60年安保闘争

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学生運動 / 運動1運動2全学連1全学連2学生運動の変遷とどめ刺される全学連学園紛争東大紛争東大安田講堂事件 
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諸話 / 安保闘争で学んだ事脱原発の風潮は60年安保闘争革共同共産主義者同盟安保ブントの結成と解体共産主義の旗派革共同革マル派批判60年安保闘争50周年集会の記録・・・2015安保法制
 

雑学の世界・補考   

 
安保闘争

安保闘争1
1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり、日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)の与党自民党による慎重審議なくして強行採決を行ったことに関して反発した国会議員、労働者や学生、市民および批准そのものに反対する国内左翼勢力が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争である。自由民主党など政権側からは、「安保騒動」とも呼ばれる。  
60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り総辞職に追い込まれた。しかし70年安保闘争では、闘争に参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失った。  
安保条約  
1951年(昭和26年)9月8日に、アメリカのサンフランシスコにおいて、アメリカやイギリスをはじめとする第二次世界大戦の連合国47ヶ国と日本の間で、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されたが、主席全権委員であった吉田茂は、同時に、平和条約に潜り込まされていた特約(第6条a項但し書き。二国間協定による特定国軍のみの駐留容認)に基づく「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧日米安全保障条約)に署名した。この条約によって日本を占領していた連合国軍の1国であるアメリカ軍は、「在日米軍」となり、継続して日本に駐留する事が可能となった。なお、当時冷戦下でアメリカやイギリス、フランスなどのいわゆる「西側諸国」と対峙していたソビエト連邦は、西側諸国主導のサンフランシスコ平和条約に対立の意思を示し、49カ国の条約締結国には入らなかった上に、自国を事実上の仮想敵国とした日米安全保障条約に対しても激しく非難を行った。
60年安保

 

衆議院通過までの過程  
1951年(昭和26年)に締結された安保条約は、1958年(昭和33年)頃から自由民主党の岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、1960年(昭和35年)1月に岸以下全権団が訪米、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意。1月19日に新条約が調印された。  
新安保条約は、  
1. 内乱に関する条項の削除  
2. 日米共同防衛の明文化(日本を米軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)※米軍の防衛の明文化はされていないとの反論が多数されている。  
3. 在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置  
など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供するための条約から、日米共同防衛を義務づけたより平等な条約に改正するものであった。  
岸が帰国し、新条約の承認をめぐる国会審議が行われると、安保廃棄を掲げる日本社会党の抵抗により紛糾する。また締結前から、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すなど(※在日米軍裁判権放棄密約から派生する在日米兵犯罪免責特権への批判もあり。在日米軍裁判権放棄密約事件の項目参照)の懸念により、反対運動が高まっていた。スターリン批判を受けて共産党を脱党した急進派学生が結成した共産主義者同盟(ブント)が主導する全日本学生自治会総連合(全学連)は「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げて、総力を挙げて、反安保闘争に取り組んだ。  
まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや、東條内閣の閣僚であった岸本人への反感があったことも影響し、「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの(※在日米兵犯罪免責特権への批判もあり)」として、多くの市民が反対した。これに乗じて既成革新勢力である社会党や日本共産党は組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図り、総評は国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり貫徹したが、全学連の国会突入戦術には皮相的な立場をとり続けた。とりわけ共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト集団)」を批判した。これに対し批判された当の全学連は、既成政党の穏健なデモ活動を「お焼香デモ」と非難した。  
なお、ソ連共産党中央委員会国際部副部長として、日本をアメリカの影響下から引き離すための工作に従事していたイワン・コワレンコは、自著『対日工作の回想』のなかで、ミハイル・スースロフ政治局員の指導のもと、ソ連共産党中央委員会国際部が社会党や共産党、総評などの「日本の民主勢力」に、「かなり大きな援助を与えて」おり、安保闘争においてもこれらの勢力がソ連共産党中央委員会国際部とその傘下組織と密接に連絡を取り合っていたと記述している。  
5月19日に衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日に衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な青年達を公設秘書として動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。これは、6月19日に予定されていたアイゼンハワー大統領訪日までに自然成立させようと採決を急いだものであった。本会議では社会党・民社党議員は欠席し、自民党からも強行採決への抗議として石橋湛山、河野一郎、松村謙三、三木武夫らが欠席、あるいは棄権した。
闘争の激化  
その結果、「民主主義の破壊である」として一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も次第に激化の一途をたどる。反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。これに対して岸信介は、警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内のアイク歓迎実行委員会委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暴力団関係者の会合に派遣。松葉会会長・藤田卯一郎、錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光、「新宿マーケット」のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員がデモ隊を抑えるために手を貸すことに合意した。  
さらに、右翼と暴力団で構成された全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会、岸自身が1958年に組織し木村篤太郎が率いる新日本協議会、以上3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請した。当時の「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」には「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8000人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。岸は創価学会にも協力を依頼したが、これは断られたという。彼らは政府提供のヘリコプター、小型機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」と書かれている。  
岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には『声なき声』(サイレント・マジョリティの意)が聞こえる」と語った。しかし、元首相3人(石橋、東久邇宮稔彦王、片山哲)までが退陣勧告をするに及び、事態は更に深刻化する。
ハガチー事件および、樺美智子の死  
6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティ大統領報道官(当時の報道表記は「ハガチー新聞係秘書」)が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に迎えの車を包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生(ハガチー事件)。  
6月15日には、暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、機動隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死。中継をしていたラジオ関東の島碩弥も警棒で殴られ負傷する。国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。  
このように激しい抗議運動が続く中、岸は15日と18日に、防衛庁長官赤城宗徳に対して陸上自衛隊の治安出動を要請した。東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたが、国家公安委員会委員長石原幹市郎が反対し、赤城も出動要請を拒否したため、「自衛隊初の治安維持出動」は回避された。
七社共同宣言  
15日の惨事を議会政治の危機(言い換えれば、社会主義革命、共産主義革命への導火線)とみた広告代理店の電通の吉田秀雄、朝日新聞社の笠信太郎らが主導となり、在京新聞社7社は、6月17日に共通で「議会政治を守れ」としたスローガンを掲げた社告を掲載。国会デモ隊の暴力、社会党の国会ボイコット、民社党との過度の対立を批判した。  
「六月一五日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。われわれは、日本の将来に対して、今日ほど、深い憂慮をもつことはない。民主主義は言論をもって争わるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは、断じて許さるべきではない。一たび暴力を是認するが如き社会的風潮が一般化すれば、民主主義は死滅し、日本の国家的存立を危うくする重大事態になるものと信じる。よって何よりも当面の重大責任を持つ政府が、早急に全力を傾けて事態収拾の実をあげるべきことはいうをまたない。政府はこの点で国民の良識に応える決意を表明すべきである。同時にまた、目下の混乱せる事態の一半の原因が国会機能の停止にもあることに思いを致し、社会、民主の両党においても、この際、これまでの争点を暫く投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力することは、国民の望むところと信ずる。ここにわれわれは、政府与党と野党が、国民の熱望に応え、議会主義を守るという一点に一致し、今日国民が抱く常ならざる憂慮を除き去ることを心から訴えるものである。— 共同宣言『暴力を排し議会政治を守れ』日本経済新聞社・毎日新聞社・東京タイムズ社・朝日新聞社・東京新聞社・産業経済新聞社・読売新聞社(連名) 1960年6月17日」  
新聞各社はこれにより岸政権が批判を受けた「所以」を不問に付した。従って、安保闘争に冷や水を浴びせ、政府にとって有利な内容であった。そのため、警察側の暴力を不問にした、議論の本質を「暴力反対」にすり替えた、といった批判が当時なされ、「新聞が死んだ日」とも評された。
自然成立後  
条約は参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職を表明した。岸は、7月15日の総辞職の前日、暴漢に襲撃され重傷を負った。  
「60年安保闘争」は空前の盛り上がりを見せたが、戦前の東條内閣の閣僚でありA級戦犯容疑者にもなった岸とその政治手法に対する反感により支えられた倒閣運動という性格が強くなり、安保改定そのものへの反対運動という性格は薄くなっていたため、岸内閣が退陣し池田勇人内閣が成立(7月19日)すると、運動は急激に退潮した。  
池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、社会党も経済政策で対抗したため、安保闘争の影は薄くなっていった。さらに、7〜8月に行われた、青森県・埼玉県・群馬県の各知事選で社会党推薦(埼玉では公認)候補は惨敗(山崎岩男、栗原浩、神田坤六が当選)。総選挙でも自民党圧勝の雰囲気さえ出てきた。10月12日、社会党の淺沼委員長暗殺事件で再び政権は揺らぎかけたが、池田首相は動揺を鎮めることに成功。11月20日の総選挙では、社会党と民社党が互いに候補を乱立させた影響もあり、自民党は追加公認込みで300議席を獲得する大勝を収めた。安保条約の改定が国民の承認を得た形になり、現在(2012年)まで半世紀以上にわたり、安保条約の再改定や破棄が現実の政治日程に上ることはなくなっている。
余波  
デモ隊側から見れば、安保阻止は実現できなかったものの、自らの運動によって内閣を退陣させることに成功した意義は非常に大きく、活動の主体となった大学生による反体制運動は、続くベトナム戦争反戦運動により拍車がかかり、1968年(昭和43年)に起こる一連の大学紛争へ至る。一方では、安保闘争を「敗北」と総括した共産主義者同盟(ブント)をはじめ、急進派学生には、強い挫折感が残ることになった。全学連指導者の一人だった唐牛健太郎は、安保闘争の終結直後に運動から身を引き、香山健一、森田実などは転向する。新左翼党派は、ブントが四分五裂の分裂を開始し、北小路敏ら全学連指導部の一部は、ブントから革命的共産主義者同盟全国委員会に移行するなど、再編成の季節を迎えることになる。  
安保闘争は、議会政治自体への反発や否定の側面があった。しかし、マスメディアが「七社共同宣言」で議会政治擁護をその根拠としたことで、主立ったマスメディアで、議会政治自体を否定する論調はほぼ無くなった。また、安保闘争は、総選挙で与党の自由民主党に対する政権交代を実現させる方向には働かず、選挙結果への影響がほとんど無かったことも注目される。  
1963年(昭和38年)2月26日、東京放送(TBSラジオ)が実録インタビューで構成した番組『歪んだ青春-全学連闘士のその後』を放送する。この番組は60年安保闘争時の全学連が、戦前の日本共産党の指導者で60年当時は土建会社を経営しながら「反共右翼」としての活動を行っていた田中清玄から資金援助を受けていたことを暴露する。日本共産党は「ブント全学連の挑発者としての正体が露呈した」と指摘し、新左翼を「ニセ「左翼」暴力集団」と呼ぶ、つまり左翼とは認めない根拠としている。  
また、安保闘争における過程で岸が右翼をデモ隊に対抗する行動部隊として動員させる過程で、児玉誉士夫などを使い暴力団を動員した結果、一部の右翼と暴力団などの反社会的勢力との関係が深まり、一部の暴力団が右翼団体や政治結社を名乗り活動するなど右翼活動に暴力団がおおっぴらに食い込み、両者の区別があいまいになるきっかけとなったという評価もある。  
ソビエト連邦は安保改定を自国への挑戦と受け止め、上記のように社会党や共産党、総評の安保反対活動に対して多大な援助を行うとともに、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で確約された「平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を返還する」約束を撤回し、米軍が駐留可能となる地域が増えることは好ましくないとして、日本政府に対して一方的に不返還を通告した。日本政府は、共同宣言発効の際には既に安保条約が存在しており、双方は矛盾しないとして抗議、結局ソ連が不返還通告を撤回することで収束した。
評価  
新安保条約や60年安保闘争への評価は政治的な立場により異なるが、新安保条約は現在(2015年)まで半世紀以上にわたり存続しており、ソ連崩壊で冷戦が終結し、対ソ連、対東側諸国への抑止力としての安保体制の意義は消滅したものの、新たに北東アジアにおける軍事的脅威として浮上してきた中華人民共和国や北朝鮮に対峙するための日米の軍事同盟として、そしてアメリカのトルコ以東地域への軍事的存在感維持などの新たな意義づけのもとに維持されているなど、日本の政治体制・軍事体制の基礎として完全に定着しており、当時安保改定反対の理由として主張された「新安保条約により日本が戦争に巻き込まれる危険が増す」との意見は現在では余り聞かれない。  
さらに、1994年7月成立の村山内閣で、日本社会党委員長である村山富市首相が国会の所信表明演説において「日米安保堅持」と発言した上、2009年に発足した民主党、社会民主党、国民新党の連立政権(鳩山由紀夫内閣、民社国連立政権)においても、日本社会党を継承した社会民主党の福島瑞穂党首(特命担当大臣)が、入閣後は安保について明確に反対の意思を示していないなど、一部の左翼陣営の中での国会内での安保条約を容認する動きも出てる。ただ、米国が日本国内で運用するオスプレイや、米国が提示する辺野古への基地移転、米国が強く支持する日米安保の新しい形とされる集団的自衛権行使に関しては、福島らを含めた左翼陣営は反対の姿勢をとる。  
マスメディアの状況は、1960年当時では日米安保に批判的な論調が主流であったが、現在では概して日米安保自体は容認するようになっている。ただし、日米安保強化や在日米軍の方針に関しては、肯定的な立場と批判的な立場に分かれる。全国紙では、読売新聞や産経新聞は日米安保強化や在日米軍の方針に総じて肯定的であり、朝日新聞や毎日新聞は批判的である。例えば、在日米軍が進めるオスプレイの普天間基地配備に関しては、読売新聞と産経新聞は賛成しているのに対し、朝日新聞と毎日新聞は反対の立場である。普天間基地の沖縄県外への移転(=普天間基地の辺野古への移転計画の中止)についても、読売新聞と産経新聞は日米両政府が合意し、米政府が支持する辺野古移設案を変えることの無いように主張しているのに対し、朝日新聞と毎日新聞は普天間基地の辺野古への移設に慎重であり県外移転を求めている。そして、米政府が歓迎し日米安保を強化する動きでもある集団的自衛権に関しても、集団的自衛権に肯定的な読売新聞や産経新聞と、集団的自衛権に批判的な朝日新聞や毎日新聞との間では意見が割れている。また、全国紙以外では、共同通信とその影響を強く受ける地方紙の大半は、日米安保強化や在日米軍の方針に関しては朝日新聞や毎日新聞と同じく批判的立場である。沖縄県の地元2紙(琉球新報、沖縄タイムス)も同様である。例えば、オスプレイの普天間基地配備に関しても、辺野古移設に対しても、集団的自衛権に関しても、批判的である。ただし、地方紙でも石川県の北國新聞や三重県の伊勢新聞などの保守色が強い一部の地方紙は日米安保強化や在日米軍の方針に肯定的なことが多い。  
なお、小室直樹や西部邁などは「安保反対と言って騒いでいた中に安保条約の中身を読んで反対していた人間はろくにいなかった」と公言している。西部は当時全学連中央執行委員をしていた)。
60年安保闘争の経緯  
1959年(昭和34年)  
3月 - 日本社会党、日本労働組合総評議会(総評)、原水爆禁止国民会議(原水禁)などが安保条約改定阻止国民会議を結成。  
3月30日 - 東京地裁で日米安保条約に基づく米軍の駐留を憲法違反とする判決(砂川事件・伊達判決)。  
10月 - 社会党の西尾末広が改定阻止国民会議に反対を表明し離党。  
11月 - デモ隊が国会構内に乱入。  
1960年(昭和35年)  
1月19日 - 日米政府間で条約調印。  
1月24日 - 西尾末広らが民主社会党結成。  
4月 - 全学連が警官隊と衝突。  
5月20日 - 衆議院で強行採決。以降、連日デモ隊が国会を囲む。  
6月11日 - ハガチー事件(大統領秘書が来日するが、羽田でデモ隊に包囲されヘリコプターで脱出)。  
6月15日 - 全学連と警察隊の衝突で、大学生樺美智子死亡。  
6月17日 - 在京新聞7社が共同声明でデモ隊の暴力を批判、社会党に国会審議復帰を呼びかける。  
6月19日 - 条約が自然成立(23日に発効)。  
6月23日 - 新安保条約の批准書の交換、全手続きを終了。岸内閣総辞職を表明。  
7月14日 - 自由民主党総裁選挙。池田勇人を自民党第4代総裁に選出。総理大臣岸信介が暴漢に襲われ重傷を負う。  
7月15日 - 岸信介内閣が総辞職。  
7月19日 - 池田勇人、内閣総理大臣に就任。第1次池田内閣が発足。  
10月12日 - 日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、山口二矢(当時17歳)に暗殺される。  
11月20日 - 11月20日第29回衆議院議員総選挙。自民党が議席を増やす。  
70年安保

 

1970年に10年間の期限を迎え、日米安保条約が自動延長するに当たり、これを阻止して条約破棄を通告させようとする運動が起こった。  
学生の間では1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて全共闘や新左翼諸派の学生運動が全国的に盛んになっており、東大闘争、日大闘争を始め、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。  
街頭闘争も盛んに行われ、新左翼の各派は、1967年(昭和42年)10月、11月の羽田闘争、1968年(昭和43年)1月の佐世保エンタープライズ帰港阻止闘争、4月の沖縄デー闘争、10月の新宿騒乱事件(騒乱罪適用)、1969年(昭和44年)4月の沖縄デー闘争、10月の国際反戦デー闘争、11月の佐藤首相訪米阻止闘争などの一連の闘争を「70年安保闘争の前哨戦」と位置づけて取り組み、「ヘルメットとゲバ棒」スタイルで武装し、投石や火炎瓶を使用して機動隊と戦った。  
国会前へのデモンストレーションは1970年(昭和45年)6月14日に行われ、また全国236箇所で社会党、共産党などによるデモが行われた。また、「インドシナ反戦と反安保の6・14大共同行動」と題して、市民団体と新左翼諸派は7万2千人を動員した。しかし、新左翼諸派は、機動隊を強化した佐藤政権による徹底した取り締まり、あるいは弾圧に加え、内ゲバによって既に疲弊していた。  
同年6月23日、条約は自動継続となった。70年安保闘争は、ベトナム反戦運動、成田空港問題などと結び付き、一定の労働者層の支持を得たが、60年安保に比べ、全共闘を中心とした学生運動の色合いが濃くなっていた。社会党や共産党などの革新勢力は、「70年安保闘争」を沖縄返還運動とセットの「国民運動」として位置づけ、70年の「自動延長」そのものには60年安保闘争ほどの力量を割かなかった。  
「安保延長反対」の世論と運動への国民の支持は少なくなかった。しかし、全共闘と共産党系の民青の衝突を始め、全共闘に属する党派同士の内ゲバが激化し、多くの国民からかけ離れた存在となっていった。70年安保期の1969年(昭和44年)12月の総選挙では、当時の佐藤栄作内閣を支える自民党は国会での議席を増やす一方、「安保延長」に反対した社会党は約50議席を減らして大敗し、佐藤長期政権は1972年(昭和47年)まで継続した。  
それでも学生運動、新左翼運動を続ける者はいたが、8月4日には中核派による革マル派活動家殺害が発覚し、革マル派も報復として中核派活動家を殺害。また、1972年、連合赤軍によるあさま山荘事件、そして発覚した山岳ベース事件が国民に知られるようになると、その凄惨さから、学生運動・新左翼運動は殺人と同義と見なされるようになった。それまで左翼を擁護していた知識人たちも、一斉に左翼運動を批判するようになり、新左翼の勢力は一気に退潮した。  
 
安保闘争2

 

1957年、岸信介首相が安保改定に乗り出し、米側と話し合いがもたれ、新安保も現実味をおびた。だがやがて反対デモが活発化し、60年5月19日には新安保条約が強行採決される。請願デモは岸内閣退陣を要求する抗議デモへと変わり、6月15日には国会での衝突のなか、東大生・樺美智子(22歳)が死亡した。
安保条約  
安保。正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約とともに結ばれた。これは米軍の日本国内およびその付近への駐留・配備を認め、条約の失効は日米双方の認定を必要とするが、米駐留軍は日本防衛の義務を負わないという形式で、その内容は、駐留米軍は極東における平和と安全の維持、日本政府の要請に応じて国内の騒擾や内乱の鎮圧、日本に対する外部からの武力攻撃の阻止に使用することができるというものだった。当時の吉田茂首相は「アメリカに防衛をまかせて、日本は経済復興に集中しようという考えで調印した」と語っている。  
当時は米ソ2カ国による冷戦体制、吉田内閣は防衛力の増強こそ不可欠として、54年7月、日米の合意の元に防衛庁と自衛隊を発足させた。このことにより安保を見直す動きが出てきた。  
57年1月、群馬県の訓練場で、米兵が主婦を射殺するというジラード事件が起こった。反米感情高まる。  
また同年6月、岸信介首相が「日米新時代」の声明を発表。日本の経済成長を背景に、日米安保条約改定の意思を表明した。さっそくアイゼンハワー大統領と会談し、安保改定の準備を進めようとしたが米側は「時期尚早」として乗り気ではなかった。  
ところがこの年の10月、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功、11月にはライカ犬を乗せたスプートニク2号の打ち上げにも成功した。先を越されたアメリカは、12月に人工衛星バンガードを打ち上げたが失敗、翌年1月にエクスプローラー1号でようやく成功した。これはロケット技術による大陸間弾道弾(ICBM)開発にアメリカが遅れをとったことを意味し、極東戦略の変更、ひいては日本の前線基地化、核武装化させるべく方針を転換することを余儀なくされ、日米安保条約の改定に乗り出すことになった。  
58年9月11日、藤山愛一郎外相がワシントンでダレス米国務長官と会談。日本側の要望として、「日本の片務性の解消」「駐留米軍の移動についての事前協議」「駐留米軍の配備についての事前協議」「内乱条項の削除」「条約期限の明示」を挙げた。  
10月4日、藤山外相とマッカーサー駐日大使のあいだで安保改定の第1回日米会談が開かれ、この席でアメリカ側は西太平洋全域を日米共同防衛区域にするように要求。これには国内世論が反発し、岸首相も拒否した。  
12月16日の第3回交渉では、警察官職務執行法開成安をめぐる国会の混乱や安保条約の適用区域をめぐる自民党内の意見の食い違いなどを原因に、交渉は中断された。  
59年5月2日、再開第3回会談。改定の際の主要問題点について大筋で双方の意見が一致。  
7月6日、岸首相の外遊出発を前に、政府・与党首脳が安保改定問題の取扱を協議。「安保改定は急がない」という旨で意見一致となった。この結果日米交渉はしばし中断した。  
8月22日、日米交渉が再開された。だが自民党・河野一郎氏が、新条約の期間10年固定や行政協定の内容に異論を表明。9月に岸首相と話し合いの席が持たれ、河野氏は首相の意見に賛成し、協力を約束した。
ゼンガクレン  
全学連が誕生したきっかけは、GHQの打ち出した国立大学の地方自治体委譲案、また反対を受けての代案である大学理事会法案、国立大学の授業料3倍値上げ間に対する抵抗運動だった。48年6月1日、こうした案に反対する5000人が日比谷音楽堂に集まり、「教育復興学生決起大会」を開き、デモを行った。また全国官公立大学高等自治会連盟が結成され、一斉ストライキを決議、私学系もこれを支援し、全国で114校でストが行われた。抗議活動はその後も続き、同年9月、全学連(全日本学生自治会総連合)は結成された国公私立145校、30万人が参加。本部は東大内に置かれ、初代委員長には東大自治会委員長・武井昭夫が就任している。他の中心的なメンバーには安東仁兵衛、力石定一、沖浦和光、不破哲三、上田耕一らがいた。  
56年10月、ハンガリー首都ブダペストでの反政府(反共産党政権)デモが起こり、ソ連が軍事介入(ハンガリー闘争)。日本共産党がこれを支持したことで、全学連や学生党員らが反発。離反の要因のひとつとなる。  
57年1月、元・日共党員らが「日本トロツキスト連盟」結成。10月には「革共同(日本革命的共産主義者同盟)」(後に革マル派、中核派に分派)に改称する。  
58年12月、日本共産党を除名された全学連主流派の学生党員を中心に「共産主義者同盟(第1次ブント)」結成。  
全学連幹部がはじめ日共党員で占められていたが、活動家は共産党の方針にあきたらず、60年の大会で事実上離別した。  
59年6月、全学連第14回大会で、ブント執行部・唐牛健太郎が主導権を奪う。唐牛委員長―北小路敏書記長ラインで主流派構成し、安保問題にとりくみはじめた。安保反対闘争では、たびたび警官隊と衝突、国会に乱入、羽田空港座りこみなどの行動を続け、「ゼンガクレン」の名は世界的に知られることとなった。
国会座りこみ事件  
小出しに発表される改定案について、国内では憲法第九条の解釈の仕方や、米軍移動の際の事前協議などが問題となった。「日本の平和」のためだけではなく、「極東における国際の平和および安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍および海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」というものであり、労組などからの「再び戦争にまきこまれる」といった反対ビラも見られるようになった。  
59年3月28日、社会党と総評は、共産党をオブザーバーとして138の団体が結集した「安保改定阻止国民会議」を形成。この組織は全学連とともにデモ隊の主役となった。  
6月25日、安保改定阻止第三次統一行動。39都道府県で160万人が参加。  
同年7月の世論調査で、「安保条約の改定が問題となっているが」の問いかけに、「知らない」と答えた人が50%、もう50%は「知っている」と答えたのだが、「どういう点を変えようとしているのか」に答えられたのは、わずか11%に過ぎなかった。  
11月9日、文化人・芸術家が安保批判の会を結成。  
11月27日には2万7千人(警視庁調べ)が国会周辺に集結した。デモ隊は国会三方の道路を埋め尽くし、他にも国会前のチャペルセンターあたりには全学連、日教組が、人事院ビルには国労、全通などが、特許庁前には全学連、全金属などがのデモ隊がそれぞれ数千の規模で集まった。全学連のデモ隊は国会周辺に配置されていた警官隊の制止を破って、2度に渡って国会構内になだれこんだ。約2万人が1時間余りにわたって構内正面玄関に座りこみ、社会党・浅沼書記長らの解散呼びかけも聞かず、6時を過ぎてようやく引き上げていった。結局この騒ぎで警官・デモ隊双方で300人を越す負傷者を出した。  
事態にあわてた浅沼稲次郎社会党書記長、岩井章総評事務局長は宣伝カーの上から「事態を収拾するために解散」を命じ、共産党の神山茂夫も「我々共産党は、社会党・総評の方針を支持する」と演説、自分たちの行動を否定された学生・労働者たちは呆然として帰り始めた。夜になって、政府は緊急閣議で「国会の権威を汚す有史依頼の暴挙」という声明で全学連を非難、これを助長したとする社共も責めた。  
国会にデモ隊が乱入する事件はこれが初めてではない。1950年3月9日、第7回国会で25年度予算案が可決された日に、予算案に反対した約1万人のデモ隊が、夜間デモを行ない、構内の建物の屋根でタキ火をしたり、議事堂内に入ろうとした。2つめの事件は51年11月1日、第9回国会で、吉田内閣打倒のために、デモ隊4,000人がチョウチンデモを行ない、その一部が柵を乗り越えたというものだった。それらの事件と比べてみても、大規模な事件だった。  
翌28日、警視庁は全学連、ブント事務所を家宅捜査、全学連・清水書記長、糠谷秀剛副委員長、加藤昇副委員長ら4人に逮捕状をとり、3人を逮捕した。
デモ隊と声なき声  
12月30日、外務省は「1月19日にワシントンのホワイトハウスで新安保条約に調印する」と正式に発表。  
60年1月2日、岸首相は年頭記者会見で「安保改定は岸内閣のゴールではなくスタートだ」と語る。  
1月15日。安保条約調印のために渡米する岸首相を阻止しようと、全学連約500名が羽田空港ロビーに座りこんだ。ここでも学生たちは警官隊と衝突。空港食堂は破壊されるなどのひどい乱闘となったが、1時間半後に唐牛全学連委員長が捕まり、他76名も逮捕されて一旦は収束した。  
しかし16日早朝、またしても全学連デモ隊第2陣800名が羽田への道で阻止しようとした。しかし、彼らも3,000名の警官隊に防止され、全権団は別の道から空港に到着した。(「第11次統一行動」)  
1月18日、公安調査庁、全学連・社会主義学生同盟・共産主義者同盟を破防法にふれる破壊活動容疑団体と認定。  
1月19日午後2時54分、日米新安全保障条約はホワイトハウスで調印された。、アイゼンハワー米大統領立ち合いのもと、日本側から岸首相を首席全権として、藤山外相、石井光次郎自民党総務会長、足立正日本商工会議所会頭、朝海浩一郎駐米大使の五全権、米側からハーター国務長官、マッカーサー駐日大使、パーソンズ国務次官補の三全権が署名した。  
1月27日、ソ連は新安保条約を非難し、「日本に外国軍が駐留する限り歯舞、色丹島は返還しない」と表明。  
2月8日、衆院予算委員会、安保条約の極東の範囲問題で紛糾、岸首相は「中国沿岸と沿海州は含まない」と答弁。  
2月11日、衆院は安保条約審議のため、日米安全補償条約等特別委員会設置を決定。19日にこの委員会は審議を開始したが、国会の条約修正権をめぐって混乱となり、26日まで条約審議に入れない状態が続く。  
3月6日、東京・日比谷での社会党総決起大会に労組員を含む2000人余が集まり、安保批准反対や岸内閣打倒などを決議。  
3月16日、全学連臨時大会初日、主流派と反主流派二派が開会前から衝突し、反主流派二派が退場。  
3月19日、安保改定阻止国民会議第一三次統一行動で、各県代表約500人が持参の「一千万署名簿」を国会に提出。  
3月25日、社会党の臨時党大会で、浅沼稲次郎が河上丈太郎を破り委員長に就任。書記長には江田三郎。同日、衆院安保特別委は極東の範囲の問題で紛糾、野党側が「答弁に誠意がない」と退場し、自民党単独審議になる。  
4月11日、京大教官有志が安保反対の国会請願署名運動を起こす。20日には東大教官353人が安保反対声明発表。  
4月20日、安保改定阻止国民会議と総評は「統一行動をとらず独自のデモをおこなう全学連に反省を求める」と発表。  
4月22日、衆院安保特別委で、審議を急ぐ自民党が参考人の意見聴取を強行しようとして混乱、乱闘騒ぎとなる。  
4月23日、全学連による国会デモのため、地下鉄丸ノ内線国会議事堂前駅が閉鎖され、電車は同駅を通過した。  
4月26日、安保改定阻止国民会議第一五次統一行動に全国で21万4000人が参加。国会付近では全学連主流派約8,000人がチャペルセンター前に座りこむ。唐牛委員長が警察車両のボンネットに飛び乗り、演説を始めた。「自民党の背後には、一握りの資本家階級がいるにすぎない。われわれの背後には安保改定に反対する数百万の労働者、学生がいる」  
この日のデモでは唐牛ら13名が逮捕された。当時、岸首相から部隊の出動を打診された赤城宗徳防衛庁長官は、ずっと後のテレビ番組のなかで次のように回顧している。「仕方なく辞表を懐にして行ったよ。部隊を出す以上勝たなければならないが、それには銃を使用しなければならない。しかし全学連といえども国の若者である。国軍に国民を撃てとは私には命じられない。だから出動を命じられれば、辞表を出す他なかった。だって、軍人たちに聞いたら、素手で出したのでは勝てる自信がないって云うんだもの」  
4月27日、全国タクシー運転者共済組合連合会が約300台で道路運送法改悪反対・安保反対の請願行進を行う。  
5月7日、全学連は前月20日に「反省を求める」とされた安保改定阻止国民会議に対し、「統一行動に協力する」と回答。  
5月9日、北京で「日米軍事同盟に反対する日本国民を支援する大集会」が開催され、約100万人が参加。同日、大本教徒(人類愛善会)が安保批判の会に加入。  
5月12日、群馬商工団体連合会加入商店600軒、安保阻止統一行動に参加し、1〜24時間の閉店スト。  
5月13日朝までに衆参両院が受理した安保反対請願書は15万7千余通、署名は255万8千人分。  
5月14日、「安保改定阻止国民会議」10万人の請願デモ。  
5月18日、東京地検は前月26日の国会デモで警官隊と衝突した全学連・唐牛委員長ら6名を起訴。  
5月19日、政府・与党は衆院での委員会審議を中断し、野党議員・自民党反主流派議員欠席のなかで、「新安保条約」を強行採決。この採決は1ヶ月後に訪日するアイゼンハウアー米大統領の日程に合わせたものであると見られ、少なからずの反発を生むことになった。  
安保特別委員会で、小沢佐重喜委員長(小沢一郎氏の父)により条約承認が強行採決。午後11時過ぎ清瀬一郎衆議院議長は、警官隊を国会内に入れ、座り込んでいた社会党議員を排除、深夜に本会議を開いて50日間の会期の延長を議決した。この時、社会党、民社党議員はもちろんのこと、自民党議員の一部も欠席・途退場した。そうしたなかで、条約は可決された。自民党内で批判的だったのは中国と近い関係の三木武夫、松村謙三、石橋湛山。強行採決の後、社会党は国会審議を一切拒否し、自民党内でも岸批判がおこった。  
社会党でも、西尾末広ら一部右派は改定を容認していたが、党内では少数派だった。西尾氏は譴責処分となり、このため西尾派、河上丈太郎派の一部の計33人が59年10月に脱党、翌年に「社会クラブ」(民主社会党)を結成した。社会党では新たに浅沼稲次郎が委員長に選ばれたが、本来右派の彼も、党の主導権は左派がとっていたため、左よりの言動をとるようになった。  
いずれにせよ、世論が動き出したのは、この5月20日からであった。請願デモは怒りの抗議デモに変わり、岸内閣退陣要求に発展した。同日、ソ連は安保条約による米軍への基地提供を非難する対日覚書を門脇駐ソ大使に手交。  
5月下旬からデモが頻発化。学生だけではなく、大学教授団初のデモもあった。移民船「ブラジル丸」でも反対集会が開かれた。岸首相邸のある渋谷区南平台ではデモ隊に備えて自宅をバリケードで守る人もいた。  
5月26日安保改定阻止国民会議第一六次統一行動が全国で実施され、国会請願デモに約17万5000人が参加。また国会・請願受付所で、「治安確立同志会」坂本勇(当時26歳)ら4名が、社会党・浅沼委員長にアンモニア入りのビンを投げつける。浅沼委員長は全治3日の結膜炎。同日、参院本会議、社会党と民社党などが欠席のまま会期50日延長を議決。翌日には自民党単独で審議を再開した。  
5月28日、岸首相は「新聞だけが世論ではない」「新聞報道には現れない声なき声にも耳を傾けなければいけない」と記者会見で語り、潜在する安保支持派の存在を指摘した。  
6月3日、第17次統一行動。  
6月4日、総評は時限ゼネストを指令、全国で460万人以上の労働者がストに参加。  
6月8日、自民党、衆院安保特別委を単独で開き、安保条約の審議を開始。  
6月10日午後3時29分、米大統領訪日の打ち合わせのためハガチー米大統領新聞係秘書が羽田空港に到着。ハガチー氏を乗せた車は空港周辺でデモ隊に包囲され立ち往生し、海兵隊のヘリコプターで脱出。(ハガチー事件) ハガチー氏は同夜、記者会見で「これによりアイゼンハワー大統領の訪日の方針が変わることはない」と話した。  
13日、警視庁はこの事件に関し日本鋼管労組事務所と東京教育大、法政大学内を捜査、4人を逮捕した。さらに7月までに共産党員・労組幹部ら26人が暴力行為などの容疑で逮捕された。  
6月14日、総評指導部、米大統領来日時のデモ中止の方針を固め、社共両党と協議。  
安保反対の動きは、それまで共産党や労働組合とは距離を置いていた人々にも広がった。今では聞こえの悪くなった”市民”によるものである。この闘争が、その後の学生運動と違う点は、市民らが一体となって参加していた点にある。年端もゆかぬ子どもですらも「アンポハンタイ!」と真似するようになった。
東大生の死

 

60年6月15日。この日のストには580万人が参加したと言われる。全商連では全国3万店で閉店ストを行なった。東京では11万人が国会議事堂を包囲。「第18次統一行動」として、「国民会議」「都労連」「新安保反対キリスト者会議」「安保改定阻止新劇人会議」などが参加した。さらにこれに同調した全学連反主流派も抗議デモを敢行。  
また全学連主流派も各地の大学へ呼びかけ、「国会正門前に7500人を動員する」と主張し、気勢をあげていた。これに対して、衆参両院議長は警察に派出要請、約1万人の警官が警備にあたった。議事堂周辺を守るのは3400人ほどの機動隊、方面警察隊である。  
午後1時半頃から、主張していた通りに全学連主流派の東大、中大、明大を中心とした約6000人の学生が集まり始め、午後3時半頃には約7,300人に膨れ上がり、抗議集会を行なった。  
国会はデモ隊に包囲される形となり、参院側から、衆院南通用門の方へ行進した。デモ隊が衆院第2通用門交差点にさしかかった頃、平河町方面から歩いてきた右翼約120人と遭遇し、大乱闘となった。双方の関係者26人が検挙された。  
全学連主流派はスクラムを組んで通用門に体当たり、有刺鉄線などをペンチで切断し始めた。午後5時40分、学生らは「ワッショイ、ワッショイ」と門扉にロープを巻いて引き倒し、門内の阻止の車両にも火を放った。これに対して警官隊は放水して押し戻そうとしたが、抑えきれずに学生らはどんどんと構内へ乱入し、規制しようとした警官隊と衝突、そのなかで午後7時過ぎに東大生・樺美智子(22歳)が転倒したところ、人雪崩的に転倒した学生らの下敷きとなって圧死した。  
樺美智子は1937年東京で生まれた。父親は社会学者である。芦屋市立山手中学校、県立神戸高校を経て東大文学部に入学。2人の兄達は父親の後を継ぐ気はなかったので、父親は美智子の大学入学を喜び、期待していたという。東大に入学した樺美智子は学生運動家として活動し始めた。6月15日、この日スカートで出かけた樺美智子はズボンにはき替えデモに参加、自治会副委員として先頭に立って国会突入をはかった。家の勉強部屋は卒業論文用の「明治維新史研究講座 第4巻」が開かれたままだったという。多磨墓地には彼女の墓と碑がある。  
※樺美智子の死因と報道・・・・樺美智子の遺体は慶応病院法医学教室で解剖され、「内臓器圧迫による出血のための急死。致命傷となる外傷はない」という結果が出た。ところが、解剖に立ち会った社会党参議院議員と代々木病院副院長は「扼殺の疑いが強い」と異なる発表をした。さらに社会党弾圧対策委員会は殺人罪で告発。「樺美智子さんは警棒で殴られたうえ、踏まれて死亡したのではないか」という報道も加勢した。しかし後日、東京地検は現場写真や参加者の証言などからその説を否定している。  
一方、国会構内ではその後も一進一退の衝突が続き、午後8時半頃に3,500人ほどの学生が中庭で、シュプレヒコールや阻止車両破壊を始めた。警官隊が学生を門外へ排除できたのは午後10時11分のことだった。学生らの多くはおりからの降雨のため帰っていったが、それでも1,500人ほどの学生らは国会周辺でデモ行進を行ない、それは3,000人にもなった。正門前の車両を横転させ、次々と放火、計18台が全半焼した。  
この暴動に対して、警視庁は機動隊を投入して排除する方針を決定。投石などで抵抗し続けていた学生らを力づくで排除した。ラジオ関東の島アナウンサーは車中で実況中継中、首をつかまれて殴られ、泣きながら臨場感溢れる放送をした。結局この日、学生193人含む232人が検挙された。警察側の負傷者は721人。それまでの闘争警備において、最大の被害を出した。
その後

 

衝突事件翌日の16日、政府はアイゼンハウアー大統領の訪日招待延期を発表。  
17日、樺美智子の死に抗議した約7,000人が、再び国会前に集まった。新聞社7社は、「暴力を排し、議会政治を守れ」との「7社共同宣言」を発表。同じ日、国会では社会党・河上丈太郎代議士刺傷事件が起こる。  
18日午前11時、東京・日比谷で樺美智子を慎む全学連総決起大会開催。午後には東大で合同慰霊祭が開催される。  
強行採決からちょうど1ヶ月後の19日午前0時、前夜からでも隊33万人が国会を取り巻くなか、新安保条約が自然承認される。新条約は内乱鎮圧条約や、第三国への軍事的便益提供禁止などは削除され、条約存続期間は10年とされた。  
23日午前10時20分、新安保条約は東京・白金の外相公邸で批准書の交換が行なわれ、すべての手続きを終えた。そして岸内閣は「人心一新」「政局転換」を理由に、この政治的混乱の責任をとって総辞職を発表。  
この後、デモは驚くほど終息する。7月14日に池田勇人が党総裁に選出され、19日に池田政権が発足。そして7月の3つの県知事選では、社会党系候補は全敗、自民党系候補が当選した。自民党は11月の総選挙でも前回より9議席増やした。  
国会乱入事件以来、力づくのデモを続けていた全学連は、たびたび批判されることになったが、全学連の方は安保改定阻止国民会議の平和的な国会請願を「お焼香デモ」と呼んで軽蔑したり、互いの厚い信頼関係はなかったようだ。全学連自体ももともと一枚岩ではなく、共産党系と非共産党系がたびたび対立、また非共産党系のなかでも革共同とブントなど意見の違いが見られた。しかも6月19日の「樺智子全学連追悼集会」を、日本共産党が「犠牲者を出した責任はトロツキスト指導部にある」とボイコットしたことで、決定的となる。  
「安保闘争は、中途半端な『奇妙な勝利』でしかなかった。ブルジョアジーの死以外に、真の勝利はありえない。プロレタリアートの立場からすれば、それは勝利でなく、勝利の道の挫折以外のものではなかった」ブントは7月4日、この闘争の総括をめぐる内部対立から「戦旗派」「プロレタリア通信派」「革命の通達派」の3つに分裂。後の赤軍派が生まれる。  
60年安保闘争では連日万単位を動員し、デモを繰り広げた。こうした点が「革新運動の頂点」であり、「戦後の分岐点となった」と言われる所以だろう。10月には日本の左傾化を危惧した右翼少年が社会党・浅沼委員長を刺殺、翌年にはやはり左傾化を危機を覚えたメンバーによるクーデター計画・三無事件も起こっている。10年後には70年安保があるが、この頃は学生主体で、国民全体が関心を持つというほどではなかった。
岸上大作

 

辞任直後の7月14日、岸信介は右翼の男に太腿を刺されるという事件が起こり、全治2ヶ月の重傷を負った。(岸信介襲撃事件) 中小企業の育成、所得倍増計画への着手、保守合同、安保改定など戦後政治で大きな働きをした岸首相だったが、首相の地位を降りた後は再び政界の表舞台に現れることはなかった。79年に政界から引退し、御殿場の別邸で晩年を過ごした。87年8月7日死去。90歳だった。  
唐牛健太郎は全国を放浪、ヨットクラブや飲食店の経営、漁師など職を転々とした。点滴を受けながら、深酒をするという無理がたたって、84年3月4日に東京の国立がんセンターで直腸ガンのため死去。46歳という若さだった。  
「樺美智子の死」は60年安保闘争、言いかえるならこの時代のひとつのシンボルとなった。遺稿集「人知れず微笑まん」はベストセラーとなった。24日に日比谷公会堂と野外音楽堂で国民葬が行われた。北京でも大規模な「樺美智子追悼法要大会」が開かれ、中国は彼女を「民族の英雄」とした。  
60年安保闘争を象徴するもう1人の若者に、学生歌人・岸上大作がいる。  
岸上は兵庫県神崎郡福崎町生まれ。運送業を営んでいた父親が戦後に戦病死し、一家の暮らしは貧しいものだった。県立神崎高校入学直後から岸上は歌作を始めている。  
1958年4月、岸上は奨学金の援助を受けて、国学院大学文学部に進学した。すぐに短歌研究会に入った岸上は、アルバイトをしながら歌作に励む日々を過ごし、「短歌」(角川書店)などに作品を発表、その歌は仲間内でも評判となり、60年9月には「短歌研究」の新人賞候補にもなった。  
岸上が政治闘争の輪に加わり始めるのは60年5月1日のメーデーからで、共産党系の全学連反主流派のデモに加わった。あの「6・15」では警棒で頭を殴られ、1週間のけがを負う。そして同じ日の樺美智子の死についても  
「1人1人の血であがなった教訓を、いまのわれわれはもっと大切にすべきではなかろうか」  
と日記に記していた。  
それから半年後の12月4日、岸上は「ぼくのためのノート」という長い遺書を書き始めた。  
自分の犬死に社会主義の大義名分をかかげるのはよそう。これは気のよわい、陰険な男の、かたおもい、失恋のはての自殺にすぎないのだ。  
天折を美しいものとするセンチメンタリズムはよそう。死ぬことは何んとしてもぶざまだ。首をくくってのび切った身体、そして一部一部分、あるいは吐しゃ物。これが美しいと言えるか。問題は生きることがぼくにとってそれ以上ぶざまだということだ。  
現在、2時37分、顔はレインコートでかくす。電気を消して真暗闇の中で/書いている。デタラメダ!  
そしてその翌未明、ブロバリン150錠を飲み、首を吊った。わずか21歳の生涯だった。61年、作品集「意思表示」が出版された。それらは読み継がれ、死後10年には「岸上大作全集」も刊行された。  
 
安保闘争3 安保闘争とは何だったのか?
 
 政治家がマスコミとの共認闘争に敗れた

 

従米政治化によって妨害された、岸の安保改定2段階構想  
安保条約では、アメリカに一方的に有利な取り決めが全て、条約の下位にある行政協定によって決められていました。それは、行政協定は国会の承認を必要とせず、広く日本国民の目に触れさせること無く、無理強いするのに相応しかったからです。条約本文は抽象的な文言でゴマカシ、実質的内容は行政協定で縛りをかけられていました。  
対米自主を考えるとき、この行政協定を改定する事が必要不可欠でした。  
から岸信介は、  
行政協定を全面的に改定すべき時期にきている  
と国会で答弁したのでした。  
この協定改定の実現にむけて、岸は2段階論を考えていました。それはまず安保条約を改定し、その後行政協定を改定するというものです。  
それは行政協定こそが本丸で、これを一度に改定するのはハードルが高かったからです。またこのやり方だと駐留米軍の撤退についても、時間をかけて協議する事ができます。  
しかし、この方針に対して、自民党内部で意見が割れます。池田勇人、河野一郎、三木武夫などの実力者たちが、そろって同時大幅改定を主張しました。  
池田勇人は、岸のあとに首相になっていますが、かれはその後、行政協定を改定する動きを見せていません。この事からも、彼らが同時大幅改定を主張したのは、無理難題をふっかけて、岸政権を潰す事だったと考えられます。  
池田と共闘した三木武夫は、占領時代から米国と太いパイプを持ってた人物でもあります。  
当時、自民党は圧倒的多数を誇っていましたから、数的には新安保批准は問題なくできたはずです。ですから池田や河野、三木らの無理難題は、岸が推し進める対米自主に危機を抱いたアメリカの圧力であったと推測されます。
100万人を超える国民がデモに参加し岸政権は崩壊  
対米自主を目指した安保改定でしたが、学生運動家らを中心に安保反対運動が巻き起こります。  
この反対運動は多くのマスコミに支持され、1960年6月15日にピークを迎えました。  
6月15日には、総評は全国で580万人の動員を行い新安保阻止と、岸退陣を訴えました。  
同日、全学連が国会構内に乱入し、警官隊らと乱闘するなか、東大生の樺美智子さんが死亡。多数の負傷者と逮捕者が発生するという事件がおきます。  
この事がマスコミで大きく報じられて以降、それまで全くデモに参加したことが無かった無数の人達が運動に参加していきます。  
6月18日には、日本政治史上最大のデモが国会・首相官邸付近を取り囲みます。50万人以上の労働者、それと同数の市民団体が加わっていました。学生だけでも5万人を超えていたといいます。  
しかし、この大動員の前日17日に大手新聞からいっせいに、暴力的手段を批判する「7社共同宣言」が出されます。警察は守りを固め、労働組合も過激な行動を行う予定はありません。この段階では既に全学連の指導者らは逮捕され、大集団を指導できる人物はいませんでした。結局6月18日のデモは暴動に発展する事はありませんでした。この日を持って安保騒動は終結します。  
その後、新安保条約は参議院の議決が無いまま6月19日に自然成立。  
6月23日には岸は、混乱を収拾するため、責任を取って辞意を表明することになります。
安保反対運動がおき、急速に終焉したのは何故か?  
安保闘争を主導したのは、反米の全学連、その中でもブント(共産主義者同盟)と呼ばれる組織でした。1958年にに日本共産党からケンカ別れした組織で、当然金がありません。書記局にはたった1台の電話しかなく、その電話代は半年も未払いという状況でした。  
これが安保闘争最盛期になると、急に金回りがよくなります。  
デモ動員のためにバスを何十台もチャーターしたりするのですが、このお金はどこから出てきたのでしょうか?  
全学連幹部は、占領時代アメリカの情報関係者と積極的に接触を図っていた右翼活動家の田中清玄と接近します。田中は、米国と深い繋がりを持った経済同友会の財界人を紹介。彼らが岸政権打倒に向けて全学連に資金提供を行います。  
岸政権当時は神武景気の後半から岩戸景気に突入した好景気真っ只中にありました。ですから経済界が積極的に岸政権を打倒する理由は見当たりません。  
にも関わらず、経済同友会が岸政権打倒に向けて学生運動家らを支援したのは何故でしょうか?それはアメリカの意向が働いていたとしか考えられません。岸政権の対米自主を快く思わないアメリカが、安保運動を盛り上げる事で、岸政権を潰そうと考えたのです。  
マスコミの動き  
マスコミは当初の安保反対論調から、岸政権打倒に傾き、最後は7社共同宣言で暴力排除へと変わります。当時安保騒動に関与した人はみな、7社共同宣言ですっかり流れが変わったと話しています。  
この7社共同宣言を書いた中心人物は、朝日新聞の論説主幹、笠信太郎ですが、彼は戦前朝日新聞のヨーロッパ特派員としてドイツに渡り、後にCIA長官となるアレンダレスと協力して対米終戦工作を行うなどアメリカとの繋がりが強い人物でした。  
シャラーの「日米関係とは何だったのか」によると  
マッカーサー駐日大使は日本の新聞の主筆たちに対し、大統領の訪日に対する妨害は共産主義にとっての勝利であると見なすと警告した。CIAは友好的な、あるいはCIAの支配下にある報道機関に安保反対者を批判させ、アメリカとの結びつきの重要性を強調させた。3大新聞では政治報道陣の異動により、池田や安全保障条約に対する批判が姿を消した。7月4日の毎日新聞は「アメリカの援助が日本経済を支える」という見出しで、「日本の奇跡的な戦後の復興を可能にした巨大なアメリカの援助を忘れてはならない」とのべた。  
これらから、朝日の笠信太郎や各新聞の主幹らが、アメリカの意向を受けて途中から、安保反対を批判する立場に変わったと推測できます。以上の事から、安保反対運動の顛末について、孫崎享氏は以下のシナリオが考えられるとしています。  
1.首相の自主路線に危惧を持った米軍及びCIA関係者が、工作を行って岸政権を倒そうとした。  
2.ところが岸の党内基盤及び官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった。  
3.そこで、経済同友会などから資金提供をして、独裁国に対してよく用いられる反政府デモの手法を行うことになった。  
4.ところが、6月15日のデモで女子大生が死亡し、安保闘争が爆発的に盛り上がったため、岸首相退陣の見通しが立った事もあり、翌16日からはデモを押さえ込む方向で動いた。  
結局安保闘争の結果をそれぞれの立場で見てみると、以下のようになると思います。  
岸信介:どうでもいい安保条約は改定されたが、本丸の行政協定の改定には踏込めず、対米自主は実現できなかった。  
学生運動家:反対していた安保条約は結局改定されてしまった。  
岸も学生運動家も、双方とも目的は実現できなった。しかしアメリカだけが、本来の目的である日本の対米自主を阻む事に成功したという事になります。
安保闘争とはなんだったのか?  
最後にここで安保闘争を大衆運動という視点でみてみたいと思います。安保闘争を主導した、全学連ブントの中心人物の一人、西部邁はこう述べています  
「総じて言えば60年安保闘争は安保反対の闘争ではなかった。闘争参加者のほとんどが、国際政治及び国際軍事に無知であり、無関心ですらあった」  
おなじく森田実はこう述べています  
「岸が進める、日米安保改定を許せば、『平和国家・日本』の立場は損なわれるとの思いでした。岸信介氏に対する反感が高まるとともに60年安保闘争が盛り上がっていったのです。」「戦後左翼の秘密」  
仮に安保反対闘争の中心人物らが、それなりの意識を持って運動を主導したのだとしても、その運動論は人々の意識に訴えかけるしかなく、そこはマスコミに依存するしかありませんでした。  
結局大多数の人が、東大生樺美智子さんの死亡とそのマスコミ報道をきっかけに、安保闘争に参加し、その後のマスコミの7社共同宣言であっという間に、運動が終結したという事実を見ても、運動そのものが、マスコミの報道内容に徹底的に左右されています。  
そのマスコミがアメリカの影響下にあるのですから、そんな運動自体が成功するはずがありません。  
対米自主の大衆運動としてとらえた場合、その原点はこの60年安保闘争だと言えるでしょう。現代、改めて対米自主を実現しようとした場合、この60年安保闘争を通した総括から、重要な視点が発掘できます。  
マスコミ報道に左右されない脱米、対米自主意識の盛り上がりが実現基盤。  
60年安保闘争では、アメリカの影響下にあったマスコミ報道に踊らされ、アメリカの思うがままとなりました。日本のマスコミは、現在「従米官邸→電通→マスコミ」の流れにあり、今もアメリカの影響下にあるのに変わりありません。そうである以上、マスコミ報道に依拠した運動では、対米自主など実現出来ない事は明らかです。マスコミ報道に左右されない対米自主機運の盛り上がりが、その実現基盤となります。  
戦後民主主義教育の申し子=学生が安保闘争を直接的に主導。⇒近代観念に代わる新しい観念の必要。  
安保闘争を主導した実働部隊が学生だったというのは興味深い事実です。1960年といえば終戦から15年を経過していますが、この世代は戦後民主主義教育を受けてきた世代であり、学校教育の点からもアメリカの洗脳が完了した世代だと言えます。一方で岸は戦前の大戦に加担した勢力に属し、戦後はA級戦犯に問われた身です。戦後民主主義の立場からすれば、再び戦争国家に突き進む非常に危険な人物としてレッテルを貼ることは容易だったと思われます。森田実が、岸の安保改定の背後に、「平和国家・日本の解体、つまり議会制民主主義に対する危機を感じた」というように、岸が目論んだ対米自主(新安保条約→行政協定改定)を潰したいアメリカは、マスコミを通じて『戦後教え込んできた「民主主義」が危機に瀕している』という点に訴えかける事で、安保反対→岸潰しの機運をつくりだしたといえるでしょう。戦後GHQによる日本支配の結果、検察とマスコミはアメリカの手に落ちました。それに加えて60年安保闘争では、戦後民主主義教育を通じた観念支配の完了世代が、アメリカの手先となって動いた最初の運動だったと見る事ができます。以降、この学生らが社会人となり、日本の社会を動かす中心となっていきます。70年全共闘運動終焉を持って、学生運動は下火となりますが、戦後の民主主義を刷り込まれた世代が、社会の中心を担うようになり、今度は徹底して従米路線へ突き進む事になります。このようなアメリカから植えつけられた民主主義に代表する近代観念にとらわれている限り、アメリカの手の内に落ちる事は明確です。したがってその近代観念に変わる新しい観念を生み出す必要があるでしょう。  
政治家VSマスコミの共認闘争⇒マスコミを超える共認勢力の結集。  
60年安保闘争は、表面的には政治VS学生(大衆)運動という図式ですが、実際は政治VSマスコミの共認闘争であったと言えるでしょう。岸はアメリカCIAスパイ網の支援によって、自民党を立ち上げ、一度は私権闘争で勝利しました。しかし、岸の対米自主を警戒したアメリカが、手の内にあったマスコミを通して学生(大衆)を先導した運動に敗れたのでした。マスコミが政治家を凌駕し、共認闘争に敗れたのです。これ以降はマスコミが従来以上に絶対的な力を持つようになります。ですから、この絶対的な力を持つマスコミに依拠した運動に可能性が無い事は明らかで、このマスコミを超える、新たな共認勢力の結集が必要とされるのです。 
 
60年安保闘争4 大衆と外交

 

1 序論 
1−1 問題意識  
1960(昭和35)年、岸信介内閣が日米安保条約(1951年調印)を改定しようとしたとき、日本では大規模な反対運動が巻き起こった。当時、日米安保条約の内容について詳しく知っていた人は、決して多くない。反対運動の最中にも、大衆にとって「安保は入りにくい(難しい)」ということがよく言われ、大衆にとって安保条約が馴染みにくいものであったのは、世論調査でも明らかである。このような背景を持ちながらも、なぜ安保闘争は多くの大衆を巻き込んだ大きな反対運動となりえたのだろうか。本研究では、安保闘争が生まれた背景、安保闘争の特徴などを追いながら、安保闘争が大規模な運動になった理由、また大きな反対運動になりながらも新日米安保条約が発効した後は闘争が急激に盛り下がった理由などについて、資料調査に基づいて考察する。  
1−2 研究対象と研究方法  
安保闘争が盛んであった1960(昭和35)年前後に発行された新聞・雑誌、その他の資料を調査。  
1−3 先行研究  
1−3−1 安保闘争の通史  
井出武三郎『安保闘争』、保阪正康『60年安保闘争』など  
1−3−2 安保闘争を思想的観点から見たもの  
1 小熊英二「六〇年安保闘争」『<民主>と<愛国>』第12章  
当時の「言葉づかい」や「心情」を中心に、安保闘争において見られた知識人や民衆の意識が描かれている。著者は、60年安保闘争では久しく言語化されていなかった戦争への記憶や感情が噴出した時期であり、戦争の記憶や悔恨の想起は、岸内閣への不信、全学連主流派への同情、竹内好らによる教職辞任への行動などに繋がったとする。  
また安保闘争においては、既存の組織に不満を持っていた人々が自分達で組織を作り始め、のちの「新しい市民運動」の萌芽が生れた。さらに運動の速度は電話、テレビなどのテクノロジーの発達によっても促進されたとしている。  
安保闘争においては、愛国心とデモクラシーを求める感情が結びつき、民主主義を希求する国民による下からの「革命」が起こっていた。そして安保そのものへの反対よりも、岸に対する反感と、全学連に代表される「素朴」な正義感に裏打ちされていたため、岸が退陣し、安保の自然承認によって敗北が明らかになった以上、運動が退潮するのは避けられなかったとしている。  
さらにこの時期には、言語の転換が起こり、「市民」という言葉が肯定的な意味を持って定着した。  
2 高畠通敏「「60年安保」の精神史」『戦後日本の精神史』  
60年安保闘争を戦後から展開された「革新国民運動」の一形態とし、その構造を明らかにするとともに、当時の知識人の言論について言及している。「革新国民運動」とは、既成の法や制度を守る、本来保守的な運動のことを指し、戦後の新憲法体制の最大の受益者層であった青年と女性、都市の住民によって支えられた。この「革新国民運動」の基盤は、企業や大学などの組織の構成員が全員加入的に組み入れられた組合や自治会などで、このような組織は大政翼賛会などの伝統を汲む共同体意識、<第二のムラ>的意識のあらわれであると規定した。  
また著者は、安保闘争において民衆運動のリーダーとなったのは知識人であり、安保闘争は全面講和運動や原水爆禁止運動を経て、次第に高まってきた知識人の社会的影響力の頂点として生まれてきたものとした。そしてこの時期における知識人たちの言論の特徴として、安保闘争が目指す目標として、社会主義的革命社会ではなく、本来あるべき市民社会の理想が掲げられていた。そして個々人の発想の根拠は異なるが、丸山真男、鶴見俊輔、竹内好らの知識人の言論に共通していたのは、それまでの日本においては民衆が既存の権威主義的秩序を解体し、連帯と協力の下に自らの手で権力秩序を再構成する<下からの>革命としての市民革命が未成立であり、安保闘争にその機会を読み込もうとしたという姿勢である。 
2 本論

 

2−1 安保改定の概要  
60年安保闘争が起こるきっかけとなった岸信介内閣による安保改定はどのような内容で、どのような動機から生まれたのかを検証する。  
2−1−1 保守政権による安保改定の動機  
1、日米安保条約への不満  
1 極東条項(第一条):「極東」における米軍の軍事行動に日本が巻き込まれる可能性  
米軍による日本防衛義務が記されていない  
2 内乱条項(第一条):「独立国としてふさわしくない」との議論  
3 米軍の配備に関して日本が関与する余地なし:核兵器を持ち込まれる可能性  
日米安保条約第一条「この軍隊(米軍のこと)は、1極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、2一又は二以上の外部の国による教唆または干渉によって引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することが3できる。」(下線部は筆者)  
2、在日米軍基地問題の盛り上がり  
1950年代には本土において、内灘事件、砂川事件、ジラード事件などによって激しい反米基地闘争が起こり、安保条約に対する不満が高まっていた。  
3、保守政治家らのナショナリズム  
保守政治家が安保改定を志向した背景には、「不平等条約」と呼ばれた日米安保条約を改定し、双務的で対等な同盟関係を得ようと考えており、安保改定交渉は鳩山一郎内閣のときから水面下で行われていた。  
「日本は米国の経済的その他いろいろの援助を受けて立ち直ってはきたが、内心には一種の劣等感があり、一方米国は優越感を持っている。これらは占領時代の残りかすであり、それを払いのけることによって真の平等の立場が生まれてくる」(岸信介『岸信介回顧録』330頁)  
2−1−2 改定後の新安保条約  
1 極東条項:「極東」における米軍の軍事行動に日本が巻き込まれる可能性  
 →事前「協議」の記述(新安保6条)  
 米軍による日本防衛義務が記されていない  
 →日米による対日防衛の宣言(新安保5条)  
2 内乱条項 →削除  
3 米軍の配備に関して日本が関与する余地なし:核兵器を持ち込まれる可能性  
 →事前「協議」の記述(新安保6条)  
だが事前「協議」の実効性は疑問視され、また日本の防衛力を発展させることが条文に明記されていることなど、様々な点が問題になった。  
2−2 60年安保闘争について  
2−2−1 60年安保闘争の概要(資料1・年表参照)  
岸内閣によって安保改定は着実に進んでいた。この動きに対して、日本国内では安保改定への反対運動が組織されつつあった。この反対運動が後に60年安保闘争と呼ばれるものである。日米安保条約をより双務的な条約に改定しようとした岸内閣に対し、社会党・共産党・全学連などが中心となって反対運動を繰り広げた。  
この反対運動は、岸内閣が国会で新安保条約を強行採決すると、一層の盛り上がりを見せ、1960年の6.4ストでは560万人が参加した。反対運動においては全学連主流派などの過激派と警官隊との衝突が度々起こり、1960年6月15日には警官隊との衝突で東大生樺美智子が死亡する。樺が死亡して数日後の6.18ストに参加した学生は、全国学生数の12%(8万1000人)を記録した。また安保闘争中に集められた請願署名も2000万を超えたとされている。だが新安保条約が国会承認されると反対運動は急速に盛り下がった。  
2−2−2 60年安保闘争の参加主体  
1、「安保条約改定阻止国民会議」(以下「国民会議」)  
1959(昭和34)年に結成された組織。総評を中心に、原水協、護憲連合、社会党、全国基地連など13団体を幹事団体とし(共産党はオブザーバー)、実行団体として134団体が加盟して結成された団体。地方における共闘組織は約1700組織(1960年7月時点)。結成されて以来、1960年7月下旬まで、22次にわたる統一行動を組織した。  
1 社会党と共産党との対立  
社会党と共産党との間には、闘争目標などにおいて常に対立があった。社会党は闘争目標を「日本の独占資本とこれを代表する岸政府」におき、「アメリカ帝国主義」に対する闘争は必ずしも積極的ではなかったが、共産党は闘争目標を何よりも「アメリカ帝国主義」においたため、ことあるごとに両党は対立した。  
2 全学連(全日本学生自治会総連合)の動向  
全学連には、主に反日共系の全学連主流派と、日共系の全学連反主流派の二派がある。全学連主流派は闘争の中で過激な運動を展開していたので、マスコミからは「赤いカミナリ族」「革命の尖兵」「坊ちゃん革命家」などと呼ばれており、整然なデモを目指す国民会議の指導者層と対立した。  
一方、全学連反主流派(日共系)は激烈な街頭闘争はいっさい行わず、整然なデモを繰り返したが、1960年6月10日のハガチー事件では、日共系労組員とともに最初にして最後の実力行使に出た。  
2、「安保問題研究会」  
1959年7月結成。1959年3月23日、「安保改定は憲法の精神に反し、国際緊張を激化させる恐れがある」という声明を発表し、署名活動を開始した国民文化会議と日本文化人化意義を中心とする学者、文化人など86名が結成した。中心人物に青野季吉、上原専禄、清水幾多郎など。  
3、「安保批判の会」  
1959年10月結成。作家、評論家、新劇人などによって結成され、「請願デモ」を考案した。中心人物は中嶋健蔵、吉野源三郎、清水幾多郎など。  
4、その他の団体  
新日本文学会、日本ジャーナリスト会議、民主主義を守る学者・研究者の会、民主主義を守る音楽家会議、民主主義を守り、安保を阻止する全国美術家会議、声なき声の会など  
5、右翼団体  
右翼団体は、国民会議結成に呼応して共闘組織を結成しはじめる。「安保改定促進協議会」、「安保改定国民連合」、「日本国民会議」、「全日本愛国者団体会議」などが結成された。このような右翼団体は、反安保勢力に対する宣伝活動やデモへの妨害活動を行った。右翼団体の姿勢に共通して見られるのは、中ソ両国の共産主義勢力から日本の国土を防衛するためには米国との安保条約は必要であること、従来の安保条約は不平等かつ片務的なものであり、日本の自主独立を妨げるため、双務的なものに改定する必要があるという姿勢であった。  
2−2−3 安保闘争の経過  
1 闘争初期(1959/3-10)  
国民会議の行動は、地方共闘組織の結成と大衆啓蒙などの準備活動を行っていた。当時安保改定交渉が行われていたものの、交渉内容が公表されていなかったため、運動自体もそれほど盛り上がらなかった。  
2 調印阻止期(1959/11-1960/1)  
安保闘争が盛り上がったのは11.27の第8次統一行動からであった。全国で200万人がデモや集会に参加し、全学連主流派を中心とした国会突入事件が起こる。また1月16日には調印のため訪米しようとした岸を、羽田空港で妨害しようとした全学連主流派と、それを阻止しようとした警官隊との間で衝突が起こる。  
3 批准阻止期(1960/2-5)  
国民会議は闘争を強化。このころから総評は反米基調を強める。また国会内でも新安保条約批准を巡って自民党と社会党との間で論戦が繰り広げられる。  
4 強行採決以後期(1960/5.19-7)  
5月19日の国会強行採決を経て、反対運動は大きな盛り上がりを見せる。6.4ゼネストという大規模な反対ストが行われ、約560万人が参加した。6月15日には樺美智子の死で闘争がさらに激化したが、6月19日の新安保条約の自然承認後、反対運動は下火に。  
(また1960年11月の衆議院議員総選挙の結果は、自民党は287→296議席、社会党166→145議席(1960年1月に社会党から分離した民社党は16議席獲得)、共産党1→3議席であった)。  
2−2−4 60年安保闘争に見られた特徴  
1、闘争そのものに関して  
1 反基地闘争、警職法闘争との連続性  
安保闘争においては、組織自体や組織を支えるエネルギー、心情などにおいて反基地闘争、警職法闘争などと連続性が見られた。第1、3、6次統一行動では反基地闘争との連携がされていたし、また国民会議の前身は警職法改正阻止国民会議であった。坂本義和「戦後の基地反対運動その他を通して現れてきた日本のナショナリズムが安保改定の初めの出発点だった。」「現代の政治状況」『世界』7月号 「警職法反対国民会議に集まった国民のエネルギーは、そのまま安保改定反対のエネルギーに転化することになった」保阪正康『60年安保闘争』、35頁。  
2 安保闘争と春闘などとの結合  
反基地闘争、勤評反対闘争、春闘、秋季年末闘争などとの結合。  
プラカードには「安保反対」にまじって「大巾賃上」「週休二日制」の文字も。  
3 強行採決を境とした闘争の質的転換  
安保闘争は強行採決をきっかけとして、「安保改定阻止」から「民主主義・擁護」に質的転換した。総評は6.22ストに当たって「岸退陣、国会解散」という基本要求に加え、「より民主的な政府の樹立」を掲げている。  
江藤淳「5月19日において、問題は転換したということ、安保の賛否を超えた問題になった」  
4 中央と地方との乖離  
また安保闘争は東京、大阪などの都市圏では大きな盛り上がりを見せたが、農村では都市圏ほどの運動は行われず、運動には温度差が見られた。隅谷三喜男「私が心配するのは、都市のインテリや学生の多くが安保改定反対・民主主義擁護を当然の論理として考えているのに、農村や地方都市の市民の場合には必ずしもそれが当然の論理になっていないことです。政治に対する受け止め方が質的に違っているわけです。」  
5 闘争に参加した人々の多くは動員をかけられただけ?  
5.19以降は高校生や主婦、老人などの労働組合などの組織に属していない一般民衆が数多く参加したと言われているが、実際デモやストに参加していた大半は労働組合や学生団体に動員された組合員や学生なのではないだろうか。そもそも総評と警察がそれぞれ発表している統一行動の参加人数には開きがあり、デモの参加人数などに関する詳しい資料を引き続き探してみたい。  
2、闘争を支えた大衆の心理  
1 岸首相への不信  
岸信介内閣の閣僚には10人が元戦犯、公職追放された過去を持つ。岸自身、東条英機内閣の商工大臣として宣戦詔勅に署名した1人であった。敗戦後、岸はA級戦犯容疑で逮捕され、巣鴨プリズンへ収監される。その後占領政策の転換で不起訴になり、1953(昭和28)年政界復帰した。  
岸は首相就任後、内閣に憲法調査会設置、教員への勤務評定制度の導入決定、警察官職務執行法(警職法)の改正(警察官の職務執行権限を拡大しようとしたもの)などを進めようとしたため、国民の不興を買っていた。そして5.19の強行採決を経て、強権政治ともとれる岸の政策に対し、民衆の間で大きな反発が起こった。また岸が強引に国会を通過させようとした新安保条約そのものに対する大衆の疑念も一層増した。  
田口富久男「5.19以後は種種雑多な形で出されていた国民の願望は、6月18日までは、「岸退陣」というかなり人格化されたシンボルに収斂することができた。「岸」というシンボルは、国民各層の怒りや不安の一切を盛り込む、最大の否定のシンボルだったわけでしょう。しかしいまや岸が退陣することによってそのスローガンに託された感情が分解し、運動が全体としてその方向を見失う心配がある」  
大河内一男「多勢をたのむ政府の強引な態度と調印内容の不明朗な事態に対しては、安保条約などというものについての大抵な知識をもっていない多くの国民、ましてそれの改定の意味するものについての判断に迷う善意の人々すら、一様に言いようのない反撥を感じていることは疑えない。政府が改定をあんなにまでして急ぐ底には、きっと何かあるに違いない、と誰もが思っている。」  
2 戦争への危機感  
新安保条約が対米依存を深め、防衛力の増強をうたっていることから、戦争に対する危機感が生まれた。そういった危機感は第二次世界大戦の記憶を否応なく民衆に思い出させた。また同じ頃に起こった米軍のスパイ機(U2型機)がソ連で撃墜されたこと、東西首脳会談の決裂などによって、戦争がおこる危険性を感じた人々は決して少なくないと考えられる。特にU2型機の撃墜事件が公表された2日後の1960年5月9日には、ソ連は「スパイ飛行が再発すればU2型機の基地提供国に報復する」と警告を発している。  
『思想の科学』上のアンケートより「このU2型機事件によって、その緊張を作り出しているのがアメリカであり、アメリカの基地をもつ日本であると考えた時、私の根底にあった、戦争の火付国民にはなりたくない!なってはならぬとの決心が湧きました。長い間に朝鮮民族、中国民族、その他アジアの民族に対して行った恥ずべき残虐行為を思い出す時、それを自分の過去として持つ私のような戦争参加者の苦痛を再び子供達に味わせてはならぬ、今の青年にわだつみの声をあげさせてはならぬ、と決心しました。」  
3 ナショナリズムの現れ  
安保闘争の中で、知識人たちの間にはナショナリズムに関する論調が見られる。こういったナショナリズムは「憂国」という形を取ることもあれば、大衆の連帯によって民主主義を擁護していることに対する、一種の「感動」の形を取ることもあった。  
「どうか皆さんも、それぞれの持ち場持ち場で、この戦いの中で自分を鍛える、自分を鍛えることによって国民を、自由な人間の集まりである日本の民族の集合体に鍛えていただきたい。愛国という言葉が、一度は警戒されましたけれども、私は今やはり愛国ということが大事だと思います。日本の民族の光栄ある過去にかつてなかったこういう非常事態に際して、日本人の全力を発揮することによって、民族の光栄ある歴史を書きかえる。将来に向かって子孫に恥かしくない行動、日本人として恥かしくない行動をとるというこの戦いの中で、皆さんと相ともに手を携えてきたいと思います」  
編集部「私はいままでは国籍離脱の欲求が非常に強くてナショナリズムとか愛国心とかいう言葉を聞くとぞっとするという感じがあったんです。ところが5.19以降はじめて「よくぞ日本に生れける」という感じ、日本がはじめて世界の中につながるという感じを持ったんですがね」  
だが新聞や雑誌への投稿にはナショナリズムが現れる記述は見当たらなかった。一般民衆はナショナリズムを言語化しなかったのだろうか。  
4 安保闘争は「市民革命」だったのか  
竹内好など一部の知識人は、安保闘争では民主主義を求める民衆の「革命」が起こったと規定した。  
竹内好「一種の革命はすでに始まっていると思う。しかし、これはいわば政治革命でなく、民衆による民主主義の自発的債権としての精神革命だ」  
大内兵衛「われわれが人心の高揚と見たものは、その一般的な性格は日本のデモクラシーそのもの力の至現であるといってよいのである。・・・(略)・・・日本の支配の精神と方法とは戦後においても固定的または退歩的であるが、日本の大衆の政治に対する要求とそれを表現する方法とは、ずいぶん長足に進歩した」  
また竹内らと違って、安保闘争における民衆の動きを単なる「開放感の発散」として考えている知識人もいた。  
上山春平「5.19をさかいとして運動の性格に質的転換があったことも否定できない。安保反対闘争の流れに大正デモクラシー的な護憲運動の大洪水が合流して、運動の様相は一変した。これを革命的高揚と見る人もあった。しかし「ええじゃないか」の近代版ともいうべき開放感の発散が大勢をなし、少数派をのぞいて革命的決意は稀薄だったのではあるまいか。」  
もし二人の意見どちらもが正しいとすれば、二人の意見の違いは「革命」という言葉に対する感覚の違いから起因しているのか、それとも民衆は「革命的決意」を意識せずに「革命」を成し遂げていることから起因しているのだろうか。 
結論

 

そもそも60年安保闘争は、反基地闘争や警職法闘争の延長線上で組織された。闘争の内では、しばしば「安保条約は分かりくい」という言葉が発せられており、5.19以前では運動自体、警職法などと違ってそれほど盛り上がりを見せなかった。そのため運動の指導者たちも安保条約について啓蒙活動を繰り広げながら、春闘などと組み合わせて反対運動を展開していった。  
国民会議を中心に闘争が広げられる間、全学連主流派は国会突入を始めとした過激な行動に出る。このような全学連主流派に対するマスコミの反応は冷たく、また国民会議の指導者たちも世論の非難を恐れて、全学連主流派に対し再三注意を繰り返した。  
しかし闘争の様相が一変したのは5月19日の強行採決の日であった。日米修好100年のためアイゼンハワー大統領が訪日する6月19日までに、安保条約を批准させようとした岸内閣は国会で安保条約を自民党議員だけで採決し、可決させてしまった。この事実は、戦争を経験した人々に戦時中の苦しい記憶や経験を思い出させ、民主主義の危機を痛感させた。戦時中の苦しい記憶が思い出されるとともに、国際情勢の不安定化で戦争に対する忌避感は一層高まった。また元戦犯であり、それまでも国民の不信を買うことの多かった岸首相は、強行採決という事件でファシズム再来の象徴とされた。この岸首相が強く勧める安保改定を、簡単に是認できないという心理も大衆に広がり、闘争はさらに広がったと考えられる。  
また強行採決以降は、安保改定の是非よりも、民主主義の問題が全面に出てきた。「民主主義を守る」というスローガンは広く大衆の心を捉え、「民主主義」を掲げることは運動をより増大化させたい反安保勢力の指導者の希望とも合致していたのではないだろうか。この「民主主義の擁護」や「議会主義の擁護」が掲げられた闘争には多くの人が参加し、この闘争を「市民」による「革命」と見る知識人もいた。しかしながら安保闘争は、安保条約が自然承認され、岸首相が退陣すると、急激にその求心力を失っていった。  
以上安保闘争に関する大衆の一連の動きを見ると、これほどの大規模な反対運動が起きたのは、安保改定という外交案件のみに関心があったからではなく、新安保条約を通そうとした岸内閣が、戦争それ自身と、戦争をひきおこした戦前の政治体制への感覚的な恐怖を思い出させたからではないだろうか。 
 
岸信介内閣の安保騒動5

 

第五十八代 第二次岸信介内閣   
(任:昭和三十三年/1958.6.12-昭和三十五年/1960.7.19)  
岸内閣下において初めての総選挙は、同時に「自社二大政党制」における初の総選挙でもあった。この総選挙において、結果は自民党287議席で絶対多数を獲得し、社会党は166議席。この社会党における議席数は同党史上最高のものであったが、この頃から社会党には政権獲得に対する閉塞感が生まれはじめる。  
さて、岸は社会党の躍進を防ぎえたという自信を持って第二次内閣の組閣に入る。第一次岸内閣・改造内閣では、河野一郎派から多くの閣員を迎えて「岸河内閣」と揶揄されたが、岸はここで河野だけでなく、池田勇人や弟の佐藤栄作などを迎えての挙党態勢を形作ろうとした。池田もこれに応じて、無任所国務相。佐藤は蔵相に就任した。佐藤入閣によって岸内閣は「兄弟内閣」と称されるようになり、河野派の影響力も相対的に下落することとなった。岸の後釜を狙うのは、こうして入閣した池田と、閣外にある河野である。池田は入閣はしたものの反主流派であって岸倒閣を虎視眈々と狙っており、逆に河野は、岸内閣を擁護することによって岸からの禅譲を企図していたのである。
1 安保改定にかける岸の熱意   
岸内閣は、日米安保改訂に邁進した。  
その陣頭に立ったのは、文字通り岸信介首相自身である。岸と交遊二十年の藤山愛一郎外相(元日商会頭)、マッカーサー駐日大使などとの会談の際、岸は、安保条約の本文は変えず、個々の問題に対する具体的取り決めを補足的に行っていこうとする事務当局案を退けて、明確に言い切った。  
条約を根本的に改訂すると言うことになれば国会において烈しい論議が予想されるが、烈しい論議を経てこそ日米関係を真に安定した基礎の上に置くことができるのであって、出来れば現行条約を根本的に改訂することが望ましい。  
さて、その一方で岸はマッカーサー駐日大使との直接会談を、ひそかに、しかも数十回にわたって行っていた。これは藤山外相をさしおいて、まったく岸が直接陣頭交渉を行っていたことを示す。この会談は微に入り細に渡り、条文のチェックまでしていたという。当時の岸の秘書官・中村長芳は、この岸の奮迅の働きを、こう評する。  
「石橋(湛山)さんとの決戦では何もしなかった人が、安保改定ではほとんどすべてのことを一人でやろうとしたのです」  
このように活動していた岸にとって、この条約が調印・批准となった場合に、あるいは日本国内に大きな衝撃をもたらすのではないかという懸念が生じたとしても、不自然なことではなかったであろう。岸の脳裏には安保改定で揺れ、治安をうしなう日本の姿がまざまざと描かれていたに違いない。そこで、岸は治安を強力に維持すべく、安保の前に警職法の改正を手がけるのである。
2 警職法改正 / 安保騒動の前奏曲 
自民党総務会はこれを受けて、党内取りまとめもそこそこに警職法改正案を国会に提出した。川島正次郎幹事長は、社会党の抵抗を退けて、自民党単独ででも法案を成立させる意気込みを示し、党内を一時的に一元化したが、自民党の強硬姿勢に煽られて社会党も硬化した。社会党には、「戦前警察にいじめられた連中」(「岸信介の回想」)である、浅沼稲次郎、鈴木茂三郎、西尾末広などがいたため、極めて硬い態度を取るに至った。それだけではない、社会党は十月、総評、新産別、護憲連合などを中心として「警職法改悪反対国民会議」を結成した。社会党は院外における大衆闘争を展開する覚悟を示したのである。川島幹事長はこの事態をやや軽く見ていたかもしれない。さらに党内を固め、中央突破をはかれば社会党の反対は粉砕できると考えた。十一月四日、自民党が衆院本会議で強行した「三十日間会期延長」(予鈴なしの本鈴によって自民党議員のみ参集し、そこで抜き打ちの会期延長が決定された)は、院内外の野党勢力の運動に油を注ぐこととなった。院外運動は、全国一斉スト、国会包囲などアクティブな行動をとり、院内では社会党は会期延長は認めないとして引き上げてしまった。むろん、自民党からの呼びかけに答えるわけもない。  
この事態を見て、岸内閣を支える党内事情が一変する。執行部は危地に立った。まず党内紛の先陣を切ったのは三木武夫経企長官と、その盟友松村謙三である。彼らは国会運営の正常化と、警職法改正案の廃案・社会党との話合いを求めて岸と衝突した。大野伴睦副総裁、河野一郎などは三木・松村に対し、単独でも採決する構えを見せた。しかし、岸はついに折れる。十一月二十二日、社会党・鈴木茂三郎委員長との党首会談で、警職法改正案を審議未了とするなどの決定を下した。社会党とその率いる院外運動の勝利であった。  
社会党の凱歌で警職法問題は片づいたが、自民党の党内紛は収まったわけではない。十二月、岸の責任を追及するとして、池田勇人国務相、三木経企長官、灘尾弘吉文相の三閣僚が連袂辞職して党人事刷新と、総裁公選の繰り上げ反対を申し入れた。これに腰の弱くなった岸を見てとった大野、河野の主流派は、岸に愛想を尽かしはじめる。ここで大野に逃げられては、岸内閣はおしまいである。そこで、岸と佐藤は、大野に次期政権譲渡の証文を書くことによって、彼と河野を政権に繋ぎ止めておこうとする。そして、帝国ホテル「光琳の間」において、その証文は書かれた。岸、佐藤、大野、河野、そして立会人は、「北炭のボス」萩原吉太郎、右翼の巨頭児玉誉士夫、大映社長永田雅一の三名である。  
大野曰く、  
「岸、佐藤兄弟はこの席で再び『岸内閣を救ってくれ、そうしたら安保改定直後に退陣して必ず大野さんに政権を渡す』とくり返し、佐藤君までが、手をついて頼むのである」。  
こうして、岸自ら筆を執った証文には、岸の後継者に大野、次は河野、さらに佐藤という政権の順序まで約束したものが出来上がったのである。 (なお、岸回顧録には、「岸政権の後継総裁には大野副総裁を推す」ということまでしか述べられていない。けだし、岸の方が正確であろう。幾らなんでも、大野の次は河野、さらに佐藤・・・というのは荒唐無稽である)  
証文の効果は覿面であった。大野、河野は党内取りまとめに動き、岸は総裁に再選された。ところが、岸がこの直後に手がけた内閣改造の結果は、その河野を裏切るものとなる。
3 安保騒動  
岸は、翌年六月に行われた参院選の勝利を追い風に、藤山外相と佐藤蔵相を留任させるかたちでの内閣改造に着手する。岸の意図としては、「兄弟内閣」と揶揄されたイメージを払拭するために、河野、もしくは池田の入閣を求めるものであった。河野と池田の反目はすさまじいものがあり、二人を同時に入閣させれば、党内紛の種にならざるを得ない。岸としては、河野を入閣させ、池田を党三役のどれかに付けたかった。ところが、河野はこれを受けず、却って幹事長のポストを要求。岸はこれを蹴って、池田に入閣交渉をしたところ、池田は昨年末三木などと連袂辞職していまさら復帰するのは道理が合わないけれども(実際、宮澤喜一など側近は全員反対した)、通産相として入閣した。これが次の池田内閣へと繋がっていくのである。 (一説によると、いやがる池田を、姻戚に当たる田中角栄が膝詰めで説き、むりやり満枝夫人にモーニングの用意をさせたという)  
こうして河野は、行き場を失ったのであった。岸は、河野から池田への乗り換えに成功した。  
さて、安保に関する日米交渉は、警職法問題によって中断されていたが、昭和三十五(1960)年一月、ついに岸を中心とする全権団が新安保条約に調印するためにワシントンに飛び立った。この後、もたれた岸・アイゼンハワー会談では、米ソ冷戦の確認と、アイゼンハワー訪日の日程が具体的に組まれることとなった。この「アイゼンハワー訪日(以後「アイク訪日」)という政治スケジュールが、ついに岸内閣の命取りになるのである。帰国後、その承認を求めて新条約を国会に提出した。ところが、社会党は、新委員長浅沼のもと、「安保廃棄」を旗印として押し立てた。原彬久は『戦後史の中の日本社会党』のなかで、以下のように述べている。  
社会党が安保「解消」の立場に立ち、いまや「完全左派」の浅沼委員長が安保「廃棄」と「安保改定阻止」を掲げて党を率いていったということである。安保条約の存続を前提にしてその「改良」を図る岸政権と、安保条約そのものの存在を認めない社会党との間で繰り広げられる国会審議が、結局のところ「オール・オア・ナッスィング」の闘いとなることは当然である。したがって国会審議の内容は、相互にいかなる妥協、歩み寄りも想定されてはいない。 原彬久『戦後史における日本社会党』  
まさしく、仁義なき闘いであった。社会党は、審議を時間切れにし、廃案に追い込むための院内闘争を展開してゆく。これに対し、政府の答弁はまずく、見事に術中に填っていくの観がある。特に、極東の範囲をめぐる問題で政府は失点をかさね、また、事前協議(有事の際、日本とアメリカが事前に協議をする、というもの。その協議がどれだけの拘束力を持つのか、また、協議に実効性はあるのか、という問題で議論の対象となった)の問題は、自民党の古井喜実も質問を行うほど、政府は窮地に立たされつつあった。  
同時に、院外闘争はふたたび活発化した。  
すでに、先年中から微弱ながら安保反対の運動は生まれていた。現に、調印に発つ岸首相を阻止するために全学連の学生七百人が羽田空港に座り込んだ。しかし、まだまだ事態は岸にとって楽観できた。問題は、安保条約審議の過程において、政府が碌に答弁もこなせぬままとなったことである。四月に至ると、「大請願運動」と称したデモンストレーションが絶え間なく国会に向かい、さらに全学連約五千人が国会正面前で警官隊と衝突した。にもかかわらず、岸は五月十九日、安保を強行採決した。当時の防衛庁長官で側近の赤城宗徳は、この採決を「アイク訪日と絡んでいたからだろう」と分析しているが、ともあれ、翌日のデモンストレーションは十万人、二十七日十七万人が集まったと言われる。きわめて無秩序なデモであったが、そのシュプレヒコールは、議会政治擁護、強行採決反対へと変わった。そのデモの翌日、岸は記者団に向かって、  
「あくまで新安保の成立を期する。声なき声の支持あり」と主張した。  
さて、5・19強行採決の一切を、社会党・共産党は認めず、院外闘争はよりいっそう過激化し、全学連学生による国会突入の事態がなんども繰り返された。また、大統領特使ハガティが乗った羽田からの車が一万五千のデモ隊に取り囲まれて揺さぶられるという事件も起った。アイク訪日のスケジュールは、いよいよ困難なものとなって行く。  
そこで起った悲劇が、六月十五日、東大生樺美智子の圧死事件である。  
中村秘書官は、この報が岸の耳に入ったとき、非常な沈痛な面もちであったと語り、岸は、この時点でアイク訪日の政治的スケジュールが果たせないことを確信する。しかし、日本から要請した訪日を日本から断るとなれば、統治能力を疑われかねない。訪日を強行するべきだという議論の中で岸は、赤城防衛長官に、  
「デモ隊の鎮圧に自衛隊を使うことは出来ないか」  
と問う。赤城はかぶりを振った。というのは、第一に自衛隊に武器を持たせれば同胞同士の殺し合いになりかねない。そしてまた、自衛隊は鎮圧などの訓練を積んでいず、むしろ鎮圧行動なら警官の方がずっと役に立つ。もし訓練不十分の自衛隊を出してその無力ぶりが国民周知のものになれば、自衛隊解体論にも繋がりかねないためである。岸は納得した。そして、十五日未明、ついにアイク訪日を断念する。赤城に自衛隊出動を断られたためだけではない。アイクが来るとなれば、昭和天皇が羽田まで迎えなければ礼を失する。しかし、この動乱の中、天皇の身にまで危険が及んだらどうするか。この懸念が、小泉信三から伝えられたためであるという。そして、アイク訪日が成らなかった以上、岸は責任を取らねばならないと考えた。  
そして、六月十八日。翌日零時には、条約は自然承認となる日である。  
岸は、渋谷南平台の自宅を出て、官邸に向かった。すでに自宅は包囲されていたが、「死ぬなら官邸で」と、岸も、佐藤も考えていたという。ところが、まもなく小倉謙警視総監が現れて、「首相官邸を立ち退いてくれ」という。連日のデモ隊規制で、警官も機動隊も疲れ切っており、官邸の警備に自信が持てないからだという。だが岸は、  
「ここが危ないというならどこが安全なのか」と反問し、結局、官邸に残ったのは佐藤蔵相と、井野碩哉法相、赤城防衛長官の三閣僚と、岸派議員六名だけだった。そして、十八日午前零時。新安保条約は自然承認となった。岸は、「私のやったことは歴史が判断してくれるよ」と言い、六月二十三日、批准書交換の日に退陣を発表した。
安保闘争デモで、自衛隊に待機命令  
「女子学生の死」に衝撃を受けたのは、一般市民ばかりではありませんでした。  
機動隊の警備も破るデモ隊の勢いと、女子学生の死への同情から一段と盛り上がる安保反対闘争に、政府は浮き足立ちます。  
総理の岸は、自衛隊の治安出動を検討します。治安出動とは、外敵と戦うための出動ではなく、国内の治安を維持するための出動のことです。  
自衛隊内部では、前年から治安出動の訓練が行われていました。もし出動する場合、特車(戦車のこと)も使うことになっていました。1月からは、東京の市ヶ谷駐屯地に1個大隊の治安部隊が待機していました。  
6月中旬には、練馬駐屯地など首都圏で2万人の自衛隊員が出動準備を済ませていたのです。  
岸は、赤城宗徳防衛庁長官に対し、自衛隊の出動を促しました。もちろん総理大臣には出動命令を出す権限がありますが、このときは、命令を下すのではなく、防衛庁長官の意向を確認しながら、自衛隊の出動を求めるというものでした。  
しかし赤城は、これを拒否しました。ふだん武器を持って外敵と戦う訓練をしている自衛隊員をデモ隊の取締りに動員して、もし武器を使うことになれば、死者が出る。自衛隊が同胞を殺したということになり、国民世論は一気に自衛隊に冷たくなる。一方で、武器を持たずに出動しても何の役にも立たず、デモ隊に翻弄されるようなことになれば、それはそれで「自衛隊は何をしている」という批判が高まる。  
赤城は、こう考えたのです。  
結局、岸は自衛隊の出動をあきらめます。もし実際に自衛隊が出動していたら……。歴史に「もし」はありませんが、流血の大惨事になっていたか、内乱が起きていたか。想像するだけで恐ろしいことです。 
 
安保闘争とは6

 

昨今、衆議院議員総選挙における投票率が戦後最低を記録するなど、若者を中心とした政治離れが大きな問題になっています。投票のする・しないは様々な要因をはらんでいるため、投票しないことだけを理由に短絡的に若者が政治に興味を持っていないという事は言えません。しかし、選挙の投票率が低いことは民主主義の前提が崩れるため、由々しき事態であるといえるでしょう。  
昨今では、こうしたいわゆる政治への”無関心”が論争を読んでいますが、今から約55年ほど前の日本では国会を万単位の国民が取り囲んでしまうほど政治への”関心”を行動に示していた時期がありました。それが通称「安保闘争」です。  
その安保闘争がどれほどの大きな動きを持っていたのか、数字で見てみましょう。  
批判の的にされていた岸信介首相が退陣するまでの、1959年4月15日から1960年10月20日の期間で全国で行われたデモ、集会ののべ数は、抗議集会6292箇所、参加者約45万8000人。デモ行進5348箇所、約428万3400人が参加していたと言われています。  
わずか1年足らずの間にこれほどの数の集会、デモ行進、参加者がいることから、いかにこれが大々的な政治闘争であったのかがお分かりいただけると思います。  
授業では、こうした具体的な数を冒頭に持ってくることで、生徒の頭のなかに「なぜこれほど大きな政治闘争になったのか」ということを思わせることができればそれだけで生徒を授業の世界に取り込むことができます。本稿ではこうした冒頭を利用して、「安保闘争」はどのような背景のもとで起こったのかという事について、授業後に生徒がしっかり自分で説明できるようになる指導法をご紹介します。
安保闘争までの道のり  
太平洋戦争において日本は「敗戦」をし、戦後はアメリカを筆頭とするGHQによって間接統治を受けていました。しかし、1951年に「サンフランシスコ講和条約」を結び、日本は独立を取り戻します。  
この1951年の講和を行った背景に東西冷戦の激化がありました。アメリカとしてはソ連を筆頭とする社会主義陣営に対して「巻き返し」政策を推進しており、間接統治による非軍事化よりも同盟国として安全保障体制を作ることが優先すべきと考えたからです。  
よって、サンフランシスコ平和条約を結ぶのと同日に、アメリカと「日米安全保障条約」を締結します。正式の呼び方は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」と言います。  
しかし、実際にはこの条約は名前のような対等さがありません。その第1条でが米軍の駐留を日本が認めることを明記しますが、米軍の軍事力の使い道については  
「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる」  
と規定するのみでした。最後の「できる」という言い方が非常に曖昧性を残していますね。これはつまり、日本に基地を置く米軍には日本を防衛する義務はないと間接的に述べているのです。もっと違う解釈をすれば「日本はアメリカに基地の場所を提供するだけです」とも取れる内容です。  
さらにもう1つ、日本国内で内乱が起きた場合には、米軍が出動できる事も条約の中に含まれていました。日本国内の問題に対して、他国のアメリカが干渉することが出来る余地が残されていたのです。この安全保障条約には期限なども設けられていなかったので、こうした状況がいつまで続くのかも検討がつかない状態でした。指導する際にまずは安保闘争が起こる背景にこうした日米同盟があったことを抑えるようにしましょう。
安保改定への動き  
安全保障条約の内容を見て頂いて分かる通り、講和条約を結び、果たしたはずの独立がフタを開けてみると「対米従属」の構図は変わっていませんでした。  
この安全保障条約の内容を改定しなければ日本は完全に独立することはできない。1957年の総理大臣に就任した岸信介はこのように考え、対等なものにするために動き出します。  
1957年6月基地信介は訪米し、ダレス国務長官と会談の場を設けます。  
ここで、在日米軍の配置に関して  
・日米が事前に協議すること  
・安保条約と国連憲章との関係を明確にすること  
・条約の期限を明確にして条文に盛り込むこと  
の3点を求めました。  
特に気を使ったのは日本国内で米軍が勝手に行動を取らないようにすることでした。そのために部隊の配置などの変更があれば日本に事前に知らせるだけでなく、協議することを要求しました。また、アメリカに守ってもらうだけではなく、日本に駐留する米軍は日本も防衛の負うということを明確にしようとします。「守ってもらう」ではなく「お互いに守り合う」ことで力関係の均衡化を目指し、日本の独立性を強めようとしたのです。  
さて、これらの要求を受けて、新しい「安保条約」はどのような内容になったのでしょうか。
新「安保条約」の締結  
1960年1月9日、新しい安保条約が結ばれます。今回の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との相互協力及び安全保障条約」になります。  
サンフランシスコ講和条約締結と同時に結ばれた安全保障条約では、アメリカの日本防衛(義務)は明確にされていませんでしたが、新しい安全保障条約ではどうなったでしょうか。内容を簡潔に見てみましょう。  
<新安保条約の内容>  
・日本が侵略された場合にはアメリカ軍は支援義務があることを規定  
・しかし、日本のアメリカ軍への協力義務ははっきり書かれていない  
・日本と日本国内にある米軍基地に対する武力攻撃に対しては日米両国で共同で対処  
これによって旧安保条約とは違い、アメリカ軍の防衛義務については明確にすることが出来ました。また、何か在日米軍の配置の重要な変更、装備の変更など日本から行われる戦闘作戦行動で日本国内の基地を使う場合は日本政府と事前協議を行うことが決まります。  
もちろん協議は建前ではなく、その結果日本が認められないことであれば、これらの軍の配置や装備の変更ができないことになっているのです。旧安保条約に比べて日本の独立性が強化されていることがお分かりいただけたのではないでしょうか。  
ただ、1960年にこの新安全保障条約が締結されてからアメリカ軍が事前協議の場を申し入れてきたことは未だに一度もありません。  
これについて政府は「事前協議の申し入れはないので、配置や装備などの変更はない。日本から飛び立って行う戦闘作戦行動もないということである。」と説明しています。しかし、実際には深夜でもアメリカ軍は戦闘機を飛ばしています。「事前協議」は機能しているのかどうか常に疑いの目で見ていかなければならないかもしれません。  
なお、この新しい安全保障条約に基づいて、「日米地位協定」も結ばれています。「日米地位協定」とはこの安保条約を根拠として、「米軍は日本を守るためにいるのだから、行動しやすいようにその地位を尊重しましょう」とするものです。  
この「日米地位協定」があるために、米軍基地周辺で法を犯す米軍兵士がいても日本の警察は身柄を確保するのが困難になってしまうという障壁があるのです。
まとめ  
本稿では、「安保闘争が起こるまでに日本はどのような歩みを踏んでいたのか」を授業で生徒に理解してもらうために必要なポイントを詳しくご紹介してきましたが,いかがだったでしょうか?  
読んでいただいて考えた方もいらっしゃると思うのですが、この日米安全保障条約は、昨今常に話題になっている「集団的自衛権」の問題とも、深いつながりがありますよね。本稿では詳しく扱いませんが、「集団的自衛権」もつまるところ”武力攻撃を受けた際にどのように同盟国間でそれに対処するか”であるので、安全保障条約と共通する部分があるのです。  
つまり、「安全保障条約」を学ぶことは過去を知ることであると同時に、現代の我々の社会を見つめなおすことでもあるのです。本稿では安保闘争が起こるまでの背景の部分しか説明できませんでしたが、次稿実際に「安保闘争」がどう展開したのか、そしてそれを学ぶことを通して現代社会の「集団的自衛権」を考えるためのどういうヒントが隠されているのかをお伝えしたいと思います。 
 
安保闘争7

 

安保闘争のエネルギー 
戦後の政治史の中で特筆すべき事項は、やはり1960年代の安保闘争であろうと思う。当時の岸首相を首班とする内閣、自由民主党が、国会運営に強行手段をこうじて、いささか強引に議事の進行を図り、無理遣り法案を通過させた、という歴史的事実は否めないが、そういう過程に追い込んだ野党勢力の在り方も、民主主義を理解していない行動である。民主主義の根本である、話し合いという基本姿勢を踏襲しようとする気配すら感じられない当時の野党勢力の在り方というのは、自民党とともに批判の対象にせざるをえない。60年安保の特筆すべき点は、安保条約を改定するかどうか、という政治課題に対して、一般大衆が、大きく政治参加するようになったという状況である。  
民主主義、民主政治というものが、国民の全員の納得の上に成り立っているものではない、という大前提が大きく問われたことである。  
我々の国というのは、戦後、アメリカ進駐軍、アメリカ占領軍のもとで、ある意味では、強制的に民主主義いうものを受け入れざるをえなかった。  
しかし、これは戦前、戦中の、圧迫された絶対主義、軍国主義からの開放であったわけで、我々は、この開放を心から喜んだものである。  
そして、全面の焼け野原から、新生日本の復興に取り掛かったわけである。  
その間に、日本を戦争に導いてアジアで多大な迷惑をかけた旧軍人たち、軍官僚、高級政治家達は、それぞれに占領軍の意向にそった糾弾、弾劾、贖罪を強要され、懺悔と禊ぎはアメリカ占領軍の主導のもとで、一応の決着をつけたのが東京裁判の結果である。  
その結果として、我々は、サンフランシスコ対日講和会議で、旧交戦国を含む48ヵ国の承認を経て、独立を認められたわけである。  
主権国家として独立をした以上、主権を確保するためには、国を守る、自衛権、自国の安全保障というのは、主権国家の責任において遂行されるのが世界共通の普遍的な原理原則であるはずである。   
しかるに、独立したばかりの日本では、軍事力というものは皆無であったわけで、これでは主権国家の自尊自衛でさえも維持できないわけである。  
故に、講和会議と同じ日の午後、旧日米安保条約が締結され、アメリカ軍が当面の日本の防衛を肩代わりする、というのが歴史の流れであり、現実の政治、外交の流れであったわけである。  
日米開戦の時、当時の東条内閣の商工大臣に就任していた岸信介は、戦後、再び政治家に返り咲き、戦後の日本の民主主義のもとでは、過去にA旧戦犯としてアメリカ占領軍から巣鴨プリズンに収容された人物であろうとも、公職選挙法で選出された以上、衆議院議員にせざるをえなかったわけで、安保闘争の野党側、革新勢力の側は、この点を厳しく追求したことは当然であるが、これは安全保障条約の本旨とは掛け離れた論議であり、一種の個人攻撃である。  
60年安保では、大きな大衆運動が形成されたが、その大部分が岸信介への個人攻撃におわっているわけで、大衆レベルで、条約改定の中身の論議が行なわれた形跡は見当らない。先に触れた警職法が提案された際に出来た国民会議という集団などは、国会議員でないものが、国政をコントロ−ルしようという発想であり、戦後の民主政治では、国民の側の政治的表現の自由というものは保障され、示威運動や請願運動が許容されていることは、十分周知徹底されているが、これをもう少し皮肉な目で考察すると、政治を、外部の影響力でコントロ−ルしようという発想につながっていると思う。  
民主主義のもとでは、三権分立が基本的な姿だと思うが、昨今では、マスコミを第四の権力とみなしがちであり、そのうえ国民の示威運動や請願運動が、政治に影響力を与える、民意を反映しているからこの意見を重視せよという事になると、これは第五の権力を形成するということになりかねない。  
松川事件の時にも述べたが、部外者の声というものが、司法当局や、立法府に対して影響力を行使するという姿は、真に民主的な政治の在り方であろうか。  
民主政治の三権分立の中で官僚でないのは立法府のみである。  
司法当局というのは、日本でも一番難関だといわれている国家試験を経てその地位についているわけであるし、行政当局というのも、それと同じ経過を経て職務を遂行しているわけであるが、立法府の国会議員というのは、一切合財そういう試練を経づ、国家試験とは別の選択基準で選出されているわけである。  
それは、公職選挙法というチェック機関を通過する、という儀式を経る事で、国民の民意をいくらかでも吸い上げるシステムが戦後の日本の民主政治の基盤となっているわけである。  
しかし、この時代の中選挙区制度のもとでは、衆議院の方に立法のウエイトが重く、参議院の方のウエイトが軽くなっている。  
これは日本の政治制度の不備の一つだと思う。  
衆議院議員というのは、ある意味で地方出身者の利益代表という色彩が強いのに反し、参議院議員というのは、国全体の利益代表という性格が強いにもかかわらず、立法に関するかぎりそのウエイトが押さえられている。  
国政というからには、一から十まで、国の、国家の存立にかかわる事項を審議すべき国政の場で、地方の利益代表の衆議院議員の地位が上で、国益を代表する参議院議員のウエイトが低い、という現状は不合理であると思う。  
従来の制度のもとでは、衆議院議員の選挙区というのは、地方の地縁、血縁で成り立っている、という感が免れない。  
だから選挙に金が掛かる、という事になるわけであるが、制度の善し悪しは、この時点では別の問題であり、いやしくも公職選挙法にもとづいて選出された国会議員が、法案の審議を拒否すること自体が、民主政治を破滅に導く元凶だと思う。  
安保改定法案で、社会党の審議拒否が悪いのか、自民党の強行採決が悪いのか、という論議は、卵が先か鶏が先かの論争と同じで、因果応報の結果ではないかと思う。   
しかし、この時の、安保闘争を盛り上げた革新勢力の台頭というのは、まさしく第四、第五の政治勢力とみなしていいと思う。  
そしてその中には、労働団体をはじめ、大学教授から学生まで、広範な支持基盤が存在していたわけであるが、かれらが法案に反対する理由というのは、今一つ説得力に欠けていたと思う。  
安保が改定され、アメリカとの協力関係がこれまでよりも強化されると、日本が戦争に巻き込まれるという理由は、捕らぬ狸の皮算用と同じで、極めて説得力に欠ける。  
そこに内在する深層心理は、共産主義国の中国や、ソビエットの宣伝は、100%頭からから信用するが、日本政府とアメリカ政府の言う事は、全く信用出来ないという政治不信の発想である。  
そして、もとA級戦犯であった岸信介という一政治家が、内閣総理大臣という権力の座にいる事に嫌悪感を顕にしているわけである。  
政治の場に個人的な怨念の情を持ち込むことは、民主政治の旗手としての革新の名が泣くと思う。  
この時期、国際的な動きがどうなっていたのかといえば、米ソの冷戦がもっとも厳しい時期で、ソビエットが先に人工衛星の打ち上げに成功して、アメリカはソビエットの後塵を拝し、科学技術的に追いつき追いこせのム−ドが高まり、その一環として、U2という高空気象観測用と称する偵察機を飛ばしていた時期である。  
このU2偵察機というのは、当然、日本の基地からも発進していたわけで、その点は、社会党の政府追求の大きな目玉であったわけであるが、こと軍事機密に関するかぎり、アメリカといえども、いくら日本が友好国だとはいえ、軍の機密に関する情報を明け透けと洩らさないことは火を見るより明らかである。  
ところが社会党というのは、こういう軍事に関する基本的な常識というものを理解しようとせず、盲が像を撫ぜるような、陳腐な質問を繰り返すのみである。  
社会党という政党は、人が何故に争うのか、という人間の本質についての理解が不足していると思う。  
これは社会党のみではなく、この時代の進歩的知識人の大部分が陥ったジレンマである。人が複数集まれば、意見の不一致が出るのは理の当然で、意見の不一致を調整するのが政治の手腕であり、調整する手段の一つが、民主主義の多数決原理のはずである。  
軍事ということは、取りもなおさず、人間を研究することから始めなければならない。  
U2によるソビエット領土の偵察ということは、民主主義というものが表向きの綺麗事ではすまされず、その裏側では熾烈な情報収拾合戦が行なわれ、情報に基づいた反駁のチャンスをうかがうものであり、それは同時に相手側も同じ事をしているということである。スパイ合戦というのは,米ソ両方が、総力を上げて、目に見えないところで知恵比べをしているわけである。  
しかし、それが発見され、撃墜されるという事態は、誠に不様な醜態をさらしたわけで、アメリカの面目は丸潰れである。  
それに日本の基地が加担していた、ということは軍事行動の一貫としてみれば当然のことで、そのことでアメリカの航空機が攻撃され時は日本に対する攻撃とみなすのか、という社会党の質問は如何にも愚問である。  
安保条約で言う「極東の範囲を示せ」という質問も愚問のうちに入るであろう。  
60年代の安保闘争での論点は、安全保障条約の改定に反対する、ということのみが強調されて、そのことは裏を返せば、旧条約をそのまま残しておけ、ということであったのであろうか。  
条約の中身の論議になると、不平等なものを平等にする、という大命題に対して、反駁のしようがないものだから、改正そのものを反対せざるをえなかったのではないかと思う。という事は、つまり、反対の為の反対でしかなかったわけである。  
だからこそ、その内容に関する議論を棚上げにして、「安保反対」というスロ−ガンのみ大声でわめき散らして、それを民意と思い違いをしていたわけである。  
この闘争の中で、安保改定を阻止する為に、全学連の一部が国会の中にまで乱入した事に対して、乱入した学生もさることながら、それを支援した革新勢力の人々は、民主政治というものを自ら破壊しようとした行為を、如何様に説明するのか、と問いたい。  
自民党の強行採決という手段も誉められた行為ではないが、しかし、それには社会党の審議拒否、議長の職務遂行を妨害する社会党側の実力行使に対しての対抗手段であったわけで、部外者の国政関与とは異質の問題である。  
こういう状況下で、全国の大学生や大学教授が、社会党の組織する労働組合と一緒になって反政府運動、反体制運動を行なったという事実は、ここでどういう心的変化があったのか不思議でならない。  
私の偏見と憶測から推察するに、これと時を同じくして、海を隔てた中国で、共産革命が軌道にのり、人民公社の設立と大躍進の掛け声が上がったのが、丁度この時期と一致するわけである。  
日本の知識人の深層心理の中には、日本はかって中国で、中国人民を圧迫したという贖罪意識があり、その人達にとって、中国がマルクス・レ−ニン主義で統一を果たした、ということは我が事のように慶賀な出来事であったに違いない。  
日本はアメリカ帝国主義に占領されて主権を失い、国土はアメリカ兵でうずまり、獄中にあった共産主義者は開放されて、鉄道破壊というテロ行為に血道を開け、国鉄や日教組のような共産主義者の労働組合が日の目を見る時代になったわけで、これらの動きは、この当時の革新的知識人を大いに喜ばせたわけである。  
ところが、新生日本が、朝鮮戦争で、経済復興のきっかけをつかむやいなや、GHQでさえも共産主義者の跳ね上がりを快く思わないようになってきたわけである。  
岸信介が戦前から政府の中枢にいた、ということはこれら革新勢力の側からすれば、戦前の日本に回帰するものと思われたのも無理のない面があると思う。  
だから、その岸信介が推す日米安保条約というのは、条約の内容はともかくとして、岸信介という一政治家がアメリカと共同で外交問題を取り扱うこと自体が気に入らないわけである。  
これは岸信介という人物に対する個人的な怨恨で、主義主張の相違とは別の段階の論議であったわけである。  
この時代の共産主義の諸国というのは、実に輝いて見えたわけで、ソビエット連邦の人類最初の人工衛星の打ち上げや、中国の大躍進という宣伝に乗せられて、日本の共産主義者の大部分というのは、こうした社会主義諸国こそが日出る国に見えたわけである。  
アメリカがデモクラシ−を養護する世界の警察官であることに我慢ならなかったわけである。  
そして、そのアメリカに従属する我が同胞の国は、アメリカ帝国主義に毒され、どうにもならない陳腐な国で、こういう国には、主権も必要でなく、国防も、自衛も、民族の存亡も、一切合財不必要なわけである。  
こういう発想が根底にあったればこそ、全学連は国会に突入し、大学教授連中は、安保反対のシュプレヒコ−ルを声高に叫んでいたわけである。  
こうした進歩的知識人が、自民党の強行採決を糾弾するのは理解できる、しからば、社会党の議事進行阻止という行動を同列に語らなければ片手落ちと言うものである。  
贔屓の引きたおしで、自分の贔屓筋の過誤は棚に上げて、相手側に非のみを追求する態度というのは、まさしく依怙贔屓というものである。  
事実、この時点における大学教授をはじめとする日本の進歩的知識人の大部分というのは、社会党や共産党の賛同者でしめられていたわけで、社会党や共産党に同情を寄せる彼らの心情には、ソビエット連邦や、中華人民共和国の宣伝を鵜呑みにして、ああいう国家体制こそが一般大衆に富を分配する具体的な社会システムである、と思い違いをしていたわけである。  
これも無理のないことで、社会主義国、共産主義帝国が、その30年後に壊滅するなどということは夢想だに出来なかったわけで、その点では、私のような反共主義者でも同じであるが、共産主義帝国というユ−トピアを心の底から信じて、日本にも革命の必要がある、と真から思い込んでいた人々にとって、ソビエット連邦の崩壊という出来事は、それこそ「寝耳に水」という感慨であったろうと思う。
戦後の復興が軌道に乗り掛けた時点での日本の進歩的知識人の左翼思想に対する傾倒ぶりというのは、いささか尋常でなく、日本の大学の数多の教授連中が共産主義国の宣伝にころりと騙されていたわけである。  
「象牙の塔」に閉じこもって、学問ばかりを追求する「曲学阿世の輩」は、ダ−テイ−な駆け引きで生きている政治家と比べると、物事を疑ってかかる、という処世術に長けておらず、宣伝、洗脳、思い入れ、という対諜報作戦に極めて弱いわけである。  
ソビエット連邦が片一方で人口衛星を上げながら、片一方では粛正、逮捕、監禁、暗殺とダ−テイ−を独裁政治を行ない、中華人民共和国では、大躍進というスロ−ガンのもとで稚拙な鉄の精練を行ない、中国の国土から樹という樹を皆伐採してしまって、今で云うところの完全なる環境破壊をしていたわけである。  
稚拙な鉄の精練なるが故に、そのために農業生産が疎かになり、餓死者が続出していたという現実には目をつぶり、岸信介という、一政治家を憎むあまり、共産主義諸国の日の当っている部分にのみ目が行ってしまって、影の部分を見ようともしなかったのがこの時期の日本の進歩的知識人の共通した認識であった。  
安保闘争では、全学連の行動が突出していたわけであるが、彼らは、半分本気で革命を夢見ており、半分は革命ゴッコに明け暮れていたわけで、暴走族と同じで、革命熱がさがれば、ただの跳ね上がりであり、ただ単に、騒ぎを起こすのが目的であっただけのことである。  
騒ぎを起こすにも、状況にマッチしたスロ−ガンが必要なわけで、それが「安保反対」「打倒岸内閣」であったわけである。  
この政治課題に対して、野党勢力の反対闘争ということは、民主政治である以上致し方ない面があるが、もっと深刻なことは、自民党内部の派閥抗争であったと思う。  
これは、志を同じくするもの同志の骨肉の争いであったわけで、自民党が、この当時で200以上の議席をもっており、その集団が、鉄の結束で固まると云う方が却って不思議な気がしないでもないが、そういう意味で、岸首相に対する思惑がまちまちである方が自然である。  
この時点で、約30年後に、社会党が政権の座につくということは、それこそ夢想だに出来なかったことで、政権盥回しというのは、自民党内の出来事であったわけである。  
その意味からすれば、首相の座をめぐる各派閥の確執、駆け引き、先見制の見通し、というもろもろの要素が渦まいていたに違いない。  
岸信介自信は、安保改定が済めば政権にこだわる気持ちはなかったと思うが、その後釜を狙って、池田隼人らの根回しが見え隠れするわけで、それが自民党単独採決にも尾を引いていたわけである。  
ところが、そういう自民党の動向を、マスコミ・サイドは「自民党の内部でさえ反対する安保改定」という捉え方で見ていたわけである。  
安保闘争における国民各階層の反対運動、反政府運動というのは、国会という立法府の行為に、部外者が圧力を掛けるという構図である。  
社会党の審議拒否という態度から派生した自民党の単独採決、という民主主義を蔑ろにした政治の状況というのは、自民党だけの問題ではなく、社会党も同罪であると思うが、この時代の日本の進歩的知識人というのは、自民党にのみ矛先を向けたわけである。  
こういう経緯を経て、日米安全保障条約というのは1960年、昭和35年6月15日新条約として自然成立したわけである。  
その後、岸信介自身も右翼に刺されて怪我をし、社会党の委員長浅沼稲次郎が右翼の少年山口二矢に刺殺された。  
我々、常識あるものにとっては、テロはいけないということは百も承知であるが、社会党の委員長浅沼稲次郎に限っては、テロも致し方ないという感慨を当時持ったものである。というのは、彼がこともあろうに中国で「アメリカ帝国主義は日中共同の敵である」などと発言すれば、テロを加えられても致し方ないと思わざるをえない。  
これが日本の公認政党の党首の発言であるところに、日本の革新勢力の稚拙な発想の根源があるわけである。  
1960年、11月にアイゼンハワ−を破ってアメリカ大統領に就任したケネデイ−大統領は「国家が何をしてくれるかではなく、国家に対して何が出来るかを問うべきである」と説いて人気を博したが、まさしくこれは近代の民主主義というものの本質をついた発言だと思う。  
日本の革新勢力というものにはバランス感覚が欠けているわけで、贔屓の引き倒しという面があることは前に述べたが、ものの本質を見る事無く、感情に流れたり、ム−ドに押されたり、時の流れに身を任せたり、自己の信念に基づいた判断力というものがないわけである。  
右向く事が流行れば、自分で検証する事無く、隣も右を向いているので自分も右を向く、左を向く事が流行れば、隣が左を向いているのを見て、自分も左を向くという風に、自己の信念に基づく判断力というものが欠落しているわけである。        
安保闘争というのは東西冷戦のさなか、米ソの代理戦争を日本国内で実施していたようなものである。  
アメリカを規範とする自由主義陣営と、ソビエットや中共を理想とする共産主義陣営、社会主義陣営とが、日本国内で二つに対立して、それぞれに自己の主張をしあったようなものである。  
そして、国民は冷静にその成り行きを注視し、結果的に自由主義陣営に組することを決めたわけである。  
日本の進歩的知識人といわれる人々が、共産主義や社会主義の国家を理想として夢見ていたのは、彼らが人間というものの本質を軽視した所以だと思う。   
人間という生きものは、理性とか知性という善意のみで生きているのではなく、権欲、金欲、性欲という自己の願望を成就したいという欲望とか、我儘などという煩悩をもっているもので、煩悩を否定し、理性を強調するとこのような状況に陥ると思う。  
ソビエット連邦とか中国、またはキュ−バで共産主義革命が成就しえたのは、いわゆる、そこに住んでいる人々が、この時代には知的レベルが低く、共産主義、マルクス・レ−ニン主義という、人間が人間の知識で考え抜いた理想というものを実践するに都合がよかったからである。   
革命が成就した時点で、これらの地域では、前時代の封建制度から近代化への脱皮に遅れたわけで、遅れた理由というのは、人々の知的レベルが低いという内的要因であったわけである。  
そういう環境のもてでしか共産主義革命というのは成就出来なかったわけであるが、日本の知識人というのは、そういう部分にスポットをあてる事無く、マルクス・レ−ニン主義の良い面のみを知識として受け入れたが故に、その理想をいくらかでも実現できれば、という衝動に駆られたものと推察する。  
ところが、日本古来の民族意識というのは、村意識であり、村落共同体の意識であり、運命共同体の意識が抜け切らず、知識人が文字から吸収した理想というものと、現実の政治感覚というのはずれていたわけで、我々は共産主義革命というものを拒否したわけである。前にも述べたように、日本の大学が学問としてはいかなる主義主張と研究しようとも構わないが、その研究の結果を実践しようとなると、これは少々考えものである。  
安保闘争で大学の教授連中が政治行動に出た、ということはその表れだと思う。  
そして、安保闘争における学生の役割というものは、これは共産主義者の洗脳以外のなにものでもない。  
日本共産党というのは保守合同、社会党統一ができた昭和30年、1955年に武装闘争の方針を転換している。  
私に言わせれば、この時点で、日本共産党というのは党名を変えなければいけないと思っているが、これは日本共産党がマルクス・レ−ニン主義を放棄したものとみなしていいと思う。  
現実の問題として、この日本共産党の方針転換に不平をもつ党員もいたわけで、それが安保闘争では全学連のなかの分派行動を起こし、過激な行動に出たわけで、全学連主流派の行動に対しては、革新勢力の側からも批判が出るという状況に陥ったわけである。  
この時代の日本の進歩的知識人が、アメリカを嫌悪して、ソビエットや中国に憧れるという心境は、理解しがたいものがある。  
戦後の無の時代に日本を飢え死にから救ってくれたのがアメリカであり、日本の封建的な諸制度を打破してくれたのも他ならぬアメリカであったはずで、その意味からすれば、我々、戦後に生きる日本人は、この時代のアメリカの好意には、感謝こそすれ嫌悪することはないと思う。  
この忘恩こそが、新しい日本、新生日本の新しい価値観であったのであろうか。  
昔受けた恩を忘れる、ということは日本古来の価値観からすれば一番卑しむべきことであったわけで、アメリカが日本古来の価値観を根本から覆したはずみに出来た新しい価値観であったのであろうか。  
政治を忘恩という感情で論ずることは出来ないが、戦後の進歩的知識人の反政府運動というのは、どうにも理解に苦しむ。  
それかといって、体制ベッタリでは大政翼賛会になってしまうわけであるし、仮に岸信介という政治家に対する抗議であったとしたら、これは陰湿ないじめの問題であるし、戦後の人権意識の高揚ということを考えれば、個人的ないじめというのは問題にならないわけであるし、何とも説明がつかない。  
あれだけの運動の盛り上がりがあった割りには、その後には何一つ残っていないわけであり、その後の日本の経済的発展は、世界を別な意味で震撼させたわけである。  
サンフランシスコの対日講和条約後の日本の経済発展の過程において、日米安全保障条約の意味合いが少しずつ変化したことは否めない。  
独立直後の意味合いから、60年安保、70年安保以降において、安全保障条約の意味合いが変化するということは、国際環境の変化にともなう外的要因で、我々、内部の人間としては如何ともしがたいが、結論的に言えば、日本は安保只乗り論に集約されると思う。戦後の日本は、アメリカ側の自由主義陣営に組することにより、アメリカの保護のもとに自国の防衛ということを、GNPの1%以下に押さえてこれたということは、アメリカ側から見れば安保只乗り論に他ならない。  
国防費というものを全部経済発展に注ぎ込むことが出来たわけである。  
このことは、吉田茂と岸信介という政治家が、アメリカと日米安全保障条約というものを締結して、日本の防衛というものを、アメリカに肩代わりさせた政治的手腕の賜だといえると思う。  
昨今、政治家のリ−ダ−・シップということが言われているが、社会党党首の浅沼稲次郎の「日中共同の敵」という発言も、政治家のリ−ダ−・シップの表れであり、吉田茂と岸信介のとった政策というのも、政治家のリ−ダ−・シップそのものである。  
このどちらがその後の日本にとって幸せだったのか、我々は、再度、考察する必要があるのではなかろうか。  
その社会党が、今は、自民党と一緒になって連合政権を作っている現実を我々はどう評価すべきなのであろう。  
日米安保条約というものは1951年、昭和26年から始まっているわけで、日本の独立と同時に始まったわけであるが、その後の日本の経済復興とともに、又世界の情勢の推移とともに、その意味するところが変化することは歴史の必然として致し方ない面がある。それは条約の本旨とは関係のない外部要因というか、状況の変化に応じて変わるものであって、我々、日米双方の意図とは関係なく変化するものであったわけである。  
初期の日米安全保障というのは、言うまでもなく占領の継続という意味が含まれていたことは否めないが、60年安保闘争以降の条約の意味というものは、アジアにおける日本の独走を防止するという意味まで含むわけで、アジア各国というのは、それがあることにより安全が保たれる、という見解にまで至っている。  
日本経済がアメリカにつぐ規模になる、などということは我々自身も、アジア諸国においても、考えられないことであったわけで、初期の日米安全保障条約というのは、このような状況を想定して出来ていたわけではなく、あくまでも終戦直後の無に等しい状況下で想定されていたわけである。  
ところが60年安保を経過し70年代の自動延長の頃になると、日本経済というのは、世界経済の中で突出するようになって、この状況をアジアに人々から眺めれば、日本は再び軍事大国になるのではないか、という危惧を持たざるをえない。  
歴史の教訓として、経済大国は必ず軍事大国になる、というのが過去の歴史であったわけである。  
ところが我々はそうはならずに、どこまでいってもエコノミック・アニマルのままでおわったわけで、その意味ではアジアの人々は安心したに違いない。  
しかし、人に弱みを見せると相手は付け上がる、というのも人間社会の普遍的な在り方で、我々、日本人というのは、そのことに気が付かないし、気が付いていたとしても、それを口にすることが、我々の認識では、ハシタナイという感情があるが故に、相手のいうことに理解を示す、という結果になっている。  
我々は、アジアの人々に対して偽善ぶっているわけである。  
人間の本質、本音で語らずに、偽善ぶった、物分かりのいい言葉を投げ掛けていたわけであるが、先方は、こちらの偽善など信用せずに、本音をぶつけてくるわけである。  
初期の日米安全保障条約の意味というのは、アメリカが丸裸の日本を防衛する、というものであったが、その後の60年の安保条約改正の目玉というのは、アメリカが日本の安全という大義名分で日本中を我がもの顔で動くのに制限を加え、日本の主権を尊重しながら、極東の防衛に貢献しようというものである。  
ここで露呈してくる事実というのは、自民党、岸信介の政策というのは、占領の後遺症として、アメリカ軍が日本国中を我がもの顔に動くことに制限を加えることであったわけである。  
この時、何故に、革新政党や、大学教授や、学生が、アメリカ軍の行動を制限しよう、という政策に反対しなければならなったのか、不思議でならない。 
安保の影響 / 民主政治の見直し

 

米ソの冷戦というのは主義主張の違いそのもので、共産主義諸国と自由主義諸国のせめぎあいであったわけである。  
双方とも自分達の仲間を広げようとして画策していたわけであるが、共産主義の輸出という面は否めない事実であった。  
自由主義陣営というのは、古い封建主義諸国をいくらかでも民主化しようと思ってはいたが、そういう状況では、自由主義よりも共産主義の方が説得力が強く、印象として、富を公平に分配する、という概念の方が民衆には受け入れやすかったわけである。  
フイリッピンはアメリカの占領下であったという状況からして、自由主義に傾倒していったが、ベトナムというのは、後背地に中国という共産主義国家が背後に存在した関係上、結果的に共産主義国家に生まれ変わったわけである。  
共産主義というものは、人間が人間の頭脳で以て理想郷というものを作り上げたが故に、論理的には、非常に説得力があり、富を公平に分配するという趣旨は立派なものであるが、それを実施する人間というのは、太古より連綿と生き長らえてきた、煩悩に満ちた人間である以上、人間固有の煩悩から解脱することは出来ず、理想郷を作る手段としての政策に極めて人間らしさを露呈させるわけである。  
自由主義というのは、人間本来の考え方にきわめて素直のに順応することが建前である以上、自由競争のもとで、法の枠という限定された中とはいえ、自分の欲望を追求することを認められた制度であるはずである。  
権勢欲、金欲、色欲その他もろもろの煩悩は、法に触れない範囲で、自由に実現可能なわけである。  
日本という四周を海で囲まれた人口過密な国では必然的に過当競争にならざるをえない。だから、この過当競争を片一方で擁護しながら秩序ある競争を促す、という相反する理念に向かって戦後の日本は邁進してきたわけであるが、その結果が、極めて日本的な自由民主主義というものになったわけである。  
自由でありながら、極めて規制の多い経済秩序を作り出すという矛盾をかかえてここまで来たわけである。  
戦前の治安維持法というのも規制の一つであり、警職法の強化というのも規制の一つであり、法律の制定は、そのまま規制につながるわけで、昨今の規制緩和という問題は、規制をしなければならない国民の思考を先に改善してからでないと実効がともなわないと思う。昨今の規制緩和というのは、極限られた経済活動の中での規制緩和である、ということは認識しているが、法律の制定そのものが既に一種の規制につながっているわけである。共産主義の社会というのは、各種の規制により管理された社会主義であり、管理する側が極めて人間臭さを抱いた独裁者になりがちである。  
自由主義というのは、自主管理をめざしながら、その中で個人の夢を実現するチャンスを含んだ社会機構といえると思う。  
アメリカがU2を飛ばしてソ連国内を偵察していた頃、ソ連側は大陸間弾道弾を開発していたわけで、このどちらが「悪」で、どちらが「善」であるのかという判断は出来ないわけである。  
しかし、戦後の日本の知識人というのは、共産主義国家に憧れ、共産主義と言うものが自由主義よりも価値あるものであるという認識で固まっていたわけである。  
人間の理性から考えれば、暴力で以て現行政府を転覆して革命を起こす、という発想が受け入れられるわけがない。  
少なくともノ−マルな社会通念というものを持ち合わせた人間ならば、暴力で以て政府を転覆する、と云う事自体が前近代的な時代錯誤であるということに気付くべきである。  
世界の歴史、日本の内外の政治史というのは、結果的に、暴力で以て政権交替を果たした歴史であったわけである。  
しかし、明治維新という無血革命を果たした日本国内において、日本の知識人の間で、旧態依然とした暴力革命を容認する思考が罷り通っていた、という現実を我々は肝に命じて心に止めておくべきである。  
岸信介という自民党の党首であると同時に内閣総理大臣が、アメリカ軍の日本国内での行動をいくらかでも制限しよう、としたこの新安保条約のどこがどういう風に気に入らなかったのか、その当時の革新勢力というのは、この法案にこぞって反対したわけである。  
日本の独立の時点で、共産主義国をも含めた全面講和でなければ罷り成らぬ、と唱えた革新勢力の考え方というのは、極めて世界情勢、世界の動きに疎い連中であったといわなければならない。    
日本の独立、日米安保条約、これらが日本の再軍備につながる、という革新勢力側の発想は、日本の歴史というものを真に理解しえず、日本の民族的良心というものを真に理解していない、文字どおり「曲学阿世の輩」であったわけである。   
第二次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争というものを経験した我々の先輩諸兄というのは、真から戦争というものを憎んでいるわけであるが、それと自尊自衛とはまた別の問題で、戦争を回避することと、再軍備、無抵抗主義とも別の次元の課題であるわけでる。  
日米開戦時内閣の閣僚であった岸信介という人物は、それだからこそアメリカの核の傘下にはいることにより、日本は戦争から回避できると判断したわけである。  
またこの時点で、アジア諸国は、日米安保条約があることにより、日本の軍国主義の復活はありえないと判断したわけである。  
なぜならば、日本で軍国主義が復活することはアメリカが許さないであろう、という判断のもとでアジア諸国はある意味で安心でいたわけである。  
これが日本が独自の見解をとって下手な中立政策などを実施すれば、それこそ再び為政者の独走が心配なわけである。  
日本がアメリカと安全保障条約を結ぶことにより、アジアでは一種の保険を得たようなものであったわけである。  
60年安保以降、日本の経済進出は、世界を凌駕するものであったが、その中でのGNPの1%という数字は、相対的にアジアの中では突出した額になったが、アメリカという超大国から見れば、日本の防衛力などというものはそれこそ微々たるものでしかない。安保論争が華やかな頃、日本は永世中立の道をとるべきであるという議論や、ソビエットを刺激して戦争に巻き込まれるという議論があったが、第二次世界大戦後の東西冷戦というのは、米ソの直接対決ということはありえなかったわけで、そもそも自国だけで自国の防衛を確保、維持するという発想は、この時点で時代遅れになっていたわけである。  
世界の一般常識として、国防は集団安全保障に任せる、という発想が普遍的な思考になりつつあったわけである。  
そういう状況も解らず、理解しようともせず、ただ日本という「葦の髄から天を見た」ような、狭量な思考に凝り方まったが故の誤った判断であったわけである。  
そういう状況下で、国民の大部分が安保条約改定に反対という状況下で、安保改定を頑として推し進めた岸信介という政治家のリ−ダ−・シップというものは立派なものであるといわなければならない。  
それに引き替え、戦後の日本の民主主義の旗手として華やかに安保反対闘争を繰り広げた日本の進歩的知識人の先見制の無さというのは如何様に説明したらいいのであろうか。  
私が日本政府の肩を持つ発言をする義理は、全くと云っていいほど無いが、日本の進歩的知識人の無責任極まる発言に対しては、一言文句を言っておかなければ溜飲が下がらない。55年体制のもとで、自由民主党の政権下において、さまざまな政治的疑惑が噴出したことは否めないが、政治的疑惑そのものが日本の政治の不備な点ではないかと思う。  
政治の不備というよりも、民主主義そのものの認識の違いではないかとさえ思えてくる。日米の議会制度の相違は先に述べたが、アメリカ議会のロビ−活動を容認することが民主主義の本質ではないのかと思うようになってきた。  
民主主義的政治システムとして、国民の利益を尊重するとしたら、国会議員というのは国民の利益集団の声を前広に反映させるものでなくてはならないと思う。  
今の日本の議会の在り方というのは、政府提案に対して賛否を取って、法案として成立させるかさせないかの機能しか持っていないわけであるが、これでは多数党の一人天下で、野党の存在意義が無い。  
国会が立法府であるとしたら、与党も野党も、法案提出の機会は均等でなければならないと思う。  
海部総理の時に政治改革が叫ばれ、細川内閣でやっと日の目を見たが、これは選挙制度の見直しだけで、民主主義の政治という、もう一つ大きな枠組みの再検討が必要であったのではなかろうか。  
日本の独立と同時にて締結された日米安保条約に、いかなる改善を施すかという場合、与党も野党も、同じ程度のロビ−活動をして、その賛否を取ればよいのではないかと思う。日本の国会議員が、特定集団のロビ−活動を悪とみなしているから政治腐敗が後を断たないわけで、日米安保改定にともない、社会党や共産党の行なった院外活動というのは、一種のロビ−活動とみなすべきである。  
日本の進歩的知識人というのは、自民党の政治腐敗は糾弾するが、野党の院外活動というのは民主主義の健全なる姿だと認識しているわけで、金を受け取って法案成立に手心を加えるという行為がよいことではないのと同じように、国会周辺でデモ行進をして拡声器でやみくもにシュプレヒコ−ルを叫ぶのも、一種の政治妨害に他ならないと思う。  
民主主義のもとで政治に関与しようと思えば、自ら支持する政党に投票をして、それによって選出された国会議員が、国会という場で議論を丁丁発止とおこなって、それで結論がでない場合に初めて多数決という方法で採決をするのが基本である。  
ところが、政府から法案の提出があると、その提案が気に食わないといって、取り下げを要求したり、審議を拒否したりしていては民主政治というものを蔑ろにしているといわれても致し方ない。 
知識人の生存価値

 

この時代というのは戦後の日本で一番の激動の時期であった。  
政治の面では安保闘争があり、経済の面では三井三池炭坑の労働争議が修羅場を向かえ、同時に国鉄の合理化の問題も絡んで日本中が大混乱をきたしていた時期ではある。  
炭坑と国鉄の経営というのは、時代の波に乗り遅れるというか、時代遅れに成りつつあったわけである。  
これは企業の努力とか組合員の努力という問題とは別の次元の問題で、日本の経済全体の転換期に巡り合わせたことに由来する。  
炭坑も国鉄も、小さな企業ならば身軽に方向転換が可能であったけれど、日本の基幹産業として、あまりにも労働集約の度合いが強く、合理化にも限界があり、合理化で生き残る事は不可能に近いわけで、必然的に廃業の方向に進まざるをえなかったわけでる。  
炭坑の問題は、石炭だけの問題ではなく、経済効率の問題にすり変わっていたわけで、日本では石炭を掘れば掘るほど、使えば使うほど赤字が大きくなる構造であり、旧国鉄も走れば走るほど赤字が累積するという状態であったわけである。  
このことは単にエネルギ−の問題を通り超して、経済政策の根本にかかわる問題となっていたわけである。  
よって炭坑から離職する人には政府から補助が出て、雇用促進住宅という施設が日本全国に出来たわけであり、国鉄は新しくJRとして生まれ変わったわけである。  
しかし、こういう労働争議の場に、共産主義者が登場することによって、話し合いの場が闘争の場に変わってしまうところに日本の組合運動の弱い面があると思う。  
労働争議の場というのは、経営側と労働側の対立の場であることは自明のことであるが、我々の生き方の中には、話し合いで事が解決するということはほとんどありえないことである。  
進歩的知識人や革新勢力の側というのは、常に話し合いということを強調するが、日本の政治状況、労使の交渉の場を見るかぎり、話し合いで解決した試しはない。  
話し合いで解決ということは、解決を放棄したということに他ならない。  
解決する気がありません、ということに他ならない。  
というのも、あらゆる場面に登場してくる先鋭化した勢力というのが、共産主義者であるところに話し合いでの解決ということが成り立たない原因がある。  
日本共産党は武装闘争を放棄したとは云うものの、共産主義者が全部共産党員ではないわけで、日本共産党と共産主義者というのは全く別の存在であり、その共産党員が政権奪還のための武装闘争を放棄しただけで、労働争議や政治闘争において暴力を否定するものではない、と云うことが出来る。   
石炭産業で掘れば掘るほど赤字がかさみ、旧国鉄が走れば走るほど赤字がかさむということは、企業努力でなんとか成るという次元の問題ではなく、日本の経済政策、いや世界の経済機構に変化がきたし、エネルギ−革命が押し寄せてきた証拠であったわけである。  
石炭と石油のエネルギ−効率を比較すれば、石油の方に軍配があがることは当然で、世界中のエネルギ−が石油に代わりつつあったわけである。  
私が幼少の頃学んだ小学校においては、発電には水力と火力があって、火力というのは石炭を燃やして蒸気デタ−ビンを回して発電するという風に習ったものである。  
ところがその石炭の単価が日本では高く、それが石油に置き代わりつつあったのがこの時代であったわけである。  
石炭を掘っても掘っても赤字が出るということは、石炭産業がいかに労働集約的な産業かということでもあるわけで、その労働集約的産業が成り立たなくなってきた背景というのは、日本が高度経済成長にさしかかったという証拠でもあるわけである。  
我々の賃金が社会的にアップしてきたことにより、石炭産業のコストを圧迫しだしたということである。  
つまりは、戦時中のように、朝鮮人労働者を安い賃金で使う以外に採算が合わないという状況になったわけである。  
戦後の日本で、そういう人権無視のような労働慣習は受け入れられるわけがなく、石炭産業というのは、閉山に向かわざるをえなかったわけである。  
旧国鉄が新しく生まれ変わったのも、エネルギ−革命の余波を受けたことにも一因ではあるが、こちらの方はそれよりも組織疲労の方が重要ではなかったかと思う。  
親方日の丸体質と、それに便乗した共産党員を内在した組合の在り方が国鉄という組織を食物にしたわけで、そこに競争原理を持ち込んで起死回生を図ったのがあたらしいJRの趣旨ではないかと思う。   
エネルギ−革命というのは一朝一夕で仕上がるものではなく、時代の流れであり、歴史の必然であり、産業革命の最後の工程であったわけである。  
このような大きな流れに棹差してみても、時代を後戻りさせることは不可能なわけで、このような不可避的な流れに抵抗するという場面に共産主義者がしゃしゃり出るというのも現代の一場面である。  
共産主義者にとっては格好の活躍の場であることには違いないが、それをフォロ−する知識人の存在というのがいかにも日和見的である。  
共産主義者にとっては、労働者の生活のことも、企業経営者の思惑も、一切関係なく、ただただ騒動を起こせば、それで彼らの存在意義はあるわけで、話し合いという手間暇かかる手段よりも、手っ取りばやい実力行使の方が効果的なわけである。  
この話し合いという一見民主的に見える交渉も、問題解決には役立たないわけで、話し合いイコ−ル問題の棚上げということである。   
しかし、日本の知識人というのは、問題解決には話し合いによる合意の形成が大事だと云う言い方をしがちであるが、この言葉が出てきたら最後、問題解決そのものが棚上げされた、という意味に取らなければならない。  
労働争議で労働側と経営側がどこまで行っても平行線をたどる場合、話し合いでは解決が出来ないわけで、最後は実力行使ということになる。  
安保闘争にしろ、三井三池の労働争議にしろ、国鉄の合理化の問題にしろ、話し合いの後には実力行使という戦争ごっこを経た後で初めて妥協案が出てくるわけで、我々の民族間の闘争は、必ずこの手順を踏んでいるにもかかわらず、世の知識人というのは、話し合いで合意に漕ぎ付ける、という空想に浸っているわけである。  
妥協点を見いだす前に、必ず警察官との戦争ごっこがあるわけで、ある意味で、公権力に頼っているとみなしてもいいと思う。  
警察の介入の後でしか話し合いのきっかけが見いだせない、ところに我々の民主主義の未熟さがあるものと思わなければならない。  
警察という公権力を引きだす前には、共産主義者による騒動があるわけで、一連の交渉が暗礁に乗り上げると、共産主義者が騒動を引き起こす、その騒動を鎮圧するために警察という公権力の行使が必要になり、警察が出てくると、進歩的知識人と称する人々が、公権力の横暴というシュプレヒコ−ルを繰り返すという手順である。  
そして、その結果は既成の方針どおりに事が運ぶというわけで、その過程における反政府、反体制、反企業の運動というのは、一体何のための運動であったのか、という悔悟の念に苛まれるわけである。
安保闘争にしろ、あれだけの反政府運動は、見るも無残に踏み躙られ、日米安全保障条約というのは、その後の日本の経済の発展に深く影響をあたえ、石炭産業というのは、石油産業にきれいさっぱり転換してしまったわけである。  
石炭に比べれば石油というのは極めて省力化の可能な産業で、労働力の集中ということはありえない産業である。  
こうした転換の時期、転換のタイミングに合わせて共産主義者がその場、その時に応じて問題提起することは、ある意味で平和な証拠である。  
日本の共産主義者というのは、本気で暴力革命を信奉しているものでない、という証拠でもあり、日本で暴力で政府転覆を図るということが出来ない、という証明でもあるわけである。  
ただ彼らも、自らの存在意義をアピ−ルする必要をその都度表しているにすぎないわけで、騒ぎが起きれば、そこに駆け付けて、お祭騒ぎを演出しているにすぎない。  
そのお祭騒ぎに色を添えているのが、日本の進歩的知識人の発言であり、彼らは、彼らでそのことにより自らの糧を得ているだけの反対屋にすぎない、と思えば腹も立たないが、利用されている労働者はたまったものではない。  
共産主義者を煽りに煽って、労働者や、自己の判断が出来ない学生を道具に騒ぎを起こしては、その事で記事を書き体制批判をし、権力サイドの横暴を批判する事によって、彼ら進歩的知識人としての生存価値があるわけである。  
我々の同胞は、戦前から共産主義というものに憧れ、それを標榜する日本共産党に入党した人がおり、日本人でありながら、中国の共産党にまで入党して人もいるわけで、こうした人々というのは、人間としては極めて優秀で、学問もあり、知識も豊富であり、その最大の特徴が、人類愛に富み、純真で、素直であるが故に、現世の人間的に腐敗した政治システムに我慢ならない負い目を感じているわけである。  
だからこそ、革命で、腐敗した政治システムというものを一挙に是正しようとするところが問題であるわけである。  
ところが、世間の一般大衆というのは、自らを腐敗した政治システムに身を任せ、身を委ねてしまっているわけで、その反対に、日本の進歩的知識人と称する人々は、自らはその渦中に身を置く事無く、純真な共産主義者を後から煽っているだけで、自らは一切手を貸そうとせず、言論の自由のみを謳歌しているわけである。  
純真な青年たちが過激な共産主義に走る、という現象は、動物の、特に猿の進化の過程を踏襲するものである。  
野生の猿の集団が、新しい習慣を身につけるときは、必ず若い青年の猿が実践をした後でそれが群れ全体に普及する、ということが知られている。  
それと同じことが、我々同胞の場合にも言えているわけであるが、我々の同胞というのは、若い人々の実践というものをそうやすやすとは受け入れないわけで、そこが猿の集団と我々人間との違いである。  
しかし、それは社会システムの変換という場面で見た場合のことで、若者が新しい文化や、新しい価値観を作りあげていくという意味では猿と同じである。  
1960年代から始まった闘争の時代、安保闘争、労働争議、その他あらゆる反体制、反政府運動の根底に流れているエネルギ−は、若者のエネルギ−であったことは間違いない。問題は、日本の知識階級というのが、これら若者に自らの規範を教える事無く、逆に彼らの考え方に迎合してしまったところに混沌とした社会現象を生み出す根源があったと思う。  
既成のビジネス界、いわゆるサラリ−マンの世界では、若者は、ある意味で大人の社会に順応するように教育されなおすが、進歩的知識人と称される業界では、若者の意見を尊重する、という意味で既成の大人の社会が若者文化にすり寄っていく、という現象があったわけで、この業界では若者を叱るということがないわけである。  
若者を叱るという意味で、若者達が犯している間違いを正す、という行為が欠落したままで、その現状を是認してきたが故に、若者の暴走という事態を引き起こしたわけである。この現象は、戦前の青年将校がク−デタ−まがいの騒動を起こしたとき、軍部が毅然たる処分をしなかったが故に日本が軍国主義に蹂躙された経過と酷似している。  
若者が暴走しがちである、ということは普遍的なことで、日本の知識人の最大の欠陥は、こういう人々に対して毅然たる態度で批判しないところにある。  
何となく若者に迎合することが民主的で、人権を擁護している、という錯覚に陥っているわけで、そのことは、彼ら知識人そのものが、自分の価値判断に確たる自信を持っていないということに他ならない。  
ビジネスの世界で活躍している人々というのは、若者に迎合していてはビジネスに差し障りがあるので、組織としての価値観というものをきちんと若者に教え、諭しているが、進歩的知識人という人類は、ビジネス界とは別の価値観で生きているが故に、そのことを放棄しているわけで、政治的な意識に芽生えた若者の行動をコントロ−ルできないでいるわけである。  
エネルギ−政策の転換という事態は、日本だけの問題ではなく、世界中の近代化、合理化の過程での過渡的な社会現象であったわけで、これは避けて通ることが出来なかったわけである。  
特に日本のように資本主義を信奉している工業国においては、経済の普遍的な原則に則って、より安すく効率のいいエネルギ−に変換していかざるをえなかったわけである。  
社会の進歩には犠牲がともなう事は歴史が証明しているわけで、炭坑の閉山、国鉄の民間移管という社会現象も、そこで働く人々にとっては大きな犠牲をともなったわけである。我々は、民主主義というものを平等社会の実現という風にとらえがちであるが、これこそ共産主義革命の本旨であり、平等主義ということがそもそも人間の生存の摂理に違反していることである。  
人間というのは生まれ落ちたときから基本的に不平等であるわけである。  
金持ちの家に生まれるか、貧乏人の家に生まれるかは自己の意志で選択できることではないわけで、それを人間の形をしている生きものを全部平等に扱おうとしたところで無理があるわけである。  
炭坑の閉山にともなう犠牲者を、他の社会生活をしている人々と全く同じように平等に扱おう、というのも、理念としては立派な考え方であるが、完全なる実施は不可能に近いものと思う。   
理念と現実というのは、常に大きな乖離があるわけで、人は理念のみでは生きられず、現実の中でしか生きられないわけである。  
その意味で、政治というのは、統治する側は常に現実を見つめ、現実に即した行政を実施しようとしているわけであるが、反政府、反体制の側というのは、常に理念を振りかざして、捕らぬ狸の皮算用式の心配をしているわけである。  
そして55年体制の中で、常に政治を引っ張ってきた自由民主党というのは、現実というものを見つめ、社会党をはじめとする野党勢力というのは、理念を振りかざしていたわけである。  
日本型民主主義の中で、この現実と理念はあい交わることはなく、話し合いという、一見民主的で整合性のありそうに見える方法をいくら実施しても平行線のままである。  
これでは何一つ解決できるわけはなく、いたずらに時間の経過を招くだけである。  
国会の場で、政策が丁丁発止と議論されるのではなく、日本の国会運営というのは、与野党選出の国会運営委員会で決まってしまうわけである。  
議事堂で政策が論議されるのではなく、国会運営委員会で実質的に法案の成立不成立という事が決まって、後はパフォ−マンにすぎない。  
そして、国民から選出された国会議員というのが、党利党略で動いているわけで、所属する政党が支持者の意見を集約している、というとらえ方がされているが、国民の意見というものはストレ−トに反映されているわけではない。  
55年体制で、自民党が単独で政権を維持できた時代は、自民党が国民の意見の大筋を先取りしていた、ということは言えていると思う。  
つまり、現実の問題として、野党勢力が問題提起するよりも先に運動を起こすわけで、野党勢力というのは、現実問題の先取りに何時も失敗しているが故に、常に自民党の問題提起に対して反対する以外に存在意義が見いだせなかったわけである。 
 
60年安保闘争8 記録1

 

六月には重い霖雨(りんう)が降る
フランスで“五月革命”なるものが起った。ドゴール体制に反抗した学生、労働者たちの自然発生的な実力行動からはじまった頑強なゼネストであった。フランス全土は麻痺(まひ)し、ドゴールの失脚は確実かと見られた。  
当初この立上りに反対し、むしろおさえようと努力していたフランス共産党と総同盟は、このとき出直し、おいつめられた政府と取引し、制限選挙法に従って民主連合政府の樹立、政権の合法的奪取をねらった。私はこの方針をきいて歴史状況への盲目ではないかと思い、革命の高揚を退潮させる裏切りだと感じた。選挙の結果は予想を上廻る左翼の大敗北。ドゴールは大勝して“五月革命”を乗り切った。  
こうなることは分りきったことではなかったか。私たち日本人には八年前にとうに経験ずみだ。「革命」というものが、「前衛」などの思うようになるものではなく、人民自身の自発的必要によって生じ、消滅する、きわめて流動的な、自立的な法則性をもつものであることを、そして、その短時日の上げ潮の機を逸したら、何びとの手でも決してそれを取戻すことはできないものであることを、傲慢(ごうまん)な既成左翼は、またもとらえそこねた。私が「安保」のことを想い出したのは、そのためでもある。
一九六〇年安保闘争から八年をへて、また安保改定の年が目前に迫っている。  
私にとって“安保”とは、六月の霖雨(りんう)のように重く、暗くしめった印象である。小雨かとおもっていると昼ごろ強い陽が射し、またとつぜん激しい雨ふりに変るという日々。六月十五日もそういう一日で、“泥と血にまみれ”という言葉がぴったりしていたようにおもう。  
私はそのころわけがあって、ひとりでくらしていた。私たちが関係していたある会社が破産し、私は失業者のような立場になって、週に一度職安にゆく以外には、妙に自由で孤独の身であった。私はそれこそ自分で弁当を作り、通勤するように毎日国会に通った。  
五月がすぎて六月に入り、安保自然発効の日が近づくにつれて焦躁感が高まっていった。安保反対国民会議の統一デモは、スケジュール通り幾回となくくりかえされたが、岸内閣は少しも痛痒(つうよう)を感ずる様子がない。そのうち共産党が立上るだろうと囁(ささや)ものもあったが、共産党は、“ブント”という全学連指導部のトロツキスト攻撃に熱中していて、決定打を放つ用意も考えもない。その全学連ははなばなしく突撃をくりかえしていたが、労働組織と結びつくことができず、これもきめ手になりえないでいた。  
空しく時間が流れる。私たちはにがにがしい想いをかみしめ、あるときはそのバラバラなデモのまわりを走り廻り、あるときは止むなく国民会議の統一行動、“お焼香デモ”に加わらざるをえなかった。  
五月二十七日、十万を越える大デモのなかで、私ははじめて、こんどの抗議行動は本物だぞという感動をえた。こんどのは上からの指導によるものではない。まったく新しい民衆の自発性が活気となって下からあふれている。なにかしらがふっきれている。世論の水脈があきらかに変ったのだ。  
六月四日、この早朝、私はラジオ放送記者のつたえるゼネスト成功のニュースを聞いて“光”をつかんだ。有史以来はじめて、日本の労働者階級のゼネストが、大多数の日本国民に支持されたというのだ。こんなことは、かつてなかったことだ。それが確認された以上、この日から前衛部隊の突撃行動は許されると思った。  
国民の支持がとれたかぎり、もはや非合法は合法に転じたのだ。正義は権力の側にではなく、民衆の側に移行している。この情勢が保持されている短かい間に、中央突破行動にでよ、上げ潮の波頭を激浪に変ぜよ、戦術を変更せよ。  
私はこの日から自分の判断に確信をもった。六月四日以降、私たちは国民会議のマンネリ・デモに参加することはやめ、極力、全学連と労働者組織との連結をつくりだす方向へ力をふりむけた。余裕は二週間しかない。こうなってはもはや既成組織をあてにすることはできない。戦意のある集団なら思想の違いを越えて中核にせざるをえない。  
私たちは、このころから、六、七人の歴史家によって自立した組織をつくり、独立行動をとるようにした。旗もたいそう個性的な“歴史家の旗”を大急ぎで作製した。この旗は、横長の濃いえんじの布に黄色で「史」という大文字をそめ出し、その下に人型模様化した小さな「史」が七人ほど、スクラムをくんで前進しているようにデザインした。このひときわめだつ大旗をかかげて各部署に自由に移動し、行動した。私たちのしごとは全局面を冷静に観察し、現状を正確に把握すること。デモ隊のエネルギーを霧消させる流れ解散をくいとめ、少しでも全学連を孤立から防いでやること。労働者市民組織を戦列にそろえることに協力すること。その他記録などであった。  
そうしたある日の参議院会館前の路上でのこと。日本共産党本部の大型宣伝カーが、国会南通用門付近にたむろしていた一団にトロツキズム攻撃を浴(あび)せたため、憤激した学生や市民などデモ隊に身動きもできないほど包囲され、抗議されるということがおきた。私たちも近寄ってその言いあいを聞いた。ところが突然、スピーカーが「裏切り者去れ!」と叫んだと思ったとたん、車が、急発進し、前にいた人垣をはねのけ、あわや数人をひき殺すところであった。(このとき死傷者が出なかったのはまことに偶然というほかない。)  
私たちはこれを目撃して言いようのない痛烈な衝撃をうけた。宣伝カーには党最高幹部の袴田里見が乗っていたのである。このとき、この党にわずかばかり残されていた期待が、さいごの一片までこなみじんに砕け散るのを感じた。私たちは、かれらが、もはや人民の前衛などというものではなく、党利を至上とすろ一種の爬虫類集団であることを知った。  
一九五五年の六全協ごろから、私たちの間では、日共のスターリン主義的な常任活動家型人間像のことを、「爬虫類」という言葉でよびならわしていた。皮が硬く頑丈なばかりで、触覚がにぶく、頭脳は柔軟でなく、そのため国民から好かれず、官僚的、教条的で、救いようのないタイプだとでもいう意味であった。だが反面この言葉には、人間はお人好しで鈍感でも、いざとなれば「爬虫類」のごとく頑強に敵と闘うだろうという若干の期待もこめられていたのである。  
ところが、六月の行動を通じて、この「前衛」は、眼の前で何万という学生や市民が権力と衝突して血まみれになっていても、自分の指導に服しない者は平然と見殺しにするばかりでなく、かえって一般大衆を、かれらから引離し、打撃をくわえるような仕打をするものだということを知らしめたのである。  
これはかのロシアのポルシェヴィキが一九〇五年、血の日曜日にとった行動とは正反対だった。あのときロシアの「前衛」は、挑発者に煽(あお)られた何万という大衆がツァーの銃剣のまえに行進していったとき、その大衆を非難したり、見殺しにしたりするのではなく、大衆の前面に立って、かれらを自分の背後にかばいながら後退させたのであり、そのため、まず多くの党員が銃弾にたおれたのである。そしてそのことによって、「ツァー」 の正体を知らしめ、合法主義の足かせから大衆を革命的反乱へと解き放ったのである。
六月十五日、私たちは午後、研究所や大学教員たちのデモ隊に参加していた。デモが参議院前にさしかかったとき、数名の学生が殺され、学生たちが国会構内へ突入したという情報が入った。そこでこの大学教授団 (?)のデモはストップし、これからどうするかで一時間余りも小田原評定をしたのである。指揮者のある者は、このまま引返すことを提案した。私たちは怒声を放って断じてこれを許さなかった。結局、学生たちの後衛=友軍の形をとって南通用門前にすわりこんだ。そこで徹夜したのは、組織としては、この数百人の大学教員、研究者のデモ隊だけとなったのである。  
その未明、デモ隊は南通用門前の機動隊の急襲に逢い、私たちの誇る“歴史家の旗”も彼らに奪われた。そのときもひどい雨で、炎上する警備車の赤い光に強い雨脚(あまあし)が浮び上り、青色の鉄かぶとが走り廻って、散乱したデモ隊を叩きのめしていた。  
私はそのとき国会内にいたが、機動隊の急襲直後、外にとびだし友人たちの姿を求めた。鉄かぶとの間を縫って、坂をかけおり、外務省前まで走り、ずぶぬれの一隊に追いついた。はだしの大学教員、傷ついている研究者、服を裂かれたもの、眼鏡をうしない泥まみれの顔、言葉少なく重く沈んでいたが、かれらは隊を離れてはいなかった。  
その直前、国会構内の全学連の抗議集会、樺美智子にたいする黙祷の瞬間にも雨は学生たちの(まだヘルメットをかぶっていない)黒髪の上に容赦なく落ちていた。それをびっしりと囲んでいる鉄かぶと姿の機動隊員。私は、黒い二種類のその異様なかたまりを見おろす会館内の一室にいながら、そこでもむなしく時の流れ去るのを感じていた。  
大きなテーブルをはさんで、社会党委員長の浅沼稲次郎が、共産党幹部会員の志賀義雄が(かれはこの会合に出席したかどで、宮本顕治から電話で叱貴されたときいた)、各大学の教授団の代表が、東大の茅総長と早大の大浜総長が、総評の其々が、駆けつけてきていた。しかし、再度の激突まで小半時(こはんとき)、かれらはなんの指導方針も出すことができなかった。  
志賀は神経的に焦立(いらだ)った高い声で人権侵害を叫ぶだけ。茅と大浜は知人だという警視総監に電話連絡して、これ以上の実力行使をやめさせるようにしてくれとたのむ、それとひきかえに、突入した全学連を朝四時までに国会構内から外に出すことを約束するという無原則な妥協をはかるだけだった。「安保反対国民会議」の総指揮者などはどこにもいない。もちろん規定方針通り流れ解散して、どこかでビールでものみながらテレビでもみていたのだろう。この間、浅沼稲次郎はただ、顔一杯に苦痛を浮べ、目をしばたたかせながら押し黙って、時を耐えていただけであった。  
私はこのシーンを皮肉な眼で観察していた。議員会館から構内へおりようとすると、階段や地下室は、傷を負って手錠をはめられた学生で埋まっていた。重傷者もココンクリートの上にころがされている。ちょうど戦争中の捕虜と同様だ。教授団がこの措置に抗議し、長椅子などにかれらをのせて救急車にはこび入れた。  
私はこのとき、国家権力と激突している大衆だけがあって、「指導」も「前衛」も全く存在していないこと、急流のごとく進む情勢になんらの策ももちあわせていないことを痛いほど目撃した。この無策と見ぐるしい周章狼狽の数刻が経ったころ、警視庁機動隊は喚声(かんせい)をあげて学生集団に突入した。照明弾がうちあげられ、怒号と罵言と撲声とがいちどきに上った。強い雨脚が紫に照らしだされ、ふたたび血がふきだした。やがて正門付近から、車の燃えあがる火炎と爆発音が起り、銃声のような激しい音がこだました。私はこの時、「事態は確実に変るぞ」と心につぶやいた。  
一九六○年の六月は私の人生の画期となった。  
翌六月十六日、学生、労働者の怒りは絶頂に達し、全学連の隊列はいちやく数倍にふくれ上った。雨中のデモは十何万の数に達し、それはまた日本中の都市という都市のデモにはねかえった。一瞬、革命的情勢に似た急迫した人民のうねりが出現した。  
夜通し行われたテレビの生中継やラジオの実況放送がこれを全国に伝えた。この報道を見聞きして多くの人民が国会周辺に駈けつけてきた。  
岸内閣は狼狽し、アイゼンハワー米大統領の訪日中止を決定し、自衛隊に緊急待機の命令を下した。二、三日間ではあったが、政治危機が国家権力を恐怖におとしこむところまで達した。  
だが、この期にいたっても共産党と国民会議指導部は「整然たる大抗議運動を!」「極左分子の策動排除」「流れ解散」を叫ぶだけであった。  
私は六月十八日、デモ隊を駅前広場へ誘導しては即時解散を命じているかれらのやり方に遂に激怒し、日共本部の大型宣伝力ーの上にかけ上った。  
「マイクをわたせ!」東京駅、八重洲口前広場のまん真中。三十万といわれた大デモンストレイションをそこに導き入れては、流れ解散を強制していたマイクを奪い取り、「デモ隊は国会に戻れ」と叫ぼうとした。車の上で私は二、三の党員ともみあった。「武装解除」に等しい解散指令をうけて、デモ隊員の不満が渦巻いていたことは、痛いほど私たちには分っていた。だから、これを拒否して「統制」をふっきらせるには、ほんの些細(ささい)なキッカケさえあればと、直感したのである。  
なぜ、終始冷静な態度を失うまいとしていた私が、最後にいたってエキサイトし客観的な大局観を見失うような行動をしたか、という人があるかもしれない。しかし、私は興奮などしたのではない。このときほど冷静に計量しっつ行動していたことはなかった。このときほど深く自分の思想の自立性に確信と自制心をもっていたことはなかった。  
私の動きは完全に意識的だった。一日一日の動きを予言し、一瞬一瞬判断し、それをかなりのていど的中させ、めざす方向へ歴史の歯車を少しでも廻そうとつとめた。私は真の意味で「行動」し、決定的瞬間に歴史に働きかけ、そして目の前で国家権力が狼狽し、擬似前衛が崩れてゆくすがたを見とどけた。その間、なによりも歴史家としての眼を見開いていた。  
私には歴史における人間の「行動」とはどういうものかという難問が心底からなっとくされた。この体験がなかったら、私の歴史学というものは成り立たなかっただろう。十五年前の私の戦争の痛恨もこのときを境にふたたびよみがえらなかったであろう。いわんや“前衛”と大衆との乖離(かいり)の悲劇を扱った『困民党と自由党』(『歴史学研究』一九六○年十一月号)の論文や、『明治精神史』も生みだすことはできなかったろう。  
私はそのとき生活的には失業者であった。いまは黄河書房の専務である佐藤氏と三鷹の職安に通っていた。だが、このときほど精神的に自由で確信にみちていたときはなかった。それをおもうとあの六月の充実感がよみがえってくる。
一九六〇年十一月、浅沼稲次郎が右巽の青年によって刺殺された。  
それは星の輝くきびしい晩だった。ふたたび昂揚(こうよう)が起るかと期待されたが、予想通りテロでは人民の波は立たなかった。だが、全学連の余熱はまだ凄(すさ)まじく、その夜、警視庁は完全に怒りの渦に包囲された。怒涛(どとう)のような渦巻デモが、終夜、あの傲然(ごうぜん)と人民を見おろす「権力の牙城」の正面玄関の石だたみの上をうねり、荒れ狂った。  
私は黙然(もくねん)と腕をくんでその小高い車よせの石塀の上に立ちつくし、眼前を迸(ほとばし)ってゆく怒涛の流れに自分の魂をさらした。そのとき、私は激動を自己の内面の深い部分に受けとめ、「歴史とはなにか」をまざまざと凝視した。殺された浅沼の、六・一五の夜の苦渋の表情を想い浮べながら……。  
私が「歴史学」を、やり甲斐のある第一義のものかもしれないとおもうようになったのはこの時からであった。それから私はどうしたか。私は戦後十五年にして、ようやく一切のものから離れ、自由に「自分」に還っていった。はじめて、ひとりの「私」に帰った。さまざまな幻想が霧のように消え、擬制が私のなかで崩壊すると同時に、軽くなった肩をおろし、重い心をひきずって、自分を専門家として確立する道にと入っていった。同時に、まったく翳(かげ)の世界、頽廃(たいはい)の渦中に足を突込みもした。  
片方で異常な研究・調査活動、他方で泥まみれな“賭け”が孤独のうちに続けられた。私は二重の生活を生きる人間となり、思想的には抵抗と頽廃を同居させ、深部でせめぎあわせた。緊張した静かな激闘の日々がつづき、自己放棄と自己試練の潜行がくり返された。「痛覚を耐える」、こうした言葉がぴったりする長い時間が流れた。  
この間の経験の“うわべの静けさ”を人は背徳的だということができるか。急落感がたえず私の実存をおびやかし、夢の中で私はなんども底なしの虚空を落ちてゆくよぅな墜落感を味わった。この「痛覚」の経験がなかったら、私は私の「北村透谷」をとらえることはできなかったろう。民権運動敗退期の透谷が、いかにして蘇生していったかの奥深い内面過程をとらえることはできなかったろう。  
私はいま近代日本の思想史家、いや精神史家だとみられている。透谷学者だといわれている。だが、ここまできてはっきりいえることは、私の思想史の原質は、一九四五年八月十五日と一九六○年六月十五日を貫ぬくところに形成されたものであるということだ。八・一五では私は「転向」した。だが、六・一五では深まりこそすれ揺らぐことはなかった。
一九七○年がまた数年後に迫ろうとしている。私には国内の情勢の見通しは甚だ暗い。組織の頽廃はいっそう進行している。だが、ひとつだけ光りがある。こんどは幻想に欺(あざむ)かれない、はっきりと見開かれた眼が幾万とあることを、「敵」も「味方」も知らねばならぬ。だが、その醒めた眼が、私には七○年までに真の組織に結集できるとはおもえぬのだ。 
 
60年安保闘争9 記録2

 

記憶への旅「1960年6月15日」
雨に煙る国会周辺の光景が昨日のことのようによみがえる。もう45年も前のことか、そんな嘆息が思わず漏れてしまう。僕の記憶の奥深くにあり、忘れようにも忘れることのできない日である。このような忘れがたい日々を想起しながら僕の経てきた時代について語りたい。時代への旅ということになるのだろうか。誰の記憶にも濃淡はある。記憶にはまた潤色がある。だから記憶がどこまで当時のことを正確に再現しえているかは定かではない。でもそんなことはどうでもよい。記憶があてにならことが問題ではない。記憶によってしか僕らは過去を再現はできないのだからである。記憶が現在から潤色されて個々人の中に保存されているものでしかないとしてもそれを誰もとがめようはない。それよりむしろ記憶は現在から再生されることで、豊かになっていくことがあることを認めたほうがよい。なぜならかつては見えなかったものが、見えてくると言うことが有りうるからだ。記憶は意識として存在するが、この意識は無数の拘束を受けていて、無意識や潜在的意識もあり見えなくしている要素もある。意識それ自身が意識を遮断していることがある。それらが拘束を解かれ、見えなかったものが見え始め、意識が変容し包括的になっていくことがある。意識が潤色されることにはそのようなこともふくまれている。この問題には経験という事柄が存在している。経験は絶対的なことのように信じられているが実は経験もまた変容するのだ。変容して存続するのだ。僕等が経験したこととして取り出したり、思い込んだりしていることは、ある時点での経験に過ぎない。経験としてある事柄を取り出す時そこには言語が介在している。経験を経験として取り出す時には、経験を媒介する言語(言葉)が介在しており、それは制約を持っている。制度的な、または他者の言葉という制約がある。とりわけ、無意識や潜在意識が取り出しにくいということもある。生理的身体に信頼を置くアジア的な経験思想では忘れがちであるが、経験ということの中に含まれている制約が存在するのだ。だから経験が再生して現在から取り出される時、かつて経験したものとして思い込んでいたものが相対化され、別のものが見えてくることがある。経験を取り出す媒介が制約していたものから、解放されるとき経験も異なってあらわれる。経験も記憶も現在から再生されること、そのように存在しているということが大事なのだ。再生されてあることが経験や記憶の存在条件なのである。  
1960年6月14日の東京学生会館の雄飛寮で開かれた会議は異様な雰囲気だった。6月15日の闘争方針が提示される日だったからだ。雄飛寮は中央大学の闘争前夜の宿泊所として借りたものだが、そこで深夜の会議がもたれたのだ。僕の所属していた大学の組織では大きい闘争の前夜には旅館や大学の寮などで深夜の会議がなされた。それが恒例だったらしい。1960年の4月26日闘争(学生たちが装甲車を乗り越えた初めての闘争)の前の日は本郷の旅館であったが、この日は東京学生会館の寮だった。この会議の最後の方でブンドの島成郎書記長が発言をした。彼は主要な大学を回り、ブント中央の方針を伝えていたのである。もちろん、具体的な行動は語らなかったが、その発言からは相当な決意が読み取れた。僕は安堵感とともに緊張感も抱いた。緊張感は出入りの時と同じものだが、なかなか寝つけなかった。いつの間にか安保闘争にのめり込んできた日々のことが走灯馬のごとく頭の中をかけめぐっていた。安保闘争は終盤を迎えていたが闘争は停滞気味で僕らは暗い気分にあった。当時、全学連の闘争は戦術的失敗と孤立の中で行き詰まっていた。下部の活動家だった僕らは焦燥感にとらわれていた。急進的闘争で運動の高揚を切り開いてきた全学連は後退状況になすすべもなく立ちすくんでいた。僕にはそう思われた。「もう爆弾闘争しかない、血判書を回すから加わってくれ」「今度だめだったブントももう終わりだ。俺は見限るよ」などの声もあった。僕はこのまま終わるのかと焦りの中で何とかしたいという思いにとらわれていた。闘争方針を考えたというわけではない。そんなことは僕にはできるはずはなかった。下部の活動家だった僕は現場で頑張るという以外に方針の立てようはなかった。何かしなければという内心の声に突き上げられていて焦っていたのだ。ブントの方針に安堵感を感じた。明日は何かやれるかもしれないと思ったのだ。  
僕が1960年の安保闘争に加わったのは高校を卒業したばかりの19歳であって、その闘争の意味など本当はわかりようがなかったのかもしれない。この闘争の意味を自分なりに考え、語ってもいたつもりだが、その頃,上級生や組織の言葉を模倣していたのであると思う。僕が最初にデモに参加したのは4月の23日であるから、6月の15日まではわずか2ヵ月余りに過ぎない。それでもこの2ヵ月の間には様々のことがあった。この時期に生じたことを取り出せるようになるのは、その後の長い時間を経てからである。無意識も含めて悩み、惑いながら闘争に加わっていたのだと思う。本当は今もわからないところがあり、振り返るたびに違った風にイメージされることもある。僕は当時、全学連の主流派に加わり活動していた。それは、全学連の呼びかける行動に参加していただけでなく、それを組織する活動もしていた。中央大学の自治会は全学連の主流派を支持していたが、僕は個人的にもこちらを支持していた。高校生のころから世間的には孤立する全学連の主流派にシンパシーを抱いていたし、やるならそちらだと思っていたのだ。親からは学生運動だけはやるな、もしやれば送金は止めると脅かされていた。だから、逮捕され親にばれることは心配していたが、運動から引返すことはできないところにのめりこんでいた。高校生のころはあれもやりたい、これもやりたいと思っていた。大学に入ればやりたいことがいっぱいあるように思っていたのだ。それで安保闘争に加わり,活動に打ち込んでいれば、やることは狭まっていた。段々、下宿と自治会室の往復の毎日になっていた。学校に行っても授業にはほとんど出なかった。そんな生活には不安も掠めていたが、結構楽しかったのである。学校に言って授業にも何回かは出たが教養関係のものは退屈でつまらなかったし、語学の授業は高校の延長でうんざりした。それから見ると授業に出ずに活動にのめり込んでいるのは解放感があったのだ。下宿は東中野にあったが、デモの帰りなどは友達と新宿により「歌声喫茶」などにも寄ったこともある。五木寛之の『青春の門』に出てくるのと同じである。下宿は賄いつきの3畳半で確か10人位が住む専用の棟であった。下宿ではデモに参加する学生も2,3人はいて議論になった。幼稚な議論だが熱心に語りあった。あのころ僕らはまだ誰もテレビは持っていなかった。学生が持っていたのはトランジスターラジオであった。ラジオからは歌謡曲とともにアメリカンポップスが流れていた。『悲しき16歳』や『恋の片道キップ』などが流れていた。深夜放送もあり、甘い囁きが聴こえていた。はじめて1人で生活することの解放感が僕をとらえていたのだろう。  
6月15日の朝からの行動については明瞭な記憶はない。記憶という意味では1960年の4月26日の朝の方が鮮明である。この日は全学連の主流派を支持するグループと反主流派を支持するグループが対立していたからだ。小競り合いのようなものもあり、緊張はあったのだ。こんな風にデモは組織されるのだというはじめての経験でもあって記憶に強く残っている。6月15日は機会あれば国会に突入すると決意していたが具体的にはどうなるかはわからなかった。国会の周辺を3度ほど回っていたころだろうか、顔見知りの全学連の中執(中央執行委員)の1人に中大と明大の部隊を先頭に出しておいてくれといわれた。そろそろやるのかと思った。当時、大体、デモの先頭は中大や明大の部隊がやっていたからだ。当時、国会正門には板張りしたトラックがバリケード代わりに並べられていて突入は無理だった。南通用門の方から突入するという指示がきた。南通用門にも門の内側にトラックが並べられていた。それは国会の正門と違って門の内側にあった。僕らはまず門をこじ開け、トラックを引っ張りだしはじめた。ロープやペンチも用意されていた。中から警察は放水で妨害し、僕らはびしょびしょになりながらトラックの排除をやっていた。やがて、トラックは運動会の綱引きのように歓声の中を引っ張りだされた。そして僕らは隊列を組み国会構内に突入した。この突入は警察との激しい押し合いとなった。先頭の近くにいた僕は後からデモの圧力と警察の間で苦しい状況にあった。僕らはスクラムで相互にかばいあいながら必死に前に進もうとしていたのだ。足を浮かせることは危険であり、浮き上がるようになる中で足だけは地面から離さないようにしていた。体が浮き上がり転倒すれば他の人に押しつぶされるが、それを誰も救えないのである。これは推察であるが、樺美智子さんが亡くなったのはこうした状況での圧死であったのかもしれない。僕には詳しいことはわからない。当時の状況から推察すぎない。このことは警察とデモの構内への突入が激しい攻防であったことを物語る。素手の闘争としては極限的なものであり、転倒すれば誰でも圧死しかねないものだった。僕らはかなり奥深く警察を押し込んだように思う。あるいは警察は立て直すようにいったん引き上げたのかもしれない。警察は構内で集会を開こうとしていた学生たちに襲い掛かり僕らはちりじりばらばらになりながら構内から退散した。この過程で樺さんは殺されたことも考えられる。もちろんこれも推察である。構内から外にたたき出された僕らは隊列を建て直し再度の突入を試みようとしていた。このころには女子学生を含む5人の学生が殺されたという流言飛語が飛び交っていた。異様な雰囲気であった。暮れなずむ光景に小雨も降り始めていた。警備の警察は再度のデモの構内突入に対してはさしたる抵抗も見せなかった。多分、これは樺さんの死を警察は知り再度の衝突を回避したのかもしれない。彼らもまた、警備の体制の立て直しをしていたといえる。小雨の振るなか構内では集会が開かれていた。記憶にあるのは僕らが樺さんに追悼のための黙祷を捧げ、警察にも帽子を取ることを迫ったことだった。ヘルメットか帽子であったかの記憶は定かではないが学生たちの警官への激しい怒りに満ちた要求だった。構内では宣伝カーを中心に集会が持たれていた。吉本隆明の演説は記憶にある。あまりよくは聞こえなかった。そうこうするうちに警察は襲撃を開始し僕らは外にたたき出された。小雨降る暗闇のなかであった。南通用門の外に出された僕らは正門前に移動して体制を立て直そうとしていた。その過程で警備のバリケードとしてあったトラックを引き出し燃やしていた。引き出されたトラックは横転させればガソリンがもれ始めそれに火をつければ簡単に燃え始めた。学生たちの歓声の中でトラックは次々と炎上していた。雨のために正門の前の窪みには水がたまりそこにはトラックの油が溜まっていた。南通用門は大学の教授たちが座りこみ再度の衝突を避けようとしていた。かなり時間も経ったころに警察は催涙弾を打ち込みながら国会周辺の学生を追い散らし、僕らは逃げた。僕が逃げたのは有楽町駅の朝日新聞前だった。朝日新聞は当時はここにあった。ここには救護班も居たが、僕は片足は裸足で爪がはがれていた。痛さは意識しなかったが手当ては受けた。騒乱罪の適用で全員逮捕だといううわさが流れていたが、僕は始発を待って有楽町駅にいた。南通用門での最初の攻防から有楽町駅への逃げ帰りまであっという間に時間は経ていた。ここから安保闘争の最終局面の闘争は始まっていった。
6月15日の国会構内での集会を僕は当たり前のこととして考えていた。これには前段がある。1959年の10月27日に既に国会構内での集会は行われていた。この集会は政治的に組織された結果というより、国会正門が空いていたので入って中で抗議集会を開いたということだったように思われる。ある程度は偶然的な要素もあった。ただ、この結果に対する反響はすさまじかった。新聞や自民党などはこの行為を暴挙として批判した。「神聖な国会を汚す暴挙である」「民主主義を冒涜するものである」などの批判が起こった。これに慌てたのは共産党や社会党(総評)などで弁明と逃げを打ち始めた。全学連のせいにして自分たちは逃げ出したのである。だから、当然のことながら、学生たちは孤立していた。僕は当時、田舎の高校生で当初はマスコミの論調を間に受け何とひどいことをする連中だと思った。民主主義に反する行動だと思ったのである。しかし、自分なりに考えて行くと非難の論調の方がおかしいと思うようになっていた。この構内集会の責任者として二人の学生が東大の駒場寮に立てこもり、その籠城の問題が新聞などをにぎわしていた。誰かに影響されたというわけではない。僕は新聞の論調などに反発し全学連のシンパになっていた。彼らの政治主張などは知らなかったわけだから一種の判官ひいきみたいなものであったのだろう。この年の暮れに吉本隆明の「戦後世代の政治思想」を読み驚いたことはあるが、吉本の思想的影響を受けるのはもっと後の方である。学生たちの急進的な行動を僕は当たり前のことと考えるようになっていた。  
この事件を契機にして全学連主流派と共産党や社会党の対立は激化していた。日本共産党は全学連の反主流を作り、社会党などの安保反対国民会議は全学連主流派を締め出し、全学連は孤立しながら独自行動を取るようになっていた。共産党は秩序の枠内での合法的な表示行動をすべきであると主張していた。実力的行動は国家権力の側の挑発を招くだけでなく国民の支持を失うとしていた。これに対して全学連主流派やブントは政治的意思表示の自由な展開が国家権力によって抑圧されるならこれを撥ね退けるべきであると主張していた。共産党や社会党は議会で多数をうるための政治戦略から安保条約に反対する闘争を考えていた。選挙に向けての党勢拡大が最大の政治戦略であるとしていた。共産党は1951年の武装闘争路線の後遺症のためか、合法的な枠にこだわっていた。政治行動が合法的秩序を超え、その結果国民的反発の出てくることを恐れていた。武装闘争で権力の奪取を試み、惨憺たる結果になったことの恐怖があったのだろうか。権力の弾圧の下で大衆的に孤立することを極度に恐れ実力闘争の抑圧者に転じていた。これに対して全学連主流派は実力的な政治的意思表示を展開することを主張していたがその位置づけは明瞭ではなかったように思われる。安保闘争を党勢拡大や選挙のために利用することを拒否していた。運動の政治的利用主義を否定することは明確であったが、その運動が国家や権力との関係でどのように概念化されるか、あるいはイメージされるかははっきりしていなかった。僕らは当時は今はその時期でも段階でもないと思っていたが、その後にこのことは大きな影響を与えることになった。議会外の政治的な意思表示が、合法的で秩序だって行われなければならないという主張への批判はあった。それは政治的意思表示が時の秩序を超えて展開されるのは問題ではなかったのだ。共産党や社会党の秩序遵守や議会主義に反対することは明瞭であったが、自らの行動を位置づける概念ははっきりしないところもあった。  
1960年の6月15日の国会構内を占拠し抗議集会を開くことを反民主主義的行為と僕らは見ていなかった。既存の政治勢力からの反民主主義という批判は問題外だった。政治的意思表示として当然の行為であるとしていたのだ。むしろ、強行採決などの行為も含めて国会で展開されている事柄を非民主的なものと見ていたし、それに比べれば僕らの行動は民主的のものと思っていたのである。6月15日は樺美智子さんという犠牲者をだしながらではあったが、僕らの政治的意思表示としては成功であった。力による意思表示をやりぬいたという実感は存在した。デモに参加した学生たちの意識は日本の政治権力の非民主制への怒りであり、その集合としてあった。多分、安保闘争に参加し、それを支えた学生や市民の意識は大雑把に言えば二つの契機を有していたように思う。これは安保闘争を構成した大衆的意識といっても言いと思う。学生や市民の意識の基盤に降りてみればである。  
その一つは戦争に反対という意識である。反戦というより、非戦の意識である。戦後の日本の国民的意識としてこれは存在してきたと思われるが、安保反対の背後にあったものである。当時も言葉でいえば戦争に巻き込まれることに反対するということだが、この巻き込まれたくないという言葉は消極的に聞こえるが、第二次世界大戦のあとに朝鮮戦争を含めた冷戦が激化していくことへの国民の反応であった。米ソ間の緊張の激化は、絶えず米ソから自己の立場の容認と加担を要求してくる。正しい戦争の側はあり、そちらに加担することの要請である。日本の国家は世界の政治関係に連なっており、どちらに加担するかを強いられるのは避けられない。それはアメリカの立場を容認するか、ソ連の立場に立つかである。日本の国家権力を構成する保守派の政治勢力はアメリカの立場を容認していたし、その陣営に立ってきた。他方、日本共産党や社会党はソ連の陣営に立っていた。アメリカ側の戦争のソ連側の戦争のどちらも支持しないと。日本国民の非戦意識はどちらの陣営にも立たないことを意味していた。米ソが世界性を代表する限り、国民の非戦意識は世界的に見れば孤立していたが、これは独立性を意味していた。この独立性は孤立性と表裏であった。日本共産党や社会党は国民の非戦意識を平和主義として表現しようとしていた。それは冷戦下のソ連が政治戦略として、平和路線へ転換していたからである。武力革命による敗戦革命を展開するという路線はスターリンの死後に転換していた。これには中国共産党などの反対もあり、中ソ対立も含めて、アジアでは複雑な展開を遂げる(これについては後のほうで詳しく述べる)。米ソの冷戦が朝鮮戦争のような代理戦争の激化かとしてあった時期から、平和共存路線に転換するに沿って、共産党などは平和路線に転じた。1951年の武装革命路線から平和路線にである。この平和路線という転換した政治戦略に国民の非戦意識を利用する(取り込む)というのが社会党や共産党の政治戦略であった。国民の非戦意識は世界的には孤立しているが故に、共産党や社会党の平和勢力論(反米論)に取り込まれたように見えたかもしれないが、そこには距離感は存在したように思われる。共産党は1951年綱領で武装革命を掲げ、朝鮮戦争では北側に加担していた。スターリンの敗戦革命の武力的展開という考えを推進しながら、何の総括(反省)もなく、平和路線に転じても本当の意味での国民的支持を得ることはできなかったのである。国民の非戦意識は共産党や社会党の平和戦略の出所と中身を知っていてそれなりの距離をとっていた。だから、共産党や社会党が国民の非戦意識を代表し、保守派が敵対したというのではない。むしろ、この国民の非戦意識は保守陣営にも大きな影響力を持ち、その政治戦略に規定力を発揮してきた。この非戦意識は保守陣営の内部ではアメリカとの関係意識として働いた。  
アメリカの世界戦略に同伴する立場に立つが、そうはいってもそこに様々の立場が在る。アメリカの軍事戦略からは距離を取って行こうとする立場と軍事同盟的な同調を志向する部分まで幅がある。この幅を生み出した要因はこの国民の非戦意識である。当時の新聞は、国民の「戦争に巻き込まれたくない」という意識を取り上げていたが、この意識の集合が「安保反対」の構成要素であったことは疑いない。通俗的には安保闘争は日本がアメリカ側に立つか、ソ連側に立つかを決めたというが、これは間違いであると思う。日本がソ連側に立たないことはもっと以前に決まっていた。1952年のサンフランシスコ条約の以前なら、まだしも、1960年安保はそんな段階ではなかった。ナショナルは非戦意識は世界のあらゆる戦争、米ソの代理戦争に巻き込まれたくないという意識として噴出し、反安保の意識となった。だが、共産党や社会党の「平和論」(政治的平和論)と自民党の「自由陣営論」(アメリカ加担論)への距離と異議を持っていた。  
安保闘争を構成した大衆的意識のもう一つは国家権力の権威主義に対する反感であった。日本は戦後、天皇統治の国家から、主権在民の国家に変わった。民主主義国家になったのである。しかし、官僚の主導する国家であり、官僚主義が跋扈してきた事には変わりはなかった。天皇の威を着て権力にあるものが威張り散らす、その官僚主義がソフトなものに変わったのが戦後民主主義である。歴史の逆コースと呼ばれたのは、戦後民主主義に基づくソフトな官僚支配がハードな支配は変質していく事への警戒であり、批判である。国民は天皇の名による官僚たちの権威主義に反感を持ち。戦後の民主主義をそこからの解放に見出していた。安保闘争に先立つ1958年には警察官の職務規定の改正(警職法改正)が提出されたが反対の声が強く廃案になった。このとき、言われたのが「おいこら警官の復活」である。警官や軍人が威張り散らしていた事を戦後の世代は実感はないとしても、これに対する国民の反感と警戒心は強い。日本の統治権力のあり方に対する反発は戦前の軍隊や官憲と結びついていたが、それは根強くあり、安保闘争の内的推進力となった。これは安保闘争の過程では岸信介首相に対する反感として存在した。岸がA級戦犯であり、戦前の官僚であったことは官僚的権威主義の復活を象徴する人物として格好のキャラクターであったのだ。岸への反感は強かった。岸はナショナリストで日本の独立を志向していたというが、権威主義の匂いを紛々とさせていたという意味では戦前型の政治家であった。国民の民主主義意識は伝統的な官僚的権威主義への反感としてあった。権力(権限)のあるものが権威を笠にして威張り散らすことへの反感が民主主義意識の実態であつた。共産党への反感もまたその権威主義から来ていたと推察される。戦後世代の自由な感覚は権力の閉じられた性格と権威主義への反感としてあった。  
こうした国民の反安保意識は集合的意識として存在していた。この国民の意識とそれを国民の共同の意志として展開する言説の間には大きな乖離が存在した。反安保闘争をその時代の共同意志の表現として析出することの困難さは、その闘争を構成した諸個人の意識と共同的言説(反安保論)の間の乖離にある。政治組織からマスコミ、知識人にいたる安保闘争をめぐる言説は多く存在した。僕らはこの言説を媒介してしか安保に対する表現をするしかなかった。諸個人の意識とその時代の共同の言説の間の矛盾の意識は大きな問題であるが、そのことに気がつくのはかなりあとのことである。 
 
