」の語源は小野小町にちなむという俗説もある。言い寄ってくる多くの男に小野小町がなびくことがなかったため、穴(膣)のない女と噂されたという伝説に基づき、穴のない針のことを「小町針」と呼んだことから来ているというものである。 ○ 横溝正史の推理小説「悪魔の手毬唄」に登場する手毬唄では、「穴がない女性」という意味で「小町」の語が用いられている。 |
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■ 2 世界三大美女の一人として有名で、ある地域や集団の中での一番の美人を指す「○○小町」の語源ともなっている。その語感から、なにか町娘のような感じがするが、れっきとした平安王朝の貴族の娘だった。しかしながら、あまりにも氏素性などの記録が残っていないところから(生没不明)、さほど身分が高かったわけではなく、おそらく「菜目(うぬめ)、天皇の側で食事などの給仕役」として宮仕えをしていたのではないかといわれている。初の勅撰(国選)和歌集「古今和歌集」で六名の名歌人「六歌仙」として、ただ一人選ばれ女性で、他に百人一首などに多くの名歌を残している。京都以外にも、小野小町の生地や没地としての小町塚が多数あり、その事も小野小町の謎となっている。 筆舌しがたい美人で、歌の才でも卓抜した才能の持ち主だったが、恋多き女で、数々の男性を翻弄し浮き名を流したとされている。しかし、実は小町が残した数々の名歌以外の事ははっきりと分かっておらず、後世までその美しさが全国に伝わるというのも不思議な話しである。勝手な推測で小町像を探ると、「女性でただ一人六歌仙に選ばれた小町は、すごい美人だろう」という想像で「日本一の美女」としての評判が全国にたち、それにあやかって多くの小町塚が全国に作られたか。若い頃の小町は、短袖の着物に短かめのロングヘアーという軽快な服装で(十二単に超ロングヘアーという装束は平安中期になってから現れたとの説がある)テキパキと宮中の仕事をこなし、女一人でつらい宮中勤務にじっと耐え、晩年は生地の陸奥(秋田、ここが小町の生地だったとの説もある)に帰り、静かに暮らしたという姿も浮かび上がってくる。小町の有名な歌、「花の色は移りにけりないたずらに我身世にふるながめせしまに」 (無為に人生を過ごしている間に、すっかり自分は女のさかりを過ぎてしまった)は、女性としての美しさが失われていく悲しさを歌ったものとは限らず、人生の峠をこせば誰でも感じる寂しさを歌ったもの。「いろみへでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(花の移ろう姿以上に人の心は変わっていくものよ)は、自分が絶世の美女として伝説化されていくのを困惑している様子という解釈では小野小町を少し美化しすぎか、奔放な小町像をあまりにも地味なものにしてしまったものか。 逸話として小町が老後になってからのものが多く、その多くは、「若い時には美しい事を良いことに、数多くの男性を手玉に取り袖にもしたが、老いてその美しさが失われてからは、乞食にまで落ちぶれて、果ては路傍で野垂れ死に、ドクロとなってまでも歌を詠んでいた」などのヒドイものが多い。これらの逸話は、「いくら美しくとも生あるものは、やげて朽ちて醜くなる」「奢り高ぶる人は、やがて人々に見向きされなくり、寂しい人生を送る」などの、仏教思想の教えとして、後の世に作られたものである。絶世の美女と評判になってしまった小町にとっては迷惑な話しかもしれない。 たしかに、それほど小町は美しく、多くの男性を翻弄したのか、あるいは、何か悟りを開いているように見える小町が、男性を相手にせず恨みを買っていたのかもしれない。 有名な逸話。宮中勤務を退いた後も美しさの衰えなかった小町に、連日連夜、色々な男達が言い寄っていた。その中で深草少将だけは小町の目にかない、「百夜通えば、そなたと付合おう」と少将に伝えた。それを聞いた深草少将は、毎夜恋文を届けに深草の地(現伏見区)から洛北の小野荘まで通いはじめる。無事に九十九夜を通いつめましたが、最後の百夜目に雪の中を小野荘に向かう途中で深草少将は凍死してしまう。嘆き悲しんだ小町は、今までの恋文を燃やし、その灰で地蔵を作り深草少将を弔ったという。 |
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■ 3
紀貫之は、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、仮名でその序文(「古今和歌集仮名序」)を執筆した。その中で「近き世にその名きこえたる人」として「六歌仙」を選んでいる。 紀貫之が選んだ6人の歌人は、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主であるが、紀貫之はこの6人全員について短いコメントを書き残している。 たとえば五人目の小野小町についてはこう書いている。 「小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。」 (古代の衣通姫の系統である。情趣がある姿だが、強くない。たとえて言うとしたら、美しい女性が悩んでいる姿に似ている。強くないのは女の歌であるからだろう。) 「衣通姫(そとおりひめ)」とは、記紀で絶世の美女と伝承される人物で、その美しさが衣を通して光り輝いたと言われている。この紀貫之の文章を普通に読むと、誰でも小野小町が美人であったと連想してしまうだろう。 また「百人一首」には、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」(古今集)が選ばれている。 この歌で、小町は自分の容姿を花にたとえて、歳とともに衰えてしまったことを言っているのだが、裏を返すと、若いころは自分でも美しいと思っていたということになる。 昔から「小野小町」といえば「美人」の代名詞のようになっていたようだが、紀貫之の文章や小町の歌などの影響が大きいのだろう。 しかしながら、小野小町の肖像画や彫像はすべて後世に造られたものであり、本当に美人であったかどうかは確認のしようがない。 実在したことは間違いないのだろうが、小町の生年も没年も明らかでなく、どこで生まれどこで死んだかすらわかってはいない。 たとえ有名な人物であっても、生没年が良くわからないことはこの時代では珍しくない。 紀貫之も没年は天慶8年(945)説が有力だが、生年については貞観8年(866)、貞観10年(868)、貞観13年(871)、貞観16年(874)と諸説ある。紫式部も生年について6つの説があり没年についても6つの説があり定説はない。清少納言も同様である。 南北朝期から室町時代の初期に、洞院公定(とういん きんさだ)によって編纂された「尊卑分脈」(別名「諸家大系図」)という書物に、小野小町は小野篁(おののたかむら)の息子である出羽郡司・小野良真の娘と記されているそうだ。 小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫であり、歌人としても有名な人物で、「百人一首」に選ばれた「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」が有名である。 小野小町は有名な歌人の血筋に繋がっているのかと何の抵抗もなく納得してしまいそうな話だが、よくよく考えると年齢に矛盾がある。 小野篁は延暦21年(802)に生まれ仁寿2年(853)に没したことが分かっているので、先程の小野小町の推定生没年と比較すると、年齢差はわずかに23歳しかなく、小野小町が小野篁の孫娘であるという「尊卑分脈」の記録を信用していいのだろうか。 また紀貫之の「古今和歌集仮名序」の小町に関する記述は、小町が美人であることを確信していないと書けないような気がするのだが、古今集を完成させたのは延喜5年(905)には小町は没しておりまた小野小町は紀貫之よりも41〜49歳も年上になるのだが、この年齢差にも少々違和感がある。 となると小野小町が小野篁の孫娘だとする「尊卑分脈」の記述が正しいのか、小野小町の生没年の推定値が正しいのか、紀貫之の生没年の推定値が正しいのか、わけがわからなくなってくる。 出生地を調べるとこれも諸説ある。 秋田県湯沢市小野、福井県越前市、福島県小野町など生誕伝説のある地域は全国に点在しているらしい。 小町の墓所も全国に点在している。 宮城県大崎市、福島県喜多方市、栃木県下都賀郡岩船町、茨城県土浦市、茨城県石岡市、京都府京丹後市大宮町、滋賀県大津市、鳥取県伯耆町、岡山県総社市、山口県下関市豊浦町などがあるそうだ。 若い頃の小町は、誰もがうらやむ美しさで多くの男を虜にしたのかもしれないが、彼女のその後はとことん落ちぶれて、悲惨な伝承がかなり多いようだ。 小町を脚色した文芸や脚本では落ちぶれた小町を描いたものが多く、室町時代には観阿弥・世阿弥が書いた「卒塔婆小町」など、さまざまな作品があるようだ。 夫も子も家もなく、晩年になると生活に困窮して乞食となって道端を彷徨った話や、ススキ原の中で声がしたので立ち寄ってみると目からススキが生えた小町の髑髏があったなど、およそ若い時の姿とはかけ離れたような話がいろいろある。 滋賀県大津市の月心寺には「小町百歳像」という像があるらしいが、ネットで画像を探すと、ここまで醜く小町を彫るかと驚いてしまった。薄暗いお堂の中では、妖気がこもって怖ろしく感じることだろう。 京都市左京区の安楽寺という浄土宗の寺院には「小野小町九相図」(三幅)という掛け軸があり、老いた小町が死んで野良犬に食い荒らされて白骨となるまでの九つの姿を描いた絵巻がある。 晩年の小町に関する悲惨な話は何れも信憑性に乏しいものだとは思うが、こんな話や像や掛軸がなぜ作られたのかと考えこんでしまう。単純に小野小町の美貌と才能を妬んだからというのではなさそうだ。 若い時にいくら周囲からチヤホヤされて浮き名を流した女性でも、やがて老醜を蔑まれ惨めな人生を迎える時が来る。このことは男性も同様で、いくらお金をつぎ込んでも「老い」を避けることは不可能だ。つまるところいつの時代も、老いても多くの人から愛される人間になることを目指すしかないと思うのだ。 今のような年金制度はなかったが、昔の時代は、近所付き合いを大切にし家族を大切し老人を敬うことで、惨めな老後を迎える人は今よりもはるかに少なかったように思う。逆に近所づきあいをせず家族もなければ、今よりもずっと悲惨な老後が待っていた時代でもあった。 そこで、孤高では老後を生きていくことができないということを伝えるために、若かりしときは伝説の美人であり才女であった「小町」の老いさらばえた姿を絵や物語に登場させることになったのだと思う。「小町」の伝承が全国にやたら多いのは、史実と物語とが時代と共に渾然としてきて、その見極めができなくなってしまったからなのだろう。 |
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■ 4
小野小町ほど、有名でありながら、謎に包まれている女性はいないだろう。歴史に全く興味のない人でも、百人一首に載っている彼女の歌と名前くらいは知っている。彼女は、美人の代名詞のように例えられ、楊貴妃、クレオパトラとともに、世界の三大美人とも呼ばれているぐらいである。 しかし、実際のところ、彼女が平安時代前期(9世紀の中頃)の女流歌人であり、六歌仙、36歌仙の一人に選ばれているということがわかっているぐらいで、その出生も、生い立ちも正確なことは、何一つわかっていないのが事実なのである。 また、彼女の名前も不明である。小町は、彼女の名前などではない。では、小町とは何なのか。それは、役職や官位などをあらわす記号のようなものなのである。 平安時代、女性は実名では呼ばれず、父や夫の役職名で呼ばれることが多かった。例えば、小野小町よりは、150年ほど後に宮仕えをした枕草子の作者、清少納言は、父の清原元輔が少納言であったため、清と少納言の二字を取って、清少納言と呼ばれるようになったのである。源氏物語の作者、紫式部の場合も、父は藤原為時という文人で、役職は式部だったことから、清少納言の場合と同じく、藤式部と呼ばれていたようだ。ところが、その後、彼女が、源氏物語を書き出し、その中で「紫の上」を書いたあたりから、いつの間にか、紫式部と呼ばれるようになったらしい。 そういう意味で、小野小町も、小野氏の娘であったと考えられている。小野氏は遣隋使で有名な小野妹子(おののいもこ)を祖先とする中級の貴族だった。京都、山科の隨心院(ずいしんいん)の近くには、小野の里と呼ばれる場所があり、小野一族のゆかりの地が今でも残っている。 彼女が、小町と呼ばれていたということは、要するに、天皇の後宮である更衣だった可能性が高いと考えられている。天皇の妻は、皇后・中宮・妃・女御・更衣という順に位があったが、女御までは殿舎が与えられたが、後宮の中でも、一番身分の低い更衣は、常寧殿(じょうねいでん)という建物の中を屏風や几帳などで、簡単に仕切って、その区画を与えられていたに過ぎなかった。長方形に仕切られた部屋のことを町(まち)と言っていたので、それが、小町と呼ばれるようになったゆえんであろう。 続日本後記には、平安前期の承和9年(842年)、仁明(にんみょう)天皇の後宮で、正六位上に任じられた小野吉子(きちこ)という女性が記録されているが、小野吉子は、更衣の位であったことから、彼女こそが、小野小町だったと考える説もある。あるいは、彼女には、姉がいたらしいから、吉子の妹だと言う意味で小町と呼ばれたとも考えられる。恐らく、小野小町は、この吉子本人か、もしくはその妹だったと考えてほぼ間違いないように思う。 しかし、わかるのもそれくらいで、全く彼女ほど、実像のわからぬ人物も珍しいと言えるのではないだろうか。伝説が一人歩きをして、実像を越えた典型的な人物なのである。 では、どうして、そのような伝説、とりわけ、小野小町が、絶世の美女だったという伝説が、確定的な証拠もないのに後世に付け加えられることになったのだろうか? ■全国各地に伝わる小町伝説 彼女には、全国各地に絶世の美女であったという小町美人伝説やそれにまつわる数々の逸話がたくさん残されている。 一説には、彼女は、 出羽の国(秋田、山形の間)に生まれたという。たいそう美しい娘だった彼女は、13歳にして京へのぼり、都の風習や教養を身につけ、その後20年間、宮中に出仕した。彼女は、また非常な美人で、その才女ぶりは、あまたの女官中並ぶものがないといわれ、それゆえ、数多くの男性から求婚されたが、彼女は応じることなく、かたくなに拒み続けたというのだ。宮仕えをやめてからは、世を避け、ひっそりと香を焚きながら92歳で天寿を全うしたと言うのである。 また別な説では、小野小町は、若い頃の絶頂期の栄華に比して、その晩年はあまりにも不幸であったかのように描かれている。多くの男性の誘いを断り続けるうちに、次々と親兄弟に先立たれて、権力の後ろ立てを失って一人になってしまった彼女は、急速に没落してゆく。そして、あれだけ美しかった容貌も、見る影もなくやつれ果ててしまうのである。誰にも見向きもされなくなった彼女は、仕方なく、猟師の妻となるが、それも、夫や子供に先立たれてしまい、最後には、乞食となって地方を徘徊するというのである。とんでもなく壮絶な話だが、こういったストーリーが作られたのは、5百年ほど経った後世になってからでいずれも真実ではない。 では、小町の美しさや彼女の性格を物語る有名な逸話の一つ、深草少将の百夜通いの話はどうであろうか? 彼女は、多くの男性から求婚されたが、なかでも、とりわけ熱心だったのが小町の美しさに魂を奪われた深草少将(ふかくさのしょうしょう)だった。彼は、小町に執拗に愛を強要するが、途方に暮れた小町は、仕方なく、百夜、私のもとに通い詰め、満願となった時、晴れて契りをむすびましょうと約束したのである。 少将の屋敷から、小町の屋敷までは、やや傾斜気味の登り道が約6キロほどあり、歩けば1時間半くらいはかかる距離だが、毎夜通うとなれば、かなりの忍耐を必要とする。しかも、4位の少将は、昼間は多忙の身でもあった。だが、小町の心を得たい一心で、少将は、恋文を持って、この地道で辛い百夜通いを開始した。くる日もくる日も、雨の日も嵐の夜も黙々と通い詰め、睡眠不足に悩まされながらも、99日までがんばった少将であったが、最後の晩、ついに、過労と大雪のため力尽き、途中で凍死してしまうのであった。 京都の山科には、今も、深草少将が小町のもとへ百夜通いしたという通い道が残っている。あと少しで念願が達成出来たはずの気の毒な限りの少将だが、しかし、この深草少将は実在の人物ではない。つまり、後世の人が、小町の美人伝説を強調するあまり、勝手につくりあげた逸話に過ぎないのである。 ■小町の生きた時代 ところで、小野小町が生きた平安時代初期はどういう時代であったのだろう? 桓武天皇が794年に平安京に都をかまえて、平安時代が到来するが、この頃はまだ奈良時代の面影を色濃く受け継いでいた。つまり、中国、唐の影響が色濃く見られていた時代で、王朝絵巻に登場する貴族や十二単を着て長い髪に扇をかざして、牛車に乗った女御というイメージになるのはまだ百年以上も先の話である。つまり、平安初期(9世紀の中頃)の宮廷女性の服装は高松塚古墳の壁画に見られるような天女のような恰好をしていたのである。 ヘアスタイルにしても、髪上げをして、髪の毛を頭の上で束ねて結髪をするという感じであった。眉は我眉(がび)と言って我の触覚のような形をした眉を引いていた。化粧にしても、ほお紅と口紅をつけていたぐらいで、顔全体にお白いを塗りたくる習慣などはなかったと思われる。衣裳は、裳(も)と呼ばれる色とりどりの縦じま入りのスカートを履き、カラフルな絹の上衣を着て、その上から細い紐で結んでいたようだ。手には長い柄のついた団扇のようなものや如意(にょい、ワラビ形をした30センチほどの用具)を持っていたのである。 この、言わば、天平スタイルと呼ばれる服装が、当時のトップモードであり、当時の人々の羨望の的であった。 この頃の貴族が、いかに当時の先進国、唐の文化に強いあこがれを抱き、意識していたか伺い知れるところである。 百人一首のかるたなどで描かれる小野小町は、十二単を着て長い髪の姿の美人画で知られているが、これは鎌倉時代(13世紀)に描かれた佐竹本36歌仙の絵姿による影響によるもので、実際の小野小町は天女のような服装で宮仕えをしていたと思われている。 食生活にしても、中国文化の影響を受けて、動物や魚の肉を焼いたり蒸したり油で加工したりして様々の調理方法が誕生した。調味料は塩、酢、油の他、バターや牛乳なども使われていたようだ。 ■病的な平安中期の美人像 思えば、この当時の貴族はまだ健康的な生活を送っていた。ところが、150年ほど経った平安の中期頃になると、中国文化の影響を脱して、日本的な特色が多く見られるようになる。しかし、それは、皮肉にも非健康的で非衛生的な方向としか言いようのないものであった。食生活は豪華だが塩辛い干し物中心になり新鮮な野菜などは取らない。それに加えて、日がな一日、部屋に閉じこもって体を動かすこともない。こうして、運動不足も加わり極めて不健康で病的なものになってゆくのだ。 貴族の顔色は、いつも病的に青白く、それを意識してかどうか知らないが、男女ともにコテコテにお白いを塗りたくるようになる。そのお白いにしても、鉛成分が含まれており肌にいいはずがなかった。しかも、乾燥するとすぐに剥げ落ちる品質の悪い代物であった。もし、面白いものなどを見て笑おうものなら、たちまち、ボロボロとお白いが剥げ落ちるので、特に、女性の場合は常に無表情でいることを強要された。そのため、手には絶えず檜扇(ひおうぎ)というものを持ち、笑い出しそうになったり、急に表情が崩れそうになると即座にそれで顔を隠したのである。当然のことながら、檜扇はなくてはならぬアイテムとなった。 着るものにしても、十二単(じゅうにひとえ)と言ったたいそう豪奢で凝ったつくりのものになっていくのだが、十数枚も重ね着をするわけで、暑さ十数センチにもなり、夏でなくともむせかえったわけで、体臭が臭わなかったはずはない。その臭いをごまかすためか、香がいつも炊き込まれていたらしい。 このように、美意識の基準は大きく変わり、特に、女性の場合は、髪が長くて艶があることがまず挙げられるようになる。髪の長さは平均で3メートル以上はあったと思われているが、髪を洗う習慣はなく、沐浴(もくよく)時においてぐらいであった。しかし、その沐浴にしても、5か月に一度ぐらいしかなかった。 眉にしても、自毛のまゆ毛はすべて引っこ抜き、本来、眉のある位置よりも上に棒眉と言った形状の眉を描くようになる。目と眉毛の位置がかなり離れるために、遠目にもコントラストがついて分りやすくなるが、近くから見ると、幻想的で異様な感じに見えたに違いない。しかし、それが美人の条件で、眉と目が離れていればいるほど美しいとされるのである。また、女性は10才頃になると、お歯黒と言って歯を黒く染めたが、これは白い歯は目立ち過ぎて気味が悪いというおかしな美意識によるものであった。 こうして、平安時代の美人である条件は、中期になると、ただの容姿のみが美しいというのではなく、それ以外の要素の方が外面の美しさよりも、むしろ高い比重を持つようになっていくのである。 ■小町を絶世の美女にしたもの そういう意味からか、小町の美人伝説を生み出したのは、この頃の歌人、紀貫之の彼女に対する評価が第一の原因だと考えられる。 紀貫之は、平安中期を代表する歌人で、小町を絶賛して六歌仙の一人に選び、また20首近い彼女の歌を自ら編纂した古今和歌集に納めたのであった。 六歌仙を選んだのは紀貫之自身によるものだが、その中で、彼は、小野小町の歌を評して衣通姫(そとおりひめ)と感じが似ていると感想を述べているくだりがある。 小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。(紀貫之) 衣通姫とは、日本書紀や古事記で登場する古代美人で、「和歌三神」の一人に数えられているほどの和歌の名手であったと言われている。また、あまりに美しい女性であったため、その美しさが衣を通してあらわれたほどの絶世の美女でもあったらしい。紀貫之は、小町の歌をか弱くも美しい女心を歌った点で衣通姫の歌と同じような感じがすると感想を述べただけであった。つまり、小町の歌を評しただけで、小町が美女であったなどとは一言も言っていないのである。だいたい、貫之は小町よりは80年も後の時代の人間で小町とは会うことすらなかったのだ。 要するに、この文章が誤解されて、歌の作者であった小町本人が衣通姫と似ていると解釈されていったと思われるのである。 こうして、小町美人伝説は急速に広まっていくことになる。そして、長い年月を重ねる間に、尾ひれも付け加えられて小野小町は、絶世の美女であり、深草少将が、彼女に拒絶され続けても、百夜の間、欠かさず小町の屋敷を訪ねたと言う物語まで創作されるに到ったのである。言わば、紀貫之の書評こそが、後世の伝説を生み出す原因となっていると思われるのだ。実際のところ、小町が絶世の美人だったという確実な証拠は何一つない。 ■小町は権力争いの犠牲者だった また、六歌仙に選ばれた人たちは、その内情を見ると、左遷され失脚している立場の人ばかりである。 当時、文徳(もんとく)天皇が治世にあたっていたが、天皇には、長男の惟喬(これたか)親王と次男の惟仁(これひと)親王がいた。単純に考えれば、長男の惟喬親王が天皇になる予定だったが、惟喬親王の母方が、紀氏(きのし)だったのに対し、次男の惟仁親王の母方は、藤原氏だった。 当時、藤原氏は、大変な勢力を持っており、そのために、圧力がかかり、次男の惟仁親王が、次期の天皇の候補となったのである。 それと同時に、惟喬親王側にいた貴族らは、次々と地方に飛ばされ、失脚の憂き目にあったのである。六歌仙の一人、文屋康秀(ぶんやのやすひで)も、三河の三等官として左遷されている。同時期、小野小町も失脚したと見えて、お互い慰め合うような和歌を交わしている事実でもこのことがわかる。 わびぬれば 身を浮く草の 根を絶えて さそう水あれば いなむとぞ思う ( 根無し草のように、フワフワと目的もなく生き甲斐のない日々を過ごしておりますので、お誘い下さればともに行きたい心境です ) 一方、政権争いに破れた惟喬親王の方はというと、政治の表舞台から姿を消さねばならず、泣く泣く滋賀県の山奥に隠棲せねばならなかった。彼が隠棲した地は、小野氏のゆかりの地であった。そこには小野篁(たかむら)神社というものが今でもある。小野篁は小町の父か、祖父だと言われている人である。つまり、これを見ても、小町は、惟喬親王サイドにいたわけで、彼女が政治の駆け引きによる影響をもろに受け、その結果として失脚していったと考えられるのである。つまりは、彼女は政権闘争の犠牲者でもあったのである。 そして、紀貫之自身も、紀家の人間であることから、六歌仙を選ぶにあたり、半世紀ほど前に、辛酸をなめさせられて政治の表舞台から消されていった同胞に対する憐憫の情も加わっていることは否めない。言わば、同情票のようなものであると考えられるのである。 その後、失脚してパッとしなくなってからも、小町は、後宮としてかつて仕えた仁明天皇を裏切らまいと律儀に男たちの誘いを断り続けたのではないだろうか? そうした、彼女の頑な態度に業を煮やした男たちのやっかみが、鼻持ちならないイヤな女のイメージを作り上げ、彼女の落ちぶれた半生をさらに壮絶なまでに輪をかけて惨めな様に変えていったと推測出来るのである。 ■虚像の価値はいかほどのもの? 大阪城落城のヒロイン、千姫が、妖艶で淫奔な悪女であったかのような伝説が生まれたのも、彼女が当時住んでいた江戸城の一角、吉田御殿の井戸から、わけのわからない人骨が多数発見されたことに端を発している。千姫は、欲求不満のあまり、夜な夜な男を求めては、弄び、飽きては殺し飽きては殺し、その亡がらを井戸に投げ込んで次々と男漁りを続けたというのである。しかし、事実は出土した人骨は、かなり古いもので、彼女とは全く関係がなかった。淫乱な悪女というイメージは、後世の人が勝手に想像してでっち上げたものだったのである。つまり、彼女は、とんでもない濡れ衣を着せられたことになる。 逆に、小野小町の場合は、権力闘争の犠牲となり、人生の後半は、ツキにも見放され恵まれない状態で寂しく一生を終わっていったかもしれないが、後世の人から絶世の美女の代名詞のような評価を得たのだから、きっと天国でほくそ笑んでいるにちがいない。 それは、貧困の中で死んでいった名もない画家の作品が、その後、何世紀も経ってから途方もない価値がついたようなものとよく似ているような気がするのだ。 いつの世にも、スキャンダラスな噂や刺激的な伝説は、人々の食指を動かす存在である。人々によって、つくられた虚像は、いずれ一人歩きしていくが、一方、人々の方も、いつしか本物と思い込み執拗に追い続けていくことになる。 |
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小野小町 〜絶世の美女の真実 エジプトの“クレオパトラ”、中国の“楊貴妃”、日本の“小野小町”。この3人と言えば、ご存知の通り、世界三大美人と呼ばれ、美人の代名詞のように喩えられる女性たちです。今回はその世界三大美人のひとり、京都にゆかりのある「小野小町(おののこまち)」の話をしましょう。 ■謎多き女性 絶世の美女と謳われた小野小町は、9世紀中頃、平安時代前期に生きた女流歌人です。歴史に興味のない人でも、百人一首などで名前ぐらいは知っているほどの有名な人物ですが、そのわりには彼女が歌人であり、六歌仙のひとりだったということ以外、その出生も生い立ちも、何一つわかっていないという、ミステリアスな女性なのです。 ■小町は名前ではなかった!? 日本全国に、小野小町が絶世の美女であったという伝説や、それにまつわる逸話が数々、残されていますが、彼女の出生の地や終焉の地だと言われる場所は全国各地に20箇所以上もあり、どこで、どのように生きた女性なのかは今でも謎のままです。そして、彼女の名前も不明なのです。「エッ、名前が不明って、“小町”じゃないの?」と思われるかもしれませんが、小町は名前ではないのです。小町とは役職や官位などを表す記号のようなものなのです。 ■小野小町の正体 平安時代では、女性は実名で呼ばれず、父や夫の役職名で呼ばれることがよくあったそうです。例えば、枕草子の作者として有名な“清少納言”は、父の清原元輔が少納言であったことから、“清”と“少納言”を合わせて、“清少納言”と呼ばれました。また、源氏物語の作者、紫式部も父の藤原為時が式部という役職に就いていたことから、清少納言と同じように、最初は藤式部と呼ばれていました。紫式部と呼ばれるようになったのは、源氏物語で「紫の上」を書いた頃からとされています。と言うことは、「紫の上」を書かなければ、源氏物語の作者は“藤式部”として、世に残ったかもしれませんね。あっ、ちょっと話が逸れそうになりそうなので、もとに戻します。 そういう習慣から、小野小町は、遣隋使で有名な小野妹子の血筋にあたる中級貴族、小野氏の娘であった可能性があると言われています。そして、小町と呼ばれたのは、彼女が天皇の更衣だったからということです。天皇の妻には皇后、中宮、妃、女御、更衣という順に位があり、一番下の位の更衣は、殿舎、つまり住居は与えられず、建物の中を屏風や几帳を仕切って作られた簡素な部屋で生活をしていました。その部屋を“町(まち)”と言われていたことから、小町と呼ばれるようになったのではないかと言われているのです。 また、別の説としてあるのが、仁明(にんみょう)天皇の更衣に、“小野吉子(おのの きちこ)”という女性がいたことが、「続日本後記」に記されていますが、この吉子こそが、小野小町だったのではという説です。 結局の所、小野小町については説ばかりで、はっきりとした実像は何もわからないに等しい人物なのです。小野小町ほど、有名でありながら、これほど謎に包まれた女性は歴史上、他にいないのではないでしょうか。 ■悲しき物語も作られた逸話だった 小野小町の美しさを物語るものとして、深草少将の「百夜通(ももよがよい)」という有名な逸話があります。 その美しさから、彼女は多くの男性から求婚されますが、その中でも、とりわけ熱心だったのが深草少将(ふかくさしょうしょう)でした。彼の夜な夜なの執拗なアタックに辟易していた小町は仕方なく、「私の所に100日、通い続けられれば、結婚しましょう」と約束するのです。それを信じた深草少将は、雨の夜も雪の夜も、睡眠不足の中、せっせと恋しい小町のもとに通い続けたのでした。 少将が暮らす深草から、小町が住む山科の小野の里までは一里半(約6キロ)ほどでしたが、毎晩、通うとなると、かなりの忍耐と体力が必要だったことでしょう。でも、そこは恋する者は強きかなということで、彼は必死に99日、通ったのです。約束の日数まであと1日。ところが、最後の夜、深草少将はついに過労と大雪のために力尽き、途中で倒れて、そのまま凍死してしまったのでした。 時は変われど、女性を慕う男性の想いは今も変わらぬもの。男として、深草少将の気持ちはよくわかるだけに、悲しい話です。ところで、この深草少将は実在していないと言われています。恐らく、この「百夜通」は、小町の美人伝説を強調するために、勝手に後世の人が作り上げた逸話なのでしょうね。 ■絶世の美女、小野小町を生み出した人物 このように、小野小町は数々のエピソードのもとに、絶世の美女として語り続けられて来ましたが、実は小町の美人伝説を最初に生み出したとされる人物がいたのです。その人物とは、“紀貫之(きのつらゆき)”。 紀貫之は平安中期を代表する歌人で「古今和歌集」の選者のひとりとして知られた人物です。小野小町の死後、半世紀ほど経った頃、彼は六歌仙のひとりに小町を選びますが、その時、彼は小町の歌を次のように評したのでした。 「小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」 “衣通姫(そとおりひめ)”とは、日本書紀や古事記に登場する伝説の絶世の美女のことですが、貫之は小町の歌を衣通姫の如く、か弱きも美しい女心を歌った歌だと評したところ、後にその文章が誤解されて、小町本人が絶世の美女とされた衣通姫に似ているという意味に解釈されたことが、小野小町は絶世の美女と言われる由縁になったとされています。つまり、紀貫之の書評が “小野小町絶世の美人伝説” を生み出したということになるわけですね。 多くの貴公子たちからの求愛になびかなかった小野小町の生涯は果たして、幸せなものだったかどうかはわかりませんが、後生の人から絶世の美女とされたことには、きっと、今も草葉の陰でニコッと微笑んで満足していることでしょう。 |
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■ 6
■小町と短歌 小野小町は、大同4年(809年)出羽国福富の荘桐の木田(秋田県の最南端雄勝町小野字桐木田)で生まれました。たいそう美しい娘で、幼い頃より歌や踊りはもとより、琴、書道なんでも上手にできるようになり13歳の頃都にのぼり、小町は都の風習や教養を身につけました。その後、宮中に任へ、容姿の美しさや才能の優れていることなど、多くの女官中並ぶ者がないといわれ、時の帝からも寵愛を受けました。しかし、小町は36歳にして故郷恋しさのあまり宮中を退き、生地小町の里に帰りました。そして小町は庵を造って閑居し、歌にあけ歌に暮らしました。 ■小町と深草少将 小町が突然京から姿を消したので、どうしたことかと心を痛めていたのは深草少将でした。風の便りに小町が出羽の国に居ると聞いて、少将は小町に逢いたさのあまり、その筋へお願いし郡代職として、はるばる小町の生地小野の地へ東下りをしました。小町の里にたどりついた深草少将は、平城長鮮沢にある長鮮寺(天台宗)に住み、御返事橋のたもとの梨の木の姥を雇って、小町との逢瀬を夢に描いて恋文を送りました。この恋文を見た小町は、次の一句をもって返事にしたのです。 忘れずの 元の情の千尋なる 深き思ひを 海にたとへむ この返歌をもらった少将は、小躍りして喜び、早速面会を求め、小町を訪れました。ところが小町は少将と会おうともせず柴折戸を閉じたまま侍女を使い、「あなたがお送り下された文のように、私を心から慕って下されるなら、西側の堀の向こうの高土手に、わたしが幼い頃、都にたつ時植えていった芍薬があります。それが不在中に残り少なくなって悲しんでいるのです。だから、あの高土手に毎日一株ずつ芍薬を植えて、百株にしていただけませんか?約束どおり百株になりましたら、あなたの御心にそいましょう」と、伝えさせました。 ■小町と芍薬 少将は、この返事を聞いて、百日とは待ち遠しいことではあるが小町を慕うあまり、梨の木の姥にいいつけて野山から芍薬を掘り取らせて、植え続けることにしました。そしてあけてもくれても毎日一株ずつ植えては帰って行くのです。 小町は、こうした少将の後姿を かすみたつ 野をなつかしみ 春駒の 荒れても君が 見え渡るかな と、口ずさみ見送っていました、この頃小町は疱瘡を患っていたのです。 面影の かわらで年の つもれかし たとひ命に かぎりありとも と、嘆き憂いていた時ですから、少将が百日も通う頃には、疱瘡も治ることだろうと、密かに磯前(いそざき)神社(現桑ケ崎)にある寺田山薬師寺如来の社に日参し、寺の傍にある清水で顔を洗って一日も早く治るようにと祈っていました。 こんなこととは露知らず、深草少将は一日もかかすことなく、99本の芍薬を植えつづけました。 そして、いよいよ百日目の夜を迎えました。この夜は、秋雨が降り続いたあとで、森子川にかかった柴で編んだ橋はしとどぬれていました。しかし少将はこんなことに驚かず「今日でいよいよ百本」小町と晴れて会える日が来たのだと、今までの長い辛苦の思いも消え去り、歓喜の胸がにたぎりました。 少将は、従者が「今宵はお止しになっては」との諫言もきかず、「百夜通いの誓いを果たさずば」と、99日夜も通い慣れた路であるとて、百本目の芍薬をもって小町へ通いました。 しかし、降りしきる雨の中この願いは届かず、少将は不幸にも橋ごと流されみまかってしまいました。 小町は、これを聞いて、日夜なげいていましたが、これではならじと月夜に船を漕ぎ出し、少将の遺骸を森子山(現在の二つ森)に葬り、供養の地蔵菩薩を作り、岩屋堂の麓にあった向野寺に安置して、芍薬には99首の歌を詠じ、名を法実経の花といいました。 実植して 九十九本(つくもつくも)の あなうらに 法実(のりみ)歌のみ たへな芍薬 そして少将の假の宿であった平城の長鮮寺には、坂碑を建てねんごろに回向しました。その後小町は岩屋堂に住み、世を避け香をたきながら自像をきざみ92歳で いつとなく かへさはやなん かりの身の いつつのいろも かはりゆくなり と、辞世を残して亡くなりました。 |
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■ 7
小野小町変貌 ー説話から能へー |
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■1 はじめに
平安時代前期の宮廷女流歌人で、六歌仙の一人として「古今和歌集」「仮名序」に名を連ねる小野小町の生涯は、多くの謎と伝説に彩られている。そもそも、実在の小町像が不鮮明なうえに、平安中期〜末期に成立した空海作と伝える「玉造小町子壮衰書」の老女と小野小町が同一人物とみなされ、「落槐の小町像」が広く流布した。そこにさらに伝説が加わり、それらを総合して中世には「若い頃は絶世の美女で多くの男性に言い寄られたが、拒絶や翻弄を繰り返したあげく、年老いてからは顧みる人もなくなり、乞食となって諸国を放浪した末に孤独のうちに亡くなった。その骸骨は野ざらしとなっていたが、ある人が見つけて供養した」という一代記風の輪郭が形作られていったのである。 伝説上の小町は、定まる男もついの住み家も財産も無く、あてどない人生を浮遊する老婆である。何も持たないが、「過去」だけはたっぷり持っている。能は、ごく早い段階において、この伝説的小町を主人公とする〈卒都婆小町〉と〈通小町〉を制作し、その後の成立と推定される〈関寺小町〉・〈鶏鵡小町〉・〈草紙洗小町〉(この作品のみ若い歌人小町が主人公)の計五番の能が現在まで演じ続けられている。非上演曲を含めれば作品数はもっと増え、内容も多彩である。同一人物がこれほど多くの作品に登場するのは希であり、小町を取り上げたことは能の作品史にとって大きな意味を持ったと思われるが、同時に、それ以降の小町像にも少なからぬ影響を及ぼした。なかでも、小町と四位の少将(深草少将)の結びつきを決定づけた点は特筆に値する。能があらたに付加した小町伝説と言ってよかろう。 本稿は、「過去の時間を背負った老女小町」の舞台化に焦点を当て、小町像の時代的変貌を追うことを目指す論考の一部である。全体としては、〈卒都婆小町〉・〈通小町〉・〈関寺小町〉の三曲に関して、それぞれ小町説話との関わりを確認し、その摂取方法と能が新たに付け加えた要素、および劇としての特色をまとめ、さらに、能以降の展開I三島由紀夫作「近代能楽集」.「卒塔婆小町」と太田省吾作「小町風伝」をとりあげ、近現代演劇における小町像の新たな広がりと、能の現代化について述べる予定であるが、その最初に当たる本稿では、〈卒都婆小町〉と〈通小町〉について考察することとした。 |
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■2 小町説話の概要
小町説話の実態と形成については、片桐洋一氏「小野小町造跡」や細川涼一氏「女の中世l小野小町巴その他」所収「小野小町説話の展開」をはじめ多くの論考がある。ひとくちに小町説話といっても、広汎にわたるうえ、細部における変容が著しいこともあって、伝承経路や影響関係を解明するのは困難を極める。そこで、ここでは、能以前に成立していた典型的小町像を確認することから出発したい。直接的典拠というわけではないが、能の小町像と密接に関係する説話として、建長六年(1254)成立、橘成季編纂の説話集「古今著聞集」巻五・和歌第六に記す「小野小町が壮衰の事」を以下に引用する。(新潮古典集成本による) 小野小町がわかくて色を好みし時、もてなしありざまたぐひなかりけり。「壮衰記」といふものには、三皇五帝の妃も、漢王・周公の妻もいまだこのおごりをなさずと書きたり。かかれば、衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍をととのへ、身には蘭霧を薫じ、口には和歌を詠じて、よろづの男をぱいやしくのみ思ひくたし、女御・后に心をかけたりしほどに、十七にて母をうしなひ、十九にて父におくれ、一一十一にて兄にわかれ、一一十三にて弟を先立てしかば、単孤無頼のひとり人になりて、たのむかたなかりき。いみじかりつるさかえ日ごとにおとろへ、花やかなりし貌としどしにすたれつつ、心をかけたるたぐひも疎くのみなりしかば、家は破れて月ばかりむなしくすみ、庭はあれて蓬のみいたづらにしげし。かくまでなりにければ、文屋康秀が三河の橡にて下りけるに誘はれて、 侘びぬれば身をうきくさのねをたえてさそふ水あらぱいなんとぞ思ふ とよみて、次第におちぶれ行くほどに、はては野山にぞさそらひける。人間の有様、これにて知るべし。 鎌倉期における小町説話の典型といってよいだろう。要点をかいつまんで述べると、「玉造小町子壮衰書」の内容を小野小町の生涯とみなして同書を引用しながら栄華と零落を記述すること、「古今和歌集」938番の小野小町の歌を、「かくまでなりにければ」(こんなひどい状態になってしまったので)という文脈で説話中に組み込んでいること、そして傍線部のように、小町零落の要因を「わかくて色を好み」・「よろづの男をぱいやしくのみ思ひくたし」(すべての男性をとるに足らないと見下し)たためとしていることの三点が重要と思われる。第三点は実は、原典の「玉造小町子壮衰書」の記述と微妙に食い違っている。同書では、並みの男との婚姻を許さなかったのは両親と兄弟であって小町自身ではない。小野小町と玉造小町を同一人物とみなす過程で、このような解釈が生まれたのであろうか。「古今著聞集」が依拠したとみられる「十訓抄」第二では「可レ離二驍慢一事」と題することからもうかがえるように、小町零落と放浪は「若さと美貌に箸り、多くの男性を拒絶したため」という、因果応報の文脈で捉えられているのである。 似たような語られ方は、「平家物語」巻九「小宰相身投」で、平通盛と小宰相局のなれそめを語るエピソードの中にも見える。三年間も通盛の文に返事をしない小宰相を、上西門院は「あまりに人の心づよきもなかノーあたとなる物を」と諭し、次のように小野小町を引き合いに出す。 中比、小野小町とて、みめかたち世にすぐれ、なきけのみちありがたかりしかば、見る人、聞くもの、肝たましゐをいたましめずといふ事なし。されども心づよき名をやとりたりけん、はてには人の思ひのつもりとて、風をふせくたよりもなく、雨をもらさぬわざもなし。やどにくもらぬ月ほしを、涙にうかべ、野べのわかな、沢のねぜりをつみてこそ、つゆの命をば過ぐしけれ。(「覚一本」による) ここでは、若い女性に対する啓蒙、ないしは警告として小町説話が利用されており、人々に与えた影響の大きさがうかがわれる。まさに、片桐洋一氏のいう「衰老落魂」と「美人驍慢」の結合であり、「古今著聞集」で指摘した三点のポイントは、ほぼ同じ位相のもとに、能〈卒都婆小町〉に流れ込んでいく。 |
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■3 説話から能〈卒都婆小町〉へ
〈卒都婆小町〉は観阿弥原作・世阿弥改作、〈通小町〉は唱導師の原作に観阿弥と世阿弥が手を入れたと世阿弥伝書に一口う。古作を改訂した多層的性格を有する両曲は、成立年代が近接するばかりでなく、「百夜通い」モチーフを共有することもあって、世阿弥改作以前の古態を推測しつつ相互関係を考察する研究がこれまで積み重ねられてきた。以下では、必要な場合を除いて改作問題には深入りせず、現存の(おそらく)世阿弥による決定稿を対象とし、両曲の関係についても小町説話の摂取という観点から考えてみたい。 はじめに〈卒都婆小町〉のストーリー展開を番号を付して示しておこう。 1 高野山出身の僧(ワキ・ワキッレ)が都へ上る道筋に、一人の老婆(シテ)がやってきて、朽ちた卒都婆に腰掛ける。 2 僧が、卒都婆は仏体そのものであるから退けと答めると、老婆は理路整然と反論しはじめ、完膚無きまでに僧を論破する(「卒都婆問答」)。 3 老婆は小野小町の成れる果てであった。かつての美貌に引き替えた現在の零落ぶりに僧は驚きを隠せない。 4 突然小町の様子が変わる。昔、小町に深く思いを寄せた深草少将の死霊が取り想いたのである。九十九夜通い詰めたものの思いを遂げることなく急死した「百夜通い」の有様を、少将の霊は小町の体を通して僧に見せる。 5 狂いさめた小町は、仏法に帰依して悟りの道に入ることを願う。 右は概ね「玉造小町子壮一技書」(A)、「弘法大師小町教化説話」(B)、「深草の四位少将百夜通」(C)の先行説話をもとに構成されている。Aは、1のシテ登場段と3の老女の描写などに本文を引用するので直接関係が明らかだが、それだけでなく、「僧が街路で遭遇した老婆の半生を聞く」という同書の構想を、そのまま一曲の枠組みとして応用したものであろう。最終場面の5を「これにつけても後の世を、願ふぞまことなりける。沙を塔と重ねて、黄金の膚こまやかに、花を仏に手向けつつ、悟りの道に入らうよ」(〔キリ〕)と結ぶ点は「玉造小町子壮衰書」末尾で老女が、「如かじ、仏道に帰して、死後の徳を播ざむと欲ふには。・・・仰ぎ願くは諸仏、必ず孤身を導きたまへ」(栃尾武校注、岩波文庫所収本文の書き下し文による)と仏道帰依を願う内容と響き合う。また、シテが登場して最初に発する言葉「身は浮草を誘ふ水、身は浮草を誘ふ水、なきこそ悲しかりけれ」(〔次第〕)は、「古今著聞集」で確認したように、「小町零落の歌」をアレンジしたもので、「いまはもう、浮き草のようなわたしを誘ってくれる水さえないのが悲しい」と、さらなる零落を嘆いていることになる。 叙述の関係上、先にCについて述べよう。「百夜通い」説話(百夜通えば逢おうと言われた男が、女の元に通うが、百夜目に行けなくなる)は、男女の人物を特定しない形で、藤原清輔の「奥義抄」をはじめとする歌学書に散見し、これを題材に詠んだ歌も少なくない。ただし、この男女を四位の少将と小町に特定する文献は能以前に存在が知られておらず、唱導師による原作〈通小町〉においてはじめて導入したかと推測されている。小町の恋の相手には、在原業平・文屋康秀・大江惟章等が比定されることはあっても、どちらかというと漠然としており、特定の物語も形成されていなかったらしいから、小町の驍慢、男性拒否を示すエピソードとして「百夜通い」は恰好の物語であったと思われる。時代的にはやや下るが、御伽草子「和泉式部」に、「小野小町は、若盛りの姿よきによりて、人に恋ひられて、その怨念のとけざれば、無量の轡によりて、その因果のがれず、つひに小町、四位の少将思ひ離れず…・」(小学館「日本古典文学全書」所収本文による)と記すことも参考になる。〈通小町〉でも〈卒都婆小町〉でも、結果的に少将を死に至らしめたために、小町は恨みを買い、崇られる。4の本文を見よう。「小町といふ人は、あまりに色が深うて、あなたの玉章こなたの文・・・虚言なりとも、一度の返事もなうて、今百年になるが報うて・・・」、「小町に心をかけし人は多き中にも、ことに思ひ深草の四位の少将の、恨みの数のめぐり来て・・・」とあるように、あらゆる男性を拒否した報いとして百歳になったいま、四位の少将の恨みが襲ってくるのである。話が具体的になっただけで、文脈としては先述した「古今著聞集」や「平家物語」と同一と考えてよかろう。以上検討したように、A・Cに関しては、従来の小町説話や小町像に寄り添った摂取とアレンジがなされていることがわかる。 それに対してBの場合は、説話からの飛躍が注目される。これは、比較的近年報告された小町関係説話で、Aから派生したバリエーションと称すべき内容を持っている。鎌倉未〜南北朝期成立、九州大学図書館蔵「古今和歌集序秘注」所収の説話や、智積院蔵「日本記」所収の説話などが紹介されているが、ともに、古卒都婆に腰掛けた老女小町を弘法大師が教化する点、能の「極楽の内ならばこそ悪しからめ、そとは何かは、くるしかるべき」に類する戯れ歌(語句は小異)を小町が詠む点、「卒都婆問答」と極めて関係が深い。小林健二氏は、同説話で「大師が小町に戒を授ける」ことに注意を促し、能〈卒都婆小町〉の説話的背景に、天台僧が関与したと推測されるこの種の「小町教化認」が存在したことを指摘したうえで、「しかし、能の作者の構想は、この説話に支配されることはなかった。説話の世界では、大師が小町を教化することに眼目があったのであるが、〈卒都婆小町》では、教化する側であるはずの高僧が逆に論破され、その上で小町が「極楽の内」の戯歌を詠む、というところに義理能としての対話劇の面白さが見い出せるのであり、そこに作者としての観阿弥の面目があったのである」と結論づけている。 「弘法大師小町教化説話」は「卒都婆問答」に骨子を提供したと推測されるが、「宗論」に類する機知あふれる言葉の応酬や、教化されるはずの小町が逆に僧をやりこめてしまう着想は、能作者の創案なのだろう。そして、この箇所は、従来の小町伝説から遊離するだけでなく、「因果応報に苦しむ小町が仏道を願う」〈卒都婆小町〉全体の構想からみても異質である。実は、ここは観阿弥作のままではなく、世阿弥による改訂が施されているらしい。改訂の規模については、部分的な語句の増補とする立場から、「卒都婆問答」全体を世阿弥改訂と見る立場まで幅広く、決め手を欠くが、異質な理由は改訂が関係している可能性もあろう。 仮に「卒都婆問答」が説話の如く弘法大師の小町教化で終わっていたとすれば、〈卒都婆小町〉の魅力は半減するだろう。無知な乞食と見えた老婆が、教学にとらわれない本物の知恵を体現していたという逆転、外見と内面のギャップがこの段のポイントである。この場の小町は、落ちぶれてはいても頭の回転が早く、機知に富み、気骨と尊厳を失わない魅力的な女として、能の女性像の中でも異彩を放っている。これまでの小町説話には描かれることのなかった小町像であり、にもかかわらず、いかにも小町にふさわしいと納得させられてしまう。そのような小町が一転してあさましい物乞いに走ったかと思うと、愚き物に乗っ取られて狂いだし、内面と外面が引き裂かれた人格をさらす。愚き物は、巫女の託宣をはじめ、現実世界でしばしば目にするところであり、能は初期のころからこれを芸能化して演じていた。世阿弥は「女物狂などに、あるひは修羅闘靜・鬼神などの遍く事、これ、何(より)も悪き事也。愚物の本意をせんとて、女姿にて怒りぬれば、見所似合はず」(「風姿花伝」・「物学条々」)と否定的だが、愚く側と懸かれる側の落差が大きいほど刺激的なのは事実であって、外見は老婆なのに声音や行動が男性という〈卒都婆小町〉の様相は、まさに「面白づくの芸能」(同書)として迎えられたのではないだろうか。 以上をまとめると、〈卒都婆小町〉は、実在の歌人小町から遊離して中世に広く流布した美人驍慢・衰老落魂説話の基本をカバーする集大成的な内容を備えていることが知られ、小町伝説の本格的舞台化としての意義を持つ。一方、「卒都婆問答」に見たような独自の小町像を付加し、ひとつの像を結んだかと思うと、次には不意打ちのように異なる相貌を見せる、多層的人間として小町を造型している。あたかも、|人の人間の中には、その人の経験したすべてがたたみ込まれており、時を得ればそれらが姿をあらわすとでもいうかのように、「過去の時間」を内包した老女小町ならではの劇を作り上げることに成功している。 |
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■4 〈卒都婆小町〉と〈通小町〉
〈卒都婆小町〉と〈通小町〉は、ちょうど連作のような関係にある。すなわち、百歳の生きている小町が少将の死霊に愚き崇られて仏道を願うところで終了した前者を受けて、後者は、死後地獄に堕ちた小町と、なおも票り続ける少将とが登場する。二人は罪障熾悔として「百夜通い」を語ることを通じて、ともに成仏を果たす。いわば、〈卒都婆小町〉の続編が〈通小町〉に相当しているのであって、このように考えると「百夜通い」モチーフを共有する意味が理解しやすい。 〈通小町〉と関わるもうひとつの小町説話が「あなめ説話」である。放浪の果て、孤独のうちに死んだ小町の閥膜の目から薄が生えて歌を詠じたところ、ある人物が見つけて供養したというのがその概略で、「和歌童蒙抄」・「袋草子」・「江次第」などの歌学書に記すが、場所、人物名、歌の語句、歌か短連歌唱詠か、夢中に小町があらわれるか、など細部においてはまちまちである。また、鰯艘には二一口及しないものもあるし、「あなめ説話」自体を伴わない小町説話も少なくない。〈通小町〉の直接的典拠は確定できないが、田口和夫氏が指摘するように、応永末年以降の成立とされる「三国伝記」巻十二第六話「小野小町盛衰事」と共通面が多いと思われるので、要点をかいつまんで記しておく。 イ、弘法大師は小町の終焉の地を尋ね求め、花薄の穂が招く野原で歌を詠む。 ロ、「秋風ノ吹二付テモアナメアナメ小野トハ云ハジ薄キ生タリ」と歌を詠じる声を探したところ、「白ク曝ダル燭櫻ノ眼ノ穴ヨリ薄生ひ賞テ有ケルガ詠ジ」ていた。 ハ、大師は、白骨を高野山に収めて、小町を弔った。 二、小町は、「天生ノ得閉果】(天上界に生まれる果報を得た)。能との直接関係は不明ながら、ここでは、憎の供養を受けた小町が仏果を得ている点に注目される。 あらためて〈通小町〉の概略を述べよう。 所は、京都八瀬の山里、夏安居の僧の元へ毎日木の実・爪木を運んで供養する姥がいる。僧が名を尋ねると、「己とは言はじ、薄生ひたる市原野辺に住む姥ぞ、跡弔ひ給へ」と言って、かき消すように消える(中入)。僧は、市原野で小野小町が「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とはいはじ薄生ひけり」と詠んだ古事を思い出し、市原野へ出向いて小町の霊を弔う。すると、小町の後ろから怨霊姿の四位の少将が出現し、戒を授かろうとする小町を引き留め、続いて「百夜通い」の物まねを語りみせ、成仏へ至る。 「亡霊の歌に導かれて、僧が小町終焉の場を訪れ、供養する」という全体の構想が「あなめ説話」に依拠しているのは明らかであろう。単純化すれば、「あなめ説話」と「百夜通い」の取り合わせである。 ところで、〈通小町〉の主人公は四位の少将であり、「煩悩の犬となって、打たるると離れじ」と、仏法の救いを拒絶してまで女に恋着する男の迷妄を生々しく描き出すのが主眼である。それに対する小町は「男を拒絶する女」として造型されており、それは死後まで持ちこされている。「人の心は白雲の、われは曇らじ心の月、出でてお僧に弔はれん」(少将の心がどうだかは知らない。わたしの心は満月のように澄んでいる。さあ、出て行ってお僧の弔いを受けよう)と、少将を振り切ろうとし、「百夜通い」の段では「もとよりわれは白雲の、かかる迷ひのありけるとは」(少将にこれほどの迷いがあろうとは、わたしは思いもよらなかった)と冷淡な心を隠さない。恋愛の当事者である男女二人の霊が妄執の過去を再現する〈船橋〉・〈錦木〉などと比較すると、男の執心の激しさにおいても、女の冷たさにおいても、〈通小町〉に匹敵する作品はみあたらないだろう。唱導師原作の面影が反映した結果ではあろうが、小町説話で育まれた「拒絶する小町」像が影響を与え、個性的な女人を生み出すことになったと推測する。 しかし、これほどの執心を示しながら、成仏はやや唐突に訪れる。 雪の夜も雨の夜も九十九夜まで通い詰めた末、ついに逢う日が訪れた時、少将は、ふと仏が戒めた「飲酒戒」を保とうと思う。その「一念の悟り」により、「多くの罪を減して、小野の小町も少将も、ともに仏道成りにけり」と結ばれるのである。少将が百夜目に死んだことが述べられないことに加えて、あまりに成仏があっけないために、ここに何らかの省略か改訂が施されているのではないかとの意見がある。筆者も、長らくそう考えていたが、このままで解釈は可能だと思い至った。二人は、生前の一回きりの百夜通いを、「霊になった今、憎の前で、もう一度」行っている。演じているうち、少将の心にふと生じた「飲酒戒を保とう」との気持ちが、仏道への機縁となったということだろう。生前の百夜通いでは死んでしまった少将ではあるが、死後における百夜通いの中で、ようやく成仏を果たすのである。ほんのささいな善行が悟りを導くというパターンは仏教説話の常套でもあって、むしろ広大無辺な仏の慈悲をあかすものである。唱導原作の〈通小町〉にふさわしい結末とみるべきではないだろうか。「あなめ説話」の中では、数少なく、またさほど明確には描かれてこなかった「小町の成仏」をテーマに据え、小町を地獄から救済したところに、〈通小町〉の新しざがあると思う。 古作能〈卒都婆小町〉・〈通小町〉における小町説話の摂取方法と、能があらたに付け加えた小町像について述べた。二つの作品は、大筋においては従来の小町説話を大幅に逸脱するものではなく、説話全体の枠組みに説話を応用し、「男を拒絶する小町」を肉付けして、劇的演技を導き出している。引用する小町作の和歌が各々|首しかなく、そのいずれもが小町零落讃の中で用いられていることにも、説話との密着度がうかがわれる。〈卒都婆小町〉と〈通小町〉は前編・後編の如く響き合って「小町説話の舞台化」を果たしたのである。 |
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■10.蝉丸 (せみまる) | |
これやこの 行(い)くも帰(かへ)るも別(わか)れては
知(し)るも知(し)らぬも 逢坂(あふさか)の関(せき) |
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● これが例の、都から離れて行く人も都へ帰る人も、知っている人も知らない人も、出逢いと別れをくり返す逢坂の関なのです。 / これが都(京都)から東へ下っていく人も、都へ帰ってくる人も、顔見知りの人もそうでない人も逢っては別れ、別れては逢うというこの名の通りの逢坂の関なのだなあ。 / これはまぁまぁ、京の都からはるか東国へ行く人も、東国から都へ帰ってくる人も、ここで別れては出会い、知り合いの人も、まったくお互いを知らない人も、会っては別れていることだ。その名前のとおり「あふさか」(会う坂=逢坂)の関だなぁ。 / これがあの有名な、(東国へ)下って行く人も都へ帰る人も、ここで別れてはまたここで会い、知っている人も知らない人も、またここで出会うという逢坂の関なのだなあ。
○ これやこの / 「これ」と「こ」は、いずれも近称の指示代名詞。「や」は、詠嘆の間投助詞。「これやこの」で、「これが例の・噂に聞く」の意。逢坂の関にかかる。 ○ 行くも帰るも / 「行く」と「帰る」は、いずれも動詞の連体形で準体法。下に「人」を補って訳す。「行く」は「東国へ行く」、「帰る」は「都へ帰る」の意。「も」は、並列の係助詞。 ○ 別れては / 「は」は、強意の係助詞。「ては」で、動作の反復を表す。「別れ(る)」と「逢(ふ)」がくり返されることを示す。 ○ 知るも知らぬも / 「知る」は、動詞の連体形、「知らぬ」は、動詞の未然形+打消の助動詞の連体形で、いずれも準体法。下に「人」を補って訳す。 ○ 逢坂の関 / 「あふ」は、「逢ふ」と「逢(坂)」の掛詞。上を受けて「知るも知らぬも逢ふ」という動詞になり、下に続いて「逢坂の関」という地名になる。「逢坂の関」は、山城(京都府)と近江(滋賀県)の境にあった関所で、不破(美濃)・鈴鹿(伊勢)とともに三関の一つとされたが、当時の都人にとっては、京と東国とを隔てる身近な難所であり、特別な関所であった。現在、その付近に名神高速道路の「蝉丸トンネル」がある。 |
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蝉丸(せみまる、生没年不詳)は、平安時代前期の歌人、音楽家。古くは「せみまろ」とも読む。 『小倉百人一首』にその歌が収録されていることで知られているが、その人物像は不詳。宇多天皇の皇子敦実親王の雑色、醍醐天皇の第四皇子などと諸伝があり、後に皇室の御物となった琵琶の名器・無名を愛用していたと伝えられる。また、仁明天皇の時代の人という説もある。生没年は不詳であるが、旧暦5月24日およびグレゴリオ暦の6月24日(月遅れ)が「蝉丸忌」とされている。 逢坂の関に庵をむすび、往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌を詠んだという(百人一首では“行くも帰るも分かれては”となっている)。このため、逢坂の関では関の明神として祭られる。和歌は上記のものが『後撰和歌集』に収録されている他、『新古今和歌集』『続古今和歌集』の3首を含め勅撰和歌集に計4首が採録されている。 ○ 管弦の名人であった源博雅が逢坂の関に住む蝉丸が琵琶の名人であることを聞き、蝉丸の演奏を何としても聴きたいと思い、逢坂に3年間通いつづけ、遂に8月15日夜に琵琶の秘曲『流泉』『啄木』を伝授されたという(『今昔物語集』巻第24 第23話)。他にも蝉丸に関する様々な伝承は『今昔物語集』や『平家物語』などにも登場している。 ○ 能に『蝉丸』(4番目物の狂女物)という曲がある。逆髪という姉が逢坂の関まで尋ねてきて、2人の障害をもった身をなぐさめあい、悲しい別れの結末になる。この出典は明らかでない。 延喜帝(醍醐天皇:885年〜930年)の第四皇子、蝉丸の宮は、生まれつき盲目でした。あるとき廷臣の清貫(きよつら)は、蝉丸を逢坂山に捨てよ、という勅命のもと、蝉丸を逢坂山に連れて行きます。嘆く清貫に、蝉丸は後世を思う帝の叡慮だと諭します。清貫は、その場で蝉丸の髪を剃って出家の身とし、蓑、笠、杖を渡し、別れます。蝉丸は、琵琶を胸に抱いて涙のうちに伏し転ぶのでした。蝉丸の様子を見にきた博雅の三位は、あまりに痛々しいことから、雨露をしのげるように藁屋をしつらえて、蝉丸を招じ入れます。一方、延喜帝の第三の御子、逆髪は、皇女に生まれながら、逆さまに生い立つ髪を持ち、狂人となって、辺地をさ迷う身となっていました。都を出て逢坂山に着いた逆髪は、藁屋よりもれ聞こえる琵琶の音を耳に止め、弟の蝉丸がいるのに気づき、声をかけます。ふたりは互いに手と手を取り、わびしい境遇を語り合うのでした。しかし、いつまでもそうしてはいられず、逆髪は暇を告げ、ふたりは涙ながらに、お互いを思いやりながら、別れます。 ○ 近松門左衛門作の人形浄瑠璃にも『蝉丸』がある。蝉丸は女人の怨念で盲目となるが、最後に開眼する。 |
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■ 2
今昔物語の蝉丸伝説(巻第二十四の第二十三話) ―源博雅朝臣、会坂(あふさか)の盲(めしひ)の許に行く語― 今は昔、源博雅朝臣という人がいた。醍醐天皇の皇子、兵部卿の親王と呼ばれた克明(かつあきら)親王の子である。よろずのことに優れた人であったが、なかでも管弦の道を極めていた。琵琶はいとも優美に弾き、笛の音は艶にして得も言われなかった。この人は村上天皇の御代の殿上人であった。 その頃、逢坂の関にひとりの盲人が庵を作って住んでいた。名を蝉丸といった。宇多法皇の皇子、敦実親王の雑色であったが、親王は管弦の道に秀で、琵琶をよく弾いていた。それを常に聞くうち、蝉丸も琵琶の上手になったのである。 さて、博雅は音楽の道を非常に好んだので、この逢坂の関の盲(めしい)が琵琶の名手だと聞いて、なんとかその弾奏を聞きたいものだと思った。しかし盲の庵は異様なありさまであったので、人を遣って内々に蝉丸に伝えさせたことに 「何ゆえにこのような思いもかけぬ所に住んでいるのか。京に来て住めばよい」 と。盲はこれを聞き、答えるかわりに歌を詠んで言うことには、 世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋もはてし無ければ 使いは帰って事情を語った。博雅はこれを聞くと、居ても立ってもいられぬ思いに駆られ、心の内で思ったことには、 「私は管弦の道に心をかける余り、何としてもこの盲(めしい)に会おうと深く心に願ったが、あの者の命もいつまでもつかわからない。私とて命は明日も知れない。琵琶には流泉・啄木という曲があるが、世に絶えてしまった秘曲である。ただあの盲のみが知っている。如何にしても聴いてやろう」 そう心に決めて、夜、逢坂の関に行ったのであるが、蝉丸がその曲を弾くことはなかった。博雅はその後三年間、夜な夜な庵のほとりへ行っては、今か今かと立ち聞きしたが、一向に弾く様子が無い。 三年目の八月十五日、月はおぼろに霞み、風が少し強く吹く夜、博雅は「ああ、今宵は興も乗ろうか。逢坂の盲、今夜こそ流泉・啄木を弾くだろう」と思い、出かけて行って立ち聞きすると、盲は琵琶をかき鳴らし、感興ありげな様子である。 博雅が期待を篭めて耳をすませるうち、蝉丸はひとり憂さを晴らすように、 逢坂の関の嵐のはげしきに強ひてぞゐたる夜を過ごすとて そう詠じると、琵琶をかき鳴らした。博雅はこれを聞き、涙を流し、感激すること限りなかった。 盲(めしい)が独り呟いて言うことに、「ああ、興のある夜だことよ。私以外に数奇者が世におらぬものか。今宵芸道を心得た人が訪ねて来たら、物語しようものを」。 博雅はこれを聞き、声に出して 「王城にある博雅という者が、ここにおるぞ」 と言った。 「そのように申されるのはどなたでいらっしゃる」 「私はしかじかの者。管弦の道を好む余り、この三年間、庵のほとりに通っていたが、幸い今夜そなたに会うことができた」 盲はこれを聞いて喜んだ。博雅も喜色を浮かべ、庵の内へ入ると、うちとけて物語などしあった。 「流泉・啄木の奏法を聞きたい」と博雅が言うと、 「亡き親王はこのようにお弾きになったものでした」 と盲は言って、件の奏法を博雅に伝えた。博雅は琵琶を携えて来なかったために、ただ口伝によってこれを習ったのである。 博雅は大いに満足し、暁に帰って行った。 ■ この話を思うに、諸々の道はこのようにひたすら好むべきものである。今の世はそうでない。だからこの末代、諸道に達者が少ないのである。まことに哀れなことである。蝉丸は賤しい者ではあるが、長年親王の弾く琵琶を聴き、このように道を極めた上手になったのであるが、盲目となったので、逢坂にいたのである。この時以後、盲者が琵琶を弾くことが世に始まったと語り伝えているのである。 |
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■ 3
逢坂の関 ー蝉丸神社を訪ねてー これやこのゆくも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸 百人一首のこの読み札には、眼を閉じた頭巾の僧が坐っている絵が描いてあったと記憶している。僧が琵琶を抱えていたかどうかは思い出せない。扇子を持っていたような気もする。 蝉丸(せみまる、あるいはせみまろ、とも)は逢坂に庵を結んで住んでいたという伝説の歌人で、盲目であったが琵琶の名手であったという。逢坂には古くから関があり、畿内と畿外の境界の関であった。逢坂山はほとんど都の外れの地、蝉丸はそこで世捨て人のように生きていたのだろうか。蝉丸とは本名とも思えないが、音曲の神として逢坂の三つの神社に祀られている。 今昔物語、謡曲、浄瑠璃などに蝉丸が登場しており、貴人に仕えた雑色(下人)、また盲目ゆえに幼少時に棄てられた皇子、盲目の琵琶法師、など蝉丸に関しては、時代によって身分の異なるさまざまな伝承がある。その人物像については定かではないが、いずれも盲目で琵琶の名手であったという点では共通している。 新古今集にも蝉丸の歌が二首載っているが、そちらの歌はあまり知られていなくて、蝉丸といえば、これやこの、の逢坂の歌が有名である。百人一首に入ったことにより、世に知られ、その名も後世に残ったのであろう。 繰り返しこの歌を呟いていると、何やら呪文のような響きが感じられる。反復、対句によるものだろう。「も」が四回使われているのは多すぎるような気がするが、一度聞いたらこのリズムが心のどこかに残ってしまうような面白い感覚があって、妙に印象が強い。 逢坂の関とはどのような所なのだろう。また、神となって社に祀られている蝉丸とはいったいどういう人物なのだろう。 地図で見ると、蝉丸の名を冠した神社は分社、上社、下社とそう遠くない場所に並んでいる。逢坂は万葉集にも詠まれた歌枕の地、今日は蝉丸ゆかりの地を歩いてみることにする。 |
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逢坂の関は滋賀県大津市にある。逢坂山は畿内と畿外の境界に位置している。山城と近江の境といえばわかりやすいだろうか。逢坂には古くから関が設けられていた。さらに古い重要な関としては愛発(あらち)関(越前)があり、こちらは藤原仲麻呂の乱の折にも登場するが、(愛発関を塞いで、越前に逃れようとした藤原仲麻呂の退路を絶った)平安前期になって愛発の関が閉じられると、代わりに逢坂の関が使われるようになり、不破の関(美濃)、鈴鹿の関(伊勢)と並んで三関と呼ばれるようになった。
枕草子にも、関は、逢坂、須磨の関、鈴鹿の関、とその名が挙がっている。きっと賑わいも趣のある所だったのであろう。 |
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乗降客もまばらな京阪京津線大谷駅に降り立った。見回すとそこには静かな集落が開けている。山間部であるが、ほとんど山道を歩くこともなく、目の前にもう神社のものらしい石段が見えていて、それが蝉丸神社分社であった。小さな村の鎮守社という感じを受ける。
境内の碑には、前述の蝉丸の歌が刻まれていた。蝉丸神社はここ以外に上社、下社の二箇所あり、ここが一番新しく十七世紀に建てられていて、上社、下社は十世紀の建立であるという。それぞれ蝉丸、猿田彦、豊玉姫を祭神としている。 蝉丸は音曲芸道の神として、また猿田彦、豊玉姫(玉依姫と同様、神に仕えた女性の名か)は、峠や道の神、境界を守る性格を持つ神として祀られているようだ。分社は蝉丸が主祭神で二神が合祀され、上社、下社は逆に猿田彦、豊玉姫が主祭神で、蝉丸が後で合祀されたのだそうだ。 三つの神社はほぼ道沿いに並んでいて、そう離れてはいない。なぜ近接して蝉丸神社が三社もあるのかと素朴な疑問も湧いてくる。上社と下社は、逢坂の関趾を越えた坂の向こう側にあってここからは見えない。 分社はひっそりとした雰囲気で、人の気配もなく、静まっていた。建立年でいえばここが一番新しい。あるいは蝉丸の庵跡なのでそのことに因んで集落の人々が社を建てたのかとも思ったが、神社の由来には、それに関しては何も書かれてはいなかった。 小さなお社であるが、神楽殿が設けてあるのはさすがだと思った。ここで琵琶の演奏や能が奉納されたのだろう。 |
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今昔物語 巻第二十四 「源博雅(ひろまさ)の朝臣、逢坂の盲(めしい)の許(もと)に行きたる語(こと)」を少し見てみよう。
…今は昔、源博雅朝臣という人有けり。延喜の御子の兵部卿の親王と申す人の子なり。管弦の道になむ極めたりける。琵琶をも微妙に弾きけり…。 この時に、会坂(おうさか)の関に一人の盲(めしい)庵を造りて住みけり。名をば蝉丸とぞ云ける。此れは敦実(あつみ)と申しける式部卿の宮の雑色(ぞうしき)にてなむ有ける。 其の宮は、宇多法皇の御子にて、管弦の道に極まりける人なり。年来琵琶を弾き給ひけるを常に聞きて、蝉丸琵琶をなむ微妙に弾く…。 蝉丸は敦実親王という皇子に仕えた人、それも雑役を務める下人であったが、琵琶の名手であった皇子の弾く曲を耳で聞いて、習い覚えたというのだ。やがて目を患った雑色は都を離れる。博雅は会坂に住む盲人が琵琶の上手と聞き、京に呼び寄せようと思って使いをやるが、盲人は断りの歌を返してくる。 世の中はとてもかくても過ごしてむ宮も藁屋もはてしなければ (世の中はどのように過ごしても同じこと、宮殿も藁屋も所詮は仮の住まいですから) 博雅はそれを聞いて、ぜひ盲人に会いたいと思うようになる。 …琵琶に流泉、啄木という曲あり。此れは世に絶えぬべき事なり。ただ此の盲のみこそ此れを知りたるなれ。構えて此れが弾くを聞かむ。… 仕えていた皇子が亡くなり、琵琶の流泉、啄木の秘曲を知るものは、雑色の盲人だけになった。博雅はぜひ秘曲を聞きたいと願って、夜な夜な会坂に通っていき、庵の近くで耳を澄ますが、蝉丸はその曲を弾くことがなく、むなしく三年の月日が過ぎていった。そして中秋名月の夜がきて、盲人は琵琶を取って弾き始め、独り言をいう。 …哀れ、興ある夜かな。今夜心得たらむ人の来かし。物語せむ。 それを聞いた博雅は名乗り出て、ずっと庵に通っていたことを明かす。 …盲此れを聞きて喜ぶ。博雅も喜び乍(ながら)、庵の内に入りて互いに物語などして、博雅、「流泉、啄木の手を聞かむ」といふ。盲、「故宮はかくなむ弾き給ひし」と件の手を博雅に伝えしめてける。博雅、琵琶を不具(ぐせざ)りければ、ただ口伝を以て此れを習ひ、返す返す喜びけり。暁に返りにけり。 …蝉丸賤(いや)しき者なりといえども、年来宮の弾き給ひける琵琶を聞き、かく極めたる上手にて有けるなり。其れが盲に成にければ、会坂には居たるなりけり。其れより後、盲の琵琶は世に始まるなりとなむ語り伝えたるとや。(今昔物語) |
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蝉丸は身分が低かったが、親王の琵琶を聞いて習い覚え、琵琶の名手となり、目を患ったのちは逢坂に移り住んだ。博雅は噂を聞いて三年も逢坂に通って機会を待ち、ようやく蝉丸から念願の秘曲を習ったというのである。その熱意や、身分にかかわらず、名手に教えを請おうとした態度が、音曲の道に励もうとする人のいわば美談めいたものとして紹介されている。
「月少し上ぐもりて、風少し打ち吹たる夜…」名月の晩に、静かな空気を震わせて最初の琵琶の音色が響き渡り、博雅は思わず「これを聞きて、涙を流して哀れと思ふ」のである。 蝉丸の質素な住まいが、この辺りに建っていたのだと勝手に想像してみる。庵といってもおそらくは一間で、簡素な室内で、屋根も藁でかろうじて雨露を防ぐような粗末な拵えであったのだろう。けれども月の美しい夜に、琵琶を弾くにはいかにもふさわしいような静けさに満ち、深い樹木に囲まれた庵には白い月の光が差し込んでいたという気がする。 境内にたたずんで見回すと、辺りには人影もなく、神楽殿を風がゆるく吹き抜けていくばかりであった。 |
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境内の一隅には、旧街道の「車石」の一部が今も保存されていた。近寄って眺めると、これは切り石を掘り窪めて溝を作り、荷車が通りやすいようにした装置で、大津から京の都まで敷かれていたという。雨が降れば道はぬかるむ。こういう工夫があれば助かったに違いない。窪んだ形のレールが通っていたといえばよいのだろうか。それは江戸時代のものと説明されていた。すり減ったその敷石の一部や轍の跡をしばらく見ていた。
往時は人馬の往来で活気があり、茶店も何軒かあって大道芸人なども立ち、峠は賑わいをみせていたことだろう。なんといってもここはかつての東海道なのである。 分社を出て、峠を目指して歩いていく。今はほとんど人通りもない道であった。進んでいくとほどなく国道一号線との合流点に出る。国道に近づくなり様相は一変した。 国道にはびゅんびゅんと車が行きかっている。峠は切通しになっていて、両側の山はかなり切り崩されており、昔の面影もすっかりなくなってしまったのだろうが、とにかく交通量と通り抜ける車のスピード、その騒音の激しさに圧倒されてしまった。絶え間ない騒音に気持ちが落ち着かない。 現代の逢坂の峠は、ちょっと道路の向こう側に走って渡るのも恐ろしい場所に変貌しており、絶えず左右に気をつけていないと交通事故に遭いそうな所であった。ここはゆっくりと古を偲び何かを思うという場ではないようである。 見ると峠には、逢坂常夜燈と彫られた古風な石灯籠が目立つところにちゃんとあった。それは江戸時代のものであった。 そして峠の頂上部の辺りには、「逢坂山関址」の石碑が建っていた。近づいて碑を眺めていると、すぐ背後を大型トラックが掠めていく。風圧を感じぞっとした。本当の関の位置は確かでなく、ここにあったのではないらしいが、峠の上なので象徴的に碑を設置したのであろうか。何かしらここは長居をしたくない不安と身の危険を感じる場所であった。 |
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峠や四辻、集落の境界、国と国との境、そういうさまざまな人が行きかうところは、人や物だけでなく、古来厄災や目に見えない魔ものも侵入しやすい場所と考えられ、怖いところであったという。村の入り口に塞ノ神や地蔵が祀られたりするのもそのためである。今逢坂の峠の上に立ってみて感じる恐怖は、単にトラックにはねられるという心配だけでなく、古人が境界や峠に感じていた潜在的な、目に見えない魔への恐怖も加わっているのかもしれないと思う。 | |
次に逢坂の関を詠んだ歌として、知られているものを二、三挙げておこう。
はじめの歌は、罪人として流された人が詠んだ歌である。三首目はあまりにも有名であろう。 我妹子(わぎもこ)に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし 中臣宅守(万葉集巻十五) 逢坂をうちいでてみれば近江の海白木綿(ゆふ)花に波立ちわたる (万葉集巻十三) 世をこめて鶏の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ 清少納言(百人一首) 峠を越え、ゆっくりと大津側へと降り始める。歩道が設けられておらず、かなり急坂であった。あいにく曇り日で琵琶湖は遠望できず、行く手には密集した大津市内の町並みが折り重なって見えているのみであった。道は左手に大きく回り込み、その間にも次々と猛スピードの車が背後から近づいてきて、そのたびにはっと緊張させられる。 やがて左手の山側に蝉丸神社上社の灯籠が見えてきた。しばらくこの国道から離れられると思いほっとする。 神社の石段を登っていくと、そこには思いがけず静謐な空間が開けていた。鳥居があり、それをくぐるとさらに石段が山に続いている。さっきの分社にもあったが、ここにも古い神楽殿があり、さらに石段がのびている。奥まで上り詰めるとやっと小さな古びたお堂にたどり着いた。山の斜面を利用する形で参道が造られたお社であった。 お堂はほとんど手入れもされておらず、細工も剥落して色あせその一部は風雨に傷んで崩れかけたところもあるが、私はこういう古い雰囲気を持つ建物が好きである。 しばらく座って落ち葉の積もった石段を眺めていた。羽虫が顔の周りを飛び交い、蜂の唸りも遠く近く聞こえ、点々と落ちた椿の花が石段に散ったまま干からびて枯れている。少し山に入り込んだせいで車の騒音が遠のき、道を隔てた向こう側には緩やかな山の緑が広がり、それを見ていると、気持ちが和んできた。 |
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蝉丸が、皇子として生まれたが、盲目であるため逢坂に遺棄されたという伝承があることを前述したが、(能の「蝉丸」では棄てられた盲目の皇子と放浪する逆髪の姉が登場する)調べてみると、その伝承に近い皇子は実在の人であった。
第54代仁明(にんみょう)天皇の第4皇子に、人康(さねやす)親王という人がいる。同母兄の時康(ときやす)親王は後に光孝天皇となっており、人康親王も高位についていたが、目を患ったため、出家して山科に隠棲し、山科宮人康親王と呼ばれたという。 伊勢物語 第七十八段にも「山科の禅師の皇子」として登場し、在原業平とも親交があったように作中では描かれている。 実際皇族の人たちが珍しい庭石を人康親王に贈って庭園に置き、親王の心を慰めたようである。親王が手で石に触れ、水をせきいれて流れる音を楽しめるようにしたのだろうか。また親王は琵琶の名手であったと伝えられている。 親王は琵琶を盲人たちに教え、蝉丸はその弟子の一人であったともいわれているそうだ。人康親王の死後、その徳を偲んで親王は琵琶法師の祖神として祀られるようになったというのである。山科の邸宅跡には親王の碑があり、そこには蝉丸の名も刻まれているという。 |
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幼少時に、盲目ゆえに父の帝の命で逢坂に棄てられた薄幸の皇子、という蝉丸伝承とは少々異なっているが、蝉丸の伝承の一つに、琵琶の上手な山科の人康親王の姿が重ねられているのかもしれないと思う。山科は逢坂とそう遠く隔たってはおらず、逢坂の西に当る。
蝉丸神社上社を出て、再び国道に降りる。坂を下っていくと、ちょっと道がわかりにくくなり、迷いそうになったが、下社を見つけることができた。 神社のすぐ目の前を京阪電車の線路が横切っており(遮断機はない)、お参りは線路を踏み越えて入るのである。こういう神社は珍しいのではないかと思う。ぼうっとしているとがらがらと音を立てて電車が不意に現れ横切っていった。至近距離であった。逢坂の峠の上も車が恐かったけれど、ここもぼんやり者にとっては危ない場所であった。 他の二社にあった石段がここにはなくて、そのまま境内に入ってみると、なんとも古く美しい神社である。線路際の石灯籠には関清水大明神とあった。 逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒 紀貫之 と刻まれた歌碑があり(これは行事を詠んだ歌という)、もう一つの歌碑には、 これやこの行くもかえるも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸 とあった。百人一首では別れても、であるが、ここの碑では別れつつ、になっていた。こちらのほうが元の歌なのであろう。 やはりここにも神楽殿があった。三社を巡ったが、ここが一番立派な舞台を持っている。境内も他にくらべれば広い。今は全体にくすんだ色になっているが、かつては多くの見物人が見守る中、この舞台上でゆかりの能が演じられ、琵琶の秘曲も奉納されたのであろうとその様子を思い浮かべてみる。 普通蝉丸神社といえばこの下社のことを指すのだそうだ。この神社は室町時代から江戸時代にかけて、音曲芸道に関する免状を発行していたという。一種の興行権で、その免状と関の明神の縁起由来を記した巻物を手に入れた人々は、全国を流浪して芸を見せ、説教節を語ったという。 神社は町中に位置しているためか適度に人の賑わいも温もりも感じられ、近接する町の雰囲気とうまく溶け合っている。親しみやすい感じであった。 奥にある本殿へと向かう。そこは回廊でぐるりと巡るようになっていて、合格祈願やピアノ、ギター上達などを願う現代の子供たちのたくさんの絵馬が掛かっていた。 |
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ここで少し能「蝉丸」の世界をみてみよう。
…延喜帝の第四皇子、蝉丸の宮は生まれながらの盲目であった。父の帝は清貴(きよつら)に命じ皇子を逢坂山に棄てさせる。哀れみながら清貴は皇子を剃髪して僧形にし、服を着せ替え、蓑と笠と杖を与える。皇子は盲目の身は前世の報いであり、この世で善根を積むことで良い来世が得られるという父帝の気持ちをくんで、誰も恨むことはしないという。宮殿は藁屋に、衣服は蓑に、そして従者も都へと帰ってしまい、残った供は杖一本となった。一人になると寂しさに耐えかねて、蝉丸は琵琶を抱えて泣き悲しむのだった。 …皇子は後にただひとり、御身に添ふものとては、琵琶を抱きて杖を持ち。臥しまろびてぞ泣き給ふ。臥しまろびてぞ泣き給ふ。 一方延喜帝の第三皇女、逆髪の宮は生まれながら髪が逆さまに生えており、櫛でとかしても髪は下りず、そのためか物狂いとなって都を離れ、人々に嘲笑されながら各地をさまよって歩く。 …今や引くらむ望月の、駒の歩みも近づくか、水も走り井の影見れば、われながらあさましや、髪はおどろを戴き、黛(まゆずみ)も乱れ黒みてげに逆髪の影うつる、水を鏡と夕波のうつつなのわが姿や。 逆髪は逢坂山までやってきて、ふと琵琶の音色に引き寄せられ、盲目の弟を見つける。二人はつかの間の再会を喜び、互いに身の不運を嘆き合うが、いつまでも留まることはできず、やがて姉はどこへともなく去っていき、弟は一人それを見送る。 (能 「蝉丸」) |
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悲しい内容である。どこにも救いがなくて、盲目の弟と逆髪の姉という組み合わせも絶望的であるし、悲惨である。この場合の逆髪の姉というのはいったい何を表しているのか、さまざまにいわれるところであるが、一つの説を紹介すると、逆髪(さかがみ)とは坂に祀られる神、坂の神の意であるというのである。逢坂山の神ということであろうか。あるいは坂神に仕える巫女とも考えられ、その髪が逆立つとは神がかり状態の形容だというのである。
琵琶は神降ろしの際に用いられた、いわゆる古代の小型の琴に類する聖なる楽器、そうなると蝉丸も逆髪も神に仕えた古代の人たちの面影を強く引きずっており(古来、体になんらかの障害を持つ人は、その異形、畸形のしるしゆえに、神に選ばれたものとして神に仕えることもあった)この「蝉丸」は逢坂山にいます神、その神に仕えた神人に捧げられた曲という側面も考えられる。 もし彼ら姉弟が神人であったという見方をとれば、ふつう浮かばれない怨念の霊を僧が供養して成仏させてしずまる、という能の多くの筋書きから外れているこの「蝉丸」の不可解な結末の謎も解けてくるのだろうか。 神に仕えた巫女やかんなぎが、僧の読経によって慰霊されるという筋も、この場合不自然であるだろう。いったん神とかかわった者の宿命として、彼らはその役を自ら降りることなく受け入れ、永遠に自分の神とともに生きるしかないとも考えられるのではないだろうか。蝉丸は日々琵琶をかなでて神を呼びおろし、逆髪は神つきによる錯乱を続けて生きるよりほかなく、仮に神から逃れようとどこをさまよい続けても、神に呪縛され、神に魅入られた者の定めは避けようもないということになる。 |
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松本徹著「夢幻往来」異界への道(人文書院)には、蝉丸に関して興味深い記述があるので最後に少し引用してみよう。氏は逆髪の正体をこう見ておられる。
…しかしいまは、逆髪の素性を洗ひ出すつもりはない。おどろおどろしく天に向かって生えのぼる髪は、決してこの世に入れられることのない運命を背負ったものの象徴であるとともに、その運命を生きなければならぬ者の発する、天へのすさまじい抗議の叫びが形象化されたものと、見ておけばよかろう。すなはち逆髪は棄てられた蝉丸の悲嘆を一段と烈しく突きつめた姿なのである。悲嘆が純粋化され、人間のかたちをとって狂い歩いているのだ。 「蝉丸 ゆくもかえるも」の章より |
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蝉丸についてのあれこれを、本殿にたたずんで考えていた。人物像はやはり謎のままであるが、その歌だけが明瞭な存在感を持ち、聞いたこともないのに、風に乗って流れる幻の琵琶の調べとともに、心のどこかに記憶されていった。今日巡った三社のうち、印象深かったのは、上社であった。たとえ寂れていても、崩れかけていても、峠の山の神の住まいにふさわしい風格と雰囲気が感じられた。下社は上社に対する里宮としての親しみやすさがあるし、分社は、集落の人々に大切にされている鎮守の趣が漂っていて、それがよかった。実際に歩いてみて、逢坂の関がすっかり現代に呑みこまれてしまっているのがわかって少々残念ではあったが、旧跡を歩いて何かを感じてみる、その土地の持つ遠い記憶と触れ合い、昔日を思ってみる、そういう体験ができた一日であった。 | |
■ 4
蝉丸 都から遠く離れた逢坂山。この地に捨てられた盲目の皇子と、放浪の旅に出る狂乱の皇女。やがては別れねばならない人間の運命を描いた、貴種たちの悲劇。 延喜帝の御代、盲目の身と生まれた皇子・蝉丸(ツレ)は逢坂山に捨てられることとなった。供をする廷臣の清貫(ワキ)は蝉丸を出家させて蓑・笠・杖を与えると、泣く泣く彼を残して帰る。その後、博雅の三位(間狂言)の世話で蝉丸は庵に住むこととなる。その頃、皇女・逆髪(シテ)は狂乱のあまり京を彷徨い出て逢坂へとやって来た。そこで逆髪は弟・蝉丸との思わぬ再会を喜ぶが、やがては別れゆくのが人間の運命。旅立つ逆髪と留まる蝉丸とは、今生の別れを惜しむのであった。 ○ 1 ワキ・ワキツレに伴われて、ツレが登場します。 時は平安時代。聖帝と謳われていた延喜帝(えんぎてい)の周辺にも、ある深い悲しみが立ちこめていた。この日、生まれつき盲目であった第四皇子・蝉丸の宮(ツレ)が、父帝の命によって御所を出され、遠く逢坂山に捨てられるのであった。 迷いの雲も立ち上る、都の境の逢坂山。お供の廷臣・清貫(ワキ)は、名残惜しさに涙しつつ、蝉丸をこの山へと連れてきた。 ○ 2 ツレはワキと言葉を交わし、運命を受け入れる覚悟を語ります。 逢坂山に着いた清貫は、帝のこのような処置を悔しがり、蝉丸に同情の言葉をかけるが、蝉丸は、もともと自分が盲目となったのは前世からの因縁であると言い、山野に捨てられるのも、この世で前世からの罪を全て清算させようという親の慈悲ゆえだとたしなめる。 ○ 3 ツレは剃髪して姿を変え(〔物著(ものぎ)〕)、ワキはツレを残して去ってゆきます。 その時、清貫は勅命として、蝉丸を出家させる。僧となった蝉丸は、これから生きてゆくために必要な蓑・笠を身にまとい、杖を渡される。先程までの皇子の姿とは打って変わっての、乞食同然の蝉丸の姿は、あまりにいたわしいものであった…。 しとしとと降る雨の中、清貫たちは尽きぬ涙を押さえつつ、蝉丸を残して去って行く。ひとり残された蝉丸は、地に伏して泣き叫ぶばかりであった…。 ○ 4 間狂言が登場し、ツレの世話をします。 蝉丸が捨てられたと聞いて、都から博雅の三位(間狂言)がやって来た。彼は琵琶の名手である蝉丸から芸を伝えられたい一心で、蝉丸の居所をしつらえ、身のまわりの世話をする。そうして、必要があれば声をかけてくれと言うと、博雅の三位は帰っていった。 ○ 5 シテが登場し、〔カケリ〕で狂乱の態を見せます。 一方都では、やはり帝の第三皇女・逆髪の宮(シテ)が何の因果か狂乱し、御所を飛び出して放浪していた。髪は乱れて逆立ち、都の童にまで笑われる有り様であった。 ──ああ、これも全てはこの世の真理の姿! 地中の種は高い梢に花を咲かせ、天高い月の影は水底に宿る。本来この世には順もなければ逆もない。皇族から庶民に下るのも、髪が天に向かって逆立つのも、全ては真理の姿なのだ…! ○ 6 シテはわが身の醜さを恥じつつ、逢坂山まで彷徨い出ます(〔道行(みちゆき)〕)。 都を彷徨い出た逆髪は、足に任せて歩いて行く。花の都とは一変して、秋の虫の鳴く野を渡り、都の境である逢坂までやって来るが、関のほとりに涌く清水にわが身を映すと、それは余りに浅ましい姿。茨の髪はぼさぼさに、眉も黒ずんで、わが身の何と醜いことよ…。 ○ 7 シテはツレの住むあばら屋を訪ね、二人は再会を喜びます。 村雨の降る、物寂しい夜。逢坂山の庵の中では、蝉丸が琵琶を弾いて心を慰めている。そこへ通りかかった逆髪は、粗末な庵に似合わぬ琵琶の音に不審を抱き、その主が弟・蝉丸だと気づく。駆け寄る姉、応える弟。二人は手に手を取り交わし、思わぬ再会に咽び泣く。 ○ 8 シテとツレは今の境遇を嘆きあいます(〔クセ〕)。 ──世は末世に及ぶとも、日月は地に堕ちぬもの。それなのにどうして、私達は皇子の身分を放たれ、人臣にすら交わらず、賤しい流浪の身となっているのか。昨日までは玉の御殿に住んでいた身が、今日はまた藁と竹の粗末な庵。木々を伝う猿の声の他には何も聞こえぬこの藁屋に、破れた屋根から月は漏る。しかし盲目の身には月は見えず、藁の屋根には雨音も聞こえぬ。心を慰めるものもない、そんな日々を過ごすばかり…。 ○ 9 シテはツレに旅立ちを告げ、二人は今生の別れをして、この能が終わります。 いつまでも名残は尽きぬもの。しかし放浪という運命を背負った逆髪には、いつまでも留まることはできなかった。別れを惜しむ蝉丸、後ろ髪を引かれつつも去りゆく逆髪。 やがて声も届かぬ程に離れてしまった。「またいつか、いつでも来て下さい」という声が、かすかに残るばかりであった…。 |
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■ 5
関蝉丸神社・御由緒 関蝉丸(せきせみまる)神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ〈髪の毛のこと〉)の祖神ともいわれている。その人物像は不詳であるが、醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色などとも伝えられ、琵琶の名器・無明を愛用していたといわれている。生没年も不詳ながら、旧暦の五月二十四日は「蝉丸忌」とされている。また、下社の祭神・豊玉姫命は、福を招き出世を約束する女神で、縁結び・安産・子孫繁栄の神として敬われている。なお、海神の娘である豊玉姫命は水霊信仰とも深く関係している。 社記によると、当社の創祀は、嵯峨天皇の弘仁十三年(八二二)と伝えられている。小野岑守が旅人の守護神である猿田彦命を山上の上社に、豊玉姫命を麓の下社にお祀りしたのが始まりとされている。鎮座する逢坂山は京都と滋賀の境に当り、琵琶湖と京都・畿内を結ぶ交通の要所として栄えていた。この立地から、国境神・坂神・手向神(道祖神)、さらに逢坂の関の守護神としても崇敬されていた。また、京の都に悪病が流行らないように疫神祭が斎行されていたという。貞観十七年(八七六)には従五位下の神階が授けられ、六国史に記載がある国史見在社である。 平安時代中期になると、琵琶の名手で、後撰集の歌人でもある蝉丸が鎮座地の逢坂山に住むようになり、没後に上・下両社へ合祀された。合祀は天慶九年(九四六)とも平安時代末ともいわれている。その後、蝉丸伝承は時代と共に全国各地へ広まり、天禄二年(九七一)に綸旨が下賜されると、歌舞音曲の神として信仰されるようになり、次第に音曲を始めとする諸芸に関係する人々の信仰が厚くなった。 江戸時代には諸国の説教者(雑芸人)を統轄し、免許を受ける人々が全国的規模で増加した。昭和五年(一九三〇)には郷社に列格した。 蝉丸に関する様々な伝承は『平家物語』などの文献に登場する。和歌・管弦の名手であった鴨長明の『無名抄』にも当社に関する記述が見られる。また、『今昔物語』巻第二四第二三話には管弦の名人であった源博雅が、逢坂の関に蝉丸という琵琶の名手が住むとの噂を聞き、当時蝉丸だけが伝えていた「流泉」「啄木」という秘曲の伝授を乞うため逢坂山に通い、三年の月日が流れた八月十五日、ようやく秘曲を聞くことができたという逸話は有名である。 蝉丸といえば、『小倉百人一首』のカルタに描かれる坊主姿が有名である。逢坂の庵より往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも 逢坂の関」という和歌を詠んだ(百人一首では 「行くも帰るも分かれては」 となっている)。蝉丸の和歌は、上記のものが『後撰和歌集』に収録されているほか、『新古今和歌集』『続古今和歌集』に収録されている三首を含め、計四首が勅撰和歌集に採録されている。 能の『蝉丸』(四番目物の狂女物)という曲や近松門左衛門作の人形浄瑠璃の『蝉丸』も有名である。 蝉丸神社は市内に3社あり、逢坂(おうさか)一丁目の国道1号沿いに上社(かみしゃ)、国道161号沿いに下社(しもしゃ)(関蝉丸神社)、大谷町に分社(蝉丸神社)が立っています。 |
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■ 6
蝉丸の墓 / 福井県丹生郡越前町陶の谷 「これやこのゆくもかえるも別れては、知るも知らぬも逢坂の関」の一首で有名な蝉丸の話が伝わっています。諸国を流浪の果て、越前に来て陶の谷にたどり着いた蝉丸は、一軒の農家に滞在中に病気になりこの地に果ててしまいました。蝉丸の遺言どおりこの地域に建てた墓です。 |
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■ 7
小町・蝉丸・光孝天皇 あちこちから、花便りが届く季節になりました。 花と言えば、 花の色はうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに という小野小町の歌を思い出します。『百人一首』の中でも、最もよく知られた歌のひとつではないでしょうか。「六歌仙」の一人にも数えられる小町ですが、その生涯は幾重もの謎のベールに包まれ、小町の生誕や終焉の地と称される場所は全国各地にみられます。京都山科にある小野随心院もその旧跡と伝えられ、天明7(1787)年の『拾遺都名所図会』の境内図には、小町の艶顔を装ったという「小町化粧水」や、小町のもとに百夜通いをした深草少将が植えたという「栢大木」などが描かれています。絶世の美女として、あるいはまた高慢冷酷な女性として、栄耀を誇った小町の姿を彷彿させますが、小町にはもうひとつ、あまりにも哀れな末路をたどったいう物語が残されています。 謡曲『関寺小町』もそのひとつです。七夕の夜、稚児を伴って山陰の庵に住む老女のもとに歌物語を聞きに行った関寺の僧は、言葉の端々からこの老女が小野小町の零落した姿であること知ります。小町は自らの歌を引いて、過ぎ去った昔の栄華を語り、今のみじめな我が身を嘆きます。この『関寺小町』の舞台になった関寺の寺名は、山城と近江を結ぶ逢坂関に隣接していたことから付けられたと伝えられています。 逢坂関と言えば、『百人一首』には、有名な蝉丸の歌があります。 これやこの行くも帰るもわかれては知るも知らぬも逢坂関 蝉丸も小町と同様に謎の歌人で、宇多天皇の皇子敦実親王に仕えた雑色とも、また、醍醐天皇の第四皇子とも言われ、逢坂山に庵を結んで隠棲生活を送ったと伝えられています。鴨長明は『無名抄』に「逢坂の関の明神と申すは昔の蝉丸なり、彼の藁屋の跡を失はずして、そこに神となりてすみ給ふなるべし」と記していますが、現在、逢坂峠の付近には蝉丸の名を持つ神社が三社あります。そのひとつ関蝉丸神社下社は関清水大明神蝉丸宮とも呼ばれ、社伝によれば、逢坂山の手向けの神、いわゆる道祖神として祀られ、後に「延喜第四子蝉丸之霊並姉宮逆髪之霊」も合祀されたことがうかがえます。この関清水大明神蝉丸宮は、蝉丸が琵琶法師の祖とも言われることから音曲諸芸道の祖神としての信仰を集め、江戸時代には、説教者などに免状が出されていました。 音曲諸芸道の祖神と言えば、座頭の職能団体であった当道座が祖神としたのが「雨夜尊」でした。 「雨夜尊」をめぐっては、いくつかの伝承が残されていますが、その代表的なものに光孝天皇の皇子とする説があります。『百人一首』の中で、これも有名な 君がため春の野に出て若菜つむ我が衣手に雪はふりつつ の歌を詠んだのが光孝天皇です。仁明天皇の第三皇子だった時康親王は、陽成天皇の後を受け、五十五歳で位につきました。ところで、この光孝天皇の次弟、すなわち仁明天皇の第四皇子人康親王を「雨夜尊」とする説も、近世中期以降の当道座に伝えられています。人康親王は山科宮とも呼ばれ、親王山荘跡などがある山科は、人康親王ゆかりの地でもあったのです。 小野小町はこの宮の死を悼み、 けさよりはかなしの宮の山風やまた逢坂もあらしとおもへば という歌を詠んだと伝えられています。四宮と言えば、蝉丸も第四皇子でした。 山科そして逢坂山を舞台に語られた様々な伝説は、いつしか不思議な力に引き寄せられるかのように紡ぎ合わされ、私たちの前に何とも興味深い世界を残してくれたようです。花便りに誘われて、そんな伝説の世界の扉を開けてみたいと思う今日この頃です。 |
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■11.参議篁 (さんぎたかむら) | |
わたの原(はら) 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出(い)でぬと
人(ひと)には告(つ)げよ 海人(あま)の釣船(つりぶね) |
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● 大海原のたくさんの島々を目指して漕ぎ出してしまったと都にいる人に伝えてくれ。漁師の釣舟よ。 / 海原はるかに多くの島々を目指して私を乗せた舟は漕ぎ出していったと、都(京都)にいる私の親しい人に告げておくれ。そこにいる漁師の釣り舟よ。 / はるかにひろびろとした大海原に、ぽつんぽつんと無数に浮かぶ島を目指して、漕ぎ出して行ったのだと、どうか都にいる愛しいあの人につたえてください、釣り船に乗った漁師さん。 / (篁は)はるか大海原を多くの島々目指して漕ぎ出して行ったと、都にいる親しい人に告げてくれないか、そこの釣舟の漁夫よ。
○ わたの原 / 大海原。「原」は、大きく広がるさまを表す。 ○ 八十島かけて / 「八十」は、「多数」の意。「かけ」は、動詞「かく」の連用形で、「目指す」の意。 ○ 漕ぎ出でぬと / 六音で字余り。「ぬ」は、完了の助動詞で、「〜てしまった」の意。「と」は、引用の格助詞。 ○ 人 / 「京なる人」すなわち「都にいる人」を表す。この場合は、京に残してきた肉親や知人を含む身近な人々。 ○ 告げよ / 動詞「告ぐ」の命令形で、依頼・懇願を表し、「釣舟」にかかる。 ○ 海人の釣舟 / 「海人」は、「漁師」の意。「釣舟」は、「告げよ」の対象で、擬人化されている。この歌は、篁が隠岐に流された時に詠んだもので、高官であった作者が、漁師の釣舟(身分は低くとも自由にどこへでも行ける漁師)に懇願しなければならない苦悩を表している。 |
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■ 1
小野篁(おののたかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、平安時代前期の公卿・文人。 参議・小野岑守の長男。官位は従三位・参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。小倉百人一首では参議篁(さんぎたかむら)。 弘仁6年(815年)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくした。しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、弘仁13年(822年)文章生試に及第した。 天長元年(824年)巡察弾正に任ぜられた後、弾正少忠・大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下・大宰少弐に叙任される。この間の天長7年(830年)に父・岑守が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌がひどく衰えてしまうほどであったという。天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画して、その序文を執筆している。 承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられる。承和2年(835年)従五位上、承和3年(836年)正五位下と俄に昇叙されたのち、承和3年と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。承和5年(838年)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法がまかり通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)。のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった。そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという。 承和7年(840年)罪を赦されて平安京に帰り、翌承和8年(841年)には文才に優れていることを理由として特別に本位(正五位下)に復され、刑部少輔に任ぜられる。承和9年(842年)承和の変により道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねた。その後は、承和12年(845年)従四位下・蔵人頭、承和13年(846年)権左中弁次いで左中弁と要職を歴任する。権左中弁の官職にあった承和13年(846年)に当時審議中であった善ト訴訟事件において、告発された弁官らは私曲を犯していなくても、本来は弁官の権限外の裁判を行った以上、公務ではなく私罪である、との右少弁・伴善男の主張に同意し、告発された弁官らを弾劾する流れを作った。しかし、後年篁はこの時の判断は誤りであったとして、悔いたという。承和14年(847年)参議に任ぜられて公卿に列す。のち、議政官として、弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・勘解由使長官などを兼帯し、嘉祥2年(849年)に従四位上に叙せられるが、同年5月に病気により官職を辞す。 嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。仁寿2年(852年)一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、まもなく再び病を得て参朝が困難となった。天皇は篁を深く憐れみ、何度も使者を遣わせて病気の原因を調べさせ、治療の足しとするために金銭や食料を与えたという。同年12月には在宅のまま従三位に叙せられるが、間もなく薨去。享年51。最終官位は参議左大弁従三位。 京都市北区紫野西御所田町の島津製作所紫野工場の一角に、紫式部のものと隣接した墓所がある。 ■ 『令義解』の編纂にも深く関与するなど明法道に明るく、政務能力に優れていた。また、漢詩文では白居易と対比されるなど、平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。また和歌にも秀で、『古今和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に14首が入集している。家集として『野相公集』(5巻)があり、鎌倉時代までは伝わったというが、現在は散逸。 書においても当時天下無双で、草隷の巧みさは王羲之父子に匹敵するとされ、後世に書を習うものは皆手本としたという。 非常な母親孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったという。危篤の際に子息らに対して、もし自分が死んでも決して他人に知らせずにすぐに葬儀を行うように、と命じたとされる。 身長六尺二寸(約188p)の巨漢でもあった。 ■代表歌 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(『百人一首』11番) 泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるがに(『古今和歌集』) ■逸話と伝説 ○ 篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都嵯峨の福生寺(生の六道、明治期に廃寺、出口)と京都東山の六道珍皇寺(死の六道、入口)にあったとされ、また六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。 ○ 京都市北区にある篁のものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓があるが、これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部 を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである。 ○ 『今昔物語集』「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」によると、病死して閻魔庁に引据えられた藤原良相が篁の執成しに よって蘇生したという逸話が見える。 ○ 『宇治拾遺物語』などには、嵯峨天皇のころ、「無悪善」という落書きを「悪(さが(嵯峨のこと))無くば、善けん」(「悪なからば善か らん」とも読める。いずれにせよ、「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意。)と読み、これが読めたのは篁自身が書いたからに違いないと立腹した嵯峨天皇は「『子』を十二個書いたものを読め」というなぞなぞを出したが、見事に「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いてみせ事なきを得た、という逸話も見える。 ○ まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白居易の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。 ○ 白居易は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。 ○ また篁を主人公とした物語として、異母妹との悲恋を描いた『篁物語』があるが、完全なフィクションである。 ○ 陸奥守在任中の承和9年(842年)に竹駒神社を創建している。また、六道珍皇寺を創建したとの説もある。 |
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■ 2
小野篁 延暦二十一〜仁寿二(802〜852) 参議岑守の長子。弘仁初年、陸奥守となった父と共に任国に下る。のち帰京したが、弓馬を好み学業に励まず、これを聞いた嵯峨天皇が好学の父と比較して嘆いたため、篁は恥じて以後学問に精進したという。弘仁十三年(822)、二十一歳の時文章生の試験に及第し、その後東宮学士などを経て、承和元年(834)正月、三十三歳で遣唐副使に任命される。この時従五位下弾正少弼兼美作介。翌承和二年に出帆したが、難破して渡唐に失敗し、同三年にも出航して果たさず。同五年、三度目の航海に際し、大使藤原常嗣の遣唐使船が損傷したため篁の乗る第二船と交換されることとなり、これに抗議して、病身などを理由に進発を拒絶した。しかも大宰府で嵯峨上皇を諷する詩を作ったため、上皇の怒りに触れて官位を奪われ、隠岐に流された。二年後、その文才を惜しまれて帰京を許され、諸官を経て、承和十四年、参議に就任。仁寿二年(852)、従三位に至ったが、同年十二月二十二日、薨去。五十一歳。京都市北区紫野西御所田町に墓所がある。 六歌仙時代の直前に位置する重要な歌人。古今集の六首を始め、勅撰入集は計十二首。異母妹との交渉を中心とした歌物語風の『篁物語』(『小野篁集』とも)があるが、後人の創作である(作者・成立時期未詳)。漢詩文にすぐれ、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』などに作を残す。『野相公集』五巻があり、鎌倉時代まで伝存したというが、その後散佚した。勅撰和歌集入集は古今集の六首、新古今集の二首、続古今集の二首、玉葉集の二首、新千載集の一首、計十二首。 梅の花に雪のふれるをよめる 花の色は雪にまじりて見えずとも香をだににほへ人の知るべく(古今335) (白梅よ、花の色は雪にまざって見えないとしても、せめて香だけでも匂わせよ、人がそれと気づけるように。) 忍びてかたらひける女の、親聞きていさめ侍りければ 数ならばかからましやは世の中にいと悲しきはしづの苧環をだまき(新古1425) ([詞書]或る女とひそかに情を通じたが、その親が聞きつけて逢うことを禁じたので。[歌]人並の身分であったなら、こんなことになっただろうか。世の中でこれ以上なく悲しいのは、わが身のいやしさだ。) 妹のをかしきを見て書きつけて侍りける 中にゆく吉野の川はあせななむ妹背いもせの山を越えてみるべく(玉葉1277) (中を流れる吉野の川は涸れてしまってほしい。両岸の兄山と妹山を隔てなく見たいので。) いもうとの身まかりにける時よみける 泣く涙雨とふらなむ渡り川水まさりなばかへりくるがに(古今829) (私の泣いて流す涙が雨のように降ったらよい。あの世へと渡る川の水が増さって、妹が引き返してくるように。) 諒闇らうあんの年、池のほとりの花を見てよめる 水のおもにしづく花の色さやかにも君がみかげの思ほゆるかな(古今845) (水面に映っている花の色のように、冴え冴えと主君の御面影が偲ばれることよ。) 隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける わたの原八十島やそしまかけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟(古今407) (大海原を、数知れぬ島々の方へ向けて、遥か隠岐の島まで漕ぎ出して行ったと、都の人には告げてくれ、海人の釣舟よ。) 隠岐の国に流されて侍りける時によめる 思ひきや鄙ひなのわかれにおとろへて海人のなはたきいさりせむとは(古今961) (思っただろうか。田舎の地に遠く隔てられ、落ちぶれて、海人の縄を手繰って漁をしようとは。) 題しらず しかりとて背かれなくに事しあればまづ嘆かれぬあな憂う世の中(古今936) (だからと言ってこの世に背を向けることもできないのに。なにか事が起こると、まずはともあれ歎いてしまうことだ、ああ辛い世の中よ。) |
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■六道珍皇寺・縁起 京都では、「六道さん」の名で親しまれ、お盆の精霊迎え(しょうりょうむかえ)に参詣する寺として世に名高い当寺は、山号を大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。 当寺の開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊僧都(きょうしゅんそうず)で、平安前期の延暦年間(782年〜805年)の開創である。当寺は、古くは愛宕寺(おたぎでら)とも呼ばれた。しかし当寺の建立には、諸説があり空海説(「叡山記録」ほか)や小野篁説(伊呂波字類抄・今昔物語集)をはじめ、一説には宝皇寺(ほうこうじ)の後身説もある。宝皇寺とは、東山阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)(鳥辺山)山麓一帯に住んでいた鳥部氏が建立した寺で鳥部寺とも呼ばれていたが、今はその遺址(いし)も明らかでない。 またさらには、承和3年(836年)の平安前期に当地の豪族であった山代淡海(やましろのおおえ)等が国家鎮護の道場として建立した(「東寺百合文書」)など、当寺の起源には多くの説がある。この珍皇寺はもと真言宗で、平安・鎌倉期には東寺を本寺として多くの寺領と伽藍を有していたが、中世の兵乱にまきこまれ荒廃することとなり、南北朝期の貞治3年(1364年)建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)により再興・改宗され、現在に至っている。本堂には薬師三尊像(京仏師中西祥雲作)が安置されているほか、境内には閻魔堂(篁堂)(えんまどう:たかむらどう)、地蔵堂、鐘楼等がある。また重要文化財の永久保存のために収蔵庫(薬師堂)には重文の本尊薬師如来坐像(平安時代)が安置されている。 ■冥界への入口 「六道」とは、仏教の教義でいう地獄道(じごく)・餓鬼道(がき)・畜生道(ちくしょう)・修羅(阿修羅)道(しゅら)・人道(人間)・天道の六種の冥界をいい、人は因果応報(いんがおうほう)により、死後はこの六道を輪廻転生(りんねてんせい)する(生死を繰返しながら流転する)という。 この六道の分岐点で、いわゆるこの世とあの世の境(さかい)(接点)の辻が、古来より当寺の境内あたりであるといわれ、冥界への入口とも信じられてきた。このような伝説が生じたのは、当寺が平安京の東の墓所であった鳥辺野に至る道筋にあたり、この地で「野辺の送り(のべのおくり)」をされたことより、ここがいわば「人の世の無常とはかなさを感じる場所」であったことと、小野篁が夜毎(よごと)冥府通いのため、当寺の本堂裏庭にある井戸をその入口に使っていたことによるものであろう。この「六道の辻」の名称は、古くは「古事談」にもみえることよりこの地が中世以来より「冥土への通路」として世に知られていたことがうかがえる。 ■小野篁とは 小野篁(802年〜852年)は参議小野岑守の子。嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、不羈な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともある。 ■閻魔王宮の役人 また、なぜか閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。かかる伝説は、大江匡房の口述を筆録した「江談抄」や「今昔物語」「元亨釈書」等にもみえることより平安末期頃には篁が、閻魔庁における第二の冥官であったとする伝説がすでに語りつたえられていたことがうかがえる。こうした篁の冥官説は、室町時代にはほぼ定着した。今なお、本堂背後の庭内には、篁が冥土へ通うのに使ったという井戸があり、近年旧境内地より冥土から帰るのに使った「黄泉がえりの井戸」が発見された。そばには篁の念持仏を祀った竹林大明神の小祠がある。 |
