綺堂むかし語り

綺堂むかし語り
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諸話 / 岡本綺堂「番町皿屋敷」論知人批評黙阿弥私論
 

雑学の世界・補考   

綺堂むかし語り / 岡本綺堂

1 思い出草  
思い出草
赤蜻蛉
私は麹町(こうじまち)元園町(もとぞのちょう)一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更にとどまって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴れの朝、巷(ちまた)に立って見渡すと、この町も昔とはずいぶん変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
江戸(えど)時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川(とくがわ)幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、さらに拓(ひら)かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が初めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだ。
わたしが幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到るところに草原があって、蛇(へび)が出る、狐(きつね)が出る、兎(うざぎ)が出る、私の家のまわりにも秋の草が一面に咲き乱れていて、姉と一緒に笊(ざる)を持って花を摘みに行ったことを微(かす)かに記憶している。その草叢(くさむら)の中には、ところどころに小さい池や溝川(どぶがわ)のようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。
蟹(かに)や蜻蛉(とんぼ)もたくさんにいた。蝙蝠(こうもり)の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋(わらじ)を提(さ)げて「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴れの日には小さい竹|竿(ざお)を持って往来に出ると、北の方から無数の赤とんぼがいわゆる雲霞(うんか)の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩(たた)き落すと、五分か十分のあいだに忽(たちま)ち数十匹の獲物(えもの)があった。今日(こんにち)の子供は多寡(たか)が二|疋(ひき)三疋の赤蜻蛉を見つけて、珍しそうに五人六人もで追い廻している。
きょうは例の赤とんぼ日和(びより)であるが、ほとんど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼の先に泛(う)かんで、年ごとに栄えてゆく此の町がだんだんに詰まらなくなって行くようにも感じた。
茶碗
O君が来て古い番茶茶碗を呉(く)れた。おてつ牡丹餅(ぼたもち)の茶碗である。
おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店(かどみせ)で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢(おおぜい)集まって来る。その傍(わき)に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。眉(まゆ)を落して歯を染めた、小作りの年増(としま)であった。聟(むこ)を貰(もら)ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児(こ)を持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私の稚(おさな)い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手が栽(う)えてあって、その葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口を掃(は)いているのを見た。汁粉(しるこ)と牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余り旨(うま)くはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多(めった)に食いに行ったことはなかった。
おてつ牡丹餅の跡へは、万屋(よろずや)という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌(はんじょう)している。おてつ親子は麻布(あざぶ)の方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
わたしの貰(もら)った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父(おとっ)さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意(こんい)にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶(どびん)や茶碗などを知己(しるべ)の人々に分配した。O君の阿父(おとっ)さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に遣(つか)っている。しかし此(こ)の茶碗には幾人の唇(くちびる)が触れたであろう。
今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼(しんきろう)のように朦朧(もうろう)と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金(ぶんきん)高島田にやの字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐(しず)かにはいって来た。娘の長い袂(たもと)は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
この二人の姿が消えると、芝居で観る久松(ひさまつ)のような丁稚(でっち)がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして縁(えん)に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先(ま)ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を拭(ふ)いて、逃げるようにこそこそと出て行った。
講武所(こうぶしょ)ふうの髷(まげ)に結(ゆ)って、黒|木綿(もめん)の紋付、小倉(こくら)の馬乗り袴(ばかま)、朱鞘(しゅざや)の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯(ほおば)の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇(てっせん)を持っていた。悠々と蒲団(ふとん)の上にすわって、角(つの)細工の骸骨(がいこつ)を根付(ねつけ)にした煙草(たばこ)入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽(らいさんよう)の詩を吟じた。
町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿(おはぐろ)を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ上(のぼ)って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河(ひらかわ)の天神さまへも参詣して行こうと云った。
おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う鬨(とき)の声が揚がった。焙烙(ほうろく)調練が始まったらしい。
わたしは巻煙草を喫(の)みながら、椅子(いす)に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に唇(くちびる)を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。
芸妓
有名なおてつ牡丹餅の店が私の町内の角に存していたころ、その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋(げいしゃや)もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原(よしわら)に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮(やぼ)な町では無かったらしい。
また、その頃のことで私がよく記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確かに今の方がよい。下町(したまち)は知らず、われわれの住む山の手では、商家でも店でこそランプを用(もち)いたれ、奥の住居(すまい)ではたいてい行燈(あんどう)をとぼしていた。家によっては、店先にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯(ガス)燈もない、電燈もない、軒ランプなども無論なかった。したがって、夜の暗いことはほとんど今の人の想像の及ばないくらいで、湯に行くにも提灯(ちょうちん)を持ってゆく。寄席(よせ)に行くにも提灯を持ってゆく。おまけに路がわるい。雪どけの時などには、夜はうっかり歩けないくらいであった。しかし今日(こんにち)のように追剥(おいは)ぎや出歯亀(でばかめ)の噂(うわさ)などは甚(はなは)だ稀(まれ)であった。
遊芸の稽古(けいこ)所と云うものもいちじるしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津(ときわづ)の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今ではほとんど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番|唸(うな)ろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿(しんじゅく)へ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第に亡(ほろ)びてゆく。浪花節の寄席が繁昌(はんじょう)する。
半鐘(はんしょう)の火の見|梯子(ばしご)と云うものは、今は市中に跡を絶ったが、わたしの町内にも高い梯子があった。或る年の秋、大嵐のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌(あく)る朝、私が行ってみると、梯子は根もとから見事に折れて、その隣りの垣を倒していた。その頃には烏瓜(からすうり)が真っ赤に熟して、蔓(つる)や葉が搦(から)み合ったままで、長い梯子と共に横たわっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関(せき)運漕店の旗竿が高く樹(た)っていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。
西郷星
かの西南|戦役(せんえき)は、わたしの幼い頃のことで何んにも知らないが、絵草紙屋(えぞうしや)の店にいろいろの戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで、五銭くらい。また、そのころ流行(はや)った唄に、
紅(あか)い帽子(シャッポ)は兵隊さん、西郷に追われて、トッピキピーノピー。
今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半(よなか)に近所の人がみな起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音がきこえる。父は鉄砲の音だと云う。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て、「なんでも竹橋(たけばし)内で騒動が起きたらしい。時どきに流れだまが飛んで来るから戸を閉めて置け。」と云う。わたしは衾(よぎ)をかぶって蚊帳(かや)の中に小さくなっていると、暫(しばらく)くしてパチパチの音も止(や)んだ。これは近衛(このえ)兵の一部が西南|役(えき)の論功行賞(ろんこうこうしょう)に不平を懐(いだ)いて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
やはり其の年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星(ほうきぼし)が見えた。誰が云い出したか知らないが、これを西郷星(さいごうぼし)と呼んで、さき頃のハレー彗星(すいせい)のような騒ぎであった。しまいには錦絵まで出来て、西郷|桐野(きりの)篠原(しのはら)らが雲の中に現われている図などが多かった。
また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙(きんがみ)を着けて金モールと見せ、附け髭(ひげ)をして西郷の如く拵(こしら)え、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論(もちろん)、一種の玩具(おもちゃ)に過ぎないのであるが、なにしろ西郷というのが呼び物で、大繁昌であった。私などは母にせがんで幾度も買った。
そのほかにも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を食っては毒だ。」と叱(しか)られたので、買わずにしまった。
湯屋
湯屋(ゆうや)の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗(こぎれい)な姐(ねえ)さんが二、三人居た。
わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐(やかん)が掛けてあって、そのわきには菓子の箱が列(なら)べてある。のちに思えば例の三馬(さんば)の「浮世風呂」をその儘(まま)で、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
時はちょうど五月の初めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲(しょうぶ)を花瓶(かびん)に挿(さ)していたのを記憶している。松平紀義(まつだいらのりよし)のお茶(ちゃ)の水(みず)事件で有名な御世梅(ごせめ)お此(この)という女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
その頃の湯風呂には、旧式の石榴口(ざくろぐち)と云うものがあって、夜などは湯煙(ゆげ)が濛々(もうもう)として内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画(か)いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝(すいこでん)の花和尚(かおしょう)と九紋龍(くもんりゅう)、女湯の石榴口には例の西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
男湯と女湯とのあいだは硝子(ガラス)戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。
紙鳶
春風が吹くと、紙鳶(たこ)を思い出す。暮れの二十四、五日ごろから春の七草(ななくさ)、すなわち小学校の冬季休業のあいだは、元園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国(やすくに)神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばすわれわれ少年軍によってほとんど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐって往来したくらいであった。暮れの二十日頃になると、玩具(おもちゃ)屋駄菓子店などまでがほとんど臨時の紙鳶屋に化けるのみか、元園町の角には市商人(いちあきうど)のような小屋掛けの紙鳶屋が出来た。印半纒(しるしばんてん)を着た威勢のいい若い衆の二、三人が詰めていて、糸目を付けるやら鳴弓(うなり)を張るやら、朝から晩まで休みなしに忙がしい。その店には、少年軍が隊をなして詰め掛けていた。
紙鳶は種類もいろいろあったが、普通は字紙鳶(じだこ)、絵紙鳶、奴(やっこ)紙鳶で、一枚、二枚、二枚半、最も多いのは二枚半で、四枚六枚となっては子供には手が付けられなかった。二枚半以上の大(おお)紙鳶は、職人か、もしくは大家(たいけ)の書生などが揚げることになっていた。松の内は大供(おおども)小供(こども)入り乱れて、到るところに糸を手繰(たぐ)る。またその間に娘子供は羽根を突く。ぶんぶんという鳴弓の声、かっかっという羽子(はご)の音。これがいわゆる「春の声」であったが、十年以来の春の巷は寂々寥々(せきせきりょうりょう)。往来で迂闊(うかつ)に紙鳶などを揚げていると、巡査が来てすぐに叱られる。
寒風に吹き晒(さら)されて、両手に胼(ひび)を切らせて、紙鳶に日を暮らした三十年前の子供は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻(えりまき)をして、帽子をかぶって、マントにくるまって懐(ふとこ)ろ手をして、無意味にうろうろしている今の子供は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない。
獅子舞
獅子(しし)というものも甚だ衰えた。今日(こんにち)でも来るには来るが、いわゆる一文獅子(いちもんじし)というものばかりで、ほんとうの獅子舞はほとんど跡を断った。明治二十年頃までは随分立派な獅子舞いが来た。まず一行数人、笛を吹く者、太鼓を打つ者、鉦(かね)を叩く者、これに獅子舞が二人もしくは三人附き添っている。獅子を舞わすばかりでなく、必ず仮面(めん)をかぶって踊ったもので、中にはすこぶる巧みに踊るのがあった。かれらは門口(かどぐち)で踊るのみか、屋敷内へも呼び入れられて、いろいろの芸を演じた。鞠(まり)を投げて獅子の玉取りなどを演ずるのは、余ほどむずかしい芸だとか聞いていた。
元園町には竹内(たけうち)さんという宮内省の侍医が住んでいて、新年には必ずこの獅子舞を呼び入れていろいろの芸を演じさせ、この日に限って近所の子供を邸(やしき)へ入れて見物させる。竹内さんに獅子が来たと云うと、子供は雑煮の箸(はし)を投(ほお)り出して皆んな駈け出したものであった。その邸は二十七、八年頃に取り毀(こわ)されて、その跡に数軒の家が建てられた。私が現在住んでいるのは其の一部である。元園町は年毎に栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで子供に見せてやろうなどと云うのんびりした人は、だんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、いちがいに馬鹿だと罵(ののし)られる世の中となった。眉が険(けわ)しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を見るべく余りに怜悧(りこう)になった。
万歳(まんざい)は維新以後全く衰えたと見えて、わたしの幼い頃にも已(すで)に昔のおもかげはなかった。
江戸の残党
明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時頃になると、一人のおでん屋が売りに来た。年は四十五、六でもあろう、頭には昔ながらの小さい髷(まげ)を乗せて、小柄ではあるが色白の小粋(こいき)な男で、手甲脚絆(てっこうきゃはん)のかいがいしい扮装(いでたち)をして、肩にはおでんの荷を担ぎ、手には渋団扇(しぶうちわ)を持って、おでんや/\と呼んで来る。実に佳(い)い声であった。
元園町でも相当の商売があって、わたしもたびたび買ったことがある。ところが、このおでん屋は私の父に逢うと互いに挨拶(あいさつ)をする。子供心に不思議に思って、だんだん聞いてみると、これは市ヶ谷(いちがや)辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだと云う。あの男も若い時にはなかなか道楽者であったと、父が話した。なるほど何処(どこ)かきりりとして小粋なところが、普通の商人(あきんど)とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。
これもそれと似寄りの話で、やはり十七年の秋と思う。わたしが、父と一緒に四谷(よつや)へ納涼(すずみ)ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷伝馬町(よつやてんまちょう)の通りには幾軒の露店(よみせ)が出ていた。そのあいだに筵(むしろ)を敷いて大道(だいどう)に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻(しき)りに字を書いていた。今日では大道で字を書いていても、銭(ぜに)を呉れる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許(いくら)かの銭を置いて行ったものである。
わたしらも其の前に差しかかると、うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視(み)た父は、一|間(けん)ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ遣(や)ったらば直(す)ぐに駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭はちっと多過ぎると思ったが、云わるるままに札(さつ)を掴(つか)んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否(いな)や一散(いっさん)に駈け出した。これに就いては、父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
この男を見た時に、「霜夜鐘(しものよのかね)」の芝居に出る六浦(むつら)正三郎というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に向って「……茶立虫(ちゃたてむし)」と書いていた。上の文字は記憶していないが、おそらく俳句を書いていたのであろう。今日でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫と書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。
長唄の師匠
元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋(きねや)お路久(ろく)という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花(はな)さんと云うのが評判の美人であった。この界隈(かいわい)の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古にかよった。三宅花圃(みやけかほ)女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃のコレラで死んでしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家ことごとく離散して、その跡は今や阪川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳屋、おのずからなる世の変化を示しているのも不思議である。
お染風
この春はインフルエンザが流行した。
日本で初めて此の病いがはやり出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗(しょうけつ)になった。われわれは其の時初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風(そめかぜ)と云っていた。なぜお染という可愛らしい名をかぶらせたかと詮議(せんぎ)すると、江戸時代にもやはりこれによく似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうと、或る老人が説明してくれた。
そこで、お染という名を与えた昔の人の料簡(りょうけん)は、おそらく恋風と云うような意味で、お染が久松(ひさまつ)に惚れたように、すぐに感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染に限らない。お夏(なつ)でもお俊(しゅん)でも小春(こはる)でも梅川(うめがわ)でもいい訳であるが、お染という名が一番|可憐(かれん)らしくあどけなく聞える。猛烈な流行性をもって往々に人を斃(たお)すような此の怖るべき病いに対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗(すこぶ)るおもしろい対照である、さすがに江戸っ子らしいところがある。しかし、例の大(おお)コレラが流行した時には、江戸っ子もこれには辟易(へきえき)したと見えて、小春とも梅川とも名付け親になる者がなかったらしい。ころりと死ぬからコロリだなどと知恵のない名を付けてしまった。
すでに其の病いがお染と名乗る以上は、これに※[馮/几](よ)りつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入(ちんにゅう)を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいと云うことになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論(もちろん)、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として、昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽(あお)って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼り付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
二十四年の二月、私は叔父と一緒に向島(むこうじま)の梅屋敷へ行った。風のない暖い日であった。三囲(みめぐり)の堤下(どてした)を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭(てぬぐい)をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒のそばには白い梅が咲いていた。その風情(ふぜい)は今も眼に残っている。
その後にもインフルエンザは幾たびも流行を繰り返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。ハイカラの久松に※[馮/几](よ)りつくには、やはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。
どんぐり
時雨(しぐれ)のふる頃となった。
この頃の空を見ると、団栗(どんぐり)の実を思い出さずにはいられない。麹町二丁目と三丁目との町ざかいから靖国神社の方へむかう南北の大通りを、一丁ほど北へ行って東へ折れると、ちょうど英国大使館の横手へ出る。この横町が元園町と五番町(ごばんちょう)との境で、大通りの角から横町へ折り廻して、長い黒塀(くろべい)がある。江戸の絵図によると、昔は藤村(ふじむら)なにがしという旗本の屋敷であったらしい。私の幼い頃には麹町区役所になっていた。その後に幾たびか住む人が代って、石本(いしもと)陸軍大臣が住んでいたこともあった。板塀の内には眼隠しとして幾株の古い樫(かし)の木が一列をなして栽(う)えられている。おそらく江戸時代からの遺物であろう。繁った枝や葉は塀を越えて往来の上に青く食(は)み出している。
この横町は比較的に往来が少ないので、いつも子供の遊び場になっていた。わたしも幼い頃には毎日ここで遊んだ。ここで紙鳶(たこ)をあげた、独楽(こま)を廻した。戦争ごっこをした、縄飛びをした。われわれの跳ねまわる舞台は、いつもかの黒塀と樫の木とが背景になっていた。
時雨(しぐれ)のふる頃になると、樫の実が熟して来る。それも青いうちは誰も眼をつけないが、熟してだんだんに栗のような色になって来ると、俗にいう団栗なるものが私たちの注意を惹(ひ)くようになる。初めは自然に落ちて来るのをおとなしく拾うのであるが、しまいにはだんだんに大胆になって、竹竿を持ち出して叩き落す、あるいは小石に糸を結んで投げつける。椎(しい)の実よりもやや大きい褐色(かっしょく)の木の実が霰(あられ)のようにはらはらと降って来るのを、われ先にと駈け集まって拾う。懐ろへ押し込む者もある。紙袋へ詰め込む者もある。たがいに其の分量の多いのを誇って、少年の欲を満足させていた。
しかし白樫(しらかし)は格別、普通のどんぐりを食うと唖になるとか云い伝えられているので、誰も口へ入れる者はなかった。多くは戦争ごっこの弾薬に用いるのであった。時には細い短い竹を団栗の頭へ挿して小さい独楽を作った。それから弥次郎兵衛(やじろべえ)というものを作った。弥次郎兵衛という玩具(おもちゃ)はもう廃(すた)ったらしいが、その頃には子供たちの間になかなか流行ったもので、どんぐりで作る場合には先ず比較的に拉の大きいのを選んで、その横腹に穴をあけて左右に長い細い竹を斜めに挿し込み、その竹の端(はし)には左右ともに同じく大きい団栗の実を付ける。で、その中心になった団栗を鼻の上に乗せると、左右の団栗の重量が平均してちっとも動かずに立っている。無論、頭をうっかり動かしてはいけない、まるで作りつけの人形のように首を据(す)えている。そうして、多くの場合には二、三人で歩きくらべをする。急げば首が動く。動けば弥次郎兵衛が落ちる。落ちれば負けになるのである。ずいぶん首の痛くなる遊びであった。
どんぐりはそんな風にいろいろの遊び道具をわれわれに与えてくれた。横町の黒塀の外は、秋から冬にかけて殊(こと)に賑(にぎ)わった。人家の多い町なかに住んでいる私たちに取っては、このどんぐりの木が最も懐かしい友であった。
「早くどんぐりが生(な)ればいいなあ。」
私たちは夏の頃から青い梢(こずえ)を見上げていた。この横町には赤とんぼも多く来た。秋風が吹いて来ると、私たちは先ず赤とんぼを追う。とんぼの影がだんだんに薄くなると、今度は例のどんぐりに取りかかる。どんぐりの実が漸く肥えて、褐色の光沢(つや)が磨いたように濃くなって来ると、とかくに陰った日がつづく。薄い日が洩(も)れて来たかと思うと、又すぐに陰って来る。そうして、雨が時々にはらはらと通ってゆく。その時には私たちはあわてて黒塀のわきに隠れる。樫の技や葉は青い傘をひろげて私たちの小さい頭の上を掩(おお)ってくれる。雨が止むと、私たちはすぐに其の恩人にむかって礫(つぶて)を投げる。どんぐりは笑い声を出してからからと落ちて来る。湿(ぬ)れた泥と一緒につかんで懐ろに入れる。やがてまた雨が降って来る。私たちは木の蔭へまた逃げ込む。
そんなことを繰り返しているうちに、着物は湿(ぬ)れる、手足は泥だらけになる。家(うち)へ帰って叱られる。それでも其の面白さは忘れられなかった。その樫の木は今でもある。その頃の友達はどこへ行ってしまったか、近所にはほとんど一人も残っていない。
大綿
時雨のふる頃には、もう一つの思い出がある。沼波瓊音(ぬなみけいおん)氏の「乳のぬくみ」を読むと、その中にオボーと云う虫に就いて、作者が幼い頃の思い出が書いてあった。蓮(はす)の実を売る地蔵盆の頃になると、白い綿のような物の着いている小さい羽虫が町を飛ぶのが怖ろしく淋しいものであった。これを捕(とら)える子供らが「オボー三尺|下(さ)ンがれよ」という、極めて幽暗な唄を歌ったと記してあった。
作者もこのオボーの本名を知らないと云っている。わたしも無論知っていない。しかし此の記事を読んでいるうちに、私も何だか悲しくなった。私もこれによく似た思い出がある。それが測らずも此の記事に誘い出されて、幼い昔がそぞろに懐かしくなった。
名古屋(なごや)の秋風に飛んだ小さい羽虫とほとんど同じような白い虫が東京にもある。瓊音氏も東京で見たと書いてあった。それと同じものであるかどうかは知らないが、私の知っている小さい虫は俗に「大綿(おおわた)」と呼んでいる。その羽虫は裳(もすそ)に白い綿のようなものを着けているので、綿という名をかぶせられたものであろう。江戸時代からそう呼ばれているらしい。秋も老いて、むしろ冬に近い頃から飛んで来る虫で、十一月から十二月頃に最も多い。赤とんぼの影が全く尽きると、入れ替って大綿が飛ぶ。子供らは男も女も声を張りあげて「大綿来い/\飯(まま)食わしょ」と唄った。
オボーと同じように、これも夕方に多く飛んで来た。殊に陰った日に多かった。時雨を催した冬の日の夕暮れに、白い裳を重そうに垂れた小さい虫は、細かい雪のようにふわふわと迷って来る。飛ぶと云うよりも浮かんでいると云う方が適当かも知れない。彼はどこから何処へ行くともなしに空中に浮かんでいる。子供らがこれを追い捕えるのに、男も女も長い袂(たもと)をあげて打つのが習いであった。
その頃は男の児も筒袖(つつそで)は極めて少なかった。筒袖を着る者は裏店(うらだな)の子だと卑しまれたので、大抵の男の児は八(や)つ口(くち)の明いた長い袂をもっていた。私も長い袂をあげて白い虫を追った。私の八つ口には赤い切(きれ)が付いていた。
それでも男の袂は女より短かった。大綿を追う場合にはいつも女の児に勝利を占められた。さりとて棒や箒(ほうき)を持ち出す者もなかった。棒や箒を揮(ふる)うには、相手が余りに小さく、余りに弱々しいためであったろう。
横町で鮒(ふな)売りの声がきこえる。大通りでは大綿来い/\の唄がきこえる。冬の日は暗く寂しく暮れてゆく。自分が一緒に追っている時はさのみにも思わないが、遠く離れて聞いていると、寒い寂しいような感じが幼い心にも沁(し)み渡った。
日が暮れかかって大抵の子供はもう皆んな家へ帰ってしまったのに、子守をしている女の児一人はまだ往来にさまよって「大綿来い/\」と寒そうに唄っているなどは、いかにも心細いような悲しいような気分を誘い出すものであった。
その大綿も次第に絶えた。赤とんぼも昔に較べると非常に減ったが、大綿はほとんど見えなくなったと云ってもよい。二、三年前に靖国神社の裏通りで一度見たことがあったが、そこらにいる子供たちは別に追おうともしていなかった。外套(がいとう)の袖で軽く払うと、白い虫は消えるように地に落ちた。わたしは子供の時の癖が失(う)せなかったのである。
(明治43・11俳誌「木太刀」、その他)  
 
島原の夢

 

「戯場訓蒙図彙(しばいきんもうずい)」や「東都歳事記(とうとさいじき)」や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎(かぶき)の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮(しょせん)は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前からほとんど断えたと云ってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離(わかれ)をつげて、架け橋はまったく断えてしまったらしい。
おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代が劃(かく)されていた。それは明治の初年から二十七、八年の日清戦争までと、その後の今年までとで、政治経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分かたれていた。
明治の初期にはいわゆる文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、瓦斯(ガス)燈がひかり、洋服や洋傘傘(こうもりがさ)やトンビが流行しても、詮(せん)ずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道に乗る人、瓦斯燈に照らされる人、洋服を着る人、トンビを着る人、その大多数はやはり江戸時代から食(は)み出して来た人たちである事を記憶しなければならない。わたしは明治になってから初めて此の世の風に吹かれた人間であるが、そういう人たちにはぐくまれ、そういう人たちに教えられて生長した。すなわち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うには聊(いささ)か便りのよい架け橋を渡って来たとも云い得られる。しかし、その遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべき詞(ことば)を知らない。
しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかに踏(ふ)み渡って来た世界の姿であるならば、たといそれがやはり一場の過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界を明らかに語ることが出来る。老いさらばえた母をみて、おれは曾(かつ)てこの母の乳を飲んだのかと怪しく思うようなことがあっても、その昔の乳の味はやはり忘れ得ないとおなじように、移り変った現在の歌舞伎の世界をみていながらも、わたしはやはり昔の歌舞伎の夢から醒(さ)め得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。
その夢は、いろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。
劇場は日本一の新富座(しんとみざ)、グラント将軍が見物したという新富座、はじめて瓦斯燈を用いたという新富座、はじめて夜芝居を興行したという新富座、桟敷(さじき)五人詰|一間(ひとま)の値(あた)い四円五十銭で世間をおどろかした新富座――その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見いだされる。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻(かみよ)りでこしらえた太い鼻緒の草履(ぞうり)をはいている。
劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占(つじうら)せんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向う側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋も軒には新しい花暖簾(はなのれん)をかけて、さるやとか菊岡(きくおか)とか梅林(ばいりん)とかいう家号を筆太(ふでぶと)にしるした提灯がかけつらねてある。劇場の木戸まえには座主(ざぬし)や俳優(やくしゃ)に贈られたいろいろの幟(のぼり)が文字通りに林立している。その幟のあいだから幾枚の絵看板が見えがくれに仰がれて、木戸の前、茶屋のまえには、幟とおなじ種類の積み物が往来へはみ出すように積みかざられている。
ここを新富町(しんとみちょう)だの、新富座だのと云うものはない。一般に島原(しまばら)とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
築地(つきじ)の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青(こんじょう)の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮かべている。河岸(かし)の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣りをしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣(ゆかた)を着て、日よけの頬かむりをして粋(いき)な莨入(たばこい)れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴(あめ)屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨や丹(あか)や藍(あい)で書いた庵(いおり)看板がかけてある。居付きの店で、今川焼を売るものも、稲荷鮓(いなりずし)を売るものも、そこの看板や障子や暖簾には、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細(しさい)に検査したら、そこらをあるいている女のかんざしも扇子も、男の手拭も団扇(うちわ)も、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかも知れない。
こうして、築地橋から北の大通りにわたるこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、いわゆる芝居町(しばいまち)の空気につつまれている。もちろん電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響をたてて、ここの町の空気をかき乱すものは一切(いっさい)通過しない。たまたま此処(ここ)を過ぎる人力車があっても、それは徐(しず)かに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。その頃の車夫にはなかなか芝居の消息を諳(そら)んじている者もあって、今度の新富チョウは評判がいいとか、猿若マチは景気がよくないとか、車上の客に説明しながら挽(ひ)いてゆくのをしばしば聞いた。
秋の真昼の日かげはまだ暑いが、少年もその父も帽子をかぶっていない。姉は小さい扇を額(ひたい)にかざしている。かれらは幕のあいだに木戸の外を散歩しているのである。劇場内に運動場を持たないその頃の観客は、窮屈な土間(どま)に行儀好くかしこまっているか、茶屋へ戻って休息するか、往来をあるいているかのほかはないので、天気のよい日にはぞろぞろとつながって往来に出る。帽子をかぶらずに、紙捻りの太い鼻緒の草履をはいているのは、芝居見物の人であることが証明されて、それが彼らの誇りでもあるらしい。少年も芝居へくるたびに必ず買うことに決めているらしい辻占せんべいと八橋(やつはし)との籠(かご)をぶら下げて、きわめて愉快そうに徘徊(はいかい)している。彼らにかぎらず、すべて幕間(まくあい)の遊歩に出ている彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋(きょうばし)区新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、摺(す)れ合い摺れちがって往来のまん中を悠々と散歩しているが、角の交番所を守っている巡査もその交通妨害を咎(とが)めないらしい。土地の人たちも決して彼らを邪魔者とは認めていないらしい。
やがて舞台の奥で柝(き)の音(ね)がきこえる。それが木戸の外まで冴えてひびき渡ると、遊歩の人々は牧童の笛をきいた小羊の群れのように、皆ぞろぞろと繋(つな)がって帰ってゆく。茶屋の若い者や出方(でかた)のうちでも、如才(じょさい)のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それにうながされて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅の籠を投げ出すように姉に渡して、一番さきに駈け出してゆく。柝の音はつづいて聞えるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とをさえぎる華やかな大きい幕は猶(なお)いつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその柝の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳(おど)らせて正面をみつめている。
幕があく。「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」吉野川(よしのがわ)の場である。岩にせかれて咽(むせ)び落ちる山川を境いにして、上(かみ)の方(かた)の背山にも、下(しも)の方の妹山(いもやま)にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段(ひなだん)が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一緒にさびしくその雛にかしずいている。背山の家には簾(すだれ)がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ文(ぶみ)をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶宇(ちゃう)の袴をつけた美少年が殊勝(しゅしょう)げに経巻(きょうかん)を読誦(どくじゅ)している。高島(たかしま)屋ァとよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川|左団次(さだんじ)の久我之助(こがのすけ)である。
姫は太宰(だざい)の息女|雛鳥(ひなどり)で、中村|福助(ふくすけ)である。雛鳥が恋びとのすがたを見つけて庭に降りたつと、これには新駒(しんこま)屋ァとよぶ声がしきりに浴びせかけられたが、かれの姫はめずらしくない。左団次が前髪立ちの少年に扮して、しかも水のしたたるように美しいというのが観客の眼を奪ったらしい。少年の父も唸るような吐息を洩らしながら眺めていると、舞台の上の色や形はさまざまの美しい錦絵をひろげてゆく。
背山の方(かた)は大判司清澄(だいはんじきよずみ)――チョボの太夫の力強い声によび出されて、仮(かり)花道にあらわれたのは織物の※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](かみしも)をきた立派な老人である。これこそほんとうに昔の錦絵から抜け出して来たかと思われるような、いかにも役者らしい彼の顔、いかにも型に嵌(はま)ったような彼の姿、それは中村|芝翫(しかん)である。同時に、本花道からしずかにあゆみ出た切り髪の女は太宰(だざい)の後室(こうしつ)定高(さだか)で、眼の大きい、顔の輪郭のはっきりして、一種の気品をそなえた男まさりの女、それは市川|団十郎(だんじゅうろう)である。大判司に対して、成駒(なりこま)屋ァの声が盛んに湧くと、それを圧倒するように、定高に対して成田(なりた)屋ァ、親玉ァの声が三方からどっと起る。
大判司と定高は花道で向い合った。ふたりは桜の枝を手に持っている。
「畢竟(ひっきょう)、親の子のと云うは人間の私(わたくし)、ひろき天地より観るときは、おなじ世界に湧いた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはって空うそぶく。
「枝ぶり悪き桜木は、切って接(つ)ぎ木をいたさねば、太宰の家(いえ)が立ちませぬ。」と、定高は凜(りん)とした声で云い放つ。
観客はみな酔ってしまったらしく、誰ももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。かれは二時間にあまる長い一幕の終るまで身動きもしなかった。
その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った、かの四人の歌舞伎|俳優(やくしゃ)のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門(うたえもん)だけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。一切の過去は消滅した。
しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽しみ、ひとり悲しんでいる。かれはおそらく其の一生を終るまで、その夢から醒める時はないのであろう。
(大正12・11「随筆」)

昔の小学生より

 

十月二十三日、きょうは麹町尋常小学校同窓会の日である。どこの小学校にも同窓会はある。ここにも勿論同窓会を有(ゆう)していたのであるが、何かの事情でしばらく中絶していたのを、震災以後、復興の再築が竣工して、いよいよこの九月から新校舎で授業をはじめることになったので、それを機会に同窓会もまた復興されて、きょうは新しい校内でその第一回を開くことになった。その発起人のうちに私の名も列(つら)なっている。巌谷小波(いわやさざなみ)氏兄弟の名もみえる。そのほかにも軍人、法律家、医師、実業家、種々の階級の人々の名が見いだされた。なにしろ、五十年以上の歴史を有している小学校であるから、それらの発起人以外、種々の方面から老年、中年、青年、少年の人々が参加することであろうと察せられる。
それにつけて、わたしの小学校時代のむかしが思い出される。わたしは明治五年十月の生まれで、明治十七年の四月に小学を去って、中学に転じたのであるから、わたしの小学校時代は今から四十幾年のむかしである。地方は知らず、東京の小学校が今日のような形を具(そな)えるようになったのは、まず日清戦争以後のことで、その以前、すなわち明治初年の小学校なるものは、建物といい、設備といい、ほとんど今日の少年または青年諸君の想像し得られないような不体裁のものであった。
ひと口に麹町小学校出身者と云いながら、巌谷小波氏やわたしの如きは実は麹町小学校という学校で教育を受けたのではない。その当時、いわゆる公立の小学校は麹町の元園町に女学校というのがあり、平河町(ひらかわちょう)に平河小学校というのがあって、その附近に住んでいる我々はどちらかの学校へ通学しなければならないのであった。女学校と云っても女の子ばかりではなく、男の生徒をも収容するのであったが、女学校という名が面白くないので、距離はすこし遠かったが私は平河小学校にかよっていた。その二校が後に併合されて、今日の麹町尋常小学校となったのであるから、校舎も又その位置も私たちの通学当時とはまったく変ってしまった。したがって、母校とは云いながら、私たちに取っては縁の薄い方である。
そのほかに元園町に堀江小学、山元町(やまもとちょう)に中村小学というのがあって、いわゆる代用小学校であるが、その当時は私立小学校と呼ばれていた。この私立の二校は江戸時代の手習指南所(てならいしなんじょ)から明治時代の小学校に変ったものであるから、在来の関係上、商人や職人の子弟は此処(ここ)に通うものが多かった。公立の学校よりも、私立の学校の方が、先生が物柔らかに親切に教えてくれるとかいう噂もあったが、わたしは私立へ行かないで公立へ通わせられた。
その頃の小学校は尋常と高等とを兼ねたもので、初等科、中等科、高等科の三種にわかれていた。初等科は六級、中等科は六級、高等科は四級で、学年制度でないから、初学の生徒は先ず初等科の第六級に編入され、それから第五級に進み、第四級にすすむという順序で、初等科第一級を終ると中等科第六級に編入される。但(ただ)し高等科は今日の高等小学とおなじようなものであったから、小学校だけで済ませるものは格別、その以上の学校に転じるものは、中等科を終ると共に退学するのが例であった。
進級試験は一年二回で、春は四月、秋は十月に行なわれた。それを定期試験といい、俗に大試験と呼んでいた。それであるから、級の数はひどく多いが、初等科と中等科をやはり六年間で終了するわけで、そのほかに毎月一回の小試験があった。小試験の成績に因って、その都度に席順が変るのであるが、それは其の月限りのもので、定期試験にはなんの影響もなく、優等賞も及第も落第もすべて定期試験の点数だけによって定まるのであった。免状授与式の日は勿論であるが、定期試験の当日も盛装して出るのが習いで、わたしなども一張羅(いっちょうら)の紋付の羽織を着て、よそ行きの袴をはいて行った。それは試験というものを一種の神聖なるものと認めていたらしい。女の子はその朝に髪を結い、男の子もその前日あるいは二、三日前に髪を刈った。校長や先生は勿論、小使(こづかい)に至るまでも髪を刈り、髭(ひげ)を剃(そ)って、試験中は服装を改(あらた)めていた。
授業時間や冬季夏季の休暇は、今日(こんにち)と大差はなかった。授業の時間割も先ず一定していたが、その教授の仕方は受持教師の思い思いと云った風で、習字の好きな教師は習字の時間を多くし、読書の好きな教師は読書の時間を多くすると云うような傾きもあった。教え方は大体に厳重で、怠ける生徒や不成績の生徒はあたまから叱り付けられた。時には竹の教鞭(きょうべん)で背中を引っぱたかれた。癇癪(かんしゃく)持ちの教師は平手で横っ面をぴしゃりと食らわすのもあった。わたしなども授業中に隣席の生徒とおしゃべりをして、教鞭の刑をうけたことも再三あった。
今日ならば、生徒|虐待(ぎゃくたい)とか云って忽(たちま)ちに問題をひき起すのであろうが、寺子屋の遺風の去らない其の当時にあっては、師匠が弟子を仕込む上に於(お)いて、そのくらいの仕置きを加えるのは当然であると見なされていたので、別に怪しむものも無かった。勿論、怖い先生もあり、優しい先生もあったのであるが、そういうわけであるから怖い先生は生徒間に甚(はなは)だ恐れられた。
生徒に加える刑罰は、叱ったり殴ったりするばかりでなかった。授業中に騒いだり悪戯(いたずら)をしたりする者は、席から引き出して教壇のうしろに立たされた。さすがに線香を持たせたり水を持たせたりはしなかったが、寺子屋の芝居に見る涎(よだれ)くりを其の儘の姿であった。更に手重いのになると、教授用の大きい算露盤(そろばん)を背負わせて、教師が附き添って各級の教場を一巡し、この子はかくかくの不都合を働いたものであると触れてあるくのである。所詮(しょせん)はむかしの引廻しの格で、他に対する一種の見せしめであろうが、ずいぶん思い切って残酷な刑罰を加えたものである。
もっとも、今とむかしとを比べると、今日の児童は皆おとなしい。私たちの眼から観ると、おとなしいのを通り越して弱々しいと思われるようなのが多い。それに反して、むかしの児童はみな頑強で乱暴である。また、その中でも所謂(いわゆる)いたずらッ児というものになると、どうにもこうにも手に負えないのがある。父兄が叱ろうが、教師が説諭しようが、なんの利き目もないという持て余し者がずいぶん見いだされた。
学校でも始末に困って退学を命じると、父兄が泣いてあやまって来るから、再び通学を許すことにする。しかも本人は一向平気で、授業中に騒ぐのは勿論、運動時間にはさんざんに暴れまわって、椅子をぶち毀す、窓硝子を割る、他の生徒を泣かせる、甚だしいのは運動場から石や瓦を投げ出して往来の人を脅(おど)すというのであるから、とても尋常一様の懲戒法では彼らを矯正する見込みはない。したがって、教師の側でも非常手段として、引廻し其の他の厳刑を案出したのかも知れない。
教師はみな羽織袴または洋服であったが、生徒の服装はまちまちであった。勿論、制帽などは無かったから、思い思いの帽子をかぶったのであるが、帽子をかぶらない生徒が七割であって、大抵は炎天にも頭を晒(さら)してあるいていた。袴をはいている者も少なかった。商家の子どもは前垂れをかけているのもあった。その当時の風習として、筒袖をきるのは裏店(うらだな)の子に限っていたので、男の子も女の子とおなじように、八つ口のあいた袂をつけていて、その袂は女の子に比べてやや短いぐらいの程度であったから、ふざけるたびに袂をつかまれるので、八つ口からほころびる事がしばしばあるので困った。これは今日の筒袖の方が軽快で便利である。屋敷の子は兵児帯(へこおび)をしめていたが、商家の子は大抵|角帯(かくおび)をしめていた。
靴は勿論すくない、みな草履であったが、強い雨や雪の日には、尻を端折(はしょ)り、あるいは袴の股立(ももだ)ちを取って、はだしで通学する者も随分あった。学校でもそれを咎(とが)めなかった。
運動場はどこの小学校も狭かった。教室の建物がすでに狭く、それに準じて運動場も狭かった。平河小学校などは比較的に広い方であったが、往来に面したところに低い堤(どて)を作って、大きい樫(かし)の木を栽えつらねてあるだけで、ほかにはなんらの設備もなかった。片隅にブランコが二つ設けてあったが、いっこうに地ならしがしてないので、雨あがりなどには其処(そこ)らは一面の水溜りになってしまって、ブランコの傍(そば)などへはとても寄り付くことは出来なかった。勿論、アスファルトや砂利が敷いてあるでもないから、雨あがりばかりでなく、冬は雪どけや霜どけで路(みち)が悪い。そこで転んだり起(た)ったりするのであるから、着物や袴は毎日泥だらけになるので、わたしなどは家で着る物と学校へ着てゆく物とが区別されていて、学校から帰るとすぐに着物を着かえさせられた。
運動時間は一時間ごとに十分間、午(ひる)の食後に三十分間であったが、別に一定の遊戯というものも無いから、男の子は縄飛び、相撲、鬼ごっこ、軍(いくさ)ごっこなどをする。女の子も鬼ごっこをするか、鞠(まり)をついたりする。男の子のあそびには相撲が最も行なわれた。そのころの小学校では体操を教えなかったから、生徒の運動といえば唯むやみに暴(あば)れるだけであった。したがって今日のようなおとなしい子供も出来なかったわけであろう。その頃には唱歌も教えなかった。運動会や遠足会もなかった。
もし運動会に似たようなものを求むれば、土曜日の午後や日曜日に大勢(おおぜい)が隊を組んで、他の学校へ喧嘩(けんか)にゆくことである。相手の学校でも隊を組んで出て来る。その頃は所々に屋敷あとの広い草原などがあったから、そこで石を投げ合ったり、棒切れで叩き合ったりする。中には自分の家から親父(おやじ)の脇差(わきざし)を持ち出して来るような乱暴者もあった。時には往来なかで闘う事もあったが、巡査も別に咎めなかった。学校では喧嘩をしてはならぬと云うことになっていたが、それも表向きだけのことで、若い教師のうちには他の学校に負けるなと云って、内々で種々の軍略を授けてくれるのもあった。それらの事をかんがえると、くどくも云うようであるが、今日の子供たちは実におとなしい。
その当時は別に保護者会とか父兄会とかいうものも無かったが、むかしの寺子屋の遺風が存していたとみえて、教師と父兄との関係はすこぶる親密であった。父兄や姉も学校に教師をたずねて、子弟のことをいろいろ頼むことがある。教師も学校の帰途に生徒の家をたずねて、父兄にいろいろの注意をあたえることもある。したがって、学校と家庭の連絡は案外によく結び付けられているようであった。その代りに、学校で悪いことをすると、すぐに家へ知れるので、私たちは困った。
(昭和2・10「時事新報」)  
 
三崎町の原

 

十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田(かんだ)の三崎町(みさきちょう)まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥の方へは震災以後一度も踏み込んだことがなかったので、久し振りでぶらぶらあるいてみると、震災以前もここらは随分混雑しているところであったが、その以後は更に混雑して来た。区画整理が成就した暁には、町の形が又もや変ることであろう。
市内も開ける、郊外も開ける。その変化に今更おどろくのは甚だ迂闊(うかつ)であるが、わたしは今、三崎町三丁目の混雑の巷(ちまた)に立って、自動車やトラックに脅(おびや)かされてうろうろしながら、周囲の情景のあまりに変化したのに驚かされずにはいられなかった。いわゆる隔世(かくせい)の感というのは、全くこの時の心持であった。
三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高い堤(どて)で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には首縊(くびくく)りの松などという忌(いや)な名の付いていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人を咬(か)んだ。追剥(おいは)ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町(ふじみちょう)の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊に絞め殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、すなわち私が十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつはほとんど欠かさずに、この練兵場を通り抜けなければならなかった。その当時はもう練兵をやめてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱の方でも直ぐにはそれを開こうともしないで、唯そのままの草原にして置いたので、普通にそれを三崎町の原と呼んでいた。わたしが毎月一度ずつ必ずその原を通り抜けたのは、本郷(ほんごう)の春木座(はるきざ)へゆくためであった。
春木座は今日(こんにち)の本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊(とりくま)という男が、大阪から中通(ちゅうどお)りの腕達者な俳優一座を連れて来て、値安興行をはじめた。土間は全部開放して大入り場として、入場料は六銭というのである。しかも半札(はんふだ)を呉れるので、来月はその半札に三銭を添えて出せばいいのであるから、要するに金九銭を以って二度の芝居が観られるというわけである。ともかくも春木座はいわゆる檜(ひのき)舞台の大劇場であるのに、それが二回九銭で見物できるというのであるから、確かに廉(やす)いに相違ない。それが大評判となって、毎月爪も立たないような大入りを占めた。
芝居狂の一少年がそれを見逃す筈がない。わたしは月初めの日曜毎に春木座へ通うことを怠(おこた)らなかったのである。ただ、困ることは開場が午前七時というのである。なにしろ非常の大入りである上に、日曜日などは殊に混雑するので、午前四時か遅くも五時頃までには劇場の前にゆき着いて、その開場を待っていなければならない。麹町の元園町から徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時頃から家を出てゆく覚悟でなければならない。わたしは午前二時頃に起きて、ゆうべの残りの冷飯を食って、腰弁当をたずさえて、小倉の袴の股立ちを取って、朴歯(ほおば)の下駄をはいて、本郷までゆく途中、どうしても、かの三崎町の原を通り抜けなければならない事になる。勿論、須田町(すだちょう)の方から廻ってゆく道がないでもないが、それでは非常の迂廻(うかい)であるから、どうしても九段下(くだんした)から三崎町の原をよぎって水道橋へ出ることになる。
その原は前にいう通りの次第であるから、午前四時五時の頃に人通りなどのあろう筈はない。そこは真っ暗な草原で、野犬の巣窟(そうくつ)、追剥ぎの稼ぎ場である。闇の奥で犬の声がきこえる。狐の声もきこえる。雨のふる時には容赦なく吹っかける。冬のあけ方には霜を吹く風が氷のように冷たい。その原をようように行き抜けて水道橋へ出ても、お茶の水の堤ぎわはやはり真っ暗で、人通りはない。幾らの小遣い銭を持っているでもないから、追剥ぎはさのみに恐れなかったが、犬に吠え付かれるには困った。あるときには五、六匹の大きい犬に取りまかれて、実に弱り切ったことがあった。そういう難儀も廉価の芝居見物には代えられないので、わたしは約四年間を根(こん)よく通いつづけた。その頃の大劇場は、一年に五、六回か三、四回しか開場しないのに、春木座だけは毎月必ず開場したので、わたしは四年間にずいぶん数多くの芝居を見物することが出来た。
三崎町三丁目は明治二十二、三年頃からだんだんに開けて来たが、それでも、かの小僧殺しのような事件は絶えなかった。二十四年六月には三崎座(みさきざ)が出来た。殊に二十五年一月の神田の大火以来、俄(にわ)かにここらが繁昌して、またたくうちに立派な町になってしまったのである。その当時は、むかしの草原を知っている人もあったろうが、それから三十幾年を経過した今日では、現在その土地に住んでいる人たちでも、昔の草原の茫漠(ぼうばく)たる光景をよく知っている者は少ないかも知れない。武蔵野(むさしの)の原に大江戸の町が開かれたことを思えば、このくらいの変遷は何でも無いことかも知れないが、目前(もくぜん)にその変遷をよく知っている私たちに取っては、一種の感慨がないでもない。殊にわたしなどは、かの春木座がよいの思い出があるので、その感慨がいっそう深い。あの当時、ここらがこんなに開けていたらば、わたしはどんなに楽であったか。まして電車などがあったらば、どんなに助かったか。
暗い原中をたどってゆく少年の姿――それがまぼろしのようにわたしの眼に浮かんだ。
(昭和2・1「不同調」) 
 
御堀端三題

 

一 柳のかげ
海に山に、涼風に浴した思い出もいろいろあるが、最も忘れ得ないのは少年時代の思い出である。今日(こんにち)の人はもちろん知るまいが、麹町の桜田門(さくらだもん)外、地方裁判所の横手、のちに府立第一中学の正門前になった所に、五、六株の大きい柳が繁っていた。
堀端(ほりばた)の柳は半蔵門(はんぞうもん)から日比谷(ひびや)まで続いているが、此処(ここ)の柳はその反対の側に立っているのである。どういう訳でこれだけの柳が路ばたに取り残されていたのか知らないが、往来のまん中よりもやや南寄りに青い蔭を作っていた。その当時の堀端はすこぶる狭く、路幅はほとんど今日の三分の一にも過ぎなかったであろう。その狭い往来に五、六株の大樹が繁っているのであるから、邪魔といえば邪魔であるが、電車も自動車もない時代にはさのみの邪魔とも思われないばかりか、長い堀端を徒歩する人々にとっては、その地帯が一種のオアシスとなっていたのである。
冬はともあれ、夏の日盛りになると、往来の人々はこの柳のかげに立ち寄って、大抵はひと休みをする。片肌ぬいで汗を拭いている男もある。蝙蝠傘(こうもりがさ)を杖(つえ)にして小さい扇を使っている女もある。それらの人々を当て込みに甘酒屋が荷をおろしている。小さい氷屋の車屋台(くるまやたい)が出ている。今日ではまったく見られない堀端の一風景であった。
それにつづく日比谷公園は長州(ちょうしゅう)屋敷の跡で、俗に長州ヶ原と呼ばれ、一面の広い草原となって取り残されていた。三宅坂(みやけざか)の方面から参謀本部の下に沿って流れ落ちる大溝(おおどぶ)は、裁判所の横手から長州ヶ原の外部に続いていて、むかしは河獺(かわうそ)が出るとか云われたそうであるが、その古い溝の石垣のあいだから鰻(うなぎ)が釣れるので、うなぎ屋の印半纏を着た男が小さい岡持(おかもち)をたずさえて穴釣りをしているのをしばしば見受けた。その穴釣りの鰻屋も、この柳のかげに寄って来て甘酒などを飲んでいることもあった。岡持にはかなり大きい鰻が四、五本ぐらい蜿(のた)くっているのを、私は見た。
そのほかには一種の軽子(かるこ)、いわゆる立ちン坊も四、五人ぐらいは常に集まっていた。下町から麹町四谷方面の山の手へ登るには、ここらから道路が爪先あがりになる。殊に眼の前には三宅坂がある。この坂も今よりは嶮(けわ)しかった。そこで、下町から重い荷車を挽(ひ)いて来た者は、ここから後押(あとお)しを頼むことになる。立ちン坊はその後押しを目あてに稼ぎに出ているのであるが、距離の遠近によって二銭三銭、あるいは四銭五銭、それを一日に数回も往復するので、その当時の彼らとしては優に生活が出来たらしい。その立ちン坊もここで氷水を飲み、あま酒を飲んでいた。
立ちン坊といっても、毎日おなじ顔が出ているのである。直ぐ傍(わき)には桜田門外の派出所もある。したがって、彼らは他の人々に対して、無作法や不穏の言動を試みることはない。ここに休んでいる人々を相手に、いつも愉快に談笑しているのである。私もこの立ちン坊君を相手にして、しばしば語ったことがある。
私が最も多くこの柳の蔭に休息して、堀端の涼風の恩恵にあずかったのは、明治二十年から二十二年の頃、すなわち私の十六歳から十八歳に至る頃であった。その当時、府立の一中は築地の河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この堀端を往来しなければならなかった。朝は登校を急ぐのと、まだそれ程に暑くもないので、この柳を横眼に見るだけで通り過ぎたが、帰り道は午後の日盛りになるので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附(すきやばしみつけ)をはいって有楽町(ゆうらくちょう)を通り抜けて来ると、ここらが丁度休み場所である。
日蔭のない堀端の一本道を通って、例のうなぎ釣りなぞを覗(のぞ)きながら、この柳の下にたどり着くと、そこにはいつでも三、四人、多い時には七、八人が休んでいる。立ちン坊もまじっている。氷水も甘酒も一杯八|厘(りん)、その一杯が実に甘露の味であった。
長い往来は強い日に白く光っている。堀端の柳には蝉(せみ)の声がきこえる。重い革包(カバン)を柳の下枝にかけて、帽子をぬいで、洋服のボタンをはずして、額の汗をふきながら一杯八厘の甘露をすすっている時、どこから吹いて来るのか知らないが、一陣の涼風が青い影をゆるがして颯(さっ)と通る。まったく文字通りに、涼味骨に透るのであった。
「涼しいなあ。」と、私たちは思わず声をあげて喜んだ。時には跳(おど)りあがって喜んで、周囲の人々に笑われた。私たちばかりでなく、この柳のかげに立ち寄って、この涼風に救われた人々は、毎日何十人、あるいは何百人の多きにのぼったであろう。幾人の立ちン坊もここを稼ぎ場とし、氷屋も甘酒屋もここで一日の生計を立てていたのである。いかに鬱蒼(うっそう)というべき大樹であっても、わずかに五株か六株の柳の蔭がこれほどの功徳(くどく)を施していようとは、交通機関の発達した現代の東京人には思いも及ばぬことであるに相違ない。その昔の江戸時代には、ほかにもこういうオアシスがたくさん見いだされたのであろう。
少年時代を通り過ぎて、わたしは銀座(ぎんざ)辺の新聞社に勤めるようになっても、やはり此の堀端を毎日往復した。しかも日が暮れてから帰宅するので、この柳のかげに休息して涼風に浴するの機会がなく、年ごとに繁ってゆく青い蔭をながめて、昔年(せきねん)の涼味を偲(しの)ぶに過ぎなかったが、わが国に帝国議会というものが初めて開かれても、ここの柳は伐られなかった。日清戦争が始まっても、ここの柳は伐られなかった。人は昔と違っているであろうが、氷屋や甘酒屋の店も依然として出ていた。立ちン坊も立っていた。
その懐かしい少年時代の夢を破る時が遂に来たった。かの長州ヶ原がいよいよ日比谷公園と改名する時代が近づいて、まず其の周囲の整理が行なわれることになった。鰻の釣れる溝(どぶ)の石垣が先ず破壊された。つづいてかの柳の大樹が次から次へと伐り倒された。それは明治三十四年の秋である。涼しい風が薄寒い秋風に変って、ここの柳の葉もそろそろ散り始める頃、むざんの斧(おの)や鋸(のこ)がこの古木に祟(たた)って、浄瑠璃(じょうるり)に聞き慣れている「丗三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」の悲劇をここに演出した。立ちン坊もどこへか巣を換えた。氷屋も甘酒屋も影をかくした。
それから三年目の夏に日比谷公園は開かれた。その冬には半蔵門から数寄屋橋に至る市内電車が開通して、ここらの光景は一変した。その後幾たびの変遷を経て、今日は昔に三倍するの大道となった。街路樹も見ごとに植えられた。昔の涼風は今もその街路樹の梢におとずれているのであろうが、私に涼味を思い起させるのは、やはり昔の柳の風である。(昭和12・8「文藝春秋」)
二 怪談
お堀端の夜歩きについて、ここに一種の怪談をかく。但し本当の怪談ではないらしい。いや、本当でないに決まっている。
わたしが二十歳(はたち)の九月はじめである。夜の九時ごろに銀座から麹町の自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷にも昔の見附(みつけ)の跡があって、今日の公園は一面の草原であった。電車などはもちろん往来していない時代であるから、このあたりに灯の影の見えるのは桜田門外の派出所だけで、他は真っ暗である。夜に入っては往来も少ない。ときどきに人力車の提灯が人魂(ひとだま)のように飛んで行くくらいである。
しかも其の時は二百十日前後の天候不穏、風まじりの細雨(こさめ)の飛ぶ暗い夜であるから、午後七、八時を過ぎるとほとんど人通りがない。わたしは重い雨傘をかたむけて、有楽町から日比谷見附を過ぎて堀端へ来かかると、俄(にわ)かにうしろから足音が聞えた。足駄(あしだ)の音ではなく、草履(ぞうり)か草鞋(わらじ)であるらしい。その頃は草鞋もめずらしくないので、わたしも別に気に留めなかったが、それが余りに私のうしろに接近して来るので、わたしは何ごころなく振り返ると、直ぐうしろから一人の女があるいて来る。
傘を傾けているので、女の顔は見えないが、白地に桔梗(ききょう)を染め出した中形(ちゅうがた)の単衣(ひとえもの)を着ているのが暗いなかにもはっきりと見えたので、私は実にぎょっとした。右にも左にも灯のひかりの無い堀端で、女の着物の染め模様などが判ろう筈がない。幽霊か妖怪か、いずれ唯者(ただもの)ではあるまいと私は思った。暗い中で姿の見えるものは妖怪であるという古来の伝説が、わたしを強くおびやかしたのである。
まさかにきゃっと叫んで逃げる程でもなかったが、わたしは再び振り返る勇気もなく、ただ真っ直ぐに足を早めてゆくと、女もわたしを追うように付いて来る。女の癖になかなか足がはやい。そうなると、私はいよいよ気味が悪くなった。江戸時代には三宅坂下の堀に河獺(かわうそ)が棲んでいて、往来の人を嚇(おど)したなどという伝説がある。そんなことも今更に思い出されて、わたしはひどく臆病になった。
この場合、唯一(ゆいいつ)の救いは桜田門外の派出所である。そこまで行き着けば灯の光があるから、私のあとを付けて来る怪しい女の正体も、ありありと照らし出されるに相違ない。私はいよいよ急いで派出所の前までたどり着いた。ここで大胆に再び振り返ると、女の顔は傘にかくされてやはり見えないが、その着物は確かに白地で、桔梗の中形にも見誤まりはなかった。彼女は痩形(やせがた)の若い女であるらしかった。
正体は見届けたが、不安はまだ消えない。私は黙って歩き出すと、女はやはり付いて来た。わたしは気味の悪い道連れ(?)をうしろに背負いながら、とうとう三宅坂下までたどり着いたが、女は河獺にもならなかった。坂上の道はふた筋に分かれて、隼町(はやぶさちょう)の大通りと半蔵門方面とに通じている。今夜の私は、灯の多い隼町の方角へ、女は半蔵門の方角へ、ここで初めて分かれわかれになった。
まずほっとして歩きながら、さらに考え直すと、女は何者か知れないが、暗い夜道のひとり歩きがさびしいので、おそらく私のあとに付いて来たのであろう。足の早いのが少し不思議だが、私にはぐれまいとして、若い女が一生懸命に急いで来たのであろう。さらに不思議なのは、彼女は雨の夜に足駄を穿かないで、素足に竹の皮の草履をはいていた事である。しかも着物の裾(すそ)をも引き揚げないで、湿(ぬ)れるがままにびちゃびちゃと歩いていた。誰かと喧嘩して、台所からでも飛び出して来たのかも知れない。
もう一つの問題は、女の着物が暗い中ではっきりと見えたことであるが、これは私の眼のせいかも知れない。幻覚や錯覚と違って、本当の姿がそのままに見えたのであるから、私の頭が怪しいという理窟になる。わたしは女を怪しむよりも、自分を怪しまなければならない事になった。
それを友達に話すと、若は精神病者になるなぞと嚇(おど)された。しかもそんな例はあとにも先にもただ一度で、爾来(じらい)四十余年、幸いに蘆原(あしわら)将軍の部下にも編入されずにいる。(昭和11・8「モダン日本」)
三 三宅坂
次は怪談ではなく、一種の遭難談である。読者には余り面白くないかも知れない。
話はかなりに遠い昔、明治三十年五月一日、わたしが二十六歳の初夏の出来事である。その日の午前九時ごろ、わたしは人力車に乗って、半蔵門外の堀端を通った。去年の秋、京橋に住む知人の家に男の児が生まれて、この五月は初(はつ)の節句であると云うので、私は祝い物の人形をとどけに行くのであった。わたしは金太郎の人形と飾り馬との二箱を風呂敷につつんで抱えていた。
わたしの車の前を一台の車が走って行く。それには陸軍の軍医が乗っていた。今日(こんにち)の人はあまり気の付かないことであるが、人力車の多い時代には、客を乗せた車夫がとかくに自分の前をゆく車のあとに付いて走る習慣があった。前の車のあとに付いてゆけば、前方の危険を避ける心配が無いからである。しかもそれがために、却って危険を招く虞(おそ)れがある。わたしの車なども其の一例であった。
前は軍医、あとは私、二台の車が前後して走るうちに、三宅坂上の陸軍|衛戍(えいじゅ)病院の前に来かかった時、前の車夫は突然に梶棒(かじぼう)を右へ向けた。軍医は病院の門に入るのである。今日と違って、その当時の衛戍病院の入口は、往来よりも少しく高い所にあって、さしたる勾配(こうばい)でもないが一種の坂路をなしていた。
その坂路にかかって、車夫が梶棒を急転した為に、車はずるりと後戻りをして、そのあとに付いて来た私の車の右側に衝突すると、はずみは怖ろしいもので、双方の車はたちまち顛覆(てんぷく)した。軍医殿も私も路上に投げ出された。
ぞっとしたのは、その一刹那である。単に投げ出されただけならば、まだしも災難が軽いのであるが、私の車のまたあとから外国人を乗せた二頭立ての馬車が走って来たのである。軍医殿は幸いに反対の方へ落ちたが、私は路上に落ちると共に、その馬車が乗りかかって来た。私ははっと思った。それを見た往来の人たちも思わずあっと叫んだ。私のからだは完全に馬車の下敷きになったのである。
馬車に乗っていたのは若い外国婦人で、これも帛(きぬ)を裂くような声をあげた。私を轢(ひ)いたと思ったからである。私も無論に轢かれるものと覚悟した。馬車の馬丁(ばてい)もあわてて手綱をひき留めようとしたが、走りつづけて来た二頭の馬は急に止まることが出来ないで、私の上をズルズルと通り過ぎてしまった。馬車がようよう止まると、馬丁は馭者(ぎょしゃ)台から飛び降りて来た。外国婦人も降りて来た。私たちの車夫も駈け寄った。往来の人もあつまって来た。
誰の考えにも、私は轢かれたと思ったのであろう。しかも天佑というのか、好運というのか、私は無事に起き上がったので、人々はまたおどろいた。私は馬にも踏まれず、車輪にも触れず、身には微傷だも負わなかったのである。その仔細は、私のからだが縦(たて)に倒れたからで、もし横に倒れたならば、首か胸か足かを車輪に轢かれたに相違なかった。私が縦に倒れた上を馬車が真っ直ぐに通過したのみならず、馬の蹄(ひづめ)も私を踏まずに飛び越えたので、何事も無しに済んだのである。奇蹟的という程ではないかも知れないが、私は我れながら不思議に感じた。他の人々も、「運が好かったなあ。」と口々に云った。
この当時のことを追想すると、私は今でもぞっとする。このごろの新聞紙上で交通事故の多いのを知るごとに、私は三十数年前の出来事を想いおこさずにはいられない。シナにこんな話がある。大勢の集まったところで虎の話が始まると、その中の一人がひどく顔の色を変えた。聞いてみると、その人はかつて虎に出逢って危うくも逃れた経験を有していたのである。私も馬車に轢かれそうになった経験があるので、交通事故には人一倍のショックを感じられてならない。
そのとき私のからだは無事であったが、抱えていた五月人形の箱は無論投げ出されて、金太郎も飾り馬もメチャメチャに毀れた。よんどころなく銀座へ行って、再び同じような物を買って持参したが、先方へ行っては途中の出来事を話さなかった。初の節句の祝い物が途中で毀れたなどと云っては、先方の人たちが心持を悪くするかも知れないと思ったからである。その男の児は成人に到らずして死んだ。
(昭和10・8「文藝春秋」) 
 
銀座

 

わたしは明治二十五年から二十八年まで満三年間、正しく云えば京橋区|三十間堀(さんじっけんぼり)一丁目三番地、俗にいえば銀座の東仲(ひがしなか)通りに住んでいたので、その当時の銀座の事ならば先ずひと通りは心得ている。すなわち今から四十余年前の銀座である。その記憶を一々ならべ立ててもいられないから、ここでは歳末年始の風景その他を語ることにする。
由来、銀座の大通りに夜店の出るのは、夏の七月、八月、冬の十二月、この三ヵ月に限られていて、その以外の月には夜店を出さないのが其の当時の習わしであったから、初秋の夜風が氷屋の暖簾(のれん)に訪ずれる頃になると、さすがの大通りも宵から寂寥(せきりょう)、勿論そぞろ歩きの人影は見えず、所用ある人々が足早に通りすぎるに過ぎない。商店は電燈をつけてはいたが、今から思えば夜と昼との相違で、名物の柳の木蔭などは薄暗かった。裏通りはほとんどみな住宅で、どこの家でもランプを用いていたから、往来はいっそう暗かった。
その薄暗い銀座も十二月に入ると、急に明るくなる。大通りの東側は勿論、西側にも露店がいっぱいに列ぶこと、今日の歳末と同様である。尾張町(おわりちょう)の角や、京橋の際(きわ)には、歳(とし)の市(いち)商人の小屋も掛けられ、その他の角々にも紙鳶(たこ)や羽子板などを売る店も出た。この一ヵ月間は実に繁昌で、いわゆる押すな押すなの混雑である。二十日(はつか)過ぎからはいよいよ混雑で、二十七、八日ごろからは、夜の十時、十一時ごろまで露店の灯が消えない。大晦日(おおみそか)は十二時過ぎるまで賑わっていた。
但しその賑わいは大晦日かぎりで、一夜明ければ元の寂寥にかえる。さすがに新年早々はどこの店でも門松(かどまつ)を立て、国旗をかかげ、回礼者の往来もしげく、鉄道馬車は満員の客を乗せて走る。いかにも春の銀座らしい風景ではあるが、その銀座の歩道で、追い羽根をしている娘たちがある。小さい紙鳶をあげている子供がある。それを咎める者もなく、さのみ往来の妨害にもならなかったのを考えると、新年の混雑も今日とは全然比較にならない事がよく判るであろう。大通りでさえ其の通りであるから、裏通りや河岸通りは追い羽根と紙鳶の遊び場所で、そのあいだを万歳(まんざい)や獅子舞がしばしば通る。その当時の銀座界隈には、まだ江戸の春のおもかげが残っていた。
新年の賑わいは昼間だけのことで、日が暮れると寂しくなる。露店も元日以後は一軒も出ない。商店も早く戸を閉める。年始帰りの酔っ払いがふらふら迷い歩いている位のもので、午後七、八時を過ぎると、大通りは暗い街(まち)になって、その暗いなかに鉄道馬車の音がひびくだけである。
今日と違って、その頃は年賀郵便などと云うものもなく、大抵は正直に年始まわりに出歩いたのであるから、正月も十日過ぎまでは大通りに回礼者の影を絶たず、昼は毎日賑わっていたが、日が暮れると前に云った通りの寂寥、露店も出なければ散歩の人も出ず、寒い夜風のなかに暗い町の灯が沈んで見える。今日では郊外の新開地へ行っても、こんなに暗い寂しい新年の宵の風景は見いだされまい。東京の繁華の中心という銀座通りが此の始末であるから、他は察すべしである。
その頃、銀座通りの飲食店といえば、東側に松田という料理屋がある。それを筆頭として天ぷら屋の大新、同じく天虎、藪蕎麦(やぶそば)、牛肉屋の古川、鳥屋の大黒屋ぐらいに過ぎず、西側では料理屋の千歳、そば屋の福寿庵、横町へはいって例の天金、西洋料理の清新軒。まずザッとこんなものであるから、今日のカフェーのように遊び半分にはいるという店は皆無で、まじめに飲むか食うかのほかはない。吉川のおますさんという娘が評判で、それが幾らか若い客を呼んだという位のことで、他に色っぽい噂はなかった。したがって、どこの飲食店も春は多少賑わうと云う以外に、春らしい気分も漂っていなかった。こう云うと、甚だ荒涼寂寥たるものであるが、飲食店の姐(ねえ)さん達も春は小綺麗な着物に新しい襷(たすき)でも掛けている。それを眺めて、その当時の人々は春だと思っていたのである。
その正月も過ぎ、二月も過ぎ、三月も過ぎ、大通りの柳は日ましに青くなって、世間は四月の春になっても、銀座の町の灯は依然として生暖かい靄の底に沈んでいるばかりで、夜はそぞろ歩きの人もない。ただ賑わうのは毎月三回、出世地蔵の縁日の宵だけであるが、それとても交通不便の時代、遠方から来る人もなく、往来のまん中で犬ころが遊んでいた。
今日の銀座が突然ダーク・チェンジになって、四十余年前の銀座を現出したら、銀ブラ党は定めて驚くことであろう。
(昭和11・1「文藝春秋」) 
 
夏季雑題

 

市中の夏
市中に生まれて市中に暮らして来た私たちは、繁華熱鬧(はんかねつとう)のあいだにもおのずからなる涼味を見いだすことに多年馴らされている。したがって、盛夏の市中生活も遠い山村水郷は勿論、近い郊外に住んでいる人々が想像するほどに苦しいものではないのである。
地方の都市は知らず、東京の市中では朝早くから朝顔(あさがお)売りや草花売りが来る。郊外にも売りに来るが、朝顔売りなどはやはり市中のもので、ほとんど一坪の庭をも持たないような家つづきの狭い町々を背景として、かれらが売り物とする幾鉢かの白や紅やむらさきの花の色が初めてあざやかに浮き出して来るのである。郊外の朝顔売りは絵にならない。夏のあかつきの薄い靄(もや)がようやく剥(は)げて、一町内の家々が大戸(おおど)をあける。店を飾り付ける。水をまく。そうして、きょう一日の活動に取りかかろうとする時、かの朝顔売りや草花売りが早くも車いっぱいの花を運んで来る。花も葉もまだ朝の露が乾かない。それを見て一味(いちみ)の涼を感じないであろうか。
売りに来るものもあれば、無論、買う者もある。買われたひと鉢あるいはふた鉢は、店の主人または娘などに手入れをされて、それから幾日、長ければひと月ふた月のあいだも彼らの店先を飾って、朝夕の涼味を漂わしている。近ごろは店の前の街路樹を利用して、この周囲に小さい花壇を作って、そこに白粉(おしろい)や朝鮮朝顔や鳳仙花(ほうせんか)のたぐいを栽えているのもある。
釣荵(つりしのぶ)は風流に似て俗であるが、東京の夏の景物として詩趣と画趣と涼味とを多分に併せ持っているのは、かの虎耳草(ゆきのした)であることを記憶しなければならない。村園にあれば勿論、たとい市中にあってもそれが人家の庭園に叢生(そうせい)する場合には、格別の値いあるものとして観賞されないらしいが、ひとたび鮑(あわび)の貝に養われて人家の軒にかけられた時、俄かに風趣を添うること幾層倍である。鮑の貝と虎耳草、富貴の家にはほとんど縁のないもので、いわゆる裏店(うらだな)に於いてのみそれを見るようであるが、その裏長屋の古い軒先に吊るされて、苔(こけ)の生えそうな古い鮑の貝から長い蔓は垂れ、白い花はこぼれかかっているのを仰ぎ視れば、誰でも涼しいという心持を誘い出されるに相違ない。周囲が穢(きた)なければ穢ないほど、花の涼しげなのがいよいよ眼立ってみえる。いつの頃に誰がかんがえ出したのか知らないが、おそらく遠い江戸の昔、うら長屋の奥にも無名の詩人が住んでいて、かかる風流を諸人に教え伝えたのであろう。
虫の声、それを村園や郊外の庭に聴く時、たしかに幽寂(ゆうじゃく)の感をひくが、それが一つならず、二つならず、無数の秋虫一度にみだれ咽(むせ)んで、いわゆる「虫声満[レ]地」とか「虫声如[レ]雨」とかいう境(きょう)に至ると、身にしみるような涼しさは掻き消されてしまう憾みがある。むしろ白日炎天に汗をふきながら下町の横町を通った時、どこかの窓の虫籠できりぎりすの声がひと声、ふた声、土用(どよう)のうちの日盛りにも秋をおぼえしめるのは、まさにこの声ではあるまいか。
秋虫一度にみだれ鳴くのは却って涼味を消すものであると、私は前に云った。しかもその騒がしい虫の声を市中の虫売りの家台(やたい)のうちに聴く場合には、まったくその趣を異(こと)にするのである。夜涼をたずねる市中の人は、往来の少ない幽暗の地を選ばないで、却って燈火のあかるい雑沓(ざっとう)の巷へ迷ってゆく。そこにはさまざまの露店が押し合って列んでいる。人もまた押し合って通る。その混雑のあいだに一軒の虫売りが市松障子(いちまつしょうじ)の家台をおろしている。松虫、鈴虫、草雲雀(くさひばり)のたぐいが掛行燈(かけあんどう)の下に声をそろえて鳴く。ガチャガチャ虫がひときわ高く鳴き立てている。周囲がそうぞうしい為であるかも知れないが、この時この声はちっとも騒がしくないばかりか、昼のように明るい夜の町のまんなかで俄かに武蔵野の秋を見いだしたかのようにも感じられて、思わずその店先に足を停めるものは子供ばかりではあるまい。楊誠斎(ようせいさい)の詩に「時に微涼あり、是れ風ならず。」とあるのは、こういう場合にも適応されると思う。
夏の夜店で見るから涼しげなものは西瓜(すいか)の截(た)ち売りである。衛生上の見地からは別に説明する人があろう。私たちは子供のときから何十たびか夜店の西瓜を買って食ったが、幸いに赤痢(せきり)にもチブスにもならないで、この年まで生きて来た。夜の灯に照らされた西瓜の色は、物の色の涼しげなる標本と云ってもよい。唐蜀黍(とうもろこし)の付け焼きも夏の夜店にふさわしいものである。強い火に焼いて売るのであるから、本来は暑苦しそうな筈であるが、街路樹などの葉蔭に小さい店を出して唐もろこしを焼いているのを見れば、決して暑い感じは起らない。却ってこれも秋らしい感じをあたえるものである。
金魚も肩にかついで売りあるくよりも、夜店に金魚|桶(おけ)をならべて見るべきものであろう。幾つもの桶をならべて、緋鯉(ひごい)、金魚、目高のたぐいがそれぞれの桶のなかに群がり遊んでいるのを、夜の灯にみると一層涼しく美しい。一緒に大きい亀の子などを売っていれば、更におもしろい。
こんなことを一々かぞえたてていたら際限がない。
心頭(しんとう)を滅却すれば火もおのずから涼し。――そんなむずかしい悟(さと)りを開くまでもなく、誰でもおのずから暑中の涼味を見いだすことを知っている。とりわけて市中に住むものは、山によらず、水に依らずして、到るところに涼味を見いだすことを最もよく知っているのである。
わたしは滅多に避暑旅行などをしたことは無い。
夏の食いもの
ひろく夏の食いものと云えば格別、それを食卓の上にのみ限る場合には、その範囲がよほど狭くなるようである。
勿論、コールドビーフやハムサラダでビールを一杯飲むのもいい。日本流の洗肉(あらい)や水貝(みずがい)も悪くない。果物にパンぐらいで、あっさりと冷やし紅茶を飲むのもいい。
その人の趣味や生活状態によって、食い物などはいろいろの相違のあるものであるから、もちろん一概には云えないことであるが、旧東京に生長した私たちは、やはり昔風の食い物の方が何だか夏らしく感じられる。とりわけて、夏の暑い時節にはその感が多いようである。
今日の衛生論から云うと余り感心しないものであろうが、かの冷奴(ひややっこ)なるものは夏の食い物の大関である。奴豆腐を冷たい水にひたして、どんぶりに盛る。氷のぶっ掻きでも入れれば猶さら贅沢(ぜいたく)である。別に一種の薬味として青紫蘇(あおじそ)か茗荷(みょうが)の子を細かに刻んだのを用意して置いて、鰹節(かつおぶし)をたくさんにかき込んで生醤油(きじょうゆ)にそれを混ぜて、冷え切った豆腐に付けて食う。しょせんは湯豆腐を冷たくしたものに過ぎないが、冬の湯豆腐よりも夏の冷奴の方が感じがいい。湯豆腐から受取る温か味よりも、冷奴から受取る涼し味の方が遥(はる)かに多い。樋口一葉(ひぐちいちよう)女史の「にごり江」のうちにも、源七(げんしち)の家の夏のゆう飯に、冷奴に紫蘇の香たかく盛り出すという件(くだ)りが書いてあって、その場の情景が浮き出していたように記憶している。
「夕顔や一丁残る夏豆腐」許六(きょろく)の句である。
ある人は洒落(しゃれ)て「水貝」などと呼んでいるが、もとより上等の食いものではない。しかもほんとうの水貝に比較すれば、その価が廉(やす)くて、夏向きで、いかにも民衆的であるところが此の「水貝」の生命で、いつの時代に誰が考え出したのか知らないが、江戸以来何百年のあいだ、ほとんど無数の民衆が夏の一日の汗を行水(ぎょうずい)に洗い流した後、ゆう飯の膳(ぜん)の上にならべられた冷奴の白い肌に一味(いちみ)の清涼を感じたであろうことを思う時、今日ラッパを吹いて来る豆腐屋の声にも一種のなつかしさを感ぜずにはいられない。現にわたしなども、この「水貝」で育てられて来たのである。但し近年は胃腸を弱くしているので、冬の湯豆腐に箸を付けることはあっても、夏の「水貝」の方は残念ながら遠慮している。
冷奴の平民的なるに対して、貴族的なるは鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)である。前者(ぜんしゃ)の甚だ淡泊なるに対して、後者(こうしゃ)は甚だ濃厚なるものであるが、いずれも夏向きの食い物の両大関である。むかしは鰻を食うのと駕籠(かご)に乗るのとを平民の贅沢と称していたという。今はさすがにそれほどでもないが、鰻を食ったり自動車に乗ったりするのは、懐中の冷たい時にはやはりむずかしい。国学者の斎藤彦麿(さいとうひこまろ)翁はその著「神代余波」のうちに、盛んに蒲焼の美味を説いて、「一天四海に比類あるべからず」と云い、「われ六、七歳のころより好みくひて、八十歳まで無病なるはこの霊薬の効験にして、草根木皮(そうこんぼくひ)のおよぶ所にあらず」とも云っている。今日でも彦麿翁の流れを汲んで、長生きの霊薬として鰻を食う人があるらしい。それほどの霊薬かどうかは知らないが、「一天四海に比類あるべからず」だけは私も同感である。しかもそれは昔のことで、江戸前ようやくに亡び絶えて、旅うなぎや養魚場生まれの鰻公(まんこう)が到るところにのたくる当世と相成っては、「比類あるべからず」も余ほど割引きをしなければならないことになった。
次に瓜(うり)である。夏の野菜はたくさんあるが、そのうちでも代表的なのは瓜と枝豆であろう。青々した枝豆の塩ゆでも悪くない。しかも見るから夏らしい感じをあたえるものは、胡瓜(きゅうり)と白瓜である。胡瓜は漬け物のほかに、胡瓜|揉(も)みという夏向きの旨い調理法がむかしから工夫されていて、かの冷奴と共に夏季の食膳の上には欠くべからざる民衆的の食い物となっている。白瓜は漬け物のほかに使い道はないようであるが、それだけでも十分にその役目を果たしているではないか。そのほかに茄子(なす)や生姜(しょうが)のたぐいがあるとしても、夏の漬け物はやはり瓜である。茄子の濃(こ)むらさき、生姜の薄くれない、皆それぞれに美しい色彩に富んでいるが、青く白く、見るから清々(すがすが)しいのは瓜の色におよぶものはない。味はすこしく茄子に劣るが、その淡い味がいかにも夏のものである。
百人一首の一人、中納言|朝忠(あさただ)卿は干瓜を山のごとくに積んで、水漬けの飯をしたたかに食って人をおどろかしたと云うが、その干瓜というのは、かの雷干(かみなりぼし)のたぐいかも知れない。白瓜を割(さ)いて炎天に干すのを雷干という。食ってはさのみ旨いものでもないが、一種の俳味のあるもので、誰が云い出したか雷干とは面白い名をつけたものだと思う。
花火
俳諧(はいかい)では花火を秋の季に組み入れているが、どうもこれは夏のものらしい。少なくとも東京では夏の宵の景物(けいぶつ)である。
哀えたと云っても、両国の川開きに江戸以来の花火のおもかげは幾分か残っている。しかし私は川開き式の大花火をあまり好まない。由来、どこの土地でも大仕掛けの花火を誇りとする傾きがあるらしいが、いたずらに大仕掛けを競うものには、どうも風趣が乏しいようである。花火はむしろ子供たちがもてあそぶ細い筒の火にかぎるように私は思う。
わたしの子供の頃には、花火をあげて遊ぶ子供たちが多かった。夏の長い日もようやく暮れて、家々の水撒(みずま)きもひと通り済んで、町の灯がまばらに燦(きら)めいてくると、子供たちは細い筒の花火を持ち出して往来に出る。そこらの涼み台では団扇(うちわ)の音や話し声がきこえる。子供たちは往来のまん中に出るのもある、うす暗い立木のかげにあつまるものもある。そうして、思い思いに花火をうち揚げる。もとより細い筒であるから、火は高くあがらない。せいぜいが二階家の屋根を越えるくらいで、ぽんと揚がるかと思うと、すぐに開いて直ぐに落ちる。まことに単純な、まことに呆気(あっけ)ないものではあるが、うす暗い町で其処(そこ)にも此処(ここ)にもこの小さい火の飛ぶ影をみるのは、一種の涼しげな気分を誘い出すものであった。
白地の浴衣(ゆかた)を着た若い娘が虫籠をさげて夜の町をゆく。子供の小さい花火は、その行く手を照らすかのように低く飛んでいる。――こう書くと、それは絵であるというかも知れない。しかし私たちの子供のときには、こういう絵のような風情はめずらしくなかった。絵としてはもちろん月並(つきなみ)の画題でもあろうが、さて実際にそういう風情をみせられると、決して悪くは感じない。まわり燈籠、組みあげ燈籠、虫籠、蚊いぶしの煙り、西瓜の截ち売り、こうしたものが都会の夏の夜らしい気分を作り出すとすれば、子供たちの打ち揚げる小さい花火もたしかにその一部を担任していなければならない。
花火は普通の打ち揚げのほかに、鼠花火、線香花火のあることは説明するまでもあるまい。鼠花火はいたずら者が人を嚇(おど)してよろこぶのである。線香花火は小さい児や女の児をよろこばせるのである。そのほかに幽霊花火というのもあった。これはお化け花火とも云って、鬼火のような青い火がただトロトロと燃えて落ちるだけであるが、いたずら者は暗い板塀や土蔵の白壁のかげにかくれて、蚊に食われながらその鬼火を燃やして、臆病者の通りかかるのを待っているのであった。
学校の暑中休暇中の仕事は、勉強するのでもない、避暑旅行に出るのでもない、活動写真にゆくのでもない。昼は泳ぎにゆくか、蝉やとんぼを追いまわしに出る。そうして、夜はきっと花火をあげに出る。いわゆる悪戯(いたずら)っ子(こ)として育てられた自分たちの少年時代を追懐して、わたしは決してそれを悔(くや)もうとは思わない。
その時代にくらべると、今は世の中がまったく変ってしまった。大通りには電車が通る。横町にも自動車や自転車が駆け込んでくる。警察官は道路の取締りにいそがしい。春の紙鳶も、夏の花火も、秋の独楽(こま)も、だんだんに子供の手から奪われてしまった。今でも場末のさびしい薄暗い町を通ると、ときどきに昔なつかしい子供の花火をみることもある。神経の尖(とが)った現代の子供たちはおそらくこの花火に対して、その昔の私たちほどの興味を持っていないであろうと思われる。「花火間もなき光かな」などと云って、むかしから花火は果敢(はか)ないものに謳(うた)われているが、その果敢ないものの果敢ない運命もやがては全くほろび尽くして、花火といえば両国(りょうごく)式の大仕掛けの物ばかりであると思われるような時代が来るであろう。どんなに精巧な螺旋(ぜんまい)仕掛けのおもちゃが出来ても、あの粗末な細い竹筒が割れて、あかい火の光がぽんとあがるのを眺めていた昔の子供たちの愉快と幸福とを想像することは出来まい。
花火は夏のものであると私は云った。しかし、秋の宵の花火もまた一種の風趣がないでもない。鉢の朝顔の蔓がだんだんに伸びて、あさ夕はもう涼風が単衣(ひとえもの)の襟にしみる頃、まだ今年の夏を忘れ得ない子供たちが夜露のおりた町に出て、未練らしく花火をあげているのもある。勿論、その火の数は夏の頃ほどに多くない。秋の蛍――そうした寂しさを思わせるような火の光がところどころに揚がっていると、暗い空から弱い稲妻がときどきに落ちて来て、その光を奪いながら共に消えてゆく。子供心にも云い知れない淡い哀愁を誘い出されるのは、こういう秋の宵であった。
(大正14・5「週刊朝日」) 
 
雷雨

 

夏季に入っていつも感じるのは、夕立(ゆうだち)と雷鳴の少なくなったことである。私たちの少年時代から青年時代にかけては、夕立と雷鳴がずいぶん多く、いわゆる雷嫌いをおびやかしたものであるが、明治末期から次第に減じた。時平公(しへいこう)の子孫万歳である。
地方は知らず、都会は周囲が開けて来る関係上、気圧や気流にも変化を生じたとみえて、東京などは近年たしかに雷雨が少なくなった。第一に夕立の降り方までが違って来た。むかしの夕立は、今までカンカン天気であったかと思うと、俄かに蝉の声がやむ、頭の上が暗くなる。おやッと思う間に、一朶(いちだ)の黒雲が青空に拡がって、文字通りの驟雨沛然(しゅううはいぜん)、水けむりを立てて瀧のように降って来る。
往来の人々はあわてて逃げる。家々では慌(あわ)てて雨戸をしめる、干物(ほしもの)を片付ける。周章狼狽(しゅうしょうろうばい)、いやもう乱痴気騒ぎであるが、その夕立も一時間とはつづかず、せいぜい二十分か三十分でカラリと晴れて、夕日が赫(かっ)と照る、蝉がまた啼き出すという始末。急がずば湿(ぬ)れざらましを旅人の、あとより晴るる野路の村雨(むらさめ)――太田道灌(おおたどうかん)よく詠んだとは、まったく此の事であった。近年こんな夕立はめったにない。
空がだんだんに曇って来て、今に降るかと用意していても、この頃の雷雨は待機の姿勢を取って容易に動かない。三、四十分ないし一時間の余裕をあたえて、それからポツポツ降り出して来るという順序で、昔のような不意撃ちを食わせない。いわんや青天(せいてん)の霹靂(へきれき)などは絶無である。その代りに揚がりぎわもよくない。雷も遠くなり、雨もやむかと見えながら、まだ思い切りの悪いようにビショビショと降っている。むかしの夕立の男性的なるに引きかえて、このごろの夕立は女性的である。雷雨一過の後も爽(さわや)かな涼気を感ずる場合が少なく、いつまでもジメジメして、蒸し暑く、陰鬱で、こんな夕立ならば降らないほうが優(ま)しだと思うことがしばしばある。
こう云うと、ひどく江戸っ子で威勢がいいようであるが、正直をいえば私はあまり雷を好まない。いわゆる雷嫌いという程でもないが、聞かずに済むならば聞きたくない方で、電光がピカリピカリ、雷鳴がゴロゴロなどは、どうも愉快に感じられない。しかも夕立には雷電を伴うのが普通であるから、自然に夕立をも好まないようになる。殊に近年の夕立のように、雨後の気分がよくないならば、降ってくれない方が仕合せである。雷ばかりでなく、わたしは風も嫌いである。夏の雷、冬の風、いずれも私の平和を破ること少なくない。
むかしの子供は雷を呼んでゴロゴロ様とか、かみなり様とか云っていたが、わたしが初めてかみなり様とお近付き(?)になったのは、六歳の七月、日は記憶しないが、途方もなく暑い日であった。わたしの家は麹町の元園町にあったが、その頃の麹町辺は今日(こんにち)の旧郊外よりもさびしく、どこの家も庭が広くて、家の周囲にも空地(あきち)が多かった。
わたしの家と西隣りの家とのあいだにも、五、六間の空地があって、隣りの家には枸杞(くこ)の生垣(いけがき)が青々と結いまわしてあった。わたしはその枸杞の実を食べたこともあった。その生垣の外にひと株の大きい柳が立っている。それが自然の野生であるか、あるいは隣りの家の所有であるか、そんなこともよく判らなかったが、ともかくも相当の大木で、夏から秋にかけては油蝉やミンミンやカナカナや、あらん限りの蝉が来てそうぞうしく啼いた。柳の近所にはモチ竿や紙袋を持った子供のすがたが絶えなかった。前にいう七月のある日、なんでも午後の三時頃であったらしい。大夕立の真っ最中、その柳に落雷したのである。
雷雨を恐れて、わたしの家では雨戸をことごとく閉じていたので、落雷当時のありさまは知らない。唯(ただ)すさまじい雷鳴と共に、家内が俄かに明るくなったように感じただけであったが、雨が晴れてから出てみると、かの柳は真っ黒に焦(こ)げて、大木の幹が半分ほども裂けていた。わたしは子供心に戦慄(せんりつ)した。その以来、わたしはかみなり様が嫌いになった。
それでも幸いに、ひどい雷嫌いにもならなかったが、さりとて平然と落着いているような勇士にはなれなかった。雷鳴を不愉快に感ずることは、昔も今も変りがない。その私が暴雷におびやかされた例が三回ある。
その一は、明治三十七年の九月八日か九日の夜とおぼえている。わたしは東京日日新聞の従軍記者として満洲の戦地にあって、遼陽(りょうよう)陥落の後、半月ほどは南門外の迎陽子という村落の民家に止宿していたが、そのあいだの事である。これは夕立というのではなく、午後二時頃からシトシトと降り出した雨が、暮るると共に烈(はげ)しく降りしきって、九時を過ぎる頃から大雷雨となった。
雷光は青く、白く、あるいは紅(あか)く、あるいは紫に、みだれて裂けて、乱れて飛んで、暗い村落をいろいろに照らしている。雨はごうごうと降っている。雷はすさまじく鳴りはためいて、地震のような大きい地ひびきがする。それが夜の白らむまで、八、九時間も小歇(こや)みなしに続いたのであるから、実に驚いた。大袈裟(おおげさ)にいえば、最後の審判の日が来たのかと思われる程であった。もちろん眠られる筈もない。わたしは頭から毛布を引っかぶって、小さくなって一夜をあかした。
「毎日大砲の音を聞き慣れている者が、雷なんぞを恐れるものか。」
こんなことを云って強がっていた連中も、仕舞いにはみんな降参したらしく、夜の明けるまで安眠した者は一人もなかった。夜が明けて、雨が晴れて、ほっとすると共にがっかりした。
その二は、明治四十一年の七月である。午後八時を過ぎる頃、わたしは雨を衝(つ)いて根岸(ねぎし)方面から麹町へ帰った。普通は池(いけ)の端(はた)から本郷台へ昇ってゆくのであるが、今夜の車夫は上野(うえの)の広小路(ひろこうじ)から電車線路をまっすぐに神田にむかって走った。御成(おなり)街道へさしかかる頃から、雷鳴と電光が強くなって来たので、臆病な私は用心して眼鏡(めがね)をはずした。
もう神田区へ踏み込んだと思う頃には、雷雨はいよいよ強くなった。まだ宵ながら往来も途絶えて、時どきに電車が通るだけである。眼の先もみえないように降りしきるので、車夫も思うようには進まれない。ようように五軒町(ごけんちょう)附近まで来かかった時、ゆく先がぱっと明るくなって、がんというような霹靂一声、車夫はたちまちに膝を突いた。車は幌(ほろ)のままで横に倒れた。わたしも一緒に投げ出された。幌が深いので、車外へは転げ出さなかったが、ともかくもはっと思う間にわたしの体は横倒しになっていた。二、三丁さきの旅籠町(はたごちょう)辺の往来のまんなかに落雷したのである。
わたしは別に怪我(けが)もなかった。車夫も膝がしらを少し擦り剥(む)いたぐらいで、さしたる怪我もなかった。落雷が大地にひびいて、思わず膝を折ってしまったと、車夫は話した。しかし大難が小難で済んだわけで、もし私の車がもう一、二丁も南へ進んでいたら、どんな禍(わざわ)いを蒙(こうむ)ったか判らない。二人はたがいに無事を祝して、豪雨のなかをまた急いだ。
その三は、大正二年の九月、仙台(せんだい)の塩竃(しおがま)から金華山(きんかざん)参詣の小蒸汽船に乗って行って、島内の社務所に一泊した夜である。午後十時頃から山もくずれるような大雷雨となった。
「なに、直ぐに晴れます。」
社務所の人は慰めてくれたが、なにしろ場所が場所である。孤島の雷雨はいよいよ凄愴(せいそう)の感が深い。あたまの上の山からは瀧のように水が落ちて来る、海はどうどうと鳴っている。雷は縦横無尽に駈けめぐってガラガラとひびいている。文字通りの天地震動である。こんなありさまで、あしたは無事に帰られるかと危ぶまれた。天候の悪いときには幾日も帰られないこともあるが、社務所の倉には十分の食料がたくわえてあるから、決して心配には及ばないと云い聞かされて、心細いなかにも少しく意を強うした。
社務所の人の話に嘘はなかった。さすがの雷雨も十二時を過ぎる頃からだんだんに衰えて、枕もとの時計が一時を知らせる頃には、山のあたりで鹿の鳴く声がきこえた。喜んで窓をあけて見ると、空は拭(ぬぐ)ったように晴れ渡って、旧暦八月の月が昼のように明るく照らしていた。私はあしたの天気を楽しみながら、窓に倚(よ)って徐(しず)かに鹿の声を聞いた。その爽(さわや)かな心持は今も忘れないが、その夜の雷雨のおそろしさも、おなじく忘れ得ない。
白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ)氏の研究によると、東京で最も雷雨の多いのは杉並(すぎなみ)のあたりであると云う。わたしの知る限りでも、東京で雷雨の多いのは北|多摩(たま)郡の武蔵野町から杉並区の荻窪(おぎくぼ)、阿佐ヶ谷(あさがや)のあたりであるらしい。甲信(こうしん)盆地で発生した雷雲が武蔵野の空を通過して、房総(ぼうそう)の沖へ流れ去る。その通路があたかも杉並辺の上空にあたり、下町方面へ進行するにしたがって雷雲も次第に稀薄になるように思われる。但し俗に「北鳴り」と称して、日光(にっこう)方面から押し込んで来る雷雲は別物である。
(昭和11・7「サンデー毎日」) 
 

 

去年の十月頃の新聞を見た人々は記憶しているであろう。日本橋蠣殻町(にほんばしかきがらちょう)のある商家の物干へ一羽の大きい鳶(とび)が舞い降りたのを店員大勢が捕獲して、警察署へ届け出たというのである。ある新聞には、その鳶の写真まで掲げてあった。
そのとき私が感じたのは、鳶という鳥がそれほど世間から珍しがられるようになった事である。今から三、四十年前であったら、鳶なぞがそこらに舞っていても、降りていても、誰も見返る者もあるまい。云わば鴉(からす)や雀(すずめ)も同様で、それを捕獲して警察署へ届け出る者もあるまい。鳶は現在保護鳥の一種になっているから、それで届け出たのかも知れないが、昔なら恐らくそれを捕獲しようと考える者もあるまい。それほどに鳶は普通平凡の鳥類と見なされていたのである。
私は山の手の麹町に生長したせいか、子供の時から鳶なぞは毎日のように見ている。天気晴朗の日には一羽や二羽はかならず大空に舞っていた。トロトロトロと云うような鳴き声も常に聞き慣れていた。鳶が鳴くから天気がよくなるだろうなぞと云った。
鳶に油揚(あぶらげ)を攫(さら)われると云うのは嘘ではない。子供が豆腐屋へ使いに行って笊(ざる)や味噌(みそ)こしに油揚を入れて帰ると、その途中で鳶に攫って行かれる事はしばしばあった。油揚ばかりでなく、魚屋(さかなや)が人家の前に盤台(はんだい)をおろして魚をこしらえている処へ、鳶が突然にサッと舞いくだって来て、その盤台の魚や魚の腸(はらわた)なぞを引っ掴んで、あれという間に虚空(こくう)遥かに飛び去ることも珍しくなかった。鷲(わし)が子供を攫って行くのも恐らく斯(こ)うであろうかと、私たちも小さい魂(きも)をおびやかされたが、それも幾たびか見慣れると、やあまた攫われたなぞと面白がって眺めているようになった。往来で白昼掻っ払いを働く奴を東京では「昼とんび」と云った。
小石川(こいしかわ)に富坂町(とみざかまち)というのがある。富坂はトビ坂から転じたので、昔はここらの森にたくさんの鳶が棲んでいた為であるという。してみると、江戸時代には更にたくさんの鳶が飛んでいたに相違ない。鳶ばかりでなく、鶴(つる)も飛んでいたのである。明治以後、鶴を見たことはないが、鳶は前に云う通り、毎日のように東京の空を飛び廻っていたのである。
鳶も鷲と同様に、いわゆる鷙鳥(しちょう)とか猛禽(もうきん)とか云うものにかぞえられ、前に云ったような悪(わる)いたずらをも働くのであるが、鷲のように人間から憎まれ恐れられていないのは、平生から人家に近く棲んでいるのと、鷲ほどの兇暴を敢(あえ)てしない為であろう。子供の飛ばす凧(たこ)は鳶から思い付いたもので、日本ではトンビ凧といい、漢字では紙鳶と書く。英語でも凧をカイトという。すなわち鳶と同じことである。それを見ても、遠い昔から人間と鳶とは余ほどの親しみを持っていたらしいが、文明の進むに連れて、人間と鳶との縁がだんだんに遠くなった。
日露戦争前と記憶している。麹町の英国大使館の旗竿に一羽の大きい鳶が止まっているのを見付けて、英国人の館員や留学生が嬉(うれ)しがって眺めていた。留学生の一人が私に云った。
「鳶は男らしくていい鳥です。しかし、ロンドン附近ではもう見られません。」
まだ其の頃の東京には鳶のすがたが相当に見られたので、英国人はそんなに鳶を珍しがったり、嬉しがったりするのかと、私は心ひそかに可笑(おか)しく思った位であったが、その鳶もいつか保護鳥になった。東京人もロンドン人と同じように、鳶を珍しがる時代が来たのである。もちろん鳶に限ったことではなく、大都会に近いところでは、鳥類、虫類、魚類が年々に亡びて行く。それは余儀なき自然の運命であるから、特に鳶に対して感傷的の詠嘆を洩らすにも及ばないが、初春の空にかのトンビ凧を飛ばしたり、大きな口をあいて「トンビ、トロロ」と歌った少年時代を追懐すると、鳶の衰滅に対して一種の悲哀を感ぜずにはいられない。
むかしは矢羽根に雉(きじ)または山鳥の羽(はね)を用いたが、それらは多く得られないので、下等の矢には鳶の羽を用いた。その鳶の羽すらも払底(ふってい)になった頃には、矢はすたれて鉄砲となった。そこにも需要と供給の変遷が見られる。
私はこのごろ上目黒(かみめぐろ)に住んでいるが、ここらにはまだ鳶が棲んでいて、晴れた日には大きい翼をひろげて悠々と舞っている。雨のふる日でもトロトロと鳴いている。私は旧友に逢ったような懐かしい心持で、その鳶が輪を作って飛ぶ影をみあげている。鳶はわが巣を人に見せないという俗説があるが、私の家のあたりへ飛んで来る鳶は近所の西郷山に巣を作っているらしい。その西郷山もおいおいに拓(ひら)かれて分譲地となりつつあるから、やがてはここらにも鳶の棲家を失うことになるかも知れない。いかに保護されても、鳶は次第に大東京から追いやらるるのほかはあるまい。
私はよく知らないが、金鵄(きんし)勲章の鵄は鳶のたぐいであると云う。然らば、たとい鳶がいずこの果てへ追いやられても、あるいはその種族が絶滅に瀕(ひん)しても、その雄姿は燦(さん)として永久に輝いているのである。鳶よ、憂うる勿(なか)れ、悲しむ勿れと云いたくもなる。
きょうも暮春の晴れた空に、二羽の鳶が舞っている。折りから一台の飛行機が飛んで来たが、かれらはそれに驚かされたような気色(けしき)も見せないで、やはり悠々として大きい翼を空中に浮かべていた。
(昭和11・5「政界往来」) 
 
旧東京の歳晩

 

昔と云っても、遠い江戸時代のことはわたしも知らない。ここでいう昔は、わたし自身が目撃した明治十年ごろから三十年頃にわたる昔のことである。そのつもりで読んで貰いたい。
その頃のむかしに比べると、最近の東京がいちじるしく膨脹(ぼうちょう)し、いちじるしく繁昌して来たことは云うまでもない。その繁昌につれて、東京というものの色彩もまたいちじるしく華やかになった。家の作り方、ことに商店の看牌(かんばん)や店飾りのたぐいが、今と昔とはほとんど比較にならないほどに華やかになった。勿論、一歩あやまって俗悪に陥ったような点もみえるが、いずれにしても賑やかになったのは素晴らしいものである。今から思うと、その昔の商店などは何商売にかかわらず、いずれも甚だ質素な陰気なもので、大きな店ほど何だか薄暗いような、陰気な店構えをしているのが多かった。大通りの町々と云っても、平日(へいじつ)は寂しいもので――その当時は相当に賑やかいと思っていたのであるが――人通りもまた少なかった。
それが年末から春初にかけては、俄かに景気づいて繁昌する。平日がさびしいだけに、その繁昌がひどく眼に立って、いかにも歳の暮れらしい、忙がしい気分や、または正月らしい浮いた気分を誘い出すのであった。今日(こんにち)のように平日から絶えず賑わっていると、歳の暮れも正月も余りいちじるしい相違はみえないが、くどくも云う通り、ふだんが寝入っているだけに、暮れの十五、六日頃から正月の十五、六日まで約一ヵ月のあいだは、まったく世界が眼ざめて来たように感じられたものである。
今日のように各町内連合の年末大売出しなどというものはない。楽隊で囃(はやし)し立てるようなこともない。大福引きで箪笥や座蒲団をくれたり、商品券をくれたりするようなこともない。しかし二十日(はつか)過ぎになると、各商店では思い思いに商品を店いっぱいに列べたり、往来まで食(は)み出すように積みかさねたりする。景気づけにほおずき提灯をかけるのもある。福引きのような大当りはないが、大抵の店では買物相当のお景物をくれることになっているので、その景品をこれ見よとばかりに積み飾って置く。それがまた馬鹿に景気のいいもので、それに惹(ひ)かされると云うわけでもあるまいが、買手がぞろぞろと繋がってはいる。その混雑は実におびただしいものであった。
それらの商店のうちでも、絵草紙屋――これが最も東京の歳晩を彩(いろど)るもので、東京に育った私たちに取っては生涯忘れ得ない思い出の一つである。絵草紙屋は歳の暮れにかぎられた商売ではないが、どうしても歳の暮れに無くてはならない商売である事を知らなければならない。錦絵の板元(はんもと)では正月を当て込みにいろいろの新版を刷り出して、小売りの絵草紙屋の店先を美しく飾るのが習いで、一枚絵もある、二枚つづきもある、三枚つづきもある。各劇場の春狂言が早くきまっている時には、先廻りをして三枚つづきの似顔絵を出すこともある。そのほかにいろいろの双六(すごろく)も絵草紙屋の店先にかけられる。そのなかには年々歳々おなじ版をかさねているような、例のいろは短歌や道中|双六(すごろく)のたぐいもあるが、何か工夫して新しいものを作り出すことになっているので、武者絵(むしゃえ)双六、名所双六、お化け双六、歌舞伎双六のたぐい、主題はおなじでも画面の違ったものを撰んで作る。ことに歌舞伎双六は羽子板とおなじように、大抵はその年の当り狂言を撰むことになっていて、人物はすべて俳優(やくしゃ)の似顔であること勿論である。その双六だけでも十種、二十種の多きに達して、それらが上に下に右に左に掛け連ねられて、師走の風に軽くそよいでいる。しかもみな彩色(さいしき)の新版であるから、いわゆる千紫万紅(せんしばんこう)の絢爛(けんらん)をきわめたもので、眼も綾(あや)というのはまったく此の事であった。
女子供は勿論、大抵の男でもよくよくの忙がしい人でないかぎりは、おのずとそれに吸い寄せられて、店先に足を停めるのも無理はなかった。絵草紙屋では歌がるたも売る、十六むさしも売る、福笑いも売る、正月の室内の遊び道具はほとんどみなここに備わっていると云うわけであるから、子供のある人にかぎらず、歳晩年始の贈り物を求めるために絵草紙屋の前に立つ人は、朝から晩まで絶え間がなかった。わたしは子供の時に、麹町から神田、日本橋、京橋、それからそれへと絵草紙屋を見てあるいて、とうとう芝(しば)まで行ったことがあった。
歳(とし)の市(いち)を観ないでも、餅搗(もちつ)きや煤掃(すすは)きの音を聞かないでも、ふところ手をして絵草紙屋の前に立ちさえすれば、春の来るらしい気分は十分に味わうことが出来たのである。江戸以来の名物たる錦絵がほろびたと云うのは惜しむべきことに相違ないが、わたしは歳晩の巷(ちまた)を行くたびに特にその感を深うするもので、いかに連合大売出しが旗や提灯で飾り立てても、楽隊や蓄音器で囃し立てても、わたしをして一種寂寥の感を覚えしめるのは、東京市中にかの絵草紙屋の店を見いだし得ないためであるらしい。
歳晩の寄席――これにも思い出がある。いつの頃から絶えたか知らないが、昔は所々の寄席に大景物(だいけいぶつ)ということがあった。十二月の下席(しもせき)は大抵休業で、上(かみ)十五日もあまりよい芸人は出席しなかったらしい。そこで、第二流どころの芸人の出席する寄席では、客を寄せる手段として景物を出すのである。
中入りになった時に、いろいろの景品を高座に持ち出し、前座の芸人が客席をまわって、めいめいに籤(くじ)を引かせてあるく。そうして、その籤の番号によって景品をくれるのであるが、そのなかには空くじもたくさんある。中(あた)ったものには、安物の羽子板や、紙鳶や、羽根や、菓子の袋などをくれる。箒や擂(す)りこ木や、鉄瓶や、提灯や、小桶や、薪や、炭俵や、火鉢などもある。安物があたった時は仔細ないが、すこしいい物をひき当てた場合には、空くじの連中が妬(ねた)み半分に声をそろえて、「やってしまえ、やってしまえ。」と呶鳴(どな)る。自分がそれを持ち帰らずに、高座の芸人にやってしまえと云うのである。そう云われて躊躇(ちゅうちょ)していると、芸人たちの方では如才なくお辞儀をして、「どうもありがとうございます。」と、早々にその景品を片付けてしまうので、折角いい籤をひき当てても結局有名無実に終ることが多い。それを見越して、たくさんの景品のうちにはいかさま物もならべてある。羊羹(ようかん)とみせかけて、実は拍子木を紙につつんだたぐいの物が幾らもあるなどと云うが、まさかそうでもなかったらしい。
わたしも十一の歳のくれに、麹町の万よしという寄席で紙鳶をひき当てたことを覚えている。それは二枚半で、龍という字凧であった。わたしは喜んで高座の前へ受取りにゆくと、客席のなかで例の「やってしまえ。」を呶鳴るものが五、六人ある。わたしも負けない気になって、「子供が紙鳶を取って、やってしまう奴があるものか。」と、大きな声で呶鳴りかえすと、大勢の客が一度に笑い出した。高座の芸人たちも笑った。ともかくも無事に、その紙鳶を受取って元の席に戻ってくると、なぜそんな詰まらないことを云うのだと、一緒に行っていた母や姉に叱られた。その紙鳶はよくよく私に縁が無かったとみえて、あくる年の正月二日に初めてそれを揚げに出ると、たちまちに糸が切れて飛んでしまった。
近年は春秋二季の大掃除というものがあるので――これは明治三十二年の秋から始まったように記憶している。――特に煤掃(すすは)きをする家は稀であるらしいが、その頃はどこの家でも十二月にはいって煤掃きをする。手廻しのいい家は月初めに片付けてしまうが、もう数(かぞ)え日(び)という二十日過ぎになってトントンバタバタと埃(ほこり)を掃き立てている家がたくさんある。商店などは昼間の商売が忙がしいので、日がくれてから提灯をつけて煤掃きに取りかかるのもある。なにしろ戸々(ここ)で思い思いに掃き立てるのであるから、その都度(つど)に近所となりの迷惑は思いやられるが、お互いのことと諦(あきら)めて別に苦情もなかったらしい。
江戸時代には十二月十三日と大抵きまっていたのを、維新後にはその慣例が頽(くず)れてしまったので、お互いに迷惑しなければならないなどと、老人たちは呟(つぶや)いていた。
もう一つの近所迷惑は、かの餅搗きであった。米屋や菓子屋で餅を搗くのは商売として已(や)むを得ないが、そのころには俗にひきずり餅というのが行なわれた。搗屋が臼(うす)や釜(かま)の諸道具を車につんで来て、家々の門内や店先で餅を搗くのである。これは依頼者の方であらかじめ糯米(もちごめ)を買い込んでおくので、米屋や菓子屋にあつらえるよりも経済であると云うのと、また一面には世間に対する一種の見栄もあったらしい。又なんという理窟もなしに、代々の習慣でかならず自分の家で搗かせることにしているのもあったらしい。勿論、この搗屋も大勢あったには相違ないが、それでも幾人か一組になって、一日に幾ヵ所も掛いて廻るのであるから、夜のあけないうちから押し掛けて来る。そうして、幾臼かの餅を搗いて、祝儀を貰って、それからそれへと移ってゆくので、遅いところへ来るのは夜更(よふ)けにもなる。なにしろ大勢がわいわい云って餅を搗き立てるのであるから、近所となりに取っては安眠妨害である。殊に釜の火を熾(さか)んに焚(た)くので、風のふく夜などは危険でもある。しかしこれに就(つ)いても近所から苦情が出たという噂も聞かなかった。
運が悪いと、ゆうべは夜ふけまで隣りの杵(きね)の音にさわがされ、今朝は暗いうちから向うの杵の音に又おどろかされると云うようなこともあるが、これも一年一度の歳の暮れだから仕方がないと覚悟していたらしい。現にわたしなども霜夜の枕にひびく餅の音を聴きながら、やがて来る春のたのしみを夢みたもので――有明(ありあけ)は晦日(みそか)に近し餅の音――こうした俳句のおもむきは到るところに残っていた。
冬至(とうじ)の柚湯(ゆずゆ)――これは今も絶えないが、そのころは物価が廉(やす)いので、風呂のなかには柚がたくさんに浮かんでいるばかりか、心安い人々には別に二つ三つぐらいの新しい柚の実をくれたくらいである。それを切って酒にひたして、ひび薬にすると云って、みんなが喜んで貰って帰った。なんと云っても、むかしは万事が鷹揚(おうよう)であったから、今日のように柚湯とは名ばかりで、風呂じゅうをさがし廻って僅(わず)かに三つか四つの柚を見つけ出すのとは雲泥(うんでい)の相違であった。
冬至の日から獅子舞が来る。その囃子の音を聴きながら柚湯のなかに浸っているのも、歳の暮れの忙(せわ)しいあいだに何となく春らしい暢(のび)やかな気分を誘い出すものであった。
わたしはこういう悠長な時代に生まれて、悠長な時代に育って来たのである。今日の劇(はげ)しい、目まぐるしい世のなかに堪えられないのも無理はない。
(大正13・12「女性」) 
 
新旧東京雑題

 

祭礼
東京でいちじるしく廃(すた)れたものは祭礼(まつり)である。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王(さんのう)、神田の明神(みょうじん)、深川(ふかがわ)の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その祭礼はむかしの姿をとどめないほどに衰えてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では、ほんとうの祭礼らしいものを見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。
震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼を行なわないでもなかったが、それは文字通りの「型ばかり」で、軒提灯に花山車(はなだし)ぐらいにとどまっていた。その花山車も各町内から曳(ひ)き出すというわけではなく、氏子(うじこ)の町々も大体においてひっそり閑としていて、いわゆる天下祭りなどという素晴らしい威勢はどこにも見いだされなかった。
わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残(なご)りで、その時には祭礼番附が出来た。その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨(おおあらし)があって、東京府下だけでも丸|潰(つぶ)れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後も隔年の大祭を怠らなかったが、その繁昌は遂に十七年度の昔をくり返すに至らず、いつとはなしに型ばかりのものになってしまった。
山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のときから麹町に育って、氏子の一人であったために、この祭礼を最もよく知っているが、これは明治二十年六月の大祭を名残りとして、その後はいちじるしく衰えた。近年は神田よりも寂しいくらいである。
深川の八幡はわたしの家から遠いので、詳しいことを知らないが、これも明治二十五年の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼が賑やかに出来たという噂を聞かないようである。ここは山車や踊り屋台よりも各町内の神輿(みこし)が名物で、俗に神輿祭りと呼ばれ、いろいろの由緒つきの神輿が江戸の昔からたくさんに保存されていたのであるが、先年の震災で大かた焼亡(しょうもう)したことと察せられる。
そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における型ばかりの祭礼を見たのでは、とても昔日(せきじつ)の壮観を想像することは出来ない。京の祇園会(ぎおんえ)や大阪(おおさか)の天満(てんま)祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。
湯屋
湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬(さんば)の作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯(せんとう)とか湯屋(ゆうや)とかいうのが普通で、元禄(げんろく)のむかしは知らず、文化文政(ぶんかぶんせい)から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
五月節句の菖蒲(しょうぶ)湯、土用のうちの桃(もも)湯、冬至の柚(ゆず)湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないとか云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしに止(や)められてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。
むかしは菖蒲湯または柚湯の日には、湯屋の番台に三方(さんぼう)が据えてあって、客の方では「お拈(ひね)り」と唱え、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取っては菖蒲や柚代だけが全然損失に帰(き)するわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。こんな殺風景なことをする程ならば、いっそ桃湯同様に廃止した方がよさそうである。
朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年の十月から一斉に廃止となった。早朝から風呂を焚いては湯屋の経済が立たないと云うのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それは極めて少数で、大体においては午後一時ごろに行ってもまだ本当に沸いていないというのが通例になってしまった。
江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどと云う説もあるが、これも実行されそうもない。
そば屋
そば屋は昔よりもいちじるしく綺麗になった。どういうわけか知らないが、湯屋と蕎麦(そば)屋とその歩調をおなじくするもので、湯銭があがれば蕎麦の代もあがり、蕎麦の代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対して蕎麦の盛(もり)・掛(かけ)は十銭という倍額になった。もっとも、湯屋の方は公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値あげを許可しないのである。
私たちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみな汚(きたな)いものであった。綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へゆけと昔から云い伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった。まことに古人われを欺(あざむ)かずである。山路愛山(やまじあいざん)氏が何かの雑誌に蕎麦のことを書いて、われわれの子供などは蕎麦は庖丁(ほうちょう)で切るものであると云うことを知らず、機械で切るものと心得て食っているとか云ったが、確かに機械切りの蕎麦は旨くないようである。そば切り庖丁などという詞(ことば)はいつか消滅するであろう。
人間が贅沢になって来たせいか、近年はそば屋で種物(たねもの)を食う人が非常に多くなった。それに応じて種物の種類もすこぶる殖(ふ)えた。カレー南蛮などという不思議なものさえ現われた。ほんとうの蕎麦を味わうものは盛か掛を食うのが普通で、種物などを喜んで食うのは女子供であると云うことになっていたが、近年はそれが一変して、銭(ぜに)のない人間が盛・掛を食うと云うことになったらしい。種物では本当のそばの味はわからない。そば屋が蕎麦を吟味しなくなったのも当然である。
地方の人が多くなった証拠として、饂飩(うどん)を食う客が多くなった。蕎麦屋は蕎麦を売るのが商売で、そば屋へ行って饂飩をくれなどと云うと、田舎者として笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみな饂飩を売る。阿亀(おかめ)とか天ぷらとかいって注文すると、おそばでございますか、饂飩台でございますかと聞き返される場合が多い。黙っていれば蕎麦にきまっていると思うが、それでも念のために饂飩であるかないかを確かめる必要がある程に、饂飩を食う客が多くなったのである。
かの鍋焼うどんなども江戸以来の売り物ではない。上方(かみがた)では昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴(ふうりん)そばとか夜鷹(よたか)そばとか呼んでいたのである。鍋焼うどんが東京に入り込んで来たのは明治以後のことで、黙阿弥(もくあみ)の「嶋鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」は明治十四年の作であるが、その招魂社(しょうこんしゃ)鳥居前の場で、堀の内まいりの男が夜そばを食いながら、以前とちがって夜鷹そばは売り手が少なくなって、その代りに鍋焼うどんが一年増しに多くなった、と話しているのを見ても知られる。その夜そば売りも今ではみな鍋焼うどんに変ってしまった。中にはシュウマイ屋に化けたのもある。
そば屋では大正五、六年頃から天どんや親子どんぶりまでも売りはじめた。そば屋がうどんを売り、さらに飯までも売ることになったのである。こうなると、蕎麦のうまいまずいなどはいよいよ論じていられなくなる。
(昭和2・4「サンデー毎日」) 
 
ゆず湯

 