安保闘争10

 

我が国は戦後一度たりとも戦争の惨禍を蒙っていない。それは「憲法九条」があるからではなく、「日米同盟」による抑止力によるものである。  
我が国は、米の初期対日占領政策の「日本が再び米国の脅威とならないため」の方針に基づき、現憲法が押し付けられ、戦力(武器)放棄と交戦権の禁止した「憲法九条」を「平和憲法」だとの幻想を抱かせられ、我が国に60有余年も君臨してきた。  
世界の国において、平和条項(1項)はほとんどの国にあっても、戦力(武器)を放棄(2項)した国は先進国には無論なく、憲法に明記されているのは小国の4か国にすぎない。  
しかし、今もなお、NHKや朝日新聞などのマスコミは、我が国の平和は「憲法九条」によるものだと流布されている。  
しかし、世界は中国による覇権主義と、米国の相対的な力の低下による世界の変貌により、我が国はみずからの力で我が国を守る自主独立の気概と、同盟の他国をも守る「集団的自衛権」の行使容認が求められている。  
かつて米国に主権を奪われた以上に中国による奴隷の平和より、現憲法を改正し、対等な日米同盟を構築し、自主独立の平和こそを新憲法の前文に書き込むべきである。  
現憲法の前文には下記の通りである。  
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢(けいたく)を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍(さんか)が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言(せんげん)し、この憲法を確定する。(略)  日本国民は、恒久(こうきゅう)の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高(すうこう)な理想を深く自覚(じかく)するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(略)」  
こんな屈辱的な前文と戦力を放棄した憲法九条がどうして「平和憲法」であるはずがない。これは奴隷の憲法であり、屈辱的ではずべきであり、自分の国も、同盟国の守ってほしいとの依頼を拒む「一国平和主義」(利己主義)になり下がってしまった。  
事実、湾岸戦争の時には我が国は各国から尊敬する国として掲げられないばかりか、野卑な国と捉えられてしまったではないか。そしてまた同じ過ちを犯そうとしている。
安保闘争  
安保闘争(あんぽとうそう)とは、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり、日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)の与党自民党による慎重審議なくして強行採決を行ったことに関して反発した国会議員、労働者や学生、市民および批准そのものに反対する国内左翼勢力が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争である。  
60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り総辞職に追い込まれた。  
しかし70年安保闘争では、闘争に参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失った。  
1951年(昭和26年)9月8日に、アメリカのサンフランシスコにおいて、アメリカやイギリスをはじめとする第二次世界大戦の連合国47ヶ国と日本の間で、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されたが、主席全権委員であった吉田茂は、同時に、平和条約に潜り込まされていた特約(第6条a項但し書き。二国間協定による特定国軍のみの駐留容認)に基づく「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧日米安全保障条約)に署名した。  
この条約によって日本を占領していた連合国軍の1国であるアメリカ軍は、「在日米軍」となり、継続して日本に駐留する事が可能となった。  
なお、当時冷戦下でアメリカやイギリス、フランスなどのいわゆる「西側諸国」と対峙していたソビエト連邦は、西側諸国主導のサンフランシスコ平和条約に対立の意思を示し、49カ国の条約締結国には入らなかった上に、自国を事実上の仮想敵国とした日米安全保障条約に対しても激しく非難を行った。
ハガチー事件および、樺美智子の死  
6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティ大統領報道官(当時の報道表記は「ハガチー新聞係秘書」)が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に迎えの車を包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生(ハガチー事件)。  
6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、機動隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死。中継をしていたラジオ関東の島碩弥も警棒で殴られ負傷する。国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。  
このように激しい抗議運動が続く中、岸は15日と18日に、防衛庁長官赤城宗徳に対して陸上自衛隊の治安出動を要請した。東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたが、国家公安委員会委員長石原幹市郎が反対し、赤城も出動要請を拒否したため、「自衛隊初の治安維持出動」は回避された。 
 
「主権者の怒り」 松山善三

 

ついにその瞬間は来た。有権者の三分の一を越えるという二干万人余の新安保反対請願も日本歴史はじまって以来という空前の大衆行動も、「十九日午前0時」という“時”をおしとどめることはできなかった。携帯ラジオから流れる「新安保自然承認」というニュースを、私は首相官邸の前に集結したすわりこみのデモ隊の中で聞いた。一瞬、挫折感にも似た空虚な空気が、人々の顔をかすめたが、次の瞬間、デモ隊の人々は、立ち上がっていた。フラッシュとフライヤーに浮かび上がるデモ隊の人々の顔には、憎しみと怒りが、さらにこの暴挙をけっして許すまじという決意の色が赤々と燃えていた。  
宣伝力ーの上に立った社会党横路節雄氏が、「自民党は安保が成立したといっているが、これは無効です。これから議員面会所の前で、安保無効宣言を発表しますから、移動してください」と、声をからして叫ぶ。しかしデモ隊は動こうともしない。真白なホータイを頭にまいた全学連の京大北小路中執が、マイクを加藤委員長代理に渡す。二人の顔は蒼白だ。加藤委員長代理が、トラックの下からさし出された学友からのアンプル――ブドウ糖でもあろうか、ストローですい上げ、「学友諸君!学友諸君」と語りかけようとした時、議員面会所の方から北大の旗を先頭に各地の大学の旗をおしたてた学生の一隊が「岸を」「倒せ」「岸を」「倒せ」と叫びながら、怒濤のごとく首相官邸へ向かって流れて来た。  
汗とほこりにまみれた学生たちの顔、顔、顔が私の目の前を洪水のように流れて行く。「岸を」「倒せ」「岸を」「倒せ」というシュブレヒールは、時に「岸を」「殺せ」「岸を」「殺せ」という憎悪の言葉に置きかえられたが、しかし、その言葉は、さらに後続する「岸を」「倒せ」「岸を」「倒せ」という統一の中で、すぐに消えていった。「岸を」「倒せ」は「安保」「反対」「安保」「反対」にうけつがれ、それはさらに「国会」「解散」「国会」「解散」の合唱にうけつがれる。まるでそれは美しい、荘重な音楽を聞くように、私の皮膚をつきぬけて、身をふるわすような感動となって、私の心につきささってきた。
樺さんの死から  
その日の朝、全学連の抗議集会が日比谷の野外音楽堂で開かれていた。「学生虐殺抗議、岸打倒、安保粉砕」のスローガンの下に、ニメートル四方くらいにひきのぱされた当日の現場写真と、セーターに身をつつんだ樺美智子さんの写真が壇上から、集合した学生諸君を見下ろすようにしてさがっていた。  
あいさつに立った樺美智子さんの父は、マイクの前に立ってしぱらく絶句した。異様な、しかし悲しみにつつまれた一瞬がすぎた。「私もその日は学者、研究者の抗議集会に出席していました。民主主義は、もはや国会の中にはなく、わずかに抗議集会やデモの中に燃えのこっていると信じたから」「娘は死の前日まで、ほとんど夜も眠らないようでした。デモから帰ってくると、卒論の準備におそくまで机に向かい、翌朝またデモに出かけて行くような毎日でした。明治維新史講座が娘の机の上にのこされていました」とトツトツと語って、こみ上げる涙をぬぐった。そしてまた、「娘の死が民主主義と平和を守る、なにほどかの力となり得るならば、父としての悲しみは薄らぐだろう」と。  
その言葉には真実があふれ出ていた。しかし、美智子さんの死が平和を守る大きな力になり得たとしても、父として、母としての樺先生夫妻の悲しみは、永遠に深く胸をかきむしられるような思いとなって決して消えないであろう。それは、セーターに身をつつんだ可憐な少女のつぶらなひとみが、はっきりと物語っている。一ファシストに牛耳られたおろかな不安な日々の政治下になかったならば彼女の未来には、恋や結婚や育児という、輝かしい、そして美しい人間の生活があり得たはずだ。  
「ふたたびあやまちはくりかえしません」と国民は原爆の地広島に誓った。しかし、私たちはふたたびあやまちをくりかえしたようだ。岸首相を政権の座に送ったことである。そして、未来ある一少女の無残な死を招いた。私たちは一体、だれがだれに何を誓ったのか。戦争責任の追求が政界におけるほど、安易に見すごされている世界を私は知らない。今日の不幸は、岸首相を政権の座に送ったその日から予測されていたはずである。しかし、美智子さんの霊は、樺先生にあてられた次のような一国民の投書によって慰められるだろう。  
「私は今日まで保守党支持者であったが、岸内閣のような国民を裏切る政党には今後絶対に投票しない」  
そしてその手紙の中に百円札が一枚おりこまれていたという。  
学生の歌声に  若き友よ手をのべよ  
輝く大陽青空を ふたたび戦火でみだすな…  
高らかな学生たちの合唱を背に、私は音楽堂の外へ出た。公園には地方代表がそれぞれ旗を中心にしてぞくぞくと集結していた。
不気味な南平台  
その不安なニュースは午後二時ごろから人々の口から口へと伝わっていった。「南平台に焼き打ちをかける」というのである。女子学生の死が全学連の学生たちを異常に興奮させているというのである。私は南平台へ車を走らせた。道ゆく人々の足取りはせわしく、その顔には不安な政局へのあせりがみえるようだ。岸首相はデモを一部の反対分子ときめつけ、「野球場や映画館は満員だ」とうそぶいたが、映画館の中でニュースに岸首相が登場した時、「パカ野邸、ひっこめ!」と観客が叫び、その叫びに拍手のわく現実を、ご存じだろうか。私は映画の仕事にたずさわって十余年、このような罵声を、幸運にも一度も耳にしたことはなかった。  
南平台の公邸付近は不安なニュースとは逆に、ひっそりと静まりかえっていた。隣の私邸の門とヘイには有刺鉄線が縦横にはりめぐらされ、門のすきまからのぞくと、内部はがっしりと、これも縦横にくみ合わされた丸太でささえられている。公邸の門をはいると、異様な光景に驚く。五十人ほどの警官が、テントの下の荒むしろの上に河岸のまぐろのようにごろごろとならんでねむっている。警官たちの顔には疲労のあぶら汗がうかんでいる。警備の警官にふみあらされたのであろう、緑であるべき庭二囲の芝生は茶かっ色に桔れていた。  
公邸の裏にまわると、作戦本部といわれるテントがあり、大きなテーブルを中にして、十人ほどの警官が鋭い目で何台もの電話からはいる情報を聞いていた。その時、私の目にちらりと赤いものがうつった。木立の向こうに配置されていたのは一台の消防自動車である。水をはった真新しいバケツが四個、窓の下におかれていた。そのブリキの光が妙に印象的であった。不安なニュースは、事前に用意された消防自動車から生じたものではないだろうか。
ワレ友ヲウシナウ  
「1960.6.15. ワレ友ヲウシナウ」  
樺美智子さんが殺された国会南通用門の門柱に、この文句が石でこすって書かれていた。ここにも二寸五分角の丸太が縦横に組み合わされ、その丸太に有刺鉄線がまきつけられている。有刺鉄線の上に、だれがそなえたのか、たくさんの花束がむざんにつき刺してある。あたかも、血をながした幾人かの学友を象徴するかのように、その花束の花は、一様にしおれて、首うなだれている。通用門の前の焼香台には、ひきもきらぬデモの人々が焼香と黙祷を捧げて、立ち去ろうとしない。「ご焼香のすんだ方は、あとの人に道をあけてください」と整理員がメガホンで叫ぶ。すでに国会周辺はもちろん、チャベルセンター前、人事院わきまで、Y字形の道にはデモ隊の人々がぎっしりと押しかけて身動きもできない。  
林立するプラカードと赤旗をぬって、ライトブルーの旗を先頭に午後五時、喪章をつけた東大合同慰霊祭参加者の行進が国会正門前を通って南通用門前に着く。約三百人の東大教授団、そのあとに約七千人の学生、そして一般都民が続いている。一人一人が一本ずつのカーネーションやマーガレットの花を手にしている。手から手へ、二本、三本と集められて前に送られる花は、次第に大きな花束となって、焼香台の前につみ上げられる。社会党議員にまもられた樺先生夫妻が、すずらんの花束を有刺鉄線につきさして黙藤をささげる。わっとカメラマンが夫妻をとりまく。私のところからは、もう夫妻の姿は見えない。身動きのできない学生たちはその場にすわりこみをはじめる。  
官邸前は、新聞社、ラジオ、テレビ会社の車が一列に並び、各社のテレビカメラが、ものものしくやぐらの上にのっている。官邸の門柱やヘイの上には、鉄カブト姿のカメラマンがひしめいている。四機のヘリコブターは、交互に音高く国会の頭上をとんで離れようとはしない。屋台のうどんや、ジュース、あんぱん、焼きいもなどを売る、その日ぐらしの商人が右往左往している。すわりこみのデモ隊の間をぬって、アイスクリーム屋が「安保反対、えー、アイス」と、アイスクリームを売って歩く。なんという貧しい国だろう、貧しい国のあまりにも貧しい政治がうんだ、これが唯一の笑いであった。
うつぼつたる怒り  
「岸君、再び戦場で会おうぜ」  
次第にせまってくる夕やみの中に、ひときわ高く一枚のプラカードがかかげられている。あと五時間。国の長い運命を決定する午前0時が刻々と近づいてくる。不思議なことに、五月十九日以来一カ月の間、常に有刺鉄線の向こうに腕をくんでいた警官隊の隊列は、今日は見えない。警官隊は建物のかげにひっそりと集まって立っている。デモ隊を刺激するなという配慮であろうか。あるいは、やるならやってみろ、という高姿勢なのか。  
そのころ、また一つ不安なニュースが口から口へと伝えられた。市ケ谷、習志野、宇都宮、練罵の自衛隊員に外出禁止令が出たというのである。官邸内では閣僚会議が開かれ、白衛隊の“治安出動”が話題になっているというのだ。デモ隊の“院内突入”や“焼き打ち”にそなえ、議員会館では、“重要書類”を運び出したとか。国会議事堂内は鉄の防火トビラがおろされ、官邸内では消火栓につないだホースが、赤いジュウタンの上をはい、いつでも放水できるようになっているという。配慮か挑発か、それを断定できるものはだれ一人としていない。空前の大衆動員の成果を決定するものは、個人の責任と良識の上にかかっていた。  
学生も必死であった。教授も必死であった。各大学の教授団が、すわりこみの学生たちの間をぬって説得に奔走する。「国会や官邸へ乱入しても、安保阻止にもならなければ、岸を退陣させることもできない。それはむしろ右翼の登場をうながすだけだ。秩序正しく行動してほしい」と。はじめて国会周辺のすさまじい光景を目にした教授の中には、うわずった声で学生たちに呼びかける姿もあった。はた目にはコッケイでも、しかし学生と教師の間には、人間として通い合う血のあたたかさがのこされている。学生たちの笑いは、教場での笑いのように、明るく余裕があった。
ついに午前0時  
一方、三宅坂の国立劇場建設予定地を埋めつくした、公労協、民間労組は、デモ指揮班の「流れ解散」に反対して、一時は険悪な様相を呈した。くらやみの中に、うつぼつたる怒りとエネルギーがみなぎっていた。それはもはや、エネルギーという物理的な力ではなく、恐ろしいほど緊迫した精神を感じさせる。「流れ解散絶対反対!」「すわり込め!」とヤミの中で叫ぷ一つ一つの声は、アジや、野次などというものではない。それは心の叫びを伝えている。指揮班の命を待たずに、すでに先頭は出発した。私は不安になった。何事も起こらなければよいが。しかし、その不安を消してくれたものは、国会正門前いっぱいにすわりこんだ高校生グループと、自発的にすわりこんだ一般都民の姿であった。「ふたたび流血をくりかえさないために」私たちはここにすわった、と紅顔の少年はいう。まだ中学生だという娘をつれた一人の母は、「樺美智子さんの死が他人事だと思えないものですから」という。  
三十万人余にのぽる秩序整然たるデモは、このようにして行なわれた。「ご苦労さまです」「ご苦労さまです」とマイクを通じてよびかける社会党員のよびかけは、もはや空虚なものになっていた。国民は自分たちのために戦っているのだ。一社会党や、共産党のために戦っているのでは、決してない。自分の生活を守るために、自分の足をふみ出したのだ。  
そうした国民の不安をよそに、時は一分一分と過ぎてゆく。そして午前0時をむかえた。岸首相は、三十万、いや、二千万人近い人々の心の叫びをついに聞こうともしなかった。携帯ラジオから流れる「新安保自然承認」のニュースは、黒雲のように、人々の頭上をおおった。「もう一押しだったのに」とだれかがつぷやいた。はたしてそうだろうか。私たちは人間ではないものと戦っていたのではないだろうか。これほどまでの反対にあいながら、岸首相の手にのこったものは一体なんであろう。どのような約束手形が彼の手におちてくるというのだろう。私は暗い空にむかって、ふるえるような思いで立っていた。  
午前三時、私は家路についた。J紙の山本満氏からの手紙が一通、机の上で私を待っていてくれた。私はその手紙を読んだ。はじめて暖かいものが私の胸にこみ上げてきた。その一節をここにのせさせていただく。
まあたらしい生命  
――六月十五日夜、若ものたちの群れのなかにいて、わたしは、「子供の徴兵検査の日に」という金子光晴の戦争中の詩を、しきりと思いおこしていた。「けずりたての板のようなまあたらしい裸で立っている息子の若いいのちを、「喰い入るように眺め」ながら、詩人は、のしかかる権力の暴虐に憎しみをたぎらす。その日、国会におしかけ、そして流血の犠牲をうけた学生たちは、みんな「けずりたての板のような」まっすぐで、感動的な若ものたちであった。未来をはらんで誇りを戦いとろうとする、「まあたらしい」若ものたちであった。“エネルギー”などという物理的な力ではない、ひとりひとりが限りなくいとおしまれなけれぱならない若ものたちであった。  
かれらの翹望(ぎょうぼう)する未来を、失礼千万にも権力によって奪いとろうとするものとは、用いられる武器が鉄の警棒であろうと、あるいは「理論」と称する衰弱した観念であろうと、わたしたちは、若い友人らと、肩を組んで戦おう。そして、戦いに傷ついた友には、かれがふたたび「けずりたての板のよう」に大地にしっかり立てるよう、父親や兄のごとくに助けよう。そのような行動を通じてわたしたちは、さいごまで若ものたちの誠実な友人でありつづけることを、かれらの「けずりたての板のようなまあたらしい」生命を熱烈に愛しつづけることを、かれらに保証し、そしてそれを、わたくしたち自身にもたしかめあうことができるだろう。犠牲者への救援を組織しよう。そして、たがいに裏切ることのない友情のしるしを、結び交わそう――。
ただ平和な生活を  
最後にお断わりしておく。私は反米でもなければ、反ソでもない。とりわけ親米でもないが、親ソでもない。私が熱愛するものは、平和な私自身の生活であり、この私の生活をささえてくれる美しい社会である。そしてまた、私は日本人であることの誇りと、日本人であることの喜びを、私個人の生活の中に反映してくれる、よりよき政治を念願する一日本人である。なぜこのようなわかりきった断わり書きを書くかといえば、過日私はある知人から、「お前はいつから敵にまわったんだ」と詰問されたからである。 
60年安保闘争の経緯 

 

1958年  
 9月11日 / 藤山外相、ワシントンでダレス米国務長官と会談。安保条約改定交渉開始の共同声明  
10月4日 / 東京で安保改定交渉の会談はじまる  
10月13日 / 警職法反対国民会議発足。警職法闘争で大衆勝つ  
1959年  
 3月28日 / 安保闘争の統一団体である「安保改定阻止国民会議」(以下国民会議と略称)が結成さる。社会党・総評などが中心。共産党と、のちに安保闘争の主役となる全学連は、ともにオブザーバー資格での参加が認められた。  
 3月30日 / 東京地裁伊達裁判長「米軍駐留は憲法違反」と判決  
 4月15日 / 国民会議の呼びかけによる第一次安保阻止全国統一行動  
 6月25日 / 第三次全国統一行動。炭労、ストに突入。東京で二万六〇〇〇人が中央大会(日比谷)に参加  
 8月6日 / 第五次全国統一行動。全港湾労組時限スト。総評傘下各労組は職場大会。東京で五万人の集会(後楽園)など、全国で四〇〇万人が統一行動に参加  
 9月15日 / フルシチョフ・ソ連首相ワシントン着。米ソ首脳会談。27日「国際問題の解決はカによらず、平和的方法で」と声明  
 9月16日 / 石橋湛山元首相、北京で周恩来中国総理と会談。20日共同声明に調印。「政治と経済は切離せぬ」と強調  
10月9日 / 文化人有志の「安保批判の会」発足  
10月17日 / 学者の集り「安保問題研究会」が藤山外相あて公開質問状を出す  
10月25日 / 社会党西尾派、社会民主クラブ(のちの民社党)を結成して分裂  
11月25日 / 衆院外務委員会で政府・自民党が南ベトナム賠償協定の審議を打ち切ろうとしたため混乱。26日暁の本会議で賠償協定可決  
11月27日 / 国民会議第八次統一行動 / 三万人のデモ隊国会を包囲。政府、自民党の暴挙に怒った大衆が国会構内に突入して抗議集会を開く。この日の行動により安保問題への関心が急速に高まり、安保反対闘争が全国民の課題となっていく  
12月10日 / 第九次統一行動 / 炭労大手一四社二十四時間スト、国鉄労組の職場大会など  
12月14日 / 北朝鮮への帰国第一船が新潟から出航  
12月16日 / 最高裁、砂川事件の「伊達判決」を破棄  
1960年  
 1月16日 / 岸首相ら安保調印全権団、六〇〇〇人の警官隊と七〇〇人の右翼暴力団に守られて羽田を出発。渡米阻止のため前夜から空港に集まっていた学生七〇〇人警官隊によって弾圧され、七七人が逮捕さる  
 1月19日 / ワシントンで新安保条約と新協定、附属文書が調印さる  
 1月27日 / グロムイコ覚書「日米軍事同盟の締結はハボマイ、シコタンの日本への譲渡を不可能にする」と通告  
 2月1日 / 第三十四通常国会再開。11日衆院に日米安全保障等特別委員会を設く  
 2月25日 / 第十二次統一行動。官公労五割休暇闘争  
 2月26日 / フルシチョフ、インドネシア議会で演説。「日米新安保は日本自体にとって危険なトバク行為だ」  
 3月19日 / 第十三次統一行動。全国六〇〇カ所で集会。五〇〇万人が参加  
 3月23日 / 社会党大会、浅沼氏を委員長に選出  
 3月28日 / 争議中の三井三池で、第一組合員久保清氏が暴力団員によって刺殺さる  
 4月10日 / 周恩来中国首相、人民代表大会の席上で「新安保は日本人民に災いをもたらし、中国、ソ連、東南ア諸国民の安全を脅かす」と発言  
 4月15日〜26日 / 第十五次統一行動。合化労連が二四時間スト。16日東京で三〇〇〇人の婦人が都心デモ。法律家、学者、宗教家の国会講願続く。26日東京で一〇万人が国会に請願行動。同日、韓国の李承晩が学生を中心とする反独裁・民主化デモの広がりに抗し切れず大統領辞任を声明。この「四月学生革命」は日本の学生をも大いに勇気づけた。  
 5月9日 / 第十六次統一行動始まる / 中国の首都北京で、日本人民支援集会に一〇〇万人。12日総評、中立労連傘下の労働者四六〇万人が職場集会。 群馬県では商店が安保反対を表明して「商店スト」を実施。14日東京では六万人が雨中の国会デモ  
 5月17日 / 米スパイ機(U2)のソ連領空侵犯が原因となってパリ首脳会談決裂す  
 5月18日 / 安保批判の会代表10人は岸首相と会見し、安保批准とりやめを要求。翌日の国会会期切れを前に採決の目処は立たず国内情勢は緊迫  
 5月19日 / 深夜10時25分、衆院安保特別委員会で自民党委員が新安保を突然の強行採決。同11時07分、警察官五〇〇人を国会内に導入。抗議する社会党議員を警察が強制排除。同11時48分、野党議員排除後に衛視に囲まれて清瀬議長が本会議場議長席につく。会期五十日延長を可決して5分間で散会。会期切れまであと7分だった。院外ではニュースを見て駈けつけた人々が深夜の雨の中で国会を包囲しはじめ、その数は三万人に達した。  
 5月20日 / 日付が変わった午前O時6分、自民党単独で衆院本会議開会して新安保を討論なしで可決。その間わずか12分間だった。社会、民社、共産の野党三党のほか、石橋、三木、河野、松村等の自民党反主流派議員も岸首相の強引なやり口に反発して採決に加わらなかった。採決後ただちに野党三派が議決の無効、国会解散要求の声明を発表。さらに国会前に残った一万人の人々が未明の午前4時まで国会を包囲してすわり込み、抗議を続ける。早朝からは国民会議の統一行動が開始。一〇万人が国会、首相官邸に怒りの抗議デモとなって渦のように押し寄せた。この日から国会は完全なマヒ状態におちいった。自民党のこの暴挙は世論から爆発的な批判を浴びる。すでにかつてない巨大な高揚を見せていた反安保闘争はこの日以降「全国民的規模」の歴史的な大闘争に発展していく。  
 5月21日 / 岸首相は官邸で社会党代表と会見。内閣総辞職、解散要求を拒絶。永田町の首相官邸、南平台の首相公邸が五万人のデモ隊にとり巻かれる。抗議デモはさらにひろがりアメリカ大使館にもデモ隊が押し寄せる  
 5月22日 / 首相官邸の石べいに高さ3メートルの鉄条網張られる / 東京都立大の竹内好教授は「岸内閣の公務員としてとどまり得ない」と辞意を表明  
 5月24日 / 社会党浅沼委員長、マッカーサー米大使と会見、アイク(アイゼンハワー大統領)訪日延期を要望。両者卓を叩いて激論  
 5月26日 / 自民党と同志会だけで参院会期延長を議決。 一七万人の国会請願デモ隊が包囲。そのため岸首相は午後2時から10時すぎまで院内にクギづけで動けず / 群馬、茨城両県では三度目の商店スト  
 5月27目 /トルコ陸軍、クーデターを起す  
 5月30日 / 若い日本の会三〇〇名が集会、「安保議決を無効にせよ」と声明。各界の声明あいつぐ  
 6月4日 / 6・4安保反対ストが、国民的支持のもと成功裡に決行される。国電は始発から午前7時までとまる。旅客、貨車の運休は全国で七五九、遅延は一六七本。全商連加盟の商店二万軒も時限または全日閉店スト。この日だけで五六〇万人が集会やデモに参加した  
 6月7日 / 米上院外交委員会で安保審議を開始。東久邇、片山、石橋の三元首相が岸首相に即時退陣を勧告  
 6月8日 / 総評臨時大会、満場一致でアイク訪日反対決議  
 6月10日 / 米大統領新聞係秘書ハガチー来日。羽田空港出口でデモ隊にとりまかれ、1時間10分立往生、ついにヘリコプターで脱出(ハガチー事件)  
 6月11日 / 第十八次統一行動。全国三五〇カ所、二〇〇万人が参加。東京では二三万人が国会デモ  
 6月13日 / 岸・西尾会談。民社はアイク歓迎に転換。議決休会案話題になる。東京教育大、法政大学自治会、日本鋼管川崎労組がハガチー事件で不法捜索さる  
 6月14日 / 全労、アイク歓迎を声明。新聞も同調。ハガチー事件弾圧で動揺した総評も羽田沿道デモ中止を社共両党に申し入れる  
 6月15日 / 6・15反安保スト。6・4ストを上回る。全国で五八○万人が統一行動に参加。午後からタ方にかけて国会請願デモ。一一万人が国会周辺を埋める。午後5時10分頃、国会第二通用門付近で右翼二一〇人がデモ隊になぐりこむ。午後5時45分頃、全学連のデモ隊七〇〇〇人、国会南通用門を開き、同7時国会構内に入る。警官隊に襲われ負傷者数百名。この時東京大学学生樺美智子さんが警官に殺され、全国民の憤激はその頂点に達する  
 6月16日 / 政府は臨時閣議でアイク訪日延期要請を決定。反安保闘争が全国民的な広がりを見せるにつれ、政府側の動揺も激しくなってくる。国民会議の抗議デモ一〇万人をはじめ、各大学での虐殺抗議集会など、首相官邸、国会周辺には樺さんの死をいたみ、岸内閣に抗議するデモ隊が終日相続く。国内情勢は騒然を極む  
 6月17日 / 社会党河上丈太郎顧問、国会請願受付所で刺さる  
 6月18日 / 全学連らによる樺美智子さんの東大合同慰霊祭・抗議デモが開催さる。デモには、労働者、学生、地方代表、沿道の一般市民などが次々と合流し、遂にそれまでで空前の規模となる三三万人のデモ隊が国会を包囲した。政府としてはもはや手の付けられない規模であったと思われる。その一部は夜を徹して国会周辺に抗議の坐りこみをおこなった。岸首相はデモ隊に包囲されて一歩も動けず官邸に泊りこむ。ここは危険ですので移動して下さいと密かに脱出することをすすめる側近に対して岸首相は「今の日本に私が安全な場所などあるのかね」と呟いたという。  
 6月19日 / 午前0時、参院で議決を経ないまま新安保「自然承認」。国民会議は直ちに「この条約は認めない」と条約の無効を声明  
 6月20日 / 参院自民党は単独での本会議開会を強行して新安保関係諸法案を一挙に可決成立。もはやここまできたら「毒喰らわば皿まで」ということであろうか。無法の連続  
 6月22日 / 第十九次統一行動。6・22スト。総評、中立労連の一一一単産、六二〇万人が早朝ゼネストに突入  
 6月23日 / 藤山外相、マッカーサー米大使、外相公邸で日米新安保批准書をひそかに交換。岸首相、臨時閣議で辞意を表明。樺美智子さんの国民葬行われる(日比谷)二万の労働者、学生、市民が参列  
 6月25日〜7月2日 / 第二十次統一行動。25日大阪で二万五〇〇〇人が安保不承認決起大会に参加。7.2全国五〇カ所で「新安保不承認、国会即時解散、不当弾圧反対、新条約締結責任者の追放」をめざす集会。参加者は東京の一五万人をはじめ全国で二〇〇万人  
 7月10日 / 神奈川県厚木でU2機追放国民大会が開かれ、厚木米空軍基地に抗議デモ。参加者二万人  
 7月14日 / 自民党大会で岸総裁辞任。池田勇人を総裁に選ぶ。首相官邸で岸首相、右翼暴漢に刺され負傷  
 7月19日 / 池田内閣成立 
 
60年代安保闘争12

 

独立を維持すると言う事  
旧の日米安保条約というのは、日本が平和条約を結んで、国際社会に独り立ちした時点で、我々は戦争放棄をし、一切の軍備を持っていないので、第3者に侵攻されるといけないと思い、吉田茂が外壁の守りをアメリカ側に頼んだというニュアンスが伺われる。  
吉田茂にしてみれば、日本を占領しているアメリカに、その金の掛かる部分、つまり日本の再軍備というものをアメリカの庇を借りる事で、我々自身の経済的負担を軽減しよう、という魂胆があったものと推測される。  
主権国家が国際社会という海千山千の国際舞台、つまり国際連合の一員として主権を持った自主独立の民主国家として自立していくには、国防というものを抜きには考えられないわけである。  
地球上には、国連に加盟している主権国家というのは、150ヶ国以上も有るといわれている。  
その中には自分の国の軍隊が非常に貧弱な国もあるわけであるが、そういう国は国際社会への貢献度もそれに応じて弱いわけで、当然独立したての日本もその時点ではその国力に応じて貧弱な国防能力しか持ち得なかったわけである。  
主権国家たるもの、警察を持たない国家が無いように、軍隊を持たない国家というのも考えられないわけである。  
そのことは何も戦争が好きだ、という問題とは次元が違っているわけで、軍隊即ち戦争という観念は、基本的に間違っているわけである。  
軍隊の存在は戦争を抑止する効力も持っている筈で、我々はその面を一向に見ようとしなかっただけのことである。  
第2次世界大戦後の核兵器というのは、核兵器で戦争をするために作られたわけではなく、戦争を抑止するために開発された部分も多々あるわけである。  
アメリカ、旧ソビエット連邦、イギリス、フランス、中華人民共和国、インド、パキスタン等々の国は、それぞれに核兵器を持っているが、持っているからといってそれを使った国というのはないわけである。  
第2次世界大戦中のアメリカは、相手が日本だったから、ジャップだったから、イエロー・モンキーだったから、神風特攻隊で自らの命をなんとも思わない人種だったから、非西洋人に対する優越意識および差別意識の具現化として、実験的に使ったわけで、その効果というものを全世界が認識した事によって、核兵器というものの抑止力が普遍化したわけある。  
第2次世界大戦後というものは、核兵器を持っているからといって、戦争に使用した国はないわけである。  
使えば使われる、それは即ち人類の滅亡に限りなく近づく、という事が万人の共通の認識になっているからである。  
それと同じで、主権国家たるもの軍隊を持つということは、警察を持つことと同じなわけで、人々が皆良い人間ならば理論的には警察も不要なはずであるが、現実の問題として、警察が不要ということは万人が認めないわけである。  
1951年、昭和26年という時点で、日本が戦争を放棄し、自衛隊というものを一切持たずに、そのまま主権国家として太平洋に丸裸でたっているとすれば、それは周辺国家の力の均衡に穴をあけることになるわけで、空白の部分が出来るという事は、その均衡が崩れるわけである。  
均衡が崩れるという事は、新たな軋轢が生じるという事でもあり、それはアジアの不安定につながるわけである。  
日米安保が軍事同盟だから、片一方に組みする事は、もう一方を刺激して、新たな争点が主ずるという論理は、一見整合性があるように見えるが、それは空想的な幻想にとらわれて、現実を見ようとしない逃避である。  
現実の世界、現実的な人間の生き様というものを全く加味しない空想論に過ぎない。  
平和論者が理想とするスイスの永世中立というのは、スイス国民の涙ぐましい努力の結果として中立が維持されているわけである。  
スイスの中立というのは、国民が銃器も持たず、戦う事を拒み、牧歌的な羊を追ったり牛を追ったりという生活をしているだけではない。  
あの永世中立のスイスは、国民皆兵で、国民の各々の家には銃が全部支給されているわけである。  
一旦事が起きれば、国民がこぞって銃を持って参集する体制が整っているわけである。  
そういう準備を万端整えた上で、戦争の当事国に対しては「どちらにも荷担しませんよ」という事を言っているわけで、スイスの国民が銃を持って戦う事を拒否した中立ではない。  
スイスの中立を犯す相手には、遠慮会釈なく「戦いますよ」という前提条件つきの中立なわけである。  
中立だからと言って戦う事を嫌っているわけではない。  
そして、戦うための準備は、おさおさ怠りなく整備されているわけである。  
これは実に大変な事である。  
銃器というもの、武器、武装、兵器というものは日進月歩で進歩しているわけで、中立を維持するためには、それを常に最新のものに維持しなければならないし、それに合わせた訓練もしなければならないわけである。  
そういう努力の結果、中立を維持しているわけで、戦争を放棄しましたから後は何をしなくても良いという安易な発想ではないわけである。  
占領を解かれ、独立にしたからと言って、アメリカが日本から一切合財手を引いてしまったら、日本は丸裸になってしまうわけで、それでは日本もアメリカも困るわけである。  
それで吉田茂は、その丸裸の部分にプロテクターを当てる役割をアメリカに代行させたわけである。
観念としての反安保  
吉田茂は対日講和条約を調印し、その足で日米安保条約というものを調印したわけである。  
吉田の胸中には、これが日本の将来に悪影響を与える事が分かっていたので、吉田は全責任を自分一人で背負い込む腹で、日本側の全権委員は本人のみの署名で成立させてしまったわけである。  
吉田茂が日本への悪影響という事をイメージしたのは、左翼陣営の反発であったわけで、左翼の反発が日本を窮地に入れるのではないかという危惧であった。  
この時の旧安保条約というのは、敗戦直後の日本がまるで生まれたばかりの赤子同然の無防備なるがゆえに、アメリカの庇護の元に成長する過程にある、という条件下の条約になっている。  
生まれたばかりの全く無防備な赤子が、アメリカという軍事大国の慈愛の懐に暖かく包まれているという構図である。  
そしてそれは10年経ったら、どちらかが「止める」と言えば、その後1年間で終了するとなっていたわけであるが、この時の日本側の首相が岸信介で、かれはこの10年を経た時点で、アメリカの庇護に甘えるのではなく、自らも積極的に自らの国を守る方針を打ち出したわけである。  
それでこの条約を新たに改正して、日本の自主的防衛の努力を組み入れようとしたわけである。  
旧安保では、ただただアメリカの庇護の下にじっと逃げ込んでいればアメリカがすべて解決するというものであった。  
ところが新安保では、日本の自助努力を加味する面があったわけである。  
自分自身の防衛努力にも力を注ぎ、防衛力の向上にも努力をし、日本のアメリカ軍基地が叩かれて時には共同で対処するという風に、10年前の安保が日本が赤子だった時のものだとすれば、10年後には10年間の成長の跡を示し、いよいよ独り立ちの覚悟をする時期の到来を促すという感じのものである。  
岸信介はそういう心つもりであったが、日本の国民の側はそういうふうには取っていなかったわけである。  
当時の知識人、大学教授、マスコミのオピニオン・リーダーと言われる人々、日本社会党の面々、労働者階級の人々は、決してそういう風には取らなかったわけである。こういう人たちの深層心理というのは一体どういう風になっているのであろう。  
日本の独立は賛成、しかし、アメリカとの軍事同盟には反対。  
戦争反対、日本は中立を維持すべきである。  
という事は日本をどういう風にすれば彼らは気が済むのであろう。  
ここでその安保闘争の流れを年表から抜き取って羅列してみると。  
1957年 昭和32年   
1月31日 石橋首相病気のため岸外相に首相代理任命  
3月21日 自民党大会岸信介総裁に選出  
6月16日 岸首相、安保委員会設置と米地上軍撤退を表明  
7月10日 岸、藤山氏を外相に任命  
8月 1日 米地上軍撤退開始  
8月 6日 日米安全保障委員会発足  
9月14日 藤山外相と米大使、日米安保条約の運用は国連憲章に則ると表明  
1958年 昭和33年   
3月28日 岸、衆院で「在日米軍基地への攻撃は日本への侵略」と答弁  
9月12日 藤山・ダレス 日米安保条約の合意の表明  
10月 4日 安保条約改訂の交渉開始  
1959年 昭和34年   
2月18日 藤山 政府・自民党に改訂試案発表  
3月28日 安保改訂阻止国民会議結成  
3月30日 東京地検 安保による米軍駐留憲法違反と判決(砂川事件全員無罪判決・伊達判決)最高裁判決一審差し戻し(12/16)  
4月15日 安保改訂阻止第1次統一行動     
11月27日 安保改訂阻止第8次統一行動 / デモ隊2万人国会構内に入る  
1960年 昭和35年   
1月16日 岸・日米新安保条約調印の全権委員として渡米、全学連羽田で座り込み  
1月19日  地位協定調印  
2月 5日 政府、新安保条約国会に提出  
5月19日 政府・自民党衆院の警察官導入、安保と会期50日延長で自民党単独で強行採決  
5月26日 参議院・自民党会期延長議決  
6月 4日 安保改訂阻止第1次スト560万人参加  
6月10日 米大統領秘書官ハガチー氏羽田で立ち往生(ハガチー事件)  
6月15日 安保阻止第2次スト全学連主流派 / 国会に突入樺美智子死亡  
6月16日 アイゼンハワー大統領訪日中止  
6月18日 安保阻止第8次統一行動 / 徹夜で国会を包囲  
6月19日 新安保、自然承認  
6月23日 批准書交換、発効、岸退陣  
ここで我々が歴史の反省の上に立って考えなければならない事は、我々はデモクラシーというものが全く分かっていないという事を自ら反省し、自省しなければならないと思う。  
この安保闘争の盛り上がりを見ても、その内容に関しては全く問題の争点がずれてしまっているわけで、問題の争点を極めるという事よりも、岸信介に対する個人的な怨恨や自由民主党に対する嫌悪感が先に立ってしまって、観念論になっているということである。  
戦後というのはまだ歴史として完全に昇華していないので、この当時の言論人の文字に書かれたものというのは未だに残っているわけである。  
今、この時の安保闘争というものを再考するに当たって、色々な人の文章を読んでみると、まさしく観念論そのもので、その本質を論じたものは一向に見当たらない。この問題は厳密に言えば、日本が独立するか否かの問題に遡るわけで、自分達は独立がしたいが、何処の国とも安全保障条約を結ばずに完全自立、中立的立場が維持できるか否かという問題に帰しているわけである。  
戦前・戦中の反省に立って、我々は何処の国とも均等な距離をおいて、中立を維持できればそれに越した事はない。  
しかし、これは現実の人間の生き様というものを知らない者の理想論であって、我々生きた人間というのは、理想のみでは生きておれないわけである。  
私は何も政府当局や、自民党や、官僚に肩入れしなければならない筋合いは毛頭ないが、自分を含めた生きた人間が、安逸な生活を末永く続けようとすると、空理空論の理想論だけでは将来が不安なわけである。  
我々は生きんがために、二者択一を迫られていたわけである。  
戦争で無一文になった我々が、今後の生きる指針として、自由主義陣営のアメリカ側につくか、それともソビエットを始めとする共産主義陣営に組みして、ユートピアが実現するまでアメリカの占領下に甘んじるのか、という二者択一を迫られていたわけである。  
この二者択一を迫る当時の進歩的文化人の思考というのもどうかしている。  
アメリカに占領されていながら、共産主義社会のユートピアを願望するという事は、そもそも大矛盾なわけで、詭弁以外の何物でもない。  
日本が平和条約を結ぼうとした時、ソビエットを含む全面講和でなければ駄目だと言った人たちというのは現実の世界というものが全く見えていなかったわけである。あの戦争に突入していった時の、旧大日本帝国の軍人政治家と同じで、日本の外側の世界というものが全く視野に入っておらず、現実の世界という認識が全く欠けた観念論に陥り、その結果として戦争に嵌りこんだのと全く同じパターンを繰り返していたわけである。  
近代以降の世界というのは、もう独立国だからといって、他国との関連なしで生きていける状況ではないわけで、日本だけが戦争放棄して、軍備も持たず、中立を維持するなどという事はありえないわけである。  
アメリカ、ソビエット連邦、中華人民共和国というような巨大な国家は、自己完結的に自国内にあらゆる資源を内包しているので多少とも可能であるが、我々のような海に孤立した海洋国家では、唯我独尊的に世界に中で屹立して生きることは不可能であり、そういうことを夢想するだけでもナンセンスなわけである。
自尊心を放棄した同胞  
あの戦争を経験したから、我々はもう2度と戦争に巻き込まれたくない、という心境は当然の事である。  
世界の人々は誰しも同じである。好んで戦争をしたがる人というのはありえない。問題は、戦争をしたくないから、奴隷的な屈辱にも耐えうるかどうか、という自尊心の問題に帰結するわけである。  
これも極めて観念的な部分はある。  
何を以って耐えがたい屈辱か、という定義からしなければならず、定義をしたところで、個々の人間の感受性の問題も内在しているわけである。  
例えば、日本国憲法一つとっても、「あれは平和憲法だから素晴らしいものである」という人と、「アメリカの押し付け憲法だから改正すべきだ」という人がいるわけで、この両者の間には屈辱の観念が正反対になっているわけである。  
片一方は全く屈辱というものを感じていないわけで、片一方は耐えがたい屈辱だと思っているわけである。  
何をされても屈辱と感じない人ならば、それは奴隷と同じで、植民地時代のインドの人々、中国の人々、インドネシアの人々、フイリッピンの人々と同じなわけである。  
しかし、これらの地域の人々も、第2次世界大戦後はそれぞれに民族の誇りを自覚し、自主独立を目指し、屈辱をこうむらないよう、他国とも連携しながら、自分の国の国益を追求しようとしているではないか。  
乏しい資金、財政事情の中から、国軍の建設に努力し、自分の国は自分で守らねばと、いう気概にあふれているわけである。  
第2次世界大戦後の日本がアメリカに占領されたという事は、我々の意図ではないが、非常に恵まれた環境に置かれたわけである。  
これが不幸にしてソビエット連邦が北海道から本州に侵攻して、ソビエットに占領されたとしたら、今日の我々はありえたであろうか。  
名実共に屈辱に塗れ、汚辱にくるまれ、文字通り奴隷そのものになっていたに違いない。  
進歩的文化人、マスコミのオピニオン・リーダーというものが存在しえたであろうか。  
我々は幸いにしてアメリカに占領されたが故に、アメリカの民主化政策によって、言いたいことが言える時代を迎え、理想論をぶち、空理空論で明け暮れていれるわけである。  
政治というものの本質を考えた時、まず最初に「反対ありき」では、政治にならないと思う。  
政党政治というものは賛成・反対というだけの議論ではないはずである。  
ところが我々の戦後政治の場合、最初に「反対ありき」で、その中身の議論がないまま、党が党員の意思を拘束したりして、民主政治とはとても言えない情況を呈していたわけである。  
岸信介が「安保条約を改正したい」という意向を示し、その検討委員会を設けたら、党派を超えてその内容を真剣に検討し、党の面目とか、党の得失というものを超えて、将来の国民にとって何が大事で何が不要か、という議論を真摯に検討しなければならないと思う。  
それを最初から阻止では民主政治を冒涜するに等しい。  
テーブルにも就かないでは何をか言わんやである。  
問題の本質は、基本的にサンフランシスコ講和条約と同時に締結された旧の日米安保というものの存在に根ざしていたわけであるが、「全面講和でなければ駄目だ」という主張は、この時点でどういう思考が機能していたのであろう。  
アメリカという東西冷戦の片一方にのみに偏向すると、もう方一方のソビエット連邦の反撃を食らうから戦争に巻き込まれる、という論法であったと思うが、その後我々は戦争に巻き込まれる事はなかったという実績は、こういう事を言い立てた当時のオピニオン・リーダーや平和問題談話会の面々の認識が大いに甘かったという事になる。  
彼らの未来予測が間違っていたという事であり、彼らは大学で何を研究していたのか、という事に尽きる。  
そのことは同時にアメリカの本質も知らず、ソビエット連邦の本質も知らなかったということを暴露しているわけである。  
実態を知らずに、観念論で人々をリードしようとしていたわけである。  
この未来予測の判断ミスというのは、我々が戦争という奈落の底に落ちる過程と全く同じであったわけで、そのことに戦後の日本の知識人というのは全く気がついていなかったわけである。  
前にも述べたように、マスコミ界のオピニオン・リーダーとか、大学の先生というのは、政治家に比べると極めて純真なわけで、口先で国益を左右する政治家とは、その精神が全く異質なわけである。  
吉田茂が、当時の日本の現状から、自力で再軍備、つまり自分の国を自分だけで守る事の至難な事を承知しているが故に、アメリカに肩代わりさせようとした狡猾な発想というのは、机の上で文章を書く事を生業としている人たちには理解しがたい事なわけである。  
良く言えば純真、悪く言えば馬鹿、まさに「曲学阿世の輩」に過ぎないわけである。アメリカに付くかソビエットに付くか、という二者択一の時でも、その判断が正反対になっていたわけである。  
そしてアメリカが日本を占領してくれたお陰で、自分達は何を言っても許される、という民主化の真っ只中に生かされている、という感覚が麻痺していたわけである。  
世界中何処に行っても、こういう自由は普遍的に存在する、と勘違いしていたわけである。  
まさしく井戸の中の蛙そのもので、世界というものが視野に入っていなかったわけである。  
これがソビエットに占領されていたとしたらどうなっていたのであろう、ということが頭から完全に抜け落ちていたものだから、世界中で自分達の行為が整合性を持って受け入れられる、と思い込んでいたわけである。  
だから、戦争を放棄した日本は再軍備する必要もないし、他国と安全保障条約・軍事同盟を結ぶ必要もない、と思い込んでいたわけである。
利用された若者  
安保闘争に関する文書というのは、現在広汎に残っているわけで、私の手元にあるだけでも「世界」主要論文選、文芸春秋社「日本人の発言」、新潮社「全共闘世代」等の本を紐解いてみると、この時代に安保闘争に青春を掛けた人々の熱意というのは今でも窺い知る事が出来る。  
しかし、それは全くの独善になりきってしまっており、かっての戦争中の軍国美談と軌を一にしている。  
「敵中横断3百里」とか「肉弾3勇士」の記述と瓜二つである。  
如何に自分が正義の戦いをしたか縷縷述べているが、争点の中身についての主観は全く見られず、ただただ観念論で、憎むべき敵は政府であり、警察であり、それに対して如何に勇敢に戦い、相手は極悪意非道な野蛮人であったか、という事が縷縷述べられている。  
戦争に巻き込まれるのが嫌なために、今国内において、同胞としての警察官と、戦闘を繰り返し、抵抗をし、石を投げ、警棒で叩かれるという肉弾戦を演じているわけである。  
全共闘世代というのは、大体において、終戦直後に生まれた世代である。  
出征した兵士が敗戦で故郷に復員し、海外に飛躍していた日本人が運命に翻弄された末、内地に引揚げてきた時期に生まれた世代で、団塊の世代でもある。  
その両親達は価値観の大逆転を経験し、物を判断する基準を失った時代である。  
そして進駐軍の民主化の結果として、共産主義が世情に蔓延し、共産主義が広まれば、旧来の秩序は無視され、人間の持つ常識とか倫理というものが揺らいだ時期であった。  
団塊の世代の両親の側に、確たる信念がないものだから、その影響下で生長した団塊の世代そのものも、常識を否定し、倫理を蔑ろにして憚らないわけである。  
その結果として、夢を食う獏と化したわけである。  
今残っている彼らの文章を見ると、まさしく夢を食う獏の姿が歴然と伺える。  
これら昭和21年から22年、23年頃に生まれた世代が、二十歳になった頃が、丁度この時期に当たるわけで、寛大な視点に立てば、若者の純真さの発露ともとれる。  
太平洋戦争の最中、学徒出陣で戦場に赴いた学生や、神風特別攻撃隊で敵艦に体当たりした青年達と同じ熱情であったのではないかと思うが、その方向性が全く逆を向いているわけである。  
戦中の若者は体制に限りなく擦り寄る事が大儀の発露であり、青春の昇華であり、そのことによって後世の同胞に安楽の地を約束できるのではないか、という淡い希望の象徴であったわけである。  
ところが戦後の若者は、あの終戦で価値観が逆転した中で生育を受けたものだから、体制に反抗する事が同胞の将来の安寧と秩序を維持する手段だと勘違いしたわけである。  
そのことは、その親の世代が、旧来の価値観というものを全否定したことの中で生育した、という家庭環境の影響が多分にあるように思う。  
その親の世代というのは、体制に擦り寄る事が大儀だと思って戦った青年であり、特別攻撃隊で散った同級生の生き残りの世代であったわけである。  
青年達が純真なことは戦前、戦中、戦後を通して一貫しているわけで、その純真さの矛先のベクトルが正反対になっていたわけである。  
そして、それを利用したのが老獪な政治家どもであったわけである。  
戦前の若者達は、軍人政治家のおだての言葉に踊らされて、自ら進んで死をいとわぬ行為に走ったわけであるが、戦後の若者は革新系と言うか、左翼というか、日本社会党乃至は日本共産党の宣伝・キャンペーンを鵜呑みにする事によって、自らの情熱を政治活動に振り向けたわけである。  
戦前も戦後も青年達は政治家に利用されたわけである。  
安保闘争を考える時、その中身に関してはほとんどのものが無関心のまま、ただただ政府憎し、自民党憎し、岸信介憎し、という構図で戦われたわけで、デモに参加した学生達にとって、条約の中身は殆ど問題視されていなかったわけである。  
新潮社の発行した「全共闘白書」を読むと、ここに登場した運動家たちで誰一人革命というものを信じて行動していたわけではない。  
彼らは革命ゴッコを楽しんでいたに過ぎない。  
江田五月がインターネットでこの頃の心境を回顧したものがあるが、彼もまさしくお祭り気分でデモに参加し、国会に突入し、暴れまわっていたわけである。  
そんな彼は、その後裁判官になり、国会議員になったわけであるが、こんな人物を信用できるかといえば、私は信用できないと思う。  
昔の過去は問わない、というのは人の心を知らない、つまり人間というものの本質とを知らない者の偽善に他ならない。  
人から憎まれたくない、という保身か、偽善か、良い格好しいのまがい物だと思う。この時代において、団塊の世代が、社会の軌範を逸脱して、革命ゴッコに明け暮れたという事は、それはその両親の育て方に原因があると思う。  
それはある意味で必然的なことで、彼らの両親というのは、一番多感な頃に価値観の大転換というものを経験させられたわけで、戦前、戦中の自分の受けた教育というものが全く価値を成さず、それが「悪」であったということを植え付けられたわけでそのジレンマから抜け出す事は容易ではなかったはずである。  
自分の人生乃至は自分の属する社会というものを、信用しきれないという状況があった事は否めない。  
戦争という暗黒の時代を抜けて見ると、そこには食料もなく、職もなく、住む家もなかったわけで、自分が誠心誠意国家に忠実たらんと努めた挙句が、この有り様だったとすれば、目の前の何一つ信用しきれず、何を信じていいのかもわからなかったに違いない。  
戦前・戦中というのは、我々は自分の国家というものを心から信じて、自分の国の報道では決して戦争に負けてはいないと思い込んでいたものが、実際にはその報道の悉くが嘘であったわけで、我々は散々嘘を信じ込まされていたわけである。  
そういう経験からすれば、この価値観の大転換を経験したと大人達が、自分の政府を信用しないということも、ある程度は理解しえる。  
しかし、そういう政府を自分達で作ったのも、やはり我々の側の責任であったわけで、我々は自分達で天につばを吐いて、それが自分に降りかかってきたわけである。政党政治を終焉させ、大政翼賛会というものに一本化させたのは紛れもなく我々であったわけである。  
この時、日本の学者連中というのは一体何をしていたのであろう。  
帝国大学の学者達は軍国主義の軍人政治家の提灯持ちをしていたのではなかろうか。この時のマスコミというのは、明らかに軍人政治家に媚を売り、戦意高揚の記事を連載し、国民を戦争に駆り立てるのに大きく寄与している。  
我々は、自分達の政府が信用できない、という事はその経験則から知っているわけで、それを押さえ込む法律というものがない以上、言いたい放題、したい放題になるというのは、ある程度理解しえる。  
こういう流れを端的に示したのが、全面講和をひっさげて登場した講和問題談話会という学者グループの存在である。  
こういう価値観の大転換に打ちひしがれた人達が、自分達の子供を養育したなれの果てが、団塊の世代というわけで、これらの親は従来の親としての軌範を維持する事が出来ずに、新しい民主化の波に翻弄され、親としての指針を子供に示す事が出来ずに、子供を野放図に育ててしまったわけである。  
その野放図な子供の育て方の中に、「既存のルールを守りましょう」という、人類の倫理を教えなければならないという事が忘れ去られ、ルールを壊わしたり、無視することが民主化である、という間違った概念が入っていたものだから、これがあるが故に既成の枠に収まりきらなかったわけである。  
そういう親が、戦後の復興というもので、徐々に生活の基盤を得るようになり、子育ての頃になると、自分の子を如何に育てるか、という社会的な基盤は喪失し、戦前のものの考え方は、封建主義の残滓として否定される世の中になっていたわけである。  
それを助長したのが、進駐軍いわゆるGHQの指令であり、民主化という名の改革であったわけで、戦後の民主教育というのは、制度の改革のみならず、その精神の改革も迫られたわけである。  
その精神の改革が、民族の存亡にとって最も大事なわけであるが、そのことに日本の誰一人気が付こうとしていない。  
精神の改革と同時に、戦後の日本は社会構造そのものも大きく変化したわけで、それにもマッカアサーの改革による点も大いにあるが、それに輪をかけたのが戦後の復興という大きなうねりであった。  
そういう中で、団塊の世代の親というのは、子育ての指針を失い、自信を喪失し、暗中模索の中にいたわけで、そこに持ってきて、民主化という如何にも素晴らしい霞のような概念に支配され、個の信念と言うものを尊重する気分が生まれた。  
成人した大人の個の尊重ならば、それは民主化の度合いを示す立派な基準になりうるが、成人に達していない子供にまで、個の尊厳を尊重するという事は、いわゆる子供を放任するという事に他ならないわけである。  
これは21世紀なった今日でも、そのまま普遍化しているが、個の尊重というものを拡大解釈して、子供の精神的発育までも放任することが民主化だと思いこんでいる節がある。  
子供というものは、大人と同じ顔かたちしているが、未完の人間であるという事を忘れて、形が同じなのだから大人と同じ権利義務があると思い違いしている。  
大人と同じ権利義務があるならまだしも、都合の悪い時は「子供だから」といって、義務の方は免除しようとする風潮がある。  
その時と場所によって、概念の方を使い分けるわけで、これでは全てが曖昧模糊のうちに何がなんだかわからなくなってしまう。  
戦後の価値観の大返還を経験した親たちが、子育ての段階で親としての指針をきちんと示さなかったが故に、青年達は社会の軌範を軽んずる行為に走ったわけである。そして、その青年達の心の片隅には、共産主義に傾倒した戦後の民主教育があったわけで、そのことは何も共産党員の影響ばかりではないが、現行の秩序というものを否定しようという考え方というのは、やはり共産主義の影響とみなさなければならないと思う。  
これら団塊の世代というのは、日米安全保障条約の改訂に当たり、その条約の中身を議論するのではなく、それが政府、自民党、岸信介がそれを画策しているので、そのことに不満をぶつけているわけである。  
今から思うと、これらの青年達は、老獪な社会党や共産党の政治家に上手に利用されたといってもいいと思う。  
その意味からすれば、戦中の学徒動員で自ら進んで死地に赴いた青年たちと一脈通じるものがある。
変革のエネルギーとしての青春  
「青年は荒野を目指す」という本があったが、まさしく青年というのは、荒野を目指して突き進むのが若者の本領であり本質でもあるが、突き進むべき荒野というものをよくよく見極めなければならない。  
「鬼畜米英」もあるときには青年の突き進むべき荒野でありえたわけだし、自分達の政府に火炎瓶をなげ、棍棒を振り回すのも、時代という不可逆的な条件下においては、青年の前に立ちはだかる荒野であったわけである。  
青年というものが、常に荒野を目指す気概というものを持っていたからこそ、人類の進歩というものがあったわけで、青年が常に現状を打破しようという気概というものを持っていなかったとしたら、人類の今日というのはありえない。  
人類というものは、何時如何なる場所でも、如何なる人種でも、年寄りというのは常に「今時の若者はなっていない」と嘆きつつ発展してきたのである。  
その意味からすると、あの戦時中に学徒動員で出撃した若者、安保闘争で血まみれになった若者というのは、何一つ人類の足跡としての功績を残しえなかったわけである。  
それは同時に、時の大人達が若者を上手に騙して、若者の進取の気性というものをスポイルしてしまったということでもある。  
自然界のサルの集団では、生活の手法の革新というのは、若者の好奇心がそれをなさしめるという報告がある。  
野生の猿が芋を洗って食べたり、寒い冬に温泉に入ったり、焚き火にあたるという行為は、若い猿の好奇心が、群れ全体の生活の知恵として伝播したといわれている。若いサルの好奇心が、生活を革新させる原動力になっている、ということが言われている。  
そのことを我々日本人の生き様に当てはめて考えると、日本の青年は、日本人全体の生き方に何か大きなインパクトを与えなければならない事になるが、我々の民族の青年には、その大きなインパクトを与えるだけのパワーが感じられないような気がしてならない。  
学徒動員で出撃した若者も、狡猾な大人に利用されただけのように見えるし、安保闘争で血まみれになって逃げ惑った若者も、社会党や共産党の老獪な政治家にうまい具合に利用されただけという感がする。  
若者が同胞の生き様に革新的なインパクトを与える事がなければ民族の発展というのはありえないとすると、これは実にゆゆしき問題といわなければならない。  
戦前の若者は、国家の大儀に殉ずる事が人としての気高い行為と思い込まされていたわけで、それに反し戦後の若者は、そのエネルギーが逆のベクトルを持ち、大人に反抗する事が人の道として気高い事だと思い込まされていたわけである。  
その両者に共通して言える事は、それが若者自身の好奇心から出た、若者自身の発想ではないという点である。  
大人の敷いたレールの延長線上の考え方であったという点で、先の若い猿の生活の革新とは異質であるという点である。  
明治維新というのは下級武士、特に武士階級の下層の若者が成した行為である。  
やはりここでも自然の摂理の通りに、若い世代が日本人の人間集団としての既存の秩序を壊し、価値観を転換させ、民族の生活様式というものを転換させてしまったわけであるが、それは意識の改革無しではありえなかった。  
野生の猿の若者の集団が、最初に芋を洗って食べたのと同じ現象が起きていたわけである。  
芋を洗って食べたところが、そのまま食べるよりもおいしかったので、他の猿がそれに追従したという構図が起きていたわけである。  
これは即ち自然のままの生き物の姿であったわけで、人間も本来はこういう自然のままの生き方に対応していたわけである。  
生き物の若い世代がその種の生活を革新するという事は、自然界に生きる人間にとっても真の姿であったわけである。  
ところが明治維新が定着して、皆が皆、芋を洗っておいしく食べる事があたりまえとなると、一度変革したものは恒常化してしまったわけで、この段階から若者の好奇心というものを発露する場がなくなってしまったわけである。  
明治維新当時の若者が、年とともの年齢を経るに従い、大人になり、大人になると変革を嫌う気風を抱くようになり、世の中の枠組みというものが固定化してしまったわけである。  
そして後からデビューしてきた若者は、もう既に好奇心を発揮する場所がなくなってしまったわけである。  
ようするに世の中のあらゆる場所で、既存のレールというものが出来上がってしまって、後から出てきた若者は、大人の敷いたレールの上を走らされたわけである。このレールから逸脱しようとした事件が、昭和初期の青年将校たちの起した軍事クーデターであったわけであるが、これは既に大人の社会というものが、こういう若者の跳ね上がりを押さえ込む老獪な手法を持ってしまっていたわけである。  
つまり、これは大人の老獪さが自らの保身の方向に動いたわけで、明治維新以降に生まれた世代の、非常に汚い精神構造を露にした現象ではなかったかと思う。  
青年の反発に無批判に理解を示すつもりはないが、明治維新以降の日本の国家システムの中で、出世街道という階段を上り詰めたこの時代の大人というのは、非常に心が卑しいかったのではないかと思う。  
この心の卑しさというのは四民平等という民主化のマイナスの効果ではないかと思う。  
この四民平等という民主化というのは、今日的視野で見ると、プラスの思考であるが、人民統治の階級否定という事は、同時にノーブル・オブリッジの否定にもつながっていたわけで、それは同時に心卑しき人でも、試験さえ通れば高位高官になれるという現象を呈したわけである。  
心卑しき人が高位高官についたから、彼らは青年の反乱を抑え、自らの保身に走ったわけである。  
そして忘れてならない事は、青年等が反乱をしなければならない状況を作ったのは、紛れもなく彼ら心卑しき大人達であったわけである。
不毛な政治認識  
1945年、昭和20年の日本の敗戦、日本の終戦というのは、ここで日本人の生き様というものは一旦断絶している。  
こういう時期には若者が好奇心を満たす最良の環境下であったわけである。  
今までの大人というのは、ここで従来の価値観というものを全否定されてしまったわけで、そういう環境下では、若者が新しい価値観を築く最も適した環境であったと思う。  
ところがこの時、我々には老若男女、日本全国津々浦々に至るまで、共々、食うものがなかったわけである。  
明日への糧が全く無かったわけである。  
この時の若者というのは、ものを考える前に、食うものを探さなければならなかったわけである。  
明治維新の時の下級武士の若者というのは、武士なるが故に、食うがために汗水たらして働くという事はしなくても済んだが、昭和20年代の若者というのは、その大部分が何らかの形で戦地にいたわけで、日本の内地には誰もいなかったわけである。  
こういう状況下では若者の好奇心というものも発露しえず、ただただ食わんがために、食う事の問題を解決する事が先であったわけである。  
しかし、その前提条件は十分理解できるとして、問題は、その2世の若者達が既存の秩序を破壊しようとしたことである。  
この昭和20年という年、1945年という年には、我々は大きく変革してもいい年であった。  
我々は戦争に負け、我々の国土は進駐軍に占領され、天皇の上にはマッカサーが君臨していたわけである。  
革命の条件としては、これほど条件の整った時はなかったに違いない。  
明治維新というのは我々の民族の上からの革命であった。  
つまり、統治する側からの革命であった。  
日本の敗戦というのは、外国からの、外圧としての、進駐軍による革命であったわけである。  
そして占領が終わってみると、そこには老獪な大人の組織が既に出来上がっており、若者が入り込める余地は残されていなかったわけである。  
そういう状況下での若者の反乱が安保闘争ではなかったかと思う。  
問題は、この日米安保改訂という問題に対して、当時の政治家が真摯に考えていたのかという事である。  
少なくとも、自民党、政府、岸信介の側は、自分の国は自分で守らねばならない、という概念は持っていたように思う。  
旧安保では占領の延長のような状態で、独立とは名ばかりで、そのような状況を一刻も早く脱して、自主性を持たせようと言うのが新安保であったわけである。  
これを称して、片務的と双務的という言葉で表現されているが、これがどうして野党を始めとする文化人やマスコミや識者の気に入らないのか不思議でならない。  
戦後の日本の知識人というのは、自分の国が独立して再出発する事すら反対していたわけで、そのサンフランシスコ平和会議と同時に調印された日米安全保障会議も否定するということは、これらの人々は自分の国がどうなれば良いと思っていたのか不思議でならない。  
全面講和と単独講和という議論からすれば、全面講和を目指ざすという事は、その後もずっと占領状態が続き、主権回復が制限されるという事になるわけで、そのほうが国民のために良いと言う事である。  
我々は大きな戦争を仕掛け、それに敗北したから、金輪際もう戦争はしたくない、という気持ちは政府も、自民党も、一般国民も、与党も、野党も、日本人ならば誰れ彼を問わず同じだと思う。  
ならば、それを推し進めるには如何なる手法があるのか?という点で、意見が分かれているわけで、その意見の収斂をする事が政治の役割のはずである。  
民主政治というのは多数決原理で、多数意見の方を政治的に選択するという事である。  
そのことは当然の事として、少数意見は無視されても致し方ない、ということを内包しているわけで、民主主義というのは全員の意見の一致を目指すものではない。全員の意見の一致という事であれば、戦中の大政翼賛会に成り下がってしまうわけである。  
だから民主主義というのは少数意見の不満というものを内包したままの社会という事である。  
民主主義というのは、人々の欲求を100%の完璧に満たすというものではないはずで、それを目指すのであれば、それは夢を追う獏と同じである。  
戦後の日本の社会というのは、この少数意見というものが脚光を浴び、マスコミというのは、その少数意見というものを誇大に宣伝する事で糧を得ているわけである。この事は、マスコミの宿命で、「犬が人間を噛んでもニュースでないが、人間が犬を噛めばニュースである」という事はこのことを指しているわけである。  
人が営々と生業に励んでいても何らニュース・バリューは無いが、人が仕事をサボってデモ行進していれば、大きなニュース・バリューになるわけである。  
マスコミにとって正論というのは何らニュース・バリューをもたらさないが、少数意見というのは大いにニュース・バリューを含んでいるわけである。  
対峙する二つの意見を如何に収斂させるのか、が政治の使命だとすれば、それは国会の場でしなければならないわけである。  
そして、戦後の日本の国会というのが、政党政治である限りにおいて、その政党の勢力というのは、既に総選挙をした時点で歴然と分かってしまっているわけである。本当の意味での政党政治ということであれば、これではいけないと思う。  
政党というものが同じ意見を持った者の集合ということは理解できるが、各々の議案の採決のとき、党議で反対票に投票する事を禁ずる、ということは政党政治に反していると思う。  
自民党員だとて、ある議案に対しては反対の事もあれば賛成の事もあるわけで、その個人の意思表明を、党議で拘束するという事は、極めて非民主的な事だと思う。同じ事は、野党にも言えるわけで、個々の議員の意思を党議で拘束するという事は、反民主的なことだと思う。  
これがあるものだから政治的な決着は、国会で議論する前に総選挙の結果で分かってしまっているわけで、政府自民党の議案というのは、多数決で議案の内容を討議する前から分かってしまっているわけである。  
そのことは政党政治の大きな欠陥であるわけで、その欠陥を修正する事は、政治家自身の問題なわけである。  
それは与野党を問わず、民主的な政治手法で国の政治をしたい、と願っている以上、党利党略を離れて普遍的なことのはずである。  
政治の現実がそうである以上、議案が提出されるやいなや、その内容を審議する前から全体反対ということになるわけで、これでは民主政治とは言えず、議会制民主主義を根底から覆すようなものである。  
議会制民主主義の本旨と言うのは、提案された議題について、賛否両論の立場から大いに議論を戦わせ、議論で収拾がつかないときは修正案をすり合わせ、そして最後の多数決で議決するというのが民主的な議会制度のはずである。  
野党というのは、ただただ反対するだけにあるのではなく、議案の中身を慎重に審議することにあるわけで、審議もしないうちから絶対反対ということはありえない筈である。  
現実には議案が試案の段階でも野党側に示されるので、審議前から反対ということもありうるが、絶対反対という事はありえないように思う。  
法案のこの部分は承服できないが、この部分は致し方ない、という部分が必ずある筈で、1から10まで絶対反対という事はありえないものと思う。  
それにしても、先のサンフランシスコ講和会議で、日本が独立国として国際連合に承認される事さえ反対という文化人、知識人、マスコミ関係者というのは一体どうなっているのであろう。  
日本が戦争放棄して、軍備も持たないのに、アメリカと同盟を結ぶ事に反対するという事は、相手がソビエットならば軍事同盟に参画してもいい、ということであったのであろうか。
「革命ゴッコ」としての運動  
この時の平和問題談話会の主張を読んでも、アメリカに組みすることは新たな戦争を誘発から駄目だ、というものであったが、この時にアメリカに付くかソビエットに付くかは意見の分かれるところである。  
その後の歴史というのというのは、大学の先生方の見通しよりも、政治家としての吉田茂の判断の方が正しかったわけである。  
そこで我々は、憲法の前文と、その第九条の戦争放棄ということをよくよく考えなければならないと思う。  
我々の大戦前の先輩諸氏は、自分の国の国力をも省みずアメリカと戦争をし、そして負けた。  
そのことによって日本国民はもう2度と戦争というものはしたくないと心に誓った。ここまでは戦後に生きた日本人の普遍的な認識なわけである。  
そしてアメリカの占領軍が来て日本を占領し、憲法を変え、様々な民主化を実行し、天皇を否定し、軍隊を解散させ、内務省を解体し、共産主義の開放というパンドラの箱をあけ、そのせいで人々は何を言っても罪に問われない自由を満喫できたわけである。  
その結果として、物事を決めようとすると、意見の対立が顕著になり、収拾つかなくなってしまったわけである。  
その事の裏を返せば、我々は民主主義というものを真に理解していない、ということでもあったわけである。  
多数決原理を信じていたつもりでも、少数意見を尊重せよという言い分は、民主主義の全否定につながるわけで、少数意見を尊重していたら世の中は行き詰まってしまい、先行き真っ暗闇になるということを信じていなかったわけである。  
一つの事柄について意見が分かれる事は致し方ない。  
しかし、民主的なルールで一度決まったことについては、率先してそれを遵守しようという気持ちを持たない限り、民主主義社会というものは成り立たないわけである。  
マッカアサーの民主化の最大の弊害は、このルールを守らなくてもいい、という道徳律を普遍化させたことにある。  
マッカサーの求めた「既存のルールを守らなくてもいい」という概念は、旧弊として「封建主義的な石器時代の社会規範としてのルールは守らなくてもいいよ」という事であったに違いない。  
しかし、古いルールが新しいルールに変わった以上、「新しい民主主義的な手法で作ったルールは守らなければいけませんよ」ということであったが、我々は解釈論で、自分の都合の悪い事はスポイルする術に長けており、その部分を自分の都合の良いように解釈してしまったわけである。  
だから「自分の気に入らない法律が出来たところで、それは守らなくても良い」という事が、民主化の名のもとに普遍化してしまったわけである。  
日本が独立に際してアメリカに付くかソビエットに付くかで議論が分かれた時、日本の文化人、大学の教授連中というのは、国会の外で反政府運動を展開したわけである。  
大学の教授たるものが、教授の肩書きのまま、政治活動をしてもらっては、納税者側の国民としては困るわけである。  
大学の先生方がいくら正しい行為だ思ったところで、朝から晩まで額に汗して働いてきる納税者の側からすれば、国家公務員たるものは政治的に厳正中立であってもらわなければ困るわけである。  
国から俸給を受けている者が、政治的に偏った側に肩入れするよう発言を、さも正義の声、神の声のような調子で、公の報道機関を利用して公言してもらっては、納税者としてはなはだ困るわけである。  
大衆がそうそう安易に見る事のない専門誌とか、学術誌、研究論文としての発表ならば、それも許されるであろうが、国立大学で俸給をもらって研究しているものが、自分の所信を、徒党を組んで報道機関に発表してもらっては、これはあきらなかなる世論操作としかいいようがない。  
その世論操作に関しても、こういう人の論調というのは、自分の国を自分で守るという概念は全く存在していない。  
我々は2度と戦争に巻き込まれたくない、という思いは日本人ならば誰も同じ思いのはずで、大学の先生方だけが特別にその思いが高く、強いわけではない。  
しかし、独立した暁には、自分の国を自分で守るということは、現実の問題としてのしかかってくるわけで、戦争を放棄したからといって、丸裸で海の中に立っているわけには行かないではないか。  
2度と戦争に行きたくないという思いは充分理解でき、皆同じであるが、それならば自分の国は如何にして守る事が出来るか?という答えを出したわけではない。  
嫌だ嫌だと言う事は充分分かっているが、ならばどうすればいいのか?という答えはさっぱり出していないわけで、ソビエットを含む全面講和でなければ駄目だ、という論拠にはならない。  
ただこういう発言をする人の心理として、自分が当事者ではないので、第3者として、言いたい放題のことが言えるわけで、ただただ政府の行うことに反対だけして、  
平和主義者としてのパフォーマンスを掲示しておれば、その答えを用意する事をせずとも、誰からも非難されないという立場を最大限利用した発言ということもありうる。  
前にも記したように、戦後の我々はルールを遵守するということを何か古臭い事でもあるかのように錯覚してしまっているので、当局というものには何でもかんでも反対さえすれば、それが革新的なことであるかのような錯覚に陥っているとしか言いようがない。  
このルールを守る事が民主主義の基本である、ということを全否定しようとするのは、言うまでもなく共産主義的な発想なわけで、戦後のこの時代の日本のオピニオン・リーダーと言われる人々は、そのこと如くが共産主義者かそのシンパであったわけである。  
自分の意見を世間に向かって表明する事は決して悪い事でも何でもない。  
日米安保条約に反対であって、それを示威活動の一環としてデモ行進する分には違法でも何でもない。  
ただしそれについても、定められたルールに従い、定められた手続きをした上での行為ならば何ら違法行為ではない。  
それは憲法でも定められているわけで、そのルールの範囲内ならば、何ら咎める必要はない。  
しかし、この時代のデモ行進というのは、最初はこういうルールに則っておとなしく行進していても、その中に過激派称する共産主義者の集団が紛れ込むことによって、それがジグザグ・デモになり、挙句の果てに国会にまで突入するとなれば、これは明らかに騒乱の前兆といわなければならない。  
事態がここまでエスカレートすれば、当然の事、官憲の規制が免れないわけで、こういう平和裏の抗議行動を、過激な連中が鵜の目鷹の目で、虎視眈々と狙っていたのが共産主義を基調とする暴力集団であったわけである。  
そういう過激な主張を持った人たちが、全学連という組織の中で地位を占め、それらにおだてられて、あほな学生が、お祭り気分でデモに参加していたのが、この時代の全共闘世代といわなければならない。  
新潮社の発行した「全共闘白書」を読んでも、彼らがこの時代にデモに青春を掛けた事は、それぞれに白状しているが、彼らが本当に革命を目指していたのではない、ということも正直に答えている。  
ならばあのデモは一体何であったのかと言いたい。  
1960年、昭和35年6月15日、安保阻止第2次ストで、このときデモ隊は国会議事堂にまで突入しているが、この時東大生であった樺美智子さんがデモ隊と警察の双方から押されて圧死している。  
彼女がお祭り気分でデモに参加して死んだとなれば、彼女の死はまさしく犬死である。  
犬死ではなく、信念を持って安保条約改訂に反対するつもりであったとすれば、彼女の安保に対する認識は間違っていたことになり、やはり結果としては犬死である。  
死者に対して厳しく冷酷な意見だとは思うが、現実はそうである。  
彼女が間違っていると思った日米安保というのは、その後もアジアの安定には寄与していたわけで、日本は戦争にも巻き込まれず、今日まで来れたということは、岸信介の信念が正しく、樺美智子の信念は間違っていたということに他ならない。  
こう言う事を誰もはっきりと明言する人がいない。  
死者を冒涜しないという倫理は、それこそ江戸時代以前の、思想界のシーラカンス状態の発想で、戦後民主主義で古い価値観を全否定する人々が、この事にだけ江戸時代以前の倫理から抜けきれないというのは噴飯者である。  
どんなに革新的なことを言っている人でも、その心の奥底では人間の持つ潜在意識から免れる事が出来ず、感情の支配から抜けきれないと言う事である。  
死者に同情するあまり、彼女は極悪非道な警察官の犠牲になった、という捉え方をしがちであるが、これは明らかに自己矛盾を紛らわすための偽善である。  
樺美智子さんが自分の信念で現場に赴いたとは思われない。  
ただ何となく周囲が安保反対と言っているし、大学の先生方も反対と言っているし、マスコミも盛んに反対だ反対だと言っているので、そうに違いないと漠然と思い込んで、深く考える事もなくデモに参加したのではないかと想像する。  
「全共闘白書」の他の一般の参加者と同じ感覚ではなかったかと思う。  
江田五月のように途中から転向するというのは、青年の生きかたとしては極普通のあり方である。  
若い時代には、一途に不正を正すという正義感に燃えるのは健康な精神が宿っている証拠である。  
しかし、自分がデモに参加して、国会にまで乱入した、という実績はその人本人の負の遺産として背負い続けなければならないと思う。  
その本人の背負い込んだ本人の負の遺産というものが、その後の本人の生活に影響がある場合もあれば、全く関係もない場合もあるわけで、それは本人の運次第である。
理想としての観念論  
問題は、あの安保反対の抗議行動を、安保の中身を論ずる事もなく、ただただ示威行為の敗北という側面で論じていいものかどうかという点である。  
安保を議論した与野党の審議の中身を検証する必要があるのではないか、という事であるが、その議論というのは、自衛力の増強、事前協議、共同防衛、基地の提供、極東の範囲等々重箱の隅を突付くような議論を展開していたわけである。  
日米防衛協定としての日米安保となればそれは致し方ない面がある。  
与野党の議論というのは、それぞれに考える基盤が違っているわけで、そうそうに妥協点が見出されるものではないということは十分承知しているが、国会の外で行われている示威活動においては、この論議が全くなされず、ただただ感情論で、観念だけの批判がまかり通る事の不思議さである。  
日米安保を結ぶと、日本が軍国主義になる、という発想は一体何処から出ているのであろう。  
日本がアメリカと手を結ぶと戦争に巻き込まれる、という発想は何処から出ているのであろう。  
平和問題談話会の大学の先生方というのは、その質問に答えなければならないのではなかろうか。  
この時代に書かれた論文は、まだ風化せずに残っているわけで、それを読み返してみても、観念論だけで、条約の中身を論じたものはお目にかかれない。  
主要論文集で見る限りにおいては、観念だけで、条約のデメリットのみを解くだけで、それは外交ないしは国防というものの理想を書き連ねているだけで、現実の問題の解決には何ら寄与するものではない。  
学者というのはいわゆる夢を食う獏で生きておれる。  
研究室の中で、自分の好きなことをして、額に汗して働く事もせず、馬鹿な学生に媚を売っていれば高給が支給されるわけである。  
まさしく、夢を食って生きている獏そのものである。  
現実の社会から、海千山千、食うか食われるか、狐と狸の騙し合いの世界から超越した場所で、下界を睥睨しながら理想論をぶっておれるわけである。  
こういう世の中、自分の意見を堂々と述べることの出来る環境、反政府運動というものが許されている環境というのは実に有り難い世の中といわなければならない。戦前・戦中の我々の祖国に、こういう環境があったであろうか。  
旧ソビエット連邦にこういう政治状況がありえたであろうか。  
共産中国にこういう自由があったであろうか。  
この自由を我々は自らの力で自分達のものにしたのであろうか。  
戦後の我々は、アメリカがセット・アップしてくれた状況にただ乗りしただけで、こういう状況を満喫していたのではなかろうか。  
自分の国を自分でも守る事を拒否する思考というのは、一体は何処から来ているのであろう。  
我々は、空気と水と自由というものはただだと思い込んでいるが、空気はともかく、今日の日本では水も既にただではなく、まして自由というものにはコストが掛かっているという事を認識しなければならない時期にきているわけである。  
そのコストというのが目に見えるものではないので、ただだと思っているが、戦後半世紀の日本の繁栄とアジアの安定には、アメリカ人の金が投入され、アメリカの青年の血と汗が流されているわけである。  
日本が自分の金で自分の国を守るためには、相当な資金が必要なわけで、その金を民政にまわせば、それだけ経済復興に役立つ事は誰の目にも明らかなわけで、当時の吉田茂、その後の岸信介という政治家は、そういう政治選択をしたわけである。その時の日本の文化人というのは、日本は戦争を放棄したのだから、そもそも自分の国を守る必要はない、という論法であったわけで、これが世界の常識として通ると思っていたところに、能天気な部分があったわけである。  
物事を普通に考えれば、軍備に金を掛ける事の無駄は、国連加盟国の150ヶ国とも皆同じである。  
ならば皆内揃って止めればよさそうに思うが、そうはならないわけである。  
それは国連加盟国の150カ国の人々が、それぞれに自分の国というものに誇りを持ち、民族の自尊心を持ち、自主性を具現化しようとしているからで、小さい国は小さいなりに、大きい国はその国力の応じて、自分の国は自分で守る気概を持っているわけである。  
その気概の具体的な表れとして、軍事力というものが存在するわけである。  
ところが日本の文化人や有識者といわれる人々には、そのことが理解できないわけで、夢を食う獏のような事を言っているわけである。  
そして現代の紛争というのは一国のみでは対処できないわけである。  
そのことは同時に安全保障条約で、つまり軍事同盟でお互いにリンクしあいながら紛争解決をしなければならないという事である。  
今日、進歩的文化人と自認する人々が、戦争と平和を語る時、武力行使という点にのみ視点が行くが、国際紛争というのは武力行使のみではないわけで、2001年平成13年の時点で、韓国からの教科書問題や、中国から靖国神社参詣問題等も、れっきとした国際紛争なわけである。  
我々は日米安保というものを持っているからといって、そういう国際紛争に武力を使った例はないわけである。  
サンフランシスコ講和条約で全面講和を主張した人々や、安保を改定すると戦争に巻き込まれると主張した人々は、その後の日本の行動をどう解釈し、どう整合性のある説明をするのであろう。  
日本の国立大学の先生方や、日本のオピニオン・リーダーと称される人々の未来予測は全く出鱈目だったと言うことではなかろうか。 
 
60年代安保闘争13 思い出

 

小島弘 / 1932年生。明治大学卒。57年全学連第10回大会より全学連副委員長。60年安保闘争当時は、全学連中央執行委員及び書記局共闘部長。その後、新自由クラブ事務局長を経て、現在は世界平和研究所参与。  
古賀康正 / 1931年生。東京大学卒。東大中央委員会議長等を歴任し、ブント創立の主要メンバーの1人。卒業後は国際協力事業団、岩手大学教授を経て97年に退官。  
篠原浩一郎 / 1938年生。九州大学卒。全学連中央執行委員。60年安保当時は社共同(社会主義学生同盟)委員長。卒業後、機械メーカー等を経て、現在はNPO法人のBHNテレコム支援協議会常務理事。  
司会 / 森川友義 / 早稲田大学国際教養学部教授。「60年安保6人の証言」編著者。
■あの時若者は燃えていた
今年は1960年に日米安全保障条約が改定されてから50年目の節目に当たる。もともとの日米安全保障条約は51年にサンフランシスコ平和条約が締結された際に日米間で同時に締結され、それが60年に改定を迎えることとなった。  
日本で燎原の火のように広がった反政府、反米運動  
この安保改定を巡っては、日本中で反対運動が巻き起こった。全国の大学運動に火がつき、労働者や多くの市民を巻き込んで、安保反対と反米運動が日本中に燎原の火のように広がっていった。  
学生を中心とするデモ隊が国会に突入したり、米軍の旧立川基地の拡張に反対してデモを繰り返し柵を壊して基地内に突入したりした(砂川闘争)。また、当時の東京国際空港(羽田空港)では、来日した米国の大統領報道官をデモ隊が取り囲み、報道官が米海兵隊のヘリコプターで救出されるといった事件も起こした。  
しかし、こうした闘争もむなしく1960年6月19日、改定された安全保障条約が国会で承認され(参議院の議決はなかった)、施行されることとなった。  
この60年安保闘争は、10年後の70年安保闘争とともに戦後日本の歴史の中で、空前の反政府、反米運動となった。  
60年安保からちょうど50年目を迎えるに当たり、当時の安保闘争に加わった学生闘志たちに、その時を振り返ってもらい、安保闘争とは何だったのか、そしてそれがその後の日本にどのような影響を及ぼしたのかを議論した 。 
森川 2010年が60年安保の50周年ということで、様々な形でマスコミなどで取り上げられています。鳩山由紀夫首相が沖縄にある普天間飛行場の移設案を5月末日までに決めるとしながら、結局は自民党政権時代と大差のない案に落ち着いたわけですが、その経緯でクローズアップされ、日米安全保障条約改定から50年目という節目を国民全体が認識することになりました。
大規模な闘争へとつながるきっかけの1つともなった第2次砂川闘争  
そして、60年安保のピークは6月中旬でしたので、50周年記念の行事も恐らく6月頃と予想されます。こうしたタイミングをとらえて、当時直接的・間接的に関わった方々にお話をうかがっていきたいと思います。まずは60年安保当時、全学連幹部として学生運動を指導されていた3人の方々に、当時の模様と60年安保の歴史的意義という、2点についておうかがいしたいと思っています。  
60年安保闘争は、一般の読者の方々にとって既に50年前の出来事でありますので、あまりご存じないかと思われます。  
従って、まずは1960年の安保闘争に通ずる1956年の「第2次砂川闘争*1」あたりから60年までの、当時の学生を中心とした動きについてお話しいただき、さらには60年安保の歴史的意義についてご意見をうかがう、という二段構えでお願いしたいと存じます。  
その意味で、全学連による闘争の分岐点の1つとなった「六全協*2」(日本共産党第6回全国協議会) を経験したいわゆる「シニア組」から小島弘さん、「六全協」を経験されていない「ジュニア組」から篠原浩一郎さんと古賀康正さんのお2人においで願いました。  
小島さんは全学連で副委員長や共闘部長を歴任されました。古賀さんはブント*3(共産主義者同盟)の立役者の島成郎(しま・しげお)さんから「ブント初の職業革命家」と言われた方で、島さん亡き後、ブントの内情を知っていらっしゃる数少ない方です。  
篠原さんは60年安保当時の社学同(社会主義学生同盟)の委員長で、ブントの主要メンバーの1人です。篠原さんと古賀さんは「ジュニア組」ですが、ジュニアと言いましても既にお年は70歳を超えていらっしゃいます。
共産党に入党願い出すもトロツキストと見なされ断られる  
篠原 そう、まさにそう。  
小島 篠原さん、「六全協」の時は共産党にいたの?  
篠原 いや、だいたい「六全協」って何年でしたっけ。  
森川 1955年7月です。  
篠原 私は1957年の4月に大学生になったんだから、まだ高校1年生とかだよね。全然知りませんよ、そんな「六全協」なんてね。  
小島 篠(原)さんの世代は共産党に入ってないんだ。  
篠原 私はね、共産党に入党願い書を出したけども、当時、九大(九州大学)で、既にトロツキスト*4だって言われていて、はねられてるんですよ。だから入党していません。  
古賀 その頃、九大(九州大学)の親分は誰だったの。大坪?  
篠原 九大は親分っていうか・・・。大坪じゃなくて、守田典彦が出入りをしていましたね。  
古賀 でも、守田典彦だってトロがかってるじゃないの。  
篠原 ええ、だから、もう既にそういう一派になっていたんで、ちょっと共産党にも入っといた方がいいんじゃないかっていうので。その頃に九州は「これぞ真の共産党」っていうものを結成したわけですよ。それで、その後ブントができるっていうんで、それじゃあそっちも入っておこうか、というようなことで、東京へ出てきたんですよね。1958年12月です、ブントができたのが。私が学生運動を始めたのが57年10月からだから、1年くらいの駆け足でブントまで飛び込んでいったわけだよね。創立総会に出ましたから。学生運動のきっかけは1957年10月に、共産党がやってた九大教養部の自治会を私らが乗っ取るところから始まります。
アメリカの原爆は悪でソ連の原爆は良い原爆と主張した共産党  
小島 それまでノンポリでヨットに乗ってた人が共産党の自治会を乗っ取っちゃった。  
篠原 そう。入学してヨット部に入って、夏の間はヨット部にしか行ってなくて。今と違うからもう秋になったら寒くて乗りませんから。それで10月になって大学戻ってきたら学生大会やっていまして。そこへ出てったら、アメリカのエニウェトク環礁の原爆は反対と言うので「おい、ソ連の原爆はどうするんだ」って訊いたら、「ソ連の原爆は良い原爆だ」なんて。学生の前でそんなこと言ったって通らないよね。頭おかしいんじゃないかって。どうしてもソ連の原爆も(スローガンに)入れろって、米ソの原爆反対って入れろって言ったのだけれど、どうしてもそれはできないって彼らは言うんです。できないんならやめるしかないじゃないかって言ったら、「はい、辞めます」って言うもんで。それで追い出して、それから学生運動を始めました。  
学生運動をやっているうちに共産主義にのめり込んでいって。ソ連の原爆は良いなんてやっている共産党とは当然相容れないからね。反帝・反スターリニズムというふうになっていきましたけどね、私は。  
森川 もう1人いましたよね、九大で。  
篠原 九大では私と同級だった二宮っていうのがいました。彼は高校時代から共産党で、新しく執行部に入ってきた中に彼がいたんですね。当時の九大では2人でやったようなものでした。  
森川 上京されるのっていつでしたっけ。  
篠原 1959年12月に上京しました。8月頃に島成郎が来て、九州大学からも(学生活動家を)1人出してくれって言うんで私が行くことになったんですが、なかなかお呼びがかからないと思っているうちに「11・27」(安保改定阻止第8次統一行動)があって。われわれは福岡で(統一行動を)やってね。私はその時捕まったりしたわけですが、すぐ(留置所から)出てきて。「11・27」で指導部が捕まったりして東京が大変だ、すぐ来てくれって言うので上京して、それっきり東京ですね。  
森川 それでは、時計の針を少し戻させてもらって、「六全協」あたりからお願いします。  
篠原 古賀さん、山村工作隊なんかやんなかったの。  
古賀 してない。  
森川 「中核自衛隊」なんていうのもありました。  
古賀 僕が大学に入ったのは1954年4月。中核自衛隊なんていうのは、その前ぐらいの年までだったんじゃないのかね。極左冒険主義とかっていうのは。要するに山村工作隊とか、地主を探してやっつけるとか、どこかで鉄砲の稽古をするなんてのをやってたのは前年までの話。あの頃はもう山村工作隊とか、田舎行って地主探しをやるとかなんとかっていうのは、やってもしょうがないなってことになっていた。それで1955年の「六全協」になったんじゃないのかね。  
小島 山村工作隊は「Y」が熱心だった。  
古賀 「Y」っつったんだったな、あれ。なんで「Y」って言うの。  
小島 なんだったかな。  
篠原 「Y」ねぇ。軍事組織ねぇ。確かに「Y」って言ってたよね。
六全協を境に共産党から離れていく  
森川 歴史的にはこういうことでよろしいんですか。1945年に終戦を迎え、当時学徒出陣で駆り出された学生が大学に戻ってきた。共産主義を信奉する学生たちが1948年に全学連(全日本学生自治会総連合、初代委員長・武井昭夫)を結成。それが1つの大きな学生の流れで、また、ほぼ全員が最初は日本共産党の党員であったが、「六全協」を境にだんだん離れていく、と。日本共産党の当時のイデオロギーっていうか、戦い方というのは、要するに武力行使。山村工作隊、中核自衛隊というものをつくって火炎瓶投げたり、ピストルで人を殺したりとか。そういうような、要するに武力による革命という流れがずっとあったのですが、先ほど古賀さんがおっしゃられたように、それの行き詰まりというのがあった。それで1955年7月の「六全協」、正確には第6回全国協議会ですね、共産党の会議で方針転換が図られた、と。  
古賀 だけど、1955年1月に「アカハタ」で極左冒険主義を自己批判するって書いてあるんだよね。だからもう、ちょっとこれじゃだめだなっていうのが共産党のトップの中で既にあったんじゃないのかね。  
篠原 どうせソ連から批判されたんでしょう。コミンフォルムかなんかで。レッドパージまでは「アメリカは解放軍」「アメリカ万歳」でやってたんで。  
レッドパージから地下へ潜っていって、そういうの(武装闘争)をやりだして。結局、それをまたソ連から批判されたんだ。  
古賀 要するに戦後間もない学生運動は、武井(昭夫)とか、この間亡くなった安東仁兵衛とかがやったものが最初にあって、島(成郎)が武井の子分になって、一生懸命その大衆運動を組織したわけだよね。試験ボイコットだかなんかやって。  
篠原 イールズとかも。  
古賀  全部聞いた話だから間違っているかも知れないけれども、その後イールズ闘争だとか、ポポロ事件だとか。だけど学生運動を指導していた学生党員は共産党の中で「国際派*5」だったんで、代々木の共産党の方からは胡散臭く見られ、だんだん締め付けが厳しくなり、「所感派」(つまり当時の共産党の主流だね)の学生が全学連を乗っ取った。それがバカみたいなことばかりするものだからだんだん先細りになってきて、「六全協」で学生運動は決定的に壊滅した。「六全協」というのは「主流派」と「国際派」との手打ち式みたいなものでもあり、今までスパイだ、反党分子だとされていた国際派の親分の宮本顕一が復活して舞台に躍り出て、これまで威張っていた主流派は小さくなってしまった。それまで党主流(所感派)の指導に盲従していた学生運動家たちは、当然、「おれたちはいったい何をやっていたんだ」ということになる。それで、これまで小さくなっていた元・国際派の学生が公然とそれまでの運動を批判し始めた。それまで党主流だった学生は、そう言われて何年か前に武井なんかが出していた『学生評論』という雑誌などを見てみると、これまで党の方針などと違って、実に的確な国際・国内情勢の分析や運動の方針などが書かれてある。これまでの主流派の「統一と団結」とか「大衆とともに」というような観念的な「方針」とは桁違いの水準だ。まるで、こどもと大人の違い。武井らの学生運動のとらえ方は、「層」としての学生が国民運動に先駆的な役割を果たす。つまり、学生「層」が鋭敏に情況を見極めて先頭を切って動き、それによって他の階層に警鐘を乱打するというのがその社会的役割だという。島なんかがその頃の生き残りだし、中村光男なんかも「国際派」のそういう昔の学生運動に参加していたわけで、「武井理論」を担ぎ出してどんどん発言するようになったわけだね。ごく簡単に言ってしまえば、戦後まもなく生まれた武井らの全学連は相応の活動をしたが、それを乗っ取った共産党主流派の学生運動が「六全協」で決定的に壊滅し、その後、元・国際派の学生党員が授業料反対闘争で指導力を発揮し、それをきっかけに学生運動がふたたび息を吹き返した、ということだと思います。その後、安保闘争の間ずっと共産党はまた学生運動を妨害し、つぶしにかかるけれどね。  
小島 あの頃の話で、一番よく書けているのは安東仁兵衛の『共産党私史』。  
古賀 そうだ、仁兵衛の本を見ればそのあたりがよく分かる。  
小島 その中には当時のこと全部が書いてあるから。渡邉恒雄(読売新聞グループ本社会長)も出てくるし、氏家(斎一カ、日本テレビ放送網会長)も出てくるしね。それから、それこそ日銀の島本さんも出てくる。  
古賀 その頃のことなんか、伝え聞いているだけであんまり知らないわけだ。  
森川 全学連の委員長でいきますと、松本登久男さん(東大、委員長在任1954〜55年)、田中雄三さん(京大、1955〜56年)、その次に、1956年に香山健一さん(東大)が委員長になられています。そのあたりから砂川闘争に入ってくるわけですね。そのあたりは小島さんがお詳しいですかね。  
古賀 小島が香山と一緒にやったんじゃなかったっけか?  
小島 そう。当時僕ね、共産党には「六全協」前に入ってるんですよ。だけど、最初に共産党の会議に出たのは「六全協」の後なんですよ。その時に党員の東京都の集会があったんですよ。そこに行ったらびっくりでね。こんなところに入っちゃってまずかったな、って思ってね。  
篠原 何人くらい集まってたんですか。  
小島 200〜300人は集まってた。会議では、いかに共産党は非人間的かっていう話が始まっちゃったわけですよ。  
篠原 我が青春を返せ、みたいな。
何度も堕胎させられて子供を産めなくなった女性たち  
小島 そうそう。一番ひどいのはね、女の人が立ち上がってね、私は子供を産めなくなりましたって。なんで産めなくなったって、要するに、旦那はね、地下活動をやってたわけ。帰ってこなきゃいいのにたまに帰ってくるわけよ。子供ができちゃうじゃないの。でも党の命令で堕ろせって、毎回堕ろさすのよ。とうとう私は子供ができない体になりましたってね、わんわん泣きながら話すの。それを聞いて「えらいところには入っちゃったな、こりゃ」と思って。当時の共産党はもう少しヒューマニズムがあるかと思ったらね。  
古賀 「六全協」後の共産党細胞っていうのは、みんなそういう話ばっかりよ。俺の青春をどうしてくれるってな話ばっかりだよね。その「六全協」の前に、水ぶくれでね、どんどん入れたものだからさ。佐藤誠三郎(故人、政治学者、東大教授)とか公文俊平(元東大教授、多摩大学教授)とかね。それからムツゴロウの畑正憲なんかも一時入ったんだよ。だけど、そんなのはほんの瞬間だよね。その後「六全協」でもう党がなくなったも同然になって、雲散霧消だよね。だから本人も入党したのって記憶ないんじゃないの。「六全協」になったらもう、党は非人間的だって、そんな話ばっかりだもんね。  
小島 生田浩二*6は「六全協」の前に上田に対して査問のようなこともやってたって話がある。  
古賀 生田は「所感派」のゴリゴリだったからね。上田は「国際派」だからスパイだっていう、あれ?  
小島 そう。参議院議員だった上田耕一郎と参議院の前で会った時、たまには遊びに来いよって言うんで、俺みたいな反党分子が行っていいのかなって言ったら、いやもう昔のこと知っているやついないから是非って。上田が「ところで、生田はどうした?」って訊くから、「生田は死んじゃったよ」って言ったら、「へー、俺はあいつにひどい目に遭ったよ」って。  
中野地区議会で、中央線沿線のどこかでやっていたんだな、生田は。上田は査問されてね。我々からすれば上田耕一郎は大先輩ですよね。大先輩を査問して。  
篠原 生田は歳いくつぐらいなの。  
小島 昭和7年生まれ。僕と同じ。  
篠原 同じ年ですか。ずいぶんませてたんだね、彼も。  
古賀 生田はストレートで入学してるからね。  
小島 柳沢伯夫(元金融担当大臣・厚生労働大臣)、静岡高校で生田の後輩なんですよ。僕らが最初に会った時、「小島、生田は知ってるか」って言うから、「知ってるよ、なぜ」って訊いたら、「俺、静高の時、社研に入ったら、生田っていうすごい先輩がいるって言われた」って。柳沢は会ったことないんだけど、生田について神話みたいなのを聞かされたって言うんだ。東大ストレートで入ったってね。  
 
*1 「砂川闘争」とは、「砂川基地拡張反対闘争」のことで、米軍立川基地拡張のために隣接する砂川町の約5万2000坪を接収することに対して、町ぐるみで反対闘争を行った事件で、「流血の砂川」と言われるように多くの負傷者を出した。第1次砂川闘争は1955年でほとんど注目されなかったが、1956年10月の「第2次砂川闘争」では、当時東京大学の学生だった森田実(現在、政治評論家)等の指導する学生運動によって測量中止となり、60年安保につながる学生運動の盛り上がりのきっかけとなった事件である。  
*2 「六全協」とは日本共産党第6回全国協議会の略。1951年の五全協で決定された「農村部でのゲリラ戦こそ最も重要な闘い」として山村工作隊、中核自衛隊を創設して火炎瓶等による武装闘争を展開するという方針に対して、これを「極左冒険主義」として自己批判し、より穏健な議会主義に転換した会議のこと。当時の全学連指導部は日本共産党の指導下に置かれており、学生活動家はほとんど共産党員だったため党中央に対して忠実な「七中委イズム」、つまり「踊ってマルクス、歌ってレーニン」と揶揄されたレクリエーション活動路線への転換を余儀なくされた。それに対して快く思わない学生指導部が日本共産党から次第に離脱してゆく行動が、当時の全学連指導部を安保闘争に駆り立てたとも言える。  
*3 社学同とは「社会主義学生同盟」の略で学生運動の一組織。1958年5月に反戦学同が解体されて社学同が結成された。  
*4 「トロツキスト」とはソ連の革命家、レフ・トロツキーから由来する言葉。ただ「トロツキスト」という言葉は、通常、自国の共産党の指導に従わない共産主義者に対して、非難する意味で使われることが多い。  
*5 当時の日本共産党は、主流派の「所感派」と反主流派の「国際派」が対立していた。  
*6 東大経済学部卒。当時の学生活動家で全学連中央執行委員。1966年3月、米国ペンシルベニア大学留学中にアパートの火災で死亡。
■共産党では革命できない
極左冒険主義からの方針転換を決定した「六全協」(日本共産党第6回全国協議会)は、共産党から多くの離党者、転向者を出す1つのきっかけとなった。  
第2次砂川闘争の勝利が学生運動に火をつけた  
以後、大衆運動に対する牽引力を失っていく共産党とは裏腹に、反共産党、あるいは共産党内部においては反中央執行部の性格を濃く帯びるにしたがってエネルギーを高めていったのが、全学連を中心とする学生運動だった。  
「学生さんのお遊び」とも見なされていた学生運動が、大衆運動の中で1つの勢力として認められる転換点となったのが、第2次砂川闘争である。この闘争の勝利がもたらした高揚感が、のちの安保闘争へとつながっていく。  
今回は、1956年の第2次砂川闘争から、国会「侵入」を果たした1959年の「11・27」までが語られる。
砂川の英雄となった森田実氏  
森川 1956年春に、国立大学の授業料値上げ反対闘争でまず火を吹くわけですね。  
篠原 そう、1956年の春。  
小島 教育二法案反対が5月。それが全国に広まった。その次に砂川だ。  
森川 第2次砂川闘争ですね。第1次砂川闘争は前年にありますが、こぢんまりしたものでした。第2次砂川闘争は「砂川の英雄」森田実さん(現在、政治評論家)が活躍された闘争として有名です。いわゆる森田派の小島さん、そのあたりの話をぜひ。  
小島 森田実が一番頑張った時で、我々は前年には参加していませんでしたけれども、砂川の反対同盟の人たちがとにかく盛り上げたいと。総評に頼んだけど、総評があまり動かない。高野実*1なんですよ、後ろでやっていたのが。森田が高野実と清水幾太郎*2に呼ばれて行って、それで「よっしゃやろう」って話になって始めたんです。これが確かね、夏前後の話じゃないかな。それでもう9月の頭に砂川ですからね。  
古賀 地元の行動隊長は青木さん。  
小島 青木市五郎さん。僕らもあんなに盛り上がるとは思っていなかった。砂川の中学校に毎日寝泊まりして。  
森川 砂川闘争の結末はどうなりましたか?  
小島 結局、10月12日、13日に激突して19日に測量中止になった。地元で「勝った、勝った」って大騒ぎになって。政府からすれば、測量中止にするのをもっとずっと後にすればよかったものを、我々がまだ砂川にいる間に中止しちゃったから、みんな「勝った、勝った」って喜んで、大変なことになった。だから、ますます学生運動に火をつけることになった。砂川闘争の成功で味をしめたんじゃないかな。たぶんその流れで60年の安保まで続いちゃってるような形ですよ。
砂川闘争には嫌々参加した労働組合  
篠原 労働組合も砂川に行っていたんですか?  
小島 彼らは嫌々やってたの。森田が当時の朝日ジャーナルで話しているけど、森田は大法螺吹きでね、学生は3000人動員するって記者発表しちゃった。総評としたら面子まるつぶれなわけよ。でも、全学連が3000人って公言したら総評は必死になるよね。学生側も同じように必死になって結局、動員しちゃった。総評が銭も出してくれたし。形としては、測量中止になったから総評も大変喜んだわけだ、我々もやったって。地元もすごく喜んだし。  
いちばんバカを見たのは共産党なんですよ。共産党は「六全協」前に地主攻撃をやったわけで、攻撃されたのは青木市五郎さんや宮崎(伝左衛門)町長といった地主の人たち。実際に砂川闘争を中心になってやっていたのは地主なんですよね。それをこいつら敵だってやられていたから、彼らの反感を買って、共産党は一度も砂川には入れなかったわけです。いまさら砂川闘争に参加されてもなって。  
篠原 なるほど、山村工作隊で敵は地主だってずっとやっていたから。  
小島 山村工作隊の基地は五日市街道の先でしょ。あのへん通るたんびに地主反対ってやっていたから。  
篠原 それで砂川闘争で学生運動の地位が左翼系の運動の中で大きくなったんだね。学生さんのお遊びじゃなくなって、重要な勢力の1つとしてカウントされるようになった。  
森川 翌1957年3月がクリスマス島の英国核実験阻止闘争、4月が沖縄核兵器基地反対全国学生総決起集会です。  
古賀 クリスマス島のおかげで僕がパクられたんだよ。  
森川 これはどういう話なんですか。  
古賀 1957年3月、イギリス大使館にデモかけたんだよね。あの時、塩川(喜信、58年に全学連委員長就任)が都学連の委員長で、僕が東大中央委員会の議長だった。デモの先頭だったんで2人ともすぐにパクられちゃったんだ。それまではパクってもね、すぐ釈放になったんだよ。でも、あの時はなかなか釈放してくれなかったね。結局、1カ月か2カ月いたのかな。  
小島 篠さん(篠原氏)なんか、合計で13回もパクられて。当時はパクられてもすぐ釈放されたから13回できたんでね。これ1カ月も2カ月も入ってたら、13回なんかとんでもない。  
篠原 13回もやったら、もう学生じゃなくなっちゃうよ(笑)  
小島 今まで13回なんていう記録はないだろうと思うよ。暴力団の人に聞いたら「俺たち1回入ったらね、3年も4年も入ってるから、13回は稼げません」って。そのまま起訴されて、刑務所に行っちゃうからね、13回なんてとてもじゃないけど稼げませんって(笑)
1957年、第3次砂川闘争と革共同の結成  
森川 1957年7月が第3次砂川闘争ですね。同年12月に革共同(革命的共産主義者同盟)が結成されますけども、革共同の話ができる方はいらっしゃいますか。  
篠原 「革共同」ってのは、設立の時は知りませんが、私は1957年10月頃からやりだしたでしょ。さっき少し話に出ましたけど、守田典彦とか大坪保男とかと。  
確かレッドパージかなんかで大学を放校されて、共産党の山村工作とかなんかやっていた人たちなんだよね。その後共産党からも追放されて。九大教養が妙なことになっていると聞いたのか、現れてきて。彼らに指導を受けるような感じになっていったんですね。守田はたぶん革共同の創立の時から絡んでいると思います。1958年5月頃かな、勉強会をやっていましてね。革共同といっても黒寛(黒田寛一)とか、関西からは西。僕が出た勉強会には、栗原(太田竜)と黒寛と守田と法政の白井なんかだね。勉強会を何回かやったくらいです。  
古賀 革共同は、もともと運動をすると言うよりは、黒寛の出していた「探求」という雑誌を中心とした哲学的な「お勉強」サークルだったんじゃないの。  
森川 1958年になりますと「社学同」(社会主義学生同盟)が結成され、初代委員長に陶山健一さん、清水丈夫さんが書記長。その次に篠原さんが委員長になります。それから「6・1事件」があります。1958年秋には警職法反対闘争*3です。12月10日には「ブント」が結成されます。このあたりはいかがでしょうか?  
小島 「6・1」は全学連の大会の後だっけ、前だっけ。  
森川 全学連の第11回大会が5月28日から31日です。  
小島 その翌日だ。全学連の大会がある時は、全学連の代議員の中の共産党員がみんな集まるんです。僕らみたいな全学連幹部の全国大会が先にあって、次の日に共産党員だけが残って、日本共産党の代々木の本部の2階に集まっていろいろ議論します。召集するのは、日本共産党中央委員会青年部学生対策部。学生側は召集される方で、その時は100人以上いたかな。代々木に行って、まず議長の選出があったんですが、もちろん共産党側は自分たちが召集したんだから、議事進行は自分たちがやるってことになるんだけど、それに異議ありって言ったのが僕でね。   
古賀 その頃、共産党の学対っていうのは、津島?  
小島 津島薫。津島がペンネームで飯島が本名。あとは紺野与次郎と鈴木市蔵。それで、侃々諤々やって、確か土屋源太郎かなんかを議長に据えて議事進行しちゃったんですよ。  
それで共産党は駄目だって話になって。当然学生の間で喧嘩するわけです。共産党の中で紺野与次郎なんかの指示を受けた高野(秀夫)らとやり合いました。多少の小競り合いみたいなものがあったけれど、圧倒的に共産党に反対する学生の方が多かったものだから行き着くところまでいって、最終的には宮本顕治以下の共産党幹部の罷免決議を採択したわけです。これを共産党本部でやっちゃった。当然、党から除名されますわなぁ。すぐに森田と香山と野矢の3人除名されて。僕らは活動停止1年くらいでした。  
古賀 森田と香山は出てたの、その場に?
共産党の本部で幹部の罷免決議をやっちゃった  
小島 出てた。出てて、ある意味、主役を演じてた。日本共産党の歴史の中で、共産党本部で共産党幹部を罷免しちゃったっていう珍事はないだろうね。  
篠原 事前に計画してたんですかね?  
小島 どうだろ、勢いだから。共産党系の学生と大喧嘩したから。その頃の学生は元気が良かったね。1956年の砂川闘争から学生運動が順調にいってますから、全学連の学生の方は天狗ですよ。砂川で勝っちゃったしね、「警職法」は潰しちゃうし、ことごとくうまくいっちゃってるからね。吾に敵なしっていう感じで。  
篠原 確かに学生運動が盛り上がっているから、そういう意味じゃ強気に出るわね。  
古賀 警職法つぶしたっての、いつだった?  
森川 1958年10月28日、全学連、警職法反対全国総決起大会。11月5日、警職法反対全国ゼネスト・全学連4000人が国会前座り込み、11月22日に警職法案実質上廃案とあります。  
篠原 そのまま安保へつながったね。  
小島 つながってっちゃったね。  
森川 同年12月10日に「ブント」結成です。  
小島 あぁ、その勢いだね。共産党が駄目だから俺たちがやろうってね。  
森川 ブント結成の中心は島成郎さんですか、あるいは別な方?  
篠原 基本、島ですね。  
古賀 ブントをつくろうってなったのは、佐伯(秀光、ペンネーム山口一理)の実家の横浜の宝生寺でね。島(成郎)と生田(浩二)と富岡(倍雄)と青木(昌彦)と早稲田の小泉(修吉)と片山(迪夫)と私かな。片山と小泉のどっちか。片山はいなかったかもしれない。だけどその前から青木の別荘で学習会をしたり、信用できるやつをつかまえては別党コース(共産党の内部からの改革を諦めて別の革命党をつくる)の可能性を論じ合ったりしていたみたいだね。僕は1958年に卒業して学生組織から離れていたので、その辺にはあまり詳しくないんだけど。そのいきさつについては、生きているのでは青木がいちばん詳しいんじゃないかなあ。  
別党コースについては島はずいぶん慎重で、生田・青木・富岡あたりが島をくどいたようだね。  
森川 それで何を決定したんですか。  
古賀 やっぱり別党コースでいかなきゃ駄目だって。名前は「共産主義者同盟」、略称「ブント」とする。島が書記長になるということ。島は結晶の核のようなものだから。  
篠原 そうですね、もう新党ですよ。共産党とは異なる新しい党。  
小島 共産党は役に立たないということになって。  
古賀 共産党の中から変えるのは無理だ。もう腐った組織は駄目だからって。  
篠原 革共同系もそこへ雪崩れ込んでるわけですよ。革共同系は森田派を排除しろといって騒ぎ立てるわけですね。なんかよく覚えてないけど、私が森田派を擁護して。  
森川 擁護したんですか。  
篠原 擁護したの。なんかしゃべったの。  
古賀 島は中立的だったけどね。森田派、森田派って悪者のように言うけれど、そりゃイデオロギーとか思想の面では若干スターリン主義的な面があるかもしれないけれども、大衆運動の組織能力とかいう面では森田を除いたらもう組織は成り立たないというようなことを島は言っていた。  
篠原 革共同系はブントに対して加入戦術*4できているわけです。我々も自分たちで、これぞ真の共産党みたいなものをつくってはいたんだけど、たいしたもんじゃないよね。参加した時はどんな感じだったかなぁ。本当に党か、これが党だと思っていたのか、疑わしいところもあるけれども。  
小島 20代の学生がやってたんだから。
ブント結成に力を発揮した青木昌彦氏  
古賀 だけど、結局ブントの体を成したのは青木(昌彦)*5って男がいたからだよね。あれは島と青木の組織だよ。  
篠原 青木が書きなぐってたからねぇ。  
森川 何人ぐらいの組織だったんですか、ブントは。  
篠原 結党大会っていうか、あれで120人くらい集まってたんじゃないですかね。  
森川 全学連とブントの位置関係は?  
篠原 だから共産党の代わりにブントをつくったわけだから、学生運動を指導するために。そういうフラクションていうか。一言で言うと、学生運動を指導するために党を新たにつくったっていう感じでしょうかね。政党というつもりですよ。  
小島 前衛党だ、前衛党。  
古賀 党なんだから、共産党に代わって、学生運動も労働運動も農民運動も文化運動も、みんなやるわけですよ。いずれは権力を取っちゃうっていうことも考えて。差し当たり学生運動の中にしか駒はないんだけれども。  
森川 その直後の12月13日、全学連の第13回全国大会で、香山さんに代わり塩川さんが委員長。小島さんが引き続き残って加藤昇さんとともに副委員長。土屋源太郎さんが書記長です。これは要するに、森田派、革共同、ブントの超党派。  
篠原 これらがミックスになって、ポストを配分したんですね。  
森川 1959年になると、6月、全学連第14回全国大会開催です。委員長に唐牛健太郎さん(北大)、副委員長に糠谷秀剛さん(東大)と前出の加藤さん、書記長が清水丈夫さんが選出されております。11・27がいわゆる「国会請願デモ」ですね。
意外に簡単だった国会議事堂への突入  
小島 11・27では、みんな、わ〜っと、社会党の議員を中心に国会請願だって。当時は警備する側もゆるかった。まさか国会の中へ入ってしまうとは思わなかった。  
社会党の浅沼稲次郎かなんかも行ったんだよ。もちろん彼らは国会議員だから中に入ってもいいんだけどね、我々が入っちゃうとまずい。でも門が開いちゃったんだよ。それで、みんな入れ入れって雪崩れ込んじゃったんですよ。  
篠原 日比谷公園かなんかに集まったんですかね。  
小島 そうそう、集まった。チャペルセンター前に行って、そこで集会やって国会に行ったら、あれ不思議と入れちゃったの、国会の中へ。今みたいに厳重じゃないですから。警備当局も、そんなこと予測してないわけですよ。みんなおとなしくして、国会議員が国会の中で陳情を受けるって言うから、社会党の国会議員もやってるからっていうので、わ〜って入っちゃった。侵入したとかじゃなくて、ごく自然に入れちゃった。  
古賀 わ〜、国会占拠した、うれしいなって。400〜500人は入ったかな。そこで記念に立小便するなんて言ったやつもいたくらい。11.27について書いた陶山の報告ビラが状況を生き生きと伝えていたんだが、あれはどこかで見つからないかな。  
篠原 東京では安保を審議している国会にデモが来る。九州なんかじゃ羨ましくてね(笑)。我々がデモに行くところは県庁と福岡県警くらいしかありませんから。あんなところでデモしたって、ぱっとしないしね。町の中でやってると、顔見知りの人たちが「おい、邪魔だ、お前たち」って言うしね。だけど九大の教養も月に1回ぐらいストライキやっていたから、ずいぶん盛り上がったんです。11・27も非常に盛り上がって、学生が大勢集まって騒ぎ立てて。警備の警官とも衝突して、ピストルがどっかいっちゃったとかで騒ぎになってね。  
そんなことやって私も捕まったりしたんですが、翌日になったら東京のデモは大見出しで新聞に出ていまして、福岡のデモなんか、ねえ(笑)  
古賀 ほんと自然に。こっちは車なんかなくて、共産党の宣伝カーと社会党の宣伝カーが来たのかな。もう君たちは目的達したんだからすぐ解散しなさいとか、共産党のやつらが余計なこと言っていたな。 
 
*1 我が国の労働運動家で、元総評事務局長。ジャーナリストの高野孟氏は長男。  
*2 当時は学習院大学教授。わが国の社会学者、著述家。  
*3 1958年5月の第28回総選挙で岸信介の自民党が287議席を獲得し政権を安定させたことから、治安維持・安保改定作業に着手。同年10月初め、警察官職務執行法改正案、いわゆる「警職法」改正案を国会に提案した。これに対し社会党、総評等の反政府勢力が「警職法改悪反対国民会議」を結成し反発。  
*4 「加入戦術」とは、左翼組織の戦術の1つで、身分を隠して他派の組織に加入することによって自派の勢力をひそかに拡大し、最終的にはその組織自体を乗っ取ったり、分派工作によって別組織を立ち上げることを言う。  
*5 青木昌彦。(1938年〜)経済学者。スタンフォード大学名誉教授。当時のペンネームは姫岡玲治。
■樺美智子の死と国会炎上
1960年6月15日、安保反対のシュプレヒコールが国会を包囲する中、デモ隊と機動隊との激しい衝突で1人の女子学生がその若い命を失った。東大文学部生・樺美智子。  
尊い命を失った樺美智子、でも共産党は抗議行動に出なかった  
当時、参議院議員会館で会議を行っていた安保改定阻止国民会議はその報を受け、警視庁への抗議行動が提起されたが、会議の一員である共産党はそれに反対した。  
「トロツキストの跳ね上がり分子がやったこと」と一顧だにしようとしない共産党に、泣きながら抗議する人物がいた。  
今回は、1960年1月16日の岸訪米阻止羽田闘争、4月26日の安保改定阻止国民会議第15次統一行動(装甲車のバリケードを乗り越え国会への突入を図る)、6月15日、18日の様子が語られる。
国会再突入の危険があると警察が逮捕状  
小島 その前にあれがあるでしょ。12月10日頃、逮捕状が出たやつ。  
篠原 12・10というのがね。  
小島 清丈(シミタケ、清水丈夫)と葉山(岳夫)に逮捕状が出てたんですが、東大に篭城して。当時の警察は三井(脩)*1だな。公安一課長で、中曽根内閣の時には警察庁長官になった人。  
篠原 その直前から私は東京に出てきているんですね。10日の前に。何日だったかは覚えてないけど、11・27終わった後にね。確か三井が、全学連が不法な国会デモを計画していると、それをやめさせるとかなんかで逮捕しようとしたんじゃないですかね。それで12・10に。  
小島 もう1回国会に行こうって話になってた。  
篠原 当然、11・27の後ですから国会に行こうとなってるわけです。ところが、警察が言ってきたからじゃないんだけど、学生の中で国会へ行くのはやめようという声も出てて・・・。あれまた東大だったね。  
日比谷野外音楽堂で集会をやって国会デモをしようとしたら、東大が反対だと言い出して、結局、新橋までのデモになっちゃった。  
小島 東大。最初、駒場に篭城したんだよ。学校側がね、もういい加減にしてくれっていうんで本郷に移ったんですよ。でデモ隊組んで本郷の正門を出たところで、清丈と葉山がすぐパクられた。これは警察と話がついていてね。要するに、2人が先頭になってデモやるから、パクりたけりゃパクれ、って。結局、予定通り2人ともパクられちゃった。  
篠原 そうですか。2人並んで。  
小島 2人を正々堂々と先頭につけたわけですよ。先頭につけたら、当然警察からわ〜っとやられて、それで終わりですよ。  
篠原 まだその頃は警察も駒場に踏み込んではこなかった、大学の中には。  
小島 大学側はびびっていたわけですよ。学園の自治に警察に入られたらかなわん、大変だとか言って。
1960年1月16日、羽田闘争  
森川 さて、60年安保の年です。1960年1月16日の羽田闘争*2。この辺をお願いします。4月26日くらいまでお話しいただけますか?  
古賀 これは篠さんが主役だから。  
篠原 1月16日は、なんかね。岸の渡米をどう阻止する、どこで集会やるとかなんとか、そんな話をしてたんだけれども。私はね、あんまりよく関わってないんだな、実は。突然、羽田へ動員をするということになって、1月16日だから冬休みで誰も学生がいないよね。だから「どうするの」って訊いたら、「活動家だけで突っ込むんだ」って言われてね。僕は猛反対してね。「活動家が突っ込んでどうするんだ」って。学生運動にならないじゃないかって反対したんだけど、それでも行くんだと言うので、九州も動員をかけましたけどね。あの闘争は、私自身は最初から好きな闘争じゃなかったですね。結果としては良かったのかもしれないけれども。  
古賀 1・16の数日前にブントの書記局が唐牛を呼んで、遠藤の自宅で会議を開いて島・生田・常木(守)・多田(靖)・私なんかが彼にハッパをかけたんだ。唐牛もあれで相当の決意を固めたね。当日、私たちが羽田の食堂に閉じこめられた時に彼が演説をして志気を鼓舞しつづけていたのが特に印象的だったなあ。  
小島 篠さん、あれでパクられてないの?  
篠原 パクられましたよ、もちろん(笑)。でも、リーダーたちだけで滑走路に寝転んだって飛行機が止まるわけじゃないだろうと。学生を大勢集めて阻止するとかいうのなら分かるけど。  
古賀 結局、どこの大学が行ったの。  
篠原 明治、中央、早稲田あたりじゃないですかね。  
古賀 冬休み中って言うとさ、学生寮が当てにされるじゃない。学生をかき集めるのに。  
篠原 東大もバスを仕立てて来たとか言ってましたけどね。数千人になったんだよね。  
古賀 あの時、労働者は飛行場の中には入ってないの?  
篠原 学生だけですね。  
古賀 えっ、ほかの連中はみんな途中で止められちゃったの? 私は学生たちと一緒に空港内の食堂に閉じ込められたから、労働者たちもてっきり別の場所に閉じ込められていたのだとばっかり思ってたよ。  
篠原 橋のところで止まっちゃったんですよ。  
古賀 警官隊が派手にガラスの壁を叩き破って食堂に入ってきてさ。一人ひとり強烈なライトの中を歩かされて、「これは頂き」「これは要らない」と公安に選別されて。私は頂かれてしまったので、その後2カ月の留置場暮らしをする羽目になった。それでほかの部隊のことは分からなかった。私同様に留置場暮らしとなったのが生田ら、他のブント幹部でした。島は報道陣に紛れてうまく逃げたと聞きました。
新聞記者の黒塗りの車で逃がしてもらった  
小島 前々日かなんかに、公安担当の毎日新聞の警察担当の白木東洋が森田実にいろいろしゃべって。情報では、岸が正面から行かないで玉川の土手沿いからさっと入ると。それで森田が「シミタケ、今からすぐやんなきゃ駄目だ」と言って。それで動員かけて、みんな活動家が行っちゃった。島まで行ったの。  
篠原 そうそう。  
小島 全員袋小路に入ってね、古賀さんがさっき言ったような感じでパクられたんだな。でも、島はうまく逃げたんですよ。逃げることができたのは、当時、歌川令三が社会部の記者で、彼の車に乗って。  
篠原 新聞社の黒塗りで。  
小島 それに島が乗ったわけですよ、かくまってくれって。歌川令三はね、これは犯人隠匿になるからって、蒲田の駅前かなんかで降ろしたんですよ。ほかのやつらはみんな一網打尽で。活動家全部、空港の食堂で袋小路に入ってしまったから、そこから連れていかれちゃった。確か青木やなんかもみんな入っちゃった。  
森川 1960年4月になると、60年安保闘争のピークに近づきます。4月26日に国会正門前で大規模なデモが行われています。装甲車乗り越えていくやつ。  
小島 篠さんがよく写真に出てるやつだよ。
国会へ行かないと言い出した東大生  
篠原 あれは、4月だから新入生もいるし、しっかりやりましょう、ってことでやったんだね。もう国会突入は一枚看板だし、共産党系は「請願デモ」だとか言うから、こっちは共産党系のは「お焼香デモ」だと言って馬鹿にしてね。結局、大学の中では学生をどっちが取るかっていうんで、早稲田とか教育大とガタガタやってね。我が派に動員をするか、共産党系が取るかとか、そんな感じで。各大学に行ってオルグやりましたけどね。共産党との違いというのは、まさに国会突入かそうでないかっていうのが境目だったの。ところが4・26になって、いざとなったら集まった東大の連中が国会へ行かないって言い出して。こっちは「いまさら何を言ってるんだ」って、「ほんとにもう」というような感じでしたね。  
古賀 その時、東大は駒場が非常に消極的だったんだね。  
篠原 駒場ですね。特に駒場は革共同が強かったから、革共同系がノーと言ってたんじゃないですかね。ブントもそれに引っ張られてね。国会に行かないとかいう決議を決めてきたらしい。組織決定だから国会突入は無理だということだったのだと思いますよ。だから帰ろうと。組織決定だからって背中向けたんだからねぇ。
装甲車を飛び越えて行け!  
森川 何人くらい集まったのですか。  
篠原 一応1万人って言ってたけど、実際には7000〜8000人くらいですかね。チャペルセンター前は埋まりましたからね。  
古賀 装甲車を飛び越えて行け、って演説したの、あんたと陶山か?  
篠原 陶山も私もやったし、ほかにも大勢やった。ガタガタやってたわけですよ、装甲車の目の前で。「何のために来たんだ」「これじゃあ、お焼香デモと一緒だ」なんて言いながら。  
小島 駒場からわざわざ来たのに決まらないんだ。  
篠原 それで、最初は各大学の代表に演説をやらしてたんですよ。全学連としてどうするかがまだ決まってなかったから時間稼ぎのために。その下でガタガタやってたの。東大は帰るって言うし、実際、背中向けて帰りかけたんだよね。でもその時、明治大学の前原君が「俺たちは装甲車に請願に来たのではない!」と呼びかけて、そしたら学生の空気が変わったんだね。それまでざわざわしていたのが静かになって、ウォーという地鳴りのようなものを感じました。一気にまとまって、帰りかけていた東大教養の学生の足も止まりました。それで唐牛に「今しかない、戦術会議なんか放っておいて、すぐに突入しよう」と。唐牛が演説して、私も演説して、その後すぐに装甲車を乗り越えたんじゃないですか。真っ先に行っちゃったから、後のことは分かんないけども。
装甲車の先で待ち構えていた機動隊に一網打尽  
小島 先頭に篠さんとか志水速雄なんかが装甲車を乗り越えたんだけど、向こう側に飛び込むと機動隊が待ってて、みんなパクられちゃった。  
篠原 機動隊が国会正門前にいるわけだけど、装甲車から機動隊までかなり距離があるんですよ。何メートルぐらいあったかな。そこをね、突っ走っていって。私が一番先頭になって飛び込んでいったんですが、待っている機動隊の前に飛び込んだんで、捕まえてもらうために走ったようなもんでね。しょうがないやね、国会の前にやつらがいるんだから。  
森川 60年安保のピークが6月の15日と18日ですが、このへんは?  
篠原 そのへんは、だから私はもう(拘置所に)入っちゃってるから。  
森川 篠原さんは4月26日に逮捕されて、10月まで釈放されなかったんでしたね。  
篠原 はい、いないんですよ。  
小島 そうだよな。肝心な時にいなかったんだよな。
巣鴨の拘置所の中で女学生の死を知った  
篠原 6・15は巣鴨の拘置所にいたんですが、夜ね、7時のニュースってのをやるんですよ。ラジオでニュースを流してくれるんだけど、その中に入っている人に関係した事件は放送しないわけよね。でも6月15日はたまたま、国会デモで女の子が死んだっていうあたりまで流れちゃったんですね。その後はプツってラジオを切られてしまったんですが。同じ拘置所にいた唐牛に大きい声で、「おい、女が1人死んだな、女が1人だから男はもっと大勢死んでるな」って。「もう自衛隊、絶対出てくるなっ」てね、騒いでた。亡くなった樺美智子さんを悼もうとか、そういう愁傷な気持ちはなくて。  
森川 古賀さんは。  
古賀 僕は6月15日には病院に入ってた。6月15日の朝、明日どうするこうするなんてやっていましたが、ちょっと一眠りしようかって朝の4時頃にみんな各々家へ帰ろうとして、その途中で僕のバイクが居眠りタクシーにはねられて意識不明になって。病院にかつぎ込まれた。  
小島 肝心な時に。あの頃バイク乗ってるってのは、ハイカラだよな。  
森川 小島さんは?
共産党諸君、女学生が死んだというのに何言ってるんだ!  
小島 僕は今の参議院の議員会館の5階で安保国民会議ってのがあったので、そこでいろいろ議論してる間に、女子学生が亡くなったっていう話で。当時、浅沼稲次郎を中心にして、警視庁に抗議に行くっていう話になりまして。共産党の神山とかがね、学生はトロツキストの跳ね上がりだから抗議することはないってね、口喧嘩が始まっちゃったんですよ。そうしたら大柴滋夫って、そのあと社会党の衆議院議員になるんだけど、こいつがね、涙をこぼしながら「共産党諸君、君たちは何を言ってるんだ」と。「いろいろ意見は違うけど、安保条約反対で女子学生が亡くなったっていうのに、なんてこと言ってるんだ」って。仁王立ちになって、涙ぼろぼろこぼしながら抗議してね。これにはびっくりした。当時、大柴滋夫っていたんですよ、東京2区かな。身体の大きい人でね、仁王立ちになるとすごく迫力があった。  
森川 国会前のデモの様子は?  
小島 参議院の議員会館の上で会議やっていましたが、地下を通って国会に行きました。僕らが入っていった時には、完全に国会内は学生が占拠していて、隅の方に機動隊の装甲車がいるくらい。当時は今みたいに立派な装甲車がないので、民間のトラックを借り上げてくるんですよ、日通とかから。そのトラックに機動隊が乗っているわけです。学生がトラックを揺らしていると、タクシーの運転手さんがね、「学生さん学生さん、そっち方のエアを抜け」って言うので、片方のタイヤのエアをシューっと抜く。それで車がガクッと傾くんです。「ほれ、それで押してみろ」って言われて反対側からみんなで揺らすと、トラックがひっくり返ってね。ひっくり返るとガソリンが漏れますから、運転手さんが「それで火ィつければ大丈夫だ」って。学生はそんなこと知らないから、運転手と一緒になってやったわけよ。  
森川 火つけて燃やしたんですか。
銀座のキャバレーから女性が差し入れに  
小島 ええ。それから、夜遅くなるでしょう。銀座あたりのキャバレーのおねえちゃんも来てね、差し入れだって。普通の人が「岸さんっていうのは、戦争やった時の東条内閣の閣僚でしょう」と。誰でもみんな岸のことを知っているわけです。岸が総理大臣をやるってことは、また戦争になるんじゃないかって。そのへんのおねえさんまで「岸反対」でたいへん盛り上がった。国会へどんどんどんどん人が来て、夜の9時、10時になると国会を包囲してしまった。学生さんもいたけど、一般の市民が大勢来てね。屋台も出ていたね、見物人が大勢だから。デモも見物も一緒。警察官も困っていたね、あれだけバラバラになって包囲されると手をつけられないから。他方、全学連や活動家の幹部のほとんどはパクられていたわけです。それで安保が自然成立する6月18日になった。この時には全学連の中は方針に関して意見が分かれていました。全学連の書記局で、前の晩では、明18日に再度突入という方針で、大多数がこれに賛成でした。これに反対したのがね、森田と俺と青木ね、あと何人かが反対した。これ以上、無理だと。でも、これは敗北主義だから全然受け付けられない。みんな元気がいいわけ、学生だから。再突入もオッケーって。結局、みんな学校へ戻って動員してきた。そしたら18日はたいへん膨れ上がって。学生はいくらでも来るけど、指揮が執れないわけです。3000人とか5000人だったら、デモでもなんでも指導者がちゃんとコントロールできるけれど、何万人という数になると、烏合の衆なんていうと怒られるけれども統率が無理なわけ。指揮官、活動家が全然いないで、人間だけ増えてしまった。結局、あの日は自然成立で、徹夜で終わったあとは流れ解散ということになりました。あとで写真を見て、よくあれだけ集まったなと。僕らは現場にいて分からないわけ。自分の周りしか見えないから。その後、全学連の幹部で会議をやると、これだけの学生が安保の抗議に集まったんだから、まもなく革命が来るに違いない、革命のために頑張らなきゃというグループと、僕らみたいに、もう終わり、というグループが対立してね、僕らは革命反対派になってた。  
森川 なるほどね。
自衛隊出動の判子を押さなかった赤城宗徳  
小島 エピソードが1つありまして、18日の朝かな、江田五月の親父の江田三郎がね、小島君、ちょっと来てくれって言うので議員会館に行ったんですよ。「君、国会へまた突入するって話は本当か」って言うので、「今のところそんなこと計画してませんけど」って言ったの。「そんなこと君は言うけど、見てみろ、自民党の代議士はもう誰もいなくなった」って言うんだよ。国会に火をつけられるって。当時の議員会館は木造建てですからね、全員逃げちゃって。でも自民党が勝手に逃げたんであって僕らはそんなこと言ってないですよって。私どもは朝までやったけど、そんなこと計画していません、ましてや焼き討ちなんつうことは考えておりませんって。そう言えば、もう1つ後日談。僕が新自由クラブの事務局にいた時に、宇都宮徳馬から「小島君、君の命の恩人を紹介するから」って呼ばれて行ったんです。行ってみたら、赤城宗徳でした。赤城さんは当時の防衛庁長官でした。「君な、赤城君がね、判子押したらお前らは一網打尽でやられていただろう」って。でも赤城さんは自衛隊出動の判子を押さなかったんだと。  
森川 あの、絆創膏の赤城徳彦さんのおじいさんですか。  
小島 そうそう。絆創膏のおじいちゃんが当時の防衛庁長官。この人が判子押せば自衛隊が出動してバリバリバリってやったんだと。自衛隊のトップの連中が「我々国軍は自国の国民に対して銃を向けるわけにはいきません。警察がやる仕事です。我々は一切やりません」と断ったおかげで、おまえ助かったなあ、って言ってました。 
 
*1 当時の公安一課長。後に第10代警察庁長官になる。その後、(財)日本道路交通情報センター理事長ほか。  
*2 「羽田闘争」とは1960年1月16日、当時岸信介首相が安保改定のために渡米するのを阻止しようと、全学連の学生が羽田空港の食堂にたてこもった事件。
■学生が動けば社会は変わる
60年安保闘争で全学連が掲げたスローガンには「安保粉砕」と並んで「岸内閣打倒」がある。そこには戦後15年を経てもなお戦争の記憶が生々しく残る国民感情と、戦後財界の思惑が絡み合っていた。  
非武装中立へと向かう敗戦国ナショナリズムの発露  
大衆にとっての「安保闘争」は敗戦国ナショナリズムの発露であり、この時、それとは知らず現在まで続く「非武装中立」論の芽が萌したのだとも言える。その象徴が「東條英機戦時内閣の閣僚=岸信介打倒」だった。  
また財界にとっては、旧財閥に代わる戦後財界の地歩を固めるために、旧財閥の象徴である岸を引きずり下ろす必要があった。  
今回は、共産党の全学連批判にしばしば持ち出される右翼・田中清玄との関係と、60年安保闘争の意義が語られる。
全国で580万人に達した安保反対デモ  
森川 この60年安保のこの6月というのは、全学連があって、全学連の中でもブントがあって、革共同があって、旧森田派がいて。他方、共産党や下部組織の民青もまた60年の安保闘争に参加しているわけですね。それから社会党総評系というものが別にあって、これも参加しています。そのために全国で580万人が安保反対のデモに参加しました。そのほかに特筆すべき勢力として、田中清玄*1がいたと思いますが、どういう形で絡んでいたのかをお訊きしたいと思います。また、岸退陣というものは最初から全学連の目標としてあったわけじゃないですよね。誰かが相乗りしたっていうか、そういう勢力もあったわけですよね?  
小島 1つは新しい財界のリーダーですね。戦後すぐ、今里広記*2なんかそうなんだけど、当時終戦の時は36歳くらいで。戦後に三井、三菱といった財閥系がパージされて、それに代わって新しく出てきたのが「財界の四天王」(小林中*3、水野成夫*4、永野重雄*5、櫻田武*6)と言われる連中で、彼らがだいたい30代の後半から40代の半ばなんですよ。彼らには、岸が政治の主導権を長い間取ると、旧財閥がまたぞろ勢力を持ってくるという危機感があったようです。  
森川 60年安保というのは、財界の中の闘いでもあったわけですか。  
小島 そう。さっき言ったように、そもそも岸さんは国民の受けが良くない。東条内閣の革新閣僚として面白いことをいろいろ言ってたんですが、イメージとしてね、東条内閣の閣僚っていうのが入っていますから。岸さんが相手だったから大衆運動が盛り上がったのであって、それが証拠に、その次の池田隼人内閣になったら何にも起こらなくなって、所得倍増計画でコロっと。安保条約を改定した主役の岸さんのイメージが悪過ぎた。
田中清玄が右翼の大物であることを後になって知らされた  
森川 田中清玄はどういう形で入ってくるのですか?  
小島 田中清玄とのいきさつは、こうです。その前年の11・27の特集記事を文藝春秋が翌年2月号として出して、安東仁兵衛や田中清玄が論文を掲載しました。森田も書いています。これを編集したのが桐島洋子でした。田中清玄はそこに、格好の良いことを書いた。それに感銘して銭になると思った東原吉伸(当時、全学連の財政部長)が、田中清玄がどんな人か知らずに電話しちゃった。東原は、田中清玄が右翼の大物であることをその後に聞かされた。僕はその時、清玄の名前を知っていたし、彼は元共産党員だから一緒に行ってやるよって言いました。僕としては彼に会って戦前の武装共産党のことを訊こうと思って。1960年1月18日、東原と僕と早稲田の小泉(修吉)が上野のすき焼き屋に会いに行きましたが、いよいよ俺らは殺されるんじゃないかと(笑)。戦前の日本共産党について訊いたんだけど、当時の共産党はひどいことやってるんだよね。野坂参三は百何歳の時、共産党から除名されるでしょう。田中清玄に「当時はどういう男だった」って訊いたら、「あれはひどい奴だ」って。コミンテルン時代、スターリンに仲間を売って自分はさっさと中国に逃げてしまう。戦後に除名された理由も全く同じです。それを40年以上も前に田中清玄は僕らに言っていた。その時僕らは半信半疑だったけども。田中清玄の言うことも面白いなと思って・・・。最後にくれたお金が20万円くらい。女房の手術用に持っていたというお金をくれました。僕らが会った時は1月で、ほとんどの全学連の幹部は捕まっていたので保釈金が大変だったんです。最後に「今でも共産主義者として尊敬してるやつはいますか」って訊いたら、「いるよ」と。「渡辺政之輔と佐野学の2人は立派な共産主義者だった。ほかのやつらはコミンテルンから金が来ると、みんな吉原へ女買いに行っちゃった」とか何とか。共産主義者の風上にもおけねえというようなことを話していましたね。面白い人だったです、波瀾万丈の人。  
森川 清玄は、共産党員からどういう経緯で転向したのでしたっけ?  
小島 清玄は武力共産党だったし、空手がすごいから公安とやったりやられたりして刑務所に入っている間に、清玄のお母さんが割腹自殺をするんですよ。うちの息子が天皇陛下に反対してこんな革命運動を始めちゃった、天子様に申し訳ないって、お母さんが腹をかき切って死んじゃうんですよ。それが転向のきっかけ*7。彼は獄中で転向して。その後、坊主になって三島の龍沢寺の住職の玄峰老師の教えを請うんです。  
森川 清玄の60年安保との関わり合いっていうのは、全学連を・・・  
小島 応援していた。  
篠原 田中清玄が我々の安保闘争を応援したっていうのも、右翼というか児玉誉士夫なんかが岸側につく流れに対抗したためだったと思いますね。そういう意味でも、田中清玄は岸を認めるわけにはいかない立場だった。もちろん、彼の情熱として全学連は応援しなくてはならないと思い込んでいた、というのはありました。反ソビエトっていうのが彼の中に強烈にありましたから。
児玉誉士夫とは全く相容れなかった田中清玄  
森川 児玉誉士夫と確執があったのですか?  
小島 大嫌いだね。  
篠原 あれはいつ頃からですかね。児玉誉士夫は戦争中も体制派で、中国で金を握っていたとか、いろんなことをやってきた男でね、だから岸さんとも非常に親しかった。他方、田中清玄は完全に反対で、獄中におり、最後は終戦工作にも奔走したわけだから、児玉とは全く相容れない立場だったと思います。  
森川 清玄と財界やそのほかとの関係は?  
小島 それももちろんあった。山口組との関係もあった。例えば、篠原君は学生運動やって逮捕されたりなんかして実刑くらっている間に、甲陽運輸というね、山口組系の沖仲仕の会社に行きました。そこは山口組3代目の田岡一雄組長が社長でね。  
古賀 唐牛も世話になったらしいな。
宇都宮刑務所に山口組3代目の田岡一雄組長が面会に来た  
小島 そう、一緒に。唐牛は途中で辞めたけれど篠さんはまじめに勤め上げて。でも宇都宮刑務所に6カ月くらい入れられたんです。その時に田岡組長が面会に来るんですよ。山口組の組長が刑務所に面会に来るなんてのはすごいことだからね、ほかのやくざが「篠原さん、是非子分にして下さい」って来るわけ。日本精工の今里広記に直接聞きましたが、「小島君なぁ、九州の帝国大学出たやつが山口組ってことはないだろう、俺が引き受ける」っていうので、今里さんが篠原さんを日本精工に引っ張っていくんです。  
古賀 今里さんも昔共産党だったんじゃないの?  
小島 どうかなぁ。それに近いだろうねぇ。産経新聞社長やっていた水野成夫とかはそうだね。それから国策バルブの社長やった南喜一。そういう元共産党員のグループが財界の裏にいました。一連の流れの中で田中清玄も当時の新興の若手財界人と組んでいたんじゃないですか。  
古賀 財界と言えば、日経連の櫻田武。あれも昔、共産党員だったんだ。  
小島 そうそう。東大でね。そういうのが結構いるんですよ。  
古賀 (セゾングループの)堤清二もそうだろ? 武井なんかが細胞会議やる時、俺の家を使えって言ってたらしいから。  
森川 さて、その60年安保闘争から50年経ったという歴史的意義について述べて頂きたいと存じます。1951年に安保条約が締結されてからは60年近くになります。日英同盟は1902年から20年くらいしか続かなかったのに、日米安保条約だけはもう60年です。  
古賀 うん。冷戦もとっくに終わったのにね。  
小島 どうするんですかね、これ。
安全保障を議論するのに「そもそも論」すら行われていない  
森川 安保条約を考える場合、現在、日本を守るにはどうしたらいいのかという「そもそも論」が行われていません。あるいは、いわゆる「普通の国」という議論。自分の国は自分で守って、核兵器を持って、軍備を増強して、米国に頼らず、東アジアの隣国とどういうふうにして対峙していくのかという議論がありません。「普通の国」になる、ならないについての議論さえないのが現状です。安保条約締結から約60年、安保闘争から50年目に当たる2010年で、安保や安保闘争をどうとらえるのかというのを、議論の種としてでもいいから広げないといけないと思うのですが。そして60年安保闘争の歴史的意義です。全国で600万人近い人々を巻き込んだデモが行われたというのは、日本の政治史上、希有な事件です。どのように理解したらいいのでしょうか。  
古賀 60年安保闘争は、当時の20代の若造が、馬車馬のような非常に狭い視野で騒いだということだね。当時の我々は子供で知識も考えも浅かったけれども、あの学生運動が歴史の上で一定の意味がなかったかというと、そんなことないわけだね。だいたい歴史は、とんでもなく勘違いしたやつがぎゃあぎゃあ騒いで、それによって一つ事態が展開するってなことはいくらでもあったわけでしょう。明治維新の志士たちだって、始めた時はみんな尊皇攘夷でやっていたけれど、そのうち尊皇攘夷なんて無理、開国しなくてはならないということにだんだん頭が切り替わっていった。このような例は歴史上でたくさんあるわけでしょ。当時我々は無知で、視野が狭かったけども、騒いだ結果、大衆運動で岸内閣をつぶしたっていう社会的な歴史的な事件を作った。学生だけじゃなくて、日本国民がそういう1つの社会的な経験を共有したわけで。2009年8月の総選挙と同じように、騒ぐことによって内閣くらいつぶれるんだよって。それが正当であったかどうかってのは、別の問題でね。みんな若くてエネルギーがあったから、がむしゃらで。そうすると、それによって人間が動くから、それで1つの社会的な事件になっていった。歴史が展開していくっていうのは、そういうことなのかな、と思うけれどもね。西部邁みたいに、あんなものはガキが騒いだだけで、だから意味がないなんて言うつもりは毛頭ない。60年安保闘争は、日本の民衆たちの1つの歴史的な体験だからね、やはり意味があるわけです。岸首相は後になって当時を回顧して、安保改定の余力を駆って小選挙区制を導入して絶対多数を取り、憲法改定・再軍備をする予定だったと言っている。あの騒動のお陰でその計画がおじゃんになり、弟の佐藤栄作が首相になればわしの遺志を継いで憲法改定をしてくれるものと期待したがそれもできなかった。宮沢喜一も言うように、あそこで歴史の向きが変わったわけだね。  
森川 当時の学生はなぜあれほど盛り上がったのでしょうか? 若さだけですかね。そういう運動に広がっていったエネルギーというのは。
当時の学生はなぜあのように盛り上がったのか  
古賀 それは、60年安保がまだ敗戦後15年しか経っていなかったからでしょう。戦争の記憶もあるわけだし、もう戦争はごめんだ、こりごりだっていう時に、戦中の内閣の閣僚の岸が首相で、憲法改正をして再軍備をしようと言い出すかもしれないと、皆感じていたわけだ。そこに火をつけられた感じじゃないのかなぁ。1945年に戦争が終わって、だいたい10年経つと建物も建ったし、道路も全部は舗装されてはないけどもできたし、交通機関も動いているし、食うだけの生活はできるようになった。しかし、ついこの間まで戦争でひどい目に遭ったという記憶はあったわけ。だから戦争になったらやばい、というのがあった。「もはや戦後ではない」って書かれたのは1956年の経済白書だよね。そういうことをわざわざ言わなきゃならないってことは、まだ戦後だという意識があったわけ。だからそこへ当時の学生が、わ〜わ〜と騒ぐと、それが一定の意味を生じた。武井(昭夫)が「層」としての学生運動って言ったのは、要するに、就職したやつらは仕事もあるし、会社のしがらみがあるからできないが、当時の学生はまだエリートだったわけだから、知的であり社会的な関心があり、いずれはどっかに就職したりなんかして縛られるかもしれないけど、学生であるうちは自由であると。家庭からも相対的に独立しているし、職場からも束縛されてない。純粋に自分たちの知的判断と正義感で行動できる、そういう「層」であると。大学生以前の高校生とも違うし、就職した連中とも違う「学生層」は、知的であり行動力があり正義感だけで動く層であるから、そういう層を動かすことによって労働者とか、農民とか、市民全体を動かすような運動にしていく起爆剤となる。この「学生運動先駆論」が当時作られていったわけでね。学生運動が先駆、社会的な行動の先駆になって、学生を層として動かすことによって、他の階級の運動にインパクトを与え、道を切り開いていくんだと。先駆隊だからそれは主たる戦力ではないけども、道を開くことによって、その後に労働運動が続いて革命やなんかになっていく、というふうなことだったわけです。だから、そういう意味では60年安保闘争は「学生運動先駆論」の機能は果たしたわけですね。1958年の暮れにブントができて、59年の「共産主義」1号、2号、3号という雑誌を見てみると、安保改定というのは日本資本主義がいよいよ充実して、海外に資本を投下して、世界に進出していくための道を切り開いていくものだと。日本帝国主義が復活するような安保改定は絶対につぶさなきゃならん、というようなことをブントの雑誌では書いているわけです。ところが、安保改定といった政治問題をいくらやっても労働者は動かない。総評なんかも安保改定反対で集会やっても人がまばらで、お義理に拍手するだけ。そもそも労働組合は日当もらって動員されるわけでしょ。しかし学生は、日当どころか自分の身銭を切ってデモに行く。そういうことをやっているうちに、学生があれだけ頑張っているんじゃ俺たちもやらないわけにはいかない、ってなことになったわけです。「11・27」で学生が騒いで、「1・16」では羽田で岸首相の訪米をぶっ潰せというので、あそこでパクられたのも学生。最初は、全く学生は何を考えてるんだろう、あんな突飛なことやって、という感じだったのだけれど、それが次第に3月、4月、5月、6月になって、いよいよ安保改定が押し迫ってくると、学生がやったのは筋が通っていたのかもしれないというふうになっていった。岸の議会無視がそれに輪をかけた。大衆運動の、全国何百万のデモの糸口になっていったわけです。 
 
*1 田中清玄(たなか・きよはる、通称、せいげん)。1906〜1996年。戦前の日本共産党中央委員長。転向後には実業家、右翼活動家となる。清玄の活動については『田中清玄自伝』(田中清玄・大須賀瑞夫著、ちくま文庫)に詳しい。  
*2 今里広記(いまざと・ひろき)。1908〜1985年。元日本精工社長。  
*3 小林中(こばやし・あたる、通称、こばちゅう)。1899〜1980年。元日本開発銀行総裁、元アラビア石油社長。  
*4 水野成夫(みずの・しげお)。1899〜1972年。元経済同友会幹事、元産経新聞社長、元フジテレビ社長。  
*5 永野重雄(ながの・しげお)。1900〜1984年。元日本商工会議所会頭、元新日本製鐵会長。  
*6 櫻田武(さくらだ・たけし)。1904〜1985年。元日経連会長、元日清紡績社長。  
*7 『田中清玄自伝』(田中清玄・大須賀瑞夫著、ちくま文庫)には次の記述がある。「お前のような共産主義者を出して神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して、自分は責任がある。また早く死んだお前の父親に対しても責任がある。自分は死をもって諫める。お前はよき日本人になってくれ、私の死を空しくするな。」
■連合赤軍事件への道
60年安保闘争は「反共産党」「反ソビエト」運動としての側面も持っていた。むしろ、それがゆえに先鋭化した。だがその一方で、批判しているはずのその轍を踏んでいる自分たちの姿に気づくことにもなる。  
共産主義の中から生まれた反共、反ソの動き  
「真の共産主義」を目指す運動に意味はなかったのか。ある面でその方法論を踏襲した以後の学生運動、新左翼活動への影響はどう考えられるのか。  
「連合赤軍事件とかは、60年安保闘争が終わって分派闘争が始まった時に、暴力で解決するというようなことが始まったことに起因しているかもしれません」「前衛が革命をやるという考え方の間違いが、ああいうふうな形で出ていった。60年安保が影響を与えているのは間違いないんですね」(篠原氏)  
最終回、岸退陣に動く戦後財界の思惑と、共産主義運動の中から生まれた「反共産党」「反ソビエト」の意味について語られる。
小沢一郎の言う「普通の国」にしなかったという意義  
森川 現在では大学が大衆化したことで、「層」を形成することが不可能になったということでしょうか。  
古賀 今は、みんな腹いっぱい食っているからね。僕が大学入ったのは1954年だけども、その頃はまだみんな腹減っていたものね。食うっていうことに一生懸命だったものね。何がうまいとかではなくて、とにかく腹に何か入れなくては腹が減って仕方がないと。  
篠原 古賀さんが言われたほかにも、60年安保の意義があると思うのです。自分の考えは端的に言うと、小沢一郎さんが言う「普通の国」にしなかったという役割を果たしたのではないかという点です。軍備は持っているが日本の将来の中心は経済専門で行く、というような政治路線を日本が採るのに、少なからず貢献したと評価できるんじゃないかと思いますね。戦争放棄という憲法の規定を遵守していくということを、あの時言ったわけだし。「普通の国」に対するアンチテーゼを投げつけた。  
小島 篠原さんは日本精工の今里広記さんなんかから、いろいろ聞いているからね。あの人たちは戦後の財界のニューリーダーだからね。
追放された旧財閥がまた勢力を増すという恐怖感  
篠原 あの人たちが言っていたのは、60年安保というか、岸さんが出てくることによって岸さんが戦前代表していたような財界の人たち、もしくは財閥ですね。岸さんはあの頃、旧財閥に見切りをつけて新財閥の日産コンツェルンとかを持ってたわけだけども、今里さんのような新しい財界人からしてみると、旧財閥をまた復活させようとしていると思えた。追放された古い経営者たちを連れて財界にまた戻ってくるのではないか、という恐怖感があった。レッドパージはあったけれど、戦後の激しい労働攻勢を若い経営者が必死になって食い止めて企業を守った。我々が企業を何とか守ってきたのに、再び財閥なんかが幅を利かすのは許せないと。そういう勢力の上に岸さんが乗って、戦争とか再軍備をするのではないか、軍事力強化による経済復興を考えているのではないかと非常に不安に思っていたと言っていました。だから自分たちは、心の底では安保闘争賛成、岸退陣賛成だと言っていましたね。当時椎名(悦三郎)官房長官の秘書だった福本邦雄さんの『表舞台 裏舞台』という本に書かれていますが、安保が通過した6・18の前後に官房長官の椎名さんが財界から呼びつけられるんです。椎名さんからお前行って来いということになり福本さんが新橋の料亭に行くと、小林中とか木川田*1さんとか櫻田さんとか、それから中山素平さんね、こういうような人たちが集まっている。その時に、岸の退陣は財界の総意だと言われるんです。安保は通ってしまったから仕方がないけれども、岸は辞めろと。後継は池田だというふうに宣告されたと書いています。財界も結束して岸さんを追い出そうとしていたようです。  
古賀 あの時の財界の親分は誰だったの。  
篠原 小林中、中山素平、今里、永野重雄たちが財界で力を持っていましたね。旧財閥はまだひっそりしているわけですよ、財閥そのものは存在するけれども。  
古賀 財界の若手連中はまだ主導権を取れなかったわけ? 当時はまだ財界は政治とは無関係っていうか、首相の首のすげ替えには無力だったわけ?  
篠原 きっと岸さんは財界に大きく頼らなかったのでしょうね。  
古賀 財界が政治に対して影響力を持つようなったのはその後か。  
篠原 そう。  
小島 高度成長期から後。  
篠原 岸さんの頃はインドネシアの賠償問題とか日韓の賠償とかがあったので、岸さんには、お金を潤沢に作る能力があったわけよね。資金面で財界を必要としていなかった。財界はそういうの嫌なんだね、自分の言うことを聞かないから。岸さんのように自前でお金を集められると、コントロールが利かないから嫌いなんだ。  
古賀 吉田、鳩山、石橋、岸のあとなんだ。共産党系の労働攻勢に対して財界は団結する  
篠原 労働攻勢に対抗して、財界の連中が固まるわけですよ。フラクションをつくるわけね。田中清玄なんかも応援するわけだけども、反共・反共産党でやった仲間なんだね。若い財界人は一人ひとり必死になって戦って、共産党系の労働攻勢に対抗して一応勝ち抜いたわけよね。新しい財界は、日比谷国際ホテルだっけ、あそこの401号室かなんかに秘密事務所を持っていました。そこでフラク会議をやって、経団連や日経連に指令を飛ばしてやっていた感じです。401は反共産党の労働工作をやっている頃からの流れじゃないかと思いますね。1960年代後半まで続いていたと思いますけれども。今里さんも401についてはあんまり詳しくは話してくれませんでした。坪内(嘉雄)さんが一番下っ端でやってたんですが。  
小島 ダイヤモンドの社長をやった人ね。  
篠原 坪内さんは戦後に青年会議所を創立するんですね。財界のフラクション会議で「お前、ダイヤモンド社に行け」と社長として送り込まれるわけ。  
小島 三菱銀行から頼まれたって言っていました。ダイヤモンド社は争議ばかり起こしているから、あそこを鎮圧しろって。  
篠原 そのフラクの事務所が日比谷国際ホテルの401号室にあったんで、401って彼らの間では言われていました。  
森川 60年安保闘争の歴史的意義について、ほかに何かありましたらお願いします。  
篠原 反共産党という革命運動をおおっぴらにやった、なんていうのは日本が初めてじゃないですか。  
古賀 そうだね。  
篠原 おおっぴらにですよ。共産主義を信奉する学生が、反共産党というか反ソ連の組織をつくって名乗りを上げた。すぐ消えてなくなってしまったけれども、世界で初めての出来事だと思いますね。ただそのうちに、共産主義運動の愚かしさというか、当時我々は共産主義運動をやっていたのだけれども、ソ連を叩くことで本当の共産主義ができるんだと思っていたけれども、やってみると、結局自分たちも同じようなことをやらなければ、前衛という組織活動はできないんだということが分かりました。非常に胡散臭いこと、つまり同士を裏切るとか、この・・・。  
小島 殺し合うとか。  
篠原 暴力的にね、粉砕しなきゃやっていけないとか、そういうことにならざるを得ないということに、みな気がついたんだと思います。でもあの時、世界で初めて共産党はおかしいと名乗りを上げて、青年たちがブントをつくったっていうのは意義があった。共産主義運動をやっていて、その中から共産党がおかしいのではと考え、真剣に考えて別組織をつくったっていうのは、その後あちこちでスターリン批判とか、トロツキーは第4インターをつくったりしたけども、世界で初めてでしょう。  
小島 僕らの場合は、共産党の中でいろんなことを勉強しているうちにスターリン批判が出てきて。戦前はそういう経験はないわけですよね。ヨーロッパでは人民戦線だとかスペイン革命だとか、ソ連共産党の中では殺し合いもやっていたとか、いろんな経験をしてきているけれども、日本では共産党は素晴らしい組織だと思い込んでいて。共産党に入った時分は、まさかスターリンがあんなに人殺しを大勢やっているとは思っていなかったわけで。分かった時にはヒットラーと大して変わらないじゃないかって。60年安保の前にヨーロッパの歴史を勉強するうちに、スターリンはけしからんってなっているけど、どうも日本の共産党も結局、同じじゃねえかっていう身近な話になってきて。ソ連ではなく中国でもなく、日本の話になって。それが逆に、我々のエネルギーになったね。
清水幾太郎など文化人の多くが学生の反共産党に味方する  
篠原 文化人なんかがね、共産党に対抗して、大勢我々の味方をしてくれましたね。清水幾太カをはじめ大勢の人が。それまでは、そういう反共産党の大衆運動ってないわけだから、社会党にしたって共産党員が大勢中にいて、反共産党なんていう運動はないわけだ。労働運動も共産党にリードされていたわけだから。ところが新たに大衆運動として反共産党というのが出てきたことによって、文化人たちも目が覚めるというか、共産党を批判してはいけないという呪縛が解けたんですね。  
古賀 戦後に、徳球(徳田球一)と志賀(義雄)が解放されて出てきて、獄中18年、頑張ったのは共産党だけだということになった。だから、左翼インテリっていうのは共産党に対する劣等感がぬぐえなかったわけだよね。社会主義者と言っていても、みんな屈服したじゃないか、みんな転向したじゃないか、戦争にも協力したじゃないかと。でも共産党だけは獄中18年頑張ってきた。だから、戦後の左翼インテリは共産党に対する劣等感があったよね。  
小島 ありましたね。そういえば。  
古賀 だから、反感を持っていても、共産党を表だって批判したら、反対におまえはいったい何をしてきたって言われるんじゃないかと思って、何も言えなかった。共産党以外に、社会主義政党には社会党も民社党もあって非共産党なわけだけれども、おまえら戦争中どうしてたのって言われるとやっぱり忸怩たるものがあった。そんな時に、学生が真っ正面から共産党は間違っているって言い出して、それが大衆運動になったっていうのは意義あることだと思います。共産党に対する幻想っていうのをいっぺんに叩き潰したという意義は大きかったと思いますね。  
小島 その後、共産党は権威がなくなったし、安保闘争で対立していた民青系の学生も共産党に残っている人いないんじゃない、今。我々が知る限りでは非常に少ないよね。  
篠原 そうですね。  
森川 ほかにございますか?70年安保に対してどのような評価を下すべきか  
篠原 最後にね、気にかかるのは、私はやっぱり70年安保とか、その後の赤軍とかね。こういうものに対して、60年安保を闘った人間として、どういうふうに評価するのかという問題があります。70年安保闘争というものも大変盛り上がった闘争であることは間違いない。間違いないのですが、そういうものをどういうふうに評価するのかね。案外、こちらも考えられてきていないんじゃないですか。文化的というか哲学的というかも含めると、70年安保のインパクトの方が60年安保より大きいところがありますね。だから、そういうものへの影響っていうのはどういうことだったんだ、とか考える必要がありますね。連合赤軍事件とかは、60年安保闘争が終わって分派闘争が始まった時に、暴力で解決するというようなことが始まったことに起因しているかもしれません。私は嫌気がさして学生運動はやめましたけれども。前衛というか、革命を成し遂げるためなら何をやっても許されるということへつながっていって、最後はあそこまで行ってしまったのじゃないかなという気がします。前衛が革命をやるという考え方の間違いが、ああいうふうな形で出ていった。60年安保が影響を与えているのは間違いないんですね。60年安保を一緒に闘った清丈とか北小路(敏)とかは新左翼系の活動を現在でもやってるわけですし。僕もまぁ、なんとも結論がない、どう意義づけていいか分からないけども、この問題はやはり考えなくてはいけないことだろうなと思います。  
古賀 68年以降の学生運動、全共闘だとか東大だの日大だのの騒ぎ。そちらの方が社会的な広がりというか、行動に参加した人間の頭数は多いかもしれないね。  
篠原 そうですね。  
古賀 60年安保でブントが騒いでいた時は、明確に、現在の国際共産主義運動やその体制は間違い、中国もソ連も間違い、本当の共産主義はこうであると言おうとしたわけです。だからそういうことを言い出すまでは、左翼インテリたちの共産主義批判もおずおずとしたものだった。そういう遠慮が、ブントでなくなった。清水幾太カなんかも、その口だよね。左翼文化人の劣等感を吹き飛ばしたという点では、60年のブントの騒ぎっていうのは意義があったと思います。ただ60年代後半の全共闘運動というのは、それとは違うような性格だよね。第2次ブントとか第3次ブントとか名前は同じだけれども、血はつながっていないからね。  
森川 本日は、どうもありがとうございました。 
 
*1 木川田一隆(きかわだ・かずたか)。1899〜1977年。元経済同友会幹事。元東京電力副社長。
 

 

 
 
■学生運動

 

学生運動1
昭和二十八年から二十九年にかけての、学生運動を指導した上部団体の分裂・抗争と有力な上部団体の日常平和闘争路線は、学生運動に大きな影響を与え、それまで過激行動をとっていた学生活動家の動揺を招き、活動を放棄する者が続出した。このため全学連は一時、崩壊の危機にひんした。その後、三十年末の国立大学授業料の値上げ反対に対する取り組みを通じて、組織面、理論面で再建に乗り出し、その後の砂川基地拡張反対闘争などでは、行動面でも顕著な立ち直りを示し、以後、政治闘争路線を踏襲し、勤評反対闘争、警職法反対闘争などに際しては、上部団体とは別に独走することがたびたびあった。この間、上部団体として、「トロッキスト連盟」(三十二年一月)および「共産主義者同盟」(三十三年十二月)が結成され、武力革命による「革命前衛党」と称し、いわゆる第一次安保闘争からの学生運動に影響を与えることとなった。  
三十四年にはいると日米安保条約改定問題が政局の焦点となり、左翼諸団体の共闘体制が進む中で、全学連は、実力行動を強く主張して共闘体制から逸脱し、街頭過激行動の傾向を深めた。特に翌三十五年五月、衆議院本会議で新安保条約が可決された後は、国会包囲デモ、首相官邸突入、国会構内乱入など過激な戦術を展開した。  
いわゆる武力革命を指向して、この第一次安保闘争に組織をあげて取り組んだ全学連は、その後、指導理論をめぐって、分派抗争を起こすに至り、さらには闘争後の挫(ざ)折感もあって破壊状態になり、三十七年後半からの国立大学管理法案上程の動きを契機として組織の再編統一を図ろうとしたが、同法案が国会上程に至らなかったため、執行部は再び分裂することとなった。  
この間、民青系集団は、上部団体の全面的指導のもとに、日常闘争路線による勢力拡大を基盤として、三十七年八月、「安保反対、平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(「平民学連」)を結成し、三十九年十二月には、いわゆる民青系全学連を再建した。一方、これに対抗する過激派三派(中核派、社学同諸派、社青同解放派)も、四十一年十二月末、いわゆる三派系全学連を発足させ、これにより、従来の全学連の執行部を掌握していた革マル系とあわせて、大きく三つの全学連に分裂した。  
その後、三派系全学連は、三十八年から三十九年にかけての日韓条約反対闘争など政治闘争に対して大きな盛り上がりをみせることができなかったことから、以後の政治闘争についてはかつてない過激な方針を強く打ち出し、四十二年にはいってから街頭で武装闘争を展開するに至った。すなわち同年十月八日、三派系全学連は、「総理のベトナム訪問阻止」と称し、羽田空港付近において大量の角材、石塊等を使用して警備の機動隊と衝突し、警備車を放火、炎上させるなど、いわゆる第一次羽田事件を引き起こした。三派系全学連は、引き続き、「第二次羽田婁件」(四十二年十一月)、「エンタープライズ寄港阻止闘争」(四十三年一月)、「王子野戦病院開設阻止闘争」(四十三年二〜五月)、「新宿騒擾事件」(四十三年十月)、「四・二八沖縄闘争」(四十四年四月)、「総理訪米阻止闘争」(四十四年十一月)等においても、大量の火炎ビン、石塊を使用して機動隊、警察施設を始め、交通機関など一般市民にも大きな危害を加えた。また、最過激派といわれた「赤軍派」は、四十五年三月、乗客を人質にして日航機を乗っ取り、「朝鮮民主主義人民共和国」に渡航するという暴挙に出て困難な国際問題にまで波及した。  
一方、民青系全学連は、日韓条約反対闘争後の四十一年ごろから、学園問題に対する取り組みを通じて、その勢力拡大に努めており、反民青系の諸集団も、これに対抗するため、学園問題に取り組むに至り、四十一年の早稲田大学の学費値上げ、学生会館紛争、さらに同年末から翌年始めにかけての明治大学、中央大学の学費値上げ紛争においては、全学バリケード封鎖、占拠等、全学生をまき込んでの紛争を起こすに至った。これらの行動により、その後の学園紛争の多発期にもみられるように、政治闘争の停滞の中にあって、学生運動は再建、強化されていった。  
四十三年にはいり、東京大学においては、医学部の研修医問題に端を発した紛争が、無期限ストに発展し、安田講堂占拠、機動隊導入による占拠学生の排除、同講堂の再占拠を経て他学部へも波及し、本郷地区は、安田講堂を中核にしていわゆるバリケード封鎖の状態となった。大学当局は、翌年一月十八日、機動隊の出動により封鎖を排除したが、大学全体の秩序は回復せず、遂に四十四年度の入学試験は中止された。この事件は、他大学の学生運動にも大きな影響を与え、大規模な闘争が続発し、東京教育大学においても封鎖、占拠を伴う紛争のため、東京大学と同様、同年度の入学試験は、一部を除き中止された。日本大学においても、学園民主化問題で封鎖、占拠が行なわれ、機動隊による封鎖解除等大学の秩序が回復するのに十一か月間も要した。  
四十三年度から四十四年度にかけて東大事件や日大事件に象徴される学園紛争は、全国に波及し、四十三年度は六七大学、四十四年度は一二七大学で紛争が発生した。しかし、四十四年度の後半にはいってからは、同年八月、「大学の運営に関する臨時措置法」の施行を契機に学内外の努力によって、紛争はようやく鎮静化の方向をたどるようになった。なお、この間、革マル派を除く過激派諸集団は、各大学全共闘の全国的組織化を図って「全国全共闘連合」を発足させた。  
このように四十二年十月の第一次羽田事件以来、一部過激派学生によって大学の内外を問わず、暴力行為が繰り返されたことは、大学における教育・研究に支障をきたしたのみならず、社会的にも大きな不安を与えたため、前述のように、四十四年八月には「大学の運営に関する臨時措置法」が五年の時限立法として制定、施行されたが、文部省においても、四十二年以来、いくどか通達を発し、また、大学側でも学内の秩序の維持と暴力行為の根絶についての指導に特別な措置を講じた。  
四十五年六月の日米安全保障条約の改定期に当たってのいわゆる第二次安保闘争においては、四十四年秋の「総理訪米阻止闘争」などで大きな打撃を受けた過激派集団の行動は、組織の再建、拡大をねらいとした武闘抜きの大量動員方式となった。  
四十七年(一九七二年)に予定された沖縄の施政権返還に対し、「沖縄返還は、日本帝国主義のアジア再侵略をもくろむもの」と主張して反対する過激派集団は、四十六年十一月の沖縄返還協定の国会承認時を実質上の返還時と称し、闘争の頂点をここにおき、火炎ビン、手製爆弾等の凶器による警察官およびその家族の殺傷、警察施設等の破壊、放火など悪質狂暴な行動に出るに至った。また、沖縄返還闘争の間にあって、全国全共闘連合は、しだいに単なる体制否定と無拘束を行動理念とする過激派小集団に分裂していった。それら小集団の増加とともに、既成派閥間においても主導権争いによる抗争が激化し、「内ゲバ」と称される暴力事件をひんぱつするに至った。
大学紛争と大学の運営に関する臨時措置法  
昭和四十三年に発生した東京大学、東京教育大学、日本大学等をはじめとする大学紛争は、しだいに全国に波及し、過激化、長期化の一途をたどっていった。文部省としては、事態が深刻の度を加えつつあるのを憂慮し、同時に紛争の要因を探究し、大学教育の正常な実施を保障するため、とるべき方策について、四十三年十一月、中央教育審議会に「当面する大学教育の課題に対処するための方策について」諮問した。同審議会は、大学紛争の要因、大学教員のあり方、大学管理者の役割と責任、政府の任務、学生の地位と役割等について鋭意検討の結果、その改善案とともに、当面する大学紛争の終結に関する措置について具体的な提案を盛り込んだ答申を四十四年四月に文部大臣に提出した。政府は、大学紛争の解決に関しては、大学の自主的な収拾の努力に期待して、行政的な諸措置によってこれを支援するという方針で臨んできたが、この答申の趣旨に沿って、行政措置のみによってはじゅうぶんな効果を期待し得ない事項については、最小限必要な立法措置が必要と考え、同年五月「大学の運営に閏する臨時措置法」案を国会に提案した。この法案は、大学による自主的な紛争収拾のための努力を助けることを主眼としたもので、大学が種々の緊急の措置を講じうるようにするための規定を設けているが、同時に、大学の自治能力が失われるような最悪の事態に陥った際には設置者が教育研究機能を停止する措置をとりうる旨をも定め五年の時限立法とされている。  
この法案が国会に提案されるや、このような法案は大学の自治を侵すおそれがある、このような対症療法はこそくで抜本的な大学改革が必要である、大学が紛争収拾の能力を欠くに至った上は国が責任上積極的措置を講ずるのは当然である、など賛否さまざまの意見や論評が新聞、テレビ、雑誌等をにぎわし、法案反対運動のために紛争が拡大した大学もあるなど大きな反響を呼び、また、国会でもはげしい論戦が行なわれたが、八月三日に成立、同月十七日から施行された。法律施行後しばらくは紛争は拡大する傾向を示し、同年十月には紛争校は最高の七七校に達した。しかしながら、過激派学生の大学内外における行動がしだいに凶悪化して一般学生からも遊離するとともに、一般市民にも大きな被害を与え、世論の強い非難を浴びるようになり、また、大学当局が自らの能力と努力の限界を越える事態に対しては、警察力によって暴力を排除するという姿勢をとるようになったことなどにより、同年十一月以降、紛争は急速に鎮静化の方向に向かった。  
大学紛争がこのように推移したため、文部大臣が同法に基づく諸措置をとることは一度もなかったが、この法律の制定が大学関係者に大きな刺激となり、紛争収拾の促進に少なからぬ影響を及ぼしたことは見のがせない。したがって、・同法に基づく第三者機関である臨時大学問題審議会は、四十四年十月に発足したもののその機能を果たす必要もなく、紛争状況の報告と意見交換のための会合を重ねるにとどまった。
大学の変貌(ぼう)と大学改革の動き  
新学制発足後における高等教育の目ざましい普及、特に昭和四十一年度からの大学入学志願者の急増期における高等教育の急激な膨張は、個々の大学の巨大化を内包しつつ、大学教育の大衆化をもたらし、伝統的な大学のイメージと実態とはその様相をまったく異にするに至り、さらに科学技術の革新と経済発展に伴う社会の変貌は、大学が新しく脱皮することを強く求めるようになってきた。しかしながら、大学の教育・研究体制や管理・運営体制はほとんど旧態のままで、このような大学の変貌に即応できなくなっているとして、大学内外の有識者の間では、つとに大学のあり方について抜本的な改革の必要性が痛感され、適切な警告や有益な改革意見も発表されていた。大学紛争は、さまざまな政治的・社会的要因とも密接な関連があるので、その原因のすべてが大学制度の問題に帰せらるべきではなく、また、一部学生の暴力行為が許されるべきでないことは当然であるが、紛争の拡大、長期化の根源には大学のあり方自体にも種々の問題が内在していたことは否めない。  
一方、大学改革の動きとしては、中央教育審議会が文部大臣の諮問に応じ、四十二年七月から、初等中等教育の問題をも含めて、「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」検討に着手していたが、四十三年以来の大学紛争のひんぱつにかんがみ、高等教育改革の緊要性がいっそう強く認識され、また、各大学においても、国立大学協会、日本学術会議等の関係団体においても、真剣に大学改革の検討に取り組むようになった。中央教育審議会は、このような情勢をふまえて関係諸団体等の意見をも聞きつつ、審議を急ぎ、四十六年六月に、その結果をまとめて文部大臣に答申した。答申は、これまでの高等教育に対する考え方やその制度的わく組みが、高等教育の大衆化と学術研究の高度化の要請、高等教育の内容に対する専門化と総合化の要請など高等教育の機能の全体にわたる新たな要請に対応できなくなったことを指摘し、これに対する新しい解決策として、高等教育の多様化、高等教育の開放、高等教育機関の規模と管理・運営体制の合理化、教員の人事制度、処遇の改善、私立の高等教育機関に対する国の財政援助の充実および高等教育計画の樹立等全般にわたる改革の提案を行なっている。文部省は、この答申の趣旨を実現するため、当面、各大学の自発的な改革の努力を助長するために必要な法令を弾力的なものに改めるとともに、高等教育に関する総合的かつ大綱的な目標を定めた基本計画を策定して、これに基づいて高等教育の整備・充実を推進することとしている。そのためには、既設の高等教育機関の改組充実を図るばかりでなく、これまでの制度のわくにとらわれない新しい構想の大学を創設することが有意義であると考えられることから、筑波新大学や放送大学の創設についての準備調査も進められている。 
 
学生運動2

 

六〇年安保闘争 
東大入学と同時に、安保闘争に参加していたようなものだ。入学式の情景も、当時の総長の話も、記憶に残るような感銘を与えてくれなかった。しかし駒場寮食堂に新入生を集めての当時の自治会委員長の演説や、私達の先輩クラスである三十四年入学文T6組の自治委員の話は、内容こそ忘れたが、一生懸命話しているなという印象だけは残っている。  
私は大学に入る前から、将来は政治に関与しようと思っていた。それも具体的に社会党で活動したいという希望だった。子どもがタクシーの運転手になりたいというのと、あまり変わらない願望であったかもしれない。当時の全学連主流派(社学同中心、反日共系)と反主流派(日共系)の区別さえ知らなかった。とにかく一クラスから二人選出される自治委員に立候補した。四、五人立候補者がいたが「学生だけで一生懸命デモするのもいいが、孤立してはどうにもならない。駒場で暮らしているのだから、地域の住民の中に入って、安保反対を訴えていかなければならないと思う」と立候補の弁を述べた。自治委員に当選してしまった。  
最初にデモに参加したのは四月十五、十六両日だった。どちらかが主流派の行動日で、どちらかは反主流派だ。こういう具合に行動日が違ったり、次の4・26(四月二十六日のこと、以下同じ)のように主流派はストライキ(ピケを張って学生の登校を阻止する)、反主流派は授業放棄(ピケは張らない)と戦術が異なったり、ことあるごとに対立していた。行動日の前には、自治委員会や代議員大会が開かれる。双方が敵意をむき出しにして激しく論議している。初めのうちは、何が何だか、まったく理解できなかった。  
そのうち、先輩で社会党青年部に入っている人と接触ができ、いろいろ教えてもらうようになった。当時の社会党青年部は全学連主流派と行動を共にしており、その主張は元気がよい。最初のうちは 「これでも社会党か」と思ったりしたが、私もしだいにその主張に賛同するようになった。  
行動面でも、主流派の方に魅力を感じた。決定的だったのは4・26の行動だった。この日、全学連主流派の国会デモに参加した学生たちは、規制のため装甲車を並べて作ったバリケードを乗り越えて進み、国会周辺を包囲した。デモというのは集団の行動で、一人一人の意志が反映するということは少ない。しかし装甲車を乗り越えるのは、一人一人の意志による。そういう自発的意思の積み重ねが一つの社会的な力になるということを、この日の行動は示していた。私ももちろん、装甲車を乗り越えたうちの一人だった。しだいに、反主流派の請願デモを「お焼香デモ」と呼び批判するようになっていった。  
安保闘争の期間中、私はほとんど全部のデモに参加した。樺美智子さんが死んだ六月十五日は、国会構内に入った。あの時は東大本郷が先頭で、東大教養は隊列の後の方にいた。樺さんが所属していた東大本郷の隊列は構内奥深く入り、それだけ機動隊との衝突が激しかった。しかし私たちはそれほど深く入らないうちに、すぐに押しもどされてしまった。国会周辺をうろついていると「三人死んだ」「いや五人だ」などの情報が乱れ飛んだ。機動隊がしだいに優勢になり、国会周辺から蹴散らすように、学生を追いかけ回した。私は住居である参議院清水谷議員宿舎に逃げ込むより他なかった。午前二時頃になっていた。  
翌朝新聞を読むと、論調ががらりと変わっていた。七社共同宣言があり、それまでの安保批判が陰をひそめ、逆に暴力排除、議会主義擁護が前面に出て来た。全学連主流派の活動は単に「暴挙」として描かれているだけだった。  
私はこのとき「東京だけでやっていてもダメだ」と思った。安保自然承認の六月十九日の行動では、岡山に帰って参加した。集会の壇上に立ち、私の見た東京の実情報告をした。岡山でも、高校時代の友人寺田明生君が、連日一人で「安保反対」を街頭で訴え続けていたことなどを知った。寺田君は生徒会総務の一人としてともに活動した仲間であり、現在も東京の下町で住民運動をつづけている。学生運動で「帰郷運動」が云々されるのは、この直後のことだった。  
この三ヵ月間は、本当に忙しかった。駒場の自治会のデモの他に、社会党青年部が独自に取り組む「岸私邸デモ」などというのもあった。総評の統一行動があれば、国鉄の尾久、品川などの車庫に行き、労働組合の支援をする。こういうスケジュールがぎっしりつまっていて、私は二キロほど痩せた。  
私自身の考え方はあくまで一般学生のものだったのだろう。革命が起きるというような大それたことはもちろん、安保改定が阻止されるとも思っていなかった。ただ安保反対の意思表示をする必要があると思っていただけだ。この当時よく、自治委員は自治会室にビラを取りに来てくれということがあり、私は高校の生徒会のようなつもりで協力していた。一度このため講義に遅れたが、教官が私をとがめ「君たちは学業が本分だから」とお説教口調で言い出したのにはびっくりした。この教官の方は主流派の学生運動を、革命運動につながるものと、ある意味では「正しく」認識していたのである。  
結果的に安保闘争は敗北した。全学連主流派の中心的なメンバーは、そのショックで、ブント(共産同)から革共同全国委員会(マル学同)にくらがえする。以降、学生運動が四分五裂の分裂を繰り返し、悽惨な内ゲバに発展していったことは周知のとおりだ。でも、私にはピンと来なかった。運動の盛り上がりはあったが、国政レベルでどういう政権を作るのかという具体的目標がなかったことが、安保敗北の原因だと思う。父が護憲・民主・中立の政府という形で政権の目標を提起するのは、もっと後のことである。  
こうして安保闘争の潮は、あっという間に引いてしまい、世の中は平穏になった。私も、七月からの夏休みには岡山へ帰り水泳で明け暮れた。夏休み明けからの私の学生生活は一般学生とほとんど変わらないものだった。もちろん自治委員は続けていたが、学生運動の沈滞と共にそれほど忙しくない状態だった。この頃社会党青年部を母体に社青同(社会主義青年同盟)が結成された。社青同東大駒場学生班のメンバーとしても活動を続けた。時々学生向けのビラ作りをやり、原稿書き、原紙切り、ガリ版印刷からビラまきまでやった。  
目黒区内にある中小企業の争議の応援にも出かけた。泊まり込みか、早朝の行動だった。労組員と話し合うこともあった。私たち学生の主張はおおむね強硬諭であった。労組員が「そんなことやったら、会社がつぶれてしまう」というのに対し、「つぷれるかどうかとことんやってみたらいいじゃないか」などと無責任なことを言っていた。  
しかしこういう行動はそれほど忙しくない。講義にもある程度出席し、クラスの友人たちといろいろ楽しむ平均的な学生生活にやや政治活動が加わったという程度だろう。もともと安保闘争の最中にも、合ハイ(合同ハイキングの略)をやったりしていた。相手は東京女子大や女子美術大のお嬢さんたちだったと記憶している。友人から「五月祭を案内してくれ」と頼まれ、女子学生数人と一緒に本郷の構内を歩き回ったこともある。前期の試験(九月)が終わった後には、クラスの友人たちと尾瀬から日光まで、山小屋に六泊して歩き回った。運転免許を取ったのもこの頃だ。  
読書だけはマルクス主義関係のものに集中した。マルクスやエンゲルスの「共産党宣言」「賃労働と資本」「空想から科学へ」「ドイツ・イデオロギー」、レーニンの「帝国主義論」「国家と革命」「唯物論と経験批判諭」、毛沢東の「実践論・矛盾論」など次から次へと読みあさっていた。当時論議の的となっていた構造改革論についても、関心は強かった。イタリア共産党のトリアッチの著作も興味深く読んだ。構造改革の理論的基盤を確立したといわれる「現代マルクス主義講座」なども読んだ。現在、日本共産党の中枢にいる上田耕一郎、不破哲三兄弟は、その頃構革論の旗手であった。  
社青同の学習会なんかもあった。東大の検見川グランドにある宿舎や、伊豆・戸田の寮などをよく利用した。戸田で行われた学習会へ行く途中、列車の中で石原慎太郎氏の「太陽の季節」を読んでいたことがある。同行していた先輩が「そんな下らないものを読む暇があったら、マルクスでも勉強しろ」という。私は口には出さなかったが「そんなものではあるまい」と、ひどく違和感を持った。向坂逸郎氏の「資本論学習会」は、当時から中野区鷺官の自宅で行われていたが、私は一度ちょっとのぞいただけでやめた。向坂氏が、私が通っていたよ うにいっているのは、何かの記憶違いだろう。当時から教条的なものにはなじめなかった。 
浅沼委員長の死