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■地獄往来、小野篁 閻魔様は、ヤマ(Yama)、イマ(Iama)のはずなんですが、 中国「聊斎志異」中の「閻羅(えんら)」というお話の中では、 莱蕪(らいぶ)の李中之(りちゅうし)というこの世の人となっています。李中之は秀才で性格は剛直な男でした。 なぜか何日かに一回死に、三、四日すると生き返り、普通の人と同じく暮らすという 変わった男でした。同じ県にやはり何日かに一回死に、また生き返る男がいました。 その男が言うには、「李中之は閻羅で、冥府では私もその部下なんだ。」と話しました。 昨日、李中之は冥府で何をしていた?と尋ねると、 「曹操を取り調べて、二十回鞭打った。」と答えたという事です。 「閻羅」 聊斎志異より 日本にも似たようなお話がにあります。 小野篁(おののたかむら)は一日に二刻ずつ冥府に行き、閻魔庁第二の冥官になったと、 今昔物語、江談抄、宇治拾遺物語等に伝えられています。 小野篁(おののたかむら 802〜852 延暦二年〜仁寿二年)は、 野相公(やそうしょう)、野宰相(やさいしょう)とも称され、 六歌仙前に位置する平安時代の重要な漢詩人・歌人で、 「文徳実録」篁卒伝には「当時文章天下無双」と、 また「三代実録」には「詩家ノ宗匠」とたたえられています。 篁には「野相公集」五巻が存在したと言われていますが現存していません。 その作は「経国集」に二首、「扶桑集」に四首、「本朝文粋」に四首、 「和漢朗詠集」に十一首、「今鏡」に一首、「河海抄(かかいしょう)」に一首が 残されています。 (「新古今集」以下のものは後人の作とされる「篁日記」からのもので、 本人の作とは考えられてないようです。 また、異母妹との恋愛談・大臣の娘への求婚談からなる「篁物語」は虚構と されています。) 篁は多情多感な博識の英才でそれを自認し、 直情径行、世俗に妥協せぬ反骨の士であり、"野狂" の異名を持っていました。藤原常嗣の専横に抗議し、嵯峨上皇の怒りに触れ、隠岐の国に流された事でも有名です。 その才能・反骨ゆえ、世間では恐れるものも多かったのか、 閻魔庁第二の冥官、という伝説が生まれたようです。 ■「小野篁、情に依りて西三条の大臣を助くる語」 昔、小野篁と言う人がありました。篁は学生の頃、罪を犯してしまい罰せられる事になりましたが、 その時、藤原良相(よしみ)という方が、 宰相として、篁をかばい、難を逃れる事が出来ました。篁はその事を知り、良相に大変感謝しました。何年か後、篁は宰相に、良相も大臣になりました。 しかし良相は重病となり、しばらくたって亡くなってしまいました。 良相は閻魔王の使につかまり、閻魔王宮に連れていかれました。 そして、罪を定められる時、冥官の中に小野篁を見つけました。良相はこれはいったいどうしたことだろうか?と思っていると、 篁は閻魔王に「この方は、心の正直な人で、人の為になる方です。 今度の罪は私に免じて許してもらえないでしょうか」と言いました。閻魔王は 「それは難しい事だが、篁がそう言うなら許してやろう。」と答えました。篁が良相を捕らえた者に「すぐに現世に連れ帰りなさい。」と言うと、 良相は、目覚め、元のように自分の部屋にいたのでした。その後、良相は病も癒え内裏に上がりました。 そして篁に会うと、閻魔庁での出来事を尋ねました。篁は、 「以前私の弁護をしていただいたお礼をしただけですよ。 ただしこの事は誰にも言わないでくださいね。」と答えました。良相はこれを聞いて 「篁は只の人ではない、閻魔王宮の臣だ。」と知り、いよいよ恐れ、 「人のために正しくあらねばならん。」と、いろんな人に説いてまわりました。 しばらくするとこの事は自然に世間の知る所となり、 「篁は閻魔王宮の臣として冥府に通っている人だ。」と、 皆、恐ろしがったという事です。 今昔物語 「小野篁、情に依りて西三条の大臣を助くる語」 このお話はかなり有名なもので、小野篁といえば地獄の冥官という事になっています。 篁は六道珍皇寺の境内にある井戸から地獄に入り、冥府の仕事を終えると、 嵯峨の清涼寺横、薬師寺境内の井戸(生の六道)からこの世に戻ったと伝えられています。 あまり知られていない話に矢田寺の沙門満慶の物語があります。 大和国金剛山寺に沙門満慶というものがありました。 小野篁は満慶が戒行ある事を敬っていました。 篁は常人には計り知れない不思議な人で、 その身は朝廷にありながら冥府に神遊するとされていました。 冥府の閻魔王は菩薩戒を受けたいと願いましたが冥府には戒師がありませんでした。 篁は「自分の師であり友であるものに戒律精純な者がおります。」と閻魔王に話すと、 「すぐここに連れてきて欲しい。」と篁に頼みました。 篁はすぐ寺に詣でると満慶に事情を話しました。 満慶は篁と冥府に入ると、閻魔王に菩薩戒を授けました。 閻魔王は満慶に漆の篋(はこ)を送りました。 満慶は帰ってこれを開くと米がいっぱいに入っており、 使っても使ってもお米が減る事はありませんでした。 そのため満慶は満米と呼ばれるようになったと伝えられています。 金剛山寺は地蔵菩薩発祥の地ともされています。 もともとは十一面観音を本尊としていましたが、満米上人の時より、 地蔵菩薩をまつったとされています。 地蔵信仰の中心ともいわれ、境内には閻魔様もまつられてあるそうです。 地獄を行き来するものは、生きながら地獄の冥官をする特殊な例を除けば、 死んだ者を連れに来る地獄からの使い、という事になります。 中国ではこの使いを「鬼卒」と呼んでいるようです。 ■「布客」 長清で反物を売る商売をしている男がいました。泰安で商いをしている時、良く当たる星占いの易者がいるというので 占ってもらう事にしました。 しかしその易者は男の顔を見るなり、 「なぜ南に旅をしてきたのか? すぐに家に帰りなさい!」と怒鳴りました。 慌てた呉服商は易者の言う通り北の方の我が家に向かいました。その途中呉服商は小使いのような短い着物を着た男に出会いました。呉服商はその短い着物の人と、あれこれ話ながら旅をしました。 そして道々食べ物を買い分けあいながら食べ、また食事を共にしました。その男は それをひどくありがたがったのです。 呉服商が 「あんたはいったい何をしているのかい?」と尋ねると、その男は 「捕まえる者がおるんで、長清に行く所でさぁ。」 と答えました。 呉服商は笑って聞き返しました。 「いったい誰を捕まえにいくんだい?」 男は何人かの名前が書いてある書きつけを呉服商に見せました。 その書きつけには何人かの名前が書いてあり、 一番最初に呉服商の名前が書いてありました。 「俺は生きている者じゃねぇ、高里山、山東四司の手先でさぁ。 あんたの寿命はもう尽きたってことですよ。」 呉服商は驚いて、地面に頭をこすりつけてその男に命乞いをしました。 「それは出来ない事でさぁ。 ただ、書き付けにはたくさんの名前が書いてあるで、 みんなひっつかまえるには、まだ何日もかかりますぜ。 あんたは早く自分の家に帰って、後の始末をつけなせぇ。 それが今までのつき合いに報いられる事だと思ってくだせぇ。」 男はそう言って呉服商を起こし、また歩きはじめました。二人が黄河のはたまで来ると橋が流され、行き来が出来ず多くの人が困っていました。 すると男は呉服商に、 「あんたはもうすぐ死んで、その時にはお金は一文も持っていけねぇ。 すぐに橋を建てて、旅の人の役に立ってやりなせぇ。 お金はずいぶんかかるだろうが、あんたのためになるかもしれねぇ。」 と、言いました。呉服商はその通りだと思い、家に帰ると妻子に話して、死に仕度をすると、 日を限って大勢の人夫を雇い、橋をつくらせました。 橋はしばらく後に完成し、呉服商は覚悟を決めて死ぬのを待ちました。 しかしあの男は現れませんでした。呉服商はおかしな事があるものだと思っていた所、 あの男がひょっこり現れました。「俺はあんたが架けた橋の事をうぶすな様にお知らせした。 たぶん、うぶすな様から冥司に連絡が行ってあんたの寿命が延びたんだろう。 あの書き付けからあんたの名前が消えちまった。」呉服商はその男といつものように食事を共にし、酒を飲みました。 翌朝男は消え、以来二度と出会う事はありませんでした。 聊斎志異より 「布客」 鬼卒は人の中を動き回るためか、一般的な鬼のイメージ、角や牙は無いようです。 地獄で亡者を罰している鬼を "獄卒(八万獄卒)" "羅刹(阿蒡羅刹)" と呼ぶのですが、 鬼卒と同じものかどうかもわかりません。ただこの鬼卒、人手が足りないのか、人間が代役を勤める事もあったようです。 生きながら冥府の手先を勤める者を、走無常(そうむじょう)、活無常(かつむじょう)、 勾司(こうし)、勾死人(こうしにん)とさまざまな呼んでいます。 李中之のように突然死んだかと思うと冥府の仕事をした後、また生き返るそうです。何回も死んだり生き返ったりされたら、まわりのものが困ると思うんですが、 みなさんはどう思われますか? ■補記 ○ 篁は先祖に小野妹子、孫に小野小町・小野道風を持ちます。滋賀県滋賀市志賀町には小野一族を祭る小野神社があり、 境内には小野篁神社、小野道風神社と小野一族ゆかりの人物が祭られています。 ちなみに小野神社の祭神、米餅搗大使主命(たかねつきおおおみのみこと)は、 応神天皇の頃、日本で始めて餅つきをしたとされ、菓子作りの神様とされています。 ○ 「布客」"客"は旅をする、という意味。布を扱い旅をしている者、という意と思われます。 |
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■ 5
小野小町の祖父・小野篁 平安時代の初期、嵯峨天皇の頃の有名人で、人で小野篁(おののたかむら:802〜852)が居ます。遣隋使を務めた小野妹子の子孫です。 この人は三筆の一人小野道風、そして美人の代名詞、小野の小町の祖父に当たる人で、学者として高名だった参議岑守(みねもり)の息子の文人貴族です。21歳の時に文章生の試験に及第し、東宮学士(皇太子の先生)、巡察弾正、弾正少忠、大内記、蔵人、式部少丞、大宰少弐などを経て、837年に遣唐副使に任命されるが839年隠岐に配流。ただし、僅か1年半で許され召し返される。官暦は陸奥守、信濃守、近江守、巡察弾正、弾正少忠、刑部大輔、蔵人頭、左中弁などを歴任し、847年参議に昇進、弾正大弼を兼ね、852年に左大弁、同年病没。 古今和歌集の6首を始め、勅撰入集は計12首。 『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』などに作を残し、漢詩の分野では「日本の白楽天」と呼ばれたほどの逸材だったとか。 裁判官だったことはありますが、武官だったことはありません。ところがこの小野篁は815年、13歳の頃に父岑守が陸奥の守として奥州に赴任するのに同行し、そのときおぼえた狩や弓馬に熱中して学問にあまり関心を示さず、嵯峨天皇に「学者として高名だった岑守の息子なのに」と嘆かせたとか。 その後はちゃんと学者、文人として有名になりましたが。これも貴族は「武」も備えていたひとつの例ですね。武蔵七党の猪俣党などの武士は小野篁の子孫を称しているそうです。信じはしませんが。 「今昔物語」には人でありながら冥府(死後の世界)に自由に行き来出来るばかりか、閻魔大王の次官として裁判を手伝っていた。藤原良相(よしみ:右大臣)が死にかけたとき、小野篁のとりなしで閻魔大王に許されて生き返ったと言う話が載っています。(小野篁、情によりて西三條の大臣を助けたる語) 「群書類従」の「小野系図」にも、篁の事を「閻魔第三の冥官」と記されているとか。 |
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小野篁と紫式部 小野篁(おののたかむら)は平安時代初期の歌人であり、また役人、学者とも云える人物。書家の小野道風の祖父に当たり、また小野小町との関係でも祖父になるとも云われます。 篁の話は”六道珍皇寺界隈”でも少し触れていますが、俗称を野相公、野宰相、野狂と呼ばれ、数奇な伝説が幾つも残ります。日中は内裏に務めるいわば公務員、夜になると冥界に行って閻魔大王に仕えたと云います。篁は亡者が閻魔大王の前に引き出され罪科を言い渡される折に、その亡者の生前の行いから閻魔大王に助言をしたと伝わり、中には娑婆(しゃば)に戻され生き返ったと云う話が今昔物語には伝わります。 一方の紫式部は云わずとも知れた”源氏物語”の作者。紫式部とは云うものの、この名は正しいものではなく、いわば呼び名。実名は藤原香子だと云う説があったりしますが、よく判らないのが正しい表現でしょうか。この頃の女性は誰々の娘とかの記述しか残っていなかったりします。藤原為時の娘と云うことは確からしく、当時、宮廷の後宮に仕えた女官は、その血筋の役目から女房名が決まりました。為時は式部省の役人だったので、藤式部と呼ばれていたけれど、紫の上を主人公とする”源氏物語”の作者であったことから、いつしか紫式部と呼ばれるようになったと云います。 紫式部の父、為時は役人として名を馳せたと云うよりは文人、詩人としての名の方が通りが良かったようで、そんな環境の中で式部の文才も磨かれたようです。そんな式部の結婚は遅く三十近くになってからだと伝わります。今の時代では珍しくもない年齢かも知れませんが、当時は十五歳まで、早ければ十二、三歳で結婚をする時代、かなりの晩婚だったようです。それも父親と年齢が変わらずほどの藤原宣孝と云う人物と結婚しています。この当たりはかなり異例なこと。この辺の境遇と云うのか、生き方が源氏物語に反映しているのではないかと思ってしまいます。宣孝と過ごす期間は短く、三年ほどで宣孝は流行病で亡くなります。その後、身の上のはけ口を求めるかのように源氏物語は書かれることになります。 当時の結婚の形は”通い婚”と云うもの。世間に広まる何処そこの才女は美形、品が良いなどの噂や評判を信じ、詩歌を送り女性が返歌を送るところからお付き合いが始まります。そして段取りが進めば夜に男が女性の家へ通い、女性がそれを認めて三日三晩続くことで結婚が成立します。最終的な決定権は女性側にあるけれど、男性の結婚の相手は一人とは定まっていなかった、いわば一夫多妻だったと云うし、生まれた子供は女性側、母方で育てられます。現代の感覚からすれば、おかしな社会ですが、それが平安貴族の普通の形態。この当たりを理解して源氏物語を読まないと情景が判らなくなります。源氏物語はフィクションだと云われますが、登場人物は架空であっても、その文面には当時の男女間の恋愛のありかた、宮廷、貴族社会の内面が色濃く表現されています。 さて、小野篁と紫式部の関係ですが、意味合い的な関わりと云うよりは物理的な関わりとでも云うのでしょうか、何故か小野篁の墓の隣に紫式部の墓があるのです。仲良く並んで建っています。冥界の番人である小野篁、方や平安王朝文学、物語文学の傑作と云われる源氏物語の作者。摩訶不思議な光景です。そのよりどころは室町時代に四辻善成が顕したと云われる「河海抄」(かかいしょう)と云う文献によります。それには”式部の墓は雲林院白毫院の南、小野篁墓の西にあり”との記述があり、これが根拠になっています。確かに式部は源氏物語で雲林院は主人公の光源氏が参籠した所として登場させてはいるけれど、墓の真偽には疑問もあるようです。 源氏物語には光源氏の寵愛を受ける夕顔が物の怪に取り殺されたり、光源氏の愛人である六条御息所が正妻の葵上を取り殺すなど小野篁の領域である怨霊にまつわるであろう話もあるにはあり、関わりらしきものも見え隠れしますが、一説に、小野篁と紫式部の墓が建ち並ぶのは紫式部が狂言綺語(きょうげんきご)、ふしだらな物語を描いた大罪人で、閻魔大王の前に引き出された紫式部を篁が取りなしたとの伝説によるものと云うのがあります。 多分、これは武士が台頭してくる平安末期から鎌倉時代にかけてのものでしょう。時代が変われば、価値観、規範意識も変わります。平安時代の普通も武士の時代ではそぐわなくなったのでしょう。余談ですが、雲林院は応仁の乱で荒廃し、天正年間に千本閻魔堂に移され、今の千本閻魔堂に残る十重石塔は紫式部の供養塔と伝わります。篁と式部、この二人の墓所は堀川北大路交差点から南へ少し下がって島津製作所の傍らにあります。 |
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「小野篁広才のこと」 宇治拾遺物語 今は昔、小野篁といふ人おはしけり。 嵯峨帝の御時に、内裏にふだをたてたりけるに、無悪善と書きたりけり。 帝、篁に、「よめ」と仰せられたりければ、「読みは読み候ひなん。されど恐れにて候へば、え申さぶらはじ」と奏しければ、「ただ申せ」と、たびたび仰られければ、「さがなくてよからんと申して候ふぞ。されば君を呪ひ參らせて候ふなり」と申しければ、「おのれ放ちては、誰か書かん」と仰られければ、「さればこそ、申し候はじとは申して候ひつれ」と申すに、帝、「さて、何も書きたらん物は、よみてんや」と、仰せられければ、「何にても、読み候ひなん」と申ければ、片仮名の子文字を十二書かせて、給ひて、「読め」と仰せられければ、「ねこの子のこねこ、ししの子のこじし」と読みたりければ、帝ほほゑませ給ひて、事なくてやみにけり。 |
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京都の都市民俗と伝承世界 ( 民俗行事における小野篁伝承の役割とその展開について ) ■研究目的 本研究は京都の境界地域に付された都市の精神性について、小野篁の冥界往来伝承を中心に考察を加えるものである。8世紀に成立した古代都市である京都は、その歴史的性格から人為的な都市構造の中に都市民の様々な精神的風土を見て取ることができる。洛中に墓を作らせず、死や穢れを京の「外」に追い出してきた京都の町は、その境目となる境界に両者の混沌とした世界を持っている。そこには死や境界と関わる様々な説話や伝承が伝えられ、その土地の持つ特殊な性格を体現しているのである。 小野篁の冥界往来伝承は中世期に成立し、京都を中心に時代に応じて様々に変化しながら現在まで伝えられている。この伝承は「この世」と「あの世」を往来するという話の展開から、京都の周縁地域において「境界」や、「死」と関わる民俗の中で語られており、このことから京都の複雑な境界構造やその都市性とも関わりを持つことが推察される。こうした京都における伝承と伝承地、都市民俗の関係について、通時的時間軸でその変遷を捉えることが本研究の最終目的であるが、今回の調査報告ではその中の現在の京都における小野篁の伝承の展開について報告する。 ■調査報告 この世とあの世の境を越える越境の異能者としての小野篁の伝承は例外なく都市の境界地に伝えられている。現在の京都における小野篁に関わる伝承は、大きく分けて 1 葬送地と関わる伝承 2 六地蔵めぐりに関わる伝承 の2つがあり、8月に行われる盂蘭盆会や地蔵盆などの行事と結びついている。これらの事例について以下に報告する。 |
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■1−1 六道珍皇寺と六道まいり
六道珍皇寺は鴨川の東岸、中世共同墓地として知られる鳥辺野葬送地の北端にあたる六波羅地域にある。珍皇寺は11世紀にはその存在が認められており、小野篁は12世紀に成立した『伊呂波字類抄』、『今昔物語集』において珍皇寺を開いたとされている開基伝承者の一人である1)。寺伝では小野篁は境内の井戸より地獄へ往還したとされており、これを由緒として、珍皇寺では毎年8月7日〜10日にかけて「六道まいり」と呼ばれる精霊迎えの行事が行われている。 精霊迎えは盂蘭盆会に際して先祖の霊をこの世に迎える行事であり、珍皇寺には早朝から夜中にかけて京中から毎年約10万人の人々が宗派を問わず訪れる。行事の内容は、まず門前で高野槙を買い求め、本堂で卒塔婆に先祖の名を記してもらい、向かえ鐘を撞く。そして境内の地蔵菩薩像の前で卒塔婆を水回向して先祖の霊を槙の葉に宿し、各家に持ち帰るというものである。境内の篁堂と呼ばれる堂宇には室町時代の作である閻魔大王像と江戸時代初期の作である小野篁像(約180cm)が安置されており、また境内ではかつて熊野比丘尼が絵解きに使用したとされる「熊野勧進十界図」という絵図も展示される。この六道まいりについては16世紀の地誌類にはすでに現在と同様に行われていたことが記されており、また桃山時代に製作された「珍皇寺参詣曼荼羅」にも地獄と関わる置物が境内に多数置かれる様子や迎え鐘を撞く人物、篁の井戸などが描かれていることから、現在の伝承や民俗がこれらの時代にまで遡るものであることが明らかとなっている。ただし珍皇寺では平安時代中期頃にはすでに施餓鬼供養が行われていたことが知られている2)。 六波羅の南に展開していたとされる鳥辺野葬送地は、9世紀には葬送の記録が見られる。その後中世共同墓地として展開し、近世も火屋(火葬場)が置かれるなど、京都の代表的な葬送地として知られる場所である。珍皇寺の門前、また珍皇寺から100m ほど西にある西福寺の門前は「六道の辻」と呼ばれている。六波羅は洛中よりの葬列が鳥辺野へ向かう入り口にあたる野辺送りの場であり、珍皇寺を“地獄の入り口” とする伝承は、この地の葬送地の入り口としての性格と関わるものであると考えられている。洛中から見て川を隔てた周縁地域であった六波羅は、現在に到るまで京都における「葬送」や「死」と関わる場所として都市の中に機能している。珍皇寺の小野篁の伝承はこうした六波羅の土地の性格を体現的に示すものであろう3)。 |
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■1−2 千本ゑんま堂とお精霊迎え
千本ゑんま堂(引接寺)は京都の北部、平安京の朱雀大路にあたる千本通りの北端である千本地域にある。14世紀頃に成立したとされる千本ゑんま堂は、現在の寺伝では小野篁を開基、定覚上人を中興の祖とし、本堂には本尊として鎌倉時代の作である丈六の閻魔王像を安置している4)。この寺でも六道まいりと同様に精霊迎えの行事である「お精霊迎え」が8月7日〜15日にかけて行われており、寺伝ではその作法は“小野篁によって伝えられた” ものとされている5)。また本堂脇の別の堂には地蔵菩薩像、定覚上人像と共に、約100cm の小野篁像が安置されている。 千本ゑんま堂の小野篁の伝承は、古くは17世紀に刊行された地誌類に寺の創建者や閻魔王像の建立者を篁とする記述が見られる。しかしこの伝承は18世紀の地誌には見られなくなり、閻魔王像を本尊とする性格に付された一時的なものと考えられる。現在の伝承は井阪康二氏の研究にもあるように近代以降に当寺が衰退し復興する過程で成立したものと考えられ6)、現在境内に安置されている篁像も管見の限りこの時代の作と思われる7)。 しかし、ゑんま堂の所在地は、12世紀の後期より共同墓地として成立した蓮台野の入り口に当たる。蓮台野は船岡山の西から紙屋川に至る一帯を言うが、この辺りは平安京の右京の衰退による都市機能の東遷によって、平安時代中期頃に都の周縁となった場所である。ゑんま堂は蓮台野の入り口で珍皇寺と同様に野辺送りの場であり、すぐ北の上品蓮台寺と共に京中の葬送に関わる場所であったと考えられている。 千本ゑんま堂の篁伝承は近世以降の新しいものでありながら、珍皇寺と同様にかつての葬送地の入り口において語られ、現在共に精霊迎えの場として京都の都市民俗に組み込まれている。またゑんま堂では3年前より12月23日に篁忌として餅つきを行っているが、その由来としては近江の小野地域にある小野篁神社の祭神が日本で最初に餅をついたとされる米餅搗大使主命(たかねつきおおおみのみこと)であることを取り上げている。これは篁伝承の新しい伝播であり、篁伝承の歴史的な展開やその伝播について考える上でも注目すべき事例であろう。 |
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■1−3 福生寺と生の六道
また小野篁の伝承は京都の西にある嵯峨の地にも伝えられている。嵯峨の清涼寺境内にある薬師寺は、江戸時代に篁が地獄より帰る出口とされた福生寺が明治に廃寺となって後に統合された寺院である。福生寺は珍皇寺が地獄への入り口として「死の六道」と称されたことに対して、「生の六道」と呼ばれたことが18世紀末の『拾遺都名所図絵』等に見られるが、薬師寺には福生寺旧蔵で伝篁作の生六道地蔵菩薩像やこの地蔵の来歴を記した『生六道地蔵菩薩縁起』、約50pの小野篁像を安置している。戦後福生寺のものと思われる七つの井戸が清涼寺の東、化野に至る旧街道に沿って発見されている8)。 珍皇寺に対応したこの福生寺の伝承は近世以降に珍皇寺の伝承を元に作られたものと考えられているが9)、福生寺一帯は、14世紀成立の『徒然草』にも鳥辺野と並んで記されている中世共同墓地である化野の東端にあたり、先の珍皇寺やゑんま堂と同様にかつての葬送地の入り口にあたる。現在薬師寺では8月24日の地蔵盆に檀家による精霊送りの行事が行われるが、これは薬師寺住職の安藤靖高氏によれば檀家と共に福生寺より引き継がれた行事とされており、先の両地と共に地域の葬送や先祖供養の行事に関わるものとして考察する必要がある。また、『生六道地蔵菩薩縁起』はその話が後述する六地蔵めぐりと同様に、篁が地獄で生身の地蔵に出会うという共通のモチーフを持つことや、本調査において先の井戸が発見された場所の前を通る旧街道から化野に至る辻の一角で珍皇寺門前付近と同様に「六道の辻」と呼ばれていたという聞き取りがあったことも10)、この地の篁伝承の成立や伝播を考える上で注目すべき点であると思われる。 |
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■2 六地蔵めぐりの小野篁伝承
六地蔵めぐりは8月22日、23日に行われ、伏見(大善寺)・山科(徳林庵)・鞍馬口(上善寺)・常盤(源光寺)・桂(地蔵寺)・鳥羽(浄善寺)の六ヶ所に祀られている地蔵を巡って紙幡(五色の紙の札)を集め、「厄病退散」「福徳招来」を願う行事である。参加者は現在は中高年層が多く見られ、個人の車の他、新聞社や旅行会社によるツアー11)や、市バス、観光タクシーなどによって巡られている。 六ヶ所の地蔵堂の中で中心的役割を担い、行事の創始とも深い関わりを持つのが「伏見六地蔵」の大善寺である。この寺院には文末に寛文五年(1665)の成立と記される『山城州六地蔵菩薩縁起』が伝わっている。その内容を要約すると、“六地蔵めぐりの地蔵菩薩像は、篁が満慶上人と共に地獄に赴き、そこで出会った生身の地蔵の姿をこの世に帰って後に六体の像に写したものである。元は大善寺に六体ともあったが後白河院の御世に京中六ヶ所の街道の入り口に移された。” というものである。また近世の多くの地誌類では、“篁の作った六体の地蔵は平清盛の命で西光法師によって各地に六角堂を作って配置された。” とされており、現在の行事の由来の中でもそのように伝えられている。また大善寺の地蔵菩薩像の脇には約100cmの小野篁像が安置されている。 『山城州六地蔵菩薩縁起』は中世に最も流布した地蔵説話の一つである『矢田地蔵縁起』と内容的に重なる部分が多い。『矢田地蔵縁起』は鎌倉時代にはその成立が確認されているもので、『六地蔵菩薩縁起』は近世に『矢田地蔵縁起』を元に製作されたと考えられる。しかしここで像を作ったのが『矢田地蔵縁起』における“満慶上人” ではなく“小野篁” とされていることには、有名な地蔵菩薩縁起の引用という以外にも何らかの要因があるように思われる。またこの六地蔵めぐりについては、中世後期成立の『源平盛衰記』には六地蔵めぐりと同様の行事を指すと思われる「廻り地蔵」を“西光法師” が作ったという記述があり、また黒川道祐が17世紀に記した地誌である『雍州府志』、『石山行程』には西光の主人である“信西入道” が六地蔵を作ったとする説が載る。この西光法師は現在の六地蔵の伝承では地蔵を京内各地に配した人物とされており、またその名の載らない『六地蔵菩薩縁起』でも地蔵の移転は後白河院世紀とされている。このことから後白河院世紀にこの行事に関わる何らかの動向があったか、また伝承として時代を設定される何らかの理由があることが推察される。西光法師は承安三年(1173)三月十日に浄妙寺領内(大善寺も含む)で堂供養を行った記録12)があり、信西も『平治物語』では小野篁と同じ冥官であるとされていることから、現在の小野篁伝承に到る伝承の推移という点において今後考察が必要である。 |
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■今後の研究の展開と課題
先の1に挙げた小野篁伝承の伝承地は、どれも葬送地の入り口という特徴を持っている。その中でその成立や歴史において最も古いものが六道珍皇寺であり、千本ゑんま堂や福生寺の篁伝承は近世や近代に珍皇寺の伝承を受けて作り出された伝承であると考えられる。しかし個々の伝承はただ珍皇寺の伝承の伝播というだけでは済まない独自性も持っている。林屋辰三郎氏は京都では東と北の文化圏が相互に対応関係を持つものであり、両所に農耕神である八坂神社と北野天満宮があるように、死を司る六道珍皇寺と千本ゑんま堂があり、人々の生活と関わっているとしている13)。福生寺があった嵯峨も都から離れた場所で独自の文化圏を持っており、そうした地域ごとの生と死のシステムがそれぞれの生活圏の中の境界地に意識されたということもこうした伝承が各所に見られる理由として考えられる。 また上記のような小単位の生活圏を持ちつつも、京都は都市としての千年以上の歴史を持つ。京中の六ヶ所の境界地をめぐる2の六地蔵めぐりはそうした京都という一つの都市空間においての境界伝承と考えられることができるだろう。また小野篁の属する小野氏の根拠地が近江の小野の地にあり、そこには先に挙げた小野篁神社や小野道風神社等、小野氏と関わる旧跡が数多く存在する。柳田国男氏はこの地の小野氏が、宮廷祭祀を司る猿女氏との関わりから祭祀や芸能と関係の深い氏族的性格を持っていたことを指摘しており14)、このことは篁伝承の起源とも関わるものとして考慮する必要があるだろう。こうした時代を通して様々に展開する京都の小野篁の伝承の変遷や都市民俗における伝承の役割などについて今後考察していきたいと思う。 |
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■注
1)珍皇寺の開基伝承者にはその他に山代淡海、慶俊僧都、弘法大師等が挙げられている。 2) 1022年〜1108年に成立の『東山往来』(『続群書類従』巻三五九〕に施餓鬼供養についての問答が見られる。 3)西福寺では六道まいりの期間中当寺に所蔵されている「熊野勧進十界図」や「壇林皇后九相図」、「那智参詣曼荼羅」といった地獄や死、社寺巡礼などと関わる絵図が多数展示される。またその南にあり、空也上人に由来する六波羅蜜寺でも精霊迎えの万灯会が行われる。西福寺の門前には、昔話の「子育て幽霊」の話型のいわれを持つ「幽霊子育飴」も売られる。また子育て幽霊譚については近世の仮名草紙である『奇異雑談集』に蓮台野を舞台とした話が載る。 4)定覚上人は当寺の銅鐘銘文ではゑんま堂の開基とされている。現在の伝承では篁が最初に作った堂と閻魔王像が応仁の乱で消滅し、後に定覚が再興したとしている。(ただし応仁の乱は定覚の時代よりも後の出来事。) 5)また16日には大文字の送り火前に精霊送りとして各家の盂蘭盆の供物が収められる。 6)井阪康二「嵯峨野の生の六道と千本閻魔堂のショウライ迎え」『民俗の歴史的世界』17号(1994年) 7) 1895刊の『京華要誌』(京都市編)に小野篁像の記録が見られる。 8)発見された井戸は現在消滅している。福生寺の小野篁伝承や井戸については、前薬師寺住職安藤藤良全氏の「生の六道と小野篁公」(雑誌『知恩』1978年8月号 所収)に詳しい。また『拾遺都名所図絵』には福生寺は「清涼寺の戌亥」にあるとされ、所在地については考察が必要であると思われる。 9)井坂氏前掲論文による。 10)薬師寺住職、安藤靖高氏の談。 11)本調査では主に地元の高齢者が多く参加する京都新聞主催のバスツアーへ参加し調査を行った。このツアーへの参加者は両日で540人以上(一日あたりマイクロバス6台)であった。 12)平安末期の九条兼実の日記である『玉葉』と、13世紀成立の歴史書である『百錬抄』の承安三年(1173)三月十日条に見える。 13)『町衆──京都における「市民」形成史』林屋辰三郎著 中央公論社(1964年) 14)柳田国男「妹の力」『定本柳田国男集』巻11 柳田国男著 筑摩書房(1982年) |
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■12.僧正遍昭 (そうじょうへんじょう) | |
天(あま)つ風(かぜ) 雲(くも)の通(かよ)ひ路(じ) 吹(ふ)き閉(と)ぢよ
乙女(をとめ)の姿(すがた) しばしとどめむ |
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● 天の風よ。雲間の通り道を閉ざしてくれ。天女の舞い姿をしばらくとどめておきたいのだ。 / 大空を吹く風よ、雲の中の通路を閉じておくれ。天に戻っていきそうな、この美しい天女たちをとどめて、今しばらくその舞を見ていたいと思うから。 / 空を吹く風よ。天女が還るという雲の道を吹き閉ざしておくれ。天女のように美しい舞姫の姿をもう少しこの地上に留めておきたいのだよ。 / 空吹く風よ、雲の中にあるという(天に通じる)道を吹いて閉じてくれないか。(天に帰っていく)乙女たちの姿を、しばらくここに引き留めておきたいから。
○ 天つ風 / 「つ」は、「の」と同じ働きをする連体修飾格の古い格助詞。現在は、「まつげ・おとつい」などに痕跡を残す。「天つ風」で、「天の風よ」という呼びかけを表す。擬人法。 ○ 雲の通ひ路 / 雲の切れ目。天上と地上を結ぶ雲間の通路。天女が往来する際に用いると考えられていた。 ○ 吹き閉ぢよ / 「閉ぢよ」は、動詞の命令形。天女が天上に帰ることを妨げるために、天の風に依頼している。 ○ をとめの姿 / 「をとめ」は、「天女」の意。この歌は、遍照が在俗の時、五節の舞姫を見て詠んだものであり、舞姫を天女に見立てている。五節の舞は、大嘗祭や新嘗祭などの際に宮中で行われた舞。 ○ しばしとどめむ / 「む」は、意志の助動詞で、希望を表す「〜たい」の意。「しばしとどめむ」で、「しばらくの間、天女を地上にとどめたい」の意を表す。実際には、五節の舞姫が舞う姿を見続けていたという気持ちを表している。 |
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■ 1
遍昭(へんじょう、弘仁7年(816年) - 寛平2年1月19日(890年2月12日))は、平安時代前期の僧・歌人。俗名は良岑 宗貞(よしみね の むねさだ)。大納言・良岑安世の八男。官位は従五位上・左近衛少将。花山僧正とも号す。六歌仙および三十六歌仙の一人。 仁明天皇の蔵人から、承和12年(845年)従五位下・左兵衛佐、承和13年(846年)左近衛少将兼備前介を経て、嘉祥2年(849年)蔵人頭に任ぜられる。嘉祥3年(850年)正月に従五位上に昇叙されるが、同年3月に寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家する。最終官位は左近衛少将従五位上。 円仁・円珍に師事。花山の元慶寺を建立し、貞観11年(869年)紫野の雲林院の別当を兼ねた。仁和元年(885年)に僧正となり、花山僧正と呼ばれるようになる。『日本三代実録』によれば、この年の12月18日に宮中仁寿殿において、光孝天皇主催による遍昭の70歳の賀が行われていることから、光孝天皇との和歌における師弟関係が推定されている。 京都市山科区北花山中道町に墓がある。 ■歌風 遍昭は『古今和歌集』仮名序において、紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として名を挙げた六歌仙の一人である。貫之による遍昭の評は以下の通りである。 僧正遍昭は、歌のさまは得たれどもまことすくなし。 (現代語訳:僧正遍昭は、歌の風体や趣向はよろしいが、真情にとぼしい。) 遍昭の歌風は出家前と出家後で変化しており、出家後は紀貫之が評したように物事を知的にとらえ客観的に描き出す歌を多く作ったが、出家前には情感あふれる歌も詠んでいる。特に『百人一首』にもとられている「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ」には遍昭の真情が現れているといえよう。 『古今和歌集』(16首)以下の勅撰和歌集に35首入集。家集に『遍照集』があるが、三代集から遍昭作の歌をひいて編集したもので、遍昭の独自性はない。 ○ すゑの露 もとのしづくや 世の中の おくれ先だつ ためしなるらん ○ 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ ■説話 桓武天皇の孫という高貴な生まれであるにもかかわらず、出家して天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇ったこと、また、歌僧の先駆の一人であることなど、遍昭は説話の主人公として恰好の性格を備えた人物であった。在俗時代の色好みの逸話や、出家に際しその意志を妻にも告げなかった話は『大和物語』をはじめ、『今昔物語集』『宝物集』『十訓抄』などに見え、霊験あらたかな僧であった話も『今昔物語集』『続本朝往生伝』に記されている。江戸時代に製作された歌舞伎舞踊『積恋雪関扉』では良岑宗貞の名で登場。 |
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■ 2
元慶寺 元慶寺(がんぎょうじ。現在は「がんけいじ」)は京都市山科区北花山河原町13に位置(外部リンク)する天台宗寺院です。山号は華頂山。遍照(816〜90)が陽成天皇降誕に際して貞観10年(868)に建立し、元慶元年(877)に定額寺となりました。かつては街道の北の山に位置していました。応仁の乱で衰退しましたが、天明3年(1783)に再興。現在の建物の多くは寛政元年(1789)の再建になります。西国三十三箇所番外札所としても知られています。 |
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■僧正遍照
元慶寺は遍照(816〜90)によって創建された。遍照は歌僧として知られており、とくに六歌仙、ないしは三十六歌仙に数えられる大歌人である。その一方で僧侶としての活動はほとんど知られておらず、遍照のイメージは歌僧としてのみ定着している。そこで元慶寺について述べる前に、ここでは遍照の僧侶としての活動をみてみよう。 遍照は良峰安世の8男であり(通行本『慈覚大師伝』)、すなわち桓武天皇の孫にあたる。官吏として朝廷に出仕し、承和12年(845)正月7日に従五位下(『続日本後紀』巻15、承和12年正月甲寅条)、同年正月11日に左兵衛佐となり(『続日本後紀』巻15、承和12年正月戊午条)、承和13年(846)正月13日には備前介・左近衛少将を兼任した(『続日本後紀』巻16、承和13年正月乙卯条)。嘉祥2年(849)4月28日には渤海使に対する慰労の勅使となって鴻臚館に赴き(『続日本後紀』巻19、嘉祥2年4月辛亥条)。嘉祥3年(850)正月7日には従五位上に叙された(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年正月丙戌条)。 順調に官歴を重ねていったかのようにみえるが、宗貞は仁明天皇の寵臣であったため、仁明天皇の崩御とともに官途は終わる。嘉祥3年(850)3月22日に仁明天皇葬送のための諸司の一人に任じられたが(『日本文徳天皇実録』巻1、嘉祥3年3月庚子条)、わずか6日後の28日、突如として出家して僧となった。仁明天皇が崩御したため悲しみ慕うあまり僧になってしまったのである。時の人々はこれを憐れんだという(『日本文徳天皇実録』巻1、嘉祥3年3月丙午条)。このように一旦良峰宗貞は記録から消えるが、僧遍照として歴史舞台を歩み続ける。 遍照が出家した地は比叡山であったらしい(『古今和歌集』巻第16、哀傷哥、第847番歌、詞書)。藤原良房(804〜72)は彼を天台座主円仁(794〜864)に託した。貞観5年(863)円仁は遍照に始めて真言大法を教え、金剛界壇を授けた。円仁は両部大法をすべて授けるつもりであったが、円仁の病は進行してしまい、貞観6年(864)正月13日に弟子たちを招集し、弟子の安慧(794〜68)より授けるように遺言した(通行本『慈覚大師伝』)。安慧は貞観7年(865)夏、遍照に三部大法を授けた(通行本『慈覚大師伝』)。 貞観11年(869)2月26日に遍照は勅によって法眼和尚位を授けられているが(『日本三代実録』巻16、貞観11年2月26日甲寅条)、これは前年末に貞明親王(陽成天皇)の降誕に際して寺院(後の元慶寺)を建立したこと(『類聚三代格』巻第2、元慶元年12月9日官符)の賞であったようである。また後に元慶寺の別院となる雲林院を貞観11年(869)2月16日に常康親王(?〜869)より委嘱されている(『日本三代実録』巻46、元慶8年9月10日丁卯条)。貞観15年(873)には延暦寺惣持院潅頂堂において三部大潅頂を円珍(814〜91)より授けられており(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)、同年4月23日に阿闍梨位を授けられている(「太政官牒」園城寺文書47-3)。遍照に円珍を紹介したのも藤原良房であった(「授遍照阿闍梨位奏状」園城寺文書47-2)。 遍照は陽成天皇を即位以前より護持していたため、陽成天皇即位後は一躍重用されることになる。元慶3年(879)10月23日に突如として権僧正に任じられた(『日本三代実録』巻36、元慶3年10月23日己卯条)。遍照も閏10月15日に辞表を奏上するものの、慰撫された(『日本三代実録』巻36、元慶3年閏10月15日辛丑条)。こうして突如僧綱の次席(首席の僧正は宗叡)となった遍照であったが、もと官人であった経歴を生かして、僧侶の綱紀粛正に尽力することになる。とくに元慶6年(882)の「遍照起請七条」は国家仏教における問題点と解決点を指摘した点で大いに注目すべきである。 第一条は僧綱に任用される者が諸寺の別当を兼任する場合、4年を期限とすることであり、式の条文では四年の期限を設けながら、例外規定があったため、僧綱の者はあくまで期限を守るべきこととした(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。 第二・三条は逸しており不明である。 第四条は授戒したと詐称して偽造した戒牒を持つ者がいるため、式部省・玄蕃寮が現場にて本籍・姓名を記し、捺印した戒牒を作成し、偽造した戒牒を持つ者は違勅の罪に問うとしたものである(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。 第五条は諸寺の別当が任期後に交替する際、解由(任交替の事務引継・監査)は僧綱に提出されるが、別当の任命は実際には僧綱が関知することが少ないため、任期がいつ終わったのか僧綱では把握できず、そのため解由の詳細を知ることすらできなくなっていた。そこで別当の任符(任命状)が官から発給される前に、式部省・玄蕃寮・僧綱に提出し、任命日から逆算して任期終了を把握して解由を処理することとした(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。 第六条は放生会について、現行の放生会の前に、放生すべき生き物を国司が検断するために集めており、検断までの数日間に生き物の大半が死ぬことから、無意味な放生会はかえって殺生をしているのと変わらないとし、実効性のある方法をとり、それを年末に記録して言上すべきとした(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。 第七条は川に毒木の毒を流して魚を捕ることを禁止したものである(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。ただしこの魚毒漁は近代まで実施されていた。 元慶8年(884)にこれまで護持してきた陽成天皇が事実上の廃位となったが、かわって即位した光孝天皇は遍照とは出家以前より深い親交があったため(『日本三代実録』巻49、仁和2年3月14日癸巳条)、前代にも増して重用されるようになる。光孝天皇が親王であった時、遍照の母の家に宿泊した際に遍照が歌を詠んでいる(『古今和歌集』巻第4、秋哥上、第248番歌)。 さとはあれて人はふりにしやどなれや 庭もまがきも秋ののらなる 仁和元年(885)2月13日、遍照は権僧正職の辞表を提出したが(『日本三代実録』巻47、仁和元年2月13日己亥条)、3月4日に光孝天皇より「朕の懐(おもい)を傷つくことなかれ」と慰撫された(『日本三代実録』巻47、仁和元年3月4日己未条)。同年10月22日には僧正に任じられた(『日本三代実録』巻48、仁和元年10月22日癸酉条)。 仁和元年(885)12月18日に遍照の70歳を賀して光孝天皇より仁寿殿にて宴を賜っており、太政大臣藤原基経(836〜91)、左大臣源融(822〜95)、右大臣源多(831〜88)も同席して徹夜で語り合ったという(『日本三代実録』巻47、仁和元年12月18日戊辰条)。この時光孝天皇は以下の歌を詠んでいる(『古今和歌集』巻第7、賀歌、第347番歌)。 かくしつつとにもかくにもながらへて 君がやちよにあふよしも哉 なお仁和元年(885)に増命(843〜927)が光孝天皇によって内供奉十禅師に補任されたが、太政大臣藤原基経と遍照が共に「天下の僧や耆宿は林のようにいるのに、どうして下臈の僧をみだりに抜擢なさるのですか」と奏上すると、光孝天皇は「これは凡流ではない。朕はその徳行を熟知しているだけだ」と答えている(『日本高僧伝要文抄』第1、静観僧正伝)。仁和2年(886)3月14日には遍照に食邑100戸を賜っており(『日本三代実録』巻49、仁和2年3月14日癸巳条)、遍照は辞退したが、勅によって許されなかった(『日本三代実録』巻49、仁和2年6月14日壬戌条)。仁和3年(887)には延暦寺の僧最円(825〜?)が長年遍照のもとにあり、両部大法を受学していることから、遍照の奏請によって、同年7月27日に真言伝法阿闍梨位を授けられている(『日本三代実録』巻50、仁和3年7月27日戊戌条)。 寛平2年(890)正月19日、遍照は示寂した。75歳(『日本紀略』寛平2年正月19日条)。翌日、勅使派遣が決定されており、円仁が示寂した時に勅使を派遣した故事に倣ったものであった(『扶桑略記』第22、寛平2年正月20日丁未条所引、宇多天皇宸記逸文)。21日には少納言令扶が元慶寺に派遣され、遍照の遺室に綿300屯、調布150端が寄進され、諷誦を修させた(『扶桑略記』第22、寛平2年正月21日戊申条所引、宇多天皇宸記逸文)。 |
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■元慶寺の創建
元慶寺の正確な創建年についてはわかっていない。ただし、遍照の上奏文によると、中宮(藤原高子)が懐妊し、陽成天皇が降誕しようとする時に、遍照が発願して創建したといい、その後建物は次第に建造され、仏像も新たに造立したという(『類聚三代格』巻第2、元慶元年12月9日官符)。陽成天皇の降誕は貞観10年(868)12月16日のことであるから、およそ貞観10年(868)頃に創建されたことが知られる。当初の寺名は「華山寺」といったらしく、貞観18年(876)4月23日には前陸奥守安倍貞行(生没年不明)が法華経一部を書写し、華山寺にて僧を屈請して法華経を講じさせている(『菅家文草』巻第11、願文上、為前陸奥守安大夫於華山寺講法華経願文)。建立地は現在の元慶寺の地とは若干異なり、街道の北の山に位置しており、ここの地名を「寺ノ内」といったという(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。現在の元慶寺の西側200mほどの地点に「寺内町」という地名があり、ここが該当するかとみられる。 遍照は朝廷に対して、元慶寺に大悲胎蔵業1人・金剛頂業1人・摩訶止観業1人のあわせて3人の年分度者を置くことを求め、さらにその試験日は毎年12月上旬とし、天台宗の年分度者に準じて、勅使を請い、通五以上の者を及第とし、陽成天皇の降誕日に剃髪・得度させることとした。さらに延暦寺戒壇院にて大乗戒を授戒し、授戒後は元慶寺に戻り、五大菩薩の前で、止観業の者は仁王般若経を読経させ、真言業の者は大日経・金剛頂経を読ませている。また定額寺とすることを求めている。遍照の要請は元慶元年(877)12月9日に許可された(『類聚三代格』巻第2、元慶元年12月9日官符)。 元慶2年(878)2月7日には勅によって元慶寺の別当・三綱を設置している。三綱は元慶寺側が推薦して、官に申請して任じるものとし、任期は6年であった。任期後の解由(任交替の事務引継・監査)は寺の事により、官に申請して行うこととし、省寮(式部省・玄蕃寮)および僧綱は関知しないものとした(『日本三代実録』巻33、元慶2年2月7日癸酉条)。別当はともかくとして、寺院はそれまで寺務をつかさどる三綱が掌握することが一般的であり、三綱は僧綱によって統轄されていたため、寺院支配は事実上僧綱の手に握られていたが、真雅(801〜79)が貞観寺にて座主・三綱を僧綱の支配より脱することを奏請して以来、僧綱が座主・別当・三綱を支配することができない「僧綱不摂領」が行われるようになる。元慶寺もまた「僧綱不摂領」の寺院となったのである。 元慶3年(879)5月8日には元慶寺の鐘を鋳造している(『菅家文草』巻第7、銘、元慶寺鐘銘一首)。山城国乙訓郡(長岡京市)の公田5町(約5ha)を元慶寺の田とし、残り4段316歩(約5000平方メートル)を石作寺に返していたが、石作寺の残田の代用としてか、元慶3年(879)閏10月5日に勅によって宇治郡の官田4段316歩を元慶寺に施入している(『日本三代実録』巻36、元慶3年閏10月5日辛卯条)。 元慶8年(884)9月10日には雲林院が元慶寺の別院となっており(『日本三代実録』巻46、元慶8年9月10日丁卯条)、同年9月19日には遍照の奏請によって、惟首(826〜93)・安然(841〜915)に伝法阿闍梨位を授けた上で、元慶寺の真言業年分度者の教授としている(『類聚三代格』巻第2、元慶8年9月19日官符)。安然は天台密教における大成者の一人であり、元慶9年(885)正月28日に元慶寺にて『諸阿闍梨真言密教部類総録(八家秘録)』を著述している(『諸阿闍梨真言密教部類総録』識語)。また最円も元慶8年(884)7月1日より9月19日にかけて『蘇悉地羯羅経略疏』を書写している(『蘇悉地羯羅経略疏』巻1・3・4・5・6、奥書)。 |
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■元慶寺の階業
仁和元年(885)3月21日に遍照は奏上して、諸国講読師の欠に対して、元慶寺の僧を任用することを求め、裁可されている(『類聚三代格』巻第3、仁和元年3月21日官符)。諸国講読師は国分寺・部内諸寺を検察し、国分寺僧を沙汰し、僧を教導すると定められており、僧綱とともに国家仏教の中枢を担っていた。それまで元慶寺は「僧綱不摂領」の寺院であり、僧綱の支配を拒んでいたが、遍照自身が権僧正に任じられており、僧綱と元慶寺の関係に再考するところがあったらしい。元慶寺では年分度者を獲得していたが、これらの僧は遍照が権僧正の地位にいるのにもかかわらず、国家仏教の中枢とは無関係のところにあり続けた。 そこで遍照が元慶寺の年分度者が僧綱位への道を開くべく考えたのが、諸国講読師への任用であった。諸国講読師に任ぜられることは、僧綱位への近道であったが、その任用には講師五階(試業・複・維摩立義・夏講・供講)と読師三階(試業・複・維摩立義)の「階業」を経なければならなかった。このうち元慶寺では複試と夏講を行うこととし、維摩立義については延暦寺大講堂で行われる法華会を代用とした。これらを修了した者は伝灯満位に叙することとしている(『類聚三代格』巻第3、仁和元年3月21日官符)。貞観7年(865)4月15日には伝灯満位以上の僧を諸国講読師に擬補することが定められているから(『類聚三代格』巻第3、貞観7年4月15日官符)、これらの課試をへた者は諸国講読師に任用への道が開けたのである。ただし諸国講読師には定員があり、しかも僧綱任用分は諸寺に割り振られていたから、遍照は講師・読師の任期中(6年)に欠分が出た場合、最初の一人を元慶寺分から任用するよう願い出ており、これによって諸寺との軋轢を避けている(『類聚三代格』巻第3、仁和元年3月21日官符)。 また仁和元年(885)5月23日にも遍照は奏請しており、45歳以上の心行が定まった者を選んで講読師に補任する規定を利用して、元慶寺の三綱や住して久しい僧らに階業をへてから、諸国講読師への任用の道を開いている。ただしこれらの階業を受ける前に延暦寺戒壇院にて菩薩戒を受けさせることが条件であった(『類聚三代格』巻第3、仁和元年5月23日官符)。同年9月4日には遍照の申請により、近江国高島郡(滋賀県高島市)の荒廃田153町3段(152ha)を元慶寺に施入している(『日本三代実録』巻48、仁和元年9月4日乙丑条)。元慶寺は、元慶寺別院雲林院で行われている安居講を、諸寺の例に準じて元慶寺の夏講と同じく階業の一つとするよう奏請しており、仁和2年(886)8月9日に裁可されている(『類聚三代格』巻第3、仁和2年8月9日官符)。 また仁和3年(887)8月5日には元慶寺の僧一人を、毎年、興福寺維摩会の聴衆に請ずることが勅によって恒例となった(『日本三代実録』巻50、仁和3年8月5日丙午条)。興福寺維摩会は三会(宮中御斎会・興福寺維摩会・薬師寺最勝会)の一つであり、聴衆は問者(質疑を発しその義を課試する者)を兼任するが、本来、問者は三会の講師を歴任した已講(いこう)がなるものであり、聴衆は已講と同様の権威を有していたが、已講が貞観元年(859)10月4日より僧綱に任用されることとなったため、貞観3年(861)に安祥寺より維摩・最勝両会の聴衆・立義が出るようになって以来(『類聚三代格』巻第2、貞観3年4月13日官符)、各寺より聴衆・立義の申請が相継いだため、貞観18年( 876)に聴衆から選ばれていた立義者を聴衆から分離させ、新たに聴衆を諸寺の智者・名僧から選ぶこととしており(『類聚三代格』巻第3、貞観18年9月23日官符)、元慶寺の僧が維摩会の聴衆に請じられることになったのはその一環であった。後に平安時代中期には元慶寺僧より3人が内供奉十禅寺に任じられる慣例ができた(『新儀式』第5、臨時下、任僧綱事、付法務僧綱内供奉十禅師延暦寺座主阿闍梨僧位記)。 元慶寺ではこれまで毘盧遮那・金剛頂両業、止観業の年分度者はそれぞれ元慶元年(877)に規定されていた経典を読んでいたが、寛平元年(889)より法華経・金光明経・浄土三部経を読ませている(『類聚三代格』巻第3、寛平4年7月25日官符)。寛平元年(889)7月14日には宇多天皇が亡き光孝天皇のために盂蘭盆80具を元慶寺・御願寺(後の仁和寺)・西塔院に贈っている(『扶桑略記』 第22、寛平元年7月14日甲辰条)。 遍照は寛平2年(890)正月19日に示寂しているが、生前より延暦寺・海印寺・安祥寺・金剛峰寺のような籠山の制を志向しており、仁和2年(886)より法花三昧・阿弥陀三昧を修させている。さらに「花山元慶寺式」を記して元慶寺の制度を規定している。この「花山元慶寺式」は一部のみ伝わっているだけであるが、それによると6人の僧によって十二時(一昼夜)交替して法花三昧・阿弥陀三昧を修し、僧は寺より出ることは許されなかった。その後寛平4年(892)7月25日に年分度者は6年間の籠山を科されることになった(『類聚三代格』巻第3、寛平4年7月25日官符)。 |
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■元慶寺のその後
延喜2年(902)9月29日に元慶寺の舞童10余人を禁庭に召喚して、醍醐天皇がその舞を御覧しているが(『日本紀略』延喜2年9月29日壬申条)、これは元慶寺会の試楽(祭礼などに行われる舞楽の予行演習を天覧すること)であったらしい(『新儀式』第4、臨時上、行幸神泉苑観競馬事)。 元慶寺座主に就任した人物に玄鑑(861〜926)がいる。玄鑑は高階茂範の長男で、清和天皇の侍臣であったが(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、前紀)、元慶3年(879)5月8日に清和天皇が宗叡を戒師として落飾入道した際、ともに出家した(『扶桑略記』第20、元慶3年5月8日丁酉条)。師主は清和法皇であったが、遍照・良勇(855〜922)の弟子となり(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、前紀)、元慶4年(880)に受戒、延喜2年(902)7月11日に玄昭(844〜915)より潅頂を受け、玄昭の奏請により元慶寺阿闍梨となった(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、前紀、青蓮院本)。 延喜19年(919)11月18日に玄鑑が元慶寺にて修善を行っている(『貞信公記』延喜19年11月18日条)。同年12月18日夜には宮中に玄鑑を屈請して加持を行っており、布100端を賜っている(『貞信公記』延喜19年12月18日条)。延喜20年(920)6月5日には元慶寺にて金剛頂経を千巻の読経が行われている(『貞信公記』延喜20年6月5日条)。延喜20年(920)8月21日、右大臣藤原忠平(880〜949)は元慶寺入寺僧の解文を左中弁に付している(『貞信公記』延喜20年8月21日条)。 玄鑑は延長元年(923)7月22日に天台座主となり(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、延長元年7月22日条)、延長3年(925)4月29日には四七日(28日間)の誦経を元慶寺にて修しており、また法華三昧も行われている際に、別に中宮御修法を玄鑑が行っていることから(『貞信公記』延長3年4月29日条)、この時元慶寺座主職から離任していたらしい。 延長3年(925)7月17日には天台座主玄鑑が慶賀の門徒を元慶寺別当に任ずる官牒を出すよう左大臣藤原忠平に求めている(『貞信公記』延長3年7月17日条)。10月2日には除病のため元慶寺・清水寺・広隆寺にて諷誦が行われるよう申文があり(『貞信公記』延長3年10月2日条)、同年10月20日には元慶寺にて読経が行われている(『貞信公記』延長3年10月20日条)。 玄鑑は延長4年(926)2月11日に66歳で示寂した(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、延長4年2月11日条)。 天慶元年(938)7月3日に地震が続いたため、諸寺諸社に仁王経一万部を読経させる宣旨が下されているが、この時元慶寺も10口(人)が招集されている(『本朝世紀』天慶元年7月3日戊申条)。天暦3年(949)9月に元慶寺は焼失しており(『扶桑略記』第25、天暦3年9月同月条)。天暦11年(957)3月8日にも僧房・雑舎あわせて7宇が焼失している(『九暦』天暦11年3月8日条)。かつては惟首・最円・安然が元慶寺阿闍梨に任じられていたが、彼らの後は補されることなく、藤原忠平が法性寺を建立に際して元慶寺の例に倣って阿闍梨を置いたから、安和元年(968)に天台座主良源(912〜85)は奏上して、暹賀(914〜98)が元慶寺阿闍梨に補任された(『慈恵大僧正拾遺伝』)。元慶寺阿闍梨は宣旨によって補任されるものであったらしく、長和5年(1016)5月16日には元慶寺の明暹が阿闍梨に補任されている(『御堂関白記』長和5年5月16日条)。 元慶寺には座主に変わってか、あるいは併設してかは不明であるが、別当職が設置されていた。院源は元慶寺別当に推薦されていたが、辞退したため、元慶寺側は実誓(?〜1027)を推挙した。ところが一条天皇は近くに仕えており、しかも良源の門弟であった源賢(977〜1020)を長和元年(1012)10月16日に元慶寺別当に任じている(『御堂関白記』長和元年10月16日条)。 元慶寺料として山城国の正税1,000束が経常されていたが(『延喜式』巻26、主税上、諸国出挙正税公廨雑稲、山城国正税)、その後比叡山妙香院の影響下にあったらしい。康平6年(1063)5月20日の「妙香院荘園目録」によると、元慶寺領として寺の付近に25石と牛2頭と薮地があり、さらに近江国聖興寺の年貢、四郡保の年貢12石、東坂本小坂田の年貢7石9斗、越前国方上の御封米20余石があったという(『門葉記』巻140、雑決一、妙香院庄園、妙香院庄園目録)。また保元3年(1158)の段階で小野郷船岡里の地13坪8段と14坪300歩が勧修寺との間で論田となっていた(「山城国勧修寺領田畠検注帳案」勧修寺文書19〈平安遺文2922〉)。また元慶寺の観中院の灯油料として4斗5升、観中院の五大尊料として7斗2升が山城国正税より支給されていた(『延喜式』巻26、主税上、華山寺観中院灯油并観中院五大尊料)。 花山法皇は永観2年(984)に位についたが、寛和2年(986)6月22日、在位2年で突如退位・出家して花山寺(元慶寺)に入った。その時若干19歳であった。寵愛した弘徽殿の女御を失い、悲嘆のあまり出家したともいうが(『栄花物語』巻第2、花山たづぬる中納言)、藤原兼家(929〜90)・道兼(965〜99)父子の策謀のため、道兼とともに出家するはずが、花山法皇一人のみ出家するはめに陥ってしまった説話は『大鏡』によって人口に膾炙している(『大鏡』1、六十五代花山院)。 遍照の旧房が元慶寺付近に位置していたが、これは後に慈徳寺となり、元慶寺と隣接することになる。長和2年(1013)12月22日には藤原道長(966〜1027)によって元慶寺と慈徳寺の寺地が定められている(『御堂関白記』長和2年12月22日条)。 後に石作寺に籠った聖金(947〜1012)はもとは元慶寺の僧であった(『拾遺往生伝』巻下、阿闍梨聖金伝)。治暦3年(1067)11月に長宴(1016〜81)が元慶寺別当に任じられている(『阿娑縛抄』第195、明匠等略伝、中、日本上、長宴僧都伝)。また平安時代後期の規定ではあるが、宮中における仏教法会のひとつである季御読経において、元慶寺の僧が一人屈請されることとなっていた(『江家次第』巻第5、2月、季御読経事)。 承暦4年(1080)8月14日に元慶寺は栄爵と実検使についての申請を行っている(『水左記』承暦4年8月14日条)。その後官使が元慶寺の仏像・堂舎の修理・損色の注文(リスト)を報告している(『水左記』承暦4年10月26日条)。さらに元慶寺は山城国司伊通の燈□稲(燈分稲カ)について訴えているが、関白藤原師実(1042〜1101)は「申すところ拠ることなし」として斥けている(『水左記』承暦4年10月30日条)。 寿永2年(1183)11月19日、円恵法親王(1152〜84)は法住寺合戦において、木曽義仲の軍勢に元慶寺付近で殺害されている(『玉葉』寿永2年11月22日条)。元久3年(1206)正月に慈円(1155〜1225)は良快(1185〜1243)に元慶寺座主職を譲っており、これを代々相承することとしている(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。これによって中世の間、元慶寺は青蓮院(妙香院)に領掌されることになる。 建武4年(1337)4月の段階でも妙香院領分として掌握されており(『門葉記』巻140、雑決一、妙香院庄園、妙香院門跡領并別相伝目録)、延文2年(1357)10月に地震のため占卜が行われているが、その際に兵軍の兆しがあるとして、元慶寺律師を阿闍梨として、伴僧8人とともに比叡山にて修法が実施されている(『四天王記』奥書〈『昭和現存天台書籍綜合目録』下〉)。応永19年(1412)7月18日には青蓮院門跡領元慶寺の奉行として越中法橋が義円准后(後の将軍足利義教)によって任じられており、三分の一は奉行得分となっている(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。 これ以降、江戸時代中期に再建されるまでの元慶寺についてはほとんどわかっておらず、応仁の乱で衰亡したらしいという他は不明である。衰退はかなりのものであったらしく、加藤清正(1562〜1611)は本圀寺勧持院でしばしば茶会を行っていたが、遍照の塔の中央を削り取って石灯としてしまい、夜会(夜話の茶会)の時に点灯していたという(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。江戸時代前期には真言宗の寺院となっており(『雍州府志』)、小堂があるだけの寺院であった。これを再興したのが妙厳である。 妙厳は尭恭入道親王(1717〜65)の遺志によって元慶寺を再興を志し、官に申請して安永8年(1779)に新たに堂宇の造立を開始した(『天台霞標』4篇巻之2、華山遍照僧正、勅願所華頂山元慶寺再興碑記)。天明3年(1783)9月21日には再建がなり、入仏供養が行われることとなり(『妙法院日次記』天明3年9月15日条)、同27日まで挑燈寄進が行われた(『妙法院日次記』天明3年9月21日条)。23日には妙法院門跡が元慶寺にて入仏供養が行っている(『妙法院日次記』天明3年9月23日条)。 このように再建された元慶寺はさらなる再興が目指されたが、妙厳は示寂してしまう。その跡を継いだのが門弟の亮雄恵宅である。亮雄は40近い著作を持つ台密・儀軌に精通した学僧であり、天明2年(1782)12月25日には尭忠より伝法潅頂を受けており、師の妙厳の命によって妙法院境内に浄妙庵を建立するほか(『妙法院日次記』天明3年5月8日条)、妙法院門跡にたびたび謁見するなど極めて妙法院門跡に近い人物であった。妙法院門跡真仁入道親王(1768〜1805)は朝廷に奏上して元慶寺を勅願道場とした(『天台霞標』4篇巻之2、華山遍照僧正、勅願所華頂山元慶寺再興碑記)。 元慶寺の建物には鐘楼門・本堂(薬師堂)・五大堂・庫裏などがあり、うち本堂・庫裏は寛政元年(1789)に、鐘楼門・五大堂は寛政4年(1792)に完成したものであ(『京都府寺誌稿70』)。亮雄が学僧であったことから元慶寺は台密の一大地となり、寛政3年(1791)6月12日に覚千が師事した場所は元慶寺薬師堂であった(『自在金剛集』序)。 |
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■ 3
遍昭と密教 |
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■一
歌人としての遍昭の名は、古今集をはじめ、平安時代の歌集に、絢燗たる歌風を伝えており、世に知られたところである。しかし、古今集序で紀貫之が、「僧正遍昭は、うたのさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなをみて、いたづらに心をうこかすがごとし」と評し、さらに、近代短歌の面からも、かならずしも高い評価が与えられているわけではないようである。 「日本歴史」二一九号(昭和四+ 一年八月)に、目崎徳衛氏が、「僧侶および歌人としての遍照」と題する論文を発表されており、そこで目崎氏は、「かくて遍照は、文学史・佛教史の双方においてある意味の盲点になつているように思われる」として、遍照と佛教、遍照と和歌の二項を立てて、標記の研究を発表しておられる。目崎氏のいわれるように、当面の問題である、遍昭の佛教史上の位置づけについては、たしかに、同氏の論文のほかには真正面から取り組んだものは皆無に近い状態である。 本論では、この遍昭の佛教史上の、天台教団史上の、さらに天台密教-台密-史上の位置を究明し、先に考えた台密の大成者、五大院安然の密教をさぐる、ひとつの手がかりを見出そうとするものである。 |
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■二
遍昭は、弘仁八年(八一七)中納言良零安世の子として生まれ、宗貞と名のつた。嘉祥二年(八四九)には蔵人頭にまで進み、ときの仁明天皇の特に篤い寵愛を一身にうけていたが、天皇の崩御に遭つて出家するところとなつた。父である良琴安世は、傳教大師最澄畢世の念願であつた、比叡山の大乗戒壇建立に、大きな外護を与えたそのひとである。宗貞は、その由縁の比叡山に登り、遍昭と名をあらためて、まず、斉衡二年(八五五)に慈覚大師円仁に就いて受戒し、貞観六年( 八六四)に円仁の死に遇い、安慧、智証大師円珍等に師事した。元慶元年(八七七)華山元慶寺を定額寺に加えしめ、三人の年分度者を奏請し、同三年には権僧正として僧綱に列なつた。とくに、元慶寺座主として、同寺の運営に敏腕を振い、僧官として制式等を奏したり、縦横の活躍がはじまる。仁和元年(八八五)、僧正に任ぜられ、翌年には封戸百戸を賜わり、螢車すら許された。そして、寛平二年(八九〇)正月十九日示寂することになる。 寛平入道親王真寂撰の慈覚大師伝には、円仁入滅に際して遺誠するその冒頭に、 遍照所求両部大法之道、我既不得自授之。翼、従付法阿闇梨安慧、稟学之。 と記している。はたして伝文が、遺誠そのままを伝えているかどうかははつきりしていないが、天台教団にとつての恩人の子息に、ひとかたならぬ処遇をしていたことがうかがわれるのである。 慈覚大師伝ではさらに、門弟を列ねるなかに、 遍昭者、大納言良峯朝臣安世第八子、左近衛少将従五位上宗貞也。天姿温雅、風堕都閑。承和之代、尤被寵幸。天皇崩後、落飾為僧、時世高之。太政大臣美濃公、付属大師。貞観五年冬、於大師辺、始学真言大法。金剛界壇供了、欲授真言之間、遇大師之傾逝。貞観六年正月十三日別遺書云、円仁錐非其人、誓在伝燈。袋我遍照大徳、幸有稟学之望。円仁不勝随喜之誠。随求得、悉欲奉伝之。而命既促心事相違、歎息之至、筆墨何究。伏願遍照大徳、照之、随付法弟子安慧大徳辺、稟学両部大法、助伝我道、勿令墜失。是深所望也。因之、七年夏於安慧阿闇梨、受学三部大法。所謂、仁和之代、華山僧正也。 と、ふたたび誌すのである。 すなわち、遍昭が円仁について真言法を習いはじめたのは、貞観五年の冬のことであつたとすることができ、まつたく間もなく円仁の入滅がおとずれたわけで、円仁からの実際の受法は、当然なしえなかつたことであろう。 |
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■三
遍昭の受法遍歴の経緯を語るものとして、もつとも早いものは、安然の撰にかかる胎蔵界対受記であろう。しかも、安然がいわゆる遍昭の面授の弟子であり、その誌すところは、まつさきに参看されるべきである。 胎蔵界対受記巻一のはじめに、 此大和上(権僧正大和上-遍昭)、元従慈覚大師受之。草創未畢大師遷化、因依夢告、則従安慧和上、受得首尾。未及授位、和上帰寂。後従円珍和上、受灌頂位。 とある。 ここに、三つの問題点をとり出すことができる。 一つは、円仁に師事した遍昭が、その遷化に遇い、「夢告」によつて安慧に従くことになつたということである。上掲慈覚大師伝も、阿娑縛抄伝法灌頂日記上も、円仁の遺言によるとするが、「夢告」とは、安然の理由あつての書きかえであるかもしれない。 二つには、遍昭は安慧から「首尾」を受得したが、職位はいまだ授からぬままに、安慧の入滅を迎えたということである。 慈覚大師伝での、「七年夏於安慧阿闇梨、受学三蔀大法」がそれである。阿娑縛抄伝法灌頂日記上には 遍昭授安然台金印信云、遍昭縁慈覚大師遺教、就安慧阿闇梨辺、稟学此胎蔵、蘇悉地大喩伽巳詑。 と記す。この阿娑縛抄の文意には、胎・蘇とのみ列ねて金剛界を欠くが、傍証を他に求めることはできないが、所引の印信が「遍昭授安然台金印信」であるならば、「金」あるいは「金剛」の字が欠落して引かれたにすぎないとみられる。 すなわち、要するに、阿闇梨職位の公験こそ得なかつたが、遍昭は、安慧より三部大法を相伝していたということになる。安然の手になる胎蔵界対受記でも、金剛界対受記でも、蘇悉地対受記でも、遍昭がつねに「慧和上説」を比較して出しているてとは、この一事を証明するものであろう。 |
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■四
第三の問題は、遍昭が円珍に随つて法を受けたという一件である。 三善清行撰の天台宗延暦寺座主円珍伝には、 (貞観)十五年依官符、以三部大法、伝僧正法印大和尚位遍照阿闇梨。乃於延暦寺総持院灌頂道揚、授三部大灌頂、及伝悉曇丼諸尊別儀等。 と記され、阿娑縛抄の明匠等略伝、伝法灌頂日記上にも同趣旨の記載がある。とくに伝法灌頂日記には、 貞観十五年九月八日、台灌頂、得仏舗購。同九日、金灌頂、得仏大日。 という記事までがみられるのである。 しかし、敬光の智証大師年譜には、 (貞観)十五年癸巳……九月九日、於総持院付三種悉地法、於遍昭師七伝自無畏至可謂授霜得。 とあつて、貞観十五年九月九日の円珍からの受法を、三種悉地法であつたとするのである。現在、いくつかの系統で附華山僧上印信なるものが伝えられているが、その内容は、 比叡山延暦寺 大毘盧遮那如来曼茶羅所 上品悉地阿鍍艦吟欠 中品悉地阿尾羅咋欠 というもので、下品悉地以後は虫損によつて欠いている。この印信は、後半を失つて授受の次第等も明確ではないが、まさしく、かの最澄が唐越州の順暁阿闊梨から相伝した、三種悉地灌頂の印信に全同である。 ここに、貞観十五年九月九日の時点に、一説には三部大法、他説には三種悉地法を、遍昭が円珍から受けたと、両説が行われていることが知られるのである。古来かならずしも、この両説を勘案しての決着は得られていない。 胎蔵界対受記巻五の、第二百四十一大真言王印の下に、遍昭の説を掲げて、いわゆる金剛字句真言なるものを出すが、その真言にちなんで、 珍和上説、大師伝広智、広智伝徳円、徳円伝円珍、珍珍伝権僧正大和上。大和上常疑此法有無。安然近得尊勝破地獄法中、有此等三種悉地真言。亦稽同順教阿闊梨説。 と記している。すなわち、時日を定めることはできないにしても、三種悉地法を円珍が遍昭に授けたということは、みとめなければならない。 大日本佛教全書智証大師全集所収、余芳編年雑集のなかに、 貞観十三年九月九日付、勅下伝法規矩牒 貞観十五年正月十五日付、請阿闇梨位授遍照之欺状 貞観十五年二月十四日付、請授真言阿閣梨位僧事 貞観十五年四月二十三日付、応授阿遮梨位遍照官牒 と、一連四通の文書が収められている。その内容をみていくと、以下のごとくである。 貞観十三年九月九日付文書は、いわゆる「貞観官符」と称されるもので、延暦寺の真言業修学の人をして、阿閣梨職位に推挙する手続を定めたもの。 貞観十五年正月十五日付文書は、円珍が遍昭伝持の密教を考査して、その器をみとめ、一山綱位のものが連署してこれを証し、寺衙に対し進めた、阿闇梨位伝授資格認定書ともいうべきもの。 貞観十五年二月十四日付文書は、遍昭に阿闇梨位を与えるよう請求するもの。 貞観十五年四月二十三日付文書は、先の二月十四日付文書にこたえて、太政官より阿閣梨位を授けるとした官符である。 とにかく、ここで、遍昭に対しては、貞観十五年四月二十三日の時点で、公式に阿闇梨位が認められていることに留意しなければならない。 これらのうちで、貞観十五年正月十五日付の、欺状によると、 □□□□ □□□ □□□遂忽値鶴林、□□□遺嘱。就故阿闇梨□□□□□ □胎蔵金剛界蘇悉地等三部大法了。垂授師位、又□□□。爾後於円珍処、聴習三部大教王経。略窺器量、可堪伝教。須准官牒旨、諸阿闇梨同屈一処、覆審試□方進止之。而為省煩、始従去年十一月十一日、至十三日、円珍□覆試。先所習一匝已畢。抑与円珍所受大同小異、伍随分指授之。又悉曇字母等、井以匪解。愛年近六春、心行已熟、志期大覚、修持堅固。羨先達諸阿闇梨、幸□許可、同批状末、応授阿闇梨位、状准例、聴聞奏。謹牒 とあり、遍昭が、安慧より三部大法を学び、円珍から「三部大教王経」を習つて、貞観十三年九月九日付貞観官符の趣旨にそつて、阿闇梨位資格試験をすべきところ、便宜上円珍が、貞観十四年十一月十一日から二十三日にかけて、考査を行い、その所伝の円珍の所受と大同小異であることをみとめ、問題のあるところだけを指導し、悉曇字母等も授けたというのである。さらに貞観十五年二月十四日付請状では 就円珍辺、聴釆大砒盧遮那、金剛頂、蘇悉地、三本経文、兼再受先於故阿闇梨安慧所、稟胎蔵金剛界蘇悉地等三部大法、更通大日如来三種悉地法了。悉曇字母、書読匪癬。 と誌され、これにこたえた四月二十三日付官符は、そのまま請状の文を引いている。 これらを比較すると、遍昭は、 (一) 安慧からは、胎・金・蘇三部の大法を受けた。 (二)円珍からは、大日経、金剛頂経、蘇悉地経の経文を授けられた。 (三)そして、円珍は、安慧より伝えた三部大法を考査した。という諸点で共通している。 胎蔵界対受記巻一に、 円珍和上准式、複授前来所学。使大和上自読真言、及作印相。則珍和上一一断之。然慈覚大師於法全義真全雅元偏元政海雲宗叡宝月八阿闇梨広学奥義、故所伝中多有異説。今珍和上唯受法全和上、故有単説、自無異説。是以複検我大和上所学之日、多随省略、動言不用、又印信中云大同小異也。 とあるのは、前掲貞観十五年正月十五日付欺状にいう、前年の十,一月に行われた、円珍による考査のありさまを示すものにちがいない。 このようにみてくると、前に徴した天台宗延暦寺座主円珍伝のいう貞観十五年の灌頂というものが、その実体に不明なところが多く、さらに阿娑縛抄伝法灌頂日記上の、九月八日に胎蔵界、翌九日に金剛界を受けたとする記述や、同じくそこにいう。 延暦寺座主内供奉法眼和尚位円珍阿閣梨、ととと依去貞観十五年四月廿三日、勅牒旨、同年九月九日於延暦寺惣持院鎮国灌頂道場、以此法伝授遍昭。 という記事は、貞観十五年正月十五日の段階で、すべての考査を終了して、円珍の責任において阿閣梨位の資格を認定し、二月十四日に、阿閣梨位を請い、その四月二十三日付官符で阿闇梨位を認めたことと、ともすると矛盾することになりかねない。 貞観十五年九月九日に、遍昭が円珍から灌頂を受け、しかも、そこで阿闇梨職位を与えられたとする第一資料は、まつたく見出せない。たゞ、阿娑縛抄のいう同日の伝法が、「延暦寺総持院鎮国灌頂道場」で行われたとする記事からは、かの最澄が順暁から与えられた印信に出る、順暁の呼称中の「泰嶽霊巌寺鎮国道場」の語を想起するのである。先掲の附華山僧上印信と勘えあわすときに、胎蔵界対受記巻五にいう、三種悉地法を遍昭は円珍から受けたという記載の裏づけをもつて、敬光が智証大師年譜においていみじくも記すように、この貞観十五年九月九日の伝法は、その実質的内容は三種悉地法であり、遍昭は円珍から内容的に三部大法を通じて受法したものではなく、安慧より受けたところを点検され、多少の異同のみを指摘されたのが実際であつたといえよう。かつまた、この九月九日の灌頂が、いわゆる阿闇梨職位を授与する場として設営されたともみられうるが、断言する材料はない。 遍昭の密教の要素をもとめて、以上概観したわけであるが、先の機会に論じたように、この遍昭の密教の性格こそ実に台密の大成者である五大院安然のそれを規定していくところとなつたのである。 |
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■13.陽成院 (ようぜいいん) | |
筑波嶺(つくばね)の 峰(みね)より落(お)つる 男女川(みなのがは)
恋(こひ)ぞ積(つ)もりて 淵(ふち)となりぬる |
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● 筑波山の峰から落ちる男女川の水かさが増えるように、私の恋心も積もりに積もって淵のように深くなってしまった。 / 筑波山の峰から流れ落ちる男女川は、流れ行くとともに水量が増して淵(深み)となるように、私の恋心も、時とともに思いは深まり、今は淵のように深い恋になってしまった。 / 茨城県にある筑波山の峰から流れ落ちる川には、「みな」(タニシのような小さい貝類のこと)が住むような泥が積もって深い淵(水が深くて澱んでいるところ)ができているでしょう。わたしのあなたを恋しく思う気持ちも、積もり積もって深い深い淵をつくってしまいましたよ。 / 筑波山の峯から流れてくるみなの川も、(最初は小さなせせらぎほどだが)やがては深い淵をつくるように、私の恋もしだいに積もり、今では淵のように深いものとなってしまった。
○ 筑波嶺 / 「筑波嶺」は、常陸(茨城県)の筑波山。男体山と女体山からなる。古代には、歌垣の地として有名。歌垣とは、春と秋に男女が集まって歌舞飲食する祭。自由な恋愛が許され、求婚の場としての役割もあった。 ○ 男女川 / 男体山と女体山を源流とする川。ここまでが序詞。 ○ 恋ぞつもりて淵となりぬる / 「ぞ」と「ぬる」は、係り結び。「ぞ」は、強意の係助詞。「恋ぞつもりて」で、「恋心がつもりにつもって」の意。この場合は、歌を贈った相手である釣殿の皇女、すなわち、後に后となる綏子内親王(光孝天皇の皇女)に対する恋心を表している。「淵」は、水がよどみ、深くなった場所。恋心が深くたまっていることを淵にたとえている。 |
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■ 1
陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日(869年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:貞観18年11月29日(876年12月18日) - 元慶8年2月4日(884年3月4日))。諱は貞明(さだあきら)。 ■藤原基経との確執 生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876年)11月に9歳で父清和天皇から譲位される。父帝に続く幼年天皇の登場であり、母藤原高子の兄藤原基経が摂政に就いた。在位の初めは、父上皇・母皇太后および摂政基経が協力して政務を見たが、元慶4年(880年)に清和が崩じてからは基経との関係が悪化したらしく、元慶7年(883年)8月より基経は出仕を拒否するようになる。 基経は清和に娘2人を入内させていたが、さらに陽成の元服に際して娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、皇太后高子が拒否したためではないかというのが、近年の説である。 これに対し、清和の譲位の詔は基経の摂政を陽成の親政開始までとしており、元慶6年(882年)の天皇元服を機に、基経が摂政を一旦辞することは不自然ではなく、関係悪化の証拠にはならないという反論もあるが、元慶4年(880年)12月の清和が臨終に際して基経を太政大臣に任じたときも、基経は単なる慣例的儀礼的行為以上に5回もの上表を繰り返したうえ、摂政でありながら翌年2月まで私邸に引きこもって一切政務を執らず、政局を混乱させている。 一連の確執の本質は摂政基経と国母である高子の兄妹間の不仲と権力争いであり、在原文子(清和の更衣)の重用を含めた高子の基経を軽視する諸行動が、基経をして外戚関係を放棄をしてまでも高子・陽成母子を排除させるに至ったとの見方もある。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和自身である。高子が清和との間に貞明親王(陽成)・貞保親王・敦子内親王を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わずあまたの女性を入内させ多くの皇子を儲けていたことから、基経も母方の出自が高くない娘頼子を入内させ、さらに同じく出自の低い佳珠子を入内させて外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。 ■宮中殺人事件と退位 基経の出仕拒否からしばらく後の元慶7年11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きる。事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれ事故であれ、陽成自身が起こしたか少なくとも何らかの関与はあったというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、陽成は基経から迫られ、翌年2月に退位した(ただし、表面的には病気による自発的退位である)。 幼少の陽成にはそれまでも奇矯な振る舞いが見られたこともあり、暴君だったという説もあるが、退位時の年齢が17歳(満15歳)であり、殴殺事件については疑問点も多く、高子・陽成母子を排除して自身の意向に沿う光孝天皇を擁立した基経の罪を抹消するための作為だともいわれる。 ■皇統の移動 陽成には母后高子所生の同母弟貞保親王もあり、また基経の外孫である異母弟貞辰親王(女御佳珠子の所生)もあったが、基経・高子兄妹間の確執とそれぞれの憚り(同母弟を押し退けての外孫の擁立、我が子の不祥事)がある状況ではいずれとも決しがたかったのか、あるいは幼年天皇を2代続けた上の事件発生という点も考慮されたか、棚上げ的に長老格の皇族へ皇位継承が打診された。まず陽成の曽祖父仁明天皇の従弟でかつて皇太子を廃された恒貞親王(出家して恒寂)に白羽の矢が立ったが拒絶される。仁明の異母弟である左大臣源融は自薦したものの、源姓を賜って今は臣下であると反対を受ける。けっきょく仁明の皇子(陽成の祖父文徳天皇の異母弟)時康親王(光孝天皇)が55歳で即位することとなった。 光孝は自身の皇位を混乱回避のための一代限りのものと心得、すべての皇子女を臣籍降下させて子孫に皇位を伝えない意向を表明し、陽成の近親者に皇位が戻る可能性を残した。ところが、即位から3年後の仁和3年(887年)、病に陥った光孝は、8月25日に子の源定省を皇籍に復帰させると翌日には立太子させ、そして即日崩御した。こうして定省親王(宇多天皇)が践祚したが、皇籍復帰から皇位継承に至る一気呵成の動きは、はたして重篤であったろう光孝の意志を反映したものか疑問もあるところで、これには天皇に近侍していた尚侍藤原淑子(基経の異母妹)の力が大きく働いており、同母兄も複数ある宇多が皇位を継いだのは藤原淑子の猶子であったためと言われる。 この異例の皇位継承により、皇統は光孝―宇多―醍醐の系統に移り、嫡流であった文徳―清和―陽成の系統に再び戻ることはなかった。後に陽成は、宇多について「今の天皇はかつて私の臣下だったではないか」と言った(宇多は陽成朝において侍従であった)という逸話が『大鏡』に載る。 陽成の退位後も光孝系の歴代からの警戒感は強く、『日本三代実録』や『新国史』の編纂は陽成に対して自己の皇統の正当性を主張するための史書作成であったとする説がある。 退位後に幾度か歌合を催すなど、歌才があったようだが、自身の歌として伝わるのは『後撰和歌集』に入撰し、のちに『小倉百人一首』にも採録された下記一首のみである。この歌は妃の一人で宇多の妹である釣殿宮綏子内親王にあてた歌である。 「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」 (百人一首では「淵となりぬる」) 少年時に退位して長命を保ったため、上皇歴65年は歴代1位で、2位の冷泉上皇の42年を大きく引き離す。宇多の次代の醍醐天皇よりも長生きし、さらに続く朱雀天皇・村上天皇と光孝の系統による皇位継承も見届けた。 |
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■ 2
筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる 陽成院のお歌です。「後撰集」恋の部に収められている歌で詞書には、釣殿のみこにつかはしける、とあります。釣殿院と言うのは光考天皇の御殿の名です。後に 皇女の一人、綏子内親王にお譲りになられたので、この内親王のことを釣殿のみこ、と申し上げます。ですから、この歌は綏子内親王に差し上げた歌、と言うことになりますね。それを言ってしまっては当時の貴族はすべて親戚、と言うことになってしまいますが、綏子内親王は陽成院の父・清和天皇の従姉妹に当たります。あるいは陽成院にとっては年上の女性であったやもしれません。 万葉集の昔から歌に詠まれている筑波嶺。春秋には男も女も集まって、神を言祝ぎ歌いあう、そんな山をあなた、知っていますか。山頂は男体山と女体山に分かれているなんて、暗示的ですね。その高い山から滔々と落ちる川、その名もみなの川。男女川、と書くんですって。山の頂から、落ちる水の流れのその速さ、ほとばしる滾り。あなた、見えませんか。わかりませんか。あれは私の心そのもの。流れも恋も、積もり積もってついには、ほら。淵に、なってしまった。 技巧的ですが、中々わかりやすい歌ではないでしょうか。こう言ってはなんですが、あまり院、と言うお立場の方が詠んだ歌らしくはありませんね。どちらかと言えばもっと長閑で牧歌的な歌と言う印象を受けます。このような歌を詠まれたお方なのに、陽成院と言う方は大変に悲劇的な人生を送られました。父・清和天皇の在位中のことです。大極殿が火事に見まわれるという事件がありました。たくさんの建物を焼き尽くし、その火は数日を経てようやく消火した、と言います。そしてその年、更なる事件が清和天皇に苦悩をもたらします。飢饉の到来でした。これによって天皇は帝位を去り、御位を日嗣の皇子にお譲りになる決心をされました。このとき皇太子はわずかに十歳たらず。御母の兄、藤原基経が幼い天皇を補佐して政を取ることになりました。これが陽成天皇です。陽成天皇は非常に馬を愛されたとのことです。それはかまわないのですが、多少、と言うにはいささか過ぎるほどに偏愛されたのでした。馬の飼育の上手な者が寵愛を得、そして宮中で大きな顔をするに至って、関白基経公は奸臣どもを退け追い払いました。それがおそらく、良くなかったのでしょう。陽成天皇は御脳を病まれました。物狂わしい振る舞いが多くなられ、残虐ななさりようも多々あった、と言うことです。これではいけない、と関白は御譲位のことを考え始めます。とするといつの世でも我こそは、と思い出す者がいるということですね。親王たちは早くから言ってみれば猟官運動を始めました。結局、老親王であった方の一人が温厚篤実だということで御位につくことになります。それも騙されるようにして。くらべ馬など、そう言って御幸にだされた天皇はそのまま陽成院という御殿に幽閉され、太政天皇の尊号こそ奉られましたが、事実上は帝位を追われたのでした。残酷なことをしたのですから、無理からぬこととは言え、もう少しやりようもあったろうに、と思わずにはいられません。そして帝位についたのが光考天皇です。なにか、因縁めいたものを感じますね。ご退位されたとき、陽成院はまだ十七歳。それを考えると、物狂わしい振る舞い、と言うのも関白に大きな顔をされるのが堪らなかった、そんな若さではないかとも思えるのです。そして綏子内親王はその陽成院の后となったお方です。きっと院はこの歌を贈られたときにはこんな将来を予想だにしていなかったに違いないでしょう。私はきっと年上の女性ではないかな、と思うのですが、はっきりしたことはわかりません。少年の日に仄かな恋心を抱いた女性。おずおずと、若い歌を贈った人。その人がついには自分の后になります。けれど彼女の父は自分を帝位から追った人物でもあるのです。あるいは初恋の人でもあったかもしれません。その恋は叶ったはずなのに、苦いものになってしまったかもしれません。そう考えると、いたたまれないような気持ちになるのです。当時は藤原氏の全盛期ですから歴史と言うものも藤原氏に都合のいいように書かれていますね。ですから私は陽成院のお振る舞い、と言うものもどこまで真実か判らない、そんなことまで思ってしまうのです。政治の渦中の放り込まれてしまった若い皇子。出生ゆえに避けて通ることもできず、逃げることもできず。そんな皇子がした、ただひとつの真実の恋であったのかもしれない。そんなことを思います。 |
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■ 3
陽成院とその一宮・元良親王の悲劇 876年、病身で政治に倦んだ父・清和の譲りを受けて貞明親王は陽成天皇として9歳で即位し、母・高子とその兄・基経の庇護の下に成長する。 政界の兄・基経と内廷を支配する妹・高子は連携どころか対立を深めた。 兄は学問好きの実直な性格、妹は自由奔放な人柄である。高子は当代きっての花形・在原業平を蔵人頭に抜擢する。業平は和歌は作るが才学は無く、基経に評価されるはずもない。陽成の乱行に業を煮やした基経は陽成を廃位し、皇族の長老・時康親王を立てて光孝天皇として即位させた。基経と光孝天皇は母同士が姉妹であり古くからの友人であり、その温厚で優雅な人柄は正史に「性、風流多し」と記されたほどである。基経は光孝を立てることにより群臣の総意を纏めることができ、存分に権力を振るうことが出来たが、光孝帝は死に臨んで第7皇子の源定省を次期皇位に就けることを望み、また基経の妹で尚侍・淑子(定省を養子にしていた)の政治力にも押されて承認せざるを得なかった。思いもよらず、王位についた光孝帝と宇多帝は、後に陽成上皇に罵声を浴びせられている。陽成上皇にしてみれば、格が違うというところだろう。先に触れたように陽成上皇の母・高子は奔放な性格だった。そして高子が建立した東光寺の僧・善祐と高子は密通しており、高子55歳の時に表沙汰にされている。極めて老いらくの恋であるが・・・。このとき丁度、宇多天皇が我が系統を確保するために醍醐天皇に譲位する直前であるから、陽成上皇に罵倒された仕返しともいえる政治的な策略の感がある。896年高子の密通は暴露され廃位が決まると、僧・善祐は流され、高子は910年に69歳の生涯を閉じた。 一方の宇多上皇も腹心の菅原道真の追放によって政治から切り離されたため、高子との対立は自然と解消し、太平の世が続くことになる。宇多上皇が同母妹の釣殿の皇女・綏子内親王を陽成院に婚嫁せしめたのも政情安定を考えたためか。 「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」と陽成院が詠んだ百人一首にもある相手が宇多上皇の妹・綏子内親王である。 陽成院は父・清和や嵯峨のように子沢山ではない。当時としては少ない9人である。因みに文化人嵯峨天皇には50人余りの子女がいるし、陽成院の父・清和は後宮において30人ばかりの女性を相手にしている。 陽成院はひょっとしたら純情な思いで恋をしたのかもしれない。そして綏子内親王との間には元良親王が生まれたが、隔世遺伝のためか元良親王は極めて色好みであり、彼の死後間もなく成立した大和物語に見ることが出来る。数ある恋のなかでもひとかたならぬ恋は、京極のみやす所との恋、つまり藤原褒子といって左大臣・藤原時平の娘との熱愛である。 実は藤原褒子は醍醐天皇の女御として入内することになっていたが、その美貌に一目ぼれした宇多法皇が有無を言わさず我が物にして、六条京極の河原院に置いて寵愛したという。 当時、宇多法皇と褒子の父・藤原時平とは菅原道真の左遷をめぐって対立していたので、褒子の入内は両者の和解のための政略結婚とも考えられるが、なにしろ3人の子をもうけているから寵愛を受けたのには間違いない。 六条河原院で宇多法皇と褒子が月夜の晩に仲むつまじく愛を交わしていた時、河原左大臣(源融)の亡霊が現れて宇多の腰にしがみつき、褒子は失神したという。 源融はもともと河原院の持ち主であったが、孫姫・源貞子を宇多の更衣として入内させている。そして寵愛を受けさせたかったこともあり、ここ河原院を献上したのであるが、宇多は源貞子をあまり寵愛しなかったために、亡霊として現れたという史実が残っている。 この話は、源氏物語の「夕顔」の巻きの素材として使われた話と考えられている。 元良親王は、この藤原褒子と密通したのである。陽成院が敗退しなければ、一宮・元良親王は皇位についていたはずであるから、宇多上皇に対する挑戦とも思える密通である。 ○ わびぬればいまはた同じ難波なる身を尽くしてもあはんとぞ思ふ 元良親王が藤原褒子に逢う為に、身の破滅を覚悟で送った詩である。 元良親王のその後であるが、史実には彼の身の破滅は伝えられていない。藤原褒子は亡き宇多上皇を慕って次のような詩を詠んでいる事からも、元良親王の褒子に対する思いが叶えられずに、ある意味で悲劇の人になれなかったことは一層心に染入る感じがするのである。 ○ すみぞめの濃きも薄きも見る時はかさねてものぞかなしかるける |
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■ 4
陽成院の虚像と実像 陽成院は、歴代の中でも有数のアブナイ天皇とされています。しかしそれは虚像で、ひっそりと愛妻を守った心優しい男だったのではないかと思います。何より「馬」が好きで、時に和歌会を開いたりすることもあるけれど、忘れられた、もと天皇としてなんと六十余年を京の片隅に暮らしたのでした。 陽成院は歌人としての実績はゼロに近いのですが、説話の世界では大活躍?します。 週刊誌の見出し風にすると 暴虐の不良少年天皇の素顔 ・・ついに犯した宮中殺人事件・・京都市内を暴走し、他人の家占拠して乱行・・その母にしてその子アリ ・・実の父はあの人か ・・呪いの魔法と集まる妖怪変化 そして、これに純愛事件がからみます。浦島太郎の弟なんかも出てきてもうタイヘンなんです(宇治拾遺物語)。だからこそ、定家は蓮生の障子の歌人に撰び入れたのでしょう。 陽成院 (享年八十二) ○ 筑波峰のみねよりおつる男女川恋ぞつもりて淵となりける (釈文) 神世より男女が歌垣のために集う筑波山には、その名も男女川という川があるのだと聞いた。それは、男女二つの峰から流れ出し、合流して里に落ちてゆくのだと言う。オレは、父や母の浅ましい姿を見て、恋などというものは決してするものではないと思って来た。オレは恋などをしない男だと決めていたのだ。それなのにオマエを好きになってしまった。オレの気持ちは、細い流れがいつのまにか太い流れになって、ついには深い淵となるように、今は青色に沈む淵のようになってしまっている。その淵には、オレの切ない恋心が満々と湛えられているのだ。 (作者と歌) 陽成院の歌は、実にこの「筑波嶺の」一首しか残っていない。一首しか勅撰集に採られなかったというのではなく、諸歌集にも、この歌以外の歌がまったく見えないのである。その一方で、陽成院は史書や説話集にはいろいろとエピソードを残している。そしてその中で語られる陽成院の人間性は、極めて悪い。歴代天皇の中でもベスト、ではなくワースト3に入るものと思われる(ワースト1は、おそらく武烈天皇)。 とはいえ、陽成院にはみずから歌合を企画したという記録もあり、歌才のある人であったとおぼしい。後述するように、長く京の片隅に逼塞していた陽成院には、主宰する歌壇はもとより、共に歌を詠むような知友も乏しかったのだろうから、その和歌が残されることもなかったのだろう。これも後で触れる、綏子のような陽成院を慕う者があって、院の死後にその歌稿をまとめればよかったのかもしれないが、残念なことに綏子の方が先に他界してしまった。 一方、陽成院の母の高子はすぐれた歌人で、たとえば『古今和歌集』の春歌に次のような歌を残している。 二条の后の春のはじめの御うた ○ 雪の内に春はきにけり鶯のこほれる涙今やとくらむ 高子は後に皇太后の名を剥奪された不名誉な人なので、勅撰集に相応しくないと思われていたために、撰歌された歌の数が少なくなったのかも知れない。陽成院も帝位を剥奪された人で、そのためにかろうじて一首のみが残されたのかも知れない。高子も、その子陽成院も、勅撰和歌集にとって、どちらもしかるべからざる貴人なのである。さて、そんな陽成院がなぜこの障子の色紙に登場するのかと言うことが問題になる。陽成院はもとより和歌堪能ではない。だから、ここに撰ばれた理由は、その説話的な生に対する興味からであろう。つまり、苦界を生きた陽成院の悲嘆と苦しみに対する供養の念の存在にあることは間違いない。そう考えて陽成院の生を眺め直すと、そこには深い同情を抱かざるを得ないものがある。それは母である高子についても同様である。 仁明天皇の皇統はその子道康親王へ継承された。文徳天皇である。このとき、皇太子になることができなかった悲劇の第一皇子が、陽成院の歌の直前の歌の敏行の母の甥であり、業平らと親しかった惟喬親王である。この文徳天皇は、第四皇子惟仁親王に譲位して清和天皇が即位する。清和天皇は、右大臣良房の女である明子中宮の子である。この清和天皇の皇子であったが、やはり皇太子になれなかった痛恨の人が三首前の在原行平の孫の貞数親王である。貞数親王に打ち勝ったのは、時の権力者良房の姪の高子のなした皇子で、この貞明親王が第五十七代陽成天皇になる。この母の高子が、二首前の業平と深い経緯を抱えていた。 しかしながら続く第五十八代は陽成天皇の子には受け継がれず、系図を仁明天皇まで遡り、その子である光孝天皇が継ぐことになった。この皇統が宇多、醍醐天皇に至ることになる。この間には、仁明天皇の皇太子であった淳和天皇の子恒貞親王が廃された承和の変などもあった。つまりこの前後は、藤原良房、基経らのいわゆる〈外戚政治〉が本格化してゆく時期であり、かなりなまぐさい政争のあった時期なのである。文徳天皇の病死については、暗殺の噂さえあったほどである。陽成天皇は、権力の藤原氏・摂関家への集中の過程で、藤原氏の希望を担って即位したのであったが、その叔父たる基経によって廃位されることになった人である。良房のあとを継いだ養子の基経と、その妹の高子には軋轢があったらしく、まだ十代になりたての陽成天皇を中にしたせめぎあいがあったらしい。そうした中で業平が蔵人頭になるなどしたが、業平も一年足らずのうちに没してしまう。次第に孤立していった高子、陽成母子であったが、元慶八年(八八四)になって、遂に退位を余儀なくされた。後継は、基経と良好な関係を結んだ光孝天皇で、その即位のいきさつについてはいろいろと説話がある。 さて、陽成天皇はまだ十七歳の少年にすぎなく、病弱でもなかったのであるし、さしたる退位の理由もなかった。陽成天皇をなんとか退位に追い込みたい基経らは、虚実取り混ぜて、陽成天皇の悪行を世に喧伝したらしい。情報戦を展開したわけで、そのバッシングの嵐の中で陽成院は退位に追い込まれ、時をおいて母も皇太后を廃されることになる。 伝えられている少年天皇陽成の悪逆ぶりは枚挙にいとまが無い。藤原定家と同世代の慈円の歴史書『愚管抄』の巻第三は、「コノ陽成院、九歳ニテ位ニツキテ八年十六マデノアヒダ、昔ノ武烈天皇ノゴトクナノメナラズアサマシクテオハシマシ」と伝える。かつて武烈天皇は、人の生爪を剥いだ上で山芋を掘らせたとか、人の頭髪を抜いて木に登らせ、その木を切り倒して殺したり、弓で射落としたりして楽しんだとか、人を樋に入れてウォータースライダーのように池に流し、それを矛で刺し殺すのを楽しみとしたとか、胎児がどんなか見てみようと思って妊婦の腹を割いたとか、すさまじい悪逆ぶりが語られる。陽成天皇にも、人を木に登らせて落とし、「撃殺」して楽しんでいたという話がある。また蛙を集めて蛇に呑ませたり、猿と犬を闘わせてその様を見て楽しんだとも伝える。なかでも、乳母である紀全子の子である源益という男と宮中で相撲を取って、その男を「格殺」つまり殴り殺したという記事を『日本三代実録』が伝えている。つまり暴行殺人である。また、陽成天皇は生涯、馬を愛好し、身辺に置いて愛していたが、天皇に在位していた時も宮中にひそかに厩を作っていたとか、その馬に乗って暴走し、諸人を苦しめたという話もある。武烈天皇と同様に、女子に対する暴行の説話もある。 とはいえ、それらがすべて本当であったかは分からない。武烈天皇の場合も陽成天皇の場合も、その皇統がそこで断絶し、幾代か遡って傍系だった天皇が即位するのであり、こうした場合、その皇統のどん詰まりに位置する天皇は暴虐無類の人と記録されることになる。おそらく陽成天皇の殺人や婦女暴行、京都市中の暴走なども、事実無根か、そうではないにしても、本来取るに足りない出来事で、それが誇張されて伝えられたのだろう。陽成天皇は京中を馬で暴走して、女子を誘拐して何某の山荘に連れ込んで、そこで仲間とたむろしたのだという。なんだか平成の尾崎豊の歌のようであるが、九歳つまり満八歳の小学三年生の歳のときに帝位について、儀式や行事にあけくれ、行きたいところにも行けない生活に飽いた満十五六の少年が、たまに家出をして暴走するなど、それが天皇という身分でさえなければ、めずらしいこととも思えない。「殺人」も、機嫌良く相撲を取って気晴らしをしていたら、たまたま打ち所が悪かったという程度の事故にすぎなかったのかも知れない。蛙の話も、それが昭和の子供だったら誰にも覚えがあるようなモノだろう。暴走の話も、十五歳の少年だったらありふれた話でしかない。所詮は反抗期の少年の乱暴と、狂気と暴虐の説話の間には距離がありすぎる。 しかし、陽成天皇および母高子の追い落としを画策していた基経にとっては、天皇のこうした行為は充分な理由となることであった。陽成天皇は退位を余儀なくされることになったのである。その後、退位した院は陽成院および冷泉院に住居し、退位した後の生活は六十五年に及んだ。あいかわらず馬を身近にしていたようである。この年月の長さは特筆に値するであろう。陽成院は母親である高子といっしょに住んでいたわけでもないようだが、行き来はあったようだ。その高子は、複数の僧と醜聞があったということが喧伝され、先に触れたように、ついには皇太后の名と身分を剥奪されてしまう。妊娠の噂さえあったのだという。これも、そういうような指弾されるべき事実があったのか不明で、高子を陥れるために捏造された風聞だったのかも知れない。 なお、在位中の陽成天皇には不思議な話が伝えられている。滝口道則なる者が、東国の某郡司から「術」すなわち魔法を修得して帰った。それを聞いた陽成天皇が、その道則を召してその術を習ったというのである。院は、術を遣って几帳の上に賀茂の祭りの行列を出現させなどしたという。これは『宇治拾遺物語』の説話である。これが真実であるとすれば、天皇のなす事として、奇怪なことと言うべきであろう。また、退位後の陽成院が住んだ邸宅では、不思議な事件があったと伝えられている。その陽成院は妖異の起こる場所であるとされていたらしく、浦島太郎の弟と名乗る老人の姿の妖怪が出たというのである。おなじく『宇治拾遺物語』(一五八)の話である。陽成院の住むあたりにはなにか普通ではない妖気のようなものが漂っていると時の人は思っていたらしい。この陽成院の妻は何人かいるが、父のような乱倫はなかったようである。副臥といわれる教育係兼愛妾がおり、数人の妻があるが、それはごく普通の程度でしかない。ただし、妻たちは紀氏などの出が多いようで、母高子が藤原の妻を拒否していたのかも知れない。 そうした中で、綏子内親王の存在はやはり注意される。綏子内親王は光孝天皇の娘である。角田文衛は、綏子が陽成院に配された理由について、それを無理矢理譲位させられた陽成院に対する宇多天皇の罪滅ぼし、あるいは融和政策によるものと考えている(『王朝の映像 平安時代史の研究』)。宇多天皇は基経の薨じた後、自邸に新奇な釣殿を設けてそこに綏子を住まわせて陽成院の興味を引き、その建物を餌にして綏子と陽成院を見合いさせ、綏子を陽成院に配することを計画したのだという。それは突飛な想像かも知れないが、確かに陽成院のような立場の者と、〈政敵〉の皇女が結ばれるのは、よほどの訳があるように思われる。あるいは歌物語にできるような恋のドラマが現実にあったのかもしれない。というより、『古今和歌集』に収載された歌は、素直に読めば、そのように受け取られる歌である。 釣殿のみこにつかはしける 陽成院御製 ○ 筑波嶺の峰よりおつる男女の河恋ぞつもりて淵となりける この「恋」のころ、陽成院は退位して十年ほどで、息子の元良親王が七〜八歳。基経もすでに没して数年を経ていたと思われる。つまり若く激しい恋の季節は過ぎていて、宿敵基経も既に無いという時期である。そうした中で、陽成院は綏子を得ようとして、恋文を贈ったということになろう。 その経歴から考えて、陽成院は恋に対してシニカルになっていておかしくない。父も母も乱倫の人で、時間をかけて深く男女関係を育むことが不得手な人のようである。それを反面教師にした陽成院は、心が通う女人を避けていて当然であったかもしれない。女人などは所詮いっときの相手にすぎないと思っていたのかも知れない。それなのに、綏子に対しては少年のように恋をし、その感情を、恋する相手に真っ直ぐに伝えたのである。その頃、陽成院は二十代半ばであったと推定され、さすがに反抗期からは卒業していただろう。大人になっていたからこそ、陽成院は自らの心を捉える「恋心」に当惑した。そして、父を捉えたもの、母を捉えたもの、つまり恋なるものについて認識を新たにし、それこそが、なべて人の心に兆し、誰も打ち消すことのできないものであることを、はじめて知った。本稿はそんな風に考えたい。 陽成院と綏子は、冷泉院にあっておだやかに暮らしたらしい。子供こそ出来なかったが、綏子には陽成院の賀算(区切りのよい年の誕生日の祝い)を主宰したりしている。残念ながら、陽成院より先に没した。陽成院は、自らが退位を強制された人であり、それがために子息を帝位に就かせることができなかったひとである。また、少年期を閉塞的な宮殿で過ごし、それに息苦しさを感じていたらしい人である。退位を強制されたあとには京都の片隅に捨て置かれて、六十五年もひっそりと過ごした人でもある。また、父母の乱れた男女関係を反面教師とした人で、素直に女性を愛せない人でもあったにも関わらず、綏子を前にその恋心を押さえることが出来なかった人であった。シニカルに徹することのできなかったわけで、複雑な側面を持つ男であるように思える。 定家は、高子の人生も陽成院の「暴虐説話」もよく知っていたに違いない。蓮生の障子のために、定家はそんな複雑な人生を生きた陽成院を撰び、その真率な恋歌を撰んだのである。 |
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■14.河原左大臣 (かわらのさだいじん) | |
陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに
乱(みだ)れそめにし われならなくに |
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● 陸奥のしのぶずりの模様のように心が乱れはじめたのは誰のせいか。私のせいではないのに。 / 陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心は忍ぶ恋のために乱れています。このように乱れはじめたのは誰のせいでしょうか。私ではなくて皆あなたのせいなのですよ。 / 陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ/現在の福島県信夫郡)で作られるという「しのぶもじ摺り」という乱れ染めの布の文様のように、わたしの心も乱れてしまったのです。だれのせいなのでしょうね。わたしはだれにも心を乱されたくはなかったのに。 / 奥州のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心も(恋のために)乱れていますが、いったい誰のためにこのように思い乱れているのでしょう。 (きっとあなたの所為に違いありません)
○ 陸奥 / 白河関以北の地。現在の福島・宮城・岩手・青森の4県にほぼ相当する地域。 ○ しのぶもぢずり / 「(捩摺)もぢずり」は、陸奥の信夫(しのぶ)地域で産した乱れ模様に染めた布。信夫摺り(しのぶずり)ともいう。ここまでが序詞で、「乱れそめにし」にかかる。 ○ 誰ゆゑに / 誰のせいで。「誰ゆゑに」の後に続くはずの疑問・反語の係助詞(終助詞とする説もある)が省略されている。その部分を補って、「誰のせいか」と訳す。 ○ 乱れそめにし / 「そめ」は、「染め」と「初め」の掛詞。「乱れ」と「染め」は、「もぢずり」の縁語。「し」は、過去の助動詞の連体形。本来あるはずの疑問・反語の係助詞と係り結びとなるため、終止形ではなく連体形となっている。 ○ われならなくに / 「な」は、上代(奈良時代以前)に用いられた打消の助動詞。「く」は、その接尾語。「に」は、詠嘆の意味を含む逆接の接続助詞。終助詞とする説もある。「われならなくに」で、「私のせいではないのに」の意。「あなたのせいだ」という内容の表現が省略されている。(注)「私なら泣くのに」ではない。 |
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■ 1
源融(みなもと の とおる)は、嵯峨天皇の十二男。侍従、右衛門督、大納言などを歴任。極位極官は従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた。死後正一位を追贈されている。 嵯峨源氏融流初代。紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。 六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。 貞観14年(872年)に左大臣にまで昇ったが、同18年(876年)に下位である右大臣・藤原基経が陽成天皇の摂政に任じられたため、上表を出して自宅に引籠もった(『三代実録』及び『中右記』)。光孝天皇即位後の元慶8年(884年)、政務に復帰。 なお、陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後に即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わるが、当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。 また融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見える。 現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。 ■源融流嵯峨源氏 嵯峨源氏において子孫を長く伝えたのは源融の流れを汲み、地方に下り武家となった融流嵯峨源氏である。 その代表が摂津(大阪)の渡辺氏であり、祖の源綱は源融の孫の源仕の孫に当たり、母方の摂津国渡辺に住み、渡辺氏は大内守護(天皇警護)の滝口武者の一族に、また瀬戸内の水軍の棟梁氏族となる。 渡辺綱の子あるいは孫の渡辺久は肥前国松浦郡の宇野御厨の荘官となり松浦久と名のり、松浦郡の地頭の松浦氏は、肥前国の水軍松浦党の棟梁氏族となる。 筑後(福岡県柳川)の蒲池氏も源融の子孫であり、源融の孫の源是茂(源仕の弟)の孫の源貞清の孫の源満末が肥前国神埼郡の鳥羽院領神埼庄の荘官として下り、次子(あるいは孫)の源久直が筑後国三潴郡の地頭として三潴郡蒲池に住み蒲池久直と名のる。なお、歌手の松田聖子は、蒲池氏の末裔であるため、その意味では源融の子孫であると言える。 蒲池氏の末裔でもある西国郡代の窪田鎮勝(蒲池鎮克)の子で二千石の旗本の窪田鎮章が、幕将として幕末の鳥羽・伏見の戦いで討ち死にした際、大坂の太融寺で葬儀が行われた。この太融寺もまた、源融ゆかりの寺である。 また尾張(愛知県西部)大介職にあった中島宣長も源融13代目の子孫とされており、承久の乱に朝廷方として参加し、乱後の領地交渉の模様が吾妻鏡に記されている。なお宣長の孫の中島城主中島蔵人の子滅宗によって妙興寺等数寺が創建された。 |
