「若菜集」「破戒」「千曲川のスケッチ」

島崎藤村
「若菜集」 / 秋の思六人の処女生のあけぼの深林の逍遙
「破戒」 / 第1章第2章第3章第4章第5章第6章第7章第8章第9章第10章第11章第12章第13章第14章第15章第16章第17章第18章第19章第20章第21章第22章第23章
「千曲川のスケッチ」 / その1その2その3その4その5その6その7その8その9その10その11その12奥書
書評 / 「夜明け前」
 

雑学の世界・補考

島崎藤村

(明治5年-昭和18年 / 1872-1943) 日本の詩人、小説家。本名は島崎春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。「文学界」に参加し、ロマン主義詩人として「若菜集」などを出版。さらに小説に転じ、「破戒」「春」などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる「家」、姪との近親姦を告白した「新生」、父をモデルとした歴史小説の大作「夜明け前」などがある。
家系
島崎家の祖は相模国三浦半島津久井(現在の神奈川県横須賀市)発祥の三浦氏の一族で、島崎重綱の代に木曾義在に仕えて木曽谷に入り、その長男重通が郷士として馬籠を開拓して中山道の宿駅として整備し、代々本陣や庄屋、問屋を務めた。父の正樹は17代当主で平田派国学者だった。
生い立ち
1872年3月25日(明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村(長野県を経て現在の岐阜県中津川市)に父・正樹、母・縫の四男として生まれた。
1878年(明治11年) 神坂学校に入り、父から「孝経」や「論語」を学ぶ。
1881年(明治14年) 上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武居用拙に、「詩経」などを学んだ。さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院普通部本科(明治学院高校の前身)入学。在学中は馬場孤蝶、戸川秋骨、北村季晴らと交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典書物も読み漁った。明治学院普通部本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。
1886年(明治19年) 父正樹が郷里にて牢死。正樹は「夜明け前」の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大だった。
「文学界」と浪漫派詩人
卒業後、「女学雑誌」に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌「文学界」に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後関西に遊び、吉村家に戻る。1894年(明治27年)、女学校に復職したが、透谷が自殺。さらに兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に「春」で描かれる。
1896年(明治29年) 、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集・「若菜集」を発表して文壇に登場した。「一葉舟」「夏草」「落梅集」の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。
藤村の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。「落梅集」におさめられている一節「椰子の実」は、柳田國男が伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを元に書いたもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、山田耕筰門下の大中寅二が作曲し、現在に至るまで愛唱されている。また、同年に発表された国民歌謡「朝」(作曲:小田進吾)、1925年(大正14年)に弘田龍太郎によって作曲された歌曲「千曲川旅情の歌」も同じ詩集からのものである。
小諸時代から小説へ
1899年(明治32年) 小諸義塾の英語教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。北海道函館区(現函館市)出身の秦冬子と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。「破戒」に登場する市村代議士のモデルといわれる立川雲平(政治家、弁護士、北佐久郡岩村田町今宿居住)を頻繁に訪問し、隣館の佐久ホテルで執筆活動を行った。
1905年(明治38年) 小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として「破戒」を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に「家」で描かれることになる。
1907年(明治40年)「並木」を発表。孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。
1908年(明治41年)「春」を発表。
1910年(明治43年)には「家」を「読売新聞」に連載(翌年「中央公論」に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。
1913年(大正2年)5月末、神戸港よりエルネスト・シモン号に乗船し、37日後にマルセイユ着、有島生馬の紹介でパリのポール・ロワイヤル通りに面した下宿で生活を始める。第一の「仏蘭西だより」を朝日新聞社に連載、「桜の実の熟する時」の執筆を開始、下宿の世話した河上肇などと交流した。
第一次世界大戦が勃発により、1914年(大正3年)7月から11月まで画家の正宗得三郎とともにリモージュに疎開、第二の仏蘭西だよりを朝日新聞社に連載。
1916年(大正5年)7月、熱田丸にてロンドンを経て神戸港に到着した。
1917年(大正6年) 慶應義塾大学文学科講師となる。
1918年(大正7年) 「新生」を発表し、この関係を清算しようとした。このためこま子は日本にいられなくなり、台湾に渡った(こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。なお、この頃の作品には「幼きものに」「ふるさと」「幸福」などの童話もある。
1927年(昭和2年) 「嵐」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説「夜明け前」の執筆準備を始める。
1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで 夜明け前が「中央公論」にて連載された。この終了を期に著作を整理、編集し、「藤村文庫」にまとめられた。また柳澤健の声掛けを受けて日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めた。
1940年(昭和15年) 帝国芸術院会員。
1941年(昭和16年)1月8日 当時の陸軍大臣・東条英機が示達した「戦陣訓」の文案作成にも参画した。(戦陣訓の項参照)
1942年(昭和17年) 日本文学報国会名誉会員。
1943年(昭和18年) 「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。  
 

 

「若菜集」
島崎藤村の処女詩集。1897年に春陽堂から刊行。七五調を基調とし、冒頭に置かれた「六人の処女」(「おえふ」「おきぬ」など)のほか51編を収録。「秋風の歌」や「初恋」が特に名高い。日本におけるロマン主義文学の代表的な詩集である。
「破戒」
島崎藤村の長編小説。1905(明治38)年、小諸時代の最後に本作を起稿。翌年の1906年3月、緑陰叢書の第1編として自費出版。被差別部落出身の小学校教師がその出生に苦しみ、ついに告白するまでを描く。藤村が小説に転向した最初の作品で、日本自然主義文学の先陣を切った。夏目漱石は、「破戒」を「明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也」(森田草平宛て書簡)と評価した。
あらすじ
明治後期、信州小諸城下の被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松は、その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育った。その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎を慕うようになる。丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々は過ぎる。やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が壮絶な死を遂げる。その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。そして丑松はアメリカのテキサスへと旅立ってゆく。
西洋文学の影響
ドストエフスキーの「罪と罰」に構成が似ていると、刊行当時から言われており、現在もこの説が主流だが、十川信介は、ユダヤ人問題を扱ったジョージ・エリオットの「ダニエル・デロンダ」との関連を示唆している。(十川「島崎藤村」筑摩書房、1977)
他の作品への影響
この作品(特に丑松が生徒に素性を打ち明ける場面)は、住井すゑの「橋のない川」でも取り上げられ、誠太郎をはじめとする登場人物の間で話題に上っている。この中で誠太郎は、丑松が素性を打ち明ける際、教壇に跪いて生徒に詫びていることを批判的に捉えている。「橋のない川」も「破戒」同様、部落差別を扱った作品であるが、両者の差別に対する考え方あるいはスタンスはほぼ正反対に異なる。
現在の差別問題に関する認識、見解、解放運動のベクトルは様々で、この問題のある一定以上の捉え方は非常に難しく、問題の性質上、腫れ物を触る行為になりかねないのがこの問題の理解を深めるにあたり障壁になる部分である。  
「千曲川のスケッチ」
藤村が小諸義塾に赴任した際に、小諸を中心とした千曲川一帯の自然やそこに住む人々の暮らしを鮮やかに描写したもの。のち「中学世界」に1911年(明治44年)6月号から9月号に連載し、翌年12月に刊行された。藤村が詩から散文へと表現法を移行する中間点にある作品。
1899年(明治32年)4月、藤村は木村熊二の主催する小諸義塾の教師として長野県小諸町へ赴任した。この間に、ラスキンに影響され、美術に用いられる写生を散文に応用しようと試みた。こうして小諸で過ごした1年間を描いたのが「千曲川のスケッチ」で、藤村が詩から散文へと移っていく流れを考察する上で重要な作品である。
1911年(明治44年)、これを「中学世界」に発表するにあたり、藤村自らが読者のために選び、吉村樹(藤村が年少時に寄宿した吉村忠道の子)へ呼びかけるという形で連載した。そして「はしがき」をつけて刊行されたものが、現在読むことのできる「千曲川のスケッチ」である。
「夜明け前」
島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。
日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている(篠田一士は自著『二十世紀の十大小説』の中で、日本語で書かれた作品として唯一これを選んでいる)。米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。
『中央公論』誌上に、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで断続的に掲載され、第1部は1932年1月、第2部は1935年11月、新潮社から刊行された。1934年11月10日 村山知義脚色、久保栄演出「夜明け前」(三幕十場)が新協劇団により築地小劇場で初演される。1953年に「夜明け前」として、新藤兼人脚色、吉村公三郎監督により映画化されている。
 
「若菜集」

 

こゝろなきうたのしらべは ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにもつまれて あたゝかきさけとなるらむ
   ぶだうだなふかくかゝれる むらさきのそれにあらねど
   こゝろあるひとのなさけに かげにおくふさのみつよつ
そはうたのわかきゆゑなり あぢはひもいろもあさくて
おほかたはかみてすつべき うたゝねのゆめのそらごと  
一 秋の思  

秋は来(き)ぬ 秋は来ぬ
一葉(ひとは)は花は露ありて 風の来て弾(ひ)く琴の音に
青き葡萄(ぶどう)は紫の 自然の酒とかはりけり
秋は来ぬ 秋は来ぬ
おくれさきだつ秋草(あきぐさ)も みな夕霜(ゆふじも)のおきどころ
笑ひの酒を悲みの 盃(さかづき)にこそつぐべけれ
秋は来ぬ 秋は来ぬ
くさきも紅葉(もみぢ)するものを たれかは秋に酔はざらめ
智恵(ちえ)あり顔のさみしさに 君笛を吹けわれはうたはむ
初恋
まだあげ初(そ)めし前髪(まへがみ)の 林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の 花ある君と思ひけり
   やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
   薄紅(うすくれなゐ)の秋の実(み)に 人こひ初(そ)めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃(さかづき)を 君が情(なさけ)に酌(く)みしかな
   林檎畑の樹(こ)の下に おのづからなる細道(ほそみち)は
   誰(た)が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ
狐のわざ
庭にかくるゝ小狐の 人なきときに夜(よる)いでて
秋の葡萄の樹の影に しのびてぬすむつゆのふさ
   恋は狐にあらねども 君は葡萄にあらねども
   人しれずこそ忍びいで 君をぬすめる吾(わが)心
髪を洗へば
髪を洗へば紫の 小草(をぐさ)のまへに色みえて
足をあぐれば花鳥(はなとり)の われに随(したが)ふ風情(ふぜい)あり
   目にながむれば彩雲(あやぐも)の まきてはひらく絵巻物(えまきもの)
   手にとる酒は美酒(うまざけ)の 若き愁(うれひ)をたゝふめり
耳をたつれば歌神(うたがみ)の
きたりて玉(たま)の簫(ふえ)を吹き
口をひらけばうたびとの
一ふしわれはこひうたふ
   あゝかくまでにあやしくも 熱きこゝろのわれなれど
   われをし君のこひしたふ その涙にはおよばじな
君がこゝろは
君がこゝろは蟋蟀(こほろぎ)の 風にさそはれ鳴くごとく
朝影(あさかげ)清(きよ)き花草(はなぐさ)に 惜(を)しき涙をそゝぐらむ
   それかきならす玉琴(たまごと)の 一つの糸のさはりさへ
   君がこゝろにかぎりなき しらべとこそはきこゆめれ
あゝなどかくは触れやすき 君が優しき心もて
かくばかりなる吾(わが)こひに 触れたまはぬぞ恨(うら)みなる
傘(かさ)のうち
二人(ふたり)してさす一張(ひとはり)の 傘に姿をつゝむとも
情(なさけ)の雨のふりしきり かわく間(ま)もなきたもとかな
   顔と顔とをうちよせて あゆむとすればなつかしや
   梅花(ばいか)の油|黒髪(くろかみ)の 乱れて匂(にほ)ふ傘のうち
恋の一雨(ひとあめ)ぬれまさり ぬれてこひしき夢の間(ま)や
染めてぞ燃ゆる紅絹(もみ)うらの 雨になやめる足まとひ
   歌ふをきけば梅川よ しばし情(なさけ)を捨てよかし
   いづこも恋に戯(たはぶ)れて それ忠兵衛(ちゅうべえ)の夢がたり
こひしき雨よふらばふれ 秋の入日の照りそひて
傘の涙を乾(ほ)さぬ間(ま)に 手に手をとりて行きて帰らじ
秋に隠れて
わが手に植ゑし白菊の おのづからなる時くれば
一もと花の暮陰(ゆふぐれ)に 秋に隠(かく)れて窓にさくなり
知るや君
こゝろもあらぬ秋鳥(あきどり)の
声にもれくる一ふしを 知るや君
   深くも澄(す)める朝潮(あさじほ)の
   底にかくるゝ真珠(しらたま)を 知るや君
あやめもしらぬやみの夜に
静(しづか)にうごく星くづを 知るや君
   まだ弾(ひ)きも見ぬをとめごの
   胸にひそめる琴の音(ね)を 知るや君
秋風の歌
   さびしさはいつともわかぬ山里に
      尾花みだれて秋かぜぞふく
しづかにきたる秋風の 西の海より吹き起り
舞ひたちさわぐ白雲(しらくも)の 飛びて行くへも見ゆるかな
   暮影(ゆふかげ)高く秋は黄の 桐(きり)の梢(こずゑ)の琴の音(ね)に
   そのおとなひを聞くときは 風のきたると知られけり
ゆふべ西風(にしかぜ)吹き落ちて あさ秋の葉の窓に入り
あさ秋風の吹きよせて ゆふべの鶉(うづら)巣に隠(かく)る
   ふりさけ見れば青山(あをやま)も 色はもみぢに染めかへて
   霜葉(しもば)をかへす秋風の 空(そら)の明鏡(かがみ)にあらはれぬ
清(すず)しいかなや西風の まづ秋の葉を吹けるとき
さびしいかなや秋風の かのもみぢ葉(ば)にきたるとき
   道を伝ふる婆羅門(ばらもん)の 西に東に散るごとく
   吹き漂蕩(ただよは)す秋風に 飄(ひるがへ)り行く木(こ)の葉(は)かな
朝羽(あさば)うちふる鷲鷹(わしたか)の 明闇(あけくれ)天(そら)をゆくごとく
いたくも吹ける秋風の 羽(はね)に声あり力あり
   見ればかしこし西風の 山の木(こ)の葉をはらふとき
   悲しいかなや秋風の 秋の百葉(ももは)を落すとき
人は利剣(つるぎ)を振(ふる)へども げにかぞふればかぎりあり
舌は時世(ときよ)をのゝしるも 声はたちまち滅ぶめり
   高くも烈(はげ)し野も山も 息吹(いぶき)まどはす秋風よ
   世をかれ/″\となすまでは 吹きも休(や)むべきけはひなし
あゝうらさびし天地(あめつち)の 壺(つぼ)の中(うち)なる秋の日や
落葉と共に飄(ひるがへ)る 風の行衛(ゆくへ)を誰か知る
雲のゆくへ
庭にたちいでたゞひとり 秋海棠(しゅうかいどう)の花を分け
空ながむれば行く雲の 更(さら)に秘密を闡(ひら)くかな
小詩二首

ゆふぐれしづかに ゆめみんとて
よのわづらひより しばしのがる
   きみよりほかには しるものなき
   花かげにゆきて こひを泣きぬ
すぎこしゆめぢを おもひみるに
こひこそつみなれ つみこそこひ
   いのりもつとめも このつみゆゑ
   たのしきそのへと われはゆかじ
なつかしき君と てをたづさへ
くらき冥府(よみ)までも かけりゆかん

しづかにてらせる 月のひかりの
などか絶間なく ものおもはする
さやけきそのかげ こゑはなくとも
みるひとの胸に 忍び入るなり
   なさけは説(と)くとも なさけをしらぬ
   うきよのほかにも 朽(く)ちゆくわがみ
   あかさぬおもひと この月かげと
   いづれか声なき いづれかなしき
強敵
一つの花に蝶(ちょう)と蜘蛛(くも) 小蜘蛛は花を守(まも)り顔
小蝶は花に酔ひ顔に 舞へども/\すべぞなき
   花は小蜘蛛のためならば 小蝶の舞(まひ)をいかにせむ
   花は小蝶のためならば 小蜘蛛の糸をいかにせむ
やがて一つの花散りて 小蜘蛛はそこに眠れども
羽翼(つばさ)も軽き小蝶こそ いづこともなくうせにけれ
別離
   人妻をしたへる男の山に登り其
      女の家を望み見てうたへるうた
誰(たれ)かとゞめん旅人(たびびと)の あすは雲間(くもま)に隠るゝを
誰か聞くらん旅人の あすは別れと告げましを
   清(きよ)き恋とや片(かた)し貝(がひ) われのみものを思ふより
   恋はあふれて濁(にご)るとも 君に涙をかけましを
人妻(ひとづま)恋ふる悲しさを 君がなさけに知りもせば
せめてはわれを罪人(つみびと)と 呼びたまふこそうれしけれ
   あやめもしらぬ憂(う)しや身は くるしきこひの牢獄(ひとや)より
   罪の鞭責(しもと)をのがれいで こひて死なんと思ふなり
誰(たれ)かは花をたづねざる 誰かは色彩(いろ)に迷はざる
誰かは前にさける見て 花を摘(つ)まんと思はざる
   恋の花にも戯(たはむ)るゝ 嫉妬(ねたみ)の蝶(ちょう)の身ぞつらき
   二つの羽(はね)もをれ/\て 翼(つばさ)の色はあせにけり
人の命を春の夜の 夢といふこそうれしけれ
夢よりもいや/\深き われに思ひのあるものを
   梅の花さくころほひは 蓮(はす)さかばやと思ひわび
   蓮の花さくころほひは 萩(はぎ)さかばやと思ふかな
待つまも早く秋は来(き)て わが踏む道に萩さけど
濁(にご)りて待てる吾(わが)恋は 清き怨(うらみ)となりにけり
望郷
   寺をのがれいでたる僧のうたひ
      しそのうた
いざさらば
これをこの世のわかれぞと のがれいでては住みなれし
御寺(みてら)の蔵裏(くり)の白壁(しらかべ)の 眼にもふたたび見ゆるかな
いざさらば
住めば仏のやどりさへ 火炎(ほのほ)の宅(いへ)となるものを
なぐさめもなき心より 流れて落つる涙かな
いざさらば
心の油濁るとも ともしびたかくかきおこし
なさけは熱くもゆる火の こひしき塵(ちり)にわれは焼けなむ  
 
二 六人の処女(をとめ)

 

おえふ
処女(をとめ)ぞ経(へ)ぬるおほかたの われは夢路(ゆめぢ)を越えてけり
わが世の坂にふりかへり いく山河(やまかは)をながむれば
   水(みづ)静(しづ)かなる江戸川の ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影(はなかげ)に われは処女(をとめ)となりにけり
都鳥(みやこどり)浮(う)く大川に 流れてそゝぐ川添(かはぞひ)の
白菫(しろすみれ)さく若草(わかぐさ)に 夢多かりし吾(わが)身かな
   雲むらさきの九重(ここのへ)の 大宮内につかへして
   清涼殿(せいりょうでん)の春の夜(よ)の 月の光に照らされつ
雲を彫(ちりば)め濤(なみ)を刻(ほ)り 霞(かすみ)をうかべ日をまねく
玉の台(うてな)の欄干(おばしま)に かゝるゆふべの春の雨
   さばかり高き人の世の 耀(かがや)くさまを目にも見て
   ときめきたまふさま/″\の ひとりのころもの香(か)をかげり
きらめき初(そ)むる暁星(あかぼし)の あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで さかえの人のさまも見き
   天(あま)つみそらを渡る日の 影かたぶけるごとくにて
   名(な)の夕暮に消えて行く 秀(ひい)でし人の末路(はて)も見き
春しづかなる御園生(みそのふ)の 花に隠れて人を哭(な)き
秋のひかりの窓に倚(よ)り 夕雲とほき友を恋ふ
   ひとりの姉をうしなひて 大宮内の門(かど)を出(い)で
   けふ江戸川に来て見れば 秋はさみしきながめかな
桜の霜葉(しもは)黄に落ちて ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水静かにて あゆみは遅きわがおもひ
   おのれも知らず世を経(ふ)れば 若き命(いのち)に堪へかねて
   岸のほとりの草を藉(し)き 微笑(ほほゑ)みて泣く吾身かな
おきぬ
みそらをかける猛鷲(あらわし)の 人の処女(をとめ)の身に落ちて
花の姿に宿(やど)かれば 風雨(あらし)に渇(かわ)き雲に饑(う)ゑ
天翅(あまかけ)るべき術(すべ)をのみ 願ふ心のなかれとて
黒髪(くろかみ)長き吾身こそ うまれながらの盲目(めしひ)なれ
   芙蓉(ふよう)を前(さき)の身とすれば 泪(なみだ)は秋の花の露
   小琴(をごと)を前(さき)の身とすれば 愁(うれひ)は細き糸の音
   いま前(さき)の世は鷲の身の 処女にあまる羽翼(つばさ)かな
あゝあるときは吾心 あらゆるものをなげうちて
世はあぢきなき浅茅生(あさぢふ)の 茂れる宿(やど)と思ひなし
身は術(すべ)もなき蟋蟀(こほろぎ)の 夜(よる)の野草(のぐさ)にはひめぐり
たゞいたづらに音(ね)をたてて うたをうたふと思ふかな
   色(いろ)にわが身をあたふれば 処女のこゝろ鳥となり
   恋に心をあたふれば 鳥の姿は処女にて
   処女ながらも空(そら)の鳥 猛鷲(あらわし)ながら人の身の
   天(あめ)と地(つち)とに迷ひゐる 身の定めこそ悲しけれ
おさよ
潮(うしほ)さみしき荒磯(あらいそ)の 巌陰(いはかげ)われは生れけり
   あしたゆふべの白駒(しろごま)と 故郷(ふるさと)遠きものおもひ
をかしくものに狂へりと われをいふらし世のひとの
   げに狂はしの身なるべき この年までの処女(をとめ)とは
うれひは深く手もたゆく むすぼほれたるわが思(おもひ)
   流れて熱(あつ)きわがなみだ やすむときなきわがこゝろ
乱(みだ)れてものに狂ひよる 心を笛の音(ね)に吹かん
   笛をとる手は火にもえて うちふるひけり十(とを)の指
音(ね)にこそ渇(かわ)け口唇(くちびる)の 笛を尋(たづ)ぬる風情(ふぜい)あり
   はげしく深きためいきに 笛の小竹(をだけ)や曇るらん
髪は乱れて落つるとも まづ吹き入るゝ気息(いき)を聴(き)け
   力をこめし一ふしに 黄楊(つげ)のさし櫛(ぐし)落ちてけり
吹けば流るゝ流るれば 笛吹き洗ふわが涙
   短き笛の節(ふし)の間(ま)も 長き思(おもひ)のなからずや
七つの情(こころ)声を得て 音(ね)をこそきかめ歌神(うたがみ)も
   われ喜(よろこび)を吹くときは 鳥も梢(こずゑ)に音(ね)をとゞめ
怒(いかり)をわれの吹くときは 瀬(せ)を行く魚も淵(ふち)にあり
   われ哀(かなしみ)を吹くときは 獅子(しし)も涙をそゝぐらむ
われ楽(たのしみ)を吹くときは 虫も鳴く音(ね)をやめつらむ
   愛のこゝろを吹くときは 流るゝ水のたち帰り
悪(にくみ)をわれの吹くときは 散り行く花も止(とどま)りて
   慾(よく)の思(おもひ)を吹くときは 心の闇(やみ)の響(ひびき)あり
うたへ浮世(うきよ)の一ふしは 笛の夢路のものぐるひ
   くるしむなかれ吾(わが)友よ しばしは笛の音(ね)に帰れ
落つる涙をぬぐひきて 静かにきゝね吾笛を
おくめ
こひしきまゝに家を出(い)で こゝの岸よりかの岸へ
越えましものと来て見れば 千鳥鳴くなり夕まぐれ
   こひには親も捨てはてて やむよしもなき胸の火や
   鬢(びん)の毛を吹く河風よ せめてあはれと思へかし
河波(かはなみ)暗く瀬を早み 流れて巌(いは)に砕(くだ)くるも
君を思へば絶間なき 恋の火炎(ほのほ)に乾(かわ)くべし
   きのふの雨の小休(をやみ)なく 水嵩(みかさ)や高くまさるとも
   よひ/\になくわがこひの 涙の滝におよばじな
しりたまはずやわがこひは 花鳥(はなとり)の絵にあらじかし
空鏡(かがみ)の印象(かたち)砂の文字 梢の風の音にあらじ
   しりたまはずやわがこひは 雄々(をを)しき君の手に触れて
   嗚呼(ああ)口紅(くちべに)をその口に 君にうつさでやむべきや
恋は吾身の社(やしろ)にて 君は社の神なれば
君の祭壇(つくゑ)の上ならで なににいのちを捧(ささ)げまし
   砕(くだ)かば砕け河波(かはなみ)よ われに命はあるものを
   河波高く泳ぎ行き ひとりの神にこがれなん
心のみかは手も足も 吾身はすべて火炎(ほのほ)なり
思ひ乱れて嗚呼恋の 千筋(ちすぢ)の髪の波に流るゝ
おつた
花|仄(ほの)見ゆる春の夜の すがたに似たる吾命(わがいのち)
朧々(おぼろおぼろ)に父母(ちちはは)は 二つの影と消えうせて
世に孤児(みなしご)の吾身こそ 影より出でし影なれや
たすけもあらぬ今は身は 若き聖(ひじり)に救はれて
人なつかしき前髪(まへがみ)の 処女(をとめ)とこそはなりにけれ
   若き聖(ひじり)ののたまはく 時をし待たむ君ならば
   かの柿の実をとるなかれ かくいひたまふうれしさに
   ことしの秋もはや深し まづその秋を見よやとて
   聖に柿をすゝむれば その口唇(くちびる)にふれたまひ
   かくも色よき柿ならば などかは早くわれに告げこぬ
若き聖ののたまはく 人の命の惜(を)しからば
嗚呼(ああ)かの酒を飲むなかれ かくいひたまふうれしさに
酒なぐさめの一つなり まづその春を見よやとて
聖に酒をすゝむれば 夢の心地に酔ひたまひ
かくも楽しき酒ならば などかは早くわれに告げこぬ
   若き聖ののたまはく 道行き急ぐ君ならば
   迷ひの歌をきくなかれ かくいひたまふうれしさに
   歌も心の姿なり まづその声をきけやとて
   一ふしうたひいでければ 聖は魂(たま)も酔ひたまひ
   かくも楽しき歌ならば などかは早くわれに告げこぬ
若き聖ののたまはく まことをさぐる吾身なり
道の迷(まよひ)となるなかれ かくいひたまふうれしさに
情(なさけ)も道の一つなり かゝる思(おもひ)を見よやとて
わがこの胸に指ざせば 聖は早く恋ひわたり
かくも楽しき恋ならば などかは早くわれに告げこぬ
   それ秋の日の夕まぐれ そゞろあるきのこゝろなく
   ふと目に入るを手にとれば 雪より白き小石なり
   若き聖ののたまはく 智恵の石とやこれぞこの
   あまりに惜しき色なれば 人に隠して今も放(はな)たじ
おきく
くろかみながく やはらかき
をんなごころを たれかしる
   をとこのかたる ことのはを
   まこととおもふ ことなかれ
をとめごころの あさくのみ
いひもつたふる をかしさや
   みだれてながき 鬢(びん)の毛を
   黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)に かきあげよ
あゝ月(つき)ぐさの きえぬべき
こひもするとは たがことば
   こひて死なんと よみいでし
   あつきなさけは 誰(た)がうたぞ
みちのためには ちをながし
くにには死ぬる をとこあり
   治兵衛はいづれ 恋か名か
   忠兵衛も名の ために果(は)つ
あゝむかしより こひ死にし
をとこのありと しるや君
   をんなごころは いやさらに
   ふかきなさけの こもるかな
小春はこひに ちをながし
梅川こひの ために死ぬ
   お七はこひの ために焼け
   高尾はこひの ために果つ
かなしからずや 清姫は
蛇(へび)となれるも こひゆゑに
   やさしからずや 佐容姫(さよひめ)は
   石となれるも こひゆゑに
をとこのこひの たはぶれは
たびにすてゆく なさけのみ
   こひするなかれ をとめごよ
   かなしむなかれ わがともよ
こひするときと かなしみと
いづれかながき いづれみじかき 
 
三 生のあけぼの

 

草枕
夕波くらく啼(な)く千鳥 われは千鳥にあらねども
心の羽(はね)をうちふりて さみしきかたに飛べるかな
   若き心の一筋(ひとすぢ)に なぐさめもなくなげきわび
   胸の氷のむすぼれて とけて涙となりにけり
蘆葉(あしは)を洗ふ白波の 流れて巌(いは)を出づるごと
思ひあまりて草枕 まくらのかずの今いくつ
   かなしいかなや人の身の なきなぐさめを尋(たづ)ね侘(わ)び
   道なき森に分け入りて などなき道をもとむらん
われもそれかやうれひかや 野末(のずゑ)に山に谷蔭(たにかげ)に
見るよしもなき朝夕の 光もなくて秋暮れぬ
   想(おもひ)も薄く身も暗く 残れる秋の花を見て
   行くへもしらず流れ行く 水に涙の落つるかな
身を朝雲(あさぐも)にたとふれば ゆふべの雲の雨となり
身を夕雨(ゆふあめ)にたとふれば あしたの雨の風となる
   されば落葉と身をなして 風に吹かれて飄(ひるがへ)り
   朝の黄雲(きぐも)にともなはれ 夜(よる)白河を越えてけり
道なき今の身なればか われは道なき野を慕ひ
思ひ乱れてみちのくの 宮城野(みやぎの)にまで迷ひきぬ
   心の宿(やど)の宮城野よ 乱れて熱き吾(わが)身には
   日影も薄く草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ
ひとりさみしき吾耳は 吹く北風を琴(こと)と聴(き)き
悲み深き吾目には 色彩(いろ)なき石も花と見き
   あゝ孤独(ひとりみ)の悲痛(かなしさ)を 味ひ知れる人ならで
   誰(たれ)にかたらん冬の日の かくもわびしき野のけしき
都のかたをながむれば 空冬雲に覆(おほ)はれて
身にふりかゝる玉霰(たまあられ) 袖(そで)の氷と閉ぢあへり
   みぞれまじりの風|勁(つよ)く 小川の水の薄氷
   氷のしたに音するは 流れて海に行く水か
啼(な)いて羽風(はかぜ)もたのもしく 雲に隠るゝかさゝぎよ
光もうすき寒空(さむぞら)の 汝(なれ)も荒れたる野にむせぶ
   涙も凍る冬の日の 光もなくて暮れ行けば
   人めも草も枯れはてて ひとりさまよふ吾身かな
かなしや酔ふて行く人の 踏めばくづるゝ霜柱
なにを酔ひ泣く忍び音(ね)に 声もあはれのその歌は
   うれしや物の音(ね)を弾(ひ)きて 野末をかよふ人の子よ
   声調(しらべ)ひく手も凍りはて なに門(かど)づけの身の果(はて)ぞ
やさしや年もうら若く まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ なにを隠るゝその姿
   野のさみしさに堪へかねて 霜と霜との枯草の
   道なき道をふみわけて きたれば寒し冬の海
朝は海辺(うみべ)の石の上(へ)に こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども おとなふものは濤(なみ)ばかり
   暮はさみしき荒磯(あらいそ)の 潮(うしほ)を染めし砂に伏し
   日の入るかたをながむれど 湧(わ)きくるものは涙のみ
さみしいかなや荒波の 岩に砕(くだ)けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の 潮(うしほ)とともに帰るとき
   誰(たれ)か波路を望み見て そのふるさとを慕はざる
   誰か潮の行くを見て この人の世を惜(をし)まざる
暦(こよみ)もあらぬ荒磯の 砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の 落ちて潮となりにけり
   遠く湧きくる海の音 慣れてさみしき吾耳に
   怪しやもるゝものの音(ね)は まだうらわかき野路の鳥
嗚呼(ああ)めづらしのしらべぞと 声のゆくへをたづぬれば
緑の羽(はね)もまだ弱き それも初音(はつね)か鶯(うぐひす)の
   春きにけらし春よ春 まだ白雪の積れども
   若菜の萌(も)えて色青き こゝちこそすれ砂の上(へ)に
春きにけらし春よ春 うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか 梅が香(か)ぞする海の辺(べ)に
   磯辺に高き大巌(おほいは)の うへにのぼりてながむれば
   春やきぬらん東雲(しののめ)の 潮(しほ)の音(ね)遠き朝ぼらけ

一 たれかおもはむ
たれかおもはむ鶯(うぐひす)の 涙もこほる冬の日に
若き命は春の夜の 花にうつろふ夢の間(ま)と
あゝよしさらば美酒(うまざけ)に うたひあかさん春の夜を
   梅のにほひにめぐりあふ 春を思へばひとしれず
   からくれなゐのかほばせに 流れてあつきなみだかな
   あゝよしさらば花影に うたひあかさん春の夜を
わがみひとつもわすられて おもひわづらふこゝろだに
春のすがたをとめくれば たもとににほふ梅の花
あゝよしさらば琴(こと)の音(ね)に うたひあかさん春の夜を
二 あけぼの
紅(くれなゐ)細くたなびけたる
雲とならばやあけぼのの 雲とならばや
   やみを出(い)でては光ある
   空とならばやあけぼのの 空とならばや
春の光を彩(いろど)れる
水とならばやあけぼのの 水とならばや
   鳩(はと)に履(ふ)まれてやはらかき
   草とならばやあけぼのの 草とならばや
三 春は来ぬ
春はきぬ 春はきぬ
初音(はつね)やさしきうぐひすよ こぞに別離(わかれ)を告げよかし
谷間に残る白雪よ 葬りかくせ去歳(こぞ)の冬
   春はきぬ 春はきぬ
   さみしくさむくことばなく まづしくくらくひかりなく
   みにくゝおもくちからなく かなしき冬よ行きねかし
春はきぬ 春はきぬ
浅みどりなる新草(にひぐさ)よ とほき野面(のもせ)を画(ゑが)けかし
さきては紅(あか)き春花(はるばな)よ 樹々(きぎ)の梢(こずゑ)を染めよかし
   春はきぬ 春はきぬ
   霞(かすみ)よ雲よ動(ゆる)ぎいで 氷れる空をあたゝめよ
   花の香(か)おくる春風よ 眠れる山を吹きさませ
春はきぬ 春はきぬ
春をよせくる朝汐(あさじほ)よ 蘆(あし)の枯葉(かれは)を洗ひ去れ
霞に酔へる雛鶴(ひなづる)よ 若きあしたの空に飛べ
   春はきぬ 春はきぬ
   うれひの芹(せり)の根を絶えて 氷れるなみだ今いづこ
   つもれる雪の消えうせて けふの若菜と萌(も)えよかし
四 眠れる春よ
ねむれる春ようらわかき かたちをかくすことなかれ
たれこめてのみけふの日を なべてのひとのすぐすまに
さめての春のすがたこそ また夢のまの風情(ふぜい)なれ
   ねむげの春よさめよ春 さかしきひとのみざるまに
   若紫の朝霞 かすみの袖(そで)をみにまとへ
   はつねうれしきうぐひすの 鳥のしらべをうたへかし
ねむげの春よさめよ春 ふゆのこほりにむすぼれし
ふるきゆめぢをさめいでて やなぎのいとのみだれがみ
うめのはなぐしさしそへて びんのみだれをかきあげよ
   ねむげの春よさめよ春 あゆめばたにの早(さ)わらびの
   したもえいそぐ汝(な)があしを かたくもあげよあゆめ春
   たえなるはるのいきを吹き こぞめの梅の香ににほへ
五 うてや鼓
うてや鼓(つづみ)の春の音 雪にうもるゝ冬の日の
かなしき夢はとざされて 世は春の日とかはりけり
   ひけばこぞめの春霞 かすみの幕をひきとぢて
   花と花とをぬふ糸は けさもえいでしあをやなぎ
霞のまくをひきあけて 春をうかゞふことなかれ
はなさきにほふ蔭をこそ 春の台(うてな)といふべけれ
   小蝶(こちょう)よ花にたはぶれて 優しき夢をみては舞ひ
   酔(ゑ)ふて羽袖(はそで)もひら/\と はるの姿をまひねかし
緑のはねのうぐひすよ 梅の花笠ぬひそへて
ゆめ静(しづか)なるはるの日の しらべを高く歌へかし
小詩
くめどつきせぬ わかみづを
きみとくまゝし かのいづみ
   かわきもしらぬ わかみづを
   きみとのまゝし かのいづみ
かのわかみづと みをなして
はるのこゝろに わきいでん
   かのわかみづと みをなして
   きみとながれん 花のかげ
明星
浮べる雲と身をなして あしたの空(そら)に出でざれば
などしるらめや明星の 光の色のくれなゐを
   朝の潮(うしほ)と身をなして 流れて海に出でざれば
   などしるらめや明星の 清(す)みて哀(かな)しききらめきを
なにかこひしき暁星(あかぼし)の 空(むな)しき天(あま)の戸を出でて
深くも遠きほとりより 人の世近く来(きた)るとは
   潮(うしほ)の朝のあさみどり 水底(みなそこ)深き白石を
   星の光に透(す)かし見て 朝の齢(よはひ)を数ふべし
野の鳥ぞ啼(な)く山河(やまかは)も ゆふべの夢をさめいでて
細く棚引(たなび)くしのゝめの 姿をうつす朝ぼらけ
   小夜(さよ)には小夜のしらべあり 朝には朝の音(ね)もあれど
   星の光の糸の緒(を)に あしたの琴(こと)は静(しづか)なり
まだうら若き朝の空 きらめきわたる星のうち
いと/\若き光をば 名(なづ)けましかば明星と
潮音
わきてながるゝ やほじほの そこにいざよふ うみの琴
しらべもふかし もゝかはの よろづのなみを よびあつめ
ときみちくれば うらゝかに とほくきこゆる はるのしほのね
酔歌
旅と旅との君や我 君と我とのなかなれば
酔ふて袂(たもと)の歌草(うたぐさ)を 醒(さ)めての君に見せばやな
   若き命も過ぎぬ間(ま)に 楽しき春は老いやすし
   誰(た)が身にもてる宝(たから)ぞや 君くれなゐのかほばせは
君がまなこに涙あり 君が眉には憂愁(うれひ)あり
堅(かた)く結べるその口に それ声も無きなげきあり
   名もなき道を説(と)くなかれ 名もなき旅を行くなかれ
   甲斐(かひ)なきことをなげくより 来(きた)りて美(うま)き酒に泣け
光もあらぬ春の日の 独りさみしきものぐるひ
悲しき味の世の智恵に 老いにけらしな旅人よ
   心の春の燭火(ともしび)に 若き命を照らし見よ
   さくまを待たで花散らば 哀(かな)しからずや君が身は
わきめもふらで急ぎ行く 君の行衛(ゆくへ)はいづこぞや
琴花酒(ことはなさけ)のあるものを とゞまりたまへ旅人よ
二つの声

たれか聞くらん朝の声 眠(ねむり)と夢を破りいで
彩(あや)なす雲にうちのりて よろづの鳥に歌はれつ
天のかなたにあらはれて 東の空に光あり
そこに時(とき)あり始(はじめ)あり そこに道あり力あり
そこに色あり詞(ことば)あり そこに声あり命あり
そこに名ありとうたひつゝ みそらにあがり地にかけり
のこんの星ともろともに 光のうちに朝ぞ隠るゝ

たれか聞くらん暮の声 霞の翼(つばさ)雲の帯
煙の衣(ころも)露の袖(そで) つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに投げ入れて 夜の使(つかひ)の蝙蝠(かはほり)の
飛ぶ間も声のをやみなく こゝに影あり迷(まよひ)あり
こゝに夢あり眠(ねむり)あり こゝに闇あり休息(やすみ)あり
こゝに永(なが)きあり遠きあり こゝに死ありとうたひつゝ
草木にいこひ野にあゆみ かなたに落つる日とともに
色なき闇に暮ぞ隠るゝ
哀歌
中野逍遙をいたむ
「秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴台旧譜※[土へん+盧]前柳、風流銷尽二千年」、これ中野逍遙が秋怨十絶(しゅうえんじゅうぜつ)の一なり。逍遙字は威卿、小字重太郎、予州宇和島の人なりといふ。文科大学の異材なりしが年|僅(わづ)かに二十七にしてうせぬ。逍遙遺稿正外二篇、みな紅心の余唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を写せしもの、「寄語残月休長嘆、我輩亦是艶生涯」、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこゝろをとゞむ。
思君九首   中野逍遙
   思君我心傷    思君我容瘁
    中夜坐松蔭    露華多似涙
   思君我心悄    思君我腸裂
    昨夜涕涙流    今朝尽成血
   示君錦字詩    寄君鴻文冊
    忽覚筆端香    ※[窗/心]外梅花白
   為君調綺羅    為君築金屋
    中有鴛鴦図    長春夢百禄
   贈君名香篋    応記韓寿恩
    休将秋扇掩    明月照眉痕
   贈君双臂環    宝玉価千金
    一鐫不乖約    一題勿変心
   訪君過台下    清宵琴響揺
    佇門不敢入    恐乱月前調
   千里囀金鶯    春風吹緑野
    忽発頭屋桃    似君三両朶
   嬌影三分月    芳花一朶梅
    渾把花月秀    作君玉膚堆
かなしいかなや流れ行く 水になき名をしるすとて
今はた残る歌反古(うたほご)の ながき愁(うれ)ひをいかにせむ
   かなしいかなやする墨(すみ)の いろに染めてし花の木の
   君がしらべの歌の音に 薄き命のひゞきあり
かなしいかなや前(さき)の世は みそらにかゝる星の身の
人の命のあさぼらけ 光も見せでうせにしよ
   かなしいかなや同じ世に 生れいでたる身を持ちて
   友の契(ちぎ)りも結ばずに 君は早くもゆけるかな
すゞしき眼(まなこ)つゆを帯び 葡萄(ぶどう)のたまとまがふまで
その面影をつたへては あまりに妬(ねた)き姿かな
   同じ時世(ときよ)に生れきて 同じいのちのあさぼらけ
   君からくれなゐの花は散り われ命あり八重葎(やへむぐら)
かなしいかなやうるはしく さきそめにける花を見よ
いかなればかくとゞまらで 待たで散るらんさける間(ま)も
   かなしいかなやうるはしき なさけもこひの花を見よ
   いと/\清きそのこひは 消ゆとこそ聞けいと早く
君し花とにあらねども いな花よりもさらに花
君しこひとにあらねども いなこひよりもさらにこひ
   かなしいかなや人の世に あまりに惜しき才(ざえ)なれば
   病(やまひ)に塵(ちり)に悲(かなしみ)に 死にまでそしりねたまるゝ
かなしいかなやはたとせの ことばの海のみなれ棹(ざを)
磯にくだくる高潮(たかじほ)の うれひの花とちりにけり
   かなしいかなや人の世の きづなも捨てて嘶(いなな)けば
   つきせぬ草に秋は来て 声も悲しき天の馬
かなしいかなや音(ね)を遠み 流るゝ水の岸にさく
ひとつの花に照らされて 飄(ひるがへ)り行く一葉舟(ひとはぶね) 
 
四 深林の逍遙(しょうよう)、其他

 

深林の逍遙
力を刻(きざ)む木匠(こだくみ)の うちふる斧のあとを絶え
春の草花(くさばな)彫刻(ほりもの)の 鑿(のみ)の韻(にほひ)もとゞめじな
いろさま/″\の春の葉に 青一筆(あをひとふで)の痕(あと)もなく
千枝(ちえ)にわかるゝ赤樟(あかくす)も おのづからなるすがたのみ
檜(ひのき)は荒し杉直し 五葉は黒し椎(しひ)の木の
枝をまじゆる白樫(しらかし)や 樗(あふち)は茎をよこたへて
枝と枝とにもゆる火の なかにやさしき若楓(わかかへで)
山精(やまびこ)
ひとにしられぬ たのしみの
ふかきはやしを たれかしる
   ひとにしられぬ はるのひの
   かすみのおくを たれかしる
木精(こだま)
はなのむらさき はのみどり
うらわかぐさの のべのいと
   たくみをつくす 大機(おほはた)の
   梭(をさ)のはやしに きたれかし
山精
かのもえいづる くさをふみ
かのわきいづる みづをのみ
   かのあたらしき はなにゑひ
   はるのおもひの なからずや
木精
ふるきころもを ぬぎすてて
はるのかすみを まとへかし
   なくうぐひすの ねにいでて
   ふかきはやしに うたへかし
あゆめば蘭(らん)の花を踏み ゆけば楊梅(やまもも)袖に散り
袂(たもと)にまとふ山葛(やまくづ)の 葛のうら葉をかへしては
女蘿(ひかげ)の蔭のやまいちご 色よき実こそ落ちにけれ
岡やまつゞき隈々(くまぐま)も いとなだらかに行き延(の)びて
ふかきはやしの谷あひに 乱れてにほふふぢばかま
谷に花さき谷にちり 人にしられず朽(く)つるめり
せまりて暗き峡(はざま)より やゝひらけたる深山木(みやまぎ)の
春は小枝(こえだ)のたゝずまひ しげりて広き熊笹の
葉末をふかくかきわけて 谷のかなたにきて見れば
いづくに行くか滝川よ 声もさびしや白糸の
青き巌(いはほ)に流れ落ち 若き猿(ましら)のためにだに
音(おと)をとゞむる時ぞなき
山精
ゆふぐれかよふ たびびとの
むねのおもひを たれかしる
   友にもあらぬ やまかはの
   はるのこゝろを たれかしる
木精
夜をなきあかす かなしみの
まくらにつたふ なみだこそ
   ふかきはやしの たにかげの
   そこにながるゝ しづくなれ
山精
鹿はたふるゝ たびごとに
妻こふこひに かへるなり
   のやまは枯るゝ たびごとに
   ちとせのはるに かへるなり
木精
ふるきおちばを やはらかき
青葉のかげに 葬れよ
   ふゆのゆめぢを さめいでて
   はるのはやしに きたれかし
今しもわたる深山(みやま)かぜ 春はしづかに吹きかよふ
林の簫(しょう)の音(ね)をきけば 風のしらべにさそはれて
みれどもあかぬ白妙(しろたへ)の 雲の羽袖(はそで)の深山木の
千枝(ちえだ)にかゝりたちはなれ わかれ舞ひゆくすがたかな
樹々(きぎ)をわたりて行く雲の しばしと見ればあともなき
高き行衛(ゆくへ)にいざなはれ 千々にめぐれる巌影(いはかげ)の
花にも迷ひ石に倚(よ)り 流るゝ水の音をきけば
山は危ふく石わかれ 削(けづ)りてなせる青巌(あをいは)に
砕けて落つる飛潭(たきみづ)の 湧きくる波の瀬を早み
花やかにさす春の日の 光烱(ひかり)照りそふ水けぶり
独り苔(こけ)むす岩を攀(よ)ぢ ふるふあゆみをふみしめて
浮べる雲をうかゞへば 下にとゞろく飛潭(たきみづ)の
澄むいとまなき岩波は 落ちていづくに下るらん
山精
なにをいざよふ むらさきの
ふかきはやしの はるがすみ
   なにかこひしき いはかげを
   ながれていづる いづみがは
木精
かくれてうたふ 野の山の
こゑなきこゑを きくやきみ
   つゝむにあまる はなかげの
   水のしらべを しるやきみ
山精
あゝながれつゝ こがれつゝ
うつりゆきつゝ うごきつゝ
   あゝめぐりつゝ かへりつゝ
   うちわらひつゝ むせびつゝ
木精
いまひのひかり はるがすみ
いまはなぐもり はるのあめ
   あゝあゝはなの つゆに酔ひ
   ふかきはやしに うたへかし
ゆびをりくればいつたびも かはれる雲をながむるに
白きは黄なりなにをかも もつ筆にせむ色彩(いろあや)の
いつしか淡く茶を帯びて 雲くれなゐとかはりけり
あゝゆふまぐれわれひとり たどる林もひらけきて
いと静かなる湖の 岸辺にさける花躑躅(はなつつじ)
うき雲ゆけばかげ見えて 水に沈める春の日や
それ紅(くれなゐ)の色染めて 雲|紫(むらさき)となりぬれば
かげさへあかき水鳥の 春のみづうみ岸の草
深き林や花つゝじ 迷ふひとりのわがみだに
深紫(ふかむらさき)の紅(くれなゐ)の 彩(あや)にうつろふ夕まぐれ
母を葬るのうた
   うき雲はありともわかぬ大空の
      月のかげよりふるしぐれかな
きみがはかばに きゞくあり
きみがはかばに さかきあり
   くさはにつゆは しげくして
   おもからずやは そのしるし
いつかねむりを さめいでて
いつかへりこん わがはゝよ
   紅羅(あから)ひく子も ますらをも
   みなちりひぢと なるものを
あゝさめたまふ ことなかれ
あゝかへりくる ことなかれ
   はるははなさき はなちりて
   きみがはかばに かゝるとも
なつはみだるゝ ほたるびの
きみがはかばに とべるとも
   あきはさみしき あきさめの
   きみがはかばに そゝぐとも
ふゆはましろに ゆきじもの
きみがはかばに こほるとも
   とほきねむりの ゆめまくら
   おそるゝなかれ わがはゝよ
合唱
一 暗香(あんこう)
   はるのよはひかりはかりとおもひしを
      しろきやうめのさかりなるらむ

わかきいのちの をしければ やみにも春の 香(か)に酔はん
せめてこよひは さほひめよ はなさくかげに うたへかし

そらもゑへりや はるのよは ほしもかくれて みえわかず
よめにもそれと ほのしろく みだれてにほふ うめのはな

はるのひかりの こひしさに かたちをかくす うぐひすよ
はなさへしるき はるのよの やみをおそるゝ ことなかれ

うめをめぐりて ゆくみづの やみをながるゝ せゝらぎや
ゆめもさそはぬ 香(か)なりせば いづれかよるに にほはまし

こぞのこよひは わがともの うすこうばいの そめごろも
ほかげにうつる さかづきを こひのみゑへる よなりけり

こぞのこよひは わがともの なみだをうつす よのなごり
かげもかなしや 木下川(きねがは)に うれひしづみし よなりけり

こぞのこよひは わがともの おもひははるの よのゆめや
よをうきものに いでたまふ ひとめをつゝむ よなりけり

こぞのこよひは わがともの そでのかすみの はなむしろ
ひくやことのね たかじほを うつしあはせし よなりけり

わがみぎのてに くらぶれば やさしきなれが たなごころ
ふるればいとゞ やはらかに もゆるかあつく おもほゆる

もゆるやいかに こよひはと とひたまふこそ うれしけれ
しりたまはずや うめがかに わがうまれてし はるのよを
二 蓮花舟(れんげぶね)
   しは/\もこほるゝつゆははちすはの
      うきはにのみもたまりけるかな

あゝはすのはな はすのはな かげはみえけり いけみづに
ひとつのふねに さをさして うきはをわけて こぎいでん

かぜもすゞしや はがくれに そこにもしろし はすのはな
こゝにもあかき はすばなの みづしづかなる いけのおも

はすをやさしみ はなをとり そでなひたしそ いけみづに
ひとめもはぢよ はなかげに なれが乳房(ちぶさ)の あらはるゝ

ふかくもすめる いけみづの 葉にすれてゆく みなれざを
なつぐもゆけば かげみえて はなよりはなを わたるらし

荷葉(はすは)にうたひ ふねにのり はなつみのする なつのゆめ
はすのはなふね さをとめて なにをながむる そのすがた

なみしづかなる はなかげに きみのかたちの うつるかな
きみのかたちと なつばなと いづれうるはし いづれやさしき
三 葡萄(ぶどう)の樹(き)のかげ
   はるあきにおもひみたれてわきかねつ
      ときにつけつゝうつるこゝろは

たのしからずや はなやかに あきはいりひの てらすとき
たのしからずや ぶだうばの はごしにくもの かよふとき

やさしからずや むらさきの ぶだうのふさの かゝるとき
やさしからずや にひぼしの ぶだうのたまに うつるとき

かぜはしづかに そらすみて あきはたのしき ゆふまぐれ
いつまでわかき をとめごの たのしきゆめの われらぞや

あきのぶだうの きのかげの いかにやさしく ふかくとも
てにてをとりて かげをふむ なれとわかれて なにかせむ

げにやかひなき くりごとも ぶだうにしかじ ひとふさの
われにあたへよ ひとふさを そこにかゝれる むらさきの

われをしれかし えだたかみ とゞかじものを かのふさは
はかげのたまに てはふれて わがさしぐしの おちにけるかな
四 高楼(たかどの)
   わかれゆくひとををしむとこよひより
      とほきゆめちにわれやまとはん

とほきわかれに たへかねて このたかどのに のぼるかな
かなしむなかれ わがあねよ たびのころもを とゝのへよ

わかれといへば むかしより このひとのよの つねなるを
ながるゝみづを ながむれば ゆめはづかしき なみだかな

したへるひとの もとにゆく きみのうへこそ たのしけれ
ふゆやまこえて きみゆかば なにをひかりの わがみぞや

あゝはなとりの いろにつけ ねにつけわれを おもへかし
けふわかれては いつかまた あひみるまでの いのちかも

きみがさやけき めのいろも きみくれなゐの くちびるも
きみがみどりの くろかみも またいつかみん このわかれ

なれがやさしき なぐさめも なれがたのしき うたごゑも
なれがこゝろの ことのねも またいつきかん このわかれ

きみのゆくべき やまかはは おつるなみだに みえわかず
そでのしぐれの ふゆのひに きみにおくらん はなもがな

そでにおほへる うるはしき ながかほばせを あげよかし
ながくれなゐの かほばせに ながるゝなみだ われはぬぐはん
梭(をさ)の音(ね)
梭の音を聞くべき人は今いづこ 心を糸により初(そ)めて
涙ににじむ木綿(もめん)縞 やぶれし※[窗/心](まど)に身をなげて
暮れ行く空をながむれば ねぐらに急ぐ村鴉(むらがらす)
連(つれ)にはなれて飛ぶ一羽 あとを慕ふてかあ/\と
かもめ
波に生れて波に死ぬ 情(なさけ)の海のかもめどり
恋の激浪(おほなみ)たちさわぎ 夢むすぶべきひまもなし
   闇(くら)き潮(うしほ)の驚きて 流れて帰るわだつみの
   鳥の行衛(ゆくへ)も見えわかぬ 波にうきねのかもめどり
流星
門(かど)にたち出(い)でたゞひとり 人待ち顔のさみしさに
ゆふべの空をながむれば 雲の宿りも捨てはてて
何かこひしき人の世に 流れて落つる星一つ
君と遊ばん
君と遊ばん夏の夜の 青葉の影の下すゞみ
短かき夢は結ばずも せめてこよひは歌へかし
   雲となりまた雨となる 昼の愁(うれ)ひはたえずとも
   星の光をかぞへ見よ 楽(たのし)みのかず夜(よ)は尽きじ
夢かうつゝか天(あま)の川(がは) 星に仮寝の織姫の
ひゞきもすみてこひわたる 梭(をさ)の遠音(とほね)を聞かめやも
昼の夢
花橘(はなたちばな)の袖(そで)の香(か)の みめうるはしきをとめごは
真昼(まひる)に夢を見てしより さめて忘るゝ夜のならひ
白日(まひる)の夢のなぞもかく 忘れがたくはありけるものか
   ゆめと知りせばなまなかに さめざらましを世に出(い)でて
   うらわかぐさのうらわかみ 何をか夢の名残ぞと
   問はゞ答へん目さめては 熱き涙のかわく間もなし
東西南北
男ごころをたとふれば つよくもくさをふくかぜか
もとよりかぜのみにしあれば きのふは東けふは西
   女ごころをたとふれば かぜにふかるゝくさなれや
   もとよりくさのみにしあれば きのふは南けふは北
懐古
天(あま)の河原(かはら)にやほよろづ ちよろづ神のかんつどひ
つどひいませしあめつちの 始(はじめ)のときを誰(たれ)か知る
   それ大神(おほがみ)の天雲(あまぐも)の 八重かきわけて行くごとく
   野の鳥ぞ啼(な)く東路(あづまぢ)の 碓氷(うすひ)の山にのぼりゆき
日は照らせども影ぞなき 吾妻(あがつま)はやとこひなきて
熱き涙をそゝぎてし 尊(みこと)の夢は跡も無し
   大和(やまと)の国の高市(たかいち)の 雷山(いかづちやま)に御幸(みゆき)して
   天雲(あまぐも)のへにいほりせる 御輦(くるま)のひゞき今いづこ
目をめぐらせばさゞ波や 志賀の都は荒れにしと
むかしを思ふ歌人(うたひと)の 澄める怨(うらみ)をなにかせん
   春は霞(かす)める高台(たかどの)に のぼりて見ればけぶり立つ
   民のかまどのながめさへ 消えてあとなき雲に入る
冬はしぐるゝ九重(ここのへ)の 大宮内のともしびや
さむさは雪に凍る夜の 竜(たつ)のころもはいろもなし
   むかしは遠き船いくさ 人の血潮(ちしほ)の流るとも
   今はむなしきわだつみの まん/\としてきはみなし
むかしはひろき関が原 つるぎに夢を争へど
今は寂(さび)しき草のみぞ ばう/\としてはてもなき
   われ今(いま)秋の野にいでて 奥山(おくやま)高くのぼり行き
   都のかたを眺むれば あゝあゝ熱きなみだかな
白壁(しらかべ)
たれかしるらん花ちかき 高楼(たかどの)われはのぼりゆき
みだれて熱きくるしみを うつしいでけり白壁に
   唾(つば)にしるせし文字なれば ひとしれずこそ乾きけれ
   あゝあゝ白き白壁に わがうれひありなみだあり
四つの袖(そで)
をとこの気息(いき)のやはらかき お夏の髪にかゝるとき
をとこの早きためいきの 霰(あられ)のごとくはしるとき
   をとこの熱き手の掌(ひら)の お夏の手にも触るゝとき
   をとこの涙ながれいで お夏の袖にかゝるとき
をとこの黒き目のいろの お夏の胸に映るとき
をとこの紅(あか)き口唇(くちびる)の お夏の口にもゆるとき
   人こそしらね嗚呼(ああ)恋の ふたりの身より流れいで
   げにこがるれど慕へども やむときもなき清十郎
天馬

老(おい)は若(わかき)は越(こ)しかたに 文(ふみ)に照らせどまれらなる
奇(く)しきためしは箱根山 弥生(やよひ)の末のゆふまぐれ
南の天(あま)の戸(と)をいでて よな/\北の宿に行く
血の深紅(くれなゐ)の星の影 かたくななりし男さへ
星の光を眼に見ては 身にふりかゝる凶禍(まがごと)の
天の兆(しるし)とうたがへり 総鳴(そうなき)に鳴く鶯(うぐひす)の
にほひいでたる声をあげ さへづり狂ふ音(ね)をきけば
げにめづらしき春の歌 春を得知らぬ処女(をとめ)さへ
かのうぐひすのひとこゑに 枕の紙のしめりきて
人なつかしきおもひあり まだ時ならぬ白百合の
籬(まがき)の陰にさける見て 九十九(つくも)の翁(おきな)うつし世の
こゝろの慾の夢を恋ひ 音(ね)をだにきかぬ雛鶴(ひなづる)の
軒(のき)の榎樹(えのき)に来て鳴けば 寝覚(ねざめ)の老嫗(おうな)後の世の
花の台(うてな)に泣きまどふ 空にかゝれる星のいろ
春さきかへる夏花(なつはな)や 是(これ)わざはひにあらずして
よしや兆(しるし)といへるあり なにを酔ひ鳴く春鳥(はるどり)よ
なにを告げくる鶴の声 それ鳥の音(ね)に卜(うらな)ひて
よろこびありと祝ふあり 高き聖(ひじり)のこの村に
声をあげさせたまふらん 世を傾けむ麗人(よきひと)の
茂れる賤(しづ)の春草(はるぐさ)に いでたまふかとのゝしれど
誰かしるらん新星(にひぼし)の まことの北をさししめし
さみしき蘆(あし)の湖(みづうみ)の 沈める水に映(う)つるとき
名もなき賤の片びさし 春の夜風の音を絶え
村の南のかたほとり その夜生れし牝(め)の馬は
流るゝ水の藍染(あゐぞめ)の 青毛(あをげ)やさしき姿なり
北に生れし雄(を)の馬の 栗毛にまじる紫は
色あけぼのの春霞 光をまとふ風情(ふぜい)あり
星のひかりもをさまりて 噂(うはさ)に残る鶴の音や
啼く鶯に花ちれば 嗚呼この村に生れてし
馬のありとや問ふ人もなし
雄馬(をうま)
あな天雲(あまぐも)にともなはれ 緑の髪をうちふるひ
雄馬は人に随(したが)ひて 箱根の嶺(みね)を下(くだ)りけり
胸は踴(をど)りて八百潮(やほじほ)の かの蒼溟(わだつみ)に湧くごとく
喉(のど)はよせくる春濤(はるなみ)を 飲めども渇(かわ)く風情あり
目はひさかたの朝の星 睫毛(まつげ)は草の浅緑(あさみどり)
うるほひ光る眼瞳(ひとみ)には 千里(ちさと)の外(ほか)もほがらにて
東に照らし西に入る 天つみそらを渡る日の
朝日夕日の行衛(ゆくへ)さへ 雲の絶間に極むらん
二つの耳をたとふれば いと幽(かすか)なる朝風に
そよげる草の葉のごとく 蹄(ひづめ)の音をたとふれば
紫金(しこん)の色のやきがねを 高くも叩(たた)く響あり
狂へば長き鬣(たてがみ)の うちふりうちふる乱れ髪
燃えてはめぐる血の潮(しほ)の 流れて踴(をど)る春の海
噴(は)く紅(くれなゐ)の光には 火炎(ほのほ)の気息(いき)もあらだちて
深くも遠き嘶声(いななき)は 大神(おほがみ)の住む梁(うつばり)の
塵(ちり)を動かす力あり あゝ朝鳥(あさとり)の音をきゝて
富士の高根の雪に鳴き 夕つげわたる鳥の音に
木曽の御嶽(みたけ)の巌(いは)を越え かの青雲(あをぐも)に嘶(いなな)きて
天(そら)より天(そら)の電影(いなづま)の 光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら なさけもあつくなつかしき
主人(あるじ)のあとをとめくれば 箱根も遠し三井寺や
日も暖(あたたか)に花深く さゝなみ青き湖の
岸の此彼(こちごち)草を行く 天の雄馬のすがたをば
誰かは思ひ誰か知る しらずや人の天雲(あまぐも)に
歩むためしはあるものを 天馬の下(お)りて大土(おほつち)に
歩むためしのなからめや 見よ藤の葉の影深く
岸の若草|香(か)にいでて 春花に酔ふ蝶(ちょう)の夢
そのかげを履(ふ)む雄馬には 一つの紅(あか)き春花(はるはな)に
見えざる神の宿(やどり)あり 一つうつろふ野の色に
つきせぬ天のうれひあり 嗚呼|鷲鷹(わしたか)の飛ぶ道に
高く懸(かか)れる大空の 無限(むげん)の絃(つる)に触れて鳴り
男神(をがみ)女神(めがみ)に戯(たはむ)れて 照る日の影の雲に鳴き
空に流るゝ満潮(みちしほ)を 飲みつくすとも渇(かわ)くべき
天馬よ汝(なれ)が身を持ちて 鳥のきて啼(な)く鳰(にほ)の海
花橘(はなたちばな)の蔭を履(ふ)む その姿こそ雄々しけれ
牝馬(めうま)
青波(あをなみ)深きみづうみの 岸のほとりに生れてし
天の牝馬は東(あづま)なる かの陸奥(みちのく)の野に住めり
霞に霑(うるほ)ひ風に擦(す)れ 音(おと)もわびしき枯くさの
すゝき尾花にまねかれて 荒野(あれの)に嘆く牝馬かな
誰か燕(つばめ)の声を聞き たのしきうたを耳にして
日も暖かに花深き 西も空をば慕はざる
誰か秋鳴くかりがねの かなしき歌に耳たてて
ふるさとさむき遠天(とほぞら)の 雲の行衛(ゆくへ)を慕はざる
白き羚羊(ひつじ)に見まほしく 透(す)きては深く柔軟(やはらか)き
眼(まなこ)の色のうるほひは 吾(わ)が古里(ふるさと)を忍べばか
蹄(ひづめ)も薄く肩|痩(や)せて 四つの脚(あし)さへ細りゆき
その鬣(たてがみ)の艶(つや)なきは 荒野(あれの)の空に嘆けばか
春は名取(なとり)の若草や 病める力に石を引き
夏は国分(こくぶ)の嶺(みね)を越え 牝馬にあまる塩を負ふ
秋は広瀬の川添(かはぞひ)の 紅葉(もみぢ)の蔭にむちうたれ
冬は野末に日も暮れて みぞれの道の泥に饑(う)ゆ
鶴よみそらの雲に飽き 朝の霞の香に酔ひて
春の光の空を飛ぶ 羽翼(つばさ)の色の嫉(ねた)きかな
獅子(しし)よさみしき野に隠れ 道なき森に驚きて
あけぼの露にふみ迷ふ 鋭き爪のこひしやな
鹿よ秋山(あきやま)妻恋(つまごひ)に 黄葉(もみぢ)のかげを踏みわけて
谷間の水に喘(あへ)ぎよる 眼睛(ひとみ)の色のやさしやな
人をつめたくあぢきなく 思ひとりしは幾歳(いくとせ)か
命を薄くあさましく 思ひ初(そ)めしは身を責むる
強き軛(くびき)に嘆き侘(わ)び 花に涙をそゝぐより
悲しいかなや春の野に 湧(わ)ける泉を飲み干すも
天の牝馬のかぎりなき 渇ける口をなにかせむ
悲しいかなや行く水の 岸の柳の樹の蔭の
かの新草(にひぐさ)の多くとも 饑ゑたる喉(のど)をいかにせむ
身は塵埃(ちりひぢ)の八重葎(やへむぐら) しげれる宿にうまるれど
かなしや地(つち)の青草は その慰藉(なぐさめ)にあらじかし
あゝ天雲(あまぐも)や天雲や 塵(ちり)の是世(このよ)にこれやこの
轡(くつわ)も折れよ世も捨てよ 狂ひもいでよ軛(くびき)さへ
噛み砕けとぞ祈るなる 牝馬のこゝろ哀(あはれ)なり
尽きせぬ草のありといふ 天つみそらの慕はしや
渇かぬ水の湧くといふ 天の泉のなつかしや
せまき厩(うまや)を捨てはてて 空を行くべき馬の身の
心ばかりははやれども 病みては零(お)つる泪(なみだ)のみ
草に生れて草に泣く 姿やさしき天の馬
うき世のものにことならで 消ゆる命のもろきかな
散りてはかなき柳葉(やなぎは)の そのすがたにも似たりけり
波に消え行く淡雪(あはゆき)の そのすがたにも似たりけり
げに世の常の馬ならば かくばかりなる悲嘆(かなしみ)に
身の苦悶(わづらひ)を恨(うら)み侘び 声ふりあげて嘶(いなな)かん
乱れて長き鬣の この世かの世の別れにも
心ばかりは静和(しづか)なる 深く悲しき声きけば
あゝ幽遠(かすか)なる気息(ためいき)に 天のうれひを紫の
野末の花に吹き残す 世の名残こそはかなけれ
鶏(にはとり)
花によりそふ鶏の 夫(つま)よ妻鳥(めどり)よ燕子花(かきつばた)
いづれあやめとわきがたく さも似つかしき風情(ふぜい)あり
   姿やさしき牝鶏(めんどり)の かたちを恥づるこゝろして
   花に隠るゝありさまに 品かはりたる夫鳥(つまどり)や
雄々しくたけき雄鶏(をんどり)の とさかの色も艶(えん)にして
黄なる口觜(くちばし)脚蹴爪(あしけづめ) 尾はしだり尾のなが/\し
   問ふても見まし誰(た)がために よそほひありく夫鳥(つまどり)よ
   妻(つま)守(も)るためのかざりにと いひたげなるぞいぢらしき
画にこそかけれ花鳥(はなどり)の それにも通ふ一つがひ
霜に侘寝(わびね)の朝ぼらけ 雨に入日の夕まぐれ
   空に一つの明星の 闇行く水に動くとき
   日を迎へんと鶏の 夜(よる)の使(つかひ)を音(ね)にぞ鳴く
露けき朝の明けて行く 空のながめを誰(たれ)か知る
燃ゆるがごとき紅(くれなゐ)の 雲のゆくへを誰(たれ)か知る
   闇もこれより隣なる 声ふりあげて鳴くときは
   ひとの長眠(ねむり)のみなめざめ 夜は日に通ふ夢まくら
明けはなれたり夜はすでに いざ妻鳥(つまどり)と巣を出(い)でて
餌(ゑ)をあさらんと野に行けば あなあやにくのものを見き
   見しらぬ鶏(とり)の音(ね)も高に あしたの空に鳴き渡り
   草かき分けて来るはなぞ 妻恋ふらしや妻鳥(つまどり)を
ねたしや露に羽(はね)ぬれて 朝日にうつる影見れば
雄鶏(をどり)に惜(を)しき白妙(しろたへ)の 雲をあざむくばかりなり
   力あるらし声たけき 敵(かたき)のさまを懼(おそ)れてか
   声色(いろ)あるさまに羞(は)ぢてかや 妻鳥(めどり)は花に隠れけり
かくと見るより堪へかねて 背をや高めし夫鳥(つまどり)は
羽(は)がきも荒く飛び走り 蹴爪に土をかき狂ふ
   筆毛(ふでげ)のさきも逆立(さかだ)ちて 血潮(ちしほ)にまじる眼のひかり
   二つの鶏(とり)のすがたこそ 是(これ)おそろしき風情(ふぜい)なれ
妻鳥(めどり)は花を馳(か)け出でて 争闘(あらそひ)分くるひまもなみ
たがひに蹴合ふ蹴爪(けづめ)には 火焔(ほのほ)もちるとうたがはる
   蹴るや左眼(さがん)の的(まと)それて 羽(はね)に血しほの夫鳥(つまどり)は
   敵の右眼(うがん)をめざしつゝ 爪も折れよと蹴返しぬ
蹴られて落つるくれなゐの 血潮の花も地に染みて
二つの鶏(とり)の目もくるひ たがひにひるむ風情なし
   そこに声あり涙あり 争ひ狂ふ四つの羽(はね)
   血潮(のり)に滑りし夫鳥(つまどり)の あな仆(たふ)れけん声高し
一声長く悲鳴して あとに仆るゝ夫鳥の
羽(はね)に血潮の朱(あけ)に染(そ)み あたりにさける花|紅(あか)し
   あゝあゝ熱き涙かな あるに甲斐なき妻鳥は
   せめて一声鳴けかしと 屍(かばね)に嘆くさまあはれ
なにとは知らぬかなしみの いつか恐怖(おそれ)と変りきて
思ひ乱れて音(ね)をのみぞ 鳴くや妻鳥(めどり)の心なく
   我を恋ふらし音(ね)にたてて 姿も色もなつかしき
   花のかたちと思ひきや かなしき敵とならんとは
花にもつるゝ蝶(ちょう)あるを 鳥に縁(えにし)のなからめや
おそろしきかな其の心 なつかしきかな其の情(なさけ)
   紅(あけ)に染(そ)みたる草見れば 鳥の命のもろきかな
   火よりも燃ゆる恋見れば 敵(てき)のこゝろのうれしやな
見よ動きゆく大空の 照る日も雲に薄らぎて
花に色なく風吹けば 野はさびしくも変りけり
   かなしこひしの夫鳥(つまどり)の 冷えまさりゆく其(その)姿
   たよりと思ふ一ふしの いづれ妻鳥(めどり)の身の末ぞ
恐怖(おそれ)を抱く母と子が よりそふごとくかの敵に
なにとはなしに身をよする 妻鳥のこゝろあはれなれ
   あないたましのながめかな さきの楽しき花ちりて
   空色暗く一彩毛(ひとはけ)の 雲にかなしき野のけしき
生きてかへらぬ鳥はいざ 夫(つま)か妻鳥(めどり)か燕子花(かきつばた)
いづれあやめを踏み分けて 野末を帰る二羽の鶏(とり)
松島|瑞巌寺(ずいがんじ)に遊び
   葡萄(ぶどう)栗鼠(きねずみ)の木彫を観て
舟路(ふなぢ)も遠し瑞巌寺 冬逍遙(ふゆじょうよう)のこゝろなく
古き扉に身をよせて 飛騨(ひだ)の名匠(たくみ)の浮彫(うきぼり)の
葡萄のかげにきて見れば 菩提(ぼだい)の寺の冬の日に
刀(かたな)悲(かな)しみ鑿(のみ)愁(うれ)ふ ほられて薄き葡萄葉の
影にかくるゝ栗鼠よ 姿ばかりは隠すとも
かくすよしなし鑿(のみ)の香(か)は うしほにひゞく磯寺(いそでら)の
かねにこの日の暮るゝとも 夕闇(ゆふやみ)かけてたゝずめば
こひしきやなぞ甚五郎 
 
「破戒」

 

この書の世に出づるにいたりたるは、函館にある秦慶治氏、及び信濃にある神津猛氏のたまものなり。労作終るの日にあたりて、このものがたりを二人の恩人のまへにさゝぐ。 
第壱章 
(一)
蓮華寺(れんげじ)では下宿を兼ねた。瀬川|丑松(うしまつ)が急に転宿(やどがへ)を思ひ立つて、借りることにした部屋といふのは、其|蔵裏(くり)つゞきにある二階の角のところ。寺は信州|下水内郡(しもみのちごほり)飯山町二十何ヶ寺の一つ、真宗に附属する古刹(こせつ)で、丁度其二階の窓に倚凭(よりかゝ)つて眺めると、銀杏(いてふ)の大木を経(へだ)てゝ飯山の町の一部分も見える。さすが信州第一の仏教の地、古代を眼前(めのまへ)に見るやうな小都会、奇異な北国風の屋造(やづくり)、板葺の屋根、または冬期の雪除(ゆきよけ)として使用する特別の軒庇(のきびさし)から、ところ/″\に高く顕(あらは)れた寺院と樹木の梢まで――すべて旧めかしい町の光景(ありさま)が香の烟(けぶり)の中に包まれて見える。たゞ一際(ひときは)目立つて此窓から望まれるものと言へば、現に丑松が奉職して居る其小学校の白く塗つた建築物(たてもの)であつた。
丑松が転宿(やどがへ)を思ひ立つたのは、実は甚だ不快に感ずることが今の下宿に起つたからで、尤(もつと)も賄(まかなひ)でも安くなければ、誰も斯様(こん)な部屋に満足するものは無からう。壁は壁紙で張りつめて、それが煤(すゝ)けて茶色になつて居た。粗造な床の間、紙表具の軸、外には古びた火鉢が置いてあるばかりで、何となく世離れた、静寂(しづか)な僧坊であつた。それがまた小学教師といふ丑松の今の境遇に映つて、妙に佗(わび)しい感想(かんじ)を起させもする。
今の下宿には斯(か)ういふ事が起つた。半月程前、一人の男を供に連れて、下高井の地方から出て来た大日向(おほひなた)といふ大尽(だいじん)、飯山病院へ入院の為とあつて、暫時(しばらく)腰掛に泊つて居たことがある。入院は間もなくであつた。もとより内証はよし、病室は第一等、看護婦の肩に懸つて長い廊下を往つたり来たりするうちには、自然(おのづ)と豪奢(がうしや)が人の目にもついて、誰が嫉妬(しつと)で噂(うはさ)するともなく、「彼(あれ)は穢多(ゑた)だ」といふことになつた。忽ち多くの病室へ伝(つたは)つて、患者は総立(そうだち)。「放逐して了(しま)へ、今直ぐ、それが出来ないとあらば吾儕(われ/\)挙(こぞ)つて御免を蒙る」と腕捲(うでまく)りして院長を脅(おびやか)すといふ騒動。いかに金尽(かねづく)でも、この人種の偏執(へんしふ)には勝たれない。ある日の暮、籠に乗せられて、夕闇の空に紛れて病院を出た。籠は其儘(そのまゝ)もとの下宿へ舁(かつ)ぎ込まれて、院長は毎日のやうに来て診察する。さあ今度は下宿のものが承知しない。丁度丑松が一日の勤務(つとめ)を終つて、疲れて宿へ帰つた時は、一同「主婦(かみさん)を出せ」と喚(わめ)き立てるところ。「不浄だ、不浄だ」の罵詈(ばり)は無遠慮な客の口唇(くちびる)を衝(つ)いて出た。「不浄だとは何だ」と丑松は心に憤つて、蔭ながらあの大日向の不幸(ふしあはせ)を憐んだり、道理(いはれ)のないこの非人扱ひを慨(なげ)いたりして、穢多の種族の悲惨な運命を思ひつゞけた――丑松もまた穢多なのである。
見たところ丑松は純粋な北部の信州人――佐久小県(さくちひさがた)あたりの岩石の間に成長した壮年(わかもの)の一人とは誰の目にも受取れる。正教員といふ格につけられて、学力優等の卒業生として、長野の師範校を出たのは丁度二十二の年齢(とし)の春。社会(よのなか)へ突出される、直に丑松はこの飯山へ来た。それから足掛三年目の今日、丑松はたゞ熱心な青年教師として、飯山の町の人に知られて居るのみで、実際穢多である、新平民であるといふことは、誰一人として知るものが無かつたのである。
「では、いつ引越していらつしやいますか。」
と声をかけて、入つて来たのは蓮華寺の住職の匹偶(つれあひ)。年の頃五十前後。茶色小紋の羽織を着て、痩せた白い手に珠数(ずゝ)を持ち乍(なが)ら、丑松の前に立つた。土地の習慣(ならはし)から「奥様」と尊敬(あが)められて居る斯(こ)の有髪(うはつ)の尼は、昔者として多少教育もあり、都会(みやこ)の生活も万更(まんざら)知らないでも無いらしい口の利き振であつた。世話好きな性質を額にあらはして、微な声で口癖のやうに念仏して、対手(あひて)の返事を待つて居る様子。
其時、丑松も考へた。明日(あす)にも、今夜にも、と言ひたい場合ではあるが、さて差当つて引越しするだけの金が無かつた。実際持合せは四十銭しかなかつた。四十銭で引越しの出来よう筈も無い。今の下宿の払ひもしなければならぬ。月給は明後日(あさつて)でなければ渡らないとすると、否(いや)でも応でも其迄待つより外はなかつた。
「斯うしませう、明後日の午後(ひるすぎ)といふことにしませう。」
「明後日?」と奥様は不思議さうに対手の顔を眺めた。
「明後日引越すのは其様(そんな)に可笑(をかし)いでせうか。」丑松の眼は急に輝いたのである。
「あれ――でも明後日は二十八日ぢやありませんか。別に可笑いといふことは御座(ござい)ませんがね、私はまた月が変つてから来(いら)つしやるかと思ひましてサ。」
「むゝ、これはおほきに左様(さう)でしたなあ。実は私も急に引越しを思ひ立つたものですから。」
と何気なく言消して、丑松は故意(わざ)と話頭(はなし)を変へて了(しま)つた。下宿の出来事は烈しく胸の中を騒がせる。それを聞かれたり、話したりすることは、何となく心に恐しい。何か穢多に関したことになると、毎時(いつ)もそれを避けるやうにするのが是男の癖である。
「なむあみだぶ。」
と口の中で唱へて、奥様は別に深く掘つて聞かうともしなかつた。
(二)
蓮華寺を出たのは五時であつた。学校の日課を終ると、直ぐ其足で出掛けたので、丑松はまだ勤務(つとめ)の儘の服装(みなり)で居る。白墨と塵埃(ほこり)とで汚れた着古しの洋服、書物やら手帳やらの風呂敷包を小脇に抱へて、それに下駄穿(げたばき)、腰弁当。多くの労働者が人中で感ずるやうな羞恥(はぢ)――そんな思を胸に浮べ乍ら、鷹匠(たかしやう)町の下宿の方へ帰つて行つた。町々の軒は秋雨あがりの後の夕日に輝いて、人々が濡れた道路に群つて居た。中には立ちとゞまつて丑松の通るところを眺めるもあり、何かひそひそ立話をして居るのもある。「彼処(あそこ)へ行くのは、ありやあ何だ――むゝ、教員か」と言つたやうな顔付をして、酷(はなはだ)しい軽蔑(けいべつ)の色を顕(あらは)して居るのもあつた。是が自分等の預つて居る生徒の父兄であるかと考へると、浅猿(あさま)しくもあり、腹立たしくもあり、遽(にはか)に不愉快になつてすたすた歩き初めた。
本町の雑誌屋は近頃出来た店。其前には新着の書物を筆太に書いて、人目を引くやうに張出してあつた。かねて新聞の広告で見て、出版の日を楽みにして居た「懴悔録」――肩に猪子(ゐのこ)蓮太郎氏著、定価までも書添へた広告が目につく。立ちどまつて、其人の名を思出してさへ、丑松はもう胸の踊るやうな心地(こゝち)がしたのである。見れば二三の青年が店頭(みせさき)に立つて、何か新しい雑誌でも猟(あさ)つて居るらしい。丑松は色の褪(あ)せたズボンの袖嚢(かくし)の内へ手を突込んで、人知れず銀貨を鳴らして見ながら、幾度か其雑誌屋の前を往つたり来たりした。兎(と)に角(かく)、四十銭あれば本が手に入る。しかし其を今|茲(こゝ)で買つて了へば、明日は一文無しで暮さなければならぬ。転宿(やどがへ)の用意もしなければならぬ。斯ういふ思想(かんがへ)に制せられて、一旦は往きかけて見たやうなものゝ、やがて、復(ま)た引返した。ぬつと暖簾(のれん)を潜つて入つて、手に取つて見ると――それはすこし臭気(にほひ)のするやうな、粗悪な洋紙に印刷した、黄色い表紙に「懴悔録」としてある本。貧しい人の手にも触れさせたいといふ趣意から、わざと質素な体裁を択(えら)んだのは、是書(このほん)の性質をよく表して居る。あゝ、多くの青年が読んで知るといふ今の世の中に、飽くことを知らない丑松のやうな年頃で、どうして読まず知らずに居ることが出来よう。智識は一種の饑渇(ひもじさ)である。到頭四十銭を取出して、欲(ほし)いと思ふ其本を買求めた。なけなしの金とはいひ乍(なが)ら、精神(こゝろ)の慾には替へられなかつたのである。
「懴悔録」を抱いて――買つて反つて丑松は気の衰頽(おとろへ)を感じ乍ら、下宿をさして帰つて行くと、不図(ふと)、途中で学校の仲間に出逢(であ)つた。一人は土屋銀之助と言つて、師範校時代からの同窓の友。一人は未(ま)だ極(ご)く年若な、此頃準教員に成つたばかりの男。散歩とは二人のぶら/\やつて来る様子でも知れた。
「瀬川君、大層遅いぢやないか。」
と銀之助は洋杖(ステッキ)を鳴し乍ら近(ちかづ)いた。
正直で、しかも友達思ひの銀之助は、直に丑松の顔色を見て取つた。深く澄んだ目付は以前の快活な色を失つて、言ふに言はれぬ不安の光を帯びて居たのである。「あゝ、必定(きつと)身体(からだ)の具合でも悪いのだらう」と銀之助は心に考へて、丑松から下宿を探しに行つた話を聞いた。
「下宿を? 君はよく下宿を取替へる人だねえ――此頃(こなひだ)あそこの家(うち)へ引越したばかりぢやないか。」
と毒の無い調子で、さも心(しん)から出たやうに笑つた。其時丑松の持つて居る本が目についたので、銀之助は洋杖を小脇に挾んで、見せろといふ言葉と一緒に右の手を差出した。
「是かね。」と丑松は微笑(ほゝゑ)みながら出して見せる。
「むゝ、「懴悔録」か。」と準教員も銀之助の傍に倚添(よりそ)ひながら眺めた。
「相変らず君は猪子先生のものが好きだ。」斯う銀之助は言つて、黄色い本の表紙を眺めたり、一寸|内部(なか)を開けて見たりして、「さう/\新聞の広告にもあつたツけ――へえ、斯様(こん)な本かい――斯様な質素な本かい。まあ君のは愛読を通り越して崇拝の方だ。はゝゝゝゝ、よく君の話には猪子先生が出るからねえ。嘸(さぞ)かしまた聞かせられることだらうなあ。」
「馬鹿言ひたまへ。」
と丑松も笑つて其本を受取つた。
夕靄(ゆふもや)の群は低く集つて来て、あそこでも、こゝでも、最早(もう)ちら/\灯(あかり)が点(つ)く。丑松は明後日あたり蓮華寺へ引越すといふ話をして、この友達と別れたが、やがて少許(すこし)行つて振返つて見ると、銀之助は往来の片隅に佇立(たゝず)んだ儘(まゝ)、熟(じつ)と是方(こちら)を見送つて居た。半町ばかり行つて復た振返つて見ると、未だ友達は同じところに佇立んで居るらしい。夕餐(ゆふげ)の煙は町の空を籠めて、悄然(しよんぼり)とした友達の姿も黄昏(たそが)れて見えたのである。
(三)
鷹匠町の下宿近く来た頃には、鉦(かね)の声が遠近(をちこち)の空に響き渡つた。寺々の宵の勤行(おつとめ)は始まつたのであらう。丁度下宿の前まで来ると、あたりを警(いまし)める人足の声も聞えて、提灯(ちやうちん)の光に宵闇の道を照し乍ら、一|挺(ちやう)の籠が舁がれて出るところであつた。あゝ、大尽が忍んで出るのであらう、と丑松は憐んで、黙然(もくねん)として其処に突立つて見て居るうちに、いよ/\其とは附添の男で知れた。同じ宿に居たとは言ひ乍ら、つひぞ丑松は大日向を見かけたことが無い。唯附添の男ばかりは、よく薬の罎(びん)なぞを提げて、出たり入つたりするところを見かけたのである。その雲を突くやうな大男が、今、尻端折りで、主人を保護したり、人足を指図したりする甲斐々々しさ。穢多の中でも卑賤(いや)しい身分のものと見え、其処に立つて居る丑松を同じ種族(やから)とは夢にも知らないで、妙に人を憚(はゞか)るやうな様子して、一寸|会釈(ゑしやく)し乍ら側を通りぬけた。門口に主婦(かみさん)、「御機嫌よう」の声も聞える。見れば下宿の内は何となく騒々しい。人々は激昂したり、憤慨したりして、いづれも聞えよがしに罵つて居る。
「難有(ありがた)うぞんじます――そんなら御気をつけなすつて。」
とまた主婦は籠の側へ駈寄つて言つた。籠の内の人は何とも答へなかつた。丑松は黙つて立つた。見る/\舁(かつ)がれて出たのである。
「ざまあ見やがれ。」
これが下宿の人々の最後に揚げた凱歌であつた。
丑松がすこし蒼(あを)ざめた顔をして、下宿の軒を潜つて入つた時は、未だ人々が長い廊下に群(むらが)つて居た。いづれも感情を制(おさ)へきれないといふ風で、肩を怒らして歩くもあり、板の間を踏み鳴らすもあり、中には塩を掴んで庭に蒔散(まきち)らす弥次馬もある。主婦は燧石(ひうちいし)を取出して、清浄(きよめ)の火と言つて、かち/\音をさせて騒いだ。
哀憐(あはれみ)、恐怖(おそれ)、千々の思は烈しく丑松の胸中を往来した。病院から追はれ、下宿から追はれ、其残酷な待遇(とりあつかひ)と恥辱(はづかしめ)とをうけて、黙つて舁がれて行く彼(あ)の大尽の運命を考へると、嘸(さぞ)籠の中の人は悲慨(なげき)の血涙(なんだ)に噎(むせ)んだであらう。大日向の運命は軈(やが)てすべての穢多の運命である。思へば他事(ひとごと)では無い。長野の師範校時代から、この飯山に奉職の身となつたまで、よくまあ自分は平気の平左で、普通の人と同じやうな量見で、危いとも恐しいとも思はずに通り越して来たものだ。斯(か)うなると胸に浮ぶは父のことである。父といふのは今、牧夫をして、烏帽子(ゑぼし)ヶ|嶽(だけ)の麓(ふもと)に牛を飼つて、隠者のやうな寂しい生涯(しやうがい)を送つて居る。丑松はその西乃入(にしのいり)牧場を思出した。その牧場の番小屋を思出した。
「阿爺(おとつ)さん、阿爺さん。」
と口の中で呼んで、自分の部屋をあちこち/\と歩いて見た。不図(ふと)父の言葉を思出した。
はじめて丑松が親の膝下(しつか)を離れる時、父は一人息子の前途を深く案じるといふ風で、さま/″\な物語をして聞かせたのであつた。其時だ――一族の祖先のことも言ひ聞かせたのは。東海道の沿岸に住む多くの穢多の種族のやうに、朝鮮人、支那人、露西亜(ロシア)人、または名も知らない島々から漂着したり帰化したりした異邦人の末とは違ひ、その血統は古(むかし)の武士の落人(おちうど)から伝(つたは)つたもの、貧苦こそすれ、罪悪の為に穢れたやうな家族ではないと言ひ聞かせた。父はまた添付(つけた)して、世に出て身を立てる穢多の子の秘訣――唯一つの希望(のぞみ)、唯一つの方法(てだて)、それは身の素性を隠すより外に無い、「たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅(めぐりあ)はうと決して其とは自白(うちあ)けるな、一旦の憤怒(いかり)悲哀(かなしみ)に是(この)戒(いましめ)を忘れたら、其時こそ社会(よのなか)から捨てられたものと思へ。」斯う父は教へたのである。
一生の秘訣とは斯の通り簡単なものであつた。「隠せ。」――戒はこの一語(ひとこと)で尽きた。しかし其頃はまだ無我夢中、「阿爺(おやぢ)が何を言ふか」位に聞流して、唯もう勉強が出来るといふ嬉しさに家を飛出したのであつた。楽しい空想の時代は父の戒も忘れ勝ちに過ぎた。急に丑松は少年(こども)から大人に近(ちかづ)いたのである。急に自分のことが解つて来たのである。まあ、面白い隣の家から面白くない自分の家へ移つたやうに感ずるのである。今は自分から隠さうと思ふやうになつた。
(四)
あふのけさまに畳の上へ倒れて、暫時(しばらく)丑松は身動きもせずに考へて居たが、軈(やが)て疲労(つかれ)が出て眠(ね)て了(しま)つた。不図目が覚めて、部屋の内(なか)を見廻した時は、点(つ)けて置かなかつた筈の洋燈(ランプ)が寂しさうに照して、夕飯の膳も片隅に置いてある。自分は未だ洋服の儘(まゝ)。丑松の心地(こゝろもち)には一時間余も眠つたらしい。戸の外には時雨(しぐれ)の降りそゝぐ音もする。起き直つて、買つて来た本の黄色い表紙を眺め乍ら、膳を手前へ引寄せて食つた。飯櫃(おはち)の蓋を取つて、あつめ飯の臭気(にほひ)を嗅(か)いで見ると、丑松は最早(もう)嘆息して了つて、そこ/\にして膳を押遣(おしや)つたのである。「懴悔録」を披(ひろ)げて置いて、先づ残りの巻煙草(まきたばこ)に火を点けた。
この本の著者――猪子蓮太郎の思想は、今の世の下層社会の「新しい苦痛」を表白(あらは)すと言はれて居る。人によると、彼男(あのをとこ)ほど自分を吹聴(ふいちやう)するものは無いと言つて、妙に毛嫌するやうな手合もある。成程(なるほど)、其筆にはいつも一種の神経質があつた。到底蓮太郎は自分を離れて説話(はなし)をすることの出来ない人であつた。しかし思想が剛健で、しかも観察の精緻(せいち)を兼ねて、人を吸引(ひきつ)ける力の壮(さか)んに溢(あふ)れて居るといふことは、一度其著述を読んだものゝ誰しも感ずる特色なのである。蓮太郎は貧民、労働者、または新平民等の生活状態を研究して、社会の下層を流れる清水に掘りあてる迄は倦(う)まず撓(たわ)まず努力(つと)めるばかりでなく、また其を読者の前に突着けて、右からも左からも説明(ときあか)して、呑込めないと思ふことは何度繰返しても、読者の腹(おなか)の中に置かなければ承知しないといふ遣方(やりかた)であつた。尤(もつと)も蓮太郎のは哲学とか経済とかの方面から左様(さう)いふ問題(ことがら)を取扱はないで、寧(むし)ろ心理の研究に基礎(どだい)を置いた。文章はたゞ岩石を並べたやうに思想を並べたもので、露骨(むきだし)なところに反つて人を動かす力があつたのである。
しかし丑松が蓮太郎の書いたものを愛読するのは唯|其丈(それだけ)の理由からでは無い。新しい思想家でもあり戦士でもある猪子蓮太郎といふ人物が穢多の中から産れたといふ事実は、丑松の心に深い感動を与へたので――まあ、丑松の積りでは、隠(ひそか)に先輩として慕つて居るのである。同じ人間であり乍ら、自分等ばかり其様(そんな)に軽蔑(けいべつ)される道理が無い、といふ烈しい意気込を持つやうになつたのも、実はこの先輩の感化であつた。斯ういふ訳から、蓮太郎の著述といへば必ず買つて読む。雑誌に名が出る、必ず目を通す。読めば読む程丑松はこの先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな気がした。穢多としての悲しい自覚はいつの間にか其頭を擡(もちあ)げたのである。
今度の新著述は、「我は穢多なり」といふ文句で始めてあつた。其中には同族の無智と零落とが活きた画のやうに描いてあつた。其中には多くの正直な男女(をとこをんな)が、たゞ穢多の生れといふばかりで、社会から捨てられて行く光景(ありさま)も写してあつた。其中には又、著者の煩悶の歴史、歓(うれ)し哀(かな)しい過去の追想(おもひで)、精神の自由を求めて、しかも其が得られないで、不調和な社会の為に苦(くるし)みぬいた懐疑(うたがひ)の昔語(むかしがたり)から、朝空を望むやうな新しい生涯に入る迄――熱心な男性(をとこ)の嗚咽(すゝりなき)が声を聞くやうに書きあらはしてあつた。
新しい生涯――それが蓮太郎には偶然な身のつまづきから開けたのである。生れは信州高遠の人。古い穢多の宗族(いへがら)といふことは、丁度長野の師範校に心理学の講師として来て居た頃――丑松がまだ入学しない以前(まへ)――同じ南信の地方から出て来た二三の生徒の口から泄(も)れた。講師の中に賤民の子がある。是噂が全校へ播(ひろが)つた時は、一同|驚愕(おどろき)と疑心(うたがひ)とで動揺した。ある人は蓮太郎の人物を、ある人はその容貌(ようばう)を、ある人はその学識を、いづれも穢多の生れとは思はれないと言つて、どうしても虚言(うそ)だと言張るのであつた。放逐、放逐、声は一部の教師仲間の嫉妬(しつと)から起つた。嗚呼、人種の偏執といふことが無いものなら、「キシネフ」で殺される猶太人(ユダヤじん)もなからうし、西洋で言囃(いひはや)す黄禍の説もなからう。無理が通れば道理が引込むといふ斯(この)世の中に、誰が穢多の子の放逐を不当だと言ふものがあらう。いよ/\蓮太郎が身の素性を自白して、多くの校友に別離(わかれ)を告げて行く時、この講師の為に同情(おもひやり)の涙(なんだ)を流すものは一人もなかつた。蓮太郎は師範校の門を出て、「学問の為の学問」を捨てたのである。
この当時の光景(ありさま)は「懴悔録」の中に精(くは)しく記載してあつた。丑松は身につまされるかして、幾度(いくたび)か読みかけた本を閉ぢて、目を瞑(つぶ)つて、やがて其を読むのは苦しくなつて来た。同情(おもひやり)は妙なもので、反つて底意を汲ませないやうなことがある。それに蓮太郎の筆は、面白く読ませるといふよりも、考へさせる方だ。終(しまひ)には丑松も書いてあることを離れて了つて、自分の一生ばかり思ひつゞけ乍ら読んだ。
今日まで丑松が平和な月日を送つて来たのは――主に少年時代からの境遇にある。そも/\は小諸の向町(むかひまち)(穢多町)の生れ。北佐久の高原に散布する新平民の種族の中でも、殊に四十戸ばかりの一族(いちまき)の「お頭(かしら)」と言はれる家柄であつた。獄卒(らうもり)と捕吏(とりて)とは、維新前まで、先祖代々の職務(つとめ)であつて、父はその監督の報酬(むくい)として、租税を免ぜられた上、別に俸米(ふち)をあてがはれた。それ程の男であるから、貧苦と零落との為め小県郡の方へ家を移した時にも、八歳の丑松を小学校へやることは忘れなかつた。丑松が根津村(ねづむら)の学校へ通ふやうになつてからは、もう普通(なみ)の児童(こども)で、誰もこの可憐な新入生を穢多の子と思ふものはなかつたのである。最後に父は姫子沢(ひめこざは)の谷間(たにあひ)に落着いて、叔父夫婦も一緒に移り住んだ。異(かは)つた土地で知るものは無し、強(し)ひて是方(こちら)から言ふ必要もなし、といつたやうな訳で、終(しまひ)には慣れて、少年の丑松は一番早く昔を忘れた。官費の教育を受ける為に長野へ出掛ける頃は、たゞ先祖の昔話としか考へて居なかつた位で。
斯ういふ過去の記憶は今丑松の胸の中に復活(いきかへ)つた。七つ八つの頃まで、よく他の小供に調戯(からか)はれたり、石を投げられたりした、其|恐怖(おそれ)の情はふたゝび起つて来た。朦朧(おぼろげ)ながらあの小諸の向町に居た頃のことを思出した。移住する前に死んだ母親のことなぞを思出した。「我は穢多なり」――あゝ、どんなに是一句が丑松の若い心を掻乱(かきみだ)したらう。「懴悔録」を読んで、反(かへ)つて丑松はせつない苦痛(くるしみ)を感ずるやうになつた。 
 
第弐章

 

(一)
毎月二十八日は月給の渡る日とあつて、学校では人々の顔付も殊(こと)に引立つて見えた。課業の終を告げる大鈴が鳴り渡ると、男女(をとこをんな)の教員はいづれも早々に書物を片付けて、受持々々の教室を出た。悪戯盛(いたづらざか)りの少年の群は、一時に溢れて、其騒しさ。弁当草履を振廻し、「ズック」の鞄を肩に掛けたり、風呂敷包を背負(しよ)つたりして、声を揚げ乍(なが)ら帰つて行つた。丑松もまた高等四年の一組を済まして、左右(みぎひだり)に馳せちがふ生徒の中を職員室へと急いだのである。
校長は応接室に居た。斯(この)人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅(こじうと)にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許(すこし)づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々(にち/\)の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する「トラホオム」の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件(こと)であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草(たばこ)の烟(けぶり)は丁度白い渦(うづ)のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
斯(この)校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。もと/\軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したいと言ふのが斯人の主義で、日々(にち/\)の挙動も生活も凡(すべ)て其から割出してあつた。時計のやうに正確に――これが座右の銘でもあり、生徒に説いて聞かせる教訓でもあり、また職員一同を指揮(さしづ)する時の精神でもある。世間を知らない青年教育者の口癖に言ふやうなことは、無用な人生の装飾(かざり)としか思はなかつた。是主義で押通して来たのが遂に成功して――まあすくなくとも校長の心地(こゝろもち)だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌(きんぱい)を授与されたのである。
丁度その一生の記念が今応接室の机の上に置いてあつた。人々の視線は燦然(さんぜん)とした黄金の光輝(ひかり)に集つたのである。一人の町会議員は其金質を、一人は其|重量(めかた)と直径(さしわたし)とを、一人は其見積りの代価を、いづれも心に商量したり感嘆したりして眺めた。十八金、直径(さしわたし)九分、重量(めかた)五匁、代価凡そ三十円――これが人々の終(しまひ)に一致した評価で、別に添へてある表彰文の中には、よく教育の施設をなしたと書いてあつた。県下教育の上に貢献するところ尠(すくな)からずと書いてあつた。「基金令第八条の趣旨に基き、金牌を授与し、之を表彰す」とも書いてあつた。
「実に今回のことは校長先生の御名誉ばかりぢや有ません、吾信州教育界の名誉です。」
と髯(ひげ)の白い町会議員は改つて言つた。金縁眼鏡の議員は其尾に附いて、
「就きましては、有志の者が寄りまして御祝の印ばかりに粗酒を差上げたいと存じますが――いかゞでせう、今晩三浦屋迄|御出(おいで)を願へませうか。郡視学さんも、何卒(どうか)まあ是非御同道を。」
「いや、左様(さう)いふ御心配に預りましては実に恐縮します。」と校長は倚子(いす)を離れて挨拶した。「今回のことは、教育者に取りましても此上もない名誉な次第で、非常に私も嬉敷(うれしく)思つては居るのですが――考へて見ますと、是ぞと言つて功績のあつた私ではなし、実は斯ういふ金牌なぞを頂戴して、反(かへ)つて身の不肖を恥づるやうな次第で。」
「校長先生、左様(さう)仰つて下すつては、使に来た私共が困ります。」
と痩せぎすな議員が右から手を擦(も)み乍ら言つた。
「御辞退下さる程の御馳走は有ませんのですから。」
と白髯(しらひげ)の議員は左から歎願した。
校長の眼は得意と喜悦(よろこび)とで火のやうに輝いた。いかにも心中の感情を包みきれないといふ風で、胸を突出して見たり、肩を動(ゆす)つて見たりして、軈(やが)て郡視学の方へ向いて斯う尋ねた。
「どうですな、貴方(あなた)の御都合は。」
と言はれて、郡視学は鷹揚(おうやう)な微笑(ほゝゑみ)を口元に湛(たゝ)へ乍ら、
「折角(せつかく)皆さんが彼様(あゝ)言つて下さる。御厚意を無にするのは反つて失礼でせう。」
「御尤(ごもつとも)です――いや、それではいづれ後刻御目に懸つて、御礼を申上げるといふことにしませう。何卒(どうか)皆さんへも宜敷(よろしく)仰つて下さい。」
と校長は丁寧に挨拶した。
実際、地方の事情に遠いものは斯校長の現在の位置を十分会得することが出来ないであらう。地方に入つて教育に従事するものゝ第一の要件は――外でもない、斯校長のやうな凡俗な心づかひだ。曾(かつ)て学校の窓で想像した種々(さま/″\)の高尚な事を左様(さう)いつ迄も考へて、俗悪な趣味を嫌(いと)ひ避けるやうでは、一日たりとも地方の学校の校長は勤まらない。有力者の家(うち)なぞに、悦(よろこ)びもあり哀(かなし)みもあれば、人と同じやうに言ひ入れて、振舞の座には神主坊主と同席に座(す)ゑられ、すこしは地酒の飲みやうも覚え、土地の言葉も可笑(をか)しくなく使用(つか)へる頃には、自然と学問を忘れて、無教育な人にも馴染(なじ)むものである。賢いと言はれる教育者は、いづれも町会議員なぞに結托して、位置の堅固を計るのが普通だ。
帽子を執(と)つて帰つて行く人々の後に随いて、校長はそこ迄見送つて出た。軈(やが)て玄関で挨拶して別れる時、互に斯ういふ言葉を取替(とりかは)した。
「では、郡視学さんも御誘ひ下すつて、学校から直に御出を。」
「恐れ入りましたなあ。」
(二)
「小使。」
と呼ぶ校長の声は長い廊下に響き渡つた。
生徒はもう帰つて了つた。教場の窓は皆な閉つて、運動場(うんどうば)に庭球(テニス)する人の影も見えない。急に周囲(そこいら)は森閑(しんかん)として、時々職員室に起る笑声の外には、寂(さみ)しい静かな風琴の調(しらべ)がとぎれ/\に二階から聞えて来る位のものであつた。
「へい、何ぞ御用で御座(ござい)ますか。」と小使は上草履を鳴らして駈寄る。
「あ、ちよと、気の毒だがねえ、もう一度役場へ行つて催促して来て呉れないか。金銭(おかね)を受取つたら直に持つて来て呉れ――皆さんも御待兼だ。」
斯う命じて置いて、校長は応接室の戸を開けて入つた。見れば郡視学は巻煙草を燻(ふか)し乍ら、独りで新聞を読み耽(ふけ)つて居る。「失礼しました。」と声を掛けて、其側(そのわき)へ自分の椅子を擦寄せた。
「見たまへ、まあ斯(この)信濃毎日を。」と郡視学は馴々敷(なれ/\しく)、「君が金牌を授与されたといふことから、教育者の亀鑑だといふこと迄、委敷(くはしく)書いて有ますよ。表彰文は全部。それに、履歴までも。」
「いや、今度の受賞は大変な評判になつて了ひました。」と校長も喜ばしさうに、「何処へ行つても直に其話が出る。実に意外な人迄知つて居て、祝つて呉れるやうな訳で。」
「結構です。」
「これといふのも貴方(あなた)の御骨折から――」
「まあ其は言はずに置いて貰ひませう。」と郡視学は対手の言葉を遮(さへぎ)つた。「御互様のことですからな。はゝゝゝゝ。しかし吾党の中から受賞者を出したのは名誉さ。君の御喜悦(およろこび)も御察し申す。」
「勝野君も非常に喜んで呉れましてね。」
「甥(をひ)がですか、あゝ左様(さう)でしたらう。私の許(ところ)へも長い手紙をよこしましたよ。其を読んだ時は、彼男(あのをとこ)の喜ぶ顔付が目に見えるやうでした。実際、甥は貴方の為を思つて居るのですからな。」
郡視学が甥と言つたのは、検定試験を受けて、合格して、此頃新しく赴任して来た正教員。勝野文平といふのが其男の名である。割合に新参の校長は文平を引立てゝ、自分の味方に附けようとしたので。尤(もつと)も席順から言へば、丑松は首座。生徒の人望は反つて校長の上にある程。銀之助とても師範出の若手。いかに校長が文平を贔顧(ひいき)だからと言つて、二人の位置を動かす訳にはいかない。文平は第三席に着けられて出たのであつた。
「それに引換へて瀬川君の冷淡なことは。」と校長は一段声を低くした。
「瀬川君?」と郡視学も眉をひそめる。
「まあ聞いて下さい。万更(まんざら)の他人が受賞したではなし、定めし瀬川君だつても私の為に喜んで居て呉れるだらう、と斯う貴方なぞは御考へでせう。ところが大違ひです。こりやあ、まあ、私が直接(ぢか)に聞いたことでは無いのですけれど――又、私に面と向つて、まさかに其様(そん)なことが言へもしますまいが――といふのは、教育者が金牌なぞを貰つて鬼の首でも取つたやうに思ふのは大間違だと。そりやあ成程(なるほど)人爵の一つでせう。瀬川君なぞに言はせたら価値(ねうち)の無いものでせう。然し金牌は表章(しるし)です。表章が何も難有(ありがた)くは無い。唯其意味に価値(ねうち)がある。はゝゝゝゝ、まあ左様(さう)ぢや有ますまいか。」
「どうしてまた瀬川君は其様(そん)な思想(かんがへ)を持つのだらう。」と郡視学は嘆息した。
「時代から言へば、あるひは吾儕(われ/\)の方が多少|後(おく)れて居るかも知れません。しかし新しいものが必ずしも好いとは限りませんからねえ。」と言つて校長は嘲(あざけ)つたやうに笑つて、「なにしろ、瀬川君や土屋君が彼様(あゝ)して居たんぢや、万事私も遣りにくゝて困る。同志の者ばかり集つて、一致して教育事業をやるんででもなけりやあ、到底面白くはいきませんさ。勝野君が首座ででもあつて呉れると、私も大きに安心なんですけれど。」
「そんなに君が面白くないものなら、何とか其処には方法も有さうなものですがなあ。」と郡視学は意味ありげに相手の顔を眺めた。
「方法とは?」と校長も熱心に。
「他の学校へ移すとか、後釜(あとがま)へは――それ、君の気に入つた人を入れるとかサ。」
「そこです――同じ移すにしても、何か口実が無いと――余程そこは巧(うま)くやらないと――あれで瀬川君はなか/\生徒間に人望が有ますから。」
「さうさ、過失の無いものに向つて、出て行けとも言はれん。はゝゝゝゝ、余りまた細工をしたやうに思はれるのも厭だ。」と言つて郡視学は気を変へて、「まあ私の口から甥を褒めるでも有ませんが、貴方の為には必定(きつと)御役に立つだらうと思ひますよ。瀬川君に比べると、勝るとも劣ることは有るまいといふ積りだ。一体瀬川君は何処が好いんでせう。どうして彼様(あん)な教師に生徒が大騒ぎをするんだか――私なんかには薩張(さつぱり)解らん。他(ひと)の名誉に思ふことを冷笑するなんて、奈何(どう)いふことがそんならば瀬川君なぞには難有(ありがた)いんです。」
「先づ猪子蓮太郎あたりの思想でせうよ。」
「むゝ――あの穢多か。」と郡視学は顔を渋(しか)める。
「あゝ。」と校長も深く歎息した。「猪子のやうな男の書いたものが若いものに読まれるかと思へば恐しい。不健全、不健全――今日の新しい出版物は皆な青年の身をあやまる原因(もと)なんです。その為に畸形(かたは)の人間が出来て見たり、狂見(きちがひみ)たやうな男が飛出したりする。あゝ、あゝ、今の青年の思想ばかりは奈何(どう)しても吾儕(われ/\)に解りません。」
(三)
不図応接室の戸を叩(たゝ)く音がした。急に二人は口を噤(つぐ)んだ。復(ま)た叩く。「お入り」と声をかけて、校長は倚子(いす)を離れた。郡視学も振返つて、戸を開けに行く校長の後姿を眺め乍ら、誰、町会議員からの使ででもあるか、斯う考へて、入つて来る人の様子を見ると――思ひの外な一人の教師、つゞいてあらはれたのが丑松であつた。校長は思はず郡視学と顔を見合せたのである。
「校長先生、何か御用談中ぢや有ませんか。」
と丑松は尋ねた。校長は一寸|微笑(ほゝゑ)んで、
「いえ、なに、別に用談でも有ません――今二人で御噂をして居たところです。」
「実はこの風間さんですが、是非郡視学さんに御目に懸つて、直接に御願ひしたいことがあるさうですから。」
斯(か)う言つて、丑松は一緒に来た同僚を薦(すゝ)めるやうにした。
風間|敬之進(けいのしん)は、時世の為に置去にされた、老朽な小学教員の一人。丑松や銀之助などの若手に比べると、阿爺(おやぢ)にしてもよい程の年頃である。黒木綿の紋付羽織、垢染(あかじ)みた着物、粗末な小倉の袴を着けて、兢々(おづ/\)郡視学の前に進んだ。下り坂の人は気の弱いもので、すこし郡視学に冷酷な態度(やうす)が顕(あらは)れると、もう妙に固くなつて思ふことを言ひかねる。
「何ですか、私に用事があると仰(おつしや)るのは。」斯う催促して、郡視学は威丈高(ゐたけだか)になつた。あまり敬之進が躊躇(ぐづ/\)して居るので、終(しまひ)には郡視学も気を苛(いら)つて、時計を出して見たり、靴を鳴らして見たりして、
「奈何(どう)いふ御話ですか。仰つて見て下さらなければ解りませんなあ。」
もどかしく思ひ乍ら椅子を離れて立上るのであつた。敬之進は猶々(なほ/\)言ひかねるといふ様子で、
「実は――すこし御願ひしたい件(こと)が有まして。」
「ふむ。」
復(ま)た室の内は寂(しん)として暫時(しばらく)声がなくなつた。首を垂れ乍ら少許(すこし)慄(ふる)へて居る敬之進を見ると、丑松は哀憐(あはれみ)の心を起さずに居られなかつた。郡視学は最早(もう)堪(こら)へかねるといふ風で、
「私は是で多忙(いそが)しい身体です。何か仰ることがあるなら、ずん/\仰つて下さい。」
丑松は見るに見かねた。
「風間さん、其様(そんな)に遠慮しない方が可(いゝ)ぢや有ませんか。貴方は退職後のことを御相談して頂きたいといふんでしたらう。」斯う言つて、軈(やが)て郡視学の方へ向いて、「私から伺ひます。まあ、風間さんのやうに退職となつた場合には、恩給を受けさして頂く訳に参りませんものでせうか。」
「無論です、そんなことは。」と郡視学は冷かに言放つた。「小学校令の施行規則を出して御覧なさい。」
「そりやあ規則は規則ですけれど。」
「規則に無いことが出来るものですか。身体が衰弱して、職務を執るに堪へないから退職する――其を是方(こちら)で止める権利は有ません。然し、恩給を受けられるといふ人は、満十五ヶ年以上在職したものに限つた話です。風間さんのは十四ヶ年と六ヶ月にしかならない。」
「でも有ませうが、僅か半歳のことで教育者を一人御救ひ下さるとしたら。」
「其様(そん)なことを言つて見た日にやあ際涯(さいげん)が無い。何ぞと言ふと風間さんは直に家の事情、家の事情だ。誰だつて家の事情のないものはありやしません。まあ、恩給のことなぞは絶念(あきら)めて、折角(せつかく)御静養なさるが可(いゝ)でせう。」
斯う撥付(はねつ)けられては最早(もう)取付く島が無いのであつた。丑松は気の毒さうに敬之進の横顔を熟視(みまも)つて、
「どうです風間さん、貴方からも御願ひして見ては。」
「いえ、只今の御話を伺へば――別に――私から御願する迄も有ません。御言葉に従つて、絶念(あきら)めるより外は無いと思ひます。」
其時小使が重たさうな風呂敷包を提げて役場から帰つて来た。斯(こ)のしらせを機(しほ)に、郡視学は帽子を執つて、校長に送られて出た。
(四)
男女の教員は広い職員室に集つて居た。其日は土曜日で、月給取の身にとつては反つて翌(あす)の日曜よりも楽しく思はれたのである。茲(こゝ)に集る人々の多くは、日々(にち/\)の長い勤務(つとめ)と、多数の生徒の取扱とに疲(くたぶ)れて、さして教育の事業に興味を感ずるでもなかつた。中には児童を忌み嫌ふやうなものもあつた。三種講習を済まして、及第して、漸(やうや)く煙草のむことを覚えた程の年若な準教員なぞは、まだ前途(さき)が長いところからして楽しさうにも見えるけれど、既に老朽と言はれて髭ばかり厳(いかめ)しく生えた手合なぞは、述懐したり、物羨みしたりして、外目(よそめ)にも可傷(いたは)しく思ひやられる。一月の骨折の報酬(むくい)を酒に代へる為、今茲に待つて居るやうな連中もあるのであつた。
丑松は敬之進と一緒に職員室へ行かうとして、廊下のところで小使に出逢つた。
「風間先生、笹屋の亭主が御目に懸りたいと言つて、先刻(さつき)から来て待つて居りやす。」
不意を打たれて、敬之進はさも苦々しさうに笑つた。
「何? 笹屋の亭主?」
笹屋とは飯山の町はづれにある飲食店、農夫の為に地酒を暖めるやうな家(うち)で、老朽な敬之進が浮世を忘れる隠れ家といふことは、疾(とく)に丑松も承知して居た。けふ月給の渡る日と聞いて、酒の貸の催促に来たか、とは敬之進の寂しい苦笑(にがわらひ)で知れる。「ちよツ、学校まで取りに来なくてもよささうなものだ。」と敬之進は独語(ひとりごと)のやうに言つた。「いゝから待たして置け。」と小使に言含めて、軈(やが)て二人して職員室へと急いだのである。
十月下旬の日の光は玻璃窓(ガラスまど)から射入つて、煙草の烟(けぶり)に交る室内の空気を明く見せた。彼処(あそこ)の掲示板の下に一群(ひとむれ)、是処の時間表の側(わき)に一団(ひとかたまり)、いづれも口から泡を飛ばして言ひのゝしつて居る。丑松は室の入口に立つて眺めた。見れば郡視学の甥(をひ)といふ勝野文平、灰色の壁に倚凭(よりかゝ)つて、銀之助と二人並んで話して居る様子。新しい艶のある洋服を着て、襟飾(えりかざり)の好みも煩(うるさ)くなく、すべて適(ふさ)はしい風俗の中(うち)に、人を吸引(ひきつ)ける敏捷(すばしこ)いところがあつた。美しく撫付(なでつ)けた髪の色の黒さ。頬の若々しさ。それに是男の鋭い眼付は絶えず物を穿鑿(せんさく)するやうで、一時(いつとき)も静息(やす)んでは居られないかのやう。これを銀之助の五分刈頭、顔の色赤々として、血肥りして、形(なり)も振(ふり)も関はず腕捲(うでまく)りし乍ら、談(はな)したり笑つたりする肌合に比べたら、其二人の相違は奈何(どんな)であらう。物見高い女教師連の視線はいづれも文平の身に集つた。
丑松は文平の瀟洒(こざつぱり)とした風采(なりふり)を見て、別に其を羨む気にもならなかつた。たゞ気懸りなのは、彼(あの)新教員が自分と同じ地方から来たといふことである。小諸(こもろ)辺の地理にも委敷(くはしい)様子から押して考へると、何時(いつ)何処で瀬川の家の話を聞かまいものでもなし、広いやうで狭い世間の悲しさ、あの「お頭」は今これ/\だと言ふ人でもあつた日には――無論今となつて其様(そん)なことを言ふものも有るまいが――まあ万々一――それこそ彼(あの)教員も聞捨てには為(し)まい。斯う丑松は猜疑深(うたがひぶか)く推量して、何となく油断がならないやうに思ふのであつた。不安な丑松の眼(まなこ)には種々(さま/″\)な心配の種が映つて来たのである。
軈て校長は役場から来た金の調べを終つた。それ/″\分配するばかりになつたので、丑松は校長を助けて、人々の机の上に十月分の俸給を載せてやつた。
「土屋君、さあ御土産。」
と銀之助の前にも、五十銭づゝ封じた銅貨を幾本か並べて、外に銀貨の包と紙幣(さつ)とを添へて出した。
「おや/\、銅貨を沢山呉れるねえ。」と銀之助は笑つて、「斯様(こんな)にあつては持上がりさうも無いぞ。はゝゝゝゝ。時に、瀬川君、けふは御引越が出来ますね。」
丑松は笑つて答へなかつた。傍(そば)に居た文平は引取つて、
「どちらへか御引越ですか。」
「瀬川君は今夜から精進(しやうじん)料理さ。」
「はゝゝゝゝ。」
と笑ひ葬つて、丑松は素早く自分の机の方へ行つて了つた。
毎月のこととは言ひ乍ら、俸給を受取つた時の人々の顔付は又格別であつた。実に男女の教員の身にとつては、労働(はたら)いて得た収穫を眺めた時ほど愉快に感ずることは無いのである。ある人は紙の袋に封じた儘(まゝ)の銀貨を鳴らして見る、ある人は風呂敷に包んで重たさうに提げて見る、ある女教師は又、海老茶袴(えびちやばかま)の紐(ひも)の上から撫(な)でゝ、人知れず微笑んで見るのであつた。急に校長は椅子を離れて、用事ありげに立上つた。何事かと人々は聞耳を立てる。校長は一つ咳払ひして、さて器械的な改つた調子で、敬之進が退職の件(こと)を報告した。就いては来る十一月の三日、天長節の式の済んだ後(あと)、この老功な教育者の為に茶話会を開きたいと言出した。賛成の声は起る。敬之進はすつくと立つて、一礼して、軈(やが)て拍子の抜けたやうに元の席へ復(かへ)つた。
一同帰り仕度を始めたのは間も無くであつた。男女の教員が敬之進を取囲(とりま)いて、いろ/\言ひ慰めて居る間に、ついと丑松は風呂敷包を提(ひつさ)げて出た。銀之助が友達を尋(さが)して歩いた時は、職員室から廊下、廊下から応接室、小使部屋、昇降口まで来て見ても、もう何処にも丑松の姿は見えなかつたのである。
(五)
丑松は大急ぎで下宿へ帰つた。月給を受取つて来て妙に気強いやうな心地(こゝろもち)にもなつた。昨日は湯にも入らず、煙草も買はず、早く蓮華寺へ、と思ひあせるばかりで、暗い一日(ひとひ)を過したのである。実際、懐中(ふところ)に一文の小使もなくて、笑ふといふ気には誰がならう。悉皆(すつかり)下宿の払ひを済まし、車さへ来れば直に出掛けられるばかりに用意して、さて巻煙草に火を点けた時は、言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであつた。
引越は成るべく目立たないやうに、といふ考へであつた。気掛りなは下宿の主婦(かみさん)の思惑(おもはく)で――まあ、この突然(だしぬけ)な転宿(やどがへ)を何と思つて見て居るだらう。何か彼(あの)放逐された大尽と自分との間には一種の関係があつて、それで面白くなくて引越すとでも思はれたら奈何(どう)しよう。あの愚痴な性質から、根彫葉刻(ねほりはほり)聞咎(きゝとが)めて、何故(なぜ)引越す、斯う聞かれたら何と返事をしたものであらう。そこがそれ、引越さなくても可(いゝ)ものを無理に引越すのであるから、何となく妙に気が咎(とが)める。下手なことを言出せば反つて藪蛇だ。「都合があるから引越す。」理由は其で沢山だ。斯う種々(いろ/\)に考へて、疑つたり恐れたりして見たが、多くの客を相手にする主婦の様子は左様(さう)心配した程でも無い。さうかうする中に、頼んで置いた車も来る。荷物と言へば、本箱、机、柳行李(やなぎがうり)、それに蒲団の包があるだけで、道具は一切一台の車で間に合つた。丑松は洋燈(ランプ)を手に持つて、主婦の声に送られて出た。
斯うして車の後に随(つ)いて、とぼ/\と二三町も歩いて来たかと思はれる頃、今迄の下宿の方を一寸振返つて見た時は、思はずホツと深い溜息を吐(つ)いた。道路(みち)は悪し、車は遅し、丑松は静かに一生の変遷(うつりかはり)を考へて、自分で自分の運命を憐み乍ら歩いた。寂しいとも、悲しいとも、可笑(をか)しいとも、何ともかとも名の附けやうのない心地(こゝろもち)は烈しく胸の中を往来し始める。追憶(おもひで)の情は身に迫つて、無限の感慨を起させるのであつた。それは十一月の近(ちかづ)いたことを思はせるやうな蕭条(せうでう)とした日で、湿つた秋の空気が薄い烟(けぶり)のやうに町々を引包んで居る。路傍(みちばた)に黄ばんだ柳の葉はぱら/\と地に落ちた。
途中で紙の旗を押立てた少年の一群(ひとむれ)に出遇つた。音楽隊の物真似、唱歌の勇しさ、笛太鼓も入乱れ、足拍子揃へて面白可笑しく歌つて来るのは何処の家(うち)の子か――あゝ尋常科の生徒だ。見れば其後に随いて、少年と一緒に歌ひ乍ら、人目も関はずやつて来る上機嫌の酔漢(さけよひ)がある。蹣跚(よろ/\)とした足元で直に退職の敬之進と知れた。
「瀬川君、一寸まあ見て呉れ給へ――是が我輩の音楽隊さ。」
と指(ゆびさ)し乍ら熟柿(じゆくし)臭(くさ)い呼吸(いき)を吹いた。敬之進は何処かで飲んで来たものと見える。指された少年の群は一度にどつと声を揚げて、自分達の可傷(あはれ)な先生を笑つた。
「始めえ――」敬之進は戯れに指揮するやうな調子で言つた。「諸君。まあ聞き給へ。今日(こんにち)迄我輩は諸君の先生だつた。明日(あす)からは最早(もう)諸君の先生ぢや無い。そのかはり、諸君の音楽隊の指揮をしてやる。よしか。解つたかね。あはゝゝゝ。」と笑つたかと思ふと、熱い涙(なんだ)は其顔を伝つて流れ落ちた。
無邪気な音楽隊は、一斉に歓呼を揚げて、足拍子揃へて通過ぎた。敬之進は何か思出したやうに、熟(じつ)と其少年の群を見送つて居たが、軈(やが)て心付いて歩き初めた。
「まあ、君と一緒に其処迄行かう。」と敬之進は身を慄(ふる)はせ乍ら、「時に瀬川君、まだ斯の通り日も暮れないのに、洋燈(ランプ)を持つて歩くとは奈何(どう)いふ訳だい。」
「私ですか。」と丑松は笑つて、「私は今引越をするところです。」
「あゝ引越か。それで君は何処へ引越すのかね。」
「蓮華寺へ。」
蓮華寺と聞いて、急に敬之進は無言になつて了つた。暫時(しばらく)の間、二人は互に別々のことを考へ乍ら歩いた。
「あゝ。」と敬之進はまた始めた。「実に瀬川君なぞは羨ましいよ。だつて君、左様(さう)ぢやないか。君なぞは未だ若いんだもの。前途多望とは君等のことだ。何卒(どうか)して我輩も、もう一度君等のやうに若くなつて見たいなあ。あゝ、人間も我輩のやうに老込んで了つては駄目だねえ。」
(六)
車は遅かつた。丑松敬之進の二人は互に並んで話し/\随いて行つた。とある町へ差掛かつた頃、急に車夫は車を停めて、冷々(ひや/″\)とした空気を呼吸し乍(なが)ら、額に流れる汗を押拭つた。見れば町の空は灰色の水蒸気に包まれて了(しま)つて、僅に西の一方に黄な光が深く輝いて居る。いつもより早く日は暮れるらしい。遽(にはか)に道路(みち)も薄暗くなつた。まだ灯(あかり)を点(つ)ける時刻でもあるまいに、もう一軒点けた家(うち)さへある。其軒先には三浦屋の文字が明白(あり/\)と読まれるのであつた。
盛な歓楽の声は二階に湧上つて、屋外(そと)に居る二人の心に一層の不愉快と寂寥(さびしさ)とを添へた。丁度人々は酒宴(さかもり)の最中。灯影(ほかげ)花やかに映つて歌舞の巷(ちまた)とは知れた。三味(しやみ)は幾挺かおもしろい音(ね)を合せて、障子に響いて媚(こ)びるやうに聞える。急に勇しい太鼓も入つた。時々唄に交つて叫ぶやうに聞えるは、囃方(はやしかた)の娘の声であらう。これも亦(また)、招(よ)ばれて行く妓(こ)と見え、箱屋一人連れ、褄(つま)高く取つて、いそ/\と二人の前を通過ぎた。
客の笑声は手に取るやうに聞えた。其中には校長や郡視学の声も聞えた。人々は飲んだり食つたりして時の移るのも知らないやうな様子。
「瀬川君、大層陽気ぢやないか。」と敬之進は声を潜(ひそ)めて、「や、大一座(おほいちざ)だ。一体|今宵(こんや)は何があるんだらう。」
「まだ風間さんには解らないんですか。」と丑松も聞耳を立て乍ら言つた。
「解らないさ。だつて我輩は何(なん)にも知らないんだもの。」
「ホラ、校長先生の御祝でさあね。」
「むゝ――むゝ――むゝ、左様(さう)ですかい。」
一曲の唄が済んで、盛な拍手が起つた。また盃の交換(やりとり)が始つたらしい。若い女の声で、「姉さん、お銚子」などと呼び騒ぐのを聞捨てゝ、丑松敬之進の二人は三浦屋の側(わき)を横ぎつた。
車は知らない中に前(さき)へ行つて了つた。次第に歌舞の巷を離れると、太鼓の音も遠く聞えなくなる。敬之進は嘆息したり、沈吟したりして、時々絶望した人のやうに唐突(だしぬけ)に大きな声を出して笑つた。「浮世(ふせい)夢のごとし」――それに勝手な節を付けて、低声に長く吟じた時は、聞いて居る丑松も沈んで了つて、妙に悲しいやうな、可痛(いたま)しいやうな心地(こゝろもち)になつた。
「吟声|調(てう)を成さず――あゝ、あゝ、折角(せつかく)の酒も醒めて了つた。」
と敬之進は嘆息して、獣の呻吟(うな)るやうな声を出し乍ら歩く。丑松も憐んで、軈て斯う尋ねて見た。
「風間さん、貴方は何処迄行くんですか。」
「我輩かね。我輩は君を送つて、蓮華寺の門前まで行くのさ。」
「門前迄?」
「何故(なぜ)我輩が門前迄送つて行くのか、其は君には解るまい。しかし其を今君に説明しようとも思はないのさ。御互ひに長く顔を見合せて居ても、斯うして親(ちか)しくするのは昨今だ。まあ、いつか一度、君とゆつくり話して見たいもんだねえ。」
やがて蓮華寺の山門の前まで来ると、ぷいと敬之進は別れて行つて了つた。奥様は蔵裏(くり)の外まで出迎へて喜ぶ。車はもうとつくに。荷物は寺男の庄太が二階の部屋へ持運んで呉れた。台所で焼く魚のにほひは、蔵裏迄も通つて来て、香の煙に交つて、住慣(すみな)れない丑松の心に一種異様の感想(かんじ)を与へる。仏に物を供へる為か、本堂の方へ通ふ子坊主もあつた。二階の部屋も窓の障子も新しく張替へて、前に見たよりはずつと心地(こゝろもち)が好い。薬湯と言つて、大根の乾葉(ひば)を入れた風呂なども立てゝ呉れる。新しい膳に向つて、うまさうな味噌汁の香(にほひ)を嗅いで見た時は、第一この寂しげな精舎(しやうじや)の古壁の内に意外な家庭の温暖(あたゝかさ)を看付(みつ)けたのであつた。 
 