 

社会党委員長の浅沼稲次郎氏が刺殺された三十五年十月十二日午後、私は映画を観ていた。大島渚氏の 「日本の黒い霧」と他に一本、二本立てだった。休憩の間にロビーに出てみると、テレビで犬養道子さんら四人が何か興奮して話している。犬養さんが祖父の犬養毅がテロに倒れた五・一五事件のことを話しているので「誰かやられたな」と思い、テレビに見入っているうちに、浅沼氏とわかった。「これは大変だ」と、映画は途中やめにして、議員会館の父の部屋へ行ったが、私がなすべきことは何もなかった。  
安保闘争で糾弾された岸内閣は、既に池田内閣に交替し、総選挙を目前にしていた。社会党は、安保闘争の高揚をそのまま選挙に結びつけ、大きく前進しようとしていたが、池田首相は、「寛容と忍耐」でこの動きをかわそうとしていた。与党と野党が政治決戦に向かって着々と歩を進めていたのである。そういう中で、右翼テロで野党第一党の党首が刺殺されたのだから、これは大変な事態だ。戦前の暗い体制に戻りそうだ。しかし、野党の力もそれだけ強まり、保守反動の側が危機感にかられてあせってきたとも言える。二つの勢力ががっぷり組んだ引くに引けない大政治決戦となった総選挙に勝ち抜くため、あらゆる戦力を総動員しなければならない。  
このような背景で考えると、今ではまったく恥ずかしい話だが、私は、「この事件は社会党にとって良かったのではないか」と思った。浅沼氏は右派から出た人であり、社会党のトップに据えるにふさわしくないと、それまで思っていたし、その人物がテロで葬られるという劇的な死に方をして、これで社会党の人気が強まれば、政治的には良い結果となると思ったのだ。当時私は十九歳で 「若気の至り」と言ってしまえばそれまでだが、浅沼氏に何故大衆的人気があるのかを十分理解せず、その人気を政治的にのみとらえ、人の命よりも政治的効果を重視するような考え方を一度でもしたことがあるということについては、全く自分自身がいやになる。今でも痛痕となって心に残っている。  
書記長だった父は委員長代行となって猛烈に多忙になる。清水谷議員宿舎では、父と私の二人だけの生活だが、父が宿舎に泊まるのは一週間に三日ぐらいだったと思う。食事は原則として外食で、二人とも深夜に帰ることも多く、朝ちょっと顔を合わせるぐらいだった。あい変わらず、父は私のことには干渉しない。ただ原稿を清書させられることが多かった。それが父の私に対する政治教育だったのかもしれない。  
この頃、社会党内でも構造改革論議が焦点になっていた。父が目指したのは「政権が取れる社会党」を築くことであった。当時「三分の一政党」といわれた壁を破り、政権を取るための政治路線を真剣に探った結果出て来たものである。それまで、社会主義の理想像はあっても、具体的な変革の手段となると、暴力革命路線か、議会内改良主義路線かの二者択一しかなかった。革新勢力のカで現実を少しずつ改革していきながら、最終的には資本主義の仕組みそのものを変えてしまうことをねらった構造改革論は、現実的であり、新鮮な魅力を持っていた。私自身もしだいに構造改革論に傾斜して行った。社会党は、構革論を基調とした運動方針を採択したが、これについて「浅沼事件直後で、論議が不十分だった」として、論争が後にむし返されることになる。そういう余地を残した決め方だったことは、構革論にとっても、社会党にとっても不幸なことだった。  
父は、先頭に立って構造改革論を提唱し、成田知己氏らと共に「構革論こそ科学的社会主義の現代的展開だ」と主張したが、反構革派は「修正主義、日和見主義だ」と攻撃した。この論争は本来、党主流を占めていた左派鈴木(茂三郎)派内部の「正統派社会主義の本家争い」であった。父は、この論争で鈴木派に別れを告げ江田派結成に踏み切ったのである。父はこの他、議員政党から組織政党への体質強化のため、国会議員代議員権制度の廃止、社青同の育成など、組織面での改革も断行した。この改革の目的である党員数の飛躍的増加と組織強化が果たせなかったから、形式だけが残ってしまい、五十二年の党改革論議で国会議員の代議員権、社青同の二問題が焦点となったのだろう。いずれにせよ、社会党内では、父の目指したことが素直に受け入れられず、結局、党勢を確実に下降させるようにと事態が進行していった。  
父は後に江田ビジョンを出すことになる。アメリカの高い生活水準、イギリスの議会制民主主義、ソ連の徹底した社会保障、日本の平和憲法の四つを兼ね備えた社会を目指すというわけだ。これを全くけしからん発想だと非難する人たちが多かった。しかし当時から私は、政治的なスロ−ガンとしては当然の内容だと思っていた。社会主義が、人類が目指す最高の社会だとすると、当然生活水準は高く、福祉は徹底し、平和な民主主義社会でなければならない。それぞれに国の名を冠したのは、具体的なイメージがわくようにしただけで、アメリカに黒人問題があるなどということは、父のビジョンの批判としては的はずれである。ただイギリスの議会制民主主義というのはやや問題で、もっと労働者の発言力が強くなる徹底した民主主義を目指すべきだ――と友人たちに対して語っていたものだ。  
浅沼事件の後、三十六年二月には中央公論社長邸を右翼少年が襲い、お手伝いさんを刺殺するという嶋中事件が起きた。自民、民社両党は政治的暴力行為防止法案を衆院で強行採決した。三十六年春の学生運動のテーマは「政暴法粉砕」であり、駒場ではストライキが行われた。安保のストでは行われなかった委員長の退学処分が、このときは復活した。 
自治委員長に就任

 

私は二年でも自治委員を続けた。この頃はすでに主流派は社学同とマル学同に分かれ、反主流派も構造改革派(構改派)と民青(日本共産党の青年組織)に分かれていった。私は社青同以外の活動家とも付き合うようになっていた。もっともマル学同、民青の活動家は共に自派の理論を絶対に正しいとし、他のセクトについては犯罪者呼ばわりをするという極めて排他的な人ばかりであった。さすがに私も付き合いきれないから、結局、社学同、構改派の諸君と話し合うことが多かった。セクトが違っても仲良くやっていた。現在の内ゲバなど、想像もできない時期だった。  
自治委員をやり、社青同に入っているが、一般学生であるという感じの生活は続き、講義や試験にも適当に付き合って、三十六年の秋には、専攻学部として経済学部を選んだ。文Tからは、原則として法学部か経済学部を選ぶのだが、その頃はマルクス経済学をもう少し突っ込んでやりたいと思っていたからであった。  
十月からは、駒場に残っていながら、経済学部の講義を聴くことになるのだが、その頃から「社青同で自治会委員長候補を立てよう」という話が持ち上ってきた。当時社青同駒場学生班のメンバーは十五人ぐらい。この年の入学者に横路孝弘君(現社会党衆院議員)らもおり、しだいに増強されていた。しかし駒場の自治会活動に携わっていると「公認」されていたのは、先にあげた四派であり、社青同はその四派と肩を並べるまでにはなっていなかった。  
この年の十一月末から十二月初めにかけて行われる正副委員長選挙(全学生の投票による)では、四派がそれぞれ候補を立てて乱立となることは確実だった。社青同が割り込むとすれば絶好のチャンスである。全国各大学の学生班で構成している社青同学生班協議会からも「検討してほしい」との要請があった。駒場学生班でも、積極的な意見が強く、結局、候補者を出すことは決まった。  
問題は候補者である。運動経験のある二年生から選ぶしかなかろうが、そうすると任期は翌年六月初めまでだから、留年しなければならない。だから、浪人した人やそれまでに留年している人は避けようということになった。メンバーの経済的事情もある。生活費をアルバイトで稼ぎながら学生生活を送っている人を、委員長の座に据えることは、残酷である。そういう条件も考慮して、私に白羽の矢が立てられた。私はどうせ当選するはずがないと思っていたし、当選して留年することになっても「ここらで道草を食うのも悪くない」と思っていたから、立候補を了承した。よく父の江田人気を利用して、その長男ということで票を集めようという意思があったのではないかといわれるが、そんな論議はなかった。副委員長候補も同様にして決めた。  
正副委員長候補は、個人名で「政見」を出すことになっていた。西洋紙に細かい字でガリ版印刷をし、合わせて五、六枚を裏表ぎっしり埋めたものも珍しくなかった。その内容は、古典的な共産主義運動の形式を踏んだもので、まず「情勢分析」がある。世界の構造は、帝国主義諸国と社会主義諸国の対立という図式に沿って動いているとか、いやそうではなく、ソ連も社会帝国主義の色彩を強め、各国人民の戦いを抑圧しているとか、また日本帝国主義は米帝国主義から独立し独自の海外進出をねらっているとか、いやそうではなく米帝国主義に従属しているとかいうことを各セクトの理論にもとづいて書く。次いで 「総括」である。安保闘争は勝利か敗北か、その中で全国的な学生運動はどうであったか、駒場の運動はどうだったか、総括する。最後に「運動方針」であり、こういう運動を進めるという方針を書くわけだ。一字一句、真面目に読む人がいるのかどうかさえ疑わしく、選挙ではとても効果がないとみられるこのような文書を、あたかも一つの決められた「様式」であるかのように、各候補者が出していたのだ。  
余談であるが、こんな文書はほとんど一般学生に読まれない。このためサークルなどを含めた人々が連名で出す推薦ビラがあったり、その他様々の文書合戦をやる。中には、わかりやすく書いた「五派対照表」みたいなものもある。「社学同=デモで機動隊に突っ込むことを至上の喜びとする」「マル学同=学習によって戦う主体を鍛えることを目指す。ただし、いつどこで戦うのか、はっきりしない」などと、五派の特徴を一覧表にしている。こういう文書も、セクトの関係者が出す。自分のセクトの悪口も書くのだから愉快だ。  
私たちの「政見」ビラでは、情勢分析、総括、運動方針という書き方をやめた。内容的には、政治運動を重視したものだったと記憶しているが、スタイルだけは、あまりに古典的な書き方をやめ、分かりやすくしたのだ。他の四派にとっては、これは許すことのできない事であったのかもしれない。「右翼」「日和見」などの非難が激しかった。  
選挙期間中、昼は各教室を回って、立候補の弁をぶつ。夜は駒場寮の部屋を回って、投票をお願いする。昼の教室回りはともかく、寮回りは嫌だった。寮は生活の場であり、六人の大部屋とはいっても、寮生個人個人の生活がある。慣習になっているからとがめられないとはいえ、個人の生活を侵害することに、ひどく抵抗を感じていた。  
こんなことをやっているうちに投票、開票となり、私達のコンビが当選してしまった。「これはえらいことになったぞ」と急に不安な気持になった。客観的にみて五つのセクトのうち、最もカの弱いのが社青同である。正副委員長に当選したのはいいが、自治会を正常に運営していけるのかどうか、自信などあろうはずがない。  
しかしこの不安は杞憂だったようだ。社学同、構改派が自治会運営に協力することになったからだ。当時最もセクト的な主張をしていた民青、マル学同に自治会運営をゆだねることは危険だということは、私たち社青同を含めた三派の共通の意思だった。そのため三派による折衝が行われ、連合して駒場自治会の運営に当たることが決まったようだ。私がこのような折衝に当たったわけではないが、誰が考えてもこの三派が結び付くのは自然だっただろう。当選後初の自治委員会で執行部に当たる常任委員二十人を選ぶが、常任委員はこの三派による独占となった。  
委員長に就任したからには、講義に出席することなど、あきらめなければならない。一年留生を覚悟していたから、語学を含め、大学の単位を目指した勉強は一切やめた。結果的にはこの状態が二年間続くことになってしまったのだが……。
闘う自治会の再建

委員長就任直後「東大駒場新聞」に「闘う自治会の再建を!」と題して、以下のような文章を寄稿した。  
第二十五期自治委員長の任に就くに当たって、僕が自治会について日頃考えている事を書いてみよう。  
駒場には、自治会、学友会と学生組織が二つ存在している。機能からすれは、自治会は政治上の問題、学友会は学生の厚生面という事になるのだろうが、やはりこの二つを機械的に分離させて考えるのはおかしいのではあるまいか。現代においては政治は経済体制と密接に結びついており、学生の厚生面ですら、政治との関連なしには語れなくなっている。政治が国民生活の隈々まで規制し、しかもその政治は、経済体制を握っている部分によって動かされているとすれば、我々の日々の生活と日韓会談なり政暴法なりの政治上の問題は密接不可分に結合して来ざるを得ないのである。我々がより良き学生生活を望もうとすれは当然そこには政治上の障害が立ち現われ、しかもそれを取り除く事なしには、我々の未来を希望を持って語る事はできない。これが、国家独占資本主義段階という現代の特質なのだ。  
自治会はより良き学生生活を目ざすためには、当然政治上の問題を取り扱わねばならない。政治の問題を回避して象牙の塔にこもる事はできない。政治に鋭い目を向け、我々の未来を真剣に追求する事をおこたってはならない。我々の学問の成果が逆に我々自身を縛る事をなくす為には、政治に取り組まざるをえないのであり、まさにその為の組織として、自治会は機能せねばならぬと考える。前期自治会の空白の後をうけて我々が先ず努力せねはならない事は自治会機能の復活であると僕は言ってきたが、機能の復活とは、まさにこういった政治問題で断固たる闘いを組む事のできる自治会を指すのであり、決して形式上の機能復活で満足できるものではない。  
ところが、僕一人で「闘いよ起これ」といくら叫んだところで、それによって闘いが起こるわけではない。もしそうなら、その組織は死滅していると言って良いであろう。安保闘争においては、一人の指導者がいたから闘いが起こったのではなく、まさにクラスから、サークルから続々と闘争のエネルギーが出て来て、数え切れぬ「指導者」がいたからこそ、あれだけの闘争が組み得たのであろう。組織というものは大なり小なり疎外を伴うものである。この組織内部の自己矛盾を、明確にする事なく、無葛藤理論を弄んでいては、組織の躍動は期待できない。矛盾は発展の原動力である事を忘れてはならない。自治会においても、躍動し闘う自治会となる為には、各クラス、サークルのエネルギーが十分汲み尽される為には、常に、旧い指導層は新らしい指導層によって乗り越えられる必要があり、いやしくも、大衆の創意性、自然発生性を阻害する様な事があってはならない。一般学生なる者の自然発生性、創意性をいかに発揮させるか、いかに汲み尽すかというのが、いわゆる「活動家」最大の仕務であり、そうした活動家も、新しい層によって次々と乗り越えられねはならない。こうしてこそ、真の闘いは起こされ、高められ、発展するのである。自治会は、常に新しく甦えらなければならない。まさに生きた有機体の如く、常に新たにされてこそ、はじめて躍動があるのであり、それなくしては、自治会の機能復活は語れない。  
僕が何も語る事のできない、ハニワの様な存在にすぎなくなり、そして投げ捨てられる時、僕の希望は初めて達成されるのであり、その時、僕は再び、時の「指導者」を乗り越えて前進するために下から立ち上がるであろう。  
この文章でもわかるとおり、当時は学生運動そのものが沈滞期に入っていた。政暴法が廃案になって以後、それほど大きな闘争課題もなかった。時々、問題を見つけては集会、デモを組織するのだが、各大学あわせても百人、二百人というような小規模なものばかりで「どうにもならない」と頭を抱えていたのが、委員長一期目の状況だった。  
たぶんキューバ問題か、核実験の問題だと思うが、アメリカ大使館に抗議デモをしたことがある。規模は大きくないのだが、一人一人がアメリカ大使館あての抗議文を書いて手に持ち、できれば大使館職員に手渡そうという計画だった。しかし当然予想されたことだが、機動隊はそんな行動を許さず、厚い璧を作って阻止する。  
私は「我々がアメリカ政府に抗議の意思を伝えようとしているのに、日本の警察がそれを阻むとは何事か。学友諸君、この機動隊の壁を突破して、抗議の意思表示を貫こうではないか」という主旨のアジテーションをやった。  
そうすると駒場の学生たちは、機動隊と衝突覚悟で、その通りに動き出すではないか。私のアジは、どうせ機動隊を突破できるはずがないということを見越して、ちょっと威勢のいい事を言ってみたという、ある意味では無責任なものだった。だが素直に言葉通りそれに従っていこうとする学生がいる。委員長というポストについたら、慎重に一語一語考えて発言しなければならないんだなと、強く反省した。幸い混乱は起こらずに済んだ。しかしもし負傷者、逮捕者が出るような混乱になったら、私の無責任な発言が引き金になったと、悩まなければならなかっただろう。  
目立った行動はなくても、委員長のポストについている以上、結構忙しい。何かデモを一つ組織するについても、まず社青同の会議で方針を決め、社学同、構改派の諸君と相談する。そのうえで自治委員会用の議案を作る。会議ばかりが、やたらに多かったような気がする。もっとも委員長になってからマージャンをすることも多くなった。私にマージャンを教えてくれたのも、ひんぴんと誘ってくれたのも学生運動の活動家だった。  
自民党総裁室乱入で逮捕

 

委員長一期目の最後の時期に、自民党総裁室乱入事件が起こり、私が逮捕された。この行動について、私の委員長時代の最大の「業績」のように書かれることもあるが、全く不本意である。いつのまにか、巻き込まれていたという気がしており、気持が悪いのである。  
そのころ防衛庁は、首都圏防衛のためバッジシステムを作り上げ、周辺基地に核弾頭使用可能なナイキハーキュリーズを配備する作業を進めていた。私たちはその反対運動に取り組み、乱入事件のあった五月十一日も、詳しいコースは忘れたが、デモをやった。  
デモがあまり景気よくないので、解散後「自民党に抗議に行こう」ということになった。私もそこまでは賛成したが、建物に乱入することなど議題になっていない。自民党本部に着いたが、どこでどうすれはよいかわからない。ウロウロしていると、一部が建物の奥深くに入ってしまった。誰にもとがめられないので、それほど深く考えもせずに、追いかけて入ったら、そこが総裁の応接室か何かだった。社学同の幹部がアジ演説をしたり、革命歌を歌ったりの集会が開かれていた。私が入った直後に、その部屋は自民党職員が出入口に鍵をかけてしまい、連絡で出動した警官隊に、部屋にいた四十一人全員があっけなく逮捕されてしまった。  
総裁室乱入は、社学同の幹部にとっては予定の行動であったのかもしれない。あるいはこのとき「自民党本部に突入し――」というようなアジがあったかと思うが、この連中はいつも「首相官邸突入」などといっている。しかし委員長としての私の呼びかけでデモに参加した学生がいる以上、最後まで見届けなければならないと思って、部屋の中まで入ったのである。  
私は警視庁に留置された。警察官、検事による取調べに対し、自分自身の行動に関する限り、スラスラと供述した。少なくとも私自身は、誰にもとがめられなかったので、建造物不法侵入なんておかしいと思ったし、黙秘しなければならないほどの重大犯罪を犯したつもりはないからだ。取調べ側は、社学同の幹部など、他のメンバーの行動について聞きたがっていた。そういう質問に対して、全く答えずに押し通した。厳しい調べという印象は全くなかった。調べに当たった警官には、その後デモなどで会うと、あいさつ程度はした。検事の方は、その後検事正になり、今でも年賀状のやり取りぐらいの往来はある。  
留置場では最初は他の刑事犯の容疑者と一緒だった。ある男が「今日調べだ。俺は何もしてないのに逮捕だ、調べだとまったくけしからん」といいながら出て行く。帰って来て「いや、まいったまいった、全部調べてやがる。ばれた、ばれた」と高笑いしていた。これは詐欺のベテランであったらしい。別の男が私に「どうせ学生さんはすぐ出て行くでしょう。これをある所に届けてくれないか」と手紙のようなものを渡そうとした。届け先は有楽町の何かの店だったと思う。証拠湮滅に関わりがあるのではないかと考え、断った。  
留置場暮らしはすぐに慣れた。評判の悪い食事も、食べようと思えば食べられる。よく味わえば、何でも結構おいしい。弁当のフタのようなもので、お茶ではなく湯を飲むのも、みじめといえばその通りかもしれないが、それだけのことだ。煙草を喫う時間、体操の時間と決められていて、規則正しい生活になる。途中から私一人だけの房に移されたので、本が良く読めた。友人が差入れてくれたグラムシ(イタリア共産党の創設者)の著作を読んだ。  
自由を拘束されていることについて、何故憤らないのだといわれれば返答に困る。腹を立てるべきであろう。しかし耐えられない苦痛はなかった。ただ、地震があったら逃げられるかな、という不安があっただけだ。医者でもいて、人間ドックのような検査でもやってくれれば、申し分ないという感じだ。私はどこでも「住めば都」と思ってすごすのだが、留置場さえも「住めば都」であった。  
弁護士が面会に来て「週刊誌などが大分騒いでいるよ」と教えてくれた。「お父さんが談話を求められてもっとがんばれみたいなことを言って、押し通している」ともいった。釈放されてからも、父は逮捕されたことには何も言わなかった。ただ総裁室乱入という行動は間違いだと父が思っていたことは確かだし、私もそう思う。この行動が一般に与えた印象、その後の運動への影響などを考えれば、まき込まれたではすまされないと思う。そこが結果責任をとる政治の厳しさだろう。  
あんなことをやっても、社会の変革に何の助けにもならない。単なる人さわがせにすぎないものであった。反省しなければならない。もっとも、人さわがせも、一部の人によると、耳目聳動作戦という立派な戦術になるのだが。  
満二十一歳の誕生日は留置場の中で迎えた。翌二十三日午後、処分保留のまま釈放となった。その日は、駒場で代議員大会が開催されていた。警視庁から真っすぐに駆けつけ「留置場にいる間、この代議員大会のことばかり考えていた」と、演説の枕言葉にしたことを覚えている。  
その直後の五月二十五日、池田勇人首相が、人づくり政策と大学管理制度の強化を打ち出した。自民党総裁室に討入りするような学生はけしからん。そういう暴力学生の温床になっている大学の現状は改められなければならない、というわけだ。総裁室乱入は、そういう発言をしやすいチャンスを提供したわけだ。いずれにせよ、それ以後学生運動の目標は「大学管理法反対」に集中することになった。こうして、沈滞した学生運動が、ちょっとした高揚を迎える。  
私にとってはその前に委員長の再選問題がある。私はもともと一期しかやるつもりはなかったし、半年の任期が終わりに近づいて「やれやれ」という気持だった。しかし社青同学生班協議会としては「駒場の委員長のポストは絶対に守らなければならない」という方針で、私に「もう一度やれ」という説得が始まった。  
当時、社青同が学生運動の中でしだいに発言力を増していったのは、駒場の委員長ポストを握っているという事実が大きく作用していた。セクトの力関係からいえば、それを手離せないのは事実だ。しかし他方では社青同学生班協議会の中心になっていたのは、後に社青同解放派に発展していくグループである。そのグループはしだいに独自の暴力革命理論を整備し始め、私たち社青同内で構造改革的な考え方をしているグループとの考え方の差は、しだいに大きくなっていった。私としては学生班協議会の説得を、率直に受け入れる気にもなれなかった。  
最終的に、学生班協議会の幹部と私がこの問題で話し合ったが、最後は、「委員長になっても君の行動には干渉しない。好きなようにやって良いから」といいだすので、私も承諾せざるをえなかった。  
二期目の副委員長候補は別の人に交替した。「人気がある」という学生班協議会の主張が正しかったのか、私は当選したが、副委員長には、決戦投票の後、結局社学同から出ていた中島義雄君(現大蔵省主計局)が当選した。  
二期目の執行部が成立した後は「大学管理法闘争」一色だった。社学同などは最初からストライキ提案をしていた。夏休み直前で、学生の姿も少なくなっていく時期だから、私たちはストは時期尚早と判断、授業放棄で取り組んだ。しかし当時の状況から判断すると、秋には委員長としてストライキ提案をしなければならないということが予想された。「ストになると退学だな」という懸念が頭の隅にこびりつき始めていた。  
夏休みには、それまで事実上成立していた社青同、社学同、構改派の三派連合を組織的に定着させようと、全国的な組織作りの仕事に追われていたような気がする。駒場では仲良くやっているのだが、全国的な段階では各派のエゴがぶつかり合い、駆引きも多い。こういう仕事はあまり好きでなかった。特に私は、他大学の社青同のメンバーよりも、駒場の他セクトのメンバーの方と親しく付き合っており、全国レベルの活動にはまったく不向きだった。  
九月は前期の期末試験である。私は教養学部で必要な単位のうち、理科一科目を残していただけで、それも受験する必要はないから、まったく暇な状態だった。蓼科高原に行き、じっくり読書していた。  
「退学に処す」

 

昭和37年、東大教養学部自治会委員長として大管法反対のストライキの先頭に  
十月に入ると、大管法闘争に本格的に取り組まなければならない。十一月の段階で闘争の山場を作ることが決まっていた。全国の学生運動の中心であると自負する駒場が、その先頭を切って闘わなければならないことも当然である。十一月一日と決まった統一行動の日に社学同はストを主張していたし、社青同もストに傾いていた。  
当時東大では学部共通細則でスト禁止を明記し、学生大会(駒場の場合代議員大会)でスト提案をすること、そのスト提案を大会議長として討議させること、その他ストを指導することは懲戒事由に該当すると決めていた。このため執行部がスト提案する場合は、委員長みずから議長をやり、スト提案者ともなることが決まっていた。そうすれは処分者は最少限に食い止められるからである。  
私にはストで処分を食うことがカッコイイなどというヒロイズムは全くなかった。かといって、退学処分が恐いからストをやらないというわけでもない。しかし一年で復学することが慣例になっているとはいえ、すでに一年留年しているので、さらにもう一年無駄な回り道をすることになるのか、という気持があった。  
「どうしようか」と父に相談したこともある。「自分で考えて、いいと思うようにやれ」というだけだ。なんとなくふっ切れない気持でいるとき、気晴らしに映画を観た。たぶん「マノン・レスコー」で、違ったとしても恋愛映画だ。見終わったとき、「俺も男だ。退学は承知の上で、やれるだけやって見よう」と覚悟を決めたのだから不思議だ。  
その頃になると、政府がねらっている大学管理法案の内容もしだいに明らかになった。とくに学部教授会のメンバー資格や、学部長選挙の方法が、法律で縛られることになり、学部自治は大幅な制約を受けることが解った。国立大学協会なども、自由闊達な大学が失われるとして反対の態度をとり始めていた。  
ストライキ提案は代議員大会で圧到的多数で可決され、全学生投票でも支持された。スト当日は早朝からピケを張って、事実上学生が構内に入るのを阻止した。自治会・学生問題担当の教官たちが「ピケを解きなさい」といいに来たが、副委員長の中島君らと「大管法闘争に参加するのを呼びかけるためのピケだ。どうしても入りたい学生を物理的に阻むものではない」などと反論していた。何が何でも講義を受けるという学生もいなかったため、ストは混乱なく行われた。  
駒場正門前の集会の後、本郷へ行き、安田講堂前の銀杏並木集会をやった。さらに文部省へ向けて、デモ行進した。都内の他大学の学生も含めて一万人近くが集まっただろうか。とにかく私が委員長になってから、初めて盛り上がったのはうれしかった。一年間も委員長をやっていて、二、三百人の気勢の上がらないデモばかりで、シビレを切らして自民党総裁室に飛び込んだことがあるだけ――などといわれたのでは、たまらない屈辱だ。  
このデモの途中、私はまた逮捕された。デモの隊列の中にいたところを、警官の一団が一度引きずり出そうとしたが果たさず、二度目に引っ張り出されてしまった。デモの許可は取ってあるし、許可条件違反があるとしても、その頃はジグザグデモをやる程度で、それほど重大なものではない。指揮者を逮捕するには当たらないし、第一私はデモ指揮者でもなかった。私にねらいをつけていたのであろう。現在ほど法律知識があれば抗議するところだが、当時は何の容疑で逮捕されたかも聞かず、おとなしくしていた。もっとも警察の方も処理に困ったのか、夜になって釈放された。  
次に十一月三十日という行動予定を設定していたわけだが、一日のストまでで私の活動は終わったと考えていた。どうせ退学処分になることは決まっている。そういう規則の是非はともかく、規則があり、それを無視したのだから、処分はいさぎよく受けようと思っていた。  
退学になると学生ではなくなる。学生でない者が学生運動を指導することは避けるべきだと思っていた。当時他のセクトでは、少なくとも駒場の学生でない人たちが駒場で暮らし、駒場の運動を指導している例もあった。そういう人たちの運動への情熱は分かるが、人間それぞれ与えられた場所で闘うことが必要だ。いつまでも学生運動から離れない(離れられない?)のはおかしい。そういう人たちにはあまり好感が持てなかった。  
十一月二十四日、朱牟田夏雄教養学部長に呼ばれた。当然のことながら「退学に処す」という懲戒書を手渡された。予想どおりだなと思い、いったん受け取って引きあげた。すると別に呼ばれて無期停学処分を言い渡された中島君が「そんなもの受け取ったら駄目じゃないか」という。あわてて返しに行った。大学側は、受け取ってくれた。返す方も受け取る方も、共にのんびりしていた。  
私たちとはあまり仲の良くないマル学同の諸君が処分撤回闘争を強く主張し始めた。その日午後には朱牟田学部長らとの「団交」が行われた。安保闘争の期間中のストに処分が出なかったのに、今回処分したのは何故か、大学自治を守るためというストの目的と切り離して形式的に処分するのは納得できない――など友人たちが主張したが、論議はすれ違いだった。  
私としては処分は覚悟の上だったし、処分撤回闘争の先頭に立つというわけにもいかない。「処分撤回という闘争目標は後ろ向きだ。安保の時には、あれほど安保闘争自体が盛り上がったから、処分ができなかったんだ。大管法でも本来の闘争自体に大きな盛り上がりを作り、処分を撤回せざるをえない状況に、大学当局を追い込むことが必要なのではないか」とブツブツつぶやいていた。私たちの受け取り拒否でいったん保留となった処分も、後日配達証明付きで懲戒書が郵送され、正式に発効した。  
十一月三十日は駒場ではストライキとならなかったが、全都二万人あまりの学生が本郷に集まり、銀杏並木集会の後、文部省に向けてデモ行進した。赤坂見附から文部省まで、外堀通りではフランスデモで路上を埋め尽くした。六十年安保以後最大規模といわれたこのデモを最後に、私は学生運動から離れることになった。  
学生運動に携っていた当時も現在も、私は学生運動は普通の学生がその時々の課題をとらえ、行動していくものと思っている。そういう意味では市民運動や住民運動と同じものだ。  
しかし学生層の特殊性がある。学生運動をことさら学生の生活条件に直接関係するものだけに限定し、物価値上げ反対だとか、より良い学生生活のための施設を作れだとか、授業料値上げ反対だとかいった問題しか取り組まないグループがある。学生一人ひとりの身近かにある問題から運動を組織していこうというわけだが、これは学生層に潜在する力を見ず、あまりに運動を狭い範囲に押し込めようとするものだ。  
学生層はあくまで学問を目指す存在であるのだから、一見抽象的と思われる問題とか、未来の問題などについても鋭敏に反応する力を持っている。平和と軍事に関する問題など、他の階層が最も取り組みにくい問題に、学生運動が最も大きなカを発揮してきたのも、これが理由になっていると思う。  
他方ではこういう学生の抽象的思考能力を利用して、政治セクトによる運動の引き回しが起こってくる。革命運動の道具として利用し、学生の中からセクトのメンバーを一定数確保すれは良いといった姿勢にもなる。こういうセクト的傾向が目立つ時期には、概して学生運動は沈滞している。学生が政治的、社会的諸問題を見つめ、それについて行動して行こうという姿勢は、自然に生まれるものではないから、一定の思想的立場にある人がリードすることは自然であろう。しかしリーダー自身の思想的、政治的立場の確保と保持よりも、学生運動を高揚させることの方が大切だという考え方が基本でなければならない。高揚期には、意識していなくてもリーダーたちはそのような行動を取っていたものなのだ。私も社青同に属してはいたが、そういう立場で運動に参加していたつもりだ。  
学生運動はその後、全共闘運動として高揚を迎えることになる。私は全共闘運動については、心情的には強いシンパシイを感じた。大学は一見、自治の下で民主的に運営されているように見えながら、戦後、全く改善されなかった機関であり、古い体質を残しており、何らかの改革運動が必要であるのは当然である。大学がその渦の中に巻き込まれたことは、大学のためだけでなく、社会のために良いことだった。学生や教官たちの意識の変革を伴った点でも、有意義な運動だった。ノンセクトの学生が、セクトを巻き込む形で運動をリードしていたことも、学生運動の本来あるべき姿を取り戻したものといえる。  
しかし、そういう重要な運動であったからこそ、手段を慎重に選ぶべきであった。一部の教官の自由を拘束し、健康にも被害を及ばしたような、長時間の団交などは、それ自体として批判されなければならない。それ以外にも暴力に依拠していた部分が、かなり目立っていた。そういう欠陥のために全共闘運動が十分な成果を上げられなかったのは残念なことだ。  
その後、学生運動は、暴力革命を志向するセクトの運動となり、本来持っていた広がりを失ってしまった。今、学生運動は沈滞しているように見える。しかも学生運動の沈滞そのものを問題にし、高揚を取り戻そうという声がないのは寂しいことだ。  
ある時期から学生層の意識が変わったといわれる。戦後の民主教育が変質したことも原因の一つだろう。教師層が、過剰な労働者意識を口実としたものも含めて、教育について無気力になっていることも影響しているかもしれない。いたるところ無関心、無感動、無気力、無責任の四無主義がはびこっているといわれる。  
しかも運動に影響を与えるべき諸セクトは、内ゲバを繰り返している暴力的集団か、そうでなければ、狭い意味の「学生生活改善」だけに学生の要求を押し込めようとする集団しかない。これでは学生運動の再建は難しい。私自身は現状の下でも、学生運動は絶対に必要なものだと思っている。何か新しい芽が出て来ることを期待している。  
 
全学連1

 

「全学連」 全日本学生自治会総連合  
1948年に結成された日本の学生自治会の連合組織である。略称は全学連(ぜんがくれん)。分裂を繰り返してきた経緯により、現在5つの団体が「全学連」を名乗っており、それぞれが自らの正当性を主張している。  
全学連は1948年に145大学の学生自治会で結成され、当初は日本共産党の強い影響下にあったが、1955年の六全協以降は日本共産党への批判派が主流派となった。更に主流派各派間で全共闘も結成され、1960年代から1970年代にかけて安保闘争などで激しい学生運動を展開した。1970年代以降は新左翼各派の影響が高まったが、安保の成立や、党派間の内ゲバや連合赤軍事件などもあり運動は退潮となった。  
2012年現在、5つの「全学連」が存在しているとされているが、すでに実態のない団体も見られる。かつて最大勢力とされた日本共産党系の「民青系全学連」でも、活動実態のある加盟学生自治会はほとんどない。
現在は以下5団体が「全日本学生自治会総連合(全学連)」として並存し、それぞれが全日本学生自治会総連合としての正当性を主張している。5団体とも「全日本学生自治会総連合(全学連)」と名乗る。また民青系全学連を除き、「全学連(○○委員長)」と委員長名で他の全学連と区別する表記を行っている。本項では各全学連について、上部または関連組織に「系」を付けて便宜的に区別する。  
民青系(日本共産党系)  
中核派系  
革マル派系  
革労協現代社派系  
革労協赤砦社派系  
民青系(日本共産党系)  
日本共産党系、日本民主青年同盟(民青)系とされる全学連で、本部は2014年時点では東京都国分寺市にある。かつては国立市にあった。2012年5月現在で実際に全学連の活動に参加している学生自治会のある大学は8であったが、その後も2012年6月に東京大学教養学部学生自治会が脱退するなど参加学生自治会の減少が続いている。以前の公式サイトは消失しており、ブログも2014年8月の更新(同年2月に実施された第65回定期全国大会の報告)を最後に、現在(2015年4月)まで更新されていない。  
中核派系  
中核派系とされる全学連である。拠点校は中核派と同様、法政大学とされ、他に東北大学、富山大学、岡山大学、広島大学、沖縄大学で「学生自治会」を僭称している。京都大学では2012年以降、それまで存在が形骸化していた「同学会」を同学会規約を参考にした選挙によって再興したと称し、全学連・中核派・同学会の名義を使い分けている。なお中核派系全学連に加盟している団体で、大学に公認されている自治会は現存していない。  
革マル派系  
革マル派系とされる全学連である。同全学連の活動家は、「全学連フラクション(ZF)」に組織され、さらに5年以上ZFで活動したものはマル学同革マル派への加盟が認められることが多い。5年というのはあくまで目安であり、実際にはそれより早くマル学同員となるものも、5年以上活動してもマル学同員になれないものもいる。従来の拠点校とされた早稲田大学(商学部、社会科学部)では、1990年代から2000年代前半に革マル派と同派の影響力を排除しようとする当局との間で激しい対立が続いた。その中で、同全学連の加盟自治会であった商学部自治会が1995年7月に、社会科学部自治会は2005年3月に公認を取り消された。また、大阪経済大学の自治会は、2005年10月に自治会活動家が教職員に対して暴力事件を起こしたとして、同年11月10日に非公認化された。加盟自治会の有無にかかわらず、サークルを通した活動も展開しており、北海道大学・北海道教育大学旭川校・帯広畜産大学・金沢大学・早稲田大学・國學院大學・津田塾大学・和光大学・横浜国立大学・名古屋大学・愛知大学・奈良女子大学・大阪経済大学・神戸大学・鹿児島大学・琉球大学・沖縄国際大学などで活動が確認されている。  
革労協現代社派系  
革労協現代社派系とされる全学連である。2011年現在は同派が拠点とする大学は1校も無いが、明治大学では「明治大学学生会中央執行委員会・学苑会中央執行委員会」名で学外活動を中心に新歓闘争などを行っている。スローガンは「反革命戦争とファシズムの危機を蜂起(革命戦争)に転化し、コミューン(ソビエト)権力を樹立せよ!」。「全学連は、ロシア革命と第二次世界大戦を経た現代世界において帝国主義のおこなう戦争を〈反革命戦争〉と把握し、プロレタリア国際主義のもとに、全世界労働者人民の共通の利害を突き出した反戦闘争を展開してきました。」とし、日本革命と武装革命を提唱し、「右翼・ファシスト」との闘争、「反革命革マル」の「せん滅」、「木元グループ」(赤砦社派)の「解体・根絶」などを主張している。  
革労協赤砦社派系  
革労協赤砦社派系とされる全学連である。現在、同派が自治会を有する大学は無いものの、千葉大学、宇都宮大学、東北大学、福井大学、徳島大学、九州大学のサークルに対する活動が確認されている。
歴史
創立から初期の活動  
全日本学生自治会総連合は、1948年(昭和23年)9月に日本全国の国立、公立、私立の145大学によって結成された。初代委員長は武井昭夫である。初期の全日本学生自治会総連合は、日本共産党の強い影響の下で、反レッドパージ闘争、朝鮮戦争反対闘争、全面講和運動などを行った。この時期に全学連で活動した者には、後の日本共産党議長不破哲三と副委員長上田耕一郎兄弟、後の日本社会党副委員長の高沢寅男、第3回全学連中央委員会で委員長に選出され、京大天皇事件を引き起こした米田豊昭や映画監督の大島渚、田中角栄秘書となる早坂茂三などがいた。
日本共産党への批判と独自の活動  
日本共産党は、1951年10月に開いた第5回全国協議会(5全協)で武装闘争方針を決定。山村工作隊・中核自衛隊などによる火炎瓶闘争などを展開したが、「武装闘争路線」は当時の国民の評価が得られず、党勢力は著しく衰退した。これに対し日本共産党は、1955年7月の第6回全国協議会(6全協)で、「現在の日本は革命情勢にない」と総括、武装闘争方針を極左冒険主義だったと自己批判し、微笑戦術をとることに転換、合法路線への復帰を実現した。全学連ではこの方向に批判的なグループが、元国際派学生を中心としたブント結成に流れていく。その後全日本学生自治会総連合の指導部と、学生にも日常の要求に密着した日常闘争を求めるようになった日本共産党の指導部との間に溝ができ、全日本学生自治会総連合の主流派は独自の活動を行うようになっていった。1956年(昭和31年)のスターリン批判やハンガリー動乱の影響で、全学連の主流派は、反日本共産党の立場を鮮明にし始めた。1958年(昭和33年)には、日本共産党本部での幹部会委員紺野与次郎への殴打事件を契機として日本共産党を除名された者を中心に、学生組織・反戦学生同盟から発展した社会主義学生同盟(社学同)を基盤として共産主義者同盟(ブント)が結成され、学生運動を指導することとなった。全学連はこのブント指導の主流派と共産党指導の反主流派(全自連にのちになっていく)とに分裂したままで60年安保を迎えることになる。
ブント全学連  
1960年(昭和35年)の安保闘争で学生運動は頂点に達したが、この闘争の総括をめぐりブントは解体することとなった。
反主流派の動向 民青系全学連の再建  
一方、60年安保闘争時の全学連反主流派は、全学連は安保闘争の過程で崩壊したと認識した。そして、全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成し、構造改革派との確執、「安保反対、平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(「平民学連」)結成などの再建運動を経て、川上徹を委員長として全学連を「再建」した。この後、全国の学生自治会の過半はこの民青系全学連に組織されることとなる。川上は後、民青同盟の学生対策担当として1967〜70年(昭和42〜45年)の全学連を指導したが、「新日和見主義」分派を形成したことで、1972年に党内処分を受けた(新日和見主義事件)。
全共闘の時期  
1966年(昭和41年)12月17日にブント、中核派、社青同解放派の三派が全学連再建大会を明治大学で開いた。1967年(昭和42年)の羽田闘争ではこの三派が主導する三派全学連が登場した。(初代委員長:斎藤克彦明大ブント社会主義学生同盟)その後、1968年に起こった明大紛争でブントが大学側に譲歩したことから全学連でのブント社学同の勢力が失墜し、1969年までに三派全学連は解体し、中核派系全学連と社会党社青同解放派、ブント系の反帝全学連が並立する。60年敗北の総括をめぐる争いの中でブント各派をそして中核派を全学連執行部からたたき出した日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(以下、革マル派「全学連」)は三派「全学連」設立の際にも参加することなく、東大闘争のさなか早稲田祭実行委員会指導部にいた解放派をこの実行委員会の指導権を巡って武力で早大から駆逐し、さらには東大駒場でも解放派を追撃した。1968年(昭和43年)におこり1969年(昭和44年)1月中旬に収束した東大闘争では、秋以降から民青系全学連が学内団体(「東大闘争勝利全学連行動委員会」など)および学外からの支援勢力として登場し、新左翼各派の結集する東大全共闘と対立した。特に1968年11月ごろから翌年1月上旬にかけては、全学バリケード封鎖を目指す後者と、これを阻止し入試中止を防ごうとした前者との間で激しい物理的衝突が繰り広げられた。
内ゲバの時代へ  
1972年(昭和47年)の沖縄返還反対闘争を中間点にはさみ、法大での海老原事件を最初として革マル派と中核派の武力衝突が激化した(立花隆著の『中核vs革マル』を参照)。両者の対立は21世紀に入るまで続いたが、その後「手打ち」がなされたと噂され、表面化するような対立はなくなっている。一方、赤軍派の登場と大菩薩峠事件、よど号ハイジャック、連合赤軍による内部リンチ殺人とあさま山荘事件などが矢継ぎ早に起き、学生運動への市民の忌避感は増大して行った。早大での川口大三郎リンチ事件をめぐって革マル派に対する一般学生による糾弾闘争もあったが、学生たちが党派の内ゲバという殺人をやめさせる力は持ち得なかった。こうして、学生運動そのものも下火となり、系統を問わず全日本学生自治会総連合も衰退していった。
解放派系全学連の分裂  
1990年代に入る頃には、全日本学生自治会総連合を名乗る団体は4団体存在していた。1990年代終わり頃に上部団体と共に解放派系全学連が革労協現代社派系と革労協赤砦社派系の2つに分裂した。これ以後、全日本学生自治会総連合を名乗る団体が5団体存在することとなった。
2000年代以降の民青系全学連  
上記の通り各派の全学連が衰退して大学に公認されている学生自治会の参加が0となって行く中でも、民青系全学連は、加盟学生自治会の数を2012年時点で公称170としていた(ただし、活動が確認できないとして代議員選出権等、全学連での権利が停止されている学生自治会はあった)。しかし、2012年5月時点で、実際に全学連の活動に参加している学生自治会のある大学は8にとどまることが報じられ、その後も脱退する学生自治会が相次ぐなど衰退が露わとなった。
活動内容  
全国大会では毎回著名人による基調講演が行われており、内閣府参与の湯浅誠(2008年大会)などが講師となっている。学生から集めたアンケートなどをもとに省庁等に対する要請行動を行っており、2006年の活動では国立大学の学費値上げをストップさせるなどの成果を上げたと自認していた。機関紙は「そがく(祖国と学問のために)」(月刊)。一度廃刊となったが、2012年にはコピー機で印刷している。印刷部数はおよそ1000部、定期購読部数は150部以下となっている。
加盟自治会と分担金の減少  
加盟自治会は、加盟分担金を全学連に払うことになっているが、履行しない自治会が多い。2006年には、加盟分担金合計の過半を立命館大学の加盟自治会による拠出がしめた。立命館大学より会費の代理徴収を続ける条件として全学連・京都府学連への加盟分担金を支払わない事を求められ、自治会側も了承したため、その後は立命館大学の加盟学生自治会も加盟分担金を払わなくなった。2011年ごろの東京大学教養学部学生自治会(教養学部前期課程の学生より構成され、教養学部後期課程の学生は含まれない)の加盟分担金は、全学連加盟分担金合計の約4割を占めることとなった。2012年6月、東京大学教養学部学生自治会が脱退を決議し、民青系全学連にとどめが刺されたとみる向きもある。また、立命館大学法学部自治会は、2013年6月19日に開会された2013年度法学部定期学生大会において、「全日本学生自治会総連合および京都府学生自治連合脱退に関する特別決議案」を賛成多数によって決議し、脱退した。
地方組織  
大阪府組織として6大学8自治会が加盟する大阪府学生自治会連合(府学連)があったが、現在は活動を停止している。2005年に旧大阪府立大学・大阪女子大学・大阪府立看護大学の府立系3大学が統廃合し、自治会組織が再編されるのを契機として、同年2月、第71期府学連大会にて大阪府立大学学生自治会連合が府学連から脱退した。それに対応し、府学連も同大会で役員不足による活動休止を決定し、新たに代替組織として大阪学生要求実現連絡会(大阪連絡会)を設置した。大阪府立大学学生自治会連合は2005年度6月に「大阪府立大学中百舌鳥キャンパス学生自治会」に再編された後、全学連再加盟の検討を続けたが、2008年度後期に加盟しないことを決定した。2012年ごろまで、東京都学生自治会連合(都学連)、京都府学生自治会連合、愛知県学生自治会連合等があり、都学連には東京学芸大学・東京農工大学が、京都府学連には立命館大学や京都市立看護短期大学など、愛知県学連は日本福祉大学や名古屋大学などの自治会が加盟していた。2014年現在、前記3地方組織のHPは閉鎖されているか、更新が途絶えている。
2000年代以降の中核派系全学連  
2006年3月14日、法政大学「当局」の立て看板撤去に抗議していた中核派活動家など29人(内法大生など大学関係者は5人)が建造物侵入と威力業務妨害の容疑で逮捕された。逮捕時には約200人の公安警察が動員された。中核派はこの事件を「2006・3・14法政大学弾圧事件」と称し強く反発した。25日には29人全員が釈放され、そのうち法大生であった5人には停学や退学処分が下された。その後、処分生5人や法政大学無関係者も含む逮捕者を中心に「3・14法大弾圧を許さない法大生の会」という団体をつくり、学内外で抗議活動を現在も行っている。大学側は警備員を常駐させるなどして対処している。06、07年中に停学学生に対して無期限停学や退学など追加処分が下され、(大学無関係者含めて)逮捕者は40名を超えている。  
2007年4月27日、退学処分に対する中核派などのデモ中、中核派全学連活動家の学生ら2名が大学職員への暴行容疑で逮捕された。  
2009年4月24日、東京地裁による「情宣活動禁止等仮処分命令」、大学側による処分発令などに対する中核派らによる抗議集会とデモにおいて、中核派全学連活動家の学生ら6人が公務執行妨害などの容疑で逮捕(集会中に5人、デモ後に警察署前で行われた抗議行動で1人)された。  
2012年の「定期全国大会(議案)」では法政大学、東北大学、福島大学、京都大学での「活動」が記載された。  
2014年には、沖縄大学で学生自治会が「再建」した。 
 
全学連2

 

全国の学生諸君。  
全学連は、すべての学生が安倍政府打倒・日帝国家権力解体の闘いに起ちあがることを強く呼びかける。  
安倍政府は戦争突撃を強めている。今通常国会において、有事関連法制の一括制定がもくろまれている。これは、戦争をするための法律だ。また、沖縄・辺野古では、新たな基地建設を国家暴力をふるいながら強行している。すでに、「反テロ」をかかげた有志連合として中東において戦争をおこなっている。  
これらとの対決が決定的に重要だ。排外主義にのみこまれ戦争突撃を担うのか、傍観するのか、あるいは断固として戦争粉砕の闘いにたちあがるのか、厳然と一人ひとりに態度が問われている。闘うときは今をおいてほかにない。今この瞬間にこそ、戦争反対の声を上げよう。実力闘争・武装闘争で革命的反戦闘争を闘おう。  
全世界で労働者人民・学生が、この帝国主義の戦争突撃を、資本主義社会を、支配を打ち砕くために闘いに起ちあがっている。これに合流して闘おう。<反革命戦争とファシズムの危機を、蜂起―革命戦争に転化し、プロレタリアソビエト(コミューン)権力を樹立せよ>の決戦戦略を鮮明に、共産主義世界革命へと進撃しよう。
全世界労働者人民と連帯し、資本主義(資本制生産様式)を革命しよう  
資本主義世界経済は、08年を転換点として世界恐慌に入った。現在もこれは続いている。アメリカ帝国主義においては、財政赤字がふくれあがり財政破綻とドル暴落に向かう状態にある。世界中にばらまかれた投機資金のひきあげは、中国や「新興国」を中心にバブルの崩壊を促進している。EU諸国において、金融危機の連鎖はとまらず、欧州中央銀行はマイナス金利を導入するという非常事態になっている。そして、全世界での生産は、縮小したままである。日帝経済の危機も深い。GDPの約2倍1000兆円にものぼる借金で財政危機は拡大し、国債投げ売りが具体化してきている。アベノミクスの成果として宣伝される日経平均株価の上昇は、際限のない日銀による金融緩和と公的年金を運用するGRIF資金を大量投入した官製相場であり、「景気回復」でも何でもない。  
恐慌の本質は、資本制生産それ自身の根本的矛盾の爆発である。利潤率が低下し、あらたに資本を投下しても利潤を上げることができないという状態が、生産の縮小を引き起こす。  
ブルジョアジー・支配者階級はこの危機の矛盾を労働者階級に集中させ、支配・隷属を強化し、搾取・収奪・大合理化、飢餓―貧困、虐殺を極限化している。各国ともに失業率は高止まりしており、数字上の「改善」も「非正規」労働の拡大によってそう見えるだけとなっている。特に、若い世代の失業が多く、EUでは軒並み20%を超えている。「格差の拡大」といわれるものは、文字通り労働者人民を生きていけない状態に叩き込むことをもって、資本家が富を得ているということだ。その中でさらに労働者に対する支配を強め隷属を強制する。この「賃労働と資本」の関係こそを打ち壊さなければならない。  
資本主義そのものを撃つ闘いに起ちあがろう。
帝国主義の「反テロ」戦争突撃をゆるすな  
アメリカ帝国主義(米帝)をはじめとした有志連合が「イスラム国(IS)」を標的に「反テロ」をかかげた戦争に突撃し、労働者人民を虐殺している。断じて許してはならない。  
「イスラム国」は、直接には米帝による支援を条件として登場した反共的宗教勢力である。パレスチナ解放闘争を否定し、少数民族への迫害や、女性の奴隷化─人身売買などをおこなう組織であり、これ自身絶対にゆるせないものである。プロレタリア革命への敵対者であり、国際連帯を共にする対象では全くない。  
有志連合がこの勢力を攻撃するのは、パレスチナを震源とした中東・アラブの労働者人民の闘い・反逆が燃え広がることを封殺するためであり、同時に自国の労働者人民が階級支配に反逆して支配階級に武装の刃を向けることに恐怖してのことである。労働者人民の反逆を「テロ」として押さえ込もうとしているのだ。資本家階級は、労働者人民に常に暴力的支配・抑圧を強いている。しかし、「暴力の連鎖をとめろ」と支配への反撃がテロとされ、労働者階級の武装は弾圧される。 全世界労働者人民の闘いと連帯し、「反テロ」戦争を打ち砕こう。  
イスラエル軍は、昨年7・8月に全面的空爆と地上戦をもってガザに侵攻し、2000人以上のパレスチナ人民を虐殺した。徹底して弾劾する。  
ウクライナにおいても内戦が継続している。ロシア・プーチンはこの過程で核兵器の使用を準備していたことが明らかになっている。  
朝鮮反革命戦争突撃が激化している。米韓日による対北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)軍事包囲が強まり、韓国軍と北朝鮮軍の銃撃戦がくり返されている。日帝と中国スターリン主義との軍事衝突の危機が高まっている。  
反革命戦争が拡大しているのだ。革命的反戦闘争の爆発を今こそかちとろう。
安倍政府打倒を打倒しよう  
安倍連合政府は、昨年7月1日、集団的自衛権行使に向けた解釈改憲の閣議決定を強行した。大きな戦争突撃への転換点である。今通常国会において地理的概念を取っ払って、世界の軍隊として自衛隊を再編する「恒久出兵法」の新設や「周辺事態法」の改訂など「有事法」の一括改定をしようとしている。「後方支援」という制約もなくして米軍などと共同で直接に武力行使=戦闘行動をしようというのだ。また、来年参院選後には戒厳令導入や9条廃棄などの改憲をねらっており、衆院の憲法調査会は動き出している。自衛隊の参戦・軍事行動(他国労働者人民の虐殺)はすでに進んでいる。法整備は、これを法的に追認するとともに、さらに一歩進めるための相乗的なものである。自衛隊の海外出兵を粉砕し、基地・演習の強化を粉砕しよう。帝国主義軍隊を解体しよう。戦争司令部である「国家安全保障会議(NSC)」を解体しよう。戦争と一体の「秘密保護法」を粉砕しよう。日米防衛協力のための指針(ガイドライン)改定=双務的戦争協定を粉砕しよう。日米安保を粉砕しよう。  
安倍は、8月に「戦後70年」の「安倍談話」を出そうとしている。「未来志向」の名の下に侵略と植民地支配の歴史を賛美して居直るものだ。これは、現下の戦争突撃と一体だ。断固として粉砕しよう。  
また、今通常国会では、労働法制の大改悪がねらわれている。「アベノミクス」の核心は、首切り・賃下げ・「非正規」化の進行だ。これが労働現場で進んでいる。さらに国会で、派遣を永続的にする派遣法改悪、「残業代ゼロ」法案や、労働時間規制を取り払う裁量労働制の拡大、解雇の自由化(金銭解決の強要)に向けた労働法制改悪が強行されようとしている。労学連帯闘争を闘い、これを許さず闘おう。  
また、盗聴・司法取引などを合法化する捜査手法をめぐる治安立法が制定されようとしている。「デモはテロ」と叫んで強行した「秘密保護法」につづき「共謀罪」の制定も狙われている。  
反革命通常国会を粉砕しよう。  
また、安倍政府は、辺野古において新基地建設(ボーリング調査)を暴力的に強行している。原発を「ベースロード電源」と改めて閣議で確認し、九州電力川内原発、関西電力高浜原発を皮切りに次々と再稼動をしようとしている。さらに、環太平洋経済連携協定(TPP)を推進している。消費税の10%への再増税を必ずすると言い放っている。  
ファシズム権力樹立を阻止・粉砕しよう。安倍連合政府を打倒し、天皇制を一環とした日帝国家権力を解体しよう。
三里塚決戦勝利! 2015階級攻防に起とう  
三里塚闘争(=成田空港建設粉砕闘争)は、重大な決戦局面を迎えた。  
政府・国土交通省・成田空港会社は、反対同盟・市東さんが3代100年にわたって耕作してきた農地を強奪しようとしている。これをめぐる裁判が東京高裁でおこなわれてる。結審を受け市東氏は、「はらわたが煮えくりかえるような悔しい思いですが、これをバネに現地で頑張ります」と怒りと決意を明らかにしている。これに応え、反対同盟と共に農地強奪を阻止する現地実力攻防に起とう。高裁を取り囲むデモと裁判闘争に結集し、農地取りあげの不当判決を粉砕しよう。  
三里塚闘争は、幾多の歴史的戦闘が示すように権力闘争の飛躍の水路だ。3警官せん滅―機動隊一個大隊粉砕の東峰十字路戦闘や大木よねさんの闘いをひきつぎ闘おう。労農水「障」学の共闘の地平で闘おう。空港会社の尖兵、脱落派の敵対を粉砕しよう。TPP―農業破壊・農民殺しと対決して闘おう。「第3滑走路」建設を粉砕し、空港廃港へ進撃しよう。革命軍の08年3.1迫撃弾戦闘につづき、実力闘争・武装闘争の爆発で、農地強奪阻止決戦に勝利しよう。  
沖縄労働者人民は、辺野古新基地建設に対し体を張って闘いぬいている。これに対して、警察や防衛局、海上保安庁は「国家暴力」を発動している。海上で羽交い締めにして捻挫させる、何度も水中に顔を沈めて窒息させる、殴る、蹴るなどの殺人的暴力だ。ゲート前の公妨では、不当逮捕もされている。徹底して弾劾する。暴行の下手人に報復しよう。東村・高江ヘリパッド、浦添新基地建設を阻止しよう。新たな同化・皇民化攻撃、沖縄統合支配、「集団自決」賛美=「沖縄戦」強制をゆるすな。米兵の性暴力の続発を徹底弾劾し、反撃・報復の闘いを叩きつけよう。与那国への自衛隊配備を粉砕しよう。4.28─5.15沖縄人民解放闘争を闘おう。  
あの3.11東日本大震災─原発爆発(メルトダウン)からわずか4年、わずか4年にして原発の再稼動がねらわれている。九州電力・川内原発、関西電力・高浜原発、四国電力・伊方原発の再稼動を阻止しよう。原発廃炉─核廃絶に向け闘おう。  
福島第一原発では、タンクからの高線量の汚染水が漏れ、海への流出が続いている。廃炉作業に当たる労働者と地域住民に被曝が強制されている。なんら「収束」はしておらず、危険な状態が続いているのだ。  
日帝の核武装を阻止・粉砕しよう。電気料金値上げ弾劾。あらたな被曝(爆)者差別・「障害者」差別をゆるさず、同時に差別の廃絶むけ闘い、福島の労働者人民と連帯して闘おう。再稼動阻止─原発廃炉に向け闘おう。反原発集会・デモを闘い、8.6広島、8.9長崎反戦闘争を闘おう。  
日米安保粉砕、自衛隊・米軍解体、日米軍事基地解体―出兵阻止を闘おう。沖縄―佐世保、築城、日本原、北富士、横須賀、横田、朝霞、練馬、習志野、相馬ヶ原、雀宮―全国の基地解体闘争を闘おう。PKO出兵阻止。「出兵恒久法」を粉砕しよう。6月安保粉砕・政府打倒中央闘争に結集しよう。  
不屈の部落解放戦士=石川氏の怒りをわがものに、狭山闘争の歴史的勝利をかちとろう。再収監攻撃と対峙する東京高裁前行動など渾身の決起に結びついて闘おう。差別裁判糾弾、階級裁判粉砕、国家権力糾弾―打倒を鮮明に第3次再審闘争を闘おう。戦時部落民差別抹殺攻撃を打ち砕く革命的部落解放運動の前進をかちとろう。ファシズム融和運動への転換と対決しよう。  
戦時「障害者」抹殺攻撃と対決し、「障害者」解放闘争の前進をかちとろう。被災地における「障害者」「病者」見殺し、差別虐殺糾弾。「病者」を隔離・収容―抹殺する「保安処分」攻撃を粉砕しよう。「病者」「障害者」「健全者」の「三者共闘」を共闘・共生の闘いとして強化しよう。入院患者差別虐殺を糾弾し、宇都宮病院糾弾闘争を闘おう。  
解雇撤回・非正規化粉砕、反日米帝・朴槿恵政権打倒をかかげ実力・武装で闘う南朝鮮労働者人民と連帯しよう。元「日本軍慰安婦」のハルモニたちの日帝糾弾の闘いに結びついて闘おう。入管体制を粉砕し、差別主義・排外主義と対決して闘おう。天皇訪韓を阻止しよう。「在特会」などファシストによる在日朝鮮人へのテロル・排外主義煽動に報復しよう。入管法・入管体制を粉砕しよう。  
女性差別の現実に学び、戦時女性差別政策の全面展開と対決し、革命的階級的女性解放闘争の前進をかちとろう。  
被差別大衆の自主的解放闘争と団結に、連帯・共闘のなかで学び、解放にむけ闘おう。  
労学連帯闘争を強化しよう。労働者に対する支配・隷属―団結破壊の攻撃をうち破り、国鉄―全国諸争議、福日労─日雇い・野宿労働者の闘いと連帯して闘おう。
ファシズムと対決し、ファシストをせん滅せよ  
排外主義・差別主義が吹き荒れている。ファシストどもは、日帝の侵略を賛美し、日本軍「慰安婦」の強制、沖縄戦での「集団自決」の軍命、南京大虐殺を否定し、これらを糾弾する闘いを抹殺しようとしている。在日朝鮮人民・中国人民へ襲撃、三里塚・沖縄・反原発の闘いに襲撃・敵対している。断じて許さない。報復戦にたち、攻勢をとろう。学園・街頭で先制的に撃滅しよう。  
ファシズムとの闘いにおいて、天皇(制)との対決は不可欠だ。天皇アキヒトは、「戦後70年」を期して、第2次世界大戦の激戦地パラオに訪問した。「委任統治領」=植民地支配の歴史のあるパラオにおいて日本との「友好」を厚顔にも語った。この歴史を居直り、国のため、天皇のために死んだ兵士を賞賛したのだ。これはまた、現在直下にあって労働者人民は「天皇のために死ね」という攻撃だ。教育現場では「日の丸」「君が代」が強制され、また「領土問題」などをとおした排外主義が煽動されている。閣僚の相次ぐ靖国参拝をゆるすな。天皇制廃絶に向けて闘おう。「天皇Xデー」(死亡と戒厳態勢)攻撃を粉砕しよう。  
右翼ファシスト団体「日本会議」のメンバーが安倍内閣の過半を占めている。「日本維新の党」、「田母神グループ」などファシストが、国会や地方議会をも通して統治機構の再編、ファシズム権力樹立へと突き進んでいる。ファシズム粉砕、ファシスト撃滅の闘いをプロレタリア革命の帰趨を決するものとして闘いぬこう。ファシズムに対してブルジョア民主主義を対置することは、労働者人民を血の海に沈めることである。ナショナリズム・民族主義と対決して闘おう。
激化する弾圧をうち砕け、国家権力と非和解で闘いぬこう  
日帝の戦争とファシズムへの突撃の中で、治安弾圧が吹き荒れている。国家に刃向かう、支配に抗して闘う労働者人民・学生への治安弾圧が激化している。  
沖縄・辺野古における新基地反対闘争では、沖縄労働者人民が不当逮捕され、海上保安庁の日常的な暴行がおこなわれている。  
「反テロ」「緊急事態」の呼号のもとで、デモや集会の禁止までもがねらわれている。一昨年「秘密保護法」反対の闘いの中で、自民党・石破が「デモもテロ」といって封じ込めようとしたのが特徴的にこれを表している。戦前の「弁士注意」─体制批判をさせない攻撃の再来である。  
労働者人民の生活を国家管理する「マイナンバー」(=国民層背番号制)の施行、監視カメラの増大など、20年東京オリンピック・パラリンピックに向けた厳戒態勢が強化されている。  
国家権力は打倒する相手であり、国家と支配は廃絶すべきものである。徹底非妥協の闘いこそが、弾圧をうち破る。監獄を解体しよう。「監獄の中の監獄」=「保護房」を解体しよう。入管体制、保安処分を粉砕しよう。  
全学連の同志にもかけられた組対法攻撃の継続である、13年1.16福岡「脅迫」弾圧において、福岡高裁は不当にも実刑判決をうち下ろした。徹底して弾劾する。獄殺攻撃を粉砕し、「保護房」・長期懲罰弾圧と闘う獄中同志と連帯して防衛・奪還を勝ちとろう。拷問─強制給食弾劾。CIA・米軍による拷問をゆるすな。完黙・非転向、攻勢的獄中闘争を闘おう。  
死刑執行弾劾、国家による人民虐殺をゆるすな。破防法攻撃を粉砕しよう。戦前階級闘争の弾圧とテロに屈し、天皇制ファシズムに飲み込まれていった痛苦な歴史を再びくり返すことはできない。公然─非公然の闘いをつらぬき、「有事」・震災・恐慌下の治安弾圧を粉砕しよう。
反革命木元グループ解体・根絶、反革命革マル解体・絶滅  
戦争突撃と90年天皇決戦に対する反動・破防法弾圧に屈したのが、解放派から脱落した親ファシスト集団=木元グループである。木元グループは、ニセ「全学連」委員長に権力―大学当局への売り渡し分子を据え、革命派への白色テロを核心としながら「障害者」解放戦線・三里塚闘争・反弾圧戦線をはじめ戦闘的共同戦線の撹乱・破壊を全面化している。一昨年の狭山闘争では、集会場に潜入した明々白々の公安刑事を擁護し防衛した。労働者階級の敵として明大生協で200名もの首切りをおこなった奴らだ。  
差別主義を満開させ、転向反革命として急速に純化している。木元グループ解体・根絶戦は、戦争突撃下の革命と反革命の激突の先端である。われわれは、攻勢局面をさらにおしひろげ防衛戦に勝利し、必ずや木元グループを解体する。木元グループによって虐殺された五同志―荻野(長田)・森田(安部)・柿沼・仲野・矢野の闘いをひきつぎ、報復―解体・根絶戦に総決起する。プロレタリア共産主義革命へと邁進する。  
教祖・黒田が死亡し組織崩壊の危機のなかで、反革命革マルは、国粋主義・反共主義の地金をむき出しにしている。対中国排外主義を大煽動し、安倍の対中国戦争突撃を後押ししている。この革マルが「反ファシズム統一戦線」として労働者人民の闘いに接近し、闘いを解体・破壊するのを許してはならない。反革命革マルをせん滅しよう。JR総連革マルをせん滅しよう。同志中原・同志石井虐殺報復戦を完遂し、プロレタリア共産主義革命の綱領的敵対者=反革命革マルを解体・絶滅しよう。
革命的学生運動の隊列へ結集せよ、共に闘おう  
全学連は、〈恐慌―戦争・ファシズム〉情勢下で、戦後日本学生運動の政治的突撃力を革命的に継承・発展させ、革命的反戦闘争を最先頭で闘いぬく。プロレタリア統一戦線の一翼としての全学連運動を推進する。ともに闘おう。  
大学においては、「雇われうる能力を磨け」として資本に役立つ学生であることが求められる。大学における研究も軍事研究や企業の下請けなど産官(軍)学協同が常態化している。大学全入時代といわれ進学率は上昇している。しかし大学教育費の高騰が著しく、低所得層の労働者人民の子供が大学に進学するのは困難になっている。経済的理由での中退者も年々増加している。「教育格差」が広がっている。「奨学金」制度はあるが、ほとんどが貸与であり「教育ローン」である。大学卒業時から数百万の借金を背負い十数年にわたって返済することになっている。就活に追われたうえで、「非正規」職に就くことになる学生も多数いる。その中で、常に競争・選別が学生に強要されているのだ。経済同友会の専務理事・前原は「防衛省でインターンシップしたらどうか」と経済的徴兵制につながる発言をしている。  
ファシストで構成される教育再生実行会議は、再三の「提言」をおこなっている。生徒の内心を採点し国を愛する心を強要するものとしての道徳の教科化がいわれている。さらに、教育委員会から教育長への権限の大幅委譲で上からの学生管理がねらわれている。教員免許制度の改革など国家の意向に反する教師を偏向教育として排除しようともしている。  
すでに、「領土問題」をめぐって教科書会社各社は政府見解を載せるように強要されている。「日本軍慰安婦」に関する記述も消し去られている。安倍は、小中高の卒入学式での「日の丸」「君が代」強制に続き、国立大学での強制をおこなおうとしている。このような、国家主義教育、愛国主義教育を粉砕していこう。  
資本主義社会における〈教育〉とは何か。それは、〈労働力商品の生産・再生産過程〉にほかならない。そこでは〈資本・国家に隷属し、賃金奴隷としての能力を獲得すること〉が求められているのである。その観点で選別・差別教育、競争と分断を極限化し、支配階級を再生産しつつ、資本と国家の忠実な奴隷をつくりだすのが、資本主義社会における〈教育〉の意味である。学生の矛盾からの根本的解放の道は、労働者階級の解放のなかにある。労働者階級の資本家階級のもとへの経済的隷属からの解放が、いっさいの支配・抑圧(差別)の廃絶の根拠であり、労働者階級の資本主義社会の根本的転覆―革命に向けた闘いと団結こそが勝利の展望である。生産手段を私有する階級の持たざる階級への支配こそ廃絶すべきものであり、われわれの目的は資本制生産様式・私有財産の廃止である。革命的学生運動は、革命的プロレタリアートの立場にたち、プロレタリアの階級性を基底に据えきり労働者人民と共に闘おう。  
全学連は、学生戦線での部落差別発言と隠蔽、対敵組織防衛原則からの逸脱をもった同志への打撃と排撃、「障害者」から介護を奪った介護闘争破壊をおこなった。これを謝罪し自己批判を貫徹していく。差別や排撃を許さない闘いと団結をつくるべく全力を尽くす。  
「教育改革」「大学改革」―産学協同路線を粉砕しよう。道徳の教科化、「日の丸」「君が代」攻撃、教科書攻撃など愛国主義教育を粉砕しよう。「天皇の大学」化・学園の兵営化攻撃を粉砕しよう。国家権力―大学当局による革命的学生運動非合法化攻撃と対決し、明治大学・九州大学拠点攻防に勝利しよう。〈反戦・反ファッショ・反産協〉の革命的学生運動路線を鮮明に、全国学園に真紅の全学連旗をうちたてよう。  
反逆を開始しよう。武装し闘う全学連とともに、いざ2015年の階級攻防へ。  
 

 

コミューンとは何か  
1871年3月、普仏戦争下のフランスにおいて、パリの武装した労働者大衆はブルジョアジー・王政派を粉砕し、パリ・コミューンを樹立しました。それは史上初めて誕生した労働者階級の権力であり、「生産者の自由で平等な連合」の萌芽でした。当時第1インターナショナルの指導的立場にあったマルクスは、著書「フランスの内乱」において、これを「労働者階級の経済的解放のための、ついに発見された政治形態」と評価しています。  
フランスの支配階級はドイツ(当時のプロシア)と一体となり、労働者大衆を大量に虐殺してパリ・コミューンを血の海に沈めました。プロレタリア革命を前にしたとき、諸国の政府・支配階級は交戦相手とさえ連合を結び、労働者の闘いに襲いかかるという血文字で書かれた教訓と共に、パリ・コミューンは国際階級闘争の歴史に刻み込まれています。  
ロシアにおいて1905年革命の中から生み出され、それが鎮圧されたのち、1917年革命の中で労農兵評議会としてよみがえったソビエトも、パリ・コミューンを引き継いだものとしてありました。革命後10年あまりにしてロシア共産党を制圧したスターリン主義は、ソビエトを否定・破壊―変質させ、社会革命への道を閉ざし、反労働者的な官僚支配をうち立てたあげく、1991年ソ連崩壊をもたらしました。この敗北を乗りこえて闘うことが、21世紀を生きるわれわれの課題です。  
コミューンやソビエト、またドイツ語で「評議会」を意味するレーテは、階級闘争においてはすべてが同義です。コミューンとは労働者の武装―蜂起の機関であり、生産者自身による政治支配と生産管理の機関に他なりません。ブルジョア国家権力を打倒し、革命を実現していくテコとなる、過渡期の政治形態がコミューンです。社会革命はコミューンのもとで遂行され、共産主義社会を実現してゆく道はそこからのみ切り開かれます。全ての学生はパリ・コミューンの歴史に学び、武装して闘いぬこう。
ファシズムとは何か  
資本主義が不可避的に繰り返す恐慌や、震災などの自然災害、何よりも労働者人民の闘いによって、階級支配は不断の危機にさらされています。この危機が深まることに対し、帝国主義ブルジョアジーは議会制ブルジョア独裁の可能な限りの延命をはかりつつ、議会の形骸化と官僚的軍事的統治機構(とりわけ軍隊・警察)による直接的支配の強化をもって、自らの統合力の後退を乗り切ろうとします。それを通して、彼らが意識しているか否かにかかわらず、準備されてゆくのがファシズムです。  
ファシズムとは、19世紀における帝国主義の成立と、帝国主義戦争の全面化、そして1917年ロシア革命による公然たる世界革命の時代の開始を条件に、〈資本家階級が労働者階級・人民を統治する能力をすでに失ったが、労働者階級がいまだそれを獲得していない時期において、「中間層」を政治的機軸としながら、全有産階級が資本制社会をプロレタリア・共産主義革命から防衛するために登場する、究極的で唯一可能な国家権力の形態〉です。資本制生産様式のもとに成立するブルジョア社会は、戦争とファシズムなしには延命できません。ファシズムの成立は、革命勢力の根絶と労働者人民の虐殺を意味します。  
ファシズムは、国家内部における支配階級・被支配階級の対立を「縫い合わせる」ような外観をとりつつ、有産階級の利害でしかない「社会・国家の救済」を、階級をこえた「国民全体」「公共」の利害であるかのように突き出して登場します。その本質は、資本制社会=私有財産秩序を国家(権力)の極限的強化をもって防衛することに他なりません。  
元・自衛隊航空幕僚長である田母神俊夫や、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)などをはじめとした民間ファシストが、「愛国心」を呼号しながら排外主義に突撃しています。このファシスト達が最大の拠り所とする天皇(制)が、震災下、治安弾圧と反革命国民統合の切り札としていっそう全面化し、労働者人民の闘いに真っ向から敵対しています。ファシズムに向けた〈武装突撃隊〉の位置をもち、労働者・被差別大衆への白色テロルに突撃する右翼・ファシストを、闘う学生は自ら手に武器を取って撃滅しよう。全世界労働者人民の闘いと連帯し、天皇(制)を打倒しよう。
日米安保とは何か  
日米安保とは、第2次世界大戦後、日朝連動するプロレタリア革命―アジアにおけるプロレタリア革命の防止と鎮圧、帝国主義支配の維持・延命を目的に、日米両支配階級とその政府によって結ばれた反革命階級同盟です。戦後、アメリカ帝国主義を中軸に取り結ばれてきた諸々の反革命階級同盟のうちで、ヨーロッパにおけるNATO(北大西洋条約機構)と並んで二大基軸をなしてきました。日米安保が今日に至るまでどのように変わってきたのかをまとめると、以下のようになります。  
(1)旧安保条約の締結(1951年)  
日米安保条約(旧安保条約)は、朝鮮戦争(1950〜53年)のさなかに締結されました。  
アジア―全世界をつらぬく戦後革命の怒濤に対し、「唯一の戦勝国」「世界の憲兵」=米帝は、圧倒的な軍事力と経済力を背景に、「巻き返し」政策と称する凶暴な反革命軍事干渉を世界戦略化していきました。アジアにおいて米帝は日本階級闘争の高揚、朝鮮革命の内戦的爆発、そして中国革命の勝利という情勢に危機感をつのらせ、ついに反革命戦争としての朝鮮戦争に突撃していったのです。日本全土はその出撃基地・兵站基地となりました。米帝の対日戦略は、朝鮮・中国―アジアを覆う革命の波に対して、日本を「反共の防波堤」として確保しうち固め、対共産主義「巻き返し」の出撃基地にしていくというものでした。日米安保条約はこの対日戦略を体制づけるものとして、1951年、サンフランシスコ講和条約と抱き合わせで締結されます。朝鮮人民の虐殺に手を貸し、「天皇メッセージ」によって沖縄を米帝の軍政下に叩き込むことと引き替えに、日本帝国主義は「独立」を果たしたのです。  
この旧日米安保条約は、米帝が引き続き日本に駐留し、基地を置き、それを「極東における国際の平和と安全」および「日本国の安全」のために使用することができるということを主要な内容としていました(第一条)。同時に在日米軍が引き受ける「日本の安全」への「寄与」の中には、日本国内の内乱鎮圧も含まれると明記されていました(同条)。つまるところ日帝が米帝に朝鮮―アジア革命の鎮圧のための出撃・兵站基地を提供し、その代わりに米帝に日本を革命から防衛してもらおうというものです。  
(2)日帝の復活と再軍備(1950年代)  
朝鮮戦争が勃発する中、占領軍の命で日本政府が創設した「警察予備隊」(1950)は、講和条約締結後の1952年には「保安隊」となります。1954年には「日米相互防衛援助協定」(MSA協定)が締結され、ここにおいて日帝の再軍備は、安保条約での「希望」から「義務」となりました。これをうけて同年、「自衛隊」と「防衛庁」が誕生します。  
日帝は、「朝鮮特需」をテコに帝国主義としての復活を果たし、さらに自衛隊創設以降の軍事力の増強を条件に、日米安保の双務化への衝動を強めます。他方で、米帝の世界戦略に沿った形での、戦後復興に見合った日帝への役割分担の要求という米帝の利害も重なって、急速に安保条約の改定が日程にのぼっていったのです。  
(3)現行安保条約の締結(1960年)  
1960年には、反対闘争の大爆発にも関わらず、安保改定が強行され、現行安保条約が締結されます。  
この新安保条約には、米帝が日本に基地を置き、「日本国の安全」と「極東における国際の平和及び安全の維持」のために使用できることが、引き続き記されました(第6条)。改定の重大なポイントは、「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」に対して、日米領国が「共通の危険に対処するよう行動する」という規定が盛り込まれたことでした(第5条)。「日本有事」に際しては、日本国防衛のために米軍と自衛隊が共同作戦をとるということが新たに規定されたのです。「日本有事」の中には在日米軍基地が攻撃された場合も含まれ、その際にも日本国が攻撃されたものと見なして共同作戦で応戦するというものでした。  
以降安保は、60年代中期から本格化した米帝のベトナム人民抑圧戦争、70年の安保条約の自動延長と72年沖縄「返還」=日帝のもとへの帝国主義的反革命的統合、78年「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)の策定などを大きな転換点に再編され、強化されてきました。  
(4)旧「ガイドライン」の策定(1978年)  
旧「ガイドライン」(「日米防衛協力のための指針」)は、「日本有事」の際の対処方針を打ち出し、「共同作戦計画」の研究を指示するとともに、条約にも規定のない「極東有事」での米軍に対する「便宜供与」の「研究」を初めて打ち出しました。これと併せて在日米軍に対する「思いやり」予算が合意され(78年)、提供が開始されます。以降80年代を通して、「日本有事」研究の本格化と日米共同演習の激化が進みました。  
(5)「安保再定義」への動き(1990年代)  
90年代、ソ連邦の崩壊と帝国主義の世界支配の危機の深まりの中で、自衛隊はこれまでの「専守防衛」を建前上からも完全に捨て去り、92年以降、PKOを口実に海外派兵を激化・常態化させてきました。米軍は在日・在沖基地を使用して展開することが許される行動範囲を、「極東」から「アジア・太平洋地域」へと拡大させてきました。  
こうした中で「安保の再定義」が叫ばれ、米帝の『東アジア戦略報告』(95年)、日帝の『新防衛計画の大綱』(95年)、そして『日米安保共同宣言』(96年)などを基調として、安保実質改定の攻撃が進められてきました。  
(6)新「ガイドライン」の策定(1997年)  
1997年に策定された新「ガイドライン」は、旧「ガイドライン」のもとではできなかった「日本有事」以外の場合の日米共同作戦体制を作りあげようというものです。安保条約の実質改定であり、戦争に向けた安保体制の再編・強化に他なりません。この攻撃の基軸をなす「ガイドライン」とは、英語では「war manual」と記述されている通り、実際に日米共同で反革命戦争を遂行するための「戦争の基本計画」となっています。旧「ガイドライン」で「研究を行う」とされたのは「極東有事」に関してでしたが、新「ガイドライン」においては「周辺事態」という地理的には全く限定されない概念が打ち出されているのが特徴です。安保条約で「日本有事」の場合にと規定されていた日米共同作戦を、「極東有事」どころか「アジア・太平洋地域」のいかなる場所で発生した「事態」においても、即座に発動する態勢づくりが狙われているのです。
安保粉砕は日本革命の戦略的課題  
日米安保を〈反革命階級同盟〉として捉えることの戦略的意義は重大です。  
反革命階級同盟とは、プロレタリア世界革命の本格的台頭の時代において、国際プロレタリアートの団結と闘いに対抗し、足下と世界の革命を共同で圧殺・鎮圧して、帝国主義の世界支配=搾取・隷属を維持・永遠化させるために結ばれた、帝国主義ブルジョア諸政府の(さらには従属的経済圏諸国の軍事ボナパルティズム政権との)結束のことを言います。  
安保を反革命階級同盟と規定することがなぜ重要な意味を持つのか。それは第一にこの規定が、安保との対決を条約の「解消」「破棄」の問題に切り縮めることや、あるいは安保に「国益」「平和」を対置する議会主義・国民主義・平和主義の立場を突破して、安保粉砕をプロレタリア革命の問題、権力問題として提起している点にあります。  安保が国際的なプロレタリアートの革命運動の圧殺・鎮圧のためのブルジョア政府の結束であることを直視する時、安保とその発動たる反革命戦争との闘いは、プロレタリアートとブルジョアジーとの倒すか倒されるかの闘い、内外をつらぬくプロレタリア革命の勝利か鎮圧かをかけた闘いとして真正面からすえきり、朝鮮―全世界労働者階級の決起に呼応する日本階級闘争の革命的飛躍をもって闘うことによってしか、勝利できないことは自ずと明らかです。安保粉砕闘争を、朝鮮革命=プロレタリア革命の完遂へと向かう朝鮮労働者階級人民の死闘決起と連帯・結合し、その鎮圧のための日帝の戦争突撃をプロレタリア国際主義の責務にかけて粉砕し、日帝ブルジョア政府を打倒し、日帝国家権力を解体し、ソビエト=プロレタリア独裁権力を樹立していく闘いとして、断固としてすえきり、本格的権力闘争への飛躍をかけて闘いぬいていくことが、わたしたちに求められているのです。  
安保を反革命階級同盟と規定する第2の意義は、安保との対決をプロレタリア革命の成否を決する戦略的課題としてすえつけている点にあります。  
日本革命は、ロシア革命、朝鮮革命、ベトナム革命がそうであったように、政府打倒・日帝国家権力解体の武装蜂起のみならず、米帝―国際反革命階級同盟軍との革命戦争を不可避としています。安保を反革命階級同盟として見抜き、階級闘争の前進にともなう国際反革命の密集は不可避であることを肝に銘じ、〈蜂起―革命戦争〉が避けられないことを明らかにして、闘いを組織し、準備していかねばなりません。これこそが日本革命に勝利していく唯一の道であり、展望に他ならないのです。安保の粉砕なくして、反革命階級同盟(軍)との戦略的対決なくして、革命は語ることすらできません。  
「安保=反革命階級同盟」と把握できないならば、当然のことながら敵の真の危機感と基本動向、延命の方策を何も把握できず、結局のところ日和見主義に転落するより他ありません。日本共産党は、安保を「対米従属のあかし」とし、新「ガイドライン」を「日本の自立的判断を差しはさむ余地がないもの」「アメリカの戦争への自動参戦装置」と「批判」して、安保強化に「日本の主権の強化」を対置しています。すべてを「アメリカの戦争」とし、日帝は「まきこまれる」だけとして、日帝自身の安保強化―朝鮮反革命戦争への衝動をすべて隠蔽し、擁護し、民族主義・反米愛国主義を満開させて日帝の「断固たる主権」の発動の尻押しに回っています。また「安保=反革命階級同盟」を否定し「日米帝国主義間戦争の切迫」を主張している部分は、それではなぜいま日米帝が安保を強化しているのかも、強化した安保で何をしようとしているのかも全く説明できず、結局のところ「安保自動崩壊」論に帰着せざるをえないのであり、安保との戦略対決からずり落ちて、敗北を準備せざるを得ません。  
安保を反革命階級同盟と規定する第3の意義は、現在準備されている戦争の性格と各国革命の性格、日帝足下労働者人民の国際連帯の内実と戦略的任務、そして世界革命の戦略を明示している点にあります。  
「周辺事態」「朝鮮半島有事」の呼号のもとに現在準備されている戦争の目的は、言うまでもなく日米帝による北朝鮮の併合・植民地化ではありません。ましてや韓国政府の軍事的打倒を通した南朝鮮の征服・併合・植民地化ではありえません。その目的は、北朝鮮スターリン主義国家を戦争的に打倒・解体し、韓国主導の「反共統一」「吸収統一」をおこない、それを通して南北朝鮮労働者階級人民の階級闘争・革命闘争を鎮圧・解体するということにあります。「安保=反革命階級同盟」の本格的発動、すなわち反革命戦争です。そして現在の朝鮮革命の性格はプロレタリア革命以外のなにものでもありません。同様に、アジアにおける従属的経済圏諸国の革命の性格もプロレタリア革命に他なりません。  
現在狙われている戦争を「安保=反革命階級同盟」の本格的発動、すなわち反革命戦争ととらえることができずに、「侵略戦争」と規定するならば、朝鮮革命、従属的経済圏諸国の革命の性格規定は、帝国主義による領土の征服、植民地支配を駆逐・解放する民族民主主義革命となってしまい、現実に熾烈に闘われている支配階級=民族ブルジョアジーとその政府を打倒していく革命、プロレタリア革命をまるで位置づけることができません。  
また、今日わたしたちに問われている国際連帯の内実は、帝国主義の抑圧と闘い民族ブルジョアジーとその政府の打倒をめざして非和解に闘う労働者階級人民との〈階級的国際連帯〉に他なりません。この戦争を「侵略戦争」と規定するならば、連帯すべき対象は必然的に従属的経済圏諸国の支配階級=民族ブルジョアジーを含んだ「民族」丸ごとの連帯となってしまい、階級的国際連帯を定立することができません。  
したがって、日帝足下労働者階級人民・学生の戦略的任務はもはや鮮明です。すなわち、反日米帝・金大中政権打倒・南北朝鮮の革命的統一をかけて闘う南朝鮮労働者人民との階級的連帯をもって、反革命階級同盟と対決し、反革命戦争の危機を蜂起―革命戦争に転化し、プロレタリア革命の実現へと進撃していくこと、日朝の連動するプロレタリア革命の勝利へと進撃していくことです。世界革命戦略は〈日朝連動するプロレタリア革命、アジア太平洋規模でのプロレタリア革命から、プロレタリア共産主義世界革命へ〉となるのです。  
 
60年代学生運動の変遷

 

学生運動って、何?  
もしかすると多くの人は、昭和の学生運動は日本の社会体制を変えるために行われた共産主義革命運動だったと思っているかもしれません。もしくは、日本とアメリカの安保による協力関係に歯止めをかけ、ベトナム戦争を止めさせるのが目的の改革運動だったと思っている場合もあるでしょう。  
しかし、実は学生たちの運動への参加はもともとそこまで大それた目的を持っていたわけではなかったと思います。(もちろん、革命を目的にしていた人もいたのは確かですが・・・)学生たちが変えたかったのは国家体制ではなく、もっと学生生活に密着した学校の体制でした。  
例えば、当時、急激に増えていた大学進学者により、多くの大学は教室が不足し、授業内容も授業方法もレベルが低下していました。そのくせ、経済の発展とともに授業料はどんどん高くなっていました。そして、そうした状況を民主的に進めることを良しとしない古い体質の学校のシステム。そうした問題点を指摘する学生たちの運動を阻止するために行われていた学内の管理強化。(1960年から1967年までの間に大学数は245から369に増え、学生数は67万人から116万人に増加しています)  
こうしたことに反発する学生たちが、学内で授業をボイコットしたり、教室内にバリケードを築いて学校の封鎖したりすることから、学生運動は始まり、多くの学生たちはそこから運動に参加し始めたといえます。あの東大における安田講堂立てこもり事件も、もとはと言えば、東大医学部におけるインターン制廃止を訴える学内における改革運動から始まっています。  
でも、彼らはそうした運動に参加しているうちに、より大きな目標を持つようになります。それはなぜだったのでしょうか?  
安保の時代  
僕は1960年の生まれです。当然、60年安保のことはまったく覚えていませんし、70年安保の時もまだ小学生でした。しかし、小学校のクラス担任が組合活動バリバリの新人教師だったために、授業では安保、学生運動、社会主義についてしっかりと学んでいました。小学校の5年生でも当時は、学生運動予備軍だったといえます。テレビで中継されていた安田講堂の立てこもり事件でも、僕は心の中で応援をしていました。親の手前、声に出しては応援できませんでしたが、当時はまだ大人たちの多くは学生たちに同情的でした。  
今思えば不思議なのですが、安田講堂陥落の翌年、僕は春休みに母親と東京に旅行に行き、その時、わざわざ東大まで行き、安田講堂を見てきたのです。なんで、わざわざ北海道から観光に行って、東大に行ったのか?先日、母親に確認してみました。すると、その旅行には僕と弟も含め、母親の友人の子供3人(みんな男)も一緒で、どの親も息子を将来東大に入れたかったようです。(結局、みんな東大には入れなかったのですが・・・)しかし、そんな親たちの思いとは別に、僕は英雄たちの夢の跡を見て密かに感無量でした。当時、そんな思いをもつ少年はけっして珍しくはなかったはずです。なぜなら、クリスチャンだった僕の祖母だって、あの頃国会議事堂までデモに出かけてきたほど、多くの人が安保反対の運動に参加していたのも事実なのです。その意味で、「60年安保」は日本における最初の「大衆運動」だったといえるのでしょう。(それまでの運動は、すべて政党もしくは組合の主導による運動でした)  
ここで取り上げている60年、70年安保の後には「浅間山荘事件」と「総括」があり、そこで日本における学生運動は終焉を迎えることになります。そちらについては、別のページで取り上げていますので、そちらも併せてご覧ください。  
僕が思うに、1960年代は日本にとって最も「熱く」て「混沌」とした時代でした。まるで「ジャム・セッション」のように社会全体がグツグツと煮えたぎっていた時代を振り返ってみようと思います。そんな時代にギリギリ参加できなかった僕には、懐かしくかつ新鮮な世界がそこにはありました。 
60年安保の時代

 

60年安保の時代は、日本史において初めて反政府運動が「大衆運動」へと変化した時代でもありました。それは、なぜ起きたのか?先ずは1959年まで歴史をさかのぼります。  
1958年6月12日  
総選挙が行われ第二次岸内閣誕生。安保条約の改定に向けた布石を打ち始めます。その反対組織のひとつ日教組に対しては、「勤務評定」を導入。さらに「警察官職務執行法」の改正では、警察が怪しいと疑いさえすれば、手続きなしで取り調べができるように変更しようとしていました。この変更は与党内でも反対意見が多く、廃案となりますが、岸内閣への批判はどんどん高まることになりました。  
1959年11月27日  
日本とアメリカの間に交わされていた日米安全保障条約の延長を阻止するため、霞が関にある国会議事堂のまわりには、24000人の人々が集まっていました。そのデモの主催者は安保改定阻止国民会議で、彼らのデモに対し警官隊5000人が集められていました。当初は、静かに整然と行われていたデモでしたが、全学連のメンバーがデモ隊から離れ、国会の敷地内に侵入し、警官隊を衝突してしまいます。それまでの、安保反対の運動はおおよそ平和的なもので、横に並んだデモ隊の人々が手をつなぎ静かに行進を行う「フランス・デモ」と呼ばれるスタイルが主流でした。  
しかし、ここで初めて学生たちの運動は、あえて警官隊と衝突するという暴力的ともとれる道を選択したわけです。そして、ここから運動は急激に盛り上がりをみせることになります。  
1960年4月26日「4・26請願行動」  
「今こそ国会へ行こう。請願は今日にも出来ることである。・・・北は北海道から、南は九州から、手に一枚の請願書を携えた日本人の群れが東京へ集まって、国会議事堂を取り巻いたら、また、その行列が尽きることを知らなかったら、そこに、何物も抗し得ない政治的実力が生まれて来る・・・」 清水幾太郎(雑誌「世界」より)  
憲法16条に記されている国民が政府への請願を行うことができるという権利を行使した安保反対の請願書を提出するため、国会までデモ行進を行う行動が17万にもの参加者を集めて行われました。しかし、その請願にはなんの法的拘束力もなかったため、5月19日から20日にかけて国会では岸信介内閣による強行採決が行われました。(この時、請願署名は2000万人分が集められていたいいます)  
この時、強行採決を阻止しようとした社会党の議員たちは議事を妨害するため、議長の清瀬一郎を議長室に閉じ込め座り込みを始めます。それに対して政府は国会内に警官隊を導入。妨害する議員を排除して強引に採決を行いました。この時、傍聴席には義人党(実質はヤクザのグループ)と自民党学生部、さらには本物の暴力団もいて強烈な野次を飛ばしながら乱闘に備えていたといいます。  
1960年6月4日「6・4ストライキ  
国鉄(現在のJR)が始発から2時間に渡り電車を動かさず、駅では線路に多くの学生たちが座り込みを行いました。このストライキには全国で560万人が参加したといわれます。  
1960年6月15日「6・15事件」  
運動の過激化は学生側ではなく、自民党が裏で糸を引く右翼グループによって始められました。その重要なターニング・ポイントとなったのが、この事件でした。この日のデモに対しては、「維新行動隊」を名乗る右翼グループがクギを打ち込んだプラカードで殴り掛かり、多くの学生たちが流血させられることになりました。さらに国会敷地内に乱入した学生たちに対して警官隊が棍棒を用いて殴り掛かります。そのため、まだヘルメットを用いていない学生が多かった学生たちは次々に頭から流血。そして、その中で女子大生の樺美智子が死亡。運動の中で初めての死者が生まれることになりました。  
彼女の死は、60年安保の象徴的存在となり、警察は大きな批判にさらされます。運動にその象徴的存在を与えてしまったことは、警察にとっても誤算で、その後、警察側は学生たちの中に死者を出すことを恐れ、ジュラルミンの楯を用いて守りを重視するなど、より慎重に動くようになり、それが逆に学生側の攻撃を過激化させることにもつながります。  
デモの後、岸総理は記者会見でこう語った。  
「私は諸君たちとは見方が違う。デモも参加者は限られている。都内の野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりない」  
6月23日、外相官邸にて批准書が交換され、安保はあっさりと批准されました。安保騒動の盛り上がりは、批准と岸総理の退陣によりあっさりと終わりを迎えます。  
7月14日、自民党総裁選が行われ、4人の立候補者(大野伴睦、石井次郎、藤山愛一郎、池田勇人)の中から政治よりも経済を優先する方向性を示した。池田が選ばれました。  
こうして、日本人は政治よりも経済優先を選択。岸内閣の時代は終わりました。  
「・・・安保騒動は、戦後の憤懣をもすべて吹き飛ばしたいわゆるガス抜き、”戦後日本”のお葬式であった、と見られなくもないのです。・・・」 半沢一利「昭和史後篇」より  
そして、「デモは終わった、さあ就職だ」の時代へ・・・  
60年安保の終焉  
結局、安保条約は自動承認となり運動も自然に終わりを迎えました。今振り返ると、60年安保が本当に盛り上がったのは、1958年末の改定交渉開始の時点でも、1960年1月の条約調印時点でもなく、条約批准が確実視されていた1960年5月に入ってからのことでした。つまり、60年安保闘争は初めから成功しないことを確約された不毛の闘いだったのです。ある意味、学生たちは闘うことそのものに満足を感じていたのです。そして、その満足感を与えたものは、たぶんある種の肉体感覚だったのではないか?「60年代のリアル」の著者佐藤信さんは考えました。  
そう考えてみると、ぼくはこんなふうに思うのだ。学生、若者たちは、手ざわり感のある、肉体感覚のある、そうした暴力のみを「正しい」ものだと考えたんじゃないか。彼/彼女らは武力革命ではなくリアルを求めて運動していたがゆえに、その暴力もリアルな暴力というかたちを取らざるを得なかったんじゃあるまいか、と。  
この考えを証明するような当時の運動参加者の証言もあります。  
「・・・それから、シュプレヒコールを叫びながらデモにくり出すんですけど、何千人かの呼吸が合うと、ほんとうに気分がいいんですよ。デモの隊列がまるで多細胞生物のようになった、モスラの幼虫が東京の街をくねくね歩いているような摩訶不思議な感覚になる。正直に言って、僕はなんのためのデモかなんて関係ない。何千人かの呼吸が合ったデモをすること自体が、ものすごく気持ちよかったんです。それが、「共同体的に身体を使う」ということの僕にとってのい原体験ですね。」 内田樹・成瀬雅春「身体で考える」より  
さらに著者は、当時の学生運動はなぜ赤軍派以外は暴力革命を目指さなかったのか?という意外な疑問にも迫っています。  
それは60年代の運動における暴力の本質が「革命」などという大それた目的のためになったわけではないからにちがいない。むしろ彼/彼女らの「暴力」はやはり、自らの皮膚をざわめかせるためにあったのではないだろうか。その皮膚の感覚を通じて、他者を認識しながら相互理解を求めるためにあったのではないだろうか・・・  
その後、運動に関わった多くの学生たちは、学校を離れ社会に出ると、それぞれが「革命」を広めるための「帰郷運動」にかける者もいましたが、彼らの理論は大衆に受けいれられず、多くは運動に挫折してしまいました。そんな中、戦後復興の象徴となった東京オリンピックの開催が近づき、日本は科学技術の発達により高度経済成長の時代へと突入し始めます。そうした日本の変化を支える理工系の技術者を育てるため、教育界は理系学生の増加を目指すようになって行きました。  
そして、その理系自体の持つ性格は、まさにこの時代に効いていたわけで、理系化は(一方で地方を都会化することで国をまとめながら)国民の感情的な裂け目をも修復してしまったのだ。安保に賛成でも反対でも、科学技術の発展にあらがおうとする人はメッタにいない。  
大衆の「団地生活」への憧れや、大都会「東京」への憧れは、その影響だったともいえます。 
70年安保の時代

 

60年安保から10年、再び安保条約延長の時が訪れます。それにより、再び学生運動が活発化し始めます。この時代の学生運動の特徴について、「60年代のリアル」の著者はこう記しています。  
・・・つまり、60年代という理系化の時の中で、その限界をまず初めに肌で感じた理系学生たちが、画一化され均質化されてしまったツマラナイ日常からの脱出を図ったように見えるのだ。彼/彼女らが中心になってつくったお手製のテント村・・・それはもしかしたらコンクリート化されていく都市からの避難場所だったのかもしれない。  
さらに東大闘争については、70年安保の当事者たちをリアルに描いた名著「マイ・バック・ページ」(映画化されました)で、当時「週刊朝日」の記者だった川本三郎がこう書いています。  
「東大闘争は理工系の学生たちによって開始されたことがひとつの特色だった」 川本三郎「マイ・バック・ページ」より  
「全共闘はシンパ(周辺的同調者)も入れて約二割、アンチ全共闘が約二割、残りの大学生の六割はいわゆるノンポリはいわゆるノンポリだった」 (2007年2月20日の朝日新聞より)  
1967年10月8日「第一次羽田事件」  
佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止するために羽田空港にデモ隊が終結。機動隊と衝突し、混乱の中で京都大学の学生が死亡。この頃からから機動隊はジュラルミンの楯を用いるようになり、それまでの肉弾戦とは異なる飛び道具による争いになり出します。それは、「格闘」から「戦争」への変化だったといえます。放水と催涙ガスの使用が本格化したのがこのころです。こうした闘争方法の変化は、必然的に学生たちの指揮を下げることになります。  
1968年10月21日「国際反戦デー」  
新宿駅を中心に全学連と警官隊が市街戦を展開。  
1968年11月12日「あかつき部隊」  
東大の民青支援のために作られた外人部隊ともいえる他大学生からなる「あかつき部隊」が暴力を用いて全共闘に攻撃を行いました。民青とは共産党の下部組織の学生団体で、党の指示に従うグループでした。したがって、党派とは異なる独自の活動を続ける全共闘とは「反政府」という点では方向性が同じにも関わらず、常に対立関係にありました。そして近親憎悪ともいえる対立が、ついに暴力による攻撃に至ったのです。これは保守派から見れば、愚かなる内部分裂の始まりでした。  
1968年11月22日「日大・東大闘争勝利全国総決起集会」  
東大本郷キャンパスに日大全共闘が応援にかけつけました。日大全共闘の中心は日大芸術学部の全共闘「芸闘委」でした。マスプロ大学の代表だった日大の中で、「芸術」を指向する彼らは東大生が医学部(理系)中心の学生運動だったのに対し、異なる視点をもっていたといえます。エリートの東大に対し、日大は肉体的な存在でもありました。二つの異なるグループの合流は運動において画期的な瞬間であり、60年安保における最も幸福な瞬間の一つでもありました。  
「あの、東大の、貴族的な、闘いを・・・圧倒的な、日大生の、エネルギーをもって・・・革命的な、闘争に、推進させよう」 日大全共闘のアジテーションより  
「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」 橋本治(東大駒場に貼られた駒場祭のポスターより  
1969年1月18,19日「東大安田講堂占拠事件」  
東大において、医学部のインターン制廃止を求める運動から始まった学生と大学の対立は、大学における自治の問題についての全面対決に至ります。学生側は、学内の机や椅子を用いてバリケードを築くことで学内を封鎖し、授業ができないようにして、立てこもりを開始。その中心となったのが、有名な安田講堂でした。大河内一男学長が辞任し、加藤一郎総長代行が交渉を行うものの、事態は変わらず、学校側は警察・機動隊による学生の排除に踏み切ります。結局、大学側は機動隊に出動を要請し、放水車による放水やガス攻撃により、学生たちは排除されてしまいます。この安田講堂における攻防戦はテレビでも生中継され、機動隊によって安田講堂が陥落した場面の視聴率は72%に達していたといいます。まだ小学生だった僕もこの場面はしっかり見ていました。僕も含めて、多くの人にとって彼らは英雄だった気がします。  
「砦の上に我らの世界を」  
1969年9月5日「全国全共闘結成大会」  
全共闘運動の再興をかけた大会に赤軍派が登場。初めて公の場に現れた彼らは、暴力による革命によって社会変革を目指して組織された「軍隊」と呼ぶべき存在でした。この赤軍派の登場により、学生運動は一気に過激化することになり、これが重要なターニング・ポイントとなりました。それは「運動」から「戦争」への変化であり、60年安保の終わりの始まりだったのでした。  
「ともかく、生活の既成的現在を解体し<民兵>的に再形成すること、そして暴力を、暴力それ自体を、赤軍=解放軍本隊として形成すること、これである。生活と闘争の民兵的形成によってこそ、革命伝統は持続し得るし、革命経験は蓄積されるのだ。・・・」 滝田修(竹本信弘、当時の京大経済学部助手)  
「間接民主主義のもとでは、革命は実現できない。権力を倒すためには既存の方式ではダメであり、組織された暴力を行使する以外に方法はない。・・・」 村田能利(社学同委員長、早稲田第一政経)  
「銃」的暴力は安田講堂攻防戦の時から肉体感覚をゲーム的な感覚に置き換えていたわけだけれど、連合赤軍においてはその変容は組織のあり方にまで及んでいたのかもしれない。彼/彼女らが「兵士」を名乗ったことが象徴するように、彼/彼女らはもはや情動的な塊の一部というより、冷徹なバラバラの銃弾になったのだ。ふと、銀座の大通りで手をつないでデモしていた60年を思い出す。なんと遠くまで来てしまったことか!!遠くに来てしまったという意味では、もうひとつの「山」も同じ。浅間山荘に至るまで彼/彼女らが渡り歩いていた「山」はもちろん、60年代の大衆運動の舞台になった「都会」と対峙する存在なのだ。  
こうして70年安保における学生運動は、1972年の「総括」そして同じ年の「浅間山荘事件」という二つの悲劇へと一気に押し流されて行くことになります。
「60年代のリアル」  
「1960年代」を、1988年生まれの政治学の修士課程の学生が21世紀の視点から振り返った本があります。でも、同時代を生きた当事者でもなく、歴史学者でもない学生が書くことにどんな意味があるのでしょうか? 「歴史」というものが、「今を生きている人」のためにあるのだとすれば、その当事者である「今を生きる人」にとって、どう見えるのか?という「歴史」の意味は大きいはずです。  
著者の立ち位置  
・・・言ってみれば、ぼくらは高度経済成長を知っている世代、もしくはバブルの恩恵を享受した世代のツケを払うべくこの「国」に産み落とされたのだった。これまでの60年代論は、当時を体験した人たちの主観的記述が中心で、そうでなくても当時の運動に共感するか、しないか、それを前提にした上で60年代を論じるものが多かった。でも、ぼくはむしろ「彼/彼女ら」と同年代の者として、共感できるのか、できないのか、その狭間に立って「あの時代」を追体験してみたいと思う。  
彼は、「40年という距離」を置くことで、60年代を新鮮な視点で見つめ直し、運動の背景となった時代にも注目しています。著者は「なぜ60年代の若者たちは、あんなにも熱くなれたのか?」という素朴な疑問について考えています。そして、そのキーワードとして、「リアル」、「肉体」、「ジャズ」などの言葉を選んでいます。  
リアル  
考えてみれば、そんな「リアル」と政治との関係が当然に存在していた時代もあたんだと思う。でも、戦後の自民党の一党優位のなかでだんだんとそんな感覚は失われてきた。政治はどこか遠くに去っていってしまった。60年代の若者の暴力(若さ)が政治に向かったのは、きっとその手触りが逃げていく過程のことだったにちがいない。だとしたら、ぼくらが今政治に向かおうとしているのは、政治の皮膚感覚みたいなものを再発見しようとする過程なのかもしれない。リアルでなくなり、能率で計られるようになってしまった政治を、ぼくらはまた捕らえなおそうとしているのかもしれないのだ。・・・  
肉体感覚  
・・・現代において、(ネットを含む)情報の海の中からヒトが「個」を特定していくためには、ぼくらは他者と自己とを区別し、同時に他者を理解するチャンネルとしての皮膚を認識を認識する必要があるのだけれど、でも、その皮膚の実感には潜在的な他者との触れ合いが要請されるのだ。そしてその触れ合いにおいては、触れる相手が潜在的な他者であるがゆえに「ざわめき」が生まれる。この「ざわめき」こそが、ぼくがぼくとして生きていると信じるために必要なものに他ならないのだ。・・・  
ジャズ  
そう。きっとキーワードは「ジャズ」ということなのだと思う。もちろん、60年代後半を代表する音楽がフォークであることはみんなが知っていることだろう。けれど、ぼくから言わせればフォークソングをみんなが大合唱、というような雰囲気は(現在でさえ)まだ残っているわけで、現在との比較という観点から見るなら当時を特徴づけているのはジャズの方なんじゃないかと思うのだ。
60年代学生運動用語集  
「アジる」 / 「アジテーション agitation」とは英語で「(心を)動かす、興奮、動揺、論議、扇動・・・」(政治的主張を観衆の前で叫ぶこと)  
「オルグ」 / 「オーガナイズ organize」とは英語で「組織する、編成する、創立する、(催事などの)計画を立てる」(仲間にするための広報・宣伝活動のこと) 僕が高校生だった1978年頃は、まだ休み時間に突然大学生の活動家がアジテーションに現れることがありました。  
「デモ」 / 「デモンストレーション demonstration」とは英語で「論証、証明、実演、示威運動、示威行動」(ここではデモ行進のこと) フランス・デモは、参加者が横並びになって手をつないで歩く平和的なデモ行進。ジグザグ・デモは参加者が肩を組んで密着して蛇のようにクネクネと歩くデモ行進。  
「シュプレヒコール」 / 「シュプレヒコール sprechchor」とはドイツ語で「セリフなどを全員で唱和すること」(スローガンやメッセージを全員で唱和する際の合図となる号令)  
「全学連」 / 全学連(全国学生自治会総連合)は1948年結成。当初は共産党の統制下にある学生組織だった。1958年12月執行部を共産主義者同盟(ブント)として結成。共産党から離れ、その下部組織である民主青年同盟(民青)とは別に安保反対運動を展開することになります。  
「バリケード」 / 「バリケード barricade」とは英語で「防柵、妨害物」 (当初学園紛争では教室内の机や椅子がバリケードに用いられたため、その後、大学内の机や椅子はほとんど移動できない固定式になった)  
「セクト」 / 「セクト sect」とはラテン語の「セクタ secta」(宗教上の分派)から派生した用語。(学生運動においては、新左翼の様々な分派のことを指す)  
「ゲバ棒」 / 「ゲバ棒」とはドイツ語の「ゲバルト gebalt」(暴力)から来た言葉。(「ゲバ棒」と「ヘルメット」は当時の学生運動を象徴する物でした)  
「朝日ジャーナル」 / 1959年創刊の左翼系情報雑誌。当時の若者の常識は「「右手にジャーナル、左手にパンチ(またはマガジン)」  
「ノン・ポリ」 / 「ノン・ポリティカル」政治に興味なし派  
「ノン・セクト」 / 流派(セクト)に属さない活動家
 
ついにとどめを刺される「全学連」
 2012/5

 

東大の自治会が引き起こす社会運動史上の大事件とは 
「全学連(全日本学生自治会総連合)」という名前には、2つの見方がある。かつて学生運動に身を投じた、60歳を超える人たちには善かれ悪しかれ大学時代を象徴する、学生運動の拠点。60歳から40歳くらいの人には、時代遅れの連中が左翼ごっこをする舞台程度にしか見ていない人が多いだろう。それより下の世代で知っているのは、いわゆる共産趣味者(左翼を観察する趣味の持ち主のこと)か、今なお残る(政治)活動家くらいではないだろうか。  
現在5つある全学連の中で最大の規模を持つとされるのが、「民青系全学連」と呼ばれる全学連である。民青とは、正式名称は日本民主青年同盟といい、「日本共産党の導きを受ける」青年政治組織である。その民青が執行部で主導権をとるため、民青系と呼ばれる。その民青系全学連が近く解散する可能性が高くなってきた。  
引導を渡すのは、「東京大学教養学部自治会」(通称「東C自治会」)だ。代々民青が執行部を掌握し、全学連を主導する役割を果たしてきた大学自治会である。それが今年4月、東C自治会執行部が全学連脱退を決議し、6月の代議員会で承認されれば全学連を脱退する。東C自治会の脱退は、民青系全学連にとどめを刺し、解散に追い込むと見られている。
財政面での破綻が確実な民青系全学連  
民青系全学連が解散すると見られる根拠の第1は、「全寮連(全日本学生寮自治会連合)」解散と同様のパターンを踏襲しているからだ。  
2006年3月、全寮連が解散した。全寮連は大学の寮自治会の連合体で、いわゆる民青系全学連と兄弟関係にあった組織である。解散理由は加盟寮の減少と役員不足で何の活動もできなくなったからである。  
解散の1年ほど前に出されていた全寮連の文書によると、加盟寮は13自治寮。機関紙「みどりの旗」が廃刊になり、その後復活した機関紙「Green Eye"s」の発行部数は400部だった。  
全学連の機関紙「祖学(祖国と学問のために)」も一度廃刊になり、コピー機で印刷する形で復活した。刷り部数は1000部以下、そのうち定期購読部数は150部以下で、賛助会員と呼ばれる全学連OBや共産党関係者の読者もいることから、学生の購読数はさらに少なくなる。  
第2の根拠は、財政面での破綻が確実だからだ。  
現在の民青系全学連で、実際に活動に参加している加盟自治会(共産党用語で「結集している」自治会)のある大学は8大学しかない。しかも民青が執行部を掌握しているのはそのうち2〜3大学に過ぎない そんな状況だからだろう。全学連加盟自治会は、全学連に「加盟分担金」と呼ばれる年会費を払うことになっているが、払わない自治会が多い。  
今年の全学連の予算は加盟分担金収入357万円。東C自治会が脱退すると全学連の加盟分担金収入は200万円弱に減ってしまう。  
東C自治会が脱退し、加盟分担金を払わなくなったら、全学連は事務所の家賃とコピー機の利用料も払えなくなり財政的に行き詰まる。  
もちろん、共産党も以前から全学連の危機を認識しており、三鷹の本部事務所を引き払って経費を節約し、少ないカネを活動に振り向けようと考えていた。ところが、家賃がかからない新拠点を置く場所としていたのが東C自治会室だったというから、最後の生き残り策も断たれることになる。近隣とはいえ他の加盟自治会である東京学芸大や東京農工大に本部を移転させることはできない。見かけは民青が掌握しているように見えても、実際は民青が掌握していない自治会に、機密文書をどっさり持っている本部機能を渡すわけにはいかないからだ。
ネット上に蓄えられた全学連との闘争ノウハウ  
第3の根拠は、ITの進展によって、全学連との闘争ノウハウがネット上で共有されるようになった。  
過去に全学連加盟自治会が脱退活動を行ったのは一度や二度ではない。しかしそうした活動によって得られたノウハウは、後進に引き継がれることはなかった。全学連が加盟自治会の脱退を知っても、傘下の他の自治会に広く知らせない上に、脱退活動を行った学生が卒業してしまうとノウハウが残らないからだ。  
しかし、東C自治会は、自分たちが何をどのように進めたのか、ツイッターで実況中継し、クラウドにある共有サービスに資料をアッブロードして、誰でも見られるようにしている。彼らが卒業しても、ノウハウはクラウド上に残る。  
よって無党派学生が、全学連に結集している自治会を叩こうとするなら、ノウハウはネットから取れるようになった。  
全学連を無理やり維持する、例えば代々木の日本共産党本部内に全学連本部を置くような、なりふり構わぬ禁じ手を使って存続させたとしよう。そんなことをしてもノウハウを蓄積した学生が反抗してきたら、民青が追い出される公算が極めて大きい。大学自治会に民青がいなくなり、「指導」ができなくなった全学連など、共産党には無用の長物でしかなくなる。  
以上の根拠より、民青系全学連は今年中、遅くとも今年度中に活動停止に追い込まれ、解散するだろう。
最大の全学連が解散することの意味  
民青系全学連の解散は、日本の社会運動史上最大級の大事件である。20代、30代の若い読者にはピンとこないと思われるので、簡単に全学連の歴史について触れておく。  
大学自治会は、終戦後速やかに結成された学生による自治組織である。基本の部分は、地域の自治会や商店会やマンション管理組合などとそう変わらない。しかし大学自治会は、そうした一般的な自治会の仕事に加えて、結成当初から政治性を持っていた。  
そうなったのは、終戦直後、ついこの間まで軍国主義を正しいと言っていた教師たちが、8月15日を境にして「民主主義」を唱え始めた無節操に対する学生の反発があった。  
そうした反発が最初に事件になったのは、1945年10月に茨城県水戸高校で発生した学生のストライキである。目的は、軍国主義者だった校長を罷免し、軍国主義教育にそぐわないとクビにされていた「進歩的教授」を復職させようとするものだった。学生運動と呼ばれる、学生の組織的政治闘争は、これが始まりである。  
水戸高校の運動に触発されて、大学に自治会を作ろうとする機運が高まった。1946年5月、早稲田大学で日本最初の大学自治会が結成され、以後多くの大学で自治会が作られていく。結成のスピードはどこも早く、同年11月には大学自治会の全国組織として全学連が結成される。  
裏には、当時のエリートだった大学生を党の支配下に置きたいと考えた日本共産党がいた。そうした経緯から当初全学連は日本共産党に従順であったが、共産党と学生の路線対立から全学連は徐々に共産党の路線から外れていく。  
この頃の全学連は、国民世論を二分するような政治的大事件が起こると、必ずと言っていいほど大きな影響力を発揮していた。現在、反原発運動が盛り上がっているが、多くの反原発運動家たちが「自分たちの運動を先導していくのは全学連だろう」と考えるくらいの影響力が当時はあった。国際的にも“Zengakuren”は、日本の将来を左右するファクターの1つとして知られていた。  
ところが日米安保条約の是非を巡って政府と反対派が争った安保闘争が終わった1961年、第17回全学連大会において全学連は分裂し、その後も紆余曲折を経て、現在、新左翼系の4派と、日本共産党がなおも支配下に置く民青系全学連の計5つが存在している。  
日本赤軍の起こしたあさま山荘事件や、東アジア反日武装戦線の三菱重工本社爆破事件、中核・革マル派など新左翼セクトの「内ゲバ」と呼ばれる殺し合いなどによって、学生運動に対する国民の評価と期待は地に墜ちる。そんな中でも民青系全学連は、少なくとも80年代以降、他の全学連より1桁多い加盟自治会を持つ、最も大きな全学連であった。  
そうなった理由は、民青が他の新左翼系と違い、暴力革命路線を取らず、比較的穏健な組織だと思われていたからだ(実際はゲバルト部隊を保有していたこともある)。  
21世紀に入った頃から法政大学などの大学当局が新左翼党派を学内から追い出す圧力をかけ続けているが、こうした経緯があるため、今も民青だけはこうした圧力を受けていない。そんな全学連が消滅するということは、学生運動の歴史が終わることを意味する。
叛旗を翻したリーダーに聞く  
東C自治会の話題に戻ろう。東大教養学部では以前から東C自治会の運営において、加盟している民青系全学連の影響が強すぎると不満が渦巻いていた。そのため近年では2010年、代議員から自治会の解散提案まで出されている。  
全学連に問題がないとは言わないが自治会の解散までは必要ないとして、この提案は否決された。だが、日本共産党と民青に対する不満はなくなったわけではない。そして今年3月、東C自治会の常任委員会が全学連からの脱退を決議したのである。  
全学連、そして日本共産党は驚愕した。代々民青が掌握していた、全学連の中核と言える東C自治会で、ついこの間まで民青として活動していた者たちが大量に離脱し、反民青・反共産党となって脱退決議が行われたからである。  
しかもそのリーダーは、東C自治会の委員長で全学連中央執行委員を務め、近い将来全学連委員長にと期待されていた人物だった。  
筆者は、全学連脱退運動の仕掛け人となった何ろく(か・ろく)氏(東京大学教養学部3年、前自治会委員長)にインタビューを行った。叛旗を翻した何ろく氏は一体何を目指しているのか。  
「何ろく」は本名で、山口県出身だが、国籍は中国である。規約上日本共産党や民青同盟に入るには日本国籍が必要であるため、彼は党員にも民青にもなれない。しかし高校在学中に共産党支持者となり、大学に入ってからは「党の会議に出ない」以外は、共産党と共に活動していた筋金入りだ。  
東大入試日に民青と関わり、合格して東京に出てきた直後から新歓のビラをまいていた御仁である。東C自治会の活動にも熱心に取り組み、先に挙げた学生から出された東C自治会解散提案も、必死になって抑え込もうとした。日本共産党が学生の意向に反した、党の論理で介入を行うことにも、まったく疑問を持たなかった。  
そんな何氏を「反民青」「反共産党」にさせたものは、2011年7月に行われた日本共産党の3中総決定(第3回中央委員会総会決定)という文書である。新聞が売れない時代に赤字脱却を目指して機関紙「しんぶん赤旗」を値上げするなどの「現実離れした空想的な内容」に衝撃を受けて、「党中央委員会は正気なのか」と疑うきっかけになった。  
そして9月には日本共産党・民青に対する強烈な違和感を感じ始める。東C自治会は、第一に東大教養部学生の代表であり、優先されるのは党ではなく学生である。にもかかわらず、それまで受け入れてきた全学連の指導という名の自治会への介入が、あまりに学生の意向を無視している。そして何氏は確信した。「これはカルトだ」と。
党から出られない恐怖感を克服  
質問してみる。「大学入学時に、すでに民青のビラを配っていたわけですよね? それから1年半、民青・共産党の活動にどっぷり浸かっておられたわけですが、どうしてそれまでカルトだと気がつかなかったんですか?」  
何氏は一瞬返答に窮したが、すぐ立ち直って概略以下のように答えてくれた。  
共産党の主張は形式的には正しい。そして党員は批判されることに対する「運命論的拒否」を持っている。運命論的拒否とは、共産党は迫害される運命にあるとして、批判を忌避する姿勢を言う。  
大政党や大企業に逆らうわけだから、彼らの意を酌んだ反共攻撃があるのは当たり前である。それだけ我々は権力から脅威として恐れられているのだから、誹謗中傷されるのを誇りに思うべきだ・・・共産党員は、そんな“教育”を受けている。  
だから、党外からの共産党批判が幼稚なものであるなら、論破できる自信を持つ共産党員は悠然と構えている。  
しかし、共産党批判をする人には高い知性を持つ人も少なくない。共産趣味者に至っては不破哲三や志位和夫よりマルクス、レーニン、グラムシ、ネグリらの著作を読みこなすような人がごろごろしているのだ。  
共産党が選挙で見せる独善的な姿勢を改めれば共産党はもっと伸びるくらいのことを言う人は、もっと多い。そうした批判は党員も「一定の理」があると分かっている。しかし、党がそうした批判を受け入れないのも分かっている。だから認めるのが怖くて、心ある批判も拒絶してしまうのだ。  
加えて「居場所性」も大きい。党活動を本格的にやると党活動で1日が潰れてしまうほど忙しくなるため、時間的に党内でしか人間関係が築けないようになってしまう。党外に出れば孤立無援となる恐怖感から、おかしいと思っても党から出ていけなくなる。彼自身、党から出ることによる孤立の恐怖を克服するのに3カ月を要したという。確かにこれは「カルト」と言えるかもしれない。  
「彼らは、私がこうして取材を受けたのも、まるで私がとんでもない極悪犯罪をしたかのように、口を極めて非難するでしょうね。批判拒否体質は本当に根深いですよ」  
「共産党員・民青同盟員が、個人の立場で自治会運動に参加するのはいささかの問題もないと思うのです。だから今でも彼らとの付き合いは絶やしません。排除するのは学生の意向を無視した全学連・共産党の組織的な自治会支配で、民青排除ではないことは口を酸っぱくして言っておきたいですね」  
孤立を覚悟し、党に逆らうと決心した何氏だが、全学連脱退の方針を決定した常任委員会では、出席常任委員全員が賛成した。この中にはもちろん民青同盟員・党員がいる。多くの民青たちも、以前からおかしいとは思っていたのである。
大学自治会は社会に発信できるのか  
筆者は最も大事な部分、すなわち「大学自治会は、これからどうあるべきなのか」について聞いた。換言すれば、自治会は「高校生徒会の延長線上にある」べきなのか、それとも「高校生徒会とは別の性格を持つ」べきなのか。  
現状の「大学自治会=党派に支配されている」イメージを払拭し、誰にでも開かれた自治会と認知されなければならない。そのためにも何氏は「高校生徒会の延長」になる「学生の目に見える事業」はしっかりやらなければならないと考えている。  
しかし、「高校生徒会の延長」だけがあるべき姿かと問えば、答えはノーである。「社会に発信しない自治会はつまらない」というのが何氏の考えだ。  
まだ形にはなっていないし、簡単にできるとも思っていないが、目指すものとして彼は「公共性の再評価」を挙げた。  
東C自治会は、東京大学教養学部に属する学生の代表である。しかし、学生の総意ということで決議を上げても、学内では通用しても現状社会的な影響力を持たない。その上、学生のニーズも多様化しており全学生が一致できる論点も見つけにくい。  
学生の意見が一致するであろう「学費値上げ反対」のようなテーマを扱うなら、まだやりやすい。「とにかく反対」ではなく、ドラッカーを片手に経営学的視点を持ちながら当局と交渉するようなことは、今でもできる。  
しかし、そこから一皮剥けて、社会に影響力を及ぼせる大学自治会になるには、公共性についてこれまでとは違う発想で考えていかなければならないのではないか? 専門課程に上がった何氏は、今そんなことを考えている。  
例えばマイノリティの問題を考えてみよう。男なのに自分は女だと確信している、性同一性障害を持つ学生が入学してきたとする。彼は女として女子用トイレや更衣室を使いたいが、大学は使わせてくれないといったトラブルが発生した。その時、彼は大学自治会に解決を要請するだろうか?  
仮に、自治会が解決を要請されたら、自治会は彼の要求実現を「たった1人のわがまま」だとして拒否すべきなのか? 何氏は拒否すべきではないと考えるが、彼の要求に沿って大学を動かしたとして、その活動を社会にどう波及させていくのか?  
これは、代々の大学自治会関係者の全てが直面してきたと言っても過言ではない、答えを見つけにくいテーマである。学生自治会の委員長は、たいてい1年任期で、留年しない前提なら、長くて2年しかできない。そんな短い期間で、この難題を突き破ることは不可能に近い。
公共性の再評価と新全学連の誕生  
何氏に対する失礼を省みずに言えば、何氏も在学中にこの難題の答えは得られないだろうし、大学を卒業すれば大学とは違う世界が彼を迎えることになる。いつまでも自治会に関わっているわけにはいかない。  
しかし、以前よりもこの壁は突破しやすくなっているのは確かだ。前述したように、ITの進展は、全国の学生自治会関係者に情報の共有を、それも世代を超えた共有をも可能にしているからだ。  
科学は、常に先人の業績を踏み台にした後進が、先人を超えることで進歩してきた。有名な数学界の難題であった、フェルマーの最終定理も同様である。360年にも及ぶ先人の蓄積があったからこそ、ワイルズはこの難題を解くことができたのである。  
「何ろくの最終定理」は、いつ解かれるのか? たぶん360年もかからない。現在の日本は、近いうちに終戦直後の価値観の崩壊に匹敵する精神の危機に陥る可能性がある。その時、「公共性」の定義は今とは違うことになるだろう。  
そんな時、「公共性」はどんな価値観で形成されるのだろうか? それに応じて自治会のあるべき姿は違ってくるはずだ。これが何氏の言う「公共性の再評価」であり、それこそが未来のあるべき大学自治会像を規定する。  
思い起こせば全学連も、終戦直後の価値観の崩壊をきっかけにして生まれた。全学連の崩壊も、戦後形成された「公共性」に対する価値観が変化するのについていけなかったからだとも言える。  
ならば全学連の崩壊は、これまでとは全く違った「新全学連」結成の端緒になるかも知れない。  
新全学連は事務所を持つとは限らない。本拠はクラウド上にあり、執行部すらないかもしれない。しかし、全国の自治会関係者が自分たちの経験やアイデアをネット上で共有し、それを他大学の誰かが、何年後かに活用し、新たなノウハウを付け足してクラウドにアップロードし、またそれを誰かが活用する。  
場合によっては海外の大学自治会関係者が日本のノウハウを学んだり、日本人には考えられないノウハウを提供してくれるかもしれない。そうなれば、自治会運営のノウハウは、時空も国境も超えて伝わることになるのではないか。  
そう言うと、何氏はこう答えた。  
「お隣の韓国で学費値上げ反対の学生デモが起きたのはつい昨年のことです。大学1〜2年で学んだ韓国語を生かし、韓国の学生に話を聞きに行きたい。そう考えているところです。もちろん、その成果はウェブで共有できるといいですね」  
 
学園紛争

 

世情に迎合するという事  
1968年、昭和43年、日本は戦後の復興を終え,高度経済成長に向けてまっしぐらに邁進していた頃である。  
東京オリンピンクも終わり、高速道路から新幹線までこの時期には皆完成しており、「土地投機をしないものは馬鹿だ」といわれた時代であった。  
世界に目を向ければベトナム戦争が行われ、北爆が日常茶飯事のこととなっていた。  
こういう状況のもと日本の最高学府では学園紛争が燃え広がろうとしていた。  
そのきっかけというのは東大医学部のインターン制度というものを登録医制度に変えようとことにあったが、これに学生の反発がおき、医学部の学生が医局長を監禁したという事件の処分をめぐり、学生運動が漁火の如く全学的に広がってしまったわけである。  
私の個人的な倫理観からすれば、学生が学校当局に物申すという風潮は許されない事のように感じている。  
世界中の学校という教育施設は、教える立場と教えられる立場というものは厳然と分かれてしかるべきだと思っている。  
学校というところは、教えを請いたいものが集まるところで、教えを受ける立場のものが教える側に物を言う事はあってはならないと思う。  
仮に、教え方が気に入らなければ、自分の方が身を引いて、自分の気に入った教え方をするところに変わればいいわけで、教える側というのは自分のスタンスをきちんと守っていてもいいと思う。  
大学生ともなれば、「もう子供ではない」という常識もわからないではない。  
ならば、学生が一人前の大人であるとすれば、なおさら教え方が本人の気にそわないのであれば、自分から自分の気に入る教え方のところを選択すればいいわけで、自分の立場は現状維持のまま、相手を責めるということは大人の行為ではないと思う。  
ところが、これが戦後の日本の民主主義では通らないわけで、教える側を権力という見方で見て、教える事が権力の乱用という見識に立とうとしている。  
これでは教育というものを根本から否定する事になるわけで、ならば大学などにこなければいいわけである。  
東大では医学部の制度変更に伴う学生の行き過ぎた行為が紛糾の発端となったが、私立大学では授業料の値上げが紛糾の発端となったところもある。  
授業料の値上げというのは、教育の本質の問題とは少し次元が違っているので、学生が反対するのも心情的には理解できる。  
この時代に大学が様々な紛糾に晒されたという事は、ある意味で日本の経済成長の仇花でもあったわけである。  
戦前までの日本の社会というのは、早々誰も彼もが大学にいける状況ではなかった。それまでの日本の社会では、大学まで子弟をやれる階層とやれない階層というのが歴然と分かれていたわけで、大学に進学できるということは、それだけでエリートであったわけである。  
戦後になって、猫も杓子も大学に行くという事は、ある意味でそれが日本の社会の通行手形になっていたわけで、この手形さえ持てば将来の生活が安泰になると、日本中の皆が思い込んだ結果だと思う。  
そして大学の経営というものが、資本主義社会の中にあって、企業として成り立つということがわかったわけである。  
その上、大学の経営という事は、事業として綺麗な仕事なわけで、人材を育成するという事業は、誰に対しても説得力のある、魅力ある事業ということになる。  
旧帝国大学というのは、それを国家規模で行っているわけで、明治維新以降というもの、日本の人材育成に貢献した実績というものは否定できない。  
明治維新以降、国家の興隆というのは、帝国大学を卒業した立派な人士によってなされた、という概念は戦後といえども払拭されていなかったわけで、帝国大学を出れば国家の要職と言うものが保障されていたわけである。  
その思いが普遍化していたが故に、学歴偏重の気風が日本に蔓延したわけである。日本の歴史的経緯の中で教育というものを眺めれば、ある意味で、豊かさの象徴でもあるわけで、家が豊でなければ教育を受けることは出来なかったわけである。  
家が貧しければ、その教育を受けている時間にも、家業なり生業をこなさなければならないわけで、子供だからと言ってそれを免れる事は出来なかったである。  
子供であったとしても立派な労働力であったわけである。  
子供が家業や生業を手伝はなくても済むという事は、既にそれだけで裕福であるということであり、そういう子弟のみが特別な私塾にいけたわけである。  
ところが明治維新では西洋列強に負けない近代化を目指そうとして、国家は貧しい人々の中からも人材を掘り起こそうとし、出来るだけ安い金で、出来るだけ多くの人に教育を施そうと考えたわけで、それが戦前・戦後を通じて日本の教育の底流に流れている思想であったはずである。  
今の国立大学、昔の帝国大学というのは、この基本的な理念で運営されてしかるべきである。  
教育機関というのは、教える側の立場というものをきちんとわきまえなければならないと思うし、教えられる側もそれに合わせて自分の立場というものをわきまえ、嫌なら自分の方から自分に合う学校を選択すべきである。  
戦後の民主化というのは、この基本的な概念を否定する方向に向いたわけで、教える立場というものを、権力として捉えるように仕向けたのは、言うまでもなく共産主義の発想である。  
戦前の古い道徳律では、「分をわきまえる」という倫理が罷り通っていたわけで、これが「官尊民卑」という考え方を助長し、誰も彼もが「官」の側につきたいと願ったわけである。  
言い方を変えれば、「官」を崇め奉ったがため、日本は奈落の底に転がり落ちた、ということもいえる。  
「分をわきまえていた」から権力に抵抗しなかったと言う意味である。  
日本中の人が高等教育に憧れるというのは、その底流には、それが自分の立身出世に非常に大きく影響を及ぼすという事を知っていたからである。  
我々はともすると、その人の人格を見るのに、出身学校で評価するという事がある。「これほど当てにならないものもない」という事を知りながら、ついついそれに嵌ってしまいがちである。  
旧帝大、旧海兵、旧陸士出身と聞くと、何となく納得してしまって、その人が立派な人格者であるが如く錯覚を起しがちである。  
しかし、相対的に見ればその評価はあたっているわけで、その人の実績から見れば出身学校の功績というのは歴然としている。  
世に名をあげ、功績を残し、人々に大きな影響を与えた人たちというのは確かに良い大学なり特殊な教育を受けた人たちである。  
ここで考えなければならない事は、人間の社会というのは名をあげたり、表彰されたり、勲章をもらったりという人たちだけで成り立っているのではないという事である。  
そういう人たちもたった一人で実績をあげたわけではなく、その後には数え切れないほどの協力者がいたからこそ、実績なり功績があったわけで、その人たちというのは表面に出てこないので評価のしようがないが、実際はそういう人々が社会というものを支えているわけである。  
戦後、猫も杓子も大学に行くというのは、皆が皆、表舞台に立ちたいという願望の表れで、欲望の実現の手段として、又はその手形として学歴というものに固執したわけである。  
そして戦前の貧乏人の中から、向学心に燃えた若者は、海兵とか陸士という軍人の養成機関に進学したわけである。  
ここは授業料というものがなかったわけで、それでいてその時代の花形職業である軍人になれたわけで、家が貧乏で他の学校では授業料が払えない階層が、こぞってここに集中したわけである。  
ここに人間の浅ましさというものが露呈しているわけで、時代の寵児としての軍人になりたがったという事は、戦後の日本の高度経済成長期に、猫も杓子も銀行員になりたがった現象と全く同じ轍を踏んでいたわけである。  
時代時代によって花形職業というのは変遷するわけで、世が世なれば軍人が肩で風を切って歩いた時もあれば、工学部出身の学生が銀行や証券会社に就職する時代もあったわけである。  
こういう現象というのを、別な視点から見れば「個の確立」という事が不十分で、世の中の動きによって右往左往する日和見な思考といわなければならない。  
軍人という職業も、世の中が変われば税金泥棒と呼ばれ、銀行員や証券会社の社員も、世の中が変わればリストラの嵐に翻弄されているわけである。  
これは世情に迎合するという事で、そのことは人の生き方として非常に没個性であり、信念を欠き、付和雷同であり、あまり良い評価で見られる事ではない。
高等教育は社会のゆとり  
高度経済成長の真ッ最中、大学生がこれほど既存の社会に反抗するという事は、彼らの生い立ちが非常に恵まれていたという事の裏返しの現象だろうと思う。  
彼らの生活が、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた状態ならば、こんな革命ゴッコはありえない。  
この若者達の革命ゴッコというのは、日本だけの特殊な現象ではなく、この時代、世界的な規模で先進国では蔓延したわけである。  
このことはよくよく考えてみれば不思議ではない。  
第2次世界大戦というのは地球規模でみて、ほとんど同時に終焉したわけで、その復興というのも同じ時間が共通にあったわけである。  
日本だけが特別に早かったわけでもなく、又遅かったわけでもない。  
この戦後の世界というものを地球規模で眺めた場合、共産主義国家、特にソビエット連邦と中華人民共和国、そして北朝鮮というものは、西洋先進国が戦後の復興であったとすれば、新生、無から有を作り出す国家の創造の時期であったわけである。旧ソビウエット連邦というのは、新体制が第2次世界大戦で中断したという意味からすれば、ここもやはり復興という言葉が当てはまるかもしれないが、第2次世界大戦を戦い抜いた諸国にとっては、やはり既存の秩序の復興という要因が大きかったように思う。  
しかし、中華人民共和国に関しては、第2次世界大戦後の建国であり、その中では共産主義革命というものが表面的にはおできのかさぶたのように中国大陸の表面を覆い隠したように見えるが、その内部では革命のマグマがふつふつと燃え滾っていたわけである。  
それが文化大革命として、この頃再燃してきたわけである。  
それの余熱というものが世界規模で広がった事が、この時代の世界を覆い尽くした学生運動であり、反政府運動であり、反体制運動であり、ピース・ムーブメントであったのではないかと思う。  
学生がこういう運動に熱情を傾けるということは、その裏側には豊かさがあるわけで、明日の糧を愁うべき民衆にとっては、そんな暇と余裕は最初から存在しないわけで、それが出来るということは、豊かさの象徴でもあったわけである。  
その豊かさというものを、当人は全く自覚していないわけで、自分自身が大学に行けるという事が如何に贅沢なのかという事が全くわかっていなかったわけである。この時代にも苦学生というのはいたに違いないが、苦学生であれば、学生運動にそうそう精力を割くわけには行かなかったわけで、どうしても中途半端なものになりがちである。  
東大紛争のように徹底的に抵抗するということは、自分で自分の身を養う必要のない、裕福な家庭の子女の戯言ということである。  
それが地球規模で起きたわけで、日本だけの現象ではなかったわけである。  
全共闘世代というのは、地球規模で起きたわけである。  
無理もない話で、戦争が終わって戦地から復員し、それぞれの家庭に兵士が帰ったのは日本だけの事ではないはずで、あの第2次世界大戦という渦に巻きこまれたのは日本だけの問題ではなかったはずである。  
アメリカ人もイギリス人もフランス人もドイツ人も、それぞれに世界の各地で戦い、そして戦争が終われば、それぞれに自分の故郷に復員してきたわけである。  
若い兵士が復員してくれば、既に家庭を持っている者も、これから結婚する者も、共に新生活をし、新しい家庭を築くわけで、そこで新しい生命が誕生するのは何ら不思議ではない。  
この時期に生を得た新しい世代が、要するに、全共闘世代なわけで、そのことは第2次世界大戦後の価値観の変換というのは日本だけの事ではなく、ある程度世界規模で価値観の転換という事が起きたわけである。  
その価値観の転換の中で、又戦後の復興の中で、この全共闘世代の親の世代が、それなりに豊かになったわけである。  
そうなった背景には、科学技術による物つくりの合理化が進み、科学技術の進展がさらなる新しい雇用を作り出し、緩やかな産業革命が起きたといってもいいと思う。そして、戦争によって旧来の施設が破壊されたことによって、戦後は新しい発想でもって再建がなされた事にもよると思う。  
特に日本の場合は、無からの出発であったわけで、それが朝鮮戦争という外圧的な要因により、我々の意思とは殆ど無関係に戦後の復興というものがなされたわけである。  
我々の場合、かっての西洋先進国と比べれば特に戦火の被害がひどく、日本の領域というのはまさしく無に等しかったわけである。  
日本の領地で無傷のところは外国の領地になってしまったわけで、日本の国土というのは正しく灰燼と化してしまっていたわけである。  
その中で生き残った人々というのは、完全に旧来の思考というものを信じなくなって、精神的な無秩序状態に陥っていたわけである。  
そういう中で新しい生命が生まれ、それがだんだんと成長するにつれて、その親の世代と云うのは、自分の息子や娘に日本人としての価値観を教える事が出来なかったわけである。  
自分達は国家の言う事を疑うことなく、頭から信じて戦ってみたら、それは全部嘘っぱちで、結果としては途端の苦しみだけが残ったわけである。  
その中をかろうじて生き延びた世代というのは、自分の子供達に生きるための指針というものを教える事に自信を喪失してしまっていた。  
それと同時に、日本の旧来の考え方というものが通用しない社会が出来上がっており、その中においては自分達の生活は旧来の生活よりも数段とよくなっていたわけである。  
自分の子供には人間としての生き方を教える事は出来なかったが、自分も家族も含めて、いわゆる生活は豊かになっていたわけである。  
働けば報われる社会というものが出来、ただただ家族の為に自分の労働を切り売りするだけではなく、自分の欲望を満たすだけのゆとりも出てきたわけである。  
そのゆとりというものが、自分の子供を大学にやる、教育を受けさせる、というゆとりであった。  
その背景にある深層心理というのは、自分の子供を大学にやれば卒業後その子供にとって有利に作用するであろう、という打算であると同時に、子供のための愛情でもあったわけである。  
これがいわゆる学歴社会というものを形作ったわけであるが、これにはやはり社会の側で、高等教育を受けた人間を好む、という学歴コンプレックスがあったことは否めない。  
明治維新以降の国策、つまり優秀な人材を国家が養成して、そういう人たちに将来の日本を運営させなければならない、という富国強兵式の発想が抜けきれなかったということである。  
戦後に至っても、あれだけの価値観の変換を経た後でも、なお我々大和民族は、中央集権的な官僚主義から脱却できなかったわけである。  
明治維新の時代には、日本帝国というのは、西洋列強から比べれば確かにあらゆる面で立ち遅れていた。  
それを一気に挽回しようとして、国立の教育機関で優秀な人材をたくさん養成して、それを日本のあらゆる組織に中に送り込んで、その近代化の遅れを挽回しようとしたわけである。  
それを具現化したものが、富国強兵というスローガンであり、それに邁進した結果が、第2次世界大戦の敗北という結果を招き、我々の過去の努力は無に帰したわけである。  
そういう経緯を経た後でも、我々は学歴偏重主義というものから脱却できなかったのである。  
国家を運営するのに、官僚の力というのは大きな影響力があることは万国共通だろうと思う。  
我々の場合、何事をするにも官僚の顔色を伺はなければならない。  
そのことは官僚が大きな力を持っているということで、その官僚の養成機関が東京大学であったわけである。  
国家の仕事をしてもらうのに、おかしな人間がおかしな事をして、私利私欲を肥やすようなものに国家の運営にタッチしてもらいたくない。  
その意味では、国家公務員採用試験というのはその意義を認めざるを得ない。  
昔の中国で言えば科挙である。  
国家公務員試験というものでふるいをかけて、その中から官僚を採用するというシステムは、ある程度の整合性は認めなければならない。  
国家のシステムが中央集権である限りにおいて、官僚というものが力を発揮するのは致し方ない。  
問題は猫も杓子もそれにあやかろうとするところにある。  
日本人の誰も彼もが、同じ目標を目指そうとするものだから、そこに過当競争が潜んでいるわけで、そうそう皆が皆、官僚になれるわけでもないが、官僚になれなければその次、それもだめならもう一つしたでもいい、という願望の階級制度が必然的に出来てしまうわけである。  
こういう制度を目の当たりにした戦後の親というのは、自分では自分の子供に何一つ人生の指針を指し示しえないが、ただただ自分の子供が上級学校に入りさえすれば、それは我が子の幸せに直結するものだと考えたわけである。  
戦前は国民の大半が貧乏で、尚且つ教育が立身出世に直接的にかかわるなどとは思っていなかったので、そうそう猫も杓子も進学するということはなかった。  
いわゆる本当に選ばれた者、進学するゆとりのある者、学問を目指す者という風に、高等教育の門も開かれていた。  
ところが戦後は、それこそ猫も杓子も一つの限られた門に殺到するものだから、当然狭き門となってしまったわけで、その狭き門を広くしなければならないというわけで、大学の乱立ということが起きた。  
資本主義社会だから、この狭き門に殺到する学生を見て、これをビジネス・チャンスだと捉えるのは目先の聞く経営者であったに違いない。  
国家という人間の集団の中で、18歳から22、3歳の若者を4年間も勉強させるということは、社会的に大きなゆとりといわなければならない。  
世が世ならば、この世代の若者というのは、労働者として一番価値のある、つまり一番働き盛りの世代であるし、徴兵制のもとでの兵士としても一番役に立つ世代なわけで、その世代のものが学校で勉強にいそしむ事ができる、ということは社会として非常に大きなゆとりといわなければならない。  
学園紛争というのは、そういう背景の元で起きたわけである。  
あれから40年を経過した現時点では、当事者達もそういう視点で自分の過去を振り返った事はないだろうけれど、第3者的に敷衍して、あの学園紛争というものを見ると、こういう視点も成り立つ。
野生の猿軍団  
若者が現状に不満を持ち、既存の秩序を乗り越えようとするのは、生き物としての宿命でもあるわけで、それは野生の猿においても顕著に見られる事である。  
戦前の日本の軍隊の中でも、青年将校の氾濫というのは、この全共闘世代の行動と同じであったわけである。  
既存の秩序に我慢ならず、近未来の日本というものを考えると、なんとも不安に駆られて、青年の熱情のはけ口として、過激な行動に出るという点では全く同じ行動パターンを踏襲していたわけである。  
戦後の若者は平和思考で、戦前の軍人としての青年将校の氾濫とは同一視できないというのは、生き物としての人間、人間というものの本質を見ようとしない偏狭な思考の持ち主だと思う。  
「青年は荒野を目指す」というのは完全なる真理である。  
青年が不満を持つ現体制というものを、力で倒しても由とするところが、完全に共産主義の理念と合致しているわけで、人間というのは理性を持った生き物のはずで、いくら若者が現行体制に不満を持ったとしても、それを理性で抑える事が人としての謙虚なあり方のはずである。  
青年の不満をモロに直接的な行為として具現化したのが中華人民共和国の文化大革命であったわけで、この時代に中国の様子というのは我々日本人にはそう安易には入ってこなかった。  
入ってこなかったというよりも、情報そのものがコントロールされていた、と云った方が適切なのかもしれない。  
日本の有力なマスコミというのは、中国に対しては言葉で言い表せない贖罪の意識が作用して、中国の汚点というようなものはストレートに入ってこない。  
この時限においては、我々には中国の旱魃も、人民公社の失敗も、プロレタリア文化大革命のニュースも、殆ど知ることなく日々を過ごしていた。  
ところが実際に大学等で行われていた学園紛争の有り様というのは、まぎれもなく中国の文化大革命の紅衛兵の行為と全く同じであったわけである。  
そのことは共産主義というものが限りなく日本にも浸透していたわけで、それは必ずしも日本共産党が関与していたとは限らない。  
全共闘世代の過激な活動をしていた連中というのは、既に日本共産党を見限っていたわけで、根っ子は同じ共産主義であっても、それ以上に過激な思考で凝り固まっていたわけである。  
日本共産党といえども、既存の日本の政治体系の中では、既に革命の余地は見出せないという事に気が付いているわけで、やはり政党政治の中で穏健に社会主義の方向に進まねばならないという風に考え方が変わっていたわけである。  
全共闘世代の若い闘士達にとっては、それでは物足りないわけで、それが勢い武力闘争という手法になったわけである。  
武力闘争といっても、我々日本人は昔から刀狩の民族で、一般家庭に銃器が出回るという事はないわけで、革命をしようにも家から鉄砲をもってくることはありえないわけである。  
仕方がないので、石やコンクリートの破片を投げつけるという、江戸時代の百姓一揆よりも武力的に劣る戦いを強いられたわけである。  
文化大革命の紅衛兵の戦術というのは、中国伝来の人海戦術で、一人を大勢で取り囲んで吊るし上げるという行為で、言葉を武器に、一人を大勢で言葉責めにするわけである。  
そしてそこに公権力というものが仲裁に入らないので、被害者は相手の言葉に疲労困憊するわけで、鉄砲とか刀という武器を使うことなく、言葉の集中攻撃で相手を窮地に陥れるわけである。  
戦後の日本人というのは、争いごとの解決に実力行使ということを避け、話し合いで事を解決することを由としているが、それは双方の理性的な話し合いである事が前提条件である。  
ところが、この紅衛兵のやっているという事は、一人の被害者に対して多数の人間が罵詈雑言を浴びせるわけで、これでは最初から理性的な話し合いではないわけである。  
それと、あの立て看板というのも、中国の大字報と類似しているわけで、この大衆団交と大字報の模倣を全共闘の学生達がしていたと言う事は、明らかに中国との関連性を認めないわけには行かないと思う。  
問題は、中国と同じ事が何故日本でも起きていたのかということである。  
ここにはいわゆるスパイの暗躍ということは考えにくい。  
スパイというのは、このような大勢の大衆を対象とするものではなく、あくまでも情報収集に徹するわけで、そうかと言って韓国のKCIAの行った金大中拉致事件のように、国家機構が積極的に関与したようにも見えない。  
考えられる事は、やはり日本の側に、中国の指針に基づいて騒ぎを起そう、という意思があったのではないかという事である。  
考えてみれば、20歳前後の青年が、こういう政治活動に走るという事は、非常に早熟なわけで、並の若者ならば身の回りの事に関心を寄せがちのときに、政治的に既に覚醒して、近未来の日本を憂いているわけで、こういうように早熟なものは、どうしても海外の事情にも目覚めるのが早かったわけである。  
それが哺乳類一般に云われている、若い個体が既成秩序を打破する、と言うことでもあったわけであるが、人間の社会というのは、基本的に人として、して良い事と悪い事というのは既成の秩序の前にあるわけで、それは倫理という言い方で人類全般に普遍化しているわけである。  
中国の文化大革命というのは、この人類の倫理にも反する行為であったわけで、日本の学園紛争、学園闘争、スチューデント・パワーというものも、この中国の手法を無批判、全く咀嚼することなく、そのままの形で受け入れた為、世の中の混乱を招いたわけである。  
大衆団交という言葉は、大衆と管理者、統治者、当局側が冷静な場で、粛々と議論するという風に受け取られがちであるが、実際は少人数の被害者を大勢の無頼の輩が取り囲んで吊るしあげをしているわけで、その実体は言葉による暴力以外の何物でもない。  
学生の側は、秩序とか、倫理観とか、目的意識の統一性が全くないわけで、各々のグループ事に主張が違っているわけである。  
そのことは、主張を同じくするものがそれぞれにグループを作ったわけで、そのグループ同志を纏めたり、統一したりする機構を持たないものだから、グループ同士が好き勝手な行動に移るわけである。  
それは正しく無秩序というもので、大勢の学生達が、自分達の意見の合いそうなもの同志が一つに集まって群れをなし、その群同志が意見の対立を巡って武装闘争を繰り返すという事は、つまり内ゲバという事は、野生の猿の集団の行動と全く同じという事である。  
人間社会において、我々人類というのは、人類共通の価値観、つまり倫理というもので人として、して良い事と悪い事というものを峻別しながら生きているが、それを否定するとなれば、それは野生の猿と同じになってしまうわけである。  
言い方を変えれば、より自然に帰った、野生の人間に帰った、という事もいえる。中国の文化大革命と日本の学園紛争の違ったところは、日本では統治するものの権力、つまり公権力が生き残っていたという事である。  
中国の紅衛兵のしている事を取り締まる機構が生き残っていたという事である。  
つまり、警察力である。  
大学の機構が、野生の猿軍団に占拠されたとき、それを排除する公的機関があったということである。  
この学生運動の動きというのは、日本だけの現象ではなく、アメリカにもイギリスにもフランスにもドイツにも、いわゆる先進国では同じような動きがあったが、これらの諸国はやはり日本と同様公権力というものがしっかりしていたわけで、このスチューデント・パワーというものはある意味では押さえ込まれた。  
押さえ込めれなかったのは、ただ一国、中華人民共和国のみである。  
中華人民共和国では、この運動が約10年間も続いたわけで、その意味するところは、中国という共産主義国家では政治が完全に機能していなかった、という事に他ならない。  
他の西洋諸国では、学生の運動は起きたが、それは公権力でもって押さえ込む事が出来たわけで、そのことは国家の機能がしっかりと機能しつづけていたという事である。  
この時期、東大の安田講堂というのは、2度にわたって野生の猿軍団に占拠されたわけであるが、その度ごとに警察力によって排除されたわけである。  
大学生が、自分の学校の建物を占拠する、という行為があっていいものだろうか。しかも国立の大学で、国立の大学の施設といえば当然国家財産であり、そこに属する大学生となれば、国家から選抜されたエリート中のエリートのはずで、そういう連中が国家の財産を私物化して、そこに砦を築いたりする事が許される行為であろうか。  
人間が月にまで行く時代に、石やレンガを武器として、革命をしようなどという発想は噴飯者で、それを日本の最優秀であるべき東大生が行ったという事は、漫画チックでさえある。  
東大生の優秀さというのは、その選抜の過程で証明されているわけで、その優秀であるべき東大生がこういう漫画チックな行為に走ったという事は、彼ら自身真剣に物事を考えていなかったという事に他ならない。  
いわゆる革命ゴッコをしていたわけで、この全共闘世代と言うものが、この時代を述懐した言辞を見る限りにおいて、彼らは革命ゴッコをしていたに過ぎない。  
つまり、彼らは遊びで学園紛争、学園闘争、スチューデント・パワーを振り回していただけで、誰一人真剣に革命を成就しようなどとは考えていなかったわけである。
知識人の責任  
部外者として憂慮すべき事は、学生達にこういう行動に走らせた原因追求という事を、当局の側では真剣に考える必要があると思う。  
それは何も学生の言うことに屈するという意味ではなく、学生の言い分を丸呑みするという事でもないが、こういう犯行が出てくる背景としては何かがあるわけで、先のインターン制度を登録医制度に改革するという問題などにも何らかの要因が潜んでいた事は確かだろうと思う。  
大学も戦後の改革を免れなかったわけで、この頃から制度疲労が目だってきた事もあったに違いない。  
大学という学問の自由の場に、公権力・警察を導入しなければ事態の解決が出来ないような事を招いた、という意味では大学当局側に責を負うべき点もあると思う。  
紛争の切っ掛けとなった学生の処分問題等にもそれは伺えるわけで、だからと言って、それに抗議する学生を容認するわけには行かない。  
処分の問題と、大学の紛争とは次元の違う問題なわけで、それをどさくさに紛れて同一視する考え方というのは許される事ではないし、理性ある思考ではないと思う。  
大学の教授の側にも堕落した教授がいた事も確かだろうと思う。  
当局側が全部正しいなどとは思わないが、問題はこういう学生を表立って支援する知識人というもの存在である。  
石やレンガを安田講堂に運び込んで、武装闘争を企んでいる全共闘の学生に対して、それを排除するために公権力を利用しようとした当局側に対し、尚も批判の追い討ちをかける知識人の存在である。  
これら知識人が、大学当局の不備を批判する事は吝かではないが、学生をバック・アップするような発言は、あまりにも人間の築いた社会、同邦としての日本人の社会、そして我々の精神の奥にある倫理とか軌範というものを蔑ろにした発言だと思う。  
1969年、昭和44年1月18日、東大の安田講堂が警察によって解放されたが、この時、この行動に対して「安田講堂武装排除に対する文化人の声明」というのが、同年2月2日の朝日ジャーナルに載っている。  
その冒頭は「加藤代行を先頭とする東大当局は政府、官憲の武装力を導入する事によって東大構内に立てこもる学生を排除する事に成功した。完全武装の機動隊の暴力に支えられた学園の秩序は、こうして警察による大学占拠という形で確立されたのである」。  
末尾は「東大を国家の暴力的秩序から直ちに解放しなければならない。警察は逮捕者を直ちに釈放しなければならない。我々はそのために全共闘の学生諸君と共に戦うであろう」と締めくくっている。  
そのあとに堀田善衛、鶴見俊輔、いいだ・もも等50名近い文化人の名前が連記されているが、この声明文を我々、一般国民はどう理解したら良いのであろう。  
この文章では国家権力というものは「悪」で、全共闘の学生達は「善玉」であるという固定感が見えるし、全共闘の学生が安田講堂を先に占拠したという事を棚に挙げて、それを排除した公権力を暴力と認定している。  
こんな馬鹿な事があっていいものだろうか。  
これが日本の文化人と称する人々の頭の中身であろうか。  
この文面では、国家の財産としての大学の施設を壊した事が悪事である、という認識は一切でてこないわけで、悪いのは一切合財大学側である、という見解しか見えてない。  
これら文化人は、「事の解決には話し合いが大事だ」と事有る毎に言っているが、人民裁判もどきの吊るし上げが果たして理性的な話し合いといえるであろうか。  
学生が安田講堂の上から石やレンガを投げる事は暴力にあたらないのであろうか。こんな馬鹿な話があってたまるかと言いたい。  
一人の人間を大勢で囲んで、集中的に罵詈雑言を浴びせ、個人の尊厳を踏みにじる行為が、暴力ではないと言い切れるであろうか。  
こういう発言を全共闘の学生の側から見ると、非常に心強い味方がいるように見えるのではなかろうか。  
それに名を連ねている人達が、世をときめく知識人ばかりとなれば、彼らにしてみれば自分達のしている事は正しい事だと勘違いするのもむべなるかなである。  
第3者的に見れば、あまりにも無責任な発言であると思う。  
あまりにも、過激な思想の若者に迎合しすぎて、彼らを煽る行為だと思う。  
理性的な人間ならば、こういう煽り、扇動には乗らないが、彼らが理性的でないからこそ、こういう過激な運動になるわけで、そういう状況に対してあまりにも無責任な発言だと思う。  
いくら学生の処分に手違いがあろうとも、だからと言って、大学の機能を麻痺させるような行為が許されるわけはないし、まして大学としての国家施設を不法に占拠し破戒する事など許されるわけがない。  
日本の知性といわれる人たちならば、そういう学生に対して理性的な説諭でもって、そういう行為を止めさせる方向に論旨を展開しなければならないのではなかろうか。それを、火に油を注ぐような発言をして、それを知識人として連名で発表するなどということは、大学の自治というものを、自ら踏みにじっているとしかいえない。あの状況を見て、国家の暴力的秩序などとどうしていえるのであろう。  
主客転倒とはこのことではなかろうか。  
彼らの言い分を聞けば、東京大学というのは廃校にしてしまえ、と言うことであったのだろうか。  
東京大学が廃校になろうとなかろうと、我々には関係のないことであるが、そこの卒業生と在校生にとっては重大な事に違いない。  
大学内の教職員の官僚主義というのは、是正されるべき事は多々あったに違いないが、だからと言って、学生が安田講堂に篭城して、建物を壊して、上から石やレンガを放り投げて良い筈がない。  
この事件の起きる前、1968年、昭和43年11月12日に、文学部長の林健太郎教授が学生の監禁にあい、173時間に渡って身柄を拘束された事があった。  
そのことを本人が文芸春秋の44年1月号に記している。  
その文章の中で「個人としては決して悪くない学生が、集団行動をとる時には実に無茶な事をし、しかもそれを当然だと考えるような風潮を作ってしまったのは、このような学生運動を不当に高く評価する一部の言論の所為である。」と述べている。この「このような学生運動を不当に高く評価する言論」というのが、その後の朝日ジャーナルに載った「安田講堂武装排除に対する文化人の声明」となって現れているわけで、紅衛兵もどきの大衆団交の被害者となった文学部長がこういう文章を出した後にもかかわらず、尚もその当局者の言う事を信ずることなく、学生の側に肩を持つ文化人、知識人というのがいたわけで、学生をリードすべき日本の知性と言うものがこういう体たらくでは日本は良くなるはずがない。  
そして、この林健太郎文学部長の文章の中には、日本人としての潜在意識としての群集心理というものが無意識のうちに内在している。  
それは我々日本民族の根源的性癖でもある。  
それは「個人として決して悪くない学生が集団行動になると無茶な事をする」という部分がそれが表れている。  
これは日本民族が潜在的にもつ民族的な本質で、我々は老いも若きも、こういう傾向がある。  
1937年、昭和12年、12月、日中戦争の時、日本軍が南京を攻略し、そこを占領した事があった。  
そのとき日本軍が無意味な殺傷を繰り返したという事が、その後南京大虐殺として知れ渡る事になり、それがその後誕生した中国の共産主義国家の外交カードとして、我々に贖罪の意識を植え付けるカードとして、非常に大きなインパクトをもたらしている。  
この南京大虐殺というのは、被害者の数がいささか問題であり、日本と中華人民共和国の間で、政治的乃至外交的に、非常に曖昧で、正確な数というものは確定していない。  
しかし、正確な数が確定していないとしても、日本軍が無辜の市民を無意味に殺害したことは否めないと思う。  
このときの日本軍というのが問題なわけで、軍のトップとしては松井石根と言う人がいたにも関わらず、彼はそういう事件が有った事は聞いていない、と証言しているわけである。  
中国人を2,3人殺したのが大虐殺と誇大に言われたのか、実際に虐殺があったにもかかわらず、日本側でそういう報告を握りつぶしたのか、そのところははなはだ不明であるが、戦争状態の中で中国人の殺傷が1件もないということは逆に不自然なわけで、規模の大小はともかくとして、日本軍の無意味な殺傷というのはあったに違いない。  
これをしたのが誰かと問うと、当然それは日本側の下級兵士ということになる。  
上級幹部というのは、当然その立場上、こういう行為を諌める方向に動くわけで、  
(同胞としてそう信じたい)占領した地域で相手の住民を無意味に殺すという行為は、当然下級兵士の仕業ということになる。  
「下級兵士とは一体なんぞや」と問えば、それは徴兵でかき集められた有象無象の日本の大衆、いわば八百屋のおっさんや、床屋のおっさんや、我々、庶民の父や兄や兄弟であったわけである。  
この人達も個々の人間としては決して悪い人たちではないが、集団行動となると、無茶な行為を展開したわけである。  
しかも敵陣の中に占領軍として入り込んでみれば、周囲は皆敵であったわけで、南京の城郭の中に入ったとはいえ、中国人を城の外に追い出したわけではなく、占領したとはいえ、周囲は敵ばかりであったわけで、その中に身を置けば、対戦国、敵対国の人間はすべからく敵であったわけである。  
敵ならば殺しても構わないと思うのも無理ない話で、そこで日本の下級兵士達は、集団で、徒党を組んで傍若無人に振舞ったに違いない。  
その先には、相手の国の人々を無意味に殺傷した、という行為に行き着いたものと想像する。  
この時の下級兵士の集団行為というものと、学生運動の最中に学生が徒党を組んで学部長を吊るし上げる、という行為が見事にオーバーラップする。  
南京大虐殺をした下級兵士も、個々の人間としては決して悪くないが、彼らが徒党を組んで、群集心理に巻き込まれると、途方もない悪事をしでかしたわけで、それと同じ行動パターンを踏襲したのが、全共闘の学生が徒党を組んで自分達の大学の教師達を大衆団交に引きずり出したわけである。  
個々の人間は決して悪人でないが、その悪人でないものが徒党を組んで悪事を働く、という事は実に人間として情けない行動パターンである。  
一人では何も出来ないので、徒党を組んで、仲間とつるまなければ何も出来ない、というのは「個の埋没」以外の何物でもない。  
大衆団交という言葉も、吊る仕上げをする方は、大衆と称する数を頼みとする多数派で、その多数が集団で一人か二人の被害者に言葉の暴力を浴びせかけるわけで、そんなことは理性的な行為であるわけがない。  
東京大学の学生たるものがそんなことがわからないはずはないわけで、彼らは判っているにもかかわらず、それをしたわけである。  
それをする事によって英雄気取りでいたわけである。  
そのことは南京大虐殺の加害者としての、日本の下級兵士たちの行為と何ら変わるものではない。  
そのことをこの林健太郎の文芸春秋の文章は如実に物語っているわけである。  
徴兵制で駆り集められた玉石混交の人間集団としての下級兵士の行為と、日本のエリートとしての東京大学の学生の行為が同じ行動パターンであった、ということは一体どう言う事なのであろう。  
そこには学問に裏打ちされた良識、理性、知的謙虚さというものは全くないわけで、有象無象の人間としての集団と何ら変わるものではないということである。  
そのことは学問のある無しに関わらず、人間というのは人としての基本的な行動に本能的に従うという事ではなかろうか。  
人としての基本的な行動パターンというのは、いわゆる団体行動というものは、個としての理性というものを失わせるという事である。  
昔の軍歌にあったように「あいつがやれば俺もやる」というわけである。  
又こういう言葉もあった。「人の振り見て我が振り直す」  
この俚諺は、通常、他人の恥ずかしい行為を見て、自分はそうせずに改めるという風に使われているが、それの裏返しについても他人の影響ということがあるわけで、「あいつが万引きをするのならば俺も一辺やってみよう」というマイナスの行動パターンとしてもありうるわけである。  
南京大虐殺が徴兵制でかき集められた下級兵士の無為な行為の結果だったとすれば、東京大学の全共闘世代の学生の学園占拠という行為も、いわゆる群集心理に突き上げられた、理性を喪失した行為であったといわなければならない。  
そして林健太郎氏がいみじくも言っているように、そういう行為を煽るマスコミというか言論界というか、文化人等の発言があるわけで、これもあの戦争中に我々が体験した事と全く同じ状況であった。  
あの時代、言論が厳しく統制されて、南京大虐殺の事実は日本にはもたらされておらず、終戦後の極東軍事裁判で我々、日本国民というの始めて知ったわけであるが、あの時代、国民の全体を覆い被さっていた事は「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」であったわけで、敵国人を殺す事は美徳であったわけである。  
それを戦時中を通して、当時の日本のマスコミは大々的に宣伝していたわけである。今の言葉で言えば軍国主義の鼓舞宣伝であったわけである。  
それを真に受けた国民の側は、国策に迎合して批判精神というものを失っていた、と今日、今の時点、21世紀に差し掛かるという時期に、歴史の教訓として我々は認識しえるが、あの時代の中では我々はそういう認識を持ち得なかったわけである。知らず知らずの内に、当時の国策に迎合していたわけである。  
戦後の全共闘世代と言うものが、大学の施設を占拠して、大学の機能を失いせしめた若い学生を、後から煽るように支援する日本の文化人といわれる人々の発言が、こういう学生の精神的な拠り所となっていたことは否めない。  
人間の一生というものを考えた場合、学生時代というのは多感な時期で、いわば世間の事については白紙のキャンバスのようなものである。  
そこに「旧来の秩序や、人間の基本的な倫理というものを無視してもいいですよ」という過った価値観を植え付けたとしたら、その後の世代が良くなるわけはない。それをこの時代の日本の文化人というのはしていたわけである。  
これは「常に国家の言う事に従順であれ」という事ではないが、既存の秩序を変更するには、規定のルールがあるわけで、そのことは同時に民主主義の実践には手間隙が掛かるということに他ならない。  
それを一気に是正しようとするものだから、革命という事になり、革命には暴力が常に付きまとうわけである。  
民主主義的手法でものごとを変革しようとすれば、それは永遠に近い歳月が必要な事も承知しているが、それはアプローチの手法の研究を怠っているからに他ならない。  
「若者は荒野を目指す」という事はある意味で真実だと思う。  
問題は、若者の前にある荒野が何であるかと言うことである。  
世が世であれば、それは神風特別攻撃隊であり、学徒出陣の出征であり、2・26事件の反乱であり、大学紛争で石やレンガを投げる事であったわけである。  
少なくとも戦前の若者が目指した荒野というのは、国策に沿った線で存在しえたが、戦後はそれが国家の方針に対抗する形で存在していたわけである。  
この後の部分をもう少し掘り下げて考えてみると、全共闘世代というのは、国家の方針に対抗したというよりも、既存の体制、つまり目の前にある全ての秩序、既成の価値観、既存の大人が構成している社会そのものに不満を持っていたわけで、それは戦後15年足らずの間に、戦いに生き残った人々が築いた価値観を全否定する事にあったわけである。  
彼ら、全共闘の世代では、戦後の占領軍が行った大改革、いわゆるマッカアサーの行った5大民主化というものを知らないわけで、彼らの世の中を見る眼が見開いた時点では、その戦後の社会の成り立ちそのものが陳腐化していたわけである。  
1945年から1965年の20年間には、戦前の日本古来の価値観と言うものが見事に御破産となっていたわけで、その後の価値観というものは、旧世代の人間にとっては新しいもので、戸惑いがちであるが、彼ら戦後生まれの全共闘世代から見れば、それは既に時代遅れになっていたわけである。
エリートの傲慢さ  
人は社会というものを形作りながら生きるものだとすれば、そこには人として、して良い事と悪い事が必然的に生ずるわけで、それが倫理というものだと思う。  
我々、戦後の日本人と云うのは、昭和20年8月の価値観の大転換に遭遇した時、この倫理を後世に伝える事に躊躇してしまったわけである。  
自信を持って後世に人としての倫理を説く勇気を失ってしまったわけである。  
だから自分の子供にさえ人としての道を説くことに自信を失い、自分の子供を放任する事が新しい世紀の道徳律であり、新しい民主主義の普遍化である、と思い違いをしてしまったわけである。  
自分の子供は「個の尊重」という意味からしても、古い倫理を説くよりも、我侭一杯に育てる事が新しい人の道だと勘違いしたわけである。  
個の我侭を押さえつける事は「悪」で、個人の我侭は何処までも押し通すことが新しい時代の新しい生き方だと思い違いをしてしまったわけである。  
そういう環境下で成長した若者は、わずか十数年前の価値観でさえも我慢しきれず、反抗したというのが全共闘世代ではなかったかと思う。  
人間の生き様の中では、耐えるということは避けて通れないわけで、人が全部が全部、我侭を押し通せば、社会そのものが成り立たないわけである。  
社会の一番小さな単位である家庭においても、夫婦の間でさえも、日常茶飯事的に耐えるという行為は存在しているわけで、好きなもの同志が新しい家庭を目出度く作ったとしても、お互いに100%理解しえているわけではなく、相手に対する少々の不満は、お互いに我慢する事で家庭というものが成り立っているわけである。  
この我慢に耐え切れない人が多くなったから、離婚という事が多くなったわけである。  
我慢する事や、耐えるという事を「悪」とみなす価値観というのは、非常に不遜で、思い上がった思考であり、人間として尤も忌み嫌うべき性質のものでなければならない。  
人間の集団としては、自分の我侭というのは早々押し通せるものではない。  
自分の我侭が通らない時は、必然的に我慢しなければならないわけで、我侭をこらえることが出来ないでは、人間の社会の中では生きていけないわけである。  
国の定める法律から、学校での校則に至るまで、はたまたごみの出し方まで、個人の我侭を抑える方向に作用しているわけで、それを否定するという事は、自分の属する社会そのものを否定するという事になる。  
全共闘世代というのは日本共産党員ではないにしても、共産主義、マルクス主義の影響というものは色濃く受けているわけで、政党としての共産党では、政党としての制約があるので、その制約から逃れるために別の組織を形作っている。  
自分達は共産主義というものに共鳴しておきながら、共産党としての既存の枠組み、自分達の我侭を押さえこむシステムとしての党というものから逃れたがっていたわけである。  
正しくアウトローそのものである。  
一匹狼という言葉はあるが、群からボイコットされた迷い猿とでも言う他ない。  
この現象は日本だけの現象ではなく、地球規模で全世界に広がっていたわけで、中でも中華人民共和国の青年の犯行というのがプロレタリア文化大革命であったわけで、中国の独裁者毛沢東というのは、それを保身に使ったわけである。  
毛沢東の共産主義というのも、考えてみれば付け刃であったわけで、共産主義体制、社会主義体制においても、一旦権力を握った人間というのは、ある意味でその自分の獲得した権力というものを手放したくない、という欲望に駆られるわけである。その心根というのは、その人の生い立ちが関係しているわけで、その生い立ちが貧しいが故に、心まで卑しく、心が卑しいから自分の権力というものを手放したくないわけである。  
人間は、立って半畳、寝て一畳というのは真理であって、これ以上のものは持っていても仕方がないはずである。  
いくら金銀財宝を手中に収めたとしても、それを持って冥土に行けるわけではなく、後に残せば、残されたものがそれを奪い合って、骨肉の争いをするのも人間の生き様として真理である。  
「子孫に美田を残すな」という事は、人間の生き様として我々の得た経験則だと思う。  
その事がわかっていれば、自分の権力であろうと、金銀財宝であろうと、仮の世の仮の栄光であったわけで、そんな借り物に固執する必要は全く無いにもかかわらず、人々は往々にしてそれらが自分のものだという錯覚に陥るわけである。  
自分のものだから失いたくないという心境になるわけである。  
もともと貧乏人だからこそ、自分の得た財宝というのは、自分の努力の結果だと思いがちであるが、それを冥土にまで持っていけない、ということをついつい忘れてしまうわけである。  
もともと裕福な環境で育てられた人は、そういう物欲、権力欲、金銭欲というものには淡白で、先祖から受け継いだ資産を自分の代で無にしても、早々切迫観念に捉えわれることなく淡々としている。  
根が卑しい人物ほど、自分の築いた富を失いたくないと思うわけである。  
全共闘世代というのは、親から人としての倫理というものを教えられてこなかった分、人の生き様というものに確信がもてず、自分の子供に対しても、その倫理というものを継承する事が出来なかったわけである。  
そういう環境下において、物質文明だけはドンドン高度化してきたわけで、小学生に携帯電話を持たせておいて、親の方は何ら違和感を感じていないのである。  
世の中がそうなったから仕方がない、という感じで、この感じ方、世間の風潮に迎合する態度そのものが、日本民族の根本的な生き様であったわけである。  
我々の民族の歴史というのは、世間の風潮にあっさりと迎合する事によって、紆余曲折を経てきたわけである。  
あの戦争でさえも、我々は「軍国主義でなければ人であらず」という環境下で推し進め、戦後の民主化では「左翼でなければ人であらず」という環境下で、東大の学生が安田講堂に立てこもり、石やレンガを投げる行為を擁護してきたわけである。そして、そういう過激な学生を擁護する事が、さも新しい考え方であるかのような錯覚に陥って、「全共闘の諸君と共に戦う」などとのたまう文化人、進歩的知識人という売国奴が跋扈するわけである。  
こういう風潮を、後で煽りに煽っているのが、日本の進歩的と称する文化人であったわけで、世間が右に傾けばますます右に傾くような言辞を労し、左に傾けばますます左に傾くように煽る事が、日本の知識人の生き様であったわけである。  
彼らには人が人として社会を築くに必要な倫理の存在というものが見えておらず、個人の我侭を何処までも押し通す事が、新しい社会の倫理でなければならない、と思い込んでいるが、そんな事が実現すれば社会そのものの存立が危ういわけである。民主主義というものを真っ向から否定する事になるわけで、そんな社会というのはありえない。  
共産主義社会の中の共産党の綱領の中にも「下は上に従い、少数は多数に従え」と規定されているわけで、このことは共産党でさえも、秩序というものには無条件で服する事を規定しているわけである。  
中国の文化大革命というのは、この秩序、中国共産党内の秩序そのものがぐらついた事にあるわけで、それが為中国の社会そのものが大混乱に陥ったわけである。  
この全共闘の運動を支援した文化人が言う「国家権力の暴力」が機能しなかったからこそ、中華人民共和国の文化大革命というのは、中国を内側から大混乱に導いたわけである。  
日本においてはこの「国家権力の暴力」が、機能的に作用したから、社会の混乱というのは免れたわけで、警察という国家権力が機能的に作用したからこそ、今日があるわけである。  
戦後の政治というものを見た場合、日本の独立とか、日米安保条約という大きな局面で、学者連中がこぞって反対したことは全部裏目に出ている。  
学者連中の未来予測は全部間違っていたということは、一体どう解釈したら良いのであろう。  
学者連中がこき下ろす政治家の判断が正しく、「曲学阿世の輩」と政治家から馬鹿にされた学者連中の未来予測が全部外れたという事を、我々はどう考えればいいのであろう。  
先の大戦中の日本の指導者というのは、そのことごとくが軍人出身の政治家であった。  
その彼らが日本という国を奈落の底に突き落としたわけであるが、この軍人達と同じ物の考え方が、不思議な事にこの全共闘世代にも生きていたことに世間では気がついていない。  
という事は、闘争を引き起こすのに、武器の手配に全く気が回っていないという事である。  
安田講堂に立てこもって機動隊と渡り合うというのに、機動隊の方は組織立った武器の選択という事が可能であったのに対し、全共闘の側は何も武器らしい武器を持たずに、木片や石ころやレンガを投げつけて、それで機動隊と正面から戦おうとしたこの行為というのは、日本の軍人政治家がアメリカと戦争をした構図と瓜二つではないか。  
沖縄で、上陸してきた米兵と戦うのに、当時の日本政府というのは、沖縄の住民に銃器を支給したであろうか。  
沖縄が敗れた後は本土決戦と言いながら、当時の日本の軍人政治家達は、海岸近くの住民に武器の支給をしたであろうか。  
1万メートルの上空をB−29が悠々と飛行しているのに、下では竹槍でそれに立ち向かおうとしていたわけで、それを大真面目で考えていたのが、その当時の日本軍人政治家であったわけである。  
それと同じことが、この学園紛争、東大の安田講堂の攻防戦にもいえるわけで、機動隊の方は国家の大儀のもと、あらゆる装備が完備していたにもかかわらず、全共闘の方は、日本の昔の発想から一歩も進歩することなく、精神主義で、石やレンガはたまた棒切れで、江戸時代の百姓一揆の武器よりも尚稚拙なもので戦おうとしていたわけである。  
これはもう陳腐さを通り越して漫画チックでさえある。  
これがあの時代の最難関の関門を潜りぬけた秀才の考えた事である。  
正面から戦えば全く勝ち目がないにも関わらず、それでも振り上げた拳の持って行き場がなく、最後まで空しい抵抗をしたわけで、結果はする前からわかっているにもかかわらず、尚行きつくところまで突き進むという発想は、あの戦争に日本を引きづり込んだ旧大日本帝国の軍人政治家の発想と全く同じである。  
戦争前の日本に跋扈した軍人、及び軍人出身の政治家達は、あの時代においては日本のエリート中のエリート達であった事を忘れてはならない。  
東大安田講堂の攻防戦の後、残ったものといえば4億2千万円の国家財産としての建物の被害のみであった。  
ただ政治というか、政治的な活動というのは、やっている連中は結構楽しいものである。  
彼らの行動が政治的と言えるかどうかわからないが、政治というのは「まつりごと」なわけで、その渦中で、わいわいやっている分には結構楽しいものである。  
傍観しているよりも、渦中に入って、自分をその行為に埋没させた方が楽しい事はうなづける。  
革命ゴッコ、文化大革命の真似事をするだけの事で、それは豊で、恵まれた、エリートとしての手形を得たものの傲慢以外の何物でもなかったわけである。  
こういう「迷い猿」の提灯を持つ文化人、知識人の存在こそ近未来の日本にとっては愁うべき存在であろう。 
 
東大紛争

 

1968年から1969年にかけて続いた、東京大学における大学紛争である。東大闘争とも呼ばれる。主に学部生・大学院生と当局の間で、医学部処分問題や大学運営の民主化などの課題を巡り争われた。  
1960年代後半、全国の医学部で学部生と研修医によって、全学連医学協や青医連が始めたインターン制度廃止を軸とした研修医の待遇改善運動が台頭し、東京大学医学部はその中心的拠点校であった。1968年1月、医学部学生大会は登録医制導入阻止や附属病院の研修内容改善などを掲げて無期限ストライキ突入を決議し、医学部は紛争状態に入った。2月、学生と医局員の衝突事件が起きると、大学当局は学生・研修医17名を処分したが、まもなくその中の学生の1人が誤認処分された疑いが強まる。学生側は処分撤回を求めたが、当局は一歩も譲らず、紛争は停滞局面に入った。6月中旬には、局面打開を意図した一部急進派学生が、自治会の統制を離れて安田講堂を占拠した。これに対し、大河内総長は6月17日に警視庁機動隊を学内に導入し、占拠学生を退去させた。  
この機動隊導入は、当局自身の手による大学自治の放棄であるとして学部を超えて多数の学生と教職員の反発を招き、紛争を全学に拡大させる結果となった。自治会中央委など東大七者連絡協議会の呼びかけで、法学部を除く全学部の自治会は6月20日、機動隊導入に抗議する一日ストを行い、安田講堂前で開かれた抗議集会には約6000人が参加した。  
7月上旬には、各自治会執行部より急進的な一部の大学院生らにより安田講堂は再び占拠され、これに新左翼セクトが加わり、東大闘争全学共闘会議が結成された。東大全共闘は当局に医学部処分撤回や機動隊導入の自己批判などを求めり「七項目要求」を掲げ、自治会中央委に代わって学生の支持を集めた。当局は8月10日に七項目要求のうち6項目を受け入れる解決案を告示したが、全共闘はこれを拒否し、紛争は後期にもつれこんだ。10月上旬には全共闘主導で全学部自治会が無期限ストに入った。  
秋に入ると全共闘が「東大解体」を主張し、「全学バリケード封鎖」へと戦術を過激化させたのに加え、ストの長期化や民青系の巻き返しにより、11月には学部生の間で東大民主化行動委員会(民青系)と無党派学生グループ(クラス連合、有志連合、大学革新会議など)が台頭し、全共闘と激しく対立した。一方東大当局では11月1日に大河内総長以下学部長全員が辞任し、後日加藤一郎を総長代行とする新執行部が構築され、紛争収拾に動き始めた。加藤代行は11月中旬、学生側へ紛争解決のために全学集会の開催を呼びかけ、これに七者協や民主化行動委が呼応して各学部・院系から「統一代表団」を選出する運動を始めた。11月から12月にかけて民主化行動委と無党派グループは共同して各学部の学生大会に代表団を選挙させ、統一代表団を形成。年が明けた1969年1月10日、全学集会で加藤代行と統一代表団は「確認書」を取り交わした。確認書は10項目からなり、医学部処分の白紙撤回や自治活動の自由化、今後の大学改革の方向性などを定めていた。全学集会に前後して各学部・院系のストは相次いで解除され、東大生の多数派が当局を相手とする紛争から離脱した。  
一方、少数派となった全共闘は闘争継続を主張して安田講堂等校舎の占拠・封鎖を続けたため、1月18日から19日にかけて、当局の出動要請を受けた機動隊が安田講堂等の封鎖解除と共闘派学生の大量検挙を行った(東大安田講堂事件)。これで全共闘は大きな打撃を受け、紛争は収拾された。さらに1969年度の東大入試は佐藤内閣が中止を決定。全共闘は安田講堂事件以後、急速に退潮し1969年中には東大紛争は完全に収束するに至った。  
安田講堂事件を含めた東大紛争では767人が逮捕され、616人が起訴された。一審判決で133人に実刑判決、400人超が執行猶予付き有罪判決、無罪判決12人であった。 
 