本日ゆず湯というビラを見ながら、わたしは急に春に近づいたような気分になって、いつもの湯屋の格子をくぐると、出あいがしらに建具屋のおじいさんが濡手拭(ぬれてぬぐい)で額(ひたい)をふきながら出て来た。
「旦那、徳(とく)がとうとう死にましたよ。」
「徳さん……。左官屋の徳さんが……。」
「ええ、けさ死んだそうで、今あの書生さんから聞きましたから、これからすぐに行ってやろうと思っているんです。なにしろ、別に親類というようなものも無いんですから、みんなが寄りあつまって何とか始末してやらなけりゃあなりますまいよ。運のわるい男でしてね。」
こんなことを云いながら、気の短いおじいさんは下駄を突っかけて、そそくさと出て行ってしまった。午後二時頃の銭湯は広々と明るかった。狭い庭には縁日で買って来たらしい大きい鉢の梅が、硝子戸(ガラスど)越しに白く見えた。
着物をぬいで風呂場へゆくと、流しの板は白く乾いていて、あかるい風呂の隅には一人の若い男の頭がうしろ向きに浮いているだけであった。すき透るような新しい湯は風呂いっぱいに漲(みなぎ)って、輪切りの柚(ゆず)があたたかい波にゆらゆらと流れていた。窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、陽炎(かげろう)のように立ち迷う湯気のなかに、黄いろい木実(このみ)の強い匂いが籠(こも)っているのも快(こころよ)かった。わたしはいい心持になって先ずからだを湿(しめ)していると、隅の方に浮いていた黒い頭がやがてくるりと振り向いた。
「今日(こんにち)は。」
「押し詰まってお天気で結構です。」と、私も挨拶した。
彼は近所の山口(やまぐち)という医師の薬局生であった。わたしと別に懇意でもないが、湯屋なじみで普通の挨拶だけはするのであった。建具屋のおじいさんが書生さんと云ったのはこの男で、左官屋の徳さんはおそらく山口医師の診察を受けていたのであろうと私は推量した。
「左官屋の徳さんが死んだそうですね。」と、わたしもやがて風呂にはいって、少し熱い湯に顔をしかめながら訊(き)いた。
「ええ、けさ七時頃に……。」
「あなたのところの先生に療治して貰っていたんですか。」
「そうです。慢性の腎臓炎でした。わたしのところへ診察を受けに来たのは先月からでしたが、何でもよっぽど前から悪かったらしいんですね。先生も最初からむずかしいと云っていたんですが、おととい頃から急に悪くなりました。」
「そうですか。気の毒でしたね。」
「なにしろ、気の毒でしたよ。」
鸚鵡(おうむ)返しにこんな挨拶をしながら、薬局生はうずたかい柚を掻きわけて流し場へ出た。それから水船(みずぶね)のそばへたくさんの小桶をならべて、真赤(まっか)に茹(ゆで)られた胸や手足を石鹸の白い泡に埋めていた。それを見るともなしに眺めながら、わたしはまだ風呂のなかに浸(ひた)っていた。
表には師走(しわす)の町らしい人の足音が忙がしそうにきこえた。冬至(とうじ)の獅子舞の囃子の音も遠くひびいた。ふと眼をあげて硝子窓の外をうかがうと、細い路地を隔てた隣りの土蔵の白壁のうえに冬の空は青々と高く晴れて、下界のいそがしい世の中を知らないように鳶が一羽ゆるく舞っているのが見えた。こういう場合、わたしはいつものんびりした心持になって、何だかぼんやりと薄ら眠くなるのが習いであったが、きょうはなぜか落ちついた気分になれなかった。徳さんの死ということが、私の頭をいろいろに動かしているのであった。
「それにしても、お玉さんはどうしているだろう。」
わたしは徳さんの死から惹(ひ)いて、その妹のお玉さんの悲しい身の上をも考えさせられた。
お玉さんは親代々の江戸っ児で、阿父(おとっ)さんは立派な左官の棟梁(とうりょう)株であったと聞いている。昔はどこに住んでいたか知らないが、わたしが麹町の元園町に引っ越して来た時には、お玉さんは町内のあまり広くもない路地の角に住んでいた。わたしの父はその路地の奥のあき地に平家(ひらや)を新築して移った。お玉さんの家は二階家で、東の往来にむかった格子作りであった。あらい格子の中は広い土間になっていて、そこには漆喰(しっくい)の俵や土舟(つちぶね)などが横たわっていた。住居の窓は路地のなかの南にむかっていて、住居につづく台所のまえは南から西へ折りまわした板塀に囲まれていた。塀のうちには小さい物置と四、五坪の狭い庭があって、庭には柿や桃や八つ手のたぐいが押しかぶさるように繁り合っていた。いずれも庭不相当の大木であった。二階はどうなっているか知らないが、わたしの記憶しているところでは、一度も東向きの窓を明けたことはなかった。北隣りには雇い人の口入屋(くちいれや)があった。どういうわけか、お玉さんの家(うち)とその口入屋とはひどく仲が悪くって、いつも喧嘩が絶えなかった。
わたしが引っ越して来た頃には、お玉さんの阿父さんという人はもう生きていなかった。阿母(おっか)さんと兄の徳さんとお玉さんと、水入らずの三人暮らしであった。
阿母さんの名は知らないが、年の頃は五十ぐらいで、色の白い、痩形で背のたかい、若いときには先ず美(い)い女の部であったらしく思われる人であった。徳さんは二十四、五で、顔付きもからだの格好も阿母さんに生き写しであったが、男としては少し小柄の方であった。それに引きかえて妹のお玉さんは、眼鼻立ちこそ兄さんに肖(に)ているが、むしろ兄さんよりも大柄の女で、平べったい顔と厚ぼったい肉とをもっていた。年は二十歳(はたち)ぐらいで、いつも銀杏がえしに髪を結って、うすく白粉(おしろい)をつけていた。
となりの口入屋ばかりでなく、近所の人はすべてお玉さん一家に対してあまりいい感情をもっていないらしかった。お玉さん親子の方でも努めて近所との交際(つきあい)を避け、孤立の生活に甘んじているらしかった。阿母さんは非常に口やかましい人で、私たち子供仲間から左官屋の鬼婆と綽名(あだな)されていた。
お玉さんの家の格子のまえには古風の天水桶があった。私たちがもしその天水桶のまわりに集まって、夏はぼうふらを探し、冬は氷をいじったりすると、阿母さんはたちまちに格子をあけて、「誰だい、いたずらするのは……」と、かみ付くように呶鳴りつけた。雨のふる日に路地をぬける人の傘が、お玉さんの家の羽目か塀にがさりとでも障(さわ)る音がすると、阿母さんはすぐに例の「誰だい」を浴びせかけた。わたしも学校のゆきかえりに、たびたびこの阿母さんから「誰だい」と叱られた。
徳さんは若い職人に似合わず、無口で陰気な男であった。見かけは小粋な若い衆であったが、町内の祭りなどにも一切(いっさい)かかりあったことはなかった。その癖、内で一杯飲むと、阿母さんやお玉さんの三味線で清元や端唄(はうた)を歌ったりしていた。お玉さんが家(うち)じゅうで一番陽気な質(たち)らしく、近所の人をみればいつもにこにこ笑って挨拶していた。しかし阿母さんや兄さんがこういう風変りであるので、娘盛りのお玉さんにも親しい友達はなかったらしく、麹町通りの夜店をひやかしにゆくにも、平河天神の縁日に参詣するにも、お玉さんはいつも阿母さんと一緒に出あるいていた。時どきに阿母さんと連れ立って芝居や寄席へ行くこともあるらしかった。
この一家は揃(そろ)って綺麗好きであった。阿母さんは日に幾たびも格子のまえを掃いていた。お玉さんも毎日かいがいしく洗濯や張り物などをしていた。それで決して髪を乱していたこともなく、毎晩かならず近所の湯に行った。徳さんは朝と晩とに一日二度ずつ湯にはいった。
徳さん自身は棟梁株ではなかったが、一人前の職人としては相当の腕をもっているので、別に生活に困るような風はみせなかった。お玉さんもいつも小綺麗な装(なり)をしていた。近所の噂によると、お玉さんは一度よそへ縁付いて子供まで生んだが、なぜだか不縁になって帰って来たのだと云うことであった。そのせいか、私がお玉さんを知ってからもう三、四年も経っても、嫁にゆくような様子は見えなかった。お玉さんもだんだんに盛りを通り過ぎて、からだの幅のいよいよ広くなってくるのばかりが眼についた。
そのうちに誰が云い出したのか知らないが、お玉さんには旦那があるという噂が立った。もちろん旦那らしい人の出入りする姿を見かけた者はなかった。お玉さんの方から泊まりにゆくのだと、ほんとうらしく吹聴(ふいちょう)する者もあった。その旦那は異人さんだなどと云う者もあった。しかしそれには、どれも確かな証拠はなかった。この怪(け)しからぬ噂がお玉さん一家の耳にも響いたらしく、その後のお玉さんの様子はがらりと変って、買物にでも出るほかには、滅多にその姿を世間へ見せないようになった。近所の人たちに逢っても情(すげ)なく顔をそむけて、今までのようなにこにこした笑い顔を見せなくなった。三味線の音もちっとも聞かせなくなった。
なんでもその明くる年のことと記憶している。日枝(ひえ)神社の本祭りで、この町内では踊り屋台を出した。しかし町内には踊る子が揃わないので、誰かの発議でそのころ牛込(うしごめ)の赤城下(あかぎした)にあった赤城座という小芝居の俳優(やくしゃ)を雇うことになった。俳優はみんな十五、六の子供で、嵯峨(さが)や御室(おむろ)の花盛り……の光国と瀧夜叉(たきやしゃ)と御注進の三人が引抜いてどんつくの踊りになるのであった。この年の夏は陽気がおくれて、六月なかばでも若い衆たちの中形(ちゅうがた)のお揃い着がうすら寒そうにみえた。宵宮(よみや)の十四日には夕方から霧のような細かい雨が花笠の上にしとしとと降って来た。
踊り屋台は湿れながら町内を練り廻った。囃子の音が浮いてきこえた。屋台の軒にも牡丹(ぼたん)のような紅い提灯がゆらめいて、「それおぼえてか君様(きみさま)の、袴も春のおぼろ染……」瀧夜叉がしどけない細紐(しごき)をしゃんと結んで少しく胸をそらしたときに、往来を真黒(まっくろ)にうずめている見物の雨傘が一度にゆらいだ。
「うまいねえ。」
「上手だねえ。」
「そりゃほんとの役者だもの。」
こんな褒(ほ)め詞(ことば)がそこにもここにも囁(ささや)かれた。
お玉さんの家の人たちも格子のまえに立って、同じくこの踊り屋台を見物していたが、お玉さんの阿母さんはさも情けないと云うように顔をしかめて、誰に云うともなしに舌打ちしながら小声で罵った。
「なんだろう、こんな小穢(こぎたな)いものを……。芸は下手でも上手でも、お祭りには町内の娘さん達が踊るもんだ。こんな乞食芝居みたいなものを何処(どっ)からか引っ張って来やあがって、お祭りも無いもんだ。ああ、忌(いや)だ、忌だ。長生きはしたくない。」
こう云って阿母さんは内へついと引っ込んでしまった。お玉さんも徳さんもつづいてはいってしまった。
「鬼婆ァめ、お株を云ってやあがる。長生きがしたくなければ、早くくたばってしまえ。」と、花笠をかぶった一人が罵った。
それが讖(しん)をなしたわけでもあるまいが、阿母さんはその年の秋からどっと寝付いた。その頃には庭の大きい柿の実もだんだん紅(あか)らんで、近所のいたずら小僧が塀越しに竹竿を突っ込むこともあったが、阿母さんは例の「誰だい」を呶鳴る元気もなかった。そうして、十一月の初めにはもう白木の棺にはいってしまった。さすがに見ぬ顔もできないので、葬式には近所の人が五、六人見送った。おなじ仲間の職人も十人ばかり来た。寺は四谷の小さい寺であったが、葬儀の案外立派であったのには、みんなもおどろかされた。当日の会葬者一同には白強飯(しろこわめし)と煮染(にしめ)の弁当が出た。三十五日には見事な米饅頭(よねまんじゅう)と麦饅頭との蒸物(むしもの)に茶を添えて近所に配った。
万事が案外によく行きとどいているので、近所の人たちも少し気の毒になったのと、もう一つは口やかましい阿母さんがいなくなったと云うのが動機になって、以前よりは打ち解けて附き合おうとする人も出来たが、なぜかそれも長くつづかなかった。三月(みつき)半年と経つうちに、近所の人はだんだんに遠退(とおの)いてしまって、お玉さんの兄妹(きょうだい)は再び元のさびしい孤立のすがたに立ち帰った。
それでも或る世話好きの人がお玉さんに嫁入りさきを媒妁しようと、わざわざ親切に相談にゆくと、お玉さんは切り口上でことわった。
「どうせ異人の妾(めかけ)だなんて云われた者を、どこでも貰って下さる方はありますまい。」
その人も取り付く島がないので引き退がった。これに懲(こ)りて誰もその後は縁談などを云い込む人はなかった。
詳しく調べたならば、その当時まだほかにもいろいろの出来事があったかも知れないが、学校時代のわたしは斯(こ)うした問題に就いてあまり多くの興味をもっていなかったので、別に穿索(せんさく)もしなかった。むかしのお玉さん一家に関して、わたしの幼い記憶に残っているのは先ずこのくらいのことに過ぎなかった。
こんなことをそれからそれへと手繰り出して考えながら、わたしはいつの間にか流し場へ出て、半分は浮わの空で顔や手足を洗っていた。石鹸の泡が眼にしみたのに驚いて、わたしは水で顔を洗った。それから風呂へはいって、再び柚湯に浸っていると、薬局生もあとからはいって来た。そうして、又こんなことを話しかけた。
「あの徳さんという人は、まあ行き倒れのように死んだんですね。」
「行き倒れ……。」と、わたしは又おどろいた。
「病気が重くなっても、相変らず自分の方から診察を受けにかよって来ていたんです。そこで今朝も家を出て、薬罐(やかん)をさげてよろよろと歩いてくると、床屋(とこや)の角の電信柱の前でもう歩けなくなったんでしょう、電信柱に寄り掛かってしばらく休んでいたかと思ううちに、急にぐたぐたと頽(くず)れるように倒れてしまったんです。床屋でもおどろいて、すぐに店へかかえ込んで、それから私の家(うち)へ知らせて来たんですが、先生の行った頃にはもういけなくなっていたんです。」
こんな話を聴かされて、私はいよいよ情けなくなって来た。折角の柚湯にもいい心持に浸っていることは出来なくなった。私はからだをなま拭きにして早々に揚がってしまった。

家へ帰ってからも、徳さんとお玉さんのことが私の頭にまつわって離れなかった。殊にきょうの柚湯については一つの思い出があった。
わたしは肩揚げが取れてから下町(したまち)へ出ていて、山の手の実家へは七、八年帰らなかった。それが或る都合で再び帰って住むようになった時には、私ももう昔の子供ではなかった。十二月のある晩に遅く湯に行った。今では代が変っているが、湯屋はやはりおなじ湯屋であった。わたしは夜の湯は嫌いであるが、その日は某所の宴会へ行ったために帰宅が自然遅くなって、よんどころなく夜の十一時頃に湯に行くことになった。その晩も冬至の柚湯で仕舞湯(しまいゆ)に近い濁った湯風呂の隅には、さんざん煮くたれた柚の白い実が腐った綿のように穢(きたな)らしく浮いていた。わたしは気味悪そうにからだを縮めてはいっていた。もやもやした白い湯気が瓦斯のひかりを陰らせて、夜ふけの風呂のなかは薄暗かった。
常から主(ぬし)の仇(あだ)な気を、知っていながら女房に、なって見たいの慾が出て、神や仏をたのまずに、義理もへちまの皮羽織……
少し錆(さび)のある声で清元(きよもと)を唄っている人があった。音曲(おんぎょく)に就いてはまんざらのつんぼうでもない私は、その節廻しの巧いのに驚かされた。じっと耳をかたむけながら其の声の主を湯気のなかに透かしてみると、それはかの徳さんであった。徳さんが唄うことは私も子供のときから知っていたが、こんなにいい喉(のど)をもっていようとは思いも付かなかった。琵琶(びわ)歌や浪花節が無遠慮に方々の湯屋を掻きまわしている世のなかに、清元の神田祭――しかもそれを偏人のように思っていた徳さんの喉から聞こうとは、まったく思いがけないことであった。
私のほかには商家の小僧らしいのが二人はいっているきりであった。徳さんはいい心持そうに続けて唄っていた。しみじみと聴いているうちに、私はなんだか寂しいような暗い気分になって来た。お玉さんの兄妹(きょうだい)が今の元園町に孤立しているのも、無理がないようにも思われて来た。
「どうもおやかましゅうございました。」
徳さんはいい加減に唄ってしまうと、誰に云うとも無しに挨拶して、流し場の方へすたすた出て行ってしまった。そうして、手早くからだを拭いて揚がって行った。私もやがてあとから出た。路地へさしかかった時には、徳さんの家はもう雨戸を閉めて燈火(あかり)のかげも洩れていなかった。霜曇りとも云いそうな夜の空で、弱々しい薄月のひかりが庭の八つ手の葉を寒そうに照らしていた。
わたしは毎日、大抵明るいうちに湯にゆくので、その柚湯の晩ぎりで再び徳さんの唄を聴く機会がなかった。それから半年以上も過ぎた或る夏の晩に又こんなことがあった。わたしが夜の九時頃に涼みから帰ってくると、徳さんの家のなかから劈(つんざ)くような女の声がひびいた。格子の外には通りがかりの人や近所の子供がのぞいていた。
「なんでえ、畜生。ざまあ見やがれ、うぬらのような百姓に判るもんか。」
それはお玉さんの声らしいので、私はびっくりした。なにか兄妹喧嘩でも始めたのかとも思った。店先に涼んでいる八百屋のおかみさんに聞くと、おかみさんは珍しくもないという顔をして笑っていた。
「ええ、気ちがいがまたあばれ出したんですよ。急に暑くなったんで逆上(のぼ)せたんでしょう。」
「お玉さんですか。」
「もう五、六年まえから可怪(おかし)いんですよ。」
わたしは思わず戦慄した。わたしにはそれが初耳であった。お玉さんはわたしが下町へ行っているあいだに、いつか気ちがいになっていたのであった。私が八百屋のおかみさんと話しているうちにも、お玉さんはなにかしきりに呶鳴っていた。息もつかずに「べらぼう、畜生」などと罵っていた。徳さんの声はちっとも聞こえなかった。
家(うち)へ帰って其の話をすると、家の者もみんな知っていた。お玉さんの気ちがいと云うことは町内に隠れもない事実であったが、その原因は誰にも判らなかった。しかし別に乱暴を働くと云うのでもなく、夏も冬も長火鉢の前に坐って、死んだように鬱(ふさ)いでいるかと思うと、時々だしぬけに破(わ)れるような大きい声を出して、誰を相手にするとも無しに「なんでえ、畜生、べらぼう、百姓」などと罵りはじめるのであった。兄の徳さんも近頃は馴れたとみえて、別に取り鎮めようともしない。気のおかしい妹一人に留守番をさせて、平気で仕事に出てゆく。近所でも初めは不安に思ったが、これもしまいには馴れてしまって別に気に止める者もなくなった。
お玉さんは自分で髪を結う、行水(ぎょうずい)をつかう、気分のよい時には針仕事などもしている。そんな時にはなんにも変ったことはないのであるが、ひと月かふた月に一遍ぐらい急にむらむらとなって例の「畜生、べらぼう」を呶鳴り始める。それが済むと、狐が落ちたようにけろりとしているのであった。気ちがいというほどのことではない、一種のヒステリーだろうと私は思っていた。気ちがいにしても、ヒステリーにしても、一人の妹があの始末ではさぞ困ることだろうと、わたしは徳さんに同情した。ゆず湯で清元を聴かされて以来、わたしは徳さんの一家を掩(おお)っている暗い影を、悼(いた)ましく眺めるようになって来た。
「畜生……べらぼう」
お玉さんはなにを罵っているのであろう、誰を呪(のろ)っているのであろう。進んでゆく世間と懸けはなれて、自分たちの周囲に対して無意味の反抗をつづけながら、自然にほろびてゆく、いわゆる江戸っ児の運命をわたしは悲しく思いやった。お祭りの乞食芝居を痛罵(つうば)した阿母さんは、鬼ばばァと謳(うた)われながら死んだ。清元の上手な徳さんもお玉さんも、不幸な母と同じ路をあゆんでゆくらしく思われた。取り分けてお玉さんは可哀そうでならなかった。母は鬼婆、娘は狂女、よくよく呪われている母子(おやこ)だと思った。
お玉さんは一人も友達をもっていなかったが、私の知っているところでは徳さんには三人の友達があった。一人は地主の長左衛門(ちょうざえもん)さんで、もう七十に近い老人であった。格別に親しく往来をする様子もなかったが、徳さんもお玉さんもこの地主さまにはいつも丁寧に頭をさげていた。長左衛門さんの方でもこの兄妹の顔をみれば打ち解けて話などをしていた。
もう一人は上田(うえだ)屋という貸本屋の主人であった。上田屋は江戸時代からの貸本屋で、番町(ばんちょう)一円の屋敷町を得意にして、昔はなかなか繁昌したものだと伝えられている。わたしが知ってからでも、土蔵付きの大きい角店で、見るからに基礎のしっかりとしているらしい家構えであった。わたしの家でも此処(ここ)からいろいろの小説などを借りたことがあった。わたしが初めて読んだ里見八犬伝もここの本であった。活版本がだんだんに行なわれるに付けて、むかしの貸本屋もだんだんに亡びてしまうので、上田屋もとうとう見切りをつけて、日清戦争前後に店をやめてしまった。しかしほかにも家作(かさく)などをもっているので、店は他人にゆずって、自分たちは近所でしもた家暮らしをすることになった。ここの主人ももう六十を越えていた。徳さんの兄妹は時々ここへ遊びに行くらしかった。もう一人はさっき湯で逢った建具屋のおじいさんであった。この建具屋の店にも徳さんが腰をかけている姿を折りおりに見た。
こう列べて見渡したところで、徳さんの友達には一人も若い人はなかった。地主の長左衛門さんも、上田屋の主人も、徳さんとほとんど親子ほども歳が違っていた。建具屋の親方も十五、六の歳上であった。したがって、これらの老いたる友達は、頼りない徳さんをだんだんに振り捨てて、別の世界へ行ってしまった。上田屋の主人が一番さきに死んだ。長左衛門さんも死んだ。今生き残っているのは建具屋のおじいさん一人であった。

わたしの家(うち)では父が死んだのちに、おなじ路地のなかで南側の二階家にひき移って、わたしの家の水口(みずぐち)がお玉さんの庭の板塀と丁度むかい合いになった。わたしの家の者が徳さんと顔を見合せる機会が多くなった。それでも両方ながら別に挨拶もしなかった。その時はわたしが徳さんの清元を聴いてからもう四、五年も過ぎていた。
その年の秋に強い風雨(あらし)があって、わたしの家の壁に雨漏りの汚点(しみ)が出た。たいした仕事でもないから近所の人に頼もうと云うことになって、早速徳さんを呼びにやると、徳さんは快(こころよ)く来てくれた。多年近所に住んでいながら、わたしの家で徳さんに仕事を頼むのはこれが初めてであった。わたしはこの時はじめて徳さんと正面にむき合って、親しく彼と会話を交換(かわ)したのであった。
徳さんはもう四十を三つ四つ越えているらしかった。髪の毛の薄い、色の蒼黒い、眼の嶮(けわ)しい、頤(あご)の尖(とが)った、見るから神経質らしい男で、手足は職人に不似合いなくらいに繊細(かぼそ)くみえた。紺の匂いの新しい印半纏をきて、彼は行儀よくかしこまっていた。私から繕(つくろ)いの注文をいちいち聞いて、徳さんは丁寧に、はきはきと答えた。
「あんな人がなぜ近所と折合いが悪いんだろう。」
徳さんの帰ったあとで、家内の者はみんな不思議がっていた。あくる日は朝早くから仕事に来て、徳さんは一日黙って働いていた。その働き振りのいかにも親切なのが嬉しかった。今どきの職人にはめずらしいと家内の評判はますますよかった。多寡が壁の繕いであったから、仕事は三日ばかりで済んでしまった。
徳さんは勘定を受取りにくる時に、庭の青柿の枝をたくさん切って来てくれて、「渋くってとても食べられません、花活けへでもお挿しください。」と云った。
なるほど粒は大きいが渋くって食えなかった。わたしは床の間の花瓶に挿した。
「妹はこの頃どんな塩梅(あんばい)ですね。」と、そのとき私はふいと訊(き)いてみた。
「お蔭さまでこの頃はだいぶ落ちついているようですが、あいつのこってすから何時あばれ出すか知れやあしません。しかしあいつも我儘(わがまま)者ですから、なまじっかの所へ嫁なんぞに行って苦労するよりも、ああやって家で精いっぱい威張り散らして終る方が、仕合せかも知れませんよ。」と、徳さんは寂しく笑った。「おふくろも丁度あんな人間ですから、みんな血を引いているんでしょうよ。」
それからだんだんに話してみると、徳さんは妹のことをさのみ苦労にしてもいないらしかった。気のおかしくなるのは当り前だぐらいに思っているらしかった。時どきに大きな声などを出して呶鳴ったり騒いだりしても、近所に対して気の毒だとも思っていないらしかった。しかし徳さんが妹を可愛がっていることは私にもよく判った。かれは妹が可哀そうだから、自分もこの歳まで独身でいると云った。その代りに少しは道楽もしましたと笑っていた。
これが縁になって、徳さんは私たちとも口を利くようになった。途中で会っても彼は丁寧に時候の挨拶などをした。わたしの家へ仕事に来てから半月ばかりも後のことであったろう、私がある日の夕方銀座から帰ってくると、町内の酒屋の角で徳さんに逢った。
徳さんも仕事の帰りであるらしく、印半纏を着て手には薄(すすき)のひと束を持っていた。十月の日はめっきり詰まって、酒屋の軒ランプにはもう灯(ひ)がはいっていた。徳さんの持っている薄の穂が夕闇のなかに仄白(ほのじろ)くみえた。
「今夜は十三夜ですか。」と、私はふと思い出して云った。
「へえ、片月見になるのも忌(いや)ですから。」
徳さんは笑いながら薄をみせた。二人は云い合わしたように暗い空をみあげた。後(のち)の月(つき)は雨に隠れそうな雲の色であった。私はさびしい心持で徳さんと並んであるいた。袷(あわせ)でももう薄ら寒いような心細い秋風が、すすきの白い穂をそよそよと吹いていた。
路地の入口へ来ると、あかりもまだつけない家の奥で、お玉さんの尖った声がひびいた。
「なんでえ、なに云ってやあがるんでえ。畜生。馬鹿野郎。」
お玉さんがまた狂い出したかと思うと、私はいよいよ寂しい心持になった。もう珍しくもないので、薄暗い表には誰も覗いている者もなかった。徳さんは黙って私に会釈(えしゃく)して格子をあけてはいった。格子のあく音がきこえると同時に、南向きの窓が内からがらりと明いた。前にも云った通り、窓は南に向いているので、路地を通っている私は丁度その窓から出た女の顔と斜めに向き合った。女の歯の白いのがまず眼について物凄(ものすご)かった。
わたしは毎朝家を出て、夕方でなければ帰って来ない。お玉さんは滅多(めった)に外へ出たことはない。お玉さんがこのごろ幽霊のように窶(やつ)れているということは、家の者の話には聞いていたが、わたしは直接にその変った姿をみる機会がなくて過ぎた。それを今夜初めて見たのである。お玉さんの平べったい顔は削られたように痩せて尖って、櫛巻(くしまき)にしているらしい髪の毛は一本も乱さずに掻き上げられていた。その顔の色は気味の悪いほどに白かった。
「旦那、旦那。」と、お玉さんはひどく若々しい声で呼んだ。
私も呼ばれて立ちどまった。
「あなたは洋服を着ているんですか。」
その時、私は和服を着ていたので、わたしは黙って蝙蝠のように両|袖(そで)をひろげて見せた。お玉さんはかの白い歯をむき出してにやにやと笑った。
「洋服を着て通りゃあがると、あたまから水をぶっ掛けるぞ。気をつけやあがれ。」
窓はぴっしゃり閉められた。お玉さんの顔は消えてしまった。私は物に魘(おそ)われたような心持で早々に家へ帰った。その当時、わたしは毎日出勤するのに、和服を着て出ることもあれば、洋服を着て出ることもあった。お玉さんから恐ろしい宣告を受けて以来、わたしは洋服を着るのを一時見合せたが、そうばかりもゆかない事情があるので、よんどころなく洋服を着て出る場合には、なるべく足音をぬすんでお玉さんの窓の下をそっと通り抜けるようにしていた。
それからひと月ばかり経って、寒い雨の降る日であった。わたしは雨傘をかたむけてお玉さんの窓ぎわを通ると、さながら待ち設けていたかのように、窓が不意に明いたかと思うと、柄杓(ひしゃく)の水がわたしの傘の上にざぶりと降って来た。幸いに傘をかたむけていたので、さしたることも無かったが、その時わたしは和服を着ていたにも拘(かかわ)らず、こういう不意討ちの難に出会ったのであった。その以来、自分はもちろん、家内の者にも注意して、お玉さんの窓の下はいつも忍び足で通ることにしていた。それでも時どきに内から鋭い声で叱り付けられた。
「馬鹿野郎。百姓。水をぶっかけるぞ。しっかりしろ。」
口で云うばかりでない、実際に水の降って来ることがたびたびあった。酒屋の小さい御用聞きなどは寒中に頭から水を浴びせられて泣いて逃げた。近所の子供などは口惜(くや)しがって、窓へ石を投げ込むのもあった。お玉さんも負けずに何か罵りながら、内から頻りに水を振りまいた。石と水との闘いが時どきにこの狭い路地のなかで演ぜられた。
そのうちにお玉さんの家は路地のそばを三尺通り切り縮められることになった。それは路地の奥の土蔵付きの家へ新しく越して来た某実業家の妾が、人力車の自由に出入りのできるだけに路地の幅をひろげて貰いたいと地主に交渉の結果、路地の入口にあるお玉さんの家をどうしても三尺ほどそぎ取らなければならないことになったのである。こういう手前勝手の要求を提出した人は、地主に対しても無論に高い地代を払うことになったに相違なかった。お玉さんの家の修繕費用も先方で全部負担すると云った。
「長左衛門さんがおいでなら、わたくしも申すこともありますが、今はもう仕様がありません。」と、徳さんは若い地主からその相談を受けた時に、存外素直に承知した。しかし修繕の費用などは一銭も要らないと、きっぱり撥(は)ね付けた。
それからひと月の後に路地は広くなった。お玉さんの家はそれだけ痩せてしまった。その年の夏も暑かったが、お玉さんの家の窓は夜も昼も雨戸を閉めたままであった。お玉さんの乱暴があまり激しくなったので、徳さんは妹が窓から危険な物を投げ出さない用心に、路地にむかった窓の雨戸を釘付けにしてしまったのであった。お玉さんは内から窓をたたいて何か呶鳴っていた。
暑さが募るにつれて、お玉さんの病気もいよいよ募って来たらしかった。この頃では家のなかで鉄瓶や土瓶を投げ出すような音もきこえた。ときどきには跣足(はだし)で表へ飛び出すこともあった。建具屋のおじいさんももう見ていられなくなって、無理に徳さんをすすめて妹を巣鴨(すがも)の病院へ入れさせることにした。今の徳さんには入院料を支弁する力もない。さりとて仮りにも一|戸(こ)を持っている者の家族には施療(せりょう)を許されない規定になっているので、徳さんはとうとうその家を売ることになった。そうして、建具屋のおじいさんの尽力で、お玉さんはいよいよ巣鴨へ送られた。それは九月はじめの陰った日で、お玉さんはこの家を出ることを非常に拒(こば)んだ。ようように宥(なだ)めて人力車に乗せると、お玉さんは幌(ほろ)をかけることを嫌った。
「畜生。べらぼう。百姓。ざまあ見やがれ。」
お玉さんは町じゅうの人を呪うように大きな声で叫びつづけながら、傲然(ごうぜん)として人力車にゆられて行った。わたしは路地の口に立って見送った。建具屋のおじいさんと徳さんとは人力車のあとに付いて行った。
「妹もながなが御厄介になりました。」
巣鴨から帰って来て、徳さんは近所へいちいち挨拶にまわった。そうして、その晩のうちに世帯をたたんで、元の貸本屋の上田屋の二階に同居した。そのあとへは更に手入れをして質屋の隠居さんが越して来た。近所ではあるが町内が違うので、わたしはその後徳さんの姿を見かけることはほとんど無かった。
それからまた二年過ぎた。そうして、柚湯の日に徳さんの死を突然きいたのである。徳さんの末路は悲惨であった。しかし徳さんもお玉さんもあくまで周囲の人間を土百姓と罵って、自分たちだけがほんとうの江戸っ児であると誇りつつ、長い一生を強情に押し通して行ったかと思うと、単に悲惨というよりも、むしろ悲壮の感がないでもない。
そのあくる日の午後にわたしは再び建具屋のおじいさんに湯屋で逢った。おじいさんは徳さんの葬式から今帰ったところだと云った。
「徳の野郎、あいつは不思議な奴ですよ。なんだか貧乏しているようでしたけれど、いよいよ死んでから其の葛籠(つづら)をあらためると、小新しい双子(ふたこ)の綿入れが三枚と羽織が三枚、銘仙の着物と羽織の揃ったのが一組、帯が三本、印半纏が四枚、ほかに浴衣が五枚と、それから現金が七十円ほどありましたよ。ところが、今までめったに寄り付いたことのねえ奴らが、やれ姪(めい)だの従弟(いとこ)だのと云って方々からあつまって来て、片っ端からみんな持って行ってしまいましたよ。世の中は薄情に出来てますね。なるほど徳の野郎が今の奴らと附き合わなかった筈ですよ。」
わたしは黙って聴いていた。そうして、お玉さんは此の頃どうしているかと訊いた。
「お玉は病院へ行ってから、からだはますます丈夫になって、まるで大道|臼(うす)のように肥ってしまいましたよ。」
「病気の方はどうなんです。」
「いけませんね。もうどうしても癒らないでしょうよ。まあ、あすこで一生を終るんですね。」と、おじいさんは溜息をついた。「だが、当人としたら其の方が仕合せかも知れませんよ。」
「そうかも知れませんね。」
二人はそれぎり黙って風呂へはいった。
(掲載誌不詳、『十番随筆』所収) 
 
2 旅つれづれ 

 

昔の従軍記者
××さん。
仰せの通り、今回の事変(支那事変)について、北支方面に、上海(シャンハイ)方面に、従軍記者諸君や写真班諸君の活動は実にめざましいもので、毎日の新聞を見るたびに、他人事(ひとごと)とは思われないように胸を打たれます。取分けて私などは自分の経験があるだけに、人一倍にその労苦が思いやられます。
その折柄、あたかもあなたから「昔の従軍記者」に就(つ)いておたずねがありましたので、自分が記憶しているだけの事を左にお答え申します。御承知の通り、日露戦争の当時、わたしは東京日日新聞社に籍を置いていて、従軍新聞記者として満洲(まんしゅう)の戦地に派遣されましたので、なんと云っても其の当時のことが最も多く記憶に残っていますが、お話の順序として、まず日清戦争当時のことから申上げましょう。
日清戦争当時は初めての対外戦争であり、従軍記者というものの待遇や取締りについても、一定の規律はありませんでした。朝鮮に東学党の乱が起って、清(しん)国がまず出兵する、日本でも出兵して、二十七年六月十二日には第五師団の混成旅団が仁川(じんせん)に上陸する。こうなると、鶏林(けいりん)(朝鮮の異称)の風雲おだやかならずと云うので、東京大阪の新聞社からも記者を派遣することになりましたが、まだ其の時は従軍記者というわけではなく、各社から思い思いに通信員を送り出したというに過ぎないので、直接には軍隊とは何の関係もありませんでした。
そのうちに事態いよいよ危急に迫って、七月二十九日には成歓牙山(せいかんがさん)のシナ兵を撃ち攘(はら)うことになる。この前後から朝鮮にある各新聞記者は我が軍隊に附属して、初めて従軍記者ということになりました。戦局がますます拡大するに従って、内地の本社からは第二第三の従軍記者を送って来る。これらはみな陸軍省の許可を受けて、最初から従軍新聞記者と名乗って渡航したのでした。
これらの従軍記者は宇品(うじな)から御用船に乗り込んで、朝鮮の釜山(ふざん)または仁川に送られたのですが、前にもいう通り、何分にも初めての事で、従軍記者に対する規律というものが無いので、その扮装(ふんそう)も思い思いでした。どの人もみな洋服を着ていましたが、腰に白|木綿(もめん)の上帯を締めて、長い日本刀を携えているのがある。槍(やり)を持っているのがある。仕込杖(しこみづえ)をたずさえているのがある。今から思えば嘘(うそ)のようですが、その当時の従軍記者としては、戦地へ渡った暁(あかつき)に軍隊がどの程度まで保護してくれるか判らない。万一負け軍(いくさ)とでもなった場合には、自衛行動をも執らなければならない。非戦闘員とて油断は出来ない。まかり間違えばシナ兵と一騎討ちをするくらいの覚悟が無ければならないので、いずれも厳重に武装して出かけたわけです。実際、その当時はシナ兵ばかりでなく、朝鮮人だって油断は出来ないのですから、この位の威容を示す必要もあったのです。軍隊の方でも別にそれを咎(とが)めませんでした。
前にもいう通り、従軍新聞記者に対する待遇や規定がハッキリしていないので、その配属部隊の待遇がまちまちで、非常に優遇するのもあれば、邪魔物扱いにするのもある。記者の方にも、おれは軍人でないから軍隊の拘束を受けない、と云ったような心持があって、めいめいが自由行動を執るという風がある。軍隊の方でも余りやかましく云うわけにも行かない。それがために、軍隊側にも困ることがあり、記者側にも困ることがあり、陣中におけるいろいろの挿話が生み出されたようでした。
明治三十三年の北清事件当時にも、各新聞社から従軍記者を派出しましたが、これは戦争というほどの事でもないので、やはり日清戦争当時と同様、特に規律とか規定とか云うようなものも設けられませんでした。
次は三十七、八年の日露戦争で、この時から従軍新聞記者に対する待遇その他が一定されました。従軍記者は大尉相当の待遇を受ける。その代りに軍人と同様、軍隊の規律にいっさい服従すべしと云うことになりました。もう一つ、従軍記者は一社一人に限るというのです。こうなると、画家も写真班も同行することを許されないわけです。
これには新聞社も困りました。画家や写真班はともあれ、記者一人ではどうにもなりません。軍の方では第一軍、第二軍、第三軍、第四軍を編成して、それが別々の方面へ向って出動するのに、一人の記者が掛持(かけもち)をすることは出来ません。そこで、まず自分の社から一人の従軍願いを出して置いて、さらに他の新聞社の名儀を借りるという方法を案出しました。
京阪は勿論(もちろん)、地方でも有力の新聞社はみな従軍願いを出していますが、地方の小さい新聞社では従軍記者を出さないのがある。その新聞社の名儀で出願すれば、一社一人は許されるので、東京の新聞社は争って地方の新聞社に交渉することになりました。東京日日新聞社からは黒田(くろだ)甲子郎君がすでに従軍願いを出して、第一軍配属と決定しているので、わたしは東京通信社の名をもって許可を受けました。
東京通信社などはいい方で、そんな新聞があるか無いか判らないような、遠い地方の新聞社員と称して、従軍願いを出す者が続々あらわれる。陸軍省でその新聞社の所在地を訊(き)かれても、御本人はハッキリと答えることが出来ないと云うような滑稽(こっけい)もありました。陸軍側でもその魂胆を承知していたでしょうが、一社一人の規定に触れない限りは、いずれも許可してくれました。それで東京の各新聞社も少なきは二、三人、多きは五、六人の従軍記者を送り出すことが出来たのでした。
勿論、それは内地を出発するまでのことで、戦地へ行き着くと皆それぞれに正体をあらわして、自分は朝日だとか日日だとか名乗って通る。配属部隊の方でも怪しみませんでした。しかし袖印(そでじるし)だけは届け出での社名を用いることになっていて、わたしもカーキー服の左の腕に東京通信社と紅(あか)く縫った帛(きれ)を巻いていました。日清戦争当時と違って、槍や刀などを携帯することはいっさい許されません。武器はピストルだけを許されていたので、私たちは腰にピストルを着けていました。
従軍記者の携帯品は、ピストルのほかに雨具、雑嚢(ざつのう)または背嚢(はいのう)、飯盒(はんごう)、水筒、望遠鏡で、通信用具は雑嚢か背嚢に入れるだけですから、たくさんに用意して行くことが出来ないので困りました。万年筆はまだ汎(ひろ)く行なわれない時代で、万年筆を持っている者は一人もありませんでした。鉛筆は折れ易くて不便であるので、どの人も小さい毛筆を用いていました。従って、矢立(やたて)を持つ者もあり、小さい硯(すずり)と墨を使っている者もあり、今から思えばずいぶん不便でした。
しかしまた、一利一害の道理で、われわれは机にむかって通信を書く場合はほとんど無い。シナ家屋のアンペラの上に俯伏(うつぶ)して書くか、或いは地面に腹|這(ば)いながら書くのですから、ペンや鉛筆では却(かえ)って不便で、むしろ柔かい毛筆を用いた方が便利だと云う場合もありました。紙は原稿紙などを用いず、巻紙に細かく書きつづけるのが普通でした。
宿舎は隊の方から指定してくれた所に宿泊することになっていて、妄(みだ)りに宿所を更(か)えることは出来ません。大抵は村落の農家でした。しかし戦闘継続中は隊の方でもそんな世話を焼いていられないので、私たちは勝手に宿所を探さなければなりません。空家へはいったり、古廟(こびょう)に泊まったり、時には野宿することもありました。草原や畑に野宿していると、夜半から寒い雨がビショビショ降り出して来て、あわてて雨具をかぶって寝る。こうなると、少々心細くなります。鬼が出るという古廟に泊まると、その夜なかに寝相(ねぞう)の悪い一人が関羽(かんう)の木像を蹴倒(けたお)して、みんなを驚かせましたが、ほかには怪しい事もありませんでした。鬼が出るなどと云い触らして、土地のごろつきどもの賭場(とば)になっていたらしいのです。
食事は監理部へ貰(もら)いに行って、米は一人について一日分が六合、ほかに罐詰などの副食物をくれるのですが、時には生きた鷄(とり)や生(なま)の野菜をくれることがある。米は焚(た)かなければならず、鷄や野菜は調理しなければならず、三度の食事の世話もなかなか面倒でした。私たちは七人が一組で、二人の苦力(クーリー)を雇っていましたが、シナの苦力は日本の料理法を知らないので、七人の中から一人の炊事当番をこしらえて、毎日交代で食事の監督をしていました。煮物をするにはシナの塩を用い、或いは醤油エキスを水に溶かして用いました。砂糖は監理部で呉れることもあり、私たちが町のある所へ行って買うこともありました。
苦力の日給は五十銭でしたが、みな喜んで忠実に働いてくれました。一人は高秀庭(こうしゅうてい)、一人は丁禹良(ていうりょう)というのでしたが、そんなむずかしい名を一々呼ぶのは面倒なので、わたしの考案で一人を十郎(じゅうろう)、他を五郎(ごろう)という事にしました。この二人が「新聞記者雇苦力、十郎、五郎」と大きく書いた白布を胸に縫い付けているので、誰の眼にも着き易く、往来の兵士らが面白半分に「十郎、五郎」と呼ぶので、二人もいちいちその返事をするのに困っているようでした。苦力の曾我(そが)兄弟はまったく珍しかったかも知れません。
東京へ帰ってから聞きますと、伊井蓉峰(いいようほう)の新派一座が中洲(なかず)の真砂座(まさござ)で日露戦争の狂言を上演、曾我兄弟が苦力に姿をやつして満洲の戦地へ乗り込み、父の仇(かたき)の露国将校を討ち取るという筋であったそうで、苦力の五郎十郎が暗合(あんごう)しているには驚きました。但(ただ)し私たちの五郎十郎は正真正銘の苦力で、かたき討などという芝居はありませんでした。
「なにか旨(うま)い物が食いたいなあ。」
そんな贅沢(ぜいたく)を云っているのは、駐屯無事の時で、ひとたび戦闘が開始すると、飯どころの騒ぎでなく、時には唐蜀黍(とうもろこし)を焼いて食ったり、時には生玉子二個で一日の命を繋(つな)いだこともありました。沙河(しゃか)会戦中には、農家へはいって一椀の水を貰(もら)ったきりで、朝から晩まで飲まず食わずの日もありました。不眠不休の上に飲まず食わずで、よくも達者に駈け廻られたものだと思いますが、非常の場合にはおのずから非常の勇気が出るものです。そんな場合でも露西亜兵(ロシアへい)携帯の黒パンはどうしても喉(のど)に通りませんでした。シナ人が常食の高粱(コーリャン)も再三試食したことがありますが、これは食えない事もありませんでした。戦闘が始まると、シナ人はみな避難してしまうので、その高粱飯も戦闘中には求めることが出来ず、空腹をかかえて駈けまわることになるのです。
燈火は蝋燭(ろうそく)か火縄で、物をかく時は蝋燭を用い、暗夜に外出する時には火縄を用いるのですが、この火縄を振るのが案外にむずかしく、緩(ゆる)く振れば消えてしまい、強く振れば振り消すと云うわけで、五段目の勘平(かんぺい)のような器用なお芝居は出来ません。今日(こんにち)ならば懐中電燈もあるのですが、不便なことの多い時代、殊(こと)に戦地ですから已(や)むを得ないのです。火縄を振るのは路(みち)を照らす為ばかりでなく、野犬を防ぐためです。満洲の野原には獰猛(どうもう)な野犬の群れが出没するので困りました。殊にその野犬は戦場の血を嘗(な)めているので、ますます獰猛、ほとんど狼にひとしいので、我々を恐れさせました。そのほかには、蝎(さそり)、南京(ナンキン)虫、虱(しらみ)など、いずれも夜となく、昼となく、我々を悩ませました。蝎に螫(さ)されると命を失うと云うので、虱や南京虫に無神経の苦力らも、蝎と聞くと顔の色を変えました。
「新聞記者に危険はありませんか。」
これはしばしばたずねられますが、決して危険がないとは云えません。従軍記者も安全の場所にばかり引き籠っていては、新しい報告も得られず、生きた材料も得られませんから、危険を冒(おか)して奔走しなければなりません。文字通りに、砲烟弾雨(ほうえんだんう)の中をくぐることもしばしばあります。日清戦争には二六新報の遠藤(えんどう)君が威海衛(いかいえい)で戦死しました。日露戦争には松本日報の川島(かわしま)君が沙河で戦死しました。川島君は砲弾の破片に撃たれたのです。私もその時、小銃弾に帽子を撃ち落されましたが、幸いに無事でした。その弾丸がもう一寸(いっすん)と下がっていたら、唯今(ただいま)こんなお話をしてはいられますまい。私のほかにも、こういう危険に遭遇して、危く免れた人々は幾らもあります。殊に今日(こんにち)は空爆ということもありますから、いよいよ油断はなりません。
今度の事変にも、北支に、上海に、もう幾人かの死傷者を出したようです。この事変がどこまで拡大するか知れませんが、従軍記者諸君のあいだに此の以上の犠牲者を出さないようにと、心から祈って居ります。
(昭和12・8稿・『思ひ出草』所収) 
 
苦力とシナ兵

 


昨今は到るところで満洲の話が出るので、わたしも在満当時のむかしが思い出されて、いわゆる今昔(こんじゃく)の感が無いでもない。それは文字通りの今昔で、今から約三十年の昔、私は東京日日新聞の従軍記者として、日露戦争当時の満洲を奔走していたのである。
それについての思い出話を新聞紙上にも書いたが、それからそれへと繰り出して考えると、まだ云い残したことが随分(ずいぶん)ある。そのなかで苦力(クーリー)のことを少しばかり書いてみる。
シナの苦力は世界的に有名なもので、それがどんなものであるかは誰でも知っているのであるから、今あらためてその生活などに就いて語ろうとするのではない。ただ、ひと口に苦力といえば、最も下等な人間で、横着で、狡猾(こうかつ)で、吝嗇(りんしょく)で、不潔で、ほとんど始末の付かない者のように認められているらしいが、必ずしもそんな人間ばかりで無いと云うことを、私の実験によって語りたいと思うのである。
私が戦地にある間に、前後三人の苦力を雇った。最初は王福(おうふく)、次は高秀庭(こうしゅうてい)、次は丁禹良(ていうりょう)というのであった。
最初の王福は一番若かった。彼は二十歳で、金州(きんしゅう)の生まれであると云った。戦時であるから、かれらも用心しているのかも知れないが、極めて柔順で、よく働いた。一日の賃銀は五十銭であったが、彼は朝から晩まで実によく働いて、われわれ一行七人の炊事から洗濯その他の雑用を、何から何まで彼一人で取(とり)り賄(まかな)ってくれた。
彼は煙草(たばこ)をのむので、私があるとき菊世界という巻莨(まきたばこ)一袋をやると、彼は拝して受取ったが、それを喫(の)まなかった。自分の兄は日本軍の管理部に雇われているから、あしたの朝これを持って行ってやりたいと云うのである。われわれの宿所から管理部までは十町ほども距(はな)れている。彼は翌朝、忙がしい用事の隙(すき)をみて、その莨を管理部の兄のところへ届けに行った。
それから二、三日の後、私が近所を散歩していると、彼は他の苦力と二人づれで、路(みち)ばたの露店の饅頭(まんとう)を食っていたが、私の姿をみると直(す)ぐに駈けて来た。連れの苦力は彼の兄であった。兄は私にむかって、丁寧に先日の莨の礼を述べた。いかに相手が苦力でも、一袋の莨のために兄弟から代るがわるに礼を云われて、私はいささか極まりが悪かった。
その後、注意して見ると、彼は時どきに兄をたずねて、二人が連れ立って何か食いに行くらしい。どちらが金を払うのか知らないが、兄弟仲のいいことは明らかに認められた。私は兄の顔をみると、莨をやることにしていたが、二、三回の後に兄はことわった。
大人(たいじん)の莨の乏しいことは私たちも知っていると、彼は云うのである。実際、戦地では莨に不自由している。彼はさらに片言(かたこと)の日本語で、こんな意味のことを云った。
「管理部の人、みな莨に困っています。この莨、わたくしに呉れるよりも、管理部の人にやってください。」
私は無言でその顔をながめた。勿論、多少のお世辞もまじっているであろうが、苦力の口から斯(こ)ういう言葉を聞こうとは思わなかったのである。これまでとかくに彼らを侮(あなど)っていたことを、私は心ひそかに恥じた。
金州の母が病気だという知らせを聞いて、王の兄弟は暇(ひま)を取って郷里に帰った。帰る時に、兄も暇乞(いとまご)いに来たが、兄は特に私にむかって、大人はからだが弱そうであるから、秋になったらば用心しろと注意して別れた。
王福の次に雇われて来たのが、高秀庭である。高は苦力の本場の山東(さんとう)省の生まれであるが、年は二十二歳、これまで上海(シャンハイ)に働いていたそうで、ブロークンながらも少しく英語を話すので調法であった。これも極めて柔順で、すこぶる怜悧(れいり)な人間であった。
高を雇い入れてから半月ほどの後に、遼陽(りょうよう)攻撃戦が始まったので、私たちは自分の身に着けられるだけの荷物を身に着けた。残る荷物はふた包みにして、高が天秤(てんびん)棒で肩にかついだ。そうして、軍の移動と共に前進していたのであるが、この戦争が始まると、雨は毎日降りつづいた。満洲の秋は寒い。八月の末でも、夜は焚火がほしい位である。その寒い雨に夜も昼も濡(ぬ)れていた為に、一行のうちに風邪をひく者が多かった。私もその一人で、鞍山店(あんざんてん)附近にさしかかった時には九度二分の熱になってしまった。
他の人々も私の病気を心配して、このままで雨に晒(さら)されているのは良くあるまいというので、苦力の高を添えて私を途中にとどめ、他の人々は前進することになった。鞍山店は相当に繁昌している土地らしいが、ここらの村落の農家はみな何処(どこ)へか避難して、どの家にも人の影はみえない。高は雨の中を奔走して、比較的に綺麗な一軒のあき家を見つけて来てくれた。そこへ私を連れ込んで、彼は直ぐに高粱(コーリャン)を焚いて湯を沸かした。珈琲(コーヒー)に砂糖を入れて飲ませてくれた。前方では大砲や小銃の音が絶え間なしにきこえる。雨はいよいよ降りしきる。こうして半日を寝て暮らすうちに、その日もいつか夜になった。高は蝋燭をとぼして、夕飯の支度にかかった。
日が暮れると共に、わたしは一種の不安を感じ始めた。以前の王福の正直は私もよく知っていたが、今度の高秀庭の性質はまだ本当にわからない。私の荷物は勿論、一行諸君の荷物もひと纏めにして、彼がみな預かっているのである。私が病人であるのを幸いに、夜なかに持ち逃げでもされては大変である。九度以上の熱があろうが、苦しかろうが、今夜は迂濶(うかつ)に眠られないと、私は思った。
そうは思いながらも、高の煮てくれた粥(かゆ)を食って、用意の薬を飲むと、なんだかうとうとと眠くなって来た。ふと気が付くと、枕もとの蝋燭が消えている。マッチを擦って時計をみると、今夜はもう九時半を過ぎている、高の姿はみえない。はっと思って、私は直ぐに飛び起きた。
しかし荷物の包みはそのままになっている。調べてみると、品物には異状はないらしい。それでやや安心したが、それにしても彼はどこへ行ったのであろう。二、三度呼んでみたが返事もない。台所の土間にも姿はみえない。この雨の夜にどこへも行くはずはない、あるいは何かの事情で私を置き去りにして行ったのかとも思った。なにしろ、これだけの荷物がある以上、油断してはいられないと思ったので、私は毛布を着て起き直った。砲声はやや衰えたが、雨の音は止まない。夜の寒さは身にしみて来た。
それから二時間ほどの後である。高は濡(ぬ)れて帰って来た。彼は一枚の毛布を油紙のようなものに包んで抱えていた。
これで事情は判明した。彼は昼間から私の容体を案じていたのであるが、日が暮れていよいよ寒くなって来たので、彼は私のために更に一枚の毛布を工面(くめん)に行ったのである。われわれの食物その他はすべて管理部で支給されるのであるから、彼は管理部をたずねて行った。戦闘開始中は管理部も後方に引き下がっているのであるから、彼は暗い寒い雨の夜に一里余の路を引返して、ようように管理部のありかを探し当てたが、管理部でも毛布までは支給されないという。第一、余分の毛布もないのである。それでも彼はいろいろに事情を訴えて、一枚の古毛布を借りて来て、病める岡大人――岡本の一字を略して云う――に着せてくれる事になったのである。
私は感謝を通り越して、なんだか悲しいような心持になった。前にもいう通り、私たちはとかくに苦力らを侮蔑する心持がある。その誤りをさきに王福の兄弟に教えられ、今はまた、高秀庭に教えられた。いたずらに皮相を観て其の人を侮蔑する――自分はそんな卑しい、浅はかな心の所有者であるかと思うと、私は涙ぐましくなった。その涙は感激の涙でなく、一種の自責の涙であった。
私は高のなさけに因(よ)って、その夜は二枚の毛布をかさねて眠った。あくる朝は一度ほども熱が下がったのと、前方の戦闘がいよいよ激烈になって来たのとで、私は病いを努(つと)めて前進することにした。高は彼(か)の古毛布を斜めに背負って、天秤の荷物をかついで、私のあとに続いて来た。雨はまだやまなかった。
最後の丁禹良はやや魯鈍(ろどん)に近い人間で、特に取立てて語るほどの事もなかったが、いわゆる馬鹿正直のたぐいで、これも忠実勤勉であった。それでも「わたしも今に高のようになりたい」などと云っていた。高秀庭はその勤勉が管理部の眼にもとまり、私たちの方でも推薦して苦力頭の一人に採用されたからである。苦力頭は軍隊使用の苦力らの取締役のようなもので、胸には徽章(きしょう)をつけ、手には紫の総(ふさ)の付いている鞭(むち)を持っている。丁のような人の眼にも、それが羨(うらや)ましく見えたのであろう。
彼らに就いては、まだ語ることもあるが、余り長くなるからこの位にとどめて置く。いずれにしても、私たちの周囲にいた苦力らは前に云ったような次第で、ことごとく忠実善良の人間ばかりであった。私たちの運がよかったのかも知れないが、あながちにそうばかりとも思われない。
多数のなかには、横着な者も狡猾な者もいるには相違ないが、苦力といえば一概に劣等の人間と決めてしまうのは、正しい観察ではないと思われる。それと反対に、私は苦力という言葉を聞くと、王福の兄弟や、高秀庭や、丁禹良らの姿が眼に浮かんで、苦力はみな善良の人間のように思われてならない。これも勿論、正しい観察ではあるまいが――。

今度は少しくシナの兵士について語りたい。
シナの兵隊も苦力と共に甚だ評判の悪いものである。シナ兵は怯懦(きょうだ)である、曰(いわ)く何、曰く何、一つとしてよいことは無いように云われている。しかも彼らの無規律であり怯懦であるのは、根本の軍隊組織や制度が悪いためであって、彼らの罪ではない。
現在のシナのような、軍隊組織や制度の下(もと)にあっては、いかなる兵でも恐らく勇敢には戦い得まいと思う。個人としてのシナ兵が弱いのではなく、根本の制度が悪いのである。新たに建設された満洲国はどんな兵制を設けるか知らないが、在来の制度や組織を変革して、よく教えよく戦わしむれば、十分に国防の任務を果たし得る筈である。
それよりも更に変革しなければならないのは、軍隊に対する一般国民の観念である。由来、文を重んずるはシナの国風であるが、それが余りに偏重し過ぎていて、文を重んずると反対に武を嫌い、武を憎むように慣らされている。シナの人民が兵を軽蔑し憎悪することは、実に我々の想像以上である。
「好漢|不当兵(へいにあたらず)」とは昔から云うことであるが、いやしくも兵と名が付けば、好漢どころか、悪漢、無頼漢を通り越して、ほとんど盗賊類似のように考えられている。そういう国民のあいだから忠勇の兵士を生み出すことの出来ないのは判り切っている。
私は遼陽城外の劉(りゅう)という家(うち)に二十日余り滞在していたことがある。農であるが、先ずここらでは相当の大家(たいけ)であるらしく、男の雇人が十数人も働いていた。そのなかに二十五、六の若い男があって、やはり他の雇人と同じ服装をして同じように働いているが、その人柄がどこやら他の朋輩(ほうばい)と違っていて、私たちに対しても特に丁寧に挨拶する。私たちのそばへ寄って来て特に親しく話しかけたりする。すべてが人を恋しがるような風が見えて、時には何となく可哀そうなように感じられることがある。早く云えば、継子(ままこ)が他人を慕うというような風である。
これには何か仔細(しさい)があるかと思って、あるとき他の雇人に訊いてみると、果たして仔細がある。彼はこの家の次男で、本来ならば相当の土地を分配されて、相当の嫁を貰って、立派に一家の旦那様で世を送られる身の上であるが、若気(わかげ)の誤まり――と、他の雇人は云った。――十五、六歳の頃から棒を習った。それまではまだ好(よ)いのであるが、それから更に進んで兵となって、奉天(ほうてん)歩隊に編入された。所詮(しょせん)、両親も兄も許す筈はないから、彼は無断で実家を飛び出して行ったのである。
それから二、三年の後、彼は伍長か何かに昇進して、軍服をつけて、赤い毛を垂れた軍帽をかぶって、久しぶりで実家をおとずれると、両親も兄も逢わなかった。雇人らに命じて、彼を門外へ追い出させた。さらに転じて近所の親類をたずねると、どこの家でも門を閉じて入れなかった。彼はすごすごと立ち去った。
それからまた二、三年、前後五、六年の軍隊生活を送った後に、彼は兵に倦(あ)きたか、故郷が恋しくなったか、軍服をぬいで実家へ帰って来たが、実家では入れなかった。親類も相手にしなかった。それでも土地の二、三人が彼を憫(あわ)れんで、彼のために実家や親類に嘆願して、今後は必ず改心するという誓言の下(もと)に、両親や兄のもとに復帰することを許された。先ず勘当が赦(ゆる)されたという形である。
しかも彼は直ちに劉家の次男たる待遇を受けることを許されなかった。帰参は叶(かな)ったというものの、当分は他の雇人と同格の待遇で、雇人同様に立ち働かなければならなかった。彼はその命令に服従して、朝から晩まで泥だらけになって働いているのである。当分と云っても、もう二年以上になるが、彼はまだ本当の赦免に逢わない。彼は今年二十六歳であるが、恐らく三十歳になるまではそのままであろうという。
その話を聞かされて、私はいよいよ可哀そうになった。いかに国風とは云いながら、兵になったと云うことがそれ程の罪であろうか。それに伴って、何か他に悪事でも働いたというならば格別、単に軍服を身に纏ったと云うだけのことで、これほどの仕置を加えるのは余りに残酷であると思った。彼が肩身を狭くして、一種の継子のような風をして、他国人の私たちを恋しがるのも無理はない。その以来、私は努めて彼に対して親しい態度を執るようにすると、彼もよろこんで私に接近して来た。
ある日、私が城内へ買物にゆくと、その帰り途で彼に逢った。彼も何か買物にやられたとみえて、大きい包みをかついでいた。それでも直ぐに私のそばへ駈け寄って来て、私の荷物を持ってくれた。一緒に帰る途中、私は彼にむかって「お前も骨が折れるだろう。」と慰めるように云うと、彼は「私が悪いのだ。」と答えた。彼自身も飛んだ心得違いをしたように後悔しているらしかった。
これはほんの一例に過ぎないが、良家の子が兵となれば、結局こんなことになるのである。入営の送迎に旗を立ててゆく我が国風とは、あまりに相違しているではないか。いかなる名将勇士でも、国民の後援がなければ思うようの働きは出来ない。その国民がこの如くに兵を嫌い兵を憎むようでは、士気の振わないのも当然であるばかりか、まじめな人間は兵にならない。兵の素質の劣悪もまた当然であると云うことを、私はつくづく感じた。
平和を愛するのはいい。しかしこれほどに武を憎む国民は世界の優勝国民になり得ない。シナはあまりに文弱であり過ぎる。これと反対の一例を私が実験しているだけに、この際いよいよその感を深うしたのである。
劉家へ来るひと月ほど以前に、私は海城(かいじょう)北方の李家屯(りかとん)という所に四日ばかり滞在したことがある。これも相当の大家であったが、私が宿泊の第一日には家人は全く姿をみせず、老年の雇人ひとりが来て形式的の挨拶をしただけで、万事の待遇が甚だ冷淡であった。
その第二日に、その家の息子らしい十二、三歳の少年が私の居室の前に遊んでいた。彼は私の持っている扇をみて、しきりに欲しそうな顔をしているので、私はその白扇に漢詩の絶句をかいてやると、彼はよろこんで貰って行った。すると、一時間あまりの後に、その家の長男という二十二、三歳の青年が衣服をあらためて挨拶に来て、先刻の扇の礼を云った。青年は相当の教育を受けているらしく、自由に筆談が出来るので、だんだん話し合ってみると、この一家の人々は私がカーキー服を来て半武装をしているのを見て、やはり軍人であると思っていたらしい。しかも白扇の題詩を見るに及んで、私が軍人でないことを知ったというのである。日本の軍人に漢詩を作る人はたくさんあるが、シナにはないと見える。
ともかくも私が文字の人であることを知ると共に、一家内の待遇が一変した。長男が去ると、やがてまた入れ代って主人が挨拶に来た。日が暮れる頃には酒と肉を贈って来た。他の雇人らも私をみるといちいち丁寧に挨拶するようになった。長男の青年は毎朝かならず挨拶に来て、何か御用は無いかと云った。私がいよいよ出発する時には、主人や息子たちは衣服をあらためて門前まで送って来た。他の雇人らも総出で私に敬礼した。
敬意を表されて腹の立つ者はない。私もその当時は内々得意であったが、後に遼陽城外の劉家に来て、かの奉天歩隊の勘当息子をみるに及んで、彼らが余りに文を重んじ、武を軽んずるの甚しきを憐(あわ)れむような心持にもなって来た。これではシナの兵は弱い筈である。
多年の因習、一朝(いっちょう)に一洗することは不可能であるとしても、新興国の当路者がここに意を致すことなくんば、富国はともあれ、強兵の実は遂に挙がるまいと思われる。
(昭和8・1「文藝春秋」) 
 
満洲の夏

 


この頃は満洲の噂がしきりに出るので、私も一種今昔の感に堪えない。わたしの思い出は可なり古い。日露戦争の従軍記者として、満洲に夏や冬を送った当時のことである。
満洲の夏――それを語るごとに、いつも先ず思い出されるのは得利寺(とくりじ)の池である。得利寺は地名で、今ではここに満鉄の停車場がある。わたしは八月の初めにここを通過したが、朝から晴れた日で、午後の日盛りはいよいよ暑い。文字通り、雨のような汗が顔から一面に流れ落ちて来た。
「やあ、池がある!」
沙漠でオアシスを見いだしたように、私たちはその池をさして駈けてゆくと、池はさのみ広くもないが、岸には大きい幾株の柳がすずしい蔭を作って、水には紅白の荷花(はすばな)が美しく咲いていた。
汗をふきながら池の花をながめて、満洲にもこんな涼味に富んだ所があるかと思った。池のほとりには小さい塾のようなものがあって、先生は半裸体で子どもに三字経を教えていた。わたしはこの先生に一椀の水を貰って、その返礼に宝丹一個を贈って別れた。
その池、その荷花――今はどうなっているであろう。

蓋平(がいへい)に一宿した時である。ここらの八月はじめは日が長い。晴れた日がほんとうに暮れ切るのは、午後十時頃である。
その午後六時半頃から約四十分ほど薄暗くなったかと思うと、また再び明るくなった。海の方面に大雨が降ったらしいという。やがて七時半に近い頃である。あたりの土着民が俄(にわ)かに騒ぎ出した。
「龍(ロン)!龍(ロン)!」
みな口々に叫んで表へかけ出すので、私も好奇心に駆られて出てみると、西の方角――おそらく海であろうと思われる方角にあたって、大空に真黒(まっくろ)な雲が長く大きく動いている。その黒雲のあいだを縫って、金色の光るものが切れぎれに長くみえる。勿論、その頭らしい物は見えないが、金龍の胴とも思われるものが見えつ隠れつ輝いているのである。
雲は墨よりも黒く、金色は燦(さん)として輝いている。太陽の光線がどういう反射作用をするのか知らないが、見るところ、まさに描ける龍である。
龍を信ずる満洲人が「龍!」と叫ぶのも無理はないと、私は思った。

南京虫は日本にもたくさん輸入されているから、改めて紹介するまでもないが、満洲の夏において最も我々をおびやかしたものは蝎(さそり)であった。南京虫を恐れない満洲の民も、蝎と聞けば恐れて逃げる。
蝎も南京虫とおなじく、人家の壁の崩れや、柱の割れ目などに潜(ひそ)んでいる。時には枯草などをたばねた中にも隠れている。しかも南京虫とは違って、その毒は生命に関する。私はある騎兵が右手の小指を蝎に螫(さ)されて、すぐに剣をぬいてその小指を切断したのを見た。
蝎の毒は蝮(まむし)に比すべきものである。殊に困るのは、その形が甚だ小さく、しかも人家の内に棲息(せいそく)していることである。蝎の年を経たものは大きさ琵琶(びわ)の如しなどと、シナの書物にも出ているが、そんなのは滅多にあるまい。私の見たのは、いずれもこおろぎぐらいであった。
土地の人は格別、日本人が蝎に襲われたという噂を、近来あまり聞かないのは幸いである。満洲開発と共に、こういう毒虫は絶滅させなければなるまい。
蝎は敵に囲まれた時は自殺する。おのが尻尾(しっぽ)の剣先をおのが首に突き刺して仆(たお)れるのである。動物にして自殺するのは、恐らく蝎のほかにあるまい。蝎もまた一種の勇者である。

満洲の水は悪いというので、軍隊が基地点へゆき着くと、軍医部では直ぐにそこらの井戸の水を検査して「飲ムベシ」とか「飲ムベカラズ」とか云う札(ふだ)を立てることになっていた。
私が海城村落の農家へ泊まりに行くと、あたかも軍医部員が検査に来て、家の前の井戸に木札を立てて行くところであった。見ると、その札に曰く「人馬飲ムベカラズ」
人間は勿論、馬にも飲ませるなと云うのである。これは大変だと思って、呼びとめて訊くと、「あんな水は絶対に飲んではいけません」という返事である。この暑いのに、眼の前の水を飲むことが出来なくては困ると、わたしはすこぶる悲観していると、それを聞いて宿の主人は声をあげて笑い出した。
「はは、途方もない。わたしの家はここに五代も住んでいます。私も子供のときから、この井戸の水を飲んで育って来たのですよ。」
今更ではないが「慣れ」ほど怖ろしいものは無いと、わたしはつくづく感じさせられた。しかも満洲の水も「人馬飲ムベカラズ」ばかりではない。わたしが普蘭店(ふらんてん)で飲んだ噴き井戸の水などは清冽(せいれつ)珠(たま)のごとく、日本にもこんな清水は少なかろうと思うくらいであった。

海城の北門外に十日ほど滞留していた時である。八月は満洲の雨季であるので、わが国の梅雨季のように、とかくに細かい雨がじめじめと降りつづく。
わたしたちの宿舎のとなりに老子(ろうし)の廟があって、滞留の間にあたかもその祭日に逢った。雨も幸いに小歇(こや)みになったので、泥濘(でいねい)の路を踏んで香を献(ささ)げに来る者も多い。縁日商人も店を列(なら)べている。大道芸人の笙(しょう)を吹くもの、蛇皮線(じゃびせん)をひく者、四(よ)つ竹(だけ)を鳴らす者なども集まっている。
その群れのうちに蛇人(だにん)――蛇つかいの二人連れがまじっていた。おそらく兄弟であろう、兄は二十歳前後、弟は十五、六であるが、いずれも俳優かとも思われるような白面(はくめん)の青年と少年で、服装も他の芸人に比べるとすこぶる瀟洒(しょうしゃ)たる姿であった。
兄は首にかけている箱から二匹の黒と青との蛇を取出して、手掌(てのひら)の上に乗せると、弟は一種の小さい笛を吹く。兄は何か歌いながら、その蛇を踊らせるのである。踊ると云っても、二匹が絡み合って立つぐらいに過ぎないのであるが、何という楽器か知らないが悲しい笛の音、何という節か知らないが悲しい歌の声、わたしは云い知れない凄愴(せいそう)の感に打たれて、この蛇つかいの兄弟は蛇の化身ではないかと思った。

満洲は雨季以外には雨が少ないと云われているが、わたしが満洲に在るあいだは、大戦中のせいか、ずいぶん雨が多かった。
夏季は夕立めいた雨にもしばしば出逢った。俄雨(にわかあめ)が大いに降ると、思いもよらない処に臨時の河が出来るので、交通に不便を来たすことが往々ある。臨時の河であるから知れたものだと、多寡(たか)をくくって徒渉(としょう)を試みると、案外に水が深く、流れが早く、あやうく押し流されそうになったことも再三あった。何が捕れるか知らないが、その臨時の河に網を入れている者もある。
遼陽の南門外に宿っている時、宵(よい)から大雨、しかも激しい雷鳴が伴って、大地震のような地響きがするばかりか、真青(まっさお)な電光が昼のように天地を照らすので、戦争に慣れている私たちも少なからず脅(おびや)かされた。
東京陵
遼陽の城外に東京陵(トンキンりょう)という古陵がある。昔ここに都していた遼(りょう)(契丹(きったん))代の陵墓で、周囲には古木がおいしげって、野草のあいだには石馬や石羊の横たわっているのが見いだされる。
伝えていう、月夜雨夜にここを過ぎると、凄麗の宮女(きゅうじょ)に逢うことがある。宮女は笛を吹いている。その笛の音(ね)にひかれて、宮女のあとを慕って行くものは再び帰って来ないという。シナの小説にでもありそうな怪談である。
わたしはそれを宿舎の主人に聞きただすと、その宮女は夜ばかりでなく、昼でも陰った日には姿をあらわすことがあると云う。ほんとうに再び帰って来ないのかと念を押すと、そう云って置く方が若い人たちの為であろうと、主人は意味ありげに笑った。
その笑い顔をみて、わたしも覚った。そんな怖ろしい宮女ならば尋ねに行くのは止めようと云うと、「好的(ハオデー)」と、主人はまた笑った。
(昭和7・6「都新聞」)  
 
仙台五色筆

 

仙台(せんだい)の名産のうちに五色筆(ごしきふで)というのがある。宮城野(みやぎの)の萩、末の松山(まつやま)の松、実方(さねかた)中将の墓に生(お)うる片葉の薄(すすき)、野田(のだ)の玉川(たまがわ)の葭(よし)、名取(なと)りの蓼(たで)、この五種を軸としたもので、今では一年の産額十万円に達していると云う。わたしも松島(まつしま)記念大会に招かれて、仙台、塩竈(しおがま)、松島、金華山(きんかざん)などを四日間巡回した旅行中の見聞を、手当り次第に書きなぐるにあたって、この五色筆の名をちょっと借用することにした。
わたしは初めて仙台の地を踏んだのではない。したがって、この地普通の名所や故蹟(こせき)に対しては少しく神経がにぶっているから、初めて見物した人が書くように、地理や風景を面白く叙述するわけには行かない。ただ自分が感じたままを何でもまっすぐに書く。印象記だか感想録だか見聞録だか、何だか判(わか)らない。
三人の墓
仙台の土にも昔から大勢(おおぜい)の人が埋められている。その無数の白骨の中には勿論、隠れたる詩人や、無名の英雄も潜(ひそ)んでいるであろうが、とにかく世にきこえたる人物の名をかぞえると、わたしがお辞儀しても口惜(くや)しくないと思う人は三人ある。曰(いわ)く、伊達政宗(だてまさむね)。曰く、林子平(はやししへい)。曰く、支倉六右衛門(はせくらろくえもん)。今度もこの三人の墓を拝した。
政宗の姓はダテと読まずに、イダテと読むのが本当らしい。その証拠には、ローマに残っている古文書(こもんじょ)にはすべてイダテマサムネと書いてあると云う。ローマ人には日本字が読めそうもないから、こっちで云う通りをそのまま筆記したのであろう。なるほど文字の上から見てもイダテと読みそうである。伊達という地名は政宗以前から世に伝えられている。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の子供にも錦戸太郎(にしきどたろう)、伊達次郎というのがある。もっとも、これは西木戸太郎、館(たて)次郎が本当だとも云う。太平記にも南部太郎、伊達次郎などと云う名が見えるが、これもイダテ次郎と読むのが本当かも知れない。どのみち、昔はイダテと唱えたのを、後に至ってダテと読ませたに相違あるまい。
いや、こんな詮議はどうでもいい。イダテにしても、ダテにしても、政宗はやはり偉いのである。独眼龍(どくがんりゅう)などという水滸伝(すいこでん)式の渾名(あだな)を付けないでも、偉いことはたしかに判っている。その偉い人の骨は瑞鳳殿(ずいほうでん)というのに斂(おさ)められている。さきごろの出水に頽(くず)された広瀬(ひろせ)川の堤(どて)を越えて、昼もくらい杉並木の奥深くはいると、高い不規則な石段の上に、小規模の日光廟が厳然(げんぜん)とそびえている。
わたしは今この瑞鳳殿の前に立った。丈(たけ)抜群の大きい黒犬は、あたかも政宗が敵にむかう如き勢いで吠えかかって来た。大きな犬は瑞鳳殿の向う側にある小さな家から出て来たのである。一人の男が犬を叱りながら続いて出て来た。
彼は五十以上であろう。色のやや蒼(あお)い、痩形(やさがた)の男で、短く苅った鬢(びん)のあたりは斑(まだら)に白く、鼻の下の髭(ひげ)にも既に薄い霜がおりかかっていた。紺がすりの単衣(ひとえもの)に小倉(こくら)の袴(はかま)を着けて、白|足袋(たび)に麻裏の草履(ぞうり)を穿(は)いていた。伊達家の旧臣で、ただ一人この墳墓を守っているのだと云う。
わたしはこの男の案内によって、靴をぬいで草履に替え、しずかに石段を登った。瑞鳳殿と記(しる)した白字の額を仰ぎながら、さらに折り曲がった廻廊を渡ってゆくと、かかる場所へはいるたびにいつも感ずるような一種の冷たい空気が、流るる水のように面(おもて)を掠(かす)めて来た。わたしは無言で歩いた。男も無言でさきに立って行った。うしろの山の杉木立では、秋の蝉(せみ)が破(や)れた笛を吹くように咽(むせ)んでいた。
さらに奥深く進んで、衣冠を着けたる一個の偶像を見た。この瞬間に、わたしもまた一種の英雄崇拝者であると云うことをつくづく感じた。わたしは偶像の前に頭(こうべ)をたれた。男もまた粛然として頭をたれた。わたしはやがて頭をあげて見返ると、男はまだ身動きもせずに、うやうやしく礼拝(らいはい)していた。
私の眼からは涙がこぼれた。
この男は伊達家の臣下として、昔はいかなる身分の人であったか知らぬ。また知るべき必要もあるまい。彼はただ白髪の遺臣として長く先君の墓所を守っているのである。維新前の伊達家は数千人の家来をもっていた。その多数のうちには官吏や軍人になった者もあろう、あるいは商業を営んでいる者もあろう。あるいは農業に従事している者もあろう。栄枯浮沈、その人々の運命に因っていろいろに変化しているであろうが、とにもかくにも皆それぞれに何らかの希望をもって生きているに相違ない。この男には何の希望がある。無論、名誉はない。おそらく利益もあるまい。彼は洗い晒(ざら)しの着物を着て、木綿の袴を穿いて、人間の一生を暗い冷たい墓所の番人にささげているのである。
土の下にいる政宗が、この男に声をかけてくれるであろうか。彼はわが命の終るまで、一度も物を云ってくれぬ主君に仕えているのである。彼は経ヶ峯(きょうがみね)の雪を払って、冬の暁に墓所の門を浄(きよ)めるのであろう。彼は広瀬川の水を汲んで、夏の日に霊前の花を供えるのであろう。こうして一生を送るのである。彼に取ってはこれが人間一生の務めである。名誉もいらぬ、利益もいらぬ、これが臣下の務めと心得ているのである。わたしは伊達家の人々に代って、この無名の忠臣に感謝せねばならない。
こんなことを考えながら門を出ると、犬はふたたび吠えて来た。
林子平の墓は仙台市の西北、伊達堂山の下にある、槿(むくげ)の花の多い田舎道をたどってゆくと、路の角に「伊達堂下、此奥に林子平の墓あり」という木札を掛けている。寺は龍雲院というのである。
黒い門柱がぬっと立ったままで、扉(とびら)は見えない。左右は竹垣に囲まれている。門をはいると右側には百日紅(さるすべり)の大木が真紅(まっか)に咲いていた。狭い本堂にむかって左側の平地に小さな石碑がある。碑のおもては荒れてよく見えないが、六無斎(ろくむさい)友直居士の墓とおぼろげに読まれる。竹の花筒には紫苑(しおん)や野菊がこぼれ出すほどにいっぱい生けてあった。そばには二個の大きな碑が建てられて、一方は太政(だじょう)大臣|三条実美(さんじょうさねとみ)篆額(てんがく)、斎藤竹堂(さいとうちくどう)撰文、一方は陸奥守(むつのかみ)藤原慶邦(ふじわらよしくに)篆額、大槻磐渓(おおつきばんけい)撰文とある。いずれも林子平の伝記や功績を記したもので、立派な瓦家根の家の中に相対して屹立(きつりつ)している。なにさま堂々たるものである。
林子平はどんなに偉くっても一個の士分の男に過ぎない。三条公や旧藩主は身分の尊い人々である。一個の武士を葬った墓は、雨叩きになっても頽(くず)れても誰も苦情は云うまい。身分の尊い人々の建てられた石碑は、粗末にしては甚だ恐れ多い。二個の石碑が斯くの如く注意を加えて、立派に丁寧に保護されているのは、むしろ当然のことかも知れない。仙台人はまことに理智の人である。
わが六無斎居士の墓石は風雨多年の後には頽れるかも知れない。いや、現にもう頽れんとしつつある。他の二個の堂々たる石碑は、おそらく百年の後までも朽ちまい。わたしは仙台人の聡明に感ずると同時に、この両面の対照に就いていろいろのことを考えさせられた。
ローマに使いした支倉六右衛門の墓は、青葉神社に隣りする光明院の内にある。ここも長い不規則の石段を登って行く。本堂らしいものは正面にある。前の龍雲院に比べるとやや広いが、これもどちらかと云えば荒廃に近い。
案内を乞うと、白地の単衣(ひとえもの)を着た束髪(そくはつ)の若い女が出て来た。本堂の右に沿うて、折り曲がった細い坂路をだらだらと降りると、片側は竹藪(たけやぶ)に仕切られて、片側には杉の木立の間から桑畑が一面に見える。坂を降り尽くすと、広い墓地に出た。
墓地を左に折れると、石の柵(さく)をめぐらした広い土の真んなかに、小さい五|輪(りん)の塔が立っている。支倉の家はその子の代に一旦亡びたので、墓の在所(ありか)も久しく不分明であったが、明治二十七年に至って再び発見された。草深い土の中から掘り起したもので、五輪の塔とは云うけれども、地・水・火の三輪をとどむるだけで、風(ふう)・空(くう)の二輪は見当らなかったと云う。今ここに立っているのは其の三個の古い石である。
この墓は発見されてから約二十年になる。その間にはいろいろの人が来て、清い水も供えたであろう、美しい花も捧げたであろう。わたしの手にはなんにも携えていなかった。あいにく四辺(あたり)に何の花もなかったので、わたしは名も知れない雑草のひと束を引き抜いて来て、謹(つつし)んで墓の前に供えた。
秋風は桑の裏葉を白くひるがえして、畑は一面の虫の声に占領されていた。
三人の女
仙台や塩竈(しおがま)や松島で、いろいろの女の話を聞いた。その中で三人の女の話を書いてみる。もとより代表的婦人を選んだという訳でもない、また格別に偉い人間を見いだしたというのでもない、むしろ平凡な人々の身の上を、平凡な筆に因って伝うるに過ぎないのかも知れない。
塩竈街道の燕沢、いわゆる「蒙古の碑」の付近に比丘尼(びくに)坂というのがある。坂の中途に比丘尼塚の碑がある。無名の塚にも何らかの因縁を付けようとするのが世の習いで、この一片の碑にも何かの由来が無くてはならない。
伝えて云う。天慶(てんぎょう)の昔、平将門(たいらのまさかど)が亡びた時に、彼は十六歳の美しい娘を後に残して、田原藤太(たわらとうた)の矢先にかかった。娘は陸奥(みちのく)に落ちて来て、尼となった。ここに草の庵(いおり)を結んで、謀叛(むほん)人と呼ばれた父の菩提(ぼだい)を弔(とむら)いながら、往き来の旅人(たびびと)に甘酒を施していた。比丘尼塚の主(ぬし)はこの尼であると。
わたしは今ここで、将門に娘があったか無かったかを問いたくない。将門の遺族が相馬(そうま)へはなぜ隠れないで、わざわざこんな処へ落ちて来たかを論じたくない。わたしは唯、平親王(へいしんのう)将門の忘れ形見という系図を持った若い美しい一人の尼僧が、陸奥(むつ)の秋風に法衣(ころも)の袖を吹かせながら、この坂の中程に立っていたと云うことを想像したい。
鎌倉(かまくら)の東慶(とうけい)寺には、豊臣秀頼(とよとみひでより)の忘れ形見という天秀尼(てんしゅうに)の墓がある。かれとこれとは同じような運命を荷(にな)って生まれたとも見られる。芝居や浄瑠璃で伝えられる将門の娘|瀧夜叉姫(たきやしゃひめ)よりも、この尼の生涯の方が詩趣もある、哀れも深い。
尼は清い童貞の一生を送ったと伝えられる。が、わたしはそれを讃美するほどに残酷でありたくない。塩竈の町は遠い昔から色の港で、出船入り船を迎うる女郎山の古い名が今も残っている。春もたけなわなる朧(おぼろ)月夜に、塩竈通いのそそり節が生暖い風に送られて近くきこえた時、若い尼は無念無想で経を読んでいられたであろうか。秋の露の寒い夕暮れに、陸奥へくだる都の優しい商人(あきうど)が、ここの軒にたたずんで草鞋(わらじ)の緒を結び直した時、若い尼は甘い酒のほかに何物をも与えたくはなかったであろうか。かれは由(よし)なき仏門に入ったことを悔まなかったであろうか。しかも世を阻(せば)められた謀叛(むほん)人の娘は、これよりほかに行くべき道は無かったのである。かれは一門滅亡の恨みよりも、若い女として此の恨みに堪えなかったのではあるまいか。
かれは甘い酒を人に施したが、人からは甘い情けを受けずに終った。死んだ後には「清い尼」として立派な碑を建てられた。かれは実に清い女であった。しかし将門の娘は不幸なる「清い尼」では無かったろうか。
「塩竈街道に白菊植えて」と、若い男が唄って通った。尼も塩竈街道に植えられて、さびしく咲いて、寂しく萎(しぼ)んだ白菊であった。
これは比較的に有名な話で、今さら紹介するまでも無いかも知れないが、将門の娘と同じような運命の女だと云うことが、わたしの心を惹いた。
松島の観音堂のほとりに「軒場(のきば)の梅」という古木がある。紅蓮尼(こうれんに)という若い女は、この梅の樹のもとに一生を送ったのである。紅蓮尼は西行(さいぎょう)法師が「桜は浪に埋もれて」と歌に詠んだ出羽国象潟(でわのくにきさがた)の町に生まれた、商人(あきうど)の娘であった。父という人は三十三ヵ所の観音|詣(もう)でを思い立って、一人で遠い旅へ迷い出ると、陸奥(むつ)松島の掃部(かもん)という男と道中で路連れになった。掃部も観音詣での一人旅であった。二人は仲睦まじく諸国を巡礼し、つつがなく故郷へ帰ることになって、白河の関で袂(たもと)を分かった。関には昔ながらの秋風が吹いていたであろう。
その時に、象潟の商人は尽きぬ名残(なごり)を惜しむままに、こういう事を約束した。私には一人の娘がある、お前にも一人の息子があるそうだ。どうか此の二人を結び合わせて、末長く睦(むつ)み暮らそうではないか。
掃部も喜んで承諾した。松島の家へ帰り着いてみると、息子の小太郎(こたろう)は我が不在(るす)の間に病んで死んだのであった。夢かとばかり驚き歎いていると、象潟からは約束の通りに美しい娘を送って来たので、掃部はいよいよ驚いた。わが子の果敢(はか)なくなったことを語って、娘を象潟へ送り還そうとしたが、娘はどうしても肯(き)かなかった。たとい夫たるべき人に一度も対面したことも無く、又その人が已(すで)に此の世にあらずとも、いったん親と親とが約束したからには、わたしは此の家の嫁である、決して再び故郷へは戻らぬと、涙ながらに云い張った。
哀れとも無残とも云いようがない。私はこんな話を聞くと、身震いするほどに怖ろしく感じられてならない。わたしは決してこの娘を非難(ひなん)しようとは思わない。むしろ世間の人並に健気(けなげ)な娘だと褒めてやりたい。しかもこの可憐の娘を駆っていわゆる「健気な娘」たらしめた其の時代の教えというものが怖ろしい。
子をうしなった掃部夫婦もやはり其の時代の人であった。つまりは其の願いに任せて、夫の無い嫁を我が家にとどめておいたが、これに婿を迎えるという考えもなかったらしい。こうして夫婦は死んだ。娘は尼になった。
観音堂のほとりには、小太郎が幼い頃に手ずから植えたという一本の梅がある。紅蓮尼はここに庵(いおり)を結んだ。
さけかしな今はあるじと眺むべし
軒端の梅のあらむかぎりは
嘘か本当か知らぬが、尼の詠み歌として世に伝えられている。尼はまた、折りおりの手すさびに煎餅を作り出したので、のちの人が尼の名を負わせて、これを「紅蓮」と呼んだと云う。
比丘尼坂でも甘酒を売っている。松島でも紅蓮を売っている。甘酒を飲んで煎餅をかじって、不運な女二人を弔うと云うのも、下戸(げこ)のわたしに取ってはまことにふさわしいことであった。
最後には「先代萩」で名高い政岡(まさおか)を挙げる。私はいわゆる伊達騒動というものに就いて多くの知識を持っていない。仙台で出版された案内記や絵葉書によると、院本(まるほん)で名高い局(つぼね)政岡とは三沢初子(みさわはつこ)のことだそうで、その墓は榴(つつじ)ヶ岡下の孝勝寺にある。墓は鉄柵をめぐらして頗る荘重に見える。
初子は四十八歳で死んだ。かれは伊達|綱宗(つなむね)の側室(そばめ)で、その子の亀千代(かめちよ)(綱村(つなむら))が二歳で封(ほう)をつぐや、例のお家騒動が出来(しゅったい)したのである。私はその裏面の消息を詳しく知らないが、とにかく反対派が種々の陰謀をめぐらした間に、初子は伊達|安芸(あき)らと心をあわせて、陰に陽に我が子の亀千代を保護した。その事蹟が誤まって、かの政岡の忠節として世に伝えられたのだと、仙台人は語っている。あるいは云う、政岡は浅岡(あさおか)で、初子とは別人であると。あるいは云う、当面の女主人公は初子で、老女浅岡が陰に助力したのであると。
こんな疑問は大槻博士にでも訊いたら、忽(たちま)ちに解決することであろうが、私は仙台人一般の説に従って、初子をいわゆる政岡として評したい。忠義の乳母(めのと)ももとより結構ではあるが、真実の母としてかの政岡をみた方がさらに一層の自然を感じはしまいか。事実のいかんは別問題として、封建時代に生まれた院本作者が、女主人公を忠義の乳母と定めたのは当然のことである。もし其の作者が現代に生まれて筆を執ったらば、おそらく女主人公を慈愛心の深い真実の母と定めたであろう。とにかく嘘でも本当でも構わない、わたしは「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」でおなじみの局政岡をこの初子という女に決めてしまった。決めてしまっても差支えがない。
仙台市の町はずれには、到るところに杉の木立と槿(むくげ)の籬(まがき)とが見られる。寺も人家も村落もすべて杉と槿とを背景にしていると云ってもいい。伊達騒動当時の陰謀や暗殺は、すべてこの背景を有する舞台の上に演じられたのであろう。
塩竈神社の神楽
わたしが塩竈の町へ入り込んだのは、松島経営記念大会の第一日であった。碧(あお)暗い海の潮を呑んでいる此の町の家々は彩紙(いろがみ)で造った花紅葉(はなもみじ)を軒にかざって、岸につないだ小船も、水に浮かんだ大船も、ことごとく一種の満艦飾を施していた。帆柱には赤、青、黄、紫、その他いろいろの彩紙が一面に懸け渡されて、秋の朝風に飛ぶようにひらめいている。これを七夕(たなばた)の笹のようだと形容しても、どうも不十分のように思われる。解り易く云えば、子供のもてあそぶ千代紙の何百枚を細かく引き裂いて、四方八方へ一度に吹き散らしたという形であった。
「松島行きの乗合船は今出ます。」と、頻(しき)りに呼んでいる男がある。呼ばれて値を付けている人も大勢あった。
その混雑の中をくぐって、塩竈神社の石段を登った。ここの名物という塩竈や貝多羅葉樹(ばいたらようじゅ)や、泉の三郎の鉄燈籠(かなどうろう)や、いずれも昔から同じもので、再遊のわたしには格別の興味を与えなかったが、本社を拝して横手の広場に出ると、大きな神楽(かぐら)堂には笛と太鼓の音が乱れてきこえた。
「面白そうだ。行って見よう。」
同行の麗水(れいすい)・秋皐(しゅうこう)両君と一緒に、見物人を掻き分けて臆面もなしに前へ出ると、神楽は今や最中(さなか)であった。果たして神楽というのか、舞楽(ぶがく)というのか、わたしにはその区別もよく判らなかったが、とにかくに生まれてから初めてこんなものを見た。
囃子は笛二人、太鼓二人、踊る者は四人で、いずれも鍾馗(しょうき)のような、烏天狗(からすてんぐ)のような、一種不可思議の面(おもて)を着けていた。袴は普通のもので、めいめいの単衣(ひとえもの)を袒(はだ)ぬぎにして腰に垂れ、浅黄または紅(あか)で染められた唐草模様の襦袢(じゅばん)(?)の上に、舞楽の衣装のようなものを襲(かさ)ねていた。頭には黒または唐黍(もろこし)色の毛をかぶっていた。腰には一本の塗り鞘(ざや)の刀を佩(さ)していた。
この四人が野蛮人の舞踊のように、円陣を作って踊るのである。笛と太鼓はほとんど休みなしに囃(はや)しつづける。踊り手も休み無しにぐるぐる廻っている。しまいには刀を抜いて、飛び違い、行き違いながら烈しく踊る。単に踊ると云っては、詞(ことば)が不十分であるかも知れない。その手振り足振りは頗(すこぶ)る複雑なもので、尋常一様のお神楽のたぐいではない。しかも其の一挙手一投足がちっとも狂わないで、常に楽器と同一の調子を合わせて進行しているのは、よほど練習を積んだものと見える。服装と云い、踊りと云い、普通とは変って頗る古雅(こが)なものであった。
かたわらにいる土地の人に訊くと、あれは飯野川(いいのがわ)の踊りだと云う。飯野川というのは此の附近の村の名である。要するに舞楽を土台にして、これに神楽と盆踊りとを加味したようなものか。わたしは塩竈へ来て、こんな珍しいものを観たのを誇りたい。
私は口をあいて一時間も見物していた。踊り手もまた息もつかずに踊っていた。笛吹けども踊らぬ者に見せてやりたいと私は思った。
孔雀船の舟唄
塩竈から松島へむかう東京の人々は、鳳凰(ほうおう)丸と孔雀(くじゃく)丸とに乗せられた。われわれの一行は孔雀丸に乗った。
伝え聞く、伊達政宗は松島の風景を愛賞して、船遊びのために二|艘(そう)の御座船(ござぶね)を造らせた。鳳凰丸と孔雀丸とが即(すなわ)ちそれである。風流の仙台|太守(たいしゅ)は更に二十余章の舟唄を作らせた。そのうちには自作もあると云う。爾来、代々の藩侯も同じ雛型(ひながた)に因って同じ船を作らせ、同じ海に浮かんで同じ舟唄を歌わせた。
われわれが今度乗せられた新しい二艘の船も、むかしの雛型に寸分たがわずに造らせたものだそうで、ただ出来(しゅったい)を急いだ為に船べりに黒漆(こくしつ)を施すの暇がなかったと云う。船には七人の老人が羽織袴で行儀よく坐っていた。わたしも初めはこの人々を何者とも知らなかった、また別に何の注意をも払わなかった。
船が松の青い島々をめぐって行くうちに、同船の森(もり)知事が起(た)って、かの老人たちを紹介した。今日(こんにち)この孔雀丸を浮かべるに就いて、旧藩時代の御座船の船頭を探し求めたが、その多数は既に死に絶えて、僅かに生き残っているのは此の数人に過ぎない。どうか此の人々の口から政宗公以来伝わって来た舟唄の一節(ひとふし)を聴いて貰いたいとのことであった。
素朴の老人たちは袴の膝に手を置いて、粛然と坐っていた。私はこれまでにも多くの人に接した、今後もまた多くの人に接するであろうが、かくの如き敬虔(けいけん)の態度を取る人々はしばしば見られるものではあるまいと思った。わたしも覚えず襟を正しゆうして向き直った。この人々の顔は赭(あか)かった、頭の髪は白かった。いずれも白扇を取り直して、やや伏目になって一斉に歌い始めた。唄は「鎧口説(よろいくど)き」と云うので、藩祖政宗が最も愛賞したものだとか伝えられている。
やら目出たやな。初春の好き日をとしの着長(きせなが)は、えい、小桜をどしとなりにける。えい、さて又夏は卯の花の、えい、垣根の水にあらひ革。秋になりての其色は、いつも軍(いくさ)に勝色(かついろ)の、えい、紅葉にまがふ錦革。冬は雪げの空晴れて、えい、冑(かぶと)の星の菊の座も、えい、華やかにこそ威毛(おどしげ)の、思ふ仇(かたき)を打ち取りて、えい、わが名を高くあげまくも、えい、剣(つるぎ)は箱に納め置く、弓矢ふくろを出さずして、えい、富貴の国とぞなりにける。やんら……。
わたしらはこの歌の全部を聴き取るほどの耳をもたなかった。勿論、その巧拙などの判ろう筈はない。塩竈神社の神楽を観た時と同じような感じを以って、ただ一種の古雅なるものとして耳を傾けたに過ぎなかった。しかしその唄の節よりも、文句よりも、いちじるしく私の心を動かしたのは、歌う人々の態度であったことを繰り返して云いたい。
政宗以来、孔雀丸は松島の海に浮かべられた。この老人たちも封建時代の最後の藩侯に仕えて、御座船の御用を勤めたに相違ない。孔雀丸のまんなかには藩侯が乗っていた。その左右には美しい小姓どもが控えていた。末座には大勢の家来どもが居列んでいた。船には竹に雀の紋をつけた幔幕(まんまく)が張り廻されていた。海の波は畳のように平らかであった。この老人たちは艫(ろ)をあやつりながら、声を揃えてかの舟唄を歌った。
それから幾十年の後に、この人々はふたたび孔雀丸に乗った。老いたるかれらはみずから艫擢(ろかい)を把(と)らなかったが、旧主君の前にあると同一の態度を以って謹んで歌った。かれらの眼の前には裃(かみしも)も見えなかった、大小も見えなかった。異人のかぶった山高帽子や、フロックコートがたくさんに列んでいた。この老人たちは恐らくこの奇異なる対照と変化とを意識しないであろう、また意識する必要も認めまい。かれらは幾十年前の旧(ふる)い美しい夢を頭に描きながら、幾十年前の旧い唄を歌っているのである。かれらの老いたる眼に映るものは、裃である、大小である、竹に雀の御紋である。山高帽やフロックコートなどは眼にはいろう筈がない。
私はこの老人たちに対して、一種尊敬の念の湧くを禁じ得なかった。勿論その尊敬は、悲壮と云うような観念から惹き起される一種の尊敬心で、例えば頽廃(たいはい)した古廟に白髪の伶人(れいじん)が端坐して簫(ふえ)の秘曲を奏している、それとこれと同じような感があった。わたしは巻煙草をくわえながら此の唄を聴くに忍びなかった。
この唄は、この老人たちの生命(いのち)と共に、次第に亡びて行くのであろう。松島の海の上でこの唄の声を聴くのは、あるいはこれが終りの日であるかも知れない。わたしはそぞろに悲しくなった。
しかし仙台の国歌とも云うべき「さんさ時雨」が、芸妓の生鈍(なまぬる)い肉声に歌われて、いわゆる緑酒(りょくしゅ)紅燈の濁った空気の中に、何の威厳もなく、何の情趣も無しに迷っているのに較べると、この唄はむしろこの人々と共に亡びてしまう方が優(まし)かも知れない。この人々のうちの最年長者は、七十五歳であると聞いた。
金華山の一夜
金華山(きんかざん)は登り二十余町、さのみ嶮峻(けんしゅん)な山ではない、むしろ美しい青い山である。しかも茫々たる大海のうちに屹立(きつりつ)しているので、その眼界はすこぶる闊(ひろ)い、眺望雄大と云ってよい。わたしが九月二十四日の午後この山に登った時には、麓(ふもと)の霧は山腹の細雨(こさめ)となって、頂上へ来ると西の空に大きな虹が横たわっていた。
海中の孤島、黄金山神社のほかには、人家も無い。参詣の者はみな社務所に宿を借るのである。わたしも泊まった。夜が更けると、雨が瀧のように降って来た。山を震わすように雷(らい)が鳴った。稲妻が飛んだ。
「この天気では、あしたの船が出るか知ら。」と、わたしは寝ながら考えた。
これを案じているのは私ばかりではあるまい。今夜この社務所には百五十余人の参詣者が泊まっているという。この人々も同じ思いでこの雨を聴いているのであろうと思った。しかも今日では種々の準備が整っている。海が幾日も暴(あ)れて、山中の食料がつきた場合には、対岸の牡鹿(おじか)半島にむかって合図の鐘を撞(つ)くと、半島の南端、鮎川(あゆかわ)村の忠実なる漁民は、いかなる暴風雨の日でも約二十八丁の山雉(やまどり)の渡しを乗っ切って、必ず救助の船を寄せることになっている。
こう決まっているから、たとい幾日この島に閉じ籠められても、別に心配することも無い。わたしは平気で寝ていられるのだ。が、昔はどうであったろう。この社(やしろ)の創建は遠い上代(じょうだい)のことで、その年時も明らかでないと云う。尤(もっと)もその頃は牡鹿半島と陸続きであったろうと思われるが、とにかく斯(こ)ういう場所を撰んで、神を勧請(かんじょう)したという昔の人の聡明に驚かざるを得ない。ここには限らず、古来著名の神社仏閣が多くは風光|明媚(めいび)の地、もしくは山谷嶮峻の地を相(そう)して建てられていると云う意味を、今更のようにつくづく感じた。これと同時に、古来人間の信仰の力というものを怖ろしいほどに思い知った。海陸ともに交通不便の昔から年々幾千万の人間は木(こ)の葉のような小さい舟に生命を托して、この絶島(はなれじま)に信仰の歩みを運んで来たのである。ある場合には十日も二十日も風浪に阻(はば)められて、ほとんど流人(るにん)同様の艱難(かんなん)を嘗(な)めたこともあったろう。ある場合には破船して、千尋(ちひろ)の浪の底に葬られたこともあったろう。昔の人はちっともそんなことを怖れなかった。
今の信仰の薄い人――少なくとも今のわたしは、ほとんど保険付きともいうべき大きな汽船に乗って来て、しかも食料欠乏の憂いは決して無いという確信を持っていながら、一夜の雷雨にたちまち不安の念をきざすのである。こんなことで、どうして世の中に生きていられるだろう。考えると、何だか悲しくなって来た。
雷雨は漸(ようや)くやんだ。山の方では鹿の声が遠くきこえた。あわれな無信仰者は初めて平和の眠りに就いた。枕もとの時計はもう一時を過ぎていた。
(大正2・10「やまと新聞」)  
 
秋の修善寺

 

(一)
(明治四十一年)九月の末におくればせの暑中休暇を得て、伊豆(いず)の修善寺(しゅうぜんじ)温泉に浴し、養気館の新井(あらい)方にとどまる。所作為(しょざい)のないままに、毎日こんなことを書く。
二十六日。きのうは雨にふり暮らされて、宵から早く寝床にはいったせいか、今朝は五時というのにもう眼が醒めた。よんどころなく煙草をくゆらしながら、襖(ふすま)にかいた墨絵の雁(かり)と相対すること約半時間。おちこちに鶏(とり)が勇ましく啼(な)いて、庭の流れに家鴨(あひる)も啼いている。水の音はひびくが雨の音はきこえない。
六時、入浴。その途中に裏二階から見おろすと、台所口とも思われる流れの末に長さ三|尺(じゃく)ほどの蓮根(れんこん)をひたしてあるのが眼についた。湯は菖蒲の湯で、伝説にいう、源三位頼政(げんざんみよりまさ)の室|菖蒲(あやめ)の前(まえ)は豆州長岡(ずしゅうながおか)に生まれたので、頼政滅亡の後、かれは故郷に帰って河内(かわうち)村の禅長寺に身をよせていた。そのあいだに折りおりここへ来て入浴したので、遂にその湯もあやめの名を呼ばれる事になったのであると。もし果たしてそうであるならば、猪早太(いのはやた)ほどにもない雑兵葉武者(ぞうひょうはむしゃ)のわれわれ風情が、遠慮なしに頭からざぶざぶ浴びるなどは、遠つ昔の上臈(じょうろう)の手前、いささか恐れ多き次第だとも思った。おいおいに朝湯の客がはいって来て、「好(よ)い天気になって結構です。」と口々に云う。なにさま外は晴れて水は澄んでいる。硝子戸(ガラスど)越しに水中の魚の遊ぶのがあざやかにみえた。
朝飯をすました後、例の範頼(のりより)の墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六丁、小山というところにある。稲田や芋(いも)畑のあいだを縫いながら、雨後のぬかるみを右へ幾曲がりして登ってゆくと、その間には紅い彼岸花(ひがんばな)がおびただしく咲いていた。墓は思うにもまして哀れなものであった。片手でも押し倒せそうな小さい仮家で、柊(ひいらぎ)や柘植(つげ)などの下枝に掩(おお)われながら、南向きに寂しく立っていた。秋の虫は墓にのぼって頻(しき)りに鳴いていた。
この時、この場合、何人(なんぴと)も恍(こう)として鎌倉時代の人となるであろう。これを雨月物語(うげつものがたり)式につづれば、範頼の亡霊がここへ現われて、「汝(なんじ)、見よ。源氏(げんじ)の運も久しからじ。」などと、恐ろしい呪(のろ)いの声を放つところであろう。思いなしか、晴れた朝がまた陰って来た。
拝し終って墓畔の茶屋に休むと、おかみさんは大いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情として土地自慢は無理もないことである。とこうするあいだに空はふたたび晴れた。きのうまではフランネルに袷(あわせ)羽織を着るほどであったが、晴れると俄(にわ)かにまた暑くなる。芭蕉(ばしょう)翁は「木曾(きそ)殿と背中あはせの寒さ哉(かな)」と云ったそうだが、わたしは蒲(かば)殿と背中あわせの暑さにおどろいて、羽織をぬぎに宿に帰ると、あたかも午前十時。
午後、東京へ送る書信二、三通をしたためて、また入浴。欄干(らんかん)に倚(よ)って見あげると、東南につらなる塔(とう)の峰(みね)や観音山などが、きょうは俄かに押し寄せたように近く迫って、秋の青空がいっそう高く仰がれた。庭の柿の実はやや黄ばんで来た。真向うの下座敷では義太夫の三味線がきこえた。
宿の主人が来て語る。主人は頗る劇通であった。午後三時ふたたび出て修禅寺(しゅぜんじ)に参詣した。名刺を通じて古宝物(こほうもつ)の一覧を請うと、宝物は火災をおそれて倉庫に秘めてあるから容易に取出すことは出来ない。しかも、ここ両三日は法要で取込んでいるから、どうぞその後にお越し下されたいと慇懃(いんぎん)に断わられた。
去って日枝(ひえ)神社に詣でると、境内に老杉多く、あわれ幾百年を経たかと見えるのもあった。石段の下に修善寺駐在所がある。範頼が火を放って自害した真光院というのは、今の駐在所のあたりにあったと云い伝えられている。して見ると、この老いたる杉のうちには、ほろびてゆく源氏の運命を眼のあたりに見たのもあろう。いわゆる故国は喬木あるの謂(いい)にあらずと、唐土の賢人は云ったそうだが、やはり故国の喬木はなつかしい。
挽物(ひきもの)細工の玩具などを買って帰ろうとすると、町の中ほどで赤い旗をたてた楽隊に行きあった。活動写真の広告である。山のふところに抱かれた町は早く暮れかかって、桂(かつら)川の水のうえには薄い靄(もや)が這っている。
修善寺がよいの乗合馬車は、いそがしそうに鈴を鳴らして川下の方から駆(か)けて来た。
夜は机にむかって原稿などをかく、今夜は大湯(おおゆ)換えに付き入浴八時かぎりと触れ渡された。
(二)
二十七日。六時に起きて入浴。きょうも晴れつづいたので、浴客はみな元気がよく、桂川の下流へ釣に行こうというのもあって、風呂場はすこぶる賑わっている。ひとりの西洋人が悠然としてはいって来たが、湯の熱いのに少しおどろいた体(てい)であった。
朝飯まえに散歩した。路は変らぬ河岸であるが、岩に堰(せ)かれ、旭日(あさひ)にかがやいて、むせび落つる水のやや浅いところに家鴨(あひる)数十羽が群れ遊んでいて、川に近い家々から湯の烟(けむ)りがほの白くあがっているなど、おのずからなる秋の朝の風情を見せていた。岸のところどころに芒(すすき)が生えている。近づいて見ると「この草取るべからず」という制札を立ててあって、後(のち)の月見(つきみ)の材料にと貯えて置くものと察せられた。宿に帰って朝飯の膳にむかうと、鉢にうず高く盛った松茸に秋の香が高い。東京の新聞二、三種をよんだ後、頼家(よりいえ)の墓へ参詣に行った。
桂橋を渡り、旅館のあいだを過ぎ、的場(まとば)の前などをぬけて、塔の峰の麓に出た。ところどころに石段はあるが、路は極めて平坦で、雑木(ぞうき)が茂っているあいだに高い竹藪がある。槿(むくげ)の花の咲いている竹籬(たけがき)に沿うて左に曲がると、正面に釈迦堂がある。頼家の仏果(ぶっか)円満を願うがために、母|政子(まさこ)の尼が建立(こんりゅう)したものであると云う。鎌倉(かまくら)の覇業を永久に維持する大いなる目的の前には、あるに甲斐(かい)なき我が子を捨て殺しにしたものの、さすがに子は可愛いものであったろうと推し量ると、ふだんは虫の好かない傲慢(ごうまん)の尼将軍その人に対しても、一種同情の感をとどめ得なかった。
さらに左に折れて小高い丘にのぼると、高さ五尺にあまる楕円形の大石に征夷大将軍|源左金吾(げんさきんご)頼家尊霊と刻み、煤(すす)びた堂の軒には笹龍胆(ささりんどう)の紋を打った古い幕が張ってある。堂の広さはわずかに二坪ぐらいで、修善寺町の方を見おろして立っている。あたりには杉や楓(かえで)など枝をかわして生い茂って、どこかで鴉(からす)が啼(な)いている。
すさまじいありさまだとは思ったが、これに較べると、範頼の墓は更に甚だしく荒れまさっている。叔父御よりも甥(おい)の殿の方がまだしもの果報があると思いながら、香を手向(たむ)けて去ろうとすると、入れ違いに来て磬(けい)を打つ参詣者があった。
帰り路で、ある店に立ってゆで栗を買うと実に廉(やす)い。わたしばかりでなく、東京の客はみな驚くだろうと思われた。宿に帰って読書、障子の紙が二ヵ所ばかり裂けている。眼に立つほどの破れではないが、それにささやく風の音がややもすれば耳について、秋は寂しいものだとしみじみ思わせるうちに、宿の男が来て貼りかえてくれた。向う座敷は障子をあけ放して、その縁側に若い女客が長い洗い髪を日に乾かしているのが、榎(えのき)の大樹を隔ててみえた。
午後は読書に倦(う)んで肱枕(ひじまくら)を極(き)めているところへ宿の主人が来た。主人はよく語るので、おかげで退屈を忘れた。
きょうも水の音に暮れてしまったので、電燈の下(もと)で夕飯をすませて、散歩がてら理髪店へゆく。大仁(おおひと)理髪組合の掲示をみると、理髪料十二銭、またそのわきに附記して、「但し角刈とハイカラは二銭増しの事」とある。いわゆるハイカラなるものは、どこへ廻っても余計に金の要ることと察せられた。店先に張子の大きい達磨(ダルマ)を置いて、その片眼を白くしてあるのは、なにか願(がん)掛けでもしたのかと訊(き)いたが、主人も職人も笑って答えなかった。楽隊の声が遠くきこえる。また例の活動写真の広告らしい。
理髪店を出ると、もう八時をすぎていた。露の多い夜気は冷やびやと肌にしみて、水に落ちる家々の灯かげは白くながれている。空には小さい星が降るかと思うばかりに一面にきらめいていた。
宿に帰って入浴、九時を合図に寝床にはいると、廊下で、「按摩(あんま)は如何(いかが)さま」という声がきこえた。
(三)
二十八日。例に依って六時入浴。今朝は湯加減が殊によろしいように思われて身神爽快。天気もまたよい。朝飯もすみ、新聞もよみ終って、ふらりと宿を出た。
月末に近づいたせいか、この頃は帰る人が一日増しに多くなった。大仁(おおひと)行きの馬車は家々の客を運んでゆく。赤とんぼが乱れ飛んで、冷たい秋の風は馬のたてがみを吹き、人の袂を吹いている。宿の女どもは門(かど)に立ち、または途中まで見送って、「御機嫌よろしゅう……来年もどうぞ」などと口々に云っている。歌によむ草枕、かりそめの旅とはいえど半月ひと月と居馴染(いなじ)めば、これもまた一種の別れである。涙もろい女客などは、朝夕親しんだ宿の女どもと云い知れぬ名残(なごり)の惜しまれて、馬車の窓から幾たびか見返りつつ揺られて行くのもあった。
修禅寺に詣でると、二十七日より高祖忌執行の立札があった。宝物一覧を断わられたのも、これが為であるとうなずかれた。
転じて新井別邸の前、寄席のまえを過ぎて、見晴らし山というのに登った。半腹の茶店に休むと、今来た町の家々は眼の下につらなって、修禅寺の甍(いらか)はさすがに一角をぬいて聳(そび)えていた。
この茶店には運動場があって、二十歳(はたち)ばかりの束髪の娘がブランコに乗っていた。もちろん土地の人ではないらしい。山の頂上は俗に見晴らし富士と呼んで、富士を望むのによろしいと聞いたので、細い山路をたどってゆくと、裳(すそ)にまつわる萩や芒(すすき)がおどろに乱れて、露の多いのに堪えられなかった。登るにしたがって勾配がようやく険(けわ)しく、駒下駄ではとかく滑ろうとするのを、剛情にふみこたえて、まずは頂上と思われるあたりまで登りつくと、なるほど富士は西の空にはっきりと見えた。秋天片雲無きの口にここへ来たのは没怪(もっけ)の幸いであった。帰りは下り坂を面白半分に駈け降りると、あぶなく滑って転びそうになること両三度、降りてしまったら汗が流れた。
山を降りると田圃路(たんぼみち)で、田の畔(くろ)には葉鶏頭の真紅(まっか)なのが眼に立った。もとの路を還らずに、人家のつづく方を北にゆくと、桜ヶ岡(さくらがおか)の麓を過ぎて、いつの間にか向う岸へ廻ったとみえて、図(はか)らずも頼家の墓の前に出た。きのう来て、今日もまた偶然に来た。おのずからなる因縁浅からぬように思われて、ふたたび墓に香をささげた。
頼家の墓所は単に塔の峰の麓とのみ記憶していたが、今また聞けば、ここを指月ヶ岡(しげつがおか)と云うそうである。頼家が討たれた後に、母の尼が来たり弔って、空ゆく月を打ち仰ぎつつ「月は変らぬものを、変り果てたるは我が子の上よ。」と月を指さして泣いたので、人々も同じ涙にくれ、爾来ここを呼んで指月ヶ岡と云うことになったとか。蕭条(しょうじょう)たる寒村の秋のゆうべ、不幸なる我が子の墓前に立って、一代の女将軍が月下に泣いた姿を想いやると、これもまた画くべく歌うべき悲劇であるように思われた。かれが斯くまでに涙を呑んで経営した覇業も、源氏より北条(ほうじょう)に移って、北条もまた亡びた。これにくらべると、秀頼(ひでより)と相抱いて城と倶(とも)にほろびた淀君(よどぎみ)の方が、人の母としては却って幸いであったかもしれない。
帰り路に虎渓橋(こけいきょう)の上でカーキ色の軍服を着た廃兵に逢った。その袖には赤十字の徽章をつけていた。宿に帰って主人から借りた修善寺案内記を読み、午後には東京へ送る書信二通をかいた。二時ごろ退屈して入浴。わたしの宿には当時七、八十人の滞在客がある筈であるが、日中のせいか広い風呂場には一人もみえなかった。菖蒲の湯を買い切りにした料簡(りょうけん)になって、全身を湯にひたしながら、天然の岩を枕にして大の字に寝ころんでいると、いい心持を通り越して、すこし茫となった気味である。気つけに温泉二、三杯を飲んだ。
主人はきょうも来て、いろいろの面白い話をしてくれた。主人の去った後は読書。絶え間なしに流れてゆく水の音に夜昼の別(わか)ちはないが、昼はやがて夜となった。
食後散歩に出ると、行くともなしに、またもや頼家の方へ足が向く。なんだか執(と)り着かれたような気もするのであった。墓の下の三洲園という蒲焼屋では三味線の音(ね)が騒がしくきこえる。頼家尊霊も今夜は定めて陽気に過させ給うであろうと思いやると、われわれが問い慰めるまでもないと理窟をつけて、墓へはまいらずに帰ることにした。あやなき闇のなかに湯の匂いのする町家へたどってゆくと、夜はようやく寒くなって、そこらの垣に機織虫(はたおりむし)が鳴いていた。
わたしの宿のうしろに寄席があって、これも同じ主人の所有である。草履ばきの浴客が二、三人はいってゆく。私も続いてはいろうかと思ったが、ビラをみると、一流うかれ節三河屋何某一座、これには少しく恐れをなして躊躇していると、雨がはらはらと降って来た。仰げば塔の峰の頂上から、蝦蟆(がま)のような黒雲が這い出している。いよいよ恐れて早々に宿に逃げ帰った。
帰って机にむかえば、下の離れ座敷でもまたもや義太夫が始まった。近所の宿でも三味線の音がきこえる。今夜はひどく賑やかな晩である。
十時入浴して座敷に帰ると、桂川も溢(あふ)れるかと思うような大雨となった。
(掲載誌不詳、『十番随筆』所収) 
 
春の修善寺

 