第参章

 

(一)
もとより銀之助は丑松の素性を知る筈がない。二人は長野の師範校に居る頃から、極く好く気性の合つた友達で、丑松が佐久小県(さくちひさがた)あたりの灰色の景色を説き出すと、銀之助は諏訪湖(すはこ)の畔(ほとり)の生れ故郷の物語を始める、丑松が好きな歴史の話をすれば、銀之助は植物採集の興味を、と言つたやうな風に、互ひに語り合つた寄宿舎の窓は二人の心を結びつけた。同窓の記憶はいつまでも若く青々として居る。銀之助は丑松のことを思ふ度に昔を思出して、何となく時の変遷(うつりかはり)を忍ばずには居られなかつた。同じ寄宿舎の食堂に同じ引割飯の香(にほひ)を嗅いだ其友達に思ひ比べると、実に丑松の様子の変つて来たことは。あの憂欝(いううつ)――丑松が以前の快活な性質を失つた証拠は、眼付で解る、歩き方で解る、談話(はなし)をする声でも解る。一体、何が原因(もと)で、あんなに深く沈んで行くのだらう。とんと銀之助には合点が行かない。「何かある――必ず何か訳がある。」斯う考へて、どうかして友達に忠告したいと思ふのであつた。
丑松が蓮華寺へ引越した翌日(あくるひ)、丁度日曜、午後から銀之助は尋ねて行つた。途中で文平と一緒になつて、二人して苔蒸(こけむ)した石の階段を上ると、咲残る秋草の径(みち)の突当つたところに本堂、左は鐘楼、右が蔵裏であつた。六角形に出来た経堂の建築物(たてもの)もあつて、勾配のついた瓦屋根や、大陸風の柱や、白壁や、すべて過去の壮大と衰頽(すゐたい)とを語るかのやうに見える。黄ばんだ銀杏(いてふ)の樹の下に腰を曲(こゞ)め乍ら、余念もなく落葉を掃いて居たのは、寺男の庄太。「瀬川君は居りますか。」と言はれて、馬鹿丁寧な挨拶。やがて庄太は箒(はうき)をそこに打捨てゝ置いて、跣足(すあし)の儘(まゝ)で蔵裏の方へ見に行つた。
急に丑松の声がした。あふむいて見ると、銀杏(いてふ)に近い二階の窓の障子を開けて、顔を差出して呼ぶのであつた。
「まあ、上りたまへ。」
と復た呼んだ。
(二)
銀之助文平の二人は丑松に導かれて暗い楼梯(はしごだん)を上つて行つた。秋の日は銀杏の葉を通して、部屋の内へ射しこんで居たので、変色した壁紙、掛けてある軸、床の間に置並べた書物(ほん)と雑誌の類(たぐひ)まで、すべて黄に反射して見える。冷々(ひや/″\)とした空気は窓から入つて来て、斯の古い僧坊の内にも何となく涼爽(さはやか)な思を送るのであつた。机の上には例の「懴悔録」、読伏せて置いた其本に気がついたと見え、急に丑松は片隅へ押隠すやうにして、白い毛布を座蒲団がはりに出して薦(すゝ)めた。
「よく君は引越して歩く人さ。」と銀之助は身辺(あたり)を眺め廻し乍ら言つた。「一度瀬川君のやうに引越す癖が着くと、何度でも引越したくなるものと見える。まあ、部屋の具合なぞは、先の下宿の方が好ささうぢやないか。」
「何故(なぜ)御引越になつたんですか。」と文平も尋ねて見る。
「どうも彼処(あそこ)の家(うち)は喧(やかま)しくつて――」斯(か)う答へて丑松は平気を装はうとした。争はれないもので、困つたといふ気色(けしき)はもう顔に表れたのである。
「そりやあ寺の方が静は静だ。」と銀之助は一向頓着なく、「何ださうだねえ、先の下宿では穢多が逐出(おひだ)されたさうだねえ。」
「さう/\、左様(さう)いふ話ですなあ。」と文平も相槌(あひづち)を打つた。
「だから僕は斯う思つたのさ。」と銀之助は引取つて、「何か其様(そん)な一寸したつまらん事にでも感じて、それで彼(あの)下宿が嫌に成つたんぢやないかと。」
「どうして?」と丑松は問ひ反した。
「そこがそれ、君と僕と違ふところさ。」と銀之助は笑ひ乍ら、「実は此頃(こなひだ)或雑誌を読んだところが、其中に精神病患者のことが書いてあつた。斯うさ。或人が其男の住居(すまひ)の側(わき)に猫を捨てた。さあ、其猫の捨ててあつたのが気になつて、妻君にも相談しないで、其日の中にぷいと他へ引越して了つた。斯ういふ病的な頭脳(あたま)の人になると、捨てられた猫を見たのが移転(ひつこし)の動機になるなぞは珍しくも無い、といふ話があつたのさ。はゝゝゝゝ――僕は瀬川君を精神病患者だと言ふ訳では無いよ。しかし君の様子を見るのに、何処か身体の具合でも悪いやうだ。まあ、君は左様(さう)は思はないかね。だから穢多の逐出(おひだ)された話を聞くと、直に僕は彼(あ)の猫のことを思出したのさ。それで君が引越したくなつたのかと思つたのさ。」
「馬鹿なことを言ひたまへ。」と丑松は反返(そりかへ)つて笑つた。笑ふには笑つたが、然しそれは可笑(をかし)くて笑つたやうにも聞えなかつたのである。
「いや、戯言(じようだん)ぢやない。」と銀之助は丑松の顔を熟視(みまも)つた。「実際、君の顔色は好くない――診(み)て貰つては奈何(どう)かね。」
「僕は君、其様(そん)な病人ぢや無いよ。」と丑松は微笑(ほゝゑ)み乍ら答へた。
「しかし。」と銀之助は真面目(まじめ)になつて、「自分で知らないで居る病人はいくらも有る。君の身体は変調を来して居るに相違ない。夜寝られないなんて言ふところを見ても、どうしても生理的に異常がある――まあ僕は左様(さう)見た。」
「左様(さう)かねえ、左様見えるかねえ。」
「見えるともサ。妄想(まうさう)、妄想――今の患者の眼に映つた猫も、君の眼に映つた新平民も、皆(みん)な衰弱した神経の見せる幻像(まぼろし)さ。猫が捨てられたつて何だ――下らない。穢多が逐出(おひだ)されたつて何だ――当然(あたりまへ)ぢや無いか。」
「だから土屋君は困るよ。」と丑松は対手(あひて)の言葉を遮(さへぎ)つた。「何時(いつ)でも君は早呑込だ。自分で斯うだと決めて了ふと、もう他の事は耳に入らないんだから。」
「すこし左様(さう)いふ気味も有ますなあ。」と文平は如才なく。
「だつて引越し方があんまり唐突(だしぬけ)だからさ。」と言つて、銀之助は気を変へて、「しかし、寺の方が反つて勉強は出来るだらう。」
「以前(まへ)から僕は寺の生活といふものに興味を持つて居た。」と丑松は言出した。丁度下女の袈裟治(けさぢ)(北信に多くある女の名)が湯沸(ゆわかし)を持つて入つて来た。
(三)
信州人ほど茶を嗜(たしな)む手合も鮮少(すくな)からう。斯(か)ういふ飲料(のみもの)を好むのは寒い山国に住む人々の性来の特色で、日に四五回づゝ集つて飲むことを楽みにする家族が多いのである。丑松も矢張(やはり)茶好の仲間には泄(も)れなかつた。茶器を引寄せ、無造作に入れて、濃く熱いやつを二人の客にも勧め、自分も亦茶椀を口唇(くちびる)に押宛(おしあ)て乍(なが)ら、香(かう)ばしく焙(あぶ)られた茶の葉のにほひを嗅いで見ると、急に気分が清々する。まあ蘇生(いきかへ)つたやうな心地(こゝろもち)になる。やがて丑松は茶椀を下に置いて、寺住の新しい経験を語り始めた。
「聞いて呉れ給へ。昨日の夕方、僕はこの寺の風呂に入つて見た。一日働いて疲労(くたぶ)れて居るところだつたから、入つた心地(こゝろもち)は格別さ。明窓(あかりまど)の障子を開けて見ると紫※[くさかんむり/宛](しをん)の花なぞが咲いてるぢやないか。其時僕は左様(さう)思つたねえ。風呂に入り乍ら蟋蟀(きり/″\す)を聴くなんて、成程(なるほど)寺らしい趣味だと思つたねえ。今迄の下宿とは全然(まるで)様子が違ふ――まあ僕は自分の家(うち)へでも帰つたやうな心地(こゝろもち)がしたよ。」
「左様(さう)さなあ、普通の下宿ほど無趣味なものは無いからなあ。」と銀之助は新しい巻煙草に火を点(つ)けた。
「それから君、種々(いろ/\)なことがある。」と丑松は言葉を継いで、「第一、鼠の多いには僕も驚いた。」
「鼠?」と文平も膝を進める。
「昨夜(ゆうべ)は僕の枕頭(まくらもと)へも来た。慣(な)れなければ、鼠だつて気味が悪いぢやないか。あまり不思議だから、今朝其話をしたら、奥様の言草が面白い。猫を飼つて鼠を捕らせるよりか、自然に任せて養つてやるのが慈悲だ。なあに、食物(くひもの)さへ宛行(あてが)つて遣(や)れば、其様(そんな)に悪戯(いたづら)する動物ぢや無い。吾寺(うち)の鼠は温順(おとな)しいから御覧なさいツて。成程|左様(さう)言はれて見ると、少許(すこし)も人を懼(おそ)れない。白昼(ひるま)ですら出て遊(あす)んで居る。はゝゝゝゝ、寺の内(なか)の光景(けしき)は違つたものだと思つたよ。」
「そいつは妙だ。」と銀之助は笑つて、「余程奥様といふ人は変つた婦人(をんな)と見えるね。」
「なに、それほど変つても居ないが、普通の人よりは宗教的なところがあるさ。さうかと思ふと、吾儕(わたしども)だつて高砂(たかさご)で一緒になつたんです、なんて、其様(そん)なことを言出す。だから、尼僧(あま)ともつかず、大黒(だいこく)ともつかず、と言つて普通の家(うち)の細君でもなし――まあ、門徒寺(もんとでら)に日を送る女といふものは僕も初めて見た。」
「外にはどんな人が居るのかい。」斯う銀之助は尋ねた。
「子坊主が一人。下女。それに庄太といふ寺男。ホラ、君等の入つて来た時、庭を掃いて居た男があつたらう。彼(あれ)が左様(さう)だあね。誰も彼男(あのをとこ)を庄太と言ふものは無い――皆(みん)な「庄馬鹿」と言つてる。日に五度(ごたび)づつ、払暁(あけがた)、朝八時、十二時、入相(いりあひ)、夜の十時、これだけの鐘を撞(つ)くのが彼男(あのをとこ)の勤務(つとめ)なんださうだ。」
「それから、あの何は。住職は。」とまた銀之助が聞いた。
「住職は今留守さ。」
斯う丑松は見たり聞いたりしたことを取交ぜて話したのであつた。終(しまひ)に、敬之進の娘で、是寺へ貰はれて来て居るといふ、そのお志保の話も出た。
「へえ、風間さんの娘なんですか。」と文平は巻煙草の灰を落し乍ら言つた。「此頃(こなひだ)一度校友会に出て来た――ホラ、あの人でせう?」
「さう/\。」と丑松も思出したやうに、「たしか僕等の来る前の年に卒業して出た人です。土屋君、左様(さう)だつたねえ。」
「たしか左様だ。」
(四)
其日蓮華寺の台所では、先住の命日と言つて、精進物(しやうじんもの)を作るので多忙(いそが)しかつた。月々の持斎(ぢさい)には経を上げ膳を出す習慣(ならはし)であるが、殊に其日は三十三回忌とやらで、好物の栗飯を炊(た)いて、仏にも供へ、下宿人にも振舞ひたいと言ふ。寺内の若僧の妻までも来て手伝つた。用意の調(とゝの)つた頃、奥様は台所を他(ひと)に任せて置いて、丑松の部屋へ上つて来た。丑松も、銀之助も、文平も、この話好きな奥様の目には、三人の子のやうに映つたのである。昔者とは言ひ乍ら、書生の談話(はなし)も解つて、よく種々(いろ/\)なことを知つて居た。時々|宗教(をしへ)の話なぞも持出した。奥様はまた十二月二十七日の御週忌の光景(ありさま)を語り聞かせた。其冬の日は男女(をとこをんな)の檀徒が仏の前に集つて、記念の一夜を送るといふ昔からの習慣を語り聞かせた。説教もあり、読経もあり、御伝抄(おでんせう)の朗読もあり、十二時には男女一同御夜食の膳に就くなぞ、其御通夜の儀式のさま/″\を語り聞かせた。
「なむあみだぶ。」
と奥様は独語のやうに繰返して、やがて敬之進の退職のことを尋ねる。
奥様に言はせると、今の住職が敬之進の為に尽したことは一通りで無い。あの酒を断つたらば、とは克(よ)く住職の言ふことで、禁酒の証文を入れる迄に敬之進が後悔する時はあつても、また/\縒(より)が元へ戻つて了ふ。飲めば窮(こま)るといふことは知りつゝ、どうしても持つた病には勝てないらしい。その為に敷居が高くなつて、今では寺へも来られないやうな仕末。あの不幸(ふしあはせ)な父親の為には、どんなにかお志保も泣いて居るとのことであつた。
「左様(さう)ですか――いよ/\退職になりましたか。」
斯う言つて奥様は嘆息した。
「道理で。」と丑松は思出したやうに、「昨日私が是方(こちら)へ引越して来る時に、風間さんは門の前まで随いて来ましたよ。何故斯うして門の前まで一緒に来たか、それは今説明しようとも思はない、なんて、左様(さう)言つて、それからぷいと別れて行つて了ひました。随分酔つて居ましたツけ。」
「へえ、吾寺(うち)の前まで? 酔つて居ても娘のことは忘れないんでせうねえ――まあ、それが親子の情ですから。」
と奥様は復(ま)た深い溜息を吐(つ)いた。
斯ういふ談話(はなし)に妨(さまた)げられて、銀之助は思ふことを尽さなかつた。折角(せつかく)言ふ積りで来て、それを尽さずに帰るのも残念だし、栗飯が出来たからと引留められもするし、夜にでもなつたらば、と斯う考へて、心の中では友達のことばかり案じつゞけて居た。
夕飯は例になく蔵裏(くり)の下座敷であつた。宵の勤行(おつとめ)も済んだと見えて、給仕は白い着物を着た子坊主がして呉れた。五分心(ごぶしん)の灯は香の煙に交る夜の空気を照らして、高い天井の下をおもしろく見せる。古壁に懸けてある黄な法衣(ころも)は多分住職の着るものであらう。変つた室内の光景(ありさま)は三人の注意を引いた。就中(わけても)、銀之助は克(よ)く笑つて、其高い声が台所迄も響くので、奥様は若い人達の話を聞かずに居られなかつた。終(しまひ)にはお志保までも来て、奥様の傍に倚添(よりそ)ひ乍ら聞いた。
急に文平は快活らしくなつた。妙に婦人の居る席では熱心になるのが是男の性分で、二階に三人で話した時から見ると、この下座敷へ来てからは声の調子が違つた。天性|愛嬌(あいけう)のある上に、清(すゞ)しい艶のある眸(ひとみ)を輝かし乍ら、興に乗つてよもやまの話を初めた時は、確に面白い人だと思はせた。文平はまた、時々お志保の方を注意して見た。お志保は着物の前を掻合せたり、垂れ下る髪の毛を撫付けたりして、人々の物語に耳を傾けて居たのである。
銀之助はそんなことに頓着なしで、軈(やが)て思出したやうに、
「たしか吾儕(わたしども)の来る前の年でしたなあ、貴方等(あなたがた)の卒業は。」
斯う言つてお志保の顔を眺めた。奥様も娘の方へ振向いた。
「はあ。」と答へた時は若々しい血潮が遽(にはか)にお志保の頬に上つた。そのすこし羞恥(はぢ)を含んだ色は一層(ひとしほ)容貌(おもばせ)を娘らしくして見せた。
「卒業生の写真が学校に有ますがね、」と銀之助は笑つて、「彼頃(あのころ)から見ると、皆(みん)な立派な姉さんに成りましたなあ――どうして吾儕(わたしども)が来た時分には、まだ鼻洟(はな)を垂らしてるやうな連中もあつたツけが。」
楽しい笑声は座敷の内に溢(あふ)れた。お志保は紅(あか)くなつた。斯ういふ間にも、独り丑松は洋燈(ランプ)の火影(ほかげ)に横になつて、何か深く物を考へて居たのである。
(五)
「ねえ、奥様。」と銀之助が言つた。「瀬川君は非常に沈んで居ますねえ。」
「左様(さやう)さ――」と奥様は小首を傾(かし)げる。
「一昨々日(さきをとゝひ)、」と銀之助は丑松の方を見て、「君が斯のお寺へ部屋を捜しに来た日だ――ホラ、僕が散歩してると、丁度本町で君に遭遇(でつくは)したらう。彼時(あのとき)の君の考へ込んで居る様子と言つたら――僕は暫時(しばらく)そこに突立つて、君の後姿を見送つて、何とも言ひ様の無い心地(こゝろもち)がしたねえ。君は猪子先生の「懴悔録」を持つて居た。其時僕は左様(さう)思つた。あゝ、また彼(あ)の先生の書いたものなぞを読んで、神経を痛めなければ可(いゝ)がなあと。彼様(あゝ)いふ本を読むのは、君、可くないよ。」
「何故?」と丑松は身を起した。
「だつて、君、あまり感化を受けるのは可くないからサ。」
「感化を受けたつても可いぢやないか。」
「そりやあ好い感化なら可いけれども、悪い感化だから困る。見たまへ、君の性質が変つて来たのは、彼の先生のものを読み出してからだ。猪子先生は穢多だから、彼様(あゝ)いふ風に考へるのも無理は無い。普通の人間に生れたものが、なにも彼(あ)の真似を為なくてもよからう――彼程(あれほど)極端に悲まなくてもよからう。」
「では、貧民とか労働者とか言ふやうなものに同情を寄せるのは不可(いかん)と言ふのかね。」
「不可と言ふ訳では無いよ。僕だつても、美しい思想だとは思ふさ。しかし、君のやうに、左様(さう)考へ込んで了つても困る。何故君は彼様(あゝ)いふものばかり読むのかね、何故君は沈んでばかり居るのかね――一体、君は今何を考へて居るのかね。」
「僕かい? 別に左様(さう)深く考へても居ないさ。君等の考へるやうな事しか考へて居ないさ。」
「でも何かあるだらう。」
「何かとは?」
「何か原因がなければ、そんなに性質の変る筈が無い。」
「僕は是で変つたかねえ。」
「変つたとも。全然(まるで)師範校時代の瀬川君とは違ふ。彼(あ)の時分は君、ずつと快活な人だつたあね。だから僕は斯う思ふんだ――元来君は欝(ふさ)いでばかり居る人ぢや無い。唯あまり考へ過ぎる。もうすこし他の方面へ心を向けるとか、何とかして、自分の性質を伸ばすやうに為たら奈何(どう)かね。此頃(こなひだ)から僕は言はう/\と思つて居た。実際、君の為に心配して居るんだ。まあ身体の具合でも悪いやうなら、早く医者に診せて、自分で自分を救ふやうに為るが可(いゝ)ぢやないか。」
暫時(しばらく)座敷の中は寂(しん)として話声が絶えた。丑松は何か思出したことがあると見え、急に喪心した人のやうに成つて、茫然(ばうぜん)として居たが。やがて気が付いて我に帰つた頃は、顔色がすこし蒼ざめて見えた。
「どうしたい、君は。」と銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めて、「はゝゝゝゝ、妙に黙つて了つたねえ。」
「はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。」
と丑松は笑ひ紛(まぎらは)して了つた。銀之助も一緒になつて笑つた。奥様とお志保は二人の顔を見比べて、熱心に聞き惚れて居たのである。
「土屋君は「懴悔録」を御読みでしたか。」と文平は談話(はなし)を引取つた。
「否(いゝえ)、未(ま)だ読んで見ません。」斯う銀之助は答へた。
「何か彼の猪子といふ先生の書いたものを御覧でしたか――私は未だ何(なん)にも読んで見ないんですが。」
「左様(さう)ですなあ、僕の読んだのは「労働」といふものと、それから「現代の思潮と下層社会」――あれを瀬川君から借りて見ました。なか/\好いところが有ますよ、力のある深刻な筆で。」
「一体彼の先生は何処を出た人なんですか。」
「たしか高等師範でしたらう。」
「斯ういふ話を聞いたことが有ましたツけ。彼の先生が長野に居た時分、郷里の方でも兎(と)に角(かく)彼様(あゝ)いふ人を穢多の中から出したのは名誉だと言つて、講習に頼んださうです。そこで彼の先生が出掛けて行つた。すると宿屋で断られて、泊る所が無かつたとか。其様(そん)なことが面白くなくて長野を去るやうになつた、なんて――まあ、師範校を辞(や)めてから、彼の先生も勉強したんでせう。妙な人物が新平民なぞの中から飛出したものですなあ。」
「僕も其は不思議に思つてる。」
「彼様(あん)な下等人種の中から、兎に角思想界へ頭を出したなんて、奈何(どう)しても私には其理由が解らない。」
「しかし、彼の先生は肺病だと言ふから、あるひは其病気の為に、彼処(あそこ)まで到(い)つたものかも知れません。」
「へえ、肺病ですか。」
「実際病人は真面目ですからなあ。「死」といふ奴を眼前(めのまへ)に置いて、平素(しよつちゆう)考へて居るんですからなあ。彼の先生の書いたものを見ても、何となく斯う人に迫るやうなところがある。あれが肺病患者の特色です。まあ彼の病気の御蔭で豪(えら)く成つた人はいくらもある。」
「はゝゝゝゝ、土屋君の観察は何処迄も生理的だ。」
「いや、左様(さう)笑つたものでも無い。見たまへ、病気は一種の哲学者だから。」
「して見ると、穢多が彼様(あゝ)いふものを書くんぢや無い、病気が書かせるんだ――斯う成りますね。」
「だつて、君、左様(さう)釈(さと)るより外に考へ様は無いぢやないか――唯新平民が美しい思想を持つとは思はれないぢやないか――はゝゝゝゝ。」
斯ういふ話を銀之助と文平とが為して居る間、丑松は黙つて、洋燈(ランプ)の火を熟視(みつ)めて居た。自然(おのづ)と外部(そと)に表れる苦悶の情は、頬の色の若々しさに交つて、一層その男らしい容貌(おもばせ)を沈欝(ちんうつ)にして見せたのである。
茶が出てから、三人は別の話頭(はなし)に移つた。奥様は旅先の住職の噂(うはさ)なぞを始めて、客の心を慰める。子坊主は隣の部屋の柱に凭(もた)れて、独りで舟を漕いで居た。台所の庭の方から、遠く寂しく地響のやうに聞えるは、庄馬鹿が米を舂(つ)く音であらう。夜も更(ふ)けた。
(六)
友達が帰つた後、丑松は心の激昂を制(おさ)へきれないといふ風で、自分の部屋の内を歩いて見た。其日の物語、あの二人の言つた言葉、あの二人の顔に表れた微細な感情まで思出して見ると、何となく胸肉(むなじゝ)の戦慄(ふる)へるやうな心地がする。先輩の侮辱されたといふことは、第一|口惜(くや)しかつた。賤民だから取るに足らん。斯(か)ういふ無法な言草は、唯考へて見たばかりでも、腹立たしい。あゝ、種族の相違といふ屏※[てへん+當](わだかまり)の前には、いかなる熱い涙も、いかなる至情の言葉も、いかなる鉄槌(てつつゐ)のやうな猛烈な思想も、それを動かす力は無いのであらう。多くの善良な新平民は斯うして世に知られずに葬り去らるゝのである。
斯(こ)の思想(かんがへ)に刺激されて、寝床に入つてからも丑松は眠らなかつた。目を開いて、頭を枕につけて、種々(さま/″\)に自分の一生を考へた。鼠が復た顕れた。畳の上を通る其足音に妨げられては、猶々(なほ/\)夢を結ばない。一旦吹消した洋燈を細目に点(つ)けて、枕頭(まくらもと)を明くして見た。暗い部屋の隅の方に影のやうに動く小(ちひさ)な動物の敏捷(はしこ)さ、人を人とも思はず、長い尻尾を振り乍ら、出たり入つたりする其有様は、憎らしくもあり、をかしくもあり、「き、き」と鳴く声は斯の古い壁の内に秋の夜の寂寥(さびしさ)を添へるのであつた。
それからそれへと丑松は考へた。一つとして不安に思はれないものはなかつた。深く注意した積りの自分の行為(おこなひ)が、反つて他(ひと)に疑はれるやうなことに成らうとは――まあ、考へれば考へるほど用意が無さ過ぎた。何故(なぜ)、あの大日向が鷹匠町の宿から放逐された時に、自分は静止(じつ)として居なかつたらう。何故(なぜ)、彼様(あんな)に泡を食つて、斯の蓮華寺へ引越して来たらう。何故、あの猪子蓮太郎の著述が出る度に、自分は其を誇り顔に吹聴(ふいちやう)したらう。何故、彼様に先輩の弁護をして、何か斯う彼の先輩と自分との間には一種の関係でもあるやうに他(ひと)に思はせたらう。何故、彼の先輩の名前を彼様(あゝ)他(ひと)の前で口に出したらう。何故、内証で先輩の書いたものを買はなかつたらう。何故、独りで部屋の内に隠れて、読みたい時に密(そつ)と出して読むといふ智慧が出なかつたらう。
思ひ疲れるばかりで、結局(まとまり)は着かなかつた。
一夜は斯ういふ風に、褥(しとね)の上で慄(ふる)へたり、煩悶(はんもん)したりして、暗いところを彷徨(さまよ)つたのである。翌日(あくるひ)になつて、いよ/\丑松は深く意(こゝろ)を配るやうに成つた。過去(すぎさ)つた事は最早(もう)仕方が無いとして、是(これ)から将来(さき)を用心しよう。蓮太郎の名――人物――著述――一切、彼(あ)の先輩に関したことは決して他(ひと)の前で口に出すまい。斯う用心するやうに成つた。
さあ、父の与へた戒(いましめ)は身に染々(しみ/″\)と徹(こた)へて来る。「隠せ」――実にそれは生死(いきしに)の問題だ。あの仏弟子が墨染の衣に守り窶(やつ)れる多くの戒も、是(こ)の一戒に比べては、寧(いつ)そ何でもない。祖師を捨てた仏弟子は、堕落と言はれて済む。親を捨てた穢多の子は、堕落でなくて、零落である。「決してそれとは告白(うちあ)けるな」とは堅く父も言ひ聞かせた。これから世に出て身を立てようとするものが、誰が好んで告白(うちあ)けるやうな真似を為よう。
丑松も漸(やうや)く二十四だ。思へば好い年齢(とし)だ。
噫(あゝ)。いつまでも斯うして生きたい。と願へば願ふほど、余計に穢多としての切ない自覚が湧き上るのである。現世の歓楽は美しく丑松の眼に映じて来た。たとへ奈何(いか)なる場合があらうと、大切な戒ばかりは破るまいと考へた。 
 
第四章

 

(一)
郊外は収穫(とりいれ)の為に忙(せは)しい時節であつた。農夫の群はいづれも小屋を出て、午後の労働に従事して居た。田(た)の面(も)の稲は最早(もう)悉皆(すつかり)刈り乾して、すでに麦さへ蒔付(まきつ)けたところもあつた。一年(ひとゝせ)の骨折の報酬(むくい)を収めるのは今である。雪の来ない内に早く。斯うして千曲川の下流に添ふ一面の平野は、宛然(あだかも)、戦場の光景(ありさま)であつた。
其日、丑松は学校から帰ると直に蓮華寺を出て、平素(ふだん)の勇気を回復(とりかへ)す積りで、何処へ行くといふ目的(めあて)も無しに歩いた。新町の町はづれから、枯々な桑畠の間を通つて、思はず斯(こ)の郊外の一角へ出たのである。積上げた「藁(わら)によ」の片蔭に倚凭(よりかゝ)つて、霜枯れた雑草の上に足を投出し乍ら、肺の底までも深く野の空気を吸入れた時は、僅に蘇生(いきかへ)つたやうな心地(こゝろもち)になつた。見れば男女の農夫。そこに親子、こゝに夫婦、黄に揚る塵埃(ほこり)を満身に浴びながら、我劣らじと奮闘をつゞけて居た。籾(もみ)を打つ槌(つち)の音は地に響いて、稲扱(いねこ)く音に交つて勇しく聞える。立ちのぼる白い煙もところ/″\。雀の群は時々空に舞揚つて、騒しく鳴いて、軈(やが)てまたぱツと田の面に散乱れるのであつた。
秋の日は烈しく照りつけて、人々には言ふに言はれぬ労苦を与へた。男は皆な頬冠(ほつかぶ)り、女は皆な編笠(あみがさ)であつた。それはめづらしく乾燥(はしや)いだ、風の無い日で、汗は人々の身体を流れたのである。野に満ちた光を通して、丑松は斯の労働の光景(ありさま)を眺めて居ると、不図(ふと)、倚凭(よりかゝ)つた「藁によ」の側(わき)を十五ばかりの一人の少年が通る。日に焼けた額と、柔嫩(やはらか)な目付とで、直に敬之進の忰(せがれ)と知れた。省吾(しやうご)といふのが其少年の名で、丁度丑松が受持の高等四年の生徒なのである。丑松は其|容貌(かほつき)を見る度に、彼の老朽な教育者を思出さずには居られなかつた。
「風間さん、何処(どちら)へ?」
斯う声を掛けて見る。
「あの、」と省吾は言淀(いひよど)んで、「母さんが沖(野外)に居やすから。」
「母さん?」
「あれ彼処に――先生、あれが吾家(うち)の母さんでごはす。」
と省吾は指差して見せて、すこし顔を紅(あか)くした。同僚の細君の噂(うはさ)、それを丑松も聞かないでは無かつたが、然し眼前(めのまへ)に働いて居る女が其人とはすこしも知らなかつた。古びた上被(うはつぱり)、茶色の帯、盲目縞(めくらじま)の手甲(てつかふ)、編笠に日を避(よ)けて、身体を前後に動かし乍ら、※[足へん+昔]々(せつせ)と稲の穂を扱落(こきおと)して居る。信州北部の女はいづれも強健(つよ)い気象のものばかり。克(よ)く働くことに掛けては男子にも勝(まさ)る程であるが、教員の細君で野面(のら)にまで出て、烈しい気候を相手に精出すものも鮮少(すくな)い。是(これ)も境遇からであらう、と憐んで見て居るうちに、省吾はまた指差して、彼の槌を振上げて籾(もみ)を打つ男、彼(あれ)は手伝ひに来た旧(むかし)からの出入のもので、音作といふ百姓であると話した。母と彼男(あのをとこ)との間に、箕(み)を高く頭の上に載せ、少許(すこし)づつ籾を振ひ落して居る女、彼(あれ)は音作の「おかた」(女房)であると話した。丁度其女房が箕を振る度に、空殻(しひな)の塵(ほこり)が舞揚つて、人々は黄色い烟を浴びるやうに見えた。省吾はまた、母の傍(わき)に居る小娘を指差して、彼が異母(はらちがひ)の妹のお作であると話した。
「君の兄弟は幾人(いくたり)あるのかね。」と丑松は省吾の顔を熟視(まも)り乍ら尋ねた。
「七人。」といふ省吾の返事。
「随分多勢だねえ、七人とは。君に、姉さんに、尋常科の進さんに、あの妹に――それから?」
「まだ下に妹が一人と弟が一人。一番|年長(うへ)の兄さんは兵隊に行つて死にやした。」
「むゝ左様(さう)ですか。」
「其中で、死んだ兄さんと、蓮華寺へ貰はれて行きやした姉さんと、私(わし)と――これだけ母さんが違ひやす。」
「そんなら、君やお志保さんの真実(ほんたう)の母さんは?」
「最早(もう)居やせん。」
斯ういふ話をして居ると、不図(ふと)継母(まゝはゝ)の呼声を聞きつけて、ぷいと省吾は駈出して行つて了つた。
(二)
「省吾や。お前(めへ)はまあ幾歳(いくつ)に成つたら御手伝ひする積りだよ。」と言ふ細君の声は手に取るやうに聞えた。省吾は継母を懼(おそ)れるといふ様子して、おづ/\と其前に立つたのである。
「考へて見な、もう十五ぢやねえか。」と怒を含んだ細君の声は復た聞えた。「今日は音さんまで御頼申(おたのまう)して、斯うして塵埃(ほこり)だらけに成つて働(かま)けて居るのに、それがお前の目には見えねえかよ。母さんが言はねえだつて、さつさと学校から帰つて来て、直に御手伝ひするのが当然(あたりまへ)だ。高等四年にも成つて、未(ま)だ※[「阜」の「十」に代えて「虫」]螽捕(いなごと)りに夢中に成つてるなんて、其様(そん)なものが何処にある――与太坊主め。」
見れば細君は稲扱(いねこ)く手を休めた。音作の女房も振返つて、気の毒さうに省吾の顔を眺め乍ら、前掛を〆直(しめなほ)したり、身体の塵埃(ほこり)を掃つたりして、軈(やが)て顔に流れる膏汗(あぶらあせ)を拭いた。莚(むしろ)の上の籾は黄な山を成して居る。音作も亦た槌の長柄に身を支へて、うんと働いた腰を延ばして、濃く青い空気を呼吸した。
「これ、お作や。」と細君の児を叱る声が起つた。「どうして其様(そん)な悪戯(いたづら)するんだい。女の児は女の児らしくするもんだぞ。真個(ほんと)に、どいつもこいつも碌なものはありやあしねえ。自分の子ながら愛想(あいそ)が尽きた。見ろ、まあ、進を。お前達二人より余程(よつぽど)御手伝ひする。」
「あれ、進だつて遊(あす)んで居やすよ。」といふのは省吾の声。
「なに、遊んでる?」と細君はすこし声を震はせて、「遊んでるものか。先刻(さつき)から御子守をして居やす。其様(そん)なお前のやうな役に立たずぢやねえよ。ちよツ、何ぞと言ふと、直に口答へだ。父さんが過多(めた)甘やかすもんだから、母さんの言ふことなぞ少許(ちつと)も聞きやしねえ。真個(ほんと)に図太(づな)い口の利きやうを為る。だから省吾は嫌ひさ。すこし是方(こちら)が遠慮して居れば、何処迄いゝ気に成るか知れやしねえ。あゝ必定(きつと)また蓮華寺へ寄つて、姉さんに何か言付けて来たんだらう。それで斯様(こんな)に遅くなつたんだらう。内証で隠れて行つて見ろ――酷いぞ。」
「奥様。」と音作は見兼ねたらしい。「何卒(どうか)まあ、今日(こんち)のところは、私(わし)に免じて許して下さるやうに。ない(なあと同じ農夫の言葉)、省吾さん、貴方(あんた)もそれぢやいけやせん。母さんの言ふことを聞かねえやうなものなら、私だつて提棒(さげぼう)(仲裁)に出るのはもう御免だから。」
音作の女房も省吾の側へ寄つて、軽く背を叩(たゝ)いて私語(さゝや)いた。軈て女房は其手に槌の長柄を握らせて、「さあ、御手伝ひしやすよ。」と亭主の方へ連れて行つた。「どれ、始めずか(始めようか)。」と音作は省吾を相手にし、槌を振つて籾を打ち始めた。「ふむ、よう。」の掛声も起る。細君も、音作の女房も、復た仕事に取懸つた。
図(はか)らず丑松は敬之進の家族を見たのである。彼(あ)の可憐な少年も、お志保も、細君の真実(ほんたう)の子では無いといふことが解つた。夫の貧を養ふといふ心から、斯うして細君が労苦して居るといふことも解つた。五人の子の重荷と、不幸な夫の境遇とは、細君の心を怒り易く感じ易くさせたといふことも解つた。斯う解つて見ると、猶々(なほ/\)丑松は敬之進を憐むといふ心を起したのである。
今はすこし勇気を回復した。明(あきらか)に見、明に考へることが出来るやうに成つた。眼前(めのまへ)に展(ひろが)る郊外の景色を眺めると、種々(さま/″\)の追憶(おもひで)は丑松の胸の中を往つたり来たりする。丁度斯うして、田圃(たんぼ)の側(わき)に寝そべり乍ら、収穫(とりいれ)の光景(さま)を眺めた彼(あ)の無邪気な少年の時代を憶出(おもひだ)した。烏帽子(ゑぼし)一帯の山脈の傾斜を憶出した。其傾斜に連なる田畠と石垣とを憶出した。茅萱(ちがや)、野菊、其他種々な雑草が霜葉を垂れる畦道(あぜみち)を憶出した。秋風が田の面を渡つて黄な波を揚げる頃は、※[「阜」の「十」に代えて「虫」]螽(いなご)を捕つたり、野鼠を追出したりして、夜はまた炉辺(ろばた)で狐と狢(むじな)が人を化かした話、山家で言ひはやす幽霊の伝説、放縦(ほしいまゝ)な農夫の男女(をとこをんな)の物語なぞを聞いて、余念もなく笑ひ興じたことを憶出(おもひだ)した。あゝ、穢多の子といふ辛い自覚の味を知らなかつた頃――思へば一昔――其頃と今とは全く世を隔てたかの心地がする。丑松はまた、あの長野の師範校で勉強した時代のことを憶出した。未だ世の中を知らなかつたところからして、疑ひもせず、疑はれもせず、他(ひと)と自分とを同じやうに考へて、笑つたり騒いだりしたことを憶出した。あの寄宿舎の楽しい窓を憶出した。舎監の赤い髭を憶出した。食堂の麦飯の香(にほひ)を憶出した。よく阿弥陀(あみだ)の※[鬥<亀](くじ)に当つて、買ひに行つた門前の菓子屋の婆さんの顔を憶出した。夜の休息(やすみ)を知らせる鐘が鳴り渡つて、軈(やが)て見廻りに来る舎監の靴の音が遠く廊下に響くといふ頃は、沈まりかへつて居た朋輩が復(ま)た起出して、暗い寝室の内で雑談に耽つたことを憶出した。終(しまひ)には往生寺の山の上に登つて、苅萱(かるかや)の墓の畔(ほとり)に立ち乍ら、大(おほき)な声を出して呼び叫んだ時代のことを憶出して見ると――実に一生の光景(ありさま)は変りはてた。楽しい過去の追憶(おもひで)は今の悲傷(かなしみ)を二重にして感じさせる。「あゝ、あゝ、奈何(どう)して俺は斯様(こんな)に猜疑深(うたがひぶか)くなつたらう。」斯う天を仰いで歎息した。急に、意外なところに起る綿のやうな雲を見つけて、しばらく丑松はそれを眺め乍ら考へて居たが、思はず知らず疲労(つかれ)が出て、「藁によ」に倚凭(よりかゝ)つたまゝ寝て了つた。
(三)
ふと眼を覚まして四辺(そこいら)を見廻した時は、暮色が最早(もう)迫つて来た。向ふの田の中の畦道(あぜみち)を帰つて行く人々も見える。荒くれた男女の農夫は幾群か丑松の側(わき)を通り抜けた。鍬(くは)を担いで行くものもあり、俵を背負つて行くものもあり、中には乳呑児(ちのみご)を抱擁(だきかゝ)へ乍ら足早に家路をさして急ぐのもあつた。秋の一日(ひとひ)の烈しい労働は漸(やうや)く終を告げたのである。
まだ働いて居るものもあつた。敬之進の家族も急いで働いて居た。音作は腰を曲(こゞ)め、足に力を入れ、重い俵(たはら)を家の方へ運んで行く。後には女二人と省吾ばかり残つて、籾(もみ)を振(ふる)つたり、それを俵へ詰めたりして居た。急に「かあさん、かあさん。」と呼ぶ声が起る。見れば省吾の弟、泣いて反返(そりかへ)る児を背負(おぶ)ひ乍ら、一人の妹を連れて母親の方へ駈寄つた。「おゝ、おゝ。」と細君は抱取つて、乳房を出して銜(くは)へさせて、
「進や。父さんは何してるか、お前(めへ)知らねえかや。」
「俺(おら)知んねえよ。」
「あゝ。」と細君は襦袢(じゆばん)の袖口で※[目+匡](まぶち)を押拭ふやうに見えた。「父さんのことを考へると、働く気もなにも失くなつて了ふ――」
「母さん、作ちやんが。」と進は妹の方を指差し乍ら叫んだ。
「あれ。」と細君は振返つて、「誰だい其袋を開けたものは――誰だい母さんに黙つて其袋を開けたものは。」
「作ちやんは取つて食ひやした。」と進の声で。
「真実(ほんと)に仕方が無いぞい――彼娘(あのこ)は。」と細君は怒気を含んで、「其袋を茲(こゝ)へ持つて来な――これ、早く持つて来ねえかよ。」
お作は八歳(やつつ)ばかりの女の児。麻の袋を手に提げた儘、母の権幕を畏(おそ)れて進みかねる。「母さん、お呉(くん)な。」と進も他の子供も強請(せが)み付く。省吾も其と見て、母の傍へ駈寄つた。細君はお作の手から袋を奪取るやうにして、
「どれ、見せな――そいつたツても、まあ、情ない。道理で先刻(さつき)から穏順(おとな)しいと思つた。すこし母さんが見て居ないと、直に斯様(こん)な真似を為る。黙つて取つて食ふやうなものは、泥棒だぞい――盗人(ぬすツと)だぞい――ちよツ、何処へでも勝手に行つて了へ、其様(そん)な根性(こんじやう)の奴は最早(もう)母さんの子ぢやねえから。」
斯う言つて、袋の中に残る冷(つめた)い焼餅(おやき)らしいものを取出して、細君は三人の児に分けて呉れた。
「母さん、俺(おん)にも。」とお作は手を出した。
「何だ、お前は。自分で取つて食つて置き乍ら。」
「母さん、もう一つお呉(くん)な。」と省吾は訴へるやうに、「進には二つ呉れて、私(わし)には一つしか呉ねえだもの。」
「お前は兄さんぢやねえか。」
「進には彼様(あん)な大いのを呉れて。」
「嫌なら、廃(よ)しな、さあ返しな――機嫌|克(よ)くして母さんの呉れるものを貰つた例(ためし)はねえ。」
進は一つ頬張り乍ら、軈(やが)て一つの焼餅(おやき)を見せびらかすやうにして、「省吾の馬鹿――やい、やい。」と呼んだ。省吾は忌々敷(いま/\しい)といふ様子。いきなり駈寄つて、弟の頭を握拳(にぎりこぶし)で打つ。弟も利かない気。兄の耳の辺(あたり)を打ち返した。二人の兄弟は怒の為に身を忘れて、互に肩を聳して、丁度|野獣(けもの)のやうに格闘(あらそひ)を始める。音作の女房が周章(あわ)てゝ二人を引分けた時は、兄弟ともに大な声を揚げて泣叫ぶのであつた。
「どうしてまあ兄弟喧嘩(きやうだいげんくわ)を為るんだねえ。」と細君は怒つて、「左様(さう)お前達に側(はた)で騒がれると、母さんは最早(もう)気が狂(ちが)ひさうに成る。」
斯の光景(ありさま)を丑松は「藁によ」の蔭に隠れ乍ら見て居た。様子を聞けば聞くほど不幸な家族を憐まずには居られなくなる。急に暮鐘の音に驚かされて、丑松は其処を離れた。
寂しい秋晩の空に響いて、また蓮華寺の鐘の音が起つた。それは多くの農夫の為に、一日の疲労(つかれ)を犒(ねぎら)ふやうにも、楽しい休息(やすみ)を促(うなが)すやうにも聞える。まだ野に残つて働いて居る人々は、いづれも仕事を急ぎ初めた。今は夕靄(ゆふもや)の群が千曲川(ちくまがは)の対岸を籠(こ)めて、高社山(かうしやざん)一帯の山脈も暗く沈んだ。西の空は急に深い焦茶(こげちや)色に変つたかと思ふと、やがて落ちて行く秋の日が最後の反射を田(た)の面(も)に投げた。向ふに見える杜(もり)も、村落も、遠く暮色に包まれて了つたのである。あゝ、何の煩ひも思ひ傷むことも無くて、斯(か)ういふ田園の景色を賞することが出来たなら、どんなにか青春の時代も楽しいものであらう。丑松が胸の中に戦ふ懊悩(あうなう)を感ずれば感ずる程、余計に他界(そと)の自然は活々(いき/\)として、身に染(し)みるやうに思はるゝ。南の空には星一つ顕(あらは)れた。その青々とした美しい姿は、一層夕暮の眺望を森厳(おごそか)にして見せる。丑松は眺め入り乍ら、自分の一生を考へて歩いた。
「しかし、其が奈何(どう)した。」と丑松は豆畠の間の細道へさしかゝつた時、自分で自分を激※[厂+萬](はげ)ますやうに言つた。「自分だつて社会の一員(ひとり)だ。自分だつて他(ひと)と同じやうに生きて居る権利があるのだ。」
斯の思想(かんがへ)に力を得て、軈て帰りかけて振返つて見た時は、まだ敬之進の家族が働いて居た。二人の女が冠つた手拭は夕闇に仄白(ほのじろ)く、槌の音は冷々(ひや/″\)とした空気に響いて、「藁を集めろ」などゝいふ声も幽(かすか)に聞える。立つて是方(こちら)を向いたのは省吾か。今は唯動いて居る暗い影かとばかり、人々の顔も姿も判らない程に暮れた。
(四)
「おつかれ」(今晩は)と逢(あ)ふ人毎に声を掛けるのは山家の黄昏(たそがれ)の習慣(ならはし)である。丁度新町の町はづれへ出て、帰つて行く農夫に出逢ふ度に、丑松は斯(この)挨拶を交換(とりかは)した。一ぜんめし、御休所、笹屋、としてある家(うち)の前で、また「おつかれ」を繰返したが、其は他の人でもない、例の敬之進であつた。
「おゝ、瀬川君か。」と敬之進は丑松を押留めるやうにして、「好い処で逢つた。何時か一度君とゆつくり話したいと思つて居た。まあ、左様(さう)急がんでもよからう。今夜は我輩に交際(つきあ)つて呉れてもよからう。斯ういふ処で話すのも亦(ま)た一興だ。是非、君に聞いて貰ひたいこともあるんだから――」
斯(か)う慫慂(そゝのか)されて、丑松は敬之進と一緒に笹屋の入口の敷居を跨いで入つた。昼は行商、夜は農夫などが疲労(つかれ)を忘れるのは茲(こゝ)で、大な炉(ろ)には「ぼや」(雑木の枝)の火が赤々と燃上つた。壁に寄せて古甕(ふるがめ)のいくつか並べてあるは、地酒が溢れて居るのであらう。今は農家は忙しい時季(とき)で、長く御輿(みこし)を座(す)ゑるものも無い。一人の農夫が草鞋穿(わらぢばき)の儘(まゝ)、ぐいと「てツぱ」(こつぷ酒)を引掛けて居たが、軈(やが)て其男の姿も見えなくなつて、炉辺(ろばた)は唯二人の専有(もの)となつた。
「今晩は何にいたしやせう。」と主婦(かみさん)は炉の鍵に大鍋を懸け乍ら尋ねた。「油汁(けんちん)なら出来やすが、其ぢやいけやせんか。河で捕れた鰍(かじか)もごはす。鰍でも上げやせうかなあ。」
「鰍?」と敬之進は舌なめずりして、「鰍、結構――それに、油汁と来ては堪(こた)へられない。斯ういふ晩は暖い物に限りますからね。」
敬之進は酒慾の為に慄へて居た。素面(しらふ)で居る時は、からもう元気の無い人で、言葉もすくなく、病人のやうに見える。五十の上を一つか二つも越したらうか、年の割合には老(ふけ)たといふでも無く、まだ髪は黒かつた。丑松は「藁によ」の蔭で見たり聞いたりした家族のことを思ひ浮べて、一層|斯人(このひと)に親しくなつたやうな心地がした。「ぼや」の火も盛んに燃えた。大鍋の中の油汁(けんちん)は沸々(ふつ/\)と煮立つて来て、甘さうな香(にほひ)が炉辺に満溢(みちあふ)れる。主婦(かみさん)は其を小丼(こどんぶり)に盛つて出し、酒は熱燗(あつかん)にして、一本づゝ古風な徳利を二人の膳の上に置いた。
「瀬川君。」と敬之進は手酌でちびり/\始め乍ら、「君が飯山へ来たのは何時でしたつけねえ。」
「私(わたし)ですか。私が来てから最早(もう)足掛三年に成ります。」と丑松は答へた。
「へえ、其様(そんな)に成るかねえ。つい此頃(こなひだ)のやうにしか思はれないがなあ。実に月日の経つのは早いものさ。いや、我輩なぞが老込む筈だよ。君等がずん/\進歩するんだもの。我輩だつて、君、一度は君等のやうな時代もあつたよ。明日は、明日は、明日はと思つて居る内に、もう五十といふ声を聞くやうに成つた。我輩の家(うち)と言ふのはね、もと飯山の藩士で、少年の時分から君侯の御側に勤めて、それから江戸表へ――丁度|御維新(ごいツしん)に成る迄。考へて見れば時勢は還(うつ)り変つたものさねえ。変遷、変遷――見たまへ、千曲川の岸にある城跡を。彼(あ)の名残の石垣が君等の目にはどう見えるね。斯う蔦(つた)や苺(いちご)などの纏絡(まとひつ)いたところを見ると、我輩はもう言ふに言はれないやうな心地(こゝろもち)になる。何処の城跡へ行つても、大抵は桑畠(くはばたけ)。士族といふ士族は皆な零落して了つた。今日迄|踏堪(ふみこた)へて、どうにかかうにか遣つて来たものは、と言へば、役場へ出るとか、学校へ勤めるとか、それ位のものさ。まあ、士族ほど役に立たないものは無い――実は我輩も其一人だがね。はゝゝゝゝ。」
と敬之進は寂しさうに笑つた。やがて盃の酒を飲乾して、一寸舌打ちして、それを丑松へ差し乍ら、
「一つ交換といふことに願ひませうか。」
「まあ、御酌(おしやく)しませう。」と丑松は徳利を持添へて勧めた。
「それは不可(いかん)。上げるものは上げる、頂くものは頂くサ。え――君は斯の方は遣(や)らないのかと思つたが、なか/\いけますねえ。君の御手並を拝見するのは今夜始めてだ。」
「なに、私のは三盃上戸(さんばいじやうご)といふ奴なんです。」
「兎(と)に角(かく)、斯盃は差上げます。それから君のを頂きませう。まあ君だから斯様(こん)なことを御話するんだが、我輩なぞは二十年も――左様(さやう)さ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、終(しまひ)には教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感覚が無くなつて了つた。はゝゝゝゝ。いや、全くの話が、長く教員を勤めたものは、皆な斯ういふ経験があるだらうと思ふよ。実際、我輩なぞは教育をして居るとは思はなかつたね。羽織袴(はおりはかま)で、唯月給を貰ふ為に、働いて居るとしか思はなかつた。だつて君、左様(さう)ぢやないか、尋常科の教員なぞと言ふものは、学問のある労働者も同じことぢやないか。毎日、毎日――騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少(わづか)の月給で、長い時間を働いて、克(よ)くまあ今日迄自分でも身体が続いたと思ふ位だ。あるひは君等の目から見たら、今|茲(こゝ)で我輩が退職するのは智慧(ちゑ)の無い話だと思ふだらう。そりやあ我輩だつて、もう六ヶ月|踏堪(ふみこた)へさへすれば、仮令(たとへ)僅少(わづか)でも恩給の下(さが)る位は承知して居るさ。承知して居ながら、其が我輩には出来ないから情ない。是から以後(さき)我輩に働けと言ふのは、死ねといふも同じだ。家内はまた家内で心配して、教員を休(や)めて了(しま)つたら、奈何(どう)して活計(くらし)が立つ、銀行へ出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様(そん)な真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆(すつかり)もう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、仆(たふ)れるまで鞭撻(むちう)たれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。」
(五)
急に入つて来た少年に妨げられて、敬之進は口を噤(つぐ)んだ。流許(ながしもと)に主婦(かみさん)、暗い洋燈(ランプ)の下で、かちや/\と皿小鉢を鳴らして居たが、其と見て少年の側へ駈寄つた。
「あれ、省吾さんでやすかい。」
と言はれて、省吾は用事ありげな顔付。
「吾家(うち)の父さんは居りやすか。」
「あゝ居なさりやすよ。」と主婦は答へた。
敬之進は顔を渋(しか)めた。入口の庭の薄暗いところに佇立(たゝず)んで居る省吾を炉辺(ろばた)まで連れて来て、つく/″\其可憐な様子を眺(なが)め乍(なが)ら、
「奈何(どう)した――何か用か。」
「あの、」と省吾は言淀(いひよど)んで、「母さんがねえ、今夜は早く父さんに御帰りなさいツて。」
「むゝ、また呼びによこしたのか――ちよツ、極(きま)りを遣(や)つてら。」と敬之進は独語(ひとりごと)のやうに言つた。
「そんなら父さんは帰りなさらないんですか。」と省吾はおづ/\尋ねて見る。
「帰るサ――御話が済(す)めば帰るサ。母さんに斯う言へ、父さんは学校の先生と御話して居ますから、其が済めば帰りますツて。」と言つて、敬之進は一段声を低くして、「省吾、母さんは今何してる?」
「籾(もみ)を片付けて居りやす。」
「左様(さう)か、まだ働いてるか。それから彼(あ)の……何か……母さんはまた例(いつも)のやうに怒つてやしなかつたか。」
省吾は答へなかつた。子供心にも、父を憐むといふ目付して、黙つて敬之進の顔を熟視(みまも)つたのである。
「まあ、冷(つめた)さうな手をしてるぢやないか。」と敬之進は省吾の手を握つて、「それ金銭(おあし)を呉れる。柿でも買へ。母さんや進には内証だぞ。さあ最早(もう)それで可(いゝ)から、早く帰つて――父さんが今言つた通りに――よしか。解つたか。」
省吾は首を垂れて、萎(しを)れ乍ら出て行つた。
「まあ聞いて呉れたまへ。」と敬之進は復(ま)た述懐を始めた。「ホラ、君が彼の蓮華寺へ引越す時、我輩も門前まで行きましたらう――実は、君だから斯様(こん)なこと迄も御話するんだが、彼寺には不義理なことがしてあつて、住職は非常に怒つて居る。我輩が飲む間は、交際(つきあ)はぬといふ。情ないとは思ふけれど、其様(そん)な関係で、今では娘の顔を見に行くことも出来ないやうな仕末。まあ、彼寺へ呉れて了つたお志保と、省吾と、それから亡くなつた総領と、斯う三人は今の家内の子では無いのさ。前(せん)の家内といふのは、矢張(やはり)飯山の藩士の娘でね、我輩の家(うち)の楽な時代に嫁(かたづ)いて来て、未だ今のやうに零落しない内に亡(な)くなつた。だから我輩は彼女(あいつ)のことを考へる度に、一生のうちで一番楽しかつた時代を思出さずには居られない。一盃(いつぱい)やると、きつと其時代のことを思出すのが我輩の癖で――だつて君、年を取れば、思出すより外に歓楽(たのしみ)が無いのだもの。あゝ、前(せん)の家内は反(かへ)つて好い時に死んだ。人間といふものは妙なもので、若い時に貰つた奴がどうしても一番好いやうな気がするね。それに、性質が、今の家内のやうに利(き)かん気では無かつたが、そのかはり昔風に亭主に便(たよ)るといふ風で、何処迄(どこまで)も我輩を信じて居た。蓮華寺へ行つたお志保――彼娘(あのこ)がまた母親に克(よ)く似て居て、眼付なぞはもう彷彿(そつくり)さ。彼娘の顔を見ると、直に前(せん)の家内が我輩の眼に映る。我輩ばかりぢやない、他(ひと)が克く其を言つて、昔話なぞを始めるものだから、さあ今の家内は面白くないと見えるんだねえ。正直御話すると、我輩も蓮華寺なぞへ彼娘を呉れたくは無かつた。然し吾家(うち)に置けば、彼娘の為にならない。第一、其では可愛さうだ。まあ、蓮華寺では非常に欲(ほし)がるし、奥様も子は無し、それに他の土地とは違つて寺院(てら)を第一とする飯山ではあり、するところからして、お志保を手放して遣つたやうな訳さ。」
聞けば聞くほど、丑松は気の毒に成つて来た。成程(なるほど)、左様(さう)言はれて見れば、落魄(らくはく)の画像(ゑすがた)其儘(そのまゝ)の様子のうちにも、どうやら武士らしい威厳を具へて居るやうに思はるゝ。
「丁度、それは彼娘の十三の時。」と敬之進は附和(つけた)して言つた。
(六)
「噫(あゝ)。我輩の生涯(しやうがい)なぞは実に碌々(ろく/\)たるものだ。」と敬之進は更に嘆息した。「しかし瀬川君、考へて見て呉れたまへ。君は碌々といふ言葉の内に、どれほどの酸苦が入つて居ると考へる。斯(か)うして我輩は飲むから貧乏する、と言ふ人もあるけれど、我輩に言はせると、貧乏するから飲むんだ。一日たりとも飲まずには居られない。まあ、我輩も、始の内は苦痛(くるしみ)を忘れる為に飲んだのさ。今では左様(さう)ぢや無い、反つて苦痛を感ずる為に飲む。はゝゝゝゝ。と言ふと可笑(をか)しく聞えるかも知れないが、一晩でも酒の気が無からうものなら、寂しくて、寂しくて、身体は最早(もう)がた/\震(ふる)へて来る。寝ても寝られない。左様(さう)なると殆(ほと)んど精神は無感覚だ。察して呉れたまへ――飲んで苦しく思ふ時が、一番我輩に取つては活きてるやうな心地(こゝろもち)がするからねえ。恥を御話すればいろ/\だが、我輩も飯山学校へ奉職する前には、下高井の在で長く勤めたよ。今の家内を貰つたのは、丁度その下高井に居た時のことさ。そこはそれ、在に生れた女だけあつて、働くことは家内も克(よ)く働く。霜を掴(つか)んで稲を刈るやうなことは到底我輩には出来ないが――我輩がまた其様(そん)な真似をして見給へ、直に病気だ――ところが彼女(あいつ)には堪へられる。貧苦を忍ぶといふ力は家内の方が反つて我輩より強いね。だから君、最早(もう)斯う成つた日にやあ、恥も外聞もあつたものぢや無い、私は私でお百姓する、なんて言出して、馬鹿な、女の手で作なぞを始めた。我輩の家に旧(もと)から出入りする百姓の音作、あの夫婦が先代の恩返しだと言つて、手伝つては呉れるがね、どうせ左様(さう)うまく行きツこはないさ。それを我輩が言ふんだけれど、どうしても家内は聞入れない。尤(もつと)も、我輩は士族だから、一反歩は何坪あるのか、一|束(つか)に何斗の年貢を納めるのか、一升|蒔(まき)で何俵の籾(もみ)が取れるのか、一体|年(ねん)に肥料が何(ど)の位|要(い)るものか、其様(そん)なことは薩張(さつぱり)解らん。現に我輩は家内が何坪借りて作つて居るかといふことも知らない。まあ、家内の量見では、子供に耕作(さく)でも見習はせて、行く/\は百姓に成つて了ふ積りらしいんだ。そこで毎時(いつ)でも我輩と衝突が起る。どうせ彼様(あん)な無学な女は子供の教育なんか出来よう筈も無い。実際、我輩の家庭で衝突の起因(おこり)と言へば必ず子供のことさ。子供がある為に夫婦喧嘩もするやうなものだが、又、その夫婦喧嘩をした為に子供が出来たりする。あゝ、もう沢山(たくさん)だ、是上出来たら奈何(どう)しよう、一人子供が増(ふえ)れば其丈(それだけ)貧苦を増すのだと思つても、出来るものは君どうも仕方が無いぢやないか。今の家内が三番目の女の児を産んだ時、えゝお末と命(つ)けてやれ、お末とでも命けたら終(おしまひ)に成るか、斯う思つたら――どうでせう、君、直にまた四番目サ。仕方が無いから、今度は留吉とした。まあ、五人の子供に側で泣き立てられて見たまへ。なか/\遣(や)りきれた訳のものでは無いよ。惨苦、惨苦――我輩は子供の多い貧乏な家庭を見る度に、つく/″\其惨苦を思ひやるねえ。五人の子供ですら食はせるのは容易ぢやない、若(も)しまた是上に出来でもしたら、我輩の家なぞでは最早(もう)奈何(どう)していゝか解らん。」
斯う言つて、敬之進は笑つた。熱い涙は思はず知らず流れ落ちて、零落(おちぶ)れた袖を湿(ぬら)したのである。
「我輩は君、これでも真面目なんだよ。」と敬之進は、額と言はず、頬と言はず、腮(あご)と言はず、両手で自分の顔を撫で廻した。「どうでせう、省吾の奴も君の御厄介に成つてるが、彼様(あん)な風で物に成りませうか。もう少許(すこし)活溌だと好いがねえ。どうも女のやうな気分の奴で、泣易くて困る。平素(しよツちゆう)弟に苦(いぢ)められ通しだ。同じ自分の子で、どれが可愛くて、どれが憎いといふことは有さうも無ささうなものだが、それがそれ、妙なもので、我輩は彼の省吾が可愛さうでならない。彼の通り弱いものだから、其丈(それだけ)哀憐(あはれみ)も増すのだらうと思ふね。家内はまた弟の進|贔顧(びいき)。何ぞといふと、省吾の方を邪魔にして、無暗(むやみ)に叱るやうなことを為る。そこへ我輩が口を出すと、前妻(せんさい)の子ばかり可愛がつて進の方は少許(ちつと)も関(かま)つて呉れんなんて――直に邪推だ。だからもう我輩は何にも言はん。家内の為る通りに為せて、黙つて見て居るのさ。成るべく家内には遠ざかるやうにして、密(そつ)と家(うち)を抜け出して来ては、独りで飲むのが何よりの慰藉(たのしみ)だ。稀(たま)に我輩が何か言はうものなら、私は斯様(こんな)に裸体(はだか)で嫁に来やしなかつたなんて、其を言はれると一言(いちごん)も無い。実際、彼奴(あいつ)が持つて来た衣類(もの)は、皆な我輩が飲んで了つたのだから――はゝゝゝゝ。まあ、君等の目から見たら、さぞ我輩の生涯なぞは馬鹿らしく見えるだらうねえ。」
述懐は反(かへ)つて敬之進の胸の中を軽くさせた。其晩は割合に早く酔つて、次第に物の言ひ様も煩(くど)く、終(しまひ)には呂律(ろれつ)も廻らないやうに成つて了つたのである。
軈(やが)て二人は斯(こ)の炉辺(ろばた)を離れた。勘定は丑松が払つた。笹屋を出たのは八時過とも思はれる頃。夜の空気は暗く町々を包んで、往来の人通りもすくない。気が狂(ちが)つて独語(ひとりごと)を言ひ乍ら歩く女、酔つて家(うち)を忘れたやうな男、そんな手合が時々二人に突当つた。敬之進は覚束(おぼつか)ない足許(あしもと)で、やゝともすれば往来の真中へ倒れさうに成る。酔眼|朦朧(もうろう)、星の光すら其瞳には映りさうにも見えなかつた。拠(よんどころ)なく丑松は送り届けることにして、ある時は右の腕で敬之進の身体(からだ)を支へるやうにしたり、ある時は肩へ取縋(とりすが)らせて背負(おぶ)ふやうにしたり、ある時は抱擁(だきかゝ)へて一緒に釣合を取り乍ら歩いた。
漸(やつと)の思で、敬之進を家まで連れて行つた時は、まだ細君も音作夫婦も働いて居た。人々は夜露を浴び乍ら、屋外(そと)で仕事を為て居るのであつた。丑松が近(ちかづ)くと、それと見た細君は直に斯う声を掛けた。
「あちや、まあ、御困りなすつたでごはせう。」 
 
第五章

 

(一)
十一月三日はめづらしい大霜。長い/\山国の冬が次第に近(ちかづ)いたことを思はせるのは是(これ)。其朝、丑松の部屋の窓の外は白い煙に掩(おほ)はれたやうであつた。丑松は二十四年目の天長節を飯山の学校で祝ふといふ為に、柳行李(やなぎがうり)の中から羽織袴を出して着て、去年の外套(ぐわいたう)に今年もまた身を包んだ。
暗い楼梯(はしごだん)を下りて、北向の廊下のところへ出ると、朝の光がうつくしく射して来た。溶けかゝる霜と一緒に、日にあたる裏庭の木葉(このは)は多く枝を離れた。就中(わけても)、脆(もろ)いのは銀杏(いてふ)で、梢(こずゑ)には最早(もう)一葉(ひとは)の黄もとゞめない。丁度其|霜葉(しもば)の舞ひ落ちる光景(ありさま)を眺め乍ら、廊下の古壁に倚凭(よりかゝ)つて立つて居るのは、お志保であつた。丑松は敬之進のことを思出して、つく/″\彼(あ)の落魄(らくはく)の生涯(しやうがい)を憐むと同時に、亦(ま)た斯(こ)の人を注意して見るといふ気にも成つたのである。
「お志保さん。」と丑松は声を掛けた。「奥様に左様(さう)言つて呉れませんか――今日は宿直の当番ですから何卒(どうか)晩の弁当をこしらへて下さるやうに――後で学校の小使を取りによこしますからツて――ネ。」
と言はれて、お志保は壁を離れた。娘の時代には克(よ)くある一種の恐怖心から、何となく丑松を憚(はゞか)つて居るやうにも見える。何処か敬之進に似たところでもあるか、斯(か)う丑松は考へて、其となく俤(おもかげ)を捜(さが)して見ると、若々しい髪のかたち、額つき――まあ、どちらかと言へば、彼(あ)の省吾は父親似、斯(こ)の人はまた亡(な)くなつたといふ母親の方にでも似たのであらう。「眼付なぞはもう彷彿(そつくり)さ」と敬之進も言つた。
「あの、」とお志保はすこし顔を紅(あか)くし乍ら、「此頃(こなひだ)の晩は、大層父が御厄介に成りましたさうで。」
「いや、私の方で反(かへ)つて失礼しましたよ。」と丑松は淡泊(さつぱり)した調子で答へた。
「昨日、弟が参りまして、其話をいたしました。」
「むゝ、左様(さう)でしたか。」
「さぞ御困りで御座(ござい)ましたらう――父が彼様(あゝ)いふ風ですから、皆さんの御厄介にばかり成りまして。」
敬之進のことは一時(いつとき)もお志保の小な胸を離れないらしい。柔嫩(やはらか)な黒眸(くろひとみ)の底には深い憂愁(うれひ)のひかりを帯びて、頬も紅(あか)く泣腫(なきは)れたやうに見える。軈(やが)て斯ういふ言葉を取交した後、丑松は外套の襟で耳を包んで、帽子を冠つて蓮華寺を出た。
とある町の曲り角で、外套の袖袋(かくし)に手を入れて見ると、古い皺(しわ)だらけに成つた手袋が其内(そのなか)から出て来た。黒の莫大小(メリヤス)の裏毛の付いたやつで、皺を延ばして填(は)めた具合は少許(すこし)細く緊(しま)り過ぎたが、握つた心地(こゝろもち)は暖かであつた。其手袋を鼻の先へ押当てゝ、紛(ぷん)とした湿気(しけ)くさい臭気(にほひ)を嗅いで見ると、急に過去(すぎさ)つた天長節のことが丑松の胸の中に浮んで来る。去年――一昨年――一昨々年――噫(あゝ)、未だ世の中を其程(それほど)深く思ひ知らなかつた頃は、噴飯(ふきだ)したくなるやうな、気楽なことばかり考へて、この大祭日を祝つて居た。手袋は旧(もと)の儘(まゝ)、色は褪(さ)めたが変らずにある。それから見ると人の精神(こゝろ)の内部(なか)の光景(ありさま)の移り変ることは。これから将来(さき)の自分の生涯は畢竟(つまり)奈何(どう)なる――誰が知らう。来年の天長節は――いや、来年のことは措(お)いて、明日のことですらも。斯う考へて、丑松の心は幾度(いくたび)か明くなつたり暗くなつたりした。
さすがに大祭日だ。町々の軒は高く国旗を掲げ渡して、いづれの家も静粛に斯の記念の一日(ひとひ)を送ると見える。少年の群は喜ばしさうな声を揚げ乍ら、霜に濡れた道路を学校の方へと急ぐのであつた。悪戯盛(いたづらざか)りの男の生徒、今日は何時にない大人びた様子をして、羽織袴でかしこまつた顔付のをかしさ。女生徒は新しい海老茶袴(えびちやばかま)、紫袴であつた。
(二)
国のみかどの誕生の日を祝ふために、男女の生徒は足拍子揃へて、二階の式場へ通ふ階段を上つた。銀之助は高等二年を、文平は高等一年を、丑松は高等四年を、いづれも受持々々の組の生徒を引連れて居た。退職の敬之進は最早(もう)客分ながら、何となく名残が惜まるゝといふ風で、旧(もと)の生徒の後に随(つ)いて同じやうに階段を上るのであつた。
斯の大祭の歓喜(よろこび)の中にも、丑松の心を驚かして、突然新しい悲痛(かなしみ)を感ぜさせたことがあつた。といふは、猪子蓮太郎の病気が重くなつたと、ある東京の新聞に出て居たからで。尤(もつと)も丑松の目に触れたは、式の始まるといふ前、審(くは)しく読む暇も無かつたから、其儘(そのまゝ)懐中(ふところ)へ押込んで来たのであつた。世には短い月日の間に長い生涯を送つて、あわただしく通り過ぎるやうに生れて来た人がある。恐らく蓮太郎も其一人であらう。新聞には最早(もう)むつかしいやうに書いてあつた。あゝ、先輩の胸中に燃える火は、世を焼くよりも前(さき)に、自分の身体を焚(や)き尽して了(しま)ふのであらう。斯ういふ同情(おもひやり)は一時(いつとき)も丑松の胸を離れない。猶(なほ)繰返し読んで見たさは山々、しかし左様(さう)は今の場合が許さなかつた。
其日は赤十字社の社員の祝賀をも兼ねた。式場に集る人々の胸の上には、赤い織色の綬(きれ)、銀の章(しるし)の輝いたのも面白く見渡される。東の壁のところに、二十余人の寺々の住職、今年にかぎつて蓮華寺一人欠けたのも物足りないとは、流石(さすが)に土地柄も思はれてをかしかつた。殊に風采の人目を引いたのは、高柳利三郎といふ新進政事家、すでに檜舞台(ひのきぶたい)をも踏んで来た男で、今年もまた代議士の候補者に立つといふ。銀之助、文平を始め、男女の教員は一同風琴の側に集つた。
「気をつけ。」
と呼ぶ丑松の凛(りん)とした声が起つた。式は始つたのである。
主座教員としての丑松は反つて校長よりも男女の少年に慕はれて居た。丑松が「最敬礼」の一声は言ふに言はれぬ震動を幼いものゝ胸に伝へるのであつた。軈(やが)て、「君が代」の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので、例の金牌(きんぱい)は胸の上に懸つて、一層(ひとしほ)其風采を教育者らしくして見せた。「天長節」の歌が済む、来賓を代表した高柳の挨拶もあつたが、是はまた場慣れて居る丈(だけ)に手に入つたもの。雄弁を喜ぶのは信州人の特色で、斯ういふ一場の挨拶ですらも、人々の心を酔はせたのである。
平和と喜悦(よろこび)とは式場に満ち溢れた。
閉会の後、高等四年の生徒はかはる/″\丑松に取縋(とりすが)つて、種々(いろ/\)物を尋ねるやら、跳(はね)るやら。あるものは手を引いたり、あるものは袖の下を潜り抜けたりして、戯れて、避(よ)けて行かうとする丑松を放すまいとした。仙太と言つて、三年の生徒で、新平民の少年がある。平素(ふだん)から退(の)け者(もの)にされるのは其生徒。けふも寂しさうに壁に倚凭(よりかゝ)つて、皆(みんな)の歓(よろこ)び戯れる光景(ありさま)を眺め乍ら立つて居た。可愛さうに、仙太は斯(こ)の天長節ですらも、他の少年と同じやうには祝ひ得ないのである。丑松は人知れず口唇(くちびる)を噛み〆(しめ)て、「勇気を出せ、懼(おそ)れるな」と励ますやうに言つて遣りたかつた。丁度他の教師が見て居たので、丑松は遁(に)げるやうにして、少年の群を離れた。
今朝の大霜で、学校の裏庭にある樹木は大概落葉して了(しま)つたが、桜ばかりは未だ秋の名残をとゞめて居た。丑松は其葉蔭を選んで、時々|私語(さゝや)くやうに枝を渡る微風の音にも胸を踊らせ乍ら、懐中(ふところ)から例の新聞を取出して展(ひろ)げて見ると――蓮太郎の容体は余程|危(あやふ)いやうに書いてあつた。記者は蓮太郎の思想に一々同意するものでは無いが、兎(と)も角(かく)も新平民の中から身を起して飽くまで奮闘して居る其意気を愛せずには居られないと書いてあつた。惜まれて逝(ゆ)く多くの有望な人々と同じやうに、今また斯の人が同じ病苦に呻吟(しんぎん)すると聞いては、うたゝ同情の念に堪へないと書いてあつた。思ひあたることが無いでもない、人に迫るやうな渠(かれ)の筆の真面目(しんめんもく)は斯うした悲哀(あはれ)が伴ふからであらう、斯ういふ記者も亦(ま)たその為に薬籠(やくろう)に親しむ一人であると書いてあつた。
動揺する地上の影は幾度か丑松を驚かした。日の光は秋風に送られて、かれ/″\な桜の霜葉をうつくしくして見せる。蕭条(せうでう)とした草木の凋落(てうらく)は一層先輩の薄命を冥想(めいさう)させる種となつた。
(三)
敬之進の為に開いた茶話会は十一時頃からあつた。其日の朝、蓮華寺を出る時、丑松は廊下のところでお志保に逢つて、この不幸な父親を思出したが、斯うして会場の正面に座(す)ゑられた敬之進を見ると、今度は反対(あべこべ)に彼の古壁に倚凭つた娘のことを思出したのである。敬之進の挨拶は長い身の上の述懐であつた。憐むといふ心があればこそ、丑松ばかりは首を垂れて聞いて居たやうなものゝ、さもなくて、誰が老(おい)の繰言(くりごと)なぞに耳を傾けよう。
茶話会の済んだ後のことであつた。丁度|庭球(テニス)の遊戯(あそび)を為るために出て行かうとする文平を呼留めて、一緒に校長はある室の戸を開けて入つた。差向ひに椅子に腰掛けたは運動場近くにある窓のところで、庭球(テニス)狂(きちがひ)の銀之助なぞが呼び騒ぐ声も、玻璃(ガラス)に響いて面白さうに聞えたのである。
「まあ、勝野君、左様(さう)運動にばかり夢中にならないで、すこし話したまへ。」と校長は忸々敷(なれ/\しく)、「時に、奈何(どう)でした、今日の演説は?」
「先生の御演説ですか。」と文平が打球板(ラッケット)を膝の上に載せて、「いや、非常に面白く拝聴(うかゞ)ひました。」
「左様(さう)ですかねえ――少許(すこし)は聞きごたへが有ましたかねえ。」
「御世辞でも何でも無いんですが、今迄私が拝聴(うかゞ)つた中(うち)では、先(ま)づ第一等の出来でしたらう。」
「左様(さう)言つて呉れる人があると難有(ありがた)い。」と校長は微笑み乍ら、「実は彼(あ)の演説をするために、昨夜(ゆうべ)一晩かゝつて準備(したく)しましたよ。忠孝といふ字義の解釈は奈何(どう)聞えました。我輩の積りでは、あれでも余程|頭脳(あたま)を痛めたのさ。種々(いろ/\)な字典を参考するやら、何やら――そりやあもう、君。」
「どうしても調べたものは調べた丈のことが有ます。」
「しかし、真実(ほんたう)に聞いて呉れた人は君くらゐのものだ。町の人なぞは空々寂々――いや、実際、耳を持たないんだからねえ。中には、高柳の話に酷(ひど)く感服してる人がある。彼様(あん)な演説屋の話と、吾儕(われ/\)の言ふことゝを、一緒にして聞かれて堪(たま)るものかね。」
「どうせ解らない人には解らないんですから。」
と文平に言はれて、不平らしい校長の顔付は幾分(いくら)か和(やはら)いで来た。
其時迄、校長は何か言ひたいことがあつて、それを言はないで、反(かへ)つて斯(か)ういふ談話(はなし)をして居るといふ風であつたが、軈(やが)て思ふことを切出した。わざ/\文平を呼留めて斯室へ連れて来たのは、どうかして丑松を退ける工夫は無いか、それを相談したい下心であつたのである。「と云ふのはねえ、」と校長は一段声を低くした。「瀬川君だの、土屋君だの、彼様(あゝ)いふ異分子が居ると、どうも学校の統一がつかなくて困る。尤(もつと)も土屋君の方は、農科大学の助手といふことになつて、遠からず出掛けたいやうな話ですから――まあ斯人(このひと)は黙つて居ても出て行く。難物は瀬川君です。瀬川君さへ居なくなつて了へば、後は君、もう吾儕(われ/\)の天下さ。どうかして瀬川君を廃(よ)して、是非其後へは君に座(すわ)つて頂きたい。実は君の叔父さんからも種々(いろ/\)御話が有ましたがね、叔父さんも矢張(やつぱり)左様(さう)いふ意見なんです。何とか君、巧(うま)い工夫はあるまいかねえ。」
「左様(さう)ですなあ。」と文平は返事に困つた。
「生徒を御覧なさい――瀬川先生、瀬川先生と言つて、瀬川君ばかり大騒ぎしてる。彼様(あんな)に大騒ぎするのは、瀬川君の方で生徒の機嫌を取るからでせう? 生徒の機嫌を取るといふのは、何か其処に訳があるからでせう? 勝野君、まあ君は奈何(どう)思ひます。」
「今の御話は私に克(よ)く解りません。」
「では、君、斯う言つたら――これはまあ是限(これぎ)りの御話なんですがね、必定(きつと)瀬川君は斯の学校を取らうといふ野心があるに相違(ちがひ)ないんです。」
「はゝゝゝゝ、まさか其程にも思つて居ないでせう。」と笑つて、文平は校長の顔を熟視(みまも)つた。
「でせうか?」と校長は疑深く、「思つて居ないでせうか?」
「だつて、未(ま)だ其様(そん)なことを考へるやうな年齢(とし)ぢや有ません――瀬川君にしろ、土屋君にしろ、未だ若いんですもの。」
この「若いんですもの」が校長を嘆息させた。庭で遊ぶ庭球(テニス)の球の音はおもしろく窓の玻璃(ガラス)に響いた。また一勝負始まつたらしい。思はず文平は聞耳を立てた。その文平の若々しい顔付を眺めると、校長は更に嘆息して、
「一体、瀬川君なぞは奈何(どう)いふことを考へて居るんでせう。」
「奈何いふことゝは?」と文平は不思議さうに。
「まあ、近頃の瀬川君の様子を見るのに、非常に沈んで居る――何か斯う深く考へて居る――新しい時代といふものは彼様(あゝ)物を考へさせるんでせうか。どうも我輩には不思議でならない。」
「しかし、瀬川君の考へて居るのは、何か別の事でせう――今、先生の仰つたやうな、其様(そん)な事ぢや無いでせう。」
「左様(さう)なると、猶々(なほ/\)我輩には解釈が付かなくなる。どうも我輩の時代に比べると、瀬川君なぞの考へて居ることは全く違ふやうだ。我輩の面白いと思ふことを、瀬川君なぞは一向詰らないやうな顔してる。我輩の詰らないと思ふことを、反つて瀬川君なぞは非常に面白がつてる。畢竟(つまり)一緒に事業(しごと)が出来ないといふは、時代が違ふからでせうか――新しい時代の人と、吾儕(われ/\)とは、其様(そんな)に思想(かんがへ)が合はないものなんでせうか。」
「ですけれど、私なぞは左様(さう)思ひません。」
「そこが君の頼母(たのも)しいところさ。何卒(どうか)、君、彼様(あゝ)いふ悪い風潮に染まないやうにして呉れたまへ。及ばずながら君のことに就いては、我輩も出来るだけの力を尽すつもりだ。世の中のことは御互ひに助けたり助けられたりさ――まあ、勝野君、左様(さう)ぢや有ませんか。今|茲(こゝ)で直に異分予を奈何(どう)するといふ訳にもいかない。ですから、何か好い工夫でも有つたら、考へて置いて呉れたまへ――瀬川君のことに就いて何か聞込むやうな場合でも有つたら、是非それを我輩に知らせて呉れたまへ。」
(四)
盛んな遊戯の声がまた窓の外に起つた。文平は打球板(ラッケット)を提げて出て行つた。校長は椅子を離れて玻璃(ガラス)の戸を上げた。丁度運動場では庭球(テニス)の最中。大人びた風の校長は、まだ筋骨の衰頽(おとろへ)を感ずる程の年頃でも無いが、妙に遊戯の嫌ひな人で、殊に若いものゝ好な庭球などゝ来ては、昔の東洋風の軽蔑(けいべつ)を起すのが癖。だから、「何を、児戯(こども)らしいことを」と言つたやうな目付して、夢中になつて遊ぶ人々の光景(ありさま)を眺めた。
地は日の光の為に乾き、人は運動の熱の為に燃えた。いつの間にか文平は庭へ出て、遊戯の仲間に加つた。銀之助は今、文平の組を相手にして、一戦を試みるところ。流石(さすが)の庭球狂(テニスきちがひ)もさん/″\に敗北して、軈(やが)て仲間の生徒と一緒に、打球板(ラッケット)を捨てゝ退いた。敵方の揚げる「勝負有(ゲエム)」の声は、拍手の音に交つて、屋外(そと)の空気に響いておもしろさうに聞える。東よりの教室の窓から顔を出した二三の女教師も、一緒になつて手を叩(たゝ)いて居た。其時、幾組かに別れて見物した生徒の群は互ひに先を争つたが、中に一人、素早く打球板(ラッケット)を拾つた少年があつた。新平民の仙太と見て、他の生徒が其側へ馳寄(かけよ)つて、無理無体に手に持つ打球板(ラッケット)を奪ひ取らうとする。仙太は堅く握つた儘(まゝ)、そんな無法なことがあるものかといふ顔付。それはよかつたが、何時まで待つて居ても組のものが出て来ない。「さあ、誰か出ないか」と敵方は怒つて催促する。少年の群は互ひに顔を見合せて、困つて立つて居る仙太を冷笑して喜んだ。誰も斯(こ)の穢多の子と一緒に庭球の遊戯(あそび)を為ようといふものは無かつたのである。
急に、羽織を脱ぎ捨てゝ、そこにある打球板(ラッケット)を拾つたは丑松だ。それと見た人々は意味もなく笑つた。見物して居る女教師も微笑(ほゝゑ)んだ。文平|贔顧(びいき)の校長は、丑松の組に勝たせたくないと思ふかして、熱心になつて窓から眺(なが)めて居た。丁度午後の日を背後(うしろ)にしたので、位置の利は始めから文平の組の方にあつた。
「壱(ワン)、零(ゼロ)。」
と呼ぶのは、網の傍に立つ審判官の銀之助である。丑松仙太は先づ第一の敗を取つた。見物して居る生徒は、いづれも冷笑を口唇(くちびる)にあらはして、仙太の敗を喜ぶやうに見えた。
「弐(ツウ)、零(ゼロ)。」
と銀之助は高く呼んだ。丑松の組は第二の敗を取つたのである。「弐(ツウ)、零(ゼロ)。」と見物の生徒は聞えよがしに繰返した。
敵方といふのは、年若な準教員――それ、丑松が蓮華寺へ明間(あきま)を捜しに行つた時、帰路(かへり)に遭遇(であ)つた彼男と、それから文平と、斯う二人の組で、丑松に取つては侮(あなど)り難い相手であつた。それに、敵方の力は揃つて居るに引替へ、味方の仙太はまだ一向に練習が足りない。
「参(スリイ)、零(ゼロ)。」
と呼ぶ声を聞いた時は、丑松もすこし気を苛(いら)つた。人種と人種の競争――それに敗(ひけ)を取るまいといふ丑松の意気が、何となく斯様(こん)な遊戯の中にも顕(あら)はれるやうで、「敗(まけ)るな、敗けるな」と弱い仙太を激※[厂+萬](はげ)ますのであつた。丑松は撃手(サアブ)。最後の球を打つ為に、外廓(そとぐるわ)の線の一角に立つた。「さあ、来い」と言はぬばかりの身構へして、窺(うかゞ)ひ澄まして居る文平を目がけて、打込んだ球はかすかに網に触れた。「触(タッチ)」と銀之助の一声。丑松は二度目の球を試みた。力あまつて線を越えた。ああ、「落(フオウル)」だ。丑松も今は怒気を含んで、満身の力を右の腕に籠め乍ら、勝つも負けるも運は是球一つにあると、打込む勢は獅子奮進。青年の時代に克(よ)くある一種の迷想から、丁度一生の運命を一時の戯(たはむれ)に占ふやうに見える。「内(イン)」と受けた文平もさるもの。故意(わざ)と丑松の方角を避けて、うろ/\する仙太の虚(すき)を衝(つ)いた。烈しい日の光は真正面(まとも)に射して、飛んで来る球のかたちすら仙太の目には見えなかつたのである。
「勝負有(ゲエム)。」
と人々は一音に叫んだ。仙太の手から打球板(ラッケット)を奪ひ取らうとした少年なぞは、手を拍(う)つて、雀躍(こをどり)して、喜んだ。思はず校長も声を揚げて、文平の勝利を祝ふといふ風であつた。
「瀬川君、零敗(ゼロまけ)とはあんまりぢやないか。」
といふ銀之助の言葉を聞捨てゝ、丑松はそこに置いた羽織を取上げながら、すご/\と退いた。やがて斯(こ)の運動場(うんどうば)から裏庭の方へ廻つて、誰も見て居ないところへ来ると、不図何か思出したやうに立留つた。さあ、丑松は自分で自分を責めずに居られなかつたのである。蓮太郎――大日向――それから仙太、斯う聯想した時は、猜疑(うたがひ)と恐怖(おそれ)とで戦慄(ふる)へるやうになつた。噫(あゝ)、意地の悪い智慧(ちゑ)はいつでも後から出て来る。 
 
第六章

 

(一)
天長節の夜は宿直の当番であつたので、丑松銀之助の二人は学校に残つた。敬之進は急に心細く、名残惜しくなつて、いつまでも此処を去り兼ねる様子。夕飯の後、まだ宿直室に話しこんで、例の愚痴の多い性質から、生先(おひさき)長い二人に笑はれて居るうちに、壁の上の時計は八時打ち、九時打つた。それは翌朝(よくあさ)の霜の烈しさを思はせるやうな晩で、日中とは違つて、めつきり寒かつた。丑松が見廻りの為に出て行つた後、まだ敬之進は火鉢の傍に齧(かじ)り付いて、銀之助を相手に掻口説(かきくど)いて居た。
軈(やが)て二十分ばかり経つて丑松は帰つて来た。手提洋燈(てさげランプ)を吹消して、急いで火鉢の側(わき)に倚添ひ乍ら、「いや、もう屋外(そと)は寒いの寒くないのツて、手も何も凍(かじか)んで了ふ――今夜のやうに酷烈(きび)しいことは今歳(ことし)になつて始めてだ。どうだ、君、是通りだ。」と丑松は氷のやうに成つた手を出して、銀之助に触つた。「まあ、何といふ冷い手だらう。」斯(か)う言つて、自分の手を引込まして、銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めたのである。
「顔色が悪いねえ、君は――奈何(どう)かしやしないか。」
と思はず其を口に出した。敬之進も同じやうに不審を打つて、
「我輩も今、其を言はうかと思つて居たところさ。」
丑松は何か思出したやうに慄へて、話さうか、話すまいか、と暫時(しばらく)躊躇(ちうちよ)する様子にも見えたが、あまり二人が熱心に自分の顔を熟視(みまも)るので、つい/\打明けずには居られなく成つて来た。
「実はねえ――まあ、不思議なことがあるんだ。」
「不思議なとは?」と銀之助も眉をひそめる。
「斯ういふ訳さ――僕が手提洋燈(てさげランプ)を持つて、校舎の外を一廻りして、あの運動場の木馬のところまで行くと、誰か斯う僕を呼ぶやうな声がした。見れば君、誰も居ないぢやないか。はてな、聞いたやうな声だと思つて、考へて見ると、其筈(そのはず)さ――僕の阿爺(おやぢ)の声なんだもの。」
「へえ、妙なことが有れば有るものだ。」と敬之進も不審(いぶか)しさうに、「それで、何ですか、奈何(どん)な風に君を呼びましたか、其声は。」
「「丑松、丑松」とつゞけざまに。」
「フウ、君の名前を?」と敬之進はもう目を円(まる)くして了(しま)つた。
「はゝゝゝゝ。」と銀之助は笑出して、「馬鹿なことを言ひたまへ。瀬川君も余程(よツぽど)奈何(どう)かして居るんだ。」
「いや、確かに呼んだ。」と丑松は熱心に。
「其様(そん)な事があつて堪るものか。何かまた間違へでも為たんだらう。」
「土屋君、君は左様(さう)笑ふけれど、確かに僕の名を呼んだに相違ないよ。風が呻吟(うな)つたでも無ければ、鳥が啼いたでも無い。そんな声を、まさかに僕だつて間違へる筈も無からうぢやないか。どうしても阿爺だ。」
「君、真実(ほんたう)かい――戯語(じようだん)ぢや無いのかい――また欺(かつ)ぐんだらう。」
「土屋君は其だから困る。僕は君これでも真面目(まじめ)なんだよ。確かに僕は斯(こ)の耳で聞いて来た。」
「其耳が宛(あて)に成らないサ。君の父上(おとつ)さんは西乃入(にしのいり)の牧場に居るんだらう。あの烏帽子(ゑぼし)ヶ|嶽(だけ)の谷間(たにあひ)に居るんだらう。それ、見給へ。其|父上(おとつ)さんが斯様(こん)な隔絶(かけはな)れた処に居る君の名前を呼ぶなんて――馬鹿らしい。」
「だから不思議ぢやないか。」
「不思議? ちよツ、不思議といふのは昔の人のお伽話(とぎばなし)だ。はゝゝゝゝ、智識の進んで来た今日、そんな馬鹿らしいことの有るべき筈が無い。」
「しかし、土屋君。」と敬之進は引取つて、「左様(さう)君のやうに一概に言つたものでもないよ。」
「はゝゝゝゝ、旧弊な人は是だから困る。」と銀之助は嘲(あざけ)るやうに笑つた。
急に丑松は聞耳を立てた。復(ま)た何か聞きつけたといふ風で、すこし顔色を変へて、言ふに言はれぬ恐怖(おそれ)を表したのである。戯れて居るので無いといふことは、其真面目な眼付を見ても知れた。
「や――復た呼ぶ声がする。何だか斯う窓の外の方で。」と丑松は耳を澄まして、「しかし、あまり不思議だ。一寸、僕は失敬するよ――もう一度行つて見て来るから。」
ぷいと丑松は駈出して行つた。
さあ、銀之助は友達のことが案じられる。敬之進はもう心に驚いて了(しま)つて、何かの前兆(しらせ)では有るまいか――第一、父親の呼ぶといふのが不思議だ、と斯う考へつゞけたのである。
「それはさうと、」と敬之進は思付いたやうに、「斯うして吾儕(われ/\)ばかり火鉢にあたつて居るのも気懸(きがゝ)りだ。奈何(どう)でせう、二人で行つて見てやつては。」
「むゝ、左様(さう)しませうか。」と銀之助も火鉢を離れて立上つた。「瀬川君はすこし奈何(どう)かしてるんでせうよ。まあ、僕に言はせると、何か神経の作用なんですねえ――兎(と)に角(かく)、それでは一寸待つて下さい。僕が今、手提洋燈(てさげランプ)を点(つ)けますから。」
(二)
深い思に沈み乍ら、丑松は声のする方へ辿(たど)つて行つた。見れば宿直室の窓を泄(も)れる灯(ひ)が、僅に庭の一部分を照して居るばかり。校舎も、樹木も、形を潜めた。何もかも今は夜の空気に包まれて、沈まり返つて、闇に隠れて居るやうに見える。それは少許(すこし)も風の無い、※[門<貝](しん)とした晩で、寒威(さむさ)は骨に透徹(しみとほ)るかのやう。恐らく山国の気候の烈しさを知らないものは、斯(か)うした信濃の夜を想像することが出来ないであらう。
父の呼ぶ声が復(ま)た聞えた。急に丑松は立留つて、星明りに周囲(そこいら)を透(すか)して視(み)たが、別に人の影らしいものが目に入るでも無かつた。すべては皆な無言である。犬一つ啼いて通らない斯の寒い夜に、何が音を出して丑松の耳を欺かう。
「丑松、丑松。」
とまた呼んだ。さあ、丑松は畏(おそ)れず慄(ふる)へずに居られなかつた。心はもう底の底までも掻乱(かきみだ)されて了(しま)つたのである。たしかに其は父の声で――皺枯(しやが)れた中にも威厳のある父の声で、あの深い烏帽子(ゑぼし)ヶ|嶽(だけ)の谷間(たにあひ)から、遠く斯(こ)の飯山に居る丑松を呼ぶやうに聞えた。目をあげて見れば、空とても矢張(やはり)地の上と同じやうに、音も無ければ声も無い。風は死に、鳥は隠れ、清(すゞ)しい星の姿ところ/″\。銀河の光は薄い煙のやうに遠く荘厳(おごそか)な天を流れて、深大な感動を人の心に与へる。さすがに幽(かすか)な反射はあつて、仰げば仰ぐほど暗い藍色の海のやうなは、そこに他界を望むやうな心地もせらるゝのであつた。声――あの父の呼ぶ声は、斯の星夜の寒空を伝つて、丑松の耳の底に響いて来るかのやう。子の霊魂(たましひ)を捜すやうな親の声は確かに聞えた。しかし其意味は。斯う思ひ迷つて、丑松はあちこち/\と庭の内を歩いて見た。
あゝ、何を其様(そんな)に呼ぶのであらう。丑松は一生の戒を思出した。あの父の言葉を思出した。自分の精神の内部(なか)の苦痛(くるしみ)が、子を思ふ親の情からして、自然と父にも通じたのであらうか。飽くまでも素性を隠せ、今日までの親の苦心を忘れるな、といふ意味であらうか。それで彼の牧場の番小屋を出て、自分のことを思ひ乍ら呼ぶ其声が谿谷(たに)から谿谷へ響いて居るのであらうか。それとも、また、自分の心の迷ひであらうか。といろ/\に想像して見て、終(しまひ)には恐怖(おそれ)と疑心(うたがひ)とで夢中になつて、「阿爺(おとつ)さん、阿爺さん。」と自分の方から目的(あてど)もなく呼び返した。
「やあ、君は其処に居たのか。」
と声を掛けて近(ちかづ)いたのは銀之助。つゞいて敬之進も。二人はしきりに手提洋燈(てさげランプ)をさしつけて、先づ丑松の顔を調べ、身の周囲(まはり)を調べ、それから闇を窺(うかゞ)ふやうにして見て、さて丑松からまた/\父の呼声のしたことを聞取つた。
「土屋君、それ見たまへ。」
敬之進は寒さと恐怖(おそれ)とで慄へ乍ら言つた。銀之助は笑つて、
「どうしても其様(そん)なことは理窟に合はん。必定(きつと)神経の故(せゐ)だ。一体、瀬川君は妙に猜疑深(うたがひぶか)く成つた。だから其様(そん)な下らないものが耳に聞えるんだ。」
「左様(さう)かなあ、神経の故(せゐ)かなあ。」斯う丑松は反省するやうな調子で言つた。
「だつて君、考へて見たまへ。形の無いところに形が見えたり、声の無いところに声が聞えたりするなんて、それそこが君の猜疑深(うたがひぶか)く成つた証拠さ。声も、形も、其は皆な君が自分の疑心から産出(うみだ)した幻だ。」
「幻?」
「所謂(いはゆる)疑心暗鬼といふ奴だ。耳に聞える幻――といふのも少許(すこし)変な言葉だがね、まあ左様(さう)いふことも言へるとしたら、其が今夜君の聞いたやうな声なんだ。」
「あるひは左様(さう)かも知れない。」
暫時(しばらく)、三人は無言になつた。天も地も※[門<貝](しん)として、声が無かつた。急に是の星夜の寂寞(せきばく)を破つて、父の呼ぶ声が丑松の耳の底に響いたのである。
「丑松、丑松。」
と次第に幽(かすか)になつて、啼(な)いて空を渡る夜の鳥のやうに、終(しまひ)には遠く細く消えて聞えなくなつて了つた。
「瀬川君。」と銀之助は手提洋燈をさしつけて、顔色を変へた丑松の様子を不思議さうに眺め乍ら、「どうしたい――君は。」
「今、また阿爺(おやぢ)の声がした。」
「今? 何にも聞えやしなかつたぢやないか。」
「ホウ、左様(さう)かねえ。」
「左様かねえもないもんだ。何(なんに)も声なぞは聞えやしないよ。」と言つて、銀之助は敬之進の方へ向いて、「風間さん、奈何(どう)でした――何か貴方には聞えましたか。」
「いゝえ。」と敬之進も力を入れた。
「ホウラ。風間さんにも聞えなければ、僕にも聞えない。聞いたのは、唯君ばかりだ。神経、神経――どうしても其に相違ない。」
斯う言つて、軈て銀之助はあちこちと闇を照らして見た。天は今僅かに星の映る鏡、地は今大な暗い影のやう。一つとして声のありさうなものが、手提洋燈の光に入るでもなかつた。「はゝゝゝゝ。」と銀之助は笑ひ出して、「まあ、僕は耳に聞いたつて信じられない。目に見たつて信じられない。手に取つて、触(さは)つて見て、それからでなければ其様(そん)なことは信じられない。いよ/\こりやあ、僕の観察の通りだ。生理的に其様な声が聞えたんだ。はゝゝゝゝ。それはさうと、馬鹿に寒く成つて来たぢやないか。僕は最早(もう)斯うして立つて居られなくなつた――行かう。」
(三)
其晩、寝床へ入つてからも、丑松は父と先輩とのことを考へて、寝られなかつた。銀之助は直にもう高鼾(たかいびき)。どんなに丑松は傍に枕を並べて居る友達の寝顔を熟視(みまも)つて、その平穏(おだやか)な、安静(しづか)な睡眠(ねむり)を羨んだらう。夜も更(ふ)けた頃、むつくと寝床から跳起(はねお)きて、一旦細くした洋燈(ランプ)を復た明くしながら、蓮太郎に宛てた手紙を書いて見た。今はこの病気見舞すら人目を憚(はゞか)つて認(したゝ)める程に用心したのである。時々丑松は書きかけた筆を止めて、洋燈の光に友達の寝顔を窺つて見ると、銀之助は死んだ魚のやうに大な口を開いて、前後も知らず熟睡して居た。
全く丑松は蓮太郎を知らないでも無かつた。人の紹介で逢つて見たことも有るし、今歳(ことし)になつて二三度手紙の往復(とりやり)もしたので、幾分(いくら)か互ひの心情(こゝろもち)は通じた。然し、蓮太郎は篤志な知己として丑松のことを考へて居るばかり、同じ素性の青年とは夢にも思はなかつた。丑松もまた、其秘密ばかりは言ふことを躊躇(ちうちよ)して居る。だから何となく奥歯に物が挾まつて居るやうで、其晩書いた丑松の手紙にも十分に思つたことが表れない。何故(なぜ)是程(これほど)に慕つて居るか、其さへ書けば、他の事はもう書かなくても済(す)む。あゝ――書けるものなら丑松も書く。其を書けないといふのは、丑松の弱点で、とう/\普通の病気見舞と同じものに成つて了つた。「東京にて、猪子蓮太郎先生、瀬川丑松より」と認(したゝ)め終つた時は、深く/\良心(こゝろ)を偽(いつは)るやうな気がした。筆を投(なげう)つて、嘆息して、復(ま)た冷い寝床に潜り込んだが、少許(すこし)とろ/\としたかと思ふと、直に恐しい夢ばかり見つゞけたのである。
翌朝のことであつた。蓮華寺の庄馬鹿が学校へやつて来て、是非丑松に逢ひたいと言ふ。「何の用か」を小使に言はせると、「御目に懸つて御渡ししたいものが御座(ござい)ます」とか。出て行つて玄関のところで逢へば、庄馬鹿は一通の電報を手渡しした。不取敢(とりあへず)開封して読下して見ると、片仮名の文字も簡短に、父の死去したといふ報知(しらせ)が書いてあつた。突然のことに驚いて了つて、半信半疑で繰返した。確かに死去の報知には相違なかつた。発信人は根津の叔父。「直ぐ帰れ」としてある。
「それはどうも飛んだことで、嘸(さぞ)御力落しで御座ませう――はい、早速帰りまして、奥様にも申上げまするで御座ます。」
斯(か)う庄馬鹿が言つた。小児(こども)のやうに死を畏れるといふ様子は、其|愚(おろか)しい目付に顕(あら)はれるのであつた。
丑松の父といふは、日頃極めて壮健な方で、激烈(はげ)しい気候に遭遇(であ)つても風邪一つ引かず、巌畳(がんでふ)な体躯(からだ)は反(かへ)つて壮夫(わかもの)を凌(しの)ぐ程の隠居であつた。牧夫の生涯(しやうがい)といへばいかにも面白さうに聞えるが、其実普通の人に堪へられる職業では無いのであつて、就中(わけても)西乃入の牧場の牛飼などと来ては、「彼(あ)の隠居だから勤まる」と人にも言はれる程。牛の性質を克(よ)く暗記して居るといふ丈では、所詮(しよせん)あの烏帽子(ゑぼし)ヶ|嶽(だけ)の深い谿谷(たにあひ)に長く住むことは出来ない。気候には堪へられても、寂寥(さびしさ)には堪へられない。温暖(あたゝか)い日の下に産れて忍耐の力に乏しい南国の人なぞは、到底|斯(か)ういふ山の上の牧夫に適しないのである。そこはそれ、北部の信州人、殊に丑松の父は素朴な、勤勉な、剛健な気象で、労苦を労苦とも思はない上に、別に人の知らない隠遁の理由をも持つて居た。思慮の深い父は丑松に一生の戒を教へたばかりで無く、自分も亦た成るべく人目につかないやうに、と斯う用心して、子の出世を祈るより外にもう希望(のぞみ)もなければ慰藉(なぐさめ)もないのであつた。丑松のため――其を思ふ親の情からして、人里遠い山の奥に浮世を離れ、朝夕炭焼の煙りを眺め、牛の群を相手に寂しい月日を送つて来たので。月々丑松から送る金の中から好(すき)な地酒を買ふといふことが、何よりの斯(この)牧夫のたのしみ。労苦も寂寥(さびしさ)も其の為に忘れると言つて居た。斯ういふ阿爺(おやぢ)が――まあ、鋼鉄のやうに強いとも言ひたい阿爺が、病気の前触(まへぶれ)も無くて、突然死去したと言つてよこしたとは。
電報は簡短で亡くなつた事情も解らなかつた。それに、父が牧場の番小屋に上るのは、春雪の溶け初める頃で、また谷々が白く降り埋(うづ)められる頃になると、根津村の家へ下りて来る毎年(まいとし)の習慣である。もうそろ/\冬籠りの時節。考へて見れば、亡くなつた場処は、西乃入か、根津か、其すら斯電報では解らない。
しかし、其時になつて、丑松は昨夜(ゆうべ)の出来事を思出した。あの父の呼声を思出した。あの呼声が次第に遠く細くなつて、別離(わかれ)を告げるやうに聞えたことを思出した。
斯の電報を銀之助に見せた時は、流石(さすが)の友達も意外なといふ感想(かんじ)に打たれて、暫時(しばらく)茫然(ぼんやり)として突立つた儘(まゝ)、丑松の顔を眺めたり、死去の報告(しらせ)を繰返して見たりした。軈(やが)て銀之助は思ひついたやうに、
「むゝ、根津には君の叔父さんがあると言つたツけねえ。左様(さう)いふ叔父さんが有れば、万事見ては呉れたらう。しかし気の毒なことをした。なにしろ、まあ早速帰る仕度をしたまへ。学校の方は、君、奈何(どう)にでも都合するから。」
斯う言つて呉れる友達の顔には真実が輝き溢(あふ)れて居た。たゞ銀之助は一語(ひとこと)も昨夜のことを言出さなかつたのである。「死は事実だ――不思議でも何でも無い」と斯(こ)の若い植物学者は眼で言つた。
校長は時刻を違(たが)へず出勤したので、早速この報知(しらせ)を話した。丑松は直にこれから出掛けて行きたいと話した。留守中何分|宜敷(よろしく)、受持の授業のことは万事銀之助に頼んで置いたと話した。
「奈何(どんな)にか君も吃驚(びつくり)なすつたでせう。」と校長は忸々敷(なれ/\しい)調子で言つた。「学校の方は君、土屋君も居るし、勝野君も居るし、其様(そん)なことはもう少許(すこし)も御心配なく。実に我輩も意外だつた、君の父上(おとつ)さんが亡(な)くならうとは。何卒(どうか)、まあ、彼方(あちら)の御用も済み、忌服(きぶく)でも明けることになつたら、また学校の為に十分御尽力を願ひませう。吾儕(われ/\)の事業(しごと)が是丈(これだけ)に揚つて来たのも、一つは君の御骨折からだ。斯うして君が居て下さるんで、奈何(どんな)にか我輩も心強いか知れない。此頃(こなひだ)も或処で君の評判を聞いて来たが、何だか斯う我輩は自分を褒められたやうな心地(こゝろもち)がした。実際、我輩は君を頼りにして居るのだから。」と言つて気を変へて、「それにしても、出掛けるとなると、思つたよりは要(かゝ)るものだ。少許位(すこしぐらゐ)は持合せも有ますから、立替へて上げても可(いゝ)のですが、どうです少許(すこし)御持ちなさらんか。もし御入用(おいりよう)なら遠慮なく言つて下さい。足りないと、また困りますよ。」
と言ふ校長の言葉はいかにも巧みであつた。しかし丑松の耳には唯わざとらしく聞えたのである。
「瀬川君、それでは届を忘れずに出して行つて下さい――何も規則ですから。」
斯う校長は添加(つけた)して言つた。
(四)
丑松が急いで蓮華寺へ帰つた時は、奥様も、お志保も飛んで出て来て、電報の様子を問ひ尋ねた。奈何(どんな)に二人は丑松の顔を眺めて、この可傷(いたま)しい報知(しらせ)の事実を想像したらう。奈何に二人は昨夜の不思議な出来事を聞取つて、女心に恐しくあさましく考へたらう。奈何に二人は世にある多くの例(ためし)を思出して、死を告げる前兆(しらせ)、逢ひに来る面影、または闇を飛ぶといふ人魂(ひとだま)の迷信なぞに事寄せて、この暗合した事実に胸を騒がせたらう。
「それはさうと、」と奥様は急に思付いたやうに、「まだ貴方は朝飯前でせう。」
「あれ、左様(さう)でしたねえ。」とお志保も言葉を添へた。
「瀬川さん。そんなら準備(したく)して御出(おいで)なすつて下さい。今直に御飯にいたしますから。是(これ)から御出掛なさるといふのに、生憎(あいにく)何にも無くて御気の毒ですねえ――塩鮭(しほびき)でも焼いて上げませうか。」
奥様はもう涙ぐんで、蔵裏(くり)の内をぐる/\廻つて歩いた。長い年月の精舎(しやうじや)の生活は、この女の性質を感じ易く気短くさせたのである。
「なむあみだぶ。」
と斯(こ)の有髪(うはつ)の尼(あま)は独語(ひとりごと)のやうに唱へて居た。
丑松は二階へ上つて大急ぎで旅の仕度をした。場合が場合、土産も買はず、荷物も持たず、成るべく身軽な装(なり)をして、叔母の手織の綿入を行李(かうり)の底から出して着た。丁度そこへ足を投出して、脚絆(きやはん)を着けて居るところへ、下女の袈裟治に膳を運ばせて、つゞいて入つて来たのはお志保である。いつも飯櫃(めしびつ)は出し放し、三度が三度手盛りでやるに引きかへ、斯うして人に給仕して貰ふといふは、嬉敷(うれしく)もあり、窮屈でもあり、無造作に膳を引寄せて、丑松はお志保につけて貰つて食つた。其日はお志保もすこし打解けて居た。いつものやうに丑松を恐れる様子も見えなかつた。敬之進の境涯を深く憐むといふ丑松の真実が知れてから、自然と思惑(おもはく)を憚(はゞか)る心も薄らいで、斯うして給仕して居る間にも種々(いろ/\)なことを尋ねた。お志保はまた丑松の母のことを尋ねた。
「母ですか。」と丑松は淡泊(さつぱり)とした男らしい調子で、「亡くなつたのは丁度私が八歳(やつつ)の時でしたよ。八歳といへば未だほんの小供ですからねえ。まあ、私は母のことを克(よ)く覚えても居ない位なんです――実際母親といふものゝ味を真実(ほんたう)に知らないやうなものなんです。父親(おやぢ)だつても、矢張|左様(さう)で、この六七年の間は一緒に長く居て見たことは有ません。いつでも親子はなれ/″\。実は父親も最早(もう)好い年でしたからね――左様(さう)ですなあ貴方の父上(おとつ)さんよりは少許(すこし)年長(うへ)でしたらう――彼様(あゝ)いふ風に平素(ふだん)壮健(たつしや)な人は、反(かへ)つて病気なぞに罹(かゝ)ると弱いのかも知れませんよ。私なぞは、ですから、親に縁の薄い方の人間なんでせう。と言へば、まあお志保さん、貴方だつても其御仲間ぢや有ませんか。」
斯(こ)の言葉はお志保の涙を誘ふ種となつた。あの父親とは――十三の春に是寺へ貰はれて来て、それぎり最早(もう)一緒に住んだことがない。それから、あの生(うみ)の母親とは――是はまた子供の時分に死別れて了つた。親に縁の薄いとは、丁度お志保の身の上でもある。お志保は自分の家の零落を思出したといふ風で、すこし顔を紅(あか)くして、黙つて首を垂れて了つた。
そのお志保の姿を注意して見ると、亡くなつた母親といふ人も大凡(おほよそ)想像がつく。「彼娘(あのこ)の容貌(かほつき)を見ると直(すぐ)に前(せん)の家内が我輩の眼に映る」と言つた敬之進の言葉を思出して見ると、「昔風に亭主に便(たよる)といふ風で、どこまでも我輩を信じて居た」といふ女の若い時は――いづれこのお志保と同じやうに、情の深い、涙脆(なみだもろ)い、見る度に別の人のやうな心地(こゝろもち)のする、姿ありさまの種々(いろ/\)に変るやうな人であつたに相違ない。いづれこのお志保と同じやうに、醜くも見え、美しくも見え、ある時は蒼く黄ばんで死んだやうな顔付をして居るかと思ふと、またある時は花のやうに白い中(うち)にも自然と紅味(あかみ)を含んで、若く、清く、活々とした顔付をして居るやうな人であつたに相違ない。まあ、お志保を通して想像した母親の若い時の俤(おもかげ)は斯(か)うであつた。快活な、自然な信州北部の女の美質と特色とは、矢張丑松のやうな信州北部の男子(をとこ)の眼に一番よく映るのである。
旅の仕度が出来た後、丑松はこの二階を下りて、蔵裏(くり)の広間のところで皆(みんな)と一緒に茶を飲んだ。新しい木製の珠数(じゆず)、それが奥様からの餞別であつた。やがて丑松は庄馬鹿の手作りにしたといふ草鞋(わらぢ)を穿(は)いて、人々のなさけに見送られて蓮華寺の山門を出た。 
 