東大安田講堂事件

 

学生の自発的組織である全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が1969年1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦ともいう。
事件の背景  
1960年代後半、ベトナム戦争が激化の一途をたどっていた。また、1970年で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止・廃棄を目指す動きが左派陣営で起きていた。これに伴い学生によるベトナム反戦運動・第二次反安保闘争が活発化した。それと時を同じくして、高度経済成長の中、全国の国公立・私立大学においてはベビーブーム世代が大量に入学する一方で、ときに権威主義的で旧態依然とした大学運営がみられた。これに対して学生側は授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学で結成された全共闘や、それに呼応した新左翼の学生が闘争を展開する大学紛争(大学闘争)が起こった。  
全共闘の学生達は大学当局との「大衆団交」(団交)で自分たちの主張を唱え、それが認められない場合は大学構内バリケード封鎖という手段に訴えた。学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り社会問題に発展していった。  
事件発生までの経緯  
その中で、東京大学においては、医学部自治会および青年医師連合(卒業生が所属)が1968年1月下旬より登録医制度反対などを唱え通称「インターン闘争」に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。これに対して大学側は3月11日に「医局員を軟禁状態にして交渉した」として17人の学生の処分を発表したが、その中に明確にその場にいなかった1人が含まれており、このことが学生側の更なる怒りを招くこととなる。翌3月12日に医学部総合中央館を、3月27日に安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式は中止された。3月26日には「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が他学部も含めた学生有志によって結成され、卒業式阻止の主体となった。しかし、この段階では日本共産党(日本民主青年同盟、「民青」)系の自治会中央委員会や学内の七者連絡協議会は闘争に対して批判的な立場を取ったため、全学の自治会には闘争は波及していなかった。  
医学部では新学期になってもストライキが継続していたが、事態は膠着し、6月15日に医学部の「全学闘争委員会」が安田講堂を再度占拠した。大学当局の大河内一男東大総長は2日後に機動隊を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。その3日後に「東大闘争全学共闘会議」(全共闘)が結成される。以後、大学当局は打開を図ったが更に全共闘や新左翼学生の反発を招き、東大全学部のこれらの組織に属する学生主導によるストライキや、主要な建物多数の封鎖が行われた。11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。  
これらの全共闘や新左翼の学生による暴力行為や、9月30日の日大紛争(日本大学闘争)での大衆団交を受けて、佐藤栄作政権が動き出す。11月22日、全学バリケード封鎖に向けて全共闘系7千名、阻止する日共(民青)系7千名が全国から集まり、にらみあう。全共闘系内部においては早稲田革マルの藤原が中心となって、全学バリケード封鎖反対を各派に恫喝的に説得する。結果的に全学バリケード封鎖は中止となり、背景を知らない学生の一部では、戦時中のレイテ沖海戦の史実と絡めて、「栗田艦隊謎の反転」と語られる。  
11月22日以後  
大河内総長の後任として法学部の加藤一郎教授が総長代行として就任し、1969年1月10日、国立秩父宮ラグビー場にて「東大七学部学生集会」を開催。民青系や学園平常化を求めるノンポリ学生との交渉によってスト収拾を行うことに成功したが、依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断、1月16日警視庁に正式に機動隊による大学構内のバリケード撤去を要請した。
封鎖解除  
封鎖解除1日目  
警視庁警備部は8個機動隊を動員し、1月18日午前7時頃医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始、投石・火炎瓶などによる全共闘学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始された。  
しかし、強固なバリケードと、上部階からの火炎瓶やホームベース大の敷石の投石、ガソリンや硫酸などの劇物の散布など、学生の予想以上の抵抗に遭った。警察側の指揮官佐々淳行は「なるべく怪我をさせずに、生け捕りする」ことを念頭に置き封鎖解除を進めたために、全共闘学生への強硬手段をとれない機動隊は苦戦を強いられたと記している。ただし、機動隊は催涙弾を装填したガス銃を学生に向けて発射しており、そのために学生側には負傷者が複数発生した。また学生側の島泰三は、警察側の攻撃計画が「建物を攻略する城攻めには驚くほど無知」で「実にずさんだった」と評している。午後5時40分警備本部は作業中止を命令。18日の作業は終了した。  
なお、午後には神田地区(お茶の水付近)で「全都学生総決起集会」が呼応する形で開かれ、デモ隊を組織して街頭で機動隊と衝突している。デモ隊は東大を目指したが、本郷三丁目駅付近まで到達したのが限界で、午後9時には解散した。  
封鎖解除2日目  
1月19日午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開された。2日目も全共闘学生の激しい抵抗があったが午後3時50分、突入した隊員が三階大講堂を制圧し午後5時46分屋上で最後まで暴力的手段をとり抵抗していた全共闘学生90人を検挙。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。なお全共闘学生による投石や劇薬の散布などにより、多数の警察官が重軽傷を負った。  
 
警察側の記録によると、この日の封鎖解除で検挙された学生633人のうち、東大生はわずか38人であったという。ただしこれについては、全共闘側の関係者(今井澄、島泰三)から異論が出ており、島は公判で起訴された東大関係者(54名)の数と、全体の逮捕者と起訴された者の比率等から80〜100名程度の東大関係者が東大構内に立て籠もったと推定している。さらに、秩父宮ラグビー場における七学部学生集会粉砕闘争で駒場共闘の中心メンバーが100人以上逮捕されていることも考慮しなければならない。他大学では明治大学、中央大学、日本大学、法政大学の学生が多かった。また高校生で唯一、神奈川県立相原高等学校生が検挙されている。  
東大全共闘の一部と革マル派は封鎖解除前日の17日「兵力温存」を理由に大学構内から脱出、当日抵抗していたのは他セクトと地方を含む他大学からの応援部隊が中心であった。革マル派は、後日他セクトから「日和見主義」などの批判を受け、他セクト(特に中核派)との対立を深める結果となった。  
東大紛争期間中には、構内の建物を占拠した学生によって、丸山眞男をはじめとする碩学が吊し上げられたり、教授室などが滅茶苦茶に破壊され、明治以来の貴重な原書が燃やされてストーブ代わりになるなどの暴挙が行われた。理学部二号館を占拠した学生は、1968年12月24日の乱闘に際して、地質鉱物学科の鉱石標本や化石標本などを武器として投じ、紛失させた。事件の影響で、この年の東京大学の入学試験は中止され、次年度の入学者は0人となった。  
全共闘学生によるバリスト(バリケードストライキ)は安田講堂事件以前から既に複数の大学で行われていたが、安田講堂陥落後は全国の多くの大学にバリストが広がることになる。  
後に同事件の現場指揮担当をした佐々淳行は早期解決のために、鉄球を付けたクレーン車で安田講堂の壁を破壊し、侵入経路を作る「鉄球作戦」を考案したことを様々な形で告白している。しかし、安田講堂は文化遺産であるという認識が警察の上層部にあったため、この作戦は採用されなかったが、後のあさま山荘事件で山荘の2階と3階を繋ぐ階段の壁を破壊するという目的でこの作戦が採用された。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
■事件
 

 

樺美智子さんの「死の真相」
はじめに  
二〇一〇年四月某日、長崎暢子(旧姓・榎本)先生に会いました。五十年前、安保デモで樺美智子さんと一緒に国会に突入した3名の東大女子学生の一人です。  
東大教授(現代史・インド史)を経て、いま龍谷大学の教授です。  
長崎先生から僕に会いたいと、広大名誉教授の金田晋先生(国会突入時の東大文学  
部学友会委員長)とご一緒でした。金田先生の伝言で、五十年前の「安保騒動の樺美智子の死」を、心の奥から突き上げる思いで、僕もお聞きしたいことがある!と思いました。  
一九六〇年六月の『安保』は、樺美智子さんの死に燃え上がった日本を目の前に、時のアメリカ大統領・アイゼンハウワーが直前まで予定していた来日を中止し、ヒロヒト天皇との面会もキャンセルして、急遽マニラから帰国するという国際的事件でした。  
日本の現代史の中でも特筆する大きな事件です。『安保五十年』と言うべきいま、樺美智子さんの闇につつまれたままであった「死の真相」が、もう一度語られてよいのではないでしょうか。
T樺美智子さんの死を知らされて  
旧制・広島高等学校を卒業して、被爆の経験を持つ僕は一九七七年広島共立病院長として赴任し、被爆者医療を病院医療の重要な柱の一つにして三十年余取り組んできました。しかし岡山大卒(一九五三年)そしてインターン後の約略九年、東京・代々木病院で内科医師・丸屋博として超多忙といっていい日々を送っていました。  
一九六〇年六月十六日、午後も病室の回診をやっと済ませた頃であったろう。中田友也副院長が院長室で僕を待っているという。当時、院長の佐藤猛夫先生は中華医学会の招きで中国に行っておられて留守でした。院長室には中田友也先生と、僕は始めてお目にかかる参議院議員の坂本昭氏(佐藤院長と一高・東大医学部の同級生、高知県選出)が、待っていて、厳しい表情で一冊の大学ノートを差し出されました。  
「昨日十五日夜、国会構内で東大生の樺美智子さんが死んだ。今朝、慶応大学法医学で司法解剖が行われたばかりで、中舘教授のプロトコール(口述筆記)がここにある。一語も漏らさずに記録してある。これを伝研(伝染病研究所)の草野先生に読んでもらって樺美智子さんの死因をまとめてもらいたい」と。当時僕は代々木病院に勤めながら、週二回、伝染病研究所の草野信雄先生のところへ病理解剖の勉強をさせてもらいに通っていました。  
アメリカと日本の間で、安保条約の歪がつぎつぎと明るみに出る中で、日本中の世論が十年目の改定の時期を迎えて沸騰していました。永田町、国会周辺は「安保反対!改定を許すな!」と連日万余の民衆が取り囲み、昼夜を超えてデモが続いていました。僕もその前日は午後早めに仕事を済ませて国会前での道幅一杯のフランスデモに参加しました。  
院長室ではじめて会う医師である坂本参議院議員は、国民救援会の会長でもあり、十五日夜社会党議員として真っ先にこの事件を知ったという。十六日の司法解剖に同級生の佐藤院長と一緒に立ち会う予定で代々木病院に来たのだが佐藤院長が留守だったので、急遽中田副院長が同行した。了解を得て二人は慶応の法医学解剖室で中舘教授の樺美智子さんの解剖所見を、一言も漏らさず記録した、そのノートである。  
解剖所見は、身長・体重の計測からはじまり、所定の手続きに従って慎重に進められる。中舘教授の一言一言が記録され、のちの写真撮影、顕微鏡所見などと併せて鑑定書がまとめられる。坂本・中田両先生も、大学の記録係とは別に、進められるメスの行方を見つめるとともに教授の口述を記録した。僕に託されたのがそのノートである。  
当時僕は病理学の勉強のために、週二回午前、芝白金台の伝染病研究所・草野信夫先生の教室に通っていた。草野先生もまた、坂本議員、佐藤院長らと、東大で同級生であった。草野先生は広島へ原爆が投下された直後、東大の救援班の一員として広島に駆けつけ、病理学者として原爆症の解明に大いに力量を発揮された。一九五三年六月、ウイ―ンで開催された国際医師会議で、日本代表として草野先生が始めて報告した「原爆症」(Atomic Bomb Injuries)は、その悲惨な医学的所見を、冷徹な病理学者の目を通して記録されたもので、参加者に強い衝撃を与えた。今日なお、草野信夫著の『原爆症』が、原爆にかかわる医書の原点とされている所以である。(余談であるが、アメリカは占領直後原爆に関する一切の資料を−解剖資料も含めて−本国に持ち帰り、日本での研究・調査のすべてを禁止した。一九七三年五月にアメリカ軍が接収した広島・長崎の被曝資料の返還式があってようやく帰ってきた。草野先生は解剖のプレパラート標本を密かに持ち帰っておられたのだ。)  
坂本・中田両先生の記録ノートと解剖現場での意見交換などを、お聞きした範囲で伝えて、草野先生の解剖学者としての見解を語ってもらった。ぬいぐるみの熊のような人なつこい、そしてやや怖い感じの草野先生は、しばらくじっと僕を見据えてゆっくりと意見を述べられた。僕はこれをメモして樺さんの死因をまとめた。  
1 死体の血液が暗赤色流動性であり、  
2 肺臓、脾臓、腎臓などの実質臓器にうっ血があり、  
3 皮膚、漿膜下、粘膜下、などに多数の溢血点がみとめられ、これらが窒息死によって起こったもの(窒息死の三徴候)であることは疑いのないところである。  
4 さらに窒息死の所見以外には、膵臓頭部の激しい出血、  
5 および前頸部筋肉内の出血性扼痕があった。  
特に中舘教授や助刀の中山助手も驚かせたという、膵臓頭部の激しい出血については、僕も慶応大学・法医学教室を訪ねて臓器そのものを見せてもらっている。これは樺さんの腹部に固い鈍器での強い衝撃が、膵臓頭部を脊柱との間に挟んでの外傷性出血で、途中で見学にこられた東大の上野教授もこの出血を見て、仲舘教授に無言でうなずきながら腹を強く突く所作をし、しばらくして退室して行かれたと、中田・坂本先生の話であった。その後も綿密な解剖所見が続けられて、彼女の頸部筋肉内に扼痕が見つかった。通常であればこの程度の扼痕で窒息を起こすなどは考えられないが、樺さんは膵臓の挫滅出血ですでに重症の状態であって、さらに追い討ちをかけるようなノド仏の両側の扼痕が、手で頚を絞められたことが、彼女の直接の死因となった、と。  
解剖の手順に従って書き続けられている口述筆記(プロトコール)を、草野先生は  
諄々と僕に説明してくれた。僕は先生の言葉を書き取りながら、当夜の状況を、そして樺さんの死因の重大さをあらためて思わざるを得なかった。そして翌日、慶応大法医学教室を訪ねて樺さんの残された臓器を見せてもらい、改めて彼女の冥福を祈った。  
樺さんは腹部に(警棒様の)鈍器で強い衝撃を受け、外傷性膵臓頭部出血と、さらに扼頚による窒息で死亡した、という結論をまとめた。
U 死因発表と検察の対応  
樺美智子さんの死について、樺さんご両親から直接に会って「美智子の死の真相を明らかにしてほしい」と、代々木病院の医局で丁重に頼まれた。僕が彼女の死因をまとめて参議院議員の坂本昭氏(当時、国民救援会会長)にわたし、それを国民救援会は公式に発表した。当日の朝日新聞の記事を借ります。  
樺さんの死因「ヤク死の疑い」  
樺美智子さんの司法解剖に立ち会った参議院議員坂本昭氏、代々木病院副院長中田友也氏は二十一日夕「樺さん死因は窒息であり、ヤク死の疑いが強い」と参議院会館で記者団に中間発表した。両医博の発表は樺さんが死ぬまでの状況や、加害者については一言も触れていない。両医博は樺家の知人として、慶大教授中館久平医博の執刀する解剖に終始立会い、その所見をまとめたものである。  
発表によると、両医博は、次の理由で結論を出したと言う。  
1 まぶたの裏の大きな出血ハンや、肺臓のうっ血など体内各所に窒息死の徴候がある。窒息の原因はノドボトケの両側に筋肉内出血があり、特に右側がひどいので右手による扼死の可能性がいちばん強い。胸を圧迫されたための窒息ということは立証する所見がない。  
2 すい臓出血がある。きわめて珍しい症例で、比較的面積がせまく、かつ固い鈍体が強く作用した結果と認められるが、出血量が五・六〇立方aという少量で、かつ、すい蔵の外へあふれ出ていないので、これが死因とは考えられない。(‘60.6.22、朝日新聞)  
社会党‐「警視総監らを告発」―殺人、職権乱用で日本社会党不当弾圧対策特別委員会(委員長木原津与志代議士)は二十三日、小倉謙警視総監、伊林長松警視庁第四機動隊長、岡村端同第七方面隊長と六・一五統一行動の当時,衆院南通用門付近にいた機動隊全員を殺人、職権乱用、傷害罪で東京地検に起訴した。告発状によると、六月十五日午後五時頃、南通用門付近にいた請願中の学生数百人に警棒をふるって暴行、東大生樺美智子(二二)さんをなぐったりけったりして倒したうえ、首を押さえつけ腹を強圧、結果として窒息死させた。また学生、学者、一般市民数百人に暴行、障害を加えたと言うもの。(‘60.6.24、朝日新聞)  
関連して検察庁から「根拠のない『虐殺』」であることのパンフレットが配られていることが、朝日新聞の同じ紙面の記事に載せられている。  
幾日か遅れて、司法解剖をした慶応大学の中舘教授からの鑑定書が提出されました。『鈍器で腹部を突かれ膵臓挫滅出血、首を絞められた(頚部扼こん反応)』というこの第一次鑑定書は、検察の受け取るところとならなくて書き直しを迫られました(当時、慶大法医の解剖の助刀を勤めた中山浄先生から、逐一連絡がありました)。訂正鑑定書では上記の死因に「人なだれによる胸腹部圧迫」が加えられたと知らされました。この「人なだれによる胸腹部の圧迫が窒息の原因」は六月十五日,樺さんの死体を検察局で検視した監察医務院医師・渡辺富雄氏の「監察医意見書」として検察当局に提出されていたものでした。なお追記すれば渡辺監察医は慶応大学の司法解剖には立ち会っていません。  
この第二次の中館鑑定書は検察局の受け取るところとなりましたが、当局はこの内容に不満で、東大・法医学・上野教授へ「再鑑定」の依頼をしました。上野教授からは「人なだれによる圧迫死・内臓臓出血も窒息による」としたようです。この上野再鑑定書によって、鑑定書は公表されないまま社会党の告訴はとりさげられ、樺美智子さんの死の真相は闇に葬られたこととなりました。法医学会ではその後幾年か、その論争「胸腹部の圧迫窒息で内臓臓器にどのような出血が起こるか」が続きました。しかしそのことは閉ざされた一学会のなかでの論争のひとつで、広く国民の耳目に触れることはありませんでした。  
検察局は、中館、上野、いずれの鑑定書も公表しないと言うことで幕引きを図りましたが、坂本・中田両先生は国民救援会からの「死因の発表」について触れたうえ、「朝日ジャーナル、’60.8.21号」に『樺美智子さんの死因をめぐって』との論文で、上野鑑定書の公表を求めています。朝日ジャーナルはさっそく翌週(八月二八日号)に、同文の表題『樺美智子さんの死因』として上野教授の反論−「窒息によって身体各所の出血、脾臓への出血も起こる。」ことを載せていましたし。内容は窒息によって小さな溢血様の出血の起こることは周知のことだが、絞頚による窒息の場合も脾臓に高度の出血があった例がある。窒息による死亡の場合、東大の解剖例を再調査したところ内臓出血を認めたものが三十〜四十%あったとして「人なだれによる窒息死」で膵臓頭部の出血も起こりうることを記載していました。しかし正式の法医学鑑定書は、両者のいずれもいまだ公表はされていません。
V かくされた「死因」  
「死体は語る」という言葉があります。司法解剖にしろ、病気の原因を探る病理解剖にしろ、解剖台の死体はその「死」に至る前にその人の身体に何が起こったのかをもっとも雄弁に語っているものです。  
僕が受け取った樺美智子さんのプロトコールは,彼女が警棒様の固い鈍器で上腹部を激しく突かれて、脊柱と間にはさまれて挫傷して出血したことを示しています。  
「人なだれ」は、デモの後方で起きており、当夜「人なだれによる死」が、彼女ただ一人であって、そのために骨折など怪我をしたりした学生のあったことは聞いた事がありません。一人の学生が「死」に至るような「はげしい人なだれ」は、あったのでしょうか?  
六月十五日の当夜、出動した第四機動隊と、「安保反対」をシュプレヒコールしながらの素手の学生たちと、衝突があったのです。坂本昭参議院議員も、障害を受けた彼女の当夜の位置が何処にあったのか、何とか確認したいと、しきりに言って居られました。僕自身は当夜の国会の状況を知りませんでしたので、そのことはずっと心の奥に滞ったままでした。  
当時、東大文学部学友会委員長として、全学連の幾百人かと一緒に国会に請願デモの指揮をとった金田晋氏が広島大学で教鞭をふるっておられて、いまは名誉教授、そして請われて下関市:東亜大学総合人間・文化学部長になっておられることを知りました。僕は「広島文学」の稲田公子さんに紹介を受け、突然のお手紙を差し上げました。  
「六十年安保」の樺美智子さんの死に至る状況を少しでも明らかにしたいと思ったのでした。僕が金田先生に差し上げた手紙の一字一字を覚えていませんが、折り返し先生からお返事をいただきました。  
拝復、お便りと同封されていた「現代詩手帖」連載の御文を拝読しました。何度も読ませていただきました。こんなに近いところに、私のほとんど封印してきた青春を、有無を言わさず引きずり出される方がおろうとは、驚きでした。  
樺美智子は今でも私の友人です。「死者はいつまでも若い」今でもあのときの顔が浮かんできます。六月十五日夜、国会議事堂南通用門から追い出された直後、死者は文学部の学生らしい、樺さんらしい。警察病院に行くように、というレポが入りました。私は当時東大文学部学友会委員長でした。彼女と同学分の学生を連れて、警察が用意した車で警察病院に駆けつけました。遺体のある部屋に通されて、私は樺さんであることを確認しました。  
・・・中略・・・  
前日の六月十四日午後、銀杏並木沿いの三四郎池側にあるアーケードのうえの文学部階段教室で学生大会を開催し、国会突入を決議しました。といっても出席者は50名にたらず、大会は定足数に達せず、正式には有志決議ということでした。私の前の期の学友会副委員長であった樺さんは四月からは卒業論文の準備をしていましたが、それでもデモや集会にはよく顔を出してくれました。  
学生大会では、反対の意見も出ました。樺さんは階段教室の一番上に座っていて、決議したときは拍手をしてくれました。翌朝出発時にはスラックス姿で、文学部のアーケード下の集合場所に来てくれていました。その時のさわやかな顔が今でも思い出されます。その日がどうなるか、僕にも読めませんでした。思いだけがすすんでいたように思います。朝、桂寿一文学部長は私を学部長室に呼ばれて「君たちの気持ちはわかるが、身体に気をつけるように。国会突入の方針と聞くが、無茶をせぬように」という訓辞を受けました。文学部には女子学生がずいぶんいましたが、国会近くにきたとき、三名だけがデモの隊列に加わっていました。外側は男子学生が、中に女子学生が入りました。しかしそのような配慮も、南通用門を突破して、内部で集会を開き、機動隊に押し返される中で、何の意味があったでしょうか。  
御庄先生のお手紙を拝読。私自身、樺さんはデモの隊列の崩れるナダレの中で圧死したという当局の説明に、そうだったかもしれないと,なかば思い込みはじめていました。もちろん、私たちも坂本議員などの国民救援会の、死因は警棒で突かれたことにあるという報告は受けていましたが、しかし当局の発表もそうかな?と思わせるような状況はありました。御庄先生のきわめて正確な記述を読み、今更ながらに歴史の隠蔽、捏造ということに、憤りを感じています。それに当局の発表に流されていった自分自身が、樺さんの無念をしっかりと受け止めていなかったことを恥じています。  
私自身も、先生にぜひお会いして、いろいろなお話を伺いたいと思います。  
(二〇〇〇年十一月八日)  
四十年後の二〇〇〇年暮十二月二十二日、機会を得てお会いすることができました。“六十年六月十五日“その夜、実際にどのようなことが起こったのか? 率直にお尋ねしました。後日その状況をお手紙にいただいたのでこれも転載します。  
あけましておめでとうございます。下関でお年賀と詩集、それに拙文についてのご感想を含めた書信を拝受しました。ご返礼が遅れたことを、お許しください。  
1)用件のほうから、記します。六十年六月十五日は、寒くて震えていたことを記憶しています。雨模様でした。服が濡れていました。それが放水車の水であったのか、雨であったのか、汗であったのか、記憶は区別を拒んでいるようです。お昼に東大文学部の部隊は法文二号館のアーケード下に集まり大学全体で気勢を上げて、国会議事堂に向かいました。国会議事堂南通用門までは近づくことが出来ましたが、門はしっかり閉ざされ、門の内側には装甲車が後ろ向けに置かれていました。明治、中央と東大の部隊が南通用門をロープで引っ張って倒し、装甲車を引きずり出し、隊伍を整えて、中に入っていきました。そのとき、文学部は東大部隊の先頭でしたが、三人の女子学生がこの隊伍に加わっていました。私は委員長でしたので、隊列を確認し、女子学生三人は機動隊からの攻撃から守るため、スクラムは八人か十人の隊列だったと思いますが、その中央に入ってもらいました。三人は、樺美智子さん、榎本暢子さん(のちに長崎姓、東大名誉教授、近代インド史、特にセポイの乱の研究者)、福田瑞枝さん(のちに黒田姓、夫の黒田氏はヴェトナム戦争の報道で活躍したジャーナリスト)です。榎本、福田両名も頭部を負傷、一時病院に入院しました。その三人以外にも、文学部には、教育学部もそうですが,多くの女子学生がいました。彼女らは隊列の外にいながら、歩道を占拠していてくれていました。  
彼女らのうちで大学院に進学した者以外、そのあととくに交流があるわけではありませんが、卒業後、労働省に勤めた女性は30年近く後に、突然便りをくれ、研修所で自分が教えている高校卒の人物の哲学論文に論評をしてもらえないかと言ってきました。在野にあってすばらしい哲学者との交流がはじまり、今も続いています。そのような信頼関係は、私たちにあったようです。  
・ ・・中略・・・  
先日「そごう」でお会いしたとき、舌足らずでしたが、時間について、カフカの時間についての話が出ました。時間が過去から未来にただ流れてゆく、昨日の次に今日があって、次に明日が来る、そんなふうに進行するものでない、もしそうだとすれば、今という時はなんと貧素で抽象的なものなのか。聖アウグスチヌスは今の3相、つまり記憶としての今(過去)、予期・期待としての今(将来)、そして紛れもなくここに立っているという今が重層に豊かな今を形成していることを語りました。  
それにしても、先生の記憶としての今、その中に六月十五日をしっかり根付かせておられること、心の底からうれしく思いました。私もまた先生との出会いによって、四十年前を今に呼び戻そうとしています。・・・後略・・・  
(〇一年一月一三日)  
四十年、長い間抱き続けていた疑問が、やっと、ややあかるみに出たことを感じましたが、いつか樺さんの友人として一緒に国会構内に入り、その夜の乱闘に巻き込まれたと思われる二人の友人、榎本暢子さん、福田瑞枝さんにお会いして、その夜の状況を直接お聞きしたいものだと思っていました。  
機会を得ず、いつのまにか歳月が過ぎましたが、10年後の今年、思いがけず「長崎暢子(榎本暢子)さんに会える」ということで、僕の思いは一挙に五十年をさかのぼった、といっていいでしょう。  
日時を打ち合わせ、金田先生が同道して直接広島共立病院へこられるといわれます。僕は虚心にお迎えしたいと思いました。
W「樺美智子の死」の真相  
五十年前、樺美智子さんの死について、僕が直接かかわっていることは、坂本参議院議員や中田先生の「死因について」の発表のとき、必ずご一緒していたのでよく知られていたことでした。ご両親、樺俊雄(当時・中央大教授)ご夫妻が代々木病院の医局に僕を訪ねてこられて、「美智子の死の真相を明らかにしてほしい!」と、こころから頼まれました。彼女の「死」が、「人ナダレによるもの」という風説のなかで、アイマイにされようとしている頃でした。  
樺さんの「死」が、当夜の学生と機動隊の激しく接触する中で、国会構内の何処で起こったことなのか?事実は一つしかないのでしょう。何とかその事実を知りたいものだと、手探りをしていた頃だったでしょうか、坂本議員が朝日新聞の記事を持ってきました。  
元警部補が入水自殺  
デモ隊警備でノイローゼ?  
安保改定反対闘争の警備に出動、激しいデモ隊とのやりとりにノイローゼ気味で辞表を出した警視庁の警官が、(七月)九日朝、水死体(自殺)で見つかるという事件が起こった。東京・小松川署警ら第二係長の岡田理警部補(三三)…略…は六月十三日「部下の指導監督の能力を失った」との理由で辞表を出し、去る五日辞職が認められたが六日に家出、九日朝、板橋区志村船渡町2−56戸田橋上流の荒川で水死体となって発見された。警視庁と同署では現職者でないとして、詳しくいわないが、六月中はほとんど連日行われた全学連などの安保改定反対闘争の警備に出動しているうち疲労と精神的な悩みから、ノイローゼになっていたという。自殺の原因もそこにあるのではないかといっている。  
なお岡田警部補は去る十月警視庁交通二課から小松川署に転出、安保改定闘争中に第七方面本部構成の警備隊小隊長として第四機動隊に編入され警備に当たっていた。・・・ (‘60年7月9日・朝日新聞・夕刊)  
当時「PTSD(外傷性ストレス障害)」という言葉は一般的ではなかったが、一九六〇年代後半からのヴェトナム戦争から帰還した米兵にこの障害が起こった。事故や犯罪、災害といった衝撃的な出来事に巻き込まれた個人を襲う深刻な精神障害の一つで、不安障害などに比べると、自殺企図などの問題行動が多い、とされている。  
第四機動隊は当夜、国会突入の学生たちと正面衝突をした機動隊であった。坂本議員は「岡田警部補は、小隊長として事件の目撃者であったのではないか。彼の日常を調べてもらったが、近所の人たちとの付き合いもよく、誠実な人で、柔道の高段者であった。七月はじめに辞職が決まり、翌日家出、三日後には水死というが、水死はおかしい。荒川の船頭組合に問い合わせても、その日、水死者があったことはないという。口封じに消されたのではないか。」と言っていました。謎のある事件であった。「PTSD」での自殺であったか、坂本議員の疑問が正しいのか、今となってはこれも闇の中といわざるを得ない。  
金田先生と長崎先生が本年(二〇一〇年)四月八日、広島共立病院へ僕を訪ねてこられた。  
病院の応接室で、僕の知る「樺美智子の死」のことを、長崎先生に話した。長崎先生は当日、樺さん、福田さんと女性三人,学友会のメンバーに囲まれて国会構内に入った。その後がどのように混乱したか、確かなことは「警棒で腹を、胸を突かれ、頭を殴られてほとんど朦朧状態になったこと、救急車で運ばれる途中で気がついて、そのまま病院に搬入されたこと、すぐ前にいた樺さんがどうなったのか全くわかりませんでした」などと話された。その後の取り調べのときに「自分の当夜の写真を見せられて、確認をさせられたこと、その写真は当夜たくさんの写真が撮られていて、そのうちの私だけを取り出して見せられたこと」などを話された。福田さんも警棒で突かれ、頭を殴られて入院したという。樺さんもほとんど同じ状況であったろう。写真が機動隊側から撮影される位置は、すぐ前面が警備隊ということだ。「それにしても樺さんのお父さんお母さん、とても親しくしていただいていたことで、警棒に突かれた胸とこころが数年経っても痛みました」と。  
「最初は隊列の後方へ、とスクラムを組んでいましたが、国会突入後、衝突してからは僕らははがされ、はがされして、どのような状況になったのか、僕にもわかりません」と、金田先生は言う。当然であったろう。いつのまにか樺さんたちは警備隊との衝突の前面に出されていたのだろう。  
数日後、長崎先生から、お茶菓子とお便りをいただいた。  
「昨日は長年の望みであった先生にお会いでき、本当に胸の晴れる思いでした」(十年四月十日)と。  
さらに旬日後金田先生からもお便りがあった。  
「・・・先日は長崎暢子(旧姓・榎本)と連れ立っておうかがいし、私どもにつながった樺美智子について、それぞれの思いを語り合えたこと、楽しい一日でした。六十年安保は、戦後日本の政治・経済・文化の大きな節目であったことを、今更ながらに思い返しています。6月15日はその象徴的な事件で、樺さんは、いつも私たちの間で生きているように思います。お送りいただいた写真は、今度の出会いのかけがえのない証となりましょう・・・」(’10年五月四日)  
五十年前、検察側は国会構内の警備隊の目前で起こったことをあたかもデモ隊の後方の列で起こった「人ナダレによる」とはやばやと断定し、その後は司法解剖の行われた法医学鑑定書を、再鑑定など学問解釈上の裁をとりながら、虚偽、隠蔽、捏造といったあらゆる手段を用いて、己に都合のよい結論を自ら仕立てた。樺美智子さんの死はこうして隠蔽され、不問に伏せられたのである。長崎暢子さんにお会いして、当夜の実情を聞かせてもらって、僕は検察権力の、巧みな隠蔽、捏造の事実を今更ながら、鳥肌の立つ思いで振り返っている。  
安保改定時の『核密約』も、やっと白日の下に晒された。  
六十年安保から五十年、樺美智子さんの司法解剖に立ち会って『死の真相』を知る人は、今はただ僕一人が残されているのでしょうか。僕は樺俊雄先生ご夫妻の「美智子の死の真相を!」というご依頼にやっと応えることができたと思う。  
「歴史の流れ」が、音を立てて足元から聞こえてきます。
終わりに  
六十年安保から五十年です。五十年前のこの時間に、僕は樺さんの『死』を知らされました。それから彼女の「死の真相」を尋ねて、うかうかと五十年が過ぎました。見渡せば、彼女の「死の真相」を知る人は、もう一人も残っていません。記憶を奮い起こして、書きました。 
 
浅沼社会党委員長刺殺事件
 

 

1960年10月12日、東京の日々谷公会堂で行なわれていた「三党首立会演説会」で、浅沼稲次郎社会党委員長(61歳)が演説をしていたところ、学ラン姿の少年が突如壇上に上がり、持っていた短刀で浅沼委員長を刺殺した。少年は山口二矢(17歳)という元大日本愛国党の党員だった。
社会党委員長暗殺  
1960年10月12日午後2時、東京の日比谷公会堂では、都選管・公明選挙連盟・日本放送教会の共催で、自民・社会・民社による「三党首立会演説会」が開かれ、会場は1000人を超える聴衆で膨れ上がった。冒頭、都選管委員長のあいさつに対して、一角を陣取った右翼のグループから「やめろ、きさまなんかの出る幕じゃないぞ」という野次があり、それに対抗して革新系らしい集団からも「うるさい!黙って聞け!」という怒声がとぶ。この演説会は最初から荒れ模様だった。  
演題は「総選挙に臨む我が党の態度」。演説のトップは民社党の西尾末広委員長。西尾氏が社会党を前年10月に離脱していたため、野次は右翼のものより社会党系の野次が多くなった。  
午後2時45分頃、西尾氏に続いて、社会党委員長・浅沼稲次郎(61歳)が壇上で演説を始めた。この頃には野次も一層激しくなっていた。正面西側にいた丸の内警察署長がたまりかねて1人の男を場外にひきずり出している。  
「池田総理は、税の自然増収が増えたことがさも自分の手柄のように誇っている。しかしこの自然増収はどうして生じたのか、国民が血と汗で稼ぎ出したものではないか。自然増収とはすなわち、国民から血税をとり過ぎているということではないか」  
演説に拍手が起こり、それを抑えようとして右翼団体の人間が2階からビラを撒き、警官に取り押さえられる。正面壇上にのぼってビラを撒く男もいた。ビラには「中共、ソ連の手先、容共社会党を粉砕せよ!」と書かれていた。そうしたビラがヒラヒラ舞うなかでも、浅沼委員長は演説を続けた。  
「赤旗社会党を追放せよ!」  
「演説を止めろ!」  
「浅沼、売国奴!」  
「中共の犬!」  
「ブタ野郎!」  
演説に対する野次の方はおさまらなかったが、浅沼委員長は「こんなことは慣れている」とばかりに、構わず話を続けた。やがて演説も終わりに近づいていた。  
午後3時過ぎ、野次により演説が聞き取りづらくなったため、司会席のNHK・小林利光アナウンサーはマイクに向かって、「静粛にして欲しい。せっかくのお話が聞けなくなる」と呼びかけ、場内は一瞬静まった。「お待たせしました。どうぞどうぞ」と係員に促され、浅沼委員長はふたたび演説をは始めようとした。  
「選挙の際は国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占めると・・・」  
浅沼委員長の演説はそれ以上続かなかった、その時、学生服の上にカーキのジャンパーを着た少年が植木鉢の陰から現れ、壇上に駆けあがってきたからだ。少年は何かをつぶやきながら、ぶつかるようにして持っていた短刀で委員長の胸を2度刺した。浅沼委員長は後方へよろめき、次の出番に控えていた池田勇人の前に倒れこんだが、出血は少なかった。少年は池田首相を護衛するボディーガードに取り押さえられた。一瞬の出来事だった。この場面を撮影した毎日新聞社の長尾靖カメラマンは日本人初のピューリッツァー賞を受賞している。他にも前列に陣取っていた報道関係者がいっせいに舞台にかけより、フラッシュを炊いた。客席からは「司会者、何をやっているんだ」「収拾しろ!」という野次がとんだ。  
この一部始終はNHKテレビで生放送されていた。当日はプロ野球日本シリーズの第2戦が中継されており、大洋が優勝本命の大毎を打ち込んでいた。その時、「浅沼委員長殺さる」の臨時ニュースが伝えられた。  
少年は舞台のカゲにいた男性らに取り押さえられた。浅沼委員長はすぐさま警備員に抱えられ、すぐにパトカーで近くの日比谷病院に運ばれたが死亡が確認された。社会党葬は10月20日に事件の起こった日比谷公会堂で行われ、「同士は倒れぬ」の合唱が流れた。  
刺した少年の名は元大日本愛国党員で、全アジア反共青年連盟員である山口ニ矢(17歳)。山口は次のように自供した。  
「自分は去年5月、愛国党にはいって直接行動を始める前から社会党は国家のためにはならないものだ、と信じていた。社会党は結局、ロシア革命のときに政権を共産化に渡す役をやったクレンスキー内閣の日本版になると考えたからだ。安保闘争でこの考えに確信を持ち、浅沼氏のほかにも野坂日共幹部会議長、小林日教組委員長もやらねばならないと思い、狙っていた。1週間ほど前、自宅で白サヤの脇差を見つけた。その時、三党首演説会に出る浅沼委員長をこれで殺そうと決意した」
浅沼稲次郎の10月12日  
浅沼稲次郎は”社会党の看板男”だった。「ヌマは演説百姓よ」と親しみをこめて謳われ、ガラガラ声で全国を歩く姿に「人間機関車」というニックネームがつけられた。(他にも「万年書記長」「沼さん」「ママ居士」とも呼ばれた) 理論家ではなかったが、演説内容がわかりやすく、人気があった。スポーツ新聞のコラムを担当し、プロレスや相撲に庶民的な時評を寄せた。またディズニー作品「わんわん物語」にブルドッグ役で出演。その声を聞いて、誰もが「浅沼だ」と言い当てるほど特徴的な声質だった。自民党の福永代議士から犬「ジロー」を贈られた時、はじめ室内で飼おうとしたが、妻に追い出されて、外で飼う事になった。「政治家が、玄関に猛犬を飼って、番犬にするとは何事か」という投書がきたことがあり、浅沼もこれに心を痛めたのだが、実子のいない(当時、大学生の養女がいた)浅沼にとって、愛犬はかけがえのないものだった。  
浅沼は1898年(明治31年)2月27日、東京・三宅島で生まれた。父親は母親の入籍を認めず、「庶子」(旧民法上でいう、父の認知した私生児)とされた。早稲田大学に進学。学生の頃から「演説百姓」と呼ばれ、よく1人で砂浜に出かけて演説の練習をした。在学中、早大生による社会運動体「民人同盟会」「建設者同盟」を組織、ロシア飢餓救済運動や軍事研究会反対運動を指導した。  
1922年(大正11年)、「日本社会主義同盟」が結成される。荒畑寒村、山川均、大杉栄らとともに浅沼ら建設者同盟のメンバーも発起人として参画した。その翌年、「職業軍人救済」を名目に、学内で軍事訓練を行おうとした軍部と右翼学生によって「軍事研究団」結成の動きがあった。学生大会は軍研反対を決議、その席上、開会の辞を述べた戸叶武と、反対の宣言文を読み上げた浅沼が、右翼学生らによって監禁された。浅沼は「謝罪文を書け」と要求されたが、最後まで応じず、翌日解放された時には全身アザだらけになっていたという。この軍研事件は、浅沼の名を世間に知らしめることとなった。  
軍研事件を契機にして、浅沼は無産運動家の道を歩くことになる。  
1925年(大正14年)、農民労働党書記長。  
1928年(昭和3年)、享子夫人と結婚。その翌年、深川に移り、初めて市会議員に立候補。  
1932年(昭和7年)、社会大衆党結成に参加。その翌年には東京市議、1936〜7年に衆議院議員に当選した。そして戦後に日本社会党創立に参加、組織部長を務めた。  
1948年に書記長就任。  
講和条約と安保条約への対応をめぐって分裂していた左右両派社会党がようやく統一にこぎつけたのは1955年10月13日のことだった。神田共立講堂で開かれた統一大会では、中央執行委員長に左社委員長・鈴木茂三、書記長に右社書記長の浅沼が選ばれた。  
大衆的な人気を得ており、また皇室などにも敬愛を表明していた浅沼が、右翼陣営からにらまれることになった一件があった。1959年3月4日、浅沼氏は社会党訪中使節団の団長として北京を訪れ、13日の会合で「アメリカ帝国主義は中日共通の敵」と発言し、「安保条約打破」を公約したことである。この発言は新聞各紙に大々的に報じられたが、浅沼委員長自身がそれを否定せず、羽田空港に人民帽をかぶって降り立ったことで、さらに怒りを買うことになった。  
同月14日の読売新聞には次のような評が載っている。  
「東西会議によって世界は微妙な転回点にさしかからんとしている。その時にレッキとした共産党員ならいざ知らず、社会党の右派のマアマア居士にこの言ありとは、中共のフリマイ酒に逆上した結果としか思えない」  
ただこの演説は次のようなものだった。  
「台湾は中国の一部であります。沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらず、それぞれ本土から分離されているのは、アメリカの帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義について、お互いは共同の敵として闘わなければならないと思います」  
この原稿を書いたのは浅沼氏ではなく、左派の社会党員だったが、日中国交回復を目指した浅沼氏はこれを採用した。だが「日中共同の敵」という箇所だけをピックアップされ、浅沼氏はにらまれることとなった。  
1960年3月に第17回大開で河上丈太郎を破って党委員長に就任。当時は60年安保闘争の最中、岸内閣は日米安保条約の改定を強行採決した。これに反発した全学連が連日「安保反対」を叫ぶデモ。6月15日には東大生・樺美智子さんが警官隊との衝突のなかで死亡した。  
そして10月12日の三党首立会演説会を迎える。それまで前例のない大規模な演説会であったから、浅沼はいつも以上に気をひきしめて臨んだにちがいない。朝、深川のアパートを出た浅沼は車で永田町方面に向かい、馬場先門で秘書を下ろすと、社会党本部に行き、書記局会議に出席した。浅沼はこの日の演説の草稿を読み、党員の意見を聞いた。午後、浅沼が秘書2人とともに日比谷公会堂に着いた時、民社党・西尾末広の演説が始まる直前だった。西尾の演説が終わると、すでに激しいヤジのなか、浅沼は演壇中央に歩いていった。そして17歳の凶刃に倒れることとなった。  
盟友でもあり、当時浅沼とは袂を分かっていた西尾末広は次のような悼文を寄せている。  
「わたしたち政治家はこの際、改めてぜひとも政治への反省を行わなくてはなるまい。それが浅沼君の血を無駄にしないたった一つの道だ。浅沼君はそれによって、これからもわたしたちのなかに生き続けることだろう」  
浅沼のお通夜にはたくさんの人が詰めかけた。その様子を報じた記事がある。  
「粗末なブラウスを着たおかみさん、セーター姿の娘さん、タバコを耳にはさんだ老人、白衣を着たままの医者(中略)大衆政治家の浅沼さんらしく、飾り気のない人達の列の続く風変わりなお通夜風景だった」  
事件後、社会党は江田三郎書記長の委員長事務代行を決定。「ファシズム暴力根絶決議案」を採択した。11月には、倒れた浅沼氏の未亡人・享子さんが東京一区から出馬、2位で当選した。  
今なお火山活動の続く浅沼のふるさと三宅島。ここに大きく手をふる浅沼稲次郎の銅像がある。
山口二矢の10月12日  
山口二矢は1943年2月22日に台東区で生まれた。次男であり、「二の字に縁が多い」と二矢という名がつけられた。父親は防衛庁職員、大衆作家・村上浪六の三女である母親、1歳上がに兄がいる。父親は根っから軍人ではなく、東北帝国大学卒業後、戦後は国税庁勤務など職業をいくつかかえ、警察予備隊ができるとともに入隊。事件当時は一等陸佐の地位についており、幕僚本部の親睦雑誌「修親」の編集業務に携わっていた。兄は早くから右翼思想を持ち、大日本愛国党に入党した。大日本愛国党は赤尾敏が総裁 山口も兄の影響を受けて、そうした思想に共鳴するようになった。  
中学から高校の初めまでは父親の仕事の関係で、札幌で過ごした。だが父親の東京転属で、中野坂上に移り、札幌の光星学園から私立玉川学園高等部に編入した。この頃「右翼野郎」というあだ名をつけられた。体は小さく、普段はおとなしいのだが、政治の話題になると激しくなることがあった。  
自宅から高校までは、都電で新宿まで出て、小田急に乗り換えて通っていたのだが、1959年5月、帰宅途中に山口は新宿駅前である光景を目にした。「大日本愛国党」ののぼりや、日の丸を何本もかかげたトラックの上で、初老の男性が熱弁をふるっていた。この男性は愛国党総裁の赤尾敏である。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に山口は感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、山口はトラックに飛び乗り、「連れて行って欲しい」と頼み込んだ。  
結局、山口は玉川学園を中退し、大日本愛国党に入党。「せめて高校を卒業してからにしては…」と両親も赤尾も説得したが、それも押しのけた。以降、山口は赤尾の演説を野次る者がいると、殴りかかっていくこともまれではなかった。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。入党後半年で、実に10回余りも検挙された。59年12月に保護観察4年の処分を受けた山口だったが、おとなしくはしていなかった。街を行進する反安保デモの中に、たった一人で殴りこんでいった。浅沼、野坂、小林の三氏を狙うようになったのもこの頃だった。  
だが山口は、大勢の民衆に対して、自分たちの行動があまり成果をあげられないことに不満をつのらせはじめた。8月、「一人一殺」の考えをかためた山口は党員2人とともに脱党。「全アジア反共青年連盟」に加盟し、活動を開始した。  
「左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えないが、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできないし、1人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、1人でも多く覚醒してくれればよいと思った。できれば信頼できる同志と決行したいと考えたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました」(山口の供述)  
6月17日、社会党顧問・河上丈太郎が工員に襲撃されるという事件が起こった時、山口は「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と思った。  
10月4日、自宅でアコーディオンを探していたところ偶然脇差をみつけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、山口は「この脇差で殺そう」と決意。その日、明治神宮を参拝し、小林日教組委員長、野坂議長宅に電話、「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、失敗に終わった。  
事件当日朝、山口は新聞記事で三党首立会演説会開催を知った。午前中は新宿のデパートで時間をつぶし(この時に背後関係者と会ったかどうかは不明)、昼ごろ自宅に戻って「学校の講義に出る」と言って再び家を出た。彼は日比谷へ向かい、東京駅中央口から歩いて午後2時50分頃に会場入りした。この頃すでに浅沼委員長の演説は始まっていた。入場券は持っていなかったが、受付の男性が「知らなかった」という山口に同情して提供してくれた。  
山口は通路に立って場内の様子をしばらくさぐっていたが、後ろから「邪魔だ!」と怒鳴られ、正面右の前から6、7列目の通路に座り込んだ。この時の山口に注目した人間はほとんどいなかった。多くの視線は浅沼および、正面左側に陣取って野次をとばす大日本愛国党の赤尾党首らに向けられていたからだ。  
山口は騒ぎのなか最前列まで歩いていった。演説が中断し、アナウンサーが「どうぞ」と演説の再開をうながすと、それが合図だったかのように山口は壇上にあがろうとした。舞台右側の階段には人がいたため、その左側に置いてあった大きな箱に乗って壇上に上がった。走って体ごとぶつかるように浅沼委員長を刺した。2度目に浅沼委員長の左胸を刺した時、取り押さえようとした刑事が刃の部分を握った。山口はその刑事の指が切断されたら今後困るのではないかと思い、手の力を抜いた。そして壇上右側の方に引きずられるようにして取り押さえられた。  
事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述。背後からの指示、教唆は立証できなかった。
七生報国  
「刑事処分相当」   
家庭裁判所に送致された山口は11月2日、練馬の東京少年鑑別所に移された。その日じゅうに単独房に移されたのだが、午後8時31分、教官が巡回していると、天井から裂いたシーツで首を吊っている山口の姿を発見した。人工呼吸が行われ、医師でもある所長がカンフル注射を打ったが、山口は絶命した。独房の壁には歯磨き粉でこう書かれていた。  
七生報国 天王陛下万歳  
この言葉は湊川(兵庫)の戦いで足利軍に敗れた楠木正季が「7回生まれかわっても、朝敵を倒し、国に報いる」と言って、兄・正成と刺し違えたことに由来するものである。  
この他、山口のノートには二首の歌が引用されていた。  
国ノ為神州男子晴レヤカニ ホホエミ行カン死出ノ旅  
大君ニ仕エマツレル若人ハ 今モ昔モ心変ラジ  
翌日、浅沼委員長の妻・享子さんは次のような談話を発表。  
「山口少年の自殺は、けさ新聞ではじめて知りました。山口少年が憎いというより、むしろ気の毒な気持ちです。17の少年にあのような思想を吹き込み、暗殺にかりたてた背後の力に対し、あらためて腹の底から憎しみが燃えあがってきます」  
また山口の父親は事件について語っている。  
「親の職業を悪く言う人を子は憎む。二矢も”予備隊をつぶせ“という声に、子供心に反感を抱き右翼的な思想が養われたのではないか」  
山口の母親は浅沼委員長の命日には墓参りを続けた。  
純文芸雑誌「文学界 昭和36年1月号、2月号」にある作品が掲載された。大江健三郎の小説「セブンティーン」である。これは山口二矢をモデルに書かれたものだったが、右翼から抗議があり、「文学界」編集長が謝罪広告を出すということがあった。ただしこの作品は後に「性的人間」という作品のなかに収録され、同じ頃に騒がれた深沢七郎の「風流夢譚」とは違う運命をたどった。(嶋中事件)
赤尾敏  
赤尾敏は1899年(明治32年)1月15日、名古屋市東区の金物商の長男として生まれた。父親は織物業を継がず、金物・木炭販売、漁業、牧場などを手広く経営する中小企業者で、自由主義者だった。  
高等小学校に入学した頃、教師が郷土の英雄を持ち出して「君たちも勉強すれば秀吉のようになれる」と言うのに胸を打たれ、「俺だって勉強すれば総理大臣になれる」と夢を抱いた。  
中学に入学すると、赤尾は学校をさぼるようになった。学校を休んでは、釣りや読書などをしていた。5年生に進級した時には、結核をわずらい、卒業を目の前にして中退。療養のため、父の経営する牧場や、三宅島に渡った。この頃はまだ社会の動きには関心がなく、武者小路実篤などの著書を読みふけった。  
19歳になると、赤尾は武者小路が宮崎で試みた「新しき村」建設を三宅島で試みようと決意。父の赤尾商店の三宅島部門の経営を任された。だがこの構想も、金目当てで近づいてきた人物に騙され、頓挫してしまう。無一文になった赤尾は、大人のエゴイズムと社会体制に激しい怒りを感じるようになった。  
この後、赤尾は社会改革の手段として社会主義思想を求めて上京。堺利彦や山川均の自宅をまわって話を聞いた。1922年(大正11年)春、名古屋に戻った赤尾は、市内に事務所を構え、「名古屋借家人同盟」「東海農民組合連合会」の看板を掲げた。この事務所には社会主義者を自称する人物が出入りし、赤尾はその後3年間で公務執行妨害や不敬罪容疑で2度逮捕された。名古屋のメーデーでも、赤旗を振った。  
24年秋、予備役のため定期軍事教練に参加した赤尾は、指導将校の訓示が終わると、社会主義を賛美し、天皇を批判した。このため憲兵隊に身柄を拘束された。釈放されてからも、仲間と革命歌を歌いながらねり歩くだけで、活動資金はすぐに底をついた。赤尾は父親に無心に行くのだが、それまで寛容だった父親もたまりかねてつっぱねた。家を出た赤尾は、真向かいのとある名古屋財界の有力者の家を見て、この人物にカンパを頼もうとしたが、  
「うちはアカの運動に出す金などない。カンパは断る。さっさと帰りたまえ」  
と断られた。部屋の奥からはピアノの音が聞こえてきた。  
赤尾は、  
「あんたは大会社の社長だ。われわれ労働者が困っているのにピアノなどぜいたく品じゃないか。金がないとはおかしいじゃないか」  
と迫ったのだが、これが恐喝未遂となり、3度目の逮捕となった。  
赤尾の事務所に出入りしていた人物のなかに、地元通信社のK記者がいて、赤尾も同志と思っていたのだが、逮捕されると、赤尾の悪口を新聞に書き立てていた。これにショックを受けた赤尾は、怒りとともにはっきりと社会主義との訣別を決意。獄中で仏教、儒教、キリスト教に関する本を読み、「メーデーに対抗する大衆動員行事をやろう」と考えた。  
転向を表明して釈放された赤尾は再度上京し、今度は面識のない大物軍人や政治家をひとりひとり訪ね歩いた。人の紹介などにより人脈をつくり、頭山満も赤尾の提唱する「建国祭」に発起人となった。赤尾の働きにより、1926年(大正15年)2月11日に皇居前広場で開かれた第一回「建国祭」には約3万人が出席、全国でも10万人以上が参加し、大成功に終わった。右翼の組織的活動はこれが初めてで、「建国祭」は以後十数年間国家的行事として続いた。赤尾は「建国祭」の常設機関「建国会」を結成、会長に憲法学者・上杉慎吉、理事長に国粋主義者・高畠素之などを招き、自分は書記長に就任した。  
1943年(昭和18年)、英米との戦争に反対していた赤尾は、翼賛選挙に非推薦候補として東京六区から立候補した。六区はそれまで参議院同盟の大物・前田米蔵が毎回トップ当選していたのだが、赤尾はこれを破っている。得票は全国でも第4位だった。この選挙での非推薦候補の当選者には中野正剛、鳩山一郎、尾崎行雄らがいて、全員が一国一党の与党、翼賛政治会に所属した。  
赤尾の特徴として、戦前・戦中から親米であった点がある。「日本はまず北進し。朝鮮、満州、シベリアで勢力圏を確保し、国力を充実させてから英米の列強と戦い、アジアを解放すべきだ」と主張していた。東條英機に対しても、「政治のことを知らない軍人」と批判。東條の演説中も、その前に立ちはだかり東條批判の演説をするという行動に出た。赤尾はこの件で懲罰委員会にかけられ、翼賛政治会から除名された。  
戦後、赤尾はGHQからなぜか公職追放処分を受け、一切の政治活動を禁止されることになる。だが1947年頃には「道徳教団」という看板を掲げ、宗教を装って反共、皇室中心主義の演説を行う。  
追放解除となったのは1951年8月6日のことである。そしてその2ヵ月後、「大日本愛国党」を設立した。この党は、日本主義を理念とし、赤色勢力を粉砕するとともに、保守腐敗政治を粛清して愛国維新を達成するという目的で結成されたものだった。  
「われらは親米・反ソの旗印を明確にし、自由世界の堅固な連帯を通じて、アジアの解放と日本の隆昌を実現する」(綱領より)  
1954年、それまで都内の各地で演説をしていたのだが、熱心なファンや同志から「場所を決めてやってほしい」と言われ、三大紙(朝日、毎日、読売)の本社があった有楽町(数寄屋橋)で行うようになった。この”辻説法”は90近くなった晩年も、雨の日と気が向かない日を除けば、ほぼ毎日行なった。親米を示すのに、日の丸と星条旗を掲げた。  
また戦前からの知己、岸信介氏を介して知り合った佐藤栄作氏と共鳴し、月に一度は佐藤邸で話をする仲となった。1964年に第一次佐藤内閣が組閣されてからも、その関係は変わらなかった。佐藤氏から小遣いをもらっても、遠慮したりはせず、言いたいことを言い合う仲だったようだ。佐藤氏が日本で初めてノーベル平和賞を受賞した時も、赤尾は「何が非核三原則だ。そんなことで褒美をもらうなど恥ずかしいことだよ。僕は見たくもない」と言って、テーブルの上の賞状と盾を手で払い落とした。  
1960年1月には、警視庁が赤尾宅から文化人へのいやがらせに使われた「かぎ十字ポスター」が押収する。  
浅沼委員長刺殺事件当日、赤尾氏とメンバー十数人は日比谷公会堂の前から3、4番目の席に陣取った。入場券は確保していなかったが、会場前のダフ屋から購入した。山口が浅沼委員長を襲った直後、出血が少ないことに気づいた赤尾氏は、隣の人間に「坊や(山口)、やりそこなったかな」と話しかけたという。  
10月29日、赤尾は威力業務妨害容疑で逮捕された。11月には大日本愛国党が破防法の調査対象団体に指定される。  
山口の自殺から2日後、赤尾総裁は「直接の関係はなし」とされ釈放された。ただ嶋中事件が起こった後、初めて会場のビラ撒きと浅沼委員長の演説妨害について起訴された。  
その後もロッキード事件で右翼の大物・児玉誉士夫の存在が浮上した時に、多くの右翼が沈黙を守るなか、「児玉君がああいうことをやるから、こそこそとまじめに運動を続けてきた日本中の右翼が白い目で見られ迷惑を受ける」と批判したりした。  
1990年2月6日、心不全のため死去。享年91。  
独特のアジテーションで人気を得た赤尾敏。自身の信念をあらわした言葉がある。  
人は昭和のピエロと呼ぶかも知れない。聴衆のあるものは、嘲笑のまなざしを向けている。そんな視線を、私はイヤというほど肌で感じている。しかし、そんなことはどうでもいい。なんと呼ばれてもいい。68歳の老躯をひっさげて、ただひたすら我が道を歩くだけである。 (「勝利 1967年8月号」 「わたしは右翼ではない」) 
 
三無事件

 

1961年12月12日、元川南工業社長・川南豊作(当時59歳)を中心とした旧軍人、学生らのグループ13人が警視庁公安部に逮捕された。彼らは無税・無戦戦争・無失業の「三無」というスローガンを掲げ、国会を占拠し、国家革新を図っていた。
未然に防がれた”東京クーデター”  
1961年6月5日、UPI通信が「およそ12人の陸上自衛隊少壮将校による政府転覆を狙った”東京クーデター”陰謀が、自衛隊当局により摘発された」と報じた。外務省と自衛隊当局はこの報道を否定するとともに、同通信に抗議。  
それから半年後の12月12日午前6時半頃、警視庁公安部は東京、福岡など全国32か所を捜索。新宿区須賀町の元川南工業社長・川南豊作(当時59歳)を中心とした旧軍人、学生らのグループ13人が逮捕された。逮捕されたのは川南の他に元海軍中尉で5・15事件の中心人物であった三上卓(当時56歳)、本陸軍少将・桜井徳太郎(当時64歳)、元陸軍士官学校生徒で「国史会」キャップの小池一臣(当時34歳)らで、最終的には32人が逮捕された。この日に行なわれた家宅捜索では、自衛隊の作業衣、戦闘帽99点、鉄カブト300個、米海軍用ガスマスク150個、投弾練習用の手榴弾1個、川南宅でライフル銃1丁が押収された。  
彼らは60年安保闘争などの勢いからの共産革命への危機感と、施策に対する不満から、「国家革新」を企図し、武力で国会を占拠するという計画を立てていた。その際、池田勇人首相をはじめとする政府要人の暗殺も図った。それは公安三課(嶋中事件をきっかけに同年3月に新設された右翼係)による内偵で未然に探知された。  
クーデター計画の発覚は、戦後初めてだった。事件後、加藤防衛庁官房長は次のように言明した。「自衛隊員のなかには三上卓、桜井徳太郎氏などと個人的に交際のあった人はいるが事件にはまったく無関係である。今後も自衛隊はこのような事件に関係するという心配はない」  
12月19日、東京地検はそれまで逮捕した14名の容疑者のうち10人を「政治目的のため、殺人、騒乱罪などの予備をした」と認定し、破防法三九条、同四○条で東京地裁に起訴した。これは適用第1号だった。
三無  
この事件は「三無事件」と呼ばれたが、三無とは「無税」「無失業」「無戦争」のことで、無税は『公社公団の民営化、無失業は大規模な公共事業による失業者の吸収』、無戦争に関しては『ミサイルや宇宙兵器の開発を進め、他国からの侵略を不可能にする』というものだった。ちなみに70年頃に流行語となった「三無主義」は、当時の若者の無気力・無関心・無責任を表すもので、本件とは関連がない。  
作戦  
1. 第40回通常国会開会式当日(12月9日)あたりを狙い、全閣僚が揃った開会中の国会を占拠。決行には青年層(川南工業従業員や三無塾生)約二百数十名を動員。自動小銃、ピストル、手榴弾などで武装する。  
2. 閣僚ら政府要人と議員を全員を監禁し、抵抗したり逃走を図る者は射殺。  
3. 報道管制を敷く。  
4. 自衛隊には中立、傍観を働きかける。また鎮圧に出動するのを内部から押さえて協力してもらう。  
5. 戒厳令を敷き、臨時政府を樹立。「失業者、重税、汚職のない平和国家」のスローガンを用意する。  
6. 容共的な閣僚、政治家を粛清。  
この他、総評、日教組などの労組指導者も暗殺対象となっており、警視庁などの治安当局に計画の参加を求め、応じない場合は暗殺なども考えていたという。そのあとで自衛隊を中軸に据えて国家権力を握るというもので、事前に旧知の自衛隊幹部に働きかけをおこなった。そこから計画が事前に発覚したらしい。警視庁公安部は9月初め頃にこの情報を入手、極秘裏に監視を続けていた。  
人物  
川南豊作(当時59歳) 元川南工業社長で、戦後公職追放となり、事業も停滞した。今回の決起計画では、全般の企画と資金・武器の調達を担当した。  
小池一臣(当時34歳) 陸軍士官学校卒業。戦後自衛隊に入隊が退職。印刷業 陸軍士官学校卒生を中心とした右翼思想研究組織「国史会」主宰。川南とこの計画を立案し、自身は参謀役を務めていた。  
三上卓(当時56歳) 1905年(明治38年)佐賀県に生まれる。海軍兵学校卒。元海軍中将。犬養首相を射殺した「5・15事件」(1932年)の主犯でもあった。反乱罪により禁錮15年の刑を受けたが、1938年(昭和13年)に仮出所した。1940年、「大日本青年党」「まことむすび」などを統合して、「皇道翼賛青年同盟」を結成、初代委員長に就任した。1953年4月、第三回通常占拠に参議院全国区で立候補したが、落選。三無事件では証拠不充分で釈放となった。その後、「救国子組員総連合会」の常任委員、「黒龍倶楽部」世話人などに就任。1971年10月25日死去。  
桜井徳太郎(当時64歳) 元陸軍少将。戦時中、ビルマ戦線で兵団長として活躍した。国史会には所属していなかったが、小池との縁でつながりを持つ。  
篠田某(当時38歳) 通称・伊吹進。予科練出身。元川南工業社員。三無塾の実質的塾長。  
川下某(当時25歳) 三無塾塾長。同塾は大学生14人のグループ。川南は調達したライフル銃と日本刀を塾に保管していた。後に市川市議をつとめる。  
老野生某(当時25歳) 三無塾企画総務局長。  
安木某(当時36歳) 会社員。  
落合某 小池の印刷会社社員。  
浦上某(当時34歳) 浦和市の中学教諭。  
時津某(当時48歳) 長崎の会社員。川南に心服し、川南工業の労務課長となた。  
古賀某(当時26歳) 運転手。  
その他、ブローカーや中国人貿易商なども逮捕されていたが、三上や桜井とともに処分保留のまま釈放された。  
篠田、川下、古賀、老野生といった若い世代は右翼学生運動を通じて川南と知り合うようになった。そのうち川下と老野生は「三無塾」を設け、小池、浦上、安木らは旧陸士五九、六○期出身で、小池の主催する「国史会」に加わって国家革新などを協議しているうちに、小池を通じて川南と付き合うようになった。  
彼らは早ければ62年2月に計画の決行を考えていた。12月5、6日には塾生が伊豆・修善寺町付近で射撃訓練をしている。(と言っても、押収されたのはライフル2挺と6振りの日本刀だけであった) 役割分担としては、篠田、時津小池、古賀が同志の糾合と現場の調査、安木、浦上らが主に自衛隊に対する協力要請工作を、川下と老野生は篠田の指導で国会突入の主力部隊をそれぞれ受け持つことになった。  
こうしたクーデターについて、評論家は次のように指摘している。  
小島玄之氏 / 「政界の浄化がない限り、クーデターは必ず起きる。自衛隊の一個中隊が加担したと仮定したら、クーデターは成功するかもしれない。今度の計画でも首謀者格がそろって北九州出身なのは、炭坑の斜陽から北九州一帯は経済的に行き詰まり、それにからんだ政治への不信感が増大しているためだ」(読売新聞12月13日夕刊)  
大宅壮一氏 / 「5・15事件と非常によく似たケースだ。それというのも、戦後の日本は経済的にたくましい成長をとげている半面、歴代政府の政治が無力で弱体であったからにほかならない。池田内閣にしてもそうだ。たとえば中小企業が深刻な金詰りにあえいでいるのに、世間ではレジャーブームとやらで、なんとなく浮ついたムードがただよっている。こうしたムードが新しいものにあこがれる若い人や振るい時代を懐かしむ旧軍人に不満を助長させたのだ」(毎日新聞12月12日夕刊)
裁判  
東京地裁での一審判決は次のようなものだった。  
川南 懲役2年。  
小池、懲役1年6ヶ月。  
川下、懲役8ヶ月。  
老野、懲役8ヶ月。  
67年6月、東京高裁、「決行日をしばしば変えざるをえないほど計画が杜撰で空想的要素もなくはないが、あくまで決行を目指して下準備を続けているのだから、実行の段階に達する可能性は十分あり”陰謀”の事実は認定できる」と川南らの控訴を棄却。なおグループと接触のあった自衛官は34人にのぼり、幹部を含めそのほとんどが左遷されている。 
 
砂川事件

 

砂川闘争をめぐる一連の事件である。特に、1957年7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件を指す。当時の住民や一般の人々ではおもに「砂川紛争」と呼ばれている。全学連も参加し、その後の安保闘争、全共闘運動のさきがけとなった学生運動の原点となった事件である。  
また、砂川事件の最高裁判決は、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の行使において統治行為論の要素を取り入れたものとして注目されている。
第一審(判決)  
東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)は、1959年3月30日、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条(デュー・プロセス・オブ・ロー規定)に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下した(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集1・3・776)ことで注目された(伊達判決)。これに対し、検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。  
最高裁判所判決  
最高裁判所(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)は、同年12月16日、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」(統治行為論採用)として原判決を破棄し地裁に差し戻した(最高裁大法廷判決昭和34.12.16 最高裁判所刑事判例集13・13・3225)。  
差戻し審と確定判決  
田中の差戻し判決に基づき再度審理を行った東京地裁(裁判長・岸盛一)は1961年3月27日、罰金2000円の有罪判決を言い渡した。この判決につき上告を受けた最高裁は1963年12月7日、上告棄却を決定し、この有罪判決が確定した。
砂川事件判決の論点  
最高裁判決の背景  
機密指定を解除されたアメリカ側公文書を日本側の研究者やジャーナリストが分析したことにより、2008年から2013年にかけて新たな事実が次々に判明している。  
まず、東京地裁の「米軍駐留は憲法違反」との判決を受けて当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世が、同判決の破棄を狙って外務大臣藤山愛一郎に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官・田中と密談したりするなどの介入を行なっていた。跳躍上告を促したのは、通常の控訴では訴訟が長引き、1960年に予定されていた条約改定(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約から日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約へ)に反対する社会党などの「非武装中立を唱える左翼勢力を益するだけ」という理由からだった。そのため、1959年中に(米軍合憲の)判決を出させるよう要求したのである。これについて、同事件の元被告人の一人が、日本側における関連情報の開示を最高裁・外務省・内閣府の3者に対し請求したが、3者はいずれも「記録が残されていない」などとして非開示決定。不服申立に対し外務省は「関連文書」の存在を認め、2010年4月2日、藤山外相とマッカーサー大使が1959年4月におこなった会談についての文書を公開した。  
また田中自身が、マッカーサー大使と面会した際に「伊達判決は全くの誤り」と一審判決破棄・差し戻しを示唆していたこと、上告審日程やこの結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが明らかになった。ジャーナリストの末浪靖司がアメリカ国立公文書記録管理局で公文書分析をして得た結論によれば、この田中判決はジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官による“日本国以外によって維持され使用される軍事基地の存在は、日本国憲法第9条の範囲内であって、日本の軍隊または「戦力」の保持にはあたらない”という理論により導き出されたものだという。当該文書によれば、田中は駐日首席公使ウィリアム・レンハートに対し、「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている」と話したとされ、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う発言をした。田中は砂川事件上告審判決において、「かりに…それ(駐留)が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる」、あるいは「既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」との補足意見を述べている。古川純専修大学名誉教授は、田中の上記補足意見に対して、「このような現実政治追随的見解は論外」と断じており、また、憲法学者で早稲田大学教授の水島朝穂は、判決が既定の方針だったことや日程が漏らされていたことに「司法権の独立を揺るがすもの。ここまで対米追従がされていたかと唖然とする」とコメントしている。  
有権解釈への影響  
砂川事件最高裁判決は「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである」としている。  
この判決は直接的には外国軍隊の日本国内への駐留の合憲性について判断したものである。  
砂川事件最高裁判決は「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然」とし、「外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しない」と結論している。  
ただし、本判決は、駐留米軍に関する事案であったこともあり、日本独自の自衛力の保持について憲法上許容されているか否かは明らかにしていない。砂川事件最高裁判決の判決文は憲法9条2項について「その保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいう」と述べている。  
下級審では、長沼ナイキ事件の第一審判決が砂川事件最高裁判決を引用しつつ「自衛権を保有し、これを行使することは、ただちに軍事力による自衛に直結しなければならないものではない」とした。長沼ナイキ事件の最高裁判決では原告適格について判断しており、この点の憲法判断は回避した。  
一方、政府見解は、自衛のための必要最小限度の実力は憲法9条の「戦力」に該当せず、自衛隊は軍隊に当たらないという構成をとる。また、自衛措置について、1972年の政府見解は「国民の権利が根底から覆される急迫、不正の事態」について「必要最小限度」に限り発動できるとしている。  
ただ、1972年の政府見解は結論としては「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」とした。これは集団的自衛権は我が国が攻撃されていない場合であり、自衛のための必要最小限を超えるもので憲法上禁止されているという論理に基づく。  
砂川事件の最高裁判決は、2014年以降の集団的自衛権容認をめぐる議論で再び取り上げられるようになった。  
2014年4月、参議院議員で公明党代表の山口那津男は砂川事件の最高裁判決について集団的自衛権を視野に入れたものとは思っていないとの認識を示したのに対し、同年5月、衆議院議員で自民党副総裁の高村正彦は砂川事件の最高裁判決は自衛権に触れた唯一の最高裁判決で集団的自衛権を除外していないという認識を示した。  
2014年5月15日、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(第7回)」の報告書にて言及され、同年7月1日第2次安倍内閣による臨時閣議での憲法解釈変更の1つの根拠とされた。  
2015年6月4日の衆議院憲法審査会では自民党推薦の憲法学者も含めて憲法学者3人全員が集団的自衛権の行使などを盛り込んだ関連法案を憲法違反と指摘。これに対し、2015年6月10日、安全保障関連法案を審議する衆議院特別委員会で横畠裕介内閣法制局長官は新たな政府見解について砂川事件の最高裁判決を引いて「これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性は保たれている」と説明した。  
衆議院憲法審査会では、自民党副総裁の高村正彦が砂川事件の最高裁判決は自衛の措置を認めていると指摘した上で「従来の政府見解における憲法9条の法理の枠内で、合理的な当てはめの帰結を導いた」と主張した。これに対して、民主党幹事長の枝野幸男は砂川判決は日本の集団的自衛権の合憲性を争ったものではないと述べた。また、安全保障関連法案を審議する衆議院特別委員会では辻元清美が先述の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」で座長代理を務めた北岡伸一の発言を取り上げ「北岡氏は『砂川判決は米軍と基地に関する裁判で、そこに展開されている法理は必ずしも拘束力を持たない』と言っている。こじつけようとするから、憲法学者がおかしいと言っている」と指摘した。
事件後  
その後、米軍は首都圏域の防空基地を横田基地(東京都福生市)に一本化する方針に変更し、1977年11月30日に立川基地は日本に全面返還された。跡地は東京都の防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地や国営昭和記念公園ができたほか、国の施設が移転してきている。  
2014年6月17日、当時の被告4人が、有罪判決は誤りであり破棄して免訴とするよう再審請求を行なった。今次の請求について「第2次安倍内閣は集団的自衛権の合憲解釈を、田中判決・岸判決を根拠にしようとしているため。抗議の意味を込めて」と説明している。 
 
砂川事件に関する最高裁差戻判決

 

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件  
(昭和三四年(あ)第七一〇号 同年一二月一六日 大法廷判決 破棄差戻)  
上告人 東京地方検察庁検事正 野村佐太男  
被告人 坂田茂 外6名
判示事項  
一、憲法第九条はわが国の自衛権を否定するか  
二、憲法はわが国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするための自衛の措置をとることを禁止するか  
三、憲法は右自衛のための措置を国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事措置等に限定し他国にわが国の安全保障を求めることを禁止するか  
四、わが国に駐留する外国軍隊は憲法第九条第二項の「戦力」にあたるか  
五、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(以下安保条約と略す)と司法裁判所の司法審査権  
六、安保条約がいわゆる前提問題となつている場合と司法裁判所の司法審査権  
七、安保条約は一見明白に違憲と認められるか  
八、特に国会の承認を経ていない安保条約第三条に基く行政協定(以下行政協定と略す)の合憲性
判決要旨  
一、憲法第九条は、わが国が主権国として有する固有の自衛権を何ら否定してはいない。  
二、わが国が、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であつて、憲法は何らこれを禁止するものではない。  
三、憲法は、右自衛のための措置を、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事措置等に限定していないのであつて、わが国の平和と安全を維持するためにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に則し適当と認められる以上、他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではない。  
四、わが国が主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得ない外国軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、憲法第九条第二項の「戦力」には該当しない。  
五、安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。 (反対意見がある。)  
六、安保条約(またはこれに基く政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第二条が違憲であるか否かの)前提問題となつている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権は前項と同様である。 (反対意見がある。)  
七、安保条約(およびこれに基くアメリカ合衆国軍隊の駐留)は、憲法第九条、第九八条第二項および前文の趣旨に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは認められない。  
八、行政協定は特に国会の承認を経ていないが違憲無効とは認められない。
主文  
原判決を破棄する。本件を東京裁判所に差し戻す。
理由  
東京地方検察庁検事正野村佐太男の上告趣意について。  
原判決は要するに、アメリカ合衆国軍隊の駐留が、憲法九条二項前段の戦力を保持しない旨の規定に違反し許すべからざるものであるということを前提として、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約三条に基く行政協定に伴う刑事特別法二条が、憲法三一条に違反し無効であるというのである。  
一、先ず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。  
そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。  
二、次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。  
しかるに、右安全保障条約は、日本国との平和条約(昭和二七年四月二八日条約五号)と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、平和条約六条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん{前2文字強調}又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。  
ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的判断に委ねらるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。  
三、よつて、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあだかも{だにママとルビ}自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起こされたわが国における大規模の内乱および騒じよう{前3文字強調}を鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。  
果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効があることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法九条二項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。(なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和二七年二月二八日その調印を了し、同年三月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあつたが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和二七年三月二五日に行政協定が憲法七三条による条約であるから、同条の規定によつて国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月二六日に行政協定は安全保障条約三条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法七三条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約三条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかつたからといつて、違憲無効であるとは認められない。)  
しからば、原判決が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条二項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法二条を違憲無効としたことも失当であつて、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。  
よつて刑訴四一〇条一項本文、四〇五条一号、四一三条本文に従い、主文のとおり判決する。  
この判決は、裁判官田中耕太郎、同島保、同藤田八郎、同入江俊郎、同垂水克己、同河村大助、同石坂修一の補足意見および裁判官小谷勝重、同奥野健一、同高橋潔の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。  
裁判官田中耕太郎の補足意見 

 

裁判官田中耕太郎の補足意見は次のとおりである。  
私は本判決の主文および理由をともに支持するものであるが、理由を次の2点について補足したい。  
1.本判決理由が問題としていない点について述べる。元来本件の法律問題はきわめて単純かつ明瞭である。事案は刑事特別法によって立入を禁止されている施設内に、被告人等が正当の理由なく立ち入ったということだけである。原審裁判所は本件事実に対して単に同法2条を適用するだけで十分であった。しかるに原判決は同法2条を日米安全保障条約によるアメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性の問題と関連せしめ、駐留を憲法9条2項に違反するものとし、刑事特別法2条を違憲と判断した。かくして原判決は本件の解決に不必要な問題にまで遡り、論議を無用に紛糾せしめるにいたった。  
私は、かりに駐留が違憲であったにしても、刑事特別法2条自体がそれにかかわりなく存在の意義を有し、有効であると考える。つまり駐留が合憲か違憲かについて争いがあるにしても、そしてそれが違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できるところである。  
およそある事実が存在する場合に、その事実が違法なものであっても、一応その事実を承認する前提に立って法関係を局部的に処理する法技術的な原則が存在することは、法学上十分肯定し得るところである。違法な事実を将来に向って排除することは別問題として、既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である。それによって、ある事実の違法性の影響が無限に波及することから生ずる不当な結果や法秩序の混乱を回避することができるのである。かような場合は多々存するが、その最も簡単な事例として、たとえ不法に入国した外国人であっても、国内に在留するかぎり、その者の生命、自由、財産等は保障されなければならないことを挙げることができる。いわんや本件駐留が違憲不法なものでないにおいておや。  
本件において、もし駐留軍隊が国内に現存するという既定事実を考慮に入れるならば、国際慣行や国際礼譲を援用するまでもなく、この事実に立脚する刑事特別法2条には十分な合理的理由が存在する。原判決のふれているところの、軽犯罪法1条32号や住居侵入罪との法定刑の権衡のごとき、結局立法政策上の問題に帰着する。  
要するに、日米安全保障条約にもとづくアメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性の問題は、本来かような事件の解決の前提問題として判断すべき性質のものではない。この問題と、刑事特別法2条の効力との間には全く関連がない。原判決がそこに関連があるかのように考えて、駐留を違憲とし、従って同法2条を違憲無効なものと判断したことは失当であり、原判決はこの一点だけで以て破棄を免れない。  
2.原判決は1に指摘したような誤った論理的過程に従って、アメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性に関連して、憲法9条、自衛、日米安全保障条約、平和主義等の諸重要問題に立ち入った。それ故これらの点に関して本判決理由が当裁判所の見解を示したのは、けだし止むを得ない次第である。私は本判決理由をわが憲法の国際協調主義の観点から若干補足する意味において、以下自分の見解を述べることとする。  
およそ国家がその存立のために自衛権をもっていることは、一般に承認されているところである。自衛は国家の最も本源的な任務と機能の一つである。しからば自衛の目的を効果的に達成するために、如何なる方策を講ずべきであろうか。その方策として国家は自国の防衛力の充実を期する以外に、例えば国際連合のような国際的組織体による安全保障、さらに友好諸国との安全保障のための条約の締結等が考え得られる。そして防衛力の規模および充実の程度やいかなる方策を選ぶべきかの判断は、これ一つにその時々の世界情勢その他の事情を考慮に入れた、政府の裁量にかかる純然たる政治的性質の問題である。法的に認め得ることは、国家が国民に対する義務として自衛のために何等かの必要適切な措置を講じ得、かつ講じなければならないという大原則だけである。  
さらに一国の自衛は国際社会における道義的義務でもある。今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぼす程度に拡大深化されている。従って一国の自衛も個別的にすなわちその国のみの立場から考察すべきでない。一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従って自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである。  
およそ国内的問題として、各人が急迫不正の侵害に対し自他の権利を防衛することは、いわゆる「権利のための戦い」であり正義の要請といい得られる。これは法秩序全体を守ることを意味する。このことは国際関係においても同様である。防衛の義務はとくに条約をまって生ずるものではなく、また履行を強制し得る性質のものでもない。しかしこれは諸国民の間に存在する相互依存、連帯関係の基礎である自然的、世界的な道徳秩序すなわち国際協同体の理念から生ずるものである。このことは憲法前文の国際協調主義の精神からも認め得られる。そして政府がこの精神に副うような措置を講ずることも、政府がその責任を以てする政治的な裁量行為の範囲に属するのである。  
本件において問題となっている日米両国間の安全保障条約も、かような立場からしてのみ理解できる。本条約の趣旨は憲法9条の平和主義的精神と相容れないものということはできない。同条の精神は要するに侵略戦争の禁止に存する。それは外部からの侵略の事実によって、わが国の意思とは無関係に当然戦争状態が生じた場合に、止むを得ず防衛の途に出ることおよびそれに備えるために心要有効な方途を講じておくことを禁止したものではない。  
いわゆる正当原因による戦争、一国の死活にかかわる、その生命権をおびやかされる場合の正当防衛の性質を有する戦争の合法性は、古来一般的に承認されているところである。そして日米安全保障条約の締結の意図が、「力の空白状態」によってわが国に対する侵略を誘発しないための日本の防衛の必要および、世界全体の平和と不可分である極東の平和と安全の維持の必要に出たものである以上、この条約の結果としてアメリカ合衆国軍隊が国内に駐留しても、同条の規定に反するものとはいえない。  
従ってその「駐留」が同条2項の戦力の「保持」の概念にふくまれるかどうかはーー我々はふくまれないと解するーーむしろ本質に関係のない事柄に属するのである。もし原判決の論理を是認するならば、アメリカ合衆国軍隊がわが国内に駐留しないで国外に待機している場合でも、戦力の「保持」となり、これを認めるような条約を同様に違憲であるといわざるを得なくなるであろう。  
我々は、その解釈について争いが存する憲法9条2項をふくめて、同条全体を、一方前文に宣明されたところの、恒久平和と国際協調の理念からして、他方国際社会の現状ならびに将来の動向を洞察して解釈しなければならない。字句に拘泥しないところの、すなわち立法者が当初持っていた心理的意思でなく、その合理的意思にもとづくところの目的論的解釈方法は、あらゆる法の解釈に共通な原理として一般的に認められているところである。そしてこのことはとくに憲法の解釈に関して強調されなければならない。  
憲法9条の平和主義の精神は、憲法前文の理念と相まって不動である。それは侵略戦争と国際紛争解決のための武力行使を永久に放棄する。しかしこれによってわが国が平和と安全のための国際協同体に対する義務を当然免除されたものと誤解してはならない。我々として、憲法前文に反省的に述べられているところの、自国本位の立場を去って普遍的な政治道徳に従う立場をとらないかぎり、すなわち国際的次元に立脚して考えないかぎり、憲法9条を矛盾なく正しく解釈することはできないのである。  
かような観点に立てば、国家の保有する自衛に必要な力は、その形式的な法的ステータスは格別として、実質的には、自国の防衛とともに、諸国家を包容する国際協同体内の平和と安全の維持の手段たる性格を獲得するにいたる。現在の過渡期において、なお侵略の脅威が全然解消したと認めず、国際協同体内の平和と安全の維持について協同体自体の力のみに依存できないと認める見解があるにしても、これを全然否定することはできない。そうとすれば従来の「力の均衡」を全面的に清算することは現状の下ではできない。しかし将来においてもし平和の確実性が増大するならば、それに従って、力の均衡の必要は漸減し、軍備縮少が漸進的に実現されて行くであろう。しかるときに現在の過渡期において平和を愛好する各国が自衛のために保有しまた利用する力は、国際的性格のものに徐々に変質してくるのである。かような性格をもつている力は、憲法9条2項の禁止しているところの戦力とその性質を同じうするものではない。  
要するに我々は、憲法の平和主義を、単なる一国家だけの観点からでなく、それを超える立場すなわち世界法的次元に立って、民主的な平和愛好諸国の法的確信に合致するように解釈しなければならない。自国の防衛を全然考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心とをもたない態度も、憲法前文にいわゆる「自国のことのみに専念」する国家的利己主義であって、真の平和主義に忠実なものとはいえない。  
我々は「国際平和を誠実に希求」するが、その平和は「正義と秩序を基調」とするものでなければならぬこと憲法9条が冒頭に宣明するごとくである。平和は正義と秩序の実現すなわち「法の支配」と不可分である。真の自衛のための努力は正義の要請であるとともに、国際平和に対する義務として各国民に課せられているのである。  
以上の理由からして、私は本判決理由が、アメリカ合衆国軍隊の駐留を憲法9条2項前段に違反し許すべからざるものと判断した原判決を、同条項および憲法前文の解釈を誤ったものと認めたことは正当であると考える。 
検察官東京地方検察庁検事正野村佐太男の上告趣意 

 

原判決は、憲法の解釈を誤り、不当に法律を憲法に違反すると判断した違法があつて、この違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れないものと思料する。  
原判決は、被告人坂田茂、菅野勝之、高野保太郎、江田文雄、土屋源太郎および武藤軍一郎が、共同して、昭和32年7月8日午前10時3、40分頃から午前11時頃までの間に、正当な理由がないのに、アメリカ合衆国軍隊の使用する施設(原判決に「区域」とあるのは「施設」の誤記と認める。昭和27年7月26日外務省告示第34号、検察官論告要旨第一章第一参照)であつて入ることを禁じた場所である東京都北多摩郡砂川町所在立川飛行場内に、深さ約4、5メートルにわたつて立入り、被告人椎野徳蔵が同日午前10時30分頃から午前11時30分頃までの間に、正当な理由がないのに、右立川飛行場内に深さ約2、3メートルにわたつて立入つた事実を認定し、右事実は日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法(以下刑事特別法と略称する)第2条に該当すると判示しながら、日米安全保障条約に基く合衆国軍隊の駐留は憲法上許すべからざるものであることを理由として、刑事特別法第2条の規定は憲法第31条に違反する無効な法律であると判断し、被告人等に対し無罪を言渡した。しかし、原判決の判断は、次の諸点において憲法の解釈を誤つたものであり、いずれの点からするも不当であるといわなければならない。
第一点 刑事特別法第2条が憲法第31条に違反する無効な法律であるとの判示について  
原判決は、刑事特別法第2条を軽犯罪法第1条第32号と特別法、一般法の関係にあるものと解し、両者の法定刑の差異は、法が合衆国軍隊の施設または区域内の平穏に関する法益を特に重要と考え、一般国民の同種法益よりも一層厚く保護しようとする趣旨に出たものとみるべきであるとし、合衆国軍隊の駐留が違憲であると判断した上、これを理由として、合衆国軍隊の施設または区域内の平穏に関する法益が一般国民の同種法益以上の厚い保護を受ける合理的な理由は何等存在しないから、国民に対して軽犯罪法の規定よりも特に重い刑罰をもつて臨む刑事特別法第2条の規定は、何人も適正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第31条に違反し、無効なものといわなければならないと判示する。しかしながら、原判決は、同時に合衆国軍隊の駐留が違憲でないとするのであれば、刑事特別法第2条の法定刑が軽犯罪法のそれより重く定められていることは、敢えて問題とするに足りないともしているのである。従つて、憲法第31条につき、原判決のような解釈をとるとしても、後に述べるように、合衆国軍隊の駐留が憲法に違反しない以上、原判決の判断は、既に、この点において、その前提を欠き誤つているのである。  
元来、刑事特別法第2条の法定刑の当否を、合衆国軍隊の駐留の合憲性と関連させて判断すること自体誤であつて、同条は、合衆国軍隊の駐留が憲法上許されるかどうかに関係なく、憲法第31条に違反しないというべきであつて、その理由は次の通りである。  
一、刑事特別法第2条の法定刑の合理性  
刑事特別法第2条の法定刑が軽犯罪法第1条第32号より重く定められていることについては、次の2点よりその合理性のあることは明らかである。  
(一) 外国軍隊の地位  
そもそも一国の軍隊は、所属国の国家機関であつて、受入国の同意を得て駐留する外国軍隊は、国際法上その威厳保持および軍紀維持のため、受入国内において、一定の特権および免除を享有するものである。従つて、受入国において、その安全につき特別の保護を与えることは、国際的な慣行であり、少くとも国際礼譲に照し、当然であるといわなければならない。ところで、原判決は、日米安全保障条約および日米行政協定の存続する限り合衆国軍隊の施設等の平穏を保護しなければならない国際法上の義務を負担することは当然であると判示している。すなわち、原判決も認める通り、わが国は、国際法上日米安全保障条約に拘束されるのである。従つて、合衆国軍隊が国際法上日本国の同意を得て駐留する外国軍隊であることは否定できない。かような外国軍隊の施設内の平穏の保護につき、わが国が充分な措置をはかることは、右に述べた国際的な慣行に従うものであり、少くとも国際礼譲にそう所以であつて、国際協調主義を基調とする日本国憲法の精神からも、当然に要請されるところである。そうであるとすれば、既存の法令によつては、外国軍隊の施設内の平穏の保護に充分でないと認められる場合に、特別立法をもつて保護の措置を講ずることは当然是認されるところであり、本件において受入国であるわが国が、軽犯罪法第1条第32号によつては、合衆国軍隊の施設および区域内の平穏の保護に充分でないと認め、刑事特別法第2条を設けたことには、充分な理由が存するというべきである。  
(二) 行為の客体の差異  
さらに、刑事特別法第2条の法定刑が軽犯罪法第1条第32号のそれより重く定められている理由としては、両者における行為の客体である「入ることを禁じた場所」の客観的性質の差異を看過してはならないのである。軽犯罪法第1条第32号の行為の客体は、「入ることを禁じた場所又は他人の田畑」とされているが、軽犯罪法は比較的軽微な反道義的違法行為を取締るために制定されたもので、同法の法定刑および犯罪類型によつても窺えるように、法益保護の必要の程度が比較的低い性質のものである。これに反し、刑事特別法第2条の行為の客体は、「合衆国軍隊が使用する施設又は区域(行政協定第2条第1項の施設又は区域をいう。)であつて入ることを禁じた場所」と定められ、兵舎、飛行場、演習場、射撃場等多種多様のものを含んでいる。これらの演習場または射撃場の中には、常時使用されず、必要に応じ一般人の出入が禁止されているに過ぎないものがあり、これらのものについては、その平穏を保護する必要の程度が比較的低く、軽犯罪法の法定刑をもつて保護の目的を達することができるであろう。しかし、飛行場等の施設の中には、常に軍隊によつて警備され、その内部に多数の兵員等が生活あるいは行動し、兵器、弾薬等の危険物が存在し、情報秘匿の必要がある等、施設内の平穏を保護する必要の程度は著しく高いものもある。このような施設内の平穏を保護する必要性は、むしろ住居侵入罪のそれに近い。このことは、刑事特別法第2条が、住居侵入罪と同じく、立入だけでなく不退去をも処罰の対象としていることによつても肯認される。従つて、刑事特別法第2条の法定刑が合理的であるか否かは、軽犯罪法の法定刑ばかりでなく、住居侵入罪の法定刑とも比較して判断しなければならない。このように考察するとき、刑事特別法第2条の法定刑が、軽犯罪法第1条第32号のそれより重く、また住居侵入罪のそれより軽く、定められていることは、充分に合理的理由が存するのである。  
二、憲法第31条の保障の範囲  
憲法第31条は、ある刑罰法規の法定刑が他の刑罰法規の法定刑と均衡を保つていることまでも保障する規定と解すべきではない。  
日本国憲法においては、刑罰法規の法定刑を如何に定めるかは立法政策に属し、憲法上人権保障に関する他の規定に違反しない限り、立法機関の裁量に委ねられているものというべきである。この場合、立法機関が立法するに当り他の法定刑との均衡をも考慮しなければならないことは当然であるが、それは立法機関の裁量権の範囲内における当不当の問題であつて、憲法第31条の問題ではない。もつとも、法定刑に著しい不均衡を生じ、何人もその不均衡を是認できないことが一見明白な場合には、裁量権の範囲を逸脱するものとして、憲法第31条の問題となることは考えられる。しかし、もし、憲法第31条が右の程度に至らない法定刑の均衡までも保障していると解するならば、裁判所は刑罰法規の適用に当り、常に立法政策の当否に立入り、他の刑罰法規の法定刑との均衡を考慮し、違憲の有無を判断しなければならない結果となるであろう。かかる結果の不当なことは明らかである。従つて、本件における刑事特別法第2条の法定刑と軽犯罪法第1条第32号のそれとの差異の如きは、本来憲法第31条において問題とせらるべき事項ではないといわなければならない。  
以上一、二いずれの観点よりするも、刑事特別法第2条が憲法第31条に違反する無効な法律であるとした原判決の判断は不当のものといわざるを得ない。
第二点 日米安全保障条約に基く合衆国軍隊の駐留を憲法上許されないものとする判示について  
原判決は、わが国政府が合衆国軍隊の駐留を許容しているのは、実質的にみれば、わが国自身が憲法第9条によつて禁止されている戦力を保持することとなるものとし、その前提として、憲法前文の二、三の文言を引用し、これを根拠に、わが国が自衛のための戦力の保持をも許されないものと解し、結局、わが国に駐留する合衆国軍隊は、憲法上その存在が許されないとするばかりでなく、合衆国軍隊の駐留は憲法の精神にもとるところがあるかのように判示する。しかしながら、原判決の右判示は、合衆国軍隊の駐留を許容していることが、直ちにわが国自身の戦力の保持になるとする点において、憲法の解釈を誤つているばかりでなく、その前提として、憲法第9条が自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨である根拠として引用する憲法前文の理解にも誤があり、また、日米安全保障条約による合衆国軍隊の駐留が憲法の精神にもとるとする点においても誤つている。いずれの点よりみてもわが国内に駐留する合衆国軍隊を違憲の存在とする理由はなく、従つて、かかる合衆国軍隊の施設または区域内の平穏を保護する目的で制定された刑事特別法第2条もまた、違憲であるとする理由はない。  
一、合衆国軍隊の駐留と憲法第9条との関係  
(一) 憲法第9条第2項前段の戦力の保持  
原判決は、憲法第9条第2項前段の解釈として、そこで禁止されている戦力の保持の主体が日本国であることを前提とし、わが国は日米安全保障条約により駐留する合衆国軍隊に対して指揮権、管理権を有しないことを是認しながら、単に、合衆国軍隊がわが国政府の要請に応じ、わが国の防衛に使用される現実的可能性の頗る大であること、およびわが国政府が合衆国軍隊の駐留を許容し、これを可能ならしめる施設および区域の提供その他の協力をしていることをとらえ、これらのことを実質的に考察すれば、わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、憲法第9条第2項前段で禁止されている戦力の保持に該当し、結局、わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものであると判示する。しかしながら、憲法第9条第2項前段の戦力の保持とは、わが国が自ら管理支配する戦力を持つことをいう。従つて、地域的にわが国の国家権力の及ぶ範囲内に外国軍隊が駐留することをわが国政府が許容するとしても、わが国がその外国軍隊を指揮管理し得ないものであれば、戦力の保持に該当しないことはもちろん、わが国政府の要請に応じて駐留外国軍隊がわが国防衛のため軍事行動をとる現実的可能性がいかに大であつても、その外国軍隊に対してわが国政府が指揮管理権を有しない以上、これをもつて、わが国が戦力を保持しているといい得ないことは明らかである。もつとも、かように解すると、わが国政府が指揮管理し得ない外国軍隊であれば、それがたとえ侵略のためのものであつても、その駐留を許容することが憲法に違反しないこととなり、かような解釈は憲法の基調とする平和主義に背反するものであるとの疑念が生ずるかも知れない。しかし、わが国政府が侵略のための外国軍隊の駐留を許容する行為は、憲法第9条第2項前段に違反するのではなく、第98条第2項に違反するのである。すなわち、「戦争放棄ニ関スル条約」および国際連合憲章に徴して明らかなように、侵略のための武力の行使が不法であるとすることが、既に確立された国際法規となつているのであるから、侵略のための外国軍隊の駐留を許容することは、憲法第98条第2項にいう確立された国際法規を遵守すべき義務に違反することとなるのである。従つて、戦力の保持を右に述べたように解釈し、外国軍隊をすべて憲法第9条の対象外としたからといつて、憲法の基調とする平和主義に背反しないことは明らかである。この点からも、右に述べた解釈の正当であることが肯認されよう。そうであるとすれば、日米安全保障条約により駐留する合衆国軍隊が、わが国政府の要請に応じて、外部からの武力攻撃に対しわが国の防衛に使用される現実的可能性が頗る大であること、およびかかる合衆国軍隊の駐留をわが国政府が許容し、その駐留を可能ならしめる協力をしていることを、いかに実質的に考察するとしても、このことから、外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容しているわが国政府の行為が、憲法第9条第2項前段で禁止されている戦力の保持に該当するという結論は、到底これを導き出すことができない。従つて、原判決は、既にこの点において憲法第9条の解釈につき重大な誤を犯しているものといわざるを得ないのである。  
(二) 自衛のための戦力の保持と憲法前文との関係  
原判決は、憲法第9条につき、「この規定は『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに』(憲法前文第1段)しようとするわが国民が『恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想(国際連合憲章もその目標としている世界平和のための国際協力の理想)を深く自覚』(憲法前文第2段)した結果『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を維持しよう』(憲法前文第2段)とする……決意に基くものであり、単に消極的に諸外国に対して、従来のわが国の軍国主義的、侵略主義的政策についての反省の実を示さんとするに止まらず、正義と秩序を基調とする世界永遠の平和を実現するための先駆たらんとする高遠な理想と悲壮な決意を示すものといわなければならない。従つて憲法第9条の解釈はかような憲法の理念を十分考慮した上で為さるべきであつて、単に文字の形式的、概念的把握に止まつてはならない」と判示し、右に引用する憲法前文の文言をもつて憲法第9条が自衛のための戦力の保持をも許さないとする原判決の解釈の重要な根拠としている。しかしながら、これは憲法前文の右の文言の明らかな誤解といわざるを得ない。先ず、原判決の引用する憲法前文第1段の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」という文言は、日本国民が平和主義を保障する国家体制として国民主権主義を採るに至つた動機として述べられているに過ぎない。すなわち、過去における戦争の惨禍は国民の意思とかかわりなく行動した政府の行為によつて招いたものであつたことにかんがみ、将来にわたつてその禍根を断つために、「主権が国民に存することを宣言」するというのであつて、右の戦争とは国家の政策の手段としての戦争を指すことはいうまでもない。従つて、右の文言を拡張して政府の行為としてのあらゆる武力の行使を放棄する趣旨と解することはできない。いわんや、憲法第9条が自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨と解する根拠とすることの誤であることは明らかである。また、原判決は、憲法前文第2段のわが国民が「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文言を引用しているのであるが、この文言は、原判決の理解するように、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」を「最低線」としてわが国の安全を保持しようとする決意を示したものとは到底考えられない。右の文言にいう「平和を愛する諸国民」が具体的に国際連合のみを指すものとは解し難いばかりでなく、むしろ、右の文言は、国際連合がその機能を充分に果し得ないとき、日本国憲法の基調とする平和主義と国際協調主義にそい、他の諸国の協力を得てわが国の安全を保持することを当然に許容するものと解すべきである。わが国は、いやしくも独立国家である以上、外部からの武力攻撃が現実に発生した場合に自ら防衛する権利を有するばかりでなく、その根底に、国家に固有な権能として国家存立の前提たる自国の安全を保持する権能を有すること、いい換えれば、わが国は、自国を、外部からの武力攻撃や侵略のおそれのない状態におき、もし外部からの武力攻撃が発生すればこれを防衛し得る状態におく国家に固有な権能を有することは当然である。これは、自ら自国の安全を保持し、また、他国の協力を得て自国の安全を保持することができるということである。憲法前文は、わが国が国家としてかかる固有な権能を有することをいささかも否定していない。否、むしろ、憲法前文第2段のさきの文言は、わが国にかかる安全保持の権能が存することを前提とするものである。憲法前文の右の文言は、憲法が平和主義をとる一つの根拠とされているのであるが、その平和主義は、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」を「最低線」とし、それ以外は、たとえ、わが国が武力攻撃を加えられることがあつても、わが国民はこれを甘受し、自国の安全を犠牲にして、結局、戦禍に劣らぬ悲惨な状態に陥ることをも顧みないとするような諦観した「悲壮な」平和主義をいうものではない。従つて、憲法を解釈するにあたり、徒らに平和主義の理想のみを追い、戦力不保持の趣旨を強調し、わが国の安全を危くするが如きは、かえつて憲法の念願する平和主義の本旨をゆがめるものといわざるを得ない。かくして、原判決が憲法第9条の解釈につき引用する憲法前文のいずれの文言も、憲法第9条をもつて、自衛のための戦力の保持をも許さないとする原判決の前記解釈を導き出す根拠となるものではない。この点においても、原判決は憲法前文の解釈を誤つたものといわざるを得ない。  
二、合衆国軍隊の駐留と憲法の精神  
日米安全保障条約による合衆国軍隊の駐留は、わが国の安全保持のための措置としてとられたものであるが、かような措置が日本国憲法の基調とする平和主義と国際協調主義にそうものでなければならないことはいうまでもない。しかるに、原判決は、合衆国軍隊の駐留に関し、憲法の精神にもとるかのような見解を表明するので、原判決が「最低線」とする国際連合の安全保障機能の現状を述べ、次いで、日米安全保障条約による安全保障措置が平和主義と国際協調主義にそい、憲法の精神にかなう所以を明らかにする。  
(一) 国際連合の集団安全保障  
国際連合は、国際の安全と平和の維持のため最もその活動が期待されている国際組織である。しかしながら、その中枢機関たる安全保障理事会は、国際連合の総会の1946年12月13日付の決議や1949年4月14日付の決議等に徴しても明らかなように、一部の常任理事国によるいわゆる拒否権の頻繁な行使によつてその機能が阻害され、安全保障理事会による軍事措置を含む強制措置による安全保障は、現在においてはその実効性を期待することが困難となつているのである。そこで、朝鮮動乱を契機として1950年11月3日国際連合の総会は、「平和のための統合」決議を採択し、安全保障理事会が拒否権の行使等によつて集団安全保障の機能を果し得ず、紛争または事態の解決に関する事項の取扱をしないときは、総会が平和の破壊および侵略行為に対し軍事措置を含む安全保障措置を加盟国に対して勧告することができるものとした。しかし、かような措置をとるためには、総会に出席し、かつ投票する加盟国の3分の2の賛成が必要であるから、決議の成立をみるに至るまでには幾多の困難が予想されるのである。また、この総会の勧告に従うことは加盟国の義務ではなく、任意に勧告に従う加盟国によつて軍事措置がとられる可能性があるに過ぎないから、果してどれだけの加盟国が集団措置に加わるか、確実にこれを予測することも困難である。従つて、「平和のための統合」決議に基く総会の安全保障措置のみに頼ることも、安全保障としては、必ずしも充分でないのである。従つて、わが国は、憲法制定当時に予想された原判決のいう「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的措置等」のみによつては、自国の平和と安全を維持するに足る集団安全保障を確保することができないことは明らかである。  
(二) 日米安全保障条約と国際連合憲章との関係  
日米安全保障条約は、国際連合憲章第51条を前提として結ばれた集団安全保障取極である。  
(イ) 先ず、国際連合憲章第51条による個別的ならびに集団的自衛権、およびこれを前提とする集団安全保障取極について述べる。国際連合憲章は、安全保障理事会のとる安全保障のための軍事措置がいかに確実かつ迅速に行われるとしても、なお、その実施には相当な日時を必要とするため、加盟国に対し、一朝武力攻撃が開始された場合には、当初から有効にこれを防禦し得ないことを予想し、第51条によつて加盟国に個別的または集団的自衛権のあることを承認し、加盟国に対して武力攻撃が発生した場合、加盟国が一定の制限の下にこれらの自衛権の行使として武力による自衛行動に訴えることを承認している。ここにいう集団的自衛権とは、一般に、自国が武力攻撃の対象である場合だけでなく、他国の安全や独立が自国の安全や独立に死活的であると認められるとき、その他国に武力攻撃が加えられた場合にも、自衛措置に訴えることが許される権利であり、国際連合憲章において、その正当性が承認されているのである。このような集団的自衛権が認められていることは、国際社会において平和の維持される利益が窮極には共通であることの適切な表現であるということができよう。この個別的または集団的自衛権の行使は、あらかじめ安全保障理事会の決定を経ないでとり得る軍事措置であるが、その軍事措置は、国際連合の集団安全保障の場合と違つて、武力攻撃が発生した場合に限られ、単に、武力攻撃の脅威があつたり、武力攻撃が切迫したというだけではとることができないのである。しかも、その軍事措置は、自衛権の行使としてとられるものであるから、その範囲は、自衛のためやむを得ない措置として必要かつ相当な限度に止まらなければならないことも当然である。また、かような軍事措置をとつた場合には、当事国は、直ちに安全保障理事会にこれを報告しなければならないとともに、安全保障理事会が国際の平和および安全の維持のために必要と認める行動をとつたときは、当事国は、右の軍事措置を停止しなければならないとされている。しかも、安全保障理事会は、当事国の自衛権の行使がその限界を逸脱していると認めた場合には、これを不当として国際連合憲章第39条により停止を勧告し、または、第40条により必要と認める暫定措置に従うよう関係当事国に要請し、さらに、自衛権の行使と称してとつた行動を平和の破壊と決定して、第42条による軍事措置によりこれを鎮圧することもできるのである。そして、安全保障理事会の決定が、いわゆる拒否権の行使等によつて不可能となるような場合には、国際連合の総会が、既に述べた「平和のための統合」決議に従い、安全保障理事会に代つて、当事国に対し限界を逸脱した自衛権の行使を停止することを勧告するとともに、他の加盟国にこれに対する必要な措置をとることを勧告することができるのである。従つて、加盟国の個別的または集団的自衛行動に対しても、安全保障理事会および総会の調整的機能が存することに留意しなければならない。このように、加盟国の個別的または集団的自衛権の濫用に対しては、国際連合が事後にこれを阻止し、是正する法的保障が存するのであるから、これら個別的または集団的自衛権の行使も窮極的には国際連合の一般的統制の下におかれ、かくして国際社会における法の支配が維持される建前となつているのである。  
国際連合憲章は、右に述べたような個別的および集団的自衛権を前提として、加盟国等が集団安全保障取極を結ぶことを禁じていない。そして、この集団安全保障取極が、その性質上、国際連合の集団安全保障に奉仕し、これを補充すべきものであることはいうまでもない。  
(ロ) 次に、日米安全保障条約と国際連合憲章第51条との関係について述べる。日米安全保障条約によつて駐留する合衆国軍隊の軍事行動は、条約第1条によれば、極東における国際の平和と安全の維持に寄与するとともに、外部からの武力攻撃に対するわが国の安全に寄与するためにとられるものとされている。従つて、条約の文言からは、合衆国軍隊の行動が国際連合憲章第51条の範囲にとどまるべきことは、必ずしも明らかでなく、特に合衆国軍隊が日本国以外の極東において軍事行動をとる場合は、その行動範囲が一見極東全域にわたつて広汎かつ無制限であるかの如き印象を受けるかも知れない。しかし、合衆国は、国際連合の加盟国として国際連合憲章第2条の行動の原則および第103条による憲章上の義務が一般条約上の義務よりも優先する原則によつて、何よりも先ず国際連合憲章の制約に従わなければならないのであるから、憲章の許す範囲内においてのみ軍事行動をとり得るのである。従つて、合衆国としても、その自衛権の行使につき、国際連合憲章第51条の適用を免れないことはいうまでもない。このことは、「昭和32年6月21日に発表された岸日本国総理大臣とアイゼンハウアー合衆国大統領との共同コミユニケ」の2に右の趣旨が記載されていることからも明らかである。また、昭和32年9月14日付の「日米安全保障条約と国際連合憲章との関係に関する交換公文」に「安全保障条約に基いて執られることがある措置」(安全保障条約に基いて締結された行政協定に基いて執られることがある措置を含む。)は、国際連合憲章第51条の規定が適用されるべきものであるときはいつでも、同条の規定に合致しなければならない」とされていることは、右の趣旨を確認したものに外ならない。従つて、合衆国軍隊の行動は、国際連合憲章の許容する範囲内にあつて国際連合の一般的統制に服し、合衆国軍隊が侵略のために出動したり、自衛権を濫用したりすることがない法的保障が存するのである。しかも、日米安全保障条約の締結が必要であつたことは、条約の前文に、「日本国は武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない」にもかかわらず、「無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある」とされていることから明らかである。右にいう侵略の危険の存在は、国際連合の安全保障理事会の1950年6月25日付、同月27日付および同年7月7日付の各決議ならびに総会の1951年2月1日付および同年5月18日付の各決議によれば、朝鮮動乱をめぐつて極東において平和の破壊または侵略行為が存在したと判断されていることからも認められるのである。しかるに、原判決は、極東において合衆国軍隊が、かかる軍事措置をとる際には、「わが国が提供した国内の施設、区域は勿論この合衆国軍隊の軍事行動のために使用されるわけであり、わが国が自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれ、戦争の惨禍がわが国に及ぶ虞は必ずしも絶無ではなく、従つて日米安全保障条約によつてかかる危険をもたらす可能性を包蔵する合衆国軍隊の駐留を許容したわが国政府の行為は、『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意』した日本国憲法の精神に悖るのではないかとする疑念も生ずる」と説示する。しかし、わが国内に駐留する合衆国軍隊が、極東における国際の平和と安全の維持のため出動するのは、国際連合の機関の決定または勧告に基いて出動する場合の外は、国際連合憲章第51条によつて合衆国の個別的または集団的自衛権の行使として行動する場合に外ならない。この場合には、現実に武力攻撃が発生しているのであるから、極東における国際の平和と安全を脅威することは明らかである。従つて、わが国の平和と安全に対しても脅威を及ぼすものであることは、これを否定し得ない。しかも、かような侵略を防止することは、わが国が加盟している国際連合の使命であるが、その安全保障の機能が充分に発揮されないので、これを補充するため合衆国軍隊が出動するものであることも看過してはならない。このように考えれば、原判決が、合衆国軍隊の駐留を許容した政府の行為をもつて、わが国が「自国と直接関係のない武力紛争の渦中」に巻き込まれる虞がある行為とするのは誤である。  
以上(一)および(二)に述べたように、日米安全保障条約により駐留する合衆国軍隊は、専ら、侵略を防止することにより、わが国の平和と安全の維持、およびこれと密接な関連のある極東における国際の平和と安全の維持に寄与するためにのみ使用され、それ以外の目的に濫用されない法的保障が存する。そして侵略が不法で許されないとされていることは、さきに述べた如く、確立された国際法規であつて、憲法第98条第2項も確立された国際法規を遵守すべき義務を規定しているばかりでなく、侵略を防止することは、国際の平和と安全の維持に寄与する所以でもある。従つて、合衆国軍隊の駐留を許容したわが国政府の行為は、日本国憲法の基調とする平和主義と国際協調主義にそいながら、わが国の平和と安全の維持をはかるものであつて、憲法第98条第2項に違反しないことはもちろん、憲法の精神にもとるものではなく、むしろ、その精神から許容されるべきものと解するのが相当である。  
以上いずれの観点よりするも、わが国内に駐留する合衆国軍隊を違憲の存在とする理由はない。従つて、かかる合衆国軍隊の施設または区域内の平穏を保護する目的で制定された刑事特別法第2条が違憲無効であるとした原判決の判断は不当なものといわざるを得ない。
第三点 司法裁判所の裁判権の限界について  
原判決は、直接、日米安全保障条約が憲法に違反するとは述べていないが、合衆国軍隊の駐留がわが国政府の要請と協力によつて始めて可能となるものであることを理由に、その駐留はわが国政府の行為によるということを妨げないとし、そうであるとすれば、政府が合衆国軍隊の駐留を許容していることは憲法第9条第2項前段に違反し、その結果わが国に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許されないと判示する。しかしながら、その判文を仔細に検討すると、条約の国際法上の効力は別として、その国内法上の効力と憲法との優劣問題については憲法優位の立場をとり、裁判所の違憲審査権は条約に及ぶものとし、日米安全保障条約を合衆国軍隊の駐留を許容する点において憲法第9条第2項前段に違反する無効なものと判断したと解する外はない。けだし、合衆国軍隊の駐留は日米安全保障条約に基くのであつて、その駐留に対するわが国政府の要請は同条約を成立せしめる行為であり、その駐留に対するわが国政府の協力は同条約による義務の履行として行われる行為であり、これを欠けば、同条約の成立を否定しまたはその存在を無意義ならしめるものであるから、これら政府の行為によつて合衆国軍隊の駐留を許容していることが憲法に違反し、その結果としてわが国に駐留する合衆国軍隊が憲法上その存在を許されないとすることは、とりもなおさず、日米安全保障条約を違憲無効と判断したことに帰着するからである。原判決が、かように、日米安全保障条約を違憲としたことは、憲法第81条の解釈を誤り、かつ、いわゆる統治行為または政治問題につき裁判所の裁判権が及ぶものとした不当な判断といわざるを得ない。  
一、条約と違憲審査権  
原判決が、右のように、条約についても裁判所の違憲審査権が及ぶとの見解に立つて日米安全保障条約を違憲と判断したことは、憲法第81条の解釈を誤つた不当な判断といわざるを得ない。いうまでもなく、裁判所の違憲審査権の憲法上の根拠は、憲法第81条である。しかし、同条は、法律、命令、規則および処分が憲法に適合するかどうかの審査権のみを規定していて、本件で問題となつている条約については、何も触れていない。さらに、憲法第98条第1項は、憲法をもつて国の最高法規であるとし、憲法に反する法律、命令、詔勅および国務に関するその他の行為の全部または一部はその効力を有しないとしながら、憲法と矛盾する条約の効力については規定するところなく、かえつて同条第2項において、日本国が締結した条約および確立された国際法規は誠実に遵守することを必要とすると規定し、条約は、憲法との関係において、法律、命令、規則または処分とは別個に取扱われるべきことを明らかにしている。従つて、日本国憲法の下においては、裁判所は、条約が憲法に適合するかどうかの審査権を有しないものと解すべきである。もとより、かように解したからといつて、憲法と矛盾する条約の締結を憲法が是認しているというのではなく、かかる条約の締結は避けなければならないのは当然であるが、条約の性質と司法裁判所の性格および機能にかんがみ、憲法は、条約の合憲性の判断を内閣と国会、すなわち国の最高の政治部門に委ねたものと解するを相当とする。かように考えれば、原判決が日米安全保障条約を憲法に違反すると判断したのは、条約に対する裁判所の違憲審査権が憲法上否定されているにもかかわらず、それに違反してなされた不当な判断といわざるを得ないのである。条約について裁判所の違憲審査権がないと解する以上、原判決のいう合衆国軍隊の駐留を許容する政府の行為についても裁判所の違憲審査権の及ばないことはもちろんである。  
二、統治行為  
条約一般につき違憲審査権があるかどうかにかかわらず、日米安全保障条約は、その特殊な性格にかんがみ、司法裁判所において憲法に適合するかどうかを審査することはできない。思うに、社会に生起するあらゆる問題は、それが法律上の争を含むものである限り、訴があれば、裁判所においてこれに法律的解決を与えるべきであるとすることは、原則として正しい。日本国憲法も、それを理想とし、裁判所に広汎な権限を認めているのである。しかしながら、諸外国の例に徴しても、また、多くの学説の説くところに徴しても、右の原則にはおのずから例外があるのであつて、その例外を如何なる理論の下に如何なる範囲に認めるかについては諸説必ずしも一致していない現状にあるが、少くとも、いわゆる統治行為または政治問題という観念をもつて表わされる司法裁判所の裁判権の及ばない問題のあることについては、殆んど争がない。もとより、かかる問題のあることを認めることは、その限度で、国民の有する裁判所の裁判を受ける権利を奪うこととなるので、その範囲の徒らに拡大されることは許されないのであるが、高度の政治性を有する問題、殊に現在の複雑微妙な国際情勢の下において侵略の危険に曝されることをできるだけ避け、国の安全を保持するためにとられる政府の措置にかかる問題については、司法裁判所が純法律的に処理することなく、政府または国会の処理に委ねるべきである。この制約は、憲法上司法権の本質に由来するというべきであつて、このことは、司法裁判所の組織および訴訟手続の構造、殊に裁判が法廷に顕出される限られた資料のみに基いてなされなければならないことに徴しても明らかであろう。日米安全保障条約の合憲性の問題は、まさに、かような司法裁判所の裁判権の限界を越えた問題である。日米安全保障条約を違憲と判断することが司法裁判所の裁判権の限界を越える不当な判断である限り、原判決のいう合衆国軍隊の駐留を許容する政府の行為についても、また同様である。  
三、前提問題  
条約について、あるいは統治行為または政治問題について、憲法上裁判所に裁判権がないことを是認しながら、前提問題としてならばその審査をすることを妨げないと説く者もあるようである。しかし、憲法が条約を司法裁判所の違憲審査権の範囲外においたのも、統治行為または政治問題の観念をもつて表わされる司法裁判所の裁判権の及ばない問題があることを認めるのも、条約および統治行為または政治問題の性質が、そもそも司法裁判所の裁判権に服させることを適当としないためである。従つて、前述したところは、日米安全保障条約または同条約に関する政府の行為が前提問題となつている場合であると否とにかかわらないこと論をまたない。  
以上いずれの観点よりするも、司法裁判所の裁判権の限界を越えて日米安全保障条約を違憲とし、従つて、刑事特別法第2条が違憲無効であるとした原判決の判断は不当なものといわざるを得ない。  
右第一、第二、第三のいずれの点よりするも、原判決は、到底破棄を免れないものと思料する。 
 
砂川判決がなぜ集団的自衛権の論拠に? 2014/5

 

集団的自衛権の行使容認のための憲法解釈見直しへ向けた議論が来週以降、本格化します。安倍首相や自民党幹部らは、集団的自衛権の行使容認の論拠として、1959年の「砂川事件」判決を持ち出しています。「砂川判決」とはいったいどんな内容だったのでしょうか。  
「砂川判決」の概要  
砂川事件とは、東京・米軍立川基地(1970年代に日本に返還)の砂川町(現・立川市)などへの拡張に反対する「砂川闘争」の最中に起きました。57年7月に反対派が基地内に立ち入ったとして日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反(施設または区域を侵す罪)で、学生ら7人が裁判にかけられました。被告人は根拠法すなわち安保条約やそれに基づく米軍の駐留が憲法に違反しているから無罪と主張。東京地裁は憲法9条に駐留米軍は違反するとして全員無罪の判決を出しました。いわゆる「伊達判決」です。  
法律や行政のあり方が憲法に照らしてどうなのかという「違憲審査権」は地方裁判所も持っています。ただ「違憲」の場合は通常の高等裁判所への控訴を飛び越して最終判断する最高裁へ上告できるので、検察官は上告しました。  
1959年12月に出されたその最高裁判決で、「憲法は」「自衛のための措置を」「他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではな」く「外国軍隊は」9条の「『戦力』には該当しない」としました。では「自衛」とは何かという点に関して、9条は「わが国が主権国として有する固有の自衛権を何ら否定して」おらず「わが国が、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であ」るとしました。これがいわゆる「砂川判決」です。  
地裁判決は破棄差し戻しとなり、再びの地裁判決は有罪(罰金2000円)で上告棄却された63年に確定しました。  
「自衛権」を明確に認めた判決  
それでは、なぜ集団的自衛権の行使の論拠になるのでしょうか。まず最高裁判決で「自衛権」を明確に認めている点です。憲法を改正せずに内閣の解釈変更だけでどうにでもなるのであれば、憲法を事実上無力化するに等しいとの立憲主義からの反発が根強いため、「集団的自衛権がある」としたい安倍政権は、ならば違憲審査権の総本山たる最高裁の判決で権威化しようと考えたのでしょう。  
「主権国として有する固有の自衛権」として集団的自衛権「行使」が認められると判断する材料として国連憲章51条があります。「武力攻撃が発生した場合は」「個別的又は集団的自衛権の固有の権利を害するものではない」が挙げられます。憲章は45年に制定され、日本の国連加盟は56年。砂川事件の最高裁判決はその後なので、当然「固有」の「自衛権」「権利」を推認し得たはずという論法です。  
なお砂川判決を持ち出してまで政権が進めたいのは集団的自衛権の「限定容認」。背景にいわゆる「地球の裏側論」があります。日米同盟に基づいて米軍が地球の裏側で戦っていたら自衛隊も参戦するのかと。そうではなくあくまで最小限度に止めた個別的自衛権に果てしなく近い事態を想定しているようです。  
「論拠化」への否定的な見方は?  
真っ先に思い浮かぶのは「何が悲しくて砂川を持ち出すのか」という反発。この事件は当時盛んだった米軍基地反対闘争の一環と一般に認知されており、事件名も日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反です。それが違憲か合憲かを具体的に争ったのが裁判本来の目的で、自衛隊に集団的自衛権があるかどうかまで見通したとは到底思えないという認識が強く存在します。何しろ自衛隊の発足は54年。当時は自衛隊そのものが9条に違反しているという声も強い時代でした。あれは「保持しない」はずの「陸海空軍その他の戦力」そのものだと。これに対して歴代政権は「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」けど9条2項の「前項の目的を達するため」「認めない」から「前項の目的」でない個別的自衛権、当時盛んに使われた言葉だと「専守防衛」のみ認められると答弁してきました。  
まして海外派遣にいたっては、90年代に入って国会がもめにもめたPKO(国連平和維持活動)協力法成立まで、おそらく自衛隊や防衛庁(当時)すら意識していなかったと思われます。今回の件が出てくるまで砂川判決で集団的自衛権を説明しようとしてこなかったし、近年アメリカで開示された公文書で焦点の最高裁判決を下した裁判官がアメリカに「無罪判決破棄」を伝えていたと類推できる資料まで見つかっています。集団的自衛権行使容認派からさえ「砂川を用いるのは筋が悪い」と首を傾げる人もいます。  
判決「傍論」論の是非  
先に示したように事件名は安保条約と米軍基地に関する法律違反であり、自衛権の問題は個別であれ集団であれ、核心部分からはずれた「傍論」に過ぎないという意見があります。砂川判決で集団的自衛権を容認したいグループは「最高裁判決に傍論などない」「傍論もまた判決の一部だ」と訴え、否認派は「傍論を用いたこじつけだ」と反発しています。  
ただこういう議論は立場が逆転すると態度も変えるからどっちもどっちといえます。2008年、自衛隊のイラク派遣差し止め訴訟で、名古屋高等裁判所が航空自衛隊のバグダッド空輸活動を違憲とする判断を示し、その後確定しました。裁判そのものは損害賠償請求などを退けて原告敗訴です。この時、政府内から「違憲」は傍論に過ぎないと公然と声があがった一方で、派遣に懐疑的な側は「判断は重い」「撤収の論議をせよ」と訴えました。 
 
浅間山荘事件1

 

1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。  
日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人(坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久)が、浅間山荘の管理人の妻(当時31歳)を人質に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。  
酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)に達した。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に渡って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。これは事件から40年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。
事件の発端  
当時、連合赤軍の前身である京浜安保共闘および赤軍派の両派は、銀行に対する連続強盗事件や、真岡銃砲店襲撃事件で猟銃店を襲って銃と弾薬を手に入れるなど、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていたため、警察は都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行い、警察の総力を挙げて行方を追っていた。  
警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。潜伏して逃避行を続けていたが、程なくして警察の山狩りが開始され、また、外部からの援助等も絶たれ組織の疲弊が進んでいた。1971年の年末から、山岳ベースにおいて仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ猛烈な思想点検・討論を行うようになり、その末に思想改造と革命家になるための「総括」と称しリンチ殺人事件(山岳ベース事件)を起こすなどして内部崩壊がすすんでいた。  
警察の山狩りによって、榛名山や迦葉山のベースを発見されたことをラジオのニュースで知ると、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県を出て隣接する長野県に逃げ込むことにした。長野県ではまだ警察が動員されていないと思われていたためである。  
彼らは長野県の佐久市方面に出ることを意図していたが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった(浅間山は群馬県と長野県の県境にあり、軽井沢町と佐久市はその山裾にある)。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、彼らはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なかった。立てこもり先として浅間山荘が選ばれたのは偶然であった。  
2月19日の正午ごろ、連合赤軍のメンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入。台所などにあった食料を食べて休息していたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊がパトカーに乗って近づいてきたことを察知し、パトカーに発砲した。即座に機動隊側もコルト・ガバメントとニューナンブを連射してこれに応戦。発砲した後、『連合赤軍 少年A』によれば、加藤倫教が坂口弘に対し、警察官を包囲しパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口は何も答えなかったという。15時20分ごろ、連合赤軍のメンバーは銃を乱射しながら包囲を突破し、さつき山荘を脱出。さつき山荘の近所にあった浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質として立てこもった。当初、坂口は管理人の妻を人質として、警察に連合赤軍最高幹部の森恒夫と永田洋子の釈放と、浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野はそれに反対し、この計画は断念された。車を奪って逃げることを提案したが、車のキーは出掛けている人質の夫が持っているため断念(なお連合赤軍5人の中に、車の運転ができる者はいなかった)。こうして浅間山荘での籠城が決まっていった。  
当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込み声が出ないようにしたが、その後、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったため解いている。また、警察の突入に備え、山荘内に畳などを持ち込んでバリケードを築いた。  
連合赤軍は山荘内の食糧を集め、犯人グループは1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には20日の食糧備蓄があり、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞き、兵糧攻めは無理と判断し、説得工作を開始した。  
2月21日、犯人5人は盗聴や人質に身元が割れないようにコードネームを決めた。コードネームは、坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤(倫教)は「赤城」、加藤(元久)は「霧島」であった。連合赤軍はアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。途中、人質を解放する案や夜中に山荘を脱出する案も浮上したが、「人質を国家権力の手から保護する」という倒錯した理屈が提唱され、結局最後まで人質を取って籠城する方針は変わらなかった。
警察の対応  
初期対応  
全国を股にかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、警察庁では警備局・刑事局・全国の各管区警察局などが陣頭指揮を執り都道府県警察と総合調整を図って捜査していた。  
そして、連合赤軍一派と遭遇し、銃撃戦に応戦した長野県機一個分隊の至急報を受けた長野県警察本部では、全県下の警察署に対し重大事案発生の報と共に動員をかけ、軽井沢への応援派遣指令を出した。まず、山荘周辺の道路封鎖と強行突破を防ぐための警備部隊の配置、連合赤軍残派の検索を行うため山狩りと主要幹線道路の一斉検問実施、国鉄及び私鉄各線の駅での検索など、県警として考えうる限りの対応を実施した。  
また、長野県軽井沢にて連合赤軍発見の急報を無線傍受していた警察庁では、直ちに後藤田正晴警察庁長官の指示により、人質の無事救出(警備の最高目的)・犯人全員の生け捕り逮捕・身代わり人質交換の拒否・火器使用は警察庁許可(「犯人に向けて発砲しない」を大前提とした)などの条件が提示され、長野県警察の応援として警察庁・警視庁を中心とする指揮幕僚団の派遣を決定する。  
警察庁からは、長野県警察本部長・野中庸(いさお)警視監と同格の丸山昂(こう)警視監(警備局参事官)を団長として、警備実施及び広報担当幕僚長に佐々淳行警視正(警備局付兼警務局監察官)、警備局調査課の菊岡平八郎警視正(理事官・広報担当)、情報通信局の東野英夫専門官(通信設備及び支援担当)、また、関東管区警察局からも樋口公安部長など数人が派遣されている。  
警視庁からは、機動隊の統括指揮を行うため石川三郎警視正警視庁警備部付(警備部のトップ3の役職であり、第一次安保闘争時の警視庁第一機動隊長を務めるなど数々の修羅場をくぐった歴戦の指揮官であって、第二機動隊長の内田尚孝警視とはかつて同じ機動隊で上司と部下の関係だった)、國松孝次広報課長、梅澤参事官(健康管理本部・医学博士)など他にも多数の応援が向かった。  
後日、佐々幕僚長の要請で警視庁警備部の宇田川信一警視(警備第一課主席管理官・警備実施担当)が現場情報担当幕僚として派遣される。また、宇田川警視もコンバットチームと呼ばれる警視庁警備部の現場情報班を軽井沢に招集する。  
機動隊関係では、事件発生当日の警視庁の当番隊であった第九機動隊(隊長・大久保伊勢男警視)が急遽軽井沢へ緊急派遣された。しかし、東京の環境での装備しかないため、冬期の軽井沢では寒さの対策に苦慮した。そこで追加派遣に二機が選ばれ、先に現着している九機の現地での状況も考慮し、寒冷地対策を徹底して軽井沢に向かった。  
第二機動隊が追加派遣された理由については諸説あるが、当番隊として先着していた第九機動隊は当時まだ新設されたばかりであり、石川と内田は元上司と部下の関係で互いに気心が知れており、しかも、警視庁予備隊時代から基幹機動隊として歴戦の隊であるため派遣要請されたのではという説もある。九機も現着した二機と一旦交代し、一度東京へ戻り寒冷地対策をして再び軽井沢に向かった。さらに警視庁からは、防弾対策・放水攻撃実施などの支援のため特科車両隊(隊長・小林茂之警視。東大安田講堂事件時は、佐々警視正や宇田川警視とともに警視庁警備部警備第一課に属しており、機動隊との連絡担当官を務めた)、人質の救助、及び現場での受傷者の救助の任務のため第七機動隊レンジャー部隊(副隊長・西田時男警部指揮)も追加派遣されている。  
警察は、当初は犯人の人数もわからず、また人質の安否もわからないまま、対応にあたることになった。後藤田長官の方針としては、当地の長野県警察本部を立てて、幕僚団と応援派遣の機動隊は支援役的な立場とされていた。しかし、現地の長野県警察本部では、大学封鎖解除警備などの大規模な警備事案の警備実施経験がなく、装備・人員等も不足しており、当初から長野県警察本部での単独警備は困難であるとの見解を警察庁は有していた。だが、どうしても地元縄張り意識が強く、戦術・方針・警備実施担当機動隊の選定などで長野県警察本部と派遣幕僚団との間で軋轢が生じ、無線装置の電波系統の切り替えや山荘への偵察実施の方法など、作戦の指揮系統についても議論が紛糾した。  
結果的には、長野県警察本部の鑑識課員などが幹部に報告せずに、被疑者特定のための顔写真撮影を目的とした強行偵察を行おうとした際、機動隊員2名が狙撃され、1名が重傷を負ったこと、包囲を突破した民間人が山荘に侵入しようとして犯人から拳銃で撃たれ(2月24日)、死亡(3月1日)したこと、さらに無線系統の不備や、強行偵察時の写真撮影の不手際など長野県警察側の不備が露呈し始めたことから、作戦の指揮は警視庁側を主体に行われていった。  
制圧作戦  
包囲のなか、警察側は山荘への送電の停止、騒音や放水、催涙ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、特型警備車を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、立て籠もっていると思われた連合赤軍メンバーの親族(坂口弘の母、坂東國男の母、吉野雅邦の両親、寺岡恒一の両親)を現場近くに呼び、拡声器を使って数度にわたり説得を行った。犯人の親は説得において、事件の最中の2月21日にニクソンアメリカ合衆国大統領が中華人民共和国を訪問しており、国際社会が変わっていることをあげた。説得を聞いていた機動隊員らは涙を流したといわれる。しかし、犯人は警察が親の情を利用したとして逆上し、親が乗っていた警察の装甲車に向けて発砲した。  
長時間の検討の結果、クレーン車に吊ったモンケン(クレーン車に取り付けた鉄球)で山荘の壁と屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。建物の設計図などの情報が提供されて、作戦実施が決定された。警察は情報分析の結果、3階に犯人グループ、2階に人質が監禁されていると判断し作戦を立案した。そこで破壊目標は山荘3階と2階を結ぶ階段とし、3階の犯人達が人質のいる2階(実際は人質も3階にいた)へ降りられなくするために、まず階段のみを限定的に破壊した。鉄球の威力が強すぎると、山荘自体が破壊され崖の下へ転落する恐れがあったため、緻密に計算された攻撃であった。なお、強行突入を前に山荘内のラジオなどで情報漏洩を防止するため、報道機関と報道協定を締結している。  
次に3階正面の各銃眼を鉄球で破壊し、さらに屋根を破壊してからクレーンの先を鉄球から鉄の爪に付け替え屋根を引き剥がし、特製の梯子を正面道路から屋根へ渡して上から二機の決死隊を突入させる手筈だった。また、下からは1階を警視庁九機、人質がいると思われる2階を長野県機の特別に選抜された各決死隊の担当で、予め山荘下の入口から突入させて人質救出・犯人検索を実施という手筈だった。しかし、実際には人質は3階で犯人と共におり、また、山荘破壊途中にクレーンの鉄球も停止して再始動不能になってしまい、作戦の変更を余儀なくされた。鉄球作戦の効果は2階と3階の行き来を不可能にさせたことと、壁の銃口を壁ごと破壊するに留まった。  
鉄球が停止した理由は、公式には「クレーン車のエンジンが水をかぶったため」とされているが、これは、現場警察官の「咄嗟の言い訳」であり、「狭い操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、バッテリー・ターミナルを蹴飛ばしたため」である。本来、屋外で使用されるクレーン車であり、多少の水がかかった程度では問題は起きない。  
この故障説については、作戦に関わった土木会社の証言から、故障ではなくて車両そのものが問題だった事が明らかになっている。このクレーン車は警察車両ではなく、米軍の払い下げ品を民間会社が使用していたものを、急遽操縦席に鉄板を取り付けるなど、防弾のための改造を施したものだった。また、モンケンにしても専用の車両ではなく、単なるクレーンのケーブルに鉄球を取り付けた代物だったため、鉄球が止まったのは故障ではなく、もともと単発の使用でありあわせのものだった事を、鉄球作戦に車両を提供した関係者が模型雑誌で明かしている。  
当時の警視庁第九機動隊長であった大久保伊勢男は、鉄球作戦は失敗であったと回想している。佐々も作戦中にクレーンが故障したため十分な効果を得られなかったとしている。
事件の収束  
2月28日午前10時に警視庁第二機動隊(以下「二機」)、同第九機動隊(以下「九機」)、同特科車両隊(以下「特車」)及び、同第七機動隊レンジャー部隊(七機レンジャー)を中心とした部隊が制圧作戦を開始。まず、防弾改造したクレーン車に釣った重さ1トンの鉄球にて犯人が作った山荘の銃眼の破壊を開始。直後に二機が支援部隊のガス弾、放水の援護を受けながら犯人グループが立てこもる3階に突入開始(1階に九機、2階に長野県機動隊が突入したが犯人はいなかった)。それに対し、犯人側は12ゲージ散弾銃、22口径ライフル、38口径拳銃を山荘内から発砲し抵抗した。このとき、盾に弾丸が貫通することが分かり、隊員は盾を2枚重ねて突入した。  
突入した二機四中隊(中隊長・上原勉警部)は築かれたバリケードを突破しつつ犯人グループが立てこもる部屋に接近した。作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長・高見繁光警部、二機隊長・内田尚孝警視が犯人からの狙撃を頭部に受け、数時間後に殉職。さらに山荘内部で上原二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに突入を図った隊員数名が被弾して後退した。その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。  
内田機隊長が撃たれた後に警察庁から拳銃使用許可が下りたものの、現場の混乱もあって命令が伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった(威嚇発砲のため犯人には当たらず)。その後、犯人側は鉄パイプ爆弾を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断された二機を1階2階を担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。また、放水の水が山荘中にかかった事から、夜を越すと犯人と人質が凍死する危険があったため、当日中の人質救出・犯人検挙を決定した。また当初は士気に関わるとして部隊指揮官の意思を尊重する形で、狙撃対象の区別がしやすいヘルメットの指揮官表示を取っていなかったが、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。  
作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長・大久保伊勢男警視から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。  
逮捕時、犯人側には多くの銃砲や200発以上の弾丸、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、M作戦(銀行強盗)などで収奪した75万円の現金が残っていた。  
事件収束までの犠牲者は、警視庁の高見繁光警部(二階級特進・警視正)と内田尚孝警視(二階級特進・警視長)の2人、そして「犯人を説得して人質を解放する」という意思で山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員と信越放送のカメラマン計16人が重軽傷を負った。重傷者の中には、失明など後遺症が残った者もいる。また、坂東國男が逮捕される直前、彼の父親が自宅のトイレで首吊り自殺している。遺書には人質へのお詫びと残された家族への気遣いが書かれていた。
事件が長期化した要因  
人質の無事救出が最重要目的であり、かつ犯人を生け捕りにする方針であった。仮に犯人を射殺した場合「殉教者」として神格化され、他の集団に影響を与えると考えられたためである。警察は1960年の安保闘争で死亡した樺美智子や1970年の上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦等の事例を想定していた。さらに、1970年の瀬戸内シージャック事件において犯人を射殺した警察官が、自由人権協会所属の弁護士から殺人罪等で告発されたことへの憂慮もあった。告発は正当防衛として不起訴となったが、事件当時は特別公務員暴行陵虐罪による付審判請求が行われ、裁判所の決定が下されていなかった。  
また、犯人たちは警察の要求を一切聞き入れず、かつ一切の主張や要求をしなかったので、警察は人質の安否すら把握できなかった。そのため、人質の安否確認、犯人の割り出しのために偵察を繰り返したが、山荘が切り立った崖に建てられていて、犯人に有利な構造であったこと、頻繁に犯人が発砲してくること、警察の発砲が突入直前まで全く許されなかったことなどから情報収集もままならなかった。佐々淳行は著書の中で、この難攻不落の山荘を「昭和の千早城」と評している。
事件後の情勢  
連合赤軍の崩壊  
あさま山荘事件での犯人逮捕で、連合赤軍は幹部全員が逮捕され、事実上崩壊した。逮捕後の取り調べで、仲間内のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚し、世間に衝撃を与えた。また、逃走していた連合赤軍メンバーも次々と出頭し、全メンバーが逮捕された。  
特殊部隊の創設  
1972年9月5日、西ドイツ(当時)でミュンヘンオリンピック事件が発生し、黒い九月により人質全員が殺害され、日本国内に衝撃を与えた。事件後、警察庁は全国の都道府県警察に通達を出し、「銃器等使用の重大突発事案」が発生した際、これを制圧できるよう特殊部隊の編成を行うこととした。  
1975年、日本赤軍によるクアラルンプール事件によって、あさま山荘事件犯人の一人である坂東國男が「超法規的措置」として釈放され、日本赤軍に合流した(坂口も日本赤軍から釈放要求されていたが、拒否をしている)。  
1977年9月28日、釈放された坂東が関与した日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生した際、日本政府は日本赤軍の要求を受け入れ、身代金(600万ドル)を支払い、超法規的措置により6名を釈放した。だが、直後に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件での西ドイツ政府の強行手段(特殊部隊GSG-9による犯人射殺)と対照的だったため、国内外から厳しい批判を受けることになった。この事件に対する教訓から、同年、政府は警察にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を創設した。この部隊が近年増設され、SATと呼ばれている。  
裁判  
山岳ベース事件も含めた連合赤軍事件全体で起訴された。当初、被告たちの多くは共同の弁護団による統一公判で裁判に臨んだが、徐々に被告間で事件に対する認識の齟齬が生じたり、坂東國男の離脱などの事情もあり、最終的には統一公判組と分離公判組に分かれることになった。本事件に関係した被告では、坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年、加藤元久(逮捕時16歳)は中等少年院送致とそれぞれ判決が確定した。なお、坂口への最高裁判所の判決は1993年2月19日で、あさま山荘事件発生からちょうど21年であった。国外逃亡した坂東國男は現在も国際指名手配されている。警察関係者の中には、坂東が逮捕されるまであさま山荘事件は終わらないと考えている者もいる。
関係者のその後  
佐々淳行は初代内閣安全保障室長を経て現在は危機管理の専門家・評論家として活動している。  
当時警察庁警備局公安第三課課長補佐として参加していた亀井静香は現在衆議院議員を務めている。  
國松孝次警視庁広報課長は後に警察庁長官に就任したが、在任中何者かに狙撃されている(警察庁長官狙撃事件)。  
佐々の伝令だった後田成美巡査は現在、衆議院議員山本有二の政策担当秘書を務めている。
エピソード  
カップヌードル  
事件当時、現場は平均気温マイナス15度前後の寒さで、機動隊員たちのために手配した弁当は凍ってしまった。地元住民が炊き出しを行い、隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警察の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員には、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという。やむなく当時販売が開始されたばかりの日清カップヌードルが隊員に配給された。手軽に調達・調理ができた上に寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。もっとも、佐々淳行の著書によれば、カップヌードルは警視庁が補食として隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野や神奈川の隊員には売らず(警視庁の予算で仕入れ、警視庁が水を汲んで山に運び、警視庁のキッチン・カーで湯を沸かしたからというのがその理由)、警視庁と県警との軋轢を生んだとある。テレビ中継でカップヌードルを美味しそうに食べる隊員達の姿が映像に映り、同商品の知名度を一挙に高めた。カップヌードルの売上は発売開始時の1971年には2億円だったのに対して、事件後の1972年には前年比33.5倍の67億円になっている。  
鉄球作戦  
佐々淳行によると、当時テレビの前の視聴者の度肝を抜いた鉄球作戦は、実は東大安田講堂事件の時、当時警視庁警備第一課長として現場指揮担当であった佐々自身が提案したものが、後に浅間山荘で実施されたのだという。佐々は全共闘による建物上部からの抵抗から機動隊員を守り、かつ速やかに占拠された建物への突破口・進入路を安全に確保するために、安田講堂の正面入口を建物解体用のモンケンで一気に破壊する、という正面突破作戦を具申したが、秦野章警視総監(当時)から却下された。その理由として、安田講堂は東京都指定の登録文化財第1号であり、安田財閥の創始者・安田善次郎からの寄付でもあるための配慮があったのではないか、としている。なお近年のテレビ番組において、警察側に重機、鉄球クレーンを提供した機材会社、また実際にクレーン車を操縦した民間協力者が実名で報じられている。以前は報復を警戒して、テレビ番組では当事者が否定していた。だが、警察の努力により連合赤軍及びそのシンパが報復活動に出ることが不可能となった(要するに連合赤軍が壊滅した)ため、この状況を以って、当事者が実名で現れても報復の心配がなくなったことが証明されたといわれる。使用された鉄球は2008年時点において、長野市内の鉄工所に残されている。  
ヘルメットの意匠  
当時、現場の隊長、副隊長は指揮を円滑に進めるためにヘルメットの意匠が少し変わっていた。その事が災いし、それさえ理解していれば容易に隊長格を特定して狙撃、指揮系統を混乱させる事が可能だった。事件の後、これらの問題点からヘルメットによる識別は撤廃された。  
生中継  
1972年2月28日の突入作戦時にNHK・民放5社が犯人連行まで中継しているが、このうち、NHK・日本テレビ・TBS・フジテレビの中継映像がVTRで残っている。長野放送とフジテレビが、当時はまだ白黒用だった長野放送の中継車を通じて犯人連行の様子を高感度カメラで捉えることに成功。当時、報道に力を入れていなかったフジテレビはこれを機に報道に力を入れるようになった。また、暗視カメラとして白黒カメラが見直されるなど後のテレビ報道に影響を与えた。  
後方の治安  
当時の長野県警察の定数2,350人中、あさま山荘事件と他メンバー潜伏の山狩りのために838人(定数の36%)を動員していた。そのため、事件が長期化するにつれて後方の治安が心配され、交通事故の増加や窃盗犯の増加が懸念された。しかし、事件の長期化とともに犯罪発生件数や交通事故は減少傾向を示していた。これは事件の放送が異常な高視聴率を示していたことから大勢の人間がテレビを視聴していたことになり、外出を控えて自動車の絶対量が減ったり、在宅率が増えて空き巣が入る対象の空き家が減ったり、犯罪者自身もテレビの事件報道を視聴している間は犯罪を犯さなかったためとされている。  
警備心理  
群集心理や、人質の心理のレクチャーのために宮城音弥東工大教授らが現地に派遣された。  
人質女性  
事件後、マスコミの取材等は一切の断絶状態で長野県警察本部が厳重に警備していたはずの人質女性の取調べの模様が、新聞の特ダネとして次々とスクープされた。その後、女性の病室に忍び込もうとしていた新聞記者が取り押さえられ、盗聴器を所持していたことが判明したが、公にはならなかった。女性は、「赤軍派にうどんを食べさせてもらった」、「3食ちゃんと食べさせていた」という発言や、あたかも犯人達と心の交流があったかの如く報道され、広く世間の批判を受けることとなるが、実際には「一日一食、ごった煮みたいなものを食べさせられた」、「26日からはコーラ1本しかもらえなかった」、「2月29日の報道を見たらまるで私が赤軍と心のふれあいをしたみたいに書いてあって驚いた」と後に述べている。  
浅間山荘  
その後事件後10年ほどは、浅間山荘は観光名所となり、観光バスのコースにもなっていた。その後、大半を取り壊して建て直され、アートギャラリーとなったのち、現在は中国企業の所有となっている。事件当時、新毛沢東主義のセクトが篭城した現場が、その毛により建国された中国の企業に”資本主義”のルールに基づき買い取られる、という皮肉な形となった。 
 
「浅間山荘事件」と「総括」2

「総括」と「浅間山荘事件」  
1972年、当時12歳だった僕にとって、3年前安田講堂に立てこもった学生たちと同様「浅間山荘」に立てこもっていた連合赤軍は英雄に見えていました。思うに、オウム真理教以降の時代とは異なり、あの頃はけっして世の中全部が警察を応援していたわけではありませんでした。当時は、小学生でも、担任の先生によっては、ソ連こそ理想の国家として教えられていた時代です。警察は少年たちにとっては、悪役であり、学生運動の活動家はそんな巨大な国家権力に挑む英雄に見えていました。単に警察が立てこもりの犯罪者集団を逮捕するだけなら、あんなに事件の報道は視聴率をとることはなかったでしょう。あの時、まだ連合赤軍の行動は単なる「テロ行為」ではなく「英雄的な戦闘行為」と考えられていたともいえます。  
しかし、「浅間山荘事件」をきっかけに世間の連合赤軍に対する見方は大きく変わり、それにとどめをさすことになったのが、「総括」という名の「集団暴行殺人事件」でした。1972年以降、もう彼らを英雄視する人はほとんどいなくなってしまいます。そのきっかけとなった1972年の二つの事件に迫ります。  
ここでは時間軸に沿って、「総括」による大量殺人事件から取り上げますが、実際に我々がその事実を知ったのは、浅間山荘事件が解決して以降のことだということをお忘れなく。
「総括」とは何だったのか?  
「この事件は、当時の日本の新左翼のあいだで頻発していたセクト間の抗争、いわゆる内ゲバとは異なるものだった。内ゲバは、一つの党派が内部の意見の不一致を調整できなくなって、激しく対立するセクトに分裂したときに起こる。連合赤軍粛清はこれとは逆だった。二つの別々のグループが、連合赤軍の名のもとに一体化しようとした。グループ内の拮抗はあったものの、山中の出来事は明らかに一つのグループがもう一つのグループに対立したためだけで起こったものではない。そうではなくて、それぞれの側から孤立した個人に対して、グループが一体となって集団的に暴力行為におよんだものである。死に至る粛清は、統一という儀式の過程で偶発的に起こったともいえよう。・・・」 「日本赤軍派」パトリシア・スタインホフ著(1991年)
連合赤軍  
「我々はすでに銃を奪取して武装した。プロレタリア革命軍こそ敵から奪った銃を味方の武器として団結する軍隊である。我々がその奪った銃で本格的な的殲滅を開始する時こそ日本革命戦争は本格的な幕開けを迎える」 連合赤軍の機関誌「銃火」創刊号より  
「連合赤軍」とは、左翼の学生グループ「赤軍派」と「京浜安保共闘もしくは日本共産党革命左派(革左)」が合流して誕生したグループです。ただし、「赤軍派」が目指していたのが「世界同時革命」(トロツキズム)だったのに対し、「革左」は「反米愛国」(毛沢東主義)であり「一国革命」であり、そこは大きく違っていました。ある意味、対立していたグループ同士がなぜ合流することになったのか?それは彼らの活動がどちらも行き詰まっていたからでした。  
当時、「革左」は、群馬県の真岡市における鉄砲店襲撃により武器を大量に入手し、ダイナマイトなどの爆発物も多く所有していましたが、活動の基礎をなす資金が不足していました。それに対し、「赤軍派」は銀行襲撃事件などにより多額の資金を入手し、時限爆弾などのノウハウも持っていましたが、逆に自分たちが使用するための武器、爆発物が不足していました。その意味では、二つのグループの共闘は必然だったといえます。  
しかし、二つのグループ間にはもっと根本的な部分で基本的な思想の違いがありました。例えば、彼らの間には、グループ内における女性活動家の立場の違いがありました。「革左」においては、永田洋子に代表される女性活動家は十分に活躍の余地があり、彼らはすでに「フェミニズム」の思想をグループ内で実行していました。しかし、「赤軍派」では、女性は革命戦士(男性)の妻としてしか存在を認められてはいませんでした。実際、連合赤軍の山岳ベースにおける共同戦線に参加した「赤軍派」メンバーの中で女性は、幹部で留置場にいた高原浩之の妻、遠山美枝子しかいなかった。そして、そんな例外的存在の遠山美枝子の存在が、山岳ベースにおける「総括」事件のきっかけを作ることになります。もし、そこに女性がいなければ事件はまた異なる方向に向かっていたかもしれません。しかし、そうした問題は後付の問題であり、二派の合同体制を確立するための山岳訓練はすでに行われていたのです。このことを、警察はまだまったく把握していませんでした。そして、その山岳ベースにおいて、悲劇が起きることになります。  
山岳ベースでの「総括」に関わったメンバーとしては、赤軍派が森恒夫、坂東国男、山田孝、青砥幹夫、行方正時、遠山美枝子、植垣康博、進藤隆三郎、山崎順。革左からは、永田洋子、坂口弘、大槻節子、吉野雅邦、杉崎ミサ子、加藤能敬、尾崎充男、小嶋和子、寺岡恒、山本順一、金子みちよ・・・。
総括の始まり  
1971年冬、「革左」と「赤軍派」のメンバーが山岳ベースでの合流を行った時、すでに「革左」では「総括」が行われ犠牲者が出ていました。それは8月に行われた山岳ベースでの訓練でのことでした。そこで脱落したメンバーの向山茂徳と早岐やす子が、情報が外部に漏れる恐れがあるとして殺害されていたのです。  
12月25日、榛名ベースでも、赤軍派出身の森恒夫を中心に革左メンバーだった加藤能敬、小嶋和子に対する総括が始まります。  
しかし、二人への追及を行っている中で、尾崎充男(赤軍派)がそこに個人的な恨みを持ち込んだことから、総括対象が尾崎へと変わることになります。結局、尾崎が最初の犠牲者となりました。(12月31日?)もともと尾崎は赤軍派の幹部だった人物でしたが、武闘派の森と対立しており、彼の暴力重視の考え方に批判的でした。そのために、彼は森や永田から裏切り者として総括されることになったといわれています。  
そこに新倉ベースで総括対象になっていた3名のメンバーが合流します。そこには前述の遠山美枝子がおり、他に坂東国男、進藤隆三郎がいました。尾崎を死なせたことで、メンバーの行動はさらに過激化し始め、「総括」は次々と犠牲者を出してゆくことになります。いよいよ歯止めは効かなくなろうとしていました。  
1月1日、進藤隆三郎(赤軍派)、小嶋和子(革左)が死亡。  
1月4日、加藤能敬(革左)が死亡。  
1月7日、遠山美枝子(赤軍派)が死亡。(遠山は活動家としての能力不足や赤軍派から追い出された重信房子の友人だったことなど、様々な理由から反発を買い、追及の対象になりました)  
1月9日、行方正時(赤軍派)が死亡。  
1月18日、寺岡恒(革左)が処刑される。  
1月20日、山崎順(赤軍派)が処刑される。  
1月30日、山本順一(革左)、大槻節子(革左)が死亡。  
2月4日、金子みちよとお腹の中の子(父親は幹部だった吉野椎邦)が死亡。  
2月5日、榛名ベースは解体され、小屋には火がつけられました。そして、この時の火が目撃されたことで、ベースの存在が発覚するきっけとなりました。森と永田はここで資金調達のため東京に出発します。  
2月12日、山田孝が死亡。彼が12番目、最後の犠牲者となりました。  
それぞれの死因は様々で、飢えと寒さによるもの、暴行による内臓破裂、首を絞められての窒息死など。しかし、永田洋子ら女性によるサディスティックないじめの要素も多分にあったと言われます。当時の状況は当事者たちですら、後に冷静に分析することは不可能なほど、状況は異常だったようです。こうした状況は、後にオウム真理教による暴行致死事件(ポア)との類似性が指摘されることにもなります。  
「総括」の論理について、その中心となっていた森恒夫はこう語っていました。  
「銃による殲滅戦は共産主義化された兵士によってのみ勝ち取ることができるのであって、共産化されていない者は総括によって共産化された兵士に生まれ変わる必要がある。それができない者は組織から排除すべきであり、敵である権力機関に通報させないために死に追いやることもやむをえない」  
「共産化」とは何か?殺人を平気で行う精神状態を身に着けるということなのでしょうか?
運命の浅間山荘へ  
中心的存在だった森と永田が都内に資金を集めるために戻っている間、二人の不在により、グループの士気に変化が生じます。そのため、統率の緩んだ隙をついてメンバーの中の2名が脱走し、ともに警察に保護、逮捕されます。そして、多くの遺体が隠されている榛名ベースが発見されます。(ただしまだこの時、遺体は発見されません)  
2月16日、榛名ベース(迦葉山)で発見された小屋に残されていたリュックの中から「吉野」というネーム入りの衣類が見つかり、それが「京浜安保共闘」幹部の吉野雅邦のものと推測されました。同日、5人乗りのライトバンが雪で動かせなくなっているのが発見され、そのうち3人は逃亡し、2人は逮捕されます。逃げた3人は、近くの洞窟に隠れていた6人と共に山に入り、雪に埋もれた山道を使って逃走を開始します。  
2月17日、前述の洞窟が発見され、その周辺を捜索していた警察は、山岳ベースに戻ろうとしていた森と永田を逮捕します。異なるグループだったはずの二人を同時に逮捕したことで、警察は初めて二つのグループが共闘していることを確認し、その脅威に気づくことになりました。  
2月19日、軽井沢駅で薄汚れたアノラックを着た男女4名が長野行きの列車に乗るところを駅員が目撃。不審に思った駅の助役が警察に通報し4人を列車内で確保。手製爆弾と散弾銃の実弾を所持していました。  
ラジオで4人の逮捕を知った残りの5人は、レイク・ニュータウン近くに隠れていましたが、あわてて移動を開始。「さつき荘」に逃げ込んでいたところを警察に見つかり、銃撃戦となります。警官の一人が負傷し、その間に5人は山中に逃げ込み、その後、軽井沢の別荘地にあった河合楽器の健康保険組合が所有する「浅間山荘」に逃げ込み、管理人の妻、牟田泰子を人質に立てこもります。「浅間山荘事件」の始まりです。  
後に、ここまでの間に警察は何度も犯人グループを逮捕するチャンスがありながら、それに失敗していたことが批判されることになります。
浅間山荘事件始まる  
2月20日、犯人グループが「浅間山荘」に逃げ込んだことを確認した警察は、すぐに対策本部を設置し、事件解決に向けた体制を整えます。その際、当時警察長官だった後藤田正晴から3つの指示が出されました。  
(1) 人質は必ず救出せよ。これが最高目的である。  
(2) 必ず公正な裁判で処罰するから、犯人を殺すな。全員生け捕りにせよ。  
(死亡させることで犯人が殉教者となることを恐れているともいえます。これは過去、樺美智子さんが学生運動の英雄となった経験を踏まえてのものと思われます)  
(3) 警官に犠牲者を出さないよう細心の注意を払え。  
2月21日、犯人グループと思われる坂口弘、吉野雅邦の母親が装甲車からマイクで投降を呼びかけます。  
心理学的観点で専門家からのアドバイスが本部に与えられます。  
(1) 心理学的には立てこもっている連合赤軍の方が有利で、警察の方が追い詰められている。  
(2) 疲れていると不利になるので隊員は交代で休養させるべきである。  
(3) 隊員が情報不足でイラついているので、隅々まで情報を行き渡るようにする。  
(4) 人間は夜4時間以上寝ないと参ってくるから、照明や音による陽動作戦で犯人たちを眠らせないようにする。  
2月22日、山荘に立てこもっていたメンバーは、テレビのニュース番組でニクソンの訪中を知ります。反米であり、親毛沢東だった彼らにとって、アメリカが中国に接近するという事態はまったくの想定外だっただけに、それは衝撃的であると同時に彼らの活動が崩壊しつつあることの証明でもありました。そんな中、人質の身代わりになると新潟からやって来た一般男性が単独で山荘に入ろうとして、警官と思われ狙撃されます。頭を撃たれ彼は、その後、昏睡状態に陥り、3月1日に死亡します。  
2月23日、事件が長期化する中、人質の安否も不明で犯人グループからの要求もなかったため、状況打破のために初めて警察は強行偵察を行います。発煙筒を用いて山荘に接近し、ガス弾による攻撃を行いながら内部の状況を偵察しますが、ほとんど成果がないまま終了します。  
2月24日、前日に続き強行偵察が行われます。今回は、放水車が参加し、高圧の水によってドアを破り、さらに内側のバリケードも破壊しようとしますが作戦は失敗に終わります。  
2月25日、犯人グループからの銃撃に耐えられるよう防弾楯を2枚重ねに改造したものが300枚配備されます。さらに銃撃に対抗するため、前線に土嚢を積み上げる作業が始まります。記者会見でも警察は突入の日が近いことを匂わせ始めます。  
2月26日、大雪となり気温も最低で−12.2℃にまで下がります。Xデーが近づいたことから、報道各社が集められ報道協定が締結されます。それは取材活動が競争となって、事故が起きたり、情報が漏れてしまうことを恐れての決め事を定めるものでした。この後、警備会議の席上で野中庸長野県警本部長が強行突入を28日にするという決定を発表しました。  
2月27日、強行突入についての記者会見が行われます。発表された計画によると、午前8時に部隊配備完了。9時55分に最後通告。突入はその後10時に開始する。現場に配備される機動隊の隊員は1500人で、そのうち山荘に突入する部隊は125人。その他にも警察犬5頭、医師4名、救急車8台、ヘリコプター3台などの準備が進んでいました。さらにこの作戦には、東大安田講堂の立てこもり事件に配備が予定されていたモンケンの投入が決定。モンケンとは、工事現場でビルなどの建造物を破壊するために用いられる巨大な鉄球を振りまわす作業車のことで、操縦するのは民間の工事会社社長と社員の2名でした。ただし、現場に民間人いることは問題があると考えられ二人は警察の上着を着せられることになりました。この二人の巧みの技により、突入部隊は大いに助けられることになります。  
なぜ、警察は突入作戦の実施まで10日間もまったのか?そのことについて、「浅間山荘の真実」ではこう書かれています。  
(1) 人質の体力の限界を考慮して、10日まで待った。  
(2) モンケンや放水車とそのための水源確保など攻撃のための準備に時間が必要だった。(浅間山荘が構造的に堅牢な要塞のような状態だったことも影響した)  
(3) 世論、マスコミが突入を望む空気になるのを待っていた。
強行突入  
2月28日、1階、2階、3階それぞれに別れて、機動隊による強行突入が開始されます。初登場となったモンケンの作業車が現場に登場し、さっそく山荘の壁の破壊が始まります。  
11時27分、放水車に指示を与えていた特科中隊隊長の高見繁光が頭部に銃弾を受けて死亡します。  
二機の突入部隊の中隊長付き伝令の大津高幸巡査も頭部を撃たれます。左眼球と左頭部貫通銃創の重傷で、命は取りとめるものの左目の視力を失い長く後遺症に苦しむことになります。  
その間、1階と2階は機動隊が制圧。残るは3階だけとなりました。  
二機隊長内田尚孝が土嚢から顔を出したところを狙われて頭部を撃ち抜かれ死亡。隊長であることが明らかな上着を着ていたために狙われたと考えられます。  
モンケンによる攻撃で空いた穴から3階へのガス攻撃が連続して行われます。しかし、あまりにもガス弾を使いすぎ突入隊員にも危険な状態になったため、放水車による放水をしながらガス弾攻撃は中断され、その繰り返しが続きます。  
12時50分、信越放送のカメラマンが近づきすぎて犯人から攻撃を受け足にケガをします。テレビの各放送局は危険回避のためにカメラを固定。ここからの映像はカメラが固定されたものになります。  
13時29分、各隊に攻撃中止命令が出されます。ここで1,2階を制圧した九機と長野県機に撤退させることになります。しかし、二機から死傷者が出ていたことから二機を九機と交代させるという命令が出されます。この間、撤退しようとしていた突入部隊の隙をついて爆弾が投げ込まれ、再び二機の隊員が5名負傷してしまいます。これにより、交代を拒否していた二機は九機と交代。撤収は3時すぎに終了します。  
日没までに決着をつけることが決定され、3時30分から強行救出作戦が再開されます。その際、九機と長野県機からそれぞれ2名づつ決死隊として選ばれました。ここでそれまで使用を禁じられていた拳銃の使用が許可されます。  
4時32分、ガス弾攻撃が再開されますが、20分後、火災の可能性があるとされ放水に切り替えられます。この間、3階内部が次々と確保されていき最後にベッドルームに全員が立てこもっていることがわかります。  
決死隊の4人がガス攻撃の間にちゅう房から食堂に突入。ベッドルームへの侵入を目指して、バリケードの撤去を開始。それに対して犯人側からの銃撃が始まります。  
6時10分、隊員に対して「全員。突入せよ!」という指令が出されます。  
6時50分、ベッドルームに突入した決死隊と犯人グループとのもみ合いが始まります。幸い、銃撃戦とはならず、爆弾の使用もなく取り押さえることに成功します。  
逮捕後、犯人グループの5人のうち、二人は18歳と16歳の未成年の兄弟だったことが明らかになり、警察を驚かせました。
人質の悲劇  
この間、突入隊は人質の牟田泰子さんの救出に成功します。彼女は218時間にわたる拘束状態にあったことから低体温状態にありましたが、ケガもなく無事でした。しかし、彼女にとっての苦難はそれでは終わりませんでした。  
この後、退院した後に行われた記者会見で、彼女はこんな発言をします。  
記者「退院したら、まず何をしたいですか?」  
牟田「みんなと一緒に遊びたいです」  
このやり取りに対し、機動隊の隊員が2名も命を落としたのに、遊びたいとは何事か!という批判の声が多数寄せられることになりました。その他にも、彼女のプライベートに関する暴露記事やバッシングが続き、ついに彼女はマスコミからの取材を拒否するようになってしまいます。被害者にも関わらずマスコミへの受け答えやちょっとした誤解により、まるで犯人のように批判されてしまう現象。これは、後にイラクで日本人ボランティアが誘拐された事件を思い出させます。彼女は「嘘泣き泰子」や「偽善者」と呼ばれ、事件以上にマスコミ報道によって人生を大きく変えられてしまったのでした。
テレビ放送の功罪  
NHKは、この日、朝の9時40分から夜8時20分まで、連続して放送を行いました。民放も同様に8時間にわたる臨時放送を行い、その間、CMを入れないという英断を下しました。当然、視聴率も未だかつてないレベルに達しています。なんと各放送局の総計による瞬間最高視聴率は89.7%に達しました。(もちろん、泰子さんが救出された瞬間です) ただし、犯人の逮捕後、山荘から警察が連れ出す瞬間を撮影できたのは、唯一フジテレビだけでした。他の放送局が固定カメラの他に移動できるカメラを用意していなかたのに対し、フジは予備のカメラとして普段使っていない白黒カメラを準備していたため、犯人たちの顔のアップを撮影することに成功したのでした。  
「テレビの報道に限っての感想だが、今回ほどテレビが情報源として大きな役割を果たしたことはないのではなかろうか。速報性がフルに発揮され、すべてがテレビ中心に動いた。浅間山荘の生中継 - とくに28日は完全に活字ジャーナリズムを圧倒した。プロセスを刻々と映し出すテレビの強さである。ただし、テレビの即応性という機能は感情に訴えることに対しては強力であるが、考える、分析するということになると活字には追いつかない。両刃の剣である所以である」 志賀信夫(テレビ評論家)  
「あの当時は学生と機動隊の衝突が頻発していたが、カメラの位置によって学生の背後から見ると機動隊が正当に見えるし、機動隊の背後から見ると学生が正当に見えてしまう。かといって、その衝突をビルの屋上にカメラを構えて見下ろすと、自分が安全な位置にいることが画面からにじみ出てしまうのだ。。浅間山荘事件では、そういう画しかないのだから仕方がなかったが、結果としてそういう画を作ってしまった責任がある。少なくとも制作者の頭には、これはいけないことなんだという感覚がなくてはいけない。ところが浅間山荘ような事件が、今、起きたらどんな画を送り出すかが未だに何も検討されていない。それはテレビの怠慢だと思う」 浅野誠也(日本テレビ)  
さらにこの事件を契機に、現場からのリポートを単にアナウンサーに任せるのでは十分に事件を伝えきれないということが明らかになったことから、現場からのリポートはアナウンサーではなく専門家でもある記者に任せる流れが当たり前になって行きます。
浅間山荘、総括のその後  
前述のようにこの時はまだ「総括」による大量殺人は明らかになっていませんでしたから、少なからぬ若者たちがまだ連合赤軍にエールを送っていたかもしれません。  
しかし、「浅間山荘事件」の後、「総括」による12名の死が次々に明らかになると、連合赤軍の異常性がいっきに注目を集めることになり、それまでの「連合赤軍=英雄」という構図は崩れてしまうことになります。(正確には、さらに1年前にアジトかた逃亡した2名がすでに殺されていたので、犠牲者は14人となります)  
僕自身も「総括」による「リンチ殺人」の異常性に衝撃を受け、それ以降、学生運動に対するイメージは一気に変わることになりました。その意味では、「浅間山荘事件」よりも「総括」の方が、その後の歴史に与えた影響が大きかった気がします。  
さらに1975年8月4日、日本赤軍がマレーシアの首都クアラルンプールのアメリカ大使館を占拠。アメリカ領事を含む50名を人質にとります。その後、犯人グループは人質解放の交換条件として、赤軍派のメンバー7人の解放を要求。それにより、浅間山荘事件の坂東がクアラルンプールに移送されて釈放されます。(坂口も解放するメンバーの中にありましたが、本人が釈放を拒否しました)  
さらに1977年9月28日にも日航機が赤軍派に乗っ取られた「ダッカ事件」でも赤軍派のメンバー6人が釈放されています。(プラス16億円の身代金も!)  
しかし、その頃はもう誰も連合赤軍がなんのために戦っていたのか?覚えている人はいなくなっていたかもしれません。  
残念ながら、「総括」に対する総括は未だに終わっていません。様々な人々が、それに挑んできましたが、その多くは挫折してきました。長谷川和彦監督が企画した幻の映画「連合赤軍」はその代表的な例といえるでしょう。そんな中、2008年に公開された若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は決定版的作品といえるのかもしれません。 
 
「浅間山荘事件の真実」 評
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その昔、反体制過激派と警察機動隊が武力衝突した時代があった。そのフィナーレが一九七二年「あさま山荘事件」であり、本書はその興奮を再現した。雪ふりしきる軽井沢の山荘に連合赤軍の「兵士」五名が銃をもって立てこもった。管理人の妻、牟田泰子が人質にとられ、テレビはそのその救出劇を全面中継した。今や、この問いをもって世代を問える、「きみは、あの中継を見たか?」   
著者の久能靖は日本テレビのアナウンサーとして現場に立ち、早朝から日没後まで、山荘玄関を見下ろす山の斜面に立ってレポートを続けた。弁当はついに届かず雪をかじり、同僚は凍り付いたズボンの前があかないまま失禁するほどの壮絶な現場だった。あれから二八年、一体、あの体験は何だったのか? 退職後フリーの身になり、主として警察・報道関係者百人に直接取材を続けた。この本には目次がない。構成や編集のあとが見られない。そのナゾは読了してわかった。徹底した「あの日、あの現場」の再現にこだわると目次も消える。つまり彼は活字によって「中継放送の再現」をしたのだ。  
テレビ中継を見た私であるが、著者の再取材によって集められたディテールには改めて「ヘぇー」という事実がいくつもあった。五人の犯人に対して、投じられた機動隊員千五百人、報道陣千人、日本テレビだけでも七十人という数字に驚く。そして十日間のバトルを通して、彼らの食事と宿の確保がいかに大変だったかが身につまされる。長野県警はスケートセンターなど、あらゆる施設を応援部隊のために確保したが足りない。結局、県警幹部には軽井沢署が臨時宿泊所となり、中でも人気の部屋は畳敷きの留置所で、誰もがそこに入りたがった、というのは笑えるエピソードだ。  
当日中継した音声はすべて残っていて逐次再現され、さらに、多数の関係者の記憶によって補強され、新聞・雑誌および警察官の文集まで渉猟されて、事件の「真実」に迫った。しかし、ここで重大な漏れが生じた。あの時の「山荘内」の状況をどう中継するかである。そこで著者は腹を括った。犯人の一人、坂口弘の著書『あさま山荘 一九七二』(彩流社)からの十カ所以上の引用である。坂口は、獄中で最大限の誠意をもって事件の全容を書き記した。それは警察記録の何時何分とも見事に符号している。肉体は処刑を待ちながら、残された時間の全てを「言葉」に託し、本書を補強したのである。外部からの破壊工作と肉親の呼びかに山荘内部はどう対応したかが活写され、本書で坂口は、あたかも別班スタッフとして久能の中継をサポートしている。   
「坂口弘死刑囚に直接取材できなかったことだけは心残りだ」という久能の一文が気になる。引用の許可はとったのだろうか? そして、直接取材をどう試み、そのプロセスはどうだったのだろうか?日頃の私の疑問は、日本ではなぜ服役者の取材ができないのか、という点だ。海外では死刑囚にまでマイクとテレビカメラを向け、それを日本で放送することは可能なのにである。囚人の肉体と言葉は誰のものか? 今は徹底的に法務権力の側に「独占」され、囚人には言葉を「発する」権利が奪われている。一体、塀の外から取材する権利が百%禁じられている法的根拠は何だろう? 「保険金カレー事件の真須美容疑者、獄内で少しスリムに」といったくだらない情報をおこぼれで頂戴する。記者たちは、それと引き替えに、自分で取材する権利を放棄し、それを「慣例化」してしまっていないか?  
獄内の「情報公開」と「取材の自由」を国民の基本的権利として確認しようではないか。本人の合意のもとに、私なら坂口弘にインタビューしたい。君が理想とした「国家」では、反逆者の疑いだけでリンチし、即刻処刑してしまった。では今、二八年の長きにわたって獄内に生き、そこで考えた国家とは、家族とは、時間とは、死とは何ですか?その言葉は権力には何の価値もないが、国民には貴重な遺言である。出版されれば内需拡大であり、犠牲者への少なからぬ補償になり、必ずや犯罪の抑止にもなるはずだ。現場では警官二名が死に、三人目の犠牲者とも言える第2機動隊員・大津高幸の死は胸を打つ。彼は犯人の射撃を顔面に受けて失明、入退院して出会った看護婦と結婚。やがて妻に先立たれ、九七年、五十一歳の一人暮らしの境遇で死去した。  
四半世紀の時の経過を、本書は様々な情報で教えてくれる。あさま山荘中継はエンエンと続き、番組編成をどうするかで各局はテンヤワンヤだった。日本テレビは青島幸男、八代英太、中山千夏の「お昼のワイドショー」をすっとばした。思えば、その後中山は国会議員になり、青島は都知事を務め終え、八代は今、テレビ局のお目付役、郵政大臣の栄達を極めた。歳月は確実に過ぎた。しかし、決して風化しない心のキズが多くの関係者を苦しめる。人質だった牟田泰子が、今なお取材を受けない理由は、自分のために多数の死傷者が出たことの慚愧があるからだろう。  
久能はこの事件の後、十三年間のアナウンサー生活をやめ、自ら志願して報道部記者に転じた。取材が出来る放送マンになろう。事件が教えてくれた啓示が、彼の人生をも変えた。今のテレビを見ていると、堅い報道をやっていた人間が、突如バラエティー番組に使われ、ある時はスポーツ・イベントに動員される。およそ当人の個性や志を無視したテレビ局の気まぐれな人事が横行している。それに比べれば、久能の生き方は幸福だったと言える。退職後もワイドショーでニュース・コーナーをもち、こうしてこだわりの著書も刊行した。  
本書の最終行は「浅間山荘事件は板東国男が国外に逃亡したまま、まだ終わっていない」。久能はこの仕事をまだ終わりにしたくないのではないか? 私は中継にこだわる彼に、次の仕事への挑戦を頼みたい。それは、本書の事実上の共同執筆者、坂口弘の処刑の一部始終を中継することである。
 
浅間山荘事件4

 