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■ 2
源融 弘仁一三〜寛平七(822-895) 号:河原左大臣 嵯峨天皇の皇子。母は大原全子。子に大納言昇ほか。子孫に安法法師がいる。臣籍に下って侍従・右衛門督などを歴任、貞観十四年(872)、五十一歳で左大臣にのぼった。元慶八年(884)、陽成天皇譲位の際には、新帝擁立をめぐって藤原基経と争い、自らを皇位継承候補に擬した(『大鏡』)。仁和三年(887)、従一位。寛平七年(895)八月二十五日、薨去。七十四歳。贈正一位。河原院と呼ばれた邸宅は庭園に海水を運び入れて陸奥の名所塩釜を模すなど、その暮らしぶりは豪奢を極めたという。また宇治に有した別荘は、その後変遷を経て現在の平等院となる。古今集・後撰集に各二首の歌を残す。 貞観御時、弓のわざつかうまつりけるに けふ桜しづくに我が身いざ濡れむ香ごめにさそふ風の来ぬまに(後撰56) (今日、桜よ、雫に我が身はさあ濡れよう。香もろとも誘い去ってゆく風が来ないうちに。) 題しらず 陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに(古今724) (陸奥の「しのぶもぢ摺り」の乱れ模様のように、私の忍ぶ心は誰のせいで乱れようというのか。あなた以外に誰がいよう。ほかの誰のためにも、心を乱そうなどと思わぬ私なのに。) 五節の朝(あした)に、簪(かんざし)の玉の落ちたりけるを見て、誰がならむととぶらひてよめる ぬしやたれ問へどしら玉いはなくにさらばなべてやあはれと思はむ(古今873) (この真珠の持ち主は誰か。尋ねても相手は白玉だから、「しら」ぬふりをして、(誰も自分のものだとは)言わない。それなら私は舞姫を皆いとしいと思うことにしようよ。) 家に行平朝臣まうで来たりけるに、月のおもしろかりけるに、酒などたうべて、まかりたたむとしけるほどに 照る月をまさ木のつなによりかけてあかず別るる人をつながむ(後撰1081) (輝く月を「まさ木の綱」に縒って懸けて、心残りのまま別れて行く人を繋ぎ止めよう。) |
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源融と塩釜の浦 源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇の皇子で、仁明天皇の異母弟にあたる。「三代実録」の貞観6年(864年)3月8日の条に「正三位行中納言源朝臣融加陸奥出羽按察使」とあり、融は、陸奥出羽按察使の任にあったが、「続日本後紀」等の文献により、直接任国に行くことを免除された「遥任」であったことが知られる。しかし、これによらず、かつての多賀城の周辺に、源融にまつわる神社や古跡が散見されるのは、どのような背景からだろうか。 むかし、東北地方は西国の人々にとって「道の奥」すなわち未知の国であり、少々恐れを抱きながらも憬れの地であり、こころ惹かれる土地であった。その一端をうかがわせるエピソードが、鴨長明の「無名抄」に書かれている。これによれば、歌人として知られた橘為仲が陸奥守の任を終えて京へ戻るときに、宮城野の萩を12個の長櫃(ながびつ)に収めて持ち帰ったところ、大勢の人がその土産を見るため、二条の大路に集まっていたという。 五月五日かつみを葺く事 (中略)此為仲、任果てて上りける時、宮城野の萩を掘りとりて長櫃十二合に入れて持ち上りければ、人あまねくききて、京へ入ける日は、二条の大路にこれを見物にして人多く集まりて、車などもあまたたちたりけるとぞ。(無名抄) しかし、源融にとって、陸奥への思いは深く、こうした土産や土産話では充分に満足できなかったと見えて、加茂川にほどちかい六条辺り(六条河原)の自邸の庭に、わざわざ海水を運ばせて塩釜の浦の景色をこしらえ、藻塩を焼く風雅を楽しんだ。源融は、こうした振舞いから河原左大臣と呼ばれるようになり、「庭に作った塩釜」の話は、宇治拾遺物語や伊勢物語にも取り上げられ、広く知られるところとなった。 今は昔、河原院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩釜の形を作りて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのおかしき事を尽して、住み給ひける。大臣失せて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門、たびたび行幸ありけり。 (宇治拾遺物語 巻第十二 十五 河原院融公の霊住む事) むかし、左のおほいまうちぎみ(大臣)いまそかりけり。賀茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。かんなづきのつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王(みこ)たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒のみし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐおきな(在原業平)、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。 塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ わたしは塩釜にいつ来ていたのだろう。朝なぎの中、釣りに出ている船はこちらに寄ってきてほしい。 となむよみけるは、陸奥の国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国の中に、塩竈という所に似たる所なかりけり。さればなむ、かのおきな、さらにここをめでて、塩釜にいつか来にけむとよめりける。 (伊勢物語 第八十一段) このように、源融が自邸に塩釜の浦を築き上げ、さらには、上の通りに「おもしろきをほむる歌」を詠む趣向の最後に、在原業平が「塩釜にいつか来にけむ」の歌を詠んで、模擬の塩釜を実景と見まごうばかりと過大に評価した。 「塩釜にいつか来にけむ」の歌は、「続後拾遺和歌集」や家集「在原業平集(在中将集)」にも見られる。 河原の左大臣の家にまかりて侍りけるに、塩がまといふ所のさまをつくれりけるを見てよめる 塩がまにいつか来にけむ朝なぎにつりする舟はここによらなむ 業平朝臣 (続後拾遺和歌集) ひたりのおほいまうちきみ、かも河のほとりに家をおもしろくつくりて、神な月のつこもり菊の花さかりなるころ、みこたちおはしまさせて、ひゝと日、酒のみ遊びしたまふ、この殿のおもしろきよし人々よみけるに しほかまにいつか来にけむ朝なきにつりする舟はここによらなむ (在原業平集) こうなると、かの塩釜が京でも見られるとのうわさが広まり、橘為仲の萩の話のように風流人が興味津々で融の庭に集まってくる。紀貫之もそうした中の一人と見えて、次の歌が古今和歌集に採録されている。 河原左大臣の身罷免りて後、かの家にまかりてありけるに、塩釜という所のさまをつくれりけるを見てよめる、 君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな 河原左大臣がお亡くなりになり、塩を焼く煙も絶えてしまった「塩釜」は、ほんとうにうら寂しく見えてしまうものだ。 (古今和歌集 巻十六) こうして、源融は、時の流れとともに「実際に陸奥に赴いた経験があり、塩釜の風雅を語れる」人間として伝播し、その結果、陸奥各地に融にまつわるさまざまな伝説が生まれることとなり、遂には、「融公 (中略) 塩浦の勝を愛慕し、其美を当時に繁揚す。塩浦第一の知己と謂つべし。此地に祠して祭る」(鹽勝松譜)として、源融を祭る神社まで存するに至った、と思われるのである。 本村浮島高平囲に大臣宮(おとどのみや)の旧跡がある。大臣宮は第五十二代嵯峨天皇第十二の皇子源融を祭ったものだと言い伝えられている。明治四十一年までは石のお宮があったが、今は浮島神社に合祀されて大なる礎石だけが残っている。(中略) 塩釜町赤坂を下りて西町に入る右上に塩釜公園あり、俗に融ヶ岡とも称し、此処より融が塩釜の景を眺望したところだといっている。 |
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伊勢物語と源融 ■伊勢物語も穢き藤原氏糾弾の書 ○ 伊勢物語は何のために書かれたか 在原業平が主人公とされる伊勢物語の第一段には、源融が作った百人一首に出てくる以下の有名な歌がある。 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにし我ならなくに この歌は、中納言源融が按察使として陸奥国に出向いていた際(864年頃か)に、 信夫文知摺石(しのぶもぢ摺石)を訪ねて信夫の里にやってきた時の虎女との悲恋に始まる。源融は村長の家に泊まり、美しく、気立てのやさしい娘・虎女を見初めてしまった。 源融の逗留は一ヶ月余りにもおよび、いつしか二人は愛し合うようになっていた。しかし、融のもとへ都に帰るように綴られた文が届き、幸せな日々に区切りを置くことになる。 別れを悲しむ虎女に融は再会を約束し、都に旅立った。残された虎女は、融恋しさのあまり、信夫文知摺石を麦草で磨き、 ついに融の面影を鏡のようにこの石に映し出すことができた。が、このとき既に虎女は精魂尽き果てており、融との再会を果たすことなく、 ついに身をやつし、果てたと言う。源融は二度と虎女と会うことはなかったが、虎女との恋を歌ったのが上記の歌である。このように伊勢物語は、穢き藤原氏の京都では見られない別天地が、 東国にはあることを示したのである。そして、そのパラダイスの頂点に源融がいた。 ○ 穢き藤原基軽に阻止された源融の即位 源融は、嵯峨天皇の皇子だから天皇になれる資格があったが、 穢き藤原基軽によって阻止されたのである。源融は、「後胤なれど姓賜ひてただ人に仕えて、位につきたる例やある」と 穢き藤原基軽によってイチャモンを付られたのである。源氏姓を名乗っていた源融には即位の権利がないと、穢き藤原基軽は不合理なイチャモンを付けたのである。結局、藤原総の娘の澤子と結婚していた仁明天皇の第三子の時康親王(830-887)が55歳で光孝天皇になった。 光孝天皇は、穢き藤原基軽を関白にした。しかし、3年後には穢き藤原基軽は、光孝天皇の第二子で源氏姓を名乗っていた源氏定省を 宇多天皇として887年に即位をさせたのである。宇多天皇は、穢き藤原基軽の猶子(養子と似ているが姓は変わらない)だった。宇多上皇の滞在中に源融の亡霊が現れたという伝説が「今昔物語」や「江談抄」等に出ているから、 まあ、藤原基軽は、相当穢い手を使って源融を倒したと見られる。 ○ 穢き藤原基軽への恨みを歌とみやびで返した源融 今の時代から見れば、勝者の穢き藤原基軽なんて何をした人間なのか分からないので、 「穢ねえロクでもないヤツ」としか記憶されない(名前すら知られない)が、 源融は伊勢物語のパトロンであるとともに、源氏物語の光源氏のモデルとなった。源氏物語の源氏とは源融の物語と言う意味であるらしい。敗者の源融の方が、日本の文化に大きく貢献して歴史に名を残した訳で、 勝者の藤原基軽の方は「穢ねえヤツ」としか記憶されのは、歴史の皮肉と言うしかない。左大臣だった源融は、太政大臣だった藤原基軽との衝突を避けて、 876年頃より自宅に引籠もったと言うが、この時期に源融は、 現在の渉成園に「塩釜」を模した「六条河原院」を造ったようだ。源融は、伊勢物語のパトロンであるとともに詩歌や庭園で代表される 平安時代の日本文化の基礎を築いた。結果的に政敵の穢き藤原基軽への恨みを歌とみやびで返した訳だ。当時は歌や日記などが言論だったから、源融は言論界を握り巧妙な方法で、 百済人出身の藤原氏を揶揄し、その正当性を否定したのだろう。勿論、百済人出身の藤原氏に日本文化の創造などできる訳はなかったが、 テロ手法と言う卑劣な方法で日本の政治を独占されてしまった。日本人そのものである天皇家がアンチ藤原氏になるのも当然だった。 藤原氏に対抗すべく天皇家が頼ったのは、何時の時代でも東国だった。 ■日本式庭園を発明した源融 ○ 源融が作った「塩釜」という日本式庭園 864年に、中納言源融は陸奥出羽按察使(東北地方を監督する役職)を兼務することになった。しかし、当時は遙任と言って、実際には赴任しなかったとようだ。塩釜の風光明媚な御殿山(塩釜女子高あたり)周辺に、貴族の屋敷が集まっており、 源融邸もその近くの俗に「融ヶ岡」と呼ばれる塩釜高校のあたりにあったと言う。そして、源融は千賀ノ浦(塩釜湾)の風景をこよなく愛し、都へ帰ってからも、 塩釜の景色が忘れられず、「塩釜」を模した「六条河原院」を造った。源融が「塩釜」という庭園を築くまでは中国式の庭園が主流であったが、 「塩釜」という日本の風景をモデルにしたことから、これが日本庭園のルーツとも考えられている。 ○ 藤原氏と明治政府の類似性 このような源融の功績は、穢き藤原氏によって抹殺されている。 藤原氏は唯我独尊で、藤原一族でないと功績どころかその存在さえも認めないのだ。藤原氏は、日本古来の伝統や神や貴族の存在をことごとく抹殺し、 新たに新興宗教のような得体の知れない伝統や神を捏造した。この辺は、江戸時代の文化を否定した明治政府とよく似ている。 藤原氏も明治政府も自分達の権力維持のためだけに天皇を徹底的に利用した。藤原氏はテロリスト集団であり、天皇家や蘇我氏などの名家の反藤原勢力をテロで暗殺した。 そして、自分自身は何の文化も残さず、日本書紀のような自分に都合のよい歴史書を作って、 自分の正当性を捏造した。藤原氏と同様に明治政府も薩長のテロリスト集団から構成され、それまでの日本文化を破壊した上に、 何の新たな文化も創造できず、狂信的な軍隊を作って1945年についに日本を破滅させた。藤原氏も明治政府も天皇を利用する好戦的なテロリスト集団であった点と、 その結果として文化の創造が全くできなかった点がそっくりである。 |
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源融の河原院と下寺町 |
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■ 源融河原院址
前回紹介した扇塚のところから、少し迂回して五条河原町の交差点を渡ります。そこから、高瀬川まで五条通を東に戻ります。五条通から側道にはいって、高瀬川に架る小さな橋を渡りますと、木屋町通で、すぐに、二股になった榎が見えます。この榎は、榎大明神の神木として祀られており、写真でわかるように堂々とした大樹で、注連縄が張ってあります。平成十二年には、京都市の「区民の誇りの木」に選ばれています。 この榎の根元に、「此付近源融河原院址」(木屋町通五条下ル)の石碑があります。 河原左大臣こと源融 〔八二二年〜八九五年〕は、嵯峨天皇の第十二子。融流嵯峨源氏の祖。政治よりも風流を好んだと伝えられ、嵯峨にも別邸「栖霞観」を造営しました。これは、現在の嵯峨釈迦堂〔清涼寺〕で、源融の墓所でもあります。宇治に造営した別邸は、のちに平等院になって、現在に至っています。 源融は陸奥出羽の按察使(あぜち)として、多賀城に赴任したと伝えられています(実際には、遙任の形かもしれませんが)。その道中の途中、信夫(福島県)の文字摺石を見て詠んだとつたえられる歌が、古今和歌集に載っています。 かはらの左大臣 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへに みだれむと思ふ我ならなくに 古今和歌集巻第十四・恋歌四・七二四 文字摺りは、捩ぢ摺り(よじれた文様)のことで、文字摺石の文様を染めたと伝えられる布。「みだれむと思ふ」をすこしだけ変えたかたち「みだれそめにし」として、小倉百人一首にも採られているのは、ご存じのとおりです。 源融の河原院とは、どんなところか。伝承によれば、塩竃(日本三景の一つ、宮城県の松島)にみたてた庭園をつくり、日ごと難波から海水を運ばせて藻塩を焼き、みやびを尽くしたといわれています。『都名所図会』巻之二では、「河原院の旧跡」の項があり、 五条橋通万里 小路の東八町四方にあり。鴨川は此殿舎(でんしや)の庭中(ていちう)を流(ながるゝ)と見えたり。此所は、融左大臣の別荘にして、台閣水石風流をつくし、遊蕩の美を擅にし、山を築ては草木繁茂し四時に花絶えず、池を鑿ては水を湛へ、魚鳥は波に戯れ、陸奥の松島をうつし、難波津より日毎に潮を汲せ、管弦は仙台に調、文籍は月殿に翫び給ふ。大臣薨じ給へて後、寛平法皇此勝地に遊覧し、東六条院と号す。 その後、源融第三子の仁康上人のもとで、丈六の釈迦仏を安置し、六条院という寺院になったと記載されています。 河原院は、北は五条通(平安京の六条坊門小路)、南は六条通(六条大路)、西は柳馬場通(万里小路)、東は寺町通(東京極大路)で囲まれた広大な敷地を占めていました。この榎と石碑の位置は、寺町通の延長線よりすこし東側にありますので、敷地外になりますが、目をつぶっておきましょう。借景ということもありえますから。 |
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■ 大鏡にでてくる源融
ところが、源融は、風流だけの人ではないのです。なにしろ、藤原氏の専横が始まる時代に、左大臣まで昇った人です。『大鏡』上之巻の「太政大臣基経伝」には、陽成天皇が退位したとき(八八四年)に、「源融が自分も皇位継承の権利があると主張した話」が載っています。このとき、「臣下に下ったものが天皇になった例はない」と藤原基経〔八三六〜八九一〕が主張し、結局は光孝天皇が五五歳で即位しました。該当の箇所を引用しましょう。 陽成院 おりさせ給ふべき陣の定めに、さふらはせ給ふ。融のおとゞ、やんごとなくて、位につかせ給はん御心ふかくて、「いかゞは近き皇胤をたづねば、融らも侍るは」といひ出でたまへるを、この大臣こそ、「皇胤なれど、姓を給はりてたゞ人にてつかへて、位につきたるためしやある」と申し出でたまへれ。さもある事なれば、この大臣の定めによりて、小松の帝は位につかせたまへるなり。 『大鏡』上之巻・太政大臣基経伝 実際には藤原基経が陽成天皇を廃位に追い込み、光孝天皇〔小松の帝〕を擁立したというのが歴史的な事実です。光孝天皇の在位は、八八四年〜八八七年の四年です。次の宇多天皇は、光孝天皇の皇子ですが、皮肉なことに、光孝天皇の臨終のときには、源定省として臣下に下っていました。藤原基経は、光孝天皇の崩御間際に源定省を皇太子に戻したうえで、後継の天皇とするという荒業をやってのけました。このやり方と同じく、陽成天皇を廃するときに、源融を皇太子に戻した上で天皇としてもよかったわけです。藤原基経にとっては、要するに傀儡としての天皇を擁立するのが目的で、理屈は時に応じてどうにもなるということです。これは想像ですが、源融は藤原基経の専横に嫌気がさして、風流の道に逃れ、河原院の造営に心血を注いだのではないでしょうか。 宇多天皇は、藤原基経の支持によって天皇となりますが、ときを経ずして、宇多天皇と藤原基経の関係が険悪となります。この確執が、次の醍醐天皇の時代に、菅原道真(宇多上皇のブレイン)と藤原時平(基経の長子)との政争につながってゆきます。 |
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■ 伊勢物語と河原院
河原院が有名であったのは、いろいろな古典籍に記載されていることでも推察されます。『伊勢物語』の第八一段には、次のようにでてきます。 むかし、左の大臣いまそがりけり。賀茂河のほとりに、六條わたりに、家をいとおもしろくつくりて住み給ひけり。十月のつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、(中略)この殿のおもしろきをほむるうたよむ。そこにありけるかたゐおきな、いたじきのしたにはひありきて、人にみなよませはててよめる。 鹽竃 にいつか來にけむ朝なぎに 釣する舟はこゝに寄らなむ となむよみけるは。(中略)さればなむ、かの翁さらにこゝをめでて、鹽竃にいつか來にけむとよめりける。 『伊勢物語』 この歌は、『在中将集』という在原業平〔八二五〜八八〇〕の家集にもともと載っていたものが、伊勢物語第八一段に脚色されたと推測されます。さらには、ずっとのち、鎌倉時代最末期の一三二六年に、『続後拾遺和歌集』が撰進されますが、この集にも、「河原の左大臣の家にまかりて侍りけるに、塩がまといふ所のさまをつくれりけるを見てよめる」という詞書とともに、在原業平の歌(巻第十五・雑上・九七五)として収録されています。 |
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■ 宇治拾遺物語と河原院
『都名所図会』「河原院の旧跡」の引用文中にある寛平法皇とは、宇多上皇〔八六七〜九三一、天皇在位八八七〜八九七〕のこと。源融の時代からは、一世代あとです。本シリーズ第2回、第4回にでてきた菅原道真〔八四五〜九〇三〕はそのブレインでした。古今集を編纂した紀貫之〔八七二? 〜九四五〕は、源融の時代からおよそ二世代あとの人ですので、紀貫之の在世中には、河原邸は残っていたと考えられます。古今和歌集に載っている貫之の歌は、おそらく宇多上皇に献上される前の様子を詠ったものと考えられます。 河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、しほがまといふ所のさまをつくれりけるをみてよめる つらゆき 君まさで煙たえにし塩がまの 浦さびしくも見えわたる哉 古今和歌集巻第十六・哀傷歌・八五二 『宇治拾遺物語」巻第十二・十五(第一五一話)「河原の院に融公の霊住む事」と題して、河原院が宇多上皇に献上されたあとのことが記されています。 今は昔、河原の院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩竃の形を作りて、潮を汲み寄せて鹽を焼かせなど、さまざまのをかしき事を盡して、住み給ひける。大臣うせて後、宇多院には奉りたるなり。 宇多上皇が住んでいると、融の幽霊がでてきて、「自分の家であるから住んでいるのに、あなたが住み始めたから狭くなってしまった」と恨みごとをいいます。宇多上皇が、「故大臣の子孫から献上されたので住んでいる。押し入って奪ったのならともかく、礼知らずにも怨むのは筋違いだ」と高らかにおっしゃると、幽霊は掻き消すようにいなくなりました。「さすがは、宇多上皇。普通の人ならば、融の幽霊に対して、このように、堂々ということはできない」と世人は噂したというあらすじです。同じ話が、『今昔物語』巻二七・二にも、「川原院融左大臣霊宇陀院見給語」として出ています。 |
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■ 河原院の荒廃と歌枕「塩竃」
源融の河原院は、宇多上皇の東六条院となったあと荒廃しましたが、そのあと、六条院という寺になりました。源融の子孫の安法法師(生没年不詳)が住んで、応和二年〔九六二年〕に「庚申河原院歌合」を主催するなど、当時の歌人たちのサロンとなっていたと伝えられています。親交のあった恵慶法師 (生没年不詳。平安時代中期)の河原院での歌。 河原院にて、あれたるやどに秋来といふ心を人々よみ侍りけるに 恵慶法師 やへむぐらしげれるやどのさびしきに 人こそみえね秋はきにけり 拾遺和歌集巻第三・秋・一四〇 この歌は、百人一首にも採られています。実をいいますと、百人一首を通じて知っていただけでしたので、この歌が河原院の跡で詠われたとは知りませんでした。河原院で歌われたと知れば、この歌の情趣はこれまでとは異なったものに感じます。 安法法師にも、家集が残っていて、その中に河原院をしのんで詠った歌が載っています。この歌は、上で引用した紀貫之の歌を踏まえています。 この河原院に、むかし、陸奥の国の塩釜の浦、浮島・籬(まがき)の島、うつしつくられたりければ、大臣かくれたまひて後、躬恒・貫之など来つゝよめりければ、それがいとかぎりなければ人のよまぬを心みにとて、しのびによめる 年ふりて海人ぞなれたる塩竃の 浦の煙はまだぞのこれる 『安法法師集』『平安私家集』 平兼盛が河原院を訪れるといっていたのに、訪れないまま、天元二年〔九七七年〕に駿河守として下向してしまったので、多少の皮肉をこめて安法法師が詠んだ歌。贈る機会を逸してそのままになっていたという詞書が添えられています。 駿河守兼盛の君、あふ所ごとに、「院の塩釜まいりてよまん」といひけるを、来で下りにければ、ふみつくりくわへてよめりける、やらずなりにけり。 塩釜の浦はかひなし富士の嶺の うつさましかばきてはみてまし 『安法法師集』 平兼盛〔? 〜九九一〕は、三十六歌仙の一人。百人一首の「しのぶれど」の歌で有名です。注では、「あふ所ごとに」は「あふ折ごとに」の誤りとしています。多分、会うたびに安法法師が、自分の主宰する河原院のサロンを訪ねるように頼んだのでしょう。詞書からうかがえるのは、兼盛の生返事。兼盛が訪ねて歌を詠んだとなると、サロンの評判もぐっと上がったのに。安法法師の算段も捕らぬ狸の皮算用になってしまいましたね。 能の『融』では、六条河原院の跡にたどりついた旅僧の前に、前シテの汐汲みの翁があらわれて、かっての酒宴のさまを慕い、秋の月に照らされた京の名所について語るうちに、汐曇りにかき紛れて消えてゆきます。後シテの融大臣の霊があらわれて、塩竃の浦に心をよせ、籬が島の松陰の名月に小舟を浮かべたさまをしのび、「あら面白の遊楽や」と秋の月をめでつつ舞ったあと、月の影が傾くとともに月の都に帰ってゆきます。 源融河原院の伝承を契機として、「塩竃」は、歌枕として数多くの和歌に詠まれるようになります。さらに、白川の関をこえた「みちのく」は、王侯貴族のあこがれの的となり、西行法師をへて松尾芭蕉の「おくのほそ道」につながります。 |
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■ 源氏物語の六条院
源融自身は、風雅の人として、紫式部「源氏物語」の光源氏のモデルとする説があります。また、その河原院は、光源氏が造営した六条院のモデルであるといわれています。『源氏物語』第二一「少女」の巻に、その敷地は四町とあります。 大殿、静かなる御住ひを、「同じくは広く見どころありて、ここかしこにおぼつかなき山里人などをも、集へ住ませむ」の御心にて、六条京極のわたりに、中宮の御ふるき宮のほとりを、四町を占めて造らせ給ふ。 ここは、もともと秋好中宮(梅壷の女御)の母、六条御息所の邸宅のあったところ。光源氏の六条院は、北は六条坊門小路(今の五条通)、南は六条大路、西は万里小路(今の柳馬場通)、東は東京極大路(今の寺町通)で囲まれた敷地であったと考えられ、ちょうど源融の河原院の敷地に相当します。その四町を四つに分け、東南の町を春とし紫の上を、東北の町を夏とし花散里を、西南の町を秋とし秋好中宮を、西北の町を冬とし明石の上をそれぞれ住まわせるという壮大な設計です。 |
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■ 五条大橋
現在の五条通は、平安京の六条坊門小路です。豊臣秀吉が、方広寺の大仏への参道とするために、五条橋を六条坊門小路に架け替えたことから、五条橋通と呼ばれるようになりました。現在では、「橋」を省略して単に五条通と呼んでいます。『都名所図会』巻之二には、東北方面からみた五条橋(一七八〇年頃)の鳥瞰図が載っていますので、引用しましょう。 この鳥瞰図の下隅には、鴨川と高瀬川が平行して、右から左へ流れています。五条橋通と直角に交わっている通りは寺町通(京極通)です。五条橋の西詰の南側には、新善光寺御影堂が大きく描かれています。時宗に属し、豊臣秀吉の京都改造の際にここに移転。御影堂扇で有名であったことは、第8回の最後で紹介しました。 この鳥瞰図を仔細にみると、松豊八幡宮(門出八幡、首途八幡)が描かれています。首途八幡の西に描かれた新善光寺御影堂の本堂の北に「鏡の池」が、南に方丈を隔てて塩竃井」が、描かれています。鳥瞰図の左下隅に籬の森の札が書いてあり、柵で囲んだ、それらしい木立が描かれています。上で引用した『都名所図会』「河原院の旧跡」の記載のうしろに、割注として、 五条橋の南、鴨川高瀬川の間に森あり、これを籬の森といふ。河原院の遺跡なり と記されていますから、「此付近源融河原院址」の碑の側にある榎は、籬の森の名残かもしれません。 新善光寺御影堂は、太平洋戦争中に五条通拡幅のため、滋賀県長浜市に移転しました。拡幅まえの五条通は、現在の五条通の北側歩道部分の幅程度であったといいますから、御影堂の境内のほとんどが削りとられたことになります。その名残は、五条通南側の地名に「御影堂町」として残るだけになっています。 確認のために、現在の地図を見ると、河原町五条の交差点の東南側は、三方を道路(五条通、河原町通、斜めの道)に挟まれた三角地(御影堂町)になっています。この三角地の部分と、今は五条通の車道・南側歩道になっている部分とをあわせた区域(全部ではないかも知れません)が、御影堂の境内であったということになります。 三角地の南、斜めの道は、実は、京都電気鉄道(木屋町線)の路面電車が走っていた跡地です。この電車は明治二八年〔一八九五年〕から昭和二年〔一九二七年〕まで、京都駅を始点にして、現在の河原町通からこの斜めの道を通って、木屋町通を二条まで北上していました。そういえば、五条寺町の交差点(今では五条通を渡れなくなっています)の東北側歩道上に、この斜めの道の延長の痕跡(北に向かうと、左側は店舗、右側は小さな三角緑地帯)が残っていて、木屋町に達するようになっています。なにげないところに曰くがあるものですね。いままでは、「なぜこんな風になっているのだろう」という疑問さえもわかなかったのですが。 |
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■ 五条新地
高瀬川に架る榎橋を渡って、「此付近源融河原院址」碑の対岸へ。高瀬川の東岸沿いに延びる通りから分かれて、南に延びる通りは、西木屋町通。この通りに、町名看板「西木屋町通五條下ル平居町」 があります。 このあたりは、豊臣秀吉の京都大改造のときに築かれた御土居の外側に沿った地域で、宝暦年間〔一七五一〜一七六四〕に「五条新地」として開発されたところです。「五条橋下」の遊所として、北野上七軒から茶屋株を分派して遊里としたといわれています(『京都市の地名』)。これより南にも、すでに、六条新地、七条新地と呼ばれる遊郭ができていました。のちに、「五条楽園」と呼ばれるようになり、大いに繁栄しました。現在でも、看板や建物などに、その面影が残っています。写真は、木造三階建の五条楽園歌舞練場(西高瀬川筋五条下ル平居町)。 歌舞練場から、東方向(正確には東南方向)に進む道が六軒通。高瀬川に架る橋を渡ってさらに進むと、町名看板「六軒通木屋町東入岩瀧町」があります。ここは、三叉路(Y字路)になっていて、西南かどの建物にはってあります。 同じ建物の東側側面、三ノ宮町通に面したところには、町名看板「三ノ宮町通六軒下ル岩瀧町」があります。六軒通は、ここで少し曲がりますが、さらに東に進むと町名看板「六軒通木屋町東入早尾町」にゆき当たります。町名看板 は、基準の場所が同じで、町名が違うだけです。 町名看板がある五条楽園界隈の写真を載せておきましょう。これまでに出てきた平居町、岩滝町、早尾町は、源融の河原院の一部にあたります。さらには鴨川沿いの都市町、波止土濃町、八ツ柳町など、高瀬川沿いの聖真子町、梅湊町なども源融の河原院の敷地の一部です。 上方落語の『三十石夢の通い路』(桂米朝全集第四巻)に、五条新地(橋下)のことが出てまいります。小話に仕立ててあって、面白い。すこしだけ変えて、上品な艶笑話として紹介しましょう。 三条大橋、四条大橋、五条大橋が集まって、自慢話をしております。三条大橋は、「先斗町があるから、色気のある女が通る」と自慢します。四条大橋は、「東に祇園・宮川町、西に先斗町で、両手に花や。色気のある女が、仰山通る」と強気にまくしたてます。五条大橋は、「橋下があるし、三条大橋と同じくらい別嬪が通る」と、負けずと対抗しますが、やや弱気。一同「やっぱり、景気のよいのは、四条大橋や」となったところで、「でもな」と、四条大橋。「なんぼ、女が通っても、肝腎の擬宝珠がない。三条と五条がうらやましい。」 そういえば、三条大橋と五条大橋には擬宝珠があるが、四条大橋には擬宝珠がありませんね。擬宝珠があるのは、三条大橋は東海道の基点、五条大橋は伏見街道と渋谷街道の基点であったためです。これに対して、四条大橋は、八坂神社への参道。ここにも、京都の歴史が顔をのぞかしています。 |
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■ 高瀬川の船廻し場跡
木屋町通の一つ東、南北の通りは、三ノ宮町通といいます。この通りを南下し、上の口通にでて、高瀬川を渡ると、ひと・まち交流館京都(西木屋町通上の口上ル梅湊町)があります。ここは、元の菊浜小学校の跡地。その裏手の高瀬川沿いに、船廻し場跡の記念碑があります。当時はこのあたりの川幅は九メートルほどあり、岸が砂浜となった船廻し場であったとのこと。「菊浜」の名称は、もともとの所在地の「菊屋町」と「浜」の地名から合成したもの。ひと・まち交流館京都の北側、菊浜グランドとして「菊浜」の名前が残っています。 高瀬川は、角倉了以・素庵父子が慶長十六年〔一六一一年〕から同十九年〔一六一四年〕まで四年をかけて開鑿した運河です。方広寺(大仏殿)を造営するための資材運搬が鴨川の水運によって行われたことにヒントを得て、安定した資材供給のために計画したもの。北は二条から、伏見を経て、南は宇治川まで。このあたりは、豊臣秀吉が築いた御土居の外側を開鑿しています。大正九年〔一九二〇年〕に廃止されるまで、原材料・生活物資の京都移入、京都の物産の搬出に貢献しました。 引用した『都名所図会』の五条橋図の中で面白いのは、「籬の森」と記載された場所に、高瀬舟の舟曳きの様子が描かれていることです。一方、上流の五条橋の北側には、高瀬舟を船頭が一人で操作して、高瀬川を下っている様子が描かれています。当時の高瀬川の水運の様子がうかがえます。 さらに調べてみると、『拾遺名所図会』にも、「高瀬川」の挿絵が載っており、高瀬舟の船曳きの様子が詳しく描かれております。引用した挿絵をみると、高瀬舟が連結されて、一艘ごとに三、四名の曳き手で曳いたことがうかがえます。また、曳き手が通行するため、高瀬川に架る橋が一段高いところにつくられています。そのため階段で登り降りするようになっていて、車馬の通行はできない構造になっています。 |
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■ 下寺町の寺々、等善寺と竹林院
豊臣秀吉の京都改造のときに、御土居が築かれました。御土居の遺構は、このあたりに今は残っていませんが、高瀬川が御土居の西側に沿って開鑿されたことを考えると、御土居の大体の位置がわかります。京都改造のときに、築かれた御土居の内側、ちょうど六条河原院の故地のに、たくさんの寺が移築されました。現在でも、五条通、六条通、高倉通、河原町通に囲まれた地域に、その多くが残っています。この地域は、古くは下寺町と呼ばれ、現在の町名「本塩竃町」に、源融の河原院の名残が残っています。先ほどのひと・まち交流館京都の南側の通りは、上の口通。ここから河原町通に出て、東側の歩道を北上しますと、浄土宗等善寺(河原町通五条下ル平居町)があります。上述の五条楽園歌舞練場の北側にあたります。面している通りは違いますが、同じ平居町。等善寺は、上で引用した『都名所図会』巻之二五条橋の鳥瞰図にも「等善寺・橘行平の塚」として載っており、寛平五年〔八九三年〕橘行平の建立と伝えられます。 等善寺の北側、同じ平居町の町内で、河原町通に面したところには、浄土宗竹林院(河原町通五条下ル平居町)があります。『都名所図会』巻之二には、「鬼頭天皇」の項があり、「本覚寺の東南、竹林院の堂内にあり」と説明したあと、割注でその由来を紹介しています。 正安二年の春、後伏見院北山に御幸ありし時、北面葛原兵部重清供奉し、朝霧といふ官女を見初、連理の交をなす。父これを制して、又八重姫を娶に、朝霧ふかく嫉、水食を断て死す。重清これを菩提の種とし、出家を遂、紀伊国二鬼嶋へ赴き、庵を結び、苦楽坊と號し、行ひすまして居たりける。然るに疫病をうけて苦悩す。時に朝霧が亡魂鬼女と現じ、苦楽坊の頭を撫れば、忽平癒す。功つもりて共に成佛し、末代其證として頭をのこし、鬼頭天皇と號しける。 鬼頭天皇が現在も祭られているかどうかは、調査不足でわかりません。気になる逸話ですので引用しましたが、出典など不明です。もう少し調査をしたいと思います。 |
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■ 金光寺と市比売神社
五条河原町の交差点から、今度は、河原町通の東側の歩道を南下しましょう。六条通を西に入りますと、北側の民家に、町名看板「六條通河原町西入本塩竃町」が貼ってあります。ちょうどその向かい、南側の民家にも、同じ町名も看板「六條通河原町西入本塩竃町」があります。 町名看板の隣には、市比売神社(市賣比神社、六条通河原町西入本塩竃町)の鳥居が、社務所兼集合住宅の一階部分にはめ込まれています。さらに、その西隣には、金光寺があります。市比売神社の創建は金光寺より古いようですが、中世以降、金光寺の鎮守となっていました。今は、金光寺から独立しています。 『都名所図会』巻之二には、「市中山金光寺」の項があり、 時宗にして、本尊阿弥陀佛は定朝の作、開基は空也上人なり。初は、堀川七条の北にあり。今の本願寺境内なり。むかし此地賣人の市場たるにより、市屋道場ともいふ。 と紹介しています。「市中山金光寺」の項の中に副項目として「市比賣社」があり、「當寺にあり、此邊の産沙とす。祭りは五月十三日」と説明しています。 「堀川七条の北」とは、西本願寺の南、今の興正寺のある地域で、平安京の東市の位置にあたります。『京都市の地名』では、『山州名跡志』を引いて、次のように説明しています。 空也上人承平年中〔九三一〜九三八〕に、上人、市姫の神勅を得て開きし所なり。薬師仏を以って本尊と為す。今の薬師是なり。 もともとは天台宗であったが、一遍上人が京都に布教に来た時に、金光寺の住職であった作阿上人が一遍上人に帰依したことにより、時宗の一派(市屋派)の本山になったと伝えています。弘安七年〔一二八四年〕、一遍上人の三度目の入洛のとき、空也上人が念仏を広めたことにちなんで、金光寺に大がかりな踊り屋を立てて、踊り念仏をおこなったことが、『一遍聖絵』などの記載からわかります。中世には、市姫金光寺として七条堀川の地で庶民の信仰を集めていましたが、豊臣秀吉の京都改造の際、本願寺の移転に伴い、天正十九年〔一五九一年〕に、市姫神社(市比売神社)とともに、現在の下寺町に移りました。江戸時代は、六条道場あるいは市屋道場と呼ばれていました。前に引用した五条橋の図の中にも、市屋道場として描かれています。天明の大火、どんどん焼で類焼。 市比売神社(市姫神社)は、平安京の東西の官設市場の守護神として、延暦十四年〔七九五年〕に創建されたと伝えられています。祭神は、多紀里毘売命、市寸嶋比売命、多岐都比売命、下光比売命、神大市比売命で、最初は三座(ちなみに、最初の三柱の神様は、宗像大社の祭神と共通です)。二柱はあとから追加されたようです。市屋道場の金光寺縁起の中には、「延暦十四年〔七九五年〕、宗像大神を東市屋に勧請し市姫大明神と号した」とあるそうです(『京都市の地名』)。鎌倉時代以降は、金光寺とともに移動して今日に至っています。 東市の守護神ということから、商売繁盛の神として崇敬されるようになりました。商売繁盛のご利益に関しては、丹波口にある京都中央卸売市場の開設に際して、分社した市姫神社が下京区花屋町通新千本西入ル朱雀分木町にあります。平安京の「東市・西市」と現在の京都の「京都中央卸売市場」、どちらも、生活用品流通の要です。 また、祭神がすべて女神であることから、「女人厄除」の神様としても有名になりました。良縁・子授け・安産の御利益もあるそうです。市比売神社は、平安時代を通じて、皇室、公家の崇敬が篤く、「五十日顆之餅」神事がおこなわれ、「市之餅」と名づけた産餅が授与されたと伝えられています。ちなみに、「五十日之祝儀」(あるいは「百日之祝儀」)とは、生後五十日(あるいは百日)の赤子の口に、餅を含ませ、成長を祝う儀式です。今も残る「お食べ初め」の原型の行事で、市比売神社はその発祥の地だといわれています。 『源氏物語』柏木の巻に、「五十日の祝」がでてきますので紹介しましょう。光源氏の妻、女三宮が柏木と通じて設けた若君(薫)。生まれた直後に、女三宮は出家します。その若君の五十日の祝。 御五十日に餅参らせたまはむとて、容貌異なる御さまを、人々「いかに」など聞こえやすらへど、院渡らせたまひて、「何か、女にものしたまはばこそ、同じ筋にて、いまいましくもあらめ」とて、南面に小さき御座などよそひて、参らせたまふ。 「容貌異なる御さま」とは、女三宮が髪を切って尼となった様子。「小さき御座」は、五十日の祝の品々を盛った高杯 を並べた場所。 紫式部の伯父の藤原為頼〔九三九?〜九九八〕の家集『為頼朝臣集』には、市姫神社の五十日の祝を詠んだ歌があります(『京都市の地名』)。 今の左大弁の御子の五十日におほわりごの蓋に市姫のかたちなどかけるところに 為頼朝臣 市姫の神の忌垣のいかなれや 商物に千代を積むらむ 『為頼朝臣集』 「破籠」とは、檜の薄い板で作った弁当箱状の容器で、中に仕切りがあり、被せ蓋がついています。楕円形の曲物 、四角い弁当型のものなどがあります。たとえば、ちょっと豪華な昼食に食べる松華堂弁当の容器がそれです。それにしても、「蓋に市姫のかたち」とは、どんなかわいい絵が描いてあったのでしょうか? 祝いの和歌には、「五十日」にちなんで、「いか」の語をできるだけ多く詠み込むことがおこなわれました。この歌でも、「忌垣」(古くは、濁点を表記しませんので、「いかき」)と「いかなれや」の「いか」が詠み込まれています。 『康平記』〔平定家、康平元年〜五年の日記〕の康平五年〔一〇六二年〕十一月二日の条に、五十日の祝が出てきますので、引用しましょう。 (略) この日記の主、平定家は、摂政関白藤原頼通〔九九〇〜一〇七四〕(道長の長子、宇治平等院造営)の家司 。文中の「若宮」は、この当時内大臣(のちに関白)であった藤原師実 〔一〇四二〜一一〇一〕(頼通の子)の子(師通〔一〇六二〜一〇九九〕)。平安時代には、月の前半は東市、後半は西市が開かれる慣例になっていたといいます。引用文は月の初めですから、東市が開いていたことになります。この文章からわかることは、東市に、藤原師実の家司の民部卿親任と知家事 の右衛門府生成任が出かけていって、予約していた餅を買ったこと。その値段は、絹一疋 と米一石で、結構高いですね。多分、お祝いの品で、特別注文だったのでしょう。夜になって、宴会のあと、亥剋(亥の刻、今の午後九時〜十一時)に五十日の祝がおこなわれたことがわかります。 引用文中の市刀禰はというのが、よくわかりません。ただ、平安時代の官職として、坊長の下に、保刀禰というのが置かれていたといいます。この類推で、東市にもそれに相当する下級役人があり、これを、市刀禰と呼んだと考えても、まんざら荒唐無稽ではありますまい。あるいは、「刀禰」が神職の下で働く者を差すこともありますので、市姫神社の下役であった可能性もあります。 市比売神社の裏手に、ご神水「天之真名井」があります。社伝によれば、清和天皇から後鳥羽天皇まで二七代にわたって、御降誕ごとに御産湯の中にこの水を加えるのが慣わしであったといいます(『改訂京都風俗志』)。これは、平安時代のことですから、市比売神社が七条堀川の地に鎮座した時代のこと。時代はずっと下って、江戸時代初期、『都名所図会』巻之二、「市中山金光寺」の項の中に、上に引用した箇所に続いて、「天眞井」は、「本堂の西にあり。洛陽の名水なり」と記しています。前に引用した五条橋の図の中には、「市屋道場・天真名井」が一つの名札に並んで書いてあり、「市姫大明神」は別の名札になっています。江戸時代以前の神仏習合の状態を示していて、天真名井がどちらに属していたのかをはっきり示すという意図はなかったのでしょう。 写真の「天之真名井」の井桁の上に奉納してあるのは、願いごとを書いた「姫みくじ」。天之真名井は、ポンプアップして、常時水が流れるようになっているようです。そのほかにも、神水のお持ち帰り用に、蛇口が用意してありました。 |
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■ 延寿寺
市比売神社のある通り(六条通)を戻り、もう一度河原町通にでて、南に少し歩くと、延寿寺の門が開いています。二層になった山門が特徴で、その前に「勅願所金佛殿延壽寺」の門標が建っています。この寺の名前は、本シリーズ第2回に、町名看板にあった「上金仏町」や「卜味金仏町」の由来で、でてきました。後白河上皇の六条殿に建てられた長講堂が、一時衰退したときに、その三尊(金仏)を受け継いで、延寿寺と号したといいますが、時期は不明です。もとの寺域は、油小路、東中筋通、五条通、六条通で囲まれた地域(中金仏町、卜味金仏町、天使突抜三町目、天使突抜四町目を一部分ずつ含む)。天正十九年〔一五九一年〕に豊臣秀吉の京都改造の際に、現在の地に移転。そのあとも、何回か火災にあったが、本尊の金仏は無事に伝えられたといいます。しかし、どんどん焼(元治の兵火)のときに、伝来の金仏が溶解。その後木造で再建。現在の建物は、明治十五年〔一八八二年〕に再建。 |
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■ 福田寺
延寿寺の南側の道は、現在、六条通と呼ばれています。ところが、仁丹町名看板でわかるように、市比売神社の前の通りが、もともとの六条通です。延寿寺の南側の道(新六条通)が河原町通へ突き当たる丁字路の西南かどに、町名看板「河原町通上ノ口上ル本塩竃町」があります。この位置だと「河原町通六条下ル本塩竃町」と表示されるはずです。これは、この町名看板を設置した時点(一九二九以前)には、新六条通がなかったことを反映しています。実は、新六条通は、少なくとも、昭和六年〔一九三一年〕の地形図(国土地理院)には、存在しません。おそらくは、この新道も、太平洋戦争のときに、強制疎開によって造られたと推測されますが、さらに調査が必要です。 (新)六条通に沿って、時宗福田寺の北塀。門は、六条通に交差する南北の通り(名称不詳)にあり、西面しています。福田寺の名は、すでに、木製の町名看板「高倉通松原下ル西入福田寺町」のところで出てきました。寺伝によれば、文永九年〔一二七二年〕鎌倉幕府将軍宗尊親王が京都に戻ってのち、剃髪して堯空と名乗り、東山区渋谷の地に創建したといわれています。初めは、天台宗。のちに、弘安五年〔一二八二年〕時宗に改め、汁谷(渋谷)道場と称しました。豊国神社造営にともなって、慶長三年〔一五九八年〕に、福田寺町(高倉通松原下ル)に移転し、しばらくして、現在の下寺町へ再移転したと伝えられています(『京都市の地名』)。現在、福田寺町の北には、長香寺(慶長十四年造営)がありますので、この造営が、福田寺の再移転に関係している可能性があります。天明の大火、どんどん焼(元治の兵火)のときに焼失。現在の建物は、そのあとの再建。 |
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■ 長講堂と後白河法皇
(新)六条通を西へ、万年寺(門は富小路通に西面)を過ぎると、六条富小路の交差点にでます。右折して、富小路通を北上しますと、右手に、後白河法皇ゆかりの寺、長講堂があります。門標には、「元六條御所長講堂」とあります。 後白河法皇〔一一二七〜一一九二。天皇在位一一五五〜一一五八。崩御するまで院政をおこなう〕は、保元の乱(一一五六年)、平治の乱(一一五九年)を生き抜き、安元三年〔一一七七年〕の鹿ケ谷の陰謀で、院政をとめられ鳥羽殿に幽閉されるも、治承四年に〔一一八〇〕に以仁王が平氏追討の失敗のあと復活し、平氏と源氏のあいだを巧みに泳いで天寿を全うした強運の持ち主。生涯に、熊野御幸は三四回(第一回は一一六〇年)。今様に入れあげた結果は、『梁塵秘抄』として今に残っています。その中から、一首引用しましょう。 仏も昔は人なりき、我等も終には仏なり、三身仏性具せる身と、知らざりけるこそあわれなれ 後白河法皇が最後の御所としたのが、六条殿で、寿永三年〔一一八四年〕頃に始まったといわれています。場所は、左京六条二坊十三町(北は楊梅小路、南は六条大路、東は西洞院大路、西は油小路で囲まれた部分)。六条殿内の持仏堂として開基されたのが、長講堂で、正式には「法華長講彌陀三昧堂」といいます。六条殿は、文治四年〔一一八八年〕焼失。その年に源頼朝によって再建。このとき、長講堂も再建され、「法華長講彌陀三昧堂」の勅額を掲げました。再建後、建久元年〔一一九〇年〕に、頼朝は、再建なった六条殿で、後白河法皇に拝謁しています。後白河法皇が、この六条殿で崩御したのが、一一九二年。この年に、鎌倉幕府が開かれているのは、日本史の学習で「一一九二つくる」の語呂合わせで覚えさせられました。要するに、後白河法皇は、源頼朝が征夷大将軍になるのを死ぬまで拒み通したということです。後白河法皇の死後、長講堂領と呼ばれる九十箇所ちかい荘園は、持明院統の経済的基盤となりました。長講堂自体は、火災に何度もかかり移転を重ねましたが、豊臣秀吉の京都改造の際に、現在の地に移転しています。 長講堂の本尊は、丈六の阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)。三尊とも重要文化財。後白河法皇御真影(非公開)があり、これをもとに江戸時代に彫刻した後白河法皇御尊像(重要文化財)があります。後白河法皇自筆の「過去現在牒」が残っていて、平清盛、源義朝、源義行(義経)などが記されています。源義経を義行と書くのは、藤原(九条)良経〔一一六九〜一二〇六〕との混同を避けるため。 |
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■ 後白河法皇の「過去現在牒」と義王・義女
後白河法皇の「過去現在牒」は、『平家物語』にもでてきます。それは、白拍子、義王・義女の話。「義王・義女」は、「妓王・妓女」とも「祇王・祇女」とも書きます。「義王・義女の話」は、 『平家物語』の冒頭の「奢れるものも久しからず、唯春の世の夢の如し。猛きものも遂には滅びぬ、偏に風の前塵におなじ。」という名文句を際立たせるための伏線です。奢れるもの、猛きものの代表として、平清盛の行状が描かれています。 平清盛の寵愛を、新参の仏御前に奪われた義王は、妹の義女と母のとぢのもとで出家します。出家の直接の原因は、清盛と仏御前の前で、今様の舞を強要されたこと。『平家物語』〔百二十句本(京都本)、第六句「義王出家」の直前〕を日本文学電子図書館から引用しましょう。 落つる涙をおさへて、今様一つうたひける。 月もかたぶき夜もふけて、心のおくを尋ぬれば、仏も昔は凡夫なり、われらも遂には仏なり、いづれも仏性具せる身を、へだつるのみこそ、悲しけれ と、泣く泣く二三返うたひたりければ、その座に並みゐ給へる一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍にいたるまで、皆感涙をぞ流されける。入道もおもしろげにて、「時にとりては神妙に申したり。この後は、召さずともつねに参りて、今様をもうたひ、舞などをも舞うて、仏をなぐさめよ」とぞ宣ひける。義王かへりごとに及ばず、涙をおさへて出でにけり。「親の命をそむかじと、つらき道におもむき、ふたたび憂き目を見つるくちをしさよ」 この今様の趣旨は、上述の『梁塵秘抄』のものと、ほぼ同じ。ただし、「知らざりけるこそあわれなれ」を「へだつるのみこそ、悲しけれ」と変えているところに、「仏御前と実力は変わらないのに、なぜ義王だけを遠ざけるのか」という気持ちがこめられています。清盛入道の「舞などをも舞うて、仏をなぐさめよ」は、義王の気持ちを逆なでする言葉。もちろん、その中の「仏」は、「仏御前」のこと。義王は、返答にも窮して、悔しさにうち震えます。この仕打ちをわが身に重ねて、無常を感じた仏御前も、三人のもとに来て尼となります。四人ともども、仏道にはげみ、往生の本懐をとげます。同書、第六句の後半「四人後白河法皇の過去帳にある事」では、次のように記します。 四人一所にこもりゐて、朝夕仏の前に花香をそなへ、余念もなくねがひければ、遅速こそ有りけめども、四人の尼ども皆往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。されば、後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、「義王、義女、仏、とぢが尊霊」と四人一所に入れられけり。哀なりし事共なり。 |
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■ 後白河法皇と大原御幸
『平家物語』が出てきたついでに、終盤〔第百十九句〕、後白河法皇の「大原御幸」について触れましょう。平氏の滅亡後、大原の里に隠棲した建礼門院(平清盛の娘、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母)のもとを、文治二年〔一一八六年〕に、後白河法皇が訪ねます。この御幸は、時期的にみて、六条殿から出発したと考えられます。「大原御幸」は、『平家物語』の主題である「諸行無常」をしめくくる場面。後白河法皇にうながされて、建礼門院は、生きながらに体験した六道を述べます。天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道になぞらえて、来し方を述べたあと、地獄道の阿鼻叫喚とともに海に沈んだ一門の最後を語ります。 (前略)さて年月を送る程に、過ぎにし春の暮に、先帝をはじめ奉り、一門ともに門司赤間の波の底に沈みしかば、残りとどまる人どもの喚き叫ぶ声、叫喚大叫喚の地獄の底に落ちたらんも、是に過ぎじとぞ聞こえし。 建礼門院は意に反して捕らえられ、京都に送られる途中に、平家一門が竜宮城でお経を唱えている夢を見たと語ります。 さても又武士共に捕はれて上り候ひし時、播磨国明石浦とかやに着きたりし夜、夢幻とも分かたず、(中略)「是はいづくぞ」と申ししかば、二位の尼、「是は竜宮城」と答へ申せし程に、「あな目出たや、是程ゆゆしき所に苦しみは候はじ」と申せば、二位の尼、「此の様は、竜畜経に見えて候ふぞ。それをよく見給ひて、後世とぶらひ給へ」と申すと思ひて、夢はさめ候ひぬ。是をもつてこそ六道を見たりと申し候へ。わが身は命惜しからねば、朝夕是を嘆く事もなし。いかならん世にも、忘れがたきは安徳天皇の御面影、 二位尼は、平清盛の正妻、時子のこと。建礼門院徳子の母、安徳天皇の祖母。「竜畜経」というのは、架空の経文。竜宮城にいても、まだ畜生道にあるとの意味でしょうか。 |
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■ 蓮光寺
長講堂の山門の北、富小路通の東側に畳屋(小林畳店)があります。わたしが通りかかったときに、ちょうど外国人観光客の団体が畳について、案内人から説明を受けていました。聞き耳をたてていましたら、畳のことは、tatami-mat と英訳しておりました。外国人の観光も、有名どころを見るという形態から、普段の京都を見るという形態に変わっているのか? それにしても、この下寺町は、日本人観光客でさえ滅多に訪れない界隈なので、おもわず写真を撮ってしまいました。あとから見ると、どうということもない情景ですが、記念に載せておきます。 畳屋の北側に山門が見えますが、これは、負別山蓮光寺(富小路通六条上ル本塩竃町。この六条は、新六条通)。寺伝によれば、明応元年〔一四九二年〕に真盛上人が新町高辻に草庵「萱堂」を結んだことにはじまり、当初は天台宗。天正十九年〔一五九一年〕豊臣秀吉の京都改造の際に現在地に移り、浄土宗に改めたといいます。二世順誉蓮光上人のときに蓮光寺と改称。洛陽四八願寺中の第三十五番。建物は、天明の大火、どんどん焼(元治の兵火)で焼失。明治二三年〔一八九六年〕に再建。そのあと、昭和五八年〔一九八三年〕に改修。 本尊は、阿弥陀如来。一名、負別如来といいます。『都名所図会』巻之二には、「負別阿弥陀佛」の項目があり、来迎堂の南蓮光寺 にあり。この本尊は、嘉禎年中に東國の僧都に登りて、佛工安阿弥に阿弥陀佛の像を願ふ。 像成就し、帰らんとする時、安阿弥、此尊像希代なりとて、甚をしみ、今一度拝せんと、跡を慕ふて趨る。山科郷にて追つき、此旨を語るに、かの僧則笈を開けば、尊像分身して二體となる。二人とも奇異の思ひをなし二尊を東西に負ふて別る。其地を今山科の負別といふ。安阿弥が負帰し尊像當寺本尊なり。 さて、東国に持ち帰った一体はいかに? 仙台市泉区福岡の阿弥陀堂に同様の伝承があり、「笈分如来」と称して、宮城県指定有形文化財となっています。文中安阿弥とは、快慶のこと。ただし、嘉禎年中は一二三五〜一二三八で、快慶は嘉禄三年〔一二二七年〕には故人であったとの記録があります。この安阿弥は、快慶の様式(安阿弥様)を継いだだれかということにしておきましょう。 上掲の五条大橋の鳥瞰図に、蓮光寺と同じ名札に並んで「首斬地蔵」と書いてあり、『都名所図会』巻之二の本文では「馬止地蔵」として説明しています。 石仏なり。此尊像土中に埋れ有りし時、平清盛駒に乗じて通りしに、馬途に止て進まず。不思議をなして掘らしむるに、此石像出現せり。夫より六條河原の斬罪の場にありしといふ。 馬が止まった話は、保元三年〔一一五八年〕のことと伝えられています。約二メートル七〇の巨像で、現在は、「駒止地蔵尊」と呼んでいるようです。引用文の記載では、別名の「首斬地蔵」の名は、六条河原の刑場にあったためだととれますが、別に、「盗賊に襲われた信者を守り、身代わりになった」という伝承もあります。駒止地蔵は、京洛(洛陽)四八願所地蔵尊の第四五番にあたります。 この寺には、大阪夏の陣で活躍し敗れた、長宗我部盛親の墓があります。この人物の生涯は、波乱万丈。墓があるのは、一時寺子屋の師匠をしていて、蓮光寺の住職と親交があった縁といいます。 |
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■ 太子堂白毫寺
旧六条通との丁字路を過ぎてすぐ、富小路通に東面して、白毫寺(富小路通五条下ル本塩竃町)があります。通称は、太子堂。宗旨は律宗。本尊は聖徳太子自作と伝えられる聖徳太子立像(南無仏という)。開基は、忍性律師。もとは、知恩院近く(粟田口)にあったが、慶長八年〔一六〇三年〕、知恩院の再建拡大のときにここに移したと伝えています。天明の大火、安政の大火、どんどん焼のときに類焼。現在の建物は、そののちの建立。 |
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■ 上徳寺—世継地蔵
白毫寺の北、同じく富小路通に東面して、浄土宗上徳寺(富小路通五条下ル本塩竃町)があります。慶長八年〔一六〇三年〕に、徳川家康の帰依を得て、伝誉一阿が創建、開基は家康の側室・阿茶局(上徳院)。本尊阿弥陀如来は、安阿弥快慶作の伝承があり、滋賀県の鞭崎八幡宮から、家康が移したと伝えられています。天明の大火、どんどん焼で類焼。現在の本堂は、明治時代に、永観堂祖師堂を移築したもの。 境内のお堂にある地蔵尊(二メートル余りの石像)が、子授け、安産のご利益で信仰を集めており、世継地蔵とも呼ばれます。お堂に奉納された額には、いずれも、次のご詠歌が記されています。 世續地蔵尊大菩薩御詠哥 ありがたやめぐみふかきを千代かけて いゑの世つぎをまもるみほとけ 上掲の五条橋の鳥瞰図(『都名所図会』)には、上徳寺の鎮守として、「塩竃明神」が示されています。本文には、「鹽竃社は、上徳寺の鎮守なり。祭る所融左大臣にして」との記載がありますが、今はないようです。上徳寺の所在地は源融の河原院の伝承にもとづき、本塩竃町。しかも、山号は「塩竃山」。ご住職の苗字も「塩竃」です。さらに、塩竃明神があれば、「いうことなしの揃い踏み」なのですが。 |
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■ 極楽寺
白毫寺の斜向かい、富小路通に西面して、浄土宗極楽寺(富小路通五条下ル本塩竃町)があります。『京都市の地名』によると、もともとは、天文十二年〔一五四三年〕に、一蓮社笈誉が四条坊門東洞院(今の一蓮社町)で創建。一五九〇年〔天正十八年〕に豊臣秀吉の命により、現在の地に移りました。天明の大火、どんどん焼で類焼。現在の建物は、そのあとの建立。境内の地蔵尊は、極楽寺地蔵と呼ばれ、摂津国住吉の井鼻から移転したと伝えています。京洛(洛陽)四八願所地蔵尊の第四六番、手引地蔵(安産地蔵)とも呼ばれます。 |
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■ 新善光寺
極楽寺から北に進むと、富小路通に東側、路地を入ったところが広くなっていて、西面して新善光寺(富小路通五条下ル本塩竃町)の山門が開いています。宗派は、浄土宗。来迎堂新善光寺と呼ばれ、今回の五条大橋のところで説明した御影堂新善光寺とは別です。なお、今熊野にも新善光寺がありますが、また別の機会に紹介しましょう。 『都名所図会』の「来迎堂新善光寺」の項を引用しましょう。耳慣れない仏教用語が出てきますので、この機会に勉強です。 来迎堂新善光寺は、本覚寺の南にあり。本尊阿弥陀仏は信濃國善光寺と同一體なり。本田善助如来の示現を蒙りて、百済国へ渡り齊明王の閻浮檀金七斤を賜つて帰朝し如来を鑄とて爐壇を構ければ其光中より分身の尊像現れ給へり。是當寺の本尊なり。 閻浮樹がでてきたところで、ちょっと寄り道。『阿毘達磨倶舎論』〔世親、ヴァスバンドゥ、五世紀ごろ〕の「世間品」の中に記述されている仏教世界観では、中心に須弥山があり、その東西南北にある四つの島のうち、南にある島を閻浮堤(別名、贍部洲。モデルはインドの地)といいます(定方晟『須弥山と極楽』〔講談社現代新書三三〇、講談社、一九七九〕)。この島が人間が住んでいるところ。閻浮堤には、中央から北に黒山、その北に雪山、さらにその北に香酔山があります。その南麓、つまり雪山と香酔山のあいだに無熱悩池という大きな池があり、このほとりに閻浮樹(贍部、ジャンブー、果実は甘くて美味という)の大木が大森林をなしているといわれています。この島の地下には、八大地獄(等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、無限(阿鼻)地獄)があるといいます。 閻浮檀金とは、閻浮樹の森を流れる川底から採れる砂金。きわめて良質・高貴な金の比喩。本田善助は、信州善光寺を創建した本田善光の子。この伝承は、信州の善光寺の縁起を踏まえたものです。とくに、「炉の光の中から阿弥陀如来が現れた」という伝承は、共通しています。応仁の乱後は各地を転々。天正十九年〔一五九一年〕に、豊臣秀吉の京都改造のときに現在の地へ。 |
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■ 本覚寺
新善光寺の北に、本覚寺(富小路通五条下ル本塩竃町)があります。浄土宗。鎌倉時代〔一二二二年〕に、将軍源実朝の後室・坊門信子(法名本覚)が、西八条の偏照心院内にて創建。そののち、梅小路堀川に移転。応仁の乱のあと一時衰退したが、文亀三年〔一五〇三年〕に、高辻烏丸(現在の釘隠町・山王町のあたり)に方一町の寺地を得て、玉翁上人によって浄土宗寺院として中興(これらの町名は本シリーズ第9回にでています)。一五九一年〔天正十九年〕に豊臣秀吉の命により、現在の地に移りました。天明の大火、どんどん焼で類焼。現在の建物は、慶応三年〔一八六六年〕の建立。本尊の阿弥陀仏(一名、如法仏)は安阿弥の作と伝えられています。江戸中期の版元、八文字屋自笑の墓があります。源融座像と塩竃神社の扁額が残されています。 『都名所図会』巻二には、「本覚寺」の往時の鳥瞰図が載っています。引用した図でわかるようには、本堂のほか弁天堂と地蔵堂が描かれています。寛文年間〔一六六一〜一六七三〕に定められたという京洛(洛陽)四八願所地蔵尊の第四八番「泥付地蔵」が本覚寺にあったといいますので、このお堂がそうかもしれません。 本塩竃町(下寺町)付近は、古くは、豊臣秀吉の京都改造のときに御土居を建設したことと西側が六条三筋町(第6回参照)の開設で道筋が変わったことが原因で、道筋がわかりにくい。さらに、明治時代以降も、河原町通や(新)六条通が付け加わるなど、かなり変貌しています。このため、東西の通りが真っ直ぐにつながっていないなど変則的で、町名看板の記載内容に戸惑うことがあります。街路の変遷を、古地図によって考証することも面白そうですが、今後の課題として残しておきましょう。 |
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■15.光孝天皇 (こうこうてんのう) | |
君(きみ)がため 春(はる)の野(の)に出(い)でて 若菜摘(わかなつ)む
わが衣手(ころもで)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ |
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● あなたのために春の野に出かけて若菜をつんでいる私の衣の袖に、次々と雪が降りかかってくる。 / あなたに差し上げるために、春の野原に出て若菜を摘んでいる。その私の着物の袖に雪がしきりに降りかかっている。 / あなたに差し上げようと、春の野に出て若菜を摘んでいるわたしの袖に、雪がしきりに降り続けていますよ。 / あなたのために春の野に出て若菜を摘んでいましたが、春だというのにちらちらと雪が降ってきて、私の着物の袖にも雪が降りかかっています。 (それでも、あなたのことを思いながら、こうして若菜を摘んでいるのです)
○ 君がため / 「君」は、若菜を贈った相手。万葉時代の「君」は、天皇・主君・敬意の対象となる男性などをさすことが一般的であったが、平安時代には、女性にも用いられるようになった。この場合の相手は、不明。女性と解するのが通説。「が」は、連体修飾格の格助詞。「君がため」で「君のため」の意。 ○ 春の野に出でて若菜つむ / 八音で字余り。「若菜」は、春の七草。正月に食べると、邪気をはらうことができるとされた。 ○ わが衣手に雪は降りつつ / 天智天皇の「わが衣手は露にぬれつつ」と類似の表現。天智天皇の歌は、作者不明の歌が変遷して御製となったものであるが、この歌は、光孝天皇が皇子であった時の作品で、正真正銘の御製。降りつづく冷たい「雪」を、「君がため」「春の野」「若菜」という温かな表現が解かすかのような、やさしく穏やかな印象の作品になっている。天智天皇の御製が、理想的な君主像を象徴している一方で、光孝天皇の御製からは、温厚な人柄をうかがい知ることができる。 |
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■ 1
光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。 幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受ける。16歳で父仁明天皇の御前で元服して親王となり、四品に叙せられる。以後、中務卿、式部卿、相撲司別当、大宰帥、常陸太守、上野太守と、親王が就任する慣例となっている官職のほぼすべてを歴任し、53歳のときに一品に叙せられ親王の筆頭となった。 陽成天皇が藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位。『徒然草』には即位後も不遇だったころを忘れないように、かつて自分が炊事をして、黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしておいた、という話があり、『古事談』にも似たような逸話がある。基経を関白にとして、前代に引き続いて政務を委任した。即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を伝えない意向を表明していたが、次代の天皇の候補者が確定しないうちに病を得たため、仁和3年8月25日に子息・源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌8月26日に立太子させた。同日に天皇は58歳で崩御(死亡)し、定省親王が践祚した(宇多天皇)。 宮中行事の再興に務めるとともに諸芸に優れた文化人でもあったとされる。和歌・和琴などに秀でたともされ、桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させた。また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か即位後相撲を奨励している。晩年は、政治改革を志向するとともに、親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに勅願寺創建を計画するも、いずれも実現を見ぬままに終わり、跡を継いだ宇多天皇の「寛平の治」及び仁和寺創建に継承されることになる。 『日本三代実録』に「天皇少く(わかく)して聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と評されている。 |
■ 2
光孝天皇 こうこうてんのう 天長七〜仁和三(830-887) 諱:時康 淳和天皇代、皇太子正良親王の子として生れる(第三皇子)。母は贈太政大臣藤原総継女、藤原沢子。 幼少より聡明で読書や音楽を好み、太皇太后橘嘉智子の寵愛を受けた。天長十年(833)、四歳のとき父が即位(仁明天皇)。承和十三年(846)、四品。同十五年、常陸太守。嘉祥三年(850)、中務卿。仁寿三年(853)、三品。貞観六年(864)、上野太守。同八年、大宰帥。同十二年、二品。同十八年、式部卿。元慶一年(877)、辞職を請うたが許されず、同六年、一品に至る。同八年(884)二月、陽成天皇の譲位を受けて践祚。この時五十五歳。太政大臣藤原基経を実質的な関白に任じ、「万政を頒行」するよう命じた。即位三年後の仁和三年八月、重病に臥し、基経に命じて第七子源定省(宇多天皇)を親王に復し、立太子させた。その翌日の八月二十六日、崩御。在位期間こそ短かったが、文事を好み古風を復活し、宇多・醍醐朝の和歌復興の基をなしたとも言われている。遍昭と親交があった。「仁和の帝」「小松の帝」とも呼ばれた。 春 / 仁和のみかど、みこにおましましける時に、人に若菜たまひける御うた 君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ(古今21) (あなたに捧げようと、春の野に出て若菜を摘む私の袖に、雪はしきりと降っている。) みこにおはしましける時の御うた 山桜たちのみかくす春霞いつしかはれて見るよしもがな(新勅撰73) (立ちこめて山桜を隠してばかりいる春の霞よ、いつか晴れて花を眺めたいものだ。) 恋 / 題しらず 涙のみうき出づる海人あまの釣竿のながき夜すがら恋ひつつぞぬる(新古1356) (涙ばかりが浮かび出る、漁師の釣竿のように長い夜もすがら、あの人を恋しがりながら寝ているのだ。) 恋 / 題しらず 逢はずしてふる頃ほひのあまたあれば遥けき空にながめをぞする(新古1413) (逢わずに過ごす、雨の降る日が長く続くので、遥かな空を眺めて物思いに耽っているのだ。) 恋 / 題しらず 月のうちの桂の枝を思ふとや涙のしぐれふる心地する(新勅撰952) (月の中に生える桂の枝――そのように手の届かない人を思うので、涙が時雨のように降る、悲しい心持がするのだろうか。) 恋 / 久しくまゐらざりける人に 久しくもなりにけるかな秋萩のふるえの花も散りすぐるまで(玉葉1652) (あなたに逢わずに長い時が経ったものだ。秋萩の古枝に残っていた花もすっかり散ってしまうまで。) 恋 / ひさしうまゐらぬ人に 君がせぬ我が手枕は草なれや涙のつゆの夜な夜なぞおく(新古1349) (あなたが手枕にしてくれない私の袖は、草だろうか。まさかそんなはずはないのに、涙の露が夜ごとに置くのだ。) 恋 / 人にたまはせける 秋なれば萩の野もせにおく露のひるまにさへも恋しきやなぞ(風雅1283) (秋なので、萩の咲く野原いちめんに置く露――その露が乾く間のような僅かな間でさえも――そして夜ばかりか昼間でさえも――あなたが恋しいのは何故だろう。) 人にたまはせける 涙川ながるるみをのうきことは人の淵瀬をしらぬなりけり(続後撰896) (涙川の流れる水脈ではないが、涙ばかり流している我が身が辛いのは、淵のように深くなったり瀬のように浅くなったりする、誰かさんの心が解らないからなのだ。) 雑 / 仁和の御時、僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御歌 かくしつつとにもかくにも永らへて君が八千代にあふよしもがな(古今347) (このようにしながら、ともかくも生き永らえて、あなたの永遠の長寿に逢うことがあってほしいものだ。) |
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■ 3
国風の成立について ー光孝天皇とその時代ー |
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平安時代の文化史や文学史を考える時、実際間超としての個々の文化現象や文学作品類の分析はさておき、この時代の様相を多面的に説明でさそうないくつかの柱の設定について、このごろ私は考えをめぐらしている。かつて阿部秋生民が、散文文学の成立の間超を平安文学の成立の中心に据えて見通しておられたが(「平安文学の成立」解釈と鑑賞・二八巻一号)、そのようなものの他に、たとえばやや細分化された項目として、平安文学を育てた風土の自然・人文にわたるより克明な分析、仮名文字使用の問題、またいわゆる国風の文化の成立といった種寮の柱なども考えられよう.この稿は、上記のうちの国風の文化の成立について、その現象面での出発点としての時期を漠然と宇多・醍醐帝のころとする従来の説明をもう少しさかのぼらせ、遣唐使廃止前十年ほどの光孝朝仁和年間のころに考えてみようという試論である。やまと歌に限定してもう少し正確にいいなおすならば、和歌文学大辞典で光孝天皇の説明についてしるす「和歌を好み、国風復興の端緒を開いた。」という部分、また「光孝朝はわずか四年にみたない短期間であった。しかも光孝天皇は即位の五十五歳から仁和三年八月二十六日崩御五十八歳まで、いわば老年であった。しかしながらこの四年間は、和歌史的には注目すべき時期と云い得よう。」(橋本不美男氏「王朝和歌史の研究」一四三貢)という説明を少し具体的に考えてみることである。
ところで、国風の文化の発生の時点をある一定の時期として捕えることは、実際のところ不可能に近いであろう。ある時点を境に前後の文化の様相がすっかりかわってしまうというようなことは、ほとんど想像することもむずかしく思われる。「寛平延毒になると、この唐風文化を基調としながらも国風的なものが次第に起ってきたのである。」(日本文学史中古二四貢・昭和三〇年五月版)「和歌は、歌合と犀風歌とを温床にして、字多天皇の時期に宮廷文学化の歩みを強く踏み出したといえる。」(藤岡忠実氏「古今集前後」講座日本文学3 中古篇1・六九貢)といった説明が通行のものとして定説のように見なされているのは当然であろう。 この、国風ということばはどのような意味内容を持っているのであろうか。たとえは広辞苑二版は、1その国特有の風習。国の風俗。くにぶり。1国の風俗をあらわした詩歌・俗謡。もと、中国で詩経の部立に用いた。わが国では、平安時代、駿河歌・甲斐歌などの風俗歌。3転じて和歌。とし、大漢和辞典では㊀国のならわし。国家の風俗。国俗。㊁詩経の詩の一体。六義の一、諸国の民謡の称。㊂地方の人民の詠んだ詩歌。くにぶり。ひなぶり。詩経の国風にもとづく。㊃わが国の和歌。とする。大漢和辞典の㊁意では集伝を引いて、「国者諸侯所封之域、而風者民俗歌謡之詩也。」と注する。諸国の風俗をあらわすもののたぐいが、韻文に集中し、やがて日本で勅撰の形をとるに到る道筋は、非常に長い起伏があると 思われ、たとえば国風という概念の早い出発点である詩経の十五国風といわれる短篇の叙情詩は、「おおく歌垣などの機会にきわめて即興的に作られたらしく、たまたま目にふれた景物をとりあげ、これとわが胸の愚いとを、いたって無造作にむすびつけてある。」(倉石武四郎氏「中国文学史」13ー14貢)とのことであるが、この点、国風すなわち民族の歌とかならずしも直線を引けぬところがあって、更にいわば政教主義的とでもいった色彩の強い、わが国での勅撰集などの理解との間には、差がすくなからず存在するようである。 この国風という概念をめぐって小沢正夫氏は、資料類のくわしい分析から「九世紀の初めごろに日本で用いられた『国風』とか『風俗』とかいう語には、いわゆる国家意識というものが少しもなかったといって差支えない。」(「古今集の世界」〓ハ貢)と説明された。こういった時期のあとにいわゆる国風暗黒時代といった風潮をむかえ、やがて勅撰集の季節に入ってくる形になるわけであり、九世紀の初めごろから古今集成立までの約一世紀の間、その概念は土俗の匂いと、それが宮廷社会にすくいとられるケースとのあいまにゆれていたということになるのだろう。その間に漢詩文は、日本の土壌に文化というもの、また、ことばをもってものを考えあらわすすべをはっきり植えつけていったといってよい。 次に、国風ということばが和歌の意に集中的に用いられてくる経緯を、もう少しはっさけつかめないものであろうか。これもまた論証しかねる種類の開腹に属するのだろうが、延喜式に見える次の記述にやはり注意しておく必要があるだろう.すなわち、巻第十1の太政官関係の諸事の説明の内、大嘗会の次第で、吉野国楢は古風を奏し、 「悠紀国司引二歌人.奏二国風)。」また静部は古詞を奏すると整理されている個所がある(新訂増補国史大系延着式中篇・三三四貢)O国槽と語部と磨それぞれ古風なり古詞なりを奏上することは、他にもたとえば押紙七にも出ているが、延着式で国風の文字は卒読の限りではこの部分にあらわれる数例のみかと思う。ここにあらわれる国風は、その時の悠紀に卜定された国が、その国の地名などを織りこみ、いわばてぶりを奏上することを意味していようが、古民俗の残存を持つ古風・古詞に対して、はっきり意識された目的を持っていであり、しかも歌人と称するいわば専門職をそこにあてていることを注意しておきたいのであるーー ちなみに現今吉野の国棟村で行われている国様舞には、歌翁と称する者が定まった歌詞を述べるらしいーー。ここにいう歌人という名称は、養老令における雅楽寮の制度の内の三十人の専門歌人を当然考えさせるわけであるが、この点、古今集の巻二十に見るこの程の「おほんべ」の歌の作者としてほ、ただ一首ではあるが醍醐天皇の時の「近江のや鏡の山を」に大伴黒主をあげていることを重視すべきでーー袋草紙上巻大嘗会歌次第に、和歌作者を「光孝天皇御時大伴黒主也」とすることは誤りであるーー、彼は近江国の豪族出身であったといわれ、その出自でありながら、いわば都のてぶり風のものへの橋わたし的にこの種の歌を奏上しているところに目を向けねはならず、たとえば小沢正夫氏が、「この時以後、大嘗祭の風俗歌を都の歌人が作るようになった。」(日本古典文学全集古今和歌集・四〇二貢脚注)とされた説明に耳を傾けるべきであると 思う。また、久米常民氏が、右の雅楽寮の歌人の内に人麻呂を置き、ここを母体に宮廷歌人的なものとして育っていった彼の像を追われた論考(「古代歌謡・伝承と創造」国語と国文学四九巻一〇号)ち参勘するぺく、土俗のものから都雅のものへ、高次の専門性の付与と和歌の性格自体の変化等の開腹を解明する鍵となってくるであろう。 では、その国風の醇乎たるものとしての和歌のはじまりをいったいどのあたりに見こんでおくべきだろうか。古今集の仮名序に従うと、まずは「ならの御時よりぞひろまりにける。かの御代や歌の心をしろしめしたりけむoJということである。これは例歌としてあがっている「龍田川紅葉乱れて流るめり」の歌からおすと平城天皇と、その時代とを指すのであるらしいが、とにもかくにもまず天皇中心の経国之大業ふうの見方が提示されていることを注目すべきであろう。ちなみに右の歌はその見立ての技巧など、平城朝の歌とは考えられそうにもなく、左往の形では「この歌はある人、奈良の帝の御歌なりとなむ申す」としたが、読人しらずの形でのせている古今集秋下の行き方を味あうべきであろう。この歌のことについてはあとでまたふれる時がある。 その後、「古のことをも、歌の心をも知れる人、わづかに一人二人なりき。」という時代がくる。貫之は前の引用文でもわかるように、「歌の心」をこの際特に重視しているようであり、その物さしにあてはまらない歌がかならずしもないわけではなかったのだろう。嘉祥二年、四十の翼を興福寺でとりおこなった仁明天皇に賛した興福寺大法師たちのおそろしく長い歌は、たとえそれが帝王の賛歌であろうと、続日本紀が「斯道己堕、今至僧中腰存古語」としるしたように、なにか歌に使えそうなことばを羅列した感があり、貫之流の考えにはまさにかなわぬものであった。また、同時代には小野笠のような切れ者もいるが、古今集真名序の方にしるすように、他才をもって聞え、この道をもちてあらわれずといった類である。 さてその次に来るのがあの六歌仙の時代である。実はそのころになると、「このほかの人々、その名聞ゆる、野辺に生ふる葛のはひひろごり、林に繁き木の葉のごとくに多かれど」ということになる。たいへんな隆盛期をむかえたものではある。仮名序の叙述をうのみにするのもいかがと思うが、文徳天皇から光孝天皇にかけてのころ、どうやら国風はいっせいに芽ぶいてきたかのようである。 もう少し場面を限定してみよう。貫之は六歌仙論をはじめる前に、「官位高さ人をはたやすさやうなれば入れず」と書きつけた∪なまじ文徳天皇だ陽成天皇だとなれば、やがて顕賞の意を最大限に述べたてようとする醍醐天皇の影がうすくなるばかりではないか。「ならのみかど」から帝王はあがらず、批評しやすい歌仙たちをあやつって、当代になだれこんできた形である。 ところが、そう見ないでむしろ和歌史の実態をいみじくも見通していた人もいたOたとえば傾徳院がその1人である。禁秘抄十七諸芸能事のくだりに、院は次のように書きつける。「和歌自光孝天皇未絶、稚為椅語、我国習俗也、好色之道、幽玄之儀、不可棄密事歎、」(関根正直「禁秘抄釈義」による)ことは、和歌が狂言椅諦観を通してみてもなお、我国風俗であることの認識も貴重だが、ここには持統紀に大津皇子を称して、「詩賦之興自大津始也」とする書きざまを想い起こさせるものがあり、また古今集中それほどの質量を持たぬ光孝天皇を特記するあたり、いとも政治的というか帝王特記の意識があり、このことこそは、仮名序の書きざまで、「古の代々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、さぷらふ人々を召して、事につけつつ歌を奉らしめたまふ。あるは花をそふとてたよりなき所にまどひ、あるは月を 思ふとてしるぺなき闇にたどれる心々を見たまひて、賢し愚かなりとしろしめしけむ」(傍点稿者)という、たとえそういうことが日本ではなかったかと思われるにしろ、政教主義の正統な継承であった。それから約一世紀あと、吉田兼好は徒然草に次のように書きつける。「詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすといヘビも、今の世にはこれをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり」(二三段)政教主義はついに形骸化したと、この中世屈指の文化人は見抜いていた。 ところでしばらく「禁秘抄釈義」に注する関根正直の説明を聞こう。 |
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■ 和歌は、我が国風の辞なれば、神代より創まりて人皇の代に至り、神武天皇を始め奉り、歴代の天皇后妃、皆よく歌よませ給ひしこと、紀記万葉集を見ても知るべし。豈光孝天皇より、後のみを申すぺしや。然るに、此の御抄にしも、かく記させ給ひて、光孝天皇以前には、さる御さだの聞こえぬやうなるは、いかなる御故にか、窺ひ知り奉るべきやうなけれど、試に都考を述べん。此の御代の頃には日本紀進講の旧儀も、絶えて行はせられず。又万葉集は、高閣に束ねられて、披き見る人も少かりけん。(此の前、村上天皇の御時に、源順等五人に命じて、万葉の歌に訓点せしめられ、つぎて、基俊匡房等の学匠、私に訓点さしたることも聞こゆれど、拾く行はれつとは見えず。当代の後、亀山院の頃に、僧仙覚つとめて万葉の歌に点さして、遂に万葉得業と称せられたり。さればそれよりぞ、万葉集の歌は、世に詞せらるる様にもなりけんかし。)さればさしも賢明におはせし天皇なれども、歌におきては、古今集以後のもののみをぞ詞み給ひけらし、そもそも奈良時代を過ぎては漢詩漢文のみ流行して、和歌は誰れよみ出づるものなく、貫之朝臣が古今集撰進の頃までは、其の序にあげたる六人ばかりよりは、歌らしさもの云ひ出でたるもなかりしにか。まして帝の御上にては、光孝天皇の御歌の、春の部に一首出でたる外に、(仁和の帝、親王におは七ましける時に、人に若菜たまひける御歌tとて『君が為春の野に出でゝ若葉つむ我が衣手に雪はふりつ〜』とある是なり)前の帝の御製とては載せられず。是れより後、後撰拾遺等にこそ、後の帝の御製かずかず出でたれは、此の御抄には、勅撰の歌集に就かせ給ひて、尤も古き古今の中なる、仁和の帝をしも、とり出でたまひたるならし。げにも奈良朝に盛なりし歌は、平安京の始めにほとほと廃れたりしを、光孝天皇の頃より、又再興して、古今えらばれし後は、御世JIJJ絶えず尚はせ給ひて、つぎつぎ勅撰の御さたもありければ、斯く記させ給へるも、いひもてゆけば、柳か違ふ所ましまさずなむあるべき。」
周到な注意のうかがわれる説明と思うが、わずかに祖述を加えると、「此の御代の頃には日本紀進講の旧儀も、絶えて行はせられず。」とあるのは、それにともなういわゆる竜宴歌の存在をもとにしているはずであるが、「日本紀貴宴和歌」で、延善六年三統理平の奏上した序によると、「此紀元慶、貴簡以来二十余年、借席不詳、時人窺歎師説将堕。」(古典保存会複製本を翻印された、伊牟田経久氏私家版・昭和四三年によるo)という状態であった。まあ二十余年、厳密にいえば、元慶二年講、岡五年畢、同六年宴。ついで延毒四年講、同六年宴ということになるのだから、講説開始時をいえば二六年の間があるということになろう。これを絶えて云々と見うるかどうかは見方にもよろうが、仁和・寛平・昌泰と見えないことは事実である。なお、元慶六年の黄宴歌は「日本紀寛宴和歌」なる書物には二首しか見えぬが、釈日本紀・三代実録・西宮記などに三十首以上の整然とした内容であったことをしるしている(同上書こころおぼえ・四貢)。 次に、「まして帝の御上にては、光孝天皇の御歌の、春の部に一首出でたる外に前の帝の御製とては載せられず」ということについてだが、二十1代集才子伝には、光孝天皇以前に古今集に歌がのる帝王として、天智天皇の一首が恋四にあり、平城天皇が春下・秋上・秋下にそれぞれ一首ずつある旨をしるしている。まず、天智天皇の一首は恋四-七〇二の「梓弓ひさのつづら末つひにわが思ふ人に言のしげけむ」で左注に「この歌は、ある人、天の帝の近江の采女に賜ひけるとなむ申す。」とある天の帝を、近江にむすびつけて天智天皇と考えたものらしい。今日、この天の帝は結局普通名詞で天皇の意に解すぺく考えられていて、これはとなたとも知れない帝と見るべきだという。古今六帖五には「ならのみかど」と作者名をあげ、「古今を正しとすべし。」(古今和歌六帖標注本による)とする。そうなれば、天智天皇御製としては、後撰集秋中に入る、「秋の田のかりほのいほのとまをあらみ」を勅撰入集初見とするーべきであろう。もちろんこれとても天智天皇のものであるまいということはかなり論じられているようである。ところでこの後撰集に見える作者名表記も、同じ御製ながら、天福本・貞応二年本・堀河本・二荒山本等は天智天皇とするが、中院本・伝月樵筆本・慶長本・鳥丸切はあめのみかどである。この点は従来の分類でのいわゆる定家本・非定家本の二系統入りまじっている感があり、この面からの整理はむりのようであるが、そのなかでも伝月樵筆本、すなわち定家本諸本中初期の段階の形を持つといわれる本には(郡か軸i古典叢書刊行会本)、「あめのみかとの御製」として、その下に小書きして「天智天皇」としるしており、上述の古今集での作者名を普通名詞とむげに否定もしかねる一つの材料を提供しているのである。 平城天皇の歌とされるものは次の三首である。春下九〇「故里となりにしならの都にも色はかはらず花は咲きけり」詞書は、古今集の帝王をあげる時の例で、「奈良帝の御歌」とする。次に秋上二二二「萩のつゆ玉にぬかむととれば消ぬよし見む人は枝ながら見よ」読人知らず・窺知らずの形で、左注に「ある人のいはくこの歌は奈良帝の御歌なりと」とする。もう一首、秋下二八三はこれも題知らず・読人知らずの歌、「龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば鈴なかや絶えなむ」左注に、「この歌は、ある人、奈良帝の御歌なりとなむ申す」という。秋上の万は、古今六帖六に「奈良のみかど」小書きして「桓武帝皇子」と明記するが、語句に多少の異同を見せて家持集にも入る。また秋下の方は、柿本集冬の部のはじめに、「天皇立田川のわたりに行幸有けるに卿供にまゐりて紅葉お寸しろかりけるに天皇御製立田川紅葉乱れて流るめり・・・・・・とありけるに立田川もみちはながる神なびの・・・」(群書類従本による)と人麻呂とつらねて歌ったかのようにあらわれる。万葉集総索引によると集中立田山・龍田山をよんだ敵はあるが、立田川はないようであり、その点でこの歌の時期はどうもうたがわしいが、この奈良の帝と人麻呂との組みあわせは実はかなりポピュラーなものであったらしくたとえば大和物語に、前段の「昔、ならの帝につかうまつる采女ありけり。」以下の一文を受けて、この「同じ帝、立田川の紅葉いとおもしろきを御覧じける日、人麻呂、立田川紅葉は流る神なびのみむろの山にしぐれ降るらし帝立田川紅葉乱れて流るめり渡らば鍋中や絶えなむとぞあそばしたりける。」とも出てくる。この「ならの帝」を、文武・聖武・平城の三天皇にそれぞれ擬する考えがあり、後代の勅撰集と奈良御門御集との比勘などからは、聖武天皇も有力であるが、すくなくとも人麻呂と時代的に相ならぷ帝王としては、文武天皇あたりまでさかのぼらねはならず、結局、くわしいことは不明とせざるをえまい。ただこのようなあいまいな事情が、実はほかならぬ古今集の便名序自体にあることで、先にも引いたように和歌の歴史を説いて、「古よりかく伝はるうちにも、ならの御時よりぞひろまりにける。かの御代や歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麻呂なむ歌の聖なりける。」・とあって、しかも例歌に、ならの帝の御歌としては例の「龍田川紅葉乱れて」を人麻呂の「梅の花それとも見えず」「ほのぼのと明石の浦の」また赤人の歌とならべてしまっているのである。人麻呂の右引の二首は、古今集中には、いずれも左往に、ある人のいはくの形であらわれるものであり、この和歌史構成の時点と、実際の編纂作業との間に溝があるように 思われるし、何よりも平城天皇としたはあいの時代認識は勅撰という肩書きにそむく感さえあるのだが、ともかくこのいわゆる「ならの御門」なる人物は、古今時代の段階ですでに捕えにくい過去の人物として考えられていたことは疑いなさそうである。ただし、どう一しても天皇にトツプバッターを願わねは、この序が成り立諦たなかったことこそは注目しておかねばならないことがらなのであろう。どうもたいへんめんどうな手続きであったが、二十一代集才子伝に見る、光孝天皇以前の二人の天皇はどうもはっきりした資格を持たないということになるのである。すくなくとも禁秘抄の断定は生きてきそうな感じである。 光孝朝をかような区切りと考える見方が他にないわけでもない。たとえば袋草紙上巻大嘗会歌次第に、天武天皇の白鳳二年十一月にはじまったこの儀式に歌がついてくるのは承和のころからだという指摘の後、和歌の作者について、先に引用したように「光孝天皇御時大伴黒主也」と明記するのも、実際問題として誤りと考えられるにしろ、その資料の一つであろうし、八雲御抄に見える、御製書様のことで、「古今光孝己上書右」と特記するのも、古今集をはじめから読んでいけば詞書の書きざまとしてまさしくかようなのであるが、 一つのしるしにはなるだろう。更に、歌学大系に納めるところの、水無瀬の玉藻なる書物には、「仁和の御時僧正遍昭に勅したまふ。此時は久に君も臣もみなもろこしの歌をのみもてあそびて、吾風俗はなきが如くに成れり。倭歌興行して其風俗の絶えざらんことをはかるぺしとて、本尊を定めおはするに、七つになる乙女にぬさ持たせ、帝御ことを弾じ給ひて神おろしおはせしに・・・」という何やら大けさなエピソードをもしるしている。三代実録貞観六年二月二日には、仁明天皇の勅によって時康親王は、高橋文室麻呂から鼓琴を伝授されたといぅ伝えもあり、また古今集賀の歌などから察するところ、この光孝天皇・遍昭両者の関係はなみなみでなかったらしいが、「倭歌興行して其風俗の絶えざらんことをはかるぺし」とは、やはりまったくのめくらめっぽうのことばではなく、光孝天皇のあたりで一つの国風始発点を見ている考えなのだと思われる。 実際問題として、平安朝第一代桓武天皇自身も、類衆国史や南京逮饗に六首の饗宴歌を持っており、陽成天皇にしてもかの有名な「つくばねの」のような歌のよみ手とされている。治世わずか三年の天皇に、その親王時代を時に強調されはするものの、特に集中して和歌の中興開山めいた仕儀が語られるのはなぜなのであろうか。いわば外部的なせんさくはひとまずおき、わたくしともはしばらく光孝天皇の作と伝えられる和歌自体の分析を通して、内部からその事情を探ってみる必要がある。 光孝天皇作とされる和歌は実際はごくわずかなものである。勅撰作者部寮には、古今春上一首、賀一首。新古今恋五に三首、以下新勅撰から風雅までに九首、計一四首をあげる。新古今以下は結局一二首であるが、うち春の歌二首を除きすべて恋の歌であり、かなり朗著な傾向を示すといってよい。これこそは古今集仮名序にいう「色好みの家に埋れ木の」状態であった和歌が、帝王の世界に密接しっつ、和歌の本質にむすびついていた新著なあらわれでもあった。 |
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1 仁和のみかどみこにおはしましける時、人に若菜たまひける御歌
君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ (古今・春上) 2 仁和の御時、僧正遠隔に七十賀たまひけるときの御歌 かくしつつとにもかくにも長らへて君が八千代に逢ふ由もがな (古今・賀) 3 久しくまゐらぬ人に 君がせぬわが手枕はくさなれや涙の露の夜な夜なぞおく (新古今・恋五) 4 題しらず 涙のみ浮出づるあまの釣竿の長さ夜すがら恋ひつつぞぬる (新古今・恋五) 5 題知らず 逢ずしてふる頃はひの数多あれば造けき空にながめをぞする (新古今・恋五) 6 みこに坐しましける時の卸歌 山桜立ちのみかくす春がすみいつしか晴れて見るよしもがな (新勅撰・春下) 7 題知らず 月のうちの桂の枝をおもふとや涙の時雨ふるここちする (新勅撰・恋五) 8 題知らず 山河のはやくも今は愚へども流れてうきは契りなりけり (新勅撰・恋五) 9 人にたまはせける 跡たえて恋しき時はつれづれと面影にこそはなれざりけれ (続後撰・恋三) 10 人に給はせける 涙川流るるみをのうきことは人の淵源を知らぬなりけり (読後撰・恋四) 11 更衣元善さとより参りける日 梅の花ちりぬるまでに見えざりし人くと今朝は鴬ぞなく (続古今・春上) 12 久しく参らざりける人に 久しくもなりにけるかな秋萩の古枝の花も散り過ぐるまで (玉葉・恋四) 13 近江更衣に給はせける あさか山朝ゐる雲の風をいたみたゆたふ心我は持たらじ (続後拾遺・恋一) 14 人に給はせける 秋なれば萩の野もせに置く露のひるまにさへも恋しきゃなぞ (風雅・恋四) 仁和御集(桂宮本叢書第二〇巻・代々御集による)との異同を略記すれば、次のようである。なお、いわゆる奈良御集と称するものもほぼ同様でみる。御集は1七首をのせるが二部の語句・詞書の異同を不問にすると、そのうち一三首は右記の勅撰集にの.るものに重複する。2の古今集賀の歌だけがない。残りの四首は、風雅集14の歌の詞書「あかつきおきたる下の曹司にたまひけるに秋なれば・・・」を受けるように「おなじ人にたまはせたるちはやふる神のみかはのつり人にあらぬわれさへぬれまさるかな」が一首。新古今集に延善御歌としてのる「夏草はしけりにけれとはとときすなとわかやとに三戸もせぬ」がここにのり、さらに、新古今3の歌について女性からの返歌が一首。「又こと更衣にたまはせける」の詞書で「よそにのみまつははかなさすみの江にゆきてさへこそ見まくはしけれ」とつこう四首である。このさいこの「よそにのみ」の歌は、仁和御集に指示はないが、後撰集恋二にある延喜御製である。また、2の古今集賀の歌は、御所本遍昭集によれば、詞書を「仁和御時、八十賀たまふに」として遍昭自身の歌であり、存疑の形になる。仁和御集にあがらぬゆえんであろう。もっとも西宮記巻十二賀事には「有御製」というから、光孝天皇自身の歌もあったのだろう。総じて平明な歌いぶりであり、まことに和歌文学大辞典に説くように「女性への贈歌が多い。」ところで右で光孝天皇の現存すべての和歌だというわけではない。他にもたとえば梁垂秘抄帝王のところに見える「散りぬれどまたくる春は咲きにけり千歳の後は君をたのまむ」といったものをひろえは、まだあがってこよう。それにしても私は、よりによって右の帝王の部の和歌に、例の王仁の作という「難波津に咲くやこの花」とならんで、わずかな治政の光孝天皇の歌を見出すことに興を覚える。 ところで、右の光孝天皇御製と考えられるものについて顕著な傾向を1つ見出すことができる.それは、古今に二首登録されたあと、新古今まで勅撰集に一首も見あたらぬことである。そういえば、和漢朗詠集の若菜の部分も、和歌では、人麻呂・赤人そして貫之の「ゆきてみぬ人もしのべと春の野にかたみにつめる若菜なりけり」の三首で、例の有名な「君がため」はとられていない。和漢朗詠集には他に、早春超の兼盛の歌「みわたせば比良の高ねに雪消えて若菜つむぺく野はなりにけり」と若葉をよみこむものもある。定家十体で寮様に入れられたすぐれた歌であったのにこのありさまである。これはどうも島津忠夫氏が指摘されたように、新古今のころ、特に定家による再評価が考えられるかと 思う(角川文庫本百人一首・四一貢)。ちなみに島津氏の同上書は、鋭い指摘を随所に持ち後学を資する書物であるが、その伝記を書いた数行の内に、「風流の才に富み、和歌興隆の基をなしたともいえる。」とされる。これは三代実録や二十一代集才子伝にひく 「性多風流」を受けての発言であろう。 右に列挙した和歌の内で目立つものは、その知名度からして、古今集春上の若菜の歌であろうことはまず十日の視るところであろう。詞書によれば、みこの時の歌であるというが、今ここに表題にそうような形で、この歌についての目のつけどころを考えてみたい。前引島津氏が同じところで引用された、目崎徳衛氏の「僧侶および歌人としての遍昭」(日本歴史・二一九号)は、この歌を引いて古今集中層指の名作とし、「かつて松田武夫博士は、古今集の賀歌が光孝天皇を一つの焦点として編纂されていることを指摘し、その理由を光孝が当代醍醐天皇の直系の祖なる点に求められたが、わたしはそれのみならず和歌興隆の祖としての敬仰も含まれていたのではないかと憩像するo」といわれた。屈指の名作かどうかの判断は人によってちがうだろうが、この歌の「窄止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛購、親愛九族」(三代実録)といわれる人柄を秘めたやさしいのどやかな調べを愛する人はたしかに多かろうと思う。孫にあたる敦慶親王が、「ふるさとと荒れにし宿の草の葉も君がためとぞまづほ摘みつる」とよめたのも、原歌のポピユラリティをものがたろう0なお、この敦慶親王の歌が、所収の大和物語で「故式部卿の宮二条の御息所にたえ給て、またの年のむ月の七日の日、若菜たてまつりたまうけるに」といった恋の情の世界でとり扱われていることに、注意をしておく必要があろう。 ところで大和物語にはもう一首、あげるに価する歌があって、それは良今の宗貞の少将つまり在俗時の遍昭にまつわるエピソードの内に出てくるものであった。「良今の宗貞の少将、物へ行くみちに」の一段で、某年正月十日のほどに、五条わたりで雨やどりの際たまたま見そめた女性の親に、庭の菜を饗応された時、つけて出された歌という。「君がため衣の裾をぬらしつつ春の野にいでてつめる若菜ぞ」遍昭の作ではないが、彼と光孝天皇との関係は目崎氏の検討にく わしく、このあたり、あたかも競作のようなありさまである。 ところでこの光孝天皇の歌成立の背景には、いわゆる本歌と考えられているものが数首あり、古今余材抄に引く、万葉集1八三九「君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消の水に裳の裾ぬれぬ」はその1つであり、赤人の「春たたは若菜つまんと模野にさのふも今日も雪は降りつつ(一四二七)」もその一つである。どうも独創の部分は意外にすくないといわざるをえず、このこと自体がすでに古今的といえぬこともない。だいたい、貫之集の詞書を一見しても、やたらに屏風歌として若菜をよむケースが多い時代をすぐひかえているわけである。この野に出て、若菜をつむことは、年中行事としておこなわれるようになったのが延善年間としても、かなり古くからの春の邪気を払う行事であったらしい。そしてこれには、子日の行事の一つである「供若菜」と正月七日に七草を供する「供若菜」の二種の別があるという(山中裕氏「平安朝の年中行事」二一七貢)。後者は荊楚歳事記にいう、「正月七日為入日一、以二七種菜一為レ嚢」(元文二年刊本)と、中田伝来の行事であったことを不している。更にそれは、もちろん倭六県の甘菜・辛菜の調進をもとにするいとも政治的な匂いを背景の一つにはするだろうが、また別に、春の訪れを人に知らせる慶祝と祈頑の意をあらわしていたのでもあろう。そして、特に和歌の世界の素材となると、まったくそれらとは関係なさそうな、たとえば、「河上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ」(万葉集・二八三八)のように女性というもののイメジと密接する場にあらわれるもののようである。万葉集総索引にあたって確認してみるならば、右引の二八三八の歌のみ、表記「若菜」そして他は「春菜」を書いて「わかな」とよませているが、「春山の咲きのををりに春菜つむ妹が白紐見らくしよしも」(一四二一)「難波ぺに人の行ければ後れゐて春菜つむ児を見るがかなしさ」一四四二)「国栖らが春菜つむらむ司馬の野のしばしば君を 思ふこのころ」(一九一九)「・・・少女らが春菜つますと紅の赤裳の裾の春雨ににはひひづちて・・・」(三九六九)とすべて女性を点出しており、また、前に引いた赤人の「春たたは」(一四二七)の歌についても、春の雑歌として彼の歌四首が、 一四二四から一四二七までまとめて登載され、うち一四二五・一四二六が確実に女性に関わる世界であり、他の一四二四「春の野にすみれつみにと」も女性をなつかしんだとする説もあることとて、濃厚に女性的なるものを志向していて、 一四二七を一連のものとしてそれにならうとすると、万葉集の若菜の歌すべては、女性的なるもののイメジを持つといい切ってよいことになる。「この岡に菜つますこ」(一)や「朝菜つみてむ」(九五七)の寮も同様であろうOつまりは女性の仕事だというわけである。もっともこういった類のもの、すべて女性のなしたことではなく、「あかねさす昼はH賜ひてぬばたまの夜のいとまにつめる芹子これ」(四四五五)という、芹子のつとにそえて女に贈った橘諸兄の歌もある。もっともその女性は、「大夫と愚へるものを大刀鳳さてかにはの田居に芹子そつみける」(四四五六)とことわっているところを見ると、やはりこの種のわざは女性のものであったのだろう。光孝天皇の作である、この若菜の歌も、まずは帝王の女性にもまがうがごとき優にやさしきおもんぽかりとでもいうところか。ちなみに、この「若菜」なる語は、中国のふつうの詩文に典例を見ないようである。鳳文韻府の索引を検してもこの語なく、大漢和辞典も、欝をあげるもののわずかに例を西宮記正月下の記述にとるのみである。どだい大漢和辞典、薯の項の第一八意にもしるすように、若の字自体が、説文の説くところ「菜をえらぴとる」ことではあるが、これがあの和漢朗詠集若菜のところに、中国側の文句を見ない理由であって、つまりは、「中国物より歌へ」(小島憲之氏・国語と国文学・四二巻五号)という系譜に、ことば自体としてはのってこないものなのであった。 それならばなに故にこの歌をとりたてていう価値があるのか。このことについては、管見の及ぶ限り、左記の説明がきわめて秀れたものと思われる。 |
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■ これは「春菜」の赤人歌の系列にあり、古今集の読人の名ある「つつ」止め歌の努頭に位置するが、作者はいまやいわば「棲めし野」に出でたみずからを、さらには雪のふる自然のなかにそれとは対立する人間としてのみずからを、明らかに対象的に見ている。そのよくな形をとりえたところに、まさしく 「こころ」があらわれている。「わがころもでに・・・」という表現もそこから出てくるのである。万葉集ではこのような「わが」については、その主我的立場にもかかわらず、いな、その立場のゆえに、わずかに「誰そ彼れと我れをな間ひそ九月の露に沾れ乍君待つ吾れを」(巻十ー二二四〇ー人麻呂歌集)というところまでしかいうことができなかった。そこでは、主我は対象化されて見られているが、主の「こころ」は依然として意志ー意欲性に任し、情緒の立場には転じえていない。」(森重敏氏「古代和歌における「つつ」の展相」国語国文二二六巻一二号)
森重民は、ことばの成立を、意欲の知性による情緒化であるとされ、「つ、つ」ということばの展相をまことにみごとに追求しておられるのだが、この短い引用に示されたところは、きわめて示唆に富むもので、実際問題としてここにいう現象こそは、平安和歌の始発をこの天皇に見こまねはならないと断ずる、最も大切なことがらなのであると思う。 このようないわば内部の面からの検討に加えて、松臼武夫氏の分析にすでに明、七かである、古今集裂の歌の構造において(「古今集の構造に関する研究」三三八貢以下)、光孝天皇と基経とを中心にする一つの基幹が、字多・醍醐という古今集の成立に事実上もっとも中核的なところにいた帝王たちに直接するのだという意識を定着しえたのも、すぐれて政治の季節的な和歌の風景としてとらえておかねばならないのであろう。六国史末尾を飾る王朝は、そのまま国風の祖となったのである。 実は、他にも少しこの時代、特に仁和年間という短い時期にあらわれた諸現象に目をむけたはあい、時代を画するものの多いことに我々はおどろかされる。それらを、当面国風の世界に限っていうならば、現存最古の歌合である在民部卿家歌合と最古の弊風歌ー拾遺集雑秋の平貞文の歌ーの存在。また、後撰集雑一の巻頭、仁和二年十二月十四日芹川野狩猟行幸時の行平歌に見える桓武期以来の狩猟行幸の復活。孟冬旬に、前代とことなり和琴が奏せられ和歌が作られるようになったこと(橋本不美男氏「王朝和歌史の研究」一四一貢)。更にひろげて、仁和四年巨勢金岡が御所東庇障子に画いた弘仁以後の鴻儒之堪詩者の像の画業。身軽な日本風の衣服である狩衣の、文献上の登場が仁和二年であること(図説日本文化史大系・平安時代上・三六六貢。また、右引後撰集行平歌参照)など、そうとうな数にのぼる。もう少し政治の奥深い面を探ってみるならば、仁和二年正月二日、仁寿殿でおこなわれた時平の元服式ーこの時光孝天皇はみずから加冠したIと、同じー正月十六日の除目で讃岐守に配された道真の心情を説き、「光孝天皇の即位に伴って、陽成天皇の時代とは異なった風潮がきざした。一方に摂政基経があり、他方に橘広相の進出がかなり目立って来た、というのが仁和年間の政治権力の底流をなしていた。道真が式部少輔兼文章博士加賀権守を解かれて、讃岐守に任命されたのは、この時期に当っている。この任命の背後にはこのような一般状勢の変化が作用しているかも知れないが、それよりも文人同志の反目の方がより大きな力を以てはたらいていたのではないか。」という、日本人物史大系一所収論文「菅原道真の前半生」の要旨を更に徹底された、弥永貞三氏の論考も一つの時代の区切りを鋭く示されて示唆を与えられたものであった(「仁和二年の内宴」日本古代史論集下巻・五〇五貢以下)。 同じ仁和二年正月七日、従七位石上並松は、突然の善びに従五位下を賜わった。三代実録に明記されるところ。時に親友ふるのいまみちは、 1首の歌をもってその栄進を祝う。「いそのかみのなんまつが、宮つかえもせで、いそのかみといふ所にこもり侍りけるをtにはかにかうぶりたまはりければ、よろこぴぃひっかはすとて、よみてつかはしける。日の光やぶしわかねはいそのかみふりにし里に花も咲きけり」(古今集雑上)帝王の恵みは厚く、日の光はあまねきところなきありさまである。実は、その光孝天皇自身が、ほとんどかような1時は埋れ木のようなありさまで帝位についた人であった。阿衝の紛議の種はすでに芽を出しかかっており、藤原氏の門閥政治とそのことは微妙にからみあいつつ、国風の世界を規制していくことになる。そしてこの時、すでに文草道的文芸観、卑官の身ながら「やまと歌しれる人」(貫之集一〇詞書)という自負の持ち主たちは、滑々と流れ行く和敬の貴族化に身を没して、そのそえものとなってしまうだろうことを約束させられたのだといってもよろしかろう。げてみたものである。充分な推考の時間がなく、たいへん荒い見取り図といったさまであるが、今、故先生から受けたさまざまの御恩を想い起し、整んで御霊前に捧げまつる。 |
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■16.中納言行平 (ちゅうなごんゆきひら) | |
立(た)ち別(わか)れ いなばの山(やま)の 峰(みね)に生(お)ふる
まつとし聞(き)かば 今帰(いまかへ)り来(こ)む |
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● あなたと別れて因幡へ赴任して行っても、稲葉山の峰に生えている松ではないが、待っていると聞いたならば、すぐに帰ってこよう。 / あなたとお別れして、因幡の国へ行きますが、その地にあるいなばの山の峰に生える松のようにあなたが待っていると聞いたなら、今すぐにでも帰って来ましょう。 / いま、あなたと別れて因幡国(現在の鳥取県)へ行っても、稲葉山(鳥取県にある山)の峰に生えている松の木の名前のように、あなたがわたしを「待つ」と言ってくださるのを聞いたなら、すぐに帰って来ましょう。 / あなたと別れて(因幡の国へ)行くけれども、稲葉の山の峰に生えている松のように、あなたが待っていると聞いたなら、すぐにも都に帰ってまいりましょう。
○ たち別れ / 「たち」は、接頭語。 ○ いなば / 「往なば」と「因幡(稲葉・稲羽)」の掛詞。「往なば」は、「動詞ナ変の未然形+接続助詞“ば”」で順接の仮定条件。「(仮に)行くとしても〜」の意。「いなばの山」は、「因幡の山」で、「稲葉(稲羽)山」の意。鳥取市東部にある。 ○ まつとし聞かば / 「まつ」は、「松」と「待つ」の掛詞。上を受けて「峰に生ふる松」、下に続いて「待つとし聞かば」となる。「し」は、強意の副助詞。「聞かば」は、「動詞四段の未然形+接続助詞“ば”」で順接の仮定条件。「(仮に)聞いたならば〜」の意。 ○ 今帰り来む / 「今」は、「ただちに・すぐに」の意。「む」は、意志の助動詞。「〜よう」の意。 |
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■ 1
在原行平(ありわら の ゆきひら、弘仁9年(818年) - 寛平5年7月19日(893年9月6日))は、平安時代前期の歌人・公卿。平城天皇の第一皇子である弾正尹・阿保親王の次男(または三男)。在原業平の兄。官位は正三位・中納言。在中納言・在民部卿とも呼ばれた。小倉百人一首では中納言行平。 天長3年(826年)父・阿保親王の奏請により兄弟とともに在原朝臣姓を賜与され、臣籍降下する。 承和の変後急死した阿保親王の子息のうち、また当時の藤原氏以外の官吏としては、比較的順調な昇進ぶりを示し、特に民政に才を発揮した。承和7年(840年)仁明天皇の蔵人に任じられ、翌承和8年(841年)従五位下・侍従に叙任される。承和13年(846年)従五位上・左少将に叙任され、以降は主に武官と地方官を務める。 文徳朝の斉衡2年(855年)正月の除目により従四位下に叙せられると同時に因幡国守に任ぜられる。小倉百人一首に取られた和歌は、このときの任国への下向に際してのものである。のち2年余りで帰京する。古今和歌集によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴、須磨琴を製作したと伝えられている。なお、謡曲の『松風』は百人一首の行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている。 清和朝では左京大夫・大蔵大輔・左兵衛督を経て、貞観12年(870年)参議に補任し公卿に列す。貞観14年(872年)には蔵人頭に任ぜられるが、参議が蔵人頭を兼帯した例は非常に珍しい。貞観15年(873年)従三位・大宰権帥。 元慶5年(881年)在原氏の学問所として大学別曹奨学院を創設した。これは朱雀大路東・三条大路の北一町を占め、住居を与えて大学寮を目指す子弟を教育したもので、当時は藤原氏の勧学院と並んで著名であった。なお、行平の死後、醍醐天皇のときに奨学院は大学寮の南曹とされた。元慶6年(882年)正三位・中納言に至るが、仁和3年(887年)70歳の時、中納言・民部卿・陸奥出羽按察使を致仕して引退する。 ■ 勅撰歌人として『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に合計11首入集。また、民部卿行平歌合(在民部卿家歌合)を880年代中頃に主催したが、これは現存する最古の歌合である。 立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む — 『百人一首』第16番 この歌は現代において、いなくなった飼猫の帰還を願う猫返しのまじないとしても、伝えられ親しまれている。 |
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■ 2