第七章

 

(一)
それは忘れることの出来ないほど寂しい旅であつた。一昨年(をとゝし)の夏帰省した時に比べると、斯(か)うして千曲川(ちくまがは)の岸に添ふて、可懐(なつか)しい故郷の方へ帰つて行く丑松は、まあ自分で自分ながら、殆んど別の人のやうな心地がする。足掛三年、と言へば其程長い月日とも聞えないが、丑松の身に取つては一生の変遷(うつりかはり)の始つた時代で――尤(もつと)も、人の境遇によつては何時変つたといふことも無しに、自然に世を隔てたやうな感想(かんじ)のするものもあらうけれど――其|精神(こゝろ)の内部(なか)の革命が丑松には猛烈に起つて来て、しかも其を殊に深く感ずるのである。今は誰を憚(はゞか)るでも無い身。乾燥(はしや)いだ空気を自由に呼吸して、自分のあやしい運命を悲しんだり、生涯の変転に驚いたりして、無限の感慨に沈み乍(なが)ら歩いて行つた。千曲川の水は黄緑の色に濁つて、声も無く流れて遠い海の方へ――其岸に蹲(うづくま)るやうな低い楊柳(やなぎ)の枯々となつた光景(さま)――あゝ、依然として旧(もと)の通りな山河の眺望は、一層丑松の目を傷(いた)ましめた。時々丑松は立留つて、人目の無い路傍(みちばた)の枯草の上に倒れて、声を揚げて慟哭(どうこく)したいとも思つた。あるひは、其を為(し)たら、堪へがたい胸の苦痛(いたみ)が少許(すこし)は減つて軽く成るかとも考へた。奈何(いかん)せん、哭(な)きたくも哭くことの出来ない程、心は重く暗く閉塞(とぢふさが)つて了つたのである。
漂泊する旅人は幾群か丑松の傍(わき)を通りぬけた。落魄の涙に顔を濡して、餓(う)ゑた犬のやうに歩いて行くものもあつた。何か職業を尋ね顔に、垢染(あかじ)みた着物を身に絡(まと)ひ乍ら、素足の儘(まゝ)で土を踏んで行くものもあつた。あはれげな歌を歌ひ、鈴振鳴らし、長途の艱難を修行の生命(いのち)にして、日に焼けて罪滅(つみほろぼ)し顔な巡礼の親子もあつた。または自堕落な編笠姿(あみがさすがた)、流石(さすが)に世を忍ぶ風情(ふぜい)もしをらしく、放肆(ほしいまゝ)に恋慕の一曲を弾じて、銭を乞ふやうな卑(いや)しい芸人の一組もあつた。丑松は眺め入つた。眺め入り乍ら、自分の身の上と思ひ比べた。奈何(どんな)に丑松は今の境涯の遣瀬(やるせ)なさを考へて、自在に漂泊する旅人の群を羨んだらう。
飯山を離れて行けば行く程、次第に丑松は自由な天地へ出て来たやうな心地(こゝろもち)がした。北国街道の灰色な土を踏んで、花やかな日の光を浴び乍ら、時には岡に上り時には桑畠の間を歩み、時にはまた街道の両側に並ぶ町々を通過ぎて、汗も流れ口も乾き、足袋(たび)も脚絆も塵埃(ほこり)に汚(まみ)れて白く成つた頃は、反(かへ)つて少許(すこし)蘇生の思に帰つたのである。路傍(みちばた)の柿の樹は枝も撓(たわ)むばかりに黄な珠を見せ、粟は穂を垂れ、豆は莢(さや)に満ち、既に刈取つた田畠には浅々と麦の萌(も)え初めたところもあつた。遠近(をちこち)に聞える農夫の歌、鳥の声――あゝ、山家でいふ「小六月」だ。其日は高社山一帯の山脈も面白く容(かたち)を顕(あらは)して、山と山との間の深い谷蔭には、青々と炭焼の煙の立登るのも見えた。
蟹沢(かにざは)の出はづれで、当世風の紳士を乗せた一台の人力車(くるま)が丑松に追付いた。見れば天長節の朝、式場で演説した高柳利三郎。代議士の候補者に立つものは、そろ/\政見を発表する為に忙しくなる時節。いづれ是人も、選挙の準備(したく)として、地方廻りに出掛けるのであらう。と見る丑松の側(わき)を、高柳は意気揚々として、すこし人を尻目にかけて、挨拶も為(せ)ずに通過ぎた。二三町離れて、車の上の人は急に何か思付いたやうに、是方(こちら)を振返つて見たが、別に丑松の方では気にも留めなかつた。
日は次第に高くなつた。水内(みのち)の平野は丑松の眼前(めのまへ)に展けた。それは広濶(ひろ/″\)とした千曲川の流域で、川上から押流す泥砂の一面に盛上つたところを見ても、氾濫(はんらん)の凄(すさま)じさが思ひやられる。見渡す限り田畠は遠く連ねて、欅(けやき)の杜(もり)もところ/″\。今は野も山も濃く青い十一月の空気を呼吸するやうで、うら枯れた中にも活々(いき/\)とした自然の風趣(おもむき)を克(よ)く表して居る。早く斯(こ)の川の上流へ――小県(ちひさがた)の谷へ――根津の村へ、斯う考へて、光の海を望むやうな可懐(なつか)しい故郷の空をさして急いだ。
豊野と言つて汽車に乗るべきところへ着いたは、午後の二時頃。車で駈付けた高柳も、同じ列車を待合せて居たと見え、発車時間の近いた頃に休茶屋からやつて来た。「何処(どこ)へ行くのだらう、彼(あの)男は。」斯う思ひ乍ら、丑松は其となく高柳の様子を窺(うかゞ)ふやうにして見ると、先方(さき)も同じやうに丑松を注意して見るらしい。それに、不思議なことには、何となく丑松を避けるといふ風で、成るべく顔を合すまいと勉めて居た。唯互ひに顔を知つて居るといふ丈、つひぞ名乗合つたことが有るではなし、二人は言葉を交さうともしなかつた。
軈て発車を報せる鈴の音が鳴つた。乗客はいづれも埒(らち)の中へと急いだ。盛(さかん)な黒烟(くろけぶり)を揚げて直江津の方角から上つて来た列車は豊野|停車場(ステーション)の前で停つた。高柳は逸早(いちはや)く群集(ひとごみ)の中を擦抜(すりぬ)けて、一室の扉(と)を開けて入る。丑松はまた機関車|近邇(より)の一室を択(えら)んで乗つた。思はず其処に腰掛けて居た一人の紳士と顔を見合せた時は、あまりの奇遇に胸を打たれたのである。
「やあ――猪子先生。」
と丑松は帽子を脱いで挨拶した。紳士も、意外な処で、といふ驚喜した顔付。
「おゝ、瀬川君でしたか。」
(二)
夢寐(むび)にも忘れなかつた其人の前に、丑松は今偶然にも腰掛けたのである。壮年の発達に驚いたやうな目付をして、可懐(なつか)しさうに是方(こちら)を眺めたは、蓮太郎。敬慕の表情を満面に輝かし乍ら、帰省の由緒(いはれ)を物語るのは、丑松。実に是|邂逅(めぐりあひ)の唐突で、意外で、しかも偽りも飾りも無い心の底の外面(そと)に流露(あらは)れた光景(ありさま)は、男性(をとこ)と男性との間に稀(たま)に見られる美しさであつた。
蓮太郎の右側に腰掛けて居た、背の高い、すこし顔色の蒼い女は、丁度読みさしの新聞を休(や)めて、丑松の方を眺めた。玻璃越(ガラスご)しに山々の風景を望んで居た一人の肥大な老紳士、是も窓のところに倚凭(よりかゝ)つて、振返つて二人の様子を見比べた。
新聞で蓮太郎のことを読んで見舞状まで書いた丑松は、この先輩の案外元気のよいのを眼前(めのまへ)に見て、喜びもすれば不思議にも思つた。かねて心配したり想像したりした程に身体(からだ)の衰弱(おとろへ)が目につくでも無い。強い意志を刻んだやうな其大な額――いよ/\高く隆起(とびだ)した其頬の骨――殊に其眼は一種の神経質な光を帯びて、悲壮な精神(こゝろ)の内部(なか)を明白(あり/\)と映して見せた。時として顔の色沢(いろつや)なぞを好く見せるのは彼(あ)の病気の習ひ、あるひは其故(そのせゐ)かとも思はれるが、まあ想像したと見たとは大違ひで、血を吐く程の苦痛(くるしみ)をする重い病人のやうには受取れなかつた。早速丑松は其事を言出して、「実は新聞で見ました」から、「東京の御宅へ宛てゝ手紙を上げました」まで、真実を顔に表して話した。
「へえ、新聞に其様(そん)なことが出て居ましたか。」と蓮太郎は微笑(ほゝゑ)んで、「聞違へでせう――不良(わる)かつたといふのを、今|不良(わる)いといふ風に、聞違へて書いたんでせう。よく新聞には左様(さう)いふ間違ひが出て来ますよ。まあ御覧の通り、斯うして旅行が出来る位ですから安心して下さい。誰がまた其様(そん)な大袈裟(おほげさ)なことを書いたか――はゝゝゝゝ。」
聞いて見ると、蓮太郎は赤倉の温泉へ身体を養ひに行つて、今其|帰途(かへりみち)であるとのこと。其時|同伴(つれ)の人々をも丑松に紹介した。右側に居る、何となく人格の奥床(おくゆか)しい女は、先輩の細君であつた。肥大な老紳士は、かねて噂(うはさ)に聞いた信州の政客(せいかく)、この冬打つて出ようとして居る代議士の候補者の一人、雄弁と侠気(をとこぎ)とで人に知られた弁護士であつた。
「あゝ、瀬川君と仰(おつしや)るんですか。」と弁護士は愛嬌(あいけう)のある微笑(ほゝゑみ)を満面に湛へ乍ら、快活な、磊落(らいらく)な調子で言つた。「私は市村です――只今長野に居ります――何卒(どうか)まあ以後御心易く。」
「市村君と僕とは、」蓮太郎は丑松の顔を眺めて、「偶然なことから斯様(こんな)に御懇意にするやうになつて、今では非常な御世話に成つて居ります。僕の著述のことでは、殊にこの市村君が心配して居て下さるんです。」
「いや。」と弁護士は肥大な身体を動(ゆす)つた。「我輩こそ反(かへ)つて種々(いろ/\)御世話に成つて居るので――まあ、年だけは猪子君の方がずつと若い、はゝゝゝゝ、しかし其他のことにかけては、我輩の先輩です。」斯う言つて、何か思出したやうに嘆息して、「近頃の人物を数へると、いづれも年少気鋭の士ですね。我輩なぞは斯の年齢(とし)に成つても、未だ碌々(ろく/\)として居るやうな訳で、考へて見れば実に御恥しい。」
斯(か)ういふ言葉の中には、真に自身の老大を悲むといふ情(こゝろ)が表れて、創意のあるものを忌(い)むやうな悪い癖は少許(すこし)も見えなかつた。そも/\は佐渡の生れ、斯の山国に落着いたは今から十年程前にあたる。善にも強ければ悪にも強いと言つたやうな猛烈な気象から、種々(さま/″\)な人の世の艱難、長い政治上の経験、権勢の争奪、党派の栄枯の夢、または国事犯としての牢獄の痛苦、其他多くの訴訟人と罪人との弁護、およそありとあらゆる社会の酸いと甘いとを嘗(な)め尽して、今は弱いもの貧しいものゝ味方になるやうな、涙脆い人と成つたのである。天の配剤ほど不思議なものは無い――この政客が晩年に成つて、学もあり才もある穢多を友人に持たうとは。
猶(なほ)深く聞いて見ると、これから市村弁護士は上田を始めとして、小諸、岩村田、臼田なぞの地方を遊説する為、政見発表の途(みち)に上るのであるとのこと。親しく佐久小県地方の有権者を訪問して草鞋穿(わらぢばき)主義で選挙を争ふ意気込であるとのこと。蓮太郎はまた、この友人の応援の為、一つには自分の研究の為、しばらく可懐(なつか)しい信州に踏止まりたいといふ考へで、今宵は上田に一泊、いづれ二三日の内には弁護士と同道して、丑松の故郷といふ根津村へも出掛けて行つて見たいとのことであつた。この「根津村へも」が丑松の心を悦ばせたのである。
「そんなら、瀬川さんは今飯山に御奉職(おいで)ですな。」と弁護士は丑松に尋ねて見た。
「飯山――彼処からは候補者が出ませう? 御存じですか、あの高柳利三郎といふ男を。」
蛇(じや)の道は蛇(へび)だ。弁護士は直に其を言つた。丑松は豊野の停車場(ステーション)で落合つたことから、今この同じ列車に乗込んで居るといふことを話した。何か思当ることが有るかして、弁護士は不思議さうに首を傾(かし)げ乍(なが)ら、「何処へ行くのだらう」を幾度となく繰返した。
「しかし、是だから汽車の旅は面白い。同じ列車の内に乗合せて居ても、それで互ひに知らずに居るのですからなあ。」
斯う言つて弁護士は笑つた。
病のある身ほど、人の情の真(まこと)と偽(いつはり)とを烈しく感ずるものは無い。心にも無いことを言つて慰めて呉れる健康(たつしや)な幸福者(しあはせもの)の多い中に、斯ういふ人々ばかりで取囲(とりま)かれる蓮太郎の嬉(うれ)しさ。殊に丑松の同情(おもひやり)は言葉の節々にも表れて、それがまた蓮太郎の身に取つては、奈何(どんな)にか胸に徹(こた)へるといふ様子であつた。其時細君は籠の中に入れてある柿を取出した。それは汽車の窓から買取つたもので、其色の赤々としてさも甘さうに熟したやつを、択(よ)つて丑松にも薦(すゝ)め、弁護士にも薦めた。蓮太郎も一つ受取つて、秋の果実(このみ)のにほひを嗅(か)いで見乍(みなが)ら、さて種々(さま/″\)な赤倉温泉の物語をした。越後の海岸まで旅したことを話した。蓮太郎は又、東京の市場で売られる果実(くだもの)なぞに比較して、この信濃路の柿の新しいこと、甘いことを賞めちぎつて話した。
駅々で車の停る毎に、農夫の乗客が幾群か入込んだ。今は室の内も放肆(ほしいまゝ)な笑声と無遠慮な雑談とで満さるゝやうに成つた。それに、東海道沿岸などの鉄道とは違ひ、この荒寥(くわうれう)とした信濃路のは、汽車までも旧式で、粗造で、山家風だ。其列車が山へ上るにつれて、窓の玻璃(ガラス)に響いて烈しく動揺する。終(しまひ)には談話(はなし)も能(よ)く聞取れないことがある。油のやうに飯山あたりの岸を浸す千曲川の水も、見れば大な谿流の勢に変つて、白波を揚げて谷底を下るのであつた。濃く青く清々とした山気は窓から流込んで、次第に高原へ近(ちかづ)いたことを感ぜさせる。
軈(やが)て、汽車は上田へ着いた。旅人は多くこの停車場(ステーション)で下りた。蓮太郎も、妻君も、弁護士も。「瀬川君、いづれそれでは根津で御目に懸ります――失敬。」斯(か)う言つて、再会を約して行く先輩の後姿を、丑松は可懐(なつか)しさうに見送つた。
急に室の内は寂しくなつたので、丑松は冷い鉄の柱に靠(もた)れ乍ら、眼を瞑(つむ)つて斯(こ)の意外な邂逅(めぐりあひ)を思ひ浮べて見た。慾を言へば、何となく丑松は物足りなかつた。彼程(あれほど)打解けて呉れて、彼程隔ての無い言葉を掛けられても、まだ丑松は何処かに冷淡(よそ/\)しい他人行儀なところがあると考へて、奈何(どう)して是程の敬慕の情が彼の先輩の心に通じないのであらう、と斯う悲しくも情なくも思つたのである。嫉(ねた)むでは無いが、彼(か)の老紳士の親しくするのが羨ましくも思はれた。
其時になつて丑松も明(あきらか)に自分の位置を認めることが出来た。敬慕も、同情も、すべて彼の先輩に対して起る心の中のやるせなさは――自分も亦た同じやうに、「穢多である」といふ切ない事実から湧上るので。其秘密を蔵(かく)して居る以上は、仮令(たとひ)口の酸くなるほど他の事を話したところで、自分の真情が先輩の胸に徹(こた)へる時は無いのである。無理もない。あゝ、あゝ、其を告白(うちあ)けて了つたなら、奈何(どんな)に是胸の重荷が軽くなるであらう。奈何に先輩は驚いて、自分の手を執つて、「君も左様(さう)か」と喜んで呉れるであらう。奈何に二人の心と心とがハタと顔を合せて、互ひに同じ運命を憐むといふ其深い交際(まじはり)に入るであらう。
左様(さう)だ――せめて彼の先輩だけには話さう。斯う考へて、丑松は楽しい再会の日を想像して見た。
(三)
田中の停車場(ステーション)へ着いた頃は日暮に近かつた。根津村へ行かうとするものは、こゝで下りて、一里あまり小県(ちひさがた)の傾斜を上らなければならない。
丑松が汽車から下りた時、高柳も矢張同じやうに下りた。流石(さすが)代議士の候補者と名乗る丈あつて、風采(おしだし)は堂々とした立派なもの。権勢と奢侈とで饑(う)ゑたやうな其姿の中には、何処(どこ)となく斯(か)う沈んだところもあつて、時々盗むやうに是方(こちら)を振返つて見た。成るべく丑松を避けるといふ風で、顔を合すまいと勉めて居ることは、いよ/\其|素振(そぶり)で読めた。「何処へ行(いく)のだらう、彼男は。」と見ると、高柳は素早く埒(らち)を通り抜けて、引隠れる場処を欲しいと言つたやうな具合に、旅人の群に交つたのである。深く外套に身を包んで、人目を忍んで居るさへあるに、出迎への人々に取囲(とりま)かれて、自分と同じ方角を指して出掛けるとは。
北国街道を左へ折れて、桑畠(くはばたけ)の中の細道へ出ると、最早(もう)高柳の一行は見えなかつた。石垣で積上げた田圃と田圃との間の坂路を上るにつれて、烏帽子(ゑぼし)山脈の大傾斜が眼前(めのまへ)に展けて来る。広野、湯の丸、籠の塔、または三峯(さんぽう)、浅間の山々、其他ところ/″\に散布する村落、松林――一つとして回想(おもひで)の種と成らないものはない。千曲川(ちくまがは)は遠く谷底を流れて、日をうけておもしろく光るのであつた。
其日は灰紫色の雲が西の空に群(むらが)つて、飛騨(ひだ)の山脈を望むことは出来なかつた。あの千古人跡の到らないところ、もし夕雲の隔(へだ)てさへ無くば、定めし最早(もう)皚々(がい/\)とした白雪が夕日を帯びて、天地の壮観は心を驚かすばかりであらうと想像せられる。山を愛するのは丑松の性分で、斯うして斯の大傾斜大谿谷の光景(ありさま)を眺めたり、又は斯の山間に住む信州人の素朴な風俗と生活とを考へたりして、岩石の多い凸凹(でこぼこ)した道を踏んで行つた時は、若々しい総身の血潮が胸を衝(つ)いて湧上るやうに感じた。今は飯山の空も遠く隔つた。どんなに丑松は山の吐く空気を呼吸して、暫時(しばらく)自分を忘れるといふ其楽しい心地に帰つたであらう。
山上の日没も美しく丑松の眼に映つた。次第に薄れて行く夕暮の反射を受けて、山々の色も幾度(いくたび)か変つたのである。赤は紫に。紫は灰色に。終(しまひ)には野も岡も暮れ、影は暗く谷から谷へ拡つて、最後の日の光は山の巓(いたゞき)にばかり輝くやうになつた。丁度天空の一角にあたつて、黄ばんで燃える灰色の雲のやうなは、浅間の煙の靡(なび)いたのであらう。
斯(か)ういふ楽しい心地(こゝろもち)は、とは言へ、長く続かなかつた。荒谷(あらや)のはづれ迄行けば、向ふの山腹に連なる一村の眺望、暮色に包まれた白壁土壁のさま、其山家風の屋根と屋根との間に黒ずんで見えるのは柿の梢(こずゑ)か――あゝ根津だ。帰つて行く農夫の歌を聞いてすら、丑松はもう胸を騒がせるのであつた。小諸の向町から是処(こゝ)へ来て隠れた父の生涯(しやうがい)、それを考へると、黄昏(たそがれ)の景気を眺める気も何も無くなつて了(しま)ふ。切なさは可懐(なつか)しさに交つて、足もおのづから慄(ふる)へて来た。あゝ、自然の胸懐(ふところ)も一時(ひととき)の慰藉(なぐさめ)に過ぎなかつた。根津に近(ちかづ)けば近くほど、自分が穢多である、調里(新平民の異名)である、と其|心地(こゝろもち)が次第に深く襲(おそ)ひ迫つて来たので。
暗くなつて第二の故郷へ入つた。もと/\父が家族を引連れて、この片田舎に移つたのは、牧場へ通ふ便利を考へたばかりで無く、僅少(わづか)ばかりの土地を極く安く借受けるやうな都合もあつたからで。現に叔父が耕して居るのは其畠である。流石(さすが)に用心深い父は人目につかない村はづれを択(えら)んだので、根津の西町から八町程離れて、とある小高い丘の裾(すそ)のところに住んだ。
長野県小県郡根津村大字姫子沢――丑松が第二の故郷とは、其五十戸ばかりの小部落を言ふのである。
(四)
父の死去した場処は、斯(こ)の根津村の家ではなくて、西乃入(にしのいり)牧場の番小屋の方であつた。叔父は丑松の帰村を待受けて、一緒に牧場へ出掛ける心算(つもり)であつたので、兎も角も丑松を炉辺(ろばた)に座(す)ゑ、旅の疲労(つかれ)を休めさせ、例の無慾な、心の好ささうな声で、亡くなつた人の物語を始めた。炉の火は盛(さかん)に燃えた。叔母も啜(すゝ)り上げ乍(なが)ら耳を傾けた。聞いて見ると、父の死去は、老の為でもなく、病の為でも無かつた。まあ、言はゞ、職業の為に突然な最後を遂げたのであつた。一体、父が家畜を愛する心は天性に近かつたので、随つて牧夫としての経験も深く、人にも頼まれ、牧場の持主にも信ぜられた位。牛の性質なぞはなか/\克(よ)く暗記して居たもの。よもや彼(あ)の老練な人が其道に手ぬかりなどの有らうとは思はれない。そこがそれ人の一生の測りがたさで、不図(ふと)ある種牛を預つた為に、意外な出来事を引起したのであつた。種牛といふのは性質(たち)が悪かつた。尤(もつと)も、多くの牝牛(めうし)の群の中へ、一頭の牡牛(をうし)を放つのであるから、普通の温順(おとな)しい種牛ですら荒くなる。時としては性質が激変する。まして始めから気象の荒い雑種と来たから堪(たま)らない。広濶(ひろ/″\)とした牧場の自由と、誘ふやうな牝牛の鳴声とは、其種牛を狂ふばかりにさせた。終(しまひ)には家養の習慣も忘れ、荒々しい野獣の本性(ほんしやう)に帰つて、行衛(ゆくへ)が知れなくなつて了(しま)つたのである。三日|経(た)つても来ない。四日経つても帰らない。さあ、父は其を心配して、毎日水草の中を捜(さが)して歩いて、ある時は深い沢を分けて日の暮れる迄も尋ねて見たり、ある時は山から山を猟(あさ)つて高い声で呼んで見たりしたが、何処にも影は見えなかつた。昨日の朝、父はまた捜しに出た。いつも遠く行く時には、必ず昼飯(ひる)を用意して、例の「山猫」(鎌(かま)、鉈(なた)、鋸(のこぎり)などの入物)に入れて背負(しよ)つて出掛ける。ところが昨日に限つては持たなかつた。時刻に成つても帰らない。手伝ひの男も不思議に思ひ乍ら、塩を与へる為に牛小屋のあるところへ上つて行くと、牝牛の群が喜ばしさうに集まつて来る。丁度其中には、例の種牛も恍(とぼ)け顔(がほ)に交つて居た。見れば角は紅く血に染つた。驚きもし、呆(あき)れもして、来合せた人々と一緒になつて取押へたが、其時はもう疲れて居た故(せゐ)か、別に抵抗(てむかひ)も為なかつた。さて男は其処此処(そここゝ)と父を探して歩いた。漸(やうや)く岡の蔭の熊笹の中に呻吟(うめ)き倒れて居るところを尋ね当てゝ、肩に掛けて番小屋迄連れ帰つて見ると、手当も何も届かない程の深傷(ふかで)。叔父が聞いて駈付けた時は、まだ父は確乎(しつかり)して居た。最後に気息(いき)を引取つたのが昨夜の十時頃。今日は人々も牧場に集つて、番小屋で通夜と極めて、いづれも丑松の帰るのを待受けて居るとのことであつた。
「といふ訳で、」と叔父は丑松の顔を眺めた。「私が阿兄(あにき)に、何か言つて置くことはねえか、と尋ねたら、苦しい中にも気象はしやんとしたもので、「俺も牧夫だから、牛の為に倒れるのは本望だ。今となつては他に何にも言ふことはねえ。唯気にかゝるのは丑松のこと。俺が今日迄の苦労は、皆な彼奴(あいつ)の為を思ふから。日頃俺は彼奴に堅く言聞かせて置いたことがある。何卒(どうか)丑松が帰つて来たら、忘れるな、と一言|左様(さう)言つてお呉れ。」」
丑松は首を垂れて、黙つて父の遺言を聞いて居た。叔父は猶(なほ)言葉を継いで、
「「それから、俺は斯(こ)の牧場の土と成りたいから、葬式は根津の御寺でしねえやうに、成るなら斯の山でやつてお呉れ。俺が亡(な)くなつたとは、小諸(こもろ)の向町へ知らせずに置いてお呉れ――頼む。」と斯う言ふから、其時|私(わし)が「むゝ、解つた、解つた」と言つてやつたよ。すると阿兄(あにき)は其が嬉(うれ)しかつたと見え、につこり笑つて、軈(やが)て私の顔を眺め乍らボロ/\と涙を零(こぼ)した。それぎりもう阿兄は口を利かなかつた。」
斯ういふ父の臨終の物語は、言ふに言はれぬ感激を丑松の心に与へたのである。牧場の土と成りたいと言ふのも、山で葬式をして呉れと言ふのも、小諸の向町へ知らせずに置いて呉れと言ふのも、畢竟(つま)るところは丑松の為を思ふからで。丑松は其精神を酌取(くみと)つて、父の用意の深いことを感ずると同時に、又、一旦斯うと思ひ立つたことは飽くまで貫かずには置かないといふ父の気魄(たましひ)の烈しさを感じた。実際、父が丑松に対する時は、厳格を通り越して、残酷な位であつた。亡くなつた後までも、猶(なほ)丑松は父を畏(おそ)れたのである。
やがて丑松は叔父と一緒に、西乃入牧場を指して出掛けることになつた。万事は叔父の計らひで、検屍(けんし)も済み、棺も間に合ひ、通夜の僧は根津の定津院(じやうしんゐん)の長老を頼んで、既に番小屋の方へ登つて行つたとのこと。明日の葬式の用意は一切叔父が呑込んで居た。丑松は唯出掛けさへすればよかつた。此処から烏帽子(ゑぼし)ヶ|獄(だけ)の麓まで二十町あまり。其間、田沢の峠なぞを越して、寂しい山道を辿らなければならない。其晩は鼻を掴(つ)まゝれる程の闇で、足許(あしもと)さへも覚束なかつた。丑松は先に立つて、提灯の光に夜路を照らし乍ら、山深く叔父を導いて行つた。人里を離れて行けば行くほど、次第に路は細く、落ち朽ちた木葉を踏分けて僅かに一条(ひとすぢ)の足跡があるばかり。こゝは丑松が少年の時代に、克(よ)く父に連れられて、往つたり来たりしたところである。牛小屋のある高原の上へ出る前に、二人はいくつか小山を越えた。
(五)
谷を下ると其処がもう番小屋で、人々は狭い部屋の内に集つて居た。灯は明々(あか/\)と壁を泄(も)れ、木魚(もくぎよ)の音も山の空気に響き渡つて、流れ下る細谷川の私語(さゝやき)に交つて、一層の寂しさあはれさを添へる。家の構造(つくり)は、唯|雨露(あめつゆ)を凌ぐといふばかりに、葺(ふ)きもし囲ひもしてある一軒屋。たまさか殿城山の間道を越えて鹿沢(かざは)温泉へ通ふ旅人が立寄るより外には、訪(と)ふ人も絶えて無いやうな世離れたところ。炭焼、山番、それから斯の牛飼の生活――いづれも荒くれた山住の光景(ありさま)である。丑松は提灯(ちやうちん)を吹消して、叔父と一緒に小屋の戸を開けて入つた。
定津院の長老、世話人と言つて姫子沢の組合、其他父が生前懇意にした農家の男女(をとこをんな)――それらの人々から丑松は親切な弔辞(くやみ)を受けた。仏前の燈明は線香の烟(けぶり)に交る夜の空気を照らして、何となく部屋の内も混雑して居るやうに見える。父の遺骸(なきがら)を納めたといふは、極(ご)く粗末な棺。其|周囲(まはり)を白い布で巻いて、前には新しい位牌(ゐはい)を置き、水、団子、外には菊、樒(しきみ)の緑葉(みどりば)なぞを供へてあつた。読経も一きりになつた頃、僧の注意で、年老いた牧夫の見納めの為に、かはる/″\棺の前に立つた。死別の泪(なみだ)は人々の顔を流れたのである。丑松も叔父に導かれ、すこし腰を曲(こゞ)め、薄暗い蝋燭(らふそく)の灯影に是世の最後の別離(わかれ)を告げた。見れば父は孤独な牧夫の生涯を終つて、牧場の土深く横はる時を待つかのやう。死顔は冷かに蒼(あをざ)めて、血の色も無く変りはてた。叔父は例の昔気質(むかしかたぎ)から、他界(あのよ)の旅の便りにもと、編笠、草鞋(わらぢ)、竹の輪なぞを取添へ、別に魔除(まよけ)と言つて、刃物を棺の蓋の上に載せた。軈(やが)て復(ま)た読経(どきやう)が始まる、木魚の音が起る、追懐の雑談は無邪気な笑声に交つて、物食ふ音と一緒になつて、哀しくもあり、騒がしくもあり、人々に妨げられて丑松は旅の疲労(つかれ)を休めることも出来なかつた。
一夜は斯ういふ風に語り明した。小諸の向町へは通知して呉れるなといふ遺言もあるし、それに移住(ひつこし)以来(このかた)十七年あまりも打絶えて了つたし、是方(こちら)からも知らせてやらなければ、向ふからも来なかつた。昔の「お頭」が亡くなつたと聞伝へて、下手なものにやつて来られては反つて迷惑すると、叔父は唯そればかり心配して居た。斯の叔父に言はせると、墓を牧場に択んだのは、かねて父が考へて居たことで。といふは、もし根津の寺なぞへ持込んで、普通の農家の葬式で通ればよし、さも無かつた日には、断然|謝絶(ことわ)られるやうな浅猿(あさま)しい目に逢ふから。習慣の哀しさには、穢多は普通の墓地に葬る権利が無いとしてある。父は克く其を承知して居た。父は生前も子の為に斯ういふ山奥に辛抱して居た。死後もまた子の為に斯の牧場に眠るのを本望としたのである。
「どうかして斯の「おじやんぼん」(葬式)は無事に済ましたい――なあ、丑松、俺はこれでも気が気ぢやねえぞよ。」
斯ういふ心配は叔父ばかりでは無かつた。
翌日(あくるひ)の午後は、会葬の男女(をとこをんな)が番小屋の内外(うちそと)に集つた。牧場の持主を始め、日頃牝牛を預けて置く牛乳屋なぞも、其と聞伝へたかぎりは弔ひにやつて来た。父の墓地は岡の上の小松の側(わき)と定まつて、軈(やが)ていよいよ野辺送りを為ることになつた時は、住み慣れた小屋の軒を舁(かつ)がれて出た。棺の後には定津院の長老、つゞいて腕白顔な二人の子坊主、丑松は叔父と一緒に藁草履穿(わらざうりばき)、女はいづれも白の綿帽子を冠つた。人々は思ひ/\の風俗、紋付もあれば手織縞(ておりじま)の羽織もあり、山家の習ひとして多くは袴も着けなかつた。斯の飾りの無い一行の光景(ありさま)は、素朴な牛飼の生涯に克(よ)く似合つて居たので、順序も無く、礼儀も無く、唯|真心(まごゝろ)こもる情一つに送られて、静かに山を越えた。
式も亦(ま)た簡短であつた。単調子な鉦(かね)、太鼓、鐃※[金+祓のつくり](ねうはち)の音、回想(おもひで)の多い耳には其も悲哀な音楽と聞え、器械的な回向と読経との声、悲嘆(なげき)のある胸には其もあはれの深い挽歌(ばんか)のやうに響いた。礼拝(らいはい)し、合掌し、焼香して、軈て帰つて行く人々も多かつた。棺は間もなく墓と定めた場処へ移されたので、そこには掘起された「のつぺい」(土の名)が堆高(うづたか)く盛上げられ、咲残る野菊の花も土足に踏散らされてあつた。人々は土を掴(つか)んで、穴をめがけて投入れる。叔父も丑松も一塊(ひとかたまり)づゝ投入れた。最後に鍬(くは)で掻落した時は、崖崩れのやうな音して烈しく棺の蓋を打つ。それさへあるに、土気の襄上(のぼ)る臭気(にほひ)は紛(ぷん)と鼻を衝(つ)いて、堪へ難い思をさせるのであつた。次第に葬られて、小山の形の土饅頭が其処に出来上るまで、丑松は考深く眺め入つた。叔父も無言であつた。あゝ、父は丑松の為に「忘れるな」の一語(ひとこと)を残して置いて、最後の呼吸にまで其精神を言ひ伝へて、斯うして牧場の土深く埋もれて了つた――もう斯世(このよ)の人では無かつたのである。
(六)
兎(と)も角(かく)も葬式は無事に済(す)んだ。後の事は牧場の持主に頼み、番小屋は手伝ひの男に預けて、一同姫子沢へ引取ることになつた。斯(こ)の小屋に飼養(かひやしな)はれて居る一匹の黒猫、それも父の形見であるからと、しきりに丑松は連帰らうとして見たが、住慣(すみな)れた場処に就く家畜の習ひとして、離れて行くことを好まない。物を呉れても食はず、呼んでも姿を見せず、唯縁の下をあちこちと鳴き悲む声のあはれさ。畜生|乍(なが)らに、亡くなつた主人を慕ふかと、人々も憐んで、是(これ)から雪の降る時節にでも成らうものなら何を食つて山籠りする、と各自(てんで)に言ひ合つた。「可愛さうに、山猫にでも成るだらず。」斯う叔父は言つたのである。
やがて人々は思ひ/\に出掛けた。番小屋を預かる男は塩を持つて、岡の上まで見送り乍ら随(つ)いて来た。十一月上旬の日の光は淋しく照して、この西乃入牧場に一層|荒寥(くわうれう)とした風趣(おもむき)を添へる。見れば小松はところ/″\。山躑躅(やまつゝじ)は、多くの草木の中に、牛の食はないものとして、反(かへ)つて一面に繁茂して居るのであるが、それも今は霜枯れて見る影が無い。何もかも父の死を冥想させる種と成る。愁(うれ)ひつゝ丑松は小山の間の細道を歩いた。父を斯(こ)の牧場に訪れたは、丁度足掛三年前の五月の下旬であつたことを思出した。それは牛の角の癢(かゆ)くなるといふ頃で、斯の枯々な山躑躅が黄や赤に咲乱れて居たことを思出した。そここゝに蕨(わらび)を采(と)る子供の群を思出した。山鳩の啼(な)く声を思出した。其時は心地(こゝろもち)の好い微風(そよかぜ)が鈴蘭(君影草とも、谷間の姫百合とも)の花を渡つて、初夏の空気を匂はせたことを思出した。父は又、岡の上の新緑を指して見せて、斯の西乃入には柴草が多いから牛の為に好いと言つたことを思出した。其青葉を食ひ、塩を嘗(な)め、谷川の水を飲めば、牛の病は多く癒(なほ)ると言つたことを思出した。父はまた附和(つけた)して、さま/″\な牧畜の経験、類を以て集る牛の性質、初めて仲間入する時の角押しの試験、畜生とは言ひ乍ら仲間同志を制裁する力、其他女王のやうに牧場を支配する一頭の牝牛なぞの物語をして、それがいかにも面白く思はれたことを思出した。
父は斯(こ)の烏帽子(ゑぼし)ヶ|嶽(だけ)の麓に隠れたが、功名を夢見る心は一生火のやうに燃えた人であつた。そこは無欲な叔父と大に違ふところで、その制(おさ)へきれないやうな烈しい性質の為に、世に立つて働くことが出来ないやうな身分なら、寧(いつ)そ山奥へ高踏(ひつこ)め、といふ憤慨の絶える時が無かつた。自分で思ふやうに成らない、だから、せめて子孫は思ふやうにしてやりたい。自分が夢見ることは、何卒(どうか)子孫に行はせたい。よしや日は西から出て東へ入る時があらうとも、斯(この)志ばかりは堅く執(と)つて変るな。行け、戦へ、身を立てよ――父の精神はそこに在つた。今は丑松も父の孤独な生涯を追懐して、彼(あ)の遺言に籠る希望と熱情とを一層力強く感ずるやうに成つた。忘れるなといふ一生の教訓(をしへ)の其|生命(いのち)――喘(あへ)ぐやうな男性(をとこ)の霊魂(たましひ)の其呼吸――子の胸に流れ伝はる親の其血潮――それは父の亡くなつたと一緒にいよ/\深い震動を丑松の心に与へた。あゝ、死は無言である。しかし丑松の今の身に取つては、千百の言葉を聞くよりも、一層(もつと)深く自分の一生のことを考へさせるのであつた。
牛小屋のあるところまで行くと、父の残した事業が丑松の眼に映じた。一週(ひとまはり)すれば二里半にあまるといふ天然の大牧場、そここゝの小松の傍(わき)には臥(ね)たり起きたりして居る牝牛の群も見える。牛小屋は高原の東の隅に在つて、粗造(そまつ)な柵の内には未(ま)だ角の無い犢(こうし)も幾頭か飼つてあつた。例の番小屋を預かる男は人々を款待顔(もてなしがほ)に、枯草を焚いて、猶(なほ)さま/″\の燃料(たきつけ)を掻集めて呉れる。丁度そこには叔父も丑松も待合せて居た。男も、女も、斯の焚火の周囲(まはり)に集つたかぎりは、昨夜一晩寝なかつた人々、かてゝ加へて今日の骨折――中にはもう烈しい疲労(つかれ)が出て、半分眠り乍ら落葉の焼ける香を嗅いで居るものもあつた。叔父は、牛の群に振舞ふと言つて、あちこちの石の上に二合ばかりの塩を分けてやる。父の飼ひ慣れたものかと思へば、丑松も可懐(なつか)しいやうな気になつて眺(なが)めた。それと見た一頭の黒い牝牛は尻毛を動かして、塩の方へ近(ちかづ)いて来る。眉間(みけん)と下腹と白くて、他はすべて茶褐色な一頭も耳を振つて近いた。吽(もう)と鳴いて犢(こうし)の斑(ぶち)も。さすがに見慣れない人々を憚るかして、いづれも鼻をうごめかして、塩の周囲(まはり)を遠廻りするものばかり。嘗(な)めたさは嘗めたし、烏散(うさん)な奴は見て居るし、といふ顔付をして、じり/\寄りに寄つて来るのもあつた。
斯の光景(ありさま)を見た時は、叔父も笑へば、丑松も笑つた。斯ういふ可愛らしい相手があればこそ、寂しい山奥に住まはれもするのだと、人々も一緒になつて笑つた。やがて一同暇乞ひして、斯の父の永眠の地に別離(わかれ)を告げて出掛けた。烏帽子、角間(かくま)、四阿(あづまや)、白根の山々も、今は後に隠れる。富士神社を通過(とほりす)ぎた頃、丑松は振返つて、父の墓のある方を眺めたが、其時はもう牛小屋も見えなかつた――唯、蕭条(せうでう)とした高原のかなたに当つて、細々と立登る一条(ひとすぢ)の煙の末が望まれるばかりであつた。 
 
第八章

 

(一)
西乃入に葬られた老牧夫の噂(うはさ)は、直に根津の村中へ伝播(ひろが)つた。尾鰭(をひれ)を付けて人は物を言ふのが常、まして種牛の為に傷けられたといふ事実は、些少(すくな)からず好奇(ものずき)な手合の心を驚かして、到(いた)る処に茶話の種となる。定めし前(さき)の世には恐しい罪を作つたことも有つたらう、と迷信の深い者は直に其を言つた。牧夫の来歴に就いても、南佐久の牧場から引移つて来た者だの、甲州生れだの、いや会津の武士の果で有るのと、種々(さま/″\)な臆測を言ひ触らす。唯(たゞ)、小諸(こもろ)の穢多町の「お頭(かしら)」であつたといふことは、誰一人として知るものが無かつたのである。
「御苦労|招(よ)び」(手伝ひに来て呉れた近所の人々を招く習慣)のあつた翌日(あくるひ)、丑松は会葬者への礼廻りに出掛けた。叔父も。姫子沢の家には叔母一人留守居。御茶漬|後(すぎ)(昼飯後)は殊更|温暖(あたゝか)く、日の光が裏庭の葱畠(ねぎばたけ)から南瓜(かぼちや)を乾し並べた縁側へ射し込んで、いかにも長閑(のどか)な思をさせる。追ふものが無ければ鶏も遠慮なく、垣根の傍に花を啄(つ)むもあり、鳴くもあり、座敷の畳に上つて遊ぶのもあつた。丁度叔母が表に出て、流のところに腰を曲(こゞ)め乍ら、鍋(なべ)を洗つて居ると、そこへ立つて丁寧に物を尋ねる一人の紳士がある。「瀬川さんの御宅は」と聞かれて、叔母は不思議さうな顔付。つひぞ見掛けぬ人と思ひ乍ら、冠つて居る手拭を脱(と)つて挨拶して見た。
「はい、瀬川は手前でごはすよ――失礼乍ら貴方(あんた)は何方様(どちらさま)で?」
「私ですか。私は猪子といふものです。」
蓮太郎は丑松の留守に尋ねて来たのであつた。「もう追付(おつつ)け帰つて参じやせう」を言はれて、折角(せつかく)来たものを、兎(と)も角(かく)も其では御邪魔して、暫時(しばらく)休ませて頂かう、といふことに極め、軈(やが)て叔母に導かれ乍ら、草葺(くさぶき)の軒を潜(くゞ)つて入つた。日頃農夫の生活に興を寄せる蓮太郎、斯(か)うして炉辺(ろばた)で話すのが何より嬉敷(うれしい)といふ風で、煤(すゝ)けた屋根の下を可懐(なつか)しさうに眺(なが)めた。農家の習ひとして、表から裏口へ通り抜けの庭。そこには炭俵、漬物桶、又は耕作の道具なぞが雑然(ごちや/\)置き並べてある。片隅には泥の儘(まゝ)の「かびた芋」(馬鈴薯)山のやうに。炉は直ぐ上(あが)り端(はな)にあつて、焚火の煙のにほひも楽しい感想(かんじ)を与へるのであつた。年々の暦と一緒に、壁に貼付(はりつ)けた錦絵の古く変色したのも目につく。
「生憎(あいにく)と今日(こんち)は留守にいたしやして――まあ吾家(うち)に不幸がごはしたもんだで、その礼廻りに出掛けやしてなあ。」
斯(か)う言つて、叔母は丑松の父の最後を蓮太郎に語り聞かせた。炉の火はよく燃えた。木製の自在鍵に掛けた鉄瓶(てつびん)の湯も沸々(ふつ/\)と煮立つて来たので、叔母は茶を入れて款待(もてな)さうとして、急に――まあ、記憶といふものは妙なもので、長く/\忘れて居た昔の習慣を思出した。一体普通の客に茶を出さないのは、穢多の家の作法としてある。煙草(たばこ)の火ですら遠慮する。瀬川の家も昔は斯ういふ風であつたので其を破つて普通の交際を始めたのは、斯(こ)の姫子沢へ移住(ひつこ)してから以来(このかた)。尤(もつと)も長い月日の間には、斯の新しい交際に慣れ、自然(おのづ)と出入りする人々に馴染(なじ)み、茶はおろか、物の遣り取りもして、春は草餅を贈り、秋は蕎麦粉(そばこ)を貰ひ、是方(こちら)で何とも思はなければ、他(ひと)も怪みはしなかつたのである。叔母が斯様(こん)な昔の心地(こゝろもち)に帰つたは近頃無いことで――それも其筈(そのはず)、姫子沢の百姓とは違つて気恥しい珍客――しかも突然(だしぬけ)に――昔者の叔母は、だから、自分で茶を汲む手の慄へに心付いた程。蓮太郎は其様(そん)なことゝも知らないで、さも/\甘(うま)さうに乾いた咽喉(のど)を濡(うるほ)して、さて種々(さま/″\)な談話(はなし)に笑ひ興じた。就中(わけても)、丑松がまだ紙鳶(たこ)を揚げたり独楽(こま)を廻したりして遊んだ頃の物語に。
「時に、」と蓮太郎は何か深く考へることが有るらしく、「つかんことを伺ふやうですが、斯(こ)の根津の向町に六左衛門といふ御大尽(おだいじん)があるさうですね。」
「はあ、ごはすよ。」と叔母は客の顔を眺めた。
「奈何(どう)でせう、御聞きでしたか、そこの家(うち)につい此頃婚礼のあつたとかいふ話を。」
斯う蓮太郎は何気なく尋ねて見た。向町は斯の根津村にもある穢多の一部落。姫子沢とは八町程離れて、西町の町はづれにあたる。其処に住む六左衛門といふは音に聞えた穢多の富豪(ものもち)なので。
「あれ、少許(ちつと)も其様(そん)な話は聞きやせんでしたよ。そんなら聟(むこ)さんが出来やしたかいなあ――長いこと彼処(あすこ)の家の娘も独身(ひとり)で居りやしたつけ。」
「御存じですか、貴方は、その娘といふのを。」
「評判な美しい女でごはすもの。色の白い、背のすらりとした――まあ、彼様(あん)な身分のものには惜しいやうな娘(こ)だつて、克(よ)く他(ひと)が其を言ひやすよ。へえもう二十四五にも成るだらず。若く装(つく)つて、十九か二十位にしか見せやせんがなあ。」
斯ういふ話をして居る間にも、蓮太郎は何か思ひ当ることがあるといふ風であつた。待つても/\丑松が帰つて来ないので、軈て蓮太郎はすこし其辺(そこいら)を散歩して来るからと、田圃(たんぼ)の方へ山の景色を見に行つた――是非丑松に逢ひたい、といふ言伝(ことづて)を呉々も叔母に残して置いて。
(二)
「これ、丑松や、猪子といふ御客|様(さん)がお前(めへ)を尋ねて来たぞい。」斯(か)う言つて叔母は駈寄つた。
「猪子先生?」丑松の目は喜悦(よろこび)の色で輝いたのである。
「多時(はあるか)待つて居なすつたが、お前が帰らねえもんだで。」と叔母は丑松の様子を眺め乍ら、「今々其処へ出て行きなすつた――ちよツくら、田圃(たんぼ)の方へ行つて見て来るツて。」斯う言つて、気を変へて、「一体|彼(あ)の御客様は奈何(どう)いふ方だえ。」
「私の先生でさ。」と丑松は答へた。
「あれ、左様(さう)かつちや。」と叔母は呆れて、「そんならそのやうに、御礼を言ふだつたに。俺はへえ、唯お前の知つてる人かと思つた――だつて、御友達のやうにばかり言ひなさるから。」
丑松は蓮太郎の跡を追つて、直に田圃の方へ出掛けようとしたが、丁度そこへ叔父も帰つて来たので、暫時(しばらく)上(あが)り端(はな)のところに腰掛けて休んだ。叔父は酷(ひど)く疲れたといふ風、家の内へ入るが早いか、「先づ、よかつた」を幾度と無く繰返した。何もかも今は無事に済んだ。葬式も。礼廻りも。斯ういふ思想(かんがへ)は奈何(どんな)に叔父の心を悦(よろこ)ばせたらう。「ああ――これまでに漕付(こぎつ)ける俺の心配といふものは。」斯う言つて、また思出したやうに安心の溜息を吐くのであつた。「全く、天の助けだぞよ。」と叔父は附加して言つた。
平和な姫子沢の家の光景(ありさま)と、世の変遷(うつりかはり)も知らずに居る叔父夫婦の昔気質(むかしかたぎ)とは、丑松の心に懐旧の情を催さした。裏庭で鳴き交す鶏の声は、午後の乾燥(はしや)いだ空気に響き渡つて、一層|長閑(のどか)な思を与へる。働好な、壮健(たつしや)な、人の好い、しかも子の無い叔母は、いつまでも児童(こども)のやうに丑松を考へて居るので、其|児童扱(こどもあつか)ひが又、些少(すくな)からず丑松を笑はせた。「御覧やれ、まあ、あの手付なぞの阿爺(おやぢ)さんに克く似てることは。」と言つて笑つた時は、思はず叔母も涙が出た。叔父も一緒に成つて笑つた。其時叔母が汲んで呉れた渋茶の味の甘かつたことは。款待振(もてなしぶり)の田舎饅頭(ゐなかまんぢゆう)、その黒砂糖の餡(あん)の食ひ慣れたのも、可懐(なつか)しい少年時代を思出させる。故郷に帰つたといふ心地(こゝろもち)は、何よりも深く斯ういふ場合に、丑松の胸を衝(つ)いて湧上(わきあが)るのであつた。
「どれ、それでは行つて見て来ます。」
と言つて家を出る。叔父も直ぐに随いて出た。何か用事ありげに呼留めたので、丑松は行かうとして振返つて見ると、霜葉(しもば)の落ちた柿の樹の下のところで、叔父は声を低くして
「他事(ほか)ぢやねえが、猪子で俺は思出した。以前(もと)師範校の先生で猪子といふ人が有つた。今日の御客様は彼人(あのひと)とは違ふか。」
「それですよ、その猪子先生ですよ。」と丑松は叔父の顔を眺め乍ら答へる。
「むゝ、左様(さう)かい、彼人かい。」と叔父は周囲(あたり)を眺め廻して、やがて一寸親指を出して見せて、「彼人は是(これ)だつて言ふぢやねえか――気を注(つ)けろよ。」
「はゝゝゝゝ。」と丑松は快活らしく笑つて、「叔父さん、其様(そん)なことは大丈夫です。」
斯う言つて急いだ。
(三)
「大丈夫です」とは言つたものゝ、其実丑松は蓮太郎だけに話す気で居る。先輩と自分と、唯二人――二度とは無い、斯(か)ういふ好い機会は。と其を考へると、丑松の胸はもう烈しく踊るのであつた。
枯々とした草土手のところで、丑松は蓮太郎と一緒に成つた。聞いて見ると、先輩は細君を上田に残して置いて、其日の朝根津村へ入つたとのこと。連(つれ)は市村弁護士一人。尤(もつと)も弁護士は有権者を訪問する為に忙(せは)しいので、旅舎(やどや)で別れて、蓮太郎ばかり斯の姫子沢へ丑松を尋ねにやつて来た。都合あつて演説会は催さない。随つて斯の村で弁護士の政論を聞くことは出来ないが、そのかはり蓮太郎は丑松とゆつくり話せる。まあ、斯ういふ信濃の山の上で、温暖(あたゝか)な小春の半日を語り暮したいとのことである。
其日のやうな楽しい経験――恐らく斯の心地(こゝろもち)は、丑松の身にとつて、さう幾度もあらうとは思はれなかつた程。日頃敬慕する先輩の傍に居て、其人の声を聞き、其人の笑顔を見、其人と一緒に自分も亦た同じ故郷の空気を呼吸するとは。丑松は唯話すばかりが愉快では無かつた。沈黙(だま)つて居る間にも亦た言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであつた。まして、蓮太郎は――書いたものゝ上に表れたより、話して見ると又別のおもしろみの有る人で、容貌(かほつき)は厳(やかま)しいやうでも、存外情の篤(あつ)い、優しい、言はゞ極く平民的な気象を持つて居る。左様(さう)いふ風だから、後進の丑松に対しても城郭(へだて)を構へない。放肆(ほしいまゝ)に笑つたり、嘆息したりして、日あたりの好い草土手のところへ足を投出し乍ら、自分の病気の話なぞを為た。一度車に乗せられて、病院へ運ばれた時は、堪へがたい虚咳(からぜき)の後で、刻むやうにして喀血(かくけつ)したことを話した。今は胸も痛まず、其程の病苦も感ぜず、身体の上のことは忘れる位に元気づいて居る――しかし彼様(あゝ)いふ喀血が幾回もあれば、其時こそ最早(もう)駄目だといふことを話した。
斯ういふ風に親しく言葉を交へて居る間にも、とは言へ、全く丑松は自分を忘れることが出来なかつた。「何時(いつ)例のことを切出さう。」その煩悶(はんもん)が胸の中を往つたり来たりして、一時(いつとき)も心を静息(やす)ませない。「あゝ、伝染(うつ)りはすまいか。」どうかすると其様(そん)なことを考へて、先輩の病気を恐しく思ふことも有る。幾度か丑松は自分で自分を嘲(あざけ)つた。
千曲川(ちくまがは)沿岸の民情、風俗、武士道と仏教とがところ/″\に遺した中世の古蹟、信越線の鉄道に伴ふ山上の都会の盛衰、昔の北国街道の栄花(えいぐわ)、今の死駅の零落――およそ信濃路のさま/″\、それらのことは今二人の談話(はなし)に上つた。眼前(めのまへ)には蓼科(たてしな)、八つが嶽、保福寺(ほふくじ)、又は御射山(みさやま)、和田、大門などの山々が連つて、其山腹に横はる大傾斜の眺望は西東(にしひがし)に展(ひら)けて居た。青白く光る谷底に、遠く流れて行くは千曲川の水。丑松は少年の時代から感化を享(う)けた自然のこと、土地の案内にも委(くは)しいところからして、一々指差して語り聞かせる。蓮太郎は其話に耳を傾けて、熱心に眺め入つた。対岸に見える八重原の高原、そこに人家の煙の立ち登る光景(さま)は、殊に蓮太郎の注意を引いたやうであつた。丑松は又、谷底の平地に日のあたつたところを指差して見せて、水に添ふて散布するは、依田窪(よだくぼ)、長瀬、丸子(まりこ)などの村落であるといふことを話した。濃く青い空気に包まれて居る谷の蔭は、霊泉寺、田沢、別所などの温泉の湧くところ、農夫が群れ集る山の上の歓楽の地、よく蕎麦(そば)の花の咲く頃には斯辺(このへん)からも労苦を忘れる為に出掛けるものがあるといふことを話した。
蓮太郎に言はせると、彼も一度は斯ういふ山の風景に無感覚な時代があつた。信州の景色は「パノラマ」として見るべきで、大自然が描いた多くの絵画の中では恐らく平凡といふ側に貶(おと)される程のものであらう――成程(なるほど)、大きくはある。然し深い風趣(おもむき)に乏しい――起きたり伏たりして居る波濤(なみ)のやうな山々は、不安と混雑とより外に何の感想(かんじ)をも与へない――それに対(むか)へば唯心が掻乱(かきみだ)されるばかりである。斯う蓮太郎は考へた時代もあつた。不思議にも斯の思想(かんがへ)は今度の旅行で破壊(ぶちこは)されて了(しま)つて、始めて山といふものを見る目が開(あ)いた。新しい自然は別に彼の眼前(めのまへ)に展けて来た。蒸(む)し煙(けぶ)る傾斜の気息(いき)、遠く深く潜む谷の声、活きもし枯れもする杜(もり)の呼吸、其間にはまた暗影と光と熱とを帯びた雲の群の出没するのも目に注(つ)いて、「平野は自然の静息、山嶽は自然の活動」といふ言葉の意味も今更のやうに思ひあたる。一概に平凡と擯斥(しりぞ)けた信州の風景は、「山気」を通して反(かへ)つて深く面白く眺められるやうになつた。
斯ういふ蓮太郎の観察は、山を愛する丑松の心を悦(よろこ)ばせた。其日は西の空が開けて、飛騨(ひだ)の山脈を望むことも出来たのである。見れば斯の大谿谷のかなたに当つて、畳み重なる山と山との上に、更に遠く連なる一列の白壁。今年の雪も早や幾度か降り添ふたのであらう。その山々は午後の日をうけて、青空に映り輝いて、殆んど人の気魄(たましひ)を奪ふばかりの勢であつた。活々(いき/\)とした力のある山塊の輪郭と、深い鉛紫(えんし)の色を帯びた谷々の影とは、一層その眺望に崇高な趣を添へる。針木嶺、白馬嶽、焼嶽、鎗が嶽、または乗鞍嶽(のりくらがたけ)、蝶が嶽、其他多くの山獄の峻(けは)しく競(きそ)ひ立つのは其処だ。梓川、大白川なぞの源を発するのは其処だ。雷鳥の寂しく飛びかふといふのは其処だ。氷河の跡の見られるといふのは其処だ。千古人跡の到らないといふのは其処だ。あゝ、無言にして聳(そび)え立つ飛騨の山脈の姿、長久(とこしへ)に荘厳(おごそか)な自然の殿堂――見れば見る程、蓮太郎も、丑松も、高い気象を感ぜずには居られなかつたのである。殊に其日の空気はすこし黄に濁つて、十一月上旬の光に交つて、斯の広濶(ひろ)い谿谷(たにあひ)を盛んに煙(けぶ)るやうに見せた。長い間、二人は眺め入つた。眺め入り乍ら、互に山のことを語り合つた。
(四)
噫(あゝ)。幾度丑松は蓮太郎に自分の素性を話さうと思つたらう。昨夜なぞは遅くまで洋燈(ランプ)の下で其事を考へて、もし先輩と二人ぎりに成るやうな場合があつたなら、彼様(あゝ)言はうか、此様(かう)言はうかと、さま/″\の想像に耽(ふけ)つたのであつた。蓮太郎は今、丑松の傍に居る。さて逢(あ)つて見ると、言出しかねるもので、風景なぞのことばかり話して、肝心の思ふことは未(ま)だ話さなかつた。丑松は既に種々(いろ/\)なことを話して居乍ら、未だ何(なんに)も蓮太郎に話さないやうな気がした。
夕飯の用意を命じて置いて来たからと、蓮太郎に誘はれて、丑松は一緒に根津の旅舎(やどや)の方へ出掛けて行つた。道々丑松は話しかけて、正直なところを言はう/\として見た。それを言つたら、自分の真情が深く先輩の心に通ずるであらう、自分は一層(もつと)先輩に親むことが出来るであらう、斯う考へて、其を言はうとして、言ひ得ないで、時々立止つては溜息を吐くのであつた。秘密――生死(いきしに)にも関はる真実(ほんたう)の秘密――仮令(たとひ)先方(さき)が同じ素性であるとは言ひ乍ら、奈何(どう)して左様(さう)容易(たやす)く告白(うちあ)けることが出来よう。言はうとしては躊躇(ちうちよ)した。躊躇しては自分で自分を責めた。丑松は心の内部(なか)で、懼(おそ)れたり、迷つたり、悶えたりしたのである。
軈(やが)て二人は根津の西町の町はづれへ出た。石地蔵の佇立(たゝず)むあたりは、向町(むかひまち)――所謂(いはゆる)穢多町で、草葺(くさぶき)の屋造(やね)が日あたりの好い傾斜に添ふて不規則に並んで居る。中にも人目を引く城のやうな一郭(ひとかまへ)、白壁高く日に輝くは、例の六左衛門の住家(すみか)と知れた。農業と麻裏製造(あさうらづくり)とは、斯(こ)の部落に住む人々の職業で、彼の小諸の穢多町のやうに、靴、三味線、太鼓、其他獣皮に関したものの製造、または斃馬(へいば)の売買なぞに従事して居るやうな手合は一人も無い。麻裏はどの穢多の家(うち)でも作るので、「中抜き」と言つて、草履の表に用(つか)ふ美しい藁がところ/″\の垣根の傍に乾してあつた。丑松は其を見ると、瀬川の家の昔を思出した。小諸時代を思出した。亡くなつた母も、今の叔母も、克(よ)く其の「中抜き」を編んで居たことを思出した。自分も亦(ま)た少年の頃には、戸隠から来る「かはそ」(草履裏の麻)なぞを玩具(おもちや)にして、父の傍で麻裏造る真似をして遊んだことを思出した。
六左衛門のことは、其時、二人の噂(うはさ)に上つた。蓮太郎はしきりに彼の穢多の性質や行為(おこなひ)やらを問ひ尋ねる。聞かれた丑松とても委敷(くはしく)は無いが、知つて居る丈(だけ)を話したのは斯うであつた。六左衛門の富は彼が一代に作つたもの。今日のやうな俄分限者(にはかぶげんしや)と成つたに就いては、甚(はなは)だ悪しざまに罵るものがある。慾深い上に、虚栄心の強い男で、金の力で成ることなら奈何(どん)な事でもして、何卒(どうか)して「紳士」の尊称を得たいと思つて居る程。恐らく上流社会の華(はな)やかな交際は、彼が見て居る毎日の夢であらう。孔雀の真似を為(す)る鴉(からす)の六左衛門が東京に別荘を置くのも其為である。赤十字社の特別社員に成つたのも其為である。慈善事業に賛成するのも其為である。書画|骨董(こつとう)で身の辺(まはり)を飾るのも亦た其為である。彼程(あれほど)学問が無くて、彼程蔵書の多いものも鮮少(すくな)からう、とは斯界隈(このかいわい)での一つ話に成つて居る。
斯ういふことを語り乍ら歩いて行くうちに、二人は六左衛門の家の前へ出て来た。丁度午後の日を真面(まとも)にうけて、宏壮(おほき)な白壁は燃える火のやうに見える。建物|幾棟(いくむね)かあつて、長い塀(へい)は其|周囲(まはり)を厳(いかめ)しく取繞(とりかこ)んだ。新平民の子らしいのが、七つ八つを頭(かしら)にして、何か「めんこ」の遊びでもして、其塀の外に群り集つて居た。中には頬の紅(あか)い、眼付の愛らしい子もあつて、普通の家の小供と些少(すこし)も相違の無いのがある。中には又、卑しい、愚鈍(おろか)しい、どう見ても日蔭者の子らしいのがある。是れを眺めても、穢多の部落が幾通りかの階級に別れて居ることは知れた。親らしい男は馬を牽(ひ)いて、其小供の群に声を掛けて通り、姉らしい若い女は細帯を巻付けた儘(まゝ)で、いそ/\と二人の側を影のやうに擦抜(すりぬ)けた。斯うして無智と零落とを知らずに居る穢多町の空気を呼吸するといふことは、可傷(いたま)しいとも、恥かしいとも、腹立たしいとも、名のつけやうの無い思をさせる。「吾儕(われ/\)を誰だと思ふ。」と丑松は心に憐んで、一時(いつとき)も早く是処を通過ぎて了(しま)ひたいと考へた。
「先生――行かうぢや有ませんか。」
と丑松はそこに佇立(たゝず)み眺(なが)めて居る蓮太郎を誘ふやうにした。
「見たまへ、まあ、斯の六左衛門の家(うち)を。」と蓮太郎は振返つて、「何処(どこ)から何処まで主人公の性質を好く表してるぢや無いか。つい二三日前、是の家に婚礼が有つたといふ話だが、君は其様(そん)な噂(うはさ)を聞かなかつたかね。」
「婚礼?」と丑松は聞咎(きゝとが)める。
「その婚礼が一通りの婚礼ぢや無い――多分|彼様(あゝ)いふのが政治的結婚とでも言ふんだらう。はゝゝゝゝ。政事家の為(す)ることは違つたものさね。」
「先生の仰(おつしや)ることは私に能(よ)く解りません。」
「花嫁は君、斯の家の娘さ。御聟(おむこ)さんは又、代議士の候補者だから面白いぢやないか――」
「ホウ、代議士の候補者? まさか彼の一緒に汽車に乗つて来た男ぢや有ますまい。」
「それさ、その紳士さ。」
「へえ――」と丑松は眼を円くして、「左様(さう)ですかねえ――意外なことが有れば有るものですねえ――」
「全く、僕も意外さ。」といふ蓮太郎の顔は輝いて居たのである。
「しかし何処で先生は其様(そん)なことを御聞きでしたか。」
「まあ、君、宿屋へ行つて話さう。」 
 
第九章

 

(一)
一軒、根津の塚窪(つかくぼ)といふところに、未(ま)だ会葬の礼に泄(も)れた家が有つて、丁度|序(ついで)だからと、丑松は途中で蓮太郎と別れた。蓮太郎は旅舎(やどや)へ。直に後から行く約束して、丑松は畠中の裏道を辿(たど)つた。塚窪の坂の下まで行くと、とある農家の前に一人の飴屋(あめや)、面白|可笑(をか)しく唐人笛(たうじんぶえ)を吹立てゝ、幼稚(をさな)い客を呼集めて居る。御得意と見えて、声を揚げて飛んで来る男女(をとこをんな)の少年もあつた――彼処(あすこ)からも、是処(こゝ)からも。あゝ、少年の空想を誘ふやうな飴屋の笛の調子は、どんなに頑是(ぐわんぜ)ないものゝ耳を楽ませるであらう。いや、買ひに集る子供ばかりでは無い、丑松ですら思はず立止つて聞いた。妙な癖で、其笛を聞く度に、丑松は自分の少年時代を思出さずに居られないのである。
何を隠さう――丑松が今指して行く塚窪の家には、幼馴染(をさななじみ)が嫁(かたづ)いて居る。お妻といふのが其女の名である。お妻の生家(さと)は姫子沢に在つて、林檎畠一つ隔(へだ)てゝ、丑松の家の隣に住んだ。丑松がお妻と遊んだのは、九歳(こゝのつ)に成る頃で、まだ瀬川の一家族が移住して来て間も無い当時のことであつた。もと/\お妻の父といふは、上田の在から養子に来た男、根が苦労人ではあり、他所者(よそもの)でもあり、するところからして、自然(おのづ)と瀬川の家にも後見(うしろみ)と成つて呉れた。それに、丑松を贔顧(ひいき)にして、伊勢詣(いせまうで)に出掛けた帰途(かへりみち)なぞには、必ず何か買つて来て呉れるといふ風であつた。斯ういふ隣同志の家の子供が、互ひに遊友達と成つたは不思議でも何でも無い。のみならず、二人は丁度同い年であつたのである。
楽しい追憶(おもひで)の情は、唐人笛の音を聞くと同時に、丑松の胸の中に湧上(わきあが)つて来た。朦朧(おぼろげ)ながら丑松は幼いお妻の俤(おもかげ)を忘れずに居る。はじめて自分の眼に映つた少女(をとめ)の愛らしさを忘れずに居る。あの林檎畠が花ざかりの頃は、其枝の低く垂下つたところを彷徨(さまよ)つて、互ひに無邪気な初恋の私語(さゝやき)を取交したことを忘れずに居る。僅かに九歳(こゝのつ)の昔、まだ夢のやうなお伽話(とぎばなし)の時代――他のことは多く記憶にも残らない程であるが、彼の無垢(むく)な情緒(こゝろもち)ばかりは忘れずに居る。尤(もつと)も、幼い二人の交際(まじはり)は長く続かなかつた。不図(ふと)丑松はお妻の兄と親しくするやうに成つて、それぎり最早(もう)お妻とは遊ばなかつた。
お妻が斯(こ)の塚窪へ嫁(かたづ)いて来たは、十六の春のこと。夫といふのも丑松が小学校時代の友達で、年齢(とし)は三人同じであつた。田舎(ゐなか)の習慣(ならはし)とは言ひ乍ら、殊(こと)に彼の夫婦は早く結婚した。まだ丑松が師範校の窓の下で歴史や語学の研究に余念も無い頃に、もう彼の若い夫婦は幼いものに絡(まと)ひ付かれ、朝に晩に「父さん、母さん」と呼ばれて居たのであつた。
斯(か)ういふ過去の歴史を繰返したり、胸を踊らせたりして、丑松は坂を上つて行つた。山の方から溢(あふ)れて来る根津川の支流は、清く、浅く、家々の前を奔(はし)り流れて居る。路傍(みちばた)の栗の梢(こずゑ)なぞ、早や、枯れ/″\。柿も一葉を留めない程。水草ばかりは未だ青々として、根を浸すありさまも心地よく見られる。冬籠(ふゆごもり)の用意に多忙(いそが)しい頃で、人々はいづれも流のところに集つて居た。余念も無く蕪菜(かぶな)を洗ふ女の群の中に、手拭に日を避(よ)け、白い手をあらはし、甲斐々々(かひ/″\)しく働く襷掛(たすきが)けの一人――声を掛けて見ると、それがお妻で、丑松は斯の幼馴染の様子の変つたのに驚いて了(しま)つた。お妻も亦た驚いたやうであつた。
其日はお妻の夫も舅(しうと)も留守で、家に居るのは唯|姑(しうとめ)ばかり。五人も子供が有ると聞いたが、年嵩(としかさ)なのが見えないは、大方遊びにでも行つたものであらう。五歳(いつゝ)ばかりを頭(かしら)に、三人の女の児は母親に倚添(よりそ)つて、恥かしがつて碌(ろく)に御辞儀(おじぎ)も為なかつた。珍しさうに客の顔を眺めるもあり、母親の蔭に隠れるもあり、漸(やうや)く歩むばかりの末の児は、見慣(みな)れぬ丑松を怖れたものか、軈(やが)てしく/\やり出すのであつた。是|光景(ありさま)に、姑も笑へば、お妻も笑つて、「まあ、可笑(をか)しな児だよ、斯の児は。」と乳房を出して見せる。それを咬(くは)へて、泣吃逆(なきじやつくり)をし乍(なが)ら、密(そつ)と丑松の方を振向いて見て居る児童(こども)の様子も愛らしかつた。
話好きな姑は一人で喋舌(しやべ)つた。お妻は茶を入れて丑松を款待(もてな)して居たが、流石(さすが)に思出したことも有ると見えて、
「そいつても、まあ、丑松さんの大きく御成(おなん)なすつたこと。」
と言つて、客の顔を眺(なが)めた時は、思はず紅(あか)くなつた。
会葬の礼を述べた後、丑松はそこ/\にして斯の家を出た。姑と一緒に、お妻も亦(ま)た門口に出て、客の後姿を見送るといふ様子。今更のやうに丑松は自他(われひと)の変遷(うつりかはり)を考へて、塚窪の坂を上つて行つた。彼の世帯染みた、心の好ささうな、何処(どこ)やら床(ゆか)しいところのあるお妻は――まあ、忘れずに居る其俤に比べて見ると、全く別の人のやうな心地(こゝろもち)もする。自分と同い年で、しかも五人子持――あれが幼馴染(をさななじみ)のお妻であつたかしらん、と時々立止つて嘆息した。
斯ういふ追懐(おもひで)の情は、とは言へ、深く丑松の心を傷けた。平素(しよつちゆう)もう疑惧(うたがひ)の念を抱いて苦痛(くるしみ)の為に刺激(こづ)き廻されて居る自分の今に思ひ比べると、あの少年の昔の楽しかつたことは。噫、何にも自分のことを知らないで、愛らしい少女(をとめ)と一緒に林檎畠を彷徨(さまよ)つたやうな、楽しい時代は往(い)つて了(しま)つた。もう一度丑松は左様(さう)いふ時代の心地(こゝろもち)に帰りたいと思つた。もう一度丑松は自分が穢多であるといふことを忘れて見たいと思つた。もう一度丑松は彼の少年の昔と同じやうに、自由に、現世(このよ)の歓楽(たのしみ)の香を嗅いで見たいと思つた。斯う考へると、切ない慾望(のぞみ)は胸を衝(つ)いて春の潮のやうに湧き上る。穢多としての悲しい絶望、愛といふ楽しい思想(かんがへ)、そんなこんなが一緒に交つて、若い生命(いのち)を一層(ひとしほ)美しくして見せた。終(しまひ)には、あの蓮華寺のお志保のことまでも思ひやつた。活々とした情の為に燃え乍ら、丑松は蓮太郎の旅舎(やどや)を指して急いだのである。
(二)
御泊宿、吉田屋、と軒行燈(のきあんどん)に記してあるは、流石(さすが)に古い街道の名残(なごり)。諸国商人の往来もすくなく、昔の宿はいづれも農家となつて、今はこの根津村に二三軒しか旅籠屋(はたごや)らしいものが残つて居ない。吉田屋は其一つ、兎角(とかく)商売も休み勝ち、客間で秋蚕(しうこ)飼ふ程の時世と変りはてた。とは言ひ乍ら、寂(さび)れた中にも風情(ふぜい)のあるは田舎(ゐなか)の古い旅舎(やどや)で、門口に豆を乾並べ、庭では鶏も鳴き、水を舁(かつ)いで風呂場へ通ふ男の腰付もをかしいもの。炉(ろ)で焚(た)く「ぼや」の火は盛んに燃え上つて、無邪気な笑声が其|周囲(まはり)に起るのであつた。
「左様(さう)だ――例のことを話さう。」
と丑松は自分で自分に言つた。吉田屋の門口へ入つた時は、其|思想(かんがへ)が復(ま)た胸の中を往来したのである。
案内されて奥の方の座敷へ通ると、蓮太郎一人で、弁護士は未だ帰らなかつた。額、唐紙、すべて昔の風を残して、古びた室内の光景(さま)とは言ひ乍ら、談話(はなし)を為(す)るには至極静かで好かつた。火鉢に炭を加へ、其側に座蒲団を敷いて、相対(さしむかひ)に成つた時の心地(こゝろもち)は珍敷(めづらし)くもあり、嬉敷(うれし)くもあり、蓮太郎が手づから入れて呉れる茶の味は又格別に思はれたのである。其時丑松は日頃愛読する先輩の著述を数へて、始めて手にしたのが彼(あ)の大作、「現代の思潮と下層社会」であつたことを話した。「貧しきものゝなぐさめ」、「労働」、「平凡なる人」、とり/″\に面白く味(あぢは)つたことを話した。丑松は又、「懴悔録」の広告を見つけた時の喜悦(よろこび)から、飯山の雑誌屋で一冊を買取つて、其を抱いて内容(なかみ)を想像し乍ら下宿へ帰つた時の心地(こゝろもち)、読み耽つて心に深い感動を受けたこと、社会(よのなか)といふものゝ威力(ちから)を知つたこと、さては其著述に顕(あら)はれた思想(かんがへ)の新しく思はれたことなぞを話した。
蓮太郎の喜悦(よろこび)は一通りで無かつた。軈て風呂が湧いたといふ案内をうけて、二人して一緒に入りに行つた時も、蓮太郎は其を胸に浮べて、かねて知己とは思つて居たが、斯(か)う迄自分の書いたものを読んで呉れるとは思はなかつたと、丑松の熱心を頼母(たのも)しく考へて居たらしいのである。病が病だから、蓮太郎の方では遠慮する気味で、其様(そん)なことで迷惑を掛けたく無い、と健康(たつしや)なものゝ知らない心配は絶えず様子に表はれる。斯うなると丑松の方では反(かへ)つて気の毒になつて、病の為に先輩を恐れるといふ心は何処へか行つて了つた。話せば話すほど、哀憐(あはれみ)は恐怖(おそれ)に変つたのである。
風呂場の窓の外には、石を越して流下る水の声もおもしろく聞えた。透(す)き澄(とほ)るばかりの沸(わか)し湯(ゆ)に身体を浸し温めて、しばらく清流の響に耳を嬲(なぶ)らせる其楽しさ。夕暮近い日の光は窓からさし入つて、蒸(む)し烟(けぶ)る風呂場の内を朦朧(もうろう)として見せた。一ぱい浴びて流しのところへ出た蓮太郎は、湯気に包まれて燃えるかのやう。丑松も紅(あか)くなつて、顔を伝ふ汗の熱さに暫時(しばらく)世の煩(わづら)ひを忘れた。
「先生、一つ流しませう。」と丑松は小桶(こをけ)を擁(かゝ)へて蓮太郎の背後(うしろ)へ廻る。
「え、流して下さる?」と蓮太郎は嬉しさうに、「ぢやあ、願ひませうか。まあ君、ざつと遣つて呉れたまへ。」
斯うして丑松は、日頃慕つて居る其人に近いて、奈何(どう)いふ風に考へ、奈何いふ風に言ひ、奈何いふ風に行ふかと、すこしでも蓮太郎の平生を見るのが楽しいといふ様子であつた。急に二人は親密(したしみ)を増したやうな心地(こゝろもち)もしたのである。
「さあ、今度は僕の番だ。」
と蓮太郎は湯を汲出(かいだ)して言つた。幾度か丑松は辞退して見た。
「いえ、私は沢山です。昨日入つたばかりですから。」と復(ま)た辞退した。
「昨日は昨日、今日は今日さ。」と蓮太郎は笑つて、「まあ、左様(さう)遠慮しないで、僕にも一つ流させて呉れたまへ。」
「恐れ入りましたなあ。」
「どうです、瀬川君、僕の三助もなか/\巧いものでせう――はゝゝゝゝ。」と戯れて、やがて蓮太郎はそこに在る石鹸(シャボン)を溶いて丑松の背中へつけて遣り乍ら、「僕がまだ長野に居る時分、丁度修学旅行が有つて、生徒と一緒に上州の方へ出掛けたことが有りましたツけ。まだ覚えて居るが、彼(あ)の時の投票は、僕がそれ大食家さ。しかし大食家と言はれる位に、彼の頃は壮健(たつしや)でしたよ。それからの僕の生涯は、実に種々(いろ/\)なことが有ましたねえ。克(よ)くまあ僕のやうな人間が斯うして今日迄生きながらへて来たやうなものさ。」
「先生、もう沢山です。」
「何だねえ、今始めたばかりぢや無いか。まだ、君、垢が些少(ちつと)も落ちやしない。」
と蓮太郎は丁寧に丑松の背中を洗つて、終(しまひ)に小桶の中の温い湯を掛けてやつた。遣ひ捨ての湯水は石鹸の泡に交つて、白くゆるく板敷の上を流れて行つた。
「君だから斯様(こん)なことを御話するんだが、」と蓮太郎は思出したやうに、「僕は仲間のことを考へる度に、実に情ないといふ心地(こゝろもち)を起さずには居られない。御恥しい話だが、思想の世界といふものは、未だ僕等の仲間には開けて居ないのだね。僕があの師範校を出た頃には、それを考へて、随分暗い月日を送つたことも有ましたよ。病気になつたのも、実は其結果さ。しかし病気の為に、反(かへ)つて僕は救はれた。それから君、考へてばかり居ないで、働くといふ気になつた。ホラ、君の読んで下すつたといふ「現代の思潮と下層社会」――あれを書く頃なぞは、健康(たつしや)だといふ日は一日も無い位だつた。まあ、後日新平民のなかに面白い人物でも生れて来て、あゝ猪子といふ男は斯様(こん)なものを書いたかと、見て呉れるやうな時が有つたら、それでもう僕なぞは満足するんだねえ。むゝ、その踏台さ――それが僕の生涯(しやうがい)でもあり、又|希望(のぞみ)でもあるのだから。」
(三)
言はう/\と思ひ乍ら、何か斯(か)う引止められるやうな気がして、丑松は言はずに風呂を出た。まだ弁護士は帰らなかつた。夕飯の用意にと、蓮太郎が宿へ命じて置いたは千曲川の鮠(はや)、それは上田から来る途中で買取つたとやらで、魚田楽(ぎよでん)にこしらへさせて、一緒に初冬の河魚の味を試みたいとのこと。仕度するところと見え、摺鉢(すりばち)を鳴らす音は台所の方から聞える。炉辺(ろばた)で鮠の焼ける香は、ぢり/\落ちて燃える魚膏(あぶら)の煙に交つて、斯の座敷までも甘(うま)さうに通つて来た。
蓮太郎は鞄(かばん)の中から持薬を取出した。殊に湯上りの顔色は病気のやうにも見えなかつた。嗅ぐともなしに「ケレオソオト」のにほひを嗅いで見て、軈(やが)て高柳のことを言出す。
「して見ると、瀬川君はあの男と一緒に飯山を御出掛でしたね。」
「どうも不思議だとは思ひましたよ。」と丑松は笑つて、「妙に是方(こちら)を避(よ)けるといふやうな風でしたから。」
「そこがそれ、心に疚(やま)しいところの有る証拠さ。」
「今考へても、彼の外套(ぐわいたう)で身体を包んで、隠れて行くやうな有様が、目に見えるやうです。」
「はゝゝゝゝ。だから、君、悪いことは出来ないものさ。」
と言つて、それから蓮太郎は聞いて来た一伍一什(いちぶしじゆう)を丑松に話した。高柳が秘密に六左衛門の娘を貰つたといふ事実は、妙なところから出たとのこと。すこし調べることがあつて、信州で一番古い秋葉村の穢多町(上田の在にある)、彼処へ蓮太郎が尋ねて行くと、あの六左衛門の親戚で加(しか)も讐敵(かたき)のやうに仲の悪いとかいふ男から斯の話が泄(も)れたとのこと。蓮太郎が弁護士と一緒に、今朝この根津村へ入つた時は、折も折、丁度高柳夫婦が新婚旅行にでも出掛けようとするところ。無論|先方(さき)では知るまいが、確に是方(こちら)では後姿を見届けたとのことであつた。
「実に驚くぢやないか。」と蓮太郎は嘆息した。「瀬川君、君はまあ奈何(どう)思ふね、彼の男の心地(こゝろもち)を。これから君が飯山へ帰つて見たまへ――必定(きつと)あの男は平気な顔して結婚の披露を為るだらうから――何処(どこ)か遠方の豪家からでも細君を迎へたやうに細工(こしら)へるから――そりやあもう新平民の娘だとは言ふもんぢやないから。」
斯ういふ話を始めたところへ、下女が膳を持運んで来た。皿の上の鮠(はや)は焼きたての香を放つて、空腹(すきばら)で居る二人の鼻を打つ。銀色の背、樺(かば)と白との腹、その鮮(あたら)しい魚が茶色に焼け焦げて、ところまんだら味噌の能(よ)く付かないのも有つた。いづれも肥え膏(あぶら)づいて、竹の串に突きさゝれてある。流石(さすが)に嗅ぎつけて来たと見え、一匹の小猫、下女の背後(うしろ)に様子を窺(うかゞ)ふのも可笑(をか)しかつた。御給仕には及ばないを言はれて、下女は小猫を連れて出て行く。
「さあ、先生、つけませう。」と丑松は飯櫃(めしびつ)を引取つて、気(いき)の出るやつを盛り始めた。
「どうも済(す)みません。各自(めい/\)勝手にやることにしようぢや有ませんか。まあ、斯(か)うして膳に向つて見ると、あの師範校の食堂を思出さずには居られないねえ。」
と笑つて、蓮太郎は話し/\食つた。丑松も骨離(ほねばなれ)の好い鮠(はや)の肉を取つて、香ばしく焼けた味噌の香を嗅ぎ乍ら話した。
「あゝ。」と蓮太郎は箸持つ手を膝の上に載せて、「どうも当世紳士の豪(えら)いには驚いて了(しま)ふ――金といふものゝ為なら、奈何(どん)なことでも忍ぶのだから。瀬川君、まあ、聞いて呉れたまへ。彼の通り高柳が体裁を飾つて居ても、実は非常に内輪の苦しいといふことは、僕も聞いて居た。借財に借財を重ね、高利貸には責められる、世間への不義理は嵩(かさ)む、到底今年選挙を争ふ見込なぞは立つまいといふことは、聞いて居た。しかし君、いくら窮境に陥つたからと言つて、金を目的(めあて)に結婚する気に成るなんて――あんまり根性が見え透(す)いて浅猿(あさま)しいぢやないか。あるひは、彼男に言はせたら、六左衛門だつて立派な公民だ、其娘を貰ふのに何の不思議が有る、親子の間柄で選挙の時なぞに助けて貰ふのは至当(あたりまへ)ぢやないか――斯う言ふかも知れない。それならそれで可(いゝ)さ。階級を打破して迄(まで)も、気に入つた女を貰ふ位の心意気が有るなら、又面白い。何故そんなら、狐鼠々々(こそ/\)と祝言(しうげん)なぞを為るんだらう。何故そんなら、隠れてやつて来て、また隠れて行くやうな、男らしくない真似を為るんだらう。苟(いやし)くも君、堂々たる代議士の候補者だ。天下の政治を料理するなどと長広舌を振ひ乍ら、其人の生涯を見れば奈何(どう)だらう。誰やらの言草では無いが、全然(まるで)紳士の面を冠つた小人の遣方だ――情ないぢやないか。成程(なるほど)世間には、金に成ることなら何でもやる、買手が有るなら自分の一生でも売る、斯(か)ういふ量見の人はいくらも有るさ。しかし、彼男のは、売つて置いて知らん顔をして居よう、といふのだから酷(はなはだ)しい。まあ、君、僕等の側に立つて考へて見て呉れたまへ――是程(これほど)新平民といふものを侮辱した話は無からう。」
暫時(しばらく)二人は言葉を交さないで食つた。軈てまた蓮太郎は感慨に堪へないと言ふ風で、病気のことなぞはもう忘れて居るかのやうに、
「彼男(あのをとこ)も彼男なら、六左衛門も六左衛門だ。そんなところへ娘を呉れたところで何が面白からう。是(これ)から東京へでも出掛けた時に、自分の聟は政事家だと言つて、吹聴する積りなんだらうが、あまり寝覚の好い話でも無からう。虚栄心にも程が有るさ。ちつたあ娘のことも考へさうなものだがなあ。」
斯う言つて蓮太郎は考深い目付をして、孤(ひと)り思に沈むといふ様子であつた。
聞いて見れば聞いて見るほど、彼の政事家の内幕にも驚かれるが、又、この先輩の同族を思ふ熱情にも驚かれる。丑松は、弱い体躯(からだ)の内に燃える先輩の精神の烈しさを考へて、一種の悲壮な感想(かんじ)を起さずには居られなかつた。実際、蓮太郎の談話(はなし)の中には丑松の心を動かす力が籠つて居たのである。尤(もつと)も、病のある人ででも無ければ、彼様(あゝ)は心を傷めまい、と思はれるやうな節々が時々其言葉に交つて聞えたので。
(四)
到頭丑松は言はうと思ふことを言はなかつた。吉田屋を出たのは宵(よひ)過ぎる頃であつたが、途々それを考へると、泣きたいと思ふ程に悲しかつた。何故、言はなかつたらう。丑松は歩き乍ら、自分で自分に尋ねて見る。亡父(おやぢ)の言葉も有るから――叔父も彼様(あゝ)忠告したから――一旦秘密が自分の口から泄(も)れた以上は、それが何時(いつ)誰の耳へ伝はらないとも限らない、先輩が細君へ話す、細君はまた女のことだから到底秘密を守つては呉れまい、斯(か)ういふことに成ると、それこそ最早(もう)回復(とりかへし)が付かない――第一、今の場合、自分は穢多であると考へたく無い、是迄も普通の人間で通つて来た、是(これ)から将来(さき)とても無論普通の人間で通りたい、それが至当な道理であるから――
種々(いろ/\)弁解(いひわけ)を考へて見た。
しかし、斯ういふ弁解は、いづれも後から造(こしら)へて押付けたことで、それだから言へなかつたとは奈何しても思はれない。残念乍ら、丑松は自分で自分を欺いて居るやうに感じて来た。蓮太郎にまで隠して居るといふことは、実は丑松の良心が許さなかつたのである。
あゝ、何を思ひ、何を煩ふ。決して他の人に告白(うちあ)けるのでは無い。唯あの先輩だけに告白けるのだ。日頃自分が慕つて居る、加(しか)も自分と同じ新平民の、其人だけに告白けるのに、危い、恐しいやうなことが何処にあらう。
「どうしても言はないのは虚偽(うそ)だ。」
と丑松は心に羞(は)ぢたり悲んだりした。
そればかりでは無い。勇み立つ青春の意気も亦(ま)た丑松の心に強い刺激を与へた。譬(たと)へば、丑松は雪霜の下に萌(も)える若草である。春待つ心は有ながらも、猜疑(うたがひ)と恐怖(おそれ)とに閉ぢられて了(しま)つて、内部(なか)の生命(いのち)は発達(のび)ることが出来なかつた。あゝ、雪霜が日にあたつて、溶けるといふに、何の不思議があらう。青年が敬慕の情を心ゆく先輩の前に捧げて、活きて進むといふに、何の不思議があらう。見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は蓮太郎の感化を享(う)けて、精神の自由を慕はずには居られなかつたのである。言ふべし、言ふべし、それが自分の進む道路(みち)では有るまいか。斯う若々しい生命が丑松を励ますのであつた。
「よし、明日は先生に逢つて、何もかも打開(ぶちま)けて了はう。」
と決心して、姫子沢の家をさして急いだ。
其晩はお妻の父親(おやぢ)がやつて来て、遅くまで炉辺(ろばた)で話した。叔父は蓮太郎のことに就いて別に深く掘つて聞かうとも為なかつた。唯丑松が寝床の方へ行かうとした時、斯ういふ問を掛けた。
「丑松――お前(めへ)は今日の御客様(おきやくさん)に、何にも自分のことを話しやしねえだらうなあ。」
と言はれて、丑松は叔父の顔を眺めて、
「誰が其様(そん)なことを言ふもんですか。」
と答へるには答へたが、それは本心から出た言葉では無いのであつた。
寝床に入つてからも、丑松は長いこと眠られなかつた。不思議な夢は来て、眼前(めのまへ)を通る。其人は見納めの時の父の死顔であるかと思ふと、蓮太郎のやうでもあり、病の為に蒼(あを)ざめた蓮太郎の顔であるかと思ふと、お妻のやうでもあつた。あの艶を帯(も)つた清(すゞ)しい眸(ひとみ)、物言ふ毎にあらはれる皓歯(しらは)、直に紅(あか)くなる頬――その真情の外部(そと)に輝き溢(あふ)れて居る女らしさを考へると、何時の間にか丑松はお志保の俤(おもかげ)を描いて居たのである。尤(もつと)もこの幻影(まぼろし)は長く後まで残らなかつた。払暁(あけがた)になると最早(もう)忘れて了つて、何の夢を見たかも覚えて居ない位であつた。  
 
第拾章

 

(一)
いよ/\苦痛(くるしみ)の重荷を下す時が来た。
丁度蓮太郎は弁護士と一緒に、上田を指して帰るといふので、丑松も同行の約束した。それは父を傷(きずつ)けた種牛が上田の屠牛場(とぎうば)へ送られる朝のこと。叔父も、丑松も其立会として出掛ける筈になつて居たので。昨夜の丑松の決心――あれを実行するには是上(このうへ)も無い好い機会(しほ)。復(ま)た逢(あ)はれるのは何時のことやら覚束(おぼつか)ない。どうかして叔父や弁護士の聞いて居ないところで――唯先輩と二人ぎりに成つた時に――斯う考へて、丑松は叔父と一緒に出掛ける仕度をしたのであつた。
上田街道へ出ようとする角のところで、そこに待合せて居る二人と一緒になつた。丑松は叔父を弁護士に紹介し、それから蓮太郎にも紹介した。
「先生、これが私の叔父です。」
と言はれて、叔父は百姓らしい大な手を擦(も)み乍(なが)ら、
「丑松の奴がいろ/\御世話様に成りますさうで――昨日(さくじつ)はまた御出下すつたさうでしたが、生憎(あいにく)と留守にいたしやして。」
斯(か)ういふ挨拶をすると、蓮太郎は丁寧に亡(な)くなつた人の弔辞(くやみ)を述べた。
四人は早く発(た)つた。朝じめりのした街道の土を踏んで、深い霧の中を辿(たど)つて行つた時は、遠近(をちこち)に鶏の鳴き交す声も聞える。其日は春先のやうに温暖(あたゝか)で、路傍の枯草も蘇生(いきかへ)るかと思はれる程。灰色の水蒸気は低く集つて来て、僅かに離れた杜(もり)の梢(こずゑ)も遠く深く烟(けぶ)るやうに見える。四人は後になり前になり、互に言葉を取交し乍ら歩いた。就中(わけても)、弁護士の快活な笑声は朝の空気に響き渡る。思はず足も軽く道も果取(はかど)つたのである。
東上田へ差懸つた頃、蓮太郎と丑松の二人は少許(すこし)連(つれ)に後(おく)れた。次第に道路(みち)は明くなつて、ところ/″\に青空も望まれるやうに成つた。白い光を帯び乍ら、頭の上を急いだは、朝雲の群。行先(ゆくて)にあたる村落も形を顕(あらは)して、草葺(くさぶき)の屋根からは煙の立ち登る光景(さま)も見えた。霧の眺めは、今、おもしろく晴れて行くのである。
蓮太郎は苦しい様子も見せなかつた。この石塊(いしころ)の多い歩き難い道を彼様(あゝ)して徒歩(ひろ)つても可(いゝ)のかしらん、と丑松はそれを案じつゞけて、時々蓮太郎を待合せては、一緒に遅く歩くやうに為たが、まあ素人目(しろうとめ)で眺めたところでは格別|気息(いき)の切れるでも無いらしい。漸(やうや)く安心して、軈(やが)て話し/\行く連の二人の後姿は、と見ると其時は凡(およ)そ一町程も離れたらう。急に日があたつて、湿(しめ)つた道路も輝き初めた。温和(やはらか)に快暢(こゝろよ)い朝の光は小県(ちひさがた)の野に満ち溢(あふ)れて来た。
あゝ、告白(うちあ)けるなら、今だ。
丑松に言はせると、自分は決して一生の戒を破るのでは無い。是(これ)が若(も)し世間の人に話すといふ場合ででも有つたら、それこそ今迄の苦心も水の泡であらう。唯|斯人(このひと)だけに告白けるのだ。親兄弟に話すも同じことだ。一向差支が無い。斯う自分で自分に弁解(いひほど)いて見た。丑松も思慮の無い男では無し、彼程(あれほど)堅い父の言葉を忘れて了(しま)つて、好んで死地に陥るやうな、其様(そん)な愚(おろか)な真似を為(す)る積りは無かつたのである。
「隠せ。」
といふ厳粛な声は、其時、心の底の方で聞えた。急に冷(つめた)い戦慄(みぶるひ)が全身を伝つて流れ下る。さあ、丑松もすこし躊躇(ためら)はずには居られなかつた。「先生、先生」と口の中で呼んで、どう其を切出したものかと悶(もが)いて居ると、何か目に見えない力が背後(うしろ)に在つて、妙に自分の無法を押止めるやうな気がした。
「忘れるな」とまた心の底の方で。
(二)
「瀬川君、君は恐しく考へ込んだねえ。」と蓮太郎は丑松の方を振返つて見た。「時に、大分後れましたよ。奈何(どう)ですか、少許(すこし)急がうぢや有ませんか。」
斯う言はれて、丑松も其後に随(つ)いて急いだ。
間も無く二人は連に追付いた。鳥のやうに逃げ易い機会は捕まらなかつた。いづれ未(ま)だ先輩と二人ぎりに成る時は有るであらう、と其を丑松は頼みに思ふのである。
日は次第に高くなつた。空は濃く青く透(す)き澄(とほ)るやうになつた。南の方(かた)に当つて、ちぎれ/\な雲の群も起る。今は温暖(あたゝか)い光の為に蒸(む)されて、野も煙り、岡も呼吸し、踏んで行く街道の土の灰色に乾く臭気(にほひ)も心地(こゝろもち)が好い。浅々と萌初(もえそ)めた麦畠は、両側に連つて、奈何(どんな)に春待つ心の烈しさを思はせたらう。斯(か)うして眺(なが)め/\行く間にも、四人の眼に映る田舎(ゐなか)が四色で有つたのはをかしかつた。弁護士は小作人と地主との争闘(あらそひ)を、蓮太郎は労働者の苦痛(くるしみ)と慰藉(なぐさめ)とを、叔父は「えご」、「山牛蒡(やまごばう)」、「天王草(てんわうぐさ)」、又は「水沢瀉(みづおもだか)」等の雑草に苦しめられる耕作の経験から、収穫(とりいれ)に関係の深い土質の比較、さては上州地方の平野に住む農夫に比べて斯の山の上の人々の粗懶(なげやり)な習慣なぞを――流石(さすが)に三人の話は、生活といふことを離れなかつたが、同じ田舎を心に描いても、丑松のは若々しい思想(かんがへ)から割出して、働くばかりが田舎ではないと言つたやうな風に観察する。斯(か)ういふ思ひ/\の話に身が入つて、四人は疲労(つかれ)を忘れ乍ら上田の町へ入つた。
上田には弁護士の出張所も設けて有る。そこには蓮太郎の細君が根津から帰る夫を待受けて居たので。蓮太郎と弁護士とは、一寸立寄つて用事を済(す)ました上、また屠牛場で一緒に成るといふことにしよう、其種牛の最後をも見よう――斯(か)ういふ約束で別れた。丑松は叔父と連立つて一歩(ひとあし)先へ出掛けた。
屠牛場近く行けば行く程、亡くなつた牧夫のことが烈しく二人の胸に浮んで来た。二人の話は其|追懐(おもひで)で持切つた。他人が居なければ遠慮も要(い)らず、今は何を話さうと好自由(すきじいう)である。
「なあ、丑松。」と叔父は歩き乍ら嘆息して、「へえ、もう今日で六日目だぞよ。兄貴が亡くなる、お前(めへ)がやつて来る。葬式(おじやんぼん)を出す、御苦労招びから、礼廻りと、丁度今日で六日目だ。あゝ、明日は最早(もう)初七日だ。日数の早く経(た)つには魂消(たまげ)て了ふ。兄貴に別れたのは、つい未だ昨日のやうにしか思はれねえがなあ。」
丑松は黙つて考へ乍ら随いて行つた。叔父は言葉を継いで、
「真実(ほんたう)に世の中は思ふやうに行かねえものさ。兄貴も、是から楽をしようといふところで、彼様(あん)な災難に罹るなんて。まあ、金を遺(のこ)すぢや無し、名を遺すぢや無し、一生苦労を為つゞけて、其苦労が誰の為かと言へば――畢竟(つまり)、お前や俺の為だ。俺も若え時は、克(よ)く兄貴と喧嘩して、擲(なぐ)られたり、泣かせられたりしたものだが、今となつて考へて見ると、親兄弟程|難有(ありがた)いものは無えぞよ。仮令(たとひ)世界中の人が見放しても、親兄弟は捨てねえからなあ。兄貴を忘れちやならねえと言ふのは――其処だはサ。」
暫時(しばらく)二人は無言で歩いた。
「忘れるなよ。」と叔父は復た初めた。「何程(どのくれえ)まあ兄貴もお前の為に心配して居たものだか。ある時、俺に、「丑松も今が一番危え時だ。斯うして山の中で考へたと、世間へ出て見たとは違ふから、そこを俺が思つてやる。なか/\他人の中へ突出されて、内兜(うちかぶと)を見透(みす)かされねえやうに遂行(やりと)げるのは容易ぢやねえ。何卒(どうか)してうまく行(や)つて呉れゝば可(いゝ)が――下手に学問なぞをして、つまらねえ思想(かんがへ)を起さなければ可(いゝ)が――まあ、三十に成つて見ねえ内は、安心が出来ねえ。」と斯ういふから、「なあに、大丈夫――丑松のことなら俺が保証する。」と言つてやつたよ。すると、兄貴は首を振つて、「どうも不可(いかねえ)もので、親の悪いところばかり子に伝はる。丑松も用心深いのは好(いゝ)が、然し又、あんまり用心深過ぎて反つて疑はれるやうな事が出来やすまいか。」としきりに其を言ふ。其時俺が、「左様(さう)心配した日には際限(きり)が無え。」と笑つたことサ。はゝゝゝゝ。」と思出したやうに慾の無い声で笑つて、軈て気を変へて、「しかし、能くまあ、お前も是迄に漕付けて来た。最早大丈夫だ。全くお前には其丈の徳が具(そな)はつて居るのだ。なにしろ用心するに越したことはねえぞよ。奈何(どん)な先生だらうが、同じ身分の人だらうが、決して気は許せねえ――そりやあ、もう、他人と親兄弟とは違ふからなあ。あゝ、兄貴の生きてる時分には、牧場から下つて来る、俺や婆さんの顔を見る、直にお前の噂(うはさ)だつた。もう兄貴は居ねえ。是からは俺と婆さんと二人ぎりで、お前の噂をして楽むんだ。考へて見て呉れよ、俺も子は無しサ――お前より外に便りにするものは無えのだから。」
(三)
例の種牛は朝のうちに屠牛場(とぎうば)へ送られた。種牛の持主は早くから詰掛けて、叔父と丑松とを待受けて居た。二人は、空車引いて馳(か)けて行く肉屋の丁稚(でつち)の後に随いて、軈て屠牛場の前迄行くと、門の外に持主、先(ま)づ見るより、克(よ)く来て呉れたを言ひ継(つゞ)ける。心から老牧夫の最後を傷(いた)むといふ情合(じやうあひ)は、斯持主の顔色に表れるのであつた。「いえ。」と叔父は対手の言葉を遮(さへぎ)つて、「全く是方(こちら)の不注意(てぬかり)から起つた事なんで、貴方(あんた)を恨(うら)みる筋は些少(ちつと)もごはせん。」とそれを言へば、先方(さき)は猶々(なほ/\)痛み入る様子。「私はへえ、面目なくて、斯(か)うして貴方等(あんたがた)に合せる顔も無いのでやす――まあ畜生の為(し)たことだからせえて(せえては、しての訛(なまり)、農夫の間に用ゐられる)、御災難と思つて絶念(あきら)めて下さるやうに。」とかへす/″\言ふ。是処(こゝ)は上田の町はづれ、太郎山の麓に迫つて、新しく建てられた五棟ばかりの平屋。鋭い目付の犬は五六匹門外に集つて来て、頻(しきり)に二人の臭気(にほひ)を嗅いで見たり、低声に※[口+胡](うな)つたりして、やゝともすれば吠(ほ)え懸りさうな気勢(けはひ)を示すのであつた。
持主に導かれて、二人は黒い門を入つた。内に庭を隔(へだ)てゝ、北は検査室、東が屠殺の小屋である。年の頃五十余のでつぷり肥つた男が人々の指図をして居たが、其老練な、愛嬌(あいけう)のある物の言振で、屠手(としゆ)の頭(かしら)といふことは知れた。屠手として是処に使役(つか)はれて居る壮丁(わかもの)は十人|計(ばか)り、いづれ紛(まが)ひの無い新平民――殊に卑賤(いや)しい手合と見えて、特色のある皮膚の色が明白(あり/\)と目につく。一人々々の赤ら顔には、烙印(やきがね)が押当てゝあると言つてもよい。中には下層の新平民に克(よ)くある愚鈍な目付を為乍(しなが)ら是方(こちら)を振返るもあり、中には畏縮(いぢけ)た、兢々(おづ/\)とした様子して盗むやうに客を眺めるもある。目鋭(めざと)い叔父は直に其(それ)と看(み)て取つて、一寸右の肘(ひぢ)で丑松を小衝(こづ)いて見た。奈何して丑松も平気で居られよう。叔父の肘が触(さは)るか触らないに、其暗号は電気(エレキ)のやうに通じた。幸ひ案じた程でも無いらしいので、漸(やつ)と安心して、それから二人は他の談話(はなし)の仲間に入つた。
繋留場には、種牛の外に、二頭の牡牛も繋(つな)いであつて、丁度死刑を宣告された罪人が牢獄(ひとや)の内に押籠(おしこ)められたと同じやうに、一刻々々と近いて行く性命(いのち)の終を翹望(まちのぞ)んで居た。丑松は今、叔父や持主と一緒に、斯(この)繋留場の柵(さく)の前に立つたのである。持主の言草ではないが、「畜生の為たこと」と思へば、別に腹が立つの何のといふ其様(そん)な心地(こゝろもち)には成らないかはりに、可傷(いたま)しい父の最後、牧場の草の上に流れた血潮――堪へがたい追憶(おもひで)の情は丑松の胸に浮んで来たのである。見れば他のは佐渡牛といふ種類で、一頭は黒く、一頭は赤く、人間の食慾を満すより外には最早(もう)生きながらへる価値(ねうち)も無い程に痩(や)せて、其|憔悴(みすぼら)しさ。それに比べると、種牛は体格も大きく、骨組も偉(たくま)しく、黒毛艶々として美しい雑種。持主は柵の横木を隔てゝ、其鼻面を撫でゝ見たり、咽喉(のど)の下を摩(さす)つてやつたりして、
「わりや(汝(なんぢ)は)飛んでもねえことを為て呉れたなあ。何も俺だつて、好んで斯様(こん)な処へ貴様を引張つて来た訳ぢやねえ――是といふのも自業自得(じごふじとく)だ――左様(さう)思つて絶念(あきら)めろよ。」
吾児に因果でも言含めるやうに掻口説(かきくど)いて、今更|別離(わかれ)を惜むといふ様子。
「それ、こゝに居なさるのが瀬川さんの子息(むすこ)さんだ。御詑(おわび)をしな。御詑をしな。われ(汝)のやうな畜生だつて、万更|霊魂(たましひ)の無えものでも有るめえ。まあ俺の言ふことを好く覚えて置いて、次の生(よ)には一層(もつと)気の利いたものに生れ変つて来い。」
斯(か)う言ひ聞かせて、軈(やが)て持主は牛の来歴を二人に語つた。現に今、多くを飼養して居るが、是(これ)に勝(まさ)る血統(ちすぢ)のものは一頭も無い。父牛は亜米利加(アメリカ)産、母牛は斯々(しか/″\)、悪い癖さへ無くば西乃入(にしのいり)牧場の名牛とも唄はれたであらうに、と言出して嘆息した。持主は又|附加(つけた)して、斯(この)種牛の肉の売代(うりしろ)を分けて、亡くなつた牧夫の追善に供へたいから、せめて其で仏の心を慰めて呉れといふことを話した。
其時獣医が入つて来て、鳥打帽を冠つた儘、人々に挨拶する。つゞいて、牛肉屋の亭主も入つて来たは、屠(つぶ)された後の肉を買取る為であらう。間も無く蓮太郎、弁護士の二人も、叔父や丑松と一緒になつて、庭に立つて眺めたり話したりした。
「むゝ、彼(あれ)が御話のあつた種牛ですね。」と蓮太郎は小声で言つた。人々は用意に取掛かると見え、いづれも白の上被(うはつぱり)、冷飯草履は脱いで素足に尻端折。笑ふ声、私語(さゝや)く声は、犬の鳴声に交つて、何となく構内は混雑して来たのである。
いよ/\種牛は引出されることになつた。一同の視線は皆な其方へ集つた。今迄沈まりかへつて居た二頭の佐渡牛は、急に騒ぎ初めて、頻と頭を左右に振動かす。一人の屠手は赤い方の鼻面を確乎(しつか)と制(おさ)へて、声を※[厂+萬](はげま)して制したり叱つたりした。畜生ながらに本能(むし)が知らせると見え、逃げよう/\と焦り出したのである。黒い佐渡牛は繋がれたまゝ柱を一廻りした。死地に引かれて行く種牛は寧(むし)ろ冷静(おちつ)き澄ましたもので、他の二頭のやうに悪※[足へん+宛](わるあがき)を為(す)るでも無く、悲しい鳴声を泄(も)らすでも無く、僅かに白い鼻息を見せて、悠々(いう/\)と獣医の前へ進んだ。紫色の潤(うる)みを帯びた大きな目は傍で観て居る人々を睥睨(へいげい)するかのやう。彼の西乃入の牧場を荒(あば)れ廻つて、丑松の父を突殺した程の悪牛では有るが、斯(か)うした潔(いさぎよ)い臨終の光景(ありさま)は、又た人々に哀憐(あはれみ)の情を催(おこ)させた。叔父も、丑松もすくなからず胸を打たれたのである。獣医はあちこちと廻つて歩き乍ら、種牛の皮を撮(つま)んで見たり、咽喉(のど)を押へて見たり、または角を叩(たゝ)いて見たりして、最後に尻尾を持上たかと思ふと、検査は最早(もう)其で済んだ。屠手は総懸りで寄つて群(たか)つて、「しツ/\」と声を揚げ乍ら、無理無体に屠殺の小屋の方へ種牛を引入れた。屠手の頭(かしら)は油断を見澄まして、素早く細引を投げ搦(から)む。※[てへん+堂](どう)と音して牛の身体が板敷の上へ横に成つたは、足と足とが引締められたからである。持主は茫然(ばうぜん)として立つた。丑松も考深い目付をして眺め沈んで居た。やがて、種牛の眉間(みけん)を目懸けて、一人の屠手が斧(をの)(一方に長さ四五寸の管(くだ)があつて、致命傷を与へるのは是(この)管である)を振翳(ふりかざ)したかと思ふと、もう其が是畜生の最後。幽(かすか)な呻吟(うめき)を残して置いて、直に息を引取つて了つた――一撃で種牛は倒されたのである。
(四)
日の光は斯(こ)の小屋の内へ射入つて、死んで其処に倒れた種牛と、多忙(いそが)しさうに立働く人々の白い上被(うはつぱり)とを照した。屠手の頭は鋭い出刃庖丁を振つて、先づ牛の咽喉(のど)を割(さ)く。尾を牽(ひ)くものは直に尾を捨て、細引を持つものは細引を捨てゝ、いづれも牛の上に登つた。多勢の壮丁(わかもの)が力に任せ、所嫌はず踏付けるので、血潮は割かれた咽喉を通して紅(あか)く板敷の上へ流れた。咽喉から腹、腹から足、と次第に黒い毛皮が剥取(はぎと)られる。膏と血との臭気(にほひ)は斯の屠牛場に満ち溢(あふ)れて来た。
他の二頭の佐渡牛が小屋の内へ引入れられて、撃(う)ち殺されたのは間も無くであつた。斯の可傷(いたま)しい光景(ありさま)を見るにつけても、丑松の胸に浮ぶは亡くなつた父のことで。丑松は考深い目付を為乍(しなが)ら、父の死を想(おも)ひつゞけて居ると、軈て種牛の毛皮も悉皆(すつかり)剥取られ、角も撃ち落され、脂肪に包まれた肉身(なかみ)からは湯気のやうな息の蒸上(むしのぼ)るさまも見えた。屠手の頭は手も庖丁も紅く血潮に交(まみ)れ乍ら、あちこちと小屋の内を廻つて指揮(さしづ)する。そこには竹箒(たけばうき)で牛の膏(あぶら)を掃いて居るものがあり、こゝには砥石を出して出刃を磨いで居るものもあつた。赤い佐渡牛は引割と言つて、腰骨(こしぼね)を左右に切開かれ、其骨と骨との間へ横木を入れられて、逆方(さかさま)に高く釣るし上げられることになつた。
「そら、巻くぜ。」と一人の屠手は天井にある滑車(くるま)を見上げ乍ら言つた。
見る/\小屋の中央(まんなか)には、巨大(おほき)な牡牛の肉身(からだ)が釣るされて懸つた。叔父も、蓮太郎も、弁護士も、互に顔を見合せて居た。一人の屠手は鋸(のこぎり)を取出した、脊髄(あばら)を二つに引割り始めたのである。
回向(ゑかう)するやうな持主の目は種牛から離れなかつた。種牛は最早(もう)足さへも切離された。牧場の草踏散らした双叉(ふたまた)の蹄(つめ)も、今は小屋から土間の方へ投出(はふりだ)された。灰紫色の膜に掩(おほ)はれた臓腑は、丁度斯う大風呂敷の包のやうに、べろ/\した儘(まゝ)で其処に置いてある。三人の屠手は互に庖丁を入れて、骨に添ふて肉を切開くのであつた。
烈しい追憶(おもひで)は、復た/\丑松の胸中を往来し始めた。「忘れるな」――あゝ、その熱い臨終の呼吸は、どんなに深い響となつて、生残る丑松の骨の膸(ずゐ)までも貫徹(しみとほ)るだらう。其を考へる度に、亡くなつた父が丑松の胸中に復活(いきかへ)るのである。急に其時、心の底の方で声がして、丑松を呼び警(いまし)めるやうに聞えた。「丑松、貴様は親を捨てる気か。」と其声は自分を責めるやうに聞えた。
「貴様は親を捨てる気か。」
と丑松は自分で自分に繰返して見た。
成程(なるほど)、自分は変つた。成程、一にも二にも父の言葉に服従して、それを器械的に遵奉(じゆんぽう)するやうな、其様(そん)な児童(こども)では無くなつて来た。成程、自分の胸の底は父ばかり住む世界では無くなつて来た。成程、父の厳しい性格を考へる度に、自分は反つて反対(あべこべ)な方へ逸出(ぬけだ)して行つて、自由自在に泣いたり笑つたりしたいやうな、其様(そん)な思想(かんがへ)を持つやうに成つた。あゝ、世の無情を憤(いきどほ)る先輩の心地(こゝろもち)と、世に随へと教へる父の心地と――その二人の相違は奈何(どんな)であらう。斯う考へて、丑松は自分の行く道路(みち)に迷つたのである。
気がついて我に帰つた時は、蓮太郎が自分の傍に立つて居た。いつの間にか巡査も入つて来て、獣医と一緒に成つて眺めて居た。見れば種牛は股(もゝ)から胴へかけて四つの肉塊(かたまり)に切断(たちき)られるところ。右の前足の股の肉は、既に天井から垂下(たれさが)る細引に釣るされて、海綿を持つた一人の屠手が頻と其血を拭ふのであつた。斯うして巨大(おほき)な種牛の肉体(からだ)は実に無造作に屠(ほふ)られて了(しま)つたのである。屠手の頭が印判を取出して、それぞれの肉の上へ押して居るかと見るうちに、一方では引取りに来た牛肉屋の丁稚(でつち)、編席(アンペラ)敷いた箱を車の上に載せて、威勢よく小屋の内へがら/\と引きこんだ。
「十二貫五百。」
といふ声は小屋の隅の方に起つた。
「十一貫七百。」
とまた。
屠(ほふ)られた種牛の肉は、今、大きな秤(はかり)に懸けられるのである、屠手の一人が目方を読み上げる度に、牛肉屋の亭主は鉛筆を舐(な)めて、其を手帳へ書留めた。
やがて其日の立会も済み、持主にも別れを告げ、人々と一緒に斯の屠牛場から引取らうとした時、もう一度丑松は小屋の方を振返つて見た。屠手のあるものは残物の臓腑を取片付ける、あるものは手桶(てをけ)に足を突込んで牛の血潮を洗ひ落す、種牛の片股は未(ま)だ釣るされた儘で、黄な膏(あぶら)と白い脂肪とが日の光を帯びて居た。其時は最早あの可傷(いたま)しい回想(おもひで)の断片といふ感想(かんじ)も起らなかつた。唯大きな牛肉の塊としか見えなかつた。  
 