駄駄をこねている無知な若者  
1972年、昭和47年、2月18日、浅間山荘事件という大事件が起きて、日本中が騒然とした。事の起こりは治安当局の締め付けが厳しくなって、段々と活動の場が狭められた左翼過激派が無差別殺人という手法に切り替えて、浅間山の河合楽器の保養所としての浅間山荘に忍び込み、そこの管理人の奥さんを人質に約10日間警察との攻防戦を演じた事件である。  
2002年の年初にNHKの「プロジェクトX」という番組で、この浅間山荘事件を俎上に載せていた。この番組のポイントは、あの山荘を「如何にして攻略したか」という点に、主眼が置かれて放映されていた。 あの攻防戦のハイライトは、なんといってもあの鉄球を建物にぶつけて突破口を開くという点にあった。 この攻防戦は終止テレビで放映されていたので、日本国民の大部分が見ていたに違いない。  
私がこの項で論じようとする事は、その攻防戦の成り行きを論ずるものではない。その犯人達が如何なる信条でああいう行為を成したのか、というあの時代の過激派の内面を自分なりに考えてみたいからである。  
今年の正月、NHKで放映した番組の中でも、犯人等が浅間山荘に立てこもった時点で、犯人等の母親を呼んできて説得する試みが成されたが、犯人等はその母親を狙撃した。  
そして事件の終盤で、坂東国男の父親が「世間に迷惑を掛けた」ということで自殺している。  
これらの犯人等は、京大の学生で、京大にまで進学して、こういう事件を引き起こしたとなれば、やはり普通の親ならば生きてはおれないと思う。  
ここまで来れば、既にイデオロギーの問題とかけ離れてしまって、ただの暴力集団でしかない。  
その後、妙義山で捕まった永田洋子、森恒夫らの自供で、12名をリンチ殺人している事が判明、これは一体どう言う事なのであろう。  
殺す方も殺される方も大学生で、人生で一番充実した時期であるにもかかわらず、自分達の仲間を殺すとは一体どうなっていたのであろう。  
これは日本人の好戦的気質と言うべきものではなかろうか。  
しかも、最高学府の学生がそれをしていたわけである。  
殺された側の学生の親もたまったものではない。  
殺した側の親も世間に顔向けできない。  
本人は納得づくでそういう行為に走ったかもしれないが、それにしても行為そのものが無意味な殺人で、通り魔にやられるよりももっと無意味である。  
京都大学にしろ、東京大学にしろ、日本の名門大学に苦労して入学した挙句に、世間を騒がせるような無意味な行動に走り、その結果として仲間内で殺したり殺されたりする学生を育てた親というのも実に哀れなものだ。  
この哀れを感じていればこそ、親としては恐らく息子や娘がそういう行為に走ることを禁じたに違いないと思う。  
しかし、この年代の青年というのは、親の言う事など素直に聞く耳をもっていなかったに違いない。  
それは往々にして青年にはありがちなことで、なまじ頭の良い息子や娘の方がそういう傾向は強いのではないかと思う。  
我が身を振り返ってみても、20歳前後というのは親の言う事を素直には聞けないもので、親というものはどうしても子の反抗というものを受けて立たねばならない。親の心、子知らず、子の心、親知らずという事は世間には往々にしてある事である。しかし、人を殺してもいいという発想は、そういう子育ての中で醸成される性質のものではない。  
ここで見るように、自分達の仲間、つまり親よりも近親感のある仲間を殺すという事は、既に人間としての品格を欠いているわけで、そういう人間としての品格を欠いた人間が、たまたま日本の有名大学にも入れたということではないかと思う。  
冷静な思考で考えてみれば、この時点で京都大学、はたまた東京大学という大学に入学できたという事は、相当に知能指数が高かったということで、それは否定の仕様がないと思う。 このことは別の言葉で表現すれば、政治的、乃至はものを考えるに早熟であったという事である。 思想的に非常に早熟であったわけである。  
哲学的にものを考える事に非常に早熟であったという事である。  
早熟であったればこそ、仲間をいたわるという気持ちが未完成なまま、個の尊厳を知らぬまま、目的追求に走ってしまったわけである。  
前にも述べたように、この年代の若者、いくら京大だか東大だか知らないが、その門を潜った程のものが「赤軍」というものを知るわけがない。  
「軍隊とはいかなるものか」という事を知るわけがない。  
盲人が像を撫ぜているようなもので、「赤軍」というものの本質を知らないものが、たった27人程度で、「赤軍」と名乗る事のおこがましさというものに気が付いていない。  
これが当時の赤軍派の、つまりは全共闘世代の普遍的な認識であったわけである。問題は、こういう馬鹿をフォローする大人の側にある。  
東大や京大に行くような早熟な高校生に、誰がこういうイデオロギーを吹き込んだのか、と犯人探しをしなければならないと思う。  
1945年以前は、日本に治安維持法というものがあって、少々共産主義らしきものの考え方をすれば、すぐに「赤」だといって告発できた。  
1945年以降は、それが出来ない。  
だから共産主義というものは一切野放しである。  
全共闘世代のものの考え方の中には、共産主義に傾注したという様子は非常に少ない。  
そのことは真の共産主義というものも彼等は知らないわけである。  
問題は、現状に不満があるという事である。  
とにかく目の前の現状に不満なわけである。  
目の前の現実というものに不満なわけである。  
そんな事は、生きとし生けるもの皆が普遍的に抱えている問題である。  
政府が悪い、自民党が悪い、官僚が悪い、先生が悪い、社会が悪い、大企業が悪い、とにかく目の前にあるものは何でも悪かったわけである。  
これ即ち、子供の駄駄である。子供がオモチャかおやつが欲しくて駄駄をこねている構図である。 
成育途中の親の影響  
この1972年という時、昭和47年という時で、彼等は20歳前半のものが大部分である。  
そのことは、これら全共闘世代というのは戦後生まれという事である。  
戦後生まれとなれば、戦後の民主教育の輝かしき実績といわねばならない。  
戦後の教育となれば、当然日教組というものを抜きには語れないわけで、日教組と来れば、必然的に共産主義者と、連想ゲーム式につながるわけである。  
彼等、全共闘世代のこういう行為の奥底というか、底流というか、潜在意識の中には、共産主義が脈々と流れているわけである。  
普通に穢れた人間ならば、そこに浄化作用が働くが、これらのよう早熟な若者には、その浄化作用が働かなかったわけである。  
戦後生まれの、戦後育ちの若者は、文部省の小、中、高校という12年間の教育の中で、共産主義に感化されながら生育してきたわけである。  
その過程の中で、生まれつき持っている個々の精神の浄化作用で、右に行ったり左に行ったりするわけで、その精神の浄化作用に欠陥があると、バランスを失いこういう極端に過激な思想になるわけである。  
戦前は文部省が軍国主義の提灯持ちをしたので、我々は奈落の底の転がり落ちてしまったが、戦後は日教組が共産主義というものを広汎に広めたので、日本崩壊の兆しが現れたわけである。  
共産主義も、個々の人間が心に中に秘めているだけならば何ら問題はないが、それを誇示する事によって、自らの存在意義をアピールしようとするからおかしくなるわけである。  
戦後の日本共産党というのは、終戦の初期の段階で共産主義の基本中の基本である武装闘争、つまり暴力による革命を放棄している。  
これは共産党員が一歩前進し、人間の普遍的な考えに一歩近づいた事である。  
しかし、それはもう共産主義者の共産党ではなくなっているという事でもある。  
だとすれば、本当はここで党名を変えなければならない。  
全共闘世代の若者は、この真性な共産主義に忠実たらんとし、その真髄をスポイルされ、世俗化しようとしていた共産党の行き方には飽き足らなかったわけである。彼等は、何が何でも暴力で現行政府を倒して、その後にユートピアを建設するんだ、という使命に燃えていたわけである。  
これはある意味で純真、純情な青年の熱情でもあるが、あまりにも思い込みが強くて、現実の姿というものが眼中に入っていないということである。  
いわば独り善がりの思い込みにすぎない、ということがわかっていなかったわけである。  
戦後に生まれて、日教組に支配されている義務教育の場で、12年間も民主教育と呼ばれる偏向教育を受けていたとすれば、その影響が純真な若者に出ないはずがない。  
この全共闘世代の親を考えてみると、この世代は私よりも少々上の世代であろうが、恐らく小学校で教科書を墨で塗った経験を持つ世代だと思う。  
この世代というのは、1945年を境に、価値観の逆転を経験した世代で、今まで軍国主義を吹聴していた先生が、あの日を境にして突然民主主義を叫びだしたのを見た世代である。  
その経験から、何事も信じきれない経験をもっているわけで、こういう世代が親になってみれば、恐らく家族の前でもあらゆるものに不信感をぶちまけていたに違いない。  
政府が悪い、吉田が悪い、岸が悪い、自民党が悪い、経済界が悪い、社会が悪い、自衛隊が悪い、アメリカが悪い、ということを家族の前でもらしていたに違いない。すると、そこにいた子供は、家に帰れば親が世間の悪口を言っているし、学校に行けば先生が同じことを言っているし、正しいのは共産党や社会党しかいないのか、と思うのも不思議ではない。  
そして学校でも家でも、子供に物ごとを押し付けてはいけない、子供の個性を尊重し、子供の人権を守らなければいけないとなれば、その子供は野放図になってしまうわけである。  
子供が親に銃を向けるという事も、地球規模で見ればしばしばあることである。  
しかし、親の立場に立ってみると、これほど哀れなこともないと思う。  
自分が苦労して育てた子供に銃を向けられるなどという事は、それこそ生まなければよかった、育てなければよかった、という後悔の念が払拭しきれないのではないかと思う。  
親不孝を通り越して言葉もないのではないかと思う。  
親として、死にたくなる気持ちは察して余りある。  
戦後の民主教育の中で、子供にも人権がある、子供の個性を尊重しなければならないということは、人間の普遍的な生き方を全面的に否定する概念ではないかと思う。子供には、事の良し悪しを説くのではなく、人として、して良い事と悪い事を理屈抜きに、頭から叩き込まなければならないのではなかろうか。  
子供というのは、成人するまでは、人として認めてはならないのではないかと思う。どんな未開な民族でも、種族の中の子供を、成人の一員に加えるか否か、という通過儀礼というものがあり、それを経て始めてその種族の中で一人前の社会人として認められるわけである。  
それは社会が成熟しようがしまいが、子供は子供、社会人ではありませんよ、ということを厳然と認識すべきではないかと思う。  
我々のようにある程度の進化した社会では、子供と大人の境界付近の若者の層の扱いが非常に難しいわけである。  
子供と大人の線引きを何処でするか、が非常に微妙なところで、法律と現実の社会の態様とが必ずしも一致していないところに問題がある。  
しかし、1945年に青年期に達していた人々は、大正時代の後半から昭和の初期に生を受けた人々で、今存命ならば70歳前後の方々である。  
この方々は1945年頃20歳を迎え、戦前の日本と戦後の日本の両方知っている方々である。  
そのことは同時に価値観の逆転も身をもって経験した人たちである。  
この方々が、その1945年、昭和20年に以って、完全に自身を喪失してしまったわけである。  
その後の日本の復興というのは、こういう方々が気を取り直して力を合わせたからという見方もあるが、その中にも戦前に生を受けた方々が、まだまだ沢山生き残っていた時代でもある。  
いわゆる明治の気骨を持った人々が、あちらにもこちらにも生き残っていた時代である。  
明治の気骨を持った人が、敗戦で自信を喪失した世代をリードできなくなるにしたがい、それと入れ代わりに、自信を喪失した世代が社会の主要部分を占めるようになってきたわけである。  
その子供たちというのは、当然、自信を喪失した親に育てられたわけである。  
自信を喪失した世代というのは、過去の日本に対して、何でもかんでも否定する事で、自信喪失を誤魔化そうとした。  
過去の日本を全否定する事が新しい人の行き方だ、と深く考える事もなく飛びついてしまったわけである。  
ところが、日本人の過去の生き様というのも、案外、人間の普遍性を網羅した軌範があったわけで、それを全て封建制という概念で括ってしまい、古いものは駄目だという似非進歩主義に惑わされていたわけである。  
この古いものは駄目だ、古い観念は軍国主義につながる、古い秩序や軌範は反民主的である、という思い込みは、そのまま共産主義のものの考え方と軌を一つにしているわけである。  
共産主義というのは、古い秩序、軌範、モラル、倫理、社会通念の破壊が至上命令であったわけで、そこに進駐軍の日本占領政策というものが被さってきて、古いものを否定するパワーというのは倍加したわけである。  
その中で、戦後の民主教育の中で、子供の人権とか、子供の自主性の尊重というフレーズが浮上してきたわけである。  
全共闘世代が成人に達するまでの時期というのは、その親、つまり自信喪失して、夢も希望も失った世代が、ただたんに生きんが為に精一杯に働くのみで、子供に関与している時間がもてなかった時期である。  
自分達が生きるだけが精一杯で、とても子供の教育に心を砕いている暇はなかったろうと思う。  
そのことは必然的に子供の教育に野放図になり、子供がしようとしていることに干渉する暇はなかったに違いない。  
昔ならば、親が頭から子供をしかりつけたが、この時代には親が子供をしかりつける暇がなかったわけで、必然的に子供は自由気ままに行動する事が出来たわけである。  
子供がしている事を親が知らないという事になったわけである。  
我が家でも全くこの通りであった。  
私もこの時期、20歳前後というのは、親の目を盗んで夜の巷をほっつき歩き、映画を見、よからぬ本を読みふけったものである。  
私自身がどうして政治活動に走らなかったのかと問えば、やはり政治意識に目覚めるのに私は晩生であったようだ。  
そして一番大きな影響というのは、やはり一番身近にいた父親が、反共のポーズをしていたからだと思う。  
人間というのは、生育の過程で、やはりその両親から大きな影響を知らず知らずのうちに受けていると思う。  
人間というのは環境に支配される動物で、やはり人間としての個の成長、個人としての在り方というのは、親の影響が大きいと思う。  
世に極悪な犯罪者というのは掃いて捨てるほどいるが、そういう人達というのは、逆に、両親の影響を何らかの理由で受けられなかった人々ではなかろうかと思う。温かな家庭で、普通の親としての軌範のなかで育てられた人ならば、必ず両親の影響というものが子供に現れると思う。  
青年期にいくら親に反発したとしても、それは時が癒してくれると思う。  
私も20歳のころ親に反抗した。  
私の親も不思議な事に、そのころ自分の親に反抗していたようだし、私も息子から同じ様な仕打ちを受けたわけで、まことに不思議な事に、そういう事は遺伝するようだ。  
子が親に銃を向けたり、親が子の不行跡に自責の念に駆られて自殺するというのは実に不幸な事である。
マスコミの影響力  
子が親の影響を大きく受けるということは当然の事であるが、これらの犯人のように、政治的に早熟というか、政治意識に目覚める事の早熟さというものは、親の所為ばかりではないのは当然である。  
その8割がたというのは学校教育にあると思う。  
学校教育というのは、何も教壇で教える事だけが学校教育ではないわけで、教室の授業ではない場での先生の一言が大きく作用していると思う。  
後世の人間があの事件の真相を究明するならば、事件の背景を考えなければならないと思う。  
一言でいえば、社会の所為にしておけば事は簡単であるが、その社会の所為の中身を検証しなければならないと思う。  
こういう政治的に早熟な子が一番影響を受けやすいものといえば、やはりマスコミであろうと思う。  
学校教育を含めてマスコミの存在だと思う。  
マスコミをコントロールするという事は、非常に難しい事である。  
その最大のネックは、マスコミ業界というのは完全なる虚業であるという点である。虚業という意味では政治家と同じで、自分達で自分達の食い扶持を自己増殖させて生きている業界であると言う事だ。  
ニュースを自分達で作り上げて、それを「最新のニュース」という商品として、消費者としての視聴者に売りつけて生きているわけである。  
浅間山荘事件の実況放送などというのは、世紀の報道合戦で、マスコミ業界にとってこれほどありがたいニュース・ソースも又とない事件であった。  
ところが、正月などで、事件らしい事件が何もないときでも、初詣の人手の多さを事件として、ニュースにして糊塗をしのいでいるわけである。  
問題は、これを如何にコントールするかであるが、これは今の現況ではコントロールし得ないことがはっきりしている。  
マス・メデイアと言うものが、浅間山荘事件や初詣でのニュースを流している間は問題ではないが、これを安保反対や、成田闘争を片一方の視点のみで報道していたとしたら、これはある種の世論形成となってしまう。  
ならば視点の両方から見ればいいではないか、ということになるが、それはありえない事である。  
記事を書く人、乃至はカメラを向ける人が、同時に両方の視点に立つということは理論的に成り立たないことで、それと同時に目の前で見た事が事実で、真実であったとしても、それが正義かという問題とはまた別なわけである。  
いくらマスコミが発達して、伝達の技術は日々革新しているとしても、取材という段階では、盲人が像を撫ぜている事と変わりはないわけで、手の触った部分のみで全体をイメージさせている事に変わりはない。  
マスコミという業界が、必然的に持っているこの不条理を如何に克服するかという事は、この先21世紀に至っても克服される事はありえないと思う。  
1945年以降の日本のマスコミというのは、反体制、反政府、反自民、政治家は大衆を搾取し、私利私欲に現を抜かしており、許しがたい存在だ、という事を売り物にして糊塗を凌いできている。  
戦後の日本政府、いや戦前もそうであったに違いないが、政府は官報というものを発行している。  
これは政府のした事を国民に公開する唯一の手段であり、いわば政府の実績を示す最も信頼にたる出版物である。  
ところが権威を維持しようとするあまり、その用語が官僚の用語で埋め尽くされており、まことに味気ない読み物である。  
読んでいても面白くも可笑しくもない代物で、一回読んだくらいで意味のわかる代物ではない。  
しかし、内容的にはこれほど大事な代物も他にはないはずであるが、普通の人では敬遠したくなるようなものである。  
これが日本で唯一の政府自身の自己PRの出版物である。  
日本政府の発行している官報というものは、マスコミ足り得ていないと思う。  
特殊な団体、つまり政党とか各地方の行政担当者や、図書館、大企業の法務部門ぐらいしか需要がないのではないかと思う。  
マス・コミニケーション足り得ていない。  
全共闘世代の当時の若者が、政治意識の醸成に影響を及ぼしたのは、明らかにマス・コミ二ケーションの効果だと思う。  
マスコミの送り手が、盲人が像を撫ぜてその掌で感じた事を全体のイメージとして報道したとすれば、その受け手の側は、像の漠然とした全体のイメージを、尻尾の先か、鼻の先か、耳たぶの縁を掴んで、それが社会全体だと思い違いをするのも無理ない話である。  
像は大きな体をしており、その体の部分、おなかの部分、太い足の部分というのは人々が健気に経済活動をし、毎日生業にいそしんでいる部分なわけであるが、それはマスコミ業界にとって全くニュース・ソースにはならない部分である。  
庶民がむつまじく生活している姿というのは、面白くも可笑しくもないわけで、ニュースとしては全く価値がないわけである。  
世の中に何にも記事か無いときに、紙面を埋めるためだけのニュースでしかないわけである。  
ところが本当は、これが象の全体の姿であったわけで、マスコミというのは極端で、非日常的な部分のところしか関心を示さないわけである。  
これは日本だけのことではなく、世界的規模で、マスコミ業界の抱えたアキレス腱である。  
問題は、このアキレス腱をマスコミ業界の常識、良識、倫理というものが如何様に機能して、その自浄能力が如何様に出現させ得るかという事である。  
「報道の自由」とか、「知る権利」などという伝統の宝刀と、如何様に均衡を守るかという事である。  
ある意味で自主規制ということになるが、自主規制という言葉を使うから自縛的に聞こえるが、これを倫理と置き換えれば、心にわだかまりなく良識を発揮できるのではないかと思う。  
ところが更に根の深い問題として、この良識というものも、深く掘り下げて考えなければならないわけで、良識としての座標軸を何処に設定するかで、この良識そのものも、視点の相違で良識でなくなってしまう。  
マスコミの影響力というのは、人間の英知ではコントロールし得ないものがある。  
例えば、個人的に私が「自分はNHKが好きで、NHKを主として見て、民放は殆ど見ない」と言ったとしても何も影響力はないが、これが著名人が「NHKは視聴者から金を取って番組を作っているから見ない、民放は見ていて楽しいから見るのは民放ばかりだ」と言ったとすると、この発言の社会的影響というのは計り知れない。その影響の大きさというのは、著名人が言ったという点が大事なわけで、無名の人が言ったところで、それは何も影響力はないわけである。  
大衆はその著名人の発言を信じるわけである。  
そして自分もそうすることで、著名人に一歩でも近づけると思い込んでしまうわけである。  
ここがマスコミの一番恐ろしいところである。  
著名人が言った事は事実であり、真実であるが、全体を表したものではないにもかかわらず、世の中ではNHKを見るのはダサい事で、民放を見なければ人から遅れをとる、と思い違いをしてしまうわけである。
若者の精神の歪  
全共闘世代の若者達は、東大に入学し、京都大学に入学するほどの秀才でありながら、漫画が好きなところが実に不可解である。  
この頃から漫画が文化として認知されるようになって来た。  
私も幼少の頃は漫画を読みふけったもので、教科書を漫画で書けばいいのに、と思っていたものであるが、今そういうことが実際に起こりつつあるようだ。  
漫画で書かれた古典などが現れている。  
全共闘世代というのは、片一方で政治的に非常に早熟にもかかわらず、片一方では漫画を愛好する不思議な人種である。  
そのことは、現実の生活と漫画チックな世界との境界の峻別が理解されていないのだろうか。  
「赤軍」「日本赤軍」などという自分達の仲間の呼称を使うところなど、まさしく漫画チックそのものである。  
そして自分たちの仲間でさえも「総括」などと称して殺しているわけで、このあたりの心の動きというものを考えると、現実の世界と漫画の世界との区別がつかず、考え方も行動の動機も、現実を深く掘り下げて究明した結果という印象が全くない。漫画と同じで、邪魔者は消す、という按配で、そこには心の葛藤が全くないわけで、後先の事に考えを巡らす、という人間としての動物的感覚というものが全く欠如している。  
自分達のやっている事が如何に漫画チックか、という事に全く気がついていないといえる。  
彼等の行為そのものが既に漫画チックである。  
この全共闘世代の全ての事件を、漫画チックと評した評論家は皆無であるが、その被害の大きさからか考えると、漫画チックなどと笑っていられない事は確かである。  
この時代に日本というものを形成していた人々というのは、戦前からの価値観の転換を経験した人たちと、その次の世代として全共闘世代の人たちが、日本の世の中というものを形成していたように思う。  
しかし、その大部分の人というのは、それぞれに自分の生業に励み、妻子を養い、社会に貢献するなどという意識と無縁の存在として、日々の生活に追われていたわけである。  
それこそが戦後の日本の力であり、国力であり、バイタリテイーであり、経済力であったわけである。  
その中で、どうしてこういう極端な発想の若者が生まれてきたのであろう。  
恐らく、こういう人たちの親も、子供を意識してこういう風に育てわけではなかろうと思う。  
その後、オウム真理教の事件などにおいても、日本の最高学府を出たような人が、麻原彰光などといういかさま氏の仙術にひっかかって、自分の生涯を棒に振ったばかりではなく、サリンなどという毒薬を撒いて社会を混乱させるような事をしでかしたわけであるが、それと同じパターンではなかったかと思う。  
普通に生活している両親から、突然変異のように、こういう若者が現れたのではなかろうか。  
戦後の日本の社会が「左翼であらずんば人であらず」という風潮であった事は確かである。  
ならばもっともっと大勢の若者がこういう行為に走ってもいいはずである。  
現に、全共闘世代というのは安保闘争から、東大の学園紛争に続く数多な学園紛争、はたまた成田闘争において、過激な行動に走った事は認めざるを得ない。  
過激派に走る青年や、オウム事件に首を突っ込む学生というのは、戦後の日本の知識階級が、反体制を、反政府、反自民を売り物にしてきたので、そういう思考に陥ったと思っていたが、ここまで過激な思想というのは、その程度の洗脳ではありえないようの思える。  
そういう戦後の進歩的知識人の啓蒙の影響も確かにあることはあるであろうが、ここまで政治的に早熟な彼等にしてみれば、そういう人々の欺瞞はとうの昔に見抜いていたのではないかと想像する。  
だとすれば、それは彼等の個々の精神の歪としか言い様がない。  
この時期に、日本の復興がある程度軌道に乗り、戦前の生活よりも豊な社会が出現したこの時期に、何故に若者が極端な唯我独尊的な思考に走ったのか、誰にも説明がつかなかった。  
何処からどう切り込んでも、それに対する明快な答えがなかったわけで、さっぱりその根拠がつかめないということになると、人々はそれを社会の所為にしたがるわけである。  
社会の所為にしておけば、誰が犯人で、誰の責任か、ということは曖昧なまま過ごせるわけである。  
誰も責任を負わなくても済むわけである。  
しかし、全ての闘争において、その中核をなすのは、こういう過激な人間というのは一人で何役もこなしているわけで、どの闘争にも殆ど同じメンバーが集まって、首を突っ込んでいたに違いない。  
こういう若者の運動が過激さを増すと、左翼の進歩的知識人というのも、そろそろ嫌気が差してくるわけで、よど号事件や浅間山荘事件、それから「総括」と称する殺人に至っては、もう若者を擁護する言葉にも窮するわけである。  
今までは散々若者を煽りに煽って、自分達は行動せず、若者に理解を示す事で文化人の禄を食んでいた進歩的知識人は、若者の尻に火をつけてみると、その効果があまりにも出すぎてしまって、もう収拾が付かなくなってしまったわけである。  
進歩的知識人が沈黙すれば、今度は、こういう行為のみが大々的に報道されるわけで「赤軍」は如何に悪い奴等か、という事に視点が向かうわけである。  
それは自分達が煽った結果だ、という事には口をつぐんで、沈黙を決め込むわけである。  
彼等が沈黙をすれば、そういう運動は段々と下火になるわけである。  
それは同時に、活発な活動家は悉くが捕縛されて、もう活動の主体が残っていないという状況だったと思う。  
これほど極端な行動をしていなくても、デモの先頭で角棒を振り回している程度で捕まって、留置所で一晩か二晩頭を冷やせば、自分のやっていた事のむなしさが理解できたに違いない。  
親が身元引受人として警察に頭を下げているのを見れば、普通の人の子であれば、親に申し訳ないと思う気持ちはあったろうと思う。  
それで気が付けば、そう大きなダメージはないはずであるが、ここまで過激な連中は、そんな生易しい事で目が醒める連中ではなかったに違いない。  
妙義山で捕まった永田洋子などは、女性でありながらどうしてああも嵌り込んでしまったのであろう。  
海外逃亡をした重信房子なども、どうしてああも嵌り込んでしまったのであろう。両親にどういう育て方をされると、ああいう風になれるものなのだろう。  
個人の資質だろうか、それとも生育の過程の家庭環境だろうか。  
教育の効果だけであれだけ偏った考えには至らないように思う。  
自分の考えが偏っているという事に気がつかないものだから、目が醒めるという事もないわけで、何処まで行っても自分は正しく、世間の方が間違っているとなるわけである。
警察と軍隊の作戦の相違  
この浅間山荘事件というのはテレビで実況放送がされた。  
その時は、興奮していたあまり、仔細に観察する事が出来なかったが、2002年の年初にNHKの「プロジェクトX」という番組で放映していたのを見ると、山荘の模型を使って実に解りやすくが解説されていた。  
あの番組では警官の突入にクレーンで2トンもの鉄球をぶつけて突破口を開いたというところがポイントであったので、そちらに視点が向いていたが、第3者の立場から眺めてみると、あの山荘は斜面にあり、床下というのは空洞になっていたわけで、極端な事を言えば、その床下には警官を何人でも滑り込ませる事が可能であった。  
山荘の銃眼からはいくらでも死角があったに違いない。  
その死角を上手に使えば、建物に接近する事は可能であった。  
いくら人質の命を救わねばならないという前提条件があったとしても、もう少し美味い攻略の手法はあったように思える。  
そこが軍隊と警察の根本的に違うところだろうと思う。  
あれを軍の組織ですれば、恐らく10数人の人間で征圧できたのではないかと思う。なんといっても相手の学生というのは戦闘ということに関してはズブの素人である。鉄砲というのは素人でも充分に使えると同時に、素人では使い切れない面もあるわけで、警察官が二人も撃たれるというのは、稚拙といえば稚拙である。  
軍隊と警察の作戦で一番違うところは、軍隊では敵を殺す事が許されるが、警察というのは生きて捕まえる事に主眼が置かれているので、当然作戦にもその辺りの配慮が出てくるものと思う。  
特に、日本では、人命というのは地球よりも重いわけで、滅多矢鱈と人を殺せないわけである。  
現に、人質をとって山荘に篭城し、鉄砲を撃ち返している犯人をも殺してしまうわけには行かないわけである。  
犯人は殺していけないが、警官の殉職は良いわけである。  
こんな馬鹿な話があっていいものかといいたい。  
鉄砲を撃っている犯人を殺すと警官の過剰防衛で、警官が撃たれれば、それは仕方がないというわけである。  
こんな馬鹿な話があるものかといいたい。  
日本の進歩的知識人というのは、国民の生命財産を身をもって守っている警官を虫けら同様と思っているわけである。  
人殺しをしている犯人には基本的人権があって、職務遂行している警官には人権を認めていないわけである。  
あの浅間山荘事件では殉職した警官に弔意を表するのに吝かではないが、人質救出作戦としては稚拙だと思う。  
NHKの「プロジェクトX」という番組を見て一層そう思った。  
この番組で地形図と共に山荘の模型まで用いて解説をしていたが、それを見ながら自衛隊ならばどうするのであろうと考えた。  
陸上自衛隊のレインジャー部隊ならば、どういう手法で征圧するのであろうかと考えた。  
私が分隊長ならば、(という事は10数人のグループという事である)あの床下にもぐり込んで、ダイナマイトを一発爆発させれば、相手はびっくりして動揺し、それで突破口が開き、作戦成功だと思う。  
そしてアメリカ海兵隊ならばどうするのだろう。  
アメリカ陸軍山岳部隊ならばどうするのであろうと考えた。  
第一、相手は戦闘にはズブの素人である。  
プロに掛かったらひとたまりもないに違いない、と読んでいた。  
ところが日本の警察も、こういう戦闘には相手と同様、ズブの素人で、戦い慣れていなかったわけである。  
機動隊員も日頃はデモ鎮圧に刈りだされているが、銃撃戦という場面に遭遇した事はないわけで、その意味でこういう銃撃戦では何をどうしていいのかわからなかったわけである。  
この時のNHKの番組では、無線交信まで念入りに再現していたが、交信者が興奮してしまって何を言っているのか解らない状態である。  
この辺りにも銃撃戦になれていない者の齟齬があるわけで、それは交信の手法・ノウハウの問題である。  
その辺りが、敵を殺す事を至上命題としている軍隊と、敵を捕まえることを至上命題としている警察の対応の違いであろうと思う。
不可避な災禍の捉え方  
それと人命に対する我々の考え方というものも、もう少し考えるべき事ではないかと思う。  
世の中には不可抗力と言うものは確かにあると思う。  
これもその後の事件であるが、アメリカ留学中の服部君が射殺された事件があった。また愛媛県の漁業練習船えひめ丸が潜水艦と衝突して沈没するの事件が去年起きた。  
これらの加害者は意図してそういう事をしたわけではない。  
被害者には実に気の毒であるが、これは被害者の災難であったわけである。  
災難に遭った人に、「災難だったから仕方がない」では人間として非常に冷酷に思えるので、何とかして整合性のある理由を見つけ出そうとするものだから、アメリカが銃社会だからいけないだとか、潜水艦に民間人を乗せていたからいけないという理屈になるわけである。  
冷酷なようだが、それは本人の災難であった。  
この災難というものを被害者も周囲の人間も、なかなか認めようとしない。  
災難として素直に認めてしまうことは、被害者に対する同情の念に欠けるという、ニュアンスで受け止められているからである。  
被害者にとっては不可避な出来事であったわけである。  
同じようにガンを患っても生きている人もいれば死んでいく人もいるわけで、死んでいった人は医療ミスで、生き残っている人は医者に付け届けをしたから、と言えないのと同じで、人は持って生まれた寿命というものがある。  
災禍は、何時、誰に、何処で落ちるかわからないわけで、それは天のみぞ知ることである。  
そういう人知の及ばない災禍を、人為的行為で排除する事は出来ないわけである。服部君の両親は息子が殺されて「災難でした」では納得いかないわけである。  
えひめ丸の遺族でも「災難だからあきらめてくれ」ではどうにも納得できないわけである。  
だから最後は金よこせとなるわけである。  
戦後の日本人の生き方の中では、この個人にのしかかってきた災禍をどういう風に受け止めるか、という点が大きく変わってきたように思う。  
戦前の日本の大衆というのは、息子が戦争で死んでも、それは国家に奉仕した結果だと受け止めて、自分の息子、乃至は自分の夫の死というものを受容、又は甘受してきた。  
自分の息子や夫は、日本民族の為に有意義な行為の末に死に至ったのだ、と納得させられていた。  
自分の息子や夫の死が悲しくない人はいないわけで、折角成人に達するまで手塩に掛けて育てた息子や、連れ添った夫が帰らぬ人となって、喜ぶ人はいないわけである。  
つまり息子や夫は国家の大儀の為に命を義性にした、と納得させられ、それを受容してきた。  
これは何も日本だけの事ではないわけで、アメリカ人も、フランス人も、中国人も、インドネシア人も全く同じなわけである。  
日本だけが殉職者、戦死者に対して慈悲の念が薄かったわけではない。  
国民や大衆の側から見れば、運悪く戦死するということは、災難以外の何者でもないわけで、意識して避けて通れないわけである。  
自分のほうから死ななくても済むポスト、危険のない道を行く、という選択は許されないわけである。  
その選択は神のみしかわからないわけで、それは個人の側からすればまさしく天命なわけである。  
これも日本だけの事ではないわけで、軍隊の組織に関する限り、全地球規模で同じなわけである。  
個人の側からすれば、自分は国家の国難に殉じよう、国家の国難の克服に貢献しようとする際、安全な場所に身を置く選択というのはありえないわけで、安全な場所に配属されるか、危険な場所に配属されるかは、個人の人知では選択できないわけである。  
まさしくその人の持つ運としか説明が付かない。  
それは個々の人間の天命でもあるわけである。  
同じように召集されて、同じように出征しても、帰ってくる人もいれば帰れない人もいるわけで、それは個々の人の持つ天命でしかない。  
戦前の我々の先祖というのは、この天命ということを受容し、甘受し、まさしく天命とあきらめていた。  
ところが戦後の民主的な発想では、この天命というものを信ぜず、そういう事は人為的な問題であると、運命というものを人災という風に摩り替えてしまったわけである。  
召集令状で召集された人が戦死すると、それは制度が人を殺したわけで、徴兵制という、その制度があったから自分の息子や夫は死んだのだ、という論法である。  
これは個々の人間の持つ天命というものを、人為的な要因に摩り替えているわけである。  
この発想は、天をも恐れぬ不遜な思考だと思う。  
あまりにも人類の驕りだと思う。  
あまりにも自然の力を侮った傲慢な思考だと思う。  
天命を人為的な行為とみなすことは、あまりにも傲慢な発想ではないかと思う。  
服部君の親に「貴方の息子は天命だったのだよ」というのは酷な事は十分理解できる。  
えひめ丸の犠牲者に「運がなかった」とは言えない。  
すると第3者というのは相手・加害者を罵倒するか、相手も故意にしたわけではないとなれば、社会が悪い、制度が悪い、政府が悪いという一番無難はスケープ・ゴートを探し出すわけである。  
人の命に対する考え方というのは、地球上の各民族でもそうとう違った認識になっていると思う。  
又それは時代によってもかなり大幅な相違があるように見える。  
よど号ハイジャック事件の時でも「人命は地球より重い」というわけで、超法規的処置と称して、犯人側の言うことを飲んで、人質救出には成功したが、日本のマスコミというのは人命の救出に成功したという点を大きく評価しているが、その超法規的処置の方は誰も俎上に載せない。  
これは犯人側の言う事の屈したわけで、ここに法と人命が秤に掛けられて、そのバランスが問われたわけである。  
こういう状況を地球規模で考えてみると、各主権国家、各民族によって相当の差異が出るのではないかと思う。  
何が何でも法の方を優先させて、人質の犠牲を払っても法を優先させる国と、人命尊重のもとに法の方を曲げる国というのに分かれると思う。  
日本は言うまでもなく後者の方であったわけで、それがこの時代、全共闘世代というものをのさばらせた最大の原因とも言えると思う。  
そして、それがあったればこそ、浅間山荘事件も10日間という長期戦になったのである。  
しかし、人質は無事救出されたわけで、結果的にはこれで由とすべきかどうかは難しいところである。  
犠牲になった2人の警官の死をどう見るかで、評価は分かれるのではないかと思う。マスコミというのは全く無責任なわけで、この人質の命と、警官の命を秤に掛けるという検証はしていないわけである。  
警官の死は殉職だから致し方ないというのであれば、戦前の戦没者の死は全部肯定されてしかるべきである。  
人質の命を何が何でも救おうとしたから警官が二人も死亡したという経緯をマスコミはどう捉えているのであろう。  
山荘の管理人の奥さんが人質とされたことはまさしく天命であった。  
だから「彼女は殺されても仕方がない」と言う事は、良識ある人の口からはいえないわけである。  
良識のない人であっても言えない。
英知の行き着く先  
人が口に出して言えないところを逆手にとって、「人質をとれば攻める方はひるむであろう」という読みのもとに、人質を取るという卑劣な作戦が成り立つわけである。その卑劣な作戦を、20歳代前半の若者がしているわけで、まさしく悪知恵に長けているということである。  
これを皮肉な見方をすれば、犯人側は人質さえ取れば、決して人質を見殺しにはしないであろう、というこちら側の意図を利用しているということに他ならない。  
人質がいようがいまいが、全面攻撃を仕掛けて来る、という過去の実績があれば、人質を取るメリットというものはありえないが、人質さえとっておれば決して相手は仕掛けてこない、ということを知った上での作戦なわけで、そのことは20歳前後の若者に大人の社会、既存の体制というものが振り回されたということである。  
ここで皮肉な言い方をすると、マスコミはその答えを出す必要は最初から全く持っていないという事もいえる。  
マスコミは人の出した発言を事実として報ずるだけで良いわけで、自分から人質の命の事を考えたり、死亡した警官のことを考える必要は全くないわけで、人がああ言った、こう言ったということを伝えるだけで、済むわけである。  
人質が殺されれば、犯人側が如何に極悪非道かと報ずれば良いわけで、救出が失敗すれば警察が如何に無能かを報ずれば良いわけである。  
このマス・コミにケーションを如何にコントロールするか、という問題は文明の創造のバロメーターではなかろうか。  
乃至は、人間の英知の行き着く先ではなかろうか。  
未開な文明から脱却しようとするときは、人々に字を教え、その識字率が向上する事が文明の進化の度合いを計るバロメーターになりえたが、文盲というものが克服された社会では、マス・コミ二ケーションというものは、その使命も変質しているに違いない。  
未開な社会ではマスコミと言うものが文明の啓発に、文化の伝播に寄与しえたが、文盲というものが克服された社会では、それが今度は逆の方向を向くわけである。19世紀以降、此の世に共産主義というものが誕生すると、それはこういうマスコミ二ケーションの発達に便乗して、世界的規模で伝播された。  
この考えを抑える方向の作用は、反民主的という呼称で、いかにも悪い事のように受け取られ、共産主義というものを広める事こそ人類に貢献するものである、という認識が普遍化した。  
そして、その共産主義という考え方で作り変えられたソビエット連邦共和国というものは、約75年の実績で持って、再びもとの体制に逆戻りしたわけである。  
それは共産主義というものを人間の理想としてきた考え方というのが、理想ではありえなかったという事の証明である。  
共産主義社会というものはユートピアではなかった、という事の明らかな証拠であるにもかかわらず、その共産主義をマス・コミ二ケーションが何時までも擁護しつづけているのが冷戦体制崩壊後の人類の現実の姿だと思う。  
だから日本ばかりではなく、世界の知識人というのは、マス・コミ二ケーションを何らかの力で押さえつける事は反動であり、抑圧であり、反民主的と捉えて憂慮の念を露にするわけである。  
人間の織り成す社会では真の正義というものはありえない。  
真の正義と言うものがない限り、その対極に真の悪というのもありえないわけで、その真の悪の姿が見えないところが最大の問題だと思う。  
真の正義の輪郭がぼやけていても、集団の中の個人としては実害がない。  
ささやかな善意でも人々の心をほのぼのとさせる。  
ところがそれとは逆に、ささやかな悪意というのはその結果がとんでもない反応を示すことがあるわけで、正義の方は輪郭がぼやけていても実害がないが、悪の方はその輪郭をきちんと規定しない事には、人々は穏かな気持ちで生活が出来ない。  
人間の社会から文盲というものが根絶された後のマスコミというのは、この悪の輪郭をきちんと規定するように作用しなければならないと思う。  
それは情報の送り手として、人としての倫理をわきまえるという事だと思う。  
全共闘世代というのが、暴力で社会改革をしようと考えた根底には、当然、マスコミ二ケーションの影響があったといわなければならない。  
どの時代においても、世間の先頭にたつような人は、マスコミという情報伝達の影響を受けていることは否めない。  
情報というものが、このように人々の心に根付いて、社会に影響を及ぼすということをマスコミの業界は肝に銘じて知るべきで、あだや疎かに情報を垂れ流してはならないと思う。  
終戦以来、この時代までのマスコミの業界というのは、戦前のゆり戻しで、「左翼であらずんば人であらず」という雰囲気の中で、反政府、反体制、反自民ということを売り物にしてきた。  
労働組合、学生、野党、大衆というものは常に正義で、それと対峙する勢力というのは、悉くが悪魔か人でなしという事を宣伝しつづけたわけで、そこには自分の頭で物を考えるという事がスポイルされていた。  
「人の振り見て我が振り直す」というわけで、人と同じ事をしていれば安泰であったわけである。それは戦前でも同じであったわけで、体制が変わると、そのベクトルが逆向きになっただけのことで、自らの頭で考え、自らの判断力で判断し、自らの言葉で発信するという努力が全くなかったわけである。  
つまり自ら「考える」という事をしないものだから、人間の倫理というものが忘れ去られてしまったわけである。  
ただただ身の回りの雰囲気で物事を判断するものだから、そこに真の人間としての思考というものがスポイルされてしまっていたわけである。  
身の回りの雰囲気というのは、大衆の雰囲気という事で、それはある意味で「烏合の衆」であったわけである。  
大衆というのは、ある意味で極めて無責任なわけで、数の上では大多数をしめるが、その言っている事は必ずしも人間の倫理にもとづいているものではない。  
「自分さえよければ後の事は知らん」という部分が非常に多いわけである。  
利己主義である。無責任である。  
マスコミというのは、こういう大衆に対して、警鐘を鳴らすべきである。  
大衆には迎合すべきではないと思う。  
マスコミ業界の人間は、大衆に対してノブレス・オビレッジをきちんと明示して、「あなた方の言っている事は間違っていますよ」ということをはっきりと明示すべきである。  
それがオピニオンだと思う。  
大衆に迎合することがマスコミの使命ではないはずである。  
戦後、1945年以降の日本では、社会の階層というものがなくなってしまった。特に、共産主義というのは階級闘争というだけあって、この階層を全面的に否定しているわけで、皆が平等という事が「善」とされてしまった。  
文盲というものが一掃されてしまうと、意識の面でも階層というものがなくなってしまった。  
金持ちと貧乏人の区別はあっても、意識の面では皆平等であるという事が「善」であると認識されている。  
ところがマスコミ、マス・コミ二ケーションの業界では、情報の送り手と受け手という階層は厳然とあるわけで、送り手と受け手が相互に入れ代わるという事は決してありえない。  
つまりマスコミ業界には階層、階級、送り手と受け手という立場の違いの存在は否定できない。情報の送り手として、マスコミ業界というのは、大衆の上に屹立した存在という事は否定できない。  
そば屋の兄ちゃんや、パチンコ屋の姉ちゃんや、自動車修理工のアンちゃんが情報の送り手としてマスコミのトップにいるわけではない。  
マスコミ、あらゆる媒体の情報の送り手としてマスコミのトップに居座っている人たちというのは、紛れもなく日本の最高学府を出た人で、日本の知性としても選りすぐれた人たちであるはずである。  
それも一人や二人ではない筈で、何百人と群れをなして、日本のマスコミというものを支えているわけである。  
日本の大衆とは異質な人たちといわなければならない。  
そういう人たちが、自分で考え、自分で判断することなく、大衆に迎合するからおかしくなるわけである。  
日本の最高学府である大学で教養を得、知性を磨いてきた人たちが、自分の同胞である政府、自民党、与党、あらゆる体制というものを拒否する方向に世論を向けるものだから、日和見な大衆はマスコミの報ずる事は正しく、それが正義だと勘違いしてしまうわけである。  
マスコミ業界の人から政治家というものを見ればアホに見えることは理解できる。政治家というのは大学を出なくてもなれるわけである。  
朝日新聞の記者に大学を出ないものがなれるかといえばなれない。  
朝日テレビの局員に大学を出ないものがなれるかといえばなれない。  
ところが政治家というのは、大学を出ていなくても、選挙作戦さえ上手にやればなれるわけである。  
マスコミ業界から見て、政治家の集まりが馬鹿に見えるのは当然である。  
民主主義というのは、大学を出ない人でも政治家になれるというところが最大のポイントな筈で、大学を出ていようがいまいが、選挙で預託したひとに政治をまかせる、というところが素晴らしい制度なわけである。  
政治への不満というのは誰でも持っている。  
これは本当に誰でもが持っている。  
小学生から家庭の主婦、パチンコ屋の用心棒からサラ金の取り立て屋まで、政治に不満を持っていない人はいない。  
マスコミや進歩的知識人のみが政治に不満を持っているわけではない。  
人間である以上、誰でも自分が一番可愛いわけで、政治に協力するということは、大なり小なり自己犠牲を強いられるわけである。  
仮に、消費税の問題にしても、みずから進んで消費税に賛成などという人間はありえない。  
国民、大衆の総意は、税たるもの一銭足りとも多くなることには反対なわけである。そのことをマスコミが繰り返し強調してもなんにも意味がない。  
マスコミがいくら「大衆、国民は消費税に反対している」と叫んでも、そんな事は当たり前の事である。  
可笑しくとも何ともない。  
マスコミの使命というのは、消費税が何故必要になったかを大衆に知らしめる事である。  
「皆さんは少々自己犠牲を払って、この先よい社会にしましょう」ということを説得する側につかなければならない。  
そのことは政府の提灯持ちの記事という事になるわけである。  
政府と言うものはマスコミが総攻撃するほど悪いものなのであろうか。  
戦後、1945年以降の日本の政府というのは、日本国民から財や賦役を搾取する方向で来たのであろうか。  
自由民主党の主導する日本政府というのは、我々、庶民、一般大衆の生活を圧迫する方向に作用してきたのであろうか。  
そう考えた時、日本のマスコミ、日本の最高学府で教養と知性を磨いてきた人々の集団としてのマスコミ、戦後日本のシンク・タンクとしてのマスコミというのは、一体日本の大衆、庶民、国民に何を報道してきたのであろう。  
反体制、反政府、反自民というポーズは、これは須く共産主義の思想ではないのか。共産主義というものを思想として意識するしないにかかわらず、結果として共産主義の宣伝に努めてきたのではないかと思う。  
全共闘世代というのは、それに踊らされた結果ではなかろうか。踊る阿呆に見る阿呆である。 
 
連合赤軍1

 

1971年から1972年にかけて活動した日本のテロ組織、新左翼組織の1つ。共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)と日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が合流して結成された。山岳ベース事件、あさま山荘事件などを起こした。
連合赤軍の発足  
1971年、日本の学生運動が下火になっていた当時、赤軍派と革命左派は大菩薩峠事件やよど号ハイジャック事件などで最高幹部クラスが逮捕、国外逃亡、死亡したりして弱体化していた。赤軍派はM作戦(金融機関強盗)によって資金力はあったが、武器がないのが弱点であった。一方の革命左派は真岡銃砲店襲撃事件などで猟銃を手に入れていたため武器はあったが、資金力がなかった。  
互いの活動を評価していた両組織は以前から接近していたが、それぞれの利害が一致したことから、赤軍派の軍事組織である中央軍と革命左派の軍事組織である人民革命軍が統合し、統一された「赤軍」(統一赤軍)として7月15日付で生まれた。  
赤軍派幹部の一人である森恒夫は当初から党の統一を志向していたが、獄中の革命左派議長である川島豪らの強い反対で連合赤軍に改称された。  
1971年12月上旬、両派は南アルプスで初の合同軍事訓練を行う。しかし、その場で両派の間に対立が生じる。背後には両派の間での主導権争いがあったとされる。結局両派はお互いの批判を受け入れ、この合同軍事訓練は表面上は友好ムードの中で終わった。  
その後、両派の非合法部は1971年12月20日ごろに榛名山の革命左派山岳ベースで指導部会議を開催するが、それとほぼ同じ頃に非合法部と合法部の対立が発生した。山岳ベースの非合法部指導部は赤軍派・ 革命左派両派による「新党」の結成を確認するとともに、合法部を分派と決め付け、「銃を向ける」ことも含めた暴力的党派闘争が検討された。更に合法部寄りと見做したメンバーに対し、初めて暴力による「総括」(後述)が行われた。  
「新党」では、翌1972年1月3日、独自の中央委員会(CCと略される)が結成される。中央委員会は委員長が森恒夫、副委員長が永田洋子、書記長が坂口弘、その他中央委員は序列順に寺岡恒一、坂東國男、山田孝、吉野雅邦の4人であり、中央委員会のメンバーは計7人であった。しかし、組織の実態は森が独裁的権限を持ち、永田と坂東がそれを強く支える体制であった。
思想  
連合赤軍は、思想的には毛沢東主義を掲げていた。なお、連合赤軍の母体となった党派のうち毛沢東主義派は革命左派であり、赤軍派は「トロツキスト」と認識されていたが、革命左派が理論面で貧弱だったこともあり、赤軍派が革命左派に毛沢東思想を薦める場面もあった。  
連合赤軍における毛沢東思想はかなり原理主義的なもので、その批判は時として当の毛沢東体制下の中国にも及んだ。森恒夫は中国人民解放軍の設立日についても独自の毛沢東思想理解に基づいて異議が唱えたが、当時根っからの親中派であった坂口弘はこのような森の主張を心中で不快に思ったという。  
一方で、連合赤軍の行動原理には毛沢東思想と相容れないものもあった。毛沢東思想は基本的にスターリン擁護の立場であるが、連合赤軍ではスターリンは何の説明もなく絶対悪とされ、スターリン的傾向があるとされたメンバーは「死刑」として殺害された。元革命左派のメンバーにはスターリンを悪とする森恒夫の理論に違和感を覚える者もいたが、「死刑」にされたメンバーも含め誰も異議を唱えなかった。
連合赤軍事件  
1971年12月31日以降、連合赤軍は、山岳ベース事件とあさま山荘事件の二つの重大事件を起こす。これらは連合赤軍事件と呼ばれる。  
山岳ベース事件は、あさま山荘事件などで逮捕された者らの自供により明らかになった大量殺人事件である。これは、警察の捜査網から逃れるため山中に山岳ベースと呼ばれる山小屋を建設して潜伏中に、「総括」(詳細は後述)と称して連合赤軍内部で粛清が行われたもので、集団リンチを加えて12名を殺害した。また、日本共産党革命左派神奈川県委員会は、連合赤軍結成以前に党を脱走した20歳男性と21歳女性の2名を殺害している(印旛沼事件)。  
あさま山荘事件は、山岳ベースから逃亡した連合赤軍メンバーが、某企業の保有する宿泊施設を占拠して起こした人質篭城事件で、銃器で武装した若者らは9日間にわたり警察とにらみ合った。この模様はテレビで中継され、社会に強い衝撃を与えた。  
連合赤軍メンバーは、クアラルンプール事件の際に超法規的措置で釈放・ 国外逃亡し、現在も国際指名手配されている坂東國男と、東京拘置所で自殺した最高指導者の森恒夫を除き、15人のメンバーに判決が確定した。
「総括」とリンチ  
連合赤軍は、しばしば総括(そうかつ)と称して各人に政治的な反省を迫ることがあった。これはやがて、本人の自覚を助けるとして、周囲の者が総括をされる対象者に対し、意見や批判を行うものに発展した。  
山岳ベースでの連合赤軍においてはこれが破綻し、リーダーの森恒夫らは総括に暴力を用いるようになった。一人の人間に対し、仲間全員が暴力を用いて厳しい反省を強要するようになり、実質的なリンチと粛清が展開されるようになった。被害者も政治的指向から激しい暴力を伴うこの行為にほとんど抵抗しなかった。被害者はある者はこれらの暴力による内臓破裂で死亡し、ある者は食事もほとんど与えられずに極寒の屋外に縛り付けられ放置されて死に至った。彼らは暴力を、総括を助ける行為として「総括援助」と名付け、正当化した。またこの総括援助による死は「総括できないことに絶望してショック死した」として「敗北死」という名が付けられた。また、総括が期待できないと判断されたメンバー二人(一人は幹部)には「死刑」が宣告され、アイスピックで何度も刺された上に絞殺された。
総括  
本来は全体を取り纏める事だが、特に戦後史においては日本の新左翼党派である連合赤軍の山岳ベース事件での同志に対するリンチ殺害を「総括」と呼ぶ。ただし、連合赤軍自身はこれを「共産主義化」と呼んでいた。  
左翼団体において、取り組んでいた闘争が一段落したときに、これまでの活動を締めくくるために行う活動報告のことを「総括」と言っていた。闘争の成果や反省点について明らかにし、これからの活動につなげていく。工業界でいうところのPDCAサイクルの「C(点検・ 評価)」に相当する。  
ところが連合赤軍では、「真の革命戦士となるために反省を促す」と称して行なわれたリンチ殺人を意味することになった。  
連合赤軍は、共に武闘派路線であった赤軍派と京浜安保共闘が「連合」してできた組織であるが、その思想や体質には様々な相違点があった。  
彼らの主観では、「総括」とは「革命戦士に成長させるための試練」というつもりであったが、この「総括」を受けて生還し、革命戦士として成長した者は居らず、結局は凄惨な連続殺人へと突き進んで行った。  
なお、事件中には「総括しろ!」等の言葉が用いられてはいたが、連合赤軍の元メンバーら自身は一連のリンチ殺人やその元となった理論を「共産主義化」と呼んでおり、「総括」という言葉自体は事件後も左翼団体における通常の意味で用いている。  
オウム真理教との類似点  
殺人を正当化する連合赤軍の総括は、23年後に発覚するオウム真理教の「ポア」との類似性がしばしば指摘される。  
パトリシア・ スタインホフと伊東良徳の共著『連合赤軍とオウム真理教 ―日本社会を語る』や田原総一朗著の『連合赤軍とオウム―わが内なるアルカイダ』など、この問題を扱った書籍がこれまでに発刊されている。 
 
連合赤軍2

 

連合赤軍って何?
興味を持ったきっかけ  
連合赤軍のリーダーだった永田洋子が今月死んだことと、森永博雄さんのはてなブックマークで知った「文芸誌をナナメに読むブログ(書評)」の「モータリゼーション・ 郊外・ 逃走(ショッピングモーライゼーションの源流としてのあさま山荘)」が大変興味深く、同時に私は連合赤軍リンチ事件についてほとんど何も知らないということにも気づいたため、小熊さんのこの本を読んでみました。連合赤軍の章だけしか読んでないという体たらくですが、いつものように小熊さんの本の一章は普通の本の一冊以上のボリュームと中身がありました。数ある連赤本の中からこの本を選んだのは、小熊さんの幅広い文献調査による客観的な分析とシンプルかつ明解な考察に期待してのことですが、果たして期待は裏切られませんでした。で、知ったことをメモしていきます。おまえそんなことも知らなかったのかという突っ込みはなしでお願いします・ ・ ・  
実は私、連合赤軍とよど号ハイジャック事件とかテルアビブ空港乱射事件を起こした日本赤軍って同一組織だと思ってたんですが、違うんですね(そもそも名前が違う)。正確には、母体は同じだけど違う組織。では連合赤軍とはどういう成り立ちで、どういう思想を持っていたのか。
赤軍派  
名前からも推察されるように、この組織は二つの過激派組織が合わさってできたものです。ひとつはもちろん赤軍派。1969年9月結成ですが、前身はもう少しさかのぼれます。思想の基本は、創立者で後に議長となる塩見考也の「過渡期世界論」つまり世界同時革命、そして権力の象徴である機動隊の殲滅が基本にあります。後に連合赤軍の最高指導者となる森恒夫はこの赤軍派にいました。彼らは、69年に首相官邸突入を企てたときも「わからないけどとにかく最後までやるしかないんだと」くらいの考えしかありませんでした(もちろん失敗)。70年のよど号ハイジャック事件でも、もともと彼らは北朝鮮を支持していないにもかかわらず結局北朝鮮に亡命するのですが、「俺らの心意気を見たら必ずキューバまで送り出してくれるだろう」などと言っていたらしいですし、重信房子がパレスチナに出国しても、あまりにも知識がなく理念先行に過ぎかつ首相官邸占拠とか言っているのでパレスチナの活動家に「ザッツ チャイルディッシュ レフティスト」と言われる始末でした。要するに考えなしだったのです。  
そんな赤軍派も、当初は全共闘運動のゆきづまりなどから武装闘争論が人気を集めてはいたのですが、幹部が逮捕されたり出国したりで、結果的に森が「押し出されるようなかたちで」最高指導者になってしまいました。彼はやさしいが小心者で、強く言われると迎合しやすいたちでした。また内ゲバ(他の組織との暴力を用いた争い)でも逃走したことがあり彼自身負い目を感じていたのですが、このことも後の事件に作用します。
革命左派  
連合赤軍を構成するもうひとつの組織は革命左派です。ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループで、もともとは労働運動を行っていました。後に連合赤軍の最高指導者になる永田洋子はこちらに所属していました。彼女の小学校時代からの友人によると、彼女はものごとを突き詰めて考える人で、(共立薬科大の学生だったが)薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいが、そのためにはまず社会を変えないと、と話していたとのことです。私は彼女に「リンチを主導した冷血女」というイメージを持っていましたが、もともとは生真面目なヒューマニストだったようです。  
しかし、創立者の一人川島豪が権力を持ち、他の組織に対抗しようと武装闘争路線に進み始めたことで、組織は変わっていきます。いきなり軍事パンフレットを渡されたメンバーは戸惑いました。またこのころ、川島は妻が外出中に永田をレイプしますが、永田は組織のためにそれを秘密にします。  
以後革命左派は、「反米愛国」をスローガンに(ただしこれは50年代にはやった思想で、当時はもう時代遅れだった)、過激な行動をとることで目立つ組織となっていきます。例えば川島は、愛知外務大臣のソ連訪問を阻止するため決死隊に空港で火炎ビンを投げさせた際、作戦が失敗しても空港突入を知った段階で「やったぜベービー」と破顔一笑したらしいです。作戦の成否よりも目立てるかどうかを大事にしていたようです。彼はその後も、新聞社のヘリコプターを奪って首相の乗る飛行機にダイナマイトを投下しろとか(新聞社にヘリがあることも調べず、しかもメンバーにヘリを操縦できる者がいないにもかかわらず)荒唐無稽な作戦を指示します。逮捕されても獄中からこれを続けました。  
このため、赤軍派同様、逮捕者が続出、組織の崩壊が進行します。こんな中、森と同様、押し出されるようなかたちで最高指導者になったのが永田洋子でした。選挙で3票集めての結果でした。資質(人格・ 理論力)だけでなく健康にも問題(バセドー氏病で頭痛持ち)があったため、周囲にも本人にも意外な結果でした。  
なお、このような状況でも、組織は「救対」(逮捕されたメンバーへのサポート)部門がなく同志をほったらかしでしたが、そんな状況を見かねて行動したのが金子みちよでした。彼女は武装闘争路線に疑問を持ち一時期脱退を考えましたが、恋人の吉野雅邦に説得されてとどまります。彼女は後にリンチで殺害されることになります。  
また、同じく武装闘争路線に疑問を持っていた大槻節子も脱退を考えましたが、自分が逮捕された時の自供がもとで逮捕された恋人の渡部義則に説得されとどまります。彼女も後にリンチで殺害されます。
赤軍派と革命左派を比べてみると  
さて、両組織を比較してみましょう。()内は、前者が赤軍派、後者が革命左派についての記述です。  
共通点: 深く考えずに行動する、暴力を用いた活動を行う、指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない、逮捕者等が多く組織が崩壊にひんしている  
相違点: 思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)、女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)  
こんな組織が一緒になって物事がうまく進むはずがありません。なのになぜ両者は合同したのでしょうか。また、「同志」への凄惨なリンチはどのようにして始まり、進行していったのでしょうか。次回はそのあたりをメモしてみます。
連合赤軍はなぜ「同志」を12人もリンチ殺害したのか
連合赤軍誕生  
革命左派は、逮捕された川島を奪還するため民間の鉄砲店を強盗し銃を奪います。彼らが信奉する毛沢東が「人民のものは針一本、糸一筋とってはならない」と言っているのにです。これで革命左派は世間に知られるようになり、赤軍派も影響を受けて「M(マフィア)作戦」を開始します。要は金融機関強盗です。彼らはこのようにして武器やお金を集めました。  
このため、警察はこういった過激派摘発のためにアパートや旅館25万か所を4万5000人の警官でしらみつぶしに捜索するようになり、結果彼らからは多くの逮捕者が出ました。彼らは知人宅などを転々としますが、革命左派の永田らは冬の札幌などで息を殺し続ける生活に疲弊していき、都市部から出て山にこもるようになります(山岳ベース)。これには、永田が批判者を都市にばらけさせずに集めておきたがっていたからではないかという元「同志」の回想もあります。一方で赤軍派も同様に組織が壊滅状態に陥ります。  
そんな中、革命左派前組織の創立者川島が獄中から赤軍派との合同を示唆、71年夏に連合赤軍が誕生します。要はつぶれかけの集団が仕方なく一緒になったというわけです。しかし、この相容れないはずの両者が一緒になることで、悲劇は進行していきます。
処刑開始  
革命左派の山岳ベースからは脱走者が出ました。これに対し赤軍派の森は「処刑すべきではないか」と発言。すると革命左派は脱走者2名を殺害します(印旛沼事件)。それを聞いた森は「頭がおかしくなったんじゃないか」と言ったそうです。もともと「大言壮語だが実行力のない」赤軍派と「生真面目」な革命左派の相違が生んだ悲劇です。また森は、この事件から革命左派への政治的な負い目を感じ、革命左派より優位に立つには赤軍派による殲滅戦しかない、と考えるようになります。両者は悪影響を煽りあうようになっていくのです。  
この印旛沼事件をきっかけに、連合赤軍事件に一貫する「自分が逮捕される危険を逃れるため逃亡者を処刑し、自分の地位を追い落とす危険のある者を共犯者にして犯行を封じる」原理が横行していきます。もはや、曲がりなりにも武装闘争で革命を起こし世の中をよくするという建前すらも実質的にはなくなり、エネルギーは上層部(森と永田)の保身のために燃焼されるようになっていくのです。具体的には、この山岳ベースでの、「同志」12名のリンチ殺害です(ちなみに私はこのリンチもあさま山荘で行われたと思っていました・ ・ ・ )。
山岳ベースでの「同志」リンチ殺害  
まず最初に、この山岳ベースがどんな環境にあったのかを整理します。ベースは警察に見つからないために次々変わっていきますが、例えばリンチが多発した榛名ベースは、居住空間は横4メートルに縦2.5メートル。ここに革命左派約20名と赤軍派約10名が住んでいました。そして夜は氷点下15度、トイレは満足に機能しない、風呂はまれなので体臭がひどい(買い出しに行った際体臭が原因で通報され逮捕されたメンバーがいるくらいです)。これに重労働(薪割り等)の疲労、逮捕の恐怖などが加われば、本書の著者小熊さん曰く「判断能力も正常でなくなるのは無理もない。事件の描写はこれを念頭に読む必要がある。」  
71年12月下旬〜72年2月、ここで何が起こったのか。森と永田が「同志」に言いがかりをつけてリンチしていくのです。目的は「共産主義化(意味は誰にもわからなかったとの証言あり)」。詳細に書いても気分が悪くなるだけなので端的にメモします(小熊さんも同じ理由でこの箇所を簡潔に書いたとのことですが、その分実態が明確にあぶりだされている感がありました)。  
リンチされ始めたきっかけ  
・ 夕食会で「私の中にブルジョア思想が入ってくること闘わねばならない」と告白→森「入ってくるというのはこの闘いを放棄したもの」→リンチ  
・ 「交番襲撃のさい日和った(学生運動中、権力に対し怖じ気づいた)」と告白→「日和見主義克服」→リンチ  
・ 「ルンペン的」→リンチ  
・ 「すっきりした、という発言がまじめではない」→リンチ  
・ 「女学生的」→リンチ  
・ 「主婦的」→リンチ  
・ リンチ殺害の輪の外でうろうろしていた→リンチ  
・ 運転の不手際を叱咤され「革命のお手伝いをしに来ただけだ」と反論→リンチ  
・ カンパ集めに失敗→リンチ  
リンチの内容  
・ 殴打(主に全員で)  
・ 自分自身による殴打強要  
・ 緊縛し氷点下の屋外に放置→飢えと寒さで死亡  
・ アイスピックで心臓を刺したが死ななかったので絞殺  
被害者のプロフィール(一部)  
・ 赤軍派の人数が足りないので数合わせに連れてこられたもともと忠誠心のない人物  
・ メンバーでなくシンパで、妻子を連れてピクニック気分で来ていた人物(妻子は無事)  
・ 妊娠8ヶ月の女性(金子みちよ。殴打された際も「何をするのよ!」と叫ぶ、リンチ中抗議したのは彼女ただ一人、リンチに10日間も耐えたのも彼女だけ。本事件を裁いた石丸裁判長が金子の友人に送った手紙には「36年間の裁判官生活で・ ・ ・ 金子さんはもっとも感慨深い心にしみこむ『被害者』でした」と記述)  
有名な話ですが、これらのリンチは「総括」と呼ばれています。「共産主義化」を達成するための反省・ 自己批判の一環らしいのですが、実態は完全にリンチですよね。そして、このリンチによる死亡については、森が「敗北死」という名前をつけました。死亡した人間は、総括しきれずに敗北して勝手に死んだ、という理屈です。行為の実態は単なるリンチでも、このように特別な名称や理屈付けを行うことで、集団の感覚麻痺が一層進んでしまったものと思われます。実際、永田は取り調べで「なぜ殺したのか」と訊かれて初めて自分は人を殺していたのだと自覚できた、と語っています。  
なお、革命左派メンバー天野勇司によると、後日革命左派創立者の川島豪にこのリンチ事件について問うと「ゲリラノ鉄則ドオリニシタノデハ」との電報が返ってきただけで、まったく反省していなかったようです。そしてこの事件の全責任を永田に転嫁していたといいます。この人物、森や永田ほど言及されませんが、個人的には、この悲劇に及ぼしている彼の影響はかなり大きいと見ています。生真面目な労働運動団体だった革命左派が暴力を使い始めたのも、赤軍派との合同を促したのも彼ですからね。ちなみに1990年に死去しています。  
それと、私はこのリンチ事件を初めて耳にしたときは「どうせ狂信的政治思想の持ち主が同じように狂信的な人間を殺したんだろう。殺された人は気の毒だけど自業自得な面もあるんじゃないか」などという感想を持ちましたが、今回この本を読んで自業自得と切り捨てるのは相当不適切で思考停止だと強く感じるようになりました。そして反省。
リンチ殺害が行われた理由  
なぜこんなことが起こったのか。私もそれが大変気になっていました。  
著者小熊さんによれば、関連書籍を渉猟し整理した結果、これまで論じられた理由は主に4つに分類されるそうです。「外部の敵と戦えなかったので内に向かった」、「異なる両派がどう新路線を作ろうとするかを議論しようとすると森は個々人の共産主義化(リンチ理由)に問題をそらした」(永田の回想による)、「高校時代に剣道部主将だった森の体育会系気質」、「永田が気に入らない人間を総括し森がそれを合理化」。  
しかし、小熊さんは、以上の理由は潤滑油程度のものでしかなく、本質は「指導部が逃亡と反抗の恐れを抱いたのが『総括』の原動力だった」と指摘します。理由は次の通りです。  
・ リンチは反抗か逃亡の怖れがあった人物に集中  
・ メンバー全員に被総括者を殴打させたのも「全員共犯にし脱走させなくする」ため(傍証多数)  
・ 買い出しの場合、人選が慎重に行われた。まず関係の弱い者同士で行かせる(相談して脱走しないため)。また、ベース内に恋人や身内がいれば必ずどちらかをベースに残す(人質)。上層部がいかに逃亡を恐れていたかの例。  
・ とはいえ、上層部はこれを計算していたわけではなく、当初は勢いでやっていたがそうした計算が半ば無意識的に入って固定化したというのが実態ではないか  
私はこれを読んで、え?それって新しい説なの?むしろ、それ以外考えにくいんじゃないの?と思いました。それくらい、様々な資料で描かれている状況と「指導部の保身」のつながりが明確だったからです。なぜこんなシンプルな理由が今まで出てこなかったのでしょうか。小熊さん曰く、実は連合赤軍関係者の回想記などが出揃ったのはここ数年で(永田の回想記はずっと前から出ていたが、やはり記憶の改変があるし、あくまで永田視点の記述であるため完全に依拠できるものではない)、今までは分析しようにも材料が少なかったこと、そして、世の中、特に日本の社会運動に大きな影響を与えたこの事件の理由が「保身」のような矮小なものであってほしくないという思いも影響していたのでは(この点については次のメモで改めて整理します)、とのことです。なるほど。  
今回、リンチの経緯を知って真っ先に連想したのはポル・ ポトのやり方です。彼らも、規模は異なるものの、1.言いがかりをつけて人をどんどん殺しました(眼鏡をかけている→知識人→処刑、など)。そして同時に2.攻撃されることを極度に恐れ、疑心暗鬼になっていました(政権をとるとすぐ首都にいた200万人を全員地方に移住させましたが、その理由のひとつはそうしないと暴動が起こって政権を覆されるから、など)。共通点1.と2.からは小熊さんのいう「保身」というキーワードが浮かび上がってきます。この例からも、私にとっては「リンチ理由は保身」説が納得しやすくなっています。  
もう一つ感じるのは上記に加えてのもうひとつの共通点、3.リンチは共産主義の名の下行われたがその意味の説明はなかった、という点です。ポル・ ポトも革命革命と連呼していましたがその意味を人民に説明することはなかったらしいです。ここから思うのは、組織の長は、組織の存在意義や指導者自身の基本主張に自信がない場合、暴力・ 恐怖など別の手段で組織のコントロールをしようとする。それが極端になったのが連合赤軍でありポル・ ポトなのではないか、ということです。まあこれも一種の保身ですね。(参考:井上 恭介・ 藤下 超「なぜ同胞を殺したのか―ポル・ ポト 堕ちたユートピアの夢」)  
あと忘れてはならないのは、先にも書きましたが、そういった「精神」面での理由に加え、「肉体」面、つまり冒頭に記した劣悪な環境があってこの事件に拍車がかかった、ということ。先に山岳生活を始めていた永田が、まだ都市にいた森を訪ねたとき森が肉を食べているのを見てショックを受けている記述などがあったのですが、やはりこういう基本的な生活環境が劣悪だとそれは精神や行動に少なからず影響を及ぼすのだと思います。
連合赤軍リンチ殺害事件をどう受け止めていくのが適切か
これまでの受け止められ方  
1994年の「全共闘白書」には、元活動家に1970年前後にあれほど活発だった学生運動をどういう理由で離脱したのかを問うアンケートが掲載されています。1位は「内ゲバ」(暴力による組織抗争)、2位は「連合赤軍」となっています。この事件が、学生運動にとどめを刺すものであったことがよくわかります。実際には、この事件の起きた1972年頃はすでに学生運動は下火になっていたのですが、それに決定打を与えたのは間違いなさそうです。  
その後はどうかというと、私も、1989年(平成元年)に大学に入学するときには、親から「せっかくなので好きなことをすればいいが、学生運動だけはやめてほしい。まあそんな時代でもないけれど。」と言われた記憶があります。また私自身も、学生運動=「子どもっぽい正義感を振りかざす狂信的な人々のごっこ遊びで、最後は仲間をリンチする」という印象を強く持っていました。連合赤軍事件について詳しく知っていたわけではないけれど、学生運動とこのリンチ事件をかなり強く結びつけていたのです*1。  
当時のバブル末期という世相も影響していたのかもしれませんが、とにかくその頃は、個人的な皮膚感覚ではありますが、社会運動、特に政治に関わるものは「まともな学生はかかわらない」「危険」「狂信的」というイメージがかなりありました。これらすべてを連合赤軍事件に結びつけるのは牽強付会にもほどがあるという感じですが、ある程度の影響力はあったのでは、とは思います。少なくとも政府はそれを望んでいたようです。
政府による「演出」  
まず、あさま山荘事件について。警察庁長官後藤田正晴は犯人を射殺し「殉教者」とすることは避け、必ず生け捕りにするよう厳命。そして、機動隊の突入は2月28日月曜日に行われましたが、「夕刊の出る平日なら新聞が2回この事件を報道し事件がより大きくなる」との判断があったそうです。そして長官の言明通り犯人全員を生きたまま逮捕した後、今度はリンチ事件が明るみに出ると、いっそうの「演出」が披露されます。  
警察は被害者の埋められた死体を発見後また埋め戻し、それからマスコミを呼び「公開捜査」の名の下「死体発見」を見せるようとりはからいます。当時のマスコミもなぜ必ず死体が出てくるのか不思議に思ったそうですが、一方でこれほどの「ネタ」もないわけで、報道は過熱していきます。しかも警察は犠牲者全員を一気に「発見」するのではなく、何度かに分けてマスコミに公開しています。警察側の言い分では検視する医師の数が不足していたためとのことですが、ショッキングな「死体発見」を複数回報道させるための「演出」と捉えたほうが自然に思えます。これらの「演出」が日本政府と警察の「政治運動にネガティブイメージを植え付けさせる」意図のもと行われたとしたら、これは大成功だったと言えるでしょう。
事件をどう受け止めていくのが適切か  
著者小熊英二さんは、多くの文献を例に挙げ、この事件はこれまで「党組織の問題」「理想・ 正義」の限界などのような普遍的なテーマで論じられてきたことを示しています。しかし、これまでの検証結果から判断すると、この事件の本質は「幹部の保身という矮小な理由」に集約されます。このギャップの理由の一つとして、小熊さんは当時この事件にショックを受けた人々が「あれほど自分たちに衝撃を受けた事件は普遍的なテーマにつながっている大きな問題であるはずだ、という先入観があったのでは」と指摘しています。  
このような同時代人の「せめてこうであってほしい」という先入観と政府の巧みな演出により、この事件はいびつなかたちで捉えられてきたようです。それは平成の大学生にも一定の影響を与えていました。そんな普通でないバイアスがかかったこの事件、いったいどう受け止めていくのが適切なのでしょうか。  
小熊さんは、この事件を記述した章を次の言葉でまとめています。  
感傷的に過大な意味づけをしてこの事件を語る習慣は、日本の社会運動に「あつものに懲りてなますを吹く」ともいうべき疑心暗鬼をもたらし、社会運動発展の障害になってきた。しかし時代は、そこから抜け出すべき時期にきているのである。  
私もまったく同感です。この事件は、その残虐性のみならず、その後の社会運動を停滞させたという点でも非常に大きなマイナスの影響を日本社会に与えてきました。しかし今世紀に入ってから、多くの当時の関係者が証言を始めるようになったことでこれまでメモしてきたような「この事件の本質」が明らかになってきました。この事件のもたらした呪縛から解き放たれるには十分すぎる時間が過ぎました。「社会運動に熱心にかかわるとろくなことにならない」というイメージは完全に捨て去るべきときに来ているのではないかと思います。  
最後に、私がこの事件から学んだ、身近に起こりうること2点についてもメモしておきます。ひとつは「身体的に不快な環境は精神を病ませる」ということ。連合赤軍メンバーの証言から、彼らが食事・ 住環境において悲惨な状態にいたことがどれほど人間性を抑圧し思想行動に影響を与えたかをつぶさに感じました。出発点がいくら精神的に高尚なものであっても、厳寒の狭い山小屋に押し込められ貧しい食事と不潔なトイレが続く毎日を送っていると道も踏み外しやすくなるということを痛感しました。  
もうひとつは、組織がおかしな方向に進んでいっても、メンバーがそれを察知して制御できる段階は限られており、それを過ぎると組織メンバーは制御するより逃げ出すようになり、それが崩壊を加速させるということ。連合赤軍も、もとの組織のひとつは革命左派、さらにその前身は労働運動を生真面目にやる組織「警鐘」だったわけです。永田洋子は、共立薬科大で学ぶうち薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいと思いこの「警鐘」(正確にはその前身となる組織)に入ったものの、最終的には12名リンチ殺害の首謀者に変わり果てている。このような組織の変容に彼女がどこまで自覚的だったのかはわかりませんが、変容の段階を経るにつれほとんどのメンバーが組織から抜け出ています。転落していく組織は制御されるより見捨てられ、それにより転落に拍車がかかる。誰も永田(や森)の変容と暴走を止められなくなる。そんな悲劇を連合赤軍のたどった経緯から感じ取った次第です。 
 
連合赤軍リンチ事件

 

「あさま山荘事件」の後、連合赤軍が12人もの同志を殺害する「総括」を行なっていたことが判明した。
「馬鹿な・ ・ ・ ・ 」  
森と永田が逮捕された時、妙義山中のアジトに切り裂かれた衣類が見つかった。衣類には大量の糞尿がこびりついていた。この時、群馬県警・ 中山和夫警備二課長は誰かが殺されているものと見た。これは人が死ぬ時には大量の糞尿が排泄されるが、遺体から着衣を剥ぎ取る時にそういう風に切って脱がせるからだった。  
森や永田は頑として何も話さなかったが、3月に入ると、奥沢修一やあさま山荘に立てこもったMが同志殺しを自供し始めた。  
3月7日、群馬県警は甘楽郡下仁田町の山中で、約1mほどの深さの穴に埋められた男性の遺体を発見した。赤軍メンバー・ 山田孝(元京大生 27歳)のものである。遺体は手足が縛られており、死因は凍死だった。衣類はナイフで切り裂かれており、このことを先に逮捕されていた森恒夫と永田洋子らに示すと、異様な反応を示した。  
さらに追及した結果、自供から「総括」と呼ばれるリンチの実態が浮かんできた。榛名山に集結していたメンバー29人のうち、12人が死刑、または総括で死亡していたのである。12人がすでに殺されていたという報告を受けた警察庁長官・ 後藤田正晴は「君、そんな馬鹿な・ ・ ・ 」と絶句したという。  
また亡くなっていた山本順一の妻・ 保子が10日に名古屋・ 中村署に出頭、その長女・ Rちゃん(当時3ヶ月)は千葉・ 市川署に保護され、Rちゃんを連れ出していた中村愛子も出頭した。他にも岩田平治(当時22歳)、前沢虎義(当時24歳)も逮捕され、リンチ事件に関わったとされる17人が全員逮捕された。  
そして凍てつく土の中から続々と11人のメンバーの遺体が掘り起こされた。遺体には凄惨な暴力や衰弱の跡があり、男女の区別がつかないほどだった。金子みちよ(24歳)にいたっては妊娠8ヶ月で、胎児をかばうようにお腹をおさえて死んでいた。死因は凍死、胃の中は空っぽだった。
山岳ベースで死亡したメンバーと死亡日  
▽1971年12月31日尾崎充男 (22歳・ 革命左派)  
▽1972年1月1日進藤隆三郎(21歳・ 赤軍派)  
▽1972年1月1日 小嶋和子 (22歳・ 革命左派)  
▽1972年1月4日 加藤能敬 (22歳・ 革命左派)   
▽1972年1月7日 遠山美枝子(25歳・ 赤軍派)  
▽1972年1月9日 行方正時(25歳・ 赤軍派)  
▽1972年1月17日寺岡恒一 (24歳・ 革命左派)  
▽1972年1月19日山崎順 (21歳・ 赤軍派)  
▽1972年1月30日山本順一 (28歳・ 革命左派)  
▽1972年1月30日大槻節子 (23歳・ 革命左派)  
▽1972年2月4日 金子みちよ (24歳・ 革命左派)   
▽1972年2月12日山田孝 (27歳・ 赤軍派)  
1973年1月1日、森恒夫が東京拘置所内で自殺。  
「あの時、ああいう行動をとったのは一種の狂気であり自分が狂気の世界にいたことは事実だ。私は亡き同志、他のメンバーに対し、死をもって償わなければならない」  
という自己批判書をしたためていた。同じ拘置所の永田は「森さんは卑怯だ。自分だけ死んで!」と叫んだという。
兵士たちの軌跡  
森恒夫(当時27歳) / 1944年、大阪市生まれ。父親は市交通局の現業監督をしていた。勉強が好きな子どもで、それまでは秀才だったが名門・ 府立北野高校進学後の成績は平凡なものだった。当初は大阪外語大を志望していたが、大阪市立大学に変えている。高校では剣道部に所属し、主将も務めた。1963年、大阪市立大学文学部に進学。高校時代には学生運動には何の興味も示さなかったが、アルバイトを探すために生協の事務所に通ううちに田宮高麿と出会った。当時、大阪市大は日共分派の民学同が中心だったが、自治会執行部改選で、田宮率いる社学同が勝利した。この頃から、すっかり田宮の腰巾着となった。1965年11月、日韓条約批准阻止のデモを指揮して逮捕された。その後、社学同の活動家となり、田宮らと共同生活をするようになる。田宮の影武者のように振舞っていた森だが、その優柔不断な性格から「頭は良いが疑り深い小物。指導者になれる男ではない」と評されるなど、幹部からの信頼は得られなかった。一度、敵前逃亡したこともあり、組織を離れて三里塚で基地作りをしていたが、塩見孝也議長の意向により復帰、下積みからやり直した。田宮高麿が北朝鮮に飛び立った「よど号事件」や、塩見、高原浩之といった幹部が次々と検挙されると、山田孝とともに政治局員にのし上っていった。出身大学やその言動から「二流の指導者」と評されがちだった森は、京大の山田や早稲田の山崎順など、自分より上に立とうとする者につらくあたり、最終的に排除した。1971年春の一斉蜂起を目指して武装路線をとり、反論するものは次々と切り捨てた。普段から仲間に完全黙秘を強要していた森だが、逮捕後しばらく頑張った後は、すんなりと自供を始めた。だが事件の全貌を語りきることなく1973年1月1日、東京拘置所内で首吊り自殺。  
永田洋子(当時27歳) / 1945年東京生まれ。私立調布学園中等部から高等部へ。気性が激しく、女の子にしてはお洒落などには無頓着だった。その後、共立薬科大学に進むが、ここで学生運動にこりはじめ、医療問題などについて友人に積極的に議論を吹っかけるようになった。1964年1月、「社学同ML派(マルクス・ レーニン主義派)」の集会に参加。以後の人生が変わった。3年時にはバセドー氏病の症状が出始める。治療で完治したかに見えたが、「男性に好かれないのはそのためだ」と思いこむようになった。卒業後は大学病院の薬局で働くが、上司や同僚に好印象を持たれず職場を転々とする。そのうちに労組運動にも顔を出すようになった。「病院の薬の購入方法に不正がある!」という根拠なき告発を行なったことをきっかけとして病院を辞めた後は、薬剤師の仕事には見きりをつけ、革命家の顔を見せ始めた。永田は大学時代に知り合った東大生の影響で結成されたばかりの革命左派神奈川県委員会の実践組織である「京浜安保共闘」にもぐりこむようになり、石井功子、川島陽子とともに「京浜安保のおんな3戦士」の1人に数えられるようになった。ここでは中村愛子らもオルグした。闘いのなかで今度は川島豪から指導者に指名された坂口弘に好意を持ち、2人で行動することが多くなった。彼の気をひくために積極的な活動を行なうようになったと言われる。坂口と結婚(のちに離婚)。19  
69年12月にリーダー・ 川島豪が逮捕されると、永田は目上だった石井功子や川島陽子を地方に追いやり、自らが組織を仕切るようになった。京浜安保は赤軍派と合同し、山岳アジトへ。同志殺害には森とともに積極的に関わる。森とは会って間もないが、すぐに坂口から乗り換えている。1972年2月、森と一緒にいたところを逮捕される。リンチ事件発覚後、永田の持病バセドー氏病を事件と結びつける報道があったりして、患者・ 読者らから抗議が相次いだ。その後は坂口、塩見らと対立、決別。死刑が確定していたが、2011年2月に病没。  
坂口弘(当時25歳) / 1946年千葉県生まれ。元々、浅草の履物卸売り業を営む家だったが、疎開でこの村にやって来た。子ども時代の坂口は日本共産党に興味を持ち出すが、両親はともにこの党に良い印象を持ってはいなかった。学校の成績は良く、兄弟たちの中では一番できた。中学1年の時に父親を病気で亡くす。60年安保闘争の時は中学2年生だった。テレビでジグザグデモを見て興奮したという。やがて木更津高校入学。この頃、授業中に教師に指名されて文章を読む時、つっかえてうまく読めず、自信を失う。1965年、東京水産大学入学。入学時の納付金のなかに1万円「後援会費」が含まれていたのだが、後援会自体が幽霊団体であるため、この会費は不正であるとした後援会費闘争が起こっていたが、これは後に革命左派指導者となる当時4年の川島豪が指導していた。以後、坂口は同じ水泳部でもある川島を慕う。川島が卒業した後も接触を重ね、ここで永田との接点ができた。1967年7月、長兄が「我が家からでも大学生を出せた」と涙ながらに喜んでくれた大学をあっさり中退、大田区の印刷会社に就職した。1人で労働運動を始めたのである。1969年9月、愛知外相訪ソ訪米阻止闘争に参加、坂口は一般人を巻き込んでしまう可能性を指摘したが、川島から一喝された。結局、この運河を渡っての空港突入事件で坂口らは逮捕されたのだが、新左翼の若者からは賞賛する者もいた。永田と同棲をはじめたのは府中刑務所を出所した直後のことである。革命左派では心臓病の発作に苦しみながら、銃砲強奪事件に関わった。ここでは永田の補佐的な役割だった。「あさま山荘事件」では大将格。統一公判中、川島と対立。日本赤軍クアラルンプール事件で、犯人側から出国を求められたが、「私は出て行かない」「君達は間違っている」と拒否、事件の総括にこだわった。その後死刑が確定している。  
坂東国男(当時25歳) / 滋賀県生まれ。旅館の一人息子である。地元の進学校である膳所高校を卒業後、一浪して京大農学部に入学。まもなく新左翼シンパとして政治運動に顔を出すようになった。1969年4月に赤軍派に加わる。その後の「大菩薩峠事件」や「よど号事件」で主要リーダーを失ったため、坂東の地位も上昇した。射撃の名手とされ、「坂東隊」のリーダーとして郵便局や銀行を襲い現金を奪うなどした。また銃器、弾薬の保管についても任されていた。「あさま山荘事件」を起こした1人。先述した通り、逮捕の直前に父親が自殺している。逮捕から40日間は完黙していたが、取調官に父親の位牌を見せられ、「12人に対して間違ったことをしてしまった。父に対しても本当に申し訳ないことをした」と涙した。しかし、その後クアラルンプール事件でアラブへと飛び立ち、革命戦士として活動し続けていると思われる。  
吉野雅邦(当時23歳) / 1948年生まれ。父親は東大卒の三菱地所の重役で、言わばブルジョアの育ちである。しかし吉野はそんな父親のような生き方はしたくないと考えるようになった。性格は温厚で、不得意科目のない優等生、手がかからない子だった。名門・ 日比谷高校から東大を目指すが、結局一浪して横浜国立大学入学。混声合唱団で金子みちよと出会う。悩みが多い性格だったのか、愛や思考のことで自宅で自殺未遂を図ったこともあった。1967年10月8日、「10・ 8第1次羽田闘争」に中核派シンパとして参加。機動隊に殴られ、13針を縫う大怪我。三里塚闘争で逮捕され、千葉少年鑑別所に入所。その後、金子と生活をともにし、大学を辞めた。「真岡銃砲店襲撃事件」や「印旛沼事件」に関わる。「あさま山荘事件」に立てこもった1人。気弱で温厚そうに見えるが、京浜安保共闘の頃から重大事件には常に関与している。無期懲役が確定し、千葉刑務所で服役。  
植垣康博(当時24歳) / 1949年、静岡県金谷町生まれ。父親は農場長で、町の有力者の1人である。地質学に興味を持ち弘前大学理学部物理学科に入学。この地方の大学は、もともと東京の新左翼運動や全共闘運動とはまったく無縁だった。大学で反日共系の活動家・ 青砥と出会う。また日共の下部組織・ 民青に加盟したが、1969年4月に脱退している。これは民青が全共闘を「暴力学生」「暴力集団」などと罵倒していたことの反発だった。1970年10月21日、「国際反戦デー」のため上京、新宿で逮捕されている。植垣は弘前大全共闘を結成してバリケード封鎖を敢行した。とは言え、行動から離れる学生が多く、福島医科大学の梅内恒夫が指導にやって来た。赤軍派の主要メンバーでもある梅内は武装闘争の必要性を主張し、植垣はそれに押される形で赤軍派に参加を決めた。1971年1月、組織づくりのため横浜・ 寿町でオルグ開始。この時オルグされた者には殺害された早大生・ 山崎順がいた。1972年2月、軽井沢駅で逮捕される。日本赤軍のハイジャック事件(ダッカ事件)で、「日本に残って、連赤問題を考えなければいけない」と拒否。98年、刑務所を出所した。現在は地元・ 静岡でスナックを営んでいる。  
加藤倫教(当時19歳) / 愛知県出身。兄・ 能敬と同じく愛知の名門・ 東海高校に入学。成績は中の中で、口数も少なく特に目立たない生徒だったという。担任教師には「俺は大学には行かない。工員になって実践と論理を一致させるんだ。労働の中にこそ何かがあるんだ」と話していた。2年生の頃に兄の影響で京浜安保共闘に入った。卒業直後、コーズマイト(粉状の爆発物)所持で逮捕される。釈放後は組織の指示で本栖湖のアジトへ。山岳ベースでの生活では、大槻節子に憧れていたという。兄が殺された時、弟Mと逃げだそうとしたが、相互の監視下のもと、兄弟といえども気軽に話せる状況ではなかった。逃亡の最中、「あさま山荘」に立てこもる。逮捕後、留置された小諸署で数ヶ月ぶりに風呂に入れられ、父親と同年代の取調官に最も早い自供を始める。1983年2月に懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役。1987年1月仮釈放。現在は実家の農業を継ぎ、また野生動物保護、自然環境保護の団体でも理事を務めている。  
加藤M(当時16歳) / 倫教の弟、すなわち「加藤三兄弟」の三男。県立東山工業高校に入学したが、その年の8月に父親と激しい喧嘩をして家を飛び出した。高校在学中には「社会主義研究同好会」を組織して、街頭デモを行なったりしていた。逮捕後、「遅れていた同士12人を始末しました」とあっさり自供。  
青砥幹夫(当時22歳) / 弘前大生。同じ大学の植垣とは友人だった。爆弾作りに長けていた福島県立医科大生に指南を受け、植垣とともに手榴弾製造を教わる。その医科大生は森の妬みから追放されたが、青砥は森に可愛がられていたという。森の秘書役をつとめ、他のメンバーの発言を告げ口するなどしていた。逮捕後は遺体を埋めた場所を案内した。  
奥沢修一(当時22歳) / 慶大生。杉崎とともに逮捕される。メンバーは運転免許証を持っている人間が少なく、彼が主に運転手役をやらされていた。そのため人や物資の運搬などは彼の仕事で、遺体を埋めた場所などもよく覚えていた。すんなり自供を始めた1人。  
杉崎ミサ子(当時24歳) / 横浜国立大生の1人。革命左派では寺岡と夫婦仲にあった。2月16日、妙義湖畔にて奥沢とライトバンに立てこもった後に逮捕される。  
山本保子 / 中京安保共闘。殺害された山本順一の妻。2月初めに脱走し、3月に自首した。娘を奪われ、すでに殺害されたものと思っていたが、無事保護されたと知って泣き出した。  
寺林真喜江(当時23歳) / 高卒後、女工となり組合運動に関わったのち、中京安保共闘幹部に。2月19日、軽井沢駅で逮捕。猟銃弾とピース爆弾を所持していた。懲役9年の判決を受ける。後に移監された和歌山刑務所では 150cmと小柄だが、がに股で歩くなど、男のような仕草で周囲を驚かせ、所長から「女らしくしなさい」と注意されることもあった。所内では事件のことについて聞かれてもニヤニヤして受け流していた寺林だったが、ある時「殺らなければ、殺られていた・ ・ ・ 」とポツリと言ったという。  
中村愛子 / 千葉県の寿司屋の娘として生まれる.日大付属の高等看護学院在学時に5歳年上の永田に目をつけられ、伊藤和子、早岐やす子とともに京浜安保共闘に編入された。坂口に命じられ、山本夫妻の長女・ Rちゃんを連れて榛名に向かったが、汚い身なりでタクシーの運転手に自殺志願者に思われ、高崎署に送られた。そこへ友人が迎えに来て、帰された。  
伊藤和子(当時22歳) / 秋田県の中学校長の娘。「日本看護学院の3人娘」の1人。名古屋へ岩田とカンパに行った時、「俺、もう逃げるよ」という岩田の言葉を、自分を試すものだと思い込み、「私は絶対逃げない」と言って山に戻っていった。2月19日に軽井沢駅で逮捕された。  
前沢虎義(当時24歳) / 元々は東京の自動車部品メーカーに務める真面目な工員だった。だが工場に転がりこんできた坂口の影響を受け、他の工員らとともに京浜安保共闘の下部組織を結成した。2月7日に群馬県渋川市のバス停から逃亡した。3月11日に親類に付き添われて練馬署に出頭。  
岩田平治 / 向山茂徳とは高校時代の同級生で、一緒の予備校に通った。その後、東京水産大学に入学。1月12日に山を降りて、カンパのため伊藤和子とともに名古屋へ派遣された時、そのまま逃亡した。山岳ベース事件で最初の逃亡者だった。
死亡したメンバー  
尾崎充男 / 1950年生まれ。岡山県出身。県立児島高校から東京水産大学入学。その頃、同大学では川島や坂口が京浜安保共闘を結成しており、彼も参加。その年の10月に学内闘争で逮捕されている。アキレス腱を切断して入院中だったため真岡猟銃店襲撃に加われなかったが、このことを気に病み、以前より積極的に活動するようになった。1971年9月、丹沢ベースに入山。「加藤を殴れ」と命じられた時、余計なことを口走ったことで、総括を求められる。警官役の坂口と殴り合い、敗北した後「ちり紙をとってくれ」と言ったことを永田に問題視され、縛られ暴行を受けた。最初の犠牲者。死ぬ間際に舌を噛み切った。(享年22)。  
進藤隆三郎 / 1950年生まれ。福島県出身。父親は建設会社の役員で、幼い頃は東北地方を転々とし、秋田高校を卒業後、東京・ 御茶ノ水のフランス語専修の日仏学院に入学した。その後、東大闘争に関わり、安田講堂事件で逮捕される。さらに地元の新潟大学のデモに加わり逮捕される。それ以後は赤軍派に加わる。ハンサムな男で、女性をオルグする役割を持った。またアジトとなるアパートを借りるのも、印象の良い彼の仕事だった。坂東部隊に所属し、M作戦にも参加。横浜のドヤ街で同棲していた元芸者の女がいたが、その女が逮捕され、メンバーのことをぺらぺら喋ってしまった。そうしたことや、組織と一定の距離を置いていたことで、森から「遅れている」と見られた。1月1日に暴行を受け死亡(享年22)。  
小嶋和子 / 1949年生まれ。愛知県出身。市邨学園短大卒業。1970年8月から日精工業に勤務。同僚で、短大の先輩でもある寺林真喜江にオルグされ、当時高校生だった妹と革命左派の川島陽子が建設した「中京安保共闘」(京浜〜の地方組織)に加わる。組織では「小嶋姉妹」として知られた。運転免許を持っていたので運転手役を務めることも多かった。印旛沼の同志殺しにも関与。1971年7月、塩山ベースに入山。恋人だった加藤能敬とキスしているところを永田に見られ、怒りを買う。1月1日、死亡(享年22)。  
加藤能敬 / 1949年生まれ。愛知県出身。東海高校から一浪して和光大学文学部入学。京浜安保共闘。あさま山荘事件で逮捕された加藤兄弟(倫教、M)は彼の弟達である。通称「加藤三兄弟」。彼らはそろって熱心な右翼思想の持ち主である父親に反発していた。父親は国語教師であり、財産持ちだが、倹約家で、質素な生活をこころがけていた。この父親は3月3日付で、勤務先の小学校を依願退職し、「息子が軽井沢にいるようなら、妻と刺し違えて死ぬ」と話していたという。能敬は1971年11月に是政アジトで逮捕され、12月に榛名ベースに入山。小嶋和子とキスしているところを永田に見られ、最初に総括を求められた。この時、森や永田は弟達にも兄を殴らせた。1月4日に死亡(享年22)。  
遠山美枝子 / 1946年横浜市生まれ。県立緑ヶ丘高校から明大二部(法学部)に入学。すらりとした美人で「お嬢さん」風に見られた遠山だったが、労組幹部だった父は早くに自殺していたため学校へはキリンビール本社で働きながら通った。在学中は重信房子と仲良くなり、揃ってブントに入る。67年佐藤訪越阻止羽田闘争、68年佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院反対闘争などに参加する。重信の恋人に高原浩之という男がいたが、重信が田宮高麿と親密になると、遠山が高原と付き合うようになった。1971年12月、新倉ベースへ。赤軍派では女王のようにふるまっていたが、早々と京浜安保共闘の永田に目をつけられる。髪を伸ばしていること、鏡を見ていたこと、化粧をしていたことなどを永田に問題とされるが、関係者の話ではもともと質素な服装を好んでおり、彼女なりの偽装だったと見られる。(享年25)。  
行方正時 / 1949年生まれ。滋賀県出身。進学校である県立膳所高校から岡山大学理学部に進む。学園紛争の時には岡山大のリーダー格にかつぎあげられた。やがて暴力革命を志し、ベ平連デモや東大・ 安田講堂事件にも関わり逮捕される。3ヶ月後、釈放した行方は膳所高の先輩である坂東について赤軍派中央軍に参加した。森に中央委員に任命され、京都の学生のオルグを任されたが、京都ではすでに新しい風が吹いており失敗におわった(詳しくは日本赤軍事件)。1971年12月、新倉ベースに入山するが、時計商の息子という坊ちゃん育ちをしたため、森に目をつけられることになった。(享年22)。  
寺岡恒一 / 1948年生まれ。文京区出身。私立芝高校から横浜国立大学工学部入学。この大学は新左翼系の「東のメッカ」と言われており、赤軍派にここの学生、卒業生は多かった。1969年の革命左派結成時から参加している。その年の9月には反米愛国行動隊としてソ連大使館を火炎瓶を持って襲撃、逮捕された。吉野・ 尾崎らとともに真岡猟銃店襲撃に関わる。1971年5月、逃亡先の北海道から東京に戻り、小袖ベースに入山。8月には脱走した同士を殺害した印旛沼事件にも関与。最終的にメンバー内でナンバー6にランクされたが、杉崎ミサ子にしつこくつきまとっていたことや、「森や永田がこけたら、俺がリーダーになる」などと陰で発言したことで総括を求められ、「俺は初めから風船ババア(永田)が大嫌いだったんだ。お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいや!」と発言したことで粛清される。寺岡の父親は「あさま山荘」に息子がいると思い、必死に呼びかけていた。(享年24)。  
山崎順 / 1950年生まれ。渋谷区出身。幼い頃、父親の仕事の関係でドイツへ。吉野と同じ都立日比谷高校から早稲田大学政経学部に入学。東大を目指していたが、その年は入試が中止となっていた。その頃から政治運動に興味を示し始め、中核派としての活動を開始した。その後、赤軍派に移り、坂東の直系の弟子となった。銀行襲撃(M作戦)にも積極的に加わる。1971年11月、新倉ベースへ。寺岡死刑の時、加わらなかったことを追及される。肋骨6本を折られるなどの暴行を受けた後、アイスピックで数回刺され、首を絞められて殺害された。森から「女性をめぐるトラブルが絶えず、組織から脱落しよう」としたとされ、死刑を宣告されたのである。(享年21)。  
山本順一 / 1943年愛知県生まれ。県立岡崎北高校から北九州大学外国語学部へ、卒業後は名古屋市の日中友好商社に勤務した。保子と結婚。12月28日に親子3人で榛名山入りした。事件当時、生後2ヶ月だった長女は、愛知県の父親が引き取り育てた。(享年28)。  
大槻節子 / 1948年生まれ。神奈川県出身。県立大津高校から横浜国立大学教育学部心理科入学。67年に「反帝平和青年戦線」に加入。その後「婦人解放同盟」「青年共産同盟」に加入。労働運動を目指してキャノンに入社後、71年頃からは革命左派組織部として活動。京浜安保共闘結成直後の米ソ大使館、羽田襲撃の際には、陽動作戦として都内各所で火炎瓶騒ぎを起こす役として、逮捕された。板橋区の志村警察署上赤塚派出所を襲撃して逮捕された渡辺という男と恋人同士だった。かなりの美人だったが、暴行を受け永田に髪を刈られた。(享年24)。  
金子みちよ / 1948年生まれ。横浜市出身。県立鶴見高校から横浜国立大学教育学部社会学科に進学。混声合唱団で吉野と出会う。1968年頃から運動に参加し、吉野の救援活動をきっかけとして革命左派に入った。京浜安保共闘では「神奈川人民救援会」の責任者となる。1971年6月、小袖ベースに入山。永田の嫉妬から妊娠8ヶ月で殺害される。(享年24)。  
山田孝 / 1944年東京・ 大森区生まれ。その翌年一家は山口県に移り、県立西高校卒業後、京大法学部に進学。その後大学院に進み政治学を専攻していた。赤軍派の母体となった関西ブントの活動家、また京都府学連でも活動していた。ブントでは理論家として知られ、塩見孝也議長らの側近だったと言われる。理論に優れるということだけが良き指導者の条件ではないが、少なくとも森よりは格上の人物だった。1970年5月に結婚し、翌1971年11月に子どもが誕生した。赤軍派はやがて森が実権を握るようになるが、「一国革命論」の森とはうまく噛み合うことはなく、人民裁判にかけられ死亡(享年27)。
印旛沼事件  
京浜安保闘争では、山岳ベースでのリンチ事件よりも前に脱走したメンバー2人を殺害していた。1971年8月4日、永田は吉野に脱走した向山茂徳(20歳)と早岐やす子(21歳)を始末するよう命令した。  
早岐やす子 / 1950年生まれ。長崎県。県立佐世保高校卒業後、上京して日大看護学院に進学。日大紛争をきっかけに過激派に出入りするようになり、伊藤和子、中村愛子とともに「日大看護学院の三人娘」として呼ばれた。1970年末、京浜安保共闘に。翌71年6月に小袖ベース入りするが、7月に脱走。  
向山茂徳 / 1951年生まれ。長野県出身で、諏訪清陵高校から新潟大学に進もうとしたが失敗した。高校の同級生に岩田平治がおり、そろって上京して早稲田ゼミナールに通った。岩田は大学に合格したが、向山はまたも失敗した。それからは新聞配達店で働きながら勉強をしていた。たまに岩田の学生寮に遊びに行くことがあったが、そこにいたのが川島や坂口で、彼も京浜安保共闘にオルグされた。小説家志望で、山岳ベースでの訓練などにはあまり興味はなかったらしい。1971年6月に小袖ベースに入山するが、4日ほどで下山している。  
やす子は7月に名古屋市の交番襲撃の下見に向かう途中の静岡県掛川市で、パンと牛乳を買うために車を停めたところ、突然運転席の小嶋和子を突き飛ばして脱走していた。永田は他にの女性兵士全員に「なんとしてでもやす子を見つけ出して来い」と命令をしていた。  
やす子は故郷の佐世保に帰ろうとも思ったが、東京行きの切符を買った。そしてしばらく板橋区の友人のアパートに同居させてもらっていたが、ここもやがてメンバーに突きとめられた。  
やす子が暮らすアパートに小嶋和子がやって来た。  
「これぐらいのこと、詫びればすむと思うわ。みんな許してくれるわよ。向山さんも戻ってきたのよ」  
やす子はその言葉を信用して小嶋について行った。  
連れて行かれたのは永田のアジトである葛飾区新小岩のアパート。そこには中村愛子、伊藤和子、金子みちよ、杉崎ミサ子が勢ぞろいしていた。彼女たちは永田から「やす子の飲む紅茶に睡眠薬を入れろ」という命令を受けていたが、まさか殺害するとは思っていなかった。  
しかし、やす子はなかなか紅茶を飲もうとしなかった。しびれをきらした瀬木は「外に幹部が待ってるんだ」と連れ出した。外の車には吉野と寺岡が立っていた。やす子が車に乗りこむと、運転席に小嶋和子、助手席に瀬木政児、後部座席のやす子の両脇に吉野、寺岡が座った。  
瀬木政児  
真岡猟銃店襲撃、早岐と向山殺害にも参加。10月、寺岡らとともに永田から交番襲撃を命じられると、会津若松市の鶴ヶ城前の交番に下見に行った。運転手であった瀬木は逃亡ルートを決めるため交番の周囲をぐるぐるまわっていたが、誤って電柱にぶつけてしまい、車を乗り捨てて他の2人を喫茶店に置いたまま逃亡した。京浜安保からは5人目の脱走者となった。  
車内での詰問や自己批判の要求に対して、やす子は「もうみんなにはついて行けない」ときっぱり言った。その時、瀬木はやす子の顔面を殴りつけ、吉野や寺岡も服をはぎ取って、胸や腹を殴った。やがて車は京葉道路の料金所にさしかかったが、ぐったりしたやす子に吉野が毛布をかけていたため係員は気づかなかった。  
車は印旛沼のほとりに入っていった。成田闘争で、この辺には土地鑑があったからだ。男らはそこに死体を埋める穴を掘り始めたが、失神していたやす子がいつの間にか土手の方へ逃げ出していた。男達はすぐに追いつき、毛布をかぶせて暴行を加え、ビニール紐で首を絞めて殺害し、全裸にして埋めた。  
8月10日、向山のアパートに大槻節子が訪ねてきた。この日は弟が上京してくる日で、新宿駅まで迎えに行く予定があったが、大槻に飲みに誘われてついて行った。まだ学生でもなかった向山は、過激派がどんなに恐ろしいことをしているか、わかっていなかったのである。店では「岩田さん達と歓迎パーティーやりましょうよ」ともちかえられ、府中市の岩田のアパートに一緒に向かった。しかし、中にいたのは寺岡、吉野、瀬木の3人で、岩田の姿はどこにもなかった。3人は「なんで逃げたんだ」と向山を殴りつけた。血まみれで失神した向山は、やす子と同じくやはり小嶋和子の運転で印旛沼に連れていかれることになったが、途中で意識を取り戻したため、車内で首を絞められ殺害された。向山はやす子のいる場所から少し離れたところに埋められた。
総括! リンチ事件  
「共産主義化」の名の下に革命戦士に鍛える武闘訓練の間、自覚にかけたり、執行部に不満を持つ者が総括の対象となった。また男女がいちゃいちゃしているのを森・ 永田許さなかった。革命左派時代から恋愛は自由だったが、永田は組織内での男女関係に神経を尖らせていた  
「囚人狂時代」(見沢知廉・ 著)の千葉刑務所での吉野の発言によると、「報道はされなかったが、公安のスパイがもぐりこんでいた」というものがあり、メンバーは「スパイ探し」に疑心暗鬼になっていたことも考えられる。(毎日新聞は事件発覚直後、山田スパイ説をとった) また鈴木邦男氏の著書「公安警察の手口」によれば、公安部が意図的に「内部に公安のスパイがいる」との情報を流すことで、内部分裂をおこさせ、また他派への牽制を行なっていたという説もある。リンチ事件の発端は、合同前の共同訓練の際の水筒からだった。
リンチ事件の経過  
1971年10月24日 メンバー脱走を受けて、永田は「丹沢も危ない」と感じ、4組にわけて、ベース候補地の調査に向かわせた。この結果、榛名山中にベースを作ることを決定した。ベースから道路に出るのは、大久保清事件の被害者の墓を目印にした。永田は大久保清事件に異常な関心を示していた。  
11月12日 坂東率いる坂東隊が南アルプス・ 新倉ベース(山梨県早川町)に到着。  
12月1日 赤軍派メンバー・ 遠山美枝子、行方正時、青砥の3人が、迎えにきた植垣康博と新倉鉄橋で合流。  
12月2日 革命左派の永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、前田、石田、金子みちよの7名が、迎えにきた植垣と合流。植垣が「水筒を持ってきましたか」と聞くが、誰も持って来ていない。植垣、トランシーバーでベースに水を持ってくるように依頼。  
12月3日 新倉ベースに水や食料を持っていく進藤隆三郎と青砥らに、森が革命左派を批判するように指示。両派の訓練部隊は水を持ってきた赤軍派の山崎と進藤に合流。進藤は革命左派メンバーと初対面だったが、「何で水筒を持ってこなかったんだ」と批判。山崎も加勢し、気まずい雰囲気になる。昼頃には青砥が食料を運んできたが、彼も水筒問題を非難した。やって来た森らも批判し、永田が自己批判するまで気まずい雰囲気は続いた。坂口はこの水筒問題批判を森ら赤軍派が訓練の主導権を握りたいためのものだろうと推測。永田は赤軍派の女性兵士だった遠山美枝子に目をつけ始める。赤軍派の紅一点だった遠山は重信房子と並び賞されていたほどの美人であったことや、他人の発言中に髪をブラシでとかしたり、リップクリームを塗っていること、森にぴったり寄り添っていたことが永田には気に入らなかったらしい。独自の「女性論」を持つ永田は、それに当てはまらない大部分の女性に敵愾心を持っていたと見られる。  
12月4日 銃の使用訓練。森と永田は2人で会議。森は銃の譲渡を要請するが、永田は保留。また永田は遠山の革命戦士としての資質に疑問を投げかける。それは合法時代と同じ指輪をしていたことや、メンバーから特別扱いされていることだった。特に遠山は赤軍派幹部・ 高原浩之の夫人であったので、意見しにくいのではないかと見た。後に殺害される山崎順や行方は遠山の味方をしたが、日頃から遠山に使われがちだった植垣は永田に加勢した。この場は森の「今夜のところはこれくらいにしよう」という言葉でおさまった。  
12月5日 実弾訓練の最中、遠山が自分の銃の発射反動で腰を強打してしまい小屋に戻ろうとした。そこに好意を寄せていた行方正時が「大丈夫?送っていってあげますよ」と声をかけた。これを見た永田はひどく激怒したという。 腰を打った遠山は生理がとまらないようになり、元京浜安保の女性に「生理用品持ってないか」と尋ねた。これを永田は「女性兵士になろうという自覚に欠ける」と見た。  
12月6日 永田は「遠山さん問題が決着がつかないうちは、赤軍派との共同作戦なんてとてもできない」と主張し、その日から4日間行なわれた森とのトップ会談で「赤軍派の中の遅れた分子を徹底的にしごきあげよう」と要求した。  
12月7日 共同訓練最終日。両派の代表による射撃競争の後、全員が決意表明。森は生い立ちから第2次ブントの総括までを話すうちに感極まって泣き出す。最後に革命左派が赤軍派に猟銃1丁を渡す。  
12月8日 革左の永田と坂口はとどまり、森・ 山田と指導部会議を行なう。  
12月9日 森の行方・ 遠山・ 進藤に対する批判は続いた。この3人は4日に永田に反論したメンバーである。「雑談はするが討論には加わらない。自主的な判断に欠ける」(行方)、「愛人の女の逃亡問題に組織の責任を云々するが、自身の問題として総括していない。個人主義的な行動が多い」(進藤)といったもので、彼らは水汲み、炊事、洗濯をやらされるようになった。  
12月10日 永田と坂口は新倉ベースから引き上げて行く。  
12月12日 永田、坂口は榛名ベースに戻る。山本順一が入山。  
12月15日 ベースに小屋が完成。簡易的な建物にしてはなかなかのものだった。  
12月16日 森、坂東、山田は一足先に榛名ベースの京浜安保と合流するため、新倉ベースを出発した。森は途中まで送っていった植垣と青砥に「遠山はまだ重信房子と連絡を取っているらしい。いったい何をたくらんでいるのか。厳しく追及して欲しい」と言った。植垣がアジトに戻ると、行方がストーブのそばで座っていた。植垣は「おまえ、幹部がいないと思ってなめるんじゃないよ」と、再び銃を持たせて小屋の外に放り出した。次に遠山にも重信のことや、過去の活動を持ち出して責めたてた。  
12月20日 森と坂東が榛名ベースにやって来る。指導部会議で、森が革命左派メンバー・ 小嶋らを批判。  
12月21日 指導部会議。永田が森の路線に歩み寄った形で新党結成が決まる。逮捕されていた加藤が不起訴となり、ベースに戻る。加藤は取り調べで刑事と雑談していたことについて自己批判を求められる。尾崎も合法部に銃の隠し場所を教えたことを批判される。山本が妻・ 保子と生後18日の長女を連れてやって来る。  
12月22日 森と永田、「これまでの各自の活動を総点検し、根底的な総括をする必要がある」と説く。夕食後の全体会議で、森が加藤に対して逮捕前後の行動を問い詰めて批判。  
12月23日 赤軍派・ 山田孝が榛名ベースに来る。夜、指導部会議。このときから、森、山田、坂東(赤軍派)と永田、坂口、寺岡、吉野(革命左派)の7人体制となる。  
12月24日 指導部会議で永田は「1969年の4・ 28沖縄デー闘争に参加すらできなかった自派は遅れている」と話す。森、革命左派の川島豪と決別。  
12月25日 批判を受けていた加藤能敬と小嶋が作業から排除され話し合う。  
12月26日 指導部会議中、中座した永田に小嶋が「加藤が夜、変なことをする」と話す。永田はこれを聞いて2人に腹を立て、会議で報告。森は「総括要求されている加藤がそれを隠しているのだから、もっと聞き出すために殴ろう」と提案。永田も同調した。山本順一は妻の保子と生後18日の長女を連れて榛名アジトにやって来たが、この異常なリンチを見て驚いた。山本は保子のリュックサックの中に赤ん坊のオシメを入れるのを手伝っているのを永田に見られ、「夫婦気取りで革命ができるかい」と目をつけられる。保子は目の前で夫がリンチを皆からリンチを受けているのを目撃。  
12月27日 未明、加藤の周りを取り囲み、森が「何か隠していることがあるだろう!それを言え!」と殴り、他のメンバーも「総括しろ!」と同調した。永田は坂口と坂東に小嶋を殴るように指示。暴行は朝まで続き、加藤はそのまま縛られた。総括要求のなかで、2人は様々な告白を行う。永田は加藤の2人の弟が手を出していないことに気づき、「兄さんのためにも、自分のためにも殴りな」と語りかけた。上の弟は泣きながら兄を殴った。暴行は明るくなった頃に終わったが、加藤はそのまま縛られることとなった。昼頃、大槻節子ら3人が榛名ベース入り。午後の指導者会議で、森は永田らに「川島との訣別−分派闘争」を再び迫る。永田は分派に同意。その時に手が震えたが、坂口がいつものようにそれを握った。森は新党を宣言。  
12月28日 森、小嶋を縛るように指示。夜の全体会議では、全員が自分の問題点を提起。森の尾崎に「日和見主義は敗北主義・ 投降主義に転ずる」と厳しく批判。  
12月29日 「敗北主義を克服させるため」として、尾崎は警官役の坂口と格闘させられる。尾崎が参加しなかった12・ 18闘争(上赤塚交番襲撃闘争)の再現である。縛られていた加藤、小嶋も「頑張れ!頑張れ!」「警官を殺すのよ!」と声をかけた。1時間の格闘後、尾崎が大槻に「ちり紙とってくれ」と言ったのを、永田は「甘えのあらわれ」とし、逆エビに縛られる。金子はこうした暴力的総括に対して批判的で、これ以後森は金子に批判的となる。指導部会議で、森は尾崎の「ありがとう発言」などを批判。総括要求が終わったと誤解している尾崎をシュラフで休ませず、「立ったまま総括しろ」と命令した。夜になって、尾崎は森に「休ませてください」と懇願したが、森は聞き入れず、吉野を見張りにつけて徹夜での総括を命令した。夜の全体会議で、杉崎ミサ子が「自立した革命戦士になるため」と、寺岡との離婚を表明。金子みちよも吉野との離婚を表明したが、永田はそれを認めなかった。  
12月30日 夜、中村愛子が入山。  
12月31日 東京に資金集めに行っていた山田が迦葉山ベースに到着。森、「すいとん、すいとん」という発言を行なった尾崎の腹部を思いきり殴る。指導部による暴行が続いた。その後、尾崎は縛られた。坂東と山本順一は、赤軍派の遠山、行方、進藤の3人を連れて戻ってきた。この時、加藤は座ったまま、小嶋は寝かされて逆エビ状に、尾崎は立ったまま柱にそれぞれ縛られた。夕方、尾崎が死亡しているのが確認される。ベースでの最初の犠牲者である。森は「尾崎はわれわれが殺したのではない。敗北主義を総括しきれなかったために自ら死を選んだのである」と説明した。さらに永田の「加藤、小嶋の2人を必ず総括させよう」という呼びかけに、メンバー全員が「異議なし!」と答えた。
1月1日 未明、森は新倉ベースから到着したばかりの進藤に対する批判を行なうが、反論したため総括要求。「赤軍派への加入はM作戦の金が目的だった」「逃亡を考えている」と邪推したもの。森の提案で全員が進藤を殴りつける。進藤と一緒にベースに来たばかりの行方と遠山は初めて見る暴行の場面だった。行方は弱々しく殴り、遠山は当初殴ることを拒んだ。進藤はこの時点で肋骨を6本骨折、肝臓破裂という重傷を負っていた。暴行後、進藤を外に縛った。会議中、進藤は「もうダメだ!」と絶叫して死亡。見張っていた石田が目撃した。2人目の犠牲者。森は彼の死を「敗北死」と説明した。続いて降雨のため床下に入れられていた小嶋の容体が急変、森や山田が人工呼吸を行なうが死亡した。3人目の犠牲者。森は「敗北して死んだから醜い顔をしている。死者に対する礼など必要としない」と言い捨てた。  
1月2日 午後、植垣と山崎順が榛名ベースに到着。これで旧赤軍派の全メンバーが揃った。▽旧赤軍派中央委員  森、坂東、山田 / ▽同被指導部  青砥、遠山、行方、植垣、山崎 / ▽旧革命左派中央委員  永田、坂口、寺岡、吉野 / ▽同被指導部  前田広造、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、伊籐和子、寺村雅子、石田源太、加藤能敬、加藤倫教 加藤M、山本順一と保子、中村愛子  
夜の全体会議で、植垣が「大槻を好きになったので結婚したい」と話す。森は大槻の美人であることや頭が良いことからの高いプライドを指摘した。引き続いて、森の遠山批判。「小嶋の死体を埋めさせることで・ ・ ・ 総括させよう」と提言した。遠山が立ち上がると、行方は「俺もやる」と表明した。  
1月3日 行方と遠山は小嶋の死体を所定の場所まで運び、穴を掘って埋めた。この時、寺岡が「こいつが党の発展を妨げてきたんだ」と遺体を殴るように命令。森はその報告を受けて、「敗北死と反革命の死は違う」と寺岡を批判。寺岡は新倉ベースに行った後、東京をまわっていたので、敗北死の規定は聞いていなかったのだが、それは考慮されなかった。戻ってきた遠山に森は再び総括を求める。「今までは殴って総括を援助してきたが、自分で総括すると言うなら自分で自分を殴れ」と命令した。遠山は小屋の中央に立たされ、自分で顔を殴らされた。動きが止まると、まわりのメンバーが罵声を浴びせた。”自分殴り”は30分ほど続き、顔は腫れあがっていた。その後、遠山は縛られる。夜の指導部会議で「C・ C(Central Commitee =中央委員会)」が結成される。序列は森、永田、坂口、寺岡、坂東、山田、吉野の順。会議は翌3時頃まで続き、行方を縛りつけることを決めた。  
1月4日 未明、行方が縛られる。朝、森は加藤に「逃げようとしていたのだろう?」と追及。しばらくして土間に縛られた加藤は死亡した。4人目の犠牲者。永田は加藤の2人の弟たちに「今は泣きたいだけ泣いて良い。兄さんの死を乗り越えて、兄さんの分まで頑張って革命戦士になっていこうよ」と声をかけたが、三男は「こんなことをやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」と泣きながら飛び出していった。二男は永田の肩に顔をうずめて泣いた。中央委員会で、すでに死亡した4人を別の場所に埋め直すこととし、地図で選定した。森は前田、石田、寺村、植垣、青砥を党員候補に考えていると表明した。  
1月5日 山田、寺岡ら6人が死体を遺棄する場所の調査に出発。夜、死体を掘り出す作業。死体を車に積み、山田ら6人が埋め直しに出発。戻ってきたのは朝方。  
1月6日 森、行方を殴るとように指示。中央委員の他、植垣、山崎も殴った。寺岡は薪で殴っている。この間、縛られていた遠山は暴行を見て、「お母さん、美枝子は革命戦士になって頑張るわ」「お母さんを幸せにするから待っててね」と繰り返していた。夕方、男女関係を追及された遠山が「森を好きだった」と漏らし、森が激怒する。全員で遠山を殴打。縛り直しの時、寺岡は「男と寝た時のように股を開け」と遠山に指示。メンバーから笑い声が起こると、永田は「そういうのは矮小よ」と叫んだ。遠山は逆エビに緊縛される。石田、前田、寺村が党員となる。なぜか植垣は外されていた。  
1月7日 夕方、遠山が死亡。この死を受けても、気にせず立ち去る永田に対して坂口は「薄情だ」と言う。坂口は永田に謝罪を求められ、それに従う。  
1月8日 行方の衰弱が激しく、童謡を歌い始める。C・ Cで新ベース設営の候補地について話し合いがされる。  
1月9日 行方の死亡が確認される。山田ら4人が遠山と行方の遺体を埋めに行く。  
1月11日 植垣らが迦葉山にベース調査に向かう。  
1月12日 坂東、寺岡によるベース調査。「結局、日光には候補地はなかった」という結果。なお森は寺岡について「政治的傾向が官僚主義的スターリン主義である」と調査中に総括を指示していた。  
1月13日 森と山田の話し合い。山田は妻と子どもを山に呼ばない森に批判を強めた。  
1月14日 森は電話連絡のため下山。戻った後、車の運転にミスし、連絡に間に合わなくさせたとして山本を非難。山本は激しく反論した。青砥と金子が改造弾造りをしていた際に鼻歌を唄っていると、森は「それが総括を求められている者の態度か」と咎めた。夜は寺岡の問題が議題とされる。森は永田に彼の活動歴を聞き、「分派主義だ!」と断定した。  
1月15日 山田、ベースに戻る。  
1月17日 寺岡と坂東がベースに戻ってくる。森は寺岡が杉崎ミサ子につきまとっていたことや、自分たちをなめたような陰口を叩いていたことを問題にする。CCである寺岡は抗弁しても殺されると考え、「お前等がリーダーなんて、ちゃんちゃらおかしいや!」と叫ぶ。森は「寺岡を死刑にする」と言い、全員が「異議なし!」と答える。坂東が寺岡の左肩をナイフで突き刺す。森も「お前はスターリンと同じだ。死ね」と、アイスピックで寺岡の胸を刺す。続いて肩を支えていた他のメンバーも心臓や首めがけて突き刺すが絶命せず、4人がかりでタオルで首を絞め殺害した。アイスピックを刺したのはすべて赤軍派の人間だった。  
1月18日 森は寺岡処刑の時、山崎順が輪に加わらなかったのを問題とする。名古屋まで小嶋の妹を連れ出しに言った女性メンバーが戻り、永田に恐れをなした岩田平治(当時22歳)が逃亡したことが知らされる。「もはや榛名はやばい」ということになり、迦葉山に新アジトをつけることを決める。  
1月19日 森、山崎に死刑を宣告する。山崎は「死刑にされて当然です」と涙を流しながら言うと、森は様子を見ることにして縛らせた。夜、坂口ら4人が寺岡の遺体を埋めに行く。  
1月20日 森はあらためて「逃げるつもりだった」と言う山崎に死刑を宣告。寺岡殺害の時にアイスピックで刺さなかった坂口を非難し、坂口はアイスピックで山崎の左太ももを刺す。続いて坂東、植垣、青砥が刺した。そして坂東と吉野がロープで首を絞めて殺害した。森、永田は「森に取り入ろうとしている」「主婦のように自分の権威を守る」などという理由で、金子・ 大槻らを批判。吉野も「僕の方から離婚する。もう金子さんに足を引っ張られたりはしない」と発言。夜、山田を奥沢が連れてくる。  
1月22日 9人が釈迦山にベース建設のため出発。出発する吉野の世話を焼く金子を見て、森は「あれは女房の態度」と言う。  
1月23日 夜、坂口は山崎の遺体を埋めに行く。坂口はこの後、ベース建設の応援へ。  
1月25日 夜、森は金子と大槻を追及。大槻へは60年安保闘争に関する「敗北」の文字を好んでいたこと、金子へは安易に離婚を宣言したこと、尾崎の格闘について批判したことを問題とした。金子は反論した。翌未明、2人の緊縛が決定される。  
1月26日 夜、坂口、吉野、坂東が山本を囲んで総括要求。無抵抗の山本に暴行が加えられた。終わると逆エビに縛られた。  
1月27日 森は「金子が子どもを私物化することを許してはならず、子どもを(腹から)取り出すことも考えておかねばならない」と発言。  
1月28日 金子への暴行が始まる。金子は「私は山へ来るべきではなかった」と洩らした。午後7時頃、青砥を残して新ベースに移動。奥沢の落とした運転免許証を地元の漁師が届けに来た。その際、小屋の建設を見られた。この頃、丹沢ベースが発見されたニュースが報じられていたので、危機感が芽生える。  
1月29日 新ベースの小屋はそこそこ完成していたので、テントを引き払い小屋に移る。縛られている山本、金子、大槻は皆で運び、床下の柱につないだ。山本夫人は「総括してよ、総括してよ」と夫の胸に顔を埋めて泣いた。山本、「C・ Cの方が論理矛盾している」と反発し、舌を噛み切って自殺を図り、猿ぐつわをされる。  
1月30日 午前1時ごろ、山本死亡。9人目の死者。森、植垣に「新倉ベースで大槻とキスしただろう」と総括要求。植垣を含む全員で大槻殴打を提起し、床下に行くと大槻はすでに死んでいた。10人目の犠牲者。  
1月31日 東京から山田が戻ってくる。金子の子どもの様子を看護学生だった中村、伊藤、それに医学部の青砥が見る。
2月1日 坂口、坂東らは山本と大槻の遺体を埋めに出かけるが、警官を目撃し、森・ 永田・ 坂口の手配ポスターがあるのを見つけ、延期した。中央委員会で森が山田に総括要求。「一兵士としてマイナスの地平からやり直すべき」と通告した。  
2月2日 山田、雪の上に正座させられる。「C・ Cを辞めたい」という山田に対する追及が前夜から続いていた。森は彼に食事抜きでマキ拾いをするように命令した。  
2月3日 山田、マキ拾いへ。しかし、慣れた植垣と違い手間取り、結局皆に殴打され、逆エビに縛られた。  
2月4日 朝、金子の死亡が確認される。11人目の死者。夜、活動資金と車のカンパ要請のために森と永田が上京。ベースでは坂口が責任者となった。夜、坂東らが金子の遺体を埋めに行く。  
2月5日 榛名ベース解体のため坂口、坂東、吉野、植垣、青砥が出発。赤ん坊を取り上げられ、夫も殺された山本保子が逃亡。これを受けて坂口は中村愛子に「妙義山にアジトを移すから、山本の赤ん坊を連れて、尾道まで連絡に行ってくれ」と命じた。  
2月7日 坂東隊は榛名の小屋を焼き払い、湖畔から伊香保温泉までバスで行き、そこから渋川までバスに乗って下山した。ところがバスで1万円札を出して運転手に怒鳴りつけられ、また身なりや匂いから不審に思われ始めたため、沼田行きのバスを停留所で待とうとした。そしてこの時、前沢が突然駆け出して逃亡した。市街で前沢追えば大事になってしまうので坂東達はただ見送るだけだった。100万円を持たされ榛名ベースに向かわされていた中村愛子、山本の長女を連れてそのまま逃亡。タクシー運転手に自殺志願者に間違われ、いったん警察署に保護された。  
2月8日 榛名ベースが発見される。だが坂東隊はすでに焼き払い、引き揚げていた。  
2月12日 未明、衰弱が激しかった山田が死亡。12人目の死亡者。  
2月13日 永田、「坂口と離婚し、森と結婚する」と言う。  
2月15日 朝刊で「榛名ベース発見」と報道される。榛名ベースから20kmほど離れたところにある迦葉山ベースも発見される。こちらはあわてて逃げたのか解体されていなかった。  
2月16日 榛名ベース発見を受けて、第三のアジトである洞窟を放棄、茨城県袋田の滝方面にレンタカー(セドリックのワゴン車)で移動途中だったメンバーが警察の車とばったり会う。坂口、植垣、青砥の3人は奥沢と杉崎ミサ子に「お前ら、時間を稼いでろ」と言って洞窟に戻り、坂東、吉野らにも緊急を知らせて逃亡した。奥沢と杉崎は車の中に篭城した後逮捕された。坂口らは群馬から長野に向かって脱出行を続けた。夜、森と長田が妙義山に到着。暗闇だったため、雪の中で一夜を過ごした。  
2月17日 妙義湖近くで森と永田が逮捕される。  
2月19日 午前8時頃、小諸に向かっていた植垣、青砥、寺林真喜江、伊藤和子の4人が軽井沢駅で逮捕される。この4人は佐久方面に出て、衣類や食料などを買ったのち再び合流することになっていた。坂口ら他の半分は雪の洞窟で待機していた。坂口、坂東、吉野、加藤兄弟の5人が警察に発見され、「あさま山荘」に逃げ込む。  
3月10〜14日 逃げていた山本保子、中村愛子、岩田、前沢が相次いで自首。
裁判  
1972年10月13日、中村愛子に懲役7年の判決。  
同10月31日、奥沢修一に懲役6年判決。  
同12月6日、前沢虎義に懲役17年判決。  
1973年、東京地裁での統一公判開始。永田、坂口、植垣、吉野、加藤(二男)が初出廷。1年ぶりに顔を合わせた。  
1974年4月3日、寺林真喜江に懲役9年の判決。  
1974年7月、永田は革命左派から離党。塩見孝也が結成した赤軍派(プロレタリア革命派)に植垣や坂東とともに加わった。  
1975年8月4日、日本赤軍がマレーシア・ クアラルンプールのアメリカ大使館を占拠、52人の人質とひきかえに坂東ら7人の釈放を要求(クアラルンプール事件)。日本政府は「超法規的措置」として条件を飲み、坂東らはアラブへと飛び立っていった。坂口は辞退している。坂東はアラブで重信房子と会った時、「自分は同志殺害という誤りを犯した。査問委員会で裁いて欲しい」と申し出たという。坂東の行方は今もわかっていない。彼についての裁判は停止したままである。  
1977年8月9日、他の3人の対立のため吉野と加藤(二男)は統一被告団を離脱、分離裁判を選択。  
同9月28日、日本赤軍がダッカで日航機をハイジャック(ダッカ事件)。人質とひきかえに植垣ら9人の釈放を求めた。しかし、植垣は自分たちの問題を「総括」するため出国を拒否。  
1979年3月29日、東京地裁・ 石丸俊彦裁判長は、吉野に無期懲役、罰金4万円の判決。加藤(二男)は懲役13年が言い渡された。  
1980年7月、永田と植垣は、塩見と訣別。  
1982年6月18日、永田と坂口に死刑、植垣に懲役20年の判決。この死刑判決に関して、殺された12人の遺族は「当然」という心境を語ったが、ただ1人、向山の弟は複雑な胸中をのぞかせている。  
「私は(極刑をのぞんでいる)父とは違い、兄は組織の一員として活動して、ああいう結果になったのだから、被告には死刑でなく、生きて事件をかえりみ、償いをしてほしいと思う」  
1983年2月2日、吉野、二審でも無期判決。3月に千葉刑務所に移った。  
1984年6月11日、永田、控訴審中に気を失って失禁。脳に腫瘍が発見され、7月に手術が行なわれた。  
1986年9月26日、東京高裁、植垣に一審と同じく懲役20年。永田、坂口についても控訴を棄却した。  
1989年5月、坂口の歌が朝日歌壇に初めて掲載される。坂口はそれから精力的に歌作にはげみ、1993年には「坂口弘歌稿」を出版。  
1993年2月19日、最高裁で永田と坂口の死刑が確定。植垣も懲役20年で確定した。ただしこれまで時点で20年間拘置所暮らしだったため、残刑は5年半となる。  
1998年10月、植垣、刑期を終え甲府刑務所を出所。  
2000年6月、坂口、再審請求。  
2001年6月、永田、再審請求。  
2006年11月28日、東京地裁、2人の再審請求を棄却。  
2011年2月5日、永田病死。享年65。
人々が見た連合赤軍事件  
この大事件を、当時の識者達はどう見たのだろうか。「週刊現代増刊 連合赤軍事件 緊急特集号」によると、次のようなものだ。「青年たちをこうしたことに駈りたてた政治が悪い」「いや、煽ったマスコミや、そういった思想を植えつけた教育者が悪い」「極刑も当然」といった意見が挙がっている(肩書は当時)。  
外務大臣・ 福田赳夫  
「『泥棒にも三分の言い分』と言われるが、三分の言い分があると言って泥棒は許されない。この度の連合赤軍には三分の言い分も成り立たない」  
通産大臣・ 田中角栄  
「犯人達に情状酌量の余地はない。法により厳正な処分を受けるべきである。ただ犯人たちと、その家族は別である。家族に対する心無い非難、中傷はするべきではない。家族は加害者ではなく、被害者だからである」  
自民党総務会長・ 中曾根康弘  
「公害だ、交通地獄だ、円切り上げだ、そんななかで若い純情な青年達が感情的になるのは分かる。しかし彼らを迷信的信仰に陥らせ、凶暴な行動に駆り立てた教育に携わる人の責任は大きい。その意味で、一番の犠牲者は、自殺された坂東国男の父親だったと思う」  
参議院議員・ 石原慎太郎  
「戦後日本の教育は歴史や伝統に愛着をもたせることを放棄し悪い面だけを階級的視点でとらえることばかりやってきた。その結果が赤軍派や連合赤軍を生ませることとなったと言っていい」  
日本共産党書記局長・ 不破哲三  
「わが党は国民とともに、各種の暴力集団の策動を根絶するために、引き続き闘っていくものである」  
総評議長・ 市川誠  
「暴力的な行為は断じて認めることはできない。しかし、青年学生をあそこまで追いこんでしまった政治を問題にしなければならない。とくに佐藤内閣の反動政治を強く追及しなければならない」  
作家・ 山口瞳  
「土田夫人殺し、新宿のクリスマスツリー爆弾、それに今回の事件を見ると、彼らが主張している『貧しい人民のために』という言葉と矛盾する行動じゃないかと考える。単純で幼稚な行動では、人民を味方につけることはできませんよ」  
読売巨人軍・ 王貞治  
「赤軍派の連中の無法ぶりは目にあまる。国家も警察も、決断した以上、徹底的にやるべきだと思います」  
作家・ 大藪春彦  
「あれだけ抵抗してみせたのだから、持っていた手製爆弾で自爆するのかと思っていたら、そうでもない。逆に捕まったときは、うずくまってブルブルふるえていたというから、まったく拍子抜けだ。どうにもカッコ悪いというほかない」  
東大教授・ 寺沢一  
「犯人はあれだけ銃撃戦を展開していながら、それでいて最後には逮捕されてしまった。これは我々戦中派には理解できないことです」  
作曲家・ 団伊玖磨  
「僕らは現実主義者だから、”根回し”のないことはしない。理想主義に走るのもいいが、もっと”根回し”のできる考え、行動をしろと言いたい。どうして中国の革命を見習って、気長に勉強することをしないのでしょうね」
爆弾の時代と赤軍派・ 梅内恒夫  
植垣や青砥の欄で名前が出た赤軍派・ 梅内恒夫についてふれたい。  
1971年6月17日夜、明治公園で行われた新左翼各派の沖縄返還協定の調印実力阻止闘争が終わった後、警察部隊に投げられた鉄パイプ爆弾により隊員37人が負傷した。左翼過激派の爆弾により、多数の警官が負傷した初めてのケースであり、これ以後、土田邸爆破、クリスマスツリー爆弾、連続企業爆破などが起こり、新左翼の闘争は火炎瓶にかわって「爆弾の時代」を迎えていくことになる。  
デモで初めて爆弾を使用し、こうした流れを作ったのは梅内であったと言われる。自身で作った爆弾は「梅内爆弾」と呼ばれた。梅内の作る爆弾はすべて手作りだった。塩素酸カリウム、フェロシアン化カリウム、砂糖を調合した爆薬を鉄パイプに詰め、起爆装置として試験管に入れた濃硫酸を入れた。この鉄パイプを投げると、その衝撃で試験管が割れ、化学変化を起こして爆発するというものである。  
梅内は青森県八戸市生まれ。家はもともと薪炭商だったが、父親の代から海産物問屋も始めるようになった。梅内は両親にとって初めての子であり、何不自由なく大切に育てられた。わんぱくな子が多い漁村にしては、おとなしく礼儀正しい子どもだったという。小学校時代、体が弱く体育は苦手だが、それ以外の教科については抜群の成績を修めた。常に学年トップで、学年委員長、児童会長にも選ばれた。中学は市立第2中学校に越境入学。2年の時に美術が4だったほかは、3年間オール5であった。そして名門である県立八戸高校を経て、福島県立医科大学に進んだ。脳外科を専攻したいという希望があったからだった。梅内は弘前大学にも受かっていたのだが、もしこちらに進んでいたなら、過激派のメンバーにはなっていなかった可能性が高い。  
梅内は大学に入ると空手部に入った。この空手部にはKという2年上の男がいた。Kはもともと民青の活動家だったが、途中で社学同―共産同に転身、この大学の学生運動のリーダーであった。そしてKが空手部を辞めて社会思想研究会に入ると、梅内もそのあとを追った。森恒夫が先輩の田宮高麿に強く影響を受けたように、梅内もこの先輩と出会ったことで、学生生活は政治的な色を強めた。梅内は次第に講義に出席しなくなったが、研究会でのマルクス、レーニン読書会にはすべて参加した。  
1968年10月20日、梅内は仲間二十数人と一緒に、角材と赤いヘルメットを身に付け、霞ヶ関の防衛庁へ乱入、一号館の中央基地通信隊事務室をめちゃくちゃに破壊した。逮捕された梅内は翌年1月に保釈され、父とともに大学に呼ばれ、注意を受けたが、全国の医大で改革の火の手が上がり、福島医大にも波及したことなどで、彼の信念は変わることなく、理論ではKの上を行くようになった。梅内はしゃべるうちに興奮してしまうので演説は苦手だったが、高校生や労働者をオルグすることは得意だった。梅内に引き入れられた高校生の何人かは後の大菩薩峠事件で検挙されている。彼らは梅内の作った爆弾を、東京へ、山梨へ運搬する役割を持っていた。  
1969年10月21日、福島医大の封鎖は大学当局の手で解かれたが、バリケード生活のなかで梅内は逮捕されたKに代わって指導者となった。この後、梅内の姿は大学から消えた。彼は赤軍派が結成されると、運動の行き詰まりから赤軍派に参加、「みちのく赤軍」のリーダーにもなった。ただ地方にいたため、赤軍派幹部ではなく、一兵士であったという。  
赤軍派は大阪、東京戦争という名の武器強奪を展開していたが、思うような結果は得られなかった。そこで「殲滅戦が必要」と、より強い武器の入手が当面の目標だった。当時、爆弾づくりにおいては、ろくな教本はなく、梅内は失敗を重ねていた。そこで同じ大学の男に「東京へ行けば、もう少しましな本があるはずだが…」と依頼し、入手した火薬品取り扱いの本を読みながら、大学の産婦人科教室で実験を続けた。そしてついに梅内爆弾は完成した。大学を去った梅内は青森市内で借家で、仲間数人と爆弾を作っていた。この「爆弾学校」では、連合赤軍事件で逮捕された植垣康博、青砥幹夫に爆弾製造の技術を託していた。  
福島医大のバリケードが解かれたのと同じ日、赤軍派は国際反戦デーのために、拠点である東京薬科大学に鉄パイプ爆弾を準備をしたが、大学側がロックアウトしてそれらは押収された。その翌月、赤軍派の主要メンバーが検挙されるという大菩薩峠事件があったが、現場に残された爆弾からも、東薬大の時と同じようにやはり梅内の名が浮上した。これにより梅内は爆発物取締罰則第三条(製造、所持)違反で指名手配された。だが梅内はその直後、地下に潜行した。  
その後に起こったよど号事件のメンバーにも、あさま山荘事件の時も、「メンバーの中に梅内がいる」と噂されたが、いなかった。リンチ事件発覚時も、殺害されたメンバーの中にはいなかった。  
1972年5月10日、梅内は新左翼系映画雑誌「映画批評」に、「共産同赤軍派より、日帝打倒を志すすべての人々」と題する手記を寄稿。山陰地方からの郵送だった。梅内はこの手記のなかで当時「世界革命浪人ゲバリスタ」」を名乗っていた太田竜、竹中労、平岡正明についてラブコールを送っており、太田は「同志として公然と確認しよう」と答えたが、それに対する返答はなかった。そしてこれが梅内の判明している最後の動きとなる。  
1978年1月10日、時効成立。(同じ爆弾魔である草加次郎の事件もこの年に時効を迎えている)それからも梅内は姿を現すことはなかった。死亡説、海外逃亡説があるが、確かな情報はない。
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
■諸話

 

私が60年安保闘争で学んだ事
数ヶ月前(?)、筑紫哲也氏、榊原英資氏を招いて、田原氏は“あの盛り上がりとは何だったのかを、この番組で徹底的に検証したい”と、冒頭発言して放映された番組BS朝日の「田原総一朗の戦後史を巡る旅(なぜあの時、若者たちは安保反対と叫んだのか?)」を見て奇異に感じました。  
1960年の安保闘争のデモには、田原氏も榊原氏も参加したとのこと、(当時)東大の1年で、(当時全学連委員長)西部邁氏(現評論家)が振る旗のもと国会議事堂の南門に突っ込んだ経緯を榊原氏は“社会主義が輝いて見えたし、知識人がこぞってデモをサポートしており、(安保には)反動のイメージがあったので”と語り、また、朝日新聞に入社して2年目で地方支局勤務であった筑紫氏は“国鉄の地方拠点でのデモ隊への取材側であったけれども、東京に居たらデモに参加していたろう”と語っていました。  
そして、テレビ画面に登場した江田五月参議院議員は、“議論もしないんだから民主主義とはいえないと、国会に突っ込んだ”と。又、当時全学連の政治評論家森田実氏は“戦争に大きな責任を持つ岸(当時の首相)さんが登場して,戦前に戻るのではとの、逆コースを恐れた”と語っていました。  
田原氏は、“当時の新聞は全て「安保改訂反対、強行採決反対」(読売新聞だけが安保改訂賛成、強行採決反対)一色であった”と語りました。  
ですから、世の中の大多数の方々共々、テレビ出演者達も日米安保条約を直接読むことなく、またその条約の本質を知ることなく「安保反対!」を叫んでいたのです。そして、当時その反対デモに参加人達からは、自らの行動に対する反省の声は聞かれず、専ら「昔、共々戦った思い出に耽り、武勇伝を語り合う」と言った感じでした。そして、A級戦犯の岸氏が手がけることだから悪いに違いないとの思い込みを正当化していました。  
一方、岸首相の当時の秘書官であった中村長芳さんは、“50年経ったら評価される(星霜50年を待つ)”との岸首相の当時の心境を話しておられました。  
勿論、私とて、大学の仲間と一緒にデモに参加していました。いつも、遊ぶことにしか興味を示さない私が家に帰ってテレビを見ていた両親に“これからデモに出かける”と言ったらとても喜んで送り出してくれたのです。私の身近な大学仲間でデモに反対したのはたった一人でした。彼の言い分は、“せっかく結構な学校に入ったのだからこのまま穏便に卒業して、大企業に就職した方が、ずっと利口だよ”でした。 (彼のその後の消息はわかりませんが)  
しかし、この私の安保反対デモへの参加は、テレビ出演者達のように思い出話としては語れない体験でした。その体験は心に深い傷跡を残しました。そして、貴重な教訓を残してくれました。何しろ、当時の私は「安保の“あ”の字」も知らずに「悪人岸を倒せ!」の勢いで、国会デモに参加したのですから。ですから当時を振り返るたびに、自分が如何に付和雷同し易い人間かと言うことを思い起こさせてくれるのです。そして、世の中の人達も。この体験を思い出すと、挙国一致して勝つことを信じてアメリカと戦った戦前の日本人を「愚か!」とは決して言えなくなりました。  
ですから、ヒステリックに独裁者金正日を称える北朝鮮のアナウンサーを安易に非難は出来ませんし、そしてまた、その国の方々をも安易に非難は出来ません。  
そして、ネオコン達がマスコミを操り仕掛けたイラクに侵略戦争に賛成するアメリカ国民を「愚かな国民」とも安易に言えなくなりました。  
司会の田原氏は、石原氏を招いての別番組「なぜ日本は負ける戦争をしたのか」で、メディアの責任の大きさを次のように語っていました。“日露戦争から調べたのだが、大体メディアは最初反戦だけど、反戦では売れないので、途中から参戦にまわる、太平洋もメディアは開戦を盛んに煽った。実際、東條さんの娘さんから、当時首相に就任しても直ぐに開戦に踏み切らない東條首相へ日本国民から「腰抜け死ね!」「やれ!早く!」と言った類の3千通程(行李一杯)の手紙を見せられた”と。  
なのに、田原氏は、安保闘争に対するマスコミの存在を無視していました。マスコミ報道がなかったら、私がデモに参加するなどとても考えられないことでした。安保闘争の際には「岸よ死ね!」と多くの国民は叫びました。太平洋戦争前に「東條よ死ね!」との声を上げた国民と何ら差はないのではありませんか?そして、ネオコンによる偏向報道に操られて、イラクへの侵攻に熱狂するアメリカ国民と同じではありませんか?勿論、ヒットラーに操られたドイツ国民も我々日本人と同じなのです。  
私達、人間は、人種の違いを超え、全て簡単に扇動され易いのだと言うことです。ですから、尚のこと、マスコミはこの事実をしっかり認識して、その真の責任を果たすように努力すべきと存じます。 
 
脱原発の風潮は60年安保闘争に似ている 2011/8/10

 

日本を危険な状態に陥れるものという意味で、最近「TKK」という略語が使われる。Tは東京電力、KKは経済産業省と日本経団連のことだ。つまり、政官財癒着の構造について言っているのであり、そのTKKによってつくり上げられたのが原発だということになる。
核兵器と原発を一緒に論じ「核との決別」を論じる新聞  
脱原発を主張するのは朝日新聞と毎日新聞である。8月6日付の朝日新聞は社説で「核との共存から決別へ」と題して次のように書いた。  
「世界各国に広がった原発も、同じ燃料と技術を使い、危険を内包する。(略)核被害の歴史と現在に向き合う日本が、核兵器廃絶を訴えるだけではなく、原発の安全性を徹底検証し、将来的にゼロにしていく道を模索する。それは(略)次の世代に対する私たちの責任である」  
朝日新聞が書いているのは、原発が核の平和利用であるというのは間違いであり、核兵器と同様に非常に危険なものだ、ということである。人類を危険の淵に陥れるものであるから、核兵器とも原発とも決別しよう、という内容である。  
一方の毎日新聞は8日付朝刊のコラムでこう書いた。「それにしても日立製作所会長の次の発言には恐れ入った。『首相が何を言おうと原子力の海外展開を進めたい』(日経新聞7月23日朝刊)」。7月に軽井沢で開かれた日本経団連の夏期フォーラムでの日立製作所会長の発言を日本経済新聞から引き、TKKの2番目のKについて批判したのである。
科学技術に伴う危険を乗り越えてきた歴史  
毎日新聞のコラムはさらに続けて、次のように書いている。  
「毎日新聞7月31日朝刊にモンゴル核処理場計画の続報が出ていた。日米主導でゴビ砂漠に国際共同処分場をつくる。計画を本紙がすっぱ抜き(5月9日朝刊)、地元メディアの批判も高じて立ち消えになったかと思ったら、生きていた」  
毎日新聞は、使用済み核燃料という危険なものを自国で処理せず、モンゴルに押し付けるのはとんでもない話だ、と言っているのである。  
このように朝日、毎日、さらには東京新聞も原発に「ノー」を突き付けている。そして、世論もおよそ7割が脱原発に賛成だ。今、脱原発は時代の潮流になっているのである。  
だが、私はこの潮流にいささか抵抗感を覚える。  
確かに原発は危険なものだと思う。しかしながら、科学技術というものは常に危険を伴うものであり、いかにそのリスクを抑えて使いこなすかが文明というものだ。  
福島第一原子力発電所で起きた原発事故は、大きな失敗である。車の衝突事故や中国で起きた高速鉄道の追突・脱線事故も同様に失敗だ。なぜ事故が起きたのか、どこに問題があったのかを究明し、そのうえで事故の再発を防ぐにはどうすればよいかを考える。これが私たちの歩んできた文明の歴史ではないか。
原発の科学的・技術的な議論を重ねよ  
ところが、ただちに「原発は危険だからやめよう」ではその歴史に反する。私たちは原発について十分に議論を重ねてきたのだろうか。  
今回の福島第一原発事故の原因は何であったか。原発は地震が発生すると運転を自動停止し、緊急冷却装置が作動して炉心の核燃料を冷やす仕組みになっている。ところが、非常用発電装置やポンプなどが津波の被害にあい、冷却機能が失われて事故につながった。  
つまり、原発そのものの事故というよりも、「管理不行き届き」による事故だったと言えないか。であれば、「管理不行き届き」による事故をなくすにはどうすればよいか、あるいは事故が起きたのはどこに問題があったのかについて、科学的・技術的な議論を十分に重ねるべきである。  
そのうえで、やはり原発は人間にはコントロールできないものだとわかり、「原発をやめよう」となるならよい。私は原発推進派ではない。かねてから原発の危険性を指摘した本を何冊も書いている。そんな私から見ても、科学的・技術的な議論が行われないままに、まるでファッションのように脱原発の潮流に乗るのはどうかと思う。
条文を読まずに「安保反対!」と叫んでいた  
何の検証も議論も行われずに脱原発に突き進むのは、ある意味では恐い。私には、それは60年安保闘争と似ているように思える。  
60年安保闘争は、岸信介内閣が日米安全保障条約の改定に取り組んだときに始まった。私は当時、毎日デモに参加し、「安保反対! 岸首相は退陣せよ」と叫んでいた。  
安全保障条約は、吉田茂内閣が取り決め、岸内閣がその条約を改正し、その内容は日本にとって改善されていた。だが、私は吉田安保も改定された岸安保も条文を読んだことがなく、ただ当時のファッションで安保反対を唱えていただけだった。「岸信介はA級戦犯容疑者であるから、きっと日本をまた戦争に巻き込むための安保改定に違いない」と思っていたのである。  
当時、東大の安保闘争のリーダーは西部邁氏であった。私は西部さんに「吉田安保と岸安保はどこが違うのか。それぞれを読んだか」と聞いてみた。西部さんは「読むわけないだろう。岸がやることはろくなものではない。日本を戦争に導くだけだ」と言っていた。  
60年安保闘争に参加していた者はほとんど安保条約の中身など読んだこともなく、ただ反対していただけなのである。科学的・技術的な議論が行われない脱原発の動きは、この安保闘争とよく似ていると感じる。
一面的に断じてしまう風潮は危険  
原発は国際的な問題でもある。アメリカやフランス、ロシアや中国、それに日本政府が主導して原発を輸出しようとしているベトナムやトルコなどの各国が原発政策を推進しているのをどうとらえるのか。日本はもっと考えるべきである。日本だけが「はい、原発やめます」で済むのか。脱原発の動きにはそのような国際的な視点がないように思える。  
また、経済産業省事務次官の松永和夫氏、原子力安全・保安院長の寺坂信昭氏、資源エネルギー庁長官の細野哲弘氏の更迭人事。九州電力や中部電力、四国電力などが行った説明会やシンポジウムで「やらせ」を要請したというのが理由である。  
しかし、経済産業省の官僚を更迭するなら、常識で言っても、その人事権者で責任のある海江田万里経産相も辞任すべきではないか。新聞各紙は、大臣は辞めず3人の官僚が更迭されたのを当然のように報道した。さらに言えば、菅直人首相にも責任がある。菅さんも海江田さんも辞任しないのを、新聞とテレビは批判しない。  
これは、「日本を悪くしているのはTKKである。TKKの言うことはすべて信用できない」と一面的に断じてしまう風潮と同じだ。経産省3首脳更迭人事を見聞きしていても、「とても危ない」と私は感じるのである。
原発の情報はオープンにすべき  
先日、経産省幹部に会い、また細野豪志原発事故担当相とも話をした。「なぜ、世論調査で7割もが反原発となるのか。原発は必要であるという視点も含め、科学的・技術的な議論をなぜ行わないのか」と彼らに問うと、「いや、今はそういったことを打ち出せる状況ではありません。(もしそうしたら)身の危険を感じます」と言う。これを聞いて、さらに危ないと感じた。  
私はこう加えて言った。「原発がもし危険だと思うなら、情報を隠さないことだ。隠せば悪いことをしているのだろうと世論もマスメディアも判断する。だから、すべての情報を公開すべきだ」  
日本では企業でも役所でも、組織を守ることは情報を隠すことだという体質がある。しかし、今問題になっている原発については、素っ裸になるように広く情報を公開すればよいのである。  
菅首相「退陣3条件」の一つに再生エネルギー特別措置法案がある。企業や家庭で発電された電力をすべて電力会社が買い上げるというものだが、実はこの法案がつくられたのは去年のことである。そして皮肉なことに、震災発生の3月11日に閣議決定された。  
いかにも菅さんが経産省や東電の反対を押し切って実現させようと振る舞っているが、元を正せば、経産省が中心となり東電も協力して同法案をまとめたのである。  
今、TKKは全部悪者だという言われ方をするが、それは誤解ではないか。その誤解を解くためにも、今こそ東電も経産省も原子力関連企業も原発に関する情報はすべてオープンにすべきだと思う。
六ケ所村にある使用済み核燃料はどうなるのか  
もう一つ懸念していることがある。菅首相は8日の衆院予算委員会で、高速増殖炉「もんじゅ」について廃炉を含めて検討し、核燃料サイクル政策についても抜本的に見直すと言及したことである。  
日本各地にある原発には使用済み核燃料がたくさんあり、それらを青森県六ケ所村で再処理しようとしている。使用済み核燃料からウランとプルトニウムを取り出し、残った高レベル放射性廃棄物をガラス固化体にして数十年かけて冷却した後、地中深くに埋める(その処分場所はまだ決まっていない)。  
核燃料サイクルをやめたら六ケ所村にある使用済み核燃料はどうなるのか。担当者に聞いたところ、「それは電力会社が持ち帰るんです」と言う。菅さんは何も知らないので「それはいい」と乗り気らしい。冗談とも思えるような話だ。  
だが、こういうバカバカしいことが、うっかりしていると決まってしまうのである。誰も何も考えていない。他人事。だが、知らぬうちに流れに乗って思わぬ方向へいってしまう。そうした過ちを犯さないようにしなければならない。 
 
革共同

 

革命的共産主義者同盟(革共同)とは  
革共同は、今から半世紀前の1957年に結成され、60年安保闘争、70年安保・沖縄闘争などの幾多の闘いの中で自らを組織的に強化、純化して、今日までマルクス主義の労働者階級自己解放の思想に立脚し、「反帝国主義・反スターリン主義プロレタリア世界革命」の勝利に向かって闘ってきた組織です。革共同は、2009年秋の第25回全国委員総会において、21世紀革命の実現に向けた党の綱領草案を発表し、新たな歩みを開始しています。
綱領草案 革命的共産主義者同盟全国委員会  
わが党の目的  
(一)  
労働者階級(プロレタリアート)の解放は、労働者自身の事業である。この解放は、資本主義社会の全面的な転覆によって達成される。そして労働者階級の階級的解放は同時に、階級社会のもとでのあらゆる抑圧・差別からの人間の解放、すなわち普遍的な人間解放である。  
労働者階級は、生産の担い手であり、社会の真の主人公でありながら、資本主義のもとでは一切の生産手段・生活手段を奪われて資本の賃金奴隷となる以外に生きることができない。そこでは、人間の根源的な活動である労働は資本の自己増殖の手段となり、労働者は人間ではなく労働力商品として扱われている。プロレタリア革命とは、労働者階級が資本家階級(ブルジョアジー)の支配を打ち倒し、ブルジョア国家権力を粉砕してプロレタリア独裁を樹立し、資本家階級の私有財産としてある社会的生産手段のすべてを団結した労働者のもとに奪い返して、自らの手で全社会を再組織することにほかならない。それは賃労働と資本の関係を廃止すると同時に、一階級による他階級への抑圧と搾取そのものを終わらせ、社会の諸階級への分裂をなくし、本来の共同性を人間の手に奪い返すものとなる。  
われわれ革命的共産主義者同盟の目的はただひとつ、この労働者階級自己解放の闘いの全面的な貫徹とその完全な勝利にある。すなわち、資本主義・帝国主義の完全打倒=プロレタリア世界革命の完遂と階級社会の廃止、真の人間的な共同社会=共産主義社会の建設である。  
(二)  
この革命は、現代においては反帝国主義・反スターリン主義プロレタリア世界革命としてのみかちとられる。  
レーニンが規定したように、帝国主義は資本主義の最高の発展段階であるが、そのもとでは資本主義の矛盾は著しく激化し、帝国主義戦争と大恐慌の爆発はともに不可避である。帝国主義の時代はプロレタリア社会主義革命の時代そのものである。  
1917年のロシア革命は帝国主義打倒のプロレタリア世界革命の突破口を切り開き、現代世界は資本主義から社会主義への世界史的過渡期に突入した。だが一国社会主義論をもってマルクス主義・レーニン主義を破壊し、ロシア革命を変質させたスターリン主義は、国際労働者階級の世界革命完遂への闘いを裏切り、圧殺して、逆に帝国主義の世界支配の補完物となり、帝国主義の延命を支える巨大な反革命へと転落した。このスターリン主義は、旧ソ連・東欧の崩壊をもってすでに歴史的に破産したが、完全に打倒されたわけではない。中国は今日、アクロバット的な資本主義化政策によって経済大国化しているが、その本質は反プロレタリア的な残存スターリン主義そのものである。さらに、スターリン主義による社会主義・共産主義の歪曲、とりわけマルクス主義の核心である労働者自己解放の思想の否定と解体は、今日なお世界の階級闘争に害毒を流し続けている。プロレタリア革命を完遂するためには、帝国主義の打倒とともに、スターリン主義を完全打倒する第二の革命をやりぬいて、真のマルクス主義を労働者階級の手に全面的に奪い返して闘うことが不可欠である。  
(三)  
この目的を実現するために、プロレタリアートは、自らを独自の政党(革命的労働者党)に組織して闘うことを必要とする。プロレタリア革命は、階級対立の中から自然に成長して実現されるものではなく、自らの歴史的使命を自覚したプロレタリアートによるブルジョアジーの打倒・労働者階級の政治権力樹立という、目的意識的な闘いをとおして初めて達成される。  
われわれはさらに、資本の支配を全世界的に覆すための労働者階級の国際的な軍勢の一員となって闘う。そして帝国主義各国および全世界の闘う労働者との階級的連帯と団結のもとで、まずは自国のブルジョアジーを打倒するために全力を挙げて闘う。  
革命情勢の成熟  
(四)  
プロレタリア世界革命を実現する歴史的条件はすでに圧倒的に成熟している。今日の世界大恐慌の爆発は、労働者階級が総蜂起して、最末期の危機にのたうつ資本主義・帝国主義を最終的に打ち倒す時が完全に来ていることを示している。  
ロシア革命後、1929年大恐慌から第2次大戦を経て21世紀の今日に至る歴史は、危機を深める帝国主義が、スターリン主義の裏切りに助けられることで労働者階級の相次ぐ革命的決起を圧殺し、延命に延命を重ねてきた歴史である。だがそれは、資本主義・帝国主義の危機と腐敗をさらに極限まで推し進めるものであった。とりわけ労働者階級の怒りを体制の内側に改良主義的に吸収することによって資本の支配を維持しようとしてきた戦後の国家独占資本主義政策は、その矛盾と破綻を1974〜75年恐慌として爆発させた。1980年代に本格化する新自由主義政策は、この帝国主義が行き着いた最後のあがきであった。それは資本のむきだしの弱肉強食の論理で全社会を覆いつくし、労働者階級への無制限の搾取の上に経済のバブル化・投機化を大々的に推進し、民営化による公教育や医療などの解体によって社会全体を荒廃と崩壊のふちに叩き込んだ。そして、一握りの帝国主義ブルジョアジーが他の一切の人民を犠牲にして莫大な富を手中にする状態をつくりだしてきた。  
今日の世界大恐慌は、その新自由主義の全面破産の結果であり、過去1世紀にわたって積み重ねられた全矛盾の爆発である。新たな延命の道などもはやない。今や大恐慌をプロレタリア革命に転化することだけが、大失業と戦争(核戦争を含む)の破局を阻み、労働者階級はもとより全人類を破滅への行進から救い出す唯一の道である。全世界に巻き起こる労働者や農民の「生きさせろ!」の叫びを、今こそ現実の革命に転化する時だ。  
(五)  
一切のかぎは、資本の支配のもとで徹底した分断と競争にさらされている労働者が、この分断を打ち破って階級としてひとつに団結して立ち上がることにある。この団結の発展の中に、奪われてきた人間本来の共同性が生き生きとよみがえってくる。これこそが労働者階級のもつ本当の力である。社会を変革する真の力はここにある。  
今日の資本主義・帝国主義は、資本のはてしない増殖運動の結果として、巨大な生産力とともに、資本主義の墓掘り人であるプロレタリアートを全世界に膨大に生み出している。万国の労働者が団結して決起するなら、資本主義社会を転覆して共産主義社会の建設に直ちに着手する諸条件はすでに完全に成熟しているのだ。  
革命の核心問題  
(六)  
プロレタリア革命をやりぬくためには、労働者階級はまず、ブルジョアジーの手から政治権力を奪取して、自らを支配階級に高める必要がある。プロレタリア革命は本質的に暴力革命である。ブルジョア独裁の国家権力を打倒して労働者階級が打ち立てる新しい国家は、プロレタリアートの独裁である。  
プロレタリア独裁の樹立は、ブルジョアジーの抵抗を完全に打ち破るために必要であるだけではない。労働者階級がこの革命をとおして旧社会の汚物を一掃し、階級社会を廃止し、共産主義社会を建設する能力を実際に獲得していくためにこそ必要である。  
したがってそれは、ブルジョア国家の特徴である巨大な軍事的・官僚的国家機構を暴力的に破壊・解体し、それを全人民の武装を始めとした全く別のもの(コミューン型国家、自らの死滅を準備する国家)に置き換えていくところから出発する。労働者階級はそのもとで、自分たち自身を一人残らずプロレタリア独裁権力の直接の担い手へと高め、生産を再組織し、社会の全問題を団結して解決していく力を身につけていく。さらに農民を始めすべての勤労人民をも労働者国家の共同の担い手として獲得し、組織して、諸民族の対立をなくし、都市と農村の対立をも究極的に止揚し、差別も抑圧もない社会を現実につくりだすために闘うのだ。  
これこそ、労働者階級が、1871年のパリ・コミューンの経験、1905年や1917年のロシア革命におけるソビエト(労働者・農民・兵士代表評議会)樹立の経験をとおして、歴史的につかみとってきた共産主義社会実現への道である。  
(七)  
革命の勝利にとって決定的なのは、労働者階級の党の建設である。マルクス主義を歪曲したスターリン主義は、党を、現実の労働者階級の外部に、階級の上に立つ特別の集団として位置づけてきた。だが『共産党宣言』も言うように、プロレタリアートの党は、労働者階級全体の利益から切り離された利益をもたない。また特別の原則を立てて、その型に労働者階級の現実の運動をはめ込もうとするものではない。労働者階級はその闘いをとおして、自らの力で党をつくりだす。党とは、労働者階級の権力樹立とそれをとおした共産主義の実現を直接に目指す共産主義者の政治的結集体である。したがって党は、労働者階級の一部であり、その階級意識を最も鋭く体現する最高の団結形態であり、最も鍛え抜かれた階級の前衛である。  
この党建設は、資本との絶対非和解を貫く労働者階級の階級的団結の形成を一切の軸にすえて闘う中でこそかちとられる。現代においては、何よりも、闘う労働組合をよみがえらせることと一体で形成・確立されるものである。  
労働者階級は党をつくりだすことで、自らを一個の政治勢力として登場させる。党は階級闘争の先頭に立ち、その中でつねに労働者階級の部分ではなく全体の利害を代表し、運動の現在だけでなく未来を体現し、社会革命の諸条件とプロレタリアートの歴史的使命を全階級の前に正面から提起して闘う。労働者階級はこの党を中心にすえて、資本家階級とその国家権力によって加えられるあらゆる圧殺攻撃を打ち破り、労働組合を基礎とした階級全体の団結を強化し発展させ、権力奪取のための一斉武装蜂起に向かって、その勝利に必要な一切を意識的・計画的に準備していくのである。この党はしたがって、本質的に非合法・非公然の党として、同時にマルクス主義の党、世界単一の労働者階級の党として建設される。  
(八)  
こうした党を建設し、労働者階級の革命的な階級形成をかちとっていく上で最も重要なことは、労働組合の存在と役割である。労働組合の革命的役割を復権することこそ、マルクス主義をよみがえらせる闘いの核心である。  
労働組合は、労働者が団結して資本と闘う武器であり、労働者階級の最も基礎的な団結形態である。第1インターナショナルの決議「労働組合、その過去・現在・未来」は、「労働組合は、資本と労働のあいだのゲリラ戦のために必要なのであるが、賃労働制度そのものと資本の支配を廃止するための組織された力としてより一層重要である」と提起した。すなわち、労働組合は、党の闘いを媒介として、職場生産点における資本との日常的な闘いをとおして個々の労働者を階級として団結させ、革命の主体として打ち鍛える「社会主義の学校」(マルクス)である。そしてその団結の力をもって、職場の支配権を資本家階級の手から実力で奪い取り、社会的生産を支配していく力を獲得する。この労働者階級による職場生産点の支配とその全社会的な拡大こそ、ブルジョア国家権力の打倒=プロレタリア革命の勝利を保障する決定的条件である。  
さらに労働組合は、プロレタリア独裁を支える〈党・労働組合・ソビエト>という三つの柱の戦略的一環を形成し、全労働者にとっての「共産主義の学校」(レーニン)となり、階級対立の廃止と共産主義社会建設への前進を切り開いていく土台となる。  
帝国主義とスターリン主義のもとではしかし、資本に飼いならされた労働貴族や体制内改良主義の支配のもとで、労働組合の革命的役割は否定され、組合は逆に資本の労働者支配を支える一手段に変質させられてきた。この現実を現場労働者の決起をもって打ち破り、その本来の姿を圧倒的によみがえらせることが今こそ求められている。  
21世紀革命の課題  
(九)  
今日、全世界の労働者に求められているのは、大恐慌と戦争への対決である。その最大の焦点は、労働組合と労働運動をめぐる革命と反革命との激突にある。  
大恐慌の爆発は、帝国主義戦争を不可避とする。この戦争は、労働者の階級的団結が徹底的に破壊され、労働組合が資本家階級の行う戦争に率先協力する機関に変質させられることによって可能になる。これが第1次大戦と第2次大戦の歴史的教訓である。今まさに全世界で、帝国主義の戦争と民営化・労組破壊攻撃に対して絶対非和解で闘うのか、これに屈服するのかという形で、労働組合と労働運動の進むべき道をめぐる一大分岐と激突が始まっている。それは同時に、プロレタリア革命に恐怖して登場してくるあらゆる反革命勢力、ファシスト勢力との激突である。ここで労働者階級が屈服せずに断固として闘いぬくならば、闘う労働組合と階級的労働運動を全世界的規模でよみがえらせ、労働者階級による権力奪取への道を直接にこじ開けるものとなる。  
(一〇)  
この闘いは同時に、帝国主義とスターリン主義のもとで抑圧民族と被抑圧民族に分断されてきた労働者階級が、プロレタリアートとしての国際的=階級的団結を回復していく闘いである。民族・国籍・国境を越えたプロレタリアートの階級的団結こそ、帝国主義による侵略戦争・世界戦争を実力で阻止し、プロレタリア世界革命を現実にたぐり寄せるものである。  
(一一)  
資本主義・帝国主義の打倒は今や、農民を始めとした勤労諸階級・諸階層の人民にとって、生き続けるためのきわめて切実な要求となっている。農業・農民問題の真の解決はプロレタリア革命に課せられた大きな課題であり、農民の革命的決起は、プロレタリアートの勝利を決するうえで決定的な位置をもっている。プロレタリア革命における労農同盟の巨大な意義を明確にして闘う。  
(一二)  
国際帝国主義の最弱の環は日本帝国主義である。  
経済大国日帝の実体は米帝の世界支配によりかかった脆弱なものでしかない。日本の帝国主義としての最大の破綻点は、戦後憲法体制下の労働者支配の危機性と、安保・沖縄問題、すなわち日米安保同盟関係の矛盾と危機にある。世界大恐慌下でその矛盾と危機はいよいよ爆発点に達していく。これが生み出す巨大な情勢を日本革命の勝利に転化することは急務である。  
今日すでに日本帝国主義は体制的危機に陥っている。そのため日帝は、帝国主義侵略戦争への体制を強化し、安保・沖縄攻撃、改憲攻撃、民営化と道州制、労組破壊の攻撃を強めてきている。しかし、日帝は今や財政破綻国家であり、その政治支配体制は崩壊的危機にひんしている。戦後革命期以来、最大の革命的情勢が到来したのである。今や一切は、帝国主義のもとで戦争・失業・搾取・収奪・病苦・虐殺の地獄の苦しみに突き落とされるのか、それともプロレタリア革命によって日本帝国主義打倒、日帝国家権力打倒を闘いとり、社会主義への道を切り開くのか――ここにかかっている。この戦争か革命かの帰趨は、すぐれて労働組合・労働運動をめぐる攻防での労働者階級の勝利にかかっている。  
資本家的政治支配、階級支配が解体的動揺に陥る中で、天皇制は帝国主義ブルジョアジーの反革命的結集のシンボルとなる。労働者階級はプロレタリア革命の一環として、天皇制の一切の形態を粉砕し、根こそぎに一掃する。  
(一三)  
日本革命の勝利は、朝鮮半島の南北分断打破・革命的統一をめざす朝鮮プロレタリアートの闘いと連帯し、また中国スターリン主義打倒をめざす中国プロレタリアートの闘いと連帯してかちとられる。そしてこの勝利は、帝国主義の総本山であるアメリカ帝国主義の打倒へ向けたアメリカ労働者階級の歴史的決起と結合して、今日の大恐慌をプロレタリア世界革命の勝利に転化する突破口となる。  
(一四)  
われわれの基本精神は、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』の末尾に記した次の言葉にある。  
「共産主義者は、自分たちの見解と意図を隠すことを軽蔑する。共産主義者は、自分たちの目的が、これまでの一切の社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命のまえに震えあがるがよい! プロレタリアは、この革命において鉄鎖以外に失うものは何もない。プロレタリアが獲得すべきは全世界である。万国のプロレタリア、団結せよ!」  2009年 秋
革共運動の50年 新たな飛躍 / 綱領草案は現代の「共産党宣言」だ  
反帝・反スターリン主義の旗のもと大恐慌をプロレタリア世界革命へ  
1959年11月27日、60年安保改定阻止闘争の突破口を開いた国会デモ。全学連と労働者2万人が国会に突入し構内を埋めた 1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止闘争。滑走路目前の羽田弁天橋上で装甲車を奪い革共同旗が翻った  
1969年1月、東大安田砦死守戦の先頭に立った中核派。安田講堂のバルコニーから機動隊の攻撃を迎え撃った 1981年3月、動労千葉は成田空港へのジェット燃料貨車輸送の期限延長に抗議、三里塚反対同盟と連帯して5日間のスト  
1959年9月、本紙『前進』創刊号の巻頭論文で、革共同の創立者であった本多延嘉同志は、「反帝国主義・反スターリン主義の旗のもと、革共同全国委員会に結集せよ」という熱烈な呼びかけを発した。それから50周年を迎えたこの秋、革共同は、第25回拡大全国委員会総会を開催して綱領草案を採択し、革命的共産主義運動の新段階突入を宣言した。この綱領草案を高く掲げ、プロレタリア世界革命へ進撃しよう。  
労働者自己解放の思想  
革共同が25全総で採択した綱領草案は、階級的労働運動をよみがえらせるための全党の同志の白熱的実践がついに闘いとった地平である。それは、革共同の半世紀にわたる苦闘の結晶である。と同時に、何よりも06年の党の革命以来の労働者同志を先頭とした革命的労働者党建設の闘いの決定的前進こそが、綱領草案を生み出すことを可能にした。  
まさに全党の同志が、自らの階級的実践と熱烈な討議をとおして、ここに21世紀のプロレタリア世界革命を闘いとる綱領を共同して創り上げたのだ。  
わが革共同は、この綱領草案を、全世界のプロレタリアートの前に現代の『共産党宣言』として提出する。そして、資本主義社会の全面的な転覆と真の人間的な共同社会=共産主義社会の建設に向かって、世界の労働者階級が団結して総決起する時が来たことを公然と呼びかける。この綱領草案のもとに、革命的共産主義者としての生死をかけた団結を闘いとること、世界単一の革命党の建設を真っ向から提起し、その最先頭で闘うことを宣言する。  
綱領草案は四つの章と14の項目で構成される。その一つひとつが、プロレタリア革命とは何か、労働者階級の根底的解放はどのようにして達成されるか、そのためには何が必要かを、原理的に、かつきわめてシンプルに提起している。  
これらはすべて、マルクス主義の核心問題である。だが19世紀の思想の単なる焼き直しではない。労働者階級の党である革共同が、今日の資本主義・帝国主義に対する動労千葉労働運動を先頭とした必死の闘いをともに担いぬくことをとおしてつかみ直し、発展させてきた到達点である。文字どおり自らの血と汗で闘いとった、「生きたマルクス主義」がここにある。  
綱領草案の意義と内容については、『共産主義者』162号に収録された25全総の第2報告をぜひ参照していただきたい。最大のポイントは、以下の四つの点に集約される。  
第一に、マルクス主義の核心中の核心である労働者階級自己解放の思想を全面的によみがえらせたことである。  
綱領草案は、「労働者階級(プロレタリアート)の解放は、労働者自身の事業である」という言葉で始まっている。資本主義社会を転覆する力は労働者階級自身の中にある。資本の支配のもとで一人ひとりバラバラにされ、互いに分断・対立・競争させられてきた労働者が、階級としてひとつに団結する中に、賃金奴隷の鉄鎖を根底から断ち切る力が生まれてくる。そして労働者階級の解放は同時に、階級社会を最終的に廃止して、あらゆる搾取と差別・抑圧からの全人間の解放を実現する道を開くのだ。ここにプロレタリア革命の本質がある。  
この労働者階級自己解放の思想はしかし、ロシア革命を変質させたスターリン主義のもとで長い間、否定され解体されてきた。逆に、現実の労働者には社会を変える力などないという、労働者階級への蔑視と不信がまかりとおってきた。これを真っ向から打ち破って、労働者階級こそ唯一の革命的階級であることを宣言し、その歴史的使命を明らかにしたのが綱領草案である。  
第二に、「反帝国主義・反スターリン主義プロレタリア世界革命」を、現代革命の唯一の綱領として全世界の前に再提起したことである。  
革共同はすでに50年前、世界革命の放棄とマルクス主義の歪曲によって帝国主義の延命に手を貸してきたスターリン主義の反革命的本質を見抜き、帝国主義打倒とともにスターリン主義打倒を公然と掲げて出発した。プロレタリア革命は世界革命であることを明確にすると同時に、「労働者国家無条件擁護」を掲げるトロツキー教条主義と闘って、スターリン主義体制打倒の第2革命の必要性をはっきりさせ、反帝・反スタの綱領的立場を確立した。  
今日、旧ソ連・東欧の崩壊に続く、残存スターリン主義・中国や北朝鮮の危機のはてしない深まりは、スターリン主義の歴史的破産を完全に示している。だがそのスターリン主義はまだ完全には打倒されてはいない。むしろ今日の大恐慌下、労働者階級の革命的決起に恐怖し、帝国主義者と一体となってその圧殺に真っ先に動き出しているのが日本共産党などのスターリン主義だ。今こそ反帝国主義・反スターリン主義を徹底的に貫いて、プロレタリア世界革命の実現に突き進もう。  
労働組合の革命的役割  
第三に、プロレタリア革命は暴力革命であり、プロレタリア独裁の樹立こそ革命の核心問題であることを明確にしたことである。  
労働者階級は、自らの解放をかちとるためにはブルジョア国家権力を打倒して、自分自身の政治権力を打ち立てなければならない。それは、議会を通じた政権交代などでは断じてない。蜂起したプロレタリアートは、現在の国家機構を徹底的に粉砕して解体した上に、これまでの国家とはまったく異なる新しい型の国家をプロレタリア独裁権力として打ち立てる。そのもとで、資本家階級の私有財産とされてきた社会的生産手段の一切を労働者階級の手に奪い返し、共産主義社会の建設に向かって全社会を再組織していくのだ。  
今日、連合はもとより日本共産党や社民党も、塩川一派も、資本主義救済に走るあらゆる潮流がこぞってこのことを否定し、革命への敵意をむきだしにしている。革共同は、今やスターリン主義の発生はレーニン主義にあるなどと言い出した塩川一派の転落と敵対を断じて許さない。1871年のパリ・コミューン、1917年のロシア革命が切り開いた道を断固として進む。そしてレーニンとボルシェビキ党が挑戦して最後までやりぬけなかった闘いを、われわれの手で完遂する。  
第四に、プロレタリア革命における労働組合の革命的役割を明確にし、労働組合をめぐる闘いの決定的意義を、マルクス主義の原点に立ち返って明らかにしたことである。  
労働者階級は、プロレタリア革命をやりぬくために自らを独自の党に組織する。党は労働者階級の一部であり、その最高の団結形態であり、最も鍛えぬかれた前衛である。革命は、この党が労働者階級全体を獲得し、全労働者の団結とその一人ひとりの自己解放への爆発的な決起を引き出すことによって勝利する。そのためには、党と労働組合の結合が不可欠である。  
労働組合とは、労働者が団結して資本と闘う武器であり、労働者階級の最も基礎的な団結形態である。労働者は資本の無制限の搾取と日々闘って自分自身と家族の生活を守りぬくために、労働組合を必要とする。だが労働組合は、資本との日常的なゲリラ戦を闘うために必要なだけではない。賃金奴隷制そのものを廃止し、資本の支配を打ち倒すための労働者階級の組織された力として、より決定的な意義をもつ。  
労働組合のこの本来の姿はしかし、帝国主義とスターリン主義の支配のもとで徹底的に否定されてきた。労働組合は労働者の経済要求の改良主義的実現のための組織であり、労働組合と革命運動を結びつけるなどとんでもないという考え方が、逆に労働運動の「常識」として横行してきた。労働組合はもはや労働者が資本と闘う武器でさえなくなり、一握りの労働貴族が資本の手先となって現場労働者を支配する手段にまで変質した。  
この現状を真っ向からぶち破って、闘う労働組合の本来の姿を全世界的によみがえらせる中にこそ、21世紀のプロレタリア世界革命をたぐり寄せる最大の戦略的課題がある。この闘いを、最先頭で切り開いているのが動労千葉労働運動であり、11月労働者集会に結集する全国・全世界の闘う労働者・労働組合なのである。  
今日、世界大恐慌が爆発し、新たな侵略戦争・世界戦争の危機が深まる中で、労働組合と労働運動をめぐって革命と反革命との大激突が闘われ、その成否が革命の成否を決する情勢に入っている。綱領草案は、この問題を綱領的次元でとらえ返し、現代におけるプロレタリア革命の核心問題として位置づけたのである。このことは、革共同がついに到達した歴史的地平である。  
 
半世紀の闘いの到達点 25全総の開催と綱領草案採択は、革共同半世紀の闘いの到達点であり、新たな巨大な飛躍への出発点である。  
革共同の創立以来、この50年間をわれわれは、反帝国主義・反スターリン主義プロレタリア世界革命の旗を高く掲げ、社・共に代わる革命的労働者党の建設をめざして一心不乱に闘いぬいてきた。60年安保闘争、70年安保・沖縄闘争、大学闘争や三里塚闘争など日本階級闘争の最前線に一貫して立ち続け、闘いを最先頭で牽引(けんいん)してきた。日帝権力による組織絶滅型の大弾圧を獄内外の団結によって断固としてはねのけ、反革命ファシスト集団・カクマルの白色襲撃との20年にわたる血みどろの内戦をも戦いぬいて、完全勝利をかちとってきた。  
こうした様々な試練をくぐりぬける過程で自らの内部に生じた誤りやゆがみも、労働者同志の決起を先頭に、闘いの中でのりこえてきた。そして今日、動労千葉労働運動の不屈の前進と結合し、綱領草案の発表をもって、党建設の新段階に突入したのである。  
われわれは今や、自らの党としての「途上性」に自分自身の手で終止符を打つ。そして本物の革命的労働者党として、プロレタリア世界革命の勝利に責任をとる共産主義者の党として、一点のあいまいさもなく立ち切ることを宣言する。そして職場生産点を始めとしたあらゆる闘いの現場で全責任を引き受けて闘う中でこそ、そこで明らかになる自己の未熟さや弱点と徹底的に対決し、のりこえ、飛躍につぐ飛躍を実現しながら進むのだ。  
日本と世界の労働者、とりわけ青年労働者と学生に訴える! 今こそ革共同の旗のもとに結集し、21世紀革命の実現という前人未到の課題に向かってともに総決起しよう。最後に勝利するのはわれわれだ。ともに闘おう。
革命的共産主義運動の略年表  
前史  
1955年7月 日本共産党6全協  
1956年3月 ソ連共産党20回大会で「スターリン批判」 / 10月 ハンガリー革命  
1957年1月 革命的共産主義者同盟創立  
1958年〜59年 東大、早大など日共大学細胞で、スターリン主義との闘いに次々勝利  
1958年夏 第1次分裂。トロツキー教条主義との闘い / 12月 共産主義者同盟(ブント)結成  
革共同全国委員会の歴史  
1959年8月 第2次分裂。トロツキー教条主義と闘い、革共同全国委員会結成 / 9月 全国委員会機関紙『前進』創刊  
1960年4月 マルクス主義学生同盟結成。ブントとともに安保闘争の先頭に立つ  
1961年1月 マルクス主義青年労働者同盟結成 / 3月 ブントの革命的部分が革共同に結集 / 夏 革共同第1回大会  
1962年9月 革共同第3回全国委員会総会(3全総)。戦闘的労働運動の防衛と創造、地区党建設、革命的統一戦線について決定。動労千葉労働運動の原点 / 年末から翌春 3全総にたじろぎ、黒田と松崎らカクマル派が逃亡  
1964年 原子力潜水艦横須賀寄港阻止闘争  
1965年 日韓闘争(日韓条約批准阻止闘争) / 8月 反戦青年委員会結成  
1966年8月 革共同第3回大会  
1967年2〜7月 砂川基地拡張反対闘争 / 10月 10・8羽田闘争。羽田、佐世保、三里塚、王子の「激動の7カ月」   
1968年10月 米軍タンク車輸送阻止の新宿闘争(騒乱罪適用)  
1969年1月 東大安田砦攻防戦。68年以降、日大・東大など全国大学闘争が高揚 / 4月 沖縄闘争(破壊活動防止法扇動罪適用。本多書記長ら逮捕) / 10、11月「第1の11月決戦」。「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」を掲げて学生と労働者が武装闘争に決起  
1970年6月 安保闘争。革命的左翼が社・共を上回る大衆的な決起 / 7月 闘う中国人青年からの糾弾を受け「連帯戦略」を形成(7・7自己批判)  
1971年2〜9月 三里塚軍事空港粉砕の土地強制収用阻止闘争 / 11月 沖縄返還協定批准阻止の「第2の11月決戦」(再度の破防法適用)。11・14渋谷暴動闘争で、後に星野文昭同志にデッチあげ殺人罪で無期懲役攻撃(現在獄中35年) / 12月 関西でのカクマルの武装襲撃で中核派の2学生虐殺(12・4反革命)。二重対峙・対カクマル戦に突入  
1973年9月 革命的報復戦の開始  
1975年3月 カクマルによる本多延嘉書記長虐殺(3・14反革命)。3・14報復戦に突入。「先制的内戦戦略」を確立  
1977年8月 動労千葉地本がジェット燃料貨車輸送阻止闘争に突入  
1979年3月 動労千葉が動労本部から分離独立  
1981年 第5回大会。先制的内戦戦略フェーズU(第2段階)に転換。国鉄・三里塚決戦に全面的に突入  
1985年10月 三里塚2期着工阻止決戦 / 11月 国鉄分割・民営化反対で動労千葉がスト突入。中核派が11・29浅草橋戦闘  
1986年5月 迎賓館ロケット弾戦闘。権力は革共同壊滅の「5・7宣言」体制発動 / 10月 「10月の挑戦」と爆取弾圧粉砕の闘い  
1989年7月 長谷川英憲氏が都議に当選  
1990年 天皇・三里塚決戦  
1991年5月 5月テーゼ路線への転換  
1994年6月 マルクス主義基本文献学習シリーズの刊行開始  
1995年秋 19全総  
1997年12月 20全総。清水丈夫議長―天田三紀夫書記長の最高指導体制を公表  
1999年11月 闘う労働運動の新しい潮流の形成へ3労組呼びかけの11月労働者集会始まる  
2001年 第6回大会。黒田=カクマル完全打倒の勝利宣言  
2003年 新指導路線 / 11月 日韓米の国際連帯闘争始まる / 12月 新生マルクス主義青年労働者同盟結成  
2006年3月 関西の労働者同志を先頭に「党の革命」に突入  
2007年1月 階級的労働運動路線打ち出す / 7月 7月テーゼを発表 / 秋 塩川一派が7月テーゼと階級的労働運動路線に敵対し革共同から逃亡 / 12月 新生関西党員総会を開催、労働者指導部を軸に新体制確立  
2009年7月 サンフランシスコ国際労働者会議 / 9月 25全総開く
第6回大会で改定された革命的共産主義者同盟の規約  
第六回全国大会(二〇〇一年)で改定された革命的共産主義者同盟の規約全文を掲載します。すべての労働者・学生・人民は革共同に結集し、世界革命勝利へともに闘おう。  
同盟の目的  
1 共産主義社会の実現こそは、労働者階級自己解放のたたかいの最後の到達点である。言うまでもなく、この階級的解放は同時にあらゆる人間の抑圧・差別からの解放、すなわち普遍的・全面的解放として実現される。この共産主義社会の実現こそ、革命的共産主義者同盟の究極の目的である。この目的の実現のため、同盟は反帝国主義・反スターリン主義プロレタリア世界革命をめざしてたたかう。  
2 一九一七年ロシア革命は、いっさいの階級支配を廃絶し、人類史の前史に終止符をうつべき新たな時代をきりひらき、資本主義から社会主義への世界史的過渡期の到来を告げしらせた。  
3 帝国主義は資本主義の最後の世界史的発展段階であり、死滅しつつある資本主義であり、まさにプロレタリア世界革命の前夜である。ロシア・プロレタリア革命の勝利は、全世界の労働者階級の前にこのことを明らかにした。ロシア労働者国家の樹立は、プロレタリア世界革命の拠点として全世界の労働者階級に巨大な激励を与え、全世界の革命的激動をひきおこした。  
4 だが、ヨーロッパ革命の敗北がロシア労働者国家を孤立させるなかで、厳しい困難に直面したとき、それに屈服した反革命的疎外物としてスターリン主義が発生した。スターリン主義は、「一国社会主義論」にもとづいてプロレタリア世界革命を否定し、マルクスの共産主義論を否定し、国際共産主義運動の変質をもたらし、労働者評議会(ソビエト)を解体してソ連を労働者国家と無縁のものとした。  
5 ソ連スターリン主義は、ソ連の労働者階級・諸民族にたいする新たな抑圧者として社会主義への前進の反動的疎外物になると同時に、資本主義国における労働者階級の革命闘争を絞殺し、死に瀕(ひん)した帝国主義を延命させる役割をはたした。  
6 また、中国スターリン主義も民族解放・革命戦争のなかから登場したが、同じくスターリン主義として世界革命に敵対し、中国人民の抑圧者となり、全世界の労働者階級のたたかいの圧殺者になってきた。  
7 帝国主義との平和共存政策と一国社会主義路線を進めるなかで、その根本矛盾を深めてきたソ連スターリン主義は一九九一年、歴史的な破産をとげ崩壊した。  
8 ここにおいて、帝国主義とスターリン主義の戦後世界体制はついに歴史的崩壊過程に突入した。そして、現代世界政治の基軸は、(帝国主義の基本的延命に根底的に規定されつつも)帝国主義とスターリン主義の対峙(たいじ)・対決関係として政治的・軍事的・形態的に総括されていた関係から、帝国主義と帝国主義のむきだしの対峙・対決関係へと転換したのである。それは、帝国主義の基本矛盾が、過剰資本・過剰生産力状態の重圧と帝国主義間争闘戦の激化のなかで、二九年型世界大恐慌、世界経済の分裂化・ブロック化として爆発していく過程への突入であり、帝国主義の侵略戦争、帝国主義間戦争、旧スターリン主義や残存スターリン主義を巻きこんだ世界戦争として爆発していく過程への突入である。  
9 ソ連スターリン主義の崩壊はスターリン主義の歴史的破産の現実化であるが、そのことはスターリン主義打倒の戦略的重要性をいささかも変えるものではない。旧ソ連をはじめ崩壊したスターリン主義国における超反動的な資本主義化政策と対決し、第二のプロレタリア革命を貫徹するたたかいは、スターリン主義打倒の戦略を核心にすえることなくしてはけっして成就しない。また、中国などの残存スターリン主義を打倒するたたかいはけっして容易なものではない。  
10 したがって、プロレタリア世界革命のための全世界の労働者階級のたたかいは、死に瀕した国際帝国主義を打倒すると同時に、破産したスターリン主義諸国における第二革命を完遂し、中国などの残存スターリン主義を打倒するものでなければならない。言うまでもなく、それはプロレタリア世界革命の一環としての民族解放闘争(民族解放・革命戦争)の完遂の事業と有機的・一体的に推進されることによってはじめて勝利をかちとることができる。  
11 スターリン主義の歴史的破産、帝国主義の基本矛盾の全面的爆発は、いまや帝国主義とスターリン主義のもとでの第三次世界大戦か、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命かしか選択の余地のない時代が到来したことをつきつけている。  
12 反帝国主義・反スターリン主義世界革命の戦略こそ現代革命の基本戦略でなければならないことは明白である。  
13 同盟は、七〇年七・七自己批判をふまえて、帝国主義国の労働者人民は、被抑圧民族の民族解放闘争、とりわけアジア人民・在日アジア人民のたたかいと血債をかけて連帯していくことが労働者国際主義を真に鮮明化し貫徹していく道であることを確認した。  
14 同盟は、この労働者国際主義の立場にたち、朝鮮、中国、ロシア、アメリカをはじめとする全世界の労働者階級・人民大衆と固く連帯して世界革命の勝利をめざしてたたかう。そして、世界革命のきわめて重要な一環をなす日本プロレタリア革命の実現のため、日本帝国主義打倒にむけてたたかう。そのために、たたかいのなかで樹立した「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」「米軍基地撤去=沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」「戦争国家化阻止=改憲粉砕・日帝打倒」の戦略的総路線をかかげてたたかう。  
15 同盟は、プロレタリア社会主義革命をとおして、真の労働者民主主義すなわちプロレタリア独裁をつくりだすため、労働者階級の自己権力=労働者評議会の樹立をめざしてたたかう。  
16 同盟は、労働者階級自己解放の事業を一貫して歪曲・抑圧しつづけてきた反労働者的な既成左翼、すなわち社会党(社会民主党)と日本共産党をのりこえ、これに代わる闘う労働者党を築きあげるためにたたかう。  
17 同盟は、六二年第三回全国委員会総会で提起された飛躍的課題にたじろぎ、脱落・逃亡し、七〇年安保・沖縄決戦のなかで反革命集団に転落した黒田・カクマルがおこなった数かずの反革命的凶行、とりわけ七五年三・一四反革命による本多延嘉書記長虐殺を断じて許さない。熾烈(しれつ)な戦いのなかで樹立した先制的内戦戦略を堅持し、ついにかちとった九一年五月テーゼを豊かに発展させ、圧倒的に物質化し、「現代のナチス」であるファシスト・カクマルとあらゆる戦線でたたかい、労働者人民の先頭にたってカクマルを包囲し追いつめ、三・一四復讐(ふくしゅう)戦貫徹=総反攻完遂、カクマル完全打倒の勝利をかならず実現する。  
18 同盟は、理論闘争、政治闘争、経済闘争の前進のためにたたかう。  
19 同盟は、スターリン主義者によるマルクス主義・レーニン主義の歪曲をうち破り、マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーの革命的マルクス主義の伝統を受けつぎ、さらに創造的に発展させる努力を不断になしとげ、理論闘争における前進をきりひらいていく。  
20 同盟は、革命的大衆行動、労働組合運動、革命的議会主義のたたかいの前進のためにたたかうとともに、とりわけ不断に労働運動・労働組合運動の先頭にたち、その階級的発展のためにたたかい、労働者民主主義創造のたたかいを現在的にきりひらいていく。  
21 世界大恐慌と第三次世界大戦が歴史的に切迫する情勢のなかで、万国のプロレタリアと被抑圧民族は、反帝国主義・反スターリン主義世界革命の旗のもとに団結しよう。社民党・日本共産党に代わる真の労働者党を建設し、日本革命の勝利にむかって前進しよう。  
第一条 同盟員の条件  
同盟の目的と規約を認め、毎月一定額の同盟費を納め、同盟の一定の部署に属してたたかう。  
(イ)革命的献身性と同盟の目的にそった生活態度。  
(ロ)マルクス主義青年労働者同盟、マルクス主義学生同盟の先頭にたってたたかう。  
(ハ)同盟の機関紙・誌を読み拡大すること。  
(ニ)革命的マルクス主義の学習と創造的発展のための努力。  
(ホ)同盟の決定に従うこと。  
(ヘ)同盟の活動と組織状況にかんする機密の保持。  
(ト)他のあらゆる団体と関係した際、組織に報告し、承認されること。  
第二条 加盟  
加盟は同盟員二人以上の推薦を必要とし、細胞で審議したうえ決定、一級上の機関によって承認される。  
第三条 同盟の構成  
(1) 同盟は細胞と全国委員会を基本組織とし、細胞、地区委員会、都道府県委員会、地方委員会、全国委員会、全国大会に組織される。全国大会は同盟の最高議決機関であり、全国委員を選出する。全国委員会は党を全国的に組織するとともに、全国大会から次の全国大会までのあいだ、大会に代わる党の方針決定をおこなう。  
(2) 全国委員会は政治局を日常的指導機関として選出し、同盟議長および書記長を選出する。政治局は、その決定の執行のために、機関紙編集局と中央執行委員会を設ける。  
各級機関の指導のもとに、小委員会として労働者組織委員会、産別労働者委員会、学生組織委員会、弾圧対策委員会、各種戦線の組織委員会あるいは闘争委員会、軍事委員会を組織する。  
(3) 中央執行委員会は、そのなかに書記局を設けることができる。また、同盟本部を支える部局を設けることができる。  
第四条 同盟員の活動  
全同盟員と各組織は、同盟の目的の実現のために、自発性と創意性にもとづき、規約を守り、組織的に活動する。同盟員はいっさいの討論の自由を保障され、その行動においては統一を守る。同盟員はその職業の選択と変更にあたって、自分の所属する組織および各級上級機関に報告し、その承認を必要とする。  
第五条 同盟の財政  
同盟の資金は同盟費、同盟の事業収入、カンパなどによってまかなう。  
第六条 同盟員の処分  
同盟の目的にそむき、階級的犯罪を犯し、規約に違反した同盟員には除名その他の処分がおこなわれる。処分は同盟員の属する細胞・各級組織の三分の二の多数決によっておこなわれ、政治局の承認を必要とする。なお、処分を受けた者は、全国委員会、大会にたいして再審を要求することができる。  
付則 この規約は二〇〇一年八月一日から施行される。  
規約の改正は全国大会と全国委員会総会においておこなわれる。全国委員会総会でおこなわれた規約の改正は、次の大会で批准を受ける。  
 