十年ぶりで三島(みしま)駅から大仁(おおひと)行きの汽車に乗り換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場(だいば)駅附近を過ぎると、此処(ここ)らももう院線の工事に着手しているらしく、路ばたの空地(あきち)に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに顫(ふる)えている小さい竹藪は、折りからの強い西風にふき煽(あお)られて、今にも折れるかとばかりに撓(たわ)みながら鳴っている。広い桑畑には時どき小さい旋風をまき起して、黄龍のような砂の渦が汽車を目がけてまっしぐらに襲って来る。
このいかにも暗い、寒い、すさまじい景色を窓から眺めながら運ばれてゆく私は、とても南の国へむかって旅をしているという、のびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかに沼津(ぬまづ)の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸(あしたかまる)が駿河(するが)湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田(しもだ)に潜伏していたが、ある時なにかの動機から翻然悔悟(ほんぜんかいご)した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいと云う。かれはすぐに下田の警察へ駆け込んで過去の罪を自首したが、それはもう時効(じこう)を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞き合せると、当時の被害者はとうに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
元来、彼は沼津の生まれではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立(こんりゅう)して、自分の安心(あんじん)を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、幾らかの金を作った。彼はその金をふところにしてかの愛鷹丸に乗り込むと、駿河の海は怒って暴(あ)れて、かれを乗せた愛鷹丸はヨナ(旧約聖書の中の予言者)を乗せた船のように、ゆれて傾いた。しかも、罪ある人ばかりでなく、乗組みの大勢をも併せて海のなかへ投げ落してしまった。彼は悪魚の腹にも葬られずに、数時間の後に引揚げられたが、彼はその金を懐ろにしたままで凍え死んでいた。
これを話した人は、彼の死はその罪業(ざいごう)の天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりであった。天はそれほどに酷(むご)いものであろうか――わたしは暗い心持でこの話を聴いていた。
南条(なんじょう)駅を過ぎる頃から、畑にも山にも寒そうな日の影すらも消えてしまって、ところどころにかの砂烟(すなけむ)りが巻きあがっている。その黄いろい渦が今は仄白(ほのじろ)くみえるので、あたりがだんだんに薄暗くなって来たことが知られた。汽車の天井には旧式な灯の影がおぼつかなげに揺れている。この話が済むと、その人は外套(がいとう)の袖をかきあわせて、肩をすくめて黙ってしまった。私も黙っていた。
三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い佗(わび)しい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。寒い風はまだ吹きやまないで、旅館の出迎えの男どもが振り照らす提灯の灯(ひ)のかげに、乗合馬車の馬のたてがみの顫(ふる)えて乱れているのが見えた。わたしは風を恐れて自動車に乗った。
修善寺の宿につくと、あくる日はすぐに指月ヶ岡にのぼって、頼家の墓に参詣した。わたしの戯曲「修禅寺物語」は、十年前の秋、この古い墓のまえに額(ぬか)づいた時に私の頭に湧き出した産物である。この墓と会津(あいづ)の白虎隊の墓とは、わたしに取って思い出が多い。その後、私はどう変ったか自分にはよく判らないが、頼家公の墓はよほど変っていた。
その当時の日記によると、丘の裾には鰻屋(うなぎや)が一軒あったばかりで、丘の周囲にはほとんど人家がみえなかった。墓は小さい堂のなかに祀(まつ)られて、堂の軒には笹龍胆(ささりんどう)の紋を染めた紫の古びた幕が張り渡されていて、その紫の褪(さ)めかかった色がいかにも品のよい、しかも寂しい、さながら源氏の若い将軍の運命を象徴するかのように見えたのが、今もありありと私の眼に残っている。ところが、今度かさねて来てみると、堂はいつの間にか取払われてしまって、懐かしい紫の色はもう尋(たず)ねるよすがもなかった。なんの掩(おお)いをも持たない古い墓は、新しい大きい石の柱に囲まれていた。いろいろの新しい建物が丘の中腹までひしひしと押しつめて来て、そのなかには遊芸稽古所などという看板も見えた。
頼家公の墳墓の領域がだんだんに狭(せば)まってゆくのは、町がだんだんに繁昌してゆくしるしである。むらさきの古い色を懐かしがる私は、町の運命になんの交渉ももたない、一個の旅人(たびびと)に過ぎない。十年前にくらべると、町はいちじるしく賑やかになった。多くの旅館は新築をしたのもある。建て増しをしたのもある。温泉|倶楽部(クラブ)も出来た、劇場も出来た。こうして年毎に発展してゆく此の町のまん中にさまよって、むかしの紫を偲(しの)んでいる一個の貧しい旅びとであることを、町の人たちは決して眼にも留めないであろう。わたしは冷たい墓と向い合ってしばらく黙って立っていた。
それでも墓のまえには三束の線香が供えられて、その消えかかった灰が霜柱のあつい土の上に薄白くこぼれていた。日あたりが悪いので、黒い落葉がそこらに凍り着いていた。墓を拝して帰ろうとして不図(ふと)見かえると、入口の太い柱のそばに一つの箱が立っていた。箱の正面には「将軍源頼家おみくじ」と書いてあった。その傍の小さい穴の口には「一銭銅貨を入れると出ます」と書き添えてあった。
源氏の将軍が預言者であったか、売卜(うらない)者であったか、わたしは知らない。しかし此の町の人たちは、果たして頼家公に霊あるものとして斯(こ)ういうものを設けたのであろうか、あるいは湯治客の一種の慰みとして設けたのであろうか。わたしは試みに一銭銅貨を入れてみると、カラカラという音がして、下の口から小さく封じた活版刷のお神籤(みくじ)が出た。あけて見ると、第五番凶とあった。わたしはそれが当然だと思った。将軍にもし霊あらば、どのお神籤にもみんな凶が出るに相違ないと思った。
修禅寺はいつ詣(まい)っても感じのよいお寺である。寺といえばとかくに薄暗い湿っぽい感じがするものであるが、このお寺ばかりは高いところに在って、東南の日を一面にうけて、いかにも明るい爽(さわや)かな感じをあたえるのが却って雄大荘厳の趣を示している。衆生(しゅじょう)をじめじめした暗い穴へ引き摺ってゆくので無くて、赫灼(かくやく)たる光明を高く仰がしめると云うような趣がいかにも尊げにみえる。
きょうも明るい日が大きい甍(いらか)を一面に照らして、堂の家根(やね)に立っている幾匹の唐獅子(からじし)の眼を光らせている。脚絆を穿いたお婆さんが正面の階段の下に腰をかけて、藍(あい)のように晴れ渡った空を仰いでいる。玩具(おもちゃ)の刀をさげた小児(こども)がお百度石に倚りかかっている。大きい桜の木の肌がつやつやと光っている。丘の下には桂川の水の音がきこえる。わたしは桜の咲く四月の頃にここへ来たいと思った。
避寒の客が相当にあるとは云っても、正月ももう末に近いこの頃は修善寺の町も静かで、宿の二階に坐っていると、聞えるものは桂川の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回撞く。時刻をしらせるのではない、寺の勤行(ごんぎょう)の知らせらしい。ほかの時はわたしもいちいち記憶していないが、夕方の五時だけは確かにおぼえている。それは修禅寺で五時の鐘をつき出すのを合図のように、町の電燈が一度に明るくなるからである。
春の日もこの頃はまだ短い。四時をすこし過ぎると、山につつまれた町の上にはもう夕闇がおりて来て、桂川の水にも鼠色の靄(もや)がながれて薄暗くなる。河原に遊んでいる家鴨(あひる)の群れの白い羽もおぼろになる。川沿いの旅館の二階の欄干にほしてある紅い夜具がだんだんに取り込まれる。この時に、修禅寺の鐘の声が水にひびいて高くきこえると、旅館にも郵便局にも銀行にも商店にも、一度に電燈の花が明るく咲いて、町は俄かに夜のけしきを作って来る。旅館はひとしきり忙(せわ)しくなる。大仁から客を運び込んでくる自動車や馬車や人力車の音がつづいて聞える。それが済むとまたひっそりと鎮まって、夜の町は水の音に占領されてしまう。二階の障子をあけて見渡すと、近い山々はみな一面の黒いかげになって、町の上には家々の湯けむりが白く迷っているばかりである。
修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。
それに注意するのはおそらく一山の僧たちだけで、町の人々の上にはなんの交渉もないらしい。しかし湯治客のうちにも、町の人のうちにも、いろいろの思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう。現にわたしが今泊まっている此の部屋だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客が泊まって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、いろいろの人がいろいろの思いでこの鐘を聴いたであろう。わたしが今無心に掻きまわしている古い灰の上にも、遣瀬(やるせ)ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。温泉場に来ているからと云って、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にもいろいろの苦しい悲しい人間の魂が籠(こも)っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。
修禅寺の夜の鐘は春の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底から何物をか呼び出すかも知れない。宵っ張りの私もここへ来てからは、九時の鐘を聴かないうちに寝ることにした。
(大正7・3「読売新聞」) 
 
妙義の山霧

 

(上)
妙義町(みょうぎまち)の菱屋(ひしや)の門口(かどぐち)で草鞋(わらじ)を穿いていると、宿の女が菅笠(すげがさ)をかぶった四十五、六の案内者を呼んで来てくれました。ゆうべの雷(かみなり)は幸いにやみましたが、きょうも雨を運びそうな薄黒い雲が低くまよって、山も麓も一面の霧に包まれています。案内者とわたしは笠をならべて、霧のなかを爪さき上がりに登って行きました。
私は初めてこの山に登る者です。案内者は当然の順序として、まずわたしを白雲山(はくうんざん)の妙義神社に導きました。社殿は高い石段の上にそびえていて、小さい日光(にっこう)とも云うべき建物です。こういう場所には必ずあるべきはずの杉の大樹が、天と地とを繋ぎ合せるように高く高く生い茂って、社前にぬかずく参拝者の頭(こうべ)の上をこんもりと暗くしています。私たちはその暗い木の下蔭をたどって、山の頂きへと急ぎました。
杉の林は尽きて、さらに雑木(ぞうき)の林となりました。路のはたには秋の花が咲き乱れて、芒(すすき)の青い葉は旅人(たびびと)の袖にからんで引き止めようとします。どこやらでは鶯(うぐいす)が鳴いています。相も変らぬ爪さき上がりに少しく倦(う)んで来たわたしは、小さい岩に腰を下ろして巻煙草をすいはじめました。霧が深いのでマッチがすぐに消えます。案内者も立ち停まって同じく煙管(きせる)を取り出しました。
案内者は正直そうな男で、煙草のけむりを吹く合い間にいろいろの話をして聞かせました。妙義登山者は年々|殖(ふ)える方であるが暑中は比較的にすくない、一年じゅうで最も登山者の多いのは十月の紅葉の時節で、一日に二百人以上も登ることがある。しかし昔にくらべると、妙義の町はたいそう衰えたそうで、二十年前までは二百戸以上をかぞえた人家が今では僅かに三十二戸に減ってしまったと云います。
「なにしろ貸座敷が無くなったので、すっかり寂(さび)れてしまいましたよ。」
「そうかねえ。」
わたしは巻煙草の吸殻(すいがら)を捨てて起つと、案内者もつづいて歩き出しました。山霧は深い谷の底から音も無しに動いて来ました。
案内者は振り返りながらまた話しました。上州(じょうしゅう)一円に廃娼を実行したのは明治二十三年の春で、その当時妙義の町には八戸の妓楼(ぎろう)と四十七人の娼妓があった。妓楼の多くは取り毀されて桑畑となってしまった。磯部(いそべ)や松井田(まついだ)からかよって来る若い人々のそそり唄も聞えなくなった。秋になると桑畑には一面に虫が鳴く。こうして妙義の町は年毎に衰えてゆく。
谷川の音が俄かに高くなったので、話し声はここで一旦消されてしまいました。頂上の方からむせび落ちて来る水が岩や樹の根に堰(せ)かれて、狭い山路を横ぎって乱れて飛ぶので、草鞋(わらじ)を湿(ぬ)らさずに過ぎる訳には行きませんでした。案内者は小さい石の上をひょいひょいと飛び越えて行きます。わたしもおぼつかない足取りで其の後を追いましたが、草鞋はぬれていい加減に重くなりました。
水の音をうしろに聞きながら、案内者はまた話し出しました。維新前の妙義町は更に繁昌したものだそうで、普通の中仙道は松井田から坂本(さかもと)、軽井沢(かるいざわ)、沓掛(くつかけ)の宿々(しゅくじゅく)を経て追分(おいわけ)にかかるのが順路ですが、そのあいだには横川(よこかわ)の番所があり、碓氷(うすい)の関所があるので、旅人の或る者はそれらの面倒を避けて妙義の町から山伝いに信州の追分へ出る。つまり此の町が関の裏路になっていたのです。山ふところの夕暮れに歩み疲れた若い旅人が青黒い杉の木立(こだち)のあいだから、妓楼の赤い格子を仰ぎ視た時には、沙漠でオアシスを見いだしたように、かれらは忙(いそ)がわしくその軒下に駈け込んで、色の白い山の女に草鞋の紐(ひも)を解かせたでしょう。
「その頃は町もたいそう賑やかだったと、年寄りが云いますよ。」
「つまり筑波(つくば)の町のような工合だね。」
「まあ、そうでしょうよ。」
霧はいよいよ深くなって、路をさえぎる立木の梢(こずえ)から冷たい雫(しずく)がばらばらと笠の上に降って来ました。草鞋はだんだんに重くなりました。
「旦那、気をおつけなさい。こういう陰った日には山蛭(やまびる)が出ます。」
「蛭が出る。」
わたしは慌てて自分の手足を見廻すと、たった今、ひやりとしたのは樹のしずくばかりではありませんでした。普通よりはやや大きいかと思われる山蛭が、足袋と脚絆との間を狙って、左の足首にしっかりと吸い付いていました。吸い付いたが最後、容易に離れまいとするのを無理に引きちぎって投げ捨てると、三角に裂けた疵口(きずぐち)から真紅(まっか)な血が止め度もなしにぽとぽとと流れて出ます。
「いつの間にか、やられた。」
こう云いながらふと気が付くと、左の腕もむずむずするようです。袖をまくって覗いて見ると、どこから這い込んだのか二の腕にも黒いのがまた一匹。慌てて取って捨てましたが、ここからも血が湧いて出ます。案内者の話によると、蛭の出るのは夏季の陰った日に限るので、晴れた日には決して姿を見せない。丁度きょうのような陰ってしめった日に出るのだそうで、わたしはまことに有難い日に来合せたのでした。
なにしろ血が止まらないのには困りました。見ているうちに左の手はぬらぬらして真紅になります。もう少しの御辛抱ですと云いながら案内者は足を早めて登って行きます。わたしもつづいて急ぎました。
路はやがて下(くだ)りになったようですが、わたしはその「もう少し」というところを目的(めあて)に、ただ夢中で足を早めて行きましたからよくは記憶していません。それから愛宕(あたご)神社の鳥居というのが眼にはいりました。ここらから路は二筋に分かれているのを、私たちは右へ取って登りました。路はだんだんに嶮(けわ)しくなって来て、岩の多いのが眼につきました。
妙義|葡萄酒(ぶどうしゅ)醸造所というのに辿(たど)り着いて、ふたりは縁台に腰をかけました。家のうしろには葡萄園があるそうですが、表構えは茶店のような作り方で、ここでは登山者に無代(ただ)で梅酒というのを飲ませます。喉(のど)が渇いているので、わたしは舌鼓を打って遠慮なしに二、三杯飲みました。そのあいだに案内者は家内から藁(わら)を二、三本貰って来て、藁の節を蛭の吸い口に当てて堅く縛ってくれました。これはどこでもやることで、蛭の吸い口から流れる血はこうして止めるよりほかは無いのです。血が止まって、わたしも先ずほっとしました。
それにしても手足に付いた血の痕(あと)を始末しなければなりません。足の方はさのみでもありませんでしたが、手の方はべっとり紅くなっています。水を貰って洗おうとすると、ただ洗っても取れるものではない、一旦は水を口にふくんで、いわゆる啣(ふく)み水(みず)にして手拭(てぬぐい)か紙に湿(しめ)し、しずかに拭き取るのが一番よろしいと、案内者が教えてくれました。その通りにしてハンカチーフで拭き取ると、なるほど綺麗に消えてしまいました。
「むかしは蛭に吸われた旅の人は、妙義の女郎の啣み水で洗って貰ったもんです。」
案内者は煙草を吸いながら笑いました。わたしもさっきの話を思い出さずにはいられませんでした。
信州路から上州へ越えてゆく旅人が、この山蛭に吸われた腕の血を妙義の女に洗って貰ったのは、昔からたくさんあったに相違ありません。うす暗い座敷で行燈(あんどう)の火が山風にゆれています。江戸絵を貼った屏風(びょうぶ)をうしろにして、若い旅人が白い腕をまくっていると、若い遊女が紅さした口に水をふくんで、これを三栖紙(みすがみ)にひたして男の腕を拭いています。窓のそとでは谷川の音がきこえます。こんな舞台が私の眼の前に夢のように開かれました。
しかも其の美しい夢はたちまちに破られました。案内者は笠を持って起(た)ち上がりました。
「さあ、旦那、ちっと急ぎましょう。霧がだんだんに深くなって来ます。」
旅人と遊女の舞台は霧に隠されてしまいました。わたしも草鞋の紐を結び直して起ちました。足もとには岩が多くなって来ました。頭の上には樹がいよいよ繁って来ました。わたしは山蛭を恐れながら進みました。谷に近い森の奥では懸巣(かけす)が頻(しき)りに鳴いています。鸚鵡(おうむ)のように人の口真似をする鳥だとは聞いていましたが、見るのは初めてです。枝から枝へ飛び移るのを見ると、形は鳩(はと)のようで、腹のうす赤い、羽のうす黒い鳥でした。小鳥を捕って食う悪鳥だと云うことです。ジィジィという鳴く音を立てて、なんだか寂しい声です。
岩が尽きると、また冷たい土の路になりました。ひと足踏むごとに、土の底からにじみ出すようなうるおいが草鞋に深く浸み透って来ます。狭い路の両側には芒(すすき)や野菊のたぐいが見果てもなく繁り合って、長く長く続いています。ここらの山吹(やまぶき)は一重が多いと見えて、みんな黒い実を着けていました。
よくは判りませんが、一旦くだってから更に半里ぐらいも登ったでしょう。坂路はよほど急になって、仰げば高い窟(いわや)の上に一本の大きな杉の木が見えました。これが中(なか)の嶽(たけ)の一本杉と云うので、われわれは既に第二の金洞山(きんとうざん)に踏み入っていたのです。金洞山は普通に中の嶽と云うそうです。ここから第三の金※[奚+隹]山(きんけいざん)は真正面に見えるのだそうですが、この時に霧はいよいよ深くなって来て、正面の山どころか、自分が今立っている所の一本杉の大樹さえも、半分から上は消えるように隠れてしまって、枝をひろげた梢は雲に駕(の)る妖怪のように、不思議な形をしてただ朦朧(もうろう)と宙に泛(う)かんでいるばかりです。峰も谷も森も、もうなんにも見えなくなってしまいました。「山あひの霧はさながら海に似て」という古人の歌に嘘はありません。しかも浪かと誤まる松風の声は聞えませんでした。山の中は気味の悪いほどに静まり返って、ただ遠い谷底で水の音がひびくばかりです。ここでも鶯の声をときどきに聞きました。
(下)
一本杉の下(もと)には金洞舎という家があります。この山の所有者の住居で、かたわら登山者の休憩所に充ててあるのです。二人はここの縁台を仮りて弁当をつかいました。弁当は菱屋で拵(こしら)えてくれたもので、山女(やまめ)の塩辛く煮たのと、玉子焼と蓮根(れんこん)と奈良漬の胡瓜(きゅうり)とを菜(さい)にして、腹のすいているわたしは、折詰の飯をひと粒も残さずに食ってしまいました。わたしはここで絵葉書を買って記念のスタンプを捺(お)して貰いました。東京の友達にその絵葉書を送ろうと思って、衣兜(かくし)から万年筆を取り出して書きはじめると、あたかもそれを覗き込むように、冷たい霧は黙ってすうと近寄って来て、わたしの足から膝へ、膝から胸へと、だんだんに這い上がって来ます。葉書の表は見るみる湿(ぬ)れて、インキはそばから流れてしまいます。わたしは癇癪をおこして書くのをやめました。そうして、自分も案内者もこの家も、あわせて押し流して行きそうな山霧の波に向き合って立ちました。
わたしは日露戦役の当時、玄海灘(げんかいなだ)でおそろしい濃霧に逢ったことを思い出しました。海の霧は山よりも深く、甲板の上で一尺さきに立っている人の顔もよく見えない程でした。それから見ると、今日の霧などはほとんど比べ物にならない位ですが、その時と今とはこっちの覚悟が違います。戦時のように緊張した気分をもっていない今のわたしは、この山霧に対しても甚だしく悩まされました。
二人がここを出ようとすると、下の方から七人連れの若い人が来ました。磯部の鉱泉宿でゆうべ一緒になった日本橋辺の人たちです。これも無論に案内者を雇っていましたが、行く路は一つですからこっちも一緒になって登りました。途中に菅公|硯(すずり)の水というのがあります。菅原道真(すがわらみちざね)は七歳の時までこの麓に住んでいたのだそうで、麓には今も菅原村の名が残っていると云います。案内者は正直な男で、「まあ、ともかくも、そういう伝説(いいつたえ)になっています。」と、余り勿体(もったい)ぶらずに説明してくれました。
「さあ、来たぞ。」
前の方で大きな声をする人があるので、わたしも気がついて見あげると、名に負う第一の石門(せきもん)は蹄鉄(ていてつ)のような形をして、霧の間から屹(きっ)と聳(そび)えていました。高さ十|丈(じょう)に近いとか云います。見聞の狭いわたしは、はじめてこういう自然の威力の前に立ったのですから、唯あっと云ったばかりで、ちょっと適当な形容詞を考え出すのに苦しんでいるうちに、かの七人連れも案内者も先に立ってずんずん行き過ぎてしまいます。私もおくれまいと足を早めました。案内者をあわせて十人の人間は、鯨(くじら)に呑まれる鰯(いわし)の群れのように、石門の大きな口へだんだんに吸い込まれてしまいました。第一の石門を出る頃から、岩の多い路はいちじるしく屈曲して、あるいは高く、あるいは低く、さらに半月形をなした第二の石門をくぐると、蟹(かに)の横這いとか、釣瓶(つるべ)さがりとか、片手繰りとか、いろいろの名が付いた難所に差しかかるのです。なにしろ碌々(ろくろく)に足がかりも無いような高いなめらかな岩の間を、長い鉄のくさりにすがって降りるのですから、余り楽ではありません。案内者はこんなことを云って嚇(おど)しました。
「いまは草や木が茂っていて、遠い谷底が見えないからまだ楽です。山が骨ばかりになってしまって、下の方が遠く幽(かす)かに見えた日には、大抵な人は足がすくみますよ。」
成程そうかも知れません。第二第三の石門をくぐり抜ける間は、わたしも少しく不安に思いました。みんなも黙って歩きました。もし誤まってひと足踏みはずせば、わたしもこの紀行を書くの自由を失ってしまわなければなりません。第四の石門まで登り詰めて、武尊岩(ぶそんいわ)の前に立った時には、人も我れも汗びっしょりになっていました。日本武尊(やまとたけるのみこと)もこの岩まで登って来て引っ返されたと云うので、武尊岩の名が残っているのだそうです。そのそばには天狗の花畑というのがあります。いずこの深山(みやま)にもある習いで、四季ともに花が絶えないので此の名が伝わったのでしょう。今は米躑躅(こめつつじ)の細かい花が咲いていました。
日本武尊にならって、わたしもここから引っ返しました。当人がしいて行きたいと望めば格別、さもなければ妄(みだ)りにこれから先へは案内するなと、警察から案内者に云い渡してあるのだそうです。
下山(げざん)の途中は比較的に楽でした。来た時とは全く別の方向を取って、水の多い谷底の方へ暫(しばら)く降って行きますと、さらに草や木の多い普通の山路に出ました。どんなに陰った日でも、正午前後には一旦明るくなるのだそうですが、今日はあいにくに霧が晴れませんでした。面白そうに何か騒いでいる、かの七人連れをあとに残して、案内者と私とは霧の中を急いで降りました。足の方が少しく楽になったので、わたしはまた例のおしゃべりを始めますと、案内者もこころよく相手になって、帰途(かえり)にもいろいろの話をしてくれました。その中にこんな悲劇がありました。
「旦那は妙義神社の前に田沼(たぬま)神官の碑というのが建っているのをご覧でしたろう。あの人は可哀そうに斬(き)り殺されたんです。明治三十一年の一月二十一日に……。」
「どうして斬られたんだね。」
「相手はまあ狂人ですね。神官のほかに六人も斬ったんですもの。それは大変な騒ぎでしたよ。」
妙義町ひらけて以来の椿事(ちんじ)だと案内者は云いました。その日は大雪の降った日で、正午を過ぎる頃に神社の外で何か大きな声を出して叫ぶ者がありました。神官の田沼|万次郎(まんじろう)が怪しんで、折柄そこに居合せた宿屋の番頭に行って見て来いと云い付けました。番頭が行って見ると、ひとりの若い男が袒(はだ)ぬぎになって雪の中に立っているのです。その様子がどうも可怪(おかし)いので、お前は誰だと声をかけると、その男はいきなりに刀を引き抜いて番頭を目がけて斬ってかかりました。番頭は驚いて逃げたので幸いに無事でしたが、その騒ぎを聞いて社務所から駈け付けて来た山伏の何某(なにがし)は、出合いがしらに一と太刀斬られて倒れました。これが第一の犠牲でした。
男はそれから血刀を振りかざして、まっしぐらに社務所へ飛び込みました。そうして、不意に驚く人々を片端から追い詰めて、あたるに任せて斬りまくったのです。田沼神官と下女とは庭に倒れました。神官の兄と弟は敵を捕えようとして内と庭とで斬られました。またそのほかにも二人の負傷者ができました。庭から門前の雪は一面に紅くひたされて、見るからに物すごい光景を現じました。血に狂った男はまだ鎮まらないで、相手嫌わずに雪の中を追い廻すのですから、町の騒ぎは大変でした。
半鐘が鳴る。消防夫が駈け付ける。町の者は思い思いの武器を持って集まる。四方八方から大勢が取り囲んで攻め立てたのですが、相手は死に物狂いで容易に手に負えません。そのうちに一人の撃ったピストルが男の足にあたって思わず小膝を折ったところへ、他の一人の槍がその脇腹にむかって突いて来ました。もうこれ迄(まで)です。男の血は槍や鳶口(とびぐち)や棒や鋤(すき)や鍬(くわ)を染めて、からだは雪に埋められました。検視の来る頃には男はもう死んでいました。
神官と山伏と下女とは即死です。ほかの四人は重傷ながら幸いに命をつなぎ止めました。わたしの案内者も負傷者を病院へ運んだ一人だそうです。
「そこで、その男は何者だね。」
わたしは縁台に腰をかけながら訊きました。くだりの路も途中からはもと来た路と一つになって、私たちはふたたび一本杉の金洞舎の前に出たのです。案内者も腰をおろして、茶を飲みながらまた話しました。
磯部から妙義へ登る途中に、西横野(にしよこの)という村があります。かの惨劇の主人公はこの村の生まれで、前年の冬に習志野(ならしの)の聯隊から除隊になって戻って来た男です。この男の兄というのは去年から行くえ不明になっているので、母もたいそう心配していました。すると、前に云った二十一日の朝、彼は突然に母にむかって、これから妙義へ登ると云い出したのです。この大雪にどうしたのかと母が不思議がりますと、実はゆうべ兄(にい)さんに逢ったと云うのです。ゆうべの夢に、妙義の奥の箱淵(はこぶち)という所へ行くと、黒い淵の底から兄さんが出て来て、おれに逢いたければ明日(あした)ここへ尋ねて来て、淵にむかって大きな声でおれを呼べ、きっと姿を見せてやろうと云う。そんなら行こうと堅く約束したのだから、どうしても行かなければならないと云い張って、母が止めるのも肯(き)かずにとうとう出て行ったのです。それからどうしたのかよく判りません。人を斬った刀は駐在所の巡査の剣を盗み出したのだと云います。
しかし其の箱淵へ尋ねて行く途中であったのか、あるいは淵に臨んで幾たびか兄を呼んでも答えられずに、むなしく帰る途中であったのか、それらのことはやはり判りません。とにかくに意趣(いしゅ)も遺恨もない人間を七人までも斬ったと云うのは、考えてもおそろしい事です。気が狂ったに相違ありますまい。しかも大雪のふる日に妙義の奥に分け登って、底の知れない淵にむかって、恋しい兄の名を呼ぼうとした弟の心を思いやれば、なんだか悲しい悼(いた)ましい気もします。殺された人々は無論気の毒です。殺した人も可哀そうです。その箱淵という所へ行って見たいような気もしましたが、ずっと遠い山奥だと聞きましたからやめました。
帰途(かえり)にも葡萄酒醸造所に寄って、ふたたび梅酒の御馳走になりました。アルコールがはいっていないのですから、わたしには口当りがたいそう好(よ)いのです。少々ばかりのお茶代を差し置いてここを出る頃には、霧も雨に変って来たようですから、いよいよ急いで宿へ帰り着いたのは丁度午後三時でした。登山したのは午前九時頃でしたから、かれこれ六時間ほどを山めぐりに費した勘定です。
菱屋で暫く休息して、わたしは日の暮れないうちに磯部へ戻ることにしました。案内者に別れて、菱屋の門(かど)を出ると、笠の上にはポツポツという音がきこえます。蛭ではありません。雨の音です。山の上からは冷たい風が吹きおろして来ました。貸座敷の跡だと云うあたりには、桑の葉がぬれて戦(そよ)いでいました。
(大正3・9「木太刀」) 
 
磯部の若葉

 

きょうもまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部(いそべ)の若葉を音もなしに湿(ぬ)らしている。家々の湯の烟りも低く迷っている。疲れた人のような五月の空は、時どきに薄く眼をあいて夏らしい光りを微かに洩らすかと思うと、又すぐに睡(ねむ)そうにどんよりと暗くなる。鶏が勇ましく歌っても、雀がやかましく囀(さえず)っても、上州(じょうしゅう)の空は容易に夢から醒めそうもない。
「どうも困ったお天気でございます。」
人の顔さえ見れば先ず斯(こ)ういうのが此の頃の挨拶になってしまった。廊下や風呂場で出逢う逗留(とうりゅう)の客も、三度の膳を運んで来る旅館の女中たちも、毎日この同じ挨拶を繰り返している。わたしも無論その一人である。東京から一つの仕事を抱えて来て、此処(ここ)で毎日原稿紙にペンを走らしている私は、ほかの湯治客ほどに雨の日のつれづれに苦しまないのであるが、それでも人の口真似をして「どうも困ります」などと云っていた。
実際、湯治とか保養とかいう人たちは別問題として、上州のここらは今が一年じゅうで最も忙がしい養蚕(ようさん)季節で、なるべく湿(ぬ)れた桑の葉をお蚕(こ)さまに食わせたくないと念じている。それを考えると「どうも困ります」も、決して通り一遍の挨拶ではない。ここらの村や町の人たちに取っては重大の意味をもっていることになる。土地の人たちに出逢った場合には、わたしも真面目に「どうも困ります」と云うことにした。
どう考えても、きょうも晴れそうもない。傘をさして散歩に出ると、到る処の桑畑は青い波のように雨に烟っている。妙義(みょうぎ)の山も西に見えない。赤城(あかぎ)、榛名(はるな)も東北に陰っている。蓑笠(みのかさ)の人が桑を荷(にな)って忙がしそうに通る、馬が桑を重そうに積んでゆく。その桑は莚(むしろ)につつんであるが、柔らかそうな青い葉は茹(ゆ)でられたようにぐったりと湿れている。私はいよいよ痛切に「どうも困ります」を感じずにはいられなくなった。そうして、鉛のような雨雲を無限に送り出して来る、いわゆる「上毛(じょうもう)の三名山」なるものを呪わしく思うようになった。
磯部には桜が多い。磯部桜といえば上州の一つの名所になっていて、春は長野(ながの)や高崎(たかさき)、前橋(まえばし)から見物に来る人が多いと、土地の人は誇っている。なるほど停車場に着くと直ぐに桜の多いのが誰の眼にもはいる。路ばたにも人家の庭にも、公園にも丘にも、桜の古木が枝をかわして繁っている。磯部の若葉はすべて桜若葉であると云ってもいい。雪で作ったような向い翅(ばね)の鳩の群れがたくさんに飛んで来ると、湯の町を一ぱいに掩っている若葉の光りが生きたように青く輝いて来る。ごむほおずきを吹くような蛙(かわず)の声が四方に起ると、若葉の色が愁(うれ)うるように青黒く陰って来る。
晴れの使いとして鳩の群れが桜の若葉をくぐって飛んで来る日には、例の「どうも困ります」が、暫く取り払われるのである。その使いも今日は見えない。宿の二階から見あげると、妙義みちにつづく南の高い崖みちは薄黒い若葉に埋められている。
旅館の庭には桜のほかに青梧(あおぎり)と槐(えんじゅ)とを多く栽(う)えてある。痩せた梧の青い葉はまだ大きい手を拡げないが、古い槐の新しい葉は枝もたわわに伸びて、軽い風にも驚いたように顫(ふる)えている。そのほかに梅と楓と躑躅(つつじ)と、これらが寄り集まって夏の色を緑に染めているが、これは幾分の人工を加えたもので、門(かど)を一歩出ると、自然はこの町の初夏を桜若葉で彩(いろど)ろうとしていることが直ぐにうなずかれる。
雨が小歇(こや)みになると、町の子供や旅館の男が箒(ほうき)と松明(たいまつ)とを持って桜の毛虫を燔(や)いている。この桜若葉を背景にして、自転車が通る。桑を積んだ馬が行く。方々の旅館で畳替えを始める。逗留客が散歩に出る。芸妓(げいしゃ)が湯にゆく。白い鳩が餌(えさ)をあさる。黒い燕(つばめ)が往来なかで宙返りを打つ。夜になると、蛙が鳴く、梟(ふくろう)が鳴く。門付(かどづ)けの芸人が来る。碓氷川(うすいがわ)の河鹿(かじか)はまだ鳴かない。
おととしの夏ここへ来たときに下磯部の松岸寺(しょうがんじ)へ参詣したが、今年も散歩ながら重ねて行った。それは「どうも困ります」の陰った日で、桑畑を吹いて来るしめった風は、宿の浴衣(ゆかた)の上にフランネルをかさねた私の肌に冷やびやと沁(し)みる夕方であった。
寺は安中(あんなか)みちを東に切れた所で、ここら一面の桑畑が寺内まで余ほど侵入しているらしく見えた。しかし、由緒ある古刹(こさつ)であることは、立派な本堂と広大な墓地とで容易に証明されていた。この寺は佐々木盛綱(ささきもりつな)と大野九郎兵衛(おおのくろべえ)との墓を所有しているので名高い。佐々木は建久(けんきゅう)のむかし此の磯部に城を構えて、今も停車場の南に城山の古蹟を残している位であるから、苔(こけ)の蒼い墓石は五輪塔のような形式でほとんど完全に保存されている。これに列(なら)んで其の妻の墓もある。その傍には明治時代に新しく作られたという大きい石碑もある。
しかし私に取っては、大野九郎兵衛の墓の方が注意を惹(ひ)いた。墓は大きい台石の上に高さ五尺ほどの楕円形の石を据えてあって、石の表には慈望遊謙(じぼうゆうけん)墓、右に寛延(かんえん)○年と彫ってあるが、磨滅しているので何年かよく読めない。墓のありかは本堂の横手で、大きい杉の古木をうしろにして、南にむかって立っている。その傍にはまた高い桜の木が聳えていて、枝はあたかも墓の上を掩うように大きく差し出ている。周囲にはたくさんの古い墓がある。杉の立木は昼を暗くする程に繁っている。「仮名手本忠臣蔵」の作者|竹田出雲(たけだいずも)に斧九太夫(おのくだゆう)という名を与えられて以来、ほとんど人非人のモデルであるように、あまねく世間に伝えられている大野九郎兵衛という一個の元禄(げんろく)武士は、ここを永久の住み家と定めているのである。
一昨年初めて参詣した時には、墓のありかが知れないので寺僧に頼んで案内してもらった。彼は品のよい若僧(にゃくそう)で、いろいろ詳しく話してくれた。その話に拠(よ)ると、その当時のこの磯部には浅野(あさの)家所領の飛び地が約三百石ほどあった。その縁故に因って、大野は浅野家滅亡の後ここに来て身を落ちつけたらしい。そうして、大野とも云わず、九郎兵衛とも名乗らず、単に遊謙(ゆうけん)と称する一個の僧となって、小さい草堂(そうどう)を作って朝夕に経を読み、かたわらには村の子供たちを集めて読み書きを指南していた。彼が直筆(じきひつ)の手本というものが今も村に残っている。磯部に於ける彼は決して不人望ではなかった。弟子たちにも親切に教えた、いろいろの慈善をも施した、碓氷川の堤防も自費で修理した。墓碑に寛延の年号を刻んであるのを見ると、よほど長命であったらしい。独身の彼は弟子たちの手に因って其の亡骸(なきがら)をここに葬られた。
「これだけ立派な墓が建てられているのを見ると、村の人にはよほど敬慕されていたんでしょうね。」と、わたしは云った。
「そうかも知れません。」
僧は彼に同情するような柔らかい口振りであった。たとえ不忠者にもせよ、不義者にもあれ、縁あって我が寺内に骨を埋めたからは、平等の慈悲を加えたいという宗教家の温かい心か、あるいは別に何らかの主張があるのか、若い僧の心持は私には判らなかった。油蝉の暑苦しく鳴いている木の下で、わたしは厚く礼を云って僧と別れた。僧の痩せた姿は大きな芭蕉(ばしょう)の葉のかげへ隠れて行った。
自己の功名の犠牲として、罪のない藤戸(ふじと)の漁民を惨殺した佐々木盛綱は、忠勇なる鎌倉武士の一人として歴史家に讃美されている。復讐(ふくしゅう)の同盟に加わることを避けて、先君の追福と陰徳とに余生を送った大野九郎兵衛は、不忠なる元禄武士の一人として浄瑠璃(じょうるり)の作者にまで筆誅されてしまった。私はもう一度かの僧を呼び止めて、元禄武士に対する彼の詐(いつわ)らざる意見を問い糺(ただ)して見ようかと思ったが、彼の迷惑を察してやめた。
今度行ってみると、佐々木の墓も大野の墓も旧(もと)のままで、大野の墓の花筒には白いつつじが生けてあった。かの若い僧が供えたのではあるまいか。わたしは僧を訪わずに帰ったが、彼の居間らしい所には障子が閉じられて、低い四つ目垣の裾(すそ)に芍薬(しゃくやく)が紅(あか)く咲いていた。
旅館の門を出て右の小道をはいると、丸い石を列べた七、八段の石段がある。登り降りは余り便利でない。それを登り尽くした丘の上に、大きい薬師堂が東にむかって立っていて、紅白の長い紐を垂れた鰐口(わにぐち)が懸かっている。木連(きつれ)格子の前には奉納の絵馬もたくさんに懸かっている。めの字を書いた額も見える。千社札(せんじゃふだ)も貼ってある。右には桜若葉の小高い崖(がけ)をめぐらしているが、境内はさのみ広くもないので、堂の前の一段低いところにある家々の軒は、すぐ眼の下に連なって見える。わたしは時にここへ散歩に行ったが、いつも朝が早いので、参詣らしい人の影を認めたことはなかった。
それでもたった一度若い娘が拝んでいるのを見たことがある。娘は十七、八らしい。髪は油気の薄い銀杏(いちょう)がえしに結って、紺飛白(こんがすり)の単衣(ひとえもの)に紅い帯を締めていた。その風体はこの丘の下にある鉱泉会社のサイダー製造にかよっている女工らしく思われた。色は少し黒いが容貌(きりょう)は決して醜(みにく)い方ではなかった。娘は湿れた番傘を小脇に抱えたままで、堂の前に久しくひざまずいていた。細かい雨は頭の上の若葉から漏れて、娘のそそけた鬢(びん)に白い雫(しずく)を宿しているのも何だか酷(むご)たらしい姿であった。わたしは暫く立っていたが、娘は容易に動きそうもなかった。
堂と真向いの家はもう起きていた。家の軒には桑籠(くわかご)がたくさん積まれて、若い女房が蚕棚(かいこだな)の前に襷(たすき)がけで働いていた。若い娘は何を祈っているのか知らない。若い人妻は生活に忙がしそうであった。
どこかで蛙が鳴き出したかと思うと、雨はさアさアと降って来た。娘はまだ一心に拝んでいた。女房は慌てて軒下の桑籠を片付け始めた。
(大正5・6「木太刀」) 
 
栗の花

 

栗(くり)の花、柿の花、日本でも初夏の景物にはかぞえられていますが、俳味に乏しい我々は、栗も柿もすべて秋の梢にのみ眼をつけて、夏のさびしい花にはあまり多くの注意を払っていませんでした。秋の木の実を見るまでは、それらはほとんど雑木(ぞうき)に等(ひと)しいもののように見なしていましたが、その軽蔑(けいべつ)の眼は欧洲大陸へ渡ってから余ほど変って来ました。この頃の私は決して栗の木を軽蔑しようとは思いません。必ず立ちどまって、その梢をしばらく瞰(み)あげるようになりました。
ひと口に栗と云っても、ここらの国々に多い栗の木は、普通にホース・チェストナットと呼ばれて、その実を食うことは出来ないと云います。日本でいうどんぐりのたぐいであるらしく思われる。しかしその木には実に見事な大きいのがたくさんあって、花は白と薄紅との二種あります。倫敦(ロンドン)市中にも無論に多く見られるのですが、わたしが先ず軽蔑の眼を拭(ぬぐ)わせられたのは、キウ・ガーデンをたずねた時でした。
五月中旬からロンドンも急に夏らしくなって、日曜日の新聞を見ると、ピカデリー・サーカスにゆらめく青いパラソルの影、チャーリング・クロスに光る白い麦藁(むぎわら)帽の色、ロンドンももう夏のシーズンに入ったと云うような記事がみえました。その朝に高田商会のT君がわざわざ誘いに来てくれて、きょうはキウ・ガーデンへ案内してやろうと云う。
早速に支度をして、ベーカーストリートの停車場から運ばれてゆくと、ガーデンの門前にゆき着いて、先ずわたしの眼をひいたのは、かのホース・チェストナットの並木でした。日本の栗の木のいたずらにひょろひょろしているのとは違って、こんもりと生い茂った木振(きぶ)りといい、葉の色といい、それが五月の明るい日の光にかがやいて、真昼の風に青く揺らめいているのはいかにも絵にでもありそうな姿で、私はしばらく立ち停まってうっかりと眺めていました。
その日は帰りにハンプトン・コートへも案内されました。コートに接続して、プッシー・パークと云うのがあります。この公園で更に驚かされたのは、何百年を経たかと思われるような栗の大木が大きな輪を作って列(なら)んでいることでした。見れば見るほど立派なもので、私はその青い下蔭に小さくたたずんで、再びうっかりと眺めていました。ハンプトン・コートには楡(にれ)の立派な立木もありますが、到底この栗の林には及びませんでした。
あくる日、近所の理髪店へ行って、きのうはキウ・ガーデンからハンプトン・コートを廻って来たという話をすると、亭主はあの立派なチェストナットを見て来たかと云いました。ここらでもその栗の木は名物になっているとみえます。その以来、わたしも栗の木に少なからぬ注意を払うようになって、公園へ行っても、路ばたを歩いても、いろいろの木立(こだち)のなかで先ず栗の木に眼をつけるようになりました。
それから一週間ほどたって、私は例のストラッドフォード・オン・アヴォンに沙翁(さおう)の故郷をたずねることになりました。そうして、ここでアーヴィングが「スケッチ・ブック」の一節を書いたとか伝えられているレッド・ホース・ホテルという宿屋に泊まりました。日のくれる頃、案内者のM君O君と一緒にアヴォンの河のほとりを散歩すると、日本の卯(う)の花に似たようなメー・トリーの白い花がそこらの田舎家の垣からこぼれ出して、うす明るいトワイライトの下(もと)にむら消えの雪を浮かばせているのも、まことに初夏のたそがれらしい静寂な気分を誘い出されましたが、更にわたしの眼を惹(ひ)いたのはやはり例の栗の立木でした。河のバンクには栗と柳の立木がつづいています。
ここらの栗もプッシー・パークに劣らない大木で、この大きい葉のあいだから白い花がぼんやりと青い水の上に映って見えます。その水の上には白鳥が悠々と浮かんでいて、それに似たような白い服を着た若い女が二人でボートを漕(こ)いでいます。M君の動議で小船を一時間借りることになって、栗の木の下にある貸船屋に交渉すると、亭主はすぐに承知して、そこに繋(つな)いである一艘の小船を貸してくれて、河下の方へあまり遠く行くなと注意してくれました。承知して、三人は船に乗り込みましたが、私は漕ぐことを知らないので、櫂(かい)の方は両君にお任せ申して、船のなかへ仰向けに寝転んでしまいました。
もう八時頃であろうかと思われましたが、英国の夏の日はなかなか暮れ切りません。蒼白い空にはうす紅い雲がところどころに流れています。両君の櫂もあまり上手ではないらしいのですが、流れが非常に緩いので、船は静かに河下へくだって行きます。云い知れないのんびりした気分になって、私は寝転びながら岸の上をながめていると、大きい栗の梢を隔てて沙翁紀念劇場の高い塔が丁度かの薄紅い雲のしたに聳えています。その塔には薄むらさきの藤の花がからみ付いていることを、私は昼のうちに見て置きました。
船はいい加減のところまで下ったので、さらに方向を転じて上流の方へ遡(さかのぼ)ることになりました。灯の少ないここらの町はだんだんに薄暗く暮れて来て、栗の立木も唯ひと固まりの暗い影を作るようになりましたが、空と水とはまだ暮れそうな気色(けしき)もみえないので、水明かりのする船端(ふなばた)には名も知れない羽虫の群れが飛び違っています。白鳥はどこの巣へ帰ったのか、もう見えなくなりました。起き直って、巻莨(まきたばこ)を一本すって、その喫殻(すいがら)を水に投げ込むと、あたかもそれを追うように一つの白い花がゆらゆらと流れ下って来ました。透かしてみると、それは栗の花でした。
栗の花アヴォンの河を流れけり
句の善悪はさておいて、これは実景です。わたしは幾たびか其の句を口のうちで繰り返しているあいだに、船は元の岸へ戻って来ました。両君は櫂を措(お)いて出ると、私もつづいて出ました。貸船屋の奥には黄いろい蝋燭が点(とも)っています。亭主が出て来て、大きい手の上に船賃を受けとって、グードナイトとただ一言、ぶっきらぼうに云いました。
岸へあがって五、六|間(けん)ゆき過ぎてから振り返ると、低い貸船屋も大きい栗の木もみな宵闇のなかに沈んで、河の上がただうす白く見えるばかりでした。どこかで笛の声が遠くきこえました。ホテルへ帰ると、われわれの部屋にも蝋燭がともしてありました。
ホテルの庭にも大きい栗の木があります。いつの間に空模様が変ったのか、夜なかになると雨の音がきこえました。枕もとの蝋燭を再びともして、カーテンの間から窓の外をのぞくと、雨の雫(しずく)は栗の葉をすべって、白い花が暗いなかにほろほろと落ちていました。
夜の雨、栗の花、蝋燭の灯、アーヴィングの宿った家――わたしは日本を出発してから曾(かつ)て経験したことのないような、しんみりとした安らかな気分になって、沙翁の故郷にこの一夜を明かしました。明くる朝起きてみると、庭には栗の花が一面に白く散っていました。
(大正八年五月、倫敦にて――大正8・7「読売新聞」) 
 
ランス紀

 

六月七日、午前六時頃にベッドを這(は)い降りて寒暖計をみると八十度。きょうの暑さも思いやられたが、ぐずぐずしてはいられない。同宿のI君をよび起して、早々に顔を洗って、紅茶とパンをのみ込んで、ブルヴァー・ド・クリシーの宿を飛び出したのは七時十五分前であった。
How to See the battlefields――抜目のないトーマス・クックの巴里(パリ)支店では、この四月からこういう計画を立てて、仏蘭西(フランス)戦場の団体見物を勧誘している。われわれもその団体に加入して、きょうこのランスの戦場見物に行こうと思い立ったのである。切符はきのうのうちに買ってあるので、今朝はまっすぐにガル・ド・レストの停車場へ急いでゆく。
宿からはさのみ遠くもないのであるが、パリへ着いてまだ一週間を過ぎない我々には、停車場の方角がよく知れない。おまけに電車はストライキの最中で、一台も運転していない。その影響で、タキシーも容易に見付からない。地図で見当をつけながら、ともかくもガル・ド・レストへゆき着いたのは、七時十五分頃であった。七時二十分までに停車場へ集合するという約束であったが、クックの帽子をかぶった人間は一人もみえない。停車場は無暗(むやみ)に混雑している。おぼつかないフランス語でクックの出張所をたずねたが、はっきりと教えてくれる人がない。そこらをまごまごしているうちに、七時三十分頃であろう、クックの帽子をかぶった大きい男をようよう見付け出して、あの汽車に乗るのだと教えてもらった。
混雑のなかをくぐりぬけて、自分たちの乗るべき線路のプラットホームに立って、先ずほっとした時に、倫敦(ロンドン)で知己(ちき)になったO君とZ君とが写真機械携帯で足早にはいって来た。
「やあ、あなたもですか。」
「これはいい道連れが出来ました。」
これできょうの一行中に四人の日本人を見いだしたわけである。たがいに懐かしそうな顔をして、しばらく立ち話をしていると、クックの案内者が他の人々を案内して来て、レザーヴしてある列車の席をそれぞれに割りあてる。日本人はすべて一室に入れられて、そのほかに一人の英国紳士が乗り込む。紳士はもう六十に近い人であろう、容貌といい、服装といい、いかにも代表的のイングリッシュ・ゼントルマンらしい風采(ふうさい)の人物で、丁寧に会釈(えしゃく)して我々の向うに席を占めた。O君があわてて喫(す)いかけた巻莨(まきたばこ)の火を消そうとすると、紳士は笑いながら徐(しず)かに云った。
「どうぞお構いなく……。わたしも喫います。」
七時五十三分に出る筈の列車がなかなか出ない。一行三十余人はことごとく乗り込んでしまっても、列車は動かない。八時を過ぎて、ようように汽笛は鳴り出したが、速力はすこぶる鈍(にぶ)い。一時間ほども走ると、途中で不意に停車する。それからまた少し動き出したかと思うと、十分ぐらいでまた停車する。英国紳士はクックの案内者をつかまえて其の理由を質問していたが、案内者も困った顔をして笑っているばかりで、詳しい説明をあたえない。こういう始末で、一進一止、捗(はかど)らないことおびただしく、われわれももううんざりして来た。きょうの一行に加わって来た米国の兵士五、六人は、列車が停止するたびに車外に飛び出して路ばたの草花などを折っている。気の早い連中には実際我慢が出来ないであろうと思いやられた。
窓をあけて見渡すと、何というところか知らないが、青い水が線路を斜めに横ぎって緩く流れている。その岸には二、三本の大きい柳の枝が眠そうに靡(なび)いている。線路に近いところには低い堤が蜿(のたく)ってつづいて、紅い雛芥子(ひなげし)と紫のブリュー・ベルとが一面に咲きみだれている。薄(すすき)のような青い葉も伸びている。米国の兵士はその青い葉をまいて笛のように吹いている。一丁も距(はな)れた畑のあいだに、三、四軒の人家の赤煉瓦が朝の日に暑そうに照らされている。
「八十五、六度だろう。」と、I君は云った。汽車が停まるとすこぶる暑い。われわれが暑がって顔の汗を拭いているのを、英国紳士は笑いながら眺めている。そうして、「このくらいならば歩いた方が早いかも知れません。」と云った。われわれも至極(しごく)同感で、口を揃えてイエス・サアと答えた。
英国紳士は相変らずにやにや笑っているが、我々はもう笑ってはいられない。
「どうかして呉れないかなあ。」
気休めのように列車は少し動き出すかと思うと、又すぐに停まってしまう。どの人もあきあきしたらしく、列車が停まるとみんな車外に出てぶらぶらしていると、それを車内へ追い込むように夏の日光はいよいよ強く照り付けてくる。眼鏡をかけている私もまぶしい位で、早々に元の席へ逃げて帰ると、列車はまた思い出したように動きはじめる。こんな生鈍(なまぬる)い汽車でよく戦争が出来たものだと云う人もある。なにか故障が出来たのだろうと弁護する人もある。戦争中にあまり激しく使われたので、汽車も疲れたのだろうと云う人もある。午前十一時までに目的地のランスに到着する筈の列車が二時間も延着して、午後一時を過ぎる頃にようようその停車場にゆき着いたので、待ち兼ねていた人々は一度にどやどやと降りてゆく。よく見ると、女は四、五人、ほかはみな男ばかりで、いずれも他国の人たちであろう、クックの案内者二人はすべて英語を用いていた。
大きい栗の下をくぐって停車場を出て、一丁ほども白い土の上をたどってゆくと、レストラン・コスモスという新しい料理店のまえに出た。仮普請同様の新築で、裏手の方ではまだ職人が忙がしそうに働いている。一行はここの二階へ案内されて、思い思いにテーブルに着くと、すぐに午餐(ごさん)の皿を運んで来た。空腹のせいか、料理はまずくない。片端から胃の腑へ送り込んで、ミネラルウォーターを飲んでいると、自動車の用意が出来たと知らせてくる。又どやどやと二階を降りると、特別に註文したらしい人たちは普通の自動車に二、三人ずつ乗り込む。われわれ十五、六人は大きい自動車へ一緒に詰め込まれて、ほこりの多い町を通りぬけてゆく。案内者は車の真先(まっさき)に乗っていて、時どきに起立して説明する。
ランスという町について、わたしはなんの知識も有(も)たない。今度の戦争で、一度は敵に占領されたのを、さらにフランスの軍隊が回復したということのほかには、なんにも知らない。したがって、その破壊以前のおもかげを偲ぶことは出来ないが、今見るところでは可なりに美しい繁華な市街であったらしい。それを先ず敵の砲撃で破壊された。味方も退却の際には必要に応じて破壊したに相違ない。そうして、いったん敵に占領された。それを取返そうとして、味方が再び砲撃した。敵が退却の際にまた破壊した。こういう事情で、幾たびかの破壊を繰り返されたランスの町は禍(わざわい)である。市街はほとんど全滅と云ってもよい。ただ僅かに大通りに面した一部分が疎(まば)らに生き残っているばかりで、その他の建物は片端から破壊されてしまった。大火事か大地震のあとでも恐らく斯(こ)うはなるまい、大火事ならば寧(むし)ろ綺麗に灰にしてしまうかも知れない。
滅茶滅茶に叩き毀された無残の形骸(けいがい)をなまじいに留めているだけに痛々しい。無論、砲火に焼かれた場所もあるに相違ないが、なぜその火が更に大きく燃え拡がって、不幸な町の亡骸(なきがら)を火葬にしてしまわなかったか。形見(かたみ)こそ今は仇(あだ)なれ、ランスの町の人たちもおそらく私と同感であろうと思われる。
勿論、町民の大部分はどこへか立ち退いてしまって、破壊された亡骸の跡始末をする者もないらしい。跡始末には巨額の費用を要する仕事であるから、去年の休戦以来、半年以上の時間をあだに過して、いたずらに雨や風や日光のもとにその惨状を晒しているのであろう。敵国から償金を受取って一生懸命に仕事を急いでも、その回復は容易であるまい。
地理を知らない私は――ちっとぐらい知っていても、この場合にはとうてい見当は付くまいと思われるが――自動車の行くままに運ばれて行くばかりで、どこがどうなったのかちっとも判らないが、ヴェスルとか、アシドリュウとか、アノウとかいう町々が、その惨状を最も多く描き出しているらしく見えた。大抵の家は四方の隅々だけを残して、建物全体がくずれ落ちている。なかには傾きかかったままで、破れた壁が辛(から)くも支えられているのもある。家の大部分が黒く焦げながら、不思議にその看板だけが綺麗に焼け残っているのは、却って悲しい思いを誘い出された。
ここらには人も見えない、犬も見えない。骸骨(がいこつ)のように白っぽい破壊のあとが真昼の日のもとにいよいよ白く横たわっているばかりである。この頽(くず)れた建物の下には、おじいさんが先祖伝来と誇っていた古い掛時計も埋められているかも知れない。若い娘の美しい嫁入衣裳も埋められているかも知れない。子供が大切にしていた可愛らしい人形も埋められているかも知れない。それらに魂はありながら、みんな声さえも立てないで、静かに救い出される日を待っているのかも知れない。
乗合いの人たちも黙っている。わたしも黙っている。案内者はもう馴れ切ったような口調で高々と説明しながら行く。幌(ほろ)のない自動車の上には暑い日が一面に照りつけて、眉のあたりには汗が滲(にじ)んでくる。死んだ町には風すらも死んでいると見えて、きょうはそよりとも吹かない。散らばっている石や煉瓦を避(よ)けながら、狭い路を走ってゆく自動車の前後には白い砂けむりが舞いあがるので、どの人の帽子も肩のあたりも白く塗られてしまった。
市役所も劇場もその前づらだけを残して、内部はことごとく頽れ落ちている。大きい寺も伽藍堂(がらんどう)になってしまって、正面の塔に据え付けてあるクリストの像が欠けて傾いている。こうした古い寺には有名な壁画などもたくさん保存されていたのであろうが、今はどうなったか判るまい。一羽の白い鳩がその旧蹟を守るように寺の門前に寂しくうずくまっているのを、みんなが珍しそうに指さしていた。
町を通りぬけて郊外らしいところへ出ると、路の両側はフランス特有のブルヴァーになって、大きい栗の木の並木がどこまでも続いている。栗の花はもう散り尽くして、その青い葉が白い土のうえに黒い影を落している。木の下には雛芥子(ひなげし)の紅い小さい花がしおらしく咲いている。ここらへ来ると、時どきは人通りがあって、青白い夏服をきた十四、五の少女が並木の下を俯向(うつむ)きながら歩いてゆく。かれは自動車の音におどろいたように顔をあげると、車上の人たちは帽子を振る。少女は嬉しそうに微笑(ほほえ)みながら、これも頻(しき)りにハンカチーフを振る。砂煙が舞い上がって、少女の姿がおぼろになった頃に、自動車も広い野原のようなところに出た。
戦争前には畑になっていたらしいが、今では茫々たる野原である。原には大きい塹壕(ざんごう)のあとが幾重にも残っていて、ところどころには鉄条網も絡み合ったままで光っている。立木はほとんどみえない。眼のとどく限りは雛芥子の花に占領されて、血を流したように一面に紅い。原に沿うた長い路をゆき抜けると、路はだんだんに登り坂になって、石の多い丘の裾についた。案内者はここが百八高地というのであると教えてくれた。
自動車から卸(おろ)されて、思い思いに丘の方へ登ってゆくと、そこには絵葉書や果物などを売る店が出ている。ここへ来る見物人を相手の商売らしい。同情も幾分か手伝って、どの人も余り廉(やす)くない絵葉書や果物を買った。
丘の上にも塹壕がおびただしく続いていて、そこらにも鉄条網や砲弾の破片が見いだされた。丘の上にも立木はない。石の間にはやはり雛芥子が一面に咲いている。戦争が始まってから四年の間、芥子の花は夏ごとに紅く咲いていたのであろう。敵も味方もこの花を友として、苦しい塹壕生活をつづけていたのであろう。そうして、この優しい花を見て故郷の妻子を思い出したのもあろう。この花よりも紅い血を流して死んだのもあろう。ある者は生き、ある者はほろび、ある者は勝ち、ある者は敗れても、花は知らぬ顔をして今年の夏も咲いている。
これに対して、ある者を傷(いた)み、ある者を呪うべきではない。勿論、商船の無制限撃沈を試みたり、都市の空中攻撃を企てたりした責任者はある。しかしながら戦争そのものは自然の勢いである。欧洲の大勢(たいせい)が行くべき道を歩んで、ゆくべき所へゆき着いたのである。その大勢に押し流された人間は、敵も味方も悲惨である。野に咲く百合を見て、ソロモンの栄華を果敢(はか)なしと説いた神の子は、この芥子の花に対して何と考えるであろう。
坂を登るのでいよいよ汗になった我々は、干枯(ひから)びたオレンジで渇(かつ)を癒(いや)していると、汽車の時間が追っているから早く自動車に乗れと催促される。二時間も延着した祟(たた)りで、ゆっくり落着いてはいられないと案内者が気の毒そうに云うのも無理はないので、どの人もおとなしく自動車に乗り込むと、車は待ちかねたように走り出したが、途中から方向をかえて、前に来た路とはまた違った町筋をめぐってゆく。路は変っても、やはり同じ破壊の跡である。プレース・ド・レパプリクの噴水池は涸(か)れ果てて、まんなかに飾られた女神の像の生白い片腕がもがれている。
停車場へ戻って自動車を降りると、町の入口には露店をならべて、絵葉書や果物のたぐいを売っている男や女が五、六人見えた。砲弾の破片で作られた巻莨の灰皿や、独逸(ドイツ)兵のヘルメットを摸したインキ壺なども売っている。そのヘルメットは剣を突き刺したり、斧(おの)を打ち込んだりしてあるのが眼についた。摸造品ばかりでなく、ほん物のドイツ将校や兵卒のヘルメットを売っているのもある。おそらく戦場で拾ったものであろう。その値をきいたら九十フランだと云った。勿論、云い値で買う人はない。ある人は五十フランに値切って二つ買ったとか話していた。
「なにしろ暑い。」
異口同音に叫びながら、停車場のカフェーへ駈け込んで、一息にレモン水を二杯のんで、顔の汗とほこりを忙がしそうに拭いていると、四時三十分の汽車がもう出るという。あわてて車内に転がり込むと、それがまた延着して、八時を過ぎる頃にようようパリに送り還された。(大正8・9「新小説」)
この紀行は大正八年の夏、パリの客舎で書いたものである。その当時、かのランスの戦場のような、むしろそれ以上のおそろしい大破壊を四年後の東京のまん中で見せ付けられようとは、思いも及ばないことであった。よそ事のように眺めて来た大破壊のあとが、今やありありと我が眼のまえに拡げられているではないか。わたしはまだ異国の夢が醒めないのではないかと、時どきに自分を疑うことがある。
(大正十二年十月追記『十番随筆』所収) 
 
旅すずり

 

(一) 心太
川越(かわごえ)の喜多院(きたいん)に桜を観る。ひとえはもう盛りを過ぎた。紫衣(しい)の僧は落花の雪を袖に払いつつ行く。境内(けいだい)の掛茶屋にはいって休む。なにか食うものはないかと婆さんにきくと、心太(ところてん)ばかりだと云う。試みに一皿を買えば、あたい八厘。
花をさそう風は梢をさわがして、茶店の軒も葭簀(よしず)も一面に白い。わたしは悠然として心太を啜(すす)る。天海(てんかい)僧正の墓のまえで、わたしは少年の昔にかえった。(明治32・4)
(二) 天狗
広島(ひろしま)の街(まち)をゆく。冬の日は陰って寒い。
忽(たちま)ちに横町から天狗があらわれた。足駄(あしだ)を穿いて、矛(ほこ)をついて、どこへゆくでもなし、迷うが如くに徘徊(はいかい)している。一人ならず、そこからも此処(ここ)からも現われた。みな十二、三歳の子供である。
宿に帰って聞けば、きょうは亥子(いのこ)の祭りだという。あまたの小天狗はそれがために出現したらしい。空はやがて時雨(しぐれ)となった。神通力(じんつうりき)のない天狗どもは、雨のなかを右往左往に逃げてゆく。その父か叔父であろう。四十前後の大男は、ひとりの天狗を小脇に抱えて駈け出した。(明治37・11)
(三) 鼓子花
午後三時頃、白河(しらかわ)停車場前の茶店に休む。隣りの床几(しょうぎ)には二十四、五の小粋な女が腰をかけていた。女は茶店の男にむかって、黒磯(くろいそ)へゆく近路を訊いている。あるいてゆく積りらしい。
まあ、ともかくも行ってみようかと独り言を云いながら、女は十銭の茶代を置いて出た。
茶屋女らしいねと私が云えば、どうせ食詰者(くいつめもの)でしょうよと、店の男は笑いながら云った。
夏の日は暑い。垣の鼓子花(ひるがお)は凋(しお)れていた。(明治39・8)
(四) 唐辛
日光の秋八月、中禅寺(ちゅうぜんじ)をさして旧道をたどる。
紅い鳥が、青い樹間(このま)から不意に飛び出した。形は山鳩に似て、翼(つばさ)も口嘴(くちばし)もみな深紅(しんく)である。案内者に問えば、それは俗に唐辛(とうがらし)といい、鳴けば必ず雨がふるという。
鳥はたちまち隠れてみえず、谷を隔ててふた声、三声。われわれは恐れて路を急いだ。
仲の茶屋へ着く頃には、山も崩るるばかりの大雨(おおあめ)となった。(明治43・8)
(五) 夜泊の船
船は門司(もじ)に泊(かか)る。小春の海は浪おどろかず、風も寒くない。
酒を売る船、菓子を売る船、うろうろと漕ぎまわる。石炭をつむ女の手拭が白い。
対岸の下関(しものせき)はもう暮れた。寿永(じゅえい)のみささぎはどの辺であろう。
なにを呼ぶか、人の声が水に響いて遠近(おちこち)にきこえる。四面のかかり船は追いおいに灯を掲げた。すべて源氏の船ではあるまいか。わたしは敵に囲まれたように感じた。(明治39・11)
(六) 蟹
遼陽城外、すべて緑楊(りょくよう)の村である。秋雨(あきさめ)の晴れたゆうべに宿舎の門(かど)を出ると、斜陽は城楼の壁に一抹(いちまつ)の余紅(よこう)をとどめ、水のごとき雲は喇嘛(ラマ)塔を掠(かす)めて流れてゆく。
南門外は一面の畑で、馬も隠るるばかりの高粱(コウリャン)が、俯しつ仰ぎつ秋風に乱れている。
村落には石の井(いど)があって、その辺は殊に楊(やなぎ)が多い。楊の下には清(しん)国人が籃(かご)をひらいて蟹(かに)を売っている。蟹の大なるは尺を越えたのもある。
「半江紅樹売[二]鱸魚[一]」は王漁洋(おうぎょよう)の詩である。夕陽村落、楊の深いところに蟹を売っているのも、一種の詩料になりそうな画趣で、今も忘れない。(明治37・10)
(七) 三条大橋
京は三条のほとりに宿った。六月はじめのあさ日は鴨川(かもがわ)の流れに落ちて、雨後の東山(ひがしやま)は青いというよりも黒く眠っている。
このあたりで名物という大津(おおつ)の牛が柴車(しばぐるま)を牽(ひ)いて、今や大橋を渡って来る。その柴の上には、誰(た)が風流ぞ、むらさきの露のしたたる菖蒲の花が挟んである。
紅い日傘をさした舞妓(まいこ)が橋を渡って来て、あたかも柴車とすれ違ってゆく。
所は三条大橋、前には東山、見るものは大津牛、柴車、花菖蒲、舞妓と絵日傘――京の景物はすべてここに集まった。(明治42・6)
(八) 木蓼
信濃(しなの)の奥にふみ迷って、おぼつかなくも山路をたどる夏のゆうぐれに、路ばたの草木の深いあいだに白点々、さながら梅の花の如きを見た。
後に聞けば、それは木蓼(またたび)の花だという。猫にまたたびの諺(ことわざ)はかねて聞いていたが、その花を見るのは今が初めであった。
天地|蒼茫(そうぼう)として暮れんとする夏の山路に、蕭然(しょうぜん)として白く咲いているこの花をみた時に、わたしは云い知れない寂しさをおぼえた。(大正3・8)
(九) 鶏
秋雨(あきさめ)を衝(つ)いて箱根(はこね)の旧道を下(くだ)る。笈(おい)の平(たいら)の茶店に休むと、神崎与五郎(かんざきよごろう)が博労(ばくろう)の丑五郎(うしごろう)に詫(わび)証文をかいた故蹟という立て札がみえる。
五、六日まえに修学旅行の学生の一隊がそこに休んで、一羽の飼い鶏をぬすんで行ったと、店のおかみさんが甘酒を汲みながら口惜(くや)しそうに語った。
「あいつ泥坊だ。」と、三つばかりの男の児が母のあとに付いて、まわらぬ舌で罵(ののし)った。この児に初めて泥坊という詞(ことば)を教えた学生らは、今頃どこの学校で勉強しているであろう。(大正10・10)
(十) 山蛭
妙義の山をめぐるあいだに、わたしは山蛭(やまびる)に足を吸われた。いくら洗っても血のあとが消えない。ただ洗っても消えるものでない。水を口にふくんで、所謂(いわゆる)ふくみ水にして、それを手拭か紙に湿(しめ)して拭き取るのが一番いいと、案内者が教えてくれた。
蛭に吸われた旅の人は、妙義の女郎のふくみ水で洗って貰ったのですと、かれは昔を偲び顔にまた云った。上州一円は明治二十三年から廃娼を実行されているのである。
雨のように冷たい山霧は妙義の町を掩って、そこが女郎屋の跡だというあたりには、桑の葉が一面に暗くそよいでいた。
(大正3・8) 
 
温泉雑記

 


ことしの梅雨も明けて、温泉場繁昌の時節が来た。この頃では人の顔をみれば、この夏はどちらへお出(い)でになりますかと尋(たず)ねたり、尋ねられたりするのが普通の挨拶になったようであるが、私たちの若い時――今から三、四十年前までは決してそんなことは無かった。
勿論(もちろん)、むかしから湯治にゆく人があればこそ、どこの温泉場も繁昌していたのであるが、その繁昌の程度が今と昔とはまったく相違していた。各地の温泉場が近年いちじるしく繁昌するようになったのは、何と云っても交通の便が開けたからである。
江戸時代には箱根の温泉まで行くにしても、第一日は早朝に品川(しながわ)を発(た)って程ヶ谷(ほどがや)か戸塚(とつか)に泊まる、第二日は小田原(おだわら)に泊まる。そうして、第三日にはじめて箱根の湯本(ゆもと)に着く。但しそれは足の達者な人たちの旅で、病人や女や老人の足の弱い連れでは、第一日が神奈川(かながわ)泊まり、第二日が藤沢(ふじさわ)、第三日が小田原、第四日に至って初めて箱根に入り込むというのであるから、往復だけでも七、八日はかかる。それに滞在の日数を加えると、どうしても半月以上に達するのであるから、金と暇とのある人びとでなければ、湯治場(とうじば)めぐりなどは容易に出来るものではなかった。
江戸時代ばかりでなく、明治時代になって東海道線の汽車が開通するようになっても、まず箱根まで行くには国府津(こうづ)で汽車に別れる。それから乗合いのガタ馬車にゆられて、小田原を経て湯本に着く。そこで、湯本泊まりならば格別、さらに山の上へ登ろうとすれば、人力車か山駕籠に乗るのほかはない。小田原電鉄が出来て、その不便がやや救われたが、それとても国府津、湯本間だけの交通にとどまって、湯本以上の登山電車が開通するようになったのは、大正のなかば頃からである。そんなわけであるから、一泊でもかなりに気忙(きぜわ)しい。いわんや日帰りに於いてをやである。
それが今日(こんにち)では、一泊はおろか、日帰りでも悠々と箱根や熱海(あたみ)に遊んで来ることが出来るようになったのであるから、鉄道省その他の宣伝と相俟(あいま)って、そこらへ浴客が続々吸収せらるるのも無理はない。それと同時に、浴客の心持も旅館の設備なども全く昔とは変ってしまった。
いつの世にも、温泉場に来るものは病人と限ったわけでは無い。健康な人間も遊山(ゆさん)がてらに来浴するのではあるが、原則としては温泉は病いを養うところと認められ、大体において病人の浴客が多かった。それであるから、入浴に来る以上、一泊や二泊で帰る客は先ず少ない。短くても一週間、長ければ十五日、二十日、あるいはひと月以上も滞在するのは珍しくない。私たちの若い時には、江戸以来の習慣で、一週間をひと回(まわ)りといい、二週間をふた回りといい、既に温泉場へゆく以上は少なくともひと回りは滞在して来なければ、何のために行ったのだか判らないということになる。ふた回りか三回り入浴して来なければ、温泉の効(き)き目はないものと決められていた。
たとい健康の人間でも、往復の長い時間をかんがえると、一泊や二泊で引揚げて来ては、わざわざ行った甲斐が無いということにもなるから、少なくも四、五日や一週間は滞在するのが普通であった。

温泉宿へ一旦踏み込んだ以上、客もすぐには帰らない。宿屋の方でも直ぐには帰らないものと認めているから、双方ともに落着いた心持で、そこにおのずから暢(のび)やかな気分が作られていた。
座敷へ案内されて、まず自分の居どころが決まると、携帯の荷物をかたづけて、型のごとくに入浴する。そこでひと息ついた後、宿の女中にむかって両隣りの客はどんな人々であるかを訊(き)く。病人であるか、女づれであるか、子供がいるかを詮議した上で、両隣りへ一応の挨拶にゆく。
「今日からお隣りへ参りましたから、よろしく願います。」
宿の浴衣を着たままで行く人もあるが、行儀のいい人は衣服をあらためて行く。単に言葉の挨拶ばかりでなく、なにかの土産(みやげ)を持参するのもある。前にも云う通り滞在期間が長いから、大抵の客は甘納豆(あまなっとう)とか金米糖(こんぺいとう)とかいうたぐいの干菓子(ひがし)をたずさえて来るので、それを半紙に乗せて盆の上に置き、ご退屈でございましょうからと云って、土産のしるしに差出すのである。
貰った方でもそのままには済まされないから、返礼のしるしとして自分が携帯の菓子類を贈る。携帯品のない場合には、その土地の羊羹(ようかん)か煎餅(せんべい)のたぐいを買って贈る。それが初対面の時ばかりでなく、日を経ていよいよ懇意になるにしたがって、ときどきに鮓(すし)や果物などの遣り取りをすることもある。
わたしが若いときに箱根に滞在していると、両隣りともに東京の下町(したまち)の家族づれで、ほとんど毎日のようにいろいろの物をくれるので、すこぶる有難迷惑に感じたことがある。交際好きの人になると、自分の両隣りばかりでなく、他の座敷の客といつの間にか懇意になって、そことも交際しているのがある。温泉場で懇意になったのが縁となって、帰京の後にも交際をつづけ、果ては縁組みをして親類になったなどというのもある。
両隣りに挨拶するのも、土産ものを贈るのも、ここに長く滞在すると思えばこそで、一泊や二泊で立ち去ると思えば、たがいに面倒な挨拶もしないわけである。こんな挨拶や交際は、一面からいえば面倒に相違ないが、又その代りに、浴客同士のあいだに一種の親しみを生じて、風呂場で出逢っても、廊下で出逢っても、互いに打ち解けて挨拶をする。病人などに対しては容体をきく。要するに、一つ宿に滞在する客はみな友達であるという風で、なんとなく安らかな心持で昼夜を送ることが出来る。こうした湯治場気分は今日(こんにち)は求め得られない。
浴客同士のあいだに親しみがあると共に、また相当の遠慮も生じて来て、となり座敷には病人がいるとか、隣りの客は勉強しているとか思えば、あまりに酒を飲んで騒いだり、夜ふけまで碁(ご)を打ったりすることは先ず遠慮するようにもなる。おたがいの遠慮――この美徳はたしかに昔の人に多かったが、殊に前に云ったような事情から、むかしの浴客同士のあいだには遠慮が多く、今日のような傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の客は少なかった。

しかしまた一方から考えると、今日(こんにち)の一般浴客が無遠慮になるというのも、所詮(しょせん)は一夜泊まりのたぐいが多く、浴客同士のあいだに何の親しみもないからであろう。殊に東京近傍の温泉場は一泊または日帰りの客が多く、大きい革包(カバン)や行李(こうり)をさげて乗り込んでくるから、せめて三日や四日は滞在するのかと思うと、きょう来て明日(あした)はもう立ち去るのが幾らもある。こうなると、温泉宿も普通の旅館と同様で、文字通りの温泉旅館であるから、それに対して昔の湯治場気分などを求めるのは、頭から間違っているかも知れない。
それにしても、今日の温泉旅館に宿泊する人たちは思い切ってサバサバしたものである。洗面所で逢っても、廊下で逢っても、風呂場で逢っても、お早うございますの挨拶さえもする人は少ない。こちらで声をかけると、迷惑そうに、あるいは不思議そうな顔をして、しぶしぶながら返事をする人が多い。男は勿論、女でさえも洗面所で顔をあわせて、お早うはおろか、黙礼さえもしないのがたくさんある。こういう人たちは外国のホテルに泊まって、見識らぬ人たちからグード・モーニングなどを浴びせかけられたら、びっくりして宿換えをするかも知れない。そんなことを考えて、私はときどきに可笑(おかし)くなることもある。
客の心持が変ると共に、温泉宿の姿も昔とはまったく変った。むかしの名所|図絵(ずえ)や風景画を見た人はみな承知であろうが、大抵の温泉宿は茅葺(かやぶ)き屋根であった。明治以後は次第にその建築もあらたまって、東京近傍にはさすがに茅葺きのあとを絶ったが、明治三十年頃までの温泉宿は、今から思えば実に粗末なものであった。
勿論、その時代には温泉宿にかぎらず、すべての宿屋が大抵古風なお粗末なもので、今日の下宿屋と大差なきものが多かったのであるが、その土地一流の温泉宿として世間にその名を知られている家でも、次の間つきの座敷を持っているのは極めて少ない。そんな座敷があったとしても、それは僅かに二間(ふたま)か三間(みま)で、特別の客を入れる用心に過ぎず、普通はみな八畳か六畳か四畳半の一室で、甚(はなは)だしきは三畳などという狭い部屋もある。
いい座敷には床の間、ちがい棚は設けてあるが、チャブ台もなければ、机もない。茶箪笥(ちゃだんす)や茶道具なども備えつけていないのが多い。近来はどこの温泉旅館にも机、硯(すずり)、書翰箋(しょかんせん)、封筒、電報用紙のたぐいは備えつけてあるが、そんなものはいっさい無い。
それであるから、こういう所へ来て私たちの最も困ったのは、机のないことであった。宿に頼んで何か机を貸してくれというと、大抵の家では迷惑そうな顔をする。やがて女中が運んでくるのは、物置の隅からでも引摺り出して来たような古机で、抽斗(ひきだし)の毀れているのがある、脚の折れかかっているのがあるという始末。読むにも書くにも実に不便不愉快であるが、仕方がないから先ずそれで我慢するのほかは無い。したがって、筆や硯にも碌なものはない。それでも型ばかりの硯箱を違い棚に置いてある家はいいが、その都度(つど)に女中に頼んで硯箱を借りるような家もある。その用心のために、古風の矢立(やたて)などを持参してゆく人もあった。わたしなども小さい硯や墨や筆をたずさえて行った。もちろん、万年筆などは無い時代である。
こういう不便が多々ある代りに、むかしの温泉宿は病いを養うに足るような、安らかな暢(のび)やかな気分に富んでいた。今の温泉宿は万事が便利である代りに、なんとなくがさついて落着きのない、一夜どまりの旅館式になってしまった。
一利一害、まことに已(や)むを得ないのであろう。

万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬらする。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟(ひっきょう)、浴客の少なかった為でもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗(すこぶ)る窮屈であった。
電燈のない時代は勿論、その設備が出来てからでも、地方の電燈は電力が十分でないと見えて、夜の風呂場などは濛々(もうもう)たる湯烟(ゆげ)にとざされて、人の顔さえもよく見えないくらいである。まして電燈のない温泉場で、うす暗いランプのひかりをたよりに、夜ふけの風呂などに入っていると、山風の声、谷川の音、なんだか薄気味の悪いように感じられることもあった。今日でも地方の山奥の温泉場などへ行けば、こんなところが無いでもないが、以前は東京近傍の温泉場も皆こんな有様であったのであるから、現在の繁華に比較して実に隔世の感に堪えない。したがって、昔から温泉場には怪談が多い。そのなかでやや異色のものを左に一つ紹介する。
柳里恭(りゅうりきょう)の「雲萍雑志(うんぴょうざつし)」のうちに、こんな話がある。
「有馬に湯あみせし時、日くれて湯桁(ゆげた)のうちに、耳目鼻のなき痩法師の、ひとりほと/\と入りたるを見て、余は大いに驚き、物かげよりうかゞふうち、早々湯あみして出でゆく姿、骸骨の絵にたがふところなし。狐狸(こり)どもの我をたぶらかすにやと、その夜は湯にもいらで臥(ふ)しぬ。夜あけて、この事を家あるじに語りければ、それこそ折ふしは来り給ふ人なり。かの女尼は大坂の唐物商人伏見屋てふ家のむすめにて、しかも美人の聞えありけれども、姑(しゅうと)の病みておはせし時、隣より失火ありて、火の早く病床にせまりしかど、助け出さん人もなければ、かの尼とびいりて抱へ出しまゐらせしなり。そのとき焼けたゞれたる傷にて、目は豆粒ばかりに明きて物見え、口は五分ほどあれど食ふに事足り、今年はや七十歳ばかりと聞けりといへるに、いと有難き人とおもひて、後も折ふしは人に語りいでぬ。」
これは怪談どころか、一種の美談であるが、その事情をなんにも知らないで、暗い風呂場で突然こんな人物に出逢っては、さすがの柳沢権太夫(やなぎさわごんだゆう)もぎょっとしたに相違ない。元来、温泉は病人の入浴するところで、そのなかには右のごとき畸形や異形(いぎょう)の人もまじっていたであろうから、それを誤り伝えて種々の怪談を生み出した例も少なくないであろう。

次に記(しる)すのは、ほんとうの怪談らしい話である。
安政(あんせい)三年の初夏である。江戸|番町(ばんちょう)の御厩谷(おんまやだに)に屋敷を持っている二百石の旗本|根津民次郎(ねづたみじろう)は箱根へ湯治に行った。根津はその前年十月二日の夜、本所(ほんじょ)の知人の屋敷を訪問している際に、かのおそろしい大地震に出逢って、幸いに一命に別条はなかったが、左の背から右の腰へかけて打撲傷を負った。
その当時はさしたることでも無いように思っていたが、翌年の春になっても痛みが本当に去らない。それが打ち身のようになって、暑さ寒さに祟(たた)られては困るというので、支配|頭(がしら)の許可を得て、箱根の温泉で一ヵ月ばかり療養することになったのである。旗本と云っても小身(しょうしん)であるから、伊助(いすけ)という中間(ちゅうげん)ひとりを連れて出た。
道中は別に変ったこともなく、根津の主従は箱根の湯本、塔の沢を通り過ぎて、山の中のある温泉宿に草鞋(わらじ)をぬいだ。その宿の名はわかっているが、今も引きつづいて立派に営業を継続しているから、ここには秘して置く。
宿は大きい家で、ほかにも五、六組の逗留客があった。根津は身体に痛み所があるので下座敷のひと間を借りていた。着いて四日目の晩である。入梅に近いこの頃の空は曇り勝ちで、きょうも宵から細雨(こさめ)が降っていた。夜も四つ(午後十時)に近くなって、根津もそろそろ寝床にはいろうかと思っていると、何か奥の方がさわがしいので、伊助に様子を見せにやると、やがて彼は帰って来て、こんなことを報告した。
「便所に化け物が出たそうです。」
「化け物が出た……。」と、根津は笑った。「どんな物が出た。」
「その姿は見えないのですが……。」
「一体どうしたというのだ。」
その頃の宿屋には二階の便所はないので、逗留客はみな下の奥の便所へ行くことになっている。今夜も二階の女の客がその便所へかよって、そとから第一の便所の戸を開(あ)けようとしたが、開かない。さらに第二の便所の戸を開けようとしたが、これも開かない。そればかりでなく、うちからは戸をコツコツと軽く叩いて、うちには人がいると知らせるのである。そこで、しばらく待っているうちに、ほかの客も二、三人来あわせた。いつまで待っても出て来ないので、その一人が待ちかねて戸を開けようとすると、やはり開かない。前とおなじように、うちからは戸を軽く叩くのである。しかも二つの便所とも同様であるので、人々はすこしく不思議を感じて来た。
かまわないから開けてみろと云うので、男二、三人が協力して無理に第一の戸をこじ開けると、内には誰もいなかった。第二の戸をあけた結果も同様であった。その騒ぎを聞きつけて、ほかの客もあつまって来た。宿の者も出て来た。
「なにぶん山の中でございますから、折りおりにこんなことがございます。」
宿の者はこう云っただけで、その以上の説明を加えなかった。伊助の報告もそれで終った。
その以来、逗留客は奥の客便所へゆくことを嫌って、宿の者の便所へかようことにしたが、根津は血気盛りといい、且(かつ)は武士という身分の手前、自分だけは相変らず奥の便所へ通っていると、それから二日目の晩にまたもやその戸が開かなくなった。
「畜生、おぼえていろ。」
根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。彼は片手に脇差をぬき持って、片手で戸を引きあけると、第一の戸も第二の戸も仔細なしにするりと開いた。
「畜生、弱い奴だ。」と根津は笑った。
根津が箱根における化け物話は、それからそれへと伝わった。本人も自慢らしく吹聴(ふいちょう)していたので、友達らは皆その話を知っていた。
それから十二年の後である。明治元年の七月、越後(えちご)の長岡城が西軍のために落された時、根津も江戸を脱走して城方(しろかた)に加わっていた。落城の前日、彼は一緒に脱走して来た友達に語った。
「ゆうべは不思議な夢をみたよ。君たちも知っている通り、大地震の翌年に僕は箱根へ湯治に行って宿屋で怪しいことに出逢ったが、ゆうべはそれと同じ夢をみた。場所も同じく、すべてがその通りであったが、ただ変っているのは……僕が思い切ってその便所の戸をあけると、中には人間の首が転がっていた。首は一つで、男の首であった。」
「その首はどんな顔をしていた。」と、友達のひとりが訊いた。
根津はだまって答えなかった。その翌日、彼は城外で戦死した。

昔はめったに無かったように聞いているが、温泉場に近年流行するのは心中沙汰(しんじゅうざた)である。とりわけて、東京近傍の温泉場は交通便利の関係から、ここに二人の死に場所を選ぶのが多くなった。旅館の迷惑はいうに及ばず、警察もその取締りに苦心しているようであるが、容易にそれを予防し得ない。
心中もその宿を出て、近所の海岸から入水(じゅすい)するか、山や森へ入り込んで劇薬自殺を企てるたぐいは、旅館に迷惑をあたえる程度も比較的に軽いが、自分たちの座敷を舞台に使用されると、旅館は少なからぬ迷惑を蒙(こうむ)ることになる。
地名も旅館の名もしばらく秘して置くが、わたしが曾(かつ)てある温泉旅館に投宿した時、すこし書き物をするのであるから、なるべく静かな座敷を貸してくれというと、二階の奥まった座敷へ案内され、となりへは当分お客を入れない筈であるから、ここは確かに閑静であるという。成程それは好都合であると喜んでいると、三、四日の後、町の挽地物(ひきぢもの)屋へ買物に立ち寄った時、偶然にあることを聞き出した。ひと月ほど以前、わたしの旅館には若い男女の劇薬心中があって、それは二階の何番の座敷であると云うことがわかった。
その何番は私の隣室で、当分お客を入れないといったのも無理はない。そこは幽霊(?)に貸切りになっているらしい。宿へ帰ると、私はすぐに隣り座敷をのぞきに行った。夏のことであるが、人のいない座敷の障子は閉めてある。その障子をあけて窺(うかが)ったが、別に眼につくような異状もなかった。
その日もやがて夜となって、夏の温泉場は大抵寝鎮まった午後十二時頃になると、隣りの座敷で女の軽い咳(せき)の声がきこえる。勿論、気のせいだとは思いながらも、私は起きてのぞきに行った。何事もないのを見さだめて帰って来ると、やがて又その咳の声がきこえる。どうも気になるので、また行ってみた。三度目には座敷のまんなかへ通って、暗い所にしばらく坐っていたが、やはり何事もなかった。
わたしが隣り座敷へ夜中に再三出入りしたことを、どうしてか宿の者に覚られたらしい。その翌日は座敷の畳換えをするという口実のもとに、わたしはここと全く没交渉の下座敷へ移されてしまった。何か詰まらないことを云い触らされては困ると思ったのであろう。しかし女中たちは私にむかって何んにも云わなかった。私も云わなかった。
これは私の若い時のことである。それから三、四年の後に、「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の塩原(しおばら)温泉の件(くだ)りが読売新聞紙上に掲げられた。それを読みながら、私はかんがえた。私がもし一ヵ月以前にかの旅館に投宿して、間貫一(はざまかんいち)とおなじように、隣り座敷の心中の相談をぬすみ聴いたとしたならば、私はどんな処置を取ったであろうか。貫一のように何千円の金を無雑作に投げ出す力がないとすれば、所詮は宿の者に密告して、ひとまず彼らの命をつなぐというような月並の手段を取るのほかはあるまい。貫一のような金持でなければ、ああいう立派な解決は付けられそうもない。
「金色夜叉」はやはり小説であると、わたしは思った。
(昭和6・7「朝日新聞」) 
 
3 暮らしの流れ 

 

素人脚本の歴史
雑誌の人が来て、何か脚本の話を書けという。ともかくも安請合いに受け合ったものの、さて何を書いてよいか判らない。現在日本の演劇(しばい)をどう書いてよいのか、自分も実は宇宙に迷って行き悩んでいるのであるから、とてもここで大きい声で脚本の書き方などを講釈するわけには行かない。何か偉そうなことをうっかり喋(しゃ)べってしまって、その議論が自分自身でも明日はすっかり変ってしまうようなことが無いとも限らない。で、そんな危(あぶ)ないことには手を着けないことにして、ここでは自分がこれまで書いた七、八十種の脚本に就いて、一種の経験談のようなものを書き列(なら)べて見ようかとも思ったが、それも長くなるのでやめた。ここではただ、素人(しろうと)の書いた脚本がどうして世に出るようになったかという歴史を少しばかり書く。
わたしはここで自分の自叙伝を書こうとするのではない。しかし自分の関係したことを主題にして何か語ろうという以上、自然に多く自分を説くことになるかも知れない。それはあらかじめお含み置きを願っておきたい。
わたしが脚本というものに筆を染めた処女作は「紫宸殿(ししんでん)」という一幕物で、頼政(よりまさ)の鵺(ぬえ)退治を主題にした史劇であった。後に訂正して、明治二十九年九月の歌舞伎新報に掲載されたが、勿論(もちろん)、どこの劇場でも採用される筈(はず)はなかった。その翌年の二月、條野採菊(じょうのさいぎく)翁が伊井蓉峰(いいようほう)君に頼まれて「茲江戸子(ここがえどっこ)」という六幕物を書くことになった。故|榎本武揚(えのもとたけあき)子爵の五稜郭(ごりょうかく)戦争を主題(テーマ)にしたものである。採菊翁は多忙だということで、榎本|虎彦(とらひこ)君と私とが更に翁の依頼をうけて二幕ずつを分担して執筆することになった。筋は無論、翁から割当てられたもので、自分たち二人はほとんどその口授のままを補綴(ほてい)したに過ぎなかった。劇場は後の宮戸座(みやとざ)であった。
それが三月の舞台に上(のぼ)ったのを観ると、わたしは失望した。私が書いた部分はほとんど跡形もないほど変っていた。私はそれを榎本君に話すと、榎本君は笑いながら「それだから僕は観に行かないよ」と云った。榎本君は福地桜痴(ふくちおうち)先生に従って、楽屋の空気にもう馴れている人である。榎本君の眼には、年の若い私の無経験がむしろ可笑(おかし)く思われたかも知れなかった。採菊翁自身が執筆の部分はどうだか知れないが、榎本君が担当の部分にも余程の大鉈(おおなた)を加えられていたらしかった。勿論、この時代にはそれがむしろ普通のことで、素人(しろうと)――榎本君は素人ではないが、その当時はまだ其の伎倆(ぎりょう)を認められていなかった――が寄り集まって書いた脚本が、こういう風に鉈を加えられたり、鱠(なます)にされたりするのは、あらかじめ覚悟してかからなければならないのであった。わたしが榎本君に対して不平らしい口吻(こうふん)を洩らしたのは、要するに演劇(しばい)の事情というものに就(つ)いて私の盲目を証拠立てているのであった。
「素人の書いたものは演劇にならない。」
それが此の時代に於いては動かすべからざる格言(モットー)として何人(なんぴと)にも信ぜられていた。劇場内部のいわゆる玄人(くろうと)は勿論のこと、外部の素人もみんなそう信じていた。今日(こんにち)の眼から観れば、みずから侮(あなど)ること甚(はなは)だしいようにも思われるかも知れないが、なんと理窟を云っても劇場当事者の方で受付けてくれないのであるから、外部の素人は田作(ごまめ)の歯ぎしりでどうにもならない。たとい鉈でぶっかかれても鱠にきざまれても、採用されれば非常の仕合せで、鉈にも鱠にも最初から問題にされてはいないのであった。もっとも福地先生はこういうことを云っていられた。
「いくら楽屋の者が威張っても仕方がない。今のままでいれば、やがて素人の世界になるよ。」
しかし、この世界がいつ自分たちの眼の前に開かれるか。ほとんど見当が付かなかった。福地先生は外部から脚本を容れることを拒(こば)むような人ではなかった。むしろ大抵の場合には「結構です」と云って推薦するのを例としていた。しかも推薦されるような脚本はちっとも提供されなかった。それには二種の原因があった。第一には、たとい福地先生は何と云おうとも、劇場全体に素人を侮蔑(ぶべつ)する空気が充満していて、外部から輸入される一切の脚本は先ず敬して遠ざけるという方針が暗々のうちに成立っていたのである。第二には、どんな鉈を受けても、鱠にされても、何でもかでも上場されればいいと云って提出されるような脚本は、実際に於いて其の品質が劣っていた。また、ある程度まで其の品質に見るべきものがあるような脚本を書き得る人は、鉈や鱠の拷問(ごうもん)に堪えられなかった。
以上の理由で、どの道、外部から新しい脚本を求めるということは不可能の状態にあった。劇場当事者の方でも強(し)いて求めようとはしなかった。いわゆる玄人と素人との間には大いなる溝(みぞ)があった。
もう一つには、団菊左(だんきくさ)と云うような諸名優が舞台を踏まえていて、たとい脚本そのものはどうであろうとも、これらの技芸に対する世間の信仰が相当の観客を引き寄せるに何らの不便を感ぜしめなかったからである。こういう種々の原因が絡(から)み合って、内部と外部との中間には、袖萩(そではぎ)が取りつくろっている小柴垣(こしばがき)よりも大きい関が据えられて、戸を叩くにも叩かれぬ鉄(くろがね)の門が高く鎖(と)ざされていたのであった。
「どうぞお慈悲にただ一言(ひとこと)……。」
お君(きみ)の袖乞いことばを真似るのが忌(いや)な者は、黙って門の外に立っているよりほかはなかった。
ところが、やがて其の厳しい門を押し破って、和田(わだ)合戦の板額(はんがく)のように闖入(ちんにゅう)した勇者があらわれた。その闖入者は松居松葉(まついしょうよう)君であった。この門破りが今日の人の想像するような、決して容易なものではない。松葉君の悪戦は実に想像するに余りある位で、彼はブラツデーネスになったに相違ない。そうして明治三十二年の秋に、明治座で史劇「悪源太(あくげんた)」を上場することになった。俳優は初代の左団次(さだんじ)一座であった。続いて三十四年の秋に、同じく明治座で「源三位(げんざんみ)」を書いた。つづいて「後藤又兵衛(ごとうまたべえ)」や「敵国降伏」や「ヱルナニー」が出た。
「素人の書いたものでも商売になる。」
こういう理屈がいくらか劇場内部の人たちにも理解されるようになって来た。わたしは松葉君よりも足かけ四年おくれて、明治三十五年の歌舞伎座一月興行に「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」という四幕物を上場することになった。これに就(つ)いては岡鬼太郎(おかおにたろう)君が大いに力がある。その春興行には五世|菊五郎(きくごろう)が出勤する筈であったが、病気で急に欠勤することになって、一座は芝翫(しかん)(後の歌右衛門(うたえもん))、梅幸(ばいこう)、八百蔵(やおぞう)(後の中車(ちゅうしゃ))、松助(まつすけ)、家橘(かきつ)(後の羽左衛門(うざえもん))、染五郎(そめごろう)(後の幸四郎(こうしろう))というような顔触れで、二番目は円朝(えんちょう)物の「荻江(おぎえ)の一節(ひとふし)」と内定していたのであるが、それも余り思わしくないと云うので、当時の歌舞伎座専務の井上竹二郎(いのうえたけじろう)氏から何か新しいものはあるまいかと鬼太郎君に相談をかけると、鬼太郎君は引受けた。かねて條野採菊翁と私の三人合作で書いてみようと云っていた「金鯱」というものがあるので、鬼太郎君は其の筋立てをすぐに話すと、井上氏はそれを書いて見せてくれと云った。
それはかの柿(かき)の木金助(ききんすけ)が紙鳶(たこ)に乗って、名古屋の城の金の鯱鉾(しゃちほこ)を盗むという事実を仕組んだもので、鬼太郎君は序幕と三幕目を書いた。三幕目は金助が鯱鉾を盗むところで、家橘の金助が常磐津(ときわづ)を遣(つか)って奴凧(やっこだこ)の浄瑠璃めいた空中の振事(ふりごと)を見せるのであった。わたしは二幕目の金助の家を書いた。ここはチョボ入りの世話場(せわば)であった。採菊翁は最後の四幕目を書く筈であったが、半途で病気のために筆を執ることが出来なくなったので、私が年末の急稿でそのあとを綴(と)じ合せた。
この脚本を上演するに就いては、内部では相当に苦情があったらしく聞いている。俳優側からも種々の訂正が持ち出されたらしい。しかし井上氏は頑(がん)として受付けなかった。この二番目の脚本にはいっさい手を着けてはならないと云い渡した。そうして、とうとうそれを押し通してしまった。
井上氏はその当時にあって、実に偉い人であったと思う。
その演劇(しばい)は正月の八日が初日であったように記憶している。その前年の暮れに、私が途中で榎本君に逢うと、彼は笑いながら「君、怒っちゃいけないよ」と云った。果たして稽古の際に楽屋へ行くと、我々の不愉快を誘い出すようなことが少なくなかった。手を着けてはならないと井上氏が宣告して置いたにも拘(かかわ)らず、俳優(やくしゃ)や座付作者たちから種々の訂正を命ぜられた。我々もよんどころなく承諾した。三幕目の常磐津は座の都合で長唄に変更することになったのは我々もかねて承知していたが、狂言作者の一人は脚本を持って来て「これをどうぞ長唄にすぐ書き直してください」と、皮肉らしく云った。つまりお前たちに常磐津と長唄とが書き分けられるかと云う肚(はら)であったらしい。我々も意地になって承知した。その場で鬼太郎君が筆を執って、私も多少の助言をして、二十分ばかりでともかくも其の唄の件(くだり)だけを全部書き直して渡した。すると、つづいて番附のカタリをすぐに書いてくれと云った。そうして「これは立作者(たてつくり)の役ですから」と、おなじく皮肉らしく云った。我々はすぐにカタリを書いて渡した。すると、先に渡した唄をまた持って来て一、二ヵ所の訂正を求めた。
「こんなべらぼうな文句じゃ踊れないと橘屋(たちばなや)が云いますから」と、その作者はべらぼうという詞(ことば)に力を入れて云った。
金助を勤める家橘が果たしてそう云ったかどうだか知らないが、ともかくも其の作者は家橘がそう云った事として我々に取次いだ。べらぼうと云われて、我々もさすがにむっとした。榎本君に注意されたのはここだなと私は思った。いっそ脚本を取り返して帰ろうかと二人は相談したが、その時は鬼太郎君よりも私は軟派であった。もう一つには、榎本君の注意が頭に泌みているせいでもあろう。結局、鬼太郎君を宥(なだ)めてべらぼうの屈辱を甘んじて受けることになった。そうして、先方の註文通りに再び訂正することになった。
それは暮れの二十七日で、二人が歌舞伎座を出たのは夜の八時過ぎであった。晴れた晩で、銀座の町は人が押し合うように賑わっていたが、わたしは何だか心寂しかった。銀座で鬼太郎君に別れた。その頃はまだ電車が無いので、私は暗い寒い堀端(ほりばた)を徒歩で麹町(こうじまち)へ帰った。前に云った宮戸座の時は、ほんの助手に過ぎないのであって、曲がりなりにも自分たちが本当に書いたものを上場されるのは今度が初めてである。私は嬉(うれ)しい筈であった。嬉しいと感じるのが当り前だと思った。しかし私はなんだか寂しかった。いっそ脚本を撤回してしまえばよかったなどとも考えた。
「もう脚本は書くまい。」
わたしはお堀の暗い水の上で啼いている雁(がん)の声を聴きながら、そう思った。
正月になって、歌舞伎座がいよいよ開場すると、我々の二番目もさのみ不評ではなかった。勿論、こんにちから観れば冷汗が出るほどに、俗受けを狙った甘いものであるから、ひどい間違いはなかったらしい。評判が悪くないので、わたしはお堀の雁の声をもう忘れてしまって、つづけて何か書こうかなどと鬼太郎君とも相談したことがあった。しかし、そうは問屋で卸(おろ)さなかった。鉄の門は再び閉められてしまった。我々は再びもとの袖萩になってしまった。なんでも我々の脚本を上場したと云うことが作者部屋の問題になって、外部の素人の作を上場するほどなら、自分たちの作も続々上場して貰いたいとか云う要求を提出されて、井上氏もその鎮圧に苦しんだとか聞いている。そんな事情で、われら素人の脚本はもう歌舞伎座で上演される見込みは絶えてしまった。
その当時に帝国劇場はなかった。新富座はたしか芝鶴(しかく)が持主で、又五郎(またごろう)などの一座で興行をつづけていて、ここではとても新しい脚本などを受付けそうもなかった。
「差当り芝居を書く見込みはない。」
わたしは一旦あきらめた。その頃は雑誌でも脚本を歓迎してくれなかった。いよいよ上演と決まった脚本でなければ掲載してくれなかった。どっちを向いても、脚本を書くなどと云うことは無駄な努力であるらしく思われた。私も脚本を断念して、小説を書こうと思い立った。
明治三十六年に菊五郎と団十郎とが年を同じゅうして死んだ。これで劇界は少しく動揺するだろうと窺っていると、内部はともあれ、表面にはやはりいちじるしい波紋を起さなかった。私はいよいよ失望した。三十七年には日露戦争が始まった。その四月に歌舞伎座で森鴎外(もりおうがい)博士の「日蓮辻説法(にちれんつじせっぽう)」が上場された。恐らくそれは舎弟の三木竹二(みきたけじ)君の斡旋(あっせん)に因(よ)るものであろうが、劇界では破天荒の問題として世間の注目を惹(ひ)いた。戦争中にも拘らず、それが一つの呼物になったのは事実であった。
その頃から私は従軍記者として満洲へ出張していたので、内地の劇界の消息に就いてはなんにも耳にする機会がなかった。その年の八月に左団次の死んだことを新聞紙上で僅(わず)かに知ったに過ぎなかった。実際、軍国の劇壇には余りいちじるしい出来事も無かったらしかった。
明治三十八年五月、わたしが戦地から帰った後に、各新聞社の演劇担当記者らが集まって、若葉会という文士劇を催した。今日では別に珍しい事件でも何でもないが、その当時にあっては、これは相当に世間の注目を惹(ひ)くべき出来事であった。第一回は歌舞伎座で開かれて、わたしが第一の史劇「天目山(てんもくさん)」二幕を書いた。そのほかには、かの「日蓮辻説法」も上演された。これが私の劇作の舞台に上(のぼ)せられた第二回目で、作者自身が武田勝頼(たけだかつより)に扮するつもりであったが、その当時わたしは東京日日新聞社に籍を置いていたので、社内からは種々の苦情が出たのに辟易(へきえき)して、急に鬼太郎君に代って貰(もら)うことにした。
山崎紫紅(やまざきしこう)君の「上杉謙信(うえすぎけんしん)」が世に出たのも此の年であったと記憶している。舞台は真砂座(まさござ)で伊井蓉峰君が謙信に扮したのである。これが好評で、紫紅君は明くる三十九年の秋に『七つ桔梗(ききょう)』という史劇集を公(おおや)けにした。松葉君はこの年の四月、演劇研究のために洋行した。文芸協会はこの年の十一月、歌舞伎座で坪内逍遥(つぼうちしょうよう)博士の「桐一葉(きりひとは)」を上演した。
若葉会は更に東京毎日新聞社演劇会と変って、同じ年の十二月、明治座で第一回を開演することになったので、私は史劇「新羅三郎(しんらさぶろう)」二幕を書いた。つづいて翌四十年七月の第二回(新富座)には「阿新丸(くまわかまる)」二幕を書いた。同年十月の第三回(東京座)には「十津川(とつかわ)戦記」三幕を書いた。同時に紫紅君の「甕破柴田(かめわりしばた)」一幕を上場した。勿論、これらはいずれも一種の素人芝居に過ぎないので、普通の劇場とは没交渉のものであったが、それでもたび重なるに連れて、いわゆる素人の書いた演劇というものが玄人の眼にも、だんだんに泌みて来たと見えて、その年の十二月、紫紅君は新派の河合武雄(かわいたけお)君に頼まれて史劇「みだれ笹」一幕(市村座)を書いた。山岸荷葉(やまぎしかよう)君もこの年、小団次(こだんじ)君らのために「ハムレット」の翻訳史劇(明治座)を書いた。
翌四十一年の正月、左団次君が洋行帰りの第一回興行を明治座で開演して、松葉君が史劇「袈裟(けさ)と盛遠(もりとお)」二幕を書いた。三月の第二回興行には紫紅君の「歌舞伎物語」四幕が上場された。その年の七月、かの川上音二郎(かわかみおとじろう)君が私をたずねて来て、新たに革新興行の旗揚げをするに就いて、維新当時の史劇を書いてくれと云った。私は承知してすぐに「維新前後」(奇兵隊と白虎隊)六幕を書いた。前の奇兵隊の方は現存の関係者が多いので、すこぶる執筆の自由を妨げられたが、後の白虎隊の方は勝手に書くことが出来た。それは九月の明治座で上演された。
もう此の後は新しいことであるから、くだくだしく云うまでもない。要するに茲(ここ)らが先ずひとくぎりで、四十二年以来は素人の脚本を上場することが別に何らの問題にもならなくなった。鉄の扉もだんだんに弛(ゆる)んで、いつとは無しに開かれて来た。勿論、全然開放とまでは行かないが、潜(くぐ)り門ぐらいはどうやらこうやら押せば明くようになって来た。
普通の劇場は一般の観客を相手の営利事業であるから、芸術本位の脚本を容れると云うまでにはまだ相当の時間を要するに相違ないが、ともかくも商売になりそうな脚本ならば、それが誰の作であろうとも、あまり躊躇(ちゅうちょ)しないで受取るようになったのは事実である。一方には文芸協会その他の新劇団が簇出(そうしゅつ)して、競って新脚本を上演して、外部から彼らを刺戟(しげき)したのも無論あずかって力がある。又それに連れて、この数年来、幾多の新しい劇作家があらわれたのは誰しも知っているところである。
新進気鋭の演劇研究者の眼から観たらば、わが劇壇の進歩は実に遅々(ちち)たるもので、実際歯がゆいに相違ない。しかし公平に観たところを云えば、成程それは兎の如くに歩んではいないが、確実に亀の如くには歩んでいると思われる。亀の歩みも焦(じれ)ったいには相違ないが、それでも一つ処に停止していないのは事実である。十六年前に、わたしがお堀端で雁の声を聴いた時にくらべると、表面はともあれ、内部は驚かれるほどに変っている。更に十年の後には、どんなに変るかも知れないと思っている。その当時、自分がひどく悲観した経験があるだけに、現在の状態もあながちに悲観するには及ばない。たとい亀の歩みでも、牛の歩みでも、歩一歩ずつ進んでいるには相違ないと云うことだけは信じている。ただ、焦ったい。しかしそれも已(や)むを得ない。
これまで書いて来たことは、専(もっぱ)ら歌舞伎劇の方面を主にして語ったものである。新派の方は当座の必要上、昔から新作のみを上場していたのは云うまでもない。しかし、その新派の方に却ってこの頃は鉄の扉が閉じられて来たらしく、いつもいつも同じような物を繰り返しているようになって来た。今のありさまで押して行くと、歌舞伎の門の方が早く開放されるらしい。私はその時節の来るのを待っている。
(大正7・11「新演芸」) 
 
人形の趣味

 

××さん。
どこでお聞きになったのか知りませんが、わたしに何か人形の話をしろという御註文でしたが、実のところ、わたしは何も専門的に玩具(おもちゃ)や人形を研究したり蒐集(しゅうしゅう)したりしているわけではないのです。しかし私がおもちゃを好み、ことに人形を可愛がっているのは事実です。
勿論、人に吹聴(ふいちょう)するような珍しいものもないせいでもありますが、わたしはこれまで自分が人形を可愛がると云うようなことを、あまり吹聴したことはありません。竹田出雲(たけだいずも)は机のうえに人形をならべて浄瑠璃をかいたと伝えられています。イプセンのデスクの傍(わき)にも、熊が踊ったり、猫がオルガンを弾いたりしている人形が控えていたと云います。そんな先例が幾らもあるだけに、わたしも何んだかそれらの大家(たいか)の真似をしているように思われるのも忌(いや)ですから、なるべく人にも吹聴しないようにしていたのですが、書棚などの上にいっぱい列(なら)べてある人形が自然に人の眼について、二、三の雑誌にも玩具の話を書かされたことがあります。しかしそんなわけですから、わたしは単に人形の愛好者というだけのことで、人形の研究者や蒐集家でないことを最初にくれぐれもお断わり申して置きます。したがって、人形や玩具などに就いてなにかの通(つう)をならべるような資格はありません。
人形に限らず、わたしもすべて玩具のたぐいが子供のときから大好きで、縁日などへゆくと択(よ)り取りの二銭八厘の玩具をむやみに買いあつめて来たものでした。二銭八厘――なんだか奇妙な勘定ですが、わたしの子供の頃、明治十八、九年頃までは、どういう勘定から割り出して来たものか、縁日などで売っている安い玩具は、大抵二銭八厘と相場が決まっていたものでした。更に廉(やす)いのは一銭というのもありました。勿論、それより高価のもありましたが、われわれは大抵二銭八厘から五銭ぐらいの安物をよろこんで買いあつめました。今の子供たちにくらべると、これがほんとうの「幼稚(ようち)」と云うのかも知れません。しかし其の頃のおもちゃは大方すたれてしまって、たまたま縁日の夜店の前などに立っても、もう少年時代のむかしを偲(しの)ぶよすがはありません。とにかく子供のときからそんな習慣が付いているので、わたしは幾つになっても玩具や人形のたぐいに親しみをもっていて、十九(つづ)や二十歳(はたち)の大供(おおども)になってもやはり玩具屋を覗(のぞ)く癖が失(う)せませんでした。
そんな関係から、原稿などをかく場合にも、机の上に人形をならべるという習慣が自然に付きはじめたので、別に深い理屈があるわけでもなかったのです。しかし習慣というものは怖ろしいもので、それがだんだんに年を経るにしたがって、机の上に人形がないと何んだか物足らないような気分で、ひどく心さびしく感じられるようになってしまいました。それも二つや三つ列べるならばまだいいのですが、どうもそれでは物足らない。少なくも七つ八つ、十五か十六も雑然と陳列させるのですから、机の上の混雑はお話になりません。最初の頃は、脚本などをかく場合には、半紙の上に粗末な舞台面の図をかいて、俳優(やくしゃ)の代りにその人形をならべて、その位置や出入りなどを考えながら書いたものですが、今ではそんなことをしません。しかし何かしら人形が控えていないと、なんだか極(き)まりが付かないようで、どうも落ちついた気分になれません。小説をかく場合でもそうです。脚本にしろ、小説にしろ、なにかの原稿を書いていて、ひどく行き詰まったような場合には、棚から手あたり次第に人形をおろして来て、机の上に一面ならべます。自分の書いている原稿紙の上にまでごたごたと陳列します。そうすると、不思議にどうにかこうにか「窮すれば通ず」というようなことになりますから、どうしてもお人形さんに対して敬意を表さなければならないことになるのです。旅行をする場合でも、出先で仕事をすると判っている時にはかならず相当の人形を鞄(かばん)に入れて同道して行きます。
人形とわたしとの関係はそういうわけでありますから、仮りにも人形と名のつくものならば何んでもいいので、別に故事来歴(こじらいれき)などを詮議しているのではありません。要するに店仕舞いのおもちゃ屋という格で、二足三文の瓦楽多(がらくた)がただ雑然と押し合っているだけのことですから、何かおめずらしい人形がありますかなどと訊かれると、早速返事に困ります。それでたびたび赤面したことがあります。おもちゃ箱を引っくり返したようだというのは、全くわたしの書棚で、初めて来た人に、「お子供衆が余程たくさんおありですか」などと訊かれて、いよいよ赤面することがあります。
その瓦楽多のなかでも、わたしが一番可愛がっているのは、シナのあやつり人形の首で、これはちょっと面白いものです。先年三越呉服店で開かれた「劇に関する展覧会」にも出品したことがありました。この人形の首をはじめて見たのは、わたしが日露戦争に従軍した時、満洲の海城(かいじょう)の城外に老子(ろうし)の廟(びょう)があって、その祭日に人形をまわしに来たシナの芸人の箱のなかでした。わたしは例の癖がむらむらと起ったので、そのシナ人に談判して、五つ六つある首のなかから二つだけを無理に売って貰いました。なにしろ土焼きですから、よほど丁寧に保管していたのですが、戦場ではなかなか保護が届かないので、とうとう二つながら毀(こわ)れてしまいました。がっかりしたが仕方がないので、そのまま東京へ帰って来ますと、それから二年ほどたって、「木太刀」の星野麦人(ほしのばくじん)君の手を経て、神戸の堀江(ほりえ)君という未見の人からシナの操り人形の首を十二個送られました。これも三つばかりは毀れていましたが、南京(ナンキン)で買ったのだとか云うことで、わたしが満洲で見たものとちっとも変りませんでした。わたしは一旦紛失したお家(いえ)の宝物(ほうもつ)を再びたずね出したように喜んで、もろもろの瓦楽多のなかでも上坐に押し据えて、今でも最も敬意を表しています。殊にそのなかの孫悟空(そんごくう)は、わたしが申歳(さるどし)の生まれである因縁から、取分けて寵愛(ちょうあい)しているわけです。
そのほかの人形は――京(きょう)、伏見(ふしみ)、奈良(なら)、博多(はかた)、伊勢(いせ)、秋田(あきた)、山形(やまがた)など、どなたも御存知のものばかりで、例の今戸焼(いまどやき)もたくさんあります。シナ、シャム、インド、イギリス、フランスなども少しばかりあります。人形ではやはり伏見が面白いと思うのですが、近年は彩色などがだんだんに悪くなって来たようです。伏見の饅頭(まんじゅう)人形などは取分けて面白いと思います。伊勢の生子(うぶこ)人形も古風で雅味があります。庄内(しょうない)の小芥子(こけし)人形は遠い土地だけに余り世間に知られていないようですが、木製の至極粗末な人形で、赤ん坊のおしゃぶりのようなものですが、その裳(すそ)の方を持って肩をたたくと、その人形の首が丁度いい工合に肩の骨にコツコツとあたります。勿論、非常に小さいものもありますから、肩を叩くのが本来の目的ではありますまいが、その地方では大人でも湯治などに出かける時には持ってゆくと云います。こんなたぐいを穿索(せんさく)したら、各地方にいろいろの面白いものがありましょう。
広東(カントン)製の竹彫りの人形にもなかなか精巧に出来たのがあります。一つの竹の根でいろいろのものを彫り出すのですから、ずいぶん面倒なものであろうかと思いやられますが、わたしの持っているなかでは、蝦蟆(がま)仙人が最も器用に出来ています。先年外国へ行った時にも、なにか面白いものはないかと方々探しあるきましたが、どうもこれはと云うほどのものを見当りませんでした。戦争のために玩具の製造などはほとんど中止されてしまって、どこのおもちゃ屋にも日本製品が跋扈(ばっこ)しているというありさまで、うっかりすると外国からわざわざ日本製を買い込んで来ることになるので、わたしもひどく失望しました。フランスでちっとばかり買って来ましたけれど、取り立てて申し上げるほどのものではありません。
なにか特別の理由があって、一つの人形を大切にする人、または家重代(いえじゅうだい)というようなわけで古い人形を保存する人、一種の骨董(こっとう)趣味で古い人形をあつめる人、ただ何が無しに人形というものに趣味をもって、新古を問わずにあつめる人、かぞえたらばいろいろの種類があることでしょうが、わたしは勿論、その最後の種類に属すべきものです。で、甚だ我田引水(がでんいんすい)のようですが、特別の知識をもって秩序的に研究する人は格別、単にその年代が古いとか、世間にめずらしい品であるとか云うので、特殊の人形を珍重する人はほんとうの人形好きとは云われまいかと思われます。そういう意味で人形を愛するのは、単に一種の骨董癖に過ぎないので、古い硯(すずり)を愛するのも、古い徳利(とっくり)を愛するのも、所詮(しょせん)は同じことになってしまいます。人形はやはりどこまでも人形として可愛がってやらなければなりません。その意味に於いて、人形の新古や、値の高下(こうげ)や、そんなことを論ずるのはそもそも末で、どんな粗製の今戸焼でもどこかに可愛らしいとか面白いとかいう点を発見したならば、連れて帰って可愛がってやることです。
舞楽(ぶがく)の面を毎日眺めていて、とうとう有名な人相見になったとかいう話を聴いていますが、実際いろいろの人形をながめていると、人間というものに就いてなにか悟(さと)るところがあるようにも思われます。少なくも美しい人形や、可愛らしい人形を眺めていると、こっちの心もおのずとやわらげられるのは事実です。わたしは何か気分がむしゃくしゃするような時には、伏見人形の鬼(おに)や、今戸焼の狸(たぬき)などを机のうえに列べます。そうして、その鬼や狸の滑稽(こっけい)な顔をつくづく眺めていると、自然に頭がくつろいで来るように思われます。
くどくも云う通り、人形といえば相当に年代の古いものとか、精巧に出来ているものとか、値段の高いものとか、いちいちそういうむずかしい註文を持出すから面倒になるので、わたしから云えばそれらは真の人形好きではありません。勿論、わたしのように瓦楽多をむやみに陳列するには及びませんが、たとい二つ三つでも自分の気に入った人形を机や書棚のうえに飾って、朝夕に愛玩するのは決して悪いことではないと思います。人形を愛するの心は、すなわち人を愛するの心であります。品の新しいとか古いとか、値の高いとか廉(やす)いとかいうことは問題ではありません。なんでも自分の気に入ったものでさえあればいいのです。廉いものを飾って置いては見っともないなどと云っているようでは、倶(とも)に人形の趣味を語るに足らないと思います。廉い人形でよろしい、せいぜい三十銭か五十銭のものでよろしい、その数(かず)も二つか三つでもよろしい。それを坐右に飾って朝夕に愛玩することを、わたしは皆さんにお勧め申したいと思います。
不良少年を感化するために、園芸に従事させて花卉(かき)に親しませるという方法が近年行なわれて来たようです。わたしは非常によいことだと思います。それとおなじ意味で、世間一般の少年少女にも努めて人形を愛玩させる習慣を作らせたいと思っています。単に不良少女ばかりでなく、大人の方たちにもこれをお勧め申したいと思っています。なんの木偶(でく)の坊(ぼう)――とひと口に云ってしまえばそれ迄(まで)ですが、生きた人間にも木偶の坊に劣ったのがないとは云えません。魂のない木偶の坊から、われわれは却って生きた魂を伝えられることがないとも限りません。
我田引水と云われるのを承知の上で、私はここに人形趣味を大いに鼓吹(こすい)するのであります。(大正9・10「新家庭」)
この稿をかいたのは、足かけ四年の昔で、それら幾百の人形は大正十二年九月一日をなごりに私と長い別れを告げてしまった。かれらは焼けて砕けて、もとの土に帰ったのである。九月八日、焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つの焦げた人形を掘り出して来てくれた。
わびしさや袖の焦げたる秋の雛(ひな)
(『十番随筆』所収) 
 
震災の記

 