第拾壱章

 

(一)
「先(ま)づ好かつた。」と叔父は屠牛場の門を出た時、丑松の肩を叩(たゝ)いて言つた。「先づまあ、是(これ)で御関所は通り越した。」
「あゝ、叔父さんは声が高い。」と制するやうにして、丑松は何か思出したやうに、先へ行く蓮太郎と弁護士との後姿を眺(なが)めた。
「声が高い?」叔父は笑ひ乍ら、「ふゝ、俺のやうな皺枯声(しやがれごゑ)が誰に聞えるものかよ。それは左様(さう)と、丑松、へえ最早(もう)是で安心だ。是処(こゝ)まで漕付(こぎつ)ければ、最早大丈夫だ。どのくれえ、まあ、俺も心配したらう。あゝ今夜からは三人で安気(あんき)に寝られる。」
牛肉を満載した車は二人の傍を通過ぎた。枯々な桑畠(くはばたけ)の間には、其車の音がから/\と響き渡つて、随(つ)いて行く犬の叫び声も何となく喜ばしさうに聞える。心の好い叔父は唯訳も無く身を祝つて、顔の薄痘痕(うすあばた)も喜悦(よろこび)の為に埋もれるかのやう。奈何(どう)いふ思想(かんがへ)が来て今の世の若いものゝ胸を騒がせて居るか、其様(そん)なことはとんと叔父には解らなかつた。昔者の叔父は、斯(こ)の天気の好いやうに、唯一族が無事でさへあれば好かつた。軈(やが)て、考深い目付を為て居る丑松を促(うなが)して、昼仕度を為るために急いだのである。
昼食(ちうじき)の後、丑松は叔父と別れて、単独(ひとり)で弁護士の出張所を訪ねた。そこには蓮太郎が細君と一緒に、丑松の来るのを待受けて居たので。尤(もつと)も、一同で楽しい談話(はなし)をするのは三時間しか無かつた。聞いて見ると細君は東京の家へ、蓮太郎と弁護士とは小諸の旅舎(やどや)まで、其日四時三分の汽車で上田を発つといふ。細君は深く夫の身の上を案じるかして、一緒に東京の方へ帰つて呉れと言出したが、蓮太郎は聞入れなかつた。もと/\友人や後進のものを先にして、家のものを後にするのが蓮太郎の主義で、今度信州に踏留まるといふのも、畢竟(つまり)は弁護士の為に尽したいから。其は細君も万々承知。夫の気象として、左様(さう)いふのは無理もない。しかし斯の山の上で、夫の病気が重りでもしたら。斯ういふ心配は深く細君の顔色に表はれる。「奥様(おくさん)、其様(そんな)に御心配無く――猪子君は私が御預りしましたから。」と弁護士が引受顔なので、細君も強ひてとは言へなかつた。
先輩が可懐(なつか)しければ其細君までも可懐しい。斯う思ふ丑松の情は一層深くなつた。始めて汽車の中で出逢(であ)つた時からして、何となく人格の奥床(おくゆか)しい細君とは思つたが、さて打解けて話して見ると、別に御世辞が有るでも無く、左様(さう)かと言つて可厭(いや)に澄まして居るといふ風でも無い――まあ、極(ご)く淡泊(さつぱり)とした、物に拘泥(こうでい)しない気象の女と知れた。風俗(なりふり)なぞには関(かま)はない人で、是(これ)から汽車に乗るといふのに、其程(それほど)身のまはりを取修(とりつくろ)ふでも無い。男の見て居る前で、僅かに髪を撫(な)で付けて、旅の手荷物もそこ/\に取収(とりまと)めた。あの「懴悔録」の中に斯人(このひと)のことが書いてあつたのを、急に丑松は思出して、兎(と)も角(かく)も普通の良い家庭に育つた人が種族の違ふ先輩に嫁(かたづ)く迄(まで)の其二人の歴史を想像して見た。
汽車を待つ二三時間は速(すぐ)に経(た)つた。左右(さうかう)するうちに、停車場(ステーション)さして出掛ける時が来た。流石(さすが)弁護士は忙(せは)しい商売柄、一緒に門を出ようと為(す)るところを客に捕つて、立つて時計を見乍らの訴訟話。蓮太郎は細君を連れて一歩(ひとあし)先へ出掛けた。「あゝ何時復た先生に御目に懸れるやら。」斯う独語(ひとりごと)のやうに言つて、丑松も見送り乍ら随いて行つた。せめてもの心尽し、手荷物の鞄(かばん)は提げさせて貰ふ。其様(そん)なことが丑松の身に取つては、嬉敷(うれしく)も、名残惜敷(なごりをしく)も思はれたので。
初冬の光は町の空に満ちて、三人とも羞明(まぶし)い位であつた。上田の城跡について、人通りのすくない坂道を下りかけた時、丑松は先輩と細君とが斯ういふ談話(はなし)を為るのを聞いた。
「大丈夫だよ、左様(さう)お前のやうに心配しないでも。」と蓮太郎は叱るやうに。
「その大丈夫が大丈夫で無いから困る。」と細君は歩き乍ら嘆息した。「だつて、貴方は少許(ちつと)も身体を関はないんですもの。私が随いて居なければ、どんな無理を成さるか知れないんですもの。それに、斯の山の上の陽気――まあ、私は考へて見たばかりでも怖(おそろ)しい。」
「そりやあ海岸に居るやうな訳にはいかないさ。」と蓮太郎は笑つて、「しかし、今年は暖和(あたゝか)い。信州で斯様(こん)なことは珍しい。斯の位の空気を吸ふのは平気なものだ。御覧な、其証拠には、信州へ来てから風邪一つ引かないぢやないか。」
「でせう。大変に快(よ)く御成(おなん)なすつたでせう。ですから猶々(なほ/\)大切にして下さいと言ふんです。折角(せつかく)快く成りかけて、復(ま)た逆返(ぶりかへ)しでもしたら――」
「ふゝ、左様(さう)大事を取つて居た日にや、事業(しごと)も何も出来やしない。」
「事業? 壮健(たつしや)に成ればいくらでも事業は出来ますわ。あゝ、一緒に東京へ帰つて下されば好いんですのに。」
「解らないねえ。未(ま)だ其様(そん)なことを言つてる。奈何してまあ女といふものは左様(さう)解らないだらう。何程(どれほど)私が市村さんの御世話に成つて居るか、お前だつて其位(それくらゐ)のことは考へさうなものぢやないか。其人の前で、私に帰れなんて――すこし省慮(かんがへ)の有るものなら、彼様(あん)なことの言へた義理ぢや無からう。彼様(あゝ)いふことを言出されると、折角|是方(こつち)で思つたことも無に成つて了ふ。それに今度は、すこし自分で研究したいことも有る。今胸に浮んで居る思想(かんがへ)を完成(まと)めて書かうといふには、是非とも自分で斯の山の上を歩いて、田園生活といふものを観察しなくちやならない。それには実にもつて来いといふ機会だ。」と言つて、蓮太郎はすこし気を変へて、「あゝ好い天気だ。全く小春日和(こはるびより)だ。今度の旅行は余程面白からう――まあ、お前も家(うち)へ行つて待つて居て呉れ、信州土産はしつかり持つて帰るから。」
二人は暫時(しばらく)無言で歩いた。丑松は右の手の鞄を左へ持ち変へて、黙つて後から随いて行つた。やがて高い白壁造りの倉庫のあるところへ出て来た。
「あゝ。」と細君は萎(しを)れ乍ら、「何故(なぜ)私が帰つて下さいなんて言出したか、其訳を未だ貴方に話さないんですから。」
「ホウ、何か訳が有るのかい。」と蓮太郎は聞咎める。
「外(ほか)でも無いんですけれど。」と細君は思出したやうに震へて、「どうもねえ、昨夜の夢見が悪くて――斯う恐しく胸騒ぎがして――一晩中私は眠られませんでしたよ。何だか私は貴方のことが心配でならない。だつて、彼様(あん)な夢を見る筈が無いんですもの。だつて、其夢が普通(たゞ)の夢では無いんですもの。」
「つまらないことを言ふなあ。それで一緒に東京へ帰れと言ふのか。はゝゝゝゝ。」と蓮太郎は快活らしく笑つた。
「左様(さう)貴方のやうに言つたものでも有ませんよ。未来(さき)の事を夢に見るといふ話は克(よ)く有ますよ。どうも私は気に成つて仕様が無い。」
「ちよツ、夢なんぞが宛(あて)に成るものぢや無し――」
「しかし――奇異(きたい)なことが有れば有るものだ。まあ、貴方の死んだ夢を見るなんて。」
「へん、御幣舁(ごへいかつ)ぎめ。」
(二)
不思議な問答をするとは思つたが、丑松は其を聞いて、格別気にも懸けなかつた。彼程(あれほど)淡泊(さつぱり)として、快濶(さばけ)た気象の細君で有ながら、左様(そん)なことを気に為(す)るとは。まあ、あの夢といふ奴は児童(こども)の世界のやうなもので、時と場所の差別も無く、実に途方も無いことを眼前(めのまへ)に浮べて見せる。先輩の死――どうして其様(そん)な馬鹿らしいことが細君の夢に入つたものであらう。しかし其を気にするところが女だ。と斯う感じ易い異性の情緒(こゝろ)を考へて、いつそ可笑(をか)しくも思はれた位。「女といふものは、多く彼様(あゝ)したものだ。」と自分で自分に言つて見た時は、思はず彼の迷信深い蓮華寺の奥様を、それからあのお志保を思出すのであつた。
橋を渡つて、停車場(ステーション)近くへ出た。細君はすこし後に成つた。丑松は左の手に持ち変へた鞄をまた/\右の手に移して、蓮太郎と別離(わかれ)の言葉を交し乍ら歩いた。
「そんなら先生は――」と丑松は名残惜しさうに聞いて見る。「いつ頃まで信州に居らつしやる御積りなんですか。」
「僕ですか。」と蓮太郎は微笑(ほゝゑ)んで答へた。「左様(さう)ですなあ――すくなくとも市村君の選挙が済むまで。実はね、家内も彼様(あゝ)言ひますし、一旦は東京へ帰らうかとも思ひましたよ。ナニ、これが普通の選挙の場合なら、黙つて帰りますサ。どうせ僕なぞが居たところで、大した応援も出来ませんからねえ。まあ市村君の身になつて考へて見ると、先生は先生だけの覚悟があつて、候補者として立つのですから、誰を政敵にするのも其味は一つです。はゝゝゝゝ。しかし、市村君が勝つか、あの高柳利三郎が勝つか、といふことは、僕等の側から考へると、一寸普通の場合とは違ふかとも思はれる――」
丑松は黙つて随いて行つた。蓮太郎は何か思出したやうに、後から来る細君の方を振返つて見て、やがて復(ま)た歩き初める。
「だつて、君、考へて見て呉れたまへ。あの高柳の行為(やりかた)を考へて見て呉れたまへ。あゝ、いくら吾儕(われ/\)が無智な卑賤(いや)しいものだからと言つて、蹈付(ふみつ)けられるにも程が有る。どうしても彼様(あん)な男に勝たせたくない。何卒(どうか)して市村君のものに為て遣りたい。高柳の話なぞを聞かなければ格別、聞いて、知つて、黙つて帰るといふことは、新平民として余り意気地(いくぢ)が無さ過ぎるからねえ。」
「では、先生は奈何(どう)なさる御積りなんですか。」
「奈何するとは?」
「黙つて帰ることが出来ないと仰(おつしや)ると――」
「ナニ、君、僅かに打撃を加へる迄(まで)のことさ。はゝゝゝゝ。なにしろ先方(さき)には六左衛門といふ金主が附いたのだから、いづれ買収も為るだらうし、壮士的な運動も遣(や)るだらう。そこへ行くと、是方(こつち)は草鞋(わらぢ)一足、舌一枚――おもしろい、おもしろい、敵はたゞ金の力より外に頼りに為るものが無いのだからおもしろい。はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。」
「しかし、うまく行つて呉れると好いですがなあ――」
「はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。」
斯(か)ういふ談話(はなし)をして行くうちに、二人は上田|停車場(ステーション)に着いた。
上野行の上り汽車が是処(こゝ)を通る迄には未だ少許(すこし)間が有つた。多くの旅客は既に斯の待合室に満ち溢(あふ)れて居た。細君も直に一緒になつて、三人して弁護士を待受けた。蓮太郎は巻煙草を取出して、丑松に勧め、自分もまた火を点(つ)けて、其を燻(ふか)し/\何を言出すかと思ふと、「いや、信州といふところは余程面白いところさ。吾儕(われ/\)のやうなものを斯様(こんな)に待遇するところは他の国には無いね。」と言ひさして、丑松の顔を眺(なが)め、細君の顔を眺め、それから旅客(たびびと)の群をも眺め廻し乍ら、「ねえ瀬川君、僕も御承知の通りな人間でせう。他の場合とは違つて選挙ですから、実は僕なぞの出る幕では無いと思つたのです。万一、選挙人の感情を害するやうなことが有つては、反(かへ)つて藪蛇(やぶへび)だ。左様(さう)思ふから、まあ演説は見合せにする考へだつたのです。ところが信州といふところは変つた国柄で、僕のやうなものに是非|談話(はなし)をして呉れなんて――はあ、今夜は小諸で、市村君と一緒に演説会へ出ることに。」と言つて、思出したやうに笑つて、「この上田で僕等が談話をした時には七百人から集りました。その聴衆が実に真面目に好く聞いて呉れましたよ。長野に居た新聞記者の言草では無いが、「信州ほど演説の稽古をするに好い処はない、」――全く其通りです。智識の慾に富んで居るのは、斯の山国の人の特色でせうね。これが他の国であつて見たまへ、まあ僕等のやうなものを相手にして呉れる人はありやしません。それが信州へ来れば「先生」ですからねえ。はゝゝゝゝ。」
細君は苦笑ひをしながら聞いて居た。
軈て、切符を売出した。人々はぞろ/\動き出した。丁度そこへ弁護士、肥大な体躯(からだ)を動(ゆす)り乍ら、満面に笑(ゑみ)を含んで馳け付けて、挨拶する間も無く蓮太郎夫婦と一緒に埒(らち)の内へと急いだ。丑松も、入場切符を握つて、随いて入つた。
四番の上りは二十分も後れたので、それを待つ旅客は「プラットホオム」の上に群(むらが)つた。細君は大時計の下に腰掛けて茫然(ばうぜん)と眺め沈んで居る、弁護士は人々の間をあちこちと歩いて居る、丑松は蓮太郎の傍を離れないで、斯うして別れる最後の時までも自分の真情を通じたいが胸中に満ち/\て居た。どうかすると、丑松は自分の日和下駄の歯で、乾いた土の上に何か画(か)き初める。蓮太郎は柱に倚凭(よりかゝ)り乍ら、何の文字とも象徴(しるし)とも解らないやうなものが土の上に画かれるのを眺め入つて居た。
「大分汽車は後れましたね。」
といふ蓮太郎の言葉に気がついて、丑松は下駄の歯の痕(あと)を掻消して了(しま)つた。すこし離れて斯(こ)の光景(ありさま)を眺めて居た中学生もあつたが、やがて他(わき)を向いて意味も無く笑ふのであつた。
「あ、ちよと、瀬川君、飯山の御住処(おところ)を伺つて置きませう。」斯う蓮太郎は尋ねた。
「飯山は愛宕町(あたごまち)の蓮華寺といふところへ引越しました。」と丑松は答へる。
「蓮華寺?」
「下水内郡飯山町蓮華寺方――それで分ります。」
「むゝ、左様(さう)ですか。それから、是(これ)はまあ是限(これぎ)りの御話ですが――」と蓮太郎は微笑(ほゝゑ)んで、「ひよつとすると、僕も君の方まで出掛けて行くかも知れません。」
「飯山へ?」丑松の目は急に輝いた。
「はあ――尤(もつと)も、佐久小県の地方を廻つて、一旦長野へ引揚げて、それからのことですから、まだ奈何(どう)なるか解りませんがね、若(も)し飯山へ出掛けるやうでしたら是非|御訪(おたづ)ねしませう。」
其時、汽笛の音が起つた。見れば直江津の方角から、長い列車が黒烟(くろけぶり)を揚げて進んで来た。顔も衣服(きもの)も垢染(あかじ)み汚れた駅夫の群は忙しさうに駈けて歩く。やがて駅長もあらはれた。汽車はもう人々の前に停つた。多くの乗客はいづれも窓に倚凭(よりかゝ)つて眺める。細君も、弁護士も、丑松に別離(わかれ)を告げて周章(あわたゞ)しく乗込んだ。
「それぢや、君、失敬します。」
といふ言葉を残して置いて、蓮太郎も同じ室へ入る、直に駅夫が飛んで来てぴしやんと其戸を閉めて行つた。丑松の側に居た駅長が高く右の手を差上げて、相図の笛を吹鳴らしたかと思ふと、汽車はもう線路を滑り初めた。細君は窓から顔を差出して、もう一度丑松に挨拶したが、たゞさへ悪い其色艶が忘れることの出来ないほど蒼(あを)かつた。見る見る乗客の姿は動揺して、甲から乙へと影のやうに通過ぎる。丑松は喪心した人のやうになつて、長いこと同じところに樹(う)ゑたやうに立つた。あゝ、先輩は行つて了つた、と思ひ浮べた頃は、もう汽車の形すら見えなかつたのである。後に残る白い雲のやうな煙の群、その一団一団の集合(あつまり)が低く地の上に這(は)ふかと見て居ると、急に風に乱れて、散り/″\になつて、終(しまひ)に初冬の空へ掻消すやうに失くなつて了つた。
(三)
何故(なぜ)人の真情は斯う思ふやうに言ひ表すことの出来ないものであらう。其日といふ其日こそは、あの先輩に言ひたい/\と思つて、一度となく二度となく自分で自分を励まして見たが、とう/\言はずに別れて了(しま)つた。どんなに丑松は胸の中に戦ふ深い恐怖(おそれ)と苦痛(くるしみ)とを感じたらう。どんなに丑松は寂しい思を抱(いだ)き乍(なが)ら、もと来た道を根津村の方へと帰つて行つたらう。
初七日も無事に過ぎた。墓参りもし、法事も済み、わざとの振舞は叔母が手料理の精進(しやうじん)で埒明(らちあ)けて、さて漸(やうや)く疲労(つかれ)が出た頃は、叔父も叔母も安心の胸を撫下した。独り精神(こゝろ)の苦闘(たゝかひ)を続けたのは丑松で、蓮太郎が残して行つた新しい刺激は書いたものを読むにも勝(まさ)る懊悩(あうなう)を与へたのである。時として丑松は、自分の一生のことを考へる積りで、小県(ちひさがた)の傾斜を彷徨(さまよ)つて見た。根津の丘、姫子沢の谷、鳥が啼(な)く田圃側(たんぼわき)なぞに霜枯れた雑草を蹈(ふ)み乍ら、十一月上旬の野辺に満ちた光を眺めて佇立(たゝず)んだ時は、今更のやうに胸を流れる活きた血潮の若々しさを感ずる。確実(たしか)に、自分には力がある。斯(か)う丑松は考へるのであつた。しかし其力は内部(なか)へ/\と閉塞(とぢふさが)つて了つて、衝(つ)いて出て行く道が解らない。丑松はたゞ同じことを同じやうに繰返し乍ら、山の上を歩き廻つた。あゝ、自然は慰めて呉れ、励ましては呉れる。しかし右へ行けとも、左へ行けとも、そこまでは人に教へなかつた。丑松が尋ねるやうな問には、野も、丘も、谷も答へなかつたのである。
ある日の午後、丑松は二通の手紙を受取つた。二通ともに飯山から。一通は友人の銀之助。例の筆まめ、相変らず長々しく、丁度|談話(はなし)をするやうな調子で、さま/″\慰藉(なぐさめ)を書き籠め、さて飯山の消息には、校長の噂(うはさ)やら、文平の悪口やら、「僕も不幸にして郡視学を叔父に持たなかつた」とかなんとか言ひたい放題なことを書き散らし、普通教育者の身を恨(うら)み罵(のゝし)り、到底今日の教育界は心ある青年の踏み留まるべきところでは無いと奮慨してよこした。長野の師範校に居る博物科の講師の周旋で、いよ/\農科大学の助手として行くことに確定したから、いづれ遠からず植物研究に身を委(ゆだ)ねることが出来るであらう――まあ、喜んで呉れ、といふ意味を書いてよこした。
功名を慕ふ情熱は、斯の友人の手紙を見ると同時に、烈しく丑松の心を刺激した。一体、丑松が師範校へ入学したのは、多くの他の学友と同じやうに、衣食の途(みち)を得る為で――それは小学教師を志願するやうなものは、誰しも似た境遇に居るのであるから――とはいふものゝ、丑松も無論今の位置に満足しては居なかつた。しかし、銀之助のやうな場合は特別として、高等師範へでも行くより外に、小学教師の進んで出る途は無い。さも無ければ、長い/\十年の奉公。其義務年限の間、束縛されて働いて居なければならない。だから丑松も高等師範へ――といふことは卒業の当時考へないでも無い。志願さへすれば最早とつくに選抜されて居たらう。そこがそれ穢多の悲しさには、妙にそちらの方には気が進まなかつたのである。丑松に言はせると、たとへ高等師範を卒業して、中学か師範校かの教員に成つたとしたところで、もしも蓮太郎のやうな目に逢つたら奈何(どう)する。何処(どこ)まで行つても安心が出来ない。それよりは飯山あたりの田舎(ゐなか)に隠れて、じつと辛抱して、義務年限の終りを待たう。其間に勉強して他の方面へ出る下地を作らう。素性が素性なら、友達なんぞに置いて行かれる積りは毛頭無いのだ。斯う嘆息して、丑松は深く銀之助の身の上を羨んだ。
他の一通は高等四年生総代としてある。それは省吾の書いたもので、手紙の文句も覚束なく、作文の時間に教へた通りをそつくり其儘の見舞状、「根津にて、瀬川先生――風間省吾より」としてあつた。「猶々(なほ/\)」とちひさく隅の方に、「蓮華寺の姉よりも宜敷(よろしく)」としてあつた。
「姉よりも宜敷。」
と繰返して、丑松は言ふに言はれぬ可懐(なつか)しさを感じた。やがてお志保のことを考へる為に、裏の方へ出掛けた。
(四)
追憶(おもひで)の林檎畠――昔若木であつたのも今は太い幹となつて、中には僅かに性命(いのち)を保つて居るやうな虫ばみ朽ちたのもある。見れば木立も枯れ/″\、細く長く垂れ下る枝と枝とは左右に込合つて、思ひ/\に延びて、いかにも初冬の風趣(おもむき)を顕(あらは)して居た。その裸々(らゝ)とした幹の根元から、芽も籠る枝のわかれ、まだところ/″\に青み残つた力なげの霜葉まで、日につれて地に映る果樹の姿は丑松の足許(あしもと)にあつた。そここゝの樹の下に雄雌(をすめす)の鶏、土を浴びて静息(じつ)として蹲踞(はひつくば)つて居るのは、大方羽虫を振ふ為であらう。丁度この林檎畠を隔てゝ、向ふに草葺(くさぶき)の屋根も見える――あゝ、お妻の生家(さと)だ。克(よ)く遊びに行つた家(うち)だ。薄煙青々と其土壁を泄(も)れて立登るのは、何となく人懐しい思をさせるのであつた。
「姉よりも宜敷(よろしく)。」
とまた繰返して、丑松は樹と樹の間をあちこちと歩いて見た。
楽しい思想(かんがへ)は来て、いつの間にか、丑松の胸の中に宿つたのである。昔、昔、少年の丑松があの幼馴染(をさななじみ)のお妻と一緒に遊んだのは爰(こゝ)だ。互に人目を羞(は)ぢらつて、輝く若葉の蔭に隠れたのは爰だ。互に初恋の私語(さゝやき)を取交したのは爰だ。互に無邪気な情の為に燃え乍ら、唯もう夢中で彷徨(さまよ)つたのは爰だ。
斯(か)ういふ風に、過去つたことを思ひ浮べて居ると、お妻からお志保、お志保からお妻と、二人の俤(おもかげ)は往(い)つたり来たりする。別にあの二人は似て居るでも無い。年齢(とし)も違ふ、性質も違ふ、容貌(かほかたち)も違ふ。お妻を姉とも言へないし、お志保を妹とも思はれない。しかし一方のことを思出すと、きつと又た一方のことをも考へて居るのは不思議で――
あゝ、穢多の悲嘆(なげき)といふことさへ無くば、是程(これほど)深く人懐しい思も起らなかつたであらう。是程深く若い生命(いのち)を惜むといふ気にも成らなかつたであらう。是程深く人の世の歓楽(たのしみ)を慕ひあこがれて、多くの青年が感ずることを二倍にも三倍にもして感ずるやうな、其様(そん)な切なさは知らなかつたであらう。あやしい運命に妨(さまた)げられゝば妨げられる程、余計に丑松の胸は溢(あふ)れるやうに感ぜられた。左様(さう)だ――あのお妻は自分の素性を知らなかつたからこそ、昔一緒にこの林檎畠を彷徨(さまよ)つて、蜜のやうな言葉を取交しもしたのである。誰が卑賤(いや)しい穢多の子と知つて、其|朱唇(くちびる)で笑つて見せるものが有らう。もしも自分のことが世に知れたら――斯ういふことは考へて見たばかりでも、実に悲しい、腹立たしい。懐しさは苦しさに交つて、丑松の心を掻乱すやうにした。
思ひ耽(ふけ)つて樹の下を歩いて居ると、急に鶏の声が起つて、森閑(しんかん)とした畠の空気に響き渡つた。
「姉よりも宜敷(よろしく)。」
ともう一度繰返して、それから丑松は斯(こ)の場処を出て行つた。
其晩はお志保のことを考へ乍ら寝た。一度有つたことは二度有るもの。翌(あく)る晩も其又次の晩も、寝る前には必ず枕の上でお志保を思出すやうになつた。尤も朝になれば、そんなことは忘れ勝ちで、「奈何(どう)して働かう、奈何して生活しよう――自分は是から将来(さき)奈何したら好からう」が日々(にち/\)心を悩ますのである。父の忌服(きぶく)は半ば斯ういふ煩悶のうちに過したので、さていよ/\「奈何する」となつた時は、別に是ぞと言つて新しい途(みち)の開けるでも無かつた。四五日の間、丑松はうんと考へた積りであつた。しかし、後になつて見ると、唯もう茫然(ぼんやり)するやうなことばかり。つまり飯山へ帰つて、今迄通りの生活を続けるより外(ほか)に方法も無かつたのである。あゝ、年は若し、経験は少し、身は貧しく、義務年限には縛られて居る――丑松は暗い前途を思ひやつて、やたらに激昂したり戦慄(ふる)へたりした。 
 
第拾弐章

 

(一)
二七日(ふたなぬか)が済(す)む、直に丑松は姫子沢を発(た)つことにした。やれ、それ、と叔父夫婦は気を揉(も)んで、暦を繰つて日を見るやら、草鞋(わらぢ)の用意をして呉れるやら、握飯(むすび)は三つも有れば沢山だといふものを五つも造(こしら)へて、竹の皮に包んで、別に瓜の味噌漬(みそづけ)を添へて呉れた。お妻の父親(おやぢ)もわざわざやつて来て、炉辺(ろばた)での昔語。煤(すゝ)けた古壁に懸かる例の「山猫」を見るにつけても、亡(な)くなつた老牧夫の噂(うはさ)は尽きなかつた。叔母が汲んで出す別離(わかれ)の茶――其色も濃く香も好いのを飲下した時は、どんなにか丑松も暖い血縁(みうち)のなさけを感じたらう。道祖神の立つ故郷(ふるさと)の出口迄叔父に見送られて出た。
其日は灰色の雲が低く集つて、荒寥(くわうれう)とした小県(ちひさがた)の谷間(たにあひ)を一層|暗欝(あんうつ)にして見せた。烏帽子(ゑぼし)一帯の山脈も隠れて見えなかつた。父の墓のある西乃入の沢あたりは、あるひは最早(もう)雪が来て居たらう。昨日一日の凩(こがらし)で、急に枯々な木立も目につき、梢(こずゑ)も坊主になり、何となく野山の景色が寂しく冬らしくなつた。長い、長い、考へても淹悶(うんざり)するやうな信州の冬が、到頭(たうとう)やつて来た。人々は最早あの※[木+危]染(くちなしぞめ)の真綿帽子を冠り出した。荷をつけて通る馬の鼻息の白いのを見ても、いかに斯(この)山上の気候の変化が激烈であるかを感ぜさせる。丑松は冷い空気を呼吸し乍ら、岩石の多い坂路を下りて行つた。荒谷(あらや)の村はづれ迄行けば、指の頭(さき)も赤く腫(は)れ脹(ふく)らんで、寒さの為に感覚を失つた位。
田中から直江津行の汽車に乗つて、豊野へ着いたのは丁度|正午(ひる)すこし過。叔母が呉れた握飯(むすび)は停車場(ステーション)前の休茶屋で出して食つた。空腹(すきばら)とは言ひ乍ら五つ迄は。さて残つたのを捨てる訳にもいかず、犬に呉れるは勿体(もつたい)なし、元の竹の皮に包んで外套(ぐわいたう)の袖袋(かくし)へ突込んだ。斯うして腹をこしらへた上、川船の出るといふ蟹沢を指して、草鞋(わらぢ)の紐(ひも)を〆直(しめなほ)して出掛けた。其間|凡(およ)そ一里|許(ばかり)。尤も往きと帰りとでは、同じ一里が近く思はれるもので、北国街道の平坦(たひら)な長い道を独りてく/\やつて行くうちに、いつの間にか丑松は広濶(ひろ/″\)とした千曲川(ちくまがは)の畔(ほとり)へ出て来た。急いで蟹沢の船場迄行つて、便船(びんせん)は、と尋ねて見ると、今々飯山へ向けて出たばかりといふ。どうも拠(よんどころ)ない。次の便船の出るまで是処(こゝ)で待つより外は無い。それでもまだ歩いて行くよりは増だ、と考へて、丑松は茶屋の上(あが)り端(はな)に休んだ。
霙(みぞれ)が落ちて来た。空はいよ/\暗澹(あんたん)として、一面の灰紫色に掩(おほ)はれて了(しま)つた。斯うして一時間の余も待つて居るといふことが、既にもう丑松の身にとつては、堪へ難い程の苦痛(くるしみ)であつた。それに、道を急いで来た為に、いやに身体(からだ)は蒸(む)されるやう。襯衣(シャツ)の背中に着いたところは、びつしより熱い雫(しづく)になつた。額に手を当てゝ見れば、汗に濡(ぬ)れた髪の心地(こゝろもち)の悪さ。胸のあたりを掻展(かきひろ)げて、少許(すこし)気息(いき)を抜いて、軈(やが)て濃い茶に乾いた咽喉(のど)を霑(うるほ)して居る内に、ポツ/\舟に乗る客が集つて来る。あるものは奥の炬燵(こたつ)にあたるもあり、あるものは炉辺へ行つて濡れた羽織を乾すもあり、中には又|茫然(ぼんやり)と懐手して人の談話(はなし)を聞いて居るのもあつた。主婦(かみさん)は家(うち)の内でも手拭を冠り、藍染真綿を亀の甲のやうに着て、茶を出すやら、座蒲団を勧めるやら、金米糖(こんぺいたう)は古い皿に入れて款待(もてな)した。
丁度そこへ二台の人力車(くるま)が停つた。矢張(やはり)斯の霙(みぞれ)を衝(つ)いて、便船に後(おく)れまいと急いで来た客らしい。人々の視線は皆な其方に集つた。車夫はまるで濡鼠、酒代(さかて)が好いかして威勢よく、先づ雨被(あまよけ)を取除(とりはづ)して、それから手荷物のかず/\を茶屋の内へと持運ぶ。つゞいて客もあらはれた。
(二)
丑松が驚いたのは無理もなかつた。それは高柳の一行であつた。往(ゆ)きに一緒に成つて、帰りにも亦(ま)た斯(こ)の通り一緒に成るとは――しかも、同じ川舟を待合はせるとは。それに往きには高柳一人であつたのが、帰りには若い細君らしい女と二人連。女は、薄色縮緬(うすいろちりめん)のお高祖(こそ)を眉深(まぶか)に冠つたまゝ、丑松の腰掛けて居る側を通り過ぎた。新しい艶のある吾妻袍衣(あづまコート)に身を包んだ其|嫋娜(すらり)とした後姿を見ると、斯(こ)の女が誰であるかは直に読める。丑松はあの蓮太郎の話を想起(おもひおこ)して、いよ/\其が事実であつたのに驚いて了(しま)つた。
主婦(かみさん)に導かれて、二人はずつと奥の座敷へ通つた。そこには炬燵(こたつ)が有つて、先客一人、五十あまりの坊主、直に慣々(なれ/\)しく声を掛けたところを見ると、かねて懇意の仲ででも有らう。軈(やが)て盛んな笑声が起る。丑松は素知らぬ顔、屋外(そと)の方へ向いて、物寂(ものさみ)しい霙(みぞれ)の空を眺めて居たが、いつの間にか後の方へ気を取られる。聞くとは無しについ聞耳を立てる。座敷の方では斯様(こん)な談話(はなし)をして笑ふのであつた。
「道理で――君は暫時(しばらく)見えないと思つた。」と言ふは世慣(よな)れた坊主の声で、「私(わし)は又、選挙の方が忙しくて、其で地方廻りでも為(し)て居るのかと思つた。へえ、左様(さう)ですかい、そんな御目出度(おめでたい)ことゝは少許(すこし)も知らなかつたねえ。」
「いや、どうも忙しい思(おもひ)を為て来ましたよ。」斯(か)う言つて笑ふ声を聞くと、高柳はさも得意で居るらしい。
「それはまあ何よりだつた。失礼ながら、奥様(おくさん)は? 矢張(やはり)東京の方からでも?」
「はあ。」
この「はあ」が丑松を笑はせた。
談話(はなし)の様子で見ると、高柳夫婦は東京の方へ廻つて、江の島、鎌倉あたりを見物して来て、是から飯山へ乗込むといふ寸法らしい。そこは抜目の無い、細工の多い男だから、根津から直に引返すやうなことを為(し)ないで、わざ/\遠廻りして帰つて来たものと見える。さて、坊主を捕(つかま)へて、片腹痛いことを吹聴(ふいちやう)し始めた。聞いて居る丑松には其心情の偽(いつはり)が読め過ぎるほど読めて、終(しまひ)には其処に腰掛けても居られないやうになつた。「恐しい世の中だ」――斯う考へ乍ら、あの夫婦の暗い秘密を自分の身に引比べると、さあ何となく気懸りでならない。やがて、故意(わざ)と無頓着な様子を装(つくろ)つて、ぶらりと休茶屋の外へ出て眺めた。
霙(みぞれ)は絶えず降りそゝいで居た。あの越後路から飯山あたりへかけて、毎年(まいとし)降る大雪の前駆(さきぶれ)が最早やつて来たかと思はせるやうな空模様。灰色の雲は対岸に添ひ徊徘(さまよ)つた、広濶(ひろ/″\)とした千曲川の流域が一層遠く幽(かすか)に見渡される。上高井の山脈、菅平の高原、其他畳み重なる多くの山々も雪雲に埋没(うづも)れて了(しま)つて、僅かに見えつ隠れつして居た。
斯うして茫然(ばうぜん)として、暫時(しばらく)千曲川の水を眺めて居たが、いつの間にか丑松の心は背後(うしろ)の方へ行つて了つた。幾度か丑松は振返つて二人の様子を見た。見まい/\と思ひ乍ら、つい見た。丁度乗船の切符を売出したので、人々は皆な争つて買つた。間も無く船も出るといふ。混雑する旅人の群に紛(まぎ)れて、先方(さき)の二人も亦た時々盗むやうに是方(こちら)の様子を注意するらしい――まあ、思做(おもひなし)の故(せゐ)かして、すくなくとも丑松には左様(さう)酌(と)れたのである。女の方で丑松を知つて居るか、奈何か、それは克(よ)く解らないが、丑松の方では確かに知つて居る。髪のかたちこそ新婚の人のそれに結ひ変へては居るが、紛れの無い六左衛門の娘、白いもの花やかに彩色(いろどり)して恥の面を塗り隠し、野心深い夫に倚添(よりそ)ひ、崖(がけ)にある坂路をつたつて、舟に乗るべきところへ下りて行つた。「何と思つて居るだらう――あの二人は。」斯う考へ乍ら、丑松も亦た人々の後に随(つ)いて、一緒にその崖を下りた。
(三)
川舟は風変りな屋形造りで、窓を附け、舷(ふなべり)から下を白く化粧して赤い二本筋を横に表してある。それに、艫寄(ともより)の半分を板戸で仕切つて、荷積みの為に区別がしてあるので、客の座るところは細長い座敷を見るやう。立てば頭が支へる程。人々はいづれも狭苦しい屋形の下に膝を突合せて乗つた。
やがて水を撃つ棹(さを)の音がした。舟底は砂の上を滑り始めた。今は二挺|櫓(ろ)で漕ぎ離れたのである。丑松は隅の方に両足を投出して、独り寂しさうに巻煙草を燻(ふか)し乍(なが)ら、深い/\思に沈んで居た。河の面に映る光線の反射は割合に窓の外を明くして、降りそゝぐ霙の眺めをおもしろく見せる。舷(ふなべり)に触れて囁(つぶや)くやうに動揺する波の音、是方(こちら)で思つたやうに聞える眠たい櫓のひゞき――あゝ静かな水の上だ。荒寥(くわうれう)とした岸の楊柳(やなぎ)もところ/″\。時としては其冬木の姿を影のやうに見て進み、時としては其枯々な枝の下を潜るやうにして通り抜けた。是(これ)から将来(さき)の自分の生涯は畢竟(つまり)奈何(どう)なる。斯う丑松は自分で自分に尋ねることもあつた。誰が其を知らう。窓から首を出して飯山の空を眺めると、重く深く閉塞(とぢふさが)つた雪雲の色はうたゝ孤独な穢多の子の心を傷(いた)ましめる。残酷なやうな、可懐(なつか)しいやうな、名のつけやうの無い心地(こゝろもち)は丑松の胸の中を掻乱(かきみだ)した。今――学校の連中は奈何(どう)して居るだらう。友達の銀之助は奈何して居るだらう。あの不幸な、老朽な敬之進は奈何して居るだらう。蓮華寺の奥様は。お志保は。と不図、省吾から来た手紙の文句なぞを思出して見ると、逢(あ)ひたいと思ふ其人に復(ま)た逢はれるといふ楽みが無いでもない。丑松はあの寺の古壁を思ひやるごとに、空寂なうちにも血の湧くやうな心地(こゝろもち)に帰るのであつた。
「蓮華寺――蓮華寺。」
と水に響く櫓の音も同じやうに調子を合せた。
霙は雪に変つて来た。徒然(つれ/″\)な舟の中は人々の雑談で持切つた。就中(わけても)、高柳と一緒になつた坊主、茶にしたやうな口軽な調子で、柄に無い政事上の取沙汰(とりざた)、酢(す)の菎蒻(こんにやく)のとやり出したので、聞く人は皆な笑ひ憎んだ。斯(こ)の坊主に言はせると、選挙は一種の遊戯で、政事家は皆な俳優に過ぎない、吾儕(われ/\)は唯見物して楽めば好いのだと。斯の言葉を聞いて、また人々が笑へば、そこへ弥次馬が飛出す、其尾に随いて贔顧(ひいき)不贔顧(ぶひいき)の論が始まる。「いよ/\市村も侵入(きりこ)んで来るさうだ。」と一人が言へば、「左様(さう)言ふ君こそ御先棒に使役(つか)はれるんぢや無いか。」と攪返(まぜかへ)すものがある。弁護士の名は幾度か繰返された。其を聞く度に、高柳は不快らしい顔付。ふゝむと鼻の先で笑つて、嘲つたやうに口唇を引歪(ひきゆが)めた。
斯(か)ういふ他(ひと)の談話(はなし)の間にも、女は高柳の側に倚添つて、耳を澄まして、夫の機嫌を取り乍ら聞いて居た。見れば、美しい女の数にも入るべき人で、殊(こと)に華麗(はなやか)な新婚の風俗は多くの人の目を引いた。髪は丸髷(まるまげ)に結ひ、てがらは深紅(しんく)を懸け、桜色の肌理(きめ)細やかに肥えあぶらづいて、愛嬌(あいけう)のある口元を笑ふ度に掩ひかくす様は、まだ世帯の苦労なぞを知らない人である。さすが心の表情は何処(どこ)かに読まれるもので――大きな、ぱつちりとした眼のうちには、何となく不安の色も顕(あらは)れて、熟(じつ)と物を凝視(みつ)めるやうな沈んだところも有つた。どうかすると、女は高柳の耳の側へ口を寄せて、何か人に知れないやうに私語(さゝや)くことも有つた。どうかすると又、丑松の方を盗むやうに見て、「おや、彼の人は――何処かで見掛けたやうな気がする」と斯う其眼で言ふことも有つた。
同族の哀憐(あはれみ)は、斯の美しい穢多の女を見るにつけても、丑松の胸に浮んで来た。人種さへ変りが無くば、あれ程の容姿(きりやう)を持ち、あれ程|富有(ゆたか)な家に生れて来たので有るから、無論相当のところへ縁付かれる人だ――彼様(あん)な野心家の餌(ゑば)なぞに成らなくても済(す)む人だ――可愛さうに。斯う考へると同時に、丁度女も自分と同じ秘密を持つて居るかと思ひやると、どうも其処が気懸りでならない。よしんば先方(さき)で自分を知つて居るとしたところで、其が奈何(どう)した、と丑松は自分で自分に尋ねて見た。根津の人、または姫子沢のもの、と思つて居るなら自分に取つて一向恐れるところは無い。恐れるとすれば、其は反(かへ)つて先方(さき)のことだ。斯う自分で答へて見た。第一、自分は四五年|以来(このかた)、数へる程しか故郷へ帰らなかつた――卒業した時に一度――それから今度の帰省が足掛三年目――まあ、あの向町なぞは成るべく避(よ)けて通らなかつたし、通つたところで他(ひと)が左様(さう)注意して見る筈も無し、見たところで何処のものだか解らない――大丈夫。斯う用心深く考へても見た。畢竟(つまり)自分が二人の暗い秘密を聞知つたから、それで斯う気が咎(とが)めるのであらう。彼様(あゝ)して私語(さゝや)くのは何でも無いのであらう。避けるやうな素振(そぶり)は唯人目を羞(は)ぢるのであらう。あの目付も。
とはいふものゝ、何となく不安に思ふ其懸念が絶えず心の底にあつた。丑松は高柳夫婦を見ないやうにと勉(つと)めた。
(四)
千曲川の瀬に乗つて下ること五里。尤(もつと)も、其間には、ところ/″\の舟場へも漕ぎ寄せ、洪水のある度に流れるといふ粗造な船橋の下をも潜り抜けなどして、そんなこんなで手間取れた為に、凡(およ)そ三時間は舟旅に費(かゝ)つた。飯山へ着いたのは五時近い頃。其日は舟の都合で、乗客一同|上(かみ)の渡しまで。丑松は人々と一緒に其処から岸へ上つた。見れば雪は河原にも、船橋の上にも在つた。丁度小降のなかを暮れて、仄白(ほのじろ)く雪の町々。そこにも、こゝにも、最早ちら/\灯(あかり)が点く。其時蓮華寺で撞(つ)く鐘の音が黄昏(たそがれ)の空に響き渡る――あゝ、庄馬鹿が撞くのだ。相変らず例の鐘楼に上つて冬の一日(ひとひ)の暮れたことを報せるのであらう。と其を聞けば、言ふに言はれぬ可懐(なつか)しさが湧上つて来る。丑松は久し振りで飯山の地を踏むやうな心地(こゝろもち)がした。
半月ばかり見ないうちに、家々は最早(もう)冬籠(ふゆごもり)の用意、軒丈ほどの高さに毎年(まいとし)作りつける粗末な葦簾(よしず)の雪がこひが悉皆(すつかり)出来上つて居た。越後路と同じやうな雪国の光景(ありさま)は丑松の眼前(めのまへ)に展(ひら)けたのである。
新町の通りへ出ると、一筋暗く踏みつけた町中の雪道を用事ありげな男女(をとこをんな)が往つたり来たりして居た。いづれも斯(こ)の夕暮を急ぐ人々ばかり。丑松は右へ避(よ)け、左へ避けして、愛宕(あたご)町をさして急いで行かうとすると、不図(ふと)途中で一人の少年に出逢(であ)つた。近いて見ると、それは省吾で、何か斯う酒の罎(びん)のやうなものを提げて、寒さうに慄(ふる)へ乍(なが)らやつて来た。
「あれ、瀬川先生。」と省吾は嬉しさうに馳寄(かけよ)つて、「まあ、魂消(たまげ)た――それでも先生の早かつたこと。私はまだ/\容易に帰りなさらないかと思ひやしたよ。」
好く言つて呉れた。斯の無邪気な少年の驚喜した顔付を眺(なが)めると、丑松は最早(もう)あのお志保に逢ふやうな心地(こゝろもち)がしたのである。
「君は――お使かね。」
「はあ。」
と省吾は黒ずんだ色の罎を出して見せる。出して見せ乍ら、笑つた。
果して父の為に酒を買つて帰つて行くところであつた。「此頃(こなひだ)は御手紙を難有う。」斯(か)う丑松は礼を述べて、一寸学校の様子を聞いた。自分が留守の間、毎日誰か代つて教へたと尋ねた。それから敬之進のことを尋ねて見た。
「父さん?」と省吾は寂(さみ)しさうに笑つて、「あの、父さんは家に居りやすよ。」
よく/\言ひ様に窮(こま)つたと見えて、斯う答へたが、子供心にも父を憐むといふ情合(じやうあひ)は其顔色に表れるのであつた。見れば省吾は足袋も穿(は)いて居なかつた。斯うして酒の罎を提げて悄然(しよんぼり)として居る少年の様子を眺めると、あの無職業な敬之進が奈何して日を送つて居るかも大凡(おほよそ)想像がつく。
「家へ帰つたらねえ、父さんに宜敷(よろしく)言つて下さい。」
と言はれて、省吾は御辞儀一つして、軈(やが)てぷいと駈出して行つて了つた。丑松も雪の中を急いだ。
(五)
宵(よひ)の勤行(おつとめ)も終る頃で、子坊主がかん/\鳴らす鉦(かね)の音を聞き乍ら、丑松は蓮華寺の山門を入つた。上の渡しから是処迄(こゝまで)来るうちに、もう悉皆(すつかり)雪だらけ。羽織の裾も、袖も真白。其と見た奥様は飛んで出て、吾子が旅からでも帰つて来たかのやうに喜んだ。人々も出て迎へた。下女の袈裟治(けさぢ)は塵払(はたき)を取出して、背中に附いた雪を払つて呉れる。庄馬鹿は洗足(すゝぎ)の湯を汲んで持つて来る。疲れて、がつかりして、蔵裏(くり)の上(あが)り框(がまち)に腰掛け乍ら、雪の草鞋(わらぢ)を解(ほど)いた後、温暖(あたゝか)い洗(すゝ)ぎ湯(ゆ)の中へ足を浸した時の其丑松の心地は奈何(どんな)であつたらう。唯(たゞ)――お志保の姿が見えないのは奈何したか。人々の情を嬉敷(うれしく)思ふにつけても、丑松は心に斯(か)う考へて、何となく其人の居ないのが物足りなかつた。
其時、白衣(びやくえ)に袈裟(けさ)を着けた一人の僧が奥の方から出て来た。奥様の紹介(ひきあはせ)で、丑松は始めて蓮華寺の住職を知つた。聞けば、西京から、丑松の留守中に帰つたといふ。丁度町の檀家(だんか)に仏事が有つて、これから出掛けるところとやら。住職は一寸丑松に挨拶して、寺内の僧を供に連れて出て行つた。
夕飯(ゆふはん)は蔵裏の下座敷であつた。人々は丑松を取囲(とりま)いて、旅の疲労(つかれ)を言慰めたり、帰省の様子を尋ねたりした。煤けた古壁によせて、昔からあるといふ衣桁(えかう)には若い人の着るものなぞが無造作に懸けてある。其晩は学校友達の婚礼とかで、お志保も招ばれて行つたとのこと。成程(なるほど)左様(さう)言はれて見ると、其人の平常衣(ふだんぎ)らしい。亀甲綛(きつかふがすり)の書生羽織に、縞(しま)の唐桟(たうざん)を重ね、袖だゝみにして折り懸け、長襦袢(ながじゆばん)の色の紅梅を見るやうなは八口(やつくち)のところに美しくあらはれて、朝に晩に肌身に着けるものかと考へると、その壁の模様のやうに動かずにある着物が一層(ひとしほ)お志保を可懐(なつか)しく思出させる。のみならず、五分心の洋燈(ランプ)のひかりは香の煙に交る室内の空気を照らして、物の色艶なぞを奥床しく見せるのであつた。
さま/″\の物語が始まつた。驚き悲しむ人々を前に置いて、丑松は実地自分が歴(へ)て来た旅の出来事を語り聞かせた。種牛の為に傷けられた父の最後、番小屋で明した山の上の一夜、牧場の葬式、谷蔭の墓、其他草を食ひ塩を嘗(な)め谷川の水を飲んで烏帽子(ゑぼし)ヶ|嶽(だけ)の麓に彷徨(さまよ)ふ牛の群のことを話した。丑松は又、上田の屠牛場(とぎうば)のことを話した。其小屋の板敷の上には種牛の血汐が流れた光景(ありさま)を話した。唯、蓮太郎夫婦に出逢つたこと、別れたこと、それから飯山へ帰る途中川舟に乗合した高柳夫婦――就中(わけても)、あの可憐(あはれ)な美しい穢多の女の身の上に就いては、決して一語(ひとこと)も口外しなかつた。
斯うして帰省中のいろ/\を語り聞かせて居るうちに、次第に丑松は一種不思議な感想(かんじ)を起すやうに成つた。それは、丑松の積りでは、対手が自分の話を克(よ)く聞いて居て呉れるのだらうと思つて、熱心になつて話して居ると、どうかすると奥様の方では妙な返事をして、飛んでも無いところで「え?」なんて聞き直して、何か斯う話を聞き乍ら別の事でも考へて居るかのやうに――まあ、半分は夢中で応対(うけこたへ)をして居るのだと感づいた。終(しまひ)には、対手が何にも自分の話を聞いて居ないのだといふことを発見(みいだ)した。しばらく丑松は茫然(ぼんやり)として、穴の開くほど奥様の顔を熟視(みまも)つたのである。
克く見れば、奥様は両方の※[目+匡](まぶち)を泣腫(なきは)らして居る。唯さへ気の短い人が余計に感じ易く激し易く成つて居る。言ふに言はれぬ心配なことでも起つたかして、時々深い憂愁(うれひ)の色が其顔に表はれたり隠れたりした。一体、是(これ)は奈何(どう)したのであらう。聞いて見れば留守中、別に是ぞと変つた事も無かつた様子。銀之助は親切に尋ねて呉れたといふし、文平は克(よ)く遊びに来て話して行くといふ。それから斯の寺の方から言へば、住職が帰つたといふことより外に、何も新しい出来事は無かつたらしい。それにしても斯の内部(なか)の様子の何処となく平素(ふだん)と違ふやうに思はれることは。
軈(やが)て袈裟治は二階へ上つて行つて、部屋の洋燈(ランプ)を点(つ)けて来て呉れた。お志保はまだ帰らなかつた。
「奈何(どう)したんだらう、まあ彼の奥様の様子は。」
斯う胸の中で繰返し乍ら、丑松は暗い楼梯(はしごだん)を上つた。
其晩は遅く寝た。過度の疲労に刺激されて、反(かへ)つて能(よ)く寝就かれなかつた。例の癖で、頭を枕につけると、またお志保のことを思出した。尤も何程(いくら)心に描いて見ても、明瞭(あきらか)に其人が浮んだためしは無い。どうかすると、お妻と混同(ごつちや)になつて出て来ることも有る。幾度か丑松は無駄骨折をして、お志保の俤を捜さうとした。瞳を、頬を、髪のかたちを――あゝ、何処を奈何(どう)捜して見ても、何となく其処に其人が居るとは思はれ乍ら、それで奈何しても統一(まとまり)が着かない。時としては彼(あ)のつつましさうに物言ふ声を、時としては彼の口唇(くちびる)にあらはれる若々しい微笑(ほゝゑみ)を――あゝ、あゝ、記憶ほど漠然(ぼんやり)したものは無い。今、思ひ出す。今、消えて了ふ。丑松は顕然(はつきり)と其人を思ひ浮べることが出来なかつた。 
 
第拾参章

 

(一)
「御頼申(おたのまう)します。」
蓮華寺の蔵裏(くり)へ来て、斯う言ひ入れた一人の紳士がある。それは丑松が帰つた翌朝(あくるあさ)のこと。階下(した)では最早(もう)疾(とつく)に朝飯(あさはん)を済まして了つたのに、未だ丑松は二階から顔を洗ひに下りて来なかつた。「御頼申します。」と復(ま)た呼ぶので、下女の袈裟治は其を聞きつけて、周章(あわ)てゝ台処の方から飛んで出て来た。
「一寸伺ひますが、」と紳士は至極丁寧な調子で、「瀬川さんの御宿は是方様(こちらさま)でせうか――小学校へ御出(おで)なさる瀬川さんの御宿は。」
「左様(さう)でやすよ。」と下女は襷(たすき)を脱(はづ)し乍ら挨拶した。
「何ですか、御在宿(おいで)で御座(ござい)ますか。」
「はあ、居なさりやす。」
「では、是非御目に懸りたいことが有まして、斯ういふものが伺ひましたと、何卒(どうか)左様(さう)仰(おつしや)つて下さい。」
と言つて、紳士は下女に名刺を渡す。下女は其を受取つて、「一寸、御待ちなすつて」を言捨て乍ら、二階の部屋へと急いだ。
丑松は未(ま)だ寝床を離れなかつた。下女が枕頭(まくらもと)へ来て喚起(よびおこ)した時は、客の有るといふことを半分夢中で聞いて、苦しさうに呻吟(うな)つたり、手を延ばしたりした。軈(やが)て寝惚眼(ねぼけまなこ)を擦り/\名刺を眺めると、急に驚いたやうに、むつくり跳(は)ね起きた。
「奈何(どう)したの、斯人(このひと)が。」
「貴方(あんた)を尋ねて来なさりやしたよ。」
暫時(しばらく)の間、丑松は夢のやうに、手に持つた名刺と下女の顔とを見比べて居た。
「斯人は僕のところへ来たんぢや無いんだらう。」
と不審を打つて、幾度か小首を傾(かし)げる。
「高柳利三郎?」
と復(ま)た繰返した。袈裟治は襷を手に持つて、一寸小肥りな身体(からだ)を動(ゆす)つて、早く返事を、と言つたやうな顔付。
「何か間違ひぢやないか。」到頭丑松は斯う言出した。「どうも、斯様(こん)な人が僕のところへ尋ねて来る筈(はず)が無い。」
「だつて、瀬川さんと言つて尋ねて来なすつたもの――小学校へ御出なさる瀬川さんと言つて。」
「妙なことが有ればあるもんだなあ。高柳――高柳利三郎――彼の男が僕のところへ――何の用が有つて来たんだらう。兎(と)も角(かく)も逢つて見るか。それぢやあ、御上りなさいツて、左様(さう)言つて下さい。」
「それはさうと、御飯は奈何(どう)しやせう。」
「御飯?」
「あれ、貴方(あんた)は起きなすつたばかりぢやごはせんか。階下(した)で食べなすつたら? 御味噌汁(おみおつけ)も温めてありやすにサ。」
「廃(よ)さう。今朝は食べたく無い。それよりは客を下の座敷へ通して、一寸待たして置いて下さい――今、直に斯部屋を片付けるから。」
袈裟治は下りて行つた。急に丑松は部屋の内を眺め廻した。着物を着更へるやら、寝道具を片付けるやら。そこいらに散乱(ちらか)つたものは皆な押入の内へ。床の間に置並べた書籍(ほん)の中には、蓮太郎のものも有る。手捷(てばしこ)く其を机の下へ押込んで見たが、また取出して、押入の内の暗い隅の方へ隠蔽(かく)すやうにした。今は斯(こ)の部屋の内にあの先輩の書いたものは一冊も出て居ない。斯う考へて、すこし安心して、さて顔を洗ふつもりで、急いで楼梯(はしごだん)を下りた。それにしても何の用事があつて、彼様(あん)な男が尋ねて来たらう。途中で一緒に成つてすら言葉も掛けず、見れば成る可く是方(こちら)を避(よ)けようとした人。其人がわざ/\やつて来るとは――丑松は客を自分の部屋へ通さない前から、疑心(うたがひ)と恐怖(おそれ)とで慄(ふる)へたのである。
(二)
「始めまして――私は高柳利三郎です。かねて御名前は承つて居りましたが、つい未(ま)だ御尋(おたづ)ねするやうな機会も無かつたものですから。」
「好く御入来(おいで)下さいました。さあ、何卒(どうか)まあ是方(こちら)へ。」
斯(か)ういふ挨拶を蔵裏の下座敷で取交して、やがて丑松は二階の部屋の方へ客を導いて行つた。
突然な斯の来客の底意の程も図りかね、相対(さしむかひ)に座(すわ)る前から、もう何となく気不味(きまづ)かつた。丑松はすこしも油断することが出来なかつた。とは言ふものゝ、何気ない様子を装(つくろ)つて、自分は座蒲団を敷いて座り、客には白い毛布を四つ畳みにして薦(すゝ)めた。
「まあ、御敷下さい。」と丑松は快濶(くわいくわつ)らしく、「どうも失礼しました。実は昨晩遅かつたものですから、寝過して了(しま)ひまして。」
「いや、私こそ――御疲労(おつかれ)のところへ。」と高柳は如才ない調子で言つた。「昨日(さくじつ)は舟の中で御一緒に成ました時に、何とか御挨拶を申上げようか、申上げなければ済まないが、と斯(か)う存じましたのですが、あんな処で御挨拶しますのも反(かへ)つて失礼と存じまして――御見懸け申し乍ら、つい御無礼を。」
丁度取引でも為るやうな風に、高柳は話し出した。しかし、愛嬌(あいけう)のある、明白(てきぱき)した物の言振(いひぶり)は、何処かに人を※[女+無](ひきつ)けるところが無いでもない。隆とした其|風采(なりふり)を眺めたばかりでも、いかに斯の新進の政事家が虚栄心の為に燃えて居るかを想起(おもひおこ)させる。角帯に纏ひつけた時計の鎖は富豪の身を飾ると同じやうなもの。それに指輪は二つまで嵌(は)めて、いづれも純金の色に光り輝いた。「何の為に尋ねて来たのだらう、是男は。」と斯う丑松は心に繰返して、対手の暗い秘密を自分の身に思比べた時は、長く目と目を見合せることも出来ない位。
高柳は膝を進めて、
「承りますれば御不幸が御有なすつたさうですな。さぞ御力落しでいらつしやいませう。」
「はい。」と丑松は自分の手を眺め乍ら答へた。「飛んだ災難に遭遇(であひ)まして、到頭|阿爺(おやぢ)も亡(な)くなりました。」
「それは奈何(どう)も御気の毒なことを。」と言つて、急に高柳は思ひついたやうに、「むゝ、左様々々(さう/\)、此頃(こなひだ)も貴方と豊野の停車場(ステーション)で御一緒に成つて、それから私が田中で下りる、貴方も御下りなさる――左様でしたらう、ホラ貴方も田中で御下りなさる。丁度彼の時が御帰省の途中だつたんでせう。して見ると、貴方と私とは、往きも、還りも御一緒――はゝゝゝゝ。何か斯う克(よ)く/\の因縁(いんねん)づくとでも、まあ、申して見たいぢや有ませんか。」
丑松は答へなかつた。
「そこです。」と高柳は言葉に力を入れて、「御縁が有ると思へばこそ、斯(か)うして御話も申上げるのですが――実は、貴方の御心情に就きましても、御察し申して居ることも有ますし。」
「え?」と丑松は対手(あひて)の言葉を遮(さへぎ)つた。
「そりやあもう御察し申して居ることも有ますし、又、私の方から言ひましても、少許(すこし)は察して頂きたいと思ひまして、それで御邪魔に出ましたやうな訳なんで。」
「どうも貴方の仰(おつしや)ることは私に能く解りません。」
「まあ、聞いて下さい――」
「ですけれど、どうも貴方の御話の意味が汲取れないんですから。」
「そこを察して頂きたいと言ふのです。」と言つて、高柳は一段声を低くして、「御聞及びでも御座(ござい)ませうが、私も――世話して呉れるものが有まして――家内を迎へました。まあ、世の中には妙なことが有るもので、あの家内の奴が好く貴方を御知り申して居るのです。」
「はゝゝゝゝ、奥様(おくさん)が私を御存じなんですか。」と言つて丑松は少許(すこし)調子を変へて、「しかし、それが奈何(どう)しました。」
「ですから私も御話に出ましたやうな訳なんで。」
「と仰ると?」
「まあ、家内なぞの言ふことですから、何が何だか解りませんけれど――実際、女の話といふものは取留の無いやうなものですからなあ――しかし、不思議なことには、彼奴(あいつ)の家(うち)の遠い親類に当るものとかが、貴方の阿爺(おとつ)さんと昔御懇意であつたとか。」斯(か)う言つて、高柳は熱心に丑松の様子を窺(うかゞ)ふやうにして見て、「いや、其様(そん)なことは、まあ奈何でもいゝと致しまして、家内が貴方を御知り申して居ると言ひましたら、貴方だつても御聞流しには出来ますまいし、私も亦た私で、どうも不安心に思ふことが有るものですから――実は、昨晩は、その事を考へて、一睡も致しませんでした。」
暫時(しばらく)部屋の内には声が無かつた。二人は互ひに捜(さぐ)りを入れるやうな目付して、無言の儘(まゝ)で相対して居たのである。
「噫(あゝ)。」と高柳は投げるやうに嘆息した。「斯様(こん)な御話を申上げに参るといふのは、克(よ)く/\だと思つて頂きたいのです。貴方より外に吾儕(わたしども)夫婦(ふうふ)のことを知つてるものは無し、又、吾儕夫婦より外に貴方のことを知つてるものは有ません――ですから、そこは御互ひ様に――まあ、瀬川さん左様(さう)ぢや有ませんか。」と言つて、すこし調子を変へて、「御承知の通り、選挙も近いてまゐりました。どうしても此際(こゝ)のところでは貴方に助けて頂かなければならない。もし私の言ふことを聞いて下さらないとすれば、私は今、こゝで貴方と刺しちがへて死にます――はゝゝゝゝ、まさか貴方の性命(いのち)を頂くとも申しませんがね、まあ、私は其程の決心で参つたのです。」
(三)
其時、楼梯(はしごだん)を上つて来る人の足音がしたので、急に高柳は口を噤(つぐ)んで了(しま)つた。「瀬川先生、御客様(おきやくさん)でやすよ。」と呼ぶ袈裟治の声を聞きつけて、ついと丑松は座を離れた。唐紙を開けて見ると、もうそこへ友達が微笑み乍ら立つて居たのである。
「おゝ、土屋君か。」
と思はず丑松は溜息を吐いた。
銀之助は一寸高柳に会釈(ゑしやく)して、別に左様(さう)主客の様子を気に留めるでもなく、何か用事でも有るのだらう位に、例の早合点から独り定めに定めて、
「昨夜君は帰つて来たさうだね。」
と慣々(なれ/\)しい調子で話し出した。相変らず快活なは斯の人。それに遠からず今の勤務(つとめ)を廃(や)めて、農科大学の助手として出掛けるといふ、その希望(のぞみ)が胸の中に溢(あふ)れるかして、血肥りのした顔の面は一層活々と輝いた。妙なもので、短く五分刈にして居る散髪頭が反(かへ)つて若い学者らしい威厳を加へたやうに見える。友達ながらに一段の難有(ありがた)みが出来た。丑松は何となく圧倒(けおさ)れるやうにも感じたのである。
心の底から思ひやる深い真情を外に流露(あらは)して、銀之助は弔辞(くやみ)を述べた。高柳は煙草を燻し/\黙つて二人の談話(はなし)を聞いて居た。
「留守中はいろ/\難有う。」と丑松は自分で自分を激※[厂+萬](はげ)ますやうにして、「学校の方も君がやつて呉れたさうだねえ。」
「あゝ、左(どう)にか右(かう)にか間に合せて置いた。二級懸持ちといふやつは巧くいかないものでねえ。」と言つて、銀之助は恰(さ)も心(しん)から出たやうに笑つて、「時に、君は奈何(どう)する。」
「奈何するとは?」
「親の忌服だもの、四週間位は休ませて貰ふサ。」
「左様もいかない。学校の方だつて都合があらあね。第一、君が迷惑する。」
「なに、僕の方は関はないよ。」
「明日は月曜だねえ。兎(と)に角(かく)明日は出掛けよう。それはさうと、土屋君、いよ/\君の希望(のぞみ)も達したといふぢやないか。君から彼(あの)手紙を貰つた時は、実に嬉しかつた。彼様(あんな)に早く進行(はかど)らうとは思はなかつた。」
「ふゝ、」と銀之助は思出し笑ひをして、「まあ、御蔭でうまくいつた。」
「実際うまくいつたよ。」と友達の成功を悦(よろこ)ぶ傍から、丑松は何か思ひついたやうに萎(しを)れて、「県庁の方からは最早(もう)辞令が下つたかね。」
「いゝや、辞令は未だ。尤(もつと)も義務年限といふやつが有るんだから、ただ廃(や)めて行く訳にはいかない。そこは県庁でも余程|斟酌(しんしやく)して呉れてね、百円足らずの金を納めろと言ふのさ。」
「百円足らず?」
「よしんば在学中の費用を皆な出せと言はれたつて仕方が無い。其位のことで勘免(かんべん)して呉れたのは、実に難有い。早速|阿爺(おやぢ)の方へ請求(ねだ)つてやつたら、阿爺も君、非常に喜んでね、自身で長野迄出掛けて来るさうだ。いづれ、其内には沙汰があるだらうと思ふよ。まあ、君と斯(か)うして飯山に居るのも、今月一ぱい位のものだ。」
斯う言つて銀之助は今更のやうに丑松の顔を眺めた。丑松は深い溜息を吐(つ)いて居た。
「別の話だが、」と銀之助は言葉を継(つ)いで、「君の好な猪子先生――ホラ、あの先生が信州へ来てるさうだねえ。昨日僕は新聞で読んだ。」
「新聞で?」丑松の頬は燃え輝いたのである。
「あゝ、信毎に出て居た。肺病だといふけれど、熾盛(さかん)な元気の人だねえ。」
と蓮太郎の噂(うはさ)が出たので、急に高柳は鋭い眸(ひとみ)を銀之助の方へ注いだ。丑松は無言であつた。
「穢多もなか/\馬鹿にならんよ。」と銀之助は頓着なく、「まあ、思想(かんがへ)から言へば、多少病的かも知れないが、しかし進んで戦ふ彼(あ)の勇気には感服する。一体、肺病患者といふものは彼様(あゝ)いふものか知らん。彼の先生の演説を聞くと、非常に打たれるさうだ。」と言つて気を変へて、「まあ、瀬川君なぞは聞かない方が可(いゝ)よ――聞けば復(ま)た病気が発(おこ)るに極(きま)つてるから。」
「馬鹿言ひたまへ。」
「あはゝゝゝゝ。」
と銀之助は反返(そりかへ)つて笑つた。
遽然(にはかに)丑松は黙つて了つた。丁度、喪心した人のやうに成つた。丁度、身体中の機関(だうぐ)が一時に動作(はたらき)を止めて、斯うして生きて居ることすら忘れたかのやうであつた。
「奈何したんだらう、また瀬川君は――相変らず身体の具合でも悪いのかしら。」と斯う銀之助は自分で自分に言つて見た。やゝしばらく三人は無言の儘で相対して居た。「今日は僕は是で失敬する。」と銀之助が言出した時は、丑松も我に帰つて、「まあ、いゝぢやないか」を繰返したのである。
「いや、復(ま)た来る。」
銀之助は出て行つて了つた。
(四)
「只今(たゞいま)猪子といふ方の御話が出ましたが、」と高柳は巻煙草の灰を落し乍ら言つた。「あの、何ですか、瀬川さんは彼(あ)の方と御懇意でいらつしやるんですか。」
「いゝえ。」と丑松はすこし言淀(いひよど)んで、「別に、懇意でも有ません。」
「では、何か御関係が御有なさるんですか。」
「何も関係は有ません。」
「左様(さやう)ですか――」
「だつて関係の有やうが無いぢやありませんか、懇意でも何でも無い人に。」
「左様(さう)仰れば、まあ、そんなものですけれど。はゝゝゝゝ。彼の方は市村君と御一緒のやうですから、奈何(どう)いふ御縁故か、もし貴方が御存じならば伺つて見たいと思ひまして。」
「知りません、私は。」
「市村といふ弁護士も、あれでなか/\食へない男なんです。彼様(あん)な立派なことを言つて居ましても、畢竟(つまり)猪子といふ人を抱きこんで、道具に使用(つか)ふといふ腹に相違ないんです。彼の男が高尚らしいやうなことを言ふかと思ふと、私は噴飯(ふきだ)したくなる。そりやあもう、政事屋なんてものは皆な穢(きたな)い商売人ですからなあ――まあ、其道のもので無ければ、可厭(いや)な内幕も克(よ)く解りますまいけれど。」
斯う言つて、高柳は嘆息して、
「私とても、斯うして何時まで政界に泳いで居る積りは無いのです。一日も早く足を洗ひたいといふ考へでは有るのです。如何(いかん)せん、素養は無し、貴方等(あなたがた)のやうに規則的な教育を享(う)けたでは無し、それで此の生存競争の社会(よのなか)に立たうといふのですから、勢ひ常道を踏んでは居られなくなる。あるひは、貴方等の目から御覧に成つたらば、吾儕(わたしども)の事業(しごと)は華麗(はで)でせう。成程(なるほど)、表面(うはべ)は華麗です。しかし、これほど表面が華麗で、裏面(うら)の悲惨な生涯(しやうがい)は他に有ませうか。あゝ、非常な財産が有つて、道楽に政事でもやつて見ようといふ人は格別、吾儕のやうに政事熱に浮かされて、青年時代から其方へ飛込んで了つたものは、今となつて見ると最早(もう)奈何することも出来ません。第一、今日の政事家で政論に衣食するものが幾人(いくたり)ありませう。実際|吾儕(わたしども)の内幕は御話にならない。まあ、斯様(こん)なことを申上げたら、嘘のやうだと思召すかも知れませんが、正直な御話が――代議士にでもして頂くより外(ほか)に、さしあたり吾儕の食ふ道は無いのです。はゝゝゝゝ。何と申したつて、事実は事実ですから情ない。もし私が今度の選挙に失敗すれば、最早につちもさつちもいかなくなる。どうしても此際(こゝ)のところでは出るやうにして頂かなければならない。どうしても貴方に助けて頂かなければならない。それには先づ貴方に御縋(おすが)り申して、家内のことを世間の人に御話下さらないやうに。そのかはり、私も亦(また)、貴方のことを――それ、そこは御相談で、御互様に言はないといふやうなことに――何卒(どうか)、まあ、私を救ふと思召(おぼしめ)して、是話(このはなし)を聞いて頂きたいのです。瀬川さん、是は私が一生の御願ひです。」
急に高柳は白い毛布を離れて、畳の上へ手を突いた。丁度|哀憐(あはれみ)をもとめる犬のやうに、丑松の前に平身低頭したのである。
丑松はすこし蒼(あをざ)めて、
「どうも左様(さう)貴方のやうに、独りで物を断(き)めて了(しま)つては――」
「いや、是非とも私を助けると思召して。」
「まあ、私の言ふことも聞いて下さい。どうも貴方の御話は私に合点(がてん)が行きません。だつて、左様(さう)ぢや有ますまいか。なにも貴方等(あなたがた)のことを私が世間の人に話す必要も無いぢや有ませんか。全く、私は貴方等と何の関係も無い人間なんですから。」
「でも御座(ござい)ませうが――」
「いえ、其では困ります。何も私は貴方等を御助け申すやうなことは無し、私は亦(また)、貴方等から助けて頂くやうなことも無いのですから。」
「では?」
「ではとは?」
「畢竟(つまり)そんなら奈何して下さるといふ御考へなんですか。」
「どうするも斯(か)うするも無いぢや有ませんか。貴方と私とは全く無関係――はゝゝゝゝ、御話は其丈(それだけ)です。」
「無関係と仰ると?」
「是迄(これまで)だつて、私は貴方のことに就いて、何(なんに)も世間の人に話した覚は無し、是から将来(さき)だつても矢張(やはり)其通り、何も話す必要は有ません。一体、私は左様|他人(ひと)のことを喋舌(しやべ)るのが嫌ひです――まして、貴方とは今日始めて御目に懸つたばかりで――」
「そりやあ成程、私のことを御話し下さる必要は無いかも知れません。私も貴方のことを他人(ひと)に言ふ必要は無いのです。必要は無いのですが――どうも其では何となく物足りないやうな心地(こゝろもち)が致しまして。折角(せつかく)私も斯うして出ましたものですから、十分に御意見を伺つた上で、御為に成るものなら成りたいと存じて居りますのです。実は――左様した方が、貴方の御為かとも。」
「いや、御親切は誠に難有いですが、其様(そんな)にして頂く覚は無いのですから。」
「しかし、私が斯うして御話に出ましたら、万更(まんざら)貴方だつて思当ることが無くも御座(ござい)ますまい。」
「それが貴方の誤解です。」
「誤解でせうか――誤解と仰ることが出来ませうか。」
「だつて、私は何(なんに)も知らないんですから。」
「まあ、左様(さう)仰れば其迄ですが――でも、何とか、そこのところは御相談の為やうが有さうなもの。悪いことは申しません。御互ひの身の為です。決して誰の為でも無いのです。瀬川さん――いづれ復(ま)た私も御邪魔に伺ひますから、何卒(どうか)克(よ)く考へて御置きなすつて下さい。」 
 
第拾四章

 

(一)
月曜の朝早く校長は小学校へ出勤した。応接室の側の一間を自分の室と定めて、毎朝授業の始まる前には、必ず其処に閉籠(とぢこも)るのが癖。それは一日の事務の準備(したく)をする為でもあつたが、又一つには職員|等(たち)の不平と煙草の臭気(にほひ)とを避ける為で。丁度其朝は丑松も久し振の出勤。校長は丑松に逢つて、忌服中のことを尋ねたり、話したりして、軈てまた例の室に閉籠つた。
この室の戸を叩(たゝ)くものが有る。其音で、直に校長は勝野文平といふことを知つた。いつも斯ういふ風にして、校長は斯(こ)の鍾愛(きにいり)の教員から、さま/″\の秘密な報告を聞くのである。男教員の述懐、女教員の蔭口、其他時間割と月給とに関する五月蠅(うるさい)ほどの嫉(ねた)みと争ひとは、是処(こゝ)に居て手に取るやうに解るのである。其朝も亦、何か新しい注進を齎(もたら)して来たのであらう、斯う思ひ乍ら、校長は文平を室の内へ導いたのであつた。
いつの間にか二人は丑松の噂(うはさ)を始めた。
「勝野君。」と校長は声を低くして、「君は今、妙なことを言つたね――何か瀬川君のことに就いて新しい事実を発見したとか言つたね。」
「はあ。」と文平は微笑(ほゝゑ)んで見せる。
「どうも君の話は解りにくゝて困るよ。何時でも遠廻しに匂はせてばかり居るから。」
「だつて、校長先生、人の一生の名誉に関(かゝ)はるやうなことを、左様(さう)迂濶(うくわつ)には喋舌(しやべ)れないぢや有ませんか。」
「ホウ、一生の名誉に?」
「まあ、私の聞いたのが事実だとして、其が斯の町へ知れ渡つたら、恐らく瀬川君は学校に居られなくなるでせうよ。学校に居られないばかりぢや無い、あるひは社会から放逐されて、二度と世に立つことが出来なくなるかも知れません。」
「へえ――学校にも居られなくなる、社会からも放逐される、と言へば君、非常なことだ。それでは宛然(まるで)死刑を宣告されるも同じだ。」
「先(ま)づ左様(さう)言つたやうなものでせうよ。尤も、私が直接(ぢか)に突留めたといふ訳でも無いのですが、種々(いろ/\)なことを綜(あつ)めて考へて見ますと――ふふ。」
「ふゝぢや解らないねえ。奈何(どん)な新しい事実か、まあ話して聞かせて呉れ給へ。」
「しかし、校長先生、私から其様(そん)な話が出たといふことになりますと、すこし私も迷惑します。」
「何故(なぜ)?」
「何故ツて、左様ぢや有ませんか。私が取つて代りたい為に、其様なことを言ひ触らしたと思はれても厭ですから――毛頭私は其様な野心が無いんですから――なにも瀬川君を中傷する為に、御話するのでは無いんですから。」
「解つてますよ、其様なことは。誰が君、其様なことを言ふもんですか。其様な心配が要るもんですか。君だつても他の人から聞いたことなんでせう――それ、見たまへ。」
文平が思はせ振な様子をして、何か意味ありげに微笑めば微笑むほど、余計に校長は聞かずに居られなくなつた。
「では、勝野君、斯ういふことにしたら可(いゝ)でせう。我輩は其話を君から聞かない分にして置いたら可(いゝ)でせう。さ、誰も居ませんから、話して聞かせて呉れ給へ。」
斯う言つて、校長は一寸文平に耳を貸した。文平が口を寄せて、何か私語(さゝや)いて聞かせた時は、見る/\校長も顔色を変へて了(しま)つた。急に戸を叩く音がする。ついと文平は校長の側を離れて窓の方へ行つた。戸を開けて入つて来たのは丑松で、入るや否や思はず一歩(ひとあし)逡巡(あとずさり)した。
「何を話して居たのだらう、斯(こ)の二人は。」と丑松は猜疑深(うたぐりぶか)い目付をして、二人の様子を怪まずには居られなかつたのである。
「校長先生、」と丑松は何気なく尋ねて見た。「どうでせう、今日はすこし遅く始めましたら。」
「左様(さやう)――生徒は未(ま)だ集りませんか。」と校長は懐中時計を取出して眺める。
「どうも思ふやうに集りません。何を言つても、是雪ですから。」
「しかし、最早(もう)時間は来ました。生徒の集る、集らないは兎(と)に角(かく)、規則といふものが第一です。何卒(どうぞ)小使に左様言つて、鈴を鳴らさせて下さい。」
(二)
其朝ほど無思想な状態(ありさま)で居たことは、今迄丑松の経験にも無いのであつた。実際其朝は半分眠り乍ら羽織袴を着けて来た。奥様が詰て呉れた弁当を提げて、久し振で学校の方へ雪道を辿(たど)つた時も、多くの教員仲間から弔辞(くやみ)を受けた時も、受持の高等四年生に取囲(とりま)かれて種々(いろ/\)なことを尋ねられた時も、丑松は半分眠り乍ら話した。授業が始つてからも、時々|眼前(めのまへ)の事物(ことがら)に興味を失つて、器械のやうに読本の講釈をして聞かせたり、生徒の質問に答へたりした。其日は遊戯の時間の監督にあたる日、鈴が鳴つて休みに成る度に、男女の生徒は四方から丑松に取縋(とりすが)つて、「先生、先生」と呼んだり叫んだりしたが、何を話して何を答へたやら、殆んど其感覚が無かつた位。丑松は夢見る人のやうに歩いて、あちこちと馳せちがふ多くの生徒の監督をした。
銀之助が駈寄つて、
「瀬川君――君は気分でも悪いと見えるね。」
と言つたのは覚えて居るが、其他の話はすべて記憶に残らなかつた。
斯(か)ういふ中にも、唯一つ、あの省吾に呉れたいと思つて、用意したものを持つて来ることだけは忘れなかつた。昼休みには、高等科から尋常科までの生徒が学校の内で飛んだり跳ねたりして騒いだ。なかには広い運動場に出て、雪投げをして遊ぶものもあつた。丁度高等四年の教室には誰も居なかつたので、そこへ丑松は省吾を連れて行つて、新聞紙に包んだものを取出して見せて、
「君に呈(あ)げようと思つて斯ういふものを持つて来ました。帳面です、内に入つてるのは。是(これ)は君、家へ帰つてから開けて見るんですよ。いいかね。学校の内で開けて見るんぢや無いんですよ――ね、是を君に呈げますから。」
と言つて、丑松は自分の前に立つ少年の驚き喜ぶ顔を見たいと思ふのであつた。意外にも省吾は斯の贈物を受けなかつた。唯もう目を円(まる)くして、丑松の様子と新聞紙の包とを見比べるばかり。奈何(どう)して斯様(こん)なものを呉れるのであらう。第一、それからして不思議でならない。と言つたやうな顔付。
「いゝえ、私は沢山です。」
と省吾は幾度か辞退した。
「其様(そん)な、君のやうな――」と丑松は省吾の顔を眺めて、「人が呈(あ)げるツて言ふものは、貰ふもんですよ。」
「はい、難有う。」と復た省吾は辞退した。
「困るぢやないか、君、折角(せつかく)呈げようと思つて斯うして持つて来たものを。」
「でも、母さんに叱られやす。」
「母さんに? 其様な馬鹿なことが有るもんか。私が呈げるツて言ふのに、叱るなんて――私は君の父上(おとつ)さんとも懇意だし、それに、君の姉さんには種々(いろ/\)御世話に成つて居るし、此頃(こなひだ)から呈げよう/\と思つて居たんです。ホラ、よく西洋綴の帳面で、罫の引いたのが有ませう。あれですよ、斯の内に入つてるのは。まあ、君、其様(そん)なことを言はないで、是を家へ持つて帰つて、作文でも何でも君の好なものを書いて見て呉れたまへ。」
斯う言つて、其を省吾の手に持たして居るところへ、急に窓の外の方で上草履の音が起る。丑松は省吾を其処に残して置いて、周章(あわ)てゝ教室を出て了つた。
(三)
東の廊下の突当り、二階へ通ふやうになつて居る階段のところは、あまり生徒もやつて来なかつた。丑松が男女の少年の監督に忙(せは)しい間に、校長と文平の二人は斯(こ)の静かな廊下で話した――並んで灰色の壁に倚凭(よりかゝ)り乍(なが)ら話した。
「一体、君は誰から瀬川君のことを聞いて来たのかね。」と校長は尋ねて見た。
「妙な人から聞いて来ました。」と文平は笑つて、「実に妙な人から――」
「どうも我輩には見当がつかない。」
「尤も、人の名誉にも関はることだから、話だけは為(す)るが、名前を出して呉れては困る、と先方(さき)の人も言ふんです。兎(と)に角(かく)代議士にでも成らうといふ位の人物ですから、其様な無責任なことを言ふ筈(はず)も有ません。」
「代議士にでも?」
「ホラ。」
「ぢやあ、あの新しい細君を連れて帰つて来た人ぢや有ませんか。」
「まあ、そこいらです。」
「して見ると――はゝあ、あの先生が地方廻りでもして居る間に、何処かで其様な話を聞込んで来たものかしら。悪い事は出来ないものさねえ。いつか一度は露顕(あらは)れる時が来るから奇体さ。」と言つて、校長は嘆息して、「しかし、驚ろいたねえ。瀬川君が穢多だなぞとは、夢にも思はなかつた。」
「実際、私も意外でした。」
「見給へ、彼(あ)の容貌(ようばう)を。皮膚といひ、骨格といひ、別に其様な賤民らしいところが有るとも思はれないぢやないか。」
「ですから世間の人が欺(だま)されて居たんでせう。」
「左様ですかねえ。解らないものさねえ。一寸見たところでは、奈何(どう)しても其様な風に受取れないがねえ。」
「容貌ほど人を欺すものは有ませんさ。そんなら、奈何でせう、彼(あ)の性質は。」
「性質だつても君、其様な判断は下せない。」
「では、校長先生、彼の君の言ふこと為(な)すことが貴方の眼には不思議にも映りませんか。克(よ)く注意して、瀬川丑松といふ人を御覧なさい――どうでせう、彼(あ)の物を視る猜疑深(うたがひぶか)い目付なぞは。」
「はゝゝゝゝ、猜疑深いからと言つて、其が穢多の証拠には成らないやね。」
「まあ、聞いて下さい。此頃迄(こなひだまで)瀬川君は鷹匠(たかしやう)町の下宿に居ましたらう。彼(あ)の下宿で穢多の大尽が放逐されましたらう。すると瀬川君は突然(だしぬけ)に蓮華寺へ引越して了ひましたらう――ホラ、をかしいぢや有ませんか。」
「それさ、それを我輩も思ふのさ。」
「猪子蓮太郎との関係だつても左様(さう)でせう。彼様(あん)な病的な思想家ばかり難有(ありがた)く思はないだつて、他にいくらも有さうなものぢや有ませんか。彼様な穢多の書いたものばかり特に大騒ぎしなくても好ささうなものぢや有ませんか。どうも瀬川君が贔顧(ひいき)の仕方は普通の愛読者と少許(すこし)違ふぢや有ませんか。」
「そこだ。」
「未(ま)だ校長先生には御話しませんでしたが、小諸(こもろ)の与良(よら)といふ町には私の叔父が住んで居ます。其町はづれに蛇堀川(じやぼりがは)といふ沙河(すながは)が有まして、橋を渡ると向町になる――そこが所謂(いはゆる)穢多町です。叔父の話によりますと、彼処は全町同じ苗字を名乗つて居るといふことでしたツけ。其苗字が、確か瀬川でしたツけ。」
「成程ねえ。」
「今でも向町の手合は苗字を呼びません。普通に新平民といへば名前を呼捨です。おそらく明治になる前は、苗字なぞは無かつたのでせう。それで、戸籍を作るといふ時になつて、一村|挙(こぞ)つて瀬川と成つたんぢや有るまいかと思ふんです。」
「一寸待ちたまへ。瀬川君は小諸の人ぢや無いでせう。小県(ちひさがた)の根津の人でせう。」
「それが宛(あて)になりやしません――兎に角、瀬川とか高橋とかいふ苗字が彼(あ)の仲間に多いといふことは叔父から聞きました。」
「左様言はれて見ると、我輩も思当ることが無いでも無い。しかしねえ、もし其が事実だとすれば、今迄知れずに居る筈も無からうぢやないか。最早(もう)疾(とつく)に知れて居さうなものだ――師範校に居る時代に、最早知れて居さうなものだ。」
「でせう――それそこが瀬川君です。今日(こんにち)まで人の目を暗(くらま)して来た位の智慧(ちゑ)が有るんですもの、余程|狡猾(かうくわつ)の人間で無ければ彼(あ)の真似は出来やしません。」
「あゝ。」と校長は嘆息して了つた。「それにしても、よく知れずに居たものさ、どうも瀬川君の様子がをかしい/\と思つたよ――唯、訳も無しに、彼様(あゝ)考へ込む筈(はず)が無いからねえ。」
急に大鈴の音が響き渡つた。二人は壁を離れて、長い廊下を歩き出した。午後の課業が始まると見え、男女の生徒は上草履鳴らして、廊下の向ふのところを急いで通る。丑松も少年の群に交り乍ら、一寸|是方(こちら)を振向いて見て行つた。
「勝野君。」と校長は丑松の姿を見送つて、「成程(なるほど)、君の言つた通りだ。他(ひと)の一生の名誉にも関はることだ。まあ、もうすこし瀬川君の秘密を探つて見ることに為(し)ようぢやないか。」
「しかし、校長先生。」と文平は力を入れて言つた。「是話が彼の代議士の候補者から出たといふことだけは決して他(ひと)に言はないで置いて下さい――さもないと、私が非常に迷惑しますから。」
「無論さ。」
(四)
時間表によると、其日の最終(をはり)の課業が唱歌であつた。唱歌の教師は丑松から高等四年の生徒を受取つて、足拍子揃へさして、自分の教室の方へ導いて行つた。二時から三時まで、それだけは丑松も自由であつたので、不図、蓮太郎のことが書いてあつたとかいふ昨日の銀之助の話を思出して、応接室を指して急いで行つた。いつも其机の上には新聞が置いてある。戸を開けて入つて見ると、信毎は一昨日の分も残つて、まだ綴込みもせずに散乱(とりちら)した儘。その読みふるしを開けた第二面の下のところに、彼の先輩のことを見つけた時は、奈何(どんな)に丑松も胸を踊らせて、「むゝ――あつた、あつた」と驚き喜んだらう。
「何処へ行つて是(この)新聞を読まう。」先づ心に浮んだは斯うである。「斯(こ)の応接室で読まうか。人が来ると不可(いけない)。教室が可(いゝ)か。小使部屋が可か――否、彼処へも人が来ないとは限らない。」と思ひ迷つて、新聞紙を懐に入れて、応接室を出た。「いつそ二階の講堂へ行つて読め。」斯う考へて、丑松は二階へ通ふ階段を一階づゝ音のしないやうに上つた。
そこは天長節の式場に用ひられた大広間、長い腰掛が順序よく置並べてあるばかり、平素(ふだん)はもう森閑(しんかん)としたもので、下手な教室の隅なぞよりは反つて安全な場処のやうに思はれた。とある腰掛を択(えら)んで、懐から取出して読んで居るうちに、いつの間にか彼の高柳との間答――「懇意でも有ません、関係は有ません、何にも私は知りません」と三度迄も心を偽つて、師とも頼み恩人とも思ふ彼の蓮太郎と自分とは、全く、赤の他人のやうに言消して了つたことを思出した。「先生、許して下さい。」斯(か)う詑(わ)びるやうに言つて、軈(やが)て復(ま)た新聞を取上げた。
漠然(ばくぜん)とした恐怖(おそれ)の情は絶えず丑松の心を刺激して、先輩に就いての記事を読み乍らも、唯もう自分の一生のことばかり考へつゞけたのであつた。其から其へと辿つて反省すると、丑松は今、容易ならぬ位置に立つて居るといふことを感ずる。さしかゝつた斯の大きな問題を何とか為なければ――左様(さう)だ、何とか斯(こ)の思想(かんがへ)を纏めなければ、一切の他の事は手にも着かないやうに思はれた。
「さて――奈何(どう)する。」
斯う自分で自分に尋ねた時は、丑松はもう茫然(ばうぜん)として了(しま)つて、其答を考へることが出来なかつた。
「瀬川君、何を君は御読みですか。」
と唐突(だしぬけ)に背後(うしろ)から声を掛けた人がある。思はず丑松は顔色を変へた。見れば校長で、何か穿鑿(さぐり)を入れるやうな目付して、何時の間にか腰掛のところへ来て佇立(たゝず)んで居た。
「今――新聞を読んで居たところです。」と丑松は何気ない様子を取装(とりつくろ)つて言つた。
「新聞を?」と校長は不思議さうに丑松の顔を眺めて、「へえ、何か面白い記事(こと)でも有ますかね。」
「ナニ、何でも無いんです。」
暫時(しばらく)二人は無言であつた。校長は窓の方へ行つて、玻璃越(ガラスご)しに空の模様を覗(のぞ)いて見て、
「瀬川君、奈何でせう、斯の御天気は。」
「左様ですなあ――」
斯ういふ言葉を取交し乍ら、二人は一緒に講堂を出た。並んで階段を下りる間にも、何となく丑松は胸騒ぎがして、言ふに言はれぬ不快な心地(こゝろもち)に成るのであつた。
邪推かは知らないが、どうも斯(こ)の校長の態度(しむけ)が変つた。妙に冷淡(しら/″\)しく成つた。いや、冷淡しいばかりでは無い、可厭(いや)に神経質な鼻でもつて、自分の隠して居る秘密を嗅ぐかのやうにも感ぜらるゝ。「や?」と猜疑深(うたぐりぶか)い心で先方(さき)の様子を推量して見ると、さあ、丑松は斯の校長と一緒に並んで歩くことすら堪へ難い。どうかすると階段を下りる拍子に、二人の肩と肩とが触合(すれあ)ふこともある。冷(つめた)い戦慄(みぶるひ)は丑松の身体を通して流れ下るのであつた。
小使が振鳴らす最終(をはり)の鈴の音は、其時、校内に響き渡つた。そここゝの教室の戸を開けて、後から/\押して出て来る少年の群は、長い廊下に満ち溢(あふ)れた。丑松は校長の側を離れて、急いで斯の少年の群に交つた。
やがて生徒は雪道の中を帰つて行つた。いづれも学問する児童(こども)らしい顔付の殊勝さ。弁当箱を振廻して行くもあれば、風呂敷包を頭の上に戴(の)せて行くもある。十露盤(そろばん)小脇に擁(かゝ)へ、上草履提げ、口笛を吹くやら、唱歌を歌ふやら。呼ぶ声、叫ぶ声は、犬の鳴声に交つて、午後の空気に響いて騒しく聞える、中には下駄の鼻緒を切らして、素足で飛んで行く女の児もあつた。
不安と恐怖との念(おもひ)を抱き乍ら、丑松も生徒の後に随いて、学校の門を出た。斯(か)うしてこの無邪気な少年の群を眺めるといふことが、既にもう丑松の身に取つては堪へがたい身の苦痛(くるしみ)を感ずる媒(なかだち)とも成るので有る。
「省吾さん、今御帰り?」
斯う丑松は言葉を掛けた。
「はあ。」と省吾は笑つて、「私(わし)も後刻(あと)で蓮華寺へ行きやすよ、姉さんが来ても可(いゝ)と言ひやしたから。」
「むゝ――今夜は御説教があるんでしたツけねえ。」
と思出したやうに言つた。暫時(しばらく)丑松は可懐(なつか)しさうに、駈出して行く省吾の後姿を見送りながら立つた。雪の大路の光景(ありさま)は、丁度、眼前(めのまへ)に展(ひら)けて、用事ありげな人々が往つたり来たりして居る。急に烈しい眩暈(めまひ)に襲(おそ)はれて、丑松は其処へ仆(たふ)れかゝりさうに成つた。其時、誰か斯(か)う背後(うしろ)から追迫つて来て、自分を捕(つかま)へようとして、突然(だしぬけ)に「やい、調里坊(てうりツぱう)」とでも言ふかのやうに思はれた。斯う疑へば恐しくなつて、背後を振返つて見ずには居られなかつたのである――あゝ、誰が其様なところに居よう。丑松は自分を嘲(あざけ)つたり励ましたりした。 
 
第拾五章

 

(一)
酷烈(はげ)しい、犯し難い社会(よのなか)の威力(ちから)は、次第に、丑松の身に迫つて来るやうに思はれた。学校から帰へつて、蓮華寺の二階へ上つた時も、風呂敷包をそこへ投出(はふりだ)す、羽織袴を脱捨てる、直に丑松は畳の上に倒れて、放肆(ほしいまゝ)な絶望に埋没(うづも)れるの外は無かつた。眠るでも無く、考へるでも無く、丁度無感覚な人のやうに成つて、長いこと身動きも為(せ)ずに居たが、軈(やが)て起直つて部屋の内を眺め廻した。
楽しさうな笑声が、蔵裏(くり)の下座敷の方から、とぎれ/\に聞えた。聞くとも無しに聞耳を立てると、其日も亦(ま)た文平がやつて来て、人々を笑はせて居るらしい。あの邪気(あどけ)ない、制(おさ)へても制へきれないやうな笑声は、と聞くと、省吾は最早(もう)遊びに来て居るものと見える。時々若い女の声も混つた――あゝ、お志保だ。斯(か)う聞き澄まして、丑松は自分の部屋の内を歩いて見た。
「先生。」
と声を掛けて、急に入つて来たのは省吾である。
丁度、階下(した)では茶を入れたので、丑松にも話しに来ないか、と省吾は言付けられて来た。聞いて見ると、奥様やお志保は下座敷に集つて、そこへ庄馬鹿までやつて来て居る。可笑(をか)しい話が始つたので、人々は皆な笑ひ転げて、中にはもう泣いたものが有るとのこと。
「あの、勝野先生も来て居なさりやすよ。」
と省吾は添付(つけた)して言つた。
「左様(さう)? 勝野君も?」と丑松は徴笑み乍ら答へた。遽然(にはかに)、心の底から閃めいたやうに、憎悪(にくしみ)の表情が丑松の顔に上つた。尤(もつと)も直に其は消えて隠れて了つたのである。
「さあ――私(わし)と一緒に早く来なされ。」
「今直に後から行きますよ。」
とは言つたものゝ、実は丑松は行きたくないのであつた。「早く」を言ひ捨てゝ、ぷいと省吾は出て行つて了つた。
楽しさうな笑声が、復(ま)た、起つた。蔵裏の下座敷――それはもう目に見ないでも、斯(か)うして声を聞いたばかりで、人々の光景(ありさま)が手に取るやうに解る。何もかも丑松は想像することが出来た。定めし、奥様は何か心に苦にすることがあつて、其を忘れる為にわざ/\面白|可笑(をか)しく取做(とりな)して、それで彼様(あん)な男のやうな声を出して笑ふのであらう。定めし、お志保は部屋を出たり入つたりして、茶の道具を持つて来たり、其を入れて人々に薦(すゝ)めたり、又は奥様の側に倚添(よりそ)ひ乍ら談話(はなし)を聞いて微笑(ほゝゑ)んで居るのであらう。定めし、文平は婦人(をんな)子供(こども)と見て思ひ侮(あなど)つて、自分独りが男ででも有るかのやうに、可厭(いや)に容子(ようす)を売つて居ることであらう。嘸(さぞ)。そればかりでは無い、必定(きつと)また人のことを何とかかんとか――あゝ、あゝ、素性(うまれ)が素性なら、誰が彼様な男なぞの身の上を羨まう。
現世の歓楽を慕ふ心は、今、丑松の胸を衝いてむら/\と湧き上つた。捨てられ、卑(いや)しめられ、爪弾(つまはじ)きせられ、同じ人間の仲間入すら出来ないやうな、つたない同族の運命を考へれば考へるほど、猶々(なほ/\)斯の若い生命(いのち)が惜まるゝ。
「何故、先生は来なさらないですか。」
斯(か)う言ひ乍ら、軈(やが)て復(ま)た迎へにやつて来たのは省吾である。
あまり邪気(あどけ)ないことを言つて督促(せきた)てるので、丑松は斯の少年を慫慂(そゝの)かして、いつそ本堂の方へ連れて行かうと考へた。部屋を出て、楼梯(はしごだん)を下りると、蔵裏から本堂へ通ふ廊下は二つに別れる。裏庭に近い方を行けば、是非とも下座敷の側を通らなければならない。其処には文平が話しこんで居るのだ。丑松は表側の廊下を通ることにした。
(二)
古い僧坊は廊下の右側に並んで、障子越しに話声なぞの泄(も)れて聞えるは、下宿する人が有ると見える。是寺(このてら)の広く複雑(こみい)つた構造(たてかた)といつたら、何処(どこ)に奈何(どう)いふ人が泊つて居るか、其すら克(よ)くは解らない程。平素(ふだん)は何の役にも立ちさうも無い、陰気な明間がいくつとなく有る。斯うして省吾と連立つて、細長い廊下を通る間にも、朽ち衰へた精舎(しようじや)の気は何となく丑松の胸に迫るのであつた。壁は暗く、柱は煤け、大きな板戸を彩色(いろど)つた古画の絵具も剥落ちて居た。
斯の廊下が裏側の廊下に接(つゞ)いて、丁度本堂へ曲らうとする角のところで、急に背後(うしろ)の方から人の来る気勢(けはひ)がした。思はず丑松は振返つた。省吾も。見ればお志保で、何か用事ありげに駈寄つて、未だ物を言はない先からもう顔を真紅(まつか)にしたのである。
「あの――」とお志保は艶のある清(すゞ)しい眸(ひとみ)を輝かした。「先程は、弟が結構なものを頂きましたさうで。」
斯う礼を述べ乍ら、其|口唇(くちびる)で嬉しさうに微笑(ほゝゑ)んで見せた。
其時奥様の呼ぶ声が聞えた。逸早(いちはや)くお志保は聞きつけて、一寸耳を澄まして居ると、「あれ、姉さん、呼んでやすよ。」と省吾も姉の顔を見上げた。復た呼ぶ声が聞える。驚いたやうに引返して行くお志保の後姿を見送つて、軈て省吾を導いて、丑松は本堂の扉(ひらき)を開けて入つた。
あゝ、精舎の静寂(しづか)さ――丁度其は古蹟の内を歩むと同じやうな心地(こゝろもち)がする。円(まる)い塗柱に懸かる時計の針の刻々をきざむより外には、斯(こ)の高く暗い天井の下に、一つとして音のするものは無かつた。身に沁み入るやうな沈黙は、そこにも、こゝにも、隠れ潜んで居るかのやう。目に入るものは、何もかも――錆(さび)を帯びた金色(こんじき)の仏壇、生気の無い蓮(はす)の造花(つくりばな)、人の空想を誘ふやうな天界(てんがい)の女人(によにん)の壁に画(か)かれた形像(かたち)、すべてそれらのものは過去(すぎさ)つた時代の光華(ひかり)と衰頽(おとろへ)とを語るのであつた。丑松は省吾と一緒に内陣迄も深く上つて、仏壇のかげにある昔の聖僧達の画像の前を歩いた。
「省吾さん。」と丑松は少年の横顔を熟視(まも)り乍ら、「君はねえ、家眷(うち)の人の中で誰が一番好きなんですか――父さんですか、母さんですか。」
省吾は答へなかつた。
「当てゝ見ませうか。」と丑松は笑つて、「父さんでせう?」
「いゝえ。」
「ホウ、父さんぢや無いですか。」
「だつて、父さんはお酒ばかり飲んでゝ――」
「そんなら君、誰が好きなんですか。」
「まあ、私(わし)は――姉さんでごはす。」
「姉さん? 左様かねえ、君は姉さんが一番好いかねえ。」
「私は、姉さんには、何でも話しやすよ、へえ父さんや母さんには話さないやうなことでも。」
斯(か)う言つて、省吾は何の意味もなく笑つた。
北の小座敷には古い涅槃(ねはん)の図が掛けてあつた。普通の寺によくある斯の宗教画は大抵|模倣(うつし)の模倣で、戯曲(しばゐ)がゝりの配置(くみあはせ)とか、無意味な彩色(いろどり)とか、又は熱帯の自然と何の関係も無いやうな背景とか、そんなことより外(ほか)に是(これ)ぞと言つて特色(とりえ)の有るものは鮮少(すくな)い。斯(こ)の寺のも矢張同じ型ではあつたが、多少創意のある画家(ゑかき)の筆に成つたものと見えて、ありふれた図に比べると余程|活々(いき/\)して居た。まあ、宗教(をしへ)の方の情熱が籠るとは見えない迄も、何となく人の心を※[女+無](ひきつ)ける樸実(まじめ)なところがあつた。流石(さすが)、省吾は未だ子供のことで、其|禽獣(とりけもの)の悲嘆(なげき)の光景(さま)を見ても、丁度お伽話(とぎばなし)を絵で眺めるやうに、別に不思議がるでも無く、驚くでも無い。無邪気な少年はたゞ釈迦(しやか)の死を見て笑つた。
「あゝ。」と丑松は深い溜息を吐(つ)いて、「省吾さんなぞは未だ死ぬといふことを考へたことが有ますまいねえ。」
「私(わし)がでごはすか。」と省吾は丑松の顔を見上げる。
「さうさ――君がサ。」
「はゝゝゝゝ。ごはせんなあ、其様(そん)なことは。」
「左様だらうねえ。君等の時代に其様なことを考へるやうなものは有ますまいねえ。」
「ふゝ。」と省吾は思出したやうに笑つて、「お志保姉さんも克(よ)く其様なことを言ひやすよ。」
「姉さんも?」と丑松は熱心な眸を注いだ。
「はあ、あの姉さんは妙なことを言ふ人で、へえもう死んで了ひたいの、誰(だあれ)も居ないやうな処へ行つて大きな声を出して泣いて見たいのツて――まあ、奈何(どう)して其様な気になるだらず。」
斯う言つて、省吾は小首を傾(かし)げて、一寸口笛吹く真似をした。
間も無く省吾は出て行つた。丑松は唯|単独(ひとり)になつた。急に本堂の内部(なか)は※[門<貝](しん)として、種々(さま/″\)の意味ありげな装飾が一層無言のなかに沈んだやうに見える。深い天井の下に、いつまでも変らずにある真鍮(しんちゆう)の香炉、花立、燈明皿――そんな性命(いのち)の無い道具まで、何となく斯う寂寞(じやくまく)な瞑想(めいさう)に耽つて居るやうで、仏壇に立つ観音(くわんおん)の彫像は慈悲といふよりは寧(むし)ろ沈黙の化身(けしん)のやうに輝いた。斯ういふ静寂(しづか)な、世離れたところに立つて、其人のことを想(おも)ひ浮べて見ると、丁度古蹟を飾る花草のやうな気がする。丑松は、血の湧く思を抱き乍ら、円い柱と柱との間を往つたり来たりした。
「お志保さん、お志保さん。」
あてども無く口の中で呼んで見たのである。
いつの間には四壁(そこいら)は暗くなつて来た。青白い黄昏時(たそがれどき)の光は薄明く障子に映つて、本堂の正面の方から射しこんだので、柱と柱との影は長く畳の上へ引いた。倦(う)み、困(くるし)み、疲れた冬の一日(ひとひ)は次第に暮れて行くのである。其時|白衣(びやくえ)を着けた二人の僧が入つて来た。一人は住職、一人は寺内の若僧であつた。灯(あかし)は奥深く点(つ)いて、あそこにも、こゝにも、と見て居るうちに、六挺ばかりの蝋燭(らふそく)が順序よく並んで燃(とぼ)る。仏壇を斜に、内陣の角のところに座を占めて、金泥(きんでい)の柱の側に掌(て)を合はせたは、住職。一段低い外陣に引下つて、反対の側にかしこまつたは、若僧。やがて鉦(かね)の音が荘厳(おごそか)に響き渡る。合唱の声は起つた。
「なむからかんのう、とらやあ、やあ――」
宵(よひ)の勤行(おつとめ)が始つたのである。
あゝ、寂しい夕暮もあればあるもの。丑松は北の間の柱に倚凭(よりかゝ)り乍ら、目を瞑(つぶ)り、頭をつけて、深く/\思ひ沈んで居た。「若(も)し自分の素性がお志保の耳に入つたら――」其を考へると、つく/″\穢多の生命(いのち)の味気なさを感ずる。漠然とした死滅の思想は、人懐しさの情に混つて、烈しく胸中を往来し始めた。熾盛(さかん)な青春の時代(ときよ)に逢ひ乍ら、今迄|経験(であ)つたことも無ければ翹望(のぞ)んだことも無い世の苦といふものを覚えるやうに成つたか、と考へると、左様(さう)いふ思想(かんがへ)を起したことすら既にもう切なく可傷(いたま)しく思はれるのであつた。冷(つめた)い空気に交る香の煙のにほひは、斯の夕暮に一層のあはれを添へて、哀(かな)しいとも、堪へがたいとも、名のつけやうが無い。遽然(にはかに)、二人の僧の声が絶えたので、心づいて眺めた時は、丁度|読経(どきやう)を終つて仏の名を称(とな)へるところ。間も無く住職は珠数(ずゝ)を手にして柱の側を離れた。若僧は未(ま)だ同じ場処に留つた。丑松は眺め入つた――高らかに節つけて読む高祖の遺訓の終る迄(まで)も――其文章を押頂いて、軈(やが)て若僧の立上る迄も――終(しまひ)には、蝋燭の灯が一つ/\吹消されて、仏前の燈明ばかり仄(ほの)かに残り照らす迄も。
(三)
夕飯の後、蓮華寺では説教の準備(したく)を為るので多忙(いそが)しかつた。昔からの習慣(ならはし)として、定紋つけた大提灯(おほぢやうちん)がいくつとなく取出された。寺内の若僧、庄馬鹿、子坊主まで聚(よ)つて会(たか)つて、火を点(とも)して、其を本堂へと持運ぶ。三人はその為に長い廊下を往つたり来たりした。
説教聞きにとこゝろざす人々は次第に本堂へ集つて来た。是寺に附く檀家(だんか)のものは言ふも更(さら)なり、其と聞伝へたかぎりは誘ひ合せて詰掛ける。既にもう一生の行程(つとめ)を終つた爺さん婆さんの群ばかりで無く、随分|種々(さま/″\)の繁忙(せは)しい職業に従ふ人々まで、其を聴かうとして熱心に集ふのを見ても、いかに斯の飯山の町が昔風の宗教と信仰との土地であるかを想像させる。聖経(おきやう)の中にある有名な文句、比喩(たとへ)なぞが、普通の人の会話に交るのは珍しくも無い。娘の連はいづれも美しい珠数の袋を懐にして、蓮華寺へと先を争ふのであつた。
それは丑松の身に取つて、最も楽しい、又最も哀しい寺住(てらずみ)の一夜であつた。どんなに丑松は胸を踊らせて、お志保と一緒に説教聞く歓楽(たのしみ)を想像したらう。あゝ、斯ういふ晩にあたつて、自分が穢多であるといふことを考へたほど、切ない思を為たためしは無い。奥様を始め、お志保、省吾なぞは既に本堂へ上つて、北の間の隅のところに集つて居た。見れば中の間から南の間へかけて、男女(をとこをんな)の信徒、あそこに一団(ひとかたまり)、こゝにも一団、思ひ/\に挨拶したり話したりする声は、忍んではするものゝ、何となく賑に面白く聞える。庄馬鹿が、自慢の羽織を折目正しく着飾つて、是見(これみ)よがしに人々のなかを分けて歩くのも、をかしかつた。其取澄ました様子を見て、奥様も笑へば、お志保も笑つた。丁度丑松の座つたところは、永代読経として寄附の金高と姓名とを張出してある古壁の側、お志保も近くて、髪の香が心地よくかをりかゝる。提灯の影は花やかに本堂の夜の空気を照らして、一層その横顔を若々しくして見せた。何といふ親しげな有様だらう、あの省吾を背後(うしろ)から抱いて、すこし微笑(ほゝゑ)んで居る姉らしい姿は。斯う考へて、丑松はお志保の方を熟視(みまも)る度(たび)に、言ふに言はれぬ楽しさを覚えるのであつた。
説教の始まるには未だ少許(すこし)間が有つた。其時文平もやつて来て、先づ奥様に挨拶し、お志保に挨拶し、省吾に挨拶し、それから丑松に挨拶した。あゝ、嫌な奴が来た、と心に思ふばかりでも、丑松の空想は忽ち掻乱(かきみだ)されて、慄(ぞつ)とするやうな現実の世界へ帰るさへあるに、加之(おまけに)、文平が忸々敷(なれ/\し)い調子で奥様に話しかけたり、お志保や省吾を笑はせたりするのを見ると、丑松はもう腹立たしく成る。斯うした女子供のなかで談話(はなし)をさせると、実に文平は調子づいて来る男で、一寸したことをいかにも尤(もつと)もらしく言ひこなして聞かせる。それに、この男の巧者なことには、妙に人懐(ひとなつ)こい、女の心を※[女+無](ひきつ)けるやうなところが有つて、正味自分の価値(ねうち)よりは其を二倍にも三倍にもして見せた。万事深く蔵(つゝ)んで居るやうな丑松に比べると、親切は反(かへ)つて文平の方にあるかと思はせる位。丑松は別に誰の機嫌を取るでも無かつた――いや、省吾の方には優(やさ)しくしても、お志保に対する素振を見ると寧(いつ)そ冷淡(つれない)としか受取れなかつたのである。
「瀬川君、奈何(どう)です、今日の長野新聞は。」
と文平は低声(こごゑ)で誘(かま)をかけるやうに言出した。
「長野新聞?」と丑松は考深い目付をして、「今日は未だ読んで見ません。」
「そいつは不思議だ――君が読まないといふのは不思議だ。」
「何故(なぜ)?」
「だつて、君のやうに猪子先生を崇拝して居ながら、あの演説の筆記を読まないといふのは不思議だからサ。まあ、是非読んで見たまへ。それに、あの新聞の評が面白い。猪子先生のことを、「新平民中の獅子」だなんて――巧いことを言ふ記者が居るぢやあないか。」
斯う口では言ふものゝ、文平の腹の中では何を考へて居るか、と丑松は深く先方(さき)の様子を疑つた。お志保はまた熱心に耳を傾けて、二人の顔を見比べて居たのである。
「猪子先生の議論は兎(と)に角(かく)、あの意気には感服するよ。」と文平は言葉を継いで、「あの演説の筆記を見たら、猪子先生の書いたものを読んで見たくなつた。まあ君は審(くは)しいと思ふから、其で聞くんだが、あの先生の著述では何が一番傑作と言はれるのかね。」
「どうも僕には解らないねえ。」斯う丑松は答へた。
「いや、戯語(じようだん)ぢや無いよ――実際、君、僕は穢多といふものに興味を持つて来た。あの先生のやうな人物が出るんだから、確に研究して見る価値(ねうち)は有るに相違ない。まあ、君だつても、其で「懴悔録」なぞを読む気に成つたんだらう。」と文平は嘲(あざけ)るやうな語気で言つた。
丑松は笑つて答へなかつた。流石(さすが)にお志保の居る側で、穢多といふ言葉が繰返された時は、丑松はもう顔色を変へて、自分で自分を制へることが出来なかつたのである。怒気(いかり)と畏怖(おそれ)とはかはる/″\丑松の口唇(くちびる)に浮んだ。文平は又、鋭い目付をして、其微細な表情までも見泄(みも)らすまいとする。「御気の毒だが――左様(さう)君のやうに隠したつても無駄だよ」と斯う文平の目が言ふやうにも見えた。
「瀬川君、何か君のところには彼の先生のものが有るだらう。何でも好いから僕に一冊貸して呉れ給へな。」
「無いよ――何にも僕のところには無いよ。」
「無い? 無いツてことがあるものか。君の許(ところ)に無いツてことがあるものか。なにも左様(さう)隠さないで、一冊位貸して呉れたつて好ささうなものぢやないか。」
「いや、僕は隠しやしない。無いから無いと言ふんさ。」
遽然(にはかに)、蓮華寺の住職が説教の座へ上つたので、二人はそれぎり口を噤んで了つた。人々はいづれも座(すわ)り直したり、容(かたち)を改めたりした。
(四)
住職は奥様と同年(おないどし)といふ。男のことであるから割合に若々しく、墨染(すみぞめ)の法衣(ころも)に金襴(きんらん)の袈裟(けさ)を掛け、外陣の講座の上に顕はれたところは、佐久小県辺(さくちひさがたあたり)に多い世間的な僧侶に比べると、遙(はる)かに高尚な宗教生活を送つて来た人らしい。額広く、鼻隆く、眉すこし迫つて、容貌(おもばせ)もなか/\立派な上に、温和な、善良な、且つ才智のある性質を好く表して居る。法話の第一部は猿の比喩(たとへ)で始まつた。智識のある猿は世に知らないといふことが無い。よく学び、よく覚え、殊に多くの経文を暗誦して、万人の師匠とも成るべき程の学問を蓄はへた。畜生の悲しさには、唯だ一つ信ずる力を欠いた。人は、よし是猿ほどの智識が無いにもせよ、信ずる力あつて、はじめて凡夫も仏の境には到り得る。なんと各々位(おの/\がた)、合点か。人間と生れた宿世(すくせ)のありがたさを考へて、朝夕念仏を怠り給ふな。斯(か)う住職は説出したのである。
「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」
と人々の唱へる声は本堂の広間に満ち溢れた。男も、女も、懐中(ふところ)から紙入を取出して、思ひ/\に賽銭(さいせん)を畳の上へ置くのであつた。
法話の第二部は、昔の飯山の城主、松平遠江守の事蹟を材(たね)に取つた。そも/\飯山が仏教の地と成つたは、斯の先祖の時代からである。火のやうな守(かみ)の宗教心は未だ年若な頃からして燃えた。丁度江戸表へ参勤の時のこと、日頃|欝積(むすぼ)れて解けない胸中の疑問を人々に尋ね試みたことがある。「人は死んで、畢竟(つまり)奈何(どう)なる。」侍臣も、儒者も、斯問(このとひ)には答へることが出来なかつた。林|大学(だいがく)の頭(かみ)に尋ねた。大学の頭ですらも。それから守は宗教に志し、渋谷の僧に就いて道を聞き、領地をば甥(をひ)に譲り、六年目の暁に出家して、飯山にある仏教の先祖(おや)と成つたといふ。なんと斯|発心(ほつしん)の歴史は味(あぢはひ)のある話ではないか。世の多くの学者が答へることの出来ない、其難問に答へ得るものは、信心あるものより外に無い。斯う住職は説き進んだのである。
「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」
一斉に唱へる声は風のやうに起つた。人々は復(ま)た賽銭を取出して並べた。
斯ういふ説教の間にも、時々丑松は我を忘れて、熱心な眸(ひとみ)をお志保の横顔に注いだ。流石(さすが)に人目を憚(はゞか)つて見まい/\と思ひ乍らも、つい見ると、仏壇の方を眺め入つたお志保の目付の若々しさ。不思議なことには、熱い涙が人知れず其顔を流れるといふ様子で、時々|啜(すゝ)り上げたり、密(そつ)と鼻を拭(か)んだりした。尚よく見ると、言ふに言はれぬ恐怖(おそれ)と悲愁(うれひ)とが女らしい愛らしさに交つて、陰影(かげ)のやうに顕(あらは)れたり、隠れたりする。何をお志保は考へたのだらう。何を感じたのだらう。何を思出したのだらう。斯(か)う丑松は推量した。今夜の法話が左様(さう)若い人の心を動かすとも受取れない。有体(ありてい)に言へば、住職の説教はもう旧(ふる)い、旧い遣方で、明治生れの人間の耳には寧(いつ)そ異様に響くのである。型に入つた仮白(せりふ)のやうな言廻し、秩序の無い断片的な思想、金色に光り輝く仏壇の背景――丁度それは時代な劇(しばゐ)でも観て居るかのやうな感想(かんじ)を与へる。若いものが彼様(あゝ)いふ話を聴いて、其程胸を打たれようとは、奈何(どう)しても思はれなかつたのである。
省吾はそろ/\眠くなつたと見え、姉に倚凭(よりかゝ)つた儘(まゝ)、首を垂れて了(しま)つた。お志保はいろ/\に取賺(とりすか)して、動(ゆす)つて見たり、私語(さゝや)いて見たりしたが、一向に感覚が無いらしい。
「これ――もうすこし起きておいでなさいよ。他様(ひとさま)が見て笑ふぢや有(あり)ませんか。」と叱るやうに言つた。奥様は引取つて、
「其処へ寝かして置くが可(いゝ)やね。ナニ、子供のことだもの。」
「真実(ほんと)に未(ま)だ児童(ねんねえ)で仕方が有ません。」
斯う言つて、お志保は省吾を抱直した。殆んど省吾は何にも知らないらしい。其時丑松が顔を差出したので、お志保も是方(こちら)を振向いた。お志保は文平を見て、奥様を見て、それから丑松を見て、紅(あか)くなつた。
(五)
法話の第三部は白隠に関する伝説を主にしたものであつた。昔、飯山の正受菴(しやうじゆあん)に恵端禅師といふ高僧が住んだ。白隠が斯の人を尋ねて、飯山へやつて来たのは、まだ道を求めて居る頃。参禅して教を聴く積りで、来て見ると、掻集めた木葉(このは)を背負ひ乍らとぼ/\と谷間(たにあひ)を帰つて来る人がある。散切頭(ざんぎりあたま)に、髯(ひげ)茫々(ばう/\)。それと見た白隠は切込んで行つた。「そもさん。」斯(か)ういふ熱心は、漸(やうや)く三回目に、恵端の為に認められたといふ。それから朝夕師として侍(かしづ)いて居たが、さて終(しまひ)には、白隠も問答に究して了(しま)つた。究するといふよりは、絶望して了つた。あゝ、彼様(あん)な問を出すのは狂人(きちがひ)だ、と斯う師匠のことを考へるやうに成つて、苦しさのあまりに其処を飛出したのである。思案に暮れ乍ら、白隠は飯山の町はづれを辿つた。丁度|収穫(とりいれ)の頃で、堆高(うづだか)く積上げた穀物の傍に仆(たふ)れて居ると、農夫の打つ槌(つち)は誤つて斯(こ)の求道者を絶息させた。夜露が口に入る、目が覚める、蘇生(いきかへ)ると同時に、白隠は悟つた。一説に、彼は町はづれで油売に衝当(つきあた)つて、其油に滑つて、悟つたともいふ。静観庵(じやうくわんあん)として今日迄残つて居るのは、この白隠の大悟した場処を記念する為に建てられたものである。
斯の伝説は兎(と)に角(かく)若いものゝ知らないことであつた。それから自分の意見を述べて、いよ/\結末(くゝり)といふ段になると、毎時(いつも)住職は同じやうな説教の型に陥る。自力で道に入るといふことは、白隠のやうな人物ですら容易で無い。吾他力宗は単純(ひとへ)に頼むのだ。信ずるのだ。導かれるのだ。凡夫の身をもつて達するのだ。呉々も自己(おのれ)を捨てゝ、阿弥陀如来(あみだによらい)を頼み奉るの外は無い。斯う住職は説き終つた。
「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」
と人々の唱へる声は暫時(しばらく)止まなかつた。多くの賽銭はまた畳の上に集つた。お志保も殊勝らしく掌(て)を合せて、奥様と一緒に唱へて居たが、涙は其若い頬を伝つて絶間(とめど)も無く流れ落ちたのである。
やがて聴衆は珠数を提(さ)げて帰つて行つた。奥様も、お志保も、今は座を離れて、円柱の側に佇立(たゝず)み乍ら、人々に挨拶したり見送つたりした。雪がまた降つて来たといふので、本堂の入口は酷(ひど)く雑踏する。女連は多く後になつた。殊に思ひ/\の風俗して、時の流行(はやり)に後れまいとする町の娘の有様は、深く/\お志保の注意を引くのであつた。お志保は熟(じつ)と眺め入り乍ら、寺住の身と思比べて居たらしいのである。
「や、どうも今晩の御説教には驚きましたねえ。」と文平は住職に近いて言つた。「実に彼の白隠の歴史には感服して了ひました。まあ、始めてです、彼様(あゝ)いふ御話を伺つたことは。あの白隠が恵端禅師の許(ところ)へ尋ねて行く。あそこのところが私は気に入りました。斯う向ふの方から、掻集めた木葉を背負ひ乍ら、散切頭に髯茫々といふ姿で、とぼ/\と谷間を帰つて来る人がある。そこへ白隠が切込んで行つた。「そもさん。」――彼様(あゝ)いかなければ不可(いけ)ませんねえ。」と身振手真似を加へて喋舌(しやべ)りたてたので、住職はもとより、其を聞く人々は笑はずに居られなかつた。さうかうする中に、聴衆は最早(もう)悉皆(すつかり)帰つて了ふ。急に本堂の内は寂しく成る。若僧や子坊主は多忙(いそが)しさうに後片付。庄馬鹿は腰を曲(こゞ)め乍ら、畳の上の賽銭を掻集めて歩いた。
其時は最早(もう)丑松の姿が本堂の内に見えなかつた。丑松は省吾を連れて、蔵裏の方へ見送つて行つてやつた。丁度文平が奥様やお志保の側で盛んに火花を散らして居る間に、丑松は黙つて省吾を慰撫(いたは)つたり、人の知らない面倒を見て遣つたりして居たのである。 
 