 

一 反帝・反スターリン主義の旗のもと革共同全国委員会に結集せよ  
一九五八年八月三〇日結成された革共同・全国委員会の結成宣言である。反帝・反スターリン主義党の創成は、まさに創設者、本多書記長によって声高らかに発せられたのであり、『前進』創刊号をかざったのである。  
全国の同志諸君!  
革命的労働者諸君! 革命的知識人、学生諸君!  
わが日本革命的共産主義者同盟は、いまや重大な岐路にある。中央書記局=関西派によって、こんにち、強引におしすすめられている綱領的反対派しめだしの陰謀は、いよいよ魔女狩りの様相をおびつつある。関西派の書記局通達第三号(九月一〇日付)は、あきらかにかれらがわが同盟を関西派分派の徒党と化そうとする決意のもとに、すべての俗物的統制をおしすすめつつあることを露骨に表現している。かれらのいう「規律違反」追及は、早晩かならずや綱領的反対派にたいする魔女狩りの手段として遂行されるであろうというわれわれの全国大会における警告は、関西派のたびかさなる否定にもかかわらず、いまや明白にかれらの通達において証明されるにいたった。わが同盟のもっとも光栄にみちた特質である革命的批判精神を絞殺し、わが同盟を去勢された権威主義者と無理論的な単純実践主義者の廃虚に転落させようとする関西派の策動をこれ以上放置しておくことは、まったく犯罪的な怯懦であろう。われわれは、過去におけるいっさいのゆきがかりを断固としてはらいのけ、関西派の策動を弾劾すべく、あらゆる職場、あらゆる学園、あらゆる地域において抗議の声が発せられなければならない。なぜなら、中央書記局=関西派のいわゆる「探究派」狩りは、ひとりいわゆる「探究派」にむけられたものではないからである。関西派の策動は、「西テーゼ」に疑問をもち、かれらの修正主義的方針に批判的なすべての自分の肩に頭をのせた共産主義者への、許しがたい侮辱から出発している。岡谷書簡(七月二七日付)であきらかになったように、かれらのいう「実践的立場」とは、同盟内におけるいっさいの自由な革命戦略=組織戦術にかんする討論を封殺し、西修正主義の観念的「方針」の無批判的支持を要求するカンパニアに参加することにあるにすぎない。  
関西派の諸君はわれわれにむかっていう−空論的非実践主義を粉砕せよ!と。だが、実践とは会議の席上でながながと「国有化」の意義についておしゃべりしたりすることでもなければ、自分に理解できない理論=方針に遭遇して「学習会ではない」などと野次ることでもけっしてない。あるいはまた、日々続発する政治的事件に目の色をかえて右往左往することでもない。日本革命の決定的瞬間にそなえ、マルクス主義を現実の階級関係の生きた運動のなかで鍛えあげつつ、何よりもまず、大衆を獲得すべき革命的主体そのものの創造にかかわるものとして現実性をうるのでなければならない。見せかけの議論の花々しさに幻惑されてはならない。われわれにいま必要なことは現実について多く語ることではなくて、現実を根底においてとらえることである。  
全国の同志諸君!  
革命的労働者諸君! 革命的知識人、学生諸君!  
中央書記局=関西派が、こんにちになって、大会を直前にひかえた七月になって、なぜかくも凶暴性を発揮するにいたったのかについて、その秘密をあきらかにしよう。その秘密の第一は、関西派の綱領=方針の破綻が全面的に露呈し、これをつくろうにはただ官僚的統制と徒党的結集しかありえぬことが明白になったからである。そのもっとも印象的事件は、炭鉱の国営国管問題について、中央書記局と関東ビューローとのあいだにまったく決定的な対立をもたらしたことであった(「労働者」五号参照)。こんにち、関西派に追従している若干の同志諸君は、破廉恥にもこの事実を暗々裡のうちに陰蔽しようとしている。秘密の第二は、関西派が、ほかならぬ関西において学生戦線のヘゲモニーを日共派に奪われたという、かれらの「実践」の総体的結果を糊塗するための「緊張政策」であったことである。中央書記局のお膝元で招来したこの無残な敗北から教訓をみちびきだしえぬ客観主義者のみが、よく「探究派」退治に血道をあげうるのである。  
全国の同志諸君!  
革命的労働者諸君! 革命的知識人、学生諸君!  
われわれは、現在わが中央書記局=関西派によってわが同盟の「綱領」とされているいわゆる「西テーゼ」を、わが同盟の戦旗であると認めることはできない。全国的な組織討議をいささかも組織することなしに、しかも綱領的反対派の欠席のもとで「決定」されたこの西テーゼは、関西派の分派綱領以外のなにものでもない。しかも、その西テーゼたるや、トロツキーの諸文献からの断片的引用の雑炊であり、綱領に値するなんらの理論的洞察力も現状分析もみいだしえぬしろものである。そればかりではない。それは明白な誤謬にみちた諸規定の「創造」集でもある。  
見よ――「労働者国家の飛躍的発展」なる一語に集約されたかれらのエセ・トロツキズムを。しかも中央書記局=関西派はまったくごていねいにも、大会において「労働者国家無条件擁護」「植民地革命無条件擁護」の二項目を「トロツキズムの原則的態度」をあきらかにすべく書きくわえた。  
かくしてかれらは、パブロ=太田修正主義への後退を準備している。関西派の第四国際書記局(IS)への「批判」的ポーズは、パブロ=ジェルマンの非組織的行為にたいする反発から生じたメッキにすぎず、その本質においてパブロ=ジェルマン主義の日本型であるにすぎない。こうした中央書記局=関西派の立場は、当然のこととしてかれらのいう「実践的方針」においてその本質をあらわにする。『世界革命』紙上の西「国有化のスローガンについて」、岡谷「社共支持をさらにおしすすめよ」の二論文(?!)はそのグロテスクな残骸である。階級闘争の熾烈な現実は、わずか二カ月のうちにかれらの方針の修正主義的本質を照らしだし、その「実践」の観念性をあばきだしてしまった。炭労幹部の裏切りと総評大会の無意味さにたいして、まさに「トロツキスト」 の側からも支援がおこなわれたというこの簡潔な事実のなかに、わが日本のトロツキスト運動の深刻な危機が凝縮していることを自覚せざるをえないであろう。  
第四インターナショナル日本支部の設立をめざし、革命的マルクス主義者の中核的結集をはかりつつも、国際書記局のパブロ=ジェルマン一派のプロ・スターリン主義的本質との断固たる闘争をいっさいの俗物的配慮を拒否して遂行してきたわれわれは、いまやここにその日本におけるエピゴーネン関西派との非妥協的闘争をもその一環としてなしとげていくであろう。  
全国の同志諸君!  
革命的労働者諸君! 革命的知識人、学生諸君!  
中央書記局の関西派の陰謀の本質があきらかになるにつれて、関西分派の非組織的策動を弾劾するこえが各地で発せられた。わが同盟の基本組織の存在するすべての職場、すべての学園、すべての地域で、怒りにもえた抗議のこえが起こっている。公然と、あるいは秘密裡に、全組織をあげて、あるいは個別的結集のもとに、全国のあらゆる地域からわれわれのもとに通信がとどいている。  
反帝・反スターリン主義の旗のもとに結集せよ!  
この叫びが相互に発しあわされなくてはならない。わが同盟の旗を黄色や灰色にぬりかえようとするいっさいの策動を拒否してわが革命的マルクス主義の旗をまもらねばならない。  
日本革命的共産主義者同盟全国委員会に結集せよ!  
関西派を弾劾するこれらの呼びかけはひとつにあつめられなければならない。わが全国委員会はこれらを集中し、全国的視野のもとに内部闘争を強化しつつ、真に日本革命を勝利にみちびきうる指導部を、労働者階級と革命的インテリゲンチャの内部に確立するための巨歩をいまただちにおしすすめるであろう。最後に笑うものがよく笑うものである。  
怯懦に死を! 一九五九年九月二〇日 日本革命的共産主義者同盟全国委員会  
二 反スターリニズムのたたかい 革共同関東大会提出 田宮テーゼ  
本テーゼは、第四インター教条主義者(当時関西派と呼ばれた)との思想的・政治的・組織的闘争の綱領的立脚点を形成した重要な文献であり、革共同・全国委員会の創成の原点をもなすものである。田宮とは当時の本多書記長の組織名である。  
一 モスクワ第二〇回大会におけるフルシチョフ・グループのスターリン批判は、じつさいには スターリンの第一後継者を決定するためのシーザー″劇の一幕にしかすぎなかったにもかかわらず、ソ連官僚制の危機的構造の一端をはしなくも暴露してしまった。東独ゼネスト、ヴォルフタの暴動などと官僚の圧制への闘争の火ぶたを切りつつあった勤労人民は、「赤軍」の強力のもとに、ソ連の社会的・経済的・政治的構造に「官僚的・軍事的」に編入された東欧「緩衝国」地域において、急激に革命的闘争へとたかまった。ポズナニ暴動を口火に武装ゼネストへとすすみはじめたポーランドの危機は、「民族主義者」ゴムルカの登場によって爆発点にまでたかめられることもなくひきのばされた。だが、有能なただ一人の「スターリン主義」官僚をもみいだすことができなかったハンガリアにおいては、労働者階級のたたかいは、戦線全体をみとおす革命的指導部をもっていなかったにもかかわらず、革命的爆発点へと近づいた。ソ連官僚制の打倒をめざすハンガリア労働者ソビエトは組織された。クレムリン私兵の戦車と鉄砲のカヴェニヤツクにも比すべき血の弾圧との抵抗のなかで、ハンガリア労働者階級は、はじめて自己の権力をみいだした。  
二 ハンガリア革命の血の叫びは、日本労働者階級の革命的心臓にひびきわたった。ソ連官僚制への弾劾は、まずもって革命的マルクス主義の旗を志向しつつあった先駆的小グループによって発せられた。内田英世「反逆者」、太田竜『レーニン主義研究』、黒田寛一『スターリン主義批判の基礎』、社会党第四研究会「資料」などがそれであった。だが、日本労働者階級の公認の指導部を自称している日共と民同は、ハンガリアの労働者にたいして一片の「連帯の意志」さえ表明しようとはしなかった。そればかりか、かれらはスターリン主義官僚の反革命的行動を公然と支持し、激励さえした。スターリン主義者と左翼社会民主主義者のこうした裏切りが、労働者階級と左翼知識人のかなりの部分の支持をうけつつあるという状況のなかで、革命的マルクス主義者の独立した集団が公然と大衆に真実を語るための活動を開始することは焦眉の任務であった。「反逆者」編集部に「独立した」革命的マルクス主義の拠点を集中しつつ、精力的宣伝が労働者階級と革命的知識人にむかって開始された。  
三 ソ連圏における政治革命の展望を解明しつつ(主として外国の文献、あるいはトロツキーの遺作を紹介し究明することによって)革命的マルクス主義の立脚点をうちたてるための闘争は、組織的には日本トロツキスト連盟の結成として実現した。五七年四月の全国代表者会議は、日本革命の行く手をてらすプログラム、行動綱領草案″を決定し、日本における最初の「独立した」革命的マルクス主義の指導部を組織した。マルクス主義の名のもとにエセ・イデオロギーをふりまき、日本革命をソ連官僚の「外交的」マヌーバーに従属させつつ、ブルジョア的生産様式のもとで苦吟するプロレタリアートの革命的力量を絞殺し、おしまげてきた日本スターリン主義者は、いまや少数とはいえ、そのエセ革命性の本質を見ぬき、日本プロレタリアートの解放を世界革命(人間の普遍的解放)の実現のなかにみいだす革命的集団のまえにセンリツし、恐怖しなければならなかった。  
革命的マルクス主義の立脚点をあきらかにし、革命的指導部を確立するための闘争は、しかしけっして平坦なものではない。それはまず、トロツキズムをセクト的教条的に獲得しつつ、現実にはパブロ書記局の方針をうのみにしようとする太田竜に人格的表現をみる偏向との闘争として、すすめなければならなかった。その第一は、当面の主要戦術を日共主流派の打倒をめざした広範な反対派の統一戦線の結成と統一行動の実現にみいだしえない誤りとの闘争であった。統一戦線の実現のまえにトロツキズムの「純粋性」をまず基礎とするという逆立ち組織論をうちやぶり、別個にすすんでいっしょにうつ″の原則を大胆に展開しつつ、革命的中核を「永久的」に拡大していくことこそが、われわれの勝利の道でなければならないし、そしてまた、こうした統一戦線戦術の一環として運用することによってのみ加入戦術もまた有効性をもちうることを、かれらはいささかも理解しようとしなかった。だから、こうした組織戦術の誤謬の根底にあるトロツキー・ドグマチズム、すなわち、トロツキーを絶対化し、それを唯一の価値判断の基準にするという後向きの態度との闘争が不可避であった。反対派の活動における政治的力学の無知ないし無視からうまれるこうした誤謬こそは、トロツキーの歴史上の弱点のデフォルメでもあった。かくして太田は、第四インターが世界的にも国内的にもいまだ十分に大衆を獲得していない事実を、「二三年以後のロシア・スターリン主義者の反動の圧力の強さ」などに結びつけていく客観主義に転落する。世界革命の一環としての日本革命の実現、ここにこそわれわれのいっさいの価値判断の基準があることを明白にしつつ、われわれはトロツキズムを反スターリン主義→革命的マルクス主義の最尖端としてとらえかえし、マルクス主義を現代的に展開していくものでなければならない(「革命的マルクス主義とは何か」 『探究』第三号参照)であろう。こうした太田の教条的セクト的傾向は、ソ連論をめぐる内田の対馬的傾向との闘争において色こくあらわれた。第五回大会出席後、さらに極端となった太田は、日本における左翼反対派の活動をすべてパブロ分派とのみ直結させようとする陰謀となってあらわれた。  
四 六全協後、その上層部の堕落と腐敗をみずから暴露してしまった日共は、その内部に多くの反幹部的潮流を生みだした。これらのなかでもっとも中央部と対立していたのが、学生党員を中心とするグループであった。かれらは平和共存戦略のワクのなかではあったが、平和運動をできるかぎり国際的展望のなかでとらえようとし、またそれを権力との闘争においても徹底的におしすすめようとしている点で特殊な潮流を形成していた。五六年の暮には、ハンガリア革命におけるクレムリンの行動を全面的に支持″し、「理学部的傾向」をトロツキズムと烙印し弾圧をくわえた(その人たちこそ、こんにちCL(共産主義者同盟)の指導部の中核をなす東大グループであることを、われわれははっきり指摘しておこう)。かれらは、五七年にはいぜんとしてトロツキズムに肉体的反発をしめしつつも(東大細胞機関誌『マルクス・レーニン主義』をみよ)、われわれのこえに耳をかたむけざるをえなかった。日本共産党大会をめざすいわゆる綱領論争は、日共内の反中央派を綱領的反対派にたかめる一つの契機となった。「第四インターナショナル」『探究』などは日共のエセ『前衛』や『マルクス・レーニン主義』のエセ左翼主義を批判しつつ、革命的マルクス主義の道をあきらかにしていった。学生運動の平和急進主義的袋小路を解明した黒田「反戦学生同盟の諸君へ」(『探究』第二号掲載、一九五七年一二月)とレーニンとトロツキーの折衷的労作である山口一理「十月革命の道とわれわれの道」(『M・L主義』第九号)は、学生党員の左翼化の理論的拠点をつきだしたものとして画期的なものであった。  
五 トロツキスト連盟から革命的共産主義者同盟への発展(一九五七年十二月)は、かならずしも量的変化の直接の結果としてではなく、組織論的前進の結果として実現された。それは同時に学生運動の深部に胎動しつつある潮流を予知したものでもあった。学生党員の少数がわれわれの旗のもとにちかづいてきた。反戦学生同盟から社会主義学生同盟への転化がかちとられた大会における杉田・鈴木理論との闘争、全学連十一回大会における平和主義者高野派″との闘争は、わが同盟の組織戦術の最初の大衆的適用の場になった。右をたたいて左によせろ=Aこれがわれわれのアイコトバであった。学生党員の多数を反中央に明白に組織しつつ、かれらの中核を日共のワクをつきやぶってわれわれの同盟に組織すべき任務は急をつげていた。拠点校を中心に、下からいかに反対派を組織するか、これがわれわれの課題であった。  
六 フランスにおける反ド・ゴール闘争の評価をめぐつて、パブロのエピゴーネン太田竜との闘争はふたたび重要性をおびた。その対立・闘争は黒田論文(「早大新聞」五八年六月一〇、一七、二四日号)がPCl(第四インター・パブロ派)の「社共政府」のスローガンを批判したことにたいする、太田の非組織的・セクト的批判(?!)からはじまった。だがこのことは、この闘争の意義をいささかもひくめるものではない。なぜならば、それは反ド・ゴール闘争の評価というきわめて実践的な問題をめぐつての対立であったばかりでなく、第四インターの綱領的立脚点をめぐるすぐれて原則的な対立でもあったからである。それは同時にわが同盟におけるこんにち(一九五九年前半期)の論争と基本的同一性をもっているからである。対立・闘争は、反ド・ゴール闘争におけるPCIの方針にむけられた「批判」にたいして太田が「第四インターの原則からの逸脱だ」とひらきなおり、かれら批判者の処分を要求したことからはじまったのであるが、ここではこの対立を契機にしつつ明白 となったところの理論的対立のみにしぼってかんたんに問題点を明らかにすることにする。  
a  SP加入戦術について(略)  
b 反帝・労働者国家無条件擁護について(略)  
c レーニンとトロツキーの革命戦略論について(略)  
d ソ連論について(略)  
e 組織論について(略)  
太田は、同盟内での理論闘争の勝利のみとおしを失うや、わが同盟から組織的に分裂し、反同盟的組織関東トロツキスト連盟再建委員会≠ネるものを組織し、反同盟的活動を開始した。少数派たる太田が全体討議を拒否したという事実からしても、「こんにちの第四インターナショナルの国際的関係の現状に、われわれは想いを馳せないわけにはいかない。アメリカ・トロツキスト=キヤノン派との統一をすらなしえないでいるパブロ=ジェルマンの第四インターのみじめさ。さまざまの「独立」社会主義運動と部分的な統一行動をもとろうとしない第四インターのケツの穴の小ささ。これは世界トロツキスト運動の力関係をなお弱めている一つの教訓であろう」(『探究』別冊一号、一九五八年七月)。  
七 日共第七回大会における官僚の勝利、反対派のしめだし、勤評闘争の激化、警職法闘争の高揚、反ド・ゴール闘争の敗北などの事実は、学生党員の多くを過去の小ブル的平和急進主義から革命的マルクス主義の方向へと押しやった。日共内反対派として組織された学連フラク≠ヘ、そのはじめは日共第八回大会をめざすもので、その綱領は(1)戦略・戦術的極左、(2)社会主義革命、(3)所感派打倒、(4)国際権威主義反対(4だけはその後とり入れられた)といったズサンなものであったが、日共中央の無内容な攻撃と統制、同盟員の内外からの活動によって、学連フラクはしだいに左翼合同反対派の傾向を強めていった。かれらの多くは、「世界革命」や『探究』の理論方針にいぜんとして肉体的反発″を示しつつ、こつそりとそれをしいれることなしには、かれらのフラクションの立脚点をどこにもみいだしえぬことに気づいていった。九月になっても日共のワクからはみでることをいぜんとして恐怖していた東大CPの指導部は、十月中旬にいたってはじめて、フラクを日共外組織にまで発展させることを決意するにいたった。だがかれらは、われわれの理論的共有財産をこっそりと、しかも表面的にぬすみとりつつ、わが同盟と第四インターに勝手に死の烙印をおしつけることによって、前からの反発″をテレかくしし、左翼反対派の名誉を独占しようとする陰謀を開始した。かれらは第四インターにただちに加入するかどうかというきわめて飛躍した問を提出することによってスターリン主義から脱出しようとしつつも、いまだ革命的マルクス主義には到達しえてはいない中間的部分を、自己の統制のもとに集中しようとし、またわが同盟の同志にたいする露骨な中傷と策動をすすめた。だがこうしたエセ左翼の学生戦線における策動をゆるしてしまったもっとも決定的理由が、わが同盟の主体的条件のたちおくれ、いなその解体的危機にあったことを、われわれははっきりとみとめなければならない。同盟員の各部署での闘争はかなりの勝利をえつつあったにもかかわらず、同盟員としての統一された活動と指導はゆきづまりつつあった。これはまずもって中央書記局の危機としてあらわれた。これは(イ)専従者の欠如、(ロ)理論的水準の低さ、(ハ)資金の欠乏、(ニ)遠山の階級的裏切り、(ホ)関西ビューローからの通信の切断、(ヘ)学連フラクをめぐる策動と陰謀的大混乱などの複合的結果としてあらわれた。こうしたわれわれの主体的状況のなかで、学連フラクをわが同盟と敵対的な組織へと発展させようとする策動がすすめられていった。共産主義者同盟の結成(五八年十二月一〇日)がそれであった。  
八 五八年十二月の拡大政治局会議は、こうした左翼的潮流のあらたな情勢のなかで、同盟の統一と再建を急速のうちに実現し、学生戦線内部においてCL主義への批判を明白にし、学生党員の多数をわが同盟の旗のもとに結集すべき任務をあきらかにした。学生運動の中核的活動家の多数の参加のもとに再建された関東ビューローは、共産主義者同盟のエセ左翼性とその理論的組織的誤謬を暴露し、学生活動家と革命的労働者をわが日本革命的共産主義者同盟の周囲にかたく結集するための闘争を開始した。CLとの闘争は、はじめ第四インターとわれわれの立場・ソ連の評価とわれわれの戦略というきわめて組織的政治的な原則的立脚点をめぐる理論闘争としてはじめられた。  
a 第四インターナショナルをめぐつて  共産主義者同盟の指導的分子はわが同盟と学連フラク――その政党化としてのCL――との統一的展望を拒否しつつ、第四インターはその創立の当時から死滅している、したがって、それがあるからまずそれに加入するという客観主義を排し、日本革命の勝利を基礎に新インターの展望をたてるべきであると主張する。こうしたかれらの主張が、世界革命の危機的状況、とりわけスターリニストとの闘争の複雑な構造をまったく捨象し、第四インターのこんにちの低迷から直接にその破産をひきだすところの現象論的・セクト主義的誤りであることは、いまやあきらかであろう。われわれにとって必要なことは、トロツキーの、したがってまた第四インターの組織論的欠陥・弱点、そのこんにちの低迷を明確にあばきだしつつ、こんにち第四インターに組織されている各国支部を、スターリニストとたたかう左翼反対派の最先端としてとらえかえし、たとえ少数であろうと貴重な同志として、この部分との団結をかため、こんにちの第四インターを世界革命を真に勝利にみちびきうる世界革命党に発展せしめるためにたたかうことでなければならない。われわれと第四インターとの立場はそうした動力学的な展開のなかでのみ理解されうるであろう、したがって、われわれはCLの批判にたいして、たんに歴史主義的合理化やトロツキズムの防衛といったもので答えるべきではなしに、世界革命党を確立するための現実的展望をいかにきりひらくかをあきらかにすることによって、かれらのセクト的な分離結合論的誤謬を示すべきであろう。CLの諸君のわれわれにたいする批判は、われわれ自身がそれ以前に問題にし内部討議によって克服しようとしたいくつかの指摘をまったく一知半解に拡大したものにすぎない。だがこうしたかれらの低水準にもかかわらず、われわれのかれらにたいする反批判、CLの組織論をめぐる闘争はけっして成功的におこなわれたとはいえないであろう。たとえば三月に発行されたパブロの『第四インターナショナル――それはなにか、それはなにをめざすか』がいかにわれわれの闘争を困難な局面におとしいれたかを考えなければならないだろう。そのあとがきでパブロの解説に若干の保留がとどめられていたとしても、それは、まったく現状よりもたちおくれているばかりでなく、さらに過去の理論的成果にまったく無知であることをしめしていた。われわれは同盟のこうした状況を一日もはやく克服し、革命的インターナショナリズムの創成のためにたたかわなくてはならぬだろう。  
b ソ連論ならびにいわゆる同時戦略をめぐつて  CLのわれわれにたいする批判(?!)のもう一つの問題は、トロツキーのソ連論堕落した労働者国家″説にたいする文学的″との批判であり、ドン・キホーテ式の反帝・反スタ同時戦略″論の提出であった。この意見もまた、わが同盟の内部ですでに展開されていた論争の一知半解である点でまったく同様である。かれらのソ連論は奇妙″な構造をなしている。それは官僚制国家資本主義的下部構造と労働者国家的「法律的政治的」上部構造の対応説においてみじめにも暴露される。われわれはトロツキーの堕落した労働者国家″説を基本的には支持しつつ、トロツキーの歴史的評価によりかかるだけではなしに、さらに現実の「ソ連」の政治的・社会的・経済的構造の分析をつうじて堕落″の内容を発展的に解明すべきであると考えているし、そうした意味で堕落した労働者国家″をくりかえしているばかりでは文学的″であるとの説に反対ではない。だがCLの諸君は、現実のソ連にただ『ゴータ綱領批判』を対比し、ただただ「価値法則」の貫徹を指摘するだけである。こうしてかれらは「価値法則」の存在から直接に「資本」の実証へとすすむのである。かくしてかれらは現象論的「同時」戦略にたどりつく。だがかれらが帝国主義打倒とスターリン主義打倒の論理的関係を正しく理解してないことは、それを資本主義国におけるプロレタリア革命とソ連圏における政治革命(かれらはそれを社会革命と呼びたがる、だが社会的でなかった革命があるだろうか)に実体化してしまっていることからあきらかであろう。帝国主義打倒を世界的に実現していく過程のなかで、ソ連官僚制打倒のもつべき役割と位置を区別と同一において正しくとらえることが必要であった。しかるに、こうしたかれらの誤れる批判にたいして、いやスタ官打倒は労働者国家擁護と結合しなければならぬなどと反論する(西分派)ことは、はたして有効であろうか。現実はわれわれにむかって、ソ連圏における政治革命(ハンガリア革命を想起せよ)を帝国主義打倒(プロレタリアートの自己解放)の全過程のなかにいかに有機づけるか、さらにまた、帝国主義打倒のみちゆきにおいてスターリン主義の官僚的統制をいかに打破するかを戦略戦術的に解明することを要求している。そしてそのことは同時に、ソ連における「生産力の飛躍的発展」をもって直接的に、「国有計画経済の勝利」とする生産力理論を、われわれ自身が克服することでもあろう。  
われわれは学生戦線においてCLとの理論闘争が成功的におこなわれえなかったことを率直に認めねばならぬであろう。かれらのわれわれにたいする批判は基本的にはわが同盟内ですでに問題となった諸事実の断片的よせあつめとおもいつきにすぎない。にもかかわらずCLとの闘争において十分の勝利をかちとりえなかったのは、いな全体としては終始おされぎみであったのは、いったいなぜだろうか。それは学生戦線においてわが同盟員のほとんどが加盟して日が浅く、それ以前の理論的政治的な成果から切りはなされがちであったためかも知れない。こうしたことは、同盟員の全体的な理論的低水準とあいまって、じつさいにはかなりのハンディキャップであった。しかしながら、基本的には全国政治局――書記局、関東政治局――書記局が、十分に同盟の過去の理論的水準を維持し、全体化することができなかったことにあるといえよう。しかもCLのわれわれへの批判が、かつて太田修正主義=パブロ修正主義にたいするわれわれの闘争の武器の断片をひろっておこなわれはじめるや、かれらの断片性を正しく批判し、ことばの真なる説明によってかれらに対置するよりも、ややもするとこうした批判に反発し、太田理論への後退によってこれにこたえる傾向さえ生まれていることを指摘しなければならないであろう。太田的偏向との闘争をわれわれがいま注意ぶかく再検討しなければならぬ意味もまた、ここにあることをあきらかにしておく必要があろう。  
九 三月から七月にいたる五カ月は、再建されたわが同盟にとって大衆闘争の方向性をめぐる試練のときであった。わが同盟は主として学生運動に依拠しつつ、大衆的形式においてわれわれの方針を提示することがすでに可能であった。労働者階級と革命的インテリゲンチャは、安保条約改定反対闘争と産業合理化闘争をいかなる方針でたたかうか手さぐりしていた。こうした状況のなかで日共は、いちはやく中立化政策″をクレムリンと北京の指示をうけてかかげた。そしてこれはまた社会党の伝統的外交政策の一つでもあった。だがブルジョアジーに中立を要請するというこの方針がまったくノンセンスであることは、ここにくりかえすこともなかろう。いまここでは、CLとわれわれのあいだに生じたところの安保改定にかんする評価、および合理化反対闘争と安保闘争との関連をめぐつての対立についてのみかんたんにあきらかにしよう。  
この安保改定が日本独占資本の独自の要求にもとづいていること、したがってこの闘争は必然的に日本ブルジョアジー打倒の闘争へとみちびかれざるをえないという点では、ほぼ両者の方針は一致している。だがこの改定――日米新同盟――の国際的評価をめぐつて相違があらわれてくる。CLは日米新同盟の「反共」はたんにイデオロギー的外被にすぎず、したがって日本帝国主義打倒でいいんだ、というのである。だが事実はどうか。日本独占資本は、一方では東南アジアへの資本と商品の輸出の自由を獲得するためにアメリカ帝国主義からより有利な国際法的地位をかちとろうとしつつ、他方では労働者国家と自国のプロレタリアートにたいする共同の敵意を基礎に、あらたな形式で神聖同盟をむすぼうとしているのである。日米両国のブルジョアジーのこうした利害の差異と同一性を正しくみぬくことのできぬかれらは、安保闘争それ自身は条約のための闘争″であり、われわれにとって必要なことは安保改定の階級的本質を暴露しつつ、闘争をプロレタリアートの独自の闘争″へといかに転化せしめるかであることをまったくみうしない、安保闘争を即自的に反帝闘争へ飛躍させることによってこの闘争にいっさいを解消しようとする。こうして労働者階級の現実の闘争の状況、その意識、そしてその現実の指導部の問題をとびこえて、安保闘争の方針をかかげさえするならば、労働者階級はゼネストでたちあがるであろうとのドン・キホーテぶりを、かれらは 発揮する。資本家的合理化との闘争の過少評価は、その政治主義的偏向をいかんなく暴露する。資本家的合理化の強行こそは、安保改定に象徴される日本帝国主義へのシャニムニの姿なのだ! いまわれわれにもっとも必要なことは、安保闘争と合理化闘争の結節点を明白にしつつ、これらの闘争をいかに日本ブルジョアジー打倒の闘争へとたかめるかの道をあきらかにすることによって、日本労働者階級を政治的に教育し、社民とスターリニズムから解放することにあるであろう。かれらの誤謬は、かれらが大衆的影響をもっている唯一の部分である学生運動において、極左主義として現象する。労働者階級の現実を「願望」とおきかえ、労働者階級を闘争にたちあがらせるにはただ強烈な「ショック」が必要であるとするかれらは、学生ゼネストの強行へとすすむ。かくして悪名たかき「先駆性理論」が墓からよみがえる。亡霊は現実の支配者になりえない。現実はかれらのみとおしが完全に破産していることを示している。だが、にもかかわらず学生運動においてCLの方針が、現在においてもいぜんとしておおくの活動家をひきつけている秘密はなにか。その決定的原因は、まさにわが同盟が学生運動において具体的闘争方針を提起しえなかったことにあることを、われわれははっきりみとめなければならないだろう。学生――小ブルジョア――が大衆的形態においてどうたたかうべきなのか、このことを具体的にあきらかにしえない以上、CLの方針がいかに全体として誤謬にみちていようとも、学生はそれを採用せざるをえないであろう。われわれはこうした事実を直視し、秋の闘争の、学生運動の具体的な大衆的方針を立案するための準備をただちに開始しなければならない。  
十 組織方針(略)  
十一 同志諸君。わが同盟の革命的前進のためのひとつの里程標をなすであろう第一回全国大会の開催の日がせまっている。日本プロレタリアートをスターリン主義と社会民主主義の足カセからときはなち、ブルジョアジーの打倒――自己解放をめざす光栄ある事業にむかってかれらをたかめ、組織するための苦難の道は、ただわれわれの革命的自発性にもとづく長期のねばりづよい自己犠牲的活動のなかでのみきりひらかれるであろう。われわれはいまだ革命的プロレタリアートの大多数ときりはなされ、孤立した小グループであることを忘れてはいない。だがわれわれはまた、わが戦列の内部に数基幹産業の少数であるとはいえ、もっとも訓練された革命的労働者をみいだすことを誇りをもって語りうるであろう。革命的先駆的グループと革命的プロレタリアートの結合は、前者の系統的かつ精力的な接近によってのみその端初はきずかれる。そしてそのことは同時に、はたらきかけるべきわれわれ自身の立脚点の理論化を前提する。なぜならば、革命的理論なくして革命的実践はありえぬからである。  
同志諸君。わが同盟の三年間の闘争の成果をわがものにし、その欠陥を大胆にあばきだし、同盟の統一と前進を飛躍的に発展させるために、われわれはその全力を大会の成功の準備のために集中しなければならない。われわれは、この大会およびその準備のための闘争をつうじて第四インターナショナル日本支部を確立し、プロレタリア世界革命の一環としての日本革命にむかってのわれわれの共同の決意をかため、同志的結合をふかめるであろう。だがそれは、同盟内の理論的対立をいささかも無視し、おしかくそうとするものではない。たとえ、それが現在どんなにささやかな相違としてあらわれるとしても、それが革命的理論の基本的命題にかかわりあうものであるかぎり、それは徹底的に追求されることが必要であろう。それは同盟の団結の障害ではなくして、まさしくその基礎である。 (一九五九年八月)  
三 六・四ストとわが同盟のたたかい  
六〇年ブント主導下の全学連第一六回大会において、全大会参加者へ、六〇年安保闘争の一項点たる六・四政治ストの評価をめぐつて、わが同盟にたいする非難に答えるチラシのかたちをとって、六〇年安保闘争と革命党創成の根本的立脚点を鋭くおしだした文書である。  
全学連大会に結集した革命的学生諸君!  
きわめて奇妙な事態が、だがものごとをふかく考えようとするものにとってはきわめて自然な事態が、生まれつつある。代々木派と革共同関西派が、みずから会場をたちさったあと、大会は、極左ブランキー主義者の革命的マルクス主義者にたいする攻撃の場に転化した。  
共産主義者同盟員を自認するN君は、突如としていう――「あらたな日和見主義を粉砕せよ!」と。だが、かかる「日和見主義」とは、いったい何を意味するか? N君によれば、わが革共同全国委員会と日本マルクス主義学生同盟が、かかる「日和見主義」の発生の根拠であり、それは、六・四政治ストの際に闘争を押える役割をはたした、という。  
だが、卑劣な虚構と歪曲に色彩られたこの「批判」は、批判者の心情を裏切って、逆に批判者みずからを突きささずにはおかないであろう。なぜなら、六・四闘争の総括という日本学生運動にとって死活の問題を討議しなければならない、まさにその時に、わが同盟全国委員会の方針と行動が論議の中心にならなければならなかったという厳然たる事実がそれである。  
しかも、奇妙なことには、わが批判的批判家の一群は、かの「新しい前衛」、すなわち「全国の数百の職場に細胞をもつ」(「共産主義」六号)偉大なる共産主義者同盟が、ここにおいて一体どこにいたのか、というまったく重大な問にこたえることができないでいる。  
全学連大会に結集した革命的学生諸君!  
われわれは、かかる権力の眼にさらされた公開の場において、革命的労働者の組織活動にかんする問題を討議しようとするいっさいの挑発を拒否する。われわれは、革命的学生諸君が、十分の配慮をもって討議に参加されることを期待する。  
だが、われわれへの「批判」にことよせて、六・四ストを戦闘的にたたかうために活動していた革命的労働者を誹謗し、これに「日和見主義」のレッテルをはりつけるようなことは、断じて許すことはできない。たとえば、かれらは、]機関区において、学連デモが構内に入れなかった責任を]機関区の青年労働者の「日和見主義」に押しつけようとしている。しかしながら、かれらは、学連の前にたちふさがった労働者ピケ隊が、国労中闘の指令で派遣された地方の労働者であったこと、しかも、分会青年部の労働者の説得によって、そのあとピケは完全に解かれていることを故意に無視している。  
ここにおいては、事態を左右する鍵は、まったく学連指導部の掌中にあったのである。学連指導部は、学生を構内に導入しようとした。だが、この時、意外な事態が生じた。前日の六・三官邸突入闘争において学連の無責任な戦術指導にほんろうされた学生は、ここにおいて指導部を信頼できず、逡巡してしまったのである。  
青年部の労働者に、学生を「アジ」ってくれ、という依頼をしてきたのは、その時である。  
「かえりみて他をいう」というコトバがある。かかる本末転倒した闘争の状況こそ、この全学連大会が、深刻に自己批判=総括しなければならなかったものなのである。しかも、国労地本と分会の青年労働者の戦闘的あいさつによって、事態を収拾することができたのではなかったか?  
全学連大会に結集した革命的学生諸君!  
六・四故治ストの「実現」は、同時に現実には、共産主義者同盟の一年半にわたる組織戦術の危機を露呈させずにはおかなかった。すなわち、かれらは、一年にわたって労学ゼネストの空砲をうちならしてきた。だが問題は、いかに、だれが、であるにもかかわらず……。  
だが、ゼネ・ストにくらべればはるかに小規模のこの政治ストのなかでも、かれらは、自己の方針を実現すべき媒介をなんらもちえず、ただただ、他のプロレタリア組織に批判的批判をくりかえすのみである。しかも、かかる現実にたいする深刻な認識なしに、四月――六月の闘争を「あと一歩で政治危機」などと評価し、九月にも「社会を根底からゆり動かすような階級決戦」がくるかのように幻想し、それに備えて「数十日にわたるゼネ・スト」を空語することは、まったく単純な小児病である。  
革命的労働者に依拠した革命的前衛党なしに階級決戦を呼号するようなことは、まさに、数百の訓練された革命家がいさえすれば‥‥といったブランキーの心情の復活である。  
全学連大会に結集した革命的学生諸君!  
五月二〇日の朝、数千の学生を前に階級闘争が敗北したいま、われわれ学生運動も敗北した″と叫んだN君は、いま、諸君にむかって「勝利」を語っている。五月初旬安保決戦などという奴がいる〃と嘆いたA君は、いま、秋の階級決戦を呼号している。  
諸君は、かかるカメレオンに左翼共産主義者を僭称することを許しておくべきであろうか?否!われわれは、ブランキーの徒の革命的マルクス主義にたいする攻撃をはねかえし、真に革命的な共産主義運動の建設を、革命的労働者を中核にかならずやなしとげるであろう。  
革命的空語では、革命に勝利することはできない。敗北の明確な認識のうえにたって、かかる敗北をもたらしたものをあばきつつ、きたるべき革命を勝利にみちびきうる革命的労働者の創成のために、全力をあげてたたかわなくてはならない。  
安保闘争の敗北という冷酷な事実の前に、基幹産業の労働者のすくなからぬ部分がいま、急速に既成の指導部から離脱しつつ、革命的マルクス主義にむかっている。左翼共産主義を僭称するかかるブランキズムは、このような労働者の左傾化を逡巡させ、ブルジョアジーとスターリニストの攻撃を容易にしているのである。  
たたかいは、いま、出発したばかりである。この力を極左主義の洪水のなかで埋没させてはならない。  
一九六〇年七月五日  
四 共産主義者同盟の破産は何を意味するか  
六〇年安保闘争の総括をめぐつて三分解した六〇年ブントにたいする革命的批判である。わが同盟の革命党創成の現実的組織戦術を基底において展開された批判は、翌六一年のブントの革命的翼との革命的統一を可能にするものであったのである。  
新安保条約をめぐるわが階級闘争の動的な展開、プロレタリア運動の挫折と敗北の現実的過程はいっさいの既成の「左翼」指導部、とりわけ「前衛党」を詐称する日共の日和見主義とその反階級的実体を自己暴露させずにはおかなかった(武井健人編著「安保闘争」参照)。民同――社会民主主義と日共――スターリン主義の規範のもとで苦闘しつづけてきた「下部」の戦闘的労働者たちは、いまや、かれらの既成指導部にむかって深刻な疑問をなげかけ、卒直な批判を口にしつつある。しかも、その革命的翼は、公然あるいは隠然と既成の指導部の組織的・政治的統制から離脱し、新しい革命的プロレタリア党の創成をめざして、いくつかの地方的グループに結集しようとしている。  
革命的労働者と全国委員会  
プロレタリアートの深部で生まれつつあるこうした変化は、日共の党官僚がいかに弾圧し中傷しようとも、けっして押しとどめることはできないであろう。「アカハタ」は、連日のように「アメ帝の手先!トロツキストを打倒せよ!」とヒステリックにわめきたてている。だが、この反トロ・カンパニアがかんだかくひびけばひびくほど、われわれは、「アカハタ」が各地でつぎつぎと日共中央に反旗をひるがえす「反逆者」についてより多くの紙面をさかざるをえないことを、よく知っているのである。こうした新しい情勢は、全学連の革命的学生運動を主体に「前衛党」をエセ的に代行してきた共産主義者同盟にたいする革命的批判、その分派闘争――分解過程の激化を不可避とし、そしてまた、わが同盟全国委員会の組織戦術のあらたな躍進と展開を自覚させずにはおかないのである。いまや、わが革命的共産主義運動は、その運動の前史を止揚し、革命的プロレタリア党への道をより大胆に追求すべき転換期にさしかかろうとしているのである。  
五六年十月のハンガリア・プロレタリアートの反乱の革命的影響のもとに胎動したわが革命的共産主義運動は、当然のこととして、当初は革命的インテリゲンチャによる先駆的な思想的運動から出発した。こうした状況は、政治的未訓練とそこから結果する根強いセクト主義を派生させ、五八年暮には解体の危機さえもたらしたのであった。だが、このような「内部的未成熟」とたたかいつつ、戦後日本唯物論のもっとも革命的伝統に依拠して展開されたわが先駆的運動は、日共――スターリン主義を根底から転覆しうる批判の武器を鋭くとぎあげ、同時に、革命的左翼の諸分派(トロツキスト同志会、革共同西分派、共産主義者同盟)との闘争において、もっとも革命的なそれゆえにもっとも理論的一貫性をもった部隊として終始したのであった。そして、このような、先駆的運動を基礎に、西分派との綱領的闘争をつうじて確立されたわが同盟(革共同)全国委員会は、新安保条約をめぐる階級闘争の激化のなかで、慎重かつ印象ぶかく戦列の最前線に登場しつつ、その政治的経験を磨きあげ、組織的力量をゆたかにし、革命的プロレタリア党への道を全力をあげて前進したのであった(『逆流に抗して』参照)。  
一年有半の安保闘争、とりわけ三度にわたる政治ストを展開した六月闘争のなかで、わが革命的労働者が示した不屈の闘志と巧妙な組織力にたいして、われわれは、それをなによりも貴重なものとして確認しなければならないのである。わが同盟の精華である革命的労働者のこうした闘争、あらたにわが戦列に参加しつつある革命的労働者のこうした経験は、わが同盟全国委員会のプロレタリア的特性をいっそう鮮明にし、同時に、その中央指導部の理論的政治的指導力の強化とそれを可能にする、組織体制の新しい情勢に対応した確立を不可避なものとしているのである。そして、こうしたわが同盟全国委員会の思想的・政治的・組織的に統一された前進のみが、共産主義者同盟の解体的危機に表象される革命的左翼運動のあらたな再編の展開を、革命的マルクス主義の勝利にむかってみちびきうるのである。いまや、わが革命的共産主義運動は、安保闘争におけるプロレタリア運動の挫折と敗北、池田内閣の成立、三池闘争の敗退という新しい情勢の展開に対応しつつ、ここ一年半の革命的左翼の活動と組織戦術にかんする徹底的な総括に立脚し、その前進の展望を明確にうちだすべき重大な時点にたっているのである。敗北からよく学びうるもののみが、勝利の道をよく照らしうるのである。  
革命的学生運動と全国委員会  
このような革命的共産主義運動の前進は、同時に、全学連と革命的学生運動に「寄生」し、その大衆的声望にのぼせあがった小ブル的急進主義者――共産主義者同盟学連派との闘争を不可避とするのである。革命的労働者から共産主義者同盟になげかけられ深刻な批判からなにひとつ学ぼうともせず、それどころか逆に、こうした批判に対応した内部批判にたいして、ただ「右翼日和見主義」のレッテル粘りしかしえないところの、この現代の「革命の錬金術師」たちは、「むかしの錬金技師の固定観念のなかにあった思想的混乱と偏狭性をわかちもつ」ことによって「革命的奇跡をおこなうはずの考案に没頭」し、「現存政府の倒壊という手じかな目的以外には他のなんの目的ももたない」のである(マルクス「フランスの陰謀家とスパイ」参照)。政治的ボヘミアンたるかれら小ブル急進主義者たちの性格は、偏狭、自己過信、無節操、そして放ろうである。  
たとえば、こんにち、全学連執行部を掌握している共産主義者同盟の諸君は、七月はじめには安保闘争を「ブルジョアジーにたいする政治的勝利」と評価し、マルクス主義学生同盟の諸君にたいして「敗北など口にするのは敗北主義だ」と恫喝したにもかかわらず、九月はじめには、はやくも「勝利と総括したのは、過大評価であった」(全学連第二五回中央委員会報告)などと奇妙な自己批判をやってのけるのである。もちろん、かれらは、こうした変化について「情勢の発展が総括を豊富にし深化させたのだ」というであろう。だがこのような言訳は、かれらが、七月には安保闘争に有頂天になった大衆の熱気、九月には三池闘争の裏切られた挫折――敗退による大衆の敗北感を、素直に表現する大衆政治家でしかないことの、自己証左である。かくしてわが小ブル急進主義者は、時期はずれの「挫折感」に焦燥を覚えつつ、「最後のブルジョア政策」池田内閣にむかって「最後の突撃」をいどもうとしている。  
全学連指導部の「姫岡理論」と「東大意見書」の分裂に表象される小ブル的急進主義者の分解と没落の過程は、まさに、安保闘争の高揚と挫折――敗北からみちびかれた偉大な教訓の現実化である。なぜなら、四月――六月の政治的激動は、民同と日共の日和見主義を根底的に露呈させたばかりでなく、同時に、全学連の革命的学生運動に依拠し、ただそれに依拠することによって大衆運動の「左翼化」を意図したところの共産主義者同盟の小ブル急進主義的実態を暴露し、その解体の危機と没落を必然化したのである。共産主義者同盟の弔鐘は、かくてなりわたる!  
小ブル急進主義との決別  
われわれは、いまや、首都のわが革命的学生諸君の闘争を中心に、全学連指導部の小ブル急進主義にたいして断固とした闘争宣言を発しなければならない。こうした傾向を克服し、その頑固な信徒に別れを告げることなしには、わが革命的共産主義運動の前進は、けっしてありえないであろう。このようなわれわれの立場は、直接に大衆運動の分裂を意味するものではけっしてない。いなむしろ、こんにちでも革命的学生の多数が小ブル急進主義の規範のもとにあり、戦闘的労働者の多くが、革命的学生運動への同情と小ブル急進主義者への支持を混同している状況のもとにあっては学生戦線におけるわが革命的共産主義者の任務は、自己の組織的独立と理論的立脚点を確固として堅持し全学連指導部にたいするわれわれの批判を公然と大衆のまえに提示しつつ、もっとも戦闘的な戦士として革命的学生運動の先頭にたってたたかい、そして、こうした闘争をつうじて革命的学生と戦闘的労働者を小ブル急進主義の桎梏から解放し、革命的マルクス主義の旗のもとに結集することでなければならない。  
われわれのこのような断固とした小ブル急進主義者との闘争の展開は、かならずや、一方の極点に単純実践主義者を硬直させていくと同時に、他方の極点に、こうした状況に批判的な革命的マルクス主義者をつぎつぎと結晶させていくであろう。そして、.こうした両極分解の進行は、逆に、わが同盟全国委員会の強化を絶対的任務とするばかりか、その革命的脱皮すら不可避とするであろう。  
いまや、わが革命的共産主義運動は、五八年秋をはるかに上まわる新しい再編の時期をむかえようとしているのである。ブルジョアジーの衆望を担って登場した池田新内閣は、三池の激突の「調停者」としてみごとにその任をはたすことによって、新安保条約の強行成立をめぐる政治的激動の最後の波をブルジョア的に収束し、政治的安定を回復するという支配階級の最初の任務を成功させたのである。  
こうした政治的安定を基礎に一気に十一月総選挙に勝利したうえで、池田内閣は、治安体制を強化しつつ、大胆な財政投融資をテコに日本資本主義の飛躍的発展をかちとり、そのための徹底的合理化と教育のブルジョア的改革を強行しようとするであろう。われわれ革命的共産主弟者は、こうした新情勢に対処し、ただちに反撃の準備にとりかからなくてはならない。九・七文部省抗議、九二五首相官邸デモを突破口に展開される街頭デモンストレーションを基軸に、池田内閣の反労働者的攻撃の焦点と全体的姿を明白にプロレタリアートに説明し、暴露し、全戦線における個別的闘争を池田内閣打倒の一大契機としなければならない。こうした任務を真に革命的に遂行するためには、こんにちのわれわれの力は、いまだにあまりにも微弱である。だが、既成の「左翼」指導部から急速に分離しつつある革命的労働者の補強によって、このような状況を止揚すべき実体的根拠が獲得されるべき日は、いまや近づきつつあるのである。 
五 すべての革命的共産主義者は革共同全国委員会に結集せよ  
六一年三月に執筆された本論文は、「革命的」戦旗派の組織戦術のまったき欠如によって、当初企図されたわが同盟との「合同」が完全に挫折した時点にあって、すべての革命的共産主義者にわが同盟への結集を訴え、六〇年ブントの革命的翼との革命的統一の根本的な立場を宣言した記念碑的論文である。  
三月中旬におこなわれた戦旗派の全国細胞代表者会議は、いわゆる「革命的戦旗派」指導部の完全なイニシァティヴのもとに召集され、運営されたにもかかわらず、逆に、その指導性の衰退と破産を自己暴露したのであった。いなむしろ、破産した共産主義者同盟を革命的に解体し、革命的マルクス主義の旗のもとに再組織していくための闘争において、その決定的な桎梏がほかならぬ「革命的戦旗派」指導部にこそきわめて集約的に内在していたことを明白に再確認させずにはおかなかったのである。同時にそれは、先月中旬の戦旗派中央の「統一」決議以来の「革命的戦旗派」指導部の約一カ月にわたる組織活動とその「立脚点」の非組織性と自己欺瞞が、地方からの代表によって徹底的に切開され、打倒される過程でもあったのである。  
こんにち、すでに、こうした危機を打開し、克服するための苦闘が、革命的戦旗派の内部で力強く胎動しはじめている。われわれは、こうした胎動を革命的プロレタリア党のための闘争の決定的契機に転化させるために、(1)戦旗派の「統一」決議が共産主義者同盟の解体過程に投じた影響を検討し、(2)革命的戦旗派指導部の「自己否定=立脚点」の自己欺瞞と組織戦術の欠如とその破産を無慈悲に暴露し、(三)緊急の組織問題についてのわれわれの立場をあきらかにしなければならない。  
戦旗派中央が二月中旬に、全国委員会との「原則的統一を部分的保留を除いて決意し、決定した」(『戦旗』五二号)という事実は、あきらかに、破産した共産主義者同盟の解体過程にきわめて決定的な影響をなげかけずにはおかなかった。なぜなら、破産した共産主義者同盟の解体=没落過程の「苦悩の表現」としての分派闘争の革命的止揚は、ただ、わが全国委員会との「原則的統一」によってのみ根底的に可能であることを、この「決議」は、不十分な規定性においてではあったが、無視しえぬ重みをかけて提出したからである。  
この第一の影響は、二月下旬におこなわれた共産主義者同盟労働者細胞代表者会議の流産としてあらわれた。この労細代は、いくつかの傾向をもった諸分派(戦旗派をのぞく)の共同の発意のもとに「春闘の方針を検討しあわせてブント再建の方向を明らかにする」ために召集されたのであった。だが、一定の指導的分派も指導的理論もなしに召集されたこの会議は、一部に存在した「真正ブント再建」の思惑とまったく反対に、内部分解と腐敗を赤裸々に暴露し、「烏合の衆」としての実体を自己確認するだけに終ったのである。しかも戦旗派を会場から閉めだすことによって、こうした破産を「反省」すべき契機すらみずから切断したのであった。  
こうした状況のなかで、共産主義者同盟関西派(山本久男)を中心に「自己破産」のうえにアグラをかきながら破廉恥にもいまふたたびわが全国委員会にたいする事実無根の誹謗をおこない、無意味な批判をなげかけることによって、自己の組織をセクト主義的に防衛しようとする「空しい努力」が、第二の影響として生まれつつある。(われわれは、わが関西ブントが勇敢にも「全国委員会批判」に着手しようとしていることを歓迎する。成文を読んだうえで必要とあらば反論することにして、ここでは、かれらのスターリン主義のとらえ方が、革共同西分派への心情的反発にもかかわらず、西分派ときわめて決定的な近似値をもっていることを指摘するにとどめたい。なお、われわれが「一律+α」という賃金要求をもっているとの「批判」は、山本君の読解力を自己暴露するだけなので一言。)  
第三の影響は、右のような新しい反動的試みにもかかわらず、真正ブントの拠点であったプロ通派の分解と事実上の解体として結果したのである。すなわち、プロ通派のカメレオン的「理論」家=姫岡玲治君の自己欺瞞とその破産は、いまやプロ通派の六カ月の「実践」にふまえてその内部からすら摘出されるにいたったのである。わがプロ通派の諸君は、決定的にわが全国委員会と敵対することによって、逆にその没落をはやめ、共産主義者同盟の破産の追体験的構成を喜劇的に演じたのである。そして、その少なからぬ活動家が戦線から離脱していく状況すら生みだし、スターリン主義者の攻撃のまえに全学連を無防備で放置する危険が時々刻々と拡大されつつあるのである。  
このような共産主義者同盟の全面的崩壊は、その破産の現象的実現としての分解からの不可避的な結果であることはいうまでもないのである。だがわれわれは、西分派の諸君のように、「中間主義の没落」として喜んでいるべきであろうか。否! けっしてそうであってはならない。なぜなら破産した共産主義者同盟の「非革命的」解体過程としての「全面的崩壊」状況の深刻化は、同時に、革命的左翼戦線の危機として、それゆえに、われわれの危機としてとらえかえされなければならないからである。そして、まさにこうした自己の危機に無自覚に「自己否定」をステロ・タイプ化し、いわゆる「立脚点」に自己陶酔したところに、「革命的戦旗派」指導部の陥穽があったのである。  
「革命的」戦旗派の深刻な誤謬  
すでにかんたんにみてきたように、二月中旬の戦旗派中央の「統一」決議は、破産した共産主義者同盟の解体過程としての分派闘争を革命的に止揚すべき契機として重大な意義をもっていた。まさにそれは、革命的共産主義運動の新しい段階を約束するものであった。  
だが、過去の戦旗派と決定的に決別した革命的「立脚点」を獲得したはずの「革命的戦旗派」指導部は、破産した共産主義者同盟を「いかに」解体するかという組織戦術を欠如し、現実の階級闘争から昇天しつつ、こうした「立脚点」をふりまわすことによって、われわれの立脚点とは似て非なるものへと変質していったのである。かくしてかれらは、「動力をもった立脚点」などという「哲学的」常套語で自己欺瞞的に粉飾することによって、自己の組織戦術の欠如を合理化しようとしたのである。  
戦旗派全国細胞代表者会議の前日にいたるまで、われわれと「革命的戦旗派」指導部(同志西原をのぞく)とのあいだに後述の諸点をめぐつてきわめて深刻な対立が存在したこと、そして、いくたびか決裂を決意せざるをえなかったことをここに記録しておく必要があると考える。そして、こうした事態をもたらしたもっとも決定的な原因は、同志青山に代表される一知半解の「立脚点」の自己絶対化であったのである。  
「青山論文」と同志青山に内在し、その後の組織活動のなかで全面的に開花した「革命的戦旗派」指導部の基本的謬点は、およそ次のとおりであった――第一には、自己批判が外在的であることである。たとえば、「青山論文」の場合、共産主義者同盟の批判はあっても、ほかならぬ自己の問題としての反省が欠如している。しかも「哲学」的概念の操作に自己欺瞞的にスリカエる傾向がある。第二には、破産した共産主著同盟を「いかに」解体するかという組織戦術の欠如である。それゆえ、実現さるべき同盟についての展望の欠如として反映する。第三には、「立脚点」「プロレタリア的主体の形成」の自己絶対化である。したがって、党を「いかに」創るのか、党は「いかに」活動すべきか、という問題は、すべて彼岸のものになってしまう。そして第四には、以上の総体的結果としての大衆運動からの召還主義、春闘や学生運動の危機にかんする無感覚の自己合理化として現象する。  
革命的ケルンの創成、大胆な統一戦線の組織化を!  
われわれは、破産した共産主義者同盟を革命的に解体し、同時に、こうした解体過程を実現さるべき革命的同盟の実現過程として遂行していくために、まずもって、共産主義者同盟の内部で革命的転化をめざし苦闘しつつある同志諸君を、こうした「革命的戦旗派」指導部の深刻な誤謬から解放するためにたたかわなくてはならない。  
われわれはただちに、解体しつつある共産主義者同盟の諸潮流の内部に確固とした「革命的ケルン」を組織するための仕事にとりかからなくてはならない。この「革命的ケルン」は、破産した共産主義者同盟の革命的解体の主体的契機としてたたかうことによって、逆に、自己を実現さるべき同盟の実体として形成していかねばならないであろう。そしてまた、いっさいの革命的分子を大胆にマル青労同、ならびにマル学同に組織するための綿密な準備をおこないつつ、ただちに着手する必要がある。  
右の仕事をすすめるに際して、われわれは、いっさいの妥協を排し、きわめて原則的に行動しなければならない。党の問題にかんして、われわれは、なにひとつとして譲ってはならない。だが、革命的共産主義者は、どんな問題でも「絶対に妥協してはいけない」のだろうか。否! われわれは、全学連の革命的防衛のために、そして学生運動の革命的再建のために、大胆に統一戦線戦術を適用しなければならないのである。  
革共同西分派の諸君は、全自連との統一を実現せよ!という中間主義的意見を公然と大衆のまえで語りはじめている。旧ブント諸君の多くがこういう意見にたいしてあいまいな態度をとっていることは、きわめて不可解である。全自連=スターリン主義者にたいして、断固とした反撃を開始せよ! そのためにこそ、われわれは、可能なかぎりの部隊を結集して、スターリン主義者の攻撃から全学連を防衛するために、全力をつくしてたちあがらねばならない。  
すべての革命的共産主義者は 反帝・反スターリン主義の旗のもと 革共同全国委員会に結集せよ  
 
共産主義者同盟

 

共産同 (ブント)は、1958年に結成された日本の新左翼党派。学生主体の前衛党派としては、世界初といわれている。主に全学連を牽引していた学生らが日本共産党から離れて結成し、安保闘争の高揚を支えたが1960年解体。1966年に再建され(二次ブント)、1970年に再び解体し、戦旗派、全国委員会派、ML派、赤軍派など多数の党派に分裂した。ブントは1960年代後半の学生運動・全共闘と重なる部分が多い。またブントは複数の解体や分裂を経験したため、その組織実態や人員は時期により異なる。 事務局は、東京都文京区元町、後に千代田区神田神保町に置かれた。  
略称の「ブント」(ドイツ語: Bund)は、「同盟」を意味し、党名の「共産主義者同盟」は1847年にロンドンで亡命ドイツ人を中心に結成された「共産主義者同盟」(ドイツ語: der Bund der Kommunisten)に由来する。
共産主義者同盟(ブント)創設  
1950年代、日本共産党は、米ソ冷戦の激化・中華人民共和国の成立(1949年)・朝鮮戦争の勃発(1950年)、そしてそれに伴うコミンフォルム=スターリンからうけた批判により、主流派(所感派)と反主流派(国際派)に分裂するなどの混乱状態に陥った。そして終戦直後の、占領軍・GHQの「解放軍」規定、議会主義的な「愛される共産党」(野坂参三)の方針から転換し武装闘争路線をとった。その経過につれ、終戦直後の人々の支持も離れ、議会の議席はゼロとなった。当時、密かに渡航し、北京で指導部(北京機関)を形成していた書記長徳田球一も1953年客死した。1955年、共産党は、宮本顕治主導下に混乱を回復しようとし、武装闘争路線を廃棄(六全協)したが、党中央が以前持っていた権威は大きく低下した。また1956年にニキータ・フルシチョフによるスターリン批判・ハンガリー事件が起こり、ソ連の権威そのものも大きく揺れ動いた。  
当時、全学連という動員数最大の大衆運動を独自に牽引し、レッドパージの大学への実施を阻止する・砂川闘争を成功させるなど、さまざまな具体的実績を持っていた学生は、共産党中央の指導に大きな不満を抱くこととなる。そして、共産主義者同盟、略称ブント(Bund)を1958年12月に結成した。世界初の共産党からの独立左翼といわれる。初期の指導部は、香山健一、森田実らであったが、やがてより若い島成郎、姫岡玲冶(青木昌彦)、清水丈夫、北小路敏らのグループに移っていった。ちなみに綱領は作成されず、機関紙に掲載されたマニフェストがあるのみだった。組織も厳密に前衛党的な中央集権体制を強いたものではなく、ルーズなもので、組織づくりも大衆闘争のなかでしかありえない、という発想のもとに成り立っていた。同盟員数は設立時点で約300人、1959年8月時点で約1400人、60年安保闘争時には約3000人程度だった。若い活動家の中には、林道義、西部邁、柄谷行人、平岡正明、加藤尚武、長崎浩、などもいた。  
59年6月全学連新人事で同盟員の唐牛健太郎が全学連委員長に就任。1960年までブント主導下の全学連が実現することとなる。唐牛は全学連委員長就任時「天真爛漫にデモ・ストライキを行います」と言ったという。実際ブントの行動形態は、従来の左翼教条主義的なリゴリズムとは一線を画すものとなり、ジャーナリズムの非難も、「赤い太陽族」「赤いカミナリ族」といった、それまでの左翼攻撃とは異質なものとなった。
60年安保闘争  
1959年、岸信介内閣による、日米安全保障条約という国際政治における占領体制の総決算が行われようとしていた。改定反対派、改定推進派ともに、次第に、条約改定点の具体的争点ではなく、「平和」「民主主義」「ヒューマニズム」「進歩主義」といった戦後体制の理念そのものが争われる場となっていった。ブントは、1959年8月第三回大会において「ブントのすべてをぶちこんで戦う」ことを決議した。59年11月27日には、総評・社会党などからなる二万数千人の国民会議と全学連5千人が統一行動をとり、全学連は正門を突き破り、国会構内に入った。構内は一万余のデモ隊と組合旗や自治会旗に埋め尽くされた(11・27国会構内大抗議集会)。これは周囲を驚愕させた。1960年1月16日政府代表団渡米阻止の羽田空港篭城では、唐牛健太郎・青木昌彦以下幹部同盟員のほとんどを含む77名が検挙され、「ゼンガクレン」の名は世界中にニュースで配信された。しかし、これには非難が巻き起こり、自民党は全学連にたいする特別立法を提案し、社会党は安保共闘から全学連を排除することを主張し、共産党は反革命的挑発者と非難した。当時裁判を担当する弁護士の成り手がいなかったという。4月26日には国会チャペルセンター前に主流派全学連一万人が集まった。この動員は根こそぎだった。ブント中央はこの闘争に命運をかけた。全学連委員長唐牛健太郎が国会前で板張りトラック阻止線を飛び越え、後に続くことを求めた。学生3千人が後に続いた(4・26国会チャペルセンター前バリケード突破闘争)。  
しかし、この闘争を境にしてブントは中央から末端細胞にいたるまで、解党状態に陥ってしまう。  
5月19日国会で強行採決が行われ、院内に自民党は300名の右翼集団を入れた。ここで展開が起こり、連日大衆デモが行われるようになった。5月26日には空前の17万人のデモが国会前で発生した。しかし、全学連1万人は何ら行動方針をもたず、統一行動の巨万の波間に終日埋没するだけだった。  
現実の展開は全学連書記局指導部の予想と思惑をはるかにこえて動き始める。  
6月4日には国鉄労組がはじめて政治ストを行い、丸山真男が「行動へ」という文章を書き、鶴見俊輔らが無党派を標榜する市民グループ「声なき声の会」を結成し、吉本隆明は6月行動委員会というグループを結成して、ブント全学連と同伴し、石原慎太郎、大江健三郎、江藤淳、寺山修司、谷川俊太郎らは「若い日本の会」を結成した。一方、全学連主流派は、6月15日当時の全学連委員長代理の北小路敏の指揮の元、2時に学生2万人が国会前に集結し、5時に南通用門から国会構内に入り、集会をおこなった。7時に排除命令が出て排除されたが、8時にデモ隊は再度構内に入った。そのときには、全学連の行動を心配した教員・教官たちが多数、デモに参加した。10時に機動隊による強制排除が行われ、催涙弾が打ち込まれた。重軽傷者712人逮捕者167人が発生した。ここで同盟員でもあった樺美智子が軋轢の中死亡した。  
この死亡に抗議し、大学では多数ストライキが行われた。教員たちも全学連に同情的となった。6月18日、国会前で学生・労働者・市民の33万人のデモ・包囲が徹夜で発生した。そのなか岸内閣は、日米安全保障条約を自然発効させた後、総辞職した。1ヶ月後平和な秩序が戻った。
ブント解体  
ブントは、闘争が大きくなればなるほど普段政治に関心をそれほどもたないものの参加が雪だるま式に膨れ上がり、また彼我の対立が大きくなればなるほど組織体としての統一を保持することはできなくなった。直接行動主義は、あるものからすれば指示系統のなさからくる跳ね上がり・無駄な流血・体当たりの極左戦術に見え、またあるものからすれば指示系統の重視・優先は、はじめから全てのことを理解していたかにいう、「火中の栗」を拾おうとしない現実的な手腕のなさからくる党派性に見えた。また、動員の「倍々ゲーム」を際限なく推し進めることは不可能だった。ブントは1960年7月29日第5回大会を行ったが、60年安保闘争評価をめぐって紛糾のうちに自然流会し、以後統一した行動はなされず、事実上解体した。後に指示系統と党の必要性を感じたもの(清水丈夫・北小路敏など)は黒田寛一の革共同に合流した。近代経済学(西部邁・青木昌彦など)や学究に移行したものも多数いた。島書記長は沈黙を守った。いずれにしても60年安保時、指導的位置を占めていたものは多数ブントから離れた。  
第1次ブント解体後の諸派  
関西ブント  
中大ブント 独立系。  
マル戦派 (マルクス主義戦線派) 革通派の流れを組む。静岡高校フラクションや慶應大の指導部からなり、宇野経済学とその弟子である岩田弘の理論で武装した学生運動のエリート集団。1965年参院選においては、革共同中核派、三菱重工業長崎造船所社会主義研究会と共に浜野哲夫(池内史郎)を支援した。  
明大ブント 独立系。  
二次ブント結成  
廣松渉によれば1950年代後半には東大駒場学生の7割が安保反対・共産党支持であったという。一次ブントと二次ブントは、名称こそ同じであるが規模は異なる。分裂経験前の68年3月末の第7回大会の時点で二次ブントの同盟員は330名程度であった。  
まず、1960年一次ブント崩壊後も、関西では「関西地方委員会」は丸々残っていた。1962年には「関西ブント」ができる。関東では、ブントではなく、いわゆる「下部組織」である社学同(社会主義学生同盟)の結成の模索が、さまざまな背景を持ちつつ、ごくごく少人数であるが進められ、最終的に、中央大学・明治大学を中心とした独立社学同が、関西ブントと1965年6月、統一委員会を形成した。次に、岩田弘の「世界資本主義論」を基盤としたマルクス主義戦線派が、統一委員会と合同し、1966年9月、再建第6回大会をもち、二次ブントが結成された。岩田弘の『世界資本主義論』「生活と権利の実力防衛」などの内容が綱領的な中身となった。同月、全学連再建準備会がもたれ、「全国の大衆的な学生自治会の連合による徹底的な大衆闘争を戦う」(三派全学連)ことを目指した、いわゆる三派全学連が再建され、35大学178自治会が参加し、1966年12月、明治大学記念講堂で大会を持った。のべ3000人はいたという。
街頭闘争  
60年代後半の激しい政治活動は、1967年の10・8佐藤栄作首相訪ベトナム阻止(第一次羽田事件)から始まる。ここではじめてヘルメットと角材が公然と登場し、2000人の三派全学連が機動隊と激しく衝突し、58人が検挙される。1967年11月3日には三里塚闘争に初めて三派全学連が組織的に参加。1967年11月12日には、3000人が集まった第二次羽田闘争。347名が検挙される。1968年1月、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。東京と現地で抗議活動が行われ、1968年1月17日には三派全学連1500人が佐世保で機動隊1400人と激突した。佐世保市民も三派全学連を応援したという。1月18日には社共主催の佐世保5万人集会。1月19日には東京日比谷で昼一万人、夜は5千人の集会とデモ。社学同250名は外務省4階に乱入、89名が逮捕された。2月26日には三里塚空港実力粉砕現地総決起集会。反対同盟1千人、三派学生1600人など3000人が集まった。3月には王子野戦病院設置阻止闘争。三派系全学連1500人が集まり150人が逮捕。このころから「市民」ならぬ「群集」が登場し5000人が、機動隊を包囲して投石を行った。闘争ごとに大量逮捕が当たり前となっていく。  
このころまで街頭闘争を支えていたのはあくまで各党派の活動家集団だったが、背後で、「なにかとんでもない量的・質的拡大が準備」されていく。都内のデモ隊列の脇の歩道にはいつも膨大な「野次馬」が随伴した。東大紛争が盛り上がり、無風地帯だった最大マンモス大学の日本大学でも1968年秋には闘争が始まる。それまでほとんど見えなかった無党派の活動家がどっと出てきて、「ノンセクト・ラディカル」という言葉も聞かれるようになる。1968年11月22日に東大本郷構内で東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会、学生二万人が参加した。  
1968年10月8日、21日と新宿で米軍タンク車運行阻止闘争、特に21日の国際反戦デーには、新宿駅前で群集・野次馬が10万人集まり、新宿伊勢丹前まで人がうまった。750人が逮捕され、騒乱罪が適用された(新宿騒乱)。21日には同時に、社学同の学生たちにより、防衛庁前でも突入が図られた。全学連委員長だった藤本敏夫はここで検挙された。
全国学園闘争  
一般に思われているのと異なり、全学共闘会議(全共闘)は、その活動の指導的立場にいた当事者の多くは沈黙を選び、その経過の全貌、理念、形態は未だ充分明らかにはなっていない。三派全学連や二次ブントその他の新左翼諸党派との関連も不鮮明で、三派全学連と全共闘を混同するな、とする当事者も存在する。従来の学生自治会、そして全学連を基盤とした運動とは違うことに留意が必要である。  
なおすが秀実がその著『革命的な、あまりに革命的な-「1968年の革命」史論』において「68年(の革命)において決定的な重要性」をもつとしている、ノンセクトのアクティビストであった津村喬は、全共闘を、1984年になって「国家権力奪取が革命だとはだれも考えなくなり、具体的な局所での国家との対峙が課題」となり「大義に頼らず、消費社会の相対主義に解体されてしまうことなしに、どうやって国家とのあらゆる局面での対峙を続けうるのか、「交通」を可能にするか、これこそが、ここ十余年にわたっていく十いく百万人の人々が必死で模索してきたことである。この実践の束と網の目にこそ全共闘の「総括」はあった」と総括している。  
例外的に学生側の勝利に終わった、65〜69年の中央大学学費・学館闘争の指導的立場にいた神津陽は、「当初の全共闘的組織は、65年の慶大学費闘争での全塾闘争委員会、65〜69年の中大全中闘(全学中央闘争委員会)の学費・学館闘争や66年の明大全学闘(全学闘争委員会)の学費値上げ反対闘争のように、特定のストライキ目標のためにつくられた全学自治会決議による処分対象者を少なくするための臨時闘争委員会の形を取った。だが学部自治会はあるが革マル派・解放派・民青系などの党派対立で全学自治会が作れなかった早稲田大学での、66年の学部自治会共闘組織としての早大全学共闘会議が、名称のみが一人歩きして後の「全共闘」の名称の由来となったのだ。68年東大闘争では当初は医学部全共闘委員会、次に各学部組織の寄り合いに大学院も加えた全共闘が自治会組織にとって代わった。同じく日大闘争においては全共闘は自治会を認めぬ学校にたいする自主的学生組織名となったのだ。68年初めから東大・日大闘争に併行して燎原の火のように広がった自発的全共闘運動は、瞬く間に革マルや民青や栄誉を誇った三派系などの自治会単位加盟の全学連組織に取って代わった。なぜなら、上部組織としての全学連の加盟には自治会組織の特別参加決議が必要であり、加盟金も上納し役員も出さねばならぬし、上命下服の組織的拘束もあったからだ。だが全共闘の最大の特色は学校状況に不満を持つ有志があつまり結盟すれば、勝手に全共闘を名乗れた点だ。全共闘のこの気楽さといい加減さは、政治変革を志す意識的学生の集合体である全学連活動家像とは異なる広範な拡大を見せた」と述べている。68年〜69年にかけて30数大学がバリケード封鎖のまま越年した。  
二次ブントは65〜69年の中大学費・学館闘争、66年明大学費闘争などに関わり、69年1月の東大安田講堂事件には社学同200名が、バリケード封鎖に加わった。しかし、1969年1月安田講堂の機動隊によるバリケード封鎖解除時は、ブントの政治局は「すべて社学同は政治局の支援なしに独自にやるべし」という方針だった。また66年明大学費闘争時は、1967年「2・2協定」と呼ばれる大学当局と自治会執行部トップのみでの独断的合意が政争の源となり、明大から出た社学同系の三派全学連委員長は辞任した。また、68年2月16日の中央大学学費値上げ白紙撤回時には、当時の学対部長塩見孝也の意を受けた「70年安保までの永続バリケード」が一部提起されたが、学生からは非難を受けた。
二次ブント分裂と解体  
まず1967年前半、明大紛争2・2協定問題で、明治大学独立社学同グループが四散する。次に1968年3月末のブント第7回大会で67年10・8羽田闘争をリードしてきたマル戦派が離脱する。結果として関西派主導の新執行部となり、その関連で、塩見孝也の「過渡期世界論―世界同時革命」論が、前景に出る。68年12月の第8回大会では、中央大学学費値上げ白紙撤回を獲得した中央大学独立社学同(後に叛旗派結成)との兼ね合いで、「軍事」力学主義の関西派は後景に退き、統一委員会派のさらぎ徳二が議長となった。  
68年10月21日の防衛庁突入闘争、新宿騒乱地点あたりから、ブント政治局は、明確な方針を打ち出せなくなる。69年1月東大紛争では、荒岱介率いる社学同に撤退を指示したが拒否される。中大独立社学同は、ブント中央ー学対の統制を離れる傾向を強る。ブント政治局は4・28沖縄闘争前3月塩見孝也に政治局を辞めることを要求する。塩見孝也グループは、塩見の「過渡期世界論―世界同時革命」以来の「軍事」主義をさらに強め「前段階蜂起」という主張の元、4・28沖縄反戦デー闘争の前に、分派を形成する。6月あたりから「赤軍派」と名乗ることとなる。  
1969年4月28日の学生など一万人が、霞ヶ関占拠を目指し東京―新橋―御茶ノ水駅などで「武装」デモを行った、沖縄反戦デー闘争では、その前日に、ブント議長さらぎ徳二などに破壊活動防止法が個人適用される。ブントへの団体適用ではなかったが、明確に組織潰しが目的とされていた。また沖縄反戦デー闘争では、すでに東大闘争や各大学のバリケード攻防戦でベテランアクティビストは検挙されていて、初歩的なデモの知識もない層が主体となっていたため惨澹たるものとなった。機動隊の武装も進み、ジュラルミンの大盾や投石ネット、装甲車から特殊車両まで部隊編成も刷新されていた。  
このような情況のなか、1969年7月6日、塩見孝也率いる赤軍派フラクション150〜200名が、東京医科歯科大学で総決起集会を行った後、ブント合同会議(地区代表・学生細胞代表)が開かれる予定だった明大和泉校舎へ行き、破防法で指名手配されていたさらぎ徳二議長をクーデター的に監禁し、会議の場を制圧し議長を椅子に縛って暴行を加える。さらぎ徳二議長はその過程の結果、逮捕された。 翌日には、報復的に、『叛旗』に結集する中大のグループ100〜150人が東京医科歯科大に行き、塩見以下赤軍フラクションのメンバーを連れ去り、中大学館に2週間ほど監禁し、塩見らとともに脱出を図った同志社大生の望月上史が3階から転落し、数週間後に死亡するという新左翼運動初の内ゲバによる死者を出し、ここで分裂が決定的なものとなった。1969年8月22日ブント第9回大会で、赤軍派幹部12名は除名された。  
さらに、1970年6月豊島公会堂で開かれた政治集会で、叛旗派・情況派と荒岱介率いる戦旗派が公然と対立する。その後6月14日には叛旗派と情況派が代々木公園の集会場でぶつかり合う。  
このように、二次ブントは4年余りで完全に分裂し、四分五裂し、全体として勢力を失った。
余波としての赤軍派「軍事」路線  
赤軍派は除名後も、除名を認めず、「ブント赤軍派」分派と言う形で活動を開始する。1969年8月28日赤軍派結成総会が30名で開かれ、塩見孝也が議長となった。9月4日には政治集会が開かれ、300名程度を動員、自衛武装から攻撃的武装への開始を宣言(「世界革命戦争宣言」)。武器奪取、街頭遊撃線戦の開始を開始する「大阪=東京戦争」を宣言。前段階武装蜂起を宣言した。  
そして9月5日の2万6千人が集まった日々谷野外音楽堂で開かれ全国全共闘連合結成大会(議長山本義隆副議長秋田明大)に赤軍派は公然と登場し、烏合の社学同を蹴散らした。  
しかし、11月5日山梨県大菩薩峠で、首相官邸占拠のための軍事訓練をしているところを警察に発見され(大菩薩峠事件)、53名が逮捕。実質的な決起戦闘部隊が壊滅した。この敗北の中で「国際根拠地論」が出てくる。70年1月19日、700〜800名集まった御茶ノ水電通会館で再起のための政治集会が開かれ、70年秋期前段階武装蜂起、国際根拠地などの方針のもとに再起を宣言。3月初めには、中央委員会で、ハイジャックの方針を決めた。3月15日塩見は逮捕されるが、予定通り、3月31日よど号ハイジャック事件は決行され、北朝鮮に渡った。当時は目標地としてのキューバへの中継地として設定されていた。この事件のあと日本に残った中央委員はほとんど逮捕。指導系列は解体した。  
さらに別の一部メンバーはアラブの地へ赴き日本赤軍を結成した。最後まで日本に残った赤軍派のメンバーの残党一部は京浜安保共闘(日本共産党(革命左派)神奈川県委員会)と統合して連合赤軍を結成。「山岳ベース事件」、「あさま山荘事件」を起こした。
四分五裂  
70年安保闘争の結果は、新左翼運動の急速な後退化をもたらした。そのような状況の総括と展望をめぐって、ブントは四分五裂状態になる。この第二次ブント分裂で「赤軍派」「戦旗派」「叛旗派」「情況派」「烽火派」など大小様々なセクトが誕生した。赤軍派が「赤軍」の形成を主張し、戦旗派は「共産主義突撃隊」の形成を主張するなど、過激な武装闘争路線を打ち出すセクトもあった。なお、同じ武装闘争路線でも赤軍派と戦旗派は軍事の主導権をめぐり党派闘争を開始する。また、軍事には反対していた叛旗派(ただし、三里塚第二次強制代執行においては武威をしめした)や情況派(のちに遠方派と遊撃派に分裂)が、赤軍派や戦旗派と対立した。叛旗派はブントの機関紙『戦旗』の編集局をおさえ、戦旗派に属したブントの議長をはじめとする最高幹部や中枢を、「ブントから除名する」という内容の『戦旗』特別号を発行した。ただちに戦旗派は、ブント中央の名前で、叛旗派を除名する。しかし、戦旗派では赤軍派との抗争、叛旗派への対応をめぐり戦旗派の中にも内部闘争が起こり、70年12月18日に事務局を掌握した、日向翔(荒岱介)率いる「戦旗派」(戦旗日向派、戦旗荒派)と、第8回ブント議長の仏徳二(さらぎ・とくじ)率いる「鉄の戦線派」に分裂した。鉄の戦線派はさらに、同じく第二次ブント分裂の際誕生した神奈川県左派、南部地区委員会と合同してもう一つの戦旗派(蜂起派、連合戦旗派 通称12・18ブント)を結成し、戦旗日向派と対立する。その後も、各派は更なる分裂を繰り返し、最終的には共産同系のセクトは17、8派にまで細分化してしまった。その後もたびたびブント諸派を統一しようという「大ブント構想」(革マル派によるネーミングである)が持ち上がるが、実現しないまま現在に至っている。  
なお、70年代以降の学生運動の退潮期においても、学生自治会・サークルなどの大衆基盤で比較的強い勢力を維持していた関西の諸大学(および首都圏の一部大学)では、ブントの学生組織がそのまま脱セクト化した結果、ノンセクトであるにも関わらず、ブントのシンボルカラーである赤色のヘルメットを1980年代に至るまで被り続けており、「赤ヘルノンセクト」と称された。  
1980年代、社会主義労働者党(社労党)は4時間労働制実現を掲げて各種選挙に挑戦したが、議席獲得には至らず、党勢は停滞。「ワーカーズ・ネットワーク」などとの分裂を経て、2002年に「マルクス主義同志会」に改称して現在に至る。共産同ML派(第一次ブント分裂の際誕生)の系譜を引くマルクス主義青年同盟は民主統一同盟に改称し、日本共産党に接近するも失敗。現在は「がんばろう!日本!! 国民協議会」と名乗り、右翼に転向した。戦旗派は1973年、地下軍事組織が爆弾闘争を行い(黒ヘルグループが冤罪で逮捕された)、その総括をめぐって、日向派(荒派、戦旗・共産同、党建設重視)から西田派(両川派、共産同戦旗派、武装闘争重視)が分裂した。荒派は1997年、名称をブント(BUND) に変更。2008年にはアクティオ・ネットワークと改称し、エコロジスト系市民団体(首都圏反原発連合等)に転換、若手の獲得にも成功した。一方、西田派は共産同全国委員会(烽火派)と合併し「共産主義者同盟(統一委員会)」となった。  
第二次ブント分裂時に派生した幾つかのセクトが統合して誕生した赫旗派はさらに親中共派系の日本共産党(マルクス・レーニン主義)と統合し労働者共産党を結成、さらなる他セクトとの統合を目指している。 
 
安保ブントの結成と解体

 

安保闘争という革命  
共産主義者同盟(第一次ブント、安保ブント)は結成いくばくもなく安保闘争に遭遇した。安保を闘うためにブントを結成したのではなかったのに、結果として安保闘争の最先端を走り安保闘争とともにブントは解体した。振り返れば、ブントの幸も不幸も(運も不運も)安保闘争にあった。というのも、ブントとして安保闘争を闘って最も奇妙な経験だったのは、これがありきたりの大衆運動でなく、一個の革命だったということである。安保闘争が革命だなどといえば異論が出るだろうから、革命の指標を列挙してみる。 .  
1.安保闘争は内閣を打倒した  
安保闘争は岸内閣を打倒した。安保闘争は大詰(60年5月19日以降)になると、ブントの意志に反して「キシヲタオセ」一本に絞られていった。「民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。そこに安保をからませてはならない。安保に賛成するものと反対するものが論争することは無益である」(竹内好、六月四日)。社会党は早速スローガンを変えて、「民主主義擁護」と「国会解散」を唱えた。「民主か独裁か」、この点で「独裁」は阻止されたのだから安保闘争はまさしく勝利したのである。ブント同盟員はせせら笑って聞いていたが、当時、これは革命だと騒いだ保守派の政治家がいたそうである。たかが内閣一本倒れたにすぎないと評すこともできよう。だが、そういえば、大衆運動が内閣を打倒したのは、わが国ではほとんど空前絶後のことなのだった。(日比谷焼打事件が桂太郎内閣を退陣に追い込んだ例がある、1905年)。岸を継いだ池田内閣以降は、自民党幹部と内閣の性格が一変する。岸信介の悲願とした憲法改正も再軍備もタブーとなった。「低姿勢」を唱えて、所得倍増政策の実現に邁進するのである。安保闘争以前、一九五五年の世論調査では憲法改正に賛成がなお三〇パーセント、反対二五パーセントを上回っていた事実を想起すべきである。  
2.安保闘争は未曾有の規模の大衆運動だった  
安保闘争は街頭デモを主要な形態としたが、動員数がまた空前絶後のものだった。国会審議に合わせるようにして、「安保改訂阻止国民会議」主催のデモが一年余にわたり一九回組織された。最盛期には動員数が全国で五八〇万人に上った。敗戦後の混乱(戦後改革)が一段落した後に、五五年から戦後民主主義を擁護する「国民運動」が始まり六〇年安保闘争になだれ込んでピークを作ったのである。そして安保闘争をもって、この政治スタイルがぴたりと終息する。一般に、「五五年体制」が一九五五年から九三年まで続いたといわれているが、そうではない。五五年から始まり六〇年安保闘争をもって終わる一連の政治過程と大衆動員のスタイルとがあったのである。安保闘争が終わってはじめて、いわゆる保革対立の政治過程「五五年体制」が確立する。いわゆる五五年体制論では、安保闘争の規模と画期を説明できない。  
3.安保闘争は権力を奪取した  
安保闘争は「勝利」したと先に指摘したが、勝利したのは国民運動の国民とこれに同伴した知識人である。国民を主として都市市民に限定してもかまわない。国民は安保闘争に勝利することを通じて、戦争と貧乏と(部分的ながら)対米従属を忘れ、戦後民主主義を受肉した。これをもってはじめて、人びとは「国民」あるいは「知識人」になったのである。堰を切ったように高度経済成長と大衆消費社会へと傾れていく気持ちの整理がついたのだった。社会党(左派)は議席を伸ばし、東京都をはじめとして革新自治体が普通のことになる。国民を忘れては政治運営ができなくなるのはこの時期以降のことである。よかれあしかれ、国民主権が政治の前にどっかりと居座るようになった。安保闘争が奪取したのは社会権力であり、これは一つの国民的社会革命だった。  
4.安保闘争は日本の近代百年を総括した  
戦後民主主義の受肉とは、戦前には果たせなかった生活と権利の国民的享受が可能になったことを意味している。国民は安保闘争に勝利しただけではない。これをもって「明治百年」が完結したのである。「近代化」という言葉は当時「ケネディー・ライシャワー路線」だとして左翼知識人に嫌らわれた。けれども、安保闘争は西洋流儀でいって近代国民革命の完了を意味するものであった。  
5.安保闘争は第二革命としての全共闘運動に引き継がれた  
一九六八年の全共闘運動は、国民革命の成果と大衆消費社会を前提にして発生したものであり、同時に、近代から「現代」への転換を指し示すものとなった。これで時代の風景が一変する。同じことは同時多発的な世界の学生反乱についていえることであるが、わが国の場合は「一九六八年の世界革命」は安保闘争から全共闘運動へと一連の経過をとった。全共闘運動は政治過程に影響するところがなかったが、安保闘争に潜伏していた一側面(大衆の反乱)を深追いしたのであり、安保に続く第二革命の試みと評することもできる。
ブントの組織に逆流する革命  
ブントは安保闘争が革命だと考えたことはない。ブントの理念の中の革命は、大筋で、マルクスおよびマルクス・レーニン主義の原理主義的復興だった。安保という大衆運動にブントが組織を賭けるのも、これを通じて社民的指導部を突き抜けて労働者本体に接近し、プロレタリアートのうちに新しい前衛を確立することだった。ここに同盟員の夢も盟約もあった。  
だとすれば、安保闘争が革命だったとしても、ブントの理念の中の革命とこれが似て非なる革命だったのは当然である。未完の革命としてブントの革命へと永続する性格のものでもなかった。総評の言葉では、労働者も「日本国民として日本の政治に対して意志を表すことに遠慮はないと考えます」(60年6月4日)ということだった。労働者階級の闘争ではなかったし、プロレタリア革命の萌芽を宿す類の運動でもなかったのである。ブントの革命の理念など、まずは国民にとって私事にすぎないのだから、そんなことにお構いなしに国民が安保闘争の主役に躍り出たとしても非難されるいわれはない。ブントの「外」に別の「革命」が存在した。  
後から振り返ってみれば、こうした革命にたいする備えというものがブントの理論にまるでなかったことに驚かされる。安保闘争の中でブントの主張は絶えず、「革命か改良か」の原則論と「過激か日和見か」の戦術論に引き裂かれていた。この両者の「中間」のところに本当は「党にとっての理論」があるはず(あるべき)なのだが、それがはっきりつかめない。本当は、「革命か改良か」などが問題だったのでなく、異なる革命が対立していたのだが、ブントは同盟員の「ボリシェヴィキ化」などと根性主義を唱えることで事態に対処しようとした。だが当時、安保闘争という革命に理論的な備えのある者など、誰かいただろうか。誰も自分の言動が何であるかわからないままに歴史を動かすこと、これもまさしく革命というものの性格である。  
ブントには教師も欠けていた。古くからの大人の革命家たちが共産党からだらしなく除名されるのは安保の後になってである。辻正信が東大の自治会室に話し込みに来たが、意見をしに二・二六反乱の本部に勝手に押しかけた石原莞爾といったところだったか。知識人の状態については、「思想オタク」の資料集めといった体裁の大作『<民主>と<愛国>』(小熊英二)を参照するといい。大衆消費社会への堰を切った安保革命は、歴史学の面白い課題だと私は思う者だが、いまも果たされていない。  
ブントの理念の中の革命にとっては、安保闘争は一言でいって道具であった。ところが、これもまた安保が革命であった証左だが、ブントの同盟員自身にこの革命の精神が乗り移ってしまう。もともと、「安保がつぶれるかブントがつぶれるか」とはっぱをかけられて学生同盟員は走り出したのである。共産党を経由しないで直接に加盟した現場活動家がブントメンバーの過半を占めるようになる。そして何よりも、全学連という大衆運動の先端で、無党派の活動家たちが過激化していった。ブント指導部からは同盟員の「社学同化」などと警戒されたが、両者はもう区別がつかない。安保闘争のピークにいたってブントの革命は別の革命に見事に乗っ取られてしまったが、しかしこれと対照的に全学連の人気が高まっていった。ブントは期せずして、別の革命の先端を切って走りその勝利に貢献してしまっていたのである。ブントが高度成長社会への堰を切った。  
安保闘争の動員数が半端でなかったことは先に触れた。たとえば最盛期、首都圏の国会デモ。雲霞のごとき群衆の真ん中で、「新しい前衛」(ブント)といえども身動きが取れない。「乗り越えられた前衛」というタイトルのルポが東大学生新聞に掲載された。毎日この状態が続いた。当時、街頭で私をびっしりと囲繞していたものの正体、あれが革命というものだったのだと、私は後に思うようになった。私自身の昔の文章を引用することをお許し願いたい。「急進民主主義の肉体が街路に砂塵を上げてかけぬけたとしても、これが内心の古典的な夢をうらぎっていったのは当然であった。君も知るように、内的なものと肉体の過度の動きとの統一の崩壊は、ぼくらにとって苛酷であった。」(叛乱論)  
革命の中のこのような急進派のスタイルが、今度はブントの組織内部に逆流を開始する。ブントは安保闘争が終わるとともに幾つかの分派に解体した。解体にいたる時期(六〇年の六−八月)の党内闘争で、スタイルの逆流が明瞭に露呈した。現場活動家が現場急進派のスタイルでブント指導部を批判したのである。ところが、批判するほうもされるほうも、本当は何が問題なのか分かっていないから、論戦は空転するばかりであった。安保闘争のような革命に、ブントの備えがなかったことがここでも再演された。学生の批判ならまだ指導部は押さえることができたろう。ところが意外なことに、ブントが虎の子のように育ててきた労働者たちが、学生同盟員の批判を引き継いで執拗に指導部を追及し、追及を回避することが不可能になってしまった。労働者同盟員を含めて、何かわけのわからないことがこの論戦に露呈していたのである。それはマルクス主義の古典に相談しても、科学的経済学を参照してもわかる類のことではない、何か初めてのことでありすぎたのである。  
おそらく、党が革命に遭遇するというのは、いつの場合もこうしたことなのであろう。私はブントの幸も不幸も安保闘争にあったといったが、革命家がそうざらには経験できない運あるいは不運であったと納得することもできよう。  
それゆえ安保闘争の後に、ブントがブントとして生き延びる余地はなかった。「安保闘争の挫折」は思ったより射程が深かったのである。「安中派の連中ときたら、なにもかも宇宙ロケットみたいに射ちあげて行方不明にしてしまったとみえる」と、倉橋由美子が当時書いていた(『聖少女』、1965年)。ブント解体をもって始まる大衆消費社会の中に投げ出されて、行方不明にしてしまったものを思考し直すことだけが残された。これがわが国の六〇年代である。
左翼反対派という党派性  
ブントは安保闘争の先陣を切る大活躍をするとともに、それなのに(それゆえにというべきか)この闘争の終わりとともに解体した。安保ブントの同盟員はそれぞれ高度成長社会へと散っていき、既成左翼にたいする「新しい前衛党」の試みもこれでお仕舞になるはずであった。ところが、六〇年安保闘争が終わりブントが解体した後にも、全共闘運動にいたる六〇年代を通じて、新左翼系のマルクス主義諸党派がなくなることはなかった。安保闘争タイプの大衆運動が底をつき、次の展望などまるで見えない六〇年代の半ば、つまり高度経済成長の最盛期を通じて、彼らは党派性を持続させた。持続させて七〇年安保闘争を準備し、これが思いもかけずに全共闘運動につながっていった。この党派性は連合赤軍あるいは党派間の内ゲバ殺人として七〇年代をかけて持続した。党派性は病理を露呈して終わった。明らかに、安保闘争とブントはマルクス主義的党派性の何かを積み残して、六〇年代に投げ出していたのである。  
ブントは安保闘争を革命だと考えたことはない。では、革命はどこにあったのか。とりあえずは新しい前衛、ブントの理念と盟約の中にあるほかないのである。一般に、これが党派性というものの核心である。マルクス主義の理念では革命は「プロレタリア革命」でなければならない。しかし現実の労働者は、社民的な指導部の下に階級利害の追求にかまけている。マルクス主義の革命に立つ限り、とりあえず革命は前衛党のイデオロギーと部隊の場所だけに確保されるしかない。これが、マルクス主義(あるいは労働者階級)の左翼反対派の立場である。  
「安保闘争にすべてを賭ける」、「安保がつぶれるかブントがつぶれるか」という掛け声が、安保闘争のどこかの段階でブントに支配的になる。文字通りに受け取れば、この大衆運動玉砕主義は左翼反対派の立場に抵触する。ブント組織の底流に、労働者階級の左翼反対派と戦術左翼の対立が消えることはなく、対立はブント解体期に一斉に顕在化した。  
安保ブントが潰れてブントからの人的継承性も断たれたにもかかわらず、(ブント幹部がトレードされた革共同が存在したせいか)、その後に新左翼諸党派の形をとって受け継がれたのも、左翼反対派という党派性であった。革命は左翼反対派の党の中にだけ存在する。そうだとすれば、党の立場と現実の労働者階級との間には、組織的だけでなく思想的にも千里の径庭がある。両者の隔絶を縮めて行くことが前衛党の役割にならざるをえない。「革命か改良か」という問題の立て方がここから必然的になる。当時の典型的文体は次のようなものだ。「現在の日本において、あらゆる政治闘争も革命運動も、現代資本主義の安全弁として存在する膨大な社民と共産党のイデオロギーと部隊が、同盟のイデオロギーと部隊によってつき破られ、ヘゲモニーをとられることなくしては革命的に推進されえないという性格を付与されている」(叛乱論)。二〇世紀初めローザ・ルクセンブルグやレーニン以来、革命党の立ち位置がこれだった。  
安保ブントは自らこの党派性の根を絶つことができなかった。  
マルクス主義左翼反対派の立場は、形式的に、次の三つの形をとる。第一は、黒田寛一(革共同革マル派)の場合のように、「プロレタリアートの自覚」に達した人間の共同体を拡大するという啓蒙的な立場になる。第二はルカーチの場合である。ルカーチの物象化理論によれば、現実の労働者階級もその階級闘争も物象化されており、前衛党の啓蒙を受け付けるものではない。党と階級の径庭を埋めるのはただ階級闘争の実践課程だけなのだが、マルクス主義の真理によれば、労働者階級が潜在的に孕んでいる「プロレタリアートの立場」が実践の中であぶり出されるはずである。ルカーチといえば、ベラ・クーン大統領のもとで革命政府(一九一九年)の若き閣僚だった。その大統領が述べている。ハンガリー革命では「階級意識をもった革命的プロレタリアートがいなかった・・・労働者階級は自身の工場で「プロレタリア独裁を打倒せよ」と叫び続けた」。  
最後に第三の類型。労働者は資本主義社会の秘密を自覚できないから(「自覚せざるをえない」などとはいえないから)、労働者に社会主義を外部注入する「インテリゲンチャの前衛党の巨大な役割」がある。これが宇野派の経済学者が勧めることであった。安保ブントの場合、これはわが国の特殊な事情だが、宇野派の前衛党論との関係が特に重要である。ブントにたいする宇野派の影響は両義的であった。一方では、宇野経済学の場合、原理論(資本論)は何人も認めざるをえない科学であり、したがって資本主義社会の没落の必然性を確証するものではない。階級も階級闘争も原理的には登場しえない。革命はただ実践にあるのみ。この提言を真に受ければ、革命は科学(科学的マルクス主義)から解放される。革命は自由である。  
しかし他方、労働者が「科学」の真理に自然に達することはありえないといわれた。科学はインテリゲンチャの発見したものであり、この真理は外部から労働者に注入するしかない性格のものである。これが前衛党の役割である。これは典型的に左翼反対派の党であるが、党の役割の進め方は黒田的でもルカーチのやり方でも構わない。論理的にはそのはずであるが、実際は違う。党の理論が原理論だけであれば、外部注入は啓蒙になる。そうではなく、党の理論とは原理論に根拠づけられる段階論および現状分析の性格のものでなければならない。すなわち、経済危機(今日の世界金融危機など)を「資本主義の根本的限界」が歴史的に露呈したものとして客観的に説明する。と同時に、世界各地から反資本主義的闘争の具体例を拾い集めて、これも資本主義の危機の歴史的「必然」だと説明する。ところが一方で、宇野学派は革命的闘争を「自由」へと売り渡してしまっている。「歴史的必然」とこの「自由」が結びついたところで、主観主義と客観主義の両極を抱え込んで「危機論」が生まれた。危機を認識し歴史に身を持ち崩せと暴露宣伝するのが、前衛党の党派性になる。安保ブントだけでなく以降のブント系諸党派にとって、左翼反対派の立場を護持する上でこのような危機論の役割は根強かったであろう。  
左翼反対派の立ち位置は、それぞれの理解するマルクス主義の内容いかんを問わず論理的な必然である。そして、安保ブントが既成左翼にたいする「新しい前衛」、新左翼の別党コースに踏み切った時、その内部に左翼反対派の三つの立場が未分化のままで混在していた。
党からの革命の解放  
マルクス主義の左翼反対派の立場では、それぞれのマルクス理解が何であれ、革命は党の中にのみ存在する。もとより、党の中の革命をプロレタリアートの革命に転化することが党の任務とされるのだが、この転化の必然性などは論証不可能なことである。ましてわが国では、安保闘争の後に高度経済成長社会が洪水のように溢れ出した。党の革命がプロレタリアートの革命に転化する現実性など、ますます見失われていく。こうした状況の中でなお党派性を持続し、内外で党の党派性を正当化しようとして「党の革命」を目指していくとするならば、ますます革命はただ党の中にのみ存在するようになる。これが左翼反対派の立場の存在根拠であるとともに、また宿命となる。宇野派的にいえば、革命は資本論欄外の革命であるほかないが、欄外の孤独が党に巣食うようになる。新左翼系の諸党派が乱立して党派闘争を繰り返し、孤独は病理の様相を呈する。党派どうしの内ゲバや連合赤軍では、革命はただ組織のうちにのみあり党の外はすべて敵であると信じることが党派性を強化することになった。  
安保ブントも左翼反対派の立場にあった。けれども、ブントの安保闘争の核心は、「党の外に」革命があったという経験である。伝統的な意味で「革命か改良か」などが問題だったのではない。この経験が左翼反対派の党組織を内部から解体させた。解体の秘密が十分継承されないままに、左翼反対派の党派性がその後も六〇年代を通して持続することになった。しかし期せずして、六〇年代の左翼反対派は、全共闘運動と全世界的な六八年の反乱に遭遇するのである。遭遇したのは、新左翼諸党派が追求した「七〇年安保闘争」ではなかったのである。党派性の外部で党は大衆反乱にぶつかった。ぶつかったことの幸と不幸を経験したはずである。私の考えでは、安保ブントと六〇年代の新左翼諸党派を通じて経験したのは、「党のうちに革命はない」という命題である。  
たしかにそれでもなお、マルクス主義と革命を切り離さない限り、左翼反対派の立場が消えてなくなることはないであろう。この立場はマルクス主義的革命の一種の論理的必然だからだ。けれども、この必然性は絶えず無効にしていくべきである。革命からマルクス主義を切り離すこと、そしてマルクス主義の左翼反対派の立場から、意識して積極的に、革命を解放することが必要である。党(知識人)と大衆、組織と個人という啓蒙的な「構え」を捨てればいい。労働者階級がプロレタリアートだなどと思わなくていい。存在するのはただ革命であって、一般的な意味で、党から解放された革命を私は「反乱」と呼んだ。反乱はマルクス主義や前衛党との関係で存在するものではない。それ自体で「ある」というのが、反乱の存在論である。だから、反乱にとって党とは一個の「私事」である。  
そうであれば、反乱の主人公は歴史と社会ごとに様々であって当然である。労働者階級の場合もあればプチブル学生の決起もある。工場か学園かを問わない。世界的、全国的あるいは地域的な反乱がある。身の回りの要求なのか反体制なのかを問わない。だから、同一の反乱のうちにも、雑多な政治意識が分布する。そればかりか、人間的自然や身体の反乱など、下意識から溢れ出るエネルギーの噴出だと主張されることもある。六〇年代の党派性が全世界で期せずして遭遇したのは、このような大衆反乱であった。反乱は七〇年代以降に引き継がれて、世界的な意味で「新しい社会運動」と呼ばれることになった。  
存在するのがかような意味で反乱だとすれば、自己権力への政治的道程が反乱から始まる。反乱がそれぞれのスタイルを具体化していくことが自己権力への道である。新旧すべての党と政治思想がこの過程に介入して、その性格と力量を試されることになるであろう。もともと党に革命はないとすれば、党にあるのはこの過程に介入する必然性だけである。必然性は党組織が現実に存在していようがいまいが、政治的に必然である。私は党というものの政治カテゴリーとしての不可避性を、「私党」と呼んでいる。
「新左翼」はなかった  
一般に、安保ブントは日本の新左翼の始まりとして位置づけられている。その後一九六八年を中心にして、世界同時多発的にニューレフトの運動が巻き起こって時代の風景を一変させた。一九六八年の世界革命と呼ばれるように、今日にいたる「現代」を切り開く分水嶺になった事件である。このため、現在ではニューレフトの運動とその国際比較が歴史研究の対象として取り上げられており、この観点で日本のニューレフトを見ればブントがそのはしりに位置するわけである。次いで、安保ブントの経験は第二次ブントなど新左翼諸党派に受け継がれて、わが国の一九六八年革命(全共闘運動)にまでつながっていくことになる。それぞれ前期新左翼と後期新左翼と呼ぶ研究者もいる(大嶽秀夫『新左翼の遺産』)。私自身も両者を一連の運動として経験した者であり、そのため、全共闘運動がなければ安保ブントの経験は完結しなかったと思ってきた。  
ところが、第一次ブントの当時は「新左翼」という名称は自他共に使われていない。ブントは日本共産党内部から左翼反対派の別党コースへ踏み切ったものであり、この意味で新左翼の名に値したのだが、自身では「新しい前衛」を名乗っていた。外部からの呼称は反代々木、トロッキスト、赤い雷族、暴力学生などであった。これにたいして六八年には新左翼の名称が一般化するし、ブント以来の政治党派も新左翼を名乗るようになる。しかしこの頃は、新左翼諸党派は既成左翼(共産党や社会党)にたいする新左翼という位置を事実上占めていない。党派的に自分を弁証する必要は、もっぱら他の新左翼諸党派にたいしてであった。安保ブント当時も他にトロッキスト諸派が存在しはしたが、安保闘争ではブントが反代々木系党派をほぼ独占的に代表するものだった。    
要するところ、日本の一九六八年革命ではその前期にも後期にも、「新左翼はなかった」。「邪馬台国はなかった」と唱えた古代史家(古田武彦)がいるが、このひそみにならって日本に新左翼はなかったなどといっても、半分はごろ合わせのレトリックにすぎない。とはいえ、私自身はその後、新左翼に代えて「日本の過激派」とこれを名指すようになる。「新左翼」が無効となり「日本の過激派」が解放されるのである。安保ブントは日本共産党に対抗する左翼反対派「新左翼」として登場しながら、この立ち位置を解消して日本の過激派を解き放つものとなった。 
 
「共産主義の旗」派 1961年の闘い

 

小ブル革命家と観念論者に反対して  
我々は今、60年安保の25周年を記念しているが、しかし安保闘争は同時に新しい前衛党の出発点でもあった。1958年12月に組織された「共産主義者同盟(ブント)」は社共にかわるプロレタリア前衛党として、まず多くの革命的学生の、次いで先進的労働者の大きな期待を集め、希望の星となった。だがブントは自らに課せられた歴史的な役割を果たすことなく、60年〜61年の分派闘争のなかで解体した。わが「社労党」も又、遠く、この分派闘争に淵源をもっている。我々の最も中心的な同志は、この分派闘争の中で、自らの“立脚点”を明らかにし、プチブル的な諸潮流と必死の闘いを展闘したのである。「変革」今号に、その闘いのほんの一部――残念ながらほんの一部でしかないが――を紹介しよう。実に、この分派闘争の中で本質的な問題はすべて提出された、といっても言いすぎではない。当時、我々はずい分バカげたことも沢山言っているが、それは我々の成長の過程で“自然に”ハゲおちて行ったのである。従って、我々はむしろ積極的な文章をもっぱら引用しよう。引用はすべて「共産主義者同盟共産主義の旗」派の機関紙「共産主義の旗」からである。
1.プロ通派のプチブル政治主義
1  
プロ通派こそ同盟の中核となり、将来日本と世界の共産主義革命を導くべき部分となるであろうし、ならなくてはならないのは明らかである。そしてそのための条件、決定的に重要なことは今一度、プロ通派を点検してみることであり、その欠陥を明らかにし、克服する方向へ努力するということだろう。我々は同志岡田(清水丈夫)の出獄後の東大分派との癒着に対し、あるいは同志岡田の東大分派への評価に反対し、そうした行為は同盟の革命的結束と再生にとってきわめて危険である、と真剣な、心からの忠告をした。従って我々は東大分派、旧政治局(戦旗派)ではないところに新たな分派が誕生したのを歓迎し、「欣喜雀躍」としてそれに加わった。プロ通派の内部の論争、そ細は様々な形をとり、色あい、ニュアンスのちがいとして現われたがすぐ明確な形をとった。この論争は我々の思想を解明する上でまた、将来同盟が革命を遂行していく上で貴重なものであるので、若干明らかにしておく。  
……また(清水は)ブランキー主義は「武器をもつものはパンを持つ」といっているからすばらしい、我々はみなブランキー主義にならなくてはならない、と云い、我々に対して「お前はブランキーを支持するのか、しないのか?」とつめよるような傾向も存在した。我々はブランキストと呼ばれるのを光栄に思う、それは過去の歴史においてあらゆる左翼が、特にボルシェヴィキがそうよばれてきたし、それは我々の左翼性を証明するものだからである。しかし、我々は我々がいかに本質的にプランキズムとちがうものであり、彼らの具体的科学的社会主義的綱領もない感性だけの革命家的本能、その政治主義的傾向、革命的大衆に依拠するのではなく、あるいは革命情勢と革命の条件を真剣に考慮に入れるのではなくて、組織された少数の革命家の数回の攻撃で権力を奪取できると考えるのはいかにバカげているか、そしてマルクス主義はこうした考えと縁もゆかりもなく我々は全プロレタリアートを獲得しなくてはならないことを革命的学生やプロレタリアートに語らなくてはならない。 プロ通派の不毛、動揺、それはどこに原因があるのだろうか? 今までのプロ通派内の主要な思想は次のようであった。「戦旗派は恐慌の時に革命だ、ととく。これはおかしい。そうでなくて、我々プロ通派は権力奪取によって革命だと云わなくてはならない」。こうした対置、こうした対立こそ的はずれで、マンガ的で、問題の所在や、右翼日和見主義者の本質をおおいかくし、彼らを増長させる理論である。我々は「戦旗派」に対するこうした批判を不適当なものとみなす。こうした対置をもしまじめに信じているとすればそれは子供っぽいマンガにすぎないし、こうした思想は唯物史観とも、マルクス主義とも緑もゆかりもない。なぜなら、前者は革命の条件、革命の経済的基礎の問題であるし、後者は革命そのもの、あるいはその性格、手段、道順に関することであり、両者はこのように主張した人々が理解するように対立して考えられるものではないのである。それは別の種類の問題であり、異なった部門での問題であり、しかも全体の中では統一でき、調和しうる思想である。  
確かに「経済決定論」はあやまりであるし、経済と政治は直接的、機械的に結びついてはいない。あるいは「政治は経済にじゅう順に追ずいする」(レーニン「何をなすべきか?」)というラボチエ・ジェーロ型の日和見主義や、大経済学者ポグロフスキーの経済決定論(彼は1917年の十月革命を、二月革命に比べての大衆の生活状態の悪化を草命の主要な原因にした。ところが事実は逆であった、すなわち生活はほんの少し向上した。しかし大衆は意識的に変化したのである。ということはその根底における経済的条件を忘れ去ることではない)とは縁がない。にもかかわらず、根底における経済的物質的条件の問題を権力獲得の問題と対置させたり、あるいはこうした問題を軽視したり、なおざりにしたりすることは問題を混乱させ、日和見主義者に道をひらくことになるのである!  
我々は「プロ通派」はどこかつまづくものがあるという直感があった。(しかしそれは、戦旗派、東大派がそれ以上に、どうしようもなくナンセンスであり、彼らを打倒することに全力をあげるのを妨げはしなかったが。)例えばプロ通四号では、現在の党内闘争の中心的な問題点は何か?という形で「権力奪取の精神の欠如の問題が出され、六・一八闘争の挫折も、その精神がなかったからだ、とされた。我々はそうした見解に対して断固として反対した。確かに(具体的、現実的にとりかかるべき問題としてではなく)一般的な問題としてはそれは重要な問題の一つであり、我々の宣伝、煽動の中心におかれるべき問題の一つである。しかしそれのみが重要であると強調され、それのみに問題が矮小化され、経済的条件を考慮にいれて革命をとく理論と対置されるとき、我々の理論的不毛ははなはだしくなるのである。即ち、具体的な総括、あるいは資本主義分析は軽視され、タブーになるか、あるいはなくなり、誠実なマルクス主義的同志を、戦旗派、東大派にはしらせ、右翼日和見主義者、修正主義者に道をひらくことになるであろう。  
東大派に対する批判はあたかも革命を経済的破綻から説くことがあやまりである、という具合に行われたがそれは適当ではない。革命は経済的、政治的危機と結びつき、それに伴っておこってくるのであり、資本主義はそうした経済的、政治的危機を必然化することをプロレタリアートに語り、宣伝煽動し、それに対して組織的に精神的に準備するということは極めて重要である。こうしたことを恐慌待望論だと急いできめつけるのは、革命を一生の仕事として想像もできない困難や抑圧にもめげず「革命のために働く」ことを決意していない人か、あるいは何か偶然に、また号令や「通達」(東大派を見るべし)のみで「革命をつくり出せる」と信じている小ブルジョアである。東大分派に対する批判は彼らが自由にブルジョアジーが資本主義を「救済しうる」と説いて社民的思想におちいったり、あるいはもし(?)プロレタリアートの攻撃があればいつでも資本主義を混乱と危機におとし入れることができると主張する小ブル革命的主観主義であるということに対して行われるべきである。  
我々がプロ通の中で「政治革命か、社会革命か?」「我々はブランキストか」その他等々で論争して来た意義はそれはプロ通派の動脈硬化に対し、あるいはマルクス主義の卑俗化、矮小化に対してさらにはプロ通派の狭隘化、首尾一貫性の欠如と闘ってきたということであり、プロ通を中心的核として同盟の革命的再結集をかちとる方向に進ませるに十分力を得るため闘ってきたということであった。プロ通派の同盟の中核への成長、同盟の再結集と再武装への道は、プロ通派のこうした欠点の克服、発展でなくてはならない。そしてこれがプロ通の全国の同志から信頼される強固な、首尾一貫した同盟主流への発展の条件であろう。
2  
同志姫岡(青木昌彦)の唯物史観に対する無理解を指摘しておくことが重要であろう。彼はマルクスが唯物史観を根底にもってはじめて資本論を書きえたのでなくて、資本論を書くことによってはじめて唯物史観の公式を明らかにしえた、従って唯物史観は「消極的なものである」とマルクス主義の本質を歪曲している。こうした唯物史観の無理解は現在の同盟の「党内闘争の核心」「解決されなくしてはならぬ中心的論争点」として国家権力一般を抽象的な問題として提起することしかできないことや、一見して唯物史観と縁もゆかりもない反マルクス主義的外大文書を「すばらしい」と評価したり革通派の「哲学」を正当としたりすることと決して無関係ではないだろう。マルクスの第一歩、その本質的精神、そのイロハにおける同志姫岡の無理解は、必然的に彼をして現在社会の把握とその中で我々の正確な任務を決定して行くのを不可能にしてしまうのだ! それ故に彼はあれこれの問題をあさりまわり「思いつき」をおいもとめ、何か「アラジンの魔法のランプ」のような「立脚点を求めてあちこちと徘徊する。ただし責任ある「党活動」はそっちのけである。たしかにマルクス主義の本質を理解しない人々は思想的立脚点がないと騒ぐのは無理はないであろう。小ブルの性格、それはつねに動揺し、首尾一貫性を欠き、あれこれの問題をとびうつるところにあるのである。
3  
日本において真の共産主義が定着しょうとしている時、そして様々の潮流が固定化しようとしている時、こうした時期にあっては理論闘争は厳密に行われなくてはならない。そしてこうしたことこそ、決定的に重要なのである。日和見主義者とのみにくい同居を平気でし、革命家としての節操を完全に欠く同志岡田(清水丈夫)はこのことを理解しえないのであり、それ故に中間主義におちいるのである。プロ通右派や中間主義者(清水、北小路らのこと)が「君らがプロ通派を分裂させるのは、理論的なちがいによるのではなく、同志姫岡への肉体的な反撥によるのだろう」と云う。我々はこうしたたわごとに対して、プロ通一号から九号まで読んでみたまえ、そしてその中に真のマルクス主義が一言でも生き生きとした、血肉化されたものとして存在しているかどうかさがしてみたまえ、と忠告しよう。 一見奇妙に思われる同志岡田(清水〉と同志姫岡(青木)との「かたい」結びつきもその必然性を持っていたのである。すなわち本質において組合主義的学連主義者の大衆活動家であった同志岡田(しかし彼も様々の方面からの圧力により変質しつつあるのを正当に評価しなくてはならない、もっとも常に大きな限界を持ちつつだが)と、「その本質において組合主義的日和見主義的理論家で、当面どうするかということを「正しい政治方針」の名の下にやりくりして行くことのうまい「器用な」、しかも彼にとっては本質的に異質な、革命的なマルクス主義を血肉化しえないが故にあれこれの思想をあさりまわってつぎはぎ細工を行い、当分まにあわせる「頭のよい」同志姫岡とが結びつけばそれにふさわしい一つの分派を「でっちあげる」のに十分ではないだろうか?(少なくとも今までは)。  
プロ通編集局の、革命的集団として、いやしくも一つの分派の指導部としての腐敗、不統一性、混乱、日和見主義者や学連主義者、中間主義者のよせあつめという特徴はあらゆる問題で動揺し、破産するのである。一つのエピソードをとってみよう。我々が「マルクス主義と縁もゆかりもない」と明白に宣言した、「相互作用」のみを強調して、マルクス主義の本質からエンゲルス的日和見義〈――いやエンゲルス以上の日和見主義〉へ後退した外大文書「コムニスト」を同志姫岡および同志北小路は「すばらしい」と評価し、ことに同志北小路は我々が外大文書を攻撃するのは我々の精神が少々異常であり、偏狭であり、我々がことさらに対立を激化させ、分裂や不和の種をまきちらそうとわざと努めているかのように発言して、外大文書の本質的日和見主義をおおいかくし、「問題意識はいいのだが……」と中間主義的に弁護し、表面をとりつくろ、つことにのみ全力をあげ、弁証法の代りに折衷主義を持って来たのである!  
外大文書はまさにその「出発点」が「問題意識」が非マルクス主義的であり、そして一貫して、徹底してプロ通派的(すなわちプロ通四号のおとし子)であったが故に我々はあのように闘ったのである。外大文書の問題意識の根底は「いかにして現在学生運動を組織するか、たとい経済主義的日和見主義的アジテーションをしても……」という改良主義を一歩たりとも出ていない。同志北小路の「学連を維持するための革通派との協力」「当面の闘いを成功させる上での革通等との協力」という理由づけで行われる実質上の妥協をもっとも政治的にみにくい、嫌悪すべきものと見なす。こうした明らかな日和見主義的文書にすら正確な評価すら与えられない、小ブル政治屋的、日和見主義的プロ通編集局を打倒せよ! プロ通編集局の外面的虚飾と政治屋的強がりにもかかわらず、彼らの破産と分解、腐敗と堕落は必然であり、それはこれからもさらに進むだろう。  
我々がプロ通編集局の日和見主義者たちと断乎として闘えるのは、彼らと手を切る限りにおいてである! プロ通内部においてその方向を変えうると思うのは幻想であるし、たといそれが一時的に実現されたとしても彼らの本質的な小ブル性はあらゆる場所や、あらゆる彼の分派の評価等において様々な形であらわれてくるであろうし、プロ通の中において彼らと闘うことは全世界のプロレタリアートに真に問題の所在を示すことをおくらせ、プロ通編集局に幻想を与え、革命を裏切るものとなるであろう!
4  
去る3月10日から11日にかけて、プロ通派の全面的自己否定という前提の上に立って、プロ通派編集局と共旗派編集局の合同会議が行われ、その席上同志岡田(清水)およびそれに完全に同調するとする同志北小路から、次のような提案がなされた。我々のメモからそれを再現してみるとおおよそ次の如くである。  
「我々の出発点とすべきは、総括において、黒寛一派に完敗したということである。我々は旧ブントを擁護しようとして保守的になった。旧ブントを言葉だけでなく、全面的に否定し、そしてプロ通派の立脚点を大胆に否定し、現在の状況の中でマルクス主義的立場にたってたちむかって行くことが必要であり、そのためには1958年12月の同盟をつくった時からの否定的総括が必嘗である。結論から言えば革共同全国委の方が質的に正しかった。単に学生運動に足をひっぱられていた、今度は労働運動をやればいい、と云っただけではダメ」だ。何故学生運動から脱出することができず、足をひっぱられ、党の立脚点すらあいまいで、泥沼へ引っぱり込まれて行ったか。それは理論の問題であり、革命と党の理論の問題で、具体的に言えば、今までの同盟は、社会を労働者と資本家との対立としてとらえ、労働者が闘えないのは日和見主義者のかたい皮によっておおわれている、それを外で学生運動を爆発させて、分離的な闘いをくみ、そしてそれをかためて行ったのが前衛党だという理論があった。これはレーニンの「何をなすべきか」から学び、うけついだもので、スターリン主義の本質である。正しくは戦旗51号のように「内と外」の関係を理解して組織的活動をしなくてはならない。  
このように総括すれば、総括の問題で完敗した、ということを絶対的に明らかにしなくてはならない。革共同全国委は我々よりも(たとい文書だけだったにしろ)共産主義的宣伝、煽動や党活動をやってきた。我々は基本的には戦旗51号は正しいと思うし、黒寛は不十分だが、本質的に正しいものをもっている。従って我々は革共同全国委に入り、その一員として活動しなくてはならない。そうでないと脱落してしまう、従って組織にしがみついて行くことが必要である」。  
プロ通派は自らの本質をおぼろげながら認識し、過去の同盟の本質的な欠陥に(おそまきながら)気がつき、一歩前進の方向をむくや否や、たちまちに崩壊し、泥沼の中へ転落して行ってしまった。我々はプロ通派、革通派の、戦旗派や革共同全国委(黒田派)との本質的同一性(小ブル性とその差異(小ブル自由主義と小ブル急進主義を指摘して来たのであるが、このプロ通派の予想すらしえなかったコペルニクス的大転回に幸運にもめぐりあうことによって、我々の把握の正しさを確認することができた。すなわち、ささいな「激動期」における小ブル急進主義は、「沈滞期」における小ブル自由主義的潮流となって現象しているのであり、またそこにこそ、現在革共同全国委が「日の出の勢い」(?)に見える(単に見えるだけ――すなわち仮象)物質的条件があるのである。
5  
安保闘争とその後の分派闘争の中で純粋に小ブル急進主義者としてたちあらわれた革通、プロ通の一部について多く語る必要はない。ただ、姫岡氏(青木)の経済理論が、まさに資本主義の永久発展を証明しておいて、次いでそれを主観的に、意志の力で中断しようとする理論であったこと、それ故に本質において星野理論とあまり変化のないブルジョア経済学であったことをまず確認しよう。しかしここから黒寛一派と我々の批判の観点が異なる。彼らは姫岡氏の理論がスターリン主義的であったからブルジョア経済学になった、といい、そして自分たちが経済分析をすると姫岡氏とあまり変化のないブルジョア的分析を行う深奥なる秘密を少しも気がついていないのだ。姫岡氏の経済分析は安保闘争の中で役に立たなかったのでなく、まさに小ブル急進主義運動にふさわしい、それに完全に照応した、プラグマティックとつぎはぎ細工の経済分析であり、学生をかりたてるのに都合のいい理論であったのだ。現在のような小ブル安定期にはそれにふさわしい小ブル的俗物どもがはばをきかす、そして小ブル急進主義の時代にはそれにふさわしい小ブル的えせ革命家、政治屋的はったり屋、はなやかな、はなばなしい学連主義者がはばをきかす。それぞれの運動は、それぞれ、ふさわしい指導部分を見つけるというものだ。  
そして、革通、プロ通の多くは公然とブルジョア社会へ復帰しはじめた、あるいは、もともと彼らは本質的にブルジョアジーのわくの中にいたのであろうか? 少しの社会的高揚期に彼らが革命運動の方へ身を投じて来ても、この小ブルたちは革命組織の中でプロレタリアートの隊列の中でねばり強く、根気づよく、真剣に働くことはできないのである。そしてこうした「急進的」インテリとして人生を歩みはじめ、マルクス・レーニンに少しは共鳴し、岸信介をあれほど憎んだ、われらの学友諸君は、偉大なる大学数授か、あるいは大会社の高級なる地位を求めて、変節をとげつつあるのだ。  
しかし、安保闘争を歴史的に評価しえず、また小ブル急進主義運動の歴史性と意義を理解しえず、この輝かしい闘争に幻惑され、ふたたび、みたび、自分たちの恣意的努力でただちに革命的学生運動を展開しうると思ったり、あるいは小ブルの運動をそれ独自で自足的と思ったり(口では否定しても、実践ではそのように行動することによって)、彼らは急速に破産して行かざるをえなかった。そして又、自己の無内容、自己の小ブル的本質にようやく気づくや否や、それをおおいかくし、自己の政治的破産を隠蔽するためにのみ、「黒寛こそ全面的に正しい」としてなだれ込む無節操にして俗悪な人々を何と弾劾すればいいのであろうか? 電田氏(北小路)は、二・二六全国労細代の時(我々の少々のためらいを叱咤し)戦旗派をおい出すために先頭に立って英雄的に努力し、奮闘した。ところがその四、五日のちに大いそぎで転向し、コペルニクス的大転回をとげ、戦旗派へねがえった。しかしこうした転向の中にこそ、我々は彼らの骨のずいまでしみこんだ小ブル性や、小ブル的生き方、小ブル的思考様式を見ないであろうか! 我々は今まで以上にこの日和見主義的電田氏に対して嫌悪と軽蔑を感じたとしてもそれは我々の罪であろうか! 姫岡氏は、国家権力の打倒を直接よびかけるのではなく、まずその実体の暴露を、と云い、社会党青年部ばりの思想をかり入れた日和見主義を同盟の中に持ち込み、エンゲルスの「権力も又経済的潜勢力なのです」という言葉を「権力も又経済的力なのです」と改作し、修正し、マルクス主義を歪曲した「外大文書」をすばらしいとほめたたえ(次の瞬間「これほどナンセンスだとは思わなかった」と自己批判し)、電田氏は我々の外大文書への批判を「趣味」である、と発言した。常に中間主義的袋小路にまぎれこみ、折衷主義の雑炊の中を泳ぎまわり、どうしようもなくなると革共同全国委ヘピョイとにげ出す電田氏こそ、革命運動を「趣味」とこころえているのではないだろうか? 日和見主義者と闘うのが「趣味だとするならば、革命党の純粋性と革命的純血性をどうして守りうるであろうか? そして、学連主義者たちはいつまでも小ブルとたわむれることを好んだのである。彼らが小ブルの自己変革のことばかりがまず「頭に来て」勉強会だ、マルクスの古典だとあたかもそれが第一義的かのように大さわぎし、説教した革共同全国委と、根本的階級的立脚点が同一であったのは明らかである。そしてまた昂揚期における小ブル急進主義者たちが、この些細な沈滞期すら耐えられず、小ブル自由主義の下へ急ぐのも又必然であろう。
2.革通派との闘い
1  
我々が現在この問題を完全に明らかに正確に評価しえないとしても、少なくとも次のことだけは明らかであろう。すなわち、世界資本主義は、一切のブルジョア経済学者や修正主義者の幻想にもかかわらず、自らの「破産」を証明し、自らの本質より生まれ出る、深刻な、調和しえない矛盾を示すことによって、彼らの横つらをはりとばしたのである。ブルジョア経済学者と、それに追ずいし、「見ほれる」東大分派(かつて上に見ほれたのはブランキーだったろうか?)の諸君は、「資本主義の現段階は、金本位制なんてなくなった。国家の自由な恣意的な経済政策(インフレとかデフレ、その他金融政策)が決定的役割を持つようになっている。だから内閣を打倒して、その経済政策の展開を不可能にして、資本主義を混乱させることによってはじめて、革命が可能になる。革命的大衆運動が(革命の経済的条件に依存するだって? そんなものは、くそくらえ、我々の情熱のみが……」と展開し、彼らの修正主義者としての本質を余すところなく示したのである。
2  
次に「革通派」について一言のべておく。彼らは「この複雑な現代資本主義」を分析することが第一の課題であり、今すべての我々のエネルギーはそれのみに没入させるべきであり、それを明らかにしえなかったとしたらすべてがダメであると展開している。確かにその根本においては、その最も本質的な点においては経済的分析が中心であり、第一歩である。そして現在の資本主義の発展段階を明らかにしてその上で革命の性格、展望を今明らかになっている以上に追求することは重要である。さらに組織をつくりあげることも重要である。ところが「革通派」の諸君はそれを理由にして日和見主義者を日和見主義者とよび、彼らと系統的、非妥協的に闘い、彼らを粉砕し、前衛政党を日和見主義的思想から守り、強化するために何一つしないのである。かつて日和見主義者にあんなにかみついた諸君であったのに! 彼らの無政府的な突発的な日和見主義者への反発、次いで「科学」への引退と日和見主義者との実質上の妥協、こうした急速な転換、一貫性の欠如こそ、小ブル革命派の「革通派」にふさわしいものであろう。  
かつてレーニンは次のように書いた。「……。それは詭弁である。なぜなら帝国主義を全面的に科学的に研究するということ――そういう研究はいまはじまったばかりである。それは、一般的に科学がそうであるようにその本質から見て無限である。――と、数百万部の社会民主主義的新聞やインタナショナルの諸決定の中でのべられている、資本主義的帝国主義に対する社会主義的戦術の基礎とは別個の事がらである。社会主義的政党は討論クラブではなく、闘うプロレタリアートの組織である。幾多の大隊が敵の側にねがえった時にはそれを裏切り者と云ってののしるべきであって「誰もが同じように」帝国主義を理解するとは「限らない」とか、排外主義者カウツキーも排外主義者クノーもこの帝国主義について何巻もの書物を書こうと思えば書けるとか、この問題は「十分に討議されていない」とか、等々と云う偽善的な言葉に「ひっかかって」はならない。資本主義はその略奪性のあらゆる現われと、その歴史的発展や民族的特質のあらゆる微細な分化にわたってあますところなく研究しつくされることは決してないであろう。学者たち(とくに衒学者たち)は、細部をけっしてやめないであろう。「これを理由として」資本主義に対する社会主義の闘争を断念し、この闘争を裏切った者に反対することを断念するのは、こっけいであろう、――ところでカウツキー、クノー、アクセリロードなどはこれ以外のどんなことを我々に提案しているだろうか?」。革通派こそ、帝国主義の分析が不十分であるということを理由に、そしてプロ通右派こそ綱領の未確定を理由に、同盟を「闘うプロレタリアートの組織」として維持し、日和見主義者の攻撃に対して闘いぬいていくことをすて去っているのである!  
今まで同盟の経済理論が星野理論にしろ、姫岡理論にしろ、全くヒルファーディング的本質を持っていたことは明らかである。要するにこうした人々の云いたいことは次のようなのだ。。「ヒルファーディングに対してカウツキーは本質的な、資本主義の一般論からの批判をした。恐慌が来ない、というのに対して本質的に資本主義だからそれは来る、と対置したのみだった。だからドイツ社民党で日和見主義が優勢になったのだ。組織論が必要である」。  
この言葉の限りではこれは正しい、しかし多くの修正主義者たちはまさにこの言葉の下で資本主義の本質、その一般論からはなれたところで現段階の現象を追い求め、ブルジョア経済学者の「混沌たる諸表象」をえがきだすのである。特に東大分派のマルクス主義の修正ははなはだしいのであり、彼らは公然と資本主義の発展を語り、資本主義は崩壊するものとしてとらえられていないのである。必然性にみちびかれた歴史発展の内在論理を理解していたレーニンは「経済的必然性を認識することは意志の弱化を意味するものであるかのようにいう意見ほど誤まったものはない」と云った。これに対して、観念論者の革通派やヒルファーディングは次のように述べる。「わたくしは、これまでつねにあらゆる経済的崩壊理論を拒否して来た。……戦後においてはかかる理論はわれわれはいまや資本主義体制の直接的崩壊に直面していると考えたボルシェヴィキによって主張された。かかる崩壊は生じなかった。(生じたがヒルファーディングは公然と裏切ったのだ!)我々は何らそれをなげく必要はない。われわれは以前から、資本主義的体制の崩壊は宿命論的に待ちうけるべきものでもなければ、またこの体制の内在的法則から生ずるものでもなく、労働者階級の意志行動でなければならないという意見であった。」(ヒルファーディングが「組織された資本主義論」を展開した、1927年の社民党の年次大会での彼の報告より)。完全な改良主義者、100%の裏切り者となったヒルファーディングのこの「革命的」な言葉のうしろには資本主義の本質に対する完全なる無理解、その歴史的特殊性への認識の欠如、主観的観念論があるのである。我々の共産主義者としての活動はまさに資本主義社会崩壊の歴史的必然性を認識してはじめてなりたつものなのである。  
レーニンは「唯物論と経験批判論」でブルジョア経済学の本質を次のように特徴づけた。「特殊な事実研究の領域においてはきわめて貴重な労作を提供しうる経済学の教授でも、ひとたび経済学の一般理論に言及するや、その一語にさえ信をおくことのできるものはただ一人もいない。何故なら、この経済学は、近代社会においては認識論におとらず党派的なものだからである。一般に経済学の教授というものは、資本家階級の学識ある番頭に他ならない」。  
現在資本主義の複雑なる現象を博学ぶっておっかけまわすこれら「小」経済「学者」の諸君は「現代資本主義は不況とか恐慌は来なくなった」とか、「金本位制はなくなったからすでに純粋の資本主義社会ではない」「経済政策が決定的なものとなった」とかもっともらしいことを云うが、彼らはレーニンの云うようにこうした資本主義の「一般理論」でまず破産し、次に資本主義を助ける“経済政策”をつくりあげるのである。資本主義の本質から質的に異なった社会として現在の資本主義を描きだすこと、これほど反動的でブルジョアに奉仕する仕事はないのであるが、同盟内の主要理論家が「科学」の名の下に行うことはみなこれである。我々はこうしたことを断じて許してはならないのである。「俗流経済学は、ブルジョア的生産関係に囚われているこの生産の担当者の諸観念を教義的に通訳し、体系化し、弁護すること以外には、実際には何もしない。従って経済的諸関係の疎外された現象形態――そしてもし事物の現象形態と本質とが直接に一致するならば一切の科学は不要であろう――まさにこの現象形態においてこそ俗流経済学は全く我が家にある思いをなし、そして、この諸関係に、その内的関連が隠蔽されて日常の観念に入りやすくなっていればいるほど、俗流経済学にとってますます自明に見えるということは我々をおどろかすに足りない」(マルクス「資本論」)。星野理論に始まる革通派の経済分析および姫岡理論がブルジョア経済学の一切の特徴をもっていることを我々は知るであろう。
3  
しかしこうした本質論を展開しただけでは不十分である。現在のいわゆる国家独占資本主義においては生産力の巨大な発展、独占の広汎な、非常な発展の結果、国家はますますプロレタリアートから疎外し、自立化する傾向が進む。資本主義の根本的矛盾に根ざすあらゆる矛盾が全面的に深化していく今日の資本主義では、国家がそれらの矛盾の中心点であるように見えてくる。すなわち深化し、いかんともしがたい長びく資本主義の矛盾の拡大に対して、ブルジョア国家が様々な形でその矛盾を克服しようとするのだが、その矛盾は結局、すべてのプロレタリアートに対するブルジョア国家の攻撃として現象的には明らかに、露骨に、誰の目にもはっきりするように出て来る。例えば、慢性的不況に突入した資本主義と、その巨大な遊休生産手段と巨大な失業者を救わんとして行うケインズばりの夢にもとづくインフレ等の国家の救済政策は、プロレタリアートの実質賃金を切り下げ、矛盾を単に失業者のみならず全プロレタリアートに耐えがたいまでおしつけ、さらに小ブル層にまでそれを拡大する。こうした攻撃は国家の攻撃として、さらに資本主義の破綻は国家の政策の破綻として現象的にプロレタリアートの目にうつる。ここから現段階における特有の日和見主義を生み出す。まずケインズの、そして革通派のブルジョア国家の政策の万能論が生まれ、あるいはトリアッチ主義の現在の資本主義的生産諸関係をそのままにしておいても国家権力に圧力をかけ、あるいは要求をつきつけて行くという方法で、「反帝、反独占の構造的改良的運動」「経済の平和的改造の問題」「戦争政策を平和政策に変化して行きうる」という幻想をうみだすのであろう、何故なら、ブルジョア社会が不況や戦争に突入するのはその生産関係にこそ根本的原因があるのではなくて、「ブルジョアジーの(日本では池田の)政策」が悪いからだというのだ。
4  
そしてこれらの諸分派を支えた宇野氏、黒田氏は、前者は「労働力の商品化」の内容を歪曲し、その上に全体系をきずいた。また後者は「疎外された労働」を神秘化してその上に全体系をきずいた。我々は言おうではないか、「どっちもどっちだ! 二つながら小ブルの理論ではないか!」と。  
   *  *  *  
まさに黒田氏は哲学界における宇野氏であろう。
3.戦旗派=黒田派の観念論を暴露して
1  
「我々が何故に、左翼スターリニストをも敵として、革命的左翼の現在的任務を、『反帝・反スタ』と規定して闘うかは、こうしたプロ独を認めるだけの『暴力革命』からは、必ずしも、プロレタリアートの自己止揚の第一歩としての、共産主義革命は始まらないからに他ならない」(戦旗46号西原論文)と云って、現実社会の矛盾を解決しうるであろう革命運動、大衆の実践的な、激烈な行動の代りに、頭の排泄運動を、そして「闘うプロレタリアートの組織」としての前衛党の代りにサークル主義団体を、階級闘争とは全く別個のところで「前衛党不在の故に、その意識を定着させて、前衛を組織しようという思想を持って来ようとするマル学同や戦旗派――彼らは、安保改定闘争を闘ったということまで、否定しまじかねない勢いであった。あるいは、少くともブルジョア的闘争であるとして軽視し、軽蔑したことは明らかであろう――に対して、我々が彼らを「サークル主義者」と呼んで軽蔑し、正当にも反対したのは、その限り全く正当であり、今も正当であろう。  
そしてそれに対して、我々プロ通派は、「現実の階級闘争を闘うこと」を強調し、しかもそのことをぬきにして一切を語ることは、全く反動的であり、日和見主義的であること、その中でのみ、党は「つくられる」だろうこと、「我々の政治的任務を明らかにすることが重要であること」を強調したのであった。  
しかし、それ自体をとれば、全く正当であり、革命的、積極的であるこうした思想――それ故にプロ通派は全国の左翼的な、誠実な同盟員をより多くひきつけ得たのだが――プロ通派の小ブル的本質の故に完全に歪曲され、ゆがめられ、真の左翼を結集しえず、彼らを戦旗派に去らせるか、どれもナンセンスな三派から遊離した独立派にとどまらせるかになったのである。
2  
従って全世界のプロレタリアートの解放のために闘っているマルクス主義者にとって第一義的な任務は、唯物史観を一般的に追求することでもないし、弁証法的唯物論を一般的に追求することでもない(それは元日社会をいかに把握するかの第一歩であり、方法にすぎない)。またそうした哲学から直接的に現在社会を把握することでもない(マル学同、青山一派はそうしているのだが)。弁証法的唯物論を、首尾一貫して理解するマルクス主義者なら、誰でも経済過程の分析こそ基礎であり、それの科学的な解明こそ中心的追求の対象であることを理解するであろう。まさにこの点において、我々は青山一派と相入れなくなるのである。  
現代社会の把握、その革命の展望、および共産主義社会を、経済過程の分析を通じて科学的に明らかにするのか、「哲学からの直接的なあてはめや、関連づけ」として明らかにするのか?  
前者のみが、真の首尾一貫した、厳密なマルクス主義であり、社会主義思想である。青山氏は、「本質論の把握が弱かったが故に、あまりに政治的にマルクス主義を捉えることしかなしえなかったレーニンの悲劇」をなげき、マルクス主義の本質を、この戦旗51号に書いているつもりらしい。しかしそれは全くそうではない! ここにあるのは物質的過程を哲学でもって分析しようという方法であり、――すなわち、経済的諸範噂が、哲学(疎外、自己否定、人間変革、自覚、プロレタリアートの苦悩、ヒューマニズム)を証明するために引用され、利用されているという逆転。哲学はたしかに大切である。しかしそれが現代社会をとらえるための手段として、根本的方法として理解されるのではなく、自己目的化され、我々の追求する唯一のものとされる時、それはあらためてふたたび観念論への傾斜をたどらざるをえなくなるのだ。ここにある資本主義の把握は、科学的に見たらあまりにおそまつであり、多くの人が云うように、「本質的に正しい」と云えるようなしろものでもなんでもない。首尾一貫した、科学的に明らかにされた資本主義の本質論(それは価値法則として展開されていくのだが)とは緑もゆかりもない、哲学と科学(経済運動の分析)の区別すらつかない混乱した混合物であり、哲学と科学の直接的な結合でしかない。すなわち経済的範疇を駆使しての哲学の開陳。  
真のマルクス主義はそういうものでないだろう。
3  
第一として、青山一派は(黒寛すら云っているように)認識とはきわめて階級的であるということを理解しえないのである。だからその小ブル的本質故に破産した旧同盟の指導者やその他の小ブル学生たちにむかって、「マルクスの古典に帰れ」とよびかけ、「精神修養所」の古ドックにしばらく入ることを懸命にすすめるのだ。もし青山氏が自分がマルクス主義的であると思ったら、他人に自己変革を呼びかけるのではなく、あらゆる契機をとらえて、マルクス主義の宣伝をただちに開始した方がはるかに有効であり、革命のためになるだろうに。ところが彼はまだ自分をマルクス主義者でないと思っているらしい。……またそのようにしか「認識」しえない青山氏の認識の浅さもまた青山氏の階級的性格をつい自己暴露してしまっているのだが。プロレタリアートは、その存在条件からして、共産主義的宣伝、扇動が真にマルクス主義的につらぬかれて行くとき、たやすくそれを理解し、自らの歴史的役割を認識しうる、ということが彼には分からないのである。  
最後に我々は青山一派の階級的性格を明らかにしておく必要がある。青山一派(及びマル学同が安保闘争の中でブントより正しかったとするのは、まっかなウソであり、歴史の偽造である。旧ブントが本質的に小ブル急進主義であったということは、同盟よりも、彼らが革命的であったということにはならない、事実は全く逆であって、彼らは小ブル急進主義の対極として、その補完物として、小ブル自由主義的であり、またある時期には、革共同関西派と何ら異なることのない経済主義者であったのだ。  
大さわぎをして、大げさに「安保敗北をわめきたて(真の革命的プロレタリアートはまゆをひそめるぞ!)、さらには「苦悩するプロレタリアート」に同情するのではなく、その言葉を嘲笑したと云っていきりたち、「自己変革の苦闘」に岬吟し、ロシア革命を唯物論的に解明しえず、「こうあったら良かったのに」という願望でみちみち、現実とはなれたところで理想をあれこれと思いうれい空想し、階級闘争と現実の厳しさに、何か観念論的万能薬を見出そうとする努力――これらの一切の特徴は、青山一派が、最高度にマルクス主義的粉飾をほどこし、マルクス主義的用語でうずまっていても、本質的に小ブル自由主義であることを示しているのだ! 彼らには常に自由主義が感じられる。
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「苦悩するプロレタリアート」という言葉を我々が嘲笑した、と云って青山一派はふんがいしている。しかしかつて「言葉は、他人にとっても、私にとっても、現実的、実践的意識である」(マルクス、ドイツ・イデオロギー)という文章を引用したのは青山氏ではなかったか? そうだとするならば我々が、「苦悩するプロレタリアート」というもっとむらしい言葉の背後にひそむ現実的、実践的な、徹底して小ブル自由主義的な、青山氏の「意識」を感じて嘲笑したのは不当であろうか? 真の自覚した革命的プロレタリアートなら、このもったいぶった、同情心あふるる、小ブルの意識を正確に表現している「言葉」にひょいと肩をすくめて嘲笑するだろう、苦悩するプロレタリアートがどのように苦悩しているかを現実的に、物質的に語りたまえ、「苦悩するプロレタリアート」にむかって衒学ぶった社会学的(すなわち、社会一般の解説的)お説教は沢山だ!と。いや、それとも青山一派は現代資本主義社会においてはプロレタリアートの「苦悩」が少なくなったので(?)、お前は苦悩しているのだ、と一人一人説教して行くというのであろうか? いやはや、全く、一歩一歩に彼らが小ブル自由主義者であることを知らされ、そろそろうんざりしてくる。国鉄の労働者に、「苦悩している」ことに単に同情を表明するような小ブル自由主象的ビラを、共産主義者同盟の名でまくようなことは早急にやめたまえ、それは全く恥ずべき行為であろう!
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マルクスを単に「知識としてしか学びえなかった黒田氏は、マルクスの初期の唯物史観や人間労働への把握を正しくくみとることができず、従って資本論への発展の必然性をも解明しえず、初期のマルクスを「主体性確立」の問題意識で読みかじって、それ故必然的に、人間労働を神秘化し、その上にえせマルクス主義哲学をでっちあげた。プロレタリア革命の本質とその意義を社会科学側に明らかにしえない小ブルにとって必然的な、不可避な道だったのである。彼らは必然的に、今後ますます小ブル的に、戦術左翼集団に(旧ブントの茶番!!)、すなわち、経済主義的に転落して行くであろうし、それ以外に彼らの行く道はない。日本の革命的プロレタリアートは、革命的マルクス主義を自分のものとすればするほど、ますます黒田氏一派からはなれるであろうし、すでにそれは開始されはじめている。我々はさらにそれを促進しつつ、プロレタリア党建設へ向って全力をあげなくてはならないであろう! 黒田氏が人間の労働を中心に持って来て全体系を展開したため、彼への批判は最も困難なものとなった。「疎外された労働」「生産と所有との機械的分裂」等々はその限りで正しい。が、これらのマルクスの初期の言葉を絶対化し、しかも唯物史観を歪曲した上に、マルクスと別の新たな全体系をきずこうとした黒田氏の破産は必至であり、まさに彼は哲学界における宇野氏であろう。彼ら――黒田氏とその亜流の草共同全国委の、すべてに対する神秘化――は偶然ではない。それは小ブルジョア、という階級的基礎の上にのみはじめてはなやかに花ひらくものなのである。が、我々はそれがまさにマルクスの現実社会への認識を歪曲した上に立ったものであることを明らかにしえたことにより、黒田氏の全体系の根底への批判を終るのである。  
プロレタリア的立脚点は、唯物史観という具体的な形でもって、革命的プロレタリアの世界観として与えられている。革共同全国委はこれを空想的に神秘化したのである。それ故に、あの戦旗派やプロ通派の多くの英雄諸君――すなわち、自己批判し、プロレタリア的立脚点を獲得した、と確信している人々が、その口の下から、プチブル性まる出しである理由も、またおのずから我々には明らかではないだろうか!
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革共同関西派と全国委員会は、自らの内的本質のなかにではなく、ただ安保闘争ののち、表面的に「解体しなかった」という理由でもって、自らの正当性が証明されたかのごとくに思っている。だが、ブント(共産同)の解体と彼らの表面的な存続は、まさに内的論理をもっている。ブントの解体は、徹底して小ブル革命的であり、またそれ故に、革命政党の母体であったブントの客観的存在の基礎そのものが、安保闘争ののち、失われたのであり、それ故に、ブントの解体が急速に進んだのである。一方、小ブル自由主義(同じことだがプロレタリアートの中での経済主義)の客観的存在の基礎はいまだ資本主義の繁栄と共に続いているのであり、社会党の一時的な安定した存在を見ればそれは明らかであろう。革共同両派の存続の原因は、社会党の存続の原因と何一つとして異ならないであろう。が、資本主義の矛盾の拡大、深化そのものが、彼らを破産させ、無力化させてしまうのである。  
旧ブントの小ブルたちをうけいれて、黒田氏の理論でもって学生運動をすれば、4・5月に革命的な学生運動がありうるかのように考えていた革共同全国委の展望は、今やその破産を明らかにしつつある。小ブルの運動としては、安保闘争が最大限の闘いであること、そして其の革命的共産主義者は、そうしたやり方では、いかに献身的であり、革命的であろうと、それはニセものであり、決して勝利しえないことを我々は理解して、我々の方針をたてた。  
革共同全国委は、プチブルの自己変革のための革命的学生運動」という方針を公然とかかげた。だがこうした方針は、小ブル活動家を少々うみ出しただけで終ったのは、4・5月闘争ののちの現在、全く明らかであろう。さらに賃金闘争に関しては、「賃金闘争は、つねに個々の労働者の賃上げ闘争の総括として闘われ、その結果として、賃金闘争の妥協は、個々の労働者の賃上げ分の決定となるように闘われなくてはならない」(前進22号)、そして、貸金闘争においてプロレタリアートの革命的統一戦線をつくり出すことが必要なのである」(同25号)とする。いかにも小ブルトロツキーの亜流であり、主体性論者の彼らにふさわしい方針である。が、こうした空文句でもってしては、何一つとして現実的成果をあげえないことは、同じくあきらかではないだろうか?
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トロツキーの弁証法の無理解――彼は歴史はら線状に進歩するということ、ソ連社会は決して「私的資本主義へ後退しないであろうということを理解しなかった。従って、ソ連の「国有財産制と計画経済」を擁護しなくてはならない、ソ連社会を暴露し、これと闘うよう呼びかけてはならない、「スターリニスト打倒、ソ連擁護」だという反動的なスローガンを生み出さざるをえなかった(現在第四インター=革共同がこのスローガンをうけついでおり、また、黒寛一派もこれを克服しえていない)。たしかに「国有化」と「計画経歴は10月革命の偉大な遺産であり、それは小商品生産が支配的であった後進国ロシアに先進資本主義国においつく一つの手段を与えた。しかし彼らはロシアは、「国有化と計画経済」のままで、しかも資本主義的発展をたどり、またそうした発展は私的資本主義へ後退する物質的根拠を失ってしまっていたし、またその必要もなかった、ということを理解して′いない(勿論、外国帝国主義に侵略され、ソ連が粉砕され、植民地的状態におとし入れられた場合は別だが……。しかし、その場合すら、決して本来の意味での私的資本主義を復活することはなかったであろう)。こうした「国有財産制」と「計画経済」の下での資本主義は、かつての封建的、小商品生産的な後進国ロシアに比べたら飛躍的な、質的にことなる、偉大な進歩であり、躍進であった、とはいっても、この社会を我々が支持したり、肯定したり、本質的矛盾のない「社会主義社会」である、ということには全然ならないのであるが。何故なら、真の共産主義者の任務は現実の、生きた矛盾を(黒寛一派よ、ここに注目せよ!)、暴露し、また暴露し、プロレタリアートにこれと闘うこと、これを打倒しない限り、資本主義もソ連の国家資本主義もプロレタリアートを抑庄し、搾取し、究極的には貧困と悲惨と死をもたちす以外ないことを暴露し、真理のため闘いつづけることであるから。  
ソ連国家資本主義の運動法則の解明は簡単なことではない。一つには、ソ連社会がたえず、戦時体制あるいは準戦時体制のままで国際情勢の中で存在せざるをえなかったこと(例えば、革命直後の戦時共産主義時代は内乱の時代であり、第一次五ケ年計画は大規模な国防強化体制の時期であり、さらに第二次大戦である)。さらには資料がスターリニストによって隠されてしまっていること、そしてそれがソ連の支配階級によって著しく歪曲されていること等々からして。
4.旧ブントの第一次急進運動の総括をめぐって
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安保闘争の「敗北」が口やかましく論じられ、同盟の解体と危機があらゆるところでさけびたてられ、わめきたてられている。不用意な「決定的敗北」「挫折」「同盟の解体」と云う言葉が、あらゆる部分からはきだされ、最も革命的な、最も誠実な部分は、にがにがしく口びるをかみしめ具体的な教訓、具体的な総括を求めている。具体的事実と具体的な経験に即した総括――これは誰がどう云った、あるいはどうした、あるいは一つ一つ、の闘いがどうであった、こうであったと云う総括ではない。  
安保闘争の「敗北」――これを説明して「戦旗派の左派」、同志摘木(大瀬振)は次のように云った。「この意味はすべての大企業に細胞を組織しえなかった、ということにある」、「現在我々のなすべき極めて重要な課題は、基幹産業を中心として労働者階級の中に革命的中核を組織することに最大限の努力をすることである」(戦旗33号と云い、又一方では「安保闘争の中で前衛党建設の基盤(前衛党ではない、その基盤であることに注意!! 何と御苦労なまわり道であることよ!)を理論的にも組織的にも構築しえなかった」(戦旗30号)ことである、とする。  
だが、何と「戦旗派」はその結成当初から自己矛盾にみちみちていることよ! 「同盟結成に際してプランキスト集団、小ブル急進党たらんと決定したわけではあるまい。革命党を志向したはずの我々が、安保闘争の敗北後に自らを自らの鏡の前にうつし出した時、プランキストや小ブル急進主義者の集合体として見出さざるをえなかったところに悲劇的喜劇があるのだ」(論争資料2P)。戦旗派の諸君が自らをブランキストや小ブル急進主義者として見出したと云うプレハノフ的なきごと(プレハノフは1905年の革命のあと「武器はとるべきでなかった」と俗物的なきごとを云った)はさておき、そうしたままで自己変革(それが戦旗派には不可欠だ!!)を忘れ、労働者の中にどうして革命的中核を組織しうるのか? 誰にもまして緊急に、そして徹底的に戦旗派の自己変革が必要であるのに(諸君はこのように自分で云うのだ!)、その任務を具体的に出すのをやめて、あるいは出そうとする努力を放棄して「川崎へいこう」と呼びかけるのは自己矛盾ではないか?  
それよりも具体的に、いかなる政治的任務を担う前衛党が必要なのかを明らかにすべきではないのか? 前衛党は政治的組織であってサークル組織や「疎外」からの逃避場所ではない)。彼らはそれをしないし、又なしえない。前衛党の不在や、自己の前衛としての主体性の未確立をなおすための特効薬として、「大企業への細胞づくり」を提案することほど」混乱した自己矛盾の理論はないのであり、これこそが「戦旗派」にとって全くふさわしい彼らの基本的立脚点なのである。
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革共同全国委員会派は中央委員会〔一月の全学連第二六中委のこと〕の第二日目にすでに破産してまい、自らの方針を定めることがいつものように全然できなくなってしまったのだ! まず彼らは「安保闘争と三池闘争という階級闘争の焦点の敗北から」冷厳な教訓をくみ出す必要がある、として「安保闘争の敗北は、プロレタリアートの小ブル運動への屈服、それを生み出したのは革命的主体の欠如にあったわけである」と前衛が存在しなかったからこそ安保三池は敗北したのであり、それ故に、今こそ真の前衛をつくることが重要である、という。この分派はこうした無内容な、一般的な総括以外、あるいは一般的な方針以外に何か積極的な、何か有意義なことを一つでも展開したことがあったろうか? 先日の中央委員会で斉藤君は「今まで我々は戦術について論ずるのを全くさしひかえていた」と発言した。この言葉の背後にこそ、全国委員会派の無内容、我々の付属物、小ブル自由主義者、小ブル・ジャーナリストの本質がある。彼らは三年前には一定の先駆的な役割をになった「前衛の不在」ということを、すでに単にそれをくりかえすだけでは全くの反動であり、保守であり、逆もどりとなった時点においてそれしかくりかえしえないのである。  
安保闘争は前衛がいなかったから敗北した、もしかしたら安保闘争で勝利しえたろう、あるいはスターリニストの影響力を粉砕しえただろうと彼らは云い、結局それしか云わないのであるが、彼らにとって致命的なことは「経済運動」の、階級情勢の分析が全然ぬけおちているという一事なのである。階級情勢の分析なしに「前衛の不在」ということからのみ「安保の敗北」をとく反哲学的、反マルクス主義的黒寛一派が革命的労働者、学生を一時的に引きつけ得たとしても、それは日和見主義のばっこに原因がある。革命的労働者学生はこうした自由主義的空論や観念的おしゃベり屋をおそらく早急におっぽり出し、たたき出してしまうことだろう!
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現在の日和見主義の特徴――それは革通、プロ通右派、マル学同等々が物質的条件を小ブルが広汎に革命的運動の中に流入して来たということからして必然化しているのであり、我々は、戦旗派の「組合主義、経済主義」(すなわち、資本主義の本質を単に、資本=賃労働の関係としかとらえられない、プロレタリアートの自然発生的意識に追随する)と闘うと共に、今、特殊にこれらの日和見主義と闘い、同盟の、革命的路線を守り抜くことが重要である。
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第2として、かつて革通派の展開した「合理化という池田の経済政策阻止から、資本主義社会を混乱させてプロレタリア革命。従って三池を決定的に重要視して、そこへ全力投入」という見解と、この会議〔ブント、労細代〕で一つのかなり大きな潮流であった経済主義とのかたい結びつきを指摘しなくてはならない。  
たしかに資本主義社会における合理化――資本の有機的構成の高度化は、プロレタリアートの労働時間の短縮、その消費生活の豊富さとなってあらわれないで、一部の労働者の必要労働に比して剰余労働の拡大(搾取の強化)、配置転換となり、一部の労働者の首切り等による生産からの遊離化、相対的過剰人口の造出、すなわちプロレタリアートの生存そのものをおびやかすもの等々になってあらわれ、不可避的にプロレタリアートの反抗をよびさますし、闘争を爆発させざるをえないし、我々はその闘いの先頭に立ち、組織しなくてはならない。しかし斜陽化しつつあるが、それを克服し、さらに利潤を得つつ生産を続けていこうとする三池の石炭資本の合理化を阻止することから池田を打倒しうると考えたり、資本の運動を混乱させてそこから革命の展望を切り開きうると考えたり、「合理化反対を今特殊に重要視して」マル学同のように「前衛党があれば三池で敗北しなかった」と幻想を持つことは、俗悪なる小ブル的思想である。「相異った産業諸部門における生産力の発展が、極めて相異った割合で進むこともあるという事実は(単に競争上の無政府とブルジョア的生産方法の特質とのみに起因するものではない。また……労働の生産力なるものは、社会的諸条件に依存する限りでの生産力の増進に比例してますます生産率を減じて行く自然諸条件にも結びつけられている。かくして、相異った生産諸部面には相反した運動が生じ、ここには進歩あそこには退歩を見るというありさまである。例えば大抵の原料の分量が単なる季節上の影響に依って左右されるという事実や、森林が伐採しつくされ、炭坑、鉄鉱山等が採掘しつくされるという事実やを考量せよ」(資本論第三巻十五章)。  
我々の中心的任務は一つ一つの合理化反対闘争の中で、単に、「合理化粉砕のため、徹底的に最後まで闘い抜け」というのみではない。我々は「労働者がより多く富を生産し、彼らの労働の生産力が増大するに従って、彼らにとっては資本の価値増殖手段としての彼らの機能すらもますます不安定となるのはどうしてであるか、という秘密」(資本論第一巻二十三章)、何故彼らが働けば働くほど教皇や不況とか戦争という窮乏と苦悩と破滅におびやかされ、破壊的な諸結果におそわれるかという根本的原因――資本主義的生産様式――を暴露しこれを打倒する以外一切の解決のないことを宣伝しつづけなくてはならない。資本主義を暴露することを何かつまらない、無益な、プロレタリアートに対して少しも訴えるところのないことである、と思うのは生産過程から遊離した小ブルジョア=学連主義者の非階級的な思考様式であろう。  
「党のことを考えるのも大切だが」「春闘にそれの二百倍、三百倍で没入すること」を考えたり、春闘を社民に対抗して全体としていつか我々のヘゲモニーでおしすすめることができると空想したりすることは完全な、典型的な、徹底した経済主義であろうし、旧同盟と密接にむすびつき、革通理論と実際上むすびついているこうした思想を我々は同盟内から追い出さなくてはならないであろう。
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1958年12月に同盟が誕生し、革共同と分裂し、成長する過程は1ある理論によって偶然に生み出された、というようなものでは決してなかった。同盟の誕生自体、苦悩し、闘って来た世界プロレタリアートの闘いと、日本のプロレタリアートの戦前、戦後の革命的闘争と、日本資本主義の脆弱性に物質経験を持つ、日本労働運動の左翼的展開の中からこそ、世界共産主義革命をめざして生まれたものであり、それ故に、他の一切の政治的潮流と区別された真実の革命的な側面を持っていた。たとえば、我々が綱領草案をつくりあげ、それを「討論」にふすということをなしえ、革共同全国委が彼らの誕生から大体四ケ年もたつのにそれすら出来ず、戦旗51号のような小ブル的な俗悪な無内容な文書を美化し、ほめそやしていること自体偶然ではない、本質的な相連のあるものとしてうけとらなくてはならない。  
しかし同盟の――そして何よりも我々の――革命的側面、革命的情熱は、その様々な歴史的、社会的な制約によって小ブル急進主義として現象せざるを得なかったということなのである。またそれ故に、このきわめて革命的情熱と革命的努力にみちあふれた、偉大な小ブル急進主義運動は、歴史的社会的に見れば――すなわち、1959年から60年にかけての日本の階級闘争の発展段階において完全に正当であり、きわめて重要な、決定的な意義を持っており、かつ重要な役割をはたしたのであり、ある意味において日本プロレタリア革命の突破口を切り開いたのである。だからこそ、今ですら、日共の内部において分解が進んでおり、多くのプロレタリアートの左翼が漠然と同盟の再結集に期待しているのである。また、だからこそ我々は、戦旗の「ブントは小ブル急進主義である」というだけの右からの批判に対して正当にも反発したのであり、そして革通派、プロ通派が一定期間同盟の左翼を結集して存在しうる条件がここにあったのである。(しかし、じきに、必然的に破産し分解して行かざるを得なかったのであるが)。そしてこのように総括することは旧同盟を肯定することでもなく「真正ブント」の再現のために努力することでもなく、ましてや革共同全国委を肯定することでもない。逆に彼らを粉砕しつつ、同盟の革命的止揚をなしとげ、さらに我々共産主義者がプロレタリアートの革命的大衆行動と結びつき、勝利するために首尾一貫して努力する、という方向が不可避的に生まれてくるのである。……  
かくして我々は同盟の総括を「全面的否定」という戦旗派的、革共同全国委的空文句で清算主義的になしとげることがいかに反革命的な、反動的な階級的行為(裏切り的な、という意味だ!)であることを明らかにすることが出来る。革共同全国委は純粋理念にてらしあわせ、あてはめてのみ安保闘争や現実を稔括するので「前衛党不在の一般論の定着」や「敗北の意識の定着」という、全くの無意味、無内容の、言葉と観念のみの総括しか出来ず、混沌たる現象の中をうろつきまわることになるのである。
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また「外からのショック論」、戦旗51号で青山氏が同盟の小ブルたちをもったいぶって、しかも残念ながらメンシェヴィズム的に右から批判したブントの歪曲された、「外部注入論」は、革共同や青山、唐牛一派、コペルニクス的大転回をとげた同志岡田・電田の諸君の云うように「スターリニズムをうけついでいたから」ではない。安保闘争をふりかえってみれば、そうした理論が革命的小ブル急進主義運動を強力に展開するためにのみ、その必要から不可避的に、必然的に生み出されて来たことが分かるのだ。また「安保か、合理化か?」と対置し、ブントが「安保だ!」と云ったマンガ的思考様式も、小ブル急進主義運動の忠実な、正確な反映なのであった。そして小ブルを相手にしたのでは、完全な、きりちぢめられないスローガン」、共産主義的宣伝煽動は不可能であり、真の革命情勢でない時期に学生を革命的闘いに組織するには、小ブルの意識に依拠し、その観念的本質にうったえ、非現実的であろうとなかろうと危機意識をあおりたて、さらにあおりたてて進まなくてはならなかったのであった。
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へーゲルはマルクスによって本質面において否定され、のりこえられた。にもかかわらず、このことはヘーゲルの体系の「以前のどんな体系よりも比較にならないほど広大な領域を包括し、そしてこの広大な領域で、今日なお人を驚嘆させるほど豊かな思想」をマルクス、エンゲルスが評価するのを妨げなかった。  
共産主義者同盟とその指導した運動を本質面において否定し、のりこえることが今、我々の課題となってける。ということは、この革命的小ブル運動と旧同盟を革共同全国委的に、坊主ザンゲ的に、「全面的否定」の空文句でなしとげ、自からの小ブル的日和見主義をおおいかくすことではない。彼等は革命的小ブル急進主義運動が、歴史的社会的なものであることをマルクス主義的に把握できないが故に、旧ブントを頭の中で否定したと思った瞬間にまさに旧ブントそのままなのである。  
マルクスの初期から学びマルクス主義の本質を学びとって唯物論的主体性を確立したと称する革共同全国委の諸君は、また何とマルクス主義的でないことだろう! 偉大なマルクスと、安保闘争の総括一つとっても、その根本的方法でことなることだろう!  
こうした小ブルたちは、小ブルとプロレタリアートの本質的差異を言葉では認めつつも、実際にはそれをあいまいにするのである。現在において学生=小ブルと、プロレタリアートの階級的立場の相違をとくにくっきりと明らかにするのは重要である。学生=小ブルも、プロレタリアートも独占資本によって圧迫されていることを根拠にして、これらのちがった階級をいっしょにすることは全く反動的なことである。このことはまさに現代社会経済の社会的構造、そのブルジョア制度をおおいかくし、ぬりつぶすことを意味する。ところが、現在の革共同の唐牛一派のみにくい、俗悪なる学連主義者のやっていることはまさにこのことである。彼らは、革命的インテリゲンチャに、革命的学生運動を「再建」し、「展開」することしか訴えないのである。現在の特殊性、すなわち1958年〜60年の革命的小ブル急進主義連動を通じて生み出された、真のマルクス主義と真の前衛党を、組織されたプロレタリアートの中へ広汎に、深く持ちこみ、革命的プロレタリアートを組織することが緊急の問題となっていることをおおいかくすのである。  
彼らは革命的学生運動を展開することによってそれをなしうると云うのだろうか? いや、それはまさに、旧ブント路線そのものではないか! それとも革共同全国委の理論ですれば今すぐ革命的学生運動が展開しうるというのか? それなら、それは全くプロ通革通と同じく「理論」があれば、……と云ったのと本質的に同一ではないのか。彼らの旧同盟の批判の根底が、単に旧同盟への小ブル的反発でしかないし、真の批判とはほど遠く、従ってまた旧同盟と全く同じものを平気で持ちこみうるのである。  
旧プロ通派の英雄、学生運動から去って真の革命家としての実践をはじめようとした岡田氏の学生運動への復帰は何を意味するであろうか? さらに唐牛氏の復帰は? それは彼らが学生運動が重要だと思ってそうしたのでなく、真の革命家としての実践活動をなしえない小ブル的本質を持つが故に、自らの本質にふさわしい場所にもどったということ以上、何も意味しない。我々はこうした一切の腐敗し切った小ブル学連主義者たちとけつ別し、断乎として、真の革命党をめざす方向に進まなくてはならないであろう。
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しかし安保闘争をその運動において総括した学生運動内の真のマルクス主義者は旧ブントの路線=小ブル急進主義は永久にすぎ去った日本の革命運動の一発展段階であること、そうした闘争をいくつ積み重ねても革命がおこらないのみならず、そうした方向で闘争を組織しようとする今後の一切の試みは必然的に挫折せざるをえないこと、そうした試みは、現在においては反革命的なものとなっていることを認識しているからこそ、全学連が、直ちに革命的学生運動を展開し、4・5月闘争ののちに一挙に全自連を粉砕しうる、と考えるのは夢であり、小ブルの頭の中で考え出された、非現実的な幻想であろうというのだ。今後の真の革命党に指導される小ブルの運動は絶対に小ブル急進主義運動としては現象せず、それゆえに、今すぐそうした闘争が組織しうると考えるのは全くの反動的な幻想であり、旧ブントそのままである。今後の小ブルの闘いは独自的な意義をますます失い、プロレタリアートの闘いの単なる同盟軍(今までのように言葉の上のみの同盟でなく、実質の上での同盟軍)としてのみ現れるだろう。しかも完全にプロレタリア的内容と、プロレタリア的闘争形態をもって。全学連の再建と日和見主義者の粉砕は、こうした形では絶対になされないのみならず、逆に、学生運動内の真のマルクス主義者を混乱させ、消もうさせ、意気阻喪させる以外、何もしないであろう。全学連の再建――すなわち、小ブルジョアのプロレタリアート側への獲得は、今すぐ出来るなどというものでもなければ、学生運動を独自的に、自己完結的、自己目的的に追求して可能である、というものでも絶対ない。それはプロレタリアートの、断乎たる、非妥協的な革命的大衆運動の展開によってのみ、可能となるであろう。  
プロレタリアートとプチブルの関係における一切のあいまいさ、一切の逆転も、それは絶対的に反動的な、ブルジョア社会の本質を理解しない見解である。プロレタリアートのみが、唯一の革命的階級であり、小ブルはあくまでも小ブルであって、、小ブルを頭の排泄運動によってプロレタリアート的立場にかえうるというのは黒寛一派の小ブル的な、反動的な幻想である。せいぜいそれは口さきでは過去の自分のすべてを否定し、坊主ざんげし、革命的に闘ったことをくやみ、「踏絵」をしたとしても、自己の小ブル的信念は、いささかも変わつていない篠原、唐牛、北小路、清水、斉藤(清)氏等々の醜悪な、腐敗し切った政治屋的小ブルたちをあらためてつくり出すのみである。  
斉藤(清)氏は、「革命的プロレタリアートは、反スターリニズムの唯一の大衆組織としての全学連の再建を期待している」と安っぽいアジテーションを行った。革共同全国委の下に結集している小ブル的なプロレタリアートはさておいて、真の革命的プロレタリアートは、「全学連の革命的再建」という小ブル的幻想に期待してはいないし、又してはならない。そんなところにプロレタリアートの資本のくさりからの解放の萌芽はもはや存在してはいない。プロレタリアートの解放はプロレタリアートの独自の、自主的な革命的大衆行動によってなされるのであり、そのためには、まずプロレタリアートは革命党をこそつくり出さなくてはならないのであり、プロレタリアートの解放の火花をひめている組織こそ、我々「共産主義の旗」派であろう。  
またこの中央委員会の中で、我々が旧ブントと闘っていない、旧ブントを美化している、すなわち、「運動として総括する」という方法によって旧ブントの「理論」のうら切り性をおおいかくしている、といういわれのない中傷について答えておこう。これは全くのウソであり、事実は全くの反対である。我々は旧ブントの理論のみをとり出して、あるいは理論を中心に持って来て総括するのに反対したのであって、旧ブントの小ブル的理論を暴露して闘うのに反対したのではない。  
中央委員会で清水氏は次のように云った、「我々が同盟をつくって出発した時には、安保闘争=小ブルの運動の直接的な発展の上に革命があるなんて思わなかった。世界革命を行う、という理論をもって出発した。ところがそのようになったのは何故か? それは党と革命の論理がなかったからだ」とし、彼はここから黒寛がそれを解決している、とつっぱしるのである。理論は世界革命をめざしていた、ところがそうでなくなった、だから理論の問題である。あるいは、安保闘争の延長上に革命があると思ってしまった、これは革命の理論がなかったからだ、というのである。一体清水氏が正直ぶり、無邪気ぶって告白している真の内容は何であろうか? これは観念の永遠のへーゲル的な自己運動であり、どこまで行っても解決のない水車のような永久回転である。彼らはここから、泥沼の方へ行ってしまったのである。
共旗派結成アピール  
革通派が破産し、戦旗は分解をとげ――そしてそのことは彼らの根本的立脚点と理論から必然であったのだが――さらに本質的に革通派と同じ基盤の上に立ち、同じ傾向の理論を持つプロ通派も破産した。彼らは我々の圧力の下に現象的には変化したような顔をして過去をすべてぬぐいかくそうと反動的努力に懸命である。しかし彼らはマルクス主義の本質を、弁証法的唯物論を理解していないが故に、科学的に世界を経済分析する決定的な、必然的な重要さも理解しえないし、総括一つ出来ないのである。この小ブル革命家諸君は同盟の挫折――この原因を現在の資本主義の政治的経済的な問題として、物質的な諸階級間の問題として還元してマルクス主義的に総括することができないし、その上に立って首尾一貫して同盟の理論的な組職的、政治的歪曲を総括し明らかにし新たな方向をめざして行くことはできず、必然的にあれこれの思いつきを追求し、新たな理論を「発見する」ということになり、真の党活動をどうしても展開することができなくなる。  
我々の分派結成は思いつきや偶然でなされるものではない。三派の破産の明確な確認の上になされるのだ。それ故にこそ我々は固い決意で、革命の日まで先頭に立って闘おうと思う。 
 
革共同 革マル派批判  1973/7

 

宗派革マルによる川口君虐殺糾弾!  
プロレタリア革命に恐怖し、敵対する体制内小ブル集団 革マル派を粉砕せよ!  
革マルを利用した当局の学生管理、支配粉砕!  
70年代中期階級闘争の命運をはらむ早大解放闘争に勝利せよ!  
帝国主義ブルジョア政府打倒 宗派の根底的解体止揚への闘争をさらに強力に推進せよ!
(一) 72年11月8日、革共同革マル派は早大において早大生川口大三郎君を虐殺した。死にもいろいろある。死のそれぞれのありかたを安易に虐殺だの何だのといって政治的に利用することは許されぬが、革マル派による川口君の殺害は文字通りの虐殺であった。  
これをめぐって偉大なる第三次早大闘争が爆発していった。早大学生は、テロ・リンチによる宗派革マルの数年にわたる支配に対して決起していった。この闘いはたんに革マル派に対する闘いのみならず、革マルの宗派支配を学生の管理、支配に利用していった大学当局に対する闘いとしても爆発していった。第三次早大闘争は、おいつめられた革マル派の兇暴なテロ・リンチを完全に粉砕し重大な前進をとげる段階へきている。  
一切の願望と政治技術が破産した後、革マル派にのこっている手段は彼らの本質であるテロ・リンチによる活動家つぶしである。4月にはいって革マル派はこの全面化にのり出した。だが、彼らはその最後の手段も、恐れをしらぬ早大学生とこれと共に闘う反帝学評により粉砕されつつある。  
革マル派による川口君の虐殺は、革マル派にとってのたんなる「部分的失敗」ではなかった。誰でも誤りはありうる。しかし、革マル派の川口君虐殺はたんなる誤りではない。むしろ革マル派の路線からすれば当然帰結される学生の虐殺であった。それはこの小論の中で明確にされるように、帝国主義への闘争をまさに「適当にやり」つつ、自らの権力への恐怖と権力闘争からの逃亡を都合よく理由づけ、しかも闘う人民、政治潮流への破壊活動を革命運動だとする疎外されきった反プロレタリア的な路線である「のりこえの論理」の結果であった。  
革マル派の運動と組織は、プロレタリア人民の生き生きとした闘いの抑圧、階級闘争からの小ブル的な逃亡路線の上にのみ成立する。したがって、これをこえて突出する部分には、テロ・リンチをもって保守的な組織保持をはかるのである。こうして革マル派によって公然、隠然の死においやられた学生は川口君だけではない。だが、川口君の虐殺はあまりにも許しがたいものであった。しかもその路線は革マル派の居直りによってさらに強化されんとした。早大学生を中心としたプロレタリア人民はこれを許しはしなかった。
(二) 革マル派は川口君の虐殺に対してはじめは次のように居直った。革マル派の路線は川口君の虐殺とは無縁である。しかし、外部の悪しき路線に汚染された革マル派の下部活動家が誤りをおかしたことを自己批判すると―。一体誰がこんな「自己批判」をうけいれると思うのか。革マル派の歴史を知っているものは、川口君虐殺のテロ・リンチが革マル派のいるところ全日本どこでも日常のこととなっていることを知っている。  
われわれは暴力一般を否定するものではない。むしろプロレタリア革命運動にとって革命的暴力は本質的なものである。しかし、革マル派のテロ・リンチは革マル派の小ブル的、体制内的運動をこえて前進する部分に対してのみ与えられる。まさに階級闘争を背後から破壊するものである。だから、革マル派のあのような自己批判をうけいれることは革マル派の路線をむしろうけいれることとなってしまうことを全早大の学生はハッキリと知っていた。だから早大学生は決起していった。  
革マル派の第一回目の自己批判の構造はたんに闘うプロレタリア人民の怒りをかっただけではなかった。革マル派内部に深刻な動揺を生み出していった。まさに革マル派の路線に「忠実に」川口君を虐殺した下部活動家に対して一切の責任を彼らにきせ、自らは全く無関係と「白い手」をぬぐった官僚どもに対して、下部からの不満が噴出した。こうして、今度は官僚どもはその不満をおさえるべく必死で弁解し、「他面、指導部の未熟性」「組織的責任」を強調した。  
だが、それだけでは事態がおさまるはずもなかった。早大生を中心とするプロレタリア人民の怒りは革マル派に集中し、しかも内部も徐々にではあるが根底的動揺が拡大した。本質的には革マル派と同じ宗派中核が、宗派戦争において、革マル派の活動家を殺した時でさえ、「良心的」革マルは「革マルは中核を批判できない。われわれも同じことをやっている」と革マル中央に叛乱し、革マル中央はこれをつぶすことをもってその拡大をおさえた。東京の一拠点T大学の革マルはこれでつぶれた。  
しかし今回は弁解の余地のない革マル派の路線の帰結であったのであり、革マル中央への恐怖からなかなか公然たる叛乱がおこせない革マル派活動家の中に、むしろ逆に深刻な形で問題が沈んでいった。それが革マル派の全国最大の拠点早大一文においておきたことにおいて事態は致命的であった。早大革マルは再三の危機を指導部のパージをもってのりきり、それによっていきついたはてが川口君の虐殺だったのだ。
(三) この小論でみるように革マル派の歴史の中で現時点は一つの「曲り角」に立っていた。それは、革マル派の一面である「小ブル主体性論」に対して、革マル派の他面である階級性なき「組織主義」が勝利し主体性派は力を失っていく。こうして体制内的他党派解体策動が展開される。この中でおきたことは今みてきたことと重なって革マル派内部の動揺を拡大した。革マル官僚は全力で自己弁護にのり出し、教祖黒田と共に<中味のない反プロレタリア的陰謀技術―組織戦術>の賛美によってこの動揺をのりきらんとしている。そして一方では目を外に向けるために社共と同質の小選挙区制闘争―田中内閣打倒闘争をやり、また責任を早大の活動家や他党派に転嫁し、さらに宗派戦争に熱中するという有様である。
(四) 早大革マルの破産は、たんに学生運動にとどまらなかった。革マル型労働運動も深刻な動揺の過程にはいる。外観上はむしろ当面の闘争に「今まで以上に」かかわることにより川口君問題を忘れようとしたが、所詮それは無理なことであった。なぜならば自分が日々やっていることと同じだからである。  
これは破産した学生運動が、学生独自の闘いを通して労働運動と連帯するのではなく、むしろそれを削りおとしてブラさがっていた結果によっても増幅された。早大ヘビラマキに動員された革マル系の労働者は、早大生に事実をつきつけられて一言も答えられず消耗して逃げかえるという有様だった。  
革マル派が早大でやったことは労働運動で革マルがやっていることのいきつく先であることが誰の日にもハッキリしていき、革マル派全体に深刻な動揺が拡大している。そしてむしろそうであるがゆえに逆にその路線を強化することによってのりきろうとしている。
(五) 革マルの労動運動路線は民同型の「悪しき産別主義―本工主義」である。それは、実は本工の闘争自体が不充分なものでしかないことを示している。  
だが、この問題はこれにとどまるものではない。革マル派の運動がまさに階級社会の差別構造を固定化し、肯定するものでしかないことを示している。彼らは現実の一つひとつの矛盾を闘いぬくことを通して階級的、革命的団結が生まれていくということを否定し、現実の闘争、団結の否定の上にイデオロギー(小ブルの)的結びつきをたてる。部落解放闘争における先進的糾弾闘争をはじめとして、女性解放闘争、民族差別への闘争、「障害者」解放闘争として闘われているものを革マルは平然と放棄し、階級社会における差別を固定化、拡大している。これは革マルの「労働運動」「学生運動」が、決して人間解放の力をもった階級的革命的プロレタリア運動(ソヴィエト運動)たりえないことを明白に示すものである。川口君の虐殺もこうした闘いへ決起せんとした者への革マル的圧殺として存在したのだ。
(六) 国際階級闘争の歴史の中で60年代―70年代は後世に決定的な階級闘争の「幕あけ」としてしるされるであろう。なぜならば、第一次大戦、第二次大戦を通して破産した社会民主主義とスターリニズムの本質が公然かつ大衆的に暴露され、スターリニストや社民自体が深刻な分裂にはいっており、その底からプロレタリアの階級的独立の闘いが徐々にではあるが確実に前進している時代だからである。  
この時代の中で、スターリニストを批判した小ブル急進派の初期の見せかけの戦闘性が破産するという事態が進行した。国際的にもそうであったが、日本においては連合赤軍の破産―壊滅、ML派の破産―壊滅、中核派の破産という形で進行した。体制内的な自己保身術によってのみ生きのびていた革マル派も激化する階級闘争の中でかくしようもない形でその本質を暴露していった。社民、スターリニストの破産をのりこえて台頭しつつあるプロレタリア階級が、「社民、スターリニストを批判する」と称してプロレタリア人民を体制内的自己保身の物理力にせんとするトロツキズム諸潮流を粉砕して前進することは、70年代の階級闘争の質を決する問題である。
(七) 早大革マルはたんに学生運動の拠点たるにとどまらなかった。革マルイデオロギーを「体現」した官僚を労働戦線をはじめとする各戦線へ送り出し宗派支配を貫徹するための拠点でもあった。それはまた「のりこえの立場」を貫徹するために不可欠なものである―他党派解体のために不可欠のものである―テロ部隊の出撃拠点でもあった。早大解放闘争は直接に革マルの早大学生支配への闘いであると共に、早大革マルがしめている位置からいってこうした革マル派組織の全国的拡大の拠点を粉砕するという中味をもっていた。だからこそ革マル派はテロ・リンチをもって闘う早大生をおそったのである。  
こうして早大解放闘争が現下の教育の帝国主義的改編への闘争と結合して発展するということは、労働運動と学生運動の関連をふくんだ学生運動の最大の攻防戦としての意味をもっている。  
つまり革マルの学生運動は、現下の教育をめぐる学生の闘いを一切放棄し、民同的労働運動にブラ下がり、学生運動を階級的革命的に闘わないがゆえに生まれる「革マルイデオロギーを体現した活動家」を、日本軍命運動の阻害物として生み出すプールとなっていた。学生運動とプロレタリア運動の革命的連帯は学生運動自体が教育闘争、反戦闘争等を闘いぬきつつその団結をもって労働者運動と結合することによってのみ生まれる。こうした連帯のみがプロレタリア革命運動の推進力たりうるのだ。つまり学生が自らの矛盾を階級的革命的に闘いぬくことを通しつつ、プロレタリア運動と階級的要求をかかげながら結合することにより学生の小ブル性を根源的に突破・止揚できるし、また同時にプロレタリア運動がソヴィエト運動として発展することを促進しうるのだ。  
革マル派の「学生運動」は学生達動を小ブル的なものに固定化して、イデオロギー的にのみ革命化、階級化をはからんとする。それは実は小ブルイデオロギーを保守的に固定化し、それによって反スタースターリニストを生み出す運動となる。早大における革マルの闘う学生への抑圧は本質的にはこういうものとして存在した。  
これに対して早大生は決起し、同時に日本学生運動の革命的階級的推進力たる反帝学評は、公然とこれを連帯支援した。まさに反帝学評運動は学生の矛盾を運動として闘いつつ、その根源的突破のためにプロレタリア階級闘争との階級的革命的連帯を目的意識的に実現しつつある唯一の潮流だったからである。こうして早大解放闘争は宗派革マルの早大生への支配を粉砕する闘いであると共に、その闘いがそのまま、プロレタリア人民を権力への闘争からひきはなしまたは決起した部分を粉砕し自らの小ブル的な利害の物理力にせんとする反スタ・スターリニスト革マルの策動を根底から粉砕する闘いでもある。  
階級闘争の困難局面では、まさにその困難さを体制内的に、うしろ向きに「総括」し、小ブル的に固定化する部分がくりかえし生まれる。反スタ・スターリニスト革マルはその一点で組織保存ができた組織なのである。しかも、闘わんとする学生を虐殺することをしてもその小ブル利害を貫徹せんとした。だから早大解放闘争は、早大における反スタ・スタ二―リニストの支配を粉砕する闘いであると共に、日本階級闘争への小ブル的「寄生」を行なわんとする部分を根底から粉砕する巨大な意義をもっているのだ。  
なお、以下の叙述は次のような目的と意図をもってかかれている。  
第一は、反スタ・スターリニストの骨格を要点的に描き出すことである。まさに宗教的組織であるために、プロレタリア運動にとってはなかなかなじみがたい「用語」で、誤ったことを展開している。したがって、それを全体として骨格を明確にしていくことが必要だと考えた。その意味で引用をできるだけ行なった。  
第二は、第一のことを通して粉砕していくべき対象の攻撃目標をハッキリさせんとしたことである。  
直接的な革マル派粉砕の闘争方針や戦略戦術をここで叙述することは適当ではない。それは『解放』紙・誌でのべられているし、今後も強化されるだろう。ここではその前提を明らかにせんとしたのである。
■はじめに  
 「ファシズムかプロレタリア革命か」=「帝国かコミューンか」