なんだか頭がまだほんとうに落着かないので、まとまったことは書けそうもない。
去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳(とお)の年に日本橋で安政(あんせい)の大(おお)地震に出逢ったそうで、子供の時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみ込んだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事が出来ない。少し強い地震があると、又そのあとにゆり返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはりどうも落着いていられない。
わたしが今まで経験したなかで、最も強い地震としていつまでも記憶に残っているのは、明治二十七年六月二十日の強震である。晴れた日の午後一時頃と記憶しているが、これも随分(ずいぶん)ひどい揺れ方で、市内に潰(つぶ)れ家もたくさんあった。百六、七十人の死傷者もあった。それに伴って二、三ヵ所にボヤも起ったが、一軒焼けか二軒焼けぐらいで皆消し止めて、ほとんど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後には鎮まった。三年まえの尾濃(びのう)震災におびやかされている東京市内の人々は、一時ぎょうさんにおどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちにそれもおのずと鎮まった。勿論、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものであったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生まれてから初めてこれほどの強震に出逢ったので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰って来た。そうして、しきりに地震の惨害を吹聴(ふいちょう)したのであった。その以来、わたしに取って地震というものが、一層おそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになった。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
こういう私がなんの予覚もなしに大正十二年九月一日を迎えたのであった。この朝は誰も知っている通り、二百十日前後にありがちの何となく穏かならない空模様で、驟雨(しゅうう)が折りおりに見舞って来た。広くもない家のなかはいやに蒸し暑かった。二階の書斎には雨まじりの風が吹き込んで、硝子戸をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸を閉め切って下座敷の八畳に降りて、二、三日まえから取りかかっている週刊朝日の原稿を書きつづけていた。庭の垣根から棚のうえに這いあがった朝顔と糸瓜(へちま)の長い蔓(つる)や大きい葉がもつれ合って、雨風にざわざわと乱れてそよいでいるのも、やがて襲ってくる暴風雨(あらし)を予報するように見えて、わたしの心はなんだか落ちつかなかった。
勉強して書きつづけて、もう三、四枚で完結するかと思うところへ、国民図書刊行会の広谷君が雨を冒して来て、一時間ほど話して帰った。広谷君は私の家から遠くもない麹町|山元町(やまもとちょう)に住んでいるのである。広谷君の帰る頃には雨もやんで、うす暗い雲の影は溶けるように消えて行った。茶の間で早い午飯(ひるめし)を食っているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさし込んで来た。どこかで蝉(せみ)も鳴き出した。
わたしは箸(はし)を措(お)いて起(た)った。天気が直ったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先へ出てまぶしい日を仰いだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている階子段(はしごだん)を半分以上も昇りかけると、突然に大きい鳥が羽搏(はばた)きをするような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端にわたしの踏んでいる階子がみりみりと鳴って動き出した。壁も襖(ふすま)も硝子窓も皆それぞれの音を立てて揺れはじめた。
勿論、わたしはすぐに引っ返して階子をかけ降りた。玄関の電燈は今にも振り落されそうに揺れている。天井から降ってくるらしい一種のほこりが私の眼鼻にしみた。
「地震だ。ひどい地震だ。早く逃げろ。」
妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、沓脱(くつぬぎ)から硝子戸の外へ飛び出すと、碧桐(あおぎり)の枯葉がばさばさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。女中も裏口から出て来た。震動はまだやまない。私たちはまっすぐに立っているに堪えられないで、門柱に身を寄せて取りすがっていると、向うのA氏の家からも細君や娘さんや女中たちが逃げ出して来た。わたしの家の門構えは比較的堅固に出来ている上に、門の家根が大きくて瓦の墜落を避ける便宜があるので、A氏の家族は皆わたしの門前に集まって来た。となりのM氏の家族も来た。大勢(おおぜい)が門柱にすがって揺られているうちに、第一回の震動がようやくに鎮まった。ほっと一息ついて、わたしはともかくも内へ引っ返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで、十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって窺うと、棚いっぱいに飾ってある人形はみな無難であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王(やしゃおう)がうつ向きに倒れて、その首が悼(いた)ましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。
と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起ったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取りすがった。それがやむと、少しの間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。A氏の家根瓦がばらばらと揺れ落された。横町の角にある玉突場の高い家根からつづいて震い落される瓦の黒い影が鴉(からす)の飛ぶようにみだれて見えた。
こうして震動をくり返すからは、おそらく第一回以上の烈震はあるまいという安心と、我れも人も幾らか震動に馴れて来たのと、震動がだんだんに長い間隔を置いて来たのとで、近所の人たちも少しく落着いたらしく、思い思いに椅子(いす)や床几(しょうぎ)や花筵(はなむしろ)などを持ち出して来て、門のまえに一時の避難所を作った。わたしの家でも床几を持ち出した。その時には、赤坂の方面に黒い煙りがむくむくとうずまき※[風にょう+昜](あが)っていた。三番町の方角にも煙りがみえた。取分けて下町(したまち)方面の青空に大きい入道雲のようなものが真っ白にあがっているのが私の注意をひいた。雲か煙りか、晴天にこの一種の怪物の出現を仰ぎみた時に、わたしは云い知れない恐怖を感じた。
そのうちに見舞の人たちがだんだんに駈けつけて来てくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その火先が今や帝劇を襲おうとしていることも聞いた。
「しかしここらは無難で仕合せでした。ほとんど被害がないと云ってもいいくらいです。」と、どの人も云った。まったくわたしの附近では、家根瓦をふるい落された家があるくらいのことで、いちじるしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見いだされなかった。番町方面の煙りはまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上(かざかみ)に位しているのとで、誰もさほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々に分かれているのは心さびしいので、近所の人たちは私の門前を中心として、椅子や床几や花むしろを一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持ち出して来た。ビールやサイダーの壜(びん)を運び出すのもあった。わたしの家からも梨(なし)を持ち出した。一種の路上茶話会がここに開かれて、諸家の見舞人が続々もたらしてくる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動は幾たびか繰り返された。わたしば花むしろのうえに坐って、「地震|加藤(かとう)」の舞台を考えたりしていた。
こうしているうちに、日はまったく暮れ切って、電燈のつかない町は暗くなった。あたりがだんだんに暗くなるに連れて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧して来た。各方面の夜の空が真紅(まっか)にあぶられているのが鮮やかにみえて、時どきに凄(すさ)まじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへと続いて、ただ一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかに剰(あま)すところは西口の四谷方面だけで、私たちの三方は猛火に囲まれているのである。茶話会の群れのうちから若い人はひとり起(た)ち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの人の報告も火先が東にむかっているから、南の方の元園町方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
最後の見舞に来てくれたのは演芸画報社の市村(いちむら)君で、その住居は土手(どて)三番町であるが、火先がほかへそれたので幸いに難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ることが出来ないとのことであった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の火勢はすこし弱ったと伝えられた。
十二時半頃になると、近所が又さわがしくなって来て、火の手が再び熾(さか)んになったという。それでも、まだまだと油断して、わたしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車みちは押し返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る。荷車を押してくる。荷物をかついでくる。馬が駆ける。提灯が飛ぶ。いろいろのいでたちをした男や女が気ちがい眼(まなこ)でかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵(ちどりがふち)公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、さらに一方口の四谷方面にその逃げ路を求めようとするらしく、人なだれを打って押し寄せてくる。
うっかりしていると、突き倒され、踏みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引っ返して、さらに町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂(ごみざか)上の三井(みつい)邸のうしろに迫って、怒涛(どとう)のように暴れ狂う焔(ほのお)のなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白くみえた。
迂回(うかい)してゆけば格別、さし渡しにすれば私の家から一町あまりに過ぎない。風上であるの、風向きが違うのと、今まで多寡(たか)をくくっていたのは油断であった。――こう思いながら私は無意識にそこにある長床几に腰をかけた。床几のまわりには酒屋の店の者や近所の人たちが大勢寄りあつまって、いずれも一心に火をながめていた。
「三井さんが焼け落ちれば、もういけない。」
あの高い建物が焼け落ちれば、火の粉はここまでかぶってくるに相違ない。わたしは床几をたちあがると、その眼のまえには広い青い草原が横たわっているのを見た。それは明治十年前後の元園町の姿であった。そこには疎(まば)らに人家が立っていた。わたしが今立っている酒屋のところには、おてつ牡丹餅の店があった。そこらには茶畑もあった。草原にはところどころに小さい水が流れていた。五つ六つの男の児が肩もかくれるような夏草をかき分けて、しきりにばったを探していた。そういう少年時代の思い出がそれからそれへと活動写真のようにわたしの眼の前にあらわれた。
「旦那。もうあぶのうございますぜ。」
誰が云ったのか知らないが、その声に気がついて、わたしはすぐに自分の家へ駈けて帰ると、横町の人たちももう危険の迫って来たのを覚ったらしく、路上の茶話会はいつか解散して、どこの家でも俄(にわ)かに荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗いなかにも一本の蝋燭(ろうそく)の火が微(かす)かにゆれて、妻と女中と手伝いの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
万一の場合には紀尾井町(きおいちょう)の小林蹴月(こばやししゅうげつ)君のところへ立ち退くことに決めてあるので、私たちは差しあたりゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら欲張ったところでどうにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは週刊朝日の原稿をふところに捻(ね)じ込んで、バスケットと旅行用の鞄とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。
「火の粉が来るよう。」
どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこおろぎの声がさびしく聞えた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。
わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。小林君の家へゆき着いてから、わたしは宇治拾遺(うじしゅうい)物語にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足を以って、わが家の焼けるのを笑いながちながめていたと云うことである。わたしはその烟りさえも見ようとはしなかった。
(大正12・10「婦人公論」) 
 
十番雑記

 

昭和十二年八月三十一日、火曜日。午前は陰、午後は晴れて暑い。
虫干しながらの書庫の整理も、連日の秋暑に疲れ勝ちでとかくに捗取(はかど)らない。いよいよ晦日(みそか)であるから、思い切って今日じゅうに片付けてしまおうと、汗をふきながら整理をつづけていると、手文庫の中から書きさしの原稿類を相当に見いだした。いずれも書き捨ての反古(ほご)同様のものであったが、その中に「十番雑記」というのがある。私は大正十二年の震災に麹町の家を焼かれて、その十月から翌年の三月まで麻布の十番に仮寓(かぐう)していた。唯今見いだしたのは、その当時の雑記である。
わたしは麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『猫柳(ねこやなぎ)』という随筆集を出した。しかも「十番雑記」の一文はどれにも編入されていない。傾きかかった古家の薄暗い窓のもとで、師走の夜の寒さにすくみながら、当時の所懐と所見とを書き捨てたままで別にそれを発表しようとも思わず、文庫の底に押込んでしまったのであろう。自分も今まで全く忘れていたのを、十四年後のきょう偶然発見して、いわゆる懐旧の情に堪えなかった。それと同時に、今更のように思い浮かんだのは震災十四周年の当日である。
「あしたは九月一日だ。」
その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでも無いように思われて、なんだか捨て難い気にもなったので、その夜の灯のもとで再読、この随筆集に挿入することにした。
仮住居
十月十二日の時雨(しぐれ)ふる朝に、私たちは目白(めじろ)の額田六福(ぬかだろっぷく)方を立ち退いて、麻布|宮村町(みやむらちょう)へ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。裏は高い崖(がけ)になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。
崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢を云っている場合でない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多(めった)に空家のあろう筈はなく、さんざんに探し抜いた揚句の果てに、河野義博(こうのよしひろ)君の紹介でようよう此処(ここ)に落着くことになったのは、まだしもの幸いであると云わなければなるまい。これでともかくも一時の居どころは定まったが、心はまだ本当に定まらない。文字通りに、箸一つ持たない丸焼けの一家族であるから、たとい仮住居にしても一戸を持つとなれば、何かと面倒なことが多い。ふだんでも冬の設けに忙がしい時節であるのに、新世帯もちの我々はいよいよ心ぜわしい日を送らねばならなかった。
今度の家は元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖(ふすま)も傷(いた)んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。移転の日に若い人たちがあつまって、庭の草はどうにか綺麗に刈り取ってくれた。壁の崩れたところも一部分は貼ってくれた。襖だけは家主から経師屋(きょうじや)の職人をよこして応急の修繕をしてくれたが、それも一度ぎりで姿をみせないので、家内総がかりで貼り残しの壁を貼ることにした。幸いに女中が器用なので、まず日本紙で下貼りをして、その上を新聞紙で貼りつめて、さらに壁紙で上貼りをして、これもどうにか斯(こ)うにか見苦しくないようになった。そのあくる日には障子も貼りかえた。
その傍らに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買いあるいた。妻や女中は火鉢や盥(たらい)やバケツや七輪(しちりん)のたぐいを毎日買いあるいた。これで先ず不完全ながらも文房具や世帯道具がひと通り整うと、今度は冬の近いのに脅(おびや)かされなければならなかった。一枚の冬着さえ持たない我々は、どんな粗末なものでも好(よ)いから寒さを防ぐ準備をしなければならない。夜具の類は出来合いを買って間にあわせることにしたが、一家内の者の羽織や綿入れや襦袢(じゅばん)や、その針仕事に女たちはまた忙がしく追い使われた。
目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとが代るがわるに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統がいろいろに変更して、以前ならば一直線にゆかれたところも、今では飛んでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分でゆかれたところも、三十分五十分を要することになる。勿論どの電車も満員で容易に乗ることは出来ない。市内の電車がこのありさまであるから、それに連れて省線の電車がまた未曾有(みぞう)の混雑を来たしている。それらの不便のために、一日いらいらながら駈けあるいても、わずかに二軒か三軒しか廻り切れないような時もある。又そのあいだには旧宅の焼け跡の整理もしなければならない。震災に因って生じたもろもろの事件の始末も付けなければならない。こうして私も妻も女中らも無暗(むやみ)にあわただしい日を送っているうちに、大正十二年も暮れて行くのである。
「こんな年は早く過ぎてしまう方がいい。」
まあ、こんなことでも云うよりほかはない。なにしろ余ほどの老人でない限りは、生まれて初めてこんな目に出逢ったのであるから、狼狽混乱、どうにも仕様のないのが当りまえであるかも知れないが、罹災(りさい)以来そのあと始末に四ヵ月を費して、まだほんとうに落着かないのは、まったく困ったことである。年が改(あらた)まったと云って、すぐに世のなかが改まるわけでないのは判り切っているが、それでも年があらたまったらば、心持だけでも何とか新しくなり得るかと思うが故に、こんな不祥(ふしょう)な年は早く送ってしまいたいと云うのも普通の人情かも知れない。
今はまだ十二年の末であるから、新しい十三年がどんな年で現われてくるか判らない。元旦も晴か雨か、風か雪か、それすらもまだ判らない位であるから、今から何も云うことは出来ないが、いずれにしても私はこの仮住居で新しい年を迎えなければならない。それでもバラックに住む人たちのことを思えば何でもない。たとい家を焼かれても、家財と蔵書いっさいをうしなっても、わたしの一家は他に比較してまだまだ幸福であると云わなければならない。わたしは今までにも奢侈(おごり)の生活を送っていなかったのであるから、今後も特に節約をしようとも思わない。しかし今度の震災のために直接間接に多大の損害をうけているから、その幾分を回復するべく大いに働かなければならない。まず第一に書庫の復興を計らなければならない。
父祖の代から伝わっている刊本写本五十余種、その大部分は回収の見込みはない。父が晩年の日記十二冊、わたし自身が十七歳の春から書きはじめた日記三十五冊、これらは勿論あきらめるよりほかはない。そのほかにも私が随時に記入していた雑記帳、随筆、書抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としてはすこぶる大切なものであるが、今さら悔むのは愚痴である。せめてはその他の刊本写本だけでもだんだんに買い戻したいと念じているが、その三分の一も容易に回収は覚束なそうである。この頃になって書棚の寂しいのがひどく眼についてならない。諸君が汲々(きゅうきゅう)として帝都復興の策を講じているあいだに、わたしも勉強して書庫の復興を計らなければならない。それがやはりなんらかの意義、なんらかの形式に於いて、帝都復興の上にも貢献するところがあろうと信じている。
わたしの家では、これまでも余り正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変ったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対して全然無沙汰で打ち過ぎるのも何だか心苦しいので、震災後まだほんとうに一身一家の安定を得ないので歳末年始の礼を欠くことを葉書にしたためて、年内に発送することにした。そのほかには、春に対する準備もない。
わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常に美事な花をつけると云うことであるが、元日までには恐らく咲くまい。
(大正十二年十二月二十日)
箙(えびら)の梅
狸坂くらやみ坂や秋の暮
これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。
坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬきと云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟(そうくつ)であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
しかし私の横町にも人家が軒なみに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみ出せば、麻布第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前に拡がっている。ここらは震災の被害も少なく、もちろん火災にも逢わなかったのであるから、この頃は私たちのような避難者がおびただしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましている。殊に歳の暮れに押し詰まって、ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列(なら)んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢(ひ)かれるか、路ばたの大溝(おおどぶ)へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。
「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。
そうは云っても、買物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、何かしら買って帰るのである。震災に懲りたのと、経済上の都合とで、無用の品物はいっさい買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければ済まないような必要品が次から次へと現われて来て、いつまで経っても果てしが無いように思われる。ひと口に瓦楽多(がらくた)というが、その瓦楽多道具をよほどたくさんに貯えなければ、人間の家一戸を支えて行かれないものであると云うことを、この頃になってつくづく悟(さと)った。私たちばかりでなく、すべての罹災者は皆どこかで此の失費と面倒とを繰り返しているのであろう。どう考えても、怖るべき禍いであった。
その鬱憤(うっぷん)をここに洩らすわけではないが、十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘(ぬかるみ)で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る、買物の人も出る。売る人も、買う人も、足もとの悪いなどには頓着していられないのであろうが、私のような気の弱い者はその泥濘におびやかされて、途中から空(むな)しく引っ返して来ることがしばしばある。
しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを踏み、その混雑を冒して、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套の袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、さきごろの天長(てんちょう)祝日に町内の青年団から避難者に対して戸毎に菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んで置くに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店先で徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走(しわす)もだんだんに数(かぞ)え日(び)に迫ったので、混雑もまた予想以上である。そのあいだをどうにか斯(こ)うにか潜りぬけて、夜店の切花屋で梅と寒菊とを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのがすこぶる困難であった。甲の男のかかえて来るチャブ台に突き当るやら、乙の女の提げてくる風呂敷づつみに擦れ合うやら、ようようのことで安田銀行支店の角まで帰り着いて、人通りのやや少ないところで袖の下からかの花を把(と)り出して、電燈のひかりに照らしてみると、寒菊はまず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花も蕾(つぼみ)もかなりに傷められて、梶原源太(かじわらげんた)が「箙(えびら)の梅」という形になっていた。
「こんなことなら、あしたの朝にすればよかった。」
この源太は二度の駆けをする勇気もないので、寒菊の無難をせめてもの幸いに、箙の梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中嶋俊雄(なかじまとしお)が来て待っていた。
「渋谷(しぶや)の道玄坂(どうげんざか)辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ。」と、彼は云った。
「なんと云っても、焼けない土地は仕合せだな。」
こう云いながら、わたしは梅と寒菊とを書斎の花瓶にさした。底冷えのする宵である。
(十二月二十三日)
明治座
この二、三日は馬鹿に寒い。けさは手水鉢(ちょうずばち)に厚い氷を見た。
午前八時頃に十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人が忙がしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名会社の手で開場し、左団次一座が出演することになったので、俄かに修繕工事に取りかかったのである。今までは繁華の町のまんなかに、死んだ物のように寂寞(せきばく)として横たわっていた建物が、急に生き返って動き出したかとも見えて、あたりが明るくなったように活気を生じた。焚火(たきび)の烟(けむ)りが威勢よく舞いあがっている前に、ゆうべは夜明かしであったと笑いながら話している職人もある。立ち停まって珍しそうにそれを眺めている人たちもある。
足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の口上看板がもう揚がっている。二部興行で、昼の部は忠信(ただのぶ)の道行(みちゆき)、躄(いざり)の仇討、鳥辺山(とりべやま)心中、夜の部は信長記(しんちょうき)、浪華(なにわ)の春雨(はるさめ)、双面(ふたおもて)という番組も大きく貼り出してある。
左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しにたたずんでいるのである。
私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組のことも、わたしは疾(と)うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲(みなぎ)るのを覚えた。
わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回にのぼっているのと、もう一つには私自身の性格の然らしむるところとで、わたしは従来自分の作物(さくぶつ)の上演ということに就いては余りに敏感でない方である。勿論、不愉快なことではないが、又さのみに愉快とも感じていないのであった。それが今日にかぎって一種の昂奮を感じるように覚えるのは、単にその上演目録のうちに鳥辺山心中と、信長記と、浪華の春雨と、わたしの作物が三種までも加わっていると云うばかりでなく、震災のために自分の物いっさいを失ったように感じていた私に取って、自分はやはり何物をか失わずにいたと云うことを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えている暇(ひま)はない。わたしは焼け跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……。」と、そこらに群がっている人の口から、一種の待つある如きさざめきが伝えられている。
わたしは愉快にそれを聴いた。私もそれを待っているのである。少年時代のむかしに復(かえ)って、春を待つという若やいだ心が私の胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物である。
「いや、まだほかにもある。」
こう気がついて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ滑りそうに凍っているその細い路を、わたしの下駄はカチカチと踏んで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取り出した。
震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立ち退くというまぎわに、書斎の戸棚の片隅に押し込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を丁寧に調べてみる気も起らなかったが、麻布にひとまず落着いて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切り抜いて保存して置いたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
それだけでも掴み出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊に纏めてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまで其の儘(まま)になっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きをいちいちにひろげて読みかえした。
わたしは今まで随分たくさんの雑文をかいている。その全部のなかから撰み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来たのであるから、なかには書き捨ての反古(ほご)同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨て難い形見のようにも思われるので、なんでもかまわずに掻きあつめることにした。
こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、一向に仕事は捗取らず、どうにか斯(こ)うにか片付いたのは夜の九時頃である。それでも門前には往来の足音が忙がしそうに聞える。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業(よなべ)をしているのであろうなどとも思った。
さて纏まったこの雑文集の名をなんと云っていいか判らない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにして置いた。これもまた記念の意味にほかならない。
(昭和12・10刊『思い出草』所収) 
 
風呂を買うまで

 

わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草千束町(あさくさせんぞくまち)辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて、山の手から遠くそれを羨(うらや)んでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。
わたしが多年ゆき馴れた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつも真っさきに立って運動する一人であるという噂を聞いて、どうもよくない男だとわたしは自分勝手に彼を呪(のろ)っていたのであるが、呪われた彼も、呪ったわたしも、時をおなじゅうして震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白に一旦立ち退いて、雑司ヶ谷(ぞうしがや)の鬼子母神(きしもじん)附近の湯屋にゆくことになった。震災後どこの湯屋も一週間ないし十日間休業したが、各組合で申し合せでもしたのか知れない、再び開業するときには大抵その初日と二日目とを無料入浴デーにしたのが多い。わたしも雑司ヶ谷の御園湯(みそのゆ)という湯屋でその二日間無料の恩恵を蒙った。恩恵に浴すとはまったく此の事であろう。それから十月の初めまで私は毎日この湯にかよっていた。九月二十五日は旧暦の十五夜で、わたしはこの湯屋の前で薄(すすき)を持っている若い婦人に出逢った。その婦人もこの近所に避難している人であることを予(かね)て知っているので、薄(うす)ら寒い秋風に靡(なび)いているその薄の葉摺れが、わたしの暗いこころをひとしお寂しくさせたことを記憶している。
わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓(ざっとう)で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越(こし)の湯(ゆ)と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚(ゆず)湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲(しょうぶ)湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。
宿無しも今日はゆず湯の男哉
二十二日は寒い雨が降った。二十三日は日曜日で晴れていた。どの日もわたしは早く行ったので、風呂のなかはさのみに混雑していなかったが、ゆず湯というのは名ばかりで、湯に浮かんでいる柚の数のあまりに少ないのにやや失望させられた。それでも新しい湯にほんのりと匂う柚の香は、この頃とかくに尖(とが)り勝ちなわたしの神経を不思議にやわらげて、震災以来初めてほんとうに入浴したような、安らかな爽(さわや)かな気分になった。
麻布で今年の正月をむかえたわたしは、その十五日に再びかなりの強震に逢った。去年の大震で傷んでいる家屋が更に破損して、長く住むには堪えられなくなった。家主も建て直したいというので、いよいよ三月なかばにここを立ち退いて、さらに現在の大久保百人町(おおくぼひゃくにんまち)に移転することになった。いわゆる東移西転、どこにどう落着くか判らない不安をいだきながら、ともかくもここを仮りの宿りと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらの躑躅(つつじ)の咲きほこる五月となった。その四日と五日は菖蒲湯である。ここでは都湯というのに毎日かよっていたが、麻布のゆず湯とは違って、ここの菖蒲は風呂いっぱいに青い葉をうかべているのが見るから快(こころよ)かった。大かた子供たちの仕事であろうが、青々とぬれた菖蒲の幾束が小桶に挿してあったのも、なんとなく田舎めいて面白かった。四日も五日もあいにくに陰っていたが、これで湯あがりに仰ぎ視る大空も青々と晴れていたら、さらに爽快であろうと思われた。
湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることが出来た。日盛りに行っては往復がなにぶんにも暑い。ここらは勤め人が多いので、夕方から夜にかけては湯屋がひどく混雑する。
わたしの家に湯殿はあるが、据風呂がないので内湯を焚くわけに行かない。幸いに井戸の水は良いので、七月から湯殿で行水(ぎょうずい)を使うことにした。大盥(おおだらい)に湯をなみなみと湛(たた)えさせて、遠慮なしにざぶざぶ浴びてみたが、どうも思うように行かない。行水――これも一種の俳味を帯びているものには相違ないので、わたしは行水にちなんだ古人の俳句をそれからそれへと繰り出して、努(つと)めて俳味をよび起そうとした。わたしの家の畑には唐もろこしもある、小さい夕顔棚もある、虫の声もきこえる。月並ながらも行水というものに相当した季題の道具立てはまずひと通り揃っているのであるが、どうも一向に俳味も俳趣も泛(う)かび出さない。
行水をつかって、唐もろこしの青い葉が夕風にほの白くみだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満洲で野天風呂を浴びたことを思い出した。海城、遼陽その他の城内にシナ人の湯屋があるが、城から遠い村落に湯屋というものはない。幸いに大抵の民家には大きい甕(かめ)が一つ二つは据えてあるので、その甕を畑のなかへ持ち出して、高粱(コウリャン)を焚いて湯を沸かした。満洲の空は高い、月は鏡のように澄んでいる。畑には西瓜(すいか)や唐茄子(とうなす)が蔓を這わせて転がっている。そのなかで甕から首を出して鼻唄を歌っていると、まるで狐に化かされたような形であるが、それも陣中の一興(いっきょう)として、その愉快は今でも忘れない。甕は焼き物であるから、湯があまりに沸き過ぎた時、うかつにその縁(ふち)などに手足を触れると、火傷(やけど)をしそうな熱さで思わず飛びあがることもあった。
しかしそれは二十年のむかしである。今のわたしは野天風呂で鼻唄をうたっている勇気はない。行水も思ったほどに風流でない。狭くても窮屈でも、やはり据風呂を買おうかと思っている。そこでまた宿無しが一句うかんだ。
宿無しが風呂桶を買ふ暑さ哉
(大正13・7「読売新聞」) 
 
郊外生活の一年

 

震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九ヵ月で、月並の文句ではあるが光陰流水の感に堪えない。大久保へ流れ込んで来たのは十三年の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、あるいは春秋の天気のよい日に散歩にでも出かける所であると思っていた者が、測(はか)らずも郊外生活一年の経験を積むことを得たのは、これも震災の賜物(たまもの)と云っていいかも知れない。勿論、その賜物に対してかなりの高価を支払ってはいるが……。
はじめてここへ移って来たのは、三月の春寒(はるさむ)がまだ去りやらない頃で、その月末の二十五、二十六、二十七の三日間は毎日つづいて寒い雨が降った。二十八日も朝から陰って、ときどきに雪を飛ばした。わたしの家の裏庭から北に見渡される戸山ヶ原には、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州(びしゅう)侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情も無しに大きい枯れ枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦(あかれんが)の建築と、東洋製菓会社の工場に聳えている大煙突と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙りと、これだけの道具を列べただけでも大抵は想像が付くであろう。実に荒涼|索莫(さくばく)、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満洲の冬を思い出して、今年の春の寒さがひとしお身にしみるように感じた。
「郊外はいやですね。」と、市内に住み馴れている家内の女たちは云った。
「むむ。どうも思ったほどによくないな。」と、わたしも少しく顔をしかめた。
省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。陸軍の射的場(しゃてきば)のひびきも随分騒がしかった。戸山ヶ原で夜間演習のときは、小銃を乱射するにも驚かされた。湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、いちいち数え立てたらいろいろあるので、わたしも此処(ここ)まで引っ込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣(いけがき)を越えて往来へ高く突き出しているので、外から遠く見あげると、その花の下かげに小さく横たわっている私の家は絵のようにみえた。戸山ヶ原にも春の草が萌(も)え出して、その青々とした原の上に、市内ではこのごろ滅多に見られない大きい鳶(とんび)が悠々と高く舞っていた。
「郊外も悪くないな。」と、わたしはまた思い直した。
五月になると、大久保名物の躑躅(つつじ)の色がここら一円を俄かに明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりをとどめて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を付けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色(かばいろ)の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗(のぞ)きあるいた。
庭の広いのと空地(あきち)の多いのとを利用して、わたしも近所の人真似に花壇や畑を作った。花壇には和洋の草花の種をめちゃくちゃにまいた。畑には唐蜀黍(とうもろこし)や夏大根の種をまき、茄子(なす)や瓜(うり)の苗を植えた。ゆうがおの種も播(ま)き、へちまの棚も作った。不精者(ぶしょうもの)のわたしに取っては、それらの世話がなかなかの面倒であったが、いやしくも郊外に住む以上、それが当然の仕事のようにも思われて、わたしは朝晩の泥いじりを厭(いと)わなかった。六月の梅雨のころになると、花壇や畑には茎(くき)や蔓(つる)がのび、葉や枝がひろがって、庭一面に濡れていた。
夏になって、わたしを少しく失望させたのは、蛙(かわず)の一向に鳴かないことであった。筋向うの家の土手下の溝(どぶ)で、二、三度その鳴き声を聴いたことがあったが、そのほかにはほとんど聞えなかった。麹町辺でも震災前には随分その声を聴いたものであるが、郊外のここらでどうして鳴かないのかと、わたしは案外に思った。蛍(ほたる)も飛ばなかった。よそから貰った蛍を庭に放したが、そのひかりはひと晩ぎりで皆どこへか消え失せてしまった。さみだれの夜に、しずかに蛙を聴き、ほたるを眺めようとしていた私の期待は裏切られた。その代りに犬は多い。飼い犬と野良犬がしきりに吠えている。
幾月か住んでいるうちに、買物の不便にも馴れた。電車や鉄砲の音にも驚かなくなった。湯屋が遠いので、自宅で風呂を焚くことにした。風呂の話は別に書いたが、ゆうぐれの涼しい風にみだれる唐蜀黍の花や葉をながめながら、小さい風呂にゆっくりと浸っているのも、いわゆる郊外気分というのであろうと、暢気(のんき)に悟るようにもなった。しかもそう暢気に構えてばかりもいられない時が来た。八月になると旱(ひでり)つづきで、さなきだに水に乏しいここら一帯の居住者は、水を憂いずにはいられなくなった。どこの家でも井戸の底を覗くようになって、わたしの家主の親類の家などでは、駅を越えた遠方から私の井戸の水を貰いに来た。この井戸は水の質も良く、水の量も比較的に多いので、覿面(てきめん)に苦しむほどのことはなかったが、一日のうちで二時間ないし三時間は汲めないような日もあった。庭の撒水(まきみず)を倹約する日もあった。折角の風呂も休まなければならないような日もあった。わたしも一日に一度ずつは井戸をのぞきに行った。夏ばかりでなく、冬でも少し照りつづくと、ここらは水切れに脅(おびや)かされるのであると、土地の人は話した。
蛙や蛍とおなじように、ここでは虫の声もあまり多く聞かれなかった。全然鳴かないと云うのではないが、思ったほどには鳴かなかった。麹町にいた時には、秋の初めになると機織虫(はたおりむし)などが無暗(むやみ)に飛び込んで来たものであるが、ここではその鳴く声さえも聴いたことはなかった。庭も広く、草も深いのに、秋の虫が多く聴かれないのは、わたしの心を寂しくさせた。虫が少ないと共に、藪蚊(やぶか)も案外に少なかった。わたしの家で蚊やりを焚いたのは、前後ふた月に過ぎなかったように記憶している。
秋になっては、コスモスと紫苑(しおん)がわたしの庭を賑わした。夏の日ざかりに向日葵(ひまわり)が軒を越えるほど高く大きく咲いたのも愉快であったが、紫苑が枝や葉をひろげて高く咲き誇ったのも私をよろこばせた。紫苑といえば、いかにも秋らしい弱々しい姿をのみ描かれているが、それが十分に生長して、五株六株あるいは十株も叢(むら)をなしているときは、かの向日葵などと一様に、むしろ男性的の雄大な趣を示すものである。薄むらさきの小さい花が一つにかたまって、青い大きい葉の蔭から雲のようにたなびき出ているのを遠く眺めると、さながら松のあいだから桜を望むようにも感じられる。世間一般からは余りに高く評価されない花ではあるが、ここへ来てから私はこの紫苑がひどく好きになった。どこへ行っても、わたしは紫苑を栽(う)えたいと思っている。
唐蜀黍もよく熟したが、その当時わたしは胃腸を害していたので、それを焼く煙りを唯ながめているばかりであった。糸瓜(へちま)も大きいのが七、八本ぶらさがって、そのなかには二尺を越えたのもあった。
郊外の冬はあわれである。山里は冬ぞ寂しさまさりける――まさかにそれほどでもないが、庭の枯れ芒(すすき)が木枯らしを恐れるようになると、再びかの荒涼索莫がくり返されて、宵々ごとに一種の霜気(そうき)が圧して来る。朝々ごとに庭の霜柱が深くなる。晴れた日にも珍しい小鳥がさえずって来ない。戸山ヶ原は青い衣をはがれて、古木もその葉をふるい落すと、わずかに生き残った枯れ草が北風と砂煙りに悼(いた)ましくむせんで、かの科学研究所の煉瓦や製菓会社の煙突が再び眼立って来る。夜は火の廻りの柝(き)の音が絶えずきこえて、霜に吠える家々の犬の声がけわしくなる。朝夕の寒気は市内よりも確かに強いので、感冒にかかり易いわたしは大いに用心しなければならなかった。
郊外に盗難の多いのはしばしば聞くことであるが、ここらも用心のよい方ではない。わたしの横町にも二、三回の被害があって、その賊は密行の刑事巡査に捕えられたが、それから間もなく、わたしの家でも窃盗(せっとう)に見舞われた。夜が明けてから発見したのであるが、賊はなぜか一物(いちもつ)をも奪い取らないで、新しいメリンスの覆面頭巾を残して立ち去った。一応それを届けて置くと、警察からは幾人の刑事巡査が来て丁寧に現場を調べて行ったが、賊は不良青年の群れで、その後に中野(なかの)の町で捕われたように聞いた。わたしの家の女中のひとりが午後十時ごろに外から帰って来る途中、横町の暗いところで例の痴漢に襲われかかったが、折りよく巡査が巡回して来たので救われた。とかくにこの種の痴漢が出没するから婦人の夜間外出は注意しろと、町内の組合からも謄写版(とうしゃばん)の通知書をまわして来たことがある。わたしの住んでいる百人町には幸いに火災はないが、淀橋辺には頻繁の火事沙汰がある。こうした事件は冬の初めが最も多い。
「郊外と市内と、どちらが好(よ)うございます。」
私はたびたびこう訊かれることがある。それに対して、どちらも同じことですねと私は答えている。郊外生活と市内生活と、所詮(しょせん)は一長一短で、公平に云えば、どちらも住みにくいと云うのほかはない。その住みにくいのを忍ぶとすれば、郊外か市内か、おのおのその好むところに従えばよいのである。
(大正14・4「読売新聞」) 
 
薬前薬後

 

草花と果物
盂蘭盆(うらぼん)の迎い火を焚くという七月十三日のゆう方に、わたしは突然に強い差込みに襲われて仆(たお)れた。急性の胃痙攣(いけいれん)である。医師の応急手当てで痙攣の苦痛は比較的に早く救われたが、元来胃腸を害しているというので、それから引きつづいて薬を飲む、粥(かゆ)を啜(すす)る、おなじような養生法を半月以上も繰り返して、八月の一日からともかくも病床をぬけ出すことになった。病人によい時季と云うのもあるまいが、暑中の病人は一層難儀である。わたしはかなりに疲労してしまった。今でも机にむかって、まだ本当に物を書くほどの気力がない。
病臥中、はじめの一週間ほどは努(つと)めて安静を守っていたが、日がだんだんに経つにつれて、気分のよい日の朝晩には縁側へ出て小さい庭をながめることもある。わたしが現在住んでいるのは半蔵門に近いバラック建の二階家で、家も小さいが庭は更に小さく、わずかに八坪余りのところへ一面に草花を栽えている。
若い書生が勤勉に手入れをしてくれるので、わたしの病臥中にも花壇はちっとも狼藉(ろうぜき)たる姿をみせていない。夏の花、秋の草、みな恙(つつが)なく生長している。これほどの狭い庭に幾種の草花類が栽えられてあるかと試みにかぞえてみると、ダリヤ、カンナ、コスモス、百合、撫子(なでしこ)、石竹(せきちく)、桔梗、矢車草、風露草(ふうろそう)、金魚草、月見草、おいらん草、孔雀(くじゃく)草、黄蜀葵(おうしょつき)、女郎花(おみなえし)、男郎花(おとこえし)、秋海棠(しゅうかいどう)、水引、鶏頭、葉鶏頭、白粉(おしろい)、鳳仙花、紫苑、萩、芒(すすき)、日まわり、姫日まわり、夏菊と秋の菊数種、ほかに朝顔十四鉢――まずザッとこんなもので、一種が一株というわけではなく、一種で十余株の多きに上(のぼ)っているのもあるから、いかによく整理されていたところで、その枝や葉や花がそれからそれへと掩(おお)い重なって、歌によむ「八重葎(やえむぐら)しげれる宿」と云いそうな姿である。
そのほかにも桐や松や、柿や、椿、木犀(もくせい)、山茶花(さざんか)、八つ手、躑躅(つつじ)、山吹のたぐいも雑然と栽えてあるので草木繁茂、枝や葉をかき分けなければ歩くことは出来ない。
「狭いところへよくも栽え込んだものだな。」と、わたしは自分ながら感心した。
狭い庭を藪にして、好んで藪蚊の棲み家を作っている自分の物好きを笑うよりも、こうして僅かに無趣味と殺風景から救われようと努めているバラック生活の寂しさを、今更のように考えさせられた。
わたしの家ばかりでなく、近所の住居といわず、商店といわず、バラックの家々ではみな草花を栽えている。二尺か三尺の空地にもダリヤ、コスモス、白まわり、白粉のたぐいが必ず栽えてあるのは、震災以前にかつて見なかったことである。われわれは斯うして救われるのほかはないのであろうか。
わたしの現在の住宅は、麹町通りの電車道に平行した北側の裏通りに面しているので、朝は五時頃から割引きの電車がひびく。夜は十二時半頃まで各方面からのぼって来る終電車の音がきこえる。それも勿論そうぞうしいには相違ないが、私の枕を最も強くゆすぶるものは貨物自動車と馬力(ばりき)である。これらの車は電車通りの比較的に狭いのを避けて、いずれもわたしの家の前の裏通りを通り抜けることにしているので、昼間はともあれ、夜はその車輪の音が枕の上にいっそう強く響いて来るのである。
病中不眠勝ちのわたしは此の頃その響きをいよいよ強く感じるようになった。夜も宵のあいだはまだよい。終電車もみな通り過ぎてしまって、世間が初めてひっそりと鎮まって、いわゆる草木も眠るという午前二時三時の頃に、ガタガタといい、ガラガラという響きを立てて、ほとんど絶え間も無しに通り過ぎるトラックと馬力の音、殊に馬力は速力が遅く、且(かつ)は幾台もつながって通るので、枕にひびいている時間が長い。
病中わたしに取って更に不幸というべきは、この夜半の馬力が暑いあいだ最も多く通行することである。なんでも多摩川のあたりから水蜜桃(すいみつとう)や梨などの果物の籠を満載して、神田の青物市場へ送って行くので、この時刻に積荷を運び込むと、あたかも朝市(あさいち)に間に合うのだそうである。その馬力が五台、七台、ないし十余台もつながって行くのは、途中で奪われない用心であると云う。いずれにしても、それが此の頃のわたしを悩ますことはひと通りでない。
「これほどに私を苦しめて行くあの果物が、どこの食卓を賑わして、誰の口にはいるか。」
私は寝ながらそんなことを考えた。それに付けて思い出されるのは、わたしが巴里(パリ)に滞在していた頃、夏のあかつきの深い靄(もや)が一面にとざしている大きい並木の街(まち)に、馬の鈴の音(ね)がシャンシャン聞える。靄に隠されて、馬も人も車もみえない。ただ鈴の音が遠く近くきこえるばかりである。それは近在から野菜や果物を送って来る車で、このごろは桜ん坊が最も多いということであった。その以来わたしは桜ん坊を食うたびに、並木の靄のうちに聞える鈴の音を思い出して、一種の詩情の湧いて来るのを禁じることが出来ない。
おなじ果物を運びながらも、東京の馬力では詩趣も無い、詩情も起らない。いたずらに人の神経を苛立(いらだ)たせるばかりである。
雁と蝙蝠
七月二十四日。きのうの雷雨のせいか、きょうは土用(どよう)に入ってから最も涼しい日であった。昼のうちは陰っていたが、宵には薄月(うすづき)のひかりが洩れて、涼しい夜風がすだれ越しにそよそよと枕元へ流れ込んで来る。
病気から例の神経衰弱を誘い出したのと、連日の暑気と、朝から晩まで寝て暮らしているのとで、毎晩どうも安らかに眠られない。今夜は涼しいから眠られるかと、十時頃から蚊帳(かや)を釣らせることにしたが、窓をしめ、雨戸をしめると、やはり蒸し暑い。十一時を過ぎ、十二時を過ぎて、電車の響きもやや絶えだえになった頃から少しうとうとして、やがて再び眼をさますと、襟首には気味のわるい汗がにじんでいる。その汗を拭いて、床の上に起き直って団扇(うちわ)を使っていると、トタン葺(ぶ)きの家根に雨の音がはらはらと聞える。そのあいだに鳥の声が近くきこえた。
それは雁(がん)の鳴く声で、お堀の水の上から聞えて来ることを私はすぐに知った。お堀に雁の群れが降りて来るのは珍しくないが、それには時候が早い。土用に入ってまだ幾日も過ぎないのに、雁の来るのはめずらしい。群れに離れた孤雁(こがん)が何かの途惑いをして迷って来たのかも知れないと思っていると、雁は雨のなかにふた声三声つづけて叫んだ。
しずかにそれを聴いているうちに、私の眼のさきには昔の麹町のすがたが泛(う)かび出した。そこには勿論、自動車などは通らなかった。電車も通らなかった。スレート葺きやトタン葺きの家根も見えなかった。家根といえば瓦葺きか板葺きである。その家々の家根の上を秋風が高く吹いて、ゆう日のひかりが漸(ようや)く薄れて来るころに、幾羽の雁の群れが列をなして大空を高く低く渡ってゆく。巷(ちまた)に遊んでいる子供たちはそれを仰いで口々に呼ぶのである。
「あとの雁が先になったら、笄(こうがい)取らしょ。」
わたしも大きい口をあいて呼んだ。雁の行(つら)は正しいものであるが、時にはその声々に誘われたように後列の雁が翼を振って前列を追いぬけることがある。あるいは野に伏兵(ふくへい)ありとでも思うのか、前列後列が俄かに行を乱して翔(かけ)りゆく時がある。空飛ぶ鳥が地上の人の号令を聞いたかのように感じられた時、子供たちは手を拍(う)って愉快を叫んだ。そうして、その鳥の群れが遠くなるまで見送りながら立ち尽くしていると、秋のゆうぐれの寒さが襟にしみて来る。
秋になると、毎年それをくり返していたので、私に取っては忘れがたい少年時代の思い出の一つとなっているが、この頃では秋になっても東京の空を渡る雁の影も稀(まれ)になった。まして往来のまんなかに突っ立って、「笄取らしょ。」などと声を嗄(か)らして叫んでいるような子供は一人もないらしい。
雁で思い出したが、蝙蝠(こうもり)も夏の宵の景物の一つであった。
江戸時代の錦絵には、柳の下に蝙蝠の飛んでいるさまを描いてあるのをしばしば見る。粋な芸妓などが柳橋あたりの河岸(かし)をあるいている、その背景には柳と蝙蝠を描くのがほとんど紋切り型のようにもなっている。実際、むかしの江戸市中にはたくさん棲んでいたそうで、外国やシナの話にもあるように、化け物屋敷という空家を探険してみたらば、そこに年|古(ふ)る蝙蝠が棲んでいるのを発見したというような実話が幾らも伝えられている。大きい奴になると、不意に飛びかかって人の生き血を吸うのであるから、一種の吸血鬼と云ってもよい。相馬(そうま)の古御所(ふるごしょ)の破れた翠簾(すいれん)の外に大きい蝙蝠が飛んでいたなどは、確かに一段の鬼気を添えるもので、昔の画家の働きである。
しかし市中に飛んでいる小さい蝙蝠は、鬼気や妖気の問題を離れて、夏柳の下をゆく美人の影を追うにふさわしいものと見なされている。私たちも子供のときには蝙蝠を追いまわした。
夏のゆうぐれ、うす暗い家の奥からは蚊やりの煙りが仄白(ほのじろ)く流れ出て、家の前には涼み台が持ち出される頃、どこからとも知らず、一匹か二匹の小さい蝙蝠が迷って来て、あるいは街(まち)を横切り、あるいは軒端(のきば)を伝って飛ぶ。蚊喰い鳥という異名(いみょう)の通り、かれらは蚊を追っているのであろう。それをまた追いながら、子供たちは口々に叫ぶのである。
「こうもり、こうもり、山椒(さんしょ)食わしょ。」
前の雁とは違って、これは手のとどきそうな低いところを舞いあるいているから、何とかして捕えようというのが人情で、ある者は竹竿を持ち出して来るが、相手はひらひらと軽く飛び去って、容易に打ち落すことは出来ない。蝙蝠を捕えるには泥草鞋(どろわらじ)を投げるがよいと云うことになっているので、往来に落ちている草鞋や馬の沓(くつ)を拾って来て、「こうもり来い。」と呼びながら投げ付ける。うまくあたって地に落ちて来ることもあるが、又すぐに飛び揚がってしまって、十(とお)に一つも子供たちの手には捕えられない。たとい捕え得たところで、どうなるものでもないのであるが、それでも夢中になって追いあるく。
その泥草鞋があやまって、往来の人に打ちあたる場合も少なくない。白地の帷子(かたびら)を着た紳士の胸や、白粉(おしろい)をつけた娘の横面(よこづら)などへ泥草鞋がぽんと飛んで行っても、相手が子供であるから腹も立てない。今日ならば明らかに交通妨害として、警官に叱られるところであろうが、昔のいわゆるお巡(まわ)りさんは別にそれを咎(とが)めなかったので、私たちは泥草鞋をふりまわして夏のゆうぐれの町を騒がしてあるいた。
街路樹に柳を栽えている町はあるが、その青い蔭にも今は蝙蝠の飛ぶを見ない。勿論、泥草鞋や馬の沓などを振りまわしているような馬鹿な子供はいない。
こんなことを考えているうちに、例の馬力が魔の車とでも云いそうな響きを立てて、深夜の町を軋(きし)って来た。その昔、京の町を過ぎたという片輪車(かたわぐるま)の怪談を、私は思い出した。
停車場の趣味
以前は人形や玩具(おもちゃ)に趣味をもって、新古東西の瓦楽多(がらくた)をかなりに蒐集していたが、震災にその全部を灰にしてしまってから、再び蒐集するほどの元気もなくなった。殊に人形や玩具については、これまで新聞雑誌に再三書いたこともあるから、今度は更に他の方面について少しく語りたい。
これは果たして趣味というべきものかどうだか判らないが、とにかく私は汽車の停車場というものに就いてすこぶる興味をもっている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それがすこぶるおもしろい。尊い寺は門から知れると云うが、ある意味に於いて停車場は土地そのものの象徴と云ってよい。
そんな理窟はしばらく措(お)いて、停車場として最もわたしの興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どちら付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊におもしろいのは、ひと列車に二、三人か五、六人ぐらいしか乗り降りのないような、寂しい地方の小さい停車場である。そういう停車場はすぐに人家のある町や村へつづいていない所もある。降りても人力車(くるま)一台も無いようなところもある。停車場の建物も勿論小さい。しかもそこには案外に大きい桜や桃の木などがあって、春は一面に咲きみだれている。小さい建物、大きい桜、その上を越えて遠い近い山々が青く霞(かす)んでみえる。停車場のわきには粗末な竹垣などが結ってあって、汽車のひびきに馴れている鶏が平気で垣をくぐって出たりはいったりしている。駅員が慰み半分に作っているらしい小さい菜畑なども見える。
夏から秋にかけては、こういう停車場には大きい百日紅(さるすべり)や大きい桐や柳などが眼につくことがある。真紅(まっか)に咲いた百日紅のかげに小さい休み茶屋の見えるのもある。芒(すすき)の乱れているのもコスモスの繁っているのも、停車場というものを中心にして皆それぞれの画趣を作っている。駅の附近に草原や畑などが続いていて、停車している汽車の窓にも虫の声々が近く流れ込んで来ることもある。東海道五十三次をかいた広重(ひろしげ)が今生きていたらば、こうした駅々の停車場の姿をいちいち写生して、おそらく好個の風景画を作り出すであろう。
停車場はその土地の象徴であると、わたしは前に云ったが、直接にはその駅長や駅員らの趣味もうかがわれる。ある駅ではその設備や風致(ふうち)にすこぶる注意を払っているらしいのもあるが、その注意があまりに人工的になって、わざとらしく曲がりくねった松を栽えたり、檜葉(ひば)をまん丸く刈り込んだりしてあるのは、折角ながら却っておもしろくない。やはり周囲の野趣(やしゅ)をそのまま取り入れて、あくまでも自然に作った方がおもしろい。長い汽車旅行に疲れた乗客の眼もそれに因っていかに慰められるか判らない。汽車そのものが文明的の交通機関であるからと云って、停車場の風致までを生半可(なまはんか)な東京風などに作ろうとするのは考えものである。
大きい停車場は車窓から眺めるよりも、自分が構内の人となった方がよい。勿論、そこには地方の小停車場に見るような詩趣も画趣も見いだせないのであるが、なんとなく一種の雄大な感が湧く。そうして、そこには単なる混雑以外に一種の活気が見いだされる。汽車に乗る人、降りる人、かならずしも活気のある人たちばかりでもあるまい。親や友達の死を聞いて帰る人もあろう。自分の病いのために帰郷する人もあろう。地方で失敗して都会へ職業を求めに来た人もあろう。千差万別、もとより一概には云えないのであるが、その人たちが大きい停車場の混雑した空気につつまれた時、たれもかれも一種の活気を帯びた人のように見られる。単に、あわただしいと云ってしまえばそれ迄であるが、わたしはその間に生き生きした気分を感じて、いつも愉快に思う。
汽車の出たあとの静けさ、殊に夜汽車の汽笛のひびきが遠く消えて、見送りの人々などが静かに帰ってゆく。その寂しいような心持もまたわるくない。
わたしは麹町に長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場へ出て行く。この停車場は大でもなく小でもなく、わたしには余り面白くない中くらいのところであるが、それでも汽車の出たあとの静かな気分を味わうことが出来る。堤(どて)の松の大樹の上に冴えた月のかかっている夜などは殊によい。若いときは格別、近年は甚だ出不精になって、旅行する機会もだんだんに少なくなったが、停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞えるのである。
(大正15・8「時事新報」) 
 
私の机

 

ある雑誌社から「あなたの机は」という問合せが来たので、こんな返事をかいて送る。
天神机――今はあと方もなくなってしまいましたが、私が子供の時代には、まだそれが一般に行なわれていて、手習いをする子は皆それに向かったものです。わたしもその一人でした。今でも「寺子屋」の芝居をみると、何だか昔がなつかしいように思われます。
これも今はあまり流行(はや)らないようですが、以前は普通に用いる机は桐材が一番よいと云う事になっていました。木肌(きはだ)が柔らかなので、倚りかかる場合その他にも手当りが柔らかでよいと云うのでした。その代りに疵(きず)が付き易い。文鎮をおとしてもすぐに疵が付くというわけですから、少し不注意に取扱うと疵だらけになる。それが桐材の欠点で、自然にすたれて来たのでしょう。それから一閑張(いっかんば)りの机が一時は流行しました。それも柔らかでよいのと、軽くてよいのと、値段が割合に高くないのとで、一時は非常に持て囃(はや)されましたが、何分にも紙を貼ったものであるから傷み易い。水などを零(こぼ)すと、すぐにぶくぶくと膨(ふく)れる。そんな欠点があるので、これもやがて廃(すた)れました。それでもまだ小机やチャブ台用としては幾分か残っているようです。
わたしは十五のときに一円五十銭で買った桐の机を多年使用していました。下宿屋を二、三度持ちあるいたり、三、四度も転居したりしたので、ほとんど完膚(かんぷ)なしと云うほどに疵だらけになっていましたが、それが使い馴れていて工合(ぐあい)がよいので、ついそのままに使いつづけていました。しかし十五の時に買った机ですから少し小さいのが何分不便で、大きな本など拡げる場合には、机の上をいちいち片付けてかからなければならない。とうとう我慢が出来なくなって、大正十二年の春、近所の家具屋に註文して大きい机を作らせました。木材はなんでもよいと云ったら、※[土へん+專](せん)で作って来たので、非常に重い上に実用専一のすこぶる殺風景なものが出来あがりました。その代り、机の上が俄かに広くなったので、仕事をするときに参考書などを幾冊も拡げて置くには便利になった。
さりとて、三十七、八年も親しんでいた古机を古道具屋の手にわたすにも忍びないので、そのまま戸棚の奥に押し込んで置くと、その年の九月が例の震災で、新旧の机とも灰となってしまいました。新の方に未練はなかったが、旧の方は久しい友達で、若いときからその机の上でいろいろのものを書いた思い出――誰でもそうであろうが、取り分けわれわれのような者は机というものに対していろいろの思い出が多いので、それが灰になってしまったと云うことは、かなりに私のこころを寂しくさせました。
震災の後、目白の額田六福の家に立ち退いているあいだは、そこの小机を借りて使っていましたが、十月になって麻布へ移転する時、何を措(お)いても机はすぐに入用であるので、高田の四つ家|町(まち)へ行って家具屋をあさり歩きました。勿論、その当時のことであるから択り好みは云っていられない。なんでも机の形をしていれば好(よ)いぐらいの考えで、十二円五十銭の机を買って来た。これも材質は※[土へん+專]で、それにラックスを塗ったもので、すこぶる頑丈に出来ているのです。もう少し体裁のよいのもあったのですが、私は背が高いので机の脚も高くなければ困る。そういう都合で、脚の高いのを取得(とりえ)に先ずそれを買い込んで、そのまま今日まで使っているわけです。その後にいくらか優(ま)しの机を見つけないでもありませんが、震災以来、三度も居所を変えて、いまだに仮越しの不安定の生活をつづけているのですから、震災記念の安机が丁度相当かとも思って、現にこの原稿もその机の上で書いているような次第です。
わたしは近眼のせいもありましょうが、机は明るいところに据えなければ、読むことも書くことも出来ません。光線の強いのを嫌う人もありますが、わたしは薄暗いようなところでは何だか頼りないような気がして落着かれません。それですから、一日のうちに幾度も机の位置をかえることがあります。したがって、余りに重い机は持ち運ぶに困るのですが、机にむかった感じを云えば、どうも重くて大きい方がドッシリとして落着かれるようです。チャブ台の上などで原稿をかく人がありますが、私には全然できません。それがために、旅行などをして困ることがあります。
もう一つ、これは年来の習慣でしょうが、わたしは自宅にいる場合、飯を食うときのほかは机の前を離れたことはほとんどありません。読書するとか原稿を書くとか云うのでなく、ただぼんやりとしているときでも必ず机の前に坐っています。鳥で云えば一種の止まり木とでも云うのでしょう。机の前を離れると、なんだかぐら付いているようで、自分のからだを持て余してしまうのです。妙な習慣が付いたものです。
(大正14・9「婦人公論」) 
 
読書雑感

 

なんと云っても此の頃は読書子に取っては恵まれた時代である。円本は勿論、改造文庫、岩波文庫、春陽堂文庫のたぐい、二十銭か三十銭で自分の読みたい本が自由に読まれるというのは、どう考えても有難いことである。
趣味から云えば、廉価版の安っぽい書物は感じが悪いという。それも一応は尤(もっと)もであるが、読書趣味の普及された時代、本を読みたくても金が無いという人々に取っては、廉価版は確かに必要である。また、著者としても、豪華版を作って少数の人に読まれるよりも、廉価版を作って多数の人に読まれた方がよい。五百人六百人に読まれるよりも、一万人二万人に読まれた方が、著者としては本懐でなければならない。
それに付けても、わたしたちの若い時代に比べると、当世の若い人たちは確かに恵まれていると思う。わたしは明治五年の生まれで、十七、八歳すなわち明治二十一、二年頃から、三十歳前後すなわち明治三十四、五年頃までが、最も多くの書を読んだ時代であったが、その頃にはもちろん廉価版などというものは無い。第一に古書の翻刻が甚だ少ない。
したがって、古書を読もうとするには江戸時代の原本を尋(たず)ねなければならない。
その原本は少ない上に、価(あたい)も廉(やす)くない。わたしは神田の三久(三河屋久兵衛(みかわやきゅうべえ))という古本屋へしばしばひやかしに行ったが、貧乏書生の悲しさ、読みたい本を見付けても容易に買うことが出来ないのであった。金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。
私にかぎらず、原本は容易に獲(え)られず、その価もまた廉くない関係から、その時代には書物の借覧ということが行なわれた。蔵書家に就いてその蔵書を借り出して来るのである。ところが、蔵書家には門外不出を標榜(ひょうぼう)している人が多く、自宅へ来て読むというならば読ませてやるが、貸出しはいっさい断わるというのである。そうなると、その家を訪問して読ませて貰うのほかは無い。
日曜日のほかに余暇のないわたしは、それからそれへと紹介を求めて諸家を訪問することになったが、それが随分難儀な仕事であった。由来、蔵書家というような人たちは、東京のまん中に余り多く住んでいない。大抵は場末の不便なところに住んでいる。電車の便などのない時代に、本郷小石川や本所深川辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を費(ついや)してしまうので、肝腎の読書の時間が案外に少ないことになるにはすこぶる困った。
なにしろ馴染(なじ)みの浅い家へ行って、悠々と坐り込んで書物を読んでいるのは心苦しいことである。蔵書家と云っても、広い家に住んでいるとは限らないから、時には玄関の二畳ぐらいの処に坐って読まされる。時にはまた、立派な座敷へ通されて恐縮することもある。腰弁当で出かけても、碌々(ろくろく)に茶も飲ませてくれない家がある。そうかと思うと、茶や菓子を出して、おまけに鰻飯などを食わせてくれる家がある。その待遇は千差万別で、冷遇はいささか不平であるが、優待もあまりに気の毒でたびたび出かけるのを遠慮するようにもなる。冷遇も困るが、優待も困る。そこの加減がどうもむずかしいのであった。
そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書家をたずねる必要が生ずるので、わたしは前に云うような冷遇と優待を受けながら、根(こん)よく方々をたずね廻った。ただ読んでいるばかりでは済まない。時には抜書きをすることもある。万年筆などの無い時代であるから、矢立(やたて)と罫紙(けいし)を持参で出かける。そうした思い出のある抜書き類も、先年の震災でみな灰となってしまった。
そういう時代に、博文館から日本文字全書、温知(おんち)叢書、帝国文庫などの翻刻物を出してくれたのは、われわれに取って一種の福音(ふくいん)であった。勿論、ありふれた物ばかりで、別に珍奇の書は見いだされなかったが、それらの書物を自分の座右に備え付けて置かれるというだけでも、確かに有難いことであった。
その後、古書の翻刻も続々行なわれ、わたしの懐ろにも幾分の余裕が出来て、買いたい本はどうにか買えるようにもなったが、その昔の読書の苦しみは身にしみて覚えている。わたしはその経験があるだけに、書物の装幀(そうてい)などには余り重きを置かない。なんでも廉く買えて、それを自分の手もとに置くことの出来るのを第一義としている。
前にもいう通り、わたしが矢立と罫紙を持って、風雨を冒して郊外の蔵書家を訪問して、一生懸命に筆写して来た書物が、今日(こんにち)では何々文庫として二十銭か三十銭で容易に手に入れることが出来るのは、読書子に取って実に幸福であると云わなければならない。廉価版が善いの悪いのと贅沢をいうべきでは無い。
博文館以外にも、その当時に古書を翻刻してくれた人々は、その目的が那辺(なへん)にあろうとも、われわれに取ってはみな忘れ難い恩人であった。その人々も今は大かた此の世にいないであろう。その書物も次第に堙滅(いんめつ)して、今は古本屋の店頭にもその形をとどめなくなった。私もその翻刻書類を随分蒐集していたが、それもみな震災の犠牲になってしまったのは残り惜しい。
わたしは比較的に好運の人間で、これまでに余りひどい目に逢ったことも無かったが、震災のために、多年の日記、雑記帳、原稿のたぐいから蔵書一切を焼き失ったのは、一生一度の償(つぐな)い難き災禍であった。この恨みは綿々として尽きない。
(昭和8・3「書物展望」) 
 
回想・半七捕物帳

 

捕物帳の成り立ち
初めて「半七捕物帳」を書こうと思い付いたのは、大正五年の四月頃とおぼえています。その頃わたしはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを飛びとびに読んでいたが、全部を通読したことが無いので、丸善へ行ったついでに、シャーロック・ホームズのアドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて三冊を読み終えると、探偵物語に対する興味が油然(ゆうぜん)と湧(わ)き起って、自分もなにか探偵物語を書いてみようという気になったのです。勿論(もちろん)、その前にもヒュームなどの作も読んでいましたが、わたしを刺戟したのはやはりドイルの作です。
しかしまだ直ぐには取りかかれないので、さらにドイルの作を獲(あさ)って、かのラスト・ギャリーや、グリーン・フラダや、爐畔(ろはん)物語や、それらの短篇集を片っ端から読み始めました。しかし一方に自分の仕事があって、その頃は時事新報の連載小説の準備もしなければならなかったので、読書もなかなか捗取(はかど)らず、最初からでは約ひと月を費(ついや)して、五月下旬にようやく以上の諸作を読み終りました。
そこで、いざ書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものが無い。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新たに探偵を主としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語を書くと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞(おそ)れがあるので、いっそ純江戸式に書いたならば一種の変った味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引などの生活に就いても、ひと通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。
その年の六月三日から、まず「お文(ふみ)の魂(たましい)」四十三枚をかき、それから「石燈籠」四十枚をかき、更に「勘平の死」四十一枚を書くと、八月から国民新聞の連載小説を引き受けなければならない事になりました。時事と国民、この二つの新聞小説を同時に書いているので、捕物帳はしばらく中止の形になっていると、そのころ文芸倶楽部の編集主任をしていた森|暁紅(ぎょうこう)君から何か連載物を寄稿しろという注文があったので、「半七捕物帳」という題名の下(もと)にまず前記の三種を提出し、それが大正六年の新年号から掲載され始めたので、引きつづいてその一月から「湯屋の二階」「お化(ばけ)師匠」「半鐘の怪」「奥女中」を書きつづけました。雑誌の上では新年号から七月号にわたって連載されたのです。
そういうわけで、探偵物語の創作はこれが序開きであるので、自分ながら覚束ない手探りの形でしたが、どうやら人気になったと云うので、更に森君から続篇をかけと注文され、翌年の一月から六月にわたって又もや六回の捕物帳を書きました。その後も諸雑誌や新聞の注文をうけて、それからそれへと書きつづけたので、捕物帳も案外多量の物となって、今まで発表した物話は四十数篇あります。
半七老人は実在の人か――それに就いてしばしば問い合せを受けます。勿論、多少のモデルが無いでもありませんが、大体に於いて架空の人物であると御承知ください。おれは半七を知っているとか、半七のせがれは歯医者であるとか、或いは時計屋であるとか、甚(はなは)だしいのはおれが半七であると自称している人もあるそうですが、それは恐らく、同名異人で、わたしの捕物帳の半七老人とは全然無関係であることを断わっておきます。
前にも云った通り、捕物帳が初めて文芸倶楽部に掲載されたのは大正六年の一月で、今から振り返ると十年余りになります。その文芸倶楽部の誌上に思い出話を書くにつけて、今更のように月日の早いのに驚かされます。
(昭和2・8「文芸倶楽部」)
半七招介状
明治二十四年四月第二日曜日、若い新聞記者が浅草公園弁天山の惣菜(そうざい)(岡田)へ午飯(ひるめし)を食いにはいった。花盛りの日曜日であるから、混雑は云うまでも無い。客と客とが押し合うほどに混み合っていた。
その記者の隣りに膳をならべているのは、六十前後の、見るから元気のよい老人であった。なにしろ客が立て込んでいるので、女中が時どきにお待遠(まちどお)さまの挨拶をして行くだけで、注文の料理はなかなか運ばれて来(こ)ない。記者は酒を飲まない。隣りの老人は一本の徳利(とくり)を前に置いているが、これも深くは飲まないとみえて、退屈しのぎに猪口(ちょこ)をなめている形である。
花どきであるから他のお客様はみな景気がいい。酔っている男、笑っている女、賑やかを通り越して騒々(そうぞう)しい位であるが、そのなかで酒も飲まず、しかも独りぼっちの若い記者は唯ぼんやりと坐っているのである。隣りの老人にも連れはない。注文の料理を待っているあいだに、老人は記者に話しかけた。
「どうも賑やかですね。」
「賑やかです。きょうは日曜で天気もよし、花も盛りですから。」と、記者は答えた。
「あなたは酒を飲みませんか。」
「飲みません。」
「わたくしも若いときには少し飲みましたが、年を取っては一向(いっこう)いけません。この徳利(とっくり)も退屈しのぎに列(なら)べてあるだけで……。」
「ふだんはともあれ、花見の時に下戸(げこ)はいけませんね。」
「そうかも知れません。」と、老人は笑った。
「だが、芝居でも御覧なさい。花見の場で酔っ払っているような奴は、大抵お腰元なんぞに嫌われる敵役(かたきやく)で、白塗りの色男はみんな素面(しらふ)ですよ。あなたなんぞも二枚目だから、顔を赤くしていないんでしょう。あははははは。」
こんなことから話はほぐれて、隣り同士が心安くなった。老人がむかしの浅草の話などを始めた。老人は痩(や)せぎすの中背(ちゅうぜい)で、小粋な風采といい、流暢な江戸弁といい、紛(まぎ)れもない下町の人種である。その頃には、こういう老人がしばしば見受けられた。
「お住居は下町ですか。」と、記者は訊(き)いた。
「いえ、新宿の先で……。以前は神田に住んでいましたが、十四五年前から山の手の場末へ引っ込んでしまいまして……。馬子唄で幕を明けるようになっちゃあ、江戸っ子も型なしです。」と、老人はまた笑った。
だんだん話しているうちに、この老人は文政(ぶんせい)六年|未年(ひつじどし)の生まれで、ことし六十九歳であるというのを知って、記者はその若いのに驚かされた。
「いえ、若くもありませんよ。」と、老人は云った。「なにしろ若い時分から体(からだ)に無理をしているので、年を取るとがっくり弱ります。もう意気地はありません。でも、まあ仕合せに、口と足だけは達者で、杖も突かずに山の手から観音さままで御参詣に出て来られます。などと云うと、観音さまの罰(ばち)が中(あた)る。御参詣は附けたりで、実はわたくしもお花見の方ですからね。」
話しながら飯を食って、ふたりは一緒にここを出ると、老人はうららかな空をみあげた。
「ああ、いい天気だ。こんな花見|日和(びより)は珍らしい。わたくしはこれから向島(むこうじま)へ廻ろうと思うのですが、御迷惑でなければ一緒にお出でになりませんか。たまには年寄りのお附合いもするものですよ。」
「はあ、お供しましょう。」
二人は吾妻橋(あづまばし)を渡って向島へゆくと、ここもおびただしい人出である。その混雑をくぐって、二人は話しながら歩いた。自分はたんとも食わないのであるが、若い道連れに奢(おご)ってくれる積りらしく、老人は言問団子(ことといだんご)に休んで茶を飲んだ。この老人はまったく足が達者で、記者はとうとう梅若(うめわか)まで連れて行かれた。
「どうです、くたびれましたか。年寄りのお供は余計にくたびれるもので、わたしも若いときに覚えがありますよ。」
長い堤(つつみ)を引返して、二人は元の浅草へ出ると、老人は辞退する道連れを誘って、奴(やっこ)うなぎの二階へあがった。蒲焼で夕飯を食ってここを出ると、広小路の春の灯は薄い靄(もや)のなかに沈んでいた。
「さあ、入相(いりあい)がボーンと来る。これからがあなたがたの世界でしょう。年寄りはここでお別れ申します。」
「いいえ、わたしも真直(まっす)ぐに帰ります。」
老人の家は新宿のはずれである。記者の家も麹町である。同じ方角へ帰る二人は、門跡前(もんぜきまえ)から相乗りの人力車に乗った。車の上でも話しながら帰って、記者は半蔵門のあたりで老人に別れた。
言問では団子の馳走になり、奴では鰻の馳走になり、帰りの車代も老人に払わせたのであるから、若い記者はそのままでは済まされないと思って、次の日曜に心ばかりの手みやげを持って老人をたずねた。その家のありかは、新宿といってもやがて淀橋に近いところで、その頃はまったくの田舎であった。先日聞いておいた番地をたよりに、尋ねたずねて行き着くと、庭は相当に広いが、四間(よま)ばかりの小さな家に、老人は老婢(ばあや)と二人で閑静に暮らしているのであった。
「やあ、よくおいでなすった。こんな処は堀の内のお祖師(そし)さまへでも行く時のほかは、あんまり用のない所で……。」と、老人は喜んで記者を迎えてくれた。
それが縁となって、記者はしばしばこの老人の家を尋ねることになった。老人は若い記者にむかって、いろいろのむかし話を語った。老人は江戸以来、神田に久しく住んでいたが、女房に死に別れてからここに引込んだのであるという。養子が横浜で売込商のようなことをやっているので、その仕送りで気楽に暮らしているらしい。江戸時代には建具屋を商売にしていたと、自分では説明していたが、その過去に就いては多く語らなかった。
老人の友達のうちに町奉行所の捕方(とりかた)すなわち岡っ引の一人があったので、それからいろいろの捕物の話を聞かされたと云うのである。
「これは受け売りですよ。」
こう断わって、老人は「半七捕物帳」の材料を幾つも話して聞かせた。若い記者はいちいちそれを手帳に書き留めた。――ここまで語れば大抵判るであろうが、その記者はわたしである。但し、老人の本名は半七ではない。
老人の話が果たして受け売りか、あるいは他人に托して自己を語っているのか、おそらく後者であるらしく想像されたが、彼はあくまでも受け売りを主張していた。老人は八十二歳の長命で、明治三十七年の秋に世を去った。その当時、わたしは日露戦争の従軍新聞記者として満洲に出征していたので、帰京の後にその訃(ふ)を知ったのは残念であった。
「半七捕物帳」の半七老人は実在の人物であるか無いかという質問に、わたしはしばしば出逢うのであるが、有るとも無いとも判然(はっきり)と答え得ないのは右の事情に因るのである。前にも云う通り、かの老人の話が果たして受け売りであれば、半七のモデルは他にある筈である。もし彼が本人であるならば、半七は実在の人物であるとも云い得る。いずれにしても、わたしはかの老人をモデルにして半七を書いている。住所その他は私の都合で勝手に変更した。
但し「捕物帳」のストーリー全部が、かの老人の口から語られたのではない。他の人々から聞かされた話もまじっている。その話し手をいちいち紹介してはいられないから、ここでは半七のモデルとなった老人を紹介するにとどめて置く。
(昭和11・8「サンデー毎日」) 
 
歯なしの話

 

七月四日、アメリカ合衆国の独立記念日、それとは何の関係もなしに、左の上の奥歯二枚が俄かに痛み出した。歯の悪いのは年来のことであるが、今度もかなりに痛む。おまけに六日は三十四度という大暑、それやこれやに悩まされて、ひどく弱った。
九日は帝国芸術院会員が初度の顔合せというので、私も文相からの案内を受けて、一旦は出席の返事を出しておきながら、更にそれを取消して、当夜はついに失礼することになった。歯はいよいよ痛んで、ゆるぎ出して、十一日には二枚ながら抜けてしまった。
わたしの母は歯が丈夫で、七十七歳で世を終るまで一枚も欠損せず、硬い煎餅でも何でもバリバリと齧(かじ)った。それと反対に、父は歯が悪かった。ややもすれば歯痛に苦しめられて、上下に幾枚の義歯を嵌(は)め込んでいた。その義歯は柘植(つげ)の木で作られていたように記憶している。私は父の系統をひいて、子供の時から齲歯(むしば)の患者であった。
思えば六十余年の間、私はむし歯のために如何ばかり苦しめられたかわからない。むし歯は自然に抜けたのもあり、医師の手によって抜かれたのもあり、年々に脱落して、現在あます所は上歯二枚と下歯六枚、他はことごとく入歯である。その上歯二枚が一度に抜けたのであるから、上頤(うわあご)は完全に歯なしとなって、総入歯のほかはない。
世に総入歯の人はいくらもある。現にわたしの親戚知人のうちにも幾人かを見いだすのであるが、たとい一枚でも二枚でも自分の生歯があって、それに義歯を取付けているうちは、いささか気丈夫であるが、それがことごとく失われたとなると、一種の寂寥(せきりょう)を覚えずにはいられない。大きくいえば、部下全滅の将軍と同様の感がある。
馬琴(ばきん)も歯が悪かった。「里見八犬伝」の終りに記されたのによると、「逆上(のぼぜ)口痛の患ひ起りしより、年五十に至りては、歯はみな年々にぬけて一枚もあらずなりぬ」とある。馬琴はその原因を読書執筆の過労に帰しているが、単に過労のためばかりでなく、生来が歯質の弱い人であったものと察せられる。五十にして総入歯になった江戸時代の文豪にくらべれば、私などはまだ仕合せの方であるかも知れないと、心ひそかに慰めるのほかはない。殊に江戸時代と違って、歯科の技術も大いに進歩している今日に生まれ合せたのは、更に仕合せであると思わなければならない。それにしても、前にいう通り、一種の寂寥の感は消えない。
私をさんざん苦しめた後に、だんだんに私を見捨てて行く上歯と下歯の数(かず)かず、その脱落の歴史については、また数かずの思い出がある。それをいちいち語ってもいられず、聞いてくれる人もあるまいが、そのなかで最も深く私の記憶に残っているのは、奥歯の上一枚と下一枚の抜け落ちた時である。いずれも右であった。
北支事変の風雲急なる折柄、殊にその記憶がまざまざと甦(よみがえ)って来るのである。
明治三十七年、日露戦争の当時、わたしは従軍新聞記者として満洲の戦地へ派遣されていた。遼陽陥落の後、私たちの一行六人は北門外の大紙房(ターシーファン)という村に移って、劉という家の一室に止宿していたが、一室といっても別棟の広い建物で、満洲普通の農家ではあるが、比較的清浄に出来ているので、私たちは喜んでそこにひと月ほどを送った。
先年の震災で当時の陣中日記を焼失してしまったので、正確にその日を云い得ないが、なんでも九月二十日前後とおぼえている。四十歳ぐらいの主人がにこにこしながらはいって来て、今夜は中秋(ちゅうしゅう)であるから皆さんを招待したいという。私たちは勿論承知して、今夜の宴に招かれることになった。
山中ばかりでなく、陣中にも暦日(れきじつ)がない。まして陰暦の中秋などは我々の関知する所でなかったが、二、三日前から宿の雇人らが遼陽城内へしばしば買物に出てゆく。それが中秋の月を祭る用意であることを知って、もう十五夜が来るのかと私たちも初めて気がついた。それがいよいよ今夜となって、私たちはその御馳走に呼ばれたのである。ここの家は家族五人のほかに雇人六人も使っていて、まず相当の農家であるらしいので、今夜は定めて御馳走があるだろうなどと、私たちはすこぶる嬉しがって、日の暮れるのを持ち構えていた。
きょうは朝から快晴で、満洲の空は高く澄んでいる。まことに申し分のない中秋である。午後六時を過ぎた頃に、明月が東の空に大きく昇った。ここらの月は銀色でなく、銅色である。それは大陸の空気が澄んでいるためであると説明する人もあったが、うそか本当か判らない。いずれにしても、銀盤とか玉盤とか形容するよりも、銅盤とか銅鏡とかいう方が当っているらしい。それが高く闊(ひろ)い碧空に大きく輝いているのである。
この家の主人夫婦、男の児、女の児、主人の弟、そのほかに幾人の雇人らが袖をつらねて門前に出た。彼らは形を正して、その月を拝していた。それから私たちを母屋(おもや)へ招じ入れて、中秋の宴を開くことになったが、案の如くに種々の御馳走が出た。豚、羊、鶏、魚、野菜のたぐい、あわせて十種ほどの鉢や皿が順々に運び出されて、私たちは大いに満腹した。そうしてお世辞半分に「好々的(ホーホーデー)」などと叫んだ。
宴会は八時半頃に終って、私たちは愉快にこの席を辞して去った。中には酩酊して、自分たちの室(へや)へ帰ると直ぐに高鼾(たかいびき)で寝てしまった者もあった。あるいは満腹だから少し散歩して来るという者もあった。私も容易に眠られなかった。それは満腹のためばかりでなく、右の奥の下歯が俄かに痛み出したのである。久し振りで種々の御馳走にあずかって、いわゆる餓虎(がこ)の肉を争うが如く、遠慮もお辞儀もなしに貪(むさぼ)り食らった祟(たた)りが忽ちにあらわれ来たったものと知られたが、軍医部は少し離れているので、薬をもらいに行くことも出来ない。持ち合せの宝丹を塗ったぐらいでは間に合わない。私はアンペラの敷物の上にころがって苦しんだ。
歯はいよいよ痛む。いっそ夜風に吹かれたらよいかも知れないと思って、私はよほど腫(は)れて来たらしい右の頬をおさえながら、どこを的(あて)ともなしに門外まで迷い出ると、月の色はますますあかるく、門前の小川の水はきらきらと輝いて、堤の柳の葉は霜をおびたように白く光っていた。
わたしは夜なかまでそこらを歩きまわって、二度も歩哨の兵士にとがめられた。宿へ帰って、午前三時頃から疲れて眠って、あくる朝の六時頃、洗面器を裏手の畑へ持ち出して、寝足らない顔を洗っていると、昨夜来わたしを苦しめていた下歯一枚がぽろりと抜け落ちた。私は直ぐにそれをつまんで白菜(パイサイ)の畑のなかに投げ込んだ。そうして、ほっとしたように見あげると、今朝の空も紺青(こんじょう)に高く晴れていた。
もう一つの思い出は、右の奥の上歯一枚である。
大正八年八月、わたしが欧洲から帰航の途中、三日ばかりは例のモンスーンに悩まされて、かなり難儀の航海をつづけた後、風雨もすっかり収まって、明日はインドのコロンボに着くという日の午後である。
私はモンスーン以来痛みつづけていた右の奥歯のことを忘れたように、熱海丸の甲板を愉快に歩いていた。船医の治療を受けて、きょうの午(ひる)頃から歯の痛みも全く去ったからである。食堂の午飯(ひるめし)も今日は旨く食べられた。暑いのは印度洋であるから仕方がない。それでも空は青々と晴れて、海の風がそよそよと吹いて来る。暑さにゆだって昼寝でもしているのか、甲板に散歩の人影も多くない。
モンスーンが去ったのと歯の痛みが去ったのと、あしたはインドへ着くという楽しみとで、私は何か大きい声で歌いたいような心持で、甲板をしばらく横行闊歩していると、偶然に右の奥の上歯が揺らぐように感じた。今朝まで痛みつづけた歯である。指でつまんで軽く揺すってみると、案外に安々と抜けた。
なぜか知らないが、その時の私はひどく感傷的になった。何十年の間、甘い物も食った。まずい物も食った。八百善の料理も食った。家台店のおでんも食った。そのいろいろの思い出がこの歯一枚をめぐって、廻り燈籠のように私の頭のなかに閃(ひらめ)いて通った。
私はその歯を把(と)って海へ投げ込んだ時、あたかも二|尾(ひき)の大きい鱶(ふか)が蒼黒い背をあらわして、船を追うように近づいて来た。私の歯はこの魚腹に葬られるかと見ていると、鱶はこんな物を呑むべく余りに大きい口をあいて、厨(くりや)から投げあたえる食い残りの魚肉を猟(あさ)っていた。私の歯はそのまま千尋(ちひろ)の底へ沈んで行ったらしい。わたしはまだ暮れ切らない大洋の浪のうねりを眺めながら、暫くそこに立ち尽くしていた。
前の下歯と後の上歯と、いずれもそれが異郷の出来事であった為に、記憶に深く刻まれているのであろうが、こういう思い出はとかくにさびしい。残る下歯六枚については、余り多くの思い出を作りたくないものである。
(昭和12・7「報知新聞」) 
 
我が家の園芸

 

上目黒へ移ってから三年目の夏が来るので、彼岸(ひがん)過ぎから花壇の種蒔(たねま)きをはじめた。旧市外であるだけに、草花類の生育は悪くない。種をまいて相当の肥料をあたえて置けば、まず普通の花は咲くので、われわれのような素人でも苦労はないわけである。
そこで、毎年欲張って二十種ないし三十種の種をまいて、庭一面を藪(やぶ)のようにしているのであるが、それでは藪蚊の棲み家を作るおそれがあるので、今年はあまり多くを蒔かないことにした。それでも糸瓜(へちま)と百日草だけは必ず栽えようと思っている。
わたしは昔の人間であるせいか、西洋種の草花はあまり好まない。チューリップ、カンナ、ダリアのたぐいも多少は栽えるが、それに広い地面を分譲しようとは思わない。日本の草花でも優しげな、なよなよしたものは面白くない。桔梗(ききょう)や女郎花(おみなえし)のたぐいは余り愛らしくない。わたしの最も愛するのは、糸瓜と百日草と薄(すすき)、それに次いでは日まわりと鶏頭(けいとう)である。
こう列べたら、大抵の園芸家は大きな声で笑い出すであろう。岡本綺堂という奴はよくよくの素人で、とてもお話にはならないと相場を決められてしまうに相違ない。わたしもそれは万々(ばんばん)承知しているが、心にもない嘘をつくわけには行かないから、正直に告白するのである。まあ、笑わないで聴いて貰いたい。
まず第一には糸瓜である。私はむかしから糸瓜をおもしろいものとして眺めていたが、自分の庭に栽えるようになったのは十年以来のことで、震災以後、大久保百人町に仮住居(かりずまい)をしている当時、庭のあき地を利用して、唐蜀黍(とうもろこし)の畑を作り、糸瓜の棚を作った。その棚はわたし自身が書生を相手にこしらえたもので、素人の作った棚が無事に保(も)つかといささか不安を感じていたところが、棚はその秋の強い風雨にも恙(つつが)なく、糸瓜の蔓も葉も思うさま伸びて拡がって、大きい実が十五、六もぶらりと下がったので、私たちは子供のように手をたたいて嬉しがった。
その翌年の夏、銀座の天金の主人から、暑中見舞いとして式亭三馬(しきていさんば)自画讃の大色紙の複製を貰った。それは糸瓜でなく、夕顔の棚の下に農家の夫婦が涼んでいる図で、いわゆる夕顔棚の下涼みであろう。それに三馬自筆の狂歌が書き添えてある。
なりひさご、なりにかまはず、すゞむべい
風のふくべの木蔭たづねて
これを見て、わたしは再び糸瓜の棚が恋しくなったが、その頃はもう麹町の旧宅地へ戻っていたので、市内の庭には糸瓜を栽えるほどの余地をあたえられなかった。そのまま幾年を送るうちに、一昨年から上目黒へ移り住むことになったので、今度は本職の植木屋に頼んで相当の棚を作らせると、果たして其の年の成績はよかった。昨年の出来もよかった。
わたしの家ばかりでなく、ここらには同好の人々が多いとみえて、所々に糸瓜を栽えている。棚を作っているのもあり、あるいは大木にからませているのもあり、軒から家根へ這わせているのもあるから、皆それぞれにおもしろい。由来、糸瓜というものはぶらりと下がっている姿が、なんとなく間が抜けて見えるので、とかくに軽蔑される傾きがあって、人を罵る場合にも「へちま野郎」などと云うが、そのぶらりとしたところに一種の俳味があり、一種の野趣があることを知らなければならない。その実ばかりでなく、大きい葉にも、黄いろい花にも野趣|横溢(おういつ)、静かにそれを眺めていると、まったく都会の塵(ちり)の浮世を忘れるの感がある。糸瓜を軽蔑する人々こそ却って俗人ではあるまいかと思う。
次は百日草で、これも野趣に富むがために、一部の人々からは安っぽく見られ易いものである。梅雨のあける頃から花をつけて、十一月の末まで咲きつづけるのであるから、実に百日以上である上に、紅、黄、白などの花が続々と咲き出すのは、なんとなく爽快の感がある。元来が強い草であるから、蒔きさえすれば生える、生えれば伸びる、伸びれば咲く。花壇などには及ばない、垣根の隅でも裏手の空地でも簇々(そうそう)として発生する。あまりに強く、あまりに多いために、ややもすれば軽蔑され勝ちの運命にあることは、かの鳳仙花(ほうせんか)などと同様であるが、わたしは彼を愛すること甚だ深い。
炎天の日盛りに、彼を見るのもいいが、秋の露がようやく繁く、こおろぎの声がいよいよ多くなる時、花もますますその色を増して、明るい日光の下(もと)に咲き誇っているのは、いかにも鮮(あざや)かである。しょせんは野人の籬落(まがき)に見るべき花で、富貴の庭に見るべきものではあるまいが、われわれの荒庭には欠くべからざる草花の一種である。
その次は薄(すすき)で、これには幾多の種類があるが、普通に見られるのは糸すすき、縞すすき、鷹の羽すすきに過ぎない。しかも私の最も愛好するのは、そこらに野生の薄である。これは宿根(しゅっこん)の多年草であるが、もとより種まきの世話もなく、年々歳々生い茂って行くばかりである。野生のすすきは到るところに繁茂しているので、ひと口にカヤと呼ばれてほとんど園芸家には顧みられず、人家の庭に栽えるものでは無いとさえも云われているが、絵画や俳句ではなかなか重要の題材と見なされている。
十郎の簑(みの)にや編まん青薄
これは角田竹冷(すみたちくれい)翁の句であるが、まったく初夏の青すすきには優しい風情がある。それが夏を過ぎ、秋に入ると、ほとんど傍若無人ともいうべき勢いで生い拡がってゆく有様、これも一種の爽快を感ぜずにはいられない。殊に尾花がようやく開いて、朝風の前になびき、夕月の下(もと)にみだれている姿は、あらゆる草花のうちで他にたぐいなき眺めである。
すすきは夏もよし、秋もよいが、冬の霜を帯びた枯れすすきも、十分の画趣と詩趣をそなえている。枯れかかると直ぐに刈り取って風呂の下に投げ込むような徒(やから)は倶(とも)に語るに足らない。しかも商売人の植木屋とて油断はならない。現に去年の冬の初めにも、池のほとりの枯れすすきを危うく刈り取られようとするのを発見して、わたしがあわてて制止したことがある。彼らもこの愛すべき薄を無名の雑草なみに取扱っているらしい。
市内の狭い庭園は薄を栽えるに適しないので、わたしは箱根や湯河原(ゆがわら)などから持ち来たって移植したが、いずれも年々に痩せて行くばかりであった。上目黒に移ってから、近所の山や草原や川端をあさって、野生の大きい幾株を引き抜いて来た。誰も知っていることであろうが、薄の根を掘るのはなかなかの骨折り仕事で、書生もわたしもがっかりしたが、それでもどうにか引き摺って来て、池のほとり、垣根の隅、到るところに栽え込むと、ここらはさすがに旧郊外だけに、その生長はめざましく、あるものは七、八尺の高きに達して、それが白馬の尾髪をふり乱したような尾花をなびかせている姿は、わが家の庭に武蔵野の秋を見る心地(ここち)である。あるものは小さい池の岸を掩って、水に浮かぶ鯉(こい)の影をかくしている。あるものは四つ目垣に乗りかかって、その下草を圧している。生きる力のこれほどに強大なのを眺めていると、自分までがおのずと心強いようにも感じられて来るではないか。
すすきに次いで雄姿堂々たる草花は、鶏頭(けいとう)と向日葵(ひまわり)である。いずれも野生的であり、男性的であること云うまでも無い。ひまわりも震災直後はバラックの周囲に多く栽えられて一種の壮観を呈していたが、区画整理のおいおい進捗(しんちょく)すると共に、その姿を東京市内から消してしまって、わずかに場末の破(や)れた垣根のあたりに、二、三本ぐらいずつ栽え残されているに過ぎなくなった。しかも盛夏の赫々(かっかく)たる烈日のもとに、他の草花の凋(しお)れ返っているのをよそに見て、悠然とその大きい花輪をひろげているのを眺めると、暑い暑いなどと弱ってはいられないような気がする。
鶏頭も美しいものである。これにも種々あるらしいが、やはり普通の深紅(しんく)色がよい。オレンジ色も美しい。これも初霜の洗礼を受けて、その濃い色を秋の日にかがやかしながら、見あぐるばかりに枝や葉を高く大きくひろげた姿は、まさに目ざましいと礼讃(らいさん)するほかは無い。わたしの庭ばかりでなく、近所の籬(まがき)には皆これを栽えているので、秋日散歩の節には諸方の庭をのぞいて歩く。それが私の一つの楽しみである。葉鶏頭は鶏頭に比してやや雄大のおもむきを欠くが、天然の錦を染め出した葉の色の美しさは、なんとも譬(たと)えようがない。しかも私の庭の葉鶏頭は、どういうわけか年々の成績がよろしくない。他からいい種を貰って来ても、余り立派な生長を遂げない。私はこれのみを遺憾(いかん)に思っている。
わたしの庭の草花は勿論これにとどまらないが、わたしの最も愛するものは以上の数種で、いずれも花壇に栽えられているものでは無い。それにつけても、考えられるのは自然の心である。自然は人の労力を費すこと少なく、物資を費すこと少なきものを択(えら)んで、最も面白く、最も美しく作っている。それは人間にあたえられる自然の恩恵である。人間はその恩恵にそむいて、無用の労力を費し、無用の時間を費し、無用の金銭を費して、他の変り種のような草花の栽培にうき身をやつしているのである。そうして、自然の恩恵を無条件に受け入れて楽しむものを、あるいは素人と云い、あるいは俗物と嘲(あざけ)っているのである。こう云うのはあながちに私の負け惜しみではあるまい。
(昭10・3「サンデー毎日」) 
 
最後の随筆

 

目黒の寺
住み馴れた麹町を去って、目黒に移住してから足かけ六年になる。そのあいだに「目黒町誌」をたよりにして、区内の旧蹟や名所などを尋ね廻っているが、目黒もなかなか広い。殊に新市域に編入されてからは、碑衾町(ひぶすまちょう)をも包含することになったので、私のような出不精の者には容易に廻り切れない。
ほかの土地はともあれ、せめて自分の居住する区内の地理だけでもひと通りは心得て置くべきであると思いながら、いまだに果たし得ないのは甚だお恥かしい次第である。その罪ほろぼしと云うわけでもないが、目黒の寺々について少しばかり思い付いたことを書いてみる。
目黒には有名な寺が多い。まず第一には目黒不動として知られている下目黒の瀧泉寺、祐天上人開山として知られている中目黒の祐天(ゆうてん)寺、政岡の墓の所在地として知られている上目黒の正覚寺などを始めとして、大小十六の寺院がある。私はまだその半分ぐらいしか尋(たず)ねていないので、詳しいことを語るわけには行かないが、いずれも由緒の古い寺々で、旧市内の寺院とはおのずから其の趣を異にし、雑沓(ざっとう)を嫌う私たちにはよい散歩区域である。ただ、どこの寺でも鐘を撞(つ)かないのがさびしい。
目黒には寺々あれど鐘鳴らず
鐘は鳴らねど秋の日暮るる
前にいった瀧泉寺門前の料理屋|角伊勢(かどいせ)の庭内に、例の権八(ごんぱち)小紫(こむらさき)の比翼塚(ひよくづか)が残っていることは、江戸以来あまりにも有名である。近頃はここに花柳界も新しく開けたので、比翼塚に線香を供える者がますます多くなったらしい。さびしい目黒村の古塚の下に、久しく眠っていた恋人らの魂も、このごろの新市内の繁昌には少しく驚かされているかも知れない。
正覚寺にある政岡の墓地には、比翼塚ほどの参詣人を見ないようであるが、近年その寺内に裲襠(うちかけ)姿の大きい銅像が建立(こんりゅう)されて、人の注意を惹くようになった。云うまでもなく、政岡というのは芝居の仮名(かめい)で、本名は三沢初子である。初子の墓は仙台にもあるが、ここが本当の墳墓であるという。いずれにしても、小紫といい、政岡といい、芝居で有名の女たちの墓地が、さのみ遠からざる所に列んでいるのも、私にはなつかしく思われた。
草青み目黒は政岡小むらさき
芝居の女のおくつき所
寺を語れば、行人坂(ぎょうにんざか)の大円寺をも語らなければならない。行人坂は下目黒にあって、寛永(かんえい)の頃、ここに湯殿山(ゆどのさん)行人派の寺が開かれた為に、坂の名を行人と呼ぶことになったという。そんな考証はしばらく措(お)いて、目黒行人坂の名が江戸人にあまねく知られるようになったのは、明和(めいわ)年間の大火、いわゆる行人坂の火事以来である。
行人坂の大円寺に、通称|長五郎(ちょうごろう)坊主という悪僧があった。彼は放蕩破戒(ほうとうはかい)のために、住職や檀家に憎まれたのを恨んで、明和九年二月二十八日の正午頃、わが住む寺に放火した。折りから西南の風が強かったので、その火は白金(しろかね)、麻布(あざぶ)方面から江戸へ燃えひろがり、下町全部と丸(まる)の内(うち)を焼いた。江戸開府以来の大火は、明暦(めいれき)の振袖火事と明和の行人坂火事で、相撲(すもう)でいえば両横綱の格であるから、行人坂の名が江戸人の頭脳に深く刻み込まれたのも無理はなかった。
そういう歴史も現代の東京人に忘れられて、坂の名のみが昔ながらに残っている。
かぐつちは目黒の寺に祟(たた)りして
長五郎坊主江戸を焼きけり
瀧泉寺には比翼塚以外に有名の墓があるが、これは比較的に知られていない。遊女の艶話(つやばなし)は一般に喧伝(けんでん)され易く、学者の功績はとかく忘却され易いのも、世の習いであろう。それはいわゆる甘藷(かんしょ)先生の青木昆陽(あおきこんよう)の墓である。もっとも、境内の丘上と丘下に二つの碑が建てられていて、その一は明治三十五年中に、芝・麻布・赤坂三区内の焼芋商らが建立したもの、他は明治四十四年中に、都下の名士、学者、甘藷商らによって建立されたものである。
こういうわけで、甘藷先生が薩摩芋移植の功労者であることは、学者や一部の人々のあいだには長く記憶されているが、一般の人はなんにも知らず、不動参詣の女たちも全く無頓着で通り過ぎてしまうのは、残念であると云わなければなるまい。
芋食ひの美少女(うましおとめ)ら知るや如何(いか)に
目黒に甘藷先生の墓
(昭和13・10「短歌研究」)
燈籠流し
病後静養のために箱根に転地、強羅(ごうら)の一福(いちふく)旅館に滞在。七月下旬のある日、散歩ながら強羅停車場へ出てゆくと三十一日午後七時から蘆(あし)の湖(こ)で燈籠(とうろう)流しを催すという掲示があって、雨天順延と註されていた。
けさの諸新聞の神奈川(かながわ)版にも同様の記事が掲げられていたのを、私は思い出した。宿へ帰って訊(き)いてみると、蘆の湖の燈籠流しは年々の行事で、八月一日は箱根神社の大祭、その宵宮(よみや)に催されるものであるという。
さらに案内記を調べると、今より一千一百余年前の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)年間に満巻上人という高僧が箱根権現の社(やしろ)に留(とど)まっていた。湖水の西の淵(ふち)には九つの頭を有する悪龍が棲んでいて、土地の少女を其の生贄(いけにえ)として取り啖(くら)っていたが、満巻上人の神呪(しんじゅ)によってさすがの悪龍も永く蟄伏(ちっぷく)し、少女の生贄に代えて赤飯(せきはん)を供えることになった。それが一種の神事となって今も廃(すた)れず、大祭当日には赤飯を入れた白木の唐櫃(からびつ)を舟にのせて湖心に漕ぎ出で、神官が祝詞(のりと)を唱えてそれを水中に沈めるのを例とし、その前夜に燈籠流しを行なうことは前に云った通りである。
流燈の由来はそれで判った。ともかくも一度は見て置こうかと思っていると、三十日の夜に額田六福(ぬかだろっぷく)が熱海から廻って来た。額田も私の話を聴かされて、あしたの晩は一緒に行こうという。しかも三十一日の当日は朝のうちに俄雨、午後は曇天で霧が深い。元箱根までわざわざ登って行って、雨天順延では困ると、二人はすこしく躊躇していたが、恐らく雨にはなるまいと土地の人たちが云うのに励まされて、七時頃から二人は自動車に乗って出た。
箱根遊船会社が拓(ひら)いたという専用道路をのぼって行くと、一路平坦、殊に先刻から懸念していた山霧は次第に晴れて、陰暦五日の月があらわれたので、まず安心とよろこんでいると、湖尻(うみじり)に着いた頃から燈籠の光がちらちら見えはじめた。元箱根に行き着くと、町はなかなか賑わっている。大祭を当込みの露店商人が両側に店をならべて、土地の人々と遊覧の人々の往来しげく、山の上とは思えないような雑沓である。昔も相当に繁昌したのではあろうが、所詮(しょせん)は蕭条(しょうじょう)たる山上の孤駅、その繁昌は今日の十分の一にも及ばなかったに相違ない。
満巻上人のむかしは勿論、曾我五郎の箱王丸(はこおうまる)が箱根権現に勤めていたのも遠い昔であるから、それらの時代の回顧はしばらく措(お)いて近世の江戸時代になっても、箱根の関守(せきもり)たちはどの程度の繁昌をこの夜に見出したであろうか。第一に湖畔の居住者が少ない。遊覧客も少ない。今日では流燈の数およそ一千箇と称せられているが、その燈籠の光も昔はさびしいものであったろうと察せられる。
往来ばかりでなく、湖畔の旅館はみな満員である。私たちは車を降りて、空(す)いていそうな旅館にはいると、ここもやはり満員、広い食堂に椅子をならべて見物席にあててあるが、飲みながら観る者、食いながら観るもの、隅から隅まで押合うような混雑で、芸妓らもまじって騒いでいる。東宝映画の一行もここに陣取って、しきりに撮影の最中であった。
燈籠は五色で、たなばたの色紙のようなもので貼られてある。それが大きい湖水の上に星のごとく乱れているのであるから、いかにも一種の壮観と云い得る。燈籠を流す舟のほかに、囃子の舟もまじっていて、太鼓の音が水にひびいて遠く近くきこえる。またそのあいだを幾艘の大きい遊覧船が満艦飾というように燈籠をかけつらね遊覧客を乗せて漕ぎ廻っている。まずは両国(りょうごく)の川開きともいうべき、華やかな夜の光景である。
満巻上人に祈り伏せられた悪龍は、その後ふたたび姿をみせないが、九頭龍(くずりゅう)明神と呼ばれて、今も蘆の湖の神と仰がれている。大祭の前夜に行なわれる燈籠流しも、この九頭龍明神を祭るが為であるという。湖水の底に棲む龍神は、今夜の繁昌をいかに眺めているであろうか。神も恐らく今昔の感に堪(た)えないであろう。
燈籠流しは九時半ごろに終った。今まで湖上を照らしていた沢山(たくさん)の燈籠の火が一つ消え、二つ消えて、水は次第に暗くなった。舟の囃子もやんで、いつの間にか月も隠れた。見物の人々もおいおいに散って、岸の灯かげも薄くなった。私は云い知れない寂寥をおぼえて、闇の色の深くなり行く湖上を暫く眺めていた。
夜ふけに強羅まで戻るのも億劫(おっくう)であるので、私たちはここに一泊、ほかの座敷にはほとんど徹夜で騒いでいる客もあった。夜があけると、昨夜の流燈はことごとく片付けられて、湖上には全くその影を見せなかった。誰が拾って来たのか、燈籠の一つが食堂のテーブルの上に置かれてあったので、私は手に取って眺めていると、拭(ぬぐ)ったような湖面は俄かに暗くなって、例の驟雨(しゅうう)がさっと降り出して来た。その雨のなかを何処(どこ)かで日ぐらしが啼いていた。
(昭和13・10「文藝春秋」) 
 
4 読み物  

 

番町皿屋敷
一 
「桜はよく咲いたのう」
二十四五歳かとも見える若い侍が麹町(こうじまち)の山王(さんのう)の社頭の石段に立って、自分の頭の上に落ちかかって来るような花の雲を仰いだ。彼は深い編笠(あみがさ)をかぶって、白柄(しろつか)の大小を横たえて、この頃|流行(はや)る伊達羽織(だてばおり)を腰に巻いて、袴(はかま)の股立(ももだ)ちを高く取っていた。そのあとには鎌髭(かまひげ)のいかめしい鬼奴(おにやっこ)が二人、山王の大華表(おおとりい)と背比べでもするようにのさばり返って続いて来た。
主人の言葉の尾について、奴の一人がわめいた。
「まるで作り物のようでござりまする。七夕の紅(あか)い色紙を引裂いて、そこらへ一度に吹き付けたら、こうもなろうかと思われまする」
「はて、むずかしいことをいう奴じゃ」と、ほかの一人が大口をあいて笑った。「それよりもひと口に、祭の軒飾りのようじゃといえ。わはははは」
他愛もない冗談をいいながら、三人は高い石段を降り切って、大きい桜の下で客を呼んでいる煎茶の店に腰を卸した。茶店には二人の先客があった。二人ともに長い刀を一本打ち込んで、一人はこれ見よがしの唐犬(とうけん)びたいをうららかな日の光に晒(さら)していた。一人はほうろく頭巾(ずきん)をかぶっていた。彼等は今はいって来た三人の客をじろりと見て、何か互いにうなずき合っていた。
それには眼もくれないように、侍と奴どもは悠々と茶をのんでいた。明暦(めいれき)初年三月半ばで、もう八つ(午後二時)過ぎの春の日は茶店の浅いひさしを滑って、桜の影を彼等の足もとに黒く落していた。
「おい、姐(ねえ)や。こっちへももう一杯くれ」と、唐犬びたいが声をかけた。茶の所望である。茶店の娘はすぐに茶を汲(く)んで持ってゆくと、彼はその茶碗を口もとまで押し付けて、わざとらしく鼻を皺(しわ)めた。
「や、こりゃ熱いわ。天狗道(てんぐどう)へでも堕(お)ちたかして、飲もうとする茶が火になった。こりゃ堪(たま)らねえぞ」
彼はさも堪らぬというように喚(わめ)き立てて、その茶碗の茶を侍の足下へざぶりと打ちまけた。それが如何(いか)にもわざとらしく見えたので、相手の侍よりも家来の奴どもが一度に突っ立った。
「やあ、こいつ無礼な奴。何で我等の前に茶をぶちまけた」
「こう見たところが疎匆(そそう)でない。おのれ等、喧嘩(けんか)を売ろうとするか」
相手も全くその積りであったらしい。鬼のような奴どもに叱(しか)り付けられても、二人ながらびくともしなかった。彼等はせせら笑いながら空うそぶいた。
「売ろうが売るめえがこっちの勝手だ。買いたくなけりゃあ買わねえまでだ」
「一文奴の出しゃばる幕じゃあねえ。引っ込んでいろ。こっちはてめえ達を相手にするんじゃあねえ」
「然(しか)らば身どもを相手と申すか」
侍は編笠をはらりと脱(と)った。彼は人品の好い、色の白い、眼の大きい、髭の痕(あと)の少し青い、いかにも男らしい立派な侍であった。
「仔細(しさい)もなしに喧嘩(けんか)を売る。おのれ等のような無落戸漢(ならずもの)が八百八町にはびこればこそ、公方(くぼう)様お膝元(ひざもと)が騒がしいのだ」と、彼は向き直って相手の顔を睨(にら)んだ。
唐犬びたいのひと群れが最初からこの侍に向って喧嘩を売る下心があったことは、次の事実に因(よ)っていよいよ証明された。唐犬びたいとほうろく頭巾のほかに、まだ三人の仲間が侍たちのあとをつけて来て、桜のかげに先刻から様子を窺(うかが)っていたのであった。その中の親分らしい三十前後の男が、この時に双方の間につかつかと出て来た。
「仔細もなしに咬(か)み付くような、そんな病犬(やまいぬ)は江戸にゃあいねえや」と、彼は侍を尻目にかけていった。「白柄組(しらつかぐみ)とか名をつけて、町人どもを嚇(おど)して歩く、水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)が仲間のお侍で、青山播磨(あおやまはりま)様と仰(おっ)しゃるのは、たしかあなたでごぜえましたね」
彼の鑑定通り、この若い侍は番町(ばんちょう)に屋敷を持っている七百石の旗本の青山播磨であった。彼が水野十郎左衛門を頭に頂く白柄組の一人であることは、その大小の柄の色を見ても覚(さと)られた。事件の進行を急ぐ必要上、ここで白柄組の成立ちを詳しく説明している暇がない。又詳しく説明する必要もあるまい。ここでは唯、旗本の侍どもから組織されている白柄組や神祇組(じんぎぐみ)のたぐいが、町人の侠客(きょうかく)の集団であるいわゆる町奴の群れと、日頃からとかくに睨み合いの姿であったことを簡単に断わっておきたい。殊にこの年の正月、木挽町(こびきちょう)の山村座(やまむらざ)の木戸前で、水野の白柄組と幡随長兵衛(ばんずいちょうべえ)の身内の町奴どもと、瑣細(ささい)のことから衝突を来したのが根となって、互いの意趣がいよいよ深くなった。
その矢先に青山播磨は権次(ごんじ)、権六(ごんろく)という二人の奴を供に連れて、今日の朝から青山の縁者をたずねて、そこで午飯(ひるめし)の振舞をうけて、その帰りに山王の社に参詣ながら桜見物に来たのであった。そこへ丁度長兵衛の子分どもが参詣に来合せたので、彼等の中で大|哥分(あに)と立てられている放駒(はなれごま)の四郎兵衛(しろべえ)が先立ちになって、ここで白柄組の若い侍と奴とに、喧嘩を売ろうとするのであった。こちらも売る喧嘩をおとなしく避けて通すような播磨ではなかった。殊に自分を白柄組の青山播磨と知って喧嘩をいどんで来る以上、彼は勿論(もちろん)その相手になるのを嫌わなかった。
「白柄組の一人と知って喧嘩を売るからは、さてはおのれ等は花川戸(はなかわど)の幡随長兵衛が手下のものか」
問われて、四郎兵衛は自分の名をいった。この時代の町奴の習いとして、その他の者共も並木(なみき)の長吉(ちょうきち)、橋場(はしば)の仁助(にすけ)、聖天(しょうでん)の万蔵(まんぞう)、田町(たまち)の弥作(やさく)と誇り顔に一々名乗った。もうこうなっては敵も味方も無事に別れることの出来ない破目になった。播磨は大小の白柄に対して、奴は面の鎌髭に対して、相手の四郎兵衛は金の角鍔(かくつば)、梅花皮の一本指に対して、互いにひと足も引くことが出来なかった。まして相手は初めから喧嘩を売り掛けて来たのである。受身になることが大嫌いの播磨は、もう果しまなこで柄頭に手をかけると、主(しゅう)を見習う家来の奴共も生れつきの猪首(いのくび)をのけぞらして呶鳴(どな)った。
「やい、やい、こいつ等。素町人の分際で、歴々の御旗本衆に楯突(たてつ)こうとは身のほど知らぬ蚊とんぼめ。それほど喧嘩が売りたくば、殿様におねだり申すまでもなく、いい値で俺(おれ)たちが買ってやるわ」
「幸い今日は主親(しゅうおや)の命日というでもなし、殺生をするには誂(あつら)え向きじゃ。下町からのたくって来た上り鰻(うなぎ)を山の手奴が引っ掴(つか)んで、片っ端から溜池(ためいけ)の泥に埋めてやるからそう思え」
四郎兵衛も負けずにいった。
「そんな嚇しを怖がって尻尾(しっぽ)をまいて逃げるほどなら、白柄組が巣を組んでいる山の手へ登って来て、わざわざ喧嘩を売りゃあしねえ。こっちを溜池へ打(ぶ)ち込む前に、そっちが山王のくくり猿、お子供衆の御土産にならねえように覚悟をしなせえ」
相手に嘲(あざけ)られて、播磨はいよいよ急(せ)いた。
「われわれが頭と頼む水野殿に敵対して、とかくに無礼を働く幡随長兵衛、いつかは懲らしてくりょうと存じておったに、その子分というおのれ等がわざと喧嘩をいどむからは、もはや容赦は相成らぬ。望みの通りに青山播磨が直々に相手になってくるるわ」
「いい覚悟だ。お逃げなさるな」と、四郎兵衛は又あざ笑った。
「何を馬鹿な」
播磨はもう烈火のようになった。彼は床几(しょうぎ)を蹴倒すように飛び立って、刀の鯉口を切った。権次も権六も無そりの刀を抜いた。相手も猶予せずに抜き合せた。こうした喧嘩|沙汰(ざた)はこの時代に珍しくないとはいいながら、自分の店先で無遠慮に刃物を振り閃(ひらめ)かされては迷惑である。さりとてそれを取鎮めるすべを知らない茶店の女は、唯うろうろしてその成行きを窺っていると、鋲金物(びょうかなもの)を春の日にきらめかした一挺の女乗物が石段の下へ急がせて来た。陸尺(ろくしゃく)どもは額の汗を拭(ふ)く間もなしにその乗物を喧嘩のまん中に卸すと、袴の股立ちを掻(か)い取った二人の若党がその左右に引添うて立った。「しばらく、しばらく」と、若党どもは叫んだ。必死の勝負の最中でも、権次と権六とはさすがにその若党どもの顔をすぐ認めた。
「おお、渋川(しぶかわ)様の御乗物か」
喧嘩のまん中へ邪魔な物を投げ出されて、町奴の群れも少し躊躇(ちゅうちょ)していると、乗物の引戸はするりと明いて、五十を越えたらしい裲襠(かいどり)姿の老女があらわれた。陸尺の直す草履を静かに穿(は)いて彼女はまず喧嘩相手の一方をじろりと見た。見られたのは播磨である。彼も慌てて会釈した。
「おお、小石川(こいしかわ)の伯母上、どうしてここへ……」
「赤坂の菩提所(ぼだいしょ)へ仏参の帰り途によい所へ来合せました。天下の御旗本ともあるべき者が町人どもを相手にして達引(たてひき)とか達入(たていれ)とか、毎日々々の喧嘩沙汰はまこと見上げた心掛けじゃ。普段からあれほどいうて聞かしている伯母の意見も、そなたという暴れ馬の耳には念仏そうな、主が主なら家来までが見習うて、権次、権六、そち達も悪あがきが過ぎましょうぞ」
男まさりといいそうな老女の凛(りん)とした威風に圧(お)し付けられて、鬼のような髭奴共も頭を抱えてうずくまって仕舞った。播磨も迷惑そうに黙って聴いていた。老女は播磨の伯母で、小石川に千二百石取の屋敷を構えている渋川|伊織助(いおりのすけ)の母の真弓(まゆみ)であった。播磨は元服すると同時に父をうしない、つづいて母にも別れたので、彼の本当の親身というのは母の姉に当るこの老女のほかはなかった。渋川はその祖先なにがしが三方(みかた)ガ原(はら)退口の合戦に花々しい討死を遂げたという名家で、当代の主人伊織助は従弟同士の播磨と殆ど同年配の若者であるが、その後見をする母の真弓は、天晴れ渋川の家風に養われた逞(たく)ましい気性の女であった。ことに亡き母の姉という目上の縁者でもあるので、さすが強情の播磨もこの伯母の前では暴れ馬の鼻嵐を吹く訳には行かなかった。彼は唯おとなしく叱られていた。
しかしそれは播磨と伯母との関係で、一方の相手には没交渉であった。四郎兵衛はもどかしそうにいった。
「お見受け申せば御大身の御後室様のようでござりますが、喧嘩のまん中へお越しなされて、何とかこのお捌(さば)きをお付けなさる思召(おぼしめし)でござりますか。それとも唯の御見物なら、もう少しお後へお退(さが)りくださりませ」
「差出た申分かは知りませぬが、この喧嘩はわたくしに預けては下さらぬか」と、真弓は静かにいった。「播磨はあとで厳しゅう叱ります。まあ堪忍(かんにん)して引いてくだされ」
「さあ」と、四郎兵衛は少し考えていた。
「御不承知とあれば強いてとは申しますまい。さりながら一旦(いったん)かように口入(くにゅう)いたした上は、聞き届けのない方がわたくしの相手、これも武家の習いで是非がござりませぬ」
こういい切られて、四郎兵衛もいよいよ困った。たといそれが武家の女にもせよ、町奴の中でも人に知られた放駒の四郎兵衛ともあろう者が、女を相手に腕ずくの喧嘩も出来ない。勝ったところで手柄にもならない。白柄組を相手の喧嘩はもとより出たとこ勝負で、あながちに今日に限ったことでもない。ここはこの老女の顔を立てて素直に手を引いた方が結句|悧口(りこう)かも知れないと思ったので、彼はいさぎよく承知した。
「では、お前様のお扱いに免じて、今日はこのまま帰りましょう」
「よく聞き分けて下された」と、真弓も嬉(うれ)しそうにいった。「そんならおとなしゅう戻ってくださるか」
「まことに失礼をいたしました」
武家の老女と町奴の大哥分とは礼儀正しく会釈して別れた。四郎兵衛のあとについて、子分共も皆な立去ってしまった。人間の嵐の通り過ぎた後は俄(にわか)にひっそりして、桜の花びらの静かにひらひらと舞い落ちるのが眼に着いた。
「これ、播磨」と、真弓は甥(おい)を見返った。「ここは往来じゃ。詳しいことは屋敷へ来た折にいいましょうが、武士たるものが町奴とかの真似(まね)をして、白柄組の神祇組のと、名を聞くさえも苦々しい。引くに引かれぬ武道の意地とか義理とかいうではなし、所詮は喧嘩が面白うて喧嘩をする。それが武士の手本になろうか。あぶれ者共のするような喧嘩商売は、今日かぎり思い切らねばなりませぬぞ。肯(き)かねば伯母は勘当じゃ。判(わか)りましたか」
何といわれても、播磨はこの伯母が苦手であった。所詮頭はあがらぬものと諦(あきら)めているらしく彼は伯母の前におとなしく降伏していると、真弓の裲襠姿はやがて再び乗物に隠されて、生肝でも取られたようにぼんやりしている奴どもを後に、麹町の方へしずかにその乗物を舁(かか)せて行った。
そのうしろ影を見送って、今までうずくまっていた主人と奴とはほっとしたように顔を見合せた。そうして、一度に大きく笑い出した。 

 

