高野聖

高野聖義血侠血愛と婚姻月令十二態・・・
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雑学の世界・補考   

高野聖 / 泉鏡太郎

一  
「参謀本部(さんぼうほんぶ)編纂(へんさん)の地図(ちづ)を又(また)繰開(くりひら)いて見(み)るでもなからう、と思(おも)つたけれども、余(あま)りの道(みち)ぢやから、手(て)を触(さは)るさへ暑(あつ)くるしい、旅(たび)の法衣(ころも)の袖(そで)をかゝげて、表紙(へうし)を附(つ)けた折本(をりほん)になつてるのを引張(ひつぱ)り出(だ)した。
飛騨(ひだ)から信州(しんしう)へ越(こ)える深山(しんざん)の間道(かんだう)で、丁度(ちやうど)立休(たちやす)らはうといふ一本(いつぽん)の樹立(こだち)も無(な)い、右(みぎ)も左(ひだり)も山(やま)ばかりぢや、手(て)を伸(の)ばすと達(とゞ)きさうな峯(みね)があると、其(そ)の峯(みね)へ峯(みね)が乗(の)り巓(いたゞき)が被(かぶ)さつて、飛(と)ぶ鳥(とり)も見(み)えず、雲(くも)の形(かたち)も見(み)えぬ。
道(みち)と空(そら)との間(あひだ)に唯(たゞ)一人(ひとり)我(わし)ばかり、凡(およ)そ正午(しやうご)と覚(おぼ)しい極熱(ごくねつ)の太陽(たいやう)の色(いろ)も白(しろ)いほどに冴(さ)え返(かへ)つた光線(くわうせん)を、深々(ふか/″\)と頂(いたゞ)いた一重(ひとへ)の檜笠(ひのきがさ)に凌(しの)いで、恁(か)う図面(づめん)を見(み)た。」
旅僧(たびそう)は然(さ)ういつて、握拳(にぎりこぶし)を両方(りやうはう)枕(まくら)に乗(の)せ、其(それ)で額(ひたひ)を支(さゝ)へながら俯向(うつむ)いた。
道連(みちづれ)になつた上人(しやうにん)は、名古屋(なごや)から此(こ)の越前(えちぜん)敦賀(つるが)の旅籠屋(はたごや)に来(き)て、今(いま)しがた枕(まくら)に就(つ)いた時(とき)まで、私(わたし)が知(し)つてる限(かぎ)り余(あま)り仰向(あふむ)けになつたことのない、詰(つま)り傲然(がうぜん)として物(もの)を見(み)ない質(たち)の人物(じんぶつ)である。
一体(いつたい)東海道(とうかいだう)掛川(かけがは)の宿(しゆく)から同(おなじ)汽車(きしや)に乗(の)り組(く)んだと覚(おぼ)えて居(ゐ)る、腰掛(こしかけ)の隅(すみ)に頭(かうべ)を垂(た)れて、死灰(しくわい)の如(ごと)く控(ひか)へたから別段(べつだん)目(め)にも留(と)まらなかつた。
尾張(をはり)の停車場(ステーシヨン)で他(た)の乗組員(のりくみゐん)は言合(いひあ)はせたやうに、不残(のこらず)下(お)りたので、函(はこ)の中(なか)には唯(たゞ)上人(しやうにん)と私(わたし)と二人(ふたり)になつた。
此(こ)の汽車(きしや)は新橋(しんばし)を昨夜(さくや)九時半(くじはん)に発(た)つて、今夕(こんせき)敦賀(つるが)に入(はい)らうといふ、名古屋(なごや)では正午(ひる)だつたから、飯(めし)に一折(ひとをり)の鮨(すし)を買(かつ)た。旅僧(たびそう)も私(わたし)と同(おなじ)く其(そ)の鮨(すし)を求(もと)めたのであるが、蓋(ふた)を開(あ)けると、ばら/\と海苔(のり)が懸(かゝ)つた、五目飯(ちらし)の下等(かとう)なので。
(やあ、人参(にんじん)と干瓢(かんぺう)ばかりだ、)と踈匆(そゝ)ツかしく絶叫(ぜつけう)した、私(わたし)の顔(かほ)を見(み)て旅僧(たびそう)は耐(こら)へ兼(か)ねたものと見(み)える、吃々(くつ/\)と笑(わら)ひ出(だ)した、固(もと)より二人(ふたり)ばかりなり、知己(ちかづき)にはそれから成(な)つたのだが、聞(き)けば之(これ)から越前(ゑちぜん)へ行(い)つて、派(は)は違(ちが)ふが永平寺(えいへいじ)に訪(たづ)ねるものがある、但(たゞ)し敦賀(つるが)に一泊(いつぱく)とのこと。
若狭(わかさ)へ帰省(きせい)する私(わたし)もおなじ処(ところ)で泊(とま)らねばならないのであるから、其処(そこ)で同行(どうかう)の約束(やくそく)が出来(でき)た。
渠(かれ)は高野山(かうやさん)に籍(せき)を置(お)くものだといつた、年配(ねんぱい)四十五六(しじふごろく)、柔和(にうわ)な、何等(なんら)の奇(き)も見(み)えぬ、可懐(なつかし)い、おとなしやかな風采(とりなり)で、羅紗(らしや)の角袖(かくそで)の外套(ぐわいたう)を着(き)て、白(しろ)のふらんねるの襟巻(えりまき)を占(し)め、土耳古形(とるこがた)の帽(ばう)を冠(かむ)り、毛糸(けいと)の手袋(てぶくろ)を箝(は)め、白足袋(しろたび)に、日和下駄(ひよりげた)で、一見(いつけん)、僧侶(そうりよ)よりは世(よ)の中(なか)の宗匠(そうしやう)といふものに、其(それ)よりも寧(むし)ろ俗(ぞく)歟(か)。
(お泊(とま)りは何方(どちら)ぢやな、)といつて聞(き)かれたから、私(わたし)は一人旅(ひとりたび)の旅宿(りよしゆく)の詰(つま)らなさを、染々(しみ/″\)歎息(たんそく)した、第一(だいいち)盆(ぼん)を持(も)つて女中(ぢよちう)が坐睡(ゐねむり)をする、番頭(ばんとう)が空世辞(そらせじ)をいふ、廊下(らうか)を歩行(ある)くとじろ/\目(め)をつける、何(なに)より最(もつと)も耐(た)へ難(がた)いのは晩飯(ばんめし)の支度(したく)が済(す)むと、忽(たちま)ち灯(あかり)を行燈(あんどう)に換(か)へて、薄暗(うすぐら)い処(ところ)でお休(やす)みなさいと命令(めいれい)されるが、私(わたし)は夜(よ)が更(ふ)けるまで寝(ね)ることが出来(でき)ないから、其間(そのあひだ)の心持(こゝろもち)といつたらない、殊(こと)に此頃(このごろ)の夜(よ)は長(なが)し、東京(とうきやう)を出(で)る時(とき)から一晩(ひとばん)の泊(とまり)が気(き)になつてならない位(くらゐ)、差支(さしつか)へがなくば御僧(おんそう)と御一所(ごいつしよ)に。
快(こゝろよ)く頷(うなづ)いて、北陸地方(ほくりくちはう)を行脚(あんぎや)の節(せつ)はいつでも杖(つゑ)を休(やす)める香取屋(かとりや)といふのがある、旧(もと)は一軒(いつけん)の旅店(りよてん)であつたが、一人女(ひとりむすめ)の評判(ひやうばん)なのがなくなつてからは看板(かんばん)を外(はづ)した、けれども昔(むかし)から懇意(こんい)な者(もの)は断(ことは)らず留(とめ)て、老人夫婦(としよりふうふ)が内端(うちは)に世話(せわ)をして呉(く)れる、宜(よろ)しくば其(それ)へ。其代(そのかはり)といひかけて、折(をり)を下(した)に置(お)いて、
(御馳走(ごちそう)は人参(にんじん)と干瓢(かんぺう)ばかりぢや。)
と呵々(から/\)と笑つた、慎深(つゝしみふか)さうな打見(うちみ)よりは気(き)の軽(かる)い。  

 

岐阜(ぎふ)では未(ま)だ蒼空(あをそら)が見(み)えたけれども、後(あと)は名(な)にし負(お)ふ北国空(ほくこくぞら)、米原(まいばら)、長浜(ながはま)は薄曇(うすぐもり)、幽(かすか)に日(ひ)が射(さ)して、寒(さむ)さが身(み)に染(し)みると思(おも)つたが、柳(やな)ヶ|瀬(せ)では雨(あめ)、汽車(きしや)の窓(まど)が暗(くら)くなるに従(したが)ふて、白(しろ)いものがちら/\交(まじ)つて来(き)た。
(雪(ゆき)ですよ。)
(然(さ)やうぢやな。)といつたばかりで別(べつ)に気(き)に留(と)めず、仰(あふ)いで空(そら)を見(み)やうともしない、此時(このとき)に限(かぎ)らず、賤(しづ)ヶ|岳(たけ)が、といつて古戦場(こせんぢやう)を指(さ)した時(とき)も、琵琶湖(びはこ)の風景(ふうけい)を語(かた)つた時(とき)も、旅僧(たびそう)は唯(たゞ)頷(うなづ)いたばかりである。
敦賀(つるが)で悚毛(おぞけ)の立(た)つほど煩(わづら)はしいのは宿引(やどひき)の悪弊(あくへい)で、其日(そのひ)も期(き)したる如(ごと)く、汽車(きしや)を下(お)りると停車場(ステーシヨン)の出口(でぐち)から町端(まちはな)へかけて招(まね)きの提灯(ちやうちん)、印傘(しるしかさ)の堤(つゝみ)を築(きづ)き、潜抜(くゞりぬ)ける隙(すき)もあらなく旅人(たびびと)を取囲(とりかこ)んで、手(て)ン手(で)に喧(かまびす)しく己(おの)が家号(やがう)を呼立(よびた)てる、中(なか)にも烈(はげ)しいのは、素早(すばや)く手荷物(てにもつ)を引手繰(ひツたぐ)つて、へい有難(ありがた)う様(さま)で、を喰(くら)はす、頭痛持(づゝうもち)は血(ち)が上(のぼ)るほど耐(こら)へ切(き)れないのが、例(れい)の下(した)を向(む)いて悠々(いう/\)と小取廻(ことりまはし)に通抜(とほりぬ)ける旅僧(たびそう)は、誰(たれ)も袖(そで)を曳(ひ)かなかつたから、幸(さいはひ)其後(そのあと)に跟(つ)いて町(まち)へ入(はい)つて、吻(ほツ)といふ息(いき)を吐(つ)いた。
雪(ゆき)は小止(をやみ)なく、今(いま)は雨(あめ)も交(まじ)らず乾(かわ)いた軽(かる)いのがさら/\と面(おも)を打(う)ち、宵(よひ)ながら門(もん)を鎖(とざ)した敦賀(つるが)の町(まち)はひつそりして一|条(すぢ)二|条(すぢ)縦横(たてよこ)に、辻(つじ)の角(かど)は広々(ひろ/″\)と、白(しろ)く積(つも)つた中(なか)を、道(みち)の程(ほど)八|町(ちやう)ばかりで、唯(と)ある軒下(のきした)に辿(たど)り着(つ)いたのが名指(なざし)の香取屋(かとりや)。
床(とこ)にも座敷(ざしき)にも飾(かざり)といつては無(な)いが、柱立(はしらだち)の見事(みごと)な、畳(たゝみ)の堅(かた)い、炉(ろ)の大(おほい)なる、自在鍵(じざいかぎ)の鯉(こひ)は鱗(うろこ)が黄金造(こがねづくり)であるかと思(おも)はるる艶(つや)を持(も)つた、素(す)ばらしい竈(へツつひ)を二ツ並(なら)べて一|斗飯(とうめし)は焚(た)けさうな目覚(めざま)しい釜(かま)の懸(かゝ)つた古家(ふるいへ)で。
亭主(ていしゆ)は法然天窓(はふねんあたま)、木綿(もめん)の筒袖(つゝそで)の中(なか)へ両手(りやうて)の先(さき)を窘(すく)まして、火鉢(ひばち)の前(まへ)でも手(て)を出(だ)さぬ、ぬうとした親仁(おやぢ)、女房(にようばう)の方(はう)は愛嬌(あいけう)のある、一寸(ちよいと)世辞(せじ)の可(い)い婆(ばあ)さん、件(くだん)の人参(にんじん)と干瓢(かんぺう)の話(はなし)を旅僧(たびそう)が打出(うちだ)すと、莞爾々々(にこ/\)笑(わら)ひながら、縮緬雑魚(ちりめんざこ)と、鰈(かれい)の干物(ひもの)と、とろろ昆布(こぶ)の味噌汁(みそしる)とで膳(ぜん)を出(だ)した、物(もの)の言振(いひぶり)取做(とりなし)なんど、如何(いか)にも、上人(しやうにん)とは別懇(べつこん)の間(あひだ)と見(み)えて、連(つれ)の私(わたし)の居心(ゐごゝろ)の可(よ)さと謂(い)つたらない。
軈(やが)て二|階(かい)に寐床(ねどこ)を慥(こしら)へてくれた、天井(てんじやう)は低(ひく)いが、梁(うつばり)は丸太(まるた)で二抱(ふたかゝへ)もあらう、屋(や)の棟(むね)から斜(なゝめ)に渡(わた)つて座敷(ざしき)の果(はて)の廂(ひさし)の処(ところ)では天窓(あたま)に支(つか)へさうになつて居(ゐ)る、巌丈(がんぢやう)な屋造(やづくり)、是(これ)なら裏(うら)の山(やま)から雪頽(なだれ)が来(き)てもびくともせぬ。
特(こと)に炬燵(こたつ)が出来(でき)て居(ゐ)たから私(わたし)は其(その)まゝ嬉(うれ)しく入(はい)つた。寐床(ねどこ)は最(も)う一|組(くみ)同一(おなじ)炬燵(こたつ)に敷(し)いてあつたが、旅僧(たびそう)は之(これ)には来(きた)らず、横(よこ)に枕(まくら)を並(なら)べて、火(ひ)の気(け)のない臥床(ねどこ)に寐(ね)た。
寐(ね)る時(とき)、上人(しやうにん)は帯(おび)を解(と)かぬ、勿論(もちろん)衣服(きもの)も脱(ぬ)がぬ、着(き)たまゝ丸(まる)くなつて俯向形(うつむきなり)に腰(こし)からすつぽりと入(はい)つて、肩(かた)に夜具(やぐ)の袖(そで)を掛(か)けると手(て)を突(つ)いて畏(かしこま)つた、其(そ)の様子(やうす)は我々(われ/\)と反対(はんたい)で、顔(かほ)に枕(まくら)をするのである。程(ほど)なく寂然(ひつそり)として寝(ね)に着(つ)きさうだから、汽車(きしや)の中(なか)でもくれ/″\いつたのは此処(こゝ)のこと、私(わたし)は夜(よ)が更(ふ)けるまで寐(ね)ることが出来(でき)ない、あはれと思(おも)つて最(も)う暫(しばら)くつきあつて、而(そ)して諸国(しよこく)を行脚(あんぎや)なすつた内(うち)のおもしろい談(はなし)をといつて打解(うちと)けて幼(おさな)らしくねだつた。
すると上人(しやうにん)は頷(うなづ)いて、私(わし)は中年(ちうねん)から仰向(あふむ)けに枕(まくら)に着(つ)かぬのが癖(くせ)で、寐(ね)るにも此儘(このまゝ)ではあるけれども目(め)は未(ま)だなか/\冴(さ)えて居(を)る、急(きふ)に寐着(ねつ)かれないのはお前様(まへさま)と同一(おんなし)であらう。出家(しゆつけ)のいふことでも、教(おしへ)だの、戒(いましめ)だの、説法(せつぱふ)とばかりは限(かぎ)らぬ、若(わか)いの、聞(き)かつしやい、と言(いつ)て語(かた)り出(だ)した。後(あと)で聞(き)くと宗門(しうもん)名誉(めいよ)の説教師(せつけうし)で、六明寺(りくみんじ)の宗朝(しうてう)といふ大和尚(だいおしやう)であつたさうな。
三 

 

「今(いま)に最(も)う一人(ひとり)此処(こゝ)へ来(き)て寝(ね)るさうぢやが、お前様(まへさま)と同国(どうこく)ぢやの、若狭(わかさ)の者(もの)で塗物(ぬりもの)の旅商人(たびあきうど)。いや此(こ)の男(をとこ)なぞは若(わか)いが感心(かんしん)に実体(じつてい)な好(い)い男(をとこ)。
私(わし)が今(いま)話(はなし)の序開(じよびらき)をした其(そ)の飛騨(ひだ)の山越(やまごえ)を遣(や)つた時(とき)の、麓(ふもと)の茶屋(ちやゝ)で一|所(しよ)になつた富山(とやま)の売薬(ばいやく)といふ奴(やつ)あ、けたいの悪(わる)い、ねぢ/\した厭(いや)な壮佼(わかいもの)で。
先(ま)づこれから峠(たうげ)に掛(かゝ)らうといふ日(ひ)の、朝早(あさはや)く、尤(もつと)も先(せん)の泊(とまり)はものゝ三|時(じ)位(ぐらゐ)には発(た)つて来(き)たので、涼(すゞし)い内(うち)に六|里(り)ばかり、其(そ)の茶屋(ちやゝ)までのしたのぢやが、朝晴(あさばれ)でぢり/\暑(あつ)いわ。
慾張抜(よくばりぬ)いて大急(おほいそ)ぎで歩(ある)いたから咽(のど)が渇(かは)いて為様(しやう)があるまい早速(さつそく)茶(ちや)を飲(のま)うと思(おも)ふたが、まだ湯(ゆ)が沸(わ)いて居(を)らぬといふ。
何(ど)うして其(その)時分(じぶん)ぢやからといふて、滅多(めツた)に人通(ひとどほり)のない山道(やまみち)、朝顔(あさがほ)の咲(さ)いてる内(うち)に煙(けぶり)が立(た)つ道理(だうり)もなし。
床几(しやうぎ)の前(まへ)には冷(つめ)たさうな小流(こながれ)があつたから手桶(てをけ)の水(みづ)を汲(く)まうとして一寸(ちよいと)気(き)がついた。
其(それ)といふのが、時節柄(じせつがら)暑(あつ)さのため、可恐(おそろし)い悪(わる)い病(やまひ)が流行(はや)つて、先(さき)に通(とほ)つた辻(つじ)などといふ村(むら)は、から一|面(めん)に石灰(いしばひ)だらけぢやあるまいか。
(もし、姉(ねえ)さん。)といつて茶店(ちやみせ)の女(をんな)に、
(此(この)水(みづ)はこりや井戸(ゐど)のでござりますか。)と、極(きま)りも悪(わる)し、もじ/\聞(き)くとの。
(いんね川(かは)のでございす。)といふ、はて面妖(めんえう)なと思(おも)つた。
(山(やま)したの方(はう)には大分(だいぶ)流行病(はやりやまひ)がございますが、此(この)水(みづ)は何(なに)から、辻(つぢ)の方(はう)から流(なが)れて来(く)るのではありませんか。)
(然(さ)うでねえ。)と女(をんな)は何気(なにげ)なく答(こた)へた、先(ま)づ嬉(うれ)しやと思(おも)ふと、お聞(き)きなさいよ。
此処(こゝ)に居(ゐ)て先刻(さツき)から休(や)すんでござつたのが、右(みぎ)の売薬(ばいやく)ぢや。此(こ)の又(また)万金丹(まんきんたん)の下廻(したまはり)と来(き)た日(ひ)には、御存(ごぞん)じの通(とほ)り、千筋(せんすぢ)の単衣(ひとへ)に小倉(こくら)の帯(おび)、当節(たうせつ)は時計(とけい)を挟(はさ)んで居(ゐ)ます、脚絆(きやはん)、股引(もゝひき)、之(これ)は勿論(もちろん)、草鞋(わらぢ)がけ、千草木綿(ちくさもめん)の風呂敷包(ふろしきづゝみ)の角(かど)ばつたのを首(くび)に結(ゆは)へて、桐油合羽(とういうがつぱ)を小(ちい)さく畳(たゝ)んで此奴(こいつ)を真田紐(さなだひも)で右(みぎ)の包(つゝみ)につけるか、小弁慶(こべんけい)の木綿(もめん)の蝙蝠傘(かうもりがさ)を一|本(ぽん)、お極(きまり)だね。一寸(ちよいと)見(み)ると、いやどれもこれも克明(こくめい)で、分別(ふんべつ)のありさうな顔(かほ)をして。これが泊(とまり)に着(つ)くと、大形(おほがた)の裕衣(ゆかた)に変(かは)つて、帯広解(おびひろげ)で焼酎(せうちう)をちびり/\遣(や)りながら、旅籠屋(はたごや)の女(をんな)のふとつた膝(ひざ)へ脛(すね)を上(あ)げやうといふ輩(やから)ぢや。
(これや、法界坊(はふかいばう)、)
なんて、天窓(あたま)から嘗(な)めて居(ゐ)ら。
(異(おつ)なことをいふやうだが何(なに)かね世(よ)の中(なか)の女(をんな)が出来(でき)ねえと相場(さうば)が極(きま)つて、すつぺら坊主(ばうず)になつても矢張(やツぱ)り生命(いのち)は欲(ほ)しいのかね、不思議(ふしぎ)ぢやあねえか、争(あらそ)はれねもんだ、姉(ねえ)さん見(み)ねえ、彼(あれ)で未(ま)だ未練(みれん)のある内(うち)が可(い)いぢやあねえか、)といつて顔(かほ)を見合(みあ)はせて二人(ふたり)で呵々(から/\)と笑(わら)つたい。
年紀(とし)は若(わか)し、お前様(まへさん)、私(わし)は真赤(まツか)になつた、手(て)に汲(く)んだ川(かは)の水(みづ)を飲(の)みかねて猶予(ためら)つて居(ゐ)るとね。
ポンと煙管(きせる)を払(はた)いて、
(何(なに)、遠慮(ゑんりよ)をしねえで浴(あ)びるほどやんなせえ、生命(いのち)が危(あやふ)くなりや、薬(くすり)を遣(や)らあ、其為(そのため)に私(わし)がついてるんだぜ、喃(なあ)姉(ねえ)さん。おい、其(それ)だつても無銭(たゞ)ぢやあ不可(いけね)えよ憚(はゞか)りながら神方万金丹(しんぱうまんきんたん)、一|貼(てふ)三|百(びやく)だ、欲(ほ)しくば買(か)ひな、未(ま)だ坊主(ばうず)に報捨(はうしや)をするやうな罪(つみ)は造(つく)らねえ、其(それ)とも何(ど)うだお前(まへ)いふことを肯(き)くか、)といつて茶店(ちやみせ)の女(をんな)の背中(せなか)を叩(たゝ)いた。
私(わし)は匆々(さう/\)に遁出(にげだ)した。
いや、膝(ひざ)だの、女(をんな)の背中(せなか)だのといつて、いけ年(とし)を仕(つかまつ)つた和尚(おしやう)が業体(げふてい)で恐入(おそれい)るが、話(はなし)が、話(はなし)ぢやから其処(そこ)は宜(よろ)しく。」  
四 

 

「私(わし)も腹立紛(はらだちまぎ)れぢや、無暗(むやみ)と急(いそ)いで、それからどん/\山(やま)の裾(すそ)を田圃道(たんぼみち)へ懸(かゝ)る。
半町(はんちやう)ばかり行(ゆ)くと、路(みち)が恁(か)う急(きふ)に高(たか)くなつて、上(のぼ)りが一(いつ)ヶ|処(しよ)、横(よこ)から能(よ)く見(み)えた、弓形(ゆみなり)で宛(まる)で土(つち)で勅使橋(ちよくしばし)がかゝつてるやうな。上(うへ)を見(み)ながら、之(これ)へ足(あし)を踏懸(ふみか)けた時(とき)、以前(いぜん)の薬売(くすりうり)がすた/\遣(や)つて来(き)て追着(おひつ)いたが。
別(べつ)に言葉(ことば)も交(か)はさず、又(また)ものをいつたからといふて、返事(へんじ)をする気(き)は此方(こツち)にもない。何処(どこ)までも人(ひと)を凌(しの)いだ仕打(しうち)な薬売(くすりうり)は流盻(しりめ)にかけて故(わざ)とらしう私(わし)を通越(とほりこ)して、すた/\前(まへ)へ出(で)て、ぬつと小山(こやま)のやうな路(みち)の突先(とつさき)へ蝙蝠傘(かうもりがさ)を差(さ)して立(た)つたが、其(その)まゝ向(むか)ふへ下(お)りて見(み)えなくなる。
其後(そのあと)から爪先上(つまさきあが)り、軈(やが)てまた太鼓(たいこ)の胴(どう)のやうな路(みち)の上(うへ)へ体(からだ)が乗(の)つた、其(それ)なりに又(また)下(くだ)りぢや。
売薬(ばいやく)は先(さき)へ下(お)りたが立停(たちどま)つて頻(しきり)に四辺(あたり)を瞻(みまは)して居(ゐ)る様子(やうす)、執念深(しふねんぶか)く何(なに)か巧(たく)んだか、と快(こゝろよ)からず続(つゞ)いたが、さてよく見(み)ると仔細(しさい)があるわい。
路(みち)は此処(こゝ)で二|条(すぢ)になつて、一|条(すぢ)はこれから直(す)ぐに坂(さか)になつて上(のぼ)りも急(きふ)なり、草(くさ)も両方(りやうはう)から生茂(おひしげ)つたのが、路傍(みちばた)の其(そ)の角(かど)の処(ところ)にある、其(それ)こそ四|抱(かゝへ)さうさな、五|抱(かゝへ)もあらうといふ一|本(ぽん)の檜(ひのき)の、背後(うしろ)へ畝(うね)つて切出(きりだ)したやうな大巌(おほいは)が二ツ三ツ四ツと並(なら)んで、上(うへ)の方(はう)へ層(かさ)なつて其(そ)の背後(うしろ)へ通(つう)じて居(ゐ)るが、私(わし)が見当(けんたう)をつけて、心組(こゝろぐ)んだのは此方(こツち)ではないので、矢張(やツぱり)今(いま)まで歩行(ある)いて来(き)た其(そ)の巾(はゞ)の広(ひろ)いなだらかな方(はう)が正(まさ)しく本道(ほんだう)、あと二|里(り)足(た)らず行(ゆ)けば山(やま)になつて、其(それ)からが峠(たうげ)になる筈(はず)。
唯(と)見(み)ると、何(ど)うしたことかさ、今(いま)いふ其(その)檜(ひのき)ぢやが、其処(そこ)らに何(なんに)もない路(みち)を横截(よこぎ)つて見果(みはて)のつかぬ田圃(たんぼ)の中空(なかそら)へ虹(にじ)のやうに突出(つきで)て居(ゐ)る、見事(みごと)な。根方(ねかた)の処(ところ)の土(つち)が壊(くづ)れて大鰻(おほうなぎ)を捏(こ)ねたやうな根(ね)が幾筋(いくすぢ)ともなく露(あら)はれた、其(その)根(ね)から一|筋(すぢ)の水(みづ)が颯(さつ)と落(お)ちて、地(ぢ)の上(うへ)へ流(なが)れるのが、取(と)つて進(すゝ)まうとする道(みち)の真中(まんなか)に流出(ながれだ)してあたりは一|面(めん)。
田圃(たんぼ)が湖(みづうみ)にならぬが不思議(ふしぎ)で、どう/\と瀬(せ)になつて、前途(ゆくて)に一|叢(むら)の藪(やぶ)が見(み)える、其(それ)を境(さかひ)にして凡(およ)そ二|町(ちやう)ばかりの間(あひだ)宛(まる)で川(かは)ぢや。礫(こいし)はばら/\、飛石(とびいし)のやうにひよい/\と大跨(おほまた)で伝(つた)へさうにずつと見(み)ごたへのあるのが、それでも人(ひと)の手(て)で並(なら)べたに違(ちが)ひはない。
尤(もつと)も衣服(きもの)を脱(ぬ)いで渡(わた)るほどの大事(おほごと)なのではないが、本街道(ほんかいだう)には些(ち)と難儀(なんぎ)過(す)ぎて、なか/\馬(うま)などが歩行(ある)かれる訳(わけ)のものではないので。
売薬(ばいやく)もこれで迷(まよ)つたのであらうと思(おも)ふ内(うち)、切放(きれはな)れよく向(むき)を変(か)へて右(みぎ)の坂(さか)をすた/\と上(のぼ)りはじめた。
見(み)る間(ま)に檜(ひのき)を後(うしろ)に潜(くゞ)り抜(ぬ)けると、私(わし)が体(からだ)の上(うへ)あたりへ出(で)て下(した)を向(む)き、
(おい/\、松本(まつもと)へ出(で)る路(みち)は此方(こつち)だよ、)といつて無雑作(むざふさ)にまた五六|歩(ぽ)。
岩(いは)の頭(あたま)へ半身(はんしん)を乗出(のりだ)して、
(茫然(ぼんやり)してると、木精(こだま)が攫(さら)ふぜ、昼間(ひるま)だつて用捨(ようしや)はねえよ。)と嘲(あざけ)るが如(ごと)く言(い)ひ棄(す)てたが、軈(やが)て岩(いは)の陰(かげ)に入(はい)つて高(たか)い処(ところ)の草(くさ)に隠(かく)れた。
暫(しばら)くすると見上(みあ)げるほどな辺(あたり)へ蝙蝠傘(かうもりがさ)の先(さき)が出(で)たが、木(き)の枝(えだ)とすれ/\になつて茂(しげみ)の中(なか)に見(み)えなくなつた。
(どッこいしよ、)と暢気(のんき)なかけ声(ごゑ)で、其(そ)の流(ながれ)の石(いし)の上(うへ)を飛々(とび/″\)に伝(つたは)つて来(き)たのは、呉座(ござ)の尻当(しりあて)をした、何(なん)にもつけない天秤棒(てんびんぼう)を片手(かたて)で担(かつ)いだ百姓(ひやくしやう)ぢや。」 

 

「前刻(さツき)の茶店(ちやみせ)から此処(こゝ)へ来(く)るまで、売薬(ばいやく)の外(ほか)は誰(たれ)にも逢(あ)はなんだことは申上(まをしあ)げるまでもない。
今(いま)別(わか)れ際(ぎは)に声(こゑ)を懸(か)けられたので、先方(むかう)は道中(だうちう)の商売人(しやうばいにん)と見(み)たゞけに、まさかと思(おも)つても気迷(きまよひ)がするので、今朝(けさ)も立(た)ちぎはによく見(み)て来(き)た、前(まへ)にも申(まを)す、其(そ)の図面(づめん)をな、此処(こゝ)でも開(あ)けて見(み)やうとして居(ゐ)た処(ところ)。
(一寸(ちよいと)伺(うかゞ)ひたう存(ぞん)じますが、)
(これは、何(なん)でござりまする、)と山国(やまぐに)の人(ひと)などは殊(こと)に出家(しゆつけ)と見(み)ると丁寧(ていねい)にいつてくれる。
(いえ、お伺(うかゞ)ひ申(まを)しますまでもございませんが、道(みち)は矢張(やツぱり)これを素直(まツすぐ)に参(まゐ)るのでございませうな。)
(松本(まつもと)へ行(ゆ)かつしやる?あゝ/\本道(ほんだう)ぢや、何(なに)ね、此間(こなひだ)の梅雨(つゆ)に水(みづ)が出(で)てとてつもない川(かは)さ出来(でき)たでがすよ。)
(未(ま)だずつと何処(どこ)までも此(この)水(みづ)でございませうか。)
(何(なん)のお前様(まへさま)、見(み)たばかりぢや、訳(わけ)はござりませぬ、水(みづ)になつたのは向(むか)ふの那(あ)の藪(やぶ)までゞ、後(あと)は矢張(やツぱり)これと同一(おんなじ)道筋(みちすぢ)で山(やま)までは荷車(にぐるま)が並(なら)んで通(とほ)るでがす。藪(やぶ)のあるのは旧(もと)大(おほき)いお邸(やしき)の医者様(いしやさま)の跡(あと)でな、此処等(こゝいら)はこれでも一ツの村(むら)でがした、十三|年(ねん)前(ぜん)の大水(おほみづ)の時(とき)、から一|面(めん)に野良(のら)になりましたよ、人死(ひとじに)もいけえこと。御坊様(ごばうさま)歩行(ある)きながらお念仏(ねんぶつ)でも唱(とな)へて遣(や)つてくれさつしやい)と問(と)はぬことまで親切(しんせつ)に話(はな)します。其(それ)で能(よ)く仔細(しさい)が解(わか)つて確(たしか)になりはなつたけれども、現(げん)に一人(ひとり)蹈迷(ふみまよ)つた者(もの)がある。
(此方(こつち)の道(みち)はこりや何処(どこ)へ行(ゆ)くので、)といつて売薬(ばいやく)の入(はい)つた左手(ゆんで)の坂(さか)を尋(たづ)ねて見(み)た。
(はい、これは五十|年(ねん)ばかり前(まへ)までは人(ひと)が歩行(ある)いた旧道(きうだう)でがす。矢張(やツぱり)信州(しんしう)へ出(で)まする、前(さき)は一つで七|里(り)ばかり総体(そうたい)近(ちか)うござりますが、いや今時(いまどき)往来(わうらい)の出来(でき)るのぢやあござりませぬ。去年(きよねん)も御坊様(おばうさま)、親子連(おやこづれ)の順礼(じゆんれい)が間違(まちが)へて入(はい)つたといふで、はれ大変(たいへん)な、乞食(こじき)を見(み)たやうな者(もの)ぢやといふて、人命(じんめい)に代(かは)りはねえ、追(おツ)かけて助(たす)けべいと、巡査様(おまはりさま)が三|人(にん)、村(むら)の者(もの)が十二人(じふにゝん)、一|組(くみ)になつて之(これ)から押登(おしのぼ)つて、やつと連(つ)れて戻(もど)つた位(くらゐ)でがす。御坊様(おばうさま)も血気(けつき)に逸(はや)つて近道(ちかみち)をしてはなりましねえぞ、草臥(くたび)れて野宿(のじゆく)をしてからが此処(こゝ)を行(ゆ)かつしやるよりは増(まし)でござるに。はい、気(き)を着(つ)けて行(ゆ)かつしやれ。)
此処(こゝ)で百姓(ひやくしやう)に別(わか)れて其(そ)の川(かは)の石(いし)の上(うへ)を行(ゆか)うとしたが弗(ふ)と猶予(ためら)つたのは売薬(ばいやく)の身(み)の上(うへ)で。
まさかに聞(き)いたほどでもあるまいが、其(それ)が本当(ほんたう)ならば見殺(みごろし)ぢや、何(ど)の道(みち)私(わたし)は出家(しゆつけ)の体(からだ)、日(ひ)が暮(く)れるまでに宿(やど)へ着(つ)いて屋根(やね)の下(した)に寝(ね)るには及(およ)ばぬ、追着(おツつ)いて引戻(ひきもど)して遣(や)らう。罷違(まかりちが)ふて旧道(きうだう)を皆(みな)歩行(ある)いても怪(け)しうはあるまい、恁(か)ういふ時候(じこう)ぢや、狼(おほかみ)の春(しゆん)でもなく、魑魅魍魎(ちみまうりやう)の汐(しほ)さきでもない、まゝよ、と思(おも)ふて、見送(みおく)ると早(は)や親切(しんせつ)な百姓(ひやくしやう)の姿(すがた)も見(み)えぬ。
(可(よ)し。)
思切(おもひき)つて坂道(さかみち)に取(と)つて懸(かゝ)つた、侠気(をとこぎ)があつたのではござらぬ、血気(けつき)に逸(はや)つたでは固(もと)よりない、今(いま)申(まを)したやうではずつと最(も)う悟(さと)つたやうぢやが、いやなか/\の憶病者(おくびやうもの)、川(かは)の水(みづ)を飲(の)むのさへ気(き)が怯(ひ)けたほど生命(いのち)が大事(だいじ)で、何故(なぜ)又(また)と謂(い)はつしやるか。
唯(たゞ)挨拶(あいさつ)をしたばかりの男(をとこ)なら、私(わし)は実(じつ)の処(ところ)、打棄(うつちや)つて置(お)いたに違(ちが)ひはないが、快(こゝろよ)からぬ人(ひと)と思(おも)つたから、其(その)まゝに見棄(みす)てるのが、故(わざ)とするやうで、気(き)が責(せ)めてならなんだから、」
と宗朝(しうてう)は矢張(やツぱり)俯向(うつむ)けに床(とこ)に入(はい)つたまゝ合掌(がツしやう)していつた。
「其(それ)では口(くち)でいふ念仏(ねんぶつ)にも済(す)まぬと思(おも)ふてさ。」 

 

「さて、聞(き)かつしやい、私(わし)はそれから檜(ひのき)の裏(うら)を抜(ぬ)けた、岩(いは)の下(した)から岩(いは)の上(うへ)へ出(で)た、樹(き)の中(なか)を潜(くゞ)つて草深(くさふか)い径(こみち)を何処(どこ)までも、何処(どこ)までも。
すると何時(いつ)の間(ま)にか今(いま)上(あが)つた山(やま)は過(す)ぎて又(また)一ツ山(やま)が近(ちか)づいて来(き)た、此辺(このあたり)暫(しばら)くの間(あひだ)は野(の)が広々(ひろ/″\)として、前刻(さツき)通(とほ)つた本街道(ほんかいだう)より最(も)つと巾(はゞ)の広(ひろ)い、なだらかな一|筋道(すぢみち)。
心持(こゝろもち)西(にし)と、東(ひがし)と、真中(まんなか)に山(やま)を一ツ置(お)いて二|条(すぢ)並(なら)んだ路(みち)のやうな、いかさまこれならば鎗(やり)を立(た)てゝも行列(ぎやうれつ)が通(とほ)つたであらう。
此(こ)の広(ひろ)ツ場(ぱ)でも目(め)の及(およ)ぶ限(かぎり)芥子粒(けしつぶ)ほどの大(おほき)さの売薬(ばいやく)の姿(すがた)も見(み)ないで、時々(とき/″\)焼(や)けるやうな空(そら)を小(ちひ)さな虫(むし)が飛歩行(とびある)いた。
歩行(ある)くには此(こ)の方(はう)が心細(こゝろぼそ)い、あたりがばツとして居(ゐ)ると便(たより)がないよ。勿論(もちろん)飛騨越(ひだごゑ)と銘(めい)を打(う)つた日(ひ)には、七|里(り)に一|軒(けん)十|里(り)に五|軒(けん)といふ相場(さうば)、其処(そこ)で粟(あは)の飯(めし)にありつけば都合(つがふ)も上(じやう)の方(はう)といふことになつて居(を)ります。其(そ)の覚悟(かくご)のことで、足(あし)は相応(さうおう)に達者(たツしや)、いや屈(くつ)せずに進(すゝ)んだ進(すゝ)んだ。すると、段々(だん/″\)又(また)山(やま)が両方(りやうはう)から逼(せま)つて来(き)て、肩(かた)に支(つか)へさうな狭(せま)いことになつた、直(す)ぐに上(のぼり)。
さあ、之(これ)からが名代(なだい)の天生峠(あまふたうげ)と心得(こゝろえ)たから、此方(こツち)も其気(そのき)になつて、何(なに)しろ暑(あつ)いので、喘(あへ)ぎながら、先(ま)づ草鞋(わらぢ)の紐(ひも)を締直(しめなほ)した。
丁度(ちやうど)此(こ)の上口(のぼりくち)の辺(あたり)に美濃(みの)の蓮大寺(れんたいじ)の本堂(ほんだう)の床下(ゆかした)まで吹抜(ふきぬ)けの風穴(かざあな)があるといふことを年経(とした)つてから聞(き)きましたが、なか/\其処(そこ)どころの沙汰(さた)ではない、一|生懸命(しやうけんめい)、景色(けしき)も奇跡(きせき)もあるものかい、お天気(てんき)さへ晴(は)れたか曇(くも)つたか訳(わけ)が解(わか)らず、目(ま)まじろぎもしないですた/\と捏(こ)ねて上(のぼ)る。
とお前様(まへさま)お聞(き)かせ申(まを)す話(はなし)は、これからぢやが、最初(さいしよ)に申(まを)す通(とほ)り路(みち)がいかにも悪(わる)い、宛然(まるで)人(ひと)が通(かよ)ひさうでない上(うへ)に、恐(おそろし)いのは、蛇(へび)で。両方(りやうはう)の叢(くさむら)に尾(を)と頭(あたま)とを突込(つツこ)んで、のたりと橋(はし)を渡(わた)して居(ゐ)るではあるまいか。
私(わし)は真先(まツさき)に出会(でツくわ)した時(とき)は笠(かさ)を被(かぶ)つて竹杖(たけづゑ)を突(つ)いたまゝはツと息(いき)を引(ひ)いて膝(ひざ)を折(を)つて坐(すわ)つたて。
いやもう生得(しやうとく)大嫌(だいきらひ)、嫌(きらひ)といふより恐怖(こわ)いのでな。
其時(そのとき)は先(ま)づ人助(ひとたす)けにずる/″\と尾(を)を引(ひ)いて向(むか)ふで鎌首(かまくび)を上(あ)げたと思(おも)ふと草(くさ)をさら/\と渡(わた)つた。
漸(やうや)う起上(おきあが)つて道(みち)の五六|町(ちやう)も行(ゆ)くと又(また)同一(おなじ)やうに、胴中(どうなか)を乾(かは)かして尾(を)も首(くび)も見(み)えぬが、ぬたり!
あツといふて飛退(とびの)いたが、其(それ)も隠(かく)れた。三|度目(どめ)に出会(であ)つたのが、いや急(きふ)には動(うご)かず、然(しか)も胴体(どうたい)の太(ふと)さ、譬(たと)ひ這出(はひだ)した処(ところ)でぬら/\と遣(や)られては凡(およ)そ五|分間(ふんかん)位(ぐらゐ)は尾(を)を出(だ)すまでに間(ま)があらうと思(おも)ふ長虫(ながむし)と見(み)えたので已(や)むことを得(え)ず私(わし)は跨(また)ぎ越(こ)した、途端(とたん)に下腹(したはら)が突張(つツぱ)つてぞツと身(み)の毛(け)、毛穴(けあな)が不残(のこらず)鱗(うろこ)に変(かは)つて、顔(かほ)の色(いろ)も其(そ)の蛇(へび)のやうになつたらうと目(め)を塞(ふさ)いだ位(くらゐ)。
絞(しぼ)るやうな冷汗(ひやあせ)になる気味(きみ)の悪(わる)さ、足(あし)が窘(すく)んだといふて立(た)つて居(ゐ)られる数(すう)ではないから、びく/\しながら路(みち)を急(いそ)ぐと又(また)しても居(ゐ)たよ。
然(しか)も今度(こんど)のは半分(はんぶん)に引切(ひきき)つてある胴(どう)から尾(を)ばかりの虫(むし)ぢや、切口(きりくち)が蒼(あをみ)を帯(お)びて其(それ)で恁(か)う黄色(きいろ)な汁(しる)が流(なが)れてぴくぴくと動(うご)いたわ。
我(われ)を忘(わす)れてばら/\とあとへ遁帰(にげかへ)つたが、気(き)が着(つ)けば例(れい)のが未(ま)だ居(ゐ)るであらう、譬(たと)ひ殺(ころ)されるまでも二|度(ど)とは彼(あれ)を跨(また)ぐ気(き)はせぬ。あゝ前刻(さツき)のお百姓(ひやくしやう)がものゝ間違(まちがひ)でも故道(ふるみち)には蛇(へび)が恁(か)うといつてくれたら、地獄(ぢごく)へ落(お)ちても来(こ)なかつたにと照(て)りつけられて、涙(なみだ)が流(なが)れた、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、今(いま)でも悚然(ぞツ)とする。」と額(ひたひ)に手(て)を。 

 

「果(はてし)が無(な)いから肝(きも)を据(す)ゑた、固(もと)より引返(ひきかへ)す分(ぶん)ではない。旧(もと)の処(ところ)には矢張(やツぱり)丈足(たけた)らずの骸(むくろ)がある、遠(とほ)くへ避(さ)けて草(くさ)の中(なか)へ駆(か)け抜(ぬ)けたが、今(いま)にもあとの半分(はんぶん)が絡(まと)ひつきさうで耐(たま)らぬから気臆(きおくれ)がして足(あし)が筋張(すぢば)ると、石(いし)に躓(つまづ)いて転(ころ)んだ、其時(そのとき)膝節(ひざふし)を痛(いた)めましたものと見(み)える。
それからがく/″\して歩行(ある)くのが少(すこ)し難渋(なんじふ)になつたけれども、此処(こゝ)で倒(たふ)れては温気(うんき)で蒸殺(むしころ)されるばかりぢやと、我身(わがみ)で我身(わがみ)を激(はげ)まして首筋(くびすぢ)を取(と)つて引立(ひきた)てるやうにして峠(たうげ)の方(はう)へ。
何(なに)しろ路傍(みちばた)の草(くさ)いきれが可恐(おそろ)しい、大鳥(おほとり)の卵(たまご)見(み)たやうなものなんぞ足許(あしもと)にごろ/″\して居(ゐ)る茂(しげ)り塩梅(あんばい)。
又(また)二|里(り)ばかり大蛇(おろち)の畝(うね)るやうな坂(さか)を、山懐(やまふところ)に突当(つきあた)つて岩角(いはかど)を曲(まが)つて、木(き)の根(ね)を繞(めぐ)つて参(まゐ)つたが此処(こゝ)のことで余(あま)りの道(みち)ぢやつたから、参謀本部(さんぼうほんぶ)の絵図面(ゑづめん)を開(ひら)いて見(み)ました。
何(なに)矢張(やツぱり)道(みち)は同一(おんなじ)で聞(き)いたにも見(み)たのにも変(かはり)はない、旧道(きうだう)は此方(こちら)に相違(さうゐ)はないから心遣(こゝろや)りにも何(なん)にもならず、固(もと)より歴(れツき)とした図面(づめん)といふて、描(ゑが)いてある道(みち)は唯(たゞ)栗(くり)の毯(いが)の上(うへ)へ赤(あか)い筋(すぢ)が引張(ひつぱ)つてあるばかり。
難儀(なんぎ)さも、蛇(へび)も、毛虫(けむし)も、鳥(とり)の卵(たまご)も、草(くさ)いきれも、記(しる)してある筈(はず)はないのぢやから、薩張(さツぱり)と畳(たゝ)んで懐(ふところ)に入(い)れて、うむと此(こ)の乳(ちゝ)の下(した)へ念仏(ねんぶつ)を唱(とな)へ込(こ)んで立直(たちなほ)つたは可(よ)いが、息(いき)も引(ひ)かぬ内(うち)に情無(なさけな)い長虫(ながむし)が路(みち)を切(き)つた。
其処(そこ)でもう所詮(しよせん)叶(かな)はぬと思(おも)つたなり、これは此(こ)の山(やま)の霊(れい)であらうと考(かんが)へて、杖(つえ)を棄(す)てゝ膝(ひざ)を曲(ま)げ、じり/\する地(つち)に両手(りやうて)をついて、
(誠(まこと)に済(す)みませぬがお通(とほ)しなすつて下(くだ)さりまし、成(なる)たけお昼寝(ひるね)の邪魔(じやま)になりませぬやうに密(そツ)と通行(つうかう)いたしまする。
御覧(ごらん)の通(とほ)り杖(つえ)も棄(す)てました。)と我折(がを)れ染々(しみ/″\)と頼(たの)んで額(ひたひ)を上(あ)げるとざつといふ凄(すさまじ)い音(おと)で。
心持(こゝろもち)余程(よほど)の大蛇(だいじや)と思(おも)つた、三|尺(じやく)、四|尺(しやく)、五|尺(しやく)、四|方(はう)、一|丈(ぢやう)余(よ)、段々(だん/″\)と草(くさ)の動(うご)くのが広(ひろ)がつて、傍(かたへ)の谷(たに)へ一|文字(もんじ)に颯(さツ)と靡(なび)いた、果(はて)は峯(みね)も山(やま)も一|斉(せい)に揺(ゆる)いだ、悚毛(おぞけ)を震(ふる)つて立窘(たちすく)むと涼(すゞ)しさが身(み)に染(し)みて気(き)が着(つ)くと山颪(やまおろし)よ。
此(こ)の折(をり)から聞(きこ)えはじめたのは哄(どツ)といふ山彦(やまひこ)に伝(つた)はる響(ひゞき)、丁度(ちやうど)山(やま)の奥(おく)に風(かぜ)が渦巻(うづま)いて其処(そこ)から吹起(ふきおこ)る穴(あな)があいたやうに感(かん)じられる。
何(なに)しろ山霊(さんれい)感応(かんおう)あつたか、蛇(へび)は見(み)えなくなり暑(あつ)さも凌(しの)ぎよくなつたので気(き)も勇(いさ)み足(あし)も捗取(はかど)つたが程(ほど)なく急(きふ)に風(かぜ)が冷(つめ)たくなつた理由(りいう)を会得(ゑとく)することが出来(でき)た。
といふのは目(め)の前(まへ)に大森林(だいしんりん)があらはれたので。
世(よ)の譬(たとへ)にも天生峠(あまふたうげ)は蒼空(あをぞら)に雨(あめ)が降(ふ)るといふ人(ひと)の話(はなし)にも神代(じんだい)から杣(そま)が手(て)を入(い)れぬ森(もり)があると聞(き)いたのに、今(いま)までは余(あま)り樹(き)がなさ過(す)ぎた。
今度(こんど)は蛇(へび)のかはりに蟹(かに)が歩(ある)きさうで草鞋(わらぢ)が冷(ひ)えた。暫(しばら)くすると暗(くら)くなつた、杉(すぎ)、松(まつ)、榎(えのき)と処々(ところ/″\)見分(みわ)けが出来(でき)るばかりに遠(とほ)い処(ところ)から幽(かすか)に日(ひ)の光(ひかり)の射(さ)すあたりでは、土(つち)の色(いろ)が皆(みな)黒(くろ)い。中(なか)には光線(くわうせん)が森(もり)を射通(いとほ)す工合(ぐあひ)であらう、青(あを)だの、赤(あか)だの、ひだが入(い)つて美(うつく)しい処(ところ)があつた。
時々(とき/″\)爪尖(つまさき)に絡(から)まるのは葉(は)の雫(しづく)の落溜(おちたま)つた糸(いと)のやうな流(ながれ)で、これは枝(えだ)を打(う)つて高(たか)い処(ところ)を走(はし)るので。ともすると又(また)常盤木(ときはぎ)が落葉(おちば)する、何(なん)の樹(き)とも知(し)れずばら/″\と鳴(な)り、かさかさと音(おと)がしてぱつと檜笠(ひのきがさ)にかゝることもある、或(あるひ)は行過(ゆきす)ぎた背後(うしろ)へこぼれるのもある、其等(それら)は枝(えだ)から枝(えだ)に溜(たま)つて居(ゐ)て何十年(なんじうねん)ぶりではじめて地(つち)の上(うへ)まで落(おち)るのか分(わか)らぬ。」 

 

「心細(こゝろぼそ)さは申(もを)すまでもなかつたが、卑怯(ひけふ)な様(やう)でも修業(しゆげふ)の積(つ)まぬ身(み)には、恁云(かうい)ふ暗(くら)い処(ところ)の方(はう)が却(かへ)つて観念(くわんねん)に便(たより)が宜(よ)い。何(なに)しろ体(からだ)が凌(しの)ぎよくなつたゝめに足(あし)の弱(よわり)も忘(わす)れたので、道(みち)も大(おほ)きに捗取(はかど)つて、先(ま)づこれで七|分(ぶ)は森(もり)の中(なか)を越(こ)したらうと思(おも)ふ処(ところ)で、五六|尺(しやく)天窓(あたま)の上(うへ)らしかつた樹(き)の枝(えだ)から、ぼたりと笠(かさ)の上(うへ)へ落(お)ち留(と)まつたものがある。
鉛(なまり)の重(おもり)かとおもふ心持(こゝろもち)、何(なに)か木(き)の実(み)でゞもあるか知(し)らんと、二三|度(ど)振(ふつ)て見(み)たが附着(くツつ)いて居(ゐ)て其(その)まゝには取(と)れないから、何心(なにごゝろ)なく手(て)をやつて掴(つか)むと、滑(なめ)らかに冷(ひや)りと来(き)た。
見(み)ると海鼠(なまこ)を裂(さい)たやうな目(め)も口(くち)もない者(もの)ぢやが、動物(どうぶつ)には違(ちが)ひない。不気味(ぶきみ)で投出(なげだ)さうとするとずる/″\と辷(すべ)つて指(ゆび)の尖(さき)へ吸(すひ)ついてぶらりと下(さが)つた其(そ)の放(はな)れた指(ゆび)の尖(さき)から真赤(まつか)な美(うつく)しい血(ち)が垂々(たら/\)と出(で)たから、吃驚(びツくり)して目(め)の下(した)へ指(ゆび)をつけてじつと見(み)ると、今(いま)折曲(をりま)げた肱(ひぢ)の処(ところ)へつるりと垂懸(たれかゝ)つて居(ゐ)るのは同(おなじ)形(かたち)をした、巾(はゞ)が五|分(ぶ)、丈(たけ)が三|寸(ずん)ばかりの山海鼠(やまなまこ)。
呆気(あつけ)に取(とら)れて見(み)る/\内(うち)に、下(した)の方(はう)から縮(ちゞ)みながら、ぶくぶくと太(ふと)つて行(ゆ)くのは生血(いきち)をしたゝかに吸込(すひこ)む所為(せゐ)で、濁(にご)つた黒(くろ)い滑(なめ)らかな肌(はだ)に茶褐色(ちやかツしよく)の縞(しま)をもつた、痣胡瓜(いぼきうり)のやうな血(ち)を取(と)る動物(どうぶつ)、此奴(こいつ)は蛭(ひる)ぢやよ。
誰(た)が目(め)にも見違(みちが)へるわけのものではないが図抜(づぬけ)て余(あま)り大(おほき)いから一寸(ちよツと)は気(き)がつかぬであつた、何(なん)の畠(はたけ)でも、甚麼(どんな)履歴(りれき)のある沼(ぬま)でも、此位(このくらゐ)な蛭(ひる)はあらうとは思(おも)はれぬ。
肱(ひぢ)をばさりと振(ふつ)たけれども、よく喰込(くひこ)んだと見(み)えてなかなか放(はな)れさうにしないから不気味(ぶきみ)ながら手(て)で抓(つま)んで引切(ひツき)ると、ぶつりといつてやう/\取(と)れる暫時(しばらく)も耐(たま)つたものではない、突然(とつぜん)取(と)つて大地(だいぢ)へ叩(たゝ)きつけると、これほどの奴等(やつら)が何万(なんまん)となく巣(す)をくつて我(わが)ものにして居(ゐ)やうといふ処(ところ)、予(かね)て其(そ)の用意(ようい)はして居(ゐ)ると思(おも)はれるばかり、日(ひ)のあたらぬ森(もり)の中(なか)の土(つち)は柔(やはらか)い、潰(つぶ)れさうにもないのぢや。
と最早(もは)や頷(えり)のあたりがむづ/\して来(き)た、平手(ひらて)で扱(こい)て見(み)ると横撫(よこなで)に蛭(ひる)の背(せな)をぬる/\とすべるといふ、やあ、乳(ちゝ)の下(した)へ潜(ひそ)んで帯(おび)の間(あひだ)にも一|疋(ぴき)、蒼(あを)くなつてそツと見(み)ると肩(かた)の上(うへ)にも一|筋(すぢ)。
思(おも)はず飛上(とびあが)つて総身(そうしん)を震(ふる)ひながら此(こ)の大枝(おほえだ)の下(した)を一|散(さん)にかけぬけて、走(はし)りながら先(まづ)心覚(こゝろおぼえ)の奴(やつ)だけは夢中(むちう)でもぎ取(と)つた。
何(なに)にしても恐(おそろ)しい今(いま)の枝(えだ)には蛭(ひる)が生(な)つて居(ゐ)るのであらうと余(あまり)の事(こと)に思(おも)つて振返(ふりかへ)ると、見返(みかへ)つた樹(き)の何(なん)の枝(えだ)か知(し)らず矢張(やツぱり)幾(いく)ツといふこともない蛭(ひる)の皮(かは)ぢや。
これはと思(おも)ふ、右(みぎ)も、左(ひだり)も前(まへ)の枝(えだ)も、何(なん)の事(こと)はないまるで充満(いツぱい)。
私(わし)は思(おも)はず恐怖(きようふ)の声(こゑ)を立(た)てゝ叫(さけ)んだすると何(なん)と?此時(このとき)は目(め)に見(み)えて、上(うへ)からぼたり/\と真黒(まツくろ)な瘠(や)せた筋(すぢ)の入(はい)つた雨(あめ)が体(からだ)へ降(ふり)かゝつて来(き)たではないか。
草鞋(わらじ)を穿(は)いた足(あし)の甲(かふ)へも落(おち)た上(うへ)へ又(また)累(かさな)り、並(なら)んだ傍(わき)へ又(また)附着(くツつ)いて爪先(つまさき)も分(わか)らなくなつた、然(さ)うして活(い)きてると思(おも)ふだけ脈(みやく)を打(う)つて血(ち)を吸(す)ふやうな。思(おも)ひなしか一ツ一ツ伸縮(のびちゞみ)をするやうなのを見(み)るから気(き)が遠(とほ)くなって、其時(そのとき)不思議(ふしぎ)な考(かんがへ)が起(お)きた。
此(こ)の恐(おそろし)い山蛭(やまびる)は神代(かみよ)の古(いにしへ)から此処(こゝ)に屯(たむろ)をして居(ゐ)て人(ひと)の来(く)るのを待(ま)ちつけて、永(なが)い久(ひさ)しい間(あひだ)に何(ど)の位(くらゐ)何斛(なんごく)かの血(ち)を吸(す)ふと、其処(そこ)でこの虫(むし)の望(のぞみ)が叶(かな)ふ其(そ)の時(とき)はありつたけの蛭(ひる)が不残(のこらず)吸(す)つたゞけの人間(にんげん)の血(ち)を吐出(はきだ)すと、其(それ)がために土(つち)がとけて山(やま)一ツ一|面(めん)に血(ち)と泥(どろ)との大沼(おほぬま)にかはるであらう、其(それ)と同時(どうじ)に此処(こゝ)に日(ひ)の光(ひかり)を遮(さへぎ)つて昼(ひる)もなほ暗(くら)い大木(たいぼく)が切々(きれ/″\)に一ツ一ツ蛭(ひる)になつて了(しま)うのに相違(さうゐ)ないと、いや、全(まツた)くの事(こと)で。」 

 

「凡(およ)そ人間(にんげん)が滅(ほろ)びるのは、地球(ちきう)の薄皮(うすかは)が破(やぶ)れて空(そら)から火(ひ)が降(ふ)るのでもなければ、大海(だいかい)が押被(おツかぶ)さるのでもない飛騨国(ひだのくに)の樹林(きはやし)が蛭(ひる)になるのが最初(さいしよ)で、しまいには皆(みんな)血(ち)と泥(どろ)の中(なか)に筋(すぢ)の黒(くろ)い虫(むし)が泳(およ)ぐ、其(それ)が代(だい)がはりの世界(せかい)であらうと、ぼんやり。
なるほど此(こ)の森(もり)も入口(いりくち)では何(なん)の事(こと)もなかつたのに、中(なか)へ来(く)ると此通(このとほ)り、もつと奥深(おくふか)く進(すゝ)んだら早(は)や不残(のこらず)立樹(たちき)の根(ね)の方(はう)から朽(く)ちて山蛭(やまびる)になつて居(ゐ)やう、助(たす)かるまい、此処(こゝ)で取殺(とりころ)される因縁(いんねん)らしい、取留(とりと)めのない考(かんがへ)が浮(うか)んだのも人(ひと)が知死期(ちしご)に近(ちかづ)いたからだと弗(ふ)と気(き)が着(つ)いた。
何(ど)の道(みち)死(し)ぬるものなら一|足(あし)でも前(まへ)へ進(すゝ)んで、世間(せけん)の者(もの)が夢(ゆめ)にも知(し)らぬ血(ち)と泥(どろ)の大沼(おほぬま)の片端(かたはし)でも見(み)て置(お)かうと、然(さ)う覚悟(かくご)が極(きはま)つては気味(きみ)の悪(わる)いも何(なに)もあつたものぢやない、体中(からだぢう)珠数生(じゆずなり)になつたのを手当次第(てあたりしだい)に掻(か)い除(の)け毟(むし)り棄(す)て、抜(ぬ)き取(と)りなどして、手(て)を挙(あ)げ足(あし)を踏(ふ)んで、宛(まる)で躍(をど)り狂(くる)ふ形(かたち)で歩行(あるき)出(だ)した。
はじめの内(うち)は一|廻(まはり)も太(ふと)つたやうに思(おも)はれて痒(かゆ)さが耐(たま)らなかつたが、しまひにはげつそり痩(や)せたと、感(かん)じられてづきづき痛(いた)んでならぬ、其上(そのうへ)を用捨(ようしや)なく歩行(ある)く内(うち)にも入交(いりまじ)りに襲(おそ)ひをつた。
既(すで)に目(め)も眩(くら)んで倒(たふ)れさうになると、禍(わざわひ)は此辺(このへん)が絶頂(ぜつちやう)であつたと見(み)えて、隧道(トンネル)を抜(ぬ)けたやうに遥(はるか)に一|輪(りん)のかすれた月(つき)を拝(おが)んだのは蛭(ひる)の林(はやし)の出口(でくち)なので。
いや蒼空(あをそら)の下(した)へ出(で)た時(とき)には、何(なん)のことも忘(わす)れて、砕(くだ)けろ、微塵(みぢん)になれと横(よこ)なぐりに体(からだ)を山路(やまぢ)へ打倒(うちたふ)した。それでからもう砂利(じやり)でも針(はり)でもあれと地(つち)へこすりつけて、十(とう)余(あま)りも蛭(ひる)の死骸(しがい)を引(ひツ)くりかへした上(うへ)から、五六|間(けん)向(むか)ふへ飛(と)んで身顫(みぶるひ)をして突立(つツた)つた。
人(ひと)を馬鹿(ばか)にして居(ゐ)るではありませんか。あたりの山(やま)では処々(ところ/″\)茅蜩殿(ひぐらしどの)、血(ち)と泥(どろ)の大沼(おほぬま)にならうといふ森(もり)を控(ひか)へて鳴(な)いて居(ゐ)る、日(ひ)は斜(なゝめ)、谷底(たにそこ)はもう暗(くら)い。
先(ま)づこれならば狼(おほかみ)の餌食(えじき)になつても其(それ)は一|思(おもひ)に死(し)なれるからと、路(みち)は丁度(ちやうど)だら/″\下(おり)なり、小僧(こぞう)さん、調子(てうし)はづれに竹(たけ)の杖(つゑ)を肩(かた)にかついで、すたこら遁(に)げたわ。
これで蛭(ひる)に悩(なや)まされて痛(いた)いのか、痒(かゆ)いのか、それとも擽(くすぐ)つたいのか得(え)もいはれぬ苦(くる)しみさへなかつたら、嬉(うれ)しさに独(ひと)り飛騨山越(ひだやまごえ)の間道(かんだう)で、御経(おきやう)に節(ふし)をつけて外道踊(げだうをどり)をやつたであらう一寸(ちよツと)清心丹(せいしんたん)でも噛砕(かみくだ)いて疵口(きずぐち)へつけたら何(ど)うだと、大分(だいぶ)世(よ)の中(なか)の事(こと)に気(き)がついて来(き)たわ。捻(つね)つても確(たしか)に活返(いきかへ)つたのぢやが、夫(それ)にしても富山(とやま)の薬売(くすりうり)は何(ど)うしたらう、那(あ)の様子(やうす)では疾(とう)に血(ち)になつて泥沼(どろぬま)に。皮(かは)ばかりの死骸(しがい)は森(もり)の中(なか)の暗(くら)い処(ところ)、おまけに意地(いぢ)の汚(きたな)い下司(げす)な動物(どうぶつ)が骨(ほね)までしやぶらうと何百(なんびやく)といふ数(すう)でのしかゝつて居(ゐ)た日(ひ)には、酢(す)をぶちまけても分(わか)る気遣(きづかひ)はあるまい。
恁(か)う思(おも)つて居(ゐ)る間(あひだ)、件(くだん)のだら/″\坂(ざか)は大分(だいぶ)長(なが)かつた。
其(それ)を下(お)り切(き)ると流(ながれ)が聞(きこ)えて、飛(とん)だ処(ところ)に長(なが)さ一|間(けん)ばかりの土橋(どばし)がかゝつて居(ゐ)る。
はや其(そ)の谷川(たにかは)の音(おと)を聞(き)くと我身(わがみ)で持余(もてあま)す蛭(ひる)の吸殻(すひがら)を真逆(まツさかさま)に投込(なげこ)んで、水(みづ)に浸(ひた)したら嘸(さぞ)可(いゝ)心地(こゝち)であらうと思ふ位(くらゐ)、何(なん)の渡(わた)りかけて壊(こは)れたら夫(それ)なりけり。
危(あぶな)いとも思(おも)はずにずつと懸(かゝ)る、少(すこ)しぐら/″\としたが難(なん)なく越(こ)した。向(むか)ふから又(また)坂(さか)ぢや、今度(こんど)は上(のぼ)りさ、御苦労(ごくらう)千万(せんばん)。」 

 

「到底(とて)も此(こ)の疲(つか)れやうでは、坂(さか)を上(のぼ)るわけには行(ゆ)くまいと思(おも)つたが、ふと前途(ゆくて)に、ヒイヽンと馬(うま)の嘶(いなゝ)くのが谺(こだま)して聞(きこ)えた。
馬士(まご)が戻(もど)るのか小荷駄(こにだ)が通(とほ)るか、今朝(けさ)一人(ひとり)の百姓(ひやくしやう)に別(わか)れてから時(とき)の経(た)つたは僅(わづか)ぢやが、三|年(ねん)も五|年(ねん)も同一(おんなじ)ものをいふ人間(にんげん)とは中(なか)を隔(へだ)てた。馬(うま)が居(ゐ)るやうでは左(と)も右(かく)も人里(ひとざと)に縁(えん)があると、之(これ)がために気(き)が勇(いさ)んで、えゝやつと今(いま)一|揉(もみ)。
一|軒(けん)の山家(やまが)の前(まへ)へ来(き)たのには、然(さ)まで難儀(なんぎ)は感(かん)じなかつた、夏(なつ)のことで戸障子(としやうじ)の締(しまり)もせず、殊(こと)に一|軒家(けんや)、あけ開(ひら)いたなり門(もん)といふでもない、突然(いきなり)破椽(やぶれえん)になつて男(をとこ)が一人(ひとり)、私(わし)はもう何(なん)の見境(みさかひ)もなく、(頼(たの)みます、頼(たの)みます、)といふさへ助(たすけ)を呼(よ)ぶやうな調子(てうし)で、取縋(とりすが)らぬばかりにした。
(御免(ごめん)なさいまし、)といつたがものもいはない、首筋(くびすぢ)をぐつたりと、耳(みゝ)を肩(かた)で塞(ふさ)ぐほど顔(かほ)を横(よこ)にしたまゝ小児(こども)らしい、意味(いみ)のない、然(しか)もぼつちりした目(め)で、ぢろ/″\と、門(もん)に立(た)つたものを瞻(みつ)める、其(そ)の瞳(ひとみ)を動(うご)かすさい、おつくうらしい、気(き)の抜(ぬ)けた身(み)の持方(もちかた)。裾(すそ)短(みぢ)かで袖(そで)は肱(ひぢ)より少(すくな)い、糊気(のりけ)のある、ちやん/\を着(き)て、胸(むね)のあたりで紐(ひも)で結(ゆは)へたが、一ツ身(み)のものを着(き)たやうに出(で)ツ腹(ばら)の太(ふと)り肉(じゝ)、太鼓(たいこ)を張(は)つたくらゐに、すべ/\とふくれて然(しか)も出臍(でべそ)といふ奴(やつ)、南瓜(かぼちや)の蔕(へた)ほどな異形(いぎやう)な者(もの)を、片手(かたて)でいぢくりながら幽霊(いうれい)のつきで、片手(かたて)を宙(ちう)にぶらり。
足(あし)は忘(わす)れたか投出(なげだ)した、腰(こし)がなくば暖簾(のれん)を立(た)てたやうに畳(たゝ)まれさうな、年紀(とし)が其(それ)で居(ゐ)て二十二三、口(くち)をあんぐりやつた上唇(うはくちびる)で巻込(まきこ)めやう、鼻(はな)の低(ひく)さ、出額(でびたひ)。五|分(ぶ)刈(がり)の伸(の)びたのが前(まへ)は鶏冠(とさか)の如(ごと)くになつて、頷脚(えりあし)へ刎(は)ねて耳(みゝ)に被(かぶさ)つた、唖(おし)か、白痴(ばか)か、これから蛙(かへる)にならうとするやうな少年(せうねん)。私(わし)は驚(おどろ)いた、此方(こツち)の生命(いのち)に別条(べつでう)はないが、先方様(さきさま)の形相(ぎやうさう)。いや、大別条(おほべつでう)。
(一寸(ちよいと)お願(ねが)ひ申(まを)します。)
それでも為方(しかた)がないから又(また)言葉(ことば)をかけたが少(すこ)しも通(つう)ぜず、ばたりといふと僅(わづか)に首(くび)の位置(ゐち)をかへて今度(こんど)は左(ひだり)の肩(かた)を枕(まくら)にした、口(くち)の開(あ)いてること旧(もと)の如(ごと)し。
恁(かう)云(い)ふのは、悪(わる)くすると突然(いきなり)ふんづかまへて臍(へそ)を捻(ひね)りながら返事(へんじ)のかはりに嘗(な)めやうも知(し)れぬ。
私(わし)は一|足(あし)退(すさ)つたがいかに深山(しんざん)だといつても是(これ)を一人(ひとり)で置(お)くといふ法(はふ)はあるまい、と足(あし)を爪立(つまだ)てゝ少(すこ)し声高(こはだか)に、
(何方(どなた)ぞ、御免(ごめん)なさい、)といつた。
背戸(せど)と思(おも)ふあたりで再(ふたゝ)び馬(うま)の嘶(いなゝ)く声(こゑ)。
(何方(どなた)、)と納戸(なんど)の方(はう)でいつたのは女(をんな)ぢやから、南無三宝(なむさんばう)、此(こ)の白(しろ)い首(くび)には鱗(うろこ)が生(は)へて、体(からだ)は床(ゆか)を這(は)つて尾(を)をずる/″\と引(ひ)いて出(で)やうと、又(また)退(すさ)つた。
(おゝ、御坊様(おばうさま)、)と立顕(たちあら)はれたのは小造(こづくり)の美(うつく)しい、声(こゑ)も清(すゞ)しい、ものやさしい。
私(わし)は大息(おほいき)を吐(つ)いて、何(なん)にもいはず、
(はい。)と頭(つむり)を下(さ)げましたよ。
婦人(をんな)は膝(ひざ)をついて坐(すわ)つたが、前(まへ)へ伸上(のびあが)るやうにして黄昏(たそがれ)にしよんぼり立(た)つた私(わし)が姿(すがた)を透(す)かし見(み)て、(何(なに)か用(よう)でござんすかい。)
休(やす)めともいはずはじめから宿(やど)の常世(つねよ)は留主(るす)らしい、人(ひと)を泊(と)めないと極(き)めたものゝやうに見(み)える。
いひ後(おく)れては却(かへ)つて出(で)そびれて頼(たの)むにも頼(たの)まれぬ仕誼(しぎ)にもなることゝ、つか/\と前(まへ)へ出(で)た。丁寧(ていねい)に腰(こし)を屈(かゞ)めて、
(私(わし)は、山越(やまごえ)で信州(しんしう)へ参(まゐ)ります者(もの)ですが旅籠(はたご)のございます処(ところ)までは未(ま)だ何(ど)の位(くらゐ)ございませう。)」 
十一

 

「(貴方(あなた)まだ八|里(り)余(あまり)でございますよ。)
(其他(そのほか)に別(べつ)に泊(と)めてくれます家(うち)もないのでせうか。)
(其(それ)はございません。)といひながら目(め)たゝきもしないで清(すゞ)しい目(め)で私(わし)の顔(かほ)をつく/″\見(み)て居(ゐ)た。
(いえもう何(なん)でございます、実(じつ)は此先(このさき)一|町(ちやう)行(ゆ)け、然(さ)うすれば上段(じやうだん)の室(へや)に寝(ね)かして一|晩(ばん)扇(あふ)いで居(ゐ)て其(それ)で功徳(くどく)のためにする家(うち)があると承(うけたまは)りましても、全(まツた)くの処(ところ)一|足(あし)も歩行(ある)けますのではございません、何処(どこ)の物置(ものおき)でも馬小屋(うまごや)の隅(すみ)でも宜(よ)いのでございますから後生(ごしやう)でございます。)と前刻(さツき)馬(うま)の嘶(いなゝ)いたのは此家(こゝ)より外(ほか)にはないと思(おも)つたから言(い)つた。
婦人(をんな)は暫(しばら)く考(かんが)へて居(ゐ)たが、弗(ふ)と傍(わき)を向(む)いて布(ぬの)の袋(ふくろ)を取(と)つて、膝(ひざ)のあたりに置(お)いた桶(をけ)の中(なか)へざら/\と一|巾(はゞ)、水(みづ)を溢(こぼ)すやうにあけて縁(ふち)をおさへて、手(て)で掬(すく)つて俯向(うつむ)いて見(み)たが、
(あゝ、お泊(と)め申(まを)しましやう、丁度(ちやうど)炊(た)いてあげますほどお米(こめ)もございますから、其(それ)に夏(なつ)のことで、山家(やまが)は冷(ひ)えましても夜(よる)のものに御不自由(ごふじいう)もござんすまい。さあ、左(と)も右(かく)もあなたお上(あが)り遊(あそ)ばして。)
といふと言葉(ことば)の切(き)れぬ先(さき)にどつかり腰(こし)を落(おと)した。婦人(をんな)は衝(つ)と身(み)を起(おこ)して立(た)つて来(き)て、
(御坊様(おばうさま)、それでござんすが一寸(ちよつと)お断(ことは)り申(まを)して置(お)かねばなりません。)
判然(はツきり)いはれたので私(わし)はびく/\もので、
(唯(はい)、はい。)
(否(いえ)、別(べつ)のことぢやござんせぬが、私(わたし)は癖(くせ)として都(みやこ)の話(はなし)を聞(き)くのが病(やまひ)でございます、口(くち)に蓋(ふた)をしておいでなさいましても無理(むり)やりに聞(き)かうといたしますが、あなた忘(わす)れても其時(そのとき)聞(き)かして下(くだ)さいますな、可(よ)うござんすかい、私(わたし)は無理(むり)にお尋(たづ)ね申(まを)します、あなたは何(ど)うしてもお話(はな)しなさいませぬ、其(それ)を是非(ぜひ)にと申(まを)しましても断(た)つて有仰(おツしや)らないやうに屹(きツ)と念(ねん)を入(い)れて置(お)きますよ。)
と仔細(しさい)ありげなことをいつた。
山(やま)の高(たか)さも谷(たに)の深(ふか)さも底(そこ)の知(し)れない一|軒家(けんや)の婦人(をんな)の言葉(ことば)とは思(おも)ふたが、保(たも)つにむづかしい戒(かい)でもなし、私(わし)は唯(たゞ)頷(うなづ)くばかり。
(唯(はい)、宜(よろ)しうございます、何事(なにごと)も仰有(おツしや)りつけは背(そむ)きますまい。)
婦人(をんな)は言下(ごんか)に打解(うちと)けて、
(さあ/\汚(きたな)うございますが早(はや)く此方(こちら)へ、お寛(くつろ)ぎなさいまし、然(さ)うしてお洗足(せんそく)を上(あ)げませうかえ。)
(いえ、其(それ)には及(およ)びませぬ、雑巾(ざうきん)をお貸(か)し下(くだ)さいまし。あゝ、それからもし其(そ)のお雑巾(ざうきん)次手(ついで)にづツぷりお絞(しぼ)んなすつて下(くだ)さると助(たすか)ります、途中(とちう)で大変(たいへん)な目(め)に逢(あ)ひましたので体(からだ)を打棄(うつちや)りたいほど気味(きみ)が悪(わる)うございますので、一ツ背中(せなか)を拭(ふ)かうと存(ぞん)じますが恐入(おそれい)りますな。)
(然(さ)う、汗(あせ)におなりなさいました、嘸(さ)ぞまあ、お暑(あつ)うござんしたでせう、お待(ま)ちなさいまし、旅籠(はたご)へお着(つ)き遊(あそ)ばして湯(ゆ)にお入(はい)りなさいますのが、旅(たび)するお方(かた)には何(なに)より御馳走(ごちそう)だと申(まを)しますね、湯(ゆ)どころか、お茶(ちや)さへ碌(ろく)におもてなしもいたされませんが、那(あ)の、此(こ)の裏(うら)の崖(がけ)を下(お)りますと、綺麗(きれい)な流(ながれ)がございますから一|層(そう)其(それ)へ行(い)らつしやツてお流(なが)しが宜(よ)うございませう、)
聞(き)いただけでも飛(とん)でも行(ゆ)きたい。
(えゝ、其(それ)は何(なに)より結構(けつこう)でございますな。)
(さあ、其(それ)では御案内(ごあんない)申(まを)しませう、どれ、丁度(ちやうど)私(わたし)も米(こめ)を磨(と)ぎに参(まゐ)ります。)と件(くだん)の桶(をけ)を小脇(こわき)に抱(かゝ)へて、椽側(えんがは)から、藁草履(わらぞうり)を穿(は)いて出(で)たが、屈(かゞ)んで板椽(いたえん)の下(した)を覗(のぞ)いて、引出(ひきだ)したのは一|足(そく)の古下駄(ふるげた)で、かちりと合(あ)はして埃(ほこり)を払(はた)いて揃(そろ)へて呉(く)れた。
(お穿(は)きなさいまし、草鞋(わらじ)は此処(こゝ)にお置(お)きなすつて、)
私(わし)は手(て)をあげて一|礼(れい)して、
(恐入(おそれい)ります、これは何(ど)うも、)
(お泊(と)め申(まを)すとなりましたら、あの、他生(たしやう)の縁(えん)とやらでござんす、あなた御遠慮(ごゑんりよ)を遊(あそ)ばしますなよ。)先(ま)づ恐(おそ)ろしく調子(てうし)が可(い)いぢやて。」 
十二

 

「(さあ、私(わたし)に跟(つ)いて此方(こちら)へ、)と件(くだん)の米磨桶(こめとぎをけ)を引抱(ひツかゝ)へて手拭(てぬぐひ)を細(ほそ)い帯(おび)に挟(はさ)んで立(た)つた。
髪(かみ)は房(ふツさ)りとするのを束(たば)ねてな、櫛(くし)をはさんで笄(かんざし)で留(と)めて居(ゐ)る、其(そ)の姿(すがた)の佳(よ)さといふてはなかつた。
私(わし)も手早(てばや)く草鞋(わらじ)を解(と)いたから、早速(さツそく)古下駄(ふるげた)を頂戴(ちやうだい)して、椽(えん)から立(た)つ時(とき)一寸(ちよいと)見(み)ると、それ例(れい)の白痴殿(ばかどの)ぢや。
同(おな)じく私(わし)が方(かた)をぢろりと見(み)たつけよ、舌不足(したたらず)が饒舌(しやべ)るやうな、愚(ぐ)にもつかぬ声(こゑ)を出(だ)して、
(姉(ねえ)や、こえ、こえ。)といひながら、気(き)だるさうに手(て)を持上(もちあ)げて其(そ)の蓬々(ばう/\)と生(は)へた天窓(あたま)を撫(な)でた。
(坊(ばう)さま、坊(ばう)さま?)
すると婦人(をんな)が、下(しも)ぶくれな顔(かほ)にえくぼを刻(きざ)んで、三ツばかりはき/\と続(つゞ)けて頷(うなづ)いた。
少年(せうねん)はうむといつたが、ぐたりとして又(また)臍(へそ)をくり/\/\。
私(わし)は余(あま)り気(き)の毒(どく)さに顔(かほ)も上(あ)げられないで密(そ)つと盗(ぬす)むやうにして見(み)ると、婦人(をんな)は何事(なにごと)も別(べつ)に気(き)に懸(か)けては居(を)らぬ様子(やうす)、其(その)まゝ後(あと)へ跟(つ)いて出(で)やうとする時(とき)、紫陽花(あぢさい)の花(はな)の蔭(かげ)からぬいと出(で)た一|名(めい)の親仁(おやぢ)がある。
背戸(せど)から廻(まは)つて来(き)たらしい、草鞋(わらじ)を穿(は)いたなりで、胴乱(どうらん)の根付(ねつけ)を紐長(ひもなが)にぶらりと提(さ)げ、啣煙管(くはへぎせる)をしながら並(なら)んで立停(たちとま)つた。
(和尚様(おしやうさま)おいでなさい。)
婦人(をんな)は其方(そなた)を振向(ふりむ)いて、
(おぢ様(さん)何(ど)うでござんした。)
(然(さ)ればさの、頓馬(とんま)で間(ま)の抜(ぬ)けたといふのは那(あ)のことかい。根(ね)ツから早(は)や狐(きつね)でなければ乗(の)せ得(え)さうにもない奴(やつ)ぢやが、其処(そこ)はおらが口(くち)ぢや、うまく仲人(なかうど)して、二|月(つき)や三|月(つき)はお嬢様(ぢやうさま)が御不自由(ごふんじよ)のねえやうに、翌日(あす)はものにして沢山(うん)と此処(こゝ)へ担(かつ)ぎ込(こ)んます。)
(お頼(たの)み申(まを)しますよ。)
(承知(しようち)、承知(しようち)、おゝ、嬢様(ぢやうさま)何処(どこ)さ行(ゆ)かつしやる。)
(崖(がけ)の水(みづ)まで一寸(ちよいと)。)
(若(わか)い坊様(ばうさま)連(つ)れて川(かは)へ落(お)つこちさつさるな。おら此処(こゝ)に眼張(がんば)つて待(ま)つ居(と)るに、)と横様(よこさま)に椽(えん)にのさり。
(貴僧(あなた)、あんなことを申(まを)しますよ。)と顔(かほ)を見(み)て微笑(ほゝゑ)んだ。
(一人(ひとり)で参(まゐ)りませう、)と傍(わき)へ退(の)くと親仁(おやぢ)は吃々(くつ/\)と笑(わら)つて、
(はゝゝゝ、さあ早(はや)くいつてござらつせえ。)
(をぢ様(さん)、今日(けふ)はお前(まへ)、珍(めづ)らしいお客(きやく)がお二人(ふたかた)ござんした、恁(か)ふ云(い)ふ時(とき)はあとから又(また)見(み)えやうも知(し)れません、次郎(じらう)さんばかりでは来(き)た者(もの)が弱(よわ)んなさらう、私(わたし)が帰(かへ)るまで其処(そこ)に休(やす)んで居(ゐ)てをくれでないか。)
(可(い)いともの。)といひかけて親仁(おやぢ)は少年(せうねん)の傍(そば)へにぢり寄(よ)つて、鉄挺(かなてこ)を見(み)たやうな拳(こぶし)で、脊中(せなか)をどんとくらはした、白痴(ばか)の腹(はら)はだぶりとして、べそをかくやうな口(くち)つきで、にやりと笑(わら)ふ。
私(わし)は悚気(ぞツ)として面(おもて)を背(そむ)けたが婦人(をんな)は何気(なにげ)ない体(てい)であつた。
親仁(おやぢ)は大口(おほぐち)を開(あ)いて、
(留主(るす)におらが此(こ)の亭主(ていしゆ)を盗(ぬす)むぞよ。)
(はい、ならば手柄(てがら)でござんす、さあ、貴僧(あなた)参(まゐ)りませうか。)
背後(うしろ)から親仁(おやぢ)が見(み)るやうに思(おも)つたが、導(みちび)かるゝまゝに壁(かべ)について、彼(か)の紫陽花(あぢさい)のある方(はう)ではない。
軈(やが)て脊戸(せど)と思(おも)ふ処(ところ)で左(ひだり)に馬小屋(うまごや)を見(み)た、こと/\といふ物音(ものおと)は羽目(はめ)を蹴(け)るのであらう、もう其辺(そのへん)から薄暗(うすぐら)くなつて来(く)る。
(貴僧(あなた)、こゝから下(を)りるのでございます、辷(すべ)りはいたしませぬが道(みち)が酷(ひど)うございますからお静(しづか)に、)といふ。」 
十三

 

「其処(そこ)から下(お)りるのだと思(おも)はれる、松(まつ)の木(き)の細(ほそ)くツて度外(どはづ)れに背(せい)の高(たか)いひよろ/\した凡(およ)そ五六|間(けん)上(うへ)までは小枝(こえだ)一ツもないのがある。其中(そのなか)を潜(くゞ)つたが仰(あふ)ぐと梢(こずえ)に出(で)て白(しろ)い、月(つき)の形(かたち)は此処(ここ)でも別(べつ)にかはりは無(な)かつた、浮世(うきよ)は何処(どこ)にあるか十三夜(じふさんや)で。
先(さき)へ立(た)つた婦人(をんな)の姿(すがた)が目(め)さきを放(はな)れたから、松(まつ)の幹(みき)に掴(つか)まつて覗(のぞ)くと、つい下(した)に居(ゐ)た。
仰向(あふむ)いて、
(急(きふ)に低(ひく)くなりますから気(き)をつけて。こりや貴僧(あなた)には足駄(あしだ)では無理(むり)でございましたか不知(しら)、宜(よろ)しくば草履(ざうり)とお取交(とりか)へ申(まを)しませう。)
立後(たちおく)れたのを歩行悩(あるきなや)んだと察(さつ)した様子(やうす)、何(なに)が扨(さて)転(ころ)げ落(お)ちても早(はや)く行(い)つて蛭(ひる)の垢(あか)を落(おと)したさ。
(何(なに)、いけませんければ跣足(はだし)になります分(ぶん)のこと、何卒(どうぞ)お構(かま)ひなく、嬢様(ぢやうさま)に御心配(ごしんぱい)をかけては済(す)みません。)
(あれ、嬢様(ぢやうさま)ですつて、)と稍(やゝ)調子(てうし)を高(たか)めて、艶麗(あでやか)に笑(わら)つた。
(唯(はい)、唯今(たゞいま)あの爺様(ぢいさん)が、然(さ)やう申(まを)しましたやうに存(ぞん)じますが、夫人(おくさま)でございますか。)
(何(なん)にしても貴僧(あなた)には叔母(をば)さん位(ぐらゐ)な年紀(とし)ですよ。まあ、お早(はや)くいらつしやい、草履(ざうり)も可(よ)うござんすけれど、刺(とげ)がさゝりますと不可(いけ)ません、それにじく/\湿(ぬ)れて居(ゐ)てお気味(きみ)が悪(わる)うございませうから)と向(むか)ふ向(むき)でいひながら衣服(きもの)の片褄(かたつま)をぐいとあげた。真白(まつしろ)なのが暗(くら)まぎれ、歩行(ある)くと霜(しも)が消(き)えて行(ゆ)くやうな。
ずん/\ずん/\と道(みち)を下(お)りる、傍(かたはら)の叢(くさむら)から、のさ/\と出(で)たのは蟇(ひき)で。
(あれ、気味(きみ)が悪(わる)いよ。)といふと婦人(をんな)は背後(うしろ)へ高々(たか/″\)と踵(かがと)を上(あ)げて向(むか)ふへ飛(と)んだ。
(お客様(きやくさま)が被在(ゐらつ)しやるではないかね、人(ひと)の足(あし)になんか搦(から)まつて贅沢(ぜいたく)ぢやあないか、お前達(まへだち)は虫(むし)を吸(す)つて居(ゐ)れば沢山(たくさん)だよ。
貴僧(あなた)ずん/\入(い)らつしやいましな、何(ど)うもしはしません。恁云(かうい)ふ処(ところ)ですからあんなものまで人懐(ひとなつか)うございます、厭(いや)ぢやないかね、お前達(まへだち)と友達(ともだち)を見(み)たやうで可愧(はづかし)い、あれ可(い)けませんよ。)
蟇(ひき)はのさ/\と又(また)草(くさ)を分(わ)けて入(はい)つた、婦人(をんな)はむかふへずいと。
(さあ此(こ)の上(うへ)へ乗(の)るんです、土(つち)が柔(やはら)かで壊(く)へますから地面(ぢめん)は歩行(ある)かれません。)
いかにも大木(たいぼく)の僵(たふ)れたのが草(くさ)がくれに其(そ)の幹(みき)をあらはして居(ゐ)る、乗(の)ると足駄穿(あしだばき)で差支(さしつか)へがない、丸木(まるき)だけれども可恐(おそろ)しく太(ふと)いので、尤(もつと)もこれを渡(わた)り果(は)てると忽(たちま)ち流(ながれ)の音(おと)が耳(みゝ)に激(げき)した、それまでには余程(よほど)の間(あひだ)。
仰(あふ)いで見(み)ると松(まつ)の樹(き)はもう影(かげ)も見(み)えない、十三|夜(や)の月(つき)はずつと低(ひく)うなつたが、今(いま)下(お)りた山(やま)の頂(いただき)に半(なか)ばかゝつて、手(て)が届(とゞ)きさうにあざやかだけれども、高(たか)さは凡(およ)そ計(はか)り知(し)られぬ。
(貴僧(あなた)、此方(こちら)へ。)
といつた、婦人(をんな)はもう一|息(いき)、目(め)の下(した)に立(た)つて待(ま)つて居(ゐ)た。
其処(そこ)は早(は)や一|面(めん)の岩(いは)で、岩(いは)の上(うへ)へ谷川(たにがは)の水(みづ)がかゝつて此処(ここ)によどみを造(つく)つて居(ゐ)る、川巾(かははば)は一|間(けん)ばかり、水(みづ)に望(のぞ)めば音(おと)は然(さ)までにもないが、美(うつく)しさは玉(たま)を解(と)いて流(なが)したやう、却(かへ)つて遠(とほ)くの方(はう)で凄(すさま)じく岩(いは)に砕(くだ)ける響(ひゞき)がする。
向(むか)ふ岸(ぎし)は又(また)一|坐(ざ)の山(やま)の裾(すそ)で、頂(いたゞき)の方(はう)は真暗(まつくら)だが、山(やま)の端(は)から其(その)山腹(さんぷく)を射(い)る月(つき)の光(ひかり)に照(て)らし出(だ)された辺(あたり)からは大石(おほいし)小石(こいし)、栄螺(さゞえ)のやうなの、六|尺角(しやくかく)に切出(きりだ)したの、剣(つるぎ)のやうなのやら鞠(まり)の形(かたち)をしたのやら、目(め)の届(とゞ)く限(かぎ)り不残(のこらず)岩(いは)で、次第(しだい)に大(おほき)く水(みづ)に浸(ひた)つたのは唯(ただ)小山(こやま)のやう。」 
十四

 