在原行平 ありわらのゆきひら 弘仁九〜寛平五(818-893) 号:在納言 平城天皇の孫。阿保親王の第二子。母は一説に伊都内親王。業平の兄。むすめの文子は清和天皇の更衣となり貞数親王を生む。九歳のとき臣籍に下り、在原氏を賜る。仁明天皇の承和七年(840)、蔵人に補せられる。侍従・右兵衛佐・右近少将などを経て、文徳天皇代の斉衡二年(855)正月七日、従四位下に昇叙される。同十五日、因幡守を拝命し、間もなく任国に赴任する。因幡で二年ほどを過ごして帰京。斉衡四年、兵部大輔。以後中務大輔・左馬頭・播磨守などを経て、清和天皇の貞観二年(860)、内匠頭。さらに左京大夫・信濃守・大蔵大輔・左兵衛督などを歴任し、同十二年正月、参議。同十四年八月、蔵人頭に補せられる。同十五年、従三位に昇り、大宰権帥を拝して筑紫に赴く。陽成天皇の元慶元年(877)、治部卿を兼ねる。同六年、中納言に昇進。光孝天皇の元慶八年三月、民部卿を兼ねる。九年二月、按察使を兼ねる。仁和三年(887)四月、七十歳にして致仕。最終官位は正三位。民政に手腕を発揮した有能な官吏であり、また関白藤原基経としばしば対立した硬骨の政治家であった。元慶八年(884)〜仁和三年(887)頃、自邸で歌合「民部卿行平歌合」(在民部卿家歌合)を主催。これは現存最古の歌合である。歌壇の中心的存在として活躍し、また一門の学問所として奨学院を創設した。歌からは左大臣源融との交流も窺える。 春 / 題しらず 春のきる霞の衣ぬきをうすみ山風にこそみだるべらなれ(古今23) (春が着る霞の衣は、緯糸(ぬきいと)が薄いので、山を吹く風に乱れるものらしい。) 恋 / 題しらず 恋しきに消えかへりつつ朝露の今朝はおきゐむ心ちこそせね(後撰720) (恋しさに消え入るような思いがして、朝露が置くように、今朝は起きて座っている気持ちにもなれない。) 離別 / 題しらず 立ちわかれいなばの山の峰におふるまつとし聞かば今かへりこむ(古今365) (お別れして、因幡いなばの国へと去いなば、任地の稲羽いなば山の峰に生えている松ではないが、私の帰りを待ち遠しく思ってくれるだろうか。故郷くにからの便りでそうと聞いたなら、すぐ帰って来よう。) 羇旅 / 津の国のすまといふ所に侍りける時、よみ侍りける 旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風(続古今868) (旅人は袂を冷ややかに感じるようになった。関を自由に吹き越えてゆく須磨の浦の風よ。) 羇旅 / 題しらず いくたびかおなじ寝覚めになれぬらむ苫屋にかかる須磨の浦波(玉葉1222) (幾度同じような寝覚めを経験して、それに慣れてしまったのだろうか。苫屋にかかる須磨の浦波よ。) 雑 / 田むらの御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ(古今962) (たまたまでも私のことを尋ねる人がいましたら、須磨の浦で藻塩にかける潮水を垂らしながら――涙に濡れて侘びしく暮らしていると答えて下さい。) 雑 / 布引の滝にてよめる こきちらす滝の白玉ひろひおきて世の憂き時の涙にぞかる(古今922) (しごき散らす滝の白玉を拾っておいて、人生の辛い時の涙に借りるのだ。) 雑 / 布引の滝見にまかりて 我が世をば今日か明日かと待つかひのなみだの滝といづれ高けむ(新古1651) (私が時めく世を、今日か明日かと待望しているけれども、待つ甲斐もなく、涙を滝のように流している――布引の滝とどちらの方が高いだろうか。) 雑 / 家に行平朝臣まうで来たりけるに、月のおもしろかりけるに、酒などたうべて、まかりたたむとしけるほどに 河原左大臣 照る月をまさきの綱によりかけてあかず別るる人をつながむ (まさきの葛(かずら)を綱に撚(よ)って月に繋いで、帰ろうとする人を引き留めよう。) 返し 限りなき思ひの綱のなくはこそまさきの葛かづらよりもなやまめ(後撰1082) (「まさきのかづら」は限りなく長いそうですが、そんなふうに限りのない思いがあなたにあるでしょうか。もし無いのであれば、綱に撚るのは大変でしょうなあ。) 雑 / 仁和のみかど、嵯峨の御時の例にて、芹河に行幸したまひける日 嵯峨の山みゆきたえにし芹河の千世のふるみち跡はありけり(後撰1075) (嵯峨天皇以来、行幸が絶えてしまっていた芹川ですが、遥かな代の古道は跡が残っていました。) 雑 / おなじ日、鷹飼ひにて、狩衣かりぎぬのたもとに鶴の形かたを縫ひて、書きつけたりける 翁おきなさび人なとがめそ狩衣かりごろもけふばかりとぞ鶴たづも鳴くなる(後撰1076) 行幸の又の日なむ致仕の表たてまつりける。 (老いて狩衣など着た出で立ちを、皆さん咎めないでほしい。こんな姿でお供するのも、今日が最後の狩だと、この鶴も鳴いている。) |
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■ 3
能「松風」 / 在原行平と海女の恋 松風は、熊野松風に米の飯といわれるように、古来能としても謡曲としても人気の高かった曲だ。在原行平の歌をベースに、行平の恋の相手であった海女松風村雨の切ない思い出語りを、源氏物語須磨の巻の雰囲気を借りてしみじみと演出したものだ。また終わり近くでは、松風が狂乱状態で舞うなど、構成に変化があって、観客は飽きることがない。 もともとは田楽の名手亀阿弥がつくった汐汲という曲を、観阿弥が改作して松風村雨と名づけ、さらに世阿弥が手を加えて現行の曲にしあげた。三人の名手の手を経ているだけに完成度が高いわけである。 行平は伊勢物語の作者在原業平の兄である。その歌の中から わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつゝわぶと答へよ 立ち別れいなばの山の峰に生ふる待つとし聞かばいま帰り来ん の二首を選んでこの劇の筋の柱としている。 「わくらはに」の歌からは、行平が須磨にわび住まいしていたことが連想されるが、そこから須磨の海女との恋の話が生まれたのだろう。この二人の女性が実在して、行平との間に本当にそんな恋があったのか、そんなことを問題にするのは野暮というものだ。 「立ち別れ」の歌からは、行平が海女と別れて去らねばならなかった無念さが連想される。そこから行平の帰りをひたすらに待ちわびる海女たちの切ない思いが構想されたのだろう。 この曲はあくまでも海女たちの切ない恋心がテーマだ。行平本人は出てこない。幽霊となってもなお、行平との再会を夢見る海女たちがでてきて、諸国一見の僧とのやり取りを経て、昔を懐かしみつつ、やがて狂乱する。狂乱の中で松風は、松の立ち姿が行平の姿に重なってみえるのだ。 前半と後半とではだいぶ雰囲気が異なるが、構成上は一場ものになっている。ただ途中で物着が入り、そこで松風が海女の姿から狩衣に変わる演出がある。複式夢幻能への過渡的な形態と位置づけることができよう。 ここで紹介するのは、喜多流の能で、シテは友枝昭世、ワキは宝生閑が演じていた。両者とも人間国宝である。まず舞台正面に松の作り物が据えられ、諸国一見の僧が登場する。 ■ 須磨の浦にやってきた僧は、浜辺の松に供養に徴があるのを不思議に思い、そのいわれを土地のものにたずねる。間狂言が出てきて、この松は行平に愛された二人の海女松風村雨を祀ったものだから、是非念仏を手向けなさいと答える。 ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我いまだ西国を見ず候ふ程に。此度思ひ立ち西国行脚と志して候。あら嬉しや急ぎ候ふ程に。これははや津の国須磨の浦とかや申し候。又これなる磯辺を見れば。様ありげなる松の候。いかさま謂のなき事は候ふまじ。このあたりの人に尋ねばやと思ひ候。 ワキ「さては此松は。いにしへ松風村雨とて。二人の海人の旧跡かや。痛はしや其身は土中に埋もれぬれども。名は残る世のしるしとて。変らぬ色の松一木。緑の秋を残す事のあはれさよ。 詞「かやうに経念仏してとぶらひ候へば。実に秋の日のならひとてほどなう暮れて候。あの山本の里まで程遠く候ふほどに。これなる海人の塩屋に立ち寄り。一夜を明かさばやと思ひ候。 ここでツレの村雨とシテの松風が海女の姿で出てくる。また舞台には汐汲車の作り物が据えられる。 シテツレ二人真ノ一声「汐汲車。わづかなる。うき世にめぐる。はかなさよ。ツレ二ノ句「波こゝもとや須磨のうら。 二人「月さへぬらす。袂かな。 シテサシ「心づくしの秋風に。海はすこし遠けれども。かの行平の中納言。 二人「関吹き越ゆるとながめたまふ。浦曲の波の夜々は。実に音近き海人の家。里離れなる通路の月より外は友もなし。 シテ「実にや浮世の業ながら。殊につたなき海人小舟の。 二人「わたりかねたる夢の世に。住むとや云はんうたかたの。汐汲車よるべなき。身は蜑人の。袖ともに。思を乾さぬ。心かな。 地下歌「かくばかり経がたく見ゆる世の中に。うらやましくも。澄む月の出汐をいざや。汲まうよ出汐をいざや汲まうよ。 上歌「かげはづかしき我が姿。かげはづかしき我が姿。忍車を引く汐の跡に残れる。溜水いつまで澄みは果つべき。野中の草の露ならば。日影に消えも失すべきにこれは磯辺に寄藻かく。海人の捨草いたづらに朽ち増りゆく。袂かな朽ちまさりゆく袂かな。 シテサシ「おもしろや馴れても須磨のゆふま暮。海人の呼声幽にて。 二人「沖にちひさきいさり舟の。影幽なる月の顔。雁の姿や友千鳥。野分汐風いづれも実に。かゝる所の秋なりけり。あら心すごの夜すがらやな。 松風は汐汲車の紐をとって肩にかけると、車を引っ張りながら舞台を一巡する。前半部分の見せ場だ。汐を汲む動作をすることによって、自分たちが海女であったことを観客に強調しているわけである。 シテ「いざ/\汐を汲まんとて。汀に満干の汐衣の。 ツレ「袖を結んで肩に掛け。 シテ「汐汲むためとは思へども。 ツレ「よしそれとても。 シテ「女車。 地「寄せては帰るかたをなみ。寄せては帰るかたをなみ。芦辺の。田鶴こそは立ちさわげ四方の嵐も。音添へて夜寒なにと過さん。更け行く月こそさやかなれ。汲むは影なれや。焼く塩煙心せよ。さのみなど海士人の憂き秋のみを過さん。松島や小島の海人の月にだに影を汲むこそ心あれ影を汲むこそ心あれ。 ロンギ地「運ぶは遠き陸奥のその名や千賀の塩竈。 シテ「賎が塩木を運びしは阿漕が浦に引く汐。 地「その伊勢の。海の二見の浦二度世にも出でばや。 シテ「松の村立かすむ日に汐路や。遠く鳴海潟。 地「それは鳴海潟こゝは鳴尾の松蔭に。月こそさはれ芦の屋。 シテ「灘の汐汲む憂き身ぞと人にや。誰も黄楊の櫛。 地「さしくる汐を汲み分けて。見れば月こそ桶にあれ。 シテ「これにも月の入りたるや。 地「うれしやこれも月あり。 シテ「月は一つ。 地「影は二つ満つ汐の夜の車に月を載せて。憂しともおもはぬ汐路かなや。 これが終わり、二人が塩屋の中に入ると、外で待ち構えていた僧侶が一夜の宿を所望する。 ワキ詞「塩屋の主の帰りて候。宿を借らばやと思ひ候。いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。 ツレ詞「誰にて渡り候ふぞ ワキ「これは諸国一見の僧にて候。一夜の宿を御貸し候へ。 ツレ「暫く御待ち候へ。主にその由申し候ふべし。いかに申し候。旅人の御入り候ふが。一夜の御宿と仰せ候。 シテ詞「余りに見苦しき塩屋にて候ふ程に。御宿は叶ふまじきと申し候へ。 ツレ「主に其由申して候へば。塩屋の内見苦しく候ふ程に。御宿は叶ふまじき由仰せ候。 ワキ「いや/\見苦しきは苦しからず候。出家の事にて候へば。平に一夜を明かさせて賜はり候へと重ねて御申し候へ。 ツレ「いや叶ひ候ふまじ。 シテ「暫く。月の夜影に見奉れば世を捨人。よし/\かゝる海人の家。松の木柱に竹の垣。夜寒さこそと思へども。芦火にあたりて御泊りあれと申し候へ。 ツレ詞「此方へ御入り候へ。 ワキ「あらうれしやさらばかう参らうずるにて候。 シテ詞「始より御宿参らせたく候ひつれども。余りに見苦しく候ふ程に。さて否と申して候。 塩屋の中へ導き入れられた僧は、二人の様子が浮世離れしているのを怪訝に思い、身分を明かすように迫る。 ワキ「御志有難う候。出家と申し旅といひ。泊りはつべき身ならねば。何くを宿と定むべき。其上此須磨の浦に心あらん人は。わざともわびてこそ住むべけれ。わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に。 詞「藻塩たれつゝわぶと答へよと。行平も詠じ給ひしとなり。又あの磯辺に一木の松の候ふを。人に尋ねて候へば。松風村雨二人の海士の旧跡とかや申し候ふ程に。逆縁ながら弔ひてこそ通り候ひつれ。あら不思議や。松風村雨の事を申して候へば。二人ともに御愁傷候。これは何と申したる事にて候ふぞ。 シテツレ二人「実にや思内にあれば。色外にあらはれさぶらふぞや。わくらはに問ふ人あらばの御物語。余りになつかしう候ひて。なほ執心の閻浮の涙。ふたゝび袖をぬらしさぶらふ。 ワキ詞「なほ執心の閻浮の涙とは。今は此世に亡き人の詞なり。又わくらはの歌もなつかしいなどと承り候。かたがた不審に候へば。二人ともに名を御名告り候へ。 僧に身分を訪ねられた二人は、松風村雨という海女の幽霊であることを告白する。しかして生前行平がここにやってきて愛されたこと、その行平が三年の後に都に帰りやがて死んだこと、自分たちは行平が忘れられず、こうして幽霊となって思い出の地を徘徊しているのだということを語る。 二人「恥かしや申さんとすればわくらはに。言問ふ人もなき跡の。世にしほじみてこりずまの。恨めしかりける心かな。 クドキ「此上は何をかさのみつゝむべき。これは過ぎつる夕暮に。あの松蔭の苔の下。亡き跡とはれ参らせつる。松風村雨二人の女の幽霊これまで来りたり。さても行平三年が程。御つれづれの御船あそび。月に心は須磨の浦夜汐を運ぶ 海人乙女に。おとゞひ選ばれ参らせつゝ。をりにふれたる名なれやとて。松風村雨召されしより。月にも馴るゝ須磨の海人の。 シテ「塩焼衣。色替へて。 二人「縑(カトリ)の衣の。空焼なり。 シテ「かくて三年も過ぎ行けば。行平都にのぼりたまひ。 ツレ「幾程なくて世を早う。去り給ひぬと聞きしより。 シテ「あら恋しやさるにても。又いつの世の音信を。 地「松風も村雨も。袖のみぬれてよしなやな。身にも及ばぬ恋をさへ。須磨の余りに。罪深し跡弔ひてたび給へ。 地歌「恋草の露も思も乱れつゝ。露も思も乱れつゝ。心狂気に馴衣の。巳の日の。祓や木綿四手の。神の助も波の上。あはれに消えし。憂き身なり。 クセ「あはれ古を。思ひ出づればなつかしや。行平の中納言三年はこゝに須磨の浦。都へ上り給ひしが。此程の形見とて。御立烏帽子狩衣を。残し置き給へども。これを見る度に。弥益の思草葉末に結ぶ露の間も。忘らればこそあぢきなや。形見こそ今はあだなれこれなくは。忘るゝ隙もありなんと。よみしも理やなほ思こそ深けれ。 ここで後見人から紫の狩衣を受け取った松風は、死に別れしたからには今はよそもないと、狩衣に怒りの思いをぶつける。 シテ「宵々に。脱ぎて我が寝る狩衣。 地「かけてぞ頼む同じ世に。住むかひあらばこそ忘形見もよしなしと。捨てゝも置かれず取れば面影に立ち増り。起臥わかで枕より。後より恋の責め来れば。せんかた涙に伏し沈む事ぞ悲しき。 ここで物着が入り、松風は狩衣姿になる。そこからが後半部分だ。 シテ「三瀬河絶えぬ。涙の憂き瀬にも。乱るゝ恋の。淵はありけり。あらうれしやあれに行平の御立ちあるが。松風と召されさむらふぞやいで参らう。 ツレ「あさましやその御心故にこそ。執心の罪にも沈み給へ。娑婆にての妄執をなほ。忘れ給はぬぞや。あれは松にてこそ候へ。行平は御入りもさむらはぬものを。 シテ「うたての人の言事や。あの松こそは行平よ。たとひ暫しは別るゝとも。まつとし聞かば帰りこんと。連ね給ひし言の葉はいかに。 ツレ「実になう忘れてさむらふぞや。たとひ暫しは別るゝとも。待たば来んとの言の葉を。 シテ「こなたは忘れず松風の立ち帰りこん御音信。 ツレ「終にも聞かば村雨の。袖しばしこそぬるゝとも。 シテ「まつに変らで帰りこば。 ツレ「あら頼もしの。 シテ「御歌や。 地「立ち別れ。 中ノ舞はかけりを思わせるように、なかなか動きに飛んでいる。舞はだんだん動きをましてクライマックスへと高まっていく。 シテワカ「いなばの山の峰に生ふる。松とし聞かば。今帰り来ん。それはいなばの遠山松。 地「これはなつかし君こゝに。須磨の浦曲の松の行平。立ち帰りこば我も木蔭に。いざ立ち寄りて。磯馴松の。なつかしや。 破ノ舞はクライマックスにふさわしい動きの激しい舞である。そして舞い終わると二人はそのまま舞台を去っていく。あとには呆然とした僧だけが残されるのだ。 キリ地「松に吹き来る風も狂じて。須磨の高波はげしき夜すがら。妄執の夢に見ゆるなり。我が跡弔ひてたび給へ。暇申して。帰る波の音の。須磨の浦かけて吹くや後の山おろし。関路の鳥も声々に夢も跡なく夜も明けて村雨と聞きしも今朝見れば松風ばかりや残るらん松風ばかりや残るらん。 |
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■ 4
在原行平 汐汲の姉妹が形見に残された衣を手に、去っていった高貴の恋人在原行平(ありわらのゆきひら)を偲ぶという、能の名曲『松風』にも取り上げられた"松風村雨伝説"は神戸市須磨区に伝わる話です。 多井畑(たいはた)という土地の村長(むらおさ)の娘、"もしほ" "こふじ"の二人が、塩を作るために海岸へ汐汲に通っていたところ、須磨に配流されていた在原行平がふたりを見初め、"松風" "村雨"という名を与え身近に召しました。しかし行平は都に戻ることになり、磯馴松(そなれまつ=潮風に曝されるため背が低くなっている種類の松)に自分の狩衣、烏帽子をかけて、二人には何もいわずに去っていきました...。 この地区には残された松風・村雨が行平を思って建てたという観音堂があり、また伝説を思わせる"行平" "松風" "村雨" "衣掛(きぬがけ)" "磯馴(いそなれ)※"などといった地名が今でも残っています。 在原行平は阿保親王(あぼしんのう)の第二子で、"昔おとこありけり"の『伊勢物語』、あるいは六歌仙の一人としてで有名な在原業平(ありわらのなりひら)の兄に当たる人物です。浮名を流していた弟とは違い、中央の要職や地方の国守などを歴任し、最後には太宰権師(だざいごんのそち=九州地域の兵を統率する司令官代理。事実上の司令官)となっています。かなり有能な官僚だったようです。 須磨へ下ったことは『古今和歌集・雑歌』に <田むらの御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける> (文徳天皇の御世、事情があって摂津の国、須磨というところに引きこもっていたときに、宮中に仕えている人におくった) とあって、源氏物語にも引用されている和歌が載せられていることから推察できます。 <わくらばにとふ人あらばすまの浦に もしほたれつつわぶとこたへよ> (もし誰か私がどうしているかと聞く人がいたら、須磨の浦で藻塩から滴る塩水のような涙を流しながら悲しんでいるよ、と答えてください) (み) ※磯馴と書いて、植物の種類を言うときは"そなれ"と読みますが、この地名の場合"いそなれ"と読むそうです。 |
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■ 5
在原行平の離別歌をめぐつて −離任時説の再検討ー 『古今集』巻第八「離別歌」の巻頭に次の一首が据えられている。 題しらず 在原行平朝臣 立ち別れいなばの山の峯におふるまつとし聞かばいまかへりこむ(三六五) この歌については、『古今集』の注釈書はもとより、しばしば汗牛充棟と形容される『百人一首』の注釈晝解説書においてもさまざまな言及がなされているが、大きく意見が分れているのは、これが因幡国ヘの赴任時に京で詠まれたのであるか、因幡国からの離任時に因幡国において詠まれたのであるかという、詠作事情にかかわる問題である。現代では赴任時とするのがほぼ定説だが、はたしてそれで問題はないのであろうか。本稿ではこの問題について、検討を加えたい。 |
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■一
あらためて基本的なことがらを整理しておくことにしよう。この歌が「立ち別れいなばの山」と歌われ、「去なば」に地名「いなば(の山)」が掛けられているからには、これは「いなば」という士地にかかわる離別歌であるにちがいない。在原行平(八一八〜八九三)は斉衡二年(八五五正月十五日に因幡守に任命されている(『文徳実録』同日条)。行平と「いなば」との縁は、これ以外には伝わらないから、この歌が行平の任因幡守にかかわる歌であろうことはおそらく間違いのないところである。「離別歌」の巻の他の多くの歌と同様、送別の宴(「うまのはなむけ」)において、その日の主人公行平によって詠まれた挨拶の一首である可能性が高いであろう。 ところが「題しらず」であるため、それ以上の事実が明白ではない。因幡国ヘの赴任にあたって都謀まれたのか(以下これを「赴任時説」と称する)、因幡守を離任し、帰京するにあたって、新任国司あるいは地元の人々によって催された送別の宴など謀まれたのか(以下これを「離任時説」と称する)、古来両襲存在する。古注においては雜任時襲主流であったが、国学以後は赴任時説が主流となり、現代では赴任時説が定説化していると言ってもいいのではなかろうか。 雜任時説を採る『百人一首』古注をいくつかあげておこう。享禄三年(一五三0)の奥書がある常光院流の注釈『経厚抄』に「此歌は行平卿因幡の国の任の時哉よめりけんと有。任果て上らんとせし時、我この国をいなばと云秀句なり。下句の心、我を又待人あらば再任もすべしと云心を、今かへりこんと云也。今とは亦と云心なり」とあるのは離任時説の代表的なものの一つであるといえよう。 次に宗祇流の集大成である『幽斎抄』を引こう。「彼卿因幡守なりしが、任はててみやこへのぼりけるにて思ふ人によみてつかはすとも云り。又誰にてもつかはすともいへり。歌の心は、待人もあらじと云落着なり」とあるのが『幽斎抄』の雜任時雫ある。「待人もあらじと云落着なり」は、『{示祇抄』の「待人だにあらばやがて帰こんといふ心なり。あらじと思ふ心をいへるよし也」の継承であるが、『拾郡』所引師説(貞徳説)はこれを敷衍して、「凡受領は一任四ケ年づ、にて、国守かはり侍れば、其国の治めよき人は、一国の人も国守の帰るをしたふ事也。又国をあしくおさむ人は、民国守のかはるをよろこぶなリ。(中略)今行平も国民したひてまつとだにあらば満足なるべけれども、さもあるまじきと卑下の心を下に持て此うたを見るべし」と云っている。宗祇流の特徴は、「(待人は)あらじと思ふ心をいへるよし也」という誘みに由来するものなのである。 ちなみに、右に引いた貞徳説は容易に、『士佐日記』の「八木のやすのりといふ人あり。この人、国にかならずしも言ひ使ふものにもあらざなり。これぞ、たたはしきやうにて、むまのはなむけしたる。{寸がらにやあらむ、国人の、心のつねとして、今はとて見えざなるを、心あるものは恥ぢずになむ来ける」(十二月二十三日条)といった記述を連想させる。『士佐日記』によって国司離任時における「国人」たちの動向について学習した貞徳の蕩蓄が、当歌についての宗祇流の解釈とうまく"付けられたのが『拾穂抄』所引師説であると言うことができるのではないか。貞徳の『士佐日記』ヘの関心は、のちに弟子たちによる注釈書として結実することとなる。 |
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■二
前節では、代表的な古注釈に見られる離任時説を紹介したのであるが、近世に入って赴任時襲、国学者たちによって強く打ち出されてくる。ただし、国学以前にも赴任時説は存在したのであって、冷泉家流の古注釈とされている『米沢抄』などにもそれが見られるが、ここでは戸田茂睡の『百人一首雑談』をあげておこう。茂睡は先ず離任時説を説くのであるが、続けて「又説に、此歌は行平因幡の受領に成て下るとて都にて読し歌也。さなければ今かへりこむの詞聞えずと云。題しらずとある歌なれば、いかやうにも聞人の÷ろにまかすべし」と述ベている。赴任時説をも紹介した上で、いずれかに決定することを避けて、読者の判断にゆだねているのである。この、いずれかに決定する根拠がないという判断はなかなかのもので、事実を詮索する立場からすれば、このあたりが穏当な見方と言っていいのではないかと思う。 さて、国学のさきがけをなした下河辺長流の『三奥抄』は、当歌注を「これはたびだつときにのぞみて相わかる、妻によみて与ヘける歌也」と書き出していて、まさに赴任時説を高らかに主張しているかのようである。ところが、その後いささかの考証の末に、「彼卿因幡の任はて、後都ヘ上る時にかの国におもふ人ありて読てあたへけるうたともいへり。さも有ベし」と述ベていて、雛任時説に大きく傾いているのである。契沖は『改観抄』で、行平の任因幡守の史実を『文徳実録』によって実証しているのは、定家の勘物に拠っていた従来の注釈からは大きな前進だが、続けて「此時相わかる、妻によみてあたへけるなるべし」と、師の『三奥抄』とほぼ同文をつらねている。しかも以下、離任時説ヘの言及はなく、赴任時説を前提として読んで矛盾のない記述がなされているので、契沖は赴任時説を採っていたと判断される。『古今余材抄』では明白に「思ふ人を置て因幡の任に下らぱといふ心を立わかれいなばの山とつづけたり」と述ベている。しかし契沖にしても、離任時説を明白に木艮疋して師説に異を唱えようとまでの意欲はうかがえず、ひよつとすると、どちらであっても大した問題ではないというのが本心だったのかもしれない。 赴任時説を主張し、離任時説を明確に否定したのは賀茂真淵の『うひまなび』である。真淵は次のように述ベている。 因幡国の守に任て、思ふ人などに別て京をたつ時、さのみななげきそ、いたく吾を待恋とし聞ば、今、いくほどもなく立かへり来て相見えんぞと、其人を型よめるなり。(中略)或説に、此歌は行平朝臣任の年みちて帰る時、国人の別れをしむに、われを待と聞ぱまた来らんてふ意ぞといへるはひがごとなり。古今集の別の部に入て、さることわりもなくて今かへり来らんといふからは、打まかせて京をわかる、時の歌にこそあれ、後世の好事は頻にふかき÷ろをそへむとて、ひがごといふなり。 「或説に」として離任時説を紹介し、それを明白に否定しているの発目される。その述ベるところはやや不明瞭であるが、『古今集』の離別の部に収められており、特に説明もなく「今かへりこむ」とあるからには、京を忠に考えて、京を離れる時の歌と解するのが素直な解釈であるということらしい。どうやら決定的な論拠といったものはなく、都人にとって「帰る」といえば地方ヘ下向することではありえず、都ヘ帰ることにきまっているという常禦肌にとどまっているように思われる。行平が雛任にあたって地元の人々の前で、因幡国をわが故郷であるかのように「今かへりこむ」と詠んだとすると、りツプサービスとはわかっていても、人々は大いに喜んだであろうが、そのようなことはどこにも書かれていないのであるから、真淵に言わすれば、それは後世の好事家の勝手な想像にすぎないと、一蹴される結果となるのであろう。 香川景樹は『百首意見』において、大菅白圭の『小倉百首批釈』と真淵の『うひまなび』から離任時説批判を引用して「実にしかり」と賛同した上で、次のように述ベている。一部送り仮名を補った。 こは、近世いぬるといふは帰る事にのみいひなれたれば、さる方したしくおぼゆるより、ふとしか思ひなせるもの也。もといぬるは其所を去るをいふがもとにて、いにしへさそふ水あらぱいなんとぞおもふ出ていなばかぎりなるべきなどよみて、いぬるは往といはんにひとしきこと論なし。又、まつとしきかばとは、もとより待ぬべき人にいふ也。任限みちて帰洛する人を打まかせて国人の再び今やと待っべきならず。今かへりこんといふも、つひにはかへりくべき身の待遠からんを、いとせめてなぐさむる調にて、再び逢ふまじくかけはなれん別れに、しかはいふべからぬ事也。わざと設け出てよみなす格とひとつに見てまどふべからず。 右引用文の前半部は、離任時説が生じた原因についての考察で、近世「いぬる」という一言葉は帰るという意味で使い慣れているから、それが先入観となって、京ヘ帰るの意と思い込んでしまったのだと主張しているようである。帰宅するの意で「いぬ」「いぬる」という口語は、現代でも関西地方を忠とする一部地域に生きており、辞書には室町期以後の用例が挙げられている。景樹が「近世」といっているのも、室町期以後をさしているのであろうし、その時代に離任時説を説く多くの古注が作られたことは事実である。しかし、古注の授受にたずさわったほどの知識人達が、古語「いぬ」の意味を当代の倫「いぬ」の意味と取り違えたとは考えがたいのではないか。たとえば、先に引用した『経厚抄』に「任果て上らんとせし時、我この国をいなばと云秀句なり」とあるが、これは動詞「いぬ」を正しく「去る」の意に解しているのであって、もし「帰る」と解していたのであるなら、「我この国をいなば」ではなく「我京ヘいなば」となければならないであろう。また、『古今集』注釈書をも一つぁげておくならば、『耕雲聞宝昌に「立別いなばとつづきたる、妙なり。去らばと云義也」とあって、「去る」の羣解していることは明白である。 引用文の後半部は、「まつとしきかば」あるいは「今かへりこん」という歌句について、これらは切実な思いで作者の帰京を待っている人ヘの文言であって、再び会うはずもない「国人」に対してこのように言うはずはないという常識雫、真淵説の敷衍にすぎない。再び会うはずのない「国人」であればこそ、惜別の稽をこのよう詠みなしたのではないかといった理解は、景樹によれば「わざと設け出てよみなす格とひとつに見」た誤りということになるらしい。「わざと設け出てよみなす格」とは、虚構性の強い歌をいうのであろうが、思いのたけを表現するのに虚構をかまえることは『古今集』の歌にいくらもあることで、なぜ行平のこの歌が例外なのか、理解に苦しむところである。そもそも赴任時説によって解釈するとしても、地方官として赴任した官人が、京の人が「待つ」といぇばすぐに帰京するなどとは、現実にはありえない虚構にほかならない。 現在流布している『古今集』あるいは『百人一首』の注釈晝解説書のたぐいのほとんどが(ひよつとすると全てが)、当歌を赴任時説によって解釈している。確かに赴任時説は、『うひまなび』や『百首異見』に説かれているように、無難な、常識的な解釈であって、問題はないようにも思われよう。しかし、これまで見てきたように、常墜畑を別にすれば、赴任時説を肯定する確たる根拠といったものはないのであり、逆に、航任時説を否定し去るに足る決定的な根拠もないのである。次節以下、二つの視点から、離任時説を再検討してみたいと思う。 |
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■三
まずはこの一首の表現効果といった観点から、雜任時説を再検討してみたい。行平が因幡守を離任することとなり、後任者との引継ぎも終え、いよいよ帰京ヘの旅立ちが近づいたころ、地元の有力者(『士佐日記』の表現に倣い、以下「国人」と称する)が送別の宴を催すことは、当然のなりゆきとしてありえたであろう。その席上、行平が「立ちわかれ1」の一首を詠じたとすると、それは国人に対する、懇切な挨拶となっているとは言えないだろうか。 「まつとしきかば今かへりこむ」とは、真淵以下が力説する通り、行平の帰京を待っ親しい人物(たとえば妻、親、友人など)に向かって発せられるのにふさわしい一言葉である。これを通常の会話と同等のレベルでの言葉と考えるならば、まさにその通りであろう。しかし、送別の宴における主賓の挨拶の歌としてこの一首を見れば、これは国人ヘの惜別の情をあらわす言葉として、きわめて効果的であるとは言えないだろうか。行平が再び因幡国に下向し、国人と再会するなどということはおそらくありえないからこそ、この言葉が作者の真情の表現として機能するというのが、『古今集』歌の論理ではなかろうか。 同様の例を、同じ「離別歌」の巻から拾っておこう。 源実が筑紫ヘ湯浴みむとてまかりけるに、山崎にて別れ惜しみける所にてよめる しろめ 命だに心にかなふものならばなにか別れのかなしからまし(三八七) 山崎より神奈備の森まで送りに人々まかりて、帰りがてにして、別れ惜しみけるによめる 源実 人やりの道ならなくにおほかたは行きうしといひていざ帰りなむ(三八八) 今はこれより帰りねと、実が言ひけるをりによみける 藤原兼茂 したはれて来にし心の身にしあれば帰るさまには道もしられず(三八九) 源実が九州の温泉ヘ下向するにあたって、山崎で知友が別れを惜しみなごりが尽きずに神奈備の森(現在の大阪府高槻市東北部)まで見送った際の離別歌群である。三八八番歌において実は、「強制されて行く旅ではないのだから、行くのがいやになったと一言って、さあ帰ろう」と歌っているのだが、ここから京ヘ引き返したわけではないようだ。「い、ざ帰りなむ」とは、都に後ろ髪を引かれる思いの表現であって、遠くまで見送ってくれた人々に対する、実の親愛の情の発露となっていよう。一方、兼茂は「帰るさまには道もしられず」(どう帰ればいいのか、道もわかりません)と歌っているのであるが、これも実ヘの愛着の思いの表現であって、実際に都の家にたどりつけないと思い込んでいるわけではない。「いざ帰りなむ」とか「道もしられず」とか、正岡子規に言わせれば「嘘の趣向なり」(『五たび歌よみに与ふる書』)ということになるのかもしれないが、このような虚構性こそが作者の思いのたけの表現であることは、現代の『古今集』研究において広く認知されている見方にほかならないであろう。行平の離別歌の「まつとしきかば今、かへりこむ」についても、同様のことが言えないだろうか。これは都でなごりを惜しむ人ヘの言葉としても、もちろん効果的な表現である。しかし、任地を離れるにあたっての国人ヘの挨拶としても、何ら違和感はないと思うのであるが、いかがなものであろうか。 さらにもう一点、表現効果の観点から「因幡の山の峰に生ふる松」という歌句をとりあげておきたい。景樹は『百首異見』において「甜山は和名抄に因幡国法美郡稲羽とある所の山にて今も松のみ多し。其の下ゆく流れを稲羽川といふ。やがて此の山陰はそのかみの国府にしあれば、もとより都にも聞こえなれたるに、いはんや其の{寸となりて行人はい七、委しくき、しるべきわたり也。其の郷をば今も国府村とよべり」と述ベている。因幡山(稲羽山)と国府との位置関係についての右の記述は正確であるようで、近年の諸注釈書の夕夕くにも継承されているのであるが、この事実は雜任時説にとって、まことに都合のよい事実であると言わざるをえない。 新任国司主催の行平送別の宴は、『士佐日記』十二月二十五日条の記述「{寸の館より呼びに文もてきたなり」から類推すると、国司館で開催された可能性が高いであろう。そこには郡司たちをはじめ、タタくの国人も出席していたと推測される。館からは因幡山を目にすることができたにちがいない。国人たちによる送別の宴が催されたとすると、これも『士佐日記』の記述を参考にするならば、行平が国司館から門出をして滞在中の家に、国人たちが酒や料理を持参して行われたのではなかろうか。それはおそらく国府からほど遠からぬ場所で、因幡山を望見することもできたであろう。そのような場で行平の雛別歌が詠まれたとすると、行平はまさに「因幡の山の峰に生ふる松」を指差しつつこの歌を朗詠するというパフォーマンスを演じることができたはずだし、参会者たちは日ごろ見慣れた[因幡の山の峰に生ふる松」を目にしながらこの離別歌を耳にしたわけである。その表現効果たるや絶大なものと言ってもよいのではなかろうか。 一方、この歌が都からの赴任時に詠まれたとするとどうであろうか。行平はこれから国守として赴任する因幡国についての予備知識を仕入れているであろうから、国府の近くに因幡山と称する山があることを知ってこの歌を詠じることは可能であるが、都で行平を見送る立場の親族知友がそのような知識をもっていたかどうか、はなはだ疑問である。「因幡の山」という歌語についての都の人々の理解は、因幡国にある山という漠然とした理解にとどまら、ざるをえないであろう。もちろんそれでも何ら問題はないし、現地啓なけれぱならない理由はないのであるが、離別にあたっての挨拶としては、因幡山が見える宴席で、新任国守あるいは国人たちを前にし工詠まれるというのが、この一首の表現効果が最も発揮される状況であることに疑いはないように思うのである。 以上、表現効果という観点からこの一首について考えてきたのであるが、その結果、雜任時説こそが、一首の詠作事情と歌意とを強く結びつけて解釈することができる有力な所説であるということは、少なくとも明らかにしえたのではないだろうか。しかしこれまでの考察によって、今ではかえりみられない雜任時説が復活する可能性が生じたとしても、いずれの説が妥当なのかを判断できる確実な根拠は示しえていない。次節では表現効果とは異なった観点から、この問題に踏み込んでみたいと思う。 |
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■四
この歌が収められている『古今集』巻第八「離別歌」は、大きく分けて二っの部分から成っている。前半部、すなわち詣の行平歌(三六五番歌)から三九一番歌までの二七首は、人が遠国ヘ旅立っにあたっての、送る人、送られる人、それぞれの立場からの離別歌である。後半部は三九二番歌から巻末の四0五番歌までの一四首で、都やその周辺(畿内)を往来する道俗の社交生活の中から生まれた離別歌であると判断できよう。その中の四00番歌からの四首は「題しらず」「よみ人しらず」であって、詠作事情が知れないが、いずれもこのように理解しておいて矛盾はないようである。 さて、前半の二七首を見ると、その多くは遠国ヘ旅立っ人を見送る立場での航別歌であり、旅立っ本人の歌であることが明らかなのは、三六五、三六七、三七六、三八八番の四首にすぎない。その中の三七六番歌は、寵が常陸ヘ下る際に藤原公利に送った歌、三八八番歌(第三節で引用した)は、源実が「湯浴み」という私用で九州ヘ下った時の歌である。三六七番歌「かぎりなき雲居のよそに別るとも人を心におくらさむやは」は、動詞「おくらす」(置いてゅくの豆によって旅立つ人の歌であると推測されるが、「題知らず」「よみ人知らず」であって詠作事情が知られない。このような次第で、官人が公用で都と地方とを往来する際、旅立つ本人によって詠まれたことが明らかな離別歌は、巻頭の行平歌ただ一首なのである。 一方、公用で遠国ヘ旅立っ人に贈られた離別歌であることが響に明記されている歌は五首存在し会一六八、三六九、三八五、三八六、Ξ九0)、また公用での旅と明記されてはいなくても、そのように推測できる歌も少なくない。送別の宴(マつまのはなむけ」)においては、送る者送られる者、双方から離別歌がやりとりされたであろうのに、公用で都から任地ヘ、あるいは任地から都ヘ旅立つ本人によって詠まれたことが明らかなのは行平歌のみというのは、注目に値する事実と言ってよいだろう。しかもそれが巻八「離別歌」の巻頭に据えられているのであるから、そこには撰者による何らかの意図を想定することができるのではないだろうか。 和歌をたしなむ貴族が都と地方を往来する機会はと言えば、その多くが公用を帯びての旅であろうから、そのような折に詠まれた離別歌が、この巻の前半部(歌数では「離別歌」の巻全体の約三分の二にあたる)の基調をなしているのは、当時の実情を反映したものと一言えよう。しかしながら右に見たように、公務によって旅立つ官人による航別歌であることが判明するのが行平の作ただ一首であるのは、明らか無図的な選択の結果であり、それを巻頭に据えたのは、一言うまでもなく読者の注意を喚起するためにほかならない。後世の史家によって「当代屈指の民政家」「良吏の中でも屈指の大物」と評されている在原行平は、『古今集』成立当時においてはなおさらのこと、良吏としての赫々たる名声は忘れられてはいなかったであろうが、まさにその行平が、地方官として任地ヘ往来した際の離別歌が巻第八「離別歌」の巻頭に掲げられたのは、この歌集が勅撰集という公器であることの明白な指標にほかなるまい。良吏によって地方行政が円滑に運営されることは聖代の理想であり、「離別歌」巻嬰おいて在原行平の名のもとに、その実現が称揚され、祈念されているのではないだろうか。 このように考えるならば、行平歌の解釈は赴任時説ではなく、離任時説によるのが妥当であろう。国守として赴任する官人が、「まつとし聞かばいまかへりこむ」(あなたが一「待つ」とおっしゃれば、すぐに帰ってまいりましよう)と詠ずるのは、王朝和歌の習いとしては、社交的な虚構であるとも、思いのたけの表出であるとも、いかようにも理解が可能であるが、こと公の立場から見れば、都人の「待つ」のご言で地方官としての公務を放棄して帰京するなど、もつてのほかの仕儀である。剛直の良吏在原行平による「離別歌」巻頭の一首としては、ありえない解釈といっていいのではなかろうか。 一方、これを離任時説によって解釈するならば、右に述ベた勅撰集の理念によく合致する。すぐれた実績を残して前国守が帰京するにあたっては、国人はその雜任を惜しみ、再任を願うのが道理である。送別の宴において行平が、そのような国人たちを前にして、「まつとし聞かばいまかへりこむ」七詠ずるのは、惜別の挨拶としてまことにふさわしい酢別歌であるということができよう。国人が「待つ」と一言ったからといって行平が京から因幡ヘ下向するなどということがありえないのはわかりきつた話であり、まさに虚構にほかならないのだが、これこそがその時における行平の思いであり、国人の願いでもあった、というのが、「離別歌」巻頭のこの一首がになうべき解釈であろう。 当歌は「題しらず」であり、したがって赴任時、離任時のいずれの啓あったのか、事実としては不明と言わざるをえない。しかし『古今集』巻第八「離別歌」の巻頭の一首としては、離任時説によって解釈するのが至当ではなかろうかというのが本稿の需である。また、『新古今集』の編纂にかかわり、『新勅撰集』のただ一人の撰者であった藤原定家は、勅撰集の政治性を身にしみて理解していたにちがいないから、定家がこの一首を離任時説によって解釈していた可能性は、かなり高いと言ってもいいのではないだろうか。中世の諸注において離任時深有力である理由は、どうやらそのあたりにもありそうである。 |
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■17.在原業平朝臣 (ありわらのなりひらあそん) | |
ちはやぶる 神代(かみよ)も聞(き)かず 竜田川(たつたがは)
からくれなゐに 水(みず)くくるとは |
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● 神代にすら聞いたことがない。竜田川が紅葉によって水を真っ赤に染め上げているとは。 / 遠い昔、数々の不思議なことが起こっていたという神代でさえも聞いたことがありません。川面一面に紅葉が散り浮いて流れ、この竜田川の水を真紅色の絞り染めにするとは。 / 不思議なことが多い、神様がこの世界を治めておられた時代にも、聞いたことがありませんよ。紅葉の名所の竜田川が、紅葉を散らして鮮やかな紅色に、水を「くくり染め」にしているとは。 / (川面に紅葉が流れていますが)神代の時代にさえこんなことは聞いたことがありません。竜田川一面に紅葉が散りしいて、流れる水を鮮やかな紅の色に染めあげるなどということは。
○ ちはやぶる / 「神」にかかる枕詞。 ○ 神代も聞かず / 「神代」は、神々の時代。不思議なことが多々起きたとされる。「ず」は、打消の助動詞の終止形。「神々の時代にも聞いたことがことがないような不思議な出来事が起こった」と二句切れの倒置法で強調し、それが何であるかを期待させている。 ○ 竜田川 / 歌枕。生駒山を源流とする奈良県の川。紅葉の名所。 ○ からくれなゐに / 「唐(から)・呉(くれ)の藍」。「唐」は、唐伝来という意もあるが、単なる美称としても用いられる。「呉の藍」は、鮮やかな紅色。「に」は、変化の結果を表す格助詞。 ○ 水くくるとは / 主語は、「竜田川」で、擬人法。「くくる」は、くくり染め(しぼり染め)にすること。この場合は、水を真っ赤に染め上げること。「竜田川が水を真っ赤に染めた」という見立て。「くくる」は、「水にくぐる」の意という説もある。「とは」は、意味上「聞かず」に続く(倒置法)。 |
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■ 1
在原業平(ありわら の なりひら)は、平安時代初期の貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。 父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原朝臣姓を名乗る。 仁明朝では左近衛将監に蔵人を兼ねて天皇の身近に仕え、仁明朝末の嘉祥2年(849年)無位から従五位下に直叙される。文徳天皇の代になると全く昇進が止まり、官職に就いた記録もなく不遇な時期を過ごした。 清和天皇のもとで再び昇進し、貞観4年(862年)従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、貞観11年(869年)正五位下、貞観15年(873年)には従四位下に昇叙される。 陽成朝でも順調に昇進し、元慶元年(877年)従四位上、元慶3年(879年)には蔵人頭に叙任された。また、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉るなどしている。元慶4年(880年)5月28日卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。 『日本三代実録』の卒伝に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞とされる。この後に「略無才学、善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろう。 歌人として『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している。子の棟梁・滋春、棟梁の子・元方はみな歌人として知られる。兄・行平ともども鷹狩の名手であったと伝えられる。 早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。なお『伊勢物語』成立以降、恬子内親王との間には密通によって高階師尚が生まれたという説が派生し、以後高階氏は業平の子孫ではないかと噂された。 紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。しかし一方で、藤原基経の四十の賀で和歌を献じた。また長男・棟梁の娘は祖父譲りの美貌で基経の兄・藤原国経の妻となったのち、基経の嫡男時平の妻になるなど、とくに子孫は藤原氏との交流も浅からずある。 また業平自身も晩年には蔵人頭という要職にも就き、薬子の変により廃太子させられた叔父の高岳親王など他の平城系の皇族や、あるいは当時の藤原氏以外の貴族と比較した場合、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と、実状には相違点がある。 ■短歌 勅撰和歌集に80首以上入撰した、六歌仙・三十六歌仙の一人ではあるが、自撰の私家集は存在しない。現在伝わる『業平集』と呼ばれるものは、『後撰和歌集』成立以降に業平作とされる短歌を集めたものとされている。業平の歌が採首された歌集で業平が生きた時代に最も近いのは『古今和歌集』である。また『伊勢物語』は業平の歌を多く使った歌物語であり、業平像にも大きく影響してきた。以下の歌の中にも伊勢物語の中でも重要な段で登場するものも多い。しかしさほど成立時期に隔たりはないと思われる『古今和歌集』と『伊勢物語』の双方に採首された歌のなかには、背景を説明する詞書の内容がそれぞれで違っているものや、歌自体が微妙に変わっているものがある。『伊勢物語』より成立も早く勅撰和歌集である『古今和歌集』が正しいのか、あるいは時代が下るにつれて『伊勢物語』の内容が書写の段階で書き換えられてしまったのか、現時点では不明である。ちなみに勅撰の『古今和歌集』においてさえ、業平の和歌は他の歌人に比べて詞書が異様に長いものが多く、その扱いは不自然で作為的である。 代表歌 ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは — 『古今和歌集』『小倉百人一首』 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし — 『古今和歌集』 忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは — 『古今和歌集』 から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ — 『古今和歌集』 名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと — 『古今和歌集』 月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして —『古今和歌集』 ■ゆかりの地 ○ 奈良県奈良市 / 奈良市法蓮町にある不退寺は、仁明天皇の勅願を受け在原業平が開基した。寺伝によれば不退寺は、元は祖父・平城天皇が薬子の変のあと剃髪したのち隠棲した「萱の御所」であったと言われる。平城天皇の皇子・阿保親王やその息子である業平もこの地に住んでいたと言われている。 ○ 奈良県天理市、斑鳩町、大阪府八尾市 / 天理市櫟本町の在原神社は業平生誕の地とされ、『伊勢物語』の23段「筒井筒」のゆかりの地でもある。境内には筒井筒で業平(と同一視される男)が幼少期に妻と遊んだとされる井戸があり、在原神社の西には業平が高安の地に住む女性のもとへかよった際に通ったとされる業平道(横大路、竜田道)が伸びている。ただしこの高安が何処を指すかについては、奈良県生駒郡斑鳩町高安と大阪府八尾市高安の2説がある。また、龍田から河内国高安郡への道筋については、大県郡(大阪府柏原市)を経由したとする説と、平群町の十三峠を越えたとする説がある。俊徳街道・十三街道も参照。 ○ 愛知県知立市八橋 / 伊勢物語に登場する地名。現在の知立市八橋町。無量寿寺から10分ほど離れた落田中の一本松でかきつばたの歌を詠んだと伝えられている。在原寺は在原業平の骨を分け寛平年間に築いたと伝わる在原塚を守るため建立された。後の鎌倉末期頃に供養塔も建立された。 ○ 業平橋(東京都墨田区、埼玉県春日部市、兵庫県芦屋市、斑鳩町)、言問橋 / 墨田区と春日部に業平橋という橋が架かっている。墨田区の橋については業平橋 (墨田区)を参照。墨田区には言問橋という橋があるが、これも前述の伊勢物語9段が由来で、業平の詠んだ歌に「いざこと問はむ」という言葉が入っている事にちなむ。芦屋市の芦屋川の業平橋、斑鳩町の富雄川の業平橋もある。浅草通りにある業平橋に隣接する東武鉄道の駅はかつて「業平橋駅」(現とうきょうスカイツリー駅)と呼ばれていた。 ○ 京都府京都市 / 京都市西京区にある十輪寺は在原業平が晩年住んだといわれる寺で、業平寺とも言われる。 ○ 滋賀県高島市 / 高島市マキノ町在原には、在原業平が晩年に隠遁したという伝説があり、業平の墓と伝えられる塔がある。 |
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■ 2
在原業平 ありわらのなりひら 天長二〜元慶四(825-880) 通称:在五中将 平城天皇の孫。阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女伊都内親王。兄に仲平・行平・守平などがいる。紀有常女(惟喬親王の従妹)を妻とする。子の棟梁・滋春、孫の元方も勅撰集に歌を収める歌人である。妻の妹を娶った藤原敏行と親交があった。阿保親王が左遷先の大宰府から帰京した翌年の天長二年(835)に生れる。同三年(826)、兄たちは臣籍に下り、在原姓を賜わる。仁明天皇の承和八年(841)、右近衛将監となる。同十二年、左近衛将監。同十四年(847)頃、蔵人となる。嘉祥二年(849)、従五位下に叙される。しかし仁明天皇が崩じ、文徳天皇代になると昇進は停まり、以後十三年間にわたり叙位に与らなかった。清和天皇の貞観四年(862)、ようやく従五位上に進み、以後、左兵衛権佐・左兵衛佐・右馬頭・右近衛権中将などを経て、元慶三年(879)頃、蔵人頭の重職に就任する(背後には二条后藤原高子(たかいこ)の引き立てがあったと推測される)が、翌年五月二十八日、卒去した。五十六歳。最終官位は従四位上。文徳天皇の皇子惟喬親王に仕える。同親王や、高子のサロンで詠んだ歌がある。また貞観十七年(875)、藤原基経の四十賀に歌を奉った。『三代実録』には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とある。『伊勢物語』の主人公は業平その人であると古くから信じられた。ことに高子や伊勢斎宮との恋を描く段、東下りの段などは名高い。家集『在原業平集』(『在中将集』)があり、これは古今集・後撰集・伊勢物語・大和物語から業平関係の歌を抜き出して編集したものと考えられている(成立は西暦11世紀初め頃か)。六歌仙・三十六歌仙。古今集の三十首を始め勅撰入集は八十六首。 |
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春 / なぎさの院にて桜を見てよめる
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今53) (この世の中に全く桜というものが無かったならば、春を過ごす心はのどかであったろうよ。) さくらの花のさかりに、ひさしくとはざりける人のきたりける時によみける よみ人しらず あだなりと名にこそ立てれ桜花年に稀なる人も待ちけり (桜の花は散りやすく不実だと評判こそ立っていますが、一年でも稀にしか来ない人を、散らずに待っていました。) 返し 今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや(古今63) (たしかに、私が待たせたおかげで、桜は今日まで散らずに永らえてくれましたね。もし今日私が訪ねて来なかったら、明日あたりはもう怺えきれず、雪となって降ってしまったでしょう。もっとも、雪でないから消えはしませんが、だとしても、散ってしまったのを人は花と見るでしょうか。) 題しらず 花にあかぬ嘆きはいつもせしかども今日のこよひに似る時はなし(新古105) (桜の花を眺めれば、いくら見ても見飽きず、長い溜息をつく――そんな経験は春ごとにして来たけれども、今宵ほどその嘆息を深くした時はない。) 弥生の晦つごもりの日、雨のふりけるに、藤の花を折りて人につかはしける ぬれつつぞしひて折りつる年の内に春はいくかもあらじと思へば(古今133) (雨に、そして涙に濡れながら、敢えて花を折ってしまいました。今年の春も、もう幾日も残っていまいと思いましたので。) 題しらず 惜しめども春のかぎりの今日の日の夕暮にさへなりにけるかな(定家八代抄) (惜しんでも時を留めることは出来ず、春の最後の今日という一日の、夕暮にさえなってしまったのだなあ。) |
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秋 / 題しらず
ゆく蛍雲のうへまでいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ(後撰252) (飛んでゆく蛍よ、雲の上まで行ってしまうのなら、「もう秋風が吹いている、早くおいで」と、雁に告げておくれ。) 人の前栽せんざいに、菊にむすびつけてうゑける歌 植ゑし植ゑば秋なき時や咲かざらむ花こそ散らめ根さへ枯れめや(古今268) (こうしてしっかり植えておけば、秋のない年などないのですから、咲くに決まっています。咲けば花は散りますが、根までも枯れることはないでしょう。) 二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる ちはやぶる神世もきかず龍田河唐紅に水くくるとは(古今294) (神々の霊威で不可思議なことがいくらも起こった大昔にも、こんなことがあったとは聞いていない。龍田川の水を美しい紅色に括り染めするとは。) |
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旅 / あづまの方へ友とする人ひとりふたり誘いざなひていきけり。三河の国、八橋やつはしといふ所にいたれりけるに、その河のほとりに杜若かきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふ五いつ文字を句の頭かしらにすゑて旅の心をよまむとてよめる
唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ(古今410) (衣を長く着ていると褄(つま)が熟(な)れてしまうが――そんなふうに馴れ親しんで来た妻が都にいるので、遥々とやって来たこの旅をしみじみと哀れに思うことである。) 駿河の国宇津の山に逢へる人につけて、京につかはしける 駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり(新古904) (駿河にある宇津の山のあたりでは、現実にも、夢の中でも、恋しいあなたには逢えないのですね。) さ月の晦つごもりに、ふじの山の雪しろくふれるを見て、よみ侍りける 時しらぬ山は富士の嶺いつとてかかのこまだらに雪の降るらむ(新古1616) (季節を弁えない山は富士の嶺だ。今をいつと思ってか、鹿の子斑に雪が降り積もっているのだろう。) 武蔵の国と下総しもつふさの国との中にあるすみだ河のほとりにいたりて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし河のほとりにおりゐて、思ひやれば、かぎりなく遠くもきにけるかなと思ひわびてながめをるに、渡し守「はや舟にのれ、日くれぬ」といひければ、舟にのりてわたらむとするに、みな人ものわびしくて、京におもふ人なくしもあらず、さるをりに白き鳥の嘴はしと脚とあかき、河のほとりにあそびけり。京には見えぬ鳥なりければ、みな人見しらず。渡し守に「これはなに鳥ぞ」ととひければ、「これなむみやこどり」といひけるをききてよめる 名にし負はばいざ言こと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと(古今411) (「都」というその名を持つのに相応しければ、さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋しく思う人は無事でいるかどうかと。) あづまの方にまかりけるに、浅間のたけに煙のたつを見てよめる 信濃なる浅間の嶽たけに立つけぶりをちこち人びとの見やはとがめぬ(新古903) (信濃にある浅間の山に立ちのぼる噴煙――こんなに煙を噴き上げて、遠近の人が見とがめないのだろうか。) あづまへまかりけるに、すぎぬる方恋しくおぼえけるほどに、河をわたりけるに波のたちけるを見て いとどしくすぎゆく方の恋しきにうらやましくも帰る波かな(後撰1352) (ただでさえ過ぎて来た都の方向は恋しいのに、羨ましいことに寄せては帰って行く波であるなあ。) 惟喬これたかの親王みこの供に狩にまかりける時に、あまの河といふ所の河のほとりにおりゐて酒などのみけるついでに、親王みこのいひけらく、「狩して天の河原にいたるといふ心をよみて盃さかづきはさせ」といひければよめる 狩り暮らし七夕つめに宿からむ天の川原に我は来にけり(古今418) (狩するうちに日が暮れてしまった。今宵は、七夕つめ(織姫)に宿を借りよう。我らは天の川の河原に来てしまったのだから。) |
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恋 / 女につかはしける
春日野かすがのの若紫の摺すり衣ごろもしのぶのみだれ限りしられず(新古994) (春日野の若紫で色を摺り付けた摺衣の「しのぶもぢずり」模様ではありませんが、春日の里で垣間見たたおやかな貴女たちを恋い忍ぶ心の乱れは、限りを知りません。) 右近の馬場むまばのひをりの日むかひにたてたりける車のしたすだれより女の顔のほのかに見えければ、よむでつかはしける 見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめくらさむ(古今476) (全然見えないわけではないが、よく見えたのでもない人――あの人が恋しくてならないので、わけが分からずに今日はぼんやり物思いに耽って過ごすだろう。) やよひのついたちより、しのびに人にものら言ひてのちに、雨のそほふりけるに、よみてつかはしける 起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめくらしつ(古今616) (起きるわけでもなく、寝るわけでもなく、夜を明かしては、長雨を春という季節のものとして眺めて過ごしてしまいました。) 題しらず きみにより思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ(続古今944) (あなたのおかげで知るようになりました。世の中の人はこれを恋と言うのでしょうか。) 人のもとにしばしばまかりけれど、あひがたく侍りければ、物にかきつけ侍りける 暮れぬとて寝てゆくべくもあらなくにたどるたどるもかへるまされり(後撰628) (日が暮れたからと言って、寝てゆくことができるわけではないのに…。薄暗い道を辿り辿り帰った方がましです。) 女のもとにまかりてもの申しけるほどに、鳥のなきければよみ侍りける いかでかは鳥の鳴くらむ人しれず思ふ心はまだ夜ぶかきに(続後撰820) (まだ夜深い時刻のはずなのに、どうして鶏が鳴くのでしょう。人知れずあなたを思う心は、まだ深く秘められたままなのに。私の思いが伝わらないうちに、夜が明けてしまうなんて。) 題しらず 秋の野に笹わけし朝の袖よりも逢はでこし夜ぞひちまさりける(古今622) (秋の野に笹を分けて帰った後朝(きぬぎぬ)の袖よりも、逢わずに帰って来た夜の方が、いっそうしとどに濡れたのでしたよ。) 題しらず 思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ(新古1151) (あなたを慕う気持には、人目を憚る気遣いが負けてしまった。逢うことと引き換えにするのなら、どうなろうと構うものか。) 人にあひてあしたによみてつかはしける 寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな(古今644) (昨夜寝て見た夢がはかなく途切れてしまったので、続きを見ようとまどろんだけれども、ますます不確かになってゆくことだ) 業平の朝臣の伊勢の国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいとみそかにあひて、又のあしたに、人やるすべなくて、思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたりける よみ人しらず 君や来こし我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか (あなたが逢いに来られたのか、私が逢いに行ったのか、覚えていません。夢だったのか現実だったのか、寝ていたのか醒めていたのか。) 返し かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人さだめよ(古今646) (真っ暗になる心の闇に迷ってしまったのです。夢か現実かは、世間の人が定めればよい。) 陸奥みちのくににまかりて女につかはしける しのぶ山しのびてかよふ道もがな人のこころのおくも見るべく(新勅撰942) (信夫山――私たちの忍び合う恋にも、忍んで通う道があってほしい。恋しい人の心の奧も見えるだろうから。) 業平の朝臣の家に侍りける女のもとによみてつかはしける 敏行の朝臣 つれづれのながめにまさる涙川袖のみぬれて逢ふよしもなし (長雨で川が増水するように、物思いに恋心はまさり涙があふれてなりません。その涙の川に袖が濡れるばかりで、お逢いするすべもありません。) かの女にかはりて返しによめる あさみこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かばたのまむ(古今618) (浅いから袖が濡れる程度なのでしょう。涙川に身体ごと流されるとおっしゃるのなら、あなたを信じて契りましょう。) 藤原敏行の朝臣の、業平の朝臣の家なりける女をあひしりて文ふみつかはせりけることばに、「今まうでく、雨のふりけるをなむ見わづらひ侍る」といへりけるをききて、かの女にかはりてよめりける かずかずに思ひ思はずとひがたみ身をしる雨はふりぞまされる(古今705) (あれこれと、思って下さっているのかいないのか、お尋ねするのもしづらいので、悩んでおりましたところへ、『雨のため出渋っている』とのお言葉。雨が、所詮我が身などその程度かと思い知らせてくれたわけですね。今や、雨ならぬ涙がいっそう激しく我が身に降り注いでおります。) ある女の、業平の朝臣を、ところさだめず歩ありきすと思ひて、よみてつかはしける よみ人しらず おほぬさのひく手あまたになりぬれば思へどえこそたのまざりけれ (大幣のように、あなたにはお誘いが多いから、私はお慕いしているけれど、信頼しきることはできません。) 返し おほぬさと名にこそたてれ流れてもつひによるせはありてふものを(古今707) (そんな評判が立ったところで、大幣なら、流れてもいずれ浅瀬に乗り上げると言うでしょう。最後にはあなたのところへ寄り付くことになるものを。) 業平の朝臣、紀有常がむすめにすみけるを、うらむることありて、しばしのあひだ昼はきて夕さりはかへりのみしければ、よみてつかはしける あま雲のよそにも人のなりゆくかさすがにめには見ゆるものから (天雲のように遠く離れて行ってしまうのですね。そのくせ、妻である私の目には見えるというのに。) 返し ゆきかへり空にのみしてふる事はわがゐる山の風はやみなり(古今785) (行ったり来たりする天雲が、空にばかりいて、一向に山に留まらないのは、風が激しすぎるからです。私も奥さんがきつすぎるので家に留まることができず、いつも上の空で去って行くのですよ。) 東ひむがしの五条わたりに人をしりおきてまかりかよひけり。しのびなる所なりければ、門かどよりしもえ入らで、垣のくづれよりかよひけるを、たびかさなりければ、主あるじききつけて、かの道に夜ごとに人をふせてまもらすれば、行いきけれどえ逢はでのみ帰りて、よみてやりける 人しれぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななむ(古今632) (人知れずあなたの家を往き来していた道は、通せんぼされてしまった。あの関の番人たち、宵ごとに居眠りしてしまってほしい。) 五条の后きさいの宮の西の対にすみける人に、本意ほいにはあらで物言ひわたりけるを、む月の十日とをかあまりになむ、ほかへかくれにける。あり所はききけれど、え物もいはで、又の年の春、梅の花さかりに、月のおもしろかりける夜、去年こぞを恋ひて、かの西の対にいきて、月のかたぶくまであばらなる板敷いたじきにふせりてよめる 月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして(古今747) (自分ひとりは昔ながらの自分であって、こうして眺めている月や春の景色が昔のままでないことなど、あり得ようか。昔と同じ晴れ晴れとした月の光であり、梅の咲き誇る春景色であるはずなのに、これほど違って見えるということは、もう自分の境遇がすっかり昔とは違ってしまったということなのだ。) 絶えて久しうなりて 今までに忘れぬ人は世にもあらじおのがさまざま年のへぬれば(業平集) (今の今まで、忘れずにいる人など、まさかいないでしょう。お互いそれぞれの人生を、長の年月過ごしてきたのですから。) |
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雑 / 堀川の大臣おほいまうちぎみの四十賀よそぢのが、九条の家にてしける時によめる
桜花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに(古今349) (桜の花よ、散り乱れてあたりを霞ませよ。『老い』が通って来ると聞く道が、花に紛れて見分けのつかなくなるように。) 題しらず おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの(古今879) (大体のところ、月なども賞美したりはしまい。何となれば、この月というものこそが、積もり積もって人の老いとなるものなのだから。) 業平の朝臣の母の親王みこ、長岡にすみ侍りける時に、業平、宮づかへすとて、時々もえまかりとぶらはず侍りければ、十二月しはすばかりに母の親王のもとより、とみの事とて文ふみをもてまうできたり。あけて見れば、詞ことばはなくてありける歌 老いぬればさらぬ別れもありといへばいよいよ見まくほしき君かな (私はもう老いてしまったので、避けられない別れも遠からずあるというわけですから、そう思えばますます会いたいと思うあなたですことよ。) 返し 世の中にさらぬ別れのなくもがな千世もとなげく人の子のため(古今901) (この世に、避けられない別れなどなければよいのに。千年も長生きしてほしいと悲しむ、人の子のために。) 妻めのおとうとをもて侍りける人に、袍うへのきぬをおくるとて、よみてやりける 紫の色こき時はめもはるに野なる草木ぞわかれざりける(古今868) (妻の妹とあなたが深く結ばれ、私とも深く縁を結んだ以上は、目も遥か、野辺に萌え出た春の草木のように、区別なくあなたも大切に思う。) 二条の后のまだ東宮の御息所みやすんどころと申しける時に、大原野にまうでたまひける日、よめる 大原や小塩をしほの山もけふこそは神世の事も思ひいづらめ(古今871) (大原の小塩の山も、お后様が参詣なさったた今日という日こそは、神代の昔のことを思い出すことでしょう。) 布引の滝の本にて人々あつまりて歌よみける時によめる ぬきみだる人こそあるらし白玉の間なくも散るか袖のせばきに(古今923) (真珠をつないだ糸を解いて、ばらばらにまき散らす人がいるらしい。白い珠が次々と飛び散ってくるよ。袖で受け止めようにも、貧しい私の袖は狭いのに。) 題しらず はるる夜の星か川辺の蛍かも我がすむかたに海人のたく火か(新古1591) (あれは晴れた夜の星なのか。川辺の蛍なのか。それとも私の住む芦屋の里で海人(あま)が焼く火なのか。) 惟喬の親王の狩しける供にまかりて、やどりにかへりて、夜ひと夜、酒をのみ物がたりをしけるに、十一日の月もかくれなむとしける折に、親王ゑひて、うちへいりなむとしければ、よみ侍りける あかなくにまだきも月のかくるるか山の端にげていれずもあらなむ(古今884) (まだ心ゆくまで楽しんでおりませんのに、早くも月は隠れてしまうのですか。山の端よ、逃げて月を入れないでほしい。) 紀利貞きのとしさだが阿波の介にまかりける時に、餞別むまのはなむけせむとて、今日といひおくれりける時に、ここかしこにまかり歩ありきて、夜ふくるまで見えざりければ、つかはしける 今ぞしる苦しき物と人待たむ里をばかれずとふべかりけり(古今969) (今よく分かりました。待たされることは苦しいものだと。人が待っている里には、絶えず訪れるべきでした。) 惟喬の親王のもとにまかりかよひけるを、頭かしらおろして小野といふ所に侍りけるに、正月にとぶらはむとてまかりたりけるに、比叡ひえの山のふもとなりければ、雪いとふかかりけり。しひてかの室むろにまかりいたりて、拝みけるに、つれづれとしていと物悲しくて、かへりまうできて、よみておくりける 忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは(古今970) (ふとこの現実を忘れては、これはやはり夢ではないかと思うのです。まさか思いもしませんでした、かくも深い雪を踏み分けて、殿下にお目にかかろうとは。) 深草の里にすみ侍りて、京へまうでくとて、そこなりける人に詠みて贈りける 年を経て住みこし里を出でて去いなばいとど深草野とやなりなむ(古今971) (何年もずっと住んで来た里を去ったなら、ますます草が深く茂り、深草の里は草深い野となるだろうか。) おもふ所ありて、前太政大臣によせて侍りける たのまれぬ憂き世の中を歎きつつ日かげにおふる身を如何いかにせむ(後撰1125) (期待できない憂き世を歎きながら、日の当たらない場所に生えた草のような我が身をどうすればいいのだろう。) 世の中を思ひうじて侍りけるころ すみわびぬ今は限りと山里につま木こるべき宿もとめてむ(後撰1083) (この世に住むのは厭になってしまった。もうこれが限界と、山里に木の枝を折って集める隠棲の宿を求めることとしよう。) 身のうれへ侍りける時、津の国にまかりて、すみはじめ侍りけるに 難波津を今日こそみつの浦ごとにこれやこの世をうみわたる舟(後撰1244) (難波の港を今日見たことだ。その御津の浦ごとに渡る舟――これこそが、この世を倦み渡る私なのだ。) 題しらず 思ふこと言はでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ(新勅撰1124) (思ったことは言わないで、そのまま口を閉ざしてしまった方がよい。自分と同じ心の人などいないのだから。) 題しらず 白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消けなましものを(新古851) (草の上の露を、あれは真珠か、何なのかとあの人が問うた時、あれは露ですと答えて、まさにその露のように私も消えてしまえばよかったのに。) 病してよわくなりにける時、よめる つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日けふとは思はざりしを(古今861) (いつか最後に通る道とは以前から聞いていたけれど、まさか昨日今日その道を通ろうとは思いもしなかったのに。) |
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伊勢物語に見る在原業平 在原業平はその自叙伝ともいうべき「伊勢物語」の面白さから、近世に近い人と思っていらっしゃる方もおられるようですが、生まれは825(天長2)年ですから平安時代初期の人物です。 出自をたどれば平安京を開いた桓武天皇の曾孫(孫:系図参照)であり、平城天皇の孫というたいへん高貴な血筋ということが分かります。菅原道真らが編纂した「日本三代実録」には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とあります。美男子であり好き勝手な行動をとる人物で、漢詩・漢文の教養がないけれど、和歌の才能はあったことが窺われます。 偉大な桓武天皇の血筋でありながら宮廷社会では出世が遅かったのは、放縦不拘で略無才覚だったからかも知れません。 しかしこれは父の平城天皇による問題行動が大きく影響していたのかも知れません。平城天皇は桓武天皇の後を引き継いだ天皇ではありましたが、体も弱く、情緒不安で3年で弟の嵯峨天皇に譲位して、自らは上皇となりました。 ところが勝手に平安京を去り平城京に戻って、ここで政治を行い出したのでした。これには上皇の愛人である藤原薬子の影響が大でした。嵯峨天皇がこんなことを許す訳がありません。兵を差し向け戦い(平城太上天皇の変または薬子の変)となったのですが、上皇側は簡単に負けてしまいます。 上皇は出家、薬子は自殺、息子である阿保親王は大宰府に流されています。そんな事情があって業平は異母兄弟の行平らとともに臣籍降下して在原氏を名乗ることになりました。 本題に入る前に系図に出てくる人物について整理しておきましょう。恒貞親王は仁明天皇の皇太子でしたが、嵯峨天皇の信頼も厚く権力者の藤原良房により廃太子されました。藤原良房はこれに代えて藤原順子(のぶこ)の産んだ道康親王を立太子させ、道康親王はやがて文徳天皇となりました。 文徳天皇は紀静子の産んだ第一皇子・惟喬(これたか)親王を皇太子としたかったのですが、ここでも良房の力により良房の娘である明子(あきらけいこ)の産んだ第四皇子・惟仁(これひと)親王を立太子させました。そして文徳天皇の急死(藤原氏による暗殺?)により惟仁親王は9歳で即位して清和天皇となったのです。 業平は惟喬親王の母方の姪婿ということもあり親しく付き合っていたのでした。伊勢物語には、そんな2人の交流が随所に描かれています。 清和天皇の后となったのは藤原高子(たかいこ)。彼女は藤原順子の五条邸にいて、清和天皇即位にともなう大嘗祭において、五節舞姫を務め、清和天皇17歳の時、25歳で入内し女御となって貞明親王(後の陽成天皇)を産みました。伊勢物語には入内する以前、業平と恋愛関係があったとされています。 川柳に「色事の寸暇があると歌を詠み」というのがあるらしいですね。これは業平のプレイボーイぶりを茶化したものでしょう。 数多くの女性と浮名を立てたのは事実としても、鎌倉時代の伊勢物語の注釈書である「和歌知顕集」には関係した女性はな大げさに3,733人と書かれています。だからこのような川柳も生まれてくるのでしょう。蛇足ながら数で言えば西鶴の「好色一代男」の世之介は3,742人でこちらが日本記録です。 その業平の恋はいつごろ始まったのでしょうか。それには伊勢物語の第22段に以下の話があります。 昔、田舎まわりの行商をしていた人の子どもたち二人は、筒井筒(丸い井戸の竹垣)の周りで遊んでいました。二人は成長するにつれて互いに顔を合わせるのが恥ずかしく感じるようになり疎遠となってしまいました。 二人とも相手を忘れられず、女は親の持ってくる縁談も断って独身のままでいました。 その女のもとに、男から歌が届きました。二人は歌を取り交わして契りを結びます。 筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに (井戸の縁の高さにも足りなかった自分の背丈が伸びて縁をこしたようですよ、貴女を見ない間に) くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき (貴方と比べていたおかっぱの髪ももう肩まで伸びましたよ、貴方以外の誰が私の髪を上げて成人のしるしとできるでしょうか) などと詠み合って、とうとうかねての望みどおり、夫婦となりました。 これが業平のことでしたらウブで純情な人柄で浮気などしないように見えるのですが、この時代は一夫多妻制で通い婚の形態でしたので、男が夜な夜な他の女性のところに出かけるということは珍しいことではありませんでした。業平も同じでしょう。この話の女とは紀有常の娘というのが定説です。 業平が現在まで名を残している理由は関係した女性の数の多さだけではなく、摂関政治で権力を意のままにしようとする藤原氏にひと泡ふかす業平の自由奔放な所業と歌の巧さでしょう。業平は五節の舞姫に選ばれた高子を見そめます。摂政である良房の姪で、将来清和天皇に入内させようと、良房が大切にしていた姫でした。第6段の話は以下の通りです。 むかし男ありけり(男はもちろん業平)、到底結婚することの出来ない身分の女(高子)と長年にわたって愛し合っていましたが、ようやくその女を盗み出して暗い夜を逃げてきてきました。芥川(大阪府高槻市)というところまで落ちのびていったところ、草むらで夜露を指差して「あのキラキラ光っているものはなんですか」と尋ねました。業平は彼女を背負っていくうちに夜がふけてきました。雷も激しく鳴り、雨も土砂降りになってきましたので、鬼がいるとも知らないで粗末な蔵に入りました。女を奥の方に入れて、男は弓の矢筒を背に負って、戸口に立って女を守っていました。早く夜が明けてほしいなと思いながらじっと立っていたところ、鬼が女を一口で食ってしまいました。女は「キャー」と叫んだのですが、雷のすごい音に男は聞くことがでませんでした。次第に夜が明けていくので、振り返って見ると、連れてきた女がいない。地団駄を踏んで泣いたけれども甲斐もなかった。 白玉か なにぞと人の 問ひしとき つゆとこたへて 消へなましものを (彼女をここへ連れてくるときに葉の上のきらきら光るものはなんですかと聞かれたが、そのとき「あれは露だ」と答えて、露が消えるように自分も消えてしまえばよかったのに) これは、二条の后(高子)が従姉である明子(あきらけいこ)にお仕えするような形でその屋敷に同居していた頃の話。高子がたいへん美人であったので業平が口説いて肩に背負って逃げ出しました。兄の基経や国経の二人がまだ官位は下の方でしたが内裏に参内しようとしたときに、高子が大声で泣く声をききつけて、なんだろうと見ると自分たちの妹でした。これは大変だというので、すぐに屋敷連れ戻りました。それをこのように鬼といったのだそうだ。 現実的には10代後半の女性を背負って約25km離れた芥川まで逃げるというのは不可能な事だと思いますが・・・。 業平の年表を見ていると官位について興味ある事実が浮かび上がってきます。八四九年に従五位下に昇叙しましたが、翌年、文徳天皇が即位すると全く昇進が止まります。またこの時期、兄の行平の歌が古今和歌集に残っています。 わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ その詞書に「田むらの御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける」と記されています。つまり文徳天皇の御世、事情があって摂津の国、須磨というところに蟄居を余儀なくされた云々と書かれているのです。 皇族の血筋の兄弟をこのように扱えるのは文徳天皇だけしかいないのではないでしょうか。とすれば天皇はこの兄弟と何か確執があったと推測が成り立ちます。伊勢物語第六十五段「在原なりける男」に概略以下のことが記されています。帝がお心におかけになって、お召しになる女で、染殿の后のいとこである女。まだ若かった男と互いに知り合う仲で、親しくしていたのだった。男は年少ということで、女官の部屋に出入りすることを許されていた。この部屋には、人が見ているのも平気で男が上がりこんで座っていたから、この女はつらい思いで実家に帰ってしまった。それで男は、これはかえって好都合だと思って、女のもとに通ったので、みんなはそれを聞いて笑った。帝は、容貌が美しくいらっしゃって、仏の名を心に深く込めてお唱えになるのを聞いて、女はひどく泣いた。「こんな立派な帝にお仕えしないで、前世からの因縁が悪く悲しいことです。この男の情にひかれて」と言って泣いたのでした。ここでの男とは業平、帝とは清和天皇、女とは藤原高子(たかいこ)です。ただ高子については話の展開からは業平よりも年上でなければならず順子か明子と考えるべきです。 文徳天皇にとっては自分の母親か女御と関係を結ぶ業平は最も嫌な人物だったでしょう。天皇はこの事実を知ってからは立場上、事を公にできず、苦々しい思いを抱いていた筈です。そのために業平の出世を止め、兄の行平を須磨に左遷したのだと筆者は理解しています。 それ故、文徳朝から清和朝に代わると業平の官位は上がり始めました。業平は人の犯してはならない禁断の女性とも関係を結んでいます。第六十九段に伊勢斎宮恬子(やすこ)内親王との話が書かれています。斎宮とは天皇の妹か娘に限るという高貴なうえに潔斎して清楚で処女でなければなりません。物語の概略は以下のようです。むかし男(業平)がいた。宮中の宴会用の野鳥を狩るため伊勢へ勅使として派遣された。斎宮は母親の静子から手紙で「この人は特別だから普通の勅使よりも大切にしなさい」と聞かされていた。斎宮はその意を受けて男を丁重にもてなしした。朝から男を狩に出発させて、夕方には自分の宮殿で饗応した。二日目の夜、男は思い切って「今晩会いましょう」と声をかけたのだった。男に声をかけられた斎宮は人目があるので会うわけにはいかない。男は勅使一行のリーダなので宿舎は斎宮の住まいの近くにあった。人が寝静まったあと斎宮は男のところへ忍んで行った。男も寝られずにいると窓の外に朧月がさしていて、斎宮が召使の少女を先に立たせてやってきた。男は斎宮を寝室に入れて午前2時ごろまで一緒に過し、やがて斎宮は何も言わず自分のところへ帰っていった。男はそれが悲しくて寝られなかった。朝方になって男は「恬子内親王はどうしているだろうか」と思っているところに斎宮の方から手紙がきた。 君や来し われはゆきけむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか (夕べは貴方が私のとこへ来てくれたのでしょうか、それとも私が貴方のところへ行ったのでしょうか、あれは夢かうつつであったのかよくわかりません)これを見て男はたいへん泣いて かきくらす 心のやみに まどひきに 夢うつつとは 今宵さだめよ (心が迷いに迷って夢うつつだったかは今晩お会いして決めましょう)と詠んで狩に出発した。 ところが宵になって伊勢守が男をもてなすということで一晩中宴会を催した。そのために男は斎宮に会うこともできなかった。夜もしらじら明け染めた頃、斎宮方から男のもとへ盃が差し出された。見れば、上の句のみの歌が書き添えてあった。 かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば (渡っても濡れもしない浅い川のようなご縁でした) 男は、続きを松明の燃え残りの炭で書き付け足した。 また逢坂の 関は越えなん (いつか必ずやお逢いできましょう) その朝、男は尾張国へ旅立って行った。伊勢物語り自体がドキュメンタリーを装ったフィクションですから実際にどのようなことがあったのかは読者が想像するだけです。 前半部分で、業平が愛する藤原高子を連れ出し、芥川まで逃げましたが失敗に終わった話を紹介しました。この事件は藤原氏にとっては大変な出来事だったのです。 藤原氏の権力獲得方法は天皇のもとに娘を入内させて、生まれた親王を天皇に即位させることによって、岳父及び外祖父の地位を維持するというものです。 良房は権力を承継するために何としてでも血縁の女性を入内させる必要があります。良房は文徳天皇が没すると十五歳の惟喬親王を退けて、僅か九歳の惟仁親王を即位させました。清和天皇です。 政治の実権は外祖父の良房の手にありましたが、次世代までも権力を維持するためには藤原氏一門の女性に清和天皇の親王を産まさなければなりません。そこで白羽の矢を立てたのが十七歳の高子だったのです。業平はその深窓の令嬢を盗み出したのですから、藤原氏にとっては許しがたい人物に違いありません。 業平は藤原氏に完全に目をつけられ、都には住み辛くなりました。第九段「東下り」はそんな業平が「身を益なきものに思ひなして、東の方に住むべき国求めむとして、惑ひ行きけり」という話です。しかし旅に出れば都のことを思いだし、妻のことを思い出しては涙を流すのでした。 唐衣 着つつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ 「東下り」は紀行文でもあり、感嘆した富士の話などもありますが、 名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。やはり最後は都が恋しくてなりません。 東国の路を歩いた末に業平が悟ったのは、生きて行くには都に戻るしかないということでした。帰京後は勤務態度も改まり、藤原氏と争うこともなく、順調に官位も上がり始めました。かくして高子も入内して陽成天皇を産みました。これで二人の私的な関係は終わりを迎えるはずなのです。 第七十六段「小塩の山」では、藤原氏の氏神である大原野神社に参拝する高子に業平も同行した様子を書き残しています。 昔、二条の后(高子)がまだ陽成天皇の母といわれていた時、藤原氏の氏神に御参拝になる折に、近衛府に仕えていた業平翁が、お供の人たちが褒美を戴くついでに、二条の后の御車から(褒美を)給わって、詠んで差し上げた歌。 大原や 小塩の山も けふこそは 神世のことも 思出づらめ (大原の小塩の山も、今日の参詣に当たっては、先祖の神が、神代の昔のことも、思い出していることでしょう)と言って、翁は心の中で、心にも愛しいと思っただろうか、どのように思っただろうか、それは分からない。 この段の歌は表面上二条の后の行啓を祝賀する歌のように見えますが、その裏には高子を偲ぶ深い思いが込められているのです。この時から数年後、業平は大原野神社から南2kmにある十輪寺に隠棲して、難波津から海水を運んできて、高子を想いつつ塩竈を楽しんだということです。 十輪寺では5月28日の業平の命日は業平忌が営まれ、全国の業平ファンの方がお参りに来られます。本堂の裏山には小さな宝篋院塔の小さな墓があります。誰が言い出したのか恋愛成就のご利益があるとされ、女性の参詣者が多いとか。業平もこんな状況になっているとは思いも寄らなかったことでしょう。 |
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『伊勢物語』23段 平安の貴公子・業平を主人公とする『伊勢物語』(平安初期成立/作者不詳)は、業平の女性遍歴を主題とし、男女の夜の絡みの描写はありませんが、”ロマンス小説”です。物語125段・和歌209首からなり、実在の人物と合致するところもありますので、少しは事実を含んでいると思っていました。しかし、和歌から物語を創作したフィクションとする方が正しいように思われます。その和歌もすべて業平が詠ったものかわかりません。 『伊勢物語』の本筋は省略して、斑鳩の業平道が語られる元になった天理市櫟本より八尾市高安へ通ったとされる23段「筒井筒」の物語を読んでみます。ここでは、男は業平として、二人の女性を天理女と八尾女とします。本妻の有常女は京都に居るのですから、天理女は正妻でなく、この段の文と歌から天理女は業平の幼馴染とみられます。したがって、何人目かの天理女の元から八尾女の所へ通ったことになります。 それでは、『伊勢物語』23段を読んでみましょう。 昔、田舎暮らしだった子どものころ、ふたりは井戸のそばで遊んだ間柄であった。大きくなって相手を意識して遊ばなくなったが、男は妻にしたいと思っていた。男の歌、「筒ゐづつ井筒にかけし麿(まろ)がたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに」 (歌意)丸井戸の井桁の高さに足らなかった背丈が越える高さになった。あなたと会わないうちに。女の返歌、「くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき」 (歌意)長さくらべしていたわたしの振り分け髪も肩から下がるほどになりました。あなたのために髪を上げましょう。こうして結ばれたのですから天理女は幼馴染であり、業平にとって初恋の女性と想像します。 つづきに、年が過ぎ、天理女は親を亡くし生活のよりどころをなくしていました。業平は相変わらずこの女の元から業平は八尾女の所へ通っていました。しかし、天理女は咎(とが)めることもなく気持ちよく送りだしていました。業平は、これは女に別の男がいるので気持ちよく送りだすのかもと思い、前栽に隠れてみていると、女は物思いにふけ、「風吹けば沖つしらなみ竜田山夜はにや君がひとり越ゆらん」 (歌意)風が吹いて木々がざわめき盗賊がでるという竜田山をあなたは独りで越えているのでしょう。 業平は、心配をする女の姿をいとしく思い、八尾女通いをやめた。さらに、23段はつづきます。また、心が騒ぎ久々に高安の八尾女を訪ねてみると、奥ゆかしかった女が(下女もいなくなり)自らお椀に飯を盛って食べているのを見て嫌気がさしてまったく行かなくなった。八尾女の歌、「君があたり見つつを居らむ生駒山雲なかくしそ雨は降るとも」 (歌意)あなたが住んでいる辺りを見つづけて待っています。雲が隠しても雨が降っても生駒山の向こうにいるあなたをみています。八尾は生駒山の西にあり、業平の居る天理は生駒山の東に位置し、生駒山がふたりを分けている状況がよく表現されています。そして、「君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞふる」 (歌意)あなたが来ることを信じて毎夜待っていました。もう当てにしまいと思っても、やはりあなたを恋つづけます。業平は、ついに八尾の里へ行くことなく、八尾女との縁を断ってしまいました。 ■ 『伊勢物語』は、年齢順に並んでいませんが、他の文や構成から23段は業平の若かりし30歳の頃の物語とみられています。なお、話は前後しますが、21・22段に京都の正妻と女の元から戻った業平との仲むつまじい歌のやり取りがあります。以後、天理女のことは出てきませんので、これきり別れたのかもしれません。何人目かの女人の天理女の元から八尾女の所へ通ったことになることから、この段は業平のことでなく挿話とする研究者もいます。しかし、総体的に違和感はなく、むしろ業平らしい物語に感じます。『伊勢物語』は、平安期の貴族から江戸期の庶民まで、大ベストセラーだったと思われ、この話を基に各地に数多い業平伝説を誕生させ業平道がつくられました。また、『源氏物語』と同様に多くの筆者が長年かけて物語を付け加えていき、現在の『伊勢物語』の姿になったと思われます。なお、二条の后・藤原高子とのロマンス、伊勢斎宮・恬子(やすこ)内親王との密通には興味があります。早く読んでみたい衝動にかられます。 ■『伊勢物語』の題名の由来 『伊勢物語』題名の由来は諸説あります。 1伊勢斎宮との密通が物語のハイライトだから。 2女流歌人伊勢が物語に仕立てたということから。 3「伊勢や日向」ということわざから。この三つが取り沙汰されています。 1 伊勢斎宮(さいぐう)とは、伊勢神宮に奉仕する皇女のこと。その恬子(やすこ)内親王は精進潔斎の身ですから男と交わることなど許されるわけのない皇女が密通したことは大不祥事です。 2 伊勢は平安前期を代表する歌人で900年前後に活躍しました。伊勢は宇多天皇の更衣温子に仕え、温子の邸宅で『古今集』編纂後の業平の備忘録を見る機会があったとみられます。200首を越える和歌が載っています。和歌に精通した者でなければ編纂できないと思われることから、伊勢著作説が有力とされています。 3 「伊勢(いせ)や日向(ひゅうが)」ということわざは、話のつじつまが合わないこと、事の前後がはっきりしないこと、見当外れのこと、とりとめもないこと、などをいう。物語の構成が、年齢別に並んでいるわけでもなく、前後がちぐはぐになっているところがあるので、頷けるところもあります。 次項にあります。 ■民話「伊勢や日向」 日向国(宮崎県)民話集に、「伊勢や日向の物語」と題する民話があります。 推古天皇の辞世、日向の国に暮らす男が長患いの末41歳で死んだ。一方、伊勢の国でも同じ年の男が、同日同時刻に事故で不慮の死をとげた。二人は同時に閻魔庁の門をくぐることになった。日向の方は、寿命が尽きて死んだのだが、伊勢の方はまだ寿命が残っていることから、返してやろうということなった。しかし、伊勢の方の死体は火葬されてしまっているので、日向の男の屍に生き返らすことにした。知らせを聞いた伊勢の女は日向に行ったが、蘇生した男を夫と思えず、日向の女は夫と思った。一方、蘇生した男は、伊勢の女を妻と思い、日向の女は妻と思えなかった。(民話集要約) このようにちくはぐなこと、話のつじつまの合わないことを鎌倉期にすでに「伊勢や日向」と表現していたようです。 (注)『伊勢物語知顕抄』(1200年頃著作・作者不明)にあります。 ■業平の東下り 『伊勢物語』の"東下り"(あずまくだり)では関東地方の各地での女遍歴が面白おかしく描かれています。 東京に業平橋があり、今話題の東京スカイツリーのすぐそばのようです。業平橋の名は近くにあった業平天神(関東大震災のあと葛飾区へ移転)にちなむと伝え、地元では地名に愛着を持っているといいます。『江戸名所図会』によると、在原業平は好色がたたり左遷され、東国をさすらっているうちに、この地で舟から落ちて亡くなり、里人が哀れみ塚を築いて業平の霊を祀ったといいます。業平の死は、125段「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふ今日とは思はざりしを」 (歌意)死出の道を行くことは以前から聞いていましたが、その門出がこんな早く来るとは思っていなかったのに。 『三代実録』は、業平の死は880(元慶4)年56歳と伝えています。場所は書かれていませんが、この時の官職からして京都だったことは疑いありません。 |
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■ 5
伊勢物語 伊勢物語(いせものがたり)は、平安時代初期に成立した歌物語。「在五が物語」「在五中将物語」「在五中将の日記」とも呼ばれる。全125段からなり、ある男の元服から死にいたるまでを歌と歌に添えた物語によって描く。歌人在原業平の和歌を多く採録し、主人公を業平の異名で呼んだりしている(第63段)ところから、主人公には業平の面影がある。ただし作中に業平の実名は出ず、また業平に伝記的に帰せられない和歌や挿話も多い。中には業平没後の史実に取材した話もあるため、作品の最終的な成立もそれ以降ということになる。書名の文献上の初見は源氏物語(絵合の巻)。 作者、成立共に未詳。物語の成立当時から古典教養の中心であり、各章段が一話をなし分量も手ごろで、都人に大変親しまれたと考えられている。『源氏物語』には『伊勢物語』を「古い」とする記述が見られ、注目されるが、一体作中のどの時点からどの位古いとするのかは説が分かれており、なお決着を見ていない。作者については当時から多く意見があった。伊勢物語の作者論は、作品そのものの成立論と不即不離の関係にある。古く古今和歌集と後撰和歌集の成立時期の前・間・後のいずれの時期で成立したか説が分かれていた。 ■作者について 藤原清輔の歌学書袋草子や古今集注の著者顕昭さらに藤原定家の流布本奥書に業平であろうと記述があり、さらに朱雀院の蔵書塗籠本にも同様の記述があったとある。また伊勢物語という題名から作者を延喜歌壇の紅一点の伊勢であるからとの説もあり、二条家の所蔵流布本の奥書に伊勢の補筆という記述がある。しかし明らかに『古今和歌集』との関係が強い章段も見られ、近年ではそのような業平の伝説や、『業平集』とは一線を画す必要があると考えられている。現在は概ね片桐洋一の唱えた「段階的成長」説が主流である。元来業平の歌集や家に伝わっていた話が、後人の補足などによって段階的に現在の125段に成長していったという仮説である。ただし増補があったとするには、現行の125段本以外の本がほぼ確認できないという弱みがある。最終的に秩序だって整理されたとするならば、その整理者をいわゆる作者とすべきではないか、という指摘も見られる。近代以前の作品の有り方は、和歌にせよ散文にせよそれ以前の作品を踏まえるのが前提であると考えられ、現代的な著作物の観念から見た作者とは分けて考える必要がある。そのような場合も含めて、個人の作者として近年名前が挙げられる事が多いのは、紀貫之らであるが、作者論は現在も流動的な状況にある。 ■内容構成 数行程度(長くて数十行、短くて2〜3行)の短章段の連鎖からなる。主人公の男が己の思いを詠み上げた独詠歌や、他者と詠み交わした贈答歌が各段の中核をなす。在原業平(825-880)の和歌を多く含み、業平の近親や知己も登場するけれども、主人公が業平と呼ばれることはなく(各章段は「昔、男…」と始まることが多い)、王統の貴公子であった業平とは関わらないような田舎人を主人公とする話(23段いわゆる「筒井筒」など)も含まれている。よって、主人公を業平と断言することははばかられ、業平の面影があるとか、業平らしき男、と言われる。また、章段の冒頭表現にちなんで、「昔男」と呼ぶことも、古くから行われてきた。各話の内容は男女の恋愛を中心に、親子愛、主従愛、友情、社交生活など多岐にわたるが、主人公だけでなく、彼と関わる登場人物も匿名の「女」や「人」であることが多いため、単に業平の物語であるばかりでなく、普遍的な人間関係の諸相を描き出した物語となりえている。複数の段が続き物の話を構成している場合もあれば、1段ごとに独立した話となっている場合もある。後者の場合でも、近接する章段同士が語句を共有したり内容的に同類であったりで、ゆるやかに結合している。現存の伝本では、元服直後を描く冒頭と、死を予感した和歌を詠む末尾との間に、二条后との悲恋や、東国へ流離する「東下り(あずまくだり)」、伊勢の斎宮との交渉や惟喬親王との主従愛を描く挿話が置かれ、後半には老人となった男が登場するという、ゆるやかな一代記的構成をとっている。一代記というフレームに、愛情のまことをちりばめた小話が列をなしてる様を櫛にたとえて櫛歯式構成という学者もいる。作中紀氏との関わりの多い人物が多く登場する事で知られる。在原業平は紀有常(実名で登場)の娘を妻としているし、その有常の父紀名虎の娘が惟喬親王を産んでいる。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されている。何らかの意図で藤原氏との政争に敗れても、優美であったという紀氏の有り様を美しく描いているとも考えられる。なお、斎宮との交渉を描く章段を冒頭に置く本もかつては存在したらしいが、藤原定家はそのような本を改ざんされた本と非難しており、伝本も確認できない。 ■書名の由来 古来諸説あるが、現在は、第69段の伊勢国を舞台としたエピソード(在原業平と想定される男が、伊勢斎宮と密通してしまう話)に由来するという説が最も有力視されている。その場合、この章段がこの作品の白眉であるからとする理解と、本来はこの章段が冒頭にあったからとする理解とがある。前者は、二条后や東下りなど他の有名章段ではなくこの章段が選ばれた必然性がいまひとつ説明できないし、後者は、そのような形態の本はむしろ書名に合わせるために後世の人間によって再編されたものではないかとの批判もあることから、最終的な決着はついていない。また、業平による伊勢斎宮との密通が、当時の貴族社会へ非常に重大な衝撃を与え(当時、伊勢斎宮と性関係を結ぶこと自体が完全な禁忌であった)、この事件の暗示として「伊勢物語」の名称が採られたとする説も提出されているが、虚構の物語を史実に還元するものであるとして強く批判されている。さらに、作者が女流歌人の伊勢にちなんだとする説、「妹背(いもせ)物語」の意味だとする説もある。また、源氏物語(総角の巻)には、『在五が物語』(在五は、在原氏の第五子である業平を指す)という書名が見られ、『伊勢物語』の(ややくだけた)別称だったと考えられている。 ■後世への影響 「いろごのみ」の理想形を書いたものとして、『源氏物語』など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えた。やや遅れて成立した歌物語、『大和物語』(950年頃成立)にも、共通した話題がみられる他、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』にも『伊勢物語』から採録されたと考えられる和歌が見られる。中世以降おびただしい数の注釈書が書かれ、それぞれ独自の伊勢物語理解を展開し、それが能『井筒』などの典拠となった。近世以降は、『仁勢物語』(にせものがたり)をはじめとする多くのパロディ作品の元となり、現代でも『江勢物語』(えせものがたり、清水義範著)といった模倣が生まれている。 |
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■18.藤原敏行朝臣 (ふじわらのとしゆきあそん) | |
住(すみ)の江(ゑ)の 岸(きし)に寄(よ)る波(なみ) よるさへや
夢(ゆめ)の通(かよ)ひ路(じ) 人目(ひとめ)よくらむ |
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● 住の江の岸には昼夜を問わず波が打ち寄せてくる。夜に見る夢の中でさえ、あなたが私のところに通ってくれないのは、人目を避けているからだろうか。 / 住吉の海岸に打ち寄せる波の、そのよるという言葉ではありませんが、昼はもちろん、夜までもどうして私は夢の中の恋の通い道で人目を避けるのでしょう。 / 1.すみの江(現在の大阪市住吉区の海辺)の岸にうち寄る波の「よる」ということばのように、どうしてわたしは、夜の夢のなかまでも、恋するあなたの家へ通う路で、人目を避けるのでしょう。2.すみの江(現在の大阪市住吉区の海辺)の岸にうち寄る波の「よる」ということばのように、どうしてあなたは、夜の夢のなかまでも、人目を避けようとするのでしょう。 / 住の江の岸に打ち寄せる波のように (いつもあなたに会いたいのだが)、 どうして夜の夢の中でさえ、あなたは人目をはばかって会ってはくれないのだろう。
○ 住の江 / 歌枕。大阪市住吉区の海岸一帯。 ○ 岸による波 / ここまでが序詞。次の「よる」にかかる。 ○ よるさへや / 「よる」は、「寄る」と「夜」の掛詞。上を受けて「波寄る」となり、下に続いて「夜さへ」となる。「さへ」は、添加の副助詞。「昼はもちろん、夜までも」の意。「や」は、疑問の係助詞。結びは、「らむ」。 ○ 夢の通ひ路 / 「通ひ路」は、男が女のもとに通って行く道。夢の中にさえ現れないことを表している。このことから、作者は男であるが、女の立場で詠んだ歌と解する。 ○ 人めよくらむ / 「人め」は、「人目」で「他人の目」の意。「よく」は、「避く」で「避ける」の意。「らむ」は、「や」の結びで、現在推量の助動詞の連体形。 |
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■ 1
藤原敏行(ふじわらのとしゆき、生年不詳 - 延喜7年(907年)または延喜元年(901年))は、平安時代前期の歌人・書家・貴族。藤原南家、藤原巨勢麻呂の後裔。陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の子。官位は従四位上・右兵衛督。三十六歌仙の一人。 貞観8年(866年)少内記。大内記・蔵人を経て、貞観15年(873年)従五位下に叙爵し、中務少輔に任ぜられる。のち、清和朝では大宰少弐・図書頭、陽成朝では因幡守・右兵衛佐を歴任し、元慶6年(882年)従五位上に叙せられた。仁和2年(886年)右近衛少将。 宇多朝では、寛平6年(894年)右近衛権中将、寛平7年(895年)蔵人頭と要職を歴任し、寛平8年(896年) 正月に従四位下に叙せられるが、同年4月病気により蔵人頭を辞任した。 寛平9年(897年)7月に醍醐天皇の即位に伴って、春宮亮を務めた功労として従四位上に叙せられ、同年9月に右兵衛督に任ぜられた。 ■書跡 小野道風が古今最高の能書家として空海とともに名を挙げたが、現存する書跡は、署名のある次のものだけである。 神護寺鐘銘 この銘は、禅林寺の真紹の発願によるものであるが、鋳型が出来上がる前に真紹が歿したので、和気彝範が遺志を継ぎ、貞観17年(875年)8月23日、志我部海継を雇い鋳成したことが序文に示されている。全文32行で、字数は245字である。謹厳な楷書で陽鋳(ようちゅう、浮き彫り)されている。隷書をよくした小野篁および紀夏井の流れを汲んだ勁健な書法である。なお、この銘文の序は橘広相、銘は菅原是善、書は敏行と、当時の三名家がそれぞれ成したので、古来「三絶の鐘」と呼ばれている。この神護寺の梵鐘は国宝。 ■逸話 『宇治拾遺物語』によれば、敏行は多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りも書いたが、魚を食うなど、不浄の身のまま書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという。他にも亡くなった直後に生き返り自らのお経を書いて、ふたたび絶命したという伝説もある。 ■代表歌 勅撰歌人として、『古今和歌集』(18首)以下の勅撰和歌集に28首が入集。家集に『敏行集』がある。 すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ(『古今和歌集』『小倉百人一首』18) 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(『古今和歌集』秋歌上169) 白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢに染むらん |
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■ 2
藤原敏行 ふじわらのとしゆき 生年未詳〜延喜元(?-901) 陸奥出羽按察使であった南家富士麿の長男。母は紀名虎の娘。紀有常の娘(在原業平室の姉妹)を妻とする。子には歌人で参議に到った伊衡などがいる。貞観八年(866)、少内記。地方官や右近少将を経て、寛平七年(895)、蔵人頭。同九年、従四位上右兵衛督。『古今集和歌目録』に「延喜七年卒。家伝云、昌泰四年卒」とある(昌泰四年は昌泰三年=延喜元年の誤りか)。三十六歌仙の一人。能書家としても名高い。古今集に十九首、後撰集に四首採られ、勅撰集入集は計二十九首。三十六人集の一巻として家集『敏行集』が伝存する。一世代前の六歌仙歌人たちにくらべ、技巧性を増しながら繊細流麗、かつ清新な感覚がある。和歌史的には、まさに業平から貫之への橋渡しをしたような歌人である。 春 / 正月一日、二条の后の宮にて、しろき大袿おほうちきをたまはりて ふる雪のみのしろ衣うちきつつ春きにけりとおどろかれぬる(後撰1) (降る雪のように真っ白い蓑代衣を着ておりますと、暖くて、おや私のもとにも春が来たのだなあと気づきました。) 寛平御時、桜の花の宴ありけるに、雨の降り侍りければ 春雨の花の枝より流れこばなほこそ濡れめ香もやうつると(後撰110) (春雨が桜の枝から流れ落ちて来たら、もっと濡れよう。花の香が移るかもしれないから。) 藤花の宴せさせたまひける時よみける 藤の花かぜ吹かぬよはむらさきの雲たちさらぬところとぞ見る(秋風集) (藤の花は、風が吹かない夜には、紫色の瑞雲がいつまでも立ち去らない所と見えるよ。) 秋 / 秋立つ日、よめる 秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今169) (秋が来たと目にははっきりと見えないけれども、風の音にはっと気づいた。) 是貞のみこの家の歌合のうた 秋の夜のあくるもしらずなく虫はわがごと物やかなしかるらむ(古今197) (秋の長夜が明けるのも知らずに哭き続ける虫――私のように何か悲しくて堪らないのだろう。) 是貞のみこの家の歌合によめる 秋萩の花咲きにけり高砂のをのへの鹿は今やなくらむ(古今218) (秋萩の花が咲いた。山の尾根の鹿は今頃妻恋しさに啼いているだろうか。) 是貞のみこの家の歌合のうた 秋の野にやどりはすべしをみなへし名をむつましみ旅ならなくに(古今228) (宿るなら秋の野に野宿しよう。「をみなへし」という名を慕わしく思って――。私は旅をしている身ではないけれども。) 是貞のみこの家の歌合によめる なに人かきてぬぎかけし藤袴くる秋ごとに野べをにほはす(古今239) (どんな人がやって来て、着ていたのを脱いで掛けたのか。藤袴は、秋が来るたび野辺を美しく彩り、良い香りを漂わせるよ。) 是貞のみこの家の歌合によめる 白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢにそむらん(古今257) (白露の色は一色なのに、どうして秋の木の葉を多彩な色に染めるのだろう。) 寛平御時、菊の花をよませたまうける 久方の雲のうへにて見る菊はあまつ星とぞあやまたれける(古今269) (雲上界で拝見する菊は、天の星かと間違えてしまいました。) 是貞のみこの家の歌合の歌 わが来つる方もしられずくらぶ山木々の木の葉の散るとまがふに(古今295) (歩いて来た方角も判らない。ただでさえ「くら」い「くらぶ山」は、木の葉が散り乱れて見分けがつかずに。) 物名 / うぐひす 心から花のしづくにそぼちつつうくひずとのみ鳥のなくらむ(古今422) (自分の心から花の雫に濡れながら、「憂(う)く干(ひ)ず」――翼が乾かなくて辛いとばかり、この鳥は鳴くのだろうよ。) ほととぎす くべきほどときすぎぬれや待ちわびてなくなる声の人をとよむる(古今423) (「やって来るはずの時はもう過ぎたのだろうか。今年は聞き逃してしまったのか」と、人々が待ちあぐねた挙句、ようやく鳴く声が聞こえた。その声が人々を喜ばせ、歓声をあげさせる。) 恋 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた(二首) 恋ひわびてうちぬる中に行きかよふ夢のただぢはうつつならなむ(古今558) (恋に悩んで悶々と過ごすうち、ふっと落ちた眠りの中で、あの人に逢えた。夢の中で往き来する道は、まっすぐあの人のもとに通じているのだ。現実もそうであったらいいのに。) すみの江の岸による波よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ(古今559) (住の江の岸に寄る波は、昼も夜もしきりとやって来るのに、あなたは来てくれない。暗い夜でさえ、夢の通い路で、人目を避けるのだろうか。) 業平の朝臣の家に侍りける女のもとによみてつかはしける つれづれのながめにまさる涙川袖のみぬれて逢ふよしもなし(古今617) (何も手につかず物思いに耽っていると、長雨に増水する川のように涙の川も水嵩が増してくる。私は袖を濡らすばかりで、あなたに逢うすべもない。) 寛平御時きさいの宮の歌合のうた あけぬとてかへる道にはこきたれて雨も涙もふりそぼちつつ(古今639) (夜が明けたからと帰って行く道には、雨も涙も、はげしくしたたって、衣をびっしょり濡らして降り続けています。) 女につかはしける わが恋のかずをかぞへば天の原くもりふたがりふる雨のごと(後撰795) (あなたに対する私の恋を数に置き換えれば、空いちめん掻き曇り降る雨のようなもので、とても数えられるものではない。) 雑 / 寛平御時に、うへのさぶらひに侍りけるをのこども、甕をもたせて、后の宮の御方に大御酒みきの下ろしと聞えに奉りたりけるを、蔵人くらうどども笑ひて、甕を御前おまへにもていでて、ともかくも言はずなりにければ、使の帰り来て、さなむありつると言ひければ、蔵人の中に贈りける 玉だれの子亀やいづらこよろぎの磯の波わけおきにいでにけり(古今874) (題詞:宇多天皇の御時、清涼殿の殿上の間に侍っていた侍臣たちが、酒を入れる甕を使に持たせ、皇后宮(班子女王)の御所へ大御酒のお下がりを下さいとお願いしに差し上げた。ところが女蔵人(下臈の女房)たちは笑ってその甕を皇后の御前に持っていったものの、その後は何とも音沙汰がない。仕方無しに使は帰って来て、「こういう事情でございました」と言ったので、女蔵人のところへ贈った。歌:子亀はどこにいるのでしょう。こよろぎの磯の波を分けて沖に出てしまったのでしたか。) おなじ御時、うへのさぶらひにて、をのこどもに大御酒たまひて、大御遊びありけるついでにつかうまつれる 老いぬとてなどかわが身をせめぎけむ老いずは今日に逢はましものか(古今903) (年を取ってしまったと、なぜ我が身を責めたりしたのだろう。老いるまで生きなかったら、今日のような良き日には出逢えなかっただろう。) |
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■ 3