「お腰元の菊(きく)の母でござります。娘にお逢(あ)わせ下さりませ」
やがて三十七、八であろうが年の割に老けて見えるらしい女が、番町の青山播磨の屋敷の台所口に立って、つつましやかに案内を求めると、下女のお仙(せん)が奥から出た。
「おお、お菊さんの母御か。ようお出(い)でなされた」
お仙がお菊を呼んで来る間、お菊の母は台所の框(かまち)に腰をおろして待っていた。七百石といえば歴々の屋敷であるが、主人の播磨は年が若い、しかもまだ独身である。一家の取締をするのは用人の柴田十太夫(しばたじゅうだゆう)たった一人で、彼は譜代の忠義者ではあるが、これも独身の老人で元来が無頓着(むとんじゃく)の方である。そのほかには鉄之丞(てつのじょう)、弥五郎(やごろう)という二人の若党と、かの権次、権六という二人の奴と門番の与次兵衛(よじべえ)と、上下あわせて七人の男世帯で、鬼のような若党や奴どもが寄り集って三度の飯も炊く、拭き掃除もする。これが三河風(みかわふう)でござると、彼等はむしろその殺風景を誇りとしていたが、かの渋川の伯母御から注意をあたえられた。いかに質素が三河以来の御家風とは申しながら、いず方の屋敷にもそれ相当の格式がある。殊にかような太平の御代(みよ)となっては、いつもいつも陣中のような暮しもなるまい。荒くれ立った男共ばかりでは、屋敷内の掃除も手が廻らぬばかりか客来の折柄などにも不便である。これほどの屋敷をもっている以上、少なくとも然るべき女子供の二三人は召仕(めしつか)わなければなるまいというのであった。
武を表とする青山の屋敷に、生ぬるい女子(おなご)などを飼って置くのは面倒であると播磨はいった。しかも彼にとっては苦手の伯母御の意見といい、それに忤(さか)らってはよくないという十太夫の諫言(かんげん)もあるので、播磨も渋々納得して、申訳ばかりに二人の女子を置くことになった。台所を働くお仙という女は知行所から呼び寄せたが、主人の手廻りの用を勤める女は江戸の者を召仕うことにして、番町から遠くない四谷(よつや)生れのお菊というのを一昨年の秋から屋敷に入れた。それが今たずねて来た母のひとり娘であった。
台所働きのお仙も正直者であったが、腰元のお菊も甲斐甲斐(かいがい)しく働いた。二人ともに揃ってよい奉公人を置き当てたと、渋川の伯母も時々見廻りに来て褒めていた。実際、お菊が初めて目見得に来た時に比べると、屋敷の内も余ほど綺麗(きれい)になった。殊に台所などは見違えるように整頓して来た。お菊の目見得が済んで、母がその荷物をとどけに来た時には、彼女も内心少し驚かされたのであった。これほどの屋敷の内に女というのは、台所のお仙一人で、そのほかはみな犬の肉でも喰いそうな荒くれ男ばかりである。殿様は上品で立派な男ぶりではあるが、これも癇癖(かんぺき)の強そうな鋭い眼を光らせている。こうした鬼ガ島のような荒屋敷へ、年の若いひとり娘を住み込ませるのは何だか不安のようにも思われたが、目見得もすんで双方が承知した以上、母はどうすることも出来ないので、用人の前で主従の契約を結んで帰った。
それからもう足かけ三年の月日は過ぎた。殿様も家来もみな喧嘩好きである。白柄組の旗本衆もたびたび出這入(ではい)りする。しかしどの人もうわべの暴(あら)っぽいには似合わないで、底には優しい涙をもっている。喧嘩を買い歩くのが商売と聞けば、どうやら怖ろしくも思われるが、それも惰弱に流れた世人の眼を醒(さ)ます為だという。そうした入訳(いりわけ)を胸に置いて、あの衆の気象をよく呑み込んで御奉公していれば、なにも勤めにくいことはない。うわべはおとなしそうに見せかけて、底意地のわるい人達の多いところに奉公しているよりも、こうした御屋敷の方が結句気楽であると、お菊は母に話していた。
そうはいっても、母の身としてはまだ幾らかの不安が忍んでいた。白柄組の喧嘩沙汰は日増しに激しくなって来るらしく、ゆく先々でその噂(うわさ)を聞かされる度に、お菊の母は胸を痛くした。白柄の大小を差し誇らして江戸市中を押し歩く一種のあばれ者は、自分の娘の主人である。勿論、主人が何事を仕出来(しでか)そうとも、女子の召仕どもに何の係り合いがあろうとも思われないが、それでも可愛い娘をこうした暴れ者の主人に頼んで置くのは、何となく心許(こころもと)ないようにも思われてならなかった。
彼女は今もそんなことを繰返して考えながら、娘の懐かしい顔の見えるのを待っていると、やがて奥からお菊がいそいそと出て来た。
「阿母(おっか)さん。まあ、こっちへ」
手を取るようにして自分の部屋へ連れて行こうとするのを、母はあわただしく断わった。
「いえ、いえ、ここの方が却(かえ)って気兼ねがなくていい。どうで長い間のお邪魔も出来まい。ここで話して帰りましょう」
こういって、母は娘の顔をしげしげ眺めていた。別に用があって来たのではない。母は娘の無事な顔をひと目見て帰ればそれでもう満足するのである。その母の眼にうつったお菊の顔は、細おもてのやや寂しいのを瑕(きず)にして、色のすぐれて白い、眉(まゆ)の優しい、誰(だれ)が見ても卑しくない美しい女であった。彼女は十六の秋にここへ来て、今年の春はもう十八の娘盛りになっていた。母と娘とは、この正月の宿さがりに逢って、それから幾らの月日を経たのでもないが、見る度ごとに美しくなりまさって行く娘の若い顔を、母はとろけるような眼をしてうっとりと見つめていた。
「お前、別に変ることもござりませぬかえ」
と、お菊は母にきいた。
「仕合せとこの通り達者でいる。この春のはやり風も無事に逃れた」と、母は機嫌よく笑っていた。「して、殿様にもお変りはないかえ」
「殿様も御繁昌でござります。きょうも青山の御縁者へまいられまして、唯今お戻りなされました。そのお召替えをいたしているところへ、丁度お前が見えたので、逢いに来るのが遅くなりました」
「きょうは喧嘩もなされなんだか」
「奴殿の話では、きょうも山王下で町奴と何かの競り合があったとやらで、殿様お羽織の袖が少し切裂かれておりました」
「あぶないこと……」と、母は眉を陰(くも)らせた。「して、お怪我(けが)はなかったか」
「喧嘩はいつものこと。滅多にお怪我などあろう筈(はず)はござりませぬ」
白柄組の屋敷奉公にだんだん馴(な)れて、おとなしい娘もこの頃では血腥(なまぐさ)い喧嘩沙汰を犬の咬み合ほどにも思っていないらしかった。その落着きすました顔付が、母にはいよいよ不安の種であった。
「でものう。喧嘩沙汰があまり続くうちには、いかにお強い殿様でも物のはずみで、どのような怪我あやまちもないとは限らぬ。又このようなことがお上に聞えたら殿様の御首尾もどうあろうかのう」
仔細らしく打傾けた母のひたいに太い皺の織り込まれたのを、お菊は少し嘲るようにほほえみながら眺めた。
「何の、お前が取越し苦労。殿様は白柄組の中でも指折りの剣術の名人、宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)の槍も能(よ)く使わるると、お頭の水野様も日頃から褒めていられます。ほほ、なみなみの者を五人十人相手になされたとて、何のあやまちがござりましょうぞ。喧嘩といえば穏かならぬようにも聞えまするが、それも太平の世に武を磨く一つの方便、斬取(きりと)り強盗とは筋合が違うて、お上でもむずかしゅういわるる筈がござりませぬ」
家風がおのずと染みたのか、但しは主人の口真似か、お菊は淀(よど)みもなしにすらすらといい開いて、母の惑いを解こうとした。こちらが思うほどでもなく、娘は案外に平気でいるので、母も押返して何ともいい様がなかった。彼女が今日たずねて来たのは、娘の顔を見たさが専一ではあったが、娘の口振りに因っては、この不安心な屋敷から暇を貰おうという相談を持出そうかと内々考えていないでもなかった。しかも娘は平気でいる、むしろ喧嘩好きの主人を褒めている。それが安心でもあり不安心でもあるので、母もしばらく黙っていると、お菊は又いった。
「世間では何というているか知りませぬが、殿様はお心の直(すぐ)なお方、おなさけ深いお方、御家来衆や召仕にも眼をかけてお使いくださる。こんな結構な御主人は又とあるまい。わたしは、この御屋敷に長年(ちょうねん)させて頂きたいと思うていますれば、御不自由でもお前ひとりで当分辛抱していて下さりませ」
「不自由には馴れているので、それは何とも思わぬが、わたしよりもお前の身の上が案じらるる。喧嘩好きの衆がしげしげ出這入りする御屋敷なら、内でもなん時どんな騒動が起らぬとも限るまい。そこらにうろうろと立廻って、そのそば杖を受けようかと……」
「はて、お前のようにもない。今こそこうしていれ、お前とてわたしとて腹からの町人の育ちではなし、そのように気が弱うては……」と、お菊は笑った。
娘に笑われても一言もない。この母子は町人の胤(たね)ではなかった。お菊の父は西国の浪人|鳥越(とりごえ)なにがしという者で、それに連れ添っていた母も武士の娘である。早くに夫を失って、母はやもめ暮しの手ひとつで娘をこれまでに育て上げたのであるが、貧しい暮しの都合から、たった一人の娘を奉公に出すことになった。しかしそうした系図をもっているだけに母も娘も町家の召仕になることを嫌って、屋敷奉公の伝手(つで)を求めたのである。その母が今更に武家奉公を不安らしくいうのは辻褄(つじつま)が少し合わないようにも聞えるのであった。
勿論、母としては相当の理窟もあった。武家も武家によるので、喧嘩を商売にしているような主人に長く仕えているのは不安心だというのである。しかし彼女は顔を赤め合ってまでも、可愛い娘といがみ合おうとは思っていなかったので、娘に笑われてもおとなしく黙っていた。
そこへお仙が茶を汲んで来た。あとから用人の十太夫も出て来た。
「おお、お菊の母か。よう参ったの。まあ、茶でもまいれ」と、十太夫はにこにこしていた。
「何をいうにも男ばかりの屋敷内で、いや乱脈だ。女子共も定めて忙がしかろうが、お菊も精出して立働いてくるる。殊に殿様お気に入りで、お手廻りの御用はすべてお菊が勤めてくるるので手前共も大助かりだ。殿様は随分癇癖のはげしい方だが、お菊のすることは万事御機嫌がよい。ははははは」
お菊は耳たぶを紅くして俯向(うつむ)いてしまった。それには眼もくれないで、十太夫はふところから白紙に包んだ金を出した。
「お菊の母がまいったことを殿様にお耳に入れたら、これは少しだが土産に取らせろとあって、小判二枚を下された。ありがたく頂戴しろ」
小判二枚、この時代には大金である。迂闊(うかつ)に受取って善いか悪いか。母は手を出しかねてためらっていると、十太夫はその金包みを彼女の膝の前に突き付けた。
「よいか。お菊もよく見て置いて、後刻、殿様にお礼をいえ」
「ありがとうござります」
母と娘とは同時に礼をいった。それを聞いて十太夫は起(た)った。
「まあ、ゆるゆると話して行け」
彼は無雑作に奥へ行ってしまった。お仙は襷(たすき)をかけて裏手の井戸へ水を汲みに出ると、春のゆう日は長い井戸綱を照して、釣瓶(つるべ)からは玉のような水がこぼれ出した。
「ほう、良い水……」と、お菊の母は帰り際に井戸側へ寄った。
「深いので困ります」と、お仙はいった。
「山の手の井戸の深いは名物でござります」と、母は井戸の底を覗(のぞ)いた。「ほんに深いこと、これでは朝夕がなかなか御難儀でござりましょう」
困るとはいうものの、御用のない時には奴達が手伝って汲んでくれるから、さのみ難儀でもないとお仙は話した。御座敷の庭先にももうひとつの井筒があって、それはここよりも浅く、水も更に清いのであるが、一々にお庭先までは廻って行かれないので、深いのを我慢してこの井戸を汲んでいると彼女はいった。
その話のうちにお菊が出て来た。彼女も母と列(なら)んで井戸の底を覗くと、遠い水の上に母子の笑い顔が小さく泛(うか)んだ。 

 

それから二日目の朝である。お菊がいつものように台所へ出て、お仙の手伝いをしていると、奴の権次が肩をすくめて外からはいって来た。
「お客来じゃ。お客来じゃ」
「お客来……」と、お菊は片付け物の手を休めた。「どなたでござりまする」
「いや、むずかしいお客様じゃ。殿様にも苦手、俺たちにも禁物、見付からぬように隠れているのが一の手じゃ」
そういううちに、権六もこそこそとはいって来た。大の奴どもがそれほどに煙たがっている相手は、女たちにも容易(たやす)く想像された。お仙は笑いながらきいた。
「あの、小石川の伯母様かえ」
「それじゃ、それじゃ。あの伯母御は渡辺(わたなべ)の屋敷へ腕を取返しに来た鬼の伯母よりも怖ろしい。面を見せたらきっと叱らるる。ましておとといの今日じゃ。お叱言(こごと)の種は沢山ある。所詮お帰りまでは面出し無用じゃ」
いつもの事で、珍らしくないと思いながらも、鎌髭を食いそらした奴どもが怖い伯母御に縮み上っている、無邪気な子供らしい様子が堪らなくおかしいので、お仙は端下(はした)ない声をあげて笑った。しかしお菊はにこりともしなかった。小石川の伯母様の名を聞くと共に、彼女の白い顔は水のようになった。彼女は唇をきっと結び締めながら、奥へ起って行った。
お客の給仕は彼女の役目であるので、お菊はすぐに茶の支度にかかった。彼女が茶を立てて座敷へ運び出した時には、来客の真弓は主人の播磨と向い合って、何か打解けて話していた。奴どもが恐れているようなお叱言も、きょうは余り沢山に出ないらしいので、お菊も少し安心したが、彼女としてはまだほかに大きい不安が忍んでいた。
「ほほ、菊。相変らず美しいの」と、真弓はほほえみながら給仕の若い女を見返った。「主人が独身では、とかくに女子どもの世話が多かろう。もう少しの辛抱じゃ。頼みますぞ」
「はい」と、お菊はしとやかに手をついていた。もう少しの辛抱――それが彼女の耳には怪しく響いて、若い胸には浪を打った。
「用があれば呼びます。退ってくりゃれ」と、真弓は静かにいった。
お菊は再び会釈して起った。起つ時に主人の顔をちらりと見ると、播磨は何か迷惑らしい顔をして畳の目を眺めていた。苦手の伯母と差向いの場合に、彼が人質に取られたような寂しい顔をして黙っているのは例の癖であるが、取分けて迷惑らしいその顔色がきょうのお菊の注意をひいた。彼女は一旦縁側へ退り出たが、又ぬき足をして引返して、ひと間を隔てた隣りの座敷で襖(ふすま)越しに窺っていた。
やがて茶をのんでしまった頃に、真弓の声が聞えた。小声ながらも凛としているので、遠いお菊の耳にもよく響いた。
「のう、播磨。この頃の不行跡、一々にやかましゅうはいうまい。きっと改むるに相違ないか」
「は」
播磨の返事は唯それだけであった。
「心もとない返事じゃのう。確かに誓うか、約束するか」と、真弓は重ねていった。「世の太平になれて、武道の詮議もおろそかになる。追従軽薄の惰弱者が武家にも町人にも多い。それは私とても浅ましいことに思うています。さりとて侍が町奴の真似をして、八百八町をあばれ歩くは、いたずらにお膝元を騒がすばかりで何の役にも立つまい。万一の時には公方様御旗の前で捨つる命を、埒(らち)もない喧嘩口論に果したら何とする。それほどの道理を弁(わきま)えぬお身でもあるまい。もし又、武士と武士とが誓言の表、今更白柄組とやらの仲間を引くことがならぬとあれば、わたしが水野殿に会うてきっと断わって見せます」
何さまこの伯母御ならば、白柄組の頭と仰ぐ水野十郎左衛門を向うに廻して、理を非にまげても自分の言い条をきっと押通すに相違あるまいと、お菊もひそかに想像した。しかし無暗にそんなことをされては、主人が恐らく迷惑するであろう。何といってこれに答えるかと、彼女は耳を引立てて聴いていると、果して播磨はあわててそれをさえぎった。
「いや、その儀には及びませぬ。伯母様が直々の御掛合などござりましては、水野殿も迷惑、手前も迷惑、その儀は平に御見合せを……」
「そりゃ私とても好むことではござりませぬ」と、真弓はいった。「そんならきっとあの衆の仲間入りをしませぬか。これから誓っておとなしゅうしますか」
「は」
それで話は少し途切れたかと思うと、伯母の声が又聞えた。それは今までと違って、いかにも親しみのある、優しい柔かい声であった。
「就いてはもうひとつの相談がある。お身が屋敷の内に落着かいで、とかくにそこらをのさばり歩く。それも所詮は我が家に控え綱がないからかと思います。お身ももう二十五で、人によっては二人三人の親になっているのもある年頃を、いつまで独身で過す気か。もう好いほどに相当の妻を迎えて、子孫繁栄のはかりごとをせねばなるまい。伯母は決して悪いことはいわぬ。この間もちょっと話した飯田町(いいだまち)の大久保(おおくぼ)殿の二番娘……」
お菊は襖を押倒すほどに身を寄せかけて、その一言一句をも聞き落すまいと耳を澄ましていた。
「名は藤江(ふじえ)という。年は十八で、器量もよい、行儀も好い。さすがは大久保殿の躾(しつけ)だけあって、気性も雄々しく見ゆる。伜(せがれ)が独身ならば、わが屋敷へも懇望したいのであるが、伊織助はもうこの秋頃には父になる筈じゃで是非がない。あれほどの娘を他家へやるのは残念、どうでもこちらの縁者にしたい。就いては播磨、くどくもいうようじゃが、伯母は悪いことは勧めぬ。あの娘を貰うては……」
お菊は眼が眩(くら)みそうになって、耳ががんがん鳴って来た。その耳にも播磨の返事ははっきり聞えた。
「折角でござりますが、飯田町の大久保殿は大身、所詮われわれ共の屋敷へは……」
「いや、その遠慮は要らぬことじゃ。大久保殿はあの通りの御仁、家柄の高下などを念に置かるる筈はない。殊にお身のこともよく知っておらるる。この伯母が頼みますとひと言いうたらきっと合点、それはわたしが受合います。どうじゃな」
この返事が一生の瀬戸である。お菊は息もしないでじっと聴いていると、播磨はすぐに返事をしなかった。伯母に督促されて、彼はこんなことを静かにいい出した。
「お言葉はよく判りましたが、余の儀とも違いまして、これは一生に一度のこと。喧嘩の相手ならば誰彼れを択(えら)びませぬが、縁談とあっては私も相当の分別をせねばなりませぬ」
「それも道理じゃ。今すぐにともいわれまい。よく分別した上で、あらためて返事を聞かしてくりゃれ。よいか」
「は」
お菊はほっとして、崩れるようにずるずるとそこへ小膝を突いた。そのはずみに倚(よ)りかかっている襖がみりみりと揺れたので、彼女は這うようにそっとそこを逃げ出して、自分の部屋へあわてて転げ込むと、気味の悪い汗が頸筋(くびすじ)から腋(わき)の下に湧(わ)き出しているのに初めて気がついた。
座敷の対話を終りまで聞き通さなかったのは残念であったが、播磨の返事でその成行きも大抵は推量された。伯母様から持出された縁談も今日はこのままでうやむやの中に済んでしまったらしい。しかしお菊は決して落着いてはいられなかった。小石川の伯母様が主人に妻帯を勧めるのは今日に始まったことではない。先月も一度その話のあったことをお菊は薄々知っていた。それがだんだんに切迫して来て、伯母様は今日もわざわざその相談のために早朝から出向いたらしい。何をいうにも相手が悪いので、主人はそれをきっぱりと断わることが出来るであろうか。普段から頭のあがらない伯母様の催促が二度三度と重なったら、その結果はどうであろうか。それを思うと、お菊は気が気でなかった。
彼女はふところ紙を出して、襟の汗を拭いた。汗がようよう収まると、入れ代って両の瞼(まぶた)がうるんで来た。彼女は自分の未来の果敢(はか)ない姿を、もう眼の前に見せられたように悲しくなった。
お菊がこの屋敷へ奉公に来た明る年、彼女が十七の春の末、丁度今から一年ほど前のおぼろ月夜に、白柄組の友達が三、四人たずねて来て、いつものように小酒盛が始まった。その時には水野十郎左衛門も来た。水野は酌に立ったお菊がひどく気に入ったらしく、主人の前で彼女を褒めた。ほかの者共も口を揃えて褒めた。心にもない世辞や追従をいわないのを誇りとしている彼等が揃いも揃って褒める以上、それが主人に対する世辞でないことは判っていた。
客が帰って、座敷を片付けてしまうと、播磨はお菊に茶を所望した。それはもう四つ(午後十時)過ぎで、半分ほど咲きかかった軒の桜が朧月(おぼろづき)の下にうす白い影を作っていた。その影をゆるく漂わす夜風が生温く流れて、縁先に酔いざめの顔を吹かせていた播磨の袖(そで)の上に、月の雫(しずく)かと思うような白い花びらをほろほろと落した。
お菊は胸の奥に彫り付けられているその夜の夢を今更のように思い泛べた。若い主人と若い腰元との恋はそれからだんだんに深みへ沈んで行って、播磨はきっとお前を宿の妻にするとお菊に誓った。お菊もその約束を忘れなかった。彼女の母が不安を懐(いだ)いている喧嘩買いの白柄組の屋敷も、娘に取っては楽園であった。その主人に対して過日から縁談が持出されているのであるから、若い腰元の小さな胸は安まらなかった。まして、今日は伯母様が膝詰めの掛合いである。たとい一旦はこのままに済んでも、その行末が危ぶまれるので、彼女は途方に暮れたように泣きくずれてしまった。
台所ではお仙と奴との話し声がまだ聞えるので、お菊は急に起って懐ろ鏡を取出した。鏡にうつる泣顔を直して、彼女も台所へ出てゆくと、権次も権六も春の日に光る銀の毛抜で鎌髭を悠々と繕いながら、あがり框に大きい腰を列べていた。お菊の顔を見ると彼等はきいた。
「伯母御はまだ帰られぬか」
「お話はなかなか済みそうもござりませぬ」と、お菊はいった。「しかしいつものお叱言ではないようでござります」
「そりゃ珍しい」と、権次は笑った。「今年の梅雨はひと月早いかも知れぬぞ。しかしあの伯母御がお叱言のほかに何のお話があることかのう」
「もしや御縁談のことではあるまいか」と、お仙が口をいれた。
「うむ、そのような噂も聞いた」と、権六は気のないようにいった。「あの伯母御もよくよく世話焼きじゃと見えて、何の彼(か)の小煩(こうるさ)いことじゃ。白粉(おしろい)嫌いの殿様が面倒な女房などを滅多に持たりょうかい。わはははは」
「奥様をお持ちなさるまいか」と、お菊は探るようにきいた。
「そりゃお断わりに決まっているわ」と、権次もいった。
「飯田町の大久保様の娘御というのをお前達は御存知か」と、お菊は又きいた。
生ぬるい女子などを眼中に置いていない奴どもは、よその屋敷の娘などは知らないといった。しかし大久保は男の児のない家であるから、嫁にやるというのは二番娘であろう。妹娘は姉よりも器量がすぐれて好いという評判であるが、一度も見たことはないと彼等は話した。
「そのように美しいのかえ」と、お菊はふるえ声で念を押した。
「という噂だけのことじゃよ」
奴どもは身にしみて相手にもなってくれなかった。 

 

伯母が帰るのを送り出して、播磨もすぐにどこかへ出て行った。権次も権六も供をして出た。
この頃の長い日はなかなか暮れなかった。一旦出たが最後、なん時戻って来るか判らないのがいつもの癖と知っていながら、お菊は今日に限って主人の戻りが待ち侘(わ)びしく思われた。彼女は今度の縁談に対する主人の確かな料簡(りょうけん)を知りたかった。
世間からいえば、主人の播磨は手に負えない暴れ者であるかも知れない。伯母からいえば喧嘩好きの厄介者であるかも知れない。しかもお菊の眼から見れば、それが如何にもまことの男らしい竹を割ったように真直ぐな、微塵も詐(いつわ)りや飾りのない、侍の中の侍ともいいたいように美しく尊く思われた。男が七百石のあるじであるとないとを別問題にして、彼女は一旦自分の魂に浸みついたこの恋を生涯かき消そうとは思っていなかった。彼女は詐りのない主人の約束を一図に信じていた。殿様は自分を欺く人でないと固く信じていた。
お菊は今もそう信じている。しかも彼女の心の底に暗い影を投げかけるのは、銘々の身分という悲しいむごい人間の掟(おきて)であった。いつの代にもこの掟が色々の形になって現われて来るが、取分けて彼女の生れた江戸時代にはこの掟がきびしかった。主人は家来を嬲(なぶ)り殺しにしても仔細はない。家来は主人を殺すはおろか、かすり傷ひとつ負わせても死罪、事の次第に因っては獄門にも磔刑(はりつけ)にもなる。それほどに階級制度の厳重な時代に生れて、家来が主人と恋をする。その恋の遂げられるも遂げられぬも主人の料簡次第で、家来自身からは何の恨みもいい得ないのである。山に誓い、海に誓い、神ほとけに誓っても、それは傾城(けいせい)遊女の空誓文と同じことで、主人がそれを反古(ほご)にするのは何でもないのである。勿論、それが対等の身分であっても、男が既に変心した以上どんな約束も反古にされるのは自然の成行きであるが、身分違いの恋とあっては、たといどれ程むごく情けなく突き放されても、捨てられた者に同情は少ない、捨てた者も怪しまれない。恋にもやはり上下の隔てがあって、主人の胤を重い腹に抱えながら、屋敷を逐(お)い払われた不運な女もあることを、お菊はかねて知っていた。
このむごい掟は主人と家来との間ばかりでない。親類縁者の間にもこの掟は動かない石となって横たわっていた。父なき時は伯父を父と思えとある。母なき時は伯母を母と思えとある。従って父もない、伯父もない、母もない、青山播磨のような一本立の人間に対しては、伯母が最も強い者であった。彼女が親の権利を真向にかざして圧しつけて来る時に、それを跳ね返すのは並大抵のことではない。殊に白柄組の申合せとして、第一に義理を重んぜよとある以上、その同盟者たる青山播磨は伯母の権利を飽(あく)までも尊重しなければならない苦しい事情の下に置かれていた。その伯母が大久保なにがしの娘を嫁に貰えというのである。自我が強いだけに、また一面に於ては義理も強い彼の性格から考えて、最後までも伯母に楯をつく勇気があるか、ないか、お菊にはそれが覚束(おぼつか)なくも思われた。
これを煎じつめて行くと、伯母は甥をおしつけて無理に婚姻を取結ばせる。主人は家来をおしつけて無理に恋を捨てさせる。こうした悲しい運命の落ちかかって来る日がないとは受合われない。お菊の取越し苦労はそれからそれへと強い根を張って来た。
「殿様はそんな嘘(うそ)つきではない」
彼女は又思い直して、自分の狭い心を自分で嘲った。人間の掟も浮世の義理も、所詮は男の心ひとつである。頼む男の性根さえしっかりと極まっていれば、どんな嵐も恐れるには及ばない。男の梶のとり方ひとつで、どんな波風と闘ってもきっと向うの岸へ流れ寄ることが出来る。主人も家来も今更考えるには及ばない。青山播磨は詐りのない男である。自分は唯一心にその男の手に取縋(とりすが)っていればいいのである。もう何にも思うまい。とやかくと迷うのは自分の浅墓であると、お菊は努めて自分の疑いを払い退けようとした。
お仙は自分の夏衣の縫い直しにかかっていたが、日永の針仕事に彼女も倦(う)んで来たらしい、針先も見えないようなだるい眼をして、うっとりと手を休めていた。市(いち)ガ谷(や)の七つ(午後四時)の鐘も眠そうに沈んで聞えた。お菊はやがてお仙のそばを離れて静かに起った。
主人の留守を承知していながら、彼女はその居間の方へふらふらと行って見たくなった。用人の詰めている部屋を覗くと、十太夫も小さい机に倚りかかって、半分は眠ったように白髪頭をかしげていた。お菊はぬき足をしてそこを通り過ぎて、主人の居間の縁先に立つと、軒の大きい桜もきのうにくらべると白い影が俄かに瘠(や)せていた。彼女はさびしくそれを瞰(み)あげていると、もう西へ廻りかかった日の光は次第に弱くなって、夕暮を誘い出すような薄寒い風にふるえる花びらが音もなしに落ちた。その冷たい花の匂いがお菊の身に沁みると、彼女はまたおのずと涙ぐまれた。
その眼をそっと拭きながら、翻える花のゆくえをじっと見送ると、小さい吹雪は迷うように軽くなびいて、庭の井筒の上に吹き寄せられた。井筒のそばには一本の細い柳が水を覗くように立っていた。お菊は庭下駄を穿いて井筒のそばに寄った。そそけた島田の鬢(びん)をなぶろうとする柳の糸を振袖(ふりそで)の袂(たもと)で払いながら、彼女はその底をみおろすと、水に映ったのは自分の陰った顔ばかりで、母の懐かしい顔は泛んでいなかった。彼女はおとといのことを思い出した。
殿様は小判二枚を母に下されたのである。母も驚いたが、自分も驚いた。帰る時に御門の外まで送ってゆくと、母は案外の下され物に何だが不安を懐いているらしく、繰返してそれをほんとうに頂戴してもいいのであろうかと念を押すように自分にきいた。勿論、普通の奉公人の親に対しては格外の下され物である。母の怪しむのも無理はなかった。彼女は母に安心をあたえる為に、その不思議でない入訳を囁(ささや)こうかとも思ったが、さすがに主人と自分との秘密を打明ける勇気がないので、好い加減に母の手前を取繕って別れてしまった。彼女はそれを母に洩(も)らさないでよかったと思った。迂闊にそれを打明けて、母をもあわせて失望の淵へ沈めるような時節が来ないとも限らないと思った。それを思うと、彼女は遣瀬(やるせ)ないように悲しくなった。しかし又、一方から考えると、母に小判二枚を下さるというのは、殿様が自分を愛している証拠とも見られる。それほどの殿様が自分をむごたらしく突き放す筈はない。彼女は涙の乾いた笑顔を遠い水鏡にうつして見た。
泣いていいか、笑っていいか、今のお菊には見当が付かなくなった。それでも彼女の眼からは涙の雫が訳もなしに流れて落ちた。彼女は柳の青い枝に縋りながら、井筒の上で心ゆくばかり泣いていたかった。
「菊。何を致しておる。頭の物でも落したか」
不意に声をかけられて見返ると、主人の播磨は笑いながら縁先に突っ立っていた。
「お帰りでございましたか。一向に存じませんで……」と、お菊は袂で眼を拭きながら慌てて会釈した。
播磨は無言で招いた。招かれてお菊は縁先に戻ったが、その泣顔を覗かれるのを恐れるように彼女は白い襟もとを見せて、足もとに散る花を伏目に眺めていた。
「菊。泣いていたな。何を泣く。朋輩と喧嘩でも致したか。十太夫に叱られたか」
お菊は恥らうように黙っていた。
「隠すな。仔細をいえ。但しは井筒へ身でも投ぐる積りか」と、播磨は又笑った。
どこで飲んで来たのか、若い侍の艶(つや)やかな白い頬(ほお)はほんのりと染められていた。
「泣きは致しませぬ」と、お菊は微(かす)かに答えた。
「では、顔を向けて見せい。はは、見せられまい」と、播磨はなぶるように又いった。「正直にいわぬと暇をくれるぞ」
ぎょっとしてお菊は顔を上げた。暇をくれる――それが今の彼女には冗談として聞き流すことが出来なかった。抑え切れない怨(うら)みと妬(ねた)みとがつむじのように彼女の胸にうずまいて起った。その唯ならない眼の色を播磨は怪しむように見つめたが、やがて又堪らないように笑い出した。
「はは、暇をくれる……それは戯れじゃ。腹を立てるな。それともほかに仔細があるか。仔細をいわねばこそ、こちらからもついなぶるようにもなる。腹を立つるほどなら仔細をいえ」
お菊は自分がどんな端下ない風情を男に見せたかと思うと、恥かしいのを通り越して急に悲しくなった。彼女は振袖に顔をうずめて縁に泣き伏した。
「はて、泣虫め。そのような弱虫が白柄組の侍の女房になれるか」
ここぞと思って、お菊は泣きながら訊(き)き返した。
「侍の女房……この菊が侍の女房になれましょうか」
「いうまでもない。青山播磨も侍の端くれではないか。その妻ならば……」
「でも、小石川の伯母様が……」
「おお。知っているか」と、播磨は事もなげにいった。「いかに苦手の伯母御でも、こればかりは無理圧しつけもなるまいぞ。それでそちは泣いていたのか。はは、馬鹿な」
播磨は陰らない声で高く笑った。あまり手軽く打消されてしまったので、お菊も少し張合い抜けがしたように、泣き腫(は)らした眼をしばたたきながら相手をそっと見あげると、酔いのだんだんに醒めかかって来た男の顔は輝くように光って見えた。
「播磨を疑うな」
主人は腰元の手を取った。 

 

それから又十日ほど経って、播磨は渋川の屋敷へ呼ばれた。それは縁談の返事の催促に相違ないとお菊は思った。彼女は小石川から帰った主人の顔色によってその模様を判断しようとあせったが、年の若い、しかも恋にくらんでいる彼女の陰った眼では、とても自分の男の顔から秘密を探り出すことは出来なかった。さりとて、妬みがましい下司女(げすおんな)と見積られるのも悲しいので、彼女は主人にむかって打付けにしつこく詮議する訳にも行かなかった。
播磨を疑うな――この一句を杖と縋って、お菊は悶(もだ)えながらに日を送っているうちに、庭の桜もあらしに傷みつくして、ゆく春は青葉のかげに隠れてしまった。時鳥(ほととぎす)の鳴く卯月(うづき)が来て、衣更(ころもが)えの肌は軽くなったが、お菊の心は少しも軽くならなかった。月が替ってから播磨は再び渋川の屋敷へ呼ばれた。
「小石川の御屋敷へたびたびの御招きは何の御用でござりましょう」
お菊はそれとなしに十太夫にきくと、無頓着の用人も頭を傾けた。
「おれには判らぬ。いつものお叱言か、それとも奥方でも呼ばれる御相談か。大方そんなことであろうよ」
「奥様をお呼びなされましょうか」
「殿様ももう二十五、そんなことがないともいわれぬ」
「殿様がじかにそう仰せられましたか」
「いや、何にも聞かぬ」
用人でも若党でも奴でも、この屋敷の者は誰も初めから女のことなどを問題にしていない。奥様が来ようが来まいが、どうでも構わぬと澄ましているので、お菊は誰を相手にしてもこの問題の成行きを探り出すことは出来なかった。彼女は一人でいらいらしていた。色恋に対してそういう無頓着な人間ばかりが揃っているのは、主人と自分との秘密をつつむには都合が好かったが、なまじいに今までその秘密を包みおおせて来ただけに、この場合になってお菊は自分の味方を見付けることも出来なかった。女同士のお仙も相談相手にはならなかった。
あしたは御釈迦(おしゃか)の誕生という七日の夜に、白柄組の重立った者八九人が青山の屋敷にあつまることになった。別に仔細はない。やはり去年と同じようにひとつ組の者が打寄って、内輪の酒宴を催すのであった。かしらの水野十郎左衛門も無論に来るといった。
「暮六つからの会合の約束だ。支度を怠るな。かの高麗皿(こうらいざら)も出して置け」
家来どもに申し付けて、播磨は午頃からどこへか出て行った。今日は女たちの忙がしい日である。十太夫も若党共も手伝って、大の男が袴の股立ちを取って酒や肴(さかな)の支度にかかった。
「まずこれであらましは調(ととの)うた」と、十太夫は禿(は)げあがった額の汗を拭きながらいった。
「時刻はまだ早いが、例の大切の品を今のうちに取出しておこうか。お菊もお仙も一緒にまいれ」
二人の女は用人のあとに付いて、奥の土蔵へ行った。古い蔵は物置同様で、殆(ほとん)ど碌(ろく)なものも収めてなかったが、青山の家に取って唯(た)ったひとつの大切の品が入れてあった。それは珍らしい高麗焼の皿で、かずは十枚揃っていた。
武士の家で何故こんな器を大切にしているのか、その仔細はよく判っていないが、世に珍らしい品であるから大切にするという意味がだんだんに強められて来て、いつの代からかこの皿をことごとく割る時は家が亡びるという怖ろしい伝説さえも生まれて来た。随(したが)って青山の家ではこの皿を宝物のように心得て、召使の者がもし誤ってその一枚でも打砕いたが最後、命は亡いものと思えと厳重にいい渡されて、それが家代々の掟となっていた。
そんな面倒な宝物を迂濶に取出すは危険であるので、播磨の代になってからは滅多に用いた事もなかったが、どこでそれを聞き出したか、水野は今夜の会合に就いて主人の播磨にいった。
「貴公の家には稀代の高麗皿があるとか承る。あすの夜には是非一度拝見いたしたい」
「承知いたした」
播磨は快く承知して、今夜の料理を盛る器の中に彼の高麗皿十枚を加えろと十太夫にいい付けたのである。お菊もお仙も虫干の時に箱に入れられたその皿を取扱ったことはあるが、料理の膳に上せるのは今夜が初めてであった。その皿に就いて、かの怖ろしい伝説や、厳しい掟のあることは、かれ等もかねて承知していた。
「いうまでもないが、大切の品であるぞ。くれぐれも油断いたすな」
今も十太夫に念を押されて、二人の女は今更のようにおびえた。彼等は用心に用心を加えて、箱入りの皿を土蔵の奥からうやうやしく捧げ出して来ると、十太夫は箱の蓋(ふた)をあけて、十枚の白い皿を叮嚀(ていねい)にあらためた。
「よい、よい。くどくも申すようだが、用心して取扱え。一枚でも割るはおろか、瑕をつけても大事になるぞ」
全くこれは大事である。命にもかかわる大事である。それを思うと、お菊もお仙も身の毛がよだつ程に怖ろしかった。二人はふるえる手先にその皿をうけ取って、座敷へいよいよ運び出すまでは元の箱へ大切に収めておくことにした。
「もう七つを過ぎた。殿様もやがてお帰りになろう。気の早いお客人はそろそろ押掛けてまいらりょうも知れぬ。お菊は奥へ行って、お座敷は滞(とどこお)りなく片付いているかどうか、念のために見廻って来やれ」
十太夫に指図されて、お菊はすぐに奥の座敷へ行った。薄く陰った日で、余り手入れをしない庭の若葉は、この頃だんだんに緑の影を盛り上げて、十畳二間を明け放した書院の縁先を暗くしていた。その薄暗い座敷の床の間には、お菊がけさ生けた山吹が黄い花をたわわに垂れていた。彼女はその枝振りを心ばかり矯(た)め直して、正面にかけてある三社の托宣の掛軸を今更のように眺めた。座敷の隅々(くまぐま)にも眼に立つような塵(ちり)のないのを見とどけて、彼女は更に縁側に出て、三足ばかりの庭下駄(にわげた)を踏石の上に行儀よく直した。
「これで手落ちはない。置燈籠(おきどうろう)の灯は暮れてから入れましょう」
独り言をいいながら彼女はうっとりと縁に立っていた。隣屋敷の沈んだ琴の音が若葉をくぐってゆるく流れて来るのを、彼女は聴くともなしに耳を傾けていたのであった。
琴のぬしをお菊は知っていた。それは隣屋敷の惣領娘(そうりょうむすめ)で、今から四、五年前に家格が釣合わない位に違う大身の屋敷へ器量望みで貰われて行った。その当座は夫婦仲も羨(うらや)ましいほどに睦じかったが、月日のたつうちに夫の愛は次第にさめて来て、釣合わぬは不縁の基という諺(ことわざ)の通りに、嫁は里方へ戻された。そうして、出戻りの侘びしい身の憂さを糸の調べに慰めているのである。思いなしかその爪音(つまおと)は、人の涙をはじき出すように哀れに顫(ふる)えていた。お菊はその沈んだ音色を聴くたびに、男にむごたらしゅう振り捨てられた女の哀(かな)しみに涙ぐまれたが、その涙が今もにじみ出して来た。身につまされるというのはこれであろう。今のお菊には取分けて、琴の主の身の上が痛々しく思われた。その物悲しい琴唄は弾く人のあわれを歌い、あわせて聴く人の哀れを知らせるのではないかとも疑われた。
お菊はいつまでも縁の柱に身を寄せて、引入れられるようにその唄と音色とに聞き惚(ほ)れていると、陰った初夏の空は次第にたそがれて、井の端の柳の影も暗くなった。彼女はふとある事を思い泛べた。よもやとは思いながらも、まだ疑われてならない男の性根を確かに見定めるには、今が好い機会であるように思われた。
それはあの高麗焼の皿である。青山の家の宝物という十枚の皿である。お菊はその一枚を打砕いて、播磨の愛情の深さを測ろうと思いついた。ついした疎匆で大切のお皿を損じましたと、主人の前に手をついた時に、播磨は何というか、自分をどうするか。彼が真実自分を愛しているならば、たとい家の宝物を破損しても深くは咎(とが)めない筈である。
「いっそ疎匆の振りをして、あのお皿を一枚打ち毀(こわ)して、お菊が大切か、宝が大切か、殿様の本心を試してみよう」
こう思いつきながら彼女はさすがにまた躊躇した。その皿が悉(ことごと)く割れた時には青山の家が亡びるという怪しい伝説を彼女は恐れた。しかしただ一枚を損じただけであれば家には禍も祟(たた)りもあるまい。それを損じた人間が主人の仕置をうければ済むのである。この場合、自分はもとより死を恐れてはいられない。一枚の皿を傷つけた科(とが)として、自分を無慈悲に成敗する程の主人であれば、自分に対し深い愛情をもっていないことは判り切っている。主人がそういう心であれば今度の縁談もいよいよ事実となって現われて、自分は所詮振り捨てられるに決まっている。播磨に捨てられて生きていられるであろうか。お菊は暗い柳のなびく井筒に眼をやった。
男に愛情がない以上、自分はどの道生きてはいられないのである。男に真の愛情があれば、宝を損じても自分は確かに生きられるのである。お菊は命賭けで男の魂を探ろうと決心した。たとい一枚でも大切の宝をむざむざ打毀すのは勿体(もったい)ないと思いながら、彼女はもうそんなことを恐れてはいられなくなった。
隣の琴の音はまだ続いていた。お菊は魔の憑(つ)いた人のように、急に大胆な心持になって、もとの台所へ引返して来ると、十太夫も若党ももうそこには見えなかった。お仙は裏の井戸を汲んでいた。 

 

「あれッ」
お菊のただならない叫び声を聞き付けて、十太夫が台所へ出て来た時には、高麗皿の一枚が砕けていた。物に頓着しない十太夫も眼の色を変えて慌てた。お菊は疎匆で大切の皿を取落したといった。
「さっきもあれ程に申聞かせて置いたに、かような疎匆を仕出来(しでか)しては、そちばかりでない、この十太夫もどのようなお咎めを受きょうも知れぬ。ともかくも部屋へ退って神妙にいたしておれ」
お菊は自分の部屋へ押籠(おしこ)められてしまった。初めから覚悟を決めている彼女は、ちっとも悪びれずに控えていると、暮六つの鐘がまだ聞えないうちに播磨は帰って来た。
「思いも寄らぬ椿事(ちんじ)が出来(しゅったい)いたしました」
主人の顔を見ると、十太夫はすぐに訴えた。
「思いも寄らぬ椿事……。十太夫にも似合わぬ、何をうろたえておる」と、播磨は笑っていた。
「いや、わたくしもうろたえずにはおられませぬ。殿様。大切のお皿が一枚損じました」
播磨の顔色も嶮(けわ)しくなった。
「何、大切の皿を損じた……」
「腰元の菊めがあやまちで、真っ二つに打割りました」
「菊を呼べ」
呼び出されてお菊は奥へ行った。彼女は割れた皿を袱紗(ふくさ)につつんで持っていた。若党が運び出した燈火に照された彼女の顔はさすがに蒼(あお)ざめていた。播磨は静かにきいた。
「菊。高麗皿はそちが割ったに相違ないか」
自分の疎匆に相違ないとお菊は尋常に申立てた。お家の宝を損じたのは自分が重々の不調法であるから、どのようなお仕置をうけてもお恨みとは存じませぬといった。
「まず以って神妙の覚悟だ」と、播磨はうなずいた。「青山の家に取っては先祖伝来大切の宝ではあるが、疎匆とあれば深く咎める訳にはまいるまい。以後はきっと慎めよ」
以後を慎むのはいうまでもない。大切の宝を破損した咎めは、唯これだけで済んでしまったのである。お菊は張りつめた気が一度にゆるんで、頽(くず)れるように縁先に手をついた。あまりに寛大過ぎた主人の沙汰に、十太夫も少しあっけに取られていると、播磨は又静かにいった。
「今夕の来客は水野殿を上客としてほかに七人、主人をあわせて丁度九人だ。皿は一枚欠けても差支えない」
「御客人の御都合はともあれ、折角十枚揃いましたる大切の御道具を一枚欠きましたる菊めの罪科、わたくしも共々にお詫(わ)び申上げまする」と、十太夫も畳のへりに額をすりつけた。
播磨の顔色はだんだんに解けて来た。いつまでも縁に平伏したままで、微かにおののかせているお菊が黒い鬢のうねりを、彼は灯の影にじっと見つめていたが、やがて薄い笑いをうかべて十太夫を見かえった。
「いや、いや、心配いたすな。たとい先祖伝来とは申せ、武具馬具のたぐいとは違うて、所詮は皿小鉢じゃ。わしはさのみに惜しいとは思わぬ。しかし、昔かたぎの親類縁者どもに聞かせると面倒だ。表向きはやはり十枚揃うてあることに致して置け。よいか」
「重ね重ねありがたい御意、委細承知仕りました。菊、あらためてお礼申せ」
お菊は無言で頭を下げた。彼女は胸が一杯に詰まって、もう何にもいうことが出来なかった。感激の涙が止め度もなしに溢(あふ)れ出した。彼女は自分の陰謀が見事に成功したのを誇るよりも、男の誠心に対する感激の念に強く動かされた。それほどに美しい男の心を仮りにも試そうと思い立った自分の罪が空怖ろしくもなった。
「御客人もやがて見えるであろう。十太夫は玄関に出迎いの支度をいたせ」と、播磨は用人を表へ追いやった。割れた皿と、それを割った若い女とが後に残った。
「飛んだ疎匆をいたしまして、何とも申訳がござりませぬ」と、お菊は初めて口を開いた。
その声の低く顫えているのは、彼女が疎匆を悔いているものと播磨は一図に解釈したので、彼は憫(あわ)れむようにいい慰めた。
「はて、くどくど申すな。一度詫びたらそれでよい。まことをいえば家重代の宝、家来があやまって砕く時は、手討にもするが家の掟だが、余人は知らず、そちを手討になると思うか。砕けた皿は人の目に立たぬように、その井戸の底へ沈めてしまえ」
「はい」
また湧いて出る涙を拭きながら、お菊は欠けた皿をとって庭に降りた。長い袂は柳の枝をゆるがせて、家の宝の一枚は水の底に沈められてしまった。
「実はさっき水野殿に行き逢うたら、腰元の菊はまだ無事に勤めているかと訊(たず)ねられたぞ」
「左様でござりましたか」
「水野殿はそちがきつい贔屓(ひいき)だ。今夜も気をつけて給仕いたせ」と、播磨は笑ましげにいった。
機嫌の好い、いつものように美しい、陰りのない男の顔を見て、お菊は悲しいほどに嬉しかった。たとい疎匆にもせよ、家の宝を破損したという自分に対して、何のむずかしい叱言もいわないで、却って優しい言葉をかけてくれる――男の心があまりに判り過ぎて、お菊は勿体ないようにも思った。由ない惑いから大切の宝を打毀した自分の罪がいよいよ悔まれた。安心と後悔とが一つにもつれて、彼女は又そっと眼を拭いた。
縁伝いに暴(あら)い足音が聞えて、十太夫が再びここにあらわれた。それは客来の報(しら)せではなかった。彼は眼を瞋(いか)らせて主人に重ねて訴えた。
「殿様。菊めは重々|不埒(ふらち)な奴でござりまする」
秘密は忽ち暴露された。お菊が皿を損じたのは疎匆でない。台所の柱に打付けて自分がわざと打割ったのである。それは下女のお仙が井戸のそばから遠目にたしかに見届けたというのであった。疎匆とあれば致し方もないが、大切のお宝をわざと打割ったとは余りに法外の仕方で、たとい殿様が御勘弁なさるといっても、自分が不承知である。その菊めはきっと吟味しなければならないと、十太夫は声を尖(とが)らせていきまいた。
播磨も案外に思った。お菊に限らず、この屋敷の内にそんな乱暴を働く者が住んでいようとは信じられないので、彼は自分の耳を疑いながら、ともかくも念のためにお菊にきいた。
「どうだ、菊。十太夫はあのように申しておるが、よもやそうではあるまいな。はっきりと申開きをいたせ」
この上にも男をあざむくのは、お菊の忍ばれないことであった。証人は単にお仙一人である。たとい彼女が何と訴えようとも、こちらが飽までも疎匆と主張している限りは、所詮水掛論に過ぎない。まして殿様はこちらの味方であるから、自分が強情を張り通せばきっと勝つのは知れている。しかも彼女はその詐りを再び繰返す勇気がなかった。男の誠心を十分に認めながら、自分は詐りを以ってこれに酬いるのは、余りに罪が深いと思った。彼女は素直に白状した。
「実は御用人様の仰しゃる通り、わたくしの心得違いから、わざとお皿を打割りました」
播磨は焼がねを掴ませられたように驚いた。故意に主家の宝を傷つくる、そんな不心得の人間が自分の屋敷の内に巣をくっていようとは、夢にも思っていなかったのに、それが自分のふところから見出されたのである。彼は腹を立てるよりも、ただ驚いて怪しんだ。
「さりとて菊めも気が狂うたとも思われぬ。これには何か仔細があろう。わしが直々に吟味する。そちはしばらく遠慮いたせ」
十太夫は又追いやられた。割れた皿はもう井の底に沈んでしまった。今度は皿を割った女と主人との差向いである。それでも播磨はやわらかに詮議した。
「これ、菊。そちは何と心得て、わざと大切の皿を割った。家の掟で、その皿を割れば手討になる。それを知りつつ自分の手でわざと打割ったには仔細があろう。つつまずいえ」
「この上は何をお隠し申しましょう。由ないわたくしの疑いから……」
「疑い……とは何の疑いだ」
「殿様のお心を疑いまして……」
いいかけてお菊は今更のように身をわななかせた。播磨は眼を据えて聴いていた。
「この間もお耳に入れました通り、小石川の伯母御様の御なこうどで、飯田町の御屋敷から奥様がお輿入(こしい)れになりそうな。明けても暮れてもそればっかりが胸につかえて……。恐れながら殿様のお心を試そうとて……」
「うむ。さてはこの播磨がそちを唯いっ時の花と眺めておるか。但しはいつまでも見捨てぬ心か。その本心を探ろうために、わざと家の宝を打割って、宝が大事か、そちが大事か、播磨が性根をたしかに見届けようと致したか。菊、しかと左様か」
「はい」
「それに相違ないか」と、播磨は念を押した。
「はい」
二度目の返事が切れないうちに、お菊はもう板縁の上に捻(ね)じ伏せられて、播磨の手はその襟髪を強く掴んでいた。
「おのれ、それ程までにして我が心を試そうとは、あまりといえば憎い奴」
男の魂は憤怒(ふんぬ)に焼け爛(ただ)れたらしく、彼は声も身も顫わせて罵(ののし)った。天下の旗本青山播磨が恋には主家来の隔てなく、召仕のおのれといい交して日本中の花と見るは我が宿の菊一輪と固く心に誓っていた。自分は律儀一方の三河武士である。唯一筋に思いつめたが最後白柄組の付合にも吉原(よしわら)へは一度も足踏みをしたことがない。丹前風呂でも女の杯は手にとったことがない。それほどに堅い義理を守っているのが、嘘や詐りで出来る事と思うか。積って見ても知れる筈であるのに、何が不足でこの播磨を疑ったと、彼は物狂わしいほどに哮(たけ)り立って、力任せに孱弱(かよわ)い女を引摺(ひきず)り廻してむごたらしく責めさいなんだ。女の白い頬は板縁にこすり付けられた。
今夜は客来があるというので、お菊は新しい晴れ衣を着ていた。それは自分の名にちなんだ菊の花を、薄紫地へ白に黄に大きく染め出した振袖であったが、その袖も袂も男の強い力に掴みひしがれて、美しい菊の花もくだくるばかりに揉み苦茶になった。それを着ている女のからだも一緒に揉み苦茶になって、結い立ての島田髷(しまだまげ)も根から頽れてしまった。彼女は苦しい息の下で、泣きながら男に詫びた。
「その疑いももう晴れました。お免(ゆる)しなされて下さりませ」
女の疑いは晴れたといっても、疑われた男の無念は晴れなかった。小石川の伯母が何といおうとも、決してほかの妻は迎えぬとあれほど誓ったのを何と聞いた。何が不足でこの播磨を試(ため)したか、何を証拠にこの播磨を疑ったかと、彼は口惜(くや)し涙をほとばしらせながら女を責めた。どう考えても彼は口惜しかった。陰りのない心を女に疑われた――それを思うと、彼は身悶えするほどに口惜しかった。
お菊も涙にむせびながら詫びた。殿様のお心に陰りのないことは、自分もふだんから知っている。それを知っていながらも、女のあさい心からつい疑ったのは重々の誤りであった。どうぞ堪忍してくれと、彼女も血を吐くような声で男に訴えた。
それでも播磨は堪忍することが出来なかった。女に疑われた、重代の宝を打割ってまでも試された――彼は男の一分を立てるために、どうしてもその女を殺さなければ我慢が出来なかった。彼は涙の眼をいからせて、女に最後の宣告をあたえた。
「今となっていかに詫びても、罪のない者を一旦疑うた罪は生涯消えぬぞ。さあ、覚悟してそれへ直れ」
お菊をそこへ突き放して、播磨は刀掛の刀を取りに行った。隣の琴の音はもう聞えなかった。 

 

お菊が故意に皿を割ったのは事実であった。お仙は決して嘘をいったのではなかった。女の口軽にふとそれを十太夫に洩したのであったが、お仙も後でそれを悔んだ。自分が由ないことを口走った為に、万一お菊が手討に逢うようなことがあっては大変である。お菊の恨みは怖ろしい。彼女は落着いていられなくなって、そっと忍んで奥の様子をさぐると、お菊は主人に手ひどく折檻(せっかん)されて、むごたらしい姿で泣いているので、お仙はいよいよ堪らなくなった。
彼女は十太夫のところへ行って、お菊の取りなしを頼んだが、十太夫はその問題に就いてお菊にあまり同情をもっていないらしいので、お仙はいよいよ気をあせって、更に奴の権次と権六とに縋った。
お菊の罪は重々である。どんな仕置に逢っても仕方がない。しかし奴どもの眼から見ればたかが女子である。骨のないくらげの豆腐を料理しても何の手堪(てごた)えもあるまい。万一いよいよお手討ともなるようであったならば、おれ達は何とか御詫びを申上げてやろうと受合って、二人の奴は庭口に廻ってそっと窺っていると、果して主人は刀を持出して来た。もう猶予はならないと見て、二人は駈けて出て踏石の前に掻いつくばった。彼等は口を揃えて、お菊のために命乞いをしたが播磨は取合わなかった。
その訴訟のうちに、いかに大切な宝であるとしても、人間ひとりの命を一枚の皿と取換えようとするのは、あまりに無道の詮議であるというような意味を権次は洩した。
「播磨が今日の無念さは、おのれ等の知るところでない。いかに大切の宝であろうとも、人間一人の命を皿一枚に換えようとは思わぬ。皿が惜しさにこの菊を成敗すると思うたら、それは大きな料簡ちがいだ。十太夫を呼べ」
播磨は十太夫を呼んで、更に四五枚の皿を持って来させた。そうして、その皿を刀の鍔に打当てて、ことごとく微塵に打砕いてしまった。呆(あき)れて眺めている家来どもに向って主人は説明した。
「播磨が皿を惜しむのでないことは、これでおのれ等にも合点がまいったであろう。菊を成敗するのはほかに仔細があって、おのれ等の知らぬことだ。しかし菊には覚悟のある筈。未練なしに庭へ出い」
「はい」
お菊は悪びれずに庭に降りた。潔白な男の誠を疑った自分の大きい罪を、彼女は十分に自覚していた。男がそれを免さないのも無理はないと思った。それと同時に、女が一生に一度の恋をして、その男に詐りのなかったことを確かに見極めた以上、自分は死んでも満足であると思った。彼女は取乱した姿をつくろって、土の上におとなしくひざまずくと、若葉を渡る冷たい風がそよそよと彼女のくだけた鬢を吹いて通って、座敷の燈火を瞬きさせた。お菊はその灯影に白いうなじを見せて、俯向いて手を合わせた。
播磨は刀をとって薄暗い庭に降りた。十太夫も奴共ももう黙って見物しているよりほかはなかった。血の匂いに馴らされている彼等も、さすがに若い女の悼ましい死を見るに堪えかねて、少しく伏目になっていると、やがて太刀音がはたと聞えた。つづいて主人の声がきこえた。
「女の死骸を片付けい」
三人が眼をあげると、お菊は右の肩先からうしろ袈裟(げさ)に切下げられて、冷たい土の上に横たわっていた。播磨は彼女の死骸を井筒の底へ沈めろといい付けた。
権次と権六はお菊の死骸を抱え起して井戸の中へ静かに沈めると、女を呑み込む水の音が暗い底に籠るように響いた。播磨はその置燈籠に灯を入れろといった。やがて燈籠が明るくなって、井の端の柳かげを薄白く照すと、播磨は静かに歩み寄って井筒の底を覗いた。彼は十太夫にいい付けて、自分の砕いた幾枚の皿も皆な井戸へ投げ込ませた。青山の家重代の宝も、播磨が一生の恋も、すべてこの井戸の深い底に葬られてしまった。
暮六つの鐘がひびいた。
「御客人はなぜ遅い」
播磨は座敷へ帰って眉を寄せた。十太夫も不安に思って門前まで見に出ると、門番の与次兵衛は彼に囁いた。自分が確かに見たのではないが、そこらで白柄組と町奴との喧嘩があるとかいう噂である。もしやそれが水野殿のひと群れではあるまいかとのことであった。聞き捨てにならないので、十太夫はすぐに奥へ引っ返して主人に報告すると、播磨は半分聞かないで起ち上った。
「よし。播磨がすぐに駈け付けて、憎い奴等を追い散らしてくれるわ」
彼は袴の股立ちを高く取った。なげしに掛けてある槍を卸すと、その黒い鞘(さや)は忽ち跳ね飛ばされて、氷のような長い穂先が燈火に冷たく晃(ひか)った。それを掻い込んで播磨は大股(おおまた)に表口へ飛んで出ると、二人の奴も腕をまくりあげて主人のあとを慕って行った。
これから思うさま暴れ狂って、人間の五人、三人を槍玉にあげなければ気が済まないように思っていた播磨は、忽ちに失望させられた。彼は屋敷の門を出て、まだ一町と駈けてゆかないうちに向うから水野のひと群れが来るのに出逢った。
「喧嘩は……」と、播磨は忙(せわ)しくきいた。
「いや、何もない」と、先に立っている水野が笑いながら答えた。「きょうは一度も喧嘩はない。地獄の餓鬼も非時には有り付かれぬ。ははははは」
だんだん訊くと、それはこの群れではなく、ある侍が町人を捕えて何か無礼咎めをしていたのが、実際よりも大きい噂を伝えられたものと判ったので、播磨はいよいよ失望した。今は邪魔物の大身の槍を奴に担がせながら、水野を案内して屋敷へ帰る途中、いい知れない寂しさが犇々(ひしひし)と彼の胸に迫って来た。
水野のほかに七人の客は座敷へ通された。賑かな酒宴は開かれた。その席にお菊の姿が見えないので、水野は主人にきいた。
「わしが贔屓の腰元は見えぬな」
「腰元……かの菊と申す腰元は、唯今手討にいたした」と、播磨は少し沈んだ声でいった。
「手討……。むごい仕置だな」と、水野も一文字の眉を少し皺めた。「どのような過ちをいたした」
高麗皿を打割った仔細を聞かされて、水野はいよいよ暗い顔をした。
「わしがその皿を見たいといった為に、女子一人を殺したか」
「殺しても仔細ござらぬ。罪のある者が殺さるるは人間の掟でござるよ」
播磨は俄かに大きい声を出して笑った。自分が打毀した皿の残りがまだ三四枚あるのを持出させて、彼は水野に見せた。
水野も褒めた。ほかの者共も褒めた。いくら褒められても、播磨は何とも感じなかった。彼はただ無暗に酒を飲んで、時々に大きな声で笑った。
「この間あるところでお身の伯母御に逢ったよ」と、水野はいった。「伯母御はお身の喧嘩好きを苦に病んでわしに意見してくれいと当て付けらしく申しておった。はははは。あの伯母御もなかなか曲者だ。言葉争いでは敵(かな)わぬと見て、わしも黙って陣を引いたよ」
「はは、なんの伯母御が……」と、播磨は気味の悪い顔をしてあざ笑った。「二口目には勘当の縁切のと嚇しても、もうその手では行かぬ。あたら男一匹がこれから何をして生くる身ぞ。八百八町をあばれ歩いて、毎日毎晩喧嘩商売……。このほかに播磨の仕事はござらぬ」
「つよいのう」と、水野も笑っていた。

 

客の帰ったあとで、播磨は残りの高麗皿を皆んな打砕いて、同じ井戸の底へ投げ込んでしまった。この皿がみんな損じる時には家がほろびる――こんなことを彼は何とも考えてなかった。
それから後の彼の気性はいよいよ暴くなった。恋と宝とを同時に失った彼は、もう喧嘩商売で生きてゆくよりほかに途がなかった。さなきだに喧嘩好きの彼は、血をなめた虎のようになって江戸中を暴れて歩いた。暴れ者をあつめた白柄組の中でも、彼の行動が取分けて眼に立った。時には頭の水野にすらも舌を巻かせることがあった。
飯田町の縁談などは無論に蹴散らしてしまった。渋川の伯母にも無論に勘当されてしまった。彼は二人の鬼奴を両のつばさにして、ゆく先々で喧嘩を買って歩いた。こうして足かけ五年を送る間に、彼の家は空屋敷のように荒れてしまった。
それには仔細があった。彼が腰元を手討にして井戸の底に沈めたという噂が、それからそれへと伝えられて、彼の屋敷には一種の怪異があるといい触らされた。雨の降る暗い夜には井筒の上に青い鬼火が燃えると伝えられた。菊の模様の振袖を着た若い腰元が悲しげな声で皿を数えるとも伝えられた。――下女のお仙は早々に暇を貰って在所へ逃げて帰った。番町の皿屋敷――この幽怪な屋敷の名が女どもの魂をおびえさせて、誰もこの屋敷へ奉公に来る者はなかった。若党の鉄之丞はその幽霊の影を見たというので、さすがの若者も肝を冷され病気になって、とうとうこの屋敷を逃げ出してしまった。もう一人の弥五郎は喧嘩で死んだ。門番の与次兵衛も幽霊を怖れて暇を取った。こうして男女の家来がだんだんに減っていくので、暗い屋敷のうちはいよいよ寂しくなった。誰も碌々に掃除する者もないので、座敷も庭も荒れるがままに捨てて置かれて、化物屋敷というには全くふさわしいような廃宅の姿になった。七百石の武家屋敷はおどろに生い茂る草原の底に沈んで見えた。
化物の噂などを主人の播磨は念にも置いていなかった。鉄之丞が幻の影を見たといった時に、彼は頭からその臆病を叱りつけた。弥五郎の死んだのを彼は惜しいとは思わないではなかったが、それよりも更に強い打撃を彼にあたえたのは、奴の権六を失ったことであった。権六も喧嘩で死んだ。彼は寛文(かんぶん)三年の九月、日本堤(にほんづつみ)で唐犬権兵衛等の待伏せに逢った時に、しんがりになって手痛く働いて、なますのように斬りきざまれて死んだ。
この喧嘩は白柄組が凋落(ちょうらく)の始めであった。それは水野十郎左衛門が幡随長兵衛を小石川|白山(はくさん)の屋敷へ呼び寄せて、湯殿でだまし討にしたのが根となって、長兵衛の子分どもは唐犬権兵衛や放駒の四郎兵衛等を頭にいただいて、ひそかに復讐の機会を待っていた。そうして、水野の一群が吉原見物から帰る途中を日本堤に待受けて、不意に彼等を取囲んだのである。その時に水野だけは馬に乗っていた。播磨も一緒にいた。ほかにも十二三人の侍がいた。五、六人の奴もついていた。しかし敵の町奴は五六十人の大勢で、しかも不意を襲われたので、白柄組もなかなかの苦戦であった。殊に彼等は廓(くるわ)の酒に酔っているので、自由に働くことの出来ない者もあった。勿論、町奴の側には少なからぬ手負いが出来たが、白柄組にも殆ど過半数の手負いを見出した。その負傷者を敵に生捕られては武家の恥辱であるから、水野が指図して彼等を早く引揚げさせた。
あとに残った侍は七、八人に過ぎなかったが、それでも必死になって戦った。町人にうしろを見せては一生の名折れであると、水野は歯がみをして憤ったが、どうしても頽れかかった勢を盛返すことは出来なかった。彼は生捕りになるのを恐れて、馬を早めて逃げた。最後まで踏み止まっていた播磨も遂に逃げた。権六の討死したのはこの時であった。権次は幸いに命を助かったが、左の足に深手を負ったのがもとで、とうとう跛足(びっこ)になってしまった。
両の翼と頼んだ奴が、一人は死んだ。一人は不具になった。播磨は自分の影が急に痩(や)せたように感じられた。さなきだに無人の屋敷に、人の数がいよいよ減って、主人と用人と奴とたった三人が寂しく残った。十太夫はだんだんに老衰して来た。権次は満足に歩くことも出来なかった。あばら家は朽ちて傾いて、広い庭は狐狸(こり)の棲家(すみか)と変った。
そのうちに白柄組のほろびる時節が来た。日本堤で旗本が町奴に襲われて、さんざんに追い散らされたという噂が江戸中に拡まったので、幕府でももう捨て置かれなくなった。白柄組の乱暴は近ごろ上役人の眼にも余って、何とか処置をしなければならないという評議まちまちであるところへ、恰(あたか)もこの事件が出来(しゅったい)したのである。上でももう容赦はなかった。明くる寛文四年の三月に水野十郎左衛門は身持よろしからずという廉(かど)で切腹を申付けられた。彼は自分の屋敷で尋常に死に就いた。
「白柄組ももう終りだ」
これは味方の口から一度に吐き出された嘆息の声であった。播磨はその悲哀を最も痛切に感じた。頭を失った白柄組が今までのように栄えよう筈がない。殊に今後は自分等に対する上の圧迫が非常に強くなって来て、手も足も出すことが出来なくなるのは判り切っている。水野を亡ぼしたのは自分等に対する一種の見せしめである。この厳重な仕置に懲らされて、白柄組は自然に消滅するよりほかはない。たとい切腹ほどでなくても、自分等も早晩なにかの咎めを蒙るかも知れない。閉門ぐらいは覚悟しなければなるまい。閉門は一時の事でさのみ恐れるにも足らないが、それらの有形無形の圧迫のために白柄組が滅亡する。その運命が播磨には悲しく感じられた。
白柄組の滅亡を悲しむ者は勿論彼一人ではあるまい。しかし他の者どもは白柄組を離れても立派に生きて行かれるのであるが、播磨は白柄組を離れて喧嘩商売をやめては、もう生きて行く途がないのである。恋を失った心の痛みを毎日毎晩の喧嘩で癒(いや)していた彼は、この後どうしてその痛みを鎮めるか。それを思うと、彼はさびしかった。悲しかった。自分も水野と同じ罪科に逢った方がむしろ優(ま)しであったかとも考えられた。彼はなまじいに生かして置かれるのを怨めしく思った。
二十七日に切腹した水野の葬式は二十九日の夕方に三田(みた)の菩提寺で営まれた。上を憚(はばか)って無論質素に執行されたのであるが、さすがに世間を忍んで見送る者も多かった。播磨も笠(かさ)を深くして寺まで送って行った。番町の屋敷へ帰る頃には細かい雨が笠の檐(のき)にしとしとと降って来た。
「渋川の伯母御様お待ち兼ねでござりまする」と、十太夫は玄関に出て主人にいった。
久しく音信不通の伯母が今夜どうして突然にたずねて来たのかと怪しみながら、播磨は濡(ぬ)れた笠を十太夫に渡して奥へ通ると、伯母の真弓は闇(くら)い灯の下に坐(すわ)っていた。雄々しい気性で生きているせいか、真弓は昔のままにすこやかであるらしく見えた。
「久しゅう逢いませぬ。月日は早いもの、もう足かけ五年になります」と、真弓は甥の顔を懐かしそうに眺めた。「苦労でもあるかして、顔も見違えるように窶(やつ)れました。但しは所労か」
なまじいに優しくいわれるのが、今の播磨には辛かった。彼は破れた畳に手をついて無沙汰の詫びをいった。
「伯母様を始め、伊織助夫婦の衆の御安否をうかがいとうは存じながら、何分にも勘当の身の上で、おのずと閾(しきい)も高うなりまして……」
「勿論のこと。一旦勘当したお身を屋敷へ寄せることはなりませぬ。無沙汰はたがいでいうことはない。その伯母が今夜押掛けて来たのはほかでもない」と、いいかけて真弓はあたりを見廻した。「屋敷内もひどく荒れ果てましたな。成る程これでは化物屋敷、世間の噂に嘘はない。痩せても枯れても七百石の屋敷をこれほどに住み荒して……。いや、屋敷の荒れたのは作り替えもなる。心の荒れ果てたのは容易に作り替えはなるまい。というたら、この伯母が又叱りに来たかとも思おうが、今夜はもう何にもいいませぬ。伯母甥のよしみにたったひと言いいたいのは……。これ、播磨。このたびの水野殿の切腹、お身は何と思やるぞ。あれほどの激しい気性のお人でも、命はよくよく惜しいと見ゆる」
嘲るような口振りに、播磨は少しせいた。
「何、命が惜しいとは……」
「惜しければこそ日本堤から逃げたのではあるまいか。いや、そこを逃げただけならば、まだしも言訳は立つ。万一その場で斬り死して、兜(かぶと)きる首を町人どもに踏みにじらるるも無念と……。のう、お身が一緒に逃げたのもそうであろう。が、さてその後じゃ。町人どもに追いまくられ、朋輩を傷つけられ、家来を殺され、哀れ散々の不覚を取りながらのめのめと生きている水野殿の心が判らぬ。屋敷へ戻ってすぐに切腹……。それがまことの武士ではないか。それを今まで生きていて、揚句の果に上から切腹を申渡され、忌が応でも命を取らるる。ほんに浅ましい身の果じゃ」
こういわれると、播磨も行き詰まった。水野は命を惜しむ卑怯者(ひきょうもの)ではない。自分とても同様である。しかも伯母の理窟も一応はもっともである。自分も忍んで卑怯の名を受けなければならないと覚悟して、彼は黙って俯向いていると、伯母はまた諄々(じゅんじゅん)といい聞かせた。
「水野殿は格別、伯母の心にかかるは甥の殿の身の上じゃ。勘当しても甥は可愛い。今までのことはともかくも、この上に恥を重ねぬ分別が肝要と、わたしが知慧を貸しに来ました。白柄組の頭と頼む水野殿が亡びた以上、お身達とても安穏では済むまい。何かの御咎めのないうちに、いっそ見事に腹を切りゃれ」
播磨はやはり黙って聴いていた。
雨はまだ歇(や)まなかった。伯母の帰ったあとで、播磨は切腹の支度に取りかかった。夜はもう五つ(午後八時)を過ぎたらしい。庭先の遅い桜が雨に打たれて、あわただしく散るのが、座敷から洩れる灯の光に薄白く見えるのを、播磨は筆をおいて眺めていた。彼は自分の支配頭にあてた一通の書置をしたためているのであった。黙って自滅しては乱心者と見られるのも口惜しいので、彼は自分の死ぬべき仔細を詳しく書いた。
書いてしまって、彼は暗い庭を見た。濡れた柳は長い髪を垂れた女のように、井筒の上に低く掩(おお)いかかって、うす暗い影を顫わせていた。播磨はじっとそれを見つめていると、井戸の中から青白い火が燃えあがって又すぐに消えた。雨は少し強くなって来て、柳のかげが大きく靡(なび)くように見えたかと思うと、青白い火が又燃えた。彼は眼を据えて見つめていた。
見るから冷たそうな青い火がちろちろと揺れると共に、若い女の姿がまぼろしのように浮きあがった。頽れた島田のおくれ毛が白い顔に振りかぶって、菊の模様の振袖を着ている女――それがお菊であることを播磨はすぐに知った。世間に伝えられる皿屋敷の幽霊を彼は今夜初めて見たのであった。
「菊」と、彼は縁先へ出て声をかけた。
鬼火は又消えたが、お菊の立姿はまだそこに迷っていた。播磨は再び呼んだ。
「菊。顔を見せい」
幽霊は静かに顔をあげた。それは生きている時とちっとも変わらないお菊の美しい顔であった。怨みも妬みも呪いも知らないような、美しい清らかな顔であった。播磨は思わずほほえまれた。
「菊。播磨も今行くぞ」
女の顔にも薄い笑みが浮んだようにも見えたが、今ひとしきり強く吹き寄せた風に煽(あお)られて、柳の糸の乱れる蔭にまぼろしの姿も隠されてしまった。雨はしぶくように降って来た。
お菊の魂は自分を怨んでいない。こう思うと、播磨は俄(にわ)かに力強くなった。彼は勇ましい声で十太夫と権次とを呼んだ。そうして、自分が切腹の覚悟を打明けた。
「播磨は今夜切腹する。十太夫は介錯の役目滞りなく致した上で、この一通を支配頭屋敷へ持参いたせ。青山の家滅亡はいうまでもない。その方どもはあとの始末を済ませた上で、思い思いに然るべき主取りせい」
主人は形見として幾らかの金をやったが、権次は辞退した。自分はもう生き甲斐のない不具である。今まで青山の奴と世間に謳(うた)われた身が、今更他家の飼犬にもなれない。自分は追腹を切って冥途のお供をすると立派にいい切った。十太夫は一切の役目を終った上で、白髪頭を剃(そ)り丸めたいといった。
どちらも無理のない願いと見て、播磨は二つながらそれを許した。三人は型ばかりの水盃(みずさかずき)を取り交した。思い切っては、誰の眼にも涙はなかった。
春を送る雨の音は井筒の柳の上にひとしお強くひびいた。十太夫は備前則宗(びぜんのりむね)の短刀を三宝に乗せて、主人の前にうやうやしく捧げて出た。  
 
半七捕物帳 猫騒動

 

一  
半七老人の家には小さい三毛(みけ)猫が飼ってあった。二月のあたたかい日に、私がぶらりと訪ねてゆくと、老人は南向きの濡縁(ぬれえん)に出て、自分の膝の上にうずくまっている小さい動物の柔らかそうな背をなでていた。
「可愛らしい猫ですね」
「まだ子供ですから」と、老人は笑っていた。「鼠を捕る知恵もまだ出ないんです」
明るい白昼(まひる)の日が隣りの屋根の古い瓦を照らして、どこやらで猫のいがみ合う声がやかましく聞えた。老人は声のする方をみあげて笑った。
「こいつも今にああなって、猫の恋とかいう名を付けられて、あなた方の発句(ほっく)の種になるんですよ。猫もまあこの位の小さいうちが一番可愛いんですね。これが化けそうに大きくなると、もう可愛いどころか、憎らしいのを通り越して何だか薄気味が悪くなりますよ。むかしから猫が化けるということをよく云いますが、ありゃあほんとうでしょうか」
「さあ、化け猫の話は昔からたくさんありますが、嘘かほんとうか、よく判りませんね」と、わたしはあいまいな返事をして置いた。相手が半七老人であるから、どんな生きた証拠をもっていないとも限らない。迂濶にそれを否認して、飛んだ揚げ足を取られるのも口惜しいと思ったからであった。
しかし老人もさすがに猫の化けたという実例を知っていないらしかった。彼は三毛猫を膝からおろしながら云った。
「そうでしょうね。昔からいろいろの話は伝わっていますが、誰もほんとうに見たという者はないんでしょうね。けれども、わたしはたった一度、変なことに出っくわしましたよ。なに、これもわたしが直接に見たという訳じゃないんですけれど、どうも嘘じゃないらしいんです。なにしろ其の猫騒動のために人間が二人死んだんですからね。考えてみると、恐ろしいこってす」
「猫に啖(く)い殺されたのですか」
「いや、啖い殺されたというわけでもないんです。それが実に変なお話でね、まあ、聴いてください」
いつまでも膝にからみ付いている小猫を追いやりながら、老人はしずかに話し出した。
文久二年の秋ももう暮れかかって、芝神明宮の生姜市(しょうがいち)もきのうで終ったという九月二十二日の夕方の出来事である。神明の宮地から遠くない裏店(うらだな)に住んでいるおまきという婆さんが頓死した。おまきは寛政|申(さる)年生まれの今年六十六で、七之助という孝行な息子をもっていた。彼女は四十代で夫に死に別れて、それから女の手ひとつで五人の子供を育てあげたが、総領の娘は奉公先で情夫(おとこ)をこしらえて何処へか駈け落ちをしてしまった。長男は芝浦で泳いでいるうちに沈んだ。次男は麻疹(はしか)で命を奪(と)られた。三男は子供のときから手癖が悪いので、おまきの方から追い出してしまった。
「わたしはよくよく子供に運がない」
おまきはいつも愚痴をこぼしていたが、それでも末っ子の七之助だけは無事に家に残っていた。しかも彼は姉や兄たちの孝行を一人で引き受けたかのように、肩揚げのおりないうちからよく働いて、年を老(と)った母を大切にした。
「あんな孝行息子をもって、おまきさんも仕合わせ者だ」
子供運のないのを悔んでいたおまきが、今では却って近所の人達から羨まれるようになった。七之助は魚商(さかなや)で、盤台をかついで毎日方々の得意先を売りあるいていたが、今年|二十歳(はたち)になる若いものが見得も振りもかまわずに真っ黒になって稼いでいるので、棒手振(ぼてエふ)りの小商いながらもひどい不自由をすることもなくて、母子(おやこ)ふたりが水いらずで仲よく暮していた。親孝行ばかりでなく、七之助は気のあらい稼業に似合わない、おとなしい素直な質(たち)で、近所の人達にも可愛がられていた。
それに引き替えて、母のおまきは近所の評判がだんだんに悪くなった。彼女は別に人から憎まれるような悪い事をしなかったが、人に嫌われるような一つの癖をもっていた。おまきは若いときから猫が好きであったが、それが年をとるにつれていよいよ烈しくなって、この頃では親猫子猫あわせて十五六匹を飼っていた。勿論、猫を飼うのは彼女の自由で、誰もあらためて苦情をいうべき理由をもたなかった。そのたくさんの猫が狭い家いっぱいに群がっているのが、見る人の目には薄気味の悪いような一種不快の感をあたえることがあっても、それだけではまだ飼主に対して苦情を持ち込む有力の理由とは認められなかった。併したくさんの動物は決して狭い家の中にばかりおとなしく竦(すく)んではいなかった。彼等はそこらへのそのそ這い出して、近所隣りの台所をあらした。おまき婆さんが幾ら十分の食い物を宛(あて)がって置いても、彼等はやはり盗み食いを止めなかった。
こうなると、苦情の理由が立派に成り立って、近所からたびたびねじ込まれた。その都度おまきも詫びた。七之助もあやまった。併しおまきの家のなかの猫の啼き声はやはり絶えないので、誰が云い出したとも無しに、彼女は近所の口の悪い人達から猫婆という綽名(あだな)を与えられてしまった。本人のおまきはともあれ、七之助は母の異名を聴くたびにいやな思いをさせられるに相違なかった。が、おとなしい彼は母を諫(いさ)めることも出来なかった。無論、近所の人と争うことも出来なかった。彼は畜生の群れと一緒に寝て起きて、黙っておとなしく稼いでいた。
この頃は七之助が商売から帰ってくる時に、その盤台にかならず幾|尾(ひき)かの魚(さかな)が残っているのを、近所の人達が不思議に思った。
「七之助さん、きょうもあぶれかい」と、ある人が訊いた。
「いいえ、これは家(うち)の猫に持って帰るんです」と、七之助はすこし極りが悪そうに答えた。河岸(かし)から仕入れて来た魚をみんな売ってしまう訳には行かない。飼い猫の餌食(えじき)として必ず幾尾かを残して帰るように、母から云い付けられていると彼は話した。
「この高い魚をみんな猫の餌食に……。あの婆さんも勿体ねえことをするな」と、聴いた人もおどろいた。その噂がまた近所に広まった。
「あの息子もおとなしいから、おふくろの云うことを何でも素直にきいているんだろうが、この頃の高い魚を毎日あれほどずつ売り残して来ちゃあ、いくら稼いでも追いつくめえ。あの婆さんは生みの息子より畜生の方が可愛いのかしら。因果なことだ」
近所の人達は孝行な七之助に同情した。そうして、その反動として誰も彼も猫婆のおまきに反感をもつようになった。近所から嫌われていたおまきが此の頃だんだんと近所から憎まれるようになって来た。猫はいよいよ其の反感を挑発するように、この頃はいたずらが烈しくなって、どこの家でも遠慮なしにはいり込んだ。障子を破られた家もあった。魚を盗まれた家もあった。その啼き声が夜昼そうぞうしいと云うので、南隣りの人はとうとう引っ越してしまった。北隣りには大工の若い夫婦が住んでいるが、その女房も隣りの猫にはあぐね果てて、どこかへ引っ越したいと口癖のように云っていた。
「何とかしてあの猫を追い払ってしまおうじゃないか。息子も可哀そうだし、近所も迷惑だ」
長屋のひとりが堪忍袋の緒を切ってこう云い出すと、長屋一同もすぐに同意した。直接に猫婆に談判しても容易に埓があくまいと思ったので、月番(つきばん)の者が家主(いえぬし)のところへ行って其の事情を訴えて、おまきが素直に猫を追いはらえばよし、さもなければ店立(たなだて)を食わしてくれと頼んだ。家主ももちろん猫婆の味方ではなかった。早速おまきを呼びつけて、長屋じゅうの者が迷惑するから、お前の家の飼い猫をみんな追い出してしまえと命令した。もし不承知ならば即刻に店を明け渡して、どこへでも勝手に立ち退けと云った。
家主の威光におされて、おまきは素直に承知した。
「いろいろの御手数をかけて恐れ入りました。猫は早速追い出します」
しかし今まで可愛がって育てていたものを、自分が手ずから捨てにゆくには忍びないから、御迷惑でも御近所の人たちにお願い申して、どこかへ捨てて来て貰いたいと彼女は嘆いた。それも無理はないと思ったので、家主はそのことを長屋の者に伝えると、おまきの隣りに住んでいる彼(か)の大工のほかに二人の男が連れ立って、おまきの家へ猫を受け取りに行った。猫は先頃子を生んだので、大小あわせて二十匹になっていた。
「どうも御苦労さまでございます。では、なにぶんお願い申します」
おまきはさのみ未練らしい顔を見せないで、家じゅうの猫を呼びあつめて三人に渡した。その猫どもを三つに分けて、ある者は炭の空き俵に押し込んだ。ある者は大風呂敷に包んだ。めいめいがそれを小脇に引っかかえて路地を出てゆくうしろ姿を、おまきは見送ってニヤリと笑った。
「わたしは見ていましたけれど、その時の笑い顔は実に凄うござんしたよ」と、大工の女房のお初があとで近所の人達にそっと話した。
猫をかかえた三人は思い思いの方角へ行って、なるべく寂しい場所を選んで捨てて来た。
「まずこれでいい」
そう云って、長屋の平和を祝していた人達は、そのあくる朝、大工の女房の報告におどろかされた。
「隣りの猫はいつの間にか帰って来たんですよ。夜なかに啼く声が聞えましたもの」
「ほんとうかしら」
おまきの家を覗きに行って、人々は又おどろいた。猫の眷族(けんぞく)はゆうべのうちに皆帰って来たらしく、さながら人間の無智を嘲るように家中いっぱいに啼いていた。おまきに訊いても要領を得なかった。自分もよく知らないが、なんでもゆうべの夜中にどこからか帰って来て、縁の下や台所の櫺子(れんじ)窓からぞろぞろと入り込んだものらしいと云った。猫は自分の家へかならず帰るという伝説があるから、今度は二度と帰られないようなところへ捨てて来ようというので、かの三人は行きがかり上、一日の商売を休んで品川のはずれや王子の果てまで再び猫をかかえ出して行った。
それから二日ばかりおまきの家に猫の声が聞えなかった。  

 

神明の祭礼(まつり)の夜であった。おなじ長屋に住んでいる鋳掛(いかけ)錠前直しの職人の女房が七歳(ななつ)になる女の児をつれて、神明のお宮へ参詣に行って、四ツ(午後十時)少し前に帰って来ると、その晩は月が冴えて、明るい屋根の上に露が薄白く光っていた。
「あら、阿母(おっか)さん」
女の児はなにを見たか、母の袂をひいて急に立ちすくんだ。女房もおなじく立ち停まった。猫婆の屋根の上に小さい白い影が迷っているのであった。それは一匹の白猫で、しかも前脚二本を高くあげて、後脚二本は人間のように突っ立っているのを見た時に、女房もはっと息をのみ込んだ。かれは娘を小声で制して、しばらくそっと窺っていると、猫は長い尾を引き摺りながら、踊るような足取りで板葺(こけら)屋根の上をふらふらと立ってあるいた。女房はぞっとして鶏肌(とりはだ)になった。猫が屋根を渡り切って、その白い影がおまきの家の引窓のなかに隠れたのを見とどけると、彼女は娘の手を強く握って転げるように自分の家へかけ込んで、引窓や雨戸を厳重に閉めてしまった。
亭主は夜遅く帰って来て戸をたたいた。女房がそっと起きて来て、今夜自分が見とどけた怪しい出来事を話すと、祭礼の酒に酔っている亭主はそれを信じなかった。
「べらぼうめ、そんなことがあるもんか」
女房の制(と)めるのもきかずに、彼はおまきの台所へ忍んで行って、内の様子を窺っていると、やがておまきの嬉しそうな声がきこえた。
「おお、今夜帰って来たのかい、遅かったねえ」
これに答えるような猫の啼き声がつづいて聞えた。亭主もぎょっとして、酒の酔いが少しさめて来た。彼はぬき足をして家へ帰った。
「ほんとうに立って歩いたか」
「あたしも芳坊も確かに見たんだもの」と、女房も顔をしかめてささやいた。小さい娘のお芳もそれに相違ないとふるえながら云った。
亭主もなんだか薄気味が悪くなって来た。ことに彼は猫を捨てに行った一人であるだけに、いよいよ好い心持がしなかった。彼はまた酒を無暗に飲んで酔い倒れてしまった。女房と娘とはしっかり抱き合ったままで、夜のあけるまでおちおち睡られなかった。
おまきの家の猫はゆうべのうちにみな帰っていた。ことに鋳掛屋の女房の話を聴いて、長屋じゅうの者は眼をみあわせた。普通の猫が立ってあるく筈はない、猫婆の家の飼猫は化け猫に相違ないということに決められてしまった。その噂が家主の耳へもはいったので、彼も薄気味が悪くなった。彼は再びおまき親子にむかって立ち退きを迫ると、おまきは自分の夫の代から住み馴れている家を離れたくない。猫はいかように御処分なすっても好いから、どうか店立(たなだて)をゆるして貰いたいと涙をこぼして家主に嘆いた。そうなると、家主にも不憫が出て、たってこの親子を追い払うわけにも行かなかった。
「ただ捨てて来るから、又すぐ戻って来るのだ。今度は二度と帰られないように重量(おもし)をつけて海へ沈めてしまえ。こんな化け猫を生かして置くと、どんな禍いをするか知れない」
家主の発議で、猫は幾つかの空き俵に詰め込まれ、これに大きい石を縛りつけて芝浦の海へ沈められることになった。今度は長屋じゅうの男という男は総出になって、おまきの家へ二十匹の猫を受け取りに行った。重量をつけて海の底へ沈められては、さすがの猫ももう再び浮かび上がれないものとおまきも覚悟したらしく、人々にむかって嘆願した。
「今度こそは長(なが)の別れでございますから、猫に何か食べさしてやりとうございます。どうぞ少しお待ち下さい」
彼女は二十匹の猫を自分のまわりに呼びあつめた。きょうは七之助も商売を休んで家にいたので、おまきは彼に手伝わせて何か小魚(こざかな)を煮させた。飯と魚とを皿に盛り分けて、一匹ずつの前にならべると、猫は鼻をそろえて一度に食いはじめた。彼等は飯を食った。肉を食った。骨をしゃぶった。一匹ならば珍らしくない、しかも二十匹が一度に喉を鳴らし、牙をむき出して、めいめいの餌食を忙がしそうに啖(くら)っているありさまは、決して愉快な感じを与えるものではなかった。気の弱いものにはむしろ凄愴(ものすご)いようにも思われた。白髪(しらが)の多い、頬骨の高いおまきは、伏目にそれをじっと眺めながら、ときどきそっと眼を拭いていた。
おまきの手から引き離された猫の運命は、もう説明するまでもなかった。万事が予定の計画通りに運ばれて、かれらは生きながら芝浦の海の底へ葬られてしまった。それから五、六日を経っても猫はもう帰って来なかった。長屋じゅうの者はほっとした。
併しおまきは別にさびしそうな顔もしていなかった。七之助は相変らず盤台をかついで毎日の商売に出ていた。その猫を沈められてから丁度七日目の夕方におまきは頓死したのであった。
それを発見したのは、北隣りの大工の女房のお初で、亭主は仕事からまだ帰って来なかったが、いつもの慣習(ならい)で彼女は格子に錠をおろして近所まで用達に行った。南隣りは当時|空家(あきや)であった。したがって、おまきの死んだ当時の状況は誰にも判らなかったが、お初の云うところによると、かれが外から帰って来て、路地の奥へ行こうとする時に、おまきの家の入口に魚の盤台と天秤棒とが置いてあるのを見た。七之助が商売から戻って来たものと推量した彼女は、その軒下を通り過ぎながら声をかけたが、内には返事がなかった。秋の夕方はもう薄暗いのに、内には灯をともしていなかった。暗い家のなかは墓場のように森(しん)と沈んでいた。一種の不安に襲われて、お初はそっと内をのぞくと、入口の土間には人がころげているらしかった。怖々(こわごわ)ながら一と足ふみ込んで透かして視ると、そこに転げているのは女であった。猫婆のおまきであった。お初は声をあげて人を呼んだ。
その叫びを聞き付けて近所の人も駈けて来た。猫婆が死んだという噂が長屋じゅうから裏町まで伝わって、家主もおどろいて駈け付けた。一と口に頓死というけれど、実際は病気で死んだのか、人に殺されたのか、それがまだ判然(はっきり)しなかった。
「それにしても息子はどうしたんだろう」
盤台や天秤棒がほうり出してあるのを見ると、七之助はもう帰って来たらしいが、どこに何をしているのか、この騒ぎのなかへ影を見せないのも不思議に思われた。ともかくも医者を呼んで来て、おまきの死骸をあらためて貰うと、からだに異状はない、頭の脳天よりは少し前の方に一ヵ所の打ち傷らしいものが認められるが、それも人から打たれたのか、あるいは上がり端(はな)から転げ落ちるはずみに何かで打ったのか、医者にも確かに見極めが付かないらしく、結局おまきは卒中(そっちゅう)で倒れたということになった。病死ならば別にむずかしいこともないと、家主もまず安心したが、それにしても七之助のゆくえが判らなかった。
「息子はどうしたんだろう」
おまきの死骸を取りまいて、こうした噂が繰り返されているところへ、七之助が蒼い顔をしてぼんやり帰って来た。隣り町(ちょう)に住んでいる同商売の三吉という男もついて来た。三吉はもう三十以上で、見るからに気の利いた、威勢の好い男であった。
「いや、どうも皆さん。ありがとうございました」と、三吉も人々に挨拶した。「実は今、七之助がまっ蒼になって駈け込んで来て、商売から帰って家へはいると、おふくろが土間に転がり落ちて死んでいたが、一体どうしたらよかろうかと、こう云うんです。そりゃあ俺のところまで相談に来ることはねえ、なぜ早く大屋(おおや)さんやお長屋の人達にしらせて、なんとか始末を付けねえんだと叱言(こごと)を云ったような訳なんですが、なにしろまだ年が若けえもんですから、唯もう面喰らってしまって、夢中で私のところへ飛んで来たという。それもまあ無理はねえ、ともかくもこれから一緒に行って、皆さんに宜しくおねがい申してやろうと、こうして出てまいりましたものでございますが、一体まあどうしたんでございましょうね」
「いや、別に仔細はない。七之助のおふくろは急病で死にました。お医者の診断では卒中だということで……」と、家主はおちつき顔に答えた。
「へえ、卒中ですか。ここのおふくろは酒も飲まねえのに、やっぱり卒中なんぞになりましたかね。おっしゃる通り、急死というのじゃあどうも仕方がございません。七之助、泣いてもしようがねえ、寿命だとあきらめろよ」と、三吉は七之助を励ますように云った。
七之助は窮屈そうにかしこまって、両手を膝に突いたままで俯向いていたが、彼の眼にはいっぱいの涙を溜めていた。ふだんから彼の親孝行を知っているだけに、みんなも一入(ひとしお)のあわれを誘われた。猫婆の死を悲しむよりも、母をうしなった七之助の悲しみを思いやって、長屋じゅうの顔は陰った。女たちはすすり泣きをしていた。
その晩は長屋じゅうの者があつまって通夜をした。七之助はまるで気抜けがしたようにぼんやりとして、隅の方に小さくなっているばかりで碌々口も利かなかった。それがいよいよ諸人の同情をひいて、葬式(とむらい)一切のことは総て彼の手を煩わさずに、長屋じゅうの者がみんな始末してやることにした。七之助はおどおどしながら頻りに礼を云った。
「こうして皆さんが親切にして下さるんだから、何もくよくよすることはねえ。猫婆なんていうおふくろは生きていねえ方が却って好いかも知れねえ。お前もこれから一本立ちになってせいぜい稼いで、みなさんのお世話で好い嫁でも持つ算段をしろ」と、三吉は平気で大きな声で云った。
仏の前で掛け構い無しにこんなことを云っても、誰もそれを咎める者もないほどに、不運なおまきは近所の人達の同情をうしなっていた。さすがに口を出して露骨には云わないが、人々の胸にも三吉とおなじような考えが宿っていた。それでも一個の人間である以上、猫婆は飼猫とおなじような残酷な水葬礼には行なわれなかった。おまきの死骸を収めた早桶は長屋の人達に送られて、あくる日の夕方に麻布の小さな寺に葬られた。
それは小雨(こさめ)のような夕霧の立ち迷っている夕方であった。おまきの棺が寺へゆき着くと、そこにはほかにも貧しい葬式があって、その見送り人は徐々に帰りかかるところであった。おまきの葬式は丁度それと入れ違いに本堂に繰り込むと、前に来ていた見送り人はやはり芝辺の人達が多かったので、あとから来たおまきの見送り人と顔馴染みも少なくなかった。
「やあ、おまえさんもお見送りですか」
「御苦労さまです」
こんな挨拶が方々で交換された。そのなかに眼の大きな、背の高い男がいて、彼はおまきの隣りの大工に声をかけた。
「やあ、御苦労。おまえの葬式(とむれえ)は誰だ」
「長屋の猫婆さ」と、若い大工は答えた。
「猫婆……。おかしな名だな。猫婆というのは誰のこった」と、彼はまた訊いた。
猫婆の綽名の由来や、その死にぎわの様子などを詳しく聴き取って、彼は仔細らしく首をかしげていたが、やがて大工に別れを告げて一と足さきに寺の門を出た。かれは手先の湯屋熊であった。  

 

「どうもその猫ばばあの死に様がちっと変じゃありませんかね」
湯屋熊の熊蔵はその晩すぐに神田の三河町へ行って、親分の半七のまえできょう聞き出して来た猫婆の一件を報告した。半七は黙って聴いていた。
「親分、どうです。変じゃありませんかね」
「むむ、ちっと変だな。だが、てめえの挙げて来るのに碌なことはねえ。この正月にもてめえの家の二階へ来る客の一件で飛んでもねえ汗をかかせられたからな。うっかり油断はできねえ。まあ、もうちっと掘(ほじ)くってから俺のとこへ持って来い。猫婆だって生きている人間だ。いつ頓死をしねえとも限らねえ」
「ようがす、わっしも今度は真剣になって、この正月の埋め合わせをします」
「まあ、うまくやって見てくれ」
熊蔵を帰したあとで、半七はかんがえた。熊蔵の云うことも馬鹿にならない、家主の威光と大勢の力とで、猫婆が生みの子よりも可愛がっていたたくさんの猫どもを無体にもぎ取って、それを芝浦の海の底に沈めた。それから丁度七日目に猫婆が不意に死んだ。猫の執念とか、なにかの因縁とかいえば云うものの、そこに一種の疑いがないでもない。これはそそっかしい熊蔵一人にまかせては置かれないと思った。彼はあくる朝すぐに愛宕下の熊蔵の家をたずねた。
熊蔵の家が湯屋であることは前にも云った。併し朝がまだ早いので、二階にあがっている客はなかった。熊蔵は黙って半七を二階に案内した。
「大層お早うごぜえましたね。なにか御用ですか」と、彼は小声で訊いた。
「実はゆうべの一件で来たんだが、なるほど考えてみるとちっとおかしいな」
「おかしいでしょう」
「そこで、おめえは何か睨んだことでもあるのか」
「まだ其処までは手が着いていねえんです。なにしろ、きのうの夕方聞き込んだばかりですから」と、熊蔵は頭を掻いた。
「猫婆がまったく病気で死んだのなら論はねえが、もしその脳天の傷に何か曰くがあるとすれば、おめえは誰がやったと思う」
「いずれ長屋の奴らでしょう」
「そうかしら」と、半七は考えていた。「その息子という奴がおかしくねえか」
「でも、その息子というのは近所でも評判の親孝行だそうですぜ」
評判の孝行息子が親殺しの大罪を犯そうとは思われないので、半七も少し迷った。しかし猫婆がともかくも素直に猫を渡した以上、長屋の者がかれを殺す筈もあるまいと思われた。息子の仕業でも無し、長屋の者どもの仕業でもないとすれば、猫婆の死は医者の診断の通り、やはり卒中の頓死ということに決めてしまうよりほかはなかったが、半七の疑いはまだ解けなかった。いくら年が若いといっても、息子はもう二十歳(はたち)にもなっている。母の死を近所の誰にも知らせないで、わざわざ隣り町の同商売の家まで駈けて行ったということが、どうも彼の腑に落ちなかった。と云って、それほどの孝行息子がどうして現在の母を残酷に殺したか、その理窟はなかなか考え出せなかった。
「なにしろ、もう一度頼んでおくが、おめえよく気をつけてくれ。五、六日経つと、おれが様子を訊きに来るから」
半七は念を押して帰った。九月の末には雨が毎日降りつづいた。それから五日ほど経つと、熊蔵の方からたずねて来た。
「よく降りますね。早速ですが例の猫ばばあの一件はなかなか当りが付きませんよ。息子は相変らず毎日かせぎに出ています。そうして、商売を早くしまって、帰りにはきっとおふくろの寺参りに行っているそうで、長屋の者もみんな褒めていますよ。それにね、長屋の奴らは猫婆が斃死(くたば)って好い気味だぐらいに思っているんですから、誰も詮議をする者なんぞはありゃしません。家主だって自身番だって、なんとも思っていやあしませんよ。そういうわけだから、どうにもこうにも手の着けようがなくなって……」
半七は舌打ちした。
「そこを何とかするのが御用じゃあねえか。もうてめえ一人にあずけちゃあ置かれねえ。あしたはおれが直接に出張って行くから案内してくれ」
あくる日も秋らしい陰気な雨がしょぼしょぼ降っていたが、熊蔵は約束通りに迎いに来た。二人は傘をならべて片門前へ出て行った。
路地のなかは思いのほかに広かった。まっすぐにはいると、左側に大きい井戸があった。その井戸側について左へ曲がると、また鉤(かぎ)の手に幾軒かの長屋がつづいていた。しかし長屋は右側ばかりで、左側の空地は紺屋(こうや)の干場(ほしば)にでもなっているらしく、所まだらに生えている低い秋草が雨にぬれて、一匹の野良犬が寒そうな顔をして餌をあさっていた。
「此処ですよ」と、熊蔵は小声で指さした。猫婆の南隣りはまだ空家になっているらしかった。二人は北隣りの大工の家へはいった。熊蔵は大工を識っていた。
「ごめん下さい。悪いお天気です」
外から声をかけると、若い女房のお初が出て来た。熊蔵は框(かまち)に腰をかけて挨拶した。途中で打ち合わせがしてあるので、熊蔵はこの頃この近所へ引っ越して来た人だと云って半七をお初に紹介した。そうして、今度引っ越して来た家はだいぶ傷(いた)んでいるので、こっちの棟梁に手入れをして貰いたいと云った。その尾について、半七も丁寧に云った。
「何分こっちへ越してまいりましたばかりで、御近所の大工さんにだれもお馴染みがないもんですから、熊さんに頼んでこちらへお願いに出ましたので……」
「左様でございましたか。お役には立ちますまいが、この後(のち)ともに何分よろしくお願い申します」
得意場が一軒ふえることと思って、お初は笑顔をつくって如才なく挨拶した。二人を無理に内に招じ入れて、煙草盆や茶などを出した。外の雨の音はまだ止まなかった。昼でも薄暗い台所では鼠の駈けまわる音がときどきに聞えた。
「お宅も鼠が出ますねえ」と、半七は何気なく云った。
「御覧の通りの古い家だもんですから、鼠があばれて困ります」と、お初は台所を見返って云った。
「猫でもお飼いになっては……」
「ええ」と、お初はあいまいな返事をしていた。彼女の顔には暗い影がさした。
「猫といえば、隣りの婆さんの家はどうしましたえ」と、熊蔵は横合いから口を出した。「息子は相変らず精出して稼いでいるんですか」
「ええ、あの人は感心によく稼ぎますよ」
「こりゃあ此処だけの話だが……」と、熊蔵は声を低めた。「なんだか表町の方では変な噂をしているようですが……」
「へえ、そうでございますか」
お初の顔色がまた変った。
「息子が天秤棒でおふくろをなぐり殺したんだという噂で……」
「まあ」
お初は眼の色まで変えて、半七と熊蔵との顔を見くらべるように窺っていた。
「おい、おい、そんな詰まらないことをうっかり云わない方がいいぜ」と、半七は制した。「ほかの事と違って、親殺しだ。一つ間違った日にゃあ本人は勿論のこと、かかり合いの人間はみんな飛んだ目に逢わなけりゃあならない。滅多なことを云うもんじゃあないよ」
眼で知らされて、熊蔵はあわてたように口を結んだ。お初も急に黙ってしまった。一座が少し白らけたので、半七はそれを機(しお)に座を起った。
「どうもお邪魔をしました。きょうはこんな天気だから棟梁はお内かと思って来たんですが、それじゃあ又出直して伺います」
お初は半七の家を訊いて、亭主が帰ったら直ぐにこちらから伺わせますと云ったが、半七はあしたまた来るからそれには及ばないと断わって別れた。
「あの女房がはじめて猫婆の死骸を見付けたんだな」と、路地を出ると半七は熊蔵に訊いた。
「そうです。あの嬶、猫婆の話をしたら少し変な面(つら)をしていましたね」
「むむ、大抵判った。お前はもうこれで帰っていい。あとは俺が引き受けるから。なに、おれ一人で大丈夫だ」
熊蔵に別れて、半七はそれから他へ用達に行った。そうして、夕七ツ(午後四時)前に再び路地の口に立った。雨が又ひとしきり強くなって来たのを幸いに、かれは頬かむりをして傘を傾けて、猫婆の南隣りの空家へ忍び込んだ。彼は表の戸をそっと閉めて、しめっぽい畳の上にあぐらを掻いて、時々に天井裏へぽとぽとと落ちて来る雨漏(あまもり)の音を聴いていた。くずれた壁の下にこおろぎが鳴いて、火の気のない空家は薄ら寒かった。
ここの家の前を通る傘の音がきこえて、大工の女房は外から帰って来たらしかった。 

 

それから又半|※[日+向](とき)も経ったと思う頃に、濡れた草鞋の音がこの前を通って、隣りの家の門口(かどぐち)に止まった。猫婆の息子が帰って来たなと思っていると、果たして籠や盤台を卸すような音がきこえた。
「七ちゃん、帰ったの」
お初が隣りからそっと出て来たらしかった。そうして、土間に立って何か息もつかずに囁(ささや)いているらしかった。それに答える七之助の声も低いので、どっちの話も半七の耳には聴き取れなかったが、それでも壁越しに耳を引き立てていると、七之助は泣いているらしく、時々は洟(はな)をすするような声が洩れた。
「そんな気の弱いことを云わないでさ。早く三ちゃんのところへ行って相談しておいでよ。いいえ、もう一と通りのことはわたしが話してあるんだから」と、お初は小声に力を籠(こ)めて、なにか切(しき)りに七之助に勧めているらしかった。
「さあ、早く行っておいでよ。じれったい人だねえ」と、お初は渋っている七之助の手を取って、曳き出すようにして表へ追いやった。
七之助は黙って出て行ったらしく、重そうな草鞋の音が路地の外へだんだんに遠くなった。それを見送って、お初は自分の家へはいろうとすると、半七は空家の中から不意に声をかけた。
「おかみさん」
お初はぎょっとして立ちすくんだ。空家の戸をあけてぬっと出て来た半七の顔を見た時に、彼女の顔はもう灰色に変っていた。
「外じゃあ話ができねえ。まあ、ちょいと此処へはいってくんねえ」と、半七は先に立って猫婆の家へはいった。お初も無言でついて来た。
「おかみさん。お前はわたしの商売を知っているのかえ」と、半七はまず訊いた。
「いいえ」と、お初は微かに答えた。
「おれの身分は知らねえでも、熊の野郎が湯屋のほかに商売をもっていることは知っているだろう。いや、知っているはずだ。お前の亭主はあの熊と昵近(ちかづき)だというじゃあねえか。まあ、それはそれとして、お前は今の魚商(さかなや)と何をこそこそ話していたんだ」
お初は俯向いて立っていた。
「いや、隠しても知っている。おめえはあの魚商に知恵をつけて、隣り町の三吉のところへ相談に行けと云っていたろう。さっきも熊蔵が云った通り、その晩にあの七之助が天秤棒でおふくろをなぐり殺した。それをおめえは知っていながら、あいつを庇(かば)って三吉のところへ逃がしてやった。三吉がまた好い加減なことを云って白らばっくれて七之助を引っ張って来た。さあ、どうだ。この占(うらな)いがはずれたら銭は取らねえ。長屋じゅうの者はそれで誤魔化されるか知らねえが、おれ達が素直にそれを承知するんじゃあねえ。七之助は勿論のことだが、一緒になって芝居を打った三吉もお前も同類だ。片っ端から数珠(じゅず)つなぎにするからそう思ってくれ」
嵩にかかって、嚇されたお初はわっと泣き出した。かれは土間に坐って、堪忍してくれと拝んだ。
「次第によったら堪忍してやるめえものでもねえが、お慈悲が願いたければ真っ直ぐに白状しろ。どうだ、おれが睨んだに相違あるめえ。おめえと三吉とが同腹(ぐる)になって、七之助の兇状を庇っているんだろう」
「恐れ入りました」と、お初はふるえながら土に手をついた。
「恐れ入ったら正直に云ってくれ」と、半七は声をやわらげた。「そこで、あの七之助はなぜおふくろを殺したんだ。親孝行だというから、最初から巧んだ仕事じゃあるめえが、なにか喧嘩でもしたのか」
「おふくろさんが猫になったんです」と、お初は思い出しても慄然(ぞっ)とするというように肩をすくめた。
半七は笑いながら眉を寄せた。
「ふむう。猫婆が猫になった……。それも何か芝居の筋書きじゃあねえか」
「いいえ。これはほんとうで、嘘も詐(いつわ)りも申し上げません。ここの家のおまきさんはまったく猫になったんです。その時にはわたくしもぞっとしました」
恐怖におののいている其の声にも顔色にも、詐りを包んでいるらしくないのは、多年の経験で半七にもよく判った。かれも釣り込まれてまじめになった。
「じゃあ、おまえもここの婆さんが猫になったのを見たのか」
確かに見たとお初は云った。
「それがこういう訳なんです。おまきさんの家に猫がたくさん飼ってある時分には、その猫に喰べさせるんだと云って、七之助さんは商売物のお魚(さかな)を毎日幾|尾(ひき)ずつか残して、家へ帰っていたんです。そのうちに猫はみんな芝浦の海へほうり込まれてしまって、家には一匹もいなくなったんですけれど、おふくろさんはやっぱり今まで通りに魚を持って帰れと云うんだそうです。七之助さんはおとなしいから何でも素直にあいあいと云っていたんですけれど、良人(うちのひと)がそれを聞きまして、そんな馬鹿な話はない、家にいもしない猫に高価(たか)い魚をたくさん持って来るには及ばないから、もう止した方がいいと七之助さんに意見しました」
「おふくろはその魚をどうしたんだろう」
「それは七之助さんにも判らないんだそうです。なんでも台所の戸棚のなかへ入れて置くと、あしたの朝までにはみんな失(なく)なってしまうんだそうで……。どういうわけだか判らないと云って、七之助さんも不思議がっているので、良人が意地をつけて、物は試しだ、魚を持たずに一度帰ってみろ、おふくろがどうするかと……。七之助さんもとうとうその気になったと見えて、このあいだの夕方、神明様の御祭礼(おまつり)の済んだ明くる日の夕方に、わざと盤台を空(から)にして帰って来たんです。わたくしも丁度そのときに買物に行って、帰りに路地の角で逢ったもんですから、七之助さんと一緒に路地へはいって来て、すぐに別れればよかったんですが、きょうは盤台が空になっているからおふくろさんがどうするかと思って、門口(かどぐち)に立ってそっと覗いていると、七之助さんは土間にはいって盤台を卸しました。すると、おまきさんが奥から出て来て……。すぐに盤台の方をじろりと見て……おや、きょうはなんにも持って来なかったのかいと、こう云ったときに、おまきさんの顔が……。耳が押っ立って、眼が光って、口が裂けて……。まるで猫のようになってしまったんです」
その恐ろしい猫の顔が今でも覗いているかのように、お初は薄暗い奥を透かして息をのみ込んだ。半七も少し煙(けむ)にまかれた。
「はて、変なことがあるもんだな。それからどうした」
「わたくしもびっくりしてはっと思っていますと、七之助さんはいきなり天秤棒を振りあげて、おふくろさんの脳天を一つ打ったんです。急所をひどく打ったと見えて、おまきさんは声も出さないで土間へ転げ落ちて、もうそれ限(ぎ)りになってしまったようですから、わたくしは又びっくりしました。七之助さんは怖い顔をしてしばらくおふくろさんの死骸を眺めているようでしたが、急にまたうろたえたような風で、台所から出刃庖丁を持ち出して、今度は自分の喉を突こうとするらしいんです。もう打捨(うっちゃ)っては置かれませんから、わたくしが駈け込んで止めました。そうして訳を訊きますと、七之助さんの眼にもやっぱりおふくろさんの顔が猫に見えたんだそうです。猫がいつの間にかおふくろさんを喰い殺して、おふくろさんに化けているんだろうと思って、親孝行の七之助さんは親のかたきを取るつもりで、夢中ですぐに撲(ぶ)ち殺してしまったんですが、殺して見るとやっぱりほんとうのおふくろさんで、尻尾(しっぽ)も出さなければ毛も生えないんです。そうすると、どうしても親殺しですから、七之助さんも覚悟を決めたらしいんです」
「婆さんの顔がまったく猫に見えたのか」と、半七は再び念を押すと、お初は自分の眼にも七之助の眼にも確かにそう見えたと云い切った。さもなければ、ふだんから親孝行の七之助が親の頭へ手をあげる道理がないと云った。
「それでも其のうちに正体をあらわすかと思って、死骸をしばらく見つめていましたが、おまきさんの顔はやっぱり人間の顔で、いつまで経っても猫にならないんです。どうしてあの時に猫のような怖い顔になったのか、どう考えても判りません。死んだ猫の魂がおまきさんに乗憑(のりうつ)ったんでしょうかしら。それにしても七之助さんを親殺しにするのはあんまり可哀そうですし、もともと良人が知恵をつけてこんなことになったんですから、わたくしも七之助さんを無理になだめて、あの人がふだんから仲良くしている隣り町の三吉さんのところへ一緒に相談に行ったんですが、隣りは空店(あきだな)ですし、路地を出這入りする時にも好い塩梅に誰にも見付からなかったんです。それから三吉さんがいろいろの知恵を貸してくれて、わたくしだけが一と足先へ帰って、初めて死骸を見つけたように騒ぎ出したんです」
「それでみんな判った。そこできょうおれ達が繋がって来たので、お前はなんだかおかしいぞと感づいて、さっき三吉のところへ相談に行ったんだな。そうして七之助の帰って来るのを待っていて、これも三吉のところへ相談にやったんだな。そうだろう。そこで其の相談はどう決まった。七之助をどこへか逃がすつもりか。いや、おまえに訊いているよりも、すぐに三吉の方へ行こう」
半七は雨のなかを隣り町へ急いでゆくと、七之助はけさから一度も姿を見せないと三吉は云った。隠しているかとも疑ったが、まったくそうでもないらしいので、ふと或る事が半七の胸に浮かんだ。彼はそこを出て、更に麻布の寺へ追ってゆくと、おまきの墓の前には新しい卒塔婆(そとば)が雨にぬれているばかりで、そこらに人の影も見えなかった。
あくる日の朝、七之助の死骸が芝浦に浮いていた。それはちょうど長屋の人達がおまきの猫を沈めた所であった。
七之助はもう三吉のところに行かずに、まっすぐに死に場所を探しに行ったのであろう。いくらお初が証人に立っても、母の顔が猫にみえたという奇怪な事実を楯(たて)にして、親殺しの科(とが)を逃がれることはできない。磔刑(はりつけ)に逢わないうちに自滅した方が、いっそ本人の仕合わせであったろうかと半七は思った。自分もまたこうした不運の親孝行息子に縄をかけない方が仕合わせであったと思った。
「お話はまあこういう筋なんですがね」と、半七老人はここで一と息ついた。「それからだんだん調べてみましたが、七之助はまったく孝行者で、とても正気で親殺しなんぞする筈はないんです。隣りのお初という女も正直者で、嘘なんぞ吐(つ)くような女じゃありません。そうすると、まったくこの二人の眼にはおまきの顔が猫に見えたんでしょう。猫が乗憑(のりうつ)ったのかどうしたのか不思議なこともあるもんですね。それからおまきの家をあらためて見ますと、縁の下から腐った魚の骨がたくさん出ました。猫がいなくなった後も、おまきはやっぱりその食い物を縁の下へほうり込んでいたものと見えます。なんだか気味が悪いので、家主もとうとうその家を取り毀してしまったそうですよ」 
 
半七捕物帳 幽霊の観世物

 

一 
七月七日、梅雨(つゆ)あがりの暑い宵であったと記憶している。そのころ私は銀座の新聞社に勤めていたので、社から帰る途中、銀座の地蔵の縁日をひやかして歩いた。電車のまだ開通しない時代であるから、尾張町の横町から三十間堀の河岸(かし)へかけて、いろいろの露店がならんでいた。河岸の方には観世物(みせもの)小屋と植木屋が多かった。
観世物は剣舞、大蛇(だいじゃ)、ろくろ首のたぐいである。私はおびただしい人出のなかを揉まれながら、今や河岸通りの観世物小屋の前へ出て、ろくろ首の娘の看板をうっとりと眺めていると、黙って私の肩をたたく人がある、振り返ると、半七老人がにやにや笑いながら立っていた。洋服を着た若い者が、口をあいてろくろ首の看板をながめているなどは、余りいい図ではないに相違ない。飛んだところを老人に見つけられて、私は少々赤面したような気味で、あわてて挨拶した。老人は京橋辺の知人のところへ中元の礼に行った帰り路だとか云うことで、ふた言三言立ち話をして別れた。
それから四、五日の後、わたしも老人を赤坂の宅へ中元の礼ながらにたずねてゆくと、銀座の縁日の話から観世物の噂が出た。ろくろ首の話も出た。
「世の中がひらけて来たと云っても、観世物の種はあんまり変らないようですね」と、老人は云った。「ろくろ首の観世物なんぞは、江戸時代からの残り物ですが、今に廃(すた)らないのも不思議です。いつかもお話し申したことがありますが、氷川(ひかわ)のかむろ蛇の観世物、その正体を洗えば大抵そんな物なんですが、つまりは人間の好奇心とか云うのでしょうか、だまされると知りながら木戸銭を払うことになる。そこが香具師(やし)や因果物師の付け目でしょうね。観世物の種類もいろいろありますが、江戸時代にはお化けの観世物、幽霊の観世物なぞというのが時々に流行りました。
お化けと云っても、幽霊と云っても、まあ似たようなものですが、ほかの観世物のようにお化けや幽霊の人形がそこに飾ってあるという訳ではなく、まず木戸銭を払って小屋へはいると、暗い狭い入口がある。それをはいると、やはり薄暗い狭い路があって、その路を右へ左へ廻って裏木戸の出口へ行き着くことになるんですが、その間にいろいろの凄い仕掛けが出来ている。柳の下に血だらけの女の幽霊が立っているかと思うと、竹藪の中から男の幽霊が半身を現わしている。小さい川を渡ろうとすると、川の中には蛇がいっぱいにうようよと這っている。そこらに鬼火のような焼酎火が燃えている。なにしろ路が狭く出来ているので、その幽霊と摺れ合って通らなければならない。路のまん中にも大きい蝦蟇(がま)が這い出していたり、人間の生首(なまくび)がころげていたりして、忌(いや)でもそれを跨いで通らなければならない。拵え物と知っていても、あんまり心持のいい物ではありません。
ところが、前にも申す通り、好奇心と云うのか、怖いもの見たさと云うのか、こういうたぐいの観世物はなかなか繁昌したものです。もう一つには、こういう観世物は大抵景品付きです。無事に裏木戸まで通り抜けたものには、景品として浴衣地(ゆかたじ)一反をくれるとか、手拭二本をくれるとか云うことになっているので、慾が手伝ってはいる者も少なくないんです」
「通り抜ければ、ほんとうに浴衣や手拭を呉れるんですか」と、わたしは訊(き)いた。
「そりゃあ呉れるには呉れます」と、老人は笑いながらうなずいた。「いくら江戸時代の観世物だって、遣ると云った以上はやらないわけには行きません。そんな与太を飛ばせば、小屋を打ち毀されます。しかし大抵の者は無事に裏木戸まで通り抜けることが出来ないで、途中から引っ返してしまうようになっているのです。と云うのは、初めのうちはさほどでもないが、いよいよ出口へ近いところへ行くと、ひどく気味の悪いのに出っくわすので、もう堪まらなくなって逃げ出すことになる。おれは無事に通って反物を貰ったなぞと云い触らすのは、興行師の方の廻し者が多かったようです。そのうわさに釣られて、おれこそはという意気込みで押し掛けて行くと、やっぱり途中できゃあと叫んで逃げて来る。つまりは馬鹿にされながら金を取られるような訳ですが、前にも云う通り、怖い物見たさと慾とが手伝うのだから仕方がない。
その幽霊の観世物について、こんなお話があります。一体こういう観世物は夏から秋にかけて興行するのが習いで、冬の寒いときに幽霊の観世物なぞは無かったようです。芝居でも怪談の狂言は夏か秋に決まっていました。そこでこのお話も安政元年の七月末――いつぞや『正雪の絵馬』というお話をしたでしょう。淀橋の水車小屋が爆発した一件。あれは安政元年の六月十一日の出来事ですが、これは翌月の下旬、たしか二十六七日頃のことと覚えています。
その頃、浅草、仁王門のそばに、例の幽霊の観世物小屋が出来ました。これは利口なやりかたで、出口が二ヵ所にある。途中から路がふた筋に分かれていて、右へ出ればさのみに怖くないが、その代りに景品を呉れない。左へ出るといろいろな怖い目に逢うが、それを無事に通れば景物を呉れる。つまりは弱い者にも強い者にも見物が出来るような仕組みになっているので、女子供もはいりました。その女のなかで、幽霊におびえて死んでしまったのがある。それからひと騒動、まあ、お聴きください」
死んだ女は日本橋材木|町(ちょう)、俗に杉の森|新道(じんみち)というところに住んでいるお半という者であった。お半といえば若そうにきこえるが、これは長右衛門に近い四十四五歳の大年増(おおどしま)で、照降町(てりふりちょう)の駿河屋という下駄屋の女隠居である。照降町は下駄や雪踏(せった)を売る店が多いので知られていたが、その中でも駿河屋は旧家で、手広く商売を営んでいた。
駿河屋の主人仁兵衛は八年以前に世を去ったが、跡取りの子供がない。但しその以前から主人の甥の信次郎というのを養子に貰ってあったので、当座は後家のお半が後見をしていたが、三年前から養子に店を譲ってお半は近所の杉の森新道に隠居したのである。
お半は変死の当日、浅草観音へ参詣すると云って、朝の四ツ(午前十時)頃に家を出た。女中も連れずに出たのであるから、出先のことはよく判らないが、まず観音に参詣して、そこらで午飯(ひるめし)でも食って、奥山のあたりでも遊びあるいて、それから仁王門そばの観世物小屋へ入り込んだのであろう。その死体の発見されたのは、夕七ツ(午後四時)に近い頃であった。
下谷|通新町(とおりしんまち)の長助という若い大工が例の景品をせしめる料簡(りょうけん)で、勇気を振るって木戸をはいって、獄門首のさらされている藪のきわや、骸骨の踊っている木の下や、三途(さんず)の川や血の池や、それらの難所をともかくも通り越して二筋道の角(かど)に出た。
最初からその覚悟であるから、長助は猶予せずに左の路を取って進むと、さなきだに薄暗い路はいよいよ暗くなった。どこかで燃えている鬼火の光りをたよりに、長助は二、三間ほども辿ってゆくと、不意に其のたもとを引くものがある。見ると、路ばたに小さい蒲鉾(かまぼこ)小屋のような物があって、その筵(むしろ)のあいだから細い血だらけの手が出たのである。ぜんまい仕掛けか何かであろうと思いながら、長助は取られた袂を振り払ってゆく途端に、なにか人のような物を踏んだ。透かして見ると、路のまん中に姙(はら)み女が横たわっているのであった。女は半裸体の白い肌を見せながら、仰向けに倒れていて、その首や腹には大きい蛇がまき付いていた。
「へん、こんなことに驚くものか。江戸っ子だぞ」と、長助は付け元気で呶鳴った。
この時、なにか其の顔をひやりと撫(な)でたものがある。はっと思って見あげると、一匹の大きい蝙蝠(こうもり)が羽(はね)をひろげて宙にぶらさがっていた。又行くと、今度はその頭の髷節(まげぶし)をつかんだような物がある。ええ、何をしやあがると見かえると、立ち木の枝の上に猿のような怪物が歯をむき出しながら、爪の長い手をのばしていた。
「さあ、鬼でも蛇(じゃ)でも来い。死んでも後へ引っ返すような長さんじゃあねえぞ」
彼はもう捨て身になって進んでゆくと、眼のさきに柳の立ち木があって、その下には流れ灌頂(かんじょう)がぼんやりと見えた。このあたりは取り分けて薄暗い。その暗いなかに女の幽霊があらわれた。幽霊は髪をふり乱して、胸には赤児を抱いていた。どんな仕掛けがあるのか知らないが、幽霊は片手をあげて長助を招いた。
「な、なんだ。てめえ達に呼ばれるような用はねえのだ」と、長助は少しく声をふるわせながら又呶鳴った。
路は狭い、幽霊は路のまん中に出しゃばっている。忌(いや)でもこの幽霊を押し退けて行かなければならないので、さすがの長助もすこし困ったが、それでも向う見ずにつかつかと突き進むと、幽霊はそれを避けるようにふわりと動いた。ざまを見ろと、彼は勝ち誇って進んでゆくと、その足はまた何物にかつまずいた。それは人であった。女であった。
その女につまずいて、長助は思わず小膝を突くと、女は低い声で何か云ったらしかった。そうして突然に長助にむしり付いた。驚いて振り放そうとしたが、女はなかなか放さない。長助も一生懸命で、滅茶苦茶に女をなぐり付けて、どうやらこうやら突き倒して逃げた。こうなると、もう前へむかって逃げる元気はない。彼はあとへ引っ返して逃げたのである。
表の木戸口まで逃げ出して、彼は木戸番に食ってかかった。
「ふてえ奴だ。こんないかさまをしやあがる。生きた人間を入れて置いて、人を嚇かすということがあるものか。さあ、木戸銭を返せ」
木戸銭をかえすのはさしたることでも無いが、いかさまをすると云われては商売にかかわるというので、木戸番も承知しなかった。論より証拠、まずその実地を見とどけることになって、長助と木戸番は小屋の奥へはいると、果たして柳の木の下にひとりの女が倒れていた。それは人形でもなく、拵え物でもなく、確かに正真(しょうしん)の人間であるので、木戸番もびっくりした。
こういう興行物に変死人などを出しては、それこそ商売に障るのであるが、所詮(しょせん)そのままで済むべきことではないので、事件は表向きになった。 