「(可(いゝ)塩梅(あんばい)に今日(けふ)は水(みづ)がふへて居(を)りますから、中(なか)に入(はい)りませんでも此上(このうへ)で可(よ)うございます。)と甲(かう)を浸(ひた)して爪先(つまさき)を屈(かゞ)めながら、雪(ゆき)のやうな素足(すあし)で石(いし)の盤(ばん)の上(うへ)に立(た)つて居(ゐ)た。
自分達(じぶんだち)が立(た)つた側(がは)は、却(かへ)つて此方(こなた)の山(やま)の裾(すそ)が水(みづ)に迫(せま)つて、丁度(ちやうど)切穴(きりあな)の形(かたち)になつて、其処(そこ)へ此(こ)の石(いし)を箝(は)めたやうな誂(あつらへ)。川上(かはかみ)も下流(かりう)も見(み)えぬが、向(むか)ふの彼(か)の岩山(いはやま)、九十九折(つゞらをれ)のやうな形(かたち)、流(ながれ)は五|尺(しやく)、三|尺(しやく)、一|間(けん)ばかりづゝ上流(じやうりう)の方(はう)が段々(だん/″\)遠(とほ)く、飛々(とび/″\)に岩(いは)をかゞつたやうに隠見(いんけん)して、いづれも月光(げつくわう)を浴(あ)びた、銀(ぎん)の鎧(よろひ)の姿(すがた)、目(ま)のあたり近(ちか)いのはゆるぎ糸(いと)を捌(さば)くが如(ごと)く真白(まツしろ)に飜(ひるがへ)つて。
(結構(けつこう)な流(ながれ)でございますな。)
(はい、此(こ)の水(みづ)は源(みなもと)が瀧(たき)でございます、此山(このやま)を旅(たび)するお方(かた)は皆(みな)大風(おほかぜ)のやうな音(おと)を何処(どこ)かで聞(き)きます。貴僧(あなた)は此方(こちら)へ被入(いら)つしやる道(みち)でお心着(こゝろづ)きはなさいませんかい。)
然(さ)ればこそ山蛭(やまびる)の大藪(おほやぶ)へ入(はい)らうといふ少(すこ)し前(まへ)から其(そ)の音(おと)を。
(彼(あれ)は林(はやし)へ風(かぜ)の当(あた)るのではございませんので?)
(否(いえ)、誰(たれ)でも然(さ)う申(まを)します那(あ)の森(もり)から三|里(り)ばかり傍道(わきみち)へ入(はい)りました処(ところ)に大瀧(おほたき)があるのでございます、其(そ)れは/\日本一(にツぽんいち)ださうですが路(みち)が嶮(けは)しうござんすので、十|人(にん)に一人(ひとり)参(まゐ)つたものはございません。其(そ)の瀧(たき)が荒(あ)れましたと申(まを)しまして丁度(ちやうど)今(いま)から十三|年(ねん)前(まへ)、可恐(おそろ)しい洪水(おほみづ)がございました、恁麼(こんな)高(たか)いところまで川(かは)の底(そこ)になりましてね、麓(ふもと)の村(むら)も山(やま)の家(いへ)も残(のこ)らず流(なが)れて了(しま)ひました。此(こ)の上(かみ)の洞(ほら)もはじめは二十|軒(けん)ばかりあつたのでござんす、此(こ)の流(なが)れも其時(そのとき)から出来(でき)ました、御覧(ごらん)なさいましな、此(こ)の通(とほ)り皆(みな)石(いし)が流(なが)れたのでございますよ。)
婦人(をんな)は何時(いつ)かもう米(こめ)を精(しら)げ果(は)てゝ、衣紋(えもん)の乱(みだ)れた、乳(ち)の端(はし)もほの見(み)ゆる、膨(ふく)らかな胸(むね)を反(そ)らして立(た)つた、鼻(はな)高(たか)く口(くち)を結(むす)んで目(め)を恍惚(うつとり)と上(うへ)を向(む)いて頂(いたゞき)を仰(あふ)いだが、月(つき)はなほ半腹(はんぷく)の其(そ)の累々(るゐ/\)たる巌(いはほ)を照(て)らすばかり。
(今(いま)でも恁(か)うやつて見(み)ますと恐(こは)いやうでございます。)と屈(かゞ)んで二の腕(うで)の処(ところ)を洗(あら)つて居(ゐ)ると。
(あれ、貴僧(あなた)、那様(そんな)行儀(ぎやうぎ)の可(い)いことをして被在(ゐら)しつてはお召(めし)が濡(ぬ)れます、気味(きみ)が悪(わる)うございますよ、すつぱり裸体(はだか)になつてお洗(あら)ひなさいまし、私(わたし)が流(なが)して上(あ)げませう。)
(否(いえ)、)
(否(いえ)ぢやあござんせぬ、それ、それ、お法衣(ころも)の袖(そで)に浸(ひた)るではありませんか、)といふと突然(いきなり)背後(うしろ)から帯(おび)に手(て)をかけて、身悶(みもだえ)をして縮(ちゞ)むのを、邪慳(じやけん)らしくすつぱり脱(ぬ)いで取(と)つた。
私(わし)は師匠(ししやう)が厳(きびし)かつたし、経(きやう)を読(よ)む身体(からだ)ぢや、肌(はだ)さへ脱(ぬ)いだことはついぞ覚(おぼ)えぬ。然(しか)も婦人(をんな)の前(まへ)、蝸牛(まひ/\つぶろ)が城(しろ)を明(あ)け渡(わた)したやうで、口(くち)を利(き)くさへ、況(ま)して手足(てあし)のあがきも出来(でき)ず背中(せなか)を丸(まる)くして、膝(ひざ)を合(あ)はせて、縮(ちゞ)かまると、婦人(をんな)は脱(ぬ)がした法衣(ころも)を傍(かたはら)の枝(えだ)へふわりとかけた。
(お召(めし)は恁(か)うやつて置(お)きませう、さあお背(せな)を、あれさ、じつとして。お嬢様(ぢやうさま)と有仰(おつしや)つて下(くだ)さいましたお礼(れい)に、叔母(をば)さんが世話(せわ)を焼(や)くのでござんす、お人(ひと)の悪(わる)い、)といつて片袖(かたそで)を前歯(まへば)で引上(ひきあ)げ、
玉(たま)のやうな二の腕(うで)をあからさまに背中(せなか)に乗(の)せたが、熟(じつ)と見(み)て、
(まあ、)
(何(ど)うかいたしてをりますか。)
(痣(あざ)のやうになつて一|面(めん)に。)
(えゝ、それでございます、酷(ひど)い目(め)に逢(あ)ひました。)
思(おも)ひ出(だ)しても悚然(ぞツ)とするて。」 
十五

 

「婦人(をんな)は驚(おどろ)いた顔(かほ)をして、
(それでは森(もり)の中(なか)で、大変(たいへん)でございますこと。旅(たび)をする人(ひと)が、飛騨(ひだ)の山(やま)では蛭(ひる)が降(ふ)るといふのは彼処(あすこ)でござんす。貴僧(あなた)は抜道(ぬけみち)を御存(ごぞん)じないから正面(まとも)に蛭(ひる)の巣(す)をお通(とほ)りなさいましたのでございますよ。お生命(いのち)も冥加(みやうが)な位(くらゐ)、馬(うま)でも牛(うし)でも吸殺(すひころ)すのでございますもの。然(しか)し疼(うづ)くやうにお痒(かゆ)いのでござんせうね。)
(唯今(たゞいま)では最(も)う痛(いた)みますばかりになりました。)
(それでは恁麼(こんな)ものでこすりましては柔(やはらか)いお肌(はだ)が擦剥(すりむ)けませう、)といふと手(て)が綿(わた)のやうに障(さは)つた。
それから両方(りようはう)の肩(かた)から、背(せな)、横腹(よこばら)、臀(いしき)、さら/\水(みづ)をかけてはさすつてくれる。
それがさ、骨(ほね)に通(とほ)つて冷(つめた)いかといふと然(さ)うではなかつた。暑(あつ)い時分(じぶん)ぢやが、理屈(りくつ)をいふと恁(か)うではあるまい、私(わし)の血(ち)が湧(わ)いたせいか、婦人(をんな)の温気(ぬくみ)か、手(て)で洗(あら)つてくれる水(みづ)が可(いゝ)工合(ぐあひ)に身(み)に染(し)みる、尤(もツと)も質(たち)の佳(い)い水(みづ)は柔(やはらか)ぢやさうな。
其(そ)の心地(こゝち)の得(え)もいはれなさで、眠気(ねむけ)がさしたでもあるまいが、うと/\する様子(やうす)で、疵(きず)の痛(いた)みがなくなつて気(き)が遠(とほ)くなつてひたと附(くツ)ついて居(ゐ)る婦人(をんな)の身体(からだ)で、私(わし)は花(はな)びらの中(なか)へ包(つゝ)まれたやうな工合(ぐあひ)。
山家(やまが)の者(もの)には肖合(にあ)はぬ、都(みやこ)にも希(まれ)な器量(きりやう)はいふに及(およ)ばぬが弱々(よわ/\)しさうな風采(ふう)ぢや、背(せなか)を流(なが)す内(うち)にもはツ/\と内証(ないしよう)で呼吸(いき)がはづむから、最(も)う断(ことは)らう/\と思(おも)ひながら、例(れい)の恍惚(うつとり)で、気(き)はつきながら洗(あら)はした。
其上(そのうへ)、山(やま)の気(き)か、女(をんな)の香(にほひ)か、ほんのりと佳(い)い薫(かほり)がする、私(わし)は背後(うしろ)でつく息(いき)ぢやらうと思(おも)つた。」
上人(しやうにん)は一寸(ちよいと)句切(くぎ)つて、
「いや、お前様(まんさま)お手近(てちか)ぢや、其(そ)の明(あかり)を掻立(かきた)つて貰(もら)ひたい、暗(くら)いと怪(け)しからぬ話(はなし)ぢや、此処等(ここら)から一|番(ばん)野面(のづら)で遣(やツ)つけやう。」
枕(まくら)を並(なら)べた上人(しやうにん)の姿(すがた)も朧(おぼろ)げに明(あかり)は暗(くら)くなつて居(ゐ)た、早速(さつそく)燈心(とうしん)を明(あかる)くすると、上人(しやうにん)は微笑(ほゝゑ)みながら続(つゞ)けたのである。
「さあ、然(さ)うやつて何時(いつ)の間(ま)にやら現(うつゝ)とも無(な)しに、恁(か)う、其(そ)の不思議(ふしぎ)な、結構(けつこう)な薫(かほり)のする暖(あツたか)い花(はな)の中(なか)へ、柔(やはら)かに包(つゝ)まれて、足(あし)、腰(こし)、手(て)、肩(かた)、頸(えり)から次第(しだい)に、天窓(あたま)まで一|面(めん)に被(かぶ)つたから吃驚(びツくり)、石(いし)に尻持(しりもち)を搗(つ)いて、足(あし)を水(みづ)の中(なか)に投出(なげだ)したから落(お)ちたと思(おも)ふ途端(とたん)に、女(をんな)の手(て)が脊後(うしろ)から肩越(かたこし)に胸(むね)をおさへたので確(しつか)りつかまつた。
(貴僧(あなた)、お傍(そば)に居(ゐ)て汗臭(あせくさ)うはござんせぬかい飛(とん)だ暑(あつ)がりなんでございますから、恁(か)うやつて居(を)りましても恁麼(こんな)でございますよ。)といふ胸(むね)にある手(て)を取(と)つたのを、慌(あは)てゝ放(はな)して棒(ぼう)のやうに立(た)つた。
(失礼(しつれい)、)
(いゝえ誰(たれ)も見(み)て居(を)りはしませんよ。)と澄(す)まして言(い)ふ、婦人(をんな)も何時(いつ)の間(ま)にか衣服(きもの)を脱(ぬ)いで全身(ぜんしん)を練絹(ねりぎぬ)のやうに露(あら)はして居(ゐ)たのぢや。
何(なん)と驚(おどろ)くまいことか。
(恁麼(こんな)に太(ふと)つて居(を)りますから、最(も)うお可愧(はづか)しいほど暑(あつ)いのでございます、今時(いまどき)は毎日(まいにち)二|度(ど)も三|度(ど)も来(き)ては恁(か)うやつて汗(あせ)を流(なが)します、此(こ)の水(みづ)がございませんかつたら何(ど)ういたしませう、貴僧(あなた)、お手拭(てぬぐひ)。)といつて絞(しぼ)つたのを寄越(よこ)した。
(其(それ)でおみ足(あし)をお拭(ふ)きなさいまし。)
何時(いつ)の間(ま)にか、体(からだ)はちやんと拭(ふ)いてあつた、お話(はな)し申(まを)すも恐多(おそれおほ)いか、はゝはゝはゝ。」  
十六

 

「なるほど見(み)た処(ところ)、衣服(きもの)を着(き)た時(とき)の姿(すがた)とは違(ちが)ふて肉(しゝ)つきの豊(ゆたか)な、ふつくりとした膚(はだへ)。
(先刻(さツき)小屋(こや)へ入(はい)つて世話(せわ)をしましたので、ぬら/\した馬(うま)の鼻息(はないき)が体中(からだぢゆう)へかゝつて気味(きみ)が悪(わる)うござんす。丁度(ちやうど)可(よ)うございますから私(わたし)も体(からだ)を拭(ふ)きませう、)
と姉弟(あねおとうと)が内端話(うちはばなし)をするやうな調子(てうし)。手(て)をあげて黒髪(くろかみ)をおさへながら腋(わき)の下(した)を手拭(てぬぐひ)でぐいと拭(ふ)き、あとを両手(りやうて)で絞(しぼ)りながら立(た)つた姿(すがた)、唯(たゞ)これ雪(ゆき)のやうなのを恁(かゝ)る霊水(れいすい)で清(きよ)めた、恁云(かうい)ふ女(をんな)の汗(あせ)は薄紅(うすくれなゐ)になつて流(なが)れやう。
一寸(ちよい)/\と櫛(くし)を入(い)れて、
(まあ、女(をんな)がこんなお転婆(てんば)をいたしまして、川(かは)へ落(おつ)こちたら何(ど)うしませう、川下(かはしも)へ流(なが)れて出(で)ましたら、村里(むらさと)の者(もの)が何(なん)といつて見(み)ませうね。)
(白桃(しろもゝ)の花(はな)だと思(おも)ひます。)と弗(ふ)と心着(こゝろつ)いて何(なん)の気(き)もなしにいふと、顔(かほ)が合(あ)ふた。
すると然(さ)も嬉(うれ)しさうに莞爾(にツこり)して其時(そのとき)だけは初々(うゐ/\)しう年紀(とし)も七ツ八ツ若(わか)やぐばかり、処女(きむすめ)の羞(はぢ)を含(ふく)んで下(した)を向(む)いた。
私(わし)は其(その)まゝ目(め)を外(そ)らしたが、其(そ)の一|段(だん)の婦人(をんな)の姿(すがた)が月(つき)を浴(あ)びて、薄(うす)い煙(けぶり)に包(つゝ)まれながら向(むか)ふ岸(ぎし)の※[さんずい+散](しぶき)に濡(ぬ)れて黒(くろ)い、滑(なめら)かな、大(おほき)な石(いし)へ蒼味(あをみ)を帯(お)びて透通(すきとほ)つて映(うつ)るやうに見(み)えた。
するとね、夜目(よめ)で判然(はつきり)とは目(め)に入(い)らなんだが地体(ぢたい)何(なん)でも洞穴(ほらあな)があると見(み)える。ひら/\と、此方(こちら)からもひら/\と、ものゝ鳥(とり)ほどはあらうといふ大蝙蝠(おほかはほり)が目(め)を遮(さへぎ)つた。
(あれ、不可(いけな)いよ、お客様(きやくさま)があるぢやないかね。)
不意(ふい)を打(う)たれたやうに叫(さけ)んで身悶(みもだえ)をしたのは婦人(をんな)。
(何(ど)うかなさいましたか、)最(も)うちやんと法衣(ころも)を着(き)たから気丈夫(きぢやうぶ)に尋(たづ)ねる。
(否(いゝえ)、)
といつたばかりで極(きまり)が悪(わる)さうに、くるりと後向(うしろむき)になつた。
其時(そのとき)小犬(こいぬ)ほどな鼠色(ねづみいろ)の小坊主(こばうず)が、ちよこ/\とやつて来(き)て、※[口+阿]呀(あなや)と思(おも)ふと、崖(がけ)から横(よこ)に宙(ちゆう)をひよいと、背後(うしろ)から婦人(をんな)の背中(せなか)へぴつたり。
裸体(はだか)の立姿(たちすがた)は腰(こし)から消(き)えたやうになつて、抱(だき)ついたものがある。
(畜生(ちくしやう)お客様(きやくさま)が見(み)えないかい。)
と声(こゑ)に怒(いかり)を帯(お)びたが、
(お前達(まへだち)は生意気(なまいき)だよ、)と激(はげ)しくいひさま、腋(わき)の下(した)から覗(のぞ)かうとした件(くだん)の動物(どうぶつ)の天窓(あたま)を振返(ふりかへ)りさまにくらはしたで。
キツヽヽといふて奇声(きせい)を放(はな)つた、件(くだん)の小坊主(こばうず)は其(その)まゝ後飛(うしろと)びに又(また)宙(ちゆう)を飛(と)んで、今(いま)まで法衣(ころも)をかけて置(お)いた枝(えだ)の尖(さき)へ長(なが)い手(て)で釣(つる)し下(さが)つたと思(おも)ふと、くるりと釣瓶覆(つるべがへし)に上(うへ)へ乗(の)つて、其(それ)なりさら/\と木登(きのぼり)をしたのは、何(なん)と猿(さる)ぢやあるまいか。
枝(えだ)から枝(えだ)を伝(つた)ふと見(み)えて、見上(みあ)げるやうに高(たか)い木(き)の、軈(やが)て梢(こずえ)まで、かさ/\がさり。
まばらに葉(は)の中(なか)を透(す)かして月(つき)は山(やま)の端(は)を放(はな)れた、其(そ)の梢(こずえ)のあたり。
婦人(をんな)はものに拗(す)ねたやう、今(いま)の悪戯(いたづら)、いや、毎々(まい/\)、蟇(ひき)と蝙蝠(かはほり)とお猿(さる)で三|度(ど)ぢや。
其(そ)の悪戯(いたづら)に多(いた)く機嫌(きげん)を損(そこ)ねた形(かたち)、あまり子供(こども)がはしやぎ過(す)ぎると、若(わか)い母様(おふくろ)には得(え)てある図(づ)ぢや、
本当(ほんたう)に怒(おこ)り出(だ)す。
といつた風情(ふぜい)で面倒臭(めんだうくさ)さうに衣服(きもの)を着(き)て居(ゐ)たから、私(わし)は何(なんに)も問(と)はずに少(ちい)さくなつて黙(だま)つて控(ひか)へた。」  
十七

 

「優(やさ)しいなかに強(つよ)みのある、気軽(きがる)に見(み)えても何処(どこ)にか落着(おちつき)のある、馴々(なれ/\)しくて犯(をか)し易(やす)からぬ品(ひん)の可(い)い、如何(いか)なることにもいざとなれば驚(おどろ)くに足(た)らぬといふ身(み)に応(こたへ)のあるといつたやうな風(ふう)の婦人(をんな)、恁(か)く嬌瞋(きやうしん)を発(はつ)しては屹度(きつと)可(い)いことはあるまい、今(いま)此(こ)の婦人(をんな)に邪慳(じやけん)にされては木(き)から落(お)ちた猿(さる)同然(どうぜん)ぢやと、おつかなびつくりで、おづ/\控(ひか)へて居(ゐ)たが、いや案(あん)ずるより産(うむ)が安(やす)い。
(貴僧(あなた)、嘸(さぞ)をかしかつたでござんせうね、)と自分(じぶん)でも思(おも)ひ出(だ)したやうに快(こゝろよ)く微笑(ほゝゑ)みながら、
(為(し)やうがないのでございますよ。)
以前(いぜん)と変(かは)らず心安(こゝろやす)くなつた、帯(おび)も早(は)や締(し)めたので、
(其(それ)では家(うち)へ帰(かへ)りませう。)と米磨桶(こめとぎをけ)を小脇(こわき)にして、草履(ざうり)を引(ひつ)かけて衝(つ)と崖(がけ)へ上(のぼ)つた。
(お危(あぶの)うござんすから、)
(否(いえ)、もう大分(だいぶ)勝手(かつて)が分(わか)つて居(を)ります。)
づツと心得(こゝろえ)た意(つもり)ぢやつたが、扨(さて)上(あが)る時(とき)見(み)ると思(おも)ひの外(ほか)上(うへ)までは大層(たいそう)高(たか)い。
軈(やが)て又(また)例(れい)の木(き)の丸太(まるた)を渡(わた)るのぢやが、前刻(さつき)もいつた通(とほり)草(くさ)のなかに横倒(よこだふ)れになつて居(ゐ)る、木地(きぢ)が恁(か)う丁度(ちやうど)鱗(うろこ)のやうで譬(たとへ)にも能(よ)くいふが松(まつ)の木(き)は蝮(うわばみ)に似(に)て居(ゐ)るで。
殊(こと)に崖(がけ)を、上(うへ)の方(はう)へ、可(いゝ)塩梅(あんばい)に畝(うね)つた様子(やうす)が、飛(とん)だものに持(も)つて来(こ)いなり、凡(およ)そ此(こ)の位(くらゐ)な胴中(どうなか)の長虫(ながむし)がと思(おも)ふと、頭(かしら)と尾(を)を草(くさ)に隠(かく)して月(つき)あかりに歴然(あり/\)とそれ。
山路(やまみち)の時(とき)を思(おも)ひ出(だ)すと我(われ)ながら足(あし)が窘(すく)む。
婦人(をんな)は親切(しんせつ)に後(うしろ)を気遣(きづか)ふては気(き)を着(つ)けてくれる。
(其(それ)をお渡(わた)りなさいます時(とき)、下(した)を見(み)てはなりません丁度(ちやうど)中途(ちゆうと)で余程(よつぽど)谷(たに)が深(ふか)いのでございますから、目(め)が廻(まふ)と悪(わる)うござんす。)
(はい。)
愚図々々(ぐづ/\)しては居(ゐ)られぬから、我身(わがみ)を笑(わら)ひつけて、先(ま)づ乗(の)つた。引(ひつ)かゝるやう、刻(きざ)が入(いれ)てあるのぢやから、気(き)さい確(たしか)なら足駄(あしだ)でも歩行(ある)かれる。
其(それ)がさ、一|件(けん)ぢやから耐(たま)らぬて、乗(の)ると恁(か)うぐら/\して柔(やはら)かにずる/\と這(は)ひさうぢやから、わつといふと引跨(ひんまた)いで腰(こし)をどさり。
(あゝ、意気地(いくぢ)はございませんねえ。足駄(あしだ)では無理(むり)でございませう、是(これ)とお穿(は)き換(か)へなさいまし、あれさ、ちやんといふことを肯(き)くんですよ。)
私(わし)はその前刻(さつき)から何(なん)となく此(この)婦人(をんな)に畏敬(ゐけい)の念(ねん)が生(しやう)じて善(ぜん)か悪(あく)か、何(ど)の道(みち)命令(めいれい)されるやうに心得(こゝろえ)たから、いはるゝままに草履(ざうり)を穿(は)いた。
するとお聞(き)きなさい、婦女(をんな)は足駄(あしだ)を穿(は)きながら手(て)を取(と)つてくれます。
忽(たちま)ち身(み)が軽(かる)くなつたやうに覚(おぼ)えて、訳(わけ)なく後(うしろ)に従(したが)ふて、ひよいと那(あ)の孤家(ひとつや)の背戸(せど)の端(はた)へ出(で)た。
出会頭(であひがしら)に声(こゑ)を懸(か)けたものがある。
(やあ、大分(だいぶ)手間(てま)が取(と)れると思(おも)つたに、御坊様(おばうさま)旧(もと)の体(からだ)で帰(かへ)らつしやつたの、)
(何(なに)をいふんだね、小父様(をぢさま)家(うち)の番(ばん)は何(ど)うおしだ。)
(もう可(い)い時分(じぶん)ぢや、又(また)私(わし)も余(あんま)り遅(おそ)うなつては道(みち)が困(こま)るで、そろ/\青(あを)を引出(ひきだ)して支度(したく)して置(お)かうと思(おも)ふてよ。)
(其(それ)はお待遠(まちどう)でござんした。)
(何(なに)さ行(い)つて見(み)さつしやい御亭主(ごていしゆ)は無事(ぶじ)ぢや、いやなかなか私(わし)が手(て)には口説落(くどきおと)されなんだ、はゝゝゝはゝ。)と意味(いみ)もないことを大笑(たいせう)して、親仁(おやぢ)は厩(うまや)の方(かた)へてく/\と行(い)つた。
白痴(ばか)はおなじ処(ところ)に猶(なほ)形(かたち)を存(そん)して居(ゐ)る、海月(くらげ)も日(ひ)にあたらねば解(と)けぬと見(み)える。」 
十八

 

「ヒイヽン!叱(しつ)、どうどうどうと背戸(せど)を廻(まわ)る蹄(ひづめ)の音(おと)が椽(えん)へ響(ひゞ)いて親仁(おやぢ)は一|頭(とう)の馬(うま)を門前(もんぜん)へ引出(ひきだ)した。
轡頭(くつはづら)を取(と)つて立(た)ちはだかり、
(嬢様(ぢやうさま)そんなら此儘(このまゝ)で私(わし)参(まゐ)りやする、はい、御坊様(おばうさま)に沢山(たくさん)御馳走(ごちさう)して上(あ)げなされ。)
婦人(をんな)は炉縁(ろぶち)に行燈(あんどう)を引附(ひきつ)け、俯向(うつむ)いて鍋(なべ)の下(した)を焚(いぶ)して居(ゐ)たが振仰(ふりあふ)ぎ、鉄(てつ)の火箸(ひばし)を持(も)つた手(て)を膝(ひざ)に置(お)いて、
(御苦労(ごくらう)でござんす。)
(いんえ御懇(ごねむごろ)には及(およ)びましねえ。叱(しつ)!、)と荒縄(あらなは)の綱(つな)を引(ひ)く。青(あを)で蘆毛(あしげ)、裸馬(はだかうま)で逞(たくま)しいが、鬣(たてがみ)の薄(うす)い牡(おす)ぢやわい。
其(その)馬(うま)がさ、私(わし)も別(べつ)に馬(うま)は珍(めづ)らしうもないが、白痴殿(ばかどの)の背後(うしろ)に畏(かしこま)つて手持不沙汰(てもちぶさた)ぢやから今(いま)引(ひ)いて行(ゆ)かうとする時(とき)椽側(えんがは)へひらりと出(で)て、
(其(その)馬(うま)は何処(どこ)へ。)
(おゝ、諏訪(すは)の湖(みづうみ)の辺(あたり)まで馬市(うまいち)へ出(だ)しやすのぢや、これから明朝(あした)御坊様(おばうさま)が歩行(ある)かつしやる山路(やまみち)を越(こ)えて行(ゆ)きやす。)
(もし其(それ)へ乗(の)つて今(いま)からお遁(に)げ遊(あそ)ばすお意(つもり)ではないかい。)
婦人(をんな)は慌(あはた)だしく遮(さへぎ)つて声(こゑ)を懸(か)けた。
(いえ、勿体(もツたい)ない、修行(しゆぎやう)の身(み)が馬(うま)で足休(あしやす)めをしませうなぞとは存(ぞん)じませぬ。)
(何(なん)でも人間(にんげん)を乗(の)つけられさうな馬(うま)ぢやあござらぬ。御坊様(おばうさま)は命拾(いのちびろひ)をなされたのぢやで、大人(おとな)しうして嬢様(ぢやうさま)の袖(そで)の中(なか)で、今夜(こんや)は助(たす)けて貰(もら)はつしやい。然様(さやう)ならちよつくら行(い)つて参(まゐ)りますよ。)
(あい。)
(畜生(ちくしやう)、)といつたが馬(うま)は出(で)ないわ。びく/\と蠢(うごめ)いて見(み)える大(おほき)な鼻面(はなツつら)を此方(こちら)へ捻(ね)ぢ向(む)けて頻(しきり)に私等(わしら)が居(ゐ)る方(はう)を見(み)る様子(やうす)。
(どう/\どう、畜生(ちくしやう)これあだけた獣(けもの)ぢや、やい!)
右左(みぎひだり)にして綱(つな)を引張(ひつぱ)つたが、脚(あし)から根(ね)をつけた如(ごと)くにぬつくと立(た)つて居(ゐ)てびくともせぬ。
親仁(おやぢ)大(おほい)に苛立(いらだ)つて、叩(たゝ)いたり、打(ぶ)つたり、馬(うま)の胴体(どうたい)について二三|度(ど)ぐる/\と廻(ま)はつたが少(すこ)しも歩(ある)かぬ。肩(かた)でぶツつかるやうにして横腹(よこばら)に体(たい)をあてた時(とき)、漸(やうや)う前足(まへあし)を上(あ)げたばかり又(また)四|脚(あし)を突張(つツぱ)り抜(ぬ)く。
(嬢様(ぢやうさま)々々(/\)。)
と親仁(おやぢ)が喚(わめ)くと、婦人(をんな)は一寸(ちよいと)立(た)つて白(しろ)い爪(つま)さきをちよろちよろと真黒(まツくろ)に煤(すゝ)けた太(ふと)い柱(はしら)を楯(たて)に取(と)つて、馬(うま)の目(め)の届(とゞ)かぬほどに小隠(こがく)れた。
其内(そのうち)腰(こし)に挟(はさ)んだ、煮染(にし)めたやうな、なへ/\の手拭(てぬぐひ)を抜(ぬ)いて克明(こくめい)に刻(きざ)んだ額(ひたひ)の皺(しは)の汗(あせ)を拭(ふ)いて、親仁(おやぢ)は之(これ)で可(よ)しといふ気組(きぐみ)、再(ふたゝ)び前(まへ)へ廻(まは)つたが、旧(きう)に依(よ)つて貧乏動(びんぼうゆるぎ)もしないので、綱(つな)に両手(りやうて)をかけて足(あし)を揃(そろ)へて反返(そりかへ)るやうにして、うむと総身(さうみ)の力(ちから)を入(い)れた。途端(とたん)に何(ど)うぢやい。
凄(すさま)じく嘶(いなゝ)いて前足(まへあし)を両方(りやうはう)中空(なかぞら)へ飜(ひるがへ)したから、小(ちひさ)な親仁(おやぢ)は仰向(あふむ)けに引(ひツ)くりかへつた、づどんどう、月夜(つきよ)に砂煙(すなけぶり)が※[火+發](ぱツ)と立(た)つ。
白痴(ばか)にも之(これ)は可笑(をかし)かつたらう、此時(このとき)ばかりぢや、真直(まツすぐ)に首(くび)を据(す)ゑて厚(あつ)い唇(くちびる)をばくりと開(あ)けた、大粒(おほつぶ)な歯(は)を露出(むきだ)して、那(あ)の宙(ちゆう)へ下(さ)げて居(ゐ)る手(て)を風(かぜ)で煽(あふ)るやうに、はらり/\。
(世話(せわ)が焼(や)けることねえ、)
婦人(をんな)は投(な)げるやうにいつて草履(ざうり)を突(つツ)かけて土間(どま)へついと出(で)る。
(嬢様(ぢやうさま)勘違(かんちが)ひさつしやるな、これはお前様(まへさま)ではないぞ、何(なん)でもはじめから其処(そこ)な御坊様(おばうさま)に目(め)をつけたつけよ、畜生(ちくしやう)俗縁(ぞくえん)があるだツぺいわさ。)
俗縁(ぞくえん)は驚(おどろ)いたい。
すると婦人(をんな)が、
(貴僧(あなた)こゝへ入(い)らつしやる路(みち)で誰(だれ)にかお逢(あ)ひなさりはしませんか。)」 
十九

 

「(はい、辻(つぢ)の手前(てまへ)で富山(とやま)の反魂丹売(はんごんたんうり)に逢(あ)ひましたが、一|足(あし)前(さき)に矢張(やツぱり)此(この)路(みち)へ入(はい)りました。)
(あゝ、然(さ)う、)と会心(くわいしん)の笑(ゑみ)を洩(も)らして婦人(をんな)は蘆毛(あしげ)の方(はう)を見(み)た、凡(およ)そ耐(たま)らなく可笑(をか)しいといつた仂(はした)ない風采(とりなり)で。
極(きは)めて与(くみ)し易(やす)う見(み)えたので、
(もしや此家(こちら)へ参(まゐ)りませなんだでございませうか。)
(否(いゝえ)、存(ぞん)じません。)といふ時(とき)忽(たちま)ち犯(をか)すべからざる者(もの)になつたから、私(わし)は口(くち)をつぐむと、婦人(をんな)は、匙(さぢ)を投(な)げて衣(きぬ)の塵(ちり)を払(はら)ふて居(ゐ)る馬(うま)の前足(まへあし)の下(した)に小(ちい)さな親仁(おやぢ)を見向(みむ)いて、
(為様(しやう)がないねえ、)といひながら、かなぐるやうにして、其(そ)の細帯(ほそおび)を解(と)きかけた、片端(かたはし)が土(つち)へ引(ひ)かうとするのを、掻取(かいと)つて一寸(ちよいと)猶予(ためら)ふ。
(あゝ、あゝ、)と濁(にご)つた声(こゑ)を出(だ)して白痴(あはう)が件(くだん)のひよろりとした手(て)を差向(さしむ)けたので、婦人(をんな)は解(と)いたのを渡(わた)して遣(や)ると、風呂敷(ふろしき)を寛(ひろ)げたやうな、他愛(たあい)のない、力(ちから)のない、膝(ひざ)の上(うへ)へわがねて宝物(はうもつ)を守護(しゆご)するやうぢや。
婦人(をんな)は衣紋(えもん)を抱合(かきあ)はせ、乳(ちゝ)の下(した)でおさへながら静(しづ)かに土間(どま)を出(で)て馬(うま)の傍(わき)へつゝと寄(よ)つた。
私(わし)は唯(たゞ)呆気(あつけ)に取(と)られて見(み)て居(ゐ)ると、爪立(つまだて)をして伸上(のびあが)り、手(て)をしなやかに空(そら)ざまにして、二三|度(ど)鬣(たてがみ)を撫(な)でたが。
大(おほき)な鼻頭(はなづら)の正面(しやうめん)にすつくりと立(た)つた。丈(せい)もすら/\と急(きふ)に高(たか)くなつたやうに見(み)えた、婦人(をんな)は目(め)を据(す)ゑ、口(くち)を結(むす)び、眉(まゆ)を開(ひら)いて恍惚(うつとり)となつた有様(ありさま)、愛嬌(あいけう)も嬌態(しな)も、世話(せわ)らしい打解(うちと)けた風(ふう)は頓(とみ)に失(う)せて、神(しん)か、魔(ま)かと思(おも)はれる。
其時(そのとき)裏(うら)の山(やま)、向(むか)ふの峯(みね)、左右(さいう)前後(ぜんご)にすく/\とあるのが、一ツ一ツ嘴(くちばし)を向(む)け、頭(かしら)を擡(もた)げて、此(こ)の一|落(らく)の別天地(べツてんち)、親仁(おやぢ)を下手(したで)に控(ひか)へ、馬(うま)に面(めん)して彳(たゝず)んだ月下(げツか)の美女(びぢよ)の姿(すがた)を差覗(さしのぞ)くが如(ごと)く、陰々(いん/\)として深山(しんざん)の気(き)が籠(こも)つて来(き)た。
生(なま)ぬるい風(かぜ)のやうな気勢(けはひ)がすると思(おも)ふと、左(ひだり)の肩(かた)から片膚(かたはだ)を脱(ぬ)いたが、右(みぎ)の手(て)を脱(はづ)して、前(まへ)へ廻(まは)し、ふくらんだ胸(むね)のあたりで着(き)て居(ゐ)た其(そ)の単衣(ひとへ)を丸(まろ)げて持(も)ち、霞(かすみ)も絡(まと)はぬ姿(すがた)になつた。
馬(うま)は背(せな)、腹(はら)の皮(かは)を弛(ゆる)めて汗(あせ)もしとゞに流(なが)れんばかり、突張(つツぱ)つた脚(あし)もなよ/\として身震(みぶるひ)をしたが、鼻面(はなづら)を地(ち)につけて、一|掴(つかみ)の白泡(しろあは)を吹出(ふきだ)したと思(おも)ふと前足(まへあし)を折(を)らうとする。
其時(そのとき)、頤(あぎと)の下(した)へ手(て)をかけて、片手(かたて)で持(も)つて居(ゐ)た単衣(ひとへ)をふわりと投(な)げて馬(うま)の目(め)を蔽(おほ)ふが否(いな)や、
兎(うさぎ)は躍(をど)つて、仰向(あふむ)けざまに身(み)を飜(ひるがへ)し、妖気(えうき)を籠(こ)めて朦朧(まうろう)とした月(つき)あかりに、前足(まへあし)の間(あひだ)に膚(はだ)が挟(はさま)つたと思(おも)ふと、衣(きぬ)を脱(はづ)して掻取(かいと)りながら下腹(したばら)を衝(つ)と潜(くゞ)つて横(よこ)に抜(ぬ)けて出(で)た。
親仁(おやぢ)は差心得(さしこゝろえ)たものと見(み)える、此(こ)の機(きツ)かけに手綱(たづな)を引(ひ)いたから、馬(うま)はすた/\と健脚(けんきやく)を山路(やまぢ)に上(あ)げた、しやん、しやんしやん、しやんしやん、しやんしやん、――見(み)る間(ま)に眼界(がんかい)を遠(とほ)ざかる。
婦人(をんな)は早(は)や衣服(きもの)を引(ひツ)かけて椽側(えんがは)へ入(はい)つて来(き)て、突然(いきなり)帯(おび)を取(と)らうとすると、白痴(ばか)は惜(を)しさうに押(おさ)へて放(はな)さず、手(て)を上(あ)げて。婦人(をんな)の胸(むね)を圧(おさ)へやうとした。
邪慳(じやけん)に払(はら)ひ退(の)けて、屹(きツ)と睨(にら)むで見(み)せると、其(その)まゝがつくりと頭(かうべ)を垂(た)れた、総(すべ)ての光景(くわうけい)は行燈(あんどう)の火(ひ)も幽(かす)かに幻(まぼろし)のやうに見(み)えたが、炉(ろ)にくべた柴(しば)がひら/\と炎先(ほさき)を立(た)てたので、婦人(をんな)は衝(つ)と走(はし)つて入(はい)る。空(そら)の月(つき)のうらを行(ゆ)くと思(おも)ふあたり遥(はるか)に馬子唄(まごうた)が聞(きこ)えたて。)」
二十

 

「さて、其(それ)から御飯(ごはん)の時(とき)ぢや、膳(ぜん)には山家(やまが)の香(かう)の物(もの)、生姜(はじかみ)の漬(つ)けたのと、わかめを茹(う)でたの、塩漬(しほづけ)の名(な)も知(し)らぬ蕈(きのこ)の味噌汁(みそじる)、いやなか/\人参(にんじん)と干瓢(かんぺう)どころではござらぬ。
品物(しなもの)は佗(わび)しいが、なか/\の御手料理(おてれうり)、餓(う)えては居(ゐ)るし冥加(みやうが)至極(しごく)なお給仕(きふじ)、盆(ぼん)を膝(ひざ)に構(かま)へて其上(そのうへ)を肱(ひぢ)をついて、頬(ほゝ)を支(さゝ)えながら、嬉(うれ)しさうに見(み)て居(ゐ)たわ。
椽側(えんがは)に居(ゐ)た白痴(あはう)は誰(たれ)も取合(とりあ)はぬ徒然(つれ/″\)に堪(た)へられなくなつたものか、ぐた/\と膝行出(いざりだ)して、婦人(をんな)の傍(そば)へ其(そ)の便々(べん/\)たる腹(はら)を持(も)つて来(き)たが、崩(くづ)れたやうに胡座(あぐら)して、頻(しきり)に恁(か)う我(わし)が膳(ぜん)を視(なが)めて、指(ゆびさし)をした。
(うゝ/\、うゝ/\。)
(何(なん)でございますね、あとでお食(あが)んなさい、お客様(きやくさま)ぢやあゝりませんか。)
白痴(あはう)は情(なさけ)ない顔(かほ)をして口(くち)を曲(ゆが)めながら頭(かぶり)を掉(ふ)つた。
(厭(いや)?仕様(しやう)がありませんね、それぢや御一所(ごいつしよ)に召(め)しあがれ。貴僧(あなた)御免(ごめん)を蒙(かうむ)りますよ。)
私(わし)は思(おも)はず箸(はし)を置(お)いて、
(さあ何(ど)うぞお構(かま)ひなく、飛(とん)だ御雑作(ござふさ)を、頂(いたゞ)きます。)
(否(いえ)、何(なん)の貴僧(あなた)。お前(まい)さん後程(のちほど)に私(わたし)と一所(いつしよ)にお食(た)べなされば可(いゝ)のに。困(こま)つた人(ひと)でございますよ。)とそらさぬ愛想(あいさう)、手早(てばや)く同一(おなじ)やうな膳(ぜん)を拵(こしら)えてならべて出(だ)した。
飯(めし)のつけやうも効々(かひ/″\)しい女房(にようばう)ぶり、然(しか)も何(なん)となく奥床(おくゆか)しい、上品(じやうひん)な、高家(かうけ)の風(ふう)がある。
白痴(あはう)はどんよりした目(め)をあげて膳(ぜん)の上(うへ)を睨(ね)めて居(ゐ)たが、
(彼(あれ)を、あゝ、彼(あれ)、彼(あれ)。)といつてきよろ/\と四辺(あたり)を※[目+旬](みまは)す。
婦人(をんな)は熟(ぢつ)と瞻(みまも)つて、
(まあ、可(いゝ)ぢやないか。そんなものは何時(いつ)でも食(たべ)られます、今夜(こんや)はお客様(きやくさま)がありますよ。)
(うむ、いや、いや。)と肩腹(かたはら)を揺(ゆす)つたが、べそを掻(か)いて泣出(なきだ)しさう。
婦人(をんな)は困(こう)じ果(は)てたらしい、傍(かたはら)のものゝ気(き)の毒(どく)さ。
(嬢様(ぢやうさま)、何(なに)か存(ぞん)じませんが、おつしやる通(とほ)りになすつたが可(い)いではござりませんか。私(わたくし)にお気扱(きあつかひ)は却(かへ)つて心苦(こゝろぐる)しうござります。)と慇懃(いんぎん)にいふた。
婦人(をんな)は又(また)最(も)う一度(いちど)、
(厭(いや)かい、これでは悪(わる)いのかい。)
白痴(あはう)が泣出(なきだ)しさうにすると、然(さ)も怨(うら)めしげに流盻(ながしめ)に見(み)ながら、こはれ/\になつた戸棚(とだな)の中(なか)から、鉢(はち)に入(はい)つたのを取出(とりだ)して手早(てばや)く白痴(あはう)の膳(ぜん)につけた。
(はい、)と故(わざ)とらしく、すねたやうにいつて笑顔造(えがほづくり)。
はてさて迷惑(めいわく)な、こりや目(め)の前(まい)で黄色蛇(あおだいしやう)の旨煮(うまに)か、腹籠(はらごもり)の猿(さる)の蒸焼(むしやき)か、災難(さいなん)が軽(かる)うても、赤蛙(あかゞへる)の干物(ひもの)を大口(おほぐち)にしやぶるであらうと、潜(そツ)と見(み)て居(ゐ)ると、片手(かたて)に椀(わん)を持(も)ちながら掴出(つかみだ)したのは老沢庵(ひねたくあん)。
其(それ)もさ、刻(きざ)んだのではないで、一本(いつぽん)三(み)ツ切(ぎり)にしたらうといふ握太(にぎりぶと)なのを横啣(よこくはえ)にしてやらかすのぢや。
婦人(をんな)はよく/\あしらひかねたか、盗(ぬす)むやうに私(わし)を見(み)て颯(さつ)と顔(かほ)を赤(あか)らめて初心(しよしん)らしい、然様(そん)な質(たち)ではあるまいに、羞(はづ)かしげに膝(ひざ)なる手拭(てぬぐひ)の端(はし)を口(くち)にあてた。
なるほど此(こ)の少年(せうねん)はこれであらう、身体(からだ)は沢庵色(たくあんいろ)にふとつて居(ゐ)る。やがてわけもなく餌食(えじき)を平(たひ)らげて、湯(ゆ)ともいはず、ふツ/\と太儀(たいぎ)さうに呼吸(いき)を向(むか)ふへ吐(つ)くわさ。
(何(なん)でございますか、私(わたし)は胸(むね)に支(つか)へましたやうで、些少(ちつと)も欲(ほ)しくございませんから、又(また)後程(のちほど)に頂(いたゞ)きましやう、)と婦人(をんな)自分(じぶん)は箸(はし)も取(と)らずに二(ふた)ツの膳(ぜん)を片(かた)つけてな。」 
二十一

 

「頃刻(しばらく)悄乎(しよんぼり)して居(ゐ)たつけ。
(貴僧(あなた)嘸(さぞ)お疲労(つかれ)、直(す)ぐにお休(やす)ませ申(まを)しませうか。)
(難有(ありがた)う存(ぞん)じます、未(ま)だ些(ちツ)とも眠(ねむ)くはござりません、前刻(さツき)体(からだ)を洗(あら)ひましたので草臥(くたびれ)もすつかり復(なほ)りました。)
(那(あ)の流(なが)れは其麼(どんな)病(やまひ)にでもよく利(き)きます、私(わたし)が苦労(くらう)をいたしまして骨(ほね)と皮(かは)ばかりに体(からだ)が朽(か)れましても半日(はんにち)彼処(あすこ)につかつて居(を)りますと、水々(みづ/\)しくなるのでございますよ。尤(もツと)も那(あ)のこれから冬(ふゆ)になりまして山(やま)が宛然(まるで)氷(こほ)つて了(しま)ひ、川(かは)も崖(がけ)も不残(のこらず)雪(ゆき)になりましても、貴僧(あなた)が行水(ぎやうずゐ)を遊(あそ)ばした彼処(あすこ)ばかりは水(みづ)が隠(かく)れません、然(さ)うしていきりが立(た)ちます。
鉄砲疵(てツぱうきづ)のございます猿(さる)だの、貴僧(あなた)、足(あし)を折(を)つた五位鷺(ごゐさぎ)、種々(いろ/\)な者(もの)が浴(ゆあ)みに参(まゐ)りますから其(そ)の足痕(あしあと)で崖(がけ)の路(みち)が出来(でき)ます位(くらゐ)、屹(きツ)と其(それ)が利(き)いたのでございませう。
那様(そんな)にございませんければ恁(か)うやつてお話(はなし)をなすつて下(くだ)さいまし、淋(さび)しくつてなりません、本当(ほんと)にお可愧(はづか)しうございますが恁麼(こんな)山(やま)の中(なか)に引籠(ひツこも)つてをりますと、ものをいふことも忘(わす)れましたやうで、心細(こゝろぼそ)いのでございますよ。
貴僧(あなた)、それでもお眠(ねむ)ければ御遠慮(ごゑんりよ)なさいますなえ。別(べつ)にお寝室(ねま)と申(まを)してもございませんが其換(そのかは)り蚊(か)は一ツも居(ゐ)ませんよ、町方(まちかた)ではね、上(かみ)の洞(ほら)の者(もの)は、里(さと)へ泊(とま)りに来(き)た時(とき)、蚊帳(かや)を釣(つ)つて寝(ね)かさうとすると、何(ど)うして入(はい)るのか解(わか)らないので、階子(はしご)を貸(か)せいと喚(わめ)いたと申(まを)して嫐(なぶ)るのでございます。
沢山(たくさん)朝寝(あさね)を遊(あそ)ばしても鐘(かね)は聞(きこ)えず、鶏(とり)も鳴(な)きません、犬(いぬ)だつて居(を)りませんからお心休(こゝろやす)うござんせう。
此人(このひと)も生(うま)れ落(お)ちると此山(このやま)で育(そだ)つたので、何(なん)にも存(ぞん)じません代(かはり)、気(き)の可(い)い人(ひと)で些(ちツ)ともお心置(こゝろおき)はないのでござんす。
それでも風俗(ふう)のかはつた方(かた)が被入(いらつ)しやいますと、大事(だいじ)にしてお辞義(じぎ)をすることだけは知(し)つてゞございますが、未(ま)だ御挨拶(ごあいさつ)をいたしませんね。此頃(このごろ)は体(からだ)がだるいと見(み)えてお惰(なま)けさんになんなすつたよ、否(いゝえ)、宛(まる)で愚(おろか)なのではございません、何(なん)でもちやんと心得(こゝろえ)て居(を)ります。
さあ、御坊様(ごぼうさま)に御挨拶(ごあいさつ)をなすつて下(くだ)さい、まあ、お辞義(じき)をお忘(わす)れかい。)と親(した)しげに身(み)を寄(よ)せて、顔(かほ)を差覗(さしのぞ)いて、いそ/\していふと、白痴(ばか)はふら/\と両手(りやうて)をついて、ぜんまいが切(き)れたやうにがつくり一|礼(れい)。
(はい、)といつて私(わし)も何(なに)か胸(むね)が迫(せま)つて頭(つむり)を下(さ)げた。
其(その)まゝ其(そ)の俯向(うつむ)いた拍子(ひやうし)に筋(すぢ)が抜(ぬ)けたらしい、横(よこ)に流(なが)れやうとするのを、婦人(をんな)は優(やさ)しう扶(たす)け起(おこ)して、
(おゝ、よく為(し)たのねえ、)
天晴(あツぱれ)といひたさうな顔色(かほつき)で、
(貴僧(あなた)、申(まを)せば何(なん)でも出来(でき)ませうと思(おも)ひますけれども、此人(このひと)の病(やまひ)ばかりはお医者(いしや)の手(て)でも那(あ)の水(みづ)でも復(なほ)りませなんだ、両足(りやうあし)が立(た)ちませんのでございますから、何(なに)を覚(おぼ)えさしましても役(やく)には立(た)ちません。其(それ)に御覧(ごらん)なさいまし、お辞義(じぎ)一(ひと)ツいたしますさい、あの通(とほり)大儀(たいぎ)らしい。
ものを教(おし)へますと覚(おぼ)えますのに嘸(さぞ)骨(ほね)が折(を)れて切(せつ)なうござんせう、体(からだ)を苦(くる)しませるだけだと存(ぞん)じて何(なんに)も為(さ)せないで置(お)きますから、段々(だん/″\)、手(て)を動(うご)かす働(はたらき)も、ものをいふことも忘(わす)れました。其(それ)でも那(あ)の、謡(うた)が唄(うた)へますわ。二ツ三ツ今(いま)でも知(し)つて居(を)りますよ。さあ御客様(おきやくさま)に一ツお聞(き)かせなさいましなね。)
白痴(ばか)は婦人(をんな)を見(み)て、又(また)私(わし)が顔(かほ)をぢろ/\見(み)て、人見知(ひとみしり)をするといつた形(かたち)で首(くび)を振(ふ)つた。」 
二十二

 

「左右(とかく)して、婦人(をんな)が、激(はげ)ますやうに、賺(すか)すやうにして勧(すゝ)めると、白痴(ばか)は首(くび)を曲(ま)げて彼(か)の臍(へそ)を弄(もてあそ)びながら唄(うた)つた。
   木曾(きそ)の御嶽山(おんたけさん)は夏(なつ)でも寒(さむ)い、
   袷(あはせ)遣(や)りたや足袋(たび)添(そ)へて。
(よく知(し)つて居(を)りませう、)と婦人(をんな)は聞澄(きゝすま)して莞爾(にツこり)する。
不思議(ふしぎ)や、唄(うた)つた時(とき)の白痴(ばか)の声(こゑ)は此(この)話(はなし)をお聞(き)きなさるお前様(まへさま)は固(もと)よりぢやが、私(わし)も推量(すゐりやう)したとは月鼈雲泥(げつべつうんでい)、天地(てんち)の相違(さうゐ)、節廻(ふしまは)し、あげさげ、呼吸(こきふ)の続(つゞ)く処(ところ)から、第(だい)一|其(そ)の清(きよ)らかな涼(すゞ)しい声(こゑ)といふ者(もの)は、到底(たうてい)此(こ)の少年(せうねん)の咽喉(のど)から出(で)たのではない。先(ま)づ前(さき)の世(よ)の此(この)白痴(ばか)の身(み)が、冥途(めいど)から管(くだ)で其(そ)のふくれた腹(はら)へ通(かよ)はして寄越(よこ)すほどに聞(きこ)えましたよ。
私(わし)は畏(かしこま)つて聞(き)き果(は)てると膝(ひざ)に手(て)をついたツ切(きり)何(ど)うしても顔(かほ)を上(あ)げて其処(そこ)な男女(ふたり)を見(み)ることが出来(でき)ぬ、何(なに)か胸(むね)がキヤキヤして、はら/\と落涙(らくるゐ)した。
婦人(をんな)は目早(めばや)く見(み)つけたさうで、
(おや、貴僧(あなた)、何(ど)うかなさいましたか。)
急(きふ)にものもいはれなんだが漸々(やう/\)、
(唯(はい)、何(なあに)、変(かは)つたことでもござりませぬ、私(わし)も嬢様(ぢやうさま)のことは別(べつ)にお尋(たづ)ね申(まを)しませんから、貴女(あなた)も何(なん)にも問(と)ふては下(くだ)さりますな。)
と仔細(しさい)は語(かた)らず唯(たゞ)思入(おもひい)つて然(さ)う言(い)ふたが、実(じつ)は以前(いぜん)から様子(やうす)でも知(し)れる、金釵玉簪(きんさぎよくさん)をかざし、蝶衣(てふい)を纒(まと)ふて、珠履(しゆり)を穿(うが)たば、正(まさ)に驪山(りさん)に入(い)つて陛下(へいか)と相抱(あひいだ)くべき豊肥妖艶(ほうひえうえん)の人(ひと)が其(その)男(をとこ)に対(たい)する取廻(とりまは)しの優(やさ)しさ、隔(へだて)なさ、親切(しんせつ)さに、人事(ひとごと)ながら嬉(うれ)しくて、思(おも)はず涙(なみだ)が流(なが)れたのぢや。
すると人(ひと)の腹(はら)の中(なか)を読(よ)みかねるやうな婦人(をんな)ではない、忽(たちま)ち様子(やうす)を悟(さと)つたかして、
(貴僧(あなた)は真個(ほんとう)にお優(やさ)しい。)といつて、得(え)も謂(い)はれぬ色(いろ)を目(め)に湛(たゝ)へて、ぢつと見(み)た。私(わし)も首(かうべ)を低(た)れた、むかふでも差俯向(さしうつむ)く。
いや、行燈(あんどう)が又(また)薄暗(うすくら)くなつて参(まゐ)つたやうぢやが、恐(おそ)らくこりや白痴(ばか)の所為(せゐ)ぢやて。
其時(そのとき)よ。
座(ざ)が白(しら)けて、暫(しば)らく言葉(ことば)が途絶(とだ)えたうちに所在(しよざい)がないので、唄(うた)うたひの太夫(たいふ)、退屈(たいくつ)をしたと見(み)えて顔(かほ)の前(まへ)の行燈(あんどう)を吸込(すひこ)むやうな大欠伸(おほあくび)をしたから。
身動(みうご)きをしてな、
(寝(ね)ようちやあ、寝(ね)ようちやあ。)とよた/\体(からだ)を取扱(もちあつか)ふわい。
(眠(ねむ)うなつたのかい、もうお寝(ね)か、)といつたが座(すは)り直(なほ)つて弗(ふ)と気(き)がついたやうに四辺(あたり)を※[目+旬](みまは)した。戸外(おもて)は恰(あたか)も真昼(まひる)のやう、月(つき)の光(ひかり)は開(あ)け広(ひろ)げた家(や)の内(うち)へはら/\とさして、紫陽花(あぢさい)の色(いろ)も鮮麗(あざやか)に蒼(あを)かつた。
(貴僧(あなた)ももうお休(やす)みなさいますか。)
(はい、御厄介(ごやくかい)にあいなりまする。)
(まあ、いま宿(やど)を寝(ね)かします、おゆつくりなさいましな。戸外(おもて)へは近(ちか)うござんすが、夏(なつ)は広(ひろ)い方(はう)が結句(けツく)宜(よ)うございませう、私(わたくし)どもは納戸(なんど)へ臥(ふ)せりますから、貴僧(あなた)は此処(こゝ)へお広(ひろ)くお寛(くつろ)ぎが可(よ)うござんす、一寸(ちよいと)待(ま)つて。)といひかけて衝(つツ)と立(た)ち、つか/\と足早(あしばや)に土間(どま)へ下(お)りた、余(あま)り身(み)のこなしが活溌(くわツぱつ)であつたので、其(そ)の拍手(ひやうし)に黒髪(くろかみ)が先(さき)を巻(ま)いたまゝ頷(うなぢ)へ崩(くづ)れた。
鬢(びん)をおさへて、戸(と)につかまつて、戸外(おもて)を透(す)かしたが、独言(ひとりごと)をした。
(おや/\さつきの騒(さわ)ぎで櫛(くし)を落(おと)したさうな。)
いかさま馬(うま)の腹(はら)を潜(くゞ)つた時(とき)ぢや。」 
二十三

 

此折(このをり)から下(した)の廊下(らうか)に跫音(あしおと)がして、静(しづか)に大跨(おほまた)に歩行(ある)いたのが寂(せき)として居(ゐ)るから能(よ)く。
軈(やが)て小用(こよう)を達(た)した様子(やうす)、雨戸(あまど)をばたりと開(あ)けるのが聞(きこ)えた、手水鉢(てうづばち)へ干杓(ひしやく)の響(ひゞき)。
「おゝ、積(つも)つた、積(つも)つた。」と呟(つぶや)いたのは、旅籠屋(はたごや)の亭主(ていしゆ)の声(こゑ)である。
「ほゝう、此(こ)の若狭(わかさ)の商人(あきんど)は何処(どこ)へか泊(とま)つたと見(み)える、何(なに)か愉快(おもしろ)い夢(ゆめ)でも見(み)て居(ゐ)るかな。」
「何(ど)うぞ其後(そのあと)を、それから、」と聞(き)く身(み)には他事(たじ)をいふうちが悶(もど)かしく、膠(にべ)もなく続(つゞき)を促(うなが)した。
「さて、夜(よる)も更(ふ)けました、」といつて旅僧(たびそう)は又(また)語出(かたりだ)した。
「大抵(たいてい)推量(すゐりやう)もなさるであらうが、いかに草臥(くたび)れて居(を)つても申上(まをしあ)げたやうな深山(しんざん)の孤家(ひとつや)で、眠(ねむ)られるものではない其(それ)に少(すこ)し気(き)になつて、はじめの内(うち)私(わし)を寝(ね)かさなかつた事(こと)もあるし、目(め)は冴(さ)えて、まじ/\して居(ゐ)たが、有繋(さすが)に、疲(つかれ)が酷(ひど)いから、心(しん)は少(すこ)し茫乎(ぼんやり)して来(き)た、何(なに)しろ夜(よ)の白(しら)むのが待遠(まちどほ)でならぬ。
其処(そこ)ではじめの内(うち)は我(われ)ともなく鐘(かね)の音(ね)の聞(きこ)えるのを心頼(こゝろたの)みにして、今(いま)鳴(な)るか、もう鳴(な)るか、はて時刻(じこく)はたつぷり経(た)つたものをと、怪(あや)しんだが、やがて気(き)が着(つ)いて、恁云(かうい)ふ処(ところ)ぢや山寺(やまでら)処(どころ)ではないと思(おも)ふと、俄(にはか)に心細(こゝろぼそ)くなつた。
其時(そのとき)は早(は)や、夜(よる)がものに譬(たと)へると谷(たに)の底(そこ)ぢや、白痴(ばか)がだらしのない寝息(ねいき)も聞(きこ)えなくなると、忽(たちま)ち戸(と)の外(そと)にものゝ気勢(けはひ)がして来(き)た。
獣(けもの)の足音(あしおと)のやうで、然(さ)まで遠(とほ)くの方(はう)から歩行(ある)いて来(き)たのではないやう、猿(さる)も、蟇(ひき)も居(ゐ)る処(ところ)と、気休(きやす)めに先(ま)づ考(かんが)へたが、なかなか何(ど)うして。
暫(しばら)くすると今(いま)其奴(そやつ)が正面(しやうめん)の戸(と)に近(ちかづ)いたなと思(おも)つたのが、羊(ひつじ)の啼声(なきごゑ)になる。
私(わし)は其(そ)の方(はう)を枕(まくら)にして居(ゐ)たのぢやから、つまり枕元(まくらもと)の戸外(おもて)ぢやな。暫(しばら)くすると、右手(めて)の彼(か)の紫陽花(あぢさい)が咲(さ)いて居(ゐ)た其(そ)の花(はな)の下(した)あたりで、鳥(とり)の羽(は)ばたきする音(おと)。
むさゝびか知(し)らぬがきツ/\といつて屋(や)の棟(むね)へ、軈(やが)て凡(およ)そ小山(こやま)ほどあらうと気取(けど)られるのが胸(むね)を圧(お)すほどに近(ちかづ)いて来(き)て、牛(うし)が啼(な)いた。遠(とほ)く彼方(かなた)からひた/\と小刻(こきざみ)に駈(か)けて来(く)るのは、二|本足(ほんあし)に草鞋(わらぢ)を穿(は)いた獣(けもの)と思(おも)はれた、いやさまざまにむら/\と家(いへ)のぐるりを取巻(とりま)いたやうで、二十三十のものゝ鼻息(はないき)、羽音(はおと)、中(なか)には囁(さゝや)いて居(ゐ)るのがある。恰(あたか)も何(なに)よ、それ畜生道(ちくしやうだう)の地獄(ぢごく)の絵(ゑ)を、月夜(つきよ)に映(うつ)したやうな怪(あやし)の姿(すがた)が板戸(いたど)一|重(へ)、魑魅魍魎(ちみまうりやう)といふのであらうか、ざわ/\と木(こ)の葉(は)が戦(そよ)ぐ気色(けしき)だつた。
息(いき)を凝(こら)すと、納戸(なんど)で、
(うむ、)といつて長(なが)く呼吸(いき)を引(ひ)いて一|声(こゑ)、魘(うなさ)れたのは婦人(をんな)ぢや。
(今夜(こんや)はお客様(きやくさま)があるよ。)と叫(さけ)んだ。
(お客様(きやくさま)があるぢやないか。)
と暫(しばら)く経(た)つて二|度目(どめ)のは判然(はつきり)と清(すゞ)しい声(こゑ)。
極(きは)めて低声(こゞゑ)で、
(お客様(きやくさま)があるよ。)といつて寝返(ねがへ)る音(おと)がした、更(さら)に寝返(ねがへ)る音(おと)がした。
戸(と)の外(そと)のものゝ気勢(けはひ)は動揺(どよめき)を造(つく)るが如(ごと)く、ぐら/\と家(いへ)が揺(ゆらめ)いた。
私(わし)は陀羅尼(だらに)を咒(じゆ)した。
   若不順我咒 悩乱説法者 頭破作七分
   如阿梨樹枝 如殺父母罪 亦如厭油殃
   斗秤欺誰人 調達僧罪犯 犯此法師者
   当獲如是殃
と一|心不乱(しんふらん)。颯(さツ)と木(こ)の葉(は)を捲(ま)いて風(かぜ)が南(みんなみ)へ吹(ふ)いたが、忽(たちま)ち静(しづま)り返(かへ)つた、夫婦(ふうふ)が閨(ねや)もひツそりした。」 
二十四

 

「翌日(よくじつ)又(また)正午頃(しやうごゞろ)、里(さと)近(ちか)く、瀧(たき)のある処(ところ)で、昨日(きのふ)馬(うま)を売(うり)に行(い)つた親仁(おやぢ)の帰(かへり)に逢(あ)ふた。
丁度(ちやうど)私(わし)が修行(しゆぎやう)に出(で)るのを止(よ)して孤家(ひとつや)に引返(ひきかへ)して、婦人(をんな)と一|所(しよ)に生涯(しやうがい)を送(おく)らうと思(おも)つて居(ゐ)た処(ところ)で。
実(じつ)を申(まを)すと此処(こゝ)へ来(く)る途中(とちう)でも其(そ)の事(こと)ばかり考(かんが)へる、蛇(へび)の橋(はし)も幸(さいはひ)になし、蛭(ひる)の林(はやし)もなかつたが、道(みち)が難渋(なんじふ)なにつけても汗(あせ)が流(なが)れて心持(こゝろもち)が悪(わる)いにつけても、今更(いまさら)行脚(あんぎや)も詰(つま)らない。紫(むらさき)の袈裟(けさ)をかけて、七|堂伽藍(だうがらん)に住(す)んだ処(ところ)で何程(なにほど)のこともあるまい、活仏様(いきほとけさま)ぢやといふてわあ/\拝(おが)まれゝば人(ひと)いきれで胸(むね)が悪(わる)くなるばかりか。
些(ち)とお話(はなし)もいかゞぢやから、前刻(さツき)はことを分(わ)けていひませなんだが、昨夜(ゆふべ)も白痴(ばか)を寝(ね)かしつけると、婦人(をんな)が又(また)炉(ろ)のある処(ところ)へやつて来(き)て、世(よ)の中(なか)へ苦労(くらう)をして出(で)やうより、夏(なつ)は涼(すゞ)しく、冬(ふゆ)は暖(あたゝか)い、此(こ)の流(ながれ)と一|所(しよ)に私(わたし)の傍(そば)においでなさいといふてくれるし、まだ/\其(それ)ばかりでは自身(じぶん)に魔(ま)が魅(さ)したやうぢやけれども、こゝに我身(わがみ)で我身(わがみ)に言訳(いひわけ)が出来(でき)るといふのは、頻(しきり)に婦人(をんな)が不便(ふびん)でならぬ、深山(しんざん)の孤家(ひとつや)に白痴(ばか)の伽(とぎ)をして言葉(ことば)も通(つう)ぜず、日(ひ)を経(ふ)るに従(したが)ふてものをいふことさへ忘(わす)れるやうな気(き)がするといふは何(なん)たる事(こと)!
殊(こと)に今朝(けさ)も東雲(しのゝめ)に袂(たもと)を振切(ふりき)つて別(わか)れやうとすると、お名残(なごり)惜(を)しや、かやうな処(ところ)に恁(か)うやつて老朽(おひく)ちる身(み)の、再(ふたゝ)びお目(め)にはかゝられまい、いさゝ小川(をがは)の水(みづ)となりとも、何処(どこ)ぞで白桃(しろもゝ)の花(はな)が流(なが)れるのを御覧(ごらん)になつたら、私(わたし)の体(からだ)が谷川(たにがは)に沈(しづ)んで、ちぎれ/\になつたことゝ思(おも)へ、といつて、悄(しほ)れながら、なほ親切(しんせつ)に、道(みち)は唯(たゞ)此(こ)の谷川(たにがは)の流(ながれ)に沿(そ)ふて行(ゆ)きさへすれば、何(ど)れほど遠(とほ)くても里(さと)に出(で)らるゝ、目(め)の下(した)近(ちか)く水(みづ)が躍(おど)つて、瀧(たき)になつて落(お)つるのを見(み)たら、人家(じんか)が近(ちかづ)いたと心(こゝろ)を安(やすん)ずるやうに、と気(き)をつけて孤家(ひとつや)の見(み)えなくなつた辺(あたり)で指(ゆびさし)をしてくれた。
其(その)手(て)と手(て)を取交(とりか)はすには及(およ)ばずとも、傍(そば)につき添(そ)つて、朝夕(あさゆふ)の話対手(はなしあひて)、蕈(きのこ)の汁(しる)で御膳(ごぜん)を食(た)べたり、私(わし)が榾(ほだ)を焚(た)いて、婦人(をんな)が鍋(なべ)をかけて、私(わし)が木(こ)の実(み)を拾(ひろ)つて、婦人(をんな)が皮(かは)を剥(む)いて、それから障子(しやうじ)の内(うち)と外(そと)で、話(はなし)をしたり、笑(わら)つたり、それから谷川(たにがは)で二人(ふたり)して、其時(そのとき)の婦人(をんな)が裸体(はだか)になつて、私(わし)が背中(せなか)へ呼吸(いき)が通(かよ)つて、微妙(びめう)な薫(かほり)の花(はな)びらに暖(あたゝか)に包(つゝ)まれたら、其(その)まゝ命(いのち)が失(う)せても可(い)い!
瀧(たき)の水(みづ)を見(み)るにつけても耐(た)へ難(がた)いのは其事(そのこと)であつた、いや、冷汗(ひやあせ)が流(なが)れますて。
其上(そのうへ)、もう気(き)がたるみ、筋(すぢ)が弛(ゆる)んで、早(は)や歩行(ある)くのに飽(あき)が来(き)て喜(よろこ)ばねばならぬ人家(じんか)が近(ちかづ)いたのも、高(たか)がよくされて口(くち)の臭(くさ)い婆(ばあ)さんに渋茶(しぶちや)を振舞(ふるま)はれるのが関(せき)の山(やま)と、里(さと)へ入(い)るのも厭(いや)になつたから、石(いし)の上(うへ)へ膝(ひざ)を懸(か)けた、丁度(ちやうど)目(め)の下(した)にある瀧(たき)ぢやつた、これがさ、後(あと)に聞(き)くと女夫瀧(めうとたき)と言(い)ふさうで。
真中(まんなか)に先(ま)づ鰐鮫(わにざめ)が口(くち)をあいたやうな尖(さき)のとがつた黒(くろ)い大巌(おほいは)が突出(つきで)て居(ゐ)ると、上(うへ)から流(なが)れて来(く)る颯(さツ)と瀬(せ)の早(はや)い谷川(たにがは)が、之(これ)に当(あた)つて両(ふたつ)に岐(わか)れて、凡(およ)そ四|丈(ぢやう)ばかりの瀧(たき)になつて哄(どツ)と落(お)ちて、又(また)暗碧(あんぺき)に白布(しろぬの)を織(お)つて矢(や)を射(ゐ)るやうに里(さと)へ出(で)るのぢやが、其(その)巌(いは)にせかれた方(はう)は六|尺(しやく)ばかり、之(これ)は川(かは)の一|巾(はゞ)を裂(さ)いて糸(いと)も乱(みだ)れず、一|方(ぱう)は巾(はゞ)が狭(せま)い、三|尺(じやく)位(ぐらゐ)、この下(した)には雑多(ざツた)な岩(いは)が並(なら)ぶと見(み)えて、ちら/\ちら/\と玉(たま)の簾(すだれ)を百千(ひやくせん)に砕(くだ)いたやう、件(くだん)の鰐鮫(わにざめ)の巌(いは)に、すれつ、縺(もつ)れつ。」 
二十五

 

「唯(たゞ)一|筋(すぢ)でも岩(いは)を越(こ)して男瀧(をたき)に縋(すが)りつかうとする形(かたち)、それでも中(なか)を隔(へだ)てられて末(すゑ)までは雫(しづく)も通(かよ)はぬので、揉(も)まれ、揺(ゆ)られて具(つぶ)さに辛苦(しんく)を嘗(な)めるといふ風情(ふぜい)、此(こ)の方(はう)は姿(すがた)も窶(やつ)れ容(かたち)も細(ほそ)つて、流(なが)るゝ音(おと)さへ別様(べつやう)に、泣(な)くか、怨(うら)むかとも思(おも)はれるが、あはれにも優(やさ)しい女瀧(めだき)ぢや。
男瀧(をだき)の方(はう)はうらはらで、石(いし)を砕(くだ)き、地(ち)を貫(つらぬ)く勢(いきほひ)、堂々(だう/\)たる有様(ありさま)ぢや、之(これ)が二つ件(くだん)の巌(いは)に当(あた)つて左右(さいう)に分(わか)れて二|筋(すぢ)となつて落(お)ちるのが身(み)に浸(し)みて、女瀧(めだき)の心(こゝろ)を砕(くだ)く姿(すがた)は、男(をとこ)の膝(ひざ)に取(とり)ついて美女(びぢよ)が泣(な)いて身(み)を震(ふる)はすやうで、岸(きし)に居(ゐ)てさへ体(からだ)がわなゝく、肉(にく)が跳(をど)る。況(ま)して此(こ)の水上(みなかみ)は、昨日(きのふ)孤家(ひとつや)の婦人(をんな)と水(みづ)を浴(あ)びた処(ところ)と思(おも)ふと、気(き)の精(せい)か其(そ)の女瀧(めだき)の中(なか)に絵(ゑ)のやうな彼(か)の婦人(をんな)の姿(すがた)が歴々(あり/\)、と浮(う)いて出(で)ると巻込(まきこ)まれて、沈(しづ)んだと思(おも)ふと又(また)浮(う)いて、千筋(ちすぢ)に乱(みだ)るゝ水(みづ)とゝもに其(そ)の膚(はだへ)が粉(こ)に砕(くだ)けて、花片(はなびら)が散込(ちりこ)むやうな。あなやと思(おも)ふと更(さら)に、もとの顔(かほ)も、胸(むね)も、乳(ちゝ)も、手足(てあし)も全(まツた)き姿(すがた)となつて、浮(う)いつ沈(しづ)みつ、ぱツと刻(きざ)まれ、あツと見(み)る間(ま)に又(また)あらはれる。私(わし)は耐(たま)らず真逆(まツさかさま)に瀧(たき)の中(なか)へ飛込(とびこ)んで、女瀧(めたき)を確(しか)と抱(だ)いたとまで思(おも)つた。気(き)がつくと男瀧(をたき)の方(はう)はどう/\と地響(ぢひゞき)打(う)たせて、山彦(やまびこ)を呼(よ)んで轟(とゞろ)いて流(なが)れて居(ゐ)る、あゝ其(そ)の力(ちから)を以(もつ)て何故(なぜ)救(すく)はぬ、儘(まゝ)よ!
瀧(たき)に身(み)を投(な)げて死(し)なうより、旧(もと)の孤家(ひとつや)へ引返(ひツかへ)せ。汚(けがら)はしい慾(よく)のあればこそ恁(か)うなつた上(うへ)に※[足へん+厨]躇(ちゆうちよ)をするわ、其(その)顔(かほ)を見(み)て声(こゑ)を聞(き)けば、渠等(かれら)夫婦(ふうふ)が同衾(ひとつね)するのに枕(まくら)を並(なら)べて差支(さしつか)へぬ、それでも汗(あせ)になつて修行(しゆぎやう)をして、坊主(ばうず)で果(は)てるよりは余程(よほど)の増(まし)ぢやと、思切(おもひき)つて戻(もど)らうとして、石(いし)を放(はな)れて身(み)を起(おこ)した、背後(うしろ)から一ツ背中(せなか)を叩(たゝ)いて、
(やあ、御坊様(ごばうさま)、)といはれたから、時(とき)が時(とき)なり、心(こゝろ)も心(こゝろ)、後暗(うしろぐら)いので喫驚(びつくり)して見(み)ると、閻王(えんわう)の使(つかひ)ではない、これが親仁(おやぢ)。
馬(うま)は売(う)つたか、身軽(みがる)になつて、小(ちひ)さな包(つゝみ)を肩(かた)にかけて、手(て)に一|尾(び)の鯉(こひ)の、鱗(うろこ)は金色(こんじき)なる、溌溂(はつらつ)として尾(を)の動(うご)きさうな、鮮(あたら)しい其(その)丈(たけ)三|尺(じやく)ばかりなのを、腮(あぎと)に藁(わら)を通(とほ)して、ぶらりと提(さ)げて居(ゐ)た。何(なん)にも言(い)はず急(きふ)にものもいはれないで瞻(みまも)ると、親仁(おやぢ)はじつと顔(かほ)を見(み)たよ。然(さ)うしてにや/\と、又(また)一|通(とほり)の笑方(わらひかた)ではないて、薄気味(うすきみ)の悪(わる)い北叟笑(ほくそゑみ)をして、
(何(なに)をしてござる、御修行(ごしゆぎやう)の身(み)が、この位(くらゐ)の暑(あつさ)で、岸(きし)に休(やす)んで居(ゐ)さつしやる分(ぶん)ではあんめえ、一|生懸命(しやうけんめい)に歩行(ある)かつしやりや、昨夜(ゆふべ)の泊(とまり)から此処(こゝ)まではたつた五|里(り)、もう里(さと)へ行(い)つて地蔵様(ぢざうさま)を拝(をが)まつしやる時刻(じこく)ぢや。
何(なん)ぢやの、己(おら)が嬢様(ぢやうさま)に念(おもひ)が懸(かゝ)つて煩悩(ぼんなう)が起(お)きたのぢやの。うんにや、秘(かく)さつしやるな、おらが目(め)は赤(あか)くツても、白(しろ)いか黒(くろ)いかはちやんと見(み)える。
地体(ぢたい)並(なみ)のものならば、嬢様(ぢやうさま)の手(て)が触(さは)つて那(あ)の水(みづ)を振舞(ふるま)はれて、今(いま)まで人間(にんげん)で居(ゐ)やう筈(はず)はない。
牛(うし)か馬(うま)か、蟇(ひきがへる)か、猿(さる)か、蝙蝠(かはほり)か、何(なに)にせい飛(と)んだか跳(は)ねたかせねばならぬ。谷川(たにがは)から上(あが)つて来(き)さしつた時(とき)、手足(てあし)も顔(かほ)も人(ひと)ぢやから、おらあ魂消(たまげ)た位(くらゐ)、お前様(まへさま)それでも感心(かんしん)に志(こゝろざし)が堅固(けんご)ぢやから助(たす)かつたやうなものよ。
何(なん)と、おらが曳(ひ)いて行(い)つた馬(うま)を見(み)さしつたらう、それで、孤家(ひとつや)で来(き)さつしやる山路(やまみち)で富山(とやま)の反魂丹売(はんごんたんうり)に逢(あ)はしつたといふではないか、それ見(み)さつせい、彼(あ)の助倍(すけべい)野郎(やらう)、疾(とう)に馬(うま)になつて、それ馬市(うまいち)で銭(おあし)になつて、お銭(あし)が、そうら此(こ)の鯉(こひ)に化(ば)けた。大好物(だいかうぶつ)で晩飯(ばんめし)の菜(さい)になさる、お嬢様(ぢやうさま)を一|体(たい)何(なん)じやと思(おも)はつしやるの。)」
私(わたし)は思(おも)はず遮(さへぎ)つた。
「お上人(しやうにん)?」 
二十六

 

上人(しやうにん)は頷(うなづ)きながら呟(つぶや)いて、
「いや、先(ま)づ聞(き)かつしやい、彼(か)の孤家(ひとつや)の婦人(をんな)といふは、旧(もと)な、これも私(わし)には何(なに)かの縁(えん)があつた、あの恐(おそろし)い魔処(ましよ)へ入(はい)らうといふ岐道(そばみち)の水(みづ)が溢(あふ)れた往来(わうらい)で、百姓(ひやくしやう)が教(をし)へて、彼処(あすこ)は其(そ)の以前(いぜん)医者(いしや)の家(いへ)であつたといふたが、其(そ)の家(いへ)の嬢様(ぢやうさま)ぢや。
何(なん)でも飛騨(ひだ)一|円(ゑん)当時(たうじ)変(かは)つたことも珍(めづ)らしいこともなかつたが、唯(たゞ)取出(とりい)でゝいふ不思議(ふしぎ)は、此(こ)の医者(いしや)の娘(むすめ)で、生(うま)れると玉(たま)のやう。
母親殿(おふくろどの)は頬板(ほゝツぺた)のふくれた、眦(めじり)の下(さが)つた、鼻(はな)の低(ひく)い、俗(ぞく)にさし乳(ぢゝ)といふあの毒々(どく/″\)しい左右(さいう)の胸(むね)の房(ふさ)を含(ふく)んで、何(ど)うして彼(あれ)ほど美(うつく)しく育(そだ)つたものだらうといふ。
昔(むかし)から物語(ものがたり)の本(ほん)にもある、屋(や)の棟(むね)へ白羽(しらは)の征矢(そや)が立(た)つか、然(さ)もなければ狩倉(かりくら)の時(とき)貴人(あてびと)のお目(め)に留(と)まつて御殿(ごてん)に召出(めしだ)されるのは、那麼(あんな)のぢやと噂(うはさ)が高(たか)かつた。
父親(てゝおや)の医者(いしや)といふのは、頬骨(ほゝぼね)のとがつた髯(ひげ)の生(は)へた、見得坊(みえばう)で傲慢(がうまん)、其癖(そのくせ)でもぢや、勿論(もちろん)田舎(ゐなか)には苅入(かりいれ)の時(とき)よく稲(いね)の穂(ほ)が目(め)に入(はい)ると、それから煩(わづ)らう、脂目(やにめ)、赤目(あかめ)、流行目(はやりめ)が多(おほ)いから、先生(せんせい)眼病(がんびやう)の方(はう)は少(すこ)し遣(や)つたが、内科(ないくわ)と来(き)てはからつぺた。外科(げくわ)なんと来(き)た日(ひ)にやあ、鬢付(びんつけ)へ水(みづ)を垂(た)らしてひやりと疵(きず)につける位(くらゐ)な処(ところ)。
鰯(いわし)の天窓(あたま)も信心(しん/″\)から、其(それ)でも命数(めいすう)の尽(つ)きぬ輩(やから)は本復(ほんぷく)するから、外(ほか)に竹庵(ちくあん)養仙(やうせん)木斎(もくさい)の居(ゐ)ない土地(とち)、相応(さうおう)に繁昌(はんじやう)した。
殊(こと)に娘(むすめ)が十六七、女盛(をんなざかり)となつて来(き)た時分(じぶん)には、薬師様(やくしさま)が人助(ひとだす)けに先生様(せんせいさま)の内(うち)へ生(うま)れてござつたといって、信心(しん/″\)渇仰(かつがう)の善男(ぜんなん)善女(ぜんによ)?病男(びやうなん)病女(びやうぢよ)が我(われ)も我(われ)もと詰(つ)め懸(か)ける。
其(それ)といふのが、はじまりは彼(か)の嬢様(ぢやうさま)が、それ、馴染(なじみ)の病人(びやうにん)には毎日(まいにち)顔(かほ)を合(あ)はせる所(ところ)から、愛相(あいさう)の一つも、あなたお手(て)が痛(いた)みますかい、甚麼(どんな)でございます、といつて手先(てさき)へ柔(やはらか)な掌(てのひら)が障(さは)ると第一番(だいいちばん)に次作兄(じさくあに)いといふ若(わか)いのゝ(りやうまちす)が全快(ぜんくわい)、お苦(くる)しさうなといつて腹(はら)をさすつて遣(や)ると水(みづ)あたりの差込(さしこみ)の留(と)まつたのがある、初手(しよて)は若(わか)い男(をとこ)ばかりに利(き)いたが、段々(だん/″\)老人(としより)にも及(およ)ぼして、後(のち)には婦人(をんな)の病人(びやうにん)もこれで復(なほ)る、復(なほ)らぬまでも苦痛(いたみ)が薄(うす)らぐ、根太(ねぶと)の膿(うみ)を切(き)つて出(だ)すさへ、錆(さ)びた小刀(こがたな)で引裂(ひツさ)く医者殿(いしやどの)が腕前(うでまへ)ぢや、病人(びやうにん)は七|顛(てん)八|倒(たう)して悲鳴(ひめい)を上(あ)げるのが、娘(むすめ)が来(き)て背中(せなか)へぴつたりと胸(むね)をあてゝ肩(かた)を押(おさ)へて居(ゐ)ると、我慢(がまん)が出来(でき)る、といつたやうなわけであつたさうな。
一|時(しきり)彼(あ)の藪(やぶ)の前(まへ)にある枇杷(びは)の古木(ふるき)へ熊蜂(くまばち)が来(き)て可恐(おそろし)い大(おほき)な巣(す)をかけた。
すると、医者(いしや)の内弟子(うちでし)で薬局(やくきよく)、拭掃除(ふきさうぢ)もすれば総菜畠(さうざいばたけ)の芋(いも)も堀(ほ)る、近(ちか)い所(ところ)へは車夫(しやふ)も勤(つと)めた、下男(げなん)兼帯(けんたい)の熊蔵(くまざう)といふ、其頃(そのころ)二十四五|歳(さい)、稀塩散(きゑんさん)に単舎利別(たんしやりべつ)を混(ま)ぜたのを瓶(びん)に盗(ぬす)んで、内(うち)が吝嗇(けち)ぢやから見附(みつ)かると叱(しか)られる、之(これ)を股引(もゝひき)や袴(はかま)と一|所(しよ)に戸棚(とだな)の上(うへ)に載(の)せて置(お)いて、隙(ひま)さへあればちびり/\と飲(の)んでた男(をとこ)が、庭掃除(にはさうじ)をするといつて、件(くだん)の蜂(はち)の巣(す)を見(み)つけたつけ。
椽側(えんがは)へ遣(や)つて来(き)て、お嬢様(ぢやうさま)面白(おもしろ)いことをしてお目(め)に懸(か)けませう、無躾(ぶしつけ)でござりますが、私(わたし)の此(こ)の手(て)を握(にぎ)つて下(くだ)さりますと、彼(あ)の蜂(はち)の中(なか)へ突込(つツこ)んで、蜂(はち)を掴(つか)んで見(み)せましやう。お手(て)が障(さは)つた所(ところ)だけは刺(さ)しましても痛(いた)みませぬ、竹箒(たけばうき)で引払(ひツぱた)いては八|方(ぱう)へ散(ちらば)つて体中(からだぢう)に集(たか)られては夫(それ)は凌(しの)げませぬ即死(そくし)でございますがと、微笑(ほゝゑ)んで控(ひか)へる手(て)で無理(むり)に握(にぎ)つて貰(もら)ひ、つか/\と行(ゆ)くと、凄(すさま)じい虫(むし)の唸(うなり)、軈(やが)て取(と)つて返(かへ)した左(ひだり)の手(て)に熊蜂(くまばち)が七ツ八ツ、羽(は)ばたきをするのがある、脚(あし)を揮(ふる)ふのがある、中(なか)には掴(つか)んだ指(ゆび)の股(また)へ這出(はひだ)して居(ゐ)るのがあツた。
さあ、那(あ)の神様(かみさま)の手(て)が障(さは)れば鉄砲玉(てツぱうだま)でも通(とほ)るまいと、蜘蛛(くも)の巣(す)のやうに評判(ひやうばん)が八|方(ぱう)へ。
其(そ)の頃(ころ)からいつとなく感得(かんとく)したものと見(み)えて、仔細(しさい)あつて、那(あ)の白痴(ばか)に身(み)を任(まか)せて山(やま)に籠(こも)つてからは神変不思議(しんぺんふしぎ)、年(とし)を経(ふ)るに従(したが)ふて神通自在(じんつうじざい)ぢや、はじめは体(からだ)を押(お)つけたのが、足(あし)ばかりとなり、手(て)さきとなり、果(はて)は間(あひだ)を隔(へだ)てゝ居(ゐ)ても、道(みち)を迷(まよ)ふた旅人(たびゞと)は嬢様(ぢやうさま)が思(おも)ふまゝはツといふ呼吸(いき)で変(へん)ずるわ。
と親仁(おやぢ)が其時(そのとき)物語(ものがた)つて、御坊(ごばう)は、孤家(ひとつや)の周囲(ぐるり)で、猿(さる)を見(み)たらう、蟇(ひき)を見(み)たらう、蝙蝠(かうもり)を見(み)たであらう、兎(うさぎ)も蛇(へび)も皆(みんな)嬢様(ぢやうさま)に谷川(たにがは)の水(みづ)を浴(あ)びせられて、畜生(ちくしやう)にされたる輩(やから)!
あはれ其時(そのとき)那(あ)の婦人(をんな)が、蟇(ひき)に絡(まつは)られたのも、猿(さる)に抱(だ)かれたのも、蝙蝠(かうもり)に吸(す)はれたのも、夜中(よなか)に※[「魅」の「未」に代えて「知」]魅魍魎(ちみまうりやう)に魘(おそ)はれたのも、思出(おもひだ)して、私(わし)は犇々(ひし/\)と胸(むね)に当(あた)つた、
なほ親仁(おやぢ)のいふやう。
今(いま)の白痴(ばか)も、件(くだん)の評判(ひやうばん)の高(たか)かつた頃(ころ)、医者(いしや)の内(うち)へ来(き)た病人(びやうにん)、其頃(そのころ)は未(ま)だ子供(こども)、朴訥(ぼくとつ)な父親(てゝおや)が附添(つきそ)ひ、髪(かみ)の長(なが)い、兄貴(あにき)がおぶつて山(やま)から出(で)て来(き)た。脚(あし)に難渋(なんじう)な腫物(しゆもつ)があつた、其(そ)の療治(れうぢ)を頼(たの)んだので。
固(もと)より一|室(ま)を借受(かりう)けて、逗留(たうりう)をして居(を)つたが、かほどの悩(なやみ)は大事(おほごと)ぢや、血(ち)も大分(だいぶん)に出(だ)さねばならぬ殊(こと)に子供(こども)手(て)を下(お)ろすには体(からだ)に精分(せいぶん)をつけてからと、先(ま)づ一|日(にち)に三ツづゝ鶏卵(たまご)を飲(の)まして、気休(きやす)めに膏薬(かうやく)を張(は)つて置(お)く。
其(そ)の膏薬(かうやく)を剥(は)がすにも親(おや)や兄(あに)、又(また)傍(そば)のものが手(て)を懸(か)けると、堅(かた)くなつて硬(こは)ばつたのが、めり/\と肉(にく)にくツついて取(と)れる、ひい/\と泣(な)くのぢやが、娘(むすめ)が手(て)をかけてやれば黙(だま)つて耐(こら)へた。
一|体(たい)は医者殿(いしやどの)、手(て)のつけやうがなくつて、身(み)の衰(おとろへ)をいひ立(た)てに一|日(にち)延(の)ばしにしたのぢやが三|日(か)経(た)つと、兄(あに)を残(のこ)して、克明(こくめい)な父親(てゝおや)の股引(もゝひき)の膝(ひざ)でずつて、あとさがりに玄関(げんくわん)から土間(どま)へ、草鞋(わらぢ)を穿(は)いて又(また)地(つち)に手(て)をついて、次男坊(じなんばう)の生命(いのち)の扶(たす)かりまするやうに、ねえ/\、といふて山(やま)へ帰(かへ)つた。
其(それ)でもなか/\捗取(はかど)らず、七日(なぬか)も経(た)つたので、後(あと)に残(のこ)つて附添(つきそ)つて居(ゐ)た兄者人(あにじやひと)が丁度(ちやうど)苅入(かりいれ)で、此節(このせつ)は手(て)が八|本(ほん)も欲(ほ)しいほど忙(いそが)しい、お天気(てんき)模様(もやう)も雨(あめ)のやう、長雨(ながあめ)にでもなりますと、山畠(やまはたけ)にかけがへのない稲(いね)が腐(くさ)つては、餓死(うゑじに)でござりまする、総領(さうりやう)の私(わし)は一|番(ばん)の働手(はたらきて)、かうしては居(を)られませぬから、と辞(ことわり)をいつて、やれ泣(な)くでねえぞ、としんめり子供(こども)にいひ聞(き)かせて病人(びやうにん)を置(お)いて行(い)つた。
後(あと)には子供(こども)一人(ひとり)、其時(そのとき)が戸長様(こちやうさま)の帳面前(ちやうめんまへ)年紀(とし)六ツ、親(おや)六十で児(こ)が二十(はたち)なら徴兵(ちようへい)はお目(め)こぼしと何(なに)を間違(まちが)へたか届(とゞけ)が五|年(ねん)遅(おそ)うして本当(ほんたう)は十一、それでも奥山(おくやま)で育(そだ)つたから村(むら)の言葉(ことば)も碌(ろく)には知(し)らぬが、怜悧(りこう)な生(うまれ)で聞分(きゝわけ)があるから、三ツづつあひかはらず鶏卵(たまご)を吸(す)はせられる汁(つゆ)も、今(いま)に療治(れうぢ)の時(とき)不残(のこらず)血(ち)になつて出(で)ることゝ推量(すゐりやう)して、べそを掻(か)いても、兄者(あにじや)が泣(な)くなといはしつたと、耐(こら)へて居(ゐ)た心(こゝろ)の内(うち)。
娘(むすめ)の情(なさけ)で内(うち)と一|所(しよ)に膳(ぜん)を並(なら)べて食事(しよくじ)をさせると、沢庵(たくわん)の切(きれ)をくわへて隅(すみ)の方(はう)へ引込(ひきこ)むいぢらしさ。
弥(いよい)よ明日(あす)が手術(しゆじゆつ)といふ夜(よ)は、皆(みんな)寝静(ねしづ)まつてから、しく/\蚊(か)のやうに泣(な)いて居(ゐ)るのを、手水(てうづ)に起(お)きた娘(むすめ)が見(み)つけてあまりの不便(ふびん)さに抱(だ)いて寝(ね)てやつた。
さて療治(れうぢ)となると例(れい)の如(ごと)く娘(むすめ)が背後(うしろ)から抱(だ)いて居(ゐ)たから、脂汗(あぶらあせ)を流(なが)しながら切(き)れものが入(はい)るのを、感心(かんしん)にじつと耐(こら)へたのに、何処(どこ)を切違(きりちが)へたか、それから流(なが)れ出(だ)した血(ち)が留(と)まらず、見(み)る/\内(うち)に色(いろ)が変(かは)つて、危(あぶな)くなつた。
医者(いしや)も蒼(あを)くなつて、騒(さわ)いだが、神(かみ)の扶(たす)けか漸(やうや)う生命(いのち)は取留(とりと)まり、三|日(か)ばかりで血(ち)も留(とま)つたが、到頭(たうとう)腰(こし)が抜(ぬ)けた、固(もと)より不具(かたわ)。
之(これ)が引摺(ひきず)つて、足(あし)を見(み)ながら情(なさけ)なさうな顔(かほ)をする、蟋蟀(きり/″\す)が※[「怨」の「心」に代えて「手」](も)がれた脚(あし)を口(くち)に啣(くは)へて泣(な)くのを見(み)るやう、目(め)もあてられたものではない。
しまひには泣出(なきだ)すと、外聞(ぐわいぶん)もあり、少焦(すこぢれ)で、医者(いしや)は可恐(おそろし)い顔(かほ)をして睨(にら)みつけると、あはれがつて抱(だ)きあげる娘(むすめ)の胸(むね)に顔(かほ)をかくして縋(すが)る状(さま)に、年来(ねんらい)随分(ずゐぶん)と人(ひと)を手(て)にかけた医者(いしや)も我(が)を折(を)つて腕組(うでくみ)をして、はツといふ溜息(ためいき)。
軈(やが)て父親(てゝおや)が迎(むかひ)にござつた、因果(いんぐわ)と諦(あきら)めて、別(べつ)に不足(ふそく)はいはなんだが、何分(なにぶん)小児(こども)が娘(むすめ)の手(て)を放(はな)れようといはぬので、医者(いしや)も幸(さひはひ)、言訳(いひわけ)旁(かた/″\)、親兄(おやあに)の心(こゝろ)もなだめるため、其処(そこ)で娘(むすめ)に小児(こども)を家(うち)まで送(おく)らせることにした。
送(おく)つて来(き)たのが孤家(ひとつや)で。
其時分(そのじぶん)はまだ一ヶの荘(さう)、家(いへ)も小(こ)二十|軒(けん)あつたのが、娘(むすめ)が来(き)て一|日(にち)二|日(か)、つひほだされて逗留(たうりう)した五|日目(かめ)から大雨(おほあめ)が降出(ふりだ)した。瀧(たき)を覆(くつがへ)すやうで小留(をやみ)もなく家(うち)に居(ゐ)ながら皆(みんな)蓑笠(みのかさ)で凌(しの)いだ位(くらゐ)、茅葺(かやぶき)の繕(つくろひ)をすることは扨置(さてお)いて、表(おもて)の戸(と)もあけられず、内(うち)から内(うち)、隣同士(となりどうし)、おう/\と声(こゑ)をかけ合(あ)つて纔(わづか)に未(ま)だ人種(ひとだね)の世(よ)に尽(つ)きぬのを知(し)るばかり、八|日(か)を八百|年(ねん)と雨(あめ)の中(なか)に籠(こも)ると九日目(こゝのかめ)の真夜中(まよなか)から大風(たいふう)が吹出(ふきだ)して其(その)風(かぜ)の勢(いきほひ)こゝが峠(たうげ)といふ処(ところ)で忽(たちま)ち泥海(どろうみ)。
此(こ)の洪水(こうずゐ)で生残(いきのこ)つたのは、不思議(ふしぎ)にも娘(むすめ)と小児(こども)と其(それ)に其時(そのとき)村(むら)から供(とも)をした此(こ)の親仁(おやぢ)ばかり。
同一(おなし)水(みづ)で医者(いしや)の内(うち)も死絶(しにた)えた、さればかやうな美女(びぢよ)が片田舎(かたゐなか)に生(うま)れたのも国(くに)が世(よ)がはり、代(だい)がはりの前兆(ぜんちやう)であらうと、土地(とち)のものは言伝(いひつた)へた。
嬢様(ぢやうさま)は帰(かへ)るに家(いへ)なく世(よ)に唯(たゞ)一人(ひとり)となつて小児(こども)と一|所(しよ)に山(やま)に留(とゞ)まつたのは御坊(ごばう)が見(み)らるゝ通(とほり)、又(また)那(あ)の白痴(ばか)につきそつて行届(ゆきとゞ)いた世話(せわ)も見(み)らるゝ通(とほり)、洪水(こうずゐ)の時(とき)から十三|年(ねん)、いまになるまで一|日(にち)もかはりはない。
といひ果(は)てゝ親仁(おやぢ)の又(また)気味(きみ)の悪(わる)い北叟笑(ほくそゑみ)。
(恁(か)う身(み)の上(うへ)を話(はな)したら、嬢様(ぢやうさま)を不便(ふびん)がつて、薪(まき)を折(を)つたり水(みづ)を汲(く)む手扶(てだす)けでもしてやりたいと、情(なさけ)が懸(かゝ)らう。本来(ほんらい)の好心(すきごゝろ)、可加減(いゝかげん)な慈悲(じひ)ぢやとか、情(なさけ)ぢやとかいふ名(な)につけて、一|層(そ)山(やま)へ帰(かへ)りたかんべい、はて措(を)かつしやい。彼(あ)の白痴殿(ばかどの)の女房(にようぼう)になつて、世(よ)の中(なか)へは目(め)もやらぬ換(かはり)にやあ、嬢様(ぢやうさま)は如意自在(によゐじざい)、男(をとこ)はより取(ど)つて、飽(あ)けば、息(いき)をかけて獣(けもの)にするわ、殊(こと)に其(そ)の洪水(こうずゐ)以来(いらい)、山(やま)を穿(うが)つたこの流(ながれ)は天道様(てんたうさま)がお授(さづ)けの、男(をとこ)を誘(いざな)ふ怪(あや)しの水(みづ)、生命(いのち)を取(と)られぬものはないのぢや。
天狗道(てんぐだう)にも三|熱(ねつ)の苦悩(くなう)、髪(かみ)が乱(みだ)れ、色(いろ)が蒼(あを)ざめ、胸(むね)が痩(や)せて手足(てあし)が細(ほそ)れば、谷川(たにかは)を浴(あ)びると旧(もと)の通(とほり)、其(それ)こそ水(みづ)が垂(た)るばかり、招(まね)けば活(い)きた魚(うを)も来(く)る、睨(にら)めば美(うつく)しい木(き)の実(み)も落(お)つる、袖(そで)を翳(かざ)せば雨(あめ)も降(ふる)なり、眉(まゆ)を開(ひら)けば風(かぜ)も吹(ふ)くぞよ。
然(しか)もうまれつきの色好(いろごの)み、殊(こと)に又(また)若(わか)いのが好(すき)ぢやで、何(なに)か御坊(ごぼう)にいうたであらうが、其(それ)を実(まこと)とした処(ところ)で、軈(やが)て飽(あ)かれると尾(を)が出来(でき)る、耳(みゝ)が動(うご)く、足(あし)がのびる、忽(たちま)ち形(かたち)が変(へん)ずるばかりぢや。
いや、軈(やが)て此(こ)の鯉(こひ)を料理(れうり)して、大胡座(おほあぐら)で飲(の)む時(とき)の魔神(ましん)の姿(すがた)を見(み)せたいな。
妄念(まうねん)は起(おこ)さずに早(はや)う此処(こゝ)を退(の)かつしやい、助(たす)けられたが不思議(ふしぎ)な位(くらゐ)、嬢様(ぢやうさま)別(べツ)してのお情(なさけ)ぢやわ、生命冥加(いのちみやうが)な、お若(わか)いの、屹(きツ)と修行(しゆぎやう)をさつしやりませ。)と又(また)一ツ背中(せなか)を叩(たゝ)いた、親仁(おやぢ)は鯉(こひ)を提(さ)げたまゝ見向(みむ)きもしないで、山路(やまぢ)を上(うへ)の方(かた)。
見送(みおく)ると小(ちい)さくなつて、一|坐(ざ)の大山(おほやま)の背後(うしろ)へかくれたと思(おも)ふと、油旱(あぶらでり)の焼(や)けるやうな空(そら)に、其(そ)の山(やま)の巓(いたゞき)から、すく/\と雲(くも)が出(で)た、瀧(たき)の音(おと)も静(しづ)まるばかり殷々(ゐん/\)として雷(らい)の響(ひゞき)。
藻抜(もぬ)けのやうに立(た)つて居(ゐ)た、私(わし)が魂(たましひ)は身(み)に戻(もど)つた、其方(そなた)を拝(をが)むと斉(ひと)しく、杖(つえ)をかい込(こ)み、小笠(をがさ)を傾(かたむ)け、踵(くびす)を返(かへ)すと慌(あはたゞ)しく、一|散(さん)に駆(か)け下(お)りたが、里(さと)に着(つ)いた時分(じぶん)は山(やま)は驟雨(ゆふだち)、親仁(おやぢ)が婦人(をんな)に齎(もた)らした鯉(こひ)もこのために活(い)きて孤家(ひとつや)に着(つ)いたらうと思(おも)ふ大雨(おほあめ)であつた。」
高野聖(かうやひじり)は此(こ)のことについて、敢(あへ)て別(べつ)に註(ちう)して教(をしへ)を与(あた)へはしなかつたが、翌朝(よくてう)袂(たもと)を分(わか)つて、雪中(せつちう)山越(やまごし)にかゝるのを、名残(なごり)惜(を)しく見送(みおく)ると、ちら/\と雪(ゆき)の降(ふ)るなかを次第(しだい)に高(たか)く坂道(さかみち)を上(のぼ)る聖(ひじり)の姿(すがた)、恰(あたか)も雲(くも)に駕(が)して行(ゆ)くやうに見(み)えたのである。 
 