伊勢物語絵巻百七段 / 涙河 むかし、あてなるをとこありけり。そのをとこのもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど若ければ、文もをさをさしからず、ことばもいひ知らず、いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案をかきて、かかせてやりけり。めでまどひにけり。さてをとこのよめる。 つれづれのながめにまさる涙河袖のみひぢてあふよしもなし 返し、例のをとこ、女にかはりて、 あさみこそ袖はひづらめ涙河身さへながると聞かば頼まむ といへりければ、をとこいといたうめでて、今まで巻きて、文箱に入れてありとなむいふなる。をとこ、文おこせたり。得てのちのことなりけり。雨のふりぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨はふらじ、といへりければ、例のをとこ、女にかはりてよみてやらす。 かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる とよみてやれりければ、蓑も傘も取りあへで、しとどに濡れて惑ひ来にけり。 (文の現代語訳) 昔、ある高貴な男があった。その男のところにいたある女に、内記であった藤原の敏行という人が言い寄っていた。だが女はまだ若いので、手紙もろくに書けず、言葉の使い方も知らず、いわんや歌を読むことなどできなかったので、女の主人が、下書きを書いて、女に書かせて送らせてやった。敏行はそれを読んでたいそう感心した。そこで敏行は次のような歌を読んで贈ったのだった。 やるせない思いにもまさって深い涙の川ですが、濡れるのは袖ばかりで、川を渡ってあなたと会うことができません これに対して、主人の男が女に代って、 浅いから袖が濡れないのでしょう、あなたの身が流れる程川が深いと聞いたならば、あなたを頼りにいたしましょう と読んでやったので、敏行はいたく感心して、その文を巻物にして、文箱に保存しているということだ。さて、その敏行が女にまた文を送った。女と結ばれた後のことだったという。それは、雨が降っているのでどうしようか迷っています、私の身に幸運があれば、この雨が降ることはないでしょう、という内容だった。すると女の主人が、女にかわって、次のような歌を読んで返したのだった。 あれやこれやとあなたが私を思ってくれるのか、それとも思ってくれないのか、聞くわけにもいかず、私の心のうちを知っている雨は、このように降るばかりなのでしょう そこで敏行は、蓑も傘もとりあえず、ずぶ濡れになりながら、大慌てで駆けつけてきたということである。 (文の解説) ○ あてなる:気品がある、高貴な、○ 内記:中司省に所属する役人、○ 藤原敏行:古今集にも出てくる歌人、○ よばひけり:言い寄った、求婚した、○ をさをさしからず:しっかりとしていない、○ めでまどひにけり:どうしてよいかわからないほど感心した、○ つれづれの:みたされない思い、やるせない:○ 袖のみひぢて:袖ばかり濡れて、○ あさみこそ:浅いので、○ 雨のふりぬべきになむ:雨が降りそうなので、○ 見わづらひはべる:判断に迷う、○ かずかずに:あれやこれやと、○ 問ひがたみ:問うわけにいかないので、○ 身をしる雨:身の程を知っている雨、○ しとどに:ぐっしょりと、 (絵の解説) 主人(業平)が、女にかわって文を書いているところを描く。 (付記) 藤原敏行は、藤原不比等の末孫である。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」などの歌が古今集に載っており、三十六歌仙の一人にも数えられている。その男と、業平のところにいたというある女との間の愛のやり取りを歌ったのがこの段の趣旨だ。業平は、他の段では、翁とか歌を知らずとか、マイナーなイメージに描かれることが多いのだが、この段では、身分も高貴で、歌にも熟達した人物として、理想化されて描かれている。 |
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■19.伊勢 (いせ) | |
難波潟(なにはがた) 短(みじか)き蘆(あし)の ふしの間(ま)も
逢(あ)はでこの世(よ)を 過(す)ぐしてよとや |
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● 難波潟に生えている芦の短い節の間のような、ほんの短い時間も逢わないまま、一生を終えてしまえとあなたは言うのでしょうか。 / 難波潟に生い育つあの葦の節と節の短い間のように、そんな短い間でさえ、あなたとお逢いしないで、このままこの世を過ごせとおっしゃるのですか。とてもできません。 / 難波潟(現在の大阪湾)に生える葦の、短い節と節の間のような短い間でさえも、あなたに会わないで、どうやってこの世を過ごせとおっしゃるのでしょうか。 / 難波潟の入り江に茂っている芦の、短い節と節の間のような短い時間でさえお会いしたいのに、それも叶わず、この世を過していけとおっしゃるのでしょうか。
○ 難波潟 / 現在の大阪市の海岸。「潟」は、干潮時に砂地が現れる遠浅の海岸。 ○ みじかき芦の / ここまでが序詞。「芦」は、イネ科の植物。節の間が短い。 ○ ふしの間も / 「ふしの間」は、上を受けた「節と節との短い間」と下へ続く「わずかな時間」の掛詞。それぞれ、空間と時間の短さをを表す。 ○ 逢はでこの世を / 「逢ふ」は、男女関係を結ぶこと。また、その目的で会うこと。「で」は、打消の接続助詞で活用語の未然形に接続。「〜ないで」の意。「世」は、「世の中」に加えて「男女の仲」の意もある。また、芦の節と節の間を意味する「節(よ)」とあわせて、「芦・世・節」で縁語となっている。 ○ 過ぐしてよとや / 「てよ」は、完了の助動詞「つ」の命令形。「と」は、引用の格助詞。「や」は、疑問の係助詞。下に、「言う」が省略されている。 |
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■ 1
伊勢 (いせ、872年(貞観14年)頃 - 938年(天慶元年)頃)は平安時代の日本の女性歌人。三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。藤原北家真夏流、伊勢守藤原継蔭の娘。伊勢の御(いせのご)、伊勢の御息所とも呼ばれた。 はじめ宇多天皇の中宮温子に女房として仕え、藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受けその皇子を生んだが早世した。その後は宇多天皇の皇子敦慶親王と結婚して中務を生む。宇多天皇の没後、摂津国嶋上郡古曽部の地に庵を結んで隠棲した。 情熱的な恋歌で知られ、『古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に176首が入集し、『古今和歌集』・『後撰和歌集』(65首)・『拾遺和歌集』(25首)では女流歌人として最も多く採録されている。また、小倉百人一首にも歌が採られている。家集に『伊勢集』がある。 小倉百人一首 / 難波潟 みじかき芦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや 今昔秀歌百撰 / あひにあひて 物思ふころの わが袖に やどる月さへ ぬるる顔なる |
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■ 2
伊勢は平安中期の女流歌人です。宇多天皇の后であった、温子に仕えた女房です。父、藤原継蔭が伊勢守であったため、伊勢とよばれました。早くから歌の才能を発揮し、勅撰和歌集「古今和歌集」には小野小町の18首をしのぐ22首が選ばれています。優美な歌風で古今集時代屈指の歌人です。 後に宇多天皇の皇子を産み、桂の宮で養育しますが幼くして亡くなります。その後、宇多天皇の皇子である、敦慶親王との間に娘を設けました。それが女流歌人として有名な中務です。家集に「伊勢集」があり、後の紫式部の源氏物語はこの家集に依るところが多いのではないかと言われています。 晩年、古曽部に移り住んだといわれ、その旧居跡は、「伊勢寺」として今に伝えられています。伊勢寺には伊勢のものと伝えられる、硯、銅鏡が収められています。 古曽部で詠んだと言われている歌 ○ 見る人もなき山里のさくら花 ほかのちりなんのちぞさかまし (伊勢集) |
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■ 3
伊勢 生没年未詳 伊勢の御、伊勢の御息所みやすどころとも称される。藤原北家、内麻呂の裔。伊勢守従五位上藤原継蔭の娘。歌人の中務の母。生年は貞観十六年(874)、同十四年(872)説などがある。没年は天慶元年(938)以後。若くして宇多天皇の后藤原温子に仕える。父の任国から、伊勢の通称で呼ばれた。この頃、温子の弟仲平と恋に落ちたが、やがてこの恋は破綻し、一度は父のいる大和に帰る。再び温子のもとに出仕した後、仲平の兄時平や平貞文らの求愛を受けたようであるが、やがて宇多天皇の寵を得、皇子を産む(『古今和歌集目録』には更衣となったとある)。しかしその皇子は五歳(八歳とする本もある)で夭折。宇多天皇の出家後、同天皇の皇子、敦慶(あつよし)親王と結ばれ、中務を産む。延喜七年(907)、永く仕えた温子が崩御。哀悼の長歌をなす。天慶元年(938)十一月、醍醐天皇の皇女勤子内親王が薨じ、こののち詠んだ哀傷歌があり、この頃までの生存が確認できる。歌人としては、寛平五年(893)の后宮歌合に出詠したのを初め、若い頃から歌合や屏風歌など晴の舞台で活躍した。古今集二十三首、後撰集七十二首、拾遺集二十五首入集は、いずれも女性歌人として集中最多。勅撰入集歌は計百八十五首に及ぶ。家集『伊勢集』がある。特に冒頭部分は自伝性の濃い物語風の叙述がみえ、『和泉式部日記』など後の女流日記文学の先駆的作品として注目されている。三十六歌仙の一人。 |
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春 / 帰雁をよめる
春霞たつを見すててゆく雁かりは花なき里に住みやならへる(古今31) (春霞が立つのを見捨ててゆく雁は、花の無い里に住み慣れているのだろうか。) 水のほとりに梅の花咲けりけるをよめる (二首) 春ごとに流るる川を花と見て折られぬ水に袖や濡れなむ(古今43) (春になる毎に、流れる川に映った影を花と見誤って、折ることのできない水に袖が濡れるのだろうか。) 年を経て花の鏡となる水はちりかかるをや曇ると言ふらむ(古今44) (永年のあいだ、花を映す鏡となっている水は、普通の鏡とは違って塵がかかるのを曇るというのでなく、花が散りかかるのを曇ると言うのだろうか。) 春の心を 青柳の糸よりはへて織るはたをいづれの山の鶯か着る(後撰58) (青柳の糸をねじり合わせて延ばして織った布を、どこの山の鶯が着るのだろうか。) 寛平御時后宮の歌合歌 水のおもにあやおりみだる春雨や山のみどりをなべて染むらん(新古65) (水面に綾を乱すように織る春雨が、山の緑をすべて染め上げるのだろうか。) 斎院の屏風に山道ゆく人ある所 散り散らず聞かまほしきをふるさとの花見て帰る人も逢はなむ(拾遺49) (散ったか、散っていないか、尋ねたいのだが。古里の花見から帰る人にでも、出逢えないものだろうか。) やよひにうるふ月ありける年よみける さくら花春くははれる年だにも人の心に飽かれやはせぬ(古今61) (桜の花は、ひと月余分に春が多い年でさえ、人の心に満足されずに散ってしまうのか。飽きるまで咲いていておくれ。) 題しらず 山桜ちりてみ雪にまがひなばいづれか花と春に問はなむ(新古107) (山桜が雪と見分けがたく舞い散るのであれば、どれが花かは春に問いましょう。) 亭子院歌合の時よめる 見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむのちぞ咲かまし(古今68) (見る人もない山里の桜花よ、おまえ以外の花がすっかり散ってしまったあとに咲けばよいのに。) |
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夏 / 女の物見にいでたりけるに、こと車かたはらに来たりけるに、物など言ひかはして、後につかはしける
時鳥ほととぎすはつかなるねを聞きそめてあらぬもそれとおぼめかれつつ(後撰189) (ほととぎすのかすかな鳴き声を初めて聞いて、それからというもの、何を聞いてもほととぎすの声かと聞き違えられて、いったいどうしたのかと思っています。) (題欠) 宵のまに身を投げはつる夏虫は燃えてや人に逢ふと聞きけむ(伊勢集) (夜の間に火中へ身を投げて命果てた夏虫は、身を燃やすことで恋しい人に逢えると聞いたのだろうか。) |
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秋 / 法皇、伊勢が家の女郎花を召しければ、たてまつるを聞きて 枇杷左大臣
女郎花折りけむ枝のふしごとに過ぎにし君を思ひいでやせし (折り取った女郎花の枝の節ごとに――折節折節、去って行かれた法皇様のことを思い出したでしょうか。) 返し をみなへし折りも折らずもいにしへをさらにかくべきものならなくに(後撰350) (折るも折らないも、女郎花は昔のことを思い出させる花では全くありませんのに。) (題欠) 萩の月ひとへに飽かぬものなれば涙をこめてやどしてぞみる(伊勢集) (萩の花に照る月影は、ひたすらに見ても飽きないものなので、目に涙を籠めておいて、その中に宿していつまでも眺めるのだ。) 前栽に鈴虫をはなち侍りて いづこにも草の枕をすず虫はここを旅とも思はざらなむ(拾遺179) (どこにあっても草を枕とする鈴虫だが、放ちやったこの庭を旅の宿とは思わないでほしい。どうか我が宿と思って、ここに居着いてほしいものだ。) |
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恋 / 題しらず
忘れなむ世にもこしぢの帰かへる山いつはた人に逢はむとすらむ(新古858) (忘れてしまおう。まさかあの人は来るまい――遠い越路の帰山・五幡山から、いつまた帰って私に逢おうというのか。) 題しらず わが恋はありその海の風をいたみしきりによする浪のまもなし(新古1064) (私の恋心といったら、休む暇もない。有磯海(ありそうみ)に吹く風が激しいために、頻りに寄せる大波に絶え間がないように。) 思ふことありけるに 身の憂きをいはばはしたになりぬべし思へば胸のくだけのみする(伊勢集) (我が身のつらさを口に出したいけれど、言えば中途半端になってしまうにちがいない。かと言って心の中で思っていれば、胸が砕けるばかりなのだ。) 題しらず 知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名の空にたつらむ(古今676) (恋の秘密は枕が知るというので、枕さえしないで寝たのに。枕に積もる塵が目に立つというが、どうして塵ならぬ噂が根拠もなしに立つのだろう。) しのびて知りたりける人を、やうやう言ひののしりければ、冠かうぶりの箱に玉を入れたりければ、それに、女の結いひつけたりける たきつせと名のながるれば玉の緒のあひ見しほどを比べつるかな(伊勢集) (噂が激流となって流れましたので、玉の緒のように短い逢瀬と、程度の差を比べてしまいました。) 題しらず 夢にだに見ゆとは見えじ朝な朝なわがおもかげに恥づる身なれば(古今681) (夢でさえ逢ったとは見られたくない。毎朝、鏡に映った自分の面ざしに恥じ入る身であるから。) 心のうちに思ふことやありけむ 見し夢の思ひ出でらるる宵ごとに言はぬを知るは涙なりけり(後撰825) (恋しい人に逢った夢が思い出される宵ごとに、涙がこぼれてしまう。誰にも告げていない秘めた思いを知るのは、涙であったのだ。) 題しらず わたつみとあれにし床を今更にはらはば袖やあわとうきなむ(古今733) (恋人に去られ、海の如くに濡れ荒れた寝床を、今更払おうとしたところで、私の袖は泡のように涙の海に浮き漂うだけだろう。) 題しらず ふるさとにあらぬものから我がために人の心のあれて見ゆらむ(古今741) (人の心は、荒れて行く古里でもないのに、どうして私にとっては、疎遠になってゆくように見えるのだろうか。) 題しらず あひにあひて物思ふころのわが袖にやどる月さへぬるる顔なる(古今756) (よくもまあ合いにも合って――物思いに耽っている時分の私の袖では、宿っている月さえ濡れた顔をしていることよ。) まかる所知らせず侍りける頃、又あひ知りて侍りける男のもとより、「日頃たづねわびて、失せにたるとなむ思ひつる」と言へりければ 思ひ川たえずながるる水のあわのうたかた人に逢はで消えめや(後撰515) (思い川の絶えず流れる水――そこに浮かぶ泡のようにはかなく、あなたと逢わずして消えるなどということがあるでしょうか。) すまぬ家にまで来て紅葉に書きて言ひつかはしける 枇杷左大臣 人すまず荒れたる宿を来て見れば今ぞ木の葉は錦おりける ((通いが途絶えていた女の家にやって来て、紅葉に歌を書いて贈った。)人も住まずに荒れた家に来てみましたら、今まさに木の葉が錦を織ったように美しく紅葉していたことです。) 返し 涙さへ時雨にそひてふるさとは紅葉の色もこさまさりけり(後撰459) (時雨が降るのに伴って、涙さえしきりと落ちる古里は、血の涙に染まって紅葉の色もいっそう濃くなったことです。) 仲平の朝臣あひしりて侍りけるを、離かれがたになりにければ、父が大和の守に侍りけるもとへまかるとて、よみてつかはしける みわの山いかに待ち見む年ふともたづぬる人もあらじと思へば(古今780) (三輪山で、どのように待って、あなたに逢えるというのだろうか。たとえ何年経とうとも、訪ねてくれる人などあるまいと思うので。) 女につかはしける 贈太政大臣 ひたすらに厭ひはてぬる物ならば吉野の山にゆくへ知られじ (貴女が私をひたすら最後まで厭い続けるのなら、私は世を厭い、吉野の山に籠って行方をくらましてしまおう。) 返し 我が宿とたのむ吉野に君し入らば同じかざしをさしこそはせめ(後撰809) (私の住み処も吉野をあてにしていましたので、あなたが隠れ住むのでしたら、名高い吉野の桜の枝で仲良く同じ挿頭をさして山人になりましょう。) にごり江のすまむことこそ難からめいかでほのかに影をだに見む (濁り江だから、澄むことは難しいのでしょう。なんとか水面に映ったあなたの影だけでも、ほのかに見たい。) 返し すむことのかたかるべきに濁り江のこひぢに影のぬれぬべらなり(伊勢集) (おっしゃるように、すむことは難しいのでしょう。それで、泥水に映った私の影は濡れている様子です。) 人の返り事せざりければ、かへでを折りて、時雨のする日 ことのはのうつろふだにもあるものをいとど時雨のふりまさるらむ(伊勢集) (ただでさえ楓の葉がうつろうのに、さらに時雨が激しさを増して降るのだろうか。) 人に忘られたりと聞く女のもとにつかはしける よみ人しらず 世の中はいかにやいかに風のおとをきくにも今は物やかなしき (どうお過ごしですか。お二人の仲は、いかがなりましたこと。吹きつのる風の音を聞くにつけても、今は物悲しいのでは。) 返し 世の中はいさともいさや風のおとは秋に秋そふ心地こそすれ(後撰1293) (二人の仲は、さあ、どうでしょうか。風の音は秋に秋が添う心地がしますけれど。) 題しらず (二首) みくまのの浦よりをちに漕ぐ舟の我をばよそにへだてつるかな(新古1048) (熊野の浦を遠く離れて漕いでゆく舟のように、あの人は私を他人として隔ててしまったのだ。) 難波潟なにはがたみじかき蘆あしのふしのまも逢はでこの世をすぐしてよとや(新古1049) (難波潟――その水辺に生える短い蘆の節の間のような、ほんのわずかの間さえ、あなたと逢わずに、この世をむなしく終えてしまえとおっしゃるのですか。) (題欠) 沖つ藻をとらでややまむほのぼのと舟出しことは何によりてぞ(伊勢集) (沖の海藻を取らずにやめたりしようか。ほのぼのと明ける頃、船出したのは何ゆえだったのか。) (題欠) 空蝉の羽はにおく露の木こがくれてしのびしのびに濡るる袖かな(伊勢集) (蝉の羽におく露が木の間に隠れて人に見えないように、自分も人に隠れて忍び忍びに涙に袖を濡らすことよ。) 物いみじうおもひはべりしころ わびはつる時さへ物のかなしきはいづこをしのぶ涙なるらむ(伊勢集) (くよくよと悩んで疲れ切ってしまった時でさえ、何となく心が悲しいのは、どの人を偲んで流す涙ゆえなのだろうか。) 物思ひけるころ、ものへまかりけるみちに野火のもえけるをみてよめる 冬がれの野べとわが身をおもひせばもえても春を待たましものを(古今791) (我が身を冬枯れの野辺と思うことができるなら、このように恋の苦しさに焼かれながらも、新しい草が育つ春を待とうものを。) 題しらず 人知れず絶えなましかば侘びつつも無き名ぞとだに言はましものを(古今810) (世間の人に知られることのないままこの恋が終わったのだったら、歎きつつも、事実無根の噂だったとだけでも言おうものを。すでに知られてしまった仲なのだから、そんな言い訳もむなしい。恋人を失った上に、世間の噂の種にまでなってしまうとは…。) 題しらず(三首) 年月の行くらむ方もおもほえず秋のはつかに人の見ゆれば(拾遺906) (歳月はいつの間に移ってゆくのだろう――その感覚も失っている。秋の果てようかという頃、ほんの僅かにあの人に逢ったので。) 思ひきやあひ見ぬほどの年月をかぞふばかりにならむものとは(拾遺907) (思いもしなかった。逢わなくなってどれ程経ったか、その年月を数えるほどになろうとは。) 遥かなる程にもかよふ心かなさりとて人の知らぬものゆゑ(拾遺908) (遥かな距離まで通う私の心であるよ。とは言え、あの人は知りもしないのだけれど。) 題しらず 思ひいづや美濃のを山のひとつ松ちぎりしことはいつも忘れず(新古1408) (あなたも思い出すでしょうか。美濃の御山の一つ松――その枝を結んで誓い合ったことは、片時も忘れずにいます。) |
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哀傷 / 大和に侍りける母みまかりてのち、かの国へまかるとて
ひとりゆくことこそ憂けれふるさとの奈良のならびて見し人もなみ(後撰1403) (一人で行くことが辛いのです。昔住んでいた奈良――その古京を二人並んで見物した人も今はいないので。) 題しらず ほどもなく誰もおくれぬ世なれども留まるは行くをかなしとぞ見る(後撰1419) (遅かれ早かれやがては誰も死んでゆくこの世だけれども、留まる者は逝く者を悲しいと見るのである。) 一つがひ侍りける鶴のひとつがなくなりにければ、とまれるがいたく鳴き侍りければ、雨の降り侍りけるに なく声にそひて涙はのぼらねど雲のうへより雨とふるらむ(後撰1423) ([詞書] つがいで飼っていた鶴の片方が死んでしまって、生き残った方がひどく鳴くので、雨が降っていたのに寄せて [歌] 涙は、鳴き声に添って空へのぼってゆくわけでもないのに、雲の上から雨となって降るのだろうか。) 産みたてまつりたりける御子の亡くなりて、又の年時鳥を聞きて しでの山こえてきつらむ時鳥ほととぎすこひしき人のうへかたらなむ(拾遺1307) (死出の山を越えてやって来たのだろうか。ほととぎすよ、恋しい我が子の身の上を語ってほしい。) 七条の后うせたまひにけるのちによみける 沖つ浪 荒れのみまさる 宮の内は 年へて住みし 伊勢のあまも 舟流したる 心地して 寄らむかたなく かなしきに 涙の色の くれなゐは 我らがなかの 時雨にて 秋のもみぢと 人々は おのがちりぢり わかれなば たのむかげなく なりはてて とまるものとは 花すすき 君なき庭に むれたちて 空をまねかば 初雁の なき渡りつつ よそにこそ見め(古今1006) (沖の浪が荒いように、荒れてゆくばかりの宮殿の内では、長年住んだ伊勢の海女とも言うべき賤しい私も、舟を流して失ったような心地がして、寄る辺もなく悲しくて――涙の色の紅は、私たちの間に降る時雨のようで、雨に色を増す秋のもみじ葉のように、人々は散り散りに別れてしまったなら、寄りすがる木陰がないように、頼りとする人もなくなってしまって、ここに留まるものと言えば、花薄ばかりが、あるじのいない庭に、群がり立っていて、空を招くように揺れると、空には初雁が鳴いて渡りながら何処かよそへと去ってゆく――そのように私も、これからはよそながら御殿を拝見するのでしょう。) みかどの御国忌に 花すすき呼子鳥にもあらねども昔恋しきねをぞなきぬる(伊勢集) (呼子鳥ではないけれども、昔を恋しさに声あげて泣いているのです。) |
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雑 / 五条内侍のかみの賀、民部卿清貫し侍りける時、屏風に
大空に群れたるたづのさしながら思ふ心のありげなるかな(拾遺284) (大空に群らがっている無心の鶴も、一つの方向を指しながら飛んでゆく――さながら彼らにも長寿を祝う心があるかのようだ。) からさき 浪の花おきからさきて散りくめり水の春とは風やなるらむ(古今459) (浪の花は沖から咲いて散って来るようだ。水の上の春とは、風がそうなるのだろうか。) 龍門にまうでて、滝のもとにてよめる たちぬはぬ衣きぬきし人もなきものをなに山姫の布さらすらむ(古今926) (裁ちも縫いもしない衣を着た仙人もいないのに、なぜ山の女神は布をさらすのだろうか。) 賀茂に詣でて侍りける男の見侍りて、「今はな隠れそ、いとよく見てき」と言ひおこせて侍りければ そらめをぞ君はみたらし川の水あさしやふかしそれは我かは(拾遺534) (あなたは見間違いをなさったようです。御手洗川の水は浅いのか深いのか。あなたの見たとおっしゃるのは本当に私でしょうか。) 今は道に出でて、越部といふ所に宿りぬ。かの御寺のあはれなりしを思ひ出でて みもはてず空に消えなでかぎりなく厭ふ憂き世に身のかへりくる(伊勢集) と一人ごちて、袖もしぼるばかりに泣きぬらしけり。 (趣ある寺を見尽くしもせず、この身を捨て果てもせず、仙人のように空に消え去りもしないで、限りなく厭うこの現世に我が身は帰って来てしまった。) 桂に侍りける時に、七条の中宮のとはせたまへりける御返り事にたてまつれりける 久方の中におひたる里なれば光をのみぞたのむべらなる(古今968) (月の中に桂が生えているという伝説に因む桂の里ですので、皇后様に喩えられる月の光の御恵みばかりを頼りにするようでございます。) 長恨歌の屏風を、亭子院のみかど描かせたまひて、その所々詠ませたまひける、みかどの御になして(二首) もみぢ葉に色みえわかずちる物はもの思ふ秋の涙なりけり(伊勢集) (紅葉した葉と色が区別できずに散るものは、物思いに耽る私の秋の涙であったよ。) かくばかりおつる涙のつつまれば雲のたよりに見せましものを(伊勢集) (このほどまで流れ落ちる涙が包めるものなら、雲の上への便りに贈って見せるだろうに。) 亭子のみかどおりゐたまうける秋、弘徽殿の壁に書きつけ侍りける 別るれどあひも惜しまぬももしきを見ざらむことやなにか悲しき(後撰1322) (別れても、一緒に惜しんでくれる者などいない宮中ですから、見ることができなくなっても悲しくなどありません。) 歌召しけるときに、たてまつるとて、よみて奥に書きつけてたてまつりける 山川の音にのみ聞くももしきを身をはやながら見るよしもがな(古今1000) (今やお噂に聞くばかりの大宮を、我が身を昔ながらに戻して拝見するすべがほしいものです。) 題しらず もろともにありし昔を思ひ出でて花見るごとにねこそ泣かるれ(続古今1524) (ご一緒しておりました昔を思い出して、桜の花を眺めるたびに声をあげて泣いてしまうのです。) 題しらず 難波なるながらの橋もつくるなり今は我が身をなににたとへむ(古今1051) (難波にある長柄の橋も新造すると聞く。今となっては、古びた我が身を何に喩えようか。) |
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■20.元良親王 (もとよししんのう) | |
わびぬれば 今(いま)はたおなじ 難波(なにわ)なる
みをつくしても 逢(あ)はむとぞ思(おも)ふ |
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● 思いどおりにいかなくなってしまったのだから、今となっては同じことだ。難波にある航行の目印、澪標(みおつくし)ではないが、身を尽くしても逢おうと思う。 / うわさが立ち、逢うこともままならない今は、もはや身を捨てたのも同じこと。それならばいっそ難波潟の「みをつくし」ではありませんが、この身を捨ててもあなたにお逢いしたい。 / 逢うこともできないで、このように思いわずらっているいまは、もう身を捨てたのと同じことです。いっそのこと、難波潟(現在の大阪湾)にみえる航路を示す杭である「澪標(みおつくし)」の名のように、身を尽くしてでもあなたに逢いたいと思うのです。 / あなたにお逢いできなくて) このように思いわびて暮らしていると、今はもう身を捨てたのと同じことです。いっそのこと、あの難波のみおつくしのように、この身を捨ててもお会いしたいと思っています。
○ わびぬれば / 「わび」は、上二段の動詞「わぶ」の連用形で、「思いどおりにいかない」の意。後撰集の詞書によると、元良親王と京極の御息所(藤原時平の娘、褒子。宇多天皇の寵愛を受けた妃)との不倫が発覚し、追いつめられた状況。「ぬれば」は「完了の助動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。「〜たのだから」の意。 ○ 今はた同じ / 「今」は、不倫が発覚して噂が広まった現在。「はた」は、副詞で、「また」の意。「同じ」は、形容詞の終止形で、二句切れ。 ○ 難波なる / 「難波」は、現在の大阪市一帯。「なる」は、存在の助動詞「なり」の連体形で、「〜にある」の意。 ○ みをつくしても / 「みをつくし」は、「澪標」と「身を尽くし」の掛詞。上を受けて「難波なる澪標」で「難波にある澪標」の意、下へ続いて「身を尽くしても」で、「身を滅ぼしてでも」の意となる。 ○ 逢はむとぞ思ふ / 「ぞ」と「思ふ」は係り結び。「逢ふ」は、この場合、「恋愛関係を貫き通す」という意。「む」は、意志の助動詞。「ぞ」は強意の係助詞。「思ふ」は、動詞の連体形で「ぞ」の結び。 |
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■ 1
元良親王もとよししんのう、890年(寛平2年) - 943年9月3日(天慶6年7月26日))は、平安時代中期の皇族、歌人。三品兵部卿にまで昇った。陽成天皇の第2皇子で、父帝の譲位後に生まれた。母は藤原遠長の娘。同母弟に元平親王。異母兄は源清蔭。妻室には、神祇伯藤原邦隆女・修子内親王(醍醐天皇皇女)・誨子内親王(宇多天皇皇女)らがいる。子に佐材王・佐時王・佐頼王・佐兼王・源佐芸・源佐平・源佐親らがいた。延喜3年(903年)及び延喜7年に、当年巡給により年給を賜る。延長7年(929年)10月、彼の四十の算賀に際して妻の修子内親王は紀貫之に屏風歌を作らせた。承平6年(936年)3月、右大臣藤原仲平らともに醍醐寺に塔の心柱を施入した。天慶6年7月26日に薨去。色好みの風流人として知られ大和物語や今昔物語集に逸話が残るが、とくに宇多院の妃藤原褒子との恋愛が知られる。後撰和歌集に20首入集した他、『元良親王集』という歌集も後世になって作られている。 |
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■ 2
元良親王 もとよししんのう 寛平二〜天慶六(890-943) 陽成院の第一皇子。母は主殿頭藤原遠長の娘。父帝の譲位七年後に生れる。醍醐天皇の皇女修子内親王、宇多天皇の皇女誨子内親王、神祇伯藤原邦隆の娘を娶る。子には従四位上中務大輔佐時王、従四位下宮内卿源佐藝などがいる。薨去した時、三品兵部卿。『尊卑分脈』には「五十四歳頓死」とある。『大和物語』に「故兵部卿の宮」として風流好色の逸話を残す。『今昔物語』巻第二十四には、「極(いみじ)き好色にてありければ、世にある女の美麗なりと聞こゆるは、会ひたるにも未だ会はざるにも、常に文を遣るを以て業としける」とある。ことに宇多法皇の寵妃であった藤原褒子との熱愛は世に喧伝された。後撰集に初出し、代々の勅撰集に計二十首入集(重出含む)。歌物語風の『元良親王集』がある(撰者・成立年不詳)。 題しらず 朝まだきおきてぞ見つる梅の花夜のまの風のうしろめたさに(拾遺29) (朝早く起きて梅の花を見たことだ。夜の間の風に散ったのではないかと心配で。) 女につかはしける あま雲のはるばるみえし峰よりもたかくぞ君を思ひ初そめてし(続千載1031) (天上の雲のように遥か遠く望んだ峰よりも、いっそう高く、まだ見ぬうちから、遥々と憧れてあなたを思い始めたことです。) あひしりて侍りける人のもとに、返り事見むとてつかはしける 来くや来くやと待つ夕暮と今はとてかへる朝あしたといづれまされり(後撰510) (来るか来るかと待つ夕暮と、今はもうと言って帰る朝と、どちらの方が辛さはまさるでしょうか。) 題しらず 大空に標しめゆふよりもはかなきはつれなき人を恋ふるなりけり(続古今1061) (大空にしるしの縄を張ろうとするのより虚しいことは、無情な人を恋することであったよ。) 忍びてかよひける女身まかりて四十九日のわざし侍りけるに、しろかねにて花こをつくりてこがねを入れて誦経にせられけるに 君をまたうつつに見めや逢ふことのかたみにもらぬ水はありとも(新千載2238) (あなたと再び現実に逢えるでしょうか。逢うことは難い――たとえ竹の籠から漏らない水があろうとも、逢うことはできないでしょう。) 京極の御息所を、まだ亭子の院におはしける時、懸想し給ひて、九月九日に聞こえ給ける 世にあればありと言ふことをきくの花なほすきぬべき心地こそすれ(元良親王集) (世にある限りは、長寿をかなえてくれると聞く菊の花をやはり飲まずにはいられない気持がしますよ。――私も出家せずにいるので、あなたがまだ亭子院におられると聞けば、やはり恋い慕わずにはいられない気持ですよ。) 事いできてのちに、京極御息所につかはしける わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ(後撰960) (もうやりきれない――こうなった以上、どうなろうと同じこと。難波の澪標(みおつくし)ではないが、我が命が尽きようと、あなたに逢って思いを遂げようと決心しているよ。) 兼茂かねもち宰相のむすめに あまたには今も昔もくらぶれどひと花筐そこぞ恋しき(元良親王集) (今の女も、昔の女も、たくさんの女とあなたを較べるけれど、花筐のように可愛いのはそなた一人だけだ。) 元良親王、兼茂朝臣のむすめに住み侍りけるを、法皇の召して、かの院にさぶらひければ、え逢ふことも侍らざりければ、あくる年の春、花の枝にさして、かの曹司に挿し置かせける 花の色は昔ながらに見し人の心のみこそうつろひにけれ(後撰102) (花のような美しさは昔のままに見えた人であるが、その心だけは移ろってしまったのだなあ。) しのびて通ひ侍りける女のもとより、狩装束送りて侍りけるに、摺れる狩衣侍りけるに 逢ふことは遠山ずりの狩衣きてはかひなき音をのみぞなく(後撰679) (あなたとの逢瀬は「遠山ずり」ではないが遠い山を隔てたように困難で、ここへ来ても逢えずに甲斐もなく泣いてばかりいます。) |
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■ 3
『元良親王集』について / その物語性を中心として ■要旨 本論では物語的家集と分類される『元良親王集』を取り上げ、その物語性を主に二つの観点から考察した。一つは歌のつながりによる歌群構成から見られる物語性である。歌の配列による連続性や関連性は歌群として捉えられ、各歌群における話の展開や心情の表出が物語化を進めている点を明らかにした。もう一つは『伊勢物語』からの影響と見られる「色好み」や「禁忌の女」のモチーフが担っている同集の物語性である。それにより歌群の内容は深化され、物語としての様相をさらに帯びることになる。特に冒頭の詞書で「色好み」と示されていることは元良親王の人物像をあらわし、同集を統一する概念となっている。加えて、『元良親王集』と他分野の作品を比較することで、同集の物語性の特徴を考察した。歌物語では散文と歌の関連によって物語を構成しているが、同集では歌群という形がとられることで物語化を成し遂げている。また、同集の構成は『後撰集』『拾遺集』の共通歌との比較においても特徴的であり、『元良親王集』の物語性は歌のつながりによる歌群、それに伴う物語的モチーフに依拠していることが明確になった。 |
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■一.はじめに
十世紀から十一世紀に成立した私家集には物語的家集と分類されるものがある。それらを物語的とする要素として、詞書が三人称で書かれている点があげられる。三人称が用いられることにより、詞書あるいは歌に客観的な視点が付加されて、物語的な構成を成り立たせている。 代表的な物語的家集として『伊勢集』『本院侍従集』『一条摂政御集』などがあげられるが、その一つとして『元良親王集』に注目してみたい。『元良親王集』の冒頭歌は以下のようになっている。 陽成院の一宮もとよしのみこ、いみじきいろこのみにおはしましければ、よにある女のよしときこゆるには、あふにも、あはぬにも、文やり歌よみつつやりたまふ、げんの命婦のもとよりかへり給ひて くやくやとまつゆふぐれといまはとてかへるあしたといつれまされり 冒頭の長い詞書により元良親王の人物像が示される。「いみじきいろこのみにおはしましければ」と述べられることで、「色好み」としての親王の人物像が設定され、それを受けて同集は続いていく。元良親王と様々な女性との贈答歌、また大納言の北の方や京極御息所との禁忌の恋は元良親王の色好みを端的にあらわしていると言えるだろう。そこでは人物像が統一性を持ち、同集の物語化の傾向が見られる。同時に「色好み」は歌物語、特に『伊勢物語』の主題の一つであり、同集が歌物語からの影響を受けて構成されていることが示唆され、その「色好み」というモチーフが集全体を貫いて一つの物語を作り上げていると考えることができる。 関根慶子氏は同集について、長い詞書が少なく歌ばかりが数首続いている歌群もあるため物語性を完全には認められないとしながら、「冒頭の色好みの親王の歌を集めて語ろうとする意図的なものの及ぶ範囲として、恋関係の統一からみて、終りまでを、不完全な歌物語化として一応みることもできよう」と述べている。 関根氏の指摘にあるように『元良親王集』には、元良親王の恋歌を集めた恋物語という統一性があり、『伊勢物語』や『大和物語』の恋物語の章段を意識した構造になっている。それは収められている歌のいくつかが歌群として構成されていることと深く関係し、歌群という単位で物語的な展開を示すことに依拠している。 物語的家集の特徴としてはじめに三人称を用いた詞書について触れたが、本論ではそれに加えて、『元良親王集』の構成を歌群を中心に考察し、その物語性を把握することを目的とする。また、考察においては歌集の物語化と関連があると見られる「色好み」などのモチーフについても重要視するとともに、歌物語や勅撰集との比較を通して同集の物語化の特徴を考えてみたい。 |
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■二.物語化の構造
『元良親王集』は物語的家集とする分類に含まれており、歌を中心として物語が形成される『伊勢物語』『大和物語』等の歌物語とは異なるジャソルの作品として捉えられている。 同集と歌物語を隔てる要素としては、まず同集の詞書と歌物語の散文の異なる性格があげられる。端的に違いが見られるのはその長短であるが、同集でも比較的長文化の傾向が見られる詞書を持つ歌がいくつか採られている。 『元良親王集』三四番歌 このきたのかた、うせ給ひにければ、御四十九日のわさにしろかねを花ごにつくり、こがねをいれて御ず経にせられけるにそへ給ひける きみを又うつつにみめやあふ事のかたみにもらぬみつはありとも 『元良親王集』六七番歌 きたのかた、みやにむしことてさぶらひける、めしければ、かむしにおきたまてけるを、をとこみや、こまのの院におはしましけるに、むしこがたてまつりける かずならぬ身はただにだにおもほえでいかにせよとかながめらるらむ 『元良親王集』 一〇九番歌 のぼるの大納言のみむすめにすみたまけるを、ひさしにおまししきておほとのこもりてのち、ひさしうおはしまさで、かのはしにしかれたりしものはさながらありや、とりやたてたまし、とのたまければ、女 しきかへすありしながらに草まくらちりのみぞゐるはらふひとなみ 以上にあげた歌の詞書では長文化が見られるものの、場面設定や状況説明など与えられる情報量は最小限に留められている。そのため、同集の物語化をその詞書が担っているとは考えにくい。そこには別の物語化の要素が必要とされる。 そこで、本論では同集の物語化が詞書のみではなく、歌本体あるいは数首で構成される歌群に依拠していると想定して論を進めていく。短い詞書と歌のつながり、あるいは歌にあらわされたそれぞれの心情が物語を形成している。同集では散文に頼らず、歌の連関における歌群の構造により物語化が行われているのである。 |
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■三.『元良親王集』の歌群について
『元良親王集』の構造については木船重昭氏、山口博氏等により同集を大きく四つの群に区分して把握する論が提出されている。群による区分によって歌集を把握することは、同集の物語性や成立を把握する上で重要な観点となっている。本節ではこの区分を参考としながら、同集を数首からなる歌群とした観点から考察していく。中でも、物語性が強くあらわれており、同集の中軸をなすと考えられる歌群を中心として同集の構造を見ていきたい。 同集は長い詞書を持つ冒頭歌より始まるが、冒頭の長い詞書は同集全体に係るものと考えてよいだろう。山口氏は冒頭歌の詞書について「単に歌の集積を目的とした歌集には必要以上の詞書である」とし、編者の物語化の意識を見ている。元良親王の人格が設定されることは、歌集に統一性を与え、物語化を進める要素となっている。 冒頭の詞書に続き、「げんの命婦のもとよりかへり給ひて」を起点として同集は展開される。 『元良親王集』冒頭歌から四番歌 (詞書前略)げんの命婦のもとよりかへり給ひて くやくやとまつゆふぐれといまはとてかえるあしたといつれまされりといでたまへば、ひかへて、女 いまはとてわかるるよりもたかさごのまつはまさりてくるしてふなりいとをかしとおぼして、人人にこの返しせよとのたまへば ゆふぐれはたのむこころになぐさめつかへるあしたぞわびしかるべき又かくも いまはとてわかるるよりもゆふぐれはおぼつかなくてまちこそはせめこれをなんをかしとのたまひける。 冒頭歌から四番歌の歌群では「げんの命婦」を相手として歌の贈答がなされている。歌によって状況説明が行われ詠者の心情が描かれていることは、物語としての趣向を持ちながら、歌集として歌に重点がおかれていることを示している。また、四番歌に続いて「これをなんをかしとのたまひける」というように後書風の散文で歌群がまとめられていることは『伊勢物語』をはじめとした歌物語の形式に類似している点で注目される。 一二番歌から二七番歌にかけての「いはやきみ」との贈答歌群では、計一二首の歌のやりとりが見られる。当該歌群では、歌と詞書により物語化が行われている。 『元良親王集』一二番歌 びはの左大臣殿に、いはやきみとてわらはにてさぶらひけるを、をとこありともしり給はで御文つかはしければ おほぞらにしめゆふよりもはかなきはつれなきひとをたのむなりけり 冒頭では「をとこありともしり給はで」という特殊な状況が説明される。以下贈答歌が続くが、一八番歌の後に続く詞書は物語化という意味で注目される。 『元良親王集』 一九番、二〇番歌 かくてこの女こと人にあひて宮のうらみたまければ よしのがはよしおもへかしたきつせのはやくいひせばかからましやは宮ことわりとて あきかぜに吹かれてなびくをぎの葉のそよそよさこそいふべかりけれ 女が「こと人」と結婚することが詞書によって示され、親王から送られた恨みを寄せた歌に対して女の返しがなされている。ここでは詞書による物語的な展開を見ることができる。同歌群は二七歌で締めくくられる。 『元良親王集』二七番歌 宮の御ぶくにおはしけるに すみぞめのふかきこころのわれならばあはれと思ふらんひとやなからむ 同歌群は一九番歌の詞書によって物語化が行なわれるが、詞書が短いため補足するように心情表現をあらわす歌がよまれる形となっている。それは、例えば『伊勢物語』二一段に見られるような歌による心情の表出、物語の展開と類似しており、歌物語の段構成の形式を漂わせていると言えるだろう。 三三番、三四番歌は「おひねの大納言のきたのかた」との歌の贈答が描かれている。 『元良親王集』三三番、三四番歌 その宮の御をば、おひねの大納言きたのかたにておはしけるを、いとしのびてかよひ給ひけり、きたのかた あるるうみにせかるるあまはたちいでなんけふはなみまにありぬべきかな このきたのかた、うせ給ひにければ、御四十九日のわざにしろかねを花ごにつくり、こがねをいれて御ず経にせられけるにそへ給ひける きみを又うつつにみめやあふ事のかたみにもらぬみつはありとも 三三番歌では禁忌性を意識させる大納言の北の方との恋愛が語られるが、続く三四番歌の詞書に「きたのかた、うせ給ひにければ」とあることでその死が示され、親王が彼女を悼む歌をよむ。大納言の北の方は二首に登場するのみであるが、禁忌性や女の死といった物語的なモチーフが用いられ、深い内容の歌群となっている。 三五番歌では「京極のみやす所」が登場する。同集に散在して配列されている「京極御息所」に関する歌群は「禁忌の女」のモチーフを示している。 『元良親王集』三五番、三六番歌 京極のみやす所を、まだ亭子院におはしけるとき、けさうしたまひて、九月九日にきこえたまける よにあればありといふことをきくのはななほすぎぬべき心地こそすれゆめのごとあひたまてのち、みかどにつつみ給ふとてえあひ給はぬを、みやにさぶらひけるきよかぜがよみける ふもとさへあつくそありけるふじの山みねにおもひのもゆる時には 「禁忌の女」のモチーフは『伊勢物語』における「二条后物語」「斎宮物語」を踏襲していると見られ、「ゆめのごとあひたまて」は『伊勢物語』六九段の表現とも類似している。「禁忌の女」のモチーフは同集でも重要視されており、「京極御息所」との贈答はこれ以降にも分散した形で置かれている。 『元良親王集』六四番、六五番、六六番歌 おなじおほん中にまだしくおはしけるとき、この宮におはしはじめて又の日、京極のみやす所のおもとにたてまつりたまひける いとどしくぬれこそまされからころもあふさかのせきみちまどひして 宮す所の御返し まことにやぬれけりやとくからころもここにきたらばとひてしほらむさきさぎかよはせ給ひける御文とても、いまかへしたてまつれた まふとて、宮す所 やればをしやらねばひとにみえぬべしなくなくもなほかへすまされり 『元良親王集』一二〇番歌 こといできてのち、宮す所に わびぬればいまはたおなじなにはなるみをつくしてもあはんとそ思ふ 『元良親王集』一五三番歌 京ごくの宮す所 ふく風にあへてこそちれむめのはなあるににほへるわが身となみそ 『元良親王集』一六六番歌 京極御やす所 思ふてふことよにあさくなりぬなりわれうくばかりふかき事せじ 以上八首が京極御息所関連歌である。六四番歌は、修子内親王に通い始めた翌日に御息所に手紙を差し上げるという大胆な行為による歌の贈答がなされており、「色好み」「禁忌の女」といった歌集の物語性を示すモチーフが重なり合ってあらわれている。藤城憲児氏が当該箇所について「高貴な内親王を妃とした翌日、これまた高貴な御息所を求めて恋情を訴えるところ、好色者元良親王の面目を表す」と述べるように、同歌群では親王の「色好み」の人格が描かれており、そのモチーフを受けて物語化が進行していることも注意される。 一二〇番歌の詞書「こといできてのち」とあるのは、二人の仲が露見してしまったことを指すとされるが、その内容は『伊勢物語』六五段で男が「思ふにはしのぶることそまけにけるあふにしかへばさもあらばあれ」とよむのを連想させる。『伊勢物語』との類似は同集そして元良親王が「禁忌の女」「色好み」のモチーフを受け継いでいることを想起させ、それらが活かされることにより同歌集は物語化を推進する。 また、同歌集の最後半の一首となる一六六番歌も注目される。その歌には「ふかき事せじ」とあるように諦めのような心情があらわれている。木船氏は一六六番歌が含まれる第四部について「なにか人生の秋を思わせる元良親王を間接に偲ばせる」とするが、同歌にも寂々とした心情表現からその一端が垣間見られる。それは同歌集が元良親王を主人公として、弱いながらも時間的な意識を持っていることを示すと考えられる。 六〇番から六三番歌、六九番から七一番歌は修子内親王に関連した歌群である。 『元良親王集』六〇番、六一番歌 かくさだめなくあくがれたまけれど、いとこころありてをかしうおはするみやときき給ひて、大夫の宮す所の御はらの女は、宮にあはせたてまつりてあしたに、をとこ宮 ほどもなくかへるあしたのからころもこころまどひにいかできつらん 返し ときのまにかへりゆくらんからころもこころふかくやいろのぞまぬと 「かくさだめなくあくがれたまけれど」により、親王の女性遍歴そして「色好み」な姿が提示される。 「大夫の宮す所の御はらの女」は修子内親王を指すと考えられ、六〇番歌の詞書により親王と内親王の結婚が示されているが、この二首では早くも二人の仲が順風でないことが明らかになる。親王が六〇番歌で「こころまどひにいかできつらん」と結婚に不満を述べ、内親王がそれを六一番歌で嘆くという歌の応酬がなされている。 『元良親王集』六三番歌 かくてすみたてまつりたまけれど、ほかあるきをしたまければ、つらげなるけしきにおはしけれど、みしらぬやうにいで給ひければ、女宮 ねにたかくなきそしぬべきうつせみのわが身からなるうきよと思へばとのたまひければ、あはれあはれとてとどまり給ひにけり。 「ほかあるきをしたまければ」とあり親王の「色好み」な様がここにも描かれている。しかし、親王が他の女性のもとに通い続けることを恨み内親王が六三番歌をよむことで、その歌を親王は「あはれあはれと」思って他の女性のところに行かずに留まったとする内容となっている。 女の歌により男の愛情をとどめる話は『伊勢物語』二一二段、『大和物語』一五八段に見られるが、それは「歌徳説話」の話型に依拠していると見られる。同歌もその話型を踏襲しており歌物語からの影響を捉えることができる。 六九番から七一番歌は内親王の亮去を悼む親王の歌を中心に歌群が構成されている。 『元良親王集』六九番から七一番歌 をんな宮うせ給ひにければ、をとこみや きしにこそよよをぱへしかいつみがはことしたもとをひたしつるかな 又のとしの十月に、これひらの中将まゐりたるおほんみきのついでに神無月しぐれはなにぞいにしへを思ひいつればかわくまもなし 宮 いにしへをおもひにあへぬからころもぬるるほどなくかわきこそすれ 七〇番歌でこれひらの中将が「たもとをひたしつるかな」と悲しみの涙をよんだのに対し、「いにしへを思ひいつればかわくまもなし」とする返歌は「内親王を思い起こすことによる深い愛情で涙は乾いてしまう」との歌意をあらわし、同歌群では親王の内親王への切実な愛情が示されている。六〇番から六三番歌では浮気な/色好みな人格として親王は描かれていたのだが、六九番から七一番歌の歌群ではその誠実な人格が強調されている。 女を追悼する話は、『伊勢物語』四五段にも見られ、自分に思いをかけた女を悼んで歌をよむ男の姿には誠実さが読みとられる。元良親王は『伊勢物語』の色好み像を踏襲していると想定されるが、その影響は女性を追悼する誠実な姿にも見ることができる。 複数の歌群に登場する女性として京極御息所を取り上げたが、山の井の君に関する歌群も分散されて歌が配置されている。 『元良親王集』八八番、八九番歌 山の井のきみにすみたまて、ひさしくありてみやにまゐりて、よふけてまかりてければ、くらくはいかがとのたまければ、女 くらしともたどられざりきいにしへを思ひいでてしかへりこしかばおくりの人につけてきこえたりけり かへりくる袖もぬるるをたまさかにあぶくまがはのみつにやあるらん 夜になり、帰って行った山の井の君に対して、親王が「くらくはいかが」と声をかけたことに対して彼女がよんだ二首が載せられている。 『元良親王集』一一五番、 一一六番歌 山の井のきみのいへのまへをおはすとて、かへでのもみちのいとこきをいれたまへりければ おもひいででとふにはあらじあきはつるいろのかぎりをみするなりけり 又、ほどへてとひたまはずとうらみて 山の井にすむとわが名はたちしかどとふひとかげもみえずもあるかな 離れがちな親王の訪れを山の井の君が恨んだ歌である。 山の井の君は同集の最後半部一六一番歌に再び登場する。 『元良親王集』 一六一番歌 たへはて給ひぬとみて、山の井の君 山の井のたえはてぬともみゆるかなあさきをだにも思ふところに 一一五番、二六番歌では途切れがちな訪問が恨まれ、一六一番歌では詞書に「たえはて給ひぬ」とあることで事態の進展が見られ、同歌には親王の訪れが絶えてしまったことを悟った山の井の君の心情がよみ込まれている。 注意したいのは歌群を通じて山の井の君がよんだ歌のみが載せられており、山の井の君と親王の歌の贈答という形は示されていない点である。同歌集には親王が関係を持った女の歌が多く収集されているが、同歌群のように親王の歌が一首もないことは特異である。そこには同集の物語性の一端が垣間見られるのではないだろうか。 同集では元良親王の歌を載せることだけではなく、親王を含めた人間関係と歌を描くことを目的としている。そのため、人間関係や親王のエピソードを示すことに重点が置かれた山の井の君歌群においては、親王の歌が一首も載せられないという特異な状況が生まれたと考えられる。同歌群の特異な構成は、同集が親王の歌を集めた歌集というよりも、親王周辺の物語性を意識して構成された歌集であるという一面をあらわしている。 三七番歌からは関院の姫君たちとの恋歌の贈答が描かれている。 『元良親王集』三七番から四二番歌 かん院の大君にもののたまて、又つとめて からにしきたちてこしちのかへる山かへるがへるも物うかりしか みや、うらみたまければ、女 よの中のうきもつらきもとりすへてしらするきみや人をうらむる ほどなくかれたまければ、女 しら雪にあらぬわが身もあふ事をまつはのうらにけふはへぬべし みやの御返し まつ山のまつとしきけばとしふともいうかはらじとわれもたのまむ 又、女 きみによりこころづくしのわかたつのはかなきねをもなきわたるかな うぐひすといかでかなかぬふりたててはなごころなるきみをこふとて かくうらみきこえけれど、はてはては返事もしたまはさりけり 当該歌群では、親王と大君の逢瀬から「はてはて返事もしたまはさりけり」と親王の訪れがなくなるまでが描かれている。詞書が短文であるため状況描写は詳細ではないが、贈答歌による心情の描写が歌群を構成している。 次に中の君との贈答歌群が続く。 『元良親王集』四三番から五〇番歌 またおなじかむ院の中のきみをけさうし給ひけるに、女 あま雲をかりそめにとぶとりならばおほそら事といかがみざらむ あひたまひてのち、宮 おもふともこふともきみはしたひものゆふてもたゆくとけむとをしれ をんなのきこえけることども おもひをばゆふてもたゆくよけなましいつれか恋のしるしなりける したひものゆふぐれごとにながむらんこころのうちをみるよしもがな むらどりのむれてのみこそありときけひとりふるすになにかわぶらむ うきふしのひとよもみえぱわれぞまつつゆよりさきにきへはかへらん やどりゐるとぐらあまたにきこゆればいつれをわきてふるすとかいふ おなじえにおひいつるやどもなきものをなににかとりのねをばなくべき 歌群の冒頭に説明的な短い詞書があり、「あひたまひてのち」に続いて親王のよんだ一首の後は、中の君の歌が六首続いている。同歌群では詞書による叙述は少なく、中の君の歌の連続を中心に構成されている。四七番歌「むらどりのむれてのみこそありときけ」、四九番歌「やどりゐるとぐらあまたにきこゆれば」とあるのは、中の君が親王の「色好み」のうわさを恨む表現であり、「色好み」のモチーフを確認できる。 続いての歌群は関院の三君との贈答歌で構成される。 『元良親王集』五一番から五九番歌 又関院の三君にいなりにまであひ給ひて、宮はしり給はらぬを、 女はしりてまゐりてかへりて、きこえける ぬばたまの山にまじりてみし人のおぼつかながらわすれぬるかな などきこえてあひにけり、さて、宮 むもれぎのしたになげくとなとりがはこひしきせにはあらはれぬべし をんな わがかたにながれてかゆくみつぐきのよるせあまたにきこゆればうし ながれてもたのむこころのぞはなくにいつをほどにかかげのぞふべき こがくれのした草なればみねのうへのひかりもつひにたのまれなくに つきもせぬ事のはななりとみながらもたのむといふはうれしかりけり 風吹けば身をこすなみのたちかへりうきよの中をうらみつるかな むばたまのよるのみ人をみるときはゆめにおとらぬここちこそすれ なみだがはながれてきしをくづしてはこひやるかたもあらじとそおもふ 同歌群にも先行する大君、中の君との歌群と類似した形が見られる。すなわち、歌群が前半の親王の二首と、三首目以降の女君の歌によって構成される形であり、歌群の中心は女君の歌にあるという点で類似する。 五五番歌「よるせあまたにきこゆればうし」五六番歌「つきもせぬ事のはななりとみながらも」とあるように親王の「色好み」が非難の対象となっている。親王の「色好み」な態度は四三番から五〇番歌で中の君によって非難され、また大君も四二番歌で「はなごころなるきみ」と親王の態度を恨んでいる。関院の姫君の歌群においては、「色好み」な親王に対する非難を共通して見ることができる。 以上のように、三七番歌から五九番歌の歌群では関院の三姉妹との恋愛が描かれている。五九番歌から続く六〇番歌の詞書冒頭には「かくさだめなくあくがれたまけれど」とあるが、これは親王の関院の姫君たちとの恋愛を端的にあらわしており、加えて同歌群ではそれぞれの姫君と恋仲になるという親王の「色好み」がモチーフとして強調されている。歌集冒頭に「いみじきいろこのみにおはしましければ」とあることから、岡部由文氏は同集について「元良親王の好色ぶりを形象化することを主眼に編集されている」と論じているが、その一例として関院の姫君たちとの恋愛には冒頭に示された歌集全体に底流している「色好み」としての親王の姿が色濃く反映されている。 以上のように『元良親王集』は「げんの命婦」「いはや君」「大納言の北の方」「京極御息所」「修子内親王」「山の井の君」「関院の姫君たち」などの幾人かの女性との贈答歌による歌群を軸として構成されている。各歌群では登場する女との逢瀬や別れが展開を見せながら描かれている。それぞれの歌群は単独でも成立しているが、「色好み」としての親王の人格や、「禁忌の女」のモチーフが度々あらわれることで歌集は物語的な連関をもって形成されている。 また、「京極御息所」「山の井の君」に関する歌群が分散して歌集内に配置されている構造は、『伊勢物語』における「二条后物語」などの方法を連想させ、同歌集が全体を通して親王を主人公とした一貫した物語性をもっていることを示している。 |
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■四.歌物語との比較
『元良親王集』と『伊勢物語』『大和物語』はその作品形態はもちろん、作品の構造や内容においても関連が見られる。例えば、『伊勢物語』からは短小段同士のつながりによる構成や「色好み」「禁忌の女」などのモチーフにおいて影響が考えられ、『大和物語』については成立過程や題材などで関連性が指摘されている。本節では『伊勢物語』『大和物語』と比較対照を行ないながら『元良親王集』の物語性を考えてみたい。 ■(一)『伊勢物語』との比較 歌物語は歌と散文の関連による物語化が見られるが、一見すると物語性が希薄に受け取られかねない短小段ー『伊勢物語』や『大和物語』に見られる、短い散文と一首あるいは二首で構成されている段1の場合においても同様の構造がとられている。『伊勢物語』の例をあげてみたい。 『伊勢物語』三五段 むかし、心にもあらで絶えたる人のもとに、 玉の緒をあわ緒によりて結べれば絶えてののちもあはむとそ思ふ 『伊勢物語』三六段 むかし、「忘れるなめり」と、問ひ言しける女のもとに、 谷せばみ峰まではへる玉かづら絶えむと人にわが思はなくに 上記二段の歌は各々『万葉集』七六三番歌、三五〇七番歌と類歌の関係にある。 『万葉集』七六二番、七六三番歌 紀女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌二首 神さぶと否にはあらずはたやはたかくして後にさぶしけむかも 玉の緒を沫緒に嵯りて結べらばありて後にも逢はさらめやも 『万葉集』三五〇七番歌 谷狭み峰に延ひたる玉葛絶えむの心我が思はなくに 『万葉集』では散文による状況説明はほとんどなされていないが、『伊勢物語』三五段、三六段では短いながらも散文によって歌がよまれた経緯が説明されている。そして、歌によって心情があらわされることで『伊勢物語』は物語性を持つのである。ここには散文と和歌が関わりあった歌物語の形態が見られ、短小段における散文の意義があらわれている。 次に『元良親王集』の歌群構成について考えてみたい。同集では詞書あるいは歌群が形成されることにより物語化が進められている。 『元良親王集』四五番から五〇番歌 をんなのきこえけることども おもひをばゆふてもたゆくとけなましいつれか恋のしるしなりける したひものゆふぐれごとにながむらんこころのうちをみるよしもがな むらどりのむれてのみこそありときけひとりふるすになにかわぶらむ うきふしのひとよもみえばわれぞまつつゆよりさきにきえはかへらん やどりゐるとぐらあまたにきこゆればいつれをわきてふるすとかいふ おなじえにおひいつるやどもなきものをなににかとりのねをばなくべき 四五番歌から五〇番歌は四三番歌から続く歌群の一部であるが、詞書もなく歌が載せられているのみであり、『伊勢物語』に見られたような散文と歌が一体となった物語化は見られない。しかし、四七番「ひとりふるすになにかわぶらむ」四八番「われぞまつつゆよりさきにきえはかへらん」五〇番「おなじえにおひいつるやどもなきものを」とあるように、恋をするわが身の「はかなさ」の心情をよんだ歌が続いていることで、統一性をもった歌群として物語性を読み取ることができる。ここでは歌による心情表現が歌群として構成されることで物語性があらわれている。 次に『元良親王集』に見られる一首が独立している歌を取り上げる。木船重昭氏は同集の構成について「贈答歌にのみ頼るものではない。一首一歌連の構成も意外と多い」としているが。それらの歌がどのように物語化されているかを考えてみたい。その指標として『伊勢物語』は参考となる。 先ほども述べたように『伊勢物語』には短小段とされる段が少なくない。短小段は単独での物語性は薄いが、他段と関連することで物語としての機能を拡大する。 『伊勢物語』=段 むかし、男、あづまへゆきけるに、友だちどもに、道よりいひおこせける。 忘るなよほどは雲居になりぬとも空ゆく月のめぐりあふまで 『伊勢物語』五四段 むかし、男、つれなかりける女にいひやりける。 ゆきやらぬ夢路を頼むたもとには天つ空なる露や置くらむ 『伊勢物語』五五段 むかし、男、思ひかけたる女の、え得まじうなりての世に、 思はずはありもすらめど言の葉のをりふしごとに頼まるるかな それぞれの段は散文部分が短く、示す内容も抽象化されて物語性は希薄であるが、他段と関連付けられることで物語性が見出せる。一一段はその配置により、七段から一五段の「東下り・東国物語」の一部として認識される。五四段と五五段は「得ることの難しい女」に対して恋心を寄せるというモチーフで共通しており、そのモチーフが物語に散在していることで物語全体を通した解釈が可能となる。このように『伊勢物語』では短い散文で構成された段であっても、段の配置やその内容、モチーフにより物語に組み込まれることが少なくない。 『伊勢物語』における短小段の物語性を考慮しながら、『元良親王集』の一首一歌連を見てみたい。 『元良親王集』九五番から九八番歌 かものまつりのひ、かつらのみやの御くるまにたてまつりたまひける しらねどもかつらわたりときくからにかものまつりのあふひとにせん 又もののたまふ女どもへ、てらにまであひたまて、みつろのしるりへにたちたまていとよくみたまてつかはしける よの中にうれしきものはとりべ山かくるる人をみつるなりけり わすれ給ひにける女、きよみつにまうであひたてまつりて、みやはしらぬかほにていで給ふにきこえける わたつみにありとそききしきよみつにすめるみつにもうきめありけり しがにかりし給ふときのやどに、ある女まうであひて、はしらにかいつけける かりにくるやどとはみれどかまししのおほけなくこそすままほしけれ おなじところにて、つねにみ給ふ女に、しのだけのふししげきをつつみてたまける しのだけのふしはあまたにみゆれどもよよにうとくもなりまさるかな おなじひとに、みや いかにしてくりそめてけるいとなればつねによれどもあふよしのなき 九五番歌から九八番歌において、親王の相手はそれぞれ異なる女性であり、各歌は一首一歌連の構造をもっている。各歌は単独でも機能しているが、前後の段とつながりを持つことで意味を拡大する。九五番歌と九六番歌は同じ日時「かものまつりのひ」が設定されており、九七番歌は「きよみずにまうで」とあることで九六番歌の「てらにまであひたまて」と関連している。九九番歌と一〇〇番歌は同一の女で歌群を形成するが九九番歌の詞書に「おなじところにて」とあるため、九八番歌も巻き込む歌群が浮き上がってくる。 以上のように九五番歌から九八番歌は一首一歌連の構造となっているが、それぞれの詞書と歌が前後の歌と連関し合い、物語性を持つようになる。それは『伊勢物語』が短小段同士のつながりによって物語化を進めた構造と類似している。歌同士が関連し合うことで、同集の物語性は一首一歌連という構成の中でも発揮されていると言えるだろう。 また、『元良親王集』では「三.『元良親王集』の歌群について」で考察したように、京極御息所関連歌群の「禁忌の女」、関院の姫君関連歌群などの「色好み」のモチーフが見られた。それらは『伊勢物語』の主要モチーフでもあることから同集の『伊勢物語』からの影響、またそのモチーフが同集の物語化に貢献しているものと考えられる。 ■(二)『大和物語』との比較 ここでは『大和物語』と『元良親王集』の共通歌を考察することで、二つの作品について考えていきたい。 『元良親王集』一〇七番、一〇八番歌は『大和物語』=二九段歌と一致する。 『元良親王集』一〇七番、一〇八番歌 そ行殿の中納言君にほどなくかれたまひにければ、をんな ひとをとくあくたがはてふつのくにのなにはたがはぬものにざりける かくてものもくはでなくなくこひきこへてまつに、雪のふりかかりたりけるにつけてきこえける こぬひとをまつのえだにふる雪のきえこそかへれあかぬおもひに 『大和物語』一三九段 先帝の御時に、承香殿の御息所の御曹司に、中納言の君といふ人さぶらひけり。それを、故兵部卿の宮、わか男にて、一宮と聞えて、色好みたまひけるころ、承香殿はいとちかきほどになむありける。らうあり、をかしき人々ありと、聞きたまうて、ものなどのたまひかはしけり。さりけるころほひ、この中納言の君に、しのびて寝たまひそめてけり。ときどきおはしましてのち、この宮、をさをさとひたまはざりけり。さるころ、女のもとよりよみて奉りける。 人をとくあくた川てふ津の国のなにはたがはぬ君にぞありけるかくて物も食はで、泣く泣く病になりて恋ひたてまつりける。かの承香殿の前の松に雪の降かかりけるを折りて、かくなむ聞えたてまつりける。 来ぬ人をまつの葉にふる白雪の消えこそかへれあはぬ思ひにとてなむ、「ゆめこの雪おとすな」と、使ひにいひてなむ、奉りける。 二つの作品を比較すると、『大和物語』では物語の設定となる時、場所、人が明確に提示されているのに対し、『元良親王集』では中納言君との関係について最小限の記述がなされているのみである。 『大和物語』は各段が独立しているため、=二九段のように散文での設定の提示が必要となる。歌はその設定を背景とすることで中納言の君の心情をあらわすが、散文の物語性に寄り添う形で歌がおかれていると言える。一方、『元良親王集』の二首では詞書は最小限の設定を提示するのみであり、中納言君の歌を中心とした構成がなされている。また、「ゆめこの雪おとすな」以降は『元良親王集』には見られないことも、『大和物語』の散文による物語性を示していると言えるだろう。 続く一〇九番から一一二番歌は「のぼるの大納言のみむすめ」との贈答歌で構成されており、『大和物語』一四〇段と類似が見られる。 『元良親王集』 一〇九番から一一二番歌 のぼるの大納言のみむすめにすみたまけるを、ひさしにおまししきておほとのこもりてのち、ひさしうおはしまさで、かのはしにしかれたりしものはさながらありや、とりやたてたまてしと、のたまければ、女 しきかへすありしながらに草まくらちりのみぞゐるはらふひとなみ ときこへたりければ、宮 くさまくらちりはらひにはから衣たもとゆたかにたつをまてかし 又、をんな からころもたつをまつまのほどこそはわがしきたへのちりもつもらめ かくておはしてのち、うちへ返しになむどのたまへれば、女 みかりするくりこま山のしかよりもひとりぬる身ぞわびしかりける 『大和物語』 一四〇段 故兵部卿の宮、昇の大納言のむすめにすみたまうけるを、例のおまし所にはあらで、廟におまししきて、おほとのこもりなどして、かへりたまうて、いと久しうおはしまささりけり。かくて、のたまへりける。「かの廟にしかれたりし物は、さながらありや。とりたてやしたまひてし」と、のたまへりければ、御返りごとに、 しきかへずありしながらに草枕ちりのみぞゐるはらふ人なみ とありければ、御返しに、 草枕ちりはらひにからころもたもとゆたかに裁つを待てかし とあれば、また、 からころも裁つを待つまのほどこそはわがしきたえのちりもつもらめ となむありければ、おはしまして、また「宇治へ狩しになむいく」とのたまひける御返しに、 み狩する栗駒山の鹿よりもひとり寝る身ぞわびしかりける のぼるの大納言のみむすめ関連歌群は『大和物語』一四〇段と対応し、簡略化はあるものの詞書と散文の内容もほぼ共通している。一=一番歌の詞書では話の展開が見られ、同集の物語的要素が強く見られる歌群が構成されている。 当該歌群が女の歌を中心に構成されている点に注意したい。同集は元良親王の歌を中心に編まれているが、親王の周辺状況や人間関係を描写する物語性が付加されることで、相手の女からの歌が中心とされる場合もある。特に当該歌群では物語的な文脈で歌がよまれるため、物語の中心となる女の歌で構成された形がとられている。 一三〇番、一三一番歌も女の歌で構成されており、また『大和物語』八段の歌と類似している。 『元良親王集』一三〇番、一三一番歌 げんの命婦にかたふたがりければとのたまへりければ、女 あふことのかたはさのみはふたがらむひとよめぐりのきみとみつれば ときこえたりければ、さしておはしたりけり、又、ひさしくおはせで、さがの院にかりしにとてなどのたまへりければ、女 おほさはのいけのみつくきたえぬともさがのつらさをなにかうらみむ 『大和物語』八段 監の命婦のもとに、中務の宮おはしまし通ひけるを、「方のふたがれば、今宵はえなむまうでぬ」とのたまへりければ、その御返りごとに、 あふことの方はさのみぞふたがらむひと夜めぐりの君となれれば とありければ、方ふたがりけれど、おはしましてなむおほとのこもりにける。かくてまた、久しく音もしたまはさりけるに、「嵯峨院に狩すとてなむ、久しう消息なども物せざりける。いかにおぼつかなく思ひつらむ」などのたまへりける御返しに、 大沢の池の水くき絶えぬともなにか恨みむさがのつらさは 御返し、これにやおとりけむ、人忘れにけり。 親王の相手が、『元良親王集』では「げんの命婦」、『大和物語』では「中務の宮」とされている点に違いは見られるが、歌と散文/詞書が示す内容は類似している。 『元良親王集』 一三〇番、一三一番歌は、詞書にある「かたふたがりければ」「さがの院にかりし」といった親王の行動が物語的な展開を進めているが、歌をよむ主体はげんの命婦である。詞書の主体と歌のよみ手が異なっており、元良親王の行動に対するげんの命婦の歌という形がとられていることは注意される。ここでは女が歌をよみながらも、話の内容を進めているのは親王の行動であり、同集が親王を中心に展開されていることを示している。 一四二番歌は『大和物語』一三七段の歌と共通しているが、一四二番歌の詞書と一三七段の散文部分には大きな違いが見られる。 『元良親王集』 一四二番歌 しがの山こえのみちに、いもはらといふ所もたまへりけり、そこにごがくれつつ人みたまけるをしりて、としこがかいつけける かりにのみくるきみまつとふりでつつなくしが山はあきぞかなしき 『大和物語』一三七段 志賀の山越の道に、いはえといふ所に、故兵部卿の宮、家をいとおかしうつくりたまうて、ときどきおはしましけり。いとしのびておはしまして、志賀にまうつる女どもを見たまふ時もありけり。おほかたもいとおもしろう、家もいとをかしうなむありける。としこ、志賀にまうでけるついでに、この家に来て、めぐりつつ見て、あはれがりめでなどして、書きつけたりける。 かりにのみ来る君待つとふりいでつつ鳴くしが山は秋ぞ悲しき となむ書きつけていにける。 一三七段では散文により詳細な状況説明がなされている。としこの「あはれがりめでなどし」とする心情や、親王を待つ女の悲しい心情もあらわれている。 一方、『本良親王集』一四二番歌では簡素化された詞書がおかれているのみである。内容としてはほぼ一致しているが、『大和物語』では物語的なふくらみが見られる。 『元良親王集』と『大和物語』の比較では、歌物語の散文による詳細な状況描写と物語的家集の簡略化された詞書との性格の違いが明らかになった。散文による説明の不足は『元良親王集』の物語性が『大和物語』と比べると希薄化している一因となっている。しかし、一方で同集は別の形で物語化を進めている。それは、歌群としてのまとまり、私家集という形をとりながら親王の歌だけでなく周辺状況や人間関係を描写する物語性が付加されている点である。同集は歌物語とは異なるアプローチによって物語化を行なっているのである。 |
■五.勅撰集との関連
『後撰集』『拾遺集』の両勅撰集には『元良親王集』との共通歌、また詞書から元良親王に関わると判断される歌がいくつか収められている。ここではそれらの元良親王関連歌について物語性の観点から中心に考察する。 ■(一)『後撰集』との関連 はじめに『後撰集』の元良親王集関連歌をいくつか見てみたい。 『後撰集』五一〇番、五一一番歌 あひ知りて侍ける人のもとに、「返事見む」とてつかはしける 来や来やと待つ夕暮と今はとて帰る朝といつれまされり 元良の親王 返し 夕暮は松にもかΣる白露のをくる朝や消え果つらむ 藤原かつみ 五一〇番歌は『元良親王集』冒頭歌と一致する。『元良親王集』ではげんの命婦との贈答歌となっており、続く三首で歌群が構成されているが、藤原かつみのよんだとされる五一一番歌は見られない。 次に『後撰集』五二二番歌と『元良親王集』一五七番歌を取り上げる。 『後撰集』五二二番歌 いつしかとわが松山に今はとて越ゆなる浪に濡るる袖哉 『元良親王集』一五七番歌 もののたまふ女、こと人もののたまふときこしめして、宮 いつしかとわがまつ山のいまはとてこゆなるなみにぬるる袖かな 『後撰集』には詞書がないが、直前の五一二番歌「わがごとくあひ思ふ人のなき時は深き心もかひなかりけり」により、別に思う人がいる相手に対して恨みを述べた歌であると解釈される。『元良親王集』では一五七番歌から新たな歌群が始まるため、詞書による状況説明がなされていると考えられる。 『後撰集』九六〇番歌 事出て来てのちに京極御息所につかはしける 元良の親王 わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしても逢はんとそ思 『元良親王集』一二〇番歌 こといできてのち、宮す所に わびぬればいまはたおなじなにはなるみをつくしてもあはんとそ思ふ 詞書はほぼ一致している。両歌とも詞書は最小限に留められているが、「事出て来てのちに」により禁忌性をともなう京極御息所との恋事が明示される。そして、歌により「禁忌の女」のモチーフと親王の情熱が浮上し、同歌のもつ物語性が強調されることになる。 『後撰集』 一四三番歌 たまさかにかよへる文を乞ひ返しければ、その文に具してつかはしける 元良の親王 やれば惜しやらねば人に見えぬべし泣く泣くも猶返すまされり 『元良親王集』六六番歌 さきざきかよはせ給ひける御文とても、いまはかへしたてまつれたまふとて、宮す所 やればをしやらねばひとにみえぬべしなくなくもなほかへすまされり 歌は共通しているが、『後撰集』では元良親王が、『元良親王集』では御息所がよんだ歌とされている。『元良親王集』六四番から六六番歌では御息所との恋事による歌群を形成しており、「ひとにみえぬべし」と御息所が思い悩むことで「禁忌の女」としてのイメージが強調され、その女に挑む親王の情熱を映し出すことになる。そのような物語性を引き出すために『元良親王集』では御息所がよんだ歌とされたものと考えられる。 『後撰集』一二一一番歌 つきもせずうき事の葉の多かるを早く嵐の風も吹かなん 『元良親王集』 一六四番歌 いとあだにおはすとききて、女 つきもせずうき事のはのおほかるをはやくあらしのかぜもふかなむ 『後撰集』一二一一番歌には詞書もよみ人も記されていないが、『元良親王集』では一六二番歌からの歌群となっており「うこ」とされる女性との贈答になっている。同歌では浮気心を恨む女に対して親王がそれをなだめている構図があらわれ、歌群としての物語性が見られる。このように『元良親王集』で歌群を形成している歌が『後撰集』に単独で採られている例も見られる。以下を見てみたい。 『元良親王集』一二一番から一二四番歌 かねもとのむすめ、兵部のもとにいまこむとのたまて、おはせざりける又の日のつとめて、女 ひとしれずまつにねられぬありあけの月にさへこそねられさりけれ あしぶちといふむまにのりたまへりけるころ、女のもとにひさしくおこせざりけるころ、女 ありながらこぬをもいはじあしぶちのこまのこゑこそうれしかりけれ これにおどろきてをんなのもとのおはしたるに、あけぬ、とくときこえければ、かへりたまて、宮 あまのとをあけぬあけぬといひなしてそらなきしつるとりのこゑかな 返し あまのとをあくとも我はいはさりきよにふかかりしとりのねにあかで 一二三番歌は『後撰集』六二一番歌と共通している。 『後撰集』六二一番歌 女につかはしける よみ人しらず 天の戸を明けぬ明けぬと言ひなして空鳴きしつる鳥の声哉 『後撰集』六二一番歌では抽象的な詞書がおかれているのみであるが、『元良親王集』 一二四番歌は歌群が構成されていることで、贈答歌としての意味が鮮明になり物語化が進められている。そこには『元良親王集』の歌群による物語性が見られ、『後撰集』と比較して物語化の意識が強いことが確認できる。 ■(二)『拾遺集』との関連 次に『拾遺集』の元良親王関連歌についていくつか見てみたい。 『拾遺集』九一八番歌 元良の親王、小馬の命婦に物言ひ侍ける時、女の言ひ遣はしける 数ならぬ身はただにだに思ほえでいかにせよとかながめらるらん 『元良親王集』六七番歌 きたのかた、みやにむしことてさぶらひける、めしければ、かむしにおきたまてけるを、をとこみや、こまのの院におはしましけるに、むしこがたてまつりける かずならぬ身はただにだにおもほえていかにせよとかながめらるらむ 『元良親王集』の物語化が見られる歌である。詞書で「きたのかた」にとがめられた「むしこ」が、「こまのの院」にいる親王に歌を送ったと状況が説明されており、「むしこ」の切迫した心情が伝わってくる。『拾遺集』にも説明的な詞書がおかれているが、『元良親王集』では「北の方」「むしこ」「親王」の三老を登場させ、さらに物語化を進めている。 『拾遺集』一二六九番歌 元良の親王、久しくまからざりける女のもとに、紅葉をおこせて侍ければ 思出でて訪ふにはあらず秋はつる色の限を見するなりけり 『元良親王集』一一五番歌 山の井のきみのいへのまへをおはすとて、かへでのもみちのいとこきをいれたまへりければ おもひいでてとふにはあらじあきはつるいろのかぎりをみするなりけり 二つの歌は『後撰集』四三九番歌ともほぼ一致する。 忘れにける男の紅葉を折りて送りて侍りければ 思出でて問にはあらじ秋果つる色の限を見するなるらん 注意したいのは『元良親王集』一一五番歌のみが、女から送られている点である。同歌の詞書で指示される山の井の君は歌集内で八八番、八九番、一一六番、=七番、↓六一番歌にも登場しており歌群として捉えられるが、その歌群は山の井の君からよまれた歌のみで構成されている。一一五番歌は歌集における山の井の君関連歌群を通した論理に従っており、そこには『元良親王集』の統一性を見ることができる。 |
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■六.おわりに
本論では物語的家集である『元良親王集』について、どのように物語性が形成されているのかを中心に考察してきた。歌物語との比較がなされることが多い物語的家集であるが、その物語化は歌物語の影響を受けながら、また異なる側面からも行なわれている。 物語的家集の性格の一つとして歌群による物語化があげられる。『元良親王集』では、歌は単独で配されているだけでなく、物語的な歌群として歌同士が結びつけられていることが少なくない。それらの歌群は、親王の相手となる女性との贈答歌によって構成されており、詞書による状況設定や歌によって詠者の心情描写を行ないながら、物語的な展開を示すことになる。また、京極御息所や山の井の君の歌群は歌集内で分散されて配置されているが、それは歌物語と類似した形態であり、同集の物語性につながるものと考えられる。 また、歌群が物語性に関わるモチーフを用いていることも重要な要素である。歌物語−特に『伊勢物語』−ではその物語性を示すモチーフが見られたが、『元良親王集』でも軸となる歌群はモチーフによって構成されている。京極御息所、大納言の北の方には「禁忌の女」のモチーフが見られ、関院の姫君たちとの恋愛には冒頭にも提示された「色好み」というモチーフが強くあらわれている。それらが歌群に取り込まれることにより、同集は全体を統一した物語性をもつことになる。 歌物語との比較によっても同集の物語的性格を見ることができる。歌物語が散文と歌の関連によって物語として構成されているのに対して、物語的家集では別の面から物語化が進められている。家集では詞書/散文による物語性は弱いが、歌群としての構成、歌のつながりによる物語化が行われているのである。 同様に『元良親王集』と『後撰集』『拾遺集』の関連歌を見た場合にも、『元良親王集』の物語的家集としての物語性を見出すことができた。『元良親王集』と両勅撰集との同一歌をいくつか取り上げたが、それらを比較することで歌群や歌のつながりによる『元良親王集』の物語性がより明らかになった。 以上の考察により物語的家集である『元良親王集』の物語性を見ることができた。『元良親王集』は私家集でありながら、歌群の構成や物語的モチーフを採用することで、物語性を創出することを可能とした。それは元良親王の歌やエピソードが物語的要素を持っていたことに加えて、構成の段階で物語への志向性があらわれたことに依るものが大きいと考えられる。 |
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■21.素性法師 (そせいほうし) | |
今来(いまこ)むと 言(い)ひしばかりに 長月(ながつき)の
有明(ありあけ)の月(つき)を 待(ま)ち出(い)でつるかな |
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● あなたがすぐに来ると言ったばかりに秋の夜長を待っていたら、有明の月が出てしまった。 / 「今すぐ行くよ」とあなたがおっしゃるので、秋の夜長を今か今かと待つうちに、まあなんてこと、とうとう九月の明け方の月が出るまで、待つことになってしまったことですよ。 / いますぐに行きますよ、と、あなたがおっしゃったのを信じて待っていたら、9月の夜明けに昇る有明の月を待つことになってしまいましたよ。 / 「今すぐに行きましょう」とあなたがおっしゃったので、(その言葉を信じて) 九月の長い夜を待っていましたが、とうとう有明の月が出る頃を迎えてしまいました。
○ 今来むと / 「今」は、今すぐの意。「む」は、意志の助動詞。「来む」で、「来よう」の意。これにより、作者は男性であるが、女性の立場で詠んだ歌とわかる。「と」は、引用の格助詞。 ○ 言ひしばかりに / 主語は、恋人の男性。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「ばかり」は、限定の副助詞。 ○ 長月 / 陰暦の九月。晩秋で夜が長い。 ○ 有明の月 / 「有明」は、陰暦で、16日以後月末にかけて、月が欠けるとともに月の入りが遅くなり、空に月が残ったまま夜が明けること。「有明の月」は、その状態で出ている月。 ○ 待ち出でつるかな / 八音で字余り。「待ち」の主語は、自分(女性)。「出で」の主語は、月。「つる」は、完了の助動詞。「待ち出でつる」で、「(あなたを)待っていたら(月が)出てしまった」の意。「かな」は、詠嘆の終助詞。 |
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■ 1
素性(そせい、生年不詳 - 延喜10年(910年)?)は、平安時代前期から中期にかけての歌人・僧侶。桓武天皇の曾孫。遍照(良岑宗貞)の子。俗名は諸説あるが、一説に良岑玄利(よしみねのはるとし)。 三十六歌仙の一人。素性は遍照が在俗の際の子供で、兄の由性と共に出家させられたようである。素性は父の遍照と共に宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍した。はじめ宮廷に出仕し、殿上人に進んだが、早くに出家した。仁明天皇の皇子常康親王が出家して雲林院を御所とした際、遍照・素性親子は出入りを許可されていた。親王薨去後は、遍照が雲林院の管理を任され、遍照入寂後も素性は雲林院に住まい、同院は和歌・漢詩の会の催しの場として知られた。後に、大和の良因院に移った。宇多天皇の歌合にしばしば招かれ歌を詠んでいる。古今和歌集(36首)以下の勅撰和歌集に61首が入集し、定家の小倉百人一首にも採られる。家集に『素性集』(他撰)がある。 |
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■ 2
素性 承和十一頃〜延喜十頃(844?-910?) 遍昭の子。兄に少僧都由性(841-914)がいる(但し由性を素性の別名とする説もある)。俗名は諸説あるが、「尊卑分脈」によれば良岑玄利(よしみねのはるとし)。左近将監に任官し、清和天皇の時に殿上人となったが、若くして出家し、石上の良因院に住んだ。昌泰元年(898)、大和国御幸に際し石上に立ち寄った宇多上皇に召され、供奉して諸所で和歌を奉る。醍醐天皇からも寵遇を受けたようで、延喜九年(909)、御前に召されて屏風歌を書くなどしている。常康親王・藤原高子などとの交流も窺われ、また死去の際には紀貫之・凡河内躬恒が追慕の歌を詠むなど、生前から歌人としての名声の高かったことが窺われる。三十六歌仙の一人。古今集では三十六首入集し、歌数第四位。勅撰入集は計六十三首。家集『素性集』は後世の他撰。 春 / 延喜の御時、月次の御屏風に あらたまの年たちかへるあしたより待たるるものは鶯のこゑ(拾遺5) (年が最初に戻る正月の朝から、心待ちにされるものと言えば、鶯の声である。) 雪の木にふりかかれるをよめる 春たてば花とや見らむ白雪のかかれる枝にうぐひすぞなく(古今6) (もう立春になったので、花であると見ているのだろうか。白雪が降りかかった枝に、鶯が鳴いていることよ。) 題しらず よそにのみあはれとぞ見し梅の花あかぬ色香は折りてなりけり(古今37) (遠くからばかり趣深く眺めていた梅の花――しかし、いくら賞美してもしきれない色と香は、枝を折り、まじまじと見て初めて分かるものだったよ。) 題しらず 梅の花折ればこぼれぬ我が袖ににほひ香うつせ家づとにせむ(後撰28) (梅の花は、折り取とうとすれば、こわれて散ってしまう。だから私の袖に匂いを移してくれ。その香を家へのみやげにするから。) 寛平御時きさいの宮の歌合のうた 散ると見てあるべきものを梅の花うたてにほひの袖にとまれる(古今47) (どうせいつかは散るものだと思って、達観している方がよいのに。困ったことに匂いが袖に留まっているよ。) 山の桜をみてよめる 見てのみや人にかたらむさくら花てごとに折りて家づとにせむ(古今55) (眺めているだけで、その美しさを人に語り得ようか。この桜花を、さあ皆、各自の手で折り取って、都の家族へのおみやげにしよう。) 花山にて、道俗、酒らたうべける折に 山守は言はば言はなむ高砂のをのへの桜折りてかざさむ(後撰50) (山の番人は文句があるなら言うがよい。峰の桜を今日は折り取って挿頭(かざ)そう。) 花ざかりに京をみやりてよめる 見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける(古今56) (都をはるかに見渡せば、柳の翠と、桜の白と、交ぜ込んで、さながら春の錦であった。) 桜の花の散り侍りけるを見てよみける 花ちらす風のやどりはたれかしる我にをしへよ行きてうらみむ(古今76) (花を散らす風の泊る宿はどこか、誰か知っているか。私に教えてくれ。そこへ行って怨み言を言おう。) 寛平御時きさいの宮の歌合のうた 花の木も今はほりうゑじ春たてばうつろふ色に人ならひけり(古今92) (花の咲く木も、もう今は山から掘って来て庭に植えたりはしまい。春になったので、花ははかなく散ってしまい、それに倣って人の心も移ろうのであったよ。) 雲林院のみこのもとに、花見に、北山のほとりにまかれりける時によめる いざ今日は春の山べにまじりなむ暮れなばなげの花のかげかは(古今95) (さあ今日は春の山辺に分け入ろう。日が暮れても、宿るのに恰好な花の蔭がなさそうだろうか、たくさんあるではないか。) 春の歌とてよめる いつまでか野辺に心のあくがれむ花しちらずは千世もへぬべし(古今96) (桜の咲く野辺に、いつまで私の心は憧れ続けることだろうか。花が散らなかったなら、千年もそのまま経過してしまうにちがいない。) 鶯の鳴くをよめる 木こづたへばおのが羽風にちる花をたれにおほせてここらなくらむ(古今109) (鶯は枝を伝って飛び移るので、自分の羽風で花が散るというのに、いったいそれを誰のせいにしてしきりと鳴いているのだろうか。) 春の歌とてよめる 思ふどち春の山べにうちむれてそことも言はぬ旅寝してしか(古今126) (気の知れた仲間同士、春の山に連れ立って行って、どこの花の蔭ともかまわず野宿してみたいものだ。) 春の歌とて 春ふかくなりゆく草のあさみどり野原の雨はふりにけらしも(新後拾遺639) (春は深まり、色を増してゆく草の浅緑――野原を濡らす雨はたびたび降ったようであるなあ。) 夏 / 題しらず をしめどもとまらぬ春もあるものを言はぬにきたる夏衣かな(新古176) (いくら惜しんでも止まらずに去ってしまう春もあるのに、呼びもしない夏がやって来て夏衣を着ることだ。) 時鳥ほととぎすのはじめて鳴きけるをききて ほととぎす初声きけばあぢきなくぬしさだまらぬ恋せらるはた(古今143) (ほととぎすの初声を聞くと、どうしようもなく、誰に惹かれるのかも判然としない、人恋しい気持が起こるよ、やはり。) 奈良の石上寺いそのかみでらにて郭公の鳴くをよめる いそのかみふるき宮この郭公こゑばかりこそ昔なりけれ(古今144) (石上の布留、その「ふる」い皇居の地に鳴く時鳥よ、あたりの様子はかつてと変わってしまったが、その声だけは昔のままであることよ。) 秋 / 題しらず こよひ来む人には逢はじ七夕のひさしきほどに待ちもこそすれ(古今181) (七夕の今夜、わが家を訪れる人には会うまい。織女が牽牛を待つように、再び会えるまで長い間待つことにになってしまうから。) 藤袴をよめる ぬししらぬ香こそにほへれ秋の野にたがぬぎかけし藤袴ぞも(古今241) (持ち主は知らないけれども、すばらしい香が匂うことよ。秋の野に誰が脱いで掛けた藤袴なのか。) 寛平御時きさいの宮の歌合のうた 我のみやあはれと思はむきりぎりす鳴く夕かげのやまとなでしこ(古今244) (私だけがあわれと思うだろうか。こおろぎの鳴く夕べの光の中に咲いている大和撫子の花よ。) 仙宮に菊をわけて人のいたれるかたをよめる ぬれてほす山ぢの菊の露のまにいつか千とせを我は経にけむ(古今273) (菊の露に濡れては乾かしつつ行く山道――その「露の間」ではないが、いったいいつの間に千年を私は過ごしてしまったのだろうか。) 二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢ流れたるかたを画けりけるを題にてよめる もみぢ葉のながれてとまる湊には紅深き浪やたつらむ(古今293) (川に散り落ちたもみじ葉が流れて行き着く湊には、深い紅色の波が立つだろうか。) 北山に僧正遍昭とたけ狩りにまかれりけるによめる もみぢ葉は袖にこきいれてもていでなむ秋は限りと見む人のため(古今309) (もみじの葉は袖にしごき入れて山から持って出よう。秋はもう終りと思っている人のために。) 鏡山を越ゆとて かがみやま山かきくもりしぐるれど紅葉あかくぞ秋は見えける(後撰393) (鏡山では山をかき曇らせて時雨が降るけれども、秋は紅葉が赤々と美しく見えるよ。) 題しらず もみぢ葉に道はむもれてあともなしいづくよりかは秋のゆくらむ(続後撰456) (山道はもみじの葉に埋め尽され、痕跡もとどめない。いったいどこを通って秋は去ってゆくのだろうか。) 亭子院の奈良におはしましたりける時、龍田山にて 雨ふらば紅葉のかげにやどりつつ龍田の山に今日は暮らさむ(続古今898) (雨が降ったら、紅葉した木の蔭に雨宿りしながら、今日は立田山に日を暮らそう。) 賀 / 本康もとやすのみこの七十ななそぢの賀のうしろの屏風によみてかきける (二首) いにしへにありきあらずは知らねども千とせのためし君にはじめむ(古今353) (過去にあったかどうかは知りませんけれども、千年の長寿の例をあなたで最初にしましょう。) ふして思ひおきて数かぞふる万代は神ぞしるらむ我が君のため(古今354) (寝ても覚めても、ひたすら祈り数える万年の長寿は、我が君のためを思って、神がご考慮下さるでしょう。) 良岑のつねなりが四十(よそぢ)の賀に、むすめにかはりてよみ侍りける よろづ世をまつにぞ君をいはひつる千とせのかげにすまむと思へば(古今356) (万年にもわたる長寿を期待し、松にことよせて父君の将来を言祝(ことほ)ぎます。私も千年の生命の恩恵を受けてその蔭に生きようと思いますので。) 内侍のかみの、右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた 春日野に若菜つみつつよろづ世をいはふ心は神ぞしるらむ(古今357) (春日野に若菜を摘んでは、万年にも及ぶ長寿をお祈りする心は、神もご照覧下さるでしょう。) 恋 / 題しらず おとにのみきくの白露よるはおきてひるは思ひにあへずけぬべし(古今470) (あの人を噂にばかり聞いて、菊の白露が夜は置き昼は光に耐えられず消えてしまうように、私も夜は起きてばかりいて昼は恋しい思いに死んでしまいそうです。) 恋の歌とて みぬ人を心ひとつにたづぬればまだ知らねども恋しかりけり(続古今948) (逢ったことのない人なのだが、自分の胸一つに尋ね求めてみれば、まだ知らないけれども恋しいのだったよ。) 題しらず 秋風の身にさむければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに(古今555) (秋風が身に沁みて寒いので、つれない人ではあるが、こうして頼みにするのです。暮れてゆく夜ごと夜ごとに。) 題しらず はかなくて夢にも人を見つる夜はあしたの床ぞおきうかりける(古今575) (あっけない有様で夢に恋人を見た夜は、名残惜しくて、朝の寝床から起きるのが辛いのだ。) 題しらず 今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな(古今691) (あの人がすぐ来ようと言ったばかりに、私はこの長月の長夜を待ち続け、とうとう有明の月に出遭ってしまった。) 題しらず 秋風に山の木の葉のうつろへば人のこころもいかがとぞ思ふ(古今714) (秋風が吹いて山の木の葉は散ってしまうのだから、人の心も「飽き」風が吹けばどうなってしまうのかと心配だことよ。) 題しらず そこひなき淵やはさわぐ山河のあさき瀬にこそあだ浪はたて(古今722) (底知れず深く湛えた水は、音を立てますか。山あいの川の浅瀬にこそ、いたずらに騒がしい波が立つのです。) 題しらず 思ふともかれなむ人をいかがせむあかず散りぬる花とこそ見め(古今799) (いくら恋しく思っても、離れてゆく人をどうしよう。花が枯れるのを止められないように、仕様がないことだ。見飽きないまま散ってしまう花だと思って諦めようよ。) 題しらず うちたのむ君が心のつらからば野にも山にもゆきかくれなむ(玉葉1330) (頼みとするあなたの心が冷淡であったなら、私は野にでも山にでも行って姿をくらましてしまいましょう。) 題しらず しきたへの枕をだにもかさばこそ夢のたましひ下にかよはめ(万代集) (せめてあなたの枕だけでも貸してくれたなら、私の魂は夢の中を逢いに行って、ひそかにあなたのもとへ通うだろう。) 題しらず いかりおろす舟の綱手は細くともいのちのかぎり絶えじとぞ思ふ(続後拾遺852) (錨を下ろした舟を曳く綱は細くても切れない。そのように、あなたとの仲は細々と繋がっているだけだけれども、命ある限り絶えるまいと思うことだ。) 題しらず 恋しさに思ひみだれてねぬる夜のふかき夢ぢをうつつともがな(新千載1154) (恋しさに思い乱れて寝た夜更け、あの人と深く契り合う夢を見た――この夢を現実としたいものだ。) 題しらず 忘れなむ後しのべとぞ空蝉のむなしきからを袖にとどむる(素性集) (忘れてしまった後も、私のことを慕ってくれと思って、蝉の抜け殻をあなたの袖に残してゆきます。) 寛平御時、御屏風に歌かかせたまひける時、よみてかきける わすれ草なにをか種と思ひしはつれなき人のこころなりけり(古今802) (恋を忘れるという忘れ草は、何を種として生えるのかと思ったら、冷淡な人の心でしたよ。) 雑 / 延喜御時、御むまをつかはして、はやくまゐるべきよしおほせつかはしたりければ、すなはちまゐりて、おほせごとうけたまはれる人につかはしける 望月のこまよりおそく出でつればたどるたどるぞ山は越えつる(後撰1144) (十五夜の月が木の間から出たのが遅く、また私の乗る馬の出発も遅れましたので、暗い夜道を辿り辿りしながら山を越えて参りました。) 朱雀院の奈良におはしましたりける時に、たむけ山にてよみける たむけにはつづりの袖もきるべきに紅葉に飽ける神やかへさむ(古今421) (手向(たむけ)には私の粗末な僧衣を切り取って捧げるべきでしょうが、周囲の美しい紅葉に飽いたこちらの神は、そんなものお返しになるでしょうか。) 宮の滝と言ふ所に、法皇おはしましたりけるに、おほせごとありて 秋山にまどふ心を宮滝のたきの白しらあわにけちやはててむ(後撰1367) (出家の身でありながら秋山の美しさに惑う私の心を、この宮滝の奔湍の白い泡に消し尽してしまいたいものです。) 前太政大臣さきのおほきおほいまうちぎみを、白川のあたりに送りける夜よめる 血の涙おちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ(古今830) (血の涙が落ちて逆巻く。白川とはもはや呼べず、この名はあなたが生きておられた時までの名でしたことよ。) 題しらず いづくにか世をばいとはむ心こそ野にも山にもまどふべらなれ(古今947) (いったいどこで遁世の暮らしを送ろうか。身体は一所に定住したところで、心の方は野にいても山にいても惑うに決まっているのだから。) |
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■ 3
平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であると言う。近代以来の短歌や国文学の和歌解釈に慣れてしまった人々には理解困難な歌論だろう。江戸の国学も近代の国文学もこれを無視して、新たなに和歌を解く方法を創り上げた。「序詞」「掛詞」「縁語」の修辞法で表現されてあったと言うのであるが、平安時代の文脈から見れば、奇妙な捉え方である。こちらの方を無視して一切触れないで、百人一首の和歌の奥義を紐解く。 藤原定家撰「小倉百人一首」 (二十一) 素性法師 いまこむといひしばかりに長月の ありあけの月を待ちいでつるかな (今にも来るだろうと言ったばかりに、長月の・秋の夜長を、有明の月まで待って、逢引の宿を・出てきたことがあったなあ……井間、絶頂が・来そうなの、と言ったばかりに、長つきの、明け方の尽きを待ち、井間より・出てきたことがあったなあ) 「いま…今…今にも…すぐ…井間…おんな」「こむ…来るつもり…来るでしょう…来そうだ」「といひしばかりに…(女が)言ってきたばかりに…(井間が)言ったと感じただけのことで」「長月…九月…晩秋…夜長…長突き」「月…月人壮士(万葉集の歌詞・月の別名は、ささらえをとこ)…月の言の心は男…突き…尽き」「ありあけの月…明け方空に残る月…残月…明け方まで残ったおとこ」「いでつる…出でた…退出した…出家した…引きあげた…逃れ出た…ものが出た」「つる…つ…完了していることを表す…(過去にそのようなことがあったが)今に引きずっていない事を表す」「かな…(だった)なあ…(だった)ことよ…感動・詠嘆の意を表す」 歌の清げな姿(気高き姿)は、恋人に待ちぼうけを喰らわされた情況。心におかしきところ(言の戯れに顕れる趣旨)は、合う坂の山ばの頂上が、いまに来るからと言われ、明け方まであい努めたが、終に退出したさま。 この歌は、古今和歌集 恋歌四にある。題しらず。恋歌ではあるが失恋の歌のようである。「いま」「こむ」「つき」「いでつる」は、清少納言のいうように「聞き耳異なる言葉」と捉えることができる。「こむ」の来るものは、人とは限らない、女の感情の山ばのことかもしれない、そのように聞く耳を持って、この歌を聞けば、「心におかしきところ」が顕われる。また、このような経験と体験が「いでつる(出家)」の因になったかもしれぬと聞けば、歌の「深い心」も見えて来るだろう。この文脈で言葉の孕んでいた意味のすべてを聞く耳を持てば、和歌も枕草子の言動も「いとをかし」と共感することができるだろう。 平安時代の歌論と言語観は、およそ次のようなことである。 ○ 紀貫之は『古今集仮名序』の結びに「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。和歌の「恋しくなる程のおかしさ」を享受するには「表現様式」を知り「言の心」を心得る必要が有る。「歌の様」は藤原公任が捉えている。 ○ 公任は『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」と優れた歌の定義を述べた。歌には品の上中下はあっても、必ず一首の中に「心」「姿」「心におかしきところ」の三つの意味があるということになる。これが和歌の表現様式である。 ○ 清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって(意味が)異なるもの、それが我々の用いる言葉である。言葉は戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。 ○ 藤原俊成は古来風躰抄に「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はる」という。歌の言葉は戯れて、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌に公任の言う三つの意味を詠むことは可能である。「言の心」と「言の戯れ」を心得れば顕れる「深き旨」は、煩悩の表出であり歌に詠めば即ち菩提(悟りの境地)であるという。それは、公任のいう「心におかしきところ」に相当するだろう。 ○ 藤原定家は、当然、上のような歌論と言語観を踏まえた上の歌論となるだろう。それに基ずいて、「百人一首」を撰んだのである。 定家以降、歌の奥義は歌の家の秘伝となり、一子相伝の口伝となって、何代か後には埋もれ木となり、秘伝は朽ち果て、奥義は見えなくなった。同時に上のような歌論と言語観が理解不能となった。そして、国文学は、秘伝も平安時代の歌論も言語観も無視して、和歌の解釈を行い現代に至るのである。 |
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■ 4
『古今和歌集』 恋部における素性歌 |
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■はじめに
素性は『古今和歌集』に三六首の和歌が収載され、撰者である紀貫之、凡河内躬恒、紀友則に次いで四番目に多く、撰者の一人である壬生忠岑と並んでいる。つまり、素性は撰者を除くと入集歌数第一位の歌人となる。『古今和歌集』における素性の歌は多くの部立に幅広く収載されており、素性が『古今和歌集』の撰者たちから高く評価されていたこと、『古今和歌集』成立時に素性が卓越した歌人として活躍していたことを表している。三六首が入集された素性の歌のうち、僧という立場でありながら恋歌一から恋歌五までの恋部には計九首の歌が採られている。本論では素性のどのような歌が『古今和歌集』恋部に収載されたのか、その表現の傾向を明らかにする。 |
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■一 屛風歌作者としての素性
寛平御時御屛風に歌かかせ給ひける時、詠みて書きける 忘草なにをか種と思ひしはつれなき人の心なりけり (恋歌五・八〇二・素性法師) 恋部に収載される素性の歌のうち、詞書がある歌は右に挙げた一首のみである。詞書からこの歌が宇多天皇の時代に詠まれた屛風歌であることがわかる。『古今和歌集』恋部において、屛風歌であることが明記されているのは当該歌のみであり、八〇二番は歌恋の情趣を詠んだ屛風歌として撰者たちに評価されたものと考えられる。 素性の屛風歌は、『古今和歌集』に右の歌を含めて四首収載されている。素性の屛風歌で詠歌時期の早い歌として、次の『古今和歌集』二九三番歌を挙げることができる。 二条の后の東宮の御息所と申しける時に、御屛風に竜田川に紅葉流れたるかたをかけりけるを題にてよめる もみぢ葉の流れてとまるみなとには紅深き波やたつらむ (古今集・秋下・二九三・素性) ちはやぶる神世も聞かずたつた河から紅に水くくるとは (古今集・秋下・二九四・業平朝臣) 右に挙げた二首は屛風に描かれた「竜田川に紅葉流れたるかた」の絵に関わって詠まれている。詞書の「二条の后」とは藤原高子を指し、これらの歌が、高子が「東宮の御息所」と呼ばれた時代に詠まれたことがわかる。高子が「東宮の御息所」であった時期について、高子が東宮の母の御息所であった時と解するのが通説である。それに従って考えると、高子の子である貞明親王は、貞観十年(八六八)に生まれ、翌年には立太子、翌年の十一月に受禅して元慶元年(八七七)に豊楽殿において即位している。従って、藤原高子が東宮の御息所と呼ばれたのは貞観十一年(八六九)から貞観十八年(八七六)の七年間で、右の二首の詠歌時期もこの間ということになる。 高子が貞明親王を出産する際に建立された元慶寺は、素性の父である遍照が御持僧であり、素性が早い時期にこの歌を詠む機会を得たのは、そのような縁が背景となっていた可能性も考えられる。そのような縁があったにせよ、『古今和歌集』二九三・二九四番歌を通して、素性が貞観年間には既に藤原高子に召されて六歌仙の一人に数えられる業平と並んで屛風歌を詠んでいたことは明らかである。 また、素性は屛風歌を詠むだけでなく、書き手としても優れていたことが知られている。八〇二番の詞書きに「御屛風に歌かかせ給ひける時」とあるが、この他にも、『古今和歌集』三五三番歌の詞書には「元康の皇子の七十の賀のうしろの屛風に詠みて書きける」、三五七番歌の詞書には「尚侍の、右大将藤原朝臣の四十の賀しける時に、四季の絵かけるうしろの屛風に書きたりけるとき」とあり、素性が歌を詠むだけでなく、書き手として活躍していたことがわかる。また、醍醐天皇によって詠まれた『続後撰和歌集』一一三七番歌の詞書には「法師をめして御屛風歌書かせられけるに、まかりいでける時、御前にめしておほみきたまひけるついでに、御さかづきたまはすとて」とあり、素性が屛風歌を詠み書きする腕前は醍醐天皇に召されるほどのものであったことが窺える。 これらのことから、素性は屛風歌が盛んに詠まれるようになる醍醐朝以前からいくつもの屛風歌を詠み、書き手としても活躍していたことがわかる。素性は、『古今和歌集』撰集のころには六十代に差し掛かっていたと推測される。貫之などの『古今和歌集』撰者にとって素性は年齢的にも歌人としての経験も先輩にあたる。『貫之集』には素性の死に際して詠んだ貫之と躬恒の哀傷歌が残されており、素性は先輩歌人として撰者たちに影響を与える存在であったと考えられる。素性は『古今和歌集』編纂当時、既に屛風歌作者として高く評価されており、恋部に収載される唯一の屛風歌として八〇二番歌が入集されるに至ったと考えられる。 |
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■二 女の立場で詠んだ歌