 

長助に踏まれた時には、女はまだ生きていたらしいが、それを表へ運び出して近所の医者を呼んで来た時には、まったく息は絶えていた。医者にもその死因は判然(はっきり)しなかった。恐らくかの幽霊におどろきの余り、心(しん)の臓を破ったのであろうと診断した。検視の役人も出張ったが、女の死体に怪しむべき形跡もなかった。からだに疵の跡もなく、毒なども飲んだ様子もなかった。
ほかの観世物と違って、大勢が一度にどやどやと押し込んでは凄味が薄い。木戸口でもいい加減に人数を測って、だんだんに入れるようにしているのであるが、かの女は長助のはいる前に木戸を通った者である。女のあとから一人の若い男がはいった。それから男と女の二人連れがはいった。その三人はいずれも右の路を取って、無事に出てしまった。その次へ来たのが長助である。して見ると、かの女は大胆に左の路を行って、赤子を抱いた幽霊におどかされたらしい。
これは浅草寺内の出来事であるから、寺社奉行の係りである。それが他殺でなく、幽霊を見て恐怖のあまりに心臓を破って死んだというのでは、別に詮議の仕様もないので、事件は手軽に片付けられた。
さてその女の身許(みもと)であるが、それも案外に早く判った。その当日、駿河屋の養子の信次郎も、商売用で浅草の花川戸まで出向いた。その帰り路で、幽霊の観世物小屋で見物の女が死んだという噂を聞いたが、自分の義母(はは)の身の上とは知らないで、そのままに照降町の店へ帰ると、日が暮れてから隠居所の女中が来て、御隠居さんがまだ帰らないという。朝から観音参詣に出て、夜に入るまで帰らないのは不思議であるというので、ともかくも店の若い者一人が小僧を連れて、あても無しに浅草観音の方角へ探しに出た。
それが出たあとで、若主人の信次郎はふとかの観世物小屋の噂を思い出した。もしやと思って、更に番頭と若い者を出してやると、その死人は果たして義母のお半であったので、早速に死体を引き取って帰った。それから三日ほどの後に、駿河屋では立派な葬式(とむらい)を営んだ。
今年の夏は残暑が軽くて、八月に入ると朝夕は涼風(すずかぜ)が吹いた。その八日の朝である。三河町の半七の家へ子分の松吉が顔を出した。
「親分、なにか変ったことはありませんかね」
「ここのところは不漁(しけ)だな」と、半七は笑った。「ちっとは骨休めもいいだろう。このあいだの淀橋のようながらがらを食っちゃあ堪まらねえ。幸次郎はどんな塩梅(あんばい)だ」
「おかげで怪我の方は日ましにいいようです。もうちっと涼しくなったら起きられましょう。実はきのう千住の掃部宿(かもんじゅく)の質屋に用があって出かけて行くと、そこでちっとばかり家作(かさく)の手入れをするので、下谷通新町の長助という大工が来ていました。だんだん訊いてみると、その大工は浅草の幽霊の観世物小屋で、照降町の駿河屋の女隠居が死んでいるのを見付けたのだそうで、その時の話をして聞かせやしたよ。長助はまだ若けえ野郎で、口では強そうなことを云っていましたが、こいつも内心はぶるぶるもので、まかり間違えば気絶するお仲間だったのかも知れません」と、松吉も笑っていた。
「むむ、そんな話をおれも聞いた」と、半七はうなずいた。「そこで、観世物の方はお差し止めか」
「いいえ、相変らず木戸をあけています。まあ、なんとか宜しく頼んだのでしょう。世の中はまた不思議なもので、幽霊におどろいて死んだ者があったなんて云ったら、客の足がばったり止まるかと思いのほか、却ってそれが評判になって毎日大繁昌、なにが仕合わせになるか判りませんね」
「そこで、長助という奴はどんな話をした」
「ちっとはお負けも付いているかも知れませんが、まあ、こんな事でした」
松吉の報告は前にも云った通りであった。
それを聴き終って、半七はすこし考えた。
「その女隠居はどんな女か知らねえが、観音まいりに出かけたのじゃあ、幾らも金を持っていやあしめえな」
「そうでしょうね。女ひとりで参詣に出たのじゃあ、いくらも巾着銭(きんちゃくぜに)を持っていやあしますめえ」
「女ひとりと云えば、その隠居は女のくせに、たった一人で左の方へ行ったのは、どういう訳だろう。まさかに景物が欲しかったのでもあるめえが、よっぽど気の強い女とみえるな」
「もちろん大家(たいけ)の隠居だから、景物が欲しかったわけじゃあありますめえ。小屋のなかは暗いのと、怖い怖いで度を失ったのとで、右と左を間違えて、あべこべに歩いて行ったのだろうという噂です。怖い物見たさではいったら、案外に怖いので気が遠くなったのかも知れません」
「そう云ってしまえばそれまでだが……」と、半七はまだ不得心らしく考えていた。「おい、松。無駄骨かも知れねえが、まず取りあえず駿河屋をしらべてくれ」
半七の注文を一々うけたまわって、松吉は早々に出て行ったが、その日の灯(ひ)ともしごろに帰って来た。
「親分、すっかり洗って来ました」
「やあ、御苦労。早速だが、その女隠居は幾つで、どんな女だ」
「名はお半と云って、四十五です。八年前に亭主に死に別れて、三年前から杉の森新道に隠居して、お嶋という女中と二人暮らしですが、店の方から相当の仕送りがあるので、なかなか贅沢(ぜいたく)に暮らしていたようです。四十を越してもまだ水々しい大柄の女で、ふだんから小綺麗にしていたと云います」
「駿河屋の養子はなんというのだ」
「信次郎といって、ことし二十一です。先代の主人の妹のせがれで、先代夫婦の甥にあたるわけです。先代には子供がないので、十一の年から養子に貰われて来て、十三のときに先代が死んだ。何分にも年が行かねえので、当分は義母のお半が後見をしていて、信次郎が十八の秋に店を譲ったのです。十八でもまだ若けえが、店には吉兵衛という番頭がいるので、それが半分は後見のような形で、商売の方は差支え無しにやっているそうです。若主人の信次郎は色白のおとなしい男で、近所の若けえ女なんぞには評判がいいそうです」
「信次郎はまだ独り身か」
「そんなわけで、男はよし、身上(しんしょう)はよし、年頃ではあり、これまでに二、三度も縁談の申し込みがあったそうですが、やっぱり縁遠いというのか、いつも中途で毀れてしまって、いまだに独り身です。と云って、別に道楽をするという噂も無いようです」
「お半は四十を越しても水々しい女だというが、それにも浮いた噂はねえのか」
「それがね、親分」と、松吉は小膝をすすめた。「わっしも、そこへ見当をつけて、女中のお嶋という奴をだまして訊(き)いたのですが、この女中は三月の出代りから住み込んだ新参で、内外(うちと)の事をあんまり詳しくは知らねえらしいのです。だが、女中の話によると、隠居のお半は毎月かならず先代の墓まいりに出て行く。浅草の観音へも参詣に行く。深川の八幡へもお参りをする。それはまあ信心だから仕方がねえとして、そのほかにも親類へ行くとか何とか云って、ずいぶん出歩くことがあるそうです。後家さんがあんまり出歩くのはどうもよくねえ。この方には何か綾があるかも知れませんね」
「そうだろうな」と、半七はうなずいた。「三年前といえば四十二だ。養子だって十八だ。それに店を譲って隠居してしまうのは、ちっと早過ぎる。店にいちゃあ何かの自由が利かねえので、隠居ということにして、別居したのだろう。そうして、勝手に出あるいている。いずれ何かの相手があるに相違ねえ。そこで、もう一度訊くが、お半が観世物小屋へはいると、そのあとから一人の若けえ男がはいった。それから男と女の二人連れがはいった。その次に大工の長助がはいった……と、こういう順になるのだな」
「そうです、そうです」
「お半の前にはどんな奴がはいったのだ」
「さあ。それは長助も知らねえようでしたが……。調べましょうか」
「お半のあと先にはいった奴をみんな調べてくれ。如才(じょさい)もあるめえが、年頃から人相風俗、なるたけ詳しい方がいいぜ」
「承知しました。木戸番の奴らを少し嚇かしゃあ、みんなべらべらしゃべりますよ」
松吉は請け合って帰ると、入れちがいに善八が来た。
「おお、いいところへ来た。おめえにも少し用がある」
「今そこで松に逢いましたら、これから浅草のお化けへ出かけるそうで……」
「そうだ。お化けの方は松に頼んだが、おめえは照降町へまわってくれ」
半七から探索の方針を授けられて、善八も怱々(そうそう)に出て行った。 

 

観世物小屋の一件は寺社方の支配内であるから、半七は翌あさ八丁堀同心の屋敷へ行って、今度の一件に対する自分の見込みを報告し、あわせて寺社方への通達を頼んで帰った。寺社方に捕り手は無いのであるから、その承諾を得れば町方(まちかた)が手をくだしても差し支えはない。まずその手続きを済ませた上で、半七は更に北千住の掃部宿(かもんじゅく)へむかった。
きょうは朝から曇って、この二、三日のうちでも取り分けて涼しい日であった。千住の宿(しゅく)を通りぬけて、長い大橋を渡ってゆくと、荒川の秋の水が冷やかに流れていた。掃部宿へゆき着いて、丸屋という質屋をたずねると、すぐに知れた。質屋と云っても半分は農家で、相当の身上(しんしょう)であるらしい。その裏手に二軒の家作(かさく)があって、大工や左官などがはいっていた。
「もし、長さんは来ていますかえ」と、半七はそこにいる大工の小僧に訊(き)いた。
「ええ、長さんはそこにいますよ」
小僧はあたりを見まわして、一人の若い男を指さして教えた。彼は二十三四の職人であるが、しるし半纒の仕事着も着ないで、唯の浴衣(ゆかた)を着たままで、猫柳の下にぼんやりと突っ立って、他人(ひと)の仕事を眺めていた。よく見ると、かれは右の手を白布で巻いていた。顔にも二三ヵ所カスリ疵があった。彼は何か喧嘩でもして、右の手を痛めた為に、きょうは仕事を休んでいるのであろうと察せられた。
「おまえさんは大工の長さんだね」と、半七は近よって声をかけた。
「ええ、そうです」と、長助は答えた。
「おととい私の内の松吉がおまえさんに逢って、浅草の話を聴いたそうだが……」
長助は俄かに顔の色をかえて、恐れるように半七をじっと見つめた。彼は松吉の商売を知っている。したがって、半七の身分も大抵想像したのであろう。それにしても、人を恐れるような彼の挙動が半七の注意をひいた。
「済まねえが、そこまで顔を貸してくれ」
半七は彼を誘って、七、八間ほども距(はな)れた茗荷(みょうが)畑のそばへ出た。
「おめえ、きょうは仕事を休んでいるのか」
「へえ」と、長助はあいまいに答えた。
「怪我をしているようだな。喧嘩でもしたのかえ」
「へえ、詰まらねえことで友達と……」
職人が友達と喧嘩をするのは珍らしくない。唯それだけの事で、彼が顔の色を変えたり、人を恐れたりする筈がない。半七は俄かに覚った。
「おい、長助。おめえは友達と喧嘩したのじゃああるめえ。きのうも仕事を休んだな」
長助の顔色はいよいよ変った。
「きのうも仕事を休んで浅草へ行ったろう」と、半七は畳みかけて云った。「そうして幽霊の小屋へ行って、何かごた付いたろう。はは、相手が悪い。おまけに多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)だ。なぐられて突き出されて、ちっと器量が悪かったな」
図星をさされたと見えて、長助は唖のように黙っていた。
「だが、相手はこんな事に馴れている。唯なぐって突き出したばかりじゃああるめえ。そこには又、仲裁するような奴が出て来て、兄い、まあ我慢してくれとか何とか云って、一朱銀(いっしゅ)の一つも握らせてくれたか」と、半七は笑った。
長助はやはり黙っていた。
「もうこうなったら隠すことはあるめえ。おめえは一体なんと云って、あの小屋へ因縁を付けに行ったのだ」
「あの時、飛んだところへ行き合わせて、わたしもいろいろ迷惑しました」と、長助は低い声で云った。「観世物の方はあの一件が評判になって、毎日大入りです。なんとか因縁を付けてやれと、友達どもが勧めますので、わたしもついその気になりまして……」
「だが、そりゃあちっと無理だな。そんな所へ行き合わせたのは、おめえの災難というもので、誰が悪いのでもねえ。それで因縁を付けるのは、強請(ゆすり)がましいじゃあねえか」
半七の口から強請と云われて、長助はいよいようろたえたらしく、再び口を閉じて眼を伏せた。
「まあ、いい。おめえはどうで仕事を休んでいるのだろう。丁度もう午(ひる)だ。そこらへ行って、飯でも食いながらゆっくり話そうじゃあねえか」
長助はおとなしく付いて来たので、半七は彼を大橋ぎわの小料理屋へ連れ込んだ。川を見晴らした中二階で、鯉こくと鯰(なまず)のすっぽん煮か何かを喰わされて、根が悪党でもない長助は、何もかも正直に話してしまった。
「きょうのことは当分誰にも云わねえがいいぜ」と、半七は口留めをして彼と別れた。
その足で更に浅草へ廻ろうかと思ったが、ともかくも松吉や善八の報告を待つことにして、半七はそのまま神田へ帰った。
秋といっても、八月の日はまだ長い。途中で二軒ほど用達(ようたし)をして、家へ帰って夕食を食って、それから近所の湯へ行くと、その留守に善八が来ていた。
「どうだ。判ったか」
「大抵はわかりました」と、善八は心得顔に答えた。「駿河屋の女隠居には男があります。松の云う通り、女中は新参でなんにも知らねえようですが、わっしは近所の駕籠屋の若い者から聞き出しました」
「その男はどこの奴だ」
「葺屋町(ふきやちょう)の裏に住んでいる音造という奴で、小博奕なんぞを打って、ごろ付いているけちな野郎ですよ」
「違うだろう」と、半七はひとり言のように云った。
「違いますかえ」
「いや、違うとも限らねえが……」と、半七は首をかしげていた。「そこで、その音造という奴は杉の森新道へ出這入りするのか」
「そんな奴が出這入りをしちゃあ、すぐに近所の眼に付くから、深川の八幡前の音造の叔母というのが小さい荒物屋をしている。そこの二階を出逢い所としていたようです。音造は二十七八で、いやにぎすぎすした気障(きざ)な野郎ですよ。あんまり相手が掛け離れているので、わっしも最初はおかしく思ったのですが、だんだん調べてみると、どうも本当らしいのです」
「駿河屋の若主人はまったく色気なしか」
「いや、これにも女の係り合いがあるようです。両国の列(なら)び茶屋にいるお米(よね)という女、これがおかしいという噂で、時々に駿河屋の店をのぞきに来たりするそうです。わっしも念のために両国へまわって、飲みたくもねえ茶を飲んで来ましたが、そのお米という女は若粧(わかづく)りにしているが、もう二十三四でしょう。たしか若主人よりも年上ですよ。ねえ、親分。照降町の駿河屋といえば、世間に名の通っている店だのに、その隠居の相手はごろつき、主人の相手は列び茶屋の女、揃いも揃って相手が悪いじゃあありませんか」
「それだからいろいろの間違いも起こるのだ」と、半七は苦笑(にがわら)いした。「そこで、その音造という奴はどうした」
「どうで慾得でかかった色事でしょうから、相手の隠居があんな事になってしまっちゃあ、金の蔓(つる)も切れたというものです。それでもまだ金に未練があると見えて、隠居の通夜(つや)の晩に、線香の箱かなんか持って来て、裏口から番頭の吉兵衛をよび出して、これを仏前に供えてくれと云う。番頭もそのわけを薄々知っているので、そんなものを貰ってはあとが面倒だと思って、折角だが受け取れないと云う。その押し問答が若主人の耳にはいると、信次郎は奥から出て来て、おまえからそんな物を貰う覚えはないと、激しい権幕で呶鳴り付けたそうです」
「激しい権幕で呶鳴り付けたか」と、半七はうなずいた。
「主人の勢いがあんまり激しいので、音造の野郎もさすがに気を呑まれたのか、それとも大勢がごたごたしている所で喧嘩をしちゃあ自分の損だと思ったのか、主人にあたまから呶鳴り付けられて、尻尾(しっぽ)をまいてこそこそと逃げて帰ったそうです。どっちにしても、意気地のある奴じゃありませんね」
善八は軽蔑するように笑っていた。 

 

やがて松吉も帰って来た。
その報告によると、浅草の観世物小屋では、当日お半の来る前は客足がしばらく途切れていた。お半の少しあとから若い男がはいった。それから男と女の二人連れ、その次に長助、すべて前に云った通りである。長助はもう判っているが、他の男女三人の人相、年頃、風俗、その説明を松吉から聞かされて、半七は肚(はら)のなかでほほえんだ。
「じゃあ、いよいよ仕事に取りかからなければならねえが、松は木戸番に顔を識られているから拙(まず)い。善八、おめえは亀を誘って浅草へ行って、観世物小屋の裏手へ廻って、右と左の出口を見張っていてくれ。おれは客の振りをして、素知らぬ顔で表からはいる。あとは臨機応変だ。あしたの午頃までに間違いなく行ってくれ」
「承知しました」
約束を決めて、その晩は別れた。あくる日はからりと晴れて、又すこし暑くなったが、顔をかくすには都合がいい。半七は日除(ひよ)けのように白地の手拭をかぶって、観世物小屋の前へ来かかると、善八と亀吉はひと足さきに来て、なにげなく小屋の看板をながめていた。勿論たがいに挨拶もしない。半七は眼で知らせると、二人はこころ得て裏手へ廻った。
半七は十六文の木戸銭を払って、唯の客のような顔をして木戸口をはいった。狭い薄暗い路を通って、例の獄門首や骸骨を見ながら、二筋道の曲がり角を左に取ってゆくと、どこかで青白い鬼火が燃えているらしかった。半七も血だらけの細い手に袖をひかれた。姙(はら)み女の死骸をまたがせられた。大きい蝙蝠(こうもり)に顔をなでられた。もうここらだろうと思うときに、半七の頬かむりの手拭をつかむ者があった。
髷節(まげぶし)を取られない用心のために、半七は髷と手拭のあいだに小さい針金を入れて置いたので、手拭は地頭(じあたま)よりも高く盛り上がっていた。それを知らない怪物は、いたずらに手拭を掴んだに過ぎなかった。爪の長い手が手拭をずるりと引いた時、半七はすぐに其の手を取って、あべこべにぐいと引くと、不意をくらって怪物は立ち木の枝からころげ落ちた。透かして見ると、それは猿のような姿である。
「馬鹿野郎」
半七はその横っ面をぽかりと殴りつけると、怪物はあっと悲鳴をあげた。半七はつづけて二つ三つ殴った。
「なんだ、てめえは……。変な物に化けやあがって、ふてえ奴だ。そっちの幽霊もここへ出て来い。おれは御用聞きの半七だ。どいつも逃げると承知しねえぞ」
御用聞きの声におどろいて、猿のような怪物はそこに小さくなった。柳の下に立っていた女の幽霊も、思わずそこに膝をついた。行く先の藪のかげでも、何かがさがさいう音がきこえて、幽霊の仲間が姿を隠すらしく思われた。
無事に左の路を通り抜けたものには、景品の浴衣地(ゆかたじ)をやるといい、それを餌(えさ)にして見物を釣るのであるが、十六文の木戸銭で反物をむやみに取られては堪まらない。そこで、左の路には作り物のほかに、本当の幽霊がまじっている。或る者が幽霊その他の怪物に姿を変じて、いろいろの手段を用いて人を嚇(おど)すのである。この時代にはこんな観世物のあることは半七はかねてから知っていた。
「てめえは猿か。名はなんというのだ」
「源吉と申します」と、十三四の小僧が恐れ入って答えた。
「そっちの幽霊は何者だ」
「岩井三之助と申します」と、幽霊は細い声で答えた。彼は両国の百日芝居の女形(おんながた)であった。
「こんないかさまをしやがって、不埓な奴らだ」と、半七は先ず叱った。「これから俺の訊(き)くことを何でも正直に云え。さもねえと、貴様たちの為にならねえぞ」
「へい」
猿も幽霊も頭をかかえて縮みあがった。半七はそこにころげている捨石(すていし)に腰をおろした。
「先月の末に、照降町の駿河屋の女隠居がここで頓死した。貴様たちが何か悪い事をしたのだな。質(たち)のよくねえ嚇(おど)かし方をしたのだろう。隠さずに云え」
「違います。違います」と、二人は声をそろえて云った。
「それじゃあ誰が殺したのだ」
二人は顔を見合わせていた。
「さあ、正直に云え。云わなけりゃあ貴様たちが殺したのだぞ。人を殺して無事に済むと思うか。どいつも一緒に来い」
半七は両手に猿と幽霊をつかんで引っ立てようとすると、源吉も三之助も泣き出した。
「親分、勘弁してください。申し上げます。申し上げます」
「きっと云うか」と、半七は掴んだ手をゆるめた。「貴様たちの云う前に、おれの方から云って聞かせる。女隠居と一緒に、若い男がここへ来たろう」
「まいりました」と、三之助は答えた。「隠居さんは怖いから忌(いや)だというのを、男が無理に連れて来たようでした」
「そうか。そのあとから男と女の二人連れが来たろう。前の男と、あとの二人……。この三人のうちで、誰が隠居を殺した。おそらく前の男じゃあるめえ。あとから来た男が殺したか」
「へい」と、三之助は恐るおそる答えた。
「貴様たちは、ここにいて何もかも見ていたろう。あとから来た奴がどうして隠居を殺した」
「わたくしが女の髷をつかむと、女はぎゃっと云って、男に抱き付きました」と、源吉は説明した。「男は、なに大丈夫だと云って、女を抱えるようにして三之助さんの方へ歩いて来ました」
「わたくしが手をあげて招くようにすると、女は又きゃっと云って男にしがみ付きました」と、三之助が代って話した。「その時に、あとから来た男が駈け寄って、なにか鉄槌(かなづち)のような物で女の髷のあたりを叩きました。薄暗くって、よくは判りませんでしたが、女はそれぎりでぐったり倒れたようでした。それを見て、男同士はなにか小声で云いながら、怱々(そうそう)に引っ返してしまいました」
「連れの女はどうした」
「連れの女はあとの方から眺めているだけで、これも黙って立ち去りました」
この事実を眼のまえに見ていながら、彼等はそれを口外しなかったのは、自分たちの秘密露顕を恐れたからである。あの観世物小屋には人間が忍ばせてあるなどという噂が立っては、商売は丸潰れになるばかりか、どんな咎めを受けないとも限らないので、かれらは素知らぬ顔をしていたのである。
「よし、それで大抵わかった。いずれ又よび出すかも知れねえが、そのときにも今の通り、正直に申し立てるのだぞ」
半七は二人に云い聞かせて、左の裏口から出ると、そこには亀吉が待っていた。
「親分、どうでした」
「もういい。これから八丁堀へ行って、きょうの顛末を旦那に話して、それぞれに手配りをしなけりゃあならねえ」
そこへ善八も廻って来た。
「駿河屋の女隠居を殺した奴らは三人だ」と、半七はあるきながらささやいた。「若けえ男というのは駿河屋の養子の信次郎だ。年頃から人相がそれに相違ねえ。女は列(なら)び茶屋のお米だ。もう一人の男が判らねえ」
「音造じゃありませんか」と、善八は訊いた。
「そうじゃあねえらしい。年頃は四十ぐれえで、堅気らしい風体(ふうてい)だったと云うから、お米の兄きとか叔父とかいう奴じゃあねえかと思う。なにしろ其奴(そいつ)が手をおろした本人だから、下手なことをやって、そいつを逃がしてしまうと物にならねえ。信次郎やお米はいつでも挙げられる。まず其の下手人を突き留めにゃあならねえ」
「じゃあ、すぐに洗って見ましょう」
「むむ。お米の親類か何かに大工のような商売の者はねえか、気をつけてくれ。下谷の長助も大工だが、あいつじゃねえ」
「ようがす。今夜じゅうに調べます」と、善八は請け合った。
子分ふたりに途中で別れて、半七は八丁堀へむかった。
日が暮れて、涼しい風が又吹き出した。油断すると寝冷えするなどと云いながら、四ツの鐘を聞いて寝床にはいると、その夜なかに半七の戸を叩いて、松吉が飛び込んだ。
「親分、たいへんな事が出来やした。駿河屋の信次郎が殺された」
「駿河屋が殺された……」と、半七もおどろいて飛び起きた。
「まだ死にゃあしねえが、もうむずかしいと云うのです」と、松吉は説明した。「なんでも今夜の四ツ過ぎに、清五郎という男と一緒に……。どこかで酒を飲んだ帰りらしい、ほろ酔い機嫌で親父橋(おやじばし)まで来かかると、橋のたもとの柳のかげから一人の男が飛び出して、不意に信次郎の横っ腹を突いたので……」
「相手は誰だ。音造という奴か」
「そうです。突いてすぐに逃げかかると、連れの清五郎が追っかけて押さえようとする。相手は一生懸命で匕首(あいくち)をふり廻す。そのはずみに清五郎は右の手を少し切られた。それでも大きい声で人殺し人殺しと呶鳴ったので、近所の者も駈けつけて来て、音造はとうとう押さえられてしまいました。信次郎は駿河屋へ送り込まれて、医者の手当てを受けているのですが、急所を深くやられたので、多分むずかしいだろうという噂です」
「連れの清五郎というのは何者だ」
「向う両国の大工だそうです。本人が番屋で申し立てたのじゃあ、駿河屋で何か建て増しをするので、その相談ながら両国辺でいっしょに飲んで、駿河屋の主人を照降町まで送って帰る途中だということです」
半七は忌々(いまいま)しそうに舌打ちをした。
「やれやれ、飛んだ番狂わせをさせやあがる。その清五郎はまだ番屋にいるのか」
「清五郎の疵はたいした事でもねえので、そこで手当てをした上で、まだ番屋に残っています。なにしろ人殺しというのですから、八丁堀の旦那も出て来る筈です。住吉|町(ちょう)の親分も来ていました」
ここらは住吉町の竜蔵の縄張り内である。その竜蔵が顔を出した上は、半七がむやみに踏み込んで荒らし廻るわけにも行かなくなった。仲間の義理としても、この手柄の半分を彼に分配するのほかはなかった。
「じゃあ、もう一度おやじ橋へ行って、竜蔵にそう云ってくれ。その清五郎という奴は大事の科人(とがにん)だから逃がしちゃあいけねえ。あしたの朝おれが行くまで厳重に番をしていてくれと……。音造も人殺しだが、それを押さえた清五郎も人殺しだ。うっかり逃がすと事こわしだ。いいか、よく其の訳を云ってくれ」 

 

「これでお判りになりましたろう」と、半七老人は云った。「さっきからお話し申した通り、観世物小屋へは最初に女隠居のお半がはいる。つづいて養子の信次郎がはいる。そのあとから大工の清五郎とお米がはいる。お半を抱えていたのが信次郎で、うしろから鉄槌(かなづち)で叩いたのが清五郎です」
「それにしても、なぜお半を殺すことになったんですか」と、わたしは訊(き)いた。
「つまりはお定まりの色と慾です。お半と信次郎とは叔母甥とはいいながら、しょせんは他人、殊に三十代で亭主に別れたお半は、信次郎が十七八の頃から、おかしい仲になってしまったんです。そこで、一つ家にいては人目がうるさいので、お半は信次郎に店を譲って杉の森新道に隠居することにして、信次郎が時々にたずねて行ったり、誘い合わせて何処へか一緒に出かけたりしていた。それで済んでいればまだ無事だったんですが、そのうちにお半には音造、信次郎にはお米という別別の相手が出来た。それがこの一件の原因です」
「お半はどうしてそんなごろ付きのような男に関係したんですか」
「それはよんどころなく……。というのは、お半と信次郎が深川の八幡さまへ参詣に行って、そこらの小料理屋へはいり込むと、丁度にそこへ音造が来ていて、二人の秘密を覚られてしまったんです。照降町の駿河屋といえば、世間に知られた店です。その女隠居が養子と不義密通、それを悪い奴に見付けられたんですから、もう動きが取れません。しかし駿河屋には大勢の人間が控えているから、音造も店の方へは近寄らないで、杉の森新道の隠居所へ押し掛けて行く。最初は金をいたぶっていたんですが、度重なるうちに色気にころんで来る。それが斯ういう奴らの手で、色気の方に関係を付けてしまえば、何事も自分の自由になる。お半も我が身に弱身があるから仕方がない、忌忌(いやいや)ながら音造の云うことを肯(き)いていたというわけです。
それを又、信次郎に覚られた。勿論、信次郎にも弱身があるから、表向きに音造を責めることも出来ず、お半を怨むわけにも行かない。しかし内心は面白くないから、幾らかお半に面当(つらあ)てのような気味で、両国の列び茶屋などへ遊びに行って、お米という女と関係が出来てしまった。それがお半に知れると、自分のことを棚にあげて信次郎を責める。信次郎も音造の一件を楯(たて)に取ってお半を責める。こういう風にこぐらかって来ると、ひと騒動おこるは必定(ひつじょう)。おまけにお米の叔父の清五郎というのが良くない奴で、相手が駿河屋の若主人というのを付け目に、お米をけしかけて駿河屋に乗り込ませる魂胆、これではいよいよ無事に済まない事になります。
お半は隠居したと云うものの、信次郎は養子の身分であるので、家付きの地所家作なぞはまだ自分の物になっていない。お米を自分の店へ引っ張り込むなぞということは、とてもお半の承知する筈がない。かたがたお半を亡き者にしてしまわなければ、何事も自分の自由にはならない。以前の信次郎ならば、まさかそんな料簡も起こさなかったでしょうが、かの音造の一件からお半に対して強い嫉妬を感じている。そこへ付け込んで、清五郎がうまく焚き付けたので、とうとう叔母殺しという大罪を犯すことになったんです。年が若いとは云いながら、人間の迷いは恐ろしいものです。
そこで、どうしてお半を片付けようかと狙っていると、かの浅草の観世物の評判が高い。そこへ引っ張り込んで殺すという計略、それは清五郎が知恵を授けたんです。当日お半と約束して、信次郎は花川戸の同商売の家へ行くと云い、お半は観音へ参詣すると云い、途中で落ち合って一緒に浅草へ出かけました。二人の出逢い場所はふだんから決まっているので、浅草辺の小料理屋の二階で午過ぎまで遊び暮らして、それから仁王門前の観世物小屋へ見物に行く。幽霊の観世物なぞは忌だとお半が云うのを、信次郎が無理に誘って連れ込んだ。しかし二人が一緒にはいっては人の目に付くというので、ひと足先にお半をはいらせて、信次郎はあとからはいる。かねて打ち合わせてあるので、又そのあとから清五郎とお米もはいる。お米に手伝いをさせる訳ではないが、木戸の者に油断させるために、わざと女連れで出かけたんです。
お半は幽霊を怖がって、中途から右の路へ出ようというのを、胸に一物(いちもつ)ある信次郎は、無理に左の方へ連れ込むと、お半はいよいよ怖がって信次郎にすがり付く。そこを窺って、清五郎が鉄槌(かなづち)で頭をひと撃ち……」
「お半を殺した三人は、幽霊が生きていることを知らなかったんですね」
「そこが運の尽きです」と、老人はほほえんだ。「なんと云っても、みんな素人(しろうと)の集まりですから、こういう観世物の秘密を知らない。木の上の猿も、柳の下の幽霊も、それが生きた人間とは夢にも知らないで、平気で人殺しをやってしまったんです。しかし前にも申す通り、猿や幽霊の方にも秘密があるので、自分たちの眼の前に人殺しを見ていながら、それを迂濶(うかつ)に口外することが出来ない。そこで一旦は計略成就して、お半は幽霊におびえて死んだことになって、無事に死骸を引き取って、葬式までも済ませたんです。定めてあっぱれの知恵者と自慢していたんでしょうが、そうは問屋で卸(おろ)しませんよ」
「さっきからのお話では、あなたは最初から駿河屋の信次郎に眼を着けて居られたようですが、それには何か心あたりがあったんですか」
「心あたりと云う程でもありませんが、なんだか気になったのは、お半の帰りが遅いと云うので、店の若い者を浅草へ出してやる。そのあとで信次郎は、観世物小屋で女の見物人が死んだという噂をふと思い出して、更に番頭を出してやると、果たしてそうであったという。勿論、そういうことが無いとは限りません。しかしその話を聞いた時に、わたくしは何だか信次郎を怪しく思ったんです。義母の帰りが遅いからといって、幽霊の観世物を見て死んだんだろうと考えるのは、あんまり頭が働き過ぎるようです。本人は当日花川戸へ行って、その噂を聞いて来たと云うんですが、噂を聞いただけでなく、何もかも承知しているんじゃあないかという疑いが起こったんです。
もう一つには、お半という女隠居が、自分ひとりで左の路を行ったことです。連れでもあれば格別、女のくせに右へは出ないで、左へ行ったのが少し不思議です。路に迷ったといっても、右と左を間違えそうにも思われません。おそらく誰かに連れて行かれたのじゃあ無いかと思われます。そうなると、信次郎も当日浅草へ行ったというのが、いよいよ怪しく思われないでもありません。だんだん調べてみると、お半のあとから木戸をはいった若い男の年頃や人相が信次郎らしいので、まず大体の見当が付きました」
「お半を殺したのは大工らしいというのは、鉄槌(かなづち)からですか」
「そうです。喧嘩でもして人を殺すならば、手あたり次第に何でも持ちますが、前から用意して行く以上、手頃な物を持って行くのが当然です。疵のあとを残さない用心といっても、わざわざ鉄槌を持ち出して行くのは、ふだんから手馴れている為だろうと思ったんです。本人の清五郎の白状によると、まだ驚いた事がありました。お半のあたまを鉄槌でがんとくらわしたばかりで無く、長い鉄釘(かなくぎ)を用意して行って、頭へ深く打ち込んだのです。こんにちならば検視のときに発見されるでしょうが、むかしの検視はそんな所まで眼がとどきません。男と違って、女は髪の毛が多いので、釘を深く打ち込んでしまうと、毛に隠されて容易に判りません。これなぞも大工の考えそうなことで、長い釘を一本打ち込むのでも、素人では手際(てぎわ)よく行かないものです。
頭へ釘を打ち込まれたら即死の筈です。そのお半が長助に武者振り付いたというのは、ちっと理窟に合わないようですが、長助は確かにむしり付かれたと云っていました。この長助は職人のくせに、案外に気の弱い奴ですから、内心怖いと思っていたので、死骸が自分の方へでも倒れかかって来たのを、むしり付かれたと思ったのかも知れません。
わたくしが掃部宿(かもんじゅく)へたずねて行った時に、長助がなんだかびくびくしているのは変だと思いましたら、案の通り、浅草の観世物小屋へ因縁を付けに行って、幾らか貰って来たんです。お半にむしり付かれた時には、長助は半分夢中だったのですが、それでも幾らかは周囲の様子をおぼえている。その話によると、お半の倒れていたあたりには、人間の化け物が忍んでいたらしい。考えようによっては、その化け物がお半を殺したかとも疑われるんですが、わたくしは最初の見込み通り、どこまでも信次郎に眼をつけて、とうとう最後まで漕ぎ着けました。わたくし共の商売の道から云えば、これらはまぐれあたりかも知れませんよ。しかし幽霊の観世物を利用して人殺しを思いつくなぞは、江戸時代ではまあ新手(あらて)の方でしょうね」
「信次郎は死にましたか」
「あくる日の夕方に死にました。その朝、わたくしは駿河屋へ乗り込んで、まわりの者を遠ざけて、信次郎の枕もとに坐って、どうでお前は助からない命だ。正直に懺悔(ざんげ)をしろと云い聞かせますと、当人ももう覚悟したとみえて、何もかも素直に白状しました。その死にぎわには、おっかさんの幽霊が来たなぞと、囈語(うわごと)のように云っていたそうです。それでも信次郎は運がいいのです。もし生きていたら義母殺しの大罪人、引き廻しの上で磔刑(はりつけ)になるのが定法(じょうほう)であるのを、畳の上で死ぬことが出来たのは仕合わせでした。
音造が信次郎を闇撃ちにしたのは、大抵お察しでもありましょうが、お半との関係を云い立てて、駿河屋から幾らかの涙金を取ろうとする。番頭の吉兵衛も世間体をかんがえて、結局幾らかやろうと云い出したんですが、信次郎がどうしても承知しない。金が惜しいのじゃあなくて、お半との関係について強く嫉妬心を持っていたからです。それがために話がいつまでも纒まらない。音造も表向きに持ち出せる問題じゃあないから、所詮は泣き寝入りにするのほかはない。その口惜しまぎれに刃物三昧に及んだわけですが、その音造を取り押さえた為に、清五郎もすぐに其の場から縄付きになるとは、天の配剤とでも云うのでしょうか、まことに都合よく行ったものです。
音造も清五郎も無論死罪ですが、お米だけは早くも姿を隠しました。それから七、八年の後に、両国辺の人たちが大山(おおやま)参りに出かけると、その途中の達磨(だるま)茶屋のような店で、お米によく似た女を見かけたと云うのですが、江戸末期のごたごたの際ですから、そんなところまでは詮議の手がとどかず、とうとう其の儘になってしまいました」 
 
半七捕物帳 狐と僧

 

一 
「これも狐の話ですよ。しかし、これはわたくしが自身に手がけた事件です」と、半七老人は笑った。
嘉永二年の秋である。江戸の谷中(やなか)の時光寺という古い寺で不思議の噂が伝えられた。それはその寺の住職の英善というのが、いつの間にか狐になっていたというのである。実に途方もない奇怪な出来事ではあるが、寺の方からその届け出があった以上、寺社奉行も単にばかばかしいといって捨てて置くわけにも行かなかった。
時光寺はあまり大きい寺ではないが、由緒のある寺で、その寺格も低くなかった。住職の英善は今年四十一歳で、七年ほど前から先住のあとを受けついで、これまでに変った噂もきこえなかった。ほかに善了という二十一歳の納所(なっしょ)と、英俊という十三歳の小坊主と、伴助という五十五歳の寺男と、あわせて三人がこの寺内に住んでいた。伴助は耳の遠い男であったが、正直者として住職に可愛がられていた。
こうして何事もなく過ぎているうちに、思いもよらない事件が出来(しゅったい)して、檀家は勿論、世間の人々をもおどろかしたのである。事件の起る前夜、住職の英善は、根岸の伊賀屋という道具屋の仏事にまねかれて、小坊主の英俊を連れて出たが、四ツ(午後十時)少し前に英俊だけが帰って来た。師匠は途中でこれからほかへ廻るから、おまえは先へ帰れといったので、小坊主はそのまま別れて来たのであった。
夜なかになっても住職は戻らないので、寺でも心配した。伴助は提灯を持って幾たびか途中まで迎いに出て行ったが、英善の姿はみえなかった。こうして不安の一夜を送った後、この寺から二町ほど距(はな)れた無総寺という寺のまえの大きい溝(どぶ)のなかに、英善によく似た者のすがたが発見された。それはあくる朝のことで、いつも早起きの無総寺の寺男が見つけ出したのであるが、溝にはまり込んで死んでいたのは、人間ではなかった。それは法衣(ころも)や袈裟(けさ)をつけている狐であった。寺男はびっくりして、ほかの人々にも報告したので、たちまちこのあたりの大騒ぎとなった。
袈裟や法衣をつけている者の正体はたしかに年|経(ふ)る狐に相違なかった。死体の傍には数珠(じゅず)も落ちていた。小さい折本の観音経も落ちていた。履物はどこにも見えなかったが、その袈裟と法衣と、数珠と経文(きょうもん)と、それらの品々がことごとく時光寺の住職の持ち物に符合するばかりか、その経文の折本のうちには時光寺と明らかに書いてあるので、誰もそれをうたがうことは出来なかった。殊にその本人の英善がゆうべから戻って来ないのであるから、諸人はいよいよこの奇怪な出来事を信ずるよりほかはなかった。唯ここに残された問題は、英善がゆうべこの狐にたぶらかされて、その衣類や持ち物を奪われたのか、或いはその以前から本人の正体はどこかへ消えてしまって、狐が住職になり澄ましていたのかということで、その疑問は容易に解決されなかった。
無総寺の寺男の話によると、夜なかに門前で頻(しき)りに犬の吠える声を聴いたというのである。英善に化けた狐は犬の群れに追いつめられて、この溝のなかへはまり込んで死んだのであろうと彼は云った。ほかの人々もそんなことであろうと思った。
「なるほど、そういえば此の頃は、うちの御住持さまは大変に犬を嫌っていなすった」と、時光寺の納所(なっしょ)も云った。
以前はそうでもなかったが、この一、二ヵ月まえから住職の英善がひどく犬を嫌うようになったことは、納所の善了も寺男の伴助も認めていた。これらの事実を綜合してかんがえると、人間の英善はこの夏の末頃から消えてなくなって、狐の英善が住職になり代っていたらしい。伯蔵主(はくぞうす)の狐や茂林寺(もりんじ)の狸のむかし話なども思いあわされて、諸人も奇異の感にうたれながら、とにもかくにも一ヵ寺の住職の身のうえにこういう椿事が出来(しゅったい)したのであるから、単に不思議がってばかりはいられなかった。時光寺からは有りのままに届け出て、寺社奉行はその詮索(せんさく)に取りかかったのであった。
時光寺の納所も小坊主も寺男も、みな厳重に吟味された。奇怪な死体をはじめて発見したという無総寺の寺男も勿論取り調べられた。しかも彼等の口から何の手がかりを聴き出すことも出来なかった。住職は近頃犬を嫌うようになったという以外には、時光寺の者共も別に思い当ることはないと申し立てた。もしや住職の死骸を発見することもあろうかと、時光寺の床下や物置や、庭の大木の根もとなどを掘り返してみたが、死骸はおろか、それかと思われるような骨一つすらも見いだされなかった。檀家の主(おも)なるものも調べられた。その当夜、自宅の仏事に時光寺の住職を招いたという根岸の伊賀屋嘉右衛門も吟味をうけたが、伊賀屋でも当夜の住職の挙動について別に怪しい点を認めなかったと答えた。
寺社奉行の方でもこの上に詮議のしようもなかった。時光寺の住職はゆくえ不明になって、いつの間にか狐がその姿になりかわっていたというほかには、なんとも判断のくだしようもないので、その詮議はひと先ずこれで打ち切ることになった。 

 

九月の末には陰(くも)った日がつづいた。神田の半七は近所の葬式(とむらい)を見送って、谷中(やなか)の或る寺まで行った。ゆう七ツ(午後四時)過ぎに寺を出て、ほかの会葬者よりも一と足さきにぶらぶら帰ってくると、秋の空はいよいよ暗くなった。寺の多い谷中のさびしい道には、木の葉が雨のように降っていた。まだ暮れ切らないのに、どこかの森のなかで狐の声がきこえた。半七はこのごろ世間の噂になっている時光寺の一件をふと思い出した。かれは町奉行付きで、寺社奉行の方には直接の係り合いはないのであるが、それでも自分の役目として、今度の奇怪な出来事に相当の注意を払っていた。
「無総寺というのはこの辺かしら」
そう思いながら歩いてくると、ある寺の土塀に沿うた大きい溝のふちに、ひとりの少年が腹這いになっているのを見た。少年は十三四歳の小坊主で、土のうえに俯伏(うつぶ)しながら何か溝のなかの物を拾おうとしているらしかった。半七はそのまま通り過ぎようとして、なに心なくその寺の門を見あげると、門の額(がく)に無総寺と記(しる)してあったので、かれは俄かに立ちどまった。時光寺の住職に化けていた狐の死骸は、ここの大溝から発見されたというのである。その溝のふちに小坊主が腹這いになって何か探しているらしいのを、半七は見すごすことが出来なかった。かれは立ち寄って声をかけた。
「お小僧さん。なにか落したのかえ」
それが耳にもはいらないらしく、小坊主は熱心になにか拾おうとしていた。しかしまだ十三四の子供の手では溝の底までとどかないので、かれは思い切って下駄をぬいで、石垣を伝(つた)って降りようとするらしかった。半七は再び声をかけた。
「もし、もし、お小僧さん。なにを取ろうとするんだ。なにか落したのなら、わたしが取ってあげる」
小坊主は初めて振りかえったが、返事もしないで黙っていた。半七はかがんで溝をのぞくと、底はさのみ深くもなかった。苔(こけ)の多い石垣のあいだから幾株の芒(すすき)や秋草が水の上に垂れかかって、岸の近いところには、湿(ぬ)れた泥があらわれていた。それを見まわしているうちに、ある物が半七の眼についた。
「おまえさん。あれを取ろうというのかえ」と、半七は溝のなかを指さして訊(き)いた。
小坊主は黙ってうなずいた。こんなことには馴れている半七は、草履の片足を石垣のなかほどに踏(ふ)みかけて、片手に芒の根をつかみながら、からだを落すようにして岸に近い泥のなかへ片手を突っ込んだ。彼がやがて掴み出したのは小さい仏の像であった。仏は二寸に足らないもので、なにか黒ずんだ金物で作られているらしく、小さい割合にはなかなか目方があった。
「この仏さまをお前さんは知っているのかえ」と、半七は泥だらけになっている仏像を小坊主の眼のさきへ突きつけると、かれはそれをうやうやしく受け取って、自分の法衣(ころも)の袖のうえに乗せた。
「おまえさんのお寺はどこだね」と、半七はまた訊(き)いた。
「時光寺でございます」
「むむ。時光寺か」
半七はあらためてその小坊主の顔をみた。かれは色の白い、眼の大きい、見るからに利口そうな少年であった。
「じゃあ、このあいだ和尚(おしょう)さんの一件のあったお寺だな。そこで、その仏さまはお前さんが落したのかえ」
「今ここで見つけたのです」
「じゃあ、おまえさんのじゃあ無いんだね」
小坊主はその返答に躊躇しているようであったが、結局、これは自分の寺のものであるらしいと云った。
「お寺の物がどうしてこの溝のなかに落ちていたんだろう」と、半七はかれの顔色をうかがいながら訊いたが、小坊主はやはり何か躊躇しているらしく、口唇(くちびる)をむすんだままで少しうつむいていた。
この小さい仏像について何かの秘密があるらしいと睨んだので、半七はたたみかけて訊いた。
「和尚さんはここらの溝のなかに死んでいたんだそうだね」
「はい」
「そこにその仏像が落ちていて、しかもそれがお寺の物だという。そうすると、和尚さんの落ちた時に、それも一緒に落したのかね」
「そうかも知れません」
「隠しちゃいけねえ。正直に云って貰いたい」と、半七はすこし詞(ことば)をあらためた。「実はわたしは町方(まちかた)の御用聞きだ。寺社とお係りは違うけれど、こういうところへ来あわせては、調べるだけのことは調べて置かなければならねえ。その晩、和尚さんがその仏さまを持って出たのかえ」
相手の身分を聴くと共に、小坊主の態度は俄かに変った。かれは今までとは打って変って、半七の問いに対して、何でもはきはきと答えた。
かれは時光寺の英俊であった。師匠の英善がゆくえ不明になった晩、かれは師匠の供をして根岸の伊賀屋へ行った。読経(どきょう)がすんで、一緒に連れ立って帰る途中、師匠はほかへ路寄りすると云って別れたまま再び戻って来ない。そうして、そのあくる朝、師匠の袈裟法衣をつけた狐の死骸がこの溝の中に発見されたのである。それがどう考えても判らないので、かれは絶えずそれを考えつめていると、今日この溝のふちを通るときに、測らずも泥のなかに何か薄黒く光るようなものを見つけたのであった。仏像はおそらく師匠の袂(たもと)かふところに入れてあって、ここへ転げ込むときに水のなかへ滑り落ちたのを誰も見つけ出さなかったのであろう。毎日|陰(くも)ってはいるが、この頃すこしも雨がないので、溝の水もだんだんに乾いて、泥に埋められていた仏像が自然にその形をあらわしたのであろう。自分にもよく判らないが、これは寺の秘仏として大切に保管されているものであるらしい。なんでも遠い昔に異朝から渡来したもので、その胎内には更に小さい黄金仏が孕(はら)ませてあると云いつたえられている。自分は九つの年から寺に入って、足かけ五年のあいだに三度しか拝んだことはないが、これはどうもその仏像であるらしいと彼は説明した。
それほど大切の秘仏を住職がなぜむやみに持ち出したか、それが半七にも判らなかった。英俊にも判らなかった。
「しかしこれをみると、狐がお住持に化けていたなどというのは嘘です」と、英俊は云った。「わたしも最初から疑わしいと思っていましたが、もし狐ならばこういうものを持ち出す筈がありません。狐や狸は尊い仏を恐れる筈です」
それは如何にも仏弟子らしい解釈であった。半七は又それと違った解釈で、時光寺の住職の正体が狐でないことを確かめた。
「お住持は……お師匠さまは……」と、英俊は俄かに泣き出した。
「おい。どうした、どうした」と、半七はかれの肩に手をかけた。
英俊はその肩をゆすぶって泣きつづけた。かれの涙は法衣の袖にほろほろとこぼれて、大切にさげていた異国の仏像の御首(みぐし)にも流れ落ちた。
「泣くことはねえ。おれがその仇を取ってやる」と、半七は云った。「その代り、おまえの知っているだけのことは何でも話してくれねえじゃあいけねえ。といって、いつまでもここで立ち話も出来めえ。あしたの朝、わたしの家まで来てくれ。神田の三河町で、半七と聞けばすぐ判る」 

 

あくる朝、英俊は約束通りに半七をたずねて来た。そうして、師匠の英善の身のうえに就いて自分の知っているだけのことを詳(くわ)しく話して帰った。帰る時に、半七はかれに何事かを教えてやった。それからすぐに身支度をして、半七も寺社奉行の役宅へ出て行った。
寺社方の許可を得て、かれは何かの活動に取りかかるらしく、役宅から帰ると更に子分の松吉と亀八を呼びよせた。
「ひょっとすると草鞋(わらじ)を穿(は)くかも知れねえ。そのつもりで支度をして置け」
午(ひる)すぎになって英俊がふたたび来た。
「親分さん。安蔵寺の三人はきのうの朝、一挺の駕籠を吊らせて帰ったそうです」
「駕籠は一挺か」と、半七は少し考えた。「そこで、どうだろう。その頭(かしら)の坊主は……」
「昌典という人はまだ残っているらしいのです」
「よし。じゃあ、すぐに出かけよう。一日の違いなら何とかなるだろう。もう一日早ければ訳はなかったのだが、どうも仕方がねえ」
半七は二人の子分をつれて、俄かに甲州街道の方角へ旅立ちすることになった。かれは見識り人として英俊をも連れて行かなければならなかったが、まだ十三の少年が足の早い彼等と共にあるくことは出来そうもないのと、彼等もゆく手を急ぐのとで、四挺の駕籠を雇って神田を出たのは其の日の八ツ(午後二時)を過ぎた頃であった。
先をいそぐ四人は御用の旅という触れ込みで、むやみに駕籠を急がせた。新宿で駕籠をかえて其の晩のうちに府中の宿(しゅく)まで乗りつけた。あくる朝七ツ(午前四時)ごろに宿屋を立って、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、吉野、関野、上の原、鶴川、野田尻、犬目、下鳥沢、鳥沢の宿々あわせて十六里あまりを駕籠で急がせた。自分たちはともかくも、旅馴れない上に年のゆかない英俊がもし途中で弱るようなことがあってはならないと、立場(たてば)々々へ着くたびに半七はかれに気つけ薬を飲ませて介抱したが、英俊はちっとも弱らなかった。彼は一刻も早くお師匠さまを救ってくれと、そればかりを繰り返していた。
「お小僧さん、なかなか強いな」と、子分たちも励ますように云った。
鳥沢の宿へはいったのは夜の五ツ頃で、夕方から細かい雨がしとしとと降り出していた。今夜のうちに次の宿の猿橋まで乗り込みたいと思ったが、あいにくに雨が降るのと、駕籠屋も疲れ切っているのとで、半七はここで今日の旅を終ることにして、駕籠のなかから声をかけた。
「おい、若い衆さん。この宿(しゅく)でどこかいい家(うち)へつけてくれ」
「はい、はい」
雨はだんだん強くなって来たのと、泊まりの時刻をもう過ぎたのとで、暗い宿(しゅく)の旅籠屋(はたごや)では大戸をおろしているのもあった。四挺の駕籠が宿の中まで来かかると、左側の小さい旅籠屋のまえに一挺の駕籠のおろされているのが眼についたので、半七は自分の駕籠の垂簾(たれ)をあげて透かして視ると、その駕籠は今この旅籠屋に乗りつけたらしく、駕籠のそばには二人の男が立っていた。ひとりは内にはいって店の番頭となにか掛け合っているらしかった。その三人がいずれも旅僧であることを覚った時、半七はすぐに自分の駕籠を停めさせた。その合図を聞いて子分の松吉と亀八もつづいて駕籠を出た。英俊も出た。四人は雨のなかを滑りながら駈け出して、ばらばらとその旅籠屋の店さきへはいった。
駕籠の脇に立っている旅僧の一人は、英俊の顔をみて俄かにうろたえたらしく、あわててほかの僧を見かえる間に、松吉と亀八はもうそのうしろを取りまくように迫っていた。
「失礼でございますが、このお駕籠にはどなたがお乗りです」と、半七は丁寧に訊(き)いた。
ふたりの僧は黙っていた。
「では、御免を蒙(こうむ)って、ちょっとのぞかせて頂きます」
再び丁寧にことわって、半七は桐油紙(とうゆ)を着せてある駕籠の垂簾(たれ)を少しまくりあげると、中には白い着物を着ている僧が乗っていた。英俊は泣き声をあげてその前にひざまずいた。
「お師匠さま」
僧は眼を動かすばかりで、口を利かなかった。彼はいつまでも無言であった。英俊は彼の袖にすがって再び呼んだ。
「お師匠さま」
無言の僧は時光寺の住職英善であった。かれが無言であるのは、声を出すことの出来ないような一種の薬を飲まされていたのであった。
「もうここまで来れば、あとは詳しく云うまでもありますまい」と、半七老人は云った。「ところで、なぜこんな事件が起ったかというと、この宗旨の本山の方に何か面倒な事件があって、こんにちの詞(ことば)でいえば、本山擁護派と本山反対派の二派にわかれて暗闘を始めていたというわけなんです。それがだんだんに激しくなって、本山の方からも幾人かの坊主が出府(しゅっぷ)して、江戸の末寺を説き伏せようとする。末寺の方では思い思いに党を組んで騒ぎ立てる。その中でも時光寺の住職は有力な反対派の一人、まかり間違えば寺社奉行へまで持ち出して裁決を仰ごうという意気込みなので、本山派の方で持て余して、なんとかしてこの住職をなき者にしよう……。といって、出家同士のことですから、まさか殺すわけにも行かないので、この住職を本山へ連れて行って、当分押し込めて置こうということになったのです。そこで、住職がいつの晩には根岸の檀家へ出かけて行くというのを知って、帰る途中を待ち受けて、腕ずくで取っつかまえて下谷坂本の安蔵寺という本山派の寺へ連れ込んでしまったのです。そうして、口を利くことの出来ないように、毒薬を飲ませたのだそうです」
「そうなると、例の狐はその身代(みがわ)りなんですね」
「そうです、そうです」と、老人はうなずいた。「一ヵ寺の住職がただ消えてなくなったというのでは、詮議がむずかしかろうという懸念(けねん)から、住職の袈裟(けさ)や法衣(ころも)をはぎ取って、それを狐に着せて……。いや、今からかんがえると子供だましのようですが、それでもよっぽど知恵を絞ったのでしょう」
「ところで、大切の仏像というのはどうしたんです。やはりその住職が持っていたんですか」
「いつの代でも、なにかの問題で騒ぎ立てれば相当の運動費がいります。時光寺は本来小さい寺である上に、住職が本山反対運動に奔走(ほんそう)しているので、その内証は余程苦しい。まして寺社奉行へでも持ち出すとすれば、また相当の費用もかかる。それらの運動費を調達するために、住職は大切の秘仏をそっと持ち出して、それを質(かた)に伊賀屋から幾らか借り出そうとして、仏事の晩にそれを厨子(ずし)に納めて持ち込んだのですが、ほかに大勢の人がいたので云い出す機(おり)がなくって一旦は帰ったのです。しかしどうしても金の入用に迫っているので、途中から小坊主を帰して、自分ひとりで伊賀屋へまた引っ返す途中、運悪く本山派の罠(わな)にかかって、持っていた厨子は無論に取りあげられてしまったのですが、その時に住職が手早く仏像だけをぬき出して自分の袂(たもと)へ隠したのを、相手の者は気がつかなかったと見えます」
「その落着(らくぢゃく)はどうなりました」
「事件もこうなると大問題です」と、老人は眉をしかめて云った。「無論に寺社方の裁判になりました。本山から出府している坊主は十一人ありましたが、ほかの寺に宿を取っていた七人はこの事件に関係がないというので免(ゆる)されました。安蔵寺に泊まっていた四人、その三人は住職の駕籠について行き、一人は江戸に残っていましたが、いずれも召し捕って入牢(じゅろう)申し付けられ、その中で二人は牢死、二人は遠島になりました。時光寺の納所(なっしょ)の善了も本山派に内通していたという疑いをうけて、寺を逐(お)い出されたそうです。この事件も手をひろげたら随分大きくなるでしょうが、本山の方へは一切(いっさい)手を着けずに、江戸だけで片付けてしまいましたから、前にいった四人のほかには罪人も出ませんでした。時光寺の住職はその後に療治をして、すこしは声が出るようになったので、やはり元の寺に勤めていましたが、上野の戦争のときに彰義隊の落武者(おちむしゃ)をかくまったというので、寺にも居にくくなって、京都の方へ行ったそうです。英俊は利口な小僧で、その時に師匠と一緒に行って、今では京都の大きい寺の住職になっていると聞きました。なにしろこの探索では小坊主が大立物(おおだてもの)で、その口から本山派と反対派の捫著(もんちゃく)を聴いたので、わたくしもそれから初めて探索の筋道をたてたようなわけですからね。今でも時々あるようですが、むかしも寺々の捫著はたびたびで、寺社奉行を手古摺(てこず)らせたものですよ」
併しそこにまだ一つの疑問が残されていた。それは時光寺の住職がかの事件の起る以前からと俄かに犬を嫌うようになったということである。私はそれを聞きただすと、老人は笑って答えた。
「それはなんにも係り合いのないことなんです。住職が犬を嫌うようになったというので、おそらく狐が化けていたのだろうなどという疑いも起って来たんですが、だんだん調べてみると斯(こ)ういうわけでした。住職は出家のことで、ふだんから畜類を可愛がっていたんですが、本山反対の運動を起してから、こんにちの詞(ことば)でいえば神経が興奮したとでもいうのでしょう。なんだか苛々(いらいら)したような気分になって、今まで可愛がっていた犬などにも眼をくれず、犬の方から尻尾(しっぽ)をふって近寄っても、怖い顔をして追っ払うという風になった。そこへ例の一件が出来(しゅったい)したもんですから、それが又何だか仔細ありげに云い触らされるようになったのです。一体この事件にかぎらず、わたくし共の方ではよくこんな事でいろいろ思い違いや見込み違いをすることがあります。無事の時ならばなんでもないことが、大仰(おおぎょう)に仔細ありげに考えられますから、よっぽど注意しないといけません。探索という上から見れば、髪の毛一本でも決して見逃がしてはなりませんが、所詮(しょせん)は大体のうえに眼をつけて、それから細かいところへ踏(ふ)み込んで行かないと、前にも云ったような、飛んだ見込み違いで横道へそれてしまうことがありますよ」 
 
半七捕物帳 石燈籠

 

一 
半七老人は或るとき彼のむかしの身分について詳しい話をしてくれた。江戸時代の探偵物語を読む人々の便宜のために、わたしも少しばかりここにその受け売りをして置きたい。
「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引らの報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役(しょやく)が取りあえずこれに書き留めて置くんです。その帳面を捕物帳といっていました」と、半七は先ず説明した。「それから私どものことを世間では御用聞きとか岡っ引とか手先とか勝手にいろいろの名を付けているようですが、御用聞きというのは一種の敬語で、他からこっちをあがめて云う時か、又はこっちが他を嚇(おど)かすときに用いることばで、表向きの呼び名は小者(こもの)というんです。小者じゃ幅が利かないから、御用聞きとか目明(めあか)しとかいうんですが、世間では一般に岡っ引といっていました。で、与力には同心が四、五人ぐらいずつ付いている、同心の下には岡っ引が二、三人付いている、その岡っ引の下には又四、五人の手先が付いているという順序で、岡っ引も少し好い顔になると、一人で七、八人|乃至(ないし)十人ぐらいの手先を使っていました。町奉行から小者即ち岡っ引に渡してくれる給料は一カ月に一分二朱というのが上の部で、悪いのになると一分ぐらいでした。いくら諸式の廉(やす)い時代でも一カ月に一分や一分二朱じゃあやり切れません。おまけに五人も十人も手先を抱えていて、その手先の給料はどこからも一文だって出るんじゃありませんから、親分の岡っ引が何とか面倒を見てやらなけりゃあならない。つまり初めから十露盤(そろばん)が取れないような無理な仕組みに出来あがっているんですから、自然そこにいろいろの弊害が起って来て、岡っ引とか手先とかいうと、とかく世間から蝮(まむし)扱いにされるようなことになってしまったんです。しかし大抵の岡っ引は何か別に商売をやっていました。女房の名前で湯屋をやったり小料理をやったりしていましたよ」
そういうわけで、町奉行所から公然認められているのは少数の小者即ち岡っ引だけで、多数の手先は読んで字のごとく、岡っ引の手先となって働くに過ぎない。従って岡っ引と手先とは、自然親分子分の関係をなして、手先は岡っ引の台所の飯を食っているのであった。勿論、手先の中にもなかなか立派な男があって、好い手先をもっていなければ親分の岡っ引も好い顔にはなれなかった。
半七は岡っ引の子ではなかった。日本橋の木綿店(もめんだな)の通い番頭のせがれに生まれて、彼が十三、妹のお粂(くめ)が五つのときに、父の半兵衛に死に別れた。母のお民は後家(ごけ)を立てて二人の子供を無事に育てあげ、兄の半七には父のあとを継(つ)がせて、もとのお店に奉公させようという望みであったが、道楽肌の半七は堅気の奉公を好まなかった。
「わたくしも不孝者で、若い時には阿母(おふくろ)をさんざん泣かせましたよ」
それが半七の懺悔(ざんげ)であった。肩揚げの下りないうちから道楽の味をおぼえた彼は、とうとう自分の家を飛び出して、神田の吉五郎という岡っ引の子分になった。吉五郎は酒癖のよくない男であったが、子分たちに対しては親切に面倒を見てくれた。半七は一年ばかりその手先を働いているうちに、彼の初陣(ういじん)の功名をあらわすべき時節が来た。
「忘れもしない天保|丑(うし)年の十二月で、わたくしが十九の年の暮でした」
半七老人の功名話はこうであった。
天保十二年の暦(こよみ)ももう終りに近づいた十二月はじめの陰(くも)った日であった。半七が日本橋の大通りをぶらぶらあるいていると、白木の横町から蒼い顔をした若い男が、苦労ありそうにとぼとぼと出て来た。男はこの横町の菊村という古い小間物屋の番頭であった。半七もこの近所で生まれたので、子供の時から彼を識(し)っていた。
「清さん、どこへ……」
声をかけられて清次郎は黙って会釈(えしゃく)した。若い番頭の顔色はきょうの冬空よりも陰っているのがいよいよ半七の眼についた。
「かぜでも引きなすったかえ、顔色がひどく悪いようだが……」
「いえ、なに、別に」
云おうか云うまいか清次郎の心は迷っているらしかったが、やがて近寄って来てささやくように云った。
「実はお菊さんのゆくえが知れないので……」
「お菊さんが……。一体どうしたんです」
「きのうのお午(ひる)すぎに仲働きのお竹どんを連れて、浅草の観音様へお詣りに行ったんですが、途中でお菊さんにはぐれてしまって、お竹どんだけがぼんやり帰って来たんです」
「きのうの午過ぎ……」と、半七も顔をしかめた。「そうして、きょうまで姿を見せないんですね。おふくろさんもさぞ心配していなさるだろう。まるで心当りはないんですかえ。そいつはちっと変だね」
菊村の店でも無論手分けをして、ゆうべから今朝(けさ)まで心当りを隈(くま)なく詮索しているが、ちっとも手がかりがないと清次郎は云った。彼はゆうべ碌々に睡(ねむ)らなかったらしく、紅(あか)くうるんだ眼の奥に疲れた瞳(ひとみ)ばかりが鋭く光っていた。
「番頭さん。冗談じゃない。おまえさんが連れ出して何処へか隠してあるんじゃないかえ」と、半七は相手の肩を叩いて笑った。
「いえ、飛んでもないことを……」と、清次郎は蒼い顔をすこし染めた。
娘と清次郎とがただの主従関係でないことは、半七も薄々|睨(にら)んでいた。しかし正直者の清次郎が娘をそそのかして家出させる程の悪法を書こうとも思われなかった。菊村の遠縁の親類が本郷にあるので、所詮無駄とは思いながらも、一応は念晴らしにこれから其処へも聞き合わせに行くつもりだと、清次郎は頼りなげに云った。彼のそそけた鬢(びん)の毛は師走の寒い風にさびしく戦慄(おのの)いていた。
「じゃあ、まあ試(ため)しに行って御覧なさい。わっしもせいぜい気をつけますから」
「なにぶん願います」
清次郎に別れて、半七はすぐに菊村の店へたずねて行った。菊村の店は四間半の間口で、一方の狭い抜け裏の左側に格子戸の出入り口があった。奥行きの深い家で、奥の八畳が主人の居間らしく、その前の十坪ばかりの北向きの小庭があることを、半七はかねて知っていた。
菊村の主人は五年ほど前に死んで、今は女あるじのお寅が一家の締めくくりをしていた。お菊は夫が形見の一粒種で今年十八の美しい娘であった。店では重蔵という大番頭のほかに、清次郎と藤吉の若い番頭が二人、まだほかに四人の小僧が奉公していた。奥はお寅親子と仲働きのお竹と、ほかに台所を働く女中が二人いることも、半七はことごとく記憶していた。
半七は女主人のお寅にも逢った。大番頭の重蔵にも逢った。仲働きのお竹にも逢った。しかしみんな薄暗いゆがんだ顔をして溜息をついているばかりで、娘のありかを探索することに就いて何の暗示をも半七に与えてくれなかった。
帰るときに半七はお竹を格子の外へ呼び出してささやいた。
「お竹どん。おめえはお菊さんのお供をして行った人間だから、今度の一件にはどうしても係り合いは逃がれねえぜ。内そとによく気をつけて、なにか心当りのことがあったら、きっとわっしに知らしてくんねえ。いいかえ。隠すと為にならねえぜ」
年の若いお竹は灰のような顔色をしてふるえていた。その嚇しが利いたとみえて、半七があくる朝ふたたび出直してゆくと、格子の前を寒そうに掃いていたお竹は待ち兼ねたように駈けて来た。
「あのね、半七さん。お菊さんがゆうべ帰って来たんですよ」
「帰って来た。そりゃあよかった」
「ところが、又すぐに何処へか姿を隠してしまったんですよ」
「そりゃあ変だね」
「変ですとも。……そうして、それきり又見えなくなってしまったんですもの」
「帰って来たのを誰も知らなかったのかね」
「いいえ、わたしも知っていますし、おかみさんも確かに見たんですけれども、それが又いつの間にか……」
聴く人よりも話す人の方が、いかにも腑に落ちないような顔をしていた。 

 

「きのうの夕方、石町(こくちょう)の暮れ六ツが丁度きこえる頃でしたろう」と、お竹はなにか怖い物でも見たように声をひそめて話した。「この格子ががらりと明いたと思うと、お菊さんが黙って、すうっとはいって来たんですよ。ほかの女中達はみんな台所でお夜食の支度をしている最中でしたから、そこにいたのはわたしだけでした。わたしが『お菊さん』と思わず声をかけると、お菊さんはこっちをちょいと振り向いたばかりで、奥の居間の方へずんずん行ってしまいました。そのうちに奥で『おや、お菊かえ』というおかみさんの声がしたかと思うと、おかみさんが奥から出て来て『お菊はそこらに居ないか』と訊くんでしょう。わたしが『いいえ、存じません』と云うと、おかみさんは変な顔をして『だって、今そこへ来たじゃあないか。探して御覧』と云う。わたしも、おかみさんと一緒になって家中(うちじゅう)を探して見たんですけれども、お菊さんの影も形も見えないんです。店には番頭さん達もみんないましたし、台所には女中達もいたんですけれども、誰もお菊さんの出はいりを見た者はないと云うんでしょう。庭から出たかと思うんですけれども、木戸は内からちゃんと閉め切ってあるままで、ここから出たらしい様子もないんです。まだ不思議なことは、初めにはいって来た格子のなかに、お菊さんの下駄が脱いだままになって残っているじゃありませんか。今度は跣足(はだし)で出て行ったんでしょうか。それが第一わかりませんわ」
「お菊さんはその時にどんな服装(なり)をしていたね」と、半七はかんがえながら訊いた。
「おとといこの家を出たときの通りでした。黄八丈(きはちじょう)の着物をきて藤色の頭巾(ずきん)をかぶって……」
白子屋のお熊が引廻しの馬の上に黄八丈のあわれな姿をさらしてこのかた、若い娘の黄八丈は一時まったくすたれたが、このごろは又だんだんはやり出して、出世前のむすめも芝居で見るお駒を真似るのがちらほらと眼について来た。襟付の黄八丈に緋鹿子(ひかのこ)の帯をしめた可愛らしい下町(したまち)の娘すがたを、半七は頭のなかに描き出した。
「お菊さんは家を出るときには頭巾をかぶっていたのかね」
「ええ、藤色|縮緬(ちりめん)の……」
この返事は半七を少し失望させた。それから何か紛失物でもあったのかと訊くと、お竹は別にそんなことも無いようだと云った。なにしろ、ほんの僅(わず)かの間で、おかみさんが奥の八畳の居間に坐っていると、襖が細目に明いたらしいので、何ごころなく振り向くと、かの黄八丈の綿入れに藤色の頭巾をかぶった娘の姿がちらりと見えた。驚きと喜びとで思わず声をかけると、襖はふたたび音もなしに閉じられた。娘はどこかへ消えてしまったのである。もしや何処かで非業(ひごう)の最期(さいご)を遂げて、その魂が自分の生まれた家へ迷って帰ったのかとも思われるが、彼女は確かに格子をあけてはいって来た。しかも生きている者の証拠として、泥の付いた下駄を格子のなかへ遺(のこ)して行った。
「一昨日(おととい)浅草へ行った時に、娘はどこかで清さんに逢やあしなかったか」と、半七はまた訊いた。
「いいえ」
「隠しちゃあいけねえ。おめえの顔にちゃんと書いてある。娘と番頭は前から打ち合わせがしてあって、奥山の茶屋か何かで逢ったろう。どうだ」
お竹は隠し切れないでとうとう白状した。お菊は若い番頭の清次郎と疾(と)うから情交(わけ)があって、ときどき外で忍び逢っている。おとといの観音詣りも無論そのためで、待ち合わせていた清次郎と一緒にお菊は奥山の或る茶屋へはいった。取り持ち役のお竹はその場をはずして、観音の境内を半時(はんとき)ばかりも遊びあるいていた。それから再び茶屋へ帰ってくると、二人はもう見えなかった。茶屋の女の話によると、男は一と足先に帰って、娘はやがて後から出た。茶代は娘が払って行った。
「それからわたしもそこらを探して歩いたんですけれども、お菊さんはどうしても見えないんです。もしや先へ帰ったのかと思って、わたしも急いで家(うち)へ帰ってくると、家へもやっぱり帰っていないんでしょう。内所(ないしょ)で清さんに訊いて見たんですけれども、あの人も一と足先へ帰ったあとで、なんにも知らないと云うんです。でも、おかみさんにほんとうのことは云えませんから、途中ではぐれたことにしてあるんですが、清さんもわたしも、おとといから内々どんなに心配しているか知れないんです。ゆうべ帰って来て、やれ嬉しやと思うとすぐにまた消えてしまって……。一体どうしたんだか、まるで見当が付きません」
おろおろ声でお竹がささやくのを、半七は黙って聴いていた。
「なに、今に判るだろう。おかみさんにも、番頭さんにも、あまり心配しねえように云って置くがいい。きょうはこれで帰るから」
半七は神田へ帰って親分にこの話をすると、吉五郎は首をかしげて、その番頭が怪しいぜと云った。しかし半七は正直な清次郎を疑う気にはなれなかった。
「いくら正直だって、主人のむすめと不埒を働くような野郎だもの、何をするか判るもんか。あした行ったらその番頭を引っぱたいてみろ」と、吉五郎は云った。
その明くる朝の四ツ(十時)頃に半七が重ねて菊村の店へ見廻りにゆくと、店の前には大勢の人が立っていた。大勢は何かひそひそ囁(ささや)きながら好奇と不安の眼をけわしくして内を覗(のぞ)き込んでいた。近所の犬までが大勢の足の下をくぐって仔細ありげにうろついていた。裏へまわって格子をあけると、狭い沓脱(くつぬぎ)は草履や下駄で埋められていた。お竹は泣き顔をしてすぐ出て来た。
「おい。何かあったのかい」
「おかみさんが殺されて……」
お竹は声を立てて泣き出した。半七もさすがに呆気(あっけ)に取られた。
「誰に殺されたんだ」
返事もしないでお竹はまた泣き出した。賺(すか)して嚇(おど)してその仔細をきくと、女あるじのお寅はゆうべ何者にか殺されたのである。表向きは何者か判らないと云っているが、実は娘のお菊が手をくだしたのである。お竹はたしかにそれを見たと云った。お竹ばかりでなく、女中のお豊もお勝も、おなじくお菊の姿を見たとのことであった。
果たしてそれが偽りでなければ、お菊は云うまでもなく親殺しの罪人である。事件は非常に重大なものとなって半七の前にあらわれた。今まではさのみ珍らしくもない町家の娘と奉公人の色事と多寡(たか)をくくっていた半七は、この重大事件にぶつかって少し面喰らった。
「だが、こういう時に腕を見せなけりゃあいけねえ」と、年の若い彼は努めて勇気をふるい興した。
娘はさきおととい行くえ不明となった。それがおとといの晩、ふらりと帰って来て、すぐに又その姿を隠してしまった。そうしてゆうべまた帰って来たかと思うと、今度は母を殺して逃げた。これには余程こみいった事情がまつわっていなければならないと想像された。
「そうして、娘はどうした」
「どうしたか判らないんです」と、お竹はまた泣いた。
かれが泣きながら訴えるのを聞くと、ゆうべも前夜とおなじ燈(ひ)ともし頃に、お菊はわが家へおなじ形を現わした。今度はどこからはいって来たか判らなかったが、奥でおかみさんが突然に「おや、お菊……」と叫んだ。つづいておかみさんが悲鳴をあげた。お竹とほかの女中二人がおどろいて駈けつけた時に、縁側へするりと抜け出してゆくお菊のうしろ姿が見えた。お菊はやはり黄八丈を着て、藤色の頭巾をかぶっていた。
三人はお菊を取押えるよりも、まずおかみさんの方に眼を向けなければならなかった。お寅は左の乳の下を刺されて虫の息で倒れていた。畳の上には一面に紅い泉が流れていた。三人はきゃっと叫んで立ちすくんでしまった。店の人達もこの声におどろいてみんな駈け付けて来た。
「お菊が……お菊が……」
お寅は微かにこう云ったらしいが、その以上のことは誰の耳にも聴き取れなかった。彼女は大勢が唯うろたえているうちに息を引き取ってしまった。町(ちょう)役人連名で訴えて出ると、すぐに検視の役人が来た。お寅の傷口は鋭い匕首(あいくち)のようなもので深くえぐられていることが発見された。
家内の者はみな調べられた。うっかりしたことを口外して店の暖簾(のれん)に疵を付けてはならないという遠慮から、誰も下手人(げしゅにん)を知らないと答えた。しかし娘のお菊が居合わせないということが役人たちの注意をひいたらしい。お菊と情交(わけ)のあることを発見された清次郎は、その場からすぐに引っ立てられて行った。お竹にはまだ何の沙汰(さた)もないが、いずれ町内預けになるだろうと、彼女は生きている空もないように恐れおののいていた。
「飛んだことになったもんだ」と、半七は思わず溜息をついた。
「わたしはどうなるでしょう」と、お竹はまきぞえの罪がどれほどに重いかをひたすらに恐れているらしかった。そうして「わたし、もういっそ死んでしまいたい」などと狂女のように泣き悲しんでいた。
「馬鹿云っちゃあいけねえ。おめえは大事の証人じゃねえか」と、半七は叱るように云った。
「いずれ御用聞きが一緒に来たろうが、誰が来た」
「なんでも源太郎さんとかいう人だそうです」
「むむ、そうか。瀬戸物町か」
源太郎は瀬戸物町に住んでいる古顔の岡っ引で、好い子分も大勢もっている。一番こいつの鼻をあかして俺の親分に手柄をさしてやりたいと、半七の胸には強い競争の念が火のように燃え上がった。併しどこから手を着けていいのか、彼もすぐには見当が付かなかった。
「ゆうべも娘は頭巾をかぶっていたんだね」
「ええ。やっぱりいつもの藤色でした」
「さっきの話じゃあ、娘はどさくさまぎれに縁側へ抜け出して、それから行くえが知れねえんだね。おい、木戸をあけておいらを庭口へ廻らしてくれねえか」と、半七は云った。
お竹が奥へ取次いだとみえて、大番頭の重蔵が眼をくぼませて出て来た。
「どうも御苦労様でございます。どうぞ直ぐにこちらへ……」
「飛んだこってしたね。お取り込みの中へずかずかはいるのも良くねえから、すぐに庭口へ廻ろうと思ったんですが、それじゃあ御免を蒙ります」
半七は奥へ案内されて、お寅の血のあとがまだ乾かない八畳の居間へ通った。彼がかねて知っている通り、縁側は北に向っていて、前には十坪ばかりの小庭があった。庭には綺麗に手入れが行きとどいていて、雪釣りの松や霜除けの芭蕉が冬らしい庭の色を作っていた。
「縁側の雨戸は開(あ)いていたんですか」と、半七は訊いた。
「雨戸はみんな閉めてあったんですが、その手水鉢(ちょうずばち)の前だけが、いつも一枚細目にあけてありますので……」と、案内して来た重蔵は説明した。「勿論それは宵の内だけで、寝る時分にはぴったり閉めてしまいます」
半七は無言で高い松の梢(こずえ)をみあげた。闖入者はこの松を伝って来たものらしくも思われなかった。忍び返しの竹にも損所はなかった。
「ずいぶん高い塀ですね」
「はい、ゆうべもお役人衆が御覧になって、この高い塀を乗り越して来るのは容易でない。と云って、梯子(はしご)をかけた様子もなし、松を伝って来たらしくも思われない。これは庭口から忍び込んだのではあるまいと仰しゃいました。併しどこからはいったにしましても、出る時はこの庭口から出たに相違ないように思われますが、木戸の錠(じょう)は内から固くおろしたままになっていますので、何処をどうして出て行ったかさっぱり判りません」と、重蔵は陰(くも)った眼をいよいよ陰らせて、無意味にそこらを見廻していた。
「左様さ。忍び返しにも疵をつけず、松の枝にもさわらずに、この高塀を乗り越すというのは生優(なまやさ)しいことじゃあねえ」
どう考えても、これは町家の娘などに出来そうな芸ではなかった。曲者はよほど経験に富んだ奴に相違ないと半七は鑑定した。併しその場へ駈けつけた三人の女は、たしかにお菊のうしろ姿を見たという。それには何かの錯誤(あやまり)がなければならないと彼は又かんがえた。
彼は更に念のために、庭下駄を穿(は)いて狭い庭の隅々を見まわると、庭の東の隅には大きい石燈籠が立っていた。よほど時代が経っていると見えて、笠も台石も蒼黒い苔(こけ)のころもに隙き間なく包まれていた。一種の湿気(しっけ)を帯びた苔の匂いが、この老舗(しにせ)の古い歴史を語るようにも見えた。
「好い石燈籠だ。近頃にこれをいじりましたか」と、半七は何げなく訊いた。
「いいえ、昔から誰も手を着けたことはありません。こんなに見事に苔が付いているから、滅多(めった)にさわっちゃいけないと、お内儀(かみ)さんからもやかましく云われていますので……」
「そうですか」
滅多にさわることを禁じられているという古い石燈籠の笠の上に、人の足あとが微かに残っていることを、半七はふと見つけ出したのであった。あつい青苔の表は小さい爪先の跡だけ軽く踏みにじられていた。 

 

苔に残っている爪先の跡はちいさかった。男ならば少年でなければならない。半七はどうも女の足跡らしいと認めた。この曲者はよほど経験に富んだ奴と想像していた半七の鑑定は外(はず)れたらしい。女とすればやはりお菊であろうか。たとい石燈籠を足がかりにしても、町育ちの若い娘がこの高塀を自由自在に昇り降りすることは、とても出来そうには思われなかった。
半七はなにを考えたか、すぐに菊村の店を出て、現代の浅草公園第六区を更に不秩序に、更に幾倍も混雑させたような両国の広小路に向った。
もうかれこれ午(ひる)頃で、広小路の芝居や寄席も、向う両国の見世物小屋も、これからそろそろ囃(はや)し立てようとする時刻であった。むしろを垂れた小屋のまえには、弱々しい冬の日が塵埃(ほこり)にまみれた絵看板を白っぽく照らして、色のさめた幟(のぼり)が寒い川風にふるえていた。列(なら)び茶屋の門(かど)の柳が骨ばかりに痩せているのも、今年の冬が日ごとに暮れてゆく暗い霜枯れの心持を見せていた。それでも場所柄だけに、どこからか寄せて来る人の波は次第に大きくなって来るらしい。その混雑の中をくぐりぬけて、半七は列び茶屋の一軒にはいった。
「どうだい。相変らず繁昌かね」
「親分、いらっしゃい」と、色の白い娘がすぐに茶を汲(く)んで来た。
「おい、姐さん。早速だが少し聞きてえことがあるんだ。あの小屋に出ている春風|小柳(こりゅう)という女の軽業師(かるわざし)、あいつの亭主は何といったっけね」
「ほほほほほ。あの人はまだ亭主持ちじゃありませんわ」
「亭主でも情夫(いろ)でも兄弟でも構わねえ。あの女に付いている男は誰だっけね」
「金さんのこってすか」と、娘は笑いながら云った。
「そう、そう。金次といったっけ。あいつの家は向う両国だね。小柳も一緒にいるんだろう」
「ほほ、どうですか」
「金次は相変らず遊んでいるだろう」
「なんでも元は大きい呉服屋に奉公していたんだそうですが、小柳さんのところへ反物を持って行ったのが縁になって……。小柳さんよりずっと年の若い、おとなしそうな人ですよ」
「ありがてえ。それだけ判りゃあ好いんだ」
半七はそこを出て、すぐそばの見世物小屋にはいった。この小屋は軽業師の一座で、舞台では春風小柳という女が綱渡りや宙乗りのきわどい曲芸を演じていた。小柳は白い仮面(めん)をかぶったような厚化粧をして、せいぜい若々しく見せているが、ほんとうの年齢(とし)はもう三十に近いかも知れない。墨で描いたらしい濃い眉と、紅を眼縁(まぶた)にぼかしたらしい美しい眼とを絶えず働かせながら、演技中にも多数の見物にむかって頻りに卑しい媚(こび)を売っている。それがたまらなく面白いもののように、見物は口をあいてみとれていた。半七はしばらく舞台を見つめていたが、やがて又ここを出て向う両国へ渡った。
駒止(こまとめ)橋の獣肉店(ももんじいや)に近い路地のなかに、金次の家のあることを探しあてて、半七は格子の外から二、三度声をかけたが、中では返事をする者もなかった。よんどころなしに隣りの家へ行って訊くと、金次は家を明けっ放しにして近所の銭湯(せんとう)へ行ったらしいとのことであった。
「わたしは山の手からわざわざ訪ねて来た者ですが、そんなら帰るまで入口に待っています」
隣りのおかみさんに一応ことわって、半七は格子の中へはいった。上がり框(かまち)に腰をかけて煙草を一服すっているうちに、かれはふと思い付いて、そっと入口の障子を細目にあけた。内は六畳と四畳半の二間で、入口の六畳には長火鉢が据えてあった。次の四畳半には炬燵(こたつ)が切ってあるらしく、掛け蒲団の紅い裾がぞんざいに閉めた襖の間からこぼれ出していた。
半七は上がり框から少し伸びあがって窺うと、四畳半の壁には黄八丈の女物が掛かっているらしかった。彼は草履をぬいでそっと内へ這(は)い込んだ。四畳半の襖の間からよく視ると、壁にかかっている女の着物は確かに黄八丈で、袖のあたりがまだ湿(ぬ)れているらしいのは、おそらく血の痕を洗って此処にほしてあるものと想像された。半七はうなずいて元の入口に返った。
その途端に溝板(どぶいた)を踏むあしおとが近づいて、隣りのおかみさんに挨拶する男の声がきこえた。
「留守に誰か来ている。ああ、そうですか」
金次が帰って来たなと思ううちに、格子ががらりとあいて、半七とおなじ年頃の若い小粋な男がぬれ手拭をさげてはいって来た。金次はこのごろ小|博奕(ばくち)などを打ち覚えて、ぶらぶら遊んでいる男で、半七とはまんざら識らない顔でもなかった。
「やあ、神田の大哥(あにい)ですか。お珍らしゅうございますね。まあお上がんなさい」
相手がただの人と違うので、金次は愛想よく半七を招じ入れて長火鉢の前に坐らせた。そうして、時候の挨拶などをしている間にも、なんとなく落ち着かない彼の素振りが半七の眼にはありありと読まれた。
「おい、金次。俺あ初めにおめえにあやまって置くことがあるんだ」
「なんですね、大哥。改まってそんなことを……」
「いや、そうでねえ。いくら俺が御用を勤める身の上でも、ひとの家へ留守に上がり込んで、奥を覗いたのは悪かった。どうかまあ、堪忍してくんねえ」
火鉢に炭をついでいた金次はたちまち顔色を変えて、唖(おし)のように黙ってしまった。彼の手に持っている火箸は、かちかちと鳴るほどにふるえた。
「あの黄八丈は小柳のかい。いくら芸人でもひどく派手な柄を着るじゃあねえか。尤(もっと)もおめえのような若い亭主をもっていちゃあ、女はよっぽど若作りにしにゃあなるめえが……。ははははは。おい、金次、なぜ黙っているんだ。愛嬌のねえ野郎だな。受け賃に何かおごって、小柳の惚気(のろけ)でも聞かせねえか。おい、おい、なんとか返事をしろ。おめえも年上の女に可愛がられて、なにから何まで世話になっている以上は、たとい自分の気に済まねえことでも、女がこうと云やあ、よんどころなしに片棒かつぐというような苦しい破目(はめ)がねえとも限らねえ。そりゃあ俺も万々察しているから、出来るだけのお慈悲は願ってやる。どうだ、何もかも正直に云ってしまえ」
くちびるまで真っ蒼になってふるえていた金次は、圧(お)し潰(つぶ)されたように畳に手を突いた。
「大哥(あにい)、なにもかも申し上げます」
「神妙によく云った。あの黄八丈は菊村の娘のだろうな。てめえ一体あの娘をどこから連れて来た」
「わたしが連れて来たんじゃないんです」と、金次は哀れみを乞うような悲しい眼をして、相手の顔をそっと見上げた。「実はさきおとといの午(ひる)まえに、小柳と二人で浅草へ遊びに行ったんです。酔うとあいつの癖で、きょうはもう商売を休むというのを、無理になだめて帰ろうとしても、あいつがなかなか承知しないんです。もっともあんな派手な稼業はしていても、銭遣いがあらいのと、私がこのごろ景気が悪いんで、方々に無理な借金はできる。この歳の暮は大御難(おおごなん)で、あいつも少し自棄(やけ)になっているようですから、仕方なしにお守(もり)をしながら午過ぎまで奥山あたりをうろついていると、或る茶屋から若い番頭が出てくる。つづいて小綺麗な娘が出て来ました。それを小柳が見て、あれは日本橋の菊村の娘だ。おとなしいような顔をしていながら、こんなところで番頭と出会いをしていやあがる。あいつを一番食い物にしてやろうと……」
「小柳はどうして菊村の娘ということを知っていたんだ」と、半七は喙(くち)をいれた。
「そりゃあ時々に紅や白粉を買いに行くからです。菊村は古い店ですからね。そこで私はすぐに駕籠を呼びに行きました。そのあいだ何と云って誘って来たのか知りませんが、とうとう其の娘を馬道(うまみち)の方へ引っ張り出して来たんです。駕籠は二挺で、小柳と娘が駕籠に乗って先へ行って、わたしは後からあるいて帰りました。帰ってみると、娘は泣いている。近所へきこえると面倒だから、猿轡(さるぐつわ)を嵌(は)めて戸棚のなかへ押し込んでおけと小柳が云うんです。あんまり可哀そうだとは思いましたが、ええ意気地のねえ、何をぐずぐずしているんだねと、あいつが無暗(むやみ)に剣突(けんつく)を食わせるもんですから、わたしも手伝って奥の戸棚へ押し込んでしまいました」
「小柳という奴は、よくねえ女だということは、おれも前から聞いていたが、まるで一つ家のばばあだな。それからどうした」
「その晩すぐ近所の山女衒(やまぜげん)を呼んで来て、潮来(いたこ)へ年一杯四十両ということに話がきまりました。安いもんだが仕方がないというんで、あくる朝、駕籠に乗せて女衒と一緒に出してやりましたが、その女衒の帰らないうちは一文もこっちの手にはいらない。なにしろもう十二月の声を聞いてからは、毎日のようにいろいろの鬼が押し寄せてくる。苦しまぎれに小柳は又こんなことを考え出したのです。娘を潮来へやるときに、売物には花とかいうんで、着ていた黄八丈を引っぱがして、小柳のよそ行きと着換えさせてやったもんですから、娘の着物はそっくりこっちに残っている」
「むむ。その黄八丈の着物と藤色の頭巾で、小柳が娘に化けて菊村へ忍び込んだな。やっぱり金を取るつもりか」
「そうです」と、金次はうなずいた。「金は手箱に入れておふくろの居間にしまってあるということは、娘をおどして聞いて置いたんです」
「それじゃあ始めからその積りだったんだろう」
「どうだか判りませんが、小柳は苦しまぎれによんどころなく斯(こ)んなことをするんだと云っていました。だが、おとといの晩は巧く行かないで、すごすご帰って来ました。今夜こそはきっと巧くやって来ると云って、ゆうべも夕方から出て行きましたが……。やっぱり手ぶらで帰って来て、『今夜もまたやり損じた。おまけに嬶(かかあ)が大きな声を出しゃあがったから、自棄(やけ)になって土手っ腹をえぐって来た』と、こう云うんです。大哥の前ですが、わたしはふるえて、しばらくは口が利けませんでしたよ。袖に血が付いているのを見ると嘘じゃあない。飛んでもないことをしてくれたと思っていますと、それでも当人は澄ましたもので『なあに、大丈夫さ。この頭巾と着物が証拠で、世間じゃあ娘が殺したと思っているに相違ない』と云っているんです。そうして、着物の血を洗って、あすこへほして、きょうも相変らず小屋へ出て行きました」
「いい度胸だな。おめえの情婦(いろ)にゃあ過ぎ物だ」と、半七は苦笑いをした。「だが、正直に何もかもよく云ってくれた。おめえも飛んだ女に可愛がられたのが運の尽きだ。小柳はどうで獄門だが、おめえの方は云い取り次第で、首だけは繋がるに相違ねえ。まあ、安心していろ」
「どうぞ御慈悲を願います。わたしは全く意気地のない人間なんで、ゆうべもおちおち寝られませんでした。大哥の顔を一と目見た時に、こりゃあもういけねえと往生してしまいました。あの女には義理が悪いようですけれども、私のような者はこうして何もかもすっかり白状してしまった方が、胸が軽くなって却って好うございますよ」
「じゃあ気の毒だが、すぐに神田の親分の所まで一緒に来てくれ。どの道、当分は娑婆(しゃば)は見られめえから、まあ、ゆっくり支度をして行くがいいや」
「ありがとうございます」
「真っ昼間だ。近所の手前もあるだろう。縄は勘弁してやるぜ」と、半七は優しく云った。
「ありがとうございます」
金次は重ねて礼を云った。かれの眼は意気地なくうるんでいた。
おたがいに若い身体だ。こう思うと半七は、自分のとりことなって牽(ひ)かれて行くこの弱々しい若い男がいじらしくてならなかった。 

 

半七の報告を聴いて、親分の吉五郎は金杉の浜で鯨をつかまえたほどに驚いた。
「犬もあるけば棒にあたると云うが、手前もうろうろしているうちに、ど偉いことをしやがったな。まだ駈け出しだと思っていたら油断のならねえ奴だ。いい、いい、なにしろ大出来だ、てめえの骨を盗むような俺じゃあねえ。てめえの働きはみんな旦那方に申し立ててやるからそう思え。それにしても、その小柳という奴を早く引き挙げてしまわなけりゃならねえ。女でも生けっぷてえ奴だ。なにをするか知れねえから、誰か行って半七を助(す)けてやれ」
物馴れた手先ふたりが半七を先に立てて再び両国へむかったのは、短い冬の日ももう暮れかかって、見世物小屋がちょうど閉(は)ねる頃であった。二人は外に待っていて、半七だけが小屋へはいると、小柳は楽屋で着物を着替えていた。
「わたしは神田の吉五郎のところから来たが、親分がなにか用があると云うから、御苦労だがちょっと来てくんねえ」と、半七は何げなしに云った。
小柳の顔には暗い影が翳(さ)した。しかし案外おちついた態度で寂しく笑った。
「親分が……。なんだか忌(いや)ですわねえ。なんの御用でしょう」
「あんまりおめえの評判が好いもんだから、親分も乙な気になったのかも知れねえ」
「あら、冗談は措(お)いて、ほんとうに何でしょう。お前さん、大抵知っているんでしょう」
衣装|葛籠(つづら)にしなやかな身体をもたせながら、小柳は蛇のような眼をして半七の顔を窺っていた。
「いや、おいらはほんの使い奴(やっこ)だ。なんにも知らねえ。なにしろ大して手間を取らせることじゃあるめえから、世話を焼かせねえで素直に来てくんねえ」
「そりゃあ参りますとも……。御用とおっしゃりゃあ逃げ隠れは出来ませんからね」と、小柳は煙草入れを取り出してしずかに一服すった。
隣りのおででこ芝居では打出しの太鼓がきこえた。ほかの芸人たちも一種の不安に襲われたらしく、息を殺して遠くから二人の問答に耳を澄ましていた。狭い楽屋の隅々は暗くなった。
「日が短けえ。親分も気が短けえ。ぐずぐずしていると俺まで叱られるぜ。早くしてくんねえ」
と、半七は焦(じ)れったそうに催促した。
「はい、はい。すぐにお供します」
ようやく楽屋を出て来た小柳は、そこの暗いかげにも二人の手先が立っているのを見て、くやしそうに半七の方をじろりと睨(にら)んだ。
「おお、寒い。日が暮れると急に寒くなりますね」と、彼女は両袖を掻(か)きあわせた。
「だから、早く行きねえよ」
「なんの御用か存じませんが、もし直きに帰して頂けないと困りますから、家(うち)へちょいと寄らして下さるわけには参りますまいか」
「家へ帰ったって、金次はいねえぞ」と、半七は冷やかに云った。
小柳は眼を瞑(と)じて立ち止まった。やがて再び眼をあくと、長い睫毛(まつげ)には白い露が光っているらしかった。
「金さんは居りませんか。それでもあたしは女のことですから、少々支度をして参りとうございますから」
三人に囲まれて、小柳は両国橋を渡った。彼女はときどきに肩をふるわせて、遣(や)る瀬(せ)ないように啜(すす)り泣きをしていた。
「金次がそんなに恋しいか」
「あい」
「おめえのような女にも似合わねえな」
「察してください」
長い橋の中ほどまで来た頃には、河岸(かし)の家々には黄いろい灯のかげが疎(まば)らにきらめきはじめた。大川の水の上には鼠色の煙りが浮かび出して、遠い川下が水明かりで薄白いのも寒そうに見えた。橋番の小屋でも行燈に微かな蝋燭の灯を入れた。今夜の霜を予想するように、御船蔵(おふなぐら)の上を雁の群れが啼いて通った。
「もしあたしに悪いことでもあるとしたら、金さんはどうなるでしょうね」
「そりゃあ当人の云い取り次第さ」
小柳は黙って眼を拭いていた。と思うと、彼女はだしぬけに叫んだ。
「金さん、堪忍しておくれよ」
そばにいる半七を力まかせに突き退けて、小柳は燕(つばめ)のように身をひるがえして駈け出した。さすがは軽業師だけにその捷業(はやわざ)は眼にも止まらない程であった。彼女は欄干に手をかけたかと見る間もなく、身体はもうまっさかさまに大川の水底に呑まれていた。
「畜生!」と、半七は歯を噛んだ。
水の音を聞いて橋番も出て来た。御用という名で、すぐに近所の船頭から舟を出させたが、小柳は再び浮き上がらなかった。あくる日になって向う河岸の百本杭に、女の髪がその昔の浅草|海苔(のり)のように黒くからみついているのを発見した。引き揚げて見ると、その髪の持ち主は小柳であったので、凍った死体は河岸の朝霜に晒(さら)されて検視を受けた。女の軽業師はとうとう命の綱を踏み外してしまった。それが江戸中の評判となって、半七の名もまた高くなった。
菊村ではすぐ人をやって、まだ目見得(めみえ)中のお菊を無事に潮来から取り戻した。
「今考えると、あの時はまるで夢のようでございました。清次郎は一と足先に帰ってしまって、わたくしはなんだか寂しくなったものですから、お竹の帰ってくるのを待ち兼ねて、なんの気なしに表へ出ますと、大きい樹の下に前から顔を識っている軽業師の小柳が立っていて、清さんが今そこで急病で倒れたからすぐに来てくれと云うのでございます。わたくしはびっくりして一緒に行きますと、清さんは駕籠でお医者の家へかつぎ込まれたから、お前さんも後から駕籠で行ってくれと無理やりに駕籠に乗せられて、やがて何処だか判らない薄暗い家へ連れ込まれてしまったのでございます。そうすると、小柳の様子が急に変って、もう一人の若い男と一緒に、わたくしを散々ひどい目に逢わせまして、それから又遠いところへ送りました。わたくしはもう半分は死んだ者のように茫(ぼう)となってしまいまして、なにをどうしようという知恵も分別(ふんべつ)も出ませんでした」と、お菊は江戸へ帰ってから係り役人の取り調べに答えた。
番頭の清次郎は単に「叱り置く」というだけで赦(ゆる)された。
小柳は自滅して仕置を免かれたが、その死に首はやはり小塚ッ原に梟(か)けられた。金次は同罪ともなるべきものを格別の御慈悲を以て遠島申し付けられて、この一件は落着(らくちゃく)した。
「これがまあ私の売出す始めでした」と、半七老人は云った。「それから三、四年経つうちに、親分の吉五郎は霍乱(かくらん)で死にました。その死にぎわに娘のお仙と跡式一切をわたくしに譲って、どうか跡(あと)を立ててくれろという遺言があったもんですから、子分たちもとうとうわたくしを担(かつ)ぎ上げて二代目の親分ということにしてしまいました。わたくしが一人前の岡っ引になったのはこの時からです。
その時にどうして小柳に目串(めぐし)を差したかと云うんですか。そりゃあ先刻(さっき)もお話し申した通り、石燈籠の足跡からです。苔に残っている爪先がどうしても女の足らしい。と云って、大抵の女があの高塀を無雑作(むぞうさ)に昇り降りすることが出来るもんじゃあない。よほど身体の軽い奴でなけりゃあならないと思っているうちに、ふいと軽業師ということを思い付いたんです。女の軽業師は江戸にもたくさんありません。そのなかでも両国の小屋に出ている春風小柳という奴はふだんから評判のよくない女で、自分よりも年の若い男に入れ揚げているということを聞いていましたから、多分こいつだろうとだんだん手繰って行くと、案外に早く埒が明いてしまったんです。金次という奴は伊豆の島へやられたんですが、その後なんでも赦(しゃ)に逢って無事に帰って来たという噂を聞きました。
菊村の店では番頭の清次郎を娘の聟にして、相変らず商売をしていましたが、いくら老舗(しにせ)でも一旦ケチが付くとどうもいけないものと見えて、それから後は商売も思わしくないようで、江戸の末に芝の方へ引っ越してしまいましたが、今はどうなったか知りません。
どっちにしても助からない人間じゃあありますけれども、小柳を大川へ飛び込ましたのは残念でしたよ。つまりこっちの油断ですね。つかまえるまでは気が張っていますけれども、もう捕まえてしまうと誰でも気がゆるむものですから、油断して縄抜けなんぞを食うことが時々あります。
まだ面白い話はないかと云うんですか。自分の手柄話ならば幾らもありますよ。はははは。その内にまた遊びにいらっしゃい」
「ぜひ又話して貰いに来ますよ」
わたしは半七老人と約束して別れた。 
 
半七捕物帳 化け銀杏

 

一 
その頃、わたしはかなり忙がしい仕事を持っていたので、どうかすると三月(みつき)も四月も半七老人のところへ御無沙汰することがあった。そうして、ときどき思い出したように、ふらりと訪ねてゆくと老人はいつも同じ笑い顔でわたしを迎えてくれた。
「どうしました。しばらく見えませんね。お仕事の方が忙がしかったんですか。それは結構。若い人が年寄りばかり相手にしているようじゃあいけませんよ。だが、年寄りの身になると、若い人がなんとなく懐かしい。わたくしのところへ出這入りする人で、若い方(かた)はあなただけですからね。伜はもう四十で、ときどき孫をつれて来ますが、孫じゃあ又あんまり若過ぎるので。はははははは」
実際、半七老人のところへ出入りするのは、みな彼と同じ年配の老人であるらしかった。その故(ふる)い友達もだんだんほろびてゆくと、老人がある時さすがにさびしそうに話したこともあった。ところが、ある年の十二月十九日の宵に、わたしは詰まらない菓子折を持って、無沙汰の詫びと歳暮の礼とをかねて赤坂の家をたずねると、老人は二人連れの客を門口(かどぐち)へ送り出すところであった。客は身なりのなかなか立派な老人と若い男とで、たがいに丁寧に挨拶して別れた。
「さあ、お上がんなさい」
わたしが入れ代って座敷へ通されると、いつも元気のいい老人が今夜はいっそう元気づいているらしく、わたしの顔を見るとすぐ笑いながら云い出した。
「今そこでお逢いなすった二人連れ、あれは久しい馴染(なじみ)なんですよ。年寄りの方は水原忠三郎という人で、わかい方は息子ですが、なにしろ横浜と東京とかけ離れているもんですから、始終逢うというわけにも行かないんです。それでも向うじゃあ忘れずに、一年に三度や四たびはきっとたずねてくれます。きょうもお歳暮ながら訪ねて来て、昼間からあかりのつくまで話して行きました」
「はあ、横浜の人達ですか。道理で、なかなかしゃれた装(なり)をしていると思いましたよ」
「そうです、そうです」と、老人は誇るようにうなずいた。「今じゃあ盛大にやっているようですからね。水原のお父さんの方はわたくしより七つか八つも年下でしょうが、いつも達者で結構です。あの人もむかしは江戸にいたんですが……。いや、それについてこんな話があるんです」
こっちから誘い出すまでもなく、老人の方から口を切って、水原という横浜の商人と自分との関係を説きはじめた。
文久元年十二月二十四日の出来事である。日本橋、通旅籠町(とおりはたごちょう)の家持ちで、茶と茶道具|一切(いっさい)を商(あきな)っている河内屋十兵衛の店へ、本郷森川|宿(じゅく)の旗本稲川|伯耆(ほうき)の屋敷から使が来た。稲川は千五百石の大身(たいしん)で、その用人の石田源右衛門が自身に出向いて来たのであるから、河内屋でも疎略には扱わず、すぐ奥の座敷へ通させて、主人の重兵衛が挨拶に出ると、源右衛門は声を低めて話した。
「余の儀でござらぬが、御当家を見込んで少々御相談いたしたいことがござる」
稲川の屋敷には狩野探幽斎(かのうたんゆうさい)が描いた大幅の一軸がある。それは鬼の図で、屋敷では殆ど一種の宝物として秘蔵していたのであるが、この度(たび)よんどころない事情があって、それを金五百両に売り払いたいというのであった。河内屋は諸大家へも出入りを許されている豪商で、ことに主人の重兵衛は書画に格段の趣味をもっているので、その相談を聞いて心が動いた。しかし自分の一存では返答もできないので、いずれ番頭と相談の上で御挨拶をいたすということに取り決めて、源右衛門をひと先ず帰した。
「しかし当方ではちっと急ぎの筋であれば、なるべく今夜中に返事を聞かせて貰いたいが、どうであろうな」と、源右衛門は立ちぎわに云った。
「かしこまりました。おそくも夕刻までに御挨拶をいたします」
「たのんだぞ」
主人と約束して、源右衛門は帰った。重兵衛はすぐに番頭どもを呼びあつめて相談すると、かれらもやはり商人であるから、探幽斎の一軸に大枚五百両を投げ出すというについては、よほど反対の意見があらわれた。しかし主人は何分にも其の品に惚れているので、結局その半金二百五十両ならば買い取ってもよかろうということに相談がまとまった。先方でも急いでいるのであるから、すぐに使をやらねばなるまいというので、若い番頭の忠三郎が稲川の屋敷へ出向くことになった。忠三郎が出てゆく時に、重兵衛はよび戻してささやいた。
「大切なお品を半金に値切り倒すといっては、先様(さきさま)の思召(おぼしめ)しがどうあろうも知れない。万一それで御相談が折り合わないようであったならば、三百五十両までに買いあげていい。ほかの番頭どもには内証で、別に百両をおまえにあずけるから、臨機応変でいいように頼むよ」
内証で渡された百両と、表向きの二百五十両とを胴巻に入れて、忠三郎は森川宿へ急いで行った。用人に逢って先ず半金のかけあいに及ぶと、源右衛門は眉をよせた。
「いかに商人(あきんど)でも半金の掛合いはむごいな。しかし殿様がなんと仰しゃろうも知れない。思召しをうかがって来るからしばらく待て」
半|時(とき)ほども待たされて、源右衛門はようよう出て来た。先刻から殿様といろいろ御相談を致したのであるが、なにぶんにも半金で折り合うわけには行かない。しかし当方にも差し迫った事情があるから、ともかくも半金で負けておく。勿論、それは半金で売り渡すのではない。つまり二百五十両の質(かた)にそちらへあずけて置くのである。それは向う五年間の約束で、五年目には二十五両一歩の利子を添えて当方で受け出すことにする。万一その時に受け出すことが出来なければ、そのまま抵当流れにしても差しつかえない。どうか其の条件で承知してくれまいかというのであった。
忠三郎もかんがえた。自分の店は質屋渡世でない。かの一軸を質に取って二百五十両の金を貸すというのは少し迷惑であると彼は思った。しかし主人があれほど懇望(こんもう)しているのを、空手(からて)で帰るのも心苦しいので、彼はいろいろ思案の末に先方の頼みをきくことに決めた。
「いや、いろいろ無理を申し掛けて気の毒であった。殿様もこれで御満足、拙者もこれで重荷をおろした」と、源右衛門もひどく喜んだ。
二百五十両の金を渡してすぐ帰ろうとする忠三郎をひきとめて、屋敷からは夜食の馳走が出た。源右衛門が主人になって酒をすすめるので、少しは飲める忠三郎はうかうかと杯をかさねて、ゆう六ツの鐘におどろかされて初めて起った。
「大切の品だ。気をつけて持ってゆけ」
源右衛門に注意されて、忠三郎はその一軸を一応あらためた上で、唐桟(とうざん)の大風呂敷につつんだ。軸は古渡(こわた)りの唐更紗(とうさらさ)につつんで桐の箱に納めてあるのを、更にその上から風呂敷に包んだのである。彼はそれを背負って屋敷から貸してくれた弓張提灯をとぼして、稲川の屋敷の門を出た。ゆう六ツといってもこの頃は日の短い十一月の末であるから、表はすっかり暗くなっていた。しかも昼間から吹きつづけてた秩父|颪(おろし)がいつの間にか雪を吹き出して、夕闇のなかに白い影がちらちらと舞っていた。
傘を持たない忠三郎は、大切な品を濡らしてはならないと思って、背中から風呂敷包みをおろして更に左の小脇にかかえ込んだ。森川宿ではどうにもならないが、本郷の町まで出れば駕籠屋がある。忠三郎はそれを的(あて)にして雪のなかを急いだ。幸いに雪は大したことでもなかったが、やがて小雨(こさめ)が降り出して来た。雪か霙(みぞれ)か雨か、冷たいものに顔を撲たれながら、彼は暗い屋敷町をたどってゆくうちに、濡れた路に雪踏(せった)を踏みすべらして仰向(あおむ)きに尻餅を搗いた。そのはずみに提灯の火は消えた。
別に怪我もしなかったが、提灯を消したのには彼は困った。町まで出なければ火を借りるところは無い。そこらに屋敷の辻番所はないかと見まわしながら、殆ど手探り同様でとぼとぼ辿(たど)ってゆくと、雨は意地悪くだんだんに強くなって来た。寒さに凍(こご)える手にかの風呂敷包みをしっかり抱えながら、忠三郎は路のまん中らしいところを歩いてくると、片側に薄く明るい灯のかげが洩れた。頭のうえで寝鳥の羽搏(はばた)きがきこえた。忠三郎はうすい灯のかげに梢を見あげてぎょっとした。それは森川宿で名高い松円寺の化け銀杏であった。銀杏は寺の土塀から殆ど往来いっぱいに高く突き出して、昼でもその下には暗い蔭を作っているのであった。
この時代にはいろいろの怪しい伝説が信じられていた。この銀杏の精もときどきに小児(こども)に化けて、往来の人の提灯の火を取るという噂があった。又ある人がこの樹の下を通ろうとすると、御殿風の大女房が樹梢(こずえ)に腰をかけて扇を使っていたとも伝えられた。ある者は暗闇で足をすくわれた。ある者は襟首を引っ掴んでほうり出された。こういう奇怪な伝説をたくさん持っている化け銀杏の下に立ったときに、忠三郎は急に薄気味悪くなった。昼間は別になんとも思わなかったのであるが、寒い雨の宵にここへ来かかって、かれの足は俄かにすくんだ。しかし今更引っ返すわけにも行かないので、彼はこわごわにその樹の下を通り過ぎようとする途端である。氷のような風が梢からどっと吹きおろして来たかと思うと、かれのすくめた襟首を引っ掴んで、塀ぎわの小さい溝(どぶ)のふちへ手ひどく投げ付けた者があった。忠三郎はそれぎりで気を失ってしまった。
風は再びどっと吹きすぎると、化け銀杏は大きい身体(からだ)をゆすって笑うようにざわざわと鳴った。 

 