 

73春闘は、70年代階級闘争の「原点」を凝縮して突き出している。  
「空前の交通ゼネスト―公労協統一スト」「民間組合のスト多発」「乗客暴動」という形で、それは突き出された。ここには二つの問題が集中的に表現されている。  
第一は、日本プロレタリア運動が、日本資本主義の政治・社会矛盾の激化の中で根底からの戦闘化を深めつつあり、民同、JCの官僚的抑圧をこえて突き出しつつあること。もちろん、今回の「ゼネスト」が、民同左派の枠を完全に突破したとはいえないが、民同も抑えがたい形で吹き上げたことは事実である。これは、様々な曲折をとるにしても、70年代のプロレタリア運動の行く手を指し示している。  
大幅な物価の上昇、労災、職業病の激発にみられる大合理化の進展、労働者の日常生活の破壊、また人民の血税によるアジア反革命戦争への道。これらに対する人民の反撃が当面「社共」・民同の枠内ではあれ、「公然」と吹き上げはじめ、さらにはその枠を打ち破る力を一歩一歩形成しつつあることを73春闘は示している。階級的プロレタリアートの任務は、この力を決して「社共」―民同に収約させることなく、行動委員会運動―ソヴィエト運動の展開、革命的プロレタリア党建設へ集中して行なわねばならぬ。しかも、明確な革命への展望をもって。  
第二の問題は、この戦闘化がもう一歩突破しなければならぬものをかかえているということである。それは、ストライキに突入しているプロレタリア運動が資本と民同の分断をこえていく路線・方針を確立し、展開しきれていないという問題である。  
資本主義社会における矛盾の激化は、たしかに一人ひとりのプロレタリア人民に、耐えがたい形でのしかかる。しかし、その一人ひとりにかかる資本主義社会の矛盾は、資本主義社会における分業の中で、外観上は様々な「差異性」としてあらわれている。しかも、資本の運動は、これを分断と競争として対立させる。  
したがってこれらの矛盾に対して、もしこのブルジョア社会の根本的突破・止揚を目指すソヴィエト運動が展開できていないときには、プロレタリア人民相互の深刻な「対立」が突破される展望のないまま激化する。そして、突撃していく部分も、「手づまり」状況にはいっていく。この「手づまり」状況を利用して、ファシストが登場し、分断されたまま矛盾が激化しているプロレタリア人民の一部をもまき込んで、プロレタリア革命運動に対する圧殺にはいっていく。上尾からはじまっていく「乗客暴動」は、この問題を突き出している。  
こうして、プロレタリア運動は、産別的団結をさらに強化し階級的・革命的産別ストライキの強化を目指すとともに、反合闘争をめぐる地区的団結を発展させ、さらには生産過程・消費過程の双方を貫くプロレタリア運動を発展させていかねばならぬことをハッキリと突きつけられている。今回の「乗客暴動」で、右翼の挑発が行なわれたことは、いうまでもなくハッキリしている。これに対して、断固たる闘争を強化していかねばならぬ。しかし、現在の民同左派の運動が、60年代に存在したストライキをめぐる「地区的支援」をますます切りおとし、「悪しき産別主義」におち込みつつあること、したがって、右翼につけ込まれるスキを与えていることもまた事実なのである。  
ここに出ている問題は、「大企業プロレタリアートと中小未組織プロレタリアートの分断」「生産過程と消費過程の分断」の問題である。さらに、現在深刻に突きつけられているものとしての「公害」をめぐる「地域住民と工場プロレタリアートの対立」、また社会的・歴史的な差別分断をプロレタリア運動が突破しえない問題等々として、この問題は突きつけられているのだ。  
70年代階級闘争は、来年の参院選をふくんで、この1、2年に急速に深化をとげんとしている。全日本プロレタリアは、一定の限界をもちつつも下部プロレタリアートの吹き上げによってうちぬかれた「ゼネスト」の階級的中味を、地区・産別の行動委員会、課題別戦線、さらには圧倒的な政治闘争として発展させ、プロレタリアートの階級的独立の闘いを急がねばならぬところへきている。  
こうしたプロレタリア運動が、「権力展望」をもふくんだものとして急速に階級的・革命的に強化されねばならぬという課題を別の側面から突き出しているのが、「党派闘争」の問題である。  
歴史的には、1930年代の世界的な革命運動の高揚の中で、ドイツ、フランスとならんで革命と反革命の激突の焦点となったスペインにおいて、フランコのファシスト軍隊と闘いつつ、スターリニスト、トロツキスト、アナーキストが三巴の深刻な党派闘争を行ない、敗北していったという事実がある。もちろん、たんに党派闘争が存在したからスペイン革命が敗北したという総括は正しくない。  
そうではなくて、プロレタリア革命派(それは相対的にはスペインのトロツキズム潮流に体現されていた)が、アナーキスト、スターリニストを突破し、止揚する運動を展開し、そういう組織を建設しきれていなかったことによる。  
「党派闘争」というのは、決して現実の階級闘争と無関係に、「セクトとセクト」が行なう闘争ではない。反ブルジョアジーの闘争のなかで、様々な階級、階層が決起していく。しかも、帝国主義の矛盾の激化の時代、プロレタリア革命の時代においては、小市民が自らの利害を「プロレタリア革命」という名のもとにおし出し、プロレタリア人民をその物理力にせんとする活動が強まる。こうして、プロレタリアの階級闘争とそれを物理力にせんとする小市民「左派」(スターリニスト、反スタ・スターリニスト)との闘争は、当然激化する。  
われわれは、この闘争をプロレタリア革命連動の展望のもとに、断固としてやりぬかねばならぬ。しかも、重要なことは「宗派と宗派の闘争」、「分断強化のための闘争」、「階級闘争における手づまりを深化させる闘争」としてではなく、ソヴィエト運動およびそれを推進する階級的・革命的党派と小市民左派・右派との闘争としてこれをやりぬかねばならぬということなのだ。まさに、プロレタリア・ソヴィエト運動の発展のための、プロレタリアの階級的独立のための「党派闘争」でなくてはならぬ。この闘争は実力による闘争をふくめて、断固として闘い、勝利しなくてはならない。それは「大衆運動の防衛」、および「大衆運動の階級的・革命的発展」のために闘いぬかれねばならないのだ。  
そのためには、まずわれわれは、宗派の本質を正確に分析し、その「宗派的他党派解体闘争」を粉砕しつつ、彼らの基礎をふくめて根本的解体止揚の方針を立てねばならない。そういう作業の一環として革マルの分析を行なう。  
階級闘争の始元、原点を誤ってしまうと、本人は主観的に革命的、マルクス主義的たらんとしても、革命的プロレタリア運動に敵対する構造にはまり込み、あがけはあがくほど階級闘争の中から放逐されていくことになってしまう。その典型が革マル派である。  
小ブルジョアには小ブルジョアの世界があり、問題が出てくるたびにそのプチブル的中味の深化として路線確立が行なわれていく。そして、自己の破産が決定的になるや否や、過去においては「そんなことはしない」と必死で自己弁護していたようなことを、路線として公然と確立することによってしか「生きのびられ」なくなる。そして、いきつくはては、プロレタリア階級闘争と階級的政治組織への破壊攻撃が「革命運動」であるという全く疎外されきった小ブル宗派路線を確立して、そういう行動へ熱中していくことになる。  
革共同革マル派は、遂にそういう段階へ自分を切りつめ、むき出しの宗派活動にはいってきている。彼らは、70年安保決戦、沖縄闘争、教育闘争、反合理化闘争、早大における階級闘争としての破綻の中で、こういうところへおいつめられていったのだ。後でみるように、革マル派の指導部は、下部の同盟員を操作しながら、この点についての矛盾にいつもさいなまれており、だからこそ逆に様々な右翼的延命策と破壊活動に下部同盟員と自分を駆りたてているのだ。  
表面的にみれば、革マル派の組織は、一部において延命している。だが、それも、すでに中味はますます空虚なものとなり、民同的自己保身と大衆操作により―要するに、社共と同次元の方策により―維持されているにすぎない。ブルジョア社会において、ブルジョア的なものに真向から対決せず、むしろそれに乗って生きのびることは極めてたやすい。社会党も、共産党も、そうしてきたのである。後の展開でみるように、革共同革マル派は「実践的な小ブル中間主義路線」、「イデオロギーの自覚運動」、「組織的には他党派解体路線」として、これをもっとも反労働者的な形で行なっているのである。特に注目すべき点は、70年代中期に向けて階級闘争が深化していく中で、革マル派はこの宗派路線を「確立」し、早大生川口君の虐殺を完全に居直り、階級闘争への破壊活動に、しかもそれのみに、さらに熱中しだしたことである。われわれは、プロレタリア革命運動のさらなる推進のために、この宗派革マルの本質と現段階をつかみとり、彼らの敵対を粉砕しつつ、最終的な解体・止揚のために、現在的になすべきことを貫徹していかねばならぬ。
■1 革マル派の「前史」

 

革命的共産主義者同盟の潮流は、日本に三つある。いわゆる革マル派、中核派、第四インターナショナル派である。第四インターの系列は「複雑」なので、詳しくみれば組織としてはもう少しふえるとは思われるが、ここでは第四インター派の分析が主目標ではないので、第四インター派としておく。要するに現在、革共同という組織名を使っているかいないかにかかわらず、革マル派、中核派、インターは、出発点を一つにしている。但し中核派の場合はブント(58年結成の共産同)と革共同の「合成」である。  
この革共同の分裂の歴史を簡単にみて、革マル派の結成に到る「前史」を必要な限りで要約しておこう。  
「日本トロツキスト同盟の結成」―1957年1月。  
これは、太田竜、現在の第四インターの流れ、および黒田寛一等が作った日本のトロツキズムの政治組織である。この57年の12月にこれは「日本革命的共産主義者同盟」として名称を変更する。  
革共同「第一次」分裂―1958年7月。  
「反帝・労働者国家無条件擁護」派と「反帝・反スタ」的傾向とに分裂。前者は太田竜を軸とする部分であり、後者は、西派(西京司)、黒田派の合成である。(日共の学生党員を軸に、日共脱党グループによるブント=共産同の結成―1958年12月)  
革共同「第二次」分裂―1959年8月。  
これは、黒田を中心とするグループと関西派との分裂。ここで黒田たちは、革共同全国委を名のる。安保闘争の終末でブント解体、分裂。大きくは四つに分裂。「革命の通達派」(東大学生グループ)、「プロレタリア通信派」(全学連書記局グループ、清水、北小路等)、「戦旗派」(ブント中央グループ、労対グループ)、および関西でこの中央段階の論争、分裂にまき込まれなかった「関西ブント」グループ。革共同全国委は、このブントの内部抗争に介入し、「プロレタリア通信派」「戦旗派」を解体、吸収。「革命の通達派」「関西ブント」の流れは、それぞれ再建ブント、再建社学同の流れとなる。革共同全国委は、ブントの全学連、労働運動の「実践グループ」を吸収して、一挙に拡大。全学連をのっとる。  
革共同「第三次」分裂―1963年。  
「統一行動論」「大衆運動とケルン作り」「地区と産別」等をめぐって、革共同全国委が中核派と革マル派に分裂。人的には、議長の黒田が革マル派の軸となり、旧革共同メンバーの武井(本多)が中核派の軸となるという形になり、旧革共同と旧ブントの再分裂という形ではないが、内容上および人的にも大多数は旧革共同と旧ブントの再分裂という色彩が強い。分裂の中味は、結局、小ブルイデオロギー派と小ブル大衆運動派の分裂である(但し、「第一次」とか「第二次」とかいうのは、革マル派を軸としてみた場合であり、第四インター系の革共同は、またその中で再三再四、離合集散している)。革マル派にとっては、全学連が60年安保闘争後混迷し、その中心だった.ブント(共産同)が四分五裂状態になることを利用して介入し、ブントを解体して全学連をのっとったことが忘れられなかった。中核派にとっては、急進的学生運動を指導し、それにのって拡大したことが忘れられなかった。こうして、小ブル派は、イデオロギー主義と大衆運動主義に分裂していく。革マル派という組織は、形式上はこの中核派との分裂によって生まれた訳である。
■2 革共同革マル派の反プロレタリア的宗派性の<展開>

 

(1)革共同革マル派の宗派的展開の概要 革マル派自身による「歴史的整理」  
中核派と分裂して以降、革マル派は四苦八苦しながら宗派的組織維持に熱中しはじめる訳であるが、63年以降の革マル派のその歴史を要約してつかんでみよう。その場合、まず革マル派自身による「歴史的整理」を紹介し、その後でその「階級的再整理」を行なうという形にしたい。  
革マル派自身の手による「歴史的整理」「路線的整理」は最近様々な形で行なわれているが、まず彼らの「歴史的発展」の概要を、教祖黒田寛一の手によるそれを通してみてみよう。『日本の反スターリン主義運動 2』の中の「1 革命的マルクス主義派建設5ケ年の教訓」によれば、次のようになっている。  
1、ブクロ官僚派との決別と革マル派結成のための闘い(1962年2月〜63年7月) 
この中で次の点をあげている。  
(1) 統一行動とマル学同建設にかんする問題  
(2) キューバ危機をめぐる反戦闘争にかんする問題  
(3) 動力車労組の運転保安闘争に対する二段階戦術をめぐる問題  
(4) 参議院選挙闘争にかんする問題  
(5) 地区の党組織建設と産業別労働者委員会の強化にかんする問題  
そして、この中で「前衛党建設における決定的な対立と分裂」が浮び上がってきたとしている。また、この中核派との分裂の過程で、革マル派自身の中に労働運動をめぐって「運動、組織づくりにおける原則主義」「ケルン主義」があらわれ、また学生運動の中では「立脚点主義」があらわれたとしている。要するに、中核派の政治技術主義、大衆運動主義への革マル派的反発の姿である。  
2、ケルン主義の克服とフラクション創造の闘い(1963年8月〜64年3月) 
この時期においては、ケルン主義、あるいは「学習会を根底にすえた労働運動」という運動=組織路線における一面性を「反省」することを通して、「フラクション創造の理論」を明らかにしたという。それはコミンテルン型の党員だけによって構成されるものではなく、革マル派の組織戦術の大衆運動場面への貫徹において創造される一つの組織形態として、組合員としての革マル派同盟員が展開する組織活動(フラクション活動)を通じてつくり出される半非公然的な二つの組織形態として位置づけられた。これは、労働運動の内部においてそれを「左翼的」に推進するための、あるいは学生運動を「革命的」に展開するための直接的な推進母体として当面の戦術上の一致にもとづいてつくり出されると同時に、他方では、革マル派に結集し、その担い手となるべき「革命的労働者・学生」を自己変革するイデオロギー闘争の場でもあるという。  
しかし、この中で「フラクションを形態主義的にのみとらえる傾向」と「理論闘争のやり方や内容にひきよせて理解する傾向」とが出てきたという。このような傾向を克服するために「運動=組織論そのものの理論的深化」「運動=組織づくり(論)にかかわる問題と運動組織方針(論)にかかわる問題との二重うつしからの脱却」「もっぱら『戦略の適用』のベクトルからフラクションをとらえたり、また、フラクション会議における理論闘争の内容を考えたりする傾向」などの内部理論闘争がひきつづきなされたという。  
3、激化した中・ソ対立のもとでの、反代々木左翼の統一行動と党派闘争の推進(1964年4月〜65年1月)  
中ソ論争の激化と国際情勢の激動のもとで、日本スターリニストも「4・8ストやぶり声明」などで大きく動揺していく。このなかで、「反代々木統一行動」が問題となり「8・2集会」、「春闘活動者会議」が実現される。革マル派はこの中で、統一行動をめぐって問題の整理にかかろうとして「全学連の二重性」などの「路線」をうち出す。この時期に革マル派内部としては次のような問題をかかえていた。  
「(a)運動=組織づくりの理論的解明と闘争=組織戦術の提起およびその内容にかかわる問題の理論化とを二重写しにする傾向」  
「(b)方針提起における理論主義(たとえば、反合理化のための闘争論的解明を『合理化』論に、賃金闘争論的解明を『賃金』論に、それぞれ直接横すべりさせてしまう傾向)、そして組織作りにおける『理論』主義、つまり、主体形成主義ないし学習会主義、さらに、戦術の内容的展開における『理論主義』、つまり、原則主義や『原則』対置主義」  
「(c)場所的現在における大衆運動の組織化と前衛党組織づくり(革命的共産主義運動の現実形態としての)との関係を弁証法的にとらえること(つまり、運動=組織論)なく、むしろこの両者を『切断』してとらえ、そして、前者の解明が運動論であり、後者の解明が組織論である、とする誤り。あるいは、この両者(大衆運動づくりと前衛党組織づくり)の場所的現在における交互関係を、直接に時間的・歴史的な関係に横すべりさせ、現在的に展開される個別的な大衆運動から、人間の普遍的解放が実現される将来的な革命闘争への連続的な発展を想定し、しかもプロレタリアートの普遍的階級形成への過渡的段階における特殊的階級形成が前衛党であるとするような考え方」  
「(d)もっばら『戦略の適用』というベクトルから、諸組織形態におけるイデオロギー闘争の内容を説明したり、またフラクションにかんする諸問題の理論化を試みようとしたりする傾向」(以上『日本の反スターリン主義運動 2』)  
4、ベトナム戦争反対闘争の推進と内部理論闘争の発展(1965年2月〜8月) 
この時期に革マル派は、次のような問題をめぐって「理論的深化」をなしとげたという。  
「(1)反戦闘争の場所的実現の論理、あるいは『のりこえの立場』にかんする問題」  
これは、他党派の政治的、イデオロギー的対応にもとづいて展開される運動をのりこえていくという形で、つまり「場所的、実践的立場において」革マル派の大衆闘争と方針は提起されねばならないという「実践的立場」が「確立」される。これは「既成の種々の運動を左翼的あるいは革命的にのりこえつつ大衆闘争を展開するという、この具体化された実践的立場」「のりこえの立場」「闘争論的立場」と規定される。  
「(2)情勢分析にかかわる問題」  
これをめぐっては、次のようなものが「核心的に」獲得されたという。  
政治経済構造の経済学的分析と相対的に区別されるべき情勢分析とは、階級的実体関係そのものを、それを規定しているイデオロギーや方針を媒介として分析すること(革命論の適用)。情勢分析は階級実体としてその動向にかかわるものだから、階級実体とその動向を規定しているイデオロギーそのものを分析したり、批判したりするものではないこと。  
「革命的な左翼」や「反代々木行動左翼」が構成する「戦線」や大衆闘争そのものの動態的分析は、運動論的情勢分析である。  
「(3)戦術提起にかんする問題」  
大衆追随主義的な方針提起主義の批判、克服。  
「(4)戦術内容の理論的展開にかんする問題」  
戦術の内容的展開が原則主義や「原則」対置主義になったり、また「存在論主義的」なものになる問題。  
「(5)ベトナム革命論にかかわる問題」  
ベトナム戦争反対の闘争論的解明が「革命論」一般に横すべりさせられる傾向。これは、「のりこえの論理」の体得にもとづく大衆闘争論の追求によって克服されねばならないという。  
「C」 労働運動をめぐって  
革マル派の組織戦術の大衆運動の場面への貫徹にかんする主体的構造の運動=組織論的アプロ―チと、既成の労働運動内部においてそれを左翼的に展開し、フラクションや革マルの強化を行なうという闘争論的アプローチが未分化であり、また、「社共両党の歪曲から解放された典型的な労働運動」または「反帝・反スターリニズムの立場における労働運動」なるものをあらかじめ想定し、これを基礎として現存する労働運動を直接的にのりこえる「革命的労働運動の直接的創造から権力打倒の革命的闘争」へを論ずるような「労働運動論」の発生があったという。  
5、日韓闘争の敗北と内部闘争の深化(1965年9月〜66年7月) 
日韓条約をめぐる分析については、次のようなことが問題になったという。  
日共の従属圏規定は、「締結された安保条約を基礎として、アメリカ帝国主義国家権力が日本国家の権力発動やその政治経済的諸政策の実施を規制するという構造を抹殺し、むしろ両権力の間でむすばれた『条約』(国際的な法的とりきめ)そのものを実体化するという誤謬の産物」であるという。  
また、代々木や、社青同や、ブクロ(中核派)の把握は、軍事力学的であるという。  
革マル派のこれらの批判の仕方は、彼らの全く階級性を欠落させた小ブル的分析の本質を暴露している(これは後でくわしくみる)。  
また、66年春闘および学生運動の中で、「のりこえの立場の空語化」や「フラクションとしての労働運動という左翼的偏向」を克服するために、「のりこえの論理そのものの追求」がなされたという。「基本的には、社共両党によって指導されている今日の種々の大衆運動をのりこえる(ただし、現在の労働戦線においては、その内部におけるわれわれの力量からいって、既成の労働運動の左翼的のりこえとなる)という実践的立場(=「のりこえの立場」)において、この運動をささえ規定している戦術やイデオロギーを批判しつつわれわれの闘争=組織戦術を提起し(=<理論上ののりこえ>)かつこれを物質化すること、またこの闘いは大衆運動・労働運動の場面への、そして既成の諸党派にたいする、われわれの組織戦術の直接的および媒介的なたえざる貫徹によって裏からささえられている(=<組織上ののりこえ>)場合にのみ実現される(=<運動上ののりこえ>)のだ、という大衆闘争のわれわれによる主体的組織化の論理が、すでに追求されてきた運動=組織論的解明との統一において明らかにされた」―「三つののりこえ」  
6、中国『文化革命』と代々木共産党の路線転換のもとでの反スターリニズムのための闘い(1966年8月〜67年3月) 
中国の文化革命をめぐっておきた日本左翼運動における混乱において、「唯一(→)これに対処しえた」と、例によって無内容な自己満足的な総括にひたりながら、革マル派は「ハンガリア革命を契機として創造された」日本における反スタ二ーリニズム運動の独自性の「主体的反省」、またハンガリア革命がソヴィエトを結成して闘いつつもなぜ再びスターリニスト官僚体制の中に没しさったかの根拠の解明をめぐって「内部理論闘争」が組織されたという。また、マル学同第8回大会(1967年春)において、同盟建設をめぐって「討論が深められた」という。  
7、高揚した沖縄・反戦闘争と党派闘争の新たな段階(1967年〜68年5月) 
70年安保決戦にむかっていく闘いの高揚の中で、革マル派は、またしても闘争の「ケチつけ」と、自分でナチつけをやっておいたことを後でおずおずと真似するということしかできなかった。この間、王子闘争、沖縄闘争、羽田闘争が闘われ、反戦青年委運動が高揚していく。反戦青年委については、彼らは結局、組織的位置を与えることができず―地区の位置が不明確であるため―この面で立ちおくれていく。その中で、何が彼らにとって問題となり、また彼らの内部で「発展」として確認されていったのか。それは次のようになっている。  
「(1)当面の具体的な大衆闘争についての戦術スローガンと、実現されるべき革命にかんする戦略スローガンあるいは戦略的課嶺を実現するための過渡的(要求)綱領との関係にかんする問題」  
この中では、次のようなことがいわれている。大衆闘争の中には、当面の大衆闘争の特殊性にもとづいて、当面の具体的な戦術スローガンはかりではなく、また前衛党がかかげる過渡的な要求の一部(たとえば、安保条約破棄、サンフランシスコ条約第3条破棄というような)が同時にかかげられねばならないという。後でもう一度くわしくふれるが、この問題は、革マル派の「大衆性と革命性の区別」にかかわるものである。つまり、大衆運動はその中に革命性をいかにはらむのか、またはらまないのかということであるが、ここでは「大衆闘争の特殊性」ということでごまかされている。  
「(2)沖縄における『祖国復帰』運動ののりこえと、本土における社共の『沖縄返還要求』運動ののりこえとの関係にかんする問題」  
「(3)沖縄や本土の軍事基地をめぐる内外情勢の分析にかんする問題」  
ここでは、沖縄闘争における「民族主義的偏向」と、その裏がえしの「反日帝闘争」への批判が行なわれたという。また、これと関連して「施政権のプロレタリア的実現」とか「本土復帰のプロレタリア的実現」とかいう「方針上の誤り」も「克服された」という。革マル派は、この中で「剥奪されている権利をうばいかえす闘いを、また自治権を拡大し強化するための諸闘争を、反戦・軍事基地拡張反対=撤去のための闘いと結合させつつ『民政府制度廃止、琉球政府打倒』の闘いに集約するだけでなく、さらにすすんでこの闘いを世界革命の一環としての日本プロレタリア革命を実現するための闘いにまで連続的に高め、プロレタリア的自治=ソビエト権力をうち立てる、という戦略的展望のもとに、沖縄闘争を革命的に推進すべきことを明らかにした」(138貢)という。もちろんここでも、「ソビエト権力」樹立への闘いが、現在的に何であるかが全く明らかになっていないのが革マル派の特色であるが、この点については後で全面的に批判する。  
「(4)運動=組織づくりにかんする間題」  
67年ごろから「全学連フラクションとしての学生運動」とでもいうべき傾向を、運動=組織論的に「反省」しつつ「克服」する内部理論闘争がおし進められたという。また、(イ)革マル派の革命論(戦略および組織論)の現実的適用にもとづく具体的な闘争=組織戦術の提起 (ロ)この闘争=組織戦術を物質化するための闘い (ハ)革マル派の組織戦術(一般)の大衆運動の場面への貫徹の問題等が問題になったという。  
「(5)地区の反戦青年委員会―その運営委員会―地区の労働者・学生細胞代表者会議…地区委員会…同盟細胞―地区反戦にかんする同盟指導部。これらにかんする組織論上の諸問題」
(2) 革マル派の反プロレタリア的宗派<展開>  
われわれは、今まで、革マル派自身が語る「革マル派の発展」の歴史を、『日本の反スターリン主義運動2』をとおして概略的にみてきた。今、われわれがみてきたことは、より具体的にはどういう形であったのか、また、より本質的には何であったのかを整理していく必要があるだろう。それを、「のりこえの立場」が確立されていく日韓闘争の前後と、「のりこえ―高め―めざす」という「立場」が確立されていく安保決戦前後を軸としてみていくことにする。但し革マル派は、本質的には反戦青年委員会運動をくぐっていないので、労働者の政治闘争は民同の尻にくっついた形のものでしかなかった。したがって、革マル派の政治闘争をめぐる諸論争は、主に学生運動のそれを軸としている。したがって、労働運動については、独自にそれとして批判することにしょう。  
(@)革共同全国委の分裂から日韓・早大闘争まで  
革マル派と中核派の分裂以降の革マル派は、七転八倒しながら路線形成を行なう。ブントからはいった「大衆運動主義者」が大部分中核派に流れてしまったので、運動上は全く孤立していく。「運動作りと組織作りのラセン的円環構造を明らかにし、その実体論的解明(運動=組織論)をめざしていた分派闘争の段階(62〜63年)、 …ベトナム反戦闘争をくぐりぬけることによって大衆運動の主体的組織化の論理=<のりこえの論理>(大衆闘争論)を明らかにしてきた段階(64〜65年)」(『共産主義者』)と整理している。要するに、中核派と分裂してからの革マル派は、再びもとの「イデオロギー集団」化していく危機に立ってしまう。この時期の革マル派は、再建されていく都学連の闘争に「おしかけ」ては「統一行動」を哀願するが、大衆や全党派からいやがられては「怒って」暴力的敵対をくりかえすというパターンをくりかえしていく。この時期に、革マル派は極めて重大な危機に立っていく。そして、そのまま日韓・早大闘争へ向っていく。彼らが、後に整理する「のりこえの論理」は、この時期から、日韓・早大闘争における完全な破産の中で「確立」されていく。要するに、この時期に、彼らは「のっかり」「のっとる」対象としての大衆運動から切断されてしまい、かといって自分で大衆運動を形成していく力ももてず、現実と無縁な「イデオロギー集団」として純化してしまい、「おしかけ的統一行動」を強行しては、批判をうけて消耗するという構造をくりかえしていく。  
(A) 日韓・早大闘争における破産  
(a) 日韓・早大闘争における破産と内部抗争  
こういう形で、極めて危機的状況のまま、彼らは日韓・早大闘争を迎えていく。  
60年安保闘争の後、沈滞していた大衆運動は、大管法闘争、原潜闘争から高揚をはじめ、日韓闘争の中で再び大きたうねりをはじめる。日本資本主義は、合理化を強行しつつ、帝国主義的海外進出の突放口を日韓会談によって切りひらかんとする。さらには、帝国主義的自立復活と共に、アジア反革命階級同盟の盟主への道を驀進しはじめる。労働運動も、工場における大合理化に抵抗する青年労働者が、政治的にも左翼化し、総評が物理力として作った反戦青年委は、青年労働者の突出の場となっていく。こうして日韓闘争は、戦闘的学生運動と青年労働者の力により大きく盛り上がっていく。  
革マル派はこの時期に、以前と全く同じスタイルで「消耗な闘争」をくりかえす。彼ら自身がこの時期の総括でのべているように、日韓会談の分析に失敗し、「のりこえの立場」の空語化の中で組織が大混乱におち込んでいく。これに決定打を与えたのが早大闘争であった。合理化に対応して進められた教育の帝国主義的再編に対する闘争が、早大闘争として爆発する。これは、日本学生運動が、教育をめぐる学生の社会的隷属に対して、はじめて闘った画期的な闘争であった。革マル派は、この闘争においても教育の帝国主義的再編の中味が全くつかめず、早大における当局との攻防戦においても、われわれに完全にヘゲモニーを奪われ、闘争のケチつけ以外一切何もできず、消耗しきっていく。合理化についても同様であるが、教育については全く社会科学的、マルクス主義的把握ができず、そもそも何に対決しているのかさっばりわからないということになる。あらゆる闘争についていえるが、革マル派は現実の大衆が決起して階級化、革命化した時には、茫然としてしまう。それは、彼らの理論が現実の解明になっていず、小ブル的な「自我」の世界のものでしかないからである。これは後に全面的に明らかになっていく。  
日韓・早大闘争をめぐって、革マル派は、中核派との分裂によってもった問題点が全面的に暴露されてしまい、深刻な内部抗争にはいっていく。この中で革マル派の全学連を支えていた早大の指導部(山元、蓮見等)が、責任をとらされてパージされていく。革マル派にとってはこの内部抗争とその結果定着させられていく路線が、その後を大きく規定していくことになる。この内部抗争は組織分裂という形をとらなかったが、内容的には中核派との分裂以降はらんでいた問題の一挙の顕在化と、その革マル的のりきりとして、大きな位置をもっていた。この時の論争の中味は、その後の革マル派の論争、ジグザグの骨格をなしているので、少しくわしくみてみよう。  
(b) 革マル派の日韓闘争破産の総括  
革マル派全学連の機関誌『学生戦線』No3にのせられた「日韓闘争の総括を深めるために」がその時の革マル派の混乱と論争をもっともよく示している。彼らは自分たちの闘争の限界を次の三点にまとめている。  
第一は、情勢分析において、日韓条約について「資本輸出」ということに一面化し、さらにこれを克服する過程で「軍事同盟」を接木するという一面化。および反対運動の現状について他党派の戦術批判をなすことだと思い込んだ問題点。  
第二に、1日韓条約の暴露についての「本質暴露主義」2社共への戦術批判におけるレッテルはり的批判―「反米民族主義」「議会主義し等々。また「三派」に対しては、礼共批判がないという断罪に終り、「社共、三派をのりこえる」ことの空語化、および「社共批判の自立化」3これらのことから闘争の高揚段階で「闘争方針がなく批判ばかりする」という反発を大衆からうけ、これに対して単純に実力闘争を対置した。  
第三に、1反戦青年委や社共共闘への介入において「社共を批判するか否か」と単純化し、また「三派」へのかかわりを「投入か、革命的介入か」と二者択一的ふりわけを行なった。2全学連統一行動において、「闘争目標の一致による統一行動」という原則を対置するにとどまり、全学連の組織強化になりえなかった3全学連フラクの強化の闘いが、戦術対策組織に化したり、その裏がえしの学習会主義におち込んだりした。(以上『学生戦線』)  
<情勢をめぐる問題>  
このように問題をあげた上で、さらに彼らは問題を次のように展開する。  
日韓条約を日帝の資本進出としてのみつかんでしまったことは誤りであり、その誤りを『克服』する方法」もまた誤っていた。誤りの「克服」の方法は「日帝の韓国への政治的進出」という形でなされたが、帝国主義の政治的進出とは、進出をうける国の独立した国家権力の破壊を通して、政治的従属化を産み出すことである。つまり、植民地国家としての包摂である。ところが日韓条約はそうではない。むしろ、韓国ボナパルティズム政権は、国内の支配体制の経済的基礎を作るために、日帝の国家権力と相互協力関係をうち立てんとしたのだ。また、軍事的進出ということも同様につかみとらねばならない(軍事的支配として)。しかし、日韓条約は共同防衛体制である。こうして、「資本進出」からのみみる「基底体制還元主義」への対決が、ただ、「政治、軍事面」をブラス・アルファーするということにおちいっている。  
これは、いかにして克服されるべきかというと、次のようにいわれる。「政治的側面、軍事的側面への分析は…物質的生産関係に根底から規定されながらも、これから相対的に自立して形成されるイデオロギーとその物質化としての政治制度、すなわち上部構造の分析なのである。…したがって、政治経済構造の分析において適用されるべき理論が経済学であるのと区別されて、われわれの革命論がそこに適用されるのでなければならない。」  
これは「革マル主義」が、マルクス主義とは全く無縁であることをある面でもっともよく示している。革マル派は、下部構造の分析(マルクス経済学的な分析)を情勢分析の原点とすることに対して「基底体制還元主義」というレッテルはりを行なって批判するが、実は、彼らはマルクスのいう「存在が意識を規定する」という意味がわからないのである。彼らにとって「物質的生産関係」と政治制度、上部構造を結ぶ方法が存在しない。こうして、「上部構造は、下部構造から相対的に独立している」だの「一対一的対応はない」だのといいわけをするが、それではどういう関係があるのかという点については全く語れない。そして、下部構造の上にどこからやってくるかわからないイデオロギーがベタンとくっつく。しかも、中味は社共と少しもかわらないのである。  
それが今みた日韓条約の分析に示されている。日・韓両国の関係が植民地支配か否かという点からしかみえないので、「相互的な条約」がなぜ結ばれるのかが全くわからない。プロレタリア革命に対抗する「反革命階級同盟」という「政治」が全くわからない。その意味では、社共と全く同じなのである。それでは、革マル派はこの上部構造と下部構造の関係をいかにうち立てるのかというと、「革命論」が適用されるのだという。それでは一体、その「革命論」はどこからきたのか→ そこにおける下部構造と上部構造の関係は→ 彼らは答えられない。なぜならば、彼らには「物質」と「イデオロギー」しかないのである。物質とは単なる「物」であり、イデオロギーとはまさに「観念」なのだ。要するに、「活動する人間」がいないのである。「存在が意識を規定する」というのは、<いかなる生産関係の中でいかなる階級に属するのかということが―いかなる生活様式、行動様式の下に生きているのか―その人間の意識を決める>ということなのだ。革マル派には現実の生きて活動する階級がみえないので―あるのは単なる「物質」と「イデオロギー」―今みたような矛盾におち込む(これは後に詳述)。  
情勢分析をめぐる第二の問題は「他党派の戦術批判をもって情勢分析にかえる誤りの克服をめぐって」として展開される。このことをめぐる中心的問題は「情勢分析の方針化」であるという。これは、ベトナム反戦闘争を進めている諸潮流の戦術の批判をもって反対運動の情勢分析だと考え、この「情勢分析」を方針として打ち出すという考えとなっている点についての誤り。  
この「情勢分析内容の方針化」が、なぜ誤りであるかといえば、「情勢分析とは、われわれの変革的実践が展開される場の対象的分析であり、その限りでは変革実践を行なうべきわれわれをもふくめた客観的現実の必然性への認識にすぎないものであり、われわれがこの現実を変革する実践の指針であるところの戦術とは明確に区別されねばならないのである」。 また「他党派の戦術批判とはイデオロギー批判のことであり、それは他党派の運動をのりこえたわれわれの運動の創造をなすために不可分の媒介として、戦術上、イデオロギー上でのりこえを実現するもの(主体の変革的実践の指標を表現するもの)すなわち、われわれの戦術内容にふくまれているのである」。  
こうなってしまう理由は、「運動の現状」と「運動を支えている戦術」の混同を行なっているからにほかならないという。この背後には、「戦術課題における戦略戦術論的分析」という考え方があり、それが誤りの原因であるという。この考え方の発生は「そもそも分析対象である既成反対運動をいかにのりこえて闘うかというのりこえの立場=闘争論的立場が喪失させられてしまっていることと関連している。いいかえれば、そこでは既成反対闘争をわれわれの変革対象としてとらえかえすのではなく、それとくつわをならべて戦術的有効性を競い合っていこうとする立場、いわゆる『有効性論議』の立場へおちいることと関連して生み出されてきたのが、この考えであった」。  
その後41中央委議案書で、「一応情勢分析と方針との区別を考えていながら、それは、前者は認識にかかわる問題、後者は実践にかかわる問題というようにとらえられ、かつ前者の展開に変革的立場をつっこみ前面化するならば後者に転化する」と考える「情勢分析に変革のモメントをいれて方針としてうち出す」考え方が生まれた。しかし、この考え方は、情勢分析も方針も認識活動としては何を分析したものなのか(階級関係と階級闘争の現実か、階級闘争の主体的推進のためのイデオロギーなのか)という点で区別できていない点で誤りとされる。  
それでは、どういう方針が正しいのかというと次のように説明される。「情勢分析は、(α)ソコ存在する階級関係の革命論的分析と、(β)かかる階級関係を担う実体が展開する階級闘争の運動論約分析、この二つから構成される。われわれが、国際的、国内的階級関係の分析に革命論を適用してその客観的法則を解明するにとどまらず、このようにつくりだされている階級関係に対する支配階級、被支配階級の動き=運動の構造を、その運動を組織している諸潮流の戦術を媒介して解明し、そうすることによって既成の反対運動をのりこえていくというわれわれの闘争戦術を打ちだしていくのである」。  
「われわれの変革的実践、のりこえの主体的構造は、単なる『変革的構え』として単純化されるべきではなく、(a)われわれの運動の展開において既成諸党派の運動をのりこえた運動を行なうこと (b)そのためには方針上で既成諸党派の方針をのりこえた方針、イデオロギーを提起しなければならない(c)これらをなしとげることを実体論的にいうならば(b)の方針のもとに(a)を行なう担い手を組織的に形成すること、つまり全学連フラクションの組織強化がなされなければならないのである」。  
革マルという宗派は、マルクス主義的にはもっとも没理論的な宗派なのであるが、自分では極めて「理論的」だと思っている。実は、理論的というよりも、革マル宗派思想(イデオロギー)の枠内に現実をとじこめると「安心」できるので必死で出てきた様々な問題を革マルイデオロギーの中にとじ込めようとする。こうして、観念を操作して自分を納得させようとする。したがって、彼らが何者かということを理解するには、革マルイデオロギ一によっていろいろいわれていることが、プロレタリア運動の現実にとらえかえせば一体どういうことなのか、という一種の翻訳が必要である。  
ここで彼らが四苦八苦しているのは、次のことである。つまり、前にみた情勢分析と方針の関係をより方針の問題にひきよせているのだ。革マルというセクトは、情勢分析と方針と他党派批判がゴチャゴチャになっている。これは次のような表現にもっともよくあらわれている。「『情勢分析内容の方針化』といわれる闘争論に関する誤った考えが、いまだ克服されていないことにある。すなわちそれは、ベトナム戦争反対闘争の推進上において、ベトナム反戦闘争を進めている諸潮流の戦術を批判するということをもって反対運動の情勢の分析であると考え、かつこの『情勢分析内容』なるものを方針としてうち出すという考えが生み出されたことが、この日韓闘争の中にもち込まれているのである」。日韓会談反対闘争の中で、革マル派がおち込んだのは―実は、それは、後でみるように革マル派の本質なのだが―他党派の戦術批判が、情勢分析であり、しかもその情勢分析内容がそのまま方針であるというもっとも革マル的混乱である。  
これに対して、彼らがこの「総括」の中で整理したのは次のようになっている。情勢分析は「階級関係の革命論的分析」と「階級関係をになう実体が展開する階級闘争の運動論的分析」からなる。前者の問題については、すでに批判しているが、一応それを前提正して考えれば、国際的、国内的な階級関係の分析およびこれに対する支配階級、被支配階級の動き=運動の構造の解明が情勢分析であり、これを前提にして「戦術上、イデオロギー上ののりこえ」=「方針」が立てられるというのである。  
ここにおいて、革マル派が苦しんでいるものは、この小論でみる現在の革マルの根本矛盾にかかわるものなのである。現在の革マルの主流派は、日韓闘争の主に学生運動(早大)の指導にあたっていた部分の情勢分析と方針の混同を批判して今みたように整理し、「のりこえの立場」を革マル的に深化しようとした。だが、日韓闘争の中で批判された革マル派の指導部が苦しんだのはこんなことではない。<革マルイデオロギーでは、情勢分析も方針も出てきはしない。出てくるのは他党派の批判ばかりだ>ということをめぐっている。  
これに対して、今みたようなことは、外見上は整理にみえても、本質的には矛盾の拡大なのである。なぜならば、今みたような整理にしたがってみた時に、それでは「情勢分析」と「方針」をつなぐものは何なのかという疑問が当然出てくる。一体、この二つは関係があるのか、ないのか→ これは別の面からいうならば、「のりこえる」というが、一体その中味は何なのか、その中味は情勢といかなる関係にあるのかがわからなくなるということなのだ。実は、先程みてきたように、「革命論」を適用した情勢分析なるものが、すでに「物」と「イデオロギー」の二元論的分析をふくんでいる。この問題は、情勢分析と方針の関係をめぐって拡大再生産される。  
革マルの方針の軸になっている「のりこえの立場」なるものは、中味は空虚なものであり、後に定式化されるように、要するに革マル派以外の運動・組織の破壊攻撃のことである。この「のりこえ」なるものが階級社会の矛盾と本質的に無縁なところで立てられている、いや、より正確にいえばプロレタリア階級の矛盾と闘争と無線な小ブルイデオロギーの世界で立てられているために、階級社会の現実(ブロレタリアの)分析とは完全に切断された形で―この面は、単なる物質的条件としてのみある―「のりこえ」が主張される。  
マルクス主義的に考えれば、この「のりこえ」の主体が階級矛盾の中に位置づけられ、したがって当然その主体がかかえている矛盾への闘争として「のりこえ」が立てられるとすれば、「いかなる中味をもって、何がのりこえられるのか」が問題になる。つまり、中味と無関係に「のりこえしだけが空虚に自立することなどありえない。  
ところが革マル的主体(革マル派の一人一人)は、自分のエネルギーそれ自体がいかなる階級矛盾の中で、いかなる階級、階層のものとして生まれるのかというマルクス主義の出発点的な問題から目をそらす。こうすることによって、小市民インテリの「出世主義」「小ブル的自我による他人への征服欲」が、隠蔽され、それが「のりこえの立場」として理論化される。こうして「のりこえの立場」の本質は、小市民の社会的不安を背景にした「精神労働者の自覚運動」=「プロレタリア運動への破壊、征服運動」なのである(もちろん、このことは彼らの内部からも歪曲された形で問題になってくる。つまり、中味の形骸化への批判である。これは、後でみるように二つの流れとして出てくる。一つは「小ブル的自我―小ブル的主体性」へ回帰することによって中味を得ようとするもの―これは「主体形成主義」として批判される。もう一つは、「沖縄のプロレタリア的解放」「ベトナム戦争のプロレタリア的解決」というような形で階級性を問題にしようとする傾向である。これについては後述)。  
こうして、日韓闘争の総括の中で革マル派が行なったこの面での整理はまさに技術的なものであり、日韓闘争での革マル派の本質的破産は隠蔽され、むしろ再生産されていく。  
<闘争戦術上の諸問題>  
これは、(イ)、(ロ)、(ハ)の三つに分けられている。(イ)の「『日韓の本質暴露』主義的闘争戦術の発生をめぐって」は、問題が六つに分けられている。  
第一は、闘争戦術をうち出す前提となっている情勢分析が、基底体制還元主義となっていること。また、日帝の単純自立論的傾向をもっていたこと。  
第二は、「他党派批判をもって情勢分析である」とする偏向、および「情勢分析の方針化」および「戦術的課題の戦略戦術的分析」という考えの問題。  
第三は、革マル全学連の立場の革命論的日韓条約批准阻止の戦術的課題をいかに実現するかにかかわる内容に適用することに失敗している。つまり、「のりこえの立場」を戦術内容に表現することがなされていず、「階級性」を基準として他党派を断罪するという「原則対置主義的なイデオロギー闘争」に陥っていること。これは、「闘争論的立場=のりこえの立場」が確立されておらず、「有効性論議」の立場ないしは「のりこえの空語化」された立場であること。  
第四は、方針提起において内容を捨てさって、提起の仕方、形式のみを論ずる「いわゆる提起主義」におちいっている。  
第五に、運動、組織論において、既成党派のイデオロギーののりこえをなしとげた革マル全学連フラクの形成を実体的基礎に運動上ののりこえを実現していく問題が、その前提をなす「人間変革」や「プロレタリア的人間の形成」の次元に解消され、一種の「主体形成主義」「人間変革主義」になっている。  
第六に、方針提起において「自治会主義」(大衆運動主義)におち込んでいる。  
(ロ)の「『社共批判の自立化』的闘争戦術の発生をめぐって」では、次の四つに問題を分ける。  
第一は、社共の闘争戦術批判に、革マル派の戦略戦術が適用されずに、政治力学的な結果批判や「階級性」「実力闘争」などを基準とした原則対置主義的批判になっていること。  
第二は、「のりこえの主体的構造」が戦術上貫かれていないで、「グリコのおまけ」のように「のりこえよ」という主張がくっついている。つまり、「のりこえの空語化」の問題。  
第三は、原則対置主義におち込むのは「大衆にふまえる」ことを忘れてしまい「方針提起における理論主義」となっていること。  
第四は、他党派をスローガン的にぶったたくという形式で出てくる「方針提起における政治力学主義」の問題。  
(ハ)の「『実力闘争の単純対置』の偏向の発生をめぐって」については、次の三つに分けられている。  
第一は、社共の議会主義、反米民族主義的戦術に対して、実力闘争を単純に対置するもの。  
第二は、「中間三派連合」の「単純行動主義」に対して、「思想性をもった実力闘争」を対置するもの。  
第三は、革マル派の「実力闘争戦術」をデモやストなどの闘争形態として語り、社共、「三派」とその実現を競うこと。  
これらを整理し、要約すれば次のようになる((イ)、(ロ)、(ハ)を通じて)。  
1革マル全学連の立場の「革命論的日韓条約批准阻止の戦術的課題をいかに実現するか」に失敗し、「のりこえの空語化」がおきている。  
2 1の問題の一方の側面として「内容をすてさった提起の仕方のみを論ずる提起主義」「主体形成主義」「人間主義」が出てきている(現実のプロレタリア人民の階級闘争と無縁な小ブル主体性論的なブレ)。  
3 2の問題は、あえて運動上表現されるならば「他党派批判の自立化傾向」となり、「原則対置主義」「大衆運動を忘れた方針提起における理論主義」となってあらわれる。  
4 2〜3となってあらわれる問題の裏がえしとして、今度はズブズブの自治会主義(大衆運動主義)が出てくる。  
5 3〜4の関連の中で実力闘争を問題にしようとすると、「のりこえの立場」を忘れさった実力闘争の単純対置、他党派の実力闘争と闘争形態を争うという傾向におち込む。  
革マル派が、現実の階級闘争の中に身をおくや否や「現実の階級闘争と無縁な小ブル自我の主体形成主義」、「主体形成主義と不可分な、マルクス主義と無縁な小ブル『理論主義』」、「その裏がえしの、または、その結果必然的に出てくる小ブル的大衆運動主義」、「実力闘争をやろうとすれば、小ブル急進派と同質なことをそれ以下にしかやれない」という問題のなかで七転八倒するのである。こういう問題の中で、革マル派は「のりこえの立場」の宗派的確立を行ないつつ、この混乱をのりきっていこうとする。それが66年以降の革マル派の「苦闘」である。
■3 70年安保―沖縄闘争をめぐる 革マル派の混乱と破産

 

60代の中期において、大きな混乱と動揺の中に革マル派はたたき込まれていった。それは、中核派と分裂したその分裂の革マル派的本質(中核派には別の形であらわれている)にかかわるものであった。それが、日韓会談粉砕闘争における彼らの破産と総括をめぐる混乱に表現されていった。  
革マル派は、日韓会談粉砕闘争におけるこうした破産と混乱を、63〜64年段階における彼らの「のりこえの立場」の整理により、宗派的に確立することによってのりきろうとしていった。この「のりこえの立場」の中味がプロレタリア革命運動の中でより本質的に暴露されていったのが70年安保決戦、沖縄闘争、ベトナム反戦闘争においてであった。  
彼らはこの60年代の後半に開始されていく闘争において、「革命主義批判」 「ソヴィエト運動批判」を自分たちの「党派性」としていくのである。
(1)革マル派の70年闘争の「総括」  
67年からはじまる学生運動、および反戦青年委の反安保闘争の高揚に、革マル派は例によって全くついていけなかった。革マルという党派は、階級闘争の高揚時にはいつも方針を失い、「ブツブツ」いいながら闘争の後からついてきて、闘争の困難局面になると「それみたことか」とケチをつけながら党派闘争をいどむ。闘争が高揚に向っていく時というのは全くなすすべもなく混乱していくのである。これは広い意味での70年安保決戦全体についていいうることであった。70年安保決戦は、60年代後半の反合理化闘争、教育闘争という根深い社会運動の波をくぐりながら、その基礎の上に高揚していった。教育闘争の高揚の最終局面と安保決戦とは重なる形になる。第一次早大闘争においてそうであったように東大闘争においても革マル派はなすすべを失い茫然としてすごし、その闘争の真最中に、早大反帝学評、解放派にテロ、リンチ攻撃を加え、さらには安田講堂攻防戦においては全く参加せず、自らの「拠点」であった文学部の防衛さえ行なわないというありさまであった。こうして革マルは、全日本プロレタリア人民の笑い物になっていくのである。同じことが67年からの反安保闘争の高揚の中でおきていく。  
こういう状況で彼らの内部矛盾も様々な形で噴出するのであるが、結局それは「のりこえの立場」の現実的破産を内部からつき出す形となっていく。そこで彼らは「のりこえ」―「高め」―「めざす」なる「手直し」を図る訳であるが、この「高め」―「めざす」なるものが、結局「宗派づくり(組織づくり)」に収約されるというまことに革マルらしい「語るにおちた話」になるのである。  
この間題を政治闘争における問題を通してみてみよう。先ほどのべたように、革マル派は反戦青年委運動を実質的に放棄しているので、政治闘争をめぐっては、学生運動の総括が彼らの実情をもっともよく示している。今、それを『共産主義者』No23・24―「学生戦線における70年闘争の総括と教訓」―中央学生組織委員会論文によってみてみよう。  
「それゆえ、大衆闘争を直接『革命闘争』として闘うというブンブクの革命主義を、60年ブント型の大衆闘争から革命闘争への『連続的発展』観との差異性においてわれわれは十分批判しつくせなかった。このことは他面同時にわれわれの70年闘争の基本構造の解明においては、大衆連動と革命運動との場所的構造の解明にとどまり、場所的な闘いを『安保破棄、自民党政府打倒』をめざして、いかに反政府、反権力闘争に高めてゆくかにかんする主体的構造の解明を十分措定しえないことになった。(この問題は、わが同盟のスローガンである『安保破棄』のスローガンの位置をめぐって発生した)  
しかしながらわれわれは『大衆運動と革命運動の区別と関連』の論理について若干存在していた悟性主義的理解の克服を前提として、大衆闘争に革命闘争を結果解釈主義的に附加する傾向、場所的な構造をおろそかにするトロッキー型の類推から大衆闘争の革命闘争への発展を論ずる傾向等々の過渡的な限界の否定にふまえ<のりこえ、高め、めざす>の基本構造を明らかにしたのだった」  
「…だが、革命主義との対決の中でわれわれのなかでわれわれの内部にも70年間争論の直接的煩推から学園闘争を反権力闘争に直接高める≠ニいうような傾向もエピソード的にみられた。…また、ブンブクの存在論主義的傾向にポジティブ≠ノ対決するという意図のもとに『ソヴィエト、革命闘争』談議にふける傾向もあらわれた。これは、存在論的イデオロギー闘争主義的傾向である」  
「…この当初の段階で日米共同声明の発表のもつ結節点的な意義を明確にとらえることができない傾向が若干あったことと結びついて、あるいは72年に漠然と結節点的なものを想定することによってサン条約三条のプロレタリア的破棄、沖縄人民解放をめざす″安保破棄、自民党政府打倒をめざす″というようなスローガン的戦術が一部で提起された。だが、かかる考え方は、日米共同声明の政治的意義(とりわけ法的=形式的破棄に先だって実質的に破棄を前提として事態は現実的に転回している)、白熱点的闘いに位置した69年10、11月闘争における日本階級闘争の本質的敗北等々について前提的に措定しえていないだけではない。闘争戦術を闘争論的立場ぬきにスローガン主義的に解明する偏りをもち、闘争戦術そのものとしては場所的な闘いの解明ぬきに直接に未来的展望に結びつける、直線的な『高め』主義的傾向をもっている」 
「わが同盟の過渡的要求の一つたる『安保条約の破棄』を直接闘争スローガンに掲げて闘う70年闘争においてはただ大衆闘争と革命闘争との『区別』を原則的に確認するだけでは決定的に不十分とな るのである」  
「…この場合の核心的問題は政府支配階級の『自動延長』という法的手続き、あるいは策動の内容にただ対決すべきことが強調されているだけで、支配階級の新なる政勢に規定されて展開される既成の階級闘争をのりこえるという闘争論的立場があいまいとなっていることである。しかも、そのような傾向は、当面する70年闘争を革命主義的にではなく、大衆闘争としてたたかっていこうとする意図に規定されている。すなわち支配階級の具体的な攻勢とたたかっていくことが当面の任務であり、それにとって高い目標をなす安保破棄は、革命主義者が夢想するように直接実現しうるものではなく、大衆闘争のなかでその課題を大衆に自覚させつつその実現を『めざし』ていく以外にはないというような考え方が背後にはある。『安保自動延長阻止、安保破棄をめざす』というように。しかしながら70年にかけた支配階級の攻撃は、条文をかえることなく安保条約を実質的に改正し、日米軍事同盟を再編強化することにある。それゆえわれわれは『安保破棄』それ自体を、したがって『自民党政府打倒』をめざして70年闘争を推進してゆかねばならないのである。いうまでもなく『安保破棄』『自民党政府打倒』は、わが同盟の過渡的要求にはかならないとはいえ、大衆闘争を直接、革命闘争化していくことが問題なのではない。場所的な大衆闘争の推進の構造を明らかにすることにとどまることなく、その闘いをいかに『安保破棄』『自民党政府打倒』をめざした反政府、反権力の闘いに高めてゆくのかが問われざるをえないのである」  
「しかし、この課題を『主体の創造なしには不可能』であるというように、党組織作りを客体化しそれを大衆闘争を革命闘争に高めてゆく媒介契機″のように位置づけるかぎりでは、70年闘争の主体的推進構造の解明とはなりえない。あるいはまた、それまでの70年闘争戦術の追求では『大衆闘争と革命闘争とは悟性主義的に切断されている』というような単純な反省を前提とし、『単なる大衆闘争にとどまらない特殊性を帯びた階級闘争』というような70年闘争の客体的性格規定にもとづき『大衆闘争と革命闘争の区別と関連』の論理には適用限界があることからして、大衆闘争を反政府、反権力の闘いに高める構造をもっばら過渡的に論ずるということでもない。…われわれは、現代革命の構造を客体化し、単に過程的にとらえるのではなく、結節点(戦略が直接に実現される時点)を明確にし、その段階における革命闘争とそれにいたる過程の階級闘争を区別した。このことにふまえ、われわれは、場所的現在における階級闘争の弁証法(『大衆運動と革命運動あるいは党組織作りの区別と関連』)を解明し、それにのっとってプロレタリアの階級的組織化と党組織の不断の強化を実現することを基礎に、一定の主客の諸条件の成熟を前提として階級闘争を反政府、さらには反権力の闘い、革命闘争に連続的に高めていくのである。われわれはこの論理を70年闘争の解明に適用し『安保破棄』したがって『自民党政府打倒』にむけて<のりこえ、高め、めざす>の構造として簡潔に表現してきたのである」  
「ところで先にみた70年闘争戦術の解明の過程であらわれたいわゆる『高め』主義的傾向が、沖縄闘争戦術の解明の過程においても部分的に存在した。こうした傾向は日本支配階級が『核基地つき沖縄返還』政策にふみきったことを一つの条件としてあらわれた。すなわち、この『核基地つき沖縄返還』政策を先にのべた『交叉点』的意義をとらえることなくただ単に『沖縄問題のブルジョア的解決』『サン三条のブルジョア的破棄』というように沖縄問題にひきよせてとらえた。このことによって「…『核基地つき沖縄返還』策動を粉砕せよ!」を結び目とした反戦、反安保の闘いと沖縄闘争との結合の構造は無視されることにもなり、…。しかも、これが核心的問題なのだがその場合闘争論的立場を欠落し、したがってスローガン主義的『高め』主義的に70年闘争戦術をとらえかつ沖縄闘争戦術の解明にその把握をもち込む―ブルジョアジ―の攻勢に直対応するかたちで『沖縄問題のプロレタリア的解決』『サン三条のプロレタリア的破棄』というように。  
…だがわが同盟は、沖縄闘争をたしかに日本ブロレタリア革命を実現するための闘いにまで連続的に高め、プロレタリア自治=ソヴィエト権力をうちたてる、という戦略的展望〔メインU=「サン三条破棄!行政命令、一切の布令、布告の撤廃!」等々…〕のもとにたたかっているが、革命主義的妄想とは無線である。われわれはメインUのスローガン(低いものから高いものへと掲げている)をメインTのスローガン(「社共の『返還要求』運動をのりこえサン三条の破棄を通じて沖縄人民の解放をめざしてたたかおう」)の中に過程的に(のりこえ、通じて、めざす)かつ媒介的に(個別的諸闘争をたたかいぬくなかでめざすものとして)掲げているのである。いいかえるならば、沖縄闘争の推進構造は、直接的には沖縄問題にかんする個別的諸課題を闘争論的立場にたって―すなわち社共の『返還要求』運動をのりこえ、沖縄の地で、『祖国復帰』運動に抗してたたかっている労働者、学生、人民と連帯し―たたかいぬき、この闘いを(主客の客観情勢の成熟を前提とするが)プロレタリアの階級的組織化と党組織の強化にふまえ日本革命の一環としての『沖縄人民解放』をめざして連続的に高めていくのである。またかかる戦略的展望を個別的大衆闘争のなかでも明らかにし、われわれは大衆の自覚を促していくのである」
(2)革マル派の総括の小ブル宗派的構造  
少しながくなったが、革マル派の70年闘争の総括を引用してみた。これは一体何をめぐって動揺し、その動揺をどのような形で収約しのりきらんとしているのかといえば、次のようになるだろう。  
彼ら自身がみとめているように、70年安保闘争については全くたちおくれてしまった。その中で出てきたのは、彼らの「大衆運動」が一体「安保破棄」という目標に対して何がなしえているのかという板本的疑問であり、しかも、その疑問が彼ら自身の路線そのものに迫る形で出されてきたのである。それは、二つの形で「ブレ」として出てきた。  
第一のものは、当面は人を集めて「大衆運動」をやっていればいいのであり、「安保破棄」などというのは「めざす」ものではあっても、それを本気で闘う必要はない、それを闘うためにはまず当面「主体の創造」が必要であるというまさに革マル的中味である。  
第二のものは、その逆に、大衆運動の区別と連関という革マルの規定はあやまりであって「特殊性を帯びた階級闘争」、「反政府、反権力の闘い」を強調する傾向である。あるいは「高め主義」(→)的に「沖縄問題のプロレタリア的解決」「サン条約のプロレタリア的破棄」というような傾向である。  
このようにまさに革マルであるがゆえに当然でてくる「ブレ」に対して、一体どのように「解決」したのであろうか→ この解決の仕方がまさに「革マル的」なのである。それは日韓闘争の総括をめぐっておきた混乱とその総括の問題を、一周してもとの位置にもどったような形になっている。もちろん、そこには革マル的な「整理」があるわけであるが、それはますます革マル派がプロレタリア革命運動とは無線な宗派運動へと転落していく形でなされている。今まで引用してきたものを要約すれば、次のような「解決」になっている。  
≪大衆闘争から革命闘争へ連続的に発展するということは、60年安保ブント型のあやまりである。これは「闘争論」をぬきにして闘争戦術をスローガン主義的に考えるものとつながるものであり、また、場所的な闘いの解明ぬきに直接未来的展望に結びつけるあやまりであり、現代革命の構造を客体化し、過程的にとらえる傾向としてもあらわれる。これは、スローガン主義、「高め」主義である。逆に、安保破棄等を単なる「めざす」ものとしておき、単なる大衆闘争を展開するのもあやまりである。それは、党組織作りを客体化し、党組織を大衆闘争を革命闘争に高めていく媒介契機のように位置づける傾向ともなる。双方をこえていく方針は、大衆闘争と革命闘争を明確に区別した上で、ブロレタリアの階級組織と党組織の不断の強化を実現することを基礎に、一定の主客の条件成熟の下で、階級闘争を反政府、反権力闘争に高めなくてはならない。それは、諸闘争を既成の階級闘争をのりこえるという「のりこえの立場」「闘争諭的立場」にたって闘いぬくことによって可能なのだ。それは「より高い」中味のスローガンを「より低い」スローガンの中に過程的・媒介的にかかげていく形としても進められる≫  
ここで彼らが言おうとしているのは、単なる大衆闘争をスローガンによってつって連続的に革命闘争へと発展させようとするのはあやまりである、大衆闘争が革命闘争へ転化するのには闘いの中味が既成の連動をのりこえたものとして形成されていなければならず、しかも一定の条件のもとでのみそれは可能なのだ、ということである。だが、この中味が極めて革マル的に疎外されたものなのだ。  
彼らが解明せんとしていることは、大衆運動はそれ自体としては革命闘争になりえないのであり、そこには「転化」「飛躍」が必要なのだということである。これを彼らはどのように「解決」しているかというと、今みたように「既成の運動をのりこえる」=「のりこえの立場」=「闘争論的立場」という形で行なおうとしている。これは後でそれとして独自にとりだして批判するが、要するに、既成の運動にかかわって「運動上ののりこえ」―「イデオロギー上ののりこえ」―「組織上ののりこえ」を行なうということである。これは、その既成の運動を支えている「イデオロギー」「組織」の解体ということである。それによってその運動を支えている集団、組織を解体し、それにいれかわって革マルがその運動の上にのる「のっとり運動」である。これを彼らは「闘争論的立場」といい、それが現在的な革命運動だというのである。 > しかし、彼ら自身の中から出てくる批判にもみられるように、ここには決定的なあやまりがある。それは、「大衆闘争と革命闘争の区別と連関」という時、「連関」という面はどうなっているのかということである。弁証法的にいう「区別と連関」は決して二つのものが別々に、つまり区別があってそれとは別に連関があるのではない。「区別」そのものの中に「連関」があり、また「連関」それ自体が「区別」を生み出すのだ。そういう意味でいえば、現存する大衆運動の限界と共にその中に存在する階級性、革命性を全く否定しざるならば、そもそも区別自体もたたない。  
小ブルによるプロレタリア運動の支配、または物理力化は、自然発生的に存在するプロレタリア運動をその一定の段階におしとどめるところにある。したがって、プロレタリア大衆運動それ自体の階級的革命的発展が定立されてはじめてそのブロレタリア運動を支配している既成の党派の解体の条件が生まれるのだ。したがって限界をもって存在する大衆運動をいかにして階級的革命的に発展させることができるのかという方針をもたずに「のりこえる」といってみたところで、結局その「のりこえ」は、本質的にはそれ以前と変らぬ市民的な、民同的な運動の若干の戦闘化以外には成立しようがない。ただ社民、スターリニストにかわって、反スタ・スターリニスト「革マル」派が、ブロレタリア運動への小ブル的支配をつづけるだけになる。  
これは彼ら内部の論争からいえば、「プロレタリア性」が全くでてこないことへの批判としてでてくる(「沖縄問題のブロレタリア的解決」等)。さらに学生運動では「主体形成主義」―「小ブル主体性諭」の強調となる。これは日韓闘争における大きな動揺のくり返しとその革マル的な、宗派的な「解決」の方法なのだ。この問題は、「のりこえの立場」の革マル的深化をめぐってさらに反プロレタリア的に展開されていく。
■4 ベトナム反戦闘争における 革マル派の小市民的本質

 

日韓闘争において「生まれたばかりの」革マル派は根底からの動揺と混乱に直面し、その「のりきり」の中で、宗派的本質をさらに深めていった。日韓闘争において生み出された革マル派の本質にふれる構造は、不断に彼らを動揺と混乱におい込みながら、70年安保―沖縄闘争にいたる。そして、今みてきたように、70年安保―沖縄闘争の中で同じ混乱と動揺をうけながら、「のりこえ」―「高め」―「めざす」なる「路線」の中で反プロレタリア性を強める。この過程における組織方針上の問題を別にたてて解明することにより、問題はいっそう明確になるが、これは後に行なうこととして、ほぼ同じ問題がつき出され、その「解決」をめぐってある面で革マル派の本質が極めて明確にうきばりにされている「ベトナム反戦闘争論」を「検討」しておこう。革マル派『共産主義者』No29―「ベトナム反戦闘争の教訓と党派闘争の飛躍的強化のために」―中央学生組織委負会論文を対象として行なう。このうち「党派闘争」についての問題は「組織方針」のところで改めて解明するので、ここではこの論文のうち「ベトナム反戦闘争」の部分のみを批判する。まずはじめに彼らの引用を行なってみよう。  
「ベトナム反戦・反基地闘争の主体的推進構造…  
昨年4月6日、米帝は北爆を再開し、5月8日には、北ベトナム全港湾を機雷封鎖するにいたり、それ以来アメリカ帝国主義のベトナム侵略はこれまでになく激烈な形態をとりはじめた。…  
1 こうした事態が否応なくわれわれに否定的に迫ってくる客体的現実である。 ―このことは、現実からわれわれに否定的にせまってくる客体的限定(S←O)ということができる。…このことは、否定的にせまる客体に対してそれに自己否定的に即し(主体は客体と自己矛盾的に同一化する)その変革を自らの課題にするという、客体に対するわれわれの主体的限定(S→O)ということが出来る。こうしてわれわれは主客の現実的矛盾(S→←O)を克服するという実践的立場(S→O)にたつのである。われわれは、実践的立場に立ち、自己に矛盾した客体に自己否定的に即することによってわれわれの意識の主観的恣意的な諸規定を止揚(=主観の客観化)しなければならない。しかし、直接的には客体を自己の内容として直観する意識、客観のその超越性における内在化を、つまり衝動的意志を獲得するにすぎない。いわば衝動としての目的の直接性にとどまると言える。したがって、こういう点に無自覚なままただちに実践に移るのであれば衝動としての実践あるいは恣意的な行動が避けがたいだろう。つぎのような場合でも、こうした即自的な段階の固定化(したがって実践的立場そのものも単に外なる対立物を排撃するものとして実貿的に形ガイ化することになるが―)による疎外形態ということも可能である。すなわち、それは『ベトナム(戦争)問題のプロレタリア的解決』を直接おいもとめるような傾向である。こうした傾向においてはすでにまえもってあるべき解決形態(米帝がベトナムからおい出されてベトナム戦争が『プロレタリア的』に解決される)が存在論主義的に想定されている。そしてそのような目標にむけていざたたかいへ、というような任務方針が導き出されてくることになる。かかる任務方針は当然のことながら(米帝に対する)打撃論的な、反権力主義的な、単純な内容におちいらざるをえない。…すなわちこの傾向においては、一方ではわれわれに否定的に迫る客観的現実、これはこの段階ではいまだ無規定的なものであるにもかかわらず、すでにそれが存在論主義的に説明されてしまっている。―つまり唯物論的な対象認識(次に述べる2)は、必然的に欠落する。…したがってわれわれは衝動、意欲としての目的の直接性にとどまることなく、それを認識活動に媒介された思惟活動を通じて、意識的目的、理性的目的へと高めていくのでなければならない」  
これは一体何を言おうとしているのかというとベトナムに対する米帝の侵略という客体的現実があり、それが「われわれ」に否定的に迫ってくる。それに直接に対応する「主体」は、それ自体としては「衝動」にすぎないのであり、そのままでは「衝動としての実践」でありあやまりであるという。しかも、「ベトナム戦争のプロレタリア的解決」というような形の場合は、「衝動」であり、「無規定」であるはずのものに「プロレタリア的」などという「存在論主義的」な説明がついていてけしからんというのである。さてこのようなことの上にたって更に次のように言う。  
「2 …すなわち、われわれが客観情勢を分析するということは、実践、認識主体としての客観情勢の一契機をなしているこのわれわれが、観念的に自己を二重化し(S=S)、われわれ・実践主体としての現実の自己をその一契機(観念的自己にとっては現実の自己は客体としての意義をもつ)とした客観情勢の総体(S→←O)を対象的に分析することを意味する。つまり、われわれは、自己に否定的にせまる客体に自己否定的に即し、もって主観を自己否定的に止揚、主観を客観化し(S→O)、こうして客観をその超越性において全的に内在化(S←O)・反映=認識しなければならないが、それは現実肯定的になされるのではない。…本質上認識は実践的活動、意志の立場に従属し、その媒介的契機をなすものであるからである。現実の自己=実践主体から観念的自己を自立化したり(客観化)、両者を直接二重化したり(主観主義)することによっては、階級情勢の正しい把握は、そもそも不可能なのだ。しかも、情勢分析の対象は、直接的生産過程によって措定された社会的直接性における階級的=実体的諸関係およびその運動であり、この対象をその物質的基礎たる政治経済構造との関係でとらえるとともに、それらの実体関係およびその動向を規定しているイデオロギー(国家や諸党派のそれ)との関係において革命論を適用して分析するのである。この場合、階級的=実体的諸関係、その政治力学をもっぱらそれ自体として自立化して分析する、つまり階級的諸実体の動向を規定している、イデオロギーとの関係において革命論を適用することなく分析する偏向を情勢分析における政治力学主義という。また階級的=実体的諸関係およびその動向をもっばらその物質的基礎たる政治経済構造の分析から説明する(したがって革命論の適用も欠如する)偏向を情勢分析における基底体制還元主義という」  
「3 この運動論的情勢分析を通してわれわれは対決すべき対象―既成の反対運動(P1)を明確に措定する。こうしてわれわれは闘争論的立場(P1←O1)にたつ。この闘争論的立場は先にのべた実践的立場との関係においては、それを具体化したことを意味し、逆に実践的立場は闘争論的立場の即自性としてとらえかえすことができる。ここにおいては情勢分析の場合のように観念的に自己を二重化し現実の自己をも対象的にとらえるという方法とは異なり、われわれはあくまでも主体たる組織(O)に自らを位置づけ、既成の反対運動に対決して、それをのりこえていく(P1→P2)、そのための指針は→ というように問題を立てるのだ。すでにのべたように『ベトナム(戦争)問題のプロレタリア的解決』主義というような傾向の場合には『情勢分析』のようなものから直接に任務方針が演繹される。…いまや、われわれは、この間争論的立場=のりこえの立場を起点とした拠点として、現実から提起されている課題をいかに実現していくか、いいかえるならば既成の反対運動をのりこえる形で課題をまさに革命的に実現していく、そのための指針を解明していかなければならない。これがわれわれの戦術の闘争論的立場にほかならない。  
ところでわれわれが戦術の解明に適用している大衆闘争論、いわゆる<のりこえの論理>は、12の過程を媒介にしてはじめて言いうることである。ところが、かかる媒介性を無視し<のりこえの論理>を直接実体化してしまう場合(P1は現実そのもの=W1にあてはめられる)には、のりこえの立場は『既成の反対運動ののりこえ』の空語的強調にすりかえられ、それ自体空語化してしまう。しかし、こうした限界はそれと同一の枠内でP1の背後にW1総体を想定するというような裏返しのヘーゲル主義的な解釈主義的な方法によっては打開しえない。ましてや、『ベトナム(戦争)問題のプロレタリア的解決』主義の場合のようにプロレタリア的に解決された未来的現実=(W)をあらかじめ存在論的に想定し、かかる必然性(W1→W2)に棹さしてたたかえ、というような指針からうち出されるにすぎないならば、逆にのりこえの立場は、完全に欠落するか、あるいは、それが(W1←W)の過程に客体化され、その全体的過程の部分に解消されることになる。しかも、この場合には大衆闘争論=<のりこえの論理>が指針の中に解消されていないことにより『プロレタリア的解決』をそれではだれがどのようにしとげるのかという核心的問題になんら応えられなくなるのである」  
この2の中味は、1との関連において革マル派の本質を短めて鮮明に表現している。つまり1において「自己に否定的にある現実」に対して「衝動」として存在した中味は、2においては次のように要約されている。「実践=認識主体としてのわれわれ(革マル)」は、自分を二重化するという。つまりO(客体)に否定的にせまられているS(主体)がその「O→←S」の関係それ自体を対象的に分析するという。この時「O→←S」を対象的に分析している「S´」は、観念的自己だというのである。そしてこの「S´」は、実践的活動の中で成立するという。そして、この主体が対象を分析するという情勢分析は「階級的=実体的諸関係およびその連動」をその物質的基礎たる「政治経済構造」との関連でとらえると共に、それらの実体関係およびその動向を競走しているイデオロギーとの関係で革命論を適用して分析することによって成立するという。  
ここでは、日韓闘争の総括の中で暴露されていた革マルの本質が「展開」をとげつつ、明確になっている姿がある。まず、客体(現実)によって「否定的にせまられる」主体(われわれ)が、自己を二重化する時、それは単に観念的にのみそうであるのか。しかも、それが単に「衝動的」にではなく「革命論」さえもっている主体なのである。意識は現実にあるものを「意識化」するものに外ならない。したがって「S→←O」の関係それ自体を対象化する「主体」は、単なる観念ではなく、「現実に否定的にせまられる」ことによって、新たな衝動、欲求を生み出しつつあるものに外ならない。ブルジョアジーの制約に対抗して決起していくプロレタリアートは、多かれ少なかれ階級的感性を相互に新たに生み出しているのであり、そういうものとしてそれを前提として階級意識を生み出すのだ。さもなければ、階級性などというのは全く非現実的、観念的なものとなってしまう。要するに小ブルジョアの「ユートピア」なのだ。そして、革マル派の「主体」なるものもまさにこれなのだ。  
1において革マル派は「現実によってせまられる」主体の衝動は、無規定的であるといった(無規定的というのは、自らの中味を明確化できていない、意識化できていないということ)。しかし無規定的であるということと、無内容であるということとは異なる。無規定的であるということは、無親定的であるにしろ階級性はその中に存在するということになるはずである。そして「対象化」「意識化」とは、無規定的である(われわれからいえば、自然発生的にある)ものを、規定的にする(目的意識的にする)という以外の何物でもないはずである。  
ところが、革マル的主体にとってこの過程は「無規定的な衝動」それ自体の発展ではなく、無規定的な衝動それ自体は単なる「物理的な作用」であって、それを対象化する「主体」は「単なる観念」なのである(まさにこれは、ヘーゲル的観念論どころではなくカント的な観念論なのである。ヘーゲルの主体は絶対精神でありその上で観念的弁証法を展開するが、しかしその弁証法の構造の中での発展、例えばA→B→Cという弁証法的発展において、BはAの中味の発展なのである。つまりAとBが切断されているものではない。「否定」「矛盾」を通してAの中味はBへ発展する。この基本構造はマルクスも同じである。ところがカントにおいては、本質(物自体)は現実とは全く切断されたものなのである)。さらに重要なことは、この「S―O」の関係それ自体が単なる小ブル個人主義的なものに外ならないことである。したがって新たなる関係、団結を生み出すことは否定されている。生み出すものは、まさにイデオロギー的結びつきなのだ。  
さて、それではこの革マル的主体は、どのように革命化するのであろうか→ それが3なのである。1〜2をふまえて、つまり「現実からの否定」―「その対象的把握」の上にたって、「闘争論的立場」=「のりこえの立場」を展開する。つまり「既成の反対運動」にかかわって、それを解体し、革マル派が「のっとる」というのである。  
その革マル的ベトナム反戦闘争方針をみてみよう。  
「わが同盟のベトナム反戦闘争方針の骨格…すでに情勢分析を通じて明らかになったように、米帝のベトナム侵略は日帝のこれに対する全面協力加担にたすけられ、在日米軍基地の機能をフルに発揮することをテコとして、推進されている。したがって、日本の地にべトナム戦争を阻止していく(普遍的任務)ために、われわれは日帝のベトナム侵略への全面的協力加担と対決し(特殊的任務)、またそれによって文字通り侵略拠点としてある在日米軍基地などに対するたたかい(個別的任務)を社共の議会主義的歪曲、『ベトナム人民支援』運動への歪曲をのりこえつつ労学両戦線において左翼的、革命的におし進める。また、かかる日帝のベトナム侵略への全面協力加担、侵略地点のフル回転が日米軍事同盟の実質的強化にもとづいていることをも、われわれは大衆的に暴きだし、反戦反基地のたたかいにたちあがった大衆に基地撤去、安保破棄についての革命的自覚をうながし彼等をわれわれの隊列に強固に組織化し基地撤去、安保破棄をめざしてたたかっていく。また、一定の主客諸条件の成熟のもとではわれわれはたたかいをつうじてうちかためてきた組織的拠点を基礎に、そのたたかいを基地撤去・安保粉砕、従ってまたまた自民党政府打倒のたたかいへと連続的に高めていくのでなければならない。さらに自衛隊の沖縄配備、四次防計画による自衛隊の飛躍的増強=帝国主義軍隊化にたいしても、これらが日米軍事同盟体制の一環をかたちづくるものとしてあることを明らかにし、自衛隊の沖縄配備阻止・自衛隊の帝国主義軍隊化阻止・四次防粉砕のたたかいを、反戦、反基地、反安保のたたかいと結合してたたかっていく。…  
…われわれはさらに独自にべトナム解放闘争についても内容探化をかちとってきたのであるがここでは民族解放戦争の左翼的=革命的のりこえについて、簡潔に言及しておくことにとどめたい。  
まず第一にわれわれは、のりこえの対象をなす現にある民族解放戦争を措定する。―いうまでもなくわれわれはここでは革命闘争論的立場を前提としている。第二に民族解放戦争の担い手=実体を明らかにする。それは民族解放戦争の直接的な遂行主体をなしている民族解放戦線であるが、それはスターリニストのヘゲモニーのもとにつぎの三つが「戦線」をかたちづくっているものである。すなわち、民族解放戦線の中核をなし民族解放民主革命路線にのっとって「ベトナム解放」をめざしているスターリニスト。民族自決権にもとづく「民族独立」の要求を明確にもった民族ブルジョアジー、都市小ブル・インテリゲンツィアなど。即自的な反米意識や民族感情のもとにたたかっている小農民・プロレタリア大衆、などがそうである。したがって第三に、民族解放戦争は、まさに反米帝反チュー闘争の民族主義的な疎外形態であることが明らかとなり、われわれののりこえの対象は具体的に明確になったといえよう。  
われわれは革命闘争論的立場にたってこの民族解放闘争を左翼的=革命的にのりこえていかなくてはならない。これが第四の問題である。つまりそのためにわれわれは、民族解放戦線の内側においてイデオロギー的・縄織的たたかいを基礎としてその換骨奪胎(原文ママ)をはかり、スターリニスト党を解体していく。こうしたたたかいの過程において民族解放闘争はその質を転換し反米帝反スタのプロレタリア革命闘争となっていくのであるが、これが第五である。そして第六には反米帝反チュー闘争の成功的完遂にとどまることなく、密集したスターリニストの反撃をもうち砕き、ベトナム全土、さらにインドシナ半島の解放をもめざして永続的にたたかいを発展させていかなくてはならない。まさにこうしたたたかいを通じてわれわれは、(A)米帝からの解放を、(B)スターリニズムからの解放を、そして(C)労働者階級の自己解放を、かちとっていくのである」  
さて、ここにおいて、革マル派の具体的中味が明らかになっている。彼らによれば、現下のベトナム戦争はアメリカによる侵略戦争であり、また、日帝の動向はベトナム侵略への全面協力加担の動きであるという。安保、沖縄等の同盟は「日米軍事同盟」なのであり、それらを大衆的にあばき出しつつ、反戦、反基地の闘いにたちあがった大衆に基地撤去、安保破棄についての革命的自覚を促すのだという。さらに一定の主客の条件の下では自民党政府打倒の闘いへと連続的に高めるという。  
だが、革マル派の「理論」を「信用」して、真面目に読んできたわれわれはここで困惑することになる。「主体」に「否定的にせまる」現実は、「無規定的」ではなかったのか→ ところが無規定的なはずの現実が、「規定」されてしまっており、しかも「ベトナム侵略戦争」と規定されているのである。侵略戦争というのはいうまでもなく国家的な領土獲得戦争である。ベトナム戦争を侵略戦争と規定することは、当然「否定的にせまられる」主体の中味をも規定してくるのである。いうまでもなく「侵略反対」は、「民族自決―民族独立」闘争ヘつながる。しかもこれは、別の面で安保条約を「規定」している訳である。革マル派によれば、安保条約による米軍と自衛隊の同盟を日米軍事同盟といっている訳であるが、いうまでもなく彼らの中味からいえば、それは「当然にも」「侵略戦争」のための「日米軍事同盟」なはずである。これは、ベトナム解放闘争に対する「革マル的のりこえ」のカ針にも示されている。ベトナムにおける闘争は「民族解放闘争」なのだそうである。これは「無規定的」ではなく明確に規定されたものである。  
ところがおかしなことに「民族解放闘争は反米帝反チュー闘争の民族主義的な疎外形態である」という。これは一体どういう意味なのだ。「民族解放闘争としてみられている闘争は、反米帝反チュー闘争の民族主義的疎外形態である」という意味であるならば、それで文脈は通ずるが、そうだとすれば、ベトナム解放闘争の本質は「民族解放闘争なのではない」のだ。それでは「反米帝反チュー闘争」とは一体何なのか→ それは「無規定的なのだ」などというのは答えになるまい。  
反米帝反チュー闘争を闘っている構成要素を、革マル派は三つあげている。その中の「即目的な反米感情をもってたたかっているプロレタリア大衆」を革マル派は問題にしようとしていると「善意」に解釈してみよう。そうすると次のような問題か出てくる。つまり、ベトナム解放闘争は「本質的に」民族解放闘争なのか。そうであるならば、それは民族ブルジョアジー、小ブルジョアジー、地主等が軸となっているもので、プロレタリアはその物理力となっている。この場合はプロレタリア運動は、この民族解放闘争(その結果は単なる民族ブルジョアジーの国家が生まれるにすぎない)と共同闘争を組みつつも、この民族解放闘争それ自体を変革するなどという方針はたてられない。つまりこの運動は民族ブルジョアジーの運動だからである。ところが革マル派もこういう形ではいいきれない。だから「反米帝反チュー闘争の民族主義的な疎外形態」だという。ということは、この「民族解放闘争」の本質は、「民族ブルジョアジーの国家を形成するための戦争」ではないということになる。  
それでは一体何なのか→ それは国際プロレタリアートと国際ブルジョアジーの闘争に大きく規定され、その衝撃をうけて成立している「反米帝反チュー闘争」なのである。しかも、それはベトナム階級闘争の歴史からいっても民族ブルジョアジーのヘゲモニーによる闘争ではない。農民、貧民(半プロレタリアート)、プロレタリアートが軸となった闘いなのである。つまり、国際的なプロレタリア革命運動の力をうけてベトナムプロレタリア人民がプロレタリア革命ヘ向けて決起しており、その間争が貧農主義的限界の中にとじ込められ、歪曲されているのである。それが「疎外」の構造なのだ。とすれば、ベトナム戦争を「米帝の領土侵略戦争」対「ベトナムブルジョアジーの民族独立闘争」と規定してしまい、「侵略戦争反対」などというのは決定的な誤りであることになる。革マル派は「誤った規定」を行なっていることになる。そして、自ら誤った小ブル的運動を日常的に推進しておいて、さて今度はそれを「反帝・反スタ」(?)のプロレタリア革命に「作りかえる」などというのは全くデタラメもいいことになる。  
たしかに、自分たちにむかってくるものに対するプロレタリア人民の闘争は、最初は自然発生的である。だが、その中に階級性、革命性が全くないとするならば、そもそも「規定」されようがないではないか。そうではなく、プロレタリア人民の自然発生的な闘いの底にあるものを意識化してつき出し発展させていくことこそプロレタリア運動の階級的革命的発展に外ならない。  
革マル派の反戦闘争は二つの点で明白に小ブル的である。第一には、反戦のエネルギーをはじめから小ブル的に「規定」してしまっており、その意味で自然発生的な闘いを小ブル的に固定化する誤りをおかしている(彼らの大衆運動におけるスローガンはベトナム侵略戦争反対である)。第二に、大衆の自然発生的な闘いが発展していく(革マル的にいえば規定していく)中味が、存在する階級性を目的意識的にひき出すのではなく、革マル派のいうところの「無目的な衝動」はそれとして中味を失った物理力としておいて、その外から観念的な中味を与えるという形になっている。こういう意味で二重に小ブル的である。  
ベトナム階級闘争の中での彼らの誤りは、「帝国主義とスターリニズムに分割支配されている20世紀現代」なる全く現象的な情勢把握に大きく規定されている。この彼らの「反帝反スタ論」の誤りについては別のところでのべるのでここでは詳しくふれない。しかし、彼らの把握の中では「スターリニスト」なるものが一向にハッキリしない。一種の「イデオロギー人間」なのである。  
一体いかなる階級なのかが全く不明である。したがって今みてきたような形での混乱におち込む。つまり、一方で民族解放闘争といってみたり、他方では反米反チュー闘争の疎外形態だといってみたりするのである。彼らは自分の「反スタ」の中味を「―のりこえて」というところで出せるにすぎない。  
こうして、彼らは不断に「沖縄のプロレタリア的解放」とか、「ベトナム問題のプロレタリア的解決」とかいう形での「階級性にこだわる部分」を生み出しつつ、一方では小ブル観念論としての「主体形成主義」を生み出して七転八倒しているのである。
■5 革マル型宗派「労働運動」の反プロレタリア的構造

 

われわれは今まで主に政治闘争を軸として革マル派の批判を行なってきた。しかし、それは彼らの運動方針からいって学生運動を軸とする型であった。ここでは革マル派の「労働運動方針」を検討し、その宗派的反プロレタリア的本質を暴露していくことにする。  
革マル派という組織は、黒田寛一の観念的なカテゴリー(コトバ)のもてあそびによる「理論体系」によって自分を他人より多くのことを知っているかのごとき「自己暗示」にかけ、それを理由に大衆をテロ・リンチにかける権利があるという錯覚におち込んでいる度し難い小ブル集団である。黒田寛一の「理論体系」なるものがどれだけ反プロレタリア的な小ブルの宗教的観念論であるかという点については最後にふれるとして、ここでは彼らの「反合間争論」をみてみよう。この彼らの反合闘争論も実は今みたような「羊頭狗肉」の最たるものなのである。何も内容がないくせに大げさな素振りでいろいろ言葉のもてあそびを行ない、最後には何も出てこないという構造になっている。  
革マル派の活動家はラッキョウを与えられたサルのようなものである。何かあると思って一生懸命皮をむかされて最後には「空虚」しかのこらないということになっている。いや最近までは「主体性論」という軸があったように思わされていた。ところが最近は、「主体性論などというものは大衆が左翼になる時役立つものであり、いったん左翼になったらそんなものは役に立たない、断絶しろ」などと官僚に桐喝されて、「ホコリ」や「ホコリ」の下の「少ししめった泥」のあたりの下部活動家は消耗する一方なのである。  
これは労働運動路線をめぐっても同じである。長々とした無内容な文章の後には、結局内容は出てきはしない。すでにみてきたような政治闘争面において出ていた「―のプロレタリア的解決」「高め主義」などの革マル内「ハミダシ派」は内部論争をめぐって粉砕され、森茂書記長はパージされてしまった。そして、革マル型―無内容一宗派的労働運動路線はしかれていく。
(1)革マル派の合理化論  
長々とした革マル派の文章の中から合理化の把握をひき出すのは大分苦労する。他党派のケチつけや批判はたくさんあるのだが、自分たちの中味はもともとありはしないのだからさがすのに苦労する訳である。  
そのわずかばかりの革マル派の「合理化論」をみてみよう。それも今いったような理由から他党派批判の中からひろい出したりしないと出てこないのである。  
「企業の集中合併に伴う労組の右翼的再編統合、工場新設の際にしばしばおこなわれる御用組合育成、そしてなによりも右のごとき攻撃は、生産過程の客体的側面における合理化にみあった形態での主体的側面の合理化にともなつて進められる。―それはZD運動、QC運動などによる労働強度の増進をはかる攻勢から、後々の労働力配置の転換、一時帰休制の採用、労務管理機構の整備、強化確立、これを賃金面から支える職階、職務給や職務、職階給の導入―このような合理化攻撃は、直接には生産過程の外にある労働組合の破壊、あるいは丸がかえを有効的に進めることによってはじめて完遂されるのである」(『共産主義者』 No23・24)  
結局この程度の規定しかどこをさがしても出てこないのである。要するにいっていることは、合理化には「主体面」と「客体面」がある―機械体系等の生産手段面における合理化と、人間(労働者)にかけられてくる合理化がある―という全く無内容な合理化の形態上のふりわけ以外何もいっていないのである。仕方がないから他党派の批判をみることによって革マル派のいわんとしていることを「引き出して」みよう。  
比較的いいたいことをいつていると思われる『共産主義者』No26の「最後の民同・協会(向坂)派の『反合闘争論』批判」を通して、彼らの合理化のつかみ方および反合闘争方針らしきものをさぐってみよう。  
これによると革マル派の協会向坂派への批判は次のようになっている。  
第一には、協会派の合理化のつかみ方はアイマイな「体制的」なることばを使つて資本の政治経済構造も国家権力もゴチャゴチャにした形で使つている。また、「合理化を搾取の方法」として規定しているが経済学的な把捉には完全に失敗している。そして、本質的な次元では生産力とか合理化とかいうものを資本主義的階級的被規定性ぬきに超歴史化している。  
第二に、合理化絶対反対の姿勢を確認したうえで権利闘争、抵抗闘争を闘うといっているが、あらかじめ条件闘争を前提にしたうえで「階級意識」なるものの「成長」をかちとれば最後的には条件闘争にもち込むべきだとしている。  
第三に、反合闘争と政治闘争の闘い方についてその双方の「結合」をいうが、反合闘争が直接に政治闘争とされている。  
第四に、労働者の階級的組織化において、(A)自覚の物質的条件あるいは物質的基礎、(B)即自的労働者を自覚させること、(C)労働者(階級)を種々の形で階級的に組織化すること、を混同している。  
これによれば革マル派は、1合理化の把握を、「生産力や合理化」についての本質的把握をもつており、2そのうえにたって反合理化闘争を単に条件闘争や「階級意識の形成」のためにではなく、合理化絶対反対の実力闘争として闘つており、3議会主義をこえた階級的、革命的闘争(政治闘争)を反合闘争のうえにたつて闘つている、というふうに「思われる」 のである。  
ところが事実は全く逆なのだからあきれかえるのである。  
まず第一の点についての合理化がどういう点で本質的にプロレタリア―トに対する隷属と搾取になつていくのかという点については、はじめにみたような全く無内容な主体面の合理化、客体面の合理化というようなこと以外何もいつていない。「主体面の合理化、客体面の合理化」という把握は、彼らが協会派に対して「合理化や生産力が資本主義的階級的被規定性ぬきに超歴史化している」という批判ができる理由になりはしない。なんら合理化絶対反対の「科学的理由」などつかめていないのだ。例によつて「そうしないと組織がもたない」という危機感からそうしているにすぎない。せいぜい「資本制生産様式のもとでの人間労働の資本主義的自己疎外、賃労働と資本の矛盾的自己同一、この自覚をバネとした己れの否定的存在としての自覚」などという全く観念論丸出しの無内容きわまりないことをいっているにすぎない。「人間労働の資本主義的自己疎外」の中味が問題なのだ。こうして、そもそも合理化がプロレタリアートにとつて何であるのかが全くわかつていないので、結局のところいろいろいつても協会派と全くかわらぬ闘争方針になつていく。
(2)革マル派の「反合闘争―労働組合運動」方針なるものの小ブル性  
革マル派の70年代中期の労働運動の路線の定式化ともいうべきものが『共産主義者』No29―「労働戦線の現段階的特質とわが同盟の闘いの教訓」―中央労働者組織委員会論文においてのべられているので、これを通して彼らの闘争、運動、組織方針をみてみよう。「第一部」においてこの論文は、若干の労組の再編成の歴史的過程について分析している。しかしここでの特徴は、日本資本主義の発達と合理化がどういう点で民同型労働運動を「育成」し、また破産させていったのかということについての解明は全くないことだ。  
「要するに54年の総評からの全労の右翼的分裂は、米帝からの経済的援助、朝鮮特需などを契機に生産手段の技術化・固定資本の更新をダイナミックになしとげつつ、日本帝国主義のその経済的基礎における復活局面に突入したこの物的基礎に見合つた労働戦線の再編策動として、あるいはまた、日本帝国主義の物的基礎の速やかな復活のために労働者(組合)を生産性向上運動に組みこむべく、日本政府・支配階級の直接、間接のテコ入れのもとに、右翼的再編の歴史的第一歩が築かれたものとして、かの54年分裂をとらえかえすことが可能であろう」  
「この段階では特に、民間重化学工業部門における技術革新が著しく進められ、かつまた欧米式の近代的労務管理方式も50年代後半から引きつづく形で導入されていつた。こうして民間重化学工業部門の各単産は生産過程の主客両側面の合理化と労働組合破壊攻撃にさらされ、いわゆる民間左派基盤はドラスティックに崩壊し始めたのであつた」  
これによれば「日帝の復活」とか「合理化の主客両側面における推進」ということが、どうして組合の右翼的再編になるのかサッパリわからない。いわば一種の「背景」と「結果」をくつつけているにすぎない。  
「60年代における鉄、電機、造船、化学、自動車等の重化学工業部門における各資本の合理化は、直接的生産過程の主客両側面においてドラスティックになされたのであるが、客体的側面の技術化にみあつた主体的側面におけるそれの具体的側面をなす労働配置の転換・労働強化のみならず、労働力の削減(首切り)という事態の進展、これら主体的側面の合理化を促進し支えるものとしての労務管理の強化とその機構的確立の攻撃が特に重きをなすものであつた(アメリカ式目標型労務管理方式は、主要民間産業では60年代前半から、公企体では電々公社が64年頃からとり入れ、郵政では68〜9年に試行的に導入し、70年から本格的導入に入つている)。こうした近代的な(つまり帝国主義段階の技術化された生産過程を基礎とした)労務管理方式の導入には、それにみあつた賃金形態がとり入れられてきたのであり、職務給・職能給などがまさしくそれである。合理化の主体的側面にみあった形態の種々の賃金体系は、労働者の即自的団結や労働組合そのものを分断する仕組みで、そして本質的には労務管理の強化とその機構的確立のための手段として役立つものとして、あるいはそのように機能させられる形で、あらゆる基幹産業部門で導入され、さらに整備・拡大されているのである。そして多くの場合、労働組合組織の破壊(分裂・丸がかえ)攻撃はまず手始めに職務給あるいは職能給、さらにはそれらを種々組み合わせたものを導入することによつて開始されるのが普遍的である」  
これも革マル派のいい加減さを示している。客体面の合理化と主体面の合理化という「ふりわけ」(客観主義的「ふりわけ」)で問題をスリカエている。その主体面の合理化の本質は何であり、また客体面の合理化の本質は何なのか→ それがわからなければ、それに対抗する労働者の「絶対反対」の闘争方針など出てくる訳がない。  
それはわれわれがすでに提起してきたように、資本主義社会―分業(私的所有)の社会―における機械のもつプロレタリアートに対する支配力、また機械の発達と相互関係としておこる分業の発達のもつプロレタリアートに対する支配力(それは共に資本のプロレタリアートに対する支配力として出現する)として解明されねばならないのだ。  
ところが革マル派は、このプロレタリア運動の「原点」にかかわる問題についていい加減にごまかし、または「賃労働と資本の矛盾的自己同一」というような形で観念的世界に逃亡する。この辺の問題は、『プロレタリア的人間の論理』の労働者の「自己分割」(6を参照)の現実的本質的解明となるはずなのに、それを行なおうともしない。いやそもそもプロレタリアの矛盾など眼中にないのだ。技術化、労働配置転換、労働強化、首切り、労務管理等の形態の本質が主体面客体面の合理化だというが、まさにその「主体面、客体面の合理化とは何か」ということが問題なのである。  
こうして革マル派は合理化に対決するプロレタリアートの根源的な階級的、革命的エネルギーにかかわる点で退却していく。ということは、別のところに、つまり小ブル的な恐怖感にさいなまれて逃亡せず、正面からとりくんでいくならば、「分業をこえる階級的革命的団結―自らの共同の力による自らの労働の支配」をめぐる行動委運動―ソヴィエト運動にいきつかざるをえないのだ。逆にここで退却していくからこそ、次にみるような民同的組合主義に没入していく。  
それは「第二部 労働組合運動の左翼的推進の基本構造について」でのべられている。それは「左翼組合主義」「革命的労働運動主義」「フラクションとしての労働運動」の「克服」という形で出されようとしている。  
第1 「左翼労働組合主義」の批判について。  
革マル派がいうところの革マル派内部の「左翼労働組合主義」は次のようにいわれている。  
革マル派という政治同盟建設、そのための運動への組織的かかわりが主体的に位置づけられず、「同盟員の同盟員としての活動―(1)」―「組合員としての同盟員の活動―(2)」―「同盟員としての組合員の活動―(3)」の内(1)〜(2)が欠如して(3)のみの活動になることである。これは、現実の闘いにおいては「条件闘争の左翼的推進」―「合理化絶対反対をあたかも立場のように位置づけてしまうイデオロギー主義」という形になる。これは「既成の労働運動をのりこえて闘うという実践的立場=闘争論的立場の欠如」であり、また「既成の諸党派ならびにその基礎をいかに解体してゆくか、そのためにはどのような組織戦術を貫徹するかという実践的追求」の欠如による。これをこえてゆくにはどうしたらいいかというと、「革命的共産主義連動として、つまり一切の既成左翼の解体止揚を通じて、真実の前衛党組織の場所的建設として、それはかちとらねばならないのである。こうした組織建設をテコとしてのみ、右傾化を重ねる労働運動の左翼的転換もまた可能となるのである」 
第2 「革命的労働運動主義」の批判について。  
革命的労働運動主義とは、闘う主体が既成の労働運動のただ中にありながら、それと対決しそれをのりこえる立場をわすれ、既成の労働運動に革マルの労働運動を対置するという立場である。既成の労働運動を「のりこえて」ゆく過程構造を解明せず「のりこえた労働運動」を想定し、その想定した労働連動から既成の労働運動を批判するという結果解釈主義になつている。これは「同盟員としての組合員の活動―(3)」を欠如したものに外ならない。これを突破する方針も「のりこえの論理」に外ならない。つまり既成労働運動を実体的に支えている既成左翼の解体を実現することによつて既成の運動の内にありながらそれを本質的に突破する闘いが場所的に実現されるのだ。「したがつて、われわれが既成の労働運動に対決しつつ、それを戦闘的にのりこえて労働運動を左翼的に推進することは、既成の労働運動の内にありながらも同時に本質的には前衛党組織の場所的創造としていわばその外にあるのである」 
第3 「フラクションとしての労働運動の克服」について。  
「左翼労働組合主義」および「革命的労働運動主義」は、共に労組執行部をにぎつている場合生み出される偏向であるのに対して「フラクションとしての労働運動」は組合内左翼反対派として一定の組織力をもつている時に組織活動の技術主義、政治技術主義等の結果生まれる。これは革命的、戦闘的労働者による労働運動の左翼的展開が有効に展開しえていない場合、「ハミダシ諸グループ」の若干の「うごめき」を固定化することがある。この時、「ハミダシ諸グループ」の基盤とその組織を解体するための有効な組織戦術が展開しきれないと、フラクションとしての労働運動になる。これは「同盟員としての組合員の独自な活動―(3)」が欠如し、「組合員としての同盟員の諸活動―(2)」に解消されているのである。学生運動では恒常的闘争委のようなものとして種々のフラクションや学習会が機能している。同じことを労働運動でも主張する部分があるが、それは誤りであり、革マル派がもつ組織的力量と社共の力量の中では労働組合運動の左翼的展開と労働組合の戦闘的強化、およびそれを通した革マル派組織建設を基本にすべきであつて、フラクションの直接的現実的形態として性格づけられるもの「恒常的闘争委等」はつくらない。既成の労働組合運動を左翼的にのりこえて運動の左翼的推進を実現するが、ハミダシ諸派のハミダシ運動に対して直接これをのりこえることを、当面の運動上の目的とすべきではない。もしハミダシ運動を直接のりこえることを課題とするならばそれは革命的労働運動を創造し闘うことになるが、これは現時点では誤りである。 
 
以上革マル派の労働運動方針を要約してきたが、これによって合理化に対する革マルの把握がいっそうハッキリしてくると共に、また彼らの労働運動が全く協会派以上のものではないこともハッキリしてくるのである。「左翼労働組合主義」―「革命的労働運動主義」1「フラクションとしての労働運動」批判の中で革マル派がいつているのは結局次のことである。  
≪合埋化絶対反対の闘争は、協会のように「立場」化されてはならない。しかし、合理化絶対反対の闘争を「ハミダシ運動」として現下の既成の労働運動をハミダス形で展開するのも誤りである。「のりこえの論理」にしたがって既成の組合運動にかかわり、イデオロギー闘争、組織戦術(党派解体の闘争)等により革マル派建設を行なつてゆくことが現下の闘いでなくてはならない。≫  
これは本質的には協会派の「反合闘争論」と全く変りはない。現下の労働組合は合理化粉砕闘争を現実的に展開するなどということは全くない。にもかかわらず、具体的現実的に合理化は一人ひとりの労働者にかかわってくるのである。こうして、この具体的現実的にかかつてくる一人ひとりの労働者への攻撃に対して闘いが闘始される。組合が闘わない以上、または抑圧している以上、それは様々な形をとつた「行動委」運動として推進される。もちろんこの時、いかに限界があろうとも、組合全体の階級的再編の闘いへとその闘争を不断にかえしていかなければ、その行動委の闘争は孤立し敗北する。そういう点で闘争は「組合の闘争の階級化」(これは青年部や大衆末端の職場委員会、あるいは戦闘的分会執行部等を通して行なわれる)という闘いと「行動委の闘争の組合ヘの波及」という双方から追求されねばならない。  
しかし、いずれにしても合理化絶対阻止の闘争を現実的に展開することをヌキにしていくことは、結局「合理化粉砕」についての小ブル観念論または民同的組合主義に外ならない。そして、こういう現実の闘争の中で、階級的革命的政治組織が生まれていくのだ。  
ところが、反合理化闘争の現実的展開は放棄してしまい、それな一切「党派作り」に収約してしまうということは、その「党派」それ自体が全く小ブル的民同的なものに外ならないことを意味する。外観上いかに戦闘的にみえようとも、質的には民同そのものの運動はいくらでもある。民同的組合主義は現在的に闘争、運動として一歩一歩こえられねばならないのだ。  
革マル派の労働運動は「イデオロギー的のりこえ」の「物質化」としての「組織作り」でしかないのだ。もちろん彼我の力関係の中で合理化粉砕闘争がどこまで現実的に実現しうるかについてはいろいろ段階がある。しかし、現実的な反合闘争を闘うことを「ハミダシ」だというのは全く民同以外の何物でもない。こういうことが可能なのは、そもそも合理化そのものの把握が反プロレタリア的、小ブル観念論的なものに外ならないからである。「絶対阻止を立場化させてはならない」といいつつも、現実に民同組合の闘争のワク内でしか「闘わない」ということは「絶対阻止」の「立場化」に外ならない。  
こうした問題をめぐる革マル派内部の論争はかなり深刻なものとしてあり、これをめぐつて森茂書記長が解任され、かわって朝倉が書記長になつた。これについては『共産主義者』No25で、『新左翼の労働組合論』(亜紀書房刊)の中の森茂の発言への全面的批判という形で行なわれている。要するに森の発言はハミグシ路線にひきずられており、革マル派の路線ではないというのである。
(3)差別分断を突破しえずむしろ固定化する革マル型「労働運動」  
こうした革マル派の「労働運動」は決して階級的、革命的なものヘと成熟、発達しえないということをある面で最も鋭く示しているのがプロレタリア人民内部における階級的差別、分断に対して全く闘わず、そしてその意味においてそれを固定化する役割を果していることである。  
日本労働運動は、人間の自然的差異をも利用した歴史的、社会的差別ヘの闘争について極めて不充分な闘いしかやりえていない。部落解放闘争、沖縄人民の闘い、民族差別への闘い、女性解放闘争、「障害者」解放闘争等として闘われ、つき出されてきている課題ヘの闘いについて決定的に不充分でしかなく、矛盾の中で苦しむ人民の苦闘と連帯しえず、そのことにおいて自らの首をしめ、階級闘争に敗北するというあまりにも苦い歴史を、日本労働組合運動はもっている。  
差別をめぐる階級支配の強化は本工内の分断のみならず、現役と予備役の分断を決定的なものとしている。さらに差別に対して階級的に闘いぬくことは、労働者運動が新たなる人間的共同体(ソヴィエト)を内包して、権力闘争へ発展しぅるか否かの決定的なポイントをなしている。われわれ自身もこの闘いの不充分性を自己批判的に総括しつつ、一歩一歩ではあるが差別、分断を階級的に突破する闘いを開始しつつある。しかも、これは70年代中期の労働組合運動、プロレタリア革命運動の最も重要な課題の一つである。こういうものとして日本プロレタリア人民は各戦線における先進的闘いを学びつつ、全体として一歩一歩進まんとしている。  
ところが革マル派は、この階級性、革命性の中味にかかわる決定的な闘いについて見むきもせず、むしろそれを嘲り、平然と差別を拡大し助長することを行なつている。これは労働運動のみならず学生運動をふくめて革マル派総体の構造となっている。これは革マル派の団結の観念性、小ブル性をもっとも鋭く示している。つまり一人ひとりの生きた矛盾ヘの闘いを通して階級的闘いが貫徹されていくということが全く否定され、その現実的な一つひとつの矛盾を隠蔽した上でその上にイギオロギー的普遍性(つまり小ブルイデオロギー)をかぶせていく。まさにそれは現実の闘いの抑圧、隠蔽としてのみ成立する「小ブルイデオロギー」に外ならない(いうまでもなくもう一方の小ブル的な差別ヘの対応は、差別分断が階級支配として存在することを見ぬけず、それによつて逆に差別を固定化してしまう傾向である)。革マルの階級性なるものが全く反プロレタリア的なものであることがここに示される。しかもさらに許しがたいことは闘う人民からそれを指摘されても、むしろ公然とそれに居直りを行なうという点である。  
これは革マルイギオロギーの根本にかえしていけば次のようになる。  
黒田イデオロギーは西田哲学を「下敷」にしている(後述)―存在論がない―。こうしてプロレタリア階級の矛盾の根源について全く無自覚である。中味からいえば「分業」およびそれをめぐっての「共同体」 の解明が全くない。したがってそもそも「差別」それ自体を階級的につかんでいくことができない。こうして「本工主義」的な「階級性」の把握以外は「階級性」ではないと思い込むのである。これではそもそも「本工」の階級牲それ自体が全く一面的なものとなつてしまうのである。現実的な展開にまでいききれなくても、本工の反合理化闘争自体が本物の階級性をふくんでいるならば、つき出されてくる差別ヘの闘争の階級的うけとめは可能なのであるが、本工の反合理化闘争自体がまさに民同的なものでしかないので―工場における分業の問題についての把捉、闘争―それが全くできないのである。  
プロレタリア革命運動は共産主義社会の実現を目指した闘いであり、真実の人間解放の闘いとして存在する。マルクスがプロレタリア革命運動の中に科学的につかみとつたのは、この点である。したがつてプロレタリアの階級性とはこの点を明確にふくんでいなくてはならない。いや、現実にふくんでいるのである。ところが革マル派は、まさに資本による差別、分断に嬉々としてのり、平然と被差別プロレタリア人民を軽蔑し、支配階級の手の内におどっている。そして、そのことにおいて、プロレタリア人民の闘いが階級的、革命的に発展していくことを阻害しているのだ。  
労働運動をめぐる路線としてはこれは「悪しき産別主義」として現出している。いうまでもなく反合理化闘争はプロレタリ人民の産別的団結を背景として強化されはじめて階級的、革命的に発達していく力をもつ。そういう意味で反合理化闘争の産別的強化発展はますます強められねばならない。しかし、それがさらに地区的発達へひらかれているのでなければ、つまり産別的、本工主義的利害の固定化として存在するならば、今みたような決定的な不充分性をもってしまうのである。しかもこの構造は、本工内の反合闘争それ自体も分断、競争に屈服するものとしていくのだ。  
学生運動においてはこの構造は倍加されている。革マル派が闘いえない部落解放闘争を闘いぬこうとしていた川口君をただ「革マル的でない」という理由で虐殺するというのは、こうした革マル派の路線の必然的結果であり、まさに許しがたいものなのだ。部落解放闘争における先進的糾弾闘争をはじめとする差別ヘの階級的闘争の放棄=差別の固定化は、革マル派の本質を明確につき出しているのだ。
■6 革マル派の「組織建設」 
 「党派闘争」―「のりこえの立場」の反プロレタリア性

 

これまでの整理でもわかるように、革マル派は「組織建設」を革命運動上の唯一現実性としてみている宗派である。そういう点では革マル派の運動、組織上の混乱、矛盾はこの中に鋭くあらわれる。革マル派にとつては「組織建設」は「党派闘争」と不可分のものであり(特に革マル的な意味で)、それは「のりこえの立場」において「統一」されている。そしてまた、あらゆる運動、闘争上の矛盾もこの「のりこえの立場」において「解決」されたとしている。したがつて、最後にこの「のりこえの立場」なるものの反プロレタリア性を批判していこう。  
この場合、次のような方法をとりたい。まずはじめに、主に学生運動を軸として、現実的な「闘い」の中で革マル派が直面してきている間題を整理する。つまり、革マル的に路線化されていく以前の「直接的な問題意識」をみるのである。しかも、その場合、革マル派がこの間題を比較的なまに出している学生運動の側面から接近する(労働運動面については5の中で必要なかぎりふれてみた)。その上にたつて、トロツキスト同盟以来の加入戦術の問題の組織論分野における革マル派の「発展」の歴史を整理してみよう(主に黒田寛一の著述をめぐって)。展開の都合上、学生運動のそれは70年以後のものを主とする。なぜならば、次にみるように、彼らの組織建設をめぐる矛盾が日韓闘争以後もっとも鋭く出てくるのがこの時期だからである。
(1)革マル派の組織建設をめぐる矛盾と混乱 70年以降を軸として  
まずはじめに『共産主義者』No25―「マル学同組織建設のために」という田中三郎なる署名論文を素材としてとりあげてみよう。これは、これまでみてきた革マルのジクザクが組織建設においてどのように出ているかの典型だからである。これは、副題が「主体形成主義からの最後的決裂」となっていることからもわかるように、革マル派の一つの原点となつている「小ブル主体性論」が運動上矛盾をおこしており、それを革マル派は消し去ることを通して、「中味」らしきものをますます失い、空虚になつていく過程を表現している。  
この論文の構造は次のようになっている。  
「1、組織論―その固有の領域と方法」の中で次のようにいう。  
梅本の主体性論の中に「ちりばめられている」すぐれた側面つまり「…かくて組織は、現在における唯一のありうべき真実の人間関係の場所となる」等々の把握は、「哲学主義」にとどまり、「組織論」の解明において破綻した。革マル派の中では、反スタ運動の独自性を、その哲学的前提(主体性論等)に還元しようとするような傾向があり、それが組織構成員としての自己の限界と結びつく時、主体形成主義が出てくる。これは「組織論的地平」からはなれた地平で、自分の限界を「一個の人間としてのプロレタリア的主体性(自覚)の未確立にある」とすることが正しいと思い込む形で出てくる。これは誤りであり、「主体性論(人間論)あるいは自覚の論理」と「組織論あるいはプロレタリアート組織化の論理」の区別がどうしても必要であるという。  
そして次のように解答を出す。「即自的プロレタリア(としてのこのおのれ)が、いかに階級的自覚をかちとるかの主体的=唯物論的究明が主体性論であるのに対して、すでに自覚した革命的プロレタリアの組織的結集俸としてのコノ党組織が、即自的プロレタリア大衆との対決という実践的立場においていかに彼等を階級として組織化し、しかもこれを媒介として自らを拡大強化するか→ この革命的実践的追求が、組織論に外ならない」。  
さらに、誤った路線は次のような特徴をもっているという。  
第一、分断されたひとりひとりのプロレタリア個人が出発点にされ、主体性論が直接に組織論的に追求されるべき領域にもち込まれている(組織論と主休性論の二重うつし)。  
第二、バラバラのプロレタリアートが全面的に階級形成するにいたる時間的過程では部分的=特殊的階級形成がなされ、それが党建設とされる(歴史主義あるいは過程的弁証法)。  
第三、旧社会―大衆闘争から革命闘争への連続的発展=階級形成・党形成・主体形成→新社会というような<連続的発展観>があり、新社会を作り出す主体的力を旧社会の内部でいかに作り出すかの場所的論理が欠如して、新社会が目標化され絶対化される(大衆運動から革命闘争ヘの連続的発展観)。  
第四、誰が、誰を、いかに組織化するのかという主体的、組織論的アプローチが出てこないで、ひとりひとりが戦略を主体化するという形での「階級形成―主体形成」に一切がねじまげられている(行為的現在における大衆運動=同盟組織作りの場所的論理の欠如)。  
第五、ひとりひとりの党員の主体形成は、戦時の主体化というところでの思想性の高度化に求められる(主体形成主義的党建設路線)。  
これらは要するに、1行為的現在において大衆運動=同盟組織作りを実現してゆくための場所的立場の喪失、2党組織の組織形態論的、組織実体論的追求の欠如、3<組織戦術の貫徹>という主体的立脚点の欠如、ということの結果に外ならないという。  
ここでいっていることは、こういうことなのである。革マル派が自分の一つの原点としている主体性論は、どうにも非組織的な個人主義を生み出してしまい組織活動には役立たない。そのあらわれ方は、結局、消耗する時もまた元気でセクト的な「党派闘争」にハッスルしている時も個人主義でこまるということなのである。消耗の原因を個人的なプロレタリア的主体性の問題にしてしまい、個人的な「勉強」にとじこもつてしまう。ところが、消耗していない時にも、全く同じ形で個人個人がバラバラのまま「戦略の主体化」とか「新社会の夢想」とかいう形で「組織」の問題を欠如した形にしてしまう。これは、大衆が自覚していく過程での「主体性論」と、自覚したプロレタリアの組織的実践とを混同しているからだというのだ。  
だが、これほどふざけた話もない。「即自的プロレタリア」が自覚していく過程では個人個人バラバラの論理が主体性論として通用して、いったん自覚すると組織的になるという。これは要するに小ブル個人主義が観念的に組織性を形成することに外ならない。自覚ということは、いわば現象から本質を認識していく過程に外ならぬ(下向)。その過程で個人主義者だつたものがどうして突然組織のことがわかるのだ。これは後でくわしくみるが、革マルの出発点が小ブル的自我(個人主義)で、そのいきつくところが観念的な普遍性であることをもっともよく示している。  
百歩ゆずつて、主体性論が自覚に役立ち、自覚したプロレタリアは組織的になるとしても、一体この飛躍はどうして可能なのだ。実はここに革マル派自身の矛盾がある。黒田寛一の「プロレタリア的自覚」(『プロレタリア的人間の論理』をみよ)は、徹底的に小ブル的自我―個人主義にみたされており、階級的共同性など爪のアカほども出てこない。そもそも革マル主義の中味は、この「黒田的プロレタリア性」だったのだ。『プロレタリア的人間の論理』の中では、資本の制約をうけたプロレタリアが「生産と所有の機械的分離」を自覚することが「階級的、革命的自覚」だとされている。だが、「生産と所有の分離」ということのみでは没落した小ブルジョアでも感受できる(つまり個人主義者でも)ものなのだ。  
ところがこういう小ブル主体性論の本質はくりかえし非組織性、実践的な主体形成主義(つまり運動と無縁な学習会主義)を生み出し、革マルを危機にたたせた。こうして彼らは自分の「中味」を批判して否定しなければならなくなった。ただし、「中味」を失った形式のみの「組織いじり」として―。第一〜第五にわたってあげているものはそのまま革マル主義の本質を示しているのである。そして、この内容と形式の対立(革マル的主体性と運動をやる以上要求される組織性の対立)は、そのまま革マルの現在の矛盾のあり方を示している。  
それでは今度は内容を失った形式の面の展開をみてみよう。  
「U、組織現実論の展開」―ここにおいて次のようにいう。  
≪誰が、誰を、いかに組織化するかという主体的立場、あるいは組織論を組織創造論として追求するものこそ組織現実論である。それは大衆運動作りと組織作りとの対象的関係をふまえて大衆運動と組織建設をやりきるために、つまり大衆運動という特殊場面への<組織戦術>の貫徹の主体的構造の緻密化が問われた。  
(1) 組織戦術の貫徹は主体的=場所的立場と直接に統一されているのであって<組織戦術>の貫徹を対象化し客体化することはできない。  
(2) 既成の大衆運動ヘの対決を出発点とする大衆運動上の目的を実現するための構造が、大衆闘争である。こうした当面の大衆闘争は、背後における組織およびその成員に担われた<組織戦術の貫徹>に支えられねばならない。一方、当面の大衆闘争にむけての闘争=組織戦術の物質化を実質的に保証する組織およびその諸成員の組織実践を解明するのが運動=組織論である。大衆闘争論は裏面から理論的、組織的のりこえを問題にしていくのに対して、運動=組織論は組織的のりこえ(既成組織の解体)を目指して裏側から理論上、運動上ののりこえを問題にしていく。  
(3) 既成の運動をいかにのりこえるかという形で問題をたてていかない時には、革マル的方針の自立化がおきてしまう。あくまでもそこに存在する既成の大衆運動に対決し、これを出発点としてその運動をいかにのりこえるか″という「主体的追求」が必要である。  
(4) のりこえの論理の主体的構造は次のようになる。既成の運動(P1)へ、革マル(O―組織)が主体的に対決し(P1←O)、これを出発点としてP1を変革しのりこえる(P1→P2)。そのために既成の運動を支えている戦術を革マルがつかみとり、これにかわる戦術(E2)を提起し、それを物質化する(E2→P2)ために闘う。この時、組織的のりこえとは、既成の運動を変革していくための背後における組織、およびその諸成員の組織的実践の展開に外ならない。≫  
ここでは革マルのあり方がかなりハッキリ出ている。革マル派の主体が立っている「場所的立場」は、まず既成の大衆運動なのである。これは革マル派の歴史からいうとどういうことを意味しているのかというならば、次の点である。革マル派というイデオロギー集団が全学連をのっとり大衆運動をはじめ、その直後に中核派と分裂する。ここでの分裂の一つの中心的問題は、大衆運動と革命運動の関連であった。中核派は小ブル的大衆運動の直線的「発展」の中に革命をみていこうとした。これに対して革マル派はそれを否定して、「イギオロギー的革命性」を対置した。しかし、中核派と分裂してみるや、全く自分の小ブルイデオロギ―が現実と無関係なものということが暴露されてしまう。そして、革マル派は現実の闘いから全く無縁となりつつ、小ブルイデオロギーの「主体形成主義」=「学習会主義集団」へ再度転落しようとした。  
ここで革マル派がおもいついたのは次のことである。つまり、現実の運動は自分たちはやらない。またやるとしても既成の運動と同じでいい。そして、その既成の運動に「寄生虫」としてはりつく。そして、それを推進している党派を解体して、それをのっとるという方針である。それを整理したのが今みた「のりこえの論理」である。  
ここで重要なことは、革マル派が主発点としているのは「既成の運動との対決」であって、資本との対決ではないということである。革マル的主体はこうして現実の階級社会の矛盾の中に自らを基礎づけ、そこから出発せず、むしろそれは隠蔽してしまい(したがって自らの小ブル的本質はそのままにしたまま)、他党派解体を運動としていくことになる。ここで革マル派が批判している「主体形成主義」とは、「既成の運動」を前提としている革マルのイデオロギ―集団的本質を忘れ、既成の運動と並存させて自分の小ブル的本質を直接つき出してしまう「正直な革マル主義」への批判なのである。  
「V主体形成主義的組織建設路線―その構造と問題点―」では次の様にいっている。  
60年代の中期において革マル派がとっていた組織路線は、「むき出しの革マル主義」であった。『共産主義者』No10・11の「学生戦線における革マル派建設のために」の中で展開されているのは、大衆運動への参加および理論学習によるプロレタリア的人間の形成としての「組織への形成」であり、戦略の適用と組織的実践を通しての各成員の立脚点の獲得、深化としての「組織の形成」という形になっていた。こういう路線は次のような誤りをもっているという。  
第1―自覚した共産主義者によって担われるべき組織そのものが出発点とはされていず新社会=戦略=目的″についてなお自覚せず改良的な要求をかかげている即自的な一個のプロレタリアが出発点とされている(主体性論の直接的もち込み)。共産主義者としての主体性の前提そのものを問うということは組織論からハミダシている。  
第2―大衆運動ヘの実践を欠如している、または共同的実践が欠如している理論主義。ユ―トビア的新社会″とそれをめざすプロレタリア的個人″の要求になっている。そして新社会≠フ現在的理論形態が戦時とされており、その戦略の主体化に一切を切りつめる(主体形成主義と理論主義)。  
第3―行為的現在における大衆運動=同盟組織作りを進める組織から出発せず、戦略を自覚した個人を作り、それを基礎に闘争を未来へ向けて連続的に高める(組織と人間に関する主体主義的理解)。  
第4―大衆運動は天下り的な戦略の適用、フラクションは戦略の実現体、組織作りは「戦略的ほり下げ」というようになっている(戦略の適用主義)。  
さらに次のことが重要であるという。  
「わが反スターリン主義の独自性は、別に哲学的主体性論にあるのではない。むしろ戦後主体性論の核心をうけつぐ哲学的苦闘と、これを前提としながらもかのハンガリア革命のうけとめを基礎として、<革命的マルクス主義の立場>を獲得し、反スターリン主義の革命運動をつくり出してゆく、この両者によこたわる断絶を明確につかみとらねばならない。…哲学的主体性論にとどまることなく政治経済を媒介にして革命的実践にふみ込むこと、これこそが問題なのである」  
まさに馬脚をあらわしたとはこのことである。彼ら自身主体性論からの「断絶」をいわざるをえなくなっている。自らの「形成過程」は組織的実践とは切断されているというのである。即自的プロレタリアから個人的に革命化していくのが「主体性論的自覚の論理」であり、それが終ると今度はそれと断絶している革命的実践にとび込めという。  
しかし、これほどの御都合主義はないのである。そもそも「場所的立場」は主体性論の「黒田的再編」によって生まれているのではないか。そして、すでに指摘したように、『プロレタリア的人間の論理』の中で、黒田はまさに小ブル的自我の「革命化」を説いている。それに忠実な部分が運動上破産すると、それは大衆が左翼になるとき役立つのみであるという。それでは「場所的立場」はどうするのだ。今革マル派が歩んでいるのは、主体性論の中味が破産したのでこれは切りすて、形態論的なものとして「場所的立場」を利用して、組織いじりに集中している訳である。  
この間題はさらに『共産主義者』No28―「学生戦線における大衆運動=同盟組織づくりの前進と党派闘争の勝利のために」の中で展開される。これは中央学生組織委負会名で書かれている。直接的には中核派に対する批判という形をとりつつ、革マル派はここで自分たちの「革命化」の構造にふれている。それは、要約すれば次のようになっている。  
≪(a)階級闘争の革命闘争への「主体的発展」は、それ以前の革マル派の組織論と不可分である。不断の階級闘争を通して、階級的組織化をなしとげ、これを実体的基鍵として一定の条件のもとでは闘争を反政府闘争ヘと高め、さらに反権力闘争に発展させる。そのためには、情勢分析を媒介として組織戦術にふまえつつ過渡的要求を提起し、実現を迫る。これは、ブンド式の大衆闘争から革命闘争への連続的発展観を否定し、大衆闘争から革命闘争への連続的発展を場所的現在における運動=組織作りによつて「切断」すると共に、たえざる組織作りを実体的基礎とした階級闘争の革命闘争への永続的発展へ「つなげ」ていく。  
(b)一定の政治経済的危機の時には、組織化の度合に応じて階級闘争を反政府闘争にさらに反権力闘争に高める(<のりこえ>―<高め>―<めざす>)が、その時、情勢分析のうえにたって過渡的要求を直接または媒介的に提起していく。革命的危機に際しては直接に反権力の革命闘争に高める(<めざす>のではない)。  
(c)これは、トロツキーの永続革命論の継承止揚である。トロツキーは、階級闘争と革命闘争を「過程化」―ひとつながりのもの―としてしまい、党組織がプロレタリアを階級として組織化し、それを基礎として革命を実現するという組織実体論的追求が欠けている。「革命闘争とたえざる階級闘争とを区別することによって、場所的現在における党づくりと階級闘争展開の論理が明確にされることになり、さらにこのようなたえざる階級闘争の組織化を通じての党づくりとプロレタリアの階級的組織化を実体的基礎として、プロレタリア革命を永続的に完遂して行くその実体的構造を明らかにしたのである」。≫  
ここで革マル派は情勢の深化に対応して、革マル派も「おくれてはならぬ」と思い、何とか自分たちの方法から「革命」を問題にしようとしている。その意味では、69〜70年闘争の総括ででてきた問題の「再強化」である。だが、これほどまでに反プロレタリア的、また反マルクス主義的な革命論があるだろうか→  
たしかに、大衆闘争(階級闘争)一般と革命闘争は区別されねばならない。だが、その区別性は、ブルジョアジーへの闘争としては成立せず、情勢が煮つまるまでは「組織作り」に収約されてしまうものなのだろうか→ いやそもそも階級的革命的闘争が一滴も存在しないで、どうして革命的情勢下において大衆闘争を革命闘争に転化できる「党組織」が建設できるのだろうか→ 革マル派がそうであるように、小市民的、民同的運動しか展開できない組織は、社民的または小ブル急進主義的組織ではないのか。大衆闘争と区別された革命闘争は、現在的に推進されていなくてはならない(ソヴィエト運動)。もちろんそれは、それが全面化した形での直接的な権力闘争とは異る。だが、現存する小市民的なまたは民同的な大衆運動と共に、それを不断に階級的、革命的に再編して権力ヘ向ってつき出している闘争が存在して、はじめて革命的党が生まれるのだ(現存する運動の中に自然発生的にふくまれているものを目的意識的に結合することを通して)。  
闘争として存在しないものが、どうして組織として形成しうるのか→ ここで革マル派は、まさに彼らの組織が現実の階級性革命性と無縁な反プロレタリア的観念集団であることを暴露している(なお彼らの革命論の全面的批判―思想的根拠をふくむ―とわれわれのそれに対する方針は最後にまとめてのべる)。彼らはよく「実体」などということを言うが、実体として存在しないものをどうして組織化しうるのか。それとも、一滴も革命性のないものもたくさん集めて組織にためていけば「革命」へ転化するとでもいうのか→ゼロはいくら集めてもゼロなのである。中味のない現実に存在しないものに「過渡的要求」などくっつけても、どうしてそれが革命性へ転化できるのだろうか→  
革マル派は、中核派型の小ブル運動の単純急進化の延長線上にプロレタリア革命を願望する路線を批判しつつも、それとの区別性を現実的、本質的にたてられない結果、単に観念的に「組織性」をたてるにすぎなくなっている。しかし、そもそもこんな組織は成立するのだろうか→それがまた「成立する」のである。つまり、自分の中は空洞のくせに、また空洞だからこそ、他党派への敵対のみを唯一の党派性にする「党派」である。それを路線化したのが「のりこえの立場」である。これについてはすでに紹介してあり、また後で教祖黒田の展開を紹介するので、このNo28論文の中の「のりこえ」は紹介しない。  
さて、以上のような展開の上にこのNo.28の中央学生組織委員会論文は、70年代にはいっても依然としてでてくる、革マルの本質からでてくる「ブレ」についていろいろグチをたれるのである。それは以下のようになっている。  
≪革マル派内部に二つの偏向がある。「左翼的」偏向は大衆闘争論的立場を空無化させ(のりこえの立場を空無化させ)、直接にマル学同の組織活動を自治会内に実現しようとするもの。右翼的偏向としては、運動のゆきづまりを打開するために大衆運動を政治技術主義的に、つまり党派性をうすめて展開するものである。この内「左翼的」偏向(→)が粉砕の対象とされねばならない。それには、次のような根拠が考えられる。第一に、小ブル急進主義者どものハミダシと連動、組織ヘの政治力学主義的対決。第二に、闘争委員会としての学生連動″の克服の一面性。第三に理論的にはのりこえの論理や大衆闘争論と運動=組織論の相互闘係の誤った理解。このうち第三のものがもっとも問題である。この第三の問題については次のようなことが原因となっている。  
第一に、これは<のりこえの立場>あるいは<のりこえの論理>が全く見失われており、大衆運動への組織戦術の貫徹″の問題に一面化されている。大衆闘争論的立場なき組織戦術の貫徹主義″は、「運動上」「理論上」「組織上」の三つの「のりこえ」または大衆運動を組織化していくうえでの過程的な構造が破壊されている。それは自分たちの方針プラス組織戦術といつたような問題に一面化されている。第二に、P1(既成の運動)―E(理論闘争)→P2(新たなる運動)というサイクルを無視している。組織戦術の貫徹という観点を自立化させている時には、E2(既成の理論に対抗する革マルの理論)→P2(革マルが既成の運動をのりこえつつ「作った」運動)をE2→O→P2としてしまう。第三に、「同盟員としての組合員の独特な活動」(1)、「組合員としての同盟員の活動―フラクション活動」(2)、「同盟員としての同盟員の活動―革マル派の活動」(3)のうち(1)を技術としてきりつめ(2)〜(3)のみを行ない、組織戦術の貫徹さえできない。第四に、情勢分析や闘争組織戦術から「闘争戦術に規定された組織戦術」だけを「裏がわ主義」的に自立させてしまう。≫  
ここでいっていることは、客観情勢の深化に規定されてさすがの革マル派の活動家も「左翼化」してしまい小ブル急進派のマネを少しばかりしたがって革マル指導部を困らせているのを嘆いているのである。その場合「政治力学主義」や自治会大衆運動を忘れた「闘争委員会としての学生運動」があるが、もっとも革マル的なのは「既成大衆運動をいかにのりこえるか」を忘れて革マル派の「組織戦術の貫徹」のみを直接追求するものであるといっているのである。  
革マル派の活動家は極めて混乱する。小市民的運動を右翼的にやれば自治会主義だと叱られる。「組織戦術の貫徹」のみをやれば「左翼的」だと叱られる。もともと革マル派にとつては、小市民右派的大衆運動(自治会主義)か「小ブル急進派」をまねた運動しかないのである。すでにみてきたように既成の運動に対決する中味がなく、なにがなんでもただ「既成の運動に対決すること」のみが問題なのであり、「それをこえる運動は現実にはありえず、現在の革命闘争は組織作りだ」などといっておいて、―そうである以上大衆闘争へのかかわりは「技術主義」か全くの「小市民右派の運動」以外ありえない―この双方のブレを批判しているのである。全くいい気なものである。迷惑なのは下部活動家である。
(2)「のりこえの立場」の反プロレタリア的構造  
まずはじめに、『日本の反スターリン主義運動 2』からの引用を行なう。  
「すなわちまず、既成指導部、とくに社共両党によって歪曲されている今日の労働運動、ソコ存在する既成の大衆運動(P1)を左翼的あるいは革命的にのりこえていく(P1→P2)という実践的=場所的立場(=『のりこえの立場』)において、それ(1<運動上ののりこえ>)を実現していくためには、まずもつて既成の運動(P1)をささえ規定している理論(他党派の戦術やイデロオギーとしてのE0)をわれわれがとらえ(E1―これはE0と媒介的に合致する)、かつそれヘの批判を通じてわれわれの独特な(あるいは独自な)闘争=組織戦術(E2)を提起し(P1…→E1→E2)、そしてこれ(2<理論上ののりこえ>)を物質化する(E2 P2)ために組織的にたたかう(E2…→O―・―・→P2)とともに、これらの闘いを通じて既成の大衆運動を実体的にささえている諸組織、直接的には社共両党(O0)を革命的に解体する(O0…→O)ための党派闘争(3<組織上ののりこえ>)をかちぬく。―こうした<のりこえの論理>、イデオロギー的および組織的闘いを基礎とした大衆運動の展開の構造を、理論的に明らかにするのが、大衆闘争論であること、そしてこれらの構成部分は、(1)われわれの情勢分析、(2)他党派の情勢分析および運動方針に対する批判に媒介された、われわれの闘争=組織戦術、および(3)かかる闘争=組織戦術を物質化するための実体的構造の解明(つまり運動=組織論的解明)の三つであること、などが明らかにされた。  
ところで、他党派の戦術やイデオロギーを批判し(2<理論上ののりこえ>)、他党派を革命的に解体するための組織活動を展開する(3<組織上ののりこえ>)ことを通じて、<運動上ののりこえ>(1)を実現するということは、他面からすれば、われわれの組織戦術を、たえず大衆運動の場面へ(O―・―・→M)、また直接に他党派にたいして(O…→O0)貫徹する闘いが成功裡になされていることをいみする。この<組織上ののりこえ>をめざしてたたかっているわが同盟組織(O)が、他党派の組織(O0)にたいして、またそれが展開している大衆運動(P1)やその戦術およびイデオロギー(EあるいはE1)にたいして決定的に対決している(O→→P1・E)がゆえに、<理論上ののりこえ>(E1→E2)を媒介として<運動上ののりこえ>(P1 P2)が現実的に可能となるのである。このようなわが同盟(員)の組織戦術の貫徹を基軸(4)としつつ、<理論上ののりこえ>(6)と<運動上ののりこえ>(7)とを実現していく闘い、その実体的構造〔これは他面では同時に他党派の解体として、<組織上ののりこえ>(5)として現象する〕を解明するのが、ほかならぬ運動=組織論なのである。  
運動=組織論とは、大衆運動の左翼的あるいは革命的のりこえを、その裏側から、つまり<組織上ののりこえ>(3あるいは5)のがわから、その実体的構造を明らかにすることを、その課題とするといってよい。いいかえれば、われわれがうちだした闘争―組織戦術(これには、すでに解明された運動=組織論が現実的に適用されているのであるが)を物質化するための組織的闘い(E2…→O―・―・→P2=M)、その実体的構造そのもの(O―・―・→M)を、つまりわが同盟(員)が大衆運動を組織化し種々の組織形態(フラクションやわが同盟組織その他)を組織化するという構造を、われわれの戦術(E2)との関係において、解明するのが運動=組織論なのである。  
ところで、われわれの組織戦術の貫徹による運動=組織づくり、その前提となり、かつそれを媒介として拡大・強化されるわが同盟組織そのもの(O)、これを形態的にも実体的にも確立していくための組織内闘争・組織建設(O→O´)の構造(]面)を明らかにするのが同盟(党)建設論にほかならない。  
要するに、大衆闘争論と運動圧迫織論とは、大衆連動・労働運動の前提となり、かつこれを媒介として強化・拡大される同盟(党)組織が、大衆運動づくりと種々の組織づくりを展開する場面(Y面)を、一方は<運動上ののりこえ>のがわから、他方は<組織上ののりこえ>のがわから、それぞれ理論的に明らかにすることをその課題とするのであり、そしてこの運動=組織づくり(Y面)を媒介とした同盟(党)組織の組織的確立(]面)の問題を明らかにするのが同盟(党)建設論なのである。このようなものとして、これらの三つは組織現実論の核心的な構成部分をかたちづくる」  
この革マル派の「のりこえの論理」を次のような順序でみていきたい。第一は、なぜ革マル派は「のりこえの論理」を生み出さざるをえなかったか→―第二は、「のりこえの論理」はどういう有効性を革マル派に与えたのか→第三に、この「のりこえの論理」の本質的反プロレタリア性である。  
<第一に>なぜ革マル派が「のりこえの論理」を「生み」出さざるをえなかったのか→それは次の点にある。革共同全国委は、文字通りのイデオロギー集団として生まれていった。それは『プロレタリア的人間の論理』(黒田寛一著)を読めば明白なように、小ブルジョアジーがブルジョア社会においてブルジョアジ―に圧迫される危機感=「生産と所有の分離」を「根源的分割」としている。しかもその「生産と所有の分離」が分業(私的所有)の共同体論的把握からではなく、小ブル的な個人主義の次元でつかまれている。そして、その小ブルジョアジーが危機感をテコとしてこの「分離を自覚し、統一に向ってつき進む」ことが革命だとされている。生産と所有の統一というかぎりでは小所有者(農民・都市「旧」中間層等)もそうなのである。つまりプロレタリアの社会矛盾とそれヘの政治社会的闘争の中から生まれたものではない。  
それは彼らの「反スタ」においても同じである。彼らの「反スタ」はプロレタリア的な反スターリン主義ではなく、スタ―リン主義がもっている個人に対する抑圧的側面に対抗して小ブル的な個人の主体性をたてていったのである。むしろこの「反スタ」の問題が革共同全国委の形成の原点になつている。  
第四インター等の革共同との決定的な差異はここにある。第四インター等の革共同には、この「近代的小市民の自我」―「小ブル主体性」が欠落している。  
こうして生まれていった革共同全国委は、60年安保闘争後のブントの崩壊に際してこれに介入し、ついでに全学連を宮廷革命によってのっとつた。ここではじめて革共同全国委は大衆運動に直面していく。だが、すでにみてきたように中核派と革マル派に分裂してしまい、革マル派は再びもとの学習会的イデオロギー集団ヘの転落の危機にたつ。ここから「のりこえの立場」が生まれてくる。つまり、組合運動にしろ学生運動にしろ現存する大衆運動とイデオロギー集団としての革マルの「スレチガイ」を何とか突破するために、彼らは「そこに存在する大衆運動にイデオロギー的にかかわる」という方針を確定していく。こうすれば現実の闘いと無関係になってしまうことはさけられるし、同時にまた革マル派的イデオロギー闘争も生かされていく。彼ら自身がいっているように、彼らの「大衆闘争諭」とは決して自治会活動や組合運動のことではない。「既成の運動に介入する」ことなのだ。しかも、彼らは現実の闘いを大衆闘争としても革命闘争としても展開する力などありはしないし、方針はもともともっていない。やれることは市民的、民同的大衆運動の「チミツ化」のみである。だから、くりかえし彼らの中から「大衆運動主義」や「政治技術主義」がでてくるのだ。そういう意味では、革マルは本質的にイデオロギー集団なのだ。運動論=組織論=闘争論は、その意味では単なるイデオロギー闘争の変形でしかない。  
<第二に>それでは、革マル派の「のりこえの論理」が、どういう有効性を革マル派に与えたのか。  
1 現下の階級闘争が社共のヘゲモニー下にあり、したがって「革命派」は多かれ少なかれこの既成の運動との関連を整理しなくてはならない。2 さらには、情勢が深化しているとはいえ革命派は極めて苦しい状況にあり、したがって闘争は苦しい敗北局面を多かれ少なかれくぐらねばならない。3 既成の政治組織や大衆組織がますます右翼化しており、プロレタリア人民は孤独と絶望の中にたたき込まれており、したがってたとえ疎外された形であれ反社民反日共の「組織」の力を必要としていた。  
これら三つの条件の中で革マル派の「のりこえの論理」は、1 とにかく、どういう形ではあれ、既成組織にかかわるという方針であること、2 権力との闘争から逃亡しても「理屈」をつけて居直ることができること、つまり「観念的革命性」の世界に生きていられること、3 反スタ・スターリニストの組織として極限的に疎外されていようとも、反社民反日共の「組織性」を強調したこと、という形で一定の対応力をもっていつたことである。  
<第三に>それでは、革マル派の「のりこえの論理」はどのような意味で本質的に反プロレタリア的なのか?  
第一に、革マル派の路線としては、現下において既成の闘争と質的に異る闘争は「ハミダシ」であり誤りだとしている。彼らは大衆闘争―革命運動―革命闘争をわけて、現在の運動は「大衆闘争」であり、直接権力を問題にするのが「革命闘争」、そして現下の大衆闘争にかかわり「のりこえつつ」革マル派の組織を作ることが「革命運動」ということになつている。あえて彼らのこの用語にしたがっていえば、大衆闘争の中に革命闘争の中味が一滴もはいっていなくて、どうして革命運動になるのか。その組織作りは結局存在しない「革命性」の上に成立していることになる。ということは、彼らがかかわる闘争の「左翼性」ということは、結局既成の市民的、民同的運動の質を少しも変えずに、単にそれをつきあげているにすぎないことになる。そして「ハネ」る時には中核派と全く同じことを少し「みじめに」やれるだけである。ということは、観念界の「小ブル的革命性」を理由に市民的、民同的な闘争を固定化する役割を果しているということである。  
第二に、彼らはプロレタリア人民の敗北を待ちうけている存在である。要するに、あらゆる突出する闘争の挫折を利用して伸長しようとするという点で、日共=民青と全く同じである。そして、それに「理屈」をつけることによってプロレタリア人民を現実的意味での「後退的」な感性へひきとめ、闘争の「足かせ」となっている。  
第三に、第一〜第二のことと関連して、「のりこえの論理」からすれば、他党派解体の党派闘争を行なうことが革マルの現在の革命運動ということになり、まさに闘争の破壊にのみ情熱をあげるという全く世界に前例のない疎外されきった存在となっている。これは党派のみならず、自分たちの闘争に支配しきれない集団、個人は皆そういう対象となり、闘争の圧殺、破壊の上に革マル派の支配を定立しようとすることになる。川口君虐殺は、そういう「のりこえの論理」の必然的結果なのだ。  
こういう反プロレタリア性をもった「のりこえの論理」を少し具体的に要約してみよう。この特徴は、すでにみてきたように、対決しているのはこのブルジョア社会ではなく既成の運動であり、「運動」―「理論」―「組織」上の三つの「のりこえ」という形で定式化されている。したがって、「大衆闘争論」とはブルジョアジーに対していかに闘うかということではなくて、「既成の運動」にどのように介入し、寄生するかということなのである。これは革マル派が直接大衆運動を行なう場合も同じである。ということは、ブルジョアジーといかに闘うかということは後に退いており、そういう既成の運動の質を前提とし(いかにプロレタリア運動を推進するかではなく)、それとの関係でそれをいかに破壊するかという点から「理論」がたてられる。そして、その上にたって、他党派解体の「組織戦術」(スパイ、加入戦術等)がたてられる。こうして革マル派がまず全面的に対決しているのは、ブルジョアジーではなくて他潮流の「闘争―組織」なのである(反帝・反スタ戦略の根本的誤り)。  
そういう意味で「のりこえの論理」は革マルが唯一現実にかかわれる方策なのである。
(3)宗派革マルの「革命運動」 他党派解体の党派闘争の反プロレタリア性  
今までの引用や展開で明白になったように、革マル派にとっては他党派解体の党派闘争こそ「革命運動」なのである。もちろん、われわれも他党派の解体、止揚を目指して闘う。しかし革マルという党派は本質的に統一戦線(われわれのいう共同戦線)を組みえない宗派なのだ。それは日本プロレタリア運動にかかわっている総ての潮流がみとめている。それは単に革マルが党派闘争に熱中するということによるものではない。階級闘争は党派闘争を不可欠なものとしているし、しかも情勢が激化すればするほどそうである。そういう点ではわれわれも党派闘争を全力で闘いぬくことにやぶさかではない。問題は「解体―止揚」なのであって、単純な破壊ではない。ところが革マル派の党派闘争は、自分の中に階級闘争を前に進める力の中で行なうのではなく、むしろその力を否定して行なうところに特徴がある。したがって、革マルがある運動に加わってきて他党派批判を行なう時、その闘争がかかえている困難局面をどう打開するかという方向性をもって行なうのではなく、まさに他党派解体のためにのみ行なうのだから、その闘争としては革マルが参加したことによってブラスになることなど一つもありはしないことになる。  
こうして政治組織のみならず大衆全体が革マルに対する嫌悪と憎悪をもつていくのである。『革命的マルクス主義とは何か?』の中で、黒田寛一は「加入戦術と統一戦線」を強調しているが、革マル派と統一戦線を組もうなどという潮流は日本中どこをさがしてもありはしない。このこと自体、実は革マル派の「革命的プロレタリア派」としての致命的破産なのである。しかも、それは誰かがデマゴギーを流してそうしたのではない。革マル派自身が自分でそうしたのである。そして、その路線的確立こそ「のりこえの論理」に外ならない。  
その「のりこえの論理」にもとづく「党派闘争」の方針を次に批判していこう。素材としては『共産主義者』No28―「大衆運動=同盟組織づくりの前進と党派闘争の勝利のために」―中央学生組織委員会、『同』No29―「ベトナム反戦闘争の教訓と党派闘争の飛躍的強化のために」―中央学生組織委員会、この二つの論文を扱う。  
<1、党派闘争推進の本質的構造>  
「他党派―社会民主主義やスターリン主義、およびその変種を支柱とした一切の党派―を組織的に解体し、唯一の前衛党を創造するということは、あらゆる実践においてふまえられておかなければならない一般的本質的な目的である。この一般的本質的な目的を直接の目的とし、ある特定の党派に直接に対決する、これが党派闘争推進の出発点である。」  
「いうまでもなく、反スタ運動の出発時においては、イデオロギー闘争を主要の形態にして(組織的たたかいとしては加入戦術)エセ『前衛党』の解体をめざしてきたのであった。さらに、第二段階としては、いうまでもなく拡大された組織的力量を基礎として大衆運動にとりくみ、その組織化と展開の過程と結果における党派的なイデオロギー的組織的たたかいによつて、つまりは大衆運動を通じて他党派の解体・止揚をめざしてきたのである。あくまでも当面の戦術的目的の実現を直接の目的とし、党派的なイデオロギー的組織的たたかいを通じて大衆運動を組織する、このことによって他党派解体の土壌をつくりだすとともに、さらにこの成果にのっとって独自的組織的なたたかいをくりひろげ、他党派の解体という組織的課題を完遂する、このようなたたかいにとりくんできたのである。」  
「第一に、運動上ののりこえに従属した組織的のりこえ、第二に、運動上ののりこえと組織上ののりこえとの同時的実現、第三に、組織的のりこえとしての組織的のりこえのたたかい―党派闘争―。第一が、他党派の媒介的解体であるのに対し、第三は直接的解体といえる。あるいは前者が即自的な党派闘争としての意義をもつ党派的イデオロギー的組織的たたかいを基礎とした大衆運動の組織化であるのに対して、後者は向自的な党派闘争にほかならない。  
しかし、以上のような連関にもかかわらず、既成の運動への対決を出発点とするたえざる運動―組織づくりと党派闘争との間には明確な断絶がある。」  
「このことは、理論の次元で、党派闘争論に関してもいえる。党派闘争論はのりこえの論理を裏がわから、組織的のりこえを基軸として分析したもの″ではないのである。<のりこえの論理>(大衆闘争論)では、<組織的のりこえ>は従属的な一契機・実体的契機として位置づけられ、これをそれ自体としてとりあげて理論化したのが運動=組織論である。しかし、これらはともに、既成の運動への対決(P1←O)という具体的な出発点に規定されているのである。ということは、運動=組織論が課題とするものが、直接的な他党派の解体・止揚論ではなく、あくまでも既成の運動に対決しこれを運動上のりこえていくことを通じてかつ媒介にしてその背後にある諸組織を解体していく、その実体的構造を明らかにするものであることを意味する。それは運動=組織論が、運動づくりと組織づくりの弁証法、その実体的構造の解明を課題とするものであることからしても明らかである。  
ところで、党派闘争論の場合には、既成の運動への対決とか、その運動上ののりこえとか、大衆運動の組織化とかは、さしあたり関係がないのである。党派闘争が<組織的のりこえとしての組織的のりこえ>であることからして、それは明らかである。党派闘争論は、他党派の組織に直接に対決し、この解体を直接目的としてこれをいかに実現するかの理論だからである。」  
<2、党派闘争の二つのパターン>  
「ある特定の党派の解体という目的を実現するための手段としては、二つの型が考えられる。第一には、右の目的に規定されたイデオロギー闘争を主要な手段としたもの。その場合、従属的にはその党派を解体するための特殊的な運動づくりを行ない、また解体すべき党派の内部や彼らがとり結んでいる他の諸党派との関係に特殊な組織戦術を貫徹していく(こうした型を、さしあたりαパターンと規定しよう)。第二には、その特定の党派を解体していくための、そうした目的に規定された特殊的な運動づくりの展開を主要な手段としていくもの。この場合にも、従属的には先のイデオロギー闘争および特殊的組織戦術が展開されていく(こうした型を、さしあたりβパターンと規定しよう)。」  
<3、党派闘争の大衆的実現について>  
「まずもって、この特殊な運動づくりはあくまでも、ある特定の党派の解体を直接の目的として推進されていくものであり、当面の戦術的課題を実現するために、大衆闘争論的立場にのっとって大衆運動を組織化し、これを通じて一定の党派のおいつめを実現していくたたかいとは厳然と区別される。このことはすでにのべたように、たえざる大衆運動の組織化と党派闘争の推進とは前提的に措定さるべき実践的立場においてまったくことなること、したがってβパターンにおける運動の組織化は既成の運動の運動上ののりこえと区別される、ということから明らかである。  
闘争論的立場に立つた大衆運動の組織化(A)として次のような諸形態が考えられる。  
a 原則的なイデオロギー的組織的たたかいを基礎とした連動の組織化。あるいは従属的に組織的のりこえのたたかいを展開し、既成の運動を現実的にのりこえていく。  
b 特殊な党派関係のもとでは組織的のりこえのたたかいに重点をおきつつ、運動上ののりこえを実現する。  
c さらに運動上ののりこえと組織上ののりこえとを同時的に推進する。  
それに対してβパタ―ンの特殊な運動づくり(B)も、二つの場合がある。  
a 特殊な運動をそのものとして実現する。  
b 党派闘争の大衆的実現。」  
<補章、学生自治会運動論について>  
「最後に、自治会運動論の理論としての性格についてふれておきたい。  
自治会運動論は大衆闘争論および運動=組織論からの直接的な延長線上に創造されるものではない。大衆闘争論は、端的にいってその時々の階級闘争にむけての<党の戦術論>であり、他方、運動=組織論は階級闘争の組織化や他党派との組織的たたかいにおいて展開され、かつ党組織づくりを実現するための<党(員)の組織活動の諸形態諭>である。それに対して自治会運動論は、大衆組織およびその運動の問題にかかわるのである。  
すなわち、自治会運動論においては、まずもって大衆組織としての自治会―学生運動の直接の主体としてのそれ―が前提的に措定され、大衆的争論や運動=組織論において主体であった党(員)、方針を打ち出し組織活動をくりひろげる主体としての党員は、ここでは前提的に措定された自治会の主要な担い手としてまずもって対象的に位置づけられるのである。ここにおいてすでに、大衆闘争論および運動=組織論(一般に組織現実論)と自治会連動論との断絶があるのである。このような断絶の上で、われわれがおかれた場にみあった形での、自治会運動を推進するための方針および組織活動に関して、その解明に際して大衆闘争論や連動=組織論が適用されるのである。」  
このNo28における方針は、No29においてさらに具体化していく。直接には、革マル派はここで中核派との党派闘争の中でこの「党派闘争論」を展開している訳だが、疎外された宗派同士の争いの中に革マルの本質があらわれている。彼らの党派闘争論はすでに引用で示したように、「のりこえの立場」=大衆闘争論(=運動―組織論)とは<断絶>があるという。しかも最後の引用でもわかるように、その「のりこえの立場」=「大衆闘争論および運動=組織論」は、自治会運動や組合運動とは<断絶>しているのだという。思想的には主体性論と組織論とを<断絶>させたり、最近この党派はよく<断絶>するようである。  
これによって明白なことは、大衆運動と革マル派の革命運動(のりこえ)は断絶しており、しかもその「革命運動」と党派闘争のもっとも深刻な事態(=党派闘争としての党派闘争)は断絶しているというのである。一体この「党派闘争」とは何なのか? 大衆運動とも革命運動とも<断絶>した「党派闘争」とは一体何なのか?  
要するに、革共同両派の宗派戦争はプロレタリア革命運動と無線なものだと自ら告白しているのだ。一方は「反革命カクマルセンメツ」といい、他方は「大衆運動とも革命連動とも断絶した党派闘争としての党派闘争」をいう。中核派は結局戦略が「反帝・反スタ・反カクマル」になつており、革マル派は「革命運動とも大衆運動とも断絶した党派闘争」をやつている。  
実はこれは「反帝・反スタ」という革共同全国委の戦略の根本的誤りに規定されているのだ。それは後に批判するとして、実は革マル派の党派闘争の究極の姿がここに示されている。しかも、それが革マルの本質なのだ。革マル派はすでにみてきたように「他党派解体の闘争」が革命運動だとしている組織である。しかも「反帝・反スタ」の戦略的誤り(それは今までみてきたように自分が戦略的に対決しているのが帝国主義ではなく既成の運動であるということを戦略的に表現している)の結果、他党派を解体―止揚できず(階級的本質―内容をもちえない結果)、直接自分が規定力をもちえない運動の破壊を革命運動だとしてきている。そのことが、同じ「反帝・反スタ」戦略をもつ中核派との党派闘争を規定しているのだ。  
だから「党派闘争論的立場」なるものは、革マルの活動の部分的側面ではなく、革マルの本質がムキだしに出たものに外ならない。  
「一般的本質的目的を特殊な党派関係のもとで直接の目的としてこれを突破する」という意味はそれを示している。これは、もともと革マルの思想や「革命論」が、プロレタリアの大衆運動や革命運動と無縁な「小ブル絶対精神の自覚運動」=「プロレタリアに対する小ブルの支配、物理力化運動」だつたことを自己暴露しているものに外ならない。まさにこのような宗派は、プロレタリア大衆運動とその階級的革命的突撃の力で粉砕しつくしていかねばならないのである。  
彼らは『革命的暴力とは何か』という全く没思想的な本の中で「中核がやつたから革マルもやったのだ」「革マルはキリストではないから政治的対応をする」とかいう意味のことをいっている。彼らは暴力それ自身の中味を問題にしえないので―なぜならば現在的には市民的、民同的運動しかないといっているのだから―<政治を止揚する革命的階級的政治>、または<ブルジョア的暴力、小ブルジョア的暴力を止揚する階級的革命的暴力>の意味もわからない。彼らにとって「暴力」は技術であり、自分の破産を隠蔽する手段になっているのだ(11・8川口君虐殺ヘの居直りをみよ!)。全く現実の破産の数々を隠蔽しとりつくろうためにのみ存在している革マル派の理論をみよ! その「理論」なるもののいいかげんさを証明するものこそ、都合がわるくなるとすぐ「断絶」していく便宜主義的「理論展開」なのだ。  
大衆運動の<発展>としての革命運動であり、あくまでも両者に区別はあるにしても<断絶>などありはしない。そしてまた、党派闘争は大衆運動の階級的革命的発展のために闘われるのである。逆にいえば、大衆運動が階級性、革命性を明確にしていくや否や、小ブルジョアジーがそれにおそれをなし、プロレタリア人民の闘いを再び自分の物理力にせんとする活動が全面化する。したがってプロレタリア人民の闘争の階級化、革命化は必然的に小ブルジョア的宗派とプロレタリア的党派の党派闘争を激化させるのだ。したがってプロレタリアの革命運動は小ブル的宗派との党派闘争を必然のものとしてふくむ。それなくして革命は勝利しえない。それはプロレタリア革命ヘ向けてその小ブル党派の存立基礎を解体、止揚していくプロレタリアのソヴィエト運動の一環として闘われるのであり、小ブル運動が中味においても解体、止揚されていく中で、それを居直り逆に暴力的に敵対してくることに対して実力闘争が闘われるのだ。  
革マルのように相手を止揚する中味をもたず、逆にもたないがゆえに闘争に寄生し、他党派解体のみを革命運動だとする宗派戦争とは全く異る。寄生虫の宗派的敵対を粉砕せよ!  
いうまでもなく、一定の党派との闘争が極めて緊張したものとなった場合、その党派との「直接対決」もありうる。しかし、その党派の解体、止揚の方針が、プロレタリアの革命運動と無縁だなどということはありえない。むしろプロレタリア革命運動の貫徹として、その特定の党派の特定の「解体―止揚」方針がたてられるのだ。したがつて、革マル派がいっているような特定の党派を解体するための大衆闘争(階級運動とは異る)などというのはまさに疎外の極なのである。  
「すなわち、党派関係の変動という現実的諸条件の推移に規定されて、われわれのたたかいの構造もつぎの<1→2→3>というように移行していくといえるであろう(逆もいいうる)。  
1 運動上ののりこえに従属した組織的のりこえを追求する場合。  
2 運動上ののりこえと組織的のりこえを同時的に推進する場合。  
3 組織的のりこえとしての組織的のりこえを追求する場合。  
ここでの1は即自的党派闘争といえるが、3はもちろん向自的党派闘争であり、2は前者から後者ヘの転換点をなす。ところで、こうした移行の過程は主体的にはわれわれの実践的立場の規定性のつぎのような転換に規定されている。一般的な党派関係のもとでは、われわれの実践的立場はソコ存在する運動と対決しそれをのりこえる(P←O)、つまりのりこえの立場=闘争論的立場というように規定されている。しかしながら、党派関係が異常に変動したというような場合、それに規定されてわれわれは、自己の実践的立場の規定性をば、のりこえの立場=闘争諭的立場(P1←O)から、一定の党派(O1)に直接的に対決してそれを解体する(O1←O)という党派闘争論的立場へと転換していくのである。いいかえるならば、われわれの実践的立場がのりこえの立場(P1←O)というように規定されている前者においては、あくまでも既成の運動をのりこえる(P1→P2)というこの直接的な目的に従属したものとして一定の党派(O0と規定される点に注意)を組織的にのりこえる(O0→O)という結果をもたらすことができる―したがってそのことはわれわれの媒介的な目的をなす―のである。この一定の党派を組織的にのりこえる(O0→O)という媒介的な目的を、党派関係の異常な変動のもとで、直接的な目的としていく、したがってわれわれの実践的立場の規定性も党派闘争論的立場(O1←O)というように規定されていく、これが後者の場合なのである。  
党派闘争の即自的形態と向自的形態との関係を、一面的にもっぱら前者を『本来的』なもの、後者を『特殊的』なものとしたり、また暴力的形態を伴うか否かということで両者を感覚的にふりわけることはできない。両者の関係はこうである。一般的な党派関係のもとでは、即自的な党派闘争が普遍的であり、向自的党派闘争は従属的・特殊的である。しかしいったん党派関係が異常なものヘと変動した場合には逆に、向自的な党派闘争が普遍的となり、即自的な党派闘争は従属的・特殊的なものとなるのである。この関係はつぎのような論理と同様である。  
『それ〔資本のもとヘの労働の形式的包摂〕はあらゆる資本主義的生産過程の一般的な形態である。だが同時に、それは発達した特殊的・資本主義的生産様式と並存する特殊な形態である。』(マルクス『諸結果』)」  
これはNo28の中味のくりかえしなのであるが、最後にみる革マルの反マルクス主義―反プロレタリア的路線および理論を極めて端的に示しているので引用した。  
すでに何度も批判してきたように革マルの「反帝・反スタ」という誤った戦略はブルジョア社会の全般的制約者を誤って規定している。反帝国主義が戦略であり、反帝国主義の闘争の発展という根本的構造が発展する過程で様々な小ブル諸党派との党派闘争も深まる。ところが革マルにとっては帝国主義も他潮流も並列にならんでしまう。  
革マルの「のりこえの論理」の中に疎外された党派闘争はふくまれており、その結果なのであるが、一応「のりこえの論理」の中では「党派闘争としての党派闘争」ということは背後にある。つまり、「運動上ののりこえ」との関係で「組織上ののりこえ」がでている。ところが「党派闘争が異常になった段階では」「党派闘争としての党派闘争」が「普遍的な形態」となるという。  
これをマルクス主義的にとらえかえせば、革マルの党派闘争は革命運動の発展と別にむしろそれを「抑圧した形で」または「断絶」して普遍的形態となるということなのだ。マルクス主義の弁証法にこんなデタラメはありはしない。根本矛盾(普遍的矛盾)―この社会ではブルジョアとプロレタリアの矛盾―との関連で総ての特殊的個別的矛盾が存在しているのであり、したがってプロレタリアの帝国主義打倒の革命運動(根本的闘い)と断絶した形で特殊的、個別的なものが発展するなどということはまさに「疎外」以外の何物でもない。マルクスにとって普遍―特殊―個別(または個別―特殊―普遍)の発展過程は弁証法的な区別(否定)を通して成立していくが、それぞれが「断絶」したりなどしないのである。  
われわれが指摘してきた通り、革マル派は本質(論)なき形態論者または現象論者である(その根拠は最後にみる)。マルクスの引用も全く手前勝手な解釈をしているが、引用されている中味もそういうものなのである。革マル派の原点が資本主義の根本矛盾にふれえていないからこういうデタラメができる訳なのだ。そして「革命運動」=「のりこえの論理」に根本原因があることはすでにみてきた通りである。  
こうして宗派革マルは、文字通り大衆全体を敵にまわし、大衆運動の階級化革命化に敵対し、暴力的破壊活動をくりかえすことによってしか自らその存命を陳てなくなってきている。「拠点」早大の革マルの位置をみよ。彼らの悪アガキは、彼ら自身を「アリ地獄」の中にたたき込んでいる。こうして革マル派の本質がますます明白になる中で、階級的党派闘争を深化させ、彼らの粉砕放逐を実現する闘争をやりぬくのだ。しかも注目すべき点は、権力と当局はこの革マルの本質を利用しつくし、人民の分断、支配を貫徹しつつある。革マルは文字通り権力の手の内におどらされているのである。
(4)革マル派「組織論」の反プロレタリア的構造  
革マル派の一つの重要な柱は、組織論であることはいうまでもない。これまでの整理の上にたつて、組織論それ自体としてどういう経過をたどっていて、どういうところへきているのか、そしてそれがどういう問題をかかえてきているのかについて、のべていこう。  
1 革マル派の初期の組織論  
現在の革マルは革命論、あるいは党派の根幹をなす思想性としても極めて重大な危機にたっている。それは、自分たちの出発点的な中味が現実の闘いに直面することによって破産し、それに対して様様な手直しをやっているにもかかわらず、内容については形骸化し、空洞化の一途をたどっている。こうしてむしろ初期の革マル理論に忠実な部分が批判されつつ、脱落していつているというのが実情である。それをもっとも思想的に示しているのが組織論をめぐる革マル派の歴史である。それについて、まず『革命的マルクス主義とは何か?』『組織論序説』によって初期の構造をみていこう。  
『革命的マルクス主義とは何か?』の中では、新たなる革命的プロレタリア党建設については直接「新しい共産党」を作ってこの周辺に活動家を結集していく「雪ダルマ式戦術」を否定し、イデオロギー闘争や政治闘争の司令部は外部におき、その司令部のうち出す方針を大衆運動に適用しつつスターリン主義や社会民主主義の内部にもち込んでいくことによりそれを全体として変質させる「ナダレ込み戦術」を肯定しつつ、同時にその不充分性を突破するものとして「加入戦術と統一戦線の結合」を提起している。  
この方針は、結局様々な曲折をとりながら革マルの現在を規定している。加入戦術ということは、結局、スターリン主義や社会民主主義の運動をこえていく現実的闘争を展開しえず、スターリン主義や社民への批判が本質的には同一次元のものでしかない観念的批判にとどまつている結果失敗する。既成の「労働者党」の制約を突破せんとしていくプロレタリアの矛盾とその闘争の中味がわからず展開ができない結果、一方では<プロレタリア運動の外>にイデオロギー的な前衛集団を作り、大衆運動は社民、スターリニストの運動と同じものを技術的に(統一戦線等を通して)行なうという形になってしまう。これは、この前衛の思想が結局プロレタリアとは無縁なものでしかないことの証明なのである。それがいろいろの形をとりながら暴露されていくのである。  
『組織論序説』においては次のような構造を提起している。  
第一に、前衛党建設のために必要なことは、プロレタリア的主体性の確立、一切のブルジョア的汚物から訣別している共産主義的人間としての主体性の確立である。そしてその共産主義的人間としての主体性の確立のためには『プロレタリア的人間の論理』(黒田著)をみよという。  
第二に必要なことは戦略戦術の正しさ、的確さ、政治指導の柔軟性と機動力にあるという。  
第三には統一戦線の成否。  
第四に、行動上の統一を破壊しない内部理論闘争の推進。  
第五に、革命上の実践の統一を決して破壊しない分派闘争をふくむ党内闘争の是認。  
これらの中味をもつ前衛組織は、「共産主義的人間への自己変革をなしとげたプロレタリア的人間を構成体とする強固な<共同体>(これは革命的人間への変革の場であると共に実現されるべき将来社会の萌芽形態であり共産主義的人間にとっては永遠の今″としての意義をもつ)」とされる。  
この共産主義的主体性の中味とされている『プロレタリア的人間の論理』はどういうことが書いてあるかというと、次のようになっている。  
「…これらは、そもそも生産と所有との根源的分割に歴史的根拠をもった、その必然的な帰結にほかならないことを、プロレタリアは自覚する。生産と所有との機械的分裂の資本制的形態が、生産諸手段の資本家的所有と労働の社会化との矛盾・作業場内分業の計画性と社会的生産の無政相性との矛盾・ブルジョアジーとプロレタリアートとの階級闘争・『物の人格化と生産諸関係の物化』という資本制社会の転倒性等々の本質であることが把握される。賃労働者の労働は、人間労働の根源的=本質的な形態との関係において、その資本制的に疎外された労働の現実形態として自覚される。使用価値としての労働生産物を結果するかぎりでの合目的的な生産的労働(労働の本質形態)と、『価値を創造する活動』としての生産的労働(労働の資本制的疎外形態)との矛盾を、したがって人間的本性と人間性の完全なる喪失=自己分割=奴隷化との矛盾を、だから根源的な『種族生活』とその資本制的自己疎外形態との矛盾を、賃労働者は自覚する。それは、社会的生産・人間労働―人間的本性をその資本制的形態ヘと疎外せしめている事態(すなわち資本制的現実)の本質の概念的把握にもとづく階級的自覚である。」(『プロレタリア的人間の論理』)  
「こうしてプロレタリアは、いまや、自己に敵対的に対立した資本を暴力的に収奪し、自己否定的に迫ってくる資本家の私有財産をば社会の歴史的必然性における自己発展を物質的根拠としつつ積極的に止揚せんと決意する。それは、自己の非人間化された奴隷状態を克服し、失われている普遍的人間性と技術性を完全に全面的に回復せんとする主体的な決断である。『人間生活の永遠的な自然条件』を奪回せんとするプロレタリア的な価値判断の成立である。これは、生産と所有との根源的な分裂(階級的所有関係の成立にもとづく社会経済的な疎外の発生)を本質的な根拠とした社会的生産の歴史的発展がもたらした革命的自覚であって、かかる分裂そのものを根底から徹底的に変革せんとするプロレタリアの階級的自覚である。それは、社会的生産力の無限なる自己実現を、社会的生産過程の歴史的必然性における自己運動を、存在論的根拠とし、主体的原理としたプロレタリアの歴史的自覚である。いな、物質の宇宙的必然性における自己実現の主体的契機であることの物質的自覚の獲得である。」  
まさに観念論者革マルにふさわしく非マルクス主義的用語がならんでいるので理解がめんどうに思えるが、要するにいつていることは、≪人間の活動は本来生産と所有が統一されていたのに対してそれが機械的に分離してしまい階級社会が生まれた。これを主体的に自覚して、統一を回復せんとする闘いヘ決起していく≫ことが主体性だといっているのだ。  
人間の歴史の中での生産と所有の構造は、共同体の問題と不可分である。つまり「統一されていた」のは共同体に個人がとけ込んでいる原始共同体においてである。こういう問題を欠如して「分離」だの「回復」だのといっても、それは自己の描くユートピアでしかない。これは決してこの引用の箇所のみではなく黒田の著作全体の特徴なのであるが、黒田には歴史と社会の科学的解明が欠如している。プロレタリアがなぜ革命的なのかは、決して「生産と所有の分離」のみによって説明されるものではない。これはすでに労働運動諭の中でみてきたように、「合理化の把握―反合闘争論」についてもっとも鋭く出てくる。つまり現実的、本質的把握がなく、その上に「主体性」だの「共産主義」だの「革命」だのがつく。つまり、それは黒田のユートピア(小ブル的)をおしつけているにすぎない。  
「共産主義者の共同体」などといっても、資本主義の本質的把握やプロレタリアの革命性の本質的把握が欠如していてどんな「共同体」を夢想しているのだろうか? 『組織論序説』の中でも『プロレタリア的人間の論理』の中でも、黒田の論理の中には共同体とか組織ということを必然化する内容は全くない。いわば「一人一人共産主義的自覚をもつて行く」という構造なのだ。その存在が共同体的存在であり、またその矛盾が共同体的構造をもっている(疎外された形であれ)そういう中ではじめて生み出されるべきものが「新たなる共同体」としての中味をもちうるのだ。ところが黒田には、こういうものが全く存在せず、「個人的自覚としての共産主義的自覚」が急に「共同体」的だとされている。それでも、このころは、精一杯こういう「ユートピア」―「主体性」を夢想しえていた。だが、この「主体性」が現実に直面するや否やまさに小ブルの「ユートピア」―「夢想」 でしかないことが暴露されてしまう。  
その運動、闘争上の過程はすでにみてきた。そしてその中で「純粋革マル主義者」は、結局運動と無縁な個人主義者だとして批判されていく(主体形成主義者として)。これは、当然、政治技術主義、大衆運動主義と裏表の関係としてあることになる。なぜならば、運動の主体たる「大衆」の中には「共産主義」の中味は存在せず、それを「あやつる」革マル的人間の側にイデオロギーとしてある以上、運動それ自体は物理力または操作の対象となっていくのである。  
2 現下における革マル組織論の宗派的構造  
さて、それでは現下の革マルの組織論の問題点を批判していこう。『日本の反スターリン主義運動 2』の「U 組織建設路線にかんする問題点」を軸にしながらその反プロレタリア性を暴露していきたいが、ここでのべられている中味はほぼ今までの中でみてきたことなので紹介的なことはできるだけはぶいていきたいが、一応要綱的にのみ叙述をあげておく。  
≪1 分派闘争期における組織問題  
(1)大衆運動の組織化とわが同盟(およびマル学同)の諸組織の組織的強化との関係にかんする問題  
(ここでは主に中核派の大衆運動主義への批判)  
(2)地方産業別労働者委員会の強化とわが同盟組織の地区的確立にかんする問題  
 (地方産業別労働者委員会を強調する革マル派と地区組織を強調する中核派の対立)  
(3)前衛組織建設における疎外とこれにたいする組織的闘いにかんする問題  
 (「大衆運動主義」と「官僚的シメツケ」の中核派に対する「闘争組織戦術」・「理論闘争」を強調する革マル派の対立をめぐって―) 
(4)「マルクス主義青年労働者同盟」にかんする問題  
2 「主体形成主義的組織づくり」の発生とその克服  
A 組織づくりにおける「主体形成主義」との闘い  
B 「戦略論的ほりさげ」路線の発生根拠  
C ケルン主義の克服のための闘い  
3 思想闘争主義的および政治技術主義的な組織づくり路線との訣別  
A 組織づくりにおける思想闘争主義の発生根拠  
B 「運動の単位としての組織」観の誤謬  
C 「運動に対応した組織づくり」との最後的決裂≫  
革マル派の革命運動―「のりこえの論理」が、小ブルイデオロギー集団が階級闘争の現実の中にたたき込まれていった時とった「自己保身」であったように、革マル派の60年代中期から「展開」されていく組織論も小ブルイデオロギー(小市民的自我)が労働運動等に直面しつつ、それに「のっかって」生きのころうとした時に生まれていったものであった。くりかえし発生してくる一方における「主体性論」と他方における「技術主義―物理力主撃はその表現に外ならなかった。  
それに対して黒田は次のように答えていった。  
「共産主義的人間への形成、プロレタリア的自覚の論理は人間論ではあっても、組織論ではない。組織の前提あるいは組織化される以前の人間にかかわる諸問題やそれへのアプローチのしかたまでもが、直境的に組織論の領域にもちこまれるならば、組織論は主体性の問題に一面化されてしまう。」  
≪政治的国家と市民社会との分裂―私人と全体的社会性ヘの分裂―にブルジョア社会はおち込んでいる。即自的プロレタリアも同じである。これを階級闘争を通して止揚しなくてはならない。労働組合は社民によってゆがんでいるにしても階級的全体性と個別性の即自的統一としてあり、個別と全体の止揚の問題を場所的に実現する―即自的にではあれ―というものをふくんでいる。これを不断に向自的に高めていくべき任務をもった前衛党が、社民的、スターリニスト的に変質しているところに現代の階級闘争の一切の問題がある。階級的全体性とプロレタリア的主体性=個人性の統一された革命的前衛組織として同盟をうちかためねばならぬ。≫  
これからもわかるように、黒田の初期の組織論や思想性に強く出ていた「小ブル的自我の自己確立」という側面は、労働組合運動等に直面しつつ一定の「手直し」を迫られていった。だが、またしてもそれは、単に形態上の技術的な「手直し」に終る。ブルジョア的な「私人」と「全体性」の分裂をプロレタリアが止揚可能な根拠は何なのか?そして、その「個別性」と「普遍性」の統一を実現しうるプロレタリアの本質がいかに展開していくのかが「一カケラ」も示されず、ただ「結論的にのみ」マルクスの「口真似」をして「統一」が語られるにすぎない。  
こうしておきていくことは、たとえ誤っているにしても初期の革マル派のもっていた中味、内容が否定され、形式化、形骸化された「組織性」が外部から(指導部によって)下部活動家に「附与」され、下部活動家はそれを「体得」させられる。  
こうして、反スタ・スターリニストの本質が公然と姿をあらわしはじめる。  
スターリニストのスターリニストたる理由は、個別的主体の内在的必然性の展開として全体をたてるのではなく(または全体性の展開が個別性を自由に発展させるのではなく)、個別主体の内在性を抑圧していくところに全体性がたつことにある。これはブルジョア社会では、「他者」はそれぞれの「個人」の限界であり「個人の自由」と「公共の福祉」は本質的に対立する構造になっているのと同じである。それこそ分業(私的所有)を突破できないものなのだ。  
これに対して、プロレタリア階級の革命運動が生み出す組織がこれを止揚できるというならば、その<根拠>が明白に科学的に示され、そしてそれが展開されていくものとして組織方針がたてられねばならぬ。ところが革マル的主体にとってその「根拠」は、小ブル的なまま形の上でだけプロレタリアの組織性が語られる。これはまさにスターリニスト的な疎外された組織性に外ならない。こうして「人間論」と「組織論」の分離が語られるのだ。百歩ゆずってその相対的区別性がたてられたとしても、その「組織論」の中にプロレタリア的共同性の中味が展開されていなければ、そもそも「共産主義的主体性」などということを問題にする必要は全くないことになる。要するにプロレタリアの革命性、階級性の展開としての組織性ではなく、その中味を失った疎外としての組織性なのだ。プロレタリア革命運動の推進をなしうる組織性ではないことは明白である。  
こうして、革マルイデオロギーは、大衆闘争論(のりこえの立場)の極において革命運動と無縁な、いやむしろ敵対する宗派戦争をひき出し、また、プロレタリア革命運動と無縁な、いやむしろそれを抑圧する形骸化した組織を生み出しているのだ。  
こうして「加入戦術と統一戦線」としてたてられた初期の革マル派の基本方針は、プロレタリア運動に敵対する組織性とプロレタリア人民から徹底的にきらわれる孤立という破産状況を迎えている。
■7 プロレタリア革命なき「革命」戦略

 