「義血侠血」

 

一  
越中高岡から倶利伽羅峠下の発着所である石動まで、四里八町(約16.6km)の間を定時に出る乗合馬車がある。
車代が安いので、旅客はおおかた人力車を見捨てて、こちらに頼った。
車夫はその不景気を馬車会社のせいにして怨み、人力車と馬車との軋轢は次第にひどくなったが、顔役の調停でかろうじて営業上は不干渉を装っても、折にふれて紛争が起こることはしばしばであった。
七月八日の朝、一番馬車に乗り合う客を揃えようと、小僧がその門前で鈴を振りながら、
「馬車はいかがです。むちゃに安くって、人力車よりお速うござい。さあ、お乗んなさい。すぐに出ますよ」
甲走った声は鈴の音よりも高く、静かな朝の街に響き渡った。
通りすがりの粋な女が歩みを止めて、
「ちょいと、小僧さん、石動までいくら? なに十銭だって。ふう、安いね。その代わり遅いだろう」
沢庵を洗い立てたような色に染めたアンペラの古帽子の下から、小僧は猿のような目をきらめかせて、
「ものは試しだ。まあ、お召しなすってください。人力車より遅かったら、お代はいただきません」
こう言う間も、彼の手にある鈴は騒ぎ続けた。
「そんな立派なことを言って、きっとだね」
小僧は昂然と、
「嘘と坊主の髪は、ゆったことがありません」
「なんだね、しゃらくさい」
微笑みながら、女はこう言い捨てて乗り込んだ。
その年頃は二十三、四、姿は満開の花の色を強いて洗って、清楚になった葉桜の浅い緑のようである。
色白で鼻筋が通り、眉に力強さがあって、眼差しにいくぶんの凄みを帯び、見る目に涼しい美人である。
これは果たして何者なのか。
髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に紅だけをさしている。
将棋の駒を派手に散らした紺縮みの浴衣に、唐繻子と繻珍の昼夜帯を緩く引っかけに結んで、空色の縮緬の蹴出しをちらつかせ、素足に吾妻下駄、絹張りの日傘に更紗の小包を持ち添えている。
なりふりがお侠(きゃん)で、人を恐れない様子は、世間擦れ、場慣れして、一筋縄では繋ぐことができない精神を表している。
思うに、彼女の雪のような肌には刺青が浮かび出て、悪竜が焔を吐いていなければ、少なくともその左腕には、二つ枕でともに老いると誓った男の名が刻まれていようか。
馬車は、この怪しい美人で満員となった。
発車の号令が割れるばかりにしばらく響いた。
先刻から待合所の縁にもたれて、一冊の書物を読んでいる二十四、五歳の若者がいる。
紺無地の腹掛、股引に白い小倉織の汚れた背広を着て、ゴムのほつれた長靴を履き、つばが広い麦藁帽子を斜めに傾けてかぶっている。
跨いだ膝の間に茶褐色で渦毛の太くたくましい犬を入れて、その頭をなでながら読書に専念していたが、鈴の音を聞くと同時に身を起して、ひらりと御者台に乗り移った。
彼の体は貴公子のように華奢で、態度は厳かで、その中に自ずから活発な気配を含んでいる。
卑しげに日に焼けた顔も、よく見れば、澄んだ瞳と美しい眉をして、秀でた容貌は尋常ではない。
つまりは、馬蹄の塵にまみれて鞭を振るという輩ではないのである。
御者が書物を腹掛のポケットに収め、革紐を付けた竹根の鞭を執って、静かに手綱を捌きつつ身構えたとき、一輌の人力車が南から来て、疾風のように馬車の側をかすめ、瞬く間に一点の黒い影となり終えた。
美人はこれを眺めて、
「おい、小僧さん、人力車より遅いじゃないか」
小僧がまだ答えないうちに、御者は厳しい表情で顔を上げ、微かになった車の影を見送って、
「吉公、てめえ、また人力車より速えと言ったな」
小僧は愛嬌よく頭を掻いて、
「ああ、言った。でも、そう言わねえと乗らねえもの」
御者は黙って頷いた。
すぐに鞭が鳴ると同時に、二頭の馬は高くいなないて一文字に駆け出した。
不意をくらった乗客は、席に堪えられずに、ほとんど転げ落ちようとした。
奔馬は中空を駆けて、見る見る人力車を追い越した。
御者はやがて馬のもがく足を緩め、車夫に先を越させない程度にゆっくりと進行させた。
車夫は必死になって遅れてなるものかと焦ったが、馬車はまるで月を背にした自分の影のように、一歩進むごとに一歩進んで、追っても追っても抜きがたく、次第に力尽きて息も迫り、もはや倒れてしまいそうに感じる頃、高岡から一里(約3.9km)を隔てた立野の駅に着いた。
この街道の車夫は組合を設けて、各駅に連絡を通じているので、今この車夫が馬車に遅れて喘ぎ喘ぎ走るのを見ると、そこで客を待っていた仲間の一人が、手に唾をして躍り出て、
「おい、兄弟、しっかりしなよ。馬車の畜生、どうしてくれよう」
いきなり牽引の綱を梶棒に投げかけると、疲れた車夫は勢いを得て、
「ありがてえ! 頼むよ」
「合点だい!」
それと言うまま引き始めた。
二人の車夫は勇ましく呼応しながら、急に驚くべき速力で走った。
やがて町外れの狭く急な曲がり角を争うと見えたが、人力車はわき目も振らずに突進して、ついに一歩抜いた。
車夫は一斉に勝鬨(かちどき)をあげ、勢いに乗じて二歩抜き、三歩抜き、ますます駆けて、球が跳ねるかのように軽く速く、二、三間(約3.6〜5.5m)を先んじた。
先程は人力車を尻目に見て、たいそう揚々としていた乗客の一人が、
「さあ、やられた!」と身悶えして騒ぐと、車中はいずれも同感の意を表して、力瘤を握る者もあり、地団駄を踏む者もあり、小僧を叱咤してしきりにラッパを吹かせる者もある。
御者が縦横に鞭をふるって、激しく手綱を操ると、馬の背の汗は激しく流れて掬えるほどで、くつわの手綱を結ぶ部分にはみ出した白い泡は真綿の一袋分にもなったようである。
こうしている間、車体は上下に振動して、頓挫したり、傾斜したり、ただ風が落ち葉を巻き上げ、早瀬が浮き木を弄ぶのと変わらない。
乗客は前後に首を振り、左右に傾いて、片時も安心できず、今にもこの車がひっくり返るか、それとも自分が投げ落とされるか、いずれも怪我は免れないところと、老人は震え慄き、若者は目を据えて、ただ一瞬後を危ぶんだ。
七、八町(約763〜872m)を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛うじて人力車を追い抜いた。
乗客は思わず手を叩き、車体も揺れるほどに喝采した。
小僧は勝鬨のラッパを吹き鳴らして、遅れた人力車を差し招きつつ、踏み段の上で躍った。
ひとり御者だけは喜ぶ様子もなく、注意して馬を労りながら駆けさせている。
怪しい美人が満面に笑みを含んで、起伏が並々でない席に落ち着いていることに、隣の老人が感動して、
「お前さんは、どうもお強い。よく貧血が起こりませんね。平気なものだ、男まさりだ。私なんぞは、からきし意気地がない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」
その言葉が終わらないうち、車は凸凹道を踏んで、ガクリとつまづいた。
老人は横になぎ倒されて、半ば禿げた法然頭がどさっと美人の膝を枕にした。
「あれ、危ない!」
と美人は、その肩をしっかりと抱いた。
老人はむくむくと身を起して、
「へい、これはどうもはばかりさま。さぞ、お痛うございましたろう。ご免なすって下さいましよ。いやはや、意気地がありません。これさ、馬丁(べっとう)さんや、もし若い衆(しゅ)さん、ところで、ひっくり返るようなことはなかろうの」
御者は振り返りもせず、勢いを込めた一鞭を加えて、
「わかりません。馬がつまづきゃ、それまででさ」
老人は目を丸くしてうろたえた。
「いやさ、転ばぬ先の杖だよ。ほんにお願いだ、気をつけておくれ。若い人と違って年寄りのことだ、放り出されたらそれまでだよ。もういい加減にして、やわやわとやってもらおうじゃないか。どうです皆さん、どうでございます」
「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、私に任せたものとして、安心していなければなりません」
「ええ、とんでもない。どうして安心ができるものか」
呆れ果てて老人がつぶやくと、御者は初めて振り返った。
「それで安心ができなけりゃ、ご自分の脚で歩くんです」
「はいはい、それはご親切に」
老人は腹立たしげに御者の顔をぬすみ見た。
遅れた人力車は、次の発着所でまた一人増して後押しを加えたが、やはりまだ追いつかないので、車夫らがますます発憤して悶えるおりから、松並木の中途で、向こうから空車を引いてくる二人の車夫に出会った。
行き違いざま、綱引きが必死な声を振り立て、
「後生だい、手を貸してくんねえか。あのガタ馬車の畜生、追い越さねえじゃ」
「こちとらの顔が立たねえんだ」と他の一人が叫んだ。
血気事を好む連中は、「おう」と言うまま、その車を道端に棄てて、総勢五人の車夫が激しく揉み合って駆けたので、二、三町(約218〜327km)のうちに敵に追いつき、しばらくは並走して互いに一歩を争った。
そのとき、車夫が一斉に鬨の声をあげて馬を驚かせた。
馬は怯えて躍り狂った。
車はこのために傾斜して、まさに乗客を振り落とそうとした。
恐怖、叫喚、騒擾、地震における惨状が馬車の中に現れた。
冷ややかに平然としているのは、独りあの怪しい美人だけである。
一身を自分に任せよと言った御者は、波風に翻弄される汽船が、やがて大海原の底に沈没しようとする危急に際して、蒸気機関がまだ洋々とした穏やかな波を切るのと変わらない態度で、その職を全うするかのように、落ち着いて手綱を操っている。
競争者に遅れず先んじず、隙さえあれば一躍して追い越そうと、睨み合いつつ押していく様子は、この道に堪能な達人と思われ、たいそう頼もしく見えていた。
しかし、危急の際、この頼もしさを見ていたのは、わずかに例の美人だけであった。
他は皆、見苦しくも慌てふためいて、多くの神と仏とがそれぞれの心で祈られた。
その美人はなお、この騒擾の間、始終御者の様子を見守っていた。
こうして六つの車輪はまるで一つの軸にあって回転するように、両者は並んで福岡というところに着いた。
ここに馬車の休憩所があって、馬に水を与え、客に茶を売るのが通例であるが、今日ばかりは素通りだろう、と乗客はそれぞれに思った。
御者はこの店先に馬を止めた。
これでこっちのものだと、車夫は急に勢いを増して、手を振り、声を上げ、思うままに侮辱して駆け去った。
乗客は歯がみをしつつ見送っていたが、人力車は遠く一団の砂埃に包まれて、ついに視界の外に失われた。
旅商人ふうの男が最も苛立って、
「何と皆さん、腹が立つじゃございませんか。大人気のないことだけれど、こういう行きがかりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁さん、早くやってくれたまえな」
「それもそうですけれどもな、年寄りはまことにはやどうも。第一、この疝痛に障りますのでな」
と遠慮がちに訴えるのは、美人に膝枕した老人である。
馬は群がるハエとアブの中で悠々と水を飲み、小僧は木陰の腰掛けに大の字になって、むしゃむしゃと菓子を食べている。
御者は上がり框で休息して、巻煙草を燻らせながら、茶店のおかみと話していた。
「こりゃ、急に出そうもない」と一人がつぶやけば、田舎女房らしいのが、その向かいにいて、
「憎らしいほど落ち着いてるじゃありませんかね」
最初の発言者は、ますます堪えかねて、
「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか心づけをはずみまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。どうぞご賛成願います」
彼は直ちに帯から下げたがま口を取り出して、中の銭を探りながら、
「ねえあなた、ここでああ怠けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」
やがて言い出した者から銅貨三銭で始めた。
帽子を脱いでその中に入れたものを、人々の前に差し出して、彼は広く義捐(ぎえん)を募った。
勇んで躍り込んだ白銅の五銭がある。
渋々捨てられた五厘もある。
ここの一銭、あそこの二銭と積もって、十六銭五厘となった。
美人は片隅にいて、応募の最終であった。
言い出した者の帽子が巡回して彼女の前に来たとき、世話人は言葉を低くして挨拶した。
「とんだお付き合いで、どうもお気の毒さまでございます」
美人が軽く会釈すると同時に、その手は帯の間に入った。
懐紙で上包みした緋塩瀬の紙入れを開いて、彼女は無造作に半円銀貨を投げ出した。
それとなく見た老人は非常に驚いて顔を背け、世話人は頭を掻いて、
「いや、これはお釣りが足りない。私もあいにく細かいのが・・・」
と腰のがま口に手を掛けると、
「いいえ、いいんですよ」
世話人は呆れて叫んだ。
「こんなに? 五十銭!」
これを聞いた乗客は、そうでなくても何者なのか、怪しい美人と目を着けていたのが、今この金離れが女性には不相応なことから、いよいよ底気味悪く怪しんだ。
世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、
「しめて金六十六銭と五厘! 大したことになりました。これなら馬は駈けますぜ」
御者はすでに着席して出発の用意をしている。
世話人は心づけを紙に包んで持っていった。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの心づけだよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶん一つ奮発してね。頼むよ」
彼は気軽に御者の肩を叩いて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
御者は流し目で紙包みを見てそらとぼけた。
「心づけで馬は動きません」
わずかに五銭六厘を懐にした小僧は、驚きかつ惜しんで、恨めしそうに御者の顔を眺めた。
好意を無にされた世話人は腹を立て、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃ要らないんだね」
車はゆっくりと進行した。
「いただく理由がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえってことさ」
六十六銭五厘は、まさに御者のポケットに闖入しようとした。
彼は固く拒んで、
「思し召しはありがたく存じますが、規定の車代のほかに骨折り賃をいただく理由がございません」
世話人は押し返された紙包みを持ち扱いつつ、
「理由もへちまもあるものかな。お客がくれるというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰って済まないと思ったら、一骨折って今の人力車を抜いてくれたまえな」
「心づけなんぞはいただかなくっても、十分骨は折ってるんです」
世話人は嘲笑った。
「そんな立派な口をきいたって、約束が違や世話はねえ」
御者は厳しい表情で振り返って、
「何ですと?」
「この馬車は人力車より速いという約束だぜ」
厳然として御者は答えた。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の心づけをお出しなすったのはこの方だよ。あの人力車より速く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大な心づけもはずもうというのだ。どうだ先生、恐れ入ったか」
鼻をうごめかせて、世話人は御者の背を指で突いた。
彼は一言も発さず、世話人はすこぶる得意であった。
美人は戯れるかのようになじった。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」
彼はなお口を厳しく閉ざしていた。
その唇を動かすべき力は、彼の両腕に奮って、馬蹄が急に高く挙がると、車輪はその骨が見えなくなるまでに回転した。
乗客は再び地上の波に揺られて、浮沈の憂き目に遭った。
思うがままに馬を走らせること五分、遥か前方に競争者の影が認められた。
しかし、出る時間が遅れたので、容易に追いつくはずもなかった。
到着地である石動は、もはや間近に迫っている。
いま一躍の下に追い越さなければ、終いには負けざるを得ないであろう。
憐れにも過度の奔走に疲れ果てた馬は、力なげに垂れた首を並べて、打っても走っても、足は重く、地を離れかねていた。
何を思ったか、御者は地上に降り立った。
乗客がこれはいったいどうしたことかと見る間に、彼は手早く一頭の馬を解き放って、
「姉さん、済みませんが、ちょっと降りてください」
乗客は顔を見合わせて、この謎を解くのに苦しんだ。
美人が彼の言うとおりに車を降りると、
「どうかこちらへ」と御者は自分の立った馬の側に招いた。
美人はますますその意味がわからなかったが、なお彼の言うがままに進み寄った。
御者は物も言わずに美人を引き抱えて、ひらりと馬に跨った。
驚いたのは乗客だ。乗客は実に驚いたのである。
彼らは千体仏のように顔を集め、あっけらかんとあごを垂れて、おそらくは絵にも見ることがかなわないこの不思議な様子に目を奪われていたが、その馬は奇怪な御者と奇怪な美人と奇怪な挙動とを乗せて、まっしぐらに駆け去った。
車上の見物客は、ようやく我に返ってどよめいた。
「いったい、どうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、何でございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者の方で逃げたのだから、乗せ逃げでしょう」
例の老人は頭を振り振りつぶやいた。
「いや洒落どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
不審の眉をひそめた前の世話人は、腕を組みながら車中を見回して、
「皆さん、何と思召す? こりゃただ事じゃありませんぜ。馬鹿を見たのは我々ですよ。まったく駆け落ちですな。どうもあの女がさ、ただの鼠じゃあるめえと睨んでおきましたが、こりゃあ、まさにそうだった。しかし、いい女だ」
「私は急ぎの用を抱えている身だから、こうして安閑としてはいられない。なんとかこの小僧に頼んで、一頭の馬でやってもらおうじゃございませんか。馬鹿馬鹿しい、銭を出して、あのザマを見せられて、置き去りをくう奴もないものだ」
「まったくそうでございますよ。ほんとにふざけた真似をする野郎だ。小僧、早くやってくんな」
小僧は途方に暮れて、先刻から車の前後に出没していたが、
「どうもお気の毒さまです」
「お気の毒さまは知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早くやってくれ、やってくれ!」
「私にはまだよく馬が動きません」
「生きてるものの動かないという法があるものか」
「臀っぺたをひっぱたけ、ひっぱたけ」
小僧は苦笑いしつつ、
「そんなことを言ったっていけません。二頭引きの車ですから、馬が一頭じゃやりきれません」
「そんなら、ここで降りるから銭を返してくれ」
腹を立てる者、無理を言う者、つぶやく者、罵る者、迷惑する者、乗客の不平は小僧の身に集まった。
彼は散々に苛められて、ついに涙ぐみ、身の置き所に窮して、辛うじて車の後ろで小さくなっていた。
乗客はますます騒いで、相手のいない喧嘩に狂った。
御者が真一文字に馬を飛ばして、雲を霞と走ったので、美人は生きた心地もせず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り彼の腰にすがりついた。
風がヒューヒューと両腋の下に起こって、髪は逆立ち、道はさながら河のようで、濁流が足元に勢いよく流れ注ぎ、体は空中を転がるようである。
彼女は本当に死ぬ思いがした。
次第に風が止み、馬が止まるのを感じると、すぐに昏倒して正気を失った。
御者が静かに馬から助け降ろして、茶店の座敷に担ぎ入れたときである。
彼はその介抱を店主の老女に頼んで、自身は息をも継がず、再び疲れた馬に鞭打って、もと来た道を急いだ。
ほどなく美人は目を覚まして、ここが石動の外れであるのを知った。
御者はすでにいない。
彼女は彼の名を老女に訊ねて、金さんであると知った。
その人柄を問うと、行いは正しく、真面目で厳か、その行いを尋ねると、学問好き。  
二 

 

金沢の浅野川の磧(かわら)は、毎夜毎夜、納涼の人出のために熱気にあふれていた。
これを機会に、諸国から入り込んだ興行師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け連ねて、猿芝居、娘軽業、山雀(やまがら)の芸当、剣の刃渡り、活き人形、名所の覗きからくり、電気手品、盲人相撲、評判の大蛇、天狗の骸骨、手無し娘、子どもの玉乗りなど、いちいち数えるいとまもない。
その中でも大評判、大当たりは、滝の白糸の水芸である。
太夫(たゆう)滝の白糸は妙齢十八、九の美人で、その技芸は容色と調和して、市中の人気は山のようである。
そのため、他はみな夕方からの開場であるにもかかわらず、これだけが昼夜二回の興行で、どちらも客が詰めかける大入りであった。
時はまさに午後一時、拍子木を打ち鳴らし、囃子(はやし)が鳴りを鎮めるとき、口上人が彼のいわゆる不弁舌な弁をふるって前口上を述べ終えると、すぐに起こる三味線と笛の節を踏んで、静々と歩み出たのは当座の太夫元(座長)滝の白糸で、高島田に奴(やっこ)元結いをかけ、濃やかな化粧に桃の花のような媚を装い、朱鷺(とき)色縮緬の単衣(ひとえ)に、銀糸の波の刺繍がある水色絽(ろ)の裃(かみしも)を着けている。
彼女がしとやかに舞台の中央に進んで、一礼を施すと、待ち構えていた見物客は口々に喚いた。
「いよう、待ってました大明神様!」
「あでやか、あでやか!」
「ようよう、金沢荒らし!」
「ここな命取り!」
喝采の声のうちに彼女は静かに顔を上げて、情を含んで微笑んだ。
口上人は扇を挙げて咳払いし、
「東西!お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元、滝の白糸にござりまする。お目見えが相済みますれば、早速ながら本芸に取りかからせまする。最初、小手調べとしてご覧に入れまするは、露に蝶の狂いをかたどりまして、花野の曙。ありゃ来た、よいよいよい、さて」
さて、太夫がなみなみと水を盛ったコップを左手にとって、右手には黄と白二面の扇子を開き、「やっ」と声をかけて交互に投げ上げると、露を争う二匹の蝶が、縦横上下に追いつ追われつ、雫(しずく)もこぼさず、羽も休めず、太夫の手にも留まらずに、空中に綾を織りなす鍛え磨かれた技芸で、「今じゃ、今じゃ」と、木戸番がだみ声も高く喚きつつ、表の幕を引き揚げたとき、演芸中の太夫はふと外に目をやったが、何に心を奪われたのか、はたとコップを取り落とした。
口上人は狼狽して走り寄った。
見物客はその失敗をどっと囃(はや)した。
太夫は受け止めた扇を手にしたまま、その瞳をなお外に凝らしつつ、つかつかと土間に下りた。
口上人はいよいよ狼狽して、なすすべを知らなかった。
見物客は呆れ果てて息を呑み、場内一斉に頭をめぐらせて太夫の挙動を見つめている。
白糸は群れいる客を押し分け、かき分け、
「ご免あそばせ、ちょいとご免あそばせ」
慌ただしく木戸口に走り出て、うなじを延ばして目で追った。
その視線の先に御者ふうの若者がいる。
何事が起ったのかと、見物客が白糸の後からどよどよと乱れ出る喧騒に、その男は振り返った。
白糸は初めてその顔を見ることができた。
彼は色白で瀟洒だった。
「おや、違ってた!」
こう独り言をいい、太夫はすごすごと木戸を入った。 
三 

 

夜は既に十一時に近づいた。
磧はひどく涼しくて一人の人影もなく、天は高く、露気は冷ややかで、月だけが澄んでいた。
暑苦しさと騒がしさを極めていた露店は、ことごとく店をたたんで、ただあちこちで見世物小屋の板囲いを洩れる灯火が、かすかに宵のうちの名残を留めていた。
川は長く流れて、向山(卯辰山)の松風が静かに渡るところ、天神橋の欄干にもたれて、うとうととまどろむ男がいる。
彼は山を背に、水に臨み、清らかな風を受け、明るい月を戴き、そのはっきりとした姿は、もの静かな四つの境地と自然の清らかな幸福を占領して、たいそう心地よさそうであった。
おりから、磧の小屋から現れた粋な女がいる。
首から襟にかけて大きな模様を染め抜いた紺絞りの浴衣を着て、赤い毛布をまとい、身を持てあましたかのように足を運び、下駄の爪先にかつかつと小石を蹴りつつ、流れに沿ってぶらぶらと歩いていたが、瑠璃色に澄み渡った空を仰いで、
「ああ、いい月夜だ。寝るには惜しい」
川風がさっと彼女の耳際の毛を吹き乱した。
「ああ、うすら寒くなってきた」
しっかりと毛布をまとって、彼女は辺りを見回した。
「人っ子一人いやしない。何だ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものは意固地なもんだ。涼むんなら、こういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色なもんだ」
彼女は再びゆっくりと歩いた。
この女は滝の白糸である。
彼女らの仲間は便宜上旅籠を取らずに、小屋を家をする者が少なくない。
白糸もそうである。
やがて彼女は橋に来ていた。
吾妻下駄の音は天地の静寂を破って、からんころんと月に響いた。
彼女はその音のおかしさに、なお強いて響かせつつ、橋の半ば近くに来たとき、急に左手を上げて、その高髷をつかみ、
「ええ、もう重っ苦しい。ちょっ、うるせえ!」
荒々しく引き解いて、手早くぐるぐる巻きにした。
「ああ、これでせいせいした。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
こうして白糸は、水を聴き、月を望み、夜景の静かさをめでて、ようやく橋の半ばを過ぎた。
彼女はすぐに暢気な人の姿を認めた。
何者か、天地を夜具として、夜露の下、月に照らされて快眠している男が、数歩のところにいて鼾を立てた。
「おや! いい気なもんだよ。誰だい、新じゃないか」
囃子方(はやしかた)に新という者がいる。
宵のうちから出てまだ小屋に戻らないので、それかと白糸は間近に寄って、男の寝顔を覗いた。
新はまだこのように暢気ではない。
彼は果たして新ではなかった。
新の容貌は、このように威厳のあるものではないのだ。
彼は新を千倍にして、なおかつ新の千倍も勝るほど尋常でない、強い精神の現れた顔であった。
その眉は長く濃やかで、眠っている目尻も凛として、正しく結んだ唇は、夢の中でも放心しない彼の気概が優れて高いことを語っている。
漆のような髪はやや伸びて、広い額に垂れたのが、吹き上げる川風に絶えずそよいでいる。
つくづくと眺めていた白糸は、急に顔色を変えて叫んだ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
欄干で眠っているのは、他の誰でもない、例の乗合馬車の御者である。
「どうして今時分こんなところにねえ」
彼女は足音を忍ばせて、再び男に寄り添いながら、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
恍惚として瞳を凝らしていたが、突然自分がまとった毛布を脱いで着せ掛けても、御者は夢にも知らずに熟睡している。
白糸は欄干に腰を休めて、しばらくすることもなかったが、突然声を上げて、
「ええ、ひどい蚊だ」と膝のあたりをはたと打った。この音に驚いたのか、御者は目を覚まして、あくび混じりに、
「ああ、寝た。もう何時かしらん」
思いもよらない傍で、なまめいた声がして、
「もう、かれこれ一時ですよ」
御者が驚いて振り返ると、肩に見覚えのない毛布があって、深夜の寒さを防いでいる。
「や、毛布を着せてくださったのは? あなた? でございますか」
白糸は微笑を浮かべて、呆れている御者の顔を見ながら、
「夜露に打たれると体の毒ですよ」
御者は黙って一礼した。
白糸は嬉しそうに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌よう」
いよいよ呆れた御者は少し身を退けて、一瞬、狐狸変化の物ではないかと心中で疑った。
月の光を浴びて凄まじいほどに美しい女の顔を、無遠慮に眺めている彼のまなざしは、ひそめた眉の下から異彩を放っている。
「どなたでしたか、一向存じません」
白糸は片方の頬に笑いを浮かべて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と御者は首を傾けている。
「金さん」と女は馴れ馴れしく呼びかけた。
御者はひどく驚いた。
月下の美人が初対面で自分の名を知る。
御者たる者、誰が驚かずにいようか。
彼は本当に、いまだかつて信じたことのなかった狐狸の類ではないかと当惑し始めた。
「お前さんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんていうことがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いいところで!」
袖を覆って白糸はにっこりと一笑した。
御者は深く思案に暮れていたが、ようやく傾けた首を正して言った。
「抱いた覚えはないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競争をして、石動(いするぎ)の手前からお前さんに抱かれて、馬の相乗りをした女さ」
「おう! そうだ」と思わず両手を打ち合わせて、御者は大声を発した。
白糸はその声に驚かされて、
「ええ、吃驚した。ねえ、お前さん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
御者は唇に微笑を浮かべて、再び両手を打った。
「でも、言われるまで思い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないが、毎日何十人という客の顔をいちいち覚えていられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬の相乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あってたまるものか」
二人は顔を見合わせて笑った。
ときに、いくつもの鐘の音が遠く響き、月はますます白く、空はますます澄んでいる。
白糸は改めて御者に向かって、
「お前さん、金沢へはいつ、どうしてお出でなすったの?」
四方は広々として、ただ山水と名月があるのみ。
ヒューヒューと吹く風は、おもむろに御者の毛布を翻した。
「実はあっちを失業してね・・・」
「おやまあ、どうして?」
「これも君のためさ」と笑うと、
「ご冗談もんだよ」と白糸は流し目で見た。
「いや、それはともかくも、話をしなけりゃわからん」
御者は懐を探って、油紙製の袋型の煙草入れを取り出し、忙しく一服して、すぐに話を始めようとした。
白糸は彼が吸殻をはたくのを待って、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
御者は言下に煙草入れとマッチを手渡して、
「煙管(きせる)が詰まってます」
「いいえ、結構」
白糸は一吸いを試みた。
果たして、その言葉のとおり、煙管は不快な脂(やに)の音だけがして、煙が通るのは糸の筋よりわずかである。
「なるほど、これは詰まってる」
「それで吸うには、よっぽど力が要るのだ」
「馬鹿にしないねえ」
美人は紙縒(こより)をひねって、煙管を通し、溝泥のような脂に顔をしかめて、
「こら! ご覧な、不精だねえ。お前さん、やもめかい」
「もちろん」
「おや、もちろんとはご挨拶だ。でも、恋人の一人や半人はありましょう」
「馬鹿な!」と御者は一喝した。
「じゃ、ないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
彼はこの問答をいまいましそうに、そらとぼけた。
「お前さんの年で、独り身で、恋人がないなんて、ほんとに男の恥だよ。私が似合うのを一人世話してあげようか」
御者は傲然として、
「そんなものは要らんよ」
「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除ができたから、一服いただこう」
白糸はまず二服を吸って、三服目を御者に、
「はい、あげましょう」
「これはありがとう。ああ、よく通ったね」
「また詰まったときは、いつでも持ってお出でなさい」
大口を開いて御者は快さそうに笑った。
白糸は再び煙管を借りて、のどかに煙を吹きながら、
「今の話というのを聞かせてくださいな」
御者は頷いて、立っていた姿勢を変えて、斜めに欄干にもたれ、
「あのとき、あんな乱暴をやって、とうとう人力車を追い越したのはよかったが、奴らはあれを非常に悔しがってね、会社へ難しい掛け合いを始めたのだ」
美人は眉を上げて、
「なんだってまた?」
「なにもかにも理屈なんぞはありゃしない。あの一件を根に持って、喧嘩をしかけてきたのさね」
「ふん、生意気な! それで?」
「相手になると、事が面倒になって、実は双方とも商売の邪魔になるのだ。そこで、会社のほうでは穏便がいいというので、無論不公平な裁判だけれど、私が因果を含められて、雇いを解かれたのさ」
白糸は身に沁みる夜風に両腕で自らを抱いて、
「まあ、お気の毒だったねえ」
彼女は慰める言葉のないような表情だった。
御者は冷笑して、
「なあに、たかが馬方だ」
「けれどもさ、本当にお気の毒なことをしたねえ、いわば私のためだもの」
美人は憂いに沈んで腕を組んだ。
御者は真面目に、
「その代わり、煙管の掃除をしてもらった」
「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうして、お前さん、これからどうするつもりなの?」
「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡にぶらついていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁(べっとう)の口でもあるだろうと思って、探しに出てきた。今日も朝から一日奔走したので、すっかりくたびれてしまって、晩方ひとっ風呂入ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら涼みに出かけて、ここで月を見ているうちに、いい心持になって寝込んでしまった」
「おや、そう。そうして、口はありましたか」
「ない!」と御者は頭を振った。
白糸はしばらく考え込んでいたが、
「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるようなお方じゃないね」
御者は長いため息をついた。
「生まれもっての馬丁でもないさ」
美人は黙って頷いた。
「愚痴じゃあるが、聞いてくれるか」
侘しげな男の顔をつくづく眺めて、白糸は彼が物語るのを待った。
「私は金沢の士族だが、少し仔細があって、幼い頃に家は高岡へ引っ越したのだ。その後、私一人金沢へ出てきて、ある学校へ入っているうち、親父に亡くなられて、ちょうど三年前だね、仕方なく中途で学問は止めさ。それから高岡へ帰ってみると、その日から稼ぎ手というものがないのだ。私が母親を養わにゃならんのだ。何をいうにも、まだ書生中の体だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。親父は馬の家じゃなかったが、大の馬好きで、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も子どもの時分稽古をして、少しはおぼえがあるので、馬車会社へ住み込んで、御者となった。それでまず暮らしを立てているという、誠に恥ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で終わる了見でもない、目的も望みもあるのだが、ままにならぬのが浮世かね」
彼は広々とした天を仰いで、しばらくうちひしがれていた。
その顔には形容しがたい悲憤の色が表れている。白糸は同情に堪えない声音で、
「そりゃあ、もう誰しも浮世ですよ」
「うむ、まあ、浮世と諦めておくのだ」
「いま、お前さんのおっしゃった望みというのは、私たちには聞いても解りはしますまいけれど、何ぞ、その、学問のことでしょうね?」
「そう、法律という学問の修行さ」
「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃあありませんか」
御者は苦笑いして、
「そうとも」
「それじゃ、いっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」
「行けりゃ行くさ。そこが浮世じゃないか」
白糸は軽く膝を打って、
「金の世の中ですか」
「地獄の沙汰さえ、なあ」
再び御者は苦笑いした。
白糸はこともなげに、
「じゃ、あなた、お出でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立てちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送りしてあげようじゃありませんか」
沈着な御者の魂も、このとき躍るばかりに揺らめいた。
彼は驚くよりむしろ呆れた。
呆れるよりむしろ慄いたのである。
彼は顔色を変えて、この美しい魔性のものを睨んでいた。
先に五十銭の心づけを投じて、他の人々の一銭よりも惜しまなかったこの美人の肝っ玉は、十人の乗合客になんとなく恐れを抱かせた。
銀貨一枚に目をみはった乗合客よ、君らに今夜の天神橋での壮語を聞かせたなら、肝臓も胆嚢もすぐに破れて、血が耳から迸り出るだろう。
花のように美しい顔で柳のように細くしなやかな腰をした人よ、そもそもあなたは狐狸か、変化か、魔性か。
おそらくは化粧の怪物であろう。
これもまた一種の魔性である御者さえも、驚きかつ慄いた。
御者は美人の意図をその表情から読もうとしていたが、できずについに呻き出した。
「何だって?」
美人も不思議な顔つきで反問した。
「何だってとは?」
「どういう訳で」
「訳も何もありゃしない、ただお前さんに仕送りがしてみたいのさ」
「酔狂な!」と御者はその愚に唾を吐くかのように独り言をいった。
「酔狂さ。私も酔狂だから、お前さんも酔狂に、ひとつ私の志を受けてみる気はないかい。ええ、金さん、どうだね」
御者はしきりに考え、どうすべきか判断に迷った。
「そんなに考えることはないじゃないか」
「しかし、縁もゆかりもない者に・・・」
「縁というのも初めは他人同士。ここでお前さんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんじゃありませんかね」
「恩を受ければ、返さなければならない義務がある。その責任が重いから・・・」
「それで断るとお言いかい。何だねえ、恩返しができるの、できないのと、そんなことを苦にするお前さんでもなかろうじゃないか。私だって泥棒に伯父さんがいるのじゃなし、知りもしない人をつかまえて、やたらにお金を貢いで堪るものかね。私はお前さんだから貢いでみたいのさ。いくら嫌だとお言いでも、私は貢ぐよ。後生だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要るものじゃない。私はお前さんの望みというのが叶いさえすれば、それでいいのだ。それが私への恩返しさ、いいじゃないか。私はお前さんがきっと立派な人になれると思うから、ぜひ立派な人にしてみたくって堪らないんだもの。後生だから早く勉強して、立派な人になってくださいよう」
その声音は柔らかくなまめかしかったが、話の間に世間の厳しさを知る言葉を挟んで、凛として、烈しかった。
御者は感動して奮い立ち、両目に熱い涙を浮かべ、
「うむ、せっかくのお志だ。ご恩にあずかりましょう」
彼は襟を正して、恭しく白糸の前に頭を下げた。
「何ですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」
美人は喜色満面に溢れんばかりである。
「お世話になります」
「嫌だよ、もう金さん、そんな丁寧な言葉を使われると、私は気が詰まるから、やっぱり書生言葉をやってくださいよ。ほんとに凛々しくって、私は書生言葉が大好きさ」
「恩人に向かって済まんけれども、それじゃ、ぞんざいな言葉を使おう」
「ああ、それがいいんですよ」
「しかしね、ここに一つ困ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親が独りで・・・」
「それはご心配なく。及ばずながら、私がね・・・」
御者は夢見る心地がしつつ、耳を傾けている。
白糸は誠意を顔に表して、
「きっとお世話をしますから」
「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの恩返しには、お前さんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお望みはありませんか」
「だからさ、私の望みはお前さんの望みが叶いさえすれば・・・」
「それはいかん! 自分の望みを遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたことで恩返しになるものではない。それはただ恩に対するところの自分の義務というもので、決して恩人に対する義務ではない」
「でも、私が承知ならいいじゃありませんかね」
「いくらお前さんが承知でも、私が不承知だ」
「おや、まあ、いやに難しいのね」
こう言いつつ、美人は微笑んだ。
「いや、理屈をいうわけではないがね、目的を達するのを恩返しといえば、乞食も同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、彼らの目的は食うことだ。食っていけるから、それが方々で銭をもらった恩返しになるとは言われまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさせてください。そうすれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれど、お断り申そう」
すぐには返す言葉もなく、白糸は頭を垂れていたが、やがて御者の顔を見るかのように、見ないかのように窺いつつ、
「じゃ、言いましょうか」
「うむ、承ろう」と男はやや姿勢を正した。
「ちょっと恥ずかしいことさ」
「何なりとも」
「聞いてくださるか。いずれお前さんの身に適ったことじゃあるけれども」
「一応聞いたうえでなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、いくらでも承諾するさ」
白糸は耳際のおくれ毛をかき上げて、幾分か恥ずかしさを紛らわそうとした。
御者は月に向かった美人の姿の輝くばかりであるのを見つめながら、固唾を呑んでその語るのを待った。
白糸は初め口ごもっていたが、すぐに心を決めた様子で、
「生娘のように恥ずかしがることもない、いいババアのくせにさ。私の望みというのはね、お前さんに可愛がってもらいたいの」
「ええ!」と御者は鋭く叫んだ。
「あれ、そんな恐い顔をしなくったっていいじゃありませんか。何もおかみさんにしてくれというんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯親類のようにして暮らしたいというんでさね」
御者は躊躇せず、彼女の語るのを追って潔く答えた。
「よろしい。決してもう他人ではない」
涼しい目と凛々しい目とは、無量の思いを含んで見つめ合った。
彼らは無言の数秒の間に、語ることもできない、説くこともできない、きわめて微妙な魂の言葉を交えていた。
彼らが十年かかっても語り尽くすことのできない、心の底で混じり合って一つになった思いは、実にこの瞬間に暗黙のうちに約束されたのである。
しばらくして、まず御者が口を開いた。
「私は高岡の片原町で、村越欣弥(むらこし きんや)という者だ」
「私は水島友(みずしま とも)といいます」
「水島友? そうしてお宅は?」
白糸ははたと言葉に詰まった。
彼女には決まった家がないからである。
「お宅は、ちっと困ったねえ」
「だって、家のない者があるものか」
「それがないのだからさ」
天下に家を持たないのは何者か。
乞食の徒といっても、やはり雨露を凌げる蔭に眠らないか。
世間の例をもってすれば、彼女はまさに立派な家に住み、玉の輿に乗るべき人である。
ところが、彼女は宿なしという。
その行動は奇怪で、その心情もまた奇怪であるとはいっても、まだこの言葉の奇怪さには及ばないと御者は思った。
「それじゃ、どこにいるのだ」
「あそこさ」と美人は磧の小屋を指した。
御者はそちらを眺めて、
「あそことは?」
「見世物小屋さ」と白糸は今までとは変わった微笑を浮かべた。
「ははあ、見世物小屋とは変っている」
御者は心中で驚いていた。
彼はもとよりこの女を良家の女性とは思いもしなかった。
少なくとも、海山五百年の怪物であることを看破していたが、見世物小屋に寝起きする乞食芸人の仲間であろうとは、実に意表を突いていたのである。
とはいっても、彼は素知らぬ様子で答えていた。
白糸は彼の思いを汲んで自分を嘲った。
「あんまり変わり過ぎてるわね」
「見世物の三味線でも弾いているのかい」
「これでも太夫元さ。太夫だけになお悪いかもしれない」
御者は、軽侮の表情も表さず、
「はあ、太夫! 何の太夫?」
「無官の太夫敦盛じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、きまりが悪いからさ」
御者はますます真面目になって、
「水芸の太夫? ははあ、それじゃ、この頃評判の・・・」
こう言いつつ、珍しそうに女の顔を覗いた。
白糸はさっと赤らむ顔を背けつつ、
「ああ、もうたくさん、堪忍しておくれよ」
「滝の白糸というのはお前さんか」
白糸は彼の言葉を手で制した。
「もう、いいってばさ!」
「うむ、なるほど!」と疑問が解消した様子で、欣弥は頷いた。
白糸はますます恥じらって、
「嫌だよ、もう。何がなるほどなんだね」
「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど・・・」
「もう、いいってばさ」
つっと身を寄せて、白糸はいきなり欣弥を突いた。
「ええ、危ねえ! いい女だからいいというのに、突き飛ばすことはないじゃないか」
「人を馬鹿にするからさ」
「馬鹿にするものか。実に美しい、いくつになるのだ」
「お前さん、いくつになるの?」
「私は二十六だ」
「おや、六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもうババアだね」
「いくつさ」
「言うと愛想を尽かされるから嫌」
「馬鹿な! ほんとにいくつだよ」
「もうババアだってば。四さ」
「二十四か! 若いね。二十歳くらいかと思った」
「何か奢りましょうよ」
白糸は帯の間から白縮緬の袱紗包みを取り出した。
開くと、一束の紙幣を紙に包んだものであった。
「ここに三十円あります。まあこれだけあげておきますから、家のかたを付けて、一日も早く東京へお出でなさいな」
「家のかたといって、別に金の要るようなことはなし、そんなには要らない」
「いいからお持ちなさいよ」
「みんなもらったら、お前さんが困るだろう」
「私はまた明日入る口があるからさ」
「どうも済まんなあ」
欣弥は受け取った紙幣を軽く戴いて懐にした。
そのとき通りかかった夜稼ぎの車夫が、怪しむべき月下の密会を一瞥して、
「お相乗り、都合で、いかがで」
彼はからかう態度を示して、二人の側に立ち止まった。
白糸はわずかに振り返って、棄てるかのように言い放った。
「要らないよ」
「そう仰らずにお召なすって。へへへへへ」
「何だね、人を馬鹿にして。一人乗りに相乗りができるかい」
「そこはまたお話し合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」
面白半分にまつわるのを、白糸は鼻の先にあしらって、
「お前もとんだ苦労性だよ。他人のことよりは、早く帰って、うちのでも悦ばしておやんな」
さすがに車夫も、この姉御の与しやすくないのを知った。
「へい、これははばかりさま。まあ、そちらさまもお楽しみなさいまし」
彼はすぐに踵(きびす)を返して、鼻歌交じりに行き過ぎた。
欣弥は何を思ったのか、
「おい、車屋!」と急に呼び止めた。
車夫は頭を振り向けて、
「へえ、やっぱりお相乗りですかね」
「馬鹿言え! 伏木まで行くか」
車夫が答えるのに先立って、白糸は驚きかつ怪しんで聞いた。
「伏木・・・あの、伏木まで?」
伏木はおそらく上京の道、越後の直江津まで汽船便がある港である。
欣弥は平然として、
「これからすぐに発とうと思う」
「これから ?! 」と白糸はさすがに胸をとどろかせた。
欣弥は頷いていた頭をそのまま垂れて、見るべきものもない橋の上に瞳を凝らしながら、その胸中は出発するかしないかの二つから一つを選ぶのに忙しかった。
「これからとはあんまり急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」
一方では欣弥を説き、一方では車夫に向かい、
「若い衆さん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」
彼女が紙入れを探るとき、欣弥は慌ただしく、
「車屋、待っとれ。行っちゃいかんぜ」
「あれさ、いいやね。さあ、若衆さん、これを持って行っとくれよ」
五銭の白銅を手にして、まさに渡そうとした。
欣弥はその間に分け入って、
「少し都合があるのだから、これからやってくれ」
彼は十分に決心した表情をしている。
白糸はとうていそれを動かすことができないのを覚って、潔く未練を棄てた。
「そう。それじゃ無理には止めないけれども・・・」
このとき、二人の目は期せずして合った。
「そうして、お母さんには?」
「道で寄って暇乞いをする、必ず高岡を通るのだから」
「じゃ、町外れまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」
「四、五町(約436〜545m)行きゃ、いくらもありまさあ。そこまでだから一緒に召していらっしゃい」
「おふざけでないよ」
欣弥はすでに車上にいて、
「車屋、どうだろう、二人乗ったら壊れるかなあ、この車は?」
「なあに大丈夫。姉さん、ほんとにお召なさいよ」
「構うことはない。早く乗った乗った」
欣弥が手招きすると、白糸は微笑む。
その肩を車夫はトンと打って、
「とうとう、乙な寸法になりましたぜ」
「嫌だよ、欣さん」
「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑した。
月はようやく傾き、鶏が鳴いて、空はほのかに白かった。 
四 

 

滝の白糸は越後の国新潟の生まれで、その地特有の美しさを備えているうえに、その鍛え磨かれた水芸は、ほとんど人間業を離れ、すこぶる驚くべきものであった。
となれば、行く先々で大入りが叶わないところはないので、各地の興行主が彼女を争い、ついに前例のない莫大な給金を払うに到った。
彼女は親もなく、兄弟もなく、情夫もなかったので、一切の収入はことごとく自分一人に費やすことができ、加えて闊達豪放な気性は、この余裕のためにますます膨張して、十円を得れば二十円を散財する勢いで、得るにまかせて撒き散らした。
これは一つには、金銭を得る難しさを彼女が知らなかったためである。
彼女はまた貴族的な生活を喜ばず、好んで下層社会の境遇に甘んじ、衣食の美とうわべを飾ることを求めなかった。
彼女のあまりに平民的なことは、その度を越えて、気性が激しく侠気に富む鉄火となった。
往々見られる女性の鉄火は、おおよそ汚行と罪業と悪徳とによって養成されないものはない。
白糸の鉄火は、自然のままの性質から生じて、きわめて純潔で清浄なものである。
彼女は思うままにこの鉄火を振り回して、自由にのびのびと、この何年も暢気に暮らしてきたが、今やもうそうではなかった。
村越欣弥は、彼女が仕送りを引き受けたことを信じて東京に遊学している。
高岡に住むその母は、箸を控えて彼女が送る食料を待っている。
白糸は、月々彼らを扶養すべき責任のある世帯持ちの身となっている。
それまでの滝の白糸は、まさにその自由気ままを縛り、その風変わりで個性の強い性格を押し潰して、世話女房のお友とならざるを得ないはずである。
彼女はついにその責任のために、石を巻き、鉄を捩じる思いで、曲げることのできない節を曲げ、仕事に励み、倹約を図る小心な女性となった。
その行動では、なおかつ滝の白糸としての活気を保ちつつ、その精神はまったく村越友として生計に苦労した。
その間は実に三年の長きにわたった。
あるいは富山に赴き、高岡に買われ、また大聖寺、福井に行き、遠くは故郷の新潟で興行し、苦労を厭わずほうぼうで稼ぎ回って、幸いどこも外さなかったので、場合によっては血を流さなければならないようなきわめて重い責任も、その収入によって難なく果たされた。
しかし、見世物の類は春夏の二つの季節が黄金期である。
秋は次第に寂しくなり、冬は霜枯れの哀れむべき状態を免れないのである。
まして北国(ほっこく)の降雪地帯では、ほとんど一年の三分の一を白いもののうちに蟄居せざるを得ないではないか。
ことに時候を問わない見世物と異なって、彼女の演芸は自ずから夏炉冬扇の傾向がある。
その喝采はすべて暑中のもので、冬季には仕事がない。
たとえ彼女が食べるのに困らなくても、月々十数円の工面は尋常な手段で成し遂げられるものではない。
彼女はどのようにして無い袖を振ったか? 
魚は木に縁(よ)りて求むべからず、方法を誤ると目的は達せられない、彼女は他日の興行を質入れして前借りしていたのである。
その一年、二年は、ともかくもこのような算段によって過ごした。
三年目は、さすがに八方塞がりとなって、融通の方法もなくなろうとしていた。
翌年初夏の金沢の招魂祭を当て込んで、白糸の水芸は興行されていた。
彼女は例の美しい姿と絶妙な技で稀有な人気を取っていたので、即座に越前福井の某という興行主が付いて、金沢を打ち上げ次第、二ヵ月間三百円で雇おうという相談が調った。
白糸は諸方に負債がある旨を打ち明けて、その三分の二を前借りし、不義理な借金を払って、手元に百余円を残していた。
これで欣弥親子の半年の扶養に足りるだろうと、彼女は憂いに顰(ひそ)めていた眉を開いた。
しかし、欣弥は実際、半年分の仕送りを要さないのである。
彼の望みはすでに手が届くばかりに近づいて、わずかにここ二、三ヵ月を支えられれば十分であった。
無頓着な白糸はただ彼の健康を尋ねるだけで安心し、あえて学業を成し遂げる時期を問わず、欣弥もまた必ずしもこれを告げようとはしなかった。
その約束に背くことを恐れる者と、恩を受けている最中にその恩を顧みない者とは、各々その努むべきことを努めるのに専念していた。
こうして、翌日まさに福井に向かって出発するという三日目の夜の興行を終えたのは、一時になろうとする頃であった。
白昼のようであった公園内の灯火はすべて消え、雨が降り出しそうな空に月はあっても、辺りは霧が立ちこめて煙を敷くように広がり、薄墨を流した森の彼方に、突然足音が響いて、ガヤガヤと罵る声がしたのは、見世物師らが連れ立って公園を引き払ったのであろう。
この一群のあとに残って語り合う女がいる。
「ちょいと、お隣の長松(ちょうまつ)さんや、明日はどこへ行きなさる?」
年増が抱いた猿の頭を撫でて、こう尋ねたのは、猿芝居と小屋を並べたろくろ首の因果娘である。
「はい、明日は福井まで参ります」
年増は猿に代わって答えた。
ろくろ首は愛想よく、
「おお、おお、それはまあ遠い所へ」
「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、加賀百万石のお庭だよ。千代公(ちょんこ)のほうは二度目だけれど、お前は初めてだ。さあ、よく見物しなよ」
彼女は抱いた猿を放した。
そのとき、あちらの池のあたりで、マッチの火がぱっと燃えた影に、頬被りした男の顔が赤く現れた。
黒い影法師も二つ三つ、その側に見えていた。
因果娘が闇を透かし見て、
「おや、出刃打ちの連中があそこに休んでいなさるようだ」
「どれどれ」と見向く年増の背後に声がして、
「おい、そろそろ出掛けようぜ」
旅装束をした四、五人の男が二人の側に立ち止まった。
年増はすぐに猿を抱き取って、
「そんなら、姉さん」
「参りましょうかね」
二人の女は彼らとともに行った。
続いて一団、また一団、大蛇を籠に入れて担う者と、馬に跨っていく曲馬芝居の座長とを先に立てて、さまざまな動物と異形の人間が、絶え間なく森蔭に列をなしたその様子は、実に百鬼夜行を描いた一幅の生きた画であった。
しばらくして彼らは残らず行ってしまった。
公園は奥深い森のようで、月の色はますます暗く、夜はもうまったく死んだように寝静まっていたとき、こだまに響き、池の水面に鳴って、驚いた声が、
「あれえ!」 
五 

 

水が澱んで油のような霞ヶ池の水際に、生死不明で倒れている女性がいる。
四肢を弛めて地面にひれ伏し、身動きもせずにしばらく横たわっていたのが、ようやく首を動かして、がっくりと頭を垂れ、やがて草の根を力におぼつかなくも起ち上がって、よろめく体を傍らの根上がり松でやっと支えている。
その浴衣はところどころ引き裂け、帯は半ば解けて脛が露わになり、高島田は面影を留めないほど崩れている。
これこそ、盗難に遭った滝の白糸の姿である。
彼女は今夜の演芸を終えた後、連日の疲労が一時に出て、楽屋の涼しい所でまどろんでいた。
一座の連中は早くも荷物を取りまとめて、「さあ、引き払おう」と夢の中の太夫に呼びかけていたが、彼女は快眠を惜しみ、一足先に行けと夢うつつのうちに言い放って、再び熟睡した。
彼らは豪放な太夫の平生を知っていたので、彼女の言うままに捨て置いて立ち去ったのである。
しばらくして白糸は目を覚ました。
この空き小屋の中でうたた寝した彼女の懐には、欣弥の半年の学資が収められていたのである。
しかし、彼女は危ないところだったとも思わず、昼の暑さに引きかえ、涼しい真夜中が静かなのを喜びながら、福井の興行主が待っている旅宿に行こうと、ここまで来たところに、ばらばらと木陰から躍り出た数人がいる。
これが皆、屈強の大男で、いずれも手拭いで顔を覆ったのが五人ほど、手に手に研ぎ澄ました出刃包丁を引っ提げて、白糸を取り巻いた。
気性のしっかりした女ではあるが、彼女はさすがに驚いて立ち止まった。
狼藉者の一人が、だみ声を潜めて、
「おう、姉さん、懐の物を出しねえ」
「ジタバタすると、これだよ、これ」
こう言いながら、他の一人がその包丁を白糸の前で閃かせると、四挺の出刃も一斉にきらめいて、女の目を脅かした。
白糸はすでに自分が釜中の魚で、死の危機が迫っていることを覚悟した。
気持ちは少しも屈さないが、力が及ばないのはどうしようもない。
前進して敵と争うことはできず、後退して逃げることも難しい。
平生の彼女はかつて百円を惜しんだことがない。
しかし、今夜懐にある百円は、普段の千万円に値するもので、彼女の半身の生血ともいうべきものである。
彼女は何物にも換えがたく惜しんだ。
今ここでこれを失えば、ほとんど再びこれを得る方法はない。
しかし、彼女はついに失わざるを得ないのだろうか、豪放闊達の女丈夫も途方に暮れていた。
「何をぐずぐずしてやがるんで! さっさと出せ、出せ」
白糸は死守しようと決心した。
彼女の唇は黒くなった。
彼女の声はひどく震えた。
「これはやれないよ」
「くれなけりゃ、ふんだくるだけだ」
「やっつけろ、やっつけろ!」
その声を聞くと同時に、白糸は背後から組み付かれた。
振り払おうとする間もなく、胸も押し潰されるばかりの羽交い絞めにあった。
すぐに荒くれた四つの手は、乱暴に彼女の帯の間と内懐とをかき探した。
「あれえ!」と叫んで救いを求めていたのは、このときの血を吐くような声であった。
「あった、あった」と一人の賊が叫んだ。
「あったか、あったか」と両三人の声が応えた。
白糸は猿ぐつわをはめられ、手も足も地面に押し伏せられた。
しかし、彼女は絶えず身をよじって、跳ね返そうとしていたのである。
急に彼らの力が弛んだ。
すかさず白糸が起き返るところを、はたと蹴り倒された。
賊はその隙に逃げ失せて行方が知れない。
惜しんでも惜しんでも、なお余りある百円は、ついに還らないものとなった。
白糸は胸中に湯が沸くように、火が燃えるように、さまざまな思いが募るにまかせ、無念で仕方のない松の下蔭に立ち尽くして、夜が更けるのも忘れていた。
「ああ、仕方ない、何事も運命だと諦めるのだ。何の百円ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう ?! 」
彼女はひしと我が身を抱いて、松の幹に打ち当てた。
ふと傍らを見ると、広々とした霞ヶ池は、霜が降りたようにほの暗い月光を宿している。
白糸のまなざしは、その精神の全力を集めたかと思うほどの光を帯びて、病んだような水面を睨んだ。
「ええ、もう何ともいえない嫌な気持ちだ。この水を飲んだら、さぞ胸がせいせいするだろう! ああ、死にたい。こんな思いをするくらいなら、死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」
彼女は胸中に激してくる感情を消そうとして、万斛(ばんこく)の恨みを飲むように、この水を飲み尽くそうと覚悟したのである。
彼女がもはや前後を忘れて、ただ一心に死を急ぎながら、よろよろと水際に寄ると、足元に何かがあってきらめいた。
思わず彼女の目はこれに止まった。出刃包丁である!
これは悪漢の持っていた凶器であるが、彼らが白糸を手ごめにしたとき、あれこれと争う間に取り落としたものを、忘れて捨てていったのである。
白糸は急にぞっとして寒さを覚えたが、やがて拾い上げて月にかざしながら、
「これを証拠に訴えれば手がかりがあるだろう。そのうちにはまた何とか都合もできよう。・・・これは、今死ぬのは。・・・」
この証拠品を得たために、彼女は死を思い留まって、早く警察署に行こうと気が変わると、今となっては忌まわしいこの水際を離れて、彼女が押し倒されていたあたりを過ぎた。
無念な思いが湧き出るように起こった。
かよわい女の身だったことが口惜しい! 男だったならば、などと言っても仕方のない意気地のなさを思い出して、しばらくはその恨めしい場所を去ることができなかった。
彼女は再び草の上にある物を見出した。
近づいてよく見ると、薄い藍色の布地に白く七宝繋ぎの柄の、洗い晒した浴衣の片袖であった。
これがまた賊の遺留品であることに白糸は気づいた。
おそらく彼女が暴行に抵抗したおりに、引きちぎった賊の衣の一部であろう。
彼女はこれも拾い上げ、出刃を包んで懐の中に推し入れた。
夜はますます更けて、空はいよいよ曇った。
湿った空気は重く沈んで、柳の葉末も動かなかった。
歩くにつれて、足もとの叢から池に飛び込む蛙が、小石を投げるかのように水を鳴らした。
うなじを垂れて歩きながら、彼女は深く思い悩んだ。
「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕まろうか。捕まったところで、うまく金が戻るだろうか。危ないものだ。そんなことを当てにしてぐずぐずしているうちに、欣さんが食うに困ってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が届かなかった日には、どんなに困るだろう。はてなあ! 福井の興行主のほうは、三百円のうち二百円前借りしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情だとすっかり打ち明けて、ひとつ泣きついてみようかしらん。駄目だ、あの親爺だもの。ひっきりなしに小癪に障ることばっかり並べやがって、もうもうほんとに顔を見るのも嫌なのだ。そのくせ、また持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、困った、困った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何よりつらい! といって工面のしようもなし。・・・」
鐘の音がもの寂しく鳴り渡るのを聞いた。
「もう二時だ。はてなあ!」
白糸は思案にあまって、歩く力も失せた。
何気なくもたれたのは、未央柳(びおうりゅう)が長く垂れている檜の板塀の下であった。
これこそは公園内で六勝亭と呼ばれる席貸で、主人は富裕な隠居なので、構造に風流な工夫を尽くし、営業の傍ら、その老後を楽しむ家である。
白糸が佇んでいるのは、その裏口の枝折門の前であるが、どうして忘れたのか、戸を鎖さずにいたので、彼女がもたれると同時に戸が自然と内側に開いて、吸い込むかのように白糸を庭の中に引き入れた。
彼女はしばらく呆然として佇んだ。
その心には何を思うともなく、きょろきょろと辺りを見回した。
奥深くひっそりと造られた築山のない庭を前に、縁側の雨戸が長く続き、家内はまったく寝静まっている気配である。
白糸は一歩進み、二歩進んで、いつしか「寂然(せきぜん)の森(しげり)」を出て、「井戸囲い」のあたりに至った。
このとき、彼女は初めて気づいて驚いた。
このような深夜に人目を盗んで他人の門内に侵入するのは、賊のふるまいである。
自分は図らずも賊のふるまいをしているのであった。
ここに思い至って、白糸は今までに一度も念頭に浮かばなかった、盗むという金策の手段があることに気づいた。
次いで懐にある凶器に気づいた。
これは奴らがその手段に用いていた形見である。
白糸は懐に手を差し入れながら、頭を傾けている。
良心は慌ただしく叫び、彼女を責めた。
悪意は勇み立ち、彼女を励ました。
彼女は良心の譴責に遭っては恥じて悔み、悪意の教唆を受けては承諾した。良心と悪意は、白糸が頼りにならないことを知って、ついに互いに闘っていた。
「人の道に外れたことだ。そんな真似をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ。・・・けれども、工面ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、恥も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗ろう。盗ってから死のう、死のう!」
こう固く決心したが、彼女の良心は決してこれを許さなかった。
彼女の心は激しく動揺し、彼女の体は波に揺られる小舟のように安定しかねて、行きつ戻りつ、塀際を歩き回った。
しばらくして、彼女は手水鉢の近くに忍び寄った。
しかし、あえて悪事を行おうとはしなかったのである。
彼女は再び考え込んだ。
良心に追われて恐くなった盗人は、発覚を防ぐ用意をするひまがなかった。
彼女が塀際を徘徊したとき、手水口を開いて、家人の一人は早くも白糸の姿を認めたが、彼女は鈍くも知らずにいた。
鉢前の雨戸が不意に開いて、人が顔を現した。
白糸があっと飛び退くひまもなく、
「泥棒!」と男の声が叫んだ。
白糸の耳には、百の雷が一時に落ちたようにとどろいた。
精神が錯乱したその瞬間に、懐にあった出刃は彼女の右手に閃いて、縁側に立った男の胸を、柄も透れとばかりに貫いた。
戸をぎしぎしと鳴らして、男は倒れた。
朱(あけ)に染まった自分の手を見ながら、重傷を負って呻く声を聞いた白糸は、戸口に立ち竦み、わなわなと震えた。
彼女はもとより一点の害意さえなかったのである。
自分はそもそもどのようにして、このような不敵なふるまいをしたのかを疑った。
見れば、自分の手は確かに出刃を握っている。
その出刃は確かに男の胸を刺したのだ。
胸を刺したことで、男は倒れたのだ。
ならば、人を殺したのは自分だ、自分の手だと思った。
しかし、白糸は自分の心に、自分の手に、人を殺した記憶がなかった。
彼女は夢かと疑った。
「本当に殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたんだろう?」
白糸が平静を失い、ほとんど我を忘れている背後で、
「あなた、どうなすった?」
と聞こえるのは、寝ぼけた女の声である。白糸は出刃を隠して、そちらを睨んだ。
灯火が縁側を照らして、足音が近づいた。
白糸はぴたっと雨戸に身を寄せて、何者が来たかと窺った。
この家の妻であろう。
五十ばかりの女が寝間着姿もしどけなく、真鍮の手燭をかざして、まだ覚めきっていない目を見開こうと顔をしかめながら、よたよたと縁側をつたって来た。
亡骸に近づいて、それとも知らず、
「あなた、そんなところに寝て・・・どうなすっ・・・」
灯を差し向けて、まだその血に驚くひまがないところに、
「静かに!」と白糸は姿を現して、包丁を突き付けた。
妻は賊の姿を見ると同時にぺったりと膝を折り敷き、その場に伏して、がたがたと震えた。
白糸の度胸はすでに十分決まった。
「おい、おかみさん、金を出しな。これさ、金を出せというのに」
伏して応えない妻のうなじを、出刃でぺたぺたと叩いた。
妻は身も心もなく、
「は、は、はい、はい、は、はい」
「さあ、早くしておくれ。たくさんは要らないんだ。百円あればいい」
妻は苦しい息の下から、
「金はあちらにありますから・・・」
「あっちにあるなら一緒に行こう。声を立てると、おい、これだよ」
出刃包丁が妻の頬を見舞った。
彼女はますます恐怖して立つことができなかった。
「さあ、早くしないかい」
「た、た、た、ただ・・・今」
彼女は立とうとするが、その腰は上がらなかった。
しかし、彼女はなお立とうと焦った。
腰はますます上がらない。
立たなければ終いに殺されるだろうと、彼女はたいそう慌てたり、悶えたりして、やっとのことで立ち上がって案内した。
二間を隔てた奥に伴って、妻は賊が要求する百円を出した。
白糸は先ずこれを収めて、
「おかみさん、いろいろなことを言って気の毒だけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿ぐつわをはめてておくれ」
彼女は妻を縛ろうと、寝間着の細帯を解こうとした。
ほとんど人心地のないほど恐怖していた妻は、このときようやく賊に害意がないのを知ると同時に、幾分か落ち着きながら、初めて賊の姿を確認できたのである。
これはそもそもどういうこと! 賊は荒くれた大の男ではなく、姿かたちの優しい女であろうとは、彼女は今その正体を見て、与しやすいと思うと、
「泥棒!」と叫んで、白糸に飛びかかった。
白糸は不意を突かれて驚いたが、すかさず包丁の柄を返して、力まかせに彼女の頭を撃った。
彼女は屈せず、賊の懐に手を捻じ込んで、あの百円を奪い返そうとした。
白糸はその手に咬み付き、片手には包丁を振り上げて、再び柄で彼女の脇腹にくらわした。
「泥棒! 人殺し!」と地団太を踏んで、妻はなお荒々しく、なおけたたましく、
「人殺し、人殺しだ!」と血を吐くような声を絞った。
これまでだと観念した白糸は、持った出刃を取り直し、躍り狂う妻の喉をめがけて、ただ一突きと突いていたが、狙いを外して肩先を切り削いだ。
妻が白糸の懐に出刃を包んでいた片袖を探り当て、引っつかんだまま逃れようとするのを、立て続けにその頭に切りつけた。
彼女がますます猛り狂って、再び喚こうとしていたので、白糸は当たるのを幸いに滅多切りにして、弱るところを乳の下に深く突っ込んだ。
これが実に最期の一撃であったのである。
白糸は生まれてこのかた、これほど大量の血を見たことがなかった。
一坪の畳はまったく朱に染まって、散ったり、迸ったり、ぽたぽたと滴ったりした跡が八畳間の隅々まで広がり、雨水のような紅の中に、数ヵ所の傷を負った妻の、拳を握り、歯をくいしばって仰向けに引っくり返っているさまは、血まみれの額越しに、半ば閉じた目を睨むかのように据えて、折でもあれば、むくっと立とうとする勢いである。
白糸は生まれてこのかた、このような悲痛な最期を見たことがなかった。
これほど大量の血! このような浅ましい最期! 
これは何者の仕業であるか。
ここに立っている自分の仕業である。
我ながら自分が恐ろしいことだ、と白糸は思った。
彼女の心は再び堪えられないほど激しく動揺して、今では自分自身が殺されることから逃れるよりも、なお数倍の危ない、恐ろしい思いがして、一秒もここにいるにいられず、出刃を投げ捨てるより早く、後ろも見ずに一散に走り出たので、気が急くまま手水口の縁に横たわる骸の冷ややかな脚につまづき、激しい勢いで庭先に転がり落ちた。
彼女は男が生き返ったのかと思って、気を失いそうになりながら、枝折門まで走った。
風が少し起こって庭の梢を鳴らし、雨がぽっつりと白糸の顔を打った。 
六 

 

高岡−石動間の乗合馬車は、いま立野から福岡までの途中を走っている。
乗客の一人が煙草の火を借りた人に向かって、雑談の口を開いた。
「あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、ご同様に共進会(産業の振興を図るため、産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評する会)でございますか」
「そうさ、共進会も見ようと思いますが、他に少し・・・」
彼は話好きらしく、
「へへ、何かご公務のご用で」
その人が髭を蓄え、洋服を着ていたので、彼はこう言ったのであろう。
官吏(?)は吸い詰めた巻き煙草を車の外に投げ捨て、次いで忙しく唾を吐いた。
「実は、明日か明後日あたり開くはずの公判を聴こうと思いましてね」
「へへえ、なるほど、へえ」
彼はその公判が何についてのものか知らないようである。
傍らにいた旅商人が、急に得意そうな我は顔で、嘴(くちばし)を容れた。
「ああ、何でございますか。この夏、公園で人殺しをした強盗の一件?」
髭のある人は、目を「我は顔」に転じて、
「そう。知っておいでですか」
「話には聞いておりますが、詳しいことは存じませんで。じゃ、あの賊は逮捕されましたか」
話を奪われた前の男も、思い当たる節があったのか、
「あ、あ、あ、ひとしきりそんな噂がございましたっけ。金持ちの夫婦を斬り殺したとかいう・・・その裁判があるのでございますか」
髭は再びこちらを振り向いて、
「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」
彼は話を釣れる器械である、彼特有の「へへえ」と「なるほど」を用いて、しきりにその顛末を聞こうとした。
乙者も劣らず水を向けていた。
髭のある人の口はようやく滑らかになった。
「賊はじきにその晩捕まった」
「恐いものだ!」と甲者は身を反らして頭を振った。
「あの、それ、南京出刃という見世物な、あの連中の仕業だというのだがね」
乙者はすぐにこれに応じた。
「南京出刃打ち? なるほど、見たことがございました。あいつらが? ふうん。いくらでもやりかねますまいよ」
「その晩、橋場町の交番の前を怪しい風体の奴が通ったので、巡査が咎めると、こそこそ逃げ出したから、こいつ胡散くさいとひっ捕らえてみると、着ている浴衣の片袖がない」
話がここに至って、甲と乙は、思わず同音に呻いた。
乗客は弁者の顔を窺って、その後段を渇望した。
甲者は重ねて感嘆の声を発して、
「おもしろい! なるほど。浴衣の袖がない! 天も・・・何とやらで何とかして漏らさず・・・ですな」
弁者はこの不完全な言葉をおかしがって、
「天網恢々疎にして漏らさず、かい」
甲者は聞くと同時に手を上げて、
「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」
乗客の多くは、この恢々に笑った。
「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩、兼六園の席貸な、六勝亭、あれの主人は桐田という金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業だか、いや、それは実に残酷にやられたというね。亭主はみぞおちのところを突き通される、女房は頭に三箇所、肩に一箇所、左の乳の下を抉られて、倒れていたその手に、男の片袖をつかんでいたのだ」
車中は声もなく、人々は固唾を飲んで、その心を寒くした。
まさに、これは弁者の得意のとき。
「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸の側に出刃包丁が捨ててあった。柄のところに片仮名のテの字の焼き印がある。これを調べると、出刃打ちが使っていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に違いないので、まず犯人はこいつと誰もが目を着けたさ」
旅商人は膝を進めた。
「へえ、それじゃ、そいつじゃないんでございますかい」
弁者はすぐに手を上げて、これを制した。
「まあ、お聞きなさい。ところで、出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、決して人殺しをした覚えはございません。奪(と)りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門は通りもしませんっ」
「はて、ねえ」と、甲者は眉を動かして弁者を見つめ、乙者は黙って考えた。
ますますその後段を渇望する乗客は、順繰りに席を進めて、弁者に近づこうとした。
彼はそのとき巻き煙草を取り出して、唇に湿しながら、
「話はこれからだ」
左側の席の最前に並んでいる、威厳のある紳士とその老母は、顔を見合わせて互いに表情を動かした。
彼は質素な黒の紋付の羽織に、節の多い絹糸で織った仙台平の袴をはいて、その髭は弁者より麗しいものであった。
彼は紳士といえるほどの服装ではなかったのである。
しかし、その容貌とその髭は、多くの男が備えることのできない紳士の風采を備えていた。
弁者はもっともらしく煙を吹いて、
「滝の白糸というのはご存じでしょうな」
乙者は頷き頷き、
「知っとります段か、富山で見ました大評判の美人で」
「さよう、そこでその頃、福井の方で興行中のあの女を呼び出して、当事者を相対させて審理に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪うときに、大方ちぎられたのであろうが、自分は知らずに逃げたので、出刃包丁も同様に女を脅すために持っていたのを、慌てて忘れて来たのであるから、たとえその二つが桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理屈には合わんけれど、奴はまずそう言い張るのだ。そこで女が、その通りだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、他にいるとなるのだ」
甲者は頬杖をついていた顔を外して、弁者の前に差し寄せながら、
「へえへえ、そうして女は何と申しました」
「ぜひお前様に逢いたいと言ったね」
思いも寄らない弁者の冗談は、大いにその場の笑いを博した。
彼も仕方なく笑った。
「ところが、金を盗られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも盗ったと言う。泥棒のほうから盗ったというのに、盗られたほうでは盗られないと言い張る。なんだか大岡裁きの本にでもありそうな話さ」
「これには大分わけがありそうです」
乙者は首を捻りながら、腕を組んだ。
例の「なるほど」は、話がますます佳境に入るのを楽しんでいる様子で、
「なるほど、これだから裁判は難しい! へえ、それからどういたしました」
傍聴者は声を出すのを止めて、いよいよ耳を傾けた。
威厳のある紳士とその老母は、最も静かで行儀正しく、死んだように黙っていた。
弁者はなおも言葉を継いだ。
「実にこれは水掛け論さ。しかし、とどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでから、この公判までにはだいぶ間があったのだ。この間に出刃打ちの弁護士は非常に苦心して、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、ここ一番と腕を揮って、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手ぐすねを引いているそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」
甲者は例の「なるほど」を言わずに、不平の色を表した。
「へえ、その何でございますか。旦那、その弁護士という奴は出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女になすろうって企みなんでございますか」
弁者は彼の無分別を笑って、
「何も企みだの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」
甲者はますます不平に堪えなかった。
彼は弁者を睨んで、
「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つってえことがあるもんですか。相手は女じゃありませんか。可哀そうに。私なら弁護を頼まれたって何だって構やしません。お前が悪い、ありのままに白状しな、と出刃打ちの野郎を極め付けてやりまさあ」
彼の鼻息はすこぶる荒々しかった。
「そんな弁護士を誰が頼むものか」
と弁者はのけぞって笑った。
乗客は、威厳のある紳士とその老母を除いて、ことごとく大笑いした。
笑い止む頃、馬車は石動に着いた。
車を降りようと弁者は席を立った。
甲と乙は彼に向かって慇懃に一礼して、
「お蔭さまで面白うございました」
「どうも旦那ありがとう存じました」
弁者は得意そうに、
「お前さん方も暇があったら、公判に行ってごらんなさい」
「こりゃ、芝居より面白いことでございましょう」
乗客は慌ただしく下車して、思い思いに別れた。
最後に、威厳のある紳士がその母の手を取って助け降ろしながら、
「危のうございますよ。はい、これからは人力車でございます」
彼らの入った発着所の茶屋の入口に、馬車会社の老いた役員が佇んでいる。
彼は何気なく紳士の顔を見ていたが、急に我を忘れて、その瞳を凝らした。
そのまま近づいてきた紳士は帽子を脱いで、ボタンが二ヵ所失われた茶羅紗のチョッキに、水晶の小さな印をぶら下げたニッケルメッキの鎖を掛けて、柱にもたれている役員の前で頭を下げた。
「その後はご機嫌よろしゅう。相変わらずお達者で。・・・」
役員は狼狽して姿勢を正し、奪うかのようにその味噌漉しの形をした帽子を脱いだ。
「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきから似ているとは思ったけれど、えらく立派になったもんだから。・・・しかし、お前さんも無事で、そうしてまあ、立派になんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして、勉強してきたのは法律かい。法律はいいね。お前さんは好きだった。好きこそ物の上手なりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に・・・うん、検事代理というのかい」
老いた役員は我が子の出世を見るかのように喜んだ。
当時の紺無地の腹掛けは、今日、黒の三つ紋の羽織となった。
金沢裁判所新任検事代理、村越欣弥氏は、実に三年前の御者台上の金公であった。 
七 

 

公判は予定の日に金沢地方裁判所で開かれた。
傍聴席は人が山をなして、被告及び関係者である水島友は、弁護士や看守を助ける下級役人らとともに控えて、裁判官の着席を待った。
ほどなく正面の戸をさっと開いて、長身の裁判長が入って来た。
二名の陪席判事と一名の書記とがこれに続いた。
法廷内は静まり返って水を打ったようなので、その靴音は四方の壁に響き、天井にこだまし、一種の怖ろしい音となって、傍聴人の胸にとどろいた。
威儀おごそかに彼らが着席したとき、正面の戸が再び開いて、高潔な気配を帯び、秀でた容貌を備えた司法官が現れた。
彼はその麗しい髭を捻りながら、ゆったりと落ち着いて検事の席に着いた。
謹んだ聴衆を容れた法廷では、室内の空気は少しも熱くならず、人々は奥深い静かな谷の木立のように群がっている。
制服をまとった判事と検事とは、赤と青とカバーの異なるテーブルに別れて、一段高い場所に居並んだ。
初め判事らが出廷したとき、白糸は静かに顔を上げて彼らを見ながら、臆した様子もなかったが、最後に現れた検事代理を見るやいなや、顔色が蒼ざめ、体が震えた。
この優れた司法官は、実に彼女が三年の間、寝ている間も忘れなかった欣さんではないか。
彼はその学識と地位によって、かつて御者であった日の垢や塵を洗い去り、今ではその顔はたいそう清らかで、その眉はひときわ秀でて、驚くばかりに見違えているが、紛うはずもない、彼は村越欣弥である。
白糸は初め不意の再会に驚いていたが、再び彼を熟視するに及んで我を忘れ、三度彼を見て、憂いに沈んで首を垂れた。
白糸はあり得るはずもないほどに意外な思いをしていた。
彼女はこのときまで、一人の頼もしい馬丁(べっとう)として、その心の中で彼を思い描いてきた。
まだこのように畏敬すべき者になっていようとは知らなかった。
ある点では、彼を思うままにできるだろうと思っていた。
しかし、今、この検事代理である村越欣弥に対しては、その髪の毛一本さえ動かせる力が自分にないのを感じた。
ああ、闊達豪放な滝の白糸!
彼女はこのときまで、自分が人に対して、こうまで自分の意志が通せないものとは思わなかったのである。
彼女はこの憤りと喜びと悲しみに挫かれて、柳の枝が露でうつむいたように、哀れにしおれて見えた。
欣弥の視線は、密かに始終、恩人の姿に注いでいる。
彼女は果たして、三年前に天神橋の上で、月明かりの下で、肘を握って壮語し、虹のように気を吐いた女丈夫なのか。
その面影もなく、ひどく彼女は衰えたものだ。
恩人の顔は蒼ざめている。
その頬はこけている。
その髪は乱れている。
乱れた髪! あの夕べの乱れた髪は、実に活発な鉄火を表していたが、今はその憔悴を増すだけであった。
彼は思った。
闊達豪放の女丈夫!
彼女は瀕死の病床に横たわろうとも、決してこのような衰えた姿を見せないはずだ。
烈々とした彼女の心の中で燃える火はすでに消えたのか。
どうして彼女が冷たくなった灰のようなのか。
欣弥はこの姿を見るなり。不覚にもむやみに憐れを催して、胸も張り裂けるばかりだった。
同時に彼は自分の職務に気づいた。
私情で公務を疎かにはできないと、彼は拳を握って目を閉じた。
やがて裁判長が被告に向かって二、三の尋問をしたのち、弁護士は出刃打ちの冤罪をすすぐために、よどみなく数千語を連ねて、ほとんど余すところがなかった。
裁判長は事実を隠蔽しないように白糸を諭した。
彼女はあくまで盗難にあった覚えのない旨を答えて、黒白は容易に判別すべくもなかった。
検事代理はようやく閉じていた目を開くとともに、うちしおれてうなじを垂れている白糸を見た。
彼はそのとき一段と声を高くして、
「水島友、村越欣弥が・・・本官が改めて尋問するが、包み隠さず事実を申せ」
友はわずかに顔を上げて、額越しに検事代理の表情を窺った。
彼は情け容赦のない司法官の威厳のある態度で、
「そのほうは、まったく金を盗られた覚えはないのか。偽りを申すな。たとえ偽りを以って一時は逃れても、天知る、地知る、我知るで、いついつまでも知れずにはおらんぞ。しかし、知れるの知れないのと、そんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名高い芸人ではないか。それが、かりそめにも偽りなどを申しては、その名に対しても実に恥ずべきことだ。人は一代、名は末代だぞ。また、そのほうのような名高い芸人になれば、ずいぶん多くの贔屓(ひいき)もあろう、その贔屓が、裁判所でそのほうが偽りを申し立てて、そのために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸は天晴(あっぱれ)な心がけだと言って誉めるか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日限り愛想を尽かして、以後は道で会おうとも唾もしかけんな。しかし、長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯千万な偽りの申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」
こう諭していた欣弥の声音には、その平生を知っている傍聴席の彼の母だけでなく、司法官も聴衆も、自ずからその異常な様子を聞きとれたのである。
白糸の憂いに沈んだ目は、急に清らかに輝いて、
「そんなら、事実を申しましょうか」
裁判長は穏やかに、
「うむ、隠さずに申せ」
「実は盗られました」
ついに白糸は自白した。
法の一貫目は情の一匁なのか、彼女はその懐かしい検事代理のために喜んで自白したのである。
「何? 盗られたと申すか」
裁判長は軽くテーブルを叩いて、厳しい表情で白糸を見た。
「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が私を手ごめにして、私の懐中の百円を盗りました」
「確かにその通りか」
「相違ございません」
これに次いで、白糸は無造作にその重罪も白状していた。
裁判長は直ちに尋問を中止し、即刻この日の公判を終わった。
検事代理村越欣弥は、私情の目を覆ってつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩を重ねたこの上もない恩人を、殺人犯として起訴したのである。
やがて予審が終わり、公判を開いて、裁判長は検事代理の請求は是であるとして、彼女に死刑を宣告した。
一生他人ではいまいと誓った村越欣弥は、ついにあの世とこの世とに隔てられ、永く恩人と会えなくなることを悲嘆して、宣告の夕べ、仮住まいの二階で自殺していた。
(おわり) 
 
「愛と婚姻」

 

仲人がまずいう、「めでたい」と。
舅姑がまたいう、「めでたい」と。
親類等が皆いう、「めでたい」と。
知人・友人が皆いう、「めでたい」と。
彼らは嬉しそうに新郎新婦の婚姻を祝う。
果たして婚礼はめでたいか。
小説における男女の登場人物の婚礼は、たいそうめでたい。
なぜならば、彼らは人生の艱難辛苦を、夫婦となる以前にすでにみな経験してしまい、以後は無事、悠々とした間に平和な歳月を送るからである。
けれども、このような例は、ただ一部、一編、一局部の話の種だけに留まる。
その実、一般の婦人が避けるべき、恐るべき人生観は、婚姻以前にあるのではなく、それ以後にあるものなのである。
彼女たちが慈愛深い父母の掌中を出て、その身を尽くす舅姑はどうだろう。
夫はどうだろう。
小姑はどうだろう。
すべての関係者はどうだろう。
また社会はどうだろう。
在来の経験から見るそれらの者は、果たしてどうだろう。
どうして寒心すべきものではないか。
婦人が婚姻によって得るものは、概ねこのとおりである。
そして、男子もまた、先人が「妻がなければ楽しみが少なく、妻ある身には悲しみが多い」と言うとおりである。
けれども、社会は普通の場合において、個人的に対処できるものではない。
親のために、子のために、夫のために、知人・親類のために、使用人のために。
町のために、村のために、家のために、窮さねばならず、泣かねばならず、苦しまねばならず、甚だしい場合には死なねばならず、常に「我」という一人の単純な肉体を超然とさせてはおけず、多くを他人によって左右され、判断され、なおかつ支配されるものである。
ただ、愛のためには、必ずしも「我」という一種勝手次第な観念は起こるものではない。
完全な愛は「無我」のまたの名である。
ゆえに、愛のためならば、他から与えられるものは、難しくても苦しくても、喜んで甘んじて受ける。
元来、不幸といい、困窮といい、艱難辛苦というものはみな、我を我としている我によって、他に――社会に――対することから起こる怨み言ばかりである。
愛によって「無我」となるなら、その苦楽もあろうはずがない。
情死、駆け落ち、勘当など、これらはみな愛の分別である。
すなわち、その人のために喜び、その人のために祝って、これをめでたいと言うのもよい。
ただし、社会のためには嘆かわしいだけである。
婚姻に至っては、儀式上、文字上、別に何ら愛があって存在するのではない。
ただ男女が顔を合わせて、おごそかに盃を巡らすに過ぎない。
人はまだ独身のうちは、愛が自由である。
ことわざに「恋に上下の隔てなし」という。
そのとおり、誰が誰に恋しても、誰がこれを非であるとするだろう。
いったん結婚した婦人は、婦人というものではなく、むしろ妻という一種の女性の人間である。
私たちは彼女を愛することができない。
いや、愛することができないのではない、社会がこれを許さないのである。
愛することをできなくさせるのである。
要するに、社会の婚姻は、愛を束縛し、圧制して、自由を剥奪するために作られた残酷な刑法なのである。
古来、佳人は薄命であるという。
考えてみるに、社会が彼女を薄命にさせるだけである。
婚姻というものさえなかったならば、どれほどの佳人が薄命であろうか。
愛における一切の葛藤、揉め事、失望、自殺、疾病など、あらゆる恐るべき熟語は、みな婚姻があることによって生じる結果ではないか。
妻がなく、夫がなく、一般の男女は皆ただの男女であると仮定しよう。
愛に対する道徳の罪人はどこに出てくるだろうか。
女子は、情のために夫を毒殺する必要がないのだ。
男子は、愛のために密通する必要がないのだ。
いや、ただ必要がないだけでなく、このような不快な文字は、これを愛の字典の何ページに求めても、決して見出せなくなることは必至である。
けれども、このようなことは社会に秩序があって敢えて許さない。
ああ、ああ、結婚を以って愛の大成したものとするのは、大いなる誤りではないか。
世の人が結婚を欲することなく、愛を欲するならば、私たちは手の届かない月を愛することができ、月は私たちを愛することができ、誰が誰を愛しても妨げはなく、害はなく、またもつれもない。
匈奴が昭君(前漢の元帝の宮女)を愛しても、どうして昭君が馬に乗る怨みがあろうか。
愁いに沈んで胡国に嫁いだのは、匈奴が婚姻を強いたからに外ならない。
そのうえ、婚姻によって愛を得ようと欲するのは、どうして水中の月を捉えようとする猿猴の愚と大いに異なることがあろうか。
あるいは、婚姻を以って相互の愛を形あるものとして確かめる証拠としようか。
その愛が薄弱であることは論じるに足りない。
遠慮なく直言すれば、婚姻は愛を拷問して、我に従わせようとする卑怯な手段であるだけだ。
そのとおりではあるが、これはただ婚姻の裏面をいうもので、その表面に至っては、私たちは国家をつくるべき分子である。
親に対する孝道である。
家に対する責任である。
友人に対する礼儀である。
親族に対する交誼である。
総括すれば、社会に対する義務である。
しかも、我には少しも有益なところはない。
婚姻はどうしてその人のために喜べようか、祝えようか、めでたかろうか。
それでも、仲人はいう、「めでたい」と。
舅姑はいう、「めでたい」と。
親類はいう、「めでたい」と。
友人はいう、「めでたい」と。
いったいどういう意味か。
他ならない、社会のために祝うのである。
古来、わが国の婚礼は、愛のためにせずに、社会のためにする。
儒教の国では、子孫がなければならないと命じているからである。
かりに、それが愛によって起こる婚姻であったとして、舅姑はどうだろうか。
小姑はどうだろうか。
すべての関係者はどうだろうか。
そもそも社会はどうだろうか。
そうして、社会に対する義務のために、やむを得ず結婚をする。
舅姑は依然として舅姑であり、関係者は皆依然として彼らを困らせる。
親が子どもに教えるのに愛をもってせず、みだりに恭謙、貞淑、温柔だけを問題とするのはなぜか。
すでに言った、愛は「無我」であると。
「我」を持たない誰が人倫を乱すだろう。
しかも、婚姻を人生の大礼であるとして、家を出ては帰ることがないように教える。
婦人が甘んじてこの命令を請け、嫁に行く衷心は、憐れむにあまりある。
感謝せよ、新郎新婦に感謝せよ、彼らは社会に対する義務のために懊悩し、不快な多くの係累に束縛されようとする。
なぜならば、社会は人によって作られるもので、人は結婚によって作られるものだからである。
ここにおいて、仲人はいう、「めでたい」と。
舅姑はいう、「めでたい」と。
親類や友人は皆またいう、「めでたい」と。
そうだ、新郎新婦はやむを得ず社会のために婚姻する。
社会一般の人にとっては、めでたかろう、嬉しかろう、愉快だろう。
これをめでたいと祝うよりは、むしろ慇懃に新郎新婦に向かって謝してよい。
新郎新婦そのものには、何のめでたいことがあろうか。
彼らが雷同してめでたいと言うのは、社会のためにめでたいだけである。
再言する。
私たち人類がそれによって生きるべき愛というものは、決して婚姻によって得られるべきものではないことを。
人は死を痛絶なこととするが、国家のためには喜んで死ぬではないか。
婚姻もまたそうである。
社会のために身を犠牲にして、誰もが、めでたく、式三献せざるを得ないのである。 
 