音にのみ菊の白露夜はおきて昼は思ひにあへずけぬべし (恋歌一・四七〇・素性法師) 秋風の身に寒ければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに (恋歌二・五五五・素性法師) はかなくて夢にも人を見つる夜は朝のとこぞ起きうかりける (恋歌二・五七五・素性法師) 今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな (恋歌四・六九一・素性法師) 秋風に山の木の葉のうつろへば人の心もいかがとぞ思ふ (恋歌四・七一四・素性法師) 底ひなき淵やはさわぐ山河の浅き瀬にこそあだなみはたて (恋歌四・七二二・素性法師) 思ふともかれなむ人をいかがせむあかず散りぬる花とこそ見め (恋歌五・七九九・素性法師) 秋の田のいねてふこともかけなくに何を憂しとか人のかるらむ (恋歌五・八〇三・素性法師) 右に挙げた八首は恋部に収載される題知らずの素性の歌である。先に挙げた屛風歌、八〇二番歌以外の八首には詞書がなく、詠歌状況を特定することができない。この八首の和歌を見てみると、『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌には女の立場で詠まれた歌が多いことがわかる。五五五番歌は秋風が身にしみて寒いので、夜になるごとにつれない男の訪れを期待してしまうことだ、という趣旨の歌であり、秋風の冷たいことを契機としてつれない男の訪れをあてにしてしまう、待つ女性の嘆きを詠んでいる。 また、後に『百人一首』にも採られた六一九番歌は、男が今すぐに来ると言ったばかりに長月の有明の月が出るまで男の訪れを待ってしまった、と詠んでいる。この歌の解釈については、顕昭の『顕注密勘』に「長月の在明の月とは、なが月の夜のながきに在明の月のいづるまで人を待とよめり。大方万葉にも、ながつきの在明の月とつけたる歌あまたあり」という女が一夜男の訪れを待ったとする注がある一方、定家は「大略同じ。今こむといひしひとを月来待つ程に秋もくれ月さへ在明になりぬとぞ、よみ侍りけん。こよひばかりはなほ心づくしならずや」として女が何か月も待ったという月来説を提唱し、以来一夜説と月来説の両説が対立している。しかし、この歌もまた男の訪れを待つ女の立場で詠まれた歌の一首といえる。 七九九番歌は、あの人のことを思っていても、離れていこうとする人をどうすることができようか。満足しないうちに散ってしまう花だと思って見よう、と詠み、「離れなむ人」を惜しんでいる。ここでいう「離れなむ人」は男を指すのか、女を指すのか。『古今和歌集』の恋歌において用いられる「離る」の用例を見てみると、小野小町の「みるめなきわが身をうらと知らねばやかれなで海人の足たゆく来る」(古今集・恋歌三・六二三)では「離れ」と「刈れ」 の掛詞として用い、男が絶えることなく通ってくることを表していることがわかる。また、業平の「今ぞ知る苦しきものと人待たむ里をば離れずとふべかりけり」(古今集・雑歌下・九六九)では自分のことを待っていてくれる女の里に絶えることなく通うべきであった、と詠んでおり、「離る」はいずれも男が女の元に通わなくなる、という意味で用いられているといえよう。よって、素性の七九九番歌は、自分のもとに通ってくる男の足が遠のこうとしていることに気づき、その男を満足する前に散ってしまう花だと思おうとする、女の立場で詠まれたものだと見なすことができる。よって、「秋の田の稲」という風景から掛詞を駆使し、飽きたので去ってしまえなどということを言っていないのに、何をいやだと思ってあの人は離れてしまったのだろう、と詠む八〇三番の歌にも同様のことが言え、やはり女の立場で詠まれた歌だということがわかる。 以上のことから、『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌全九首のうち、四首が女の立場で詠まれた歌であるといえる。なぜ素性はこのような表現方法をとったのだろうか。まず一つ考えられるのは、先にも述べた屛風歌の作者としての技術である。女の立場で詠まれた歌は虚構の恋歌である。屛風歌は屛風に描かれた絵図に歌を書き添えるが、画中の人物の立場に立って歌を詠むことがその常套手段であった。よって、詠歌状況のわからないこれらの歌も、屛風に描かれた女性の立場に立って詠まれた歌である可能性があるだろう。また、そうではないとしても、屛風歌作者として画中の人物の立場で歌を詠むことを通して、女の立場で歌を詠むことに長けていた可能性も考えられる。 また、男性でありながら女の立場で和歌を詠むことについて、素性の父からの影響を考える必要がある。父・遍照は六歌仙の一人であり、『古今和歌集』恋部に二首の歌が収載されている。注目すべきは、そのいずれの歌も女の立場で詠まれていることにある。 我が宿は道もなきまで荒れにけりつれなき人を待つとせしまに (古今集・恋歌五・七七〇・僧正遍照) 今来むと言ひて別れし朝より思ひくらしの音をのみぞなく (古今集・恋歌五・七七一・僧正遍照) 七七〇番歌はつれない人の訪れを待っている間に私の家は道が見えなくなるほどに荒れてしまった、と詠み、七一番歌はすぐに来ると言って別れた朝から、私は毎日あなたを思いながら日を暮らし、蜩のように声をあげて泣いている、と詠んでおり、どちらも男の訪れを待つ女の立場で詠まれた歌であることがわかる。さらに、七七一番歌は「今来むと」という初句が素性の六九一番歌「今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな」と初句を同じくし、素性の六九一番歌、遍照の七七一番歌は共に、今すぐに来ると男に言われたために、来ない男の訪れを待ち続ける女の立場で詠まれた歌であることが確認できる。遍照の歌と素性の歌が同じ場で詠まれたのか、あるいは前後関係があるものなのかは知ることができない。しかしながら、このように女の立場で男の訪れを待つ女の嘆きを親子で複数詠んでおり、それが『古今和歌集』恋部に収載されていることは注目すべき点である。 男が女の立場で歌を詠む、ということを考えた時、『古今和歌集』に収載される次の贈答歌が思い起こされる。 業平朝臣の家にはべりける女のもとに、よみてつかはしける つれづれのながめにまさる涙川袖のみ濡れてあふよしもなし (古今集・恋歌三・六一七・敏行朝臣) かの女に代はりて返しによめる 浅みこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かばたのまむ (古今集・恋歌三・六一八・業平朝臣) 右に挙げた贈答歌の答歌は、業平が女の歌を代作したものである。『古今和歌集』成立当時、男性が女性が詠む歌を代作することは珍しくなかった。しかしながら、素性や遍照が女の立場で詠んだ歌は、いずれも女の立場で男の訪れを待ち嘆く独詠歌であり、代作で詠まれたとは考えがたい。 男が女の立場で、男の訪れを待ち嘆く歌を詠むという遍照と素性の共通点には、閨怨詩の影響が考えられる。閨怨詩とは、『玉台新詠』に多く収載されており、男性詩人が孤閨の女性の立場になって、帰らぬ夫を嘆くというものである。日本では、早くは『凌雲集』に一首見え、『文華秀麗集』には隆盛を迎え「艶情」の詩群が成立している。井実充史氏は閨艶詩について「男性が女性の内面を思いやって描いた、いわば想像の産物である」と説明しており、素性や遍照の女性仮託の歌に通じる詩であることが考えられる。 中野方子氏は、漢籍や仏典に見られる表現の「型」を照射することで、和歌で用いられている歌語誕生の過程を明確化された。その中で、閨怨詩における類型素材の一つとして「孤閨寒風」の影響を指摘し、その例として『古今和歌集』から素性の歌を含む次の三首を挙げている。 秋風の身に寒ければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに (恋歌二・五五五・素性) 来ぬ人を待つ夕暮の秋風はいかに吹けばかわびしかるらむ (恋歌五・七七七・よみ人しらず) 吹きまよふ野風を寒み秋はぎのうつりも行くか人の心の (恋歌五・七八一・雲林院のみこ) 中野氏は、「昭陽辞恩寵 長信独離居 団扇含愁詠 秋風怨有余」(嵯峨天皇「婕、怨」『文華秀麗集』五八)などの例を挙げて「秋風」が「秋閨怨」の素材であることを指摘し、「恋人を待ちわびる女性の立場に立って詠む『古今集』の恋歌に見られる「風」は、帰らぬ夫を待つ妻を歌う閨怨詩の類型素材の影響を受けて作られた可能性が高い」と論じている。 このことを踏まえてもう一度『古今和歌集』恋部に収載される素性歌を見てみると、次に挙げる七一四番歌もまた「秋閨怨」の素材である「秋風」を詠んだものとして考えることができるのではないだろうか。 秋風に山の木の葉のうつろへば人の心もいかがとぞ思ふ (恋歌四・七一四・素性法師) この歌は秋風に「飽き」の掛詞を活かし、秋風が吹いて山の木の葉が色を変えると、飽き風によってあの人の心もどうだろうか、心変わりしてしまうのではないかと思う、不安な思いを詠んだ歌である。『古今和歌集』恋部には「初雁のなきこそわたれ世の中の人の心の秋しうければ」(古今集・恋五・八〇四・紀貫之)などのように秋に「飽き」の意を掛けて恋人が自分に飽きてしまうことを嘆いた歌が多く見られる。歌を詠んだだけでは、これが男女どちらの立場で詠まれたかを確定できる決定的な表現は見当たらない。しかしながら、秋風が契機となって恋の嘆きを詠むという点では五五五番と共通しており、この「秋風」を「閨怨詩」の素材に由来する表現と考えた場合、七一四番歌もまた、男の訪れを待つ女が、秋風によって相手の心変わりを予感し、不安に思う女の立場で詠んだものと考えられるのではないだろうか。 また、中野氏は「月」もまた閨怨詩の素材として認められると指摘する。閨怨詩の影響下にある可能性のある歌として次の素性の歌を挙げるが、本格的な閨怨の「月」は、勅撰集においてはもう少し時代が下ってから登場するとしている。 今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな (恋歌四・六九一・素性法師) この歌も、先に確認したように待つ女の立場になって詠まれた歌である。中野氏の指摘に付け加えると、この歌に詠まれる「有明の月」は明け方の月を意味するが、『文華秀麗集』には「日暮深宮裡 重門閉不開 秋風驚桂殿 暁月照蘭台」(「長門怨」『文華秀麗集』嵯峨天皇)や「昭陽辞恩寵 長信独離居 団扇含愁詠 秋風怨有余」(嵯峨天皇「婕、怨」『文華秀麗集』五八)などに見られる「暁月」に通じる素材であると考えられるだろう。夜を通して男の訪れを待つ女が明け方の月を見る、ということも、閨怨詩に由来する表現方法の一つであると考えられる。 さらに、中野氏は遍照の七七〇番歌についても「秋閨怨」の「廃屋の風景」の影響を指摘されている。 我が宿は道もなきまで荒れにけりつれなき人を待つとせしまに (古今集・恋歌五・七七〇) 来ない人の訪れを待つうちに道がなくなるまでに草が生い茂る、というこの歌は、「昔邪生戸牖 庭内成林」(「情詩五首」『玉台新詠』巻二)のように、荒廃した女の家と草の繁茂は夫のいなくなった家を表すものであると指摘された。先に挙げた秋風や、荒廃した女の家は、素性や遍照の歌に限らず多く詠まれており、閨怨詩に由来すると考えられるこれらの表現は、和歌の表現として定着していたものと考えられる。しかし、男性である遍照や素性が女の立場で男の訪れを待ち嘆く歌を詠む、ということは、それ自体が閨怨詩の形式にならったものであると考えられ、遍照と素性に共通する一つのテーマであったと考えられる。 では、遍照と素性はどのような場でこのような歌を詠んだのだろうか。片桐洋一氏は『古今和歌集全評釈』で、素性と遍照が女の立場に立って歌を詠んでいることに触れて「素性や遍照が虚構の歌を作り、心を許し合った人々が集まった場で、披講されたものだろう」と述べており、仲間内での芝居がかった歌であるとしている。若き日の素性は常康親王と遍照を中心として雲林院で行われていた文学活動に参加していたと考えられ、ここでの作歌活動が素性の和歌の基盤となっていたことが想定できる。常康親王は、父である仁明天皇が承和十一年(八四四)に崩御し、嘉祥三年(八五〇)に文徳天皇が即位すると、翌年の仁寿元年(八五一)に出家し、雲林院に住んで詩作にふけった。常康親王と遍照はともに仁明天皇の死を契機に出家し、貞観十一年に常康親王が没するまでの間、遍照と深く関わっていた人物だと考えられる。遍照・素性親子が常康親王と交流を持っていたことは『古今和歌集』に収載される次の二首からも窺える。 雲林院のみこのもとに、花見に、北山の辺にまかれりける時によめる いざ今日は春の山辺にまじりなんくれなばなげの花の影かは (古今集・春歌下・九五・素性) 雲林院のみこの舎利会に山にのぼりてかへりけるに、桜の花のもとにてよめる 山風に桜吹き巻き乱れなむ花のまぎれに君とまるべく (古今集・離別歌・三九四・僧正遍照) 蔵中スミ氏は雲林院での文学活動について、雲林院で詠まれた漢詩が複数残ることから、漢詩が盛んに詠まれる時代には漢詩文製作の場であったと考えられるとしている。しかし、遍照や素性の漢詩は一首も残っておらず、雲林院での作詩活動に遍照・素性親子が参加していたという確証は得られない。しかし、素性がこのような場に身を置いて和歌を詠んでいたとするならば、漢詩の教養を身に着ける機会は十分にあったと想定できよう。さらに、注目されるのは中野氏が「秋風」が「秋閨怨」の素材であり、『古今和歌集』の恋歌に影響を与えていたとして例に挙げられた「吹きまよふ野風を寒み秋はぎのうつりも行くか人の心の」(恋歌五・七八一・雲林院のみこ)の作者、雲林院のみことは、この常康親王なのである。『古今和歌集』恋部において、男性でありながら女の立場で恋の歌を詠み、そこに閨怨詩の影響を見ることのできる歌を詠んだ素性・遍照・常康親王はみな雲林院での文学活動の中心メンバーであった。 素性が雲林院で文芸を学んだのはまだ若いころと想定される。『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌には女の立場で詠まれた歌が多く詠まれており、それが父である遍照と共通するものであること、それらが閨怨詩の影響下にあることを確認し、さらにそれが雲林院での文学活動を通して身に着けた歌の詠み方である可能性について指摘した。『古今和歌集』恋部に収載される九首中四首、閨怨詩の影響を認めて七一四番歌を女の立場で詠んだ歌と認めるのならば五首の歌が女の立場で詠まれた歌であり、こうした素性の歌が撰者から高い評価を得ていたことが明らかになる。 |
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■三 新古の融合
素性法師 音にのみきくの白露夜はおきて昼は思ひにあへず消ぬべし (古今集・恋歌一・四七〇) 右に挙げた四七〇番歌は掛詞や縁語といった修辞を駆使した、『古今和歌集』の特徴的な修辞を盛り込んでおり、『古今和歌集』中でもひと際複雑に修辞が用いられた歌である。まず、「きく」に「菊」と「聞く」、「おき」に「露が置く」と「起きる」、「思ひ」の「ひ」には露を消してしまう「日」、「消ぬ」には「(露が)消える」と「(私が)死ぬ」の意が掛けられている。さらに、この歌は二句目までが序詞で、主想となる第三句以下の中に序詞の一部の縁語もあるという複雑な構造で成り立っている。「噂にだけ聞いて、夜は眠れず起きていて、昼は恋の思いに堪え切れず死んでしまいそうだ」という人事の文脈と、「菊の上に白露が、夜は置いて昼は消えてしまいそうだ」という自然を詠む文脈の二重構造で、自然を詠む文脈が比喩として人事の文脈に作用している。さらに、菊は『万葉集』では詠まれなかった素材であり、和歌の素材として新しかったことが知られる。このように、素性の四七〇番歌は『古今和歌集』の歌風として特徴的な修辞を多用し、菊という新たな素材を用いた、この時代の新しい歌の詠み方を実践していることがわかる。恋部に収載される素性の歌の中でこの他にも掛詞や縁語を多用した歌が見られる。「秋の田のいねてふこともかけなくに何を憂しとか人のかるらむ」(恋歌五・八〇三・素性法師)は、「秋」と「飽き」、「稲」と「往ね」、「架く」と「掛く」、「離る」と「刈る」が掛詞として用いられており、素性は修辞を多用して自然と人事の文脈の二重構造を詠む、新しい表現方法を実践し、長けていたと言えるだろう。 しかし、その一方で、四七〇番歌の表現には『万葉集』に収載される歌と通じる表現が用いられている。田中常正氏は著書『万葉集より古今集へ』において、『古今和歌集』歌人の恋歌の表現を『万葉集』の先行歌を明らかにするという視点で分析され、その中で、素性の四七〇番歌は『万葉集』の複数の歌の表現を組み合わせて構成された歌であると指摘して次の歌を挙げている。 奥山の岩に苔むしかしこくも問ひたまふかも思ひあへなくに (『万葉集』・巻六・九六二) 梅の花散らすあらしの音にのみ聞きし我妹を見らくし良しも (『万葉集』・巻八・一六六〇) 秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは (『万葉集』・巻一〇・二二五四) 夕置きて朝は消ぬる白露の消ぬべき恋も我はするかも (『万葉集』・巻一二・三〇三九) 『万葉集』二二五四番歌は、恋い焦がれていないで秋萩の上に置いた白露のように消えてしまえばよかった、と詠んでおり、植物の上に置いた白露が消えるはかなさをわが身になぞらえて恋の嘆きを詠む点で素性の四七〇番歌に通じる表現であるといえよう。また、二二五四番歌の「夕置きて朝は消ぬる白露」というのも素性の四七〇番歌「きくの白露夜はおきて昼は思ひにあへず消ぬべし」に通じる表現であることが確認できる。 田中氏の挙げられた右の四首には確かにそれぞれ素性の四七〇番歌に通じる表現が用いられており、特に二二五四番歌や三〇三九番歌は素性の四七〇番と密接な関係にあると考えられる。四七〇番歌が『万葉集』九六二番の「思ひあへなくに」や一六六〇番の「音にのみ聞きし我妹」といった表現を直接的に用いているかは疑わしいが、四七〇番歌の表現がこれらの表現を念頭に詠まれたものであるのは確かであろう。四七〇番歌は、『万葉集』の表現を用いつつ、新たな素材である菊や、新たな修辞である掛詞や縁語を駆使して古い歌と新しい歌を融合させた歌であるといえるだろう。 また、素性が女の立場で詠んだ歌として先述した六九一番歌もまた、『万葉集』収載歌と通じる表現を用いている。 今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな (古今集・恋歌四・六九一) この歌の、「長月の有明の月」という表現は『万葉集』の次の二首に用いられている。 白露を玉になしたる長月の有明の月を見れど飽かかぬも (万葉集・巻一〇・二二二九) 九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば我恋ひめやば (万葉集・巻一〇・二三〇〇) 右に挙げた二二二九番歌は、白露を玉のように輝かせる九月の在明の月について詠んでおり、二三〇〇番歌は「長月の在明の月夜」までが第三句目の「あり」を起こす序となっている。このように、「長月の在明の月」という表現は『万葉集』に既に見られる表現であるといえる。また、次に挙げる『万葉集』二六七一番歌は、「今夜の有明の月」と少差はあるものの、やはり素性六九一番歌に通じる表現であるといえよう。 ところで、先にも述べた通り素性の「有明の月」には閨怨詩の素材としての「暁月」の影響を指摘することができる。男の訪れを待つ女が明け方の月を見る、という表現は次に挙げる『万葉集』歌にもいうことができる。 今夜の有明の月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし (万葉集・巻一〇・二六七一) この歌は、『万葉集』二三〇〇番歌と同様に初めの二句が三句目の「あり」を起こす序として用いられているが、「君をおきては待つ人もなし」とあるように男の訪れを待つ女を詠んだ歌であることがわかる。これらのことから、素性の『古今和歌集』六九一番歌は、「長月の在明の月」という表現は『万葉集』以来の表現を受け継いで用いられたものであり、閨怨詩の素材としての「暁月」に通じる有明の月を用いて男の訪れを待つ歌の詠み方も『万葉集』に既に見いだすことができることが明らかになった。 『古今和歌集』恋部に限定せず、素性の詠歌を見渡すと、この他にも『万葉集』に収載される歌を踏まえて詠んだと考えられるものが複数確認できる。しかし、『万葉集』と『古今和歌集』には約一五〇年の隔たりがあり、その間には漢詩が文芸の中心となる時代を挟むこととなる。はたして、『万葉集』は『古今和歌集』の時代の歌人たちに享受されていたといえるのだろうか。川口常孝氏は、「伝説・伝誦歌謡の範囲が、古今集歌人の対古代の知識であり、古今集歌人は『万葉集』を読みこなすことが困難だった」として、『古今和歌集』歌人の『万葉集』の直接的な享受を否定的に論じられた。しかし、研究が進む中でこの認識は大きく異なってきており、北住敏夫氏は「『万葉集』と『古今和歌集』の歌風は著しく異質的なものと考えられがちであるが、『万葉集』の歌が伝誦されていく過程で変化した類歌と、その他に『万葉集』の歌に倣って作られた歌も確認できる」として、『古今和歌集』には伝誦による『万葉集』の類歌の他に、『万葉集』の影響を受けて作られた歌があることを指摘し、田中常正氏は「『万葉集』は『古今集』歌人にとって絶対のものであり、教本であった」として、『万葉集』の歌を中古的な言葉で絵取ることが、古今集歌人の歌構成の全てであったと強く主張している。『万葉集』がどのような状態で、どのくらい享受されていたのかを断定することはできないが、これまで見てきた素性の歌や、貫之などの古今集歌人たちに伝承されていたということは彼らの和歌を見る限り明らかであろう。 |
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■おわりに
ここまで、『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌について、その表現の傾向について考察してきた。素性は年齢的にも歌人としての経験も撰者たちよりも上回っていた。恋部に唯一の屛風歌として収載されるのも、屛風歌の作者としての素性を撰者たちが評価していたと考えられる。『古今和歌集』恋部で目を引く女の立場で恋歌を詠んだ歌は閨怨詩の影響下に詠まれたものだと考えられるが、このような歌が恋部に収載されるのは素性だけでなく、若き日に素性が参加していた雲林院の文学グループの主要人物である常康親王と父・遍照に共通して言えることであった。また、素性の恋歌の中には、新たな修辞である掛詞や縁語を積極的に用いる一方で『万葉集』以来の表現を用いるという、古い歌と新しい歌を融合させた歌が存在する。最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編纂されるにあたり、和歌の文芸的意義が見直されようとする中、古い歌の表現を継承しつつ、新たな歌の詠み方を試みようとした素性の挑戦と言ってよいだろう。 以上のことから、『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌が、一般的な恋歌の褻の要素から一線を画したものであることがわかる。『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌は晴の場で詠まれる屛風歌や虚構であることが明らかな歌、表現の面で新たな試みを実践した歌が収載されている。これらのことが『古今和歌集』撰者によって高く評価され、撰集されるに至ったのだと考えられる。 |
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■22.文屋康秀 (ふんやのやすひで) | |
吹(ふ)くからに 秋(あき)の草木(くさき)の しをるれば
むべ山風(やまかぜ)を 嵐(あらし)といふらむ |
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● 吹くとすぐに秋の草木がしおれるので、なるほど山風を嵐というのだろう。 / 山風が荒々しく吹きおろすと、たちまち秋の草木がしおれてしまう。なるほど荒々しいからそれで「あらし」、また山から吹く風なので文字通り「嵐」というのだろうか。 / 風が吹くやいなや、秋の草木がしおれてしまうなぁ。だから、なるほど。草木をあらす山から吹く風を「嵐」というんだなぁ。 / 山風が吹きおろしてくると、たちまち秋の草や木が萎れてしまうので、きっと山風のことを「嵐(荒らし)」いうのだろう。
○ 吹くからに / 「からに」は、接続助詞で、「〜とすぐに」の意。 ○ 秋の草木の / 前の「の」は、連体修飾格の格助詞で、「(秋)の」の意。後ろの「の」は、主格の格助詞で、「(草木)が」の意。 ○ しをるれば / 「しをる」は、「枝折る」で、草木が枯れてぐったりするさま。「しをるれば」は、「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。「しおれるので」の意。 ○ むべ / 呼応の副詞で「なるほど…」の意。「らむ」にかかる。 ○ 山風を嵐といふらむ / 「山+風=嵐」。「嵐」は、「荒らし」との掛詞。「らむ」は、原因推量で、「(〜ので、…)のだろう」の意。 |
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■ 1
文屋康秀(ふんやのやすひで、生年不詳 - 仁和元年(885年)?)は、平安時代前期の歌人。文琳とも。縫殿助・文屋宗于または大舎人頭・文屋真文の子。子に文屋朝康がいる。官位は正六位上・縫殿助。六歌仙および中古三十六歌仙の一人。 官人としては元慶元年(877年)山城大掾、元慶3年(880年)縫殿助に任官したことが伝わる程度で卑官に終始した。『古今和歌集』仮名序では、「詞はたくみにて、そのさま身におはず、いはば商人のよき衣着たらんがごとし」と評される。勅撰和歌集には『古今和歌集』4首と『後撰和歌集』1首が入集するが、『古今集』の2首は子の朝康の作ともいわれる。小野小町と親密だったといい、三河国に赴任する際に小野小町を誘ったという。それに対し小町は「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」(=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います)と歌を詠んで返事をしたという。のちに『古今著聞集』や『十訓抄』といった説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになった。 ■代表作 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ 春の日の光にあたる我なれど 頭の雪となるぞわびしき |
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■ 2
文屋康秀 ふんやのやすひで 生没年未詳 号:文琳 縫殿助宗于の息子。子の朝康も著名歌人。古今集真名序では「文琳」と称される。なお文屋氏は長皇子の末裔で、康秀は大納言文屋大市の玄孫にあたる(古代豪族系図集覧)。西暦九世紀後半、官人としての事蹟がみられる。『中古三十六歌仙伝』によれば、貞観二年(860)、中判事。元慶元年(877)、山城大掾。元慶三年(879)、縫殿助。仁寿元年(851)、仁明天皇の一周忌に歌を詠む(古今集)。また古今集の別の歌からは二条の后(藤原高子)のもとに出入りしていたことがわかる。また、三河掾として下向する際、小野小町を誘ったことが知られる。寛平五年(893)九月以前開催とされる是貞親王家歌合の作者に名を列ねる。六歌仙の一人で、古今集仮名序では「ことばは巧みにて、そのさま身におはず。いはば、商人(あきびと)のよき衣きたらんがごとし」と紀貫之に批判された。勅撰入集は古今五首、後撰一首の計六首。「吹くからに…」の歌は小倉百人一首に採られている。『新時代不同歌合』歌仙。 二条の后の春宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへに召して、おほせごとあるあひだに、日は照りながら雪のかしらに降りかかりけるを詠ませ給ひける 春の日のひかりにあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき(古今8) (晴がましい春の日の光にあたる私ですが、頭髪が雪を被ったように白くなっているのが遣りきれない気持です。) 是貞のみこの家の歌合のうた(二首) 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしと言ふらむ(古今249) (吹いたはしから秋の草木が萎れてしまうので、なるほど山から吹き下ろす風を「あらし」と言うのだろう。) 草も木も色かはれどもわたつうみの浪の花にぞ秋なかりける(古今250) (秋になると野の草も木も色が変わるけれども、海の波の花は、花と言っても秋に色の変わることはないのであるよ。) 二条の后、春宮の御息所と申しける時に、めどに削り花させりけるを詠ませ給ひける 花の木にあらざらめども咲きにけり古りにしこのみなる時もがな(古今445) (花をつける木ではないでしょうに、花が咲いたことです。古くなってしまった木の実ならぬ我が身も、いつか実のなる時があってほしいものです。) 深草のみかどの御国忌の日よめる 草ふかき霞の谷に影かくしてる日の暮れし今日にやはあらぬ(古今846) (草が深く繁り霞の立ちこめる谷にお姿をお隠しになり、輝く太陽が没するように大君が崩ぜられた今日この日ではございませんか。) 時に遇はずして、身を恨みて籠り侍りけるとき 白雲の来やどる峰の小松原枝しげけれや日のひかり見ぬ(後撰1245) (雲が流れてきて宿る峰の小松原は、枝がたくさん繁っているからだろうか、日の光を見ることがない。) |
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■ 3
清元「文屋」の詞章 ○ 烏帽子〔えぼし〕きた鷹の羽おとしきょろきょろと 小鳥めがけてひとのしに その人柄も康秀が 裳裾〔もすそ〕にじゃれる猫の恋 この部分は置浄瑠璃〔おきじょうるり〕、略して置〔おき〕とも言います。導入部の状況説明で、舞台上の動きがないので、カットされることも多いそうです。文屋康秀を鷹、小野小町を小鳥にたとえ、高嶺の花を狙っている全体の状況を説明しています。「人柄も康秀」というのは、「安っぽい」という掛詞〔かけことば〕です。 ○ 届かぬながら狙い来て 行くをやらじと コレ待った 仇〔あだ〕憎らしいなんじゃいな 御清所〔おきよどころ〕の暗まぎれ 晩にやいのと耳に口 むべ山風〔やまかぜ〕の嵐ほど どっと身にしむ嬉しさも 秋の草木かしおしおと 一人寝よとは男づら 鮑〔あわび〕の貝の片便〔かただよ〕り 情けないではあるまいか 康秀と官女の出〔で=登場〕の部分です。百人一首にも出ている文屋康秀の和歌「吹くからに 秋の草木の しをるれば/むべ山風を 嵐といふらむ」を踏まえています。この部分は、官女が康秀に文句を言っている詩章になっています。「今晩会おうな」と言って期待させておきながら、私を放って、どこに行くつもりよ!という内容です。(御清所とは台所のこと。台所で康秀が官女に「今晩会おう」と耳打ちしたのが昼間、今は夜、という設定ですね。) ○ 寄るを突き退け コリャどうじゃ 鼻の障子〔しょうじ〕へたまさかに ねぶかの香るあだつきは 時候〔じこう〕違いの河豚汁〔ふぐじる〕で 一人ばかりか盛り替えを 強いつけられぬ御馳走〔ごちそう〕は そもそも御辞儀〔おじぎ〕は仕らぬ ここから康秀が1人で詞章に即して踊ります。「想う人には想われず、想わぬ人から想われて」「好きじゃない人であっても、言い寄ってくるなら拒みはしないよ」という内容です。(何じゃそりゃ…。) ○ これを思えば少将〔しょうしょう〕が 九十九夜〔くじゅうくよ〕くよ思いつめ 傘をかたげて丸木橋〔まろきばし〕ゃ おっと危ねえ すでの事 鼻緒〔はなお〕は切れて片足は ちんがちがちがオオ冷〔つめ〕た その通い路〔じ〕も君ゆえに 衣〔ころも〕は泥に暁〔あかつき〕の すごすご帰る憂き思い ならぬながらも我が恋は 末摘花〔すえつむはな〕の名代〔みょうだい〕を 突きつけられて恥かしい 康秀が、深草少将〔ふかくさのしょうしょう〕の百夜通〔ももよがよ〕いを再現してみせます。「百夜通い」というのは、深草少将が小野小町に恋を打ち明けたところ、百夜通って来たらOKと言われて、九十九夜まで通ったものの、あと一夜のところで死んでしまった…という有名な伝説。「ならぬながらも」以降は再び康秀の心理描写です。末摘花〔すえつむはな〕は、『源氏物語』の登場人物で、あんまり美しくない女。やっぱり「想う人には想われず、想わぬ人から想われて」という内容ですね…。 ○ 地下〔じげ〕の女子〔おなご〕の口癖に 田町〔たまち〕は昔〔むかし〕今戸橋〔いまどばし〕 法印〔ほういん〕さんのお守りも 寝かして猪牙〔ちょき〕に柏餅〔かしわもち〕 夢を流して隅田川 男除〔おとこよ〕けならそっちから 逢えばいつもの口車〔くちぐるま〕 乗せる手〔て〕ごとはお断り 逃げんとするを恋知らず 引き留〔と〕むるのを振り払い イヤイヤイヤ ここは吉原の描写だそうです。文屋康秀に吉原の風俗を踊らせてしまったのが江戸の洒落です。法印というのは、占い師みたいなものでしょうか。占い師には流行りすたりがありまして、「昔は田町の法印さんが良かったけれど、今はなんと言っても今戸橋の法印さんよね!」ということでしょう(たぶん)。その流行りの法印さんがくれるお守りがありまして、当然、恋のお守りなんです。遊女が客の男にプレゼントします。「あなただけが好きなの」というしるしのお守り(男除け)なんですけども、もらった男はあんまり信じていないのです。「どうせ口だけなんだろ」って感じです。「猪牙〔ちょき〕」というのは、小型の、スピードが出る船のことです。当時は電車もバスもタクシーもありませんから、吉原まで普通は歩いていくわけですが、涼しく楽に行く(帰る)方法が2つありまして、駕籠〔かご〕か猪牙。人力車はもっとあとの時代のものです(よほど道が整備されていないと乗れませんから)。吉原からの朝帰り、猪牙に乗ると、1枚の布団を2つに折って、はさまって寝るものだったそうで(狭いから)、そのさまが柏餅みたい、っていう描写です。昨夜の夢は川に流してきれいサッパリ。 ○ 逢う恋 待つ恋 忍ぶ恋 駕籠はシテこい 萌黄〔もえぎ〕の蚊帳〔かや〕呼んでこい ここから「恋づくし」になります。「萌黄の蚊帳呼んでこい」っていうのは、昔は食べ物から日用品まで、いろいろなものを家の近くまで売りに来てくれまして、今で言う「いしや〜きいも〜」とか「たけや〜さおだけ〜」みたなのが、他にもたくさんあったんです。「呼び売り」と言います。それで、「もえぎのかや〜」っていう売り声が、特徴のある節がついていて、みんな知ってたんだそうです。「呼び売り」だから「呼んでこい」ってことだと思います。 ○ ぎっちり詰ったやに煙管〔ぎせる〕 えくぼの息の浮くばかり これじゃゆかぬと康秀が富士や浅間の煙はおろか 衛士〔えじ〕の焚〔た〕く火は沢辺〔さわべ〕の蛍 焼くや藻塩〔もしお〕で身を焦がす そうじゃえ ここが康秀の踊りの眼目〔がんもく〕、1番いいところです。官女との「恋づくし」で返事に詰まって、詰まる→やにが詰まった煙管→煙管と言えば煙→富士山と浅間山の煙比べ→煙と言えば炎→衛士の焚く火→点いたり消えたり→蛍→身を焦がす→藻塩…というように、火に関する縁語〔えんご〕で詞章がつながっていきます。ここで事前にぜひ知っておかなければいけない和歌を見ておきましょう。 「御垣守〔みかきもり〕 衛士〔えじ〕のたく火の 夜はもえ/昼はきえつつ 物をこそ思へ」衛士とは宮中の門を守る兵士のこと。衛士の焚く火(宮中の門の火)が夜は燃えて、昼は消えるのと同じように、私の恋ごころは夜になると燃え、昼は魂が消え入るばかりなのです、というような意味。「物をこそ思へ」というのは係り結びです。歌舞伎俳優は係り結びを自由に使えなくてはならない職業ですね。 「来ぬ人を 松帆〔まつほ〕の浦の 夕凪〔ゆうなぎ〕に/焼くや藻塩〔もしお〕の 身もこがれつつ」藻塩とは、塩をとるために焼く海草のこと。まるで焼かれる藻塩みたいに私は恋に焦がれています、というような意味。ちなみに先代勘三郎の前名「もしほ」っていうのは、この「藻塩」からきてるのだと思います(?)。 これは和歌ではありませんが、 「恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす」都々逸かな…。 康秀が蛍を捕まえようとする振りがあるのですが、捕まえようとしているのが蝶々ではなく蛍であることを表現するのが難しいのだそうです。蛍であることをどうやって表すかと言うと、蛍というのは、飛びながら光ったり消えたりするものなので、光っている時だけ目で追う、それで蛍だって分かるんだそうです。その、蛍の「光ったり消えたり」というのが、衛士の焚く火の「夜はもえ昼はきえ」っていうのと同じ。「一部分が同じである」っていうところを蝶番〔ちょうつがい〕にして、全然違うフレーズにポーンと飛んで行ってしまう、そういう詩のテクニックが使われています。日本の音曲には長唄、清元、常磐津、義太夫など様々なジャンルがありますが、長唄、清元なんていうのはわりとストーリー性が薄い。絵にも具象的なのと抽象的なのがあるように、音楽にも抽象的でシュールな詞章があるわけです。連想で、どんどん次の場面へ展開していっちゃうんですね。 ○ 合縁奇縁〔あいえんきえん〕は味なもの 片時〔かたとき〕忘るる暇〔ひま〕もなく 一切〔いっせつ〕からだもやる気になったわいな そうかいな 花に嵐の色〔いろ〕の邪魔 寄るをこなたへ遣戸口〔やりどぐち〕 中殿〔なかどの〕さしてぞ走り行く 「人の縁というものは分からないものだから、俺にも小町を落とせる可能性がないわけじゃない、体がやる気になってきた!」「ああ、そうですか」というような意味。「据え膳なら遠慮せずいただきます」なんて言っていながら、やっぱり小町目指して駆けて行ってしまう康秀なのでした。(中殿には小町がいるはずなのです。) |
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■ 4
文屋康秀の憂鬱 春の日の光にあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき 『古今集』(巻一春上)に、次の詞書きを付けて載せる文屋康秀の歌である。 二条后の、東宮の御息所ときこえける時、正月三日、御前に召しておほせごとある間に、日は照りながら、雪のかしらに降りかかりけるを、よませ給ひける 歌の意味は、春の日差しに当たって温かさを感じるように、御息所の恩恵に浴している私ではありますが、折からの春の雪が頭に降りかかって、白くなっているように白髪を頂くようになってしまいました。頭に降りかかった雪の白さと、徒に年を重ねるだけで、栄達も思うに任せない境遇を歎き、一段の恩寵を願ったものである。 ここで、二条后と呼ばれている人は、藤原高子のことであり、「東宮の御息所」 は、「東宮の母」の意味で使われている。藤原高子は、父は長良(冬継の長子)、母は藤原総継の女乙春であり、基経は同腹の兄である。承和九年(八四二)に誕生、延喜十年(九十〇)に時年六十九歳にて没。貞観八年(八六六)に清和天皇の女御になり、同十年に後に陽成天皇となる皇子(貞明親王)を生む。因みに両者の年齢差は八歳であり、親王生誕の時は、天皇十六歳、高子二十四歳である。貞明親王が東宮に立ったのは、貞観十一年(八六九)であり、御年一歳、同十八年(八七六)、清和天皇の譲位に伴って、九歳で践祚。伯父にあたる藤原基経が摂政となった。しかし、元慶八年(八八四)に退位。在位八年間。 さて、先の歌の詞書にある「東宮の御息所ときこえける時」は、貞明親王の東宮であった期間、貞観十一年から同十八年の間のこととなろう。 この歌の作者文屋康秀は、『古今集』の序に言う、六歌仙のひとりであり、貫之は、 文屋康秀は、ことばたくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人のよき衣着たらんむがごとし。 と評し、「吹くからに〜」と「草深き〜」の二首を例歌として挙げている。二首共に『古今集』所収のものであるが、「吹くからに」の歌は、文屋朝康の歌としてあげられている。(巻五秋上)。 康秀の事蹟については不明の点が多いが、知られているところでは、貞観二年に、刑部中判事、同十九年に、山城大掾に任じられている。小野小町の、 わびぬれば身も浮き草の根もたへて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ は、文屋康秀に「県見にはえ出で立たじや」と誘われた時の返歌である。(『古今集』巻十八雑下)。その時康秀は参河の據であった。『後撰集』にも、卑官にいることを歎いた歌がある。 時にあはずして身を恨みて籠りける時 しら雲のきやどる峰のこ松ばら枝しげけれや日のひかり見ぬ いづれにしても、望みのような官職につくことはなかった。 康秀の逸話は、他にも引用されている。後深草院の女房、弁内侍の書いた『弁内侍日記』の寛元五年一月二十三日の条に、 廿三日、御拝の御供に、大納言殿、中納言内侍殿など参りて、二間の簀子のもとに立ち出で給へるに、余寒の風もなほ冴えたる呉竹に、日は照りながら雪の降りかかりたるを、中納言内侍殿「文屋康秀がいとひけんこそ、思ひよそへらるれ。さすがさほどの年にあらじや」など聞こゆれば、弁内侍、 誰が身にかわきていとはむ春の日の光にあたる花の白雪 余寒の折呉竹に、雪の降りかかっている様子を見て、康秀の歌を想起したのである。その歌を、康秀は年をとってそうかもしれないが、我々は若いし、院の傍に居り、その光にあたっているのだから、有り難く名誉なことである。と、賀の歌に読み替えたものである。又、謡曲『小塩』にも、大原山に花見に行く人の前に、老人(業平の霊)が現れて、 年ふれば齢は老ひぬしかあれど、花をし見れば物思ひもなしと詠みしも、 身の上に、今白雪をいただくまで、光にあたる春の日の、長閑き御代の時なれや。 と詠う。これも先の康秀の歌を意識したもである。 文屋康秀と同種の歎きは、当時の受領階層の人々に共通するものであった。『枕草子』の「除目に司得ぬ人」の個所はよく知られている。十善の位と言われた天皇でさえ、本鑑賞でも触れたように、思うに任せぬものであった。中下の貴族に至っては尚更であろう。官職の高下が出自に由来するところが、大であったので、無力感一入と思われる。一方、白河院や藤原道長のように、万機を専一にした人もいる。当時の常識で言えば、全ては「宿世の縁」の為さしめるところであろう。 |
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■23.大江千里 (おおえのちさと) | |
月見(つきみ)れば ちぢにものこそ 悲(かな)しけれ
わが身一(みひと)つの 秋(あき)にはあらねど |
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● 月を見ると、いろいろと物事が悲しく感じられる。私ひとりの秋ではないのだが。 / 秋の月を見ていると様々なことが悲しく感じられます。私一人を悲しませるために秋が来るというのではないのですが。 / 月を見上げると、さまざまな物思いに心が乱されて、何とも物悲しく感じられるなぁ。なにもわたしひとりだけの秋ではないのだけれど。 / 秋の月を眺めてていると、様々と思い起こされ物悲しいことです。秋はわたしひとりだけにやって来たのではないのですが。
○ 月見れば / 「見れば」は、「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。「月を見ると」の意。 ○ ちぢにものこそ悲しけれ / 「こそ」と「けれ」は、係り結び。「ちぢに」は、「千々に」で、「さまざまに」の意。後の「一」と対照。「もの」は、「物悲しい」の「物」で、この場合は、さまざまな物のこと。「こそ」は、強意の係助詞。「悲しけれ」は、形容詞の已然形で、「こそ」の結び。 ○ わが身一つの / 私一人だけの。本来は、「一人」であるが、「千々」に対応させるため、「一つ」となっている。 ○ 秋にはあらねど / 八音で字余り。「に」は、断定の助動詞。「は」は、強意の係助詞。「あら」は、ラ変動詞「あり」の未然形。「ね」は、打消の助動詞「ず」の已然形。「ど」は、逆接の確定条件を表す接続助詞で、「〜けれども」の意。 |
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■ 1
大江千里(おおえのちさと、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族・歌人。参議・大江音人の子。一説では従四位下・大江玉淵の子。官位は正五位下・式部権大輔。中古三十六歌仙の一人。 大学寮で学び、清和朝にて菅原是善らと『貞観格式』の撰集に参画している。醍醐朝にて中務少丞・兵部少丞・兵部大丞などを務める。この他、家集『句題和歌』の詞書から伊予権守や式部権大輔を歴任していたことが知られる。宇多天皇の頃の歌合に参加、寛平9年(897年)宇多天皇の勅命により家集『句題和歌』(大江千里集)を撰集・献上している。『古今和歌集』の10首を始めとして、以降の勅撰和歌集に25首が入集している。歌は儒家風で『白氏文集』の詩句を和歌によって表現しようとしたところに特徴がある。一方で大学で学んだ儒者であるが、漢詩作品はほとんど残っていない。 ■代表歌 月見れば 千々に物こそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど (小倉百人一首 23番 『古今和歌集』秋上193) |
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■ 2
大江千里 おおえのちさと 生没年未詳 備中守本主の孫(中古歌仙伝)。参議音人(おとんど)の子(少納言玉淵の子ともいう)。弟に千古がいる。大学学生の後、元慶七年(883)備中大掾に任ぜられる。延喜元年(901)、中務少丞。同二年(902)、兵部少丞。同三年(903)、同大丞。学才の誉れ高かったが、官人としては生涯を通じて不遇であった。家集によれば、或る事件に連座して籠居を命ぜられる非運もあったらしい。寛平期の代表的歌人の一人。寛平六年(894)、宇多天皇の勅により家集『句題和歌』(別称『大江千里集』)を献上した。これは『白氏文集』など漢詩の詩句を題とし、和歌に翻案した作を、漢詩集の部立に倣って編集したものである。是貞親王歌合・紀師匠曲水宴和歌・寛平御時后宮歌合などに出詠。古今集に十首採られたのを始め、勅撰入集歌は計二十五首。中古三十六歌仙の一人。 春 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた 鶯の谷よりいづる声なくは春来ることを誰たれか知らまし(古今14) (鶯の谷から出て囀る声がなければ、春が来たことを誰が知ろうか。だから鶯よ、早く谷から出て来て、皆に春を知らせてくれ。) 落尽閑花不見人といへる心を 跡たえてしづけき宿に咲く花の散りはつるまで見る人ぞなき(続千載176) (人の訪れが絶えて閑寂とした宿に咲く花――散り尽くしてしまうまで、見てくれる人もいないよ。) 文集、嘉陵春夜詩、不明不暗朧々月といへることを、よみ侍りける 照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜づきよにしく物ぞなき(新古55) (くっきりと輝くこともなく、かと言ってすっかり雲に覆われてしまうわけでもない春の夜の朧月夜――これに匹敵する月夜なぞありはしない。) 夏 / 余花葉裏稀 ちりまがふ花は木の葉にかくされてまれににほへる色ぞともしき(句題和歌) (散り乱れる桜の花は木の葉に隠されて、ほんのわずか目に映える色に心惹かれることだ。) 秋 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた 植ゑし時花まちどほにありし菊うつろふ秋にあはむとや見し(古今271) (植えた時、いつになったら咲くかと待ち遠しく思った菊よ――あの時には、時がうつろい、花が色を変えてゆく秋に逢おうとまで思いはしなかったよ。) 是貞のみこの家の歌合によめる 月みれば千々に物こそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど(古今193) (月を見ていると、あれやこれや、とめどなく物事が悲しく感じられることよ。これも秋だからだろうか。秋は誰にもやって来るもので、私一人にだけ訪れるわけではないのだけれど。――それでも自分一人ばかりが悲しいような気がしてならないのだ。) 題しらず 露わけし袂ほす間もなきものをなど秋風のまだき吹くらむ(後撰222) (あなたの家から露を分けて帰って来て、濡れた袂を乾す暇もないというのに、早くも秋風――飽き風が吹くのでしょうか。) 暮秋の心を 山さむし秋も暮れぬとつぐるかも槙の葉ごとにおける朝霜(風雅1586) (山は寒々としている。秋も暮れたと告げ知らせるのか、槙の葉はどれも朝霜が置いている。) 恋 / 題しらず ねになきてひちにしかども春雨にぬれにし袖ととはばこたへむ(古今577) (声あげて泣いて、びっしょり濡れたのだけれども、春雨に濡れたのだと、人に問われたら答えよう。) 題しらず 今朝はしもおきけん方も知らざりつ思ひいづるぞ消えてかなしき(古今643) (今朝という今朝は起き出てきた方向も分からなかったよ。日が出ずるように、ゆうべの思い出は思い出すのに、それがはかなく消えて行くのが悲しいのだ。) 雑 / ものへまかり侍りけるに、母の例ならぬと聞きて、帰るとて 秋の日は山の端ちかし暮れぬ間に母に見えなむ歩めあが駒(句題和歌) (秋の日は短いので、すぐ山の端に沈んでしまう。日が暮れてしまわないうちに母に会いたい。歩を進めよ、我が馬よ。) 寛平御時、歌たてまつりけるついでにたてまつりける 葦鶴あしたづのひとりおくれて鳴く声は雲のうへまで聞こえつがなむ(古今998) (葦辺に住む鶴が独り取り残されて鳴く声は、雲の上にまで届かせたいものです。そのように、一人だけ昇進から遅れて泣く私の歌は、大君のお耳にまで達してほしいものです。) |
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■24.菅家 (かんけ) | |
このたびは ぬさも取(と)りあへず 手向山(たむけやま)
紅葉(もみぢ)の錦(にしき) 神(かみ)のまにまに |
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● 今度の旅は、御幣をささげることもできない。とりあえず、手向けに山の紅葉を錦に見立てて御幣の代わりにするので、神の御心のままにお受け取りください。 / このたびの旅は急なお出掛けのため、お供えの幣帛の用意もできていません。とりあえず、この手向山の美しい紅葉の錦を幣帛として神よ、御心のままにお受け取りください。 / 今回の旅では、神さまに捧げる幣(ぬさ)をご用意することができませんでした。この手向山(現在の京都府と奈良県の県境の山)の錦織のように美しい紅葉をどうぞ神さまの御心のままにお受けください。 / 今度の旅は急いで発ちましたので、捧げるぬさを用意することも出来ませんでした。しかし、この手向山の美しい紅葉をぬさとして捧げますので、どうかお心のままにお受け取りください。
○ このたびは / 「たび」は、「度」と「旅」の掛詞。 ○ ぬさもとりあへず / 「ぬさ」は、「幣」で、布や紙で作った神への捧げ物。道中の安全を祈るため用いた。「とりあへず」は、「取りそろえる暇がない」の意。「(紅葉の美しさの前では、)持参した御幣など捧げ物にはならない」とする説もある。 ○ 手向山 / 神に御幣を捧げる山。本来は、普通名詞。奈良県や福岡県には、固有名詞に転じた「手向山」がある。 ○ 紅葉の錦 / 紅葉の美しさを錦に見立てた表現。紅葉の名所である竜田山の竜田姫は、秋の神であり裁縫の神であって、そのことが意識されている。 ○ 神のまにまに / 「まにまに」は、副詞で、「〜するままに任せる」の意で、この場合は、「神の思うままに(お受け取りください)」の意。 |
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■ 1
菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。 道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)18歳で文章生となる。貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。貞観12年(870年)方略試に中の上で合格し、規定により位階を三階を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうことから一階のみ昇叙され正六位上となった。玄蕃助・少内記を経て、貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877年)式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)従五位上。元慶4年(880年)父・菅原是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。仁和2年(886年)讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年)阿衡事件に際して、入京して藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。寛平2年(890年)任地より帰京した。 これまでは家格に応じた官職についていたが、宇多天皇の信任を受けて、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を振るっていた関白・藤原基経亡き後の藤原氏にまだ有力者がいなかったこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。 寛平3年(891年)蔵人頭に補任し、式部少輔と左中弁を兼務。翌年従四位下に叙せられ、寛平5年(893年)年には参議兼式部大輔(まもなく左大弁を兼務)に任ぜられ、公卿に列した。 寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により遣唐使は停止される。なお、延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。寛平7年(895年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言に叙任。またこの間、寛平8年(896年)長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とするなど、皇族との間で姻戚関係の強化も進めている。 宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する一方で道真とも親交があった右大臣の源能有ら大官が相次いで没した後、寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官のトップに並ぶ体制となる。7月に入ると宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。 醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。 昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。しかし、儒家としての家格を超えて大臣に登るという道真の破格の昇進に対して妬む廷臣も多く、翌昌泰3年(900年)には文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたとする説まで諸説ある。 左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。 道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。 ■家系 父は菅原是善、母は伴氏。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。祖父菅原清公と父はともに大学頭・文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している。正室は島田宣来子(島田忠臣の娘)。子は長男・高視や五男・淳茂をはじめ男女多数。子孫もまた学者の家として長く続き、特に高視の子孫は中央貴族として残り、高辻家・唐橋家をはじめ6家の堂上家(半家)を輩出した。高視の曾孫・道真五世の孫が孝標で、その娘菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たる。 |
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■事績・作品
著書には自らの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻(昌泰3年、900年)、大宰府での作品を集めた『菅家後集』(延喜3年、903年頃)、編著に『類聚国史』がある。日本紀略に寛平5年(893年)、宇多天皇に『新撰万葉集』2巻を奉ったとあり、現存する、宇多天皇の和歌とそれを漢詩に翻案したものを対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者と一般にはみなされるが、これを道真の編としない見方もある。私歌集として『菅家御集』などがあるが、後世の偽作を多く含むとも指摘される。『古今和歌集』に2首が採録されるほか、「北野の御歌」として採られているものを含めると35首が勅撰和歌集に入集する。六国史の一つ『日本三代実録』の編者でもあり、左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。左遷された事もあり編纂者から名は外されている。祖父の始めた家塾・菅家廊下を主宰し、人材を育成した。菅家廊下は門人を一門に限らず、その出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともある。菅家廊下の名は清公が書斎に続く細殿を門人の居室としてあてたことに由来する。 ■和歌 此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に(古今和歌集 羇旅歌。この歌は小倉百人一首にも含まれている) 海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ(新古今和歌集 雑歌下。大宰府へ左遷の途上備前国児島郡八浜で詠まれた歌で硯井天満宮が創建された。「海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」) 東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった) 水ひきの白糸延へて織る機は旅の衣に裁ちや重ねん(後撰和歌集巻十九)〈今昔秀歌百撰23選者:松本徹〉 ■漢詩 駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋(駅長驚くことなかれ 時の変わり改まるを 一栄一落 これ春秋。大宰府へ左遷の途上に立ち寄った駅家の駅長の同情に対して答えたもの。) 去年今夜待清涼 秋思詩篇獨斷腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拜餘香(去年の今夜清涼に待し、秋思の詩篇独り斷腸。恩賜の御衣今此こに在り、捧持して毎日余香を拝す。九月十日 太宰府での詠。) |
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■死後
菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。 延喜23年4月20日(923年5月13日)、従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとし、その70年後の正暦4年(993年)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣(こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上にその子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟・忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる)。 清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。火雷神が祀られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。 江戸時代には昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなり、義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。現在でもこの作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。 近代以降は忠臣としての面が強調され、紙幣に肖像が採用された。配所にても天皇を恨みずひたすら謹慎の誠を尽くしたことは、広瀬武夫の漢詩「正気歌」に「或は菅公筑紫の月と為る」と詠まれ、また文部省唱歌にも歌われた。昭和3年(1928年)に講談社が発行した雑誌「キング」に、「恩賜の御衣今此に在り捧持して日毎余香を拝す」のパロディ「坊主のうんこ今此に在り捧持して日毎余香を拝す」が掲載されたところ、不敬であるとの批判が起こり、講談社や伊香保温泉滞在中の講談社社長野間清治の元に暴漢らが押し寄せるという事件も発生している。 ■薨去の地に関する伝承 鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川の菅原神社で菅原道真が死去したとされたとの伝承と共に、道真のものと伝わる墓がある。概要は、身の危険が迫り、筑前から船で水俣湾を経て鹿児島県薩摩川内市湯田町に上陸し、薩摩川内市城上町吉川を経て、同市東郷町の藤川神社で隠棲し薨去たとされる。その経路には、船繋石・御腰掛石などの史跡が残っている。また、吉川では菅原道真を奥座敷に納戸にかくまったことから、年中行事として村人が集まり女子は左右の袖を広げて男子を隠して奥座敷に潜ませる真似をする風習が残っている。 |
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■人物・逸話
■出生 ○ 道真の生誕地については諸説あり、各地に伝わる『天神縁起』によれば、菅生神社境内にある菅生池の菅の中より容顔美麗なる5・6歳の幼児が、忽然と化現し、光を放ちながら飛び去り、是善邸南庭に現れ「私には父母がいないのでそなたを父にしたい」と言ったのが道真だという。 ○ 長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ伊勢神宮外宮神官の度会春彦を通じて豊受大御神に祈願して貰った。そうして生まれたのが道真だという。その縁で、春彦は白太夫として道真の守役となり生涯にわたり仕える事になったという。 ○ 菅原天満宮によれば是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘をたいそう寵愛した。そして生まれたのが道真だという。 ○ 滋賀県余呉町には、道真は菊石姫とともに天女から産まれ、天女が天に帰ってしまい、母恋しさに法華経のような泣き声で泣いていたところ、菅山寺の僧・尊元阿闍梨が引き取り養育し、後に菅原是善の養子となったという天女の羽衣伝説が残されている。 ○ 江戸時代に書かれた『古朽木』によれば、道真は梅の種より生まれたという。 ■人物 ○ 師であり義父である島田忠臣とは生涯に亘って交流があり、忠臣が死去した際に道真は「今後再びあのように詩人の実を備えた人物は現れまい」と嘆き悲しんだという。 ○ 紀長谷雄とは旧知の仲で、試験を受ける際に道真に勉学を師事したとされる。また、道真は死の直前に大宰府での詩をまとめた「菅家後集」を長谷雄に贈ったという。 ○ “平安朝きっての秀才”ということで今日では学問の神様だが、当時は普通の貴族であり、妾も沢山おり、遊女遊びもしている。とりわけ、在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承もある。 ○ 天台宗の僧相応和尚とも親交があり、大宰府に向う際に淀川にて、自ら彫ったという小像と鏡一面を渡し、後のことを和尚に託したという。道真薨去後、和尚は小像・鏡を郷里の長浜市にある来生寺、その隣の北野社にそれぞれ祀ったという。 ○ 子はおよそ23人に上り、長男高視が産まれる以前の、文章得業生の頃には既に子があったという。 ○ 13世天台座主法性坊尊意に教学を師事したとされる。 ○ 道真は政治の合間に和歌を吟詠しては、その草稿を「瑠璃壺」に納めていたという。左遷の時、その壺を携えて筑紫に下り、見るもの聞くものにつけて感じるままに和歌を詠み、百首を新たに壺に納め、道真が逝去後、壺は白太夫の手に渡ったという。 ○ また、別の伝承では、道真が大宰府へ赴いたとき、宇佐のほとりで、龍女が現れ「瑠璃壺」を承ったという。 ○ 藤原滋実と親交があり、滋実の逝去のさい、誄歌「哭奥州藤使君」を送っている。 ○ また、藤原忠平は、兄藤原時平とは違い、道真と親交があったとされる。 ■平安京 ○ 『菅家瑞応録』によれば、9歳で善光寺に参拝したおり、問答に才を顕し、10歳の時には、内裏での福引の御遊に集まった公卿たちに忠言したという。 ○ 17歳で清水寺に参拝したさい、田口春音という捨子を拾い養育したという。春音は大宰府まで同行し、道真逝去後は出家し、道真の菩提を弔ったという。 ○ 応天門の変では、伴大納言が犯人とされたが、道真は、伴善男の家来、大宅鷹取の仕業だと見抜いたという。 ○ 元慶8年(884年)、道真が40歳の頃に叔母である覚寿尼のいる道明寺に4〜7月まで滞在した。その時、夏水井の水を汲み青白磁円硯で、五部の大乗経の書写をしていた。すると、二人の天童が現れ、浄水を汲んで注ぎ写経の業を守護し、白山権現、稲荷明神が現れ、筆の水を運び、天照大神、八幡神、春日大明神が現れ、大乗経を埋納する地を示したという。そこに埋納すると「もくげんじゅ」という不思議な木が生えてきたという。 ■讃岐 ○ 仁和4年(888年)讃岐の国で大旱魃が起こり、讃岐守に就いていた道真がこれを憂い、城山で身を清め七日七晩祭文を読上げたところ、見事雨に恵まれたという。それを、民衆が喜び踊り狂ったものが滝宮の念仏踊の起源とされている。 ○ 道真が讃岐守に就いていた頃、側に仕えていたお藤という女性と恋仲になり、愛妾にしたという。 ○ また、極楽寺の明印法師という僧と親交を深めたとされ、極楽寺の由緒を話したり、道真から寄付をうけたり、詩文を贈答されたり、道真が一時帰京した際には、わざわざ京まで逢いにいったという。 ○ おとぎ話『桃太郎』は、道真が讃岐守に就いていた時分に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げ、それを各地に伝えた、という伝説が女木島に伝わっている。 ○ また、『竹取物語』の作者が道真ではないかという説もある。 ○ 寛平2年(890年)の頃、與喜山で仕事をしていた樵夫の小屋に、何者かが「これを祀れ」と木像を投げこんだという。樵夫はその頃、長谷寺に道真が参詣に来ていたので、「木像は道真公の御作ではないか」と思い、大切に祀ったという。その像が與喜天満神社に現存する木造神像として伝えられている。 ○ 寛平7年(895年)に法華経や金光明経を手写し伊香具神社へ納経したという。 ○ 寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。 ○ 昌泰元年(898年)10月17日、夢に祖父清公が現れ補陀落に行きたいと懇願されたので、道真は長谷寺で忌日法要したという。 ■左遷 ○ 大宰府へ左遷の道中には、監視として左衛門少尉善友と朝臣益友、左右の兵衛の兵各一名がつけられた。また、官符に道真は“藤原吉野の例に倣い「員外帥」待遇にせよ”と明記され、道中の諸国では馬や食が給付されず、官吏の赴任としての待遇は与えられなかった。 ○ 大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという伝説にちなんだ地名である。 ○ 出水市壮の菅原神社に関する伝承として、ジョウス(城須)という老夫婦が道真に三杯の茶を振舞い、そのため道真が追手から逃れることができたという。 ○ 道真は、信州の 松原湖に逃げて来たことがあったという。ここで家臣が連れていた鶏が鳴き出し、里人に発見されてしまった。この家臣の家では代々鶏を飼ってはいけないという。 ○ 延喜元年(901年)、道真がとりわけ愛でてきた梅の木が一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという飛梅伝説がある。 ○ 901年道真が筑後川で暗殺されそうになった際、「三千坊」という河童の大将が彼を救おうとして手を斬り落とされ落命した、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした三千坊の手を道真が斬り落とした、という伝承が福岡県の北野天満宮に、河童の手のミイラとともに残されている。 ○ また、大宰府左遷のおり道真は兵主部という妖怪を助け、その返礼として「我々兵主部は道真の一族には害を与えない」という約束をかわした、という伝説も伝わっている。 ○ 道真の側室は臨月であったが、道真との別れを惜しみ後を追ったという。しかし、途中で産気を催したため、人家に立ち寄ろうとしたものの、間に合わず輿中で大量に出血しながら産んだという。その時、道が真赤に染まった為、「赤大路」の地名由来となった。その後、近くの民家で介抱したものの、産後の経過が悪く亡くなったという。 ○ また、道真の息子福部童子は、父の後を追って大宰府へ向かったが、山口で病気になり亡くなったという。 ○ 道真の正室島田宣来子(または側室)が、岩手県下関市に落ち延びたという落人伝説がある。 ■大宰府 ○ 大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。 ○ 梅ヶ枝餅は道真が大宰府へ員外師として左遷され悄然としていた時に、老婆が道真に餅を供しその餅が道真の好物になった、或いは道真が左遷直後軟禁状態で食事もままならなかったおり、老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承が由来とされる。 ○ その昔、葦の生い茂るある沼周辺で大鯰が顔を出して通行人の邪魔をしていた。道真は、これを太刀で頭、胴、尾と三つに斬り退治したという。その遺体がそれぞれ鯰石となり、後に雨を降らす雨乞いの石として地元の人々に大切にされたという。 ○ 延喜2年(902年)正月7日に道真自ら悪魔祓いの神事をしたところ、無数の蜂が参拝者を次々と襲う事件がおきた。そのとき鷽鳥が飛来して蜂を食いつくし、人々の危難を救ったのが鷽替え神事の由来とされる。 ○ 晩年、道真は無実を天に訴えるため、身の潔白を祭文に書き、七日七夜天拝山山頂の岩の上で爪立って、祭文を読上げ天に祈り続けた。すると、祭文は空高く舞上り、帝釈天を過ぎ梵天まで達し、天から『天満大自在天神』と書かれた尊号がとどいたという。 |
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菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯 「菅原道真」といえば「学問の神様」で有名だ。 菅原道真公をお祀りしている神社は全国にあり、「天満宮」あるいは「天神」と呼ばれて、京都の北野天満宮と大宰府天満宮が全国の天満宮の総本社とされている。下の画像は北野天満宮の本殿だ。 どれだけ「天満宮」が全国にあるかというと、1万社を超えるという説もあるようだが、別の記事では3,953社なのだそうだ。 「天満宮」では牛の像をよく見かけるのだが、これは「菅原道真公が丑年の生まれである」、「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの説があり、どこまでが真実なのかは今となっては良くわからないそうだ。しかし、なぜこれだけ多くの神社で菅原道真が祀られることになったのかについて興味を覚えたので、菅原道真について調べてみた。菅原道真は代々続く学者の家に生まれ、11歳にして詩を詠むなど幼少の頃からその才能を発揮し、30歳にして貴族の入口である従五位下に叙せられ、33歳では最高位の教授職である文章博士(もんじょうはかせ)に昇進している。しかしながら学者同士の対立もあり、道真のスピード出世を良く思わない者も少なくなかったようだ。後ろ盾ともいうべき父親を失ったのち、仁和2年(886)から道真は4年間地方官である讃岐守(今の香川県)に任命されて都を離れることになる。しかしその後に道真に転機が訪れる。 ■ 当時は藤原氏が政治の実権を掌握していたが、それを快く思わなかった宇多天皇<上画像>は律令政治に精通する道真に目をつけ、道真は天皇に請われて帰京し、寛平3年(891)に蔵人頭(くろうどのとう)に就任する。蔵人頭とは勅旨や上奏を伝達する役目を受け持つなど天皇の秘書的役割を果たす要職である。道真は、寛平5年(893)には参議に列せられ翌年には遣唐使の廃止を提言するなど、宇多天皇のもとで政治手腕を存分に発揮し、その後中納言、大納言と順調に出世していく。寛平9年(897)に醍醐天皇が即位し、父親の宇多天皇は上皇となった。関白・藤原基経の子の藤原時平が左大臣に就任し、道真は宇多上皇の意向で右大臣に抜擢された。事実上朝廷のNo.2への昇格であった。藤原時平は道真の出世を快く思っていなかったし、醍醐天皇も宇多上皇の影響力の排除を考えていた。宇多上皇は藤原氏の血を引いていなかったが、醍醐天皇の母親は傍流ではあるが藤原氏であったこともポイントである。醍醐天皇は昌泰4年(901)、時平の「道真が謀反を企てている」との讒言を聞き入れて、父の宇多上皇に相談もせず、菅原道真を太宰権帥(だざいごんのそち)として北九州に左遷してしまった。 道真は京都を去る時に 「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」 と詠んだ歌を残している。 菅原道真は北九州に左遷された二年後の延喜三年(903)に大宰府で死去し同地(現大宰府天満宮)で葬られたのだが、その後、京で異変が相次いで起こっている。まず、延喜9年(909)に道真の政敵であった藤原時平が39歳の若さで病死し、延喜13年(1573)には道真の後任の右大臣源光が死去。延喜23年(923)には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)が、次いで延長3年(925)その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が相次いで病死。極めつけは延長8年(930)朝議中の清涼殿が落雷を受け、道真の左遷に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出た清涼殿落雷事件が起こっている。この落雷がショックで醍醐天皇は病に倒れ、皇太子寛明親王(ゆたあきらしんのう:後の朱雀天皇)に譲位されて1週間後に崩御されてしまう。 道真の左遷に関係のある人々が死んだだけではなく、「扶桑略記」という書物には自然災害も京都で頻繁に起こっていることが書かれているそうだ。延喜10年(910)洪水、延喜11年(911)洪水で多くの町屋が破損、延喜12年(912)洛中で大火、延喜13年(913)は大風で多くの町屋が倒壊、延喜14年(914)洛中で大火、延喜15年(915)水疱瘡が大流行、延喜17年(917)渇水になる、延喜18年(918)洪水が起こる、延喜22年(922)咳病が大流行、と次から次にいやなことが起こる。 朝廷はこれらはすべて菅原道真の祟りだと考えたが、確かにこれほどいやなことが続くと、誰でも自然にそう信じてしまうのではないか。一度そう信じてしまうと、祟りがますます怖くなって、心身ともに衰弱してしまうことも理解できる話だ。上の図は国宝の「北野天神縁起絵巻」の一部で、清涼殿に雷が落ちた絵が描かれている。道真はずっと以前に死んだにもかかわらず、延喜23年(923)には道真を従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈られたのを初めとして、正暦4年(993)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣となり、火雷天神が祭られていた京都の北野には、道真の祟りを鎮めようと北野天満宮が建立されたという。 以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられ、道真を「天神様」として信仰する「天神信仰」が全国に広まっていったのだそうだ。今では災害の記憶が風化してしまい、今では天満宮は学問の神様から受験の神様として厚く信仰されている。 |
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■3
菅原道真の左遷 |
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道真「出世」に見る嫉妬・政争・陰謀、平安貴族の“伏魔殿”
「学問の神様」「天神さん」として親しまれている平安時代前期の貴族、菅原道真。最難関の公務員登用試験に通ると優れた行政処理能力を見せて、天皇の側近としてのし上がる。その勢いは政治の中枢を握っていた摂関家・藤原氏と肩を並べるほどで、そうなると面白くないのは、当時の若き権力者、藤原時平。過去数十年にわたり数々の陰謀を凝らしてライバルを追い落としてきた藤原氏の魔の手が、今度は道真へと迫ってきた。 ■キャリア官僚と御曹司 菅原道真は国家官僚を養成する大学寮で漢文学や中国史を教える文章博士の家に生まれた。出生地は奈良とも京都ともいわれ、奈良市菅原町周辺や菅大臣神社(京都市下京区)、菅原院天満宮(同上京区)が候補地にあがっている。 幼い頃から詩歌などに才能をみせた道真は18歳で大学寮に入ると中国史や漢文学を専攻し、5年後には最高ランクの官吏登用試験が受けられる文章得業(もんじょうとくごう)生(2人)に選ばれ、26歳で3年に1人ほどしか合格しないといわれる最難関試験「方略試(ほうりゃくし)」を突破する。 このように天才の名をほしいままにした道真は、官僚に採用されるとトントン拍子で出世街道をひた走っていく。 官僚の仕事とともに、父と同様、家の職でもある文章博士を兼ねるも、仁和2(886)年、讃岐(香川県)の現在の知事に相当する讃岐守(かみ)に任じられると文章博士を辞職し、現地に赴任する。 ちょうどこの年、のちに壮絶な政争を繰り広げることになる藤原時平が10代半ばで元服し、正五位下を授けられている。 このとき40代前半の道真の官位は従五位上。かなり経験を積んだキャリア官僚だが、25歳ほど年下でつい最近、政界に出てきたばかりの御曹司より官位がひと階級低い。 それだけ、当時の藤原氏の扱いが破格だったということになるだろう。 ■阿衡(あこう)事件 道真が讃岐の国司に赴任中の仁和3(887)年、宮廷ではある事件が持ち上がる。 清和、陽成、光孝と3代の天皇のもとで実権をふるった時平の父・基経が宇多(うだ)天皇の即位に際し、関白に任命する辞令を受ける。この場合、一度は辞退するのが慣例だったため、基経は辞退したあとで天皇が再び辞令を出した。 ところが、その辞令の中に「阿衡の任をもって」というくだりがあり、それに基経が難癖(なんくせ)をつけてきたのだ。阿衡は中国にあった官職。日本では摂政や関白に相当するが、「阿衡には職務がない」とした基経は突然、仕事を放棄してしまった。 宇多天皇は阿衡の解釈をめぐって学者に研究を命じたものの、なかなか結論が出ないため、国政はいよいよ停滞。この結果、半年後に天皇側が非を認め、「阿衡」を引用した橘広相(たちばなのひろみ)を失脚させてしまう。 それでも収まりのつかない基経は広相の島流しを要求すると、ここで、「これ以上やると藤原氏のためにならない」と、讃岐の地から基経を諫めたのが道真だった。 実はこのとき、広相の娘・義子(よしこ)と天皇の間には皇子がいて、この皇子が天皇になり、橘氏が強大な権力を握ることを恐れた基経が仕組んだ陰謀ともいわれている。 以降、この処分を悔やんだ天皇は藤原氏の排除を考える。そしてとった手段というのが、道真を中央政界へ呼び戻すことだった。 ■相譲らず 仁和6(890)年、道真が中央政界に復帰すると、翌年にはこれまで国政を牛耳ってきた藤原基経が亡くなり、朝廷は一大転機を迎える。 代わり藤原氏の氏長者となった時平は20歳そこそこと若いため、宇多天皇は道真を天皇の秘書室長ともいうべき蔵人頭(くろうどのとう)に任命するなど積極的に登用する。 さらに、皇太子に藤原氏と血縁関係のない敦仁親王(のちの醍醐天皇)を据えると、道真の長女・衍子(えんし)を天皇付きの女官とし、寛平9(897)年には三女・寧子(ねいし)を天皇の皇子・斉世(ときよ)親王の妃とするなど藤原氏の排除に向けて天皇の策は着々と進む。 その年、宇多天皇は敦仁親王に譲位するが、天皇の藤原憎しの執念は衰えることなく、政治に精通した時平とともに学識豊かな道真の登用を提言している。 その後は2人とも相譲らず。時平が大納言となれば道真が権大納言。これは相撲の大関に対する張り出し大関のようなもので、時平が左大臣となれば道真は右大臣となり、ついに従二位で肩を並べてしまう。 このように時平と権力闘争する学者畑の道真を分不相応とみたのか。同世代の学者、三善清行(きよゆき)が書簡で道真に引退を勧める。 清行が官吏登用試験で当時の試験官、道真に落とされたことから2人の間に確執があったとされる。そのため道真は無視してしまうのだが、この直後、奇しくも清行の予感が当たってしまう。 |
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陰謀で大宰府に左遷され「非業の死」…宮中で相次ぐ不審死に道真の「怨霊」説浮上
政治の主導権をかけてキャリア官僚、菅原道真と摂関家の御曹司、藤原時平との戦いがし烈さを増す平安宮廷内でもうひとつの争いが表面化してきた。醍醐天皇と父・宇多(うだ)上皇との確執である。当初は上皇のなすがままだった天皇も上皇や道真の中央集権的なやり方に不満を持つ。そんな親子の心の隙間を政治巧者の時平が見逃すはずがない。ついに道真左遷計画は実行される。 ■中央集権と地方分権 今なら中学校に入学したばかりの年齢で皇位に就いた醍醐天皇である。政治的判断を求められてもそれは無理というもの。そこで父の上皇が後見人として発言力を持ち続けたことは間違いない。 阿衡(あこう)事件以来、大の“フジワラ嫌い”の上皇のお気に入りといえば、菅原道真である。事あるごとにお互い相談を持ちかけるほどの信頼ぶりで、藤原外しを狙って、2人は政治権力を天皇に集中させるための制度づくりを急いでいた。 だが、中央集権による行財政改革が進むと、地方役所で職を失う役人も数多く出る。学者肌の道真の政治手法は情に欠けていたともいわれ、多くの貴族らの反発を買った。 一方、道真の政敵、時平は政治家としては一流でも叔父の妻を略奪するなどの素行の悪さで周囲の人気も今ひとつだったが、この機に乗じて反対派の中で圧倒的な存在感をみせたことだろう。 常日頃から藤原氏との連携と政治の安定を望んだという天皇も父・上皇に反対したとされる。これは、病弱な天皇が時平の口車に乗ったとの説もあるが、天皇との確執が決定的となり、ますます孤立化することになった上皇と道真。 そんなとき、蔵人頭(くろうどのとう)の藤原菅根(すがね)から「上皇が斉世(ときよ)親王を皇太子に立てようとする噂がまことしやかに流れている」とした報告が時平に入る。親王は上皇の第3皇子で天皇の弟であり、道真の娘婿(むすめむこ)でもある。 ■大宰権帥に降格 斉世親王の立太子計画を報告した藤原菅根は藤原南家の出身。奈良時代に分かれた藤原四家のうち隆盛を築いていたのは時平の藤原北家。その勢いに押されて南家も衰退するが、菅根はのちに延喜式の編集に加わるなど学者として活路を見いだしていく。 当初は道真の覚えもめでたく昇進を果たしているのに加え、藤原氏同士の権力争いの中、本来なら時平とは一線を画してもよいのだろうが、ここは道真を完全に裏切り、時平との協調態勢に入っている。 理由については諸説あるが、ある庚申(こうしん)の日に催された宮中の宴席で、菅根は大勢の面前で道真に頬をたたかれたというハプニングがあり、これを根に持っての行動ともいわれている。 ここで、時平は同じ反対派の大納言、源光(みなもとのひかる)とともに醍醐天皇に「道真が皇室の後継問題で陰謀を企てている」と報告。これを信じた天皇は昌泰4(901)年1月25日、道真に大宰権帥(だざいごんのそち)への赴任を命じる。 九州ではナンバー2で九州全域の兵力を支配下に置いたといえば聞こえはいいが、従三位相当である。時平と肩を並べる従二位に昇進したばかりの道真からすればわずか18日後の降格であり、左遷である。 ■東風吹かば… 道真の左遷を聞いた宇多上皇は処分を取り消させるため醍醐天皇のいる内裏に赴くが、天皇は会おうとはせず、門前で阻止したのがあの藤原菅根だった。これで万事休す。 低い身分の家に生まれた道真が勢いに乗って暴走気味のところを、時平に足をすくわれたかたちだ。一瞬にして消えたわが世の春。 東風(こち)吹かば、匂いおこせよ梅の花、主無しとて、春を忘るな 「春になったら花を咲かせて、風に乗って香りを届けてほしい…」。大宰府に赴く直前、自宅・紅梅殿の梅を見て、もう都へは戻ってくることはないことを悟った心境を読んだこの句はあまりにも有名だ。 そして、これから2年後の延喜3(903)年2月25日、道真が失意のまま任地で亡くなると、現在の太宰府天満宮の建つ地に葬られたという。 ■ 事件後、道真の“陰謀”を時平とともに醍醐天皇に報告した大納言・源光は道真の後釜として右大臣に昇進していることから、時平との裏取引疑惑はぬぐえない。 そんな中、時平が延喜9年に39歳で病死すると、源光もその4年後、鷹狩りの最中に、塹壕(ざんごう)の泥沼に転落するも遺体はあがらなかったという。 道真追放の主犯2人の相次ぐ不審死。ここで沸き上がってきたのは道真の怨霊の伝説だった。ついに、道真の怨霊と平安貴族との目に見えない戦いが始まった。 |
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突然死・落雷・疫病、恐るべし道真の「祟り」で京は大混乱…「学問の神・天神さん」信仰は恐怖の裏返し
平安貴族の名門・藤原家との政争に敗れた菅原道真は九州・大宰府(だざいふ)に左遷されると、失意のうちに亡くなる。ここまでなら単なる悲劇だが、これから不可解な出来事が続発する。道真の左遷にかかわった人物の相次ぐ死、日照りによる作物の不作、流行病など次々と降りかかる天災に京の都は大混乱。ここに道真の祟(たた)りの仕業とする怨霊伝説へと発展していく。 ■相次ぐ変死事件 延喜3(903)年の道真の死後、政敵・藤原時平は妹の穏子(おんし)を醍醐(だいご)天皇の中宮とするために入内させて天皇との関係回復に努めたほか、政治への意欲をみせていた。 ところが、道真の死から3年後、「道真に不穏な動きがある」と当時、皇室の秘書室長ともいわれる蔵人頭(くろうどのとう)だった藤原菅根(すがね)とともに朝廷に報告し、道真の後任として右近衛大将に就任した藤原定国が謎の死を遂げる。 すると今度は、それから2年後の10月7日、菅根までもが雷に打たれて亡くなるという不気味な死が相次いだ。そして翌年の延喜9(909)年に起きた時平の突然死が追い打ちをかける。 このころ疫病が蔓延(まんえん)した都。天竺の妙薬も効きめなく病床に伏せていた時平のために天台宗の僧、浄蔵に加持祈祷をさせようとした文書博士、三善清行の前に道真は龍となって現れたといわれる。その怨念はいかばかりか。 これ以降、宮廷の中で道真の怨霊の噂がとりざたされると、時平の死から4年後、時平派で道真の後任として従二位に就いた源光(みなもとのひかる)もタカ狩りの最中、泥沼に落ちたまま行方不明になる事故が発生する。 次々と消えていく時平派の貴族ら。都では、さらに報復の度合いを増していく道真の見えない怨念に震えあがることになる。 ■悩ませる怨霊 道真が亡くなって間もない頃。度重なる雷などに不安を募らせる醍醐天皇の依頼で祈祷(きとう)を行うため、宮中に向かう延暦寺の法性坊尊意は突然、目の前であふれ出した鴨川の中から道真の霊を目撃する。 尊意と道真とは旧知の間柄で、尊意が数珠を手に持つと水がわかれ、そこから出てきた岩(登天石)の上に立っていたという。霊はすぐに消えたが、これが報復宣言ともいえ、以来、相次いだ不可解現象はついに皇室まで及んだ。 延喜23(923)年、醍醐天皇の皇太子、保明(やすあきら)親王が亡くなると、道真の怨霊を鎮めるため、道真の霊に左遷前就いていた右大臣に復帰させるとともに正二位を贈る。だが、これではもの足りなかったのか、続いて皇太子となった慶頼(よしより)王も2年後に死亡する。 そして極めつけが延長8(930)年6月26日に発生した清涼殿落雷事件。この日、清涼殿ではこの年起きた干魃(かんばつ)の対策会議を開いている最中だった。 昼過ぎ、墨を流したような真っ黒な雲に覆われた京で激しい雨とともに雷鳴がとどろき渡った。そして1時間半ほど過ぎたころ、一瞬の閃光(せんこう)と轟音(ごうおん)とともに清涼殿に雷が落ちたのだ。 火災とともに崩れ落ちる清涼殿。さらに雷は紫宸殿にも落ち、宮廷内は逃げ惑う公家、女官らで大混乱となったが、これで雷が胸に直撃した大納言・藤原清貫(きよつら)が即死するなど数人の死傷が報告されている。 また、このとき難を逃れた醍醐天皇も、事件のショックで3カ月後、ついに崩御してしまう。 実は雷の直撃で死亡した清貫は、時平の命で「見舞い」と称して大宰府の道真を訪ね、帰朝後、時平につぶさに動静を報告した時平派の人物だった。 恐るべし、道真の怨霊。 ■天神さん登場 時平の死後の藤原摂関家は、時平の弟ながら道真に左遷後も励ましの手紙を送るなど、道真と親交のあった藤原忠平は無事だったのに対し、承平6(936)年、道真の怨霊におびえきっていた時平の長男、保忠はものの怪(け)にとりつかれたように亡くなる。 そんな中、天慶5(942)年、右京七条二坊に住んでいた道真の乳母とされる多治比文子(たじひのあやこ)の枕元に道真が立ち、「北野の地にまつってくれれば報復の心も安らぐことでしょう」と告げて消えたという言い伝えが残る。 もともと北野の地に火雷天神(からいてんじん)が地主神としてまつられていたため、清涼殿の落雷以後、都人から“雷神”として恐れられた道真への信仰と結びつき、このような伝説を生んだとも思われる。 こうして、お告げから5年後の天暦元(947)年に北野の地に朝廷が社殿を造営し、道真をまつったのが北野天満宮の始まりとされる。 また道真が亡くなった大宰府の墓所の地には安楽寺天満宮(のちの太宰府天満宮)が建てられ、ようやく平静を取り戻した京の都だった。 その後も怨霊として恐れられた道真だが、200年ほどたつと慈悲の神に。さらに歌人、学者としての面がクローズアップされた江戸時代ごろから、学問の神として信仰されるようになったという。 |
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■ 4
菅原道真と梅の花 菅原氏となってからこの一族からは学問にすぐれた人がつづいて出ました。 中でも有名なのは菅原道真です。道真は大変な努力をして広く学問をおさめ、学者として世の中の人々から高い尊敬をうけるようになりました。 当時の日本はすべての学問や技術を中国大陸から学んできましたが、これは630年から続けてきた遣唐使(けんとうし)つまり唐の国への留学生が学んで帰ってきた知識が中心でした。留学生の中には最澄(さいちょう)、空海(くうかい)円仁(えんにん)のような立派な僧や学者が多く、日本の分化発展に大きな役割を果たしたのです。 しかし当時は往復の航海でたびたび船が嵐で沈みましたし、この時代になると唐の国力も衰えましたので、道真は遣唐使をやめることを天皇に申し上げその通りとなりました。 道真はその後右大臣(うだいじん)という高い位に登りましたが、その人気をねたんだ左大臣(さだいじん)の藤原時平(ふじわらときひら)のたくらみで、とうとう901年に北九州の大宰府(だざいふ)の、今までより低い位の役人を命ぜられ都を去らなければならなくなりました。 九州へ向かって出発するときは、家の庭に梅の花が香り高く咲いていました。この梅に向かって読んだ道真の歌は有名です。 こち吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな このうたの意味は、春になり東風(こち)が吹くようになったら、主人がいなくても春を忘れないで匂い床しく花を咲かせよ、というもので梅をこよなく愛した道真のやさしい心がこめられています。 この頃、道真には善智麿(ぜんちまろ)という名の赤ちゃんがありました。この子や奥様を都に残して遠い九州へ旅立っていったのです。 大宰府での生活はみじめで「かつて宮中(きゅうちゅう)で天皇からくださった衣服をおしいただいて当時をしのんでいます。」というような漢詩(かんし)を作ったりしたこともあります。気候風土が変わったためか体の調子をこわし、都の奥様から送られた薬もはかばかしく効かず、とうとう903年2月に59才でなくなってしまいました。 その後、都ではふしぎなことに雷が落ちて火災がしきりに起こったり、ほうそうという伝染病がはやったり、よくないことがつづいたので、人々は道真の霊がこのようなたたりをしているのではないかといっておそれました。 そして道真を天神(雷の神)としてこわがったので朝廷もすてておけず、923年には道真に対し右大臣に戻し、正二位(しょうにい)の位を贈って霊を慰(なぐさ)めました。 このようないきさつがあって、道真の菅原一族の人たちは、就職や出世も思うようではありませんでしたが、道真の名誉が回復されると、もともと秀才が多いこの一族からは次々に位の高い役人になる人が出てきました。 道真の三男の景行(かげつら)は常陸介(ひたちのすけ)という長官になって 茨城県に来ましたが、その時道真の遺骨を持ってきて真壁町(まかべまち)の羽鳥(はとり)というところに神社を建てておまつりしました。これが天満天神宮として日本で最初の神社です。 特にめだつのは、一族の中から上総国(かずさのくに)、下総国(しもうさのくに)、安房国(あわのくに)の長官になった人が9人にものぼることです。子の人たちはつぎつぎに都から下ってきては2年ほどで都へ戻るということをくりかえしていました。 これらの人の中には菅原孝標(たかすえ)があり、そのむすめは上総国にいる間に源氏物語を読んでは都を恋しがっていましたが、いよいよ都へ帰ることになってから都に着くまでの日記をつづりました。これが有名な更級日記(さらしなにっき)です。 道真は梅をこよなく愛した人でしたから、道真の子孫である長南家(ちょうなんけ)は梅を家紋としました。今でも梅鉢(うめばち)を家紋とする長南家が多いのはそのためです。そして梅は小枝であっても火にくべるなとか、核(かく)を割って食べてはいけないとか、いろいろ梅にちなんだしきたりやタブーがあることは、皆さんよくご存知でしょう。 |
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■25.三条右大臣 (さんじょうのうだいじん) | |
名(な)にし負(お)はば 逢坂山(あふさかやま)の さねかずら
人(ひと)に知(し)られで 来(く)るよしもがな |
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● 逢坂山のさねかずらが逢って寝るという名を持っているのであれば、さねかずらが蔓を手繰れば来るように、誰にも知られずにあなたを手繰り寄せる方法がほしいものだなあ。 / 逢坂山のさねかずらが、あなたに逢って寝るという意味を暗示しているなら、そのさねかずらの蔓をくるくる手繰るように他人に知られず、あなたのもとへ来る方法がないものか。 / 「逢う」という言葉をその名に持っている逢坂山に生えているサネカズラよ。サネカズラの蔓(つる)を手繰るように、人に知られずに、あなたがわたしのところへ来る方法はないものかなぁ。 / 「逢う」という名の逢坂山、「さ寝」という名のさねかずらが、その名に違わぬのであれば、逢坂山のさねかずらを手繰り寄せるように、あなたのもとにいく方法を知りたいものです。
○ 名にしおはば / 「名におふ」は、「名に負ふ」で、「〜という名を持つ」の意。「し」は、強意の副助詞。「おはば」は、「動詞の未然形+接続助詞“ば”」で順接の仮定条件。「名にしおはば」で、「まさに〜という名を持っているならば」の意。 ○ 逢坂山 / 歌枕。山城(京都府)と近江(滋賀県)の境にある山。「男女が共に寝る」という意の「逢ふ」との掛詞。 ○ さねかづら / モクレン科の蔓草。「共寝(さね)」との掛詞。「逢ふ」の縁語。 ○ 人にしられで / 「人」は、他人。「で」は、打消の接続助詞。「人に知られないで」の意。 ○ くるよしもがな / 「くる」は、「来る」と「繰る」の掛詞。「繰る」は、「人を手繰り寄せる」で、「さねかづら」の縁語。「よし」は、「方法・手段」の意。「もがな」は、願望の終助詞で、「〜があればなあ」の意。 |
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藤原定方(ふじわらのさだかた、貞観15年(873年) - 承平2年8月4日(932年9月11日))は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。内大臣藤原高藤の次男。醍醐天皇の外叔父。官位は従二位・右大臣、贈従一位。三条右大臣と号す。 寛平4年(892年)に内舎人への任官をはじめに、寛平7年(895年)陸奥掾、翌年には従五位下尾張権守に叙任。寛平9年(897年)には甥の敦仁親王(醍醐天皇)の即位に伴い右近衛少将と累進を重ねた。 その後は相模権介などの地方官を歴任し、昌泰4年(901年)には従五位上左近衛少将に叙任された。その翌年の延喜2年(902年)には正五位下、延喜6年(906年)には従四位下・権右中将となった。 延喜9年(909年)には参議として公卿に列し、延喜10年(910年)備前守、従四位上に昇叙。延喜13年(913年)には従三位・中納言となり、同年4月には左衛門督を兼帯した。延喜20年(920年)大納言、翌延喜21年(921年)には正三位。延長2年(924年)右大臣、延長4年(926年)従二位に至り、承平2年(932年)に60歳で没。死後の8月10日従一位を追贈された。三条に邸宅があったことから三条右大臣と呼ばれた。 ■ 和歌・管絃をよくし、紀貫之・凡河内躬恒の後援者であった。『古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に13首入集。家集に『三条右大臣集』がある。 古今和歌集 / 秋ならで あふことかたき 女郎花 天の河原に おひぬものゆゑ 小倉百人一首 25番 / 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな(「後撰和歌集」恋三701) |
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■ 2
藤原定方 ふじわらのさだかた 貞観一五〜承平二(873-932) 通称:三条右大臣 藤原北家勧修寺流。内大臣(贈正一位太政大臣)高藤の二男。母は宮道弥益女、従三位引子。宇多天皇女御胤子と同腹。兼輔はいとこで娘婿。子の朝忠も著名な歌人。また娘の仁善子は醍醐天皇の女御となり三条御息所と称された(のち実頼の妻となる)。少将・左衛門督などを経て、延喜九年(909)、参議。同十三年、中納言。延長二年(924)、五十二歳で右大臣にのぼる。最終官位は従二位。追贈従一位。京三条に邸宅を構えたので三条右大臣と称された。兼輔とともに醍醐朝の和歌サロンのパトロン的存在。家集『三条右大臣集』がある。古今集初出。勅撰入集十七首。百人一首に歌を採られている。 朱雀院の女郎花をみなへし合あはせに詠みてたてまつりける 秋ならで逢ふことかたきをみなへし天の川原におひぬものゆゑ(古今231) (秋でなくては逢うことが難しい女郎花よ。織女と牽牛が一年に一度だけ逢う天の川の河原に生えるものでもないのに。) 女につかはしける 名にしおはば逢坂あふさか山のさねかづら人にしられでくるよしもがな(後撰700) (「逢ふ」「さ寝」を名に持つ「逢坂山のさねかづら」――その名にふさわしいのならば、蔓を手繰り寄せるように、どうにかして人知れずあなたの家に辿り着く手立てがあってほしいよ。) 延喜の御時、賀茂臨時祭の日、御前にて盃とりて かくてのみやむべきものか千早ぶる賀茂の社のよろづ世を見む(後撰1131) (これだけで終わってしまってよいものでしょうか。今後も勅使の派遣をお続けになり、賀茂の社がいつまでも続くのを見たく存じます。) 先帝おはしまさで、世の中思ひ嘆きてつかはしける はかなくて世にふるよりは山科の宮の草木とならましものを(後撰1389) (たよりなく、むなしい状態でこの世に永らえるよりは、山科の御陵の草木になってしまえばよかったものを。) 先帝おはしまさで、又の年の正月一日贈り侍りける いたづらにけふやくれなむあたらしき春の始めは昔ながらに(後撰1396) (なすこともなく虚しく今日という日は暮れてゆくのでしょうか。新しい年の春の始めは昔と変わらず巡って来たというのに。) |
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藤原定方とその子孫 ■藤原定方 (873〜932) 父・藤原高藤(左大臣冬嗣の孫) 母・宮道列子(宮道弥益の女) 醍醐天皇の母、藤原胤子は彼の同母姉です。彼は醍醐天皇の側近・外戚として右大臣にまで出世し、三条に邸宅があったので「三条右大臣」と呼ばれました。それと同時に、藤原兼輔とともに紀貫之ら「古今集」の編者たちのパトロンのような人でもありました。兼輔や貫之を自分の邸宅に泊め、歌の贈答もしたことがあったようです。有能な政治家であると同時に、和歌や文化を愛する風流な面も持ち合わせていた貴族だったと思われます。 では、彼の子孫たちの話に移りますね。 彼は、藤原山蔭女ほか、多くの女性にたくさんの子供を産ませたようです。しかし、山蔭女の所生以外の子供たちについてはほとんど記録がなく、従ってあまりしっかりと調べることができませんでした。その中でも2人の娘については、1人は配偶者の素性と子供たち、もう1人も配偶者の素性がわかりましたので、まず紹介させていただきますね。 まず一人目です。 彼女は、定方と親しかった藤原兼輔(堤中納言)の妻となり、藤原雅正(紫式部の祖父)、藤原清正、藤原庶正、藤原桑子(醍醐天皇更衣)などの子女をもうけています。もう1人の女子は、上で挙げた兼輔と定方女の子の一人、藤原庶正の妻となっています。この結婚を仲介したのは多分、兼輔・定方女(庶正室の姉か?)夫婦だったのでしょうね。では次に、藤原山蔭女所生の子供たちと、その子孫たちについてまとめてみます。藤原山蔭は、奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫で、清和天皇の側近として中納言にまで昇進した人物です。そこで山蔭女は多分、定方の正室として遇されていたと考えられます。彼女は定方との間に、朝忠、朝成、朝頼、そして四人の女子をもうけました。ではこの7人の子女について1人1人見ていきますね。 ■藤原朝忠 (910〜966) 中納言 朝忠は歌人として知られ、三十六歌仙の1人にも選ばれています。和歌を詠むことが好きなのは父親譲りだったのでしょうか。また、笙や笛を演奏することも得意だったそうです。彼の子女としては、藤原理兼、藤原穆子、女子(源重信室)が知られています。このうち藤原穆子の血統が、平安時代の超有名人の家と結びついているので、少し書かせていただきますね。穆子は敦実親王(宇多天皇皇子)の子で、のちに左大臣に昇進する源雅信の妻となり、2人の女子をもうけました。 このうちの1人が、藤原道長の妻となる倫子です。倫子は道長との間に、頼通、教通、彰子(一条天皇中宮 後一条・後朱雀母)、妍子(三条天皇中宮)、威子(後一条天皇中宮)、嬉子(後朱雀天皇が東宮の時の妃 後冷泉母)の6人の子女をもうけました。すなわち、倫子が道長との間にもうけた6人の子供たちは、定方の玄孫ということになります。つまり穆子の血統は、道長の御堂関白家、さらに天皇家につながっていくのです。すごいですよね〜。一方、穆子のもう1人の娘は、道長の異母兄で「蜻蛉日記」の著者の息子さん、つまり藤原道綱の妻となっています。 ■藤原朝成 (917〜974) 中納言 朝成は、様々な逸話のある人物です。肥満大食で、やせるために医師が湯漬け、水漬けをすすめたが、量が多くて効果がなかったとか。多分、食べ過ぎから糖尿病になったか、太りすぎて心臓病になって亡くなったのではないかと、私は思います。 また、彼には、藤原伊尹と蔵人頭を争って破れたため、伊尹を恨み「伊尹の子孫は根絶やし滅ぼしてやる!」と執念を燃やしたという話でも知られています。かしこの話は年代的に合わないようです。 朝成と伊尹は同じ天慶四年(941)に昇殿を許され、同じ天暦九年(955)に蔵人頭になっています。その後、朝成の方が早く参議に任じられるなど、しばらくはどちらかというと朝成の方が昇進が早かったようです。しかし、次第に伊尹の方が昇進速度が速くなり、彼が摂政太政大臣に任じられた天禄二年(971)、朝成はまだ中納言でした。朝成は、七つも年下の伊尹に官位を追い越され、大変悔しい想いをしていたことが想像できます。 そして実際、伊尹の子供たちのほとんどが若死に、または出家をしてしまいます。これは、朝成の怨霊のしわざだと噂されたようです。さらに、伊尹の孫に当たる花山天皇が若くして出家をしてしまったのも、朝成の怨霊のしわざだと言われています。そのため、伊尹の子孫たちは朝成の邸跡には絶対に近づかなかったそうです。 こんな話が伝わるくらいですから、朝成と伊尹は実際、仲が悪かったのかもしれませんね。 そんな朝成の子供たちですが、藤原惟賢、藤原脩子、藤原宣孝室となった女子が知られています。このうち藤原宣孝(後述)と結婚した女子の子に、藤原隆佐がいます。藤原賢子(大弐三位)の異母兄に当たる方ということになりますね。 ■藤原朝頼 (生没年未詳) 左兵衞督 山蔭女所生の3人の男子のうち、朝頼が一番官位が低いのですが、実は「藤原氏勧修寺流」として後世まで家系が続くのは彼の子孫なのです。 朝頼の子に為輔がおり、為輔の子が惟孝、説孝、宣孝です。このうち、宣孝の妻の1人が紫式部で、2人の間に産まれたのが賢子(大弐三位)です。また、妻の1人には前述した藤原朝成女もいます。しかし、後世まで続くのは、宣孝が別の妻との間にもうけた隆光の血統です。この血統からは、白河天皇の側近として有名な藤原為房など、院政期に活躍した公卿が多く出ています。源平時代に日記「吉記」を著した藤原経房は、為房の曾孫に当たります。 ■女子(代明親王室) (生没年未詳) 醍醐天皇皇子代明親王との間に、重光、保光、延光(?)(以上3人の男子は臣籍に下って源姓を賜ります)、荘子女王(村上天皇女御)、厳子女王(藤原頼忠室)、恵子女王(藤原伊尹室)をもうけます。詳しくは当ブログ内の「代明親王の子孫たち」をご覧下さい。最初の方でも書きましたが、この記事のラストにリンクが貼ってあります。 ■藤原能子(仁善子) (?〜964) 醍醐天皇女御 三条御息所 衛門御息所 能子は、延喜十四年(914)に醍醐天皇に入内し、その後女御となったものの、いつの頃からか天皇の弟の敦慶親王と密通するようになります。それを感づいた天皇は能子をうとんじ、彼女を上御の局に呼びつけておきながら、待ちぼうけを食わせた…ということもしたようです。敦慶親王は延長八年(930)に薨じ、天皇もその年に崩御します。その後、能子のもとには、醍醐天皇の別の弟、敦実親王が通ってきていたようです。そして、敦実親王との仲が途絶えると、今度は藤原実頼(藤原忠平の子で、小野宮流藤原氏の祖)が通ってくるようになります。 「大和物語」には、能子は天皇の崩御後に実頼の妻となって頼忠を産んだ…と、記述されているようです。しかし、頼忠の生年は延長二年(924)で、醍醐天皇崩御の6年前なので、計算が合いません。能子が実頼の室になったのは間違いないようですが、頼忠の母に関しては「公卿補任」の記述の通り、藤原時平女と考えた方が自然のようです。 ■女子(藤原師尹室) (生没年未詳) 彼女は藤原忠平の子師尹(藤原実頼の弟で小一条流藤原氏の祖)と結婚し、定時、済時、芳子などをもうけます。このうち、定時の子が歌人として有名な藤原実方です。清少納言の恋人の1人としても知られた人物ですよね。済時は、源延光(代明親王の子)の女との間に通任、、(女成)子(三条天皇皇后)などをもうけました。芳子は村上天皇に入内して「宣耀殿女御」と呼ばれ、昌平親王と永平親王をもうけています。髪が長くて大変美しい女性だったので、村上天皇の寵愛をを最も強く受けたようです。「枕草子」に記載されている、「古今集」の歌を全部暗唱できたというエピソードでも有名です。 ■女子(藤原雅正室) (生没年未詳) 生没年は未詳ですが、かなり長寿だったと伝えられています。彼女は、雅正との間に為頼、為長、為時をもうけます。そして、為時の娘が紫式部です。 また、紫式部の弟(一説には兄とも)の惟規の子孫には、平清盛の盟友として有名な藤原邦綱(大納言典侍の父)がいます。 こうして定方の子孫をざっと見てみましたが、代明親王の子孫同様、色々な所とつながっていますし、有名人も多いです。しかも、藤原頼通以降の摂関家の人々と、後一条天皇以降の天皇は、すべて定方の子孫なのですよね。さらに、定方の子孫は勧修寺流や小一条流、世尊寺流の藤原氏、村上源氏につながっていることを考えると、院政期〜源平時代に活躍した方々の中には、定方の子孫は意外に多かったのではないでしょうか。 |
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「定方」」ファミリー / 文化的一大勢力 紫式部の父方の祖母は、藤原定方女と素性がわかっている。それで『尊卑分脈』を見ると、定方という人は子だくさん、しかも女子の多いのに驚かされる。『尊卑分脈』に掲載されている女子は14人、男子も合わせるといったい総勢何人の子持ちだったのだろう。 驚くのはそれだけではない。定方の娘たちの結婚相手がまたそれぞれに家柄のよい公達なのである。 一女は仁善子、醍醐天皇女御で後に藤原実頼の妻になった人である。 二女は代明親王の妻であった。親王との間には荘子女王がおり、荘子女王は具平親王の母である。為時は若いころ、具平親王家の家司だったようで、また和漢の詩文の才能に恵まれた親王は為頼や為時を文学を語る仲間とみなしていたらしい。代明親王の娘には頼忠に嫁して公任を生んだ人がいるので、具平親王、公任、為頼らは定方を祖とするファミリーの一員と言える。 三女は藤原兼輔の妻となり雅正を生んだ(紫式部の祖母は定方の十一女だったと推定されるから、雅正は叔母が妻であり、近親結婚をしたのである)。 また、定方の娘の中には藤原師尹室になった人もいる。師尹の男子には貞時、済時などがおり、家集などで知られるように、為頼たちは済時にも近しい存在であった。 為頼、為長、為時の3兄弟は、このように定方ファミリーの貴顕に仕えていた形跡がみられる。ところが皮肉なことに、実頼や師尹の子孫は当時羽振りの良かった師輔流の兼家などに押され、次第に権力の中枢から遠ざかっていく。為時が花山天皇朝で一花咲かせたのち、長い不遇時代を味わうことになったのも、もともと定方ファミリーに属していたからに他ならない。 けれども、政治の世界では非力であった彼らが、和歌や漢詩文の世界では当代一流の歌人・詩人たちを有するサロンを形成していたことは注目に値する。もともと定方も兼輔も歌人として著名な人であり、彼らの子孫が歌の道に秀でているのは当然である。 式部の祖母という人は、おそらく式部が越前に行く長徳2年ごろまでは生きていたらしい。為頼が祖母に代わって式部たちに餞別を贈っているからだが、それから考えると式部と同居していた可能性は低くなってしまうような気もする。ただ、この祖母が母を早くに喪った式部姉弟をかわいがっていたことはあり得るわけで、幼い式部に父定方のありし日のこと、自分が仕えた伊尹家や女房生活の様子、その文化の香りみちた暮らしぶりを語って聞かせたことだろう。式部のほうでも、優れた歌人を輩出している祖父母の家系に畏敬の念を抱いていたことだろう。 この祖母が長く生存していたという事実はまた、式部が具平親王家に宮仕えしたという説を裏付けることにもなるかもしれない。幼いころから聡明だった式部の才能を祖母が見抜いていて、自分も経験した宮仕えを勧めたとすれば……あるいはこの祖母も、式部の父為時と同様、『源氏物語』陰の制作者と言えるのではないだろうか。 |
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■ 5
定方と兼輔 藤原兼輔は三十六歌仙の一人として、また紫式部の曽祖父として、広くその名を知られており、研究者によつては和歌史的(歌壇的) にも高い位置が与えられている。また、その人柄については、たとえば、目崎徳衛氏は『紀貫之』の}節(一○ 五頁)で、「延喜親政の有力メンバーだったけれども、彼は衰龍の袖に隠れて権力を振おうとする人柄ではなく、文学や宗教に強く引かれる脱俗的性格の持主であった」と述べられた。これは氏のみならず、現在の学界の平均的兼輔像であるといえる。 兼輔は元慶元年(八七七)、利基の六男として生まれた。北家冬嗣流であるが、祖父良門は内舎人で、父利基は従四位上右中将で終っており(尊卑分脈)、既に傍流であつた。利基の官歴を「三代実録」によつて辿れば次のとおりである。 貞観二年十一月十六日叙従五下(左衛門大尉)。同五年二月十日内匠頭。備前権介。同年三月珊日次待従。同年八正月十三日左衛門佐。同十一年叙従五上。元慶元年正月三日叙正五位下(右近少将兼行備前権介)。同三年十一月廿五日叙従四下(右近少将兼行備前権介)。仁和二年正月七日叙従四上(左馬頭)。同三年二月二日相模守(左馬頭如元)。 ■ 兼輔がともかくも中納言になりえたのは、醍醐天皇の伯父である定方の婿となつたことに依ると思われる。以下、定方と兼輔の関係について述べる。 利基の没した寛平九年の七月三日、宇多天皇は譲位して上皇となり、十三歳の醍醐天皇が即位した。天皇の母后は高藤の女胤子(寛平八年六月計日莞)であつたので、この勧修寺家は一時的ながらも繁栄を見ることになつた。 寛平五年四月二日敦仁親王(醍醐天皇)が皇太子に立つや、翌六年正月には高藤は三階を越えて従三位(非参議)を叙され、昌泰三年莞じた時には内大臣正三位(三位二年参議三年中納言三年大納言三年内大臣一年)となつており、雍後正一位太政大臣を追贈されたのである(公卿補任)。 その男定国(母同胤子)も順調に進んで昌泰二年二月廿四日参議、同年閏十二月五日権中納言従三位(三十三歳)、昌泰四年正月兼右大将、延喜二年正月廿六日大納言となったが、延喜六年七月二日莞じた。四十歳。 この同母兄の思いがけぬ早い死によって、定方は勧修寺家の長の位置に押し上げられることになり、延喜六年右権中将(三四歳。定国はこの歳には中納言) にすぎなかった官位も、九年四月九日参議、十三年正月廿八日中納言従三位(超六人)、同年四月十五日兼左衛門督、十九年九月十三日兼右大将、廿年正月廿日大納言、廿一年正月七日正三位、延長二年正月廿二日右大臣、四年正月七日従二位、八年十二月十七日転左大将、承平二年八月四日亮、同十一日贈従一位、六十歳。(公卿補任)と天皇の伯父にふさわしく昇進を重ねている。 定方の栄進は、その任大臣の宣命に「大納言正三位藤原定方朝臣波於朕天近親爾毛在、又可仕奉支次爾毛在爾依天奈牟右大臣官爾治賜久止勅不」(朝野群載十二)と記されているように、天皇の伯父であることに依っており、またその故に終始天皇の側近としてあったのである。政治的な面では忠平にその力は及ぶべくも無かったが、特に文化的な面では大いに活躍している。 叔父高藤家のこの思いがけぬ繁栄は兼輔にとつても期待を抱かせるに十分なものであったと思われる。然し、定国・定方と異って、直接の血縁に無い(五親等)ので、将来が約束されている訳ではなかった。二十一歳にして父を失った若い兼輔が社会的地位を求めようとする時、当時にあって、てっとり早くしかも確実な方法は権力者と姻戚関係を結ぷ事である。その意味で、従兄定方の婿となった事は中納言への道の第一歩であったといえる。良門の男は利基と高藤の二人だけであり、兼輔は定方より四歳年少であるだけであつたので、おそらく幼少の頃から親しんでいたと思われるが、醍醐天皇の東宮時代、共ハに殿上しているから(公卿補任尻附)、その頃、即ち兼輔二十一歳以前には交遊があつたことは確かである。折から高藤・定国父子が旭日の勢いで昇進している時でもあり、兼輔は定方に対しても、羨望と期待とを以て見ていたことであろう。とはいえ、兼輔は十代の若さでもあり、定方にしても後年ほどは恵まれていた訳でもなかったから、そのような立場の違いは認めつ ゝも、親しい交遊は有つたと思われる。 兼輔が定方の娘に通い始めたのは「大和物語」= 二五段によれば内蔵助の時である。 三條の右大臣のむすめ、堤の中納言にあひはしめたまひける間は、内蔵のすけにて内の殿上をなむしたまひける。女はあはむの心やなかりけむ、心もゆかずなむいますかりける。男も宮つかへしたまうければ、え常にもいませざりけるころ、女、 たきもののくゆる心はありしかどひとりはたえてねられざりけり かへし、上ずなりければよかりけめど、えきかねば書かず。(日本古典文学大系) 内蔵助在官年次は、延喜三年二(正・歌仙伝)月廿六日から延喜十六年三月廿日内蔵権頭になるまでである。然し、延喜七年二月廿九日には兵衛佐、十三年正月廿一日には左少将となっている。内蔵助は六位相当官、兵衛佐は五位相当官。従って、延喜二年従五下、十(六・歌仙伝)年正月従五上であった兼輔が「内蔵助」の名で一般に呼ばれたのは、兵衛佐以前の延喜三年二(正)月廿六日以降七年二月廿九日以前の事であろ知。二七歳から三一歳の間のことである。 この時定方は、三一歳から三五歳である。やゝ不自然のようにも見えるが、定方の娘能子が更衣から女御になったのが延喜十三年十月のことである(紀略) から、入内したのはそれ以前である。従って、延喜十年前後には結婚可能の年令の娘があつたのである。 また、兼輔の娘桑子が章明親王を生んだのが延長二年である(紀略・一代要記)。章明親王が元服したのは天慶二年(九三九)八月十四日のことである。「吏部王記」(西宮記親王元服所引)に次の記事がある。 章明親王加元服、伍詣彼家、(中略)余召左少将・朝忠朝臣理髪了催二卿、加冠本家意在右大将、譲民部卿、々々々固辞右大将即加之了(下略)(増訂故実叢書、西宮記第二、三三三頁) 「御遊抄」三御元服(続群書類従)によれば、「彼家」とは「京極亭」であり、理髪の左少将は藤原朝忠(定方男)である。源氏で該当する朝忠はいないから、「西宮記」の書入は誤りである。右大将は中略とした部分に明記するように藤原実頼である。「御遊抄」では「右近衛大将藤原良世」とするが、良世は既に亮じており、「公卿補任」によっても右大将は実頼である。 問題は章明親王が定方女の孫即ち桑子が定方女の子であったかどうかという点にある。「吏部王記」によれば、本家の意は実頼に在ったという。本家が何故に実頼を望んだかといえば、定方女能子が天皇の崩御の後実頼に配されていた(尊卑分脈.大和物語) ので、その姻戚関係によって依頼しょうとしたのであろう。実頼が初め民部卿平伊望に譲ったのは、伊望は大納言で五九歳、実頼は中納言で四十歳であったからであろう。それを伊望が「固辞」したのは、本家と実頼との関係を知つていたからであろう。理髪を定方男朝忠が勤めたのも桑子が定方の孫であったことを想定させる。また、仮りに定方の孫でないとすれば入内も難しかつたのではないかとも思われる。 以上のことに依って桑子は定方の孫娘であると考えてよいであろう。であれば、入内した延喜廿三年(延長元年)前後には、少くとも十五・六歳であつたとして、その誕生は延喜七・入年以前である。従つて、兼輔が定方女に通い始めたのは、「大和物語」が言うように「内蔵のすけ」のころ、つまり延喜三年二月から七年二月の間のことと考えて大過ないであろう。 定方の娘に通い始めた兼輔は、前引の「大和物語」に伝える所によれば、当初は訪れない夜が多く、娘の方も「あはむの心」が無かつたらしく、心楽しまぬ有様であったという。「たきもの、」の歌には、心進まぬま ゝに兼輔を迎え始め、しかも男は訪れないという屈辱感が窺える。「新拾遺集」恋四(一二三二)では、詞書が「(上略)未だ下繭に待りければ、女は逢はむの心やなかりけむ(下略)」とある。全面的には信用し難いにせよ、贈太政大臣の孫で、将来を約束された定方の娘であってみれば、たかが従五位の内蔵助が通うようになったのは、何程かの失望ではあつたであろう。姉は醍醐天皇の後宮に入るのである。 定方の娘が後悔しつゝも、「たえてはひとりねられざりけり」と兼輔に詠み送らねばならなかったのは、兼輔には別に妻が居たからである。 めのみまかりて後、すみける所のかべに、かの待リける時書きつけて待りける手を見待りて 兼輔朝臣 寝ぬ夢に昔のかべを見てしよりうつゝに物ぞかなしかりける (後撰集哀傷一四○○) 妻が死んでしまつてからは昼の間も夢の中の如くに過ぎて来たが、夢であれば再び逢えるであろうかと、妻の部屋に来てみれば、あの時と同じように、妻はおらず、その歌だけが壁に書かれてあつた。今更にはっきりと、妻を亡った悲しみが胸を打つ。 「貫之集」二七九六九)に「兼輔の中将」のめが死んだとあるから、中将であった延喜十九年正月廿八日以降延喜廿一年五月冊日参議就任以前(但し中将は元のまま) である。また、貫之の詠は十二月晦日のことであるから延喜十九年正月廿八日以降延喜廿年十二月光日以前の事である。 これが定方女でないことは、次に示す「勧修寺家文書」(大日本仏教全書・寺誌叢書三)によつて知られる。即ち、承平二年九月廿二日、定方の七々日態が行なわれた。 本家認諦、調布三百端、五女 女御、左衛門督夫人、命婦、中務卿小君、藤原尹文妻、 当時の「左衛門督」は藤原恒佐であるが、定方の娘で恒佐の夫人となつた者は無く、恒佐の子に定方の娘を母とするものはいない(尊卑分脈)。従つて、「左衛門督」は「大日本史料」があてるように、当時右衛門督であった兼輔である。即ち、兼輔の室となった定方女はまだ生きていたのである。 定方の娘に通うようになつた時、兼輔は既に三十に近かつた。おそらく、死んだ妻は定方女より早く通つていたと思われる。(あるいは兼輔邸に迎えていたか) 長男雅正と四男庶正は共ハに定方女を妻としている(尊卑分脈)。仮りに、雅正庶正を定方女腹の男とすれば、母の実妹と結婚したことになる。敦慶親王と同母妹均子内親王が結婚した例もある(皇胤紹運録)が、不自然である。これを死んだ妻腹の男とすれば、定方女とは血縁ではなく、従つて万能性は大きい。また「後撰集」恋二(六七七) に 兼輔朝臣にあひはじめて常にしもあはざりける程に 清正母 ふり解けぬ君がゆきげの雫ゆゑ挟にとけぬこほりしにけり という歌がある。「大和物語」= 二五段の記事と符合口するから、同一人物とすれば、その作者名を「清正母」(他本同じ)とするのは、雅正の母ではないこと、即ち雅正母は定方女ではないことを物語っているように見える。 固執はしないが、定方女が最初の妻ではなかつた可能性は大いにあると思われる。 女の恨むる事ありて親の許にまかり渡りて待りけるに、雪の深く降りて待りければ、あしたに女の迎ひに車遣はしける消息にくはへて遣はしける 兼輔朝臣 白雪のけさはつもれる思ひかなあはでふる夜のほどもへなくにかへし 読人しらず 白雪のつもる思ひもたのまれず春よりのちはあらじと思へば (後撰集恋六一○七一・一○七二) どのような理由か、また定方の娘か別の女かも判然としないが、親の許に帰るのは異常な行為である。あるいは妻妾の確執ででもあつたのであろうか。いずれすぐに消えてしまうであろうから、今車を遣わして、思いは積るほど有るといってもあてにはできないという女の返歌を見れば、一時的な激情によって親の許へ帰ったとも思われない。死にあたっては前記の如き故き妻を偲ぶ歌を詠んでいるが、だからといつてそれを直ちに生前に及ぼすことはできない。(読人が判らないので、どちらがどうと判然とは分らないが。) この二人以外にも、忍んで通つた相手は少なくなかつたらしいことが家集によつて知られるが、名の判明するのは次の「少将の内待」だけである。 忍びて通ひ待りける人、今帰りてなどたのめおきて、おほやけの使に伊勢国にまかり、帰りまできて久しうとはず待りければ 少将内待 人はかる心のくまはきたなくてきよきなぎさをいかですぎけむ かへし 兼輔朝臣 たがためにわれがいのちをながはまの浦にやどりをしつゝかはこし (後撰集恋五九四五・九四六) 伊勢に使したことは「大和物語」三六段にもみえて、斎宮の長命を寿ぐ歌を詠んでいる。あるいは同じ時のことであろうか。 「兼輔集」では詞書、「いせの斎宮にまいりてかへるころ、はやうしりたるをんなのもとより」とあり、左注として「このをんなは斎宮のないしといふ也」(西本願寺本)とする。歌詞の下二句「清きなぎさにいかでゆきけん」とする。詞書、歌詞からして、斎宮のないしとするのは不適当である。 この贈答でも、女の「帰つてからと約束しておきながら人をだますような汚がれた心でどうして伊勢の清浄な渚を通つたのでしようか」と、批難されており、その返歌は、「命を延ばす長浜に宿つて来たのは、あなたの為なのだ」と軽くいなしている。当時の男女の贈答歌は大旨このようなものだが、前述のことなどを考えあわせて、兼輔も特に「軽薄非情の浮気者ではなかつた」といつても、また「誠実」という訳でもなかつたらしい。 定方女のことから記述が横道に入つてしまつた。定方と兼輔の結びつきは、姻戚関係が加わることによつて一層固いものになった。兼輔は後盾と頼む所もあってか、よく定方に心を尽している。「兼輔集」によってその有様を見ておこう。 三条の右大臣どのゝまだわかくおはせしとき、かたのにかりしたまひし時、をひてまで、 きみがゆくかたのはるかにきゝしかどしたへばきぬるものにぞありける いそぐことありてさいだちてかへるに、かのおと.ゞのみなせどのゝ花はなをもしろければ、それにつけておくる さくらばなにほふをみつゝかへるにはしつこ・うなきものにぞありける 京にかへりたるに、かのおと.ゞの御返事 たちかへりはなをぞわれはうらみてし人のこゝろのゝどけからねば 定方は「少壮より遊猟を好」(原漢文)んで、晩年にはその報を恐れて写経をしようと考えた(勧修寺文書)ほどの人物である。右の家集のような場面は一再ならずあったことと思われる。「いそぐこと」があつたにもか ゝわらず、遠く交野まで「した」つて来るなど、その心遣いが窺がわれる。また、桜につけての贈答も業平の歌(古今集・伊勢物語)を念頭においてのことである。あるいは「伊勢物語」八二段に見える惟喬親王と業平の交遊を兼輔は考えていたのであろうか。(但し、「古今集」(五三) では「渚の院にて桜を見てよめる」とだけである。) 京ごくのいへのふちのが三月一日しけるに、三条の右大臣殿 かぎりなくなにおふゝちのはなゝればそこゐもしらずいろのふかさに 返事 いろふかくにほひしことはふちなみのたちもかへらず君とまれどか 年次は判然としない。この贈答には一層はっきりと婿・被庇護者としての姿勢がみてとれる。敦慶親王・醍醐天皇の莞崩に際しても故人を偲ぶ贈答が有る。 こうして兼輔は陰に陽に定方の庇護を受けることになる。 |