(=現実の矛盾・闘争から逃亡した小ブルの宗教運動) 革マルの「革命戦略」批判  
われわれは今まで、それぞれの分野について革マル派の路線を要約しつつ批判してきた。それらを収約する形で、結局革マル派の革命戦略は何なのかをあばきだし批判しつくさねばならない。今までの過程で明確になったように、革マル派の路線とはプロレタリア革命―現実の権力のプロレタリアの実力による転覆―なき「革命」路線である。これをまとめて要約するのがこの章の目的である。
(1)反帝・反スタ戦略の反プロレタリア性  
 (階級性なき小ブルの無力なスターリニストへの反撥)  
その第一に、われわれは革マル派の戦略としての「反帝・反スターリン主義」についてその本質構造をアバキ出してみよう。『日本の反スターリン主義運動 2』において、黒田寛一は次のようにいう。  
≪マルクス・エンゲルスの世界革命論は本質的なものとして資本主義の最高発展段階としての帝国主義の時代において、また現代において貫徹されねばならない。また、このマルクス・エンゲルスによって明確にされた革命戦略(普遍的本質論)はレーニンやトロツキーの革命論の批判的摂取を通して世界革命の特殊的段階論として具体化され、それによって革命的実践にそれは適用される。しかし、20世紀後半の現代はロシア革命以後数年とは異なっている。ソ連労働者国家は世界革命の挫折と経済的後進性を物質的基礎として変質し、ソ連邦の政治経済構造は官僚主義的に疎外された。しかもこの変質は「一国社会主義」イデオロギーによって正当化されつつ、国際共産主義運動を大きく規定していった。こうして、帝国主義とスターリニズムによって分割している現代、しかも全世界のスターリニスト党によって各国のプロレタリア階級闘争が種々の形で歪曲されている現実を転覆し変革するための革命的プロレタリアートの世界戦略が<反帝・反スターリニズム>に外ならない。  
たしかに、帝国主義的段階におけるプロレタリアートの普遍的課題としての「反帝国主義」という戦略(Ua)にとっては、反スターリニズムは歴史的にも現実的にもプロレタリアートの特殊的課題をなす。なぜなら、直接には帝国主義的段階におけるヨーロッパ革命の永続的完遂が挫折することによつてもたらされた、世界革命ヘの過渡期におけるソ連労働者国家およびその政治経済構造の官僚主義的疎外、これを根拠とした歴史的産物がスターリニズムであるがゆえに、反スターリニズムは歴史的に特殊的な課題として登場したのだからである。そしてまた現実的にも、スターリニスト官僚制国家によって支配されていない現代世界、つまり帝国主義陣営の内部においては、スターリニスト党官僚は権力をにぎっているわけではない。彼らは各国のプロレタリア階級闘争を種々のかたちで現実に歪曲しているのであって、かかる歪曲を暴露し粉砕しのりこえていく革命的共産主義者(党)の闘い、帝国主義諸国における反スターリニズムの闘いは、ブルジョア国家権力を打倒するための闘いにたいしては現実的に特殊的な課題をなすのだからである。  
けれども、帝国主義とスターリニズムとに基本的に分割されている現代世界そのものを革命的に変革するための戦略、現段階における世界革命戦略(U´a)としての<反帝国主義・反スターリニズム>を構成するその一契機である<反スターリニズム>あるいは、<反帝>と直接的に統一されている<反スタ>は、全世界のプロレタリアート・人民の普遍的課題をなすのであつて、<反帝>と<反スタ>とは論理的に同時的な戦略をなすのである。たしかに、帝国主義的段階において、その論理的解明としての帝国主義論(3´)に基礎づけられた「反帝」戦略(Ua)にとっては反スターリニズムは特殊的ではあるが、<反スタ>と直接的に統一されている<反帝>、あるいは<反帝・反スタ>戦略(U´a)の一翼機としての<反帝>は、帝国主義段階におけるプロレタリアートの普遍的課題としての「反帝」そのものではない。あくまでも「社会主義陣営」と称されているスターリニスト・ソ連圏に敵対している帝国主義諸国家権力の打倒を、帝国主義陣営に対立しているスターリニスト官僚制国家群のそれとともに実現することをめざした<反帝>にほかならない。  
要するに、<反帝>は<反スタ>と直接的に統一されているそれであり、<反スタ>は<反帝>と直接的に統一されているそれであって、この両者はいずれも現段階におけるプロレタリアートの普遍的課題をなすのであり、現段階の世界革命戦略(U´a)を構成するその二契機なのである。このことは、<反帝・反スタ>戦略が帝国主義的段階の世界革命戦略(Ua)としての「反帝」に反スターリニズムを接ぎ木ないし結合したにすぎないものではないことをいみする。スターリニズムによって変質したソ連圏にたいして種々の対立をしめしている帝国主義諸国家権力と、帝国主義陣営にたいして平和共存戦略にもとづいて対応したり反米武力総路線のもとに反撥したりしているスターリニスト官僚制国家群との、物質的対立において、相互に依存しあい相互に敵対しあいながら運動している現代世界(4)―これは、帝国主義論および現代ソ連論にふまえた世界情勢論(4´)として、あるいは帝国主義段階の・世界革命への過渡期における・一つの現実形態論(3´―4´)として、明らかにされるのである―、かかる現代世界そのものをインターナショナリズムにもとづいて根底からくつがえすことを自己の普遍的課題とした革命的プロレタリアートの戦略が、すなわち<反帝・反スターリニズム>だということである。したがって当然にも<反帝・反スタ>とは、「反帝」と「反スタ」とを時間的に同時に実現すべきことを意味するものでもなければ、また「帝国主義陣営においては反帝、ソ連圏においては反スタ」といった機械的な分離=結合をあらわすものでもないし、また「反スタ」は「反帝」を実現するための「方法概念」であるわけでもない。<反帝・反スタ>は、現代世界の腐敗しきった危機的現実を根底から変革するための世界革命戦略であって、具体的には、帝国主義およびスターリニズムの諸国家権力を打倒するための個別的戦略をうちだす場合にも、また革命的共産主義運動やその時々の戦術的闘争課題をめぐって展開される大衆運動のための種々の実践的指針を提起する場合にも、それはつねにかならず現実的に通用されなければならないのである。≫  
この中に黒田の思想の反プロレタリア性が実に見事に表現されている。たしかに帝国主義段階におけるプロレタリアートの普遍的課題は「反帝」で、反スタは特殊的課題だという。しかし、次に「反帝・反スタ」の「反帝」は、このプロレタリアートの普遍的課題としての「反帝」ではないという。「反帝・反スタ」は直接的に統一されているのであるという。この根拠らしきものをさがせば、現代は「ロシア革命以後の数年とは異なり帝国主義とスターリニズムが分割支配しているからだ」ということになる。  
この「思想家」は、対象を一貫した且つ弁証法的な形でつかむ努力をしているのだろうか。支離滅裂というより、「必死」でマルクス主義をつかもうという形をとりながらも、結局自分の小ブル的世界を突破しえない。マルクスの理論の教科書的な利用の間に突然自分の小ブル的「地」がでてしまい、その二つを結びつけようともしない。  
「反帝・反スタ」の「反帝」がプロレタリアートの普遍的課題としての「反帝」ではないとしたら、その普遍的課題としての「反帝」はどこへいってしまつたのか? 「反帝・反スタ」のそれぞれは「現代社会を分割しており」また「相互依存、相互反撥している」二つということになる。しかし、問題は現代社会を分割・支配しているようにみえるこの「帝国主義」と「スターリニズム」の本質的把握が戦略につながるのではないのか?  
この「思想家」の思考の特徴は、普遍(本質)が「特殊」―「個別」へ進む途中でどこかへ消えてしまうのである。彼らがよく言う帝国主義とスターリニズムの相互依存=相互反撥が、まさに「相互」的なものであるとするならば、つまり現代社会の制約者が帝国主義とスターリニズムの双方であるならば、もはや「反帝国主義」はプロレタリア革命の普遍的戦略ではない。もし「反帝国主義」が普遍的戦略ならば、帝国主義とスタ―リニズムの「相互依存―相互反撥」は「現象」であって(本質的にはそうではないにもかかわらず、小ブルの目にはそううつる)本質ではないということになり、したがって「反スタと直接的に統一された反帝」などありはしないのだ。あくまでも反帝国主義という普遍的闘争の中で、スターリニズムヘの闘争も実現されていくのである。さもなければ、一体スターリこズムを何をもって止揚するのかが全く不明になる。  
現代社会の普遍的制約者(全体的制約者)は「帝国主義」であり、スターリニズムは部分的制約者でしかない。だからスターリニズムは総体として帝国主義の分業秩序の中にのみ込まれつつあるのだ。  
そもそもスターリニズムはプロレタリア(革命運動)を部分的制約者とし、全体的制約者としてはプロレタリアートの闘いの衝撃をうけた貧農がたっていく形で成立した。その意味ではプロレタリア革命(運動)の貧農主義的収奪として成立していった(旧いアジア的共同体を背景として―)。そして、その、分業(私的所有)を止揚しきれないスターリニト国家における生産力の発達は分業の発達を促進し、大量の「テクノクラート」を生み出し、それが軸となりつつ「社民化」の途をたどつているのだ。その意味ではスターリニスト国家のプロレタリアートにとっても「反帝国主義」は普遍的戦略課題なのである(本質的な意味ではスターリニスト国家をも帝国主義の論理は制約しているのだ)。  
したがって「体制間矛盾」として現出したものは全世界プロレタリアートと全世界ブルジョアジーの普遍的本質的矛盾が疎外されて現象した形態である。  
革マルの「反帝・反スタ」戦略はまさに現象にとらわれてしまい、並んでみえる「二つの体制」に逆にとらわれてしまい、それを戦略化したものである。だから次にみる戦争の問題についても「侵略戦争」だなどといい、また沖縄を「東西対立の谷間」などというのだ。  
この「反帝・反スタ」戦略は現実にはどういう意味をもっているのだろうか? それは実は革マル派の一人ひとりが自分の現代社会における「矛盾」を社会の本質的矛盾の中に位置づけきれていないことを示す(これについては反戦闘争、反合闘争でみてきたが―)。したがって「のりこえの論理」のようなものを生み出す。つまり自分を本質的に制約しているものがわからないために―ということはこの社会を本質的にこえていくものがわからない―かくされた自分の小ブル的エネルギーをプロレタリア的革命性と勝手に思いこむことになる。  
プロレタリア人民の様々な矛盾は、それが科学的に資本主義社会の中に位置づけられていかない時には、様々な形でねじまがった方向へいってしまう。創価学会やその他の宗教にプロレタリア人民の多くが組織されていることは周知の事実である。革マル派にとってはそれぞれの矛盾が根本的にどこにつながっているのかがわからないため、資本の様々な制約と社民やスターリニストの官僚主義的抑圧が並んでみえてくる。ちようど、現代社会が帝国主義とスターリこズムに「分割支配」されているようにみえるのと同じである。これを「反帝・反スタ」論が「戦略的」に方向性を与えていく。ここに「のりこえの論疲」が成立する基礎がある。  
つまり、プロレタリア運動が社民的、スターリニスト的に歪曲されてきた歴史は、社民やスターリニストのイデオロギーがプロレタリア人民を汚染してきたからだというのは確かに一面では「真理」である。だがそのことをプロレタリア階級の独立という点からとらえかえせば、社民的、スターリニスト的な思想や戦略では収約しきれぬ(つまり小ブルイデオロギーによっては収約しきれぬ)プロレタリア階級の矛盾を明確につかみとり、プロレタリア階級の階級闘争を推進していくことによってその社民やスターリ一ニトの制約を突破していきうるのだ。そういう社民やスターリニストの限界を突破する方策をたてずに、社民やスターリ一ニトのイデオロギー批判によってそれが突破できる訳ではない。そもそも何によってそれを突破するのかというイデオロギーの内実がないことになるからである。  
こうして、社民やスターリニストをこえていく内実を失ったまま社民やスターリニストを「のりこえ」ようとするということは、すでにみてきたように現実の運動としては社民的、スターリニスト的運動を行なっておいて、「限界」を指摘する形のイデオロギー闘争により組織解体攻撃をしかけ、結局社民、スターリニストと同質の運動に革マルがのっかるということが「革命運動」だという全く奇妙なことになるのである。これは社共批判という名の下に、プロレタリア階級を再度小ブルの下に包摂し、革命を抑圧することに外ならない。
(2)トロツキー型永続革命論の観念的歪曲およびプロレタリア革命をぬきさったレーニン組織論の小ブル的歪曲  
ロシア革命の過程において、トロツキーとレーニンの革命論が対立していく時期があった。また実際に対立していたのである。レーニンは『民主主義革命における二つの戦術』でみられるように当時のロシア革命を「ブルジョア民主主義革命の徹底化」という形で考えた。この「ブルジョア民主主義革命」という点からいえばレーニンの革命戦略はメンシェビキのそれと変らなかった。メンシェビキとの相違は、ロシア革命を「ブルジョア民主主義革命」と規定することから、この革命の役割をロシアのブルジョアジーにゆだね、プロレタリアートの役割を低く評価したメンシェビキに対して、レーニンとボルシェビキは、ロシアブルジョアジーはそういうブルジョア民主主義革命をやる力はない、ロシアプロレタリアートと農民の同盟のみがブルジョア民主主義革命の徹底化に利害を見出すのだといい、この「労農同盟」の積極的役割を強調した。  
これに対してトロツキーは、1905年革命の総括である『結果と展望』の中で、永続革命を提起した。それはロシアにおける革命の主力はプロレタリア―トであることが1905年革命の中で明白になったとした。それはプロレタリアートの組織性、密集力によって実現されたのであり、このことから判断して来たるべき革命はプロレタリアートがヘゲモニーをもったプロレタリア革命ヘ発展していくとしたのである。この点、トロツキーの方がプロレタリアートのつかみ方においてレーニンよりすぐれていたことは明白であり、しかも結果はトロツキーのいうとおりになった。  
しかし、トロツキーは革命の組織化(党建設)という点ではレーニンに決定的に劣っていた。たしかにレーニンは1917年の革命勃発まで「民主主義革命論」をとっていたが、革命勃発後鋭い直観により「プロレタリア革命」としてつかみとり『四月テーゼ』によりボルシェビキを変革しつつ1917年10月の革命ヘ導いた。トロツキーはプロレタリア革命のつかみ方が力学主義であり、プロレタリア階級の矛盾の構造の解明とか、闘争方針、組織方針をひきだすとかいうことは何もしなかった。したがって力学的な政治的ダイナミズムの把握以外は革命運動としては極めて不充分であった。これに対してレーニンは戦略は誤っていたにしても、頑強な組織作りに集中し、ボルシェビキを革命の組織へと作っていった。  
だが、レーニンはやはり『四月テーゼ』まで「民主主義革命」の推進力であったのであり、この点は十月大革命に決定的限界を与えていった。つまりロシア革命は権力奪取の直前まで目的意識的なプロレタリア革命運動は存在していなかった。つまりプロレタリア革命運動は自然発生的にしか存在しなかったのだ。  
こうして1917年の十月革命でプロレタリアの階級化、革命化は頂点に達し権力を奪取する(ソヴィエト権力の樹立)。だが、このプロレタリアの決起によつて一歩ずつプロレタリア的路線に変化していったボルシェビキも、内戦―内戦終結の過起でプロレタリア革命への抑圧的側面を出してくる。プロレタリア革命運動(ソヴィエト運動)が目的意識的に推進されてこなかったということの中で、ソヴィエトをめぐってボルシェビキ自身も様々なブレを経験していく。  
「ソヴィエト独裁」は否定され「党独裁」への通がクロンシュタットの叛乱以降しかれていく。また、こういう状況の中で「労働組合とソヴィエトの対立」―「組合主義の勝利」が進む。すでにレーニンの生きている内にスターリン主義ヘの道はしかれつつあったのだ。それはレーニンの「外部注入論」に思想的背景をもっていた。もちろんレーニンは鋭い現実的直観の中で様々な「留保」をつけつつ一歩一歩手さぐりをするという態度をとっていった。したがって現実のプロレタリア運動の可能性をひきだす力をもっていた。しかし、レーニン死後、スターリンの勝利の中で、ボルシェビキの中にふくまれていた最も反プロレタリア的側面が極限的に拡大されていくのである。  
こういうロシア革命の革命論上の問題点は、黒田寛一によると実に反労働者的な形で小ブル的に歪曲されていく。彼らはトロツキーの永続革命論を「過程論」―「連続発展論」として批判する。つまり民主主義革命から連続発展としてプロレタリア革命へ発展する「永続革命論」は誤りであるという。革命闘争は国家権力の本質的転換としてとらえ、つまり階級闘争と革命闘争を区別するという。この問題に対する解答は「場所的現在における党づくり」であり、これを基礎としてプロレタリア革命を永続的に完遂していくという。つまりトロツキーヘの批判をレーニンの「組織建設」という観点から批判する訳である。レーニンの「前衛党建設論」を革マル的に歪曲して作りかえる。  
つまり「ボルシェビキは戦略上まちがつていても強力な組織をもっていたので革命をやりぬけた」ということで、レーニンの党建設論をひきつごうとする。それをトロツキーの永続革命論の「批判的継承」なるものと「結合」している訳である。  
こうした革マル派によるトロツキー、レーニンの小ブル的歪曲は次の点として要約することができる。  
第一に、たしかにレーニンは強力な党建設に全力を注いだ。しかし、それは革マル派がいうような形でのものとは全く異る。ボルシェビキは誤った戦略をもっていたとしてもプロレタリア人民の革命運動を組織作りにすりかえるようなことはしたことがない。権力に対する強力な革命運動の推進の中で党作りをやっていったのである。この点「革命性は観念の中」にのみというまさに日和見主義者とは根底から異る。  
第二に、革マル派はトロツキーの永続革命論を「民主主義革命からプロレタリア革命への連続的発展」として批判しているが、革マル派自身がトロツキーよりもっとずっとくだらない「民主主義革命」主義者でしかない。すでにみてきたように「平和運動としての反戦闘争」「組合主義的反合闘争」以外は「党派闘争」―「イデオロギー闘争」―「組織作り」だというのだから、現実には小ブル的運動をやって、客観情勢が深化してくるとそれが「どういうわけかわからないが」プロレタリア革命闘争に転化するというのである。小ブル運動しかやっていなくて、どうして「大衆闘争を革命闘争に転化する」プロレタリア革命党ができるのだろうか?  
第三に、スターリン主義はボルシェビキの「民主主義革命から連続して進むプロレタリア革命」という「二段階革命論」と不可分である。なぜならば、プロレタリアートは戦略としては階級運動、革命運動を展開してはならないということになっているのであり、そういう戦略の下にできる党は非プロレタリア的、または反プロレタリア的党でしかないはずである。つまりソヴィエト運動の推進を否定してできる党は非プロレタリア的、または反プロレタリア的党でしかないのであり、したがってそれはスターリン主義ヘ直結していくのである。  
要するに「一切はあるがプロレタリア革命は絶対にない」というのが革マル派の戦略である。
(3)プロレタリア革命運動(ソヴィエト運動)なき「革命」運動および権力闘争の必然性の欠如  
戦略が根本から誤っており、しかも現実的闘争としては「民主主義―平和―組合主義」を展開し、その上にたって「組織作り」を行なうということは一体どういうことなのか?それは一言でいえばプロレタリア革命(運動)なき小ブルの自己満足運動ということである。彼らの革命戦略を定式化すれば次のようになる。  
第1 「ソコに存在する既成の運動」(平和と民主主義運動、民同型運動)―自分たちの組合運動、自治会運動は大衆運動としてはこれと同じものを行なう。  
第2 この既成の運動に「のりこえの論理」としてかかわる(革命運動)。  
第3 「革命運動」は「前衛党建設」に一面化される。  
第4 一定の主客の状況の変化の中で革命闘争を行なう。  
これはまさにソヴィエト(運動)の否定の上に成立する小ブル運動ということになる。プロレタリア革命理論―マルクス主義理論からの「修正」とは、結局ソヴィエト(コミューン)の否定にかかっている。日本共産党の議会主義は結局この点をめぐって成立してきている。革マルはこれに対してソヴィエトを時々いうし、キューバに対しても「ソヴィエトが存在するか否か」ということを評価の規準においている。ところがそれはまたしても言葉の上のことだけであって現実的な展開はソヴィエト運動の否定の上に成立している。  
彼らは大衆闘争、革命運動、革命闘争と分離して、「革命運動」は「のりこえ」運動、革命闘争は「直接的な権力闘争」であるという。ところが「のりかえの論理」それ自体はソヴィエト運動とは全く無縁である。これはすでにみてきたように「反帝・反スタ戦略」の結果である。  
ソヴィエト運動とは反帝共同闘争の推進を通してその中に展開される目的意識的な統一戦線の闘いとして推進される(革命運動)。現下の政治闘争、経済闘争が非ソヴィエト的、または反ソヴィエト的なものとして存在する以上、そしてプロレタリア人民の矛盾がその枠をこえて噴出している以上、帝国主義に実力で対決する「ソヴィエト運動」が現在的に展開されなければならない。このことは、ロシア革命がスターリニストに収奪されていったことに対する根本的総括にかかわることでもある。  
彼らは一定の情勢の変化の中では「ソヴィエト作り」にはいるというが、これは全くプロレタリアソヴィエト運動と無縁な「反ソヴィエト組織」であることは早大の例をみればわかるだろう。彼らになぜソヴィエト運動が本質的に不可能であるかといえば、彼らの情勢分析が、つまり資本主義社会の矛盾のつかみ方が、新たなる共同体を必然化するという形にはなっていないことに大きな原因がある。組織論批判の中でみてきたように、「共同体」という言葉を使うにしても、それがいかなる意味で必然なのかは全く不明なのである。  
これらのことはさらに次の点につながっていく。つまり「権力の打倒」が不可欠なものとして出てこないのである。日本共産党は議会主義的に権力の打倒が必然化する。ところが革マル派にとってはプロレタリア人民の現実的矛盾への闘争とその新たなる共同体ヘの欲求はいかなる意味でも出てこない。結局エネルギーは現実の矛盾から逃亡したところで成立する疎外された組織作りであるから、政治権力をなぜ打倒しなくてはならぬのかは不明確なままである。エネルギー(革命運動として位置づけられている)は不断に既成組織の解体であり、権力ではない。革マル的にいえば権力との革命闘争は一切の組織を組織的に解体して「唯一の前衛党」を作り、その主体的条件の中で行なわれるということなのだから(革命運動=「のりこえ」)革命運動としてみれば「反スタ―反帝」である。  
こうして「権力打倒―プロレタリア権力の樹立」の主体はイデオロギー的な党であり(その党自体が帝国主義との革命運動を通していかに階級化、革命化されていくかではなく)、闘争収奪をふくめて一切が保守的な形での「組織作り」に収約される。権力打倒の本源的エネルギーを失ってしまっているのだ。こうして、現在的にもまた未来においてもこの組織がプロレタリア革命を実現する「心配」はブルジョアジーにとっては全くないのである。  
資本の政治的、社会的攻撃に対して自らの要求をひっさげて対抗して闘う、その闘いの中で新たなる階級的団結(交通形態)が生まれる。この「闘争」―「組織」の円環構造の中で「対権力闘争」―「権力打倒、プロレタリア権力の樹立」 の力が発達していくのだ。革命的闘争を削りおとして生まれる組織は決して権力闘争ヘは進みえないのだ。
■8 黒田寛一の「弁証法」なるものの反マルクス主義

 

今まで批判してきた革マルの反プロレタリア的運動構造を前提として、最後にこれを支えている黒田寛一の思想、理論の反プロレタリア性、反マルクス主義性を要約的に批判、暴露していこう。その順序は、まずはじめに要約的に黒田寛一の理論の特徴をあげ、それをヘーゲル弁証法、マルクスの弁証法との関連からとらえかえし本質的批判を行なう形にしたい。
(1)本質(論)なき現象(論)主義者  
今までの革マル派の理論構造の中できわだっているのは、本質的把握が全くなく、現象にとらわれてそれをおいもとめている全くの反プロレタリア的、反マルクス主義的な姿である。もっと正確にいえば、黒田なりの「本質論」は存在する訳であるがその本質論がまさに小ブル的なものそのものであるため、現実の階級闘争に直面するや否やもろくも破産してしまう。こうして反労働者的自己保身がはじまっていく。いわば二元論的な処理である。つまり、小ブルイデオロギーは空中高くまいあがりながら必死で維持され、他方でプロレタリア運動からくる様々な問題についてはこれを何とかとり込もうとしていくが、本質は前者なので後者は形骸化された形で「深化」される。  
例えば「主体性論」(=人間論)と「組織論」の関係でみてきたように、自覚の論理は一人ひとりのプロレタリアが自覚していく過程の論理であり、「組織論」は自覚したプロレタリアートの論理であるという。ここにはニつのゴマカシがある。「主体性論」の中で黒田が強調してきたのは「プロレタリア的人間の論理」だったはずである。プロレタリア人民が自覚していく時はバラバラで、自覚したとたん「共同性が出てくる」などということはありえない。また、「人間論」が「組織論」の中でどのように貫徹されているかについては全く語られない(これはすでにみた)。そして「主体性論」と「組織論」には「断絶」があるなどという。「自覚していく論理」が主体性論だとすれば、それはいわば「下向の論理」(マルクスのいう)であり、したがって到達した本質が展開されていく形で組織論がたてられねばならないはずである。ところが、それどころか「断絶」してしまうのだそうである。  
また「反帝・反スタ」戦略についても同様である。反帝は本質だといっておきながら、「反帝・反スタ」は直接的に統一されておりしかも<反帝・反スタ>の「反帝」は、普遍(本質)としての反帝ではないという。それでは普遍(本質)としての「反帝」はどこへいってしまうのか?  
「のりこえの論理」についてもそうである。マルクスは共産主義を「現状を廃絶せんとする活動」として規定している。この社会を規定している本質(普遍)が帝国主義であるとするならば、「帝国主義と対決しつつ現状を廃絶せんとする活動」が存在しなくてはならぬ。現実に全く存在しないものをイデオロギーで生み出すことはできない。「意識とは意識された存在である」というのは、最も有名な『ドイツ・イデオロギー』の規定である。ところが革マルにとって現状の闘争は小ブル平和主義、民同的運動であり、革命運動とは「のりこえの論理」だという。つまり自らは帝国主義と闘う革命運動を展開せず、既成の運動の「のりこえ」でそれが生み出されるという。全くデタラメもいいところである。こういう「反帝・反スタ」は一体何なのだろうか。  
こういう問題が非常に「見事」に表現されるのが黒田の「認識論」である。マルクスの認識論の整理を利用して彼も「認識論の整理」を行なう訳だが、それが全くの機械的なものなのである。マルクスは認識論を「下向―上向」の論理構造として展開しているが、最も重要なことは階級社会における諸個人の直接的な認識がどうして現象的認識になってしまうのか、そもそもどうして「下向―上向」が不可欠なのかということである。ところが、黒田はそのことを少しも解明しようとしない。その上で、まるで「子供の模型」をいろいろいじくりまわすように「論理性と歴史性」だの「本質と現象」だのと説明する訳である。まさに主観主義と客観主義のゴチャマゼの典型である。  
これは「技術論」とか「場所的立場」とかにおいても同様である。
(2)黒田寛一の反スタ思想の出発点  
革マルは、自己の思想的原点と現実との矛盾の中で、政治技術主義と主体性論の分離の中で混乱におち込んでいる。これを黒田に直接体現されている革マルイデオロギーの出発からの展開として要点的にみてみよう。  
黒田の「思想的」出発点がスターリン主義による「人間性の抹殺」に対する小ブル的な主体性論だったことはまちがいない。戦前戦後を通して日本左翼運動を支配してきたスターリン主義は、疎外された組織性のもとに「人間性」を圧殺してきた。そういうことを背景に、「スターリン批判」―「ハンガリー革命」という50年代後半の階級情勢の中で黒田的反スタは生まれていった。  
黒田のこうした小ブル主体性論は次の要素からなっていた。第一は、主体性論。これは梅本克己の影響を強くうけつつも、その底には西田―田辺の観念論が存在していた。これは「場所的立場」として整理されていく。第二は、「唯物論の客観主義化」として存在したスターリン哲学に対して、主体性論的に唯物論を「再編」するテコとして武谷三男の技術論の黒田的利用。第三は、極めて観念的色彩をもった梯明秀の唯物論である。  
黒田の反スターリン主義は思想的にはスターリン主義哲学の「客観主義」批判におかれた。それは「自然弁証法の論理的主導説」への批判、あるいは認識論上の「存在論と認識論の混同」―「裏がえしのヘーゲル主義」―「たんなる過程的弁証法」批判としてなされていった。  
「自然弁証法の論理的主導説」というのは、マルクス主義(弁証法的唯物論)においては自然科学的な対象領域での「自然弁証法」がまず主導的に確立されて、その基礎の上に社会―歴史を対象とする史的唯物論が成立するというものである。これはスターリン主義特有の「タダモノ論」になる。自然科学の発展を条件としつつも、問題はその対象(自然)をみる人間(社会)が問題なのであるということを明らかにしたのがマルクスであった。いいかえれば、対象の科学的認識は階級性と不可分だということでもある。黒田はこの点をついたのである。ただしその批判の仕方が問題だったのであるが―。  
さらに黒田はスターリン型「弁証法」を「存在論の認識論化による認識論の存在論化」(『現代唯物論の探究』黒田寛一)―「裏返しのヘーゲル主義」―「たんなる過程的弁証法」等として批判した。  
これはどういうことかというと「自然弁証法の主導説」と不可分なものとして出てくるもので、客観主義的な「物質」や「下部構造」の解明を、人間主体の問題にかかわる認識論的問題にスリカエてしまうものである。またこれは、主観の問題を直接客観化してしまうという逆の問題もふくんでいる。結局これは、ヘーゲル的な観念論をマルクス主義的に突破しえないままマルクス主義の「下部構造が上部構造を規定する」という規定を利用する時おこる。つまりブルジョア社会に生きている以上観念論思想にとらわれている訳だからそれを根底的に突破しえず「物質」をこの中に「おし込む」結果、「論理構造」や「質」は全くかわらず―全くヘーゲル的なまま―ただ言葉だけ「物質」だの「自然」だのが使われることになる(実は黒田寛一がその典型なのだが―)。  
しかもこの時、ヘーゲル弁証法の構造としての「過程的弁証法」に強くとらわれる。過程的弁証法というのは次のようなものである。ヘーゲル弁証法では弁証法を展開する主体(絶対精神)が発展していく時、その弁証法の構造が「発展」に比重があり、A→B→Cという形で弁証法的に進んだ時、「C」の中に一切が収約されていき「A」「B」等は結局「C」という発展していった「結論」のたんなる「肥料」のようなものになってしまう。つまり抽象的普遍に一切の比重があり個別的主体は消されていく。これはフォイエルバッハが唯物論的に、またキェルキェゴールが実存主義的に鋭く批判していったものである。スターリン主義哲学が裏返しのヘーゲル主義である以上こうした過程的弁証法のもつ欠陥が鋭く出てくる。つまり疎外された普遍性の下における個別的主体の抹殺である。黒田はこういう点を批判していったのである。  
ところがこれらのスターリン型弁証法への批判がまさに小ブル的だったために「反スタ・スターリニスト」イデオロギーが生まれていく。つまりスターリン主義の批判が最も根本的なものとして、また最もプロレタリア的、革命的なものとしてではなく、まさに小ブル的にしか行なわれていなかった結果、実は自分も同じ構造の中にハマリ込んでいってしまったのである。  
それでは黒田寛一の反スタ思想の原点はどのようなものとしてあったのか。またそれがどういう構造と展開をとげていくのか? 黒田が戦後主体性論をひきついで「確立」したと称していくのは「場所的立場」である。これはもう少しくわしくいえば、西田―田辺哲学と戦後主体性論の黒田的再編の上に成立する。  
西田―田辺哲学はそれとしてキチンと解明し批判しつくさねばならぬが、ここで必要な点のみをあげておけば、西田哲学は日本の「近代的自我」の独特の確立を基礎づけたものである。西田は自分の神体験から「原体験」「純粋経験」のような思想性を確立していく。これはどういうことかといえば、人間が社会生活の中で身につけてしまったいろいろなものから諸対象に対する経験なもっていくことに対して、そういう形で「ワク」づけられない以前の人間の諸対象ヘの「原体験」を明確に定立しょうというものである。これは禅から得られたものである。西田はこういうところから出発して「場」の思想を確立していく。  
黒田はこの西田―田辺哲学の上に梅本を軸にして提起されていった主体性論をうけとめていく。こうして「場所的立場」が形成されていく。これはどういうことかというと、先ほどみたようなヘーゲル的な過程的弁証法に対して自分の出発点を不断に明確にしつつ弁証法的展開を行なおうとするものである。つまり革マル的にいえば「コノオノレ」(この自分)と対象の出発点的対立(緊張)を保持しつつ全体の弁証法的展開をとげるということである。これは「疎外された普遍性」の中に個別主体の原点をすべて収奪し抹殺するスターリン型弁証法に対して、人間の主体性(実は小ブル的自我の主体性)を保持しつづけるということになるというのである。  
この「場所的立場」―「主体性」から史的唯物論をみていく時、武谷三男の技術論を黒田的につかんでいくことがはじまる。武谷技術論そのものの問題点はここでは省くが、「技術とは生産的実践における客観的法則性の意識的適用である」という規定に黒田は注目する。要するにスターリン型史的唯物論は人間(主体)と自然の関係が静止的にまたは客観主義的になっているのに対して、武谷技術論からみていくと主体的なカンケイとして定立しうるというのである。さらに黒田は自分の史的唯物論の展開を梯明秀を「再編」する形で行なおうとする(ここではくわしくふれないが梯の史的唯物論はまさに「裏返しのヘーゲル主義」である。ヘーゲル弁証法の概念に「物質」という言葉をおし込んだ形になつている)。
(3)西田哲学における「場所的論理」と黒田の「場所的立場」 その観念論としての同質性  
われわれは今まで黒田寛一の論理における奇妙な構造に再三出会ってきた。彼らが再三用いる「断絶」あるいは個人と共同性の非論理的統一性等々、これは用語的にいえば「矛盾的自己同一」「場所的立場」「自覚の論理」等の形で表現されてきた。これらを要約すれば「矛盾」のあり方、「個別性と普遍性の関係」をめぐっている。黒田寛一の思想におけるこの非論理性は一体どこに基礎をもつのかといえば、黒田自身が『早大新聞』130号においていっているように、西田―田辺哲学である。先ほどみた非マルクス主義的用語自体が西田―田辺哲学の用語なのである。それでは一体この西田―田辺哲学は何をめぐって存在したのか。そしてその影響は黒田にどのようにカブをおとしているのか。この間題は反スタ・スターリニスト黒田の一つの秘密でもある。  
ここでわれわれは必要なかぎりで西田哲学の基本問題をあげておこう。西田幾多郎はいうまでもなく明治末期から大正、昭和にかけて生きた思想家であり『善の研究』は広く知られている。西田幾多郎それ自体として厳密な解明と批判が必要であるが、その思想的骨格は次のようになっている。  
西田哲学の出発点は『善の研究』でもわかるように「純粋経験」にある。これは西田に大きな影響を与えた「禅」を基礎にもっている。「純粋経験を唯一の実在」とみるこれは、主観と客観の対立以前の直接的なあり方であるとする。つまり認識の出発点として物質とか構神とかいう二者択一ではなく、たんなる物質でもたんなる精神でもない「純粋経験」をたてた。これは「子供の如く清く純一」な心境とされる。しかも、意識も、実在も、思惟も、意志も、自然も「純粋経験」の種々のあり方にすぎないとされる。しかも実在の根本形式は「一でもあると共に多、多なると共に一」であるとされる、いわゆる多と一の「矛盾的自己同一」としてつかまれている。さらにこの「純粋経験」は唯一の実在、つまり「神」でもある。  
こういう構造は後になって「場所的論理」(『場所的論理と宗教的世界観』)へと発展していく。これは「場所的論理というのは、一と多の矛盾的自己同一的に場所が場所自身を限定すること」だといわれる。これはさらに「矛盾的自己同一とは矛盾をこえて矛盾を包むものをいうのである。場所的自己同一の意識である」という。相対立するものが同じ場所におかれるからこそ「矛盾」するのであり、この両者を矛盾する闘係に結びつける媒介者は「同じ場所」であるということになる。つまり自己矛盾をふくむ「矛盾的自己同一的な場所」といわれるのである。そして、その矛盾するものは「個と個」および「個と全」であるという。これは「個物は限定の極において無になるのである。死するのである。しかし自ら死することによって個物はよみがえる(死においてただ一回限りのものであることが自覚されるところに個が生まれる)。無にぶつかることによってはねかえるのである」といわれる。個物の限定は「無なる場所」で行なわれるといい、その「無なる場所」は「一と多の」相互の自己否定による交換転化の場所であるという。またこの「場所」は「自己」をつつむ「一般者」として「世界」となるものであり、またこの構造は「自己と世界の矛盾的自己同一」としてあるという。そして「世界」の内にある「自己」が「世界」を自覚するという。これは主観と客観の対立からたてられていく従来の認識論に対して、自己の中に自己を映し出す自覚の論理をたてようとしたことによる。  
いうまでもなく自己の中に自己を映すものは一般者(神)である。こういう意味で場所の論理とは自覚の論理でもある。  
極めて不充分な形ではあれ、西田哲学の要点と思われるものを要約したのは、西田哲学が問題にした領域をハッキリさせるためであった。西田哲学は様々ななつかまれ方をする。一方では大正デモクラシーのイデオロギーとしてつかまれると思えば、他方でファシズムのイデオロギーとしてもつかまれる。西田哲学の極めて矛盾した構造を示している。これは単なる矛盾ではなく「後進帝国主義」日本の「近代的自我」のあり方を示していると思われる。  
西田哲学は「個」を極めて重視した「個人主義」の側面がある。  
しかしこの個人はそれに徹しきることはできない個人であった。むしろ個人は、個人を定立し、確立するためにこそ「純粋経験」をたてねばならなかった。そういう形でしか自分の確証がつかめない個人であった。いうまでもなくこの純粋経験は一般者、「神」なのであるから結局それによって自分を支える「個人」なのである。  
要するに旧い共同体が完全に破壊されきれず力が強く、資本主義のあり方、ブルジョア社会のあり方にカゲを落している「後進帝国主義」における「近代的自我」の矛盾的構造を示している。しかもその矛盾は思想性、論理構造に鋭く表現されている。つまり「個」と「全」の「矛盾的自己同=として、つまり「個人」と「全体」が「矛盾的自己同一」としてつかまれているのである。これは「自発の論理」においても自己(個)の中にある世界(全体)を映し出すという形でも表現される。逆にいえぱ西田哲学における「一と多」は「場所」をもっていたということになる。要するに「共存」する「場」を前提としているということなのである。しかもそれは「無」とされる。  
これはたしかにヘーゲル哲学の矛盾とは根本において異る。ヘーゲル哲学の基礎にある「個」は「一と多」というような形での前提的な「場」をもちえない「孤独の個」である。これは旧い共同体の解体の程度にかかわるものである。そういう意味で西田哲学の奥底には「個と全体」が溶け合っている「アジア的共同体」がかくれていることはまちがいない。これは彼が東洋的思想にこだわった原因でもある。  
こうして西田哲学は個人主義をたてながら、そのたて方の中に「個人を減却する共同性」をはらんでいるものとしてあった。だから第二次大戦に結局屈伏し、ファシズムの思想として批判される側面ももっていたのである。  
ところで黒田寛一の思想構造は根本的にはこの西田哲学の「矛盾」のワク内にある。それが反スターリニズムが「秘密の地下道をくぐって」スターリニズムにいきつく根拠である。つまり「個」と「全」が対立しつつも、いわば「個」即「全」というような形で没論理的につながる「場所」をもっているのだ。いいかえれば、プロレタリア的共同性ではなく旧い共同性によって個人が結ばれている、その残淳を強く残しているのだ。  
黒田の論理構造の中で「個人」の論理がどのように止揚されるのかということをたどっていく時、結局「断絶」とか「いつのまにか」という形で「共同性」が生まれてくる理由はここにある。  
革マルは今「主体形成主義」から「疎外された組織主義」へ移行していく時期なのであるが、この「移行」の仕方もまさに「断絶」として、いやもっと正確にいえば、もともと真に存在した「旧い共同性」をひき出す形で行なわれている。したがつてそれはマルクス主義的な止揚ではなく「断絶」という形をとった「のりうつり」―まさに「有即無」―という形になるのだ。  
また、『ヘーゲルとマルクス』(黒田著)の中で展開されている「物質的自覚」の構造は西田の「自覚」の構造そのままである。  
すでにみてきたように、黒田の初期の「共産主義」は、個人主義とその中に「映し出される」旧い共同体的なユートピアであった。しかし、現実の運動の中でそれが「主体形成主義」として破産するや、今度はそれはプロレタリア的団結を形のみ利用した「疎外された組織主義」へと変身し、それにより自分の半面である「個人」「主体性」を批判していったのである。まさにスターリニストの構造である。  
これをマルクス主義的にいえば次のようになる。たしかにヘーゲル弁証法は過程的弁証法として、普遍は疎外としてしか定立されない。しかしそれに対して「場所的立場」、つまり「場の弁証法」をつけ加えればヘーゲル弁証法を、したがってその裏がえしとしてのスターリン主義「弁証法」をこえられるのかといえば、決してそうではない。革マルのいう「コノオノレ」―われわれからいえば「ソノオマエ」―の場所的立場それ自体の階級性が問われているのだ。  
マルクスはこんな形で共同性をたてはしなかった。国家に対決する小ブルジョア共和主義者として出発した彼が、共産主義者に変化していく大きなテコとなったのはプロレタリアートの叛乱だった。要するに小ブル的個人主義はそれ自体としてはいかに「トンボガエリ」をしてみょうとも、「疎外された共同性」―国家―に屈伏するしかない。これを突破するのは個人主義の限界の明確化と共に、それを止揚するプロレタリア革命運動の衝撃力が存在しなければならない。シュレージェンのプロレタリア蜂起によつてマルクスが決定的に転換しつつある姿は「『プロイセン国王と社会改革―1プロイセン人』に対する批判的論評」(大月版マル・エン全集1)に鮮明に示されている。  
黒田の思想にはマルクスがくぐったような「転化」がない。結局は自分の小ブル的なワクの中に一切をとじ込めてしまっているのである。しかも、まさにその場所的立場それ自体が問われている時に、それ自体の階級性を根底から洗いなおそうとしない。マルクスにとっては『経・哲草稿』や『ドイツ・イデオロギー』は単に客観主義的な叙述ではない。自分の「立場」それ自体を歴史と社会の中に明確に位置づけとらえかえそうとしている叙述である。ところが黒田においては『へ―ゲルとマルクス』―『社会観の探究』―『プロレタリア的人間の論理』はそれ自体として階級的に検討されることなしに終る。こうして逆に、プロレタリア階級がブルジョア社会でおかれている本質的矛盾構造と自らの出発点が結びつけられず、一切を「自己の立場」に収約してしまうことになる。こうして階級性の欠如した運動、理論が生まれていく。
■9 プロレタリア革命の弁証法 ソヴィエト運動とプロレタリア革命党

 

(1)ヘーゲル弁証法とマルクスの弁証法  
われわれは今まで黒田の「理論」の観念性をみてきたが、この問題をこれ以上本質的な次元につき進むためには、どうしてもヘーゲル弁証法あるいは西田哲学等の観念弁証法と、マルクスの弁証法の根本的差異について明確にしておかねばならぬ。  
1 ヘーゲル弁証法の「矛盾」と「止揚」の構造  
ヘーゲル弁証法の偉大さは、マルクスが公然と自分はヘーゲルの弟子であるといい放つほどのものである。革命的プロレタリアの理論的武器としてのマルクス主義は、「フランス社会主義」―「イギリス経済学」―「ドイツ観念論」をその構成体としてもつといわれているが、その「方法論」はドイツ観念論、つまりヘーゲル弁証法との格闘によって生まれている。『資本論』等にみられる驚嘆すべき科学性はヘーゲル弁証法なくしては決して生まれることはできなかった。このように『大論理学』に集大成される「ヘーゲル弁証法」のプロレタリア革命に対する偉大なる「貢献」は、しかしマルクスによるヘーゲル弁証法の根底的批判によってのみ可能となっている。いうまでもなくここでヘーゲル弁証法の全体を批判しつくすことはできはしない。それを前提とした上で、今までわれわれがみてきた問題の根本にふれるものをとりあげていこう。それは「矛盾」とその「止揚」をめぐる問題だと思われる。  
ヘーゲル弁証法の特徴は「矛盾」を存在そのものの中にみていき、その矛盾をめぐる「展開」として論理がたてられていく点にある。『大論理学』における「有論」―「移行」、「本質論」―「反省」、「概念論」―「発展」という、つまり「移行の論理」―「反省の論理」―「発展の論理」という区別はあるとしてもその原点には「矛盾」(または否定)があり、それが不断に「止揚」されながら進む。そしてこの過程は同時に抽象的な普遍性から「個別=普遍」というヘーゲル的な意味での「個別と普通の対立」が止揚された状態ヘ進むのである(これは逆に個別―特殊―普遍という論理過程でもあるが―)。問題はこの「矛盾」のあり方および「止揚」の構造である。結論的にいえばヘーゲルの「矛盾」は「自己矛盾」であり、そして「止揚」は「意識」次元における対象化なのである。ヘーゲルの「自由」または「無限」の概念は結局「向自化」または意識における「対象化」で終っている。これは「論理学」全体の結論の中に鋭く出てくる。  
つまり、「有論」―「本質論」の中味は概念論の中に包まれつつ「止揚」される訳であるが、それは実は「有論」―「本質論」次元のものをふくみつつ、その総体を越えた論理を概念論で展開するという形になる。この場合例えば「有論」の中味は「本質論」では「仮象」ということになる。ヘーゲルの論理学の中では「仮象の論理」は現実にはのこされたまま「その上に」本質論概念論が展開されることになる(有は当然のこる)。  
例えば共同体と共同体との間に生まれた商品が生産過程をつかみ、労働力自体が商品化し、社会的生産が「商品」の論理をもって貫かれるようになる。つまり資本が生まれる。それは生産過程、消費過程全体を貫いていき、商品が生まれる前提となっている分業が、分業=競争の論理として展開される。これを通して最後は資本それ自体が商品化する。これをもって資本の論理は完成する。こうして生まれている資本は個別=普遍として、個別(資本)でありながら同時に資本主義全体の論理を体現するものとして存在する。しかもこの個別(資本)の中には資本それ自体が産出されてくる過程が現在的に再生産される。つまり不断にプロレタリアートの産出およびプロレタリアートの資本の下への隷属が日々存在し強められている。  
つまり出発点における矛盾は現実的に存在しなくなったのではなくて「仮象」とされつつ現実的には存在しているのだ。出発点に存在する普遍と個別の「矛盾」は「普遍=個別」という形で止揚されたようにみえて実は厳然として存在しつづける。ヘーゲルの弁証法における「矛盾」と「止揚」の論理はまさにこうしたものなのである。これは「自己矛盾」を原点とした「疎外」の論理に外ならない。ヘーゲルはそれを意識の弁証法として展開した。もちろんヘーゲルの弁証法はたんに疎外された意識の論理のみに通用するばかりではなく、疎外された現実の論理としても通用する。マルクスは自らの弁証法(科学)をもってヘーゲル弁証法を突破しつつその現実の疎外の構造を『資本論』として展開した。「疎外の論理」または「疎外の弁証法」は次の点において成立する。つまりその弁証法を展開する存在の矛盾を根底からささえている「本質的矛盾」をつかみきれないことによる。しかもその場合の矛盾は「自己矛盾」としてのみ存在し、止揚はその出発点における存在のあり方それ自体が変革されず、それを「仮象」として残したままの「対象化」として「止揚」が行なわれる。これはまさに「疎外」なのである。  
ヘーゲルにおいては弁証法を展開する主体(存在)は絶対精神(意識)である。これは『精神現象学』の中で明確にのべられている。つまりヘーゲルの「矛盾」は<「人間と自然の矛盾」を原点とした人間と自然の関係(社会的生産)、そしてその上で成り立つ人間社会の個別(個人)と普遍(社会、共同性)の「矛盾」>という構造の内<人間と自然の矛盾>を捨象し、<社会的生産>を捨象し、その上で階級社会であるが故に成立する人間社会の矛盾、対立を「意識における自己矛盾」の中にとじ込めてしまったところに成立している。こうしてヘーゲルにおける「絶対精神」(弁証法の最後のいきついたところ)は、出発点における、あるいは過程における矛盾を残したままそれを包摂する「普遍」=「個別」(個別と普遍の矛盾の止揚としての)なのであり、それは矛盾を内包したままの「無限」であり「自由」なのである。マルクスが『ヘーゲル弁証法、及び哲学一般の批判』の中で展開したのはこの問題である(ヘーゲルにおける対象的矛盾の欠如)。  
さて、黒田寛一が出発点においたのみならず、依然としてそれに規定されている西田哲学ではこれはどうなっているのだろうか。  
西田哲学の極点は「逆対応」と「平常底」という思想に示される。これは場所的論理によって把握された宗教的境地であり、「矛盾的自己同一」の頂点である。つまり「矛盾的自己同一」の内、「矛盾」の面からつかまれた時「逆対応」となり、「自己同一」の面からつかまれると「平常底」となる。これはどういうことかというと、「そこからそこヘ」という無基底な「そこ」が一毫もはなれることができない「全自己の立場」であり、この「そこからそこヘ」は<矛盾であって矛盾でない>という立場に外ならない。仏教の思想を根底にしたものでまさに宗教的境地であるが、要するに<矛盾が矛盾であって矛盾でない>というのは現実的矛盾が存在することを前提としつつも、それを溶かし込み、<矛盾でない>とする立場がその中に定立できるということなのであり、その点でヘーゲルと同質なものをもっている。これは観念論に共通している。西田哲学とヘーゲル哲学の相違は、ヘーゲルの「個別」は「普遍」と対立する形で存在するが、西田哲学においては個別の中に普遍が「映し出される」という形の旧い共同体的中味(個と普遍の溶け合った世界)が濃厚である。  
2 マルクスの弁証法の基本構造  
マルクスの弁証法はヘーゲル弁証法を徹底的に学びつつも、それをこえた地平に成立している。その理由はマルクスの弁証法が成立する地平が、すでにみてきたように、この社会の本質的矛盾を体現する地平―プロレタリア階級および階級闘争―に成立しているからに外ならない。マルクスにとってシュレージェンのプロレタリア蜂起のもつ意味の決定的重要性はここにある。  
それではこれが思想的に整理され確立されていくのはどこにおいてなのか? それは『経・哲草稿』に外ならない。『経・哲草稿』においてマルクスは人間社会にあらわれる矛盾の根底に「人間と自然」の矛盾をおき、そしてその関係を「社会的生産」として定立した。しかもその人間の社会的生産のあり方をめぐって「分業」=「私的所有」を整理し、この全構造の中にフォイエルバッハの「ヘーゲル批判」を止揚していったのである。  
ヘーゲル弁証法に対してはいくつかの歴史的な批判がある。キェルキェゴールの批判(実存的批判―市民的自我よりの批判)、フォイエルバッハ的批判等々。マルクスはフォイエルバッハのヘーゲル批判をひきつぎつつ発展させていった。フォイエルバッハの批判は次のような構造になっている。  
1 ヘーゲルの普遍性は観念的普遍であり、それは誤りで、個別的存在の総体が現実的普遍である。(現実的普遍)  
2 人間は本質的に類的存在である。(類的存在)  
3 人間は感性的存在である。この感性こそ科学の原点でもある。(感性的存在)  
4 人間は対象的存在であり、自分の本質を外に感性的対象としてもっている。(対象的存在)  
しかし、フォイエルバッハはこの人間と自然の矛盾に注目し「対象的存在」をつかみとりつつも、社会的矛盾への闘いを通してこれを行なつていなかったために、自分の「市民的立場」がそのまま「唯物論」に投影されてしまう。こうして「人間と自然の関係」それ自体が「観照的」立場になってしまう。そして人間の中味としては「愛」とか「自由」とかいう抽象論になってしまったのである。  
マルクスは「フランス社会主義」「ドイツ観念論」「イギリス経済学」をプロレタリアの叛乱という地平から再編成していったのである。それはどのような方法となっていったのか。マルクスはヘーゲルとは逆に、「人間と自然の矛盾」をフォイエルバッハの「対象的存在」という中味をうけつぎつつ厳然と定立した。ヘーゲルはむしろ先ほどみたような観念論の中で「対象」を消そうとしたのだ。しかもマルクスは、この人問と自然との矛盾、関係を安易に「自己矛盾」としてつかまなかった。たしかに物質の歴史という意味では社会は自然の発展したものに外ならない。したがってその「自然」「物質」という点からみれば、「人間と自然の矛盾」は「自然」それ自体の「自己矛盾」という地平からつかみうる。しかし、それは逆に社会的矛盾の弁証法の構造と自然弁証法の厳然たる区別性の上にたってはじめていいうるのであり、しかもそれはヘーゲル的な自己矛盾(または西田的な自己矛盾)とは根本的に異った地平でたてられねばならない。そういう意味では「人間と自然の矛盾」を自然自体の「自己矛盾」としてつかむこと自体あまり意味はない。むしろそういうつかみ方は、人間社会のしかもイデオロギー的な問題を自然の中におし込むというヘーゲル的な誤りを生み出す(その典型が黒田の『ヘーゲルとマルクス』にみられる)。  
マルクスが「宇宙論」とか「自然弁証法」をほとんど展開しなかったのは、「自然」を「自然として」つかみとることでそれは解決されることであることを知っていたからである。自然弁証法と史的唯物論の区別性の上にたった連続性がたてられねばないのだ。  
マルクスはこうして人間と自然の矛盾とその関係を「社会的生産」としてつかむことによって、フォイエルバッハの「類的存在」をイギリス経済学の成果としての「分業論」の中に生かすことができた。つまり「類的存在」のブルジョア社会におけるあり方は分業(私的所有)としてあるのである。しかもこの分業論をマルクスは蜂起していくプロレタリアの矛盾からとらえかえしていった。「疎外された労働」の概念の成立である。「人間と自然の矛盾」と「人間社会における矛盾」を明確に区別しつつ、同時にその関係を弁証法的に定立したのが、「労働者の隷属」―「労働それ自体の疎外」の把握だった。  
これは『ドイツ・イデオロギー』において「社会―歴史」の整理として叙述される。しかも重要なことは、この過程はマルクス自身の出発点(精神労働としての)それ自体の、プロレタリアの革命性による突破、止揚の整理としてもなされている点である(精神労働と肉体労働の関係の整理)。―黒田のように、それ自体の階級性を問題にできない「場所的立場」などによってゴマカシはしなかった。こうして社会的生産の弁証法―史的唯物論―が成立していく。  
だが、マルクスにとって重要なことは、現実の整理ではなく現実の止揚であった。したがって先ほどみたように社会と自然の関係および社会の矛盾をつかみとった以上、この現実を変えていく「プロレタリア革命の弁証法」が成立しなくてはならなかった。それはすでに『経・哲草稿』―『ドイツ・イデオロギー』の中で開始される。つまり<働く階級の労働の隷属の突破>―<新たなる共同体の産出>としてそれは追求される。これは革命論として『共産党宣言』から『哲学の貧困』『中央委員会の告示』『フランスにおける階級闘争』『フランスの内乱』という形で展開される。  
それは矛盾の本質を、その本質そのものを、変革するプロレタリア革命の論理であった。つまりブルジョア社会のあらゆる矛盾を「労働の隷属」という「矛盾の始元」ヘかえしながら、「始元」―「原点」における「矛盾」そのものの突破を通して、同時にブルジョア社会のあらゆる矛盾を突破していこうとするものである。こうしてヘーゲルのように出発点における問題をかえって保守的に定立しつつ「疎外」として普遍を確立するのではなく、出発点における矛盾それ自体の突破を通して全体の関係を作りかえようとするものである。またそれは、ヘーゲルのように人間と自然の矛盾(対象的関係)それ自体を消してしまうのではなく、まさに新たなる関係として再定立するものでもある(共産主義的生産活動として)。これは個別と普遍(個人と全体)の矛盾としてみていく時、まさに一人ひとりの生きた個人が現実的に普遍的存在へと発展しつつ相互に結びつく型(団結と自立)としてたてられる。  
3 反スタ・スターリニストイデオロギー(黒田観念論)の要約  
われわれは今まで非常に要約的な形ではあれ、ヘーゲル弁証法と西田哲学を通して観念論の特徴をみてきた。その上にたって黒田寛一の革マル型インチキ「弁証法」の批判の要約をしておこう。観念論の特徴は結局「矛盾」が根源的なものでなく、この社会の論理として「安定」できるものに外ならない。いいかえれば「個別」=「普遍」という「止揚」の構造が、階級社会の根本的矛盾を変革することなしに可能になるということである。  
この問題は黒田の場合次のような形で出てくる。つまり黒田の「思想」の根本は小ブル的観念論であるが、「まがりなりにも」階級闘争にかかわっている以上、現実の階級闘争の衝撃をうける。こうして黒田的本質は隠蔽されるか、または「断絶」をおこすこととなり、階級闘争にかかわる「面」は形骸化された「技術主義」として展開される。革マル派はその意味ではいま決定的な破産ヘの「曲り角」に立っている。西田哲学を下敷にしたマルクス主義の理解のもっている二つの側面、つまり近代的自我ヘの指向をもった「個人的主体性論」の側面と、それがプロレタリア的に止揚されず「矛盾的自己同一」としてその「個人」の裏側にベッタリとくっついている「旧い共同性」の側面、この二つの内前者がしりぞきながら後者が強化されつつある(スターリニスト的本質)。  
それは、プロレタリア運動が大きなところで高揚してきているのをうけて、小ブル主体性論では対応できなくなり、何らかの形の組織性を強調せざるをえなくなっているからに外ならない。このことは革マル派内部の様々な形の矛盾としてあらわれ、彼らなりに整理にとり組んでいるが、まさにそれはデタラメきわまりないものである。最近、マル学同革マル派機関誌『スパルタクス』で「組織論」の発展の整理なるものを行なっているが、それが革マル的小ブル的破産の典型を示している。  
≪梅本主体性論は小ブル的個人からプロレタリア的個人への飛躍の論理であり、即自的プロレタリアから向自的プロレタリアヘの飛躍の論理がない≫  
≪人間の本質はマルクスがいっているように社会関係の総体であるが、その上にたって人間の本質構造を主体性論という形で実践的に追求する。社会を構成する一モメントとして人間をつかみ、これを前提としながら、社会的人間の本質構造、その自覚の論理を追求するのが主体性論である。社会、あるいは共同体を構成する実体が人間であり組織を構成する実体が組織構成員だ≫  
こんなことをいって必死で「主体性論」と「組織論」の調和をはかろうとしているが、まさに気の毒なほどの言い訳である。  
そもそも革マル派の混乱は革マル的主体性論の中に一滴も組織が出てこないこと、またその逆になっていることなのだ。黒田の頭の中では西田的にこの二つは「絶対矛盾の自己同一」として「神秘的」に「統一」されているにしても、それがまた革マル派の構成員にはわからないのである。 > もちろん小ブル的個人からプロレタリア的個人への発展の論理はなくてはならない。しかし、これが可能なためにはその小ブル的個人が社会の中で一体いかなる位置をしめており、またプロレタリアはどのような位置をしめているのかということが、まさにブルジョア社会の科学的解明として整理されていなくてはならない。そして帝国主義と闘うブロレタリアの革命的エネルギーの質がまさにブルジョア社会をこえていくものとして鮮明にされており、その力が小ブル的個人の「主体性」や「反権力闘争」をいかに止揚していくのかが路線として明確化されねばならない。これは「即自的ブロレタリアの向自的プロレタリアへの発展」 の場合でも同じである。ところがこんなものは全くないのである。まさに革マル的混乱は百万回の言い訳をしても隠蔽できない。言葉として「組織と人間」とか「主体性」とか「組織性」とかいっても、その中味が資本主義社会の解明を通してなされていないので、まさに「言葉」のみで終っているのである。こうして本質なき形態論と小ブル主体性論ヘの回帰とは不断に出てくるのである。  
こうした上にたって観念論的特色、つまり一方で「矛盾」―「闘争」をみとめつつ、結局は体制内的なものを固定化するという構造は「技術主義的運動」と「階級性革命性なき組織の固定化」として現出する。そしてこれをつなぐものが「他党派解体」の宗派闘争(のりこえ)である。これが別の形でハッキリしているのが「技術論」である。  
黒田は、武谷三男の技術の規定、つまり「技術とは生産的実践における客観的法則性の意識的適用である」を主体性論の中に組み込もうとする。ここではこれ以上ふれないが、武谷三男の技術論自体が自分の前提としている「生産的実践」のつかみ方が明確になっていない。黒田的な哲学の中にこれをとり込む時、これはさらに倍加されてその欠陥を暴露する。  
生産的実践、生産活動とはマルクスがつかみとったように<人間と自然の矛盾>―<人間の共同性>―<認識>―<自然への働きかけ>―<自然の変化―人間化>―<人間の共同性の変化、発展>これらの要素をもつている。つまり「対象からの制約」―「対象認識」―「制約された主体の活動」―「対象の変革」―「主体の発展」が一つのものとして存在する。しかも「主体を制約する対象」と「活動を通しての主体の発展」 は不可分のものである。それはマルクスが『経・哲草稿』の中で人間の本質を「対象的存在」としてつかみとり、<自らを制約してくる対象ヘの働きかけを通して主体が変化してくること>および<人間は自らの本質を自らの外部に対象としてもつこと>を明確にしたことによっても明らかである。  
ところが黒田にとっては生産的実践の史的唯物論的把握自体が、自分で勝手に作った「主体性原理」なるものをもった「物質」の「自覚」運動としてしかつかみきれていない。だから『社会観の探究』や『ヘーゲルとマルクス』の中で生産についての把握らしきものを行なうにしても、「人間と自然の矛盾」それ自体が観念的な「主体性原理」の次元からしかつかまれていないため、「自然からの制約」をこえて「生産活動」を行なうことが、現実的に人間の社会関係をいかに変化させていくのかが―階級関係をふくめて―全く不明である。  
こうしたことはこの「技術論」なるものが「階級闘争」に利用される時もっともハッキリ出てくる。すでにみてきたようにプロレタリアートを制約している本質(普遍的制約者)が「反帝・反スタ」戦略の中で完全に誤っており、プロレタリアが何であり、根本的に何に制約されているかが不明である以上、それへの活動(闘争)を通して主体がいかに変化、発展するのか(現実的存在として)が全く出てこない。これは逆にいえば、階級性、革命性が現実的なものとしてつかまれていない結果である。階級性、革命性が観念的な小ブル的自覚の次元に切りつめられていて、「客観的法則性」(革マル的な)を「意識的に通用する」以上、それは全くの「技術主義」になるのはあたりまえである。(階級性、革命性なき組織戦術をみよ!)  
こうして、この「技術論」なるものは「技術主義的」な運動へのかかわり―現実の闘争、矛盾にふれる側面―と、体制内的な「主体の固定化」―小ブルイデオロギーを背後にもつた階級性、革命性なき組織―を革マル的に保存していく一つの柱となっている。
(2)ソヴィエト運動とプロレタリア革命党  
プロレタリア階級の死闘の中で、マルクスはその闘争の勝利を目指して理論的整理を行なっていった。それは、ソヴィエト運動と革命的プロレタリア党建設、そしてプロレタリア革命への道の明確化であった。  
それは現実にはどのような形となるのか?  
われわれに可能なことは歴史的なプロレタリア革命運動の総括、さらに日本階級闘争の総括にたってプロレタリア革命運動の路線を整理することである。しかも、それはマルクスがプロレタリア革命―共産主義革命を階級社会の根本的止揚としても整理したその展開としてである。その内容展開はこの小論の目的ではない。それは『解放』紙誌で行なわれている。したがってここでは要点のみにとどめよう。  
1 プロレタリア革命運動の「原点」(または「始元」)およびその展開  
マルクスがプロレタリアの蜂起の中味を路線化していった構造はすでにみてきたが、それは社会の基底における、「工場」=「職場」における労働者の隷属(疎外された労働)への闘いを階級闘争の「始元」、「原点」におくということに外ならない。『資本論』の中でマルクスは次のようなことをいっている。つまり働く階級が隷属しまた搾取されているということは階級社会共通の問題である。しかし、その隷属のあり方が社会の差異を決めるとした(例えば「古代奴隷制」「封建的農奴社会」「資本主義社会」)。このことは、労働の隷属の構造が消費生活をふくんだ共同体(社会)のあり方を決定するということなのである。これを革命論的にとらえかえせば、「工場における闘争」=「反合闘争」を原点としつつ、同時にあらゆるプロレタリア人民の社会的隷属ヘの闘争を闘いぬき、その発展として政治権力への闘争が闘われるということに外ならない。  
これはもう一歩深くはいってみれば次のようになるだろう。つまり工場における反合闘争とは、生産過程における労働者の隷属ヘの闘争であり、さらにそれは「人間と自然の矛盾」における人間の自然ヘの働きかけとしての「生産活動」のあり方それ自体をめぐる闘争である。そしてこの根源的な矛盾をめぐる闘争を原点としつつ、同時にあらゆる共同体的あり方の革命的再編の闘いが成立していく。それは直接的なあらわれ方としては、一方の闘いが他方の闘いを生み出し発展させるという相互作用となるが、それを内容上規定すれば次のようになるだろう。  
単純肉体労働に切りつめられながら、生産物から疎外され、活動において疎外され、類から、したがつて人間から疎外されているプロレタリアートは、このブルジョア社会に根底的に対立する存在である。自らの存在そのものを突破せんとする人間的欲求は、このブルジョア社会のあり方に矛盾するものなのである。したがってその闘争はこの社会に全面的に対立するものとして成熟せざるをえない。それは直接的生産過程そのものに根をもっている。しかし、人間の本質とは社会関係の総体であり、この直接的生産過程における労働者のあり方への闘争は、消費生活をふくんだあらゆる共同体的なあり方(社会関係の総体)への闘争として展開されなければ、人間的にまたは共同体的に実現できない。一方、消費生活をめぐる闘争、あるいは差別をめぐる闘争は社会生活、共同体的な問題として闘われていくが、それがその目的を実現するためには階級的、革命的なものとしてしか不可能なのであり、一つひとつの問題をめぐる階級性、革命性は生産過程における闘争と結びついてはじめてその内容を実現できる。この闘争は、一つひとつ「当面の要求」―「階級的要求」という形で発展しつつ、政治権力打倒闘争として爆発させられねばならぬ。  
プロレタリア革命運動とは、現在的に矛盾の根源への闘争を<展開>していくこと―ソヴィエト運動の展開―に外ならない。これは別の表現をとれば、あらゆる共同闘争を推進しつつ、その闘いをソヴィエト運動ヘ再編していくことが現下の革命運動に外ならない。それは革マル的に「組織作り」にすりかえられてはならず、現在的なソヴィエト運動がプロレタリア統一戦線の闘いとして展開されていることを前提とする。  
こういう闘争が、「一定の主客の条件の中で」権力奪取の闘いヘと転化していくのである。  
2 プロレタリア党「建設」の闘い  
ソヴィエト運動は自然成長的にも存在するのであり、この目的意識的強化発展が目指されねばならない。革命的プロレタリア党建設の闘い、さらには革命的プロレタリア党の闘いはここをめぐって存在する。プロレタリア統一戦線の闘いが現存する様々な歪曲をうけている既成の運動の中から、その再編として推進されねばならない。つまり既成の闘いの中に自然成長的にふくまれているソヴィエト運動の中味を、目的意識的に結びつけつつ発展させることに外ならない。そしてこの闘いは、政治組織次元では既成の運動を推進している既成の「労働者党」の中からの分派闘争として表現されていく。それが革命的プロレタリア党建設の闘いとなる。  
ブルジョア社会に生きている人民は資本制生産様式の中での分業にとらわれている以上、自然発生的な反帝闘争は不断に「対立」「一面化」にはいっていく。こうして、闘いを発展させていくためにこそ「分断と競争」をこえていく力をもった「ソヴィエト運動」が不可欠のものとなる。つまり、ソヴィエト運動は自然成長的な諸闘争の「限界」をこえるものとして成立する。そして、それが階級的、革命的に権力打倒闘争にまで発展するためには、諸闘争、諸組織のブルジョア的、小ブルジョア的限界を階級的革命的、にしていく力をもつた組織が不可欠である。その意味では革命的プロレタリア党は自然成長的なプロレタリア人民の闘いの限界を階級的共同利害によって突破するところに成立する。それは「階級的要求」によって結ばれており、またそれによってソヴィエト運動を目的意識的に推進する「階級として行動する組織」である。またそうだからこそ、その組織のあり方はプロレタリア的原則(団結およびそれを通した自立)に貫かれたものでなくてはならない。それは単にイデオロギー的なものではなく、プロレタリアートの存在からして、つまり分業の中における単純肉体労働の苦しみの中から、全面的に発達した人間ヘの欲求を闘いを通して実現していくものとしてあるからに外ならない。しかも、それは敵に対抗する団結を通して問題を一般化させ、それを条件として諸個人が発展する形で実現されるのである。階級的政治組織は闘いの断固たる推進力となりつつ階級的要求に結ばれた「団結と自立」を体現したものとしてのみ成立する。したがって、反帝国主義の現実的な革命運動(権力闘争の質を現在的に内包した)の中でのみ党は生まれていくのである。  
3 プロレタリア革命運動と党派闘争  
こうしたプロレタリア革命運動は小ブルジョア諸党派との党派闘争を不可避なものとしてふくまざるをえない。むしろそれに敗北することは、結局革命運動における敗北となる。  
すでにみてきたように、現下におけるプロレタリア革命運動(ソヴィエト運動)は、社共に指導され小ブル的に歪曲されたプロレタリア人民の闘争の階級的、革命的再編としてのみ実現される。つまり、現存する諸運動の外に「純粋な」革命運動を直接定立することなど空想である。それは<プロレタリア統一戦線の闘い><闘う共同戦線>を断固としてつき出しつつ、同時に社共―総評次元における内在的闘争の断固たる推進という形で実現される。  
現下における革命運動がこうしたものである以上、こうした闘いを推進せんとする部分は不可避的に既成政党の中からの革命的分派闘争を推進することとなる。また、すでにこの分派闘争も「分裂期」(その期間の長短はあるにしても)にはいっている以上、「党派闘争」という性格を帯びてくる。この党派闘争は、こうしてプロレタリア階級の階級的成熟にとって絶対不可欠なものなのである。なぜならば、この政治的中核が破壊されるならばソヴィエト運動は中途で挫折せしめられるのだから。  
この問題は単に社共のみではない。社共を批判してあたかも自らが新たなる革命的プロレタリア党であるかのごとくあらわれる小ブル宗派との闘争が、ある面でさらに鋭く闘われねばならぬ。なぜならば、社共をこえて決起するプロレタリアートに、より深い絶望を与えるためにのみこれらの諸宗派はあるからだ。ましてや、革マル派のように他党派解体の闘いを自らの革命運動としている疎外されきった宗派との闘争は、まさにプロレタリア革命運動の一環として闘いぬかれねばならない。これは現下に決起しつつあるプロレタリア人民にとっては、革命運動の推進およびその中核たる革命的プロレタリア党建設にとって総力でやりぬかねばならぬものである。  
70年代中期にはいり、すでにブント諸派は決定的混迷にはいり、構改諸派も同様な構造の中にある。一方、革マル派と中核派の宗派闘争はプロレタリア革命運動に全く無縁な地平で「激化」している。すでにみてきたように革マル派は革命運動と「断絶」してこの闘いを行なうという。  
議会制ブルジョア独裁の崩壊の「危機」が迫りくる中で、諸階級、諸階層は「権力」問題をめぐつて激烈な対抗の中にはいっている。この時期は逆に、既成政党の反プロレタリア性が鮮明に暴露され、プロレタリア階級の階級的独立が本格的に問題となる。だからこそ、革マル派は社共にかわる「革命的党派」という名称を獲得しようとして、自分たち以外の一切の党派を「解体」するという疎外された策動に夢中になる。だが、階級闘争はこういう反プロレタリア的党派の策動を放っておくほど甘くはない。一人の学生の虐殺を居直ろうとした革マル派に対して全早大の学生は決起し、また全日本プロレタリア人民は注目し連帯した。しかもこの革マル派の川口君の虐殺は、革マル派が自らの反プロレタリア的性格を一層深めんとする「曲り角」において起き、そのため深刻な内部の動揺が生じていった。  
革マル派が何者であるかは全日本プロレタリア人民の前に明らかとなり、このプロレタリア階級闘争への敵対物を粉砕して前進することが闘う潮流に要請されていった。革共同革マル派がまさにその「反プロレタリア的宗派路線―体制内的小ブルの自己満足運動」を全面展開せんとしたその矢先に彼らはその本質を全プロレタリア人民に知らせてしまった。  
深刻な内部の動揺とプロレタリア人民の反撃、そしてわがプロレタリア統一戦線派の鉄槌は彼らに再三くだされ彼らをおいつめている。  
たしかに「議会」をめぐってではあれ「権力問題」が射程にのぼりつつある時代にはいっている。まさにプロレタリア階級闘争の発展、革命的プロレタリア党建設が問われている。今、日本の社民、スターリニスト、反スタ―スターリニストの本質が全人民の前に全面的に暴露され、彼らの階級闘争への敵対を粉砕する闘争が激烈な対権力闘争の只中で闘われている。  
この闘いを強力に推進しつつ 「革命なき小ブルの自己満足運動」―宗派革マルの解体、止揚の闘いを現在的に強力に推進するところへきている。  
来年の参院選挙をふくんだこの1〜2年は、日本階級闘争の運命を決する重大な時期である。それは一口にいって<議会制ブルジョア独裁の崩壊の危機とプロレタリア階級の階級的独立>をめぐっている。そして革マル粉砕の闘争はこの闘争の重大な柱である。なぜならば、社民、スターリニストの反プロレタリア性が全面的に暴露される時代、これをプロレタリア人民がのりこえる時代に、同時に反スタ・スターリニスト―特に革マル―の反プロレタリア性が強められ、また全人民の前に暴露されつつあるからである。  
われわれはなすべきことをなし、プロレタリア革命へと前進するであろう。
補遺 / 革マルにおける「国家と革命」の小市民的性格  
革マルは、最近、「国家論」をめぐって、また、「ソヴィエト」をめぐって、日共や中核派を批判している。これは、彼らなりに、現在の情勢に対応して「国家と革命」の問題を射程にいれようとしていることの一つの表現だろうが、それ自体極めて体制内的、小市民的性格にみちたものに外ならない。その基本的性格は今迄の叙述によって明らかにされて来てはいるが、この点にしぼって批判を要約しておこう。  
革マル派による日共批判は次のようになっている。  
≪日共はレーニンの『国家と革命』を議会主義的に歪曲して現下におけるブルジョア議会制独裁の「議会」を通してプロレタリア革命が実現出来るかのような主張をしている。レーニンがブルジョア議会制度の破壊のためにコミューン型の、あるいは労・兵ソヴィエト共和制のためのプロレタリアの革命的独裁のために主張した中味を議会主義的に歪曲している。これは「民主主義」を超歴史化してしまっている結果である。また、国家論的には構造改革路線型の国家の二重性論にとらわれている結果である。≫  
一方、同様に『国家と革命』の問題をめぐつて中核派を批判する。中核批判はいろいろな形で行なわれているが、しかし、「革命」をめぐっては唯一この面から中核批判を展開している。  
≪中核の暴力革命論は、暴力の本質を「共同体」―「国家」から切断させた形になつてしまっている。また、国家の本質的把握に失敗しており、レーニンの国家論を暴力という側面から肥大させ、国家の暴力的機能のみから国家をみてしまっている。これはまた、共同体の問題を暴力の問題に一元化させてしまうことでもある。こうして中核派の革命論はソヴィエトの問題を完全に欠落させてしまうことになる。国家やソヴィエトの本質的把握に失敗する結果、プロレタリアートの独裁を官僚主義的に歪曲することになる。≫  
ここでは革マル派が日共や中核派をどのように批判しているかが直接の問題ではないので簡単な要約にとどめるが、ここで注目すべきことは次の点である。革マルが日共や中核批判の武器として「共同体の問題」や「ソヴィエト」をもち出して来ている点である。双方の批判の武器として革マルが使っているのは「国家の二重性論批判」「民主主義―議会主義批判」「幻想的共同性という面からの国家論」「ソヴィエト革命」等である。  
小ブル急進派批判、及び小ブル右派(議会主義者)批判において革マルが「革命論」として展開せんとしているのが「ソヴィエト」をめぐる問題だというのは、革マルの破産を示している。これは、反合理化闘争において革マルの向坂派批判が結局は自分の理論と実践からではなくわれわれを中心とするプロレタリア革命派のそれの「威を借りて」行なわざるをえず、しかも、それを革マル的に行なっているために極めてみじめな破産におち込んでいるのと同様である。日共や中核の路線が、非プロレタリア的又は反プロレタリア的であることは、マルクス主義のイロハからみても一目でわかる。ただ、自分達のそれへの批判が、プロレタリア革命派の理論と実践の上に立ってなされているのか、それとも実は同じ地平でしかないのかは大ちがいである。  
革マルの中核批判や日共批判はまさに後者の典型である。それを要約的に示しておこう。  
革マルの日共批判となっているのは構改派型の国家の二重性論批判(これは中核批判でも同様)である。これは本質的には「民主主義」や「議会制ブルジョア独裁」をめぐる問題にもかかわる。構改派の国家の二重性論というのは、国家には「抑圧的側面」と、いつの時代でも存在する「公的側面」と双方があり、その内の公的側面(超歴史的な)をプロレタリア人民が一歩一歩奪取しつつ、「抑圧的側面」をとりのぞいていくというものである。この「理論」がデタラメであるということを言いきるためには、どうしても分業論を通らねばならない。国家の「幻想的共同性」 についても同様である。ところが革マルはここに全くふれずにレーニンやマルクスの部分的引用でもってごまかしてしまう。  
国家は支配階級の利害調整と被支配階級への共同利害による抑圧という「公的」役割をもつ。しかも、これは一般的にあるのではなく、分業(私的所有)社会において双方の「公的」役割を担う精神労働者が個別的な又は特殊的な利害を担う支配者の外に定立されることによって可能となる。例えば、治水のような共同体的な仕事にしても、こうした構造に立ってのみ可能なのだ。「抑圧的側面ではない超歴史的な公的役割」のようにみえる仕事自体が、実は分業(私的所有)社会=階級社会の今みた構造によってのみ可能なのだ。つまり、分業(私的所有)の社会では「共同体的な仕事」は今みた構造からいって支配階級の共同利害としてのみ貫徹されるのだ。そしてこの中味が被支配階級に対する敵対として目的意識的に定立されるのが「抑圧的側面」に外ならない。超歴史的な「公的役割」など存在しはしないのだ。だがこのことを言いきれるためには階級社会を分業社会としてつかみとっていくこと、従ってプロレタリア革命運動を闘いを通して分業を粉砕していく新たなる人間的共同性の産出の闘いとしてつかみとっていくことが必要である。これがソヴィエト運動論なのだ。  
国家が幻想的共同性としての性格をもつのは、この私的所有(分業)の中に被支配階級(ブルジョア社会ではブロレタリアート)をふくみ、それを支配し搾取しつつ、その上に先ほどみた「支配階級の共同性」が成立しているからに外ならない。こうしてプロレタリアートにとっては、国家はまさに「幻想的共同性」に外ならない。こういう構造だからこそプロレタリア人民の闘いに対して支配階級の共同の利害を守るために暴力装置の発動にはいるのである。しかもこの「国家」が個々のブルジョアジーや小ブルジョアジーの日常的な「物質的利害」を超える観念的共同性として実体化されているのは、ブルジョアジーや小ブルジョアジーは現実的には決して共同の利害を形成して結びつきえず、「万人の万人への闘い」の中に生きている(分業と競争の中にたたき込まれている)からに外ならない(国家を媒介にしてしか結びつけない)。 > ところが革マル派の理論体系の中ではこの分業論が完全に抹殺されてしまっているので、構政派の国家論がおかしいといっているだけで、何故そうなのかについて科学的に証明しえていない。これは工場内分業をめぐって、分業論を欠落しているために合理化の本質が全くつかめないのと同様である。だからそもそも何故プロレタリア独裁がソヴィエト独裁としてしか成立しないのかは全く不明になる。ソヴィエト型国家(コミューン型国家)の必然性が、革マル派が強調している「プロレタリアートの運動」から少しも導き出されないことになる。こうして、またしても「ソヴィエト」は念仏となる。  
日共の議会主義や中核の小ブル型の非プロレタリア革命路線を批判し、粉砕していくためにはどうしても「ソヴィエト運動」路線を不可欠とする。こうして、これにとびついてみたものの、またしても「言葉」「用語」のみとなり、現実的な闘いや、理論としては空虚なままである。もし、本格的にこれを問題にしようと思えば「労働運動における木工企業別型運動」「差別と闘わずそれを拡大する運動」「大衆運動と革命運動の切断」「地区を消した悪しき産別主義」等の路線は不可能となり、革マルは組織解散するしかなくなるのである。  
更につけ加えておけば、革マル「スターリニズム論」には共同体の史的解明が全く欠落してしまっている。だから「スターリニズムとは一国社会主義イデオロギーである」ということ以外なにも言えない。そもそも「一国社会主義イデオロギー」は、何故、どのような階級によって生み出されるのかが全く不明なのだ。スターリニズムの解明は「アジア的生産様式」の解明をぬきにしては不可能なのだ。その意味では革マルには分業論と共同体論が全く欠落している。そもそもこういう党派が国家や革命の問題をマルクス主義的に展開出来る訳はないのだ。 (1973年)  
 
「60年安保闘争50周年集会」の記録 (2010/5-6)
 
  マルクス主義同志会

 

実行委員会アピール(1)  
60年安保闘争から50周年になります。  
我々がこの集会で「笑い飛ばせ、ブントと新左翼」と訴えるのは偶然ではありません。すでに、60年安保闘争から半世紀を経過しましたが、ブントのプチブル急進主義の破綻は安保闘争の中で完全に暴露されており、今更深刻ぶってブントの闘いを総括するまでもなく、むしろ我々にとってはすでに“笑い飛ばす”対象でしかありません。  
なるほど、ブントと60年安保闘争は、戦前戦後数十年にわたって労働者の闘いを指導してきた革新社共の偽りの仮面をはぎ取りました。こうした歴史的な意義を我々は現在も断固として承認するものです。  
しかし、この闘いを領導したブント指導部は、書記長の島成郎や全学連委員長であった唐牛健太郎に代表されるように思想的にも政治的にも未熟というよりいい加減で無責任でした。彼ら大多数の幹部(島、唐牛、生田浩二、青木昌彦など)は、安保闘争が終わると闘いから召還してブルジョア社会の現実に“適応”して行きました。運動を続けた者も一方で、プチブル急進主義を拡大再生産して開き直る連中(再建ブントにつながる連中)や、他方で表面だけそれを否定しながら、革共同に乗り移っていった連中(清水丈夫、北小路敏など)を生み出しました。  
60年の5月、6月に何万、何十万の安保反対のデモ隊が国会に向かう中で、豊かな可能性を秘めた大学生の樺美智子の命が奪われました。ブントの幹部達は、社共は労働者大衆を裏切ったと叫び散らしましたが(それは真実でした)、彼らの指導も運動を急進化させるに夢中でした。警察権力が“威信”をかけて国会を防御する中でデモ隊に素手で国会に突入を命じるのも無責任なことでした。  
そしてブントから生まれた新左翼の闘いは、その表面的な戦闘性とは裏腹に急速に頽廃と腐敗を深め、内ゲバ・テロルに浮かれ、さらには連合赤軍事件に突き進んだのです。プチブル的な急進主義は、最終的に破綻し、社会的な影響力を失っていきました。  
こうした中で、ブントの急進主義を乗り越え、新しい労働者政党を目ざす闘いが開始されました。安保闘争の総括の中で「共産主義の旗」派に結集した人々を中心に全国社研(マル労同・社労党)が結成され、国政選挙にも十回ほど参加するなど粘り強い闘いがくり広げられました。  
60年安保闘争から半世紀、労働者にとって単なる郷愁やセンチメンタルな回想は意味のないことです。必要なのは未来に向けた労働者の闘いであり、ブントが掲げた社共に代わる新しい労働者の闘いと政治をつくり出していくことです。歴史的にも完全に破綻したブントや新左翼の急進主義を“笑い飛ばし”、新たな労働者の政治をつくり出し発展させるという我々の任務を断固として貫徹しなくてはなりません。  
ブントが掲げた社共に代わる新しい労働者の政治という叫びは、現在においても色あせるどころか一層の緊急性をもって私たちに突きつけられています(二“大愚”政党のお粗末や共産党のさらなるブルジョア的堕落をみよ!)  
同時に我々は闘いの中で死んだ樺美智子、さらには昨年亡くなった池尾正勇哉(72年の参議院選挙で、全国区から立候補した江波進一)を追悼したいと思います。また今年は大逆事件100周年です。幸徳秋水をはじめ多くの先人、革命家達もまた我々が追悼し、その偉大な闘いや人生を讃えるべきです。60年安保闘争50周年集会に、是非ご参加下さい。 
集会結集呼びかけ  
来たる6月12日(土)、《60年安保闘争50周年集会――「笑い飛ばせ、ブントと新左翼」、樺美智子・池尾正勇哉追悼》を開催します。集会実行委員会の「呼びかけ文」は別掲の通りです。労働者、読者の皆さんの圧倒的な結集を呼びかけます!  
今年は、60年安保闘争の50周年である。  
我々の闘いの出発点でもあるが、しかし我々はまさに、この闘いとブント(共産主義者同盟)を止揚した時点から、我々の闘いを開始したのである。  
この闘いを指導したブントは、58年12月に結成され、社共の政治を徹底的に批判し、新しい労働者の闘いと政治を呼びかけた。  
こうした呼びかけは、確かに労働者にとって緊要な課題ではあったが、しかし、ブントはただ口先だけでそれを謳ったにすぎず、それ故にたちまち破産して行った。  
我々は、60年安保闘争とブントの崩壊の中で、こうした課題を実現すべく闘いを開始した。全国社研―マル労同―社労党―マルクス主義同志会として、既成左翼である社共に反対するとともに、新左翼の不毛な急進主義とも一線を画し、新たな労働者の階級的政治を一貫して、「ただ一筋に」追求してきた。  
我々は、ブルジョア民主主義の体制の下、議会に進出し、徹底的な政治闘争を貫徹する意義を確認し、十回以上も国政・地方選挙に参加し、果敢に挑戦してきたが、決定的な成果を上げことなく後退を余儀なくされ、二十一世紀に入るとともに、再び“同志会的な”闘いに戻らざるを得なかった。議会制選挙に参加することが、供託金制度(確認団体として参加するには何千万円が必要)がさらに負担の重いものに変えられたり、小選挙区制度が導入されたり、選挙制度の非民主的な改悪が行われたりしたために、余りに「高くつ」いたり、意義が薄れたりして来たから、そして闘いの継続が困難になって来たからである。  
しかし資本主義の矛盾が激化し、小選挙区制や二“大愚”政党制の破綻が暴露され、労働者の政治的な進出だけが、現在の政治的な閉塞状態を突破していく鍵であることがますます明らかになっている。  
五十年前の日本は、所得倍増政策を掲げる池田内閣が登場し、資本の蓄積が急速に進み、資本主義が上昇して行った時代、まがりなりにも経済的な繁栄を謳歌し得た時代であり、労働者もその幻想にからめとられがちであった。  
しかし現在の日本資本主義はすでに巨大な生産力をもてあまし、過剰生産と金融不安、そして世界的な恐慌におびえる日々である。国家財政は国民総生産の二倍近い借金を抱えて破産したも同様であり、今年度予算は借金が税収をついに上回るまでに悪化した。資本主義はその矛盾と頽廃、腐朽性と寄生性を露呈するばかりである。貧富の格差はいよいよ拡大し、労働者の三分の一は非正規のワーキングプアである。深刻な雇用不安が続き、新卒でも就職できない若者も珍しくない。  
労働者大衆の地位はますます不安定になり、資本の激しい搾取と支配の下に呻吟しているのであり、階級矛盾は深化し、新たな激動の兆しは至る所に見出される。  
そして、日本資本主義の危機が深まる中で、政治は小選挙区制のもと、二“大愚”政党制に堕し、政党政治は行き詰まり、“閉塞状況”に陥っている。こうした状況は、二大政党制の崩壊から軍部ファシズムの進出・支配を許していった戦前の一時代すら想起させる。  
昨年鳩山民主党政権が誕生し、“国民生活が第一”、“コンクリートから人へ”のスローガンが掲げられたが、しかしそれが実際にやってきたことは、これまでの自公の政治そのまま、あるいはそれ以下の、まさに悪政そのものであった。金権腐敗、バラマキ、借金漬け財政、基地問題をはじめとする安保外交、農業政策等々どれを取ってもまともなものはなく、ただ選挙目当ての、国民総買収の卑しい政治が横行するだけである。誕生わずか八ヶ月で、鳩山政権は破綻し、国民全体から見捨てられ手しまった。  
もちろん、共産党にせよ、社民党にせよ、せいぜい鳩山政権の情けない付随物、付録としてしか存在していないし、機能してもいない。これらの政党も、急速にその無力さと反動性をさらけ出しつつある。  
特徴的なことは、鳩山政権の支持率が二〇%そこそこに低落しているにもかかわらず、自民党の支持率が伸びていないことである。国民大衆は、民主党に愛想をつかしながらも、自民党政治への復帰はなおさらごめんだというのである。議会政治全体への不信が広がり、深化しつつある。  
九〇年代に「政治改革」と称して小選挙区制が導入され、二大政党制が喧伝されてきたが、その実態は二“大愚”政党制でしかなく、労働者国民に困難や災厄ばかりを強要するものと化している。二“大愚”政党は一刻も早くゴミ箱へ捨て去るべきであり、捨て去らなければならない。  
そんな中で、石原に続いて橋下などを先頭にして、反動的、デマゴギー的な地方政治家が輩出し、また「たちあがれ日本」をはじめとする国家主義的・民族主義的な、珍奇なゴミくず新党が乱立し、二“大愚”政党への不満と不信につけ込もうと策動を開始している。自衛隊制服組が鳩山政権を公然と批判したり、「在特会」のような“草の根右翼”もうごめき出している。  
すべての心ある労働者、青年、活動家が何らなすすべを知らず、拱手傍観し、安閑としていい状況では少しもない。  
今こそ、社共に代わる新しい労働者の闘いを、政治的進出を勝ち取るときである。共産党のえせ“革新主義”、“共産主義”はもちろん、ブントや“新左翼”の空虚なプチブル急進主義など吹き飛ばし、笑い飛ばして、新たな闘いに向けて前進すべきときである。  
断固として階級的、革命的な労働者の政党を組織し、結集せよ! 
実行委員会アピール(2)  
50周年というこの歴史の節目を迎えていますが、左翼系グループにおいてはほとんどまともな集会の企画も見あたりません。我々の集会の意義はますます大きいといえます。  
我々が「笑い飛ばせ、60年ブント」というのは、ブントと60年安保闘争の歴史的な意義――社共に代わる新たな労働者の闘いの必要性を訴えた――を承認した上での訴えです。ただ、ブントはそれを口先で唱えたにとどまり、その運動は全体としてみればプチブル急進主義を超えることは出来ませんでした。そしてその無力さは、その後のブント崩壊や新左翼の経験が十分に明らかにしているのであって、半世紀もたって今更深刻ぶって総括する必要もない、ただ笑い飛ばして労働者の新たな闘いを前進させるのみだという、我々の新たな決意の表明でもあるのです。それはまた、社共の右翼日和見主義は勿論新左翼の急進主義にも反対し、労働者の階級的な闘いを前進させよう、という集会の意義を象徴するものです。  
そして60年ブントが掲げた課題は、現在ますます緊要のものとなっています。  
鳩山政権は、普天間の基地移設問題を5月末までに結論を出すと約束してきましたが、出てきた政府方針は労働者国民を愚弄するものでした。「最低でも県外」という約束は完全に反古にされ、移設先は沖縄県内の辺野古周辺というものでした。自民党政権と基本的に何も変わらないものが、9カ月もの“大騒ぎ”の末たどり着いた結論だというのです。  
普天間問題一つとってみても、鳩山民主党政権は自民党政権と同じ、或いはもっと悪い政権にすぎないことが暴露されました。まさに二大政党ならぬ二“大愚”政党による政治支配であり、ちまたには、もうこんな政治はたくさんだという怒りの声が満ちています。  
私たちは、いたずらに過去を感傷的に振り返るのではなく、社共に代わる新しい闘い、労働者の政治的進出が必要であり、政党政治の腐敗・頽廃が深化するなか、断固として労働者の政治的進出をかちとって行かなければなりません。  
今回の集会のプログラムは別掲の通りです。記念講演の林紘義氏は60年安保闘争の時、大学4年生の若きブントの活動家であり、ブント分裂時には「共産主義の旗」派に所属し、その後全国社研を組織した中心メンバーの一人です。  
挨拶の鈴木半一氏は60年安保闘争を早大生として闘い、小島保雄氏は70年安保闘争に参加、その後、明治大学の二部学生自治会(学苑会)の執行委員長として大学闘争を闘いました。また、5月末に『樺美智子 聖少女伝説』(文芸春秋社)を出版した江刺昭子氏も挨拶してくれることになりました。池尾正勇哉追悼の鈴木研一氏は、池尾氏と同じ信州大学文理学部で自治会委員長として活躍しました。  
実行委員会としても、新たな案内書をつくるなど、取り組みをさらに強化していく決意です。読者の皆さんも集会の意義を確認され、周りの人にも参加を呼びかけて下さい。  
労働者、読者の皆さんの圧倒的な結集を呼びかけます。 
ブント批判  
鳩山政権は基地問題でも右往左往したあげくに、自民党と同じ立場に逆戻りし、「政権交代そのものに意義がある、とにかく政権交代を」と呼び掛けた、昨年の総選挙が全くの茶番であり、民主党は単に国民を瞞着し、たらし込んで政権を手にしたにすぎないことが完璧に明らかになってしまった。政権担当の能力も資格もない民主党と鳩山政権はただちに退陣し、自民党とともに消えてなくなるべきであろう。民主党が基地問題で右往左往するしかないのは、変化し、流動していく現実の世界の動きも、日米安保同盟関係やその客観的な条件や背景の変化についても、どんな明確で賢明な観念も持ち合わせていないからである。六〇年安保闘争五十周年を迎え、我々はかつて激しく争われた「安保闘争」とは何だったのか、そこで持ち出された安保条約や日米同盟についての評価や観念は、歴史的、現実的に正当であったのかどうかを、ブントや共産党の当時の見地を検討しつつ明らかにしなくてはならないし、すべきであろう。このことはブントとは、安保闘争とは何であったのかという問題と深くかかわっている。  
安保改定「阻止」のスローガン  
ブントのスローガンは「安保反対」でも「安保破棄」でもなく、「安保改定阻止」であった。そしてまた、それと結び付いて、「岸内閣打倒」も押し出された。  
新安保条約は、五一年に結ばれた最初の安保条約と比べて、より「双務的な」ものであり、だからこそ、岸はこの改定を実現することで、国民の民族主義的意識をあおり、また満足させて政権の強化、安定を計り、それをテコに憲法改定など、彼らの国家主義的な路線を一挙に推し進めようと策動したのであった。  
ブントは、だから「安保改定」が行われたら、岸の“長期安定”政権となり、反動化が一挙に進みかねないと評価し、結論したのであり、岸の野望を粉砕するには、「安保改定阻止」こそが必要であり、それこそがキイポイントである、と主張したのであった。  
ブントと学生の街頭闘争に“主導された”安保反対闘争は、一九五九年十一月の国会構内占拠闘争から六〇年六月にかけて“空前の”規模で盛り上がり、「安保改定阻止」は空文句に終わったものの、ついに岸を退陣に追い込み、反動派は一時的に後退を余儀なくされたのであった。  
ブントは「安保改定を阻止」することができず、みじめに“敗北”したと言われたが、他方、方便として「安保改定阻止」を掲げたのであって、本当の、あるいは第一義的な目的は岸内閣打倒だったのだ、だからブントは結局敗北したのではなく勝利したのであり、歴史的に決定的に重要な役割を果たしたのだ、と総括する向きもないこともない。  
しかし「安保改定阻止」はブントの戦略的課題であって、ブントは、そこから(つまり、政府の決定的な基本政策の「阻止」や「粉砕」から)政府危機や国家危機を展望し、そこに「革命」の可能性を見ていたのであった、といっても、こうしたことはただ漠然と想定され、期待されていたにすぎなかったのだが。  
実際には、六〇年安保闘争は「安保改定阻止」さえ結果せず――「安保破棄」は言うまでもなく――、「平和と民主主義擁護のための」闘争に帰着したのであって、岸政権は安保条約のためというより、民主主義をないがしろにし、否定したが故に袋叩きにあい、「打倒された」のである。かくして、安保闘争を「民主主義のための」偉大な闘争として評価し、民主主義の「防衛」のために大きな意義と役割を有したと総括することは、一般的で、通俗的な見解にさえなっている。  
安保闘争も、基本的に、「平和のための」闘争として位置づけられ、日本の「帝国主義的自立」――つまり帝国主義化する日本のブルジョアジー――に対する闘いとしてはほとんど評価もされておらず、また位置づけられてもいない。  
他方、安保反対(破棄)は、共産党のスローガンであり、要求であった。彼らは、この課題を、「日本の真の独立」という、彼らの戦略的、綱領的立場から位置づけたのであった、つまり安保条約を破棄して、アメリカから「真の独立」を勝ち取ろうと、呼び掛けたのであった。  
共産党の立場は軽薄な平和主義とも結びついていた、つまり安保条約を破棄するなら、日本は「アメリカの戦争に巻き込まれる」ことがなく、かくして平和な日本が可能になる、といった俗見である。  
またブルジョア的立場、国家主義の立場から、安保反対を主張した連中もいなかったわけではない、つまり“自主防衛論”の連中であったが(彼らは共産党と同様に、「日本の真の独立」を願う連中でもあった)、これはしかしブルジョアジー全体の意思としては現われて来なかった。軍隊らしきものがまだしっかり形成されていなかったから、そしてソ連などの核で武装された強大な軍事力に対して、“自主防衛”が非現実的で、空論的とみなされたからである。  
要するにブントは、単なる「安保反対」や「破棄」ではなく(民族主義的観点からの闘いではなく)、「安保改定阻止」であり、そうでなくてはならない(資本の支配、その帝国主義的企図や野望に反対し、それを打ち破っていく闘いである)と強調し、また大衆(主として学生たち)にそのように訴えたのであった。  
また、そう位置づけ、訴えることなくしては、学生(そしてその付録として、労働者)を安保闘争に動員し、“駆り立てる”ことはできなかったのである。共産党のように、安保条約を破棄し、なくして「真の独立」を勝ち取り、「平和で民主的な」日本にしようといった、つまらないプチブル的世迷い言や幻想を振りまくわけには行かなかったのである。  
日本独占と「帝国主義的自立」  
ブントは「安保改定阻止」を唱え、共産党は安保反対(破棄)と、それによる「民族独立」を叫び、さらに“トロツキスト”(=革共同――後の“黒田派”に始まる革共同とは区別される)は「反革命軍事同盟」論を展開した。  
問題は、これらの諸主張の階級的な性格と、客観的な政治的意味である。  
“トロツキスト”の主張が、共産党の主張に容易に接近し、事実上(実践上)一致し、融合していくことを察知することはそれほど難しくない。彼らはともに、日米安保同盟に反対するのだが、それは、それが基本的に“社会主義国家”であるソ連や中国に対抗する、ブルジョア国家同士の“反革命的”連合であると評価したからである。ただ、トロツキストたちの方が共産党より、いくらかラジカルに、この“民族的”主張を押し出すところで区別されたにすぎない。  
これに対して、ブントは、安保条約に反対する闘争も、日本(とアメリカ)の帝国主義的ブルジョアジーとその外交政策に反対する階級的闘いとして、したがってまた必然的に、岸内閣に反対する闘い、その政治外交に反対する(それを「粉砕する」)闘いとして位置づけたのであった。  
困難は、岸の外交政策が、対米不平等の条約を一層平等で、一層対等で、一層“自主的な”ものに変えるのだ、そのための日米安保条約改定なのだと強調され、また客観的にもそうした性格も持っていたということである。  
もちろん、岸の言う“自主性”云々はインチキであって、日本が軍事的、政治的にアメリカに全面的に追随し、協調する限りでの、その枠内でのものであったとしても、である。  
その枠内であっても、“より”自主的で、対等なものに改定するということに、ブントはいかにして反対し、その改定を粉砕すると主張し得たのか、そうした闘いをいかに理論的に正当化することができたのか。あるいはまた、改定を阻止し、その岸の外交・政策を粉砕することで、何を獲得し、実現しようとしたのか。  
ブントは、「安保条約改定を阻止したら、古い、より従属的な旧安保条約が残るだけである、それがどうして日本の労働者人民の利益となるのか」という労働者の素朴な疑問に答えなかったし、答えることができなかった。安保条約改定に込めた岸の野望は、日本の「帝国主義的自立」であり、憲法改定、公然たる再軍備である、だからこそ、それは粉砕されなくてはならないと主張し得たとしても、しかし安保条約改定はいわば、一種の不平等条約をより対等のものに変える――つまり日米関係をより対等な二つのブルジョア国家間の関係に修正する――ということでしかなかった。  
もちろん仮に、ブントが安保条約関係を日米の軍事同盟だと評価したとしても、軍事同盟だという点では、古い条約も新しい条約も同じであろう。そして、岸は、再びブルジョア大国として登場しつつあった日本の実際と実力に対応して、日米の軍事同盟を再編強化し、安定させようとしたにすぎない。したがって、「改定阻止」こそ決定的と言うことは、「安保改定阻止でもいいが、それから廃棄に進まねば無意味だ」とブントを批判した共産党(や革共同)と同じ立場に立つか、古い条約関係のままに甘んじるか、どちらかしかなかった。  
しかし、ブントの主張、その政治的立場は、安保条約改定は不平等条約の修正や“自主性”獲得の要求であるというよりは、むしろ日本ブルジョアジーの“帝国主義的自立”への志向であり、危険な衝動であるからこそ、断固として「阻止」され、粉砕されなくてはならない、といったものであった。こうした立場が無政府主義につながって行くことは容易に洞察できるであろう。  
しかし不平等条約の訂正と、日本ブルジョアジーの“帝国主義的自立”が、仮りに相互に密接に、また現実的に関係している場合があるとしても、直接に同じことではない。この両者が一致するか、しないかは具体的な状況において検討され、判断されなくてはならない問題であったが、ブントがそうした議論や検討をしたことはなかったし、その気配さえなかった。  
そして“より対等な”日米軍事条約への修正は、日本独占資本の“帝国主義的自立”といったこととは直接に一致しなかったことは、今では誰でも認め得るであろう。  
日本のブルジョアジーは、アメリカと結びついて、一九九〇年代以降、すでに立派に帝国主義的ブルジョアジーとして振る舞い、立ち現われて来たではないか、と言うのか。  
しかし、だからといって、それは決してブントが強調したような、いくらかでも“自立した”帝国主義的強国としてではなく、アメリカと結びついた、アメリカの尻馬に乗ったような、臆病で、“おっかなびっくりの”帝国主義国(“プチ”帝国主義とさえ言えないような)として、ではなかったか。  
“ブント主義”の限界  
「安保改定阻止」を目的にして闘った、ブントは正当だった、という評価は少しも無条件的ではないし、またそれが「階級闘争」の強調と結びついて提起されていたから正しく、支持されるべきだ、ということには決してならないのである。  
むしろ反対に、安保闘争の課題を「安保改定阻止」に置き、それをスローガンとも、結集軸としても学生に呼び掛け、闘いを組織し、発展させて行ったということ自体に、ブントの政治的、階級的な立場が、その根本的な欠陥が特徴的に、はっきり暴露されていた、と結論すべきであろう。  
いや、それ以前に、労働者階級の闘いの中心環を安保闘争そのものに置いたことさえ疑問であった。  
この闘争課題を誰よりも熱心に主張していたのは、共産党であった。彼らはその「民族民主革命」という戦略的目的からしても、そうしたし、せざるをえなかったのである。安保条約反対闘争を重視するというのは、それは共産党の立場からして当然であって、彼らがその闘いをわめいたのは何の不思議もない、むしろ奇妙に思われるのは、ブントがこの闘いを重視し、「安保反対闘争こそ決定的な闘争であり、ブントはこの闘争に、その政治生命を賭ける」といったことが公然と、半ば本気で言われていたことこそ、ブントの「政治主義」を、プチブル本性を語って余りある。  
労働者活動家にとっては、安保闘争は最初から“重い”闘争であり、それほど重視されるような闘いには見えなかった。日米関係が、いくらか“自主的な”ものになるかならないかといったことは、プチブルら(社共等々)には何か決定的なことに思われたかもしれないが、労働者にとっては二義的な意味しか持たないのであり、また持たなかったのである。  
とは言え、民族独立を謳い、その意味では「外交」を重視する共産党も、この闘いに熱意をもって真剣に取り組む理由や動機を有しなかった、というのは、安保条約改定は日本がアメリカとの関係で、“より”対等な立場に立つことを意味したからである。もちろん、共産党は、実際に安保条約反対を掲げた以上、この“より”対等と言うことに文句をつけ、対等といっても「対米従属」という大きな枠組みは変わっていないではないか、むしろそれは実際には強化さえされ得るのであって、「対等」のためには民族民主革命が必要である、安保条約は単に改定されるのでなく、むしろその廃棄こそが必要である、と訴えたのである。  
つまり、岸が「より対等」というのは、労働者人民を単にたぶらかすためだ、と言いはやすことによって、安保条約反対を言ったのであって、実際に、新安保条約が「より対等」なものであるなら、つまり共産党にとって改善と見えるなら、共産党は安保条約改定に反対し、闘う必要は全くなかったのである。  
ブント・迷妄の「安保闘争」  
岸の安保条約改定を、“帝国主義的自立”の策動であると結論し、「改定阻止」を叫ぶブントの立場は空虚であって、空文句以上を出ることはなかったのである。  
ブントは岸の外交政策(安保条約改定等々)を、全体のブルジョア政治の中で位置づけようとせず――あるいはまちがって位置づけ――その政策を、それだけを「粉砕せよ!」と叫びたてた。  
必要なことは、ブルジョアジーの政治の全体を、その外交政策を、それらの階級的な性格や意味を労働者の前で暴露し、それとの闘いを訴えることであった。  
安保条約とその改定に反対し、その闘いを労働者の階級闘争の全体の中で位置づけることは、ブントのように、その粉砕や「安保改定阻止」を戦略目標もしくは自己目的として闘うということとは別であるし、またそうでなくてはならないのである。  
このブルジョア世界では、諸国家の離合集散も、つまり諸国家相互間の外交も同盟も一つの必然として現われるのであって、そんなものを一々「粉砕」するとか、「阻止」するとか言ってみても、つまらない空文句にしかならない場合がいくらでもある。  
例えば、戦前の(一九四〇年の)日独伊三国同盟を、「粉砕する」とか、「阻止する」とか言って悪いということもないが、しかしその現実の実現性や実際的条件も考慮せず、そんなことを呪文のように唱え、そのために労働者に決起を呼び掛けるとするなら、そんな“労働者政治”は一日で破産するしかないであろう(一九四〇年に、そんな政治を実行しようとしたら茶番にしかならなかっただろうし、そんなことを実践しようとした“革命党”は疑いもなくたちまち破産し、壊滅したであろう、ちょうどブントが一九六〇年、安保闘争後にそうした運命をたどったのと同様に)。  
ブントは、安保闘争(安保改定阻止闘争)を呼び掛け、そのために大衆――労働者大衆ではなく、学生大衆――を動員したが、実際には、その政治は、共産党の政治やトロツキストの政治のレベルを一歩も超えなかったばかりか、むしろその補完をなし、共産党などが六〇年安保闘争後に勢力を拡大するのを、客観的には手助けしたとさえ言えるのである。  
安保闘争の最中に(そしてその後にも)、労働者大衆の中に持ち込まれていたのは、社会党や共産党が振りまいていた、「安保条約は平和にとって危険なものだ、アメリカのやる戦争に日本も『引きずり込まれる』から」といった、浅薄で、“情緒的”で、卑俗な観念、必ずしも正しくない観念でしかなかった。  
そしてブントの急進運動は、こうしたプチブル的な俗流観念を一掃するというより、客観的には、それが一層深く労働者大衆の中に浸透するのを助け、この観念を強化したとさえ言えたのであった。そうしたものは、社共を助け、あるいはプチブル市民主義や市民運動の台頭を助長することはあり得たとしても、労働者の階級的、革命的意識や闘いの深化や発展のためには、ほとんど意義を持たなかったのである。  
実際、「安保改定阻止」というブントのスローガンは結局、闘いの中で、どこかにふっ飛んでしまった。そして安保闘争の最終局面では、「民主主義を守れ」という声がちまたに満ち満ち、ブントは政治的にもヘゲモニーを失って行った。ブントはくやしそうに、プチブル党やインテリたち、市民主義者たちによって闘いが捩じ曲げられ、ゆがめられ、無意味なものに、「民主主義擁護、平和擁護」等々にすり替えられ、おとしめられたと臍(ほぞ)をかみ、呪ったが、「時すでに遅く」、闘いの成果はプチブル党などにかすめとられたのであった。  
しかし「安保改定阻止」という闘いの目的が決定的瞬間に脱落し、どこかにふっ飛んで行ったからといって、それをプチブル党やインテリや「大衆」のせいにすることはできない、というのは、このスローガンは労働者大衆をも全くとらえられなかったのだから、学生の急進主義たちの間でだけ辛うじて影響力を持ったにすぎなかったから、である。むしろ、ブントがこのスローガンに執着すればするほど、労働者とも、学生たちとも遊離し、孤立して行ったのである。  
このスローガンは、岸の政治と闘う上で、その急所を突いたものと、ブントは自ら評価し、うぬぼれたが、しかしそれは本質的に観念的なものであって、「(尊皇)攘夷」のスローガンと同じような空文句にすぎなかったのである。  
このスローガンを正当化するために持ち出された理屈は、現実的であるというより、無理をして“ひねりだされた”もの、現実から切り離されて頭の中で考え出された“理屈”(ドグマ)にすぎなかった。もし日本が“帝国主義的自立”に向かっており、それが日米安保条約の改定として出てきているというなら、労働者の闘いの課題は、帝国主義的ブルジョアジーとして登場しつつある日本の支配階級との全面的で決定的な、長期にわたる闘争として提起されるべきであって、「安保改定阻止」といった珍奇で、実践的に、袋小路に入り込む以外ないような形で提出されるべきではなかった。  
いずれにせよ、「ブントは安保闘争にすべてをかける」(島成郎がしばしば口にした決まり文句)などという、極度に偏狭で浅薄な立場から、帝国主義的ブルジョアジーに対する闘いを提起するのがナンセンスなのは明らかであったが、しかしこうした極端な矮小さ、狭隘さこそブントの本性であった。  
安保闘争に、安保改定阻止に「すべてをかける」などという珍妙なプチブル党派が、安保条約改定が実現するとともにたちまち破綻し、解体して行ったのは一つの必然でさえあった。  
改定を仮に「阻止した」ところで、古い安保条約が残るだけであって、それが労働者にとってさえ利益であり、いいことである、などと誰も言うことはできなかっただろう。ただこのことだけでも、ブントの「戦略目標」は労働者を捕らえることはできなかった、というより、それ以前に、労働者はそんな奇妙な理屈を理解できなかったし、しようともしなかった。  
そしてもし、安保条約改定が、「対米従属」を脱して、より“自主的な”ブルジョアジーとして登場しつつある――登場したいと希求する――日本の支配階級の志向の現われだとするなら(そして、ブントは共産党の「安保条約改定は対米従属を深め、恒久化する、それがこの改定策動の本質だ」といった見解に反対して、そのように評価したのだが)、それに「反対」し、その試みを「阻止」し、「粉砕」することに、客観的にみて、どんな意味があったというのであろうか。何もありはしなかったのである。まさか「改定を阻止」して、つまり旧安保条約体制の下で、アメリカの事実上「軍事占領」のような状態が続く中で、「平和と民主主義の日本」を享受しようと考えたのではなかろうが。  
「安保改定阻止」というブントの政治的立場やスローガンは、ブントの階級的な本性と――したがってまた、その急進的な政治や学生の運動と――切り離しがたく結びついていたのであって、ブントの政治的な破産を避けられないものにし、「規定した」のである。そこには、ブントの本質が表現され、象徴されている。  
「安保改定阻止」といったことが実際に空論であって、積極的な意味を持ちえないスローガンであったとするなら、ブントの目的はそこにはなく、「岸内閣打倒」こそ本当の目的であって、「安保改定阻止」はそのための方便のようなものであった、と言えないこともない(もちろん、このことはブントの多くの連中が、それ(「安保改定阻止」)を実際的、実践的スローガンと信じ込み、本気で「改定阻止」を考えていなかった、ということではない)。  
これは言ってみれば、幕末の志士たちが、「徳川幕府打倒」をこそ第一義としつつも、「尊皇攘夷」をあおり、そのエネルギーを利用したのと同じようなものであったが、労働者の政治としては最低、最悪のものの一つであった、と言うべきであろう。  
日米安保同盟の現状とブントの幻想  
それでは、一九六〇年の日米安保条約改定は、ブントが主張したように、日本の資本の勢力の“帝国主義的自立”のためのもの、それに向けて決定的な一歩を踏み出すものだったのだろうか、それとも共産党が強調したように、「対米従属を強化し、日本を永遠にアメリカの『従属国』」に、つまり日本を「アメリカに従属した半ば植民地の地位」にしばりつけるものだったのだろうか。それが問題である!  
それから五十年たった今、この問いに明確に答えることができるだろうし、また答えなくてはならない。  
日本は「高度経済成長」や、その後の資本主義的生産の矛盾の深化の中で、確かにますます帝国主義的国家として登場して来ているが、しかし必ずしも「自立した」帝国主義的ブルジョアジーとして登場していないし、その実力もないことを暴露してしまっている。他方、アジアでは中国が日本を凌駕するようなブルジョア大国として――まさにアメリカに対しても“自立した”帝国主義国家として――台頭したし、ますますしつつある。インドや南米のブルジョア大国も出現しつつあるし、今やアフリカにおいてさえ資本主義的発展は加速しつつある。ブントの“公式的な”、青木流の(つまり優等生風の)現実評価や理解は矮小なもの、観念的なもの、空虚なものであったことが暴露されたのである(それなのに、今頃になって、青木昌彦は半世紀前の自分の“理論”がひどく優秀だったことを見出すのだ。まさに、小人は救いがたしだ)。  
しかし共産党の観念もまた、愚劣な形而上学的なものでしかないことをさらけ出して破綻し、今では、共産党は日米の「道理のある」関係を求めて、アメリカの大資本の勢力と協調し、“いちゃつく”のに大わらわである(オバマ政権を美化し、持ち上げ、“親善の”ために日参するような堕落ぶりであって、対米独立路線、「真の独立」のためにアメリカ帝国主義を「打倒する」といった勇ましい路線はどこかに完全に棚上げされ、“忘れ去られて”いる。醜悪なことではないのか)。  
歴史の教訓の語ることは、現実世界とその歴史的発展をより客観的に、より深刻に認識し、このブルジョア世界全体の前進し、展開していく方向と、そしてまたその矛盾を正しく、全面的に評価し、闘っていくことこそが決定的であり、労働者党派の闘いの前提である、ということである。 
集会報告(1)  
六月十二日、池袋において、60年安保闘争五十周年集会が開催され、会場にあふれるほどの人々が結集し、半世紀前に始まった、労働者の革命的闘い――ブント(共産主義者同盟)などの闘い――の歴史的な意義を承認するとともに、その根本的な限界を止揚して――すなわち、その肯定的な側面を保持しつつ、合法則的に、しかもそれをきっぱり否定して――、我々が一貫して推し進め、追求してきた闘いの意味と役割を改めて確認し、我々の再度の挑戦を誓ったのであった。  
我々以外には、六月十五日、早稲田大学では、坂野潤治とか加藤尚武とかいった、六〇年安保闘争やブントについて語る資格もない、事実上の“ブル転”(これはすなわち、“ブルジョア的転向者”の略称で、“戦前”には自明の概念であった)の連中が空虚なおしゃべりに時間を費やし(しかもその後、六千円もかけて、“懐旧談”のためのパーティを持つというのだから、その頽廃ぶりにあきれるしかない)、また東大では、同じく六〇年安保闘争やブントとは全く無関係な連中、またブントの掲げた「全世界を共産主義に獲得するために」という高い理想などにはまるで無関心で、今も、ただ自分たちの珍奇な“運動”や観念のために、六〇年安保闘争やブントの闘いや樺さんの死を利用するしか知らない連中が、自分らの矮小なインテリ的偏見に固執しながら、勝手な独善に熱をあげただけであった。  
このことは、まさに現代の“左翼”全体(もちろん、“新左翼”も含めて)のとことん頽廃した現状を問わず語りに明らかにしたといえよう。  
安保闘争五十周年を迎えながら、我々以外に、どんなまともな集会も行われなかったが、このことこそがまさに、半世紀前に始まった、「社共に代わる」社会主義・共産主義の新しい運動の担い手が、推進者が、正当な後継者が、つまり「嫡子」が、我々以外では決してないし、あり得ないということ、そして有象無象の“新左翼”の党派、急進的、擬似サンジカリズム的党派――中核派など――が、無力であり、さらに頽廃して行かざるを得ないことを明らかにしたと言えよう。  
我々の集会は何の実践的な課題もない、ためにするような集会とは違って、会場の正面には、「二“大愚”政党はゴミ捨てに」「労働者の政治的進出を勝ち取ろう」という、自覚した労働者と我々の現在の課題を明らかにしたスローガンが高々と掲げられ、単に過去の郷愁や回想にふけるといったことではない、我々の集会の性格と特徴を明らかに示し、全国の労働者に強くアッピールしたのであった。  
我々はブントを「止揚した」のである、つまり正しく総括し、それを徹底的かつ根底的に否定したのであり、まさにそれ故に、ブントの崩壊した時点から、我々の新しい労働者的な闘いを開始したし、することができたのである。  
そしてこの間、我々の闘いのみが、労働者の解放を求める社会主義、共産主義運動の“正道”にそった、原則的で、プロレタリア的な運動であることが実際に明らかにされて来たが、この記念集会によって、その事実が最終的に確認されたと言えよう。  
我々は二つの“大愚”政党がますます堕落し、破綻していく中で、「労働者の政治的な進出を」という、労働者階級全体の緊急にして、決定的に重要な課題を現実的かつ実践的に勝ち取るために、さらに我々の闘いを深め、発展させて行かなくてはならない。  
その決意を改めて確認し、また強固にしてくれた記念集会であった。 
集会報告(2)  
6月12日、東京において、60年安保闘争50周年集会が開かれた。会場は予定人員を30人もオーバーする人々が詰めかけ、60年安保闘争をふり返るとともにこの闘いでなくなった樺美智子(さらには昨年亡くなった池尾正勇哉)を追悼し、集会宣言(別掲)を採択して成功裏に終えることが出来た。当日の報告をしたい。  
集会開会予定の6時には、会場はいっぱいになり、補助椅子を準備するほど盛況であった。会場正面には、「二“大愚”政党はゴミ捨てへ、新たな労働者の政治的進出を勝ち取ろう!」の横断幕が張られ、この集会の狙いを明らかにしていた。また、会場入り口には、60年安保闘争を伝える報道写真とともに、樺美智子、池尾正勇哉、さらには幸徳秋水の写真が展示され、早めに会場に入った人は興味深そうに見入っていた。  
集会は、集会実行委員の町田勝氏の司会で始まった。  
はじめに実行委員長の山田明人氏が、この集会について、60年安保闘争から50周年という節目の年であるが、単に回想としてではなく未来に向けてどう闘っていくかという観点から60年安保記念集会を準備した。ブントが掲げた社共に代わる新しい労働者政治というスローガンは、現在においても重要な課題である。菅民主党政権が誕生したが、政治の内実は何も変わっていない。二“大愚”政党をゴミ捨てに、労働者の政治的進出を勝ち取っていくべきだ。同時に樺・池尾の追悼を併せて行いたいと集会の趣旨を明らかにした。  
続いて、60年安保闘争のDVDが上映され、当時の状況が映像でもって明らかにされた。参加した時事通信の記者は、今では考えられないような大衆の闘いがあった当時の状況がよくわかったと感想を述べていた。  
林紘義氏の講演  
60年安保闘争を都学連の執行委員として闘った林紘義氏(現マルクス主義同志会代表委員)が、「笑い飛ばせ、60年ブントと新左翼」と題して記念講演を行ったが、その要旨は次の通りであった。  
私は11・27闘争で国会に突入し、逮捕されたが、この闘いはブントの闘いにおいて成功した闘いであった。当時、“安保は重い”と言われていたが、警備が手薄なこともあって全学連や労働者大衆が国会に突入し、局面が変わり、安保闘争は一挙に盛り上がっていった。  
ただ、安保闘争とは何だったかを考えると、ブントは安保改定阻止を掲げたが、その内容は今ひとつはっきりしなかった。共産党は対米従属論の立場から、この改訂で対米従属が一層強化され、日本の植民地化が深まると主張し、ブントはそれに反対した。革共同は「反革命軍事同盟」と評価したが、この「反革命」の内容は、ソ連・中国が堕落しているけれども労働者国家であるとの幻想に基づいていた。これに対し、ブントは日本独占の帝国主義的自立を言いつつ、安保改定阻止を掲げた。  
しかし、岸政権が日米の対等な関係への改訂を謳っていた中で、では改定阻止をしてもとの不平等条約のままでいいかとなると答えられなかった。帝国主義化と「改定阻止」がどう関連するかもはっきりしなかったが、ブントは戦術だけを急進化していった。  
当時、全学連指導部を握っていたブントと革共同で実践的な中心課題で論争があった。ブントは安保闘争中心で行くべきと言い、革共同(第4インター系で、後の革共同とは違う)は合理化反対中心で行くべきと主張した。当時三池闘争もあり、労働運動のことを考えると合理化反対を強調する革共同の主張もそれなりの論拠があっただろうが、ブントは合理化反対で学生運動が闘えるかと反対した。合理化反対で学生運動が闘えるかとか、第4インターの“トロツキスト”は経済主義だという主張は、「それ自体では」正しかったが、根本的には(労働者的立場に立てば)おかしなものだった。この議論はブントの学生急進主義を象徴していた。  
ブントは安保が自然成立するとあっと言う間に空中分解してしまったが、偶然ではなかった。東大分派を中心にした「革通派」は――私は彼らにラジカルに反対していたが――、池田内閣打倒のゼネストなど急進主義的方針を提起し、破綻していった。その中で、清水丈夫や北小路敏らが革共同黒田派に雪崩れ込んでいった。  
(ここで林氏は、当時の全学連幹部であった青木昌彦を6・18デモを抑えて回った「青木昌彦君は“マッ青に”になって宣伝カーの上から学生のデモを抑えた」、服部信司を「はったり信じましょう」だった、西部邁は「西辺の方に進んでアメリカのブルジョア経済学を学びに行ってしまった」等々と笑い飛ばした)。  
ブントは4分裂し、私たちは「共産主義の旗」派として新たな闘いの道を踏み出した。ブルジョア民主主義の社会では、労働者の政治的な闘いが必要である。選挙や国会の場で他の政党と闘い、労働者を説得し組織していく闘いが必要だ。こうした闘いを積み重ねていくことなくして、革命など出来ないと考えた。  
我々は、社労党を組織して選挙闘争に挑んできたが、厚い壁の前にいったん退いた。資金面の問題が大きかった。供託金制度があるが、比例区で確認団体として闘うためには数千万円のカネが必要である。さらには小選挙区制の成立でミニ政党は排除された。二大政党制と言われるが、民主党も自民党もいい加減な政治ばかりやっている。国会では労働者の立場に立つ議論がほとんどない。新たな労働者の政治的進出が必要だ。  
最後に林氏は、完成されなかった漫才の脚本の「オチ」を紹介して記念講演を締めくくった。それはブントを痛烈に嘲笑し、「笑い飛ばした」つぎのようなものだった。  
「安保闘争の後、ブントの破綻と解体が決定的になったとき、『トラは死んで皮を残す。ブントは死んで名を残す』と云ったことが、負け惜しみのように盛んに言われた。トラは死んで皮を残す。ブントは死んでブント、ブット、ブッと屁を残す」。  
60年安保・全共闘世代及び江刺氏の挨拶  
60年安保闘争を早稲田の1年生として闘い、ブント同盟員であった鈴木半一氏は、「60年安保を闘って」として次のように挨拶した。  
私は50年前に一学生として安保闘争に参加した。11・27の最初の大きな爆発では、私たちの部隊は国会南側の土手を突破し、正門で対峙していた何万という労学の人たちと合流して「国会構内集会」を闘った。翌年の1・16羽田闘争の直前にブントに加盟した。  
安保闘争が敗北した後のブント第五回大会に私は一代議員として参加した。ブントが分裂した中で、未熟な小ブル急進主義者として「革通」派に入り、ブント自体が崩壊するなかで暗中模索するばかりであった。その後も小ブル急進主義の夢想を捨て切れず、70年安保闘争では解放派に属し、飯場で土方をしたり、下請け労働者としてあてもなく彷徨っていた。「共産主義の旗」派の運動を知ったのは、80年代初頭で、社労党結成に参加して、皆さんと行動を共にしてきた。  
続いて70年当時、明治大学2部の自治会委員長として学園闘争を闘った小島保雄氏が「全共闘世代から見た60年安保」について語った。  
入学したのは68年4月であった。日大や東大闘争、ベトナム戦争、三里塚闘争などが闘われたが、明大2部自治会は三派全学連がヘゲモニーを握っていた。60年安保ブントについては、真剣な総括はなく半ば神格化していた。私にとっては「あこがれ」であり、「60年安保のように闘おう」であった。  
70年安保で急進派は、「安保粉砕」、機動隊との肉弾戦、関係施設への突入・占拠、ゲバルト闘争の激化など、さらなる急進化、軍事路線へ突き進んでいた。明治には赤軍派の田中義三、重信房子、連合赤軍事件の遠山美枝子がいた。71年、闘いに行き詰まりを感じていた頃、全国社研の『科学的共産主義研究』の「新左翼の総決算」をみて、当時の全国社研に接近した。その頃、東京東部に住んでいたので、池尾正勇哉氏に合い、労働者魂を教わった。  
次にノンフィクション・ライターの江刺昭子氏が「『樺美智子 聖少女伝説』を書き終えて」と題して挨拶をした。その要旨は次の通りである。  
私は、当時早稲田大学の1年生で、デモには出かけたが、政治的なことはよくわからなかった。樺美智子について3点述べたい。  
当時の早稲田も男子が多い大学、サークル活動などで女子はおとなしくニコニコしていればかわいがってもらえるが、何かあると女のくせに生意気という風潮があった。すべてとは言わないが圧倒的多数の人が女性を対等な人格として認めていなかった。  
樺さんの東大もそうだったと思う。高校時代から熱心に女性の問題に取り組んでいたが、東大にはいると女性問題について語ることは少なくなっていた。男性が多数の社会の中で、彼女は体を張って活動家として頑張った。しかし、多くの活動家が彼女に期待したのは、ガリ切りなどの黙々とした取り組みであり、当時の活動の補助的なものを期待し、或いは単なる恋愛の対象としてみていたのではないか。学部の副委員長としてクラスの議論をまとめるときにも、女のくせにといった空気があったやに聞く。  
彼女の死因についてであるが、圧死と扼殺で争われてきた。権力側に、女のくせに、生意気だといった女性蔑視の意識が働いて、扼殺に及んだのではないかと思っている。  
最後に国民会議葬で松村善三(シナリオライター)の扱いについて。彼は「この暴挙許すまじ」という文章で、「セーターに身を包んだ可憐な少女のつぶらな瞳」と書いている。死んだ彼女の年齢は22歳、十分な大人の女であって、こうした樺像は彼女の実像とは全く違っている。  
樺・池尾追悼の三人の挨拶  
まず、60年安保闘争当時、大学生1年生でブントの一員であった田口騏一郎氏は、「樺美智子を偲ぶ」と次のように述べた。  
樺さんについては様々な評価がなされている。「まじめすぎて、融通の利かない」人だといった評価、活動に見切りをつけ学校の先生になることを目指していた、さらにプチブル急進主義者とする評価があるが、賛成できない。  
江刺さんはフェミニズムの観点から樺さんについて話されたが、こうした観点から樺さんをとらえるのは狭く本当の姿を伝えるものでない。林紘義氏は『友へ』の中で、彼女はブントの「党的」な活動に積極的に参加したが、ブントの急進主義的な学連主義者とは違っていた、本能的に急進主義の限界を感じており、反発していたと書いている。彼女は高校時代から貧しい人々に同情し、こうした人々を生みだしている社会への矛盾を感じていた。大学に入ってからも社会の変革を目指してひたむきに活動してしたが、そうした生き方こそ人々の感動と共感を呼んできた。  
続いて「池尾さんを偲んで」と題して鈴木研一氏が池尾追悼の言葉を述べた。  
私が信州大学に入ったのは1962年、安保闘争の余韻はほとんど感じられなかった。ただ、当時の新聞は60年6月15日に信大から文理学部生40名、医学部生75名などが上京、国会前のデモに参加し、機動隊と激突したと報じているので、池尾さんは文理学部自治会委員長としてこのデモで勇名を馳せていたのだろう。しかし、池尾さん自身からは“自慢話”を聞くことはなかった。安保闘争は池尾さんにとっては終わったことであり、既に新しい闘いを踏み出していたからだろう。  
入学後、進むべき道を模索していた私は5月に新聞会に入った。ところが、この新聞会こそは、ブント崩壊後、労働者政党の結成をめざして闘いを開始した「共産主義の旗」派の拠点だった。そこに入ったのが“運の尽き”(?)――リーダー格だった池尾さんとの付き合いもそこから始まり、共に自治会指導部を担ったり、一緒に山に登ったりと頼もしい先輩・同志として親しく交流してきた。  
池尾さんは、一言で言えば、ぶれない人だった。大義の前には、自分の不利益も顧みず運動に献身し、労働運動の指導では天性のオルガナイザーとして生き生きと活動していた。激動の時代が来れば、池尾さんの資質と能力はもっともっと発揮されたろうにと思うと、残念だ。池尾さんに教わったカール・リープクネヒトの言葉、「Studiren, Propagandiren, und Organizieren(学び、宣伝し、組織せよ)」が思い出される。  
最後に、池尾氏と18年間連れ添ってきた、榊原氏が遺族を代表して挨拶した。  
池尾と共に過ごしたうち、病気の期間が長かった。胃ガンの手術に始まり、大腸ガンや足、手の骨折が続いていた。その間医者からは酒をやめるようにいわれたが、やめない人であった。私が突然家を訪ねると酒があり、捨ててしまうと、もったいないと言っていたことが思い出される。  
社労党の活動にも誘われ、学習会にも何度も参加したが、議論は難しかった。ビラまきにもメーデーや北千住の街頭宣伝に何度も参加した。  
池尾は優しい人だった。喧嘩したことも余りない。料理が好きで、ムニエルが得意だった。最後の時は、私が孫の用事で少し連絡を取れなかったときに、一人で逝ってしまったが、もっと一緒に生きて欲しかった。今日、こうして追悼の場を設けていただき、感謝している。  
この後、集会宣言が提案され、拍手で承認された。我々は、この集会を過去の郷愁や回想に終わらせるのではなく、60年ブントが掲げた社共に代わる新たな労働者政治を求めて闘う課題を明瞭に押し出した。マスコミも『朝日』と『毎日』が記者会見(6月1日)に参加し、集会当日は時事通信社と共同通信社が取材した。6月9日には『毎日』が我々の集会を記事にし、何人かの読者から電話で問い合わせがあり、集会への参加も勝ち取った。大学や駅頭で配布されたチラシを見て参加した留学生もいた。  
集会は予定の時間をオーバーし、3時間半に及んだが、途中で席を立つ人もなく、大きく盛り上がった。 
集会宣言  
我々は、今日ここに六〇年安保闘争五十周年集会を開催した。この五十周年という記念すべき年に、ほとんどの左翼グループが集会を回避する中で、成功裏に集会を開催できたことをまず確認したい。  
我々は、六〇年安保闘争の意義を明らかにした。それは一言で言えば、戦前戦後の数十年間労働者の闘いを指導してきた社会党や共産党に代わる新たな労働者の政治、新たな労働者政党の闘いを提起したことであった。  
しかし、ブントはこの課題を空語に変え、ひたすら小ブルジョア急進主義運動を展開して崩壊してしまった。この課題はブント崩壊の中で「共産主義の旗」派の流れをくむ心ある人々の粘り強い闘いに引き継がれていった。  
同時に、我々は六〇年安保闘争の中で倒れた樺美智子の真実の姿も明らかにした。彼女はブント指導者のいい加減なプチブル急進主義を超えた存在であり、豊かな可能性を秘めながら、道半ばにして権力に虐殺されたのである。また、「社共に代わるプロレタリア党」のための闘いに生涯を捧げ、昨年六月十五日になくなった池尾正勇哉ともども、二人を追悼し、その遺志を継いで闘い続けることを改めて誓い合った。今年は大逆事件百周年でもあり、幸徳秋水をはじめ社会主義運動、労働者の革命運動に献身した幾多の先人に思いを馳せ、敬意を表明した。  
我々はこの集会で、いたずらに過去を回想するのではなく、未来に向かって闘うこと、労働者に厄災しかもたらさないこの資本主義社会とどう闘うかという観点から、この集会を勝ち取った。そして、ブントが掲げた「社共に代わる新しい労働者の政治」という呼びかけは、現在の政治状況を見るなら、いよいよ喫緊の課題として労働者に迫っている。  
鳩山政権に代わって菅政権が誕生したが、労働者はこの新政権に何も期待することは出来ない。菅は鳩山政権の副総理としてその破綻に大きな責任を負っていた。子供手当や農家の戸別所得補償などのバラマキ政策を基本的に引き継ぐ、基地問題では日米合意を尊重してやっていくと言うのだから、鳩山政権と基本的に同じである。  
菅は、経済成長、財政再建、社会保障を一体としてやればいいと叫んでいる。しかし、こんな「一体」政策は、単なる空語、大ボラの類である。消費税増税をしつつ経済成長も実現すると言うが、増税すれば消費を萎縮させ、景気後退につながるとわめいてきたのは、民主党自身ではなかったか――全くのご都合主義であり、無責任政党である。しかも、消費税増税は三年後にやるというが、もし正しい政策なら、すぐやればいいのだ。なぜ三年も待つ必要があるのか。菅が客観的にわめいていることは、三年間は数十兆円もの借金財政、バラマキ政治にふけり、そのツケを増税ということで労働者国民に押しつけようということにすぎない。  
また、「最小不幸社会」をめざすとも主張するが、これは「不幸」が一般的に存在し、ますます一般的になり、蔓延していく社会を前提にした発言である。この市民運動出身の新首相がめざす社会とは、労働者大衆の苦しみや「不幸」そのものをなくそうというのではなく、現状とほとんど違わない(より悪化した)平凡で矮小な社会である。  
鳩山民主党が自民党と変わりばえのしない腐敗堕落政権だったとしたら、菅民主党も本質的に同じであり、いやそれよりも悪い政治を展開しかねないのである。  
我々は、現在の政治を二大政党ならぬ二“大愚”政党と告発してきた。この真実は菅政権が誕生しても何も変わらない。二“大愚”政党による支配などもう沢山だ、ゴミ箱に捨て去る以外にない。  
我々は、本集会の名において、菅政権に対し断固として宣戦を布告するとともに、全国のすべての心ある働く仲間に呼びかける。  
今こそ新たな労働者の政治的進出を勝ち取ろう! そして、労働者の解放と未来をめざしてともに闘おう!  
 

 

 
 

 

 
 
2015 安保法制
 

 

国際平和支援法  
国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律  
 
第一章 総則  
(目的)  
第一条 この法律は、国際社会の平和及び安全を脅かす事態であって、その脅威を除去するために国際社会が国際連合憲章の目的に従い共同して対処する活動を行い、かつ、我が国が国際社会の一員としてこれに主体的かつ積極的に寄与する必要があるもの(以下「国際平和共同対処事態」という。)に際し、当該活動を行う諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等を行うことにより、国際社会の平和及び安全の確保に資することを目的とする。  
(基本原則)  
第二条 政府は、国際平和共同対処事態に際し、この法律に基づく協力支援活動若しくは捜索救助活動又は重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律(平成十二年法律第百四十五号)第二条に規定する船舶検査活動(国際平和共同対処事態に際して実施するものに限る。第四条第二項第五号において単に「船舶検査活動」という。)(以下「対応措置」という。)を適切かつ迅速に実施することにより、国際社会の平和及び安全の確保に資するものとする。  
2 対応措置の実施は、武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない。  
3 協力支援活動及び捜索救助活動は、現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われている現場では実施しないものとする。ただし、第八条第六項の規定により行われる捜索救助活動については、この限りでない。  
4 外国の領域における対応措置については、当該対応措置が行われることについて当該外国(国際連合の総会又は安全保障理事会の決議に従って当該外国において施政を行う機関がある場合にあっては、当該機関)の同意がある場合に限り実施するものとする。 5 内閣総理大臣は、対応措置の実施に当たり、第四条第一項に規定する基本計画に基づいて、内閣を代表して行政各部を指揮監督する。  
5 関係行政機関の長は、前条の目的を達成するため、対応措置の実施に関し、防衛大臣に協力するものとする。  
(定義等)  
第三条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。  
一 諸外国の軍隊等国際社会の平和及び安全を脅かす事態に関し、次のいずれかの国際連合の総会又は安全保障理事会の決議が存在する場合において、当該事態に対処するための活動を行う外国の軍隊その他これに類する組織(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(平成四年法律第七十九号)第三条第一号に規定する国際連合平和維持活動、同条第二号に規定する国際連携平和安全活動又は同条第三号に規定する人道的な国際救援活動を行うもの及び重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(平成十一年法律第六十号)第三条第一項第一号に規定する合衆国軍隊等を除く。)をいう。  
イ 当該外国が当該活動を行うことを決定し、要請し、勧告し、又は認める決議  
ロ イに掲げるもののほか、当該事態が平和に対する脅威又は平和の破壊であるとの認識を示すとともに、当該事態に関連して国際連合加盟国の取組を求める決議  
二 協力支援活動諸外国の軍隊等に対する物品及び役務の提供であって、我が国が実施するものをいう。  
三 捜索救助活動諸外国の軍隊等の活動に際して行われた戦闘行為によって遭難した戦闘参加者について、その捜索又は救助を行う活動(救助した者の輸送を含む。)であって、我が国が実施するものをいう。  
2 協力支援活動として行う自衛隊に属する物品の提供及び自衛隊による役務の提供(次項後段に規定するものを除く。)は、別表第一に掲げるものとする。  
3 捜索救助活動は、自衛隊の部隊等(自衛隊法(昭和二十九年法律第百六十五号)第八条に規定する部隊等をいう。以下同じ。)が実施するものとする。この場合において、捜索救助活動を行う自衛隊の部隊等において、その実施に伴い、当該活動に相当する活動を行う諸外国の軍隊等の部隊に対して協力支援活動として行う自衛隊に属する物品の提供及び自衛隊による役務の提供は、別表第二に掲げるものとする。
第二章 対応措置等  
(基本計画)  
第四条 内閣総理大臣は、国際平和共同対処事態に際し、対応措置のいずれかを実施することが必要であると認めるときは、当該対応措置を実施すること及び当該対応措置に関する基本計画(以下「基本計画」という。)の案につき閣議の決定を求めなければならない。  
2 基本計画に定める事項は、次のとおりとする。  
一 国際平和共同対処事態に関する次に掲げる事項  
イ 事態の経緯並びに国際社会の平和及び安全に与える影響  
ロ 国際社会の取組の状況  
ハ 我が国が対応措置を実施することが必要であると認められる理由  
二 前号に掲げるもののほか、対応措置の実施に関する基本的な方針  
三 前条第二項の協力支援活動を実施する場合における次に掲げる事項  
イ 当該協力支援活動に係る基本的事項  
ロ 当該協力支援活動の種類及び内容  
ハ 当該協力支援活動を実施する区域の範囲及び当該区域の指定に関する事項  
ニ 当該協力支援活動を自衛隊が外国の領域で実施する場合には、当該協力支援活動を外国の領域で実施する自衛隊の部隊等の規模及び構成並びに装備並びに派遣期間  
ホ 自衛隊がその事務又は事業の用に供し又は供していた物品以外の物品を調達して諸外国の軍隊等に無償又は時価よりも低い対価で譲渡する場合には、その実施に係る重要事項  
ヘ その他当該協力支援活動の実施に関する重要事項  
四 捜索救助活動を実施する場合における次に掲げる事項  
イ 当該捜索救助活動に係る基本的事項  
ロ 当該捜索救助活動を実施する区域の範囲及び当該区域の指定に関する事項  
ハ 当該捜索救助活動の実施に伴う前条第三項後段の協力支援活動の実施に関する重要事項(当該協力支援活動を実施する区域の範囲及び当該区域の指定に関する事項を含む。)  
ニ 当該捜索救助活動又はその実施に伴う前条第三項後段の協力支援活動を自衛隊が外国の領域で実施する場合には、これらの活動を外国の領域で実施する自衛隊の部隊等の規模及び構成並びに装備並びに派遣期間  
ホ その他当該捜索救助活動の実施に関する重要事項  
五 船舶検査活動を実施する場合における重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律第  
四条第二項に規定する事項  
六 対応措置の実施のための関係行政機関の連絡調整に関する事項  
3 協力支援活動又は捜索救助活動を外国の領域で実施する場合には、当該外国(第二条第四項に規定する機関がある場合にあっては、当該機関)と協議して、実施する区域の範囲を定めるものとする。  
(国会への報告)  
第五条 内閣総理大臣は、次に掲げる事項を、遅滞なく、国会に報告しなければならない。 一 基本計画の決定又は変更があったときは、その内容  
二 基本計画に定める対応措置が終了したときは、その結果  
2 1の(一)又は(六)に掲げる業務を実施する場合にあっては、国際連合平和維持活動等が実施されること及び我が国が国際平和協力業務を実施することにつき、当該活動が行われる地域の属する国等の同意が当該活動及び当該業務が行われる期間を通じて安定的に維持されていると認められなければならないものとすること。  
3 内閣総理大臣は、自衛隊の部隊等が1の(一)に掲げる業務又は国際連携平和安全活動のために武力紛争の停止の遵守状況の監視、緩衝地帯における駐留、巡回等の一定の業務を実施しようとする場合は、実施計画を添えて国会の承認を求めなければならないものとすること。  
(国会の承認)  
第六条 内閣総理大臣は、対応措置の実施前に、当該対応措置を実施することにつき、基本計画を添えて国会の承認を得なければならない。  
2 前項の規定により内閣総理大臣から国会の承認を求められた場合には、先議の議院にあっては内閣総理大臣が国会の承認を求めた後国会の休会中の期間を除いて七日以内に、後議の議院にあっては先議の議院から議案の送付があった後国会の休会中の期間を除いて七日以内に、それぞれ議決するよう努めなければならない。  
3 内閣総理大臣は、対応措置について、第一項の規定による国会の承認を得た日から二年を経過する日を超えて引き続き当該対応措置を行おうとするときは、当該日の三十日前の日から当該日までの間に、当該対応措置を引き続き行うことにつき、基本計画及びその時までに行った対応措置の内容を記載した報告書を添えて国会に付議して、その承認を求めなければならない。ただし、国会が閉会中の場合又は衆議院が解散されている場合には、その後最初に召集される国会においてその承認を求めなければならない。  
4 政府は、前項の場合において不承認の議決があったときは、遅滞なく、当該対応措置を終了させなければならない。  
5 前二項の規定は、国会の承認を得て対応措置を継続した後、更に二年を超えて当該対応措置を引き続き行おうとする場合について準用する。  
(協力支援活動の実施)  
第七条 防衛大臣又はその委任を受けた者は、基本計画に従い、第三条第二項の協力支援活動としての自衛隊に属する物品の提供を実施するものとする。  
2 防衛大臣は、基本計画に従い、第三条第二項の協力支援活動としての自衛隊による役務の提供について、実施要項を定め、これについて内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊等にその実施を命ずるものとする。  
3 防衛大臣は、前項の実施要項において、実施される必要のある役務の提供の具体的内容を考慮し、自衛隊の部隊等がこれを円滑かつ安全に実施することができるように当該協力支援活動を実施する区域(以下この条において「実施区域」という。)を指定するものとする。  
4 防衛大臣は、実施区域の全部又は一部において、自衛隊の部隊等が第三条第二項の協力支援活動を円滑かつ安全に実施することが困難であると認める場合又は外国の領域で実施する当該協力支援活動についての第二条第四項の同意が存在しなくなったと認める場合には、速やかに、その指定を変更し、又はそこで実施されている活動の中断を命じなければならない。  
5 第三条第二項の協力支援活動のうち我が国の領域外におけるものの実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の長又はその指定する者は、当該協力支援活動を実施している場所若しくはその近傍において戦闘行為が行われるに至った場合若しくは付近の状況等に照らして戦闘行為が行われることが予測される場合又は当該部隊等の安全を確保するため必要と認める場合には、当該協力支援活動の実施を一時休止し又は避難するなどして危険を回避しつつ、前項の規定による措置を待つものとする。  
6 第二項の規定は、同項の実施要項の変更(第四項の規定により実施区域を縮小する変更を除く。)について準用する。  
(捜索救助活動の実施等) 第八条 防衛大臣は、基本計画に従い、捜索救助活動について、実施要項を定め、これについて内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊等にその実施を命ずるものとする。  
2 防衛大臣は、前項の実施要項において、実施される必要のある捜索救助活動の具体的内容を考慮し、自衛隊の部隊等がこれを円滑かつ安全に実施することができるように当該捜索救助活動を実施する区域(以下この条において「実施区域」という。)を指定するものとする。  
3 捜索救助活動を実施する場合において、戦闘参加者以外の遭難者が在るときは、これを救助するものとする。  
4 前条第四項の規定は、実施区域の指定の変更及び活動の中断について準用する。  
5 前条第五項の規定は、我が国の領域外における捜索救助活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の長又はその指定する者について準用する。この場合において、同項中「前項」とあるのは、「次条第四項において準用する前項」と読み替えるものとする。  
6 前項において準用する前条第五項の規定にかかわらず、既に遭難者が発見され、自衛隊の部隊等がその救助を開始しているときは、当該部隊等の安全が確保される限り、当該遭難者に係る捜索救助活動を継続することができる。  
7 第一項の規定は、同項の実施要項の変更(第四項において準用する前条第四項の規定により実施区域を縮小する変更を除く。)について準用する。  
8 前条の規定は、捜索救助活動の実施に伴う第三条第三項後段の協力支援活動について準用する。  
(自衛隊の部隊等の安全の確保等)  
第九条 防衛大臣は、対応措置の実施に当たっては、その円滑かつ効果的な推進に努めるとともに、自衛隊の部隊等の安全の確保に配慮しなければならない。  
(関係行政機関の協力)  
第十条 防衛大臣は、対応措置を実施するため必要があると認めるときは、関係行政機関の長に対し、その所管に属する物品の管理換えその他の協力を要請することができる。  
2 関係行政機関の長は、前項の規定による要請があったときは、その所掌事務に支障を生じない限度において、同項の協力を行うものとする。  
(武器の使用)  
第十一条 第七条第二項(第八条第八項において準用する場合を含む。第五項及び第六項において同じ。)の規定により協力支援活動としての自衛隊の役務の提供の実施を命ぜられ、又は第八条第一項の規定により捜索救助活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官は、自己又は自己と共に現場に所在する他の自衛隊員(自衛隊法第二条第五項に規定する隊員をいう。第六項において同じ。)若しくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者の生命又は身体の防護のためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器(自衛隊が外国の領域で当該  
協力支援活動又は当該捜索救助活動を実施している場合については、第四条第二項第三号ニ又は第四号ニの規定により基本計画に定める装備に該当するものに限る。以下この条において同じ。)を使用することができる。  
2 前項の規定による武器の使用は、当該現場に上官が在るときは、その命令によらなければならない。ただし、生命又は身体に対する侵害又は危難が切迫し、その命令を受けるいとまがないときは、この限りでない。  
3 第一項の場合において、当該現場に在る上官は、統制を欠いた武器の使用によりかえって生命若しくは身体に対する危険又は事態の混乱を招くこととなることを未然に防止し、当該武器の使用が同項及び次項の規定に従いその目的の範囲内において適正に行われることを確保する見地から必要な命令をするものとする。  
4 第一項の規定による武器の使用に際しては、刑法(明治四十年法律第四十五号)第三十六条又は第三十七条の規定に該当する場合を除いては、人に危害を与えてはならない。  
5 第七条第二項の規定により協力支援活動としての自衛隊の役務の提供の実施を命ぜられ、又は第八条第一項の規定により捜索救助活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官は、外国の領域に設けられた当該部隊等の宿営する宿営地(宿営のために使用する区域であって、囲障が設置されることにより他と区別されるものをいう。以下この項において同じ。)であって諸外国の軍隊等の要員が共に宿営するものに対する攻撃があった場合において、当該宿営地以外にその近傍に自衛隊の部隊等の安全を確保することができる場所がないときは、当該宿営地に所在する者の生命又は身体を防護するための措置をとる当該要員と共同して、第一項の規定による武器の使用をすることができる。この場合において、同項から第三項まで及び次項の規定の適用については、第一項中「現場に所在する他の自衛隊員(自衛隊法第二条第五項に規定する隊員をいう。第六項において同じ。)若しくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者」とあるのは「その宿営する宿営地(第五項に規定する宿営地をいう。次項及び第三項において同じ。)に所在する者」と、「その事態」とあるのは「第五項に規定する諸外国の軍隊等の要員による措置の状況をも踏まえ、その事態」と、第二項及び第三項中「現場」とあるのは「宿営地」と、次項中「自衛隊員」とあるのは「自衛隊員(同法第二条第五項に規定する隊員をいう。)」とする。  
6 自衛隊法第九十六条第三項の規定は、第七条第二項の規定により協力支援活動としての自衛隊の役務の提供(我が国の領域外におけるものに限る。)の実施を命ぜられ、又は第八条第一項の規定により捜索救助活動(我が国の領域外におけるものに限る。)の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官については、自衛隊員以外の者の犯した犯罪に関しては適用しない。
第三章 雑則  
(物品の譲渡及び無償貸付け)  
第十二条 防衛大臣又はその委任を受けた者は、協力支援活動の実施に当たって、自衛隊に属する物品(武器を除く。)につき、協力支援活動の対象となる諸外国の軍隊等から第三条第一項第一号に規定する活動(以下「事態対処活動」という。)の用に供するため当該物品の譲渡又は無償貸付けを求める旨の申出があった場合において、当該事態対処活動の円滑な実施に必要であると認めるときは、その所掌事務に支障を生じない限度において、当該申出に係る物品を当該諸外国の軍隊等に対し無償若しくは時価よりも低い対価で譲渡し、又は無償で貸し付けることができる。  
(国以外の者による協力等)  
第十三条 防衛大臣は、前章の規定による措置のみによっては対応措置を十分に実施することができないと認めるときは、関係行政機関の長の協力を得て、物品の譲渡若しくは貸付け又は役務の提供について国以外の者に協力を依頼することができる。  
2 政府は、前項の規定により協力を依頼された国以外の者に対し適正な対価を支払うとともに、その者が当該協力により損失を受けた場合には、その損失に関し、必要な財政上の措置を講ずるものとする。  
(請求権の放棄)  
第十四条 政府は、自衛隊が協力支援活動又は捜索救助活動(以下この条において「協力支援活動等」という。)を実施するに際して、諸外国の軍隊等の属する外国から、当該諸外国の軍隊等の行う事態対処活動又は協力支援活動等に起因する損害についての請求権を相互に放棄することを約することを求められた場合において、これに応じることが相互の連携を確保しながらそれぞれの活動を円滑に実施する上で必要と認めるときは、事態対処活動に起因する損害についての当該外国及びその要員に対する我が国の請求権を放棄することを約することができる。  
(政令への委任)  
第十五条 この法律に定めるもののほか、この法律の実施のための手続その他この法律の施行に関し必要な事項は、政令で定める。
附則  
この法律は、我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律(平成二十七年法律第 号)の施行の日から施行する。
別表第一(第三条関係)  
種類 内容   
補給 給水、給油、食事の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
輸送 人員及び物品の輸送、輸送用資材の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
修理及び整備 修理及び整備、修理及び整備用機器並びに部品及び構成品の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
医療 傷病者に対する医療、衛生機具の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
通信 通信設備の利用、通信機器の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
空港及び港湾業務 航空機の離発着及び船舶の出入港に対する支援、積卸作業並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
基地業務 廃棄物の収集及び処理、給電並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
宿泊 宿泊設備の利用、寝具の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
保管 倉庫における一時保管、保管容器の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
施設の利用 土地又は建物の一時的な利用並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
訓練業務 訓練に必要な指導員の派遣、訓練用器材の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
建設 建築物の建設、建設機械及び建設資材の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
備考 物品の提供には、武器の提供を含まないものとする。  
別表第二(第三条関係)  
種類 内容  
補給 給水、給油、食事の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
輸送 人員及び物品の輸送、輸送用資材の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
修理及び整備 修理及び整備、修理及び整備用機器並びに部品及び構成品の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
医療 傷病者に対する医療、衛生機具の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
通信 通信設備の利用、通信機器の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
宿泊 宿泊設備の利用、寝具の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
消毒 消毒、消毒機具の提供並びにこれらに類する物品及び役務の提供  
備考 物品の提供には、武器の提供を含まないものとする   
理由  
国際社会の平和及び安全を脅かす事態であって、その脅威を除去するために国際社会が国際連合憲章の目的に従い共同して対処する活動を行い、かつ、我が国が国際社会の一員としてこれに主体的かつ積極的に寄与する必要があるものに際し、当該活動を行う諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等を行うことにより、国際社会の平和及び安全の確保に資することができるようにする必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。
平和安全法制整備法  
我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律 

 

第一 自衛隊法の一部改正  
一 自衛隊の任務  
防衛出動を命ずることができる事態の追加及び周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律の一部改正に伴い、自衛隊の任務を改めること。  
二 防衛出動  
1 内閣総理大臣が自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる事態として、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態を追加すること。  
2 自衛隊法第七十七条の二の防御施設構築の措置、同法第八十条の海上保安庁の統制、同法第九十二条の防衛出動時の公共の秩序の維持のための権限、同法第九十二条の二の防衛出動時の緊急通行、同法第百三条の防衛出動時における物資の収用等に係る規定等については、1の事態に係る出動には適用しないものとすること。  
三 在外邦人等の保護措置  
1 防衛大臣は、外務大臣から外国における緊急事態に際して生命又は身体に危害が加えられるおそれがある邦人の警護、救出その他の当該邦人の生命又は身体の保護のための措置(輸送を含む。以下「保護措置」という。)を行うことの依頼があった場合において、外務大臣と協議し、内閣総理大臣の承認を得て、部隊等に当該保護措置を行わせることができるものとすること。  
2 防衛大臣は、1により保護措置を行わせる場合において、外務大臣から保護することを依頼された外国人その他の当該保護措置と併せて保護を行うことが適当と認められる者(3において「その他の保護対象者」という。)の生命又は身体の保護のための措置を部隊等に行わせることができるものとすること。  
3 1により外国の領域において保護措置を行う職務に従事する自衛官は、その職務を行うに際し、自己若しくは当該保護措置の対象である邦人若しくはその他の保護対象者の生命若しくは身体の防護又はその職務を妨害する行為の排除のためやむを得ない必要があると認める相当の理由があるときは、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができるものとすること。  
四 合衆国軍隊等の部隊の武器等の防護のための武器の使用  
1 自衛官は、アメリカ合衆国の軍隊その他の外国の軍隊その他これに類する組織(2において「合衆国軍隊等」という。)の部隊であって自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動(共同訓練を含み、現に戦闘行為が行われている現場で行われるものを除く。)に現に従事しているものの武器等を職務上警護するに当たり、人又は武器等を防護するため必要であると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができるものとすること。  
2 1の警護は、合衆国軍隊等から要請があった場合であって、防衛大臣が必要と認めるときに限り、自衛官が行うものとすること。  
五 合衆国軍隊に対する物品又は役務の提供  
1 防衛大臣又はその委任を受けた者は、次に掲げる合衆国軍隊(アメリカ合衆国の軍隊をいう。)から要請があった場合には、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、当該合衆国軍隊に対し、自衛隊に属する物品の提供を実施することができるものとすること。  
(一)自衛隊及び合衆国軍隊の双方の参加を得て行われる訓練に参加する合衆国軍隊  
(二)自衛隊法第八十一条の二第一項第二号に掲げる施設及び区域に係る同項の警護を行う自衛隊の部隊等と共に当該施設及び区域内に所在して当該施設及び区域の警護を行う合衆国軍隊  
(三)保護措置を行う自衛隊の部隊等又は自衛隊法第八十二条の二の海賊対処行動、同法第八十二条の三第一項若しくは第三項の弾道ミサイル等を破壊する措置をとるための必要な行動、同法第八十四条の二の機雷等の除去若しくは我が国の防衛に資する情報の収集のための活動を行う自衛隊の部隊と共に現場に所在してこれらの行動又は活動と同種の活動を行う合衆国軍隊  
(四)訓練、連絡調整その他の日常的な活動のため、航空機、船舶又は車両により合衆国軍隊の施設に到着して一時的に滞在する部隊等と共に現場に所在し、訓練、連絡調整その他の日常的な活動を行う合衆国軍隊  
2 防衛大臣は、1の(一)から(四)までに掲げる合衆国軍隊から要請があった場合には、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、防衛省の機関又は部隊等に、当該合衆国軍隊に対する役務の提供を行わせることができるものとすること。  
六 国外犯に係る罰則  
一部の罪について、日本国外において犯した者にも適用し、又は刑法第二条の例に従うものとすること。  
七 その他所要の規定の整備を行うこと。
第二 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律の一部改正(第二条関係)  
一 協力の対象となる活動及びその態様の追加等  
1 国際平和協力業務の実施又は物資協力の対象として新たに国際連携平和安全活動を追加し、当該活動の定義について、国際連合の総会、安全保障理事会若しくは経済社会理事会が行う決議等に巷基づき、紛争当事者間の武力紛争の再発の防止に関する合意の遵守の確保、紛争による混乱に伴う切迫した暴力の脅威からの住民の保護、武力紛争の終了後に行われる民主的な手段による統治組織の設立及び再建の援助等を目的として行われる活動であって、二以上の国の連携により実施されるもののうち、次に掲げるものとすること。  
(一) 武力紛争の停止及びこれを維持するとの紛争当事者間の合意があり、かつ、当該活動が行われる地域の属する国及び紛争当事者の当該活動が行われることについての同意がある場合に、いずれの紛争当事者にも偏ることなく実施される活動  
(二)武力紛争が終了して紛争当事者が当該活動が行われる地域に存在しなくなった場合において、当該活動が行われる地域の属する国の当該活動が行われることについての同意がある場合に実施される活動  
(三)武力紛争がいまだ発生していない場合において、当該活動が行われる地域の属する国の当該活動が行われることについての同意がある場合に、武力紛争の発生を未然に防止することを主要な目的として、特定の立場に偏ることなく実施される活動  
2 防衛大臣は、国際連合の要請に応じ、国際連合の業務であって、国際連合平和維持活動に参加する自衛隊の部隊等又は外国の軍隊の部隊により実施される業務の統括に関するものに従事させるため、内閣総理大臣の同意を得て、自衛官を派遣することができるものとすること。  
3 国際的な選挙監視活動について、紛争による混乱を解消する過程で行われる選挙等を含めるものとすること。  
4 選挙の監視等に係る国際平和協力業務に従事する隊員を選考により採用する者及び自衛隊員以外の関係行政機関の職員に限るものとすること。  
二 国際平和協力業務の種類の追加  
1 国際平和協力業務の種類として次に掲げる業務を追加すること。  
(一)防護を必要とする住民、被災民その他の者の生命、身体及び財産に対する危害の防止及び抑止その他特定の区域の保安のための監視、駐留、巡回、検問及び警護  
(二)矯正行政事務に関する助言若しくは指導又は矯正行政事務の監視  
(三)立法又は司法に関する事務に関する助言又は指導  
(四)国の防衛に関する組織等の設立又は再建を援助するための助言若しくは指導又は教育訓練に関する業務  
(五)国際連合平和維持活動又は国際連携平和安全活動を統括し、又は調整する組織において行う一定の業務の実施に必要な企画及び立案並びに調整又は情報の収集整理  
(六)自衛隊の部隊等が武力紛争の停止の遵守状況の監視、緩衝地帯における駐留、巡回等の一定の国際平和協力業務((一)に掲げる業務を含む。)以外の業務を行う場合であって、国際連合平和維持活動、国際連携平和安全活動若しくは人道的な国際救援活動に従事する者又はこれらの活動を支援する者(以下「活動関係者」という。)の生命又は身体に対する不測の侵害又は危難が生じ、又は生ずるおそれがある場合に、緊急の要請に対応して行う当該活動関係者の生命及び身体の保護  
2 1の(一)又は(六)に掲げる業務を実施する場合にあっては、国際連合平和維持活動等が実施されること及び我が国が国際平和協力業務を実施することにつき、当該活動が行われる地域の属する国等の同意が当該活動及び当該業務が行われる期間を通じて安定的に維持されていると認められなければならないものとすること。  
3 内閣総理大臣は、自衛隊の部隊等が1の(一)に掲げる業務又は国際連携平和安全活動のために武力紛争の停止の遵守状況の監視、緩衝地帯における駐留、巡回等の一定の業務を実施しようとする場合は、実施計画を添えて国会の承認を求めなければならないものとすること。  
三 武器の使用  
1 国際平和協力業務に従事する自衛官は、その宿営する宿営地であって当該業務に従事する外国の軍隊の部隊の要員が共に宿営するものに対する攻撃があったときは、当該宿営地に所在する者の生命又は身体を防護するための措置をとる当該要員と共同して、武器の使用をすることができるものとすること。  
2 二の1の(一)に掲げる業務に従事する自衛官は、その業務を行うに際し、自己若しくは他人の生命、身体若しくは財産を防護し、又はその業務を妨害する行為を排除するためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で、武器を使用することができるものとすること。  
3 二の1の(六)に掲げる業務に従事する自衛官は、その業務を行うに際し、自己又はその保護しようとする活動関係者の生命又は身体を防護するためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で、武器を使用することができるものとすること。  
四 その他の措置  
1 国際平和協力本部長は、国際平和協力隊の隊員の安全の確保に配慮しなければならないものとすること。  
2 人道的な国際救援活動の要請を行う国際機関を掲げる別表に新たな機関を加えること。  
3 停戦合意のない場合における物資協力の対象となる国際機関を掲げる別表に2の機関を加えるとともに、当該物資協力の要件を明確化すること。  
4 政府は、国際連合平和維持活動等に参加するに際して、活動参加国等から、これらの活動に起因する損害についての請求権を相互に放棄することを約することを求められた場合において必要と認めるときは、我が国の請求権を放棄することを約することができるものとすること。  
5 防衛大臣等は、国際連合平和維持活動等を実施する自衛隊の部隊等と共に活動が行われる地域に所在して大規模な災害に対処するアメリカ合衆国又はオーストラリアの軍隊から応急の措置に必要な物品又は役務の提供に係る要請があったときは、これを実施することができるものとすること。  
五 その他所要の規定の整備を行うこと。
第三 周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律の一部改正  
(第三条関係)  
一 題名  
この法律の題名を「重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」に改めること。  
二 目的  
この法律の目的に、そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態(以下「重要影響事態」という。)に際し、合衆国軍隊等に対する後方支援活動等を行うことにより、日米安保条約の効果的な運用に寄与することを中核とする重要影響事態に対処する外国との連携を強化する旨を明記すること。  
三 重要影響事態への対応の基本原則  
1 後方支援活動及び捜索救助活動は、現に戦闘行為が行われている現場では実施しないものとすること。ただし、既に遭難者が発見され、自衛隊の部隊等がその救助を開始しているときは、当該部隊等の安全が確保される限り、当該遭難者に係る捜索救助活動を継続することができるものとすること。  
2 外国の領域における対応措置については、当該対応措置が行われることについて当該外国等の同意がある場合に限り実施されるものとすること。  
四 定義  
1 この法律において「合衆国軍隊等」とは、重要影響事態に対処し、日米安保条約の目的の達成に寄与する活動を行うアメリカ合衆国の軍隊及びその他の国際連合憲章の目的の達成に寄与する活動を行う外国の軍隊その他これに類する組織をいうものとすること。  
2 この法律において「後方支援活動」とは、合衆国軍隊等に対する物品及び役務の提供、便宜の供与その他の支援措置であって、我が国が実施するものをいうものとすること。  
3 この法律において「捜索救助活動」とは、重要影響事態において行われた戦闘行為によって遭難した戦闘参加者について、その捜索又は救助を行う活動(救助した者の輸送を含む。)であって、我が国が実施するものをいうものとすること。  
五 基本計画  
1 基本計画に定める事項として、重要影響事態に関する次に掲げる事項等を追加すること。  
(一)事態の経緯並びに我が国の平和及び安全に与える影響  
(二)我が国が対応措置を実施することが必要であると認められる理由  
(三)後方支援活動又は捜索救助活動若しくはその実施に伴う後方支援活動を自衛隊が外国の領域で実施する場合には、これらの活動を外国の領域で実施する自衛隊の部隊等の規模及び構成並びに装備並びに派遣期間  
2 1の(三)の場合には、当該外国等と協議して、実施する区域の範囲を定めるものとすること。  
六 武器の使用  
1 後方支援活動としての自衛隊の役務の提供又は捜索救助活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官は、自己又は自己と共に現場に所在する他の自衛隊員若しくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者の生命又は身体を防護するため武器を使用することができるものとすること。  
2 1の自衛官は、外国の領域に設けられた当該部隊等の宿営する宿営地であって合衆国軍隊等の要員が共に宿営するものに対する攻撃があった場合において、当該宿営地以外にその近傍に自衛隊の部隊等の安全を確保することができる場所がないときは、当該宿営地に存在する者の生命又は身体を防護するための措置をとる当該要員と共同して、1による武器の使用をすることができるものとすること。  
七 その他所要の規定を整備すること。
第四 周辺事態に際して実施する船舶検査活動に関する法律の一部改正(第四条関係)  
一 題名  
この法律の題名を「重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律」に改めること。  
二 目的  
この法律の目的を、重要影響事態又は国際平和共同対処事態に対応して我が国が実施する船舶検査活動に関し、その実施の態様、手続その他の必要な事項を定め、重要影響事態安全確保法及び国際平和協力支援活動法と相まって、我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資することとすること。  
三 船舶検査活動の実施等  
1 重要影響事態又は国際平和共同対処事態における船舶検査活動は、自衛隊の部隊等が実施するものとすること。  
2 船舶検査活動又はその実施に伴う後方支援活動若しくは協力支援活動を外国の領域で実施する場合には、これらの活動を外国の領域で実施する自衛隊の部隊等の装備及び派遣期間を重要影響事態安全確保法又は国際平和協力支援活動法に規定する基本計画に定めるものとすること。  
3 2の場合には、当該外国等と協議して、実施する区域の範囲を定めるものとすること。  
四 武器の使用  
船舶検査活動又はその実施に伴う後方支援活動若しくは協力支援活動としての自衛隊の役務の提供の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官は、自己又は自己と共に現場に所在する他の自衛隊員若しくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者の生命又は身体を防護するため武器を使用することができるものとすること。  
五 その他所要の規定の整備を行うこと。
第五 武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律の一部改正(第五条関係)  
一 題名  
この法律の題名を「武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」に改めること。  
二 目的  
この法律の目的に、存立危機事態への対処について、基本となる事項を定めることにより、存立危機事態への対処のための態勢を整備する旨を明記すること。  
三 定義  
1 この法律において「存立危機事態」とは、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいうものとすること。  
2 「対処措置」の定義に、存立危機事態の推移に応じて実施する措置を追加すること。  
四 基本理念  
存立危機事態への対処に関する基本理念を定めること。  
五 国の責務  
1 国は、組織及び機能の全てを挙げて、存立危機事態に対処するとともに、国全体として万全の措置が講じられるようにする責務を有するものとすること。  
2 国は、武力攻撃事態等及び存立危機事態への円滑かつ効果的な対処が可能となるよう、関係機関が行うこれらの事態への対処についての訓練その他の関係機関相互の緊密な連携協力の確保に資する施策を実施するものとすること。  
六 対処基本方針  
1 政府は、存立危機事態に至ったときは、対処基本方針を定めるものとすること。  
2 対処基本方針に定める事項として、対処すべき事態に関する次に掲げる事項を追加すること。  
(一)事態の経緯、事態が武力攻撃事態であること、武力攻撃予測事態であること又は存立危機事態であることの認定及び当該認定の前提となった事実  
(二)事態が武力攻撃事態又は存立危機事態であると認定する場合にあっては、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がなく、事態に対処するため武力の行使が必要であると認められる理由  
3 存立危機事態においては、対処基本方針には、(一)に掲げる内閣総理大臣が行う国会の承認(衆議院が解散されているときは、日本国憲法第五十四条に規定する緊急集会による参議院の承認)の求めを行う場合にあってはその旨を、内閣総理大臣が(二)に掲げる防衛出動を命ずる場合にあってはその旨を記載しなければならないものとすること。 (一) 内閣総理大臣が防衛出動を命ずることについての自衛隊法第七十六条第一項の規定に基づく国会の承認の求め (二) 自衛隊法第七十六条第一項に基づき内閣総理大臣が命ずる防衛出動  
七 その他所要の規定の整備を行うこと。
第六 武力攻撃事態等におけるアメリカ合衆国の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律の一部改正(第六条関係)  
一 題名  
この法律の題名を「武力攻撃事態等及び存立危機事態におけるアメリカ合衆国等の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律」に改めること。  
二 目的  
この法律の目的に、武力攻撃事態等又は存立危機事態において自衛隊と協力して武力攻撃又は存立危機武力攻撃を排除するために必要な外国軍隊の行動が円滑かつ効果的に実施されるための措置等について定める旨を明記すること。  
三 定義  
1 この法律において「外国軍隊」とは、武力攻撃事態等又は存立危機事態において、自衛隊と協力して武力攻撃又は存立危機武力攻撃を排除するために必要な行動を実施している外国の軍隊(武力攻撃事態等において、日米安保条約に従って武力攻撃を排除するために必要な行動を実施しているアメリ力合衆国の軍隊を除く。)をいうものとすること。  
2 「行動関連措置」の定義に、武力攻撃事態等又は存立危機事態において、外国軍隊の行動が円滑かつ効果的に実施されるための措置その他の外国軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置を追加すること。  
四 その他所要の規定の整備を行うこと。
第七 武力攻撃事態等における特定公共施設等の利用に関する法律の一部改正(第七条関係)  
「対処措置等」の定義に、外国軍隊が実施する自衛隊と協力して武力攻撃を排除するために必要な行動を追加すること。
第八 武力攻撃事態における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する法律の一部改正(第八条関係)  
一 この法律の題名を「武力攻撃事態及び存立危機事態における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する法律」に改めること。  
二 存立危機事態における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する所要の規定の整備を行うこと。
第九 武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律の一部改正(第9条関係)  
一 この法律の題名を「武力攻撃事態及び存立危機事態における捕虜等の取扱いに関する法律」に改めること。  
二 存立危機事態における捕虜等の拘束、抑留その他の取扱いに関する所要の規定の整備を行うこと。
第十 国家安全保障会議設置法の一部改正(第十条関係)  
一 国家安全保障会議は、存立危機事態への対処に関する基本的な方針、存立危機事態、重要影響事態及び国際平和共同対処事態への対処に関する重要事項、国際平和協力業務の実施等に関する重要事項並びに自衛隊の行動に関する重要事項を審議し、必要に応じて内閣総理大臣に対して意見を述べるものとすること。  
二 内閣総理大臣が国家安全保障会議に諮問しなければならない事項として、第二の二の1の(一)又は(六)に掲げる業務の実施に係る国際平和協力業務実施計画の決定及び変更に関するもの並びに第二の一の2の自衛官の国際連合への派遣に関するもの並びに保護措置の実施に関するものを追加すること。  
三 その他所要の規定の整備を行うこと。
第十一 施行期日等(付則関係)  
一 この法律は、公布の日から起算して六月を超えない範囲内において政令で定める日から施行すること。  
二 その他所要の調整規定を設けるほか、関係法律について所要の改正を行うこと。
理由  
我が国を取り巻く安全保障環境の変化を踏まえ、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態に際して実施する防衛出動その他の対処措置、我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に際して実施する合衆国軍隊等に対する後方支援活動等、国際連携平和安全活動のために実施する国際平和協力業務その他の我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するために我が国が実施する措置について定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。  
自衛の措置としての武力の行使の新三要件 

 

 我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること  
 これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと  
 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと  
安保法制懇の報告書提出、自民・公明の与党協議を経て、2014年7月1日、「集団的自衛権」の行使に道を開く方針が閣議決定された。  
新たな武力の行使の「新三要件」を示した  
   [ 従来の三要件 ]  
   我が国に対する急迫不正の侵害があること  
   これを排除するために他の適当な手段がないこと  
   必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと  
「集団的自衛権」を認めた  
「集団安全保障」を否定していない  
自衛隊の実際の活動には根拠法の整備が必要 
一問一答 国家安全保障局   
「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」 

 

国民の命と平和な暮らしを守ることは政府の最も重要な責務です。我が国を取り巻く安全保障環境は一層厳しさを増しています。我が国の安全を確保していくには、日米間の安全保障・防衛協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼及び協力関係を深め、その上で、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする法整備を行うことが必要なのです。これにより、争いを未然に防ぐ力、つまり抑止力を高めることができます。今回の閣議決定は、このような問題意識で、自民、公明の連立与党で濃密な協議を行った結果に基づき、政府として新しい安全保障法制の整備のための基本方針を示したものです。今後、この方針の下、法案作成を行い、国会に十分な審議をお願いしていきます。
集団的自衛権とは何か?  
集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利です。しかし、政府としては、憲法がこのような活動の全てを許しているとは考えていません。今回の閣議決定は、あくまでも国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るための必要最小限度の自衛の措置を認めるだけです。他国の防衛それ自体を目的とするものではありません。  
我が国を取り巻く安全保障環境の変化とは、具体的にどのようなものか?  
例えば、大量破壊兵器や弾道ミサイル等の軍事技術が高度化・拡散し、北朝鮮は日本の大部分をノドンミサイルの射程に入れており、また、核開発も行っています。さらに、グローバルなパワーバランスの変化があり、国際テロの脅威や、海洋、サイバー空間へのアクセスを妨げるリスクも深刻化しています。  
なぜ、今、集団的自衛権を容認しなければならないのか?  
今回の閣議決定は、我が国を取り巻く安全保障環境がますます厳しさを増す中、我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るため、すなわち我が国を防衛するために、やむを得ない自衛の措置として、必要最小限の武力の行使を認めるものです。  
解釈改憲は立憲主義の否定ではないのか?  
今回の閣議決定は、合理的な解釈の限界をこえるいわゆる解釈改憲ではありません。これまでの政府見解の基本的な論理の枠内における合理的なあてはめの結果であり、立憲主義に反するものではありません。  
なぜ憲法改正しないのか?  
今回の閣議決定は、国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るために必要最小限の自衛の措置をするという政府の憲法解釈の基本的考え方を、何ら変えるものではありません。必ずしも憲法を改正する必要はありません。
今後、更に憲法解釈を変更して、世界各国と同様に国際法上合法な集団的自衛権の行使を全面的に認めるようになるのではないか?  
その場合には憲法改正が必要です。なぜなら、世界各国と同様に集団的自衛権の行使を認めるなど、憲法第9条の解釈に関する従来の政府見解の基本的な論理を超えて武力の行使が認められるとするような解釈を現憲法の下で採用することはできません。  
国会での議論を経ずに憲法解釈を変えるのは、国民の代表を無視するものではないか?  
5月に総理が検討の方向性を示して以降、国会では延べ約70名※の議員から質問があり、考え方を説明してきました。自衛隊の実際の活動については法律が決めています。閣議決定に基づき、法案を作成し、国会に十分な審議をお願いしていきます。  
議論が尽くされておらず、国民の理解が得られないのではないか?  
この論議は第一次安倍内閣時から研究を始め、その間、7年にわたりメディア等で議論され、先の総選挙、参院選でも訴えてきたものです。5月に総理が検討の方向性を示して以降、国会では延べ約70名※の議員から質問があり、説明してきました。今後も皆様の理解を頂くよう説明努力を重ねます。  
今回の閣議決定は密室で議論されたのではないか?  
これまで、国会では延べ約70名※の議員からの質問があり、総理・官房長官の記者会見など、様々な場でたびたび説明し、議論しました。閣議決定は、その上で、自民、公明の連立与党の濃密な協議の結果を受けたものです。  
今回拙速に閣議決定だけで決めたのは、集団的自衛権の行使に向けた政府の独走ではないか?  
閣議決定は、政府が意思決定をする方法の中で最も重い決め方です。憲法自体には、自衛権への言及は何もなく、自衛権をめぐるこれまでの昭和47年の政府見解は、閣議決定を経たものではありません。今回の閣議決定は、時間をかけて慎重に議論を重ねた上で行いました。今回の閣議決定があっても、実際に自衛隊が活動できるようになるためには、根拠となる国内法が必要になります。今後、法案を作成し、国会に十分な審議をお願いしていきます。これに加え、実際の行使に当たっては、これまでと同様、国会承認を求めることになり、「新三要件」を満たしているか、政府が判断するのみならず、国会の承認を頂かなければなりません。
今回の閣議決定で議論は終わりなのか?  
今回の閣議決定は、自民、公明の連立与党の濃密な協議の結果に基づき、政府として新しい安全保障法制の整備のための基本方針を示したものです。今後、閣議決定に基づき、法案を作成し、国会に十分な審議をお願いしていきます。  
憲法解釈を変え、平和主義を放棄するのか?  
憲法の平和主義を、いささかも変えるものではありません。大量破壊兵器、弾道ミサイル、サイバー攻撃などの脅威等により、我が国を取り巻く安全保障環境がますます厳しくなる中で「争いを未然に防ぎ、国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るために、いかにすべきか」が基点です。  
憲法解釈を変え、専守防衛を放棄するのか?  
今後も専守防衛を堅持していきます。国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを、とことん守っていきます。  
戦後日本社会の大前提である平和憲法が根底から破壊されるのではないか?  
日本国憲法の基本理念である平和主義は今後とも守り抜いていきます。  
徴兵制が採用され、若者が戦地へと送られるのではないか?  
全くの誤解です。例えば、憲法第18条で「何人も(中略)その意に反する苦役に服させられない」と定められているなど、徴兵制は憲法上認められません。
今回、集団的自衛権に関して憲法解釈の変更をしたのだから、徴兵制も同様に、憲法解釈を変更して導入する可能性があるのではないか?  
徴兵制は、平時であると有事であるとを問わず、憲法第13条(個人の尊重・幸福追求権等)、第18条(苦役からの自由等)などの規定の趣旨から見て許容されるものではなく、解釈変更の余地はありません。  
日本が戦争をする国になり、将来、自分達の子供や若者が戦場に行かされるようになるのではないか?  
日本を戦争をする国にはしません。そのためにも、我が国を取り巻く安全保障環境が厳しくなる中で、国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るために、外交努力により争いを未然に防ぐことを、これまで以上に重視していきます。  
自衛隊員が、海外で人を殺し、殺されることになるのではないか?  
自衛隊員の任務は、これまでと同様、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるというときに我が国と国民を守ることです。  
今回の閣議決定で、自衛隊員が戦闘に巻き込まれ血を流すリスクがこれまで以上に高まるのではないか?  
自衛隊員は、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえること」を宣誓して、任務に当たっています。自衛隊員がいざという時に備えて日頃から厳しい訓練を徹底的に行っている理由はただ一つ。国民の命と平和な暮らしを守るためであり、そのために、他に手段がないからです。新たな法整備により与えられる任務は、これまで同様、危険度の高い任務になります。あくまでも、国民の命と平和な暮らしを守り抜くためのものであるという自衛隊員の任務には、何ら変更はありません。自衛隊員が、海外で、我が国の安全と無関係な戦争に参加することは断じてありません。また、我が国の安全の確保や国際社会の平和と安定のために活動する他国の軍隊に対して、いわゆる後方支援といわれる支援活動を行う場合については、いかなる場所で活動する場合であっても、これまでと同様、自衛隊の部隊の安全を確保しつつ行うことは言うまでもありません。  
歯止めがあいまいで、政府の判断次第で武力の行使が無制約に行われるのではないか?  
国の存立を全うし、国民を守るための自衛の措置としての武力の行使の「新三要件」が、憲法上の明確な歯止めとなっています。さらに、法案においても実際の行使は国会承認を求めることとし、国会によるチェックの仕組みを明確にします。
国会で議論されている「新三要件」に言う「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」の有無は、どのような基準で判断するのか?  
現実に発生した事態の個別・具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思・能力・事態の発生場所、その規模・態様・推移などの要素を総合的に考えて、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから、「新三要件」を満たすか否か客観的、合理的に判断します。  
自衛隊は世界中のどこにでも行って戦うようになるのではないか?  
従来からの「海外派兵は一般に許されない」という原則は全く変わりません。国の存立を全うし、国民を守るための自衛の措置としての武力の行使の「新三要件」により、日本がとり得る措置には自衛のための必要最小限度という歯止めがかかっています。  
国民生活上、石油の供給は必要不可欠ではないか?  
石油なしで国民生活は成り立たないのが現実です。石油以外のエネルギー利用を進める一方で、普段から産油国外交や国際協調に全力を尽くします。  
狭いところで幅33キロメートルの地点もあるホルムズ海峡に機雷が敷設された場合、我が国に大きな影響があるのか?  
我が国が輸入する原油の約8割、天然ガスの2割強は、ホルムズ海峡を通過しており、ホルムズ海峡は、エネルギー安全保障の観点から極めて重要な輸送経路となっています。現在、中東情勢が不安定になっただけで、石油価格が上昇し、ガソリン価格も高騰していますが、仮に、この海峡の地域で武力紛争が発生し、ホルムズ海峡に機雷が敷設された場合には、かつての石油ショックも比較にならない程に高騰し、世界経済は大混乱に陥り、我が国に深刻なエネルギー危機が発生するでしょう。  
日本は石油を備蓄しているから、ホルムズ海峡が封鎖されても「新三要件」に言う「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」に当たらないのではないか?  
石油備蓄が約6ヶ月分ありますが、機雷が除去されなければ危険はなくなりません。石油供給が回復しなければ我が国の国民生活に死活的な影響が生じ、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されることとなる事態は生じ得ます。実際に「新三要件」に当てはまるか否かは、その事態の状況や、国際的な状況等も考慮して判断していくことになります。
日本は石油のために戦争するようになるのではないか?  
憲法上許されるのは、あくまでも我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るための必要最小限の自衛の措置だけです。  
機雷の除去は、海外で武力を行使するものであり、海外派兵に当たるのではないか?  
国際紛争を力で解決するために機雷を敷設し、船舶の自由な航行を妨げることは国際法違反です。自由航行を回復するために機雷を除去することは、国際法上は武力の行使に分類されますが、機雷の除去は受動的、限定的な行為であり、敵を撃破するための大規模な空爆や地上戦とは、性格が大きく異なります。機雷の除去を行う自衛隊の船舶は攻撃的なものではなく、木や強化プラスチックでできており脆弱なため、まさに、そこで戦闘行為が行われているところに派遣して、機雷の除去を行うことは、想定されません。  
従来の政府見解を論拠に逆の結論を導き出すのは矛盾ではないか?  
憲法の基本的な考え方は、何ら変更されていません。我が国を取り巻く安全保障環境がますます厳しくなる中で、他国に対する武力攻撃が我が国の存立を脅かすことも起こり得ます。このような場合に限っては、自衛のための措置として必要最小限の武力の行使が憲法上許されると判断したものです。  
今回の閣議決定により、米国の戦争に巻き込まれるようになるのではないか?  
憲法上許されるのは、あくまで我が国の存立を全うし、国民の命を守るための自衛の措置だけです。もとより、外交努力による解決を最後まで重ねていく方針は今後も揺らぎません。万が一の事態での自衛の措置を十分にしておくことで、却って紛争も予防され、日本が戦争に巻き込まれるリスクはなくなっていきます。  
米国から戦争への協力を要請された場合に、断れなくなるのではないか?  
武力行使を目的として、イラク戦争や湾岸戦争のような戦闘に参加することは、これからもありません。我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がない場合、他に適当な手段がある場合、必要最小限の範囲を超える場合は、「新三要件」を満たさず、「できない」と答えるのは当然のことです。
今回の閣議決定により、必要ない軋轢を生み、戦争になるのではないか?  
総理や大臣が、世界を広く訪問して我が国の考え方を説明し、多くの国々から理解と支持を得ています。万が一の事態での自衛の措置を十分にしておくことで、かえって紛争も予防され、日本が戦争に巻き込まれるリスクはなくなっていきます。  
今回の閣議決定によっても、結局戦争を起こそうとする国を止められないのではないか?  
日本自身が万全の備えをし、日米間の安全保障・防衛協力を強化することで、日本に対して戦争を仕掛けようとする企みをくじく力、すなわち抑止力が強化されます。閣議決定を受けた法案を、国会で審議、成立を頂くことで、日本が戦争に巻き込まれるリスクはなくなっていきます。  
武器輸出の緩和に続いて今回の閣議決定を行い、軍国主義へ突き進んでいるのではないか?  
今回の閣議決定は戦争への道を開くものではありません。むしろ、日本の防衛のための備えを万全にすることで、日本に戦争を仕掛けようとする企みをくじく。つまり抑止力を高め、日本が戦争に巻き込まれるリスクがなくなっていくと考えます。  
今回の政府の決定が防衛予算を増加させ、軍拡競争をあおるのではないか?  
決して軍拡につながることはありません。我が国の防衛予算は、中期防衛力整備計画に基づき、5年間、毎年0.8パーセントずつ増やすことが既に決められていますが、それでも2002年の水準に戻るにすぎません。  
安倍総理はなぜこれほどまでに安全保障政策が好きなのか?  
好き嫌いではありません。総理大臣は、国民の命、平和な暮らしを守るために重い責任を負います。いかなる事態にも対応できるよう、常日頃から隙のない備えをするとともに、各国と協力を深めていかなければなりません。  
※ 人数については安保法制懇報告書提出(平成26年5月15日)から閣議決定(平成26年7月1日)の間に、国会に質問通告した議員の述べ人数  
 

 

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