月令十二態 (大正九年一月 〜 十二月)

 

一月
山嶺の雪なほ深けれども、其の白妙に紅の日や、美しきかな玉の春。松籟時として波に吟ずるのみ、撞いて驚かす鐘もなし。萬歳の鼓遙かに、鞠唄は近く梅ヶ香と相聞こえ、突羽根の袂は松に友染を飜す。をかし、此のあたりに住ふなる橙長者、吉例よろ昆布の狩衣に、小殿原の太刀を佩反らし、七草の里に若菜摘むとて、讓葉に乘つたるが、郎等勝栗を呼んで曰く、あれに袖形の浦の渚に、紫の女性は誰そ。……蜆御前にて候。
二月
西日に乾く井戸端の目笊に、殘ンの寒さよ。鐘いまだ氷る夜の、北の辻の鍋燒饂飩、幽に池の石に響きて、南の枝に月凄し。一つ半鉦の遠あかり、其も夢に消えて、曉の霜に置きかさぬる灰色の雲、新しき障子を壓す。ひとり南天の實に色鳥の音信を、窓晴るゝよ、と見れば、ちら/\と薄雪、淡雪。降るも積るも風情かな、未開紅の梅の姿。其の莟の雪を拂はむと、置炬燵より素足にして、化粧たる柴垣に、庭下駄の褄を捌く。
三月
いたいけなる幼兒に、優しき姉の言ひけるは、緋の氈の奧深く、雪洞の影幽なれば、雛の瞬き給ふとよ。いかで見むとて寢もやらず、美しき懷より、かしこくも密と見參らすれば、其の上に尚ほ女夫雛の微笑み給へる。それも夢か、胡蝶の翼を櫂にして、桃と花菜の乘合船。うつゝに漕げば、うつゝに聞こえて、柳の土手に、とんと當るや鼓の調、鼓草の、鼓の調。
四月
春の粧の濃き淡き、朝夕の霞の色は、消ゆるにあらず、晴るゝにあらず、桃の露、花の香に、且つ解け且つ結びて、水にも地にも靡くにこそ、或は海棠の雨となり、或は松の朧となる。山吹の背戸、柳の軒、白鵝遊び、鸚鵡唄ふや、瀬を行く筏は燕の如く、燕は筏にも似たるかな。銀鞍の少年、玉駕の佳姫、ともに恍惚として陽の闌なる時、陽炎の帳靜なる裡に、木蓮の花一つ一つ皆乳房の如き戀を含む。
五月
藤の花の紫は、眞晝の色香朧にして、白日、夢に見ゆる麗人の面影あり。憧憬れつゝも仰ぐものに、其の君の通ふらむ、高樓を渡す廻廊は、燃立つ躑躅の空に架りて、宛然虹の醉へるが如し。海も緑の酒なるかな。且つ見る後苑の牡丹花、赫耀として然も靜なるに、唯一つ繞り飛ぶ蜂の羽音よ、一杵二杵ブン/\と、小さき黄金の鐘が鳴る。疑ふらくは、これ、龍宮の正に午の時か。
六月
照り曇り雨もものかは。辻々の祭の太鼓、わつしよい/\の諸勢、山車は宛然藥玉の纒を振る。棧敷の欄干連るや、咲掛る凌霄の紅は、瀧夜叉姫の襦袢を欺き、紫陽花の淺葱は光圀の襟に擬ふ。人の往來も躍るが如し。酒はさざんざ松の風。緑いよ/\濃かにして、夏木立深き處、山幽に里靜に、然も今を盛の女、白百合の花、其の膚の蜜を洗へば、清水に髮の丈長く、眞珠の流雫して、小鮎の簪、宵月の影を走る。
七月
灼熱の天、塵紅し、巷に印度更紗の影を敷く。赫耀たる草や木や、孔雀の尾を宇宙に翳し、羅に尚ほ玉蟲の光を鏤むれば、松葉牡丹に青蜥蜴の潛むも、刺繍の帶にして、驕れる貴女の裝を見る。盛なる哉、炎暑の色。蜘蛛の圍の幻は、却て鄙下る蚊帳を凌ぎ、青簾の裡なる黒猫も、兒女が掌中のものならず、髯に蚊柱を號令して、夕立の雲を呼ばむとす。さもあらばあれ、夕顏の薄化粧、筧の水に玉を含むで、露臺の星に、雪の面を映す、姿また爰にあり、姿また爰にあり。
八月
向日葵、向日葵、百日紅の昨日も今日も、暑さは蟻の數を算へて、麻野、萱原、青薄、刈萱の芽に秋の近きにも、草いきれ尚ほ曇るまで、立蔽ふ旱雲恐しく、一里塚に鬼はあらずや、並木の小笠如何ならむ。否、炎天、情あり。常夏、花咲けり。優しさよ、松蔭の清水、柳の井、音に雫に聲ありて、旅人に露を分てば、細瀧の心太、忽ち酢に浮かれて、饂飩、蒟蒻を嘲ける時、冷奴豆腐の蓼はじめて涼しく、爪紅なる蟹の群、納涼の水を打つて出づ。やがてさら/\と渡る山風や、月の影に瓜が踊る。踊子は何々ぞ。南瓜、冬瓜、青瓢、白瓜、淺瓜、眞桑瓜。
九月
殘の暑さ幾日ぞ、又幾日ぞ。然も刈萱の蓑いつしかに露繁く、芭蕉に灌ぐ夜半の雨、やがて晴れて雲白く、芙蓉に晝の蛬鳴く時、散るとしもあらず柳の葉、斜に簾を驚かせば、夏痩せに尚ほ美しきが、轉寢の夢より覺めて、裳を曳く濡縁に、瑠璃の空か、二三輪、朝顏の小く淡く、其の色白き人の脇明を覗きて、帶に新涼の藍を描く。ゆるき扱帶も身に入むや、遠き山、近き水。待人來れ、初雁の渡るなり。
十月
雲往き雲來り、やがて水の如く晴れぬ。白雲の行衞に紛ふ、蘆間に船あり。粟、蕎麥の色紙畠、小田、棚田、案山子も遠く夕越えて、宵暗きに舷白し。白銀の柄もて汲めりてふ、月の光を湛ふるかと見れば、冷き露の流るゝ也。凝つては薄き霜とならむ。見よ、朝凪の浦の渚、潔き素絹を敷きて、山姫の來り描くを待つ處――枝すきたる柳の中より、松の蔦の梢より、染め出す秀嶽の第一峯。其の山颪里に來れば、色鳥群れて瀧を渡る。う つくしきかな、羽、翼、霧を拂つて錦葉に似たり。
十一月
青碧澄明の天、雲端に古城あり、天守聳立てり。濠の水、菱黒く、石垣に蔦、紅を流す。木の葉落ち落ちて森寂に、風留むで肅殺の氣の充つる處、枝は朱槍を横へ、薄は白劍を伏せ、徑は漆弓を潛め、霜は鏃を研ぐ。峻峰皆將軍、磊嚴盡く貔貅たり。然りとは雖も、雁金の可懷を射ず、牡鹿の可哀を刺さず。兜は愛憐を籠め、鎧は情懷を抱く。明星と、太白星と、すなはち其の意氣を照らす時、何事ぞ、徒に銃聲あり。拙き哉、驕奢の獵、一鳥高く逸して、谺笑ふこと三度。
十二月
大根の時雨、干菜の風、鳶も烏も忙しき空を、行く雲のまゝに見つゝ行けば、霜林一寺を抱きて峯靜に立てるあり。鐘あれども撞かず、經あれども僧なく、柴あれども人を見ず、師走の市へ走りけむ。聲あるはひとり筧にして、巖を刻み、石を削りて、冷き枝の影に光る。誰がための白き珊瑚ぞ。あの山越えて、谷越えて、春の來る階なるべし。されば水筋の緩むあたり、水仙の葉寒く、花暖に薫りしか。刈あとの粟畑に山鳥の姿あらはに、引棄てし豆の殼さら/\と鳴るを見れば、一抹の紅塵、手鞠に似て、輕く巷の上に飛べり。 
 

 

 
 

 

 
泉鏡花

 

(明治6年-昭和14年/1873-1939)日本の小説家。明治後期から昭和初期にかけて活躍した。小説の他に戯曲や俳句も手がけた。本名、鏡太郎(きょうたろう)。金沢市下新町生れ。尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる。また近代における幻想文学の先駆者としても評価される。他の主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。
生涯
上京まで
1873年(明治6年)11月4日、石川県金沢市下新町に生れる。父・清次は、工名を政光といい、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。母・鈴は、加賀藩御手役者葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の末娘で、江戸の生れ。幼少期における故郷金沢や母親の思い出は後年に至るまで鏡花の愛惜措くあたわざるものであり、折にふれて作品のなかに登場する。
1880年(明治13年)4月、市内養成小学校(現在の金沢市立馬場小学校)に入学。1883年(明治16年)12月に母が次女やゑ出産直後に産褥熱のため逝去し(享年29)、鏡花は幼心に強い衝撃を受ける。
1884年(明治17年)6月、父とともに石川郡松任の摩耶夫人像に詣った。このとき以来、鏡花は終生、摩耶信仰を保持した。9月、金沢高等小学校に進学、翌年には一致教会派のミッション・スクール北陸英和学校に転じ英語を学ぶが、1887年(明治20年)にはここも退学し、市内の私塾で英語などを講じた。金沢専門学校(後の第四高等学校)進学をめざしての退学であったようだが、早くに志を改めたらしい。
1889年(明治22年)4月、友人の下宿において尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。また6月に富山旅行。この時期、叔母などに小遣いをせびって貸本を濫読するとともに、私塾の講師のようなことを務めていたが、11月に紅葉の門下に入ることを志して上京。
1891年(明治24年)10月19日、ついに牛込の紅葉宅を訪ね、快く入門を許されて、その日から尾崎家での書生生活をはじめる。翌年12月、金沢市の大火の際に一時帰郷した以外、鏡花は尾崎家にあって、原稿の整理や雑用にあたり、紅葉の信頼をかち得る。
『高野聖』まで
1893年(明治26年)5月、京都日出新聞に真土事件を素材とした処女作「冠弥左衛門」を連載。紅葉の斡旋による。紅葉は新聞社の不評を理由にした打切り要請を説得し、慣れない鏡花にアドバイスを与えながら、ついにこれを完結させた。同年さらに「活人形」(探偵文庫)、「金時計」(少年文学)を発表。8月には脚気療養のため一時帰郷し、その序に京都、北陸に遊んで後に帰京。このときの紀行をもとに『他人の妻』を執筆する。
1894年(明治27年)1月、父が逝去し、再び金沢に帰る。生活の術を失い、文筆をもって米塩の途とせんことを切に願う。「予備兵」「義血侠血」などを執筆し、紅葉の添削を経て読売新聞掲載。実用書の編纂などで家計を支えながら、1895年(明治28年)には初期の傑作「夜行巡査」(文芸倶楽部)と「外科室」(同前)を発表。「夜行巡査」は、『青年文学』において田岡嶺雲の賛辞を得、このおかげで「外科室」は『文芸倶楽部』の巻頭に掲載されることになった。ここに鏡花の文壇における地歩は定まった。この年6月、金沢に帰り、祖母を見舞う。
脚気が完治せず体調は悪かったが、1896年(明治29年)にはさらに「海城発電」(太陽(博文館))、「琵琶伝」(国民之友)、「化銀杏」(青年小説)を発表し、賛否両論を受けた。5月には金沢の祖母を引きとって一家を構え、旺盛に執筆を続け、ついに10月には読売新聞に「照葉狂言」の連載をはじめる。1897年(明治30年)に『化鳥』『笈ずる草紙』、1898年(明治31年)に『辰巳巷談』など。このころ酒の味を覚え、盛んに遊び歩く。1899年(明治32年)には『湯島詣』を春陽堂から書きおろし刊行。1900年(明治33年)「高野聖」(新小説)、1901年(明治34年)「袖屑風」(同前)、1902年(明治35年)「起請文」(同前)などを世に問う。
『歌行燈』前後
1902年(明治35年)、胃腸病のため逗子に静養。吉田賢龍の紹介によって知った伊藤すずが台所を手伝いにくる。翌1903年(明治36年)5月、二人は牛込神楽坂に同棲をはじめる。この年10月30日、尾崎紅葉が急逝し、衝撃を受ける。鏡花は硯友社同人とともに紅葉の葬儀を取り仕切った。
11月、『国民新聞』に「風流線」を連載し始める。1904年(明治37年)、『紅雪録』正続。1905年(明治38年)、「銀短冊」(文芸倶楽部)、「瓔珞品」(新小説)。1906年(明治39年)、「春昼」(同前)。同年には祖母を喪い、胃腸病はさらに悪化してほとんど病床にあった。翌1907年(明治40年)1月、やまと新聞において「婦系図」の連載開始。1908年(明治41年)、『草迷宮』を春陽堂より刊行。1909年(明治42年)、「白鷺」(東京朝日新聞)。1910年(明治43年)、「歌行燈」(新小説)、「三味線堀」(三田文学)。「三味線堀」掲載にあたっては鏡花を評価していた永井荷風の好意を受ける。この年から『袖珍本鏡花集』(五巻)の発行が始まり、すでにその文名は確立。人気作家の一人となっていた。
1911年(明治44年)、『銀鈴集』を隆文館より刊行。1912年(大正元年)、「三人の盲の話」(中央公論)、1913年(大正2年)、「印度更紗」(同前)。大正期には戯曲にも志を持ち、1913年には「夜叉ヶ池」(演芸倶楽部)、「海神別荘」(中央公論)を発表。1914年(大正3年)、『日本橋』を千章館より刊行し、ここではじめて装画の小村雪岱とのコンビを組む。1915年(大正4年)、「夕顔」(三田文学)。『鏡花選集』と『遊里集』を春陽堂より刊行。1916年(大正5年)、『萩薄内証話』。1917年(大正6年)、「天守物語」(新小説)。1919年(大正8年)、「由縁の女」を『婦人画報』に連載開始。1920年(大正9年)1月、「伯爵の釵」(『婦女界』)。このころ映画に興味を持ち、谷崎潤一郎や芥川龍之介と相知る。1922年(大正11年)、「身延の鶯」を東京日日新聞に連載開始。同年、『露宿』『十六夜』。1924年(大正13年)、「眉かくしの霊」(苦楽)。
晩年
1925年(大正14年)、改造社より『番町夜講』刊行。また春陽堂より『鏡花全集』刊行開始、鏡花を師と仰ぐ里見ク、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫が編集委員を務めた。(1927年に完結)。1927年(昭和2年)、「多神教」(文藝春秋)。この年8月、東京日日新聞と大阪日日新聞の招待で十和田湖、秋田などを旅行。またこの年から、鏡花を囲む九九九会(くうくうくうかい)が、里見と水上を発起人として始まり、常連として岡田三郎助、鏑木清方、小村雪岱、久保田万太郎らが毎月集まった。会の名は、会費百円を出すと一円おつりを出すというところから。1928年(昭和3年)、肺炎に罹患し、予後静養のために修善寺を訪れる。この年、各社の文学全集(いわゆる円本)で鏡花集が刊行される。1929年(昭和4年)、能登半島に旅行。この前後、紀行文の類が多い。1930年(昭和5年)、「木の子説法」(文藝春秋)。1931年(昭和6年)、「貝の穴に河童の居る事」(古東多万)。1932年(昭和7年)、「菊あはせ」(文藝春秋)。1934年(昭和9年)、「斧琴菊」(中央公論)。1936年(昭和11年)、戯曲「お忍び」(中央公論)。1937年(昭和12年)、晩年の大作「薄紅梅」を東京日日新聞、大阪毎日新聞に連載する。「雪柳」を中央公論に発表。帝国芸術院会員に任ぜられる。1938年(昭和13年)、体調悪く、文筆生活に入って初めて一作も作品を公表しなかった。
1939年(昭和14年)7月、「縷紅新草」を『中央公論』に発表するも、この月下旬より病床に臥し、9月7日午前2時45分、癌性肺腫瘍のため逝去。10日、芝青松寺にて葬儀がおこなわれ、雑司ヶ谷霊園に埋葬。戒名は幽幻院鏡花日彩居士。佐藤春夫の撰に係る。
家族
母鈴は葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の娘で、その兄(次男)金太郎は請われて宝生流シテ方の松本家に養子入りした。すなわち宝生九郎の高弟として知られた能楽師松本金太郎がこれで、その子松本長は鏡花の従兄にあたる。長の長男は俳人松本たかし、次男は松本惠雄(人間国宝)。
弟も作家で、鏡花の舎弟だというので泉斜汀を名乗ったが、あまり成功しなかった。
母は、鏡花にとって終生追慕の対象であった。12歳で松任の「成の摩耶祠」を訪れたとき、摩耶夫人像を母の面影に重ねて以来、彼は死ぬまで摩耶夫人を信仰していた。
妻・すずはもともと神楽坂に桃太郎という名で出ていた芸妓で、師紅葉は二人の関係を絶対にゆるさず、「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで鏡花に迫った。二人はお互いを想いながらも泣く泣く離別を決意し、この体験が『婦系図』の湯島天神の場の下敷きになっているという。紅葉の没後、鏡花はすずと結婚し、夫婦仲ははなはだよかった。終生互いの名を彫った腕輪を身辺から離さなかったという。
尾崎紅葉

 

鏡花にとっての尾崎紅葉は、敬愛する小説家、文学上の師であると同時に、無名時代の自分を書生として養ってくれた恩人であり、鏡花は終生このことを徳として旧師を慕いつづけた。ほとんど崇拝といってもいいその態度は文壇でも有名なものであった。病床にあってなお紅葉は愛弟子鏡花の行末を案じ、原稿を求めてはこれに添削を加え続けたという。没後は自宅の仏壇にその遺影を飾って毎日の礼拝を怠らなかった。葬儀で門弟代表として弔辞を読んだのも鏡花である。
処女作『冠弥左衛門』が1894年(明治27年)に加賀北陸新報に転売、再連載されたことも、おそらく紅葉の口利きによるものと思われる。
鏡花がほとんど旧師紅葉を神格化していたのに対し、同郷・同窓・同門の徳田秋声は師とのあいだに距離を置き、自然主義一派に加わったため、二人の仲はよくなかった。改造社で「円本」を出す際、弟子の了解をとるべく社長の山本実彦が秋声を訪ねると、「では鏡花のところへも行こう」というので行き、話していると、秋声が、「紅葉はお菓子が好きでたくさん食べたから胃を悪くして死んだのだ」と言ったところ、鏡花は火鉢を飛び越えて行って秋声を殴り、山本が間に入って秋声を外へ引きずり出したが、車の中で秋声は泣き通していたという。しかし後年、鏡花の弟(泉斜汀)が秋声の所有のアパートで没して以来、二人は和解し、交流を持つようになった。鏡花が死んだ時、里見クがあちこち知らせに歩いていると秋声が来て、今死んだと伝えると「駄目じゃあないか、そんな時分に知らせてくれたって!」と怒ったという(里見ク「二人の作家」)、ちなみに『秋声全集』は近年になり八木書店で刊行された。
尾崎家の書生時代、石橋忍月のところへ使いに行った際に柿をもらい、紅葉への使いものと知らずに食べてしまって、後からいたく恐縮したことがあった。また「大福餅を買ってこい」といわれて、菓子屋に大福を売っているとは思ってもみなかった鏡花は、わざわざ遠くの露天へ行って屋台のやすい大福を買ってき、紅葉に笑われたことがある。
中島敦
中島敦はエッセイ『泉鏡花氏の文章』の中で、次のように語っている。
日本には花の名所があるように、日本の文学にも情緒の名所がある。泉鏡花氏の芸術が即ちそれだ。と誰かが言って居たのを私は覚えている。併し、今時の女学生諸君の中に、鏡花の作品なぞを読んでいる人は殆んどないであろうと思われる。又、もし、そんな人がいた所で、そういう人はきっと今更鏡花でもあるまいと言うに違いない。にもかかわらず、私がここで大威張りで言いたいのは、日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ。ということである。
逸話

 

潔癖症
鏡花は有名な潔癖症で、生ものは食べない主義であった。このことは文壇に広く知られていた。貰い物の菓子をアルコール・ランプで炙って食べたり、酒などはぐらぐらと煮立つまで燗をつけなければ絶対に飲まなかった(これを文壇で「泉燗」と称した)。手づかみでものを食べるときは、掴んでいた部分は必ず残して捨てた。手元にいつでもちんちんと鳴る鉄瓶があって煮沸消毒できるようになっていないと不安がったという。
潔癖症のせいで「豆腐」の用字を嫌い、かならず「豆府」と書いた。しかしそのわりに豆腐そのものは好きでよく食べ、貧乏時代はおからでもっぱら飢えをしのいだ。
谷崎潤一郎、吉井勇と鳥鍋を囲んだとき、無頓着な谷崎は「半煮えくらいがうまい」といって次々に鳥を引きあげてしまうので、火の通った肉しか怖くて食えない鏡花は「ここからは私の領分だから手を出すな」と鍋に線を引いたという。
中華料理に誘われて知らずに蛙の揚げものを食べてしまい、「とんだことをした」と慌てて宝丹を一袋全部飲んだことがある。生ものは無論だが、海老、蝦蛄、蛸のようなグロテスクな形をしたものも絶対に口にしなかった。
お辞儀をするとき、畳に触るのは汚いと手の甲を畳につけていた。ただし信仰心はきわめて厚く神社仏閣の前ではかならず土下座したと伝えられる。また、自宅の天井板の合わせ目には全て目張りを行っていた。
狂犬病を恐れて犬嫌いだった。蛇も嫌いだったそうだが、作品にはよく登場する。
逸話
デビュー当時、ペンネームに「畠芋之助(はたけいものすけ)」を用いたことがある。
家紋は「笹龍胆」だが、紅葉にあやかって「源氏香」の紅葉賀を常用していた。
酉年生れの鏡花は向かい干支の兎にちなむものをコレクションするのが趣味だった(本人は母親に兎のものを大切にせよと教わったとしるしている)。マフラーにまで兎柄を用いた鏡花は収集品が大の御自慢で『東京日日新聞』の「御自慢拝見」という欄に登場したこともある。
文字の書かれたものを大切にすることはなはだしく、「御はし」と書いてある箸袋程度でも大事にしまっておろそかにはしなかった。人に字を教えるのに畳の上などに空で書いたあとはかならず手で掻き消すしぐさをしないと承知しなかったという。几帳面で原稿などは校正ののちかならず手元に戻して自分で保管した。原稿の大半は生涯筆で書きつづけた。
鏡花の作品は生涯総ルビで発表されつづけた。初版本の古書価は、2.30年前と比べ数倍値上がりしている。
着物の描写が丁寧で細密なことは鏡花作品の特徴だが、これは三越婦人部の発行していた『時好』というカタログ雑誌を知りあい女の人からわけてもらい、それを見て研究したものだという。鏡花はこれを紅葉に教えられた取材の方法であるといっている。
著書の装訂、挿絵の大半は鏑木清方か小村雪岱によるもので、ことに雪岱はその号を鏡花が名づけて以来の名コンビだった。色の好みもはっきりしていて、紺のような濃い色を嫌った。小村雪岱『日本橋桧物町』(新版は平凡社ライブラリー)に鏡花の回想記がある。清方も2006年に鏑木清方記念美術館刊で『鏑木清方挿絵図録.泉鏡花編』が出されている。
里見クは、鏡花と家が近かったために作家デビューの頃から始終行き来したが、当初、弟子ではないからというので「泉さん」と呼んでいたため、それを聞き咎めた鈴木三重吉が、酒乱に際し里見を叱りつけた。その後、指導を受けるようになり、「先生」と呼ぶようになる。ただし里見本人はお化けは信じていなかった。
幽幻院鏡花日彩居士という戒名は、弔問に訪れた文人たちが各々撰した中より佐藤春夫のものが選ばれたといわれる。
『鏡花全集』は大正末期に春陽堂で全15巻(復刻版がエムティ出版、1994年)が、没後は岩波書店から全28巻が1940−42年(昭和15−17年)に刊行されたが、1973−76年(昭和48−51年)と1986−88年(昭和61−63年)に、新たに別巻(資料集ほか)を加え復刊されるまで、戦後しばらくは古書値が高価だった。
金沢市が主催している泉鏡花文学賞の正賞記念品は「八稜鏡」。鏡花好みの兎があしらわれている。
作品

 

『冠彌左衛門』(1893年、京都日出新聞) 小説
舞台は鎌倉長谷。村人から田畑を騙し取った分限者石村五兵衛、石村と結託して主君相模守を幽閉して実権を握った執権岩永がこの小説の悪役となっている。そして石村に抵抗して刑死した義民鋭鎌利平〔とがまりへい〕と妻渚の子が霊山卯之助(りょうぜんうのすけ)、卯之助を助ける伝法肌の親分が猿の伝次(ましらのでんじ)、卯之助に想いを寄せる餅屋の娘が小萩、卯之助と伝次の助力をする仏師が冠彌左衛門で、彼らが百姓たちの同心を得て一揆をおこし、その力で石村・岩永らを打ち倒すのである。その他に相模守の忠臣で岩永・石村らの陰謀を暴こうとして獄死する沖野新十郎や無残な拷問で死亡するその妻浪などが登場する。
『活人形』(1893年、探偵文庫) 小説
財産横取りを企む赤城得三らに拉致・監禁された美人姉妹下枝(しずえ)と藤を探偵倉瀬泰助が救出するという筋立ての探偵小説である。姉妹が監禁された古屋敷(舞台は前作と同じく鎌倉長谷)には人形に仕掛けられた隠し部屋や廊下があり、それが謎を解く鍵になっている。
『金時計』(1893年、博文館) 小説
鎌倉長谷に別荘を構える外人アーサー・ヘイゲンが紛失した金時計を探した者に賞金100円を与えると広告する。それに応じて集まった住民が金時計を探すために別荘周辺の雑草をすべて刈り取り綺麗にしてしまうが、これはヘイゲンが別荘周辺を金をかけずに美化するための悪巧みで実は金時計を落としてはいなかったのである。これはヘイゲンの日本人蔑視から起きたことで、これに義憤を感じた少年がスリを使ってヘイゲンから金時計を盗み、これをヘイゲンに100円で買い取らせ、住民に分け与えてあげるのである。
『大和心』(1894年、博文館) 小説
外人エチ・スタルデンが車馬禁制の金沢神社(金沢市)の境内を乗馬のまま通行し神官に怪我を負わせてしまう。これを日本蔑視と憤った少年健児は姉雪野にスタルデンの肖像を描いてもらい愛犬の飛龍にこれを襲撃させる訓練を行なう。ある日健児は金沢郊外で偶然スタルデンに出会い言い争いとなり、スタルデンを襲った飛龍はスタルデンの短銃で撃たれてしまう。療治の結果、飛龍は一命をとりとめるが、スタルデンは飛龍に喉を噛み切られ死んでしまう。
『予備兵』(1894年、読売新聞) 小説
日清戦争開戦で狂躁な忠君愛国の風潮が高まる中、その浮薄な世相に付和雷同しようとしない医学生風間清澄は養母直子に勘当され壮士から集団暴行を受ける。そして風間の理解者陶得道が娘円(まどか)を風間に娶わせようとした矢先、風間は突然出征してしまう。実は風間は狂躁な風潮には反発していたが心中密かに国に報じる強い意志を持っていた。そして彼は壮絶な戦病死を遂げるのである。
『海戦の余波』(1894年) 小説
出征中の海軍士官を父に持つ千代太は毎日父を慕って海に行っていたが、ある日時化で難破した船を救助するために千代太は漁師たちと海に乗り出し事故に逢い意識を失う。夢の中で支那人たちと争ったり鯨に案内され竜宮城に辿り着き姫君に会う。すでに戦死していた父にも会うことができるが、やがて夢から覚めて千代太は病床で息を吹きかえすのである。
『譬喩談』(1894年) 小説
自分の思い通りに学問をしない一人息子を勘当し、機転を利かせて働く妻や下男や下女を自分の命令に従わないと誤解して家から追い出してしまった男は、自分の命令どおりに動き勝手に気を利かせない小僧を雇うが結局「気の利かないやつだ」と言って追い出してしまう。そして以前の妻・下男・下女と暮らすようになるのである。
『義血侠血』(1894年、読売新聞) 小説
越中高岡から倶梨伽羅下石動の建場までを走る乗合馬車の御者村越欣弥は人力車との駆け比べの挙句、行き掛かりで水芸人滝の白糸(水島友)と一頭の馬に相乗りすることになった。何日か後金沢で興行していた白糸は浅野川の天神橋で、駆け比べが原因で馬車会社を首になった欣弥と再会する。その時欣弥の向学の志を知った白糸は持ち前の鉄火肌の義侠心から学資の提供を申し出、欣弥もそれを受け入れる。しかし水芸人の収入が不安定なこともあって仕送りに窮し白糸は金主から100円の前借をする。その前借金を出刃打ち芸人に強奪され、前途に絶望した白糸は欣弥への仕送りの約束を違えまいとの一心で出刃打ちの残していった出刃で富裕な老人夫婦宅に押し入り現金を強奪して夫婦ともども殺してしまう。裁判では凶器の出刃が証拠になって、強盗殺人の犯人として出刃打ち芸人が疑われるが、偶然学業を終え検事となって乗り込んできた欣弥の前で白糸は真実を告白して死刑を宣告される。そしてその宣告のあった夕べに欣也も自殺してしまうのである。本作は舞台・映画となった「滝の白糸」の原作である。
『乱菊』(1894年) 小説
加賀藩主前田重教を隠居させ、弟の大音(おおと)の君を殺害し、将軍連枝を跡継ぎにすべく送り込まれた刺客乱菊は豪胆な気質を藩主に認められ藩主の母(産みの母ではない。藩主は妾腹)実貞院付きの腰元となる。一方、同じ使命を与えられた刺客丈助は藩の弓指南吉田大助にやはり豪胆な気質を見込まれ仕えるようになる。やがて乱菊は大音の君の美しい姿に迷い相思の仲となるが、それに嫉妬した実貞院一味に散々虐待される。やがて本来の刺客の使命に立ち返った乱菊は大音の君を毒殺する。
『鬼の角』(1894年) 小説
慈悲深い商家の隠居がおしゃべりでひょうきんな小僧と散歩中に、節分の豆まきで追われた鬼が小僧と突き当たって角を落とす。その角を拾った隠居は鬼のような人間に豹変し、角を落とした鬼は慈悲深い鬼となってしまう。やがて冥界から鬼たちが角を奪いかえしに来て隠居は元の慈悲深い人にかえる。
『取舵』(1895年) 小説
富山の伏木から直江津に向かう乗合船に乗った盲目の老人は善光寺詣でに行く途上で、誰から見ても一人旅は無謀と思われた。やがて直江津に船が着き艀で上陸しようとした矢先、一天にわかに掻き曇り艀は沖に流されそうになる。そのとき件の老人は豹変し「取舵!」と叫びつつこの苦難を乗り切ってしまうのであった。彼こそはかつて銭屋五兵衛の手下で北海の全権を握っていた磁石の又五郎であった。
『聾の一心』(1895年) 小説
金銀細工の名人聾の一心は悪性の肉腫に身体を蝕まれ余命いくばくもない状態であった。彼はある金持ちの依頼で金無垢の亀を作ろうと蝋型まで仕上がったが、ついに「亀が死んだ」と切歯しつつ息絶えてしまう。
『秘妾伝』(1895年) 小説
柴田勝家の忠臣毛受(めんじゅ)勝助家照の妹小侍従の物語である。柴田勝家は自家滅亡の瀬戸際に忠臣の血を絶やすまいと朋友の前田利家に小侍従の身を預ける。小侍従は偶々利家のもとにやってきた秀吉の命を狙い失敗するが、秀吉からその豪胆さが賞され勝家の助命が認められる。小侍従は勝家にそれを伝えるために北の庄城に向かうが勝家自刃に間に合わなかった。時移り小牧・長久手の戦いが始まり徳川家康に呼応した佐々成政が大軍で能登国の末森城(利家の支城)を攻撃してくる。落城寸前にまで追い詰められるが小侍従の活躍と利家の猛反撃に遭って成政は退却した。その後小侍従は利家の妾となり利常を産む。
『夜行巡査』(1895年、文芸倶楽部) 小説
深夜、老人とその姪お香が知人の婚礼からの帰途についていた。老人は昔お香の母親に想いを寄せていたが自分の兄弟に奪われてしまい、今でもその恨みを忘れられず、お香の恋を邪魔することでその恨みを晴らそうとしていた。お香の恋の相手は巡査八田義延で、彼は職務に厳正で残忍苛酷なほどであった。八田は巡回の道すがら偶然老人とお香に邂逅し、老人が足を滑らせて濠に落ちたのを見ると泳ぎが出来ないにもかかわらず、職務だといって濠に飛び込み水死してしまうのであった。
『旅僧』(1895年) 小説
越前敦賀から加賀金石に向かう汽船に、船頭たちが不吉と嫌う「一人坊主」の旅僧が乗っていた。乗客たちも船頭同様であったので、それならと旅僧は船から身投げしてしまう。驚いた船客たちはこの旅僧を救助し、一転して徳の高い僧侶と尊ぶようになる。旅僧は乗客たちに信仰の大切さを説くのであった。
『外科室』(1895年、文芸倶楽部) 小説
貴船伯爵夫人は胸部切開の外科手術を受けることになったが、自らの秘めた愛を口走ることを恐れ麻酔をかけられることを拒み、手術中にメスで自らの胸を突き死んでしまう。そして手術にあたった高峰医学士も間もなく自殺してしまう。二人は9年前に躑躅満開の小石川植物園で出逢い恋に落ちていたのであった。本作は同じ題名で映画化されている。
『妙の宮』(1895年) 小説
妙の宮という小社で少年士官は懐中時計を何者かに奪われ、その時計を社の勾欄に緋縮緬の扱きで結わえられた幼児が持っていたという幻想的な情景を描いている。
『鐘声夜半録』(1895年) 小説
金沢兼六園で夜半に見かけた美女は押絵刺繍の職工で吉倉幸、かつて幸の家の前で偶然雨宿りして知り合いになったのが女学校教師近藤定子であった。幸は老父を養う生活苦から定子の紹介で宣教師ハレスの依頼する「怪しからぬ」絵柄の刺繍を作ってしまう。しかしこれを国辱として恥じた幸が自殺を決意したことを知った定子は責任感から自決、幸も国士篠原勧六が命を擲って刺繍をハレスから取り返してくれたが自らも命を絶ってしまう。
『貧民倶楽部』(1895年) 小説
毎晩新聞探訪員お丹が上流階級の虚偽虚飾を暴いていく物語。上流夫人らの主催する貧民救済をうたった婦人慈善会の内幕、深川子爵未亡人綾子の不倫を察知した小間使お秀殺害事件、外面菩薩・内面夜叉の駿河台の御前による嫁いびり事件などが描かれている。
『黒猫』(1895年) 小説(一部を欠いている)
黒猫を寵愛する裕福な士族の娘お小夜は、出入りの座頭富の市が「お小夜の寵愛する黒猫になりたい」などと口走りお小夜への妄執を募らせていくのが疎ましくてならなかった。一方、年下の貧乏画家二上秋山に想いを寄せる髪結のお島は、秋山がお小夜に心を奪われているのを告白され、秋山をわがものとするため富の市にお小夜を襲わせた。しかし、このときお小夜も秋山に惚れていることを知ると、お島は義侠心から一転してお小夜を守るため富の市を殺害したうえで自決し、秋山とお小夜を添い遂げさせようとした。晴れて秋山とお小夜は結ばれることになったが、お小夜は今まで寵愛していた黒猫が富の市の化身のような気がして気味悪く、黒猫もお小夜に恨みをもつような素振りをみせたために終には刺殺されてしまった。
『ねむり看守』(1895年) 小説
病身の妻と乳呑児を抱え、貧に迫られ店立てをくい飢えと寒さに迫られたあげく、男が一瓶の牛乳を盗み懲役囚になった。この話を看守が一群の囚徒に語りながら、自分はこの話を思うと厳しく囚徒を監視する気になれず、つい居眠りしてしまうのだと言う。
『八万六千四百回』(1895年) 小説
柱時計の振り子が果てしない労働に飽いて突然止まってしまう。文字盤、長針、短針、歯車、ぜんまいたちは吃驚、とりわけ文字盤は振り子の説得に努め、それが効を奏してまた振り子は仕事を始めた。
『化銀杏』(1896年、青年小説) 小説
14歳のときに家庭の事情から29歳の西岡時彦と渋々結婚したお貞は、何年経っても夫に好意をもてないことを、同宿の美少年でお貞が憎からず思う水上芳之助にこぼすのであった。夫は一切遊びをしない真面目人間だが、風采は「チョイトコサ」と呼ばれていた飴売りにそっくりで皆からからかわれ、幼い息子も夫に一向になつかない。夫はやがて肺結核で死期が近づくと、「死んでくれたらいい」と願うお貞のこころを見抜き、そう思うなら自ら罪人となる覚悟で自分を刺し殺せとお貞に迫った。今でも金沢の或る旅館には狂人となったために罪を免れた銀杏返しに髪を結ったお貞が日のあたらない暗室内に生きているという。
『一之巻』(1896年) 小説
(墓参)14歳の上杉新次は亡き母の墓参りに行き、誰かの悪戯で墓石が倒されているの見つけ、何とか立て直そうとしているとき時計屋深水の娘お秀という女性に会う。(彫刻師)お秀の命令で墓石を立て直した男が、新次の父で彫刻の名人長常のもとを訪ねてきて、お秀が以前に注文してあった指環を完成させてほしいと頼みに来る。(紅白)新次が完成した指環を持って深水の家に行き、お秀に会い、紅白の牡丹の形の打物(干菓子)を土産にもらう。(学校)新次の学校の英会話教師ミリヤアドは米人の若い女性で、新次の同級生に28、9歳の盲人の富の市がいた。(秀)お秀に会ってからは、彼女に心奪われ、学業が疎かになっていることをミリヤアドに叱責され、富の市に嘲笑される。学校の帰り道に深水の家の下女がお秀が花をあげたいと言っていると告げに来る。(花)亡き母が臨終間近に夢うつつに花を手折って子に与えようとしたことを思い出して、お秀の心は亡き母の心と同じだと思う。深水の家を辞去するとき、入れ替わりに富の市が親しげに深水を訪ねてきたのに不快感をもつ。(将棋)深水の家でお秀と将棋に興じていると富の市も訪ねてくる。新次が将棋でお秀に負けそうになると、富の市はお秀の歓心をかうためにわざと将棋に負けてみせると嘲笑する。
『ニ之巻』(1896年) 小説
(苺)新次は富の市に嘲笑されたことが恥ずかしく学業も手につかない。宣教師などの参観者がいるミリヤアドの大切な授業で新次は指名されるが答えられず、かわって富の市が「苺」という適切な答えをする。(神婢)学校を辞め病気で臥せっている新次のもとにミリヤアドの家にいる操が見舞いに来て、ミリヤアドも学校を辞めたことを伝えた。そして苺を盛った籠とミリヤアドの手紙を置いていく。(はなれ駒)橋の袂で近所の子供らに新次が苛められていると、偶々馬に乗って通りかかったミリヤアドに助けられた。(留針)この時、ミリヤアドの馬が子供の一人に怪我を負わせたことが問題となり、ミリヤアドは東京に去ることになった。その送別会でミリヤアドは留針で新次の歯痛を治してくれた。(影法師)将棋で富の市に嘲笑されて以来、深水の家を訪ねなくなったが、夜陰に乗じてその近所まではしばしば出かけた。或る夜深水の家に近づくと障子に大きな頭と鼻と唇の影法師が映り、それが富の市とわかった瞬間に新次は夢から醒めた。(山鳩)ミリヤアドから学資は援助するから上京せよという手紙が来たので、別れを告げるため久方ぶりに深水の家を訪ね、お秀に会う。そのとき山鳩の飾りを付けた大きな柱時計の前でお秀は山鳩の鳴くまねをしてみせた。
『三之巻』(1896年) 小説
(銀鵞)新次の弟が彫刻師の父に連れられて、お秀の嫁ぎ先である紫谷家にある銀の鵞鳥の置物を見に行き、お秀と会う。(黒淵)新次が病を得て帰郷し紫家の裏手にある川沿いの道・黒淵を歩いている時、富の市の姿を見かけた。かつて山鳩の飾りを付けた大きな柱時計の前でお秀と会った後なかなか上京の決心がつかないとき富の市からお秀の嫁入りを突然聞かされたのであった。(燈籠)新次は亡き母の墓参りをして僧に墓経を読んでもらい3つの燈籠に火を点じたのであった。(山颪)燈籠のうちの1つは紫家に嫁いだお秀の供えてくれたもので、山颪に燈籠の火が揺れているのであった。
『四之巻』(1896年) 小説
(こだま)新次は墓参の帰りの夜道で何者かに誰何されている時、操に再会した。(有明)山の上のほうからお秀が自分を呼ぶ声がしきりに聞こえるが操は返事をしないように言う。やがてその操が富の市に変わり、お秀を捉えてそのまま谷底へ落ちてゆく。その時、有明の月明かりのなかに母の姿が見えて、夢から醒めた。(柴垣)新次は紫谷家の柴垣伝いの近所の医者に通っていたが、そこでお秀の息子新三郎の薬瓶を偶然見た。薬局で聞くと、新三郎の病気はすでに快癒し、今はお秀が病気がちと聞いた。(几帳)深水家の元奉公人友吉からお秀の病気の原因が富の市であることを聞く。富の市はもともと自分が良家の跡取りであることをかさにきてお秀に想いを寄せ執念深く毎日のように紫谷家に上りこんでいるのであった。(三日月)お秀の子新三郎が乳母に連れられ友吉の家にやって来て新次と偶然会う。新三郎は三日月ののの様に母親の病気平癒を祈るのであった。
『五之巻』(1896年) 小説
(山桜)ミリヤアドが教室で生徒に山桜の色を質問すると、大和魂という答えが返ってきて、その答えを認めないミリヤアドと生徒とでもめたのであった。(女浄瑠璃)ミリヤアドは美人なので、授業を受けるのは女浄瑠璃をききに行くようなものだという評判がたっていた。(なざれの歌)新次は上京した後、ナザレの歌を歌う教会の催しに参加して、そこで偶然ミリヤアドに再会した。(翡翠)ミリヤアドは参加者の要望で渋々オルガンを弾きながらナザレの歌を歌った。そして参加者からの翡翠の贈り物も受け取らず新次とともに会場をあとにした。
『六之巻』(1896年) 小説
(卯月朔日)ミリヤアドは学校での自分の境遇を考えると病気がちになってしまった。新次は卯月朔日がエイプリルフールであることに気づき、ミリヤアドを元気づけるために牛乳と偽って塩を入れた米の研ぎ汁を飲ませるという悪戯をした。(みなし児)その夜、ミリヤアドの家に行くと、長襦袢に扱きという姿でミリヤアドが突然現れ、エイプリルフールの仕返しをされた。ミリヤアドの父は米国人で日本人の母を残しミリヤアドだけを連れて帰国して、それ以来母は行方知れずになっていた。(袖の雨)ミリヤアドと同居人の高津は、自分らの不遇を嘆き、袖に落涙するのであった。(母上)ミリヤアドは長襦袢を着たまま、自分を新次の母親と思ってよい、今日はエイプリルフールだから自分が新次の母親だという嘘にだまされなさいと言った。(坂の下)高津がもってきた菓子を新次が一口食べると、それは綿を細工したもので菓子ではなくエイプリルフールの仕返しをまたされてしまう。その後ミリヤアドの病気が急に悪化し高津が医者を呼びに行った。
『誓之巻』(1897年) 小説
(団欒)ミリヤアドの病気も快方に向かい、新次や高津とともにひとときの団欒を楽しみ、新次は一時帰郷した。(石段)ミリヤアドの病状が再度悪化し、医院に通う石段を上るのに難渋するようになったので、新次は急遽上京した。(菊の露)新次は高津からミリヤアドの深刻な病状をきいた。高津は高熱で舌が乾いたミリヤアドに菊の露でも飲ませてあげたいと言うのであった。(秀を忘れよ)高津は、危篤状態のミリヤアドを安心させるためにお秀のことを忘れるとミリヤアドに誓えと言った。(東枕)東枕で臥せっているミリヤアドに会った。(誓)ミリヤアドは亡き母のであるかのように、新次にお秀を忘れ勉学に励むように誓えと言うのであった。
『蓑谷』(1896年) 小説
蓑谷の蛍には美しい女神の主がいるから狩ってはならないという。少年は或るとき女神と思われる美しい姫君がくれようとした蛍をあくがれ追ったのであった。
『五の君』(1896年) 小説
高崇寺には旧藩主菅氏の第五の姫香折が養われていた。学校の習字の時間に貧しい子に手持ちの墨を半分に折って与えた。寺の池の鯉が勢いよく跳ねて、それを鼬が食おうとすると池に飛び込んで鯉を救った。寺で写経をしているときに部屋に入ってきた虫がうるさいので腰元が捕ったが虫の怨念のためか病気になってしまった。寺に闖入してきた屑屋を嫌い羽子板で突き倒してしまったが、それを悔いて自ら屑屋のもとに謝罪に行った。
『紫陽花』(1896年) 小説
夏の日、神社の境内で貴女が美少年の氷屋から氷を買うが、鋸が炭屑で汚れていたために氷が汚く、貴女は承知しない。次々に氷を切らせているうちに最後に豆粒大の氷となり、少年は貴女を引き立ててそれを紫陽花の色が映っている貴女の口に与えるのであった。
『琵琶伝』(1896年、国民之友) 小説
『海城発電』(1896年、太陽) 小説
『毬栗』(1896年) 小説
『龍潭譚』(1896年) 小説
幼児千里は丘で美しい毒虫を追ううち刺されて醜い顔になる。道に迷い、鎮守の社で「かたい」の子らと遊ぶがおいてけぼりをくらい、探しに来た姉からも人違いをされる。姉を追いかけ、気を失った千里は九ッ谺という山奥の谷で助けられ美しい女に添臥される。
『照葉狂言』(1896年、読売新聞) 小説
(鞠唄)母を亡くし叔母と住んでいる14歳の少年貢の家から広岡の姉上と慕う女性の家にかけて青楓が茂っていた。少年は近所の小母さんに鞠唄を教える代わりに継子いじめの御伽噺をしてもらって激しく泣いた。その声に驚いた広岡の姉上が見に来てくれたが、彼女も継母に養われていた。(仙冠者)貢の住むところは金沢の乙剣の宮の近くで仕舞家の並ぶ閑静な場所であった。広岡の姉上の家は宮と垣根越しになっていたので、そこでしばしば顔をあわせた。宮の近くに住むガキ大将の国麿は一緒に遊ぶことを貢に強要し、仙冠者牛若三郎の役をやれと言う。(野衾)貢は母の死後、しばしば町外れの観世物小屋に通い、かつて牛若に扮したことのある小親という女能役者に心をひかれた。偶然、木戸で小親に会うと小親は貢を袖で覆い頬に接吻したが、貢にはそれがあたかも野衾に襲われたように思われた。そして小親の好意で桟敷に座布団を敷いてもらい菓子をもらって舞台を観ていると小親も桟敷に来て貢にそっと頬擦りするのであった。(狂言)貢は偶然観世物小屋で国麿に会い、国麿は女能役者など乞食同然とののしった。そこに来合わせた小親は貢が女狂言を無心で楽しんでくれるのが芸人冥利に尽きるのだと国麿に言った。(夜の辻)小親が貢を家に送って行き、広岡の姉上と会った。そして博打好きの貢の叔母たちが警察に連行される現場に出くわしてしまった。(仮小屋)叔母が捕まった後、小親に養われ芸を仕込まれた貢は8年後に金沢にやってきた。金沢に洪水があったためにいま観世物の仮小屋は広岡の姉上の家の裏手に出来ていた。(井筒)貢は広岡の継母の話で姉上が金のために養子をもらい、その養子に大層苛められていることを知った。そしてその養子が小親に思いを寄せているので小親に彼を誘惑させて、それを理由に養子を離縁して姉上を自由にしようと貢は考えた。(重井筒)小親は持病のリュウマチが発病し、自らの行く末をはかなみ、貢の考えどおり自分が養子を誘惑して犠牲になろうと思った。(峰の堂)貢は姉上は救いたいし小親は犠牲にできないというデイレンマに悩み、やがて峰の堂に辿り着き、そこから行方知れずの旅に出るのであった。
『化鳥』(1897年、新著月刊) 小説
豪邸の奥方として裕福な暮らしをしていたころ、母はある日猿回しの老人に出会った。老人は世間の冷たさを恨み、猿を土手に残して去る。猿も同然の人々だから同じ仲間である猿を餓えさせることはあるまいと。その時母の胎内にいたのが少年廉である。
『辰巳巷談』(1898年、新小説) 小説
『笈ずる草紙』(1898年、文芸倶楽部) 小説
『通夜物語』(1899年、大阪毎日新聞) 小説
『湯島詣』(1899年、春陽堂) 小説
『高野聖』(1900年、新小説) 小説
泉鏡花の短編小説。当時28歳だった鏡花が作家としての地歩を築いた作品で、幻想小説の名作でもある。高野山の旅僧が旅の途中で道連れとなった若者に、自分がかつて体験した不思議な怪奇譚を聞かせる物語。難儀な蛇と山蛭の山路を抜け、妖艶な美女の住む孤家にたどり着いた僧侶の体験した超現実的な幽玄世界が、鏡花独特の語彙豊かで視覚的な、体言止めを駆使したリズム感のある文体で綴られている。1900年(明治33年)2月1日、春陽堂書店の文芸雑誌『新小説』第5年第3巻に掲載された。翻訳版はSteven W. Kohl.の訳(英題:The Saint of Mt. Koya)でなされている。泉鏡花は、『高野聖』に登場する女妖怪を、支那小説『三娘子』から着想し、さらに、飛騨天生峠の孤家に宿泊した友人の体験談と合せて、物語の空想をふくらませていったという。
あらすじ
若狭へ帰省する旅の車中で「私」は一人の中年の旅僧に出会い、越前から永平寺を訪ねる途中に敦賀に一泊するという旅僧と同行することとなった。旅僧の馴染みの宿に同宿した「私」は、夜の床で旅僧から不思議な怪奇譚を聞く。それはまだ旅僧(宗朝)が若い頃、行脚のため飛騨の山越えをしたときの体験談だった。……
若い修行僧の宗朝は、信州・松本へ向う飛騨天生峠で、先を追い越した富山の薬売りの男が危険な旧道へ進んでいったため、これを追った。怖ろしい蛇に出くわし、気味悪い山蛭の降ってくる森をなんとか切り抜けた宗朝は、馬の嘶きのする方角へ向い、妖しい美女の住む孤家へたどり着いた。その家には女の亭主だという白痴の肥った少年もいた。宗朝は傷ついて汚れた体を、親切な女に川で洗い流して癒してもらうが、女もいつの間にか全裸になっていた。猿やこうもりが女にまとわりつきつつ二人が家に戻ると、留守番をしていた馬引きの親仁(おやじ)が、変らずに戻ってきた宗朝を不思議そうに見た。その夜、ぐるりと家の周りで鳥獣の鳴き騒ぐ声を宗朝は寝床で聞き、一心不乱に陀羅尼経を呪した。
翌朝、女の家を発ち、宗朝は里へ向いながらも美しい女のことが忘れられず、僧侶の身を捨て女と共に暮らすことを考え、引き返そうとしていた。そこへ馬を売った帰りの親仁と出くわし、女の秘密を聞かされる。親仁が今売ってきた昨日の馬は、女の魔力で馬の姿に変えられた助平な富山の薬売りだった。女には、肉体関係を持った男たちを、息を吹きかけ獣の姿に変える妖力があるという。宗朝はそれを聞くと、魂が身に戻り、踵を返しあわてて里へ駆け下りていった。 
『註文帳』(1901年、新小説) 小説
吉原の剃刀研ぎ職人の五助は、毎月十九日の仕事を避けていた。十九日という日は、請け負った剃刀のうち一つがなくなり、廓の思わぬところに現われたからである。鏡研ぎ職人の作平が明かすところによれば、陸軍少将松島主税が若いころ、遊女お縫に剃刀で首を突かれ、その返す手でお縫は自害、この心中騒ぎがあったのが十九日だったという因縁がある。
『柚屏風』(1901年、新小説) 小説
『起誓文』(1902年、新小説) 小説
『風流線』(1903年、国民新聞) 小説
『紅雪録』(1904年、新小説) 小説
『銀短冊』(1905年、文芸倶楽部) 小説
『春昼』(1906年、新小説) 小説
先先月より逗子に一室を借り自炊するという散策子が春の日中をぶらぶら歩きに出たのは、停車場開きの祭礼の日の騒々しさを避けてのことだった。途中、ある二階家に蛇が入り込んだのを見て野良仕事の老爺にその家へ用心するように言づてる。たどり着いた岩殿寺の柱に「うたゝ寐に恋しきを見てしより夢てふものは頼みそめときーー玉脇みを」と書かれた懐紙を見つけ、昨年寺に逗留した客人の「みお」なる夫人への恋慕の顛末を住職より聞かされる。
『春昼後刻』(1906年、新小説) 小説
寺よりの帰途、散策子を待っていたのは玉脇みお、すなわち蛇への用心を言伝された家の女主人だった。女は散策子によく似た男への悲しい気持ち、もの狂わしい「春の日中の心持ち」を吐露。女の手帳には△☐○が書き散らしてあり、散策子は蒼くなる。
『婦系図』(1907年、やまと新聞) 小説
ドイツ文学者の早瀬主税は恩師の酒井俊蔵に隠して芸者であったお蔦と結婚していた。その酒井の娘の妙子に静岡の名家の息子・河野英吉との縁談が持ち上がる。河野家は妙子の素行調査で主税の所にも来るが、その高圧的な態度に怒った主税はこの縁談を壊そうとする。しかしその結果彼がお蔦と結婚していることが酒井の知るところとなり、酒井によって二人は別れさせられてしまう。それに続いて偶然巻き込まれたスリ事件に絡んで早瀬は勤め先をクビになってしまった。
『草迷宮』(1908年、春陽堂) 小説
亡き母が唄ってくれた手毬唄の郷愁を胸に、迷宮世界を彷徨する物語。
『白鷺』(1909年、東京朝日新聞) 小説
『歌行燈』(1910年、新小説) 小説
恩地喜多八は能のシテ方宗家の甥であったが、謡の師匠宗山と腕比べを行い自殺に追い込んだために勘当される。宗山には娘お三重がいだが、親の死によって芸者となっていた。肺を病み流浪する喜多八は偶然お三重と会い、二度と能をしないとの禁令を破ってお袖に舞と謡を教える。
『三味線掘』(1910年、三田文学) 小説  
(大正)

 

『三人の盲の話』(1912年、中央公論) 小説
『稽古扇』(1912年、中央新聞) 小説
『夜叉ヶ池』(1913年、演芸倶楽部) 戯曲
大学教授の山沢は偶然越前の琴弾谷を訪れ、旧友の萩原と再会する。彼は村娘の百合と結婚し、古い鐘撞堂で暮らしていた。萩原は近くの夜叉ヶ池に住む龍神様の怒りを鎮めるため日に三度鐘を撞かねばならないので、その役目を先代の堂守から引き継いだのだという。
『海神別荘』(1913年、中央公論) 戯曲
時は現代。一人の美女が、人柱として海神の世継ぎである公子の妻となるべく使わされた。美しい別荘内で美女は故郷を思い、そして公子の制止を振り切り陸へと戻る。しかし陸ではすでに彼女は蛇となっており、家族や友人にも見分けられず泣きながら別荘へと帰る。泣き続け、公子を恨む美女に対し公子は怒りを覚え、斬らんとするが、最後は和解しめでたく結ばれる。
『日本橋』(1914年、千章館) 戯曲
葛木晋三は雛祭りの翌日の夜、一石橋からさざえと蛤を放す。その振る舞いを怪しむ巡査の尋問にあうところ、現われた芸者お孝がその場をとりなす。雛に供えたものを放生することは葛木の姉の志であった。姉は、親を早く失った貧しさからひとの妾となって葛木が医学士となるのを援助、今はしかし弟を避けて失踪している。姉を求める葛木は姉そっくりの芸者清葉に想いを寄せるが、旦那のいる清葉は色々な義理があるため葛木の恋を退ける。
『夕顔』(1915年、三田文学) 小説
『天守物語』(1917年、新小説) 戯曲
時は封建時代で、ある城の天守閣。自害し、死後何度も洪水を起こした妖しい夫人富姫は魔のものとなっている。地方(猪苗代)から魔のものの亀姫が遊びに来訪したりする。富姫は土産として春日山城主の生首をもらい、おかえしに白鷺城の城主の白鷹を送る。主君の命令により、その鷹を探しに天守閣を上って来た鷹匠姫川図書之助は、姫より城の家宝である兜を授かって帰るが、かえって城中で兜を盗んだ嫌疑をうけ、天守に逃げ戻る。恋に落ちる富姫と図書之助。そして事態は思わぬ方向へ。
『由縁の女』(1919年、婦人画報) 小説
『眉かくしの霊』(1924年、苦楽) 小説
境賛吉は木曽の奈良井に宿をとった。出された鶫料理を堪能しつつ、鶫料理を食べて口を血だらけにした芸者の話を思い出す。
(昭和)

 

『木の子説法』(1930年、文藝春秋) 小説
『貝の穴に河童が居る』(1931年、古東多万) 小説
『菊あはせ』(1932年、文藝春秋) 小説
『斧琴菊』(1934年、中央公論) 小説
『お忍び』(1936年、中央公論) 戯曲
『薄紅梅』(1937年、東京日日新聞、大阪毎日新聞) 小説
『雪柳』(1937年、中央公論) 小説
『縷紅新草』(1939年、中央公論) 小説
 
鏡花を語る

 

『草迷宮』
門田 / 本日は泉鏡花の命日です。追悼の意味を込めて、青空文庫で泉鏡花の作品を一週間連続で公開して欲しいとお願いしたところ世話役の方々から快諾を得ました。自分一人ではなかなかにつらいので、高柳典子さんと対談という形式をとってみました。
門田 / さて、今回の鏡花特集は、ちょうど校了になっていた作品、命日に合わせて公開したい作品を7日間に渡って少し意図を持って並べてみました。本日、命日に『草迷宮』を選んだのは、ずばり私のもっとも好きな鏡花作品だからです。少し、『草迷宮』の思出を語っておきます。今から15年ほど前に、初めて読んだ鏡花作品がこの『草迷宮』でした。あまりにも複雑な話の構造故に、今一つ理解できなかった記憶があります。しかし、文章の美しさに魅了された記憶も鮮明です。
高柳 / 私は、門田さんの作品を校正させて頂いて始めてこの作品に触れたのですが、最初、話の構造の複雑さに数歩退いてしまいました。しかし鏡花の「母への思慕」が芯としてあり、その周りを螺旋状に物語りが進行しているのだと思いました。磁石のコイルを想像して頂ければよろしいかもしれませんね。文体に関しては、既に話をしてもいいのかどうか、先が長いので、(笑)
門田 / 文体に関しては、適宜いろいろなところで話をしましょう。今回は「物語の構造」について主に話をしましょう。「物語の中のうた」についても話し合えそうですね(手毬唄など)。この作品の構造のややこしさは、鏡花お得意の「回想」を多様していることに起因しています。実は、物語の実時間では、主人公の小次郎法師が、茶店に寄って、秋谷邸に一晩滞在するだけなので、実質一日のお話なのですよね。それが、回想を多用するために、十数年からつい昨日までのいろいろな時間軸の話が錯綜することになっています。高柳さんがおっしゃるように、芯がしっかりしているから作品として成立しているのでしょうね。
高柳 / 小説の中で「エピソード」を語るという行為については、最初この『草迷宮』については、構造の複雑さを除けば、何処かで読んだ話に似て居ると思いました。それが何であるのか思い出せなかったのです。何気なく「泉鏡花」でネット検索をして、辿り着いたサイトにあった、富山大学の跡上先生の「『草迷宮』と『吉野葛』をあわせて論ず」を読んだときにはっとしました。谷崎潤一郎の『吉野葛』なのですね。母への思慕を軸に、吉野川を「私」と津村は遡っていくのですから。そのあいだ津村の口から静香御前が愛用したという「鼓」に纏わる話がでてきたりします。以前読んだときは、図書館だったので、今度は、『吉野葛』を買いました。(笑) ただ『吉野葛』は川を素直に遡っているので、時間もゆっくりと戻っていくのですね。ところが『草迷宮』の時間軸の錯綜ということに慣れるのに時間がかかりました。まるでSF小説のようなのですね。鏡花はなぜこの複雑な構造にしなければならなかったのか? それは鏡花の文学への姿勢に近いことでしょうから、後日話をすることにして、一体、その時間軸の中心にいるのはだれなのか?
門田 / 時間軸の中心にいるは誰なのか、という疑問にはいろいろな答えがあると思います。その疑問へ一つの回答を示す前に、「回想」に関してもう一言付け加えておきます。確かに鏡花作品によく使われる回想という手法は、映画におけるフラッシュバックのようなもので、ありふれたものでしょう。しかし、『草迷宮』における時間軸の錯綜は、回想という過去へのベクトルだけではありません。葉越明の未来さえも語られているのですから。過去も未来も自由自在に動いてゆく時間軸の中心にいるものは誰なのか。この問題を「錯綜しているように見える時間軸を正しく受け止めているものは誰なのか」と問い変えてみると、その答えは少しはっきりします。私見ですが、錯綜しているように見えるのは人間の目から見ているからなのではないでしょうか。『草迷宮』の時間軸を支配しているのは、まばたきの世界にいる妖しの者たちなのではないか、と思います。SF小説との対比は面白い着眼点ですね。実は、『草迷宮』に出てくるある設定はSF(荒巻義雄『白き日旅立てば不死』)に使われているのです。「まばたきの間の世界」という設定です。もっとも、そのSF作品では、「映画のフィルムのコマの合間にある世界」と少し現代風にアレンジされていましたが。「まばたきの間の世界」の者たちという設定は、通常の怨念とか幽霊とかとは違って、実に味わいのある妖怪を作り出していると思います。
高柳 / 『草迷宮』の時間軸を支配しているのは、まばたきの世界にいる妖しの者たちなのではないか、そうですね、私もそう思います。しかし、私は、この話の構造を考えるとき、最初にでてくる茶店の老婆、法師に語る老婆の存在も気になります。時間軸を支配しているのは妖しの者だとして、彼らと老婆との関係はどうなるのでしょう。”語る”という行為、なぜ語ることができるのだろうか? と考えたとき、決して無関係ではないのではないか。迷宮の外の時間を操っているのは、その老婆です。中へ誘うのも老婆だからですね。時間軸が二つあるのだと思います。お互いの時間軸の交叉する箇所は、「母」でしょうね。『草迷宮』の中にでてくる女性は、二人しかいないのですよね。(うめき声だけの新造さんは除く)
門田 / 確かに老婆は気になる存在ですね。螺旋構造の「迷宮」への案内役のように思います。老婆が「迷宮」の入り口にいるとすると、葉越明の幼なじみであった妖怪は「迷宮」の奥深く、深淵にいることになりますね。老婆と幼なじみだった妖怪の共通点は子を残すことがないことでもありますね。共感しあうことはありそうです。妖しの者たちの時間については、「時間軸支配」とは違った観点で考えられることがあります。過去、そして未来をも自在に覗いている彼らにとっては時間とは流れていないようなものなのではないでしょうか。そのことの一つの傍証として、妖しの者たちの時間、世界はモノクロのように思います。外の世界では、たとえ回想であっても、手毬の七色の鮮やかさが強調されていますが、妖しの者たちの世界では、色に乏しいように思います。もっとも活躍の舞台が夜だから仕方がないのかもしれませんが。その中でも紅の色だけが妙に強調されているようにも思います。
高柳 / 老婆と幼馴染だった妖怪は、表裏といったほうがいいかもしれませんね。だから最後まで行き、また出発点に還る。また同じ話が始まるのですよ。旅の僧が茶店に立ち寄り・・と。老婆はまた淡々と話すのでしょう。門田さんは、色のことをおっしゃったので。鏡花といえばやはり色彩の世界。しかしそれは、生者の世界なのではないでしょうか? 『外科室』などは、看護婦の制服、伯爵夫人の着ている物が鮮やかに描写されていたように思いますが、例えば『高野聖』で聖が迷い込んだ世界は、決して色彩豊ではありませんよね。其の中で、紫陽花の紫が強調されているのではなかったでしょうか? 一点のために他を殺すという手法なのでしょうね。
門田 / 『草迷宮』では、七色の手毬が際立っていますね。また、夜の世界では、どうしても血の紅が目立つ趣向になっているようです。話し込んでしまって客商売を忘れている老婆は、確かに怪しい存在です。でも、秋谷邸の妖怪ではなく、長年子産石の番をしていたがために、そこに根付く「何か」になってしまったように思います。明さんの幼なじみだった人とは共感しているようには思いますが。小次郎法師と『高野聖』の法師を比べてみるのは面白いですね。どちらも部外者でありながら、その立場、螺旋構造の中での位置づけは、少し違いがあるように思います。如何でしょうか?
高柳 / 門田さんがご指摘のように、茶店の老婆ー幼馴染ー将来、明を慕うという令室。すべて既婚者であり、”子”がないですね。なぜなら明という”子”があるからですね。本当に明は大人になるのだろうか、永久に若者のままなのではないのか。「母」という幻想から抜け出ることができないのではないのだろうか。女性たちが抜け出させないのではないか。と思ったりします。でも、なぜ手毬歌がポイントなんでしょうね。ところで小次郎法師は、やがて列車の中で誰かにこの話をするのだろうかどうなのだろうかとおもったことがあります。(笑)小次郎と高野聖は、どちらも異界を経験します。位置付けって、異界の住人(?)との距離感ということですか?
門田 / 『高野聖』の法師は、異界に迷い込みますが、その異界を壊すことも、その深淵を覗くことも出来ません。一方、『草迷宮』の小次郎法師は、異界の深淵を覗き、その謎解きをただ聞いています。どちらも傍観者ではあるのですけど、少し違うように思います。『高野聖』に後日談はありませんが、飛騨の異界を語った法師は、再びその異界を訪ねて、壊してしまいたいと思っているのではないか、と思ったことがあります。ですので、むしろ『草迷宮』の葉越明に重なるところが多いのではないか、と思います。葉越明こそ、偶然秋谷邸を見つけて、その崩壊のきっかけになる存在ですから。手毬唄は、『草迷宮』の螺旋状の異界の案内役を担っていると思います。
高柳 / 先ほどなぜ「手毬歌」というアイテムを鏡花は使ったのだろうって書きましたが、毬をつくという行為は、地面を“いたぶる”ことだと思うのです。それは、イコール地面の下に棲むものを揺り起こす。そして語りかける。手毬歌の歌詞は美しいが、残酷です。そういう意味でも、キーポイントが手毬歌でなければならかったのかなと思います。
門田 / 手毬唄自身の意味はともかく、あの言葉の調子が異界へと誘う鍵になっているのではないかと思います。秋谷邸に怪異が現れてから子供たちにはやりだすわらべ歌も同様でしょう。そして、手毬自身は、螺旋構造の核として「母への思慕」を表すキーアイテムとして機能しているのではないでしょうか。球または円のモチーフが随所に登場するという意味では『歌行燈』の月と同様の意味を持っているのではないでしょうか。
高柳 / そうですね。で、螺旋構造の核として「母の思慕」ということで、門田さんとのお話も振り出しになったわけですね。それで、また時間軸の話をして・・・と(笑)  
『紅玉』『錦染滝白糸』
門田 / 昨日より始まりました鏡花特集、本日は『紅玉』『錦染滝白糸』が公開です。戯曲2編ということで、戯曲作家としての鏡花の側面に焦点をあて、対談をすすめたいと思います。ということで、本日のお題は「大戯作者につき」です。
門田 / 『紅玉』は1913(大正2)年鏡花41歳の時、『錦染滝白糸』は1916(大正5)年鏡花44歳の時の、作品です。鏡花の戯曲は、青空文庫に『夜叉ヶ池』『湯島の境内』が収録されています。戯曲の数自体はそれほど多くないのですが、場面場面のインパクトの強いものが多いことと、戯曲という形ではなくとも演劇に取り上げられることが多かったためか、鏡花の戯曲は有名です。
高柳 / 鏡花を「大戯作者」と言ったのは、折口信夫ですね。『鏡花との一夕』(来年公開予定)を門田さんに読ませて頂いて、この言葉を見たときは、思わず肯いてしまいました。全くそうなんですね。小説として書いている作品でも、戯曲なんですね。『草迷宮』もそうでしたが、主語がない。主語がないから、誰のことなのか掴むのに読み手は苦労するのですね。鏡花にすれば、小説も戯曲も同じだったのではないか? 小説などは、鏡花の頭の中で映像ができていて、それを文章にするから不都合がおきるのではないかと思うのです。その文章に関する話はゆっくり後日することにして、『紅玉』、これ、ファンタジーですね。
門田 / 『紅玉』は、現実とそうでない世界(うまい言葉が見つからないです)の境目が不明確なところが、ファンタジーと捉えられる一因でしょう。境目のバランスがうまいので、よく出来た作品ではないかと思います。視点がコロコロ変わる眩惑感が心地よいですね。一方『錦染滝白糸』は、『義血侠血』の登場人物を使ったアナザーストーリーとでも言うべき作品です。内容が『義血侠血』と全く異なっているので、戸惑う方も多いかと思います。『義血侠血』は、「滝の白糸」の題名で、新派の舞台にかけられて好評であった作品で、現在でも舞台にかけられることは多いです。「滝の白糸」自身は鏡花が脚色した台本はありません。ごく一部のみ、「鏡花全集 第二十六巻」に「かきぬき」として収められた舞台脚本があるのみです。なんで、鏡花が『錦染滝白糸』を書いたのか、私にはわかりません。有名な『湯島の境内』は、『婦系図』の一場面を戯曲化したものですが、こちらは内容の齟齬はありませんが、『湯島の境内』からは『婦系図』の全貌を知ることは不可能である点で、『湯島の境内』も特殊な作品と言えるでしょう。
高柳 / なぜいきなり「烏」なのか、と考えたら此話はダメなんですね。鏡花の頭の中に入っていかないと。まずそこがわかるのに、不器用な私は苦労しました。視点がコロコロ変る幻惑感に負けそうです。(笑) 一方仰ると通り鏡花あっての新派か、新派あっての鏡花か。私、幼い頃、うっすら覚えているのですが、記憶違いだったら失礼します。先代の水谷八重子さん、つまり今の水谷八重子さんのお母さんですね。テレビで、その先代が「滝の白糸」の太夫水島友をやっていらして、扇子から水がでているのですね。テレビカメラがその姿に段々近づいていくんですね。その水が描く曲線と先代の八重子さん、そのときもうかなりお年だったと思うのですが、首の皺にアンバランスを感じたのをどうしてか今でも覚えています。その水谷さん演じる太夫も、『婦系図』のお蔦さんも、好きな男に尽くすんですね。それが、鏡花の描く女性像の一つのパターンですね。
門田 / 『紅玉』のストーリーの展開の早さは、舞台を想像すると少し補えると思います。もともと、戯曲ですから、小説よりもテンポが早くなっていますから。偉そうな事を言っておりますが、私は「滝の白糸」の舞台を見た事はないのです。初代 水谷八重子さん主演で映画にもなっているようですね(1946年)。『義血侠血』「滝の白糸」の水島友も、『湯島の境内』『婦系図』のお蔦さんも鏡花の作品の典型的な女性像であるのは確かですが、原作である『義血侠血』『婦系図』のメインストーリーやテーマとは少し捉え方がずれています。このへんのずれも面白いところで、特に『義血侠血』には尾崎紅葉の影響が強いですから、鏡花が本当に描きたかったことは何か、というのは面白い問いになるでしょう。「滝の白糸」は鏡花の許可を得る事なく、新派が舞台化したという話も聞きますから、新派の取りあげ方が鏡花へ及ぼした影響は大きいでしょう。だからこそ、『湯島の境内』などという長編の一場面のみを脚色した作品があるのでしょう。そう考えても、『錦染滝白糸』はどう捉えていいのか、悩む作品です。「かきぬき」には原作に忠実な脚本の一部が残っているのですから。
高柳 / 『湯島の境内』のように一場面のみ脚色するというのは、よほどあの場面が気に入っていたのでしょうね、一方『義血侠血』には、尾崎の影があり、「滝の白糸」は勝手に?新派が取り上げた。それへの反発が『錦染滝白糸』なのでしょうか?だから一場面とりあげるのではなく、結末を書いた、ということでしょうか?『義血侠血』「滝の白糸」は自分の中では結末ではないのだと。
門田 / まず『湯島の境内』についてですが、あの場面が芝居で有名になったので、戯曲を書いたのではないでしょうか。本人が好んでいたのかどうか、私にはわかりません。しかし、『金色夜叉』の熱海の海岸の一場面とともにとても有名な場面になってしまいましたよね。一方、『錦染滝白糸』は、尾崎の手の入っていない鏡花オリジナルの『義血侠血』とも結末が違っているようです。ただ、オリジナルの執筆時期からかなり経過して、『錦染滝白糸』も『湯島の境内』も執筆されていますから、その間に鏡花自身の捉え方が変わったのかもしれません。そういう意味で面白いのは、『日本橋』です。鏡花オリジナルの小説があり、鏡花の手になる完全版脚本があるのは『日本橋』のみなのです。もともと鏡花の文章は戯曲の色合いが濃いのですから、「戯曲」にするという観点から鏡花の作品を考えてみるのは面白い視点かもしれませんね。
高柳 / 『日本橋』だけなのですか。もっと沢山ありそうな気がしていましたが。鏡花は戯曲に関しては、3パターンもっていたということですか?『紅玉』のようなファンタジーと言えるようなもの、『滝の白糸』のような新派の舞台向きなもの、そして『夜叉ヶ池』『天守物語』のような異界もの。幅が広いですね。ファンタジーを除けば、共通項目は「女性が心底男に尽くす」ということですね。いいかえれば、男は尽くして欲しいわけですから、鏡花の芯である「母への思慕」でしょうか? あえて個人的な好みを言わせてもらえば、『夜叉ヶ池』『天守物語』がいいですね。異界との交信ものこそ映像としての醍醐味がありますから。映画を見ました。それから読みました。(笑)
門田 / 鏡花の戯曲作品はそれほど多くありません。また、記憶が不確かですが『天守物語』は鏡花の生前には舞台にかけられなかったと思います。『日本橋』に関しては『原作者のみた日本橋』なんて短文が残っていますから、読んでみると面白いかもしれません。共通項目である「女性が心底男に尽くす」というのは、鏡花が母に甘えたかったのでしょうね。『夜叉ヶ池』に関しては、もとネタが『沈鐘』であるという話ですが、実は鏡花はこの『沈鐘』の翻訳もしています。長いので読むのは大変かもしれませんが。
高柳 / 最初、私は、鏡花にしたら、小説も戯曲も同じだったのではないか。と書きました。映像的に浮んででくると。小説は、文章に拘ってきますから、後日話すことにして、こうやって戯曲について話してみると、鏡花は、場面が、情景がパッと浮んで繰る作家だったのでしょうね。そこに文字を、言葉をのせていっていたのですね。巧く表現できませんが。場面があって、台詞をつけるとでも言ったほうがいいのでしょうか。そういったこととは別に、役者さんが脚本を手にしたとき必ずするように、台詞、ト書きを読み込み、登場人物の心理を細かく読み解くという作業をしてみたいと思うのは、新派の舞台作品より、異界交信物ですね。ただ、これを言ってはおしまいなのでしょうが、やっぱり戯曲というのは、紙の上で読むより、観るものだと思います。脚本、演出、役者、装置との微妙なバランスの総合芸術ですね。でもなかなかこの大戯作者の作品を観る機会がないのが残念です。
門田 / 私も鏡花の舞台を見る機会には恵まれそうもありません。ですが、舞台になってしまうと他の人の解釈が入ってしまうので、「これは違う」とか言いそうなので、見ないでいるのもよいかな、とも思います。 
『海城発電』『凱旋祭』『女客』『妖僧記』
門田 / 鏡花特集、本日は『海城発電』『凱旋祭』『女客』『妖僧記』が公開です。『海城発電』『凱旋祭』には戦争が登場します。といっても、日清戦争でありますが。「戦争」を鏡花がどう取り扱っているのか、そして鏡花の作品で有名な観念小説との関連などについて、高柳典子さんと対談をすすめたいと思います。
門田 / 『海城発電』は、1896(明治29)年鏡花24歳の時の作品ですが、同じ年の書かれた『琵琶伝』(青空文庫作業中)とともにその内容の故に、最初の岩波書店版の全集(1940(昭和15)~1942(昭和17)年刊行)には収録されず、1976(昭和51)年の全集第2刷の際に別巻に収められました。『凱旋祭』も1896(明治29)年の作品です(こちらは最初の全集にも収録されています)。日清戦争は、1894(明治27)年から1895(明治28)年ですから、その翌年に『海城発電』『琵琶伝』『凱旋祭』は発表されたことになります。『女客』は1905(明治38)年、『妖僧記』は1902(明治35)年の作品です。『女客』以外は、文語体で書かれた作品です。
高柳 / 『海城発電』は、SF小説のような題名ですよね。最初この題名をみたとき、海の中の城で発電するとはどういうことなのか?と思ったものでした。異界と出入り自由の鏡花のことですから、海の中の異界の話かと。(笑)しかしこれは、中国の「海城」発の電報ということなのですね。最後まで行かないとそれがわからない。手元のある資料で同時代評として八面楼主人(詩人・小説家|山崎湖処子(やまざきこしょうし)1922年没)が「国民之友」第20号(1896年1月発行)面白いことを書いているのです。一部抜粋します。