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■26.貞信公 (ていしんこう) | |
小倉山(をぐらやま) 峰(みね)のもみぢ葉(ば) 心(こころ)あらば
今(いま)ひとたびの みゆき待(ま)たなむ |
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● 小倉山の紅葉よ。お前に心があるなら、いま一度の行幸があるまで散らずに待っていてほしい。 / 小倉山の峰の紅葉よ。ああ、あなたにもし心があるならば、もう一度天皇のお出まし(行幸)があるまで、どうか散らずにそのままで待っていてください。 / 紅葉の名所である小倉山(現在の京都市右京区嵯峨にある山)の峰の紅葉よ。もしおまえに心があるならば、もう一度あるはずの天皇のおでかけである行幸(みゆき/ぎょうこう)のときまで、どうかそのまま散らないで待っていておくれ。 / 小倉山の峰の美しい紅葉の葉よ、もしお前に哀れむ心があるならば、散るのを急がず、もう一度の行幸をお待ち申していてくれないか。
○ 小倉山 / 京都市右京区の山。大堰(おおい)川をはさんだ嵐山の対岸。トロッコ嵐山駅周辺。紅葉の名所。藤原定家が、この地で百人一首を撰定したことから、後に『小倉百人一首』と呼ばれるようになった。 ○ 峰のもみじ葉 / 後の「心あらば」「待たなむ」の表現によって、「峰のもみじ葉」が擬人化されているとわかる。 ○ 心あらば / 「心」は、人の心。「あらば」は、「動詞の未然形+接続助詞“ば”」で順接の仮定条件。「もしも心があるならば」の意。 ○ 今ひとたびの / 『拾遺集』の詞書によると、宇多上皇が大堰川に御幸された際、その景色を子の醍醐天皇にもお見せしたいとおっしゃったことを受けて、天皇の義理の兄である藤原忠平(貞信公)がこの歌に託して奏上したということ。 ○ みゆき待たなむ / 天皇の「みゆき」は「行幸」、上皇・法皇は「御幸」。この場合は、醍醐天皇の「みゆき」なので、「行幸」。「なむ」は、願望(他者に対するあつらえ)の終助詞。 |
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■ 1
藤原忠平(ふじわらのただひら、元慶4年(880年) - 天暦3年8月14日(949年9月9日))は、平安時代の公卿。藤原基経の四男。兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇のときに摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。 寛平年間(889年-898年)に正五位下に叙し、侍従に任じられ、備後権守を兼ねる。昌泰3年(900年)参議に任じられるが奏請して、叔父の清経と代わり、自らは右大弁となる。延喜8年に参議に還任(右大弁は元の如し)の後、春宮大夫、左兵衛督を兼ね、検非違使別当に補され、次いで従三位に叙し、権中納言に任じられ、蔵人別当に補され、右近衛大将を兼ねる。 宇多天皇の時代は寛平の治と呼ばれ、摂関を置かずに天皇が親政をし、長兄の時平と学者の菅原道真らが政治を主導した。寛平9年(897年)に宇多天皇が譲位して醍醐天皇が即位すると、時平は左大臣、道真は右大臣に並んで朝政を執ったが、やがて政争が起き道真は失脚する(昌泰の変)。 時平が政権を握り、諸改革に着手するが、延喜9年(909年)、時平は39歳で早世した。次兄の仲平を差し置いて、忠平が藤氏長者として嫡家を継ぐ。以後、醍醐天皇のもとで出世を重ね、大納言に転じ、左近衛大将を兼ねる。延喜14年(914年)右大臣を拝した。延長2年(924年)正二位に叙し、左大臣となる。延長5年(927年)、時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させた。農政などに関する忠平の政策は、兄時平の行った国政改革と合わせ「延喜の治」と呼ばれる。 延長8年(930年)9月22日に醍醐天皇は病が篤いため、朱雀天皇に譲位した。同時に、基経の没後は長く摂政関白が置かれなかったが新帝が幼少であるため摂政に任じられた。9月26日、朱雀天皇が醍醐上皇のいる麗景殿を訪ねた際、上皇は天皇を几帳の中に呼び入れ、五つの事を遺言した。その中で、「左大臣藤原忠平の訓を聞くこと」と話した(延喜御遺誡)。 承平2年(932年)従一位に叙せられる。承平6年(936年)太政大臣に昇り、天慶2年(939年)准三后となる。天慶4年(941年)朱雀天皇が元服したため摂政を辞すが、詔して引き続き万機を委ねられ、関白に任じられた。記録上、摂政が退いた後に引き続き関白に任命されたことが確認できる最初の例である。この間かつての家人、平将門と遠戚である藤原純友による承平天慶の乱が起きたが、いずれも最終的には鎮圧された。 天慶9年(946年)村上天皇が即位すると引き続き関白として朝政を執った。この頃には老齢して病がちになり、しばしば致仕(引退)を願うが、その都度慰留されている。天暦3年(949年)、病がいよいよ重くなり、死去した。享年70。正一位が追贈され、貞信公と諡された。 妻・源順子は宇多天皇の皇女で「菅原の君」と称されており、宇多天皇女御であった菅原道真女菅原衍子所生とも推定されている(実父母について異説あり)。このために、宇多天皇や道真と対立していた長兄・時平からは疎んじられていたという説がある。 逆に兄・時平や共に道真を陥れた源光が亡くなり、醍醐天皇が病気がちとなり、天皇の父である宇多法皇が再び国政に関与するようになると、忠平は法皇の相談役として急速な出世を遂げたと言う。実際に時平や源光の死により、早くも35歳にして臣下最高位となり、死去するまで35年間その地位を維持したが、当時としては長寿を全うした事で忠平とその子孫は時平に代わって嫡流となり、摂関職を江戸時代まで継承することとなった。そして、道真の名誉回復が早い時期に実現したのも「道真怨霊説」だけでなく、亡き時平と忠平との確執が背景にあったと言われている。 ■人物・逸話 ○ 幼くして聡明で知られ、父の基経が極楽寺を建てたとき、忠平は「仏閣を建てるならばこの地しかありません」と一所を指さした。そこの地相はまさに絶勝の地だった。基経はこの時のことを心にとどめたという(『大鏡』)。 ○ また、醍醐天皇の頃、相工(人相占い師)が宮中に召された。寛明太子(後の朱雀天皇)を見て「容貌美に過ぎたり」と判じた。時平を見て「知恵が多すぎる」と判じた。菅原道真を見て「才能が高すぎる」と判じ、皆全幅の者はなかった。ところが、下座にあった忠平を見て、相工はこれを指さして「神識才貌、全てが良い。長く朝廷に仕えて、栄貴を保つのはこの人であろう」と絶賛し、宇多法皇はかねてから忠平を好んでいたが、この話を聞いて、ますます重んじ、皇女(源順子)を降嫁せしめたという(『古事談』)。 ○ 忠平はまた、寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったという(『栄花物語』)。朝儀、有職故実について記した日記『貞信公記』がある。 |
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■ 2
藤原忠平 元慶四〜天暦三(880-949) 諡号:貞信公 太政大臣基経の四男。母は人康親王の娘。時平・仲平の弟。実頼・師輔・師氏・師尹らの父。一女は保明親王の室となる。寛平七年(895)、十六歳で正五位下に叙せられ、昇殿を許される。同八年、侍従となり、備後権守を兼ねる。昌泰三年(900)、参議。延喜九年(909)、長兄時平が薨じた後は、次兄仲平が存命であったにもかかわらず、氏の長者として嫡家を継いだ。以後急速に累進し、翌延喜十年(910)、中納言。同十四年、右大臣。延長二年(924)、左大臣。同五年、『延喜格式』を完成撰進させる。同八年、摂政を兼ねる。承平六年(936)、摂政太政大臣従一位。天慶四年(941)、関白太政大臣。天暦三年(949)八月十四日、薨。七十歳。詔により正一位を追贈され、信濃国を封ぜられる。謚は貞信公。小一条太政大臣と号す。藤原氏中興の祖の一人として、後世子孫により重んじられた。醍醐天皇の代、兄時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させる。日記『貞信公記』がある。『大鏡』は紫宸殿の辺で鬼を追い払ったとの逸話を載せ、豪胆ぶりがうかがわれる。後撰集初出。勅撰入集は十三首。 枇杷左大臣はじめて大臣になりて侍りけるよろこびにまかりて 折りて見るかひもあるかな梅の花ふたたび春に逢ふ心ちして(続後撰1030) (折ってみる甲斐もあることよ、この梅の花は。再び春のめでたい時に遇う気持がして。) 亭子院、大井河に御幸ありて、「行幸もありぬべき所なり」とおほせ給ふに、「事の由奏せむ」と申して をぐら山峰のもみぢ葉こころあらば今ひとたびのみゆき待たなむ(拾遺1128) ([詞書] 宇多上皇が大井川に行幸なされ、「ここは、天皇(醍醐)の行幸もあってしかるべき所だ」と仰せになったので、「では天皇に上皇のご意向を奏上致しましょう」と申し上げて [歌] 小倉山の紅葉よ、もしおまえに心があるなら、もう一度行幸があるまで散るのは待っていてほしいよ。) 今上、帥(そち)のみこときこえし時、太政大臣の家にわたりおはしまして、かへらせ給ふ御贈り物に御本たてまつるとて 君がため祝ふ心のふかければひじりの御代のあとならへとぞ(後撰1379) (あなたのためにお祝い申し上げる心が深いので、聖代の手跡をお習いなさいと、この御本を差し上げます。) 兄の服(ぶく)にて、一条にまかりて 春の夜の夢のなかにも思ひきや君なき宿をゆきて見むとは(後撰1387) (はなかく短いという春の夢の中でさえ、思っただろうか。あなたのいないこの邸に来てみようとは。) |
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■27.中納言兼輔 (ちゅうなごんかねすけ) | |
みかの原(はら) わきて流(なが)るる 泉川(いずみがは)
いつ見(み)きとてか 恋(こひ)しかるらむ |
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● みかの原を分かつように湧き出て流れる泉川ではないが、いつ逢ったということで、こんなにも恋しいのだろう。 / みかの原を分けるようにわき出て流れるいづみ川ではないけれど、いつ見たためか、いつ逢ったのか、いや本当は逢ったこともないのに、どうしてこんなに恋しいのだろう。 / みかの原(現在の京都府相楽郡)に湧いて流れるいづみ川よ。その「いつ」という言葉ではないけれども、わたしはいったいあの方にいつお逢いして、こんなに恋しいと思うようになったのでしょう。お逢いしたこともないのに。 / みかの原を湧き出て流れる泉川よ、(その「いつ」という言葉ではないが) その人をいつ見たといっては、恋しく思ってしまう。本当は一度たりとも見たこともないのに。
○ みかの原 / 「瓶原」。歌枕。山城(京都府)の木津川市。奈良時代には恭仁京が置かれた。 ○ わきて流るる / 「わき」は、「分き」と「湧き」の掛詞。「湧き」は、「泉」の縁語。 ○ 泉川 / 現在の木津川。「いづみ」から「いつみ(何時見)」へと音を重ねて続く。ここまでが序詞。 ○ いつ見きとてか / 「見」は、「逢う」の意。「き」は、過去の直接体験を表す助動詞。「か」は、疑問の係助詞。後の「らむ」と係り結び。この歌には、解釈の手がかりとなる人間関係が示されていない上、状況を説明する詞書もなく、男女関係がない状態で詠んだ歌なのか、かつての恋人について詠んだ歌なのか、空想上の物語を用いて言葉の技巧を凝らしただけなのかは不明。そのため、古来よりこの部分の解釈が分かれている。なお、兼輔の歌ではないという説もある。 ○ 恋しかるらむ / 「らむ」は、原因推量の助動詞の連体形で、「か」の結び。 |
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■ 1
藤原兼輔(ふじわらのかねすけ、元慶元年(877年) - 承平3年2月18日(933年3月21日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、右中将・藤原利基の六男。官位は従三位・中納言。また賀茂川堤に邸宅があったことから堤中納言とよばれた。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言兼輔。 醍醐天皇の外戚であったことから、その春宮時代より仕え、寛平9年(897年)に醍醐天皇が即位すると昇殿を許される。醍醐天皇に非蔵人として仕える傍ら、讃岐権掾・右衛門少尉を経て、延喜2年(902年)従五位下に叙せられる。延喜3年(903年)内蔵助に抜擢されたのち内蔵寮の次官次いで長官を務める傍ら、左兵衛佐・右衛門佐・左近衛少将といった武官や五位蔵人を兼任して引き続き天皇の側近として仕え、またこの間、延喜10年(910年)従五位上、延喜15年(915年)正五位下、延喜16年(916年)従四位下と順調に昇進する。延喜17年(917年)蔵人頭、延喜19年(819年)左近衛権中将を経て、延喜21年(921年)に参議として公卿に列した。延長5年(927年)従三位・権中納言に至る。承平3年(933年)2月18日薨去。享年57。最終官位は権中納言従三位行右衛門督。 ■人物 和歌・管弦に優れる。従兄弟で妻の父である三条右大臣・藤原定方とともに当時の歌壇の中心的な人物であり、紀貫之や凡河内躬恒など多くの歌人が邸宅に集まった。『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に56首が入集。家集に『兼輔集』がある。 みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ (『新古今和歌集』、小倉百人一首) |
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■ 2
藤原兼輔 元慶一〜承平三(877-933) 通称:堤中納言 右中将利基の子。三条右大臣定方は従兄。男子に雅正・清正があり、共に勅撰集入集歌人。紫式部は曾孫にあたる。醍醐天皇の寛平九年(897)七月昇殿を許され、同十年正月、讃岐権掾に任官。その後、左衛門少尉・内蔵助・右兵衛佐・左兵衛佐・左近少将・近江介・内蔵頭などを歴任し、延喜十七年(917)十一月、蔵人頭となる。同二十一年正月、参議に就任し、延長五年(927)正月、従三位権中納言。同八年、中納言兼右衛門督。承平三年二月十八日、薨。五十七歳。紀貫之・凡河内躬恒ら歌人と親しく交流し、醍醐朝の和歌隆盛期を支えた。鴨川堤に邸宅を構えたので、堤中納言と通称された。三十六歌仙の一人。家集『兼輔集』がある。古今集に四首、後撰集に二十四首。勅撰入集は計五十八首。 夏 / 夏の夜、深養父が琴ひくをききて みじか夜のふけゆくままに高砂の峰の松風吹くかとぞ聞く(後撰167) (短い夏の夜が更けてゆくにつれて、ますます趣深く響く琴の音を、あたかも高砂の峰の松に風が吹きつけ音を立てているのかと聞くことだ。) 秋 / おまへに菊奉るとて けふ堀りて雲ゐにうつす菊の花天あめの星とやあすよりは見む(兼輔集) (今日掘って内裏に移し植える菊の花は、明日からは天に輝く星と見ましょうか。) 恋 / 題しらず みかの原わきてながるる泉河いつ見きとてか恋しかるらむ(新古996) (三香の原を分けて流れる泉川――その「いつみ」ではないが、一体いつ見たというのでこれ程恋しいのだろうか。) 題しらず よそにのみ聞かましものを音羽おとは川わたるとなしに身なれそめけむ(古今749) (噂に聞くだけでおれば良かったものを。音羽川を渡るようにあの人との一線を越えるわけでもなく、どうして私は中途半端に馴染み始めてしまったのだろうか。) 女の、怨むることありて親のもとにまかり渡りて侍りけるに、雪の深く降りて侍りければ、朝(あした)に女の迎へに車つかはしける消息に加へてつかはしける 白雪の今朝はつもれる思ひかな逢はでふる夜のほどもへなくに(後撰1070) (白雪のように今朝は積もっているあなたへの思いですよ。お逢いできずに過ごした夜はそれ程積み重なってはおりませんのに。) 哀傷 / 式部卿敦慶のみこ、かくれ侍りにける春よみ侍りける 咲きにほひ風待つほどの山ざくら人の世よりは久しかりけり(新勅撰1225) (咲き誇り、風を待つまでの間の山桜よ――人の生のはかなさに較べれば、長続きするものであったよ。) 先帝おはしまさで、世の中思ひ嘆きてつかはしける 三条右大臣 はかなくて世にふるよりは山科の宮の草木とならましものを (たよりなく、むなしい状態でこの世に永らえるよりは、山科の御陵の草木になってしまえばよかったものを。) 返し 山科の宮の草木と君ならば我はしづくにぬるばかりなり(後撰1397) (あなたが山科御陵の草木となるのなら、私はその草の雫に濡れるばかりです。) 醍醐のみかどかくれたまひて後、やよひのつごもりに、三条右大臣につかはしける 桜ちる春の末には成りにけり雨間あままもしらぬながめせしまに(新古今759) (桜の散る春の終りになったことです。止む暇もない春雨に、亡き帝を悼んでいる間に。) 妻(め)の身まかりてのち、住み侍りける所の壁に、かの侍りける時書きつけて侍りける手を見て ねぬ夢に昔のかべを見つるよりうつつに物ぞかなしかりける(後撰1399) (眠っていたのではないのに、夢のような幻として、亡き妻の筆跡の書かれた壁を見てからというもの、目覚めている間も、何となく悲しくてならないことだ。) 雑 / 大江千古が越へまかりけるむまのはなむけによめる 君がゆく越のしら山しらねども雪のまにまにあとはたづねむ(古今391) (あなたの行かれる越の白山はその名の通り「知ら」ないけれども、雪に積もった足跡をたよりに尋ねて行きましょう。) 藤原治方遠江に成りてくだり侍りけるに、餞し侍らんとて待ち侍りけれど、まうでこざりければよみてつかはしける こぬ人をまつ秋風のねざめには我さへあやな旅ごこちする(新拾遺744) (帰って来ない人をあてどなく待つ夜な夜な――秋風の音を聞きながら寝覚した時などには、どうしたことか私までが旅心地になり、無性に頼りない気持になるのです。) 勅使にて、斎宮へまゐりてよみ侍りける くれ竹の世々の宮こときくからに君は千年のうたがひもなし(新勅撰453) (代々栄える多気(たけ)の御在所と伺いますからには、宮様の長寿は疑いもありません。) 藤原さねきが、蔵人より、かうぶり賜はりて、明日殿上まかり下りむとしける夜、酒たうべけるついでに むばたまの今宵ばかりぞあけ衣あけなば人をよそにこそ見め(後撰1116) (今宵ばかりは緋色の衣を着たあなたと御一緒できますが、夜が明ければ、私には遠い人として見ることになるでしょう。) 太政大臣の、左大将にて、相撲(すまひ)の還饗(かへりあるじ)し侍りける日、中将にてまかりて、こと終はりて、これかれまかりあかれけるに、やむごとなき人二三人ばかりとどめて、まらうど、あるじ、酒あまたたびの後、酔ひにのりて、こどもの上など申しけるついでに 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな(後撰1102) (子を持つ親の心は闇というわけでもないのに、親たる者、子供のこととなると、道に迷ったかのように、どうすればよいか分からず混乱してしまうことですよ。) 亭子院、大内山におはしましける時、勅使にてまゐりて侍りけるに、ふもとより雲たちのぼりけるを見てよみ侍りける 白雲のここのへにたつ峰なればおほうち山といふにぞありける(新勅撰1265) (白雲が次々に立ちのぼり、九重にまで取り巻く峰なので、「大内」山と言うのでありました。) |
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■28.源宗于朝臣 (みなもとのむねゆきあそん) | |
山里(やまざと)は 冬(ふゆ)ぞ寂(さび)しさ まさりける
人目(ひとめ)も草(くさ)も かれぬと思(おも)へば |
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● 山里は、冬に一段と寂しくなるものだなあ。人も来なくなり、草も枯れてしまうと思うので。 / 山中の里はいつの季節でも寂しいけれど、冬にはその寂しさがいっそう身にしみて感じられることだよ。人の行き来も途絶えてしまい、草も木もすっかり枯れ果ててしまうかと思うと。 / 山里は、ただでさえ寂しいところなのに、冬は、いっそう寂しさが強く感じられるなぁ。人の行き来も少なくなり、草も枯れ果ててしまったと思うと・・・。 / 山里はいつの季節でも寂しいが、冬はとりわけ寂しく感じられる。尋ねてくれる人も途絶え、慰めの草も枯れてしまうのだと思うと。
○ 山里は / 「は」は、区別を表す係助詞。都とは違うことを示す。 ○ 冬ぞさびしさまさりける / 「冬」は、陰暦の十、十一、十二月。「ぞ」と「ける」は係り結び。「ぞ」は、強意の係助詞。山里は、どんな季節でも都よりさびしいが、中でも冬は格別にさびしさがまさることを示す。「ける」は、詠嘆の助動詞の連体形で、「ぞ」の結び。 ○ 人目も草も / 「人目」は、人の気配や人の往来。「も」は並列の係助詞。「人目も草も」で、「生きとし生けるもの全て」を表す。 ○ かれぬと思へば / 「かれ」は、「人目」を受けて「離れ」となり、「草」を受けて「枯れ」となる掛詞。「離れ」は、「人が来なくなる」の意。「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。(注)打消の助動詞「ず」の連体形ではない。「思へば」は、「動詞の已然形+“ば”」で、順接の確定条件。「思うので」の意。 |
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■ 1
源宗于(みなもとのむねゆき、生年不詳 - 天慶2年11月23日(940年1月5日))は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。光孝天皇の孫。式部卿・是忠親王の子。官位は正四位下・右京大夫。三十六歌仙の一人。 寛平6年(894年)源朝臣姓を賜与されて臣籍降下し、従四位下に直叙される。寛平9年(897年)従四位上。 延喜5年(905年)兵部大輔、延喜8年(908年)右馬頭と醍醐朝前半は武官を歴任するが、延喜12年(912年)三河権守を兼ねると、相模守・信濃権守・伊勢権守と醍醐朝後半から朱雀朝初頭にかけて地方官を歴任する。 承平3年(933年)右京大夫に任ぜられて京官に復し、天慶2年(939年)正四位下に至る。天慶2年(940年)11月22日卒去。最終官位は正四位下行右京大夫。 寛平后宮歌合や是貞親王家歌合などの歌合に参加。紀貫之との贈答歌や伊勢に贈った歌などが伝わっており交流がうかがわれる。『古今和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に15首入集。家集に『宗于集』がある。『大和物語』に右京大夫として登場する。 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も 枯れぬと思へば(『古今和歌集』冬315 / 小倉百人一首 28番) ■ 『大和物語』には、宗于が自分の官位があがらないことを宇多天皇に嘆く話が載せられている。宇多天皇が紀伊の国から石のついた海松という海草を奉ったことを題として、人々が歌を詠んだとき、宗于は「沖つ風ふけゐの浦に立つ浪のなごりにさへやわれはしづまぬ(=沖から風が吹いて、吹井の浦に波が立ちますが、石のついた海松のようなわたくしは、その余波によってさえ波打ちぎわにもうち寄せられず、底に沈んだままでいるのでしょうか)」という歌を詠んで、自分の思いを伝えようとした。しかし、宇多天皇は「なんのことだろうか。この歌の意味が分からない」と側近の者にお話になっただけで効果はなかったという。 |
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■ 2
源宗于 生年未詳〜天慶二(?-939) 光孝天皇の孫。是忠親王の子(三十六歌仙伝)。ただし異本歌仙伝には「式部卿本康親王一男。仁明天皇孫歟」とある。「閑院大君」「閑院の御」などと呼ばれた娘のあったことが知られる(古今集で源昇に歌を贈っている「閑院」とは別人物だろうという)。寛平六年(894)臣籍に下って源姓を賜わる。丹波・摂津・参河・信濃・伊勢などの権守を勤め、正四位下右京大夫に至る。寛平御時后宮歌合や是貞親王家歌合などに出詠。紀貫之との贈答歌があり、親交が窺える。また『伊勢集』に伊勢に贈った歌がある。三十六歌仙の一人。小倉百人一首にも歌を採られている。家集『宗于集』がある。古今集の六首をはじめ、勅撰集には計十六首入集。また『大和物語』に右京大夫としてたびたび登場しており、身の不遇をかこつ挿話が多い。 春 / 寛平御時きさいの宮の歌合によめる ときはなる松のみどりも春来れば今ひとしほの色まさりけり(古今24) (常に不変の松の緑も、春が来たので、さらに一際色が濃くなるのだった。) 秋 / 題しらず 梓弓いるさの山は秋霧のあたるごとにや色まさるらむ(後撰379) (梓弓を射る、と言う入佐の山の木々は、秋霧があたるたびに紅葉の色が濃くなってゆくだろう。) 是貞親王家歌合の歌 いつはとは時はわかねど秋の夜ぞ物思ふことの限りなりける(古今189) (どの季節と限らず、いつでも物思いはするものだが、秋の夜こそは、この上なく深く物思いに沈むことだよ。) 冬 / 冬の歌とてよめる 山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば(古今315) (山里は、冬にこそひときわ寂しさが増さって感じられるのだ。人の訪れも途絶え、草も枯れてしまうことを思うと。) 恋 / 題しらず つれもなくなりゆく人の言の葉ぞ秋よりさきの紅葉なりける(古今788) (つれなくなってゆくあの人の言葉は、葉というだけあって、紅葉さながら移り変わるものだったのだ。まだ秋が来るには早すぎるのに。) からうじて逢ひ知りて侍りける人に、つつむことありて、逢ひがたく侍りければ あづまぢの小夜さやの中山なかなかに逢ひ見てのちぞわびしかりける(後撰507) (小夜の中山ではないが、苦労を越えてやっと逢えた人なのに、再び逢い難くなってしまい、かえって逢ってからの方がわびしさが増さることだ。) 題しらず 逢はずして今宵明けなば春の日の長くや人をつらしと思はむ(古今624) (逢えないままこの夜が明けたら、また春の永い一日が始まる――ちょうどその春の日のように長く、いつまでも、私は恋人を無情だと恨むだろう。) 命婦がもとにつかはしける よそながら思ひしよりも夏の夜の見はてぬ夢ぞはかなかりける(新勅撰1378) (逢わずに想っていた時よりも、夏の夜の見果てぬ夢(のような短い逢瀬)のほうが、儚かったのでした。) 兵部卿元良親王家歌合に 人恋ふる心は空になきものをいづくよりふる時雨なるらむ(続千載1540) (人を恋する心は我が胸にあって空にあるのでないのに、どこから降ってくる時雨なのだろうか。) 雑 / 故右京の大夫宗于の君、なりいづべき程に我が身のえなりいでぬことを思うたまひける頃ほひ、亭子の帝に「紀の国より石つきたる海松(みる)をなむたてまつりける」を題にて、人々歌よみけるに、右京の大夫、 沖つ風ふけゐの浦に立つ浪の名残にさへや我はしづまむ(大和物語) (沖つ風の吹く吹飯の浦に、波が立ち、退いてゆく――そのなごりの浅い水にさえ、私は沈んでしまうだろう。) |
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■29.凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) | |
心(こころ)あてに 折(お)らばや折(お)らむ 初霜(はつしも)の
置(お)きまどはせる 白菊(しらぎく)の花(はな) |
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● 当てずっぽうで折るなら折ってみようか。初霜がおりて区別しにくくなっている白菊の花を。 / 当てずっぽうに折るのなら折ってみようか。初霜が一面に降りたために真っ白になって、どれが花やら霜やら見分けがつかなくなってしまっている白菊の花を。 / あてずっぽうに折ってみようかな。真っ白な初霜が一面に降りて、霜なのか白菊なのか、わからなくさせている白菊の花さん。 / 無造作に折ろうとすれば、果たして折れるだろうか。一面に降りた初霜の白さに、いずれが霜か白菊の花か見分けもつかないほどなのに。
○ 心あてに / 六音で字余り。「心あて」は、当てずっぽう・当て推量。「に」は、手段・方法の格助詞。「体言+格助詞“に”」で連用修飾格。「当てずっぽうで(〜する)」の意。 ○ 折らばや折らむ / 「や」と「む」は、係り結び。「折らば」は、「動詞の未然形+接続助詞“ば”」で順接の仮定条件。「折るならば」の意。「や」は、疑問の係助詞。「む」は、意志の助動詞の連体形で「や」の結び。全体で、「もし折るならば、折ってみようか」の意。二句切れ。 ○ 初霜の / 「初霜」は、その年の最初におりる霜。「の」は、主格の格助詞。 ○ 置きまどはせる / 「まどはせ」は、動詞「まどはす」の命令形(已然形とする説もある)で、「まぎわらしくする」の意。「る」は、存続の助動詞「り」の連体形。(注)「る」は、動詞の活用語尾ではない。「置きまどはせる」で、白い初霜が白菊の花の上におりたため、初霜なのか白菊なのか区別しにくくなっていることを表す。 |
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■ 1
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね、貞観元年(859年)? - 延長3年(925年)?)は、平安時代前期の歌人・官人。姓は宿禰。一説では淡路権掾・凡河内ェ利の子。官位は六位・和泉大掾。三十六歌仙の一人。 寛平6年(894年)甲斐権少目、延喜7年(907年)丹波権大目、延喜11年(911年)和泉権掾、延喜21年(921年)淡路権掾に任ぜられるなど、宇多朝から醍醐朝にかけて地方官を歴任。延長3年(925年)和泉国から帰京してまもなく没したという。歌人として、歌合や賀歌・屏風歌において活躍し、昌泰元年(898年)の「朱雀院女郎花合」に出詠して以降、延喜7年(907年)宇多法皇の大堰川行幸、延喜16年(916年)石山寺御幸、延喜21年(921年)春日社参詣などに供奉して和歌を詠進した。またこの間の延喜5年(905年)には、紀貫之・紀友則・壬生忠岑と共に『古今和歌集』の撰者に任じられている。三十六歌仙の一人に数えられ、『古今和歌集』(58首)以下の勅撰和歌集に194首入集するなど、宮廷歌人としての名声は高い。家集に『躬恒集』がある。 なお、広峯神社祠官家である広峯氏は躬恒の末裔を称した。 ■ 『大和物語』132段に、醍醐天皇に「なぜ月を弓張というのか」と問われ、即興で「照る月をゆみ張としもいふことは山の端さして入(射)ればなりけり(=照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)」と応じたという話がある。『無名抄』によると貫之・躬恒の優劣を問われた源俊頼は「躬恒をばなあなづらせ給ひそ(=躬恒をばかにしてはいけません)」と言ったという。 ■代表歌 心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花 てる月を 弓張とのみ いふことは 山の端さして いればなりけり 春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる |
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■ 2
凡河内躬恒 生没年未詳 父祖等は不詳。凡河内(大河内)氏は河内地方の国造。寛平六年(894)二月、甲斐少目(または権少目)。その後、御厨子所に仕える。延喜七年(907)正月、丹波権大目。延喜十一年正月、和泉権掾。延喜二十一年正月、淡路掾(または権掾)。延長三年(925)、任国の和泉より帰京し、まもなく没したと推定される。歌人としては、昌泰元年(898)秋の亭子院女郎花合に出詠したのを始め、宇多法皇主催の歌合に多く詠進するなど活躍し、古今集の撰者にも任ぜられた。延喜七年九月、大井川行幸に参加。延喜十三年三月、亭子院歌合に参加。以後も多くの歌合に出詠し、また屏風歌などを請われて詠んでいる。古今集には紀貫之(九十九首)に次ぐ六十首を入集し、後世、貫之と併称された。貫之とは深い友情で結ばれていたことが知られる。三十六歌仙の一人。家集『躬恒集』がある。勅撰入集二百十四首。 春 / 雁かりの声を聞きて、越こしにまかりける人を思ひてよめる 春来れば雁かへるなり白雲の道ゆきぶりにことやつてまし(古今30) (春が来たので、雁が帰って行くようだ。白雲の中の道を行くついでに、越の国の友に言伝(ことづて)をしたいものだが。) 月夜に梅の花を折りてと人のいひければ、折るとてよめる 月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞ知るべかりける(古今40) (月の輝く夜には、月明かりが明るすぎて、はっきり見分けることも出来ません。梅の花は、香を探し訪ねてこそ、ありかを知ることができるものです。) 春の夜、梅の花をよめる 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる(古今41) (春の夜の闇は美しい彩(あや)がなく、筋の通った考えがない。梅の花は、その色は確かに見えないけれども、香は隠れたりするものか。見せまいといくら隠したところで、ありかは知られてしまうのだ。) 題しらず 咲かざらむものとはなしに桜花おもかげにのみまだき見ゆらむ(拾遺1036) (いつかは咲かないわけはないのに、桜の花があまり待ち遠しくて、面影にばかり、咲かないうちから見えるのだろう。) 桜の花の咲けりけるを見にまうで来たりける人に、よみておくりける わが宿の花見がてらに来る人は散りなむのちぞ恋しかるべき(古今67) (我が家の花を見るついでに私を訪ねる人は、散ってしまった後はもう来ないでしょうから、さぞかし恋しく思うでしょうねえ。) 延喜十五年二月十日、仰せ言によりて奉れる、和泉の大将四十の賀の屏風四帖、内よりはじめて、尚侍ないしのかみの殿にたまふ歌 山たかみ雲居にみゆる桜花こころのゆきてをらぬ日ぞなき(躬恒集) (山が高いので空に咲いているかのように見える桜の花よ。心だけはそこまで行って手折らぬ日とてないのだぞ。) 春 我が心春の山べにあくがれてながながし日を今日も暮らしつ(亭子院歌合) (私の心は桜の咲く春の山に誘われ、さまよい出てしまったまま、長い長い一日を今日も暮らしてしまった。) 題しらず いもやすく寝られざりけり春の夜は花の散るのみ夢に見えつつ(新古106) (ぐっすりとは寝られないものだなあ。春の夜は、花が散るのばかり繰り返し夢に見て。) さくらのちるをよめる 雪とのみ降るだにあるを桜花いかに散れとか風の吹くらむ(古今86) (ただもう雪が降るように散っているのに、このうえ桜の花がどういうふうに散れということで風が吹くのだろうか。) うつろへる花をみてよめる 花見れば心さへにぞうつりける色には出でじ人もこそ知れ(古今104) (散りゆく花を見ていると、心までもが移り気になってしまうよ。しかし顔色には出すまい。恋人に気づかれたら大変だ。) 鶯の花の木にてなくをよめる しるしなき音ねをも鳴くかな鶯の今年のみ散る花ならなくに(古今110) (何の効果もないのに鶯が声あげて啼くことだ。今年だけ散る花でもないのに。) 題しらず なくとても花やはとまるはかなくも暮れゆく春のうぐひすの声(続後撰149) (啼いたとて、花は散るのを止めてくれるだろうか。甲斐もなく暮れてゆく春の、鶯の声は――。) 題しらず おきふして惜しむかひなくうつつにも夢にも花の散る夜なりけり(金葉初度本98) (起きても寝ても惜しむ甲斐は一向になく、夢の中でさえ花が散る夜であったよ。) 花のちるをみてよめる 桜花ちりぬるときは見もはてでさめぬる夢の心地こそすれ(金葉初度本105) (桜の花が散ってしまった時は、見終わらないうちに覚めてしまった夢のような気持がすることだ。) 家に藤の花さけりけるを、人のたちとまりて見けるをよめる わが宿に咲ける藤波たちかへり過ぎがてにのみ人の見るらむ(古今120) (私の屋敷に咲いた藤の花を、引き返して引き返ししては、通り過ぎにくそうに人が見ているようだ。) やよひのつごもりの日、花つみよりかへりける女どもを見てよめる とどむべき物とはなしにはかなくも散る花ごとにたぐふ心か(古今132) (止められるものではないのに、はなかく散る花びらの一ひら一ひらに寄り添うように愛惜する我が心であるよ。) やよひのつごもり 暮れてまた明日とだになき春の日を花の影にてけふは暮らさむ(後撰145) (日が暮れてしまったら、もう春の日は明日さえないのだ。だから今日は思う存分、桜の花の陰で暮らそう。) 亭子院の歌合のはるのはてのうた けふのみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花のかげかは(古今134) (今日で春は終りと思わない時でさえ、この美しい花のかげから、たやすく立ち去るなどできようか。) 夏 / 題しらず 手もふれで惜しむかひなく藤の花そこにうつれば波ぞ折りける(拾遺87) (手も触れずに散るのを惜しんだ甲斐もなく、藤の花は水に映ると、波が折ってしまった。) 貞文(さだふん)が家の歌合に 郭公をちかへりなけうなゐ子がうちたれ髪のさみだれの空(拾遺116) (ほととぎすよ、繰り返し鳴け。幼な子の髫(うない)の垂れ髪が乱れているように降る五月雨の空に。) 郭公のなきけるをききてよめる ほととぎす我とはなしに卯の花のうき世の中になきわたるらむ(古今164) (ほととぎすは、私ではないのに、私と同じ様に、憂き世にあって啼き続けるのだろうか。) 隣より、とこなつの花を乞ひにおこせたりければ、をしみてこの歌をよみてつかはしける 塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹とわがぬるとこ夏の花(古今167) (寝床と同じ様に、塵ひとつ置かないように思っているのですよ、咲いてからずっと。妻と私が一緒に寝る床――その「とこ」という名を持つ「とこなつ」の花を。それほど大切にしている花なのですから、どうぞお宅でも大事にして下さい。) みな月のつごもりの日よめる 夏と秋と行きかふ空のかよひ路はかたへすずしき風や吹くらむ(古今168) (去りゆく夏と訪れる秋が行き違う空の通り路では、片方にだけ涼しい風が吹いているのだろうか。) 秋 我がせこが衣のすそを吹きかへしうらめづらしき秋の初風(躬恒集) (私の夫の衣の裾を吹いて翻し、裾裏を見せる――その「心(うら)」ではないが、心惹かれる秋の初風よ。) 七日なぬかの日の夜よめる たなばたにかしつる糸のうちはへて年の緒ながく恋ひやわたらむ(古今180) (七月七日には機織(はたおり)の上達を願って織女星に糸をお供えするけれども、その糸のように長く延ばして、何年も何年も私はあの人を恋し続けるのだろうか。) 雁のなきけるをききてよめる 憂きことを思ひつらねて雁がねのなきこそわたれ秋の夜な夜な(古今213) (雁どもが啼いている――私と同様、辛いことをいくつも思い並べて、鳴いて渡るのだ、秋の夜な夜な。) 昔あひしりて侍りける人の、秋の野にあひて、ものがたりしけるついでによめる 秋萩のふるえにさける花見れば本の心は忘れざりけり(古今219) (秋萩の去年の古い枝に咲いた花を見ると、花ももとの心を忘れなかったのだなあ。) 内侍のかみの右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、四季の絵かけるうしろの屏風にかきたりける歌 秋 住の江の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白波(古今360) (住の江の松を秋風が吹くにつれて、その松風の声に唱和するかのような沖の白波よ。) 清涼殿の南のつまに、みかは水ながれいでたり、その前栽に松浦沙あり、延喜九年九月十三日に賀せしめたまふ、題に月にのりてささら水をもてあそぶ、詩歌こころにまかす ももしきの大宮ながら八十島やそしまを見るここちする秋の夜の月(躬恒集) (大宮にいながらにして、たくさんの島を見渡せるような心地がする、秋の夜の月よ。) 題しらず 秋の野をわけゆく露にうつりつつ我が衣手は花の香ぞする(新古335) (秋の野を分けて行くと、露がふりかかり――その露に繰り返し匂いが移って、私の袖は花の香がすることだ。) 白菊の花をよめる 心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花(古今277) (当て推量に、折れるものならば折ってみようか。草葉に置いた初霜が見分け難くしている白菊の花を。) 池のほとりにて、もみぢのちるをよめる 風吹けば落つるもみぢ葉水きよみ散らぬ影さへ底に見えつつ(古今304) (風が吹くたびに落ちる紅葉――水が澄んでいるので、まだ散らずに残っている葉の姿までも底に映りながら。) 長月のつごもりの日よめる 道しらばたづねもゆかむもみぢ葉を幣ぬさとたむけて秋は去いにけり(古今313) (どの道を通るのか知っていたら、追ってもゆこうものを。散り乱れる紅葉を幣として手向けながら、秋は去ってしまうよ。) 冬 / 雪のふれるをみてよめる 雪ふりて人もかよはぬ道なれやあとはかもなく思ひ消ゆらむ(古今329) (雪が降り積もって、道は人も通わなくなったのだなあ。誰一人訪ねて来ず、このままでは寂しさに跡形もなく私の心は消えてしまうことだろう。) 恋 / 題しらず 初雁のはつかに声を聞きしよりなかぞらにのみ物を思ふかな(古今481) (初雁の声を耳にするように、あの人の声をほのかに聞いてからというもの、うわの空で物思いをしてばかりいるよ。) 題しらず 雲ゐより遠山鳥のなきてゆく声ほのかなる恋もするかな(新古1415) (空の高みを通って、遠くの山の山鳥が鳴いてゆく――その声をほのかに聞くように、遠くから僅かに声を聞くばかりの恋をすることだよ。) 題しらず 秋霧のはるる時なき心には立ちゐの空も思ほえなくに(古今580) (秋霧のように鬱々とした思いが常に立ち込め、晴れることのない私の心は、立ったり座ったりするのも気づかないほど上の空であるよ。) 題しらず ひとりして物を思へば秋の夜の稲葉のそよといふ人のなき(古今584) (秋の夜、独りで物思いに耽っていると、風が稲葉をそよがせる音が心にしみて聞える――その「そよ」ではないが、そんな時、私の思いに共感して声をかけてくれる人がいないのが辛い。) 題しらず 夏虫をなにか言ひけむ心から我も思ひにもえぬべらなり(古今600) (夏の虫のことを何でまたあげつらったのだろう。私もまた、自分の心から恋の思いに燃えてしまうだろうに。) 題しらず 君をのみ思ひ寝にねし夢なれば我が心から見つるなりけり(古今608) (あなたのことばかり思いながら寝入って見た夢だから、私の心が原因で見た夢だったのだなあ。) うつつにも夢にも人に夜し逢へば暮れゆくばかり嬉しきはなし(亭子院歌合) (現実でも夢でも恋人とは夜に逢うので、日が暮れて行くことほど嬉しいことはない。) 題しらず わが恋はゆくへも知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ(古今611) (この恋は、行方もわからず、果ても知らない。いったいどこに辿り着くというのだろう。ただこれだけは言える、今はただ、あの人と逢うことが終着点と思うばかりなのだ。) 題しらず 長しとも思ひぞはてぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば(古今636) (必ずしも長いとは思い決めないよ。昔から、逢う人によって決まる秋の夜の長さなのだから。) 題しらず わがごとく我を思はむ人もがなさてもや憂きと世をこころみむ(古今750) (私が相手を思うように私を思ってくれる人がいてほしい。それでも人と人の仲は厭わしいものかと試してみたい。) おなじ所に宮仕へし侍りて常に見ならしける女につかはしける 伊勢の海に塩焼く海人の藤衣なるとはすれど逢はぬ君かな(後撰744) (伊勢の海で塩を焼く海人の粗末な衣がくたくたに褻(な)れているように、見慣れてはいるけれど逢瀬は遂げていないあなたですよ。) 恋歌の中に 五月雨のたそかれ時の月かげのおぼろけにやはわれ人を待つ(玉葉1397) (梅雨の頃の黄昏時の月の光がよくぼんやりしているように、ぼんやりと好い加減な気持で私があなたを待っているとでもお思いですか。) 雑 / 越の国へまかりける人によみてつかはしける よそにのみ恋ひやわたらむしら山の雪見るべくもあらぬわが身は(古今383) (遠くからずっと恋い慕ってばかりいるのでしょうか。白山の雪を見に行くすべもない私は。) 甲斐の国へまかりける時に、道にてよめる 夜をさむみ置く初霜をはらひつつ草の枕にあまたたび寝ぬ(古今416) (夜はひどく冷え込み、草葉に初霜が置く――その霜を払いながら、草を枕に何度も目覚めてはまた寝たことだ。) 母がおもひにてよめる 神な月しぐれにぬるるもみぢ葉はただわび人のたもとなりけり(古今840) (神無月の時雨に濡れる紅葉の色は、嘆き悲しむ私の血の涙に染まった袖の色そのままです。) 題しらず 見る人にいかにせよとか月影のまだ宵のまに高くなりゆく(玉葉2158) (見る人にどうしろというのだろうか、まだ日暮れて間もないうちから、月がどんどん高くなってゆく。) 延喜御時、御厨子所にさぶらひけるころ、沈めるよしを歎きて、御覧ぜさせよとおぼしくて、ある蔵人に贈りて侍りける十二首がうち いづことも春の光はわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる(後撰19) (どこでも春の光は分け隔てなく射すはずですのに、この吉野山ではまだ雪が降っております。) 物思ひける時、いときなき子を見てよめる 今更になにおひいづらむ竹の子のうきふししげき世とは知らずや(古今957) (不憫な我が子よ、今更どうして成長してゆくのか。竹の子の節ではないが、辛い折節の多い世とは知らないのか。) 友だちの久しうまうでこざりけるもとに、よみてつかはしける 水のおもにおふる五月の浮き草の憂きことあれやねをたえてこぬ(古今976) (水面に生えている五月の浮草ではないが、憂きことがあるのだろうか、まるで浮草の根が切れたようにぷっつりとあなたの音信も絶えた。) 淡路のまつりごと人の任果てて上りまうで来ての頃、兼輔朝臣の粟田の家にて ひきてうゑし人はむべこそ老いにけれ松のこだかくなりにけるかな(後撰1107) (小松を引き抜いて植えた人が年老いたのも無理はありません。その松がこれほど高くなるまで育ったのですから。) 法皇西河におはしましたりける日、猿山の峡に叫ぶといふことを題にてよませ給うける わびしらに猿ましらななきそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ(古今1067) (物悲しげに哭くな、猿よ。おまえの棲む山に峡(かい)があるように、甲斐のある今日ではないか。) |
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■30.壬生忠岑 (みぶのただみね) | |
有明(ありあけ)の つれなく見(み)えし 別(わか)れより
暁(あかつき)ばかり 憂(う)きものはなし |
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● 有明の月がつれなく見えた。薄情に思えた別れの時から、夜明け前ほど憂鬱なものはない。 / 明け方の月が冷ややかに、そっけなく空に残っていたように、あなたが冷たく見えたあの別れ以来、夜明けほどつらく思えるものはありません。 / 夜明け前の有明の月が、明け方の空にそっけなく光っていたときの、あなたとの冷たくそっけない別れの日以来、夜明けの暁ほど、わたしにとって切なくて辛いものはありません。 / あなたと別れたあの時も、有明の月が残っていましたが、(別れの時のあなたはその有明の月のようにつれないものでしたが) あなたと別れてからというもの、今でも有明の月がかかる夜明けほどつらいものはありません。
○ 有明の / 「有明」は、陰暦で、16日以後月末にかけて、月が欠けるとともに月の入りが遅くなり、空に月が残ったまま夜が明けること。また、その月。「の」は、主格(連体修飾格という説もある)の格助詞。 ○ つれなく見えし / 「つれなく」は、「冷淡だ・無情だ・平気だ」の意。何がつれないのかは、「女」「月」「両方」の三説がある。「し」は、体験回想を表す過去の助動詞「き」の連体形。 ○ 別れより / この場合の「別れ」には、後朝(きぬぎぬ)の別れ、すなわち、共寝をして帰る朝の別れと女にふられて何もできなかった朝の別れの二説がある。「より」は、起点を表す格助詞。「〜の時から」の意。 ○ あかつきばかり / 「あかつき(暁)」は、「明時(あかとき)」の転で、夜明け前の暗い状況。暁→曙(あけぼの)・東雲(しののめ)→朝ぼらけの順で明るくなる。「ばかり」は、程度の副助詞で、「〜ほど」の意。 ○ 憂きものはなし / 「憂き」は、形容詞「憂し」の連体形で、「つらい・憂鬱だ」の意。 |
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■ 1
壬生忠岑(みぶのただみね)は、平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。 甲斐国造家の壬生直の一族で、従五位下・壬生安綱の子、あるいはある木工允・壬生忠衡子の説があるが、『三十六人歌仙伝』では「先祖不見」とあり、『歌仙伝』の方が古体であることを考慮すれば、不明であるとするのが穏当とされる。子におなじく三十六歌仙の一人である壬生忠見がいる。 身分の低い下級武官であったが、歌人としては一流と賞されており、『古今和歌集』の撰者として抜擢された。官人としては、定外膳部、六位・摂津権大目に叙せられたことが『古今和歌集目録』にみえるが、『歌仙伝』『忠見集』などの記載によれば、これらの官職についたのは息子の忠見であったらしく、『目録』の記載は疑わしいとされる。確実なのは『古今和歌集』「仮名序」をはじめ、諸史料にみえる右衛門府生への任官だけである。また、『大和物語』によると藤原定国の随身であったという。 後世、藤原定家、藤原家隆から『古今和歌集』の和歌の中でも秀逸であると作風を評価されている。藤原公任の著した『和歌九品』では、上品上という最高位の例歌として忠岑の歌があげられている。『拾遺和歌集』の巻頭歌にも撰ばれ、通常は天皇や皇族の歌を置いて儀礼的意義を高める勅撰集の巻頭歌に忠岑の歌が撰ばれたのは、彼の評価がそれだけ高かったからと言える。また、歌学書として『和歌十種』を著したとされるが、近時は10世紀後半以降、『拾遺和歌集』成立の頃に忠岑に仮託されて作られたものとみる説が有力である。『古今和歌集』(34首)以下の勅撰和歌集に81首が入首。家集『忠岑集』を残している。 ■代表歌 春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みてけさは見ゆらむ (拾遺・巻頭歌) 風吹けば峰にわかるる白雲の絶えてつれなき君が心か (古今・恋二・601) 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし (古今・恋三・625) 春日野の雪間を分けて生き出てくる草のはつかに見えし君はも (古今和歌集巻十一、今昔秀歌百撰) |
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■ 2
壬生忠岑 生没年未詳 忠峯、忠峰などとも書く。父は散位安綱。子に忠見がいる。身分の低い武官の出身だったらしく、若い頃は六衛府の下官を歴任。左兵衛番長を経て、延喜初年頃、右衛門府生。その後、御厨子所預などを経て、摂津権大目。『古今和歌集目録』は最終官位を六位とするが、官歴からして位が高すぎると疑問視する説もある。また『大和物語』百二十五段には、藤原定国(醍醐天皇生母である胤子の弟で、大納言右大将に至る)の随身だったと見える。歌人としては、寛平年間から活躍が見え、是貞親王家歌合や、五年(893)の后宮歌合などに参加。延喜七年(907)、宇多法皇の大井川行幸に献歌。古今集撰者。家集『忠岑集』がある。また歌論書『和歌体十種』の序に忠岑の撰とあるが、偽作説が有力である。三十六歌仙の一人。勅撰入集計八十四首。 春 / 平貞文が家の歌合に詠み侍りける 春たつといふばかりにやみ吉野の山もかすみて今朝は見ゆらむ(拾遺1) (春になったと、そう思うだけで、山深い吉野山もぼんやりと霞んでいかにも春めいて今朝は見えるのだろうか。) 春のはじめの歌 春来ぬと人はいへども鶯の鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ(古今11) (春が来たと世間の人は言うけれども、鶯が鳴かないうちは、まだ春ではあるまいと私は思うよ。) 平貞文が家の歌合に 春はなほ我にてしりぬ花ざかり心のどけき人はあらじな(拾遺43) (春という季節はやはりそうなのだと、我が身を顧みて知ったよ。花盛りの時に、心のどかでいる人などあるまいよなあ。) 夏 / 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 暮るるかと見れば明けぬる夏の夜をあかずとやなく山郭公(古今157) (日が暮れたかと見れば、たちまち明けてしまう夏の夜――その短さを不満だと鳴くのか、山ほととぎすよ。) はやく住みける所にて時鳥の啼けるを聞きてよめる むかしべや今も恋しき時鳥ふるさとにしも啼きて来つらむ(古今163) (昔が今も恋しいのか、ほととぎすよ。それでおまえは馴染みの古里に啼きながらやって来たのだろう。) 題しらず 夢よりもはかなきものは夏の夜の暁がたの別れなりけり(後撰170) (夢での逢瀬もはかないけれど、もっと果敢なく辛いもの――それは夏の短か夜が明けようとする頃の、恋人との別れであったよ。) 右大将定国四十の賀に内より屏風調てうじてたまひけるに おほあらきの森の下草しげりあひて深くも夏のなりにけるかな(拾遺136) (「老いぬれば」と歌われた大荒木の森の下草だが、今は盛んに茂り合って、草深くなっている。そのように、夏も深まったことだなあ。) 延喜御時、月次屏風に 夏はつる扇あふぎと秋の白露といづれかまづは置かむとすらむ(新古283) (夏が終わって扇を置き捨てるのと、秋の白露が草葉の上に置くのと、どちらが先になるのだろうか。) 秋 / 是貞のみこの家の歌合によめる 久方の月の桂も秋はなほ紅葉すればやてりまさるらむ(古今194) (月に生えている桂の木も、秋はやはり紅葉するので、このようにいっそう照り輝くのだろう。) 是貞のみこの家の歌合の歌 山里は秋こそことにわびしけれ鹿のなくねに目をさましつつ(古今214) (山里は秋こそが取り分け侘びしいよ。鹿の鳴く声に毎朝目を覚まして。) 是貞のみこの家の歌合に 松のねに風のしらべをまかせては龍田姫こそ秋はひくらし(後撰265) (松がたてる音に風の奏でる曲調を任せて、秋という季節には龍田姫が琴を弾くらしい。) 朱雀院の女郎花合によみてたてまつりける 人の見ることやくるしきをみなへし秋霧にのみたちかくるらむ(古今235) (人に見られることが辛いのだろうか。女郎花は、秋の霧に隠れてばかりいる。) 是貞のみこの家の歌合によめる 秋の夜の露をば露とおきながら雁の涙や野べをそむらん(古今258) (鮮やかに色づいた野辺の草木を見れば、秋の夜の露を露として置いているものの、そのためにこれ程紅くなったとは見えない。とすれば、空を渡る雁の涙が落ちて、紅く染めるのであろうか。) 是貞のみこの家の歌合の歌 山田もる秋のかりいほにおく露はいなおほせ鳥の涙なりけり(古今306) (山裾の田を見張る秋の仮庵に置いている露は、稲負鳥(いなおほせどり)の涙であったよ。) 右大将定国の家の屏風に 千鳥鳴く佐保の川霧たちぬらし山の木の葉も色かはりゆく(拾遺186) (千鳥の鳴く佐保川の川霧が立ちのぼったらしい。周囲の山々の木の葉も色が変わってゆく。) 冬 / 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 (二首) み吉野の山の白雪ふみわけて入りにし人のおとづれもせぬ(古今327) (積もった白雪を踏み分けて吉野の山深く入って行った人が、その後は便りも寄越さない。) しら雪のふりてつもれる山里はすむ人さへや思ひきゆらむ(古今328) (白雪が降り積もった山里は、心が沈んでゆくようで、住む人さえも思いの火が消えるのであろうか。) 恋 / 春日のまつりにまかれりける時に、物見にいでたりける女のもとに、家をたづねてつかはせりける 春日野の雪まをわけておひいでくる草のはつかに見えし君はも(古今478) (春日野の雪の間を分けて芽生え、育ってくる草のように、ほんのちょっとだけ見えたあなたですことよ。) 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 かきくらしふる白雪の下ぎえにきえて物思ふころにもあるかな(古今566) (空をかき曇らせて降り、盛んに地面に積もる雪が、下の方から融けて消えてゆくように、心の底では消え入りそうな思いをしながら過ごしているこの頃であるよ。) 題しらず 秋風にかきなす琴の声にさへはかなく人の恋しかるらむ(古今586) (秋風の吹く中、どこかでかき鳴らす琴の音が聞こえただけで、あの人が恋しくなるのだ。むなしいと分かっているのに、どうしてなのだろう。) 題しらず (二首) 風吹けば峯にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か(古今601) (風が吹いた途端、峰から離れてゆく白雲のように、全く素っ気もないあなたの心であるよ。) 月かげにわが身をかふる物ならばつれなき人もあはれとや見む(古今602) (誰しも月を賞美するから、月に我が身を変えることができるならば、無情なあの人もいとしいと思って私を見てくれるだろうか。) 題しらず 命にもまさりて惜しくあるものは見はてぬ夢のさむるなりけり(古今609) (命にもまさって惜しいのは、すっかり見終わらないうちに夢が覚めてしまうことであったのだなあ。) 〔題欠〕 わが玉を君が心に入れかへて思ふとだににも知らせてしがな(忠岑集) (私の魂をあなたの心に入れ替えて、恋しく思っていることだけでも知らせたい。) 〔題欠〕 日暮るれば山のは出づる夕づつの星とは見れどはるけきやなぞ(忠岑集) (日が暮れると山の端から現れる宵の明星――その「ほし」ではないが、「欲し」とあなたを見るけれど、遥かに遠いのは何故か。) 題しらず 有明のつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし(古今625) (有明の月が、夜の明けたのも知らぬげにしらじらと空に残っていた、あの別れ以来、暁ほど厭わしいものはなくなった。) 題しらず 思ふてふことをぞねたく古ふるしける君にのみこそ言ふべかりけれ(後撰741) (「思う」という詞を、悔しいことに、使い古してしまいました。あなたにだけ言うべきでしたのに。) 題しらず もろくともいざしら露に身をなして君があたりの草にきえなむ(新勅撰883) (もろい命であろうと知ったものか。さあ白露にわが身をなして、あなたの近くの草の上で消えたいよ。) 哀傷 / あひしれりける人の身まかりにける時によめる ぬるがうちに見るをのみやは夢といはむ儚き世をもうつつとはみず(古今835) (寝ている間に見る物ばかりを夢と言おうか。いや、はかないこの世にしたところで、現実とは思えないのだ。) あねの身まかりにける時によめる 瀬をせけば淵となりてもよどみけり別れをとむるしがらみぞなき(古今836) (瀬の流れを塞き止めると、淵となって淀みができます。しかし、この永遠の別れを止める柵などありません。) 紀友則が身まかりにける時よめる 時しもあれ秋やは人のわかるべきあるを見るだに恋しきものを(古今839) (時もあろうに、秋に人と別れるなんて、そんなことがあってよいものだろうか。生きている姿を見ているだけでも、恋しいものなのに。) ちちがおもひにてよめる ふぢ衣はつるる糸はわび人の涙の玉の緒とぞなりける(古今841) (喪服のほつれた糸は、悲しみに心を乱す人の涙を貫きとめる緒となったことです。) おもひに侍りける人をとぶらひにまかりてよめる 墨染の君がたもとは雲なれやたえず涙の雨とのみふる(古今843) (薄墨色のあなたの袂は雲でしょうか。絶えず涙が雨のごとくに降っています。) 雑 / 題しらず 東路のさやの中山さやかにもみえぬ雲ゐに世をやつくさむ(新古907) (東国への道中にある佐夜の中山――その頂のはっきりと見えない雲の中で一生を終えるのだろうか。) 題しらず 君が代にあふさか山の岩清水こがくれたりと思ひけるかな(古今1004) (めでたい我が君の代に逢っているのに、逢坂山の岩清水が木隠れているように、卑しい身分のまま世間に埋もれている我が身と思うことです。) |
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■ 3
「一目ぼれ」の歌 平安時代の男性は、めったに女性の姿を見ることがなかったと言われています。では、そんな彼らが、何らかのきっかけで女性の姿を見て一目ぼれしたとしたら、いったどんな和歌を詠むのでしょうか? 最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を開いてみると 春日野の雪間をわけておひいでくる草のはつかに見えし君はも 山ざくら霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ といった和歌を見つけることができます。最初の和歌は壬生忠岑、次の和歌は紀貫之の作です。これらは、「春日野の雪間をわけておひいでくる草のはつかに見えし」(春日野の雪の間をわけて伸び出してきた若草がちらりと見えた)「山ざくら霞の間よりほのかにも見てし」(山桜を霞の間からちらりと見た)というように、まずは自然の情景を述べるところから詠み始めています。そして、「はつかに見えし」「ほのかにも見てし」というところから一転して、「はつかに見えし君はも」(ちらりと見えたあなたであることよ)「ほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ」(ちらりと見たあなたのことが今も恋しい)と収めています。つまり、自然の映像を利用しながら、相手をちらっと見たことを表現しているわけです。すると、どうやら、歌のポイントは「ちらっと感」にあるということになりそうですね。一目ぼれの歌なのですから、いかに「ちらっと」あなたのことを見たのかを訴えているわけです。 似たような作り方をした歌は『万葉集』にも見つけることができます。「朝霧のおほに相見し人ゆゑに命死ぬべく恋ひ渡るかも」「夕月夜暁闇のおほほしく見し人ゆゑに恋ひ渡るかも」などがそれですが、これらでも「朝霧のおほに」「夕月夜暁闇のおほほしく」は、相手の姿をぼんやりとしか見られなかったことを自然の映像を利用して表現する機能を担っています。しかし、これらと比べてみると、忠岑や貫之の歌の更なる工夫が見えてきます。実は詞書によると、忠岑の歌は春日祭に出かけた時に姿を見た女性に、貫之の歌は花摘みをしていた女性に贈ったものだったのです。つまり、「春日野の雪間をわけておひいでくる草のはつかに見えし」「山ざくら霞の間よりほのかにも見てし」という自然の情景は、単に「ちらっと感」を表現するだけでなく、一目ぼれの現場を想像させる効果もあった、言い換えれば相手の女性をそれぞれ「(春日でちらっと見えた)草」「(霞の間からちらっと見た)山桜」にたとえてもいたということになります。 すると、こういうことになりそうです。忠岑や貫之は、万葉以来の歌の型を踏まえながら、その自然表現に更なる工夫をこらし、「ちらっと感」のみならず、一目ぼれした現場感をも表現しようとした、と。 実は在原業平は、これらの伝統を根底から覆すような「一目ぼれ」の和歌を詠んでいるのですが、その分析はみなさんにお任せすることにしましょう。 |
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■31.坂上是則 (さかのうえのこれのり) | |
朝(あさ)ぼらけ 有明(ありあけ)の月(つき)と 見(み)るまでに
吉野(よしの)の里(さと)に 降(ふ)れる白雪(しらゆき) |
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● 夜がほのかに明けるころ、有明の月かと思うほどに、吉野の里に降っている白雪であることよ。 / ほのぼのと夜が明けるころ、明け方の月が照らしているのかと見間違えるほどに、吉野の里に白く降り積もっている雪であることよ。 / ほのぼのと夜が明けていくころ、外を眺めると、有明の月の光かと思うほどに、吉野の里(現在の奈良県南部)に真っ白な雪が降りつもっているなぁ。 / 夜が明ける頃あたりを見てみると、まるで有明の月が照らしているのかと思うほどに、吉野の里には白雪が降り積もっているではないか。
○ 朝ぼらけ / 夜が明けて、ほのぼのと明るくなる時分。暁(あかつき)→曙(あけぼの)・東雲(しののめ)→朝ぼらけの順で明るくなる。 ○ 有明の月 / 「有明」は、陰暦で、16日以後月末にかけて、月が欠けるとともに月の入りが遅くなり、空に月が残ったまま夜が明けること。「有明の月」は、その状態で出ている月。 ○ 見るまでに ―「見る」は、「思う」の意。実際に「有明の月」を見ているわけではない。「まで」は、程度を表す副助詞。「〜ほど・くらい」の意。雪の白さを「有明の月かと思うほど」という表現で強調している。 ○ 吉野 ―大和(奈良県)の南部。山間部で雪が多い。 ○ ふれる白雪 / 「ふれ」は、動詞「降(ふ)る」の命令形。「る」は、存続の助動詞「り」の連体形。「降っている」の意。(注)「降(ふ)れ+る」であり、「ふれる(降れる・触れる・振れる)」で一語の動詞ではない。 |
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■ 1
坂上是則(さかのうえのこれのり、生年不詳 - 延長8年(930年))は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。右馬頭・坂上好蔭の子。子に望城がいる。官位は従五位下・加賀介。三十六歌仙の一人。 延喜8年(908年)大和権少掾次いで大和大掾に任ぜられる。延喜12年(912年)少監物に転ずると、中監物・少内記を経て、延喜21年(921年)大内記と醍醐朝中期は京官を歴任した。延長2年(924年)従五位下・加賀介に叙任され、再び地方官に転じている。延長8年(930年)卒去。 「寛平后宮歌合」や「大井川行幸和歌」など、宇多朝から醍醐朝にかけての和歌行事に度々進詠し、『古今和歌集』の撰者らに次ぐ歌人であった。『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に39首が入集。家集に『是則集』がある。また、蹴鞠に秀でていたらしく、延喜5年(905年)3月2日に宮中の仁寿殿において醍醐天皇の御前で蹴鞠が行われ、そのとき206回まで続けて蹴って一度も落とさなかったので、天皇はことのほか称賛して絹を与えたという。 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪(『古今和歌集』、小倉百人一首) |
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■ 2
坂上是則 生没年未詳 「坂上系図」(続群書類従)によれば征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫で、従四位上右馬頭好蔭の子。後撰集の撰者望城の父。延喜八年(908)、大和権少掾。のち大和権掾・少監物・中監物・少内記・大内記をへて、延長二年(924)正月、従五位下に叙せられ加賀介に任ぜられた。寛平五年(893)頃の后宮歌合をはじめ、延喜七年(907)の大井川行幸、同十三年の亭子院歌合など晴の舞台で活躍した。蹴鞠の名手でもあったという。三十六歌仙の一人。定家の百人一首にも歌を採られている。家集『是則集』がある。古今集初出。勅撰入集四十三首。 春 / 前栽に、竹の中に桜の咲きたるをみて 桜花けふよく見てむ呉竹のひとよのほどに散りもこそすれ(後撰54) (竹叢の中に咲いている桜の花を今日よく見ておこう。竹の一節(ひとよ)ではないが、たった一夜のうちに散ってしまうこともあるから。) 亭子院の歌合に 花の色をうつしとどめよ鏡山春よりのちの影や見ゆると(拾遺73) (その名のごとく、花の色を山腹に写して留めよ、鏡山。春が去ったのち、面影が見えるかと思うので。) 延喜十三年亭子院歌合歌 水底みなそこにしづめる花のかげ見れば春はふかくもなりにけるかな(続古今159) (水底に沈んでいる花びらの姿を見れば、春という季節もすっかり深まったのだなあ。) 夏 / 女四のみこの家歌合に 山がつと人は言へどもほととぎすまつ初声は我のみぞ聞く(拾遺103) (山人と言って都の人たちは卑しむけれども、皆が待望する時鳥の初音は真っ先に私が独り占めにして聞くことだ。) 秋 / 屏風の絵によみあはせてかきける かりてほす山田の稲のこきたれてなきこそわたれ秋の憂ければ(古今932) (刈って干した山田の稲をしごくと、籾がこぼれ落ちる――その「扱き垂れ」ではないが、雁がぽろぽろ涙を垂らしながら、ほら啼いて渡るよ、秋という季節は悲しいので。) 題しらず うらがるる浅茅が原のかるかやのみだれて物を思ふ頃かな(新古345) (葉先が枯れた浅茅の生える原――その萱が秋風に乱れるように、心乱れて物思いをするこの頃であるよ。) 題しらず いく千里ちさとある道なれや秋ごとに雲ゐを旅と雁のなくらむ(新拾遺498) (幾千里ある道なのだろうか。秋になるたび、空を旅路として雁が啼くことよ。) 秋の歌とてよめる 佐保山のははその色はうすけれど秋はふかくもなりにけるかな(古今267) (佐保山の雑木林の葉がうっすらと色づいた――その色は薄いのだけれど、秋という季節はすっかり深まったことであるよ。) 龍田河のほとりにてよめる もみぢ葉のながれざりせば龍田川水の秋をばたれかしらまし(古今302) (紅葉した葉が流れないとしたら、龍田川の水にも秋という季節があることを誰が知ろうか。) 延喜の御時の菊合に わぎもこがひもゆふぐれの菊なればあかずぞ花の色はみえける(続後拾遺385) (夕暮の光に映える菊なので、見飽きることもないほど花の色は美しく見えるよ。) 冬 / 奈良の京にまかれりける時に、やどれりける所にてよめる み吉野の山の白雪つもるらし古里さむくなりまさるなり(古今325) (吉野の山では雪が積もっているに違いない。奈良の古京ではますます寒さが厳しくなってゆくのを感じる。) 大和の国にまかれりける時に、雪のふりけるをみてよめる 朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪(古今332) (夜がほのぼのと明ける頃、有明の月の光かと見えるほど、吉野の里にしらじらと降り積もった白雪よ。) 恋 / 題しらず わたの底かづきてしらむ君がため思ふ心のふかさくらべに(後撰745) (海の底に潜って確かめよう。私があなたのことを思う心がどれほど深いか、その深さを海と比較しに。) 題しらず わが恋にくらぶの山のさくら花まなくちるとも数はまさらじ(古今590) (私の恋にくらぶの山の桜の花を較べれば、花が絶えず散ったところで、私があの人を恋しく思う回数には勝るまい。) 題しらず をしかふす夏野の草の道をなみしげき恋路にまどふ頃かな(新古1069) (牡鹿が臥す夏野は草が茂って道がないように、物思いの絶えない恋の道に惑うこの頃であるよ。) 題しらず かつきえぬ涙が磯のあはびゆゑ海てふ海はかづきつくしつ(是則集) (途切れることのない涙に濡れる片思いのために、海という海は潜り尽くしたと言えるほどだ。) 題しらず 恋しさの限りだにある世なりせば年へて物は思はざらまし(続古今1306) (せめて恋しさに限りのあるこの世であったなら、これほど何年にもわたって思い悩むことはないだろうに。) 題しらず 逢ふことを長柄の橋のながらへて恋ひわたるまに年ぞへにける(古今826) (逢うことがないまま、長柄の橋のように生き長らえて、恋し続けるうちに年を経てしまったよ。) あひて後あひがたき女に 霧ふかき秋の野中の忘れ水たえまがちなる頃にもあるかな(新古1211) (霧が深く立ちこめた秋の野を流れる忘れ水のように、あの人との仲が途絶えがちなこの頃であるよ。) 人のもとより帰りまで来てつかはしける 逢ひ見てはなぐさむやとぞ思ひしになごりしもこそ恋しかりけれ(後撰794) (逢瀬を遂げれば、気持もなぐさむかと思ったのに、じっさい逢ってみたら、名残りこそが恋しくてならなかったよ。) |
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■32.春道列樹 (はるみちのつらき) | |
山川(やまがは)に 風(かぜ)のかけたる しがらみは
流(なが)れもあへぬ 紅葉(もみぢ)なりけり |
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● 山中を流れる川に風がかけたしがらみは、完全に流れきらずにいる紅葉だったのだなあ。 / 山あいを流れる川に風が作ったしがらみ(川の流れをせき止める柵)は、よく見ると流れることができないでたまっている紅葉の葉であったのだなあ。 / 山のなかを流れる川に、風が架けた、川を堰き止めるように造られたしがらみは、川面にたくさん散って流れかねている紅葉なのだなぁ。 / 山あいの谷川に、風が架け渡したなんとも美しい柵があったのだが、それは (吹き散らされたままに) 流れきれずにいる紅葉であったではないか。
○ 山川に / 「やまがは」で、山の中を流れる川。詞書に、「志賀の山ごえにてよめる」とあるので、この山川は、京都から大津へと抜ける山中の川。「に」は、場所を表す格助詞。 ○ 風のかけたるしがらみは / 「の」は、主格の格助詞。その後に、「かけたるしがらみ」と続くので、「風」が擬人化されている。「たる」は、動詞の連用形に接続しているので、完了の助動詞「たり」の連体形。「しがらみ」は、「柵」で、川の中に杭を打ち、竹や柴を横向きに結び付けて、水の流れをせきとめるもの。 ○ 流れもあへぬ / 「も」は、強意の係助詞。「あへ」は、「動詞+あへ」で、「完全に〜する」の意。多くは、打消の語をともない、「完全に〜しきらない・しきれない」となる。「ぬ」は、打消の助動詞の連体形。 ○ 紅葉なりけり / 「紅葉」が、「しがらみ」に見立てられている。「なり」は、断定の助動詞。「けり」は詠嘆の助動詞で、今まで意識していなかったことに気づいた驚きや感動を表す。 |
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■ 1
春道列樹(はるみちのつらき、生年未詳 - 延喜20年(920年))は、平安時代前期の官人・歌人。主税頭(一説に雅楽頭)・春道新名の子。官位は六位・壱岐守。 延喜10年(910年)に文章生となり、大宰大監を経て、延喜20年(920年)に壱岐守に任じられたが、赴任前に没したという。勅撰歌人として、和歌作品が『古今和歌集』に3首、『後撰和歌集』に2首入集している。小倉百人一首 32番 山川に風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり(『古今和歌集』秋下303) |
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■ 2
春道列樹 生年未詳〜延喜二十(920) 主税頭新名の一男。春道氏は物部氏の末流(『三代実録』貞観六年五月十一日条)。延喜十年(910)、文章生に補せられる。大宰大典を経て、同二十年(920)、壱岐守となるが、赴任する以前に没した(『古今和歌集目録』)。古今集に三首、後撰集に二首入集。小倉百人一首にも歌を採られている。 志賀の山越えにてよめる 山川やまがはに風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり(古今303) (山中の小川に風がかけたしがらみは、瀬に溜まって流れることもできない散り紅葉なのであったよ。) 年のはてによめる 昨日といひ今日と暮らしてあすか川流れてはやき月日なりけり(古今341) (昨日と言い今日と言って日々を暮らし、明日はもう新年を迎える。飛鳥川の流れが速いように、あっと言う間に過ぎ去ってゆく月日であることよ。) 題しらず 梓弓ひけばもとすゑ我が方によるこそまされ恋の心は(古今610) (梓弓を引けば、本と末が私の方に寄って来る――その「寄る」ではないが、夜になるとつのるよ、恋心は。) |
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■33.紀友則 (きのとものり) | |
ひさかたの 光(ひかり)のどけき 春(はる)の日(ひ)に
静心(しづこころ)なく 花(はな)の散(ち)るらむ |
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● 日の光がのどかに降りそそぐ春の日に、どうして落ち着いた心もなく、桜の花は散ってしまうのだろう。 / 日の光がこんなにものどかな春の日に、どうして桜の花だけが落ち着いた気持ちもなく、慌ただしく散ってしまうのだろうか。 / 陽の光の暖かでのどかな、こんな春の日に、桜の花は、どうして落ち着きもなく散り急いでるのだろう。 / こんなにも日の光が降りそそいでいるのどかな春の日であるのに、どうして落着いた心もなく、花は散っていくのだろうか。
○ ひさかたの / 「光」にかかる枕詞。ほかに、「天・日・月・空・雲・雨」など天空や気象に関するものにかかる。 ○ 光のどけき / 「光」は、日の光。「のどけき」は、形容詞「のどけし」の連体形で、「のどかだ・穏やかだ」の意。「光のどけき」で、「春の日」を修飾する連体修飾格となり、「光がのどかな」の意、。 ○ 静心なく / 「静心」は、静かな心・落ち着いた心。「花」を心のあるものとして擬人化している。「静心なく」で、「散るらむ」を修飾する連用修飾格となり、「落ち着いた心がなく」の意。「のどけき」と「静心なく」が対照されている。 ○ 花の散るらむ / 「の」は、主格の格助詞。「らむ」は、原因推量の助動詞で、「落ち着いた心がない」原因を推量する。また、「花の散る」原因を「静心なく」とし、「落ち着いた心がないので、花は散るのだろう」とする説もある。 |
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■ 1
紀友則(きのとものり、承和12年(845年)? - 延喜7年(907年))は、平安時代前期の歌人・官人。宮内権少輔・紀有友(有朋)の子。官位は六位・大内記。三十六歌仙の一人。 40歳過ぎまで無官であったが、和歌には巧みで多くの歌合に出詠している。寛平9年(897年)に土佐掾、翌昌泰元年(898年)に少内記、延喜4年(904年)に大内記に任ぜられる。紀貫之(従兄弟にあたる)・壬生忠岑とともに『古今和歌集』の撰者となったが、完成を見ずに没した。『古今和歌集』巻16に友則の死を悼む貫之・忠岑の歌が収められている。『古今和歌集』の45首を始めとして、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に計64首入集している。歌集に『友則集』がある。 ■ 寛平年間に禁中で行われた歌合に参加した際、友則は左列にいて「初雁」という秋の題で和歌を競うことになった。そこで「春霞かすみて往にし雁がねは今ぞ鳴くなる秋霧の上に(=春霞にかすんで飛び去った雁が、今また鳴くのが聞こえる。秋霧の上に)」と詠んだ。右列の者たちは「春霞」という初句を聞いたときに季節が違うと思って笑ったが、第二句以下の展開を聞くに及んで、逆に面目なく感じ黙り込んでしまった。そして、これが友則の出世のきっかけになったという。なお、この歌は『古今和歌集』秋上では「題しらず よみ人しらず」とされている。 ■代表歌 「久方の ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ」(『古今和歌集』) この歌は国語の教科書に広く採用されており、百人一首の中で最も有名な歌の一つである。 |
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■ 2
紀友則 生没年未詳 宮内少輔紀有朋の子。貫之の従兄。子に淡路守清正・房則がいる(尊卑分脈)。四十代半ばまで無官のまま過ごし(後撰集)、寛平九年(897)、ようやく土佐掾の官職を得る。翌年、少内記となり、延喜四年(904)には大内記に任官した。歌人としては、宇多天皇が親王であった頃、すなわち元慶八年(884)以前に近侍して歌を奉っている(『亭子院御集』)ので、この頃すでに歌才を認められていたらしい。寛平三年(891)秋以前の内裏菊合、同四年頃の是貞親王家歌合・寛平御時后宮歌合などに出詠。壬生忠岑と並ぶ寛平期の代表的歌人であった。延喜五年(905)二月二十一日、藤原定国の四十賀の屏風歌を詠んだのが、年月日の明らかな最終事蹟。おそらくこの年、古今集撰者に任命されたが、まもなく病を得て死去したらしい。享年は五十余歳か。紀貫之・壬生忠岑がその死を悼んだ哀傷歌が古今集に見える。古今集に四十七首収録(作者名不明記の一首を含む)。その数は貫之・躬恒に次ぐ第三位にあたる。勅撰入集は総計七十首。家集『友則集』がある。三十六歌仙の一人。小倉百人一首に歌を採られている。 春 / 初春の歌とて 水のおもにあや吹きみだる春風や池の氷を今日はとくらむ(後撰11) (水面に吹き乱れて文様を描く春風よ、その紋(あや)を解くわけではあるまいが、暖かな初春の今日は、池に張った氷を解かしているのだろうか。) 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべにはやる(古今13) (梅の花の香を、風の便りに添えて、鶯をいざなう案内として送る。) 梅の花を折りて人に贈りける 君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る(古今38) (あなた以外の誰に見せよう。梅の花を――その色も香も、わかる人だけがわかるのだ。) さくらの花のもとにて、年の老いぬる事をなげきてよめる 色も香もおなじ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりける(古今57) (桜の花は、色も香も昔と同じに咲いているのだろうけれど、年を経て老いてゆく人は、以前とは変わってしまったのだ。) 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 み吉野の山べに咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれける(古今60) (吉野の山に咲いている桜の花は、雪かとばかり見間違いされてしまうのだった。) 桜の花の散るをよめる ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(古今84) (日の光がやわらかにふりそそぐ今日――風もなく穏やかなこの春の日にあって、落ち着いた心なしに、どうして桜の花が散ってゆくのだろう。) 夏 / 音羽山をこえける時に、時鳥の鳴くを聞きてよめる おとは山けさ越え来ればほととぎす梢はるかに今ぞ鳴くなる(古今142) (音羽山を今朝越えて来ると、時鳥が遠くの梢から今しも鳴いている。) 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 (二首) 五月雨に物思ひをれば時鳥ほととぎす夜ぶかく鳴きていづちゆくらむ(古今153) (五月雨に物思いをしていると、時鳥が夜の深い時間に鳴いて――どこへ行くのだろうか。) 夜やくらき道やまどへるほととぎすわが宿をしも過ぎがてになく(古今154) (夜の闇が暗いのか。道に迷ったのか。時鳥は、ちょうど我が家のあたりを通り過ぎにくそうに鳴いている。) 秋 / 寛平の御時なぬかのよ、うへにさぶらふをのこども歌たてまつれとおほせられける時に、人にかはりてよめる 天の川あさ瀬しら波たどりつつ渡りはてねば明けぞしにける(古今177) (天の川の浅瀬がどこか知らずに、白波を辿りながら、渡り切れないのに、夜が明けてしまった。) 題しらず 声たてて泣きぞしぬべき秋霧に友まどはせる鹿にはあらねど(後撰372) (声を立てて泣いてしまいそうだ。秋の霧に友の居場所を見失った鹿ではないけれど。) 是貞のみこの家の歌合の歌 秋風に初雁がねぞ聞こゆなる誰たが玉づさをかけて来つらむ(古今207) (秋風の吹く中に、初雁の鳴き声が聞こえる。雁は誰の手紙をたずさえて来たのだろうか。) 大和の国にまかりける時、佐保山に霧のたてりけるをみてよめる 誰がための錦なればか秋霧の佐保の山べをたちかくすらむ(古今265) (誰のために織った錦だからというので、秋霧は佐保の山を隠すのだろうか。) 是貞のみこの家の歌合の歌 露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋の久しかるべく(古今270) (露をつけたまま折り取って頭髪に挿そう――菊の花を。年老いない秋がいつまでも続くようにと。) 冬 / 題しらず 夕されば佐保の川原の河霧に友まどはせる千鳥鳴くなり(拾遺238) (夕方になると、佐保の川原に河霧が立ちこめ、友とはぐれてしまった千鳥が鳴いている。) 雪のふりけるをみてよめる 雪ふれば木ごとに花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきて折らまし(古今337) (雪が降り積もったので、どの木にも花が咲いた。どれを本当の梅と区別して手折ろうか。) 離別 / 道に逢へりける人の車に物を言ひつきて、別れける所にてよめる 下の帯の道はかたがた別るとも行きめぐりても逢はむとぞ思ふ(古今405) (下着の帯紐がそれぞれの方向に別れても一巡りしてまた出逢うように、あなたと今別の道を行ってもいつかきっとお逢いしようと思います。) 物名 / をがたまの木 みよしのの吉野の滝にうかびいづるあわをかたまのきゆと見つらむ(古今431) (吉野川の急流に浮かび出ては消える泡を、玉が消えると見ているだろうか。) をみなへし (二首) 白露を玉にぬくとやささがにの花にも葉にもいとをみなへし(古今437) (白露を数珠つなぎにしようというので、蜘蛛は女郎花のどの花にもどの葉にも糸を架け渡したのだろうか。) 朝露をわけそほちつつ花見むと今ぞ野山をみなへしりぬる(古今438) (朝露を分け行き、濡れそぼちながら、女郎花の花を見ようとして、今や野山という野山は皆通って知ってしまった。) きちかうの花 秋ちかう野はなりにけり白露のおける草葉も色かはりゆく(古今440) (野は秋も近くなったのだ。白露の置いた草葉も色が衰えてゆく。) りうたむの花 わがやどの花ふみしだく鳥うたむ野はなければやここにしも来る(古今442) (うちの庭の花を踏みにじる鳥を懲らしめてやろう。野には花がないからというので、ここにやって来るのだろうか。) 恋 / 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 (五首) 宵の間もはかなく見ゆる夏虫にまどひまされる恋もするかな(古今561) (短い夏の宵の間にも、はかなく見える蛾――それにもまして惑う、そんな恋を私はすることであるよ。) 夕されば蛍よりけに燃ゆれどもひかり見ねばや人のつれなき(古今562) (夕方になると、私の思いは蛍よりひどく燃えるけれども、蛍と違って光は見えないので、恋人は冷淡な態度をとるのだろうか。) 笹の葉におく霜よりもひとりぬるわが衣手ぞさえまさりける(古今563) (笹の葉に置く霜よりも、独り寝をしている私の袖の方が、ずっと冷たいのであった。) わが宿の菊の垣根におく霜の消えかへりてぞ恋しかりける(古今564) (我が家の菊の垣根に置く霜のように、消え入りそうなほどに恋しいのであった。) 川の瀬になびく玉藻のみがくれて人に知られぬ恋もするかな(古今565) (川の瀬に靡く藻が水中に隠れて見えないように、人に知られない恋を私はしていることであるよ。) 題しらず (四首) 宵々にぬぎて我がぬる狩衣かけて思はぬ時のまもなし(古今593) (毎晩、私が脱いで寝る狩衣――それを衣桁に掛けるように、あの人のことを心にかけて思わない時は、わずかもない。) 東路あづまぢのさやの中山なかなかに何しか人を思ひそめけむ(古今594) (東海道にある小夜の中山ではないが、なまなかに、どうして人を恋し始めてしまったのであろう。) しきたへの枕の下に海はあれど人をみるめはおひずぞありける(古今595) (枕の下に涙の海はあるけれども、人を見る目という名の海松布(みるめ)は生えないのであった。) 年をへて消えぬ思ひはありながら夜の袂はなほこほりけり(古今596) (長い年月を経ても消えない思いの火はあるものの、独り寝の夜の衣の袖はなお凍るのだった。) 題しらず ことにいでて言はぬばかりぞ水無瀬川したにかよひて恋しきものを(古今607) (言葉に出して言わないだけなのだ。一見、水がないように見える水無瀬川のように、心だけは思う人のもとへ通って恋しいのに。) 題しらず 命やは何ぞは露のあだものを逢ふにしかへば惜しからなくに(古今615) (命なんて、何だというのだ。露のようにはかないものではないか。逢うことに換えるのなら、惜しくなどないのに。) 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 紅くれなゐの色には出でじ隠れ沼ぬの下にかよひて恋ひは死ぬとも(古今661) (紅の色のように目立たすまい。隠れ沼のようにひそかに思って、恋い死にしようとも。) 題しらず 下にのみ恋ふれば苦し玉の緒の絶えて乱れむ人なとがめそ(古今667) (心の中でばかり恋していると苦しい。そのうち玉の緒が切れて乱れてしまうだろう。世の人よ、非難なさるな。) 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 春霞たなびく山の桜花見れどもあかぬ君にもあるかな(古今684) (春霞がたなびく山の桜の花はいくら見ても見飽きない――そのように、いくらあなたと逢瀬を重ねても、私の心は満ち足りることがない――それほど恋しいあなたであるよ。) 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 蝉の声きけばかなしな夏衣うすくや人のならむと思へば(古今715) (蝉の声を聞くと悲しいことよ。秋も近づき、今着ている夏衣ではないが、あの人の心も薄くなるだろうと思うので。) 題しらず 雲もなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみよをばへぬらむ(古今753) (雲もなく穏やかな朝が私なのだろうか、それであの人から「厭われて」ばかりのまま幾年も過ぎたのだろう。(ずっと「いと晴れて」一夜を経た朝のように。)) 題しらず 秋風は身を分けてしも吹かなくに人の心のそらになるらむ(古今787) (秋風は雲や霧を分けて吹くけれども、人の身を分けて、心の中まで入り込むわけではあるまいに。秋になると、あの人の心の中に「飽き」風が吹いて、私への思いが空っぽになってしまうのは、どういうことだろう。) 題しらず 水のあわの消えでうき身といひながら流れて猶もたのまるるかな(古今792) (水の泡のようにはかなく、しばし消えずに浮いて漂うような我が身とは言いながら、水の上を流れて――時が流れてのちはと、なおあの人の心に期待をかけてしまうのだ。) 女をはなれてよめる 雁かりの卵こを十とをづつ十はかさぬとも人の心はいかがたのまむ(古今六帖) (たとえ雁の卵を百箇重ねることはできても、人の心はどうして信用できましょうか。) 題しらず たちかへり思ひすつれどいそのかみ古りにし恋は忘れざりけり(続千載1538) (何度も繰り返し思い切ろうとしたけれど、長い年月を経た恋は忘れられないのだった。) 哀傷 / 藤原敏行の朝臣の身まかりにける時に、よみてかの家につかはしける 寝ても見ゆ寝でも見えけりおほかたは空蝉の世ぞ夢にはありける(古今833) (寝てもあの人を見ますが、寝なくても面影にあの人が見えるのです。だいたいのところ、寝ていようが起きていようが、現世こそが夢なんでしたよ。) 惟喬のみこの、父の侍りけむ時によめりけむ歌どもと乞ひければ、かきておくりける奥によみてかけりける ことならば言の葉さへも消えななむ見れば涙のたぎまさりけり(古今854) (どうせなら、父の遺したこの詠草も一緒に消えてほしい。見ると、ますます涙が滾り流れるのです。) 雑 / 紀友則まだ官たまはざりける時、事のついで侍りて、「年はいくら許りにかなりぬる」と問ひ侍りければ、「四十余なむなりぬる」と申しければ 贈太政大臣 今までになどかは花の咲かずして四十年よそとせあまり年ぎりはする (今までどうして花が咲かずに四十年余りも実を結ばなかったのか。) 返し はるばるの数は忘れずありながら花咲かぬ木をなにに植ゑけむ(後撰1078) (毎年、春は忘れずにやって来るのに、私のような花の咲かない木をどうして植えたのでしょう。) 方たがへに人の家にまかれりける時に、あるじの衣を着せたりけるをあしたに返すとてよみける 蝉の羽はの夜の衣はうすけれど移り香こくもにほひぬるかな(古今876) (蝉の羽のような夜着は薄いけれど、薫き染めた香の移り香は我が身に濃く匂っているのでした。) 筑紫に侍りける時に、まかりかよひつつ碁うちける人のもとに、京にかへりまうできてつかはしける ふるさとは見しごともあらず斧の柄の朽ちし所ぞ恋しかりける(古今991) (帰って来た故郷の京は、以前とは違ってしまいました。斧の柄が朽ちるまであなたと碁に耽った所――筑紫の方が恋しいのでした。) 題しらず とりもあへぬ年は水にや流れそふ老いの心の浅くなりゆく(友則集) (ちゃんとつかみ取ることもできぬまま、年は水といっしょに流れ去ってゆくのか。老いを重ねるごとに、私の心は深くなるどころか、浅くなってゆく。) |
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■ 3
友則の死 やはり友則は『平貞文家歌合』に出席できなかった。それどころか良い僧による加持祈祷もむなしく、回復する様子は少しも見られない。肝心の歌合は貞文と躬恒がそれぞれとっておきの和歌を事前に用意していたこともあり、二人の歌の優劣を周りの人々が判定し、楽しむ物となった。そうした歌合の趣旨もあり、貫之自身が病身の友則への思いが強かったこともあって、この場で貫之は二首しか歌を披露しなかった。貞文の私的な催しとはいえ、歌合にこれほど身が入らないなど、貫之には初めてのことであった。専門歌人が歌合に呼ばれておきながら、歌に身が入らない。本来ならあるまじきことだが、私的な集まりと言うこともあり、誰もが貫之の心情を察して同情の目を向けていた。もっとも今の貫之の心情では、批判があっても耳に入らなかっただろうが。 貫之自身も驚いていた。もともと父もなく兄弟もいなかった自分なので、母と多くの大人たちの世話になって自分は育ってきた。高経様、敏行様など、お目にかけていただいた方々のご逝去もすでに経験している。そして唯一の肉親である母さえも見送った。それは悲しく辛い別れであったが、歌合に身が入らぬほどの動揺はなかった。だが、友則殿の病状が思わしくないことへの不安は、歌の喜びを忘れるほどに大きかった。世間では「古今和歌集」の評判が高まるばかりで、同時に選者たちの評価もこれ以上ないほど賞賛されていた。特に歌集に多くの歌を載せ、あの見事なかな序を書いた貫之の評判は群を抜いていた。それにもかかわらず貫之自身は、これまで感じたことがないほどの不安の中にいた。 そして思い知った。貫之にとって友則がどれほど重要な存在であったかを。友則は同じ紀氏の身内であり、長く後ろ盾をしてくれた父親同然の人であった。さらに歌の世界へといざなってくれた恩人であり、歌人としての師でもあった。そして共に和歌の未来を憂い、希望を切り開く志を持った友であり、「古今和歌集」編纂と言う大業を成し遂げた仲間でもあった。貫之にとって友則と言う人は、すでに親や師を超えた存在であった。これほど人生に深くかかわった人はいなかった。その人を失うかもしれない不安は、どんな知人や母親を失う悲しみよりも大きかった。 夏の日差しの中、友則の病状は一進一退していた。貫之には今年の夏の暑さはいつにもまして苦しい気がした。その暑さが友則の体に瘴気となって襲い掛かっているようで、当たり前にやってくる季節が恨めしく、歌心を刺激するはずのほととぎすの声さえ疎ましかった。貫之は頻繁に友則を見舞った。そのたびにこの家のたたずまいを見ては懐かしく思った。今は離れて暮らしているが、内教坊育ちだった自分にとってこの家は、唯一帰ることのできる家だったのだと知った。だが、そんな貫之を友則は病床の身にありながら心配した。 「私の身を案じてばかりいてはいけない。時が来たのだ。人は若いままではいられない。以前に私も歌を詠んだではないか。 色も香も同じ昔に咲くらめど年ふる人ぞあらたまりける (桜の花は色も香りも昔と同じに咲いているが、人は年を取り、変わってしまった) 変わらぬ『さくら』は『さくらめど』、人は変わり老いるのだ。この歌は貫之には劣るが、私は自分の詠んだ『物名』としては、なかなかの出来だと思っているが?」 「桜と老いの対比が心にしみますね。でも、今聞くには寂しすぎます」 「人は老いる。だから時は貴重であり、歌人は多くの歌を残すべきなのだ。こうしている間にも、時は流れてしまうのだ」 友則の残りの時の少なさに抵抗するように貫之は首を横に振る。 「だからこそ、おそばにいたいのですが」 「気弱な事を申すな。前にも言った。君はもう、人の庇護に頼るばかりではいけない。私から学ぶ段階は終えているのだ。歌も、人生も」 貫之は病の友則に甘えていることはわかっていたが、言わずにはいられなかった。 「私に親がなくとも、妻がいなくても、良い人生を送ってこられたのは友則殿がいたからです。あなたは私にとって、師であり、父であり、友であり、従うべき人なのです。私はあなたにどれほど甘えて生きてきたか」 すると、友則は心からおかしそうに笑った。 「……師? もう私は君の師などとは言えない。……君自身が、そしてこの世の中が君の師となるのだ。……父が庇護者の意味ならば、大丈夫だ。君のことは忠岑の御主人である泉大将(定国)様も見ておられる。妹の満子様もお認め下さっている。……同じ紀氏の長谷雄がいるし、淑望もいる。何より時の人……左大臣時平様がいる。友にも恵まれ……従うべき人は……兼輔様と言う主人がおられる。君は……大丈夫だ。たとえ、今挙げたすべてを失うことがあろうとも……君には歌がある」 「それはわかっています。ですが、情けないことに私は人としてとても未熟なのです。未熟すぎて、地位を問われぬ和歌の世界にしがみつき、妻を持たず、家族を作らず、誹そしられる心配のない遊女や、田舎の女に癒しを求めているのです」 もはや強がりをかなぐり捨てた貫之の言葉に、友則はとても優しい目をして答えた。 「仏の目から見れば……人は皆、未熟であろうよ。それでも情の在り方を心細く思うなら……友を助けてやるがよい。そして……内教坊の女孺殿に孝を尽くし、あの少女を大事にしてやりなさい。きっとそれが……君の救いになるだろう」 「自分の心の動揺さえも抑えられない私に、出来るのでしょうか?」 「情は自然と心に生まれるもの。君が一番よく知っている。……それに……私は君に本当に幸せにしてもらった。……我が子はかわいいながらも歌の才には恵まれなかった。こればかりは生まれ持っての宿命だから仕方がないが……君がいなければ私は子供たちに歌人の価値観を押し付けていたかもしれない。君がいたから……子らに余裕をもって接することができた……」 「幸せなのは私の方です。親子の情もよく知らない私に、こうまで言ってくださるとは」 貫之は感激してそう言ったが、友則はあっさりと返した。 「親子の情なら、私は君に教えたはず。君は……私にとって大事な長男なのだから」 友則の言葉に、貫之は今度こそ思い知った。やはりこの人は自分にとって、父親以上に父なのだと。そして、その大切な父を失うということを、自分は今教わっているのだと。 その秋、ついに友則は亡くなった。家族や選者たちの悲しみは当然深かったが、「古今和歌集」の評判が高まっていた時だけに、都人たちもいくつもの名歌を残した優秀な歌人を失ったことを惜しみ、悲しんだ。 貫之は古今和歌集の雑躰の巻部分の草稿を開いていた。そこには選者たちの長歌の一群があるが、そこにぽっかりと不自然な空白がある。帝の献上した歌集にはもちろん空白などないが、この草稿には願いを込めて空白を残していた。いずれ友則が病から回復したら、そこに長歌を寄せてもらうはずだった。たとえ献上した後でも、書き加えて帝に献上し直すつもりだった。 「……ついに、その空白は埋まらなかったな」 そう、躬恒が声をかけた。淑望と忠岑もそこにいた。必ずこの空白は埋められるものだと、これを書いていた時は皆で信じていた。貫之は黙ったまま草稿を閉じる。躬恒は友則の人柄を思い、嘆いた。 「友則殿は歌人としては有名でしたが、お人柄に華があったわけでなく、むしろ地味なくらいでした。名声が高まってもそれを利用した大っぴらな任官運動をすることもなく、和歌も政務も十分な実績を持ちながら無官の時期が長くて……」 淑望も寂しげにその死を惜しんだ。 「時平様の同情からようやく地方官の片隅に土佐掾の地位を得たが、彼はその後も歌以外では特別社交に励むことはありませんでしたね。実直さと和歌集編纂の利便性を考慮されて少内記に上がり、やがて大内記に出世しましたが、その仕事ぶりも帝の詔の作成や様々な記録作業を地道にこなし、自ら表舞台に立とうとすることはありませんでした。本当に地道で、謙虚で、信頼できる人でした」 淑望の言葉に躬恒も残念そうに、 「古今和歌集の評判のおかげで、今は和歌の地位もこれまでにないほど高まってきました。地味で穏健な性格とはいえ、きっとこれから出世できたはずなのです。若すぎました。もっと、長生きしていただきたかった……」と、悔しがる。 しかし親友の忠岑は、小さく首を横に振り、言葉少なに友則を悼んだ。 「体調不良で編纂作業の主任の仕事に支障があるとわかると、その立場をあっさりと若い貫之に受け渡した。そういう人だった」 忠岑の言葉に、貫之は何も言えずに涙をこぼした。それを見て躬恒が言葉をつづけた。 「だから名目上は友則殿を主任扱いして、序文に記す名前の筆頭にしました。我々は友則殿のそうした性格を知っていますから……敬意を表さずには、いられなかったのです」 優しく、暖かく、声高に持論を叫ばず、人の前に立たない。常に良い家庭人であり、良い友人であり、その人柄を感じさせる多くの秀歌を残した人は、多くの人に惜しまれながらこの世を去ってしまった。貫之に和歌世界の次の代を託して。 友則の弔いが済んで後、貫之は古今和歌集に友則を悼んだ歌を、哀傷歌の巻に追加する許可を求めた。許可は認められ、哀傷歌群と服喪の歌群の間に、貫之と忠岑の歌が書き加えられた。貫之の歌は、 紀友則が身まかりにける時よめる 明日知らぬ我が身と思へど暮れぬまの今日は人こそ悲しかりけれ (明日、自分の命がどうなるかはわからないが、まだ日が暮れていない今日のうちは、亡くなった人のことを悲しく思うのだ) 続けて忠岑の歌。 時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを (ほかに時もあるだろうに、秋に人との死に別れがあるとは。生きていても別れは恋しさを感じるというのに) こうして皮肉にも、友則が心血を注いだ古今和歌集に、彼を悼む歌が載せられたのだった。 |
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■34.藤原興風 (ふじわらのおきかぜ) | |
誰(たれ)をかも 知(し)る人(ひと)にせむ 高砂(たかさご)の
松(まつ)も昔(むかし)の 友(とも)ならなくに |
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● いったい誰を知己にしようか。いくら高砂の松が長寿だからといっても、昔からの友ではないのだから。 / 年老いた私は、今もう誰を友にしたらよいのだろうか。相手にできそうなものといえば、長生きで知られている高砂の松ぐらいなものだが、その高砂の松でさえ、昔からの友ではないのに。 / いったい誰を心の友としようか・・・。古木と名高い高砂(現在の兵庫県高砂市)の松のほかに、年老いたものはいないのだけど、その高砂の松でさえ、昔なじみの友ではないのに。 / (友達は次々と亡くなってしまったが) これから誰を友とすればいいのだろう。馴染みあるこの高砂の松でさえ、昔からの友ではないのだから。
○ 誰をかも知る人にせむ / 「か」と「む」は係り結び。「か」は、疑問の係助詞。「も」は、強意の係助詞。「知る人」は、自分のことをわかってくれる人、すなわち、「親友・知己」の意。「む」は、意志の助動詞の連体形で、「か」の結び。「〜よう」の意。二句切れ。 ○ 高砂 ―歌枕。現在の兵庫県高砂市。松の名所。 ○ 松も昔の友ならなくに / 高砂の「松」は、長寿の象徴。「も」は、添加の係助詞。「昔の友」は、昔からの友人。「なら」は、断定の助動詞。「な」は、上代(奈良時代以前)に用いられた打消の助動詞。「く」は、その接尾語。「に」は、詠嘆の意味を含む順接の接続助詞。終助詞とする説もある。「ならなくに」で、「〜ではないのだから」の意。(注)「松も昔の友なら泣くのに」ではない。(参考)河原左大臣(源融)の歌にも「ならなくに」が用いられているが、こちらは、逆接の表現。藤原興風は、源融よりも後の人なので、「ならなくに」は、より古めかしい表現として用いられている。 |
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■ 1
藤原興風(ふじわらのおきかぜ、生没年不詳)は、平安時代の歌人・官人。藤原京家、参議・藤原浜成の曾孫。相模掾・藤原道成の子。官位は正六位上・下総大掾。三十六歌仙の一人。 昌泰3年(900年)父と二代続けて相模掾に任ぜられる。治部少丞を挟んで、延喜4年(904年)上野権大掾、延喜14年(914年)上総権大掾と、主に地方官を歴任し、位階は正六位上に至る。官位は低かったが『古今和歌集』の時代における代表的な歌人で、「寛平后宮歌合」・「亭子院歌合」などの歌合への参加も多く見られる。『古今和歌集』(17首)以下の勅撰和歌集に38首が入集。家集に『興風集』がある。管弦にも秀でていたという。小倉百人一首 34番 誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに(『古今和歌集』雑上909) |
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■ 2
藤原興風 生没年未詳 京家浜成の曾孫。正六位上相模掾道成の子。昌泰三年(900)、相模掾。延喜四年(904)、上野権大掾。延喜十四年(914)、下総権大丞。最終官位は正六位上(尊卑分脈)。寛平三年(891)、貞保親王(清和天皇皇子)の后宮(藤原高子)の五十賀の屏風歌を詠進。ほかに、寛平御時后宮歌合、昌泰元年(898)の亭子院女郎花合、延喜十三年(913)の亭子院歌合・内裏菊合などに出詠した。琴の師で、管弦に秀でたという。三十六歌仙の一人。百人一首に歌を採られている。家集『興風集』がある。古今集初出(十七首)。勅撰入集計四十二首。 春 / 寛平御時后宮きさいのみやの歌合の歌 (三首) 咲く花は千ぐさながらにあだなれど誰たれかは春を恨みはてたる(古今101) (咲く花は多種多様で、そのどれもが散りやすくはなかいけれども、だからと言って誰が春を恨み切ることができようか。) 春霞色の千ぐさに見えつるはたなびく山の花のかげかも(古今102) (山にたなびいている春霞の色が様々に見えるのは、その山に咲く花々の色が反映しているのかなあ。) 声たえず鳴けや鶯ひととせにふたたびとだに来べき春かは(古今131) (声を途切れさせずに哭けよ、鶯。一年に二度でさえ来ることのある春だろうか。そんな筈はないのだから。) 秋 / 寛平御時后宮歌合 契ちぎりけむ心ぞつらきたなばたの年にひとたび逢ふは逢ふかは(古今178) (織女と彦星が逢瀬を約束した心はさぞ辛かったろう。一年に一度だけ逢うことは、逢ううちに入るだろうか。) 寛平御時ふるき歌たてまつれとおほせられければ、龍田川もみぢば流るといふ歌をかきて、その同じ心をよめりける 深山みやまよりおちくる水の色見てぞ秋は限りと思ひ知りぬる(古今310) (奥山から流れ落ちてくる水の色を見て、初めて秋はもう終りなのだと思い知った。) 題しらず 木の葉ちる浦に波たつ秋なればもみぢに花も咲きまがひけり(後撰418) (木の葉の散る入江に波が立つ秋――それでこの季節には、波の花が紅葉と見まがうばかり色鮮やかに咲いているのだなあ。) 冬 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた 浦ちかくふりくる雪は白波の末の松山こすかとぞ見る(古今326) (入江のあたりまで降り込んでくる雪は、白波が末の松山を越すかと見えるよ。) 恋 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた (三首) きみ恋ふる涙のとこにみちぬればみをつくしとぞ我はなりぬる(古今567) (あなたに恋い焦がれて流す涙が寝床に満ちて海のようになりましたので、我が身は常に波に濡れる澪標(みおつくし)となり、身を滅ぼすことになってしまいました。) 死ぬる命生きもやすると心みに玉の緒ばかり逢はむと言はなむ(古今568) (あなたのつれなさに私は死んだも同然です。その命が生き返りでもするかと、ためしに僅かの間だけでも逢おうとおっしゃって下さい。) わびぬればしひて忘れむと思へども夢といふものぞ人だのめなる(古今569) (恋しさに弱り切ってしまったので、無理にも忘れようと思うのだけれども、夢に見るとまた当てにしてしまって、つくづく夢というものは人をむなしく期待させるものだ。) 親のまもりける人のむすめに、いとしのびに逢ひて物ら言ひけるあひだに、親のよぶと言ひければ、いそぎかへるとて、裳をなむぬぎ置きていりにける。そののち裳もをかへすとてよめる 逢ふまでのかたみとてこそとどめけめ涙にうかぶもくづなりけり(古今745) (再び逢う時までの形見として裳を置いて行ったのでしょうが、私の激しい涙に濡れてぼろぼろになり、今や涙の海に浮かぶ藻屑でありますよ。) 題しらず 夢をだに思ふ心にまかせなむ見るは心のなぐさむものを(玉葉1513) (せめて夢は心の思うままに任せてほしい。夢であっても恋人を見るのは気が慰むものなのだから。) 題しらず 逢ひ見てもかひなかりけりうば玉のはかなき夢におとるうつつは(新古1157) (逢えたところで甲斐もなかったなあ。果敢ない夢にも劣る現実での逢瀬は。) 題しらず 恨みても泣きても言はむ方ぞなき鏡に見ゆる影ならずして(古今814) (怨みごとも泣きごとも、誰に向かって言おうか。そんな相手はもうどこにもいないのだ、鏡に映った我が身のほかに。) 雑 / 題しらず 山川の菊の下水いかなればながれて人の老をせくらむ(新古717) (菊の下を流れる谷川の水は、一体どういうわけで、流れて、人の老いを塞き止めるのだろうか。) 貞保親王さだやすのみこの、后の宮の五十の賀たてまつりける御屏風に、桜の花の散るしたに、人の花見たるかたかけるをよめる いたづらにすぐす月日は思ほえで花見て暮らす春ぞすくなき(古今351) (普段、むなしく過ごしている月日は何とも思えないのに、花を見て暮らす春の日だけは、少ないことが惜しまれてならないのだ。) 題しらず 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに(古今909) (知合いが次々と亡くなってゆく中、私は生き残ってしまい、このうえまあ誰を親しい友とすればよいだろう。長寿で名高い高砂の松も、昔からの友ではあり得ないのに。) |