第拾六章

 

(一)
次第に丑松は学校へ出勤するのが苦しく成つて来た。ある日、あまりの堪へがたさに、欠席の届を差出した。其朝は遅くまで寝て居た。八時打ち、九時打ち、軈(やが)て十時打つても、まだ丑松は寝て居た。窓の障子(しやうじ)は冬の日をうけて、其光が部屋の内へ射しこんで来たのに、丑松は枕頭(まくらもと)を照らされても、まだそれでも起きることが出来なかつた。下女の袈裟治は部屋々々の掃除を済(す)まして、最早(もう)とつくに雑巾掛(ざふきんがけ)まで為(し)て了(しま)つた。幾度か二階へも上つて来て見た。来て見ると、丑松は疲れて、蒼(あを)ざめて、丁度|酣酔(たべすご)した人のやうに、寝床の上に倒れて居る。枕頭は取散らした儘(まゝ)。あちらの隅に書物、こちらの隅に風呂敷包、すべて斯の部屋の内に在る道具といへば、各自(めい/\)勝手に乗出して踊つたり跳ねたりした後のやうで、其乱雑な光景(ありさま)は部屋の主人の心の内部(なか)を克(よ)く想像させる。軈てまた袈裟治が湯沸(ゆわかし)を提げて入つて来た時、漸(やうや)く丑松は起上つて、茫然(ぼんやり)と寝床の上に座つて居た。寝過ぎと衰弱(おとろへ)とから、恐しい苦痛の色を顔に表して、半分は未だ眠り乍ら其処に座つて居るかのやう。「御飯を持つて来ませうか。」斯う袈裟治が聞いて見ても、丑松は食ふ気に成らなかつたのである。
「あゝ、気分が悪くて居なさると見える。」
と独語(ひとりごと)のやうに言ひ乍ら、袈裟治は出て行つた。
それは北国の冬らしい、寂しい日であつた。ちひさな冬の蠅は斯の部屋の内に残つて、窓の障子をめがけては、あちこち/\と天井の下を飛びちがつて居た。丑松が未だ斯の寺へ引越して来ないで、あの鷹匠町の下宿に居た頃は、煩(うるさ)いほど沢山蠅の群が集つて、何処(どこ)から塵埃(ほこり)と一緒に舞込んで来たかと思はれるやうに、鴨居だけばかりのところを組(く)んづ離(ほぐ)れつしたのであつた。思へば秋風を知つて、短い生命(いのち)を急いだのであらう。今は僅かに生残つたのが斯うして目につく程の季節と成つた。丑松は眺め入つた。眺め入り乍ら、十二月の近いたことを思ひ浮べたのである。
斯(か)うして、働けば働ける身をもつて、何(なんに)も為(せ)ずに考へて居るといふことは、決して楽では無い。官費の教育を享(う)けたかはりに、長い義務年限が纏綿(つきまと)つて、否でも応でも其間厳重な規則に服従(したが)はなければならぬ、といふことは――無論、丑松も承知して居る。承知して居乍ら、働く気が無くなつて了つた。噫(あゝ)、朝寝の床は絶望した人を葬る墓のやうなもので有らう。丑松は復たそこへ倒れて、深い睡眠(ねむり)に陥入(おちい)つた。
(二)
「瀬川先生、御客様でやすよ。」
と喚起(よびおこ)す袈裟治の声に驚かされて、丑松は銀之助が来たことを知つた。銀之助ばかりでは無い、例の準教員も勤務(つとめ)の儘の服装(みなり)でやつて来た。其日は、地方を巡回して歩く休職の大尉とやらが軍事思想の普及を計る為、学校の生徒一同に談話(はなし)をして聞かせるとかで、午後の課業が休みと成つたから、一寸暇を見て尋ねて来たといふ。丑松は寝床の上に起直つて、半ば夢のやうに友達の顔を眺めた。
「君――寝て居たまへな。」
斯う銀之助は無造作な調子で言つた。真実丑松をいたはるといふ心が斯(この)友達の顔色に表れる。丑松は掛蒲団の上にある白い毛布を取つて、丁度|褞袍(どてら)を着たやうな具合に、其を身に纏(まと)ひ乍ら、
「失敬するよ、僕は斯様(こん)なものを着て居るから。ナニ、君、其様(そんな)に酷(ひど)く不良(わる)くも無いんだから。」
「風邪(かぜ)ですか。」と準教員は丑松の顔を熟視(みまも)る。
「まあ、風邪だらうと思ふんです。昨夜から非常に頭が重くて、奈何(どう)しても今朝は起きることが出来ませんでした。」と丑松は準教員の方へ向いて言つた。
「道理で、顔色が悪い。」と銀之助は引取つて、「インフルヱンザが流行(はや)るといふから、気をつけ給へ。何か君、飲んで見たら奈何だい。焼味噌のすこし黒焦(くろこげ)に成つたやつを茶漬茶椀かなんかに入れて、そこへ熱湯(にえゆ)を注込(つぎこ)んで、二三杯もやつて見給へ。大抵の風邪は愈(なほ)つて了(しま)ふよ。」と言つて、すこし気を変へて、「や、好い物を持つて来て、出すのを忘れた――それ、御土産(おみやげ)だ。」
斯(か)う言つて、風呂敷包の中から取出したのは、十一月分の月給。
「今日は君が出て来ないから、代理に受取つて置いた。」と銀之助は言葉を続けた。
「克(よ)く改めて見て呉れ給へ――まあ有る積りだがね。」
「それは難有う。」と丑松は袋入りの銀貨取混ぜて受取つて、「確に。して見ると今日は二十八日かねえ。僕はまた二十七日だとばかり思つて居た。」
「はゝゝゝゝ、月給取が日を忘れるやうぢやあ仕様が無い。」と銀之助は反返(そりかへ)つて笑つた。
「全く、僕は茫然(ぼんやり)して居た。」と丑松は自分で自分を励ますやうにして、「今月は君、小だらう。二十九、三十と、十一月も最早(もう)二日しか無いね。あゝ今年も僅かに成つたなあ。考へて見ると、うか/\して一年暮して了つた――まあ、僕なぞは何(なんに)も為なかつた。」
「誰だつて左様(さう)さ。」と銀之助も熱心に。
「君は好いよ。君はこれから農科大学の方へ行つて、自分の好きな研究が自由にやれるんだから。」
「時に、僕の送別会もね、生徒の方から明日にしたいと言出したが――」
「明日に?」
「しかし、君も斯うして寝て居るやうぢやあ――」
「なあに、最早|愈(なほ)つたんだよ。明日は是非出掛ける。」
「はゝゝゝゝ、瀬川君の病気は不良(わる)くなるのも早いし、快(よ)くなるのも早い。まあ大病人のやうに呻吟(うな)つてるかと思ふと、また虚言(うそ)を言つたやうに愈(なほ)るから不思議さ――そりやあ、もう、毎時(いつも)御極りだ。それはさうと、斯うして一緒に馬鹿を言ふのも僅かに成つて来た。其内に御別れだ。」
「左様かねえ、君はもう行つて了ふかねえ。」
斯ういふ言葉を取交して、二人は互に感慨に堪へないといふ様子であつた。其時迄、黙つて二人の談話(はなし)を聞いて、巻煙草ばかり燻(ふか)して居た準教員は、唐突(だしぬけ)に斯様(こん)なことを言出した。
「今日僕は妙なことを聞いて来た。学校の職員の中に一人新平民が隠れて居るなんて、其様(そん)なことを町の方で噂(うはさ)するものが有るさうだ。」
(三)
「誰が其様なことを言出したんだらう。」と銀之助は準教員の方へ向いて言つた。
「誰が言出したか、其は僕も知らないがね。」と準教員はすこし困却(こま)つたやうな調子で、「要するに、人の噂に過ぎないんだらうと思ふんだ。」
「噂にもよりけりさ。其様なことを言はれちやあ、大に吾儕(われ/\)が迷惑するねえ。克(よ)く町の人は種々(いろ/\)なことを言触らす。やれ、女の教員が奈何(どう)したの、男の教員が斯様(かう)したのツて。何故(なぜ)、左様(さう)人の噂が為たいんだらう。そんなら、君、まあ学校の職員を数へて見給へ。穢多らしいやうな顔付のものが吾儕の中にあるかい。実に怪しからんことを言ふぢやないか――ねえ、瀬川君。」
斯う言つて、銀之助は丑松の方を見た。丑松は無言で、白い毛布に身を包んだまゝ。
「はゝゝゝゝ。」と銀之助は笑ひ出した。「校長先生は随分|几帳面(きちやうめん)な方だが、なんぼなんでも新平民とは思はれないし、と言つて、教員仲間に其様なものは見当りさうも無い。左様さなあ――いやに気取つてるのは勝野君だ――まあ、其様な嫌疑のかゝるのは勝野君位のものだ。」
「まさか。」と準教員も一緒になつて笑つた。
「そんなら、君、誰だと思ふ。」と銀之助は戯れるやうに、「さしづめ、君ぢやないか。」
「馬鹿なことを言ひ給へ。」と準教員はすこし憤然(むつ)とする。
「はゝゝゝゝ、君は直に左様(さう)怒(おこ)るから不可(いかん)。なにも君だと言つた訳では無いよ。真箇(ほんたう)に、君のやうな人には戯語(じようだん)も言へない。」
「しかし。」と準教員は真面目(まじめ)に成つて、「是(これ)がもし事実だと仮定すれば――」
「事実? 到底(たうてい)其様なことは有得べからざる事実だ。」と銀之助は聞入れなかつた。「何故と言つて見給へ。学校の職員は大抵|出処(でどこ)が極(きま)つて居る。君等のやうに講習を済まして来た人か、勝野君のやうに検定試験から入つて来た人か、または吾儕(われ/\)のやうに師範出か――是より外には無い。若(も)し吾儕の中に其様(そん)な人が有るとすれば、師範校時代にもう知れて了ふね。卒業する迄も其が知れずに居るなんてことは、寄宿舎生活が許さないさ。検定試験を受けるやうな人は、いづれ長く学校に関係した連中だから、是も知れずに居る筈が無し、君等の方はまた猶更(なほさら)だらう。それ見給へ。今になつて、突然其様なことを言触らすといふは、すこし可笑(をか)しいぢやないか。」
「だから――」と準教員は言葉に力を入れて、「僕だつても事実だと言つた訳では無いサ。若(もし)事実だと仮定すれば、と言つたんサ。」
「若(もし)かね。はゝゝゝゝ。君の言ふ若は仮定する必要の無い若だ。」
「左様(さう)言へばまあ其迄だが、しかし万一|其様(そん)なことが有るとすれば、奈何(どう)いふ結果に成つて行くものだらう――僕は考へたばかりでも恐しいやうな気がする。」
銀之助は答へなかつた。二人の客はもうそれぎり斯様(こん)な話を為なかつた。
軈(やが)て二人が言葉を残して出て行かうとした時は、丑松は喪心した人のやうで、其顔色は白い毛布に映つて、一層蒼ざめて見えたのである。「あゝ、瀬川君は未だ快(よ)くないんだらう。」斯(か)う銀之助は自分で自分に言ひ乍ら、準教員と一緒に楼梯(はしごだん)を下りて行つた。
暫時(しばらく)丑松は茫然として部屋の内を眺め廻して居たが、急に寝床を片付けて、着物を着更へて見た。不図(ふと)思ひついたやうに、押入の隅のところに隠して置いた書物を取出した。それはいづれも蓮太郎を思出させるもので、彼の先輩が心血と精力とを注ぎ尽したといふ「現代の思潮と下層社会」、小冊子には「平凡なる人」、「労働」、「貧しきものゝ慰め」、それから「懴悔録」なぞ。丑松は一々|内部(なか)を好く改めて見て、蔵書の印がはりに捺(お)して置いた自分の認印(みとめ)を消して了つた。ほかに、床の間に置並べた語学の参考書の中から、五六冊不要なのを抜取つて、塵埃(ほこり)を払つて、一緒にして風呂敷に包んで居ると、丁度そこへ袈裟治が入つて来た。
「御出掛?」
斯う声を掛ける。丑松はすこし周章(あわ)てたといふ様子して、別に返事もしないのであつた。
「この寒いのに御出掛なさるんですか。」と袈裟治は呆(あき)れて、蒼(あを)ざめた丑松の顔を眺めた。「気分が悪くて寝て居なさる人が――まあ。」
「いや、もう悉皆(すつかり)快くなつた。」
「ほゝゝゝゝ。それはさうと、御腹(おなか)が空きやしたらう。何か食べて行きなすつたら――まあ、貴方(あんた)は今朝から何(なんに)も食べなさらないぢやごはせんか。」
丑松は首を振つて、すこしも腹は空かないと言つた。壁に懸けてある外套(ぐわいたう)を除(はづ)して着たのも、帽子を冠つたのも、着る積りも無く着、冠る積りも無く冠つたので、丁度感覚の無い器械が動くやうに、自分で自分の為(す)ることを知らない位であつた。丑松はまた、友達が持つて来て呉れた月給を机の抽匣(ひきだし)の中へ入れて、其内を紙の袋のまゝ袂へも入れた。尤も幾許(いくら)置いて、幾許自分の身に着けたか、それすら好くは覚えて居ない。斯うして書物の包を提げて、成るべく外套の袖で隠すやうにして、軈てぶらりと蓮華寺の門を出た。
(四)
雪は往来にも、屋根の上にもあつた。「みの帽子」を冠り、蒲(がま)の脛穿(はゞき)を着け、爪掛(つまかけ)を掛けた多くの労働者、または毛布を頭から冠つて深く身を包んで居る旅人の群――其様(そん)な手合が眼前(めのまへ)を往つたり来たりする。人や馬の曳く雪橇(ゆきぞり)は幾台(いくつ)か丑松の側を通り過ぎた。
長い廻廊のやうな雪除(ゆきよけ)の「がんぎ」(軒廂(のきびさし))も最早(もう)役に立つやうに成つた。往来の真中に堆高(うづだか)く掻集めた白い小山の連接(つゞき)を見ると、今に家々の軒丈よりも高く降り積つて、これが飯山名物の「雪山」と唄(うた)はれるかと、冬期の生活(なりはひ)の苦痛(くるしみ)を今更のやうに堪へがたく思出させる。空の模様はまた雪にでも成るか。薄い日のひかりを眺めたばかりでも、丑松は歩き乍ら慄(ふる)へたのである。
上町(かみまち)の古本屋には嘗(かつ)て雑誌の古を引取つて貰つた縁故もあつた。丁度其|店頭(みせさき)に客の居なかつたのを幸(さいはひ)、ついと丑松は帽子を脱いで入つて、例の風呂敷包を何気なく取出した。「すこしばかり書籍(ほん)を持つて来ました――奈何(どう)でせう、是(これ)を引取つて頂きたいのですが。」と其を言へば、亭主は直に丑松の顔色を読んで、商人(あきんど)らしく笑つて、軈(やが)て膝を進め乍ら風呂敷包を手前へ引寄せた。
「ナニ、幾許(いくら)でも好いんですから――」
と丑松は添加(つけた)して言つた。
亭主は風呂敷包を解(ほど)いて、一冊々々書物の表紙を調べた揚句、それを二通りに分けて見た。語学の本は本で一通り。兎も角も其丈(それだけ)は丁寧に内部(なかみ)を開けて見て、それから蓮太郎の著したものは無造作に一方へ積重ねた。
「何程(いかほど)ばかりで是は御譲りに成る御積りなんですか。」と亭主は丑松の顔を眺めて、さも持余したやうに笑つた。
「まあ、貴方の方で思つたところを附けて見て下さい。」
「どうも是節は不景気でして、一向に斯(か)ういふものが捌(は)けやせん。御引取り申しても好うごはすが、しかし金高があまり些少(いさゝか)で。実は申上げるにしやしても、是方(こちら)の英語の方だけの御直段(おねだん)で、新刊物の方はほんの御愛嬌(ごあいけう)――」と言つて、亭主は考へて、「こりや御持帰りに成りやした方が御為かも知れやせん。」
「折角(せつかく)持つて来たものです――まあ、左様言はずに、引取れるものなら引取つて下さい。」
「あまり些少(いさゝか)ですが、好うごはすか。そんなら、別々に申上げやせうか。それとも籠(こ)めて申上げやせうか。」
「籠めて言つて見て下さい。」
「奈何(いかゞ)でせう、精一杯なところを申上げて、五十五銭。へゝゝゝゝ。それで宜(よろ)しかつたら御引取り申して置きやす。」
「五十五銭?」
と丑松は寂しさうに笑つた。
もとより何程(いくら)でも好いから引取つて貰ふ気。直に話は纏(まとま)つた。あゝ書物ばかりは売るもので無いと、予(かね)て丑松も思はないでは無いが、然しこゝへ持つて来たのは特別の事情がある。やがて自分の宿処と姓名とを先方(さき)の帳面へ認(したゝ)めてやつて、五十五銭を受取つた。念の為、蓮太郎の著したものだけを開けて見て、消して持つて来た瀬川といふ認印(みとめ)のところを確めた。中に一冊、忘れて消して無いのがあつた。「あ――ちよつと、筆を貸して呉れませんか。」斯う言つて、借りて、赤々と鮮明(あざやか)に読まれる自分の認印の上へ、右からも左からも墨黒々と引いた。
「斯うして置きさへすれば大丈夫。」――丑松の積りは斯うであつた。彼の心は暗かつたのである。思ひ迷ふばかりで、実は奈何(どう)していゝか解らなかつたのである。古本屋を出て、自分の為(し)たことを考へ乍ら歩いた時は、もう哭(な)きたい程の思に帰つた。
「先生、先生――許して下さい。」
と幾度か口の中で繰返した。其時、あの高柳に蓮太郎と自分とは何の関係も無いと言つたことを思出した。鋭い良心の詰責(とがめ)は、身を衛(まも)る余儀なさの弁解(いひわけ)と闘つて、胸には刺されるやうな深い/\悲痛(いたみ)を感ずる。丑松は羞(は)ぢたり、畏(おそ)れたりしながら、何処へ行くといふ目的(めあて)も無しに歩いた。
(五)
一ぜんめし、御酒肴(おんさけさかな)、笹屋、としてあるは、かねて敬之進と一緒に飲んだところ。丑松の足は自然とそちらの方へ向いた。表の障子を開けて入ると、そここゝに二三の客もあつて、飲食(のみくひ)して居る様子。主婦(かみさん)は流許(ながしもと)へ行つたり、竈(かまど)の前に立つたりして、多忙(いそが)しさうに尻端折(しりはしをり)で働いて居た。
「主婦(かみ)さん、何か有ますか。」
斯(か)う丑松は声を掛けた。主婦は煤(すゝ)けた柱の傍に立つて、手を拭(ふ)き乍(なが)ら、
「生憎(あいにく)今日(こんち)は何(なんに)も無くて御気の毒だいなあ。川魚の煮(た)いたのに、豆腐の汁(つゆ)ならごはす。」
「そんなら両方貰ひませう。それで一杯飲まして下さい。」
其時、一人の行商が腰掛けて居た樽(たる)を離れて、浅黄の手拭で頭を包み乍ら、丑松の方を振返つて見た。雪靴の儘(まゝ)で柱に倚凭(よりかゝ)つて居た百姓も、一寸盗むやうに丑松を見た。主婦(かみさん)が傾(かし)げた大徳利の口を玻璃杯(コップ)に受けて、茶色に気(いき)の立つ酒をなみ/\と注いで貰ひ、立つて飲み乍ら、上目で丑松を眺める橇曳(そりひき)らしい下等な労働者もあつた。斯ういふ風に、人々の視線が集まつたのは、兎(と)に角(かく)毛色の異(かは)つた客が入つて来た為、放肆(ほしいまゝ)な雑談を妨(さまた)げられたからで。尤(もつと)も斯(こ)の物見高い沈黙は僅かの間であつた。やがて復(ま)た盛んな笑声が起つた。炉(ろ)の火も燃え上つた。丑松は炉辺(ろばた)に満ち溢(あふ)れる「ぼや」の烟のにほひを嗅(か)ぎ乍(なが)ら、そこへ主婦が持出した胡桃足(くるみあし)の膳を引寄せて、黙つて飲んだり食つたりして居ると、丁度出て行く行商と摺違ひに釣の道具を持つて入つて来た男がある。
「よう、めづらしい御客様が来てますね。」
と言ひ乍ら、釣竿を柱にたてかけたのは敬之進であつた。
「風間さん、釣ですか。」斯(か)う丑松は声を掛ける。
「いや、どうも、寒いの寒くないのツて。」と敬之進は丑松と相対(さしむかひ)に座を占めて、「到底(とても)川端で辛棒が出来ないから、廃(や)めて帰つて来た。」
「ちつたあ釣れましたかね。」と聞いて見る。
「獲物(えもの)無しサ。」と敬之進は舌を出して見せて、「朝から寒い思をして、一匹も釣れないでは君、遣切(やりき)れないぢやないか。」
其調子がいかにも可笑(をか)しかつた。盛んな笑声が百姓や橇曳(そりひき)の間に起つた。
「不取敢(とりあへず)、一つ差上げませう。」と丑松は盃(さかづき)の酒を飲乾して薦(すゝ)める。
「へえ、我輩に呉れるのかね。」と敬之進は目を円(まる)くして、「こりやあ驚いた。君から盃を貰はうとは思はなかつた――道理で今日は釣れない訳だよ。」と思はず流れ落ちる涎(よだれ)を拭つたのである。
間も無く酒瓶(てうし)の熱いのが来た。敬之進は寒さと酒慾とで身を震はせ乍ら、さも/\甘(うま)さうに地酒の香を嗅いで見て、
「しばらく君には逢(あ)はなかつたやうな気がするねえ。我輩も君、学校を休(や)めてから別に是(これ)といふ用が無いもんだから、斯様(こん)な釣なぞを始めて――しかも、拠(よんどころ)なしに。」
「何ですか、斯の雪の中で釣れるんですか。」と丑松は箸を休(や)めて対手の顔を眺めた。
「素人(しろうと)は其だから困る。尤も我輩だつて素人だがね。はゝゝゝゝ。まあ商売人に言はせると、冬はまた冬で、人の知らないところに面白味がある。ナニ、君、風さへ無けりや、左様(さう)思つた程でも無いよ。」と言つて、敬之進は一口飲んで、「然し、瀬川君、考へて見て呉れ給へ。何が辛いと言つたつて、用が無くて生きて居るほど世の中に辛いことは無いね。家内やなんかが※[足へん+昔]々(せつせ)と働いて居る側で、自分ばかり懐手(ふところで)して見ても居られずサ。まだそれでも、斯うして釣に出られるやうな日は好いが、屋外(そと)へも出られないやうな日と来ては、実に我輩は為(す)る事が無くて困る。左様いふ日には、君、他に仕方が無いから、まあ昼寝を為ることに極(き)めてね――」
至極真面目で、斯様(こん)なことを言出した。この「昼寝を為ることに極めてね」が酷(ひど)く丑松の心を動かしたのである。
「時に、瀬川君。」と敬之進は酒徒(さけのみ)らしい手付をして、盃を取上げ乍ら、「省吾の奴も長々君の御世話に成つたが、種々(いろ/\)家の事情を考へると、どうも我輩の思ふやうにばかりもいかないことが有るんで――まあ、その、学校を退(ひ)かせようかと思ふのだが、君、奈何(どう)だらう。」
(六)
「そりやあもう我輩だつて退校させたくは無いさ。」と敬之進は言葉を続けた。「せめて普通教育位は完全に受けさせたいのが親の情さ。来年の四月には卒業の出来るものを、今|茲(こゝ)で廃(や)めさせて、小僧奉公なぞに出して了(しま)ふのは可愛さうだ、とは思ふんだが、実際止むを得んから情ない。彼様(あん)な茫然(ぼんやり)した奴(やつ)だが、万更(まんざら)学問が嫌ひでも無いと見えて、学校から帰ると直に机に向つては、何か独りでやつてますよ。どうも数学が出来なくて困る。其かはり作文は得意だと見えて、君から「優」なんて字を貰つて帰つて来ると、それは大悦(おほよろこ)びさ。此頃(こなひだ)も君に帳面を頂いた時なぞは、先生が作文を書けツて下すつたと言つてね、まあ君どんなに喜びましたらう。その嬉しがりやうと言つたら、大切に本箱の中へ入れて仕舞つて置いて、何度出して見るか解らない位さ。彼(あ)の晩は寝言にまで言つたよ。それ、左様(さう)いふ風だから、兎(と)に角(かく)やる気では居るんだねえ。其を思ふと廃して了へと言ふのは実際可愛さうでもある。しかし、君、我輩のやうに子供が多勢では左(どう)にも右(かう)にも仕様が無い。一概に子供と言ふけれど、その子供がなか/\馬鹿にならん。悪戯(いたづら)なくせに、大飯食(おほめしぐら)ひばかり揃つて居て――はゝゝゝゝ、まあ君だから斯様(こん)なことまでも御話するんだが、まさか親の身として、其様(そんな)に食ふな、三杯位にして節(ひか)へて置け、なんて過多(あんまり)吝嗇(けち/\)したことも言へないぢやないか。」
斯ういふ述懐は丑松を笑はせた。敬之進も亦(ま)た寂しさうに笑つて、
「ナニ、それもね、継母(まゝはゝ)ででも無けりや、またそこにもある。省吾の奴を奉公にでも出して了つたら、と我輩が思ふのは、実は今の家内との折合が付かないから。我輩はお志保や省吾のことを考へる度に、どの位あの二人の不幸(ふしあはせ)を泣いてやるか知れない。奈何(どう)して継母といふものは彼様(あんな)邪推深いだらう。此頃(こなひだ)も此頃で、ホラ君の御寺に説教が有ましたらう。彼晩(あのばん)、遅くなつて省吾が帰つて来た。さあ、家内は火のやうになつて怒つて、其様(そんな)に姉さんのところへ行きたくば最早(もう)家(うち)なんぞへ帰らなくても可(いゝ)。出て行つて了へ。必定(きつと)また御寺へ行つて余計なことをべら/\喋舌(しやべ)つたらう。必定また姉さんに悪い智慧を付けられたらう。だから私の言ふことなぞは聞かないんだ。斯う言つて、家内が責める。すると彼奴(あいつ)は気が弱いもんだから、黙つて寝床の内へ潜り込んで、しく/\やつて居ましたつけ。其時、我輩も考へた。寧(いつ)そこりや省吾を出した方が可(いゝ)。左様(さう)すれば、口は減るし、喧嘩(けんくわ)の種は無くなるし、あるひは家庭(うち)が一層(もつと)面白くやつて行かれるかも知れない。いや――どうかすると、我輩は彼(あ)の省吾を連れて、二人で家(うち)を出て了はうか知らん、といふやうな気にも成るのさ。あゝ。我輩の家庭(うち)なぞは離散するより外(ほか)に最早(もう)方法が無くなつて了つた。」
次第に敬之進は愚痴な本性を顕した。酒気が身体へ廻つたと見えて、頬も、耳も、手までも紅(あか)く成つた。丑松は又、一向顔色が変らない。飲めば飲む程、反(かへ)つて頬は蒼白(あをじろ)く成る。
「しかし、風間さん、左様(さう)貴方のやうに失望したものでも無いでせう。」と丑松は言ひ慰めて、「及ばず乍ら私も力に成つて上げる気で居るんです。まあ、其盃を乾したら奈何(どう)ですか――一つ頂きませう。」
「え?」と敬之進はちら/\した眼付で、不思議さうに対手(あひて)の顔を眺めた。「これは驚いた。盃を呉れろと仰るんですか。へえ、君は斯の方もなか/\いけるんだね。我輩は又、飲めない人かとばかり思つて居た。」
と言つて盃をさす。丑松は其を受取つて、一息にぐいと飲乾(のみほ)して了つた。
「烈しいねえ。」と敬之進は呆(あき)れて、「君は今日は奈何(どう)かしやしないか。左様(さう)君のやうに飲んでも可(いゝ)のか。まあ、好加減にした方が好からう。我輩が飲むのは不思議でも何でも無いが、君が飲むのは何だか心配で仕様が無い。」
「何故(なぜ)?」
「何故ツて、君、左様ぢやないか。君と我輩とは違ふぢや無いか。」
「はゝゝゝゝ。」
と丑松は絶望した人のやうに笑つた。
(七)
何か敬之進は言ひたいことが有つて、其を言ひ得ないで、深い溜息を吐くといふ様子。其時はもう百姓も、橇曳(そりひき)も出て行つて了つた。余念も無く流許(ながしもと)で鍋(なべ)を鳴らして居る主婦(かみさん)、裏口の木戸のところに佇立(たゝず)んで居る子供、この人達より外に二人の談話(はなし)を妨(さまた)げるものは無かつた。高い天井の下に在るものは、何もかも暗く煤(すゝ)けた色を帯びて、昔の街道の名残(なごり)を顕(あらは)して居る。あちらの柱に草鞋(わらぢ)、こちらの柱に干瓢(かんぺう)、壁によせて黄な南瓜(かぼちや)いくつか並べてあるは、いかにも町はづれの古い茶屋らしい。土間も広くて、日あたりに眠る小猫もあつた。寒さの為に身を潜(すく)め乍ら目を瞑つて居る鶏もあつた。
薄い日の光は明窓(あかりまど)から射して、軒から外へ泄(も)れる煙の渦を青白く照した。丑松は茫然と思ひ沈んで、炉(ろ)に燃え上る「ぼや」の焔(ほのほ)を熟視(みつ)めて居た。赤々とした火の色は奈何(どんな)に人の苦痛を慰めるものであらう。のみならず、強ひて飲んだ地酒の酔心地から、やたらに丑松は身を慄(ふる)はせて、時には人目も関はず泣きたい程の思に帰つた。あゝ声を揚げて放肆(ほしいまゝ)に泣いたなら、と思ふ心は幾度起るか知れない。しかし涙は頬を霑(うるほ)さなかつた――丑松は嗚咽(すゝりな)くかはりに、大きく口を開いて笑つたのである。
「あゝ。」と敬之進は嘆息して、「世の中には、十年も交際(つきあ)つて居て、それで毎時(いつでも)初対面のやうな気のする人も有るし、又、君のやうに、其様(そんな)に深い懇意な仲で無くても、斯うして何もかも打明けて話したい人が有る。我輩が斯様(こん)な話をするのは、実際、君より外に無い。まあ、是非君に聞いて貰ひたいと思ふことが有るんでね。」とすこし言淀んで、「実は――此頃(こなひだ)久し振で娘に逢ひました。」
「お志保さんに?」丑松の胸は何となく踊るのであつた。
「といふのは、君、あの娘(こ)の方から逢つて呉れろといふ言伝(ことづけ)があつて――尤(もつと)も、我輩もね、君の知つてる通り蓮華寺とは彼様(あゝ)いふ訳だし、それに家内は家内だし、するからして、成るべく彼の娘には逢はないやうにして居る。ところが何か相談したいことが有ると言ふもんだから、まあ、その、久し振で逢つて見た。どうも若いものがずん/\大きく成るのには驚いて了ふねえ。まるで見違へる位。それで君、何の相談かと思ふと、最早々々(もう/\)奈何(どう)しても蓮華寺には居られない、一日も早く家(うち)へ帰るやうにして呉れ、頼む、と言ふ。事情を聞いて見ると無理もない。其時我輩も始めて彼の住職の性質を知つたやうな訳サ。」
と言つて、敬之進は一寸徳利を振つて見た。生憎(あいにく)酒は盃(さかづき)に満たなかつた。やがて一口飲んで、両手で口の端(はた)を撫(な)で廻して、
「斯(か)うです。まあ、君、聞いて呉れ給へ。よく世間には立派な人物だと言はれて居ながら、唯|女性(をんな)といふものにかけて、非常に弱い性質(たち)の男があるものだね。蓮華寺の住職も矢張(やはり)其だらうと思ふよ。彼程(あれほど)学問もあり、弁才もあり、何一つ備はらないところの無い好い人で、殊(こと)に宗教(をしへ)の方の修行もして居ながら、それでまだ迷が出るといふのは、君、奈何(どう)いふ訳だらう。我輩は娘から彼(あ)の住職のことを聞いた時、どうしても其が信じられなかつた。いや、嘘だとしか思はれなかつた。実に人は見かけによらないものさね。ホラ、彼の住職も長いこと西京へ出張して居ましたよ。丁度帰つて来たのは、君が郷里の方へ行つて留守だつた時さ。それからといふものは、まあ娘に言はせると、奈何(どう)しても養父(おとつ)さんの態度(しむけ)とは思はれないと言ふ。かりそめにも仏の御弟子ではないか。袈裟(けさ)を着(つけ)て教を説く身分ではないか。自分の職業に対しても、もうすこし考へさうなものだと思ふんだ。あまり浅猿(あさま)しい、馬鹿馬鹿しいことで、他(ひと)に話も出来ないやね。奥様はまた奥様で、彼様(あゝ)いふ性質の女だから、人並勝れて嫉妬深(しつとぶか)いと来て居る。娘はもう悲いやら恐しいやらで、夜も碌々眠られないと言ふ。呆(あき)れたねえ、我輩も是(この)話を聞いた時は。だから、君、娘が家(うち)へ帰りたいと言ふのは、実際無理もない。我輩だつて、其様なところへ娘を遣(や)つて置きたくは無い。そりやあもう一日も早く引取りたい。そこがそれ情ないことには、今の家内がもうすこし解つて居て呉れると、奈何(どう)にでもして親子でやつて行かれないことも有るまいと思ふけれど、現に省吾一人にすら持余して居るところへ、またお志保の奴が飛込んで来て見給へ――到底(とても)今の家内と一緒に居られるもんぢや無い。第一、八人の親子が奈何して食へよう。其や是やを考へると、我輩の口から娘に帰れとは言はれないぢやないか。噫(あゝ)、辛抱、辛抱――出来ることを辛抱するのは辛抱でも何でも無い、出来ないところを辛抱するのが真実(ほんたう)の辛抱だ。行け、行け、心を毅然(しつかり)持て。奥様といふものも附いて居る。その人の傍に居て離れないやうにしたら、よもや無理なことを言懸けられもしまい。たとへ先方(さき)が親らしい行為をしない迄(まで)も、これまで育てゝ貰つた恩義も有る。一旦蓮華寺の娘と成つた以上は、奈何(どん)な辛いことがあらうと決して家(うち)へ帰るな。そこを勤め抜くのが孝行といふものだ。とまあ、賺(すか)したり励(はげま)したりして、無理やりに娘を追立てゝやつたよ。思へば可愛さうなものさ。あゝ、あゝ、斯ういふ時に先の家内が生きて居たならば――」
敬之進の顔には真実と苦痛とが表れて、眼は涙の為に濡(ぬ)れ輝いた。成程、左様言はれて見ると、丑松も思ひ当ることがないでもない。あの蓮華寺の内部(なか)の光景(ありさま)を考へると、何か斯う暗い雲が隅のところに蟠(わだかま)つて、絶えず其が家庭の累(わづらひ)を引起す原因(もと)で、住職と奥様とは無言の間に闘つて居るかのやう――譬(たと)へば一方で日があたつて、楽しい笑声の聞える時でも、必ず一方には暴風雨(あらし)が近(ちかづ)いて居る。斯ういふ感想(かんじ)は毎日のやうに有つた。唯其は何処の家庭(うち)にも克(よ)くある角突合(つのづきあひ)――まあ、住職と奥様とは互ひに仏弟子のことだから、言はゞ高尚な夫婦喧嘩、と丑松も想像して居たので、よもや其雲のわだかまりがお志保の上にあらうとは思ひ設けなかつたのである。奥様がわざ/\磊落(らいらく)らしく装(よそほ)つて、剽軽(へうきん)なことを言つて、男のやうな声を出して笑ふのも、其為だらう。紅涙(なんだ)が克(よ)くお志保の顔を流れるのも、其為だらう。どうもをかしい/\と思つて居たことは、この敬之進の話で悉皆(すつかり)読めたのである。
長いこと二人は悄然(しよんぼり)として、互ひに無言の儘(まゝ)で相対(さしむかひ)に成つて居た。 
 
第拾七章

 

(一)
勘定を済まして笹屋を出る時、始めて丑松は月給のうちを幾許(いくら)袂(たもと)に入れて持つて来たといふことに気が着いた。それは銀貨で五十銭ばかりと、外に五円|紙幣(さつ)一枚あつた。父の存命中は毎月|為替(かはせ)で送つて居たが、今は其を為(す)る必要も無いかはり、帰省の当時大分|費(つか)つた為に斯金(このかね)が大切のものに成つて居る、彼是(かれこれ)を考へると左様無暗には費はれない。しかし丑松の心は暗かつた。自分のことよりは敬之進の家族を憐むのが先で、兎(と)に角(かく)省吾の卒業する迄、月謝や何かは助けて遣(や)りたい――斯う考へるのも、畢竟(つまり)はお志保を思ふからであつた。
酔つて居る敬之進を家(うち)まで送り届けることにして、一緒に雪道を歩いて行つた。慄(ふる)へるやうな冷い風に吹かれて、寒威(さむさ)に抵抗(てむかひ)する力が全身に満ち溢(あふ)れると同時に、丑松はまた精神(こゝろ)の内部(なか)の方でもすこし勇気を回復した。並んで一緒に歩く敬之進は、と見ると――釣竿を忘れずに舁(かつ)いで来た程、其様(そんな)に酷(ひど)く酔つて居るとも思はれないが、しかし不規則な、覚束ない足許(あしもと)で、彼方(あつち)へよろ/\、是方(こつち)へよろ/\、どうかすると往来の雪の中へ倒れかゝりさうに成る。「あぶない、あぶない。」と丑松が言へば、敬之進は僅かに身を支へて、「ナニ、雪の中だ? 雪の中、結構――下手な畳の上よりも、結句|是方(このはう)が気楽だからね。」これには丑松も持余して了(しま)つて、若(も)し是雪(このゆき)の中で知らずに寝て居たら奈何(どう)するだらう、斯う思ひやつて身を震はせた。斯の老朽な教育者の末路、彼の不幸なお志保の身の上――まあ、丑松は敬之進親子のことばかり思ひつゞけ乍ら随(つ)いて行つた。
敬之進の住居(すまひ)といふは、どこから見ても古い粗造な農家風の草屋。もとは城側(しろわき)の広小路といふところに士族屋敷の一つを構へたとか、其はもうずつと旧(ふる)い話で、下高井の方から帰つて来た時に、今のところへ移住(うつりす)んだのである。入口の壁の上に貼付けたものは、克(よ)く北信の地方に見かける御札で、烏の群れて居る光景(さま)を表してある。土壁には大根の乾葉(ひば)、唐辛(たうがらし)なぞを懸け、粗末な葦簾(よしず)の雪がこひもしてあつた。丁度其日は年貢(ねんぐ)を納めると見え、入口の庭に莚(むしろ)を敷きつめ、堆高(うづだか)く盛上げた籾(もみ)は土間一ぱいに成つて居た。丑松は敬之進を助け乍ら、一緒に敷居を跨いで入つた。裏木戸のところに音作、それと見て駈寄つて、いつまでも昔忘れぬ従僕(しもべ)らしい挨拶。
「今日は御年貢(おねんぐ)を納めるやうにツて、奥様(おくさん)も仰(おつしや)りやして――はい、弟の奴も御手伝ひに連れて参じやした。」
斯ういふ言葉を夢中に聞捨てゝ、敬之進は其処へ倒れて了つた。奥の方では、怒気(いかり)を含んだ細君の声と一緒に、叱られて泣く子供の声も起る。「何したんだ、どういふもんだ――めた(幾度も)悪戯(わるさ)しちや困るぢやないかい。」といふ細君の声を聞いて、音作は暫時(しばらく)耳を澄まして居たが、軈(やが)て思ひついたやうに、
「まあ、それでも旦那さんの酔ひなすつたことは。」
と旧(むかし)の主人を憐んで、助け起すやうにして、暗い障子(しやうじ)の蔭へ押隠した。其時、口笛を吹き乍ら、入つて来たのは省吾である。
「省吾さん。」と音作は声を掛けた。「御願ひでごはすが、彼の地親(ぢやうや)さん(ぢおやの訛(なまり)、地主の意)になあ、早く来て下さいツて、左様言つて来て御呉(おくん)なんしよや。」
(二)
間も無く細君も奥の方から出て来て、其処に酔倒れて居る敬之進が復た/\丑松の厄介に成つたことを知つた。周囲(まはり)に集る子供等は、いづれも母親の思惑(おもはく)を憚(はゞか)つて、互に顔を見合せたり、慄(ふる)へたりして居た。流石(さすが)に丑松の手前もあり、音作兄弟も来て居るので、細君は唯夫を尻目に掛けて、深い溜息を吐くばかりであつた。毎度敬之進が世話に成ること、此頃(こなひだ)はまた省吾が結構なものを頂いたこと、其(それ)や是(これ)やの礼を述べ乍ら、せか/\と立つたり座(すわ)つたりして話す。丑松は斯(この)細君の気の短い、忍耐力(こらへじやう)の無い、愚痴なところも感じ易いところも総(すべ)て外部(そと)へ露出(あらは)れて居るやうな――まあ、四十女に克(よ)くある性質を看(み)て取つた。丁度そこへ来て、座りもせず、御辞儀もせず、恍(とぼ)け顔(がほ)に立つた小娘は、斯細君の二番目の児である。
「これ、お作や。御辞儀しねえかよ。其様(そんな)に他様(ひとさま)の前で立つてるもんぢや無えぞよ。奈何(どう)して吾家(うち)の児は斯(か)う行儀が不良(わる)いだらず――」
といふ細君の言葉なぞを聞入れるお作では無かつた。見るからして荒くれた、男の児のやうな小娘。これがお志保の異母(はらちがひ)の姉妹(きやうだい)とは、奈何しても受取れない。
「まあ、斯児(このこ)は兄姉中(きやうだいぢゆう)で一番仕様が無え――もうすこし母さんの言ふことを聞くやうだと好いけれど。」
と言はれても、お作は知らん顔。何時の間にかぷいと駈出して行つて了つた。
午後の光は急に射入つて、暗い南窓の小障子も明るく、幾年張替へずにあるかと思はれる程の紙の色は赤黒く煤(すゝ)けて見える。「あゝ日が照(あた)つて来た、」と音作は喜んで、「先刻(さつき)迄は雪模様でしたが、こりや好い塩梅(あんばい)だ。」斯う言ひ乍ら、弟と一緒に年貢の準備(したく)を始めた。薄く黄ばんだ冬の日は斯の屋根の下の貧苦と零落とを照したのである。一度農家を訪れたものは、今丑松が腰掛けて居る板敷の炉辺(ろばた)を想像することが出来るであらう。其処は家族が食事をする場処でもあれば、客を款待(もてな)す場処でもある。庭は又、勝手でもあり、物置でもあり、仕事場でもあるので、表から裏口へ通り抜けて、すくなくも斯の草屋の三分の一を土間で占めた。彼方(あちら)の棚には茶椀、皿小鉢、油燈(カンテラ)等を置き、是方(こちら)の壁には鎌を懸け、種物の袋を釣るし、片隅に漬物桶、炭俵。台所の道具は耕作の器械と一緒にして雑然(ごちや/\)置並べてあつた。高いところに鶏の塒(ねぐら)も作り付けてあつたが、其は空巣も同然で、鳥らしいものが飼はれて居るとは見えなかつたのである。
斯(こ)の草屋はお志保の生れた場処で無いまでも、蓮華寺へ貰はれて行く前、敬之進の言葉によれば十三の春まで、斯の土壁の内に育てられたといふことが、酷(ひど)く丑松の注意を引いた。部屋は三間ばかりも有るらしい。軒の浅い割合に天井の高いのと、外部(そと)に雪がこひのして有るのとで、何となく家(うち)の内が薄暗く見える。壁は粗末な茶色の紙で張つて、年々(とし/″\)の暦と錦絵とが唯一つの装飾といふことに成つて居た。定めしお志保も斯の古壁の前に立つて、幼い眼に映る絵の中の男女(をとこをんな)を自分の友達のやうに眺めたのであらう。思ひやると、其昔のことも俤(おもかげ)に描かれて、言ふに言はれぬ可懐(なつか)しさを添へるのであつた。
其時、草色の真綿帽子を冠り、糸織の綿入羽織を着た、五十|余(あまり)の男が入口のところに顕(あらは)れた。
「地親(ぢやうや)さんでやすよ。」
と省吾は呼ばゝり乍ら入つて来た。
(三)
地主といふは町会議員の一人。陰気な、無愛相(ぶあいそ)な、極(ご)く/\口の重い人で、一寸丑松に会釈(ゑしやく)した後、黙つて炉の火に身を温めた。斯(か)ういふ性質(たち)の男は克く北部の信州人の中にあつて、理由(わけ)も無しに怒つたやうな顔付をして居るが、其実怒つて居るのでも何でも無い。丑松は其を承知して居るから、格別気にも留めないで、年貢の準備(したく)に多忙(いそが)しい人々の光景(ありさま)を眺め入つて居た。いつぞや郊外で細君や音作夫婦が秋の収穫(とりいれ)に従事したことは、まだ丑松の眼にあり/\残つて居る。斯(こ)の庭に盛上げた籾の小山は、実に一年(ひとゝせ)の労働の報酬(むくい)なので、今その大部分を割いて高い地代を払はうとするのであつた。
十六七ばかりの娘が入つて来て、筵の上に一升|桝(ます)を投げて置いて、軈(やが)てまた駈出して行つた。細君は庭の片隅に立つて、腰のところへ左の手をあてがひ乍ら、さも/\つまらないと言つたやうな風に眺めた。泣いて屋外(そと)から入つて来たのは、斯の細君の三番目の児、お末と言つて、五歳(いつゝ)に成る。何か音作に言ひなだめられて、お末は尚々(なほ/\)身を慄(ふる)はせて泣いた。頭から肩、肩から胴まで、泣きじやくりする度に震へ動いて、言ふことも能くは聞取れない。
「今に母さんが好い物を呉れるから泣くなよ。」
と細君は声を掛けた。お末は啜(すゝ)り上げ乍ら、母親の側へ寄つて、
「手が冷(つめた)い――」
「手が冷い? そんなら早く行つて炬燵(おこた)へあたれ。」
斯(か)う言つて、凍つた手を握〆(にぎりしめ)ながら、細君はお末を奥の方へ連れて行つた。
其時は地主も炉辺(ろばた)を離れた。真綿帽子を襟巻がはりにして、袖口と袖口とを鳥の羽翅(はがひ)のやうに掻合せ、半ば顔を埋(うづ)め、我と我身を抱き温め乍ら、庭に立つて音作兄弟の仕度するのを待つて居た。
「奈何(どう)でござんすなあ、籾(もみ)のこしらへ具合は。」
と音作は地主の顔を眺める。地主の声は低くて、其返事が聞取れない位。軈(やが)て、白い手を出して籾を抄(すく)つて見た。一粒口の中へ入れて、掌上(てのひら)のをも眺(なが)め乍(なが)ら、
「空穀(しひな)が有るねえ。」
と冷酷(ひやゝか)な調子で言ふ。音作は寂しさうに笑つて、
「空穀でも無いでやす――雀には食はれやしたが、しかし坊主(稲の名)が九分で、目は有りやすよ。まあ、一俵|造(こしら)へて掛けて見やせう。」
六つばかりの新しい俵が其処へ持出された。音作は箕(み)の中へ籾を抄入(すくひい)れて、其を大きな円形の一斗桝へうつす。地主は「とぼ」(丸棒)を取つて桝の上を平に撫(な)で量(はか)つた。俵の中へは音作の弟が詰めた。尤(もつと)も弟は黙つて詰めて居たので、兄の方は焦躁(もどか)しがつて、「貴様これへ入れろ――声掛けなくちや御年貢のやうで無くて不可(いけない)。」と自分の手に持つ箕(み)を弟の方へ投げて遣つた。
「さあ、沢山(どつしり)入れろ――一わたりよ、二わたりよ。」
と呼ぶ音作の声が起つた。一俵につき大桝で六斗づゝ、外に小桝で――娘が来て投げて置いて行つたので、三升づゝ、都合六斗三升の籾の俵が其処へ並んだ。
「六俵で内取に願ひやせう。」
と音作は俵蓋(さんだはら)を掩(おほ)ひ冠せ乍ら言つた。地主は答へなかつた。目を細くして無言で考へて居るは、胸の中に十露盤(そろばん)を置いて見るらしい。何時(いつ)の間にか音作の弟が大きな秤(はかり)を持つて来た。一俵掛けて、兄弟してうんと力を入れた時は、二人とも顔が真紅(まつか)に成る。地主は衡(はかりざを)の平均(たひら)になつたのを見澄まして、錘(おもり)の糸を動かないやうに持添へ乍ら調べた。
「いくら有やす。」と音作は覗(のぞ)き込んで、「むゝ、出放題(ではうでえ)あるは――」
「十八貫八百――是は魂消(たまげ)た。」と弟も調子を合せる。
「十八貫八百あれば、まあ、好い籾です。」と音作は腰を延ばして言つた。
「しかし、俵(へう)にもある。」と地主はどこまでも不満足らしい顔付。
「左様(さう)です。俵にも有やすが、其は知れたもんです。」
といふ兄の言葉に附いて、弟はまた独語(ひとりごと)のやうに、
「俺(おら)がとこは十八貫あれば好いだ。」
「なにしろ、坊主九分交りといふ籾ですからなあ。」
斯う言つて、音作は愚しい目付をしながら、傲然(がうぜん)とした地主の顔色を窺(うかゞ)ひ澄ましたのである。
(四)
斯(こ)の光景(ありさま)を眺めて居た丑松は、可憐(あはれ)な小作人の境涯(きやうがい)を思ひやつて――仮令(たとひ)音作が正直な百姓|気質(かたぎ)から、いつまでも昔の恩義を忘れないで、斯うして零落した主人の為に尽すとしても――なか/\細君の痩腕で斯の家族が養ひきれるものでは無いといふことを感じた。お志保が苦しいから帰りたいと言つたところで、「第一、八人の親子が奈何(どう)して食へよう」と敬之進も酒の上で泣いた。噫(あゝ)、実に左様(さう)だ。奈何して斯様(こん)なところへ帰つて来られよう。丑松は想像して慄(ふる)へたのである。
「まあ、御茶一つお上り。」と音作に言はれて、地主は寒さうに炉辺へ急いだ。音作も腰に着けた煙草入を取出して、立つて一服やり乍ら、
「六俵の二斗五升取ですか。」
「二斗五升ツてことが有るもんか。」と地主は嘲(あざけ)つたやうに、「四斗五升よ。」
「四斗……」
「四斗五升ぢや無いや、四斗七升だ――左様だ。」
「四斗七升?」
斯ういふ二人の問答を、細君は黙つて聞いて居たが、もう/\堪(こら)へきれないと言つたやうな風に、横合から話を引取つて、
「音さん。四斗七升の何のと言はないで、何卒(どうか)悉皆(すつかり)地親(ぢやうや)さんの方へ上げて了つて御呉(おくん)なんしよや――私(わし)はもう些少(すこし)も要(い)りやせん。」
「其様(そん)な、奥様(おくさん)のやうな。」と音作は呆(あき)れて細君の顔を眺める。
「あゝ。」と細君は嘆息した。「何程(いくら)私ばかり焦心(あせ)つて見たところで、肝心(かんじん)の家(うち)の夫(ひと)が何(なんに)も為ずに飲んだでは、やりきれる筈がごはせん。其を思ふと、私はもう働く気も何も無くなつて了(しま)ふ。加之(おまけ)に、子供は多勢で、与太(よた)(頑愚)なものばかり揃つて居て――」
「まあ、左様(さう)仰(おつしや)らないで、私(わし)に任せなされ――悪いやうには為(し)ねえからせえて。」と音作は真心籠めて言慰(いひなぐさ)めた。
細君は襦袢(じゆばん)の袖口で※[目+匡](まぶち)を押拭ひ乍ら、勝手元の方へ行つて食物(くひもの)の準備(したく)を始める。音作の弟は酒を買つて帰つて来る。大丼が出たり、小皿が出たりするところを見ると、何が無くとも有合(ありあはせ)のもので一杯出して、地主に飲んで貰ふといふ積りらしい。思へば小作人の心根(こゝろね)も可傷(あはれ)なものである。万事は音作のはからひ、酒の肴(さかな)には蒟蒻(こんにやく)と油揚(あぶらげ)の煮付、それに漬物を添へて出す位なもの。軈(やが)て音作は盃(さかづき)を薦(すゝ)めて、
「冷(れい)ですよ、燗(かん)ではごはせんよ――地親(ぢやうや)さんは是方(こつち)でいらつしやるから。」
と言はれて、始めて地主は微笑(ほゝゑみ)を泄(もら)したのである。
其時まで、丑松は細君に話したいと思ふことがあつて、其を言ふ機会も無く躊躇(ちうちよ)して居たのであるが、斯うして酒が始つて見ると、何時(いつ)是地主が帰つて行くか解らない。御相伴(おしやうばん)に一つ、と差される盃を辞退して、ついと炉辺を離れた。表の入口のところへ省吾を呼んで、物の蔭に佇立(たゝず)み乍ら、袂から取出したのは例の紙の袋に入れた金である。丑松は斯う言つた。後刻(あと)で斯の金を敬之進に渡して呉れ。それから家の事情で退校させるといふ敬之進の話もあつたが、月謝や何かは斯中(このなか)から出して、是非今迄通りに学校へ通はせて貰ふやうに。「いゝかい、君、解つたかい。」と添加(つけた)して、それを省吾の手に握らせるのであつた。
「まあ、君は何といふ冷い手をしてゐるだらう。」
斯う言ひ乍ら、丑松は少年の手を堅く握り締めた。熟(じつ)と其の邪気(あどけ)ない顔付を眺めた時は、あのお志保の涙に霑(ぬ)れた清(すゞ)しい眸(ひとみ)を思出さずに居られなかつたのである。
(五)
敬之進の家を出て帰つて行く道すがら、すくなくも丑松はお志保の為に尽したことを考へて、自分で自分を慰めた。蓮華寺の山門に近(ちかづ)いた頃は、灰色の雲が低く垂下つて来て、復(ま)た雪になるらしい空模様であつた。蒼然(さうぜん)とした暮色は、たゞさへ暗い丑松の心に、一層の寂しさ味気なさを添へる。僅かに天の一方にあたつて、遠く深く紅(くれなゐ)を流したやうなは、沈んで行く夕日の反射したのであらう。
宵の勤行(おつとめ)の鉦(かね)の音は一種異様な響を丑松の耳に伝へるやうに成つた。それは最早(もう)世離れた精舎(しやうじや)の声のやうにも聞えなかつた。今は梵音(ぼんおん)の難有味(ありがたさ)も消えて、唯同じ人間世界の情慾の声、といふ感想(かんじ)しか耳の底に残らない。丑松は彼の敬之進の物語を思ひ浮べた。住職を卑しむ心は、卑しむといふよりは怖れる心が、胸を衝(つ)いて湧上つて来る。しかしお志保は其程|香(か)のある花だ、其程人を※[女+無](ひきつ)ける女らしいところが有るのだ、と斯う一方から考へて見て、いよ/\其人を憐むといふ心地(こゝろもち)に成つたのである。
蓮華寺の内部(なか)の光景(ありさま)――今は丑松も明に其真相を読むことが出来た。成程(なるほど)、左様言はれて見ると、それとない物の端(はし)にも可傷(いたま)しい事実は顕れて居る。左様(さう)言はれて見ると、始めて丑松が斯の寺へ引越して来た時のやうな家庭の温味(あたゝかさ)は何時の間にか無くなつて了つた。
二階へ通ふ廊下のところで、丑松はお志保に逢(あ)つた。蒼(あを)ざめて死んだやうな女の顔付と、悲哀(かなしみ)の溢(あふ)れた黒眸(くろひとみ)とは――たとひ黄昏時(たそがれどき)の仄(ほの)かな光のなかにも――直に丑松の眼に映る。お志保も亦(ま)た不思議さうに丑松の顔を眺めて、丁度|喪心(さうしん)した人のやうな男の様子を注意して見るらしい。二人は眼と眼を見交したばかりで、黙つて会釈(ゑしやく)して別れたのである。
自分の部屋へ入つて見ると、最早そこいらは薄暗かつた。しかし丑松は洋燈(ランプ)を点けようとも為なかつた。長いこと茫然として、独りで暗い部屋の内に座(すわ)つて居た。
(六)
「瀬川さん、御勉強ですか。」
と声を掛けて、奥様が入つて来たのは、それから二時間ばかり経(た)つてのこと。丑松の机の上には、日々(にち/\)の思想(かんがへ)を記入(かきい)れる仮綴の教案簿なぞが置いてある。黄ばんだ洋燈(ランプ)の光は夜の空気を寂(さみ)しさうに照して、思ひ沈んで居る丑松の影を古い壁の方へ投げた。煙草(たばこ)のけむりも薄く籠(こも)つて、斯(こ)の部屋の内を朦朧(もうろう)と見せたのである。
「何卒(どうぞ)私に手紙を一本書いて下さいませんか――済(す)みませんが。」
と奥様は、用意して来た巻紙状袋を取出し乍ら、丑松の返事を待つて居る。其様子が何となく普通(たゞ)では無い、と丑松も看(み)て取つて、
「手紙を?」と問ひ返して見た。
「長野の寺院(てら)に居る妹のところへ遣(や)りたいのですがね、」と奥様は少許(すこし)言淀(いひよど)んで、「実は自分で書かうと思ひまして、書きかけては見たんです。奈何(どう)も私共の手紙は、唯長くばかり成つて、肝心(かんじん)の思ふことが書けないものですから。寧(いつ)そこりや貴方(あなた)に御願ひ申して、手短く書いて頂きたいと思ひまして――どうして女の手紙といふものは斯う用が達(もと)らないのでせう。まあ、私は何枚書き損つたか知れないんですよ――いえ、なに、其様(そんな)に煩(むづか)しい手紙でも有ません。唯解るやうに書いて頂きさへすれば好いのですから。」
「書きませう。」と丑松は簡短に引受けた。
斯答(このこたへ)に力を得て、奥様は手紙の意味を丑松に話した。一身上のことに就いて相談したい――是(この)手紙|着次第(ちやくしだい)、是非々々々々出掛けて来るやうに、と書いて呉れと頼んだ。蟹沢から飯山迄は便船も発(た)つ、もし舟が嫌なら、途中迄車に乗つて、それから雪橇に乗替へて来るやうに、と書いて呉れと頼んだ。今度といふ今度こそは絶念(あきら)めた、自分はもう離縁する考へで居る、と書いて呉れと頼んだ。
「他の人とは違つて、貴方ですから、私も斯様(こん)なことを御願ひするんです。」と言ふ奥様の眼は涙ぐんで来たのである。「訳を御話しませんから、不思議だと思つて下さるかも知れませんが――」
「いや。」と丑松は対手(あひて)の言葉を遮(さへぎ)つた。「私も薄々聞きました――実は、あの風間さんから。」
「ホウ、左様(さう)ですか。敬之進さんから御聞きでしたか。」と言つて、奥様は考深い目付をした。
「尤(もつと)も、左様|委敷(くはし)い事は私も知らないんですけれど。」
「あんまり馬鹿々々しいことで、貴方なぞに御話するのも面目ない。」と奥様は深い溜息を吐(つ)き乍ら言つた。「噫(あゝ)、吾寺(うち)の和尚さんも彼年齢(あのとし)に成つて、未(ま)だ今度のやうなことが有るといふは、全く病気なんですよ。病気ででも無くて、奈何して其様な心地(こゝろもち)に成るもんですか。まあ、瀬川さん、左様ぢや有ませんか。和尚さんもね、彼病気さへ無ければ、実に気分の優しい、好い人物(ひと)なんです――申分の無い人物なんです――いえ、私は今だつても和尚さんを信じて居るんですよ。」
(七)
「奈何(どう)して私は斯(か)う物に感じ易いんでせう。」と奥様は啜(すゝ)り上げた。「今度のやうなことが有ると、もう私は何(なんに)も手に着きません。一体、和尚さんの病気といふのは、今更始つたことでも無いんです。先住は早く亡(な)くなりまして、和尚さんが其後へ直つたのは、未(ま)だ漸(やうや)く十七の年だつたといふことでした。丁度私が斯寺(このてら)へ嫁(かたづ)いて来た翌々年(よく/\とし)、和尚さんは西京へ修業に行くことに成ましてね――まあ、若い時には能(よ)く物が出来ると言はれて、諸国から本山へ集る若手の中でも五本の指に数へられたさうですよ――それで私は、其頃未だ生きて居た先住の匹偶(つれあひ)と、今寺内に居る坊さんの父親(おとつ)さんと、斯う三人でお寺を預つて、五年ばかり留守居をしたことが有ました。考へて見ると、和尚さんの病気はもう其頃から起つて居たんですね。相手の女といふは、西京の魚(うを)の棚(たな)、油(あぶら)の小路(こうぢ)といふところにある宿屋の総領娘、といふことが知れたもんですから、さあ、寺内の先(せん)の坊さんも心配して、早速西京へ出掛けて行きました。其時、私は先住の匹偶(つれあひ)にも心配させないやうに、檀家(だんか)の人達の耳へも入れないやうにツて、奈何(どんな)に独りで気を揉(も)みましたか知れません。漸(やつと)のこと、お金を遣つて、女の方の手を切らせました。そこで和尚さんも真実(ほんたう)に懲(こ)りなければ成らないところです。ところが持つて生れた病は仕方の無いもので、それから三年|経(た)つて、今度は東京にある真宗の学校へ勤めることに成ると、復(ま)た病気が起りました。」
手紙を書いて貰ひに来た奥様は、用をそつちのけにして、種々(いろ/\)並べたり訴へたりし始めた。淡泊(さつぱり)したやうでもそこは女の持前で、聞いて貰はずには居られなかつたのである。
「尤も、」と奥様は言葉を続けた。「其時は、和尚さんを独りで遣(や)つては不可(いけない)といふので――まあ学校の方から月給は取れるし、留守中のことは寺内の坊さんが引受けて居て呉れるし、それに先住の匹偶(つれあひ)も東京を見たいと言ふもんですから、私も一緒に随いて行つて、三人して高輪(たかなわ)のお寺を仕切つて借りました。其処から学校へは何程(いくら)も無いんです。克(よ)く和尚さんは二本榎(にほんえのき)の道路(みち)を通ひました。丁度その二本榎に、若い未亡人(ごけさん)の家(うち)があつて、斯人(このひと)は真宗に熱心な、教育のある女でしたから、和尚さんも法話(はなし)を頼まれて行き/\しましたよ。忘れもしません、其女といふは背のすらりとした、白い優しい手をした人で、御墓参りに行くところを私も見掛けたことが有ます。ある時、其|未亡人(ごけさん)の噂(うはさ)が出ると、和尚さんは鼻の先で笑つて、「むゝ、彼女(あのをんな)か――彼様(あん)なひねくれた女は仕方が無い」と酷(ひど)く譏(けな)すぢや有ませんか。奈何(どう)でせう、瀬川さん、其時は最早和尚さんが関係して居たんです。何時の間にか女は和尚さんの種を宿しました。さあ、和尚さんも蒼(あを)く成つて了つて、「実は済(す)まないことをした」と私の前に手を突いて、謝罪(あやま)つたのです。根が正直な、好い性質の人ですから、悪かつたと思ふと直に後悔する。まあ、傍(はた)で見て居ても気の毒な位。「頼む」と言はれて見ると、私も放擲(うつちや)つては置かれませんから、手紙で寺内の坊さんを呼寄せました。其時、私の思ふには、「あゝ是(これ)は私に子が無いからだ。若し子供でも有つたら一層(もつと)和尚さんも真面目な気分に御成(おなん)なさるだらう。寧(いつ)そ其女の児を引取つて自分の子にして育てようかしら。」と斯う考へたり、ある時は又、「みす/\私が傍に附いて居乍ら、其様(そん)な女に子供迄出来たと言はれては、第一私が世間へ恥かしい。いかに言つても情ないことだ。今度こそは別れよう。」と考へたりしたんです。そこがそれ、女といふものは気の弱いもので、優しい言葉の一つも掛けられると、今迄の事は最早(もう)悉皆(すつかり)忘れて了ふ。「あゝ、御気の毒だ――私が居なかつたら、奈何(どんな)に不自由を成さるだらう。」とまあ私も思ひ直したのですよ。間も無く女は和尚さんの子を産落しました。月不足(つきたらず)で、加之(おまけ)に乳が無かつたものですから、満二月(まるふたつき)とは其児も生きて居なかつたさうです。和尚さんが学校を退(ひ)くことに成つて、飯山へ帰る迄の私の心配は何程(どれほど)だつたでせう――丁度、今から十年前のことでした。それからといふものは、和尚さんも本気に成ましたよ。月に三度の説教は欠かさず、檀家の命日には必ず御経を上げに行く、近在廻りは泊り掛で出掛ける――さあ、檀家の人達も悉皆(すつかり)信用して、四年目の秋には本堂の屋根の修繕も立派に出来上りました。彼様(あゝ)いふ調子で、ずつと今迄進んで来たら、奈何(どんな)にか好からうと思ふんですけれど、少許(すこし)羽振が良くなると直(すぐ)に物に飽きるから困る。倦怠(あき)が来ると、復(ま)た病気が起る。そりやあもう和尚さんの癖なんですからね。あゝ、男といふものは恐しいもので、彼程(あれほど)平常(ふだん)物の解つた和尚さんで有ながら、病気となると何の判別(みさかへ)も着かなくなる。まあ瀬川さん、考へて見て下さい。和尚さんも最早(もう)五十一ですよ。五十一にも成つて、未(ま)だ其様(そん)な気で居るかと思ふと、実に情ないぢや有ませんか。成程(なるほど)――今日(こんにち)飯山あたりの御寺様(おてらさん)で、女狂ひを為(し)ないやうなものは有やしません。ですけれど、茶屋女を相手に為(す)るとか、妾狂ひを為るとか言へば、またそこにも有る。あのお志保に想(おもひ)を懸けるなんて――私は呆(あき)れて物も言へない。奈何(どう)考へて見ても、其様な量見を起す和尚さんでは無い筈(はず)です。必定(きつと)、奈何かしたんです。まあ、気でも狂(ちが)つて居るに相違ないんです。お志保は又、何もかも私に打開けて話しましてね、「母親(おつか)さん、心配しないで居て下さいよ、奈何(どん)な事が有つても私が承知しませんから」と言ふもんですから――いえ、彼娘(あのこ)はあれでなか/\毅然(しやん)とした気象の女ですからね――其を私も頼みに思ひまして、「お志保、確乎(しつかり)して居てお呉れよ、阿爺(おとつ)さんだつても物の解らない人では無し、お前と私の心地(こゝろもち)が屈いたら、必定(きつと)思ひ直して下さるだらう、阿爺さんが正気に復(かへ)るも復らないも二人の誠意(まごゝろ)一つにあるのだからね」斯(か)う言つて、二人でさん/″\哭(な)きました。なんの、私が和尚さんを悪く思ふもんですか。何卒(どうか)して和尚さんの眼が覚めるやうに――そればつかりで、私は斯様(こん)な離縁なぞを思ひ立つたんですもの。」
(八)
誠意(まごゝろ)籠る奥様の述懐を聞取つて、丑松は望みの通りに手紙の文句を認(したゝ)めてやつた。幾度か奥様は口の中で仏の名を唱(とな)へ乍(なが)ら、これから将来(さき)のことを思ひ煩(わづら)ふといふ様子に見えるのであつた。
「おやすみ。」
といふ言葉を残して置いて奥様が出て行つた後、丑松は机の側に倒れて考へて居たが、何時の間にかぐつすり寝込んで了つた。寝ても、寝ても、寝足りないといふ風で、斯うして横になれば直に死んだ人のやうに成るのが此頃の丑松の癖である。のみならず、深いところへ陥落(おちい)るやうな睡眠(ねむり)で、目が覚めた後は毎時(いつも)頭が重かつた。其晩も矢張同じやうに、同じやうな仮寝(うたゝね)から覚めて、暫時(しばらく)茫然(ぼんやり)として居たが、軈(やが)て我に帰つた頃は、もう遅かつた。雪は屋外(そと)に降り積ると見え、時々窓の戸にあたつて、はた/\と物の崩れ落ちる音より外には、寂(しん)として声一つしない、それは沈静(ひつそり)とした、気の遠くなるやうな夜――無論人の起きて居る時刻では無かつた。階下(した)では皆な寝たらしい。不図(ふと)、何か斯う忍(しの)び音(ね)に泣くやうな若い人の声が細々と耳に入る。どうも何処から聞えるのか、其は能(よ)く解らなかつたが、まあ楼梯(はしごだん)の下あたり、暗い廊下の辺ででもあるか、誰かしら声を呑(の)む様子。尚(なほ)能く聞くと、北の廊下の雨戸でも明けて、屋外(そと)を眺(なが)めて居るものらしい。あゝ――お志保だ――お志保の嗚咽(すゝりなき)だ――斯う思ひ附くと同時に、言ふに言はれぬ恐怖(おそれ)と哀憐(あはれみ)とが身を襲(おそ)ふやうに感ぜられる。尤も、丑松は半分夢中で聞いて居たので、つと立上つて部屋の内を歩き初めた時は、もう其声が聞えなかつた。不思議に思ひ乍ら、浮足になつて耳を澄ましたり、壁に耳を寄せて聞いたりした。終(しまひ)には、自分で自分を疑つて、あるひは聞いたと思つたのが夢ででもあつたか、と其音の実(ほんと)か虚(うそ)かすらも判断が着かなくなる。暫時(しばらく)丑松は腕組をして、油の尽きて来た洋燈(ランプ)の火を熟視(みまも)り乍ら、茫然とそこに立つて居た。夜は更ける、心(しん)は疲れる、軈て押入から寝道具を取出した時は、自分で自分の為ることを知らなかつた位。急に烈しく睡気(ねむけ)が襲(さ)して来たので、丑松は半分眠り乍ら寝衣(ねまき)を着更へて、直に復(ま)た感覚(おぼえ)の無いところへ落ちて行つた。 
 
第拾八章

 

(一)
毎年(まいとし)降る大雪が到頭(たうとう)やつて来た。町々の人家も往来もすべて白く埋没(うづも)れて了つた。昨夜一晩のうちに四尺|余(あまり)も降積るといふ勢で、急に飯山は北国の冬らしい光景(ありさま)と変つたのである。
斯うなると、最早(もう)雪の捨てどころが無いので、往来の真中へ高く積上げて、雪の山を作る。両側は見事に削り落したり、叩き付けたりして、すこし離れて眺めると、丁度長い白壁のやう。上へ/\と積上げては踏み付け、踏み付けては又た積上げるやうに為るので、軒丈(のきだけ)ばかりの高さに成つて、対(むか)ひあふ家と家とは屋根と廂(ひさし)としか見えなくなる。雪の中から掘出された町――譬(たと)へば飯山の光景(ありさま)は其であつた。
高柳利三郎と町会議員の一人が本町の往来で出逢(であ)つた時は、盛んに斯雪を片付ける最中で、雪掻(ゆきかき)を手にした男女(をとこをんな)が其処此処(そここゝ)に群(むらが)り集つて居た。「どうも大降りがいたしました。」といふ極りの挨拶を交換(とりかは)した後、軈(やが)て別れて行かうとする高柳を呼留めて、町会議員は斯う言出した。
「時に、御聞きでしたか、彼(あ)の瀬川といふ教員のことを。」
「いゝえ。」と高柳は力を入れて言つた。「私は何(なんに)も聞きません。」
「彼の教員は君、調里(てうり)(穢多の異名)だつて言ふぢや有ませんか。」
「調里?」と高柳は驚いたやうに。
「呆(あき)れたねえ、是(これ)には。」と町会議員も顔を皺(しか)めて、「尤(もつと)も、種々(いろ/\)な人の口から伝(つたは)り伝つた話で、誰が言出したんだか能(よ)く解らない。しかし保証するとまで言ふ人が有るから確実(たしか)だ。」
「誰ですか、其保証人といふのは――」
「まあ、其は言はずに置かう。名前を出して呉れては困ると先方(さき)の人も言ふんだから。」
斯う言つて、町会議員は今更のやうに他(ひと)の秘密を泄(もら)したといふ顔付。「君だから、話す――秘密にして置いて呉れなければ困る。」と呉々も念を押した。高柳はまた口唇を引歪めて、意味ありげな冷笑(あざわらひ)を浮べるのであつた。
急いで別れて行く高柳を見送つて、反対(あべこべ)な方角へ一町ばかりも歩いて行つた頃、斯(こ)の噂好(うはさず)きな町会議員は一人の青年に遭遇(であ)つた。秘密に、と思へば思ふ程、猶々(なほ/\)其を私語(さゝや)かずには居られなかつたのである。
「彼の瀬川といふ教員は、君、是(これ)だつて言ひますぜ。」
と指を四本出して見せる。尤も其意味が対手には通じなかつた。
「是だつて言つたら、君も解りさうなものぢや無いか。」と町会議員は手を振り乍ら笑つた。
「どうも解りませんね。」と青年は訝(いぶか)しさうな顔付。
「了解(さとり)の悪い人だ――それ、調里のことを四足(しそく)と言ふぢやないか。はゝゝゝゝ。しかし是は秘密だ。誰にも君、斯様なことは話さずに置いて呉れ給へ。」
念を押して置いて、町会議員は別れて行つた。
丁度、そこへ通りかゝつたのは、学校へ出勤しようとする準教員であつた。それと見た青年は駈寄つて、大雪の挨拶。何時の間にか二人は丑松の噂を始めたのである。
「是(これ)はまあ極(ご)く/\秘密なんだが――君だから話すが――」と青年は声を低くして、「君の学校に居る瀬川先生は調里ださうだねえ。」
「其さ――僕もある処で其話を聞いたがね、未だ半信半疑で居る。」と準教員は対手の顔を眺め乍ら言つた。「して見ると、いよ/\事実かなあ。」
「僕は今、ある人に逢つた。其人が指を四本出して見せて、彼の教員は是だと言ふぢやないか。はてな、とは思つたが、其意味が能く解らない。聞いて見ると、四足といふ意味なんださうだ。」
「四足? 穢多のことを四足と言ふかねえ。」
「言はあね。四足と言つて解らなければ、「よつあし」と言つたら解るだらう。」
「むゝ――「よつあし」か。」
「しかし、驚いたねえ。狡猾(かうくわつ)な人間もあればあるものだ。能(よ)く今日(いま)まで隠蔽(かく)して居たものさ。其様(そん)な穢(けがらは)しいものを君等の学校で教員にして置くなんて――第一怪しからんぢやないか。」
「叱(しツ)。」
と周章(あわ)てゝ制するやうにして、急に準教員は振返つて見た。其時、丑松は矢張学校へ出勤するところと見え、深く外套(ぐわいたう)に身を包んで、向ふの雪の中を夢見る人のやうに通る。何か斯う物を考へ/\歩いて行くといふことは、其の沈み勝ちな様子を見ても知れた。暫時(しばらく)丑松も佇立(たちどま)つて、熟(じつ)と是方(こちら)の二人を眺めて、軈て足早に学校を指して急いで行つた。
(二)
雪に妨げられて、学校へ集る生徒は些少(すくな)かつた。何時(いつ)まで経(た)つても授業を始めることが出来ないので、職員のあるものは新聞縦覧所へ、あるものは小使部屋へ、あるものは又た唱歌の教室に在る風琴の周囲(まはり)へ――いづれも天の与へた休暇(やすみ)として斯の雪の日を祝ふかのやうに、思ひ/\の圜(わ)に集つて話した。
職員室の片隅にも、四五人の教員が大火鉢を囲繞(とりま)いた。例の準教員が其中へ割込んで入つた時は、誰が言出すともなく丑松の噂を始めたのであつた。時々盛んな笑声が起るので、何事かと来て見るものが有る。終(しまひ)には銀之助も、文平も来て、斯の談話(はなし)の仲間に入つた。
「奈何(どう)です、土屋君。」と準教員は銀之助の方を見て、「吾儕(われ/\)は今、瀬川君のことに就いて二派に別れたところです。君は瀬川君と同窓の友だ。さあ、君の意見を一つ聞かせて呉れ給へ。」
「二派とは?」と銀之助は熱心に。
「外でも無いんですがね、瀬川君は――まあ、近頃世間で噂のあるやうな素性の人に相違ないといふ説と、いや其様な馬鹿なことが有るものかといふ説と、斯う二つに議論が別れたところさ。」
「一寸待つて呉れ給へ。」と薄鬚(うすひげ)のある尋常四年の教師が冷静な調子で言つた。「二派と言ふのは、君、少許(すこし)穏当で無いだらう。未(ま)だ、左様(さう)だとも、左様では無いとも、断言しない連中が有るのだから。」
「僕は確に其様なことは無いと断言して置く。」と体操の教師が力を入れた。
「まあ、土屋君、斯ういふ訳です。」と準教員は火鉢の周囲(まはり)に集る人々の顔を眺(なが)め廻して、「何故(なぜ)其様(そん)な説が出たかといふに、そこには種々(いろ/\)議論も有つたがね、要するに瀬川君の態度が頗(すこぶ)る怪しい、といふのがそも/\始りさ。吾儕(われ/\)の中に新平民が居るなんて言触らされて見給へ。誰だつて憤慨するのは至当(あたりまへ)ぢやないか。君始め左様だらう。一体、世間で其様なことを言触らすといふのが既にもう吾儕職員を侮辱してるんだ。だからさ、若し瀬川君に疚(やま)しいところが無いものなら、吾儕と一緒に成つて怒りさうなものぢやないか。まあ、何とか言ふべきだ。それも言はないで、彼様(あゝ)して黙つて居るところを見ると、奈何(どう)しても隠して居るとしか思はれない。斯う言出したものが有る。すると、また一人が言ふには――」と言ひかけて、軈(やが)て思付いたやうに、「しかし、まあ、止さう。」
「何だ、言ひかけて止すやつが有るもんか。」と背の高い尋常一年の教師が横鎗(よこやり)を入れる。
「やるべし、やるべし。」と冷笑の語気を帯びて言つたのは、文平であつた。文平は準教員の背後(うしろ)に立つて、巻煙草を燻(ふか)し乍ら聞いて居たのである。
「しかし、戯語(じようだん)ぢや無いよ。」と言ふ銀之助の眼は輝いて来た。「僕なぞは師範校時代から交際(つきあ)つて、能く人物を知つて居る。彼(あ)の瀬川君が新平民だなんて、其様(そん)なことが有つて堪るものか。一体誰が言出したんだか知らないが、若(も)し世間に其様な風評が立つやうなら、飽迄(あくまで)も僕は弁護して遣らなけりやならん。だつて、君、考へて見給へ。こりや真面目(まじめ)な問題だよ――茶を飲むやうな尋常(あたりまへ)な事とは些少(すこし)訳が違ふよ。」
「無論さ。」と準教員は答へた。「だから吾儕(われ/\)も頭を痛めて居るのさ。まあ、聞き給へ。ある人は又た斯ういふことを言出した。瀬川君に穢多の話を持掛けると、必ず話頭(はなし)を他(わき)へ転(そら)して了ふ。いや、転して了ふばかりぢや無い、直に顔色を変へるから不思議だ――其顔色と言つたら、迷惑なやうな、周章(あわ)てたやうな、まあ何ともかとも言ひやうが無い。それそこが可笑(をか)しいぢやないか。吾儕と一緒に成つて、「むゝ、調里坊(てうりツぱう)かあ」とかなんとか言ふやうだと、誰も何とも思やしないんだけれど。」
「そんなら、君、あの瀬川丑松といふ男に何処(どこ)か穢多らしい特色が有るかい。先づ、其からして聞かう。」と銀之助は肩を動(ゆす)つた。
「なにしろ近頃非常に沈んで居られるのは事実だ。」と尋常四年の教師は、腮(あご)の薄鬚(うすひげ)を掻上げ乍ら言ふ。
「沈んで居る?」と銀之助は聞咎(きゝとが)めて、「沈んで居るのは彼男(あのをとこ)の性質さ。それだから新平民だとは無論言はれない。新平民でなくたつて、沈欝(ちんうつ)な男はいくらも世間にあるからね。」
「穢多には一種特別な臭気(にほひ)が有ると言ふぢやないか――嗅いで見たら解るだらう。」と尋常一年の教師は混返(まぜかへ)すやうにして笑つた。
「馬鹿なことを言給へ。」と銀之助も笑つて、「僕だつていくらも新平民を見た。あの皮膚の色からして、普通の人間とは違つて居らあね。そりやあ、もう、新平民か新平民で無いかは容貌(かほつき)で解る。それに君、社会(よのなか)から度外(のけもの)にされて居るもんだから、性質が非常に僻(ひが)んで居るサ。まあ、新平民の中から男らしい毅然(しつかり)した青年なぞの産れやうが無い。どうして彼様(あん)な手合が学問といふ方面に頭を擡(もちあ)げられるものか。其から推(お)したつて、瀬川君のことは解りさうなものぢやないか。」
「土屋君、そんなら彼(あ)の猪子蓮太郎といふ先生は奈何(どう)したものだ。」と文平は嘲(あざけ)るやうに言つた。
「ナニ、猪子蓮太郎?」と銀之助は言淀(いひよど)んで、「彼(あ)の先生は――彼(あれ)は例外さ。」
「それ見給へ。そんなら瀬川君だつても例外だらう――はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。」
と準教員は手を拍(う)つて笑つた。聞いて居る教員|等(たち)も一緒になつて笑はずには居られなかつたのである。
其時、斯の職員室の戸を開けて入つて来たのは、丑松であつた。急に一同口を噤(つぐ)んで了(しま)つた。人々の視線は皆な丑松の方へ注ぎ集つた。
「瀬川君、奈何(どう)ですか、御病気は――」
と文平は意味ありげに尋ねる。其調子がいかにも皮肉に聞えたので、準教員は傍に居る尋常一年の教師と顔を見合せて、思はず互に微笑(ほゝゑみ)を泄(もら)した。
「難有(ありがた)う。」と丑松は何気なく、「もうすつかり快(よ)くなりました。」
「風邪(かぜ)ですか。」と尋常四年の教師が沈着(おちつ)き澄まして言つた。
「はあ――ナニ、差(たい)したことでも無かつたんです。」と答へて、丑松は気を変へて、「時に、勝野君、生憎(あいにく)今日は生徒が集まらなくて困つた。斯(こ)の様子では土屋君の送別会も出来さうも無い。折角|準備(したく)したのにツて、出て来た生徒は張合の無いやうな顔してる。」
「なにしろ是雪(このゆき)だからねえ。」と文平は微笑んで、「仕方が無い、延ばすサ。」
斯(か)ういふ話をして居るところへ、小使がやつて来た。銀之助は丑松の方にばかり気を取られて、小使の言ふことも耳へ入らない。それと見た体操の教師は軽く銀之助の肩を叩いて、
「土屋君、土屋君――校長先生が君を呼んでるよ。」
「僕を?」銀之助は始めて気が付いたのである。
(三)
校長は郡視学と二人で応接室に居た。銀之助が戸を開けて入つた時は、二人差向ひに椅子に腰懸けて、何か密議を凝(こら)して居るところであつた。
「おゝ、土屋君か。」と校長は身を起して、そこに在る椅子を銀之助の方へ押薦(おしすゝ)めた。「他(ほか)の事で君を呼んだのでは無いが、実は近頃世間に妙な風評が立つて――定めし其はもう君も御承知のことだらうけれど――彼様(あゝ)して町の人が左(と)や右(かく)言ふものを、黙つて見ても居られないし、第一|斯(か)ういふことが余り世間へ伝播(ひろが)ると、終(しまひ)には奈何(どん)な結果を来すかも知れない。其に就いて、茲(こゝ)に居られる郡視学さんも非常に御心配なすつて、態々(わざ/\)斯(こ)の雪に尋ねて来て下すつたんです。兎(と)に角(かく)、君は瀬川君と師範校時代から御一緒ではあり、日頃親しく往来(ゆきゝ)もして居られるやうだから、君に聞いたら是事(このこと)は一番好く解るだらう、斯う思ひましてね。」
「いえ、私だつて其様(そん)なことは解りません。」と銀之助は笑ひ乍ら答へた。「何とでも言はせて置いたら好いでせう。其様な世間で言ふやうなことを、一々気にして居たら際限(きり)が有ますまい。」
「しかし、左様いふものでは無いよ。」と校長は一寸郡視学の方を向いて見て、軈(やが)て銀之助の顔を眺め乍ら、「君等は未だ若いから、其程世間といふものに重きを置かないんだ。幼稚なやうに見えて、馬鹿にならないのは、世間さ。」
「そんなら町の人が噂(うはさ)するからと言つて、根も葉も無いやうなことを取上げるんですか。」
「それ、それだから、君等は困る。無論我輩だつて其様なことを信じないさ。しかし、君、考へて見給へ。万更(まんざら)火の気の無いところに煙の揚る筈(はず)も無からうぢやないか。いづれ是には何か疑はれるやうな理由が有つたんでせう――土屋君、まあ、君は奈何(どう)思ひます。」
「奈何しても私には左様思はれません。」
「左様言へば、其迄だが、何かそれでも思ひ当る事が有さうなものだねえ。」と言つて校長は一段声を低くして、「一体瀬川君は近頃非常に考へ込んで居られるやうだが、何が原因(もと)で彼様(あゝ)憂欝に成つたんでせう。以前は克(よ)く吾輩の家(うち)へもやつて来て呉れたツけが、此節はもう薩張(さつぱり)寄付かない。まあ吾儕(われ/\)と一緒に成つて、談(はな)したり笑つたりするやうだと、御互ひに事情も能(よ)く解るんだけれど、彼様(あゝ)して独りで考へてばかり居られるもんだから――ホラ、訳を知らないものから見ると、何かそこには後暗い事でも有るやうに、つい疑はなくても可い事まで疑ふやうに成るんだらうと思ふのサ。」
「いえ。」と銀之助は校長の言葉を遮(さへぎ)つて、「実は――其には他に深い原因が有るんです。」
「他に?」
「瀬川君は彼様いふ性質(たち)ですから、なか/\口へ出しては言ひませんがね。」
「ホウ、言はない事が奈何して君に知れる?」
「だつて、言葉で知れなくたつて、行為(おこなひ)の方で知れます。私は長く交際(つきあ)つて見て、瀬川君が種々(いろ/\)に変つて来た径路(みちすぢ)を多少知つて居ますから、奈何(どう)して彼様(あゝ)考へ込んで居るか、奈何して彼様憂欝に成つて居るか、それはもう彼の君の為(す)ることを見ると、自然と私の胸には感じることが有るんです。」
斯(か)ういふ銀之助の言葉は深く対手の注意を惹いた。校長と郡視学の二人は巻煙草を燻(ふか)し乍ら、奈何(どう)銀之助が言出すかと、黙つて其話を待つて居たのである。
銀之助に言はせると、丑松が憂欝に沈んで居るのは世間で噂(うはさ)するやうなことゝ全く関係の無い――実は、青年の時代には誰しも有勝ちな、其胸の苦痛(くるしみ)に烈しく悩まされて居るからで。意中の人が敬之進の娘といふことは、正に見当が付いて居る。しかし、丑松は彼様いふ気象の男であるから、其を友達に話さないのみか、相手の女にすらも話さないらしい。それそこが性分で、熟(じつ)と黙つて堪(こら)へて居て、唯敬之進とか省吾とか女の親兄弟に当る人々の為に種々(さま/″\)なことを為(し)て遣(や)つて居る――まあ、言はないものは、せめて尽して、それで心を慰めるのであらう。思へば人の知らない悲哀(かなしみ)を胸に湛へて居るのに相違ない。尤(もつと)も、自分は偶然なことからして、斯ういふ丑松の秘密を感得(かんづ)いた。しかも其はつい近頃のことで有ると言出した。「といふ訳で、」と銀之助は額へ手を当てゝ、「そこへ気が付いてから、瀬川君の為ることは悉皆(すつかり)読めるやうに成ました。どうも可笑(をか)しい/\と思つて見て居ましたツけ――そりやあもう、辻褄(つじつま)の合はないやうなことが沢山(たくさん)有つたものですから。」
「成程(なるほど)ねえ。あるひは左様いふことが有るかも知れない。」
と言つて、校長は郡視学と顔を見合せた。
(四)
軈(やが)て銀之助は応接室を出て、復(ま)たもとの職員室へ来て見ると、丑松と文平の二人が他の教員に取囲(とりま)かれ乍ら頻(しきり)に大火鉢の側で言争つて居る。黙つて聞いて居る人々も、見れば、同じやうに身を入れて、あるものは立つて腕組したり、あるものは机に倚凭(よりかゝ)つて頬杖(ほゝづゑ)を突いたり、あるものは又たぐる/\室内を歩き廻つたりして、いづれも熱心に聞耳を立てゝ居る様子。のみならず、丑松の様子を窺(うかゞ)ひ澄まして、穿鑿(さぐり)を入れるやうな眼付したものもあれば、半信半疑らしい顔付の手合もある。銀之助は談話(はなし)の調子を聞いて、二人が一方ならず激昂して居ることを知つた。
「何を君等は議論してるんだ。」
と銀之助は笑ひ乍ら尋ねた。其時、人々の背後(うしろ)に腰掛け、手帳を繰り繙(ひろ)げ、丑松や文平の肖顔(にがほ)を写生し始めたのは準教員であつた。
「今ね、」と準教員は銀之助の方を振向いて見ながら、「猪子先生のことで、大分やかましく成つて来たところさ。」と言つて、一寸鉛筆の尖端(さき)を舐(な)めて、復(ま)た微笑(ほゝゑ)み乍ら写生に取懸つた。
「なにも其様(そんな)にやかましいことぢや無いよ。」斯う文平は聞咎(きゝとが)めたのである。「奈何(どう)して瀬川君は彼(あ)の先生の書いたものを研究する気に成つたのか、其を僕は聞いて見たばかりだ。」
「しかし、勝野君の言ふことは僕に能(よ)く解らない。」丑松の眼は燃え輝いて居るのであつた。
「だつて君、いづれ何か原因が有るだらうぢやないか。」と文平は飽(あ)く迄(まで)も皮肉に出る。
「原因とは?」丑松は肩を動(ゆす)り乍ら言つた。
「ぢやあ、斯(か)う言つたら好からう。」と文平は真面目に成つて、「譬(たと)へば――まあ僕は例を引くから聞き給へ。こゝに一人の男が有るとしたまへ。其男が発狂して居るとしたまへ。普通(なみ)のものが其様な発狂者を見たつて、それほど深い同情は起らないね。起らない筈(はず)さ、別に是方(こちら)に心を傷(いた)めることが無いのだもの。」
「むゝ、面白い。」と銀之助は文平と丑松の顔を見比べた。
「ところが、若(も)しこゝに酷(ひど)く苦んだり考へたりして居る人があつて、其人が今の発狂者を見たとしたまへ。さあ、思ひつめた可傷(いたま)しい光景(ありさま)も目に着くし、絶望の為に痩せた体格も目に着くし、日影に悄然(しよんぼり)として死といふことを考へて居るやうな顔付も目に着く。といふは外でも無い。発狂者を思ひやる丈(だけ)の苦痛(くるしみ)が矢張|是方(こちら)にあるからだ。其処だ。瀬川君が人生問題なぞを考へて、猪子先生の苦んで居る光景(ありさま)に目が着くといふのは、何か瀬川君の方にも深く心を傷めることが有るからぢや無からうか。」
「無論だ。」と銀之助は引取つて言つた。「其が無ければ、第一読んで見たつて解りやしない。其だあね、僕が以前(まへ)から瀬川君に言つてるのは。尤も瀬川君が其を言へないのは、僕は百も承知だがね。」
「何故(なぜ)、言へないんだらう。」と文平は意味ありげに尋ねて見る。
「そこが持つて生れた性分サ。」と銀之助は何か思出したやうに、「瀬川君といふ人は昔から斯うだ。僕なぞはもうずん/\暴露(さらけだ)して、蔵(しま)つて置くといふことは出来ないがなあ。瀬川君の言はないのは、何も隠す積りで言はないのぢや無い、性分で言へないのだ。はゝゝゝゝ、御気の毒な訳さねえ――苦むやうに生れて来たんだから仕方が無い。」
斯う言つたので、聞いて居る人々は意味も無く笑出した。暫時(しばらく)準教員も写生の筆を休(や)めて眺めた。尋常一年の教師は又、丑松の背後(うしろ)へ廻つて、眼を細くして、密(そつ)と臭気(にほひ)を嗅(か)いで見るやうな真似をした。
「実は――」と文平は巻煙草の灰を落し乍ら、「ある処から猪子先生の書いたものを借りて来て、僕も読んで見た。一体、彼(あ)の先生は奈何(どう)いふ種類の人だらう。」
「奈何いふ種類とは?」と銀之助は戯れるやうに。
「哲学者でもなし、教育家でもなし、宗教家でもなし――左様かと言つて、普通の文学者とも思はれない。」
「先生は新しい思想家さ。」銀之助の答は斯うであつた。
「思想家?」と文平は嘲(あざけ)つたやうに、「ふゝ、僕に言はせると、空想家だ、夢想家だ――まあ、一種の狂人(きちがひ)だ。」
其調子がいかにも可笑(をか)しかつた。盛んな笑声が復(ま)た聞いて居る教師の間に起つた。銀之助も一緒に成つて笑つた。其時、憤慨の情は丑松が全身の血潮に交つて、一時に頭脳(あたま)の方へ衝きかゝるかのやう。蒼(あを)ざめて居た頬は遽然(にはかに)熱して来て、※[目+匡](まぶち)も耳も紅(あか)く成つた。
(五)
「むゝ、勝野君は巧いことを言つた。」と斯う丑松は言出した。「彼(あ)の猪子先生なぞは、全く君の言ふ通り、一種の狂人(きちがひ)さ。だつて、君、左様(さう)ぢやないか――世間体の好いやうな、自分で自分に諂諛(へつら)ふやうなことばかり並べて、其を自伝と言つて他(ひと)に吹聴(ふいちやう)するといふ今の世の中に、狂人(きちがひ)ででも無くて誰が冷汗の出るやうな懴悔なぞを書かう。彼の先生の手から職業を奪取(うばひと)つたのも、彼様いふ病気に成る程の苦痛(くるしみ)を嘗(な)めさせたのも、畢竟(つまり)斯(こ)の社会だ。其社会の為に涙を流して、満腔(まんかう)の熱情を注いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌は爛(たゞ)れる迄も思ひ焦(こが)れて居るなんて――斯様(こん)な大白痴(おほたはけ)が世の中に有らうか。はゝゝゝゝ。先生の生涯は実に懴悔の生涯(しやうがい)さ。空想家と言はれたり、夢想家と言はれたりして、甘んじて其冷笑を受けて居る程の懴悔の生涯さ。「奈何(どん)な苦しい悲しいことが有らうと、其を女々しく訴へるやうなものは大丈夫と言はれない。世間の人の睨(にら)む通りに睨ませて置いて、黙つて狼のやうに男らしく死ね。」――其が先生の主義なんだ。見給へ、まあ其主義からして、もう狂人染(きちがひじ)みてるぢやないか。はゝゝゝゝ。」
「君は左様激するから不可(いかん)。」と銀之助は丑松を慰撫(なだめ)るやうに言つた。
「否(いや)、僕は決して激しては居ない。」斯(か)う丑松は答へた。
「しかし。」と文平は冷笑(あざわら)つて、「猪子蓮太郎だなんて言つたつて、高が穢多ぢやないか。」
「それが、君、奈何した。」と丑松は突込んだ。
「彼様(あん)な下等人種の中から碌(ろく)なものゝ出よう筈が無いさ。」
「下等人種?」
「卑劣(いや)しい根性を持つて、可厭(いや)に癖(ひが)んだやうなことばかり言ふものが、下等人種で無くて君、何だらう。下手に社会へ突出(でしやば)らうなんて、其様な思想(かんがへ)を起すのは、第一大間違さ。獣皮(かは)いぢりでもして、神妙(しんべう)に引込んでるのが、丁度彼の先生なぞには適当して居るんだ。」
「はゝゝゝゝ。して見ると、勝野君なぞは開化した高尚な人間で、猪子先生の方は野蛮な下等な人種だと言ふのだね。はゝゝゝゝ。僕は今迄、君も彼の先生も、同じ人間だとばかり思つて居た。」
「止せ。止せ。」と銀之助は叱るやうにして、「其様な議論を為たつて、つまらんぢやないか。」
「いや、つまらなかない。」と丑松は聞入れなかつた。「僕は君、是(これ)でも真面目(まじめ)なんだよ。まあ、聞き給へ――勝野君は今、猪子先生のことを野蛮だ下等だと言はれたが、実際御説の通りだ。こりや僕の方が勘違ひをして居た。左様だ、彼の先生も御説の通りに獣皮(かは)いぢりでもして、神妙にして引込んで居れば好いのだ。それさへして黙つて居れば、彼様な病気なぞに罹(かゝ)りはしなかつたのだ。その身体のことも忘れて了つて、一日も休まずに社会と戦つて居るなんて――何といふ狂人(きちがひ)の態(ざま)だらう。噫(あゝ)、開化した高尚な人は、予(あらかじ)め金牌を胸に掛ける積りで、教育事業なぞに従事して居る。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生なぞは其様な成功を夢にも見られない。はじめからもう野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に上つて居るのだ。その慨然とした心意気は――はゝゝゝゝ、悲しいぢやないか、勇しいぢやないか。」
と丑松は上歯を顕(あらは)して、大きく口を開いて、身を慄(ふる)はせ乍ら欷咽(すゝりな)くやうに笑つた。欝勃(うつぼつ)とした精神は体躯(からだ)の外部(そと)へ満ち溢(あふ)れて、額は光り、頬の肉も震へ、憤怒と苦痛とで紅く成つた時は、其の粗野な沈欝な容貌が平素(いつも)よりも一層(もつと)男性(をとこ)らしく見える。銀之助は不思議さうに友達の顔を眺めて、久し振で若く剛(つよ)く活々とした丑松の内部(なか)の生命(いのち)に触れるやうな心地(こゝろもち)がした。
対手が黙つて了(しま)つたので、丑松もそれぎり斯様(こん)な話をしなかつた。文平はまた何時までも心の激昂を制(おさ)へきれないといふ様子。頭ごなしに罵(のゝし)らうとして、反(かへ)つて丑松の為に言敗(いひまく)られた気味が有るので、軽蔑(けいべつ)と憎悪(にくしみ)とは猶更(なほさら)容貌の上に表れる。「何だ――この穢多めが」とは其の怒気(いかり)を帯びた眼が言つた。軈て文平は尋常一年の教師を窓の方へ連れて行つて、
「奈何(どう)だい、君、今の談話(はなし)は――瀬川君は最早(もう)悉皆(すつかり)自分で自分の秘密を自白したぢやないか。」
斯(か)う私語(さゝや)いて聞かせたのである。
丁度準教員は鉛筆写生を終つた。人々はいづれも其|周囲(まはり)へ集つた。 
 
第拾九章

 