不自然は鏡花氏の常弊なり、『海城発電』は不自然の最も甚だしきものなり。嗟これ渠の書肆 に逼られて、苦心経意の暇を得ざりしに由るにあらざるを得ん哉。然れども世界主義と国家主義の撞着、斯の如き大にして新たなる題目を捉へて筆を着けたる鏡花氏の功は、決して之を没すべからず。
鏡花の不自然に関しては語ることが多すぎて、一晩かかります。(笑)八面楼主人も指摘しているように世界主義と国家主義の撞着というのが意外でした。人間の醜さを異界で反映しているのが鏡花だと思い込んでいたからです。ただこの『海城発電』とはそういうことのなのだろうか?と思います。この話の題材、軍部と看護員でなくてもよかったのではないのでしょうか?
門田 / 『海城発電』という題名には、私もだまされました。似ている文字列で『海神別荘』(青空文庫作業中)なんて戯曲もあるので、てっきりそういう話かとおもっておりました。でも、実際の内容は、鏡花初期の観念小説の系譜につらなる小説でした。観念小説とは、『夜行巡査』『外科室』に代表される極端な状況における人間の判断をせまるような小説です。『海城発電』で、ぶつかっているのは、一般に正しいとされている常識とある確固たる理念ではないでしょうか。一般に正しそうに見えることの欺瞞をあらわにするために、軍部(の一部)が選ばれているように思います。「正しそうに見えることのあいまいさ」というモチーフは、『多神教』という戯曲でも取り扱っています。小説のスタイルとしては、第三者の視点を導入している点が面白いですね。『凱旋祭』も、全くの第三者の視点からの手記(手紙)という形式ですね。
高柳 / 常識と理念のズレですね。そうなんでしょうね。ただ私は、もし日清戦争がなくても、私は、鏡花はこれを書いたのではないかとおもうのです。それはもちろん軍部と看護員ではないですね。『海城発電』は、密室劇ですよね。鏡花の密室劇って他にありましたか? 鏡花作品を全部読破しているわけではないので、不勉強の至りでもうしわけありません。
門田 / はい、日清戦争という題材は、極端な状況の一例として登場しているので、私もそう思います。そういう意味では、鏡花が戦争をどう捉えていたのか、を知る材料にはならないということですね。『予備兵』という作品では、戦争の英雄を肯定的に捉えていますから。「恋愛」に関する常識と理念のズレを扱ったのが、『多神教』です。ある意味であの神様の言葉は痛快です。密室劇ということならば、鏡花の作品のほとんどがあたるのではないでしょうか。私も全作品を読んでいる(覚えている)訳ではありませんが、青空文庫収録の作品でも、『薬草取』は山の中というオープンな状況でありながら、妙に密室を感じさせます。『半島一奇抄』では舞台はタクシーの中のみです。どちらも回想でいろいろな場面が出てきます。『木の子説法』も芝居小屋の中で話が展開します。登場人物が限られて、大きな場面転換がないので、どれも密室劇のように感じてしまいます。
高柳 / そうなのですね、だから戦争ということであれば、『凱旋祭』は戦争そのものを描写しない方法をとっているのですね。手紙という形式で、書き手の目を通した凱旋祭。浮かれる人間が、浮かれるほど、少尉B氏の妻の悲しみがあるのですね。どちらに比重をおいたか、それとも比重など無関心であったのか、それはわかりません。わかりません、『凱旋祭』は、鏡花の中では稀有な作品なのではないでしょうか? ごめんなさい、『予備兵』が未読なので、そう感じるのかもしれませんね。
門田 / 戦勝に浮かれる多数の人物というのは、鏡花作品によく出てくる個ではなく全体を重視する人物であり、よく出てきます。『夜叉ヶ池』の村人などはその典型(自分の都合を全体の都合にすりかえてしまう)。『凱旋祭』の人物造形は、決して稀有ではないのですけれど、あの形式は稀有でしょうね。成功しているかどうかは別として。鏡花としては珍しく会話ではなく描写中心に物語が進行していますし。
高柳 / 正直な話、対談をするというので、幾作品かを慌てて読みました(笑)その中の一つだったのですが、何の迷いもなく私の中に入ってきたのは『凱旋祭』だったのです。会話がないというのもありますが、描写だけの力なんですね。しかしルポではないので、勿論虚構だと思います。思いますが、私は、この短い文章に「凱旋」という言葉の裏表まで書いてしまう鏡花の別の力を知ったような気がします。もしこれが、こういった文章だけを書く人だったらそうも思わないのでしょうが、異界出入り自由自在、何でもアリのような幻想作家泉鏡花が書くから感動してしまうのです。『妖僧記』の話もしないといけませんね。私は、これちょっと好きなんですよ。この妖僧、ちょっと可愛げがあるでしょう。最後に墓の前にいてお通さんを驚かすところなんか。
門田 / 『凱旋祭』は、『草迷宮』のような多視点で何かが浮かびあがってくるのではなく、あくまでも一人の視点(しかも手紙)の描写のみで、「凱旋」を描ききったことは、さすがですね。じっくりと読むとどこが虚構なのか、ということを話し合えると思いますが、まあ、その辺は本職の研究者に任せましょう。『妖僧記』の妖僧の可愛げというのは、『草迷宮』の茄子がきゅーと鳴くのに似たものでしょうね。実は、この小説も鏡花の典型である「墓参り」小説だったりします(第7回にて話します)。
高柳 / そうなんですよ。茄子がきゅーと鳴くあのお茶目な可愛さですね。でも茄子の鳴いたのを聞いてみたい(笑)「鏡」というものの魔力も中々です。人間が最後「ぎょ!」とするでしょう。鏡花の作品でこんなちょっとお茶目で人間が最後に「ぎょ!」として終わるのってありましたか?
門田 / 「それを食いなすったか」と冷静にツッコミを入れる小次郎法師がいい味を出しています。最後の場面で驚かせられるのならば『眉かくしの霊』や『古狢』があります。あとはどうでしょうか。私も全作品を覚えている訳ではないので。「お化け」の話は第5回のテーマですが、鏡花のお化けは、不条理なお化けと道理のあるお化けがあるように思います。こわいのは道理のあるお化けで、可愛く感じるのは不条理なお化けのように思います。
高柳 / 話題がちょっと賑やかな方へ行ったようです。「鏡花と戦争」そして観念小説ということでしたね。観念小説と広辞苑を繰ると泉鏡花の『外科室』と書いてあるほど、日清戦争を境に風靡した一つのジャンルですね。本当はもっとそれに触れなければならなかったですね。逆を言えば、その方面に関しては、十分研究されているのでしょうから。
門田 / 「観念小説」という名前は当時の文壇がつけたもので、鏡花が自称していたものではないように思います。一つのスタイルとして(小説の作法というか、形式として)あの形をとっていたように思います。形式はどうあれ、自分の感性をそのままに言葉にすることに取憑かれていたのではないでしょうか。語らないではいられない、といったような。文章の特殊性もあり、感性の特殊性もあり、そしてこだわっていた何か(言葉にすれば「母への思慕」となるのでしょうか)があり、多重の構造の中で、鏡花の作品は特殊であったのではないかと思います。 
『売色鴨南蛮』『小春の狐』『みさごの鮨』『鷭狩』
門田 / 鏡花特集、本日は『売色鴨南蛮』『小春の狐』『みさごの鮨』『鷭狩』が公開です。大正期の作品を集めてあります。妖しの者が登場する小説とともに鏡花の作品に多い、「情念」の世界がかいま見ることが出来るではないか、と思われる小説4編であると思います。鏡花作品に頻繁に現れるモチーフである「情念」に関して対談をすすめたいと思います。
門田 / 4作品は、1920(大正9)年から1924(大正13)年に掛けて発表された作品です。大正期の鏡花といえば、『眉かくしの霊』が有名ですが、他の作品はあまり知られておりません。そういう意味でも、青空文庫に収録するにあたり、大正期の鏡花を中心に入力作業を進めておりました。この4作品の中では、『売色鴨南蛮』は比較的有名で、短編集にも取り上げられ、また英訳本には"OsentoSokichi"という題名で英訳が収録されています。この4作品、別に妖怪は登場しないのですが、「情念」の世界の描き方は、なかなかに恐いものがあるように思います。
高柳 / 本日公開の4作品の中で、『売色鴨南蛮』だけが異質のような気がします。惚れた男のためにわが身を厭わない女性が出てくるという設定は同じですが、これだけは、『草迷宮』に近い。なぜ近いか? 隘路の奥に女性が棲んでいるんですね。入り組んだ向こうに居るのですね。それはどこか子宮を思わせます。だから母はわが身を捨てて、子を庇う。警察が踏み込んだときのお千さんの行動ですね。あれは母と子の関係とも見えます。
門田 / 手法として『売色鴨南蛮』は回想が主骨格になっているからではないでしょうか。『小春の狐』『みさごの鮨』は回想/フラッシュバックではなくカットバックでテンポ良く進んでゆきますから、迷宮を感じさせないのでしょう。個人的には、どの作品にも「異界」は出て来ないが「情念」が強くにじみ出ているように感じます。私が注目したいのは、『鷭狩』です。確かに「尽くす女」ではあるのですけど、最後の場面で、その関係が逆転しているのが気になります。静かながら、一番「情念」が恐いと感じました。作品の出来としては、『売色鴨南蛮』が一番かな、と思いますが。
高柳 / 『鷭狩』、私は、今日の公開作品の中では一番好きですよ。最後にいとしい男の小指を食いちぎるんですね。究極の話ですよね。こんな女性がでてくる作品って他にありましたか?
門田 / ある意味で強い女性が出てくる作品は少ないでしょう。強そうに見せて、実は、という女性が多いですからね。包容力のある(母のような)女性は多くても、『鷭狩』のような女性はいないのではないでしょうか。ええ、私も全作品を覚えている訳ではないので(繰り返しになりますが)。鏡花作品の男性は、過去においてだらしなくても現在ではしっかりしているというパターンが多いのですが(『売色鴨南蛮』など)、『鷭狩』では回想手法を使わないが故に、男が情けないままになってしまい、女性の強さ、そしてけなげさが浮き彫りにされているのですよね。『鷭狩』の鮮やかなラストに通じるという意味では『国貞えがく』のラストが印象的です。
高柳 / 『鷭狩』は、最初あまり色彩がないのですね、ところが主人公の男が、「鷭」が湖畔で泳ぐ絵を描いて大きな展覧会に入選したという。そこで読者は、「鷭」という全身黒い水鳥が湖畔で泳ぐ姿を思い浮かべます。そこから一気に鮮やかな色彩が飛び込んでくるのです。その鳥のために女は、血を流します。一端白々と明ける白山の薄紫の霧で色彩が淡くなる。その淡さは一瞬にして消されます。ラストに女が男の指を食いちぎる、パッと飛び散る男の血。その血が女の口元から。という実に鮮やかな手法です。
門田 / 場面の切り取り方がうまいのが鏡花の作品の特徴でしょうね。だからこそ、戯曲に向いているのでしょう。短編にしても長編にしても、その筋立てではなくある場面がくっきりと印象に残るのは文学としてはどうかと言われそうですが、鏡花の好きな人にはたまらない魅力でしょうね。さて、この4作品をまとめたのは、発表時期とその筋立てに「お化け」が出て来ない、という共通項があったからです。筋立てとしては、男女関係をいろいろな場面で描いている4作品です。しかし、すでに、話していますように、その内容は結構違いがあります。『売色鴨南蛮』は、主人公の描き方に初期の鏡花の作品の色合いが残っています。そして、物語の時間は、電車の待ち時間のわずかな間に回想を挟む事で遠い過去の話が展開します。他の3作品は、「回想」という観点では、『小春の狐』にわずかに昔の思出話が出てくるくらいで、あまり過去へのベクトルはなく、現実時間の中でストーリーが進行します。『小春の狐』では、鏡花にしては珍しい妙に淡い恋心を描いているようです。もっとも、やはり「母への思慕」に通じる年上の姉さんへのあこがれが基調にはなっていますが。「淡い」と書いたのは、小説としてフィクションの体裁はとっていながら、どこか随筆のような味わいのある作品であるからなのではないでしょうか。随筆というよりは紀行文ですね。『城崎を憶う』のような。『みさごの鮨』は、「北国一」の姉さんと「雑貨店」の姉さんの対比が面白いですね。鏡花作品の典型と見られるのは、実は「北国一」の姉さんだったりします。また、最後で、阿弥陀様のお顔を「そんなもの見とうはない。」と言わせていますが、鏡花自身は敬けんな仏教徒だったようですので、少し驚きました。『七宝の柱』を読んだ鏡花の印象と妙に食い違っています。そして、『鷭狩』は、夜中から朝方までの短い時間にストーリーが進行して鮮やかに終わります。最後の段落の前の時間の飛ばし方が絶妙です。男が情けないのは、『木の子説法』などにも見られますが、『鷭狩』の身勝手さは、名古屋の旦那の身勝手さとともに、印象が深いです。姉さんにとっては、名古屋の旦那も主人公も同じようなものなのでしょうね。
高柳 / 私は、岩波の鏡花全集なら評論が収まった28巻と旧全集から外れた作品や随筆が収まった別巻が欲しいというちょっと外れた鏡花ファンなのですが、『小春の狐』を読んでいて、別巻に収まっている『幼い頃の記憶』(明治45年5月)の話を思い出しました。5歳の鏡花は、母と連れられて船に乗っているのですね、そこで、「如何にも色の白かったこと、眉が三日月に細く整つて、二重瞼の目が如何にも涼しい、面長な、鼻の高い、瓜実顔」の女性に合うのですね。後に鏑木清方が描く鏡花の挿絵の絵のような女ですね。きっとそれが、鏡花の初恋?でしょう。『みさごの鮨』は、仰る通り、「北国一」のねえさんが典型ですね。お蔦さんみたいな。鏡花は、金沢出身です。なんといっても北陸は、真宗王国、それは根強いものがあったと思います。しかしこの場合は「そんなもの見とうない」でしょうね。あの世よりこの世。あの世にいく必要のないものがあの世に行かなければならない。世の中、仏もあったものではないと。『鷭狩』の姉さんにとっては、名古屋の旦那も主人公も同じようなものなのでしょうね。という門田さんの文章は、思わず「御意」と答えたくなる文章ですね。主人公への思いのほうが、僅かに勝っていたということでしょう。自分の人生を諦めていた女が、ふと出合った僅かな真実。そのために彼女は決心するのでしょうから。
門田 / 鏡花作品の「男性からみた女性像」は、どう切り開いても「母への思慕」に辿りついてしまうのでしょうね。このキーワードで見てみるとどの作品も、どうしても女性に母を重ねあわせていることになってしまいますね。この回の題名は「情念の世界」としてみたのは、その切り口をちょっと変えてみるとどうなるのか、を考えてみたかったのです。その切り口とは「女性の中の想い」です。男性からみた女性像に変化はないでしょう。しかし、その女性の中では何が起こっているのだろう、何を考え、思っているのだろう、と考えてみると、決して通り一遍な、ステロタイプな女性像ではないように思うのです。つまり、女性像としては、『売色鴨南蛮』『小春の狐』『みさごの鮨』『鷭狩』、どの作品に登場する女性も「けなげな」、そして「母」のイメージを投射した女性であるでしょう。しかし、女性の中の想いはどうでしょうか。『鷭狩』『売色鴨南蛮』では、人生をあきらめているなかで、正反対の選択をします。『みさごの鮨』では、「北国一」のねえさんは、決して人生をあきらめません。鏡花が想い描き、憧れた女性の中に何を盛込んでいたのか、私は、「情念」の深さをいろいろな程度で盛込むことで、キャラクター造形を行っていたように思います。その匙加減が面白いのではないかと。
高柳 / その匙加減で、情念の表れ方が違うのですね。母という原級があり、それは最上級でもあるのですね。その幅だけ、鏡花の作品の女性は生きることができるのですね。でもこの4作品の4人の女性、全部一人の女性だったら面白いですよね。相手によって、自分を変える。情念の形を変えることができる。『高野聖』の魔物の女は、男を変える。男を変えた動物の性格にするわけですね。そうやって男を替える。こういう読み方をすると鏡花における女性像も変わってくるかもしれませんね。
門田 / 鏡花の中では、一人の女性なのでしょうね。その女性のいろいろな側面を出してゆくことで、作品に幅を持たせていると。でも、その女性とは、現実の女性ではなく、母に代表される鏡花の心のなかのイメージなのでしょう。イメージだからこそ、奥深く様々な側面を見せることが出来る。極端な例えながら、『銀河鉄道999』(松本零士 作)のメーテルのような存在が鏡花のこころにはいたのでしょうね。 
『伯爵の釵』『怨霊借用』『化鳥』
門田 / 鏡花特集、本日は『伯爵の釵』『怨霊借用』、そして『化鳥』が公開です。『伯爵の釵』『怨霊借用』は大正期に発表されたちょっと恐い話です。『化鳥』は明治期の作品で、奥の深いところでは、ぞっとさせられる作品であると思います。ということで、鏡花作品に顕著なおばけの話をテーマに対談をすすめたいと思います。
門田 / 鏡花の作品には妖怪や妖しの者が沢山出てくる印象がありますが、実はそのような雰囲気は多いのですが、明確に怪談と呼べるものは少ないのではないかと思います。その中でも『伯爵の釵』『怨霊借用』はおばけや妖しの者がはっきりと出てくるので、鏡花の怖がらせ方を解きほぐすにはちょうどよいテキストではないでしょうか。『伯爵の釵』では、妖しの者は神様のようですが、なかなか正体をあらわさないもどかしさは、フラッシュバック、カットバックの手法でテンポ良く進められることで緊張を保ったまま読み進められます。一方『怨霊借用』では、正に怪談的な怖がらせ方の典型が展開しています。
高柳 / 『怨霊借用』では、鏡花はちゃっかりお桂さんに『山吹』(青空文庫作業中)を読ませているんですね。ところで、これは以前からお尋ねしたいと思っていたのですが、門田さんのご専門であります、細胞学、遺伝学ですか?からみた鏡花の「おばけ」ってどんなものなのでしょうね(笑)
門田 / 専門は分子遺伝学なのですけど、存在が確定しないものは科学では扱えないのですが。少し理屈っぽく分類してみると、鏡花作品には言うほど「お化け」は出てきていません。ここでいう「お化け」とは科学で扱えないものです。『草迷宮』の「まばたきの間の世界のもの」や『紅玉』の「烏」などですね。他は『夜叉ヶ池』の「白雪」、『竜潭譚』の「九ツ谺」などですね。これらは、全て地霊であり、土地に付随する異世界のものたちです。『伯爵の釵』に登場するのはこちらの例です。鏡花作品で恐いのは、むしろ異世界の眷属ではなく、人のこころが生み出した怨念などの方でしょう。こちらも私の専門では扱えないのですけど。存在そのものではなく、典型的な怪談の手法により鏡花の作品では「怖がらせる」ことに成功しています。何回も登場している違和感をうまいこと、恐さにすり替えているのでしょう。『怨霊借用』はその典型です。
高柳 / そうですか、門田さんの分野ではなかったですか。では、柳田国男や折口信夫に「おばけって何ですか」尋ねれば、これまた別の角度からそれぞれ異なった面白い答えが返ってきそうですね。(笑)二人と鏡花とのつながりは深いですから。特に柳田は、元々文学を志した人ですから、文学にも造詣が深かった。田山花袋と仲がよかったのですが、花袋が『蒲団』を書いてしっくりいかなくなるのですね。なぜか、花袋が、「作り話の面白さ」から離れていき、現実を追求しだしたかららしいです。鏡花の世界は、その柳田の言う「作り話の面白さ」なんですね。門田さんから薦めて頂いた鏡花の英訳本"JAPANESE GOTHIC TALES Izumi Kyoka" (Translated by Charles Shiro Inoue) のIntroduction の冒頭でThe comparison can be misleading—と断った上、アメリカの文学者がエドガー・アラン・ポーを研究するようにして、泉鏡花を日本文学では位置付けると書いています。ただし根底に大きな違いがあると指摘もしています。しかし"Gothic"という接点がある。というのですね。
門田 / "Gothic"という点では、怪奇小説と見られるのも仕方がないと。確かに鏡花の日本語の美しさ(これは第6回で話します)を省いたら、怪奇小説、伝奇小説の側面が浮き出てくるのでしょうね。英語に直した故に、見えてくる点ですね(気付かないのは私だけ?)。怪奇小説という意味では、「お化け」を使った驚かせ方を考えるのに、本日公開の『伯爵の釵』『怨霊借用』は面白い例だと思います。『化鳥』は怪奇小説とも伝奇小説とも言えないのですが、そこはかとなく恐い小説だと思います。『伯爵の釵』は、その内容があくまで幻想的なイメージを壊さずに進みます。水上滝太郎氏は、この作品を「鏡花そのものの目に映じた幻影」であると言っています。しかし、「お化け」という意味では、その存在が随所に明確に現れております。神様なのかもしれませんが。その一方、『怨霊借用』は現実的な進行の中で、明らかに作り物である鬼などの「お化け」が現れますが、本当に作り物?という不安をあおり、実は、という形式で驚かせています。怪談としては、『怨霊借用』の方が優秀なのでしょうね。描写と幻想の点では、『伯爵の釵』が上でしょうけど。
高柳 / 『伯爵の釵』は、「お化け」−「人間の形」、実体は「・・・・」というパターンですよね。イメージ的に折口が飛びつきそうな話でしょうか? 『怨霊借用』は、「お化け」−「異様な形」、実体は、「・・・・」というパターンですよね。イメージ的に柳田が飛びついてくれそうな話でしょうか?(笑)両方とも『草迷宮』、『高野聖』にでてくる異界の住人とは違いますよね。『眉かくしの霊』とも違う。道理のあるものとないものと区別でき、その下に細分化していくとツリー状の図式ができるのかもしれませんね。
門田 / 長編ではともかく単発の短編では、理(ことわり)とでもいうべき異界の住人の存在を描く間がないのでしょうね。実は、恐さの原因、理(ことわり)だけを描いているのが『化鳥』なのではないでしょうか。判断は読者にまかせる、と。それをうまく覆い隠しているのが、口語体の文章であり、少年の一人称なのではないでしょうか。道理のありなしという点では、『伯爵の釵』『草迷宮』は道理なし、『怨霊借用』『高野聖』は道理あり、だと思っています。道理ありの方は、どうしても日本の風土故か、因縁話になってしまうのですよね。『眉かくしの霊』は道理がありそうなのですけど、よくよく考えてみると、不条理なのですよね、あそこで登場するのは。あとは好みの問題かもしれませんが、私は道理なしの怪奇譚の方が好きです。道理=因縁で、しがらみのない恐い話の方が、美しく感じるのです。
高柳 / 『化鳥』は、「母への思慕」を軸に、「人間とは何か」という根本的問い、その彼らだけの秘密の答えだけが、アニマへ通じるのですね。そのためには、少年は、死と再生を潜り抜けなければならないのですね。その怖さですよね。
門田 / 『化鳥』は、鏡花初の口語体小説なのですが、明日公開の雑記の中で鏡花自身が言っているように、油絵のようなぼんやりした情景が描かれています。その実、形式は従来の観念小説の形をとっているのです。小学校の先生などの普通の大人とのやりとりを見ればわかるでしょう。そして、死と再生をくぐり抜けてしまったお母さんの恐さは、その独白によく現れています。実は、入力していてちょっと恐くなったところなのです。口語体にした利点は、観念小説独特の書き割りのような舞台(よい意味ではっきりしている)が、油絵のようなぼんやりしたものになって、「母への思慕」という鏡花特有のモチーフが浮かび上がってくるところです。「翼の生えた美しい姉さん」というイメージは、文語体では描写が難しいでしょう。それにしても、鏡花は謎を謎のままにしておくことが好きですね。何度読んでも「翼の生えた美しい姉さん」がなんだったのか、私にはわかりません。幾つか想像することは出来ますが。
高柳 / そうですね。くぐりぬけようとするものと潜り抜けてしまったものと。少年が流されていくときに、ちらっと母の姿が見えるでしょう。あの瞬間が、この話で一番怖いと思うのです。ひょっとしたら傘が川へ流れていくことが、何かの合図で、母は、猿が少年を川へ落とす羽目になるということを知っていたのではないのか。流されていく少年を、その五感で知っていたのではないのか。そうやって一端死ぬのだと。ただ、そこでひょっとしたら還ってこれないかもしれないのですよね、再生できるという保障はない。そこで母も試され、子も試される。何に?「翼の生えた美しい姉さん」は、少年は、羽根がないからと否定します。しかし母の化身かとも思えるのですが・・・それが母の試練なのではと思いました。それとも母の再生も助けた永久の物でしょうか?そうすると 連日マンガに話が行ってしまうのですが、今度は、手塚治虫の世界になっていきますね。(笑)真面目な話、これを読んでいて、『火の鳥』がちらっと頭を掠めました。
門田 / どうも私には「死と再生」のイメージをあてはめなくても解釈できるように思います。またもやマンガの話で恐縮ですが『ボーダー』(狩撫麻礼原作、たなか亜希夫画)というマンガに出てくる主人公のいつものセリフに「あっちの世界」と「こっちの世界」という、意味としては「世間に迎合して生きるかそうでないか」という意味合いの言葉があるのです。母は、「死ぬ思い」をして世間の欺瞞を許すことのない世界に身を置いています。そして、子供をその世界観である、悪い意味で世界をまっすぐに見ることを教えています。川で溺れることなくとも、少年はその世界に身を置いているのです。少年の一般の大人に対する態度は、『ボーダー』の主人公の語る「あっちの世界」の描写に似ていると思います。とすると、川で溺れることは何を意味するのか。私には、それは「死と再生」ではなく、「翼の生えた美しい姉さん」という「こっちの世界」での救いというか、極限への扉を開ける役割を果たしていると思うのです。「死と再生」のモチーフで解釈するのならば、少年は川から助かったところでそのイニシエーションをくぐり抜け悟ってしまってもよいのですが、少年は「翼の生えた美しい姉さん」の幻影を求め続けます。そういう意味では「翼の生えた美しい姉さん」が「死と再生」のモチーフであり、川で溺れることはその一段階に過ぎないように思えるのです。少年は母のような恨みに縛られた世界から、さらに向こうにいってしまっているように思えるのです。
高柳 / 「世間に迎合して生きるかそうでないか。」そうですね、それを母は子に説きます。そのズレに子どもは気づき、母の方を信じるわけです。「子供をその世界観である、悪い意味で世界をまっすぐに見ることを教えています。」の「悪い意味」とは?
門田 / 「世間一般の常識」にまっすぐな視線でその欺瞞を暴いてしまう少年の指摘は、『裸の王様』のようなものでしょう。しかし、その根底にある世界観は、母の語るものです。すべてを平等に、まっすぐに見ているような少年の視線の奥底にあるものは、孤独です。母が選んだ、「世間に迎合しない生き方」とは一人の殼に閉じこもることです。「悪い意味」と言ったのは、「世間に迎合して生きるかどうか」とは別に、他者の存在を受けいれることを拒絶したからこそ、得られる「まっすぐな視線」ではないかと思うからです。そうでなければ、少年は苦悩しないでしょう。世間とのズレは母の存在が打ち消してくれます。それでも少年は満ち足りないのであり、「翼の生えた美しい姉さん」を求めるのでしょう。まあ、最後は「母」の存在に満足し、悟ってしまっているのかもしれませんが。
高柳 / 『化鳥』の話をすると一晩でも語り明かせそうなのです。(笑) 他者の存在を受けいれることを拒絶したからこそ、得られる「まっすぐな視線」それは、あくまで母の視線です。それを少年は良く知っています。だから「お母様は、嘘をおっしゃらない」と何度もいいます。あたかも自分に言い聞かせるように。そういわないと獲得できないものがあります。それが孤独というふうに言い換えることができるのもかもしれませんね。そこまでは、門田さんと同じ読み方です。
—「翼の生えた美しい姉さん」という「こっちの世界」での救いというか、極限への扉を開ける役割を果たしていると思うのです。—
極限への扉というのは、何に向って開かれるのでしょうか?
門田 / 母のいる世界が閉塞したものであることは、少年も薄々気付いているのではないでしょうか。だからこそ、この世界の理というか正しさの証のようなものを求めているように私には受け取れます。この例えが正しいかどうかわかりませんが、「こっちの世界」での救い、そして極限への扉とは、仏教でいう「悟り」のようなものだと思います。そうすると、『化鳥』の少年は、母の怨念(怨念ですよね)を、あたかも宗教によって救っていることになります。母の存在を「救い」と重ね合わせることによって少年は救われ、そして、少年の存在によって母もまた救われると。ただ、この小さい世界の幸せは、幸せなのでしょうけれど、欺瞞ではない世間一般の常識から考えても、儚いものですよね。実は、この世界の幸せを認めるかどうか、がこの作品でも最も根源的に問いかけられているのではないでしょうか。そして、それは鏡花の「母への思慕」というモチーフを肯定するかどうか、にも関わってくると思います。 高柳
/ 孤独になっていくということは、一つの証明をしていくことでもありますよね。生き物は平等であるということを教えた母親の言葉を証明するために、「お母様は嘘をおっしゃらない」という信念で、ひとつひとつ母の正しさを証明していきます。しかし川から助けてくれた人を尋ねられて、母は困惑します。そこで少年は、困惑した母に疑問をもちながらも、正体を知ってはいけないのだと悟ります。自分には母がいるのだからと。母以上の人だと悟ったのでしょう。自分の中で母、以上の人を作ってはいけないのだと。まずなぜ少年が、川で流されなければならないのでしょうか? 母は、息子に助けた人を尋ねられて、なぜ困惑しなければならないのでしょうか? もし宗教だとしたら、「仏様が」とか「阿弥陀様が」で片付けるをすると思うのです。またそれが当時において自然な言葉だとも思います。この作品に宗教の匂いを私は感じ取ることができません。もっと原始的なもののような気がします。いつのまにか・・「おばけ」がどこかへ消えてしまいましたね。(笑)
門田 / ああ、本当だ。まあ、こういうのもアリの対談ですからよろしいのではないでしょうか。最後に一つだけ。宗教の原型である信仰というものを当てはめるのも難しいでしょうか。むしろ、母は宗教さえ否定しているということに起因しているように思います。 
『芥川龍之介氏を弔ふ』『作物の用意』『小説に用ふる天然』『小説文體』
門田 / 鏡花特集、本日は『芥川龍之介氏を弔ふ』『作物の用意』『小説に用ふる天然』『小説文體』が公開です。鏡花の文章はかなり特殊であると思います。その特殊性を解明する手がかりは、鏡花自身の発言にあるでしょう。今回の3作品から少し鏡花の文章作法などを考えてみたいと思います。また、当時の作家たちと鏡花のやりとりから、鏡花の位置づけなども考えてみたいと思います。
高柳 / 芥川と鏡花の関係を少しだけお話したいと思います。二人の接点は、「漱石」でしょう。芥川の師である漱石ですね、漱石は、『坊っちゃん』を朝日新聞に連載し、人気を博しました。その後釜の推薦を係りに尋ねられて、鏡花を推しています。鏡花は『白鷺』を書いてその期待に答えたのではなかったでしょうか。鏡花は言葉を尽くして、お礼を述べています。漱石を通じた芥川と鏡花は、鏡花の故郷、金沢へ一緒に遊んだりしています。鏡花の出版を記念してだったと思いますが、久保田万太郎たちと戯言を寄せ書きしています。その色紙は石川近代文学館に保管されています。鏡花全集の別巻に『泉鏡花座談会』が載っています。出席者は、泉鏡花、柳田国男、久保田万太郎、里美とん、菊池寛です。その冒頭に菊池がお化けの話をしようといいます。それに対して、久保田が「僕はお化けの話不得手だな。芥川君なら・・・」といいます。それに菊池が「芥川は今日はちよつと差支があつて」と答えます。この座談会の時点では、芥川の中で何がおこっていたかを菊池は悟っており、久保田はそれを知らなかった、若しくはおぼろげながら知っていても菊池ほど知らなかったということになると思います。座談会は昭和2年8月1日発行の「文芸春秋」に載ります。弔辞の日付と呼応しているわけですね。はてさて、鏡花の文章をどう思うかと尋ねられたら、なんと答えたらいいのでしょうか。一回から折々書いてきましたが。まず鏡花の文章に惚れこんでいらっしゃる門田さんならどうお答えになりますか?
門田 / 惚れ込んでいることを出来るだけ遠ざけて、理屈でまずは答えてみたいと思います(そうしない、いいものはいい!で終わってしまう)。まずは過剰なまでの描写が目につきます。これは、人物に関してです。人物造形は典型的なものが多いとはいえ、その華麗な描写は鏡花ならではのものではないかと思います。実は、海外の作家の描写に近いのではないかと思います(マイケル・ムアコックなど)。鏡花の小説が読みにくいのは、一つの文章が長く、「、」で次々とつながってゆくのですが、これが英語の小説における関係代名詞の多様とにたような効果を持っていると思います。つまり、過剰な華麗な描写が延々と続くので、疲れてしまうのですね。ただ、これは慣れると気にならない、いや麻薬のようなもので、なしではいられない(中島敦『鏡花氏の文章』参照)ものなのでしょうか。そして、第一点とは全く逆のことなのですが、会話を中心にした小説が多いため、読みやすいのです。描写が脚本のト書きと思えばよく、会話を中心にテンポよくストーリーが進みます。このテンポのよさをささえているのは、鏡花の文章の簡潔性であり、会話の的確さであると思います。また、テンポのよさは、その語調の歯切れのよさにも支えられています。二つの点をあげましたが、鏡花を読んだ事のない方には、思いっきり矛盾したことのように感じられるでしょう。しかし、鏡花の小説のスタイルを理解すれば、矛盾ではなくなります。おそらくメリハリが利き過ぎているのでしょうね。
高柳 / 学生時代、鏡花を最初に読んだとき、劣等感にさいなまれました(笑)これ、本当の話です。「読み取れない、わからない私が悪いのだと。」まずワンセンテンスの長さは、閉口しました。そうですね、英語の関係代名詞だと言われればわかるような気がします。慣れるためには、鏡花の頭の中に入らなければならないのですね。それがわかるのにまた時間がかかる。一つの小説で『伯爵の釵』という名称を与えられたらは、最後まで『伯爵の釵』とそれは呼ばれると思うのですが、鏡花の場合は、「鸚鵡」になったりするのですね。人の場合も同じです。つまり鏡花の都合で(?)名称が変るのですね。それに「鏡花と戦争」のところで八面楼主人が指摘していますね。「不自然は鏡花氏の常弊なり」と。これは門田さんにメールでお尋ねしましたよね。『高野聖』の僧だけがなぜ魔物に変えられなかったのかと。まあ変えられたらお話は終わってしまうのですが、それが明確に語られていないのですね。そんなこんなで、鏡花という人は、なんというか。私にしたら、理解不可能な人だったのですね。それがあるとき、”氷解”という言葉がぴったりな文章に会うのですね。文章も出会いですね。
門田 / いや、私も最初に読んだ時には、何がなんだか、さっぱりでした。多分、理屈で書いた魅力ではなく、「ああ、日本語が美しい」という思いだけで、ついつい繰り返して読んでいるうちに、鏡花の文章の麻薬にハマったのですね。ええ、いつかはわかりませんが、ふと「わかって」しまう時があるのでしょう。中島敦の書いているように(『鏡花氏の文章』)。でも、それでは、対談になりませんね。鏡花自身が書いているように、「油絵」のような文章なのでしょう。油絵の一筆一筆を緻密に議論する人はいないでしょう。普通に遠くから鑑賞することでしょう。それを小説に求めるのが鏡花の文章なのではないでしょうか。でも、油絵の一筆と違って、細かく文章を言葉のレベルで鑑賞することも出来るのが小説の場合の問題なのです。ちょっと離れないと分からない小説は、読者にとってはとっつきの悪いものでしょう。鏡花作品の入力をしていて、さすがに鏡花の文体が移るということはなかったのですが(そもそも私には無理)、移ってしまったら、さぞかし本職の時に困ったことでしょう。明確に短い文章をつなぐのが、科学の文章の基本ですから。
高柳 / 門田さんの「ああ、日本語が美しい」というのは、鏡花という人は、音律を大切にしたのですね。
『文章の音律』明治42年5月(未入力作品)より
「予は今の文章が眼にのみ訴へて、耳に聞かす文章でない、耳に聞かすなどいふ事を考へてもゐまいかと思ふ。(中略)音律といふ事は、文章の一機能である。文章に音律を没却して苟も文章とは云へない」
ところが私は、その眼に訴える文章が好きです。だから余計に鏡花の文章を理解できなかったのだと思います。ということで、世の中広いですから、鏡花を理解するのに困っているのは、私だけではないだろうという単純な発想で、文体に関するものの入力を決意しました。鏡花本人による本人の解読書とでもいいましょうか。
『小説に用ふる天然』より
「私の作などの中には、景色を見てから、人物を考へ出した場合が多い。『三尺角』や、『葛飾砂子』などは深川の景色を見て、自然に人物を思ひ浮かべたのです。然し天然を主にして、作意を害するやうな事は面白くありません。程よく用ゐたいものです」
『小説文體』より
「言文一致でごた/\と細かく書いたものは、近くで見ては面白くないが、少し離れて全躰の上から見ると、其の場の景色が浮んで來る、油繪のやうなものでもあらうか」
これらの文章の抜粋から鏡花の姿勢が理解できるのではないかと思います。つまり鏡花は、人間も風景の一つとして捕らえているのですね、「泉鏡花集成9」(ちくま書房)の解説で、種村季弘氏は、もっと適切な言葉で表現していらっしゃいます。「まず天然(景色)があって、人間はその添景として二次的に、いわば虫のように湧いてくるのである」と。妙な言い方ですが、作品を書く鏡花にとって人間は、風景にいる限り生きていようが死んでいようが大差はないのです。人間の内面を描写するのが文学と考えるものには、そこにズレが生じます。それが不自然という言葉になってくるのだと思うのです。そこまでいって、やっと私は、鏡花の「迷宮」の入り口へ辿りついたのですね。
門田 / 文学が人間を描くものであるとするならば、鏡花の作品は全てその基準には達していないのでしょうね。しかし、文学に現れる人間像は所詮、ひとが見た人間であるのですから、大なり小なりずれが生じてくるものでしょう。そこで、鏡花は極端にその現実性を捨ててしまったのですね。そういう意味で私に面白かったのは『作物の用意』の中の
「例へば茲に一人の人物を描くにしたところが其性格は第二、第一其人にならなければ不可(いけ)ぬと思ふと同時にまた一方には描かうと思ふ人物を幻影の中に私の眼前に現はして、筆にする」
という箇所です。つまり、鏡花の描く人物は鏡花のこころの中にある型に照らし合わせて正しい造形をされているのです。だからこそ不自然であり、違和感を感じさせるのでしょう。もっとも、作品に登場させるには「化粧」が必要とも言っていますね。初期作よりも後期の作の方が、不自然さが少ないのは、この「化粧」の技術が向上したのでしょうね。それでも、「こんな奴はいない」というレベルではあるのでしょうけど。人物が風景の一部になっていることは、鏡花の作品が戯曲に向いていることとも無関係ではないと憶います。そう、鏡花作品の中では、人物はいきいきとしていることを求められてはいないのです。芝居の、それも人形芝居のように、作者の思うがまま動く事を要求されている人形のようなものなのではないでしょうか。
高柳 / 仰るとおり、鏡花の描く人物は鏡花のこころの中にある型に照らし合わせて正しい造形をされるのですが、それは、あくまでも景色の一つのパーツでしかないのですね。確かに後期の作品では、不自然さが少なくなりますね。明日公開の2作品はあまり抵抗なく読めました。(明日を楽しみにして頂くために題名を伏せます)かといって、景色から離れているのではないのですね。化粧が巧くなったのでしょうね。鏡花と同郷で同門だった徳田秋声と比較してみると面白いのですね。ここで秋声を論じる余裕はありませんので、青空文庫に収録されている作品を読み比べて頂きたいと思います(徳田秋声の公開作品リスト)。そこでわかることは、秋声は、誰にでも書けることを誰にも書けない文章で書いたということであり、鏡花は、誰にも書けないことを誰にも書けない文章で書いたということではないかと思います。
門田 / 「誰にも書けないことを誰にも書けない文章で書いた」とは至言ですね。そんな鏡花を当時の作家たちはどうみていたのでしょうね。中島敦は『鏡花氏の文章』で絶賛していますね(志賀直哉との比較がちょっと面白い)。鏡花が弔辞を書いている芥川氏も『「鏡花全集」目録開口』で褒めちぎっていますね。ただ、鏡花の文体とこだわりは特殊であって、鏡花の弟子である水上滝太郎などであっても真似の出来ない作家であったのでしょう。"One and only"という言葉がぴったりくると思います。
高柳 / 中島敦の目のつけどころ、志賀直哉との比較は面白いですよね。志賀の文章も主語がない。しかし簡潔で、ワンセンテンスが短い。志賀の文章で、『高野聖』を読みたいとは思いませんね。反対に鏡花の文章で『城の崎にて』を読んだらどうなるか。蜂が蜂でなくなりますね。(笑)それぞれ内容に合った文章なればこそ、読み継がれて来たし、これからも読み継がれていくのしょうね。後の作家では、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫らが、鏡花に惚れこんでいます。その中でも三島と比較してみたかったという気持ちはありますが、それは、何れということに。 
『縷紅新草』『遺稿』
門田 / 鏡花特集の最後を飾るのは『縷紅新草』『遺稿』です。『縷紅新草』は生前最後に発表された作品で、『遺稿』はその後に見つかった原稿です。『縷紅新草』には鏡花の定型とも言える型がたくさん見受けられます。晩年の作ということで、円熟したその「定型」の魅力を中心に対談をすすめたいと思います。また、『遺稿』には、ルビが一切振られておりません(通常は総ルビ)。ルビの有無で作品から受ける印象が変わってくるのか、という点も話に取りあげたいと思います。
門田 / 『縷紅新草』は典型的な「墓参り」小説と言えるでしょう。青空文庫収録作品では『縁結び』がその一例です。第1回で取りあげている「回想」も多様されています。「回想」という手法は、多視点からの状況の描写であり、多面的に捉えてゆくことで、真実の姿が見えてくるという面白みがあります。また、夏のお堀端で身投げというモチーフも『女客』に見えるものですね。一方、『遺稿』では、妖しい灯籠の存在を取りあげています。第5回で取りあげた「おばけ」の出し方も円熟味が感じられます。ただ『遺稿』はこれで完結しているとは思えないので、評価が難しいでしょう。
高柳 / そうですね、『遺稿』に関しては、評価が難しいですね。それをちょっと横においておいて、鏡花がなぜ「墓参り」をよく使うのか、やはり金沢という真宗王国で生れ育ったということと無縁ではありませんよね。「墓参り」って、墓の下の人に会いにいくことなのですが、同時に自分の過去に会いにいくことでもあるのですね。
門田 / 小説の舞台として考えた場合、「墓参り」というのは鏡花にとって描きやすいシチュエーションだったのではないでしょうか。高柳さんのご指摘の通り、過去の自分へと話をもっていきやすいですから。『縷紅新草』でも『縁結び』でもそうですが、この「墓参り」が自分の両親などではなく、主人公にとって縁の深い他者の墓であるのも、注目しておいてよい点かもしれません。『縷紅新草』に登場するモチーフは、他に「夏の夜の身投げ」(未遂ですけど)が『女客』、挿入されている唄が印象的な働きをする点が『草迷宮』、「お化け」というか亡くなった人からのメッセージというところは『縁結び』『眉かくしの霊』、最後に驚かせてくれるのは『怨霊借用』『半島一奇抄』『古狢』など、と鏡花お得意のものばかりですね。これを一々話しているときりがありませんが、多彩なモチーフがうまく配置され、互いにけんかしあっていないのは、鏡花晩年の「化粧」の技量なのでしょうね。一つ、気になるのは「蜻蛉」という存在です。その象徴するものは、作中の初路さんへの謂われな批難でわかりますが、他にも何か隠されたことがありそうに思うことです。この点はどう思われますか?
高柳 / 「蜻蛉」、それも「赤蜻蛉」ですよね。真っ白なハンカチに刺繍された二羽の赤蜻蛉。血の色を想像させますね。しかし不思議とですね。私は、この作品を読んだとき、他の作品と全く違い、意味を問わなかったのですよ。なんというか、そのまま読むことができた。ゆっくりと流れる風景映画でもみるように読みました。そして初めて、鏡花の世界は美しいのだなと素直に思いました。観念小説にもない、幻想小説にもない、なんというか、自然な美しさですね。芥川龍之介の『歯車』にでてくる余命短い甥が、透明な目で景色をみるような、そんなものがこの作品には、あると思うのです。誰が教えたということもなく、寿命というものを知っている赤蜻蛉が、その最後の力を振り絞って次の生へつなげようとする、それを初路さんは、真っ白なハンカチに一針、一針縫い込んでいくわけですね。その赤蜻蛉がハンカチから飛び立ったように、辻町とお米の前に現れるのですよね。
門田 / この作品が鏡花にとっての到達点であったのかどうか、は議論の分かれるところでしょう。昭和期に入って、鏡花は20編ほどの小説を残しています(ちなみに、明治期は170編ほど、大正期は100編ほどの小説を残しており、大体一年に8〜10編ほどの作品を発表していることになります)。14年ほどの間に20編です。その全ては、『縷紅新草』のように、自然に受け止められる作品ではありません。青空文庫には、『半島一奇抄』『木の子説法』『古狢』『貝の穴に河童の居る事』『絵本の春』が収録されています。読んでいただければわかるかと思いますが、いろいろと試みを続けているように思います。その流れからすると、『縷紅新草』はこれまでよく使っていたモチーフを自然に見えるように沢山使ってみよう、という試みから生まれた作品にも思えます。素直に肩の力が抜けたため、と思えないのは、『縷紅新草』の前後に書かれたと思われる『遺稿』では、未完成であっても、また新しい試みが感じられるからです。未完成故に、その新しい試みが何か、を話すのは控えますが、『縷紅新草』と『遺稿』の双方に共通するモチーフは、「蜻蛉」そう「赤蜻蛉」なのです。もう少し鏡花が長生きしていたら、私達は「蜻蛉」をモチーフにした連作というか、新しい鏡花作品を読めたのかもしれません。
高柳 / 「赤蜻蛉」、共通モチーフですね。糸七も『遺稿』にはでてきます。私は、別々に考えていましたが、連作という方向を考えたら、仰るとおりでしょうね。片方は、北国の空で生から生へつなげようとする、もう一方は、伊豆の空で。『縷紅新草』もこれまで使っていた墓参りというアイテムで入れ子式に話は進む、昨日書きましたが、景色を描いていることに変わりはない。しかし自然なんですね。その自然に「赤蜻蛉」が溶け込んでいるのでしょうか?鏡花がなぜ赤蜻蛉に拘ったのか?郷愁でしょうか?
門田 / もう想像することしか出来ませんが、もう1作あって連作が完成するのではないでしょうか。鏡花の生まれ育った北国、そして病気のため療養で過ごした逗子の近くである伊豆、の二つの土地を舞台に、「赤蜻蛉」をモチーフに2作品を書いている訳ですよね。おそらく、あともう一つは東京のどこかを舞台にしたのではないでしょうか。『縷紅新草』にたくさんの「定型」が見られるのと同様に『遺稿』にも『縷紅新草』とは違った「定型」がたくさん見られます。到達点ではないにしても、これまでの「定型」モチーフを全て折り込もうとしている姿勢が見られると思います。共通なモチーフである「赤蜻蛉」を、主人公である糸七ではない、他者の回想で浮かび上がらせるという手法は『縷紅新草』『遺稿』のどちらにも見られます。そして、『縷紅新草』では、第4回で扱った「情念」が中心になっていて、第5回で扱った「お化け」は脇役のように思います。『遺稿』では、「お化け」を中心にしているところが、少し『縷紅新草』と違います。私の勝手な妄想の中にある第3作は、東京、おそらく下町の舞台として、鏡花の得意であるモチーフ「旅」または「藝」を扱っているのですよ。「赤蜻蛉」の象徴するモチーフが郷愁ならば、最後は、糸七に「旅」の中で郷愁を思い起こさせることも出来るでしょう。「藝」ならば初心を語ることが、郷愁にもつながるでしょう。『縷紅新草』『遺稿』ともに、高柳さんのおっしゃるように自然です。鏡花の定型を知った上で、落ち着いて、鏡花の定型を楽しむことが出来るでしょう。そういう意味では、到達点かどうかは別として。晩年の鏡花の筆の冴えというか、円熟の味を楽しむにはちょうどいいですね。
高柳 / 到達点ではないでしょうね。鏡花の中には、まだまだ構想が練られていたかもしれませんね。金沢。伊豆。東京。『縷紅新草』では、東京でも赤蜻蛉は飛ばしていますね。もし還るということが鏡花の頭にあったのならなぜ赤蜻蛉でなければならないのか。母の言い伝えで大切にしていた”兎”ではないのか。兎をモチーフにしてもよかったのではないのか?金沢の街には二つの川が流れています。浅野川と犀川。鏡花は、浅野川に近いところで生まれ育ちました。その浅野川では、友禅流しの風景が普段のものだったと思うのです。色鮮やかな布が、長方形の布が、ゆっくりとながれる。それを鏡太郎少年は、飽きずにみていたのでしょう。少年がふと目を上げたとき、赤蜻蛉、その向こうに市内を囲む山々。その風景に鏡花は還ろうとしたのではないのでしょうか?鏡花の母は、12月に亡くなっています。『縷紅新草』も北国の冬の小春日和。最後にお米がいいます。「私、こひしい。おっかさん」と。こんなに明確に母を恋しいと言わせたことはなかったのではないでしょうか?未読の作品の数の方が多いので、これを言っていいのかわかりませんが。しかし私は、この一言に感動しました。長い間鏡花の中にあったものをぽろっと、それも女性の口から言わせる。そのものを言わせるということは、衣装がいらないのですね。だからもう彼には兎が必要でないのでしょうね。彼に必要なのは、母がいた風景なんですね。今までの作品は母への思慕が軸にありました。しかしそれが、軸から風景そのものに、母もその風景の中のパーツのひとつになっていったのではないかと思います。
門田 / そうです。晩年だからなのかわかりませんが、鏡花はこれまでの人生でみた風景を振り返っているのでしょう。糸七が鏡花の分身であるとすると、長年暮らしてきた東京の物語があってしかるべきでしょう。あるかどうかわからないものですが、読んでみたかった、と切に思います。鏡花は、金沢を出て東京に行き、金沢に戻ることはなかったのですよね。物語に登場する北陸は、鏡花の中の思出の姿なのですよね。『縷紅新草』の風景が美しいのは、鏡花の思出の中の風景だからではないでしょうか。観念小説の衣をかぶせて始めた鏡花の小説は、どうしても「母への思慕」というモチーフがにじみ出て来ずにはいられませんでした。その「母への思慕」の先にあるものとは、実は帰ることのなかった故郷への想いなのではないでしょうか。高柳さんのおっしゃるように、「母のいる風景」へと帰っていきたかったのでしょう。「赤蜻蛉」のモチーフは「郷愁」なのでしょうね。話題を変えますが、『遺稿』はその成立故、ルビが振られておりません。編集者が振ったルビをチェックする鏡花がいないからでしょう。鏡花を読み慣れていると、こう読ませたいのだろう、ということは想像がつくのですが、いきなり『遺稿』を読んだ人は、どう読んでいいかわからない単語が多いのでしょうね。鏡花作品は、「鏡花全集」が旧字旧仮名総ルビで、岩波文庫、ちくま文庫などの文庫本に収録される際には、新字旧仮名または新字新仮名に変わり、そしてルビは一部省かれています。にして、ルビは相当多いのですから、鏡花特有の読ませ方が多いことがわかります。『遺稿』が未完成に感じられる一因は、ルビの欠如ではないかと思います。やはり鏡花作品では、ルビの作品の一部であり、特に音律に重要な役割を果たしているように思うのです。
高柳 / 小林秀雄が『鏡花の死其他』の中で、面白いことを言っています。
「鏡花の世界は、音を省いた詩の世界であつて、言つてみれば、現實の素材といふ樣なものがない」
鏡花の世界には音が省いてあり、現實の素材というものがないからと。しかし詩の世界なんですね。言葉の音律の世界なんですね。ルビの効用でしょうね。
門田 / そうですね。第6回で高柳さんが紹介してくださった『文章の音律』にもあるように、耳で聞いた時のことを想定していたということですね。耳で聞くことを意識していることは、芝居向きであることとも関係があるのでしょう。詩の世界でありながら、聞いてわかる語り口、どうやらその辺に鏡花作品の魅力があるのですね。確かに私が鏡花の作品を好きなのもこの音律が気にいっているからですから。さて、話は尽きませんが、対談はひとまずこの辺でおしまいにしたいと思います。1週間渡って続けて来ました対談ですが、これで最終回となります。最後に、鏡花および鏡花作品について、一言ずつコメントを残しておしまいとしましょう。
高柳 / この1週間ありがとうございました。今でも門田さんの対談相手として、私でよかったのかな?と思います。もっと多くの作品を読んでいらっしゃる方の方がよかったのでは?とも思います。黒子に徹していたほうが性にあっていたかもしれませんね。で、鏡花作品については、今度『縷紅新草』から年代を遡って読んでみたいですね。そしたらまた違った鏡花が見えてくるような気がします。鏡花という人は、恐らく不世出でしょうね。
門田 / 著作権が切れた作家はたくさんいます。その中で今でも読み継がれている作家はそれほど多くはないでしょう。鏡花はその一人だと思います。教科書の文学史にも名前も代表作ものっているのだから当たり前かもしれなけれど、名前は聞いたことがある人が多いはずです。でも、300編を越える小説・戯曲のうち、手軽に読める作品はそれほど多くはないのが実情です。鏡花の作品を出来るだけ多く、未来の孫子の代に手軽に読めるようにしておきたいと思って、青空文庫で作業をしています。中島敦が『鏡花氏の文章』で言うように「日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなもの」なのですから。鏡花の作品を読み、青空文庫の作業で入力、校正をしているうちに、思うことはたくさんありました。でも、それを言葉にするのはなかなかに難しいことでした。高柳さんの視点からのお話、そして質問がなければ、うまく言葉にすることは出来なかったでしょう。いろいろなお話が出来て楽しかったです。ありがとうございました、高柳さん。 
鏡花雑談
門田 / 公開される作品に関して、言いたい放題を書き綴ってきました。ハイテンションはいつものこととして、妙に肩に力がはいっていたようです。肩の力を抜くためにも、最後に番外編として、「鏡花雑談」と題し、作品とは関係のないことを余談として、話してみたいと思います。
門田 / 1週間毎日、aozora blogに投稿してきました対談は、2週間ちょいの間に200通を越えるメールのトラフィックスから生まれたものです。もっとも、対談の本旨からそれる雑談もたくさん含まれていますから、数字に意味はないでしょう。まずは、鏡花との出会いからでも少し話してみましょうか。私が鏡花を初めて読んだのは高校生の頃、『草迷宮』が最初でした。まだ岩波文庫で「鏡花短編集」がなかったと思います。『歌行灯』の岩波文庫が、旧字旧仮名で、パラフィン紙のカバーだったと思います。鏡花と言えば、お化けということで『草迷宮』はおもしろかったですね。『歌行灯』は言葉遣いが特殊だったのか、さっぱりでした。とにかく、お金がないので文庫で読める鏡花をぼちぼちと読んでいましたね。文庫に収録されている作品のみですから、『高野聖』や『眉かくしの霊』、めずらしいところでは、『薄紅梅』や『縷紅新草』でしょうか。図書館で古い岩波文庫の『照葉狂言』を借りてきたこともありました。旧字旧仮名だったので、読めなかったはずです。
高柳 / 200通になりましたか・・・そうですね、雑談が半分以上ですね。高校生で『草迷宮』をお読みなるとは、それも面白さを発見されるとは・・・門田さんは、SFがお好きでいらっしゃるから、”時間が飛ぶ”ということが何でもないことなのでしょうね。「太宰病」の高校生である私には、無関心な世界でしたね。学生時代も『高野聖』を読んだ、というか読まされた、という覚えしかなく、魔物って何?どこから来たの?なぜこの僧だけが変えられないの?等々と次々に湧いてくる疑問に我ながら閉口しました。其の後、今から思えば、何を読んで再び放り投げることになったののか、それすら覚えていないほど縁遠い存在でした。映画は割りに好きですから、『夜叉ヶ池』と『天守物語』を見て、それを読んだだけでした。数年前「青空文庫」を何気なく彷徨していて、ちょっと『高野聖』を再読と思い開いたら、疑問は疑問として残るものの、昔ほど拒絶していない自分に気づきました。少しずつ本数を増やして行きました。きっと私の人生経験が少しずつそういう世界も受け入れることができるようになったのでしょうね。金沢へいくことがあったので、「ちへいせん」へレポートを書かせて頂いたりして、少しずつ鏡花に近づいていきました。
門田 / 「太宰病」に関しては、高校時代の私は全く逆でした。国語の教材で『斜陽』を読んだのですが、いやあ、私キライでキライで。私小説の限界を感じておりました(最近、あるきっかけで読み直して太宰の文章のうまさはよくわかるようになりました)。どうして鏡花を読みはじめたのか、は思い出せないのですけど、「こういうのも日本文学にはあるのか」と思った覚えがあります。そして、「日本語が美しい」と思っていました。それでも、さすがに29+1巻ある鏡花全集は幾ら何でも多すぎて、読もうという気にはなりませんでした。「鏡花 小説・戯曲選」を少しだけ読んでいたと思います。新字新仮名で読もうとすれば、文庫本しかないのですけど、それほど多くの作品は読めない、という状況が続きました。大学院を卒業する頃だったと思います。ちくま文庫が「泉鏡花集成」の刊行を始めました。とにかく嬉しくて、毎月書店に予約して買いました。全10巻のはずが、好評のため、4冊追加(しかも長編ばかり)にも大喜びでした。物好きな私は、外国留学する際にこの「泉鏡花集成」全14冊を抱えていったのですね。この底本が手元にあったから、青空文庫の活動を始めることが出来たのですから、偶然とは恐ろしいものです。まあ、今では「鏡花全集」も購入してしまいましたが。
高柳 / 門田さんと折口信夫で拘らなければ、私は、鏡花の良さを見逃したことは、確かです。「泉鏡花集成」は毎月1冊ずつ購入しています。14ヶ月かかって、揃えるつもりでいます。先日友達が「毎日aozora blogを読んでいるよ」と言いにわざわざ立ち寄ってくれました。心から嬉しかったですね。そしてそのとき彼女が徐に言うには、「鏡花をよく読んでいるよね」と。それに対して「鏡花、苦手なの」と答える私です。彼女は驚いていました。記念館のレポートを書く、対談するというから、熱烈な鏡花ファンだと思われても仕方がないですね。私は、苦手だから、攻略してみようかですが。それも正面からいっては無駄なので、側面から、鏡花の生い立ちなどから攻略して行こうと。鏡花が『草迷宮』を外から描いていったように。鏡花に対する私の疑問の根本は、不自然さですから、まずそこから攻略してかからないと私は前には進めないのですね。だから文体に関する本が中心になるのですね。それが”描く”ということの根本から違うのだと知ったとき、本当に氷が解けたように思いましたもの。(笑)なぜ自分はそこに気づかなかったのだろうかと。
門田 / 折口信夫に関しては、高柳さんがいなかったら、こんなにもたくさんの作品に触れることはなかったかと思います。ちくま文庫の「泉鏡花集成」の初刷本には、帯がついているのですが、そこに作品から書き出した一文が、記されています。並べてみると面白いのでちょっと抜き出してみましょう。
1巻 / 令嬢とともに暖かに寝(い)ねたれば
2巻 / 美人は顧みて「あれ」と身を震わし
3巻 / ざまあ見ろ、女の懐を出られやしまい
4巻 / いいえ誰も見てはおりはしませんよ
5巻 / 情の火が重なり、白き炎の花となって
6巻 / 唇ばかり、埋め果てぬ、雪の紅梅
7巻 / 貴方の、ほのかな、口許だけでも…
8巻 / ふくら脛(はぎ)が白く滑かにすらりと長く
9巻 / 耳もとにその雪の素顔の口紅。
10巻 / 白い胸を、片手でかき上げるように
11巻 / 二人の呼吸(いき)のみあたたかに、そっと
12巻 / それでは色仕掛になすったんだね。
13巻 / 正しき膝を柔かに、はじめて崩すと
14巻 / 足と足と、白々と、ちらりと闇に
短い言葉でも鏡花の作品は印象深いと思いますね。
高柳さんがそこまで鏡花が苦手とは思いませんでした。でも、苦手な人が側面から考える視点でみることでわかることもあるでしょうね。私のように、文学の素人からの視点と同様に。さて、雑談ですから、話は飛びます。この1週間で公開された作品のうち、門田入力担当分のほとんどは、留学先のカナダで入力していたものです。『草迷宮』は、下宿先の部屋が浸水して放浪している時に、底本(とノート型コンピューター)を持ち歩いて、ぼつぼつと入力していたものでした。『売色鴨南蛮』や『みさごの鮨』は、もっととんでもなくて、アメリカ(ニューヨーク)、イギリス(ロンドン、ケンブリッジ)など、旅の最中にコツコツと入力していた作品です。今では、スキャナー(名称:山嵐)君とOCRソフトが大活躍していますけど。
高柳 / 私の本は、14巻だけが初版ですから、帯がついているのですが、こうやって並べて頂くと、なんと申し上げてよろしいのやら・・・ 抜書きだけの言葉でも一行詩ですね。言葉に艶があります。でも思わず下を向いて赤面しそうです。これは男性だから書ける言葉なのですね。鏡花は、門田さんと旅をしたのですから、「鏡花、世界を旅する」ですね。鏡花は、「東海道膝栗毛」が好きだったそうですから、それの世界バージョンということになりますか。(笑)「西洋文化に囲まれ鏡花を入力する」ですね。鏡花と外国文学の関係はどうなるのでしょうか?ポーのことは対談にいれましたが、鏡花自身、影響をうけるということはなかったのでしょうか?
門田 / 鏡花も男性ですよ。私はあまり気にならないですけど(鈍感?)、赤面するほど艶がありますか。詩のようにきれいな言葉であることは確かですね。さて、どれがどの作品から取られているのか、これからぼちぼちと見つけてみて下さい。「東海道膝栗毛」は鏡花のいろいろな作品に顏を出しますよね。青空文庫収録なら、『歌行灯』『眉かくしの霊』かな? 紀行文は基本的に弥次喜多道中で書かれていますよね(『弥次行』『城崎を憶う』など)。鏡花の旅のガイドブックなのでしょう。鏡花の研究書、研究論文を網羅した訳ではないのですが、文庫、新書の解説書には、「東海道膝栗毛」を取り扱った解説、研究はないですね。面白いと思うのですけど。海外文学とは少し違いますが、外国の人は鏡花の初期作によく登場します。『金時計』『海城発電』などですね。観念小説の間は、よく登場していたようです。そうでない例もあります。『一之巻』に始まる自伝的小説(一から六まで、完結編として『誓之巻』がある)の一群には、外国人女性が登場します(英語の先生だったかな?)。『誓之巻』は「泉鏡花集成3巻」に収録されていますし、『一之巻』〜『六之巻』は門田入力中です。次はこの6作品を仕上げようと考えています。現在作業中の『誓之巻』は新字新仮名なので、『一之巻』〜『六之巻』に合わせて旧字旧仮名も入力してしまおうかな?とも考えています。外国の地名は、『城崎を憶う』にバンクーバーとシアトルが登場しますよ。
高柳 / 今お聞きしておもったのですが、反対に外国文学に影響されなかったという頑固さがあるのではないでしょうか?小林秀雄が『鏡花の死其他』で「視野の狭さ、頑固さ、或は感受性のある傾向」が純粋な形で小説に現れているというのですね。そこが鏡花の魅力なんでしょうね。地名は、「バンクバー、シヤトル」なんですね。
門田 / 外国文学の影響に関しては、当時の状況もわかりませんし、私には判断がつきません。ただ、鏡花の根元にありそうに思うのは、「東海道膝栗毛」とか草双紙とかでしょう。筋とか理屈を抜きにした作品が根元にあるから、鏡花の作品の筋はかなりまずいことになっているのでしょう。外国文学に影響をもし受けたとしたら、詩でしょうね。そんな気がします。
高柳 / 「雨月物語」も愛読書だったといいますから、その方面から考察すると随分面白い比較ができるのではないかと思います。青空文庫で入力中作品である、内田魯庵訳の「罪と罰」を読んで、感銘した島崎藤村は「破戒」を書いたのですね。明治になって外国文学が入ってきて、それに”被れる”という現象は鏡花にはなかったように思います。それだけ、視野が狭く、頑固だったということですね。仰るとおりで、反対にそういったものが、入っていたら、もっと理屈に適っていたということですよね。現代の基準に合わないことが鏡花の世界には多々ありますよね。『売色鴨南蛮』の宗吉さん、煎餅一枚で死のうとするんでしょう・・現実と理想の狭間でもがくということでしょうが。
門田 / 時代の感覚というものは鏡花の生前と現在でも変わっているので、一概には言えないと思いますが、鏡花の時代でも鏡花作品の感覚は特殊というか、時代から外れていたのでしょうね。ただ、『夜叉ヶ池』はハウプトマン作「沈鐘」の影響を受けている、というか翻案のようですので、決して外国文学に影響を受けている訳ではないと思います。まあ、その辺は研究されている方に任せましょう。青空文庫の作業で鏡花を扱ったことは、私にとって幸せなことでした。これまで、本で読んでいましたが、どうしても早く読んでしまうためか、味わい尽くすということは出来なかったように思います。手入力で一文字一文字読んでゆくことや、校正でじっくりと読むことが出来て、改めて鏡花の文章はいいなあ、と思いながら作業をしていました。おそらく、研究されている方はこのくらいはじっくりと読んでいらっしゃるのでしょうね。
高柳 / 作業をしながら、読むという行為は、私にはできないのですが・・・ 研究者でもなんでもない、一介の文学好きが言っていいのかどうなのかわかりませんが、本人の作品を読み解くという行為は大前提でしょうが、一人の作家を研究するためには、何人の作家を読まなければならないのか、ちょっと想像がつきません。鏡花の場合、本当に研究するとなったら、「雨月物語」−「日本霊異記」辺りまで遡らなければならないでしょうし、当然「東海道膝栗毛」に草子物もでしょう。もちろん紅葉の作品群、鏡花が拘った文壇の作家たちの批評と。鏡花が影響を与えた作家ともなると恐ろしい冊数の本が積み重なっているのが目の前に浮びます。そうなるとやっぱり「鏡花の文章はいいなあ」でよろしいのではないでしょうか。
門田 / 研究というものは大変なものですねえ。ただ、テーマの絞り方で勉強する分野を限ることは出来そうです。鏡花を理解したい、なんてとんでもないことを考えると、一生かかるテーマになってしまいそうですね。そういう意味では、この対談は出来の悪い(少なくとも私のパートは)感想文みたいなものでしょうね。一人で書くと煮詰まる感想文も、対談形式なら楽にかけると。来年の夏にはこの方法を提案してみましょうか。青空文庫で鏡花の作品の作業をしていて強く感じるのは、有名な作品だけでなくいろいろと鏡花の作品を読んでほしい、ということです。有名な作品は、文学史の上では重要でしょうが、他の作品もいろいろと読んでみると、教科書の文学史には出て来ない鏡花作品があることに気付けるでしょう。表現や描写が古いかもしれませんが、結構面白い作品があるじゃないかな、と思っていますので。そんな入手困難な作品が手軽に読めることが青空文庫のよい点なのですから、これからも鏡花作品の作業を続けたいと思っています。
高柳 / 表現や描写が古いから、新鮮だとも言えます。対談式感想文ですか? それも面白いですね。門田さんも私も、文学者ではありませんから、平易な視点から話ができたのではないかと思います。私たちの話から派生するものがあって、読んでもらった人たちの世界も少しずつでいいですから、広がっていき、それをまた「みずたまり」などで書き込んでもらって、私たちの還元してもらえたら幸せですね。
門田 / 古いから、とか、難しそう、という先入観を少しでも減らせたら、と思っています。この一連の対談がきっかけで、鏡花を読んでみた、という人が一人でも増えるのなら、望外の幸せです。おそらく、また何かの作品が公開される折には、この二人の組み合わせで対談という名の言いたい放題をやることもあるでしょう。その時まで、しばしお休みです。皆様、ありがとうございました。 
 
鏡花ごのみ

 

柄にもなく、美人の研究をしようと思い立った。とはいっても、クレオパトラの鼻の寸法を調べようというほどヒマではない。泉鏡花先生の作品のいくつかから、美人の形容を抜き出して、そいつをさかなに麦焼酎を一杯やろうという、薄氷堂にしてはなかなか粋な研究なのである。野暮天のすることだから、至らぬところも多いかとは思うが、おつきあいのほどを。 
1.色あくまでも白く……
伝統的に、美人といえば、まず色白というのが相場である。最近では、小麦色の肌というのに人気があるようだけれども、せっかく白いものをわざわざ金をかけて焼くことはあるまい、というのは老人のくりごとかもしれない。
「顔の色飽くまで白く……」 (『外科室』貴船伯爵夫人)
「凍てたる月に横顔白く……」 (『照葉狂言』お雪)
「真白な頬に鬢(びん)の毛の乱れたのまで……」 (『註文帳』遊女の幽霊)
「透通るやうに色の白い……」 (『婦系図』お蔦)
「……色の白さは凄いやう。」 (『眉かくしの霊』幽霊)
「……清く澄んだ頬が白い。」 (『薄紅梅』京子)
「女のその雪のやうな耳許から……」 (『薬草取』花売)
「真白な気高い顔が、雪のやうに、……」 (『国貞ゑがく』女の幻)
阿寒の雪のように白い肌というのは、なかなかいいではないか。ほんのりと浮かんだ頬の紅、つややかな黒髪が映えて、つい授業料を払おうかという気になる……かもしれぬ。  
2.鼻筋通って……
鼻筋が通る、というのは、男女を問わずりりしい感じがしてよろしい。小生などは、せっせと指でつまみ上げているのだが、いっこうに通りそうにない。
「鼻高く、頤(おとがひ)細りて……」 (『外科室』貴船伯爵夫人)
「鼻筋の通つた……」 (『註文帳』遊女の幽霊)
「鼻の準縄な……」 (『婦系図』芸者小芳)
「鼻筋の通つた顔を、がつくりと肩につけて……」 (『婦系図』お蔦)
「鼻筋通つて……」 (『眉かくしの霊』幽霊)
「鼻やや高く……」 (『竜潭譚』九ッ谺の女)
「鼻筋のすつと通つた横顔が仄(ほの)見えて……」 (『国貞ゑがく』女の幻)
こうズラリ鼻の並んだところは壮観である。「鼻が高い」というのは「鼻筋の通った」と同じことだろうが、「鼻の準縄(じゅんじょう)な」とは聞きなれないことばである。「準縄」を広辞苑で調べると、「規則、手本」とある。わかったようなわからないような形容というほかない。そこで、漢和辞典にあたって見ると、「準」には「はなばしら、鼻筋」という意味があり、「縄」には、「まっすぐな」というイメージがあるから、やっぱりこれも「鼻筋の通った」という形容になる。
鼻といえば、漱石の『猫』に通称鼻子という俗物が出てくる。このオバタリアンには、苦沙弥先生も散々な目に会うのはご承知のとおり。いったい、自慢することを「鼻が高い」というくらいだから、ツンツンした印象を受けがちであるが、わが鏡花の場合は、決してそういう含みのないことに注意する必要がある。  
3.髪いと黒く……
女性にとって髪の大切なことはいうまでもない。女性だけではなく、秋の到来とともに、淋しくなった生え際のあたりを鏡に映しては嘆いている男性もおられよう。金髪ごのみの方もおられるかとは思うが、やはりわが国の女性の髪は、あくまでも黒く、艶があり、しかも豊かなのがよろしいと、小生はひそかに信じている。
「纔(わづか)に束ねたる頭髪は、ふさふさと枕の上に乱れて……」 (『外科室』貴船伯爵夫人)
「髪のいと黒くて艶やかなるを……」 (『照葉狂言』お雪)
「洗髪の潰島田、ばつさりして稍ほつれたのに横櫛で……」 (『湯島詣』芸者蝶吉)
「髪は房り(ふっさり)とするのを束ねてな、櫛をはさんで、簪(かんざし)で留めて」 (『高野聖』山家の女)
「心ばかり面窶(おもやつれ)がして、黒髪の多いのも、世帯を知つたやうで奥床しい。」 (『婦系図』芸者小芳)
「洗ひ髪を引詰めた総髪の銀杏返しに、すつきりと櫛の歯が通つて、柳の雨の艶の涼しさ。」 (同上)
「銀杏返しの鬢の崩れを、引結へた頭重げに」 (『婦系図』お蔦)
「妙齢(としごろ)の髪の艶に月の影の冴えを見せ……」 (『薄紅梅』京子)
「柔かな髪の房りした島田の鬢を重さうに差俯向く……」(『歌行燈』お三重)
質、黒くつややかにして、量、ふさふさと……それにしても、「髪の艶に月の影の冴えを見せ」とは、いかにも鏡花の文章ではないか。パーマのちりちりと縁遠いのは、時代の違いゆえ、苦情をいうのは見当違いというものである。髷の結い方については、野暮天の小生の手に余るから、しかるべき資料に当たっていただきたい。 
4.眉鮮やかに……
眉と目は近い親戚だから、一緒に検討したい。「鼻筋の通った」一点張りであった鼻に比較すると、鏡花ごのみの眉はもう少し表現に富んでいる。
「眉凛々しく眼の鮮なる、水の流るゝ如きを……」 (『照葉狂言』小親)
「目の涼しい、眉の間に雲(くもり)のない……」 (『湯島詣』芸者蝶吉)
「眉の鮮かな……」 (『註文帳』遊女の幽霊)
「目の柔和い(ヤサシイ)……眉の稍濃い……」 (『婦系図』芸者小芳)
「目ぶちがふつくりと……?気の篭つた優しい眉の両方を懐紙(かみ)で、ひたと隠して、大な瞳で熟と視て……」(『眉かくしの霊』幽霊)
「眉あざやかに、瞳すずしく……」 (『竜潭譚』九ッ谺の女)
「清しい目許に笑を浮べて……」 (『薬草取』花売)
「眉のきりりとした……」 (『女客』お民)
「大きな目を凝(じっ)とみはつた……」 (『売色鴨南蛮』緋縮緬の女)
「物柔かな目をみはりながら……」 (『櫛巻』夫人)
まず、眉についてみると、「りりしい」「鮮やかな」「やや濃い」「優しい」「きりりとした」とあるから、あるかなきかの薄い眉ではなく、輪郭のはっきりした、しかも形のいい眉でなければならない。それが、ある時は優しく、ある時はきりりとして見えるのは、その時々の心持のあらわれであろう。
つぎに目・瞳である。「鮮やかな」「やさしい」「すずしい」「大きな」「物柔らかな」といろいろであるが、当時の挿絵などを見ると、一様に切れ長の細い目が描かれており、こういうステレオタイプではあんまり参考にはならない。
「目ぶちがふっくりと」とか「大きな瞳でじっと見て」というところを見ると、細い切れ長の目とはちょっと異なるような気がする。考えあぐねて、あれこれ本をめくって見たところ、黒田清輝らの新傾向洋画に登場する女性たちのほうが、むしろ鏡花描くところの眉や瞳によく迫っているような気がする(黒田「湖畔」、岡田三郎助「某夫人の像」など参照)。 
5.気高く、清く……
これまで、顔の代表的な部分を検討してきたが、肝心の顔の輪郭についてはどうだろうか。実は、それにはっきり言及した文章は、あまり多くはないのである。「瓜核顔(うりざねがほ)」と書かれているのは、ぼくの読んだ作品では、『婦系図』の小芳と道子、『眉かくしの霊』の幽霊だけである(見落しの可能性あり)。瓜核顔というからには、ちょっと面長の顔である。
スタイルについては、もちろんほっそりした美人像が浮かんでくるけれども、ただやせていればよいというものではなく、
「衣服を着たときの姿とは違うて、肉(シシ)つきの豊な、ふつくりとした膚(はだへ)」 (『高野聖』)
「小肥りして痩せては居らぬが……」(『湯島詣』芸者蝶吉)
という例から分かる通り、みかけに比して肉づきの豊かな、いわゆる着物のよく似合う体型なのは、明治の作家としては当然かもしれない。
さて、忘れてはならないのは、鏡花が重んじた品格である。『外科室』の伯爵夫人が「気高く、清く、貴く……」と形容されるのは当り前にしても、『高野聖』の魔性の女が「馴々しくて犯し易からぬ品の可い」姿であり、『婦系図』では深川芸者の小芳が「水のやうに透通る細長い月の中から抜出したやうで気高いくらゐ」と表現されている。
つまり、身分にかかわらず気品を尊んだ鏡花の面目は、『高野聖』の女に通ずる不思議な力をもつ『竜潭譚』の九ッ谺の女が、「こは予(かね)てわがよしと思ひ詰めたる雛のおもかげによく似たれば貴き人ぞと見き」と書かれているところによく発揮されている。
この九ッ谺の女は、被差別部落民かと思われるふしがあり、「貴き人ぞと見」た鏡花の芸術家としての眼が、強靭なものであったことを見逃してはならないだろう。芸を至高のものとする鏡花の激するところ、つぎのような文章もおのずとあらわれるのである。
「見よ、見よ、一たび舞台に立たむか。小親が軽き身の動、躍れば地(つち)に褄を着けず、舞の袖の翻るは、宙(そら)に羽衣懸ると見ゆ。長刀かつぎてゆらりと出づれば、手に抗(た)つ敵の有りとも見えず。足拍子踏んで大手を拡げ、颯と退(ひ)いて、衝(つ)と進む、疾きこと電(いなづま)の如き時あり、見物は喝采しき。軽きこと鵞毛の如き時あり、見物は喝采しき。重きこと山の如き時あり、見物は襟を正しき。うつくしきこと神の如き時あり、見物は恍惚たりき。かくても見てなほ乞食と罵る、然は乞食の蒲団に坐して、何等疚(やま)しきことあらむ」(『照葉狂言』)
乞食と罵られたのは、女芸人小親である。その「乞食」の貸してくれた蒲団に坐っているのを「士族」の子になじられた主人公は、傲然として「可いよ乞食、乞食だから乞食の蒲団に坐るんだ」と応えるのであった。
思わず襟を正しむる気品、神の如きうつくしさ……これこそ鏡花が心底頭を下げたものであり、それを具現するものであれば、士族たると平民たるを問わず、また人たると幽霊たるを問わぬところこそ、古今独歩の女性美の追求者としての鏡花の真骨頂であった。 
 
阿部定事件と新派 「新版つや物語」「日本橋」

 

時代の雰囲気、阿部定の雰囲気
昭和11年5月10日、一人の女性が明治座の新派合同公演を観劇します。演目は講談種の毒婦物「夜嵐お絹」、他に金子洋文作「牝鶏」、三好一光作「片時雨」、そして泉鏡花の原作を川口松太郎が脚色した花柳界物「新版つや物語」でした。その内「夜嵐お絹」は実際にあった有名な殺人事件をネタにしたものであり、「新版つや物語」は猟奇的な殺人へと至る閉塞的な筋立てを持った物語でした。この年は、ナチス=ドイツのラインラント進駐、スペイン内乱、西安事変などがおこった年で、世界は非常に不安定な状況にありました。東京も2,26事件により戒厳令下におかれ芝居と同様に閉鎖的でした。そんな中、明治座でひとり芝居見物をしている女、、、彼女も非常に閉息的な状況にいましたが、それは世界の情勢や戒厳令とは関係がなく、多分に自分の狭い世間の他に何も世界を知らない女性でした。観劇の翌日「新版つや物語」を見て思いつき、金物屋で出刃包丁を買った(実際に買ったのは牛刀)その女の名は、阿部定といいました。
阿部定事件については、ここで詳しく述べることもないでしょう。後年、何度も映画化され、そのほとんどががポルノであり、特にフランスがポルノの全面解禁をした年のカンヌ映画祭で上映された大島渚監督の「愛のコリーダ」(76’フランス映画)は、日本初のハードコアポルノでした。世界のOSIMAへの大きなステップとなったこの作品では(78年の「愛の亡霊」で大島はカンヌ映画祭監督賞受賞)、当時テレビで人気のあった被害者役の主演男優藤竜也が、映画の中で実際に性器を露出し性交するというのも話題でした。AVが当たり前になってしまった今日から考えても、一般映画でキャリアの長い有名男優が撮影の中で性行為を行い、それがスクリーンに写し出されるというのは、衝撃を通り越したものがあります。映画自体には芸術性があり海外でも評価されましたが、無修正版を観る海外ツアーが組まれたり、写真集をめぐって大島本人らがわいせつ図画販売で起訴されたり(54.10.19東京地裁、無罪判決)、日本のポルノ映画史上、というより日本映画史の中でも非常にスキャンダラスな映画のあり方でした。しかし実際の阿部定事件は、スキャンダラス、ショッキングそして好奇の注目を集めるという点で、後の映画が起こした騒ぎなど足下にもにも及ばない大事件でした。殺された被害者がいるとはいえ、それは戒厳令下の帝都の淀んだ空気に、荒川区尾久の待合から噴射された笑気ガスの一撃でした。さぞやいいガス抜きになったのでしょう。逮捕された阿部定の有名な写真の中で、殺人犯を護送しているはずの刑事のニヤニヤした顔が物語っています。 
事件発生まで・・・「新版つや物語」
阿部定「(前略)明治座で芝居を見ましたが、身を入れて見る気はなく役者を見てもA(被害者)の方が良いなあと矢張りAの事ばかり考えて居りました。その芝居は出刃包丁を使う場面があったので自分も出刃包丁を買ってAに巫山戯してやろうと云ふ気になり、その晩十一時頃稲葉方へ帰りました」(予審調書)
そもそも阿部定が芝居の影響で刃物さえ買わなければ、たとえ殺人を実行したにせよ、下腹部を切断し持ち歩くなどという行為はできなかったわけです。そうなると、単に色惚け女が愛人の男を痴情の果てに殺害したという、とりたてて珍しいことのない事件になり、映画などを含むその後のさまざまな出来事もなかったことになります。帝都市民にニヤケ顔ならぬ笑顔をもたらすのは、同年8月のベルリンオリンピックにおける、「前畑ガンバレ!」のラジオの実況中継まで待たねばなりませんでした。阿部定という人が昭和11年5月10日に明治座で新派公演を見たということは、日本の社会史の上で、実はとても重要なことだったのです。
裁判官「被告は芝居がすきか」
阿部定「大好きです」
裁判官「どんなのが好きか」
阿部定「まあ、新派でしょうね」
第一回公判で、阿部定はこう証言しています。あまりの素行の悪さから、17才の時に実の父に芸者に売られた阿部定は、当時としても珍しいケースだったようです。借金を返して年季を明けようという気持ちもなく、半端な気持ちの芸者勤めをするうちに、自分から飛田遊廓の娼妓となり、以後苦界を漂泊していきます。理性もなく、見栄っ張りで威勢のいいことを言っているわりにはすぐに流される阿部定は、どんな局面でも後先を考えるということができない性格だったようで、常にその時々の楽な選択をして苦しい状況へ陥っていきます。逮捕直後の独房で看守に枕の高さで注文をつけ、取り調べの最中にビールを飲みたがったと伝えられていますが、このような狭い世界観の阿部定が、芝居の中でも特に新派が好きで自己同一化してしまうのにはうなずけます。新派の主人公は花柳界の人間であることが多く、阿部定も芝居の登場人物に自分を重ねて見ていたでしょう。芸者が主人公だと、テーマは女の意気地ということになり、彼女らは時に伝法であり時にか弱く儚いのです。また、虚勢を張り、人に甘えることしか処世術を持たない阿部定が、神田で生まれた神田育ちであることを考え合わせれば、一見突拍子もなく思いのままに飛んでいくようなその言動を美談にせずに理解することもできるでしょう。
阿部定「(前略)その晩十一時頃稲葉方へ帰りました。Aと別れる時五、六日経ったら会ふという事でしたがとても待ち切れませぬから、とに角「玉寿司」へ電話して見やうと思ひ丁度稲葉夫婦が留守だったので子供をお使いに出し「玉寿司」へAから何か話はなかったかと電話すると、先方から電話番号を聞いて置いて呉れとのことだったのでそれではもう一度電話で知らせると云って切りましたが、その時は嬉しくて慄え上がりました。 (予審調書)
「新版つや物語」は、泉鏡花原作の新派の名作「通夜物語」を川口松太郎が脚色したものです。昭和11年5月明治座が初演でした。主人公の芸者小今は「通夜物語」では花魁丁山になっています。「通夜物語」上演が警視庁から不許可となり(花魁、女郎、廓内で生活している女性の芝居の禁止)、やむなく花魁を芸者に代えて脚色しました。ところが川口脚本を原作者の泉鏡花が気にいらず自分で手を入れたため、かえって詰まらなくなってしまいました。結局松竹大谷社長の指示で、2日目から序幕「上野梅川楼二階座敷の場」と二幕目「玉川清下宿の場」がカットにり、いつも終演が遅かった新派公演が早く終わるということ(それでも10時15分)にもなりました。普段通りもっと遅い終演時間だったら、阿部定がその日のうちに「玉寿司」へ連絡を付けられなかった可能性もあり、事件も違う方向へ向かっていたかもしれません。
川口脚本に鏡花が手を入れたのは、上演された部分では序幕、二幕、大詰めの幕開きです。ちなみに、鏡花がどんな改稿を行ったかというと、カットされた「上野梅川楼二階座敷の場」では、卒業生の会の場で清が借金の催促を受け、見かねた幹事が会費から借金を払う。会費がなくなったので会ができなくなり解散するところへ、颯爽と小今が現れて金を出すという筋を鏡花は不自然だとして、会費を預かった幹事が金を落としたので会が中止になるところ小今が払う、というふうに書替えました。(以前の古い「通夜物語」でも、清が借金の催促をされる筋になっています)一度は川口脚本を覚えていた俳優達も、鏡花改稿脚本を受け取ったのが初日1週間前の巡業中とあって混乱、丁山役の花柳章太郎は演目差し替えまで考えたもののそうもいかず、大きなストレスとジレンマを抱えてしまいました。その後も変更があり、何とか初日を迎えましたが当然よい評判は取れませんでした。
裁判長「被告は五月九日の夜に(予審調書では10日)明治座で新作「新版通夜物語」という芝居を観たか」
阿部定「観ました」
裁判長「それはどんな筋だった」
阿部定「なにか芸者がかわいい男を出刃包丁で殺して、その血で男の姿をふすまに描くところがありました」
裁判長「それにひどく感動したわけだな」
阿部定「(答えず)」(第1回公判)
上記のように阿部定は「新版つや物語」の筋を説明していますが、実際はまったく反対の筋で、清の左腕をへし折った悪役の代議士篠山を小今が出刃包丁で刺し殺し、自分の腋の下も刺し流れ出た血で清に自分の姿を襖に描かせ、自分は喜んで死んでいくのです。阿部定は、より自分の欲望に近い筋に思い込み、裁判になっても気がついていません。芝居を観た日、どれだけ阿部定が切迫した精神状態だったかわかるというものです。もちろんそれは、世界情勢でも世の中のでも戒厳令でもなく、被害者の体を他の女に触れさせたくない、自分が独占したいという一心です。2週間程この妻子ある被害者と流連し、その間金が無くなると名古屋まで行って金蔓の愛人某氏(芝居に登場する篠山と同じく金も地位ある人物で、学校長であり県会議員。国会議員を目指していた。阿部定を更生させようとした人で、事実、定は淫売生活をやめている。被害者の経営する料亭で女中奉公をしたのも元はといえば、某氏が資金を出して定に商売をさせてくれることになったので勉強するためだった)を騙して金を貰って戻ってきてはまた流連するというくらい、阿部定の被害者に対するエネルギーは凄いものがありました。ちょうど9日(予審調書では10日)は、金も尽き泣く泣く別れ、被害者は妻と子供の元へ帰り、阿部定は知人宅へ転がり込んでいたところでした。
小今「卑しい稼業はしていても、親代々の負けず嫌い、東京生まれの魂は、胸三寸に納まっているんだ。金の光に目が眩んで左様でございますかと、兜を脱ぐような意気地なしじゃないんだよ」
清 「(札束を篠山の前に叩きつけ)素寒貧の清でも、五百や千の金は持っているンだ。憚りながら江戸っ子だい。命を懸けて惚れた女を貴様なんぞに取られては、東京生まれの面汚し、さあ、金で身請けをした小今の身体を、指一本でもさしてみろッ(小今を抱き)もう苦労はいらねえぞ。しっかり俺に抱かれていろ!」 (「新版つや物語」二幕目返し「向島植半の場」のセリフ)
金さえあればいつまでも被害者とぬくぬく流連して、痴情の限りをつくしていられた阿部定ですから、こんな啖呵をきってみたかった、きってもらいたかったことでしょう。しかし、被害者は自分より強い者に啖呵のきれるような人物ではなかったようで、金が無くなると料亭を切り盛りする妻の所へ戻っていきます。定はもう後のない生活だったので(30代となり、かつてのようにいい旦那がいくらでも見つかる状況ではなくなったこと、売春婦の生活にはこりごりしていたであろうこと、店を出させてあげようという旦那である某氏の申し出、、、つまり、切られそうになっていたこと)かなり追い詰められた精神状態だったようです。ここで普通の人間だったら、どこかに怨みの鉾先を向けるとしても、愛人、愛人の妻、旦那、自分、社会などがその的になるところです。ところが阿部定は何故か、怨みというよりも咆哮するすてばちなプライドらしきものを、奇妙な形で実現してしまったのです。 
後日談、、、「日本橋」
阿部定には、事件発覚、逃走中、逮捕、裁判、刑務所生活、出所後それぞれに、ここでは書ききれないほどの沢山のエピソードがあります。出所後しばらく静かに生活していたのに、自分について書かれた出版物に対して訴えを起こし、再び世間の前に姿を現したりもしました。小料理屋を経営したり、女優として一座を組み実演をしたところなど、やはり毒婦と言われ読み物や芝居(歌舞伎の河竹黙阿弥「月梅薫朧夜」、新派の名作の伊原青々園「仮名家小梅」川口松太郎「明治一代女」)にもなった、有名な箱屋殺しの花井お梅と共通するところがあります。もちろん阿部定事件は暗く貧しく下品すぎ、歌舞伎や新派の芝居にできるような粋さもなければ艶も意気地もありませんが、70年代にポルノ映画になり平成に入っても映画化されました。阿部定自身も、著名人達に可愛がられたり、映画に出演したりで、マスコミにもしばしば登場していたようです。どこか文化人のように扱われている時期もあります。今日になっても阿部定事件に関して書かれた本が出版され、映画も作られているところからして、まだまだ阿部定は人々の関心を引ける人物のようです。猟奇事件と言われているが実は、定という純粋な女と被害者の究極の愛とエロスの結果だった、という理解の仕方が今や主流のようにも感じます。何事も時が経つとともに美化され、時には同じ時代を共有さえしなかった人達の思想や思惑や思い込み理想などが、事実を取り囲み被いかぶさることもあります。阿部定という人はどんな人だったのか、今となっては余計に解りにくくなっているといってもいいでしょう。判っていることは、東京生まれの東京育ちだった、畳屋の娘だった、娘時代に慶応大学の学生に強姦された、不良だった、父親に芸者に売られた、自分から売春婦になった、女中になった、いい旦那に巡り会った、それなのに男を作って殺人を犯した、刑期を終えて出所してからは一度も罪は犯さなかった、今は生きているのか死んでいるのかもわからない、、、、というところでしょうか。
最後に阿部定の所在が確認できるのは、昭和46年、知人の経営する千葉の旅館で仲居をしていた時のことです。66才になっていました。一生の間に沢山の偽名を使った定ですが、この時も素性を隠し偽名を使っています。
「そうね、あたし、新派の『日本橋』に出てくる「こう」という女が好きだから、こうと呼んでちょうだいな」(堀ノ内雅一「阿部定正伝」より引用)
こう阿部定は言ったと言われています。「日本橋」もやはり泉鏡花の原作で新派の名作中の名作です。今でも度々上演されています。主人公のおこうはやはり伝法で負けず嫌いな芸者で、敵役の男を刺し殺し、自分も好きな男の腕の中で死んでいきます。定の新派好きは、事件前も事件後も変わらなかったようです。こんな芝居の中の死に方に、最後まで憧れていたのでしょう。
阿部定は、結局千葉の旅館からも突然姿を消してしまいます。以後、定の所在はわかりません。「愛のコリーダ」で関心が集まった時もマスコミが定を探しましたが、見つかりませんでした。たとえどこかで淋しく死んだとしても、思い込みの激しい定のことですから、惚れた男の腕の中で「お前は俺の女房だ」と言われながら死んでいく芸者だと、自分のことを思い込んでいてくれたらと思ってしまいます。
阿部定は、旅館から消えるとき、旅館の箸袋の裏に書いた書き置きをしていきました。
「(前略)くれぐれも御立腹なきようお詫び申し上げます ショセン私は駄目な女です。こう」
 
日本橋 / 泉鏡花

 

今夜は泉鏡花である。新派でも馴染みの『日本橋』にした。ちょっとしたワケがある。一つは、『日本橋』には芸者の気っ風がずらりと並んだことだ。芸者は、鏡花にとっては母であって山霊であり雛であり、他人のものであって二十五菩薩であり、妖美でありながら清廉であるような、夜叉であって、かつ形代(かたしろ)であるようなものなのである。その芸者のことを書いておきたかった。二つめのワケについては、あとで書く。そこはちょっぴりぼくの事情にかかわっている。いや、芸者への思いも、ぼくの何かの事情にかかわっているのだが‥‥。三つめのワケは、そう、昨夜にハイデガーを書いたからである。
鏡花について書くのは、思えば30年ぶりのことだ。若書きが羞かしいその小文は『遊学』(中公文庫)に収録してあるが、そのときは、「あたしはね、電車が走る街にお化けを出したいのよ」「お化けは私の感情である、その表現である」と言ってみせた鏡花の、「一に観音力、他に鬼神力」ともいうべきを覗き見た。そのころのぼくは、泉名月さんの回顧談を読んだせいもあって、オキシフルを浸した脱脂綿で指を拭いているとか、お辞儀をするときは畳に手をつけないで手の甲を向けていたとか、ナマモノは嫌なので料亭でも刺身を細い箸で避けていたといった、過度の潔癖美学を全身に張りめぐらせていた鏡花が、そのように“見えないバイキン”を極端に怖れているのに、その対蹠においては、変化(へんげ)しつづける見えない観音や、人を畏怖させる鬼神をあえて想定したことに、関心をもっていた。そういう鏡花の実在と非在を矛盾させるような「あはせ」と、見えるものと見えないものを交差させるような「きそひ」とが、おもしろかったのだ。
当時は鏡花の大変なブームがおこっていた。身近な例をひとつ出すのなら、わが家に転がりこんできた久我君という青年が、他にはろくに本をもっていないくせに、新装再刊が始まっていた岩波の鏡花全集だけはせっせと買っているというような、そういうことがよくおこっていた。舞台や映画でも、ジュサブローや玉三郎(なぜか二人とも“三郎“だった)が、しきりに『夜叉ケ池』や『天守物語』や『辰巳巷談』を流行らせていた。昭和50年代だけで、玉三郎は15本以上の鏡花原作舞台に出ていたはずだ。『日本橋』も入っている。また、これより少し前の三島由紀夫も五木寛之も、鏡花復権を謳っていた。金沢には泉鏡花賞もできて、半村良やら唐十郎やら澁澤龍彦やらが鏡花に擬せられた。鏡花の幻想世界のアイコンをプルーストやユングやバシュラールふうに読み解くというのも、そこらじゅうに散らばっていた。曰く、あの水中幻想の奥には火のイメージがある、曰く、鏡花には「無意識の水」が湧いている、曰く、鏡花の蛇は自分の尾を噛むウロボロスというよりも多頭迷宮なのではないか、曰く、奇矯な破局を描くことが鏡花にとっての救済だったにちがいない、曰く、鏡花の緋色や朱色には処女生贄への願望がある‥‥。ほんまかいなというほどの散らかりようだった。たしか、メアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』さえ持ち出して、鏡花の汚辱の美にみずから埋没していった評者もあったかと憶う。よくぞまあ、クリステヴァのアブジェクシオンまで持ち出さなかったものである。
あれから30年がたった。ぼくの鏡花イメージもずいぶん変成(へんじょう)し、あのころはほとんど知らなかった鏡花の短編を啄むようになっていた。そこで感じた印象は、もはや鏡花の潔癖美学から遠く、ましてユングやバシュラールからはすっかり遠い。新たな印象は、そのころさまざまな日本の職人芸に魅せられていたのだが、そういう工芸象嵌の感覚に近かった。しかし、たんなる象嵌(ぞうがん)なのではない。鏡花における象嵌細工は仕上げは凄いのに、どこか現実とも幻想とも食い違うようなものになっていて、しかもそういう精緻なものがわざと投げやりに、また意想外に、どこかに邪険に放置されているというような、そんな印象なのである。
というだけでは、わかりにくいだろうから、『歌仙彫』という短い作品を例にする。
この話は、矢的(やまと)某という、技術は未熟なのは承知していたが矜持はすこぶる高い青年彫刻家がいて、その将来の才能に援助する夫人が遠方にいるという設定になっている。ところがいい彫刻はなかなか作れない。これは青年に憧れの夫人を表現したいという羨望が渦巻くせいか、焦燥感のせいか、それとも実は才能がないせいなのか、そこは定かではない。そんなあるとき、久々に夫人が工房を訪れた。夫人は、桔梗紫の羽織をその場の材木にふわりと掛けた。その羽織のかたちが美しい。以来、青年は、その羽織のかかった材木をそのまま展覧会に出したいと思い、ついでは目黒の郊外を連れ立って歩いたときの夫人の声をそのまま彫りたいと思ってしまっていた。が、そんなことを思えば思うほどますます作品は手につかない。夫人は、私、体が弱いので、菖蒲の咲くころには、と言う。青年は苦しんで酒を呑み、金がなくなると小遣いかせぎの六歌仙の小ぶりの人形など作って、一つできれば、出入りの研ぎ屋のじいさんに金にしてもらうようになっていた。それが二つ、三つと出来上がるたび、じいさんは必ず代金をもってきてくれる。礼を言うと、「わしが売ってるのじゃない、別の人じゃから」と言う。誰が買ってくれるのか、じいさんの住処が深川あたりと聞いて、そのへんをぶらついてみるのだが、見つからない。
そんな深川の昼下がり、近くの冬木の弁天堂で休んでいると、とんとんと若い娘が額堂に入ってきて風呂敷包みを開いた。なんと、そこには自分の人形がいる。業平、小町、喜撰、遍照‥‥。思わず駆け寄って、「研ぎ屋さんから手に入れたのですか」と尋ねると、「いえ、姉さんに‥‥」。青年がその姉さんに是非会いたいと言えば、妹は、ちょうど近くで用足しをしておりますので、では連れて参りますからと行ってしまった。待つうちに日が暮れて、弁天堂の真っ黒な蛇の絵が浮き出して、こちらを睨んだかに見えたとき、堂守から声をかけられた。そのお堂にいる所持のない場面を、鏡花はあの独特の文体で、こう書いた、「時に、おのづから、ひとりでに音が出たやうに、からからと鈴が鳴つた」。とたん、「勁(うなじ)の雪のやうなのが、烏羽玉の髪の艶、撫肩のあたりが、低くさした枝は連れに、樹の下闇の石段を、すッと雲を掴むか、音もなく下りるのが見える」。これでついに一切の事情が明かされるかと思うと、そうではない。鏡花はにべなくも、「かうした光景(ようす)、こうした事は、このお堂には時々あるらしい」、と結ぶばかりなのである。
この不思議な感覚の消息は、ユングやバシュラールでは解けまい。観音力・鬼神力も適わない。鏡花は、何も説明していない。はたして姉が夫人なのやら、その姉の正体が何であるのかも、説明していない。それでいて、われわれはここに一匹の夫人の妖しい容姿が君臨していることを知る。また、この青年の彫塑の感覚が並々ならぬものであり、青年はただただ夫人の感覚を想定することによって、世のたいていの力量を凌駕できていることを知る。青年は桔梗紫の羽織すら、きっとふわりとしたまま木彫できるのだ。けれども、その一匹の夫人をかたどった精緻な細工物ができあがったとしても、それはなぜか現実にも幻想にもそぐわず、どこか別世界に放擲されるのだ。
ぼくが新たに近づいていった鏡花とは、このように、精緻でありながらもどこかの「あてど」に放擲されるという印象なのである。この感覚は、かつてぼくが『花鳥風月の科学』(淡交社)で、「ほか」とか「あてど」とか「べつ」として言及したものとも近い。前夜のハイデガーでもほのめかしたことだ。おわかりだろうか。わかってもらわずともいいが、ここが鏡花の真骨頂なのである。
この「あてど」は鏡花の「黄昏」をめぐる思想にも裏打ちされている。鏡花はあるところで、「たそがれの味を、ほんたうに解してゐる人が幾人あるでせうか」と書いて、「朝でも昼でも夜でもない一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です」と言っていた。さらに、「善と悪とは昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、そこには、滅すべからず、消すべからざる、一種微妙な所があります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさういふ黄昏的な世界を主に描きたい」と。これが「ほか」「べつ」の、あてどのないところへの「投企」というものなのである。しかし、印象はこれだけでは終わらない。鏡花にとってはさらに大事なことになるのだが、この「ほか」「べつ」「あてど」には、異性というものに託した一切本来が、たえず刻々に変成しているということである。これは最初に言っておいた、鏡花にとっての異性は、芸者であって母であり、夜叉でも菩薩でもある形代なのだということに、つながっている。
そもそも鏡花はウツリの人だった。ウツリは移りであって、映りであって、写りというものだ。鏡花は大変な多作に加えて、長編もない。自身、代表作を書きたいとも思っていなかった。まるで川の流れのように、一雙の舟にのって流れていた。鏡花から一冊を選ぶのが難しいのも、このせいである。そこで、こちらの感想も書きたいことも、一作ごとに浮沈し、変化(へんげ)する。目移りする。また、そうさせたいのが鏡花だったのである。ぼく自身のこれまでの目移りをいくつか例にしても、なるほど、視点はいつも蝶のごとくにひらひらとし、舟のごとくに揺れていた。たとえばのこと、『歌行燈』の恩地喜多八が身を侘びて博多節を流すあたりも書きたいし、湊屋の芸妓お三重こそを鏡花の憧れともしてみたい。『高野聖』では、その鏡花アニミズムの朦朧画のような気味もよく、旅の説教僧が参謀本部の地図を広げる冒頭や山の女との出会いについても、言ってみたいことがある。いや、もっと目移りは激しくて、『照葉狂言』のフラジャイルな少年貢の感覚や仙冠者の描写、『天守物語』の第5層にひそむ母性原理と軍事力の重合も捨てがたい。加えて、『星の歌舞伎』という小品はずっと以前から映画にしたいと思ってきたし(このことは鈴木清順にも映画にしませんかと喋ったことがある)、『草迷宮』の霊をめぐる球形幻想や、それにまつわる繭の中のエロスのような雰囲気も書いてみたいことではある。
そういうこととは一転して、『風流線』の村岡不二夫の「悪」を考えるのもおもしろい。これは風流組という乞食行にやつした一種のテロリストたちを描いたもので、その悪魔主義に人妻がみずから犠牲を提供するという物語になっている。村岡は哲人めいた悪、いわば“哲悪”だった。いつか色悪についても書きたいと思っていたので、これはさしずめ「鶴屋南北から泉鏡花へ」という短絡でも考えてみるべきことである。あるいは「千夜千冊」では紅葉を『金色夜叉』にしたのだから、鏡花はお蔦主税の『婦系図』も、いい、あの清元「三千歳」が流れてくる場面に触れない手はないなどなど・・・、左見右見(とみこうみ)迷っていたのだった。こんなふうだから、ま、何を選んでも、鏡花は止まらない。動いていく。移っていく。本質がウツロヒなのである。それならば、ぼくはぼくで、鏡花という羽織をどこかにふわりと掛けて、これを諸君のほうが鏡花の展示だと見てもらえるようにすべきなのである。
ところで、昨年末のこと、NHKの「ようこそ先輩」への出演を依頼された。ぼくはいなかった。依頼の件をその夜に聞き、ああ、あの番組か、あれはおもしろそうだと思い、OKするように伝えた。そこで、何をしたらいいかな、小学生に編集稽古でもさせようかなと思い始めたのだが、はて、ちょっと待った。ぼくの京都の修徳小学校は統廃合されて、だいぶん前になくなっている。東洞院姉小路の初音中学校も、いまはない。これは困った。先輩ではあっても、後輩がいない。尻切れトンボなのだ。そう思っていたら、太田香保が「東華小学校はどうですか」と言った。そうか、そうなのである。ぼくの最初の小学校は日本橋人形町だったのだ。そこに3年の1学期までいた。昭和19年に京都に生まれて1年半で敗戦、父は、母とぼくを連れて戦後の焼け跡の東京に引っ越した。京都にいたらよさそうなのに、そのときは呉服では仕事にならず、東京で何でもやってみようと思ったらしい。それで引っ越したのが日本橋芳町(葭町)だった。店と家が一緒になっていた。そこで妹が生まれた。
芳町は戦後まもなくのことで、さすがに貞奴をルーツとする芳町芸者、明治の小唄を作詞作曲してみせたあの芳町芸者たちは、まだ復活していないようだったが、それでも三味線の音はときどき流れていた。家の隣りは伊香保湯で、いつも裏から入った。裏が蓬莱屋という佃煮屋で火事になった。近くに寄席の人形町末広亭があって、ほぼ毎週土日のどちらかに父に連れられて笑いに行っていた。その芳町から人形町の東華幼稚園と東華小学校に通った。そう、そう、小学校は背の高い川瀬先生だった。「ようこそ先輩」は、この小学校でもよいわけだ。そういうことを年があけたら担当者に言おう思っているうちに、そうだ、鏡花はやっぱり『日本橋』にしようと思ったのだ。冒頭に書いたちょっとしたワケとはこのことである。また、この程度のワケがないと、鏡花は選べない。
さて、『日本橋』に決めてみて、こう言うのも変だけれども、なんだかホッとした。鏡花の時代の日本橋とはすっかり様変わりはしているが、それでも芳町の気分はまだ残っていたところにぼくが育ったというのも、何かの縁とも思われる。それになんといっても、『日本橋』こそ、鏡花の芸者がずらりと揃う。
鏡花が『日本橋』を書いたのは42歳のときである。大正3年になる。教科書的な文学史では、ここから後期円熟の鏡花が始まるということになっている。が、ぼくがまずもって言っておきたいのは、この小説が千章館から上梓されたときに、初めて小村雪岱が装幀をしたということだ。左の欄外に掲げた2、3の写真を見てもらえばわかるように、溜息がでるほどに、美しい。とくに見返しが日本橋なのだ。以来、鏡花といえば雪岱(せったい)で、新派の舞台の大半も雪岱が手がけた。2年前、美輪明宏さんとNHKの番組で対談したときは、ぼくのほうで資生堂から借りた雪岱の墨絵の本物をスタジオに飾ってもらい、二人でそれを褒めあげた(雪岱はいっとき資生堂意匠部に所属していた)。それほど雪岱は鏡花の機微情緒を切り上げて、それを絶妙な線やら空間に、つまりは「ほか」に移す天才だった。
その雪岱の鏡花感覚がもっぱら『日本橋』に出ていたことは、もっと知られておいてよい。だから『日本橋』は雪岱の絵のように感想することが、まずは前提なのである。詳しいことは星川清司に名著『小村雪岱』(平凡社)があるので、それを読まれるとよい。だいたい雪岱は幼いときに父を失って、16歳のときに日本橋の安並家に引き取られた境遇で、その安並家というのが歌吉心中のあった家だった。鏡花が東京のなかで一番好きだった日本橋檜物町あたりは、雪岱にも懐旧のかぎりの界隈だったのだ。
しかし、いうまでもないことだが、鏡花は雪岱の絵から『日本橋』を書いたわけではない。芸者の日々や花街を書きたかったのだ。紅燈の巷に流される男女がモチーフなのである。その風情は、吉行淳之介が『原色の街』や『驟雨』を書いた理由とは、まったく違っていた(吉行の意図については第551夜に書いてある)。鏡花にとっては、芸者こそは幻想の起源であり、人生の原点であり、憧憬の根拠律動なのである。ハイデガーなのである。その芸者のことをこそ、書いておかなくてはならない。すでに鏡花ファンにはよく知られていることであろうが、いささか回りまわった消息をのべて、感想としてみたい。
桃太郎という。芸者がいた。明治32年のこと、紅葉主宰の新年宴会が神楽坂の座敷で開かれていた。硯友社の一同が集まった。その座敷に顔を出したのが18歳の桃太郎だった。鏡花は26歳、すでに金沢から上京して、紅葉を訪ねて翌日から玄関脇に住みこみを許されて書生となり、博文館の婿養子の大橋乙羽のもとで日用百科の編集を手伝いがてら、早くも傑作の兆しなのだが、短編『夜行巡査』や『外科室』を書き終えていた。このデビュー当時の鏡花は、川上眉山の『書記官』と一緒に“観念小説”と名付けられていた。鏡花は気にいらなかったろう。が、その前に紅葉との連名で脱稿発表していた『義血侠血』が、明治28年、川上音二郎の一座によって『滝の白糸』という外題として上演されて、それが評判となってからは、周囲の鏡花を見る目がやっと変わってきていた。こうして24歳、『化銀杏』と『照葉狂言』を書く。24歳でよくもこんなことが書けるものかと驚くが、ここに鏡花の原点がすべからく出来(しゅったい)した。
『化銀杏』(ばけいちょう)は、鏡花をあまり読んでいない者が最初に鏡花を知るにはもってこいの作品である。少年を愛したお貞が「一体、操を守れだのなんのと、掟かなんか知らないが、さういつたやうなことを決めたのは、誰だと、まあ、思ひねえ」と言いながら、恋の自由を説くあまり、自分がながらく縛られてきた夫を刺してしまうという筋立てだ。ラストシーンに金沢の町に覆いかかるお化け銀杏がふたたび出てきて、それがふわっと銀杏返しの黒髪にダブるという、なんとも凄い映像感覚を見せていた。
もうひとつの『照葉狂言』は、さっきも書いたが、主人公は早くに両親を失った貢という美少年である。北陸の暗い街に生まれて、薄闇の中の歌舞伎女優に憧れた鏡花自身の少年期の日々が、この作品の前半で描かれる。中盤、そこへ旅の一座「照葉狂言」がやってきて、舞の師匠が貢を可愛がる。この可愛がりかたが妖しくて、男女の交わりなどではなくて姉弟の戯れなのであるのに、それがかえってエロティックで、ぼくは最初にこれを読んだときはどうしようかと思った。緋色の鹿子の布など胸に温めたり、口紅の濡色などが乱れとび、女師匠は小稲だ重子だ小松だのにかしずかれて、この女と女の妖しさにも目がちらついて困ったものである。それが襖ごしの声をともなうから、なお、いけない。「丹よ」「すがはらよ」などの声が洩れ、すべてが露見を怖れるかのように、なんだか大切なことだけが憚られているかのように、読める。鏡花の、この隠して伏せてはちょっとずつ開く手法は、その後はさらに粋にも、さらに濃艶にもなっていく。後半、こうして一座に身を投じた貢に8年の月日が流れて、いまは狂言・仕舞・謡曲の一人前、故郷に錦を飾る日となった。貢はかつての住まいの近くに仮小屋を拵え、興行をする。ここで昔日の人々の因縁ともいうべきが次々にめぐってきて、物語は貢のもとにいっさいが押し寄せる。そこへ、野良猫が血まみれの鳩を屠って咥え去っていくという鮮烈な場面が入ると、あとは「峰の堂」のラストは霧に包まれた貢の心を描いた名場面――。こんなことを書いていてはいっこうに話が進まないが、この『照葉狂言』でいったん頂点に達した鏡花が、ついに因縁の回りまわった神楽坂の座敷で芸者の桃太郎に出会ったのが、このあとの鏡花の作品にも人生にも決定的だったのである。
桃太郎の本名は伊藤すずという。すずは鈴でもいいのだが、これは鏡花が10歳のときに亡くした母の名でもあった。すでにどこにも書いてあることだから詳しいことは省くけれど、鏡花の亡母への思慕といったら尋常じゃなかった。12歳で松任の「成の摩耶祠」に詣でたときに、摩耶婦人に母を重ね、鏡花がその後は死ぬまで摩耶信仰を捨てなかったこともよく知られている。その母すずが芸者桃太郎のすずとして、たったいま、神楽坂に舞い降りた。しかも紅葉が座敷の中央に端座する硯友社の新年の宴の夜である。鏡花は桃太郎にいっさいを感じる4年をおくる。二人は同棲をし、それを紅葉はひどく叱って、鏡花は何よりも尊敬していた紅葉の言葉にさすがに動揺するのだが、その直後に紅葉は死ぬ。結局そのあと、二人は結婚、鏡花はついに「母なるもの」と「摩耶なるもの」を、つまりは母と菩薩と雛と形代を、芸者桃太郎の裡に発見できた。こうして鏡花は、柳暗花明の機微人情の大半を、母であり恋人であり妻である芸者桃太郎から、肌でも言葉でも脂粉でも、微細に知ることになったのである。そして、この柳暗花明の芸妓がらみの機微人情のいっさいが、『湯島詣』『婦系図』『白鷺』『歌行燈』をへて、鏡花の42歳に花柳情緒として結晶したのが、『日本橋』だった。
哀切、水よりも清いという。鏡花はこの哀切を信じて(というより信心して)、作品を書いてきた。ところが、『歌行燈』を発表した明治43年(1910)は、学習院の青年たちによる「白樺」の創刊があり、翌年は平塚雷鳥の「青鞜」と堺利彦・大杉栄の「近代思想」の創刊が加わって、明治天皇の崩御以降の時代はそのまま一挙に、自然主義やリアリズムの波に覆われていった。そのあとは大正デモクラシーである。芸者を描いている作家なんて、啄木の言う「時代閉塞の状況」には、あわなくなってきた。鏡花は時代遅れの作家となり、そのような烙印も捺されるようになった。ここで鏡花がたじろいでいたら、その後の鏡花はなかった。けれども鏡花は主唱を変えなかったのだ。むしろあえて、哀切に芸者の「いさみ」を加えていった。これには反省もあった。明治末期に書いた『白鷺』では、芸妓小篠が哀切の立ち姿をもちながら日本画家の稲本淳一にあまりに尽くしすぎ、『歌行燈』では桑名の花街を描きながら、お三重をあまりに哀切のままに描いた。つまりは、もっともっと芸者や遊女の本来を書き切ればよかったという反省だ。
こうして大正3年に発表された『日本橋』は、かつて玉三郎が演じて唸らせたお孝をはじめ、清葉、お千世らをずらりと並べ、芸者尽くしともいうべき反撃に出た。その生きざまと気っ風を、濃くも、潔くも、勝ち気にも描いてみせたのだ。その「いさみ」はお孝の次の言葉に象徴されている。とくに最初の一行と最後の一行は、玉三郎の名セリフともなっている。かつてなら喜多村緑郎や花柳章太郎や水谷八重子、だった。
雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日。同じ栄螺(さざえ)と蛤(はまぐり)を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名告つて、一所に詣る西河岸の、お地蔵様が縁結び。これで出来なきや、日本は暗夜(やみ)だわ。
これで出来なきゃ日本は闇だわと、芸者の啖呵に言わせたところが鏡花なのである。鏡花は切り込みたかったのだ。どこへかといえば、社会を自然主義に捉えるなどという野暮な連中に切り込みたかった。実際にも鏡花は書いている、「自然派というのは、弓の作法も妙味も知らぬ野暮天なんじゃありませんか」。これを、鏡花が社会から逃げた姿勢などと思ってはいけない。鏡花は社会をむしろ逆悪魔に描いてこそ、社会になると考えていた。その悪の入れ方もたえず壮絶で、『日本橋』では赤熊をお孝が好きな葛木の前で刺し殺すという場面にさえなっている。
これは自然主義リアリズムへの抵抗であり、反逆なのである。それも色街からの抵抗である。それもデラシネとしての反逆ではない。そこに本来の「母」がひそむという反逆だった。ただし、鏡花一人の反逆ではない。鏡花とともに闘う者があらわれた。永井荷風が『新橋夜話』を明治45年に書いて、鏡花をよろこばせたのであった。荷風はフランスから帰って、江戸情緒に耽ることこそ日本文芸の赴くべきところであることを実感していた。そこは鏡花のように、最初から金沢や神楽坂の脂粉に馴染んできたのとは違っていたが、しかしかえって、アメリカやフランスを知る荷風が柳暗花明の機微人情に没頭することは、鏡花にとっては勇気百倍だったのである。ちなみに、この鏡花・荷風の花柳界好みは、その後は久保田万太郎や水上滝太郎や川口松太郎らに続いていった。なぜかみんな“太郎”が付いている。
『日本橋』は、発表の翌年の大正4年、本郷座でお孝を喜多村緑郎が、葛木を伊井蓉峰が、お千世を花柳章太郎が演じて芝居になった。小村雪岱が舞台美術を手がけた。これがきっかけとなって、鏡花は新派の通り相場になっていく。ぼくの父は花柳章太郎・水谷八重子がご贔屓で、ときどき自宅の座敷に招いていたが、いま思い出しても、章太郎・八重子という人はまさに鏡花の行間を、いま抜け出てきたという風情をもっていた。
それにしても、である。日本橋は、いまや醜い町になっていて、見る影もない。かの日本橋そのものが高速道路に覆い被されて、喘いでいる。お孝と葛木が出会った一石橋は、ビルとビルとのあいだに押しこまれ、死に体になっている。かつて人形町にいまも店を構える辻村ジュサブローさんと、さんざん今の日本橋の悪口を交わしたことだった。これはもはや、鏡花のセリフだけでも日本橋を立たせなくてはいけないということなのだろう。芸能花組の加納幸和座長が、こんなことを言っていた。ぼくの『日本橋』のポイントは、葛木が「やっぱり私は、貴女からも巡礼にならなければならない」と言うと、お孝が「たとい、からけし炭になろうとも、燃え立つ心はこの身一つに引き受けます」にあるんです。よくぞ、芸能花組。この身一つに引き受けた。それなら、そうか、こんなところにハンナ・アレントがいたわけだ。 
 