「もし、おまえさん。どうしなすった。もし、もし……」
呼び活(い)けられて忠三郎は初めて眼をあくと、提灯をさげた男が彼のそばに立っていた。男は下谷(したや)の峰蔵という大工で、化け銀杏の下に倒れている忠三郎を発見したのであった。
「ありがとうございます」
云いながら懐中(ふところ)へ手をやると、主人から別に渡された百両の金は胴巻ぐるみ紛失していた。驚いて見廻すと、抱えていた一軸も風呂敷と共に消えていた。自分の羽織も剥(は)がれていた。忠三郎は声をあげて泣き出した。
峰蔵は親切な男で、駒込(こまごめ)まで行かなければならない自分の用を打っちゃって置いて、泥だらけの忠三郎を介抱して、ともかくも本郷の通りまで連れて行って、自分の知っている駕籠屋にたのんで彼を河内屋まで送らせてやった。河内屋でも忠三郎の遅いのを心配して、迎いの者でも出そうかといっているところへ、半分は魂のぬけたような忠三郎が駕籠に送られて帰って来たので、その騒ぎは大きくなった。勿論捨てて置くべきことではないので、稲川の屋敷へも一応ことわった上で、その顛末(てんまつ)を町奉行所へ訴え出た。
なにぶんにも暗やみであるのと、投げられるとすぐ気を失ってしまったのとで、忠三郎はなんにも心当りがなかった。しかしそれが化け銀杏の悪戯(いたずら)でないことは判り切っていた。彼を引っ掴んだのは化け銀杏であるとしても、かれの所持品や羽織までも奪いとって立ち去った者はほかにあるに相違ない。本郷の山城屋金平という岡っ引がその探索を云い付けられたが、金平はあいにく病気で寝ているので、その役割が隣りの縄張りへまわって、神田の半七が引き受けることになった。
「稲川の屋敷の奴が怪しい」
半七は先ずこう睨(にら)んだ。忠三郎を酔わして帰して、あとから尾(つ)けて来てその一軸を取り返してゆく。悪い旗本にはそんな手段をめぐらす奴がいないともいえない。そこで手を廻してだんだん探ってみると、稲川の主人は行状のいい人で、今度大切の一軸を手放すというのも、自分の知行所がこの秋ひどい不作であったので、その村方の者どもを救ってやるためであるということが判った。それほどの人物が追剥ぎ同様の不埒を働く筈がない。半七は更にほかの方面に手をつけなければならなくなった。
「おい、仙吉。おめえに少し用がある」と、彼は子分の一人を呼んだ。「今夜からふた晩三晩、あの化け銀杏の下へ行って張り込んでいてくれ。それも黙っていちゃあいけねえ。なにか鼻唄でも歌って、木の下をぶらりぶらり行ったり来たりしているんだ。寒かろうが、まあ我慢してやってくれ。おれも一緒にいく」
日が暮れるのを待って半七と仙吉は松円寺の塀の外へ行った。半七は遠く離れて、仙吉ひとりが鼻唄を歌いながら木の下をうろ付いていたが、四ツ(午後十時)を過ぎる頃まで何も変ったことはなかった。
「百両の仕事をして、ふところがあったけえので、当分出て来ねえかな」
それでも二人は毎晩|根(こん)よく網を張っていると、十一月の晦日(みそか)の宵である。まだ五ツ(午後八時)を過ぎたばかりの頃に、低い土塀を乗り越して一つの黒い影のあらわれたのを、半七は星明かりで確かに見つけた。仙吉は相変らず鼻唄を歌って通った。黒い影は塀のきわに身をよせてじっと窺っているらしかったが、忽ちひらりと飛びかかって仙吉の襟髪をつかんだ。覚悟はしていながらも余り器用に投げられたので、仙吉は意気地なくそこへへたばってしまった。それでも物に馴れているので、かれは倒れながら相手の足を取った。
それを見て半七もすぐに駈け寄ったが、もう遅かった。黒い影は仙吉を蹴放して、もとの塀のなかへ飛鳥のように飛び込んでしまった。
「畜生。ひどい目に逢わせやがった」と、仙吉は泥をはらいながら起きた。「だが、親分。もう判りました。あんないたずらをする奴は寺の坊主に相違ありませんよ。わっしのそばへ寄って来たときに、急に線香の匂いがしました」
「おれもそうらしいと思った。今夜は先ずこれでいい」
相手が出家である以上、町方(まちかた)でむやみに手をつけるわけにも行かないので、半七はそれを町奉行所へ報告すると、町奉行所から更にそれを寺社奉行に通達した。寺社奉行の方で取り調べると、松円寺には当時住職がないので、留守居の僧が寺をあずかっていたのである。それは円養という四十ばかりの僧で、ほかに周道という十五六の小坊主と、権七という五十ばかりの寺男がいる。そのなかで最も眼をつけられたのは周道であった。かれは年の割に腕っ節が強く、自分でも武蔵坊弁慶の再来であるなどと威張っている。きっとこいつが化け銀杏の振りをして、往来の人を嚇(おど)したのであろうと見きわめを付けられた。
寺社奉行の吟味をうけて、周道は正直に白状した。この寺の銀杏が化けるという伝説のあるを幸いに、彼はときどきに忍び出て、自分の腕だめしに往来の人を取って投げたのである。現に二十四日の雨の宵にも通りがかりの男を投げ倒したことがあると申し立てた。その男は河内屋の忠三郎に相違ない。しかし周道は単にその男を投げ出しただけで、所持品などにはいっさい手をつけた覚えはないと云い張った。何さま逞ましげな悪戯(いたずら)小僧ではあるが、まだ十五六の小坊主が百両の金を奪い、あわせて羽織まで剥ぎ取ろうとは思えないので、彼は吟味の済むまで入牢(じゅろう)を申し付けられた。
周道の白状によって考えると、彼がいたずらに忠三郎を投げ出したあとへ、何者か来合わせて其の所持品を奪い取ったのであろうというので、その探索方を再び半七に云い付けられた。しかしこの探索はよほど困難であった。寺の奴等の仕業ならば格別、単に周道が忠三郎を投げ倒して気絶させたあとへ、あたかも通りかかった者がふとした出来心で奪いとって行ったとすると、差し当りなんにも手掛りがない。半七もこれには少し行き悩んでいると、ここに又一つ事件が起った。
それはこの化け銀杏の下へ女の幽霊が出るというのであった。現に本郷二丁目の鉄物屋(かなものや)の伜が友達と二人づれで松円寺の塀外を通ると、そこに若い女がまぼろしのように立ち迷っていた。さなきだにこの頃はいろいろの噂が立っている折柄であるから、二人は胆(きも)を冷やして怱々(そうそう)に駈けぬけてしまったが、鉄物屋の伜はその晩から風邪(かぜ)を引いたような心持で床に就いているというのである。これも何かの手がかりになるかも知れないと思って、半七はその鉄物屋をたずねて病中の伜に逢った。せがれは清太郎といって今年十九の若者であった。
「おまえさんが見たという幽霊はどんなものでしたえ」
「わたくしも怖いのが先に立って、たしかに見定めませんでしたが、提灯の火にぼんやり映ったところは、なんでも若い女のようでした」
「女はこっちを見て笑いでもしたのかえ」
「いいえ、別にそんなこともありませんでしたが、なにしろ怖いので忽々に逃げて来ました。もう四ツ(午後十時)に近い頃に、女がたった一人で、場所もあろうに、あの化け銀杏の下に平気で立っている筈がありません。あれはどうして唯者じゃあるまいと思われます」
「そうですねえ」と、半七も考えていた。「そこで、その女は髪の毛でも散らしていましたかえ」
「髷(まげ)はなんだか見とどけませんでしたが、髪は綺麗に結っていたようです」
もしや狂女ではないかと想像しながら、半七はいろいろ訊いてみたが、清太郎はふた目とも見ないで逃げ出してしまったので、なにぶんにも詳しい返答ができないと云った。彼は飽くまでもこれを化け銀杏の変化(へんげ)と信じているらしいので、半七も結局要領を得ないで帰った。
「化け銀杏め、いろいろに祟る奴だ」
彼は肚(はら)のなかでつぶやいた。 

 

鉄物屋の清太郎が見たという若い女は、気ちがいでなければ何者であろう。おそらく寺の留守坊主に逢いに来る女ではあるまいかと半七は鑑定した。かれは子分どもに云いつけて、その坊主の行状を探らせたが、円養は大酒呑みでこそあれ、女犯(にょぼん)の関係はないらしいとのことであった。女の幽霊の正体は容易に判らなかった。
十二月十六日の朝である。半七が朝湯から帰ってくると、河内屋の番頭の忠三郎が待っていた。
「やあ、番頭さん。お早うございます」と、半七は挨拶した。「例の一件はなにぶん捗(はか)がいかねえので申し訳がありません。まあ、もう少し待ってください。年内には何とか埒(らち)をあけますから」
「実はそのことで出ましたのでございます」と、忠三郎は声をひそめた。「昨晩わたくしの主人が或るところで彼(か)の一軸(いちじく)をみましたそうで……」
「へえ、そうですか。それは不思議だ。して、それが何処にありましたえ」
忠三郎の報告によると、ゆうべ芝の源助|町(ちょう)の三島屋という質屋で茶会があった。河内屋の主人重兵衛も客によばれて行った。その席上で、三島屋の主人がこの頃こういうものを手に入れたと云って、自慢たらだらで出してみせたのが彼(か)の探幽斎の鬼の一軸であった。稲川家の品は忠三郎が途中で奪われてしまって、重兵衛はまだその実物をみないのであるが、用人の話と忠三郎の話とを綜合してかんがえると、その図柄といい、表装といい、箱書(はこがき)といい、どうもそれが稲川家の宝物であるらしく思われてならなかった。しかもそれが贋物(にせもの)でない、たしかに狩野探幽斎の筆であると重兵衛は鑑定した。よそながら其の品の出所(しゅっしょ)をたずねると、牛込|赤城下(あかぎした)のある大身(たいしん)の屋敷から内密の払いものであるが、重代の品を手放したなどということが世間にきこえては迷惑であるから、かならず出所を洩らしてくれるなと頼まれているので、その屋敷の名を明らさまに云うことは出来ないとのことであった。
その以上に詮議のしようもないので、重兵衛はそのまま帰って来たが、なにぶんにも腑に落ちないので、とりあえず半七の処へ報(し)らせてよこしたのであった。主人の話によって考えると、どうしてもそれは稲川家の品である。図柄も表装も箱書も寸分違わないと忠三郎も云った。
「いよいよ不思議ですね」と、半七も眉をよせた。「その三島屋というのはどんな家(うち)ですえ」
三島屋は古い暖簾(のれん)で、内証も裕福であるように聞いていると、忠三郎は説明した。主人又左衛門は茶の心得があるので、河内屋とも多年懇意にしているが、これまで別に悪い噂を聞いたこともない。まさか三島屋一家の者がそんな悪事を働く筈もないから、おそらく不正の品とは知らずに何処からか買い入れたものであろうと彼は云った。
「そうかも知れませんね」と、半七はしばらく考えていた。「どっちにしても、それが確かに稲川の屋敷の品だかどうだか、それをよく詮議して置かなければなりませんよ。さもないと、物が間違いますからね。おまえさんがみれば間違いもなかろうが、念のために稲川の屋敷の御用人を一緒に連れて行ったらどうです。二人がみれば間違いはありますまい。だが、最初から表向きにそんなことを云って、万一違っていた時には、おたがいに気まずい思いをしなければなりませんからね」
「ごもっともでございます。主人も、もし間違った時に困ると心配して居りました」
「それだから、おまえさんが御用人を連れて行って、うまく話し込むんですね。このお方は書画が大変にお好きで、こちらに探幽の名作があるということを手前の主人から聞きまして、ぜひ一度拝見したいと申されるので、押し掛けながら御案内しましたとか何とか云えば、向うも大自慢だから喜んで見せるでしょう。もし又なんとか理窟を云って、飽くまでも見せるのを拒(こば)むようならばちっとおかしい。ねえ、そうじゃありませんか。そうなれば、また踏ん込んで表向きに詮議も出来ます。どっちにしても、御用人を連れて行って一度見て来てください」
「承知いたしました」
忠三郎は怱々に帰った。
その晩にでも再びたずねて来るかと、半七は心待ちに待っていたが、忠三郎は姿をみせなかった。その明くる日も来なかった。おそらく用人の方に何か差し支えがあって、すぐには行かれなかったのであろうと思いながらも、半七は内心すこし苛々(いらいら)していると、その晩に子分の仙吉が顔を出した。
「親分。探幽の一件はまだ心当りが付きませんかえ」
「むむ。ちっとは心当りがねえでもないが、どうもまだしっかりと掴むわけにも行かねえので困っているよ」
「そうですか。いや、それについて飛んだお笑いぐさがありましてね。なんでも物を握って見ねえうちは、糠(ぬか)よろこびは出来ませんね」と、仙吉は笑った。
「おめえ達のお笑いぐさはあんまり珍らしくもねえが、どうした」と、半七はからかうように訊(き)いた。
「それがおかしいんですよ。わっしの町内に万助という糴(せり)呉服屋があるんです。こいつはちっとばかり書画や骨董(こっとう)の方にも眼があいているので、商売の片手間に方々の屋敷や町屋(まちや)へはいり込んで、書画や古道具なんぞを売り付けて、ときどきには旨い儲けもあるらしいんです。その万助の奴がどこからか探幽の掛物を買い込んだという噂を聞いて、だんだん調べてみると、それがおまえさん、鬼の図だというんでしょう」
「むむ」と、半七も少しまじめになって向き直った。「それからどうした」
「それからすぐに万助の家へ飛び込んで、よく調べてみると、万助の奴め、ぼんやりしている。どうしたんだと訊くと、その探幽が贋物(にせもの)だそうで……」
半七も思わず笑い出した。
「まったくお笑いぐさですよ」と、仙吉も声をあげて笑った。「なんでも二、三日まえ、あいつが御成道(おなりみち)の横町を通ると、どこかの古道具屋らしい奴と紙屑屋とが往来で立ち話をしている。なに心なく見かえると、その古道具屋が何だか古い掛物をひろげて紙屑屋にみせているので、そばへ寄って覗いてみると、それが鬼の図で狩野探幽なんです。万助の奴め、そこで急に商売気を出して、その古道具屋にかけ合って、なんでも思い切って踏み倒して買って来たんです。古道具屋の方も、探幽か何だか、碌にわからねえ奴だったと見えて、いい加減に廉(やす)く売ってしまったので、万助は大喜び、とんだ掘り出しものをして一と身代盛りあげる積りで、家へ帰って女房なんぞにも自慢らしく吹聴していたんですが、実は自分にもまだ確かに見きわめが付かねえので、ある眼利(めき)きのところへ持って行って鑑定して貰うと、なるほどよく出来ているが真物(ほんもの)じゃあない、これはたしかに贋物だと云われて、万助め、がっかりしてしまったんです。野郎、千両の富籤(とみくじ)にでも当った気でいたのを、大番狂わせになったんですからね。はははははは。いや、万助ばかりじゃあねえ、わっしも実はがっかりしましたよ」
「いや、がっかりすることはねえ」と、半七は笑いながら云った。「仙吉。おめえにしちゃあ大出来だ。これからもう一度万助のところへ行って、その贋物を売った道具屋はどんな奴だか、よく訊いて来てくれ」
「でも親分、それは贋物ですぜ」
「贋物でもいい。それを売った奴が判ったら、それからすぐにそいつの居どこを突きとめて来てくれ。なるたけ早いがいいぜ」
「承知しました」
仙吉は怱々(そうそう)に出て行った。
あくる朝になっても忠三郎は顔をみせないので、半七は日本橋辺へ用達しに行った足ついでに、通旅籠町(とおりはたごちょう)の河内屋をたずねると、忠三郎はすぐに出て来た。かれは気の毒そうに云った。
「親分さん。まことに申し訳ございません。早速うかがいたいと存じて居りますのですが、なにぶんにも稲川様のお屋敷の方が埒(らち)が明きませんので……」
「御用人が一緒に行ってくれないんですかえ」
「年末は御用繁多で、とてもそんな所へ出向いてはいられないから、来春の十五日過ぎ頃まで待っていろと仰しゃるので……。それを無理にとも申し兼ねて、わたくしの方でも困って居ります」
「そりゃあまったく困りましたね。年末と云ったってまだ二十日前だから、そんなに忙がしいこともあるまいに……」
「わたくしもそう思うのですが、なにぶんにも先方でそう仰しゃるもんですから……」と、忠三郎もひどく困ったらしい顔をしていた。
「いや、ようございます」と、半七はうなずいた。「向うでそう云うなら、こっちにも又考えがあります。まあ、御安心なさい。もう大抵の見当はつきましたから」
忠三郎に安心させて、半七は神田の家へ帰ってくると、仙吉が待っていた。
「親分、わかりました」
「判ったか」
「万助の奴をしらべて、すっかり判りました。贋物を売った古道具屋は御成道の横町で、亭主は左の小鬢(こびん)に禿(はげ)があるそうです」 

 

師走の町の寒い風に吹かれながら、日の暮れかかる頃に半七は下谷へ出て行った。御成道の横町で古道具屋をたずねると、がらくたばかり列(なら)べた床店(とこみせ)同様の狭い家で、店の正面に煤(すす)けた帝釈(たいしゃく)様の大きい掛物がかかっているのが眼についた。小鬢に禿のある四十ばかりの亭主が行火(あんか)をかかえて店番をしていた。
「おお、立派な帝釈様がある。それは幾らですえ」と、半七はそらとぼけて訊いた。
それを口切りに、半七はこのあいだの探幽斎の掛物のことを話し出した。
「わたしはあれを買った万さんを識(し)っているが、安物買いの銭うしないで、とんだ食わせものを背負い込んだと、しきりに滾(こぼ)しぬいていましたよ。はははははは」
「だって、おまえさん」と、亭主は少し口を尖らせて云い訳らしく云った。「まったくお値段との相談ですよ、中身は善いか悪いか知りませんが、あの表装だけでも三歩や一両の値打ちはありますからね。して見れば、中身は反古(ほご)だって損はない筈です。わたしもあんなものは手がけたことが無いので、一旦はことわったのですけれど、近所ずからで無理にたのまれて、よんどころなく引き取ったのですが、年の暮にあんな物を寝かして置くのも迷惑ですから、二百でも三百でも口銭(こうせん)が付いたら売ってしまう積りで、通りかかった屑屋の鉄さんを呼んで、店のまえであの掛地をみせているところへ、横合いからあの人が出て来て、何でもおれに売ってくれろと、自分の方から値をつけて、引ったくるように買って行ってしまったんですから、食わせ物も何もあったもんじゃありませんよ」
「そりゃあお前さんの云う通りだ。万さんもなかなか慾張っているからね。ときどき生爪(なまづめ)を剥がすことがあるのさ。そこで、あの掛地はどこの出物(でもの)ですえ」
「さあ、生まれは何処だか知りませんが、ここへ持って来たのは、裏の大工の家(うち)のお豊さんですよ」
裏の大工は峰蔵という親方で、娘に弟子の長作を妻(めあ)わせて、近所に世帯を持たせてあるが、道楽者の長作は大工というのは表向きで、この頃は賽の目の勝負ばかりを争っている。舅(しゅうと)の峰蔵も心配して、いっそ娘を取り戻そうかと云っているが、もともと好いて夫婦になった仲なので、お豊がどうしても承知しない。峰蔵は堅気(かたぎ)な職人であるのに、とんだ婿を取って気の毒だと亭主は話した。それを聴いてしまって、半七は何げなくうなずいた。
「そりゃあまったく気の毒だね。なぜ又そんなやくざな奴に娘をやったんだろう」
「なに、長作もはじめは堅い男だったんですが、ふいと魔が魅(さ)して此の頃はすっかり道楽者になってしまったんです」
「その長作の家はどこだね」
「すぐ向う裏です。露地をはいって二軒目です」
半七はその足で向う裏の長作の家をたずねると、女房のお豊が内から出て来た。お豊はようよう十八九で、まだ娘らしい女振りであったが、さすがにもう眉を剃(そ)っていた。かれの白い顔はいたましく蒼ざめていた。
「長さんはお家(うち)ですかえ」
「今ちょいと出ましたが……。どちらから」
「わたしは松円寺の近所から来ましたが……」
「また誘い出しに来たんですか」と、お豊はひたいを皺(しわ)めた。「もう止してくださいよ」
「なぜです」
「なぜって……。おまえさんは藤代(ふじしろ)様の御屋敷へ行くんでしょう」
松円寺のそばには藤代大二郎という旗本屋敷のあることを半七は知っていた。その屋敷のうちに賭場(とば)の開かれることは、お豊が今の口ぶりで大抵推量された。
「お察しの通り、藤代の御屋敷へ行くんですが、まだ誰にも馴染(なじみ)がないもんですから、こちらの大哥(あにい)に連れて行って貰わなければ……」
「いけませんよ。なんのかのと名をつけて誘い出しに来ちゃあ……。誰がなんと云っても、内の人はもうそんなところへはやりませんよ」
「長さんはほんとうに留守なんですかえ」
「嘘だと思うなら家じゅうをあらためて御覧なさい。きょうは用達しに出たんですよ」
「そうですか」と、半七は框(かまち)に悠々と腰をおろした。「おかみさん。済みませんが煙草の火を貸しておくんなさい」
「内の人は留守なんですよ」と、お豊はじれったそうに云った。
「留守でもいいんです。実はね、わたしの知っている本郷の者が、このあいだの晩に森川宿を通ると、化け銀杏の下に女の幽霊の立っているのを見たんです。野郎、臆病なもんだから碌々に正体も見とどけずに逃げてしまったんですよ。いや、いくじのねえ野郎で……。江戸のまん中に化け物なんぞのいる筈がねえ。わたしなら直ぐに取っ捉まえてその化けの皮を剥いでやるものを、ほんとうに惜しいことをしましたよ。ははははは」
お豊は黙って聴いていた。
「勿論わたしが見た訳じゃあねえんだから、間違ったら、ごめんなさいよ」と、半七はお豊の顔をのぞきながら云った。「ねえ、おかみさん。その幽霊というのはお前さんじゃありませんでしたかえ」
「冗談ばっかり」と、お豊はさびしく笑っていた。「どうせわたしのようなものはお化けとしか見えませんからね」
「いや、冗談でねえ、ほんとうのことだ。その幽霊は藤代の屋敷へ自分の亭主を迎えに行ったんだろうと思う。惚れた亭主は博奕(ばくち)ばかり打っている。それが因(もと)で父っさんの機嫌が悪い。両方のなかに挟まって苦労するのは、可哀そうにその幽霊ばかりだ。ねえ、おかみさん。その幽霊が真っ蒼な顔をしているのも無理はねえ。かんがえると実に可哀そうだ。わたしも察していますよ」
お豊は急にうつむいて、前垂れの端(はし)をひねっていたが、濃い睫毛(まつげ)のうるんでいるらしいのが半七の眼についた。
「そりゃあほんとうに察していますよ」と、半七はしみじみ云い出した。「亭主は道楽をする。節季師走(せっきしわす)にはなる。幽霊だって気が気じゃあねえ。家のものだって質(しち)に置こうし、よそから預かっている物だって古道具屋にも売ろうじゃあねえか。眼と鼻のあいだの道具屋へ鬼の掛地を売るなんかは、あんまり浅はかのようにも思われるが、そこが女の幽霊だ。無理もねえ。それに……」
話を半分聞きかけて、お豊は衝(つ)っと起ちあがったかと思うと、彼女は格子(こうし)にならんだ台所から跣足(はだし)で飛び出して、井戸端の方へ駈けて行こうとするのを、半七は追い掛けてうしろから抱きすくめた。
「いけねえ。いけねえ。幽霊が死んだら蘇生(いきかえ)ってしまうばかりだ。まあ、騒いじゃあいけねえ。おめえの為にならねえ」
泣き狂うお豊を無理に引き摺って、半七は再び家のなかへ連れ込んだ。
「親分さん。済みません。どうぞ殺して……殺してください」と、お豊はそこに泣き伏した。彼女は半七の身分を覚ったらしかった。
「もう判ったかね」と、半七はうなずいた。「あの掛地を持って来たのは長作だろう。ほかには何も持って来なかったかえ。羽織を持って来やしなかったか」
「持ってまいりました」と、お豊は泣きながら云った。
「先月の二十四日の晩だろうね」
「左様でございます」
「もう斯(こ)うなったらしようがねえ。何もかもぶち撒(ま)けて云って貰おうじゃあねえか。長作はあの掛地と羽織を持って来て、なんと云ったえ」
「博奕に勝って、その質(かた)に取って来たと云いました。掛地や泥だらけの羽織はすこしおかしいと思いましたけれど、羽織の泥は干して揉み落して、そのままにしまっておきました」
「その羽織はまだあるかえ」
「いいえ、もう質(しち)に入れてしまいました」
「おめえのお父っさんも、その晩に森川宿の方へ行ったろう。なんの用で行ったんだ」
「内の人を迎えに行ったのでございます」と、お豊は云った。「藤代様のお屋敷の大部屋で毎日賭場が開けるもんですから、長作はその方へばかり入り浸(びた)っていて、仕事にはちっとも出ません。お父っさんも心配して、今夜はおれが行って引っ張って来ると云って、雪のふる中を出て行きますと、途中で行き違いになったと見えまして、長作は濡れて帰って来ました。それから一時(いっとき)ほども経ってからお父っさんも帰って来ました。門口(かどぐち)から長作はもう帰ったかと声をかけましたから、もう帰りましたと返事をしますと、そのまま自分の家へ帰ってしまいました」
「それから長作はどうした」
「あくる朝は仕事に出ると云って家を出て、やっぱりいつもの博奕場へはいり込んだようでございました。それからはちっとも家に落ち着かないで……。それまではどんなに夜が更(ふ)けても、きっと家へ帰って来たんですが、その後はどこを泊まりあるいているのですか、三日も四日もまるで帰らないことがあるもんですから、わたくしも心配でたまりません。といって、お父っさんの耳へ入れますと、また余計な苦労をかけなければなりませんから、わたくしがそっと藤代様のお屋敷に迎いに行きましたが、夜は御門が厳重に閉め切ってあるので、女なんぞは入れてくれません。どうしようかと思って、松円寺の塀の外に立っていて、いっそもうあの銀杏に首でも縊(くく)ってしまおうかと考えていますと、そこへ二人連れの男が通りかかったもんですから、あわてて其処を逃げてしまいました」
「長作はそれぎり帰らねえのか」
「それから二、三度帰りました」
「掛地や羽織のほかに金を見せたことはねえか」
「掛地や羽織を持って帰ったときに、博奕に勝ったと云って、わたくしに十両くれました。けれども、その後に又そっくり取られてしまったからと云って、その十両をみんな持ち出してしまいました。だんだんに押し詰まっては来ますし、家には炭団(たどん)を買うお銭(あし)もなくなっていますし、お父っさんの方へもたびたび無心にも行かれませんし、よんどころなしにその羽織を質に入れたり、掛地を道具屋の小父さんに買って貰ったりして、どうにかこうにか繋いで居りますと、長作はけさ早くに何処からかぼんやり帰って来まして、一文無しで困るから幾らか貸してくれと云います。貸すどころか、こっちが借りたいくらいで、あの羽織も質に置き、掛地も売ってしまったと申しますと、長作は急に顔の色を悪くしまして、黙ってそれぎり出て行ってしまいました。出るときにたった一言(ひとこと)、誰が来て訊いても掛地や羽織のことはなんにも云うなと申して行きました」
「そうか。よし、それでみんな判った。いや、まだ判らねえところもあるが、そこはまあ大目(おおめ)に見て置く」と、半七は云った。「それにしても、長作の居どこの知れるまではお前をこのままにして置くわけには行かねえ。ともかくも町内預けにして置くからそう思ってくれ」
半七はすぐ家主を呼んで来てお豊を引き渡した。それから更に峰蔵を自身番へ呼び出して調べると、正直な彼は恐れ入って素直に申し立てた。
「実はあの晩、長作を迎いに行きまして、ちょうど行き違いになって松円寺のそばを通りますと、化け銀杏の下に一人の男が倒れていました。介抱して主人の家へ送りとどけてやりましたが、その男は河内屋の番頭で、胴巻に入れた金と大切の掛地と双子(ふたこ)の羽織とを奪(と)られましたそうでございます。その時はなんにも気がつきませんでしたが、あとで聞きますと長作はその晩に掛地と泥だらけの双子の羽織とを持ち帰りましたそうで、それを聞いたわたくしは慄然(ぞっ)としました。しかし、今更どうすることも出来ませんので、娘にもそのわけをそっと云い聞かせまして、係り合いにならないうちに早く長作と縁を切ってしまえと意見をしましたが、娘はまだ長作に未練があるとみえまして、どうも素直に承知いたしません。困ったものだと思って居りますうちに、娘もいよいよ手許(てもと)が詰まったのでございましょう。その羽織を質に入れたり、掛地を道具屋に売ったりしたもんですから、とうとうお目に止まったような次第で、なんとも申し訳がございません」
お豊が井戸へ飛び込もうとした仔細もそれでわかった。
半七が大抵想像していた通り、かれは亭主の悪事を知っていたのであった。
その明くる日の夕方、長作は藤代の屋敷へはいろうとするところを、かねて網を張っていた仙吉に召捕られた。忠三郎を投げ倒したのは周道のいたずらで、長作はなんにも係り合いのないことであった。彼はその晩博奕に負けてぼんやり帰ってくると、雪まじりの雨のなかに一人の男が倒れているのを見つけたので、初めは介抱してやるつもりで立ち寄ったが、かれの胴巻の重そうなのを知って、長作は急に気が変った。まず胴巻だけを奪い取って行きかけたが、毒食らわば皿までという料簡になって、彼は更に忠三郎が大事そうに抱えている風呂敷包みを奪った。羽織まで剥ぎ取った。しかも悪銭は身につかないで、百両の金も酒と女と博奕でみんなはたいてしまった。
「舅や女房はなんにも知らないことでございます。どうぞ御慈悲をねがいます」と、彼は云った。
実際なんにも知らないと云えないのであるが、さすがに上(かみ)の慈悲であった。峰蔵もお豊も叱りおくだけで赦された。しかし長作の罪科は今の人が想像する以上に重いものであった。かれは路に倒れている人を介抱しないばかりか、あまつさえ其の所持品を奪い取るなど罪科重々であるというので、引き廻しのうえ獄門ときまって、かれの首は小塚ッ原に晒(さら)された。
寺社奉行の命令で、松円寺の化け銀杏は往来に差し出ている枝をみな伐(き)り払われてしまった。
これだけの話を聴いても、わたしにはまだ判らないことがあった。
「お豊が古道具屋へ売った探幽の鬼は贋物(にせもの)だったのですね。そうすると、忠三郎という番頭は稲川の屋敷から贋物を受け取って来たのでしょうか」
「そうです、そうです」と、半七老人はうなずいた。「稲川の屋敷でも初めから贋物をつかませるほどの悪気はなかったのですが、五百両を半分に値切られたので、苦しまぎれに贋物を河内屋へ渡して、ほん物の方を又ほかへ売ろうと企(たくら)んだのです」
「どうしてそんな贋物が拵えてあったのでしょう。初めから企んだことでもないのに……」
「それはこういうわけです。探幽のほん物は昔から稲川の家に伝わっていたんですが、なんでも先代の頃にどこかでその贋物を見つけたんだそうです。贋物とはいえ、それがあんまりよく出来ているので、こんなものが世間に伝わると、どっちが真物だか判らなくなって、自分の家の宝物に瑕(きず)がつくというので、贋物を承知で買い取って、再び世間へ出さないように、屋敷の蔵のなかへしまい込んで置いたのです。昔はよくこんなことがありました。それをここで持ち出して、今もいう通り、贋物を河内屋の番頭に渡してやって、ほん物の方を芝の三島屋へ四百両に売ったんです。そういういきさつがありますから、稲川の用人は何とか理窟をつけて、三島屋へ一緒に行くことを拒(こば)んだわけなんです。そこで、この一件が表向きになると、稲川の用人は先ずわたくしのところへ飛んで来ました。勿論、河内屋の方へも泣きを入れて、万事は主人の知らないこと、すべて用人が一存で計らったのだという申し訳で、どうにかこうにか内済になりました。金は当然返さなければなりませんから、稲川の屋敷から二百五十両を河内屋へ返し、贋物の鬼を取り戻したんですが、稲川の主人もちょっと変った人で、畢竟(ひっきょう)こんなものを残して置くから心得ちがいや間違いが起るのだと云って、節分(せつぶん)の晩にその贋物の鬼を焼き捨ててしまったそうです。節分の晩が面白いじゃありませんか。
河内屋からわたくしのところへ礼に来ましたが、とりわけて番頭の忠三郎はひどくそれを恩にきて、その後もたびたびわたくしを訪ねてくれました。それが今帰って行った水原さんで、維新後に河内屋は商売換えをしてしまいましたが、水原さんは横浜へ行って売込み商をはじめて、それがとんとん拍子にあたって、すっかり盛大になったんですが、それでも昔のことを忘れないで、わたくしのような者とも相変らず附き合っていてくれます。実はきょうも、例の化け銀杏の一件を話して帰ったんですよ」 
 
半七捕物帳 妖狐伝

 

一 
大森の鶏の話が終っても、半七老人の話はやまない。今夜は特に調子が付いたとみえて、つづいて又話し出した。
「唯今お話をした大森の鶏、鈴ヶ森の人殺し……。それと同じ舞台で、また違った事件があるんですよ。まあ、ついでにお聴きください。御承知の通り、江戸時代の鈴ヶ森は仕置場で、磔刑(はりつけ)や獄門の名所です。それですから江戸の悪党なんかは『おれの死ぬときは畳の上じゃあ死なねえ。三尺高い木の空(そら)で、安房上総(あわかずさ)をひと目に見晴らしながら死ぬんだ』なんて大きなことを云ったもんです。鈴ヶ森で仕置になった人間もたくさんありますが、その中でも有名なのは、丸橋忠弥、八百屋お七、平井権八なぞでしょう。みんな芝居でおなじみの顔触れです。
その当時の東海道は品川から浜川、鮫洲(さめず)で、鮫洲から八幡さまのあたりまでは、農家や漁師町が続いていますが、それから大森までは人家が途切れて、一方は海、いわゆる安房上総をひと目に見晴らすことになる訳で、仕置場までの間を鈴ヶ森の縄手と呼んでいました。その縄手を越えて、仕置場の前を通りぬけて、大森の入口へ差しかかるのですから、昼は格別、夜はどうも心持のよくない所です。芝居で見ると、幡随院長兵衛と権八の出合いになって『江戸で噂の花川戸』なんて云うから、観客(けんぶつ)も嬉しがって喝采するんですが、ほんとうの鈴ヶ森は決して嬉しい所じゃありませんでした。
なにしろ場所が場所ですから、日が暮れると縄手に追剥ぎが出るとか、仕置場の前を通ったら獄門の首が笑ったとか、とかくによくない噂が立つ。しかしこれが東海道の本道なんですから、忌(いや)でも応でもここを通らなければならない。この頃は汽車で通ってしまうので、今はどうなっているか知りませんが、その縄手の中ほどに一本の古い松がありまして、誰が云い出したものか、これを八百屋お七の睨(にら)みの松と云い伝えていました。お七が鈴ヶ森で火あぶりの仕置を受けるときに、引き廻しの馬に乗せられてここを通りかかって、その松を睨んだとか云うんです。なぜ睨んだのか判りませんが、まあ、そういうことになっているので、俗に睨みの松と呼ばれていました。
くどくも申す通り、場所が場所である上に、そういう因縁付きの松が突っ立っているんですから、その松の近所がとかくに物騒で、追剥ぎや人殺しや首|縊(くく)りの舞台に使われ易いんです。
わたくしの話はいつも前口上が長いので恐れ入りますが、これだけの事をお話し申して置かないと、今どきのお方には呑み込みにくいだろうと思いますので……。いや、もうこのくらいにして、本文(ほんもん)に取りかかりましょう」
安政六年の春から夏にかけて、鈴ヶ森の縄手に悪い狐が出るという噂が立った。品川に碇泊している異国の黒船から狐を放したのだなどと、まことしやかに伝える者もあった。いずれにしても、その狐はいろいろの悪戯(いたずら)をして、往来の人々をたぶらかすというのである。さなきだに物騒の場所に、悪い噂が又ひとつ殖えて、気の弱い通行人をおびやかした。
四月二十八日の夜の五ツ(午後八時)を過ぎる頃に、巳之助(みのすけ)という今年二十二の若い男がこの物騒な場所を通りかかった。芝の田町(たまち)に小伊勢という小料理屋がある。巳之助はそこの総領息子で、大森の親類をたずねた帰り道であった。この頃はいろいろの忌(いや)な噂があるから、今夜は泊まってゆけと勧められたのであるが、巳之助は若い元気と一杯機嫌とで、振り切って出て来た。
月は無いが、星の明るい夜であった。巳之助は提灯をふり照らしながら、今やこの縄手まで来かかると、睨みの松のあたりに人影がぼんやりと見えた。はっと思って提灯をさしつけると、それは白い手拭に顔をつつんだ女であった。今頃こんな処にうろついている女――さては例の狐かと、彼は更に進み寄って正体を見届けようとする途端に、女はするすると寄って来た。
「あら、巳之さんじゃないの」
「え、誰だ、誰だ」
「やつぱり巳之さんだ。あたしよ」
提灯のひかりに照らされながら、手拭を取った女の白い顔をみて、巳之助はおどろいた。
「おや、お糸か。どうしてこんな処にぼんやりしているのだ」
「まあ、御迷惑でも一緒に連れて行って下さいよ。あるきながら話しますから……」
女は巳之助が買いなじみの女郎で、品川の若狭(わかさ)屋のお糸というのであった。勤めの女が店をぬけ出して、今頃こんな処にさまよっているには、何かの仔細がなければならない。巳之助は一緒にあるきながら訊(き)いた。
「駈け落ちかえ。相手は誰だ」
「本当にあたしは馬鹿なのよ。あんな人にだまされて……」と、お糸はくやしそうに云った。「巳之さん、済みません。堪忍してください」
巳之助とお糸はまんざらの仲でもなかった。その巳之助を出し抜いて、ほかの男と駈け落ちをする。女が何とあやまっても、男の方では腹が立った。
「何もあやまるにゃあ及ばねえ。そんな約束の男があるなら、おれのような者と道連れは迷惑だろう。おめえはここで其の人を待っているがよかろう。おれは先へ行くよ」
女を振り捨てて、巳之助はすたすたと行きかかると、お糸は追って来て男の袖をとらえた。
「だから、あやまっているじゃあないか。巳之さん、まあ訳を訊いておくれというのに……」
「知らねえ、知らねえ。そんな狐にいつまで化かされているものか」
自分の口から狐と云い出して、巳之助はふと気がついた。この女はほんとうの狐であるかも知れない。悪い狐がお糸に化けておれをだますのかも知れない。これは油断がならない、と彼は俄かに警戒するようになった。
「ねえ、巳之さん。わたしはどんなにでも謝(あやま)るから、まあひと通りの話を聴いて下さいよ。ねえ、もし、巳之さん……」
口説きながら摺り寄って来た女の顔、それが気のせいか、眼も鼻も無い真っ白なのっぺらぼうの顔にみえたので、巳之助はぎょっとした。彼は夢中で提灯を投げ出して、両手で女の咽喉(のど)を絞めようとした。
「おまえさん、何をするの。あれ、人殺し……」
突き退けようとする女を押さえ付けて、巳之助は力まかせにその咽喉を絞めると、女はそのままぐったりと倒れた。
「こいつ、見そこなやあがって、ざまあ見ろ。憚りながら江戸っ子だ。狐や狸に馬鹿にされるような兄(にい)さんじゃあねえ」
投げ出すはずみに蝋燭は消えたので、提灯は無事であった。潮あかりに拾いあげたが、再び火をつける術(すべ)もないので、巳之助はそのまま手に持って歩き出そうとする時、彼はどうしたのか忽ちすくんで声をも立てずに倒れてしまった。
さびしいと云っても東海道であるから、狐のうわさを知らない旅びとは日暮れてここを通る者もあったが、あいにくに今夜は往来が絶えていた。巳之助が正気にかえったのは、それから二刻(ふたとき)ほどの後で、彼は何者にか真向(まっこう)を撃たれて昏倒したのである。ようよう這い起きて、闇のなかを探りまわると、提灯はそこに落ちていた。ふところをあらためると、紙入れも無事であった。
「お糸はどうしたか」
星あかりと潮あかりで其処らを透かして視ると、女の形はもう残っていないらしかった。自分をなぐった奴が女を運んで行ったのか、それとも消えてなくなったのか、巳之助にもその判断が付かなかった。第一、自分を殴り倒した奴は何者であろう。物取りならば懐中物を奪って立ち去りそうなものであるが、身に着けた物はすべて無事である。お糸はやはり狐の変化(へんげ)で、その同類が自分に復讐を試みたのかと思うと、巳之助は急に怯気(おじけ)が出て、惣身(そうみ)が鳥肌になった。口では強そうなことを云っていても、彼は決して肚(はら)からの勇者でない。こうなると怖い方が先に立って、彼は怱々(そうそう)にそこを逃げ出した。
鈴ヶ森の縄手を通りぬけて、鮫洲から浜川のあたりまで来ると、巳之助は再び眼が眩(くら)んで歩かれなくなった。そこには丸子という同商売の店があるので、夜ふけの戸を叩いて転げ込んで、その晩は泊めて貰うことにした。ゆうべは余ほど強く撃たれたと見えて、夜が明けても頭が痛んだ。おまけに熱が出て起きられなかった。
丸子の店でも心配して医者を呼んだ。芝の家へも知らせてやった。巳之助は熱に浮かされて、囈語(うわごと)のように叫んだ。
「狐が来た……。狐が来た」
事情をよく知らない周囲の人々は薄気味悪くなった。これは夜ふけに鈴ヶ森を通って、このごろ評判の狐に取りつかれたに相違ないと思った。同商売の店に迷惑を掛けてはならないというので、小伊勢の店からは迎えの駕籠をよこして、病人の巳之助を引き取って行ったが、実家へ帰っても彼は「狐」を口走っていた。この場合、まず品川へ行ってお糸という女が無事に勤めているかどうかを確かめるべきであるが、それに就いて巳之助はなんにも云わないので、小伊勢の店の人々もそんなことには気がつかなかった。
それでも五、六日の後に、巳之助は次第に熱が下がって粥などをすするようになった。彼はここに初めて当夜の事情を打ち明けたので、両親は取りあえず品川の若狭屋に問い合わせると、巳之助が馴染のお糸という女は何事もなく勤めていて、駈け落ちなどは跡方もない事であると判った。
「では、やっぱり狐か」
これで鈴ヶ森の怪談がまた一つ殖えたのであった。 

 

巳之助の一件から十日ほどの後である。京の織物|商人(あきんど)の逢坂屋伝兵衛が手代と下男の三人づれで、鈴ヶ森を通りかかった。本来ならば川崎あたりで泊まって、あしたの朝のうちに江戸入りというのであるが、江戸を前に見て宿を取るには及ぶまい。急いで行けば四ツ(午後十時)過ぎには江戸へはいられると、一行三人は夜道をいとわずに進んで来た。彼らは例の狐の噂などを知らないのと、男三人という強味があるのとで、平気でこの縄手へさしかかると、今夜は陰って暗い宵で、波の音が常よりも物凄くきこえた。
伝兵衛は四十一歳で、これまで二度も京と江戸とのあいだを往復しているので、道中の勝手を知っていた。鈴ヶ森がさびしい所であることも承知していた。ここらに仕置場があるなどと話しながら歩いて来ると、暗いなかに一本の大きい松が見えた。それが彼(か)の睨みの松であることは伝兵衛もさすがに知らなかったが、そこに大きい松があるのを見て、何ごころなく提灯をさし付けた途端に、三人はぎょっとした。そこに奇怪な物のすがたを発見したのである。
「わあ、天狗……」
それでも三人はあとへ引っ返さずに前にむかって逃げた。彼らは顔の赤い、鼻の高い大天狗を見たのである。天狗は往来を睨みながら、口には火焔を吐いていた。彼らは京に育って、子供のときから鞍馬や愛宕(あたご)の天狗の話を聞かされているので、それに対する恐怖はまた一層であった。気も魂も身に添わずというのは全くこの事で、三人は文字通りに転(こ)けつ転(まろ)びつ、息のつづく限り駈け通すうちに、伝兵衛は石につまずいて倒れて、脾腹(ひばら)を強く打って気絶した。手代と下男はいよいよ驚いて、正体のない主人を肩にかけて、どうにかこうにか鮫洲の町まで逃げ延びた。
こうなっては江戸入りどころで無い。そこの旅籠屋(はたごや)へ主人をかつぎ込んで介抱すると、伝兵衛は幸いに蘇生した。その話を聞いて、宿の者どもは云った。
「あの辺に天狗などの出る筈がない。例の狐が天狗に化けて、おまえさん達を嚇かしたのだ」
こちらは大の男三人であるから、狐と知ったら叩きのめして、その正体をあらわしてやったものをと、今さら力(りき)んでも後(あと)の祭りで、又もや怪談の種を殖やすに過ぎなかった。女に化け、天狗に化け、この上は何に化けるであろうと、気の弱い者をいよいよおびえさせた。
鈴ヶ森の狐の噂はそれからそれへと伝えられて、江戸市中にも広まった。五月のなかばに、半七が八丁堀同心|熊谷八十八(くまがいやそはち)の屋敷へ顔を出すと、熊谷は笑いながら云った。
「おい、半七、聞いたか。鈴ヶ森に狐が出るとよ」
「そんな噂です」
「一度行って化かされて来ねえか。品川の白い狐に化かされたと云うなら、話は判っているが、鈴ヶ森の狐はちっと判らねえな」
「あの辺には畑もあり、森や岡もたくさんありますから、狐や狸が棲んでいるに不思議はありませんが、そんな悪さをするということは今まで聞かないようです」と、半七は首をかしげた。「ともかくも化かされに行ってみますか」
「いずれ郡代(ぐんだい)の方からなんとか云って来るだろうから、今のうちに手廻しをして置く方がいいな。噂を聞くと、狐はいろいろの物に化けるらしい。今に忠信(ただのぶ)や葛(くず)の葉(は)にも化けるだろう。どうも人騒がせでいけねえ。それも辺鄙(へんぴ)な田舎なら、狐が化けようが狸が腹鼓(はらつづみ)を打とうがいっさいお構いなしだが、東海道の入口でそんな噂が立つのはおだやかでねえ。早く狐狩りをしてしまった方がよかろう」
「かしこまりました」
熊谷は勿論この怪談を信じないで、何者かのいたずらと認めているらしかった。半七の見込みもほぼ同様であったが、普通のいたずらにしては少しく念入りのようにも思われた。
三河町の家へ帰って、半七は直ぐ子分の松吉を呼んだ。
「おい、松。おめえと庄太に手伝って貰って、大森の鶏や鈴ヶ森の人殺し一件を片付けたのは、もう七、八年前のことだな」
「そうですね。たぶん嘉永の頃でしょう」と、松吉は答えた。
半七は自分の控え帳を繰ってみた。
「成程、おめえは覚えがいい。嘉永四年の春のことだ。その鈴ヶ森で、また少し働いて貰いてえことが出来たのだが……」
「狐じゃあありませんか」と、松吉が笑った。「わっしも何だか変だと思っていたのですがね」
「その狐よ。熊谷の旦那から声がかかった以上は、笑ってもいられねえ。なんとか正体を見届けなけりゃあなるめえが、おめえ達に心あたりはねえか」
「今のところ、心あたりもありませんが、早速やって見ましょう」
松吉は受け合って帰ったが、その翌日の夕がたに顔を出して、自分が鈴ヶ森方面で聞き出して来た材料をそれからそれへと列(なら)べて報告した。
「この一件の始まりは、なんでも三月の始めだそうです。漁師町の若い者が酒に酔って鈴ヶ森を通ると、暗いなかで変な女に逢った。こっちは酔ったまぎれに何か戯(からか)ったらしい。そうすると、赤い火の玉がばらばら飛んで来て、若い者の顔や手足に降りかかったので、きゃっと驚いて逃げ出した。その噂が序開きで、それからいろいろの怪談が流行り出したのです」
田町の料理屋小伊勢のせがれ巳之助が何者にか殴り倒されたこと、京の逢坂屋伝兵衛一行が天狗に嚇された事、まだそのほかに浜川の漁師が魚(さかな)を取られた事、大森の茶屋の女が髪の毛を切られた事、誰が化かされて田のなかへ引っ込まれた事、誰が幽霊に出逢って気絶したこと、誰が顔を引っ掻かれた事、およそ十箇条をかぞえ立てた後に、彼はひと息ついた。
「一々洗い立てをしたら、まだ何かあるでしょうが、どれも大抵は同じような事ばかりで、そのなかには嘘で固めた作り話もありそうですから、まあいい加減に切り上げて来ました。まず一番骨っぽいのは、小伊勢のせがれの件で、なにしろそのお糸という女は駈け落ちなんぞをしないで、平気で若狭屋に勤めているのが面白いじゃあありませんか」
「むむ」と、半七は考えていた。「そりゃあ人違いだな」
「だって、巳之助と口を利(き)いたのですよ。口をきいて一緒にあるいて……」
「いや、それでも人違いだ。女は若狭屋のお糸じゃあねえ」
「そうでしょうか」と、松吉は不得心らしい顔をしていた。
「といって、まさかに狐でもあるめえ。それにしても、巳之助をなぐった奴は何者だろうな」と、半七は又かんがえた。「それから京の奴らをおどかしたのは、天狗だと云ったな。まさかに仮面(めん)をかぶっていたのじゃああるめえ」
「いくら臆病でも、大の男が三人揃って、みんな提灯を持っていたというんですから、仮面をかぶっていたらさすがに気がつく筈ですが……」
「理窟はそうだが、世の中には理窟に合わねえことが幾らもあるからな。まあ、おれも一度踏み出してみよう。あしたの朝、一緒に行ってくれ」
あくる朝はいわゆる皐月(さつき)晴れで、江戸の空は蒼々と晴れ渡っていた。朝の六ツ半(午前七時)頃に松吉が誘いに来たので、半七は連れ立って出た。
「出がけに小伊勢に寄りますか」と、松吉は訊(き)いた。
「狐に化かされた野郎の詮議はまあ後廻しだ。真っ直ぐに浜川まで行こう」
品川を通り過ぎて浜川へかかると、丸子という小料理屋がある。ここは先夜、小伊勢の巳之助が転げ込んだ家である。半七はここへ寄って、当夜の模様などを詳しく訊いた。これから鈴ヶ森をひと廻りして来ると云い置いて、二人は又そこを出ると、五月なかばの真昼の日は暑かった。
「東海道は砂が立たなくっていいが、風が吹かねえと随分暑いな」と、半七は眩(まぶ)しそうに空をみあげた。
海辺(うみべ)づたいに鈴ヶ森の縄手へ行き着いて、二人はかの睨みの松あたりに、ひと先ず立ちどまった。きょうは海の上もおだやかに光って、水鳥の白い群れが低く飛んでいた。
「ここらだな」
半七はひたいの汗をふきながら其処らを見まわした。松吉も見まわした。二人は又しゃがんで煙草をすいはじめた。やがて半七が煙管(きせる)をぽんと掃(はた)くと、吸い殻の火玉は転げて松のうしろに落ちたので、その火玉を追って二度目の煙草をすい付けようとする時、草のあいだに何物をか見付けた。すぐに拾いあげて透かして視て、半七は忽ち笑い出した。
「今まで誰か気が付きそうなものだが、ここらの人間もうっかりしているぜ。それだから狐に化かされるのだ。おい、松。これを見ろよ」
「なんですね、煙草のような物だが……」と、松吉は覗き込んだ。
「ような物じゃあねえ。煙草だよ。これは異人のすう巻煙草というものの吸い殻だ。おれも天狗の話を聴いた時に、ふっと胸に浮かんだのだが……。おい、松。もう一度あすこを見ろよ」
きせるの先で指さす品川の沖には、先月からイギリスとアメリカの黒船(くろふね)が一艘ずつ碇泊しているのが、大きい鯨のように見えた。巻煙草のぬしがその船の乗組員であることを、松吉はすぐに覚った。
「成程、こりゃあ親分の云う通りだ。そうすると、異人の奴らがあがって来て、悪戯(いたずら)をするのかね」
「そうかも知れねえ」
「だれが云い出したのか知らねえが、品川の黒船から狐を放したのだという噂も、こうなると嘘でもねえ」と、松吉は海をながめながら云った。「異人め、悪いたずらをしやがる。だが、まったく異人の仕業だと、むやみに手を着けるわけにも行かねえので、ちっと面倒ですね」
「いくら異人でも、そんな悪戯を根よくやっている筈がねえ。これには何か訳があるだろう」
巻煙草の吸い殻を手のひらに乗せて、半七は又しばらく考えていた。 

 

半七と松吉は鈴ヶ森を一旦引き揚げて、浜川の丸子へ戻って来ると、店では待ち受けていてすぐに二階座敷へ通された。前から頼んであったので、酒肴の膳も運び出された。
「なあ、松。ここの家(うち)できいても判るめえが、小伊勢の巳之という伜が睨みの松の下でお糸という女に逢った時に、その女はどんな装(なり)をしていたのかな。まさか芝居でするお女郎の道行(みちゆき)のように、部屋着をきて、重ね草履をはいて、手拭を吹き流しに被(かぶ)っていたわけでもあるめえが……」
「さあ」と、松吉は猪口(ちょこ)を下におきながら云った。「そりゃあ本人の巳之助に訊いてみなけりゃあ判りますめえ。だが、親分。どうしても人違いでしょうか」
「論より証拠、そのお糸という女は無事に若狭屋に勤めていると云うじゃあねえか」
「そりゃあそうですが……」
云う時に、女中が二階へあがって来たので、半七は酌をさせながら訊(き)いた。
「品川にかかっている黒船から、マドロスがここらへあがって来ることがあるかえ」
「ええ、時々に二、三人連れでここらを見物して歩いていることがあります」
「ここらの家(うち)へ飲みに来るかえ」
「ここへは来ませんが、鮫洲の坂井屋へはちょいちょい遊びに来るそうです。川崎屋なんぞでは異人は断わっていますが、坂井屋では構わずに上げて飲ませるんです。異人はみんなお金を持っているそうで、どこで両替えして来るのか知りませんが、二歩金や一歩銀をざくざく掴み出してくれるという話で、馬鹿に景気がいいんです」と、女中は嫉(ねた)むような嘲るような口吻(くちぶり)で話した。
「なんでも慾の世の中だ。異人でもマドロスでも構わねえ、銭のある奴は相手にして、ふところを肥やすのが当世かも知れねえ」と、松吉は笑った。
「まあ、そうかも知れませんね」と、女中も笑っていた。
「その坂井屋さんにお糸という女はいねえかえ」と、半七は突然に訊いた。
「お糸さん……。居りましたよ」
「もういねえかえ」
「ええ、先月の末から見えなくなって……。どっかへ駈け落ちでもしたような噂ですが……」
半七と松吉は顔をみあわせた。
「坂井屋じゃあ異人を泊めるのかえ」と、半七はまた訊いた。
「泊めやあしません。坂井屋は宿屋じゃありませんから……。それに異人は船へ帰る刻限がやかましいので、その刻限になるとみんな早々に帰ってしまうそうで……。どんなに酔っていても、感心にさっさと引き揚げて行くそうです」
「そんなに金放れがよくっちゃあ、今も云う慾の世の中だ。その異人に係り合いでも出来た女があるかえ」
「さあ、それはどうですか。いくら金放れがよくっても、まさかに異人じゃあ……」と、女中はまた笑った。「誰だって相手になる者はありますまい」
「手を握らせるぐらいが関の山かな」と、松吉も笑った。「それで一歩も二歩も貰えりゃあいい商法だ」
「ほほほほほほ」
女中は銚子をかえに立った。そのうしろ姿を見送って、松吉はささやいた。
「成程、親分の眼は高けえ。人ちがいの相手は坂井屋のお糸ですね」
「まあ、そうだろう。そのお糸が黒船のマドロスと出来合って逃げたらしいな」
「それを自分の馴染の女と間違えるというのは、巳之助という奴もよっぽどそそっかしい野郎だ」
「野郎もそそっかしいが、女も女だ。まあ、待て。それには何か訳があるだろう」
女中が再びあがって来たので、半七はまた訊き始めた。
「おい、姐さん。駈け落ちをしたお糸には、なにか色男でもあったのかえ」
「それはよく知りませんが、近所の伊之さんと……」
「伊之さん……。伊之助というのか」
「そうです。建具屋の息子で……。その伊之さんと可怪(おか)しいような噂もありましたが、伊之さんは相変らず自分の家(うち)で仕事をしていますから、一緒に逃げたわけでも無いでしょう」
「お糸の宿はどこだ」
「知りません」
まったく知らないのか、知っていても云わないのか、女中はその以上のことを口外しないので、半七も先ずそれだけで詮議を打ち切った。しかもここへ来て判ったことは、若狭屋のお糸は坂井屋のお糸の間違いである。小伊勢の巳之助は建具屋の伊之助の間違いで、伊之さんを巳之さんと聞き違えたのである。勿論、両方ともにそそっかしいには相違ないが、薄暗いところで見違えたのが始まりで、両方の名が同じであるために、いよいよ念入りの間違いを生じたらしい。女の顔がのっぺらぼうに見えたなどは、巳之助の錯覚であろう。
京の商人(あきんど)が睨みの松で天狗にあったというのは、黒船のマドロスを見たに相違ない。口から火を噴いていたというのも、恐らく巻煙草のけむりであろう。それを思うと、半七も松吉も肚(はら)の中でおかしくなった。
二人はいい加減に酒を切り上げて、遅い午飯(ひるめし)の箸を取っていると、町家の夫婦らしい男女と、若い男ひとりの三人連れが二階へあがって来た。ここの二階は広い座敷の入れ込みで、ところどころに小さい衝立(ついたて)が置いてあるだけであるから、あとから来た客の顔も見え、話し声もよくきこえた。三人は女中にあつらえ物をして、煙草をのみながら話していた。
「どうも驚いてしまった。あれだから油断が出来ないね」と、女房らしい女が云った。
「まったく驚いた。世間にはああいう事があるから恐ろしい」と、亭主らしい男も云った。
「藤さんなんぞは若いから、よく気をつけなけりゃあいけない」と、女はまた云った。
それから此の三人が、だんだん話しているのを聴くと、芝の両替屋の店さきで何事か起こったらしい。半七に眼配(めくば)せされて、松吉は衝立越しに声をかけた。
「あの、だしぬけに失礼ですが、芝の方に何事があったのですかえ」
「ええ」と、若い男は答えた。「わたし達は別に係り合いがあるわけじゃあない、通りがかって見ただけなんですが、どうも悪い奴がありますね」
「悪い奴……。一体どうしたのです」と、松吉は訊いた。
「それがお前さん」と、男は衝立を少し片寄せて向き直った。「芝の田町(たまち)に三島という両替屋があります。そこへ二十歳(はたち)ばかりの若い男が来て、小判一両を小粒と小銭に取り換えてくれと云うので、店の者が銭勘定をしていると、そこへ又ひとりの女が来て、いきなりに其の若い男をつかまえて、この野郎め、家の金を又持ち出してどうするのだ。親泣かせ兄弟泣かせもいい加減にしろ。それほど道楽がしたければ、自分の腕で稼ぐがいい。親兄弟の金を一文でも持ち出すことはならないぞ。さあ、その金をかえせと若い男を引き摺り倒して、手に持っている小判を取り上げて、さっさと立ち去ってしまいました。それを見ている両替屋の店の者も、通りがかりの人達も、これは世間によくあることで、道楽息子が家の金を持ち出したのを、おふくろか叔母さんが追っかけて来て、取り返して行ったのだろうと思って、誰もそのままに眺めていると、倒れた男はいつまでも起きないので、不思議に思って引き起こすと、男は気を失っているらしい。さあ、大騒ぎになって介抱すると、男はようよう息を吹き返したのですが、よくよく訊いてみると、自分をつかまえて文句を云った女は、まるで知らない人間で、そんなことを云って一両の小判を掻っさらって逃げたのだそうです。何か道楽息子を叱り付けるようなことを云って、そこらの人たちに油断させて、平気でまっ昼間、大通りの店さきで掻っ攫いを働くとは、女のくせに実に大胆な奴じゃあありませんか」
「成程ひどい奴ですね」と、松吉はうなずいた。「それにしても、相手は女だというのに、その若い男がどうして素直に金を渡したのでしょうね」
「それが又不思議なことには、その女が男をひき摺り倒すときに、なんでも頸筋のあたりの脈所(みゃくどこ)を強く掴んだらしいので、男は痛くって口が利けない。おまけに脾腹(ひばら)へ当て身を食わされて、気が遠くなってしまったのだそうです。それがなかなかの早業(はやわざ)で、見ている人たちも気が付かなかったと云いますから、女も唯者ではあるまいとみんなが噂をしていましたよ」
「そうですか。そんな女に出逢っちゃあ、大抵の男は敵(かな)いませんね」
松吉はわざとらしく顔をしかめて見せた。
「その騒ぎで、両替屋の前は黒山のような人立ちで……」と、女房は入れ代って話した。「その店でも後で気が付いたのですが、十日ほど前の夕がたに外国のドルを両替えに来た女がある。それがきょうの女らしくも思われるが、前に来たときは夕方で薄暗かったので、その顔をはっきりと見覚えていないと云うのです」
半七と松吉は顔をみあわせた。二人の眼は光っていた。 

 

丸子の店を出て、半七は松吉に別れた。
「じゃあ頼むよ」と、半七は小声で云った。「おめえはこれから坂井屋へ行って、お糸という女のことを調べてくれ。それから伊之助という建具屋のことも宜しく頼むぜ。おれは芝の両替屋へ行って、その女の詮議をしなけりゃあならねえ。外国のドルを持っているというのが気になるからな」
鮫洲方面探索を松吉にあずけて、半七は品川から芝の方角へ真っ直ぐに引っ返した。田町の三島という両替屋へ行って訊(き)きただすと、事件は聞いた通りであった。一両の金を取られた若い男は、おなじ芝ではあるが神明前の絵草紙屋の道楽息子で、自身番でいろいろと詮議の末に、実は自分の家の金を内証で持ち出したのであることを白状した。してみると、かの女の云ったのも満更の嘘ではない。こんな災難に出逢ったのも所詮(しょせん)は親の罰であろうと、彼は自身番でさんざんに膏(あぶら)をしぼられて帰った。
それを聞いて、半七はおかしくもあり、可哀そうでもあった。
「それから、ここの店へドルを両替えに来た女があったと云うが、本当かえ」
「十日ほど前の夕がたに来ました。しかし手前どもでは外国のドルの両替えは致さないからと云って断わりました」と、店の者は答えた。
「それがきょうの女とおなじ奴かえ」
「さあ、それがよく判りませんので……。前に来たときは夕方で、断わるとすぐに帰ってしまったもんですから、その顔をよく見覚えて居りません。きょうの女は三十七八で、色のあさ黒い、眼の強(きつ)い女でした。どこか似ているようにも思うのですが、確かな証拠もございませんので、なんとも申し上げかねます」
「おなじ店へ二度とは来めえと思うが、その女がもし立ちまわったらば、すぐに自身番へ届けてくれ」
店の者に云い置いて、半七は更に愛宕下(あたごした)の藪の湯をたずねた。藪の湯は女房が商売をしていて、その亭主の熊蔵は半七の子分である。そこで熊蔵の通称を湯屋熊といい、一名を法螺熊ということはかつて紹介した。その湯屋熊をたずねると、彼はあたかも居合わせて表二階へ案内した。
「丁度だれも来ていねえようです」
二階番の女を下へ追いやって、二人は差しむかいになった。
「そこで、親分。なにか御用ですか」
「お此(この)はこのごろどうしている」
「お此……。入墨者ですか」
「そうだ。片門前(かたもんぜん)に巣を食っていた奴だ」
「女のくせに草鞋(わらじ)をはきゃあがって、甲府から郡内の方をうろ付いて、それから相州の厚木の方へ流れ込んで、去年の秋頃から江戸辺へ舞い戻っていますよ」
「馬鹿にくわしいな。例の法螺熊じゃあねえか」
「いや、大丈夫ですよ。わっしだって商売だから、入墨者の出入りぐれえは心得ています。あいつ、又なにかやりましたか」
「どうもお此らしい。実はきょう午前(ひるまえ)に、田町の両替屋で悪さをしやあがった」
三島屋の一件を聞かされて、熊蔵は眼を丸くした。
「ちげえねえ。あいつだ、あいつだ。お此という奴は、前にも一度その手を用いた事があります。あいつは此の頃、鮫洲の茶屋に出這入りしているとかいう噂だったが、田町の方へ乗り込んで来やあがったかな。おれの縄張り近所へ羽(はね)を伸(の)して来やあがると、只は置かねえぞ。ねえ、親分。松の野郎を出し抜くわけじゃあねえが、この一件はどうぞわっしに任せておくんなせえ。わっしがきっと埒をあけて見せます」
「お此は鮫洲の茶屋にいるのか」と、半七は少し考えていた。「その茶屋は坂井屋というのじゃあねえか」
「そこまでは突き留めていませんが……。なに、そりゃあすぐに判りますよ」
「出し抜くも出し抜かねえもねえ。松はもう鮫洲へ出張っているのだ」
「そりゃあいけねえ。下手に荒らされると、こっちの仕事が仕難(しにく)くなる。じゃあ御免なせえ。わっしもすぐに出かけます」
気の早い熊蔵は早々に身支度をして飛び出した。女房に茶を出されて、世間話を二つ三つして、半七もつづいて出た。もうこの上は松吉と熊蔵の報告を待つほかは無いので、彼はそれから八丁堀へまわって、熊谷八十八の屋敷へ再び顔を出すと、熊谷はもう奉行所から帰っていた。
「やあ、御苦労。何かちっとは星が付いたか」と、熊谷は待ちかねたように訊いた。
「まだ御返事をする段には行きませんが、ちっとばかり手がかりは出来たようです」
きょうの探索の結果を聞かされて、熊谷は一々うなずいていたが、かの三島屋の話を聞くと、彼はいよいよ熱心に耳を傾けていた。
「じゃあ、三島屋へも外国のドルを両替えに行った奴があるのか。実は半七、奉行所の方へもこういう訴えが出たのだ」
おとといから昨日(きのう)へかけて、日本橋で二軒、京橋で一軒の大きい両替屋へ外国のドルを両替えに来た者がある。全体の金高は十二三両であるが、あとで調べてみると其の三分の二は贋金(にせがね)である。最初の見せ金には本物を見せて油断させ、それから贋金をまぜて出すのである。つまりは本物と贋物とをまぜて使うのであるが、しょせんは一種の贋金使いであることは云うまでもない。贋金づかいは磔刑(はりつけ)の重罪であるから、その詮議は厳重である。その両替えに行った者はいずれも三十七八の女であると云えば、三島屋へ云ったのも同じ者であるに相違ない。こうなると、狐の探索などは二の次で、贋金づかいの探索が大事であると、熊谷は云った。
「その女は黒船の異人に頼まれて両替えに来たのだと云ったそうだ」と、熊谷は付け加えた。「異人の奴が贋金づかいで、女は知らずに持って来たのか。それとも女が贋金づかいか。おれにもはっきりとした判断は付かなかったが、三島屋でそんな掻っ攫いをやるようじゃあ、女はなかなかの曲物で、何もかも承知の上でやった仕事に相違ねえ。お此という入墨者はどんな奴だか忘れてしまったが、そいつに心あたりがあるなら早く挙げてしまえ」
「承知しました」
半七は請け合って帰った。事件はいよいよ複雑になって来たのである。しかもそれらの事件はすべて同一の系統であるらしいと、半七は鑑定した。次から次へと湧いて来る事件も、そのみなもとを探り当てれば自然にすらすらと解決するように思われたので、彼は専ら熊蔵と松吉の報告を待っていた。
あくる日の早朝に、熊蔵が先ず来た。松吉もつづいて来た。二人の報告を綜合すると、入墨者のお此は江戸へ舞い戻って、浜川の塩煎餅屋の二階に住んでいる。彼女は小間物類の箱をさげて、品川の女郎屋へ出商(であきな)いに廻っている。浜川や鮫洲の茶屋へも廻って、そこらの女中たちにも商いをしている。店の忙がしいときには、女中の手伝いに頼まれて行くこともある。そんなことで女ひとりの暮らしには不自由も無いらしく、身なりも小綺麗にしていると云うのであった。
「お此は商売の小間物を日本橋の問屋へ仕入れに行くと云って、ときどき江戸辺へ出かけるそうです」と、熊蔵は云った。
「現にきのうも朝から出て行ったと云いますから、三島屋の一件は彼女(あれ)に相違ありませんよ」
「それから坂井屋のお糸の一件ですがねえ」と、松吉が入れ代って話し出した。「お糸は先月の二十八日の宵から何処(どっ)かへ影を隠してしまったそうです。建具屋のせがれの伊之助を詮議すると、職人のくせに意気地のねえ野郎で、無闇におどおどしていて埒が明かねえのを、さんざん嚇し付けて白状させましたが、やっぱりお糸にかかり合いがあったのです。そこで、当人はいい色男ぶっていると、お糸は伊之助にだんまりで姿をかくしたので、色男も器量を下げてぼんやりしている……。いや、大笑いです。お糸の相手は誰か判らねえが、黒船のマドロスにだまされて、船へでも引っ張り込まれたのじゃあねえかという噂です。小伊勢の巳之助が狐と間違えてお糸の咽喉を絞めたときに、暗やみから出て来て巳之助をなぐり付けた奴は、そのマドロスかも知れませんよ。こうなると、わっしの方はもう種切れで、この上にどうにも仕様が無いようですが……。親分、どうしますかね」
「お此は鮫洲の茶屋へも手伝いに行くそうだが、坂井屋へも出這入りをするのだろうな」と、半七は熊蔵に訊(き)いた。
「出這入りをする処か、坂井屋へは黒船の異人が大勢あつまって来て金(かね)ビラを切るので、お此は商売をそっちのけにして、この頃は毎日のように這入り込んでいるそうです」と、熊蔵は答えた。
「そうすると、お糸とも懇意だろう」と、半七は云った。「お糸の駈け落ちにもお此が係り合っているのじゃあねえか」
「そうかも知れません。ともかくもお此を挙げてしまいましょうか」
「熊谷の旦那からもお指図があったのだ。女ひとりに大勢が出張るほどの事もあるめえが、もし仕損じて高飛びでもされると、旦那のお目玉だ。おれも一緒に行くとしよう」
きょうも幸いに晴れていた。三人は揃って神田の家を出た。 

 

三人が品川の宿(しゅく)へはいると、往来で三十前後の男に逢った。それが女郎屋の妓夫(ぎゆう)であることは一見して知られた。彼は熊蔵に挨拶した。
「きょうもお出かけですか」
「むむ。親分も一緒だ」と、熊蔵は云った。
親分と聞いて、彼は俄かに形をあらためて半七に会釈(えしゃく)した。熊蔵の紹介によると、彼はここの不二屋に勤めている権七というもので、お此が浜川に住んでいることは彼の口から洩らされたのである。半七も会釈した。
「おめえはいいことを教えてくれたそうだ。まあ、何分たのむぜ」
「いっこうお役に立ちませんで……」と、権七は再び頭を下げた。「お此はさっきここを通りましたよ。江戸辺へ行ったのでしょう」
「そうか」
半七は少し失望した。お此はきょうも江戸辺へ仕事に行ったのかも知れない。さりとて、今更むなしく引っ返すわけにも行かないので、権七に別れて三人は浜川へむかった。
「お此が留守じゃあ困りましたね」と、熊蔵はあるきながら云った。
「まあ、いい。おれに考えがある」と、半七は答えた。「建具屋の伊之助というのは何処だ。案内してくれ」
「ようがす」
松吉は先に立ってゆくと、かの丸子の店から遠くないところに小さい建具屋が見いだされた。松吉の説明によると、親父の和助は中気のような工合(ぐあい)でぶらぶらしているので、店の仕事は伜の伊之助と小僧ひとりが引き受けているというのである。勿論、貸家|普請(ぶしん)の建具ぐらいの仕事が精々と思われるような店付きであった。表から覗くと、伊之助は小僧を相手に、安物の格子戸を削っていた。松吉は声をかけた。
「おい、伊之。親分がおめえに用がある。三河町の半七親分だ。すぐ出て来てくれ」
「はい、はい」と、伊之助は鉋屑(かんなくず)をかき分けながら出て来た。彼はきのうも松吉に嚇されているので、きょうはその親分が直々(じきじき)の出張にいよいよおびえているらしかった。
「ここじゃあ話が出来ねえ。ちょいと其処らまで足を運んでくれ」
松吉と熊蔵を店に待たせて置いて、半七は伊之助ひとりを連れて出た。五、六軒行くと細い横町がある。その横町を右に切れるとすぐに畑地で、路ばたに石の庚申像(こうしんぞう)が立っている。それを掩うような楓(かえで)の大樹が恰好の日かげを作っているので、半七はそこに立ちどまった。
「早速だが、おめえはまったく坂井屋のお糸のゆくえを知らねえのか」
「知りません」と、伊之助はうつむきながら答えた。
「お糸は坂井屋へ遊びに来る異人に馴染でもあった様子か」
「坂井屋へは異人が大勢来ますが、お糸に馴染があるかどうだか、それは存じません」
「おめえは異人に自分の女を取られたのじゃあねえか」
伊之助は黙っていた。
「おめえは坂井屋へ手伝いに来るお此という女を知っているだろうな」
「知っています」
伊之助の声が少しふるえているのを、半七は聞き逃がさなかった。
「あの女も異人を知っているのだろうな」
「さあ、それはどうですか」
「お此はお糸と心安くしていたか」
「どうですか」
「お糸はお此が誘い出したのじゃあねえか」
「そんな事はあるまいと思いますが……」
「おい、伊之。顔を見せろ」
「え」
「まあ、明るいところで正面を向いて見せろよ。おれが人相を見てやるから……」
伊之助はやはりうつむいたままで、すぐには顔をあげなかった。半七はその頤(あご)に手をかけて、無理にあおむかせた。
「これ、隠すな。おめえはお此と訳があるだろう。お此は年上の女で入墨者だ。あんな者に可愛がられていると、碌なことはねえぞ。お糸はお此に誘い出されて、売り飛ばされたか、殺されたか。はっきり云え」
伊之助は身をすくめたままで、唖(おし)のように黙っていた。
「さあ、云え。正直に云えばお慈悲を願ってやる。お此は贋金づかいで召し捕られて、もう何もかも白状しているのだ。それを知らずに隠し立てをしていると、おめえも飛んだ係り合いになるぞ。贋金づかいの同類と見なされて、この鈴ヶ森で磔刑(はりつけ)になりてえのか。女にばかり義理を立てて、病人の親に泣きを見せるな。この親不孝野郎め」
伊之助は真っ蒼になって、その眼から白い涙が糸を引いて流れ出した。
「さあ、どうだ」と、半七は畳みかけて云った。「お此の白状ばかりじゃあねえ。四相(しそう)を覚(さと)るこの重忠(しげただ)が貴様の人相を見抜いてしまったのだ。これ、よく聞け。貴様は前から坂井屋のお糸と出来ていた。そこへ横合いからお此という女が出て来て、貴様は又そいつに生け捕られてしまった。お此は年上で、おまけに質(たち)のよくねえ奴だから、邪魔者のお糸を遠ざけようとして悪法をたくらんだ。さあ、それに相違あるめえ」
腕をつかんで一つ小突かれて、伊之助は危く倒れそうになった。半七は暫く黙ってその顔を睨んでいた。
この時、横町の入口から一人の女が駈け込んで来た。そのあとから熊蔵と松吉が追って来た。女がお此であることをすぐに察して、半七はその前にひらりと飛んで出ると、前後を挟まれて彼女は帯のあいだから剃刀(かみそり)をとり出して、死に物狂いに振りまわした。しかもそれを叩き落とされて、更に麦畑のなかへ逃げ込もうとする処を、半七は帯をとらえて曳き戻した。熊蔵と松吉が追い付いて取り押さえた。
「ここじゃ仕様がねえ。品川まで連れて行け」と、半七は先に立って歩き出した。
男と女は子分ふたりに追い立てられて行った。お此の顔には汗が流れていた。伊之助の顔には涙が流れていた。
「芝居ならば、ここでチョンと柝(き)がはいる幕切れです」と、半七老人は云った。「お此という奴はわる強情で、ずいぶん手古摺らせましたが、伊之助が意気地がないので、その方からだんだんに口が明いて、古狐もとうとう尻尾(しっぽ)を出しましたよ」
「古狐……。その狐の騒ぎはみんなお此の仕業(しわざ)なんですか」と、私は訊いた。
「そこが判じ物で……。まずお此という女についてお話をしましょう。こいつの家(うち)は芝の片門前で、若い時から明神の矢場の矢取り女をしたり、旦那取りをしたりしていたんですが、元来が身持ちのよくない奴で、板の間稼ぎやちょっくら持ちや万引きや、いろいろの悪いことをして、女のくせに入墨者、甲州から相州を股にかけて、流れ渡った揚げ句に、再び江戸へ舞い戻って、前にも申す通り、小間物の荷をさげて歩いたり、近所の茶屋の手伝いをしたりして、まあ無事に暮らしていたんですが、それでおとなしくしているような女じゃあありません。お此はことし三十八、相当の亭主でも持って堅気(かたぎ)に世を送ればいいんですが、いつか近所の建具屋のせがれの伊之助に係り合いを付けて……。伊之助は二十一で、親子ほども年が違うのですが、お此のような女に限ってとかくに若い男を玩具(おもちゃ)にしたがるものです。ところが伊之助には坂井屋のお糸という女が付いている。お糸は年も若し、渋皮のむけた女ですから、お此は何とかしてこれを遠ざけて、男を自分ひとりの物にしようと内心ひそかに牙(きば)をみがいているうちに、外国の軍艦が品川へ乗り込んで来て、イギリスが一艘、アメリカが一艘、いずれも錨をおろしました。
幕府はもう開港の運びになっているんですから、戦争になるような心配はありません。軍艦の水兵らは上陸して方々を見物する。しかし、江戸市中にむやみにはいることを許されませんでしたから、高輪の大木戸を境にして、品川、鮫洲、大森のあたりを遊び歩いていました。品川の貸座敷などを素見(ひやか)すのもありましたが、その頃はどこでも外国人を客にしません。料理屋でも大抵のうちでは断わる。ところが、鮫洲の坂井屋では構わずに外国人をあげて、酒を飲ませたり料理を食わせたりするので、世間の評判はよくないが、店は繁昌する。相手は船の人間で、遠い日本まで渡って来たんですから、金放れはいい。坂井屋はこれらの外国人を相手にして、いい金儲けをしたに相違ありません。その給仕に出る女中たちも相当の金になったわけです。
坂井屋では決してそんな事はないと云い張っていましたが、女中のなかには船の連中と関係の出来たものもあったらしいんです。現にお糸という女は、ジョージという男と関係が出来てしまった。それは手伝いに来ているお此の取り持ちで、最初はもちろん慾から出たことですが、どういう縁かお糸もジョージも互いに離れにくいような仲になりました。お此はうまく両方を焚きつけて、お糸にむかってはジョージさんの家(うち)は大金持だなどと吹き込んだので、お糸はいよいよ本気になってしまったんです。その頃は外国の事情も判らず、外国人はみんな金持だと思っているような人間が多かったんですから、お糸が一途(いちず)に信用するのも無理はありません。
しかしジョージは軍艦の乗組員ですから、勝手に上陸することは出来ません。結局お糸が恋しさに上陸してしまいました。わたくしは其の当時のことをよく知りませんが、恐らく脱艦したのだろうと思います。そこで、船が品川を立ち去るまでは隠れていなければいけないというので、お此が手引きをして、ひと先ずジョージを大森在の九兵衛という百姓の家へ忍ばせて置きました。
さあ、ここまではお話が出来るんですが、それから先は少しお茶番じみていて、いつぞやお話をした『ズウフラ怪談』の型にはいるんです。お此の申し立てによると、三月はじめの晩に、なにかの用があって鈴ヶ森の縄手を通りかかると、漁師らしい若い男の二人連れに摺れ違った。二人は一杯機嫌でお此にからかって、その袂などを引っ張るので、お此はうるさいのと癪に障るのとで、一つ嚇かしてやろうと思って、袂から西洋マッチをとり出して、手早く摺りつけて二、三本飛ばせると、二人は火が飛んで来るのにびっくりして、忽々に逃げ出した。そのマッチは黒船のお客から貰って、お此が袂に入れていたんです。今から考えると、実に子供だましのような話ですが、マッチというものを知らない時代には、火の玉がばらばら飛んで来るのに胆(きも)を潰したわけです」
「成程、ズウフラ怪談ですね」
「探偵話にほんとうの凄い怪談は少ないもので、種を洗えばみんなズウフラ式ですよ」と、老人は笑った。「さてその噂が忽ちぱっと拡がって、鈴ヶ森の縄手に狐が出るという評判になりました。その狐は黒船の異人が放したのだなぞと云う者もある。現にその前年、即ち安政五年の大コロリの時にも、異人が狐を放したのだという噂がありました。そこで、今度の狐も品川の黒船から出て来たというような噂が立つ。それを聞くと、お此はおかしくってたまらない。一体、犯罪者には一種の茶目気分のある奴が多いもので、お此も世間をさわがすのが面白さに、それを手始めにマッチの悪戯をちょいちょいやる。時には靴を磨くブラッシに靴墨を塗って置いて、暗やみで摺れ違いながら人の顔を撫でたりしたそうです。いつの代もそうですが、そんな噂が拡がると、いろいろに尾鰭を添えて云い触らす者が出て来るので、狐の怪談が大問題になってしまったんですが、お此がほんとうに悪戯をしたのは七、八回に過ぎないと自分では云っていました」
わたしも狐に化かされたような心持で聴いていた。 

 

それにしても、私にはまだ判らないことがあった。
「小伊勢という料理屋の息子が出逢ったのは、ほんとうのお糸ですか。それとも例の狐ですか」と、私は顔を撫でながら訊いた。
「はは、眉毛を湿(ぬ)らすほどの事はありません。それは狐でも何でもない、本当のお糸なんですよ」と、老人は又笑った。「しかし、それが不思議と云えば不思議でないことも無い。むかしは不思議のように云われたんですが、こんにちで云えば何かの精神作用でしょう。四月二十八日の宵に、お糸が坂井屋の店さきに立っていると、どこからか自分の名を呼ぶ者がある。それが彼(か)のジョージの声らしく聞えたので、呼ばれるままにふらふら歩き出して、半分は夢のように鈴ヶ森まで行ってしまったんだそうです。そうして、睨みの松あたりをうろついているところへ、小伊勢の巳之助が通りかかった。さあ、そこで間違いが出来(しゅったい)したので……。
坂井屋のお糸と若狭屋のお糸とは、その名が同じばかりでなく、格好も年頃も似ているので、薄暗いなかで巳之助はその女を若狭屋のお糸と間違えた。お糸の方では巳之助を建具屋の伊之助と間違えた。巳之助は少し酔っていたので、伊之さんと呼ばれたのを巳之さんと早合点してしまったらしい。人違いとは気がつかずにお糸が巳之助にあやまっていたのは、かのジョージの一件があるからでしょう。お糸の顔が眼鼻もないのっぺらぼうに見えたなぞというのは、巳之助の眼の迷いで、もしや狐じゃあないかという疑いから、そんな顔に見えたのだろうと思われます」
「巳之助を殴ったのは誰ですか」
「ジョージです。前に云ったようなわけですから、昼間は表へ出ることが出来ないので、暗くなると散歩に出る。今夜も丁度にそこへ来合わせて、巳之助をなぐり倒してお糸を救ったんです。それから自分の隠れ家へお糸をかかえて行って介抱すると、お糸は息を吹き返しました。そこで、どういう相談が出来たのか、お糸は坂井屋へ帰らずに、ジョージのところへ一緒に隠れることになりました。
ジョージを隠まった九兵衛という百姓は、別に悪い奴ではありませんが、ひどく慾張っている。その慾からお此に抱き込まれて、ジョージを隠まったのが身の禍(わざわい)となったのです。お糸が転げ込んで来たことを九兵衛から知らされて、お此は思う壷だと喜びました。こうなれば、お糸も伊之助とは確かに手切れで、男は自分の独り占めだと喜んだのですが、唯それだけでは済ませません。その隠れ家へ時々に押し掛けて行って、云わば一種の強請(ゆすり)のように、なんとか彼とか名を付けてジョージから金を引き出していました。
しかしジョージも日本の金をたくさん持っている筈はありませんから、渡してくれるのは外国のドルです。そこでお此の申し立てによると、外国のお金であるから本物か贋物か自分にも判らない、ジョージから受け取った物をそのまま両替屋へ持って行っただけの事で、贋金を使う料簡なぞは毛頭もなかったと云うんです。又ジョージがどうして贋金を持っていたのか判りません。恐らく支那へ奇港した時に、向うの奴に贋金を掴ませられ、本人も気がつかずにいたんだろうという話でした。そんなわけで、贋金づかいの方は証拠不十分でしたが、三島の店で絵草紙屋のせがれから小判一枚を掻っさらったことは、お此も恐れ入って白状に及びました。入墨者ですから罪が重く、今度は遠島になったように聞きました」
「ジョージとお糸はどうなりました」
「それについて、又ひとつのお話があります。お此の白状で二人のかくれ家は判ったんですが、ジョージは外国人ですから迂濶に手が着けられません。町奉行所から外国奉行の方へ申達して、外国係から更に外国公使へ通知するというような手続きがなかなか面倒です。それやこれやで小半月もそのままに過ぎていると、どこでどう聞き込んだものか、浪士ふうの侍ふたりが九兵衛の家へ突然に押し込んで来て、ここの家に外国人が隠まってある筈だから逢わせてくれと云うんです。そのころ流行の攘夷家と見ましたから、九兵衛は飽くまでも知らないと云う。いや、隠してあるに相違ないと云う。その押し問答の末に、九兵衛と伜の九十郎は斬られました。九十郎は浅手でしたが、九兵衛は死んでしまいました。ジョージはピストルを続け撃ちにして、あぶないところを逃がれましたが、それっきり姿を晦まして何処へ行ったのか判りません。あとで聞くと、羽田あたりの漁船を頼んで、品川沖の元船(もとぶね)へ戻ったらしいんです。九兵衛親子を斬った浪士は何者だか判りません。
お糸は構い無しというので坂井屋へ戻されました。建具屋の伊之助はわたくし共にひどく嚇かされた上に、お此が贋金づかいであると聞いて一時は真っ蒼になったんですが、これも無事に還されました。熊蔵の話によると、お糸と伊之助は再び撚りを戻して、結局|夫婦(めおと)になったということです。狐の正体は先ずこの通り、あなたも化かされましたか。あはははははは」
老人は又笑った。狐が人を化かすのでない、人が人を化かすのであるとは、昔から誰も云うことであるが、まったく其の通りで、わたしも半七老人に化かされたらしい。帰るときに老人は云った。
「御安心なさい。山王下(さんのうした)に狐は出ませんから……」
思えばそれも三十余年の昔である。その欝憤(うっぷん)を今ここで晴らさんが為に、わたしが再び読者諸君を化かしたわけではない。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
諸話

 

岡本綺堂 
明治5年-昭和14年 (1872-1939) 小説家、劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。著名な作品は、新歌舞伎の作者及び「半七捕物帳」などがある。
元徳川幕府御家人で維新後にイギリス公使館に書記として勤めていた敬之助(後に純(きよし)、号は半渓)の長男として東京高輪に生まれる。1873年、公使館の麹町移転とともに麹町元園町に移って育つ。3歳にして父から素読、9歳から漢詩を学び、叔父と公使館留学生からは英語を学んだ。平河小学校(現麹町小学校)中等科第三級編入後、東京府尋常中学(のちの東京府立一中、現東京都立日比谷高等学校)在学中から劇作家を志した。卒業後1890年、東京日日新聞入社。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、1913年まで24年間を新聞記者として過ごす。日露戦争では従軍記者として満州にも滞在した。吉原芸妓をしていた宇和島藩士の娘の小島栄を落籍して結婚。
記者として狂綺堂の名で劇評や社会探訪記事を書きながら、1891年、東京日日新聞に小説「高松城」を発表。1896年、『歌舞伎新報』に処女戯曲「紫宸殿」を発表。1902年、「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」(岡鬼太郎と合作)が歌舞伎座で上演される。この作品の評価はいまひとつだったようだが、その後、「維新前後」や「修禅寺物語」の成功によって、新歌舞伎を代表する劇作家となり、「綺堂物」といった言葉も生まれた。
1913年以降は作家活動に専念、新聞連載の長編や、探偵物、怪奇怪談作品を多数執筆。生涯に196篇の戯曲を残した。1916年には国民新聞、時事新報の2紙に新聞小説を同時に連載(「墨染」「絵絹」)。同年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を開始、江戸情緒溢れる描写で長く人気を得た。怪奇ものでは、中国志怪小説や英米怪奇小説の翻案や、『世界怪談名作集』、『支那怪奇小説集』などの編訳もある。幼少期からの歌舞伎鑑賞を回想した『ランプの下にて』は明治期歌舞伎の貴重な資料となっている。
1918年に欧米を訪問し、作風が変わったとも言われる。1923年9月1日の関東大震災で麹町の自宅・蔵書(日記)を失い、門下の額田六福の家に身を寄せ、その後麻布、翌年百人町に転居。1930年には後進を育てるために月刊誌『舞台』を発刊、監修を務める。1937年には演劇界から初の芸術院会員となる。昭和10年頃からは小説(読物)や随筆は、散発的に『サンデー毎日』誌に書く巷談ぐらいになり、1937年「虎」が最後の読物となるが、戯曲は『舞台』誌で1938年まで発表を続けた。
1939年、目黒にて肺炎により死去。青山墓地に葬られる。没後、元書生で養嗣子の岡本経一が綺堂作品の保存普及を目的として出版社「青蛙房」を創立した。現社長の岡本修一は綺堂の孫にあたる。
また、没後に経一の寄付金をもとに戯曲を対象とする文学賞である岡本綺堂賞が創設されたが、日本文学報国会が運営していたため、終戦とともにわずか2回で終了した。
代表作
戯曲
「紫宸殿」は1902年に歌舞伎座で初演。1908年に二代目市川左團次の明治座での「革新興行」で川上音二郎の依頼で「維新前後」を書く。この後左團次のために65編を書くほどの密接な関係となり、左團次の当り芸シリーズ「杏花戯曲十種」のうちの「修禅寺物語」など6編が綺堂作であり、左團次の生前は他の俳優の上演を許さなかった。「修禅寺物語」は1909年に完成し、1911年に明治座で初演。1927年にパリのシャンゼリゼ座でフィルマン・ジェミエによっても上演された。
1921年に「俳諧師」を書き、翌年新富座で上演、中村吉右衛門が演じる。その後吉右衛門のために「時雨ふる夜」「権三と助十」「風鈴蕎麦屋」などを書いた。
回顧記『ランプの下にて』は、「過ぎにし物語」の題で『新演芸』誌に、1920年から22年と関東大震災をはさみ24年から25年にかけ連載された。続いて『歌舞伎』誌に1929年から30年に前半部を再録。1935年に『明治劇談 ランプの下にて』が刊行、1942年に大東出版社の「大東名著選」に、『歌舞伎談義』と共に『明治の演劇』の題で出版され、「戦時下、青少年の情操陶冶に資する」として文部省推薦本となった。
綺堂自身は、劇評家時代から俳優とは私的な付き合いや楽屋への出入りもせず、劇作に携わって以降も、二代目左團次も含めそれらの事は変わらなかったため、俳優の私生活には筆が及んでない。1949年に再版の同光社版には、綺堂による「明治演劇年表」が入っている。
半七捕物帳
1916年にコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを読み刺激されて探偵小説への興味が起き、自分でも探偵ものを書こうと考えたが、現代ものを書くと西洋の模倣になりやすいので純江戸式で書くことにして、3篇を執筆、『文芸倶楽部』から連載物を頼まれてこれを「半七捕物帳」の題で渡し、翌年1月号から連載された。これが好評となり引き続き執筆する。1919年から「半七聞書帳」の題で、半七が先輩の話を聞き書きする体裁で9編を書き、一旦執筆を終了。その後単行本化されて人気が高まり、1924年の『苦楽』創刊の際、川口松太郎の依頼で続編執筆を依頼されるが、半七はもう書くことが無いと断り、それ以外の昔話ということで、半七老人の知人の三浦老人から江戸期の奇妙な話を聞くという「三浦老人昔話」を連載。1934年に、半七のファンだと言う講談社の野間清治社長の意向で『講談倶楽部』から依頼で半七もの執筆を再開。65歳まで書き続け、最後の作品「二人女房」はまた、綺堂最後の小説ともなった。(1937年まで計69作品となった)
半七ものは綺堂脚色によって1926年に六代目菊五郎が演じたのを始め、これらの昔話の巷談は、戦後の話芸においても落語の林家彦六、三遊亭圓生、講談の悟道軒圓玉、物語の高橋博、倉田金昇などの高座で使われた。綺堂は新聞社時代に榎本武揚や勝海舟も訪問しており、この経験が作品に生かされている。 
 
岡本綺堂『番町皿屋敷』論
 武者小路実篤『二つの心』を視座として

 

一 はじめに 
一九一六(大正五)年二月、東京本郷座において岡本綺堂の新作『番町皿屋敷』が上演された。これは書き下ろし作品で、初演後の同年一二月に平和出版社発行の単行本『両国の秋』に初めて収められた。初演は綺堂との提携で定評の二代目市川左團次一派で、これも左團次のために書き下ろされた。左團次は、この『番町皿屋敷』を得意演目とし、二代目左團次死後もさまざまな俳優によって演じられ、現在でも繰り返し上演されている。綺堂が書いた戯曲の中でも『修禅寺物語』、『鳥辺山心中』と並び、屈指の再演回数を誇り、綺堂の代表作の一つといえる。
『番町皿屋敷』は、その外題名が示すとおり、著名な怪談の一つである皿屋敷伝説を材料とする。皿屋敷伝説と一口に言っても、全国各地にさまざまなバリエーションが存在するため、大まかにでも皿屋敷伝説がいかなるものかをまず確認したい。
伊藤篤は『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社、二〇〇二)で、江戸期の皿屋敷伝説に関わる著作を総合すると、その基本形は次のようになるとした。
一、 一人の奉公人が、主人の秘蔵する一揃いの皿の一枚を過ってこわす。あるいは、その娘に妬みを持つ何者かに皿を隠される。
二、 娘は皿の責任を問われて責め殺されるか、あるいは自ら命を絶つ。夜になると、娘の亡霊が現れて皿を数える。
三、 犠牲になった娘の祟りによって、主人の家にいろいろの禍いが起こり、衰亡していく。
これを皿屋敷伝説の基本形とするなら、綺堂は『番町皿屋敷』でこの基本形を踏襲しながらも大胆に書き換えたことがわかる。主人公の青山播磨と腰元のお菊は、身分の差こそあれ相思相愛の仲である。お菊は播磨の思いを試すため故意に皿を割り、播磨は疑われたことに怒りお菊を手討ちにする。殺されるお菊は怨念を宿すことなく、幽霊として現れることもない。つまり、綺堂は皿屋敷伝説を怪談でなく、純恋愛悲劇に仕立てた。しかしながら、皿屋敷伝説は多様なパターンがあって、何をもって綺堂の創作であると断じるかは、さらに詳細に皿屋敷伝説と『番町皿屋敷』との繋がりを見ていく必要があるだろう。
これまでに『番町皿屋敷』の内容について、その類似性が指摘された説話に彦根の長久寺に伝わる皿屋敷譚がある。しかし岡本経一は、『岡本綺堂読物選集』第二巻(青蛙房、一九六九)の「あとがき」で、「その説話がこの「番町皿屋敷」そのままであった」としながらも、「主従のあいだに起こった恋愛悲劇という着想は、全くの創意工夫である」と断言する。なぜなら、長久寺の説話に酷似しながら綺堂はそれに全く言及していないからだ。そればかりか、一九三三(昭和八)年一二月の『道頓堀』に掲載された「番町皿屋敷」で、恋愛悲劇として扱ったことについて「勿論その全部が私の空想であること云ふまでも無い」と言い切る。つまり、長久寺の説話との類似性は指摘できるものの、綺堂が参考にしたと断定するには根拠に乏しい。
本論では、このあとに触れるように越智治雄の言及があるのみの『番町皿屋敷』と皿屋敷伝説の関わりや、綺堂が何を参考として執筆したかを改めて明らかにしていく。また、その過程で浮かび上がった武者小路実篤の戯曲『二つの心』との関連についても言及する。 
二 『番町皿屋敷』と皿屋敷譚

 

綺堂は初演時に、執筆にあたって怪談の皿屋敷を材料としたことを前提に、皿屋敷伝説について自らが知るところを語る。
一体、私は麹町、加之番町の近所に多年住んでゐるので小児の時分から番町皿屋敷といふ名は頭に沁みてゐました。其の事蹟は能く判りませんが、江戸砂子などにも『皿屋敷は牛込御門の内。むかし物語に云ふ、下女誤つて皿一枚を井に落す、其科によりて殺害せられぬ。怨念彼の井に止まり、毎夜その女の声にて一つより九つまでを数へ、十を云はで泣叫ぶ、声ありて形無し。よつて皿屋敷と云ひ伝ふ。云々。』とあるのを見ると、余ほど古くから云ひ伝へられてゐるものと思はれます。新編江戸誌にも同じやうなことが記されて、其の場所に番町ではない、麹町三軒屋(隼町)だと説明してゐます。(「『皿屋敷』のこと」『演藝画報』一九一六・三)
そして、「皿屋敷は江戸の番町ばかりでなく、播州にも此の伝説があつて加之お菊虫などゝ云ふ御景物までが附いてゐます」とし、仙台、雲州松江、熊本の皿屋敷を紹介し、「支那にも同じやうな伝説があるのを見ますと、この伝説の出所は支那かも知れません」と述べている。
綺堂が材料としたものについて、岡本経一は先に挙げた『岡本綺堂読物選集』第二巻の「あとがき」で、「明治三十二年六月発行の風俗画報増刊「新撰東京名所図会」麹町の部に、番町の旧事として番町皿屋敷の説話を載せている」とし、「番町皿屋敷もこれにヒントを得たに違いない」と言及する。
皿屋敷の事柄が記載されているのは、一八九九(明治三二)年六月二五日発行の『風俗画報』臨時増刊「新撰東京名所図会 第十九編」である。その中の「番町皿屋敷」の項には、綺堂が言及した『江戸砂子』、『新編江戸志』の内容がほぼそのまま載せられ、播州の「おきく虫」の記述や、皿屋敷伝説が番町や播州のみならず、雲州松江や熊本にあることも記されている。これらから岡本経一が指摘するように、この記事を綺堂が参考としたことは間違いない。では一体これらの情報が戯曲『番町皿屋敷』にどのように活用されたのか。
例えば、綺堂の『番町皿屋敷』で主人公の名は青山播磨だが、これも『風俗画報』の記事を参考にした可能性がある。皿屋敷伝説に登場する主人の名は、青山鉄山、青山将監、青山大膳などがある。その中で播磨の名が見られるのは、同記事中にある『堤醒紀談』で、主人は「小幡播磨」とされている。この中で、「播磨」の名前は、播州から播磨が連想されたもので、播州皿屋敷の名残かもしれないと説明されている。綺堂が「播磨」を用いたのは、番町皿屋敷の由来が播州にあると考えていたからかもしれない。
皿屋敷譚で最も重要な場面は、なんと言ってもお菊の皿数えであろう。『番町皿屋敷』での皿数えは、怪談話とは大きく違う。播磨は、皿一枚が惜しくてお菊を手討ちにするのではないと、お菊に残りの皿を数えさせて割ってみせる。播磨のように、お菊が割った皿以外の残りを割ってしまう話と似たものが『風俗画報』にも紹介されている。『積翠閑話』にある「重宝の皿」という項の記述である。これは、中村経年(戯作者の松亭金水)によって一八五八(安政五)年に書かれたもので、『日本随筆大成 第二期10』(吉川弘文堂、一九七四)の「解題」によれば、婦女子の教誨として著述されたために教訓譚としての側面が強い。
『積翠閑話』では、冒頭で「江戸番町の辺にや。何某といふ人の家」に重宝の皿があって、「侍女の菊」が過ってそれを割り、定めによって主人に殺されて井戸に沈められたと、皿屋敷伝説を説明する。これを「陶器を以て人に易ふる残酷の仕方ならずや」として次のような話を続ける。上野の国に士人があって、その家に重宝の皿二〇枚がある。あるとき婢女が過ってその一枚を割ってしまう。それを聞いた同じく屋敷に雇われている米舂男は、杵で残りの一九枚を全て割ってしまう。米舂男は、「この皿一枚を破る時は。かならずその人の命を断とは。道理にあたらぬ残酷ならずや。元この皿は陶器なり。年を多く経る間には。みな盡く破れつべし。その度毎に人命を断に至らは二十人の命を失ふ歎くに余りあることならずや。吾今一人して二十枚を一回にこぼちやぶるといへども。わが一人の命に過ぎず」と説く。それを聞いた主人は、米舂男の道理に感心し、男を武士に取り立てたと結ぶ。
ここで米舂男は、皿を割れば命を奪うという不合理さを説く。この皿屋敷譚に共通する不合理さと、『番町皿屋敷』の播磨が残りの皿を打ち割って、一枚の皿のためにお菊を殺すわけではないと示すことは、合理性を問題とする点で同じといえる。『積翠閑話』の逸話は、皿を割った侍女が死なねばならない、皿屋敷譚が持つ不合理性を強く意識させ、播磨の皿割りは、封建的な不合理さから逸脱した問題意識を明示する。綺堂が怪談から恋愛悲劇に書き換えるにあたり、その不合理さゆえに幽霊となって現れるお菊の死に方に、封建時代の慣習を超えた近代に通じる合理性を求めたことは想像に難くない。
しかし、綺堂が『風俗画報』の記事からのみ着想を得たとは言い切れない。皿屋敷伝説は古くから歌舞伎や浄瑠璃で演じられ、広く人口に膾炙した物語であり、皿屋敷を扱う文献も数多い。その中で、越智治雄は「皿屋敷の末流」(『文学』一九六八・九)で「文化年中に筆録されたとみられる」、巷説を集めた『久夢日記』と綺堂の『番町皿屋敷』との関連を指摘する。越智が着目したのは、『番町皿屋敷』で青山播磨が水野十郎左衛門率いる白柄組に所属しており、幡随院長兵衛の逸話2が作品に組み込まれている点である。越智は『久夢日記』に、すでに皿屋敷譚と幡随院長兵衛の逸話の融合がみられるとし、「綺堂の「番町皿屋敷」の第一場で作者が設定した播磨のシチュエイションにも類想がすでにあったと考えてよい」と指摘した。
『久夢日記』では、前半部が皿屋敷譚にあたる。一六八一(天和元)年三月、場所は牛込の大久保彦六屋敷、彦六は下女の藤に執心するも、藤には辰五郎という夫があり、彦六の意に従わない。彦六は恋が叶わぬ腹いせに、屋敷にある十枚揃いの南京皿一枚を隠し、藤にその皿を詮議するといって、終日終夜、繰り返し皿を数えさせる。そのうちに彦六が居眠りをすると、藤は「一つ二つ三つ」と数えながら、屋敷の井戸へ飛び込んで死んでしまう。その後、井戸を埋め立てるが、夜毎、井戸のあった場所から「一つ二つ三つ九つ、一枚たらぬあらかなしや」と泣き声がする。驚いた彦六の妻子や家来は三日も経たないうちに屋敷から逃げ、彦六ひとりが残った。困った彦六が懇意の水野十郎左衛門に相談すると、水野は彦六を自分の屋敷へ引き取る。しかし、それから一日二日経った時、彦六は身を震わせて、藤に取り憑かれたように皿数えを延々と繰り返すようになり、最期には狂い死にする。
越智治雄が指摘するように、主人にあたる大久保彦六は水野十郎左衛門と関係の深い旗本奴であり、『番町皿屋敷』の青山播磨も、水野十郎左衛門を頭目とする旗本奴の集団、白柄組に属する。この播磨の設定は、綺堂が播磨とお菊を相思相愛の仲に設定したことと並んで、恋愛悲劇たる『番町皿屋敷』の根幹を支える要素である。
『番町皿屋敷』は「明暦の初年」と時代設定がなされ、天下泰平の世で、武士としての存在意義を見出せず鬱屈した思いを抱える青山播磨の境遇が大きな意味を持つことになる。戦もなく、町奴との喧嘩で鬱憤を晴らす播磨にとっての生きる意味は、お菊への恋に他ならない。第二場で、播磨がお菊に向かい「白柄組の附合にも吉原へは一度も足踏みせず、丹前風呂でも女子の杯は手に取らず。仇同士の町奴と三日喧嘩せぬ法もあれ、一夜でもそちの傍を離れまいと、堅い義理を守つてゐるのが、嘘や偽りでなることか」と語る。すなわち、播磨にとって恋が最も大切だった。その恋を疑われ、ついにはお菊を斬ることで表れる播磨の恋に対する執念は、こうした境遇なくしては語れない。つまり、播磨が白柄組の一員であることは、播磨の鬱屈した状態を表す恰好の設定であり、物語を恋愛悲劇へと導く重要な要素といえる。 
三 キーワードとしての「旗本奴」

 

この設定を綺堂が、『久夢日記』によったのかは定かではないが、越智治雄がいうように綺堂自らが編み出したとは言い切れないだろう。『久夢日記』のように、主人が旗本奴という設定は、『久夢日記』の後、一七五八(宝暦八)年に馬場文耕が書いた『皿屋舗辨疑録』も同様である。『久夢日記』では牛込の皿屋敷譚だったが、『皿屋舗辨疑録』では番町の出来事とされる。また、人物名は「青山主膳」と「菊」とされ、皿屋敷譚での標準的な名称になっている。
主膳は、旗本奴の「大小の神祇組」に属する。補足すると、本来、水野十郎左衛門は大小神祇組の頭目とされ、綺堂が使う「白柄組」は、それとは別の旗本奴集団とするものもあれば、大小神祇組の俗称が白柄組であるともされる。綺堂は幡随院長兵衛と水野十郎左衛門の逸話をその後二度にわたり戯曲化した。一九二七(昭和二)年六月に歌舞伎座初演の『水野十郎左衛門』と、一九三五年五月、六月、一一月に東京劇場初演の三部作『幡随長兵衛』である。『水野十郎左衛門』でも水野は「白柄の大刀をたづさへ」た「白柄組」の頭目と表記され
る。だが『幡随長兵衛』の第三部では、「水野十郎左衛門、三十三歳、五千石の旗本にて神祇組の頭領」とされ、同じ旗本の坂部三十郎の台詞には「神祇組を解散すれば、そのほかの白柄組、六法組なども、自然に崩れてしまふに決つてゐる」とある。ここでは綺堂が白柄組と神祇組を別集団として扱い、作品によってその設定が揺れている。幡随院長兵衛の逸話を歌舞伎に仕組んだ代表的作品、河竹黙阿弥の『極付幡随長兵衛』(一八八一年、東京春木座初演)で、水野は白柄組とされているため、『番町皿屋敷』はこれに倣ったのかも知れない。
『皿屋舗辨疑録』に話しを戻す。『皿屋舗辨疑録』でも皿屋敷譚と旗本奴が関連づけられているが、幡随院長兵衛と水野十郎左衛門の逸話が直接語られることはなく、二人が登場することもない。この中で青山主膳は、「不仁不義なる人」、「極重悪人」と徹底的に悪人として描かれ、その「殺伐の心」を強調するために、「公儀の威勢を借りて町人百姓を苛め、是れを己れの楽み」とする旗本奴の一人と位置づける。人物の性質を表すキーワードとして、「旗本奴」が活用されたことをみると、『皿屋舗辨疑録』と綺堂の『番町皿屋敷』の手法は近似する。『番町皿屋敷』も、水野十郎左衛門は名前が出されるのみである。「旗本奴」は、播磨の荒れた日常、幕切れで生きる意味を見失い町奴との喧嘩へ駆け出す精神構造の裏付けとして機能している。つまり、皿屋敷譚と長兵衛の逸話の融合は、物語への組み込み方の点で、越智が指摘する『久夢日記』よりも、『皿屋舗辨疑録』に類似性を見出すことができる。綺堂が参考とした先述の『風俗画報』には、「皿屋敷辨疑といふ書」と書名のみだが触れられており、綺堂がその存在を知らなかったとは考えにくい。加えて、同記事中に『久夢日記』が取り上げられた箇所はない。
綺堂は先に挙げた「『皿屋敷』のこと」で播磨について、「これから先は何うなるでせうかそれは観客の想像に任せたいと思ひます」という。自暴自棄のうえに水野率いる白柄組であるから、皿屋敷の基本形に則った、その後の青山家の衰亡に疑いの余地はない。のちに『番町皿屋敷』は、一九一八(大正七)年に新潮社から出版された『修禅寺物語』で小説化され、ここで綺堂はこの戯曲の続き、つまり播磨のその後を描いた。その後の播磨は、喧嘩に明け暮れて荒れた生活を送る。播磨の屋敷もお菊の幽霊が出ると町の噂になる。そのうち、水野が長兵衛をだまし討ちに殺害すると、町奴の逆襲が始まり白柄組が襲われる事件が起こる。それが幕府の知るところとなり、水野は切腹を命じられ、白柄組は消滅する。そして伯母の眞弓が播磨のもとにやってきて、「白柄組のかしらと頼む水野殿が亡びた以上、お身たちとても安穏では済むまい。何かのお咎めのないうちに、いっそ見事に腹を切りゃれ」と進言する。播磨は伯母の言葉に従い、その夜に切腹の準備をしていると、井戸から青い炎が燃え上がり、お菊の幽霊が現れる。お菊の清らかな顔を見て、「お菊のたましいは自分を怨んでいない。こう思うと、播磨は俄かに力強く」なり、切腹する。
小説版では、お菊の幽霊が登場するが、言葉を発することもなく、ただ播磨のことを見つめる。播磨に見えるお菊の幽霊は、播磨を苦しませる存在ではない。播磨の最期は、あくまでも白柄組に所属した武士の分別といえ、白柄組に所属する者としての予定調和の終わりを迎える。しかし戯曲の幕切れですでに、「一生の恋を失うて⋮⋮」、それ以外の何ものにも生きる価値を見出せない「あたら男一匹」のその後は、身を滅ぼしていくほかないのである。
綺堂は「『皿屋敷』のこと」で、皿屋敷伝説をどう作り替えたかったかを述べる。
何うかして殺す方にも殺される方にも相当の理屈があつて、何方にも同情を惹き得るやうに書いて見たいと思ひ立つたのが、この脚本を書く最初の動機でした。で先づ何かの面倒を避ける為に、主人の青山播磨と召仕のお菊とを得心づくの恋に陥して置きました。
皿屋敷譚を書き換える上で綺堂が掲げた眼目は、殺す側と殺される側の「理屈」であった。これは、『風俗画報』で取り上げられた『積翠閑話』が、皿と人の命を引き換えることを問題とする意識と共通する点である。米舂男が主張した皿屋敷譚の不合理さを、綺堂は恋愛関係の男女の理屈にすり替えたと解釈できる。
そのために綺堂は、播磨とお菊を「得心づくの恋に陥し」た。そして登場人物を恋愛に生き恋愛に死ぬような、恋愛至上主義的傾向を持つ人物へと形作っていく。播磨が恋愛を第一に考えていることは先述のとおりだが、『皿屋舗辨疑録』では悪人を想起させる「旗本奴」という鍵を、綺堂は恋愛を絶対視する人物に仕立てるための鍵へと置き換えた。お菊は、故意に皿を割る行為そのものに、恋愛に生きる姿が表れている。播磨への疑いは、身分違いの恋のために起こる悲劇である。自分は腰元という身で相手は主人、しかも播磨には伯母の眞弓から身分にふさわしい縁談を持ちかけられているのを知って疑念を抱いた。お菊にとってこの恋は、未だ主従関係の中にある。そこで、十太夫から「万一誤つて其の一枚でも打砕いたら厳しいお仕置、先づ命は無いものと覚悟せい」と言われても、皿を割って命をかけて播磨の心を試すお菊もやはり恋愛に生きる人である。そして、「此上は何のやうな御仕置を受けませうとも、思ひ残すことはござりませぬ。女が一生に一度の男。(播磨の顔を見る。)恋に偽りの無かつたことを、確かにそれを見極めましたら、死んでも本望でござりまする」と播磨に斬られる姿には、これまでの皿屋敷譚で語られてきたような無念なお菊の姿はない。むしろ、「一生の恋も亡びた」無念さが斬った播磨に残された。皿屋敷譚に通底する皿を割った下女に対する因習的な断罪が、ここでは恋を疑った男女間の罪に転換している。
双方にとって命をかけた恋である。身分違いの恋だからこそ疑念が生まれ、それに苛まれ罪を犯したお菊は死なねばならぬ。「一生の恋」に生きる播磨が、その純愛を疑われれば、斬らねばならぬ。綺堂が付した「理屈」とは、皿を割るという行為が、すなわち真実の恋を割ることの意味づけ、またそれに至るための播磨とお菊が生きる時代を色濃く反映させた精神の構築といえる。
綺堂は、青山播磨のような武士としての自らの価値を見出せない「武士」を描き続けた。先にも触れた、一九二七年の『水野十郎左衛門』や三五年の『幡随長兵衛』に登場する水野十郎左衛門も播磨と同じく、天下泰平の世の中で喧嘩に明け暮れることで、武士としての存在意義を見出そうとする人物である。また、同じ題材を重ねて書いていることからも、綺堂が長兵衛と水野の逸話にとくに執着していたことが窺える。長兵衛を殺した後、水野が切腹するまでを描いた『水野十郎左衛門』は三幕物、幡随院長兵衛の一代記といえる『幡随長兵衛』は三部構成で、第一部と第二部が三幕ずつ、水野が登場する第三部にいたっては四幕あり、一つのテーマを扱った作品としては綺堂が書いた戯曲の中でも破格に長い。
これらで描かれる水野も町奴との喧嘩に明け暮れる。『幡随長兵衛』第三部で、水野はその心情を語る。
元和の大阪御陣以来、天下は太平、弓は袋に、太刀は鞘に、まことに目出たい世の中とは、誰も彼もが云ふことであるが、目出たくないのは我々武士の身の上だ。世がおだやかになるに連れて、なんとなく邪魔物あつかひにされる。(中略)また一方には、町人がめざましく繁昌する。その大名と町人のあひだに挟まつて、一番みぢめなのは御直参の旗本だ。右を見ても左を見ても景気のいゝ世の中に、不景気なのは旗本ばかりだ。御直参といふ名前ばかりは立派でも、借金は殖える、世間からは邪魔にされる。大きい声では云はれぬが、公儀ですらも此頃は、大勢の旗本を厄介物のやうに思つてゐられるらしい。
旗本武士の身の上をこのように語り、「つまりは自棄半分にあばれてゐるのだ。生れ付きおとなしい奴や意気地のない奴等は、唯ぼんやりと生きてゐられるかも知れないが、血の気の多い侍は、かうでもしなければ、生きてゐられないのだから仕方がない」と付け加える。では、播磨を含め、こうした境遇の旗本奴に綺堂がこだわったのはなぜか。それは綺堂自身の境遇とも重なるからではないか。岡本家は武士の家柄で、綺堂の父は佐幕派として彰義隊にも参加し、明治維新後は改名し英国公使館に勤めた。綺堂の『明治劇壇 ランプの下にて』(岡倉書房、一九三五)によれば、綺堂が就職を考えたとき、「時は恰も藩閥政府の全盛時代で、いはゆる賊軍の名を負つて滅亡した佐幕派の子弟は、たとひ官途をこゝろざしても容易に立身の見込みが無ささう」な境遇の中で、歌舞伎の狂言作者を志した。綺堂の父も「こんな事にでもしなければ我子を社会へ送り出すの道がないと考へた」から、狂言作者の道を了承したのだという。綺堂が歩んできたのもまた、士族の家柄であることに誇りを見出せない時代であった。綺堂が水野十郎左衛門や青山播磨のような旗本奴にこだわった理由はここにあるのではないか。『幡随長兵衛』の長兵衛とても同じと捉えてよい。長兵衛は、士分でありながら父が浪人のため武家に奉公し、そこで主人を守るため武士を殺して、のちに町人となった。町人になると旗本奴の横暴が目に余り町奴を組織して、旗本奴とやり合う事になる。そこには、武士に逆らえない町人の鬱屈した思いがある。水野にしても長兵衛にしても、それぞれが社会の日陰にいる。そして長兵衛は武士になれなかった士族でもある。綺堂は、水野や長兵衛、そして播磨のような人物を描きながら、自らの境遇を投影したのだろう。 
四 『番町皿屋敷』と『二つの心』の関係

 

『番町皿屋敷』が初演時にどのように受け止められたか。一九一六(大正五)年二月に初めて上演されたとき、同時代の劇評家たちは、この作品が持つ類似性を指摘している。以下にそれらを並べる。
・中内蝶二「二月の本郷座」(『萬朝報』二月一一日夕刊)
 男が女を飽くまで愛しながらも、強い武士気質の為に女を斬る処は『二つの心』に似てゐた。
・朗「本郷座の二番目」(『時事新報』二月一二日)
 武士の意地で女を斬り棄てるといふ筋、どうやら先頃の『二つの心』に似たとこもある
・凡鳥「本郷座―左團次、延若、芝雀―」(『國民新聞』二月一四日)
 『二つの心』めくのがチヨツト気になりました
現代の我々のなかで『番町皿屋敷』を観て、もしくは読んで、『二つの心』という作品を思い浮かべる人がどれほどいるだろう。これは、同時代人だからこその指摘といってよいのかも知れない。その後に、『番町皿屋敷』と『二つの心』との類似性に言及するものは見当たらない。『二つの心』は武者小路実篤の戯曲である。一九一二(大正元)年一一月に『白樺』に発表され、初演は『番町皿屋敷』に近く、一九一五年一一月のことである。喜多村緑郎、川上貞奴らによって新富座で一一月二九日から上演された。『番町皿屋敷』初演と二ケ月ほどしか隔たりがなく、劇評家たちの記憶に新しいわけだ。
この『二つの心』の中心人物は、「殿様」と「腰元」で、名前はない。殿様は先頃妻を亡くしている。妻が病気で苦しんでいるとき、殿様は腰元に言い寄った。腰元は殿様を蔑み、その当てつけに「近習」とよい仲になっている。屋敷の空き地に用意された磔刑台の上で腰元は語る。殿様に殺されるのを覚悟で近習に近づいたこと、そして早く自分を殺せと。しかし殿様は、お前が私を愛しているのを知っていると述べ、自分と生きてくれと頼む。また、真心を見せてくれれば、お前が望むように殺してやると言う。腰元はそれを聞き、殿様を一目見たときから慕っていたと打ち明け、奥様が病気になると、奥様の死を望んだと吐露する。だが奥様が病気で苦しむ姿を見て、神様に心を入れ替えると誓った。そんな折、殿様が言い寄ってきた。死んだ奥様へのお詫びに、せめて殿様に憎まれて死のうと決心した。腰元はそう語り、改めて殺してくれと頼む。躊躇する殿様に腰元は元の傲慢な態度で罵ると、殿様は「お前の思ひは叶へてやる」と首を切り落とす。最後に殿様は「あはゝお前の望みは叶へてやつた。俺はお前のことを思ひだす度に強くなるだらう。それにしてもお前はあまり弱かつた。(首を手にとり見つめながら)美しい顔だ、又とない清い顔だ」とつぶやく。
武者小路は、『武者小路実篤全集』第一四巻(新潮社、一九五五)の「後書き」で、「かいた時は一寸得意だつたが、今時の人には同感されにくいものと思ふ。乃木大将の殉死にある強い感じを受けたのが、之をかく一つのヒントになつたと自分では思つてゐるが、乃木大将の死に自分は厚意を持つて居たわけではないが、生きるよりも死を撰びたい人の気持を感じたのだ」と述べる。つまり、この芝居で奥様への義理を立てて死ぬ腰元は、乃木希典の殉死に着想を得た。筋を追うと、殿様が意地で腰元を殺す最後は『番町皿屋敷』と共通するのかもしれない。しかしそれは、表層に過ぎないだろう。
紅野敏郎は、「「白樺」論争―「二つの心」上演をめぐって―」(『國文學 解釈と鑑賞』一九七〇・六)において、「従来、まつたくふれられていなかつた秋田雨雀と武者小路実篤との「二つの心」上演に関する応酬にのみ限つて」、新聞記事や雨雀の日記を整理した。本論では、それに基づいて、新たに『二つの心』論争と『番町皿屋敷』との関連に踏み込んで論じてみたい。
この論争は、雨雀が『時事新報』に「武者小路氏作『二つの心』の上演」という批評文を発表したことに端を発する。紅野は、「秋田雨雀が「時事新報」(大正四年十二月七日、十一日)誌上において、「武者小路氏の『二つの心』の上演」という一文を書いた」としているがこれは誤りで、雨雀は一九一五(大正四)年一二月七日、一一日、一三日の三回にわたり書いた。ただし、同じ『時事新報』の一二月一七日に掲載された武者小路の返答、「秋田雨雀君に」の末尾には「(十一日)」と日付が入っており、武者小路が冒頭で「君の『二つの心』についての批評はまだ終つてゐませんが」と言うように、雨雀の一三日掲載の文章を読む前に反論を試みた。なお、雨雀の一三日の記事は、この戯曲に対してというよりも、舞台装置や役者への批判を主に書いている。その後、一二月二六日の『読売新聞』で雨雀が「武者小路君に(『二つの心』に就いて)」で武者小路の文章へ返答している。
雨雀は「武者小路氏作『二つの心』の上演」で、次のように語る。
侍女の心には『生活』に対する心が少しも目醒めてゐない。若い『愛』と『生活』に対する執着の心が芽を持ちながら、全く生活に不用な感情のために壓せられて『死』を願つてゐる。この戯曲が舞台の上に展開されて行く間に最も強く感じたことはこの事であつた。(中略)『二つの心』の侍女の心には所謂『すね者』の心しか入つてゐない。(中略)たゞ口癖のやうに、
『私は死にたうございます! 早く殺してくださいまし!』と叫んでゐる。『何のために?』『何ういふ必要があつて?』女は何等の理由なしにたゞ『死』を求めてゐるやうにも思はれる。またもう一つの疑問は男の女を真実に殺す時の心理状態が不明であることだ。(中略)この芝居では主人公の意思は全く不明のまゝでカーテンが下されてしまふ。(一二月一一日)
雨雀が批判するのは、殿様と腰元のそれぞれの動機が明確でない点である。なぜ腰元は死を選び、なぜ殿様は腰元を斬ったのかが解らないという。これに対して、武者小路は「秋田雨雀君に」で返答する。
腰元が死ぬのはたゞ奥様の亡霊にたいする責任です。腰元が生きやうかと思つた瞬間に腰元の心には奥様の影が浮んだのです。昔だと幽霊でも出す処です。今時の人は幽霊を出す必要を感じないと思つたのは私の買ひかぶりかも知れません。(中略) 私はあの脚本で何をかゝうとしたかと云へば簡単です。自由な殿様が不自由な腰元を助けやうとして助けることの出来なかつた悲しみ淋しさをかゝうとしたのです。
武者小路は「亡霊」に苛まれる「不自由な腰元」を、殿様が自らとともに生きさせることで、その不自由から解放しようとし叶わなかった物語を書いた。「亡霊」とは奥様への義理であり、『二つの心』は義理のために死ぬ者を描いた作品といえる。
綺堂は、この応酬を認識していたとみて差し支えない。というのも、綺堂は同じ『時事新報』で、『鳥籠』という長編小説をこの時に連載していたからである。演劇に携わる綺堂が、これらの文章を見過ごすとは考えにくい。そして綺堂が「『皿屋敷』のこと」で、「何うかして殺す方にも殺される方にも相当の理屈があつて、何方にも同情を惹き得るやうに書いて見たいと思ひ立つた」ことは、まさに雨雀が指摘した登場人物たちの「意思」の明確化を意識したものといえる。なぜ腰元は殺されねばならないか、殿様は腰元を斬らねばならないか。雨雀はこの点が観客に伝わらないことが問題だと語った。綺堂がそれにこだわって執筆したのは、『二つの心』論争に影響されたからである。
しかし、『二つの心』は『番町皿屋敷』と異質な主題を持った戯曲といえる。ただしどちらも義理を問題とする点では共通している。綺堂のそれは、播磨の義理をお菊が疑うことで起こる悲劇である。しかし、『二つの心』で殿様が腰元を斬る理由として挙げられた「不自由な腰元」という位置づけは、お菊には当てはまらない。播磨は、お菊の不自由さを助けようとして失敗したわけではない。家宝の皿を割ってまで心を試される播磨にとって、お菊を斬ることは、自分への不義理を犯したことを無念に思い、その罪を裁くことだった。またそれは、播磨が「若し偽りの恋であつたら、播磨もそちを殺しはせぬ」と語ることから、この恋が真実だったことの証しでもあった。そして、『二つの心』では、腰元は自らの願望を捨てて、奥様への義理のために死を望み殺される。しかし、お菊は命を賭して播磨を試し、その恋を貫徹して死んでいく。お菊は本懐を偽って死ぬのではない。つまり、武者小路は義理のために死を選ぶ者を、綺堂は義理に対する猜疑心によって死ぬ者を描いたのであり、それぞれ義理を扱いながらも主題は異なる。そして、主題からもたらされる結末は、両作品を決定的に分かつ。『番町皿屋敷』の播磨は、「一生の恋」を失い、自暴自棄のうちに喧嘩に身を投じ、破滅的な未来を示唆して終わる。一方で『二つの心』の殿様は、「俺はお前のことを思ひだす度に強くなるだらう」と、腰元の死を自らの糧として生きていくことを示す。両者は、人生における恋の比重があまりにも違う。播磨の恋は人生そのものといってよいが、殿様の恋は飽くまで人生の一部に過ぎない。この違いは、『番町皿屋敷』と『二つの心』の類似性を考える上で、決して小さくない。
劇評家が指摘するように、『二つの心』と『番町皿屋敷』にはその設定で似通ったものがあるのは確かだ。殿様と腰元という関係、腰元が裁かれる場所は屋敷の中、二人は相思相愛であり、最後は殿様が腰元を斬り殺す。『番町皿屋敷』との類似点を挙げると、『二つの心』への新たな見方が可能となってくる。つまり、『番町皿屋敷』が『二つの心』に似ていると捉えるよりも、これは『二つの心』と皿屋敷譚との類似性をみるべきではないか。身分や場所などが皿屋敷譚と共通で、『二つの心』では後半の腰元の吐露で相思相愛とわかるが、それまでは殿様が一方的に腰元に言い寄ったように見せる。こうした一方的な好意は、皿屋敷譚でも散見されることから、それらの共通点は『二つの心』と皿屋敷譚の間にある類似性ということになる。また論争で、武者小路は「奥様の亡霊」や「幽霊」という語を使う。つまり武者小路は、皿屋敷の世界に仮託して『二つの心』を執筆したと考えられる。おそらく、綺堂もそう感じたのだろう。そして論争に影響され、『二つの心』と同じ皿屋敷譚を脚色し、「理屈」にこだわって『番町皿屋敷』を書いた。『番町皿屋敷』の執筆に、『二つの心』および武者小路と雨雀の論争が大きく関わっていたと見なしてもよいだろう。 
五 おわりに