(一)
この大雪を衝(つ)いて、市村弁護士と蓮太郎の二人が飯山へ乗込んで来る、といふ噂(うはさ)は学校に居る丑松の耳にまで入つた。高柳一味の党派は、斯(こ)の風説に驚かされて、今更のやうに防禦(ばうぎよ)を始めたとやら。有権者の訪問、推薦状の配付、さては秘密の勧誘なぞが頻(しきり)に行はれる。壮士の一群(ひとむれ)は高柳派の運動を助ける為に、既に町へ入込んだともいふ。選挙の上の争闘(あらそひ)は次第に近いて来たのである。
其日は宿直の当番として、丑松銀之助の二人が学校に居残ることに成つた。尤(もつと)も銀之助は拠(よんどころ)ない用事が有ると言つて出て行つて、日暮になつても未だ帰つて来なかつたので、日誌と鍵とは丑松が預つて置いた。丑松は絶えず不安の状態(ありさま)――暇さへあれば宿直室の畳の上に倒れて、独りで考へたり悶(もだ)えたりしたのである。冬の一日(ひとひ)は斯ういふ苦しい心づかひのうちに過ぎた。入相(いりあひ)を告げる蓮華寺の鐘の音が宿直室の玻璃窓(ガラスまど)に響いて聞える頃は、殊(こと)に烈しい胸騒ぎを覚えて、何となくお志保の身の上も案じられる。もし奥様の決心がお志保の方に解りでもしたら――あるひは、最早(もう)解つて居るのかも知れない――左様なると、娘の身として其を黙つて視て居ることが出来ようか。と言つて、奈何(どう)して彼の継母のところなぞへ帰つて行かれよう。
「あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない。」
と不図(ふと)斯ういふことを想ひ着いた時は、言ふに言はれぬ哀傷(かなしみ)が身を襲(おそ)ふやうに感ぜられた。
待つても、待つても、銀之助は帰つて来なかつた。長い間丑松は机に倚凭(よりかゝ)つて、洋燈(ランプ)の下(もと)にお志保のことを思浮べて居た。斯うして種々(さま/″\)の想像に耽(ふけ)り乍ら、悄然(しよんぼり)と五分心の火を熟視(みつ)めて居るうちに、何時の間にか疲労(つかれ)が出た。丑松は机に倚凭つた儘(まゝ)、思はず知らずそこへ寝(ね)て了(しま)つたのである。
其時、お志保が入つて来た。
(二)
こゝは学校では無いか。奈何(どう)して斯様(こん)なところへお志保が尋ねて来たらう。と丑松は不思議に考へないでもなかつた。しかし其|疑惑(うたがひ)は直に釈(と)けた。お志保は何か言ひたいことが有つて、わざ/\自分のところへ逢ひに来たのだ、と斯う気が着いた。あの夢見るやうな、柔嫩(やはらか)な眼――其を眺めると、お志保が言はうと思ふことはあり/\と読まれる。何故、父や弟にばかり親切にして、自分には左様(さう)疎々(よそ/\)しいのであらう。何故、同じ屋根の下に住む程の心やすだては有乍ら、優しい言葉の一つも懸けて呉れないのであらう。何故、其|口唇(くちびる)は言ひたいことも言はないで、堅く閉(と)ぢ塞(ふさが)つて、恐怖(おそれ)と苦痛(くるしみ)とで慄へて居るのであらう。
斯ういふ楽しい問は、とは言へ、長く継(つゞ)かなかつた。何時の間にか文平が入つて来て、用事ありげにお志保を促(うなが)した。終(しまひ)には羞(はづか)しがるお志保の手を執(と)つて、無理やりに引立てゝ行かうとする。
「勝野君、まあ待ち給へ。左様(さう)君のやうに無理なことを為(し)なくツても好からう。」
と言つて、丑松は制止(おしとゞ)めるやうにした。其時、文平も丑松の方を振返つて見た。二人の目は電光(いなづま)のやうに出逢(であ)つた。
「お志保さん、貴方(あなた)に好事(いゝこと)を教へてあげる。」
と文平は女の耳の側へ口を寄せて、丑松が隠蔽(かく)して居る其恐しい秘密を私語(さゝや)いて聞かせるやうな態度を示した。
「あツ、其様(そん)なことを聞かせて奈何(どう)する。」
と丑松は周章(あわ)てゝ取縋(とりすが)らうとして――不図(ふと)、眼が覚めたのである。
夢であつた。斯う我に帰ると同時に、苦痛(くるしみ)は身を離れた。しかし夢の裡(なか)の印象は尚残つて、覚めた後までも恐怖(おそれ)の心が退かない。室内を眺め廻すと、お志保も居なければ、文平も居なかつた。丁度そこへ風呂敷包を擁(かゝ)へ乍ら、戸を開けて入つて来たのは銀之助であつた。
「や、どうも大変遅くなつた。瀬川君、まだ君は起きて居たのかい――まあ、今夜は寝て話さう。」
斯う声を掛ける。軈(やが)て銀之助はがた/\靴の音をさせ乍(なが)ら、洋服の上衣を脱いで折釘へ懸けるやら、襟(カラ)を取つて机の上に置くやら、または無造作にズボン釣を外すやらして、「あゝ、其内に御別れだ。」と投げるやうに言つた。八畳ばかり畳の敷いてあるは、克く二人の友達が枕を並べて、当番の夜を語り明したところ。今は銀之助も名残惜(なごりを)しいやうな気に成つて、着た儘の襯衣(シャツ)とズボン下とを寝衣(ねまき)がはりに、宿直の蒲団の中へ笑ひ乍ら潜り込んだ。
「斯(か)うして君と是部屋に寝るのも、最早(もう)今夜|限(ぎ)りだ。」と銀之助は思出したやうに嘆息した。「僕に取つては是(これ)が最終の宿直だ。」
「左様(さう)かなあ、最早御別れかなあ。」と丑松も枕に就き乍ら言つた。
「何となく斯(か)う今夜は師範校の寄宿舎にでも居るやうな気がする。妙に僕は昔を懐出(おもひだ)した――ホラ、君と一緒に勉強した彼の時代のことなぞを。噫(あゝ)、昔の友達は皆な奈何して居るかなあ。」と言つて、銀之助はすこし気を変へて、「其は左様と、瀬川君、此頃(こなひだ)から僕は君に聞いて見たいと思ふことが有るんだが――」
「僕に?」
「まあ、君のやうに左様黙つて居るといふのも損な性分だ。どうも君の様子を見るのに、何か非常に苦しい事が有つて、独りで考へて独りで煩悶(はんもん)して居る、としか思はれない。そりやあもう君が言はなくたつて知れるよ。実際、僕は君の為に心配して居るんだからね。だからさ、其様(そんな)に苦しいことが有るものなら、少許(すこし)打開けて話したらば奈何(どう)だい。随分、友達として、力に成るといふことも有らうぢやないか。」
(三)
「何故(なぜ)、君は左様(さう)だらう。」と銀之助は同情(おもひやり)の深い言葉を続けた。「僕が斯(か)ういふ科学書生で、平素(しよつちゆう)其方(そつち)の研究にばかり頭を突込んでるものだから、あるひは僕見たやうなものに話したつて解らない、と君は思ふだらう。しかし、君、僕だつて左様冷い人間ぢや無いよ。他(ひと)の手疵(てきず)を負つて苦んで居るのを、傍(はた)で観て嘲笑(わら)つてるやうな、其様(そん)な残酷な人間ぢや無いよ。」
「君はまた妙なことを言ふぢやないか、誰も君のことを残酷だと言つたものは無いのに。」と丑松は臥俯(うつぶし)になつて答へる。
「そんなら僕にだつて話して聞かせて呉れ給へな。」
「話せとは?」
「何も左様君のやうに蔵(つゝ)んで居る必要は有るまいと思ふんだ。言はないから、其で君は余計に苦しいんだ。まあ、僕も、一時は研究々々で、あまり解剖的にばかり物事を見過ぎて居たが、此頃に成つて大に悟つたことが有る。それからずつと君の心情(こゝろもち)も解るやうに成つた。何故君があの蓮華寺へ引越したか、何故(なぜ)君が其様に独りで苦んで居るか――僕はもう何もかも察して居る。」
丑松は答へなかつた。銀之助は猶(なほ)言葉を継(つ)いで、
「校長先生なぞに言はせると、斯ういふことは三文の価値(ねうち)も無いね。何ぞと言ふと、直に今の青年の病気だ。しかし、君、考へて見給へ。彼先生だつて一度は若い時も有つたらうぢやないか。自分等は鼻唄で通り越して置き乍ら、吾儕(われ/\)にばかり裃(かみしも)を着て歩けなんて――はゝゝゝゝ、まあ君、左様(さう)ぢや無いか。だから僕は言つて遣(や)つたよ。今日|彼(あの)先生と郡視学とで僕を呼付けて、「何故(なぜ)瀬川君は彼様(あゝ)考へ込んで居るんだらう」と斯う聞くから、「其は貴方等(あなたがた)も覚えが有るでせう、誰だつて若い時は同じことです」と言つて遣つたよ。」
「フウ、左様かねえ、郡視学が其様なことを聞いたかねえ。」
「見給へ、君があまり沈んでるもんだから、つまらないことを言はれるんだ――だから君は誤解されるんだ。」
「誤解されるとは?」
「まあ、君のことを新平民だらうなんて――実に途方も無いことを言ふ人も有れば有るものだ。」
「はゝゝゝゝ。しかし、君、僕が新平民だとしたところで、一向差支は無いぢやないか。」
長いこと室の内には声が無かつた。細目に点けて置いた洋燈(ランプ)の光は天井へ射して、円く朦朧(もうろう)と映つて居る。銀之助は其を熟視(みつ)め乍ら、種々(いろ/\)空想を描いて居たが、あまり丑松が黙つて了つて身動きも為ないので、終(しまひ)には友達は最早(もう)眠つたのかとも考へた。
「瀬川君、最早|睡(ね)たのかい。」と声を掛けて見る。
「いゝや――未(ま)だ起きてる。」
丑松は息を殺して寝床の上に慄(ふる)へて居たのである。
「妙に今夜は眠られない。」と銀之助は両手を懸蒲団の上に載せて、「まあ、君、もうすこし話さうぢやないか。僕は青年時代の悲哀(かなしみ)といふことを考へると、毎時(いつも)君の為に泣きたく成る。愛と名――あゝ、有為な青年を活すのも其だし、殺すのも其だ。実際、僕は君の心情を察して居る。君の性分としては左様(さう)あるべきだとも思つて居る。君の慕つて居る人に就いても、蔭乍(かげなが)ら僕は同情を寄せて居る。其だから今夜は斯様(こん)なことを言出しもしたんだが、まあ、僕に言はせると、あまり君は物を六(むづ)ヶ|敷(しく)考へ過ぎて居るやうに思はれるね。其処だよ、僕が君に忠告したいと思ふことは。だつて君、左様ぢや無いか。何も其様に独りで苦んでばかり居なくたつても好からう。友達といふものが有つて見れば、そこはそれ相談の仕様によつて、随分道も開けるといふものさ――「土屋、斯(か)う為たら奈何(どう)だらう」とか何とか、君の方から切出して呉れると、及ばず乍ら僕だつて自分の力に出来る丈のことは尽すよ。」
「あゝ、左様(さう)言つて呉れるのは君ばかりだ。君の志は実に難有(ありがた)い。」と丑松は深い溜息を吐いた。「まあ、打開けて言へば、君の察して呉れるやうなことが有つた。確かに有つた。しかし――」
「ふむ。」
「君はまだ克(よ)く事情を知らないから、其で左様言つて呉れるんだらうと思ふんだ。実はねえ――其人は最早死んで了(しま)つたんだよ。」
復(ま)た二人は無言に帰つた。やゝしばらくして、銀之助は声を懸けて見たが、其時はもう返事が無いのであつた。
(四)
銀之助の送別会は翌日(あくるひ)の午前から午後の二時頃迄へ掛けて開らかれた。昼を中へ※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている]んだは、弁当がはりに鮨(すし)の折詰を出したからで。教員生徒はかはる/″\立つて別離(わかれ)の言葉を述べた。余興も幾組かあつた。多くの無邪気な男女(をとこをんな)の少年は、互ひに悲んだり笑つたりして、稚心(をさなごゝろ)にも斯の日を忘れまいとするのであつた。
斯(か)ういふ中にも、独り丑松ばかりは気が気で無い。何を見たか、何を聞いたか、殆(ほとん)ど其が記憶にも留らなかつた。唯|頭脳(あたま)の中に残るものは、教員や生徒の騒しい笑声、余興のある度に起る拍手の音、または斯の混雑の中にも時々意味有げな様子して盗むやうに自分の方を見る人々の眼付――まあ、絶えず誰かに附狙(つけねら)はれて居るやうな気がして、其方の心配と屈託と恐怖(おそれ)とで、見たり聞いたりすることには何の興味も好奇心も起らないのであつた。どうかすると丑松は自分の身体ですら自分のものゝやうには思はないで、何もかも忘れて、心一つに父の戒を憶出して見ることもあつた。「見給へ、土屋君は必定(きつと)出世するから。」斯う私語(さゝや)き合ふ教員同志の声が耳に入るにつけても、丑松は自分の暗い未来に思比べて、すくなくも穢多なぞには生れて来なかつた友達の身の上を羨んだ。
送別会が済(す)む、直に丑松は学校を出て、急いで蓮華寺を指して帰つて行つた。蔵裏(くり)の入口の庭のところに立つて、奥座敷の方を眺めると、白衣を着けた一人の尼が出たり入つたりして居る。一昨日の晩頼まれて書いた手紙のことを考へると、彼が奥様の妹といふ人であらうか、と斯(か)う推測が付く。其時下女の袈裟治が台処の方から駈寄つて、丑松に一枚の名刺を渡した。見れば猪子蓮太郎としてある。袈裟治は言葉を添へて、今朝|斯(こ)の客が尋ねて来たこと、宿は上町の扇屋にとつたとのこと、宜敷(よろしく)と言置いて出て行つたことなぞを話して、まだ外にでつぷり肥つた洋服姿の人も表に立つて居たと話した。「むゝ、必定(きつと)市村さんだ。」と丑松は独語(ひとりご)ちた。話の様子では確かに其らしいのである。
「直に、これから尋ねて行つて見ようかしら。」とは続いて起つて来た思想(かんがへ)であつた。人目を憚(はゞか)るといふことさへなくば、無論尋ねて行きたかつたのである。鳥のやうに飛んで行きたかつたのである。「まあ、待て。」と丑松は自分で自分を制止(おしとゞ)めた。彼の先輩と自分との間には何か深い特別の関係でも有るやうに見られたら、奈何しよう。書いたものを愛読してさへ、既に怪しいと思はれて居るではないか。まして、うつかり尋ねて行つたりなんかして――もしや――あゝ、待て、待て、日の暮れる迄待て。暗くなつてから、人知れず宿屋へ逢ひに行かう。斯う用心深く考へた。
「それは左様と、お志保さんは奈何(どう)したらう。」と其人の身の上を気遣(きづか)ひ乍ら、丑松は二階へ上つて行つた。始めて是寺へ引越して来た当時のことは、不図(ふと)、胸に浮ぶ。見れば何もかも変らずにある。古びた火鉢も、粗末な懸物も、机も、本箱も。其に比べると人の境涯(きやうがい)の頼み難いことは。丑松はあの鷹匠(たかしやう)町の下宿から放逐された不幸な大日向を思出した。丁度斯の蓮華寺から帰つて行つた時は、提灯(ちやうちん)の光に宵闇の道を照し乍ら、一挺の籠が舁(かつ)がれて出るところであつたことを思出した。附添の大男を思出した。門口で「御機嫌よう」と言つた主婦を思出した。罵(のゝし)つたり騒いだりした下宿の人々を思出した。終(しまひ)にはあの「ざまあ見やがれ」の一言を思出すと、慄然(ぞつ)とする冷(つめた)い震動(みぶるひ)が頸窩(ぼんのくぼ)から背骨の髄へかけて流れ下るやうに感ぜられる。今は他事(ひとごと)とも思はれない。噫(あゝ)、丁度それは自分の運命だ。何故、新平民ばかり其様(そんな)に卑(いやし)められたり辱(はづかし)められたりするのであらう。何故、新平民ばかり普通の人間の仲間入が出来ないのであらう。何故、新平民ばかり斯の社会に生きながらへる権利が無いのであらう――人生は無慈悲な、残酷なものだ。
斯う考へて、部屋の内を歩いて居ると、唐紙の開く音がした。其時奥様が入つて来た。
(五)
いかにも落胆(がつかり)したやうな様子し乍ら、奥様は丑松の前に座(すわ)つた。「斯様(こん)なことになりやしないか、と思つて私も心配して居たんです。」と前置をして、さて奥様は昨宵(ゆうべ)の出来事を丑松に話した。聞いて見ると、お志保は郵便を出すと言つて、日暮頃に門を出たつきり、もう帰つて来ないとのこと。箪笥(たんす)の上に載せて置いて行つた手紙は奥様へ宛てたもので――それは真心籠めて話をするやうに書いてあつた、ところ/″\涙に染(にじ)んで読めない文字すらもあつたとのこと。其中には、自分一人の為に種々(さま/″\)な迷惑を掛けるやうでは、義理ある両親に申訳が無い。聞けば奥様は離縁の決心とやら、何卒(どうか)其丈(それだけ)は思ひとまつて呉れるやうに。十三の年から今日迄(こんにちまで)受けた恩愛は一生忘れまい。何時までも自分は奥様の傍に居て親と呼び子と呼ばれたい心は山々。何事も因縁(いんねん)づくと思ひ諦(あきら)めて呉れ、許して呉れ――「母上様へ、志保より」と書いてあつた、とのこと。
「尤も――」と奥様は襦袢(じゆばん)の袖口で※[目+匡](まぶた)を押拭ひ乍ら言つた。「若いものゝことですから、奈何(どん)な不量見を起すまいものでもない、と思ひましてね、昨夜一晩中私は眠りませんでしたよ。今朝早く人を見させに遣(や)りました。まあ、父親(おとつ)さんの方へ帰つて居るらしい、と言ひますから――」斯(か)う言つて、気を変へて、「長野の妹も直に出掛けて来て呉れましたよ。来て見ると、斯|光景(ありさま)でせう。どんなに妹も吃驚(びつくり)しましたか知れません。」奥様はもう啜上(すゝりあ)げて、不幸な娘の身の上を憐むのであつた。
可愛さうに、住慣(すみな)れたところを捨て、義理ある人々を捨て、雪を踏んで逃げて行く時の其|心地(こゝろもち)は奈何(どんな)であつたらう。丑松は奥様の談話(はなし)を聞いて、斯の寺を脱けて出ようと決心する迄のお志保の苦痛(くるしみ)悲哀(かなしみ)を思ひやつた。
「あゝ――和尚さんだつても眼が覚めましたらうよ、今度といふ今度こそは。」と昔気質(むかしかたぎ)な奥様は独語のやうに言つた。
「なむあみだぶ。」と口の中で繰返し乍ら奥様が出て行つた後、やゝしばらく丑松は古壁に倚凭(よりかゝ)つて居た。哀憐(あはれみ)と同情(おもひやり)とは眼に見ない事実(ことがら)を深い「生」の絵のやうに活して見せる。幾度か丑松はお志保の有様を――斯(こ)の寺の方を見かへり/\急いで行く其有様を胸に描いて見た。あの釣と昼寝と酒より外には働く気のない老朽な父親、泣く喧嘩(けんくわ)する多くの子供、就中(わけても)継母――まあ、あの家へ帰つて行つたとしたところで、果して是(これ)から将来(さき)奈何(どう)なるだらう。「あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない。」と不図昨夕と同じやうなことを思ひついた時は、言ふに言はれぬ悲しい心地(こゝろもち)になつた。
急に丑松は壁を離れた。帽子を冠り、楼梯(はしごだん)を下り、蔵裏の廊下を通り抜けて、何か用事ありげに蓮華寺の門を出た。
(六)
「自分は一体何処へ行く積りなんだらう。」と丑松は二三町も歩いて来たかと思はれる頃、自分で自分に尋ねて見た。絶望と恐怖とに手を引かれて、目的(めあて)も無しに雪道を彷徨(さまよ)つて行つた時は、半ば夢の心地であつた。往来には町の人々が群り集つて、春迄も消えずにある大雪の仕末で多忙(いそが)しさう。板葺(いたぶき)の屋根の上に降積つたのが掻下(かきおろ)される度に、それがまた恐しい音して、往来の方へ崩れ落ちる。幾度か丑松は其音の為に驚かされた。そればかりでは無い、四五人集つて何か話して居るのを見ると、直に其を自分のことに取つて、疑はず怪まずには居られなかつたのである。
とある町の角のところ、塩物売る店の横手にあたつて、貼付(はりつ)けてある広告が目についた。大幅な洋紙に墨黒々と書いて、赤い「インキ」で二重に丸なぞが付けてある。其下に立つて物見高く眺めて居る人々もあつた。思はず丑松も立留つた。見ると、市村弁護士の政見を発表する会で、蓮太郎の名前も演題も一緒に書並べてあつた。会場は上町の法福寺、其日午後六時から開会するとある。
して見ると、丁度演説会は家々の夕飯が済む頃から始まるのだ。
丑松は其広告を読んだばかりで、軈てまた前と同じ方角を指して歩いて行つた。疑心暗鬼とやら。今は其を明(あかる)い日光(ひかり)の中に経験する。種々(いろ/\)な恐しい顔、嘲り笑ふ声――およそ人種の憎悪(にくしみ)といふことを表したものは、右からも、左からも、丑松の身を囲繞(とりま)いた。意地の悪い烏は可厭(いや)に軽蔑(けいべつ)したやうな声を出して、得たり賢しと頭の上を啼(な)いて通る。あゝ、鳥ですら斯雪の上に倒れる人を待つのであらう。斯う考へると、浅猿(あさま)しく悲しく成つて、すた/\肴町(さかなまち)の通りを急いだ。
何時の間にか丑松は千曲川(ちくまがは)の畔(ほとり)へ出て来た。そこは「下(しも)の渡し」と言つて、水に添ふ一帯の河原を下瞰(みおろ)すやうな位置にある。渡しとは言ひ乍ら、船橋で、下高井の地方へと交通するところ。一筋暗い色に見える雪の中の道には旅人の群が往つたり来たりして居た。荷を積けた橇(そり)も曳かれて通る。遠くつゞく河原(かはら)は一面の白い大海を見るやうで、蘆荻(ろてき)も、楊柳も、すべて深く隠れて了(しま)つた。高社、風原、中の沢、其他越後境へ連る多くの山々は言ふも更なり、対岸にある村落と杜(もり)の梢(こずゑ)とすら雪に埋没(うづも)れて、幽(かすか)に鶏の鳴きかはす声が聞える。千曲川は寂しく其間を流れるのであつた。
斯ういふ光景(ありさま)は今丑松の眼前(めのまへ)に展(ひら)けた。平素(ふだん)は其程注意を引かないやうな物まで一々の印象が強く審(くは)しく眼に映つて見えたり、あるときは又、物の輪郭(かたち)すら朦朧(もうろう)として何もかも同じやうにぐら/\動いて見えたりする。「自分は是(これ)から将来(さき)奈何(どう)しよう――何処へ行つて、何を為よう――一体自分は何の為に是世(このよ)の中へ生れて来たんだらう。」思ひ乱れるばかりで、何の結末(まとまり)もつかなかつた。長いこと丑松は千曲川の水を眺め佇立(たゝず)んで居た。
(七)
一生のことを思ひ煩(わづら)ひ乍(なが)ら、丑松は船橋の方へ下りて行つた。誰か斯う背後(うしろ)から追ひ迫つて来るやうな心地(こゝろもち)がして――無論|其様(そん)なことの有るべき筈が無い、と承知して居乍ら――それで矢張安心が出来なかつた。幾度か丑松は背後を振返つて見た。時とすると、妙な眩暈心地(めまひごゝち)に成つて、ふら/\と雪の中へ倒れ懸りさうになる。「あゝ、馬鹿、馬鹿――もつと毅然(しつかり)しないか。」とは自分で自分を叱り※[厂+萬](はげま)す言葉であつた。河原の砂の上を降り埋めた雪の小山を上つたり下りたりして、軈(やが)て船橋の畔へ出ると、白い両岸の光景(ありさま)が一層|広濶(ひろ/″\)と見渡される。目に入るものは何もかも――そここゝに低く舞ふ餓(う)ゑた烏の群、丁度川舟のよそほひに忙しさうな船頭、又は石油のいれものを提げて村を指して帰つて行く農夫の群、いづれ冬期の生活(なりはひ)の苦痛(くるしみ)を感ぜさせるやうな光景(ありさま)ばかり。河の水は暗緑の色に濁つて、嘲(あざけ)りつぶやいて、溺(おぼ)れて死ねと言はぬばかりの勢を示し乍ら、川上の方から矢のやうに早く流れて来た。
深く考へれば考へるほど、丑松の心は暗くなるばかりで有つた。斯(この)社会から捨てられるといふことは、いかに言つても情ない。あゝ放逐――何といふ一生の恥辱(はづかしさ)であらう。もしも左様なつたら、奈何(どう)して是(これ)から将来(さき)生計(くらし)が立つ。何を食つて、何を飲まう。自分はまだ青年だ。望もある、願ひもある、野心もある。あゝ、あゝ、捨てられたくない、非人あつかひにはされたくない、何時迄も世間の人と同じやうにして生きたい――斯う考へて、同族の受けた種々(さま/″\)の悲しい恥、世にある不道理な習慣、「番太」といふ乞食の階級よりも一層(もつと)劣等な人種のやうに卑(いやし)められた今日迄(こんにちまで)の穢多の歴史を繰返した。丑松はまた見たり聞いたりした事実を数へて、あるひは追はれたりあるひは自分で隠れたりした人々、父や、叔父や、先輩や、それから彼の下高井の大尽の心地(こゝろもち)を身に引比べ、終(しまひ)には娼婦(あそびめ)として秘密に売買されるといふ多くの美しい穢多の娘の運命なぞを思ひやつた。
其時に成つて、丑松は後悔した。何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕ふやうな、其様(そん)な思想(かんがへ)を持つたのだらう。同じ人間だといふことを知らなかつたなら、甘んじて世の軽蔑を受けても居られたらうものを。何故(なぜ)、自分は人らしいものに斯世の中へ生れて来たのだらう。野山を駆け歩く獣の仲間ででもあつたなら、一生何の苦痛(くるしみ)も知らずに過されたらうものを。
歓(うれ)し哀(かな)しい過去の追憶(おもひで)は丑松の胸の中に浮んで来た。この飯山へ赴任して以来(このかた)のことが浮んで来た。師範校時代のことが浮んで来た。故郷(ふるさと)に居た頃のことが浮んで来た。それはもう悉皆(すつかり)忘れて居て、何年も思出した先蹤(ためし)の無いやうなことまで、つい昨日の出来事のやうに、青々と浮んで来た。今は丑松も自分で自分を憐まずには居られなかつたのである。軈(やが)て、斯ういふ過去の追憶(おもひで)がごちや/\胸の中で一緒に成つて、煙のやうに乱れて消えて了(しま)ふと、唯二つしか是から将来(さき)に執るべき道は無いといふ思想(かんがへ)に落ちて行つた。唯二つ――放逐か、死か。到底丑松は放逐されて生きて居る気は無かつた。其よりは寧(むし)ろ後者(あと)の方を択(えら)んだのである。
短い冬の日は何時の間にか暮れかゝつて来た。もう二度と現世(このよ)で見ることは出来ないかのやうな、悲壮な心地に成つて、橋の上から遠く眺(なが)めると、西の空すこし南寄りに一帯の冬雲が浮んで、丁度|可懐(なつか)しい故郷の丘を望むやうに思はせる。其は深い焦茶(こげちや)色で、雲端(くもべり)ばかり黄に光り輝くのであつた。帯のやうな水蒸気の群も幾条(いくすぢ)か其上に懸つた。あゝ、日没だ。蕭条(せうでう)とした両岸の風物はすべて斯(こ)の夕暮の照光(ひかり)と空気とに包まれて了つた。奈何(どんな)に丑松は「死」の恐しさを考へ乍ら、動揺する船橋の板縁(いたべり)近く歩いて行つたらう。
蓮華寺で撞(つ)く鐘の音は其時丑松の耳に無限の悲しい思を伝へた。次第に千曲川の水も暮れて、空に浮ぶ冬雲の焦茶色が灰がゝつた紫色に変つた頃は、もう日も遠く沈んだのである。高く懸る水蒸気の群は、ぱつと薄赤い反射を見せて、急に掻消(かきけ)すやうに暗く成つて了つた。 
 
第弐拾章

 

(一)
せめて彼の先輩だけに自分のことを話さう、と不図(ふと)、丑松が思ひ着いたのは、其橋の上である。
「噫(あゝ)、それが最後の別離(おわかれ)だ。」
とまた自分で自分を憐むやうに叫んだ。
斯ういふ思想(かんがへ)を抱いて、軈(やが)て以前(もと)来た道の方へ引返して行つた頃は、閏(うるふ)六日ばかりの夕月が黄昏(たそがれ)の空に懸つた。尤も、丑松は直に其足で蓮太郎の宿屋へ尋ねて行かうとはしなかつた。間も無く演説会の始まることを承知して居た。左様だ、其の済むまで待つより外は無いと考へた。
上の渡し近くに在る一軒の饂飩屋(うどんや)は別に気の置けるやうな人も来ないところ。丁度其前を通りかゝると、軒を泄(も)れる夕餐(ゆふげ)の煙に交つて、何か甘(うま)さうな物のにほひが屋(うち)の外迄も満ち溢(あふ)れて居た。見れば炉(ろ)の火も赤々と燃え上る。思はず丑松は立留つた。其時は最早(もう)酷(ひど)く饑渇(ひもじさ)を感じて居たので、わざ/\蓮華寺迄帰るといふ気は無かつた。ついと軒を潜つて入ると、炉辺(ろばた)には四五人の船頭、まだ他に飲食(のみくひ)して居る橇曳(そりひき)らしい男もあつた。時を待つ丑松の身に取つては、飲みたく無い迄も酒を誂(あつら)へる必要があつたので、ほんの申訳ばかりにお調子一本、饂飩はかけにして極(ごく)熱いところを、斯(か)う注文したのが軈て眼前(めのまへ)に並んだ。丑松はやたらに激昂して慄(ふる)へたり、丼(どんぶり)にある饂飩のにほひを嗅いだりして、黙つて他(ひと)の談話(はなし)を聞き乍ら食つた。
零落――丑松は今その前に面と向つて立つたのである。船頭や、橇曳(そりひき)や、まあ下等な労働者の口から出る言葉と溜息とは、始めて其意味が染々(しみ/″\)胸に徹(こた)へるやうな気がした。実際丑松の今の心地(こゝろもち)は、今日あつて明日を知らない其日暮しの人々と異なるところが無かつたからで。炉の火は好く燃えた。人々は飲んだり食つたりして笑つた。丑松も亦(ま)た一緒に成つて寂しさうに笑つたのである。
斯(か)うして待つて居る間が実に堪へがたい程の長さであつた。時は遅く移り過ぎた。そこに居た橇曳が出て行つて了ふと、交替(いれかはり)に他の男が入つて来る。聞くとも無しに其話を聞くと、高柳一派の運動は非常なもので、壮士に掴ませる金ばかりでもちつとやそつとでは有るまいとのこと。何屋とかを借りて、事務所に宛てゝ、料理番は詰切(つめきり)、酒は飲放題(のみはうだい)、帰つて来る人、出て行く人――其混雑は一通りで無いと言ふ。それにしても、今夜の演説会が奈何(どんな)に町の人々を動すであらうか、今頃はあの先輩の男らしい音声が法福寺の壁に響き渡るであらうか、と斯う想像して、会も終に近くかと思はれる頃、丑松は飲食(のみくひ)したものゝ外に幾干(いくら)かの茶代を置いて斯(こ)の饂飩屋を出た。
月は空にあつた。今迄黄ばんだ洋燈(ランプ)の光の内に居て、急に斯(か)う屋(うち)の外へ飛出して見ると、何となく勝手の違つたやうな心地がする。薄く弱い月の光は家々の屋根を伝つて、往来の雪の上に落ちて居た。軒廂(のきびさし)の影も地にあつた。夜の靄(もや)は煙のやうに町々を籠めて、すべて遠く奥深く物寂しく見えたのである。青白い闇――といふことが言へるものなら、其は斯ういふ月夜の光景(ありさま)であらう。言ふに言はれぬ恐怖(おそれ)は丑松の胸に這ひ上つて来た。
時とすると、背後(うしろ)の方からやつて来るものが有つた。是方(こちら)が徐々(そろ/\)歩けば先方(さき)も徐々歩き、是方が急げば先方も急いで随(つ)いて来る。振返つて見よう/\とは思ひ乍らも、奈何(どう)しても其を為(す)ることが出来ない。あ、誰か自分を捕(つかま)へに来た。斯う考へると、何時の間にか自分の背後(うしろ)へ忍び寄つて、突然(だしぬけ)に襲ひかゝりでも為るやうな気がした。とある町の角のところ、ぱつたり其足音が聞えなくなつた時は、始めて丑松も我に帰つて、ホツと安心の溜息を吐(つ)くのであつた。
前の方からも、亦(また)。あゝ月明りのおぼつかなさ。其光には何程(どれほど)の物の象(かたち)が見えると言つたら好からう。其陰には何程の色が潜んで居ると言つたら好からう。煙るやうな夜の空気を浴び乍ら、次第に是方(こちら)へやつて来る人影を認めた時は、丑松はもう身を縮(すく)めて、危険の近(ちかづ)いたことを思はずには居られなかつたのである。一寸是方を透して視て、軈て影は通過ぎた。
それは割合に気候の緩(ゆる)んだ晩で、打てば響くかと疑はれるやうな寒夜の趣とは全く別の心地がする。天は遠く濁つて、低いところに集る雲の群ばかり稍(やゝ)仄白(ほのじろ)く、星は隠れて見えない中にも唯一つ姿を顕(あらは)したのがあつた。往来に添ふ家々はもう戸を閉めた。ところ/″\灯は窓から泄(も)れて居た。何の音とも判らない夜の響にすら胸を踊らせ乍ら、丑松は※[門<貝](しん)とした町を通つたのである。
(二)
丁度演説会が終つたところだ。聴衆の群は雪を踏んでぞろ/\帰つて来る。思ひ/\のことを言ふ人々に近いて、其となく会の模様を聞いて見ると、いづれも激昂したり、憤慨したりして、一人として高柳を罵(のゝし)らないものは無い。あるものは斯の飯山から彼様(あん)な人物を放逐して了(しま)へと言ふし、あるものは市村弁護士に投票しろと呼ぶし、あるものは又、世にある多くの政事家に対して激烈な絶望を泄(もら)し乍ら歩くのであつた。
月明りに立留つて話す人々も有る。其|一群(ひとむれ)に言はせると、蓮太郎の演説はあまり上手の側では無いが、然し妙に人を※[女+無](ひきつけ)る力が有つて、言ふことは一々聴衆の肺腑を貫いた。高柳派の壮士、六七人、頻(しきり)に妨害を試みようとしたが、終(しまひ)には其も静(しづま)つて、水を打つたやうに成つた。悲壮な熱情と深刻な思想とは蓮太郎の演説を通しての著しい特色であつた。時とすると其が病的にも聞えた。最後に蓮太郎は、不真面目な政事家が社会を過(あやま)り人道を侮辱する実例として、烈しく高柳の急所をつ衝(つ)いた。高柳の秘密――六左衛門との関係――すべて其卑しい動機から出た結婚の真相が残るところなく発表された。
また他の一群に言はせると、其演説をして居る間、蓮太郎は幾度か血を吐いた。終つて演壇を下りる頃には、手に持つた※[巾+白]子(ハンケチ)が紅く染つたとのことである。
兎に角、蓮太郎の演説は深い感動を町の人々に伝へたらしい。丑松は先輩の大胆な、とは言へ男性(をとこ)らしい行動(やりかた)に驚いて、何となく不安な思を抱かずには居られなかつたのである。それにしても最早(もう)宿屋の方に帰つて居る時刻。行つて逢(あ)はう。斯う考へて、夢のやうに歩いた。ぶらりと扇屋の表に立つて、軒行燈の影に身を寄せ乍ら、屋内(なか)の様子を覗(のぞ)いて見ると、何か斯う取込んだことでも有るかのやうに人々が出たり入つたりして居る。亭主であらう、五十ばかりの男、周章(あわたゞ)しさうに草履を突掛け乍ら、提灯(ちやうちん)携げて出て行かうとするのであつた。
呼留めて、蓮太郎のことを尋ねて見て、其時丑松は亭主の口から意外な報知(しらせ)を聞取つた。今々法福寺の門前で先輩が人の為に襲はれたといふことを聞取つた。真実(ほんと)か、虚言(うそ)か――もし其が事実だとすれば、無論高柳の復讐(ふくしう)に相違ない。まあ、丑松は半信半疑。何を考へるといふ暇も無く、たゞ/\胸を騒がせ乍ら、亭主の後に随(つ)いて法福寺の方へと急いだのである。
あゝ、丑松が駈付けた時は、もう間に合はなかつた。丑松ばかりでは無い、弁護士ですら間に合はなかつたと言ふ。聞いて見ると、蓮太郎は一歩(ひとあし)先へ帰ると言つて外套(ぐわいたう)を着て出て行く、弁護士は残つて後仕末を為(し)て居たとやら。傷といふは石か何かで烈しく撃たれたもの。只(たゞ)さへ病弱な身、まして疲れた後――思ふに、何の抵抗(てむかひ)も出来なかつたらしい。血は雪の上を流れて居た。
(三)
左(と)も右(かく)も検屍(けんし)の済む迄(まで)は、といふので、蓮太郎の身体は外套で掩(おほ)ふた儘(まゝ)、手を着けずに置いてあつた。思はず丑松は跪(ひざまづ)いて、先輩の耳の側へ口を寄せた。まだそれでも通じるかと声を掛けて見る。
「先生――私です、瀬川です。」
何と言つて呼んで見ても、最早聞える気色(けしき)は無かつたのである。
月の光は青白く落ちて、一層|凄愴(せいさう)とした死の思を添へるのであつた。人々は同じやうに冷い光と夜気とを浴び乍ら、巡査や医者の来るのを待佗(まちわ)びて居た。あるものは影のやうに蹲(うづくま)つて居た。あるものは並んで話し/\歩いて居た。弁護士は悄然(しよんぼり)首を垂れて、腕組みして、物も言はずに突立つて居た。
軈て町の役人が来る、巡査が来る、医者が来る、間も無く死体の検査が始つた。提灯の光に照された先輩の死顔は、と見ると、頬の骨|隆(たか)く、鼻尖り、堅く結んだ口唇は血の色も無く変りはてた。男らしい威厳を帯びた其|容貌(おもばせ)のうちには、何処となく暗い苦痛の影もあつて、壮烈な最後の光景(ありさま)を可傷(いたま)しく想像させる。見る人は皆な心を動された。万事は侠気(をとこぎ)のある扇屋の亭主の計らひで、検屍が済む、役人達が帰つて行く、一先づ死体は宿屋の方へ運ばれることに成つた。戸板の上へ載せる為に、弁護士は足の方を持つ、丑松は頭の方へ廻つて、両手を深く先輩の脇の下へ差入れた。あゝ、蓮太郎の身体は最早冷かつた。奈何(どんな)に丑松は名残惜しいやうな気に成つて、蒼(あを)ざめた先輩の頬へ自分の頬を押宛てゝ、「先生、先生。」と呼んで見たらう。其時亭主は傍へ寄つて、だらりと垂れた蓮太郎の手を胸の上に組合せてやつた。斯うして戸板に載せて、其上から外套を懸けて、扇屋を指して出掛けた頃は、月も落ちかゝつて居た。人々は提灯の光に夜道を照し乍ら歩いた。丑松は亦たさく/\と音のする雪を踏んで、先輩の一生を考へ乍ら随(つ)いて行つた。思当ることが無いでも無い。あの根村の宿屋で一緒に夕飯(ゆふめし)を食つた時、頻に先輩は高柳の心を卑(いやし)で、「是程新平民といふものを侮辱した話は無からう」と憤つたことを思出した。あの上田の停車場(ステーション)へ行く途中、丁度橋を渡つた時にも、「どうしても彼様(あん)な男に勝たせたく無い、何卒(どうか)して斯(こ)の選挙は市村君のものにして遣りたい」と言つたことを思出した。「いくら吾儕(われ/\)が無智な卑賤(いや)しいものだからと言つて、踏付けられるにも程が有る」と言つたことを思出した。「高柳の話なぞを聞かなければ格別、聞いて、知つて、黙つて帰るといふことは、新平民として余り意気地(いくぢ)が無さ過ぎるからねえ」と言つたことを思出した。それから彼(あ)の細君が一緒に東京へ帰つて呉れと言出した時に、先輩は叱つたり※[厂+萬](はげま)したりして、丁度|生木(なまき)を割(さ)くやうに送り返したことを思出した。彼是(かれこれ)を思合せて考へると――確かに先輩は人の知らない覚期(かくご)を懐にして、斯(こ)の飯山へ来たらしいのである。
斯ういふことゝ知つたら、もうすこし早く自分が同じ新平民の一人であると打明けて話したものを。あるひは其を為たら、自分の心情(こゝろもち)が先輩の胸にも深く通じたらうものを。
後悔は何の益(やく)にも立たなかつた。丑松は恥ぢたり悲んだりした。噫(あゝ)、数時間前には弁護士と一緒に談(はな)し乍ら扇屋を出た蓮太郎、今は戸板に載せられて其同じ門を潜るのである。不取敢(とりあへず)、東京に居る細君のところへ、と丑松は引受けて、電報を打つ為に郵便局の方へ出掛けることにした。夜は深かつた。往来を通る人の影も無かつた。是非打たう。局員が寝て居たら、叩(たゝ)き起しても打たう。それにしても斯(この)電報を受取る時の細君の心地(こゝろもち)は。と想像して、さあ何と文句を書いてやつて可(いゝ)か解らない位であつた。暗く寂(さみ)しい四辻の角のところへ出ると、頻に遠くの方で犬の吠(ほえ)る声が聞える。其時はもう自分で自分を制(おさ)へることが出来なかつた。堪へ難い悲傷(かなしみ)の涙は一時に流れて来た。丑松は声を放つて、歩き乍ら慟哭(どうこく)した。
(四)
涙は反(かへ)つて枯れ萎(しを)れた丑松の胸を湿(うるほ)した。電報を打つて帰る道すがら、丑松は蓮太郎の精神を思ひやつて、其を自分の身に引比べて見た。流石(さすが)に先輩の生涯(しやうがい)は男らしい生涯であつた。新平民らしい生涯であつた。有の儘(まゝ)に素性を公言して歩いても、それで人にも用ゐられ、万(よろづ)許されて居た。「我は穢多を恥とせず。」――何といふまあ壮(さか)んな思想(かんがへ)だらう。其に比べると自分の今の生涯は――
其時に成つて、始めて丑松も気がついたのである。自分は其を隠蔽(かく)さう隠蔽さうとして、持つて生れた自然の性質を銷磨(すりへら)して居たのだ。其為に一時(いつとき)も自分を忘れることが出来なかつたのだ。思へば今迄の生涯は虚偽(いつはり)の生涯であつた。自分で自分を欺(あざむ)いて居た。あゝ――何を思ひ、何を煩ふ。「我は穢多なり」と男らしく社会に告白するが好いではないか。斯う蓮太郎の死が丑松に教へたのである。
紅(あか)く泣腫(なきはら)した顔を提げて、やがて扇屋へ帰つて見ると、奥の座敷には種々(さま/″\)な人が集つて後の事を語り合つて居た。座敷の床の間へ寄せ、北を枕にして、蓮太郎の死体の上には旅行用の茶色の膝懸(ひざかけ)をかけ、顔は白い※[巾+白]布(ハンケチ)で掩(おほ)ふてあつた。亭主の計らひと見えて、其前に小机を置き、土器(かはらけ)の類(たぐひ)も新しいのが載せてある。線香の煙に交る室内の夜の空気の中に、蝋燭(らふそく)の燃(とぼ)るのを見るも悲しかつた。
警察署へ行つた弁護士も帰つて来て、蓮太郎のことを丑松に話した。上田の停車場(ステーション)で別れてから以来(このかた)、小諸(こもろ)、岩村田、志賀、野沢、臼田、其他到るところに蓮太郎が精(くは)しい社会研究を発表したこと、それから長野へ行き斯の飯山へ来る迄の元気の熾盛(さかん)であつたことなぞを話した。「実に我輩も意外だつたね。」と弁護士は思出したやうに、「一緒に斯処(こゝ)の家(うち)を出て法福寺へ行く迄も、彼様(あん)な烈しいことを行(や)らうとは夢にも思はなかつた。毎時(いつも)演説の前には内容(なかみ)の話が出て、斯様(かう)言ふ積りだとか、彼様(あゝ)話す積りだとか、克(よ)く飯をやり乍ら其を我輩に聞かせたものさ。ところが、君、今夜に限つては其様(そん)な話が出なかつたからねえ。」と言つて、嘆息して、「あゝ、不親切な男だと、君始め――まあ奈何(どん)な人でも、我輩のことを左様思ふだらう。思はれても仕方無い。全く我輩が不親切だつた。猪子君が何と言はうと、細君と一緒に東京へ返しさへすれば斯様(こん)なことは無かつた。御承知の通り、猪子君も彼様(あゝ)いふ弱い身体だから、始め一緒に信州を歩くと言出した時に、何(ど)の位(くらゐ)我輩が止めたか知れない。其時猪子君の言ふには、「僕は僕だけの量見があつて行くのだから、決して止めて呉れ給ふな。君は僕を使役(つか)ふと見てもよし、僕はまた君から助けられると見られても可(いゝ)――兎(と)に角(かく)、君は君で働き、僕は僕で働くのだ。」斯ういふものだから、其程熱心に成つて居るものを強ひて廃(よ)し給へとも言はれんし、折角の厚意を無にしたくないと思つて、それで一緒に歩いたやうな訳さ。今になつて見ると、噫(あゝ)、あの細君に合せる顔が無い。「奥様(おくさん)、其様に御心配なく、猪子君は確かに御預りしましたから」なんて――まあ我輩は奈何(どう)して御詑(おわび)をして可(いゝ)か解らん。」
斯う言つて、萎(しを)れて、肥大な弁護士は洋服の儘(まゝ)でかしこまつて居た。其時は最早(もう)この扇屋に泊る旅人も皆な寝て了つて、たゞさへ気の遠くなるやうな冬の夜が一層(ひとしほ)の寂しさを増して来た。日頃新平民と言へば、直に顔を皺(しか)めるやうな手合にすら、蓮太郎ばかりは痛み惜まれたので、殊に其悲惨な最後が深い同情の念を起させた。「警察だつても黙つて置くもんぢや無い。見給へ、きつと最早(もう)高柳の方へ手が廻つて居るから。」と人々は互に言合ふのであつた。
見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は死んだ先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな心地がした。告白――それは同じ新平民の先輩にすら躊躇(ちうちよ)したことで、まして社会の人に自分の素性を暴露(さらけだ)さうなぞとは、今日迄(こんにちまで)思ひもよらなかつた思想(かんがへ)なのである。急に丑松は新しい勇気を掴(つか)んだ。どうせ最早今迄の自分は死んだものだ。恋も捨てた、名も捨てた――あゝ、多くの青年が寝食を忘れる程にあこがれて居る現世の歓楽、それも穢多の身には何の用が有らう。一新平民――先輩が其だ――自分も亦た其で沢山だ。斯う考へると同時に、熱い涙は若々しい頬を伝つて絶間(とめど)も無く流れ落ちる。実にそれは自分で自分を憐むといふ心から出た生命(いのち)の汗であつたのである。
いよ/\明日は、学校へ行つて告白(うちあ)けよう。教員仲間にも、生徒にも、話さう。左様だ、其を為るにしても、後々までの笑草なぞには成らないやうに。成るべく他(ひと)に迷惑を掛けないやうに。斯う決心して、生徒に言つて聞かせる言葉、進退伺に書いて出す文句、其他|種々(いろ/\)なことまでも想像して、一夜を人々と一緒に蓮太郎の遺骸(なきがら)の前で過したのであつた。彼是(かれこれ)するうちに、鶏が鳴いた。丑松は新しい暁の近いたことを知つた。 
 
第弐拾壱章

 

(一)
学校へ行く準備(したく)をする為に、朝早く丑松は蓮華寺へ帰つた。庄馬鹿を始め、子坊主迄、談話(はなし)は蓮太郎の最後、高柳の拘引(こういん)の噂(うはさ)なぞで持切つて居た。昨日の朝丑松の留守へ尋ねて来た客が亡(な)くなつた其人である、と聞いた時は、猶々(なほ/\)一同驚き呆(あき)れた。丑松はまた奥様から、妹が長野の方へ帰るやうに成つたこと、住職が手を突いて詑入(わびい)つたこと、それから夫婦別れの話も――まあ、見合せにしたといふことを聞取つた。
「なむあみだぶ。」
と奥様は珠数(ずゝ)を爪繰(つまぐ)り乍ら唱(とな)へて居た。
丁度十二月|朔日(ついたち)のことで、いつも寺では早く朝飯(あさはん)を済(すま)すところからして、丑松の部屋へも袈裟治が膳を運んで来た。斯(か)うして寺の人と同じやうに早く食ふといふことは、近頃無いためし――朝は必ず生温(なまあたゝか)い飯に、煮詰つた汁と極(きま)つて居たのが、其日にかぎつては、飯も焚きたての気(いき)の立つやつで、汁は又、煮立つたばかりの赤味噌のにほひが甘(うま)さうに鼻の端(さき)へ来るのであつた。小皿には好物の納豆も附いた。其時丑松は膳に向ひ乍ら、兎(と)も角(かく)も斯うして生きながらへ来た今日迄(こんにちまで)を不思議に難有(ありがた)く考へた。あゝ、卑賤(いや)しい穢多の子の身であると覚期すれば、飯を食ふにも我知らず涙が零(こぼ)れたのである。
朝飯の後、丑松は机に向つて進退伺を書いた。其時一生の戒を思出した。あの父の言葉を思出した。「たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅(めぐりあ)はうと、決して其とは自白(うちあ)けるな、一旦の憤怒(いかり)悲哀(かなしみ)に是戒(このいましめ)を忘れたら、其時こそ社会(よのなか)から捨てられたものと思へ。」斯う父は教へたのであつた。「隠せ」――其を守る為には今日迄|何程(どれほど)の苦心を重ねたらう。「忘れるな」――其を繰返す度に何程の猜疑(うたがひ)と恐怖(おそれ)とを抱いたらう。もし父が斯(こ)の世に生きながらへて居たら、まあ気でも狂つたかのやうに自分の思想(かんがへ)の変つたことを憤り悲むであらうか、と想像して見た。仮令(たとひ)誰が何と言はうと、今はその戒を破り棄てる気で居る。
「阿爺(おとつ)さん、堪忍(かんにん)して下さい。」
と詑入るやうに繰返した。
冬の朝日が射して来た。丑松は机を離れて窓の方へ行つた。障子(しやうじ)を開けて眺めると、例の銀杏(いてふ)の枯々(かれ/″\)な梢(こずゑ)を経(へだ)てゝ、雪に包まれた町々の光景(ありさま)が見渡される。板葺(いたぶき)の屋根、軒廂(のきびさし)、すべて目に入るかぎりのものは白く埋れて了つて、家と家との間からは青々とした朝餐(あさげ)の煙が静かに立登つた。小学校の建築物(たてもの)も、今、日をうけた。名残惜(なごりを)しいやうな気に成つて、冷(つめた)く心地(こゝろもち)の好い朝の空気を呼吸し乍ら、やゝしばらく眺め入つて居たが、不図胸に浮んだは蓮太郎の「懴悔録」、開巻第一章、「我は穢多なり」と書起してあつたのを今更のやうに新しく感じて、丁度この町の人々に告白するやうに、其文句を窓のところで繰返した。
「我は穢多なり。」
ともう一度繰返して、それから丑松は学校へ行く準備(したく)にとりかゝつた。
(二)
破戒――何といふ悲しい、壮(いさま)しい思想(かんがへ)だらう。斯(か)う思ひ乍ら、丑松は蓮華寺の山門を出た。とある町の角のところまで歩いて行くと、向ふの方から巡査に引かれて来る四五人の男に出逢(であ)つた。いづれも腰繩を附けられ、蒼(あを)ざめた顔付して、人目を憚(はゞか)り乍ら悄々(しを/\)と通る。中に一人、黒の紋付羽織、白足袋|穿(ばき)、顔こそ隠して見せないが、当世風の紳士姿は直に高柳利三郎と知れた。克(よ)く見ると、一緒に引かれて行く怪しげな風体の人々は、高柳の為に使役(つか)はれた壮士らしい。流石に心は後へ残るといふ風で、時々立留つては振返つて見る度に、巡査から注意をうけるやうな手合もあつた。「あゝ、捕つて行くナ。」と丑松の傍に立つて眺めた一人が言つた。「自業自得さ。」とまた他の一人が言つた。見る/\高柳の一行は巡査の言ふなりに町の角を折れて、軈(やが)て雪山の影に隠れて了つた。
男女の少年は今、小学校を指して急ぐのであつた。近在から通ふ児童(こども)なぞは、絨(フランネル)の布片(きれ)で頭を包んだり、肩掛を冠つたりして、声を揚げ乍ら雪の中を飛んで行く。町の児童(こども)は又、思ひ/\に誘ひ合せて、後になり前になり群を成して行つた。斯(か)うして邪気(あどけ)ない生徒等と一緒に、通(かよ)ひ忸(な)れた道路を歩くといふのも、最早今日限りであるかと考へると、目に触れるものは総(すべ)て丑松の心に哀(かな)し可懐(なつか)しい感想(かんじ)を起させる。平素(ふだん)は煩(うるさ)いと思ふやうな女の児の喋舌(おしやべり)まで、其朝にかぎつては、可懐しかつた。色の褪(さ)めた海老茶袴(えびちやばかま)を眺めてすら、直に名残惜しさが湧上つたのである。
学校の運動場には雪が山のやうに積上げてあつた。木馬や鉄棒(かなぼう)は深く埋没(うづも)れて了(しま)つて、屋外(そと)の運動も自由には出来かねるところからして、生徒はたゞ学校の内部(なか)で遊んだ。玄関も、廊下も、広い体操場も、楽しさうな叫び声で満ち溢(あふ)れて居た。授業の始まる迄(まで)、丑松は最後の監督を為る積りで、あちこち/\と廻つて歩くと、彼処(あそこ)でも瀬川先生、此処(こゝ)でも瀬川先生――まあ、生徒の附纏(つきまと)ふのは可愛らしいもので、飛んだり跳(は)ねたりする騒がしさも名残と思へば寧(いつ)そいぢらしかつた。廊下のところに立つた二三の女教師、互にじろ/\是方(こちら)を見て、目と目で話したり、くす/\笑つたりして居たが、別に丑松は気にも留めないのであつた。其朝は三年生の仙太も早く出て来て体操場の隅に悄然(しよんぼり)として居る。他の生徒を羨ましさうに眺め佇立(たゝず)んで居るのを見ると、不相変(あひかはらず)誰も相手にするものは無いらしい。丑松は仙太を背後(うしろ)から抱〆(だきしめ)て、誰が見ようと笑はうと其様(そん)なことに頓着なく、自然(おのづ)と外部(そと)に表れる深い哀憐(あはれみ)の情緒(こゝろ)を寄せたのである。この不幸な少年も矢張自分と同じ星の下に生れたことを思ひ浮べた。いつぞやこの少年と一緒に庭球(テニス)の遊戯(あそび)をして敗けたことを思ひ浮べた。丁度それは天長節の午後、敬之進を送る茶話会の後であつたことなどを思ひ浮べた、不図、廊下の向ふの方で、尋常一年あたりの女の生徒であらう、揃つて歌ふ無邪気な声が起つた。
「桃から生れた桃太郎、気はやさしくて、力もち――」
その唱歌を聞くと同時に、思はず涙は丑松の顔を流れた。
大鈴の音が響き渡つたのは間も無くであつた。生徒は互ひに上草履鳴して、我勝(われがち)に体操場へと塵埃(ほこり)の中を急ぐ。軈(やが)て男女の教師は受持受持の組を集めた。相図の笛(ふえ)も鳴つた。次第に順を追つて、教師も生徒も動き始めたのである。高等四年の生徒は丑松の後に随(つ)いて、足拍子そろへて、一緒に長い廊下を通つた。
(三)
応接室には校長と郡視学とが相対(さしむかひ)に成つて、町会議員の来るのを待受けて居た。それは丑松のことに就いて、集つて相談したい、といふ打合せが有つたからで。尤(もつと)も、郡視学は約束の時間よりも早く、校長を尋ねてやつて来たのである。
校長に言はせると、何も自分は悪意あつて異分子を排斥するといふ訳では無い。自分はもう旧派の教育者と言はれる一人で、丑松や銀之助なぞとはずつと時代が違つて居る。今日とても矢張自分等の時代で有ると言ひたいが、実は何時(いつ)の間にか世の中が変遷(うつりかは)つて来た。何が可畏(こは)いと言つたつて、新しい時代ほど可畏いものは無い。あゝ、老いたくない、朽(く)ちたくない、何時迄(いつまで)も同じ位置と名誉とを保つて居たい、後進の書生輩などに兜(かぶと)を脱いで降参したくない。それで校長は進取の気象に富んだ青年教師を遠ざけようとする傾向(かたむき)を持つのである。
のみならず、丑松や銀之助は彼の文平のやうに自分の意を迎へない。教員会のある度に、意見が克(よ)く衝突する。何かにつけて邪魔に成る。彼様(あん)な喙(くちばし)の黄色い手合が、校長の自分よりも生徒に慕はれて居るとあつては、第一それが小癪に触る。何も悪意あつて排斥するでは無いが、学校の統一といふ上から言ふと、是(これ)も亦(ま)た止むを得ん――斯う校長は身の衛(まも)りかたを考へたので。
「町会議員も最早(もう)見えさうなものだ。」と郡視学は懐中時計を取出して眺め乍ら言つた。「時に、瀬川君のこともいよ/\物に成りさうですかね。」
この「物に」が校長を笑はせた。
「しかし。」と郡視学は言葉を継(つ)いで、「是方(こつち)から其を言出しては面白くない。町の方から言出すやうになつて来なければ面白くない。」
「其です。其を私も思ふんです。」と校長は熱心を顔に表して答へた。
「見給へ。瀬川君が居なくなる、土屋君が居なくなる、左様(さう)なれば君もう是方(こつち)のものさ。瀬川君のかはりには彼(あ)の甥(をひ)を使役(つか)つて頂くとして、手の明いたところへは必ず僕が適当な人物を周旋しますよ。まあ、悉皆(すつかり)吾党で固めて了はうぢや有ませんか。左様(さう)して置きさへすれば、君の位置は長く動きませんし、僕も亦(ま)た折角心配した甲斐(かひ)があるといふもんです――はゝゝゝゝ。」
斯ういふ談話(はなし)をして居るところへ、小使が戸を開けて入つて来た。続いて三人の町会議員もあらはれた。
「さあ、何卒(どうぞ)是方(こちら)へ。」と校長は椅子を離れて丁寧に挨拶する。
「いや、どうも遅なはりまして、失礼しました。」と金縁の眼鏡を掛けた議員が快濶(くわいくわつ)な調子で言つた。「実は、高柳君も彼様いふやうな訳で、急に選挙の模様が変りましたものですから。」
(四)
其日、長野の師範校の生徒が二十人ばかり、参観と言つて学校の廊下を往つたり来たりした。丑松が受持の教室へも入つて来た。丁度高等四年では修身の学課を終つて、二時間目の数学に取掛つたところで、生徒は頻(しきり)に問題を考へて居る最中。参観人の群が戸を開けてあらはれた時は、一時靴の音で妨げられたが、軈(やが)て其も静つてもとの通りに成つた。寂(しん)とした教室の内には、石盤を滑る石筆の音ばかり。丑松は机と机との間を歩いて、名残惜しさうに一同の監督をした。時々参観人の方を注意して見ると、制服着た連中がずらりと壁に添ふて並んで、いづれも一廉(いつぱし)の批評家らしい顔付。楽しい学生時代の種々(さま/″\)は丑松の眼前(めのまへ)に彷彿(ちらつ)いて来た。丁度自分も同級の人達と一緒に、師範校の講師に連れられて、方々へ参観に出掛けた当時のことを思ひ浮べた。残酷な、とは言へ罪の無い批評をして、到るところの学校の教師を苦めたことを思ひ浮べた。丑松とても一度は斯の参観人と同じ制服を着た時代があつたのである。
「出来ましたか――出来たものは手を挙げて御覧なさい。」
といふ丑松の声に応じて、後列の方の級長を始め、すこし覚束ないと思はれるやうな生徒まで、互に争つて手を挙げた。あまり数学の出来る方でない省吾までも、めづらしく勇んで手を挙げた。
「風間さん。」
と指名すると、省吾は直に席を離れて、つか/\と黒板の前へ進んだ。
冬の日の光は窓の玻璃(ガラス)を通して教へ慣(な)れた教室の内を物寂しく照して見せる。平素(ふだん)は何の感想(かんじ)をも起させない高い天井から、四辺(まはり)の白壁まで、すべて新しく丑松の眼に映つた。正面に懸けてある黒板の前に立つて、白墨で解答(こたへ)を書いて居る省吾の後姿は、と見ると、実に今が可愛らしい少年の盛り、肩揚のある筒袖羽織(つゝそでばおり)を着て、首すこし傾(かし)げ、左の肩を下げ、高いところへ数字を書かうとする度に背延びしては右の手を届かせるのであつた。省吾は克く勉強する質(たち)の生徒で、図画とか、習字とか、作文とかは得意だが、毎時(いつも)理科や数学で失敗(しくじ)つて、丁度十五六番といふところを上つたり下つたりして居る。不思議にも其日は好く出来た。
「是と同じ答の出たものは手を挙げて御覧なさい。」
後列の方の生徒は揃つて手を挙げた。省吾は少許(すこし)顔を紅(あか)くして、やがて自分の席へ復(もど)つた。参観人は互に顔を見合せ乍ら、意味の無い微笑(ほゝゑみ)を交換(とりかは)して居たのである。
斯(か)ういふことを繰返して、問題を出したり、説明して聞かせたりして、数学の時間を送つた。其日に限つては、妙に生徒一同が静粛で、参観人の居ない最初の時間から悪戯(わるふざけ)なぞを為るものは無かつた。極(きま)りで居眠りを始める生徒や、狐鼠々々(こそ/\)机の下で無線電話をかける技師までが、唯もう行儀よくかしこまつて居た。噫(あゝ)、生徒の顔も見納め、教室も見納め、今は最後の稽古をする為に茲(こゝ)に立つて居る、と斯(か)う考へると、自然(おのづ)と丑松は胸を踊らせて、熱心を顔に表して教へた。
(五)
「無論市村さんは当選に成りませう。」と応接室では白髯(しろひげ)の町会議員が世慣(よな)れた調子で言出した。「人気といふ奴(やつ)は可畏(おそろ)しいものです。高柳君が彼様(あゝ)いふことになると、最早誰も振向いて見るものが有ません。多少|掴(つか)ませられたやうな連中まで、ずつと市村さんの方へ傾(かし)いで了ひました。」
「是(これ)といふのも、あの猪子といふ人の死んだ御蔭なんです――余程市村さんは御礼を言つても可(いゝ)。」と金縁眼鏡の議員が力を入れた。
「して見ると新平民も馬鹿になりませんかね。」と郡視学は胸を突出して笑つた。
「なりませんとも。」と白髯の議員も笑つて、「どうして、彼丈(あれだけ)の決心をするといふのは容易ぢや無い。しかし猪子のやうな人物(ひと)は特別だ。」
「左様(さう)さ――彼(あれ)は彼、是(これ)は是さ。」
と顔に薄痘痕(うすあばた)のある商人の出らしい議員が言出した時は、其処に居並ぶ人々は皆笑つた。「彼は彼、是は是」と言つた丈(だけ)で、其意味はもう悉皆(すつかり)通じたのである。
「はゝゝゝゝ。只今(たゞいま)御話の出ました「是」の方の御相談ですが、」と金縁眼鏡の議員は巻煙草を燻(ふか)し乍ら、「郡視学さんにも一つ御心配を願ひまして、あまり町の方でやかましく成りません内に――左様、御転任に成るといふものか、乃至(ないし)は御休職を願ふといふものか、何とかそこのところを考へて頂きたいもので。」
「はい。」と郡視学は額へ手を当てた。
「実に瀬川先生には御気の毒ですが、是も拠(よんどころ)ない。」と白髯の議員は嘆息した。「御承知の通りな土地柄で、兎角(とかく)左様いふことを嫌ひまして――彼先生は実はこれ/\だと生徒の父兄に知れ渡つて御覧なさい、必定(きつと)、子供は学校へ出さないなんて言出します。そりやあもう、眼に見えて居ます。現に、町会議員の中にも、恐しく苦情を持出した人がある。一体学務委員が気が利かないなんて、私共に喰つて懸るといふ仕末ですから。」
「まあ、私共始め、左様(さう)いふことを伺つて見ますと、あまり好い心地(こゝろもち)は致しませんからなあ。」と薄痘痕(うすあばた)の議員が笑ひ乍ら言葉を添へる。
「しかし、それでは学校に取りまして非常に残念なことです。」と校長は改(あらたま)つて、「瀬川君が好くやつて下さることは、定めし皆さんも御聞きでしたらう――私もまあ片腕程に頼みに思つて居るやうな訳で。学才は有ますし、人物は堅実(たしか)ですし、それに生徒の評判(うけ)は良し、若手の教育者としては得難い人だらうと思ふんです。素性(うまれ)が卑賤(いや)しいからと言つて、彼様(あゝ)いふ人を捨てるといふことは――実際、聞えません。何卒(どうか)まあ皆さんの御尽力で、成らうことなら引留めるやうにして頂きたいのですが。」
「いや。」と金縁眼鏡の議員は校長の言葉を遮つた。「御尤(ごもつとも)です。只今のやうな校長先生の御意見を伺つて見ますと、私共が斯様(こん)な御相談に参るといふことからして、恥入る次第です。成程(なるほど)、学問の上には階級の差別も御座(ござい)ますまい。そこがそれ、迷信の深い土地柄で。左様いふ美しい思想(かんがへ)を持つた人は鮮少(すくな)いものですから――」
「どうも未(ま)だそこまでは開けませんのですな。」と薄痘痕の議員が言つた。
「ナニ、それも、猪子先生のやうに飛抜けて了へば、また人が許しもするんですよ。」と白髯の議員は引取つて、「其証拠には、宿屋でも平気で泊めますし、寺院(てら)でも本堂を貸しますし、演説を為(す)るといへば人が聴きにも出掛けます。彼(あの)先生のは可厭(いや)に隠蔽(かく)さんから可(いゝ)。最初からもう名乗つてかゝるといふ遣方ですから、左様(さう)なると人情は妙なもので、むしろ気の毒だといふ心地(こゝろもち)に成る。ところが、瀬川先生や高柳君の細君のやうに、其を隠蔽(かく)さう/\とすると、余計に世間の方では厳(やかま)しく言出して来るんです。」
「大きに――」と郡視学は同意を表した。
「どうでせう、御転任といふやうなことにでも願つたら。」と金縁眼鏡の議員は人々の顔を眺め廻した。
「転任ですか。」と郡視学は仔細らしく、「兎角(とかく)条件附の転任は巧くいきませんよ。それに、斯(か)ういふことが世間へ知れた以上は、何処(どこ)の学校だつても嫌がりますさ――先づ休職といふものでせう。」
「奈何(どう)なりとも、そこは貴方の御意見通りに。」と白髯の議員は手を擦(も)み乍ら言つた。「町会議員の中には、「怪しからん、直に追出して了へ」なんて、其様な暴論を吐くやうな手合も有るといふ場合ですから――何卒(どうか)まあ、何分|宜敷(よろしい)やうに、御取計ひを。」
(六)
兎(と)に角(かく)其日の授業だけは無事に済した上で、と丑松は湧上(わきあが)るやうな胸の思を制(おさ)へ乍(なが)ら、三時間目の習字を教へた。手習ひする生徒の背後(うしろ)へ廻つて、手に手を持添へて、漢字の書方なぞを注意してやつた時は、奈何(どんな)に其筆先がぶる/\と震へたらう。周囲(まはり)の生徒はいづれも伸(の)しかかつて眺(なが)めて、墨だらけな口を開いて笑ふのであつた。
小使の振鳴す大鈴の音が三時間目の終を知らせる頃には、最早(もう)郡視学も、町会議員も帰つて了つた。師範校の生徒は猶(なほ)残つて午後の授業をも観たいといふ。昼飯(ひる)の後、生徒の監督を他の教師に任せて置いて、丑松は後仕末をする為に職員室に留つた。其となく返すものは返す、調べるものは調べる、後になつて非難を受けまいと思へば思ふほど、心の※[勹<夕]惶(あわたゞ)しさは一通りで無い。職員室の片隅には、手の明いた教員が集つて、寄ると触(さは)ると法福寺の門前にあつた出来事の噂(うはさ)。蓮太郎の身を捨てた動機に就いても、種々(さま/″\)な臆測が言ひはやされる。あるものは過度の名誉心が原因(もと)だらうと言ひ、あるものは生活(くらし)に究(つま)つた揚句だらうと言ひ、あるものは又、精神に異状を来して居たのだらうといふ。まあ、十人が十色のことを言つて、誹(けな)したり謗(くさ)したりする、稀(たま)に蓮太郎の精神を褒(ほ)めるものが有つても、寧ろ其を肺病の故(せゐ)にして了(しま)つた。聞くともなしに丑松は人々の噂を聞いて、到底誤解されずに済(す)む世の中では無いといふことを思ひ知つた。「黙つて狼のやうに男らしく死ね」――あの先輩の言葉を思出した時は、悲しかつた。
午後の課目は地理と国語とであつた。五時間目には、国語の教科書の外に、予(かね)て生徒から預つて置いた習字の清書、作文の帳面、そんなものを一緒に持つて教室へ入つたので、其と見た好奇(ものずき)な少年はもう眼を円くする。「ホウ、作文が刪正(なほ)つて来た。」とある生徒が言つた。「図画も。」と又。丑松はそれを自分の机の上に載せて、例のやうに教科書の方へ取掛つたが、軈(やが)て平素(いつも)の半分ばかりも講釈したところで本を閉ぢて、其日はもう其で止めにする、それから少許(すこし)話すことが有る、と言つて生徒一同の顔を眺め渡すと、「先生、御話ですか。」と気の早いものは直に其を聞くのであつた。
「御話、御話――」
と請求する声は教室の隅から隅までも拡(ひろが)つた。
丑松の眼は輝いて来た。今は我知らず落ちる涙を止(とゞ)めかねたのである。其時、習字やら、図画やら、作文の帳面やらを生徒の手に渡した。中には、朱で点を付けたのもあり、優とか佳とかしたのもあつた。または、全く目を通さないのもあつた。丑松は先づ其詑(そのわび)から始めて、刪正(なほ)して遣(や)りたいは遣りたいが、最早(もう)其を為(す)る暇が無いといふことを話し、斯うして一緒に稽古を為るのも実は今日限りであるといふことを話し、自分は今|別離(わかれ)を告げる為に是処(こゝ)に立つて居るといふことを話した。
「皆さんも御存じでせう。」と丑松は噛んで含めるやうに言つた。「是(この)山国に住む人々を分けて見ると、大凡(おおよそ)五通りに別れて居ます。それは旧士族と、町の商人と、お百姓と、僧侶(ばうさん)と、それからまだ外に穢多といふ階級があります。御存じでせう、其穢多は今でも町はづれに一団(ひとかたまり)に成つて居て、皆さんの履(は)く麻裏(あさうら)を造(つく)つたり、靴や太鼓や三味線等を製(こしら)へたり、あるものは又お百姓して生活(くらし)を立てゝ居るといふことを。御存じでせう、其穢多は御出入と言つて、稲を一束づゝ持つて、皆さんの父親(おとつ)さんや祖父(おぢい)さんのところへ一年に一度は必ず御機嫌伺ひに行きましたことを。御存じでせう、其穢多が皆さんの御家へ行きますと、土間のところへ手を突いて、特別の茶椀で食物(くひもの)なぞを頂戴して、決して敷居から内部(なか)へは一歩(ひとあし)も入られなかつたことを。皆さんの方から又、用事でもあつて穢多の部落へ御出(おいで)になりますと、煙草(たばこ)は燐寸(マッチ)で喫(の)んで頂いて、御茶は有(あり)ましても決して差上げないのが昔からの習慣です。まあ、穢多といふものは、其程|卑賤(いや)しい階級としてあるのです。もし其穢多が斯(こ)の教室へやつて来て、皆さんに国語や地理を教へるとしましたら、其時皆さんは奈何思ひますか、皆さんの父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんは奈何(どう)思ひませうか――実は、私は其|卑賤(いや)しい穢多の一人です。」
手も足も烈しく慄(ふる)へて来た。丑松は立つて居られないといふ風で、そこに在る机に身を支へた。さあ、生徒は驚いたの驚かないのぢやない。いづれも顔を揚げたり、口を開いたりして、熱心な眸(ひとみ)を注いだのである。
「皆さんも最早(もう)十五六――万更(まんざら)世情(ものごゝろ)を知らないといふ年齢(とし)でも有ません。何卒(どうぞ)私の言ふことを克(よ)く記憶(おぼ)えて置いて下さい。」と丑松は名残惜(なごりを)しさうに言葉を継(つ)いだ。
「これから将来(さき)、五年十年と経つて、稀(たま)に皆さんが小学校時代のことを考へて御覧なさる時に――あゝ、あの高等四年の教室で、瀬川といふ教員に習つたことが有つたツけ――あの穢多の教員が素性を告白(うちあ)けて、別離(わかれ)を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じやうに屠蘇(とそ)を祝ひ、天長節が来れば同じやうに君が代を歌つて、蔭ながら自分等の幸福(しあはせ)を、出世を祈ると言つたツけ――斯(か)う思出して頂きたいのです。私が今|斯(か)ういふことを告白(うちあ)けましたら、定めし皆さんは穢(けがらは)しいといふ感想(かんじ)を起すでせう。あゝ、仮令(たとひ)私は卑賤(いや)しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想(かんがへ)を御持ちなさるやうに、毎日其を心掛けて教へて上げた積りです。せめて其の骨折に免じて、今日迄(こんにちまで)のことは何卒(どうか)許して下さい。」
斯(か)う言つて、生徒の机のところへ手を突いて、詑入(わびい)るやうに頭を下げた。
「皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒(どうぞ)父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんに私のことを話して下さい――今迄|隠蔽(かく)して居たのは全く済(す)まなかつた、と言つて、皆さんの前に手を突いて、斯うして告白(うちあ)けたことを話して丁さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です。」
と斯う添加(つけた)して言つた。
丑松はまだ詑び足りないと思つたか、二歩三歩(ふたあしみあし)退却(あとずさり)して、「許して下さい」を言ひ乍ら板敷の上へ跪(ひざまづ)いた。何事かと、後列の方の生徒は急に立上つた。一人立ち、二人立ちして、伸(の)しかゝつて眺めるうちに、斯の教室に居る生徒は総立に成つて、あるものは腰掛の上に登る、あるものは席を離れる、あるものは廊下へ出て声を揚げ乍ら飛んで歩いた。其時大鈴の音が響き渡つた。教室々々の戸が開いた。他の組の生徒も教師も一緒になつて、波濤(なみ)のやうに是方(こちら)へ押溢(おしあふ)れて来た。

十二月に入つてから銀之助は最早(もう)客分であつた。其日は午後の一時半頃から、自分の用事で学校へ出て来て居て、丁度職員室で話しこんで居る最中、不図丑松のことを耳に入れた。思はず銀之助はそこを飛出した。玄関を横過(よこぎ)つて、長い廊下を通ると、肩掛に紫頭巾(むらさきづきん)、帰り仕度の女生徒、あそこにも、こゝにも、丑松の噂を始めて、家路に向ふことを忘れたかのやう。体操場には男の生徒が集つて、話は矢張丑松の噂で持切つて居た。左右に馳違(はせちが)ふ少年の群を分けて、高等四年の教室へ近いて見ると、廊下のところに校長、教師五六人、中に文平も、其他高等科の生徒が丑松を囲繞(とりま)いて、参観に来た師範校の生徒まで呆(あき)れ顔(がほ)に眺め佇立(たゝず)んで居たのである。見れば丑松はすこし逆上(とりのぼ)せた人のやうに、同僚の前に跪(ひざまづ)いて、恥の額を板敷の塵埃(ほこり)の中に埋めて居た。深い哀憐(あはれみ)の心は、斯(こ)の可傷(いたま)しい光景(ありさま)を見ると同時に、銀之助の胸を衝(つ)いて湧上(わきあが)つた。歩み寄つて、助け起し乍ら、着物の塵埃(ほこり)を払つて遣ると、丑松は最早半分夢中で、「土屋君、許して呉れ給へ」をかへすがへす言ふ。告白の涙は奈何(どんな)に丑松の頬を伝つて流れたらう。
「解つた、解つた、君の心地(こゝろもち)は好く解つた。」と銀之助は言つた。「むむ――進退伺も用意して来たね。兎(と)に角(かく)、後の事は僕に任せるとして、君は直に是(これ)から帰り給へ――ね、君は左様(さう)し給へ。」
(七)
高等四年の生徒は教室に居残つて、日頃慕つて居る教師の為に相談の会を開いた。未(ま)だ初心(うぶ)で、複雑(こみい)つた社会(よのなか)のことは一向解らないものばかりの集合(あつまり)ではあるが、流石(さすが)正直なは少年の心、鋭い神経に丑松の心情(こゝろもち)を汲取つて、何とかして引止める工夫をしたいと考へたのである。黙つて視て居る時では無い、一同揃つて校長のところへ歎願に行かう、と斯う十六ばかりの級長が言出した。賛成の声が起る。
「さあ、行かざあ。」
と農夫の子らしい生徒が叫んだ。
相談は一決した。例の掃除をする為に、当番のものだけを残して置いて、少年の群は一緒に教室を出た。其中には省吾も交つて居た。丁度校長は校長室の倚子(いす)に倚凭(よりかゝ)つて、文平を相手に話して居るところで、そこへ高等四年の生徒が揃つて顕(あらは)れた時は、直に一同の言はうとすることを看て取つたのである。
「諸君は何か用が有るんですか。」
と、しかし、校長は何気ない様子を装(つくろ)ひ乍(なが)ら尋ねた。
級長は卓子(テーブル)の前に進んだ。校長も、文平も、凝(きつ)と鋭い眸をこの生徒の顔面(おもて)に注いだ。省吾なぞから見ると、ずつと夙慧(ませ)た少年で、言ふことは了然(はつきり)好く解る。
「実は、御願ひがあつて上りました。」と前置をして、級長は一同の心情(こゝろもち)を表白(いひあらは)した。何卒(どうか)して彼の教員を引留めて呉れるやうに。仮令(たとへ)穢多であらうと、其様(そん)なことは厭(いと)はん。現に生徒として新平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があらう。是はもう生徒一同の心からの願ひである。頼む。斯う述べて、級長は頭を下げた。
「校長先生、御願ひでごはす。」
と一同声を揃へて、各自(てんで)に頭を下げるのであつた。
其時校長は倚子を離れた。立つて一同の顔を見渡し乍ら、「むゝ、諸君の言ふことは好く解りました。其程熱心に諸君が引留めたいといふ考へなら、そりやあもう我輩だつて出来るだけのことは尽します。しかし物には順序がある。頼みに来るなら、頼みに来るで、相当の手続を踏んで――総代を立てるとか、願書を差出すとかして、規則正しくやつて来るのが礼です。左様どうも諸君のやうに、大勢一緒に押掛けて来て、さあ引留めて呉れなんて――何といふ無作法な行動(やりかた)でせう。」と言はれて、級長は何か弁解(いひわけ)を為(し)ようとしたが、軈(やが)て涙ぐんで黙つて了つた。
「まあ、御聞きなさい。」と校長は卓子(テーブル)の上にある書面(かきつけ)を拡(ひろ)げて見せ乍ら、「是通り瀬川先生からは進退伺が出て居ます。是(これ)は一応郡視学の方へ廻さなければなりませんし、町の学務委員にも見せなければなりません。仮令(たとひ)我輩が瀬川先生を救ひたいと思つて、単独(ひとり)で焦心(あせ)つて見たところで、町の方で聞いて呉れなければ仕方が無いぢや有ませんか。」と言つて、すこし声を和げて、「然し、我輩一人の力で、奈何(どう)是(これ)を処置するといふ訳にもいかんのですから、そこを諸君も好く考へて下さい。彼様(あゝ)いふ良い教師を失ふといふことは、諸君ばかりぢやない、我輩も残念に思ふ。諸君の言ふことは好く解りました。兎に角、今日は是で帰つて、学課を怠らないやうにして下さい。諸君が斯ういふことに喙(くちばし)を容(い)れないでも、無論学校の方で悪いやうには取計ひません――諸君は勉強が第一です。」
文平は腕組をして聞いて居た。手持無沙汰に帰つて行く生徒の後姿を見送つて、冷かに笑つて、軈て校長は戸を閉めて了つた。 
 
第弐拾弐章

 

(一)
「一寸伺ひますが、瀬川君は是方(こちら)へ参りませんでしたらうか。」
斯う声を掛けて、敬之進の住居(すまひ)を訪れたのは銀之助である。友達思ひの銀之助は心配し乍ら、丑松の後を追つて尋ねて来たのであつた。
「瀬川さん?」とお志保は飛んで出て、「あれ、今御帰りに成ましたよ。」
「今?」と銀之助はお志保の顔を眺(なが)めた。「それから何(どつち)の方へ行きましたらう、御存じは有ますまいかしら。」
「よくも伺ひませんでしたけれど、」とお志保は口籠(くちごも)つて、「あの、猪子さんの奥様(おくさん)が東京から御見えに成るさうですね。多分その方へ。ホラ市村さんの御宿の方へ尋ねていらしツたんでせうよ――何でも其様(そん)なやうな瀬川さんの口振でしたから。」
「市村さんの許(ところ)へ? 先づ好かつた。」と銀之助は深い溜息を吐いた。「実は僕も非常に心配しましてね、蓮華寺へ行つて聞いて見ました。御寺で言ふには、未だ瀬川君は学校から帰らんといふ。それから市村さんの宿へ行つて見ると、彼処(あすこ)にも居ません。ひよつとすると、こりや貴方(あなた)の許(ところ)かも知れない、斯う思つてやつて来たんです。」と言つて、考へて、「むゝ、左様(さう)ですか、貴方の許へ参りましたか――」
「丁度、行違ひに御成(おなん)なすつたんでせう。」とお志保は少許(すこし)顔を紅(あか)くして、「まあ御上りなすつて下さいませんか、此様(こん)な見苦しい処で御座(ござい)ますけれど。」
と言はれて、お志保に導かれて、銀之助は炉辺(ろばた)へ上つた。
紅く泣腫(なきは)れたお志保の頬には涙の痕(あと)が未だ乾かずにあつた。奈何(どう)いふことを言つて丑松が別れて行つたか、それはもうお志保の顔付を眺めたばかりで、大凡(おおよそ)の想像が銀之助の胸に浮ぶ。あの小学校の廊下のところで、人々の前に跪(ひざまづ)いて、有の儘(まゝ)に素性を自白するといふ行為(やりかた)から推(お)して考へても――確かに友達は非常な決心を起したのであらう。其心根は。思へば憫然(びんぜん)なものだ。斯う銀之助は考へて、何卒(どうか)して友達を助けたい、と其をお志保にも話さうと思ふのであつた。銀之助は先づお志保の身の上から聞き初めた。
貧し苦しい境遇に居るお志保は、直に、銀之助の頼母(たのも)しい気象を看て取つたのである。のみならず、丑松と斯人とは無二の朋友であるといふことも好く承知して居る。真実(ほんたう)に自分の心地(こゝろもち)も解つて、身を入れて話を聞いて呉れるのは斯人だ、と斯う可懐(なつか)しく思ふにつけても、さて、奈何して父親の許(ところ)へ帰つて居るか、其を尋ねられた時はもう/\胸一ぱいに成つて了(しま)つた。蓮華寺を脱けて出ようと決心する迄の一伍一什(いちぶしじゆう)――思へば涙の種――まあ、何から話して可いものやら、お志保には解らない位であつた。流石(さすが)娘心の感じ易さ、暗く煤(すゝ)けた土壁の内部(なか)の光景(ありさま)をも物|羞(はづか)しく思ふといふ風で、「ぼや」を折焚(おりく)べて炉の火を盛んにしたり、着物の前を掻合せたりして語り聞かせる。お志保に言はせると、いよ/\彼の寺を出ようと思立つたのは、泣いて、泣いて、泣尽した揚句のこと。「仮令(たとひ)先方(さき)が親らしい行為(おこなひ)をしない迄も、是迄(これまで)育てゝ貰つた恩義も有る。一旦蓮華寺の娘となつた以上は、奈何な辛いことがあらうと決して家へ帰るな。」――とは堅い父の言葉でもあつた。宵闇の空に紛(まぎ)れて迷ひ出たお志保は、だから、何処へ帰るといふ目的(めあて)も無かつたのである。悲しい夢のやうに歩いて来る途中、不図、雪の上に倒れて居る人に出逢(であ)つた。見れば其酔漢(そのさけよひ)は父であつた。其時お志保は左様(さう)思つた。父はもう凍え死んだのかと思つた。丁度通りかかる音作を呼留めて、一緒に助け起して、漸(やつと)のことで家まで連帰つて見ると、今すこし遅からうものなら既に生命を奪(と)られるところ。それぎり敬之進は床の上に横に成つた。医者の話によると、身体の衰弱(おとろへ)は一通りで無い。所詮(しよせん)助かる見込は有るまいとのことである。
そればかりでは無い。不幸(ふしあはせ)は斯の屋根の下にもお志保を待受けて居た。来て見ると、もう継母も、異母(はらちがひ)の弟妹(きやうだい)も居なかつた。尤(もつと)も、其前の晩、烈しい夫婦喧嘩があつて、継母はお志保のことや父の酒のことを言つて、奈何して是から将来(さき)生計(くらし)が立つと泣叫んだといふ。いづれ下高井にある生家(さと)を指して、三人だけ子供を連れて、父の留守に家出をしたものらしい。それは継母が自分で産んだ子供のうち、三番目のお末を残して、進に、お作に、それから留吉と、斯(か)う引連れて行つた。割合に温順(おとな)しいお末を置いて、あの厄介者のお作を腰に付けたは、流石(さすが)に後のことをも考へて行つたものと見える。継母が末の児を背負(おぶ)ひ、お作の手を引き、進は見慣(みな)れない男に連れられて、後を見かへり/\行つたといふことは、近所のかみさんが来ての話で解つた。
斯ういふ中にも、ひとり力に成るのは音作で、毎日夫婦して来て、物を呉れるやら、旧(むかし)の主人をいたはるやら、お末をば世話すると言つて、自分の家の方へ引取つて居るとのこと。貧苦の為に離散した敬之進の家族の光景(ありさま)――まあ、お志保が銀之助に話して聞かせたことは、ざつと斯うであつた。
「して見ると――今御家にいらつしやるのは、父親(おとつ)さんに、貴方に、それから省吾さんと、斯う三人なんですか。」銀之助は気の毒さうに尋ねたのである。
「はあ。」とお志保は涙ぐんで、垂下る鬢(びん)の毛を掻上げた。
(二)
丑松のことは軈(やが)て二人の談話(はなし)に上つた。友に篤い銀之助の有様を眺めると、お志保はもう何もかも打明けて話さずには居られなかつたのである。其時、丑松の逢ひに来た様子を話した。顔は蒼(あを)ざめ、眼は悲愁(かなしみ)の色を湛(たゝ)へ、思ふことはあつても十分に其を言ひ得ないといふ風で――まあ、情が迫つて、別離(わかれ)の言葉もとぎれ/\であつたことを話した。忘れずに居る程のなさけがあらば、せめて社会(よのなか)の罪人(つみびと)と思へ、斯(か)う言つて、お志保の前に手を突いて、男らしく素性を告白(うちあ)けて行つたことを話した。
「真実(ほんたう)に御気の毒な様子でしたよ。」とお志保は添加(つけた)した。「いろ/\伺つて見たいと思つて居りますうちに、瀬川さんはもう帽子を冠つて、さつさと出て行つてお了ひなさる――後で私はさん/″\泣きました。」
「左様(さう)ですかあ。」と銀之助も嘆息して、「あゝ、僕の想像した通りだつた。定めし貴方(あなた)も驚いたでせう、瀬川君の素性を始めて御聞きになつた時は。」
「いゝえ。」お志保は力を入れて言ふのであつた。
「ホウ。」と銀之助は目を円(まる)くする。
「だつて今日始めてでも御座(ござい)ませんもの――勝野さんが何処(どこ)かで聞いていらしツて、いつぞや其を私に話しましたんですもの。」
この「始めてでも御座ません」が銀之助を驚した。しかし文平が何の為に其様なことをお志保の耳へ入れたのであらう、と聞咎(きゝとが)めて、
「彼男(あのをとこ)も饒舌家(おしやべり)で、真個(ほんたう)に仕方が無い奴だ。」と独語(ひとりごと)のやうに言つた。やがて、銀之助は何か思ひついたやうに、「何ですか、勝野君は其様(そんな)に御寺へ出掛けたんですか。」
「えゝ――蓮華寺の母が彼様(あゝ)いふ話好きな人で、男の方は淡泊(さつぱり)して居て可(いゝ)なんて申しますもんですから、克(よ)く勝野さんも遊びにいらツしやいました。」
「何だつてまた彼男は其様(そん)なことを貴方に話したんでせう。」斯(か)う銀之助は聞いて見るのであつた。
「まあ、妙なことを仰(おつしや)るんですよ。」とお志保は其を言ひかねて居る。
「妙なとは?」
「親類はこれ/\だの、今に自分は出世して見せるのツて――」
「今に出世して見せる?」と銀之助は其処に居ない人を嘲(あざけ)つたやうに笑つて、「へえ――其様なことを。」
「それから、あの、」とお志保は考深い眼付をし乍ら、「瀬川さんのことなぞ、それは酷(ひど)い悪口を仰いましたよ。其時私は始めて知りました。」
「あゝ、左様(さう)ですか、それで彼話(あのはなし)を御聞きに成つたんですか。」と言つて銀之助は熱心にお志保の顔を眺(なが)めた。急に気を変へて、「ちよツ、彼男も余計なことを喋舌つて歩いたものだ。」
「私もまあ彼様な方だとは思ひませんでした。だつて、あんまり酷いことを仰るんですもの。その悪口が普通(たゞ)の悪口では無いんですもの――私はもう口惜(くや)しくて、口惜しくて。」
「して見ると、貴方も瀬川君を気の毒だと思つて下さるんですかなあ。」
「でも、左様ぢや御座ませんか――新平民だつて何だつて毅然(しつかり)した方の方が、彼様(あん)な口先ばかりの方よりは余程(よつぽど)好いぢや御座ませんか。」
何の気なしに斯ういふことを言出したが、軈(やが)てお志保は伏目勝に成つて、血肥りのした娘らしい手を眺めたのである。
「あゝ。」と銀之助は嘆息して、「奈何(どう)して世の中は斯(か)う思ふやうに成らないものなんでせう。僕は瀬川君のことを考へると、実際|哭(な)きたいやうな気が起ります。まあ、考へて見て下さい。唯あの男は素性が違ふといふだけでせう。それで職業も捨てなければならん、名誉も捨てなければならん――是程(これほど)残酷な話が有ませうか。」
「しかし、」とお志保は清(すゞ)しい眸(ひとみ)を輝した。「父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんの血統(ちすぢ)が奈何(どんな)で御座ませうと、それは瀬川さんの知つたことぢや御座ますまい。」
「左様です――確かに左様です――彼男の知つたことでは無いんです。左様貴方が言つて下されば、奈何(どんな)に僕も心強いか知れません。実は僕は斯う思ひました――彼男の素性を御聞に成つたら、定めし貴方も今迄の瀬川君とは考へて下さるまいかと。」
「何故(なぜ)でせう?」
「だつて、それが普通ですもの。」
「あれ、他(ひと)は左様(さう)かも知れませんが、私は左様は思ひませんわ。」
「真実(ほんと)に? 真実に貴方は左様考へて下さるんですか――」
「まあ、奈何(どう)したら好う御座んせう。私は是でも真面目に御話して居る積りで御座ますのに。」
「ですから、僕が其を伺ひたいと言ふんです。」
「其と仰(おつしや)るのは?」
とお志保は問ひ反して、対手(あひて)の心を推量し乍ら眺めた。若々しい血潮は思はずお志保の頬に上るのであつた。
(三)
力の無い謦※[亥+欠](せき)の声が奥の方で聞えた。急にお志保は耳を澄して心配さうに聞いて居たが、軈(やが)て一寸|会釈(ゑしやく)して奥の方へ行つた。銀之助は独り炉辺(ろばた)に残つて燃え上る「ぼや」の火炎(ほのほ)を眺(なが)め乍ら、斯(か)ういふ切ない境遇のなかにも屈せず倒れずに行(や)る気で居るお志保の心の若々しさを感じた。烈しい気候を相手に克(よ)く働く信州北部の女は、いづれも剛健な、快活な気象に富むのである。苦痛に堪へ得ることは天性に近いと言つてもよい。まあ、お志保も矢張(やはり)其血を享(う)けたのだ。優婉(やさ)しいうちにも、どことなく毅然(しやん)としたところが有る。斯う銀之助は考へて、奈何(どう)友達のことを切出したものか、と思ひつゞけて居た。間も無くお志保は奥の方から出て来た。
「奈何(どう)ですか、父上(おとつ)さんの御様子は。」と銀之助は同情深(おもひやりぶか)く尋ねて見る。
「別に変りましたことも御座ませんけれど、」とお志保は萎(しを)れて、「今日は何(なんに)も頂きたくないと言つて、お粥(かゆ)を少許(ぽつちり)食べましたばかり――まあ、朝から眠りつゞけなんで御座ますよ。彼様(あんな)に眠るのが奈何(どう)でせうかしら。」
「何しろ其は御心配ですなあ。」
「どうせ長保(ながも)ちは有(あり)ますまいでせうよ。」とお志保は溜息を吐いた。「瀬川さんにも種々(いろ/\)御世話様には成ましたが、医者ですら見込が無いと言ふ位ですから――」
斯う言つて、癖のやうに鬢(びん)の毛を掻上げた。
「実に、人の一生はさま/″\ですなあ。」と銀之助はお志保の境涯(きやうがい)を思ひやつて、可傷(いたま)しいやうな気に成つた。「温い家庭の内に育つて、それほど生活の方の苦痛(くるしみ)も知らずに済(す)む人もあれば、又、貴方のやうに、若い時から艱難(かんなん)して、其|風波(なみかぜ)に搓(も)まれて居るなかで、自然と性質を鍛(きた)へる人もある。まあ、貴方なぞは、苦んで、闘つて、それで女になるやうに生れて来たんですなあ。左様(さう)いふ人は左様いふ人で、他(ひと)の知らない悲しい日も有るかはりに、また他の知らない楽しい日も有るだらうと思ふんです。」
「楽しい日?」とお志保は寂しさうに微笑(ほゝゑ)み乍ら、「私なぞに其様(そん)な日が御座ませうかしら。」
「有ますとも。」と銀之助は力を入れて言つた。
「ほゝゝゝゝ――是迄(これまで)のことを考へて見ましても、其様な日なぞは参りさうも御座ません。まあ、私が貰はれて行きさへしませんければ、蓮華寺の母だつても彼様(あん)な思は為ずに済みましたのでせう。彼母を置いて出ます前には、奈何(どんな)に私も――」
「左様でせうとも。其は御察し申します。」
「いえ――私はもう死んで了(しま)ひましたも同じことなんで御座ます――唯(たゞ)、人様の情を思ひますものですから、其を力に……斯(か)うして生きて……」
「あゝ、瀬川君のも苦しい境遇だが、貴方のも苦しい境遇だ。畢竟(つまり)貴方が其程苦しい目に御逢(おあ)ひなすつたから、それで瀬川君の為にも哭(な)いて下さるといふものでせう。実は――僕は、あの友達を助けて頂きたいと思つて、斯うして貴方に御話して居るやうな訳ですが――」
「助けろと仰ると?」お志保の眸(ひとみ)は急に燃え輝いたのである。「私の力に出来ますことなら、奈何(どん)なことでも致しますけれど。」
「無論出来ることなんです。」
「私に?」
暫時(しばらく)二人は無言であつた。
「いつそ有の儘を御話しませう。」と銀之助は熱心に言出した。「丁度学校で宿直の晩のことでした。僕が瀬川君の意中を叩いて見たのです。其時僕の言ふには、「君のやうに左様(さう)独りで苦んで居ないで、少許(すこし)打明けて話したら奈何(どう)だ。あるひは僕見たやうな殺風景なものに話したつて解らない、と君は思ふかも知れない。しかし、僕だつて、其様(そん)な冷(つめた)い人間ぢや無いよ。まあ、僕に言はせると、あまり君は物を煩(むづか)しく考へ過ぎて居るやうに思はれる。友達といふものも有つて見れば、及ばず乍ら力に成るといふことも有らうぢやないか。」斯(か)う言ひました。すると、瀬川君は始めて貴方のことを言出して――「むゝ、君の察して呉れるやうなことがあつた。確かに有つた。しかし其人は最早(もう)死んで了つたものと思つて呉れたまへ。」斯う言ふぢや有ませんか。噫――瀬川君は自分の素性を考へて、到底及ばない希望(のぞみ)と絶念(あきら)めて了(しま)つたのでせう。今はもう人を可懐(なつか)しいとも思はん――是程悲しい情愛が有ませうか。それで瀬川君は貴方のところへ来て、今迄|蔵(つゝ)んで居た素性を自白したのです。そこです――もし貴方に彼(あ)の男の真情(こゝろもち)が解りましたら、一つ助けてやらうといふ思想(かんがへ)を持つて下さることは出来ますまいか。」
「まあ、何と申上げて可(いゝ)か解りませんけれど――」とお志保は耳の根元までも紅(あか)くなつて、「私はもう其積りで居りますんですよ。」
「一生?」と銀之助はお志保の顔を熟視(まも)り乍ら尋ねた。
「はあ。」
このお志保の答は銀之助の心を驚したのである。愛も、涙も、決心も、すべて斯(こ)の一息のうちに含まれて居た。
(四)
兎(と)も角(かく)も是事(このこと)を話して友達の心を救はう。市村弁護士の宿へ行つて見た様子で、復(ま)た後の使にやつて来よう。斯う約束して、軈(やが)て銀之助は炉辺を離れようとした。
「あの、御願ひで御座ますが――」とお志保は呼留めて、「もし「懴悔録」といふ御本が御座ましたら、貸して頂く訳にはまゐりますまいか。まあ、私なぞが拝見したつて、どうせ解りはしますまいけれど。」
「「懴悔録」?」
「ホラ、猪子さんの御書きなすつたとかいふ――」
「むゝ、あれですか。よく貴方は彼様(あん)な本を御存じですね。」
「でも、瀬川さんが平素(しよつちゆう)読んでいらつしやいましたもの。」
「承知しました。多分瀬川君の許(ところ)に有ませうから、行つて話して見ませう――もし無ければ、何処(どこ)か捜(さが)して見て、是非一冊贈らせることにしませう。」
斯う言つて、銀之助は弁護士の宿を指して急いだ。
丁度扇屋では人々が蓮太郎の遺骸(なきがら)の周囲(まはり)に集つたところ。親切な亭主の計ひで、焼場の方へ送る前に一応亡くなつた人の霊魂(たましひ)を弔(とむら)ひたいといふ。読経(どきやう)は法福寺の老僧が来て勤めた。其日の午後東京から着いたといふ蓮太郎の妻君――今は未亡人――を始め、弁護士、丑松もかしこまつて居た。旅で死んだといふことを殊(こと)にあはれに思ふかして、扇屋の家の人もかはる/″\弔ひに来る。縁もゆかりも無い泊客ですら、其と聞伝へたかぎりは廊下に集つて、寂しい木魚の音に耳を澄すのであつた。
焼香も済み、読経も一きりに成つた頃、銀之助は丑松の紹介(ひきあはせ)で、始めて未亡人に言葉を交した。長野新聞の通信記者なぞも混雑(とりこみ)の中へ尋ねて来て、聞き取つたことを手帳に書留める。
「貴方が奥様(おくさん)でいらつしやいますか。」と記者は職掌柄らしい調子で言つた。
「はい。」と未亡人の返事。
「奥様、誠に御気の毒なことで御座ます。猪子先生の御名前は予(かね)て承知いたして居りまして、蔭乍(かげなが)ら御慕ひ申して居たのですが――」
「はい。」
斯(か)ういふ挨拶はすべて追憶(おもひで)の種であつた。人々の談話(はなし)は蓮太郎のことで持切つた。軈(やが)て未亡人は夫と一緒に信州へ来た当時のことを言出して、別れる前の晩に不思議な夢を見たこと、妙に夫の身の上が気に懸つたこと、其を言つて酷(ひど)く叱られたことなぞを話した。彼是を思合せると、彼時(あのとき)にもう夫は覚期(かくご)して居ることが有つたらしい――信州の小春は好いの、今度の旅行は面白からうの、土産(みやげ)はしつかり持つて帰るから家へ行つて待つて居れの、まあ彼(あれ)が長の別離(わかれ)の言葉に成つて了(しま)つた。斯う言つて、思ひがけない出来事の為に飛んだ迷惑を人々に懸けた、とかへす/″\気の毒がる。流石(さすが)に堪へがたい女の情もあらはれて、淡泊(さつぱり)した未亡人の言葉は反つて深い同情を引いたのである。
弁護士は銀之助を部屋の片隅へ招いた。相談といふは丑松の身に関したことであつた。弁護士の言ふには、丑松も今となつては斯の飯山に居にくい事情も有らうし、未亡人はまた未亡人で是から帰るには男の手を借りたくも有らうし、するからして、あの蓮太郎の遺骨を護つて、一緒に東京へ行つて貰ひたいが奈何だらう――選挙を眼前(めのまへ)にひかへさへしなければ、無論自身で随いて行くべきでは有るが、それは未亡人が強ひて辞退する。せめて斯の際選挙の方に尽力して夫の霊魂(たましひ)を慰めて呉れといふ。聞いて見れば未亡人の志も、尤(もつとも)。いつそ是(これ)は丑松を煩したい――一切の費用は自分の方で持つ――是非。とのことであつた。
「といふ訳で、瀬川さんにも御話したのですが、」と弁護士は銀之助の顔を眺め乍ら言つた。「学校の方の都合は、君、奈何(どん)なものでせう。」
「学校の方ですか。」と銀之助は受けて、「実は――瀬川君を休職にすると言つて、その下相談が有つたといふ位ですから、無論差支は有ますまいよ。校長の話では、郡視学も其積りで居るさうです。まあ、学校の方のことは僕が引受けて、奈何(どんな)にでも都合の好いやうに致しませう。一日も早く飯山を発ちました方が瀬川君の為には得策だらうと思ふんです。」
斯(か)ういふ相談をして居るところへ、棺(ひつぎ)が持運ばれた。復(ま)た読経の声が起つた。人々は最後の別離(わかれ)を告げる為に其棺の周囲(まはり)へ集つた。軈て焼場の方へ送られることに成つた頃は、もう四辺(そこいら)も薄暗かつたのである。いよ/\舁(かつ)がれて、「いたや」(北国にある木の名)造りの橇へ載せられる光景(ありさま)を見た時は、未亡人はもう其処へ倒れるばかりに泣いた。
(五)
火を入れるところまで見届けて、焼場から帰つた後、丑松は弁護士や銀之助と火鉢を取囲(とりま)いて、扇屋の奥座敷で話した。無情(つれな)い運命も、今は丑松の方へ向いて、微(すこ)し笑つて見せるやうに成つた。あの飯山病院から追はれ、鷹匠(たかしやう)町の宿からも追はれた大日向が――実は、放逐の恥辱(はづかしめ)が非常な奮発心を起させた動機と成つて――亜米利加(アメリカ)の「テキサス」で農業に従事しようといふ新しい計画は、意外にも市村弁護士の口を通して、丑松の耳に希望(のぞみ)を囁(さゝや)いた。教育のある、確実(たしか)な青年を一人世話して呉れ、とは予(かね)て弁護士が大日向から依頼されて居たことで、丁度丑松とは素性も同じ、定めし是話をしたら先方(さき)も悦(よろこ)ばう。望みとあらば周旋してやるが奈何(どう)か。「テキサス」あたりへ出掛ける気は無いか。心懸け次第で随分勉強することも出来よう。是話には銀之助も熱心に賛成した。「見給へ――捨てる神あれば、助ける神ありさ。」と銀之助は其を言ふのであつた。
「明後日の朝、大日向が我輩の宿へ来る約束に成つて居る。むゝ、丁度好い。兎(と)に角(かく)逢(あ)つて見ることにしたまへ。」
斯ういふ弁護士の言葉は、枯れ萎れた丑松の心を励(はげま)して、様子によつては頼んで見よう、働いて見ようといふ気を起させたのである。
そればかりでは無い。銀之助から聞いたお志保の物語――まあ、あの可憐な決心と涙とは奈何(どんな)に深い震動を丑松の胸に伝へたらう。敬之進の病気、継母の家出、そんなこんなが一緒に成つて、一層(ひとしほ)お志保の心情を可傷(いたは)しく思はせる。あゝ、絶望し、断念し、素性まで告白して別れた丑松の為に、ひそかに熱い涙をそゝぐ人が有らうとは。可羞(はづか)しい、とはいへ心の底から絞出(しぼりだ)した真実(まこと)の懴悔を聞いて、一生を卑賤(いや)しい穢多の子に寄せる人が有らうとは。
「どうして、君、彼(あ)の女はなか/\しつかりものだぜ。」
と銀之助は添加(つけた)して言つた。
其翌日、銀之助は友達の為に、学校へも行き、蓮華寺へも行き、お志保の許(ところ)へも行つた。蓮華寺にある丑松の荷物を取纏めて、直に要(い)るものは要るもの、寺へ預けるものは預けるもので見別(みわけ)をつけたのも、すべて銀之助の骨折であつた。銀之助はまた、お志保のことを未亡人にも話し、弁護士にも話した。女は女に同情(おもひやり)の深いもの。殊にお志保の不幸な境遇は未亡人の心を動したのであつた。行く/\は東京へ引取つて一緒に暮したい。丑松の身が極(きま)つた暁には自分の妹にして結婚(めあは)せるやうにしたい。斯(か)う言出した。兎(と)に角(かく)、後の事は弁護士も力を添へる、とある。といふ訳で、万事は弁護士と銀之助とに頼んで置いて、丑松は惶急(あわたゞ)しく飯山を発(た)つことに決めた。 
 
第弐拾参章

 

(一)
いよ/\出発の日が来た。払暁(よあけ)頃から霙(みぞれ)が降出して、扇屋に集る人々の胸には寂しい旅の思を添へるのであつた。
一台の橇(そり)は朝早く扇屋の前で停つた。下りた客は厚羅紗(あつらしや)の外套で深く身を包んだ紳士風の人、橇曳(そりひき)に案内させて、弁護士に面会を求める。「おゝ、大日向が来た。」と弁護士は出て迎へた。大日向は約束を違(たが)へずやつて来たので、薄暗いうちに下高井を発(た)つたといふ。上れと言はれても上りもせず、たゞ上(あが)り框(がまち)のところへ腰掛けた儘(まゝ)で、弁護士から法律上の智慧(ちゑ)を借りた。用談を済し、蓮太郎への弔意(くやみ)を述べ、軈(やが)てそこそこにして行かうとする。其時、弁護士は丑松のことを語り聞(きか)せて、
「まあ、上るさ――猪子君の細君も居るし、それに今話した瀬川君も一緒だから、是非逢つてやつて呉れたまへ。其様(そん)なところに腰掛けて居たんぢや、緩々(ゆつくり)談話(はなし)も出来ないぢや無いか。」
と強(し)ひるやうに言つた。然し大日向は苦笑(にがわらひ)するばかり。奈何(どんな)に薦(すゝ)められても、決して上らうとはしない。いづれ近い内に東京へ出向くから、猪子の家を尋ねよう。其折丑松にも逢はう。左様(さう)いふ気心の知れた人なら双方の好都合。委敷(くはし)いことは出京の上で。と飽迄(あくまで)も言ひ張る。
「其様(そんな)に今日は御急ぎかね。」
「いえ、ナニ、急ぎといふ訳でも有ませんが――」
斯(か)ういふ談話(はなし)の様子で、弁護士は大日向の顔に表れる片意地な苦痛を看て取つた。
「では、斯うして呉れ給へ。」と弁護士は考へた。上の渡しを渡ると休茶屋が有る。彼処で一同待合せて、今朝|発(た)つ人を送る約束。多分丑松の親友も行つて居る筈(はず)。一歩(ひとあし)先へ出掛けて待つて居て呉れないか。兎(と)に角(かく)丑松を紹介したいから。と呉々も言ふ。「むゝ、そんなら御待ち申しませう。」斯う約束して、とう/\大日向は上らずに行つて了つた。
「大日向も思出したと見えるなあ。」
と弁護士は独語(ひとりごと)のやうに言つて、旅の仕度に多忙(いそが)しい未亡人や丑松に話して笑つた。
蓮華寺の庄馬鹿もやつて来た。奥様からの使と言つて、餞別(せんべつ)のしるしに物なぞを呉れた。別に草鞋(わらぢ)一足、雪の爪掛一つ、其は庄馬鹿が手製りにしたもので、ほんの志ばかりに納めて呉れといふ。其時丑松は彼の寺住を思出して、何となく斯人(このひと)にも名残(なごり)が惜まれたのである。過去(すぎさ)つたことを考へると、一緒に蔵裏の内に居た人の生涯(しやうがい)は皆な変つた。住職も変つた。奥様も変つた。お志保も変つた。自分も亦た変つた。独り変らないのは、馬鹿々々と呼ばれる斯人ばかり。斯う丑松は考へ乍ら、斯の何時迄(いつまで)も児童(こども)のやうな、親戚も無ければ妻子も無いといふ鐘楼の番人に長の別離(わかれ)を告げた。
省吾も来た。手荷物があらば持たして呉れと言ひ入れる。間も無く一台の橇の用意も出来た。遺骨を納めた白木造りの箱は、白い布で巻いた上をまた黒で包んで、成るべく人目に着かないやうにした。橇の上には、斯(こ)の遺骨の外に、蓮太郎が形見のかず/\、其他丑松の手荷物なぞを載せた。世間への遠慮から、未亡人と丑松とは上の渡し迄歩いて、対岸の休茶屋で別に二台の橇を傭(やと)ふことにして、軈て一同「御機嫌|克(よ)う」の声に送られ乍ら扇屋を出た。
霙(みぞれ)は蕭々(しと/\)降りそゝいで居た。橇曳は饅頭笠(まんぢゆうがさ)を冠り、刺子(さしこ)の手袋、盲目縞(めくらじま)の股引といふ風俗で、一人は梶棒、一人は後押に成つて、互に呼吸を合せ乍(なが)ら曳いた。「ホウ、ヨウ」の掛声も起る。丑松は人々と一緒に、先輩の遺骨の後に随いて、雪の上を滑る橇の響を聞き乍ら、静かに自分の一生を考へ/\歩いた。猜疑(うたがひ)、恐怖(おそれ)――あゝ、あゝ、二六時中忘れることの出来なかつた苦痛(くるしみ)は僅かに胸を離れたのである。今は鳥のやうに自由だ。どんなに丑松は冷い十二月の朝の空気を呼吸して、漸(やうや)く重荷を下したやうな其蘇生の思に帰つたであらう。譬(たと)へば、海上の長旅を終つて、陸(をか)に上つた時の水夫の心地(こゝろもち)は、土に接吻(くちづけ)する程の可懐(なつか)しさを感ずるとやら。丑松の情は丁度其だ。いや、其よりも一層(もつと)歓(うれ)しかつた、一層哀しかつた。踏む度にさく/\と音のする雪の上は、確実(たしか)に自分の世界のやうに思はれて来た。
(二)
上の渡しの方へ曲らうとする町の角で、一同はお志保に出逢(であ)つた。
丁度お志保は音作を連れて、留守は音作の女房に頼んで置いて、見送りの為に其処に待合せて居たところ。丑松とお志保――実にこの二人の歓会は傍(はた)で観る人の心にすら深い/\感動を与へたのであつた。冠つて居る帽子を無造作に脱いで、お志保の前に黙礼したは、丑松。清(すゞ)しい、とはいへ涙に霑(ぬ)れた眸(ひとみ)をあげて、丑松の顔を熟視(まも)つたは、お志保。仮令(たとひ)口唇(くちびる)にいかなる言葉があつても、其時の互の情緒(こゝろもち)を表すことは出来なかつたであらう。斯(か)うして現世(このよ)に生きながらへるといふことすら、既にもう不思議な運命の力としか思はれなかつた。まして、さま/″\な境涯を通過(とほりこ)して、復(ま)た逢ふ迄の長い別離(わかれ)を告げる為に、互に可懐(なつか)しい顔と顔とを合せることが出来ようとは。
丑松の紹介で、お志保は始めて未亡人と弁護士とを知つた。女同志は直に一緒に成つて、言葉を交し乍ら歩き初めた。音作も亦(また)、丑松と弁護士との談話仲間(はなしなかま)に入つて、敬之進の容体などを語り聞せる。正直な、樸訥(ぼくとつ)な、農夫らしい調子で、主人思ひの音作が風間の家のことを言出した時は、弁護士も丑松も耳を傾けた。音作の言ふには、もしも病人に万一のことが有つたら一切は自分で引受けよう、そのかはりお志保と省吾の身の上を頼む――まあ、自分も子は無し、主人の許しは有るし、するからして、あのお末を貰受けて、形見と思つて育(やしな)ふ積りであると話した。
上の渡しの長い船橋を越えて対岸の休茶屋に着いたは間も無くであつた。そこには銀之助が早くから待受けて居た。例の下高井の大尽も出て迎へる。弁護士が丑松に紹介した斯(こ)の大日向といふ人は、見たところ余り価値(ねうち)の無ささうな――丁度田舎の漢方医者とでも言つたやうな、平凡な容貌(かほつき)で、これが亜米利加(アメリカ)の「テキサス」あたりへ渡つて新事業を起さうとする人物とは、いかにしても受取れなかつたのである。しかし、言葉を交して居るうちに、次第に丑松は斯人(このひと)の堅実(たしか)な、引締つた、どうやら底の知れないところもある性質を感得(かんづ)くやうに成つた。大日向は「テキサス」にあるといふ日本村のことを丑松に語り聞せた。北佐久の地方から出て遠く其日本村へ渡つた人々のことを語り聞せた。一人、相応の資産ある家に生れて、東京麻布の中学を卒業した青年も、矢張其渡航者の群に交つたことなぞを語り聞せた。
「へえ、左様(さう)でしたか。」と大日向は鷹匠町の宿のことを言出して笑つた。「貴方も彼処(あすこ)の家に泊つておいででしたか。いや、彼時は酷(ひど)い熱湯(にえゆ)を浴せかけられましたよ。実は、私も、彼様いふ目に逢はせられたもんですから、其が深因(もと)で今度の事業(しごと)を思立つたやうな訳なんです。今でこそ斯うして笑つて御話するやうなものゝ、どうして彼時は――全く、残念に思ひましたからなあ。」
盛んな笑声は腰掛けて居る人々の間に起つた。其時、大日向は飛んだところで述懐を始めたと心付いて、苦々しさうに笑つて、丑松と一緒にそこへ腰掛けた。
「かみさん――それでは先刻(さつき)のものを茲(こゝ)へ出して下さい。」
と銀之助は指図する。「お見立(みたて)」と言つて、別離(わかれ)の酒を斯の江畔(かうはん)の休茶屋で酌交(くみかは)すのは、送る人も、送られる人も、共に/\長く忘れまいと思つたことであつたらう。銀之助は其朝の亭主役、早くから来てそれ/″\の用意、万事無造作な書生流儀が反つて熱(あたゝか)い情を忍ばせたのである。
「いろ/\君には御世話に成つた。」と丑松は感慨に堪へないといふ調子で言つた。
「それは御互ひサ。」と銀之助は笑つて、「しかし、斯うして君を送らうとは、僕も思ひがけなかつたよ。送別会なぞをして貰つた僕の方が反(かへ)つて君よりは後に成つた。はゝゝゝゝ――人の一生といふ奴は実際解らないものさね。」
「いづれ復(ま)た東京で逢はう。」と丑松は熱心に友達の顔を眺(なが)める。
「あゝ、其内に僕も出掛ける。さあ何(なんに)もないが一盃(いつぱい)飲んで呉れ給へ。」と言つて、銀之助は振返つて見て、「お志保さん、済(す)みませんが、一つ御酌(おしやく)して下さいませんか。」
お志保は酒瓶(てうし)を持添へて勧めた。歓喜(よろこび)と哀傷(かなしみ)とが一緒になつて小な胸の中を往来するといふことは、其白い、優しい手の慄(ふる)へるのを見ても知れた。
「貴方(あなた)も一つ御上りなすつて下さい。」と銀之助は可羞(はづか)しがるお志保の手から無理やりに酒瓶(てうし)を受取つて、かはりに盃を勧め乍ら、「さあ、僕が御酌しませう。」
「いえ、私は頂けません。」とお志保は盃を押隠すやうにする。
「そりや不可(いけない)。」と大日向は笑ひ乍ら言葉を添へた。「斯(か)ういふ時には召上るものです。真似でもなんでも好う御座んすから、一つ御受けなすつて下さい。」
「ほんのしるしでサ。」と弁護士も横から。
「何卒(どうぞ)、それでは、少許(ぽつちり)頂かせて下さい。」
と言つて、お志保は飲む真似をして、紅(あか)くなつた。
(三)
次第に高等四年の生徒が集つて来た。其日の出発を聞伝へて、せめて見送りしたいといふ可憐な心根から、いづれも丑松を慕つてやつて来たのである。丑松は頬の紅い少年と少年との間をあちこちと歩いて、別離(わかれ)の言葉を交換(とりかは)したり、ある時は一つところに佇立(たちとゞま)つて、是(これ)から将来(さき)のことを話して聞せたり、ある時は又た霙(みぞれ)の降るなかを出て、枯々(かれ/″\)な岸の柳の下に立つて、船橋を渡つて来る生徒の一群(ひとむれ)を待ち眺(なが)めたりした。
蓮華寺で撞く鐘の音が起つた。第二の鐘はまた冬の日の寂寞(せきばく)を破つて、千曲川の水に響き渡つた。軈て其音が波うつやうに、次第に拡つて、遠くなつて、終(しまひ)に霙の空に消えて行く頃、更に第三の音が震動(ふる)へるやうに起る――第四――第五。あゝ庄馬鹿は今あの鐘楼に上つて撞き鳴らすのであらう。それは丑松の為に長い別離(わかれ)を告げるやうにも、白々と明初(あけそ)めた一生のあけぼのを報せるやうにも聞える。深い、森厳(おごそか)な音響に胸を打たれて、思はず丑松は首を垂れた。
第六――第七。
詞(ことば)の無い声は聞くものゝ胸から胸へ伝(つたは)つた。送る人も、送られる人も、暫時(しばらく)無言の思を取交したのである。
やがて橇(そり)の用意も出来たといふ。丑松は根津村に居る叔父夫婦のことを銀之助に話して、嘸(さぞ)あの二人も心配して居るであらう、もし自分の噂(うはさ)が姫子沢へ伝つたら、其為に叔父夫婦は奈何(どん)な迷惑を蒙(かうむ)るかも知れない、ひよつとしたら彼村(あのむら)には居られなくなる――奈何(どう)したものだらう。斯う言出した。「其時はまた其時さ。」と銀之助は考へて、「万事大日向さんに頼んで見給へ。もし叔父さんが根津に居られないやうだつたら、下高井の方へでも引越して行くさ。もう斯うなつた以上は、心配したつて仕方が無い――なあに、君、どうにか方法は着くよ。」
「では、其話をして置いて呉れ給へな。」
「宜(よろ)しい。」
斯う引受けて貰ひ、それから例の「懴悔録」はいづれ東京へ着いた上、新本を求めて、お志保のところへ送り届けることにしよう、と約束して、軈(やが)て丑松は未亡人と一緒に見送りの人々へ別離(わかれ)を告げた。弁護士、大日向、音作、銀之助、其他生徒の群はいづれも三台の橇(そり)の周囲(まはり)に集つた。お志保は蒼(あを)ざめて、省吾の肩に取縋(とりすが)り乍ら見送つた。
「さあ、押せ、押せ。」と生徒の一人は手を揚げて言つた。
「先生、そこまで御供しやせう。」とまた一人の生徒は橇の後押棒に掴(つかま)つた。
いざ、出掛けようとするところへ、準教員が霙の中を飛んで来て、生徒一同に用が有るといふ。何事かと、未亡人も、丑松も振返つて見た。蓮太郎の遺骨を載せた橇を先頭(はな)に、三台の橇曳は一旦入れた力を復(ま)た緩めて、手持無沙汰にそこへ佇立(たゝず)んだのであつた。
(四)
「其位(それくらゐ)のことは許して呉れたつても好ささうなものぢや無いか。」と銀之助は準教員の前に立つて言つた。「だつて君、考へて見給へ。生徒が自分達の先生を慕つて、そこまで見送りに随(つ)いて行かうと言ふんだらう。少年の情としては美しいところぢや無いか。寧(むし)ろ賞めてやつて好いことだ。それを学校の方から止めるなんて――第一、君が間違つてる。其様(そん)な使に来るのが間違つてる。」
「左様(さう)君のやうに言つても困るよ。」と準教員は頭を掻き乍ら、「何も僕が不可(いけない)と言つた訳では有るまいし。」
「それなら何故(なぜ)学校で不可と言ふのかね。」と銀之助は肩を動(ゆす)つた。
「届けもしないで、無断で休むといふ法は無い。休むなら、休むで、許可(ゆるし)を得て、それから見送りに行け――斯う校長先生が言ふのさ。」
「後で届けたら好からう。」
「後で? 後では届にならないやね。校長先生はもう非常に怒つてるんだ。勝野君はまた勝野君で、どうも彼組(あのくみ)の生徒は狡猾(ずる)くて不可(いかん)、斯ういふことが度々重ると学校の威信に関(かゝは)る、生徒として規則を守らないやうなものは休校させろ――まあ斯う言ふのさ。」
「左様器械的に物を考へなくつても好からう。何ぞと言ふと、校長先生や勝野君は、直に規則、規則だ。半日位休ませたつて、何だ――差支は無いぢやないか。一体、自分達の方から進んで生徒を許すのが至当(あたりまへ)だ。まあ勧めるやうにしてよこすのが至当だ。兎(と)も角(かく)も一緒に仕事をした交誼(よしみ)が有つて見れば、自分達が生徒を連れて見送りに来なけりやならない。ところが自分達は来ない、生徒も不可(いけない)、無断で見送りに行くものは罰するなんて――其様(そん)な無法なことがあるもんか。」
銀之助は事情を知らないのである。昨日校長が生徒一同を講堂に呼集めて、丑松の休職になつた理由を演説したこと、其時丑松の人物を非難したり、平素(ふだん)の行為(おこなひ)に就いて烈しい攻撃を加へたりして、寧ろ今度の改革は(校長はわざ/\改革といふ言葉を用ゐた)学校の将来に取つて非常な好都合であると言つたこと――そんなこんなは銀之助の知らない出来事であつた。あゝ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬(しつと)、人種としての軽蔑(けいべつ)――世を焼く火焔(ほのほ)は出発の間際まで丑松の身に追ひ迫つて来たのである。
あまり銀之助が激するので、丑松は一旦|橇(そり)を下りた。
「まあ、土屋君、好加減(いゝかげん)にしたら好からう。使に来たものだつて困るぢや無いか。」と丑松は宥(なだ)めるやうに言つた。
「しかし、あんまり解らないからさ。」と銀之助は聞入れる気色(けしき)も無かつた。「そんなら僕の時を考へて見給へ。あの時の送別会は半日以上かゝつた。僕の為に課業を休んで呉れる位なら、瀬川君の為に休むのは猶更(なほさら)のことだ。」と言つて、生徒の方へ向いて、「行け、行け――僕が引受けた。それで悪かつたら、僕が後で談判してやる。」
「行け、行け。」とある生徒は手を振り乍ら叫んだ。
「それでは、君、僕が困るよ。」と丑松は銀之助を押止めて、「送つて呉れるといふ志は有難いがね、其為に生徒に迷惑を掛けるやうでは、僕だつてあまり心地(こゝろもち)が好くない。もう是処(こゝ)で沢山(たくさん)だ――わざ/\是処|迄(まで)来て呉れたんだから、それでもう僕には沢山だ。何卒(どうか)、君、生徒を是処(こゝ)で返して呉れ給へ。」
斯う言つて、名残を惜む生徒にも同じ意味の言葉を繰返して、やがて丑松は橇に乗らうとした。
「御機嫌よう。」
それが最後にお志保を見た時の丑松の言葉であつた。
蕭条(せうでう)とした岸の柳の枯枝を経(へだ)てゝ、飯山の町の眺望(ながめ)は右側に展(ひら)けて居た。対岸に並び接(つゞ)く家々の屋根、ところ/″\に高い寺院の建築物(たてもの)、今は丘陵のみ残る古城の跡、いづれも雪に包まれて幽(かす)かに白く見渡される。天気の好い日には、斯(こ)の岸からも望まれる小学校の白壁、蓮華寺の鐘楼、それも霙の空に形を隠した。丑松は二度も三度も振向いて見て、ホツと深い大溜息を吐(つ)いた時は、思はず熱い涙が頬を伝つて流れ落ちたのである。橇(そり)は雪の上を滑り始めた。
   (明治三十九年三月) 
 
「千曲川のスケッチ」

 

 
敬愛する吉村さん――樹(しげる)さん――私は今、序にかえて君に宛(あ)てた一文をこの書のはじめに記(しる)すにつけても、矢張(やっぱり)呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸(ようや)く今|纏(まと)めることが出来た。
樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生れない前から君の家にまだ少年の身を托(たく)して、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋|久松町(ひさまつちょう)の小学校へ通われる頃は、私は白金(しろかね)の明治学院へ通った。君と私とは殆(ほと)んど兄弟のようにして成長して来た。私が木曾の姉の家に一夏を送った時には君をも伴った。その時がたしか君に取っての初旅であったと覚えている。私は信州の小諸(こもろ)で家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻と共に君を迎えた。その時の君は早や中学を卒(お)えようとするほどの立派な青年であった。君は一夏はお父さんを伴って来られ、一夏は君|独(ひと)りで来られた。この書の中にある小諸|城址(じょうし)の附近、中棚(なかだな)温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあろうと思う。私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、この書の全部を君に宛てて書いた。山の上に住んだ時の私からまだ中学の制服を着けていた頃の君へ。これが私には一番自然なことで、又たあの当時の生活の一番好い記念に成るような心地(こころもち)がする。
「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」
これは私が都会の空気の中から脱け出して、あの山国へ行った時の心であった。私は信州の百姓の中へ行って種々(いろいろ)なことを学んだ。田舎(いなか)教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。私の心は詩から小説の形式を択(えら)ぶように成った。この書の主(おも)なる土台と成ったものは三四年間ばかり地方に黙していた時の印象である。
樹さん、君のお父さんも最早(もう)居ない人だし、私の妻も居ない。私が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変えた。しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。今でも私は千曲川(ちくまがわ)の川上から川下までを生々(いきいき)と眼の前に見ることが出来る。あの浅間の麓(ふもと)の岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。あの土のにおいを嗅(か)ぐような気がする。私がつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」と「家」の一部、最近の短篇なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。このスケッチの中で知友|神津猛(こうづたけし)君が住む山村の附近を君に紹介しなかったのは遺憾である。私はこれまで特に若い読者のために書いたことも無かったが、この書はいくらかそんな積りで著(あらわ)した。寂しく地方に住む人達のためにも、この書がいくらかの慰めに成らばなぞとも思う。
  大正元年 冬   藤村 
 
その一

 