泉鏡花と岡本綺堂の怪談小説について

 

私の専門は中世の仏教文学なんですが、ここのところちょっと泉鏡花をやっております。やっぱり妖怪とか怪異というものを考える上で、近代における怪異はどういうものであったかということは重要ですので。その取り組みの副産物として、今日はあえて近代のことをお話ししたいと思います。
皆さんにはあらかじめ、泉鏡花の「夜釣」、岡本綺堂の「魚妖」と「鰻に呪われた男」を読んでいただきました。この二人を対比させようと思ったのは、生きた時代が本当に重なり合うからなんです。泉鏡花は明治六年、岡本綺堂は明治五年に生まれ、ともに昭和十四年に亡くなり、死んだ日がわずか二ヶ月違い。かたや金沢生まれ、かたや生粋の江戸っ子ですが、同じ時代に違う方向で怪談を書いているので、取り上げることにしました。この二人の共通性については、既に鏡花の研究家の清水潤さんが指摘されてますので、それに乗っかった形で比較することにいたします。
まず鏡花の「夜釣」ですが、初出は明治四十四年。これは大変面白い時代で、怪談会が非常にたくさん行われていたということが、東雅夫氏の『百物語の百怪』に書いてございます。『新小説』に「怪談百物語」特集というのがあって、そこで原題「鰻」としてこの話が載りました。ところが、中身は全く同じまま、大正七年『鏡花随筆』に収録の際は「ばけ鰻」と改題され、さらに大正十三年、『サンデー毎日』に「夜釣」の題名で再掲載されています。このように題名の変遷があるというのは不思議ですが、その「怪談百物語」特集で、池田輝方という人が「夜釣の怪」という怪談を載せているんです。未確認ですが、何かこの関係で「夜釣」という題名を鏡花が思いついたのかもしれません。
この「夜釣」では、最後に主人公の男が鰻になり、頭をもたげて妻をじっと見るというところに恐怖の焦点があるように思います。これについては村松定孝氏が作品解説で、『雨月物語』「夢応の鯉魚」を連想させるという指摘をしてらっしゃいます。『雨月物語』の鏡花作品への影響は既に指摘がありますし、鏡花の蔵書目録にも『雨月物語』版本がありますので、読んでいたことは確実です。中を見ていきますと、主人公の岩次は性来の釣り好きであり、中でも鰻釣りは得意であったと。それを女房が殺生はいけないといって止めるんだけれども、夜釣りを繰り返していくという伏線があるわけです。そういう鰻の殺生をした男が鰻になるというあたり、柳田の「魚王行乞譚」——これはあとでもう一度説明いたしますけれども——などとの関連が考えられるところです。
また、「夜釣」に茶飯屋が登場しますが、柳田は『耳袋』にやはり茶飯屋の親父が鰻の穴釣りに行くという話があるといっておりまして、何か関連するのかもしれません。この話は『耳袋』の原本にはありませんので、柳田の勘違いかもしれませんが。他に『老媼茶話』にも類話があります。こういうところ、柳田と鏡花との関連というのも、話すと本当に長くなるので省きますが、以前皆さんにお渡しした「百物語の黄昏」という論文に書いておりますように、鏡花が柳田から影響を受けているのは確実ですね。
そして、この「夜釣」では、岩次の女房がだんだん心理的に追い詰められてきて、最後に鰻を見るというところでストンと落ちる怪談になってます。その女房の心理描写に、「穴」という隠喩が二箇所出てきます。「穴へ掴込まれるやうに」、「茶の間も、框も、だゞつ広く、大きな穴を四角に並べて陰気である」と、気分を落ち込ませるものとしての「穴」の存在がありますが、「鰻の穴釣り」という漁法を連想させます。これは、魚の潜んでいる穴に釣り糸につけた餌をさし入れて釣るというものだそうです。そして、その鰻が最後、蓋を持ち上げた時に中からぐっと出てくる——前回の「ぬっと出る」と共通性があるんですけれども、鎌首をもたげるように立ち上がるというところが恐怖を呼び起こします。
次は綺堂の「魚妖」ですが、初出は大正十三年、鏡花よりも後です。これには出典がありまして、曲亭馬琴の『兎園小説余録』第二巻。内容は出典とほぼ同じですが、構成が違います。『兎園小説』ではいきなり話が始まるけれども、綺堂の場合は馬琴が友達を訪ねて話をしているうちに怪談が語られるという、綺堂が非常に好んだ語りの場というのが設定されています。また、綺堂の作品では、最初にすっぽんの怪というのが二つ語られますが、『兎園小説』にはありません。どうも一つは伴蒿蹊という学者の話らしく、綺堂の博覧強記からいって必ず出典があるとは思いますが、見つけられませんでした。
次に、この「魚妖」の話をしている吉次郎が鰻を割いていた時に、一つ太い鰻が出てきて、それに脾腹を打たれたとありますけれども、彼の養父の鰻屋が鰻のようになって死んでしまうというところで、鰻の恨みをいっそう強調するような、「時々に寝床の上で泳ぐような形を見せた」という出典に無い表現があります。さらに綺堂は、「しかし吉次郎にはひしひしと思い当たることがあるので」という一文を付け加えることで、鰻の呪い、因縁話にしようとしている節があります。それから、その養父が死んだ時、吉次郎が養母に「おまえさんも再びこの商売をなさるな」と注意しますが、これも出典にはありません。これは吉次郎の視点を通して、鰻に呪われた鰻屋の主人と一家というものの姿を描こうとしている、そのような感じがします。
もう一つ出典に無い箇所があって、話を聞き終えた馬琴が「斉藤彦麿はその当時、江戸で有名の国学者である。彼は鰻が大すきで、毎日ほとんどかかさずに食っていた」という話を持ち出してるところです。焼いたら死人の臭いがしたとか、太くて長い鰻の祟り、呪いを描いた後に、鰻は美味しいんだという斉藤彦麿の『神代余波』の一節を引くわけです。これは『兎園小説』には全く無くて、綺堂が鰻の怪を書きながら鰻を好む人の話で落としているというところに、鏡花とはまた違う鰻への視点というものが感じられます。
次に、綺堂の「鰻に呪われた男」。横山泰子氏が『綺堂は語る 半七が走る』で、これの簡単な論をお書きになってまして、真佐子という主人公の女性が、鰻を生で食べてしまうという異食性を持ったその夫に、自分が食べられる夢を見るというところを取り上げておられます。しかし、そういうエロティックに思われる場面なのに、全然エロティックになっていないという綺堂の作風に注目されています。
この話で私が注目したいのは、鰻屋の職人が片眼であるということです。片眼というのが何回も出てきて、真佐子の夢の話に、「鰻屋の職人らしい、印半纏を着た片眼の男が手に針か錐のようなものを持って、わたくしの眼を突き刺そうとしています」とあります。どうして鰻屋の職人が片眼でなければならず、真佐子の眼を刺そうとしたのかというところに注目したいと思うんです。それから、この真佐子の失踪した夫らしい男を発見した人が、彼は鰻屋で働いていて、しかも左眼が潰れていたと報告する場面があります。これからすぐに連想されるのは、片眼の鰻、片眼の魚というような一つの伝承のパターンですね。
このように綺堂は、鏡花のように最後を鰻の恐怖で落とすといった手法をとらず、その語り手の真佐子が、鰻というのは気持ち悪くて、鰻に呪われた男である私の夫は不思議な人だけれども、しかし自分は現代の人間だから、そんな感傷的なことばかりいいませんとか、自分は鰻をよく食べるんだ、というような話をしているところが特徴的です。綺堂は不思議なことを書いた時、それに対して近代的解釈を出そうとしてるところがあります。つまり、鰻を生で食べるのも「異嗜性」であるといったり、片眼を潰したのは粗相ではなくて人相を変えるためだというような、真佐子の感想をそのまま書いてるわけです。真佐子の夢についても、夢の研究は進んでいるから、その疑問を解きたいものだなどと、一見近代的・論理的な解釈を施すようなところがあります。鰻の呪いがテーマになった怪談でありながら、その呪いというものに還元せず、違う方向へ持っていこうとしているわけで、あえて因果・因縁譚にしていないというのが綺堂の特徴であると思います。
それを押さえて次にいきますが、綺堂作品と鏡花作品に共通する鰻の最も怖いシーンは、最後に鰻が水槽から立ち上がるところです。「夜釣」だと、「蓋を向こうへはづすと、水も溢れるまで、手桶の中に輪をぬめらせた、鰻が一條、唯一條あつた。のろ/?と畝って、尖った頭を恁うあげて、女房の蒼白い顔を、熟と視た」で終わります。一方の「魚妖」では、「念のためにその蓋をあけて見ると、たくさんのうなぎは蛇のように頭をあげて、一度にかれを睨んだ」とあります。まるで鏡花と共通する表現だと思います。
この怖さについて、もうちょっと踏み込んでみたいんですが、その前に彼らが鰻をどのように考え、実生活では鰻とどう関わっていたのか。綺堂は実は鰻が大好きでした。都筑道夫氏の解説にもありますけれども、随筆「ランプの下で」で、綺堂は竹葉の蒲焼が大変美味しいというような記述を残しています。代表作の『半七捕物帖』でも、半七が鰻屋に入る数はかなり多いと思います。このように好物を用いて怪談を書くところに、何か綺堂の怪談の特殊性があるんではないかと思いますが、そこまで話を広げてしまうと収拾がつかないので、そういう屈折を持った人だということだけ確認しておきます。
鏡花のほうは、鰻についてはほとんど書いていません。ただ、明治三十八年の小説「銀短冊」で、山奥の湖に鰻と鯰がおびただしく出てくるというシーンがあり、鰻や鯰などウロコの無い魚に対して、鏡花が生理的な気味悪さを表現したという例になるかと思います。
それから次、蛇なんですが、「魚妖」で「蛇のように頭をあげて」とありますように、鰻は形態的に蛇に似ています。これが鰻の恐怖の、全部とはいいませんが一部を構成しているんじゃないかと思います。ちなみに鏡花が蛇を描いた例としては「蛇くひ」という小説があり、これは北陸の「おう」と呼ばれる不思議な団体の人達が蛇を食べるシーンです。ちょっと気持ち悪いんです。実生活での鏡花は大変偏食でありまして、魚も白身は食べるけど鰻は食べないということが巌谷大四氏などの本からわかります。鏡花は犬も嫌いなんですけど、その理由は顔が鰻に似てるから、というのをどこかで読んだ記憶があります(笑)
次に、鰻のイメージについて。鏡花や綺堂の鰻への恐怖感、あるいは鰻を恐怖の象徴として描くに至った背景は何かというのを見ていきたいと思います。後藤明氏が『「物言う魚」たち』で、南太平洋を中心とした鰻の伝承のフィールドワークをやっておられます。これは今回直接関係が無いので、書名の紹介だけにしておきますが、資料には鰻がウツボなどと同類で、ウミヘビなどとも混同されるものだという生物学的な説明を引いておきました。
次に、鰻の文学。鰻の文学的伝統を探してみると、古いのは万葉集なんです。これは本当に有名な歌で、土用の鰻の日が近づきますと、よく鰻屋さんにこの大伴家持の「痩人を嗤う歌」、「石麻呂にわれもの申す夏痩によしといふものぞむなぎとり召せ」がよく貼ってあります。ところが、不思議なことに鰻——古語では「むなぎ」と書きますけれども——を題材とした文学はこの後、中世後期まで途絶えてしまいます。中世後期の例は狂言「成上がり」で、山の芋が鰻になるという有名なことわざがここで出てきますが、平安〜室町時代初期には、もちろん鰻はあったけれども、食べられてはいなかったようです。本格的に鰻を食べるようになるのは、江戸中期からといわれています。それまでは精はつくけれども美味しいと認識されていなかったようで、江戸中期に蒲焼の手法が取り入れられたんですが、やはり鰻のようなクセの強いものは蒲焼などにしたほうが美味しいということなのかもしれません。これと同調するように、江戸時代にはたくさんの作品に鰻が出てきます。あまりに多いし、ほとんどは鰻屋で鰻を食べたというだけのもので、鏡花や綺堂の鰻観とどう関連するかはわかりませんけれども、江戸時代には少なくとも鰻を食し、鰻を文学に描くことはポピュラーであったようです。
続きまして、鰻の伝説はどのようなものがあるか。佐野賢治さんという方が「鰻と虚空蔵信仰」という論文で五つのポイントを挙げておられます。鰻は虚空蔵信仰と深い結びつきがあり、虚空蔵菩薩を信仰する人はそのお使いである鰻を食べてはいけないというタブーがある地方が多いそうです。五つのポイントのうち、「神仏のお使いとしての鰻」と「鰻の転生」が問題です。これは鰻が物をいうとか、あるいは鰻が何かのヌシであるということで、「魚妖」の巨大な鰻とつながりがありそうです。それから、「片目の鰻」。片方しか目が無い鰻は神仏のお使い、何か霊的、神的なものであるという伝承があります。
次に、柳田国男の論じた「片眼の鰻」。綺堂の「鰻に呪われた男」に「片眼」というのがずいぶん出てきましたけれども、その「片眼」という要素について柳田が書いておりまして、有名な『一つ目小僧その他』の「魚王行乞譚」がそうです。これは昭和四年初出ですが、柳田と鏡花の関係は『遠野物語』以前に遡り、明治四十年代から確実に始まっていましたから、柳田のこのようなデータが鏡花との間でやり取りされた可能性も考えられます。けれども、綺堂に関しては柳田との関連が見出せないんです。綺堂が柳田を読んでいたのかどうか、今気になってしょうがないところなんですが、綺堂のほうが柳田の本の内容に近い話を書いているのはなぜなのか、これは疑問としてまだ持っています。
柳田の論文「魚王行乞譚」では、こういう話が紹介されています。「岡山県勝田郡吉野村大字美野の白壁の池に、片目の鰻というのが住んでいたことは、『東作誌』という地誌に出ている。昔一人の片目男があって、馬に茶臼をつけて池の側を通るとて、水中に墜ちて死んだ。その因縁で池の鰻の目は一つとなり、なお雨の降る日などは水の底に茶臼の音が聞こえたという」。片目男が死んだ因縁で鰻が片目になる、これは鰻の片目というのが一種の聖痕になっている話だと思います。男の恨みが鰻に乗り移ったとも読めますが、綺堂の「魚妖」や「鰻に呪われた男」にある、鰻を食べるという殺生をした因縁で当人が鰻になってしまう、というのと通底するものがあるように思います。
それから参考として、先ほど少し触れた『耳袋』にあるという話を挙げましたが、これは「魚王行乞譚」と呼ばれる説話の代表的なものです。鰻の穴釣りが大好きな茶屋の亭主がいて、そこに一人客が来て麦飯を食べますが、その客が、鰻の穴釣りというのはとくに罪深いことだ、おやめなさいというふうに意見して帰っていく。ところが、その日雨が降って、亭主が穴釣りをしたところ、大きな一匹の鰻をとったわけです。それを料理してみると、鰻の腹から麦飯が出てきた。つまり先ほどの殺生を戒めた客は、その鰻の化けた人間だったという話です。これが「魚王行乞譚」と柳田が名づけた説話のパターンなんですけれども、『今昔物語集』にほぼ同じ話が出ています。自分は鯰に転生するから、鯰が出てきたら助けよと、父親が言い置いて死んでしまうんですが、息子がその鯰をとって食べたところ、祟りがあって、鯰の骨がのどに刺さって死んでしまったという話です。このような何らかの魚、とくに鯰や鰻のような鱗の無い魚の大きなもの、つまり魚王、ヌシが殺生をやめるよう説得をする話というのは、『今昔物語集』の十二世紀まで遡り得るわけです。
どうもこのような話が背景にあって、綺堂や鏡花に影響しているように思うんです。実際に綺堂が柳田や『今昔物語集』を読んでいた証拠は無いので、断言はあえてしませんが、こういう鰻についての伝承的背景というものが押さえられるのではないかという提案をしたいと思います。柳田は「片目の魚」についても論じていまして、片目の鰻は聖なる鰻だからと、氏子のものは食べなかったという話です。やはり「片目」が聖なるものとして出てくるわけですが、その聖なるものというのは両義的で、もちろんマイナス面では「祟る」ということにつながっていくかと思います。ですから、綺堂の話の「片目」もそうではないかというふうなことを考えてはいますが……綺堂は東京の生まれなので、こういう地方の話をどのぐらい知ってたかというのをあとづけることは、今は正直いってできません。
それから、先ほど蛇と鰻は形態上似ていて、鰻への恐怖は蛇への恐怖や忌避感から来ているのではないかといいましたが、それを見ていきます。いわゆる古辞書からいくつかピックアップしてみました。一つめは、『新撰字鏡』という十世紀前半の漢字の辞書です。「漢字セン【魚+單】、漢字ゼン【魚+善】」(セン、ゼン)【魚+單、魚+善】というのが鰻を意味する字で、これは「蛇魚」、「むなぎ」と訓み仮名が振ってあります。やはり鰻は蛇と共通するとされていたことがわかります。次の『和名類聚集』もやはり十世紀半ばの辞書ですが、この「漢字セン【魚+單】、漢字ゼン【魚+善】(セン、ゼン)【魚+單、魚+善】という字に、「爾雅注云はく、蛇に似たり」と説明があります。そして、観智院本『類聚名義抄』という十二世紀の辞書ですが、「鰌」そして「漢字セン【魚+單】」(ゼン)【魚+單】という漢字があって、訓み仮名として「善」とあり、その下に「蛇魚」とあります。その左に「漢字【虫+也】」や「漢字【虫+?】」—どちらも蛇と訓み得る字です—に似た魚であるという説明が付されています。
少しとんで江戸時代の『和爾雅』、これには「鰻」という字が出ていますけれども、「蛇魚」とあり、『本朝食鑑』にも「鰻、蛇形の如し」とあります。この『本朝食鑑』で面白いのは、「とくに江州の勢多橋の辺りでとれるものが美味しい」とあるところで、御伽草子の『俵藤太物語』に、勢多橋に琵琶湖のヌシが—龍か蛇のようなものなんですけど—寝転がってる絵があるんです。どうもその龍的、蛇的なものと勢多の橋とは関連があるようで、そのような形態上の関連や連想が『本朝食鑑』なんかに影響しているのかもしれません。参考として、中島義道さんの『偏食的生き方のすすめ』の、蛇を連想させるから長い魚は食べられない、というのをちょっと引いてみました。これは遊びですが、現代人でも蛇を連想する長い魚というイメージは脈々とあるようですね。
そして次に、「夜釣」と「魚妖」にある、鰻が立ち上がって睨むというところの怖さのもとになった図像について。図像集を見ていただきたいんですけれども、鰻が鎌首をもたげるという絵は全然無かったんです。しかし、形態上の類似から鰻が蛇を連想させますから、その蛇が鎌首をもたげる動作に何らかの意味があるんではないかと思って、集めてみました。そういう蛇の図像は、文献的には十三世紀の説話集『古今著聞集』ぐらいからしか出てきません。これ、鎌田さんの『聖トポロジー』から引きましたけど、インドのナーガ神がやっぱり立ち上がって仏陀の背中にいる。ギメ東洋美術館のナーガもやっぱり立ち上がってる蛇の図像ですね。これを日本で探しますと、時代順に古いものからいって、赤木文庫本『七夕の本地』という室町後期の絵巻です。これは七夕さんの起源を語る話で、三輪型の神婚説話と同じなんですが、天上界の王子様が蛇に化けて女のもとに通ってきて、ある日姿を見せてといった時に、その蛇の中から美しい男子の姿を現したというシーンなんです。蛇が水中から立ち上がってますが、単に姿を見せるためなのではなく、聖なるもの、あるいは邪悪なものが何かを顕現させる時、このような立ち上がるという動作があるのではないかというふうに思えてなりません。これはご意見いただきたいと思います。
この場合は聖なる蛇ですけれども、時代がもう少し下ると邪悪な蛇という図像が増え、ほとんどそればかりになります。その代表が『道成寺縁起絵巻』で、最後に大蛇に化した女性が鐘を巻いて、半ば立ち上がって炎を吐くというところです。それから、十六世紀頃の『熊野観心十界図』。熊野比丘尼が絵解きをした地獄図ですけれども、女の人を二股かけた男が落ちる地獄である「両婦地獄」を見ると、男が二人の蛇身の女性に絡めとられてますね。その蛇体の女性がやはりとぐろを巻いて半ば立ち上がり、『道成寺縁起絵巻』なんかと通じ合うのではないかと思います。ここから後、蛇身というのが邪悪なものの象徴になっていくようです。十七世紀頃の説経『あいごの若』の版本の絵なんですが、これは自分の継子である「あいごの若」という男の子に恋心を抱いた継母が死んで、彼を自殺に追い込み、結局その死体と思いを遂げてしまうという話なんですが、蛇体の継母がやはり水の中から立ち上がってくるという絵が描かれています。それから、もう少し時代が下った『因果物語』では、両婦地獄図のパクリだと思いますが、嫉妬深い女性が化けた蛇に男が巻かれ、その蛇が立ち上がって睨んでいるというのが描かれます。さらに江戸中期頃の柳亭種彦作、北斎画の『霜夜星』という絵本ですけど、これも醜女が怨念で蛇と化し、自分を捨てた男のもとに現れるシーンで、蛇が立ち上がっています。ついでに、現代の絵馬ですが、鰻が立ち上がるのも一個だけありました。京都東山区の三嶋神社にあった絵馬で、多分昭和のものですが、鰻が半身立ち上がってる絵が描かれてはいます。
この段階でいえるのは、繰り返しになりますけれども、鰻を恐ろしく感じる背景には、その蛇が立ち上がるという動作、図像があったんではないか。そして、鏡花も綺堂も江戸の絵草子はたくさん読んでるはずですから、鰻の怪を描く際、このようなものを参考にしたのではないだろうかという仮説を述べました。本当はもっと詳しく中を見ていくべきなんですけれども、もう時間がきてしまいましたので、あとは皆さんからご意見いただきまして、お答えする形にさせていただきます。以上です。 
 
『春昼』『春昼後刻』

 

背景・あらすじ
『春昼』『春昼後刻』は、鏡花三十三歳、明治39(1906)年の作品である。鏡花は前年の夏より、健康を害し、転地療養のために逗子に越している。逗子での療養は2回目であり、その中間に、伊藤すゞを芸妓から落籍させての同棲、師・紅葉の死、すゞとの婚姻などの事件が はさまっていた。両作品はそれぞれ十一月、十二月に雑誌「新小説」に発表された。このころ、鏡花は李長吉の詩に親しんでいたという。
『春昼』『春昼後刻』は、つづきものの小説である。以下、脇明子による簡潔な あらすじの要約がある(『幻想の論理』P.99〜103)ので、それを取捨選択しながら参考のために まとめておきたい。
前後篇を通じて、主体は一人の散策子である。一応三人称の形ではあるが、情景などは、すべて、いったん彼の眼を通過したものが描かれている。『春昼』の はなしは、以下のようである。
冒頭、暖かで、のどかというには濃密すぎるような春の日、逗子郊外を歩いていた散策子は、一匹の蛇が道のほとりの屋敷に入るのを見て、畑に出ている爺さんに一言注意する。この蛇のエピソードにはじまり、一面の菜の花の中に別の蛇を見、行く手からやってくる馬にたちすくむ。やがて、目的の寺につき、石段を上り、本堂に入って、一面の巡拝の札のなかに「うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき  玉脇みを」というのを見る。そこへ、寺の出家がやって来て世間話をはじめ、この歌に迷って死んだ一人の男について語るのである。
死んだというのは、この寺の庵室の客人、散策子と似た若い書生であり、彼が恋わずらいで死んだ相手は、歌の主の玉脇みを、土地の資産家の妻である。その家がさっき蛇が入っていった屋敷と聞いて、散策子はぞっとする。客人は道でみかけた彼女の美しさにひかれて、出家にそのうわさをするようになった。何度か彼女を見かけるうち、彼はしだいに、彼女がその夫や夫のとりまきにいじめられいてるという妄想にとりつかれてゆく。ある晩、庵を出て本堂の方へ散歩に出た彼は、裏山の方で祭囃子がきこえるように思って山に入る。むこうの谷底になんとなく幕があいて、山の腹の横穴にたくさんの女が並んでいるのが見えた。その一人が寝衣姿で舞台に上ったのを見ると、玉脇の妻である。そのとき客人の背中から黒い影がスッと出て、彼女と背中あわせにすわったのを見ると、なんとそれは彼自身であったという。舞台の自分が指で△や□や○を書くのを見ていると、風が吹き、投げ銭がとび、どっと人声がして、とにかく夢中で逃げてきた。彼がそのいっさいを出家に語った次の日、玉脇の妻が寺へ来てうたた寝の歌を貼って行った(*)。客人にはそれも知らさぬよう、二、三日気をつけて見張っていたのだが、ちょっとのすきにいなくなって、木樵が裏山の横穴でみかけたきり、死骸は海でみつかった。
『春昼』は、ここで おわっている。『春昼後刻』に入ると、ものがたりは散策子の うごきにそって展開する。
散策子は庵を辞し、夢というものについて考えこみながらもと来た道をたどる。すると、道端の土手に、蛇のことを注意してもらったお礼を言おうと玉脇みをがすわって待っていて、彼は逃げることもできず、声をかけられてしまう。ここからの、あいまいさをふくむ彼女の話からはっきりした部分をひろうと、彼女には思いつめた相手があって、どうしても逢えないのだが、さっき家の中から見かけた散策子が、その人に似ているというのだ。死んだら会えるというなら死ぬのだがとも彼女は言う。彼女は暇つぶしに絵を描くためにノートブックを持っているが、散策子はそれを開いて、一面に○と△と□が書いてあるのを見て青くなる。そこへ、二人の角兵衛獅子が通る。女は二人に金をやり、ことづけたいものがあると言い、「君とまたみるめおひせば四方の海の水の底をもかつき見てまし」と書いて、幼い方の角兵衛にただ持っていればよいと渡す。角兵衛はそれを獅子頭に入れて去る。しばらくして、海岸に出た散策子は、さっきの二人が浜で遊んでいるのを見つけたが、その眼の前で「ことづけ」を持った幼い方は、溺れて見えなくなってしまう。翌日死骸があがったとき、それは玉脇の妻と二人いっしょであった。 
幻想が現実世界に残した足
鏡花の幻想は、現実世界と完全にきりはなされていない。現実と幻想の境目のあいまいな、ありうべき世界のなかに、合理的な解釈をうけいれがたい幻想がまじりこむ独特の世界をつくりだしているといわれる。いまこれを、つぎのように図示してみよう。
鏡花の作品にえがかれている女は、その幻想的なイメージを中心に語られがちである。しかし、男の体験する幻想のなかに登場する女たちの多くは、その幻想の世界を共有している部分のほかに、現実世界に余した“足”をもっている。また、そうでない場合には、それは語られないことによって存在の具体性をうばわれているかのようである。
ある意味で幻想性をおびている以上、これは当たり前のことなのかもしれない。しかし、ここで2つの類型をたてることにも意味があると思う。まず、幻想のイメージのなかで登場する女がその輪郭と姿をもって描かれるときには、それは、ごく簡潔に、かつ暗示的に現実世界とのつながりが示される。一方、現実世界における存在が詳細に描かれる女は、現実世界にきしみが生じ、その場にあるものが魔性を帯びるはじめる(これを[異形]となづけよう)とき、そこにおかれた「女」も(この場合は「男」やその周囲にあるものも同時に)それまでの姿をかえる。それはなにか輪郭のあいまいな描写によって、小説のながれとしてみても唐突な展開とともにその不可思議な姿をあらわすのである。(その不可思議な姿が現実世界を離れてしまったときに見えるものを[虚影]となづけよう。)
『龍潭譚』『高野聖』の「女」は前者の系列[幻影−外形]であり、『湯島詣』『註文帳』の「女」は後者の系列[異形−虚影]に属する。ただし、「観念小説」と称された『外科室』では、ただ奇怪な事件が描かれるだけであって、そこに物理を超えた世界を暗示させるようなものはなかった。ただ、現実世界のなかでの歪みをみせる場が準備され、豹変する「女」[異形]が登場しただけである。『妙の宮』での「女」は徹底した語りの不在によって暗示されるのみであって、現実世界に余した“足”など ないかのようである。それは社という幻想を媒介する中間的な空間から、さらに暗示をへた向こう側に「女」をおいている[虚影]。これが『清心庵』では、森と庵が幻想を媒介する中間的な空間であるが、摩耶夫人は、小説にながれている時間のなかでは、わずかにしか登場しない。そして、その人格もきわめてあいまいであるにもかかわらず、摩耶夫人は千ちゃんの語りをとおして組み立てられるイメージによって縁取られている。まさに人物としては人格をもたないがゆえに徹底して幻想を体現した存在として登場しているのだが、それはむしろ語りの不在によってこそ読者の想像力をかきたたせる描かれかたにおわっている。そして、その摩耶夫人は、同時に蘭が「御新造さん」として語る婚家での姿に現実世界での足をおいているのである。[虚影−外形]。そして、ここで“足”をおくという技法を得ることにより、鏡花は幻想の世界を暗示的にではなく、微細に描写しながらも、それを現実世界とは断絶した単なる空想のファンタジーとしてではない形で描くことができるようになったのではないだろうか。[幻影−外形]。一方、いわゆる“心中物”では『妙の宮』のスタイルが、現実世界と異界にまたがる「女」の登場をくわえながらが継承される。[異形−虚影]。そこでは幻想の中心部分はあえて語られないのである。
いまこれを[異形−虚影−幻影−外形]という構造であると捉えると、[異形]と[外形]は、ともに現実世界のなかにあるが、目前に存在しているといえるのは[異形]だけである。これは、人物の豹変としても現れるが、多くは異界に足を踏み入れたことにより、場所の容貌が軋み始めることとともに訪れる。であるから、「女」自身が[異形]となるのではなく、周囲の環境が[異形]となることも含めて考えなければならないだろう。[虚影]と[幻影]は幻想世界のなかにあるが、[虚影]は[幻影]のようには意志をもって動かない。[虚影]は暗示によってつくりだされるが、同時に[幻影]の痕跡であることもありうる。その場合には、[虚影]は[異形]から[幻影]の世界を媒介する。[異形]は幻想への入り口であっても出口ではない。反対に、[外形]は[幻影]が現実世界に残した痕跡である。また[外形]は『高野聖』における村の伝承のように、物語がおわってから、はじめてその意味が明かされるものであって、それは入り口にはなりえない。
こうしてみると、鏡花の作中の「女」は、[異形]の部分で「男」と交渉するか、[幻影]の部分で「男」と交渉するかによって、“心中物”か“怪奇物”かに分かれていくとみられよう。そして『清心庵』は“心中物”と同様の構造しかもたないために幻想そのものを描くことができなかった『妙の宮』の水準から真正の“怪奇物”が生まれるようにになるための中間的な作品であったのではなかろうか。
ところで、こうして見ていくと、『春昼』『春昼後刻』は、いままでにないタイプの作品であることがわかる。まず『春昼』では、構造は、いままでにないものである。それは客人の見る幻想と、それに囚われてしまったための死で終わっている。しかし、「女」との交渉は、道ですれちがったという以外には何もなく、幻想のなかにおいても、客人は分裂した一方の自己(の姿)が、この「女」と舞台のような空間で象徴的な動作をするのをながめているだけなのである。いってみれば、この作品での「女」は[異形]として登場するのでもなければ[幻影]として登場するのでもない。それが登場する場は[虚影]という暗示作用がひきおこされる局面に限られているのである。さらに特異なことは、『春昼後刻』では、この「女」がみずから語り手になる。しかし、それは現実世界にいる散策子に向かっての曖昧模糊とした要領をえない語りであり、魔性を帯びているというよりは、むしろ魔性のぬけがらのような姿を見せている。つまり、ここで登場している「女」は[幻影]の女なのではなく、その[外形]にあたる部分なのである。 
「女」の非対称性
あらためて言うまでもないことだが、鏡花の小説は男の視点で書かれている。それは鏡花自身が男性であり、小説の読者もおそらく男性であるだろうと暗黙のうちに想定されているからに他ならない。それは何も、鏡花に限ったことではないだろう。[異形−虚影−幻影−外形]という構造においても、[異形−虚影−幻影]という段階は「男」が「女」に出会いに行く行程なのであって、多くのばあい、「女」はただ出現するだけである。小説の主体となる「男」、それは主体が聞き手の場合であれ、「女」の出現を追体験する順序が[異形−虚影−幻影]という構造をもっているだけであって、「女」のほうには、そのような丁寧なプロセスも、そこにいる必然性の説明もされてはいない。ただ、それは事後談であるとか舞台の背景であるとかのなかに痕跡[外形]として、そっけなく書かれるのに過ぎないのである。たとえば『高野聖』をみれば明らかなように、「男」が魔界へ足を踏み入れるのには正当な理由と順序と手続が必要であるのに対して、「女」はまるで、存在そのものが、はじめから化け物であるかのような書き方がされている。「女」が魔性を身につけるようになった過程は、ごくみじかい背景のなかに暗示されるにすぎないのである。
しかし、[外形]があるということは重要である。鏡花は、幻想のなかの「女」を「男」の観念がつくりだした像としてだけで終わらすことはしなかったと言うことだからである。
鏡花の描く「女」について、母性崇拝であるとか母胎回帰願望であるとか摩耶夫人信仰であるとか、無性的超自然であるとかのものに結びつけるのは、その「女」を「男」の願望なり幻想なりに映し出されてくる姿としてとらえたものではないだろうか。無論、鏡花は、その幻影としての姿を書くために、小説の大部分を使っている。しかし、もし、それだけでよかったのであれば、「女」に“足”[外形]をつける必要はなかったのではないか。あるいは徹頭徹尾、「男」の夢物語として、あるいは小説成立時の社会とかかわりのない時代背景における怪談として書いてもよかったのではないか。そうせずに、どこかでその時代との結びつきを保ちながら、そこに重なるように幻想を描いていった鏡花は、たとえ自分の分身が作者自身の母の喪失感をうめるために、幻想の世界にしかいない「女」を描いたのだとしても、
その「女」自身の主体はそれとは別にあるのだ、ということを担保としてとっておくことを忘れなかったというべきではないのだろうか。
そこには、「男」の目に映る「女」と「女」自身とが一致していないという非対称性が明確に示されているのである。まさに、『湯島詣』において神月が蝶吉に別離を言い渡す場面にしても、『註文帳』において遊女が若き日の陸軍大将に心中を拒絶される場面にしても、その非対称性は明らかである。そして、それは幻想の世界に現れる「女」たちにしても、おなじかもしれないのである。
ところが、『春昼』『春昼後刻』は、「男」「女」双方が別々に「夢」をみて、その「夢」のなかでの縁ゆえにそれぞれが死んでむすばれようとする話である。そして『春昼』が客人という「男」の物語であったのに対して、『春昼後刻』は玉脇みをという「女」の物語であるが、『春昼後刻』の「女」は、どんな「夢」をみたのか、まったくあきらかではない。そこには、美人であるという以外に人格もはっきりせず、精神医学者である吉村博任氏のいう「離人症」的な症状をみせていて、はなす内容もすじだてがはっきりしないままである。そもそも、『春昼』での客人が道ですれちがうときも、その幻想のなかに現れたときにしても、玉脇みをは積極的な動作をなにもしていない。玉脇みをの内面について知る手がかりとしては、蛇を恐れたこと、客人のことがあってからすぐ、病気で床につきがちであること、小野小町のうたを奉納したということ、そして、ノートにかかれた○△□などの記号、門付けを追い払ったこと、角兵衛をみて「私の児かも知れないんですよ」と言ったことくらいしかない。そのひとつひとつには象徴的な意味があるとはいえ、直接に何かを意図するという効果はおよそない。まさに、『春昼』『春昼後刻』において、玉脇みをは現実世界に[外形]をのこしながら、その現実世界の存在自体が記号化されている。
しかし、まさにそれこそが非対称性を示していると言うことができるのではないか。客人が幻想した玉脇みをは、『春昼後刻』で散策子がみた「離人症」の玉脇みをではなかったはずである。であれば、論ずべきことは、はっきりしている。いったい客人と玉脇みをは、それぞれが無関係に生きており、無関係なまま、それぞれの回路を通じて幻想の世界に入っていったにもかかわらず、それらが一つの結果に結びついた理由は何なのかということである。 
「女」の分裂をもたらしているもの
ここで、現実社会での存在をちゃんと持っている「女」が、なぜ幻想世界に介在するようになるかということを論じようと思うのだが、ひとつ問題がある。はたして『春昼後刻』における玉脇みをは、『春昼』での幻想世界に介在したといえるのであろうか。客人は玉脇みをの幻想をみたが、玉脇みをは客人の幻想に出現したと言えるのであろうか。もちろん、何らかの形で、そういうことがなければ、玉脇みをのその後の行動は説明できないのであるが、かといって両者が同一の幻想世界に存在したのだと言う必然性もない。そのくらい、玉脇みをの存在は意志を感じさせないのである。
わたしは、『春昼』の玉脇みをは、[異形]をみせることはなく、[虚影]としてのみ登場し、『春昼後刻』の玉脇みをは、[外形]にちかい存在であると思う。たしかに『春昼後刻』で玉脇みをは、散策子の目のまえで話をするのであるが、その様子は、すでに死んでいるようですらある。それは、これから事件をおこそうとする玉脇みをなのではなく、証言として事件の外形をのこしにやってきた幻影のようである。なぜなら、時間の前後はそうなっていなくても、散策子は、この事件を語る以外の役割を負っておらず、散策子が語っている時点を基準に考えてみれば、すべては過去のことになってしまうからである。
そうすると、『春昼後刻』の玉脇みをは、ぬけがらだと考えなければならない。ぬけがらであるからには、その玉脇みをが幻影となったと考えることはできないが、それは同時に、ぬけがらになる以前の玉脇みをは、客人の前に現れることができるだけの魔性を持っていたということでもあろう。ただ、『春昼』で客人がみた玉脇みをは、[幻影]というには、あまりに意志をもたないものであった。それをかんがえれば、ぬけがらになる以前の玉脇みをの魔性とは、客人に[虚影]を見させる程度の暗示力だったのではないだろうか。
それでは、ぬけがらになる以前の玉脇みをが、結果的に客人の[虚影]と[外形]とに分裂してしまった原因はなんであろうか。それは、後追い自殺という結末をかんがえれば、玉脇みをもまた、客人の[虚影]をみたからだと解釈するほかはないだろう。だが、小説にその部分の叙述はない。したがって想像する以外にない。
ただ、ここでも[外形]に注目することは重要である。「男」にうつる「女」と「女」自身との非対称性は、この[外形]に余された「女」の現実に集中しているからである。そこに注意すれば、この「女」が、にわか成金で多額納税議員の令夫人でありながら、その素性がはっきりしないということに気がつく。それは、この小説の舞台となっている逗子周辺の急激な変化を象徴するような新興勢力に囲い込まれた存在であり、その財産をもとにした権力によって、この地に連れてこられたのだということがわかる。
美人であり、お金に不自由しない生活をしていながら、この「女」には、自己を分裂させざるをえない深刻な裂け目があった。冒頭の出家僧の話にでてくる李長吉の『宮娃(きゅうあい)歌』は、それ自体がこの小説のモチーフとかさなるところがあるが、ここに玉脇みをの<虐げられた女>という側面をみることができる。同時に、かのじょが、金持ちの御新姐という身分でありながら虐げられているというのは、もはや金というものが苦しい生活に安らぎをもたらすものではなく、地域共同体の生活意識を解体しつつ膨張へとむかっていく近代日本の流れにのって、みずからも外へと流れ出していく動きの一部になるという結果をもたらすものだという時代の状況と対応していたのだろう。時、まさに日露戦争直後であり、逗子海岸一帯は、海軍基地としてその容貌を変えつつあったのである。
御新姐さんという地位と、[幻影]となって現れたときの<虐げられた女>のイメージ。そのギャップにこそ、玉脇みをが分裂してしまう理由があったのだろう。そのギャップをつくるものとして、鏡花は逗子の地形を巧みに利用しながらイメージの配置を行っている。そして、<虐げられた女>の部分が[幻影]となってのち、ぬけがらとなった[外形]は、「離人症」の症状そっくりのからっぽにちかいものであった。成金の夫人という地位は、心の状態におきかえれば虚無を意味していたのである。そうなってしまった理由は想像する以外にない。だが、[幻影]となった玉脇みをが人間としての一体性を回復しようとしたときにとった方法は、なにかを語っているかも知れない。客人の分身が△、□、○と寝衣の上に書いたとき、にわかに[幻影]は反応をしめし、艶やかに変身する。
それは、こまかく分節化された言語を拒否し、意味づけのあいまいな世界を求める象徴として受け取れないだろうか。そうだとすれば、かつては、ことばにされることなく、あいまいな一体性を保っていた人間のかたちが、意味づけをされることによって、断片化され、そのことが玉脇みをの分裂をもたらしたのだ、というふうには読みとれないだろうか。 
喪失感による社会の捕捉
△、□、○のような記号とたわむれ、意味づけされることを拒否した玉脇みをは、意味づけされることによる断片化に抗っていたと考える。と、すれば、意味づけされることによる断片化とは具体的には何であろうか。
玉脇みをの不幸は具体的にはわからないが、ことばによる意味づけに起因しているのだとすれば、その当時の女性がおかれていた状況のイデオロギーの側面すべてがその原因なのだといってみることができるだろう。たとえば、この作品もまた、ほかの鏡花の作品同様、「母性」という題材が挿入されている。玉脇みをは、後追い自殺をするにあたって、角兵衛獅子の若いこどもをみちづれにしている。そのこどもには、「私の児かも知れないんですよ」といっているのである。そのことに時代のことばを対置すれば、当時「母性」は「富国強兵」のために男児を産めというスローガンによってぬりつぶされていた。「君死にたもうことなかれ」と歌った歌人が迫害をうける時代であったのである。
すでに「母性」も、あるがままの姿ではありつづけることが許されず、国家のかかげることばによる意味づけによって切り刻まれていた。恋愛もまた婚姻制度によって秩序化され、その姿は別のものへと意味づけられる。美人であるがゆえ金でかわれるということもおこりえただろう。その一方、素朴な愛は、その無定型ゆえにことばによって擁護されることなく、すてられていたのである。
鏡花は小説のなかで、このようなことばの意味づけによる社会の変化を、いろいろなものの対照によって示している。「赤鬼、青鬼」がいる、などと西洋人の住宅のことを指したり、逗子駅の駅舎の落成式典の喧噪と対比させる形で、それと反対の方角から別の祭囃子が聞こえてきたとかいている。幻想は森のなかにあり、海は侵食されつつある領域であった。冒頭にも、次のような叙述がある。
おさを投げた娘の目も、山の方へ瞳が通い、足踏みをした女房の胸にも、海の波は映らぬらしい。(三)
この指摘を含め、松村友視(1987)は、つぎのように言っている。
一見、方向性をもたないかにみえる「散策子」の散策にも、この点に関して、ある明瞭な方向が指し示されている。彼の散策が岩殿寺の観音堂を目的地とすることは本文から明らかだが、行きがけには落成式に向かう人通りを「よけて通るばかり」であり、帰途にも「迚も町へは寄付かれたものではない」(三十五)というように、散策は同時に落成式の祭りに背反する方向をもっているのである。それは地理的には、扇状に開けたこの土地を海浜から山峡に向かって遡っていく道程といえるが、その途中にあたる岩殿寺の山裾の村落は、すでに海岸一帯とは異質な意味をもつ時空として描かれている。
前近代的世界との濃密な結びつきを思わせるさまざまな心象を連ねた村の風景は、それ自体、海岸一帯の風景に対して背反する世界といってよい。
作者は、一年という時間を隔てながらも、これら二つの祭囃子を、時間的にも空間的にも正反対の方向から作品世界に響かせようとする明らかな意図をもっていたとみなければならない。一方は汽車の連想にもつながる「時計のセコンド」のように人工的・定時法的な近代の響きであり、他方は前近代の闇から人間の深層に伝わってくる不可解な響きとしてである。
前近代の「闇」をすべて肯定するかどうかは別としても、玉脇みをがそれを回復しようとしたことは間違いがないだろう。虐げられ、みずからが記号と化してしまった玉脇みをは、[虚影]となって虐げられた自分をさらし、それを無数に並ぶ石仏のように、歴史のなかで虐げられてきた無数の女性達の列のなかにおく。そして、[虚影]は原初的な記号がみずから意味化作用を行いうる森の奥におかれることによって、はじめて自己を回復することができたのだ。
前近代的な空間ではじめてその自己を回復したということは、当時の社会を喪失感によって捉えているということを意味する。近代的な時間、近代的な意味の分節化によって解体された一体性。そこにこそ幻想をうらづけている基礎があるのではないか。その一体性の記憶は、ときには母胎回帰願望として現れ、ときには母性の回復として、自然の鬼神力として顔をのぞかせるかもしれない。しかし、本質はそこにあるのではなく、そこにおいては保たれていた一体性が喪失されたという感覚こそが重要なのではないか。そして、喪失されたという感覚は、それをもたらした社会の変化を、その喪失感によって細くしている。このことは、鏡花のほかの作品をみるときにも示唆をあたえるものだと思う。
『湯島詣』において、神月は、苦界に身を沈めた「女」であるからこそ、そこに「母」を感じることができたのではないかと指摘した。それは、苦界であるからこそ、そこにおける「女」の喪失感をてがかりに、失われた一体性の記憶にたどりつくことができたのだということに他ならないのである。 
ふたたび母性と娼性について
鏡花の小説のなかでのこの小説の特徴は、「女」の[外形]がかかれているということである。この[外形]というのは、わたしが勝手に名付けたものだけれども、現実世界での「女」の姿が詳細にでてくるのは、心中物とにている点である。しかも、この「女」もまた、どこかで異界に入り、幻想をみてきているにちがいない。「男」と別々に、共通の幻想をみたのである。それまでの怪奇ものでは、はじめから化け物として存在しているがごとき「女」が出現したが、ここでは幻想をみたあとのぬけがらであるとはいえ、現実世界での「女」が書かれている。
これは、いわゆるほかの怪奇物の小説であっても、ほんとうは「女」には、そのような現実世界での別の姿があったのではないか、ということを思わせる。「女」に出逢う「男」においてつくられる心像と、鏡花が書こうとする「女」とを同一視することは、この事実を見落としてしまうことにならないか。「女」には「女」としての別の人格と別の人間としての一体性が、あるはずなのだ。
しかし逆説的であるが、その一体性が奪われているからこそ、いままでの小説での「女」は、簡単に「男」の心像と同一視されてきたのだともいえる。そして、鏡花は自分の分身としての「男」をとおして、すきかってな「女」のイメージを描いたのだと思われてしまう余地があった。その結果、わたしたちは「女」がもともと持っていたもの、「女」が分裂し、断片化されるなかで失ったもの、そこに流れている喪失感をつかみ損ねていたのではないか。
鏡花の描く「女」がときに「母親」を体現し、ときに「娼婦」のエロチシズムをもただよわせることから、そこに意識化の母子相姦の欲動をみることもできる。しかし、おそらくは事態は逆ではないのか。現実世界の虐げられた「女」の存在に即して考えれば、「女」から素朴な母性をうしなわせたものの正体こそが、そこから純粋な愛をも不可能ならしめているものではないのか。「女」に「母性」「娼性」という対立する属性をときどきによって貼り付け、それを分節化する意味の作用が、そのような記号の断片におとしめられてしまう以前の、曖昧さと両義性をたもったままの存在そのものとしての「女」のもっている、同時に「母性」でもあり「娼性」でもありえて、そのどちらでもない「女性」をうばいとったのである。鏡花はただ、その「女性」を回復したいだけなのだ。 
 
「蛇」水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ

 

鏡花(と、敬称抜きで呼ばせていただきますが、)鏡花について、纏まってものを書いたことは、私、ございません。学研が、『明治の古典』を選んで、十巻の、大判で、写真の沢山入ったシリーズを出しましたときに、『泉鏡花』編を担当いたしました。私の選びました作品は、先ず『龍潭譚』次いで『高野聖』と『歌行燈』の三編でした。 『龍潭譚』は、私の言葉で、現代語訳をしました、そうする約束でした。『高野聖』と『歌行燈』とは、ご承知のように、現代語訳の必要はございません。そして三編を通じて、私なりの或る意図を活かして、脚注をつけて行きました。脚注だけを通して読まれましても、何か、私の「鏡花観」といったものが、ないし、鏡花に関わる問題意識が、ほの浮かび上がればよいがと、目論んでおりました。その前後に、どこかで、どなたかと、座談会で、鏡花にふれた話し合いをしましたが、よく覚えておりません。司会が、篠田一士さんであったような、朧な記憶が残っています。それよりも忘れがたいのは、前の館長さんの新保千代子さんのご好意で、能登島のあの名高い火祭りを見せていただきました。あれが、とても嬉しかった。あの、前でしたか、次の日でしたか、この井川近代文学館で、「鏡花」について、よたよたと、頼りない、講演ともつかないお話を致しました。なに、ろくに私自身も記憶しないようなものでした。その折りであったかも知れません、さきの、『龍潭譚』を訳しました私の原稿を、「館」に、お収めいただきました。ご縁、というものでございましょう。ご縁といえば、新館長の井口哲郎さんとのご縁は、もう話し始めれば尽きないほどで、ただ有り難く、この場を拝借し、一言、久しい感謝の気持ちをだけ、申し上げておきます。
で、その、『龍潭譚』を訳しました私の原稿で、少しく問題を生じましたことを、思い出します。一箇所で、問題が起きたんです。或る箇所で、「渠=かれ」という、いわば異風の代名詞が使われていました。それは誰を、何を、指しているのか、わたしの理解に、異存が提出されたんです。じつはそのような注目が寄らないものかと、脚注で、ことさらに、鏡花原作の草稿まで持ち出して、その上で、「深読み」のおそれが無くもないが、あえてこう訳してみたいと、理由を書き添えて置きました。『龍潭譚』の少年は、斑猫といわれる毒ある虫に、さも嘲弄されますように、山道を誘われ、山道に迷います。斑猫は「道教え」という名もある虫でして、本文に、「渠は一足先なる方に悠々と羽づくろひす。憎しと思ふ心を籠めて瞻りたれば、蟲は動かずなりたり」とあります。ここの「渠」が、「蟲」を謂うているのは明らかです。あげく、少年は躑躅の花の燃えるように咲いた山坂の道で、斑猫を石で撃ち殺してしまいます、が、すでに刺されていて、虫の毒で、面体が変わりつつあります。少年はまだそれに気づかす、むず痒い痒いと思っている。そしてますます道に迷い、泣き叫んで、優しい保護者の、我が姉を、声いっぱい呼ぶのですが、「こたへやすると耳を澄せば、遙に瀧の音聞えたり。どうどうと響」いています。その瀧の音の「どうどうと響くなかに、」透けるように、「いと高く冴えたる声の幽に、
『もういいよ、もういいよ。』
と呼びたる聞えき。こはいとけなき我がなかまの隠れ遊びといふものするあひ図なることを認め得」まして、少年は、やがて見なれぬ土地の子らが事実「隠れ遊び」していたらしい、或る「鎮守の社」にたどり着きます。ほっとして、少年は里心地のうちに、家は近いと一息つくのでした。さ、そこで。問題になった「渠」は、章節の見出しを「かくれあそび」と替えまして即座に、こういう風に使われていました。
「さきにわれ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠に認められしぞ幸なる。」と。
さ、この「渠」とは何なのか。何を指すのか。慶応義塾大学図書館の鏡花原稿では、実は、ここの「認められしぞ幸なる」の「認められ」のあとに、二字分の抹消があり、私は、「認められざりしぞ」と打ち消されていたのが、「認められしぞ」と直ったのだと考えます。で、「認められざりしぞ」だと、姉を呼んでいたのですから、微妙な「幸なる」との関わりこそともあれ、単純に「渠」は「姉」と読めてしまうのです。しかし、鏡花は二字を消しまして、「認められ(* *)しぞ幸」いと直し、活字本ではその後、一度も変更されて居りません。  私は、こう訳しました。
「先刻山なかで、泣いて助けてと姉を呼んだ時、瀧の音や「もういいよ」に前途を誘ってもらえて、ほんとに良かった」と。
そして此の箇所脚注の最後に、「深読みの惑いは抱いたまま訳稿を定めた。他日、論考の機会をえたい」と書き記して置いたのです。  
さて、この箇所について、私に宛てて、直接、異存を申し立てて下さったのは、一人は寺田透氏で、もうお一人は鏡花夫妻の養女の泉名月さんでした。こう申してはたいへん失礼だが、わたしは、大物を確実に釣り上げたわけです。三人の間で、しばらく、私信を通じて意見交換が続きまして、やがて終熄しました。だれもが、自説を曲げるほどは、説得されなかったんです。
問題は、残されたままになっていて、寡聞にして、他の場所でこれが論議されたことがあるかどうか、私は、知らないでいます。ま、古証文を引っぱり出すのは専売特許のようなもの故、この辺から、ものを申してみようかな、と、腹を、八分がたくくって参りました。ご心配なく。あまりこまごまと細部にこだわり続けようとは思っておりません。
ここの「渠」の字は、もともと水路や溝を意味しています。暗渠、溝渠などと熟しますね。また、かしら、親分ふうに、渠魁などとも熟するそうです。「なんぞ」「いづくんぞ」と、漢文では疑問や反語の助字に用いている。それでも「彼」「彼女」風の代名詞なみに使われる例は、鏡花ひとりに限らないし、また人間だけでなく他の生き物や、擬人化して、物にも宛てて使われている例もあります。
で、寺田さん、名月さんご両人は、この「渠」とは、ここまで物語を読んできまして、実は、まだ作中に全く姿をみせていない、登場していない、やがて登場してくる、けれども読者は、その存在すら、まだ、全然知らない、或る不思議の「女人」のことだと言われる。
なるほど、読者はまだそんな「女人」は見も知らない、けれど、作中の少年はこのお話を、はるか後年に追懐している体裁ですから、その「女人」のことは語り手は承知している。承知の上での「渠」であるから、読者の知る知らないは問題ではないと、言われる。
しかし、叙述に即して本文を読めば、あくまで頑是無い少年の心理的な現在感覚に貫かれつつ、コトは進んでいるのでして、決して後年の海軍少尉の追想・追懐は微塵もまだ混じっていない。それは最後の最期にパッと初めて明かされるんです、だからこそ「締めくくり」効果も挙げている。少年の現在感覚、それと同調して読み進んでいる読者の現在感覚に即して申しますと、登場もしていないモノを明確に「渠」とは、この際指さしたくても指せないのが道理であり、小説や物語の、ないし叙事・叙述の、力学というものです。
で、私は、その不思議の「女人」に、確かに「なぞらえられ」ているが、直接に指さした「渠」ではない、この「渠」とは、該当個所の直ぐ前で、ほんの直ぐ前の語りで、語り手の少年を、道に「迷い子」の窮地から救った、「瀧」ないし「瀧の音」それ即ち「もういいよ」という「迷い子からの解放=侵しのゆるし」に、宛てて、読んだのです。少年は或る魔境を侵していたのです。
「渠」は、そもそも常用の代名詞では、ない。「かれ」と読むからそんな気がするわけですが、先にも申しますように、本来の字義を体していまして、白川静さんの『字通』によりましても、この「渠」という文字の第一義は、中国の字典『説文』をも引き、「水の居る所なり」とされているのです。本義は、「水」の在る「場所」を明確に指さしています。沼や池や、淵や瀧。この語りのごく近辺から代名詞的に指さして謂えるのは、「瀧」「瀧の音」が、まさに実在しています。そして、件の「女人」は、まだ、その「瀧・瀧の音」の背後に、文字通り、「隠れ」ていましたから、少年も、むろん読者も、女人の姿も存在も予見もできず、ただ「瀧の音」を耳にしつつ「もういいよ」と、迷い子の窮地から放免されたのでした。宥され、助かり、安堵しながら、その背後に、かすかな不思議への「誘い。いざない」を感じていたというのが、より正確でしょう。この「瀧」や「瀧の音」は、てちゃんと書き込まれています。それは鏡花にも少年にも、聖と俗を分かつ結界に位置した、さながら「龍」潭への門かのようにきちんと表現されています。
これが、私の理解でした、主張でありました。この「瀧」こそは、物語の題の、「龍」ないし「龍潭譚」に、文字の姿からもハッキリかぶさり、そして、やがて登場する神秘の女人の「水神」性につながるあだかも擬人化された化性と、私は、読んだのでした。そしてその「読み」の延長上に、名作「高野聖」と「歌行燈」の読みをも、まさぐって行ったのでした。これら秀作・名作には、まさに「水の幻影」としての「龍神」「蛇神」が、支配神・地主神のごとく、たゆたい生きている。鏡花の世界に、遍満している神様です、化性のモノ、です。で、今日は、そのお話をしに参りました。じつは「書いた」ものでありますが、私の声と言葉とで、みなさんにお話しし、ご批判を願おうと思っています。鏡花から、ぐうっと離れて行くようで、そうでは、ない。鏡花の「誘いと畏れ」に、きっと触れあって参りますので、モノがモノ、少し長めにお時間を、ぜひ頂戴したく、お願いします。
(*補注 ここで会場から、この「渠」は即ち毒虫「斑猫」だと考えているという強い意見がでた。「さきにわれ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠(斑猫)に認められしぞ幸なる。」だが「さきに」は時限を特定した指示句であり、明白に「われ泣きいだして救を姉にもとめ」た時点をさしている。ところが少年は、この毒虫を「その時」よりもっと早くにすでに石で、撃ち殺し叩きつぶし蹴飛ばしている。「認める」は「見留める=受け容れる」のであり、殺し殺されてしまっている美しい毒虫が、泣いて「救を姉にもとめ」ていた時点での少年を「認めた」と読むのは、本文に即して道理を得ない。「道教え」のこの毒虫は、物語の結果から見て少年を不思議の女に誘い寄せる役をしていたのであるが、それは物語をすべて読み終えて識る筋書きで、文章表現の、また作中人物の「現在進行感覚」を恣に無視した議論であってはなるまいと思うが、どんなものか。)
がらっと話を変えるようですが。あの、飛行機の窓から大地を見下ろしますと、大きな河川ほど、大木の、無数に枝を張ったように見え、また、長大な「蛇体」の、のたうつようにも見えるものです。シベリアからモスクワへ向かう飛行機では、そんな大河の蛇行が、日本列島とは、比較にならないほど、もの凄い。「蛇行」という譬えは、河の流れにいちばんよく謂われますね。「蛇」とはいわなくても、大河を「龍」に見立てた例は、天龍川、九頭龍川など、他にも、幾つもある。「水」をさながら「龍」と見立てたのが「瀧」であることも、言うまでもありません。瀧が、そのまま「神」かと拝まれ・祀られます時、例外なく、それは「龍神」としてであります。幸いに「龍頭蛇尾」という言葉もございます。それもよし気楽な蛇行を、委蛇として、試みて参ります、が。「水」は手にむすぶ。渇きもいやす。煮炊きにも用いる。日常的だけれど、また、広大に茫漠としたものでもあります。海、河川、池沼、また雨露や雲霧。現代ならダム、また水道水。みな、どこかで一と繋がりであり、その不思議が即ち「水」の恵みでした。畏さでもあった。
それほどの「水」に、神の住まぬ、また憑らぬことは、人間の想像力では在りえないんですね。水の神は、日本では即ち「龍ないし蛇」と信仰されてきた。龍宮伝承などが、何のよるべもなく生まれ出た、わけがない。天照る神の子孫ウガヤフキアエズを産んだ豊玉姫は、龍宮から迎えた龍女でありました。出産時の正体を、「けっして見るな」の禁忌を夫に侵されますと、産んだ子を地上におき、海底に帰り、育ての母の役に、妹の玉依姫を送りこむ。やはり龍女であったこの姫が、育てた甥神のいつか妻となって、後に、大和の橿原に即位する、人皇第一代の神武天皇らを産んだわけです。
どんな正体を夫は見てしまったのか。後にも触れますが、それは、男神のイザナギが、女神イザナミの死を、悲しみ、追うて、黄泉国に下り、そこで、やはり「見るな」の禁忌を侵してしまったときの、すさまじい「死者イザナミ」の容態と、そう大差のない姿であったことでしょう。
「水神=龍=蛇」とても、いわば歴史的な存在であり、スサノオ(子)とイザナミ(母)とに繋がれ、海と黄泉とを跨いで、「死」の世界に接していた。日本神話ではスサノオが八岐大蛇を討ち、その尾から剣を獲たように、また蛇が、しばしば太刀=剣に譬えられるように、鉄や銅の技術や社会にも接していた。その「タチ」も、「イカヅチ=雷=稲妻」にリンクされまして、雨や雲に、水に、接していた。スサノオの獲ました草薙剣は、初め「アメノムラクモ」と名付けられていましたし、天(アメ)と雲雨(アメ)とに違和感は、なにも無いんですね。その眼下には、農耕社会も、はっきり目に見えてきます。
オロチ大蛇・タチ太刀・イカヅチ雷のそんな連携を、「チ」の一音が通分しています。「チ」が、蛇ないし蛇体を原意としたであろうことは、「オロチ」「ミヅチ」「カガチ」もさりながら、日本中の多くの神社、それも地主神を祭った地域の鎮守に多く見られる「茅の輪くぐり」が、なにを象っての信仰かを想えば分かります。「茅の輪」は、蛇形象の愕くほど数多い日本の民俗のなかでも、ことに分かりやすい、まさしく「チ=蛇の輪」であり、大きな茅の輪を潜って受ける恵みは、端的に、蛇の、豊かな精気でした。蛇が、古来絶倫の精気で「神」なる威力を畏怖されてきたことは、人身御供に美しい女体を要求した八岐大蛇はもとより、多くの「蛇婿入り」や「蟹満寺」系の説話が雄弁に物語っています。 ついでに言えば、同じ形象を「ミの輪」と称している神社や習俗も少なくないが、現在どのような漢字を宛ててあるにせよ、それが「巳=蛇の輪」を意味したことは、「茅の輪」潜りの例と、なんら変わりはない。蛇の、互いに身をよじり合うておそろしく長時間に亘る性の姿態は、太古このかた多く久しく見聞され、畏怖されてきました。神社の結界であるあの「しめなわ」の容態に、その姿態が象られているかという観察も、真実であろうと想われます。「しめなわ」を結うた古代の多くの神社、日本の神社は、あだかも「蛇」と「人」とを分かつ、それ自体が、聖なる「結界」であったのでしょう。
「しめなわ」の巨大さで聞こえた出雲大社は「スサノオ」を、また「オオクニヌシ」を祀っていますが、ともに「大蛇神」であり「大水神」であることは、大蛇と異体同質の神と目されてきたスサノオが、「海・黄泉」を統べる神とされていること、後者オオクニヌシが、後にも触れますように、蛇と縁の濃い、ないし蛇そのものを意味した「オオアナモチ=大穴持」「オオナムチ=大巳貴」「オオモノヌシ=大物主」を「異名」にしていることからも、伝承のそれを疑う理由が、ない。出雲大社の祭は、今日なお、真っ先に日本海の稲佐浜にうちあげられるという「龍蛇神」を渚に出迎えまして、行列の先頭にたてて社に入るところから始められています。
諏訪神社は、天つ神に敗れ出雲を逐われた「タケミナカタ」が、いわば押し籠められ祭られた神社であることは、よく知られています。その祭事は、先ず神官が地下の土室に籠り、藁で、小さな蛇身から、だんだんに大きな蛇体へ綯い上げてゆくという、神秘の作業から始まるとされています。「オオクニヌシ」の子の「タケミナカタ」が、蛇神である心証も、これを疑う理由は、何もない。諏訪の祭事には、聞こえた「御柱」が、大きな役割を占めていますが、するどく頭の尖った形象が、「蛇」の威力を示しておればこそ、神域の四囲を護っているとされて、きわめて自然なんですね。大縄といい御柱といい、諏訪の神が蛇神である心証と、伝承とは、諏訪湖の「オミ」渡りを、祭事絡みに大切に見守ってきたことでも補強できます。「御身」は、また「御巳=御神」にほかならず、「タケミナカタ」のムザネ、正身が「巳ぃさん」であることと、きっちり呼応しております。  
「巳」の文字が出たところで、少し、こだわって置きたいのですが。
よく似た文字に、「己=コ・キ」と「已=イ」とがあります。前者は「おのれ」を、後者は「やむ・すでに・より・はなはだ・のみ」等を意味している。それに対し「巳=シ」は、和音では「み」で、十二支の第六、蛇が配してありまして、この文字そのものを、古くから「蛇」と弁えてきました。さきに大国主神の異名として「大穴持神」「大物主神」などと一緒に、「大巳貴神=オオナムチノカミ」を挙げておきました、が、この表記は、従来は「大己貴」で通って来た。「大きな貴い己れ」では、他からの尊称でなくて、尊大な自称になってしまう。自称でもよいけれども、「己」を「ナ」と読むのは、じつは意義の上で、縁が全然、無い。おそらく他に用例も無いと思います。
これが「大巳貴」ならば、「大きな貴い蛇」神であり、「大穴持」「大物主」「大国主」「大国魂」などとも、見るからに太い意義の繋がりをもって来ます。「アナ」と蛇はもとより、「モノ」も、ともに神異を示唆した和語であり、「大きな貴い蛇」は各地で地主神として、岩の上などに「イワナガ」とも影向し、礼拝され、まさに大地を統べる自然神の意義を負っている。ただ、蛇を、死や穢れとの連想により、つよく忌避する世俗の風習に影響されまして、ここでも「巳」の字を慣習的に避けてしまい、「己」の字を、代用したものと、私は解釈しております。
しかし「巳」の訓みは「シ」か「み」であり、「ナ」ではあるまいと、一応は言わざるを得ない。しかし、もし「ナ」に「蛇」の意義が添うのであれば、義訓として「巳=ナ」が成り立っていいでしょう、いわゆる万葉訓みの時代の、これは表記でありますから。
では「ナ」に「蛇」の意義があるのか。有った、と、ほぼ断言できます。
海の民の最たる、安曇族の根拠地でありました博多沖、志賀島の渚から、後漢の宮廷から「漢の委の奴の国の王」に授けられた金印が発見され、国宝に指定されている。有名な史実です。ところでこの「印の摘み」は「蛇」に造ってありますが、この種の「親授印の摘み」には、相手国の宗俗・風習への認識を示すのが、いわば作法であったと申します。
わが国では、従来「委=イ」を、あえて「ワ」と読み、ニンベンを添えた「倭」つまり「大和=日本国」を謂うものの如く、決めてかかってきました、日本国の一小部国なる「奴」の国が、在った、ものと。
しかし「委」に、「ワ」の音はないんです。「奴」の音も「ヌ・ド」で、「ナ」ではないんです。漢の支配下にある「委奴=イド・イヌ」国の「王に」と理解するのが、素直で、自然であり、「奴」は、「婢」と一対の、つまり男隷への蔑称でありまして、主意は、この「奴」よりも実は「委=イ」の方に在ったろうと私には考えられるのです。
そしてこの「委」こそが、「蛇=イ」に通じている。「委蛇=イイ=うねうねと、なよなよと、曲がっている」という熟語にもなる。「委奴国王」とは「蛇に親しみ暮らす者どもの国ないし王」の意味でしかなく、これを「倭=日本の中の、奴=ナという国の王」と読むのは、「委」の「蛇」イメージを嫌っての、故意に看過しての、歴史的にねじ曲げられてきた、無理筋というものでありましょう。
金印には明らかに「委=イ」とあって、「倭=ワ」とはないのです。だが、それにもかかわらず、ここから「ナ」の国という読み取りの定まって来たのも史実でありますからは、「ナ」または「ナカ・ナガ」の国は、事実自称としても実在し、後漢は、その事実を蛇紐に依って認識し表示した上で「委奴」と義訓し、つまりは宗主国による属国への他称印を授けたものと思われるわけです。「ナ」には、「蛇」の義が、たしかに添うていたんです。
柳田国男は、蛇の名称のおどろくほど多数で多様であることを、詳細な論文に書いている。わたしが戦時に疎開していた丹波では、「クチナ」と呼んでいましたが「くちなわ」の訛ったものという人もある。口のある縄と謂うのかもしれません、が、私は、「ナ」の音こそ、原初のものと考えています。「ナやらい」などという悪魔秡いの「儺」にも、蛇への、古代の畏怖が忍び入っていましょうし、それも「ナカ=ナガ」と根の同じ「ナ」であろうと考えています。我が国の「ナ=蛇=長虫」の源流は、明らかに、東南アジアに瀰満した「ナーガ=蛇」神でありましょう。
カシミールのアナンタナーグ(=数え切れない蛇)は、ヒンドゥー教の久しい聖地ですが、名のとおり無数に棲む蛇を祀っている寺々が多いそうです。蛇の王は「ナーグライ」と呼ばれています。細心無比に水利を工夫して、奇跡の王国を「水」ゆえに大繁栄させたアンコールワットの初世王が、壮麗な城館を幾重にも巻いて守護させたのは、長大な水神「ナーガ=蛇」でした。日本中に散らばった「ナカ」「ナガ」ないし「ナグ」「ナ」とつく土地には、遠く、インドや東南アジア、南シナに由来の「ナーガ(蛇)神」を畏み祀った海(山)の北上民が、日本列島にちりぢりに別れ住んだのだとは理解できないものでしょうか。「委のナの国」と言い伝えたのも、そのような一ヶ所だったんではないでしょうか。
単純に、日本の姓名・地名で、頭に「ナカ」「ナガ」とつく例は、「大」「田」「高」などにも増して、断然多い。「ナ」「ナグ」等を加えればもっと多い。中間、中部の意味と取れる「中」がむろん有ります。が、まるでそうは受け取りにくい例えば中郡や那珂郡、那賀郡や名賀郡が諸方にあり、長郡もあった。たとえばナガ野もナガ島も、ナカ川もナカ山もある。山ナ、川ナ、浜ナもある。桑ナ、椎ナ、榛ナもありますし、ナ切、ナ倉などもある。もしこれを、おおかた、「蛇の棲む」「蛇に親しい」と翻訳して読み取れるものならば、高天原からは服わぬ国と見えていた、生い茂り蟠る『葦原の「ナカ」つ国』の国情も、由来も、がぜん南方的、水上民的な背景を背負うて読めて参ります。
思いつく限りを挙げてみましょうか、出雲、諏訪、三輪、鴨、松尾、熊野、神魂、八幡、八坂、稲荷、伊勢、貴船、丹生、琴平、厳島、住吉、気比、佐太、白山、生玉、三島、熱田等々、名だたる古社は、源をただせば、みな「蛇体」の水神だというのが意味深長ですし、反抗する「ナガすねひこ」を先ず討って、初めて、神武天皇の即位が実現したという、古事記の謂いにも聴くべきものがあります。「討っておいて、祀れ」ば、日本ではそれが即ち「神」であり「社」でありました。押し籠め、伏し鎮める。もう、ここから外へは、出て来ないでほしい。現れないで欲しい。その代わり、もう、そっち側へ我々も、決して踏み込みません、と、日本の神社は、大方が、そういう場所に、鎮守され祭祀されて来た。
ひとつご注意下さい。「祭祀」の「祀」の文字に、どうぞご注目下さい。まさしくこれは「巳ィさん」を祭るという字義を如実に示しております。  
常陸国風土記に、こんな事が言われています。
継体天皇の頃という。箭括氏の麻多智は、或る谷=ヤトの葦原に目をつけ、新たに田を切り拓きました。ところが、先住の蛇たちがおびただしく現れ、「左に右に」耕作の邪魔をする。もともとこの国の「郊原」には、蛇があまた棲みついていました。麻多智は為体に大きに怒り、「甲鎧」を着「仗」をとって、蛇の群れを、谷に打ち山へ逐って、山口・谷口に境を固め、きびしく杭を植え、堀を掘った。そして蛇たちにこう宣言しました、「これより上はお前たちの世界として許そう。これより下は、人が田を作る土地だ。この後は、ながくお前たちを祀っておろそかにしないと誓おう。だから、祟るなよ、恨むなよ」と。ついに一宇の社を建てまして、麻多智の子孫が畏み祀ってきた、と、いうんです。
おおよそ神社「祭祀」の起源をこのようなものと理解すれば、じつに分かりがいい。出雲も諏訪も伊勢でも、この例と、何ほども違わない鎮められ方をしています。
ところが孝徳天皇の頃になり、さきの麻多智の子孫で、壬生連麻呂という者が、境より上へ越えて谷を占め、大きな池の堤を築いてしまった。谷にひそむ蛇という蛇は、蛇を即ち風土記は「夜刀の神」と呼んでおりますが、この池のほとりの、椎という椎の木の枝に蛇が、夜刀の神々が、無数に垂れ下がり、怒って去ろうとしなかった。しかし麻呂はひるまず、この池は、人間の暮らしにいかにも必要なもの、もし神といえどもオモムケ「風化」つまりは開発政策に従わぬヤツらは、と、手の者たちに、一切容赦なく目に見ゆる限り「打ち殺せ」と命じたものです。蛇たちは余儀なく、さらに山奥へ姿を隠し、その池は「椎の池」と名づけられたというんです、が、退去退散を「強ひの池」の意味であったに、万々、相違ないでしょう。人間の水利にからむ自然開発の葛藤は、上古以来、今も少しも変わっていないという、これは典型的な例話であります。ここから「椎ナ」「榛ナ」「桑ナ」などの「樹上蛇」を表した地名表記が生まれたと想ってみるのも、そう見当ちがいだとは思われません。
中村草田男に、「公園で撃たれし蛇の無意味さよ」の一句がある。この句の無意味さ不気味さを東工大の学生に解いてもらうと、先ずの手順に、「公園」という人為・人工と、「蛇」なる自然と、を対比させてくる。そして公園の地に先住していたのは蛇だと言う。学生たちのこの読みでいう蛇と、常陸国風土記にいう「椎の池」の蛇とは、まるで同じ座標にいます。その「撃たれ・打たれ・討たれ」ようの、或る「無意味さ」は、無残というよりない。
ただし風土記に「蛇」と語られている「夜刀=谷の神」をば、即ち、地を這う蛇そのものかと思うのは、神話の話法に聴いてみせるだけのことでして、事実は、水の神、土地の神、山の神として「蛇」を太古このかた崇め畏れてきた、ワダツミ(海民)ヤマツミ(山民)が、力ある異族に父祖の地を逐い払われた悲劇ーーと、こう読むより、ない。常陸国風土記に、道をサエぎり王化に服さぬ化外の民としてしばしば見えますサエキ、クズ、ツチクモらの運命がそれだったでしょう。そして、神とまじわり、蛇の子を産み、また育てた額田の「ヌカ」ヒメや兄「ヌカ」ヒコのいわば神話にも、「ナカ」や「ナガ」に通じた、そしてシャーマンかと想われているあの額田姫王や姉の鏡王女へも通じた、上古日本の不思議が、アリアリと生きていると申せましょう。「カガミ」とは「カカ=蛇、の目」という説も在るのです。
常陸国を流れる大河の一つは、水豊かな那珂川であり、流域は、幾つもの蛇伝説に彩られた、那珂郡です。君臨したのは久しく那賀国造でした。常陸国風土記の或る記事では、大蛇が即ち「オホカミ」と呼ばれ、訓まれています。豊葦原の瑞穂の国。日の本、常陸、は、ことに潤沢な水と草木に恵まれました、米どころでもある。そういう大地の蛇は、まさに水を恵み水を統べる「地主神・国主神」であったと想像されます。
大国主神はまたの名の一つを「葦原シコ男の神」といわれていますが、高天原から見まして、葦原を委蛇として這いずる「醜男」とは、まさに蛇(のごとき存在)をさしていた。おそらくは、それは、後漢の王朝から見た「委奴=地を這う者ども」の国への思いと同じ視線であったでしょう。この「醜」の姿は、根源の大女神「イザナミ」が神避りし黄泉国での、「見てはならない」禁忌の姿に、露骨に表現されていると思われる。凄まじい腐爛の屍体に「八色の雷公」の、即ち蛇性の、まつわりついた姿でありました。
蛆たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には 析雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足 には伏雷居り、并せて八の雷神成り居りき。
「蛇と死」との印象的な等質・等価の認識が、おそろしいまで表現されています。「イザナミ」は、まさに地底に棲む「大地母なる大蛇神」であったという認識も示されている。そして男神「イザナギ」の訪れていった黄泉の国は、いかにも「大穴」の底のように描写されているんですね。禁忌を侵して「黄泉醜女」に追われつつ辛うじて遁れ出る時の「坂」や「道」の描写にも、さながら深い「室」や「穴」をのがれ出たように書かれ、穴道を巨大な千引岩でふさぐとき、ああこれが「墓石」なのかと連想の利く書き方を古事記はしています。追った「醜女」が「八色の雷公」と同類であることも疑いない。日本の神話では、大地母神を地底の闇に大岩で伏せておいて、父神ひとりで「日」「月」「海」の神を生む、と、それらがまた不思議に、「母なる蛇神」の属性を分かちもつという「世界の構図」を得ていたのですね、面白い話ですね。
少し話の向きを変えましょうかーー「水」を美しい「線」で描ける力を、日本人はもっています。到達した典型のひとつが、尾形光琳の『紅白梅図屏風』の水流であり、現代では小野竹喬「奥の細道」連作中の『最上川』などが思い出せます。するどい視覚の持ち主であれば、滞りなきそのような「水の線」に、身を添わせて走る「蛇」の姿を透視することもあるでしょう。水は蛇で、蛇は、水の精でもあり神でもあるとの信仰が、この島国に避けがたく育まれてきた。水を「美学」の話題にすることは、いろんな面で有効でありますけれども、美学を溢れ、こぼれて、日本の「社会」に何とも悩ましい幻影をさしかけた「水」の問題があります。そう思いつつ、話題を、ややに押し拡げてみたい。
ごく一例を挙げても、京都の鞍馬には大青竹伐りが、南国には、男綱女綱のまぐあいを象った勇壮な大綱引きが、多くの村はずれ町はずれでは、塞(境=幸)の神の前までひきずった長い竹や笹や綱を、伐ったり打ったり燃したりの、また、しめ縄をまとめて焼く、お火焚きなどの行事がある。みな、蛇への畏怖を下敷きにしてこそ、よく、その意義の読み取れる行事ばかりです。
鬼や化性を演じる者のきまって着る「鱗」の装束。能や歌舞伎での装束。多くの古社にみる「二重六角」蛇鱗の神紋。山姥や山の者らの常に携え持つ、蛇をとらえる鹿杖。一本足の案山子を山の神とみて、蓑笠を着せ、それと同じ蓑笠姿のまま闖入してくる客(まれびと)を、極度に嫌ってきた風習。大木の洞や根方に生卵を置き、きまってその周辺には白神、姫神などの小さな祠の群集するさま。「シラ」も「ヒメ」も漢字にとらわれてはなるまいと思う、あの卑弥子の「ヒミ」「ヒメ」は、古代朝鮮語では「太陽」でもあり、しかし風土記などに謂う「ヘミ」「蛇」の意味でもあったといいます。
蛇のとぐろを巻く姿は、しばしば人の目を驚かせましたし、その長くのびた姿、ことに恐しい三角に尖った頭や、まるく膨らんで威嚇する頭などは、諏訪の御柱にも、日用の杓子にも形象化された。岩に現れるいわゆる石神(シャクジ)と、あの日用の杓子との縁など、また蛇のとぐろから缶(ホトキ)に、またホトケにも転じた器の名「ヒラカ」への経路など、今日ではあまりに気疎くなってはいますが、例えば太刀魚や鰻など「ナガ」いものの小絵馬を売っている神社では、間違いなく祭神としての水神・蛇神・龍神を拝むことになる。それどころか、京都御所内に鎮座しています厳島社には、思わず声をあげて走ったほど、恐ろしくリアルな「蛇の絵馬」が掲げてあります、現に。
折口信夫の有名な論文『水の女』は、水沼(ミヌマ)という表記の背後に、女蛇神をそれと意味した「ミツハノメ=罔象女=ミヅチ」の実在を精妙に読み分けて行きます。同じく男蛇神には「オカミ= 」があり、万葉歌にも見るごとく、水や天象の不思議に深く深く関わっています。
目を外国に向ければ、日本のミツハノメに近い、シベリアやロシアの「ルサールカ」がある。一本足の蛇婆さん「バーバヤガー」がいる。八岐大蛇なみの「コシチェイ爺さん」や恐ろしい「ドモヴォイ」もいる。北欧へ行けばブヤン島の「ガラフェン」が、スラブには「スビャトビト」がいる。むろん創世神話をさぐれば中国にも朝鮮にも蛇や龍が出てきますし、宗教説話にも、しばしば出てきます。キリスト教のマリア像にも、蛇の頭を踏んだ図像がある。マリアの名は「海」に由来しています。むろんそれらには、水と深く関わる蛇のほかに、べつの意義を担った蛇もいますでしょう。しかし大方の蛇ないし龍は「水」とかかわることで畏怖されていたのは、間違いありません。
いわゆる道成寺ものの久しい人気に触れ、また上田秋成の『蛇性の婬』を何度読んでも、一方で蛇を厭悪し忌避しつつも、また、蛇に悪い役を勝手に押しつけてきた、うしろめたさの気持ちも、或る「あはれ」とともに読み込める。そんな気が、してならないんです。おそろしく根の深い近親嫌悪、アンビバレンツとも読める。  
その辺へ、いま少し話題を、蛇行させて行きたい。
「鏡花文学の核心にわだかまるものは、端的に『蛇』へのアンビバレンツ」であり、「水神へのいわば畏れと帰依心だと思う」と、かつて、私はどこかで書いていたようです。田中励儀さんの著書『泉鏡花文学の成立』を興深く読んでおりますうち、鏡花作『南地心中』の成立過程を論じた章で、そう私の言葉が引用されているのに出会い、おやおや、なるほどと、思わず頷きました。田中さんは、「上方の 巳 さん信仰に動かされて成立した本作=南地心中など、その典型であろう」と、私の言説を肯定されています。明治四十四年七月の『祇園物語』も大正八年三月の『紫障子』でも同じです。
泉鏡花ほど「蛇」をしばしば、それも重大な主題意識をもって、さまざまに書いた作家はいないと、繰返し、私は言い、かつ書き続けてきました。
事実上の処女作かも知れない『蛇くひ』が、凄い。『龍潭潭』では「龍」に「瀧」の誘いが、みごとにかぶっていました。『歌行燈』では、海女郎であったヒロインに、謡曲の「海人」がかぶることで、「龍神の珠取り」へ話が繋がって行きます。『高野聖』も、さんざんに生身やイメージの蛇を出し入れしながら、水の精の蛇性の女、を書いている。『天守物語』の大獅子頭も、もともとは「龍ないし蛇」の変化と、折口信夫らは認めています。蛇にゆかりの、女や、イメージや、また蛇そのものの姿をあらわす、鏡花の小説は、全作品中の、しいて言えば何割にも相当しているとわたしは見ている。書かかるべくしてまだ書かれない鏡花論の最大の主題は、『鏡花と蛇』であると、今もわたしは確信しています。
『蛇くひ』や『妖剣紀聞』前後篇をみれば、鏡花が、「蛇」を被差別のシンボルかのように、女性をもふくめ、芸能もふくめ、つねに社会や歴史の敗者弱者と等価的に提示していたことはあまりに明らかです。そしてより多く、他界・異界に半ば身を隠しながら、現世に、出入りさせた。死の世界を統べるものかのように働かせた。
他界異界も死の世界も、鏡花の表現では、海、山、川、池、沼、湖、原、沢などの一切を通分して、「水」に浸されていました。『龍潭潭』や『沼夫人』や『高野聖』がそうです。『歌行燈』でも、そうなんですね、実は。そして姿をみせる時は、凄艶な謎めく「女」か、醜悪な「化性のモノ」か、それとも切ない女の吐息のような「生身の蛇」としてか、でありました。
それを総じて、田中さんの謂われる「巳」信仰というもよし、大きく深く「水神」信仰、いやそれよりもっと広く、「水」「海」世界への畏怖と郷愁、または共同幻想、が、鏡花をとらえて放さなかったのだと考えるべきでありましょう、か。鏡花の背後にかなり間近くいた柳田国男らの民俗学の感化を指摘するのもいいでしょう、が、そのような外的な感化や影響より以上に、鏡花自身の、秘し持っていた「根の哀しみ」のようなものにこそ目をとめるのが、もっともっと適切なのではないか。
「鏡花」という号は、たんに本名の鏡太郎に由来するとみて済むかもしれない。「泉」は戸籍にある本姓で、特別な何ものでもなかった。そうは言える。言えるけれども、だが、なかなかそう簡単に我々を、いや私を、解放してくれる名乗りではないのです。「泉鏡花」の名乗りに、いま少し、こだわってみたい。
鏡花の早い時期の文名に、「白水楼」がある。「白水」はそのまま「泉」であり、寄る辺として「楼」を添えたのだから、単純な雅号といえる。その一方、上古の文献に「白水郎」があった。「アマ」と訓まれてきました。海人、海士、海民のことをそう書いたのです。この海人には、水上を水平にもっぱら移動する系統と、水底に垂直に潜水して生きる系統の、二つあるのが指摘されています。龍宮に珠を求めた類いの伝承は、むろん後の系統のものでしょう。鏡花は比較的、この水に潜る、水底や海底の世界に関心をもっていた。広大な海上よりも、深淵や海底や、池沼、川の底の深い闇にうごめき、そこから現れるものを見つめていた。『海神別荘』は典型的な、その魚くずの世界ですし、また『天守物語』のような、地底の水をくみあげて可憐に咲く草花をいとおしむ世界も、あります。さながらに水の底を遊泳しているに等しいとみた、大気に舞う鳥類『化鳥』の世界もある。
鏡花は、同じ人間でも、狭斜の巷にすべり落ち、くらい苦界に沈んだ女たちを、多く、愛をこめて描いています。俗悪なものには「現世」をのみ与えて、哀切に生きるものには「他界」への切符を発行するのが、鏡花世界の律法でした。彼の他界は、あたかも海の底のような「黄泉」の国に膚接していた。鏡花ほど切ない「入水」を繰り返し書いた作家はいないのです。
海の国と黄泉の国とは、神話的には次元を異にしています。「黄泉」には、死者の肉身に蛆たかりころろいでいる、腐乱と崩壊との、大墓所の如きイメージがある。戯曲『海神別荘』に拠れば鏡花は明白に「蛇」の国と表現していまして、しかも、海の国は「白水=泉」の根底の国であり、陸上の現世と異なった、また一つの「清い」活世界であり、他から侵されてはならない律法をもつべしと、鏡花は、つよくこの世界を庇っています。
しいて通訳すれば、まともな者だけがそこへ帰って行ける、受け入れてもらえる、あるいは、許され解放してもらえるのだと、鏡花はその文学を通じて終始言い続けている。彼は、「泉」「白水」という自分の姓を、「海」に、「水」に、深く深く根差した、歴史的にも由緒あるものと自ら意識し、本能のように意識し、心から愛していた筈であります。
彼の小説は、ときに解読のむずかしい不思議なメッセージを示します。朱の色で光る、三角や丸や四角の単純なそんな記号が、ぽっと輝き出て、すぐ消える。太古北欧の水上民らの船に、そういう記号を描いた船印や旗印があったり、似た図像が、太古の墓室の壁などに描かれていたりします。鏡花は、潜水だけでなく、航海系海上民の「船魂」の祈りとも感応できるだけの、あわれに、確かな、知識を、持っていたようです。
ここで一つ、関連づけて申し上げておきますが、日本の古典のなかでも代表的な古典に、源氏物語や平家物語を挙げますのは、むしろ常識でございます。その源氏物語と平家物語とが、これがまた深く深く「海」に、「海の神」に支配されていた文学・芸能であると申せば、異な思いをなさるかも知れません。ながく話せば、これはこれで何時間もかかる底知れないお話でありますけれど、一例を申せば、思うままの栄達と安穏と幸福とを得た光源氏が、先ず真っ先に、なんで「住吉詣で」をしたのか。住吉は、申すまでもなく海の神そのものです。凄い龍神です。光源氏の世界は、この住吉の海の神により予言され守られていたのでした、須磨と明石への源氏の君の流されは、けっしてダテに構想されていたのではありませんでした。源氏物語の根は「海」の龍神の意向に支えられていたのです。
平家の運命は、厳島神社に根拠をもち、瀬戸内海を舞台にして開け、そして海に沈んで行きました。彼らは三種の神器の一つ、宝剣を抱いて海の藻屑となりました。この剣は、あの八岐大蛇の尾から取り出された、まさに蛇の化身でしたが、後白河や後鳥羽の朝廷は必死で海女などつかって捜索したのです。すべて空しかった。海女の一人は、巨大な龍宮の大蛇の膝に乗った今は亡き平清盛が、傲然として宝剣は返しはせぬと叫びました由を、朝廷に呼ばれまして話した、などという平家物語の異本の記事も残っています。
事ほど左様に、「海」の意思や意向は「日本」を支配し、同じことは「世界」中に拡がっていました。われわれは、そういうことを忘れるわけに行かないのです、泉鏡花という作家には、そういうことが、しっかり根づいていました。「海」の意向の、申し子のような作家であったと申し上げたい。
言うまでもなく泉鏡花は金沢の人で、生涯この故郷に対し、凄絶なアンビバレンツを抱いていました。ひたすら愛し、ひたすら憎悪していた。だが、愛憎を分別するのは、そう難儀なことではありません。要するに鏡花は、「海=水」の側の清さを愛し、「陸=土地」の側が占める俗世の栄燿を憎んだ。海の側には、あらゆる被差別の者、山の者や川の者や、野や墓に生きる者や、いわゆる水商売の者や、貧しい者や、芸人、職人などを見ていた。逆に、高級軍人や、知事や、富豪や、大名や城主や、鉄道を敷く者や、利権に群がる者などを、具体的にキッと睨んでいた。それは、格別な思想的下支えのある分別ではなかった。たわいないけれど、だからこそ生得の、弱い者へ味方せずにおれない「不平」の表明でした。ただ鏡花は、それを、彼が生きた時代の、限られた視野でするのではなく、広大な歴史の視野で、かつ「水=海」への直観や洞察や、いくらかの学習を通して、していたのです。そういう意味では、日本に、それほどグローバルな思想的立場を持ち得た作家は他にいなかった。じつに世界的な作家だったといわねばならないんです。  
もうすこし「泉鏡花」こだわっておきたい。
鏡花が加賀金沢の人であることは繰り返すまでもないが、「カガ」の国とはどんな国であったのか。これに関連しては、吉野裕子さんが多くを説いています。「カガ」は、湿生の草地を意味したであろうといい、またそういう場所を多く占めて棲息したものとして、「カガ」または「カカ」などが、蛇の古名ではなかったかとも言われる。多くの神社が、御正体に鏡をもつのは、「カガ(蛇)身」ないし「カガ目」であろうと言われる。一本足の「カカシ」は蛇の変化もの、山の神の姿を表したものとされ、蛇の一種に「山カガシ」「山カガチ」のあるのもそれかと説く人もおられます。誕生の際に、母神の「陰部=ホト=火処」を焼いて死なしめた「カグツチ」の神も、たしかに系譜的にも「蛇」神でした。
また吉野さんは、古い祝詞に「カカ呑み」「カカ呑む」などとある難解なことばも、がぶりと呑むにはちがいないけれど、鵜呑みという言葉もあるのだから「蛇呑み」と取った方が呑みこみが早いと説いています。なにしろ蛇の口は自在に顎の骨がはずれ、顎の直径の十五倍程度はらくに呑みこむといいます、それも、噛まずに。
出雲国風土記では「加賀」は「カカ」と清んで訓んでいる。佐太の大神は加賀の潜戸の名で知られる海中の大洞穴に鎮座していましたが、その闇い岩屋の奥を、金の弓矢で射たものがいた。岩屋の奥がそのとき「光加加」やいた、だからもとは「加加」といったのを「加賀」と改め書くようになったと言い伝えています。佐太大社の大祭は十一月二十五日ですが、そのお忌祭には、社頭で、凄い生身の蛇にとぐろをまかせて、ギヤマンの蓋のついた三宝にのせて祀る。その日には出雲中のどこかの浦に、きっと龍蛇と呼ばれる、背の黒い、腹の黄色い海の蛇が、海神の御使いとして上がると、いまもって信じられていると謂います。
光輝いて「カガ」なのではなく、吉野さんらの説くように「カカ」「カガ」が蛇の古名の一つであったろうと、たしかに想像されるんですね。洞窟が光ると見たのは「鏡」さながらの「蛇の目」だったからです。蛇の目には瞼が無い。開きっ放しでまばたきしない。まるで鏡なのです。神社に鏡を祭る遠い遠い意味は、おそらく、ここにあったでしょう。清んで訓もうが訓むまいが、要するに「カカ」「カガ」また「カグ」「カゴ」の音を含んだ山や川や沢や湿地は、みな、蛇と関わりをもっていたかと読めば、「ナ」「ナカ」「ナガ」などの例と同様、多くが納得され、モノがよく見えて来ます。鏡花は、そういう「カガミ」の意義を、よく幻視しえていたように思われてならないのです。
鏡餅は、蛇のとぐろを巻いた形象を祀るのだと説く人がいました。枝につけた餅玉は、蛇の産卵だと説く人もいました。餅をたくさん甕に隠していたけちんぼうが、開けてみると、みな蛇に変わっていたという説話もあります。餅を的に矢を射ると、餅は鳩になって翔び去ったという稲荷社の伝承もあれば、蛇が鳩に変じて翔んだという伝承も、八幡社には古くから伝わっている。能登島の火祭りにもそれが実感されます。つまり鏡と餅と蛇と鳩とは、或る、不思議に一連の「変容譚」を担ってきています。じつは酒も、その輪に加わっているんですね。
われわれの文化は、多くを、漢字に負うています。また漢字ゆえの惑いも負うている。例えば「出雲」「泉」と漢字で書いてしまう以前の、「イヅモ」「イヅミ」のままモノごとを感受できるのなら、湧く雲や湧く水のイメージにのみ、想像を、限定されることは少なかったでしょう。折口信夫も言う、音声の似通いに、おおらかな広がりを持ちえていた、太古上古の慣いのままに、「アダ」「アド」「アドメ」「アドモ」「アヅミ」「アツミ」「アタミ」「イヅミ」「イヅモ」「イヅメ」「アヅマ」「ウヅメ」など、一連の「上古音」が即ち、一連の海民・水民の移動や分布を、優に、示唆し暗示しえていたことを、もっとたやすく洞察できたのではないでしょうか。その背後に、総じて、かの「安曇」なる海族を透視して、大きな謬りがあったでしょうか。いま、これらを日本地図上の該当する地名に置きかえ、視線を移動させて行けば、ありありと、幾筋も、太古の海路や水路が目に見えてくる。天龍川上流の奥地に、南海の花祭の伝承されている由来などにも、察しがついてくる。
同じことは、「ナ」「ナカ」「ナガ」「ナゴ」「ナグ」の場合も然り、あるいは「ウラ」「アマ」「シラ」などの海民由来を思わせる地名等にも、類推の範囲を、広げて謂えることでありましょう。おシラ神は海人の畏怖した醜悪な海底神「磯良」に深く由来し遊行分布した筈と私は確信しています。「磯良」を「いそら」と訓むのは間違っていましょう、「磯城」を「いそき」と訓むようなものです。
これらは、要は「ウナカタ=海方=宗像」に由来したでしょうし、「ヤマカタ=山方」とも、諸水路を通じて連帯していたでしょう。
泉、和泉、出水、夷隅、射隅、出海。それだけでも各地に散開しています。漢字を便宜の当て字とばかりは言えないにしても、とらわれなければ、かえって「見えてくるもの」が、あります。泉鏡花は、そういうことも、よく知っていた察していたと想われます。そして、その、至るところ、蛇は、巳は、なにらかの形で信仰され、畏怖され、またじつはアンビバレントな差別を、久しく、受けて来たと思う。
田中励儀さんの本に戻って、鏡花の『南地心中』の「蛇」信仰を見てみましょう。舞台は大阪住吉大社の神事、宝の市。筋は作品でお読み願いますが、ここで女主人公のお珊が、懐から祭礼のさなかへ投げこむ、二条の、蛇。元はといえば、心願を抱いて多一とお美津という若い二人が、言い合わせたように、お互いに、身に、秘め持っていた蛇でした。
「生紙の紙袋の口を結へて、中に筋張つた動脈のやうにのたくる奴を買つて帰つて、一晩内に寝かしてそれから高津の宮裏の穴へ放す」と、願いが叶うという言い伝えがあった。その蛇を売る家も、買う人も、放つ穴も、事実在ったんです。高津神社にも生国魂(生玉)神社にも在った。この「巳ぃさん」信仰を、ながく熱心に支えたのは、多く、廓の芸妓たちでした。田中さんは、大阪は水と縁の深い街であり、「水の神さんである『巳さん』をお祭りする社が多い。(略)普通『お稲荷さん』としてお祭りしてある祠も、実のご本体が『巳さん』であることが多い」という、往時の証言を引いていますが、これとても大阪に限ったことではない。京の八坂の旅荘の女将が、庭内の亭に二尾の蛇を祀っていた『紫障子』のような作も、同じ鏡花にあります。
ともあれ、『蛇くひ』を書いた昔から、「蛇に対する異様なほどの執着を示していた鏡花は、若い女性が蛇を持参する上方の 巳さん 信仰に驚嘆し、これに触発されて」この小説を「成した」と、田中さんが説かれるのは正にその通りでしょう。いや、触発される以前の下地を鏡花は根の哀しみのように身に抱いていた。
だが、また、鏡花が或る作中、たしか『勝手口』と謂いました、あの『龍潭譚』と同じ明治二十九年十一月発表の短編ですが、妻子ある男が自宅を出掛けに、ふと邸内でみつけた蛇を、袖の中に掴みこんだまま、愛人の家を訪れて、即座にその蛇を女に手渡し、女に始末をつけさせるといった場面に、決定的な或る「意味」を持たせて書いている相当に露骨な作品も有ったのです。これなどは相当に露骨です。
蛇を渡された女は、それを機に、自死を覚悟する。この蛇は、男(や男の妻子)から、その女への、差別意識の、いわばシンボルとして働かされていた。その日男は、この女を捨てる意思を抱いて、女を訪れていたのでした。処分すべき「蛇」と、あだかも等価値的にみなされた「女」の背後に、えんえんと連なって、例えば『南地心中』の蛇を懐中して祠に放つ式の、狭斜の巷に愛をひさぐ女たちの影がならんできます。ここの「お美津」が、「おミィ」と呼ばれていることも、鏡花はおろそかには書いていない。『歌行燈』の「お三重」もまた、これら女たちに繋がる一人として、謡曲「海人」を、同じ芸人・能役者への恋を胸に、懸命に、舞いに舞うのです。
鏡花の作に「蛇」さんの意義をもとめて探索するのは、せつなくも、哀れな、豊かな、「水の美学」そのものなんですね。同時に、厳しい「水の歴史学」なんですね。
数年前の秋、アジア太平洋ペン会議の分科会に、ついぞ経験のない演題を提出し、採択されまして二十分ほどの演説をしました。所詮は一冊の本にもするしかない、大きな話題であり、お約束どおり龍頭蛇尾で時間を超過してしまいましたので、その会議に提出した「『蛇』表現から共同の認識と成果を」と題するレジュメを、サマにもならなかった今回の話の、結びきれない結びに置かせていただきましょう。演説集は数か国語で、日本ペンクラブから刊行されています。そのまま読み上げます。    
グローバル(地球規模)の視野で、グローバルな協働の成果のまだ十分に現れていな い未開拓課題の一つに、「蛇」ないし「龍」があると考えている。生物の蛇にかぎらな い、もっと広範囲にイメージをひろげて、言語・神話・伝承・説話・詩歌・散文・小説 ・演劇、また多彩な造形に、表現され、示唆され、象徴化され、信仰ないし忌避されて きた「蛇や龍」が、東西南北を問わず広く広く実在している。しかも必ずしも各国・各 地において表現も造形も乏しいわけではないのに、各国間の境界を越えて大きく深く意 義や問題が関連づけられ、構造的に把握されてきたとは言いがたい。
しかし蛇や龍の問題は、人間のがわの恐れや嫌悪とも関連しつつ、想像以上に各国各 地の「社会」の底辺に、「信仰」の名に隠された「差別」の源泉としても沈んでいる。 その意味で上古いらい今日もなお、「文学と人間」との、かなり危険をさえ含んだ主題 であり得てきた。根強い禁忌の判断によって意識外へ押しやられながらも、現在なお微 妙に表現を変え、場面を変えて、主題化され作品も成っていると思われる。例えば「い じめ」問題にも、根をたどればこれが抜きがたく関係しているが、暗に社会も政治も目 を背けて触れることが出来ずにいると言える。
ましてアジア・太平洋地域に、水(山)神である蛇のイメージは、また生物としての 繁殖も、著しく豊富であり、人はこれと無縁に過ごしえた歴史をもっていない。
今すぐ論考の結果を取り纏め語ることはできないが、いかに重要な文芸・芸術の課題 であるか、ひいては人間社会の根底にとぐろを巻いている問題であるかを示唆し、各国 各地からの、今後、豊かな連携連絡可能な共同の認識が生れくるのを、また深刻で歴史 的な人間差別の根が急速に絶たれ行くことを、ぜひ「ペン」に期待し提言しておきたい。    
同じ「期待」を泉鏡花研究にもかけることが、無理難題だとは、少しも考えておりません。ちなみに私は、文壇処女作『清経入水』このかた、『みごもりの湖』『初恋』『北の時代』『冬祭り』『四度の瀧』など、「蛇の問題」にかかわる小説を、何編も、意図して書いて参りました。ここで言い尽くせなかった幾分かは、それら作品に譲っておきとうございます。長らくご静聴いただきました。有り難うございました。 
 