 

この論争から、先述の紅野敏郎は『二つの心』を次のように評する。
「二つの心」が名実ともにみごとな一幕ものとはいささかいいかねる。「殿様」や「腰元」の出てくる一種の歴史ものではあるが、いわゆる歴史意識なるものがあつて作り出されたものではない。一定のきびしい歴史的条件のなかで人物が生き死にするのではない。「殿様」である必然性も「腰元」である必然性もない。ただ武者小路その人のなま身の思想が「殿様」のかたちを借り、「腰元」のかたちを借りて打ち出されているだけである。写実のドラマではなくて、観念のドラマなのである。
この言葉をそのまま『番町皿屋敷』に照らし合わせれば、『番町皿屋敷』も、階級闘争を伴うような「いわゆる歴史意識」を問題とするものではない。綺堂は、播磨とお菊の主従を越えようとする恋愛関係から、「必然性」を含んで生まれる私的な悲劇を展開させた。そして『番町皿屋敷』も、綺堂の鬱屈した思いを投影した「観念のドラマ」であることは先述のとおりである。しかしその観念に、太平の世に生きる旗本奴という、周到な「歴史的条件」を付したことで、「必然性」に乏しい『二つの心』とは明らかな違いを見出せる。『番町皿屋敷』には、「殺す方にも殺される方にも相当の理屈」があるからだ。そして、その「理屈」が武家社会の因習的で不合理な理屈ではなく、人間本来の感情に由来する理屈だからこそ、『番町皿屋敷』は多くの皿屋敷譚の中でも、今日もなお十分に鑑賞に堪えうるのである。  
 
綺堂の知人(友人・師たち)

 

 (友人)
榎本虎彦 (1866〜1916)
歌舞伎作者。別号破笠。福地桜痴の書生として学び、師の後を引き継いで歌舞伎座の立作者となった。「安宅の関」「名工柿右衛門」「南都炎上」などの代表作がある。
劇作家希望の若き綺堂を、築地の福地桜痴の自宅へ案内したのは、榎本虎彦であった。近所の若い娘たちにからかわれたり、竹葉で好物の鰻を食しに行くのも二人であった。また、やまと新聞社時代などは、師の桜痴が編集長で、綺堂と虎彦は、ともに机を並べている。虎彦は、師であり、編集長である桜痴の“間”や“呼吸”を読むのに巧みであったという。
虎彦は、師の桜痴の跡を引き継いで、歌舞伎座の座付き作家となって行くのに対して、綺堂はあくまで局外作者の立場のままであった。
岡鬼太郎 (1872〜1943)
劇評家、劇作家。本名は嘉太郎(かたろう)。父の岡喜智は佐賀藩士で、海軍伝習所の伝習生として砲術を研究していたが、1861(文久)年には幕府の遣欧使節の一員として渡欧した。むろん、福沢諭吉らと一緒である。
麻布小学校高等科、東京府立中学校(現日比谷高校)に進学するも、のち慶応義塾本科4等の一に進学、明治25年に卒業した。同年生まれの岡本綺堂も、府立中学に進学しているが、そこでの同級生として知合いであったかどうかは不明。鬼太郎は、幼い時から寄席や芝居に興味があったようだ。
明治26年、父と福沢諭吉が旧知であった関係で、父に連れられて福沢を訪問し、彼の新聞である「時事新報」社へ、演芸記者としての入社が決まった。この年から翌年にかけて、杉贋阿弥(すぎ・がんあみ、郵便報知新聞)、岡本綺堂(東京日日新聞)、松居松葉(読売新聞)、伊原青々園(二六新聞)らと知合いになった。
後の明治38年5月からの若葉会の文士劇の代表メンバーがここにそろったわけである。この若葉会は、団十郎・菊五郎・左団次亡き後の、若手新聞記者による芝居革新の、実践的試みの母体となったものというべきだろう。また、若葉会および毎日新聞の両文士劇の実演において、岡鬼太郎の役者としての芝居が一貫して高く評価されていることは特記すべきであろう(→綺堂の文士劇 参照)。芝居への造詣と経験、学識の深さを感じさせ、後の演出家としての活躍の基礎となっているといえる。
鬼太郎は、その後、時事新報社を退社し、各社の新聞記者を経て、2世市川左団次らと演劇革新に貢献した。2世左団次の、明治座の財政困窮と芝居への苦悩は、1世左団次の代からの劇作家で芝居指導をしてきた松居松葉の後見のもと、芝居研究のため欧州へ向かわせることになった。明治40年8月に帰朝するが、明治40年秋、2世左団次は松居松葉と岡鬼太郎をブレーンに迎えて、11月の起死回生の明治座興行で歌舞伎改良の演劇を試みるも旧勢力の反発にあって失敗する。松葉は、全責任をとって都落ちをする。
その時、岡鬼太郎は、窮余の一策として川上音二郎と提携したり、また大阪の片岡仁左衛門を迎えるなどして、明治座の困窮を救うことになる。明治44年5月には綺堂の「修禅寺物語」、同年10月には「箕輪心中」など、岡鬼太郎の演出でヒットを得て、2世左団次の全盛へと動き出した。
ただ、明治41年夏、川上音二郎が脚本を依頼しに綺堂宅へ来たときに、「きっと左団次が出るのか」と念を押したのも、その背後に岡鬼太郎という旧知がいたこともあってそれならば脚本を書くという気になったと思われる。依頼に来たのが、左団次側の鬼太郎ではなく、川上本人であったところが、左団次と川上、つまり、左団次の復興を推し進める主軸が、新派の川上の側にあることは明白であろう。そのために、旧劇から、左団次はのちに批判されることにもなった。この川上革新劇は、左団次復活のために、綺堂物を川上がプロデュースして左団次でやろうという、ちょっと難しい側面を持っているのである。
大正元年8月、2世左団次は、父の遺産でもある明治座を伊井容峰に譲渡して、同年11月には、岡鬼太郎ともども松竹合名会社へ移った。
劇評では、杉贋阿弥、松居松葉とならんで「三暴れ」と称されるほど、激評家だったという。鬼太郎の劇評は、厳正で「劇通の劇評など耳にも掛けず、思う侭を真一文字に無遠慮に書立て」る手法であったらしい。
そこで、鬼太郎=左団次=綺堂という連携の中でも、盟友ともいえる綺堂ものへの批評を探してみたが、意外と少なかった。綺堂への苦言を呈してはいるが、朝日新聞の記事をつぎに挙げてみる。鬼太郎が書いているように、綺堂の『鳥辺山心中』の中で「清き少女(をとめ)と恋をして」というのは、私のような素人目にもちょっと引っかかる。歌舞伎の狂言よりは、島崎藤村の表現のようなと思ってしまうのだが、綺堂としては歌舞伎に新しい表現を持ち込むためのひとつだったのかもしれない。芝居を見たわけではないので大それたことも言えないのだが、私はこの鬼太郎の批評に一利あると見るのだが、いかがだろうか。
鬼太郎の綺堂劇評
岡鬼太郎「長編史劇・西郷隆盛―帝国劇場の左団次一座」朝日新聞昭和4年5月5日
 同  「綺堂劇その二―帝国劇場の左団次一座」朝日新聞昭和4年5月6日
脚本に「小猿七之助」「御存知東男」「今様薩摩歌」などがある。簡潔な運びと洗練された味わい深い会話などを特色としている。永井荷風は、岡鬼太郎の近松評価にも敬意を表している。「岡鬼太郎君は近松の真価は世話物ではなくして時代物であると言われたが、わたくしは岡君の言う所に心服している。」(荷風随筆集(下)206頁(岩波文庫・1986)
また、少年時代からそうだったようだが、岡は小説家でもある。岡鬼太郎は、「花柳小説」というジャンルの先駆者であった。自らの柳橋に入り浸っていた頃の経験などを元にしたといわれる花柳界を舞台としたものがある。「隅田川」(明治29年8−9月)、「昼夜帯」(明治39年5月)、「花柳巷談 二筋道」(明治39年5月)、「もやひ傘」(明治40年月)、「春色輪屋なぎ」(明治40年12月)、「芸者おぼゑ帳」(明治45年2月)、「合三味線」(明治45年6月)、「あつま唄」(大正7年4月)などがある。永井荷風は、岡鬼太郎の明治30年頃の小説をもって「純然たる花柳小説と称する文学的ジャンル」の嚆矢であるとしている(永井荷風「明治大正の花柳小説」朝日新聞昭和10年2月18日号)。荷風は、かなり高く岡を評価している。考え方なりが、近かったのであろう。
岡鬼太郎の劇評にしても、また花柳小説にしても、今日ではほとんど注目されないのであるが、評価すべき機会が必要かと思う。
松居松翁 (1870〜1933)
劇作家。宮城県出身で、本名は北名真玄(まさはる)。初号は松葉であるが、師の坪内逍遥との音の重複を遠慮して、後に松翁と改めた(大正13年)。早稲田大学・坪内逍遥に師事した。
松居は、明治28年中央新聞、明治29年報知新聞など、新聞記者時代があった。岡といい、松居といい、明治27・28年頃は22−25歳くらいの若者であり、岡本綺堂との出会いの時期といってよい。記者としては、筆が早く、評判であったらしい。また、岡本綺堂とも、記者時代には机を並べた時期があった。新聞社での昼飯に、松金のてんぷらを二人で分け合って食べたという逸話を、綺堂は残している。
演劇改良の広い視点から見れば、松居は、当時、坪内をはじめとする早稲田大学などの大学派の改革運動と、各新聞記者ら劇通の劇作家(志望)記者らの改革運動との接点にあるといえよう。この他に、鴎外をはじめとする文学者らの劇作家グループがあった。
はやくから1世左団次と組んで、歌舞伎改良に従事・実践したが、その作「悪源太」(明治32年、報知新聞連載)は、座付き作者以外の者の作品が初演されたもの(1世左団次のために脚色)として有名であり、後の素人劇作家の先駆け・希望でもあった。
明治37年、1世左団次から、その遺児筵升(のちの2世左団次)の後見も依頼され、その演技指導と歌舞伎改革に貢献した。明治39年に渡欧し、翌年8月に左団次ともども帰国した。
翌、明治41年1月には、2世左団次帰朝公演が行われた。準備と稽古は十分になされたらしい。松葉、岡鬼太郎の左団次ブレーンと、左団次本人、木村綿花らによって、明治座革新案を企図し、劇場改革に乗り出した。しかし、芝居茶屋制度の廃止、舞台・観客席の西洋化、劇場の飲食禁止などで不評をかこち、暴力沙汰もあり、改革興行は挫折した。小山内薫は左団次らの芝居そのものや劇場改革には賛辞を送っており、また彼の評価によると芝居そのものははるかに革新的だったのだが、ただ実際の興行そのものは失敗した。このため、松居は責任をとって東京を去り、静岡に蟄居した。この間のいきさつは、→明治演劇小史、参照
松居は、明治44年、帝国劇場の開場に伴い、新劇主任となる。商業演劇界の指導者として活躍した。作品に「坂崎出羽守」「文覚」など、著書に「団州百話」「劇壇今昔」などがある。
鏑木清方 (1878〜1972)
日本画家として有名である。東京出身で、本名は、健一。浮世絵師水野年方に学び、明治・大正の人物、風俗を精細な考証と清新な画風で表現。作品「墨田川舟遊」「三遊亭円朝」などがある一方で、随筆などにも才能があった。島崎藤村が、『破戒』の挿絵を依頼しに清方宅を訪れた。また、若い頃には、樋口一葉のファンであって、その没後はたびたび墓参したという。
日報社や東京日日新聞社の創設者の一人である條野採菊(本名、伝平、山々亭有人などと号した)を父に持つ。鏑木姓は、母方の姓という。東京日日新聞社や、やまと新聞社に勤務していた頃、綺堂が新聞記者時代に、父採菊と知合いになった関係で、また綺堂・1872年生まれと比較的年齢も近いことから、たがいに行き来・知合いになったものと思われる。
どの程度の知合であったかというと、芝居見物をする仲であったようだ。最晩年の尾上菊五郎が病に倒れながらも、「終わり初物」となった勘平の道行の舞台を勤めることになった明治35年11月半ば、「忠臣蔵」「国姓爺合戦」の興行4日目を、松居松翁、岡鬼太郎、鏑木清方と綺堂の4人で平土間で見物したという(岡本綺堂『明治の演劇』232頁(1942、大東出版社))。道行の勘平の、菊五郎の“ふっくらとした柔らか味のある”舞台を、今後の歌舞伎はもう出せないのではないかと慨嘆している。清方は、熱心にそれをスケッチしていたという。尾上菊五郎は翌年明治36年2月没。 
 (師たち)
塚原渋柿園 (1848・嘉永元年-1917)
渋柿園肖像  本名、塚原靖(しずむ)。元幕臣旗本で、20歳で明治維新を体験し、慶喜の駿河移封に伴って、静岡で辛酸生活を送る。横浜毎日新聞の編集者であった頃、同社の仮名垣魯文の影響を受けたが、明治8年10月、新聞紙条例(明治8年6月発布)に違反して、罰金・禁獄。成島柳北は、慰めるため、酒樽を置いて帰ったという。
明治11年、福地桜痴の勧めで、東京日日新聞社へ入社した。劇評などを担当。19年頃から本格的に著作をはじめる。初期の翻訳「昆太利物語」(ビーコンスフィールド)は北村透谷らに影響を与えた。
また明治25年頃からは、一貫した歴史小説家として活躍する。史実について丹念な考証の上に立った、武士道モラルの意識や行動を描き上げたものが多い。代表作に『由井正雪』『天草一揆』などがある。「渋柿」「自由思」「柿叟」などの号を用いた。
しかし、綺堂が入社した明治23年1月頃には、劇評のための芝居見物を面倒くさがって、劇評は新入りの綺堂少年(当時17歳)に譲ることになったらしい。渋柿園41歳の頃であり、社会小説「条約改正」を「東京日日新聞」に連載中であったことなどで歌舞伎の方に目が向いていなかったものと思われる。
また、渋柿園は、狂言綺語からとった「綺堂」の名付け親でもある。当初は「狂綺堂(主人)」などとしていたが、読者から間違えて「狂気堂」とする手紙などが届くため、いっそ「綺堂」にしたという。
半七捕物帳にも登場
塚原自由思(渋柿園)は、綺堂の半七捕物帳にも登場する。半七老人と知り合いの新聞記者の青年は、渋柿園と知己の間柄であったという設定になっている。
「歴史小説の老大家T先生を赤坂のお宅に訪問して、江戸のむかしのお話しをいろいろ伺ったので、わたしは又かの半七老人にも会いたくなった。」 ―「勘平の死」
このT先生というのが、塚原渋柿園(がモデル)といわれている。
「赤坂のお宅」
ただ、今井金吾氏は、明治36年頃の渋柿園の住居は、麹町5丁目(当時。現在の麹町8丁目)の南端あたり(で、道路を隔てて紀尾井町と接している)にあって、(聞き役の記者の青年が)赤坂から弁慶橋を渡って麹町5丁目(現、8丁目)の渋柿園の宅へ来たから、「広い意味で『赤坂のお宅』と表現したのだろう」としている(岡本綺堂『半七捕物帳巻の一』(筑摩書房、1998)92頁「註解」)。あくまでも、弁慶橋から見えた(旧)麹町5丁目の洋館(であったことは、確認されている)を訪問したとするようである。しかし、この推測は当っていない。
実は、「(渋柿園の家が)麹町紀尾井町九番であったから赤坂と書いたのだろう」とするのは、今井氏だけではなく、木村毅氏もそうである。どうやらこのあたりから、紀尾井町だがその近くの赤坂とする説が生まれたものらしい。いずれにしても正しくない。(この一文、2001年4月16日追加)
渋柿園は、この麹町5丁目(紀尾井町に接する)の洋館から、実は、その後、赤坂仲之町の武家屋敷跡に転居しているのである。「仲之町」は、現在の、TBSの南側、地下鉄千代田線赤坂駅の南あたりで、現赤坂6丁目に含まれている。孫の鈴木千枝雄氏の文章によると「仲之町の家も、かなり豪奢だった。冠木門があり、…大名屋敷のように大玄関があり、小さい玄関が其の傍らにならんであった」という。乃木希典将軍が来訪し、また渋柿園が2階に引きこもって執筆に集中する余り、三年も女中の顔を見たことがない奇人だと言われた(阪井弁「明治畸人伝」(明治36年5月))のはこの頃である。また、渋柿園の「桜痴居士」と題する記事では、「赤坂中の町の寓居において」と自ら記している(ただし、「仲」は「中」となっている。江戸期の地図でも、中の丁としている。太陽18巻9号188−196頁(明治45年6月15日))。このように、綺堂が「T先生を赤坂のお宅」に訪ねたと書いたのは、正確であるといえよう。
半七親分は渋柿園の歴史小説が好き
また、半七老人自身も、渋柿園の歴史小説を新聞の連載で読むのが好きだとある。
「これは明治30年の秋と記憶している。十月はじめの日曜日の朝、わたしが例によって半七老人を訪問すると、老人は六畳の座敷の縁側に近いところに座って、東京日日新聞を読んでいた。老人は歴史小説が好きで、先月から連載中の塚原渋柿園氏作の『由井正雪』を愛読しているというのである。」
(半七)「渋柿園先生の書き方はなかなかむずかしいんですが、読みつづけているとどうにか判ります。…」 ―「正雪の絵馬」
渋柿園の年譜によると、傑作との評価の高い「由井正雪」は、明治30年9月から翌年の7月まで連載されているので、綺堂の記憶に間違いはない。また、綺堂の、渋柿園の小説についての感想が出ているようで興味深い。なるほど、渋柿園の小説は、漢字が多いためか、今日から見ると取っ付きにくい。
塚原邸の前を通りかかった乃木希典が「おじいさんのように偉い人になりなさいよ」と頭を撫でた、孫の鈴木千枝雄は、役人の傍ら、綺堂の門下となっている。
條野採菊 (1832・天保3-1902・明治35)
山々亭有人(さんさんてい ありんど)、「條野有人」「條野採菊」などとも称したが、本名は條野伝平。日本橋長谷川町の地本問屋の生まれで、本郷三丁目の呉服屋伊豆蔵の番頭を勤めるかたわら、幕末江戸時代から、仮名垣魯文とともに「春色恋廼染分解(しゅんしょくこいのそめわけ)」などの戯作を執筆した。
西田菫坡や落合芳幾らとともに東京日日新聞社の創立者の一人である。また、東京絵入新聞にも関係した。明治17年10月には「警察新報」を創刊したが、これを明治19年10月には「やまと新聞」と改めて、主宰した。須藤南翠、饗庭篁村らとともに、明治20年代の新聞社派の劇作家である。福地桜痴から材料を得て翻案小説も執筆し、歌舞伎座の創設にも協力した。
また、主な劇作品としてつぎのものがある。
明治22年11月 「千金の涙」『歌舞伎新報』
30年2月 「並江戸子」(伊井蓉峰のため書き下ろし・宮戸座上演)
30年9月 「依田の苗代」『太陽』
32年11月 「森の小鏡」『やまと新聞』
このほか、ペリーの浦賀来港以降の近世の歴史を詳細につづった『近世紀聞』の著書がある。
明治になって、採菊翁が、やまと新聞勤務のときに、青年岡本綺堂と出会っている。同じ編集室で、机を並べたこともあった。採菊老人は、日本画家である鏑木清方の父である。綺堂と清方とは、若い時代は、芝居見物に行く仲であったらしい。
西田菫坡 (1838・天保9-1910・明治43)
本名を西田伝助といい、「霞亭乙湖(かてい おとこ)」とも称した。浅草御蔵前瓦町生まれ、父は札差の板倉屋林右衛門である。天保改革で家は没落した。幕末期には「鼓汀」、明治になって、「菫坡」などの俳号を用いた。銀座役人辻伝右衛門が経営していた元大阪町の本屋の番頭であった頃、戯作者の条野伝平、浮世絵師の落合芳幾らと知り合い、日報社を起こした。明治5年2月東京日日新聞を創刊した。新聞事業に尽くしたが、明治24年に日報社を辞した。かなりの院本を所有していて、歌舞伎にも明るかった。
青年綺堂とは、綺堂が東京日日新聞勤務で、菫坡老人がやまと新聞に関係していて、東京日日新聞社の印刷部の監督でもあったときに出会っている。歌舞伎座の創設者の一人で持主でもある、千葉勝五郎の縁者であったという。江戸時代のことや芝居のことなど、抜群の記憶力であったと、綺堂は書いている。また、菫坡老人が所有する義太夫の丸本が300余種あったが、そのうち200種あまりを貸してもらって読んだという。
明治23年頃と思われる。綺堂が東京日日に就職して、1年ばかり経った頃である。綺堂は用事で、社の印刷部へ出かけた。そこには「やまと新聞」の西田菫坡翁がいた。やまと新聞の印刷も兼ねており、また同社の創立メンバーの一人でもあるためか、日日新聞社の一室が与えられていたようだ。
菫坡 「近頃、劇評をお書きになすッておられるのは、貴君(あなた)ですかい」
綺堂 「はい、そうです」
菫坡 「お手隙のときは、ここへちっと遊びにおいでなさい」
綺堂 「はい」
これが機縁で、その後、午後になると給仕を遣わして、綺堂に声をかけた。菫坡老人は、小奇麗に片付けてある別室に控えていて、茶や菓子などをご馳走した上に色々の芝居の話をしてくれた。
「それにしても、この人はどうして斯んなに芝居のことを能く知ってみるのであらうと、私は実に驚嘆した。最近の明治時代の事どもは勿論であるが、遠い江戸時代に遡って殆ど何でも知らないことは無いと云っていゝ位であった。狂言の事、俳優の事、それを極めて明細に年月日までを一々挙げて説明されるには、わたしも呆れて唯ぼんやりしている位で、その博識におどろくと共に、その記憶力の絶倫なるに私は胆を挫がれてしまった。かういふ始末で、初めは唯ぼんやりと口を明いていた私も、その後たび/\其別室へ呼ばれて、だん/\その話を聴かされるに連れて、眼の先が少しは明るくなったやうにも感じられた。」 ――岡本綺堂、明治の演劇。
西田菫坡がどういう人か興味があるが、その作品をはじめとしてほとんど触れる機会がないので、やっと見つけたインタビュー(聞取り話)をつぎに紹介します。この部分は、左團次(初世)が著名になる前の苦労話で、しかもそれが黙阿弥の直話の形をとっています。当時の会話の雰囲気とともに……。
西田菫坡君談「團十郎と左團次」伊原敏郎(青々園)=後藤寅之助・編『唾玉集』
「(黙阿弥は)……終(つひ)に市村座を暇(いとま)を取ツて仕舞ツた、それから此間死んだ守田(勘彌)の処へ来て、『私は市村座を出たから貴君(あなた)の処(とこ)へ使ツて下さいませんか』てえと『結構です、早速お出でなさい』『だが別にお頼(たのみ)があります、といふものは私に荷物が付いて居ますから、其れも買ツて下さい』といふから守田は『其の荷物てえのは左團次の事ツたらう、宜(よ)うがす、お連れなさいまし』と快く引受けて、黙阿彌も左團次も守田座に出るやうに成ツた。是れから、成るたけ左團次の柄(がら)に適(は)まるやうな役を黙阿彌(かはたけ)が付けるやうに成ツて、段々出世した、尤も黙阿弥(かはたけ)ばかりで無い、例の婆さん中々(なか/\)丹精して確(しつ)かりしたもんで、『好色敷島物語』の時に左團次が源四郎坊主の役をしました、其の時書抜(かきぬき)の中(うち)に『葛籠(つゞら)の札を引剥(ひつぺ)がし』てえ台辞(せりふ)があるのを、『ひつぺがし』が如何(どう)しても言へない、『へつぺがし』と言ふんで、処(ところ)が婆(ばあ)さん側(そば)に付いて『べら坊め、へつぺがしてえ奴があるもんか』と小言が酷(ひど)いので、自分の前で度々(たび/\)言はせて台辞の稽古をさせ、とう/\最終(しまひ)に『ひつぺがし』と言へるやうに成ツた、其のうちに『樟紀流花見幕張(くすのきりうはなみのまくはり)』ですかな、忠彌です、あれから売り出して来て、所謂(いはゆる)盲見物(めくらけんぶつ)には先(ま)ア『團菊左(だんきくさ)』と言はれるやうに成ツて、全く黙阿彌(かはたけ)、お母(ふくろ)、守田の引立(ひきたて)が一致して今の身分に成ツたんですな、此奴(こいつ)が黙阿彌(もくあみ)の直話(ぢきわ)なんてす、黙阿彌てえのが中々(なか/\)他人の事を拵(こしら)えて言ふ人では無いのてす、況(ま)して左團次は子分(こぶん)ですから、……此の次が『天草』の狂言で、それで焼けました。……」
明治25年になると、東京日日新聞社の経営は、関直彦の手から、伊東巳代治の手に移り、それに伴い、西田菫坡翁も社を去ったので、銀座にある翁の自宅を訪問する以外は、しだいに足が遠のいたという。
福地桜痴 (1841-1906)
長崎の人。本名源一郎。文久元年遣欧使節に随行して渡欧した。帰朝して、明治元年「江湖新聞」を発行した。西南の役のルポで頭角を現し、国民的人気を誇った。
新聞言論人として有名で、東京日日新聞社の主筆、のちに社長として、政府系の論陣を張った。はじめて東京日日で「社説欄」を設けた。「池の端の御前(先生)」とも綽名されたが、かならず定刻に出勤し、下戸でもあり、厳格だったようだ。当時朝野新聞の成島柳北(旧幕府の奥儒者)との文章論争は有名で、成島の文章の詩趣・妙味に対して、福地は実用・達意主義を主張したという。
また、明治22年の歌舞伎座の設立に尽力するとともに、歌舞伎の作家としても活躍した。市川団十郎(9世)は、演劇の改良にも熱心で、歌舞伎関係者以外の、自分のブレーンともいえる求古会を組織して、いわば有職故実を研究して、歌舞伎に生かそうとしていた。漢学者の依田学海の脚本で、活歴ものをやった時期もあったが、学海とのつながりはうまくいかなかった。その後、団十郎は、桜痴の脚本で演じた。団十郎と桜痴の連携が成ったのである。
綺堂の父・純は、求古会を通じて、やはり会員であった桜痴と知り合ったと思われる。綺堂少年は、桜痴の紹介で、9世団十郎と歌舞伎座で会って、戯作者とならないかと誘われている。
また、桜痴の弟子である榎本虎彦(破笠)とは歳も近く、彼の紹介で、綺堂は築地の桜痴の自宅を訪問したりして、劇作を見てもらおうとしていた。榎本は、ポスト桜痴として、歌舞伎座付きの作者となって活躍した。
関直彦
紀州の出身。福地桜痴の後、若くして東京日日新聞社社長となる。明治25年に東日報社を辞し、弁護士として、さらには帝国議会議員として活躍した。東京帝大出身で、鳩山和夫門下でもあった関係で、桜痴と鳩山教授が知り合いで、英語のできる記者を探していたことから、東京日日入りが決まったようだ。
東京日日時代は、麹町に住んでおり、また綺堂の父の純と、求古会会員(メンバー)であったことから知己を得たようだ。父純の勧めで、綺堂は関宅に単身、面会と挨拶に行く。これによって、芝居作家志望であることを告げ、東京日日への就職が決まった。綺堂少年は、芝居を見ることができて、生活が成り立つという、一挙両得ということで大喜びだった。
綺堂が安定した経済生活で歌舞伎を見物し、研究でき、文筆で生活するという礎を築いたという意味で、功績があったといえる。綺堂少年は、東京日日への就職が決まる前は、自分の将来について父がなんともしてくれないと嘆いていたが、父・純(きよし)が持っていた東京日日ラインの桜痴と関直彦との関係は大きかったといえる。父のこのラインは、その江戸風流人としての面が実際に役に立ったのであった。周知のように、旧幕臣の子弟の官途への就職は、当時の藩閥政治を考えれば、綺堂本人も語るように非現実的な選択である。そこで、大学への進学あるいは漠然と学者として身を立てることを考えていたようであったが、父の連帯保証での経済的苦境があったため、実現しにくかった事情がこの前にある。
関直彦、「七十七年の回顧」(昭和8年刊)には、つぎのように記している
「文士には、榎本破笠、岡本綺堂の両君あり、何れも青年時代には、余を頼りて斯界にはいりし人々なるが、両君共に劇界作家の雄、破笠は既に逝きたれども、綺堂は今猶絢爛たる花を舞台に咲かせつゝあり。」
川上音二郎 (1864-1911)
新派俳優、興行師。福岡県博多・中対馬小路(なか・つましょうじ)の問屋の息子。巡査を辞め、自由党に入り自由民権運動に参加するが、「自由童子」と名乗るなどしたが、「過激の政談をしたる為」30数回におよぶ投獄。のち講釈師、さらに落語家に転じ、「浮世亭○○(まるまる)」と名のり、大阪で芝居を勉強した。書生芝居、壮士芝居、オッペケペー節で有名。劇団を組織して、川上座、帝国女優養成所、帝国座を創設した。正劇(翻訳劇)運動を続けて、国内外にも巡業して、新派劇発展の基礎を固めた。
綺堂自身は、川上を毛嫌いし、その壮士芝居・書生芝居を軽蔑していたが、皮肉にも、明治41年7月、川上自身からの戯曲依頼で、芝居作家として著名になるきっかけを作ってもらうことになった。「維新前後」がそれで、綺堂は、きっと市川左団次(2世)が出るのかと念を押して、出るのならば……として、この作品を書いたのである。
2世左団次の苦境を救おうとして、「革新劇興行第一軍」(旧劇を担当)を組織し、川上がそのための脚本家として綺堂に眼をつけたところに、川上の先見の明と時代の回転がある。川上音二郎は、それまであまり作品が演じられたことのない綺堂を一躍劇作家に上らせた立役者といってよい。
綺堂は、川上の芝居はともかく、その興行師や新派の芝居の進め方や運営など、歌舞伎芝居を革新する面では一目を置くにいたったと述懐している。
話は前後するが、綺堂は、川上の東京での2回目の芝居を、明治24年7月に、鳥越座(中村座)ではじめて見物している。招待であったという。1番目が「拾遺後日連枝楠」(依田学海作)で、ついで「経国美談」(矢野龍渓作)、「佐賀暴動記」(久保田彦作)。1番目と2番目の間で、川上は「オッペケペー節」を歌ったという。
綺堂は、川上音二郎らの壮士芝居をつぎのように見ている。
「その当時、東京人からは一種軽蔑の眼を以て迎えられてゐた壮士芝居にその舞台を貸したのも、一種の苦し紛れであったらしい。併し兎もかくも大劇場である。東京の真中の大劇場へ乗り出して、一挙にその運命を決しようと企てた川上音二郎はたしかに大胆なる冒険家であった。」(岡本綺堂・明治の演劇131頁) また、明治25年5月に、市村座での川上一座の芝居を見物しているが、「板垣君遭難実記」「ダンナハイケナイワタシハテキズ」(熊本神風連事件)が出し物であった。劇場は満員であったが、綺堂から見ると芝居は「全くイケナイ」ものであったという。日日の劇評に「激評」と題して、
「川上の芝居を激烈に攻撃して、こんな芝居を喜んで見物してゐる人間があるのを悲しむ」
というようなことを書いたが、かえって川上芝居の人気に拍車をかける結果になったと述べている。 
 
綺堂・批評

 

綺堂は文壇作家としては評価されなかった
岡本綺堂は、いわゆる文壇作家ではありません。彼の作品は純文学の作品として、文壇批評の対象ともならなかったのです。現に、岡本綺堂を文学全集の中に入れるものは、ないとはいえませんが、ほとんどありません。筑摩書房の現代日本文学全集とか戦前の、改造社の現代日本文学全集などくらいでしょうか。
岡本綺堂は、劇作家(戯曲・狂言作家とも)としてデビューするわけですが、むしろ半七捕物帳や怪談・怪奇物を書いたお陰で有名になりました。そのためか、岡本綺堂はわが国の文学のジャンル分けでは大衆文学に入れられてきました。純文学とか大衆文学とかのジャンル分類に一撃を加えているのは、下記の加太こうじ氏の論評ですが、それはお読みただくとして、ここでは、それぞれの批評から綺堂作品の多面性を浮き彫りにできるのではと思います。
むしろ、綺堂やその作品がどうであったかやあるかよりも、曖昧な言い回しになりますが、時代が岡本綺堂とその作品を他の作品との関連でどう見てきたか、あるいは欲して“需要”しようとしたのか、の方から見るのがいいかもしれません。テクスト(作品)があるのではなく、リーダー(読者)がある、ということなのでしょう。
下記のものは、多くが岡本綺堂の作品を収録した本の解説や跋文、それに岡本綺堂の特集記事などからのもので、その性質上綺堂の推薦や賛美いうレンズがかかっているかもしれません。
綺堂作品の人物は反秩序的というも、愚かなり
今尾哲也 / 歌舞伎の歴史
むろん、綺堂の歌舞伎作品をもっぱら対象としての批評だが、私の知っている中では、もっともスピリテュアルに綺堂の意義を捉えたものといえるだろう。「綺堂は、反秩序的な生き方を選択する主人公をあざやかに描き出す。たとえば、『修禅寺物語』の面打ち夜叉王は、……」 「綺堂の作品は、近代的な自我の意識と社会秩序との葛藤をとおして、社会から疎外されたもの、というよりはむしろ、自ら社会を疎外することによって自由を求めるものを主人公とする。彼らは、いわば、新しい時代精神が発見した新しいカブキ者なのである。」 このように評価は高い。
風間賢二 / 綺堂とキング
「すでに当時、怪奇幻想小説は百花繚乱の状態にあったが、英国モダンホラーの精髄と中国志怪のモチーフを我が国の土壌に移植した作家として、岡本綺堂は出色の存在だった。……怪異や恐ろしい超常現象に対して江戸時代の因果応報説(モラリズム)や明治時代の心理的解釈説(合理主義)をあてはめず、不条理や不確実なものとして淡々と語ったところに綺堂の『青蛙堂鬼談』を中心とする怪談・奇談の新しさ=モダンホラーぶりが窺える。」「キングのB級感覚に彩られたどぎつい明確なホラー短編より、綺堂の江戸情緒に彩られたノスタルジックな曖昧模糊とした怪談・奇談の方が読者の想像力を多く要求するということだ。」
綺堂が時代を経ても読まれるという背後には、このようなことがあるということなのか。
横山泰子 / 江戸東京の怪談文化の成立と変遷
綺堂の怪談が、江戸や旧来の怪談とは異なる点をつぎのように見ている。そして、それは綺堂の怪談の抑制的な特徴を形作ることになったのである。
「江戸時代の怪談文学のうちのあるものは、仏教の教えを宣伝するために因果の理によって全ての怪異現象を関連づけようとしていたし、また怪談狂言は人々の興味を惹きつけるために刺激的な場面を肥大化させていた。しかし、綺堂の好みはあくまで、周囲の人々から聞いたささやかな怪談、解釈も文学的な修飾もなされていない、生の話にあった。「むづかしい怪談劇」で書かれていたように、化け物の姿をあからさまに見せず、それでいて妖気が漂う作品、理論によって解明し尽くせない謎をほのめかすような作品こそ、統堂の目ざしていた世界だったのだ。そのため、綺堂の作品は決して猟奇的にはならなかった。物語におけるグロテスクな部分を肥大化させることを嫌い、刺激的な描写を避けたため、ある種の期待を抱きながら読むと肩すかしを食わせられる、抑制的な作風となっている。」
杉浦日向子 / 岡本綺堂
「かれ(=半七、注・和井府)を生んだ作者は当時四十五歳の痩形の長身で、紋付の羽織袴の威儀を正した姿の似合う、誰の眼にも立派な門をかまえる先生風であった。色の白い、端正な輪郭に、大師匠かなんぞのように潔癖の性質を映す真っ黒な瞳を持っているのが、彼の細長い顔の著しい特徴であった。」「うつくしく、たおやかな、四季の風物に包まれて、やさしく、つつましやかな、人が暮している。それらの平和な景色の中に、「逢魔が時」が潜んでいて、せつなくも、おろかな、人の生き様、死に様を、瞬間、闇の中にうかびあがらせるのである。」「綺堂の筆は、その瞬間を、とらえて描く。たとえば「桐畑の太夫」の小坂丹下。「修禅寺物語」のかつら、「相馬の金さん」の相馬金次郎。みなつまらない死に方をしている。犬死にだ。それらの、うつくしくやさしくおろかな生死を、綺堂は、少しも蔑むことなく、あたら美化することなく、毅然とした気品をもって描く。そこが凄い。」
志村有弘 / 半七捕物帳
教育的姿勢を強調する。「岡本綺堂という作家は、教育的姿勢のある作家であった。作品の中で、時々、岡引とは何か、捕物帳とは何か、というようなことについて説明をする。」「江戸の香りというべきものが伝わって来る。つまりは、人間が描かれていること、江戸の<時代>が活写されているということだ。」
豊島與志雄 / 半七捕物帳
この捕物帳のよいところは「あくまでも人間中心であること」で「風俗図絵が生彩を放」っており、「多くの捕物帳のうちでも、最も長い鑑賞に耐へ得るものと私は思ふ。」
森村誠一 / 半七捕物帳
綺堂の作品はどれも抑制が効いていますね。現代の作品や作風と比べると、はるかにどぎつくなく、むしろ物足りないくらいにあっさりしている。そこに綺堂の特徴があるというのですが……「半七捕物帳の特徴は抑制した語り口にある。右門捕物帳のような華やかな立ち回りや、銭形平次や人形佐七のような艶っぽさはない。半七老人の抑えた語り口の中に幕末の江戸に発生した奇っ怪な犯罪が淡々と語られる仕組みになっている。「槍突き」は文化三年(一八○六〉、「小女郎狐」は寛延元年(一七四八)の事件で半七の又聞きという設定になっている。中にはかなり残酷な殺人事件などがあるが半七老人の語り口にかかると、紗(しや)を通して透かし見るようなうるんだ光沢と色調を帯びる。犯罪が半七の推理による間接照明を当てられて不思議な奥行きをもたされる。半七の口を通して江戸時代の風物が生き生きとよみがえり、読者はあたかもタイムスリップしたかのような臨場感をもって一語一語を読まされてしまう。推理小説なので内容を詳しく紹介できないが、「津の國屋」は背筋の寒くなるような怪談を見事に合理的に解決した秀作である。複雑にからみ合った人間関係がラストで快刀乱麻を断つ如(ごと)く解決する。」
綺堂の怪談は怖くない。綺堂の怪談は、ホラーではない
種村季弘 / 江戸殺し始末
「岡本綺堂の怪談も同じようにこわくない。ついでにいえば泉鏡花の怪談もこわくない。むろん怪談であるからには、こわいことはこわいのである。しかしこわさよりさきになつかしさに胸を打たれる。」
旧幕の家臣の子として育った綺堂には武士の忠義や回顧、あるいは新政府への距離感や批判的な点があるはずであり、その点を作品に読み取ろうとするけれども、そうは上手くいかない。読みながら、なぜだろう……と思った。種村氏はつぎのように見ている。
「綺堂自身はおそらく武家の大義などには無縁の人だった。すくなくとも瓦解の時を最後にそういう公生活の身のふり方からは降りている。血なまぐさいことが大嫌い。血らしいものは流れても、血のような醤油であり、舞台の血糊でしかない。日清日露の戦役に取材しても、後日談の傷夷軍人の身のふり方(「鰻に呪はれた男」)や、戦争の大義より謎めいた私生活のほうに重点のある戦場の怪事件(「火薬庫」)を描いて、戦意昂揚にはくみしない。しかしまたそういう人であるだけに、新参の明治近代をこころよくは思わぬにして、みずから手を出して反体制めいた言動にくみすることもない。できるわけもない。身はかりそめにここにありながら、すでにして魂塊はなつかしい死者たちと交わっている世外人なのだから。ヘたに手をだせば陸に上がった河童の二の舞を演じかねない。」
「岡本綺堂は大陸的な作家である。というのは、この人の語るいかなる挿話も、王朝の交替を背景にしないで語られることはない、というほどの意味である。」
加太こうじ / 岡本綺堂の『半七捕物帳』をほめる
「このような自然主義的な描写であるが、この淡たんとした語りくちは、今日の東京を知るものに実によく百年の年月を感じさせる。」
「それから、綺堂の小説及び戯曲には人間の死ぬところが実に多く見られる。それは綺堂一流の淡たんたる描写だが、そのためにかえって一種の虚無感を味あわされる。」 
 
黙阿弥私論

 

1 黙阿弥劇の悪 
(1) 黙阿弥の評価
明治以来、黙阿弥について論じた書物や研究文献の類はおびただしい数に上るが、我が国の演劇史上における黙阿弥の位置を治定した評価としては次にあげることばにつきる。
三世紀に亙る我近世演劇史上、一作家にして前幾代かの緬蓄を兼該し、其最終の集大成者として後には一人の来者をも有せざる黙阿弥の如きはまたあらず。彼れは江戸演劇の大問屋なり、徳川平民文芸の羅馬帝国なり。即ち彼れは一人にして一大都会なり、一身にして数世紀なり。
大正三年の黙阿弥の二十三回忌に際して河竹繁俊氏が執筆した名著『河竹黙阿弥』(演芸珍書刊行会大正三年十二月)の序文として書かれた坪内迫遙の文章中にみられることばである。以後、江戸演劇の大成者、大問屋という呼び方は黙阿弥の代名詞として今日にまで通用している。黙阿弥を評したことばとしてこれほどに適切なものはそれ以後にもそれ以前にもない。黙阿弥の狂言には単に歌舞伎に止まらず、人形芝居も、曲豆後系浄瑠璃も、江戸音曲も、上方歌曲も、そのすべての要素がとり入れられている。その事実を適遙はずばりと指摘している。
この迫遙の評言ほど著名ではないが、もう一人、その後の黙阿弥評価に大きな影響を与えた人物がいる。昭和二年七月号の『早稲田文学』に「黙阿弥の世話物三十種」という一文を発表した岡本綺堂である。この中で綺堂は黙阿弥について次のようにいう。
黙阿弥は南北系の作者で、南北に常識を加へたのが黙阿弥である。南北に詩趣を加へたのが黙阿弥である。
したがって、南北を窮屈な箱詰めにしたのが黙阿弥である。南北の陰惨殺伐をある程度まで美化したのが黙阿弥である。
黙阿弥の作中にあらはれてゐる人物に、真の悪人らしい悪人は殆んど無い……その悪人等はみな義理をわきまへ、人情に富み、義血侠血を多量に所有してゐる者共ばかりで、かういふ人物がなぜ悪事を働いてゐるのかを怪まれるやうなのが多い。したがって、彼等は絶えず其罪を悔い嘆いて、最後には大抵改心するのである。
白浪と謳はれれながらも、実際の所、黙阿弥は悪人の形式を仮りて善人を描いてゐたものと認めてよい。
岡本綺堂のこの一文が直接のかたちでその後の黙阿弥研究論考に引用されることはほとんどなかったが、南北を美化したものが黙阿弥である、黙阿弥の作中に真の悪人はほとんどいない、黙阿弥の白浪物は悪人の形をかりても事実は善人を描いているなどの主張は、多くの黙阿弥研究家に常識のようなかたちで受けつがれている。
そして、黙阿弥の研究家が、白浪物に登場する多くの主人公の中で、例外的な悪人としてあげる「勧善懲悪覗機関」の村井長庵にしても、前掲論文で綺堂が「一種の異例」として、「村井長庵」とそのつくりかえの「盲長屋梅加賀鳶」の按摩道玄とをあげ、前者では四代目市川小団次が村井長庵のほかに忠義の番頭久八の役をつとめ、後者では五代目尾上菊五郎が道玄のほかに加賀鳶梅吉の役を演じて、一方では悪人の極悪ぶりを発揮させると同時に、他方では善人を演じて、「都合よく相殺するやうに推へ上げてあるばかりか寧ろ善人の方が主役として働いてゐるのである。」としている説明を踏襲しているのである。
綺堂のいう悪の美化論、白浪物の主人公善人説などは大筋において承認されるべきものと考えられるが、黙阿弥が悪人を描かなかった作者かというと、かならずしもそうとは断定できない。右の村井長庵や按摩道玄を上廻るすさまじい悪人を黙阿弥も作品に登場させている。明治二年の「好色芝紀島物語」に登場する姐妃のお玉、源四郎、熊鷹お爪、青木主鈴、慶応元年の「怪談月笠森」に登場する市助などである。
吉原の遊女屋三浦屋の女房お玉は以前は玉苗と名告る三浦屋の女郎であったが、うまく主人を籠絡して女房におさまった身である。しかし、彼女は玉苗時代から店の若い者源四郎と通じており、その関係は三浦屋の女房となってからも亭主の眼を盗んでつづいている。三浦屋には玉苗とお職を張りあった敷島という女郎がいる。
お玉は玉苗時代の恨みをはらそうとし、主人の江の島参詣の留守中、盗み癖のある遣手お爪の罪を敷島に被せて、客の金五十両盗難の犯人に仕立てあげ、お爪と源四郎に敷島を責めさいなませる。敷島はその愛人とのあいだに生れた女子お和歌を自分づきの禿和歌野として養育していた。お爪と源四郎は弓の折れで敷島を打ちすえても、敷島が罪を認めようとはしないので、和歌野を引きずってきて、敷島の面前で折濫を加えた。いまにも殺されそうな我が子の様子にたまりかねて、敷島は身に全く覚えのない罪を認める。お爪はわざと短刀を落としておいて、敷島が自殺するようにしむける。そして、敷島が自分の咽をその短刀で突いたところに姿を見せ、もだえ苦しむ敷島に悪企みのいっさいを語って聞かせたうえで源四郎共々敷島を突き殺した。葛籠に入れられて大川へ流された敷島の死骸はその後怨霊となって出現する。
この三人以上に悪者ぶりを発揮するのが、後半に登場する青木主鈴である。土地の郡代の地位を利用して溜め込んだ金で、江戸を追われて流れてきたお玉と源四郎に府中で上総屋という女郎屋を開かせる。もともと主鈴は玉苗時代のお玉のなじみ客であった。そして、おちぶれてお玉と源四郎をゆすりにきたお爪を殺したうえで、その生首をお玉に突きつけ、お玉に源四郎を殺すようにせまる。そして、源四郎から主鈴に乗りかえたお玉に手を借して源四郎を斬り殺したのもこの主鈴である。
黙阿弥の白浪物の主人公たちは自分の犯した罪の恐ろしさにおののき、前非を悔いるだけの心の善良さを持っている人々である。罪をかさねながらも、因果応報の理にょって自分が終りを全うしないことを心得ている。
そういう連中とこの三人はかなり違っている。執念深くつきまとう敷島の亡霊をこわがる風もない。たとえば四幕目深川洲崎の場で、悪事がばれて三浦屋を追い出され、とある辻堂の中で夜明かしをしていた源四郎とお玉の前に敷島の怨霊が出現したときの二人の態度のふてぶてしさはどうであろうか。
敷島 えd恨めしい源四郎、よくも此の身に濡衣着せ、非業な最期をさせしょなあ。
    ト敷島恨めしさうに源四郎の顔をきつと見る。
源四 なに、源四郎が恨めしい、恨めしくば取り殺せ。腕に力はねえけれど肚胸で売出す敵役、憎まれるのは合点だ。さあ、取り殺すなら殺して見ろ。
    ト手を放し、顔へ唾を吐きかける。敷島顔をつつと出し、
敷島 恨みの一念この土に止まり、取り殺さいでおくべきか。
源四 え〜うぬ等に殺されて、(ト葛籠の蓋をしやんとなし、)つまるものか。(『黙阿弥全集第七巻』)
この源四郎を呆れさせるほどの肚胸をみせるのがお玉である。
敷島の亡霊が消え、さすがに張りつめていた気がゆるんでべったりと坐りこんで汗を拭っている源四郎にお玉が声をかける。
お玉 意気地のねえ男ぢやあねえか。
源四 それだつて出たものを。
お玉 何が。
源四 幽霊がよ。
お玉 それがお前怖いのか。
源四 怖くねえこともねえ。
お玉 それぢやあ円朝の話しは聞けねえよ。
    トこの時薄ドロくにて船の中へ陰火燃える。
源四 それ、其処へ陰火が燃えた。
    トお玉見て、
お玉 煙草入れを貸してくんな、陰火を借りて一服呑まう。
源四 いや、呆れたものだ。(前掲書)
こうなると南北の怪談劇に登場する悪人以上の性根の坐り方である。「好色芝紀島物語」(通称「怪談敷島物語」)は明治二年、作者五十四歳のときの作である。これよりほぼ十年後の明治十三年につくられた「木間星箱根鹿笛」(通称「おさよ怪談」)などでは、登場人物に、亡霊の出現を「心経病」とか「気の迷ひ」とかいわせている黙阿弥であるが、明治二年というと、お玉のせりふにあるように、三遊亭円朝の怪談話が人々を怖がらせていた時代である。忘霊の存在そのものを黙阿弥が否定していたとは考えられず、源四郎やお玉の胆の坐った悪がいわせたせりふとみざるをえない。
黙阿弥は、徹底した悪人を登場させるときには、その悪人を演じたおなじ役者に他方で善人や正義の士を演じさせ、戯曲を超えた演劇の論理として、善悪、正不正のバランスをとる傾向があった。前述した論稿で、村井長庵や按摩道玄を例に岡本綺堂が指摘したところである。その論理は、この「好色芝紀島物語」にも適用されている。姐妃のお玉を演じた沢村田之助は併せて傾城敷島を演じ、青木主鈴に扮した沢村訥升は藤代屋十三郎、熊鷹お爪を演じた中村仲蔵は漁夫五平次と、それぞれ正義の人を兼ねて演じて、善悪の均衡はみごとに保たれている。
しかし、その論理も絶対ではなく、「怪談月笠森」で悪党市助に扮した市川九蔵は善人の加役がない。彼は、戯曲としても、戯曲外の論理でも悪一筋に徹している。
市助はある意味ではもっともいやらしい、憎むべき悪人である。彼は自分が悪を働くだけではなく、善性をそなえた人物を悪に誘い込んで快感を覚える魔性をそなえた男である。
結城家の家中今村丹三郎は本来は人と世に誠実に対処する真面目な人物である。彼は召使いのおきつが美しくもあり、自分の母にまめくしく仕える純良な性質であることを見込み、折をみて自分の正式の妻とするつもりで契りを交していた。その丹三郎に、剣の師佐藤金左衛門が殿と奥方の意向として、家老の娘おむらとの結婚の話を持ち込んできたとき、彼はためらうことなくおきつとの仲を打ち明けて、自分の出世にもつながる金左衛門の話を断っている。その生一本な態度は好感が持てるほどである。
丹三郎を人間として誤らせ、おきつを不幸のどん底に突き落したのは金左衛門の善意と、仲間市助の悪意と、そしておきつの丹三郎を信じきれない嫉妬心であった。金左衛門は責任を持って引き受けてきた殿の手前もあって切腹すると言い出し、止むなく丹三郎はおむらとの婚約を承知する。そして、おきつと丹三郎とのそれぞれに悪魔のささやきを吹き込んだのが市助であった。かねておきつに下心を抱いていた市助は丹三郎がすでにおむらと約束を交しており、邪魔になるおきつを追い出すために佐藤金左衛門を頼みこんだのだと実しやかに語って信じ込ませ、一方、丹三郎には、金でかたのつかないときにはひと田やいにおきつを殺してしまえとけしかける。そこへ佐藤金左衛門から早手廻しの結納の品が届いたためにおきつは逆上してしまう。
丹三郎の母のとりなしで宿元へ帰ることになったおきつを送って出た市助は途中でおきつに言い寄り、手きびしくはねつけたおきつを丹三郎から頼まれたといって殺害する。以後、おきつの怨霊は今村家に嫁として迎えたおむらに崇って病床につかせてしまう。
市助はその後も丹三郎から五十両の金をゆすりとるような悪事をかさねるが、最後、丹三郎の手にかかってなぶり殺しにされるまで、自分の犯した悪事を後悔するようなひ弱さはみじんもみせていない。最後まで悪に徹し、悪人として殺されている。
「好色芝紀島物語」も「怪談月笠森」もいわゆる白浪物ではない。従って、白浪物を対象として導き出された岡本綺堂の、黙阿弥の作品には悪人はいない、南北の殺伐さを美化したものが黙阿弥である、といった提言は今日においてもその価値を失っていないといえる。
しかし、黙阿弥が悪をあつかった作は白浪物や明治の散切物にかぎられるわけではなく、沢村田之助を主人公とした怪談物などにまで眼を配ったときには、かなり徹底した悪人をそこに見出すことができる。黙阿弥はこれまで考えられてきた以上にしたたかな作者であった。
黙阿弥のしたたかさは、近時、河竹登志夫氏が明らかにされた黙阿弥という号の黙の意味にも示されている(「黙阿弥引退の真意と晩年の心境」『演劇学第25号』早稲田大学演劇学会 昭和五十九年三月)。明治十四年十一月、それまで二代目河竹新七を名告って狂言を書きつづってきた黙阿弥は、一世一代として「島衛月白浪」五幕九場を守田座のために書きおろしたのち、引退して古河黙阿弥と改名した。この黙阿弥という名については、
黙阿弥といふ名は、藤沢山遊行寺から、明治十四年十一月二十五日に贈られた阿弥号である。隠居してもとのもくあみになり、黙するとの意にかなったものであった。
とする河竹繁俊氏の説(『河竹黙阿弥』)が信じられてきたが、河竹登志夫氏は、前記論文で、河竹家に伝えられてきた黙阿弥自筆の手記『著作大概』中の一文を根拠として、明治十四年の退隠は、これまで考えられてきたような、当時の官憲学者の学問や権威の前に自信喪失して旗を巻いたのではなく、一時の嵐を風当りのすくない岩陰にやりすごしたのち、「再び時到れば、出家が還俗すると同様、また元の現役作者に戻ろうという、野望にも似た真意」が黙阿弥の号にはこめられていたとされた。
この河竹登志夫氏の新説は、黙阿弥の生涯から読みとれるしたたかな生きざまと照応させるとき説得力のある論となる。黙阿弥の生きた時代は南北の生きた文化文政に比べて、激動と混乱に満ちた困難な時代であった。強靱にしてしなやかな精神力なしには作者活動をつづけがたい時代であった。黙阿弥の作風も時代の変化に対応して幾度か変らざるをえなかった。黙阿弥がその作品申に形象化した悪も、おのずから時代と黙阿弥の個性を反映して、南北の悪とは違った相貌を呈することになる。 
(2) 黙阿弥劇と公権力
黙阿弥が二世河竹新七の名をついで立作者となったのは天保十四年(一八四三)、二十八歳のときであった。しかし、このころ、黙阿弥が所属していた河原崎座の作者部屋の実権を握っていたのは三世桜田治助で、黙阿弥が実質的に立作者にふさわしい活躍をはじめるのは、嘉永四年(一八五一)十一月、河原崎座で書きおろした「舛鯉瀧白旗」(通称えんま小兵衛)あたりからであった。以後、幕末までに黙阿弥が執筆した作品で、脚本が現存していて、しかも、江戸を舞台とした作は慶応二年二八六六)の「櫓太鼓鳴吉原」まで、全部で十八作をかぞえる。しかし、この十八作中の七作は、江戸を扱いながら、すべて地名を鎌倉に書きかえている。
次の七作である。
安政三年 夢結蝶鳥追
安政四年 鼠小紋東君新形
安政六年 花街模様葡色縫
万延元年 八幡祭小望月賑
文久二年 青砥稿花紅彩垂
慶応二年 船打込橋間白浪
慶応二年 櫓太鼓鳴吉原
これらがどのような理由によって鎌倉に書きかえられたのかは明らかでない点が残る。安政三年「蔦紅葉宇都谷峠」は江戸の地名がそのまま劇中に使用されているのに対し、「夢結蝶鳥追」は鎌倉にかえられている。安政四年の「網模様燈籠菊桐」は江戸、「鼠小紋東君新形」は鎌倉、文久二年の「勧業懲悪覗機関」は江戸、「青砥稿花紅彩豊」は鎌倉というように、同じ年に上演された作で、江戸そのままと鎌倉に書き替えられたものとの両例がみられるからである。
しかし、鎌倉に書きかえられた作品が、内容に何らかのかたちで取締り当局をはばかるものが含まれていることは事実である。「夢結蝶鳥追」にはせった直し長五郎による武家殺しがしくまれ、しかも女賊お長が活躍する。鼠小紋東君新形」や「青砥稿花紅彩壷」には大名家荒しやゆすりの盗賊が主人公として活躍する。これは江戸の地名がそのまま使用されている「蔦紅葉宇都谷峠」以下三作と比較して相違する点である。もちろんこれらの三作にも傍役としての盗賊は登場するし、ゆすりや殺しなどの悪がしくまれているが、前三作のように盗賊を主人公とはしていない。
ただ、この理由も絶対のものではなかったことは、おなじ盗賊が活躍する白浪物の「都鳥廓白浪」(安政元年)、「三人吉三廓初買」(安政七年)などが江戸の地名をそのまま使用していることによって証される。上演の年によって、取締り当局の態度に相違があったとでも考えるより他はない。
黙阿弥が作品を発表した時代は天保の改革以降である。この改革の主導者であった水野忠邦が奢修と風俗紫乱の根源として一時は歌舞伎街の破却まで考えた事実はよく知られている。当時の北町奉行遠山左衛門尉景元らの尽力によって、芝居街は新しく浅草聖天町へ移転し、猿若町と命名されて存続することになったが、幕府はそれ以降、歌舞伎に対する厳重な監視を怠らなかったことは、伊原敏郎氏の『歌舞伎年表』(岩波書店)、『近世日本演劇史』(早稲田大学出版部)などに収載されている諸法規によって明らかである。殊に、慶応二年三月に布告された。
近来世話狂言人情を穿ち過ぎ、風俗に拘る故、以来は色気なども薄く、成るたけ人情に通ぜざるやう致すべしという規制が、黙阿弥の提携者市川小団次の命をちぢめることになったいきさつは、饗庭篁村の直談として河竹繁俊氏の『河竹黙阿弥』に伝えられている。
黙阿弥に比較して南北ははるかに恵まれた状況下に執筆をつづけていたといっていい。南北が立作者の地位についたのは享和三年(一八〇三)、四十九歳のときであり、彼の出世作「天竺徳兵衛韓噺」 は翌文化元年に発表された。そして、彼の最終作「金幣猿島郡」が上演されたのは文政十二年(一八二九)十一月であり、おなじ月の二十七日に七十五歳でこの天才は世を去った。この文政十二年で文政という年号は終る。つまり、南北は、化政期と呼ばれる、幕政が弛緩して庶民文化に対して寛容となり、従って江戸文化がもっとも欄熟の度を強めた時代に、黙阿弥が苦しんだ官憲の干渉から比較的自由に作品を発表しつづけることができた。
三一書房刊行の『南北全集』全十二巻の中で、江戸を舞台とする南北の作品は、文化五年(一八〇八)の「彩入御伽草」にはじまって、文政十二年の「菊月千種の夕暎」まで、三十九作をかぞえることができる。この三十九作のすべてが、江戸の地名をそのまま作品中に登場させて、鎌倉その他に鱈晦した例が一つも見当らないということは、黙阿弥の知らない執筆上の自由を南北が享受していたことを示している。
作品に反映した時代環境の役割を強調しすぎることは危険であるが、南北と黙阿弥の作品内容を比較したときに、この成立環境の相違は無視できないように思われる。
黙阿弥の作に、内心の要求から生れ出たらしい物は一つもない。謂ふ処の「勧善懲悪」「因果応報」も、決して心の深い奥からの叫びではなくて、強ひても世間道徳に追従して行かうとする作者のおとなしい対社会的態度の現はれに過ぎない。彼は長庵や新三や清心や鋳掛松や小猿七之助などの如き頽廃的人物を描くに非凡な手腕を持ちながら、いつも彼等を人為的な「廻る因果」の前に訳もなく萎縮させて、これら悪魔的人物の終局を、甚だしく小さく且不徹底なものにして了ってゐる。黙阿弥は果してこれら諸人物の「最後」に道徳的の安心を得ることが出来たのであらうか。私は決してさうは思はない。彼は唯世間に対してーー世間の道徳に対して1悪人は是非とも殺すか悔悟させるかして了はなければならないと思っただけで、悪人の死や悔悟に決して必然的な深い動機を求めようとはしなかったのである。
小山内薫のことばである(「黙阿弥の世話狂言」『世話狂言の研究』天弦堂書房 大正五年)。この評言に全面的賛同して引用したのではない。小山内が「おとなしい対社会的態度」と片づけている黙阿弥に、かなりしたたかな計算をみていることはすでに詳述した。そして、小山内が「社会」とか「世間」とか呼んでいるもののうちで、もっとも黙阿弥の作に強い影響を与えたものとして、小山内は全く言及していない時の公権力を考えるのである。
南北作における登場人物の基本構図としては、善や悪、正義や不義に対する思考の停止をその特色としてあげることができる。南北は善悪を思想として作品化しようとはせず、人間の本能的な行為の一つ、愛憎食生死性などと同様な自然の営みとしてただ描くだけである。従って、南北作の悪人が罰せられたり、殺されたりするのは、この世に正義が実現されたり、勧善懲悪の道理が貫徹するためではなく、悪人が加虐者となり、その加虐の行為が極限にまで達したとき、次に被虐者が加虐者となり、加虐者が被虐者になるという逆転が起るからである。その点で、悪を行う者も、悪の被害者になる者も対等の関係にあり、その両者を超越した権威として両者を裁く正義とか公権力は存在しないといってよい。
これに対し、黙阿弥作で、個人に対して重大な不正が行われたとき、その不正や悪は両者を超越した存在によって罰せられる。その超越した存在とは公の正義であったり、因果応報の理であったりするが、その背後にはそれらを支えている公権力が存在する。
才三 古今が身請済む上は、彦三諸共白木屋の、家名相続いたせし上、一子出来れば伊丹屋の後見なして家名を立てよ。
十兵 残る方なき御計らひ。
三人 ちえ〜恭い。
    ト此時黒装束の捕手四人ばらくと出て、
捕手 人殺し、動くな。
十兵 何を。
    ト此時楽屋頭取出て、
頭取 先づ今日はこれぎり。
「蔦紅葉宇都谷峠」最終幕鈴ケ森の場の幕切れである。江戸柴井町の酒屋伊丹屋の十兵衛は故主のために百両の金子を工面しようとして手ぶらでもどる途次、宇都谷峠で座頭文弥を殺してその所持していた百両を奪った。その現場を盗賊提婆の仁三に見られてゆすられる身となり、他方で、文弥の亡霊に悩まされつづける。十兵衛は悪人の提婆を斬り殺したのち、文弥殺しの罪をつぐなうため、十兵衛の赤心を知って止める文弥の近親者たちを前に自分の腹に刀を突きたてる。
十兵衛は通常の意味の悪人ではない。文弥を殺害したのも大恩ある主人の難儀を救うために、「道にそむいたこと」であることを充分に承知したうえで行ったことであり、三年忌までには金をこしらえて文弥の身寄りを尋ねて討たれる決意を固めたのち、「金を持ってゐたのがこなたの因果」であり、「欲しくなったのが私が因果」と説き聞かせたうえで、因果同士の悪縁として殺害している。従って、彼が自分で自分の腹に刀を突きたてたときに、勧善懲悪の道理も、因果応報の理も充分に果されたのであって、そのあと、さらに、捕手に十兵衛を取り囲ませているのは、公権力、取締り当局への挨拶以外の何ものでもない。
しかも、黙阿弥の作では、幕切れには決まってこのような場面が用意されており、中には単に挨拶で片づけられぬ黙阿弥作の血肉とみなさざるをえない局面を形成している例すらある。「勧善懲悪覗機関」の主人公村井長庵が黙阿弥劇の通常の粋組みを超えた骨太な極悪人であることについては諸家の指摘がある。彼は自分の実の妹の智百姓重兵衛が年貢の未進や妻の病気で金に困り、娘を吉原へ売ってつくった四十二両の金を奪って重兵衛を殺害する。しかも、彼はその罪を浪人藤掛道十郎に塗りつけてすこしも良心の傷みを感じないばかりか、それ以後も悪事をかさねていく。
この村井長庵の例外的な悪人ぶりについては、四代目市川小団次がこの長庵と忠義な番頭久八の両役を兼ねて演じることによって、戯曲外の演出の面で平衡を保っているとする岡本綺堂の説明があることについてはすでに紹介した。しかし、黙阿弥は、この作の大詰に町奉行白洲の場を設定し、戯曲上でもこの長庵の強悪ぶりに決着をつけているのである。ここで名奉行大館左馬之介義時が登場し、重兵衛殺しの再吟味が行われ、大館の名察によって長庵は追い詰められ、更に、番頭久八の忠義に感じ、さしもの長庵も最後にはいっさいの罪を認める。長庵の極悪非道ぶりは、最後に、大館に象徴される正義の行使者としての公権力を賛美することによって、みごとな平衡を保って終っている。
おなじ論理はこの村井長庵にまさるとも劣らない極悪ぶりを発揮する「好色芝紀物語」の青木主鈴にも適用される。この作には他にお玉、源四郎、お爪などの悪人が登場するが、彼らは仲間討ちで殺しあったり、改心して敵を討たれたりして、主鈴一人が最後に残る。この主鈴老裁くのが名君足利左衛門満詮とその家臣たちである。村井長庵に対する大館左馬之介義時の役どころといえる。彼らは主鈴を追い詰めていき、最後には彼を切腹させて、公権力の健在を誇示している。
この黙阿弥劇における公権力は、悪を犯した人物が勧懲の因果の理法によって心理的に追い詰められ、すでに充分な罰を受けているときには、「蔦紅葉宇都谷峠」や「鼠小紋東君新形」、「三人吉三廓初買」などのように最終幕における捕手の登場程度で終るが、村井長庵や青木主鈴などのように既成の倫理意識からの心理的圧迫感などは吹き飛ばすような兇悪である場合には、それに匹敵するような名吏、名君を登場させて秣罰を加えている。 
(3) 黙阿弥劇と悪
黙阿弥の悪についてもうすこし分析を加える。
黙阿弥作に描かれた悪は加害者、被害者を超越した存在によって罰せられる傾向があった。そのような黙阿弥の作風をもっともよく示している作の一つとして万延元年(一八六〇)の「八幡祭小望月賑」を採りあげてみる。
越後の縮屋新助は仲町の八幡祭のにぎわいのなかで芸者のおみよと知り合う。その後、喧嘩の騒ぎで稲瀬川の花水橋の欄干がくずれ、橋から落ちたおみよを救った新助は、おみよとの並々ならぬ因縁を感じ、おみよに情人になってくれと頼み込む。おみよには事情あって主家千葉家を離れて浪人している穂積新三郎という恋人があったが、新助の真剣さに引きずられて心ならずも新助の頼みを承知した。一方穂積新三郎にも剣術師範葛飾正作の妹おきしという許婚がいた。
四幕目仲町茶屋野花屋の場。新三郎は恩を受けた正作やおきしへの義理から、新助とおみよの関係を殊更に言い立てておみよに愛想尽かしをする。恋人の新三郎から縁を切られたおみよの怒りは、そのあと訪れた新助に向けられた。酒に酔ったいきおいにまかせて、おみよは新助に向かって悪口雑言の限りを尽くす。新助は田舎者として満座の中で赤恥をかかされただけではなく、おなじ縮屋仲間の笑い者にされた。
おみよや縮屋仲間から不当な扱いを受けた新助の怨念は、しかし、次の縮宿の場面で、宿の主人の念仏六兵衛や下働きの作助の親身の意見でいったんは解消されている。その新助がおみよをはじめ縮屋仲間、仲町の中たちなど多数を殺傷することになったのは、彼が妖刀村正を入手したからであった。
この「八幡祭小望月賑」は被虐者と加虐者があるきっかけから交代するという、南北の怪談劇と同様な構造を持っている。しかし、南北作と決定的に相違する点は、南北作では、被虐者自身の怨念が限界を超えたとき、その怨念をエネルギーとして、加虐者に転化しているのに対し、黙阿弥作では、村正の妖刀の崇りという、被虐加虐のレベルを超えたきっかけが導入されていることである。しかも、新助はのちに自分とおみよが実の兄妹であったことを知り、互いの身の因果を歎き、自分の軽はずみな行為を激しく自責している。その新助を多数の捕手が囲むところで幕となるが、ここにも最終的に公的な権力を持ち出す黙阿弥の作劇法があらわである。
黙阿弥作でも、不当な被虐の果てに怨霊となる入物が多数登場する。「蔦紅葉宇都谷峠」の座頭文弥、「網模様燈籠菊桐」の手代与四郎、「勧善懲悪覗機関」の長庵妹おそよ、「曽我誘侠御所染」の医師道玄、時鳥などなどである。しかし、総じて彼らに加えられた残虐行為のエネルギーは南北作に比較してはるかに弱く、従って、怨霊と化したのちの彼らのエネルギーも弱い。被虐度と加虐度は正比例の関係にあり、片方が弱ければ、当然他方も弱くなる。従って、黙阿弥作の亡霊たちは彼ら自身の力にょって加害者に復讐することができず、加害者を倒すものは他から導入される。
被虐者が加虐者に転じても、充分なエネルギーを発散しえないということは、悪の力が強いからではなく、逆に彼に加えられた悪の力が弱いからである。黙阿弥の描く悪は、一、二の例外を除いては、南北の描く悪に比べてはるかにひ弱である。
次に、黙阿弥は悪を観念としてしかとらえていなかった。人間の本能としての悪を作品化することができなかった。
黙阿弥は悪を描くことによって逆接的に善を強調した。「鼠小紋東君新形」の主人公稲葉幸蔵の義母お熊は、子供のころから身持ちが悪く、若いときに男をつくって駆け落ちし、その男に岡場所の女郎に売られ、揚句にゆすり、かたり、夜盗と悪事をかさね、二度までもお上の御危介になった女であった。三浦の家臣平岡源内に頼まれて刀屋新助から百両の金をかたりとったが、権内からその金を渡せといわれても自分の手に入れた金だからとすごんで追い返してしまう。そして、手先に使った一味の三次から分け前を要求されると、咽をしめて殺してしまう。ここまでなら南北の悪婆に匹敵するような悪女であるが、その彼女が実に飽気なく改心し、みずから義理の子の幸蔵の手にかかり、書置きを残して死んでしまう。自分が刀屋新助からかたりとった金が原因で多勢の人が苦しみ、殊に義理の子の幸蔵が名告り出て一命を捨てようとしている決心を知り、自分が先んじて死んでいく。いささか唐突の感は免れないが、お熊の悪が力を籠めて描かれるのは、後半のドンデン返しを強調するためである。所詮悪は善に勝てず、悪心は一時的に理性を掩うようなことがあっても、最後に善心に人間は帰るというのが黙阿弥のとらえた悪である。「勧善懲悪覗機関」の大館左馬之介義晴が無限の感慨を篭めて語るように性は善なるものちやなあというのが、とりもなおさず黙阿弥の奉じている人間観であった。性善説を奉じる以上、黙阿弥の描く悪は力を失い、一つの虚構とならざるをえない。黙阿弥の悪は他に目的を持つ方便として舞台に登場してくるが、止むをえぬ事情のもとで犯されたつぐなうべき誤りとなる。
前述のお熊の例に加えて、「網模様燈籠菊桐」の小猿七之助や「三人吉三廓初買」の三人吉三などは前者の例となろうし、「蔦紅葉宇都谷峠」の伊丹屋十兵衛、「都鳥廓白浪」の忍ぶ惣太などは後者の例となる。
七之助は永代橋で見染めた千葉家奥女中瀧川の面影が忘れられず、仲間としてつきまとってついに深川洲崎の堤で手籠め同然に思いをとげる。その瀧川を吉原の切見世の三日月長屋へ女郎に売り、そこへ客として立寄った葛西の善導寺の僧教真とその伴の小僧真海を出刃で刺し殺して金を奪った。この小猿七之助やお嬢、お坊、和尚の三人吉三に悪事を働かねばならぬ万人を納得させる動機があるわけではない。彼らは己の欲望のおもむくままに殺しやゆすりや盗みを働くのであって、その点では、南北の描く本能的な悪と類似するところがある。
ただ、黙阿弥は南北と異り、性善説を採るために、最後に彼らを改心させ、司直の手にゆだねることによって、正義の力の絶大さを称えて戯曲を終結させる。
小猿七之助の結末は、安政四年(一八五七)七月の初演のときには、前非を悔いて出家することにしている。殺人、盗み、ゆすりなどの悪事をかさねて江戸を逃れた七之助が一夜の宿を求めた越谷西方村地蔵堂の庵主西念は、七之助父七五郎が殺害して金を奪った酒屋の手代与四郎の父であった。因縁の恐ろしさに悔悟した七之助は父の悪事を語り、与四郎の崇りで父は病気、妹は盲目となったことを告げ、父の身代りとして自分を殺してくれと頼む。手を下そうとしない西念に、七之助は、さらに、与四郎の許婚瀧川を自分の女房とし、女房の弟、西念には甥にあたる教真を殺して金を奪った重罪をも告白する。西念はその七之助を許し、西心と法名を与えて僧とした。
その後、明治二十年以後の改訂台本では、父の七五郎は死霊の崇りで死に、西念の庵室から署銭を盗んで逃げた海典坊主と七之助は捕えられることになっている。因果応報の恐ろしさと、公権力の絶大さとをいっそう称えた改訂といえる。
三人吉三は二幕目の大川端庚申塚でお嬢、お坊、和尚の三人がそろったとき、すでに世間に名の通った盗人となっている。「根が吉祥院の味噌すりで弁長といつた小坊主さ、賓銭箱から段々と祠堂金まで盗み出し、たうたう寺をだりむくり」と和尚が回想しているように、彼らが盗人になったのは小さい時手癖が悪く、小さな悪事をつみかさねるうちに、次第に世間に名の通った大盗となったもので、そこに同情すべき動機などはない。その後のお坊の伝吉殺し、和尚のおとせ十三郎殺しなどにはそれぞれ入り組んだ事情を用意し、観客の同情をひくような動機をかまえているが、それらの事情がすべて解決されたのちに、なおかつ三人を捕手で囲ませ、刺し違えさせているのは、盗賊行為そのものを許しがたいとする、そして悪事は最後にはつぐなわれなければならないとする作者の思想があらわれている。
これらに対し、「蔦紅葉宇都谷峠」の伊丹屋十兵衛や「都鳥廓白浪」の忍ぶの惣太は、小猿七之助や三人吉三と同様な意味での悪人ではなく、十兵衛は酒屋、惣太は植木屋とまっとうな生き方をしていた。その二人が悪事を犯すには止むに止まれぬ事情があった。
十兵衛が座頭文弥を殺害したのは故主の娘で子供のときにかどわかされ、吉原で遊女となっていたおしづを身請けする金を手に入れるためであった。しかも、彼にはじめから殺しの意図があったわけではない。十兵衛はできることならおだやかに話をつけて借りるつもりであったが、文弥の所持していた金は、文弥の姉おきくが吉原へ身売りしてつくったものであった。文弥にも、姉の命のかかっている金であり、他人には貸せない事情があった。
忍ぶの惣太実は京の吉田家の旧臣山田六郎が故主の若君梅若を締め殺したのも誤ちからであった。惣太は今宵中に道具屋小兵衛から吉田家再興のために必要な都鳥の印を買いもどす百両の金をととのえなければならなかった。しかも、彼はそこいの眼病をわずらっており、人の顔の見分けがつかなかった。その惣太も、はじめから梅若を殺す気はなく、事情を話して一時貸してくれるよう頼んでも梅若が聞き入れずに泣き叫んだので、猿ぐつわをはめようとした手拭がはずみで梅若の咽を締めたものであった。
人間の本性の善なることを謳う黙阿弥も、この世にもろくのおぞましい悪が存在することまで否定することができない。本性善なる人間がなぜ悪を犯すのか。そこで考え出された説明が善を強調するための方便であり、何らかの目的を達成しようとして性急のあまりに犯す誤ちである。いずれにしても、悪はそれ自体の実在感を失って観念の産物となる。
性善説をとる黙阿弥にとって、悪は人間の本然の状態ではなく、一時の仮象にすぎない。やがては浄められるべき汚染にすぎない。従って、悪が人間の本能に由来し、悪には悪の生命力があることを信じた南北は悪のすさまじいエネルギーを舞台化することができたのに対し、黙阿弥は悪に人間の生命力の枯渇しかみなかった。
清吉 今更言つても仕方がねえ、かういふ羽目になるのも時節。
白蓮 思へば親父が殺生の、報いか知らぬが二人とも。
さよ どうで始終は天の網。
清吉 どちらが先へ切られるか。
白蓮 残つた者が切首へ。
さよ 手向ける水も欠茶碗。
「花街模様葡色縫」三幕目雪の下白蓮本宅の場での白蓮、さよ、清吉の渡りぜりふである。女犯の罪で寺を追い出された清心は、相手の女大磯扇屋の女郎十六夜と稲瀬川へ投身心中し、二人とも助かって清心は鬼葡の清吉と名告る大盗と生れかわり、白蓮実はこれも大寺正兵衛という賊の妾となっていた十六夜のさよと共に白蓮をゆすりにかかる。しかし、清吉の持っていた守袋から白蓮と清吉は実の兄弟と知れ、さよを含めた三人は、これまで悪事をかさねてきた自分たちの行末を見通し、覚悟をかためる。悪の昂揚はなく、運命への嘆きと行末に対する暗い予感が七五調の韻律に乗って吐露される。その予感通りにやがておさよは殺され、清吉は自害し、白蓮の正兵衛は捕えられて終る。極楽寺の役僧清心が十六夜に迷ったのも運命であれば、心中した十夜清心が生き延び、別々の生き方をしたのちに再会するのも運命である。個々の人間の意志やあがきではどうにもならない運命日因果応報の理が登場人物を動かしていく。
松五 ……今日思はずも森戸屋の若旦那が、金故に死なうと覚悟のその所へ、丁度折よく出会ったは、ここで御恩を返せといふ亡き親達の導きと、極印金とも知らずして投込んだわが身の誤り、その金故に若旦那へ難儀をかけては済まねえから、一部始終を書残し、身の言訳は死ぬ覚悟、どうで始終はこれまでの悪事に切られて死ぬ身体、千住の犬や品川の烏の餌食にならねえのが、何よりおれの身の仕合せ。さあ詳しく書いた書置を、上へさし上げ若旦那を、どうぞ助けて下さりませ。
「船打込橋間白浪」の最終幕寺門花屋の場での松五郎のせりふである。商売道具を花水橋の上から川へ投げ込み、余生を太く短く生きる覚悟を固めた鋳掛松もその本性の善心までは失っていなかった。大恩ある森戸屋の若旦那宗次郎を助けようと恵んでやった五十両が極印金で、そのために宗次郎が代官所へ引かれたと知ったとき、松五郎は自分の短い一生にけりをつける覚悟を固めた。いっさいの自分の罪を告白した書置きを残して松五郎は切腹する。
多勢が徒党を組んでいても、黙阿弥劇の登場人物たちは孤独である。彼らは自分の行為につねに不安と後めたさを感じ、花やかなつらねの場においてさえ、自己を主張するよりは自己弁明に力を注ぐ。南北劇の悪人たちの自己正当化や生命の充足感とは裏腹である。次は有名な「青砥稿花紅彩画」の第四幕稲瀬川勢揃の場の白浪五人男のつらねの抜粋である。
駄右 ……産れは遠州浜松在十四の年から親に離れ……盗みはすれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々まで、義賊と噂高札に廻る配付の盟越し、危ねえその身の境涯も最早四十に人間の定めは僅五十年……。
弁天 ……油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も龍の口土の牢へも二度三度、だんく越える鳥居数、八幡様の氏子にて……。
忠信 ……惣の折から手癖が悪く・・…碁打と言つて寺寺や豪家へ入込み盗んだる金が鑑の羅は・搬の塔の二重三重、重なる悪事に高飛なし……。
十三 ……忍ぶ姿も人の目に月影ケ谷神輿ヶ嶽、今日ぞ命の明け方に消ゆる間近き星月夜……。
南郷 ……波にきらめく稲妻の白刃に脅す人殺し、背負って立たれぬ罪科は、その身に重き虎ケ石、悪事千里といふからはどうで終ひは木の空と覚悟はかねて鴫立沢……。
彼らは自分の過去を餓悔し、現在の境遇に不安を感じ、そして未来は闇に閉じられていることを知っている。悪が生命力の枯渇であることを如実に示す五人男のつらねである。
南北が活躍した化政期は江戸の階層構成が激しい変動を示した時代であった(竹内誠氏「寛政ー化政期江戸における諸階層の動向」(『江戸町人の研究第一巻』吉川弘文館 昭和四十七年)。従前の士農工商という階層の中で激しい分化が起り、それぞれの階層から没落した連中が下層社会に沈澱し、従前の江戸下層民に加えて大量にふくれあがった。そこへ、農村の疲弊にょって都市へ流入した脱落農民が加ってき、根生いの江戸市民とぶつかりあい、価値観や生活意識を異にする階層が江戸という同一地域で接触して摩擦を生じ、江戸は恒常的な生存競争の場となった。生存競争のあるところ弱肉強食が起り、悪が生れる。その悪が江戸の街を活性化して独特の化政期文化を生んだ。南北にとっては悪こそが人間の日常の営みであり、悪のエネルギーを描くことが南北の劇の中心主題となった。
このような江戸幕府存立の基盤である封建的階級制度の弛緩と崩壊に危機意識を抱いた幕府が、封建制の再編成と建直しに最後の努力をかたむけたのが天保の改革であった。その天保の改革は失敗に終り、江戸幕府は瓦解することになるのであるが、その現実の政治の進行に眼をつぶり、旧来の、上から与えられた価値観に殉じた黙阿弥であった。幕末期の黙阿弥の作品から旧秩序倒壊のかすかなおびえを感じとることはできるが、もうそこまで迫ってきているはずの、新しい時代の足音はいくら耳をすましても聞きとることはできない。
すでに形骸化しつつあったはずである儒教的勧懲主義や仏教的因果応報思想にしがみついて、滅んでいく古き、良き江戸の秩序と文化への挽歌をかなでたのが黙阿弥の作品であった。それは単に黙阿弥の計算であったに止まらず、彼の体質のいつわらざる表出でもあった。
黙阿弥の悪は加害者や被害者を超越した存在によって罰せられる傾向があっだ。次に、黙阿弥は悪を観念としてとらえ、人間の本能としての悪を作品化しようとしなかった。
右の二点と並んで、もう一つ注意しておくことは、黙阿弥が悪の中心に盗み,やゆすり、かたりなどを据え、殺しの棲惨さを描くことに禁欲的であったという事実である。これらは先にみた黙阿弥のしたたかな生き方と矛盾することではない。
もちろん、黙阿弥劇にも多くの殺しが登場する。どの作品にもう一や二つの死体が舞台に横たわる。しかし、伊丹屋十兵衛の座頭文弥殺しや忍ぶの惣太の梅若殺しに代表されるように、劇の主役級の人物の殺しには止むをえぬ事情や錯誤の状況を用意して、殺しという行為自体が持つ恐ろしさを舞台演出の中心に据えようとする意図が弱い。代って、「青砥稿花紅彩画」の浜松屋の場、天保の「三人吉三廓初買」の大川端庚申塚の場に象徴されるようなゆすりや盗みが主要な見せ場を構成する。
黙阿弥が殺しや死を劇の中心主題としなかったという事実は南北と比較した場合にいっそう明白となる。
もし、頭々、さぞ窮屈でござりませうが、晩までだから辛抱なせえ、人相書が廻つた故昼の内はうつかりと駕籠にもお乗せ申されねえから、とんだ故人南北だが、そつからわつちが新狂言に早桶といふ思ひ付さ。「花街模様葡色縫」四幕目名越無縁寺の場で、捕手に追われる親分大寺正兵衛を棺桶の中にかくまった手下三次のせりふである。
この人、常に棺桶を狂言につかふ事を好み、棺を用ひたる狂言を見れば作者は南北也と江戸の来賓は云事なり。(『伝奇作書』)
又日比遺言に、己狂言を作り、葬礼の場を出せし事度々也、然れ共、皆さし荷ひ故、我死去致しなば、その如くして寺へ遣すべし、と言けるよし。(『戯作者小伝』)
などと記述されている南北は、黙阿弥とは対照的に舞台上に死を登場させることが多かった。葬礼や幕場を好んで舞台上に設定しただけではなくて、殺しの凄惨さとブラッディ・シーンをほとんど淫するほどに戯曲にしくんだ。
死はけがれの最たるものである。死を罪の中心にすえた南北は、罪をけがれと把えたことになる。通常、けがれに対応するものは「祓え」であって罰ではない。つまり、けがれは他界から侵犯してきたものであるが故に、もう一度他界へ送り返さなければならない。これが日本人の伝統的罪悪観である。
日本法制史の通説では、最も原始的な法体系において罪に対応するのは「祓」であるとされています。だからその時代には「罪と罰」ではなくて「罪と祓」と言わなくてはいけないわけです。「祓」とは、広く言えば、罪によって発生した稼を一定の地域内から祓い捨てる、災いの基を祓うことで基本的には罪に対する処置が済むという考え方です。
『中世の罪と罰』(東京大学出版会 昭和五十八年)中における石井進氏の発言である。法体系はその時代の罪悪観を反映する。「罪と祓」観は原始時代から継承されてきた日本民族の罪悪観であった。
興味深い事実は、悪即けがれ観を奉じながら、南北に祓えの考えが認められないことである。祓えとは悪をその共同体に外在するものと考え、他地域へ追放すれば共同体は浄化されるとする信仰であるが、悪を共同体どころか人間そのものに内在する本能と把えた南北に祓えの観念が認められないのは当然である。南北にとって、悪は、自己のエネルギーの過剰によって崩壊するか、被虐者が加虐者と転じて報復行動に出るかのいずれかによって滅ぼされるものであった。
これに対し、黙阿弥の罪悪観は「罪と罰」であり、しかも、死を不浄として忌みきらう仏教的な考え方と、罪は罰によってつぐなわなければならないとする儒教的な勧善懲悪主義が結合している。黙阿弥は舞台から死を遠ざけようとし、盗みなどの悪はそれに見合う罰が当然与えられなければならないという後世的な観念を持っている。しかも、南北とは対照的に悪は人間と共同体の外に本来あるべきものとする祓えの信仰を奉じていた。
南北の作品に非人や部落民が多数登場するのに対し、黙阿弥の作にそれがほとんどみられないということも、右の両者の罪悪観と深くかかわっている。
近世において非人や部落民は直接死体に接触する唯一の職能団体であった。けがれとしての死を扱うが故に不当に卑賎視されていたが、他方、死を通して他界と交流することができるため、普通人にとっては畏怖の対象でもあった。
芸能人も近世以前においては遊行の呪術民として死の恐怖や罪障を祓うという役割を現実に荷っていた。その役務は近世にはいって非人や部落民にゆずったが、舞台上で死を芸能として演じることによって、遠い日の彼らの職能を舞台上で復原してみせた。歌舞伎が「悪所」とされ、歌舞伎役者たちが不当に卑賎視された基本論理も、おそらく、非人や部落民が卑賎視された論理と通底しあっているはずである。
南北が舞台上に非人や部落民を多数登場させたのは、遠い日に別れた同朋を呼び寄せたものであり、「悪所」の「悪」に居直った行為であった。ひたすらに「悪所」をいわば「善所」に置き換えようとつとめた黙阿弥との違いがそこにあった。 
(4) 祓えの儀礼
歌舞伎のつらねの一種に「厄払い」といわれるものがある。著名な例としては「三人吉三廓初買」の二幕目大川端庚申塚のお嬢吉三のつらねが知られている。
月も朧に白魚のか哩りもかすむ春の空、つめたい風もほろ酔に心持好く浮かくと、浮れ鳥の只一羽ねぐらへ帰る川端で、樟の雫か濡れ手で粟、思ひがけなく手に入る百両。ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落し、豆沢山に一文の銭と違つて金包み、こいつあ春から縁起がいdわえ。
夜鷹のおとせ−はたったの一度柳原の土手で自分を買ってくれた木屋の手代十三郎が落としていった百両の金子を十三郎に届けようと探し廻るうち、女装の盗賊お嬢吉三に金を奪われたうえに川の中へ突き落とされる。節分の宵に思いもかけない百両という大金を手に入れたお嬢吉三の喜悦の心情吐露が右のつらねである。このつらねを厄払いと呼ぶのは、厄払いという乞食の唱えて廻る祝いの文句に似通っているからである。江戸時代、節分の夜に祝言をとなえ、鶏の鳴きまねをして厄を払い、金銭をもらって歩く厄払いと呼ばれる乞食がいた。その唱える文句は明らかでないが、台本のト書きに、「お厄払ひませう、厄落しく」とその場を折から厄払いが通る設定がある。このような文句を唱えたものであろう。
厄払いは文字通りに不幸を払い捨てる呪言である。右のお嬢吉三のせりふは戯曲上に深いかかわりを持つものではないが、悪を共同体とそこに住む個人の上にふりかかる不幸と考える黙阿弥の戯曲では、悪から善に変る儀礼が重視され、その儀礼ではしばしばつらねが重要な役割を果していた。具体例を挙げて説明する。
安政四年(一八五八)正月、市村座で上演された「鼠小紋東君新形」は通称鼠小僧で知られる黙阿弥の代表作である。市川小団次(盗賊稲葉幸蔵実は与惣兵衛枠与吉)、坂東亀蔵(早瀬弥十郎、幸蔵養母お熊)、尾上菊五郎(後家お高、松葉屋の松山実は幸蔵女房お松)といった顔触れで、正月から三月へかけて九十日間を超える大当りをとったといわれている。
百両の金をかたりにとられた刀屋新助が恋人の芸者お元とともに川へ身を投げて死のうとしているところを助けた怪盗稲葉幸蔵は大名稲毛家に忍び込んで納戸金を盗みとり新助らに与えた。しかし、その金には極印が打ってあったために新助とお元は盗みの疑いでとらえられ、また、稲毛家辻番の与惣兵衛は幸蔵を幼いときに捨てた実父であったが、盗賊を手引きした仲で、これも捕えられ、激しい拷問に逢う。大略以上のような展開があって、四幕目の滑川稲葉内の場となる。
ここで平井左膳と名を変えト占業を営んでいる稲葉幸蔵の許へ、稲毛の家中松田主膳の娘おみつ、芸者お元の弟三吉、おみつの行方を探して松田主膳の若党本庄曽平次らが次々と訪れる。彼らの話によって、、自分が稲毛家から盗んで恵んだ百両の金のために多勢の人が不幸におちいっていることを幸蔵は知る。
幸蔵はみずから「盗みはすれども非道はせず」と語っているように本来は善人といっていい。ただ彼は盗癖を持っていた。しかし、その盗癖も庚申の夜の生れという彼のあずかり知らない運命のために生じたもので、彼に責任を問うことは酷である。
同情されるべき幸蔵の行為であったが、その行為から多数の人が不幸におちいった。激しい自責の念におそわれた幸蔵は、義母のお熊が女郎に売って金にしようと企んでいるおみつをひそかに逃がしてやり、自分から問注所へ名告って出て多勢の人々を救おうと決意する。この幸蔵の改心の場面を黙阿弥は次のように演出する。
……これより床の浄瑠璃になる。
走り行く後見送りて幸蔵が、血筋の縁と白雪の、我身に積る罪科を、算へたてたる悔み言、
   ト幸蔵思入あつて、どうと倒れ、
幸蔵 盗みはすれど仁義を守り、富めるを貧り貧しきを救ふは天の道なりと、思ふも己が得手勝手、例へば人の難儀をば、金をもって救うとも、救った金が又人に難儀をかけて盗んだ金故、我身に報ふその罪科……。
と、幸蔵の後悔の独白が延々と続き、しかも、要所に、へ先非を悔いて幸蔵が名乗り出でんと覚悟なす、門にはお熊が始終の様子、とつくと聞いて打ちうなづき、裏道さして忍び行く、さすが稲葉も此の世の別れ、過ぎ来し方を思ひ出し。と、義太夫浄瑠璃が、幸蔵の心情、態度、傍役のしぐさなどを叙述するために挿入されていく。
たとえその悪は微弱であり、同情すべきものであっても、黙阿弥劇において悪は共同体と個人の汚染であり、生命力の澗渇であった。悪はすみやかに共同体の外に祓え捨てられ、善の秩序が回復されなければならない。祓えはそれにふさわしい儀礼を必要とする。儀礼は壮厳であればある程その効果は大きく、そのあとにもたらされる善は強固となる。
幸蔵の独白が終ったところで、鳥目となった幸蔵の妻松山がかぶろのみどり、実は幸蔵との仲に生れた子をつれて雪中、廓を抜け出して幸蔵を探して尋ねてくるが、すでに自首の覚悟を固めている幸蔵は、非情にも親子、夫婦の名告りをせずに帰した。そのあと、義母のお熊がおみつを逃がしたことで幸蔵になぐる蹴るの乱暴を働く。挙句に幸蔵の刀を奪って振り廻し、それを止めようとしたはずみで、幸蔵は誤ってお熊を斬り殺してしまった。しかし、お熊の残した書置きから、お元新助の百両の金をかたりとった罪滅ぼしのための覚悟の死で、わざと幸蔵の手にかかったことが明らかとなる。
「鼠小紋東君新形」で、悪を祓え捨てるための儀礼には、三つの構成要素が用意されていた。まず、悪の根原である稲葉幸蔵の告白のつらねであり、次に犠牲である。犠牲としてえらばれたのは、みずからを司直の手にゆだねることを決意した幸蔵と、その幸蔵の手にかかって果てたお熊であった。そして、儀礼を終始壮厳するものが床の浄瑠璃に代表される音楽である。幸蔵の七五調のつらねにも快い韻律があることはいうまでもない。
罪の餓悔と犠牲と音楽と、この三つの構成要素によって進行させられる祓えの儀礼に参加することによって、観客は、愁嘆、恐怖、憐欄、喜悦、畏敬などの情にとっぷりとひたる。そして、最後には、人間の性は善であり、この世を支配するものは正義の道理であるという黙阿弥劇の哲学を確認させられる。
悪から善へという、黙阿弥劇の祓えの儀礼にはきまって餓悔と犠牲と音楽という三つの要素が用意されていた。
「網模様燈籠菊桐」五幕目深川大島町網打七五郎宅の場で、餓悔する者はかつて殺人の罪を犯した七五郎と盗人として追われる七之助の父子である。犠牲は殺害した与四郎の亡霊に悩まされる七五郎とこの場で七之助に殺害される倉ケ野屋親方儀兵衛であり、終始床の浄瑠璃が儀式を壮厳する。「花街模様葡色縫」第四幕の墓守庵室の場で、清心の後身鬼葡の清吉は情婦おさよに対し、おさよの弟の求馬を殺した犯人であることを告白し、また、自分の父やおさよの母が仕えた主家八重垣家の重宝緑丸の短刀を盗んだことを打ち明け、おさよに自分を殺してくれとせまる。互いに先に死のうと争ううち、清吉は誤っておさよを斬り殺し、自分も覚悟の死をとげる。ここでも犠牲は二人である。そして、よそ事浄瑠璃の「恋娘昔八丈鈴ケ森引廻しの段」がその場に流れてくる。
「三人吉三廓初買」六幕目巣鴨在吉祥院裏手の場でも、「青砥稿花紅彩画」五幕目大詰極楽寺山門屋根の場でも、「勧善懲悪覗機関」七暮目日本堤の場でも、そして、「曽我誘 侠御所染」六幕目五郎蔵内、「船打込橋間白浪」三幕目花屋の場と、悪から善への祓えの儀礼では、餓悔、犠牲、音楽の三要素がかならずそろっていた。戯晦をする者はその戯曲の主人公であるが、犠牲となる者は主人公とはかならずしもかぎられていなかった。音楽は床の浄瑠璃であったり、めりやす独吟であったり、清元や長唄の連中であったりするが、大薩摩やよそ事浄瑠璃なども使用された。
犠牲とは俗が聖なるものに接触する特別の時空である。民俗学用語を借りるなら、ケ(日常)が生命力を回復するハレ(非日常)の場である。悪こそがケであり、人間が本能をむきだしにしてぶつかりあっている状態を通常とみる南北劇では、悪を善に転じるための特別の儀礼を舞台に登場させることはほとんどない。人間の内部に俗性も聖性もそなわっており、両者は儀礼なしに交替するからである。これに対し、善をケとみ、悪を善の喪失状態と考える黙阿弥劇では、悪を善に転じるためには特別の儀礼(ハレ)を必要とみなす。儀礼によって聖なるものに触れ、ケの活性化をはかろうとする。悪は人間の外部に存在し、一時的に内部にはりこんできても、儀礼によって呼び寄せられた聖なる力によって、容易に人間の外部に祓え捨てられるし、また、祓え捨てるべきであるとするのが黙阿弥の罪悪観であった。 
2 黙阿弥劇の音楽性 
黙阿弥劇が音楽性に富んでいることは多くの研究家が指摘している。
先づ余の黙阿弥翁の白浪物世話物に対する全体の見解を披渥せしめよ。余は其等の黙阿弥劇を以って恰も仏蘭西の世話歌劇に似たるものと見てゐる。元より両者の形式組織または其の来歴も全然異ったものではあるが、部分々々に於いては余はどうかすると折々此の如く感ずる事がある。一例を挙ぐればコニ人吉三」大詰火見櫓捕物の場に於て、清元と義太夫の出語掛合の音楽があって、舞台には頻りに雪降る中をお嬢の吉三と、お坊の吉三の両人が左右の花道より出て来るのを看る時の感情の如き、余は黙阿弥劇を以って決して純劇として之を取扱ふべきものではないと思ってゐる。黙阿弥翁は江戸浄瑠璃の上に置かれた世話のオペラである。
大正五年の『世話狂言の研究』(天弦堂書房)におさめられた永井荷風の「三人吉三廓初買につきて」という一文中の発言である。黙阿弥劇を純粋の劇として見るべきではなく世話オペラと考えよという主張は音楽性の豊かな黙阿弥劇の本質をついたことばとして注目される。黙阿弥の脚本は、当然のことながら、
 ト書き
 せりふ
 ふし
の三つの部分から構成されている。この点では他の狂言作者の脚本と何らえらぶところはない。ト書きは、大道具、小道具の説明、下座音楽の指定、役者のしぐさや心情の描写と、他の狂言作者と差は認められない。黙阿弥劇の音楽性が特に強調されるのは、せりふと下座音楽、よそ事浄瑠璃などの部分に他の狂言作者よりも音楽性の伸長が認められるからである。
せりふは独白と対白とに大別され、共に無韻のせりふと韻律を伴うせりふとから成る。黙阿弥劇の音楽性を論じる研究家はこの韻律を伴うせりふの他作者と比べての量的拡大と多彩さとを指摘する。
黙阿弥劇のせりふを分類して表にすると次のようになる。
歌舞伎のせりふとして普通に挙げられるのは、つらわ、渡りぜりふ、割りぜりふ、厄払い、捨てぜりふなどであるが、その厳密な定義はまだ試みられていない。つらねは長ぜりふともいわれ、延年のつらねに源流があるといわれる。しかし、厄払いなどとの区別は明らかでなく、いずれにしても、縁語や掛けことばなどを用いてつらねられたせりふを称しており、長さと韻律性に特徴がある。渡りぜりふと割りぜりふとの区別もあいまいである。一連の長いせりふを数人の登場人物が分割していうせりふ術であるが、この両者は同一種と認めても大きな支障はない。厄払いは、節分の夜に家々を訪れる物もらいの一種の厄払いと文句をまねたものというが、せりふの種類としては、つらね乃至は渡りぜりふ、割りぜりふの中に含めることができる。捨てぜりふは役者が登退場の問を持たせるため、脚本に指定のないせりふを適当にいうことであるが、分類としては独白中のひとりごと、あるいは、対話中の会話に入れることができる。この他に、名のり、掛合い、ほめ詞などを挙げることもあるが、名のりとほめ詞はつらねの一種と考えてもよいし、掛合いは、割りぜりふまたは渡りぜりふの異称とみなされる。
以上のような諸点を考慮して、右の表を作制した。この表のうち、特に内容乃至は分類意図の明らかでない点のあるものに説明を加える。
(ロ)の口上とは、役者の初舞台、襲名、追善その他の際に役者、頭取などが観客に挨拶をのべる口上ではなく、劇中に挿入される浄瑠璃演奏などの顔触れを登場人物が劇の進行中に紹介する特殊演出のせりふをさす。たとえば・硝総齪塵の序蕎島道行の場で・清一兀連中による「ぬれてうれしきうきねのみずどり濡嬉浮辣鵡」が演奏されるが、その紹介は次のようになされる。吉原の若葉屋の遊女若草は恋人の堀の船頭浮世伊之助と駆け落ちする手段として、自分に惚れこんでいる蔵前の米屋の番頭ひね六に心中を持ちかけた手紙を送る。真に受けたひね六は、源兵衛堀で若草を待つが、なかく若草が姿を見せないので、念のためにと手紙を読み返してみると、それがいつのまにか浄瑠璃名題の触れ書に変っているという趣向である。ひね六は不審に思いながらもその触れ書を読みあげる。
つらねはいずれも韻律性を伴った長ぜりふをさすが、独白の場合と、数人の対話形式で運ばれる場合とがある。対話形式のつらねとしては、「青砥稿花紅彩画」の四幕目稲瀬川勢揃の場の五人男のそれを代表例とする。対話形式とはいっても観客に向かってなされる独白性がつよいことはいうまでもない。独白のつらねも黙阿弥劇の随所に見出すことのできるエロキューションであるが、比較的初期の例として、安政三年の「夢結蝶鳥追」(雪駄直し長五郎)の二幕目神輿ケ嶽山下の場における駕屋甚兵衛のそれを挙げておく。この甚兵衛のせりふは掛けことば、縁語などの修辞が使用されているわけではないので、あるいはつらねに分類することに異論を抱く研究家もいるかも知れない。しかし、自分の落度で主人橋本治太夫が殿より預っている重宝放駒の香合を奪われ、浪人したこと、その香合のありかがようく判明したが、、明日中に百両の金が工面できなければ、主人は切腹という羽目に追い込まれている次第を語り、死の覚悟を固めるまで、文語と七五の韻律を中心とした語調で告白するせりふ廻しは、まさに、黙阿弥独自の修辞法といえ、生世話の南北などには認められない音楽性の重視であった。そこでは、劇の進行はいったん停止し、観客は役者の雄弁術に聞き惚れることになる。こうしたつらねがいっそうの洗練を加えて、コニ人吉三廓初買」の二幕目大川端庚申塚の場のお嬢吉三の厄払いへと発展していく。
割りぜりふに無韻と韻律の二種がある。鰍フ無韻の割りぜりふの初期の例としては嘉永六年の「しらぬひ譚」五幕目厳島廻廊の場で、殿の御前での武術試合で勝ち誇った大友岩太郎が老臣浅倉三太夫に勝負を望み、門弟共々、辞退する三太夫に詰め寄る場面を挙げておく。岩太郎は三太夫の娘しがらみを妻にもらいたいと申し入れ、その日ごろの行状を理由ににべもなく断られた恨みがあるので、激しく三太夫を追い詰めていく。きわめて劇的に緊張した場面をつくりだしている。
これに対し、韻律を伴った割りぜりふは、劇的行為を中断し、愁嘆や詠嘆の中に観客を巻きこんでいく。おなじ「しらぬひ繹」から引用すると、二幕目の太宰府参詣の場がそれである。九州の大名菊池右衛門佐貞行は家臣や腰元たちをつれて太宰府の天満宮に参詣し、社内の咲き乱れた梅を観賞する。その梅花の美しさを称えるせりふである。
貞行 春風一度発すれば、清香数里かんばしと、実に太宰府の神社、春知り顔に盛りの梅花。
春之 色香も薄き未熟者、隣り町からはるみ\と、召されてここへ入来鳥。
冬次 おなじ色香の片言に、ほう法華経も三年ぶり。
夏之 男形さへ白梅の、まだふつつかな苔がち。
三太 かさねし枝も河原崎、年も老木の鴬宿梅。
この狂言から河原崎座へ出演することになった役者たちの自己宣伝を兼ねた名告りぜりふの要素もそなえ、劇中人物相互の対話というかたちをとりながら、役者たちの観客への挨拶となっている。
黙阿弥劇の音楽性を直接になうものはもちろん下座や出語りに代表されるふしである。このふしは歌詞を伴うものと、純粋な効果音乃至は伴奏楽として歌詞を伴わないものとに大別される。
歌詞を伴わないふしのほとんどは下座であるが、下座の中にはしかしある種の合方や唄などのように歌詞を伴うものもある。
下座は普通に、唄、合方、鳴物に三大別され、現行の曲種は八百を超えるといわれるが(景山正隆氏「下座音楽」『歌舞伎事典』平凡社 昭和五十八年)、黙阿弥劇に使用される種類はさらにそれを大きく上廻るものと推定される。その機能は複雑をきわめるが、一つの試案として、
登場人物にかかわるもの
場面にかかわるもの
と二分してみる。前者は、役者の所作、性根、格、心情、運命などを表現する効果音として使用され、後者は、役者が演技を行う局面の時と所の雰囲気づくりに利用される。この下座の豊富さと多様さがせりふの韻律性と相乗効果を発揮して、黙阿弥劇の音楽性の中心部分を形成している。
黙阿弥劇で歌詞を伴うふしとしては浄瑠璃諸派の出語りが多用されている。以下、具体例を挙げて、どのような機能を果しているかを検討してみる。  
舛鯉瀧白旗序幕向島道行の場
 清一兀浄瑠璃「濡嬉浮探鵡」
 若草伊之助の濡れ模様。
しらぬひ讃序幕鐘ケ岬海底の場
 大薩摩浄瑠璃
 海底より唐土の海賊七草官丁礼の怨霊が出現し、実子春吉に復讐を托す。
しらぬひ謬四幕目鳥山屋敷の場
 床の浄瑠璃
 自害した乳母の血を飲んで、憶病者の犬千代が勇者に変る。
蔦紅葉宇都谷峠五幕目品川宿海禅寺の場
 富本浄瑠璃「心中玉露白小袖」
 古今彦三の心中道行と亡霊の出現。
鼠小紋東君新形四幕目滑川稲葉内の場
 床の浄瑠璃
 稲葉幸蔵の臓悔、親子夫婦の愁嘆と義母お熊の改心の死。
網模様燈籠菊桐二幕目矢矧橋の場
 竹本浄瑠璃
 七之助の夢。日吉丸となり蓮葉与六に行逢って仲間に加わる。
網模様燈籠菊桐四幕目吉原三日月長屋の場
 新内浄瑠璃「星逢瀬恋恋 柵」
 お熊七之助夫婦、七之助お波兄妹の再会と口説と愁嘆。
網模様燈籠菊桐五幕目深川大島町網打七五郎内の場
 床の浄瑠璃
 親子、兄妹再会の愁嘆、死霊の出現と七五郎の改心。
花街模様葡色縫序幕稲瀬川百本杭の場
 清元浄瑠璃「梅柳中宵月」
 十六夜清心の駆落ちと恋情の吐露、心中。
 竹本浄瑠璃
 清心の蘇生と殺し、悪への回心。
花街模様葡色縫四幕目名越無縁寺の場
 よそ事浄瑠璃「恋娘昔八丈鈴ケ森引廻し」
 鬼葡清吉の覚悟の自殺。
三人吉三廓初買五幕目根岸丁字屋別荘の場
 花園浄瑠璃「夜鶴姿泡雪」
 親子、夫婦、恋人同士の愁嘆と一重の死の決意。
三人吉三廓初買七幕目本郷火の見櫓の場
 清元、竹本掛合「初櫓噂高島」
 三人吉三の出逢いと刺し違えての死。
青砥稿花紅彩画五暮目大詰極楽寺山門屋根の場
 大薩摩浄瑠璃
 弁天小僧の自害と残り四人の捕われ。
勧善懲悪覗機関七幕目日本提の場
 岸沢浄瑠璃「恨葛露濡衣」
 小夜衣千太郎の駆け落ちと久八の主殺し。
曽我経侠御所染六幕目五郎蔵内の場
 床の浄瑠璃
 自分の重大な誤ちを知った五郎蔵の切腹とさつきの死。
劇に仕組まれるということ自体がすでに非日常の世界に入りこんでいるという前提の上に立って、さらに、劇中世界を日常と非日常に分けたとき、右に検討したことばを伴うふしの諸例はいずれも、非日常の表現に関与している。愁嘆、恋情、後悔、怨念など、日常態を超えた人間の情念の高まりを表現し、怨霊、亡霊の出現、再会、殺人、自害、回心、真実、濡れ模様、情死など、殊更に劇の盛り上りを見せる場の雰囲気づくりに貢献している。
雰囲気づくりといってもことばを伴うために、ことばの意味が働きかけ、劇の進行とかかわりを持ち、劇の進行速度を若干ゆるめはするが、進行を停止してしまうことはない。右の諸例のなかでも大薩摩や豊後節系の岸沢、富本、清元などの諸流派はことばよりも音楽性の効果に傾き、竹本浄瑠璃がもっともことばの意味の伝達機能に依存している。
永井荷風は黙阿弥劇を世話のオペラにたとえた。しかし、これまで黙阿弥劇の音楽性を検討した結果を綜合すると、黙阿弥劇は日本の伝統楽劇である義太夫浄瑠璃にたとえるのがもっとも適当といえる。よく知られているように、義太夫浄瑠璃は、地 詞 ふし の三部から成る。詞は三味線の伴奏を止めて、日常の会話に近いせりふ廻しで、登場人物の身分、性別、老若などをそれらしく語り分ける部分である。登場人物が太夫の手を離れてもっとも自立性を発揮する個所であり、黙阿弥の脚本のせりふと近似する。ふしは義太夫浄瑠璃で旋律性を最高度に発揮するところで、黙阿弥劇のふしに相当する。地は地合ともいい、浄瑠璃の筋の進行を受け持つ基本部分である。ふしほどではないが三味線の伴奏を伴って旋律性も保っている。これを脚本のト書きにそのまま比定することには大きな無理があるが、しかし、役者のしぐさや心情の説明、劇の進行する局面の描写など、ト書きの果す重要な機能は浄瑠璃の地も受け持っている。
十八世紀の半ば、義太夫浄瑠璃が最盛期を迎えて以後の歌舞伎は義太夫浄瑠璃の圧倒的影響を受けた。その義太夫浄瑠璃の影響を徹底的に排除し、歌舞伎本来のせりふ劇としての本質を最高度に発揮したのが南北の作品であった。しかし、その後を承けた黙阿弥劇は、再度義太夫浄瑠璃の特性を採り入れて、日本の歌舞伎戯曲史上に類を見ない音楽性の豊かな脚本をつくりあげた。
黙阿弥劇が義太夫浄瑠璃と類同性を多く有すると考えると、黙阿弥劇の特性がかなりうまく説明できる。
義太夫浄瑠璃で旋律を伴う地やふしは、太夫が劇中の登場人物に語りかける個所ではなく、直接聴衆乃至は観客に訴え、その叙述の真実性が保証されている。同様に黙阿弥劇においてもふしの部分やせりふ中の韻律を伴うつらねや割りぜりふは作者や役者が観客に直接訴えてくる部分であって、その叙述の真実性を疑う余地はない。
松五 む、、草津へ湯治に行った帰り、連に別れてた§一人、而も九月の五日の晩くたびれ足に関窟から、乗合船へ飛込んだが、そんならお前はあの晩に。
お咲 伊香保稼ぎに母さんと二人つれにて三月越し、涼風立って江戸へ行き、雁の鳴く音に気をせかれ、生れ故郷がなつかしく、片月見をば合点で、無理に帰った帰り道。
松五 旅は道つれ夜通しに下る夜船のとまの内、筑波おろしに肌寒く、互ひに側へ寄りこぞり。
お咲 浮世話も乗合の田舎道者や旅商人、水が違つても言ふことも口に合はねばお前と二人。
松五 たとへ所は違つても、話が合つて百年も、なじんだやうに一晩で打解けるのが旅の常。
お咲 それをいつしか更くる夜に、いつくの鐘か川水へ、ひびく数さへ九つに、
「船打込橋間白浪」の二幕目妾宅の場で、鋳掛松が木屋文蔵の妾となっている昔なじみの女お咲と再会する個所である。奇遇を驚く二人の対話が自然に割りぜりふへ移行していくにつれ、二人は一体となって観客に過去のいきさつを物語っている。しかもこの二人の割りぜりふは無責任な真偽さだかならぬ対話ではなく、浄瑠璃文の地のふしと同様に真実の情報のみを伝えている。
語り物としての義太夫浄瑠璃は作者の思想を伝えようとする。しかも、明確にことばの形式をとった思想を伝える。これに対し、歌舞伎狂言は本来ことばの形をとった思想を伝える演劇ではなく、役者の演技、せりふ、舞台装置、照明、音楽その他の総和としての思想を伝えようとする。その歌舞伎狂言の中にあって、黙阿弥劇が明確に勧懲ということばの思想を掲げるのも義太夫浄瑠璃に類同する。
黙阿弥の世話物は写実を標榜しながら内実は音楽性に流れてロマンチシズムへ傾いている。韻律性は聴衆を地上から天空へ誘う。義太夫浄瑠璃が元禄の近松作を除いては、ついに世話物の傑作を生むことに成功しなったのも、浄瑠璃の韻律が世話物よりも時代物に適しているからである。例外的な存在の近松の世話物も、南北の生世話などに比較したときにははるかに楽劇的要素を濃厚に有し、写実劇というよりも詩劇性が強い。
ことばとしての思想を打ち出している黙阿弥劇は、その具体的表現として、悪から善への祓えの儀礼を設定し、祭壇に供えられる犠牲を用意している。この犠牲は時代浄瑠璃の三段目の悲劇的局面にみられる犠牲的行為乃至犠牲死の機能と近接するが、黙阿弥劇に悲劇性を欠くのは、運命の強大さと人間の力の弱さに対する諦念が登場人物を支配しており、この世を動かす因果律に対する抵抗をはじめから放棄していたからである。
 

 

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