学生の家
地久節には、私は二三の同僚と一緒に、御牧(みまき)ヶ原(はら)の方へ山遊びに出掛けた。松林の間なぞを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上では大分|蕨(わらび)を採った。それから鴇窪(ときくぼ)という村へ引返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を送った。
私は今、小諸の城址(しろあと)に近いところの学校で、君の同年位な学生を教えている。君はこういう山の上への春がいかに待たれて、そしていかに短いものであると思う。四月の二十日頃に成らなければ、花が咲かない。梅も桜も李(すもも)も殆(ほと)んど同時に開く。城址の懐古園(かいこえん)には二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。すると、毎年きまりのように風雨がやって来て、一時(いちどき)にすべての花を浚(さら)って行って了(しま)う。私達の教室は八重桜の樹で囲繞(いにょう)されていて、三週間ばかり前には、丁度花束のように密集したやつが教室の窓に近く咲き乱れた。休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。学生等はその下を遊び廻って戯れた。殊(こと)に小学校から来たての若い生徒と来たら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。どうだろう、それが最早(もう)すっかり初夏の光景に変って了った。一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋(うずも)れていた。
私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりでは無い。平原(ひらはら)、小原(こはら)、山浦、大久保、西原、滋野(しげの)、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る。こういう学生は多く農家の青年だ。学校の日課が済むと、彼等は各自(めいめい)の家路を指して、松林の間を通り鉄道の線路に添い、あるいは千曲川(ちくまがわ)の岸に随(つ)いて、蛙(かわず)の声などを聞きながら帰って行く。山浦、大久保は対岸にある村々だ。牛蒡(ごぼう)、人参(にんじん)などの好い野菜を出す土地だ。滋野は北佐久(きたさく)の領分でなく、小県(ちいさがた)の傾斜にある農村で、その附近の村々から通って来る学生も多い。
ここでは男女(なんにょ)が烈(はげ)しく労働する。君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどということを知るまい。外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に収穫(とりいれ)休みというものがあるとか。何かの本でそんなことを読んだことがあった。私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。多忙(いそが)しい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければ成らない。彼等は又、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。
Sという学生は小原村から通って来る。ある日、私はSの家を訪ねることを約束した。私は小原のような村が好きだ。そこには生々とした樹蔭(こかげ)が多いから。それに、小諸からその村へ通う畠(はたけ)の間の平かな道も好きだ。
私は盛んな青麦の香を嗅(か)ぎながら出掛けて行った。右にも左にも麦畠がある。風が来ると、緑の波のように動揺する。その間には、麦の穂の白く光るのが見える。こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は圧(お)しつけられるような心持(こころもち)に成る。可怖(おそろ)しい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
近頃Sの家では牛乳屋を始めた。可成(かなり)大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。十人、十五人の大きな家族さえある。Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃(いんぎん)な家族の人達が私の心を惹(ひ)いた。
君は農家を訪れたことがあるか。入口の庭が広く取ってあって、台所の側(わき)から直(じか)に裏口へ通り抜けられる。家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。この家の土間は葡萄棚(ぶどうだな)などに続いて、その横に牛小屋が作ってある。三頭ばかりの乳牛(ちちうし)が飼われている。
Sの兄は大きなバケツを提(さ)げて、牛小屋の方から出て来た。戸口のところには、Sが母と二人で腰を曲(かが)めて、新鮮な牛乳を罎詰(びんづめ)にする仕度(したく)をした。暫時(しばらく)、私は立って眺(なが)めていた。
やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々(いろいろ)な話を聞いた。牛の性質によって温順(おとな)しく乳を搾(しぼ)らせるのもあれば、それを惜むのもある。アバレるやつ、沈着(おちつ)いたやつ、いろいろある。牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西(にし)の入(いり)の牧場(まきば)なぞが設けてあることを聞いた。
晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。
鉄砲虫
この山の上で、私はよく光沢(つやけ)の無い茶色な髪の娘に逢う。どうかすると、灰色に近いものもある。草葺(くさぶき)の小屋の前や、桑畠(くわばたけ)の多い石垣の側なぞに、そういう娘が立っているさまは、いかにも荒い土地の生活を思わせる。
「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」
学校の小使が私にこんなことを言った。
烏帽子山麓(えぼしさんろく)の牧場
水彩画家B君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の根津村に画室を新築した。以前、私達の学校へは同じ水彩画家のM君が教えに来てくれていたが、M君は沢山信州の風景を描いて、一年ばかりで東京の方へ帰って行った。今ではB君がその後をうけて生徒に画学を教えている。B君は製作の余暇に、毎週根津村から小諸まで通って来る。
土曜日に、私はこの画家を訪ねるつもりで、小諸から田中まで汽車に乗って、それから一里ばかり小県(ちいさがた)の傾斜を上った。
根津村には私達の学校を卒業したOという青年が居る。Oは兵学校の試験を受けたいと言っているが、最早(もう)一人前の農夫として恥しからぬ位だ。私はその家へも寄って、Oの母や姉に逢った。Oの母は肥満した、大きな体格の婦人で、赤い艶々(つやつや)とした頬(ほお)の色なぞが素樸(そぼく)な快感を与える。一体千曲川の沿岸では女がよく働く、随(したが)って気象も強い。恐らく、これは都会の婦人ばかり見慣れた君なぞの想像もつかないことだろう。私は又、この土地で、野蛮な感じのする女に遭遇(であ)うこともある。Oの母にはそんな荒々しさが無い。何しろこの婦人は驚くべき強健な体格だ。Oの姉も労働に慣れた女らしい手を有(も)っていた。
私はB君や、B君の隣家(となり)の主人に誘われて、根津村を見て廻った。隣家の主人はB君が小学校時代からの友達であるという。パノラマのような風光は、この大傾斜から擅(ほしいまま)に望むことが出来た。遠く谷底の方に、千曲川の流れて行くのも見えた。
私達は村はずれの田圃道(たんぼみち)を通って、ドロ柳の若葉のかげへ出た。谷川には鬼芹(おにぜり)などの毒草が茂っていた。小山の裾(すそ)を選んで、三人とも草の上に足を投出した。そこでB君の友達は提(さ)げて来た焼酎(しょうちゅう)を取出した。この草の上の酒盛の前を、時々若い女の連(つれ)が通った。草刈に行く人達だ。
B君の友達は思出したように、
「君とここで鉄砲打ちに来て、半日飲んでいたっけナ」
と言うと、B君も同じように洋行以前のことを思出したらしい調子で、
「もう五年前だ――」
と答えた。B君は写生帳を取出して、灰色なドロ柳の幹、風に動くそのやわらかい若葉などを写し写し話した。一寸(ちょっと)散歩に出るにも、この画家は写生帳を離さなかった。
翌日は、私はB君と二人ぎりで、烏帽子ヶ岳の麓(ふもと)を指して出掛けた。私が牧場(まきば)のことを尋ねたら、B君も写生かたがた一緒に行こうと言出したので、到頭私は一晩厄介に成った。尤(もっと)も、この村から牧場のあるところへは、更に一里半ばかり上らなければ成らない。案内なしに、私などの行かれる場処では無かった。
夏山――山鶺鴒(やませきれい)――こういう言葉を聞いただけでも、君は私達の進んで行く山道を想像するだろう。「のっぺい」と称する土は乾いていて灰のよう。それを踏んで雑木林の間にある一条(ひとすじ)の細道を分けて行くと、黄勝なすずしい若葉のかげで、私達は旅の商人に逢った。
更に山深く進んだ。山鳩なぞが啼(な)いていた。B君は歩きながら飛騨(ひだ)の旅の話を始めて、十一という鳥を聞いた時の淋(さび)しかったことを言出した。「十一……十一……十一……」とB君は段々声を細くして、谷を渡って行く鳥の啼声を真似(まね)て聞かせた。そのうちに、私達はある岡の上へ出て来た。
君、白い鈴のように垂下った可憐(かれん)な草花の一面に咲いた初夏の光に満ちた岡の上を想像したまえ。私達は、あの香気(かおり)の高い谷の百合(ゆり)がこんなに生(は)えている場所があろうとは思いもよらなかった。B君は西洋でこの花のことを聞いて来て、北海道とか浅間山脈とかにあるとは知っていたが、なにしろあまり沢山あるので終(しまい)には採る気もなかった。二人とも足を投出して草の中に寝転(ねころ)んだ。まるで花の臥床(しとね)だ。谷の百合は一名を君影草(きみかげそう)とも言って、「幸福の帰来」を意味するなどと、花好きなB君が話した。
話の面白い美術家と一緒で、牧場へ行き着くまで、私は倦(う)むことを知らなかった。岡の上には到るところに躑躅(つつじ)の花が咲いていた。この花は牛が食わない為に、それでこう繁茂しているという。
一周すれば二里あまりもあるという広々とした高原の一部が私達の眼にあった。牛の群が見える。何と思ったか、私達の方を眼掛(めが)けて突進してくる牛もある。こうして放し飼にしてある牛の群の側を通るのは、慣れない私には気味悪く思われた。私達は牧夫の住んでいる方へと急いだ。
番小屋は谷を下りたところにあった。そこへ行く前に沢の流れに飲んでいる小牛、蕨(わらび)を採っている子供などに逢った。牛が来て戸や障子を突き破るとかで、小屋の周囲(まわり)には柵(さく)が作ってある。年をとった牧夫が住んでいた。僅(わず)かばかりの痩(や)せた畑もこの老爺(ろうや)が作るらしかった。破れた屋根の下で、牧夫は私達の為に湯を沸かしたり、茶を入れたりしてくれた。
壁には鋸(のこぎり)、鉈(なた)、鎌(かま)の類を入れた「山猫」というものが掛けてあった。こんな山の中までよく訪ねて来てくれたという顔付で、牧夫は私達に牛飼の経験などを語り、この牧場の管理人から月に十円の手宛(てあて)を貰(もら)っていることや、自分は他の牧場からこの西(にし)の入(いり)の沢へ移って来たものであることなどを話した。牛は角がかゆい、それでこすりつけるようにして、物を破壊(こわ)して困るとか言った。今は草も短く、少いから、草を食い食い進むという話もあった。
牧夫は一寸考えて、見えなくなった牛のことを言出した。あの山間(やまあい)の深い沢を、山の湯の方へ行ったかと思う、とも言った。
「ナニ、あの沢は裾まで下りるなんてものじゃねえ。柳の葉でもこいて食ってら」
こう復(ま)た考え直したように、その牛のことを言った。
間もなく私達は牧夫に伴われて、この番小屋を出た。牧夫は、多くの牛が待っているという顔付で、手に塩を提げて行った。途次(みちみち)私達に向って、「この牧場は芝草ですから、牛の為に好いです」とか「今は木が低いから、夏はいきれていけません」とか、種々(いろいろ)な事を言って聞かせた。
ここへ来て見ると、人と牛との生涯が殆(ほと)んど混り合っているかのようである。この老爺は、牛が塩を嘗(な)めて清水を飲みさえすれば、病も癒(い)えるということまで知悉(しりつく)していた。月経期の牝牛(めうし)の鳴声まで聞き分ける耳を持っていた。
アケビの花の紫色に咲いている谷を越して、復た私達は牛の群の見えるところへ出た。牧夫が近づいて塩を与えると、黒い小牛が先ず耳を振りながらやって来た。つづいて、額の広い、目付の愛らしい赤牛や、首の長い斑(ぶち)なぞがぞろぞろやって来て、「御馳走(ごちそう)」と言わないばかりに頭を振ったり尻尾(しっぽ)を振ったりしながら、塩の方へ近づいた。牧夫は私達に、牛もここへ来たばかりには、家を懐(なつか)しがるが、二日も経てば慣れて、強い牛は強い牛と集り、弱い牛は弱い牛と組を立てるなどと話した。向うの傾斜の方には、臥(ね)たり起きたりして遊んでいる牛の群も見える……
この牧場では月々五十銭ずつで諸方(ほうぼう)の持主から牝牛を預っている。そういう牝牛が今五十頭ばかり居る。種牛は一頭置いてある。牧夫が勤めの主なるものは、牛の繁殖を監督することであった。礼を言って、私達はこの番人に別れた。 
 
その二

 

青麦の熟する時
学校の小使は面白い男で、私に種々(いろいろ)な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頬(ほお)の紅い彼の妻が子供を背負(おぶ)ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣(や)る。校長の家では毎年|可成(かなり)な農家ほどに野菜を作った。燕麦(からすむぎ)なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川(ちくまがわ)の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一|隅(ぐう)を占めている。窓は四つある。その一方の窓からは、群立した松林、校長の家の草屋根などが見える。一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠(くわばたけ)、竹藪(たけやぶ)などが見える。遠い山々の一部分も望まれる。
粗末ではあるが眺望(ちょうぼう)の好い、その窓の一つに倚(よ)りながら、私は小使から六月の豆蒔(まめまき)の労苦を聞いた。地を鋤(す)くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋(わらじ)を穿(は)いて漸(ようや)くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠(こぬか)一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒(ま)くという。麦は矢張小作の年貢(ねんぐ)の中に入って、夏の豆、蕎麦(そば)なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。これは小使の私に話したことだ。そう言えば、なまぬるい、微(かすか)な西風が私達の顔を撫(な)でて、窓の外を通る時候に成って来た。
少年の群
学校の帰路(かえりみち)に、鉄道の踏切を越えた石垣の下のところで、私は少年の群に逢った。色の黒い、二本棒の下った、藁草履(わらぞうり)を穿(は)いた子供等で、中には素足のまま土を踏んでいるのもある。「野郎」、「この野郎」、と互に顔を引掻(ひっか)きながら、相撲(すもう)を取って遊んでいた。
何処(どこ)の子供も一種の俳優(やくしゃ)だ。私という見物がそこに立って眺(なが)めると、彼等は一層調子づいた。これ見よがしに危い石垣の上へ登るのもあれば、「怪我しるぞ」と下に居て呼ぶのもある。その中で、体躯(なり)の小な子供に何歳(いくつ)に成るかと聞いてみた。
「おら、五歳(いつつ)」とその子供が答えた。
水車小屋の向うの方で、他の少年の群らしい声がした。そこに遊んでいた子供の中には、それを聞きつけて、急に馳出(かけだ)すのもあった。
「来ねえか、この野郎――ホラ、手を引かれろ」
とさすがに兄らしいのが、年下(としした)の子供の手を助けるように引いた。
「やい、米でも食(くら)え」
こんなことを言って、いきなり其処(そこ)にある草を毟(むし)って、朋輩(ほうばい)の口の中へ捻込(ねじこ)むのもあった。
すると、片方(かたっぽう)も黙ってはいない。覚えておれと言わないばかりに、「この野郎」と叫んだ。
「畜生!」一方は軽蔑(けいべつ)した調子で。
「ナニ? この野郎」片方は石を拾って投げつける。
「いやだいやだ」
と笑いながら逃げて行く子供を、片方は棒を持って追馳(おっか)けた。乳呑児(ちのみご)を背負(おぶ)ったまま、その後を追って行くのもあった。
君、こういう光景(ありさま)を私は学校の往還(ゆきかえり)に毎日のように目撃する。どうかすると、大人が子供をめがけて、石を振上げて、「野郎――殺してくれるぞ」などと戯れるのを見ることもある。これが、君、大人と子供の間に極く無邪気に、笑いながら交換(とりかわ)される言葉である。
東京の下町の空気の中に成長した君なぞに、この光景(ありさま)を見せたら、何と言うだろう。野蛮に相違ない。しかし、君、その野蛮は、疲れた旅人の官能に活気と刺戟(しげき)とを与えるような性質のものだ。
麦畠
青い野面(のら)には蒸すような光が満ちている。彼方此方(あちこち)の畠|側(わき)にある樹木も活々(いきいき)とした新葉を着けている。雲雀(ひばり)、雀(すずめ)の鳴声に混って、鋭いヨシキリの声も聞える。
火山の麓にある大傾斜を耕して作ったこの辺の田畠(たはた)はすべて石垣によって支えられる。その石垣は今は雑草の葉で飾られる時である。石垣と共に多いのは、柿の樹だ。黄勝(きがち)な、透明な、柿の若葉のかげを通るのも心地が好い。
小諸はこの傾斜に添うて、北国(ほっこく)街道の両側に細長く発達した町だ。本町(ほんまち)、荒町(あらまち)は光岳寺を境にして左右に曲折した、主(おも)なる商家のあるところだが、その両端に市町(いちまち)、与良町(よらまち)が続いている。私は本町の裏手から停車場と共に開けた相生町(あいおいちょう)の道路を横ぎり、古い士族屋敷の残った袋町(ふくろまち)を通りぬけて、田圃側(たんぼわき)の細道へ出た。そこまで行くと、荒町、与良町と続いた家々の屋根が町の全景の一部を望むように見られる。白壁、土壁は青葉に埋れていた。
田圃側の草の上には、土だらけの足を投出して、あおのけさまに寝ている働き労(つか)れたらしい男があった。青麦の穂は黄緑(こうりょく)に熟しかけていて、大根の花の白く咲き乱れたのも見える。私は石垣や草土手の間を通って石塊(いしころ)の多い細道を歩いて行った。そのうちに与良町に近い麦畠の中へ出て来た。
若い鷹(たか)は私の頭の上に舞っていた。私はある草の生えた場所を選んで、土のにおいなどを嗅(か)ぎながら、そこに寝そべった。水蒸気を含んだ風が吹いて来ると、麦の穂と穂が擦(す)れ合って、私語(ささや)くような音をさせる。その間には、畠に出て「サク」を切っている百姓の鍬(くわ)の音もする……耳を澄ますと、谷底の方へ落ちて行く細い水の響も伝わって来る。その響の中に、私は流れる砂を想像してみた。しばらく私はその音を聞いていた。しかし、私は野鼠のように、独(ひと)りでそう長く草の中には居られない。乳色に曇りながら光る空なぞは、私の心を疲れさせた。自然は、私に取っては、どうしても長く熟視(みつ)めていられないようなものだ……どうかすると逃げて帰りたく成るようなものだ。
で、復(ま)た私は起き上った。微温(なまぬる)い風が麦畠を渡って来ると、私の髪の毛は額へ掩(おお)い冠(かぶ)さるように成った。復た帽子を冠って、歩き廻った。
畠の間には遊んでいる子供もあった。手甲(てっこう)をはめ、浅黄(あさぎ)の襷(たすき)を掛け、腕をあらわにして、働いている女もあった。草土手の上に寝かされた乳呑児が、急に眼を覚まして泣出すと、若い母は鍬を置いて、その児の方へ馳けて来た。そして、畠中で、大きな乳房の垂下った懐(ふところ)をさぐらせた。私は無心な絵を見る心地(ここち)がして、しばらくそこに立って、この母子(おやこ)の方を眺(なが)めていた。草土手の雑草を刈取ってそれを背負って行く老婆もあった。
与良町の裏手で、私は畠に出て働いているK君に逢った。K君は背の低い、快活な調子の人で、若い細君を迎えたばかりであったが、行く行くは新時代の小諸を形造る壮年(わかもの)の一人として、土地のものに望を嘱されている。こういう人が、畠を耕しているということも面白く思う。
胡麻塩頭(ごましおあたま)で、目が凹(くぼ)んで、鼻の隆(たか)い、節々のあらわれたような大きな手を持った隠居が、私達の前を挨拶(あいさつ)して通った。腰には角(つの)の根つけの付いた、大きな煙草入をぶらさげていた。K君はその隠居を指して、この辺で第一の老農であると私に言って聞かせた。隠居は、何か思い付いたように、私達の方を振返って、白い短い髭(ひげ)を見せた。
肥桶(こやしおけ)を担(かつ)いだ男も畠の向を通った。K君はその男の方をも私に指して見せて、あの桶の底には必(きっ)と葱(ねぎ)などの盗んだのが入っている、と笑いながら言った。それから、私は髪の赤白髪(あかしらが)な、眼の色も灰色を帯びた、酒好らしい赤ら顔の農夫にも逢った。
古城の初夏
私の同僚に理学士が居る。物理、化学なぞを受持っている。
学校の日課が終った頃、私はこの年老いた学士の教室の側を通った。戸口に立って眺めると、学士も授業を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒等に説明していた。机の上には、大理石の屑(くず)、塩酸の壜(びん)、コップ、玻璃管(ガラスくだ)などが置いてあった。蝋燭(ろうそく)の火も燃えていた。学士は、手にしたコップをすこし傾(かし)げて見せた。炭素はその玻璃板の蓋(ふた)の間から流れた。蝋燭の火は水を注ぎかけられたように消えた。
無邪気な学生等は学士の机の周囲(まわり)に集って、口を開いたり、眼を円(まる)くしたりして眺めていた。微笑(ほほえ)むもの、腕組するもの、頬杖(ほおづえ)突くもの、種々雑多の様子をしていた。そのコップの中へ鳥か鼠(ねずみ)を入れると直(すぐ)に死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立上った。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
問をかけた生徒は、つと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹の側にあらわれた。
「アア、虫を取りに行った」
と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は茂った桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく何か捕(つかま)えて戻って来た。それを学士にすすめた。
「蜂(はち)ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「ア、怒ってる――螫(さ)すぞ螫すぞ」
口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反(そ)らして、螫されまいとする様子をした。その蜂をコップの中へ入れた時は、生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」というものもある。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶(もだ)えて、死んだ。
「最早(もう)マイりましたかネ」
と学士も笑った。
その日は、校長はじめ、他の同僚も懐古園(かいこえん)の方へ弓をひきに出掛けた。あの緑蔭には、同志の者が集って十五間ばかりの矢場を造ってある。私も学士に誘われて、学校から直(じか)に城址(しろあと)の方へ行くことにした。
はじめて私が学士に逢った時は、唯(ただ)こんな田舎へ来て隠れている年をとった学者と思っただけで、そう親しく成ろうとは思わなかった。私達は――三人の同僚を除いては、皆な旅の鳥で、その中でも学士は幾多の辛酸を嘗(な)め尽して来たような人である。服装(みなり)なぞに極く関(かま)わない、授業に熱心な人で、どうかすると白墨で汚れた古洋服を碌(ろく)に払わずに着ているという風だから、最初のうちは町の人からも疎(うと)んぜられた。服装と月給とで人間の価値(ねうち)を定(き)めたがるのは、普通一般の人の相場だ。しかし生徒の父兄達も、次第に学士の親切な、正直な、尊い性質を認めないわけに行かなかった。これ程何もかも外部(そと)へ露出した人を、私もあまり見たことが無い。何時の間にか私はこの老学士と仲好(なかよし)に成って自分の身内からでも聞くように、その制(おさ)えきれないような嘆息や、内に憤る声までも聞くように成った。
私達は揃(そろ)って出掛けた。学士の口からは、時々軽い仏蘭西(フランス)語なぞが流れて来る。それを聞く度(たび)に、私は学士の華やかな過去を思いやった。学士は又、そんな関わない風采(ふうさい)の中にも、何処(どこ)か往時(むかし)の瀟洒(しょうしゃ)なところを失わないような人である。その胸にはネキタイが面白く結ばれて、どうかすると見慣れない襟留(えりどめ)なぞが光ることがある。それを見ると、私は子供のように噴飯(ふきだ)したくなる。
白い黄ばんだ柿の花は最早到る処に落ちて、香気を放っていた。学士は弓の袋や、クスネの類を入れた鞄(かばん)を提げて歩きながら、
「ねえ、実はこういう話サ。私共の二番目の伜(せがれ)が、あれで子供仲間じゃナカナカ相撲(すもう)が取れるんですトサ。此頃(こないだ)もネ、弓の弦(つる)を褒美(ほうび)に貰って来ましたがネ、相撲の方の名が可笑(おか)しいんですよ。何だッて聞きましたらネ――沖の鮫(さめ)」
私は笑わずにいられなかった。学士も笑を制えかねるという風で、
「兄のやつも名前が有るんですよ。貴様は何とつけたと聞きましたら、父さんが弓が御好きだから、よく当るように矢当りとつけましたトサ。ええ、矢当りサ。子供というものは可笑しなものですネ」
こういう阿爺(おとっ)さんらしい話を聞きながら古い城門の前あたりまで行くと馬に乗った医者が私達に挨拶して通った。
学士は見送って、
「あの先生も、鶏に、馬に、小鳥に、朝顔――何でもやる人ですナ。菊の頃には菊を作るし、よく何処の田舎にも一人位はああいう御医者で奇人が有るもんです。「なアに他の奴等は、ありゃ医者じゃねえ、薬売りだ、とても話せない」なんて、エライ気焔(きえん)サ。でも、面白い気象の人で、在へでも行くと、薬代がなけりゃ畠の物でも何でもいいや、葱(ねぎ)が出来たら提げて来い位に言うものですから、百姓仲間には非常に受が好い……」
奇人はこの医者ばかりでは無い。旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣(つり)に行く隠士風の人もあれば、姉と二人ぎり城門の傍(かたわら)に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。旧士族には奇人が多い。時世が、彼等を奇人にして了(しま)った。
もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀(どべい)、礎(いしずえ)ばかり残った桑畠なぞを見、離散した多くの家族の可傷(いたま)しい歴史を聞き、振返って本町、荒町の方に町人の繁昌(はんじょう)を望むなら、「時」の歩いた恐るべき足跡を思わずにいられなかろう。しかし他の土地へ行って、頭角を顕(あらわ)すような新しい人物は、大抵教育のある士族の子孫だともいう。
今、弓を提げて破壊された城址(しろあと)の坂道を上って行く学士も、ある藩の士族だ。校長は、江戸の御家人とかだ。休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
私はこの古城址(こじょうし)に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々(たにだに)の雪は、ここから白壁を望むように見える。
懐古園内の藤、木蘭(もくれん)、躑躅(つつじ)、牡丹(ぼたん)なぞは一時花と花とが映り合って盛んな香気を発したが、今では最早濃い新緑の香に変って了った。千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。谷の深さは、それだけでも想像されよう。海のような浅間一帯の大傾斜は、その黒ずんだ松の樹の下へ行って、一線に六月の空に横(よこた)わる光景(さま)が見られる。既に君に話した烏帽子山麓の牧場、B君の住む根津村なぞは見えないまでも、そこから松林の向に指すことが出来る。私達の矢場を掩う欅(けやき)、楓(かえで)の緑も、その高い石垣の上から目の下に瞰下(みおろ)すことが出来る。
境内には見晴しの好い茶屋がある。そこに預けて置いた弓の道具を取出して、私は学士と一緒に苔蒸(こけむ)した石段を下りた。静かな矢場には、学校の仲間以外の顔も見えた。
「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」
「一年の御|稽古(けいこ)でも、しばらく休んでいると、まるで当らない。なんだか串談(じょうだん)のようですナ」
「こりゃ驚いた。尺二(しゃくに)ですぜ。しっかり御頼申(おたのもう)しますぜ」
「ボツン」
「そうはいかない――」
こんな話が、強弓(ごうきゅう)をひく漢学の先生や、体操の教師などの間に起る。理学士は一番弱い弓をひいたが、熱心でよく当った。
古城址といえば、全く人の住まないところのように君には想像されたろう。私は残った城門の傍(かたわら)にある門番と、園内の茶屋とを君に紹介した。まだその外に、鶏を養(か)う人なぞも住んでいる。この人は病身で、無聊(ぶりょう)に苦むところから、私達の矢場の方へ遊びに来る。そして、私達の弓が揃って引絞られたり、矢の羽が頬を摺(す)ったりする後方(うしろ)に居て、奇警な批評を浴せかける。戯れに、
「どうです。先生、もう弓も飽いたから――貴様、この矢場で、鳥でも飼え、なんと来た日にゃあ、それこそ此方(こっち)のものだ……しかしこの弓は、永代(えいたい)続きそうだテ」こんなことを言って混返(まぜかえ)すので、折角入れた力が抜けて、弓もひけないものが有った。
小諸へ来て隠れた学士に取って、この緑蔭は更に奥の方の隠れ家のように見えた。愛蔵する鷹の羽の矢が揃って白い的の方へ走る間、学士はすべてを忘れるように見えた。
急に、熱い雨が落ちて来た。雷(らい)の音も聞えた。浅間は麓まで隠れて、灰色に煙るように見えた。いくつかの雲の群は風に送られて、私達の頭の上を山の方へと動いた。雨は通過ぎたかと思うと復(また)急に落ちて来た。「いよいよ本物かナ」と言って、学士は新しく自分で張った七寸|的(まと)を取除(とりはず)しに行った。
城址の桑畠には、雨に濡(ぬ)れながら働いている人々もあった。皆なで雲行を眺めていると、初夏らしい日の光が遽(にわ)かに青葉を通して射して来た。弓仲間は勇んで一手ずつ射はじめた。やがて復たザアと降って来た。到頭一同は断念して、茶屋の方へ引揚(ひきあ)げた。
私が学士と一緒に高い荒廃した石垣の下を帰って行く途中、東の空に深い色の虹(にじ)を見た。実に、学士はユックリユックリ歩いた。 
 
その三

 

山荘
浅間の方から落ちて来る細流は竹藪(たけやぶ)のところで二つに別れて、一つは水車小屋のある窪(くぼ)い浅い谷の方へ私の家の裏を横ぎり、一つは馬場裏の町について流れている。その流に添う家々は私の家の組合だ。私は馬場裏へ移ると直ぐその組合に入れられた。一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ。私は本町へ買物に出るにも組合の家の横手からすこし勾配(こうばい)のある道を上らねばならぬ。
組合頭(くみあいがしら)は勤勉な仕立屋の亭主だ。この人が日頃出入する本町のある商家から、商売(あきない)も閑(ひま)な頃で店の人達は東沢の別荘へ休みに行っている、私を誘って仕立屋にも遊びに来ないか、とある日番頭が誘いに来たとのことであった。
私は君に古城の附近をすこし紹介した。町家の方の話はまだ為(し)なかった。仕立屋に誘われて商家の山荘を見に行った時のことを話そう。
君は地方にある小さい都会へ旅したことが有るだろう。そこで行き逢う人々の多くは
――近在から買物に来た男女だとか、旅人だとかで――案外町の人の少いのに気が着いたことが有るだろう。田舎の神経質はこんなところにも表れている。小諸がそうだ。裏町や、小路(こうじ)や、田圃側(たんぼわき)の細い道なぞを択(えら)んで、勝手を知った人々は多く往(い)ったり来たりする。
私は仕立屋と一緒に、町家の軒を並べた本町の通を一|瞥(べつ)して、丁度そういう田圃側の道へ出た。裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれている。中には高い三層の窓が城郭のように曇日に映じている。その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾(のれん)と対照を成して土地の気質や殷富(とみ)を表している。
麦秋(むぎあき)だ。一年に二度ずつ黄色くなる野面(のら)が、私達の両側にあった。既に刈取られた麦畠も多かった。半道ばかり歩いて行く途中で、塩にした魚肉の薦包(こもづつみ)を提げた百姓とも一緒に成った。
仕立屋は百姓を顧みて、
「もうすっかり植付が済みましたかネ」
「はい、漸(ようや)く二三日前に。これでも昔は十日前に植付けたものでごわすが、近頃はずっと遅く成りました。日蔭に成る田にはあまり実入(みいり)も無かったものだが、この節では一ぱいに取れますよ」
「暖くなった故(せい)かナ」
「はい、それもありますが、昔と違って田の数がずっと殖えたものだから、田の水もウルミが多くなってねえ」
百姓は眺め眺め答えた。
東沢の山荘には商家の人達が集っていた。店の方には内儀(かみ)さん達と、二三の小僧とを残して置いて、皆なここへ遊びに来ているという。東京の下町に人となった君は――日本橋|天馬町(てんまちょう)の針問屋とか、浅草|猿屋町(さるやちょう)の隠宅とかは、君にも私に可懐(なつか)しい名だ――恐らく私が今どういう人達と一緒に成ったか、君の想像に上るであろうと思う。
山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。左に浅い谷を囲んだ松林の方は曇って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士の山巓(さんてん)も望まれるという。池の辺(ほとり)に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。仕立屋は庭の高麗檜葉(こうらいひば)を指して見せて、特に東京から取寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹(ひ)かなかった。
私達は眺望(ちょうぼう)のある二階の部屋へ案内された。田舎縞(いなかじま)の手織物を着て紺の前垂を掛けた、髪も質素に短く刈ったのが、主人であった。この人は一切の主権を握る相続者ではないとのことであったが、しかし堅気な大店(おおだな)の主人らしく見えた。でっぷり肥った番頭も傍(かたわら)へ来た。池の鯉(こい)の塩焼で、主人は私達に酒を勧めた。階下(した)には五六人の小僧が居て、料理方もあれば、通いをするものもあった。
一寸したことにも、質素で厳格な大店の家風は表れていた。番頭は、私達の前にある冷豆腐(ひややっこ)の皿にのみ花鰹節(はながつお)が入って、主人と自分のにはそれが無いのを見て、「こりゃ醤油(しょうゆ)ばかしじゃいけねえ。オイ、鰹節(おかか)をすこしかいて来ておくれ」
と楼梯(はしごだん)のところから階下(した)を覗(のぞ)いて、小僧に吩咐(いいつ)けた。間もなく小僧はウンと大きく削った花鰹節を二皿持って上って来た。
やがて番頭は階下から将棋の盤を運んだ。それを仕立屋の前に置いた。二枚落しでいこうと番頭が言った。仕立屋は二十年以来ぱったり止めているが、万更でも無いからそれじゃ一つやるか、などと笑った。主人も好きな道と見えて、覗き込んで、仕立屋はなかなか質(たち)が好いようだとか、そこに好い手があるとか、しきりと加勢をしたが、そのうちに客の敗と成った。番頭は盃(さかずき)を啣(ふく)んで、「さあ誰でも来い」という顔付をした。「お貸しなさい、敵打(かたきうち)だ」と主人は飛んで出て、番頭を相手に差し始める。どうやら主人の手も悪く成りかけた。番頭はぴッしゃり自分の頭を叩(たた)いて、「恐れ入ったかな」と舌打した。到頭主人の敗と成った。復た二番目が始まった。
階下では、大きな巾着(きんちゃく)を腰に着けた男の児が、黒い洋犬と戯れていたが、急に家の方へ帰ると駄々をコネ始めた。小僧がもてあましているので、仕立屋も見兼ねて、子供の機嫌(きげん)を取りに階下へ降りた。その時、私も庭を歩いて見た。小手毬(こでまり)の花の遅いのも咲いていた。藤棚の下へ行くと、池の中の鯉の躍(おど)るのも見えた。「こう水があると、なかなか鯉は捕まらんものさネ」と言っている者も有った。
池を一廻りした頃、番頭は赤い顔をして二階から降りて来た。
「先生、勝負はどうでしたネ」と仕立屋が尋ねた。
「二番とも、これサ」
番頭は鼻の先へ握り拳(こぶし)を重ねて、大天狗(だいてんぐ)をして見せた。そして、高い、快活な声で笑った。
こういう人達と一緒に、どちらかと言えば陰気な山の中で私は時を送った。ポツポツ雨の落ちて来た頃、私達はこの山荘を出た。番頭は半ば酔った調子で、「お二人で一本だ、相合傘(あいあいがさ)というやつはナカナカ意気なものですから」
と番傘を出して貸してくれた。私は仕立屋と一緒にその相合傘で帰りかけた。
「もう一本お持ちなさい」と言って、復(ま)た小僧が追いかけて来た。
毒消売の女
「毒消は宜(よ)う御座んすかねえ」
家々の門(かど)に立って、鋭い越後訛(えちごなまり)で呼ぶ女の声を聞くように成った。
黒い旅人らしい姿、背中にある大きな風呂敷(ふろしき)、日をうけて光る笠、あだかも燕(つばめ)が同じような勢揃(せいぞろ)いで、互に群を成して時季を違えず遠いところからやって来るように、彼等もはるばるこの山の上まで旅して来る。そして鳥の群が彼方(かなた)、此方(こなた)の軒に別れて飛ぶように彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。この節私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に逢う。彼等は血気|壮(さか)んなところまで互によく似ている。
銀馬鹿
「何処(どこ)の土地にも馬鹿の一人や二人は必ずある」とある人が言った。
貧しい町を通って、黒い髭(ひげ)の生えた飴屋(あめや)に逢った。飴屋は高い石垣の下で唐人笛(とうじんぶえ)を吹いていた。その辺は停車場に近い裏町だ。私が学校の往還(ゆきかえり)によく通るところだ。岩石の多い桑畠(くわばたけ)の間へ出ると、坂道の上の方から荷車を曳(ひ)いて押流されるように降りて来た人があった。荷車には屠(ほふ)った豚の股(もも)が載せてあった。後で、私はあの人が銀馬鹿だと聞いた。銀馬鹿は黙ってよく働く方の馬鹿だという。この人は又、自分の家屋敷を他(ひと)に占領されてそれを知らずに働いているともいう。
祭の前夜
春蚕(はるこ)が済む頃は、やがて土地では、祇園祭(ぎおんまつり)の季節を迎える。この町で養蚕をしない家は、指折るほどしか無い。寺院(おてら)の僧侶(ぼうさん)すらそれを一年の主なる収入に数える。私の家では一度も飼ったことが無いが、それが不思議に聞える位だ。こういう土地だから、暗い蚕棚(かいこだな)と、襲うような臭気と、蚕の睡眠(ねむり)と、桑の出来不出来と、ある時は殆(ほと)んど徹夜で働いている男や女のことを想ってみて貰(もら)わなければ、それから後に来る祇園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。
秤を腰に差して麻袋を負(しょ)ったような人達は、諏訪(すわ)、松本あたりからこの町へ入込んで来る。旅舎(やどや)は一時|繭買(まゆかい)の群で満たされる。そういう手合が、思い思いの旅舎を指して繭の収穫を運んで行く光景(さま)も、何となく町々に活気を添えるのである。
二十日ばかりもジメジメと降り続いた天気が、七月の十二日に成って漸(ようや)く晴れた。霖雨(ながあめ)の後の日光は殊(こと)にきらめいた。長いこと煙霧に隠れて見えなかった遠い山々まで、桔梗(ききょう)色に顕(あら)われた。この日は町の大人から子供まで互に新しい晴衣を用意して待っていた日だ。
私は町の団体の暗闘に就(つ)いて多少聞いたこともあるが、そんなことをここで君に話そうとは思わない。ただ、祭以前に紛擾(ごたごた)を重ねたと言うだけにして置こう。一時は祭をさせるとか、させないとかの騒ぎが伝えられて、毎年月の始めにアーチ風に作られる〆飾(しめかざ)りが漸く七日目に町々の空へ掛った。その余波として、御輿(みこし)を担(かつ)ぎ込まれるが煩(うるさ)さに移転したと言われる家すらあった。そういう騒ぎの持上るというだけでも、いかにこの祭の町の人から待受けられているかが分る。多くの商人は殊に祭の賑(にぎわ)いを期待する。養蚕から得た報酬がすくなくもこの時には費されるのであるから。
夜に入って、「湯立(ゆだて)」という儀式があった。この晩は主な町の人々が提灯(ちょうちん)つけて社(やしろ)の方へ集る。それを見ようとして、私も家を出た。空には星も輝いた。社頭で飴菓子(あめがし)を売っている人に逢った。謡曲で一家を成した人物だとのことだが、最早長いことこの田舎に隠れている。
本町の通には紅白の提灯が往来(ゆきき)の人の顔に映った。その影で、私は鳩屋(はとや)のI、紙店(かみみせ)のKなぞの手を引き合って来るのに逢った。いずれも近所の快活な娘達だ。
十三日の祇園(ぎおん)
十三日には学校でも授業を休んだ。この授業を止む休(やす)まないでは毎時(いつでも)論があって、校長は大抵の場合には休む方針を執り、幹事先生は成るべく休まない方を主張した。が、祇園の休業は毎年の例であった。
近在の娘達は早くから来て町々の角に群がった。戸板や樽(たる)を持出し、毛布(ケット)をひろげ、その上に飲食(のみくい)する物を売り、にわかごしらえの腰掛は張板で間に合わせるような、土地の小商人(こあきんど)はそこにも、ここにもあった。日頃顔を見知った八百屋(やおや)夫婦も、本町から市町の方へ曲ろうとする角のあたりに陣取って青い顔の亭主と肥った内儀(かみさん)とが互に片肌抜(かたはだぬぎ)で、稲荷鮨(いなりずし)を漬(つ)けたり、海苔巻(のりまき)を作ったりした。貧しい家の児が新調の単衣(ひとえ)を着て何か物を配り顔に町を歩いているのも祭の日らしい。
午後に、家のものはB姉妹の許(もと)へ招かれて御輿(みこし)の通るのを見に行った。Bは清少納言(せいしょうなごん)の「枕の草紙」などを読みに来る人で、子供もよくその家へ遊びに行く。
光岳寺の境内にある鐘楼からは、絶えず鐘の音が町々の空へ響いて来た。この日は、誰でも鐘楼に上って自由に撞(つ)くことを許してあった。三時頃から、私も例の組合の家について夏の日のあたった道を上った。そこを上りきったところまで行くと軒毎に青簾(あおすだれ)を掛けた本町の角へ出る。この簾は七月の祭に殊に適(ふさ)わしい。
祭を見に来た人達は鄙(ひな)びた絵巻物を繰展(くりひろ)げる様に私の前を通った。近在の男女は風俗もまちまちで、紫色の唐縮緬(とうちりめん)の帯を幅広にぐるぐると巻付けた男、大きな髷(まげ)にさした髪の飾りも重そうに見える女の連れ、男の洋傘(こうもりがさ)をさした娘もあれば、綿フランネルの前垂(まえだれ)をして尻端(しりはし)を折った児もある。黒い、太い足に白足袋(しろたび)を穿(はい)て、裾(すそ)の短い着物を着た小娘もある。一里や二里の道は何とも思わずにやって来る人達だ。その中を、軽井沢|辺(あた)りの客と見えて、珍らしそうに眺(なが)めて行く西洋の婦人もあった。町の子供はいずれも嬉しそうに群集の間を飛んで歩いた。
やがて町の下の方から木の臼(うす)を転(ころ)がして来た。見物はいずれも両側の軒下なぞへ逃げ込んだ。
「ヨイヨ。ヨイヨ」
と掛声して、重い御輿が担(かつ)がれて来た。狭い往来の真中で、時々御輿は臼の上に置かれる。血気な連中はその周囲(まわり)に取付いて、ぐるぐる廻したり、手を揚げて叫んだりする。壮(さか)んな歓呼の中に、復た御輿は担がれて行った。一種の調律は見物の身(からだ)に流れ伝わった。私は戻りがけに子供まで同じ足拍子で歩いているのを見た。
この日は、町に紛擾(ごたごた)のあった後で、何となく人の心が穏かでなかった。六時頃に復た本町の角へ出て見た。「ヨイヨヨイヨ」という掛声までシャガレて「ギョイギョ、ギョイギョ」と物凄(ものすご)く聞える。人々は酒気を帯て、今御輿が町の上の方へ担がれて行ったかと思うと急に復た下って来る。五六十人の野次馬は狂するごとく叫び廻る。多勢の巡査や祭事掛は駈足(かけあし)で一緒に附いて歩いた。丁度夕飯時で、見物は彼方是方(あちこち)へ散じたが、御輿の勢は反(かえ)って烈(はげ)しく成った。それが大きな商家の前などを担がれて通る時は、見る人の手に汗を握らせた。
急に御輿は一種の運動と化した。ある家の前で、衝突の先棒(さきぼう)を振るものがある、両手を揚げて制するものがある、多勢の勢に駆られて見る間に御輿は傾いて行った。その時、家の方から飛んで出て、御輿に飛付き押し廻そうとするものもあった。騒ぎに踏み敷かれて、あるものの顔から血が流れた。「御輿を下せ御輿を下せ」と巡査が馳(は)せ集って、烈しい論判の末、到頭|輿丁(よてい)の外(ほか)は許さないということに成った。御輿の周囲(まわり)は白帽白服の人で護られて、「さあ、よし、持ち上げろ」などという声と共に、急に復た仲町の方角を指して担がれて行った。見物の中には突き飛ばされて、あおのけさまに倒れた大の男もあった。
「それ早く逃げろ、子供々々」
皆な口々に罵(ののし)った
「巡査も随分御苦労なことですな」
「ほんとに好い迷惑サ」
見物は言い合っていた。
暮れてから町々の提灯(ちょうちん)は美しく点(とも)った。簾(すだれ)を捲上(まきあ)げ、店先に毛氈(もうせん)なぞを敷き、屏風(びょうぶ)を立て廻して、人々は端近く座りながら涼んでいた。
御輿は市町から新町の方へ移った。ある坂道のところで、雨のように降った賽銭(さいせん)を手探りに拾う女の児なぞが有った。後には、提灯を手にして往来を探(さが)すような青砥(あおと)の子孫も顕(あらわ)れるし、五十ばかりの女が闇から出て、石をさぐったり、土を掴(つか)んだりして見るのも有った。さかしい慾の世ということを思わせた。
市町の橋は、学校の植物の教師の家に近い。私の懇意なT君という医者の家にも近い。その欄干(らんかん)の両側には黒い影が並んで、涼しい風を楽んでいるものや、人の顔を覗(のぞ)くものや、胴魔声(どうまごえ)に歌うものや、手を引かれて断り言う女連なぞが有った。
夜の九時過に、馬場裏の提灯はまだ宵の口のように光った。組合の人達は仕立屋や質屋の前あたりに集って涼みがてら祭の噂(うわさ)をした。この夜は星の姿を見ることが出来なかった。螢(ほたる)は暗い流の方から迷って来て、町中(まちなか)を飛んで、青い美しい光を放った。
後の祭
翌日は朝から涼しい雨が降った。家の周囲(まわり)にある柿、李(すもも)なぞの緑葉からは雫(しずく)が滴(したた)った。李の葉の濡(ぬ)れたのは殊(こと)に涼しい。
本町の通では前の日の混雑した光景(さま)と打って変って家毎に祭の提灯を深く吊(つる)してある。紺|暖簾(のれん)の下にさげた簾(すだれ)も静かだ。その奥で煙草盆の灰吹を叩(たた)く音が響いて聞える位だ。往来には、娘子供が傘をさして遊び歩くのみだ。前の日に用いた木の臼(うす)も町の片隅(かたすみ)に転してある。それが七月の雨に濡れている。
この十四日には家々で強飯(こわめし)を蒸(ふか)し、煮染(にしめ)なぞを祝って遊び暮す日であるという。午後の四時頃に成っても、まだ空は晴れなかった。烏帽子(えぼし)を冠り、古風な太刀(たち)を帯びて、芝居の「暫(しばらく)」にでも出て来そうな男が、神官、祭事掛、子供などと一緒に、いずれも浅黄の直垂(ひたたれ)を着けて、小雨の降る町中の〆飾を切りに歩いた。 
 
その四

 

中棚(なかだな)
私達の教員室の窓から浅い谷が見える。そこは耕されて、桑(くわ)などが植付けてある。
こういう谷が松林の多い崖(がけ)を挟(はさ)んで、古城の附近に幾つとなく有る。それが千曲川(ちくまがわ)の方へ落ちるに随って余程深いものと成っている。私達は城門の横手にある草地を掘返して、テニスのグランドを造っているが、その辺も矢張(やはり)谷の起点の一つだ。M君が小諸に居た頃は、この谷間(たにあい)で水彩画を作ったこともあった。学校の体操教師の話によると、ずっと昔、恐るべき山崩れのあった時、浅間の方から押寄せて来た水がこういう変化のある地勢を造ったとか。
八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚の方へ出掛けた。私の足はよく其方(そちら)へ向いた。そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。
中棚の附近には豊かな耕地も多い。ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。その下に温泉場の旗が見える。林檎畠(りんごばたけ)が見える。千曲川はその向を流れている。
午後の一時過に、私は田圃脇(たんぼわき)の道を通って、千曲川の岸へ出た。蘆(あし)、蓬(よもぎ)、それから短い楊(やなぎ)などの多い石の間で、長野から来ている師範校の学生と一緒に成(なっ)た。A、A、Wなどいう連中だ。この人達は夏休を応用して、本を読みに私の家へ通っている。岸には、熱い砂を踏んで水泳にやって来た少年も多かった。その中には私達の学校の生徒も混っていた。
暑くなってから、私はよく自分の生徒を連れて、ここへ泳ぎに来るが、隅田川(すみだがわ)なぞで泳いだことを思うと水瀬からして違う。青く澄んだ川の水は油のように流れていても、その瀬の激しいことと言ったら、眩暈(めまい)がする位だ。川上の方を見ると、暗い岩蔭から白波を揚げて流れて来る。川下の方は又、矢のように早い。それが五里淵(ごりぶち)の赤い崖に突き当って、非常な勢で落ちて行く。どうして、この水瀬が是処(こっち)の岩から向うの崖下まで真直(まっすぐ)に突切れるものではない。それに澄んだ水の中には、大きな岩の隠れたのがある。下手をマゴつけば押流されて了(しま)う。だから余程|上(かみ)の方からでも泳いで行かなければ、目的とする岩に取付いて上ることが出来ない。
平野を流れる利根(とね)などと違い、この川の中心は岸のどちらかに激しく傾いている。私達は、この河底の露(あらわ)れた方に居て、溝萩(みぞはぎ)の花などの咲いた岩の蔭で、二時間ばかりを過した。熱い砂の上には這(は)いのめって、甲羅(こうら)を乾しているものもあった。ザンブと水の中へ飛込むものもあった。このあたりへは小娘まで遊びに来て、腕まくりをしたり、尻を端折(はしょ)ったりして、足を水に浸しながら余念なく遊び廻っていた。
三つの麦藁(むぎわら)帽子が石の間にあらわれた。師範校の連中だ。
「ちったア釣れましたかネ」と私が聞いた。
「ええ、すっかり釣られて了いました」
「どうだネ、君の方は」
「五|尾(ひき)ばかし掛るには掛りましたが、皆な欺(だま)されて了いました」
「む、む、二時間もあるのだから、ゆっくり言訳は考えられるサ……」
こんなことを言って、仲間の話を混返(まぜかえ)すものもあった。
この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽(よくそう)の中から外部(そと)の景色を眺(なが)めるのも心地(こころもち)が好かった。湯から上っても、皆の楽みは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽(ふけ)ることであった。林檎畠、葡萄棚(ぶどうだな)なぞを渡って来る涼しい風は、私達の興を助けた。
「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」
と一人が言出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。
「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」
「菓子もいいが、随分かかるネ」
「僕は二年ばかり辛抱した……」
「それはエラい。二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定(き)めている」
「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」
「此頃(こないだ)、ある先生が――諸君は菓子屋へよく行そうだ、私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」
「フウン」
「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回に凡(およ)そどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭位食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を害(こわ)さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」
「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃散をつけて食う男があるよ」
三人は何を言っても気が晴れるという風だ。中には、手を叩(たた)いて、踊り上って笑うものもあった。それを聞くと、私も噴飯(ふきだ)さずにはいられなかった。
やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎(やどや)の方へ別れて行った。
この温泉から石垣について坂道を上ると、そこに校長の別荘の門がある。楼の名を水明楼としてある。この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。閑雅な小楼で、崖に倚(よ)って眺望の好い位置に在る。
先生は共立学校時代の私の英語の先生だ。あの頃は先生も男のさかりで、アアヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」などを教えてくれたものだった。その先生が今ではこういうとこに隠れて、花を植えて楽んだり鉱泉に老を養ったりするような、白髯(はくぜん)の翁(おきな)だ。どうかすると先生の口から先生自身がリップ・ヴァン・ウィンクルであるかのような戯談(じょうだん)を聞くこともある。でも先生の雄心は年と共に銷磨(しょうま)し尽すようなものでもない。客が訪ねて行くと、談論風発する。
水明楼へ来る度(たび)に、私は先生の好く整理した書斎を見るのを楽みにする。そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄(てすり)に倚りながら恣(ほしいまま)に賞することが出来る。対岸に煙の見えるのは大久保村だ。その下に見える釣橋(つりばし)が戻り橋だ。川向から聞える朝々の鶏の鳴声、毎晩農村に点(つ)く灯(あかり)の色、種々(いろいろ)思いやられる。
楢(なら)の樹蔭(こかげ)
楢の樹蔭。
そこは鹿島神社の境内だ。学校が休みに成ってからも、私はよくその樹蔭を通る。
ある日、鉄道の踏切を越えて、また緑草の間の小径(こみち)へ出た。楢の古木には、角の短い、目の愛らしい小牛が繋(つな)いであった。しばらく私が立って眺めていると、小牛は繋がれたままでぐるぐると廻るうちに、地を引くほどの長い綱を彼方此方(あっちこっち)の楢の幹へすっかり巻き付けて終(しま)った。そして、身動きすることも出来ないように成った。
向の草の中には、赤い馬と白い馬とが繋いであった。 
 
その五

 

山の温泉
夕立ともつかず、時雨(しぐれ)ともつかないような、夏から秋に移り変る時の短い雨が来た。草木にそそぐ音は夕立ほど激しくない。最早|初茸(はつだけ)を箱に入れて、木の葉のついた樺色(かばいろ)なやつや、緑青(ろくしょう)がかったやつなぞを近在の老婆達が売りに来る。
一月ばかり前に、私は田沢温泉という方へ出掛けて行って来た。あの話を君にするのを忘れた。
温泉地にも種々(いろいろ)あるが、山の温泉は別種の趣がある。上田町に近い別所温泉なぞは開けた方で、随(したが)って種々の便利も具(そな)わっている。しかし山国らしい温泉の感じは、反(かえ)って不便な田沢、霊泉寺などに多く味(あじわ)われる。あの辺にも相応な温泉宿は無いではないが、なにしろ土地の者が味噌(みそ)や米を携えて労苦を忘れに行くという場所だ。自炊する浴客が多い。宿では部屋だけでも貸す。それに部屋付の竃(かまど)が具えてある。浴客は下駄穿(げたばき)のまま庭から直(すぐ)に楼梯(はしごだん)を上って、楼上の部屋へ通うことも出来る。この土足で昇降(あがりおり)の出来るように作られた建物を見ると、山深いところにある温泉宿の気がする。鹿沢(かざわ)温泉(山の湯)と来たら、それこそ野趣に富んでいるという話だ。
半ば緑葉に包まれ、半ば赤い崖(がけ)に成った山脈に添うて、千曲川の激流を左に望みながら、私は汽車で上田まで乗った。上田橋――赤く塗った鉄橋――あれを渡る時は、大河らしい千曲川の水を眼下(めのした)に眺(なが)めて行った。私は上田附近の平地にある幾多の村落の間を歩いて通った。あの辺はいかにも田舎道(いなかみち)らしい気のするところだ。途中に樹蔭(こかげ)もある。腰掛けて休む粗末な茶屋もある。
青木村というところで、いかに農夫達が労苦するかを見た。彼等の背中に木の葉を挿(さ)して、それを僅(わず)かの日除(ひよけ)としながら、田の草を取って働いていた。私なぞは洋傘(こうもり)でもなければ歩かれない程の熱い日ざかりに。この農村を通り抜けると、すこし白く濁った川に随(つ)いて、谷深く坂道を上るように成る。川の色を見ただけでも、湯場に近づいたことを知る。そのうちに、こんな看板の掛けてあるところへ出た。
   湯
   〼 みやばら
   本
升屋(ますや)というは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞える楼上で、私達の学校の校長の細君が十四五人ばかりの女生徒を連れて来ているのに逢った。この娘達も私が余暇に教えに行く方の生徒だ。
楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。
十九夜の月の光がこの谷間(たにあい)に射し入った。人々が多く寝静まった頃、まだ障子を明るくして、盛んに議論している浴客の声も聞えた。
「身体は小さいけれど、そんな野蛮人じゃねえ」
理屈(りくつ)ッぽい人達の言いそうな言葉だ。
翌日は朝霧の籠(こも)った谿谷(けいこく)に朝の光が満ちて、近い山も遠く、家々から立登る煙は霧よりも白く見えた。浅間は隠れた。山のかなたは青がかった灰色に光った。白い雲が山脈に添うて起るのも望まれた。国さんという可憐(かれん)の少年も姉娘に附いて来ていて、温泉宿の二階で玩具(おもちゃ)の銀笛(ぎんてき)を吹いた。
そこは保福寺(ほうふくじ)峠と地蔵峠とに挟まれた谷間だ。二十日の月はその晩も遅くなって上った。水の流が枕に響いて眠られないので、一旦寝た私は起きて、こういう場所の月夜の感じを味(あじわ)った。高い欄(てすり)に倚凭(よりかか)って聞くと、さまざまの虫の声が水音と一緒に成って、この谷間に満ちていた。その他暗い沢の底の方には種々な声があった。――遅くなって戸を閉める音、深夜の人の話声、犬の啼声(なきごえ)、楽しそうな農夫の唄。
四日目の朝まだ暗いうちに、私達は月明りで仕度(したく)して、段々夜の明けて行く山道を別所の方へ越した。
学窓の一
夏休みも終って、復(ま)た私は理学士やB君や、それから植物の教師などと学校でよく顔を合せるように成った。
秋の授業を始める日に、まだ桜の葉の深く重なり合ったのが見える教室の窓の側で、私は上級の生徒に釈迦(しゃか)の話をした。
私は「釈迦譜(しゃかふ)」を選んだ。あの本の中には、王子の一生が一篇の戯曲(ドラマ)を読むように写出(うつしだ)してある。あの中から私は釈迦の父王の話、王子の若い友達の話なぞを借りて来て話した。青年の王子が憂愁に沈みながら、東西南北の四つの城門から樹園の方へ出て見るという一節は、私の生徒の心をも引いたらしい。一つの門を出たら、病人に逢った。人は病まなければ成らないかと王子は深思した。他の二つの門を出ると、老人に逢い、死者に逢った。人は老いなければ成らないか、人は死ななければ成らないか。この王子の逢着(ほうちゃく)する人生の疑問がいかにも簡素に表してある。最後に出た門の外で道者に逢った。そこで王子は心を決して、このLifeを解かんが為に、あらゆるものを破り捨てて行った。
戯曲的ではないか。少年の頭脳にも面白いように出来ているではないか。私はこんな話を生徒にした後で、多勢居る諸君の中には実業に志すものもあろうし、軍人に成ろうというものもあろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込もあって欲しい、と言って聞かせた。
私は生徒の方を見た。生徒は私の言った意味を何と釈(と)ったか、いずれも顔を見合せて笑った。中には妙な顔をして、頭を擁(かか)えているものもあった。
学窓の二
樹木が一年に三度ずつ新芽を吹くとは、今まで私は気がつかなかった。今は九月の若葉の時だ。
学校の校舎の周囲(まわり)には可成(かなり)多くの樹木を植えてある。大きな桜の実の熟する頃なぞには、自分等の青年時代のことまでも思い起させたが、こうして夏休過に復たこの庭へ来て見ると、何となく白ッぽい林檎(りんご)の葉や、紅味を含んだ桜や、淡々しい青桐(あおぎり)などが、校舎の白壁に映り合って、楽しい陰日向(かげひなた)を作っている。楽しそうに吹く生徒の口笛が彼方此方(あちこち)に起る。テニスのコートを城門の方へ移してからは、桜の葉蔭で角力(すもう)を取るものも多い。
学校の帰りに、夏から病んでいるBの家を訪ねた。その家の裏を通り抜けて石段を下りると、林檎の畠がある。そこにも初秋らしい日が映(あた)っていた。
田舎(いなか)教師
朝顔の花を好んで毎年培養する理学士が、ある日学校の帰途(かえりみち)に、新しい弟子(でし)の話を私にして聞かせた。
弟子と言っても朝顔を培養する方の弟子だ。その人は町に住む牧師で、一部の子供から「日曜学校の叔父さん」と懐(なつ)かしがられている。
この叔父さんの説教最中に夕立が来た。まだ朝顔の弟子入をしたばかりの時だ。彼の心は毎日楽しんでいる畑の方へ行った。大事な貝割葉(かいわれば)の方へ行った。雨に打たれる朝顔|鉢(ばち)の方へ行った。説教そこそこにして、彼は夕立の中を朝顔棚の方へ駈出(かけだ)した。
「いかにも田舎の牧師さんらしいじゃ有りませんか」と理学士はこの新しい弟子の話をして、笑った。その先生はまた、火事見舞に来て、朝顔の話をして行くほど、自分でも好きな人だ。
九月の田圃道(たんぼみち)
傾斜に添うて赤坂(小諸町の一部)の家つづきの見えるところへ出た。
浅間の山麓(さんろく)にあるこの町々は眠(ねむり)から覚めた時だ。朝餐(あさげ)の煙は何となく湿った空気の中に登りつつある。鶏の声も遠近(おちこち)に聞える。
熟しかけた稲田の周囲(まわり)には、豆も莢(さや)を垂れていた。稲の中には既に下葉の黄色くなったのも有った。九月も半ば過ぎだ。稲穂は種々(いろいろ)で、あるものは薄(すすき)の穂の色に見え、あるものは全く草の色、あるものは紅毛(あかげ)の房を垂れたようであるが、その中で濃い茶褐色(ちゃかっしょく)のが糯(もちごめ)を作った田であることは、私にも見分けがつく。
朝日は谷々へ射して来た。
田圃道の草露は足を濡(ぬ)らして、かゆい。私はその間を歩き廻って、蟋蟀(こおろぎ)の啼(な)くのを聞いた。
この節、浅間は日によって八回も煙を噴(は)くことがある。
「ああ復た浅間が焼ける」と土地の人は言い合うのが癖だ。男や女が仕事しかけた手を休めて、屋外(そと)へ出て見るとか、空を仰ぐとかする時は、きっと浅間の方に非常に大きな煙の団(かたまり)が望まれる。そういう時だけ火山の麓(ふもと)に住んでいるような心地(こころもち)を起させる。こういうところに住み慣れたものは、平素(ふだん)は、そんなことも忘れ勝ちに暮している。
浅間は大きな爆発の為に崩されたような山で、今いう牙歯山(ぎっぱやま)が往時(むかし)の噴火口の跡であったろうとは、誰しも思うことだ。何か山の形状(かたち)に一定した面白味でもあるかと思って来る旅人は、大概失望する。浅間ばかりでなく、蓼科(たでしな)山脈の方を眺(なが)めても、何の奇も無い山々ばかりだ。唯、面白いのは山の空気だ。昨日出て見た山と、今日出て見た山とは、殆んど毎日のように変っている。
山中生活
理学士の住んでいる家のあたりは、荒町の裏手で、酢屋のKという娘の家の大きな醤油蔵(しょうゆぐら)の窓なぞが見える。その横について荒町の通へ出ると、畳表、鰹節(かつぶし)、茶、雑貨などを商う店々の軒を並べたところに、可成大きな鍛冶屋(かじや)がある。高い暗い屋根の下で、古風な髷(まげ)に結った老爺(ろうや)が鉄槌(てっつい)の音をさせている。
この昔気質(むかしかたぎ)の老爺が学校の体操教師の父親(おとっ)さんだ。
朝風の涼しい、光の熱い日に、私は二人ばかり学生を連れて、その家の鍛冶場の側(わき)を裏口へ通り抜け、体操の教師と一緒に浅間の山腹を指して出掛けた。
山家(やまが)と言っても、これから私達が行こうとしているところは真実(ほんとう)の山の中だ。深い山林の中に住む人達の居る方だ。
粟(あわ)、小豆(あずき)、飼馬(かいば)の料にするとかいう稗(ひえ)なぞの畠が、私達の歩るいて行く岡部(おかべ)の道に連なっていた。花の白い、茎の紅い蕎麦(そば)の畠なぞも到るところにあった。秋のさかりだ。体操の教師は耕作のことに委(くわ)しい人だから、諸方(ほうぼう)に光って見える畠を私に指して見せて、あそこに大きな紫紅色の葉を垂れたのが「わたり粟」というやつだとか、こっちの方に細い青黒い莢(さや)を垂れたのが「こうれい小豆」という種類だとか、御蔭で私は種々なことを教えて貰(もら)った。この体操教師は稲田を眺めたばかりで、その種類を区別するほど明るかった。
五六本松の岡に倚(よ)って立っているのを望んだ。囁道祖神(ささやきどうそじん)のあるのは其処(そこ)だ。
寺窪(てらくぼ)というところへ出た。農家が五六軒ずつ、ところどころに散在するほどの極く辺鄙(へんぴ)な山村だ。君に黒斑山(くろふやま)のことは未だ話さなかったかと思うが、矢張浅間の山つづきだ、ホラ、小諸の城址(しろあと)にある天主台――あの石垣の上の松の間から、黒斑のように見える山林の多い高い傾斜、そこを私達は今歩いて行くところだ。あの天主台から黒斑山の裾(すそ)にあたって、遠く点のような白壁を一つ望む。その白壁の見えるのもこの山村だ。
塩俵を負(しょ)って腰を曲(ゆが)めながら歩いて行く農夫があった。体操の教師は呼び掛けて、
「もう漬物(つけもの)ですか」と聞いた。
「今やりやすと二割方得ですよ」
荒い気候と戦う人達は今から野菜を貯えることを考えると見える。
前の前の晩に降った涼しい雨と、前の日の好い日光とで、すこしは蕈(きのこ)の獲物もあるだろう。こういう体操教師の後に随(つ)いて、私は学生と共に松林の方へ入った。この松林は体操教師の持山だ。松葉の枯れ落ちた中に僅かに数本の黄しめじと、牛額(うしびたい)としか得られなかった。それから笹の葉の間なぞを分けて「部分木(ぶぶんぼく)の林」と称(とな)える方に進み入った。
私達は可成深い松林の中へ来た。若い男女の一家族と見えるのが、青松葉の枝を下したり、それを束ねたりして働いているのに逢った。女の方は二十前後の若い妻らしい人だが、垢染(あかじ)みた手拭(てぬぐい)を冠(かぶ)り、襦袢肌抜(じゅばんはだぬ)ぎ尻端折(しりはしょり)という風で、前垂を下げて、藁草履(わらぞうり)を穿(は)いていた。赤い荒くれた髪、粗野な日に焼けた顔は、男とも女ともつかないような感じがした。どう見ても、ミレエの百姓画の中に出て来そうな人物だ。
その弟らしいのが三四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるで蓬(よもぎ)のように見えた。でも、健(すこや)かな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。
母らしい人も林の奥から歩いて来た。一同仕事を休(や)めて、私達の方をめずらしそうに眺めていた。
この人達の働くあたりから岡つづきに上って行くとこう平坦(たいら)な松林の中へ出た。刈草を負(しょ)った男が林の間の細道を帰って行った。日は泄(も)れて、湿った草の上に映(あた)っていた。深い林の中の空気は、水中を行く魚かなんぞのようにその草刈男を見せた。
がらがらと音をさせて、柴(しば)を積んだ車も通った。その音は寂しい林の中に響き渡った。
熊笹(くまざさ)、柴などを分けて、私達は蕈(きのこ)を探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。枯葉を鎌(かま)で掻除(かきの)けて見ると稀(たま)にあるのは紅蕈(べにたけ)という食われないのか、腐敗した初蕈(はつだけ)位のものだった。終(しまい)には探し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなく成った。軽い腰籠(こしご)を提げたまま南瓜(かぼちゃ)の花の咲いた畠のあるところへ出て行った。山番の小屋が見えた。
山番
番小屋の立っている処は尾の石と言って、黒斑山(くろふやま)の直ぐ裾にあたる。
三峯神社とした盗難除(とうなんよけ)の御札を貼付(はりつ)けた馬小屋や、萩(はぎ)なぞを刈って乾してある母屋(おもや)の前に立って、日の映(あた)った土壁の色なぞを見た時は、私は余程人里から離れた気がした。
鋭い眼付きの赤犬が飛んで来た。しきりと私達を怪(あやし)むように吠(ほ)えた。この犬は番人に飼われて、種々(いろいろ)な役に立つと見えた。
番小屋の主人が出て来て私達を迎えてくれた頃は、赤犬も頭を撫(な)でさせるほどに成った。主人は鬚(ひげ)も剃(そ)らずに林の監督をやっているような人であった。細君は襷掛(たすきがけ)で、この山の中に出来た南瓜(かぼちゃ)なぞを切りながら働いていた。
四人の子供も庭へ出て来た。一番|年長(うえ)のは最早(もう)十四五になる。狭い帯を〆(しめ)て藁草履(わらぞうり)なぞを穿(は)いた、しかし髪の毛の黒い娘(こ)だ。年少(としした)の子供は私達の方を見て、何となくキマリの悪そうな羞(はじ)を帯びた顔付をしていた。その側には、トサカの美しい、白い雄鶏(おんどり)が一羽と、灰色な雌鶏(めんどり)が三羽ばかりあそんでいたが、やがてこれも裏の林の中へ隠れて了(しま)った。
小屋は二つに分れて、一方の畳を敷いたところは座敷ではあるが、実際|平素(ふだん)は寝室と言った方が当っているだろう。家族が食事したり、茶を飲んだり、客を迎えたりする炉辺(ろばた)の板敷には薄縁(うすべり)を敷いて、耕作の道具食器の類はすべてその辺(あたり)に置き並べてある。何一つ飾りの無い、煤(すす)けた壁に、石版画の彩色したのや、木版刷の模様のついた暦なぞが貼付けてあるのを見ると、そんな粗末な版画でも何程かこの山の中に住む人達の眼を悦(よろこ)ばすであろうと思われた。暮の売出しの時に、近在から町へ買物に来る連中がよくこの版画を欲しがるのも、無理は無いと思う。
私達は草鞋掛(わらじがけ)のまま炉辺で足を休めた。細君が辣韮(らっきょう)の塩漬(しおづけ)にしたのと、茶を出して勧めてくれた。渇(かわ)いた私達の口には小屋で飲んだ茶がウマかった。冬はこの炉に焚火(たきび)を絶(たや)したことが無いと、主人が言った。ここまで上ると、余程気候も違う。
一緒に行った学生は、小屋の裏の方まで見に廻って、柿は植えても渋が上らないことや、梅もあるが味が苦いことや、桃だけはこの辺の地味にも適することなど種々な話を主人から聞いて来た。
やがて昼飯時だ。
庭の栗の樹の蔭で、私達は小屋で分けて貰(もら)った蕈(きのこ)を焼いた。主人は薄縁を三枚ばかり持って来て、樹の下へ敷いてくれた。そこで昼飯が始まった。細君は別に鶏と茄子(なす)の露、南瓜(とうなす)の煮付を馳走振(ちそうぶり)に勧めてくれた。いずれも大鍋(おおなべ)にウンとあった。私達は各自(めいめい)手盛でやった。学生は握飯、パンなぞを取出す。体操の教師はまた、好きな酒を用意して来ることを忘れなかった。
この山の中で林檎(りんご)を試植したら、地梨(じなし)の虫が上って花の蜜(みつ)を吸う為に、実らずに了った。これは細君が私達の食事する側へ来ての話だった。赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をシャブった。
食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって大凡(おおよそ)一万坪の広い地面だけあるが、自分の代となってからは家族も少(すくな)し、手も届きかねて、荒れたままに成っているところも有る、とのことだ。
私達が訪ねて来たことは、余程主人の心を悦ばせたらしい。主人はむッつりとした鬚のある顔に似合わず種々な話をした。蕎麦(そば)は十俵の収穫があるとか、試植した銀杏(いちょう)、杉、竹などは大半枯れ消えたとか、栗も十三俵ほど播(ま)いてみたが、十四度も山火事に逢ううちに残ったのは既に五六間の高さに成ってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少いとか話した。
落葉松(からまつ)の畠も見えた。その苗は草のように嫩(やわら)かで、日をうけて美しくかがやいていた。畠の周囲(まわり)には地梨も多い。黄に熟したやつは草の中に隠れていても、直ぐと私達の眼についた。尤(もっと)も、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。
主人は又、山火事の恐しいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。これから一里ばかり上ったところに、炭焼小屋があって、今は椚(くぬぎ)の木炭を焼いているという話もした。
この山番のある尾の石は、高峰と称える場所の一部とか。尾の石から菱野(ひしの)の湯までは十町ばかりで、毎日入湯に通うことも出来るという。菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思出した。あの田舎娘(いなかむすめ)の村は菱野だから。
土地案内を知った体操教師の御蔭で、めずらしいところを見た。こうした山の中は、めったに私なぞの来られる場所では無い。一度私は歴史の教師と連立ってここよりもっと高い位置にある番小屋に泊ったことも有る。
彼処(あそこ)はまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。
別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。白樺(しらかんば)なぞの混った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。
白樺の幹は何処(どこ)の林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早(もう)美しく黄ばんだのも混っていた。 
 
その六

 

秋の修学旅行
十月のはじめ、私は植物の教師T君と一緒に学生を引連れて、千曲川の上流を指して出掛けた。秋の日和(ひより)で楽しい旅を続けることが出来た。この修学旅行には、八つが岳の裾(すそ)から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪(すわ)へ廻って、そこで私達を待受けていた理学士、水彩画家B君、その他の同僚とも一緒に成って、和田の方から小諸(こもろ)へ戻って来た。この旅には殆(ほと)んど一週間を費した。私達は蓼科(たでしな)、八つが岳の長い山脈について、あの周囲を大きく一廻りしたのだ。
その中でも、千曲川の上流から野辺山(のべやま)が原へかけては一度私が遊びに行ったことのあるところだ。その時は近所の仕立屋の亭主と一緒だった。この旅で、私は以前の記憶を新しくした。その話を君にしようと思う。
甲州街道
小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前(めのまえ)に展(ひら)けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間(たにあい)を流れている。
一体、犀川(さいかわ)に合するまでの千曲川は、殆(ほと)んど船の影を見ない。唯(ただ)、流れるままに任せてある。この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
私は、佐久、小県(ちいさがた)の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰(みおろ)した千曲川をのみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。臼田(うすだ)、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。
馬流(まながし)というところまで岸に添うて遡(さかのぼ)ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧(むし)ろ大きな谿流(けいりゅう)に近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来るという甲州|商人(あきんど)の往来するのも見られる。
馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。Tの家は宮司(ぐうじ)で、街道からすこし離れた幽邃(ゆうすい)な松原湖の畔(ほとり)にある。Tは私達を待受けていたのだ。
白楊(どろ)、蘆(あし)、楓(かえで)、漆(うるし)、樺(かば)、楢(なら)などの類が、私達の歩いて行く河岸に生(お)い茂っていた。両岸には、南牧(みなみまき)、北牧、相木(あいぎ)などの村々を数えることが出来た。水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。八つが岳の山つづきにある赤々とした大崩壊(おおくずれ)の跡、金峯(きんぶ)、国師(こくし)、甲武信(こぶし)、三国(みくに)の山々、その高く聳(そび)えた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望(ちょうぼう)の中に入った。
日が傾いて来た。次第に私達は谷深く入ったことを感じた。
時々私はT君と二人で立止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に遠く炭焼の烟(けむり)の立登るのも見えた。
この谷の尽きたところに海(うみ)の口(くち)村がある。何となく川の音も耳について来た。暮れてから、私達はその村へ入った。
山村の一夜
この山国の話の中に、私はこんなことを書いたことが有った。
「清仏(しんふつ)戦争の後、仏蘭西(フランス)兵の用いた軍馬は吾(わが)陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象雄健なアルゼリイ種の馬匹(ばひつ)が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで。今日一口に雑種と称えているのは、専(おも)にこのアルゼリイ種を指したものです。その後|亜米利加(アメリカ)産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる、野辺山(のべやま)が原の馬市は一年増に盛んに成る、その噂(うわ)さが某(それがし)の宮殿下の御耳まで届くように成りました。殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好ですから、御|寵愛(ちょうあい)のファラリイスと云(いう)亜刺比亜(アラビア)産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃ有りません。ファラリイスの血を分けた当歳が三十四頭という呼声に成りました。殿下の御|喜悦(よろこび)は何程(どんな)でしたろう。到頭野辺山が原へ行啓を仰せ出されたのです」
以前私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓(ふもと)の村で送ったのは、丁度その行啓のあるという時だった。
静かな山村の夜――河水の氾濫(はんらん)を避けてこの高原の裾へ移住したという家々――風雪を防ぐ為の木曾路なぞに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯(ともしび)――鄙(ひな)びた旅舎(やどや)の二階から、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は曾遊(そうゆう)の地をもう一度見ることが出来た。
ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無い程の産馬地(うまどころ)だ。馬が土地の人の主なる財産だ。娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通る程の、荒い質朴な人達が住むところだ。
風呂桶(ふろおけ)が下水の溜(ため)の上に設けてあるということは――いかにこの辺の人達が骨の折れる生活を営むとはいえ――又、それほど生活を簡易にする必要があるとはいえ――来て見る度(たび)に私を驚かす。ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。
私達が着いたと聞いて、仕立屋の親類に成る人が提灯(ちょうちん)つけて旅舎(やどや)へ訪ねて来た。ここから小諸へ出て、長いこと私達の校長の家に奉公していた娘があった。
その娘も今では養子して、子供まであるとか。こういう山村に連関して、下女奉公する人達の一生なぞも何となく私の心を引いた。
君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。恐らく名前も聞いたことがあるまい。熱い灰の中で焼いた蕎麦餅(そばもち)だ。草鞋穿(わらじばき)で焚火(たきび)に温(あた)りながら、その「ハリコシ」を食い食い話すというが、この辺での炉辺(ろばた)の楽しい光景(ありさま)なのだ。
高原の上
翌朝私達は野辺山が原へ上った。私の胸には種々な記憶が浮び揚(あが)って来た。ファラリイスの駒(こま)三十四頭、牝馬(めうま)二百四十頭、牡馬(おうま)まで合せて三百余頭の馬匹(ばひつ)が列をつくって通過したのも、この原へ通う道だった。馬市の立つというあたりに作られた御|仮屋(かりや)、紫と白との幕、あちこちに巣をかけた商人(あきんど)、四千人余の群集、そんなものがゴチャゴチャ胸に浮んで来た。あの時は、私は仕立屋と連立って、秋の日のあたった原の一部を歩き廻ったが、今でも私の眼についているのは長野の方から知事に随(つ)いて来た背の高い参事官だ。白いしなやかな手を振って、柔かな靴音をさせる紳士だった。それで居て動作には敏捷(びんしょう)なところもあった。丁度あの頃私はトルストイの「アンナ・カレニナ」を読んでいたから、私は自分で想像したヴロンスキイの型(タイプ)をその参事官に当嵌(あてはめ)てみたりなぞした。あの紳士が肩に掛けた双眼鏡を取出して、八つが岳の方に見える牧場を遠く望んでいた様子は――失礼ながら――私の思うヴロンスキイそのままだった。
あの時の混雑に比べると、今度は原の上も寂しい。最早霜が来るらしい雑草の葉のあるいは黄に、あるいは焦茶色に成ったのを踏んで、ポツンポツンと立っている白樺(しらかんば)の幹に朝日の映(あた)るさまなぞを眺(なが)めながら、私達は板橋村という方へ進んで行った。この高原の広さは五里四方もある、荒涼とした原の中には、蕎麦(そば)なぞを蒔(ま)いたところもあって、それを耕す人達がところどころに僅(わず)かな村落を形造っている。板橋村はその一番|取付(とっつき)にある村だ。
以前、私はこの辺のことを、こんな風に話の中に書いた。
「晴れて行く高原の霧の眺めは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾(すそ)の見えた八つが岳が次第に険(けわ)しい山骨を顕(あら)わして来て、終(しまい)に紅色の光を帯びた巓(いただき)まで見られる頃は、影が山から山へ映(さ)しておりました。甲州に跨(またが)る山脈の色は幾度(いくたび)変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空に成りました。ああ朝です。
男山(おとこやま)、金峯山(きんぶざん)、女山(おんなやま)、甲武信岳(こぶしがたけ)、などの山々も残りなく顕れました。遠くその間を流れるのが千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけて白く光りました――」
夫婦とあるは、私がその話の中に書こうとした人物だ。一時は私もこうした文体を好んで書いたものだ。
「筒袖(つつそで)の半天に、股引(ももひき)、草鞋穿(わらじばき)で、頬冠(ほおかぶ)りした農夫は、幾群か夫婦の側を通る。鍬(くわ)を肩に掛けた男もあり、肥桶(こえおけ)を担(かつ)いで腰を捻(ひね)って行く男もあり、爺(おやじ)の煙草入を腰にぶらさげながら随いて行く児もありました。気候、雑草、荒廃、瘠土(せきど)などを相手に、秋の一日の烈(はげ)しい労働が今は最早始まるのでした。
既に働いている農夫もありました。黒々とした「ノッペイ」の畠の側を進んでまいりますと、一人の荒くれ男が汗雫(あせみずく)に成って、傍目(わきめ)をふらずに畠を打っておりました。大きな鍬を打込んで、身(からだ)を横にして仆(たお)れるばかりに土の塊(かたまり)を起す。気の遠くなるような黒土の臭気(におい)は紛(ぷん)として、鼻を衝(つ)くのでした……板橋村を離れて、旅人の群にも逢いました。
高原の秋は今です。見渡せば木立もところどころ。枝という枝は南向に生延びて、冬季に吹く風の勁(つよ)さも思いやられる。白樺は多く落葉して高く空に突立ち、細葉の楊樹(やなぎ)は踞(うずくま)るように低く隠れている。秋の光を送る風が騒しく吹渡ると、草は黄な波を打って、動き靡(なび)いて、柏の葉もうらがえりました。
ここかしこに見える大石には秋の日があたって、寂しい思をさせるのでした。
「ありしおで」の葉を垂れ、弘法菜(こうぼうな)の花をもつのは爰(ここ)です。
「かしばみ」の実の落ちこぼれるのも爰(ここ)です。
爰(ここ)には又、野の鳥も住み隠れました。笹の葉蔭に巣をつくる雲雀(ひばり)は、老いて春先ほどの勢も無い。鶉(うずら)は人の通る物音に驚いて、時々草の中から飛立つ。見れば不格好(ぶかっこう)な短い羽をひろげて、舞揚(まいあが)ろうとしてやがて、パッタリ落ちるように草の中へ引隠れるのでした。
外(ほか)の樹木の黄に枯々とした中に、まだ緑勝(みどりがち)な蔭をとどめたところも有る。それは水の流を旅人に教えるので、そこには雑木が生茂って、泉に添うて枝を垂れて、深く根を浸しているのです。
今は村々の農夫も秋の労働に追われて、この高原に馬を放すものも少い。八つが岳山脈の南の裾に住む山梨の農夫ばかりは、冬季の秣(まぐさ)に乏しいので、遠く爰(ここ)まで馬を引いて来て、草を刈集めておりました……」
これは主に旧道から見た光景(さま)だ。趣の深いのも旧道だ。
以前私は新道の方をも取って、帰り路(みち)に原の中を通ったこともある。その時は農夫の男女が秣を満載した馬を引いて山梨の方へ帰って行くのに逢った。彼等は弁当を食いながら歩いていた。聞いてみると往復十六里の道を歩いて、その間に秣を刈集めなければ成らない。朝暗いうちに山梨を出ても、休んで弁当を食っている暇が無いという。馬を引いて歩きながらの弁当――実に忙(せわ)しい生活の光景(さま)だと思った。
こんな話を私は同行のT君にしながら、旧道を取って歩いて行った。三軒家という小さな村を離れてからは人家を見ない。
この高原が牧場に適するのは、秣が多いからとのことだ。今は馬匹(ばひつ)を見ることも少いが、丘陵の起伏した間には、遊び廻っている馬の群も遠く見える。
白樺(しらかんば)の下葉は最早落ちていた。枯葉や草のそよぐ音――殊に槲(かしわ)の葉の鳴る音を聞くと、風の寒い、日の熱い高原の上を旅することを思わせる。
「まぐそ鷹(たか)」というが八つが岳の方の空に飛んでいるのも見た。私達はところどころにある茶色な楢(なら)の木立をも見て通った。それが遠い灰色の雲なぞを背景(バック)にして立つさまは、何んとなく茫漠(ぼうばく)とした感じを与える。原にある一筋の細い道の傍には、紫色に咲いた花もあった。T君に聞くと、それは松虫草とか言った。この辺は古い戦場の跡ででもあって、往昔(おうせき)海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死したと言伝えられる場所もある。
甲州境に近いところで、私達は人の背ほどの高さの小梨(こなし)を見つけた。葉は落ち尽して、小さな赤い実が残っていた。草を踏んで行ってその実を採って見ると、まだ渋い。中には霜に打たれて、口へ入れると溶けるような味のするもあった。間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。私達は樹木の少い大傾斜、深い谷々なぞを眼の下にして立った。
「富士!」
と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻(けわ)しい坂道を甲州の方へ下りた。 
 
その七

 

落葉(らくよう)の一
毎年十月の二十日といえば、初霜を見る。雑木林や平坦(たいら)な耕地の多い武蔵野(むさしの)へ来る冬、浅々とした感じの好い都会の霜、そういうものを見慣れている君に、この山の上の霜をお目に掛けたい。ここの桑畠(くわばたけ)へ三度(みたび)や四度もあの霜が来て見給え、桑の葉は忽(たちま)ち縮み上って焼け焦げたように成る、畠の土はボロボロに爛(ただ)れて了(しま)う……見ても可恐(おそろ)しい。猛烈な冬の威力を示すものは、あの霜だ。そこへ行くと、雪の方はまだしも感じが柔かい。降り積る雪はむしろ平和な感じを抱(いだ)かせる。
十月末のある朝のことであった。私は家の裏口へ出て、深い秋雨のために色づいた柿の葉が面白いように地へ下(くだ)るのを見た。肉の厚い柿の葉は霜のために焼け損(そこな)われたり、縮れたりはしないが、朝日があたって来て霜のゆるむ頃には、重さに堪(た)えないで脆(もろ)く落ちる。しばらく私はそこに立って、茫然(ぼうぜん)と眺(なが)めていた位だ。そして、その朝は殊(こと)に烈(はげ)しい霜の来たことを思った。
落葉の二
十一月に入って急に寒さを増した。天長節の朝、起出して見ると、一面に霜が来ていて、桑畠も野菜畠も家々の屋根も皆な白く見渡される。裏口の柿の葉は一時に落ちて、道も埋れるばかりであった。すこしも風は無い。それでいて一|葉(は)二葉ずつ静かに地へ下る。屋根の上の方で鳴く雀(すずめ)も、いつもよりは高くいさましそうに聞えた。
空はドンヨリとして、霧のために全く灰色に見えるような日だった。私は勝手元の焚火(たきび)に凍えた両手をかざしたく成った。足袋(たび)を穿(は)いた爪先も寒くしみて、いかにも可恐(おそろ)しい冬の近よって来ることを感じた。この山の上に住むものは、十一月から翌年の三月まで、殆(ほと)んど五ヶ月の冬を過さねば成らぬ。その長い冬籠(ふゆごも)りの用意をせねば成らぬ。
落葉の三
木枯が吹いて来た。
十一月中旬のことであった。ある朝、私は潮の押寄せて来るような音に驚かされて、眼が覚めた。空を通る風の音だ。時々それが沈まったかと思うと、急に復(ま)た吹きつける。戸も鳴れば障子も鳴る。殊に南向の障子にはバラバラと木の葉のあたる音がしてその間には千曲川の河音も平素(ふだん)から見るとずっと近く聞えた。
障子を開けると、木の葉は部屋の内までも舞込んで来る。空は晴れて白い雲の見えるような日であったが、裏の流のところに立つ柳なぞは烈風に吹かれて髪を振うように見えた。枯々とした桑畠に茶褐色(ちゃかっしょく)に残った霜葉なぞも左右に吹き靡(なび)いていた。
その日、私は学校の往(いき)と還(かえり)とに停車場前の通を横ぎって、真綿帽子やフランネルの布で頭を包んだ男だの、手拭(てぬぐい)を冠(かぶ)って両手を袖(そで)に隠した女だのの行き過ぎるのに遭(あ)った。往来(ゆきき)の人々は、いずれも鼻汁(はな)をすすったり、眼側(まぶち)を紅くしたり、あるいは涙を流したりして、顔色は白ッぽく、頬(ほお)、耳、鼻の先だけは赤く成って、身を縮め、頭をかがめて、寒そうに歩いていた。風を背後(うしろ)にした人は飛ぶようで、風に向って行く人は又、力を出して物を押すように見えた。
土も、岩も、人の皮膚の色も、私の眼には灰色に見えた。日光そのものが黄ばんだ灰色だ。その日の木枯が野山を吹きまくる光景(さま)は凄(すさ)まじく、烈しく、又勇ましくもあった。樹木という樹木の枝は撓(たわ)み、幹も動揺し、柳、竹の類は草のように靡いた。柿の実で梢(こずえ)に残ったのは吹き落された。梅、李(すもも)、桜、欅(けやき)、銀杏(いちょう)なぞの霜葉は、その一日で悉(ことごと)く落ちた。そして、そこここに聚(たま)った落葉が風に吹かれては舞い揚った。急に山々の景色は淋(さび)しく、明るく成った。
炬燵話(こたつばなし)
私が君に山上の冬を待受けることの奈様(いか)に恐るべきかを話した。しかしその長い寒い冬の季節が又、信濃(しなの)に於(お)ける最も趣の多い、最も楽しい時であることをも告げなければ成らぬ。
それには先ず自分の身体のことを話そう。そうだ。この山国へ移り住んだ当時、土地慣れない私は風邪(かぜ)を引き易(やす)くて困った。こんなことで凌(しの)いで行かれるかと思う位だった。実際、人間の器官は生活に必要な程度に応じて発達すると言われるが、丁度私の身体にもそれに適したことが起って来た。次第に私は烈しい気候の刺激に抵抗し得るように成った。東京に居た頃から見ると、私は自分の皮膚が殊に丈夫に成ったことを感ずる。私の肺は極く冷い山の空気を呼吸するに堪えられる。のみならず、私は春先まで枯葉の落ちないあの椚林(くぬぎばやし)を鳴らす寒い風の音を聞いたり、真白に霜の来た葱畠(ねぎばたけ)を眺(なが)めたりして、屋(うち)の外を歩き廻る度に、こういう地方に住むものでなければ知らないような、一種刺すような快感を覚えるように成った。
草木までも、ここに成長するものは、柔い気候の中にあるものとは違って見える。多くの常磐樹(ときわぎ)の緑がここでは重く黒ずんで見えるのも、自然の消息を語っている。試みに君が武蔵野(むさしの)辺の緑を見た眼で、ここの礫地(いしじ)に繁茂する赤松の林なぞを望んだなら、色相の相違だけにも驚くであろう。
ある朝、私は深い霧の中を学校の方へ出掛けたことが有った。五六町先は見えないほどの道を歩いて行くと、これから野面(のら)へ働きに行こうとする農夫、番小屋の側にションボリ立っている線路番人、霧に湿りながら貨物の車を押す中牛馬(ちゅうぎゅうば)の男なぞに逢った。そして私は――私自身それを感ずるように――この人達の手なぞが真紅(まっか)に腫(は)れるほどの寒い朝でも、皆な見かけほど気候に臆してはいないということを知った。
「どうです、一枚着ようじゃ有りませんか――」
こんなことを言って、皆な歩き廻る。それでも温熱(あたたかさ)が取れるという風だ。
それから私は学校の連中と一緒に成ったが、朝霧は次第に晴れて行った。そこいらは明るく成って来た。浅間の山の裾(すそ)もすこし顕(あらわ)れて来た。早く行く雲なぞが眼に入る。ところどころに濃い青空が見えて来る。そのうちに西の方は晴れて、ポッと日が映(あた)って来る。浅間が全く見えるように成ると、でも冬らしく成ったという気がする。最早あの山の巓(いただき)には白髪のような雪が望まれる。
こんな風にして、冬が来る。激しい気候を相手に働くものに取って、一年中の楽しい休息の時が来る。信州名物の炬燵(こたつ)の上には、茶盆だの、漬物鉢(つけものばち)だの、煙草盆だの、どうかすると酒の道具まで置かれて、その周囲(まわり)で炬燵話というやつが始まる。
小六月
気候は繰返す。温暖(あたたか)な平野の地方ではそれほど際立(きわだ)って感じないようなことを、ここでは切に感ずる。寒い日があるかと思うと、また莫迦(ばか)に暖い日がある。それから復た一層寒い日が来る。いくら山の上でも、一息に冬の底へ沈んでは了(しま)わない。秋から冬に成る頃の小春日和(こはるびより)は、この地方での最も忘れ難い、最も心地の好い時の一つである。俗に「小六月(ころくがつ)」とはその楽しさを言い顕した言葉だ。で、私はいくらかこの話を引戻して、もう一度十一月の上旬に立返って、そういう日あたりの中で農夫等が野に出て働いている方へ君の想像を誘おう。
小春の岡辺(おかべ)
風のすくない、雲の無い、温暖(あたたか)な日に屋外(そと)へ出て見ると、日光は眼眩(まぶ)しいほどギラギラ輝いて、静かに眺(なが)めることも出来ない位だが、それで居ながら日蔭へ寄れば矢張寒い――蔭は寒く、光はなつかしい――この暖かさと寒さとの混じ合ったのが、楽しい小春日和だ。
そういう日のある午後、私は小諸(こもろ)の町裏にある赤坂の田圃(たんぼ)中へ出た。その辺は勾配(こうばい)のついた岡つづきで、田と田の境は例の石垣に成っている。私は枯々とした草土手に身を持たせ掛けて、眺め入った。
手廻しの好い農夫は既に収穫を終った頃だ。近いところの田には、高い土手のように稲を積み重ね、穂をこき落した藁(わら)はその辺に置き並べてあった。二人の丸髷(まるまげ)に結った女が一人の農夫を相手にして立ち働いていた。男は雇われたものと見え、鳥打帽に青い筒袖(つつっぽ)という小作人らしい風体(ふうてい)で、女の機嫌(きげん)を取り取り籾(もみ)の俵を造っていた。そのあたりの田の面(も)には、この一家族の外に、野に出て働いているものも見えなかった。
古い釜形帽(かまがたぼう)を冠って、黄菊一株提げた男が、その田圃道を通りかかった。
「まあ、一服お吸い」
と呼び留められて、釜形帽と鳥打帽と一緒に、石垣に倚(よ)りながら煙草を燻(ふか)し始めた。女二人は話し話し働いた。
「金さん、お目はどうです――それは結構――ああ、ああ、そうとも――」などと女の語る声が聞えた。私は屋外に日を送ることの多い人達の生活を思って、聞くともなしに耳を傾けた。振返って見ると、一方の畦(あぜ)の上には菅笠(すげがさ)、下駄、弁当の包らしい物なぞが置いてあって、そこで男の燻す煙草の煙が日の光に青く見えた。
「さいなら、それじゃお静かに」
と一方の釜形帽はやがて別れて行った。
鳥打帽は鍬(くわ)を執って田の土をすこしナラし始めた。女二人が錯々(せっせ)と籾(もみ)を振(ふる)ったり、稲こきしたりしているに引替え、この雇われた男の方ははかばかしく仕事もしないという風で、すこし働いたかと思うと、直(すぐ)に鍬を杖にして、是方(こっち)を眺めてはボンヤリと立っていた。
岡辺は光の海であった。黒ずんだ土、不規則な石垣、枯々な桑の枝、畦の草、田の面に乾した新しい藁、それから遠くの方に見える森の梢(こずえ)まで、小春の光の充(み)ち溢(あふ)れていないところは無かった。
私の眼界にはよく働く男が二人までも入って来た。一人は近くにある田の中で、大きな鍬に力を入れて、土を起し始めた。今一人はいかにも背の高い、痩(や)せた、年若な農夫だ。高い石垣の上の方で、枯草の茶色に見えるところに半身を顕(あらわ)して、モミを打ち始めた。遠くて、その男の姿が隠れる時でも、上ったり下ったりする槌(つち)だけは見えた。そして、その槌の音が遠い砧(きぬた)の音のように聞えた。
午後の三時過まで、その日私は赤坂裏の田圃道を歩き廻った。
そのうちに、畠側(はたけわき)の柿や雑木に雀の群のかしましいほど鳴き騒いでいるところへ出た。刈取られた田の面には、最早青い麦の芽が二寸ほども延びていた。
急に私の背後(うしろ)から下駄の音がして来たかと思うと、ぱったり立止って、向うの石垣の上の方に向いて呼び掛ける子供の声がした。見ると、茶色に成った桑畠を隔てて、親子二人が収穫(とりいれ)を急いでいた。子供はお茶の入ったことを知らせに来たのだ。信州人ほど茶好な人達も少なかろうと思うが、その子供が復た馳出(かけだ)して行った後でも、親子は時を惜むという風で、母の方は稲穂をこき落すに余念なく、子息(むすこ)はその籾を叩(たた)く方に廻ってすこしも手を休めなかった。遠く離れてはいたが、手拭を冠った母の身(からだ)を延べつ縮めつするさまも、子息のシャツ一枚に成って後ろ向に働いているさまも、よく見えた。
子供にあんなことを言われると、私も咽喉(のど)が乾いて来た。
家へ帰って濃い熱い茶に有付きたいと思いながら、元来た道を引返そうとした。斜めに射して来た日光は黄を帯びて、何となく遠近(おちこち)の眺望(ながめ)が改まった。岡の向うの方には数十羽の雀が飛び集ったかと思うと、やがてまたパッと散り隠れた。
農夫の生活
君はどれ程私が農夫の生活に興味を持つかということに気付いたであろう。私の話の中には、幾度(いくたび)か農家を訪ねたり、農夫に話し掛けたり、彼等の働く光景(さま)を眺めたりして、多くの時を送ったことが出て来る。それほど私は飽きない心地で居る。そして、もっともっと彼等をよく知りたいと思っている。見たところ、Openで、質素で、簡単で、半ば野外にさらけ出されたようなのが、彼等の生活だ。しかし彼等に近づけば近づくほど、隠れた、複雑な生活を営んでいることを思う。同じような服装を着け、同じような農具を携え、同じような耕作に従っている農夫等。譬(たと)えば、彼等の生活は極く地味な灰色だ。その灰色に幾通りあるか知れない。私は学校の暇々に、自分でも鍬を執って、すこしばかりの野菜を作ってみているが、どうしても未だ彼等の心には入れない。
こうは言うものの、百姓の好きな私は、どうかいう機会を作って、彼等に近づくことを楽みとする。
赤い茅萱(ちがや)の霜枯れた草土手に腰掛け、桟俵(さんだわら)を尻(しり)に敷き、田へ両足を投出しながら、ある日、私は小作する人達の側に居た。その一人は学校の小使の辰さんで、一人は彼の父、一人は彼の弟だ。辰さん親子は麦畠の「サク」を掛け起していたが、私の方へ来ては休み休み種々な話をした。雨、風、日光、鳥、虫、雑草、土、気候、そういうものは無くて叶(かな)わぬものでありながら、又百姓が敵として戦わねば成らないものでもある。そんなことから、この辺の百姓が苦むという種々な雑草の話が出た。水沢瀉(みずおもだか)、えご、夜這蔓(よばいづる)、山牛蒡(やまごぼう)、つる草、蓬(よもぎ)、蛇苺(へびいちご)、あけびの蔓、がくもんじ(天王草)その他田の草取る時の邪魔ものは、私なぞの記憶しきれないほど有る。辰さんは田の中から、一塊(ひとかたまり)の土を取って来て、青い毛のような草の根が隠れていることを私に示した。それは「ひょうひょう草」とか言った。この人達は又、その中から種々な薬草を見分けることを知っていた。「大抵の御百姓に、この稲は何だなんて聞いても、名を知らないのが多い位に、沢山いろいろと御座います」
話好きな辰さんの父親(おやじ)は、女穂(めほ)、男穂(おとこほ)のことから、浅間の裾で砂地だから稲も良いのは作れないこと、小麦畠へ来る鳥、稲田を荒らすという虫類の話などを私にして聞かせた。「地獄|蒔(まき)」と言って、同じ麦の種を蒔くにも、農夫は地勢に応じたことを考えるという話もした。小諸は東西の風をうけるから、南北に向って「ウネ」を造ると、日あたりも好し、又風の為に穂の擦(す)れ落ちる憂(うれい)が無い、自分等は絶えずそんなことを工夫しているとも話した。
「しかし、上州の人に見せたものなら、こんなことでよく麦が取れるッて、消魂(たまげ)られます」
こう言って、隠居は笑った。
「この阿爺(おとっ)さんも、ちったア御百姓の御話が出来ますから、御二人で御話しなすって下さい」
と辰さんは言い置いて、麦藁(むぎわら)帽の古いのを冠りながら復た畠へ出た。辰さんの弟も股引(ももひき)を膝(ひざ)までまくし上げ、素足を顕して、兄と一緒に土を起し始めた。二人は腰に差した鎌を取出して、時々鍬に附着する土を掻取(かきと)って、それから復た腰を曲(こご)めて錯々(せっせ)とやった。
「浅間が焼けますナ」
と皆な言い合った。
私は掘起される土の香を嗅(か)ぎ、弱った虫の声を聞きながら、隠居から身上話を聞かされた。この人は六十三歳に成って、まだ耕作を休まずにいるという。十四の時から灸(きゅう)、占(うらない)の道楽を覚え、三十時代には十年も人力車(くるま)を引いて、自分が小諸の車夫の初だということ、それから同居する夫婦の噂(うわさ)なぞもして、鉄道に親を引つぶされてからその男も次第に、零落したことを話した。
「お百姓なぞは、能の無いものの為(す)るこんです……」
と隠居は自ら嘲(あざけ)るように言った。
その時、髪の白い、背の高い、勇健な体格を具えた老農夫が、同じ年|格好(かっこう)な仲間と並んで、いずれも土の喰(く)い入った大きな手に鍬を携えながら、私達の側を挨拶して通った。肥(こや)し桶(おけ)を肩に掛けて、威勢よく向うの畠道を急ぐ壮年(わかもの)も有った。
収穫
ある日、復た私は光岳寺の横手を通り抜けて、小諸の東側にあたる岡の上に行って見た。
午後の四時頃だった。私が出た岡の上は可成|眺望(ちょうぼう)の好いところで、大きな波濤(なみ)のような傾斜の下の方に小諸町の一部が瞰下(みおろ)される位置にある。私の周囲には、既に刈乾した田だの未だ刈取らない田だのが連なり続いて、その中である二家族のみが残って収穫(とりいれ)を急いでいた。
雪の来ない中に早くと、耕作に従事する人達の何かにつけて心忙しさが思われる。私の眼前(めのまえ)には胡麻塩(ごましお)頭の父と十四五ばかりに成る子とが互に長い槌(つち)を振上げて籾(もみ)を打った。その音がトントンと地に響いて、白い土埃(つちほこり)が立ち上った。母は手拭を冠り、手甲(てっこう)を着けて、稲の穂をこいては前にある箕(み)の中へ落していた。その傍(かたわら)には、父子(おやこ)の叩いた籾を篩(ふるい)にすくい入れて、腰を曲めながら働いている、黒い日に焼けた顔付の女もあった。それから赤い襷掛(たすきがけ)に紺足袋穿という風俗(なり)で、籾の入った箕を頭の上に載せ、風に向ってすこしずつ振い落すと、その度に粃(しいな)と塵埃(ほこり)との混り合った黄な煙を送る女もあった。
日が短いから、皆な話もしないで、塵埃(ほこり)だらけに成って働いた。岡の向うには、稲田や桑畠を隔てて、夫婦して笠を冠って働いているのがある。殊にその女房が箕を高く差揚げ風に立てているのが見える。風は身に染みて、冷々(ひやひや)として来た。私の眼前(めのまえ)に働いていた男の子は稲村に預けて置いた袖なし半天を着た。母も上着(うわっぱり)の塵埃(ほこり)を払って着た。何となく私も身体がゾクゾクして来たから、尻端折(しりはしょり)を下して、着物の上から自分の膝を摩擦しながら、皆なの為ることを見ていた。
鍬を肩に掛けて、岡づたいに家の方へ帰って行く頬冠りの男もあった。鎌を二|挺(ちょう)持ち、乳呑児を背中に乗せて、「おつかれ」と言いつつ通過ぎる女もあった。
眼前(めのまえ)の父子(おやこ)が打つ槌の音はトントンと忙しく成った。
「フン」、「ヨウ」の掛声も幽(かす)かに泄(も)れて来た。そのうちに、父はへなへなした俵を取出した。腰を延ばして塵埃の中を眺める女もあった。田の中には黄な籾の山を成した。
その時は最早暮色が薄く迫った。小諸の町つづきと、かなたの山々の間にある谷には、白い夕靄(ゆうもや)が立ち籠(こ)めた。向うの岡の道を帰って行く農夫も見えた。
私はもうすこし辛抱して、と思って見ていると、父の農夫が籾をつめた俵に縄を掛けて、それを負(しょ)いながら家を指して運んで行く様子だ。今は三人の女が主に成って働いた。岡辺も暮れかかって来て、野面(のら)に居て働くものも無くなる。向うの田の中に居る夫婦者の姿もよく見えない程に成った。
光岳寺の暮鐘が響き渡った。浅間も次第に暮れ、紫色に夕映(ゆうばえ)した山々は何時しか暗い鉛色と成って、唯(ただ)白い煙のみが暗紫色の空に望まれた。急に野面(のら)がパッと明るく成ったかと思うと、復た響き渡る鐘の音を聞いた。私の側には、青々とした菜を負(しょ)って帰って行く子供もあり、男とも女とも後姿の分らないようなのが足速(あしばや)に岡の道を下って行くもあり、そうかと思うと、上着(うわっぱり)のまま細帯も締めないで、まるで帯とけひろげのように見える荒くれた女が野獣(けもの)のように走って行くのもあった。
南の空には青光りのある星一つあらわれた。すこし離れて、また一つあらわれた。この二つの星の姿が紫色な暮の空にちらちらと光りを見せた。西の空はと見ると、山の端(は)は黄色に光り、急に焦茶色と変り、沈んだ日の反射も最後の輝きを野面(のら)に投げた。働いている三人の女の頬冠り、曲(こご)めた腰、皆な一時に光った。男の子の鼻の先まで光った。最早稲田も灰色、野も暗い灰色に包まれ、八幡の杜(もり)のこんもりとした欅(けやき)の梢(こずえ)も暗い茶褐色に隠れて了(しま)った。
町の彼方(かなた)にはチラチラ燈火(あかり)が点(つ)き始めた。岡つづきの山の裾にも点いた。
父の農夫は引返して来て復た一俵|負(しょ)って行った。三人の女や男の子は急ぎ働いた。
「暗くなって、いけねえナア」と母の子をいたわる声がした。
「箒(ほうき)探しな――箒――」
と復た母に言われて、子はうろうろと田の中を探し歩いた。
やがて母は箒で籾を掃き寄せ、筵(むしろ)を揚げて取り集めなどする。女達が是方(こっち)を向いた顔もハッキリとは分らないほどで、冠っている手拭の色と顔とが同じほどの暗さに見えた。
向うの田に居る夫婦者も、まだ働くと見えて、灰色な稲田の中に暗く動くさまが、それとなく分る。
汽笛が寂しく響いて聞えた。風は遽然(にわかに)私の身にしみて来た。
「待ちろ待ちろ」
母の声がする。男の子はその側で、姉らしい女と共に籾を打った。彼方(かなた)の岡の道を帰る人も暗く見えた。「おつかれでごわす」と挨拶そこそこに急いで通過ぎるものもあった。そのうちに、三人の女の働くさまもよくは見えない位に成って、冠った手拭のみが仄(ほの)かに白く残った。振り上ぐる槌までも暗かった。
「藁をまつめろ」
という声もその中で聞える。
私がこの岡を離れようとした頃、三人の女はまだ残って働いていた。私が振返って彼等を見た時は、暗い影の動くとしか見えなかった。全く暮れ果てた。
巡礼の歌
乳呑児(ちのみご)を負(おぶ)った女の巡礼が私の家の門(かど)に立った。
寒空には初冬(はつふゆ)らしい雲が望まれた。一目見たばかりで、皆な氷だということが思われる。氷線の群合とも言いたい。白い、冷い、透明な尖端(せんたん)は針のようだ。この雲が出る頃に成ると、一日は一日より寒気を増して行く。
こうして山の上に来ている自分等のことを思うと、灰色の脚絆(きゃはん)に古足袋を穿(は)いた、旅窶(たびやつ)れのした女の乞食(こじき)姿にも、心を引かれる。巡礼は鈴を振って、哀れげな声で御詠歌を歌った。私は家のものと一緒に、その女らしい調子を聞いた後で、五厘銅貨一つ握らせながら、「お前さんは何処ですネ」と尋ねた。
「伊勢でござります」
「随分遠方だネ」
「わしらの方は皆なこうして流しますでござります」
「何処(どっち)の方から来たんだネ」
「越後(えちご)路から長野の方へ出まして、諸方(ほうぼう)を廻って参りました。これから寒くなりますで、暖い方へ参りますでござりますわい」
私は家のものに吩咐(いいつ)けて、この女に柿をくれた。女はそれを風呂敷包にして、家のものにまで礼を言って、寒そうに震えながら出て行った。
夏の頃から見ると、日は余程南よりに沈むように成った。吾家の門に出て初冬の落日を望む度に、私はあの「浮雲似[二]故丘[一]」という古い詩の句を思出す。近くにある枯々な樹木の梢は、遠い蓼科(たでしな)の山々よりも高いところに見える。近所の家々の屋根の間からそれを眺めると丁度日は森の中に沈んで行くように見える。 
 
その八

 

一ぜんめし
私は外出した序(ついで)に時々立寄って焚火(たきび)にあてて貰(もら)う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処(おんやすみどころ)、揚羽屋(あげばや)とした看板の出してあるのがそれだ。
私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子(でし)を相手にして、石菖蒲(せきしょうぶ)、万年青(おもと)などの青い葉に眼を楽ませながら錯々(せっせ)と着物を造(こしら)える仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹(ようかん)を店頭(みせさき)に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網(とあみ)をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者(えきしゃ)が居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾(こんのれん)を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩(あんま)を渡世にする頭を円(まる)めた盲人(めくら)が居る。駒鳥(こまどり)だの瑠璃(るり)だのその他小鳥が籠(かご)の中で囀(さえず)っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
揚羽屋では豆腐を造るから、服装(なりふり)に関わず働く内儀(かみ)さんがよく荷を担(かつ)いで、襦袢(じゅばん)の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空に徹(とお)る声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだと直(すぐ)に分る。自分の家でもこの女から油揚(あぶらあげ)だの雁(がん)もどきだのを買う。近頃は子息(むすこ)も大きく成って、母親(おっか)さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴(やっこ)でもトントンとやるように成った。
揚羽屋には、うどんもある。尤(もっと)も乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺では麺(めん)類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐(ばんさん)に麺類を用うるという家を知っている。蕎麦(そば)はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走(ちそう)に成っている。それから、「お煮掛(にかけ)」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋(おおなべ)のかけてある炉辺(ろばた)に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱(あたたかさ)を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何(いかが)でごわす」などと言って、内儀さんが大丼(おおどんぶり)に熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供|相撲(ずもう)に弓を取った自慢話なぞを始める。
そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤(すす)けた壁も、汚(よご)れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。私は往来に繋(つな)いである馬の鳴声なぞを聞きながら、そこで凍えた身体を温める。荒くれた人達の話や笑声に耳を傾ける。次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。
松林の奥
夷講(えびすこう)の翌日、同僚の歴史科の教師W君に誘われて、山あるきに出掛けた。W君は東京の学校出で、若い、元気の好い、書生肌の人だから、山野を跋渉(ばっしょう)するには面白い道連だ。
小諸の町はずれに近い、与良町(よらまち)のある家の門で、
「煮(た)いて貰うのだから、お米を一升も持っておいでなんしょ。柿も持っておいでなんすか――」
こう言ってくれる言葉を聞捨てて、私達は頭陀袋(ずだぶくろ)に米を入れ、毛布(ケット)を肩に掛け、股引(ももひき)尻端折という面白い風をして、洋傘(こうもり)を杖につき、それに牛肉を提げて出掛けた。
出発は約束の時より一時間ばかり遅れた。八幡の杜(もり)を離れたのが、午後の四時半だった。日の暮れないうちにと、岡つづきの細道を辿(たど)って、浅間の方をさして上った。ある松林に行き着く頃は、夕月が銀色に光って来て、既に暮色の迫るのを感じた。西の山々のかなたには、日も隠れた。私達は後方(うしろ)を振返り振返りして急いで行った。
静かな松林の中にある一筋の細道――それを分けて上ると、浅間の山々が暗い紫色に見えるばかり、松葉の落ち敷いた土を踏んで行っても足音もしなかった。林の中を泄(も)れて射し入る残りの光が私達の眼に映った。西の空には僅(わず)かに黄色が残っていた。鳥の声一つ聞えなかった。
そのうちに、一つの松林を通越して、また他の松林の中へ入った。その時は、西の空は全く暗かった。月の光はこんもりとした木立の間から射し入って、林に満ちた夕靄(ゆうもや)は煙(けぶ)るようであった。細長い幹と幹との並び立つさまは、この夕靄の灰色な中にも見えた。遠い方は暗く、木立も黒く、何となく深く静かに物寂(ものさみ)しい。
宵の月は半輪(はんりん)で、冴(さ)えてはいたが、光は薄かった。私達が辿(たど)って行く道は松かげに成って暗かった。けれども一筋黒く眼にあって、松葉の散り敷いたところは殊に区別することが出来た。そこまで行くと、最早(もう)人里は遠く、小諸の方は隠れて見えなかった。時々私達は林の中にたたずんで、何の物音とも知れない極く幽(かす)かな響に耳を立てたり、暗い奥の方を窺(うかが)うようにして眺(なが)め入ったりした。先に進んで行くW君の姿も薄暗く此方(こちら)を向いてもよく顔が分らない程の光を辿って、猶(なお)奥深く進んだ。すべての物は暗い夜の色に包まれた。それが靄の中に沈み入って、力のない月の光に、朦朧(もうろう)と影のように見えた。ある時は、芝の上に腰掛けて、肩に掛けた物を卸し、足を投出して、しばらく休んで行った。私は既に非常な疲労を覚えた。というは、腹具合が悪くて、飯を一度食わなかったから。で、W君と一緒に休む時には、そこへ倒れるように身を投げた。やがて復た洋傘(こうもり)に力を入れて、起(た)ち上った。
いくつか松林を越えて、広々としたところへ出た。私達二人の影は地に映って見えた。月の光は明るくなったり暗くなったりした。そのうちに私達は大きな黒いものを見つけた。七ひろ石だ。
「もう余程来ましたかねえ。どうも非常に疲れた。足が前(さき)へ出なくなった」
「私も夜道はしましたが、こんなに弱ったことはありません」
「ここで一つ休もうじゃありませんか」
「弱いナア。ああああ」
こう言合って、勇気を鼓して進もうとすると、疲れた足の指先は石に蹉(つまず)いて痛い。復たぐったりと倒れるように、草の上へ横に成って休んだ。そこは浅間の中腹にある大傾斜のところで、あたりは茫漠(ぼうばく)とした荒れた原のように見えた。越えて来た松林は暗い雲のようで、ところどころに黒い影のような大石が夜色に包まれて眼に入るばかりだ。月の光も薄くこの山の端(は)に満ちた。空の彼方(かなた)には青い星の光が三つばかり冴えて見えた。灰白い夜の雲も望まれた。
深山の燈影
赤々と障子に映る燈火(ともしび)を見た時の私達の喜びは譬(たと)えようもなかった。私達は漸(ようや)くのことで清水(しみず)の山小屋に辿り着いた。
小屋の番人はまだ月明りの中で何か取片付けて働いている様子であった。私達は小屋へ入って、疲れた足を洗い、脚絆(きゃはん)のままで炉辺(ろばた)に寛(くつろ)いだ。W君は毛布を身に纏(まと)いながら、
「本家の小母さんが、お竹さんにどうか明日(あす)は大根洗いに降りて来て下さいッて――それにKさんの結納(ゆいのう)が来ましたから、小母さんも見せたいからッて。それは立派なのが来ましたよ」
お竹さんは番人の細君のことで、本家の小母さんとは小諸を出がけに私達にすこしは多く米を持って行けと注意してくれた人だ。W君はこの人達と懇意で、話し方も忸々(なれなれ)しい。
米を入れた頭陀袋、牛肉の新聞紙包、それから一かけの半襟(はんえり)なぞが、土産(みやげ)がわりにそこへ取出された。
番人は小屋へ入りがけに、
「肉には葱(ねぎ)が宜(よろ)しゅうごわしょうナア」
と言うと、W君も笑って、
「ああ葱は結構」
「序(ついで)に、芋があったナア――そうだ、芋も入れるか」と番人は屋外(そと)へ出て行って、葱、芋の貯えたのを持って来た。やがて炉辺へドッカと座り、ぶすぶす煙る雑木を大火箸(おおひばし)であらけ、ぱっと燃え付いたところへ櫟(くぬぎ)の枝を折りくべた。火勢が盛んに成ると、皆なの顔も赤々と見えた。
番人はまだ年も若く、前の年の四月にここへ引移って、五月に細君を迎えたという。火に映る顔は健(すこや)かに輝き眼は小さいけれど正直な働き好きな性質を表していた。話をしては大きく口を開いて、頭を振り、舌の見える程に笑うのが癖のようだ。その笑い方はすこし無作法ではあるが、包み隠しの無いところは嫌味(いやみ)の無い面白い若者だ。直(すぐ)に懇意に成れそうな人だ。細君はまた評判の働き者で、顔色の赤い、髪の厚く黒い、どこかにまだ娘らしいところの残った、若く肥った女だ。まことに似合った好い若夫婦だ。
部屋の方は暗いランプに照らされていて、炉辺のみ明るく見えた。小屋の庭の隅(すみ)には竃(かまど)が置いてあって、そこから煙が登り始めた。飯をたく音も聞えて来た。細君はザクザクと葱を切りながら、
「私は幼少(ちいさ)い時から寂(さみ)しいところに育ちやしたが、この山へ来て慣れるまでには、真実(ほんと)に寂しい思をいたしやした」
こう山住(やまずみ)の話をして聞かせる。亭主も私達が訪ねて来たことを嬉しそうに、その年作ったという葱の出来などを話し聞かせて夫婦して夕飯の仕度をしてくれた。炉には馬に食わせるとかの馬鈴薯(じゃがいも)を煮る大鍋が掛けてあったが、それが小鍋に取替えられた。細君が芋を入れれば、亭主はその上へ蓋(ふた)を載せる。私達は「手鍋提げても」という俗謡(うた)にあるような生活を眼(ま)のあたり見た。
小猫は肉の香を嗅ぎつけて新聞紙包の傍(そば)へ鼻を押しつけ、亭主に叱(しか)られた。やがて私達の後を廻って遠慮なくW君の膝に上った。「野郎」と復た亭主に叱られて炉辺に縮み、寒そうに火を眺めて目を細くした。
「私はこの猫という奴が大嫌(だいきら)いですが、本家でもって無理に貰ってくれッて、連れて来やした」
と亭主は言って、色の黒い野鼠がこの小屋へ来ていたずらすることなど、山の中らしい話をして笑った。
「すこし煙(けむっ)たくなって来たナア。開けるか」とW君は起上って、細目に小屋の障子を開けた。しばらく屋外(そと)を眺めて立っていた。
「ああ好い月だ、冴(さ)え冴えとして」
と言いながらこの同僚が座に戻る頃は、鍋から白い泡(あわ)を吹いて、湯気も立のぼった。
「さア、もういいよ」
「肉を入れて下さい」
「どれ入れるかナ。一寸待てよ、芋を見て――」
亭主は貝匙(かいさじ)で芋を一つ掬(すく)った。それを鍋蓋の上に載せて、いくつかに割って見た。芋は肉を入れても可い程に煮えた。そこで新聞紙包が解かれ、竹の皮が開かれた。赤々とした牛(ぎゅう)の肉のすこし白い脂肪(あぶら)も混ったのを、亭主は箸で鍋の中に入れた。
「どうも甘(うま)そうな匂(にお)いがする。こんな御土産なら毎日でも頂きたい」と亭主がW君に言った。
細君は戸棚(とだな)から、膳(ぜん)、茶碗(ちゃわん)、塗箸(ぬりばし)などを取出し、飯は直に釜から盛って出した。
「どうしやすか、この炉辺の方がめずらしくて好うごわしょう」
と細君に言われて、私達は焚火を眺め眺め、夕飯を始めた。その時は余程空腹を感じていた。
「さア、肉も煮えやした」と細君は給仕しながら款待顔(もてなしがお)に言った。
「お竹さん、勘定して下さい、沢山頂きますから」とW君も心易い調子で、「うまい、この葱はうまい。熱(あつ)、熱。フウフウ」
「どうも寒い時は肉に限りますナア」と亭主は一緒にやった。
三杯ほど肉の汁をかえて、私も盛んな食欲を満たした。私達二人は帯をゆるめるやら、洋服のズボンをゆるめるやらした。
「さア、おかえなすって――山へ来て御飯(おまんま)がまずいなんて仰(おっしゃ)る方はありませんよ」
と細君が言ううち、つとW君の前にあった茶碗を引きたくった。W君はあわてて、奪い返そうとするように手を延ばしたが、間に合わなかった。細君はまた一ぱい飯を盛って勧めた。
W君は笑いながら頭を抱(かか)えた。「ひどいひどい――ひどくやられた」
「えッ、やられた?」と亭主も笑った。
「その位はいけやしょう」
「どうして、もう沢山頂いて、実際入りません」とW君は溜息(ためいき)吐(つ)いた後で、「チ、それじゃ、やるか。どうも一ぱい食った――ええ、香の物でやれ」
楽しい笑声の中に、私は夕飯を済ました。「お前も御馳走に成れ」という亭主の蔭で、細君も飯を始めた。戸棚の中に入れられた小猫は、物欲しそうに鳴いた。山の中のことで、亭主は牛肉を包んだ新聞紙をもめずらしそうに展(ひろ)げて、読んだ。W君はあまり詰込み過ぎたかして、毛布を冠ったまま暫時(しばらく)あおのけに倒れていた。
炭焼、兎(うさぎ)狩の話なぞが夫婦の口からかわるがわる話された。やがて細君も膳を片付け、馬の飲料にとフスマを入れた大鍋を炉に掛けながら、ある夜この山の中で夫の留守に風が吹いて新築の家の倒れたこと、もしこの小屋の方へ倒れて来たらその時は馬を引出そうと用意したに、彼方(あちら)に倒れて、可恐(おそろ)しい思をしたことを話した。めったに外へ泊ったことの無い夫がその晩に限って本家で泊った、とも話した。
新築の家というは小屋に近く建ててあった。私達はその家の方へ案内されて、そこで一晩泊めて貰った。漸く普請が出来たばかりだとか、戸のかわりに唐紙(からかみ)を押つけ、その透間から月の光も泄(も)れた。私達は毛布にくるまり、燈火(あかり)も消し、疲れて話もせずに眠った。
山の上の朝飯
翌朝の三時頃から、同じ家の内に泊っていた土方は最早起き出す様子だ。この人達の話声は、前の晩遅くまで聞えていた。雉子(きじ)の鳴声を聞いて、私達も朝早く床を離れた。
私達は重(かさ)なり畳(かさ)なった山々を眼の下に望むような場処へ来ていた。谷底はまだ明けきらない。遠い八ヶ岳は灰色に包まれ、その上に紅い雲が棚引(たなび)いた。次第に山の端(は)も輝いて、紅い雲が淡黄に変る頃は、夜前真黒であった落葉松(からまつ)の林も見えて来た。
亭主と連立って、私達は小屋の周囲(まわり)にある玉菜畠、葱畠、菊畠などの間を見て廻った。大根乾した下の箱の中から、家鴨(あひる)が二羽ばかり這出(はいだ)した。そして喜ばしそうに羽ばたきして、そこいらにこぼれたものを拾っては、首を縮めたり、黄色い口嘴(くちばし)を振ったり、ひょろひょろと歩き廻ったりした。
亭主は私達を馬小屋の前に連れて行った。赤い馬が首を出して、鼻をブルブル言わせた。冬季のことだから毛も長く延び、背は高く、目は優しく、肥大な骨格の馬だ。亭主は例のフスマに芋、葱のうでたのを混ぜ、ツタを加えて掻廻し、それを大桶(おおおけ)に入れて、馬小屋の鍵(かぎ)に掛けて遣(や)った。馬はあまえて、朝飯欲しそうな顔付をした。
「廻って来い」
と亭主が言うと、馬は主人の言葉を聞分けて、ぐるりと一度小屋の内を廻った。
「もう一度――」
と復(ま)た亭主が馬の鼻面(はなづら)を押しやった。それからこの可憐(かれん)な動物は桶の中へ首を差込むことを許された。馬がゴトゴトさせて食う傍(そば)で、亭主は一斗五升の白水が一吸に尽されることを話して、私達を驚かした。
山上の雲は漸(ようや)く白く成って行った。谷底も明けて行った。光の触れるところは灰色に望まれた。
細君が膳の仕度の出来たことを知らせに来た。めずらしいところで、私達は朝の食事をした。亭主は食べ了(おわ)った茶碗に湯を注ぎ、それを汁椀(しるわん)にあけて飲み尽し、やがて箱膳(はこぜん)の中から布巾(ふきん)を取出して、茶碗も箸(はし)も自分で拭(ふ)いて納めた。
もう一度、私達は亭主と一緒に小屋を出て、朝日に光る山々を見上げ、見下した。亭主は望遠鏡まで取出して来て、あそこに見えるのが渋の沢、その手前の窪(くぼ)みが霊泉寺の沢、と一々指して見せた。八つが岳、蓼科(たでしな)の裾、御牧(みまき)が原、すべて一望の中にあった。
層を成して深い谷底の方へ落ちた断崖の間には、桔梗(ききょう)、山辺(やまべ)、横取(よこどり)、多計志(たけし)、八重原(やえばら)などの村々を数えることが出来る。白壁も遠く見える。千曲川も白く光って見える。
十二月に入ると山の雉(きじ)は畠へ下りて来る、どうかすると人の足許(あしもと)より飛び立つことがある。兎も雪の中の麦を喰(く)いに寄る。こうした話が私達にはめずらしい。 
 