今なぜ、芹沢光治良作『死者との対話』が大切か

 

お招きにあずかり、恐縮しております。芹沢先生とは、ご生前に、ご縁を得る機会は、一度もございませんでした。むろんお名前も、お写真等でのご風貌も、御作も、存じ上げておりました。もっとも、読者として、そう深いおつき合いをしてきたとも申せません。みなさん方のほうが、遙かに遙かに、なにもかもよくご存じです。私の場合、拝読のつど、いい感じを得ていた、と、そう申し上げるにとどめておきます。それで、どうして此処にと、ご不審であろうと思います。ご紹介にありましたように、私は、現在、日本ペンクラブの理事をつとめております。ご承知のように芹沢先生は、日本ペンクラブの第五代会長でいらっしゃいました。昭和四十年秋のご就任で、『人間の運命』第2部の第一・二巻が続けて刊行された前後でした。
私の身の上で申しますと、ひっそりと独り小説を書き始めておりまして、私家版の本を、一冊また一冊と、作っておりました。その四冊目の本が、私の知らぬところで、まわりまわり、中の一作『清経入水』という小説が、第五回太宰治賞候補にあげられまして、受賞しました。選者は、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫という、凛々と鳴り響くような諸先生でした。昭和四十四(1969)年の桜桃忌のことで、やがて、満三十三年になります。それ以来の作家生活ということになります。当時私は、本郷の医学書院という医学研究書の出版社に勤務しておりました。芹沢先生は、その年、たしかノーベル文学賞の推薦委員をなさっていたのでは、なかったでしょうか。で、時代はぽーんと飛びまして、昨年の十一月二十六日、日本ペンクラブが昭和十(1935)年に創立されまして以来、満六十六年めの「ペンの日」に、「ペン電子文藝館」が、インターネット上に開館になりました。私の提案によりますもので、昨年七月の理事会で決しまして以来、熱心に開館をめざして、準備に勤しんでおりました。「ペン電子文藝館」とは、どのようなものか。それは、お手元にお配りしたもので、おおよそご判断いただけると存じます。一つには、ペンの過去・現在の会員作品の「展示場」であり、二つには「ディジタルな(電子化された)読書室」です。現会員が約二千人、物故会員が、まだ正確につかんでいませんが、ざっと五百人以上。その方々の、さし当たり作品一点ずつを、いわば会員の「顔」つまり存在証明として展示公開すると共に、どんな人材により、日本ペンクラブが歴史的に構成されてきたかを、会員本来の「文藝・文筆」により、広く国内外に識っていただこうというのを、当面の目的にしております。その際の、先ず魅力の一つとして、歴代十三人の会長作品を、お一人残らず揃えたいというのが、責任者の私の、希望でした。それが成れば、他の会員も進んで作品を出して下さるだろうと。じつは、この「ペン電子文藝館」は原稿料をさしあげられません、ペンの財政はいつも逼迫しております。そのかわり、アクセスされる読者に対しても完全に「無料公開」し、これでペンクラブが稼ごうとは致しておりません。ペンクラブだから出来る「文化事業」としてお役に立てればと考えております。
お察しいただけると思いますが、こういう事業は、「会議」を重ねていても進行しませんし、「よろしくお願いします」を幾ら繰り返しても、いつまで待っても出来上がることでなく、歴代会長の十三人、ついでに申し上げますと、初代が島崎藤村先生、以下敬称略で、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹、そして現在の梅原猛さんに至りますが、梅原さん、大岡さんのほかは、みなさん、お亡くなりになっています。自然、ご遺族に出稿をお願いしなくては成らないのですが、「お願いします」だけでは、とてもとても、ただ「一作」を選んで戴くのは難しいことと、それはもう、分かり切ったことです。大変なお仕事の山から、一つだけ選んでくださいと、これは、お気の毒すぎる難作業です。で、私が、もう独断専行、ただし誠心誠意よく考えました上、どうかこの御作を頂戴できませんでしょうかと、そのように、「候補作品」を具体的に挙げまして、そしてお願いに上がりました。実は現会長の梅原作品も、私が選びまして、「これで行きましょう」と薦め、幸い、「うん、有り難う」と、一発で決まりました。もし此処で躓いていたら「ペン電子文藝館」は未だに「開館」出来てなかったかも知れません。が、幸いに、これが、すべて成功しました。芹沢先生の御作では、私は、躊躇なく『死者との対話』をと記念会の方へお願いに出まして、幸いに、ご賛同戴くことが叶いました。そしてその結果として、何故に『死者との対話』を選んだかを、この懇話会に来て話すようにと、ご息女岡玲子さんの再三のご希望がございました。ご辞退しましたがお許しがなく、厚かましく、こうして参ったわけでございます。
『死者との対話』は、私は、少なくも両三度読んでおりました。それについて、書いたり話したりしたことこそ無かったけれど、忘れがたいと言うだけでなく、進んで時に立ち戻って行く、そういう御作でありました。感銘を受け、深く物思うところがあったからと、ともあれ、さよう申し上げる以外にありません。「ペン電子文藝館」に何をと、思案よりも前から、芹沢元会長には『死者との対話』をと、だから、迷いなく、腹を決めておりました。その際──、この私は今、六十六歳半、つまり日本ペンクラブが誕生した翌月(昭和十年十二月)に私は生まれておりまして、ま、ペンとはちょうど同い歳なわけですが、その私の頭には、ごめんなさいお年寄りではなくて、「若い人」「若い新しい読者」のことがクッキリと有りました。『死者との対話』をぜひ読んでほしいのは、これからを生きて行く、今からの、若い人たちなのだと。 
作品は、みなさんよくご存じなので細かには繰り返しませんが、この作品には、もともと「唖者の娘」という題も考えられていたのでした。いわば全体のキーワードでもあり、執筆の動機に直結し、また此処が、主題にもなっています。しかしこの題は、最終的には『死者との対話』で落ち着きました。堅いことをいえば、確かに、小さからぬ問題が、この「唖者の娘」という言い方には含まれます。作者の言わんとする「趣旨」自体が明白であり、深切・誠実であるために、表立った問題にはなりませんが、聴覚と言語機能に負荷を負った女性が、やはり、やや不適切に比喩的に用いられたことは否めないようです。なぜなら、作品に現れます大哲学者ベルグソンの娘さんが、事実「唖者」であったのは致し方なく、また、それ故に、発声等に大きな異変を示していたのも、これまた無理からぬことであり、そのことと、彼女の知性や理解力とは、ほんとうは、ま、無関係なのです。ところがウカツに其処のところを読みますと、この際の「唖者の娘」が、即ち「理解力」に乏しい知的に遅れた存在かのように、だからそれ故に、父ベルグソンは、「唖者の娘」の絵の制作に対し、噛んで含めるように平易な言葉を用いてあげねばならなかった、分かりよい批評や感想で懇切に手引きしているのだ、と、こう、作中の「僕」の思いを「誤解」してしまいそうになります。その上に、引いては、さよう理解に遅れた「唖者の娘」なみに、日本の、知識人ならぬ一般の「国民」が比定され、その比定の上で、幾つかの「本質的な意見や疑問や反省」が持ち出されている、と、そのように「誤解・誤読」されてしまいかねない隙間が、たしかにこの作品には、在るといえば、在りますね。じつは誤解なのですが、誤解されかねない気味を剰して書かれています。ちょっと残念な気がします。芹沢先生の真のモチーフを受け入れるに際して、ですから、私は、あまり「唖者」「唖者の娘」という所や言葉にはこだわらないで、もっと大事な、根本の主張、芹沢先生が打ち出された真の意図に即して、以降、ものを申し上げて参りたいと思います。
肝心の所は「言葉」と「知識人」、それも「日本」の運命を左右してきたような「日本の知識人」「日本の知識階級」と「言葉」とが、その「責任」が、『死者との対話』をぜんぶ通じて、厳しく問われています。
発端は、この作品の主人公でもある、即ち「対話」の相手の、今は「死者」である、「和田稔」という学徒兵──実在した学生でした──の、痛切な疑問の言葉にありました。疑問を突きつけられたのは、即ち「哲学」、具体的には、世界的存在と当時の日本が誇りにした、西田幾太郎博士の哲学、「西田哲学」でありました。私は、はじめてその箇所へと読み進みましたときに、大砲で胸を射抜かれたほどの思いがしました。若き和田稔は、出征直前に語り手の宅を訪れて、恩師と膝をつきあわせての対話の中で、真率に、悲痛に、こう語ったと、作品にあります。
「君は戦争に懐疑的であるばかりでなくてまだ死の覚悟ができていないからと、神経質な目ばたきの癖でいった。君は死の覚悟をもつために哲学書、特に西田博士のものを一所懸命に読んだが、なにも得るところがなくて、却(かえ)っていらだつばかりだったと苦笑していた。」「覚えているかしら、その時君はいった」と、こうも書かれています。「死を前に純粋な心でこれほど切実にもとめるのに、何もこたえてくれない哲学というものは、人生にとってどんな価値があるでしょうか。それは日本の哲学者はほんとうに人生の不幸に悩んだことがないので、人間の苦悶から哲学をしなかったからでしょうか、それとも哲学というのは、生や死の問題には関係のない学問で、学者の独善的な観念の体操のようなものでしょうか。」
和田青年は、やがて出征、「人間魚雷回天」に搭乗して壮絶に戦死してゆく人です。そういう若者の口から、呻くように語られたこの言葉には、千鈞万斤の重みと痛烈な「非難」が感じられます。そしてその時に、先生は、さきの、哲学者ベルグソンとその「唖者の娘」に会った昔を思い出して、答えるともなく、思い出話を彼に聴かせたのでした。そこが発端です、が、この発端に呼応して、すでに戦後になり、こういうことが有ったと、「先生」は今は帰らぬ「死者」となっている和田稔に向かい、語りかけるのです。この語りかけによって、「主題」が、ベルグソンや唖者の娘との「大過去」、和田稔との最期の対話という「中過去」、そして一月ほど前の或る「近い過去」の、三重唱になります。そしてそれらが、最後には「現在の思い」へと結び取られてゆく、そういう「構造」をこの作品は持っています。その一月ほど前の「近い過去」の事とは、こうでした。
「つい一ヶ月ばかり前に、東海の或る都市で講演したことがある。僕といっしょに、西田博士を想うという題で、博士の愛弟子の一人が講演した。講演後、山ぞいの古寺の書院で座談会を催したが、集ったのはその都市の高等学校の生徒がおもだった。学生の質問は主として若い哲学者に向けられたが、学生諸君は敗戦後の混乱のなかに、生活の秩序をもとめ生きる希望を得ようとして、みなひたむきに哲学、特に西田哲学を読んでいるといっていた。しかし、その哲学は学生諸君のひたむきな心にはこたえてくれないといって、うったえていた。哲学を理解するのにはそれだけの準備がいるのだろうが、西田哲学の難解はその準備が足りないためではなくて、人生の苦悩の上につくられた哲学でないばかりか、表現も一般人の理解できないものをつみかさねているが、これは、哲学が本質上凡人の縁のない観念的な遊戯であるからだろうかと、次々に若い哲学者に質問した。
『哲学は実生活にすぐ活用できる応用学ではないから──』
『僕たちが哲学にもとめるのも、そんな手近なことではなくて、生死の問題にかかるようなものをもとめるのです』
『それは宗教にもとめるべきだろう──』
『先生(若い西田門下の哲学学者ですが、秦。)はさっき西田哲学は世界に出してはじない哲学だというように話しておられましたが、日本人の僕達が必死に読んでも、読後少しでも生き方を変えるようなものを与えられずに、ただ脳神経のくんれんをしただけの印象を受けるのですが、それでも世界の人を動かし得るのでしょうか』………」  
此処までは、いわば西田哲学ないし哲学、いいえ正しくは「哲学学」が厳しく糾弾されていまして、これには弁解の余地が全くない。生死の瀬戸際に立つ者にとり、そんな「哲学学」は何の役にも立ちはしないのでした。有名な『善の研究』にしても、正直に、あの日本語がすらすら読めた、分かったという日本人がいたらお目にかかりたいぐらいです。私も、そのように思いました。まるで成っていない日本語で書かれた哲学や美学の書物・翻訳にほとほと愛想をつかし、大学院の哲学研究科から脱走し、小説家になったという一人です。胸を大砲で射抜かれるほど愕然としたのは、意外なことを聴いたからでなく、あまりにも真率にまともなことが、若い人たちの胸の底から吐露されていることに感動したからでした。そうだ、そのとおりだ、と思いました。この作品を初めて読んだ時は、もう大人でしたが、いま読みました先生方と学生たちとの懇話会の実際に開かれたのは、敗戦直後、まだ戦禍の影響の、物質的にも精神的にもたいそう生々しかった時期のことです。芹沢先生のこの作品の発表が、昭和二十三年の暮れちかくであったことを思い出しましょう。ちなみに、私が、戦後新制中学の一年生二学期を終える頃の、この御作なのです。
で、芹沢先生の真意をくみ取るためにも、作品に即して話題をおさらいして行くのですが、「ベルグソンの哲学のなかに、独り娘が唖者であるという人間的な不幸が、影をとどめていない筈はなかろう」と、作中の「先生」は、往年のベルグソン体験を反芻します。「ベルグソンの哲学自身難解ではあるが、いろいろ卑俗な日常性のなかに面白い引例をたくさんして、理解させようと努力しているスタイルの平易さは、唖者の娘に話して、.唇を見ているだけで理解されるようにという父性愛からうまれたのではなかろうか」というわけです。もっとも、この見解は、それ以上は精査されてはいません、一つの大きな大きな「感想」に留まりますが、本当に言いたかったことは、べつの言葉で、もっと明快に話されています。
「手取早くいえば、日本では、学者にとって大衆は唖の娘であろうが、学者は頭から唖だときめて、唖の娘にも分るように話そうと努力してくれないのだ。そして、学問も結局は唖の娘に理解させ、唖の娘を一人前の娘に育てることであるが、それを忘れて、学問のメカニズムにばかり心を奪われて、それを学問だとしてしまう。それ故、唖の娘はいつまでたっても一人前の娘にならず、不具な娘にとどまってしまうのではなかろうか。君(=和田稔)が出陣の直前最後に訪ねてあんな風にうったえた時、僕は唖の娘のなげきとして聞きとるとともに、唖の娘として見すてた学者に対する憤(いきどおり)としても受けとったから、あのベルグソンの話もし、日本人の不幸であるとして、君や僕が唖の娘だという立場で話したことを今もおぼえている。その時、君はあの癖のまばたきをして眼鏡のうらに涙の粒をごまかした。僕は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らない。しかし戦争がすすむにつれて、僕たちの日常生活も苦しくなったが、僕は君や僕も唖の娘であるとしていたが、実は、西田博士ばかりでなく、僕や君をふくめてすべての日本の知識人が、大衆を唖の娘にしていたために、唖の娘に復讐されるような不幸な目にあっていることに、おそまきながら気がついたのだ。学者や藝術家など、あらゆる知識人が、現実からはなれ、現実に背をむけ、凡俗を軽蔑して、自己の狭い専門を尚いこととして英雄的に感情を満足させている間に、一般の大衆はもちろん、軍人も政治家もかたわな唖の娘になって、知識人の言葉も通じなくなって、知識人を異邦人扱いするところから、日本の悲劇も生じたが、知識人は復讐を受けるような不幸にあったのではなかろうか。」
ここへ来て、批判されていた例えば「西田哲学」はじめ難解な言葉で話すことで、理解の届かない読者たちを「縁無き衆生」と見捨てたような「哲学・学問」への不審や疑念が、どっと拡大され、この「先生」や「学生たち」も含めた、即ち「知識人」全部と、そうではない一般国民との「対立」として、問題が、より大きく、深く、取り上げ直されます。「知識人」としての先生自身の、自らの「反省」が大きく立ち上がってくるわけですね。それも、問題点をいたずらに拡散してしまうまいと、「書く言葉」「語る言葉」つまり「言葉と知識人」の問題に、焦点が結ばれてきます。
しかし、この辺から、ふっと作中の状況は逸れまして、あの戦時下の困窮や迷惑の話が、K公爵と愛人との話や、過酷な勤労奉仕や、人心のすさみなど、いろいろに語られて行きます。一見するとメインテーマを逸れた話のようでいて、決してそうではない。即ち「起きてしまった戦争」の、悲惨と間違いとが、具体的に、語られていたのでした。そして、では何故に不幸な戦争は「起きてしまった」のか、その根が探られながら、もう一度本題へ戻って『死者との対話』が結ばれて行く。
「……こんな(戦時下)経験をなぜ君にくどくど語ったのか。僕達のなめた不幸が戦争から生ずる不幸であるよりも、僕達日本人の人間としての低さから生じた不幸であったことを、君にいいたいばかりだ。みんなで避けようとすれば避けられる不幸だった。それに苦しめられながら、僕はあの唖の娘のことを思いつづけた。西田博士ばかりではなく、日本には多くの善意を持つ偉い学者や藝術家や思想家がおろうが、この人々がみな仲間同志にしか通用しない言葉を使って、仲間のために仕事をして来たので、日本人は唖の娘としておきざりされて、民度をたかめることもできなかったが、これはそうした知識人の裏切りであったと、最後に君にあった日に憤ったのだった。しかし、僕は不幸をなめながら、僕自身もその裏切人の一人であったことを意識して、唖の娘から復讐せられるものとして、甘んじて、不幸を堪えた。僕だけではなく、君がいたらば、君をもまたその裏切人の中へ数えいれたかも知れない。」
もう一度、大事の点を繰り返しますが、「日本には多くの善意を持つ偉い学者や藝術家や思想家がおろうが、この人々がみな仲間同志にしか通用しない言葉を使って、仲間のために仕事をして来たので、日本人は唖の娘としておきざりされて、民度をたかめることもできなかったが、これはそうした知識人の裏切りであった。」「僕は不幸をなめながら、僕自身もその裏切人の一人であったことを意識して、唖の娘から復讐せられるものとして、甘んじて、不幸を堪えた。僕だけではなく、君がいたらば、君をもまたその裏切人の中へ数えいれたかも知れない」と言うのです。「仲間同志にしか通用しない言葉」でしか話さない、いいえ、話せないような「知識人」が、結果的に日本を裏切ったから、「戦争が起きてしまった」と先生は語気をつよめ指弾しています。これも弁解の余地のない事実、日本の近代史を歪めてしまった大きな事実だと、私も考えます。「先生」は「死者」へ、さらにこう語りかけています。
「同じ言葉を使わないことは、いつか思想を同じくしないことになって、外国人同志のような滑稽な悲劇が起きる原因になる。そうだ、君に極東裁判の法廷を見せたいと思う。日本では、陸軍は陸軍の言葉を、海軍は海軍の言葉を、外務省は外務省の言葉を、陛下の側近者は側近者の言葉といふ風に、めいめいちがった言葉を使っていて、他の者を唖の娘扱いしていたので、お互に意思が疎通しなかった滑稽を暴露している。誰も戦争をしたくはないが、その意思がお互に通じあう言葉がないから、肚(はら)をさぐりあっているうちに無謀な戦争に突入して、戦争になってみんなあわてたが責任がどこにあるのか、分らないといいたい様子だ。おかしなことだ。国民はもちろん太平洋戦争のころには戦争に飽いていたから、日本人全体が同じ言葉を使っていたらば、戦争にならなかったかも知れない。敗戦後、僕達はその過失に氣付いた筈だ」と。「敗戦後、民主主義ということが流行しているが、すべての唖の娘が口をきき出して、しかも同じ言葉をどの方面に向っても話すということでなければ、民主主義も戦争中にいくつも掲げられた標語と同じことだろうと、僕は心配している」とも。
言うまでもないことですが、誤解を避けるために、即座に此処で申し上げておきたいのは、「日本人全体が同じ言葉を使っていたらば、戦争にならなかったかも知れない」とは、例えば中国人のいわゆる国を挙げて「一言堂」などといった思想統一のファッショ志向とは全く逆の人間理解、自由を基盤にした相互性を求めた発言であるということです。「同じ言葉」とは、互いに理解の届き合う「垣根のない言葉」の意味であることを申し添えます。
で、この辺で「先生」は、先生らしく「文学」にふれて行きます。以上のような「考え」から引き出されてくる、文学上での「いい仕事」とは何か、先生の考えでは、「唖の娘にもわかるように努力して唖の娘の言葉で書きながら、なお藝術的な作品であると理解している」と、「死者」からの末期の「励まし」に対し先生は応じているのです。だが、戦後に発表されつつある若い人たちの多くの文学作品は、まだまだというか、またもやと言うか、「みいちゃんはあちゃん、太郎くんはもちろん、大衆を唖の娘としてうちすてて、やはり同じ仲間の言葉でしか物を書いていないようだ」と慨嘆しているのです。「唖の娘を対手にしたからとて立派な仕事ができない筈はない」とも言い切りながら、です。芹沢光治良という世界的な作家の文学的信念が、此処に特徴的に露われていると申して宜しいかと、私は信じています。それかあらぬか、ここまで、手も加えず、ただもう原作のママに引いて読み上げました、要所要所の言葉・文章・発言の全部が、まったく説明を要しない、誰の耳にも目にも思いにもそのまま等条件で正確に届く、というふうに、芹沢先生は書いておいでになる。その物の言いようは、ま、先生のいわゆる「唖者」にも、また「知識人」にも、共通して正確に伝わる話し方・書き方、が、されています。
むろん、一種の「解釈」をさしはさんでみたい表現もあります。問題が提起されて、その理解を、その思索を、読者側に預けたままにしてある箇所も、じつは有ると私は感じています。この一編の小説──私は作品『死者との対話』を、エッセイだとは思いません。小説として受け入れておりますが──この小説は、こう結ばれています。
「それにしても、人間魚雷とは、悪魔の仕業のように怖ろしいことだ。それを僕達の唖の娘はつくりあげて、それに、君があれほど苦しみぬいて神のように崇高な精神で搭乗して、死に赴いたのだ。君の手記は、その悲劇を示して僕達に警告している。僕達がまた唖の娘にそっぽを向けていたらば、僕達は崇高な精神に生きながらまた唖の娘のつくるちがった人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを。」
ここでの「唖の娘」と「僕達」という区別は、どうつけられているのでしょうか。話の続き具合からして、「僕達」の二字には、「我々」仲間内にばかり通じて、「彼等」である他者を無視した「言葉」に酔い溺れてきたために、日本国を、混乱と不幸の戦争に導いてしまった責任有る「知識人」の意味、が預けられているのは確実です。それとの対比で、「唖の娘」とは何の譬えなのかと、此処の所を繰り返し読みますと、「日本国民ないし日本国家」は、と含意されてあるようにも受け取れます。あるいは「思索し表現する知識人」たちは置き去りに棚上げにして、「生産する非知識人=国民」を巧妙にまた悪辣に統制・統御して、両者ともに、上から、ガンと支配した、即ち「国家・権力」のことを諷した「唖の娘」とも解釈出来ます。そして、その上で、芹沢先生の「懸念・危惧」を、今日ただいまの我が国の政治社会情勢に引きつけて、よくよく眼を瞠いてみますと、市民の安全を口実にした「盗聴法」にはじまり、保護の名目で実は市民のプライバシーまで管理し収奪してゆく「個人情報保護法」、国民のではなくもっぱら政治家の不都合隠しに手を貸す目的の「人権擁護法」、国家有事に際しては、国民の安全よりも国家体制の安全を優先して恣意的に国民の資財や労力を徴発しうる「有事法」等々の、法の「名前」が、決して法の「実体」を表わしていない諸法案の、続々成立やら成立の画策やらが進んでいます今日のていたらくを、芹沢先生は早くも予感され憂慮されていたのかも知れぬと、暗澹たる思いに陥る日々を、今まさに我々日本国民は、私どもは毎日迎え・送りしている現実なんですね。この、あんまり正確すぎて怖いほどの『死者との対話』なればこそ、私は何の躊躇もなく、他に名作・傑作の数有るのも承知のうえで、長さが好都合というような小さな配慮は抜きにして、「この一作」を二十一世紀の、インターネット上の読者たちに、もう一度も二度も三度も読み直して貰いたいと思ったのです、願ったのです。それが、今日のこの場へ私を引っ張り出して戴いた岡玲子さんやみなさんへの、まずは、お答えということになります。
しかし、ついでというわけでなく、せっかく「知識人の言葉」に焦点を結んで戴いたのですから、その方向で、今少しお時間を拝借しようと思います。  
その前に、「死者との対話」で、少しく別方角からの問題箇所が、少なくも二つ、感じられたことは、深入りはしませんが、申し上げておきたい。
一つには、こういう箇所がありました。和田稔の最後の訪問の、もう別れ際のところです。「君が出陣の直前最後に訪ねてあんな風にうったえた時、僕は唖の娘のなげきとして聞きとるとともに、唖の娘として見すてた学者に対する憤(いきどおり)としても受けとったから、あのベルグソンの話もし、日本人の不幸であるとして、君や僕が唖の娘だという立場で話したことを今もおぼえている。その時、君はあの癖のまばたきをして眼鏡のうらに涙の粒をごまかした。僕は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らない。」此処の「涙」には、たしか、もう一度言及されていましたが、ここでこの先生の、「僕は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らない。」が、今も、私にはかなり「気」になっています。この「分らなかった。今も分らない」と二度も強調されているのは、何故なのでしょう。「分らなかった。今も」とは、真実なんでしょうか。どう分かるのが正解なのか。この問題は、皆さんに今日はお預けして帰りたいと思います。
もう一つが、やはりその時に、和田稔という今まさに死の戦陣へ出で立つ学生が、作家「宇野千代」に是非会って行きたいので紹介状がほしいと言い出します。先生は、作品の中では「うん、書く」と承知されているようですが、事実は、紹介状のことは二人の間で自然に置き去りにされまして、そのまま、その日和田稔は先生宅を辞します。そして二度と帰らぬ「人間魚雷回天」での、爆死を遂げました。先生はそれを後に思い起こし、「後悔」されています。芹沢先生は、別の文章「幸福について」のなかでは、彼、和田稔が宇野千代に会いたがるのに対し、「その希望をかなえてやらなかった。(略) 会うのはよせと、私は無情に答えてしまったが、(略) 後悔した」と書かれています。ここでの「宇野千代」なる存在は、作品『死者との対話』をとび超えまして、かなり本質的な「芹沢文学論」の一つの足場、大きな切り口の一つになるであろう、ならざるをえない気持ちを、私は持っております。ま、これは大問題であり、今日のところは、これも皆さんにお預けして行くと致しますが、忘れがたい大事の要所かと考えております。
さて、芹沢先生は、「知識人の責任」と、責任を正しく果たすための「知識人の言葉」とを関わらせ、適切に問題を差し出されたわけです、が、此処でこの「知識人」とは何か。近代日本の激動の歴史にあって、どんな役目を果たしてきたのか、または果たせなかったのか、その辺にも、私どもの「ペン電子文藝館」のコンテンツがらみで、簡単に触れておきたいと思います。「ペン電子文藝館」で一番に作品を決定したのは、初代島崎藤村会長の「嵐」と、現会長梅原猛さんの「闇のパトス」でした。そして『闇のパトス』に梅原さんのOKが出ると、即座に芹沢先生の『死者との対話』を選ばせて貰いました。梅原さんは、言うまでもない「哲学者」であり、西田哲学の感化の濃厚であった京都大学の出身ですが、しかも彼は、西田哲学主流からかなり逸れた、むしろそれに批判的な、つまり「哲学学」的な「哲学学・者」ではありませんでした。「いかに生きるか」に、のたうちまわる青春を生きて、副題通り「不安と絶望」の中から書き上げたのが、二十五歳の『闇のパトス』でした。当時身辺の「哲学学」の師友からはたいへん不評で、これが哲学の論文かと冷評されたそうです。ちょうど「和田稔」の位置にあって、戦時から戦後へと苦悶のうちに生き延びた人でした。在来の「哲学語」に強く飽き足りない不満も持たれていたのでしょう。
私も、近来とみに、「哲学」と「宗団宗教」に対し、ほとんど期待はもてないと考えている人間の一人でありますが、学生時代、ことに日本語で書かれた「哲学」「美学」の殆どが、あまりに独善難渋、広い世間の眼には、たんに無用の存在と言いたいほどに思っていました。で、梅原さんの『闇のパトス』の、青春の身も心ももがくような痛切な日本語の駆使、けっして熟していない、巧くもない日本語での、切々としたねばり強い思索に、世代の近い者としての共感を覚えていたのです。ひょっとして芹沢先生の『死者との対話』から生まれ出てきた梅原さんの『闇のパトス』なのかも知れないほどに私は感じたのです。それについては、これ以上は言いません。が、次いで、芹沢先生のあとを継いで第六代日本ペンクラブ会長に就任された、中村光夫先生の、ずばりその題が『知識階級』という、まことに優れた興味深い論考を、奥様のお許しを戴いて「ペン電子文藝館」に掲載させて戴いたです、この論文は、いわば『死者との対話』の主題・訴えをその基盤から、歴史的に解明するていの、みごとな解説でありました。ただ漫然と作品を選んでいたわけではないのです。
知識階級──。なるほど、こういう呼び方をされて、それなりに妥当適当な人たちが、近代以降と限りましても、かつていたこと、今もいること、は、確実なようです。それは資本家と労働者といった今や古典的な階層とは、意味がちがいます。門閥と庶民というのとも、違います。
幕末から明治初年にかけ、日本の「新・知識階級」を名乗り得たのは、かつて武士身分の中でも、むしろ「門閥制度は親の敵」とすら考えていた、下層の武士出身者でした。福沢諭吉、森有礼、西周、津田真道、加藤弘之、西村茂樹、箕作麟祥ら「明六社」という同人を成していた知識人、同じく菊池大麓、中村正直、外山正一などという「知識人=洋学者=西欧渡航経験者」らは、みなそうでした。新島襄も、いわばそんな一人でした。彼等と同類の下層武士出身者たちで作られた「明治新政府」に、かつての対立関係なども忘れて、彼等が惜しみなく「讃辞」を送って熱心に肩入れしたのは、政府が彼等の知識を必要としていたのですから、これは自然なことでした。この人たちを、近代日本の第一次知識階級と呼ぶことは、大きな間違いではないでしょう。彼等に共通した特色は、その得たる新知識の力で、「国家」「日本」の行くべき道を示唆・指示し、自分たちで操縦できる、舵が取れると自負していた、その強烈な自信でした。国家・政府・時代もそれを期待し、尊敬の念を惜しみませんでした。彼等の背後には、「西洋」という「世界」が(その実質はともあれ)背負われていて、嘗ての上層支配者たちでは、そんな広い「世界」に伍して「国の行方」を誤らないで済む能力は全くなかったのです。
明治政府の推進者であった例えば伊藤博文も、彼等と同じ程度に西欧を体験してきた新知識階級の一人でした。「末は博士か大臣か」と謳われた相互呼応の蜜月関係が現にありえました。大臣だけでなく、博士も、たいした重みを持ち得ていたのです。いま「博士」を表に掲げるのは町の開業医さんぐらいなものでしょう。福沢諭吉ら第一次知識階級たちこそ、そう呼ぶ呼ばないは別として時代の「博士」でした。それも実践的な処方の書ける博士でした。
幕府の頃の蕃書調所から、開成校になり、明治十年には東京帝国大学になっていった「大学」等の教育機関の道筋が、此処へ積極的に開けてゆきました。鴎外は十四年に、坪内逍遙は十六年に、それぞれ帝大医学部、文学部を卒業しています。
第二次の知識階級は、この「大学に学ぶ」という、さらには「西洋へ洋行・留学する」という経路を経て、なお、相当の重きを日本国の広い分野で成しえたのでした。森鴎外・夏目漱石ら文学者の名が典型的に思い出されます。「博士」の称号は光り輝いていました、「博士」の代表者の一人が坪内逍遙でした。シェイクスピアを初めとする西洋の学藝の紹介と祖述、また演劇等での実践で、尊敬を集め、博士といえば大きな「紋所」でした。だからこそ夏目金之助・漱石が文部省授与の「文学博士」を辞退し退けたことが、大きな話題になり得ました。
しかし漱石は「文学博士」をガンとして拒み通し、公よりは「私=個人」の心の掟や誠に従った、人間的な文学世界を築き上げますし、医学博士森鴎外は、作品「舞姫」では恋と官途の板挟みに悩んで官途に従い、専門の知識を持って帰国し、終生国に奉仕しますが、しかもその遺書では、政府による死後の栄誉のすべてを辞し、「岩見人森林太郎」としてのみ死んで行くと言い切ります。知識階級のうちに、国ではなく、少なくも国優先だけではなく、吾、己れ、人間として生きるための、意識の変容が、深いところで進んでいたと思われます。しかしなお、明治二十年代、そういう知識人は世の表には現れにくく、ごく少数派でした。
では第一次の福沢や森有礼たちの頃と同じであり得たか。そうは、あり得なかったのです。  
明治は、ご承知のように四十五年続きました。明治十年に起きた西南戦争は、西郷隆盛による政治的な内乱でした。此処までは、明治政府による維新の建設と、社会的・文化的にはいろいろにまだ混乱がありましたものの、国は、玉石混淆、西洋人を大勢お雇い教師に採用もしつつ、挙げて、和魂洋才による文明開化と富国強兵を模索追求し、いわば新国家の草創期でしたから、少数の優れた洋学者・先覚者たち「新知識階級」には、発言と活躍の場が、有り余るほどにありました。福沢諭吉に代表される彼等知識人は、身に付いた武士道と儒学漢学の基盤を生き方の底に抱きながら、西洋舶来の新知見をもって、「無学」な政治的上位者たちの「政府・政策」を実質的に動かしてゆく、リードする、自信満々の勢いと活気とを持っていました。
中村光夫先生の観察を待つまでもなく、たとえば旧藩主等の支配層と、福沢や森有礼らとを比べれば、西洋風の学藝や知識において、前者の「無学」は、歴然としていました。だがまた、福沢諭吉たち明六社同人を初めとする知識階級の「西洋学の程度」はといえば、まだまだ専門学の実質を著しく欠いた、いわば彼等自身も実は「無学」に等しかったのです。鴎外や漱石のように、専門学を西洋で学習してこれたわけでは無かったのですから。外遊の時期・年限や、学習術の未熟・不備からも、それは、さもありましょう。
それでもなお、むしろ、それが幸いしてとも謂えるのですが、彼ら新知識階級は、確かに、政権の内側でも、外からでも、たとえ猪突猛進であれ、明瞭に「国家」の前途を視野に入れた、とにかくも「大きな」ことがやれたのです。
その意味では彼等は幕末以来のあの「志士」の変身したもので、嘗ての身分は総じて低く、それが希望と力とになり得まして、国を新しく変えてゆく上で、これはいい、これは大事と思うことなら、何でも、どのようにでも、その方向へ「蛮勇」をもって「邁進」する気概やモラル、武士道的な儒学的な秩序への奉仕意識を、意識の下に隠したまま「理想への意欲」だけは、溢れるほど持っていたというわけです。また、それが、時代からも、権勢の側からも、期待されていたのですね。知識階級の、もっとも幸福な環境、活躍出来る環境が在った、存在した、そういう時節でした。つまり真に変革期でありました。
知識階級のこのように幸福な、得意な時節は、むろんのこと、国家建設が進み、秩序化・支配体制が整うに連れて、無惨なほど速やかに崩れてゆきます。明治二十年までに、つまり西南戦争からの十年のうちに、西洋の学藝や藝術に学ぶ人は、何よりも、人数の上で増えてゆきました。
学問して偉くなろう、出世しよう、出世できるのだという希望を抱いて郷関を出てきた人が、大都市に集中し、永井荷風その他海外にまで学びに出た人も幾らもいました。各分野での専門教育が進み、大学やそれに準じた学校が、増えてきます。「書生・学生」が、維新の初期に比べ、比較にならぬほど増えていました。
すると、当然にも、逆に「知識・才能の希少価値」は相対的に下落します。能力が求め迎えられるどころか、相応の「地位」を官途に獲得することにも、彼等遅れてきた知識階級は、無惨な奔命を強いられ始めています。しかも迎えられ方が、明治初期とはまるで違い、国や政府は、専門の知識を持って唯々諾々ということを聞く、道具に等しい単に技術者としてしか彼等を用いなくなっていました、なまじ意見や主張や理想のある知識階級などは、もうむしろ五月蠅い無用の存在でした。知識階級は、黙々と車を牽く車夫同然の存在に甘んじて職を得て出世を狙うか、その路線から転落しいたずらに零落するかの選択に早くも迫られていました。車を牽くのはそれなりの技術であり力ですが、それに乗るのはもっと力のある他人であり、何処へ走ってゆくかも車夫の自由ではなく、車上の主人がきめることでした。福沢諭吉は、このような辛辣な譬えで、第二次の知識階級の余儀ない変貌を描写しています。福沢だけでなく、知識階級の一角から、先駆的な文学者がこういう苦渋の知識人を造形し始めます。
その最初の典型が、明治二十年、二葉亭四迷作『浮雲』の主人公内海文三でした、彼は、上長の求めるままに従順な車夫に成りきれない存在として、落ちぶれて前途も見えない敗北者に成ってゆく。その一方で、如才ないあたかも上の自由になりきった道具のような本田昇は出世への街道を軽やかに歩み、文三の許嫁の女も奪い取ります。十年後、明治三十年の尾崎紅葉作『金色夜叉』で、あの熱海の海岸で、宮さんを争った、間貫一と富山唯継のような按配です。もうこの十年のうちに、知識階級の多くは、殆どは、上の言いなりに長いものに巻かれて生きるしかない存在になり、その気のない者は落ちこぼれるしか無くなっていました。
日本の知識階級の特色の一つは、昔も今も「貧乏」なこと、と中村先生は、ためらい無く指摘されています。門閥や資産などに恵まれない経済的な下層から、学問し知識を持ち出世したいと這い上がってくるのが普通の形でした。そういう階層の青年たちが、学歴は得たけれど職が得られない、政官界もそんなに多くの書生・学生を受け入れられない、と言うよりも、都合良く使える者しか使おうとしなくなっていました。当然のように実業界も又同じでした。得意の絶頂にいた知識階級は、急速に失意の集合を成しまして、すると、知識や学藝に培われた彼等の内なる人間が、個性が、うめき声と共に適切な出口を求めて悶え悩み始めます。、あの鴎外でも漱石でも二葉亭でも、まさに誠実に呻いていたのでした。
知識階級は、だんだんに、学校を出たあとは、いわゆる先生になるか宗教家になるか、大概二つに一つという時代に、遭遇・当面したんだと、国木田独歩は、自分が何故「小説家になりしか」というエッセイで、はっきり知識階級にとって打つて変わり果てた時代を、概括し、総括しています。そのエツセイも「ペン電子文藝館」は拾い上げています。
知識階級のうめきのはけ口のように、詩歌や文学が、藝術が、俄然として彼等に意識され始めます。心ある知識人ほど、もう「国」「国家」「公」よりも、自分自身の内側へ目を向け、いわば魂の表現に向かう方が、人間的に生きる方が、意義深いこととして意識されてきます。鴎外も漱石もそうしてきたわけです。尾崎紅葉を中心にした泉鏡花らの我楽多文庫派の文学者たちも、北村透谷や島崎藤村ら文学界の若き魂も、正岡子規から流れ出た俳句や短歌の人たちも、みな、次の明治三十年という次の画期へ向けて、活動を始めよう、いいえ活動し始めています。その丁度明治三十年に、芹沢先生は生まれておいでです。先生ご自身が知識階級に身を置かれるまでには、もう四半世紀が必要でした、少なくとも。
日清戦争、そして日露戦争、さらには大逆事件と、明治時代は奥深く進むにつれて、もう知識階級は政治的な経世家であるよりも、優秀な人ほど、思想家的な相貌を己のものにしてゆきます。批評は出来る。しかし、社会や政策を動かす実践的な力には容易になれない、半失業者的な存在として、かなり貧しく苦しく生きることを意味します。三文文士の通り名どおりに、「借金」は常のことでした。貧困ゆえに一葉も啄木も窮死し、藤村は妻子を次々に死なせました。日露戦争後は、機械的人間たりえない、道具としては生きたくない知識階級の逼塞は深刻度を増しました。官界・実業・芸術、どこでもそうでした。
あげく、得意であれ失意であれ、深く、そして狭く、「知識階級」は己の専門たる教養をそう理解したかのように、広く世に受け容れられようなどと思わず、一つは傲慢から、一つは断念から、「我々」という垣根の中で、垣根の仲間にしか通用しない「言葉」を平気で、それが当然の思いで用い始めたのだ、と、そう言えるでしょう。ついにと言いましょうか、芹沢先生が『死者との対話』で、鋭く表に出された「知識人・知識階級の自己閉塞」が、そう進行して来たのです、石川啄木の言う「時代閉塞の現状」に押しひしがれるようにして。この「閉塞」は、初期知識階級とは逆に、国に対し、体制に対し、背を向けて道具扱いの、車夫扱いの協力は「もうご免だ」という意思表示で示されてきました。啄木は「もうご免だ」を、繰り返し、書いています。この有名な啄木の論文は、明治四十三年八月、大逆事件が報じられて、社会が大きく揺れだした最中に書かれたものです。若き日本の「知識階級」は、未だ真の「敵」を認識してこなかったという意味深長な言い方の中で、明治初年とは逆さまに、むしろ国体や体制と闘うべく立たねばならない知識階級の前途を洞察しつつも、時代は絶望的に閉塞していると嘆いて、知識人たちの自己閉塞ぶりに檄をとばしたのですが、現実はどうにもならずに、明治は果て、大正の擬似的なデモクラシーを経過し、関東大震災を体験します。そのあと、「ぼんやりとした不安」から芥川龍之介は自殺し、めくるめく早さで、「公」は容赦なく「私」を弾圧的に押さえつけたまま、あの大きな不幸な戦争へ日本国を追い落としていったのです。知識階級はむしろ国家の余計物でした。
中村光夫先生もこう断言されています。
「国家(支配者と民衆)に無関係の地点で、自分等だけの思想や感情を理解しようとしたので、自然主義以来の文学が文壇の文学者同士を相手に書かれたといわれるのは、こういう知識階級や気質の現れの一端なのです」と。落ちたプライドの裏返しに、自分とは他の「彼等」なんぞにまるで通じなくてもいいかのように、「我々仲間内」だけの言葉を平気で誰もが話し始めて、狭く固まってしまっていた「知識階級」の、数知れない各集団は、全く無力に、結果として「大政翼賛の協力者」を演じたあげく、芹沢先生のいわゆる「裏切人」に成りはてていたあげく、哲学も宗教も科学も、藝術や文学すらも、日本国ないし日本国民を、「唖者の娘」なみに「暴走」させただけで終わったのでした。
適切な把握であるかどうか、みなさんが個々にご判断なさるでしょうが、こういうことを念頭にして、私は、私の発案し実現を推進してきた「ペン電子文藝館」に、大きな期待をもって、あの芹沢光治良作『死者との対話』を、ぜひ掲載しなくては成らぬと考えました。折しも、新聞テレビ等は、日本の現在のかなり危うい後ろ向きのありようを、日々に、イヤになるほど報道し続けています。永田町の言葉は永田町でしか通じない。野党の言葉と与党政権の言葉とは、同じ日本語かと思うほど引き裂かれています。そしてこの国の真の主人公であると認め合った「国民」が、日増しにまた「唖者の娘」かのように政治的支配のもとで、外側で、不安と不自由を強いられつつあり、国民の多くがなかなかそれにも気がつかずにおります。ほんとうに必要な「対話」が、共通の言葉によってよく成されていれば生じないであろう「危険の予兆」が、ひしひしと身に迫ってきているのではありませんか、と……。
以上を以ちまして、岡さんからのお尋ねへ、「今、なぜ『死者との対話』が大切か」の、私の、お返事とさせていただきます。甚だ堅苦しいお話に終始しましたことを、みなさんに、お詫び申し上げます。  
 
泉鏡花とロマンチク

 


はでやかで鮮かで意気な下町風の女の夕化粧じみた紅葉の小説や、哲理とか何とか云つて重つくるしい露伴の小説や、基督教趣味で信仰で固めて、ちと西洋臭い様な蘆花の小説や、それから此頃名高いこれこそ本当の小説家である漱石、殊に智慧にも富み機智にも充たされて、飽くまでも西洋の学問と文化とを日本の趣味に醇化したこの新小説家の小説を読んでから、飜(ひるがへ)つて鏡花の小説を読めば、丸で変つた国に這入つた心地がする。例へば俄(にはか)に寂しい夕暮に闇路深い谷間の森に迷つたやう。梟(ふくろふ)も人真似して啼きさうな、螢が飛び出しても直ぐに人魂と思はれさうな物凄い感じがする。併(しか)し嬉しい事にはそれは涼しい夏の夜で、空は海の底を見るやうに晴れて居る、月はやがて冴え冴えとして照して来る。あゝこの夜の美しく清く、いかにも真昼の蒸暑い熱が無い月の光に照されては、情自(おのづか)ら燃え想自ら躍りて、而かも真昼の世に為さるるとは事変はりて、少しも熱もなく苦しくもない、云はば大理石像に血が通うたなら感ずるだらうと思はるる様な心持になる。思へば今の世の写実小説とか家庭小説とか翻訳された小説の大方は、蒸暑くつて汗臭くつて堪へられぬ。畢竟鏡花は初めての夜の小説家である、月夜の小説家である。日本の文学は鏡花に到つて初めて夜になつたのである、夜の秘密は彼に依つて初めて日本に伝へらるるのである。幽霊、怪異、物凄さ、神秘、幽玄などが、殊に彼の小説中に現はるるのも何の不思議はない。是等は凡て夜の児であるからである。
是に到つて、誰か十九世紀の初めに独逸に起つたロマンチクの文学に想ひ及ばぬものがあらうか。シュレーゲル兄弟の一派がロマンチクと銘を打つた文学、即ちヘルデルリン、ノヴァリス、チーク、ホフマン、アイヘンドルフ等を経てハイネに及んだ一団の思想傾向によりて生れた文学は、畢竟夜の産物であつた。独逸の文学は茲(こゝ)に初めて夜になり、星も冴え月も照らす、梟も啼けば幽霊も出て来る。抑々(そもそも)夜は差別を没する、従つて差別の依つて生ずる理性も理会も無くなる、最後には唯心持ち、情感のみが残るのである。扨(さ)て理会の状態は古今東西甚だ差別があるが、情感はそんなに異なるものではない。従つて夜に生れた鏡花の小説が、百年の昔独逸に起つた夜の文学即ちロマンチクの文学に甚しく似て居るのも、何の怪しむ所がなからう。 

鏡花とロマンチクと似たと云つても、勿論何(ど)の点も似たとは云はれぬ。この十九世紀初期の独逸のロマンチクは、決して単に神秘幽玄恍惚の情感を描いたから、今日不断に用ゐる意味でロマンチクと呼ばれるのではない。否々尚深大なる意味をもつて居る。つまりはあの独逸であつたから、殊に十九世紀の初めに哲学界文藝界等あらゆる思想界に起るべき運命をもつたのである。然(しか)らば如何なる点に於て鏡花はこのロマンチクと似て居るか、これが問題である。それを研究する前に、先づロマンチクは如何なるものであつたかを考ふる必要がある。
哲学者なるカントは、哲学界宗教界倫理界乃至(ないし)あらゆる学術界に於て、全く新しい近代的の思想を開発した第一の哲学者であることは云ふまでもない。彼は実に近世の思想界の父である、新光明世界の創造者である。哲学界では在来の知識理会を第一義とする所謂啓蒙主義を一撃の下(もと)に征服して、認識論から先天的実在論を唱道し、兼ねて信仰に基いた道徳を提唱して万有神論の基礎を固めた。シェリングやへーゲルは、実にこの系統の中に生れたのである。文学界ではシルレルが即ちカントの道徳論を詩に歌つた詩人であれば、これも正(まさ)しくカントの継紹者である。而(しか)して不思議な事にはシルレルやへーゲルとは、主義に於ても主張に於ても全く容るる所のないロマンチクも実はカントから生れたものである。カントがなかつたら恐らくはあんなシルレルやへーゲルが出なかつたと同じく、あんなに銘を打つたロマンチクも亦決して生れなかつたらう。カントは誠に近代に於けるあらゆる思想や傾向の父であつた。
カントは先づ啓蒙主義を打破してしまつた。啓蒙主義では感情や意志などは下らぬものとなつて、理会が万能になる。この知識や理会を以て色々に捏(こ)ね合はして世界の実体を判断し、何んでも論理で哲学的臆測を構成したものである。そこでカントは第一にこの説に反対して云ふのには、「知識と云ふものは、万物が如何なる風に吾等に見ゆるかを識り得るものであるが、万物其者は何であるかは識り得ない。吾等は万物の実体を知ることが出来ない。これ故に知識や理会の上に世界観を組み立つることは出来ぬ」と。この言はカント哲学の鉄案であると共に、ロマンチクの人生観世界観の根蒂(こんてい)である。ロマンチクとは、即ち万有不可解の哲理の上に立てられた新しい人生観に外ならない。
この一言で知識を万能とせる者は大打撃を受けた。併し吾等にとりて、万有不可解の哲理程悲しいものはなからう。吾等が信仰に依つて神を信ずるのも、不断に道徳的に健闘するのも、汲々として哲学を研(きは)めて冥想するのも、実はこの我と云ふものと万有との交渉融通を求むるに外ならぬ。吾等は決して棄てられたる野の石の如く、茫然として独り万有の中に転がつて居る存在に堪ふる者でない。然るに万有は不可解と云ふではないか。この我を没すべき融合すべき万有が何であるかも、また何処にあるかも知らぬ。即ち人生と云ふ旅路の目的物が、忽焉(こつえん)として幻よりも淡く消えて了つたのである。是(ここ)に於て吾等は慥(たし)かに慟哭する、絶望する、憤死する、狂死する。あはれカントの哲学の鉄案は、正しく人を殺さなければ止まぬ。固(もと)よりカント自らは自殺もしなかつた。彼は信仰の上に道徳的世界観を立てて復活したが、こは固(もと)より、彼れの崇高にして而かも普国的の義務を重(おもん)ずる男性的道徳的人格の然らしめた所である。併しこんな偉大なる道念を有し得ない人にありては、慥かに彼れの哲学は狂死の基となるに違ひない。詩人クライストの死んだのは全くこの為である。彼は知識が何(ど)うしても万有の実体を闡明(せんめい)し得ないので、煩悶して自殺したのである、否、彼にありては生きて居る間には許されなかつた真理即ち万有の実体の世界を見んが為に、「探見旅行」を企てたのである。あはれクライストを殺したものは誰れでもない、カントの「純粋理性の批判」即ちこれである。あはれはかない限りではないか。
こんな万有不可解の哲学は、如何にしても吾等の堪へ得るものではない。即ち吾等の狂死を救はんが為に、カント哲学の不満を充たす者が自(おのづか)ら出(い)で来なければならぬ。フィヒテ及びロマンチク即ち是れである。是に於てカントの先天的二原論は積極的となる。即ち「我」と云ふものが極度迄に拡充されて、遂には万有をも一呑みにして了ふ。カントの不可解であると云つた万有其者は、つまりはこの「我」に外ならない。かくてカントの哲学は全然主観的となりて、「我」の無限絶対の自由と独立を規定するものとなつた。固(もと)よりこの「我」とは最早野中の石ではない、活動する、発展する、創造する。外界にある一切の物象は、かくして「我」によりて創られたるものである。これ故に「我」とは同時に、無限に物を産出する独創力である。此(かく)の如くにしてカント哲学の不満は全く充たされて、万有不可解で自殺する必要は最早(もはや)無くなつた。しかしフィヒテとロマンチクは此処迄は道連れであつた。即ち世界観は両者共に出発点を一(いつ)にして居るが、これからは両者全く違つた発展を為した。取りもなほさずフィヒテは「我」の本体をば道徳的意志とした。故に「我」によりて創らるる外界は、道義的秩序に依りて成立する。こんな厳粛な崇高な思想は、ロマンチクの固(もと)より堪ふる所ではない。即ちロマンチクにありては、「我」と云ふ者の本体は意志の反対なる感情である。この感情を対象とする藝術は、ロマンチクの世界に外ならぬ。而して感情の極致は天才である。依つて天才はロマンチクの理想の頂点である。カントは既に「天才とは藝術上の法則を授くる生れながらの情感の要素を指すのである」と云つたではないか。而してカントによれば、外界の現象は全く吾等の理会から出来るものである故に、この天才も亦外界の世界を創る事勿論であらう。かくて「我」と云ふものの極致は天才である。従つて天才なる詩人は、初めて万有を創り抽象のものを闡明する。彼こそ本当の哲学者と呼ぶべきである。かくて天才に依りて啓示せられたるものは、初めて之を真理と称すべく実体と名づくべきである。
独逸のロマンチクは、こんな風に発展したものだ。フィヒテとは無論兄弟分で、共にカントの子であるから、あの独逸の崇高雄大なる哲学と同一の深い根柢を有するは固より当然である。然らば鏡花は如何なる哲理の上に立つか、鏡花は果してカントの哲学に影響せられたか、或は万有不可解の哲理に其発足点を求めたか、予は固(もと)より之を知らぬ、知る手蔓は勿論ない。此故に哲理の上で、即ち其根本主義に於て予は鏡花とロマンチクとを比較せんとするものでない。この点に於ては恐らくは少しも似通うて居るものはなからう。
予が両者似て居ると云ふのは、天才の要素なる感情が、外界に対して起す心理的傾向に就て云ふのである。 

鏡花の小説中の感情とは如何なるものなるかを見んには、先づ其人物を知らねばならぬ。而して鏡花の人物では女が不思議な程優ぐれて居るから、先づこの女を一通り研究せねばならぬ。世に鏡花の小説の女ほど、美しく優しく燃ゆる様な情があつて、而かも涼しい程透き徹る様な少しも濁りけのない智慧をもつて、さばけて、意気で、粋で、而かも照り輝くばかり品が可い女は無からう。そして銀杏(いてふ)返しや島田が尤も能(よ)く似合つて居る、つまりこれ程日本趣味に出来て居る女は無い。予の知れる範囲では西洋などには勿論居ない、今迄の日本文学にも見当らぬ。遠い昔は知らぬ事、西鶴にも京伝にも馬琴にも紅葉にもこんな女は見当らぬ、まして現代の非日本式の写実主義や翻訳主義や基督教主義の小説家などには思ひも寄らぬ。予には白百合の花にも譬へられたつゝましげに清らかな日本の女が、初めて今日生れた様に思はれる。
予の第一に好きな女は、「誓の巻」のお秀である。「振仰ぎ見返れば、襲着(かさねぎ)したる妙(たへ)なる姿、すらりとしたるが立ちたりき。其(その)美しさ気高さに、まおもてより見るを得ず、唯真白なる耳朶より襟脚にかけ、頬にかけ、二筋三筋はらはらと後毛(おくれげ)の乱れかゝりたる横顔を密(そつ)と見たるのみ」にて、読者も新次と共に恍然たらざるを得ない。お秀は母の無い十四歳の新次に非常に同情を寄せて可愛がる。さうして是からこの新次がお秀を懐かしがる愛情は、誠にたとしへなく美しい。「誓の巻」は実はこの美しい愛情を描いて居るのである。一体鏡花の人物は他の小説家のと異つて居る様に、男と女との関係が世の常の恋と云ふものと甚だ違ふ。それで鏡花はまだ幼い男の児が若い娘に対する愛情を能く描く。「誓の巻」はこの好適例である。併しこの男の児が若い女に対する愛情も、決して世の常の異性の間に成立つ恋とは全く別物である。世の常の恋とは茲(こゝ)に詳しく説く迄もなく、経済問題実用問題と、更に異性間の愛情とが縺(もつ)れ合つて成立するものである。故に家庭とか新生涯とかが其理想となる。併し鏡花にある男と女との関係はさうでない。先づ第一に注目すべきは、男の児は大抵お母さんが無い事である。それで母なる女性に対する憧がれと懐かしさの情は非常に強い。さうして自分を可愛がつてくれる純潔な処女に対して、初めてこの亡き母に対する憧がれと懐かしさが具体的に起るのである。鏡花の愛情と云ふのは、此(かく)の如くにして成立する。即ち哲学めいた詞で云へば、万有を愛護する所謂マリヤの様な慈母の女性に対する憧憬が、鏡花の愛情の根柢を為すのである。故に鏡花の愛情の目的は、夫婦になることではない、家庭を作る事でもない。つまり母と子になるのである、姉と弟となるのである。あゝこの小児の無邪気と其母を慕ふ心と、更に処女の純潔と、其愛憐の情とが相結ぶ時は、どんなに美しい仲となるのであらう。世の家庭を理想とする愛情は、兎角(とかく)我執の念と利己心に充ちて居る。だから恋の裏面は嫉妬である。又家庭の道徳なる貞操も、多くは悋気(りんき)や嫉妬の上に建てられる。だから暑苦しい、飽き果てられる、時には醜悪である。よしこんな世俗のものでないとしても、あのロマンチク文学の描いた恋、例へばクライストのトゥースネルダのアシレスに対する恋や、グリルパルツェルのメヂヤのヤソンに対する恋や、それからダンテのパオロとフランチェスカとの恋、ワグネルの詩作に於ける大方の恋などは、如何にも先天的な超世界的の磁石力の様な魔力から成立して居て、真に人を魅する、痛切に感ぜしむる、感激せしむる、果ては恐ろしく成る、宛(さな)がら夢見ながら魘(うな)さるる感じがする、苦しさ例ふるに物ない。吾等の弱い心は最早こんな激烈なデモニックな感情に堪へられない。鏡花のは少しもこんな恐ろしさがないと同時に、我執の念もない。経済的乃至(ないし)世俗的の観想をも伴はぬ。全く清い美しい姉と弟との関係に外ならぬ。我執の念と利己心と、更にあらゆる悪徳の上に将(は)た暑苦しい熱情の上に超然たるは云ふ迄もない。併し姉と弟との関係と云つても、決して世にある家庭内の姉弟の関係ではない。そは精神的である。而して一切の悩みや罪や煩ひから自由にしてくれる所謂(いはゆる)「久遠(くをん)の女性」としての姉との関係である。そしてこの姉は血もある涙もある活きて居る女であることは勿論である。故に鏡花の女は単に姉や又は母たるのみならず、あらゆる秘密を罩(こ)めてゐる女らしい女である。だから鏡花の愛情とは、母の慕はしさと、姉の懐かしさと、更に女の恋しさとに依りて成立する。あゝ之を愛と呼ぶも未だしである、恋と呼ぶも猶及ばずである。この愛憐の心持ちを何と呼ぶべきか、予は固(もと)より適切の文字を知らぬ、恐らくは日本にはまだ無いのであらう。西洋の辞書にも無論なからう。
新次がお秀に対する感情も、正しくこのまだ無名の心持ちである。新次がお秀と別れて帰る時分に、……と背後より裳を軽く捌きつゝ、するすると送り出でしが、「宜しく」とばかり云ひ棄てて、彼方向きたまひし後ろ姿、丈は予よりも高かりき。
と云ふあたり。それから鳩の時計で鳩が鳴くのを、新次はどうしても鳩が鳴くのとは思へない、お秀が鳴く真似をするのだと云ひ争うた時に、お秀は「そんなら私の口を圧へなすつて居らつしやいな」と云つて、熾ゆるが如きわが耳に、冷たき秀の鬢触れて、後毛のぬれたるが左の頬を掠むる時、わが胸は彼が肩にておされぬ。襟あしの白きことよ。掌は其温き脣を早や蔽ふたり。雪は戸越しに降りしきる。
と云ふ一段の如きは、至情言外に溢れて慥(たし)かに読者の魂をとろかして了ふ。こんな美しくも可憐な哀感は又とあるまい。かくて新次のお秀に対する愛は、命と共に痛切になる。お秀は最早お嫁に行つた。併し新次の愛は決して失はれたる恋を悲むのではない。つまりはお秀と兄弟の様にして暮せば、新次の望みは足るのであらう。併しこんな事は、とてもこの世の中に出来るものでは無い。殊に母とも思つた新次の師なるミリヤードは、基督教の立場から固く新次にお秀の事を思ひ切る様に命じた。彼は臨終の刹那にも新次にこの事を云つた、果ては母の心を以て叱つた。
秋に沈める横顔のあはれに尊く、うつくしく気だかく清き芙蓉の花片、香の煙に消ゆるばかり、亡き母上のおもかげをばまのあたり見る心地しつ。いまはや何をか云はむ。
「母上」とミリヤードの枕の元に僵(たふ)れふして、胸に縋がりてワッと泣きぬ。誓へとならば誓ふべし。
あはれお秀を忘るる様に誓はねばならぬのか。こんな悲しくはかない心細い哀れさは又世にあるべきか。この一段は真に人をして泣かしむる。思へば基督教の文化は、新次の心持ちを解するに適しない、否、今の世の道徳は大方こんな感情の独立と存在を許さぬのであらう。つまりはまだ何ものたるかを知らぬからである。
この外この感情を描いて居るので、予は「照葉狂言」が大好きである。この小説のお雪と貢の仲もお秀と新次とのそれと同じであるが、更に痛切で可憐である。お雪はお秀よりもつゝましげに鬱気(うちき)で、物憂きことにやつれては弱々しく風にも堪へぬ女である。まるで野の繁みの中に人知れず露も重げに首垂(うなだ)れて居る白百合の花である。さうしてお雪は残忍な継母の娘ではないか。継母と云へば油が惜しいから夜はランプを点けないのである。薬であるからと云つて木槿(むくげ)の花まで粥に入れて食ふのである。梨の核をも棄てないで勿体なさに絞つて其汁をも飲むのである。お雪はこんな継母の許に暮して居る可憐極まる女ではないか。貢はまだ十歳足らずの男の児でこれも母が無い。お雪は非常に此児を可愛がれば、貢も懐かしがつて始終姉さんと呼んで居る。母が亡くなつた時はお雪は遠慮して毎日弾いて居た琴を俄にやめる、貢はこの事を知つて非常に嬉しがる、それに幼いながら継母に育てられて居るお雪の境遇を可愛相に思つて満腔の同情を捧げる。ある時隣のをばさんの嘘で、お銀小銀の継母に窘(いぢ)めらるる昔話を聞いて思はず声を立てて泣き出した。これもお雪の運命を悲しむ為であつた。程近い鎮守の森でお能の舞台があつた時には貢は毎晩見に行つた。帰りには何時でもお雪が自分の庭の門口の所で見送つてくれるので、貢は非常に嬉しがる。本当に清い仲である。然るに或夜故(ゆゑ)があつて、貢の身を寄せて居る婆さんが逮捕せられる。貢は全く独り児になる。お雪は貢を自分の家に招いたが継母が恐いので、貢は遂にお能の女なる旅藝者の小親(こちか)と云ふのに其身を任す事になる。この小親も何処迄も鏡花式の女である。是から貢とは姉弟の仲になるのである、美しい愛情の成立てるは勿論であるが、貢がお雪を懐かしがつて居るのも無論である。それから八年も経つた後で、貢と小親とは藝人となつて再び貢の故郷に来る。お能は依然として鎮守の森で挙行される。此時お雪は継母よりも更に残忍非道な婿養子を強ひられて、昔よりも更に酷薄な運命の下にあるを聞いた時の、貢の悲しみはどんなであつたらう。姉とも懐かしく思へる人はこんな非運に遇つて居るのに、自分は小親と共に美しい愛に酔うて居る。是に到りて、生きて居る中(うち)にせめて一度でも貢さんの顔を見たいと云つて居るお雪の為に、貢は安眠して居られない。併しお雪を救ひ出だす手段はなからう。貢は夜半密かに互に弟とも姉とも恋ひ慕つた小親を永(とこし)へに棄てて、自ら寂しき運命を辿つて山路に逃げて入る。
……いでさらば山を越えてわれ行かむ。慈しみ深かりし姉上、われはわが小親と別るるこの悲しさの其れをもて救ふことを為し得ざる姉上、姉上が楓のために陥りたまひしと聞く其運命に報い参らす。
果敢ない運命ではないか。こんな風に姉弟の愛情を描いたものは外にもある。短篇ではあるが「清心庵」も面白い。それから特に注意を惹くのは、鏡花の愛情には少しも嫉妬などの世俗的の反感を伴はぬ事である。「照葉狂言」中の貢がお雪と小親とに対する情は、全く姉弟の関係で、此間に妬みや嫌ひなどの疚(やま)しい情が尠(すこ)しもない。小親がお雪に対する情の中にも、恐らくはこんな感情はあるまい。この関係に就て、殊に適切に尤も美しく描いたのは、「無憂樹」である。
兼次と扇屋のお扇(せん)とは従兄弟で許婚(いひなづけ)である。このお扇は藝者屋の養女であるが、品が善く麗しく、目元の愛嬌滴(したた)るるばかり。慥(たし)かに「湯島詣(ゆしままうで)」の蝶吉以上で、鏡花の女の中で尤(もつと)も秀でた者の一人である。又無邪気と純潔とあでやかさとは、殊にこの小説の「花鳥たがね」と「扇折」の二章に遺憾なく描かれてある。兼次がお扇の部屋に尋ねて行つた時に、お扇がいろいろの無邪気なあどけない怨みを云ふ、
「あれは何といふ口でせう。そんな気におなんなすつたもんだから、それだから厭なんだわ、先には御飯も一所にたべりや、一所の炬燵藝。」といふ時、裏階子(うらはしご)を上る聲。不圖(ふと)火鉢のふちで男の手に、手を重ねて居たのを見て、はつと擦り退くと、襖の外から少女の聲……
あはれ神が二つの魂の相通ふを許すのはこんな時であらう。兼次もお扇も共に母がない。兼次の父は名高い打金匠である。彼れの造つた千鳥の香合と云ふのは金の無垢で、彼が一生懸命に精進して亡き妻の名を念じながら拵(こしら)へた物である。他の作は女性的であるのに係(かかは)らず、こればかりは立派に男性的に出来上つた。つまり魂が這入(はい)つて居るので、それで亡き妻の名をそのまゝに、千鳥の香合と呼んだのである。これは津田屋の宝であるが、今の主人は我慾の人、はては飾屋と相談して此香合を鋳直して鎖にしようとする。兼次の父は非常に悲しむ。彼れの作中第一の入魂の香合を毀(こぼ)つのは、正(まさ)しく其生命を断つのである。わけて亡妻千鳥を亡ぼすのである。彼は殆ど狂するばかり。兼次は非常に心配する。遂にお扇と謀りて津田屋の妹のお米に嘆願して、この香合を毀つのを止めようとする。あゝこのお米こそは、鏡花の女の中で恐らくは第一の美しい女であらう。さうしてお扇が兼次の前で、お米を嘆美する詞の美しいことは又例ふるにものもない。如何なる人もお扇以上にお米を褒め称(たた)ふる事は出来まい。津田屋は旅館である。それで嘗てお米は何処かの代議士の伴(とも)をして扇屋に来た。其折にお米の美しさと而かも品の可(い)いのに楼中の女共は総岡惚れして、洋服の代議士などは却つてお伴の人に見えた。殊に帰つて行く折に、お米は皆様お世話でございましたと云つて、ちやんと手を支(つ)いてお礼をいふ。楼中の女共は五両づゝ戴いたよりも嬉しがつた。あはれ自らを卑下して頭を垂るる時ほど、人の威厳と本性の現はるるはない。此折のお米は正しくこれである。お扇は更に感嘆する、
そのあなたが召した半纏(はんてん)はね、その晩お嬢さんが着て居らしつた羽織とおんなじ柄ですよ。紺地にね、銀鼠(ぎんねず)の紅(あか)の縦縞、可いでせう。お色の白いのにどんなにうつりがよく、真個(ほんと)にほれぼれするほど、島田が似合つて、お人がらで、しつとりして、それで粋でおいでなすつたでせう。余りすいたらしかつたから、私もあやかつて拵らへましたがね、私はこんなんですから、遠慮して半纏に拵へました。
お扇とお米の両女性の理想的の美が遺憾なく発揮せられて居る。お扇と云へば正しく下町風と云ふべきである、但し白粉(おしろい)臭くないのは勿論である。小親(こちか)や蝶吉や、それに「三枚続」のお夏もこのタイプに這入る。之に対してお米は山の手風である。お雪やお秀などこの仲間である。鏡花の女は、大概この間に彷徨して居る。併(しか)し粋でしかも気品のある所などは、とても今の世の文明の下には生るるものでない。つまりは日本の固有の文化の上に起つたロマンチクに依りて初めて生れ得べきものであらう。
兼次とお扇との願ひは達し得なかつた。併し摸造するからと云つて、兼次の父は一日丈千鳥の香合を借りる事が出来た。然るに兼次の弟なる腕白の次郎助は、父の為に密(ひそか)にこの香合を竊(ぬす)んで、亡き母が常に祈願した摩耶夫人の御像の陰に匿(かく)す。詐欺隠蔽(いんぺい)の名の下に、兼次父子は縛につく。しかし次郎助は尠(すこ)しも香合のありかを白状しない。お扇はこれ等の事に就て非常に悲んで、この小弟を助けんために遺言状を書いて、終(つひ)に銀の矢の根の簪(かんざし)で自殺して了ふ。この状はお米に宛てたもので、まことに可愛相なものである。この中にはお扇がお米をば兼次程に、恋ひ慕つて居た事や、お米と兼次とは宿世(すくせ)の縁があるやうに思ふことや、此後には二人共なかよく栄えるやうに神かけて祈つて居ることを記して居る。あはれ兼次とお米と、まことに宿世の縁があつた。二人の母は摩耶夫人の崇拝者である。二人がまだ腹の中に居る時に、二人の母は何時(いつ)も摩耶夫人参詣の帰路で逢つたではないか。お扇は死んだ。今や摩耶夫人を御母として、お米に兼次との兄弟の縁を結ばせたのである。其後月裏の法廷で、千鳥の香合が飛んで現はれて来る、次郎助も赦(ゆる)さるる。かくて兼次とお米が夫婦になるのは勿論である。
この中でお扇がお米に対して尠しも嫉みの根性がないのは、真に美しい極みである。さうして自分の恋人を喜んでお米に捧げたのである。つまりはこの三人は摩耶夫人から生れた同胞に外ならぬ。あはれ恋程美しいものはないが、恋の半面の嫉み、利己心程醜いものはない。薔薇の花蔭の蛇よりもなほ憎らしい。鏡花の愛は、凡てこの残酷な人情の欠点に超然として居る。従つて世俗の様な蒸苦(あつくる)しい心持ちがない。夏の夜の月に照さるる心地は、独りこれに比(くら)ぶべきものであらう。鏡花はたしかに、まだ世に知られて居ない、しかも尤も人の感を動かす新しい感情を描いた。 

鏡花の女性は先づこんなものである。こんな女は独逸のロマンチクにもない。鏡花独特のものである。而して女の根本は意志でも何でもない、やはり感情と云ふより外ない。而してこの女と共に在る男は殊に感情的であるのは云ふ迄もない。意地と云ふ様な堅苦しいものや、道念とかそんな真昼に起る現実的のものは見当らない。孰(いづ)れも柔和でおとなしく多少鬱気(うちき)である。何時でも姉様を欲しがつて、其愛情に自己を没し果てたいと云ふ様な女々しい男である。即ち「死ぬも生きるも情ばかり」とは決して女ばかりでは無い。貢や新次は好模型である。併し女々しいと云ふのは穏当でない。感情に漂うて居ると云ふ方が適切である。この感情の人なればこそ、鏡花の人物は皆薄暗がりの場所に現はれる。夢見て迷へば妄想を起す。ロマンチクと似たのは実はこれからである。
第一に鏡花の描く景色と云ふのは、凡て霞がゝつて居るとか、霧が深いとか夕暮とか、殊に月夜が多い。ロマンチクの詩人の景色は即ちこれだ。彼等は薄暗がり、殊に森の中の寂しさ等を尤も好く。何でも夜の闇、深山の谷間など、即ち殊に吾等の心を怖れさす様な物凄い、しんとした場所を好いたものである。而して月の光は、正しく現実界を消滅した後の世の、魔力ある光である。月の夜は誠に自然の最古の、永(とこし)へなる秘密のメールヘンを啓示する。例へば、チークの月の歌は、ロマンチクの景色の好代表として有名である。
小川の波よ、汝はそも月の懐かしく満ちたる影を慕うて波立つか。森も嬉しさに動くものを。木々の梢もこの魔力ある光に其枝をばさし拡ぐ。
彼も正しく月光に酔うて躍つたのである。昼ならば霞たなびく春景色が好く、何でも朦朧として遠く見ゆる景色は憧がれの対象となる。即ちロマンチクの感情の好対象である。従つて行方定めぬ形も影もない白い雲の流れなどは、ロマンチクの詩人の殊に好める所である。ノヴァリスの名高い「青い花」の小説等は、殊にロマンチクのこんな景色を描いて居る。
鏡花の感情の人物が働く場所も正しく是である。先づ「照葉狂言」中の出来事は大方夜だ。貢がお雪の姿を見たのは多くは月の夜である。最後に貢が小親を棄てて行つたのも月の夜である。
渡り越せば仮小屋と早や川一つ隔てたり。麓路は堤防とならびて小家四五軒、蒼白きこの夜の色に氷のなかに凍(い)てたるが、すかせば見ゆるにさも似たり。月は峰の松の後になりぬ。
などは彼が独特の景色である。それから「田毎かゞみ」の中の「玄武朱雀」中の冬の月の夜を宛然(さな)がら海の底にでも入つたるやうな景色ですぜ、更けました。
の如き極めて可い。それから「無憂樹」の景色は殊に霊妙である、
否(いえ)、向の森にお月様が見えたから吃驚して、私、見たんだよ、どうして急に夜になつたらうと思つてね。まだ、あれ、田畝(たんぼ)が薄赤い、夕映ね。……厭だ、通りの方にはちらちら燈が点(つ)いててよ。まあ、森も學校もはつきりと見えるのに、今日は夜も昼も一所かねえ。
こんな夕暮とお扇との配合が甚だ気に入ると共に、最後の月夜の景色は喩ふるにものない程麗はしい。
夜は早や初夜を過ぎたであらう。冬枯の月、中空に、樹の幹、小草の裏透くばかり、川の面も浮き出でて野よりも蒼く俤(おもかげ)立ち、神路山(かむろやま)かけて伊勢の海迄、一点の隈(くま)あらず。
かゝる時、美(よ)きも世にある程の形骸は皆眠り死して、清き曇りなき霊魂は凝つて一輪の月となつて、其気喨々として、醜く邪なる魂魄は散つて、尾なき頭なき蛇と化して、暗く朦朧として地に潜むのである。
予の知れる範囲内では、ハイネは確かに月の詩人として尤も秀でて居る一人である。それから此頃のズーデルマンは殊に麗妙な月の小説家であらう。其小説「フラウ・ゾルゲ」と「カッツェンシテッヒ」中の月夜は、真に人の魂を蕩(とろ)かす。「フラウ・ゾルゲ」の主人公のパウルは、非常に夜が好きだ。月の夜に出ては何時でも独り野辺を逍遙して、口笛で自分の一切の感情を洩らす。恋人のエルスベートと逢つたのは、やはりこんな月の夜であつた。それから他の小説の主人公のブレスラウが故城に帰つてレギーネに逢つたのも、それから終りに於てレギーネと別れたのも、レギーネを葬つたのも皆月の夜半であつた。あゝこの月夜。而かも両方の小説を織り為して居る感情と尤も能(よ)く配合されて居る。即ち読者は、終始月夜と同じ憂鬱で陰気で寂しく、而かも懐かしく静かで、而かも動いて清く涼しく、而かも熱して感激に溢れて、時には熱情に燃ゆるけれども、再び平和に静寂に立ち帰る心持ちに支配される。これほど自然と人物を能く調和した小説は蓋(けだ)し鮮(すく)ない。とりもなほさず自然は凡て人物の動作及び感情を語る言葉になる、かうなれば写実主義乃至(ないし)心理的小説の極致である。ズーデルマンが近代の大なるロマンチクの理想小説家たると共に、写実主義の人と呼ばるるはこの為であらう。
鏡花の「無憂樹」は確かに佳い。併(しか)しズーデルマンの様な熱情熱誠の憂鬱な感を与へぬは先にも説いた通り、鏡花の感情の人物が他の人のと甚だ異なるからである。つまりこれがズーデルマンは春の夜、鏡花は冬の夜や秋の月夜を描いた差別である。とにかく鏡花は明かに日本の月夜の詩人と呼ばれて差支はない。
それから「女仙前記」の湯の谷を説明する。
高山の下でござりますから、いつも白い雲が行つたり来たり、彼方にも此方にも雪が消えずに居りまするし、唯今頃は藤の花が、それはそれは見事に咲いて居ります。
の詞を読んでは、誰れでもロマンチクの雲を思ひ出すに違ひない。藤の花などのおぼつかなげに咲くなどは、尤もロマンチクの花と云はねばならぬ。総じて独逸のロマンチクは果実の生(な)る花は嫌ひで、実の無い、つまり実用的で無い花を好んださうだ。鏡花はどうか。なるほど藤の花も乃至黒百合も実がないと云はれようが、併しロマンチクのこの趣味はちとひねくれて居るかも知れぬ。次に「春昼」に現はれたる春の日の青麦と、菜の花雑(まじ)りに桃の花が咲いて、野も山もはては海も一抹の霞にぼかされて、唯空にも地にも蒼い薄い光の漂うて居る夢の様な景色などは、尤もロマンチクを極めた昼である。
ロマンチクは星好きで、それから無論飛ぶ星も好きである。「湯島詣」の主人公は、飛ぶ星を人魂(ひとだま)とも見て居る。これ故にこの世の活きて流るる星である螢は、亦鏡花に殊に気に入らねばならぬ。螢は西洋に居るものか、居るならば日本の様に詩的に賞翫せらるるか、予はまだ之を知らぬ。とに角こんなロマンチクな虫はまたとなからう。丑三つの頃などふはふはとこの蒼い光りが飛んで来ると、亡き人の魂ではないかと我れながら物凄く思へる。さうして熱のない情のない清らかな涼しい光の螢、何んで鏡花は之を逃がさうか。「黒百合」の螢は即ちこれだ。星が飛んだと思ふと、奥庭が深いから傍(かたは)らの騒がしいのにも係はらず、森(しん)として藪蔭に細い青い光物(ひかりもの)が見えた。それは石瀧から来た螢であらう。
さあ団扇(うちは)……手を返して爪立つて廂を払ふとふツと消えた、光は翻(ひるがへ)した団扇の絵の瀧の上を這うて其流も動く風情。
まことに美しい。思へばこの石瀧、「其は昼も夜も真暗で、いかいこと樹が繁つて、満月の時も光が射さず、一体いつでも小雨が降つて居るやうな陰気な処」は、誂(あつら)へ向きのあのロマンチクの好いた、物凄い感じを起す「深山(みやま)の谷間」である。それから「田毎かゞみ」中の「簑谷」にも螢に就いて面白い物語りを載せてある。
鏡花の景色はこんなもので、ロマンチクの景色そのまゝと云つても可い。あんな感情の人がこんな景色の中に動く。今度は錯覚(イリュージョン)が起らなければならぬ、夢を多く見なければならぬ。果ては幻覚(ハラスネーション)をも起さなければならぬ。幽霊は茲(ここ)に初めて現はれる。ロマンチクの資格はかくて初めて生ずるのである。 