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■ 3
末の松山への誤解 東北と言えば、歌枕「末の松山」があり、次の歌が有名です。 君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波もこえなむ(古今集、大歌所御歌、東歌陸奥歌) 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは(後拾遺集、恋四、清原元輔 百人一首) 百人一首の元輔歌への先入観から、これまで「末の松山」は、波が越えない所とされ、「あだし心」を持たない愛の誓いの喩えと説明されてきました。 ところが、2011年の東日本大震災の大津波で、名所「末の松山」を波が越えてしまったのです。源氏物語の末摘花巻には、次の風景描写があります。 橘の木のうづもれたる、御随身召して払はせたまふ。うらやみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるる雪も「名にたつ末の」と、見ゆるなどを…… この「名に立つ末の」は、次の歌を引いています。 わが袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし(後撰集、恋二、土佐) この歌と先の有名な二首だけを知る読者は、なぜ雪の光景に末の松山が出てくるのかわかりません。源氏が末摘花に愛を誓う場面でもありません。ここは、次の歌を思い出さなければならないのです。 浦ちかく降りくる雪は白波の末の松山越すかとぞ見る(古今集、冬、藤原興風 寛平御時后宮歌合) この歌では、海辺の浦近く降っている雪が末の松山を波が越すように見える、と詠んでいます。「浦近く降り来る雪」が、東歌で詠まれた「白波の末の松山越す」光景を思わせることから、あり得ないことが現実に起こったかと驚いています。源氏物語は、雪を白波に見立てた興風歌を受けて、波が山を越える時の波頭の光景を、松の木の跳ね上げた雪が弧を描いて落ちる様の見立てとしたのです。 2011年3月10日、私は京都アスニーの講座において、この光景の説明をしたのですが、その翌日の同時刻、テレビで、防波堤を軽々と越えて迫る大津波と白い雪の光景を見て、わが認識不足に愕然としました。当時まだ東北では、雪が断続的に降り、ときに吹雪いていました。人々は、浦近く降る白い雪を見ては、また大津波が来たかとハッとしたでしょう。国文学者が恋の誓いの喩えなどとのんきな説明をしてきたことで、現地の人々が安心していたのではないかと責任を感じて、パリから帰国したばかりの4月の講座で、この問題を緊急報告しました。ネットでも末の松山を波が超えたことが話題になり、興風の歌について、都の人だから「末の松山」をよく知らずに詠んだなどといった発言も見られました。そうではありません。興風は、相模、上野、下総の地方官を歴任していた人物です。歌を詠んだのも、寛平二年(890)の歌合においてです。この頃はまだ震災の影響が大きく、仁和三年(887)にも全国で大地震があったそうです。興風自身も、貞観11年(869)の大津波を経験していた可能性が高く、たとえ都にいたとしても馴染みのある土地の被害には心を痛めたでしょう。それゆえ歌合では、浦近く降る雪を見てハッと驚く思いを歌で表したのだと思うのです。 「末の松山」は、滅多に起きないが、あっては困るという意味の歌枕と訂正するべきです。結果論ではなく、歌の解釈を誤ったために人々が油断していたなら、国文学に携わる者の責任だと言えます。私たちがよく知る百人一首の歌とその本歌の東歌だけで判断するのではなく、本当の教養を持っていなければ、間違いは繰り返されます。平安時代には、元輔歌よりも、古今集の東歌と興風の歌の方が広く知られていたはずです。そもそも、この東歌が大歌所御歌として収められたことにも意味がありました。清和天皇の時代、貞観大津波のあった年から御霊会が盛んに行われ、それが祇園祭として現在にも伝わります。また、元輔歌の「袖をしぼる」というのは、ただ涙にぬれる誇張表現ではなかったのです。土佐の歌の「わが袖は」「波の越えぬ日はなし」という表現も、大津波が末の松山を越え、被害に遭った人々が全身濡れて、泣きながら袖を絞り合ったことを意識したものだったのだと思います。 |
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■35.紀貫之 (きのつらゆき) | |
人(ひと)はいさ 心(こころ)も知(し)らず ふるさとは
花(はな)ぞ昔(むかし)の 香(か)に匂(にほ)ひける |
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● あなたのおっしゃることは、さあ、本心なんでしょうか。私には分からないですね。なじみの土地では、昔と同じ花の香りが匂ってくるのものですよ。 / あなたは、さあ、心変わりしておられるかどうか分かりませんが、昔なじみのこの里では梅の花が昔と変わらずによい香りを漂わせて咲いていることだ。 / あなたは、さあね、昔のままの心なのでしょうか。わかりませんね。でも、昔なじみのこの里には、昔のままに梅の花の香りが匂っていますね。 / さて、あなたの心は昔のままであるかどうか分かりません。しかし馴染み深いこの里では、花は昔のままの香りで美しく咲きにおっているではありませんか。(あなたの心も昔のままですよね)
○ 人はいさ心も知らず / 『古今集』の詞書によると、長谷寺参詣の際に定宿にしていた家の主人が、貫之が疎遠であったことについて文句を言ったとある。このことから「人」は、その主人。「は」は、区別を表す係助詞。「いさ」は下に打消の語をともない、「さあ(〜ない)」の意を表す陳述の副詞。「心」は、本心。「も」は、強意の係助詞。「ず」は、打消の助動詞。「あなたは、さあ、本心かどうか、(私は)わからない」の意。二句切れ。 ○ ふるさとは / 昔なじみの場所。「は」は、区別を表す係助詞。「人は」に対応する句。 ○ 花ぞ昔の香ににほひける / 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「花」は、一般には桜であるが、この場合は、「香ににほひ」とあり、「梅」の意。「ぞ」は、強意の係助詞。「にほひ」は、「にほふ」の連用形で、嗅覚のかぐわしさのみならず、視覚の美しさも表す。「けり」は、詠嘆の助動詞「ける」の連体形で、「ぞ」の結び。今まで意識していなかった事実に気づいたことを表す。「花ぞ昔の香ににほひける」は、「梅の花は昔と同じ香りを匂わせているなあ」という意。これは、主人の心を「花の香」になぞらえ、「あなたが昔と同様に暖かく迎えてくれるのはお見通しですよ」ということを暗に示している。 ※ 全く異なる解釈として、「花の香は今も昔も同じであるが、人の心変わりやすく、あなたの心も私の知ったことではない」という内容であるとする説もある。この歌は、主人の不満に対する即興の返答であり、親しさゆえの皮肉まじりの会話なのか、身も蓋もない険悪な反論なのかで見解が分かれている。 |
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■ 1
紀貫之(きのつらゆき)は、平安時代前期の歌人・貴族。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。 幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人として『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌作品が入集しているのは歌人の中で最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」と称されたという。その遺址は現在の京都御所富小路広場に当たる。 ■ その和歌の腕前は非常に尊重されていたらしく、天慶6年(943年)正月に大納言・藤原師輔が、正月用の魚袋を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するために、わざわざ貫之の家を訪れたという。貫之の詠んだ歌の力によって幸運がもたらされたという「歌徳説話」も数多く伝わっている。 ■作品 ○ 古今和歌集:勅撰和歌集。紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒との共撰。 ○ 古今仮名序 ○ 新撰和歌:貫之単独撰の私撰集。 ○ 新撰和歌序:真名序。 ○ 大井川御幸和歌序:『古今著聞集』巻第十四遊覧廿二に載る。 ○ 貫之集 ○ 土佐日記 ■代表歌 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん(古今2) 霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける(古今9) さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける(古今89) 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(百人一首35) 吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし(古今471) |
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紀貫之 貞観十四?〜天慶八?(872-945) 生年については貞観十年・同十三年・同十六年など諸説ある。下野守本道の孫。望行(もちゆき)の子。母は内教坊の伎女か(目崎徳衛説)。童名は阿古久曽(あこくそ)と伝わる(紀氏系図)。子に後撰集の撰者時文がいる。紀有朋はおじ。友則は従兄。幼くして父を失う。若くして歌才をあらわし、寛平四年(892)以前の「寛平后宮歌合」、「是貞親王家歌合」に歌を採られる(いずれも机上の撰歌合であろうとするのが有力説)。昌泰元年(898)、「亭子院女郎花合」に出詠。ほかにも「宇多院歌合」(延喜五年以前か)など、宮廷歌壇で活躍し、また請われて多くの屏風歌を作った。延喜五年(905)、古今和歌集撰進の勅を奉ず。友則の没後は編者の中心として歌集編纂を主導したと思われる。延喜十三年(913)、宇多法皇の「亭子院歌合」、醍醐天皇の「内裏菊合」に出詠。官職は御書所預を経たのち、延喜六年(906)、越前権少掾。内膳典膳・少内記・大内記を経て、延喜十七年(917)、従五位下。同年、加賀介となり、翌年美濃介に移る。延長元年(923)、大監物となり、右京亮を経て、同八年(930)には土佐守に任ぜられる。この年、醍醐天皇の勅命により『新撰和歌』を編むが、同年九月、醍醐天皇は譲位直後に崩御。承平五年(935)、土佐より帰京。その後も藤原実頼・忠平など貴顕から機会ある毎に歌を請われるが、官職には恵まれず、不遇をかこった。やがて周防の国司に任ぜられたものか、天慶元年(938)には周防国にあり、自邸で歌合を催す。天慶三年(940)、玄蕃頭に任ぜられる。同六年、従五位上。同八年三月、木工権頭。同年十月以前に死去。七十四歳か。原本は自撰と推測される家集『貫之集』がある。三代集(古今・後撰・拾遺)すべて最多入集歌人。勅撰入集計四百七十五首。古今仮名序の作者。またその著『土佐日記』は、わが国最初の仮名文日記作品とされる。三十六歌仙の一人。 春 / 春たちける日よめる 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ(古今2) (夏に袖が濡れて手に掬った水が、冬の間に氷ったのを、春になった今日の風が解かしているだろうか。) 雪のふりけるをよめる 霞たちこのめもはるの雪ふれば花なき里も花ぞ散りける(古今9) (霞があらわれ、木の芽も芽ぐむ春――その春の雪が降るので、花のない里でも花が散るのだった。) 歌奉れとおほせられし時、よみて奉れる 春日野の若菜つみにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ(古今22) (春日野の若菜を摘みにゆくのだろうか、真っ白な袖を目立つように打ち振って娘たちが歩いてゆく。) 歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる わがせこが衣はるさめふるごとに野辺のみどりぞ色まさりける(古今25) (我が夫の衣を洗って張るというその「はる」さめが降るたびに、野辺の緑は色が濃くなってゆくのだ。) 歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる 青柳の糸よりかくる春しもぞみだれて花のほころびにける(古今26) (青々とした柳の葉が、糸を縒り合せるように絡まり合う春こそは、糸がほどけたように柳の花が開くのだった。) 初瀬にまうづるごとに宿りける人の家に久しく宿らで、程へて後に至れりければ、かの家のあるじ、かくさだかになむ宿りはあると、言ひいだして侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる 人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(古今42) ([詞書]初瀬の寺に参詣するたび宿を借りていた人の家に、長いこと宿らず、時を経て後に訪れたので、その家の主人が「このように確かにあなたの宿はあるのに」と中から言って来ましたので、そこに立っていた梅の花を折って詠んだ歌。[歌]住む人はさあどうか、心は変ってしまったか。それは知らないけれども、古里では、花が昔のままの香に匂っている。人の心はうつろいやすいとしても、花は以前と変らぬ様で私を迎え入れてくれるのだ。) 家にありける梅の花の散りけるをよめる 暮ると明くと目かれぬものを梅の花いつの人まにうつろひぬらむ(古今45) (日が暮れれば眺め、夜が明ければ眺めして、目を離さずにいたのに、梅の花は、いつ人の見ていない間に散ってしまったのだろう。) 歌たてまつれとおほせられし時によみたてまつれる 桜花咲きにけらしもあしひきの山のかひより見ゆる白雲(古今59) (桜の花が咲いたらしいなあ。山の峡を通して見える白雲、あれがそうなのだ。) 春の歌とてよめる 三輪山をしかも隠すか春がすみ人にしられぬ花や咲くらむ(古今94) (三輪山をこんなふうに隠すものか。春霞よ。人に知られない花が咲いているのだろうか。) 題しらず 花の香にころもはふかくなりにけり木この下かげの風のまにまに(新古111) (花の香に衣は深く染みとおってしまった。木の下陰を風が吹くままに。) 比叡(ひえ)にのぼりて、帰りまうで来てよめる 山たかみ見つつわが来こし桜花風は心にまかすべらなり(古今87) (山が高いので、私はただ遠く眺めるのみで帰って来た桜の花――あの花を、風は思いのままに散らすに決まっているのだ。) 亭子院歌合に 桜ちる木この下風はさむからで空にしられぬ雪ぞふりける(拾遺64) (桜が散る木の下を吹いてゆく風は寒くはなくて、天の与かり知らぬ雪が降っているのだ。) 志賀の山ごえに女のおほくあへりけるによみてつかはしける あづさゆみ春の山べをこえくれば道もさりあへず花ぞ散りける(古今115) (春の山を越えて来ると、よけきれないほど道いっぱいに花が散り敷いているのだった。) 寛平御時きさいの宮の歌合のうた 春の野に若菜つまむと来こしものを散りかふ花に道はまどひぬ(古今116) (春の野に若菜を摘もうとやって来たのに、散り乱れる花に道は迷ってしまった。) 亭子院歌合歌 さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける(古今89) (風が吹き、桜の花が散ってしまった――その風が去って行ったあとのなごりには、水のない空に波が立つのだった。) 山寺にまうでたりけるによめる やどりして春の山べに寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける(古今117) (宿を取って春の山に寝た夜は、夢の中でも花が散るのだった。) 題しらず 春なれば梅に桜をこきまぜて流すみなせの河の香ぞする(曲水宴) (春の真っ盛りなので、梅の花に桜の花をまぜこぜにして流す水無瀬の川の香りがする。) 吉野川の辺に山吹の咲けりけるをよめる 吉野川岸のやまぶき吹く風にそこの影さへうつろひにけり(古今124) (吉野川の岸の山吹は、吹きつける風によって、水底の影さえどこかへ行ってしまった。) 延喜御時、春宮御屏風に 風吹けば方もさだめず散る花をいづかたへゆく春とかは見む(拾遺76) (風が吹くと、方向も定めず散る花――春はどこへ去ってゆくのか、花の行方によって確かめようとしても、知ることなどできようか。) 縁起御時月次御屏風に 花もみな散りぬる宿はゆく春のふる里とこそなりぬべらなれ(拾遺77) (花も皆散ってしまった家は、去りゆく春があとにして行った故郷ということになってしまいそうだ。) 夏 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた 夏の夜のふすかとすれば時鳥ほととぎす鳴く一声に明くるしののめ(古今156) (夏の夜は、寝るか寝ないかのうちに、たちまち時鳥が鳴き、その一声に明けてゆく、しののめの空よ。) ほととぎすの鳴くを聞きてよめる 五月雨の空もとどろに時鳥ほととぎすなにを憂しとか夜ただ啼くらむ(古今160) (さみだれの降る空もとどろくばかりに、時鳥は何が辛いというので夜ひたすら鳴くのだろうか。) 山にほととぎすの鳴きけるを聞きてよめる ほととぎす人まつ山になくなれば我うちつけに恋ひまさりけり(古今162) (ほととぎすが、人を待つ松山に鳴くので、私はにわかに恋しい思いが増さったのだった。) 延喜御時、月次御屏風に 五月山さつきやま木この下闇にともす火は鹿のたちどのしるべなりけり(拾遺127) (五月の山、その木陰の暗闇にともす火は、鹿が立っている場所を知らせる導きなのであった。) 延喜御時御屏風に 夏山の影をしげみや玉ほこの道行き人も立ちどまるらむ(拾遺130) (夏山の木陰はよく繁っているので、道を行く人も涼もうとして立ち止まるのだろうか。) 六月祓 みそぎする川の瀬見れば唐衣からころもひもゆふぐれに波ぞ立ちける(新古284) (人々が夏越の祓えをしている川の浅瀬を見ると、美しい衣の紐を「結う」ではないが、夕暮になって、波が立っているのだった。) 秋 / 秋立つ日、うへのをのこども、賀茂の河原に川逍遥しける供にまかりてよめる 川風の涼しくもあるかうち寄する波とともにや秋は立つらむ(古今170) (川風が涼しく吹いていることよ。その風に立って打ち寄せる波と共に、秋は立つのだろうか。) 延喜の御時、御屏風に 秋風に夜のふけゆけば天の川かは瀬に波の立ちゐこそ待て(拾遺143) (秋風の吹くままに夜が更けてゆくので、天の川の川瀬に波が立つではないが、私は立ったり座ったりしながらあなたを待っているのです。) 七月八日のあした 朝戸あけてながめやすらむ織女たなばたはあかぬ別れの空を恋ひつつ(後撰249) (朝戸を開けて、織女は眺めているのだろうか。昨夜、牽牛と満たされずに別れた空を慕いながら。) 題しらず 秋風に霧とびわけてくるかりの千世にかはらぬ声きこゆなり(後撰357) (秋風の中、霧を分けて飛んで来る雁の、永遠に変わることのない声が聞こえる。) 朱雀院の女郎花合によみてたてまつりける 誰が秋にあらぬものゆゑ女郎花をみなへしなぞ色にいでてまだきうつろふ(古今232) (秋は誰のものでもなく、すべてに訪れるというのに、女郎花よ、どうしておまえだけが目に見えて早くも衰えるのか。) 藤袴をよみて人につかはしける やどりせし人のかたみか藤袴わすられがたき香ににほひつつ(古今240) (我が家に宿った人の残した形見か、ふじばかまの花は、忘れ難い香に匂い続けて…。) 延喜の御時、御屏風に 逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒(拾遺170) (逢坂の関の清らかな泉に影を映して、今頃牽いているのであろうか、望月の駒を。) 月に琴弾きたるを聞きて、女(二首) 弾く琴の音ねのうちつけに月影を秋の雪かとおどろかれつつ(貫之集) (あなたが弾く琴の音に聴き入るうち、突然月影が秋の雪のように見えて驚かれて…。) 月影も雪かと見つつ弾く琴の消えて積めども知らずやあるらむ(貫之集) (月の光も雪かと眺めながら、あなたが弾いている琴――あたかも雪が消えては積もり、消えては積もりするように、私の心に琴の音が積もってゆくけれども、あなたはそれを知らないのだろうか。) 石山にまうでける時、音羽山のもみぢをみてよめる 秋風の吹きにし日より音羽山峰のこずゑも色づきにけり(古今256) (秋風が初めて吹いた日から、その音がしていた音羽山の峰の梢も、色づいたのだった。) もる山のほとりにてよめる 白露も時雨もいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり(古今260) (白露も時雨もひどく漏るという名の守(もる)山は、木立の下葉がすっかり色づいたのであった。) 神の社のあたりをまかりける時に、斎垣いがきのうちの紅葉を見てよめる ちはやぶる神の斎垣にはふ葛くずも秋にはあへずうつろひにけり(古今262) (神社の垣にまつわりつく葛も、秋には堪え切れずに紅葉してしまったのだ。) 屏風の絵に つねよりも照りまさるかな山の端の紅葉をわけて出づる月影(拾遺439) (いつもよりひときわ照り輝いていることよ。山の端の紅葉を分けて昇る月の光は。) 世の中のはかなきことを思ひける折に、菊の花を見てよみける 秋の菊にほふかぎりはかざしてむ花より先としらぬわが身を(古今276) (秋の菊の花が咲き匂っている間はずっと挿頭(かざし)にしていよう。花が萎むのより先に死ぬかどうか、分からない我が身であるものを。) 北山にもみぢ折らむとてまかれりける時によめる 見る人もなくて散りぬる奧山の紅葉は夜の錦なりけり(古今297) (見る人もないまま散ってしまう奥山の紅葉は、甲斐のない「夜の錦」なのであった。) 題しらず うちむれていざわぎもこが鏡山こえて紅葉のちらむかげ見む(後撰405) (皆で連れ立って、さあ、鏡山を越えて、紅葉の散るありさまを見よう。) 延喜御時、秋の歌召しありければ、奉りける 秋の月ひかりさやけみ紅葉ばのおつる影さへ見えわたるかな(後撰434) (秋の月の光が鮮明なので、紅葉した葉の落ちる姿さえ隅々まで見えることよ。) 擣衣の心をよみ侍りける 唐衣うつ声きけば月きよみまだ寝ぬ人をそらに知るかな(新勅撰323) (衣を打つ音を聞くと、月が美しく輝いているので、まだ寝ずにいる人がそれとなく知れるのであるよ。) 秋のはつる心を龍田川に思ひやりてよめる 年ごとにもみぢ葉ながす龍田川みなとや秋のとまりなるらむ(古今311) (毎年、紅葉した葉を流す龍田川――その河口の水門が秋の果てなのだろうか。) 長月のつごもりの日、大井にてよめる 夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ(古今312) (小暗い小倉山に鳴く鹿の声――この声のうちに、秋は暮れるのだろうか。) 冬 / 時雨し侍りける日 かきくらし時雨しぐるる空をながめつつ思ひこそやれ神なびの森(拾遺217) (空を暗くして時雨の降る空を眺めながら、今頃散ってはいないかと思い遣るのだ、神奈備の森を。) 題しらず 思ひかね妹がりゆけば冬の夜の川風さむみ千鳥なくなり(拾遺224) (恋しい思いに耐えかねて愛しい人の家へ向かって行くと、冬の夜の川風があまり寒いので、千鳥が鳴いている。) 冬の歌とて 雪ふれば冬ごもりせる草も木も春にしられぬ花ぞ咲きける(古今323) (雪が降ると、冬ごもりしている草も木も、春に気づかれない花が咲いているのだった。) 雪の木にふりかかれりけるをよめる 冬ごもり思ひかけぬを木の間より花とみるまで雪ぞふりける(古今331) (冬籠りしていて、花など思いもかけなかったのに、木と木の間から、花かと思うほど雪が降っていた。) 尚侍ないしのかみの右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、四季の絵かけるうしろの屏風にかきたりける歌 冬 白雪のふりしく時はみ吉野の山下風に花ぞちりける(古今363) (白雪が降りしきる時は、吉野の山から吹き降ろす風に花が散るのだった。) 題しらず ふる雪を空に幣ぬさとぞ手向けつる春のさかひに年の越ゆれば(新勅撰442) (降る雪を、空に捧げ物として手向けたのだった。冬から春への境の節分に年が越えるので。) |
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賀 / 本康親王もとやすのみこの七十の賀のうしろの屏風によみてかきける
春くれば宿にまづ咲く梅の花きみが千年ちとせのかざしとぞみる(古今352) (春が来ると、真っ先に家の庭に咲く梅の花、これをあなたの千年の長寿を約束する挿頭と見るのです。) 左大臣家のをのこ子おんな子、冠かうぶりし、裳着もぎ侍りけるに 大原や小塩をしほの山の小松原はやこだかかれ千代の蔭みむ(後撰1373) (大原の小塩山の小松の群生よ。早く木高くなれ。千年にわたって栄え繁った木蔭を見よう。) 離別 / 陸奥国みちのくにへまかりける人によみてつかはしける 白雲の八重にかさなる遠をちにても思はむ人に心へだつな(古今380) (白雲が幾重にも重なるほど遠くにあっても、あなたを思っている人に対して心を隔てないでおくれ。) 人を別れける時によみける 別れてふことは色にもあらなくに心にしみてわびしかるらむ(古今381) (人と別れるということは、色でもないのに、どうして心に染みて侘しいのだろう。) 雷(かむなり)の壺に召したりける日、大御酒(おほみき)などたうべて、雨のいたく降りければ、夕さりまで侍りてまかりいでける折に、さかづきをとりて 秋萩の花をば雨にぬらせども君をばまして惜しとこそ思へ(古今397) (秋萩が雨に濡れるのも惜しいけれど、あなた様とのお別れが更に惜しまれます。) 藤原惟岳これをかが武蔵の介にまかりける時に、おくりに逢坂を越ゆとてよみける かつ越えてわかれもゆくか逢坂あふさかは人だのめなる名にこそありけれ(古今390) (逢坂の関を一方では越えて、また同時に別れてゆくのでもあるよ。逢坂とは、人を期待ばかりさせる名であった。) 志賀の山越えにて、石井いしゐのもとにて物いひける人の別れける折によめる むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな(古今404) (掬い取る手のひらから落ちた雫に濁る、山清水――その閼伽(あか)とする清水ではないが、飽かずに人と別れてしまったことよ。) 羇旅 / 土佐よりまかりのぼりける舟の内にて見侍りけるに、山の端ならで、月の浪の中より出づるやうに見えければ、昔、安倍の仲麿が、唐にて「ふりさけみれば」といへることを思ひやりて 都にて山の端に見し月なれど海より出でて海にこそ入れ(後撰1355) (都では山の端に出入りするのを見た月だけれども、海から出て海に入るのだった。) 土佐より任果てて上り侍りけるに、舟の内にて、月を見て 照る月のながるる見れば天の川いづる湊は海にぞありける(後撰1363) (照る月が流れるのを見ると、天の川を出る河口は海なのであった。) 十七日、くもれる雲なくなりて、あかつき月夜いとおもしろければ、舟を出だして漕ぎゆく。このあひだに、雲の上も海の底も、おなじごとくになむありける。むべも昔の男は「棹は穿つ波の上の月を、船はおそふ海のうちの空を」とはいひけむ。聞きざれに聞けるなり。またある人のよめる歌、 みな底の月のうへよりこぐ舟の棹にさはるは桂なるらし これを聞きて、ある人のまたよめる、 影みれば波の底なるひさかたの空こぎわたる我ぞわびしき(土佐日記) (海に反映する月の光を見れば、私は波の底にある空を漕ぎ渡っているのだ――その私という存在の、なんと頼りなく、物悲しいことよ。) 恋 / 題しらず 吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし(古今471) (吉野川の岩波を高く立ててゆく水が速く流れる――早くから、あの人を思い始めたことであったよ。) 題しらず 世の中はかくこそありけれ吹く風の目に見ぬ人も恋しかりけり(古今475) (人の世とは、かくも不思議なものであったのだ。吹く風のように目に見えない人も恋しいのだった。) 人の花摘みしける所にまかりて、そこなりける人のもとに、のちによみてつかはしける 山ざくら霞のまよりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ(古今479) (山桜が霞の間からほのかに見えるように、かすかに見たばかりの人が恋しくてならないのです。) 題しらず 逢ふことは雲ゐはるかになる神の音に聞きつつ恋ひ渡るかな(古今482) (逢うことは、雲の上のように及び難いことで、雷鳴の音のように遠く噂を聞きながら恋し続けることであるよ。) 題しらず 秋風の稲葉もそよと吹くなへに穂にいでて人ぞ恋しかりける(玉葉1645) (秋風が稲の葉をよそがせて吹くにつれて、穂が出てそれと人目につくように、私も表情にあらわしてしまう程にあの人が恋しいのであった。) 恋 大空はくもらざりけり神かみな月時雨しぐれ心ちは我のみぞする(貫之集) (時雨の降る季節だというのに、空は曇らないのだった。初冬十月、時雨の降りそうな心地がするのは私ばかりであるよ。) 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 君恋ふる涙しなくは唐ころも胸のあたりは色もえなまし(古今572) (あの人を恋して流す涙がなかったなら、私の衣服の胸のあたりは、恋の火の色が燃えていたでしょう。) 題しらず 世とともに流れてぞ行く涙川冬もこほらぬ水泡みなわなりけり(古今573) (移りゆく世と共に流れて行く涙の川――それは、常に流れが激しいので冬も氷らない水の泡なのであった。) 題しらず 夢路にも露やおくらむ夜もすがらかよへる袖のひちてかわかぬ(古今574) (夢の中で辿る道の草にも露は置くのだろうか。一夜をかけて往き来する私の袖は濡れて乾くことがない。) 題しらず 五月山こずゑをたかみ時鳥なくねそらなる恋もするかな(古今579) (五月の山は梢が高いので、ほととぎすの鳴く声は空高く聞こえる――そのように私もうわの空の恋をすることであるよ。) 題しらず 真菰まこも刈る淀の沢みづ雨ふれば常よりことにまさる我が恋(古今587) (真菰を刈る淀の沢水は、雨が降るのでいつもより水嵩が増す――そのように、雨が降る季節になると、あなたに逢えなくていつもより増さる私の恋心よ。) 大和に侍りける人につかはしける 越えぬ間はよしのの山の桜花人づてにのみ聞きわたるかな(古今588) (山を越えて、吉野の桜を実際この目で見ないうちは、その美しさを人伝にばかり聞くのであるよ。) 弥生ばかりに、物のたうびける人のもとに、また人まかりつつ消息せうそこすと聞きて、よみてつかはしける 露ならぬ心を花におきそめて風吹くごとに物思ひぞつく(古今589) (花に置いた露は風が吹けば果敢なく散ってしまいますが、露のように仮初でない私の心を、花のような美しい貴女に置き始めてからというもの、風が吹くような事件が起きるたびごとに、悩ましい思いに取り付かれるのです。) 題しらず 白玉と見えし涙も年ふればからくれなゐにうつろひにけり(古今599) (初めは白玉と見えた私の涙も、年を経ると、紅の色に変わってしまったのだ。) 題しらず 津の国の難波の蘆のめもはるにしげき我が恋人知るらめや(古今604) (津の国の難波の蘆が芽をふくらませ、目も遥かに繁っている――そのように私の恋もひっきりなしなのだが、人は知っていようか、いや知りはすまい。) 題しらず 手もふれで月日へにけるしら真弓おきふしよるはいこそ寝られね(古今605) (手も触れずに、長い歳月を経た白真弓――弓を起こしたり臥したりすると言うが、私は起きたりまた横になったりして、夜はろくに眠れないのだ。) 題しらず かけて思ふ人もなけれど夕されば面影たえぬ玉かづらかな(新古1219) (心にかけて思う人もいないのだけれど、夕方になると、誰とはなしに女の美しい髪が絶え間なく面影に立つことよ。) 題しらず しきしまや大和にはあらぬ唐衣ころもへずして逢ふよしもがな(古今697) (日本のものではない唐衣――その「ころ」ではないが、頃すなわち日数を置かずに逢う手だてがほしいものだ。) 題しらず 色もなき心を人にそめしよりうつろはむとは思ほえなくに(古今729) (色など無かった心を、人に染めてからというもの、色が褪せるように私の心が変わろうとは、思われもしないことよ。) 題しらず いにしへになほ立ちかへる心かな恋しきことに物忘れせで(古今734) (昔の思いにまた立ち戻る心であるよ。恋しいことについては、うっかり忘れるということをしないで。) 言ひかはしける女のもとより「なほざりに言ふにこそあめれ」と言へりければ 色ならば移るばかりも染めてまし思ふ心をえやは見せける(後撰631) (私の思いが色であるならば、あなたの心に移るほどにも染めましょう。しかし色ではないのですから、どうして思う心を見せることができたでしょう。) 年久しく通はし侍りける人に遣はしける 玉の緒のたえてみじかき命もて年月ながき恋もするかな(後撰646) (すぐに玉の緒が絶えてしまって、本当に短い人の命――そんなはかない命でもって、長い歳月に渡る恋をすることよ。) 題しらず 風吹けばとはに波こす磯なれやわが衣手のかわく時なき(新古1040) (風が吹くと常に波が越える磯だとでもいうのか。私の衣の袖は乾く時がない。) 人のもとより帰りてつかはしける 暁のなからましかば白露のおきてわびしき別れせましや(後撰862) (もし暁がなかったならば、白露が置く時に起きて辛い別れなどしたでしょうか。) 題しらず 百羽ももはがき羽かく鴫しぎも我がごとく朝あしたわびしき数はまさらじ(拾遺724) (百度も羽を掻く鴫も、私ほど朝の辛いことの数は多くあるまい。) 題しらず おほかたの我が身ひとつの憂きからになべての世をも恨みつるかな(拾遺953) (おおよそのことは私一身の思うにまかせない憂鬱が原因であるのに、おしなべて世の中のせいにして恨んでしまうことよ。) 延喜十七年八月宣旨によりてよみ侍りける 来ぬ人を下に待ちつつ久方の月をあはれと言はぬ夜ぞなき(拾遺1195) (訪れない人を心中に待ちながら、月をすばらしいと賞美しない夜とてない。) 哀傷 / 紀友則が身まかりにける時よめる 明日知らぬ我が身と思へど暮れぬまの今日は人こそかなしかりけれ(古今838) (私自身、明日の命も分からない身だと思うけれども、日が暮れるまでに残された今日という日のわずかな間は、人のことが悲しいのであった。) おもひに侍りける年の秋、山寺へまかりける道にてよめる 朝露のおくての山田かりそめにうき世の中を思ひぬるかな(古今842) (朝露が置く、晩稲の山田を刈り始める季節――かりそめのものと、つらい世の中を思ったことであるよ。) 藤原高経(たかつね)朝臣の身まかりての又の年の夏、ほととぎすの鳴きけるを聞きてよめる ほととぎす今朝鳴く声におどろけば君に別れし時にぞありける(古今849) (時鳥が今朝鳴く声にはっと気がつけば、昨年あなたと死に別れたのと同じ時節なのだった。) 河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、塩釜といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる 君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな(古今852) (あなたがいらっしゃらなくて、煙が絶えてしまった塩釜の浦――見渡せば、すっかりうら寂しく感じられることよ。) 思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれしをんな子の、もろともにかへらねば、いかがは悲しき。舟人もみな、子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきにたへずして、ひそかに心知れる人といへりける歌 生まれしもかへらぬものをわが宿に小松のあるを見るがかなしさ(土佐日記) とぞいへる。なほ飽かずやあらむ、またかくなむ 見し人の松の千とせに見ましかば遠く悲しき別れせましや(土佐日記) ((京のこの家で昔過ごした日々について)思い出さぬこととてなく、懐かしく恋しがるうちに、この家で生まれた女の子が、一緒に帰らないので、いかに悲しいことか。舟人も皆、子供が寄り集まって騒ぐ。そうこうするうちに、さらに悲しいのに耐えられず、気の置けない人(妻)とひそかに言い交わした歌、(歌)この家で生まれた子も帰って来ないのに、庭に新しく生えた小松があるのを見るのは悲しいことよ。と詠んだ。なお満足できなかったのか、またこのように。(歌)死んだ子が松の木のようにいつまでもそばにいてくれたなら、遠くの土地で悲しい別れなどせずにすんだのに。) 雑 / 同じ御時、大井に行幸ありて、人々に歌よませさせ給ひけるに 大井川かはべの松にこととはむかかる行幸みゆきやありし昔を(拾遺455) (大堰川の川辺の松に問うてみよう。このように盛大な行幸は昔もあったかと。) 越なりける人につかはしける 思ひやる越の白山しらねどもひと夜も夢にこえぬ夜ぞなき(古今980) (遥かに思いやる越の白山――実際は知らないのだけれど、一夜として夢の中で越えない夜はありません。) 元良親王、承香殿の俊子に春秋いづれかまさると問ひ侍りければ、秋もをかしう侍りといひければ、面白き桜をこれはいかがと言ひて侍りければ おほかたの秋に心はよせしかど花見る時はいづれともなし(拾遺510) (大体のところは秋に心を寄せたけれども、桜の花を見る時は、どちらとも言えません。) やよひのつごもりの日、久しうまうで来ぬよし言ひて侍る文の奧にかきつけ侍りける またも来む時ぞと思へどたのまれぬわが身にしあればをしき春かな(後撰146) つらゆき、かくておなじ年になむ身まかりにける (また行こうと思っていた時なのですが、頼みにならない私の身体ですので、再び巡って来る季節とは言え、悔いの残る春ですことよ。) 世の中心細く、つねの心地もせざりければ、源の公忠の朝臣のもとにこの歌をやりける。このあひだに病おもくなりにけり 手にむすぶ水にやどれる月影のあるかなきかの世にこそありけれ(拾遺1322) 後に人の云ふを聞けば、この歌は返しせむと思へど、いそぎもせぬほどに失せにければ、驚きあはれがりてかの歌に返しよみて、愛宕にて誦経して、河原にてなむ焼かせける。 (手に掬った水に映っている月の光のように、あるのかないのか、定かでない、はかない生であったことよ。) |
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■ 3
紀貫之 (きのつらゆき、872年頃-945年頃)は平安時代初期の日本の歌人。『古今和歌集』の撰者の一人で仮名序作者。紀友則は従兄。 ■和歌 ■『古今和歌集』 むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ 春日野の若菜つみにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ 人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける / 詞書「初瀬にまうづるごとに、やどりける人の家に、久しく宿らで、程へて後にいたれりければ、かの家のあるじ、かくさだかになんやどりはあると、いひいだして侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる」。『小倉百人一首』にも収録。 三輪山をしかもかくすか春霞人にしられぬ花やさくらむ 桜花ちりぬる風のなごりには水なきそらに浪ぞたちける 夏の夜のふすかとすればほととぎすなくひとこゑにあくるしののめ 河風のすずしくもあるかうちよする浪とともにや秋は立つらむ 秋風のふきにし日よりおとは山峰のこずゑも色づきにけり しらつゆも時雨もいたくもる山はしたばのこらず色づきにけり / もる山は近江国守山と「漏る」を懸けたもの。 見る人もなくてちりぬるおく山の紅葉は夜のにしきなりけり 年ごとにもみぢばながす龍田河みなとや秋のとまりなるらむ 雪ふれば冬ごもりせる草も木も春にしられぬ花ぞさきける 春くればやどにまづさく梅の花きみがちとせのかざしとぞみる / 詞書「もとやすのみこの七十の賀のうしろの屏風によみてかきける」。本康親王は仁明天皇の皇子。 しらくものやへにかさなる遠にてもおもはむ人に心へだつな / 詞書「みちのくにへまかりける人によみてつかはしける」。 わかれてふ事はいろにもあらなくに心にしみてわびしかるらむ むすぶてのしづくににごる山の井のあかでも人にわかれぬるかな / 第四句「あか」は「飽か」と「閼伽」(仏への供え物、とくに水)を懸ける。本歌は藤原俊成『古来風躰抄』。に「歌の本體はたゞ此の歌なるべし」と評される。 吉野河いは浪みたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし 世の中はかくこそありけれ吹く風のめに見ぬ人もこひしかりけり いにしへに猶立ちかへる心かなこひしきことに物忘れせで あすしらぬわが身とおもへどくれぬまのけふは人こそかなしかりけれ / 詞書「紀友則が身まかりにける時よめる」。 君まさで煙たえにししほがまのうらさびしくも見え渡るかな / 詞書「河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、塩釜といふ所のさまをつくれりけるをみてよめる」。 ■『後撰和歌集』 宮こにて山のはに見し月なれど海よりいでて海にこそいれ / 『土佐日記』にも見える。 てる月のながるる見ればあまのがはいづるみなとは海にぞありける / 『土佐日記』にも見える。 ■『拾遺和歌集』 あふさかの関の清水に影見えて今やひくらむ望月のこま 思ひかねいもがりゆけば冬の夜の河風さむみちどりなくなり おほかたのわが身ひとつのうきからになべての世をも恨みつるかな 桜ちる木の下風は寒からでそらにしられぬ雪ぞふりける ■その他 白栲に雪の降れれば草も木も年と共にも新しきかな 朝露のおくての稲は稲妻を恋ふとぬれてやかはかざるらむ 山桜霞のまよりほのかにも見しばかりにや恋ひしかるらむ 真菰刈る淀の沢水雨降れば常よりことにまさるわが恋 大原や小塩の山の小松原はや木高かれ千代の影見む 君まさで煙絶へにし塩釜のうら淋しくも見えわたるかな 桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける かき曇りあやめも知らぬ大空に蟻通しをば思ふべしやは ひぐらしの声もいとなく聞ゆるは秋夕暮になればなりけり あるものと忘れつつなほ亡き人をいづらと問ふぞ悲しかりける 影見れば波の底なる久方の空漕ぎわたるわれぞさびしき ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな 千代経たる松にはあれどいにしへの声の寒さは変らざりけり をぐら山みねたちならしなく鹿のへにけむ秋をしる人ぞなき / 小倉山を各句の頭においた折句 桜花咲きにけらしも足曳きの山の峡より見ゆる白雲 うば玉のわがくろかみやかはるらむ鏡の影にふれる白雪 / 紙屋川を詠み込んだ物名もののな歌。鏡は川のほとりにある鏡石。 ■散文 ■『古今和歌集』 仮名序 やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことのはとぞ なれりける 世の中にある 人ことわざ しげきものなれば 心におもふことを 見るものきくものに つけていひいだせるなり 花になくうぐひす 水にすむかはづのこゑをきけば いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける ちからをもいれずしてあめつちをうごかし めに見えぬ おに神をもあはれとおもはせ をとこをむなのなかをもやはらげ たけきものゝふの心をもなぐさむるはうたなり このうた あめつちのひらけけはじまりけるときより いできにけり しかあれども 世につたはることは ひさかたのあめにしては したてるひめにはじまり あらかねのつちにては すさのをのみことよりぞおこりける ちはやぶる神世には うたのもじもさだまらず すなほにして 事の心わきがたかりけらし ひとの世となりて すさのをのみことよりぞおこりける ちはやぶる神世には、うたのもじもさだまらず、すなほにして、事の心わきがたかりけらし ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける かくてぞ 花をめで とりをうらやみ かすみをあはれび つゆをかなしぶ心 ことばおほく さまざまになりにける。とほき所も いでたつあしもとよりはじまりて 年月をわたり たかき山も ふもとのちりひぢよりなりて あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに このうたも かくのごとくなるべし なにはづのうたは みかどのおほむはじめなり / 「なにはづのうた」は「なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな」。仁徳天皇に帰せられる。 あさか山のことばは うぬめのたはぶれよりよみて このふたうたはうたのちははのやうにてぞ 手ならふ人の はじめにもしける いにしへより かくつたはるうちにも ならの御時よりぞ ひろまりにける / 「ならの御時」は平城天皇。 かのおほむ世や うたの心をしろしめしたりけむ かのおほむ時に おほきみつのくらゐかきのもとの人まろなむ うたのひじりなりける。 人まろはあかひとがかみにたたむことかたく あか人は人まろがしもにたたむことかたくなむありける たとひ時うつり ことさり たのしび かなしびゆきかふとも このうたのもじあるをや うたのさまをもしり ことの心をえたらむ人は おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも ■『土佐日記』 をとこもすといふ日記といふ物をゝむなもしてみむとてするなり / 表記は定家本「土左日記」による。 おもひ出でぬことなく、おもひ恋しきがうちに、この家にて生まれしをんな子の、もろともにかへらねば、いかがは悲しき。舟人も、みな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきにたへずして、ひそかに心知れる人といへりける歌 むまれしもかへらぬものをわが宿に小松のあるをみるがかなしさ とぞいへる。なほ飽かずやあらむ、またかくなむ みし人の松のちとせにみましかばとほくかなしき別れせましや / 帰京して、任地でなくなった女子を悼む歌。 |
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土佐日記 承平4年(934)、貫之は土佐守としての4年の任期をおえて京に旅立つ。12月21日から翌2月16日までの舟旅で、ちょうど55日にわたる。貫之はこの55日間の出来事を(たった一行の記録という日も少なくないものの)、とりあえずは1日ずつすべてを記録にのこした。それが『土佐日記』である。いや、記録にのこしたのか、あとから書いたのかはわからない。当時は「具注暦」というものがあって、貴族や役人は漢文で日記日録をつける習慣をもっていた。貫之もそのような漢文日録をつけておいて、それをあとから仮名の文章になおしたのかもしれない。あるいは道中から和文備忘録を綴っていたのかもしれない。そういうことがいろいろはっきりしない『土佐日記』だが、なかでも問題は、なぜ貫之は日記を仮名の文章にしたのかということである。なにゆえに「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」という擬装を思いついたのか(実際には『土佐日記』は仮名のみの表記だが、ここではわかりやすくするために漢字仮名交じり文にする)。 女性の文章に仮託したため、もうひとつ、もうふたつの偽装にも徹することになった。冒頭から、「ある人、縣の四年五年果てて、例のことどもみなしをへて、解由などとりて、住む館よりいでて、舟にのるべきところにわたる」というふうに、自分のことを「ある人」とした。ある女が眺めている「ある人」の旅の道中というふうにした。挿入した歌も貫之がつくっていながら、別のある人の歌の引用に見せたりもしている。二重の擬態装。三重の仮託。漢字と仮名。男と女。それに加えて、日記と創作。地の文と歌の紹介。貫之は何をどのように考えてこんなことに走ったのか。そんなことは無自覚だったのか。仮に無自覚であったとしても、このことはその後の日本文芸に、日記であって物語であるような新たな文芸様式の試みを次々に創発させたのである。「千夜千冊」でとりあげた例でいえば、『和泉式部日記』など、まさに日記であって物語であった。あのような様式は、貫之がすべて創発したものだったのである。だとしたら貫之が無自覚であるはずがない。 貫之が『土佐日記』を綴ったのは、どうやら60歳すぎ、あるいは70歳に近いころで、最晩年のことだった。それまでに『古今和歌集』の編集責任者などの大役を担っていながら、貫之は老年になって遠い土佐守に任ぜられた。約5年間の任期。その帰途を日記に仕立てた。それまでも赴任や遥任はあった。しかし貫之は土佐の帰途だけを日記にした。そこには理由があるはずである。何の魂胆もなくて、いわばトランスヴェスタイトともいうべきスタイルをとってまでして、不思議な女装文章にしたとは考えにくい。ひそかに歴史にのこそうとしたのか、それとも『土佐日記』にはいくつもの象徴的な和歌が織りこまれているのだが、そのように和歌を織りこむ日記和文様式を通して、後世に何かを託す気があったのか、どうか。こうしたことをずっと考えてきたので、ここではそのことにふれてみたい。 貫之は紀望行の子で、紀友則とは従兄弟どうしにあたる。生年ははっきりしないが、おそらく貞観10年(868)か、その5年後までのあたりであろう。その貫之の名が最初に記録に見えるのは、寛平5年(894)前後の是貞親王の歌合や有名な「寛平御時后宮歌合」のときだから、だいたい30歳そこそこか、20代半ばのことだった。そうだとすると、このころは菅原道真の絶頂期で、道真が遣唐使の廃止を提案したときにあたる。このとき貫之は、若くして宮廷の歌合に招かれるほどの、かなり知られた歌人になっていたわけである。道真についてはここではふれないが、道真は親政を敷いた宇多天皇に抜擢されて、続く少年天皇・醍醐の右大臣をつとめた官吏で、漢詩の達人だった。それとともに、時代が漢詩主流文化から和歌主流文化に移行するのを支えた文人でもあった。その道真がかなり深く編集にかかわったとみられる『新撰万葉集』という興味尽きない和漢詩歌集があるのだが、これがやはり寛平5年あたりに成立していた。『新撰万葉集』は和歌と漢詩を並べたもので、しかも他には見られない独得の真仮名表記をとっていた。和歌と漢詩を並べるとはどういうことかというと、たとえば和歌に「奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきくときぞ秋はかなしき」とあれば、それに合わせて漢詩は「秋山寂々として葉零々たり、麋鹿の鳴く音数処に聆ゆ‥」というふうに、七言絶句にして併記した。それなりに実験に富んだ手法を駆使するものである。ところが、このように漢詩と和歌をやすやすと対同的に並べることができた才能の持ち主でもあった道真が、貫之が昇殿するようになった寛平5年前後を最後に、突然に左遷された。この道真の没落は菅家そのものの没落であり、紀家の貫之にとっても他人事ではなかった。紀家も大伴家も、のちの歴史が証したように、すでに藤原一族によって追い落としを迫られていたからだ。しかし、貫之は歌人としては宇多天皇に認められている。しかも和漢並立の才能を誇る時代は、道真とともに後退しつつある。貫之をめぐっては、まずはこういう「家の消長」と「歌人としての栄光」と「和漢の並立」という、そのひとつひとつだけでもかなり歴史的な意味をもった事情が互いに重なりあうような、そんな出発点があった。 こういう背景をもった貫之が、晩年に風変わりな諧謔と隠者の趣向を発芽させたような『土佐日記』を、女装型仮名文として書いてみせた事情の奥行を考えてみると、そこにはそれ以前から貫之が計画したか、ないしは計画したかった"あること"が浮かびあがってくる。その"あること"とは、貫之の「日本語計画」ともいうべきものである。はたして「日本語計画」などと言っていいかどうかはわからないけれど、まあ、それに近いおもいはあったであろう。そのおもいを溯っていくと、その発端は宇多天皇が好んだ屏風歌の制作や御書所預(みふみどころのあずかり)の仕事に従事していたあたりに胚胎し、『古今和歌集』の真名序と仮名序の併置となってはっきり浮上した。貫之が仮名序を書いたことは(真名序は紀淑望だとされているものの、当然、貫之のディレクションがあった)、日本文芸における倭語から和語への進捗をもたらしたのであるが、そんなことをおもいつけた意図を推理するには、そのころ貫之がどんな位置にいたかという日本語表現環境を知っておかなければならない。 急いでたどってみよう。まず惟喬親王サロンがあった。この和風文化の前駆体ともいうべきサロンに、伯父の紀有常や有常女を妻とした在原業平がいた。遍照・小町などを加えて、後の世に六歌仙時代といわれる。けれども有常も業平も、また惟喬親王も、ありあまる文才や詩魂がありながらも、もろもろの事情で失意の裡に王朝文化を飾りきれなかった。そうしたあとに宇多天皇が即位する。途中、阿衝の紛議などがあり、それまで自在に権力をふるっていた藤原基経の横暴に懲りた宇多天皇は、いよいよ関白をおかずに親(みず)から政務をとって、前代の摂関政治に代わる親政を敷く。これが寛平・延喜時代の開幕である。ここで菅原道真・紀長谷雄らの学者文人が登用され、宮廷行事のなかに「歌合」(うたあわせ)が採りこまれた。歌合の登場がまことに重要だ。歌合は「物合」(ものあわせ)に付随して始まったもので、前栽の花々や菊合わせや美しい小箱を合わせて優劣を競っていた宮中や院の遊びに、興をさらに募らせるべく和歌が添えられたのが最初であったとおもわれる。だからこの時期の歌合はまだまだ揺籃期というべきで、のちの歌論めいた真剣な評定評釈の水準には至らないのだが、そのかわり、むしろその場の雰囲気や趣向にあうこと、あわせることを当意即妙に見せるのがおもしろがられていた。宇多天皇もなかなかの文藻の持ち主だったので、この和歌の歌合は捨てたものじゃないということになり、それまで漢詩のずっと下にいた和歌の地位向上にも関心をもった。寛平5年以前の后宮(きさいのみや)歌合は実に百番二百首をこえる大規模な歌の宴となっている。この歌合の場に若き貫之が列席できていたということが、すべての魂胆のスタートだったにちがいない。 一方、さきほども書いたように、道真らは『新撰万葉集』を編んで漢詩に対する和歌の対同を遊び、ここからも和歌の向上がはかられた。こうして貴族たちが挙って和歌にしだいに関心を寄せていくことになってきたのであるが、もちろんその段階では、誰も「和文」を持ち出すまでには及んでいなかった。延喜元年(901)のこと、貫之は御書所預に選ばれて、禁中の図書を掌ることになった。これは宮廷の図書室長のような職掌についたということである。そして、このときあたりから貫之のライブラリアンとしての編集能力が、つまりはエディターシップの才能が開花した。それはまた歌合を重視しはじめた宇多宮廷サロンにとっても必要な才能だったはずである。誰もエディターシップをとろうとしないサロンなど、古今東西充実したためしがない。歌合は「場のサロン」であって、「和語のクラブ」であるべきだった。やがて宇多天皇は落飾して、帝位を13歳の醍醐に譲る。けれども宇多院が文化の帝王であることは変わらず、各地への遊幸にも熱心だったし、歌の宴も煽っていた。なかでも『万葉集』以来の勅選歌集を和歌でこそ編纂したかった。この『古今和歌集』の計画には若き醍醐帝にもすこぶる心惹かれるところがあったらしく、そこで編集委員に選ばれたのが紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠峯の気鋭の4人だった。編集室は「御書所」か「承香殿の東なるところ」、帝から期待された編集方針は「古質之語」に学ぼうとするところとなった。勅命が下ったのは延喜5年のことだった。 ここで貫之が持ち前のエディターシップを和歌の場を背景に、いよいよ「文」にも発揮する。『古今和歌集』の編纂はその絶好の機会を貫之に与えたのである。むろん『万葉集』以降の和歌秀歌の選抜もたいそう苦心の作業ではあったけれど、これは「詔して各家集ならびに古来の旧歌を献ぜしむ」という第一編集段階と、それらを選抜分類して部立(ぶだて)をつくる第二編集段階とに分業できたので、どちらかといえば協同的なスタッフワークができた。「夜の更くるまでとかう云ふ」ような喧々諤々の議論もあった。しかし、序文はどうか。これは貫之一人の才能に頼られた。ここで貫之は、かねておもうところのあった仮名による和文の序の執筆に走る。貫之は綴った。おそらく一気呵成であったろう。これが、「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」「世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり」で始まる、あの有名な仮名序となった。世阿弥『花伝書』や芭蕉『奥の細道』の冒頭に匹敵する画期の一文だが、むろん世阿弥や芭蕉がこの仮名序に倣った。 仮名序の内容はここでは措いておく。問題は貫之が満を持したかのように、仮名の文章を漢字の文章に対同させたことである。漢詩と和歌は比べられてきた。たえず対同されてきた。そういうことは道真もうまかった。しかし、漢文に対する和文の対比はまだ誰も試みたことがない。貫之は勅撰和歌集という絶好の機会を千載一遇として、一挙に書き連ねてみせたのだ。漢文の真名序は貫之の意向を配慮して、淑望が書いた。貫之の仮名序は真名序と対応していただけではない。部立とも対応した。いや、おそらくは部立を編集するうちに、はたと仮名序の必要に至ったのだとおもう。ぼくはいまなお感心するのだが、春・夏・秋・冬・恋・雑のあいだに賀・離別・羈旅・物名・哀傷を、なんとまあ巧みに挿しこんだものである。編集名人だ。さらに雑体と大歌所歌は張出番付のように扱った。そこに約一千首がもののみごとに配当された。きっと部立のマスタープログラムは貫之が、歌の選抜振り分けはみんなの協同作業であったろう。ともかくもこうして貫之は、前代未聞の「和文・仮名つかい」による大和歌(和歌)の収容を成就した。ぼくはこの計画実行こそが日本語の将来を変えたのだとおもっている(もう少し先のことでいえば、真言僧による日本語の研究と「いろは歌」や「五十音図」の確立も大きかったし、琵琶法師らによる『平家物語』の編集も大きかったが、なにより貫之の快挙こそが先頭を切ったのだ)。 こうして貫之の「日本語計画」は発進した。それは、中国的なるものに日本的なるものを対置するという方法を、「文」において初めて成功させた快挙であった。すでに漢風あるいは唐風の建築様式を大極殿朝堂院のモードにして、皇族貴族の住まう建物を檜皮葺(ひわだぶき)高床式の寝殿づくりの和風モードとしたり、漢詩に和歌を対同させることなら、先人たちがあれこれ試みてきたことだった。しかし、漢文に和文を対比すること、さらにその和文をそれ自体として自身の文体をもって自己進化させることなど、誰もトライはしていなかった。だいいち古今集以前の時代では、まだ仮名文字の感覚がどのように世に伝わるかが見当すらついていなかった。いってみれば貫之の幸運は、ちょうど万葉仮名から草仮名への移行期にぴったり立ち会えたということでもあったのである。このことは貫之がどのように「書」を書いていたかということに関係がある。われわれは伝貫之の書を『高野切』や『寸松庵色紙』で見ることができるのであるけれど、それらは「書」の書風の出来栄えとしてもさることながら、それは当時、いったいどのように仮名文字の連鎖によって日本人のあいだにコミュニケーションが成り立つのかという「日本の言の葉」の伝達実験でもあったというふうに見ることもできるほどの、大きな試みでもあったのである。このことは貫之を語るときにいつも忘れられすぎてきたことなので、いささか注意を促しておきたかった。分かち書き、散らし書きという書き方そのものが、日本語計画のいったんに入っていたというべきなのだ。 さて、貫之の『古今和歌集』のその後を追っているとキリがなくなるので、話をここで一気に結論に飛ばすことにするが、貫之は延喜10年には少内記、3年後には大内記、延喜17年には従五位下を授けられたのち、加賀介や美濃介に任ぜられた。いずれも遥任で、現地には行かなかった。こうしてしだいに官位が上がっていくなか、貫之が実際に何を考えていたかということは史料からは窺えない。しっかりは窺えないのだが、だいたい見当がつくのは、和歌サロンの中心をつねに占めつづけていたことである。おそらくは堤中納言藤原兼輔と藤原定方のサロンにいたことだろう。つまりは延喜・延長の20年あまり、貫之は時の和風文化の進捗を内側から観察できる最も心地よい場所にいたはずなのである。では、この間、貫之は何を感得したか。それがどのように『土佐日記』になったのか。いや、貫之はろくなことを考えもしなかったと、突き放したのは正岡子規だった。ただ凡庸な歌を詠んでいたにすぎないのではないかと突き放したのだ。与謝野鉄幹も似たようなもので、貫之は「ますらをぶり」を失っていったとみなした。子規と鉄幹が貫之と古今集をバカにしたことは、日本文芸史がながらく貫之の本位が奈辺にあるかを見失うことになった。いまはそのミスリードを詰ることはしないけれど、これは二人の早合点であり、その早合点をしたことが、またかえって明治の写生リアリズムの歯車を動かしたのでもあった。が、このことはそのくらいの話にしておこう。 多少とも貫之の心に迫ったのは藤原定家で、これは貫之の歌詠みに対する評釈にはすぎないけれど、「心たくみにたけ及びがたく、言葉つよく姿もおもしろきさまを好み」と見て、しかしながら「余情妖艶の躯をよまず」と注文をつけた。「たけ」とは崇高なさまをいう。文句ばかりがついたわけではない。香川景樹は貫之によって「大和歌の道」がふたたび「古に復る」ことになって、今に及んだのだという評価で、それがいわゆる桂園派となった。その桂園派の歌にいちゃもんをつけたのが子規だったのである。こうして約40年前になって、やっと目崎徳衛がそれまで誰も書いていなかった伝記『紀貫之』を書いて、貫之の和歌サロンにおける充実に光をあてた。もう少し突っ込んで、きっと貫之は歌宴にひそむ孤心ともいうべきを感得していたはずだというのが、大岡信が書いた話題の『うたげと孤心』の見方であった。乱暴に貫之をめぐる毀誉褒貶を紹介してみたが、それらが細かくはどうあれ、どちらかといえば貫之の胸中は察せられずに放置されてきたといったほうがいい。しかし、ぼくは貫之はひそかに計画を練っていたと考えたかったのである。 かくして貫之は都から遠く離れた土佐に行く。和歌には遠い遠国である。しかも4年にわたった任期となった。いよいよ都に帰ることになった貫之は、ここで最後の計画の着手をおもいつく。いろいろ考えてきたことである。それをひとつの計画に集約してみたい。まずは歌日記というものをつくってみたい。第1には、その衝動だった。第2には、和文で綴りたい。漢文日記を和文に変えて、そこに和歌を盛りこみたい。第3には、仮名で綴ってみたかった。すでに歌合日記というものが歌合にともなって記録されていたことがある。「亭子院歌合」などの記録が残っている。これが女手による仮名になっていた。貫之はそれを思い出していた。こうして船旅が始まり、その備忘録がのこり、これを構成しなおし、和歌を整え、虚構をおりまぜて日記のスタイルができあがったのである。仮名の歌日記とするには書き手が女である必要を感じたので、おそらくは都に帰ってきてからのことだったろう。あるいは船旅をするうちにそのような策を練っていたものか。貫之が『土佐日記』で試みたことは、たしかに擬装である。それも二重三重の擬装であった。しかしながら考えてみればわかることだとおもうが、日本人が日本文字をどのようにつくったかといえば、これは漢字を柔らかくくずして草仮名にしたり、漢字の一部を取って片仮名にしたわけである。"中国的なるもの"を意識して、初めて"日本的"なる檜皮葺き白木の建築様式に気がついたわけだった。唐絵があって初めて倭絵をつくれたわけなのだ。実は擬装は「日本」をつくりだすための、「日本」というのがおおげさならば「くにぶり」(国風)をつくりだすための、必要不可欠とはいわないが、きわめて有効な世界像装置だったのである。おそらく貫之はそこに気がついた。そして「言霊さきはふ国」に、いまだおこっていない和語和文和字の表象様式をつくりだしたいと考えたのである。『土佐日記』とは、そのための装置だった。ただし、決して重たい装置にはしなかった。メモリーを軽くし、エンジンを日記共用型にして、さらに読みやすいインターフェースのようなものを加えて、その後の誰もが真似しやすいものにした。貫之の計算である。これは、貫之の時代が女手の台頭や女房文化の台頭を予感させる時代になっていたことを、すでに貫之が正確に読んでいたことをあらわしてもいた。貫之は、そのあたりの出来具合がなかなかたいしたものだとおもうところなのであるが、自体を百年も三百年も制するアイディアに気がつきながら、それが世間に静かに定着していくべき初期条件がどうあればいいのか、そのことがよくよく考慮できる才能だったのだ。 こうして『土佐日記』は「男がすなる日記」の重要性を伝えつつも、それを「女がしてみむとてする」という場合の可能性を拓き、女が綴るのだから女文字である仮名でありえていいのではないかという試作性を促し、かつまた自分のことを「ある人」に託する創意創作の手法もまたありうることを暗示して、さらには諧謔や冗句を交えて、そのような大胆な試みがそれほど困難ではないことすらをも、告知したわけである。なんだか「千夜千冊」にしてはだらだら長いものになってしまったが、言いたかったことは、この一作によって「日本語計画」がみごとに実行に移され、その後の日本の表現世界の多くがこの一作をなぞることから始まったということだ。 終わりに一言。 残念ながら『土佐』の内容にまったくふれることができなくなってしまったが、この日記が仕込んだ世界像装置には、「影みれば波の底なる久方の空こぎわたるわれぞわびしき」の一首に象徴されるような、水中と空中を写しあわせた"鏡像装置"も、ひそかに作動していたということを申し添えておきたい。似たような鏡像装置として、次の数首もある。その前後を読みこんでいくことも、実は『土佐日記』を読みこむことのたのしみでもあった。貫之、ひょっとして日本のルイス・キャロルでもあったのか、どうか。 水底の月の上より漕ぐ舟の 棹にさはるは桂なるらし ひさかたの月に生ひたる桂河 底なる影もかはらざりけり ちはやぶる神の心を荒るる海に 鏡を入れてかつ見つるかな 桂河わが心にもかよはねど 同じふかさにながるべらなり |
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紀貫之の足跡 ■一、 郷土誌としての「土佐日記」 紀貫之は土佐国司として延長八年(九三〇)来任、国府村の住民として四年間比江にいて、承平四年(九三四)十二月任満ちて京都に帰った。その残した足跡は大きく、国府の歴史を語るものは何人も、貫之がこの国府の地を天下に紹介してくれた第一人者たるを思う。国府といわず、土佐を世界に紹介したものはその名著『土佐日記』と長尾鶏に及ぶものなしというべきであろう。その頃讃岐国司として菅原道真が赴任したことありというが、そのことがよく聞えていないのに対し、土佐は紀貫之の『土佐日記』によって天下に知られることとなった。 郷土史として 『土佐日記』は、その頃を伝えるまことにすぐれた歴史本である。国府から大津へ出て京都に帰る旅行記は、一千年を越えたその頃の土地や人間のありのままを描き出した類なき価値が含まれている。その途中の (一)地理的な状況、今日の高知市が海底にあった大津などのありさまから浦戸、大湊などの港湾のこと、(二)別れを惜む人々の風俗人情、(三)宇多の松林などの自然の風光、(四)時化や海賊による航海の不安などの治安、(五)政治的、地方事情、(六)人々との関係、庶民の生活などが、文学的修辞のうちにありのままに綴られている。平安古代の姿をこの『土佐日記』に知り、近世政治の実態を後の『天正地検帳』に求め得るというほど、この二つの文献は地方史的価値があるものといえよう。 もとよりわが国文学史上における高い価値はいうまでもない。貫之が京からつれて来たわが子を亡くして、この地に葬ったことを、比江を立つ時、京の家へ帰りついた時、または途中折にふれ時にのぞみ切々の哀感を歌に托し、或は文中に訴えその傷心を綴っているなど心打たれるものがある。 ■二、風俗人情の美しさ 貫之は、十二月廿一日というおしつまった年の瀬のしかも午後八時頃比江の「住む館(たち)」を出発している。比江で足かけ五年を経、引継ぎなどおえ、解由状をもらって国司館を旅立ち誰彼にさわぎ見送られ、つぎの第二日、舟を待ちながらの送別宴に海辺で一日を過し、第三日日廿三日には八木康教という人物が登場する。この人は国司館に使われる人でもないのに、転出してもはや逢うこともなき貫之に丁重な送別の席を設けたというのである。 八木とはいかなる人か、当時本山の豪族、国中一の国宝といわれた豊永豊楽寺造仏寄帳に八木姓が連なり、新改村・長久寺地蔵菩薩修復銘に檀那八木康綱とあり、本山の吾橋(あがはし)庄一円を支配した八木氏の繁栄が伝わっているが、こうしてはるばると情義を尽して出て来ている。さらに四日目廿四日には国分寺の住職が餞別に見えて、子供にいたるまでべろべろに酔いしれる。廿五日には官舎から貫之をよびに手紙が来て、再び比江まで行き一日一晩夜をあかす。廿六日も引つづき逗留して宴会があり、ものを贈られたり、また詩を吟じ、和歌を互に詠じ合う。その時あとの国司の島田公璧が「都出でて」の歌をつくり、前国司貫之が「白妙の波路を」の歌を詠じたということになっている。 新旧国司を中心として歌のやりとりがあったりしている風景は、明治以後の知事などの姿に比べてもっと教養があり、もっと文化的でもっと人間的にも美しいもののように思われ、宴のありさま、人々の態度など風俗史、文化史の資料と見ても価値があろう。かくて廿七日にやっと「大津より浦戸をさしてこぎ出づ」とある。廿一日に「舟に乗るべき所へわたる」と書いてから、その間に比江の館に泊りがけで帰ったりして、なかなかに悠長な旅行ぶりであるが、『土陽淵岳志』に「或説ニ貫之ノ屋形ハ長岡郡大津ノ舟戸ナリト云、然レトモ何ノ証拠ナシ」とあり、『土佐州郡志』には大津城址について「天竺城相伝昔紀貫之所居也」などあるが、恐らく単なる立寄りの家があった程度ででもあろう。ところがいよいよ舟戸を出て、都へつれ帰るべき亡き子供のことを、今さらのように嘆き悲しんでいるうちに鹿児崎に着く。すると後任国司の兄弟やその他の人々が酒など、持って来て、別離のつらく悲しいことをいう。ここで歌にして思いを叙す。よい声で歌唄うなどするうち、船頭にうながされて、舟に乗って浦戸まで漕いで同夜は泊る、藤原言実、橘季衝などが、またここまで追うて来た。藤原といい、橘といい比江の国庁にいた京から来た役人か何かだろうか。廿八日は浦戸から大湊についたが、連日波が立って舟が出されぬ。ここで正月を迎え、また送別の宴がここでも続けられて幾日も滞在する。 やっと一月九日「つとめて大湊より奈半の泊を追はむとて漕ぎ出で」たがここまで藤原、橘の二人、長谷部行政らが、比江を出て以来その行先々にあとを追い来ったのが、ここが別れの終りとて見送りに来た。「この人々の深き心ざしはこの海にもおとらざるべし」 「漕ぎ離れ行くままに人も遠くなる。岸の人にいうことあるへし、舟にも思うことあれどかひなし」とて「思ひやる」歌がつくられている。 まこと比江の館を出てから、また逢うことのできぬ人々の別離のさまは、貫之の亡児を思う親の愛情と相交錯して、しみじみと人の世の美しさを感ぜしめるものがある。 貫之の出発は一千年ののちの観光土佐の宣伝をするのに、この『土佐日記』が持ち出されるほど、今に変らぬ土佐人の人情の濃やかさが見られる。その徹底した見送りぶり、別れを惜む人々の姿は「国分寺の住職が餞別にやって来て酒となった時、ありとあらゆる上の者も下の者も、子供達にいたるまでべろべろに酔っぱらって、文字一つさえ知らぬ者まで「足の方は十文字に踏んで千鳥足で遊ぶ」というこの文章の一節にも、八木という国司とは直接関係のない人までも、わざわざ出て来て十分に整った方法で、餞別をしたことにもよく表現されている。八木について「こういうことばその時の国司の人柄にもよるのであろうが、それにしても地方の人の普通の人情としては転任出発となると、今はもう用はないと考えてよりつかなくなるものであるのに心ある人はやってくる。これはものによりてほむるにもあらず」と、貫之はいかにもインテリらしい感想をもらしなれら、土佐人の真情に触れて嬉しさに感激しているのである。土佐人の掬すべき誠実さが、土佐を去るにあたり始めて、しみじみと貫之に感ぜられたのであろう。そして目に一丁字無き野人や少年たちまで酒に酔いしれて別離を惜しんでいる。その土佐人の酒の飲みぶりは、一千年の昔すでに貫之を驚ろかしているのである。 ■三、大湊考証、慕われる足跡 この旅路で十日程も舟をとめた大湊が、現在のどこになるかについて後世史家の考証一致せず、時々学界に大波紋をまき起しており、『土佐日記』という名著を通していかに影響力を持ったか、貫之の足跡が慕われていたことも想像される。しかもこの大湊論はその後いつまでも、なお解決せず、昭和のこの頃にも時々新聞紙上に諸説が発表され、肯定や異論で賑っているのである。 (一)藩政中桂井素庵は長岡郡十市村改田にあったとし、元禄の頃『望大港詩』を発表、享保中『土佐幽考』が十市説をとり、慶応の頃『土佐国群書類従』の吉村春峰は『大港考証』を著し峯寺の麓から西丸山までこの港があったとした。(二)谷泰山は香美郡前浜説を主張し、続いて野見嶺南が前浜説を実証して安永年間『大湊図考』を著したが、『土佐淵岳志』や『南路志』もこれに同調した。安政の頃『万葉集古義』の鹿持雅澄は『土佐日記地理弁』を著して同調、貫之当時は物部川の西方に物部川の分流があり、その川口が大湊に当るという主張である。物部川口説にも本流と分流との二説があった。(三)文化の頃武藤平通が『大港考』を著して香美郡夜須村であったとした。 史書として比較的新しい 『高知県史要』は、第一説をとりながら、確証はないとしている。 今の物部川川口の西方に後川が流れて、その川口が天然の港湾をなして水門(みなと)が立派にできていたので大湊といったとの伝承がある。文化十二年(一八一五)に大洪水があり、前浜の土砂が海に押出されたあとが窪地になって港が再現したといい、その後も出水の度に低地が湖となって、昔の大湊の姿を復原したといわれる。古代築港技術のない頃は、こうした天然の川口港を利用したと推定せられ、昭和年間になって改田工事などで港のあとが実証されたなどから、前浜説が再び有力になり定説化するにいたった。今は物部川の川形も改まり、伝説大湊の遺跡久保あたりは稲田が続き、石垣がつくられて畑地ができ、松林に包まれて園芸のビニール・ハウスがならんで、滄桑の変を物語るかの如くである。 『土佐日記』 に出る宇多の松原についても、雅澄は赤岡北方の兎田村から来た名とし、『土佐幽考』は手結浦の東南宇土の松原のこととし、武藤平道は夜須の八千切から北方にかけてあった松原だとしているなど諸説がある。 そのほか貫之の舟出の場所については、大津から浦戸めざして漕ぎ出すとあり、途中鹿児の崎について、ここでまたお別れの酒盛りをして、その夜は浦戸に泊ったとあるが、この舟出の大津というのは今の舟戸あたり、菅公の哀史を語る白大夫神社のある岩崎山あたりが、港の舟つきであったかどうか、別離の感情に胸たかぶらせた平安朝時代の国司と、名残りを惜む土地の人々の姿が、今の地形風物ととりあわせていろいろに懐古せられるのである。 貫之逝いて千年、室戸岬津呂には故人を慕う地元青年によって、昭和三年『紀貫之朝臣泊舟之処』の碑が港頭に建てられ、安芸郡羽根村では 『土佐日記』に「今しはねといふ所に来ぬ。はねといふ処は鳥の羽のやうにやある」とて「まことにて名に聞く所羽根ならば飛ぶが如くに京(みやこ)えもがな」と歌ったというのであるが、これにより羽根が広く知られるようになったというので、地元青年だちの「十兵衛会」が昭和三十四年海岸にこの歌碑を建立したなど、現代まで貫之の足跡は慕われている。 ■四、『土佐日記』の文化史的な価値 『土佐日記』はもと『つらゆきがとさのにき』といわれたらしく、土佐の字は土左であったという。仮名交り文としてわが国始めての模範的なものであり、その頃人々は漢字のみで文を綴り、日記などもみな漢文を用いていた頃のことで、仮名文を書くということは実に大きな試みであり、そこに文学史上画期的な意義があった。これを書いた動機が、貫之の素養から来る単なる文学的興味とする(岸本由豆流の『土佐日記考誌』)や、土佐へ来て失った愛児に対する切々たる追慕の感情を述べたものとの見方(香川景樹の 『土佐日記創見』)また当時すでに第一級の歌人として声名の高かった身で、はるばる土佐の辺境に左遷された憤りをこの文に示したものとの見方、そして公儀をはばかって筆者をぼかしたのと、それらがあまり女々しいから冒頭にあるように「男もすといふ日記といふ物を女もして心みむとてするなり」と、女性に仮托して謙虚な表現形式をとったのだ(富士谷御杖の『土佐日記燈』)など、いろいろと観察が下されている。しかし漢文の日記にしても、それまでのものは単なる記録に止まったものが、これは風景自然の姿をありのままに描写し、人情の機微を巧みにつかみ、悲しみや悩みや憤りや、それに詩語、諷刺さえ交え、わが国の和文としての特色を十分に発揮し、縦横自在な筆を走らせておることは、文学的作品としてその当時から見て極めて高く評価されるべきものである。当時は少なからぬ刺戟を与えたにちがいない。 その内容は日記風の紀行文で、今日の目で見ると何の変哲もないかに見えるが、当時にあっては実に驚異的な革新文字であり、新鮮で自由な技工や繊細な感覚もあり、にじみ出る落ち着いた思索や人格的人情さえも行間に溢れ出ている。さらに貫之がきっとよい政治を行い衆望を集めていたであろうことは、大津の送別会や大湊まで追っかけて来て、別れを惜む人々の姿をありのままに描いたところからも十分に受取られる。そのうちには国分寺の住職もいるし、比江国分地内に今住んでいる人々の祖先の人々もいたことであろう。その文章のうちに何ら特別のテーマは盛られていないに拘らず、この『土佐日記』一冊は日本文学をして革命的展開をなさしめた功績が認められるのである。貫之から六、七百年後の徳川幕府時代でも、漢字重用の余弊がつづき、いかに諸記録の解明を難解なものにしているか、それが日本の文化の発展にいかに大きな障害となったかを思えば、広い意味の文化史上、仮名文字がつくられたことや、万葉集や、明治時代以来一層平易になった口語文体とならんで大きな金字塔を立てたものと云えよう。今日ある国文学者は『土佐日記』による貫之の業績を讃えて「貫之はわが国文学を開拓した点で、今日までのどの作家たちもおよばない。実にコペルニクス的転回をなしとげた功績者である」といっている。この『土佐日記』を契機にして、平安朝文学はその花をみごとに咲かせ『源氏物語』のような不朽の作も出たが、貫之の先駆的な開拓なくば、あの絢爛たるものにはならなかったであろう。 ■五、紀貫之の生涯 紀貫之は蔵人望行の子として貞観年代に生る。和歌のほか書道にも優れていた。延喜五年(九〇五)御書所預りとなり、越前権少椽、内膳、典膳、少内記から大内記歴任、従五位下となる。紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑らと勅命によって古今和歌集を選び、貫之がその序を書いたがこれで大に有名になった。完成を見て天皇喜ばれて貫之の歌百首を加えるように指示されたという。加賀美濃介国司の次の役となり、大監物、右京亮、続いて土佐守になった。性温雅廉直、庶政をおさめ善政を行うて徳望あり、土佐在任中余暇を求めて『新撰和歌集』の仕上げをしたことは別項高知大学松村教授の記述にもある通りで、これも醍醐天皇の勅命によったもの。京都に帰って後玄蕃頭従五位上になり、さらに従四位下から木工権頭になったが、天慶八年(九四五)五月十八日六十歳で逝いた。 万葉集紗鈔、及家集の著は有名であり、後人三十六歌仙を選ぶに当って貫之が第一に推され、柿本人麿に配し和歌の祖宗または歌聖とされた。 その家系として伝えられるものは孝元天皇三代武内宿弥四代の孫紀角から出ており、一門歌道に緑深く名門であった。 かくてこの孤独孤高を持した詩人貫之朝臣は、その徳を慕う人々によって大津市南滋賀に福王子神社として神に祀られ、その墳墓は洛東比叡山裳立(もたて)山に明治元年建立され、松籟のなかに「木工頭紀之貫朝臣之墳」の字とともに傾いたまま、寂しくしずかに然して国府の空をなつかしむ如くである。 |
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紀貫之に関する疑問 ■紀貫之が土佐日記に隠した秘密 「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」で始まる「土佐日記」は、平安時代の代表的歌人である紀貫之が書いたものです。高校の古典で必ず取り上げられますので、誰でもご存知でしょう。この作品は、貫之が女性のフリをした「女性仮託」(じょせいかたく)とされています。ただ、「なぜ女性のフリをしたのか」については、平安時代以来諸説あり、釈然としないまま1000年以上過ぎてしまった日記でもあります。冒頭文で「女です」と装っておきながら、中身を読めばすぐに書き手が男性であることがバレてしまいます。紀貫之ほどの大文学者が、バレバレの擬装をするのだろうか? という疑問がどうしてもついてまわるのです。実は、この疑問に対してかなり明確な答えとなる新説があります。そもそも「女のフリ」をしたものなどではない、天才ならではの「暗号」という解釈です。実にユニークで、しかも非常に説得力がありますのでご紹介します。 「女性のフリ」とされたのは200年後!? 紀貫之は、9世紀の後半に生まれ945年に亡くなったと言われています。土佐日記が書かれたのは935年ころで、当時60代半ばであったと推定されます。鎌倉時代までは本人自筆のものが残っていたそうですが散逸し、現在は藤原定家などの写本が残っているのみです。定家の写本は、貫之の自筆本を手本にして書き写したもので、貫之自身のものと筆跡を含めてそっくりと考えられる貴重なものです。定家は写本を作っただけでなく、日記についての解釈・解説も残しており、その中で、この書は貫之が女性仮託をしたものとしました。これが現代まで続き、定説となっています。ただ、藤原定家が生まれたのは貫之の200年も後のこと。仮名の使い方も既に大きく変わっており、定家自身も書き写すのにも解釈するのにもかなり苦労したと言われています。自筆本の書写とはいえ、本人と直接面識があるわけでもありません。不明な点を尋ねることも不可能です。必ずしも定家の解釈が正しいとは言い切れないのです。 なぜ、女のフリをしたのか? については色んな説があります 女性仮託の理由については諸説あります。当時は、男性は漢字で書くのが常識で、仮名(かな)は女性が使うものでした。仮名で書きたいが、男性が仮名を使うことははばかられるため女性のフリをした、というのが通説です。仮名を使った理由もいくつかあります。自由度の高い新しい表現方法にチャレンジするため、愛児を失った悲しみなどを表現するのに仮名の方が心情を強く表現できるため、などです。当時、和歌については男性も仮名を使っていました。歌人である貫之は仮名の可能性を十分に知っていたので、新しい表現を模索したという説には十分説得力があります。実際に、土佐日記以降は仮名文学が発展していますので、功績は大きかったと言えるでしょう。 女性のフリをしなければならないほどのことだったのか? しかし、仮名を使うためには、どうしても女性のフリをしなければならなかったのでしょうか? この点については長年疑問視されているところです。土佐日記を読めばすぐに男性が書いたものだと分かります。本文に署名はないものの、発表された当時から「紀貫之が書いた」とされていたわけですので、擬装をする意味はなかったでしょう。 貫之ほどの大物がすることなのか? 紀貫之は、当時の日本最高の文学者です。最大の敬意を払われてきた歌人であり、古今和歌集などの歌集には最高数の和歌が残され、絶対的な権威を誇った人物。そんな文学界の大物が、果たして「女性のフリ」などというチープな小細工をしたでしょうか?現代で言えば、村上春樹さんが「上村はる子」とでもペンネームを名乗って、「2Q84」という小説を発表するようなものです。そんなことをするはずがない、と考えるのが普通ではないでしょうか? 平安時代には濁点はなかった! 「ず」や「が」につく濁点は平安時代にはありませんでした。近代でも法令などに濁点が使われるようになったのは、終戦後のことです。昔は「雨がしとしと」も「雨がジトジト」も、両方とも「しとしと」と表記されました。古文を解釈する時には、文意から判断して濁点を付さなければなりません。これが、土佐日記の冒頭文の解釈を大きく変えるカギとなるのです。 「男もすなる……」に濁点を付けると、女性仮託ではなくなる!? 土佐日記の冒頭の文章に、一部濁点を付してみるとこうなります。「男もずなる日記といふものを女もじてみむとてするなり」これに文節をわかりやすくするため、『』を付けてみるとこうなります。「『男もず』なる日記といふものを『女もじ』てみむとてするなり」「男もず」は「男文字」、「女もじ」は「女文字」と読め、「男もず」は漢字のこと、「女文字」は仮名のことと解釈できます。文章の意味は、「(普通は)漢字で書く日記というものを、仮名で書いてみようと思って始めます」となります。女性のフリなどしていない、単に「仮名文字宣言」的な意味になるのです。 紀貫之の暗号だった!? 紀貫之は文章の天才だった人です。和歌には一つの文を二つの意味に読ませる手法がありますが、それを日記の冒頭文にも試したとしてもおかしくありません。「女のフリをした」とも読めるし、「漢字ではなく仮名で書きます」とも読めるようなトリックを秘めたのではないでしょうか? 冒頭文は一種の暗号だったのです。こう解釈すると、「バカバカしいマネ」だったものが「みごとな魔術」に変わります。紀貫之が遊び心のある天才だったとも受け取れますし、その巧妙な暗号は藤原定家すらもワナに掛けるほど巧妙で、1000年もの間、見破られなかったとも解釈できます。その方がミステリアスで、より魅力的になるのではないでしょうか? ■土佐日記に記された疑問点 このように、「土佐日記」冒頭の「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」は、確かに問題をはらんでいます。そんな土佐日記には、当然のことながら、他にも問題をはらんだ箇所があります。次に引くその箇所は、十日間風待ちした室津での最後の日(1月20日)の記録(池田弥三郎訳)です。 (正月)二十日。……さてきょうは、夜になって、二十日月が出てまいりました。月のでる山の外輪もなく、月は海の中から出て来るのでございました。 こういう光景を見てでございましょう。 昔、安倍仲麿といった人が、唐土に渡って、帰って来ようとした時に、船に乗るはずの処で、かの国の人が、送別の宴を催してくれて、別れを惜しみ、あちらの国の漢詩を作りなどいたしました。 なかなか心がみちたりませんので、その宴はうち続いて、とうとう、二十日の月が夜が更けて出てくるまで、別れを惜しんでおりました。 その時の月は、海からでてまいりました。 これをみて、仲麿は、「わたしの国では、こういう歌をば、神代の昔から神もおよみになり、 それ以来ひき続いて、今では上中下の身分の区別もなく、みなみなが、こういうように別れを惜しんだり、また、よろこびあったり、悲しみごとがあったりする時には、よむのです」と言って、その時よんだ歌というのは、 青海原。ふりさけみれば、春日なる三笠の山に 出でし月かも ――青海原を遠くはるかに見渡すというと、海上に月が浮んでいる。 あの月は、故郷の春日の三笠の山から出て来た月なのだなあ。 という歌でございました。…… まず、問題になるのは、「二十日月が出てまいりました。月のでる山の外輪もなく、月は海の中から出て来るのでございました。」とあることです。月も、太陽のように、東から昇り西に沈むので、地図から分かる通り、室津では月が西に広がる海(土佐湾)に沈んでも、月が海の中から出て来ることはあり得ないのです。 次に問題になるのは、小倉百人一首で知られる、仲麿の歌、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」の初句「天の原」が「青海原」になっていることです。 この歌は、紀貫之が中心的撰者であった「古今集」の巻九の巻頭に、明州の海辺で行われた餞別会で詠んだ歌として載っていますが、初句は無論「青海原」ではなく、「天の原」です。明州は、浙江省寧波(ニンポー)の古名で、「寧」の簡易体は、「心」と横「目」が消えて、「ウ冠」と「丁」だけになっています。したがって、右上図によれば、明州の海辺は、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という歌が詠まれた場所にふさわしいようにように見えます。ところが、次の 地図によれば、東に舟山群島があるので、明州(浙江省寧波市)の海辺では、海から出る月は見られないことが分かります。 ■「唐大和上東征伝」が明かす事柄 このように、紀貫之という名が結びつく土佐日記と古今集の、安倍仲麻呂が関係する事柄に否定しようのない誤りがあることが、次の本によって証明されるようになっています。 「唐大和上東征伝」(世界大百科事典 第2版の解説) 淡海三船(おうみのみふね)(元開)の著。1巻。779年(宝亀10)の成立。《鑑真和尚東征伝》《鑑真過海大師東征伝》《過海大師東征伝》《東征伝》などの別称がある。鑑真に随伴して来日した思託の請により,三船が思託の著した《大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝》(略称《大和上伝》《大和尚伝》)や鑑真の行状を伝聞して完成したもの。前後6回,12年の歳月を費やして達成された波乱万丈の渡航の行歴が美しい筆致で記されているばかりでなく,8世紀中期の唐の諸州,都市の見聞記が収められている点で海外交渉史としてもその価値はきわめて高い。 〔参考〕 西野ゆるす全文口語訳「唐大和上東征伝」 この「東征伝」によると、安倍仲麻呂が便乗して帰国しようとした遣唐船は、天平勝宝5年(西暦753年)11月15日の夜半に、揚子江の河岸にある黄泗浦から発航したとあります。黄泗浦は、南通市の対岸にある張家港市にあった港なので、上掲の 地図から分かるように、古今集に餞別会が行われたとある明州(寧波市)は、土佐日記にいう「船に乗るはずの処」からは離れ過ぎています。 また、土佐日記には、「二十日の月が夜が更けて出てくるまで、別れを惜しんでおりました」とありますが、これでは、遣唐船が帰国の途に就く前月の10月20日に餞別会が行われたことになります。 歌学者で平安前期最高の歌人である紀貫之(870頃〜945頃)が、「唐大和上東征伝」を読んでなかったと考えることができなければ、土佐日記と古今集の明白な過ちは、紀貫之に関する疑問を膨らませるための意図的なものだということになります。 すると、土佐日記の「…歌をば、神代の昔から神もおよみになり」から、古今集仮名序に、「神世には、歌の文字も定まらず、…人の世と成りて、素戔嗚尊(すさのおのみこと)よりぞ、三十文字あまり一文字は、詠みける。素戔嗚尊は、天照大神の兄也」とあることが浮上します。 素戔嗚尊は天照大神の兄ではなく、弟ですが、天照大神が神なら、弟の素戔嗚尊も神のはずなので、「人の世と成りて、素戔嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字は、詠みける」とあるのはおかしいからです。 ところが、神話では、二人の父の 伊弉諾尊が「天照大神は、高天の原を治めよ」、「素戔嗚尊は、「青海原(滄海之原)を治めよ」と命じています。 この「高天の原」と「青海原(滄海之原)」から、土佐日記では仲麿の歌の初句「天の原」が「青海原」になっていることを想起すれば、 「唐大和上東征伝」から分かる遣唐船の発航日=15日と比較すればおかしい20日と、黄泗浦から離れすぎている明州に秘められた狙いがあることが分かります。 なぜなら、9世紀に編集された『極玄集』という詩集に、李白と肩を並べる詩人王維が、唐の都の長安での送別の宴で仲麻呂(秘書晁監)に贈った、 「秘書晁監の日本国に還るを送る」と題する詩が載っており、その一節に「安知滄海東(青海原の東のことをどうして知ることができようか)」とあるからです。 土佐日記のおかしさは、720年に成立したという日本書紀の見出しに、養老6年(722年)生まれの淡海三船が撰したという漢風諡号が使われている謎を解く鍵にもなっているのです。 |
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和文学を隆盛させた紀貫之 「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業しげきものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言い出せるなり。花に鳴くうぐひす、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか、歌を詠まざりける。力にも人れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、別交の仲を和らげ、たけき武人の心をも慰むるは、歌なり。」 古今和歌集仮名序の冒頭部分です。平安前期、十世紀になると、和歌はいよいよ降盛になり、漢詩文を圧倒するようになります。醍醐天皇から古今集編纂の勅命が下り、その撰者の一人になり、古今集成立を主導したのが紀貫之です。最初に記した仮名序の作者として、貫之は仮名文創造時代のものとして、文学史上重要な初めての歌論を苦しました。 この仮名序では、「心」と「詞」という二面から、和歌を説明し、理論的な考察の対象としています。通訳しますと、「この世に生きている人は、なにかにつけて、さまざまな事件に出合うので、そこで感じたこと、または見たこと、聞いたことにつけて、言い出したのが、歌になったのです。花に鳴くうぐいす、清流にいるかじかの声を聞くと、およそ生命のあるすべてのものは、歌を歌わないものはありません。歌は、力を入れないで、天地の神々を感動させ、男女の仲を親しくさせ、勇猛な武者の心も慰めるものです。」 紀貫之は和歌の本質は、日常での出来事をとおして、人の心に生まれた感動を、言葉によって表現したものであるとしたわけです。漢詩文や万葉集の両方に涼くつうじていた貫之は、伝統的な和歌を言話芸術として確立し、その当時、公的な文芸であった漢詩文と対等、またはそれ以上の位置まで高めた人物です。 生没年は不詳とされていますが、宮中では、位記などを書く内記の職につき、四十代なかばで、ようやく従五位下になっています。以後、六十歳近くで、土佐守に任ぜられています。最終的には、従五位上に終わっています。 紀賞之は官位、官職については、それほど恵まれていませんでしたが、歌人としては、国文学史上、白眉の一人で、華やかな存在でした。古今集にも筆頭の歌数を残し、古今集の性格を決定づけています。歌風は理知的で情趣的な味わいに欠ける傾向があります。その歌は掛詞、緑語などもよくし、知巧的ともいわれています。 こんな歌も残っています。 霞立ち木の芽もはるの雪ふれば 花なき里も花ぞ散りける ( 霞が立ち、木の芽が張るこの初春に、雪が降るので、花もない里に花が散るといった珍しい景色だなあ) さらに貫之といえば、日記文学の祖とされる土左日記です。紀貫之が土佐の国主としての任期が満ちて、都へ帰るまでの日記体による紀行文学です。男はは漢文を書くのが常識とされていた時代に、女の作者を装って、平仮名でつづりました。表現が簡潔で余情にあふれ、明るい朗らかなおかしみがあり、率直でいゃみがない作品として評価されています。 紀貫之は、国風文化の推進、確立を果たすという大きな功績を後生に残しました。 |
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紀貫之 日本の文学史上、言語学史上の最大の功労者は紀貫之ではないだろうかと思っています。その最大の功績は「ひらがな」の文学的価値の普及と定着にあると思います。紀貫之は実在の人物と思われますが、その生年も没年も定かではありません。 貞観8年(866年)〜貞観14年(872年)ころに生まれたのではないかとされていますが、確認できる資料はありません。没年は天慶8年(945年)ころとされていますので、73歳から79歳まで生きたことになります。いくらなんでも生きすぎだと思います。醍醐天皇、朱雀天皇の2代に仕えたとされています。 905年、醍醐天皇代に紀友則(貫之の従弟)・壬生忠岑・凡河内躬恒らとともに「古今和歌集」の編者として選ばれており、その「古今和歌集」が完成したのが930年と言われています。「古今和歌集」の仮名による序文である「仮名序」を執筆したと言われています。漢文による序文である「真名序」を執筆したのは紀淑望(きのよしもち)であり、「真名序」「仮名序」の対比によって当時の仮名の完成度を確認することができます。 万葉集(760年以降ころで完成は806年とも言われる)のときに表された仮名(万葉仮名)は、見た目は完全に漢字であり、その音読みにてそれまで口語であった歌の「やまとことば」を表記したものです。「古今和歌集」の「仮名序」を見ることによって、万葉集以降の仮名の変遷を想像することが可能となります。文字によってはかなり崩れてきており、ひらがなの一歩手前のものもあったと思われます。 「古今集」は数々のことばの謎に隠された史実が込められていると言われています。それもあって皇族の中には「古今伝授」として、口頭で古今集の読み方を秘伝的に伝えていくことが行われました。今でも数多くの学者の研究対象となっています。 承平5年(935年)に土佐の任地から都へ戻った記録を、のちにひらがなを主体として日記風に散文として表したのが「土佐日記」です。当時は男しか日記は書きませんでした、それも漢文です。女が使用する文字としての仮名(この時点ではほとんど「ひらがな」と呼んでいいものだったと思われます)を使用して、女の文章として書いたものです。ひらがな文学の原点と言っていいでしょう。 紀貫之は筆も達者だったようです。そのために貫之の本は文字の手習本としての価値もあったようです。そのために写本が多く存在し、原本がなくともその姿を想像することができるようになりました。このことも貫之の才能の一部を示すものではないでしょうか。 これを機として、日記文学は女流文学としても定着し「蜻蛉日記」以降の日記文学を生み出します。また、女こどもの日常言葉であった「ひらがな」が、文学的な位置を確保して、女流文学としての物語文学の最盛期へと導きます。 「やまとことば」に文字としての表記を与えたのは、万葉仮名と言えるでしょうが、それだけでは仮名の位置づけは今の様にはならなかったでしょう。紀貫之という天才が、仮名の使い方を示し、その可能性を広げたことによって、「古代やまとことば」を文字として表現する方法が確立され、記録されるようになったのだと思います。 その後の「源氏物語」のなかでも、ひらがなの使い方についての試行錯誤の跡は見て取ることができます。同じような表現の内容でも言葉の使い方を模索しているところがあるようです。しかし、紀貫之によって開かれた道は、その後は留まるところを知らないないかのように散文や紀行文・随筆として発展を続けます。 漢文を理解するための読みとしての訓読みとともに、「ひらがな」は広がっていきました。日本語の原点は口語としての「やまとことば」、文字としての「ひらがな」にあります。そこはタイムカプセルのように2000年にわたる歴史が刻まれています。当時の感性を感じることができるのも「ひらがな」のおかげですね。 紀貫之の当時も、役人としての公用語は漢語です。あえて、ランクが低いとされる女こどもが用いる言葉を発展させたモチベーションはどこにあったのでしょうか。歌は音としては「やまとことば」です。それを表記さえできればよかったはずです。「ひらがな」を文学にまで高め、現代日本語の標準形である「漢字かな交じり」の礎を築いた天才の功績を改めて考えてみたいと思います。 |
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■36.清原深養父 (きよはらのふかやぶ) | |
夏(なつ)の夜(よ)は まだ宵(よひ)ながら 明(あ)けぬるを
雲(くも)のいづこに 月宿(つきやど)るらむ |
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● 夏の夜は、まだ宵だと思っているうちに明けてしまったが、雲のどのあたりに月はとどまっているのだろう。 / 夏の夜はとても短く、まだ宵の口だと思っているうちに、もう夜が明けてしまう。これではいったい雲のどの辺りに月はとどまっていられるのだろうか。 / 夏の短い夜は、まだ夜が始まったばかりだと思っているうちに、あっという間に明けてしまうなぁ。月が西へ傾く暇もないではないか。いったい、月は雲のどこに隠れるのだろうか。 / 夏の夜は、まだ宵のうちだと思っているのに明けてしまったが、(こんなにも早く夜明けが来れば、月はまだ空に残っているだろうが) いったい月は雲のどの辺りに宿をとっているのだろうか。
○ 夏の夜は / 「は」は、区別を表す係助詞。 ○ まだ宵ながら明けぬるを / 「宵」は、夜になって間もないころ。「ながら」は、状態の継続を表す接続助詞で、「〜のままで」の意。「ぬる」は、完了の助動詞の連体形。「を」は、逆接の確定条件を表す接続助詞。「明けぬるを」で、「すっかり明けてしまったが」の意。「を」を順接の確定条件とし、「すっかり明けてしまったので」と解釈する説もある。いずれにせよ、夜がきわめて短い時間であることを示しているが、直訳すると現実にはありえない非科学的状況「まだ宵のままで明けてしまった」になるので、「思っているうちに」という語を補って訳す。 ○ 雲のいづこに月宿るらむ / 「月」は、夜が明けても空にとどまっているということなので、陰暦で16日から月末までの月、すなわち、有明の月。その「月」は、「宿る」という述語を伴っているので、擬人化されている。「宿る」は、「とどまる」の意。「らむ」は、視界外の推量を表す助動詞。疑問を表す代名詞、「いづこ」を受けているため連体形。 |
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清原深養父(きよはらのふかやぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人・貴族。豊前介・清原房則の子。官位は従五位下・内蔵大允。中古三十六歌仙の一人。 延喜8年(908年)内匠少允、延長元年(923年)内蔵大允等を歴任、延長8年(930年)従五位下に叙せられる。晩年は洛北・岩倉に補陀落寺を建立し、隠棲したという。勅撰歌人であり、『古今和歌集』(17首)以下の勅撰和歌集に41首が入集している。藤原兼輔・紀貫之・凡河内躬恒などの歌人と交流があった。家集に『深養父集』がある。琴の名手であり、『後撰集』には清原深養父が琴を弾くのを聴きながら、藤原兼輔と紀貫之が詠んだという歌が収められている。 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ(『古今和歌集』、小倉百人一首) 存命中は高い評価を受けていたが、藤原公任の『三十六人撰』(いわゆる三十六歌仙)に名をあげられなかったこともあって、この歌は平安末期まで秀歌の扱いを受けなかったようである。その後、藤原俊成や藤原清輔らに再評価され中古三十六歌仙の一人に撰ばれた。 |
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清原深養父 生没年未詳 舎人親王の裔。豊前介房則の子(または房則の祖父備後守通雄の子とも)。後撰集の撰者元輔の祖父。清少納言の曾祖父。延喜八年(908)、内匠允。延長元年(923)、内蔵大允。延長八年(930)、従五位下。晩年は、洛北の北岩倉に補陀落寺を建てて住んだとの伝がある。寛平御時中宮歌合・宇多院歌合などに出詠。貫之・兼輔らと親交があった。古今集に十七首入集。勅撰入集四十二首。家集『深養父集』がある。中古三十六歌仙。小倉百人一首にも歌を採られている。 春 / 題しらず うちはへて春はさばかりのどけきを花の心や何いそぐらむ(後撰92) (毎日春はこれほどのどかであるのに、花の心は何故急いで散ろうとするのだろうか。) 弥生のつごもりがたに、山を越えけるに、山河より花の流れけるをよめる 花ちれる水のまにまにとめくれば山には春もなくなりにけり(古今129) (花が散り浮かぶ水の流れにしたがって尋ねて来ると、桜はすっかり散り果てて、山にはもう春はなくなってしまったのだ。) 夏 / 月のおもしろかりける夜、暁がたによめる 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ(古今166) (夏の夜はまだ宵のうちと思っている間に明けてしまったが、月はこんな短か夜では、まだ西の山の端に辿り着いていないだろう。雲のどこに宿を借りているのだろうか。) 秋 / 秋の歌とてよめる 幾世へてのちか忘れむ散りぬべき野辺の秋萩みがく月夜を(後撰317) (何年経ってのち忘れるのだろうか。いずれは散ってしまうはずの野辺の秋萩を、冴え冴えとした月光によって磨きあげるように、色美しく見せるこの月夜を。) 題しらず 川霧のふもとをこめて立ちぬれば空にぞ秋の山は見えける(拾遺202) (川霧が山の麓をすっかり包んで立ちこめたので、秋の山は空に浮かんでいるように見えるのだった。) 題しらず なく雁のねをのみぞ聞くをぐら山霧たちはるる時しなければ(新古496) (雁の鳴き声ばかりを聞くことよ。小倉山では、霧が晴れる時がないので。) 神なびの山をすぎて龍田川をわたりける時に、もみぢの流れけるをよめる 神なびの山をすぎゆく秋なれば龍田川にぞ幣ぬさは手向たむくる(古今300) (神奈備山を越え、過ぎてゆく秋なので、秋は龍田の神への手向として龍田川に紅葉を幣(ぬさ)として捧げるのだ。) 冬 / 雪のふりけるをよみける 冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ(古今330) (冬でありながら空から花が落ちて来るのは、雲のかなたはもう春だというのだろうか。) 恋 / 題しらず 恋ひ死なばたが名はたたじ世の中のつねなき物と言ひはなすとも(古今603) (私がこのまま恋い焦がれて死んでしまったなら、誰のせいだと評判が立つでしょう、あなた以外の誰でもありますまい。いくらあなたが「人の世は無常なもの」などと言ってごまかそうとしたって――。) 題しらず 今ははや恋ひ死なましを相見むとたのめしことぞ命なりける(古今613) (今はもう、いっそ恋い死にしてしまいたいよ、ああ。「お逢いしましょう」と期待させたあなたの約束が、私の生きる力だったのだ。その願いも空しくなった今はもう…) 題しらず みつ潮のながれひる間を逢ひがたみみるめの浦に夜をこそ待て(古今665) (満ちて来る潮が流れて干潮になるまでの間は逢うのが難しいので、海松目(みるめ)が流れ寄る浦で、夜になってあなたに逢える時を待っている。) 題しらず 心をぞわりなき物と思ひぬる見るものからや恋しかるべき(古今685) (心というものは、わけの分からないものだと思ったよ。とうとう思いを遂げてあなたと逢うことができて、恋しさも満たされたはずなのに、逢っているからこそまたこんなに恋しい思いがする…そんなことがあるものだろうか。) 題しらず 恋しとはたが名づけけむことならむ死ぬとぞただに言ふべかりける(古今698) (「恋しい」とは、誰が名付けた言葉なのだろう。そんなこと言わずにただ、「死ぬ」と言うべきだったのだ。) 題しらず うれしくは忘るることもありなましつらきぞ長きかたみなりける(新古1403) (嬉しい思い出だったら、忘れることもあるだろうに、あの人の薄情さゆえの堪えがたい苦しみだけが、長く消えない恋の形見だったのだ。) 雑 / あひしりて侍りける人の、あづまの方へまかりけるをおくるとてよめる 雲ゐにもかよふ心のおくれねば別ると人に見ゆばかりなり(古今378) (遥かな国へと旅立つあなたを追って空さえも往き来する心は、あなたに遅れずについて行きますので、人の目には別れると見えるだけであって、心は離れ離れにならないのです。) 時なりける人の、にはかに時なくなりて嘆くを見て、みづからの、嘆きもなく、喜びもなきことを思ひてよめる 光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散る物思ひもなし(古今967) (光の射し込まない谷では春もよそごとなので、咲いてすぐに散る心配もありません。) 題しらず 昔見し春は昔の春ながら我が身ひとつのあらずもあるかな(新古1450) (昔経験した春は、昔の春そのままであるのに、我が身だけは変わってしまったなあ。) |
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■37.文屋朝康 (ふんやのあさやす) | |
白露(しらつゆ)に 風(かぜ)の吹(ふ)きしく 秋(あき)の野(の)は
つらぬきとめぬ 玉(たま)ぞ散(ち)りける |
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● 白露に風がしきりに吹きつける秋の野は、紐で貫き留めていない玉が散っているのだよ。 / 葉の上に降りた美しい白露に、しきりと風が吹きすさぶ秋の野。風で散ってゆく白露はまるで一本の糸で貫き止まっていない玉を、この秋の野に散りばめたようだなあ。 / 草葉におかれた白露に、風がしきりに吹いている秋の野は、その露が風に散り乱れて、紐に通されていない美しい宝石やガラスのビーズが散らばっているかのようだなぁ。 / (草葉の上に落ちた) 白露に風がしきりに吹きつけている秋の野のさまは、まるで糸に通してとめてない玉が、美しく散り乱れているようではないか。
○ 白露に風の吹きしく / 「白露」は、葉の上についた露が白く光るさまを強調した表現。「に」は、「吹きしく」という動作の対象を表す格助詞。「吹きしく」は、しきりに吹くの意。「白露に風の吹きしく」で「秋の野」にかかる連体修飾格。 ○ 秋の野は / 「は」は強意の係助詞。 ○ つらぬきとめぬ玉ぞ散りける / 「ぞ」と「ける」は係り結び。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形で「〜ない」の意。「玉」すなわち、真珠を貫いて紐でとめていないことを表す。「白露」を「玉」に見立てている。平安時代に頻繁に用いられた表現。「ぞ」は、強意の係助詞。「ける」は、今初めて気がついたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で「ぞ」の結び。 |
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文屋朝康(ふんやのあさやす、生没年不詳)は、平安時代前期の官人・歌人。縫殿助文屋康秀の子。子に康永がいる。官位は従六位下・大膳少進。 寛平4年(892年)駿河掾、延喜2年(902年)大舎人大允のほか、大膳少進を歴任した。「寛平御時后宮歌合」「是貞親王家歌合」の作者として出詠するなど、『古今和歌集』成立直前の歌壇で活躍した。しかし、勅撰和歌集には『古今和歌集』に1首と『後撰和歌集』に2首が入集しているに過ぎない。 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける (『後撰和歌集』、小倉百人一首) |
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文屋朝康 生没年未詳 六歌仙の一人康秀の子。寛平四年(892)正月二十三日、駿河掾に任ぜられ、延喜二年(902)二月二十三日には大舍人大允に任ぜられる(『古今和歌集目録』)。宇多・醍醐朝の卑官の専門歌人かという。是貞親王家歌合に出詠。勅撰入集は古今集に一首、後撰集に二首。 是貞のみこの家の歌合によめる 秋の野におく白露は玉なれやつらぬきかくる蜘蛛の糸すぢ(古今225) (秋の野に置く露は玉だろうか。つらぬいて通す蜘蛛の糸すじよ。) 延喜御時、歌召しければ 白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける(後撰308) (草の上の白露に風がしきりと吹きつける秋の野とは、緒で貫き通していない玉が散り乱れるものだったのだ。) 題しらず 浪わけて見るよしもがなわたつみの底のみるめも紅葉ちるやと(後撰417) (波を分けて見てみたいものだ。海の底を見れば、海松布(みるめ)も紅葉して散っているのかと。) |
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■38.右近 (うこん |