その九

 

雪国のクリスマス
クリスマスの夜とその翌日を、私は長野の方で送った。長野測候所に技手を勤むる人から私は招きの手紙を受けて、未知の人々に逢うために、小諸を発(た)ち、汽車の窓から田中、上田、坂木などの駅々を通り過ぎて、長野まで行った。そこにある測候所を見たいと思ったのがこの小さな旅の目的の一つであった。私はそれも果した。
雪国のクリスマス――雪国の測候所――と言っただけでも、すでに何物(なに)か君の想像を動かすものがあるであろう。しかし私はその話を君にする前に、いかにこの国が野も山も雪のために埋もれて行ったかを話したいと思う。
毎年十一月の二十日前後には初雪を見る。ある朝私は小諸の住居(すまい)で眼が覚めると、思いがけない大雪が来ていた。塩のように細かい雪の降り積(つもる)のが、こういう土地の特色だ。あまりに周囲(あたり)の光景が白々としていた為か、私の眼にはいくらか青みを帯びて見える位だった。朝通いの人達が、下駄の歯につく雪になやみながら往来を辿(たど)るさまは、あたかも暗夜を行く人に異ならない。赤い毛布(ケット)で頭を包んだ草鞋穿(わらじばき)の小学生徒の群、町家の軒下にションボリと佇立(たたず)む鶏、それから停車場のほとりに貨物を満載した車の上にまで雪の積ったさまなぞを見ると、降った、降った、とそう思う。私は懐古園(かいこえん)の松に掛った雪が、時々|崩(くず)れ落ちる度(たび)に、濛々(もうもう)とした白い烟(けむり)を揚げるのを見た。谷底にある竹の林が皆な草のように臥(ね)て了ったのをも見た。
岩村田通いの馬車がこの雪の中を出る。馬丁の吹き鳴らす喇叭(らっぱ)の音が起る。薄い蓙(ござ)を掛けた馬の身(からだ)はビッショリと濡(ぬれ)て、粗(あら)く乱れた鬣(たてがみ)からは雫(しずく)が滴(したた)る。ザクザクと音のする雪の路を、馬車の輪が滑(すべ)り始める。白く降り埋(うず)んだ道路の中には、人の往来(ゆきき)の跡だけ一筋赤く土の色になって、うねうねと印したさまが眺(ながめ)られる。家ごとに出て雪をかく人達の混雑したさまも、こういう土地でなければ見られない光景(ありさま)だ。
薄い靄か霧かが来て雪のあとの町々を立ち罩(こ)めた。その日の黄昏時(たそがれどき)のことだ。晴れたナと思いながら門口に出て見ると、ぱらぱらと冷いのが襟(えり)にかかる。ヤア降ってるのかと、思わず髪に触(さわ)ると、霧のように見えたのは矢張細かい雪だということが知れる。二度ばかり掻取(かきと)った路も、また薄白くなって、夜に入れば、時々家の外で下駄の雪の落す音が、ハタハタと聞える。自分の家へ客でも訪れるのかと思うと、それが往来の人々であるには驚かされる。
雪明りで、暗いなかにも道は辿ることが出来る。町を通う人々の提灯(ちょうちん)の光が、夜の雪に映って、花やかに明るく見えるなぞもPicturesqueだ。
君、私はこの国に於ける雪の第一日のあらましを君に語った。この雪が残らず溶けては了わないことを、君に思ってみて貰(もら)いたい。殊に寒い日蔭、庭だとか、北側の屋根だとかには、何時までも消え残って、降り積った上へと復た積るので、その雪の凍ったのが春までも持越すことを思ってみて貰いたい。
しかし、これだけで未だ、私がこういう雪国に居るという感じを君に伝えるには、不充分だ。その雪の来た翌日になって見ると、屋根に残ったは一尺ほどで、軒先には細い氷柱(つらら)も垂下り、庭の林檎(りんご)も倒れ臥(ふ)していた。鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引被(ひきかぶ)せられたように成った。雪の翌日には、きまりで北の障子が明るくなる。灰色の空を通して日が照し始めると雪は光を含んでギラギラ輝く。見るもまぶしい。軒から垂れる雫の音は、日がな一日単調な、退屈な、侘(わび)しく静かな思をさせる。
更に小諸町裏の田圃側(たんぼわき)へ出て見ると、浅々と萌(も)え出た麦などは皆な白く埋もれて、岡つづきの起き伏すさまは、さながら雪の波の押し寄せて来るようである。さすがに田と田を区別する低い石垣には、大小の石の面も顕われ、黄ばんだ草の葉の垂れたのが見られぬでもない。遠い森、枯々な梢、一帯の人家、すべて柔かに深い鉛色を帯びて見える。この鉛色――もしくはすこし紫色を帯びたのが、これからの色彩の基調かとも言いたい。朦朧(もうろう)として、いかにもおぼつかないような名状し難い世界の方へ、人の心を連れて行くような色調だ。
翌々日に私はまた鶴沢という方の谷間(たにあい)へ出たことがあった。日光が恐しく烈しい勢で私に迫って来た。四面皆な雪の反射は殆(ほと)んど堪えられなかった。私は眼を開いてハッキリ物を見ることも出来なかった。まぶしいところは通り過(こ)して、私はほとほと痛いような日光の反射と熱とを感じた。そこはだらだらと次第下りに谷の方へ落ちている地勢で、高低の差別なく田畠もしくは桑畠に成っている。一段々々と刻んでは落ちている地層の側面は、焦茶色の枯草に掩(おお)われ、ところどころ赤黝(あかぐろ)い土のあらわれた場所もある。その赤土の大波の上は枯々な桑畠で、ウネなりに白い雪が積って、日光の輝きを受けていた。その大波を越えて、蓼科の山脈が望まれ、遙(はる)かに日本アルプスの遠い山々も見えた。その日は私は千曲川の凄(すさ)まじい音を立てて流れるのをも聞いた。
こんな風にして、溶けたと思う雪が復た積り、顕れた道路の土は復た隠れ、十二月に入って曇った空が続いて、日の光も次第に遠く薄く射すように成れば、周囲(あたり)は半ば凍りつめた世界である。高い山々は雪嵐に包まれて、全体の姿を顕す日も稀(まれ)だ。小諸の停車場に架けた筧(かけひ)からは水が溢(あふ)れて、それが太い氷の柱のように成る。小諸は降らない日でも、越後の方から上って来る汽車の屋根の白いのを見ると、ア彼方(むこう)は降ってるナと思うこともある。冬至近くに成れば、雲ともつかぬ水蒸気の群が細線の集合の如く寒い空に懸り、その蕭条(しょうじょう)とした趣は日没などに殊に私の心を引く。その頃には、軒の氷柱(つらら)も次第に長くなって、尺余に及ぶのもある。草葺(くさぶき)の屋根を伝う濁った雫が凍るのだから、茶色の長い剣を見るようだ。積りに積る庭の雪は、やがて縁側より高い。その間から顔を出す石南木(しゃくなぎ)なぞを見ると、葉は寒そうにべたりと垂れ、強い蕾(つぼみ)だけは大きく堅く附着(くっつ)いている。冬籠りする土の中の虫同様に、寒気の強い晩なぞは、私達の身体も縮こまって了う……
こういう寒さと、凍った空気とを衝(つ)いて、私は未知の人々に逢う楽みを想像しながら、クリスマスのあるという日の暮方に長野へ入った。例の測候所の技手の家を訪ねると、主人はまだ若い人で、炬燵(こたつ)にあたりながらの気象学の話や、文学上の精(くわ)しい引証談なぞが、私の心を楽ませた。ラスキンが「近代画家」の中にある雲の研究の話なども出た。ラスキンが雲を三層に分けた頃から思うと、九層の分類にまで及んだ近時の雲形の研究は進んだものだ。こう主人が話しているところへ、ある婦人の客も訪ねて来た。
私が主人から紹介されたその若い婦人は、牧師の夫人で、主人が親しい友達であるという。快活な声で笑う人だった。その晩歌うクリスマスの唱歌で、その主人の手に成ったものも有るとのことだった。やがて降誕祭(クリスマス)を祝う時刻も近づいたので、私達は連立って技手の家を出た。
私が案内されて行った会堂風の建物は、丁度坂に成った町の中途にあった。そこへ行くまでに私は雪の残った暗い町々を通った。時々私は技手と一緒に、凍った往来に足を留めて、後部(うしろ)の方に起る女連(おんなれん)の笑声を聞くこともあった。その高い楽しい笑声が、寒い冬の空気に響いた時は、一層雪国の祭の夜らしい思をさせた。後に成って私は、若い牧師夫人が二度ほど滑(すべ)って転(ころ)んだことを知った。
赤々とした燈火は会堂の窓を泄(も)れていた。そこに集っていた多勢の子供と共に、私は田舎(いなか)らしいクリスマスの晩を送った。
長野測候所
翌朝、私は親切な技手に伴われて、長野測候所のある岡の上に登った。
途次(みちみち)技手は私を顧みて、ある小説の中に、榛名(はるな)の朝の飛雲の赤色なるを記したところが有ったと記憶するが、飛雲は低い処を行くのだから、赤くなるということは奈何(いかが)などと話した。さすが専門家だけあって話すことがすべて精(くわ)しかった。
測候所は建物としては小さいが、眺望(ちょうぼう)の好い位置にある。そこは東京の気象台へ宛てて日毎の報告を造る場所に過ぎないと言うけれども、万般の設備は始めての私にはめずらしく思われた。雲形や気温の表を製作しつつ日を送る人々の生活なぞも、私の心を引いた。
やがて私は技手の後に随いて、狭い楼階(はしごだん)を昇り、観測台の上へ出た。朝の長野の町の一部がそこから見渡される。向うに連なる山の裾には、冬らしい靄(もや)が立ち罩(こ)めて、その間の空虚なところだけ後景が明かに透けて見えた。
風力を測る器械の側で、技手は私に、暴風雨(あらし)の前の雲――例(たと)えば広濶(こうかつ)な海岸の地方で望まれるようなは、その全形をこの信濃(しなの)の地方で望み難いことを話してくれた。その理由としては、山が高くて、気圧の衝突から雲はちぎれちぎれに成るという説明をも加えてくれた。
「雲の多いのは冬ですが、しかし単調ですね。変化の多いと言ったら、矢張夏でしょう。夏は――雲の量に於いては――冬の次でしょうかナ。雲の妙味から言えば、私は春から夏へかけてだろうと思いますが……」
こう技手は言って、それから私達の頭の上に群り集る幾層かの雲を眺めていたが、思い付いたように、
「あの雲は何と御覧ですか」
と私に指して尋ねた。
私も旅の心を慰める為に、すこしばかり雲の日記なぞをつけて見ているが、こう的確に専門家から問を出された時は、一寸返事に困った。
鉄道草
鉄道が今では中仙道(なかせんどう)なり、北国(ほっこく)街道なりだ。この千曲川の沿岸に及ぼす激烈な影響には、驚かれるものがある。それは静かな農民の生活までも変えつつある。
鉄道は自然界にまで革命を持来(もちきた)した。その一例を言えば、この辺で鉄道草と呼んでいる雑草の種子は鉄道の開設と共に進入し来(きた)ったものであるという。野にも、畠にも、今ではあの猛烈な雑草の蔓延(まんえん)しないところは無い。そして土質を荒したり、固有の草地を制服したりしつつある。
屠牛(とぎゅう)の一
上田の町はずれに屠牛場のあることは聞いていたがそれを見る機会もなしに過ぎた。丁度上田から牛肉を売りに来る男があって、その男が案内しようと言ってくれた。
正月の元日だ。新年早々屠牛を見に行くとは、随分|物数寄(ものずき)な話だとは思ったが、しかし私の遊意は勃々(ぼつぼつ)として制(おさ)え難いものがあった。朝早く私は上田をさして小諸の住居(すまい)を出た。
小諸停車場には汽車を待つ客も少い。駅夫等は集って歌留多(かるた)の遊びなぞしていた。田中まで行くと、いくらか客を加えたが、その田舎らしい小さな駅は平素(いつも)より更に閑静(しずか)で、停車場の内で女子供の羽子をつくさまも、汽車の窓から見えた。
初春とは言いながら、寒い黄ばんだ朝日が車窓の硝子(ガラス)に射し入った。窓の外は、枯々な木立もさびしく、野にある人の影もなく、ひっそりとして雪の白く残った谷々、石垣の間の桑畠(くわばたけ)、茶色な櫟(くぬぎ)の枯葉なぞが、私の眼に映った。車中にも数えるほどしか乗客がない。隅(すみ)のところには古い帽子を冠り、古い外套(がいとう)を身に纏(まと)い赤い毛布(ケット)を敷いて、まだ十二月らしい顔付しながら、さびしそうに居眠りする鉄道員もあった。こうした汽車の中で日を送っている人達のことも思いやられた。(この山の上の単調な鉄道生活に堪(た)え得るものは、実際は越後人ばかりであるとか)
上田町に着いた。上田は小諸の堅実にひきかえ、敏捷(びんしょう)を以て聞えた土地だ。この一般の気風というものも畢竟(つまり)地勢の然らしめるところで、小諸のような砂地の傾斜に石垣を築いてその上に骨の折れる生活を営む人達は、勢い質素に成らざるを得ない。寒い気候と痩(や)せた土地とは自然に勤勉な人達を作り出した。ここの畠からは上州のような豊富な野菜は受取れない。堅い地大根の沢庵(たくあん)を噛(か)み、朝晩|味噌汁(みそしる)に甘んじて働くのは小諸である。十年も昔に流行(はや)ったような紋付羽織を祝儀不祝儀に着用して、それを恥ともせず、否むしろ粗服を誇りとするが小諸の旦那(だんな)衆である。けれども私は小諸の質素も一種の形式主義に落ちているのを認める。私は、他所(よそ)で着て来たやわらか物を脱いでそれを綿服に着更(きが)えながら小諸に入る若い謀反(むほ)人のあることを知っている。要するに、表面(おもて)は空(むな)しく見せてその実豊かに、表面は無愛想でもその実親切を貴ぶのが小諸だ。これが生活上の形式主義を産む所以(ゆえん)であろうと思う。上田へ来て見ると、都会としての規模の大小はさて措(お)き、又実際の殷富(とみ)の程度はとにかく、小諸ほど陰気で重々しくない。小諸の商人は買いたか御買いなさいという無愛想な顔付をしていて、それで割合に良い品を安く売る。上田ではそれほどノンキにしていられない事情があると思う。絶えず周囲に心を配って、旧(ふる)い城下の繁昌を維持しなければ成らないのが上田の位置だ。店々の飾りつけを見ても、競って顧客の注意を引くように快く出来ている。塩、鰹節(かつぶし)、太物(ふともの)、その他上田で小売する商品の中には、小諸から供給する荷物も少くないという。
思わず私は山の上にある都会の比較を始めた。その日は牛のつぶし初(ぞ)めとかで、屠牛場の取締をするという肉屋を訪ねると、例の籠(かご)を肩に掛けて小諸まで売りに来る男が私を待っていてくれた。私は肉屋の亭主にも逢った。この人は口数は少いが、何となく言葉に重味があって、牛のことには明るい人物だった。
肉屋の若者等は空車をガラガラ言わせて町はずれの道を引いて行った。私達もその後に随(つ)いて、細い流を渡り、太郎山の裾へ出た。新しい建物の前に、鋭い眼付の犬が五六匹も群がっていた。そこが屠牛場だった。
黒く塗った門を入ると、十人ばかりの屠手が居た。その中でも重立った頭(かしら)は年の頃五十あまり、万事に老練な物の言振りをする男で、肥った頬に愛嬌(あいきょう)を見せながら、肉屋の亭主に新年の挨拶などをした。検査室にも、待合室にも松が飾ってあって、繋留場(けいりゅうじょう)では赤い牝牛(めうし)が一頭と、黒牛が二頭繋いであった。
中央の庭には一頭の豚を入れた大きな箱も置いてあった。この庭は低い黒塗りの板塀(いたべい)を境にして、屠場(とじょう)に続いている。
屠牛の二
黒い外套に鳥打帽を冠った獣医が入って来た。人々は互に新年の挨拶を取換(とりかわ)した。屠手の群はいずれも白い被服(うわっぱり)を着け、素足に冷飯(ひやめし)草履という寒そうな風体(ふうてい)で、それぞれ支度を始める。庭の隅にかがんで鋭い出刃包丁(でばぼうちょう)を磨(と)ぐのもある。肉屋の亭主は板塀に立て掛けてあった大鉞(おおまさかり)を取って私に示した。薪割(まきわり)を見るような道具だ。一方に五六寸ほどの尖(とが)った鉄管が附けてある。その柄には乾いた牛の血が附着していた。屠殺(とさつ)に用いるのだそうだ。肉屋の亭主は沈着(おちつ)いた調子で、以前には太い釘(くぎ)の形状(かたち)したのを用いたが、この管状の方が丈夫で、打撃に力が入ることなどを私に説明(ときあか)した。
南部産の黒い牡牛(おうし)が、やがて中央の庭へ引出されることに成った。その鼻息も白く見えた。繋いであった他の二頭は遽(にわ)かに騒ぎ始めた。屠手の一人は赤い牡牛の傍(そば)へ寄り、鼻面(はなづら)を押えながら「ドウ、ドウ」と言って制する。その側には雑種の牡牛が首を左右に振り、繋がれたまま柱を一廻りして、しきりに逃(のが)れよう逃れようとしている。殆(ほと)んど本能的に、最後の抵抗を試みんとするがごとくに見えた。
死地に牽(ひ)かれて行く牡牛はむしろ冷静で、目には紫色のうるみを帯びていた。皆な立って眺(なが)めている中で獣医は彼方此方(あちこち)と牛の周囲(まわり)を廻って歩きながら、皮をつまみ、咽喉(のど)を押え、角を叩きなどして、最後に尻尾(しっぽ)を持上げて見た。
検査が済んだ。屠手は多勢|寄(よ)って群(たか)って、声を励ましたり、叱ったりして、じッとそこに動かない牛を無理やりに屠場の方へ引き入れた。屠場は板敷で、丁度浴場の広い流し場のように造られてある。牛の油断を見すまして、屠手の一人は細引を前後の脚(あし)の間に投げた。それをぐッと引絞めると、牛は中心を保てない姿勢に成って、重い体躯(からだ)を横倒しに板の間の上に倒れた。その前額のあたりを目がけて、例の大鉞(おおまさかり)の鋭い尖った鉄管を骨も砕けよとばかりに打ち込むものがあった。牛は目を廻し、足をバタバタさせて、鼻息も白く、幽(かす)かな呻(うめ)き声を残して置いて気息(いき)も絶えんとした。
この南部牛のまだ気息の残ったのを取繞(とりま)いて、屠手のあるものは尻尾を引き、あるものは細引を引張り、あるものは出刃でもって咽喉のあたりを切った。そのうちに多勢して、倒れた牛の上に乗って、茶色な腹の辺(あたり)と言わず、背と言わず、とんとん踏みつけると、赤黒い血が切られた咽喉のところから流れ出した。砕けた前額の骨の間へは棒を深く差込んで抉(えぐ)り廻すものもあった。気息のあるうちは、牛は身を悶(もだ)えて、呻(うめ)いたり、足をヒクヒクさせたりして苦んだが、血が流れ出した頃には全く気息も絶えた。
黒い大きな牛の倒れた姿が――前後の脚は一本ずつ屠場の柱にくくりつけられたままで、私達の眼前(めのまえ)に横たわっていた。屠手の一人はその茶色の腹部の皮を縦に裂いて、見る間に脚の皮を剥(む)き始めた。また一人は、例の大鉞を振って、牛の頭を二つ三つ打つうちに、白い尖った角がポロリと板の間へ落ちた。この南部牛の黒い毛皮から、白い脂肪に包まれた中身が顕(あら)われて来たのは、間もなくであった。
赤い牝牛が屠場へ引かれて来た。
屠牛の三
赤い牝牛に続いて、黒い雑種の牡も、型の如くに瞬(またた)く間に倒された。広い屠場には三頭の牛の体が横たわった。ふと板塀の外に豚の鳴き騒ぐ声が起った。庭へ出て見ると、白い、肥った、脚の短い豚が死物狂いに成って、哀(かな)しく可笑(おか)しげな声を揚げながら、庭中逃げ廻っていた。子供まで集って来た。追うものもあれば、逃げるものもあった。肉屋の亭主が手早く細引を投げ掛けると、数人その上に馬乗りに乗って脚を締めた。豚はそのまま屠場へ引摺(ひきず)られて行った。
「牛は宜(よ)う御座んすが、豚は喧(やかま)しくって不可(いけ)ません。危いことなぞは有りませんが、騒ぐもんですから――」
こういう肉屋の亭主に随いて、復た私は屠場へ入って見た。豚は五人掛りで押えられながらも、鼻を動かしたり、哀しげに呻(うな)って鳴いたりした。牛の場合とは違って、大鉞などが用いられるでも無かった。屠手はいきなり出刃を揮(ふる)って生きている豚の咽喉を突いた。これに私はすくなからず面喰(めんくら)って、眺めていると豚は一層声を揚げて鳴いた。牛の冷静とは大違いだ。豚の咽喉からは赤い血が流れて出た。その毛皮が白いだけ、余計に血の色が私の眼に映った。三人ばかりの屠手がその上に乗ってドシドシ踏み付けるかと見るうちに、忽(たちま)ち豚の気息(いき)は絶えた。
年をとった屠手の頭(かしら)は彼方此方(あちこち)と屠場の中を廻って指図しながら歩いていた。その手も、握っている出刃も、牛と豚の血に真紅(まっか)く染まって見えた。最初に屠(ほふ)られた南部牛は、三人掛りで毛皮も殆んど剥(は)ぎ取られた。すこし離れてこの光景(ありさま)を眺めると、生々(なまなま)とした毛皮からは白い気(いき)の立つのが見える。一方には竹箒(たけぼうき)で板の間の血を掃く男がある。蹲踞(しゃが)んで出刃を磨(みが)くものもある。寒い日の光は注連(しめ)を飾った軒先から射し入って、太い柱や、そこに並んで倒れている牛や、白い被服(うわっぱり)を着けた屠手等の肩なぞを照らしていた。
そのうちに、ある屠手の出刃が南部牛の白い腹部のあたりに加えられた。卵色の膜に包まれた臓腑(ぞうふ)がべろべろと溢(あふ)れ出た。屠手の中には牛の爪先を関節のところから切り放して、土間へ投出(ほうりだ)すのもあり、胴の中程へ出刃を入れて肉を裂くものもあった。牛の体からは膏(あぶら)が流れて、それが血のにおいに混って、屠場に満ちた。
屠牛の四
私は赤い牝牛が「引割(ひきわり)」という方法に掛けられるのを見た。それは鋸(のこぎり)で腰骨を切開いて、骨と骨の間に横木を入れ、後部(うしろ)の脚に綱を繋いで逆さに滑車で釣(つる)し上げるのだ。屠手は三人掛りでその綱を引いた。
「そら、巻くぜ」
「ああまだ尻尾を切らなくちゃ」
屠手の頭(かしら)は手ずからその尻尾を切り放った。
「さあー車々」と言うものもあれば、「ホラ、よいせ」と掛声するものもあって、牝牛の体は柱と柱の間に高く逆さに掛った。脊髄(あばら)の中央から真二つにそれを鋸で引割るのだ。ザクザクと、まるで氷でも引くように。
「どうも切れなくて不可(いけない)」
「鋸が切れないのか、手が切れないのか」
と頭は頭らしいことを言って、笑い眺めていた。
巡査が入って来た。子供達はおずおずと屠場を覗(のぞ)いていた。犬もボンヤリ眺めていた。巡査は逢う人毎に「御目出度(おめでと)う」と言ったまま、火のある小屋の方へ行った。このごちゃごちゃした屠場の中を獣医は見て廻って、「オイ正月に成ったら御装束をもっと奇麗(きれい)にしよや」
古びた白の被服(うわっぱり)を着けた屠手は獣医の方を見た。
「ハイ」
「醤油で煮染(にし)めたような物じゃ困るナ」
南部牛は既に四つの大きな肉の塊に成って、その一つズツの股(もも)が屠場の奥の方に釣された。屠手の頭はブリキの箱を持って来て、大きな丸い黒印をベタベタと牛の股に捺(お)して歩いた。
不思議にも、屠られた牛の傷(いた)ましい姿は、次第に見慣れた「牛肉」という感じに変って行った。豚も最早|一時(いっとき)前まで鳴き騒いだ豚の形体(かたち)はなくて、紅味のある豚肉(とんにく)に成って行った。南部牛の頭蓋骨(ずがいこつ)は赤い血に染みたままで、片隅に投出(ほうりだ)してあったが、屠手が海綿でその血を洗い落した。肉と別々にされた骨の主なる部分は、薪でも切るように、例の大鉞で四つほどに切断せられた。屠手の頭も血にまみれた両手を洗って腰の煙草入を取出し、一服やりながら皆なの働くさまを眺めた。
「このダンベラは、どうかして其方(そっち)へ片付けろ」
と獣医は屠手に言付けて、大きな風呂敷(ふろしき)包を見るような臓腑を片付けさしたが、その辺の柱の下には赤い牝牛の尻尾、皮、小さな二つの角なぞが残っていた。
肉屋の若い者はガラガラと箱車を庭の内へ引き込んだ。箱にはアンペラを敷いて、牛の骨を投入れた。
「十貫六百――八貫二百――」
なぞと読み上げる声が屠場の奥に起った。屠手は二人掛りで大きな秤(はかり)を釣して、南部牛や雑種や赤い牝牛の肉の目方を計る。肉屋の亭主は手帳を取出し一々それを鉛筆で書留めた。
肉と膏(あぶら)と生血のにおいは屠場に満ち満ちていた。板の間の片隅には手桶(ておけ)に足を差入れて、牛の血を洗い落している人々もある。牝牛の全部は早や車に積まれて門の外へ運び去られた。
「三貫八百――」
それは最後に計った豚の片股を読み上げる声だった。肉屋の亭主に言わせると、牛は殆んど廃(すた)る部分が無い。頭蓋骨は肥料に売る。臓腑と角とは屠手の利(もうけ)に成る。こんな話を聞きながら、間もなく私は亭主と連立って屠牛場の門を出た、枯々な桑畠の間には、喜び騒ぐ犬の声々と共に、牛豚の肉を満載した車の音が高く響き渡った。 
 
その十

 

千曲川に沿うて
これまで私が君に話したことで、君は浅間山脈と蓼科(たでしな)山脈との間に展開する大きな深い谷の光景(ありさま)を略(ほぼ)想像することが出来たろうと思う。私は君の心を浅間の山腹へ連れて行って、あそこから見渡した千曲川の話もしたし、ずっと上流の方へ誘って行ってそこにある山々、村々の話もした。暇さえあれば私は千曲川沿岸の地方を探るのを楽みとした。私は岩村田から香坂(こうさか)へ抜け、内山峠を越して上州の方へも下りて見たし、依田川(よだがわ)という千曲川の支流に随(つ)いて和田峠から諏訪(すわ)の方へも出て見たし、霊泉寺の温泉から梅木(うめのき)峠を旅して別所温泉の方へ廻ったこともある。田沢温泉のことは君にも話した。君は私と共に、千曲川の上流にある主なる部分を見たというものだ。私は更に下流の方へ――越後に近い方まで君の心を誘って行こう。
軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りて来た汽車、それに私が乗ったのは一月の十三日だ。この汽車が通って来た碓氷(うすい)の隧道(トンネル)には――一寸(ちょっと)あの峠の関門とも言うべきところに――巨大な氷柱の群立するさまを想像してみたまえ。それから寒帯の地方と気候を同じくするという軽井沢附近の落葉松林(からまつばやし)に俗に「ナゴ」と称えるものが氷の花のように附着するさまを想像してみたまえ。
汽車が小諸を離れる時、プラットフォムの上に立つ駅夫等の呼吸(いき)も白く見えた。窓の硝子越(ガラスごし)に眺(なが)めると田、野菜畠、桑畠、皆な雪に掩(おお)われて、谷の下の方を暗い藍色(あいいろ)な千曲川の水が流れて行った。村落のあるところには人家の屋根も白く、土壁は暗く、肥桶(こやしおけ)をかついで麦畠の方へ通う農夫等も寒そうであった。田中の駅を通り過ぎる頃、浅間、黒斑(くろふ)、烏帽子(えぼし)等の一帯の山脈の方を望むと空は一面に灰色で、連続した山々に接した部分だけ朦朧(もうろう)と白く見えた。Unseen Whiteness――そんな言葉より外にあの深い空を形容してみようが無かった。窓側に遠く近く見渡される麦畠のサクの窪(くぼ)みへは雪が積って、それがウネウネと並行した白い線を描いた中に、枯々な雑木なぞがポツンポツンと立つのも見えた。
雪国の鬱陶(うっとう)しさよ。汽車は犀川(さいかわ)を渡った。あの水を合せてから、千曲川は一層大河の趣を加えるが、その日は犀川附近の広い稲田も、岸にある低い楊(やなぎ)も、白い土質の崖(がけ)も、柿の樹の多い村落も、すべて雪に掩われて見えた。その沈んだ眺望は唯(ただ)の白さでなくて、紫がかった灰色を帯びたものだった。遠い山々は重く暗い空に隠れて、かすかに姿をあらわして見せた。この一面の雪景色の中で、僅(わず)かに単調を破るものは、ところどころに見える暗い杜(もり)と、低く舞う餓(う)えた烏(からす)の群とのみだ。行手には灰色な雪雲も垂下って来た。次第に私は薄暗い雪国の底の方へ入って行く気がした。ある駅を離れる頃には雪も降って来た。
この旅は私|独(ひと)りでなく小諸から二人の連があった。いずれも私の家に近いところの娘達で、I、Kという連中だ。この二人は小諸の小学を卒(お)えて、師範校の講習を受ける為に飯山まで行くという。汽車の窓から親達の住む方を眺めて、眼を泣きはらして来る程の年頃で、知らない土地へ二人ぎり出掛るとは余程の奮発だ。でもまだ真実(ほんとう)に娘々したところのある人達で、互に肘(ひじ)で突付き合ったり、黄ばんだ歯をあらわして快活に笑ったり、背後(うしろ)から友達を抱いて車中の退屈を慰めたりなどする。Naiveな、可憐(かれん)な、見ていても噴飯(ふきだ)したくなるような連中だ。御蔭で私も紛れて行った。Iの方は私の家の大屋さんの娘だ。
豊野で汽車を下りた。そのあたりは耕地の続いた野で、附近には名高い小布施(おぶせ)の栗林(くりばやし)もある。その日は四阿(あずま)、白根の山々も隠れてよく見えなかった。雪の道を踏んで行くうちに、路傍に梨や柿の枯枝の見える、ある村の坂のところへ掛った。そこは水内(みのち)の平野を見渡すような位置にある。私が一度その坂の上に立った時は秋で、豊饒(ほうじょう)な稲田は黄色い海を見るようだった。向の方には千曲川の光って流れて行くのを望んだこともあった。遠く好い欅(けやき)の杜(もり)を見て置いたが、黄緑な髪のような梢(こずえ)からコンモリと暗い幹の方まで、あの樹木の全景は忘られずにある。雪の中を私達は蟹沢(かにさわ)まで歩いた。そこまで行くと、始めて千曲川に舟を見る。
川船
降ったり休(や)んだりした雪は、やがて霙(みぞれ)に変って来た。あの粛々(しとしと)降りそそぐ音を聞きながら、私達は飯山行の便船が出るのを待っていた。男は真綿帽子を冠り、藁靴(わらぐつ)を穿(は)き、女は紺色染の真綿を亀(かめ)の甲のように背中に負(しょ)って家の内でも手拭(てぬぐい)を冠る。それがこの辺で眼につく風俗だ。休茶屋を出て川の岸近く立って眺めると上高井の山脈、菅平(すがだいら)の高原、高社山(たかしろやま)、その他の山々は遠く隠れ、対岸の蘆荻(ろてき)も枯れ潜み、洲(す)の形した河心の砂の盛上ったのも雪に埋もれていた。奥深く、果てもなく白々と続いた方から、暗い千曲川の水が油のように流れて来る。これが小諸附近の断崖(だんがい)を突いて白波を揚げつつ流れ下る同じ水かと思うと、何となく大河の勢に変って見える。上流の方には、高い釣橋が多いが、ここへ来ると舟橋も見られる。
そのうちに乗客が集って来た。私達は雪の積った崖に添うて乗場の方へ降りた。屋根の低い川船で、人々はいずれも膝(ひざ)を突合せて乗った。水に響く艪(ろ)の音、屋根の上を歩きながらの船頭の話声、そんなものがノンキな感じを与える。船の窓から眺めていると、雪とも霙ともつかないのが水の上に落ちる。光線は波に銀色の反射を与えた。
こうして蟹沢を離れて行った。上今井(かみいまい)というところで、船を待つ二三の客が岸に立っていた。船頭はジャブジャブ水の中へ入って行って、男や女の客を負(おぶ)って来た。砂の上を離れる舟底の音がしたかと思うと、又た艪の音が起った。その音は千曲川の静かな水に響いてあだかも牛の鳴声の如く聞える。舟が鳴くようにも。それを聞いていると、何とでも此方(こちら)の思った様に聞えて、同行のIの苗字を思出せばそのように、Kの苗字を思出せば又そのように響いて来る。無邪気の娘達は楽しそうに聞き入った。両岸は白い雪に包まれた中にも、ところどころに村々の人家、雑木林、森なぞを望み、雪仕度して岸の上を行く人の影をも望んだ。その岸の上を以前私が歩いた時は、豆粟(まめあわ)などの畠の熟する頃で、あの莢(さや)や穂が路傍(みちばた)に垂下っていた。そう、そう、私はあの時、この岸の下の方に低い楊(やなぎ)の沢山|蹲踞(うずくま)っているのを瞰下(みおろ)して、秋の日にチラチラする雑木の霜葉のかげからそれを眺めた時は、丁度羊の群でも見るような気がした。川船は今、その下を通るのだ。どうかすると、水に近い楊の枯枝が船の屋根に触れて、それを潜り抜けて行く時にはバラバラ音がした。
船の中は割合に暖かだった。同じ雪国でも高原地に比べると気候の相違を感ずる。それだけ雪は深い。午後の日ざしの加減で、対岸の山々が紫がかった灰色の影を水に映して見せる。私は船窓を開けて、つぶやくような波の音を聞いたり、舷(ふなべり)にあたる水を眺めたりして行った。この川船は白いペンキで塗って、赤い二本の筋をあらわしてある。
ある舟橋に差掛った。船は無作法(むぞうさ)にその下を潜り抜けて行った。
黒岩山を背景にして、広々とした千曲川の河原に続いた町の眺めが私達の眼前(めのまえ)に展(ひら)けた。雪の中には鶏の鳴声も聞える。人家の煙も立ちこめている。それが旧い飯山の城下だ。
雪の海
一晩に四尺も降り積るというのが、これから越後へかけての雪の量だ。飯山へ来て見ると、全く雪に埋もれた町だ。あるいは雪の中から掘出された町と言った方が適当かも知れぬ。
この掘出されたという感じを強く与えるものは、町の往来に高く築(つ)き上げてある雪の山だ。屋根から下す多量な雪を、人々が集って積み上げ積み上げするうちに、やがて人家の軒よりも高く成る。それが往来の真中に白壁の如く続いている。家々の軒先には「ガンギ」というものを渡して、その下を用事ありげな人達が往来している。屋内の暗さも大凡(おおよそ)想像されよう。それに高い葭簾(よしず)で家をかこうということが、一層屋内を暗くする。私は娘達を残して置いて、独(ひと)りで町へ出てみた。チラチラ雪の中で橙火(あかり)の点(つ)く頃だった。私は天の一方に、薄暗い灰色な空が紅色を帯びるのを望んだ。丁度遠いところの火事が曇った空に映ずるように。それが落日の反射だった。
雪煙もこの辺でなければ見られないものだ。実に陰鬱(いんうつ)な、頭の上から何か引冠(ひきかぶ)せられているような気のするところだ。土地の人が信心深いというのも、偶然では無いと思う。この町だけに二十何カ処の寺院がある。同じ信州の中でも、ここは一寸|上方(かみがた)へでも行ったような気が起る。言葉|遣(づか)いからして高原の地方とは違う。
暗くなるまで私は雪の町を見て廻った。荷車の代りに橇(そり)が用いられ、雪の上を馬が挽(ひ)いて通るのもめずらしかった。蒲(がま)で編んだ箕帽子(みぼうし)を冠り、色目鏡を掛け、蒲脚絆(がまはばき)を着け、爪掛(つまかけ)を掛け、それに毛布(ケット)だの、ショウルだので身を包んだ雪装束の人達が私の側を通った。
復た霙が降って来た。千曲川の岸へ出て見ると、そこは川船の着いたところで対岸へ通うウネウネと長い舟橋の上には人の足跡だけ一筋茶色に雪の上に印されたのが望まれた。時には雪鞋(ゆきぐつ)穿いた男にも逢ったが、往来(ゆきき)の人の影は稀(まれ)だった。高社(たかしろ)、風原(かざはら)、中の沢、その他信越の境に聳(そび)ゆる山々は、唯僅かに山層のかたちを見せ、遠い村落も雪の中に沈んだ。千曲川の水は寂しく音もなく流れていた。
しかし試みにサクサクと音のする雪を踏んで、舟橋の上まで行って見ると、下を流れる水勢は矢のように早い。そこから河原を望んだ時は一面の雪の海だった――そうだ、白い海だ。その白さは、唯の白さでなく、寂莫(せきばく)とした底の知れないような白さだった。見ているうちに、全身|顫(ふる)えて来るような白さだった。
愛のしるし
飯山で手拭が愛のしるしに用いられるという話を聞いた。縁を切るという場合には手拭を裂くという。だからこの辺の近在の女は皆な手拭を大切にして、落して置くことを嫌(きら)うとか。
これは縁起が好いとか、悪いとかいう類(たぐい)の話に近い。でも優しい風俗だ。
山の上へ
「水内(みのち)は古代には一面の水沢(すいたく)であったろう――その証拠には、飯山あたりの町は砂石の上に出来ている。土を掘って見ると、それがよく分る」
種々の土地の話を聞き、同行した娘達を残して置いて翌朝私は飯山を発(た)った。舟橋を渡って、対岸から町の方に城山なぞを望み、それから岸の上の桑畠の雪に埋れた中を橇(そり)で走らせた。その橇は人力車の輪を取除(とりはず)して、それに「いたや」の堅い木片で造った橇を代用したようなものだ。梶棒(かじぼう)と後押棒(あとかじぼう)とあって人夫が二人掛りで引いたり押したりする。低い橇の構造だから梶棒を高く揚げると、乗った客はいくらか尻餅(しりもち)ついた形になる。とは言え、この乗りにくい橇が私の旅の心を喜ばせた。私は子供のような物めずらしさを以て人夫達の烈(はげ)しい呼吸(いき)を聞いた。凍った雪の上を疾走して行った時は、どうかすると私は桑畠の中へ橇|諸共(もろとも)ブチマケラレそうな気がした。
「ホウ――ヨウ――」という掛声と共に、雪の上を滑(すべ)る橇の音、人夫達がサクサク雪を踏んで行く音まで私の耳に快感を起させた。川船で通って来た岸の雪景色は私の前に静かに廻転した。
中野近くで橇を降りた。道路に雪のある間は足も暖かであったが、そのうちに黄ばんだ泥をこねて行くような道に成って、冷く、足の指も萎(しび)れた。親切な飯山の宿で、爪掛(つまかけ)を貰って、それを私は草鞋(わらじ)の先に掛けて穿(はい)て来た。
一月十四日のことで村々では「ものづくり」というものを祝った。「みずくさ」という木の赤い条(えだ)に、米の粉をまるめて繭(まゆ)の形をつくる。それを神棚に飾りつける。養蚕の前祝だという。
帰りには、日光の為に眼もまぶしく、雪の反射で悩まされた。その日は千曲川の水も黄緑に濁って見えた。
豊野から復た汽車で、山の上の方へ戻って行った時は次第に寒さの加わることを感じた。けれども私は薄暗い陰気な雪の中からいくらか明るい空の方へ出て来たような気がして、ホッと息を吐(つ)いた。 
 
その十一

 

山に住む人々の一
以前私が飯山からの帰りがけに――雪の道を橇(そり)で帰ったとは反対の側にある新道(しんみち)に添うて――黄ばんだ稲田の続いた静間平(しずまだいら)を通り、ある村はずれの休茶屋に腰掛けたことが有った。その時、私は善光寺の方へでも行く「お寺さんか」と聞かれて意外の問に失笑した事が有った。同行の画家B君は外国仕込の洋服を着、ポケットに写生帳を入れていたが、戯れに「お寺さん」に成り済まして一寸(ちょっと)休茶屋の内儀(おかみ)をまごつかせた。私が笑えば笑う程、余計に内儀は私達を「お寺さん」にして了(しま)って、仮令(たとえ)内幕は世俗の人と同じようでも、それも各自の身に具(そなわ)ったものであることなどを、半ば羨(うらや)み、半ば調戯(からか)うような調子で言った。この内儀の話は、飯山から長野あたりへかけての「お寺さん」の生活の一面を語るものだ。
私は飯山行の話の中で、土地の人の信心深いことや、あの山間の小都会に二十何ヶ所の寺院のあることや、そういう旧態の保存されているところは一寸|上方(かみがた)へでも行ったような気のする事を君に言って置いた。この古めかしい空気は、激しく変り行く「時」の潮流の中で、何時まで突き壊(くず)されずに続くものだろうか。とにかく、長い冬季を雪の中に過すような気候や地勢と相待って、一般の人の心に宗教的なところのあるのは事実のようだ。これは千曲川の下流に行って特にそう感ぜられる。
長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの内で行われるドラマチックな儀式とを見たばかりだし、それに眺望(ちょうぼう)の好い往生寺の境内を歩いて見た位のもので、実際どういう人があるのか、精(くわ)しくは知らない。飯山の方では私は何となく高い心を持った一人の老僧に逢ってみた。連添う老婦人もなかなかのエラ者だ。この人達は古い大きな寺院を経営し、年をとっても猶(なお)活動を忘れないでいるという風だ。その寺では、丁度|檀家(だんか)に法事があるとやらで、御画像(おえぞう)というものを箱に入れ鄭重(ていちょう)な風呂敷包にして借りて行く男なぞを見かけた。一寸したことだが、古風に感じた。
君は印度(インド)に於ける仏蹟(ぶっせき)探検の事実を聞いたことがあるか。その運動に参加した僧侶の一人は、この老僧の子息(むすこ)さんで、娘の婿にあたる学士も矢張一行の中に加わった人だ。学士は当時英国留学中であったが、病弱な体躯(たいく)を提(ひっさ)げて一行に加わり、印度内地及び錫蘭(セイロン)に於ける阿育王(あいくおう)の遺跡なぞを探り、更に英国の方へ引返して行く途中で客死した。この学士の記念の絵葉書が、沢山飯山の寺に遺(のこ)っていたが、熱帯地方の旅の苦みを書きつけてあったのなぞは殊(こと)に、私の心を引いた。老僧の子息さんは兵役に服しているとかで、その人には私は逢ってみなかった。旧(ふる)い朽ちかかったような寺院の空気の中から、とにかくこういう新人物が生れている。そしてそういう人達の背後には、親であり又た舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)である老僧夫婦のような人達があって、幾十年となく宗教的な生活を送って来たことが想像される。
しかし飯山地方に古めかしい宗教的の臭気(におい)が残っていて、二十何ヵ所の寺院が仮令(たとえ)維持の方法に苦みながらも旧態を保存しているということは、偶然でない。私はその老僧から、飯山の古い城主の中には若くて政治的生涯を離れ、僧侶の服を纏い、一生仏教の伝道に身を委(ゆだ)ねた人のあったことを聞いた。又、白隠(はくいん)、恵端(えたん)、その他すぐれた宗教家がそこに深い歴史的の因縁を遺していることも聞いた。
こういうことは高原の地方にはあまり無いことだ。第一そういう土地柄で無いし、そういう歴史の背景も無いし法(のり)の残燈を高く掲げているような老僧のような人も見当らない。私は小諸辺で幾人かの僧侶に逢ってみたが、実際社会の人達に逢っていると殆んど変りが無いように思った。養蚕時が来れば、寺の本堂の側(わき)に蚕の棚(たな)が釣られる。僧侶も労働して、長い冬籠(ふゆごもり)の貯えを造らなければ成らない。
山に住む人々の二
学問の普及ということはこの国の誇りとするものの一つだ。多くの児童を収容する大校舎の建築物(たてもの)をこうした山間に望む景色は、一寸他の地方に見られない。そういう建物は何かの折に公会堂の役に立てられる。小諸でも町費の大部分を傾けて、他の町に劣らない程の大校舎を建築した。その高い玻璃窓(ガラスまど)は町の額のところに光って見える。
こういう土地だから、良い教育家に成ろうと思う青年の多いのも不思議は無い。種々(さまざま)な家の事情からして遠く行かれないような学問好きな青年は、多く国に居て身を立てることを考える。毎年長野の師範学校で募集する生徒の数に比べて、それに応じようとする青年の数は可なり多い。私達の学校にも、その準備の為に一二年在学する生徒がよくある。
一体にこの山国では学者を尊重する気風がある。小学校の教師でも、他の地方に比べると、比較的好い報酬を受けている。又、社会上の位置から言っても割合に尊敬を払われている。その点は都会の教育家などの比でない。新聞記者までも「先生」として立てられる。長野あたりから新聞記者を聘(へい)して講演を聴くなぞはここらでは珍しくない。何か一芸に長じたものと見れば、そういう人から新智識を吸集しようとする。小諸辺のことで言ってみても、名士先生を歓迎する会は実に多い。あだかも昔の御関所のように、そういう人達の素通りを許さないという形だ。
御蔭で私もここへ来てから種々(いろいろ)な先生方の話を拝聴することが出来た。故福沢諭吉氏も一度ここを通られて、何か土産話を置いて行かれたとか。その事は私は後で学校の校長から聞いた。朝鮮亡命の客でよく足を留めた人もある。旅の書家なぞが困って来れば、相応に旅費を持たせて立たせるという風だ。概して、軍人も、新聞記者も、教育家も、美術家も、皆な同じように迎えらるる傾きがある。
こうした熱心な何もかも同じように受入れようとする傾きは、一方に於いて一種重苦しい空気を形造っている。強(し)いて言えば、地方的単調……その為には全く気質を異にする人でも、同じような話しか出来ないようなところがある。
それから佐久あたりには殊に消極的な勇気に富んでいる人を見かける。ここには極くノンキな人もいるが又非常に理窟(りくつ)ッぽい人もいる。
何故こう信州人は理窟ッぽいだろう、とはよく聞く話だが、一体に人の心が激しいからだと思う。槲(かしわ)の葉が北風に鳴るように、一寸したことにも直(すぐ)に激(げき)し顫(ふる)えるような人がある。それにつけて思出すことは、私が小諸へ来たばかりの時、青年会を起そうという話が町の有志者の間にあった。一同光岳寺の広間に集った時は、盛んな議論が起った。私達の学校のI先生なぞは、若い人達を相手に薄暗くなるまでも火花を散らしたものだ。皆な草臥(くたび)れて、規則だけは出来たが、到頭その青年会はお流れに成って了ったことが有った。
一方に、極く静かな心を持った人と言えば、私達の学校で植物科を受持っているT君なぞがその一人であろう。ほんとに学者らしい、そして静かな心だ。どんな場合でも、私はT君の顔色の変ったのを見たことが無い。小諸からすこし離れた西原という村から出た人だ。T君の顔を見ると私は学校中で誰に逢うよりも安心する。
山に住む人々の三
警察と鉄道に従事する人達は他郷からの移住者が多い。町の平和を監督する署長さんと言えば、大抵他の地方の人だ。ここの巡査の中にはでも土地から出て奉職する人なぞがあって、ポクポクと親しみのある靴の音をさせる。
鉄道の方の人達は停車場の周囲(まわり)に全く別に世界を造っている。忍耐力の強い越後人より外に、この山の上の鉄道生活に堪(た)え得るものは無いとも言われている。大手に住む話好きな按摩(あんま)から、今の駅長のことを聞いたことが有った。この人は新橋から直江津(なおえつ)に移り、車掌を五年勤め、それから助役に七年の月日を送って来たという。同じ山の上に住んでも、こうした懸け離れた生活を送っている人もある。
以前ある駅長が残して行った話だと言って、按摩はまた次のようなことを私に語って聞かせた。「もと、越後の酒造(さかづくり)で、倉番した人ということで御座います。遽(にわ)かに出世致しまして、ここの駅長さんと御成んなさいました。ある時、電信掛の技手に向い、葡萄酒罎(ぶどうしゅびん)の貼紙(はりがみ)を指しまして、どうだ君にこの英語が読めるかとそう申しました。読めるなら一升|奢(おご)ろうというんで御座います。その駅長さんの無学なことは技手も承知しておりましたから、わざと私には読めません、貴方(あなた)一つ御読みなすって下さい。それこそ私が酒でもこの葡萄酒でも奢りますからと申しました。フムそうか、君はよくこんなものが読めなくて鉄道が勤まるネ、そんな話でその場は分れて了いました。技手はもし譴責(けんせき)でもされたら酒にかこつける下心で、すこし紅い顔をして駅長さんの前に出ました。先刻は大きに失礼致しました、憚(はばか)りながらこんなものは英語のイロハだ、皆さんも聞いて下さい。この貼紙にはこう云うことが書いてあると言うて、ペロペロと読んで聞かせました。ウンそうかい、そういうことが書いてあるのかい、成程君はエライものだ、そういう学力があろうとは今まで思わなかった……」
こんな口論の末から駅長と技手とはすべて反対に出るように成った。間もなくその駅長は面白くなくて、小諸を去ったとか。
線路の側に立っているポイント・メンこそはこの山の上で寂しい生活を送る移住者の姿であろう。勤めの時間は二昼夜にわたって、それで一日の休みにありつくという。労働の長いのに苦むとか。私は学校の往還(いきかえり)に、懐古園の踏切を通るが、あの見張番所のところには、ポイント・メンが独りでポツンと立っているのをよく見かける。
柳田茂十郎(もじゅうろう)
先代柳田茂十郎さんと言えば、佐久地方の商人として、いつでも引合に出される。茂十郎さんの如きは極端に佐久|気質(かたぎ)を発揮した人の一人だ。
諸国まで名を知られたこの商人も、一時は商法の手違いから、豆腐屋にまで身を落したことがある。そこまで思い切って行ったところが茂十郎さんかも知れない。でも、この人が小諸で豆腐屋を始めた時は、誰も気の毒に思って買う人が無かったとのことだ。茂十郎さんの家では、もと酒屋であったが、造酒(つくりざけ)は金を寝かして商法に働きの少いのを見て取り、それから茶商に転じたという。時間の正しい人で、すこしでも掛値(かけね)すれば、ずんずん帰って行くという風であったとか。幾人かの子に店を出させ、存命中はキチンキチンと屋賃を取り、死に際(ぎわ)にその店々を分けてくれて行った。一度でも茂十郎さんの家へ足踏したもののためには、死後に形見が用意してあったと言って驚いて、他(ひと)に話した女があったということも聞いた。私達の学校の校長に逢うと、よく故人の話が出て、客に呼ばれて行って一座した時でも無駄には酒を飲まなかったと言って徳利を控えた手付までして聞かせる。
「酒は飲むだけ飲めば、それで可いものです」
万事に茂十郎さんはこういう調子の人だったと聞いた。
小作人の家
学校の小使の家を訪ねる約束をした。辰さんは年貢(ねんぐ)を納める日だから私に来て見ろと言ってくれた。
小諸新町の坂を下りると、浅い谷がある。細い流を隔てて水車小屋と対したのが、辰さんの家だ。庭には蓆(むしろ)を敷きつめ、籾(もみ)を山のように積んで、辰さん兄弟がしきりと働いていた。
かねて懇意な隠居に伴われて私は暗い小作人の家へ入った。猫の入物(いれもの)とかで、藁(わら)で造った行火(あんか)のようなものが置いてある。私には珍らしかった。しるしばかりに持って行った手土産を隠居は床の間の神棚の前に供え、鈴を振り鳴らし、それから炬燵(こたつ)にあたりながら種々な話を始めた。極く無愛想な無口な五十ばかりの痩(や)せた女も黙って炬燵にあたっていた。その側には辰さんの小娘も余念なく遊んでいた。この無口な女と、竈(かまど)の前に蹲踞(うずくま)っている細帯|〆(しめ)た娘とは隠居の家に同居する人らしかった。で、私はこれらの人に関わず隠居の話に耳を傾けた。
話好きな面白い隠居は上州と信州の農夫の比較なぞから、種々な農具のことや地主と小作人の関係なぞを私に語り聞かせた。この隠居の話で、私は新町辺の小作人の間に小さな同盟|罷工(ひこう)ともいうべきが時々持ち上ることを知った。隠居に言わせると、何故小作人が地主に対して不服があるかというに、一体にこの辺では百坪を一升|蒔(まき)と称(とな)え、一ツカを三百坪に算し、一升の籾は二百八十目に量って取立てる、一ツカと言っても実際三百坪は無い、三百坪なくて取立てるのはその割で取る、地主と半々に分けるところは異数な位だ。そこで小作人の苦情が起る。無智な小作人がまた地主に対する態度は、種々なところで人の知らない復讐(ふくしゅう)をする。仮令(たとえ)ば俵の中へ石を入れて目方を重くし、俵へ霧を吹いて目をつけ、又は稲の穂を顧みないで藁を大事にし、その他種々な悪戯(いたずら)をして地主を苦める。こんなことをしたところで、結局「三月四月は食いじまい」だ。尤も、そのうちには麦も取れる。
「しかし私の時には定屋(じょうや)様(地主)がお出(いで)なさると、必(きっ)と一升買って、何がなくとも香の物で一杯上げるという風でした。今年は悴(せがれ)に任しときましたから、彼奴(あいつ)はまたどんな風にするか……私の時には昔からそうでした」
こう隠居は私に話して笑った。
そのうちに家の外では「定屋さんになア、来て御くんなんしょって、早く行って来てくれや」という辰さんの声がする。日の光は急に戸口より射し入り、暗い南の明窓(あかりまど)も明るくなった。「ああ、日が射して来た、先刻(さっき)までは雪模様でしたが、こりゃ好い塩梅(あんばい)だ」と復た辰さんが言っていた。
細帯締た娘は茶を入れて私達の方へ持って来てくれた。炬燵にあたっていた無口な女は、ぷいと台所の方へ行った。
隠居は小声に成って、
「私も唯(たった)一人ですし、平常(ふだん)は誰も訪ねて来るものが無いんです。年寄ですからねえ……ですから置いてくれというので、ああいうものを引受けて同居さしたところが忰が不服で黙ってあんなものを入れたって言いますのさ」
「飯なぞは炊(た)いてくれるんですか」と私が聞いた。
「それですよ、世間の人はそう思う。ところが私は炊いて貰わない。どうしてそんな事をしようものなら皆な食われて了う……そこは私もなかなか狡(こす)いや。だけれども世間の人はそう言わない。そこがねえ辛(つら)いと言うもんです」
古い洋傘(こうもり)の毛繻子(けじゅす)の今は炬燵掛と化けたのを叩いて、隠居は掻口説(かきくど)いた。この人の老後の楽みは、三世相(さんぜそう)に基づいて、隣近所の農夫等が吉凶を卜(うらな)うことであった。六三の呪禁(まじない)と言って、身体の痛みを癒(なお)す祈祷(きとう)なぞもする。近所での物識(ものしり)と言われている老農夫である。私はこの人から「言海」のことを聞かれて一寸驚かされた。
「昔の恥を御話し申すんじゃないが、私も若い時には車夫をしてねえ、日に八両ずつなんて稼(かせ)いだことが有りましたよ。八両サ。それがねえ、もうぱっぱと湯水のように無くなって了う。どうして若い時の勢ですもの。私はこれで、どんなことでも人のすることは大概してみましたが、博奕(ばくち)と牢屋の味ばかしは知らない――ええこればかしは知らない」
こう隠居が笑っているところへ、黄な真綿帽子を冠った五十|恰好(かっこう)の男が地味な羽織を着て入って来た。
「定屋さんですよ」と辰さんが呼んだ。
地主は屋(うち)の内(なか)に入って炬燵に身を温めながら待っていた。私が屋外(そと)の庭の方へ出ようとすると、丁度水車小屋の方から娘が橋を渡って来て、そこに積み重ねた籾(もみ)の上へ桝(ます)を投げて行った。辰さんは年貢の仕度を始めた。五歳ばかりの小娘が来て、辰さんの袖(そで)に取縋(とりすが)った。辰さんが父親らしい情の籠(こも)った口調で慰めると、娘は頭から肩まで顫(ふる)わせて、泣く度に言うこともよく解らない位だった。
「今に母さんが来るから泣くなよ」
「手が冷たい……」
「ナニ、手が冷たい? そんなら早く行ってお炬燵(こた)へあたれ」
凍った娘の手を握りながら、辰さんは家の内へ連れて行った。
谷に面した狭い庭には枯々な柿の樹もあった。向うの水車も藁囲(わらがこ)いされる頃で、樋(とい)の雫(しずく)は氷の柱に成り、細谷川の水も白く凍って見える。黄ばんだ寒い日光は柿の枯枝を通して籾を積み上げた庭の内を照らして見せた。年老いた地主は白髪頭(しらがあたま)を真綿帽子で包みながら、屋(うち)の内から出て来た。南窓の外にある横木に倚凭(よりかか)って、寒そうに袖口(そでぐち)を掻合(かきあわ)せ、我と我身を抱き温めるようにして、辰さん兄弟の用意するのを待った。
「どうで御座んすなア、籾の造(こしら)え具合は」
と辰さんに言われて、地主は白い柔かい手で籾を掬(すく)って見て一粒口の中へ入れた。
「空穂(しいな)が有るねえ」と地主が言った。
「雀に食われやして、空穂でも無いでやす。一俵造えて掛けて見やしょう」
地主は掌中(てのひら)の籾をあけて、復た袖口を掻き合せた。
辰さんは弟に命じて籾を箕(み)に入れさせ、弟はそれを円い一斗桝に入れた。地主は腰を曲(かが)めながら、トボというものでその桝の上を丁寧に撫(な)で量った。
「貴様入れろ、声掛けなくちゃ御年貢のようで無くて不可(いけねえ)」と辰さんは弟に言った。「さあ、どっしり入れろ」
「一わたりよ、二わたりよ」と弟の呼ぶ声が起った。
六つばかりの俵がそこに並んだ。一俵に六斗三升の籾が量り入れられた。辰さんは桟俵(さんだわら)を取って蓋(ふた)をしたが、やがて俵の上に倚凭(よりかか)って地主と押問答を始めた。地主は辰さんの言うことを聞いて、目を細め、無言で考えていた。気の利(き)いた弟は橋の向うへ走って行ったかと思ううちに、酒徳利を風呂敷包にして、頬を紅くし、すこし微笑(ほほえ)みながら戻って来た。
「御年貢ですか、御目出度(おめでと)う」と言って入って来たのは水車小屋の亭主だ。
私は、藁仕事なぞの仕掛けてある物置小屋の方に邪魔にならないように居て、桟俵なぞを尻に敷きながら、この光景を眺めた。辰さんは俵に足を掛けて藁縄(わらなわ)で三ところばかり縛っていた。弟も来てそれを手伝うと、乾いた縄は時々切れた。「俵を締るに縄が切れるようじゃ、まだ免状は覚束(おぼつか)ないなア」と水車小屋の亭主も笑って見ていた。
「一俵掛けて見やしょう」
「いくらありやす。出放題(でほうでえ)あるわ。十八貫八百――」
「これは魂消(たまげ)た」
「十八貫八百あれば、まあ好い籾です」
「俵(ひょう)にもある」
「そうです、俵にもありやすが、それは知れたもんです」
「おらがとこは十八貫あれば可いだ」
「なにしろ坊主九分混りという籾ですからなア」
人々の間にこんな話が交換(とりかわ)された。水車小屋の亭主は地主に向って、米価のことを話し合って、やがて下駄穿のまま籾の上を越して別れて行った。
「どうだいお前の体格じゃ二俵位は大丈夫担げる」
と地主に言われて辰さんの弟は一俵ずつ両手に抱え、顔を真紅にして持ち上げてみたりなぞして戯れた。
「まあ、お茶一つお上り」
と辰さんは地主に言って、私にもそれを勧めた。真綿帽子を脱いで屋(うち)の内に入る地主の後に随いて、私も凍えた身体を暖めに行った。「六俵の二斗五升取りですか」
こう辰さんが言ったのを隠居は炬燵にあたりながら聞咎(ききとが)めた。地主の前に酒徳利の包を解きながら、
「二斗五升ってことが有るもんか。四斗五升よ」
「四斗……」と地主は口籠(くちごも)る。
「四斗五升じゃないや。四斗七升サ。そうだ――」と復た隠居が言った。
「四斗七升?」と地主は隠居の顔を見た。
「ああ四斗七升か」と云い捨てて、辰さんは庭の方へ出て行った。
私達は炬燵の周囲(まわり)に集った。隠居は古い炬燵板を取出して、それを蒲団(ふとん)の上に載せ、大丼(おおどんぶり)に菎蒻(こんにゃく)と油揚の煮付を盛って出した。小皿には唐辛(とうがらし)の袋をも添えて出した。古い布で盃(さかずき)を拭(ふ)いて、酒は湯沸に入れて勧めてくれた。
「冷(れい)ですよ。燗(かん)ではありませんよ――定屋様はこの方で被入(いら)っらしゃるから」
こう隠居も気軽な調子で言った。地主は煙管(きせる)を炬燵板の間に差込み、冷酒(ひやざけ)を舐(な)め舐め隠居の顔を眺めて、
「こういう時には婆さんが居ると、都合が好いなア」
地主の顔には始めて微(かす)かな笑(えみ)が上った。隠居は款待顔(もてなしがお)に、
「婆さんに別れてからねえ、今年で二十五年に成りますよ」
「もう好加減に家へ入れるが可いや」
「まあ聞いて下さい。婆さんには子供が七人も有りましたが、皆な死んで了った……今の辰は貰(もら)い子でサ……どうでしょう、婆さんが私の留守に、家の物を皆な運んで了う。そりゃ男と女の間ですから、大抵のことは納まりますサ……納まりますが……盗みばかりは駄目です。今ここで婆さんを入れる、あの隠居も神信心だなんて言いながら、婆さんの溜(た)めたのを欲しいからと人が言う。それが厭(いや)でサ。婆さんが来ても、直(すぐ)に盗みの話に成ると納まらないや。モメて仕様が無い。ホラ、あの話ねえ――段々|卜(うらな)ってみると、盗人が出て来ましたぜ。可恐(おそろ)しいもんだねえ」
隠居の話し振には実に気の面白い、小作人仲間の物識と立てられるだけのことがあった。地主と隠居の間には、台所の方に居る同居人母子のことに就いてこんな話も出た。
「へえ、あれが娘ですか」
「子も有るんでさあね。可哀(かわい)そうだから置いて遣(や)ろうと言うんですよ。妙に世間では取る……私だって今年六十七です……この年になって、あんな女を入れたなんて言われちゃ、つまらない――そこが口惜(くや)しいサ」
「幾歳(いくつ)に成ったって気は同じよ」
御蔭で私もめったに来たことのない屋根の下で、百姓らしい話を聞きながら、時を送った。菎蒻(こんにゃく)と油揚の馳走(ちそう)に成って、間もなく私はこの隠居の家を辞した。 
 
その十二

 

路傍の雑草
学校の往還(ゆきかえり)に――すべての物が白雪に掩(おお)われている中で――日の映(あた)った石垣の間などに春待顔な雑草を見つけることは、私の楽みに成って来た。長い間の冬籠(ふゆごも)りだ。せめて路傍の草に親しむ。
南向きもしくは西向の桑畠(くわばたけ)の間を通ると、あの葉の縁(へり)だけ紫色な「かなむぐら」がよく顔を出している。「車花」ともいう。あの車の形した草が生えているような土手の雪間には、必(きっ)と「青はこべ」も蔓(は)いのたくっている。「青はこべ」は百姓が鶏の雛(ひな)にくれるものだと学校の小使が言った。石垣の間には、スプゥンの形した紫青色の葉を垂れた「鬼のはばき」や、平べったい肉厚な防寒服を着たような「きしゃ草」なぞもある。蓬(よもぎ)の枯れたのや、その他種々な雑草の枯れ死んだ中に、細く短い芝草が緑を保って、半ば黄に、半ば枯々としたのもある。私達が学校のあるあたりから士族屋敷地へかけては水に乏しいので、到るところに細い流を導いてある。その水は学校の門前をも流れている。そこへ行って見ると、青い芝草が残って、他の場所で見るよりは生々としている。
どういう世界の中にこれ等の雑草が顔を出して、中には極く小さな蕾(つぼみ)の支度をしているか、それも君に聞いて貰(もら)いたい。一月の二十七日あたりから三十一日を越え、二月の六日頃までは、殆(ほと)んど寒さの絶頂に達した。山の上に住み慣れた私も、ある日は手の指の凍り縮むのを覚え、ある日は風邪のために発熱して、気候の激烈なるに驚かされる。降った雪は北向の屋根や庭に凍って、連日溶くべき気色もない……私は根太(ねだ)の下から土と共に持ち上って来た霜柱の為に戸の閉らなくなった古い部屋を見たことがある。北向の屋根の軒先から垂下る氷柱(つらら)は二尺、三尺に及ぶ。身を包んで屋外(そと)を歩いていると気息(いき)がかかって外套(がいとう)の襟(えり)の白くなるのを見る。こういう中で元気の好いのは屋根の上を飛ぶ雀(すずめ)と雪の中をあさり歩く犬とのみだ。
草木のことを言えば、福寿草を小鉢(こばち)に植えて床の間に置いたところが、蕾の黄ばんで来る頃から寒さが強くなって、暖い日は起き、寒い日は倒れ萎(しお)れる有様である。驚くべきは南天だ。花瓶(かびん)の中の水は凍りつめているのに、買って挿(さ)した南天の実は赤々と垂下って葉も青く水気を失わず、活々(いきいき)と変るところが無い。
君は牛乳の凍ったのを見たことがあるまい。淡い緑色を帯びて、乳らしい香もなくなる。ここでは鶏卵も氷る。それを割れば白味も黄身もザクザクに成っている。台処の流許(ながしもと)に流れる水は皆な凍り着く。葱(ねぎ)の根、茶滓(ちゃかす)まで凍り着く。明窓(あかりまど)へ薄日の射して来た頃、出刃包丁(でばぼうちょう)か何かで流許の氷をかんかんと打割るというは暖い国では見られない図だ。夜を越した手桶(ておけ)の水は、朝に成って見ると半分は氷だ。それを日にあて、氷を叩き落し、それから水を汲入れるという始末だ。沢庵(たくあん)も、菜漬も皆な凍って、噛(か)めばザクザク音がする。時には漬物まで湯ですすがねばならぬ。奉公人の手なぞを見れば、黒く荒れ、皮膚は裂けてところどころ紅い血が流れ、水を汲むには頭巾を冠って手袋をはめてやる。板の間へ掛けた雑巾の跡が直に白く凍る朝なぞはめずらしくない。夜更けて、部屋々々の柱が凍(し)み割れる音を聞きながら読書でもしていると、実に寒さが私達の骨まで滲透(しみとお)るかと思われる……
雪の襲って来る前は反(かえ)って暖かだ。夜に入って雪の降る日なぞは、雨夜(あまよ)のさびしさとは、違って、また別の沈静な趣がある。どうかすると、梅も咲くかと疑われる程、暖かな雪の夜を送ることがある。そのかわり雪の積った後と来ては、堪えがたいほどの凍(し)み方だ。雪のある田畠(たはた)へ出て見れば、まるで氷の野だ。こうなると、千曲川も白く氷りつめる。その氷の下を例の水の勢で流れ下る音がする。
学生の死
私達の学校の生徒でOという青年が亡(な)くなった。曾(かつ)て私が仙台の学校に一年ばかり教師をしていた頃――私はまだ二十五歳の若い教師であったが――自分の教えた生徒が一人亡くなって、その葬式に列なった当時のことなぞを思出しながら、同僚と共にOの家をさして出掛けた。若くて亡くなった種々な人達のことが私の胸を往来した。
Oの家は小諸の赤坂という町にある。途中で同僚の老理学士と一緒に成って、水彩画家M君の以前住んでいた家の前を通った。その辺は旧士族の屋敷地の一つで、M君が一年ばかり借りていたのも、矢張古めかしい門のある閑静な住居(すまい)だ。M君が小諸に足を停(とど)めたころは非常な勉強で、松林の朝、その他の風景画を沢山作られた。私がよく邪魔に出掛けて、この辺の写生を見せて貰ったり、ミレエの絵の話なぞをしたりして、時を送ったのもその故家(ふるや)だ。
細い流について、坂の町を下りると、私達は同僚のT君、W君なぞが誘い合せてやって来るのに逢う。Oは暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、身体の冷えてゾクゾクするのも関わず、入浴したが悪かったとかで、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立合で、心臓の水を取った時は、四合も出たという。四十日ほど病んで十八歳で、亡くなった。話好きな理学士を始め、同僚の間には種々とOの話が出た。Oは十歳位の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き、母の髪まで結って置いて、それから学校に行ったという。病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と語る人もあった。
葬式はOの自宅で質素に行われるというので、一月三十一日の午前十時頃には身内のもの、町内の人達、教師、同窓の学生なぞが弔いに集った。Oは耶蘇(やそ)信者であったから、寝棺には黒い布を掛け、青い十字架をつけ、その上に牡丹(ぼたん)の造花を載せ、棺の前で讃美歌(さんびか)が信徒側の人々によって歌われた。祈祷(きとう)、履歴、聖書の朗読という順序で、哥林多(コリンタ)後書の第五章の一節が読まれた。私達の学校の校長は弔いの言葉を述べた。人誰か死なからん、この兄弟のごとく惜まれむことを願え、という意味の話なぞがあった時は、年老いたOの母親は聖書を手にして泣いた。
士族地の墓地まで、私は生徒達と一緒に見送りに行った。松の多い静な小山の上にOの遺骸(いがい)が埋められた。墓地でも賛美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、Oと同級の生徒が腰掛けたり佇立(たたず)んだりして、この光景(ありさま)を眺めていた。
暖い雨
二月に入って暖い雨が来た。
灰色の雲も低く、空は曇った日、午後から雨となって、遽(にわ)かに復活(いきかえ)るような温暖(あたたか)さを感じた。こういう雨が何度も何度も来た後でなければ、私達は譬(たと)えようの無い烈しい春の饑渇(きかつ)を癒(いや)すことが出来ない。
空は煙か雨かと思うほどで、傘さして通る人や、濡れて行く馬などの姿が眼につく。単調な軒の玉水の音も楽しい。
堅く縮こまっていた私の身体もいくらか延び延びとして来た。私は言い難き快感を覚えた。庭に行って見ると、汚(よご)れた雪の上に降りそそぐ音がする。屋外(そと)へ出て見ると、残った雪が雨のために溶けて、暗い色の土があらわれている。田畠も漸(ようや)く冬の眠から覚めかけたように、砂まじりの土の顔を見せる。黄ばんだ竹の林、まだ枯々とした柿、李(すもも)、その他眼にある木立の幹も枝も、皆な雨に濡れて、黒々と穢(きたな)い寝恍顔(ねぼけがお)をしていない物は無い。
流の音、雀の声も何となく陽気に聞えて来る。桑畠の桑の根元までも濡らすような雨だ。この泥濘(ぬかるみ)と雪解(ゆきげ)と冬の瓦解(がかい)の中で、うれしいものは少し延びた柳の枝だ。その枝を通して、夕方には黄ばんだ灰色の南の空を望んだ。
夜に入って、淋(さび)しく暖い雨垂の音を聞いていると、何となく春の近づくことを思わせる。
北山の狼(おおかみ)、その他
生徒と一緒に歩いていると、土地の種々な話を聞く。ある生徒が北山の狼の話を私にした。その足跡は里犬よりも大きく、糞(くそ)は毛と骨で――雨晒(あまざら)しになったのを農夫が熱の薬に用いる。それは兎や鳥なぞを捕えて食うためだという。お伽話(とぎばなし)の世界というものはこうした一寸した話のはしにも表れているような気がする。
野蛮な話を聞くこともある。ここには鶏を盗むことを商売にしている人がある。雄鶏(おんどり)と牝鶏(めんどり)と遊ぶところへ、釣針(つりばり)で餌(え)をくれ、鳥の咽喉(のど)に引掛けて釣取るという。犬を盗むものもある。それは黒砂糖で他(よそ)の家の犬を呼び出し、殺して煮て食い、皮は張付けて敷物に造るとか。
土地の話の序(ついで)だ。この辺の神棚には大きな目無し達磨(だるま)の飾ってあるのをよく見掛ける。上田の八日堂(ようかどう)と言って、その縁日に達磨を売る市が立つ。丁度東京の酉(とり)の市(いち)の賑(にぎわ)いだ。願い事が叶(かな)えば、その達磨に眼を入れて納める。私は海の口村の怪しげな温泉宿で一夜を送ったことがあったが、あんな奥にも達磨が置いてあるのを見た。
ここは養蚕地だから、蚕祭というのをする。その日は繭(まゆ)の形を米の粉で造り、笹の葉に載せて祭るのだ。
二月八日の道祖神(どうそじん)の祭は、いかにも子供の祭らしいものだ。土地の人は訛(なま)って「どうろく神」と呼んでいる。あの子供の好きなと言い伝える路傍の神様の小さな祠(ほこら)のところへ藁(わら)の馬に餅(もち)を載せて曳(ひ)いて行くのは、古めかしい無邪気な風俗だ。幼いものの楽(たのし)みとする日だ。
御辞儀
私達の学校の校長が小諸小学校の校堂に演説会のあったのを機会として、医者仲間の無能を攻撃したという出来事があった。先生の演説は直接には聞かなかったが、それがヤカマしい問題を惹起(ひきおこ)したことを、後で私は理学士から聞いた。一体先生がこの地方に退いて青年の教育を始めるまでには長い経歴を持って来た人で、随分町の相談にも預って種々な方面に意見の立てられる人だし、守山(もりやま)あたりの桃畠が開けたのも先生の力だと言われている位だ。とにかく、先生はエナアゼチックな勇健な体躯(たいく)を具えた、何か為ずにはいられないような人だ。こういう気象の先生だから、演説でもする場合には、ややもするとその飛沫(とばしり)が医者仲間なぞにまで飛んで行く。細心な理学士は又それを心配して私のところへ相談に来るという風だ。
ある晩、岡源という料理屋からの使で、警察の署長さんの手紙を持って来た。開けて見ると、私に来てくれとしてある。私はこの署長さんが仲裁の労を取ろうとしていることを薄々聞いていた。果して、岡源の二階には小諸医会の面々が集っていた。その時私は校長に代って、さきの失言を謝して貰いたいと言われた。なにしろ私は先生の演説を知らないのだから、謝して可いものかどうかの判断もつきかねた。謝すべきものなら先生が来て謝する、一応私は先生の意見を聞いてからのことにしようとした。この形成を看(み)て取った署長さんは、いきなり席を離れ、町の平和というものの為に、皆なの方へ向いて御辞儀をした。急に医者仲間も坐り直した。何事(なんに)も知らない私は譲る気は無かったが、署長さんの厚意に対しても頭を下げずにはいられなかった。御辞儀をしてこの二階を引取った時、つくづく私は田舎教師の勤めもツライものだと思った。
その翌日、私は中棚に校長を訪ねて、先生のために御辞儀をさせられたことを話して笑った。すると先生は先生で忌々しそうに、そんな御辞儀には及ばなかったという返事だ。実に、損な役廻りを勤めたものだ。
春の先駆(せんく)
一雨ごとに温暖(あたたか)さを増して行く二月の下旬から三月のはじめへかけて桜、梅の蕾(つぼみ)も次第にふくらみ、北向の雪も漸く溶け、灰色な地には黄色を増して来た。楽しい春雨の降った後では、湿った梅の枝が新しい紅味を帯びて見える。長い間雪の下に成っていた草屋根の青苔(あおごけ)も急に活(い)き返る。心地(ここち)の好い風が吹いて来る。青空の色も次第に濃くなる。あの羊の群でも見るような、さまざまの形した白い黄ばんだ雲が、あだかも春の先駆をするように、微(かす)かな風に送られる。
私は春らしい光を含んだ西南の空に、この雲を注意して望んだことがあった。ポッと雲の形があらわれたかと思うと、それが次第に大きく、長く、明らかに見えて南へ動くに随(したが)って消(きえ)て行く。すると復(ま)た、第二の雲の形が同一の位置にあらわれる。そして同じように展開する。柔かな乳青(にゅうせい)の色の空に、すこし灰色の影を帯びた白い雲が遠く浮んだのは美しい。

月の上るは十二時頃であろうという暮方、青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。東の空には赤い光の星が一つ掛った。天にはこの二つの星があるのみだった。山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ。
第一の花
「熱い寒いも彼岸まで」とは土地の人のよく言うことだが、彼岸という声を聞くと、ホッと溜息(ためいき)が出る。五ヵ月の余に渡る長い長い冬を漸く通り越したという気がする。その頃まで枯葉の落ちずにいる槲(かしわ)、堅い大きな蕾を持って雪の中で辛抱し通したような石楠木(しゃくなぎ)、一つとして過ぎ行く季節の記念でないものは無い。
私達が学校の教室の窓から見える桜の樹は、幹にも枝にも紅い艶(つや)を持って来た。家へ帰って庭を眺めると、土塀(どべい)に映る林檎(りんご)や柿の樹影(こかげ)は何時まで見ていても飽きないほど面白味がある。暖くなった気候のために化生した羽虫が早や軒端(のきば)に群を成す。私は君に雑草のことを話したが、三月の石垣の間には、いたち草、小豆(あずき)草、蓬(よもぎ)、蛇(へび)ぐさ、人参(にんじん)草、嫁菜、大なずな、小なずな、その他数え切れないほどの草の種類が頭を持ち上げているのを見る。私は又三月の二十六日に石垣の上にある土の中に白い小さな「なずな」の花と、紫の斑(ふ)のある名も知らない草の小さな花とを見つけた。それがこの山の上で見つけた第一の花だ。
山上の春
貯えた野菜は尽き、葱(ねぎ)、馬鈴薯(じゃがいも)の類まで乏しくなり、そうかと言って新しい野菜が取れるには間があるという頃は、毎朝々々|若布(わかめ)の味噌汁(みそしる)でも吸うより外に仕方の無い時がある。春雨あがりの朝などに、軒づたいに土壁を匍(は)う青い煙を眺めると、好い陽気に成って来たとは思うが、食物(たべもの)の乏しいには閉口する。復た油臭い凍豆腐(しみどうふ)かと思うと、あの黄色いやつが壁に釣されたのを見てもウンザリする。淡雪の後の道をびしょびしょ歩みながら、「草餅(くさもち)はいりませんか」と呼んで来る女の声を聞きつけるのは嬉しい。
三月の末か四月のはじめあたりに、君の住む都会の方へ出掛けて、それからこの山の上へ引返して来る時ほど気候の相違を感ずるものは無い。東京では桜の時分に、汽車で上州辺を通ると梅が咲いていて、碓氷峠(うすいとうげ)を一つ越せば軽井沢はまだ冬景色だ。私はこの春の遅い山の上を見た眼で、武蔵野(むさしの)の名残(なごり)を汽車の窓から眺めて来ると、「アア柔かい雨が降るナア」とそう思わない訳には行かない。でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るに随って、枯々な感じの残った田畠の間には勢よく萌(も)え出した麦が見られる。黄に枯れた麦の旧葉(ふるは)と青々とした新しい葉との混ったのも、離れて見るとナカナカ好いものだ。
四月の十五日頃から、私達は花ざかりの世界を擅(ほしいまま)に楽むことが出来る。それまで堪(こら)えていたような梅が一時に開く。梅に続いて直ぐ桜、桜から李(すもも)、杏(あんず)、茱萸(ぐみ)などの花が白く私達の周囲に咲き乱れる。台所の戸を開けても庭へ出掛けて行っても花の香気に満ち溢(あふ)れていないところは無い。懐古園の城址(しろあと)へでも生徒を連れて行って見ると、短いながらに深い春が私達の心を酔うようにさせる…… 
 
「千曲川のスケッチ」奥書

 

このスケッチは長いこと発表しないで置いたものであった。まだこの外にもわたしがあの信濃(しなの)の山の上でつくったスケッチは少くなかったが、人に示すべきものでもなかったので、その中から年若い人達の読み物に適しそうなもののみを選み出し、更にそれを書き改めたりなぞして、明治の末の年から大正のはじめへかけ当時西村|渚山(しょざん)君が編輯(へんしゅう)している博文館の雑誌「中学世界」に毎月連載した。「千曲川(ちくまがわ)のスケッチ」と題したのもその時であった。大正一年の冬、佐久良(さくら)書房から一巻として出版したが、それが小冊子にまとめてみた最初の時であった。
実際私が小諸(こもろ)に行って、饑(う)え渇(かわ)いた旅人のように山を望んだ朝から、あの白雪の残った遠い山々――浅間、牙歯(ぎっぱ)のような山続き、陰影の多い谷々、古い崩壊の跡、それから淡い煙のような山巓(さんてん)の雲の群、すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の眼に映った時から、私はもう以前の自分ではないような気がしました。何んとなく私の内部には別のものが始まったような気がしました。
これは後になってからの自分の回顧であるが、それほどわたしも新しい渇望を感じていた。自分の第四の詩集を出した頃、わたしはもっと事物を正しく見ることを学ぼうと思い立った。この心からの要求はかなりはげしかったので、そのためにわたしは三年近くも黙して暮すようになり、いつ始めるともなくこんなスケッチを始め、これを手帳に書きつけることを自分の日課のようにした。ちょうどわたしと前後して小諸へ来た水彩画家|三宅克巳(みやけかつみ)君が袋町というところに新家庭をつくって一年ばかり住んでおられ、余暇には小諸義塾の生徒をも教えに通われた。同君の画業は小諸時代に大に進み、白馬会の展覧会に出した「朝」の図なぞも懐古園附近の松林を描いたもののように覚えている。わたしは同君に頼んで画家の用いるような三脚を手に入れ、時にはそれを野外へ持ち出して、日に日に新しい自然から学ぶ心を養おうとしたこともある。浅間|山麓(さんろく)の高原と、焼石と、砂と、烈風の中からこんなスケッチが生れた。
過ぎ去った日のことをすこしここに書きつけてみる。わたしたちの旧(ふる)い「文学界」、あの同人の仕事もわたしが仙台から東京の方へ引き返す頃にはすでに終りを告げたが、五年ばかりも続いた仕事が今日になって反(かえ)って意外な人々に認められ、若いロマンチックと呼ばれる声をすら聞きつける。今日からあの時代を振り返ってみたら、それも謂(いわ)れのあることであろう。いかに言ってもわたしたちは踏み出したばかりで、経験にも乏しく、殊(こと)に自分なぞは当時を追想する度(たび)に冷汗(ひやあせ)の出るようなことばかり。それにしても、わたしたちの弱点は歴史精神に欠けていたことであった。もしその精神に欠くるところがなかったなら、自国にある古典の追求にも、西欧ルネッサンスの追求にも、あるいはもっと深く行き得たであろう。平田|禿木(とくぼく)君も言うように、上田敏君は「文学界」が生んだ唯一の学者である。その上田君の学者的態度を以(もっ)てしてもこの国独自な希臘(ギリシャ)研究を残されるところまで行かなかったのは惜しい。西欧ルネッサンスに行く道は、希臘に通ずる道であるから、当然上田君のような学者にはその準備もあったろう。しかし同君はそちらの方に深入りしないで、近代象徴詩の紹介や翻訳(ほんやく)に歩みを転ぜられたように思われる。
このスケッチをつくっていた頃、わたしは東京の岡野知十君から俳諧雑誌「半面」の寄贈を受けたことがあった。その新刊の号に斎藤|緑雨(りょくう)君の寄せた文章が出ている。緑雨君の筆はわたしのことにも言い及んである。
「彼も今では北佐久郡の居候(いそうろう)、山猿(やまざる)にしてはちと色が白過ぎるまで」
緑雨君はこういう調子の人であった。うまいとも、辛辣(しんらつ)とも言ってみようのない、こんな言い廻しにかけて当時同君の右に出るものはなかった。しかし、東京の知人等からも離れて来ているわたしに取っては、おそらくそれが最後に聴きつけた緑雨君の声であったように思う。わたしは文学の上のことで直接に同君から学んだものとても殆(ほと)んどないのであるが、しかし世間智に富んだ同君からいろいろ啓発されたことは少くなかった。鴎外(おうがい)、思軒(しけん)、露伴、紅葉、その他諸家の消息なぞをよくわたしに語って聞かせたのも同君であった。同君|歿後(ぼつご)に、馬場|孤蝶(こちょう)君は交遊の日のことを追想して、こんなに亡くなった後になってよく思い出すところを見ると、やはりあの男には人と異なったところがあったと見えると言われたのも同感だ。
紅葉山人の死を小諸の方にいて聞いた頃のことも忘れがたい。わたしは一年に一度ぐらいしか東京の友人を訪ねる機会もなかったから、したがって諸先輩の消息を知ることも稀(まれ)になって行ったが、おそらく鴎外漁史なぞはあの通り休息することを知らないような人だから、当時その書斎とする観潮楼(かんちょうろう)の窓から、文学の推し移りなどを心静かに、注意深くも眺めておられたかと思う。そして柳浪(りゅうろう)、天外、風葉等の作者の新作にも注意し、又、後進のものの成長をも見まもっていてくれたろうと思う。明治文学も漸(ようや)く一変すべき時に向って来て、誰もが次の時代のために支度を始めたのも、明治三十年代であったと言っていい。
旧いものを毀(こわ)そうとするのは無駄な骨折だ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは既に毀れている。これが仙台以来のわたしの信条であった。来(きた)るべき時代のために支度するということも、わたしに取っては自分等を新しくするということに外ならない。このわたしの前には次第に広い世界が展(ひら)けて行った。不自由な田舎教師の身には好い書物を手に入れることも容易ではなかったが、長く心掛けるうちには願いも叶(かな)い、それらの書物からも毎日のように新しいことを学んだ。わたしはダルウィンが「種の起原」や「人間と動物の表情」なぞのさかんな自然研究の精神に動かされ、心理学者サレエの児童研究にも動かされた。その時になってみると、いつの間にかわたしの書架も面目を改め、近代の詩書がそこに並んでいるばかりでなく、英訳で読める欧州大陸の小説や戯曲の類が一冊ずつ順にふえた。トルストイの「コサックス」や「アンナ・カレニナ」、ドストイエフスキイの「罪と罰」に「シベリアの記」、フロオベルの「ボヴァリイ夫人」、それにイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」はわたしの愛読書になった。一体、わたしが初めてトルストイの著作に接したのは、その小説ではなく、明治学院の旧い学窓を出た翌年かに巌本(いわもと)善治氏夫妻の蔵書の中に見つけた英訳の「労働」と題する一小冊子であったが、そんな記憶があるだけでも旧知にめぐりあう思いをした上に、その正しい描写には心をひかれ、千曲川の川上にあたる高原地の方へ出掛けた折なぞ、トルストイ作中の人物をいろいろ想像したり、見ぬ高加索(コーカサス)の地方へまで思いを馳(は)せたりしたものであった。当時わたしは横浜のケリイという店からおもに洋書を求めていたが、その店から送り届けてくれたバルザックの小説で、英訳の「土」も長くわたしの心に残った。不思議にもそれらの近代文学に親しんでみることが反って古くから自分等の国にあるものの読み直しをわたしに教えた。あの溌剌(はつらつ)として人に迫るような「枕の草紙」に多くの学ぶべきもののあるのを発見したのも、その時であった。
今から明治二十年代を振り返ってみることは、私に取って自分等の青年時代を振り返ってみることであるが、あの鴎外漁史なぞが「舞姫」の作によって文学の舞台に登場せられたのは二十年代も早い頃のことであり、「新著百種」に「文づかい」が出たのも二十四年の頃であったと思う。だんだん時がたった後になってみると、当時の事情や空気がそうはっきりと伝わらなくなり、多くの人に残る記憶も前後して朦朧(もうろう)としたものとなり勝ちであるが、明治の文学らしい文学はあの二十年代にはじまったと言っていい。今日明治文学として残っているものの一半は殆(ほとん)どあの十年間に動いた人達の仕事であるのを見ても、明治二十年代は筆執り物書くものが一斉に進むことの出来たような、若々しい一時代であったことが思われる。これには種々な理由があろう。当時は新日本ということが多くの人々によって考えられ、新しい作者を求める社会の要求の強かったことも、その理由の一つとして数えられよう。長谷川二葉亭(はせがわふたばてい)の「浮雲」があれほどの新しさを私達の胸中に喚(よ)び起したのも、その要求をみたし得たからであって、あれほど鮮(あざや)かに当時を反映し、当時を批評した作品もめずらしかった。一方にはまた、鴎外漁史のような人があって、レッシングの「俘(とりこ)」、アンデルセンの「即興詩人」、その他の名訳をつぎつぎに紹介せられたことも、当時の文学の標準を高める上に、少からぬ影響を多くの作者に与えた。「水沫集(みなわしゅう)」一巻は、青春の書というにはあまり老成なような気もするが、明治二十年代の早い春はあの集のどの頁(ページ)にも残っている。
もし、明治二十年代の文学があの調子で進むことが出来たら、その発達には見るべきものがあったろうに、それが最初のような純粋を失い、新鮮を失うようになって行ったに就いては、種々な原因がなくてはならない。
ともあれ、当時発達の途上にあった言文一致の基礎工事がまだまだ不十分なものであったことも争われない。紅葉山人のような作者ですら雅俗折衷の文体と言文一致の間を往来した。何と言ってもあの頃は、古くからある文章の約束がまだ重く残って、言葉の感情とか、その陰影とかの自然な流露を妨げていた。この状態はどうしても行き詰る。そこでだんだん変化と自由とを求めるようになって行って、これまで物を書いていた作者達も今までの表現の方法では、やりきれなくなって行ったかと思う。私は斉藤緑雨君のような頭の好い人がそういう点で苦しみぬいたことを知っている。同君も文章そのものの苦労が大き過ぎて、「油地獄」や「かくれんぼ」に見せたような作者としての天禀(てんびん)を十分に延ばし切ることが出来なかったのではなかろうかと思う。
その後に、鴎外漁史はめずらしく創作の筆を執って、「そめちがえ」一篇を「新小説」誌上に発表した。私はそれを読んで漁史のような人の上にもある一転機の来たことを感じた。「そめちがえ」の砕けた題目が示すように、漁史は最早あの「文づかい」や「うたかたの記」に見るような高い調子で押し通そうとする人ではなかったらしい。その頃には、透谷君や一葉女史の短い活動の時はすでに過ぎ去り、柳浪にはやや早く、蝸牛庵主(かぎゅうあんしゅ)は「新|羽衣(はごろも)物語」を書き、紅葉山人は「金色夜叉(こんじきやしゃ)」を書くほどの熟した創作境に達している。鴎外漁史の「そめちがえ」を出されたころに明治二十年代のはじめを顧みると、文壇は実に隔世の感があった。十年の月日は明治の文学者に取って短い時ではなかった。
おそらく二十年代の末から三十年代のはじめへかけては、明治文学者の生涯の中でも特に動きのある時代で、あの緑雨君が鴎外漁史や幸田露伴氏等との交遊のあったのもあの頃であり、諸先輩が新進作家の作品に対して合評会なぞを思い立ったのもあの時代であったかと思う。
思えば、明治文学の早い開拓者の多くは、欧羅巴(ヨーロッパ)からの文学を取り入れる上に就いて、何(いず)れも要領の好い人達であった。そこに自国の特色がある。これは徳川時代の文学者が遺産を受けついだからでもあり、支那(しな)文学の長い素養からも来ていると思う。ともあれ、他の当時の文学者の多くがまだ十八世紀の英吉利(イギリス)文学を目標としていた中で、独逸(ドイツ)本国の方から十九世紀にあるものを感知して帰って来たところに鴎外漁史の強味があった。その人自身ですら自国に芽ぐんで来た言文一致の試みを採りあげるに躊躇(ちゅうちょ)していたほどの時代を考えると、山田美妙、長谷川二葉亭二氏などの眼のつけかたはさすがに早かったと思われる。
私は明治の新しい文学と、言文一致の発達とを切り離しては考えられないもので、いろいろの先輩が歩いて来た道を考えても、そこへ持って行くのが一番の近道だと思う。我々の書くものが、古い文章の約束や云い廻しその他から、解き放たれて、今日の言文一致にまで達した事実は、決してあとから考えるほど無造作なものでない。先ず文学上の試みから始まって、それが社会全般にひろまって行き、新聞の論説から、科学上の記述、さては各人のやり取りする手紙、児童の作文にまで及んで来たに就いてはかなり長い年月がかかったことを思ってみるがいい。何んと云っても徳川時代に俳諧や浄瑠璃(じょうるり)の作者があらわれて縦横に平談俗語を駆使し、言葉の世界に新しい光を投げ入れたこと。それからあの国学者が万葉、古事記などを探求して、それまで暗いところにあった古い言葉の世界を今一度明るみへ持ち出したこと。この二つの大きな仕事と共に、明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根柢(こんてい)に横たわる基礎工事であったと私には思われる。わたしがこんなスケッチをつくるかたわら、言文一致の研究をこころざすようになったのも、一朝一夕に思い立ったことではなかった。
到頭、わたしは七年も山の上で暮した。その間には、小山内薫(おさないかおる)君、有島|生馬(いくま)君、青木|繁(しげる)君、田山花袋君、それから柳田国男君を馬場裏の家に迎えた日のことも忘れがたい。わたしはよく小諸義塾の鮫島(さめじま)理学士や水彩画家丸山|晩霞(ばんか)君と連れ立ち、学校の生徒等と一緒に千曲川の上流から下流の方までも旅行に出掛けた。このスケッチは、いろいろの意味で思い出の多い小諸生活の形見である。 
 
書評

 


「夜明け前」

 

篠田一士に『二十世紀の十大小説』という快著がある。いまは新潮文庫に入っている。円熟期に達した篠田が満を持して綴ったもので、過剰な自信があふれている。十大小説とは、プルーストの『失われた時を求めて』、ボルヘスの『伝奇集』、カフカの『城』、芽盾の『子夜』、ドス・パソスの『USA』、フォークナーの『アブロム、アブサロム!』、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』、ジョイスの『ユリシーズ』、ムジールの『特性のない男』、そして日本から唯一“合格”した藤村の『夜明け前』である。モームの世界文学十作の選定や利休十作をおもわせるこの選び方にどういう評価をするかはともかく、篠田はここで『夜明け前』を「空前にして絶後の傑作」といった言葉を都合3回もつかって褒めそやした。日本の近代文学はこの作品によって頂点に達し、この作品を読むことが日本の近代文学の本質を知ることになる、まあだいたいはそんな意味である。ところが、篠田の筆鋒は他の9つの作品の料理のしかたの切れ味にくらべ、『夜明け前』については空転して説得力をもっていないとしかおもえない。褒めすぎて篠田の説明は何にも迫真していないのだ。
どんな国のどんな文学作品をも巧妙に調理してみせてきた鬼才篠田にして、こうなのだ。『夜明け前』が大傑作であることは自身で確信し、内心言うを俟たないことなのに、そのことを彷彿とさせる批評の言葉がまにあわない。これは日本文芸史上の珍しいことである。漱石や鴎外では、まずこんなことはおこらない。露伴や鏡花でも難しくはない。むろん横光利一や川端康成ではもっと容易なことである。それなのに『夜明け前』では、ままならない。もてあます。挙げ句は、藤村と距離をとる。いや、のちに少しだけふれることにするが、日本人は島崎藤村を褒めるのがヘタなのだ。『破戒』も『春』も『新生』も、自我の確立だとか、社会の亀裂の彫啄だとか、そんな言葉はいろいろ並ぶものの、ろくな評価になってはいない。先に結論のようなことを言うことになるが、われわれは藤村のように「歴史の本質」に挑んだ文学をちゃんと受け止めてはこなかったのだ。そういうものをまともに読んでこなかったし、ひょっとすると日本人が「歴史の本質」と格闘できるとも思っていないのだ。これはまことに寂しいことであるが、われわれ日本人が藤村をしてその寂しさに追いやったともいえる。ともかくもそれくらい『夜明け前』を論じるのは難しい。それでも、『夜明け前』こそはドス・パソスの『USA』やガルシア・マルケスの『百年の孤独』に匹敵するものでもあるはずなのである。まずは、そのことを告げておきたかった。
さて、『夜明け前』はたしかに聞きしにまさる長編小説である。第1部と第2部に分かれ、ひたすら木曽路の馬籠の周辺にひそむ人々の生きた場面だけを扱っているくせに、幕末維新の約30年の時代の流れとその問題点を、ほぼ全面的に、かつ細部にいたるまで執拗に扱った。これを大河小説といってはあたらない。日本近代の最も劇的な変動期を背景に一人の男の生活と心理を描いたと言うくらいなら、ただそれまでのこと、それなら海音寺潮五郎や司馬遼太郎だって、そういう長編歴史小説を何本も書いてきた。そこには勝海舟や坂本龍馬の“内面”も描写されてきた。しかし藤村がしたことは、そうではなかったのだ。『夜明け前』全編を通して、日本人のすべてに「或るおおもと」を問うたのである。その「或るおおもと」がはたして日本が必要とした「歴史の本質」だったのかどうか、そこを描いたのだ。それを一言でいえば、いったい「王政復古」とは何なのかということだ。いま、このことに答えられる日本人はおそらく何人もいないとおもわれるのだが、当時は、そのことをどのように議論してよいかさえ、わからなかった。
藤村がこれを書いたときのことをいえば、「中央公論」に『夜明け前』の連載が始まったのが昭和4年、藤村が最晩年の56歳のときだった。つまり、いまのぼくの歳だった。昭和4年は前の年の金融恐慌につづいて満州某重大事件がおき、翌年には金輸出解禁に踏みきらざるをえなくなった年、すなわち日本がふたたび大混乱に突入していった年である。ニューヨークでは世界大恐慌が始まった。そういうときに、藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと、問うた。しかもその王政復古は維新ののちに、歪みきったのだ。ただの西欧主義だったのである。むろんそれが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあった。しかしそれを推進した連中は、その直前までは「王政復古」を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題の正面きっての受容というものだった。
とりあえず、物語を覗いておく。
主人公は青山半蔵である。父の吉左衛門が馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねた人だったので、半蔵はこれを譲りうけた。この半蔵が藤村の実父にあたる。『夜明け前』は明治の青年にとっての“父の時代”の物語なのである。物語は「木曽路はすべて山の中である」という有名な冒頭に象徴されているように、木曽路の街道の僅かずつの変貌から、木の葉がそよぐように静かに始まっていく。その街道の一隅に馬籠の宿がある。馬籠は木曽十一宿のひとつ、美濃路の西側から木曽路に入ると最初の入口になる。そこに本陣・問屋・年寄・伝馬役・定歩行役・水役・七里役などからなる百軒ばかりの村をつくる家々と、六十軒ばかりの民家と寺や神社とが淡々とではあるが、脈々と生きている。そこにあるとき芭蕉の句碑が立った。「送られつ送りつ果ては木曽の龝(あき)」。それは江戸の文化の風がさあっと吹いてきたようなもので、青山半蔵にも心地よい。半蔵はそういう江戸の風を学びたいと思っていた青年である。そこで、隣の中津川にいる医者の宮川寛斎に師事して平田派の国学を学ぶことにした。すでに平田篤胤は死んでいたが、この国のことを馬籠の宿から遠くに想うには、せめて国学の素養やその空気くらいは身につけたかったのである。残念ながら宣長を継承する者は馬籠の近くにはいなかった。そこへ「江戸が大変だ」という知らせが入ってくる。嘉永6年のペリー来航のニュースである。さすがに馬籠にも飛脚が走り、西から江戸に向かう者たちの姿が目立ってきた。けれどもニュースは噂以上のものではなく、とんでもなく粉飾されている。物語はこの“黒船の噂”が少しずつ正体をあらわすにつれ、すばらしい変化を見せていく。
半蔵は32歳で父の跡を継いだ。すでに村民の痛ましい日々を目のあたりにし、盗木で追われる下民の姿などにふれて、ひそかな改革の志を抱いていた半蔵は「世直し」の理想をかすかながらも持ちはじめていく。だが、そんな改革の意識よりもはるかに早く、時代は江戸を震源地として激変していった。このあたりの事情について、藤村はまことにうまく描写する。安政の大獄、文久の変、桜田門外の変などを馬籠にいる者が伝え聞く不安のままに、そこで憶測をまじえて国難を案ずる半蔵の心境のままに、描写する。たとえば木曽寄せの人足730人と伊那の助郷1700人が動いて馬籠を通って江戸表に動くといった木曽路の変化をとらえ、また、会所の定使いや牛方衆の口ぶりやかれらのちょっとした右往左往を通して、その背後の巨大な変貌を描いていく。こうして山深い街道に時代の変質がのしかかってくると、半蔵はふと古代への回帰を思い、王政の古(いにしえ)の再現を追慕するようになる。そんなとき、京都にも江戸にも大騒動がもちあがった。皇女和宮が降嫁して、徳川将軍が幕政を奉還するという噂である。半蔵もさすがに落ち着かなくなってくる。しかも和宮は当初の東海道下りではなく、木曽路を下る模様替えとなったため、馬籠はてんやわんやの用意に追われた。村民たちは和宮の降嫁道中に沸き立った。加えて、三河や尾張あたりから聞こえてくる「ええじゃないか」の声は、半蔵のいる街道にも騒然と伝わってきた。半蔵は体中に新しい息吹がみなぎっていくのを実感する。
ここから、ここからというのは第1部の「下」の第9章くらいからということだが、藤村は日本の夜明けを担おうとした人々を、半蔵に届いた動向の範囲で詳細に綴っていく。たとえば長州征伐、たとえば岩倉具視の動き、たとえば大西郷の噂、たとえば池田屋の事件。なかで藤村は、半蔵が真木和泉の死や水戸浪士の動きを見ている目が深くなっていくことをやや克明に描写する。これは読みごたえがある。さすがに国学の解釈にもとづく描写になっている。そして半蔵が“思いがけない声”を京都の同門の士から聞いたことを、伝える。「王政の古に復することは建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くことであらねばならない」。そして藤村はいそいで書き加えた。「その声こそ彼が聞こうとして待ち侘びていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんな風にして実現される日の近づいたばかりでなく、あの本居宣長が書き遺したものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒をもって任ずる長州の志士達ですら意外とするところであろうと彼には思われた」と。
かくて「御一新」である。半蔵はこれこそは「草叢の中」から生じた万民の心のなせるわざだろうと感じ、王政復古の夜明けを「一切は神の心であろうでござる」と得心する。半蔵が日々の多事に忙殺されながらも国学の真髄に学び、ひそかに思いえがいてきたこの国の姿は、やはり正しかったのだ。けれども、世の中に広まっていった「御一新」の現実はそういうものではなかった。半蔵が得心した方向とはことごとく異なった方向へ歩みはじめてしまっていた。それはたんなる西洋化に見えた。半蔵は呆然とする。ここから『夜明け前』のほんとうの思索が深まっていく。
木曽福島の関所が廃止され、尾州藩が版籍奉還をした。いっさいの封建的なものは雪崩を打つように崩れていった。本陣もなくなった。大前・小前による家筋の区別もなくなった。村役人すら廃止された。享保このかた庄屋には玄米5石があてがわれていたが、それも明治5年には打ち切られた。それらの変化はまさに半蔵が改革したかったことと同じであるはずだった。しかし、どうも事態はそのようには見えない。そんなおり、父が死ぬ。いちばん半蔵がこたえたのは、村人たちが「御一新」による改革をよろこんでいないことだった。その理由が半蔵には分析しきれない。なぜ、日本が王政復古の方向に変わったのに、村が変わっていくことは受け入れられないことなのか。もしかして、古の日本の姿は、この村人たちが愛してきた暮らしや定めの中にあったのか。半蔵の煩悶は、まさに藤村の疑問であり、藤村の友でもあった柳田国男の疑問でもあった。もっと答えにくい難問も待っていた。平田派の門人たちは「御一新」にたいした活動をしなかったばかりか、維新後の社会においてもまったく国づくりにも寄与できなかったということである。半蔵がはぐくんできた国学思想は、結局、日本の新たな改変にかかわっていないようなのだ。
それでも半蔵は村民のために“新しい村”をつくろうとした。努力もした。しかし、その成果は次々にむなしいものに終わっていく。山林を村民のために使いやすいようにしようとした試みは、山林事件として責任を問われ、戸長免職にまで追いこまれた。半蔵は自信を失った。そこへもってきて、挙式を前に娘のお粂があろうことに自殺騒ぎをおこした。いよいよ日本の村における近代ならではの悲劇が始まったのである。それは青山半蔵だけにおこった悲劇ではなく、青山家の全体の悲劇を迎えるかどうかという瀬戸際の悲劇でもあった。そして、その悲劇を「家」の単位でくいとめないかぎりは、馬籠という共同体そのものが、木曽路というインフラストラクチャーそのものが瓦解する。民心は半蔵から離れていかざるをえなかった。誰も近代化の驀進に逆らうことなど不可能だった。半蔵はしだいに自分が犠牲になればそれですむのかもしれないという、最後の幻想を抱くことになる。
半蔵は「一生の旅の峠」にさしかかって、すべての本拠地とおぼしい東京に行くことを決意する。そこで一から考え直し、行動をおこしてみるつもりだったのだ。43歳のときである。縁あって教部省に奉職するのだが、ところがそこでも、かつて国の教部活動に尽くしたはずの平田国学の成果はまったく無視されていた。維新直後の神祇局では、平田鉄胤をはじめ、樹下茂国、六人部雅楽(うた)、福羽美静らの平田国学者が文教にも神社行政にも貢献し、その周囲の平田延胤・権田直助・丸山作楽・矢野玄道らが明治の御政道のために尽力したばかりのはずである。それがいまやまったく反故にされている。祭政一致など、神仏分離など、ウソだったのである。半蔵はつぶやく、「これでも復古といえるのか!」。この教部省奉職において半蔵が無残にも押し付けられた価値観こそは、いよいよ『夜明け前』が全編の体重をかけて王政復古の「歴史の本質」を問うものになっていく。が、半蔵その人は、この問いに堪えられない。そしてついに、とんでもないことをする。半蔵は和歌一首を扇子にしたためて、明治大帝の行幸の列に投げ入れたのだ。悶々として詠んだ歌はこのようなものだった、「蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや」。このときの半蔵の心を藤村は次のように綴る。
その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどの止むに止まれない熱い情が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗(おさきのり)と心得、前後を顧みるいともまなく群衆の中から進み出て、その御馬車の中に扇子を投進した。そして急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままにそこにひざまずいた。「訴人だ、訴人だ」その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互に呼びかわすものがある。その時半蔵は逸早く駆け寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争って殆ど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。
結局、青山半蔵が半生をかけて築き上げた思想は、たった1分程度の、この惨めな行動に結実しただけだった。それは難波大助から村中孝平におよぶ青年たちの行動のプロトタイプを、好むと好まざるとにかかわらず先取りしていた。「日本の歴史」を問おうとした者は、藤村が鋭く予告したように、こうして散っていっただけなのである。
これですべてが終わった。木曽路に戻った半蔵は飛騨山中の水無神社の宮司として「斎の道」(いつきのみち)に鎮んでいくことを選ぶ。その4年後、やっと馬籠に戻った半蔵は、なんとか気をとりなおし、村の子弟の教育にあたろうとする。自分の息子も東京に遊学させることにする。この東京に遊学させられた息子こそ、島崎藤村その人である(このとき以来、藤村は父の世界からも、馬籠からも離れていき、そして『夜明け前』を書くにいたって接近していったのだが、おそらくはいっときも馬篭の父の悲劇を忘れなかったにちがいない)。しかし、馬籠の現実に生きている人々はこのような半蔵をまたしてもよろこばない。半蔵は酒を制限され、隠居を迫られる。そうしたある日、半蔵がついに狂うのである。明治19年の春の彼岸がすぎたころの夜、半蔵はふらふらと寺に行き、火をつけた。狂ったのだろうか。藤村はこの最も劇的な場面で、よけいな言葉を費やさない。半蔵の放火は仏教への放火だった。我慢に我慢を重ね、仏教に背こうとした放火であった。仏に反逆したのではない。神を崇拝するためでもない。神仏分離すらまっとうできなかった「御一新」の体たらくが我慢できなかったのだった。こうして半蔵は長男に縄で縛られ、息子たちや村人が用意した座敷牢に入れられる。幽閉の日々である。わずかに古歌をしたためるひとときがあったものの、そのまま半蔵は死んでいく。まだ56歳だった。すなわち、藤村がこの作品を書いた歳である。こうして物語は閉じられる。時代は「夜明け前」にすぎなかったのである。
青山半蔵は島崎正樹である。むろん多少の潤色があるものの、ほぼ実像に近い。藤村がそのような父の生涯を描くにあたって、かなり綿密に資料にあたっていたことはよく知られている。馬籠に遺る村民たちの記録や文書もそうとう正確に再現された。しかし、それだけならこれは鴎外が『阿部一族』や『渋江抽斎』を仕立てた手法とあまり変わらない。けれども藤村は父の生涯を描きながらも、もっと深い日本の挫折の歴史を凝視した。そして父の挫折をフィルターにして、王政復古を夢みた群像の挫折を、さらには藤村自身の魂の挫折を塗りこめた。なぜ、藤村はこの問題を直視する気になったのか。藤村はしばしば「親ゆづりの憂鬱」という言葉をつかっている。血のことを言っている。自分の父親が「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」と言って死んでいったのだ。これが藤村にのしかからないわけがない。それでも『若菜集』や『千曲川のスケッチ』を書くころまでは、父が抱えた巨大な挫折を抱えるにはいたっていないはずである。父が死んだのは藤村が15歳のときで、その後もしばらくは父親がどんな人生を送ったのか、まったく知らないままだった。
藤村が父の勧めで長兄に連れられ、次兄とともに9歳で上京したのは明治14年のことである。泰明小学校に入り、三田英学校から共立学校(いまの開成中学)に移って木村熊二に学んだ。ついで明治学院に進んで、木村から洗礼をうけた。19歳、巌本善治の「女学雑誌」に翻訳などを載せ、20歳のときに植村正久の麹町一番町教会に移った。ここまではまだキリスト教にめざめた青年である。明治女学校で教鞭をとったとき、教え子の佐藤輔子と恋愛したことに自責の念を感じているのがキリスト者らしい。ただし、この時期の日本のキリスト教は内村鑑三がそうであったように、海老名弾正がそうであったように、多分に日本的な色彩の濃いもので、のちに新渡戸稲造がキリスト教と武士道を結びつけたように、どこか神道の精神性と近かった。このことは、青山半蔵が水無神社の宮司になって、それまでの日本の神仏混交にインド的なるものや密教的なるものが入りこんでいることに不満を洩らすこととも関連して、藤村自身が青年キリスト者であった体験を、その後少しずつ転換させ、父が傾倒した平田国学の無力を語っていくときの背景になっているとおもわれる。
つづいて透谷の自殺に出会ってから、藤村は少しずつ変わる。キリスト者であることに小さな責任も感じはじめる。けれどもロマンティックではあれ、まだまだ藤村は情熱に満ちている。仙台の東北学院に単身赴任し、上田敏・田山花袋・柳田国男らを知り、『若菜集』を発表、27歳のときに木村熊二の小諸義塾に赴任したときも『千曲川のスケッチ』を綴って、その抒情に自信をもっていた。それが30歳をすぎて『破戒』を構想し、それを自費出版したのちに二人の娘をつづけて失ってからは、しだいに漂泊と韜晦の二つに惹かれていったかに見える。36歳のときの『春』や、そのあとの芭蕉の遍歴に自身の心を託した『桜の実の熟する時』の岸本捨吉の日々は、そのあらわれである。こうして、藤村は自分の生きざまを通して、しだいに父親の対照的な人生や思想を考えるようになっていく。島崎正樹すなわち青山半蔵は、藤村とちがって断固として馬籠にとどまり、日本の古代の英知を透視して、そして傷ついていった人だった。青年藤村には歴史がなかったが、父には歴史との真剣な格闘があった。
もともと自分を見つめることから始まった作家である藤村は、しだいにこの父の姿の奥に自分が見るべき歴史を輸血する。それが藤村のいう「親ゆづりの憂鬱」をもって自己を「歴史の本質」に投入させるという作業になっていった。しかし、たんに歴史と文学を重ねるというだけなら、それこそ露伴や鴎外のほうが多様であったし、小説的だった。藤村が描いた歴史は、あくまで“父の時代”の歴史であり、その奥に父が抱いた王政復古の変転の歴史というものだった。このことを藤村ほど真剣に、かつ深刻に、かつ自分の血を通して考えた作家は稀有である。それは、日本の近代に「過誤」があったのではないかという苦渋をともなっている。藤村の指摘はそこにある。そして、そのことをこそ物語に塗りこめた。では、過誤ではない歴史とは何なのか。過誤を避ければ苦渋がないかといえば、そんなことはもはや日本の歴史にはおこりそうもなく、たとえば三島由紀夫の自決のようなかたちでしかあらわれないものかもしれないのだが、それでも藤村は結果的ではあるけれど、唯一、『夜明け前』をもってその過誤を問うたのだった。答えがあるわけではない。むしろ青山半蔵の挫折が答えであった。
いやいや、『夜明け前』には答えがある、という見解もある。このことをいちはやく指摘したのは保田與重郎であった。いまは『戴冠詩人の御一人者』(昭和13年)に収録されている「明治の精神」には、次のような意見が述べられている。「鉄幹も子規も漱石も、何かに欠けてゐた。ただ透谷の友藤村が、一人きりで西洋に対抗しうる国民文学の完成を努めたのである」。実はこの一文には、篠田一士も気がついていた。篠田はこの保田の一文に気をとられ、自分の評価の言葉を失ったとさえいえる。しかし、さすがに『夜明け前』を国民文学の最高傑作だというふうには言うべきではないだろう。そこは徳富蘇峰とはちがっている。国民文学ではないとして、もうひとつ保田の意見のやりすぎがある。それは藤村が西洋に対抗したわけではないということだ。ぼくが見るに、藤村にはラファエロ前派もあるし、ギリシア文学もある。藤村がフランスに行ったとき、リモージュで思いに耽るのは、そうしたヨーロッパの浄化の力というものだった。ただ、藤村は晩年になるにしたがって、それらのヨーロッパを日本の古代的なるものや神道的なるものと直結させるようになっていった。突拍子もないことではない。白井晟一などもそうやった。そういうわけだから、『夜明け前』を国民文学とか西洋との対決とはいえないのだが、それでもこの作品は日本の近代文学史上の唯一の実験を果たした作品だったのである。われわれは半蔵の挫折を通して、日本の意味を知る。もう一度くりかえてしておくが、その“実験”とは、いまなお日本人が避けつづけている明治維新の意味を問うというものだった。
どうも長くなってしまったようだ。その理由は、おそらくぼくがこれを綴っているのが20世紀の最後の年末だというためだろう。ぼくは20世紀を不満をもって終えようとしている。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないですまそうとしていることに、ひどく疑問をもっている。われわれこそ、真の「夜明け前」にいるのではないか、そんな怒りのようなものさえこみあげるのだ。  
 

 

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