ロマンチクの人間は凡て感情の人である。動かされ易く夢想に耽り易く、常に幻に酔うて浮動し易い。殊に夕暮や月夜の寂しさが好きである位だから、尤も神経質である。こんな資質の人間であるから、錯覚は不断に起る。外界の物象は最早静止して居る沈黙の無生物にあらで、石でも土塊でも木でも草でも皆活動し意識し感動するものとなる。かくて世界は、花も小川も鳥の様に歌つた昔のメールヘンの世となるのである。こんな世界に育てばこそ、クライストのホンブルグ公は、ナタリー姫に憧がれては月の夜半に夢見ながら迷ひ歩く。疑ひもなく夢遊病者である。併し錯覚ではまだ外界の物象に刺戟されて色々の色相を現ずる、即ち心理状態が他動的である。ロマンチクは飽く迄も自我の自動と活躍を主張して、万象(ばんしやう)が正にこの活現の中に没して其の所在を失ふ程であるから、錯覚は当然幻覚(ハルスナチヨン)に入る。夢と現(うつつ)の境が既に無くなつてから、更に人間の心は独り手に空想を描く、幻を見る。世は茲(ここ)に於て妙音天に満ちて霊光六合に普(あまね)く照す新しき世界を現ずる、これ即ち天才に創られたる唯一の真理の世界である。此(かく)の如きは幻覚の極致で、ロマンチクの所謂(いはゆる)霊妙不可思議と神秘幽玄の意味が、茲に到つて初めて解せらるる。畢竟ロマンチクは人間の情感乃至(ないし)心持ちが、如何なる世界を造り得るかを示したのである。
かくの如く、錯覚より幻覚に移り行く主観的直覚的情感の心理的経過は、ホフマンに依つて尤も能く描かれてある。例へばホフマンの「デア・ゴルデネ・トップ」などは極めて面白い。色々の事を空想して居る青年アンゼルムには、梢を渡る夕暮の風にも人の言葉が潜む、木の葉の戦(そよ)ぎは最早(もはや)ある者を囁く、繁みの中の小草の花も金鈴の響を伝へる。梢にも金鈴のひゞきがすると思うて仰ぎ見れば、それは緑色の黄金に輝いて居る三匹の小蛇が夕日の影に梢を伝ふのである。葉隠れに這ふかと思へば、幾千の光り輝く宝石が、さながら葉蔭から撒き散らさるる。果てはこの小蛇が木を降り草叢を這ひ脱けて、小川を渡つて漣(さざなみ)立てて游(およ)いで行く。見失つた浪間には緑の火が燃えて居る。此んな風にアンゼルムは、終始錯覚より幻の世界に逍遙(さまよ)うた。同時にホフマンは物恐しさ物凄さを心理的に描いた人で、恐らくは此方面で世界第一流である。幽霊は夜のもの、幻の世界に住むのであるから、ロマンチクは一面に於て幽霊を尤も美しく霊妙に描いてある。併(しか)しホフマンは物凄さを描くに、決して恐ろしい妖怪や幽霊その者を描かなかつた。彼は飽くまで心理的である、即ち恐しがる吾等の感情を基として、盛(さかん)に錯覚や幻覚を利用して吾等自らに物凄い闇の世界に降つて、自らの影を踏み、自らの声に耳側立てて、身慄(みぶる)ひする心理作用を尤も巧妙に描くのである。殊に彼は常に錯覚の尤も起り易い夜の舞台を好く。自分の跫音(あしおと)にもぞつとする丑三つ時の出来事を択(えら)ぶ。故にホフマンを読むには、真夜中の蝋燭の火影(ほかげ)が尤も能く適すると共に、読む度毎に、日の暮れかゝる野路を急ぎながら、夜半には血だらけな女が出ると云ふ諏訪の明神の森(しん)とした森の側を暮れぬ先にと思ひつゝ、星も無い闇の宵に通る様な心地がする。読者は絶えず見えぬ或者の恐ろしさに追窮される。今にも化物に掴まれる様に思はれて、息さへも安心してつかれぬ、心臓も冷めたくなりさう。はては火影に動く自分の影にぞつとする。勿論化物は出ない、実に自分の心持ち一つなのである。併しこれ程人を恐ろしがらせ、身慄ひさせる小説家はまたとあるまい。一筆毎に読者の心を魅する、二頁目には既に読者は捕はれてしまふ。三頁目には其薬籠(やくろう)中のものとなる。これが他の妖怪小説家と異なる所で、又ホフマン独特の名誉である。例へば「マヨラート」にあつては、冬の狩猟に出かけて故城に宿つた晩に、シルレルの「ガイステルゼーエル」を読む。色々の空想に駆られて、はては自然界の現象を化物の様に見る。それから物恐ろしい幻に自ら戦(をのの)いて冷汗が流れる刹那、隣の部屋の人の夢に魘さるる声を聞いてぞつとする。今度は丑みつ時、人気なき静けさの下の部屋の戸が俄かに開く、重さうに悩める様な跫音が聞ゆる、太息(といき)と喘(あへ)ぎの声もする、之を聞ける者は思はず真蒼になる。これこそは実は此古城の先主を殺した従僕の幽霊が、罪の苛責(かしやく)を負うて当時の様に今も月影に迷ひ出るのである。この他殊に「エリクスーレン・デス・トイフェルス」は尤も読むべきである。其主人公メダルドゥスは昼の世界よりも夜の森の寂しさを好んで、而かも自分の影、自分の幽霊と共に自分の社会を作つて居る様なロマンチクの人間の好模型である。「子は眠らなかつた、独り物思ひに沈む時、色々の考へによりてさまざまの影は壁の上に現はる。はては恐しき姿となつて自分を睨む、恐ろしさにランプを消して了ふ……突然声が聞ゆる、それは自分の名を呼んで居る、我ながらぞつとした、併しそれは唯自分の心からの声であつた」。是に到つて夢から幻覚を経て気違ひに這入つたのである。ホフマンは何時でもこんな風に、幻に伴うて起る物凄い感じを心理的に描いて居る。外界の物象は、唯々この幻又は聯想を起さしむる仲立ちに過ぎぬのである。
ロマンチクの景色が好きで、何時でも夕暮の暗がりに起居する鏡花の人物の心理的状態も、亦正しくこの径路を履(ふ)んで居る。暗がりの故に彼等は常に錯覚を起す、而して鏡花は勿論妖怪談や恐い譚(はなし)を巧みに書くが、大方はホフマンの様にこの錯覚に基いて瞑想を辿つて物凄い感じを起さしむるのである。「春昼」の主人公が緋桃菜花の彩つて居る夢の様な春の野を辿りながら、いろいろに空想をめぐらす心的状態は、正しくこの風景に相応して甚だ宜い。
うつとりとするまで、眼前真黄色な中に、機織の姿の美しく宿つた時、若い婦女の衝(つ)と投げた梭(ひ)の尖から、ひらりと燃えて、いま一人の足下を閃いて、輪になつて一ツ刎ねた、朱に金色を帯びた一條の線があつて、赫燿として眼を射て、流れのふちなる草に飛んだが、火の消ゆるが如くにやがて失せた。赤棟蛇(やまかがし)が菜種の中を輝いて通つたのである。
の如きはロマンチク独特の美しい幻である、予は思はずホフマンの「デア・ゴルデネ・トップ」の蛇を思ひ出すを禁ずることが出来ぬ。「無憂樹」の兼次の弟の腕白な次郎助が、夕暮にお扇の訪ねて来たのを物蔭から威(おど)かして、
夜が深々と更けて来て、風が颯と鳴り出して、谷川の流がざあざあ、物凄くなつた処ヘカラコンカラコン、遠くから跫音だ。そら来やがつたと待つて居ると、真紅な襦袢をちらちらと見せやがつて、格子から雪のやうな真白な顔を出して、可愛らしい造り声で伯父さんもないものだ。
などは「牡丹燈籠」のお露に相応(ふさは)しいロマンチクの錯覚的表現である。さうしてお扇自らは、自分の紅と白粉のあでやかな姿に顧みて、「お妖くさいでせう」と云つて居る。さうしてお扇が自殺する晩に、浅黄の長襦袢で暗い仏壇に立て居る其姿を見て、禿(かむろ)初め女房が慄然としたのも甚だ宜(よろ)しい。其夕にはお米(よね)もお扇(せん)の幽霊を見たのである、たしかに此辺鬼気人に迫る。それから「清心庵」の少年が、夕暮に自分の庵室に帰つて来たのに何の答がない。唯衝立(ついたて)の蔭から、つと立ちて白き手ついて烏羽玉(ぬばたま)の髪のひまに微笑み迎へた摩耶の顔を見た時、亡き母上そのまゝの俤(おもかげ)なのに、思はず身の毛よだつたのも極めて麗はしい。それから「田毎鏡」の「処方秘箋」の中で、何時でも薄暗い湿つぽい風の吹く薬種屋(やくしゆや)の、十年この方姿変らぬと云ふ女の黒髪の中の大理石のやうな顔が、如何にも薄気味悪い。夕暮れに出遇ふなら小さい者は、はや震へ上がる。殊にこの女を怖はがつた少年が、若い女のお辻の所に泊りに行つた晩に、お辻が「恐ろしい人だこと」と云つたその薬種屋の女が、恐ろしい姿してお辻を責め殺して其黒髪を断つた夢を見て慄然とする所など、殊に面白い。而してお辻は其後十九で煩つて死んだ。仏教を信ずる国の習慣として、其黒髪が断たれたのである。是(ここ)に於て読者は其少年と共に真に身の毛もよだつ様に覚ゆる。鏡花は同時にロマンチクと同じく怪談を描くが、此(かく)の如くホフマンと同じ様に常に錯覚、聯想、それから幻に移り行く心理的径路に応じて物凄さを叙し来るは、頗る進歩した巧妙の筆使ひと云ふべきである。元来日本にも此れ迄怪談小説家も少くないが、多くは強て奇形妖怪変形を外から携へ来りて盛に人を脅迫する、鬼面人を脅かすとは此事である。併しこんな事に驚く無智の時代は既に過ぎ去つたのである。羅生門の鬼の面は今では滑稽物の中に這入つて居る。之に比べると鏡花の態度は、慥(たし)かに一段の進歩を示す。今では化物は外にあらずして、人々の心に潜んで居る。薄暗がりに働くその心理的状態に依つて、化物は物凄さの感情となつて、独り手に現はれて来る。併し鏡花はホフマンの様に飽く迄も心理的に幻覚を描かなかつた。故にホフマンの一面の深酷と悽愴は、とても鏡花などの企て及ぶ所でない。併し鏡花はこの幻覚に沈む代りに、他面には事実上の反感情、即ち嫌悪の情に基づいて物恐ろしさを描いて居る。これは吾等日本人の日常の見聞と感情に直接に触れて居るが上に、心理的径路に依つて描いて居るから、鏡花は此方面で慥かに成功して居る。例へば彼は物凄い対象として、よく蛇を描く。外国では蛇は智慧の化身となつて居る。併し之と同時に希臘(ギリシヤ)神話では尤も恐ろしいメドウサの髪が蛇である。それに地獄の悪魔は能く蛇を使つて居て、随分恐ろしさの対象となつて居るが、日本では是れ以上に更に別種の意味がある。即ち陰険で邪悪で、あらゆる人類の悪徳不浄の化身として恐れられるが上に、忌み嫌はれることが非情である。蛇が祟(たゝ)りを為(す)る物語は、恐らくは西洋などには見当らぬ事である。この日本独特の蛇の物凄さを掴(と)らへた鏡花の手腕は慥かに非凡である。「照葉狂言」には蛇使ひの恐ろしさを描いて居る。「田毎鏡」の「名媛記」には昔切支丹(キリシタン)禁制の時分に、此禁制を冒した若い女が、遂には大瓶の中に幾千の蛇と共に入れられて、生きながら埋められた物語を記してある。「続風流線」には、蛇の様なあらゆる悪虫を捕へ来りて、呪ひに用立てる老婆がある。希臘(ギリシヤ)神話の地獄のエリニエンを思ひ出して、我乍(なが)ら身の毛がよだつ。「春昼」の青大将も亦慄然とする。それから日本では入道、山伏、坊主、盲人の類も人間以上の怪物として、昔から恐れられて居る。或人が山伏が無理に其子を奪つて行くのを夢に見て、驚き覚めて見ると、其子が已(すで)に死んで居つたと云ふ物語もある。山伏が遺恨の為に祟つたので、其家の総領が代々変死した物語もある。「誓の巻」の盲人の富の市や、「海異記」の入道は、たしかにこの怪物の類である。富の市がお秀に魅入(みい)つて、果てはお秀も其幼児も悩み煩つて痩せ衰へるなどは、鬼気人を襲ふ。抑々(そもそも)歴史上にも実際にも、幽霊譚よりも尚物恐ろしい出来事が沢山ある。西洋ではロンドンの疫病や、セント・バーソロミューの虐殺や、カルカッタ黒獄舎の話、近くはナポレオン大帝のモスコー退却等、信ぜられない程に怪談じみて、思ひ出しても真に身の毛がよだつ。日本でも切支丹宗徒の虐殺や、維新前の刑罰や、それに佐々成政が愛妾小百合を殺した話などは、物恐ろしさの絶頂である。「黒百合」にもぶらり火の怪談が一寸出て居る。併しロマンチクの人々は、決してこんな残虐非道の事実に依つて物恐ろしさを描かなかつた。つまり恐ろしい事実のものよりも、彼等は唯恐ろしがる感情を面白がつたのである。試みにポーを読むが宜しい。彼も亦ロマンチクではあるが、独逸のロマンチクと趣が違ふ。独逸の人々は夕暮や月夜に遊んで居る。ポーは月も星もない丑三つ時になつて、やつと床の中から這ひ出してくる。恐らくは地の底の光も届かぬ黒闇の穴の中に住んで居るのだらう。故に彼れの怪談はロマンチクの人の様に、彩りある幻を描くとは事異なりて、常に恐ろしき事実に基いて恐怖戦慄する出来事を記述する。固(もと)より鬼面人を脅かす怪談とは、根本から違つて居るは勿論の事、事実に基いて居る事から、若(もし)くは世上の普通の出来事や信仰を土台とする事から、実際ポーの怪談は非常に人を恐(こはが)らす、何時迄も残酷な物凄い厭な感じを残さす、この点はホフマン以上である。例へば死人が蘇がへつた事や、この蘇生した人が猶土の中に埋まつて居る間の苦悶と苦痛や、それから自分が殺して空倉の中に隠してあつた女が、数日の後に血だらけになつて現はれ来た事や、催眠術にかゝつた人が、死んで身体が硬くなつてからも猶問答した事なども書いてある。これに比ぶれば鏡花は全然類が違ふ。彼とても勿論事実その者を全く書かないわけではないが、独逸のロマンチクの様に恐ろしい事実よりも、寧(むし)ろ心理的に恐ろしがる感情を書いて居る。彼も畢竟感情その者を好くのであらう。これ故に鏡花は明かにホフマンよりもポーには尚遥かに遠い。両者の与へる陰鬱悽愴の感は、全く質を異(こと)にして居る。 

鏡花とロマンチクとの類似はこゝ迄である。鏡花は日本人である。日本人には古来空想がない。空想の天地に夢幻の世界を創り出すは彼れの適する所でない。彼は見聞と経験との外に働くことが出来ぬ。鏡花は是だから錯覚の境に止まつた、自由なる幻の世界に入ることは出来兼ねて居る。併し文学にはどうか知らぬが、日本のこれ迄の口碑や伝説には、幻の世界の閃きが間々現はれて居る。日本人は慥かにこの幻の天地を見んとしてあせつて居る。鏡花にも確かにこれを力めた跡が見える。鏡花がよく夢を描くのも、錯覚の世から幻の自由な自動的の世界に入らんと試みた証拠である。元来日本の小説家には事実の解決上、苦しまぎれに能く夢を書いた者がある。空想に乏しく、幻の世界のあるや無しやも知らぬ者が、なんで夢を描いて成功しようか。痴人夢を説くとはこの事である。紅葉の「金色夜叉」の夢なども、この一例として善からう。さすがに鏡花は巧みである。「誓之巻」の夢などは至極佳いし「田毎鏡」の「星あかり」、「処方秘箋」の夢は一層佳い。夢を越え過ぎて、更に「さゝ蟹」に於ける名工の造つた花橘の簪が真夜中になつて薫つたのや、同じく彼が造つたさゝ蟹が、人なき時に這ひ出るなどは非常に面白い。日本では名工の造つた作物には魂が宿る。この幻の世界の信仰を、鏡花は尤も能く描いたのである。「無憂樹」の香合の千鳥が、亡き妻の魂を宿して自らちりちり啼いたのも極めて宜しい。併し月裡法廷にこの千鳥が飛んだ文は、少しく種彦の時鳥的で却つて感興が索然として居る。鏡花の描いた世では、まだまだ千鳥が飛ぶに適しない。之に比ぶれば、さゝ蟹は遥かに宜しい。非凡なる鏡花の天才は明かに認めらるる。「白羽箭(はくうぜん)」の中で月の夜に女が松毬(まつかさ)を耳に当てて、亡き母の声を聞いて男の名を中(あ)てるなど、それから栄螺(さゞえ)を耳に当てて海の底の竜宮の世界を聞くなどは、予の非常に好く所である。あゝ貝殻の秘密、ロセッチの海の歌は、何人(なんぴと)も思ひ出さざるを得まい。
鏡花の幻の世界は、こんな風に本当にまだ門戸を敲(たた)いたに過ぎぬ。兎に角、彼がまだ幻の世界の人でない事は、彼は常に今日の事を描くことでも明かである。今日のこの地上に居ては人間の飛び上り得る距離は五尺に過ぎぬ。幻の世界などは思ひも寄らぬ。これ故にロマンチクの人々は、尠(すこ)しも現在の事を描かぬ。何時でも中世紀の出来事を基とする。これ畢竟吾等の知らぬ過去は未来と等しいからである。即ちかゝる世界は、初めて幻の世界の入口となる。鏡花は然らず、彼は今日に生活する。未来よりも遥かなる幻の世には、とても達し得られない、この点で間々鏡花は失敗するのである。「三枚続」の幽霊談は正(まさ)しくこれだ。「海異記」の入道も亦失敗である。
遮莫(さもあらばあれ)、独逸のロマンチクの幻の世界は、真に無限の天地である。ロマンチクの不滅の致果と価値とは、一にこの新しい世界に係(かかは)る。かゝる世界の幽霊は又となく美しい。日本では幽霊と云へば妄念や遺恨の結晶で何時(いつ)も道徳的である。ロマンチクの幽霊はさうでない。極めて美的である。天地間の見えぬ力や、木や石や水の梢が皆これである。ロマンチクはこんな幽霊を国民の信仰と伝説とに依つて、皆旧世界より蘇返(よみがへ)らしたのである。日本の様に角があつて口は耳まで裂けて居る変化(へんげ)の幽霊は、進化論から見ても亡びなければならぬ。併しロマンチクの美しい幽霊は、人間が進化しつゝある様に益々進化発展して来る。科学の進歩に連れて、この種の幽霊の信仰が消え去るのだらうと思ふのは、耳目の外に働く機関を備へて居らぬ日本人の考である。独逸にありてはこの幽霊の信仰は、万有神論と根柢を一にする。従つてカントやシェリングやショペンハウエルの哲学と其信念を一にする。十九世紀の文運と共に、幽霊の藝術が発展し来たのは固(もと)より当然である。如何にも雄大ではないか、予は幽霊の信念がない日本人が、如何にしてプラトーンやカントやフィヒテやショペンハウエルを読む気になるのかと怪(あやし)まざるを得ぬ。幽霊の存在よりも、此方が余程不合理である。
ゲーテが国民的詩人として尊敬せらるるも、実はこの国民の信仰に基いた幽霊を蘇返らしたからである。彼はクラシケルであるが、この点はロマンチクと同じである。メフィストフェレスの雄大な幽霊が、独逸独特なるは云ふに及ばず、それから「コリントの花嫁」、「漁夫」、「エルケーニヒ」等は、今でも独逸人の心を蕩かして居る。殊に最後のはシューベルトの音楽と相俟(あひま)つて独逸の第一の藝術作品の一つである。又独逸人が蛇蝎(だかつ)の様に嫌つて居る猶太(ユダヤ)人種で、自分でも独逸が大嫌ひであつたハイネが、今以て独逸人の感情を酔はしめて、ゲーテに亜(つい)で名声あるは、慥(たし)かにこの独逸の尤も美しい幽霊界の福音を伝へたからである。此点は彼もまた明かにロマンチクである。例へば「ローレライ」の如きは、今では世界の知識ある人で知らぬ者はない。これ程美しい幽霊は又となからう。
ロマンチクの詩人小説家は、悉(ことごと)くこの幻の世界を描いて居る。固(もと)よりこれは現在の世界よりも、空想の世界を真と信じた哲学的冥想の結果であるかも知れぬ。即ちこの幻の世界は、吾等の冥想と詩とに依つて證(あ)かさるるのである。ノヴァリスの小説「青い花」の終りは、再び希臘(ギリシア)人の夢みたメールヘンの世界に這入る。是処では草も木も人のやうにその感想を言ひ現はす、真に美しい幻の世である。併しロマンチクの幽霊で一番美しいのは、フーケの「ウンデーネ」であらう。この小説は今でも盛に読まれて居る。ウンデーネは水の精である。独逸では昔から木の精なるエルフと並びて、水の精はニクゼとして、美しい若い踊りの好きな女と信ぜられて居る。中にもこのウンデーネは美しい。これ等の幽霊には霊魂がない、併し人間を恋すると魂が出て来る。是からこの幽霊も不滅となるのである。ウンデーネは初め一漁人の養女となつたのが、端(はし)なくも騎士フルドブランドを恋ひ初(そ)めて契(ちぎり)を結ぶ。この騎士が死んだ後では、ウンデーネは其墓場の側に、永(とこし)へに泉となつて流れ出たと云ふのである。グリルパルツェルの名高い「メルジーネ」も、亦ウンデーネと同じく水の精である。若いライムンドは端なくも之に恋して、果ては相抱いて幽冥界を辿つたのである。此種の幽霊は独逸文学で甚だ勢力がある。ロマンチクが人生の要求に永(とこし)へに応じて居ると同じく、是等の幽霊も永へに人類の精神界の一対象である。画家ベクリンの非常に尊ばれたのも、近年名高いハウプトマンの「沈める鐘」が盛に歓迎されてゐるのも、この幽霊界の信仰を披瀝したからである。独逸人は音楽に恍惚すると同じく、常に此種の幽霊文学に酔ふのである。殊に名高いラウテンデラインは即ち水の精で、ウンデーネやメジーネやローレライの女と系統を同じうして居る。疑ひもなく独逸で尤も美しい幽霊の一人である。近い中(うち)に鏡花は(戸張)竹風と共に「沈める鐘」を翻案する相である。あはれ幽玄界の冥想に筆も想も熟して居ない日本人が、どれ程迄にこのラウテンデラインを解し得べきか、蓋(けだ)し観物(みもの)であらう。この外(ほか)ウーランドやリュッケルトの詩などにも幽霊談が甚しい。こんなものを読んで鏡花の幽霊を見ると、あまりに可愛相である。例へば「海異記」の如き、予は慥かに傑作だと思ふ。若い漁師の恋女房のお浪が、夫の留守に人里遠い浪の音の凄い自分の家で、船幽霊の物語を聞いて慄然とする所などの心理的描写は、たとしへなく奥床し(おくゆか)しい。併(しか)し最後に入道が現はれて来る段は、あまりに写実で真昼間的で却つて感興を害する。頃は日暮である。今一歩進めてホフマンの態度を採つて、舟幽霊に基いた錯覚から更に幻覚に依りてお浪の恐怖を描いて、最後に幼児のお浜が死んだとすれば、更に一段に深酷と悽愴とを増したに相違ない。若(も)し鏡花にゲーテの「エルケエニヒ」の中の、小児が死ぬに到つた迄の恐ろしさの心理的描写があつたらばと、つくづく惜しく思ふ。「海異記」は明かに瑕(きず)ある珠だ。この一段は、鏡花が幽玄の世界を語るに未熟であることを証拠立てる。
予は呉々も思ふ、ロマンチクの傾向は人生の本然である。其証拠には日本の在来の伝説や信念にロマンチクに相応して居る者が甚だ多い。日本人は慥かにこの幻の世界に入りたがつて居る。日本にも水の精や草木の精の元素がある。之を発展せしむれば、独逸の幽霊の様に進化し得るに相違ない。ゲーテの「エルケエニヒ」も実は丁抹種(デンマークだね)である。ゲーテは之を独逸的に鍛へたのである。ゲーテの偉大なるは即ち此(ここ)にある。ハイネの「ローレライ」も、ハイネが自分で工夫したものであるが、固(もと)より独逸の信念に基いたのは云ふ迄もない。故に予は常に思ふ、西洋のロマンチクを見て、今更立ち騒いで不思議がつて輸入する必要はない。必要どころか無益である、文学は常に国民の信念に基かなければならぬ。是だから在来の日本の信仰の上に、日本のロマンチクを進化発展せしめなければならぬ。これは明かに可能である。この点で故小泉八雲氏は明かに成功した。但し当今之を能くする日本の文学者は、恐らくは鏡花の外になからう。鏡花は須(すべか)らく冥想工夫して、或は西洋の名著に接して、更に一段の勉強を要する。思へば此の国民の信念に点火して、滅びんとする幽玄の感情を復活せしめて、新たなるロマンチクの幻の世を創るには、鏡花の前途はまだ中々に遼遠である。 

今一つ注意すべきは、因縁の観念である。ロマンチクの世界は過去未来を没したのである。従つて過去の事も未来の事も啓示される。かくて因縁輪廻(りんね)の考へは、著しくロマンチクになつて現はれて来た。ノヴァリスの「青い花」の小説には、殊に霊魂の転生や生れ変はりの思想を書いてある。例へば主人公ハインリヒが、東国の女なるツウリーマが十字軍の役(えき)に捕はれて欧州にあるのに逢うた時分、ツウリーマはハインリヒを熟々(つくづく)見て、早くから別れた自分の兄なる詩人の面影を認めた。それからハインリヒはマチルダを見た。其折に彼は少からず驚いた。あの青い花を夢みた時、其花の中に現はれた世にも美しい女の顔の面影は、明かに此女ではないか。今迄憧がれて居た青い花の女は、このマチルダに外ならぬ。かくて恋は稲妻の如くに起る。而してマチルダも亦ハインリヒを先きの世より知つてる気がすると云ふではないか。それからハインリヒは洞窟の中に潜んで居た哲人ホーヘンツォレルン伯に、自分の父の面影を見る。そしてこの哲人の書篇には、自分の未来の一切の生涯が書かれてあるやうな気がする。こんな風にハインリヒは常に他人の心の中に自己の魂を見、現在に於て未来を見たのである。併しこの転生輪廻の思想は、ロマンチクにありてはまだ真に初発である。十分にこの観念を明かにするには、時代がまだ熟さぬやうである。故に読者に与ふる感想は甚だ弱い。是に到ると日本は幸ひである。仏教の感化を千年も受けた為に、因縁宿世の観念は大に発達して居る。少くとも、もう吾等の遺伝的信念となつて居る。鏡花はこの信念を掴へて、而かもロマンチクでは夢の様な暗合又は予想を描くに反し、現在の事実を取つてこの因縁説を尤も巧妙に描いてゐるから、吾等に与へる感興は深大である。此点に於ても彼は独得の天才たるを失はぬ。殊に「無憂樹」は尤も美しくこの観念を書いてゐる。それはお米と兼次との関係である。兼次の母は、摩耶夫人の崇拝者であつた。お米の母もさうであつた。それに二人ともまだお腹の中に居る時分に、二人の母は摩耶夫人参詣の道で遇つたのである。あゝ摩耶夫人に対する信仰が、二人の心に閃いた時に、同じ血汐が二人の間に通うたのではなからうか。この信仰の下でお米と兼次が生れたのだ。宿世の縁が自(おのづか)ら生じて来なければならぬ。彼等は畢竟魂の兄弟である。これ故に無心の次郎助は、お米を一目見た時に、自分の姉なるべきお扇が、お客になつて行つた様だと直覚した。予は嘗(かつ)てズウデルマンの「フラウ・ゾルゲ」を読んだ。主人公パウルが生れた時に、ドゥグラス夫人が密かに訪ねて来て介抱する、それからパウルの名親になつた。此時既にこの夫人のお腹にも宿つて居る。パウルの母はこの親切に報いんが為に、将に生れんとする子供の名親になる約束をした。この子は女である、パウルの母の名に依つて向じくエルスベートと呼ばれたのである。この小説の第一頁は既にこんな風に書いてある。予は思はずもこの二人の小児の因縁を日本流に趣味深く感ずるを禁じ得なかつた。お米と兼次の縁は尚更に痛切である。殊に鏡花は世の人と違ひて因縁説を逆に解して居る。即ちこんな因縁があつたからかう成ると云ふにあらで、かう云ふ風に感じ又は思へる故にかう云ふ風な因縁であると推(お)し及ぼす帰納法の態度である。徒(いたづら)に夢の様な事から演繹すると、どうも吾等の感想を支配する事が困難である。ロマンチクの因縁説の与ふる感想が薄いのも、一つはこんな論法を用ゐたからである。鏡花は然らず。正に事実を掴へて其宿縁の深きに思ひ到らしめる。既に事実に於て不思議な感想を吾等に起さしむる、乃ち吾等は魅せらるる。茲(ここ)に於て因縁説を当然是認せなければならぬ。故に世のある批評家の様に、鏡花のこの観念を荒唐無稽となすは甚だ当らぬ言分である。「誓の巻」で新次がお秀を懐かしがつた結果、母上とも思つたのは、正しく因縁説の逆な解釈である。自分を可愛がつてくれるこのお秀を、何んで関係のない人に思はれようか。是ゆゑ新次の弟はお秀が新次に肖通(にかよ)うて居るから、お秀は又亡き母にも肖たであらうと云ふ。其後新次がミリヤードに母の活ける面影を見、ミリヤードも亦新次を自分の子と思つたのも、愛憐同情の結果である。「女仙前記」は殊に宜しい。お雪はあはれな女である。山奥の老爺の手に育つたが、叶ひ難い人を恋して焦れ死にに死んだのである。臨終の折にも其側を離さなかつた兎の児をば、町へ出て優しい美しい女中を見立てていたはつて貰ふ様にとのお雪の遺言に任せて、老爺は町に出る。ふと美しい女に、この兎を是非にと所望せられる。見れば、その気高さ、優しさ、お雪にそつくり生き写しであるのに驚いて、早速この兎をこの女に捧げたのである。而かも此女もお雪さまと云ふではないか。それに兎は慣れたる懐ろに這入る様に、このお雪に抱かれたのである。これ誠に「何かの因縁」であるのに相違ない。神秘幽玄等の文字は、こんな事実を説明するに尤も適して居る。之に次で「白羽箭(はくうぜん)」の主人公が、月の夜に野茶屋の若い女と名を中(あ)て合ふのも甚だ美しい。此女は男が先年逗子に遊んだ折の浜辺の茶屋の女で、栄螺の貝を耳に当てて海の秘密を聞て居る頗(すこぶ)るロマンチクな女に似てゐるのと、優しさ美しさが正しく生写しである所から、其女の名に依つて此女をお房と呼んだ、果して中(あた)つたのである。今度はお房が中てる。松毬(まつかさ)を耳に当てると亡き母の声がする、其声の云ふが儘に松坂新三郎と云ふ。是も果して当つたのだ。此一段は確かに妙である、如何にも有り得べき可能である。此等の点では、鏡花は優にロマンチクの詩人よりも能く成功して居る。畢竟これ同情、愛憐、一致、相似等の尤も適切な感動から帰納するからである。彼れの因縁説は明かに近世的で、在来のよりも優に神秘的である。世の一部の論者の様に、予は決して之を浅薄なりとは思はぬ、鏡花独特の長所と云つても不可はなからう。 

予は結論に達した。あはれロマンチク、こは決して新奇なものでも西洋臭いものでも何でもない。故に西洋の文学界の傾向に真似て、この新風潮を伝へよと叫ぶには決して及ばない。畢竟ロマンチクとは、夜もあり月も照らすこの世界に生れた人間の、自然なる感想の傾向である。之に東西今古を別つ必要はない。勿論この感想に特に銘を打つて、一層之を明かにするに到つたのは、独逸のロマンチクが始めであらう。見よ、外国のロマンチクと全く交渉も影響もなかつた日本の文学界、殊に純粋の日本的なる泉鏡花の小説が、かく迄に本家本元の独逸のロマンチクの文学に似た所が多いのは、適々(いよいよ)以てロマンチクの感想は、如何に人類に普遍にして、且人生の本来の要求に応じて居るかを證するに足るのであらう。ロマンチクの哲学的基礎は、固(もと)よりカント哲学の影響であるから、あの時の独逸のロマンチク独特のものである。此点迄似るべき必要は尠(すこ)しも無い。唯ロマンチクの中でも、世界的で普遍的なる部分、即ち外界に応じて色々に発展し来る心理的作用は、確かに鏡花もロマンチクも同一の傾向を取つて居る。その両方の活動する舞台なる風景や、其人物や、直覚的感情や、其錯覚や、其功は符合する位に似て居るので、鏡花自身も驚く事であらう。併し鏡花は日本に生れたから、根本に日本の倫理や哲学的傾向に生れ乍ら支配せられて、ロマンチク特有の空想夢幻の世界に往住し兼ねたのは是非もない。云はば一方は、現実の世界に執着しながら、他方ではロマンチクの幻の世界に到るべき網を握つて居る、即ち中空に懸つて十分に活動もし兼ねて居る。予は敢て云ふ、ロマンチクは人間本然の要素を作る感想である。吾等は古来より日本にも閃き来つたこの感想を更に発展して、幻の世界、光明の天地に想ひ入らなければならぬ。人生其ものの進歩と発展とは、此の如くして完全になり得よう。生中にロマンチクの夢幻の生活を斥けて、西洋思想の病的傾向となし、之に対して現実なる倫理観を唱へんとするのは、人生其ものの学校から見れば、まだまだ幼稚園的の哲学観と云はねばならぬ。こんな事を唱へる人達こそ、一種のお化(ばけ)であらう。鏡花は明かにロマンチクの人である。完全なる優秀卓越せる人間を作らんが為にこの人生の本来のロマンチクなる感想を基として、従来の国民の信念と伝説とに連れて、更に光彩ある幻の世界を闡明(せんめい)し得ば、是に到りて鏡花は国民的詩人として、初めて天賦の栄誉を担ふことが出来る。併(しか)し今日の鏡花はまだまだ未熟である。予は鏡花の作物を好く。併し如何なる作物をも好かぬ。「無憂樹」「誓の巻」「女仙前記」「海異記」「春昼」等に比べると余りに下らぬものもある。予は決して之を濫作の結果とは云はぬ。少くとも之は名誉ある文学者に対する罵詈(ばり)である。予は寧(むし)ろ之を以て彼れの余りに出来心に富める結果だと解釈する。畢竟彼にはまだ深い不動の厳粛なる感想の重心がない。故に感情その者よりも、浮気に支配され易い。軽妙で快活なる代りに時には無意義である、空虚である。折角に閃きそめた天来の美しい感想をも時には滅茶々々に自分で毀して了ふ。こんな風であるから、彼にはノヴァリスのやうな無邪気と真面目とがない。ホフマンの様な深酷な冥想、従つて鋭い心理的描写がない。ロマンチケルとしてのゲーテやハイネの、真摯(しんし)や誠実は尚更無い。予は呉々も惜しむ。鏡花は明かに当今第一流の天才である。勉めてこれ等の欠点を避けて、今一層深くなり強くなり熱成にならば、「無憂樹」以上の作は期して待つべきであらう。あはれロマンチクの感想は、決して出来心ではない、浮気の戯れではない、人生に取りては誠に厳粛で真摯であることを吾等は知らねばならぬ。 (明治四十年九月) 
 
『草迷宮』と『吉野葛』をあわせて論ず

 

一、語りについての虚構
物語について考察するには、いくつかの局面が想定できる。まず第一にその物語の内容、次にそれを提示しているところの言葉。そしてなによりも魅力的なのは、物語を提示する語りという行為そのものを論ずることであろう。野家啓一によれば、「自ら体験した出来事あるいは人から伝え聞いた出来事を『物語る』ことは、われわれの多様で複雑な経験を整序し、それを他者に伝達することによって共有するための最も原初的な言語行為の一つである」1。さらに引用を続けよう。「われわれは知覚の現場で出会った出来事を残りなく再現することはできない。意識的であろうと無意識的であろうと、記憶それ自体が遠近法的秩序の中で情報の選択を行い、有意味な出来事のスクリーニングを行っているのである。われわれは記憶によって洗い出された諸々の出来事を一定のコンテクストの中に再配置し、さらにそれを時間系列に従って再配列することによって、ようやく『世界』について語り始めることができる」。このような「物語行為」の典型例を形作っているのは「もちろん、昔語りやお伽噺に代表される『物語』の伝承」であるが、野家によれば「物語行為の射程は単なる『虚構』のみならず『事実』の領域にも及ぶのであり、それは歴史叙述をも包摂する」のである。物語行為において見逃しがたいのは、野家が続いて柳田國男に触れながら、「口承言語」の「声の直接性と伝承の歴史性という双面神的性格」が「音声言語とも文字言語とも異なる独自のカテゴリー」をなしていることを論ずることによって、間接的に明らかにする、その共同体的〈場〉のコミュニケーションの地平であろう。物語行為の局面は物語る個人からこのような、語りの〈場〉へと拡大される。
ところで特に近代以降の文学作品には、それ自身は「昔語りやお伽噺に代表される『物語』の伝承」ではないのだが、そのような伝承を作品の中に内包するものがある。これは、その作品がなにがしかの昔語りやお伽噺をもとにして書かれている再話作品であるということではなく、物語の内容のレベルにおいて、具体的にはその作中の人物が物語行為を行うのである。仮に文学作品は作者が文字言語によって読者に物語る行為によって成立するとか、テクストは語り手が読者に語ることによって生成するとかいう物語行為を文学作品、あるいはテクストの第一次の物語行為と考えるならば、それに入れ子になるようにして第二次、あるいはそれ以降の物語行為が内包されており、特に複数の語り手が同じ物語世界内に所属しているとき、それは端的に「伝承」の形態を取ることが明らかであると言ってよい。つまり彼らは物語世界において物語行為の共同体的な〈場〉を形作っているのである。
このような作品に対して、野家が言うような物語行為についての論を適用することは十分に妥当性を有しているように見える。しかしながら虚構世界における物語行為というのはそれほど自明なことなのであろうかという疑問も残る。実際にそこで行われている物語行為などというものがあるのだろうか。そこでは物語行為は装われているに過ぎないのであって、それは本当の物語行為ではなく、特に私たちの属する現実の世界における物語行為から見れば、内実のない寄生的な用法に過ぎないのではないだろうか。そもそも物語の世界などというものがあって、そこには何者かが存在しており、その何者かが物語行為を行っていると考えてよいのだろうか。それは通常の私たちの属する現実世界とは異なる領域であり、そこでの物語行為を扱うためには現実と虚構の世界の間でのなにがしかの変換理論が必要なのではないだろうか。あるいは文学作品とは端的に言葉なのであって、そもそも虚構世界の存在のレベルにおける物語行為などというものを考察するということ自体が無意味なのではないだろうか。
文学作品中における物語行為は、実は物語行為についての寄生的用法なのだろうかという問いに対して、もし、虚構の世界というものを認め、そこに存在者があり、そのレベルで物語行為が行われているとするならば、それを寄生的用法ではないものとして扱う道がひらけるであろう。そこでは実際に物語行為が行われているのである。また、むしろ物語行為を装うことができることの方が本源的なのであり、現実のレベルでの物語行為はその特殊な事例であるとする批判も当然ありうる。これは「単なる『虚構』のみならず『事実』の領域にも及ぶ」問題であるが、その考察の正否はひとえに「虚構」についての分析が、物語行為の存在論に先立つレベルでうまくいくかどうかに掛かっている。これが「『虚構』のみならず『事実』の領域にも及ぶ」というのは、野家が言うのとはいささか趣を異にしているのに直ちに気付かれるであろう。野家は「昔語りやお伽噺に代表される『物語』の伝承」のみならず、例えば歴史叙述さえも、なにがしかの「物語行為」によってなされるものであることを論じているのであるが、「虚構」についてのものであれ「現実」についてのものであれ、そこでの物語行為は「現実」のものである。それを「虚構」の文学作品について適用するならば、結果的に「虚構」について語る「現実」の物語行為を論ずることになるのだ。それに対して私たちがさしかかっているのは、文学作品において典型的に見出される、「虚構についての物語行為」には包摂しきれない、「物語行為についての虚構」の問題なのである。
ゆえに私たちは場合によっては物語行為についての論を捨てて掛からねばならないだろう。あえてそれを保存することを目指すならば、道は二つある。一つは虚構の世界およびそこでの存在者を認め、現実の物語行為の類推をもって、つまり虚構と現実との連続性において、虚構のレベルでの物語行為を現実に準ずるものとして考察することである。もう一つは、虚構における問題と現実における問題をまったく別々の問題として区別し、物語行為についての理論を、文学作品などの虚構の特に作品内に入れ子になっているレベルでの物語行為について適用することを避けながら、現実での物語行為についての考察を今まで通り保存することである。しかし私がここで取ろうと思っている道はそのどちらでもなく、虚構と現実との連続性を認めながら、おそらくは現実についても適用し得る「物語行為についての虚構」の理論を素描することなのである。ただ、それは私たちの直接の目的ではなく、副産物に近いものかもしれない。私たちにとって具体的で喫緊の課題はまず虚構である文学作品をいかに論ずるべきなのかということである。 
二、語りの時空へ
諸国行脚の小次郎法師、逗子は秋谷の大崩へとやって来る。茶店の老婆の語る怪異な話、さてこれは面妖な……、『草迷宮』は、冒頭の手毬唄と物語の外で全体を統括する局外の語り手による舞台設定に続き、このような物語として提示される。漠然と語りの技法とでも呼んでおきたいこの設定は、しかしそのような呼び方では問題の所在がはっきりしないかもしれない。例えば、「私」なり「僕」なりの一人称の語り手が登場してきて、読者に直接語りかけていることを装うような「語り」もあるであろう。これは、読者に直接現前する親密な語り手であるように思われる。そのような語りに対して、ここでは、物語を提示する水準はもう一つ上(あるいは下。要するに読者と対峙している語り手に規定される水準)に置かれている。語り手の聴き役をつとめる相手は、語り手と同じ物語世界内の登場人物として顕在的に示されている。この場合語り手は茶店の媼であり、聴き手は小次郎法師であって、読者は語りの〈場〉に直接参加するかのような印象を与えられることはなく、「語り−聴く」というやりとりを別の立場から傍聴することになる。いま、私は媼の物語行為によって提示される物語を『草迷宮』の物語としたのだが、実は『草迷宮』の第一次の物語はそれではなく、媼と小次郎法師が話をしているというのが、『草迷宮』の一次的な物語である。これは、物語としてはきわめて平板なものなのだが、その内容にさらに入れ子のように収まっている怪異な話というのが、むしろこの作品の中心的な内容と見做されうるものとなる。『草迷宮』においてまず注目すべきなのは、このように物語によって物語が提示される、あるいは物語が入れ子になっているということである。
ところで、この冒頭から登場する小次郎法師は、その登場の範囲の広さと物語の前面に出てくる度合いにおいて『草迷宮』随一の人物であるにも関わらず、主人公とは言い難い。近代的な小説の慣習をあえて押し通した上での主人公と目される葉越明は、もう少し後の方になってこなければ登場しない。なかなか物語の前面に出てこず、あろうことかクライマックスには眠りこけているだけの人物を、わたしたちの多くが、物語の主人公として認定してしまうのは、おそらく、小次郎法師が物語の前面にいながらも、もっぱら人との会話を続けるのみ、それから、それから、という時間の流れしか与えられていないのに対して、葉越明を中心として考える場合には、彼の来歴が物語の進行に結びついた、どうして、どうして、というプロットが問題となりうるということが、関係していると言えるだろう。では、小次郎法師の役割はといえば、ほぼ全編を通じて、ひとの語る話の「聴き手」なのである。『草迷宮』では、主人公よりも、わき役としてさまざまな語りの聴き手を努める小次郎法師の方が、しばしば前面に出てきてしまう。後に見るように『草迷宮』の論者がこの作品における聴き手の重要性を主張するのももっともなことである。
しかしながら、そのような物語の構図が、逆に葉越明にまつわる「母恋い」の物語を中心の位置に押し上げているとしたらどうであろうか。そのつどそのつど前面に出てくる登場人物を独立的に取り出し得る存在者と見做せば、その独自性を主張することもできるかもしれないが、『草迷宮』を一つの図像と捉え、個々の要素を全体とは切り放すことのできない役割や機能として見れば、個々の要素が前面にあることやその頻度をもって、母恋いの物語を相対化することには無理が生じる可能性がある。それどころか、むしろそれを母恋いの物語に奉仕するものとして扱うこともできるだろう。『草迷宮』は、葉越明にまつわる物語を中心として考えるのが、自然なように見える。実際、この作品の終結に向かって、母を恋うる明と、母につながる存在としての魔界の女(おそらく菖蒲)が、会うか会わぬかの葛藤を演じ、ドラマティックに上昇していく過程は無視し得ない。この「中心」を念頭に置きながら『草迷宮』をある特定の図像を描き出す(またはそれをさまたげる)方向性を持った言葉の使用の総体として考えるならば、「迷宮」という表題に含まれる言葉は、ある明確な意味を帯びてわれわれの前に立ち現れてくるのではないだろうか。
『草迷宮』を記述の順番に従って整理し、箇条書きにしてみよう。
0、手毬歌の提示、物語外に位置する語り手による場面提示  1、小次郎法師が秋谷の海岸を訪れ、茶店で媼から話を聞く    (1)嘉吉発狂の話    (2)秋谷屋敷で死者を五人出した話  2、宰八が仁右衛門と学校の訓導に語る葉越明の話(場面移動)  3、明が小次郎法師に語る話    (1)屋敷での数々の怪異な出来事    (2)母の手毬歌を聞きたいという明の願い  4、手洗いに立った小次郎と宰八に、仁右衛門がたった今見たばかりの怪異を語る  5、秋谷悪左衛門が語る話(明を追い出そうとして果たせなかったこと)  6、魔界に入った菖蒲(明の幼なじみ)が小次郎法師に語る話    (1)恋は許されぬという魔界の掟    (2)これから起きることの予言
まず冒頭で手毬唄が示されるが、これはねむっている明の前で菖蒲が歌う失われた母の手毬唄であり物語の核心である。次に本編が始まるが、これは、一から四十五までに分けられている。『草迷宮』は、物語の世界からは外に位置する作者的な語り手、あるいは全知の語り手によって統括されるが、一はまずそのような語り手による舞台の提示に始まり、二より登場人物による語り、および“聴き”がはめ込まれる。これは、全体を統括する語り手に対して、登場人物の台詞が、単なる台詞であることを越えて語りにおいて優勢になり、語りがしばらくの間交代するということである。この語りの〈場〉に対しては存在論的な分析をしてみたくなる誘惑に駆られる(聴き手が語り手の語りに影響を及ぼす等)が、まずその方法が読者に及ぼす効果を考えるならば、それは語られる内容にも増して、語り聴いているという行為自体が前景化されるために、読者にとっては語られる内容が遠くにあるように感じられるということである。つまり、読者は想像力を働かせる余地のある奥行き・陰影を与えられるのである。これは仮に語りの遠近法と言うことができるであろう。このような事態は、茶店の媼が小次郎法師に語る場合(1)の他にも、十六からの宰八が仁右衛門、村の学校の訓導を相手に語る場合(2)、二十一からの葉越明が(3)、四十からの悪左衛門が(5)、四十三からの菖蒲と思われる魔界の女が(6)それぞれ小次郎法師を相手に語る場合などに見られる。
それぞれに異様にして幻想的な話はこのような距離の仮構をもって語られるのであるが、『草迷宮』における異常事態の提示はこの方法だけによるのではなく、三十四から登場人物のおもに現在についての会話を局外の語り手がつなぎながら話が進行していくという、いささかこれまでとは様子が異なる語りから、三十六にいたって語りは急激に転調し(4)、いままで鉤括弧[「 」]にくくられる形で提示されていた人物の台詞は、「さやさやと葎を分けて、おじいどうした、と摺寄ると」のように局外の語り手の言葉、地の文の中に溶かし込まれ、以下局外の語り手が、怪異現象を体験した仁右衛門に焦点化する形で、直接的に異様な出来事が提示される。迫真的であり読者は今までのように距離をもってそれを判断する余裕を与えられない。『草迷宮』ではまったく中心から外れる箇所であるゆえか、まったく毛色の異なる語りが採用されている。時間的には直前の過去が提示されているのであるが、その直接性においてほとんど現在の描写であるに等しい。
空間的な比喩でもって語りの構図を考えるならば、上に示した例の他にも、2の宰八による仁右衛門と学校の訓導への語りの中には、鉤括弧[「 」]でくくられた宰八の語りの中に、さらに葉越明の語りが丸括弧[( )]によって象嵌される。これは入れ子の中の入れ子である。時間的には、過去に生起し、現在に連なる出来事についての語りが大半を占めるが、前記のように現在を迫真的に描写する語りもあり、また鈴木道男が「時制の画然とした英仏独のような西欧語でも、登場人物の語りの中で、未来時制(未来形)の支配する世界の中にこれほど美しい空間を創造した例はない」2 と評価する、菖蒲による明の未来についての語りもあり、『草迷宮』では、遠くに近くに、過去に現在に未来に張り巡らされた語りの構図そのものが錯綜する迷宮なのである。笠原伸夫が「物語の進行を司る語り(地の文)のなかに、いくつもの別種の語りを象嵌させることによって、物語の深奥に伏在する異変の核を顕在化させる」3 としているのもこのような事態についてだろう。笠原自身がこれに先行するやはり『草迷宮』に関する論文 4 で引用しているホッケによれば「迂回路が中心点に通じている」5 のである。『草迷宮』がこのような迷宮的構造を有しているとするならば、第一次の物語として登場人物の「語り−聴き」の〈場〉に包摂される物語行為が前面に出てきてしまうような事態は、中心に到達するための迂回路として機能していることになる。これは、例えばテーセウスが迷宮を探索するといったような作中人物のレベル、物語内容のレベルからだけでは説明しきれない。ここでは、つまり、作中人物以上に読者が迷宮の探求者となっているのである。
ところで、迷宮的構造という言葉をいま使ったが、それは『草迷宮』を『草迷宮』たらしめているものを「中心」という実体として考える通常の意味においてそう言ったのであって、私は最終的にはそのような立場を取らないことを明言しておこうと思う。テクストの起源としての「中心」を疑問の余地のない存在論的前提と見るのは倒錯だが、その中心から伝わってくる情報が、なんらかの意味での差異を生ぜざるを得ないこと等をもって、その中心を解体したりずらしたりしようとするのも、形而上学的な「構造」を前提しているからである。先に『草迷宮』における、語られる内容にも増して、語り聴いているという行為自体が前景化されるために、読者にとっては語られる内容が遠くにあるように感じられ、奥行きが与えられるという語りの遠近法を問題にしたが、つまり実際に語られる内容という実体が読者から遠ざけられるのではなく、この方法が遠くにある内容を錯視させるのである。矢印の向きは正反対なのだ。
ところで『草迷宮』は迷宮とはいっても、その表題通り、西洋の石の迷宮ではない、「草」の迷宮であることが示唆されている。もちろんこのことは、笠原伸夫の「まちがいなく標題が小説の核心部を暗示している」6 という指摘以来繰り返されてきたのであるが、それは単に草木が生い茂り、小川の流れる幽たる土地が舞台となっているということだけを意味しているのではない。その独自性を作中での内容や個々の存在のレベルではなく、言葉の使用法のレベルで考えるならば、『草迷宮』は、この表題によってその迷宮的様相の一端が明らかにされつつも、そこには収まりきらないなにものかを主張しているのではないだろうか。『草迷宮』の特徴は、描かれた内容の側面よりも、本質的にそれを描き出している言葉の使用法の側面に発揮されているのである。『草迷宮』の語りが迷宮的構図を描いていることはすでに見たとおりだが、それらの語りが草のように生成していくような印象を与えるということだろう。つまり、中心への迂回路が草の繁茂によって成立しているのである。流動生成する草木とはすなわち語りそのものなのだ。それは、石によって堅固に構築され、中心への到達が遅延させられつつ、その中心が形而上的なものとなる創造された迷宮である以上に、中心にいたる迂回路が勝手に生成してあらぬ方向へと伸びて行き、中心への方向とともにそれ自身の存在をも誇示することによって、中心から逸脱する方向も同時に示唆してしまうような迂回路を持った迷宮なのである。
しかし、それによって直ちにテクストの内容のレベルでの物語行為が、そのような生成を担っていると考えてよいのだろうか。あるいはまた、テクストは、テクストの中の物語行為によって生成するのだろうか。換言するならば、そこには読者に生成の印象を与える以上の、存在論的なレベルにおける生成という事態が起こっているのだろうか。 
三、語りの理論から
『草迷宮』において特異な聴き手が設定されていることは、まず高桑法子によって問題にされた 7 。また、先の鈴木道男はシュタンツェルやカイザーといったドイツ系の論者の理論を援用する立場から、聴き手の設定を分析しているが、その後直接に高桑の立論を受ける形をとることを言明しながら、理論的な考察を試みたのが小森陽一である 8 。それは、ジュネットのフランス系ナラトロジーの修正の試みにもなっているわけだが、彼が意識しているかどうかはともかく、語り手と聴き手による語りの〈場〉への注目という発想は、「語りの存在するすべての言語芸術作品が(作品中に顕在化しているか否かは別としても)前提としている語り手・聴き手及び語られる物語という三者の存在する状況」、すなわち「語りの原状況」というものを想定する、ドイツ系の理論を援用する立場 9 へと近づいていると言うことができるだろう。
彼らの立論の優れているのは、まずテクストに即して、聴き手である小次郎法師が前面に出てきているという特徴に素直に注目し、そこに積極的な価値を見いだしているということである。特に小森は、内容そのものよりも内容を伝える容れもの、媒体の問題に注目した。形によって読者が受け取る中身の印象や意味付けは異なってくる。しかし、彼らの最終的なスタンスの構え方にははっきりした違いがある。テクスト論の立場に立つ虚構世界の存在論的な分析よりも、作者還元論の方が『草迷宮』の言語的特徴をよく捉えているように思われる。例えば、「如何にしてテクスト内の言葉の豊かな可能性を解き放していくか」を問題にする赤間亜生は、小森の論の延長線上で、「『他者の言葉』の集積によって支えられたテクストは、まさに音のポリフォニーとなる」10 とする。これは作者還元主義的色彩の濃かった鈴木の「語りが如何なる形態をとろうとも、そこには鏡花自身の声しか響いていない」、「すなわち長編小説の特性(バフチン)が希薄なのである」という主張と真っ向から対立するのであるが、どちらがよりテクストの記述についての具体的な分析かと言えば、後者に軍配が上がる。鈴木は「名詞止め、助詞止め」や「間投詞とも[…]指示形容詞とも取れる」「あの」の頻出を問題にしながら、「語りの破れ」(例えば作中人物の台詞において地の文の文体が出現してしまうこと)を指摘にしている。性急に鏡花の独自性を特権化してしまう憾みはあるものの、その言葉の内容ではなく微細な言説のレベルを問題にする態度は傾聴すべき具体性を示している。
この物語内容の存在論的レベルではなく、テクストの記述の言語学的レベルの分析が投げかけるのは、例えばテクストの中に〈他者〉のような存在者が居るのだろうかという疑問である。それは、例えば作者によって創られた作品の言葉から結果として錯視された図像のようなもの、空虚なものなのではないだろうか。作者に還元され得ない具体的なテクストの様相を捉えようとする立場が意に反して、ややもすれば観念的な前提(テクストは多様であり葛藤していなければならない)の言いっぱなしになるのに対し、最終的、そして原理的にも論者によって観念的に僭称されざるを得ない作者あるいは作者の意図へと回収することを目的とするスタンスの構え方においてさえ、実にテクストの記述のされ方そのものに対する具体的な分析が可能であるとは、どういうことであろうか。結局、どのような枠組みを選択するのかということよりも、選択された枠組みの中で何をするのかということこそが問題となるのかもしれないが、そのような一般論ではもはや片づけてしまうことのできない地点に私たちは差し掛かっていると思われるのである。
先に作中人物の「語る−聴く」という設定を分析する際に、存在論的な観点からの分析の誘惑に触れておいたが、この方面での考察をある意味では愚直なまでに徹底したのは、やはり小森陽一の「聴き手論序説」である。ところで、そもそもテクストの中の世界における語りについて論ずるとは如何なることか。換言するならば、虚構の世界における存在者やその行為について論ずるとは如何なることなのか。「聴き手論序説」には「虚構」の問題についての、興味深い一節がある。先に『草迷宮』を分析した際の箇条書きの「1」の茶店の媼の語りにおいては、「(1)嘉吉発狂の話」があったが、これを存在論的に分析すると、まず嘉吉という作中人物にまつわる何らかの事件があり、その周囲でそれを目撃していた複数の人々が、茶店の媼の夫である宰八に、それを伝え、さらに宰八からそれを聞かされた媼が、物語の現在において小次郎法師に語っている、ということにならなければならない(おまけに、それを聴いた小次郎法師がまたそれを誰かに語り、その誰かがまた聴き伝え、伝え聴き、それが繰り返された結果、『草迷宮』というテクストとして読者の前に与えられている、ということにもなるのである!)。しかし、このような情報の伝達は可能なのだろうか。ここに問題がある。かつて聴き手であった者が語り手に変貌する越境行為、「その越境性の背後に、伝え聞いた言葉が聞き伝えの言葉に変わる際の、微妙な差異とずれの可能性が隠されている。虚構とは、まさにそのような瞬間に発生している、といえるように思われる」。これは、実に私たちの現実感覚に訴える虚構についての認識を、むしろ凡庸なまでによくなぞっている。例えば、作者の実体験が変形の度合いはともかくなんらかの形で作品の中に生かされているとか、社会的生産条件が作品を規定するといった素朴反映論から、歴史的言説論の洗練された形態、もっと直截には典拠との差異や同一性が問題になる比較文学的研究から、日常TVで目にする伝言ゲームまで、虚構は情報の差異であるというのは見えやすい道理だ。
これについて金子明雄は「物語という言語装置と、近代文学という言語装置とを媒介する変換理論」を想定しつつ「虚構化されている聞き手[…]、そして現実の読者が、聞き手から語り手に転化するそれぞれのメカニズムと意味作用には、何らかの差異が想定可能なのではないか」11 とする。なかなか微妙な議論で、語りと虚構の問題が結びつくときに、論者は断定的な口調を避けたがるようである。このような議論のはらむ微妙な陰影は、「虚構化された」とか「変換」という発想にそもそも胚胎しているのではないだろうか。つまり、それは「虚構」ではない「現実」の物語行為を基準に、物語の内容を考えようという発想である。それは、実際には「語りについての虚構」ではなく、「虚構の中の語り」を問題にしており、この発想においては原理的には変換の可能性が説かれるのみで、実際の「変換理論」は、出現し得ないのではないかと思われる。これ以前に千葉俊二は「ところで〈聞き書〉といっても、作者という創作主体の確立した近代の小説においては、それは装われた〈聞き書〉であって、たとえば伝承性・口承性に支えられた説話文学におけるそれとは、本質的に性質を異にしたものである」12 としていた。
どうやら私たちは第一節にで立てた設問へと回帰してきたようである。しかし、「装われた」ものであるという論者の意識がそのまま作品・テクストの分析に十分に反映し得るとは限らないようである。「虚構の中の語り」と「語りについての虚構」の、このもつれた関係を、私たちはどのように処理したらよいのであろうか。 
四、再び迷宮へ
『吉野葛』もまた層を成している物語である。一つは自天王についての事蹟や、さまざまに引用される古典作品、津村の身の上話といった、時間的空間的に異なるエピソードの数々、つまり内容のレベルにおいて。もう一つは、語り手(作者)「私」が、津村の「言葉の意味を伝える」語りや「間接に津村の話を取り次ぐ」といった語りの形態上のレベルにおいて。
『吉野葛』は「その一 自天王」より、「私」の抱えている「歴史小説」についての構想、およびその取材旅行についての記述から始まり、水上滝太郎の「いきなり目的地を描き出すよりも、次第に山路を上って行く事によって、此の小説の日常生活を離れて、少なからず現代離れのした内容を、極めて自然に思はせる効果を挙げた」13 という、もはや定説となった感のある評言どおり、徐々に吉野の里を奥へ奥へと遡っていく。それがどの方向に向かうものかといえば、笠原伸夫が「大きな背景から次第にある一点にイメージを絞ってゆく」14 と言うように、物語の核心の方向であろう。一方、花田清輝は『吉野葛』の紀行文的側面について、「その空間的な移動が、そのまま時間的な移動として受けとられ、現在から出発して、一歩、一歩、過去に向かってさかのぼっていくような錯覚をおこさせる」15 としているが、つまり、『吉野葛』は、空間的には山路を吉野川に沿いながらその水源の方向へ向かって遡り、時間的には特に母恋いの色合いに染め上げられた過去の起源へと遡るという、漸進運動をその特徴としていると言うことができる。
「その二 妹背山」「その三 初音の鼓」とおおむね「漫然たる行楽」の調子で、しかしながら確実に奥吉野の核心へと向かって進んでいく『吉野葛』は、「その四 狐 」に至って「初音の鼓」に対する津村のこだわりを契機にさらなる転調を迎える。「菜摘の里から対岸の宮滝へ戻る」に際して渡る「柴橋」、いかにも記号論的な分析を誘発しそうな境界的符丁である「その橋の袂の岩の上」で、かつての里人がそこから足下の川に飛び込んでみせたように、津村もまた「初音の鼓と彼自身に纏わる因縁、−それからまた、彼が今度の旅行を思い立つに至つた動機、彼の胸に秘めていた目的」を「突然語り出」すのである。「そのいきさつは相当長いものになるが」とする「私」であるが、一行あけて開始される「そのいきさつ」は、「私」の言に反して「彼の言葉の意味」であるよりも、彼の言葉そのものであるかのような、津村による一人称を装う語りによって提示される。この点について金子明雄は、ここが津村による語りであるかのように見えながら、「『私』の口調が浸透しており[…]、語り手による他者の言説の転記に近い」16 とするが、そうであれば「私」の「意味を伝える」という言葉にいつわりはないということになろう。しかし、問題は、ここに語り手「私」の声が色濃く反映しているにせよ、なぜわざわざ津村による一人称の語りが装われなければならなかったのか、あるいは装われていることによる効果はどのようなものなのかということである。これは、もちろん「その五 国栖」に入って、「さてこれからは私が間接に津村の話を取り次ぐとしよう」と語りが転調することと連動しているのであるが、まず確認しておくべきはこの一人称的な語りの効果である。津村は「自分」と自らを呼んでいるのだが、ここで問題となるのは、それが「私」のような通常の一人称とは異なるということではなく、まず語られる内容もさることながら、語っているという行為自体が前景化されるということである。つまり、読者が直接的に参入するのはまず語っている行為のレベルなのだ。すなわち、何者かが語っているというその語り手の像がまず読者の手前にあって、それを通して語られる内容が遅れてやってくる、あるいは語られる内容が読者から隔てられて、向こうからやってくるように語られるということである。ここで語られるその内容とは、「母−狐−美女−恋人−という連想」に彩られ、さまざまな古典作品と渾然一体となって母恋いの旋律を奏でる津村の幼少年期である。
次に章が変わって「その五」になると、先述のごとく「間接に津村の話を取り次ぐ」とする「私」によって、主に「母への思慕で過ぐされた」津村の「青春期」が提示されるのだが、ここでの語りは、津村に関する物語に対しては全知の語り手のように振る舞う「私」によって津村に焦点化される形でなされる。この語り方の特徴は先に検討した例と比べて相対的に語っている行為が後ろに退き、語られる内容が前面に出てくると言うことである。読者は、物語の内容を直接的に提示されているように感じ、そこに直接参入しているかのような距離の近さを与えられる。語っている主体は相対的に透明化するのである。ところでここで語られる内容はというと、津村が、土蔵で発見した手紙などをもとに母の生家をつきとめていくという、最初の吉野探訪に至る過程、およびその成果である。
この二つの語り、およびその語られる内容の比較の結果、明らかになるのは、語りの転調によって読者が物語の内容に対して距離が近くなっていくということと、津村が吉野の奥の母の生家、物語の内容上の起源とも言うべき場所へと遡行することが、連動しているということなのである。形態の与える効果の上からも、内容の上からも物語はその核心に近づいていくのだ。
津村による一人称が装われる部分は、語っていることが強調されるので物語的であり、「私」による津村の幼少年期から青春期の提示は、再現的な描写である。むろんこれは、ジェラール・ジュネット 17 が明らかにしたように、本質的な違いではなく、物語対象について語ることと語っているというそのことについて語ることの比率の差、程度の差だが、ここではそのような本質論ではなく、修辞的・表面的な程度の差こそが問題となるのである。水位の差を通して言語的効果は発揮されるのだ。ただ、ここでの谷崎の工夫は、その程度の差を設けておきながら、わざわざそれを小さくするということである。例えば津村の一人称は「自分」という「一旦は発話の主体が、発話の対象となる『私』から他者の位置に観念的に分離し、そこから再び対象となる『私』を指し示す」18 三人称的なものであるし、私による語りの調子には、津村のものとも私のものとも取れるような「らしい」「気がした」等の判断や感情を表す一人称的身振りがふんだんにちりばめれれているからである。つまり、淡い色合いの変化を伴いながら少しずつグラデーションが重ねられていくのが、『吉野葛』の特徴なのではないだろうか。以上を総合すると、『吉野葛』には、核心より遠くから語りだし、母恋いのテーマに微妙な変化を加えつつ、徐々に核心へと迫って行く身振りを示しながら、奥吉野の神話的物語空間に密接に結びついた永遠の女性の観念めいたものを炙り出していくという構図が見えてくる。ここで「炙り出していく」という比喩を用いるのは、物語の中心にある観念が起源となっており、それがさまざまに形を変えて『吉野葛』というテクストとして現象するというのではなく、矢印の方向はまったく逆で、テクスト上のグラデーションが積み重ねられていくという布置が核心を錯視させるという事を主張せんがためである。
ところで、「その一 自天王」に展開される「私」の「歴史小説」の構想は実に魅力的なもので、まるで『吉野葛』という一つの作品から独立して取り出し得るような独自性を示しているようである。実際、先の花田清輝は、母恋いよりもむしろそちらの方に重点を置いた読みを提出している。しかしながらあえて通常に従い、『吉野葛』を津村の母への思慕を中心とした「母恋い」の物語として読むならば、これはこれまで検討してきた通り、母恋いの外縁を成す層であろう。この話が母恋いを包摂するということではなく、そこから遠いという意味においてである。「私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年ほどまえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが」と語り出し、「私の計画した歴史小説はやや材料負けの形でとうとう書けずにしまったが」と現在に帰還して結ばれることで額縁が形成される空間的・時間的構図を考えれば、『吉野葛』は遠くから核心へと近づいて行って、核心をかすめつつまた飛び去っていく彗星の楕円軌道のような軌跡を描いていると言えるだろう。ただ、その核心も核心と言うほどの決定的なものではなく、老媼「おりと」の語る話のごとく要領を得ないもので、近づいたと思えばまた逃げていく蜃気楼のようである。『吉野葛』は「母恋い」という観念のみで説明することはできず、そのような中心とは反対方向への力、あえて言うならば中心以前にあるものを認知する瞬間に、その特徴を発揮するのではないだろうか。 
五、虚構論の地平
先の金子明雄は、小森の立論における音声中心主義を「言語の働きの全体性を抑圧する可能性が出てくるのではないか」19 としたが、小森は、この指摘以前に「虚構化された小説内部の文字コミュニケーション、手紙や日記からの引用という問題を設定し、語り手と聴き手とをあわせて、書き手と読み手というもう一つの伝達レベルをあわせて処理」することでその克服を試みている 20 とした。むろん、この虚構内のレベルでは、小森のコミュニケーション理論に対し、虚構内でいかにコミュニケーションが行われていないかという視点からの批判も可能であろうが、それはやはり虚構の問題解決を先送りにし、さらには、虚構の存在論的枠組みを活性化し、強化してしまう。
この音声言語・文字言語の問題については、すが秀実がまったく別の文脈で小森に言及しつつ、批判を行っていたが、この「語り」をめぐる議論からはいくぶん外れたところにあるすがの主張はその後も決定的に受け損なわれていると言ってよい。すがによれば、小森は小説の「文」の問題を「結局、『文』ではなく、『語り』=『言』の問題に還元」している 21 。これに対して、物語内容において、手紙等の文字言語によるコミュニケーションを考察することでその問題を克服できると考えるとしたら、まったくの勘違いなのだが、これは「文」「言」同様に繰り返される、「詩」「小説」、「美」「雑」といった批評家の思わせぶりな比喩の用い方にも原因があると言えるだろう。もはや明らかなことをあえて強調しておくならば、「文」「言」はその他の二項対立的比喩と同様、字義通り受け取られてはならない。
すがの言う「言」のレベルとは、音声を介して行われるやりとりにおいて発言者の言わんとする意味が現前しているかのようにとられてしまう、すなわち言葉が意味を伝える透明な媒体として受け取られているレベルを言っているのであって、実際に音声言語を介して情報のやりとりをしているか否かということは、まったく問題ではない。たとえ、文字言語によってやりとりが行われているにしても、そこに直接的な意味の現前を見てしまうならば、それは「言」のレベルである。それは、具体的にはテクストに記述された言葉によって、描き出される作中人物を、そのような記述に(心情的である以上に、論理的に)先行する存在者と見做し、その存在のレベルから当のテクストの記述のレベルを規定するという方法に端的に露呈する。すがの主張を私たちの文脈に引きつけてみるならば、すなわち、「言」のレベルとはテクストに先立つ存在論的実在と見做された物語の内容のレベルであり、「文」とはそのような意味での「言」とは本来ならば等価交換され得ないテクストの記述の物質的なレベルのことなのである。だから、「虚構化された小説内部の文字コミュニケーション」とは「文」ではなく「言」であるということが帰結する。問題の領域がテクストの記述のレベルから一足飛びに、虚構世界の存在論的レベルにすり替えられている。
しかしながら、小森の虚構に対する存在論的なアプローチの明快さは、すがのようないま一つ何が言いたいのか判らないくぐもった批判を吹き飛ばすだけのインパクトを持っているのもまた事実である。「聴き手論序説」にも見られた小森のまったく戦略的なのかどうかも判断しかねる虚構についての存在論的ユニークさというか愚直さは、やはりその『吉野葛』論にも見て取ることができるのだが、それは、虚構の存在論的地平と現実の存在論的地平を、「語り手/書き手である『私』も、『吉野葛』というテクストをまとめる際に」22 のように(単純か複雑かはともかく)因果論的な連続として捉えているところにある。その戦略の見事さは、まず問題を一旦はそのように私たちにはなじみの薄い「文」のレベルから「言」のレベルに「還元」した上で、その存在の「起源」を問いつつ「起源」への到達不可能性というソフィスティケートされた議論へと転換することで、自らの拠って立つ足場を問い直すようなダイナミズムを生み出している点にある。すなわち、虚構の存在者に関する吟味を素通りしてしまうところでは、言葉は「透明な媒体」と見做されているのだが、そこから先の作中人物たちの物語行為や文字言語の使用をめぐる議論では、言語は「不透明な媒体」として追求されるのである。かつて聴き手であった者が語り手に変貌する越境行為、「その越境性の背後に、伝え聞いた言葉が、聞き伝えの言葉に変わる際の、微妙な差異とずれの可能性が隠されている。虚構とは、まさにそのような瞬間に発生している、といえるように思われる」とは、そのような文脈において理解されねばならない。そこではテクスト内の世界を情報が流通するという存在論的な地平での議論がより洗練させられるのである。「書かれた文字の源には、語られた声があったかもしれないと疑ってみること。逆に[…]、声で語られたことがらの中に、かつて書かれてあった文字が起源として見出されるかもしれない」23 。この、相互浸透論的な物言いは、なかなかポストモダン的でシニカルな議論なのである。注目されるのはその身振り、つまり、ある「起源」に疑いを向ける視線をその視線そのものにも適用することによって、「文字」と「声」がお互いに振り返って相手の根拠をなすような、無底的な閉じた領域を形作り、「起源」をめぐる考察をパラドックスに追い込んでいこうとしていることである。
しかしながら、その「起源」の「脱構築」は実際には成功していない。なぜならば、そこでは「起源」を否定する可能性のある別の「起源」の出現の可能性が説かれているのであって、そこでは「文字」と「声」は無底的なもつれた階層を形作ってはおらず、この置き換え可能性においては、ある「文字」の「起源」が別の「文字」であってもよく、ポイントは「起源」を先送りするところにあり、一義的に固定された「文字」と「声」との相対性にはないからだ。その理論的構図はやはり「差異とずれの可能性」に「虚構」の発生を見ようとする先の議論と同じであり、暗黙のうちに強化してしまっている閉域があるのだ。それはその理論的な明快さとも表裏一体をなしているのであるが、言葉を透明な媒体ではなく、不透明な媒体ととらえることで、虚構的存在から現実への伝達という矢印を保存したことに関わるものである。言語の不透明性とか、起源への到達の不可能性とかいう紋切型の表現には実は陥穽がある。それは、透明には伝達はされないが、しかしなにがしかの形で不透明ながら伝達されるなにものか、到達することが不可能であるというまさにそのこと自身によって暗黙のうちに前提されているなんらかの「起源」という、言語に先行する実体を無前提に主張しているのである。それが閉域であるというのは、文字どおりの意味であって、物語行為を行っていると見られるレベルも実は「虚構」の世界であると考えるならば、その〈場〉で発生するのが、「虚構」であるということは、「虚構」から「虚構」が発生しているということである。これは、視覚的に表現するならば、自分自身を描く絵画という、およそ不可能と思われる奇妙な円環を描いているが(絵画では不可能なことでも、言葉の上では可能なのだろうか)、むしろ私たちの常識は、『吉野葛』というテクストは作中の「私」ではなく、谷崎潤一郎という作家が書いたのだと教えている。いや、谷崎が書いたという立場を取る場合はテクストではなく、作品と言うべきであり、『吉野葛』をテクストと見做すならそれを書いたのは「私」という作中人物なのだということになるであろうか。しかし、実はいま私たちが検討中のこの議論において、『吉野葛』の作者が谷崎潤一郎である必要はない。今問題になっているのは、虚構の世界の存在者から出発した矢印が、単純な道筋を通ってであれ、複雑な道筋を通ってであれ、存在論的な連続性をなす私たちの現実に届くという図式が帰結するところをどのように判断すべきかということである。作者の問題については最終節で再び間接的に取り上げることを予告して置くに止めよう。
テクストの起源はどこにあるのか。もし、テクストとして私たちの目の前に与えられているものとはある程度異なるとは言え、なんらかの出来事があって、それが物語行為等の情報の伝達の〈場〉において伝えられてきた結果としてテクストを見るならば、その出来事こそがテクストの起源である。そこでの差異=虚構は、同一性=事実からの逸脱としてそこに従属する。一方、テクストが何の事実にも基づかない全面的な虚構であったとしたらどうか。その場合の起源は、空中楼閣としてのテクストの中には認められない。仮にテクストの中に起源として記述されているように見える、例えば、『草迷宮』の嘉吉発狂というような事件は、実のところ語りの体裁をもって記述された結果なのであり、これを語りの起源と見做すことはまったくの倒錯であるということになる。すなわち、記述の結果や読者によって錯視された結果をその記述自体の起源に据えるという循環論となっているのである。情報のやりとりに生じる可能性としての差異が、虚構の発生源であるとする論の構え方に抜け落ちているのは、例えば、私たちはある発言においては他者から情報を受け取った結果を相手に伝えている振りをする、すなわち虚偽の発言をすることもできるという視点である。これは、語用論的な立場からは、寄生的な言説かもしれないが、特に文学においてはこれが常態なのではないだろうか。 
六、模様になる葛
二十年前の旅行に言及する現在の「私」から始まって、吉野の地の歴史、口碑、書物の記述、「私」の構想する歴史小説、多少関係ありそうな稗史小説、吉野についての地誌的記述、二十年前の取材旅行、等々『吉野葛』は冒頭からさまざまな階層を提示して、「その二 妹背山」からは、二十年前の旅行になり、実際に私は吉野の地を奥へと辿り出す。これは、語りの時間で言えば過去の提示であり、地形・空間的には吉野川を遡ること、すなわち起源へと遡行することである。ここでは、空間的な遡行と連動するように、「私」の記憶は幼時へと辿り返され、母に「ほんたうの妹背山」を教えられた甘美とも言える体験が示されたかと思うと、それは「芝居」の妹背山へと回付され、異なる階層へとやはりグラデーションのようにずらされていく。さらにまた母の記憶は、「亡くなつた母を偲びながら川上の方を見入つた」「二十一か二の歳の春」へもつなげられる。
この母を恋うる「私」は、やはり津村の幼い頃に失った母への恋慕とつかず離れずの関係性を成している。私が吉野をおとずれるのは、三度目であって、前の二度は六田の淀の二股の道を右へ行っているが、今回は道を左へ取り、差異を伴った反復であることが知れる。一方、津村もまた、先に検討したように、最初の吉野探訪が母の生家を突き止めるためのものだったのに対し、今回はお和佐を娶るための旅行であり、異なる意味あいを持つ反復としての吉野行きである。私の反復と津村の反復が部分集合のごとく重なり合うのが今回の吉野行きなのであるが、示される順番は、私の過去の旅から、二人に共有される今回の旅へ、そして津村の過去の旅へとなっており、少しずつ変化を伴いながら、母恋いを基調とする色合いに染め上げられた吉野への旅という一点でつながる挿話が並べられていくのである。
『吉野葛』においては、例えば、吉野の里を舞台にした歴史物語的側面と紀行的側面というように「物語が層を成している」24 のだが、このような二重化のような例だけではなく、二重化された像が、私と津村の母恋いのように同型を描いている場合がその美的効果において非常に重要な要素を担っている。つまり、『吉野葛』において特徴的なのは、記述の順番上も、内容における空間的な配置の上からも離れたところにある階層と階層が、思わぬつながりを見せ、それが一つではなくさまざまなレベルやケースにおいて張り巡らされているという事であろう。
そのような物語における階層と階層の同型対応が顕著なのは、「その四」で示される津村の幼少年時代と、「その五」に至って判明する母の生家にまつわる事実との暗合であろう。例えば「狐 」や「葛の葉の子別れ」、「忠信狐」といった幼少期の津村が親しんだ古典作品と、母の生家が狐信仰に凝り固まっていたということや、母の生家の物置きに長い間しまわれていた一面の琴を見たときに、一瞬津村の「眼交を掠めた」、「幼少の折、奥の一と間で品のよい婦人と検校とが『狐 』を弾いていたあの場面」、さらに「初音の鼓」などは、幼い津村が親しんだ「千本桜」から、菜摘の里の大谷家に伝えられるそれ、そしてお和佐と三重の同型対応を描いている。
このような場合においては、作品中にその異なる階層間の意外な結びつきが明示されるのであるが、極端な場合には「その三 初音の鼓」における「ずくし」が「よしのくず」のアナグラムである 25 という嘘か真かわからないようなレベルにおいてさえ、『吉野葛』は読者を異なる階層間の関係付けへと誘うと言えるだろう。アナグラムはともかく、明示と暗示の中間あたりを探ってみるならば、先にも少し触れたように、今回の吉野行きにおいて私が二股の道を右から左へ取ったことに連動するように、津村もまた、この吉野行きにおいて起源探求の母恋いからいくぶん現実的な妻問いへと方向を変えている。しかし、その内実はあまり問題ではない。ここで重要なのは、母を恋うる系列の上で祖母の手紙の中の記述として提示されていた、「ひゞあかぎれに指のさきちぎれるよふ」な「赤い手」が軸となって、「母恋い」とは違う位置にある対称図形のような「妻問い」へと変換がなされていることである。つまり、「母−狐−美女−恋人−という連想」に彩られた永遠の女性の観念から、「丸出しの田舎娘」への、右から左へ移るような、反転する表面の形の変化の模様として、それはあるということなのだ。このテクストが唐草模様ならぬ吉野の葛模様として認知されるとき、物語内容の存在論的レベルにおいての反復よりも、表面的な模様の同型対応として私たち読者の目に付くとき、『吉野葛』はその美的効果を最大限に発揮し出す。それは、因果論的・実体的な時間構造の桎梏から解き放たれ、言葉によって描き出されたの文様のレベルにおいて、テクストの上での同じ形をした言葉たちのさざめきとして認知される瞬間である。
『草迷宮』は、石の迷宮ではなく、草の迷宮であったが、同様にさまざま階層が錯綜するこの『吉野葛』という迷宮は、草がまるで幾何学的な図形のように組み合わされた文様の迷宮である。ここでは草と葛の違いは類と種の違いとは別の意味で本質的であり、それが示唆するのは、生成する草と、切り取られ紙にすかれた草との違いである。直接にお和佐の血筋につながる「おえい」が「日々雪のつもる山に」「ほりに行」ったという葛は、食用にされるにせよ葛布のような形に加工されるにせよ、生成することをやめているが、それゆえかえって、津村が「老人の皮膚にも似た一枚の薄い紙片の中に、自分の母を生んだ人の血が籠っているのを感じた」ような想像力を呼ぶと言える。そのように見るとき、読者の中に形作られる相似の図形の数々は吉野川の川面の「ちりめん波」(「その二 妹背山」)のようにざわめき立つことになるだろう。特にどれがどれの起源になるということもなく、ただ似たような形を描いているというそれだけの波動の集まりとして。言葉は端的にただ言葉であり、そこには、なんら虚構的存在などというものはないが、読者の意識をなんらかの状態に波立たせる「引き金」となるのである。その結果が物語の内容なり、虚構的存在として錯視されるのだ。先に検討したように、この作品においては核心へたどり着くことはできないが、核心へ到達することを妨げながら、同時に核心を錯視させてもいる、葛の葉がちりばめられた和紙のような模様が、私たちに提示されているのだ。
ところでこのような『吉野葛』における表面的な模様は、かつて谷崎の主張した「構造的美観」によく合致するものではないだろうか。「構造的美観」は谷崎と芥川との間に交わされたいわゆる「『話』らしい話のない小説」論争において、谷崎が提出したものであるが、ここにおける「構造」は例えば構造主義における「構造」などとは対極の位置にあるものである。谷崎は、芥川の「『話』らしい話のない小説」に対して、「筋の面白さに芸術的価値がないとは言へない」と反発し、筋の「組立」を「構造的美観」として主張する。しかし、論争につれて明らかになるのは「話の筋を組み立てるとは、数学的に計算する意味ではない」ということなのだ。いわゆる「構造」は表面的な現象の奥に隠されており、個別の現象を成り立たせている実体である(もちろん、そんなものがあるとしての話だが)が、谷崎の「構造的美観」は、空からその見取り図が俯瞰的に見渡せるようなものではなく、パノラマのようにつぎからつぎへと「畳みかけて運んでくる」という、受け手である地上の読者の印象から説明されるべきものであり、彼はその場その場の前後の関係が織りなす綾目のようなもの、表面の模様の効果を「構造的美観」と呼んでいるのである 26 。誤解しないでいただきたいのは、『吉野葛』は作者谷崎が「構造的美観」を実現すべく企図した作品として成立したなどと言いたいのではないということだ。たまたま『吉野葛』における表面的な模様の効果が、「饒舌録」における「構造的美観」の主張との一致を示しているということであって、逆は真ではない。ただ、『吉野葛』の表面的な模様の効果は「構造的美観」の実例としては最適であろうということである。 
七、虚構の存在論をめぐって
テクストの中の世界、虚構の存在者の世界における物語行為ではなく、テクストという物語行為を具体的作品を通して分析していくことを視野に入れて考えるならば、そもそもそこにあるのは、単に言葉であり、存在者はそこから錯視された結果なのであるという立場を採るのが最も有効であると思われる。これは、三浦俊彦の分類に拠れば「言語説」ということになろう。「現実世界の一部としてページに印刷されている物理的な言語プラスわれわれの反応によって補足される言語だけが作品を構成する全てであって、その背後には何もない」27 。そこでは直接にはハインツの説が「言語説」の代表例として検討される。三浦の紹介に従って要約してみよう。「作者は自分の書く出来事(のほとんど)を創造する」のであり、「明示的にも含意としても作者が言いそびれてしまっていることは、端的に存在しない事柄なのである」。そうではなく、作者は作品に先行する虚構世界にアクセスしているのだとするならば、登場人物についての判断等は、「テクストをよく読むことによって決定されるのではなく、当該虚構世界に接近することによって決定されることとなろう」。読者はピーターパンは空を飛べるというテクストの記述を信用するわけにはいかず、何らかの方法によって虚構世界へアクセスし、ピーターパンがジェット推進装置を使っていないか、針金で吊り下げられていないかということを確認しなければならない滑稽な事態におちいる。ゆえにハインツは言語説の立場を採るのだが、三浦はこの考え方には疑義を呈している。「これはあまりに単純」であり、「作者の行為は、発見報告ではないと同時に無からの創造でもない、という立場がありうる」。単純であるということは必ずしも貶下的にあつかわれなければならない理由とはならないはずだが、このような形での言語説にはどのような問題点があるというのだろうか。三浦は次のように主張する。「ハインツのように『小説は世界ではなく結局言葉に過ぎない』と考えてしまうと、いかにつまらない間違いや矛盾をも、文字通り認めけ(ママ)ればならないことになり、虚構作品の内容というものが論理的実在から完全に遊離したものとなってしまう」(なるほど、私はいま「論理的実在」の力を借りて「つまらない間違い」に「(ママ)」を付したのだろうか)。ゆえに三浦は「無からの創造(もしくは混沌からの部分的創造)を前提と」するハインツよりも「虚構作品の内容秩序が作者の行為に先立って実在していることを認めている」ルイスの「可能世界論」を高く評価しているようである。「ルイスの観点に立てば、作者は予め実在する対象を選び取ると同時に、単なる受動的発見ではなしに能動的に定める−すなわち選定する、と見ることができるのである」。
この議論のポイントは二点ある。言語説を説明するために、テクストとしての言語以前にある言語使用者としての作者を導入していること。そして、「論理的実在」を第一義の公理のようなものとして据えるという論点の先取りを行っていることである。これは、先に第五節で扱った作者の問題と虚構的存在の問題に近接するが、三浦の方が小森よりもオーソドックスな議論を展開していると言える。小森は虚構世界と現実世界のわれわれ読者を、物語行為によって結ばれる地続きの存在として捉えていたが、三浦は虚構世界を現実とは別の世界と捉え、そこにアクセスする作家を読者との間に置いている。作家を導入する議論は私たちには馴染みのものである。
ところで、私が前節まで試みてきたように、「言語説」的考察は必ずしも作者を必要とするものではなかった。そこに言葉が、テクストがあればそれでよいのであり、お望みなら、三浦が「正統的」ではないとして退ける「ページの上の文字を小人の火星人の足跡だとするような」思考実験を受け入れてもよいのである。起源、来歴は必ずしも問う必要はない。三浦の「言語説」の扱いには、彼だけの責任ではないにせよ、微妙な論点のすり替えがあるように思われる。三浦が「言語説」を考える際にもどうしても保存しようとしている観点、それは私たちの目の前にある与件としてのテクストを、そのテクストに先行すると想定されるのなにものかから根拠づけようとする態度である。一見アナーキーな小森の議論が意外な口当たりの良さを示すのもこの態度を温存していることに拠るものが大きい。言語以前の存在者から私たちに引かれる矢印。しかし、その図式自体が拒絶されるとしたらどうなるのか。私たちの目的は、テクストとそのような存在者との間を分断し、テクストをめぐる言説に混乱状態を引き起こそうとすることではない。テクストと虚構的存在者の間に新たな関係性をもうけることで、虚構における存在の含意を捉え返すことである。
先に私は三浦の(おそらくは)「つまらない間違い」に「(ママ)」を付した。「認めければ」ではなく、「認めなければ」ではないかと判断したからである。私がこれを「文字通り」受け取らなかったことは、確かにテクストの文字の記述されている水準だけからは説明できない。しかし、それはテクスト以前の実在的根拠を招喚しなければならないということを、直ちに意味するのではない。これは、むしろテクスト以後の具体的個別的現象としての私自身の判断を書き込んだだけであるという説明も可能である。私は超越的な「論理的実在」にアクセスする能力を有してはいないが、言語的慣習と自分が感じているところのものに訴えただけなのかも知れない。言語の介在を必要としない、あるいは言語的対象として描き出されることのない論理的実在とは、いかなるものなのか。言語以前の虚構世界の存在にアクセスするとは、具体的にはどのような行為を指すのか。そのような特殊とも思える能力を私たちの誰でもが体得できるのだろうか。
三浦は、その「虚構実在論」を提出するに当たって、それを「虚構についての単なるメイクビリーブなのではなく、成熟した信念である」とする。虚構の存在論的分析は、そもそも虚構的指示対象のなんらかの形での存在を擁護するために、どのように論理的整合性を保つかが問題になっているので、言語説とは接点を持ちようがなく、この対立は信仰の領域なのである。しかし、虚構的存在の合理性のためにさまざまな論理的操作を精緻化しなければならないのは、少なくとも文学の研究においてはいたずらに煩瑣なものではないだろうか。ところで、三浦は「虚構」に関する旗幟鮮明な「信念」を表明する一方、返す刀で現実に関する「信念」をえぐり出してみせる。「『しかし、虚構世界などほんとうは実在しないじゃないか!』[…]という反論は、現実が本当はどのようなものであるのか、という実在論的な信念に支えられているかにみえる」。「虚構は、現実よりも影の薄い異質の反実在ではない」。
文学テクストを考察するための理論が現実を視野に入れる必要はないという突っぱね方は、もはや無効だろう。文芸学を標榜し「最終的にあらゆる言語活動をすべて虚構と見なす根元的虚構論」の立場を取る中村三春は、次のように虚構と現実という二項対立をときほぐしてみせる。「虚構・非虚構の区別が、端的に言って、何が現実で何が非現実かの区別であるとすれば、『現実経験』として認められるべき対象は、それがなにゆえ現実として認められるのかを記述されなければならない。根元的虚構論によれば、そのような記述は、〈ヴァージョン〉であり、〈差延〉である限りにおいて、既に虚構なのだと言うだろう」28 。しかし、ここでは、三浦とは反対の方向での論点のすり替えがあるように思われる。かりに「現実経験」を保存しようとする論者ならば、「現実経験」はそれが記述されるレベルにおいてではなく、まさにこれが現実というものだとしか思われない、記述を喪失する経験のレベルにおいて問題にされるべきなのだと言うだろう。中村の議論を好意的に解釈するのであれば、「現実経験」そのものがすでに何らかの意味での記述である(しかし、起源としての記述者の問われることはない)と捉えるべきなのだということになるかもしれない。これは、「虚構実在論」に対して「実在虚構論」とでも言うべき領域をなしている。三浦は虚構世界の存在論で斉一的にやっていくことを考えているが、言語説でそうすることも可能なのだ。いずれにしても、「現実」と「虚構」の間に設けられた敷居を跨いでいくことが問題となっており、私たちは現実と虚構を相互に浸透させることではなく、虚構を全面的なものとしてとらえる「根元的虚構論」の地平に立たされつつあると言えるだろう。しかし、この「根元的虚構論」がいくぶんうわずった議論に陥りそうな雰囲気を漂わせているのもまた見逃しがたい。実際「根元的虚構」がどのような事態を指し示しているのか、あるいはそこから何が帰結するのかということは、はなはだ不明確であると言わねばならない。
物語行為についての虚構を考察する目的で、『草迷宮』『吉野葛』という物語行為についての虚構が迷宮的に入り組んだ構図を有する作品・テクストを分析しつつ、理論的な枠組みを素描しようと努めてきた私たちは、思わず、こんな遠いところまで来てしまった。最初の問題設定にかえり、私たちの足場を確認する作業を通して、結論を導き出していくことにしたい。
この考察の出発点は、虚構世界における物語行為というものの自明性に疑問を投げかけ、実際にそこで行われている物語行為などというものがあるのだろうかと問うてみることだった。そこでは物語行為は装われているだけなのであって、それは本当の物語行為ではなく、特に私たちの属する現実の世界における物語行為から見れば、内実のない寄生的な用法に過ぎないのではないだろうか、と。そして実際の文学テクストを論じていく過程において、それを実在の物語行為ではないものとして扱い、虚構的存在から私たち読者へと引かれた矢印を、一八〇度反対に引き直したのだった。むしろそれはテクストに先行する実在ではなく、テクストと読者との相互作用の結果として錯視される物語内容の一つなのだ。
しかし、あくまでも虚構的存在、その実在を擁護しようとする立場に対して、私たちは信仰の領域とも思われる局面で岐路に立たされる。虚構的存在があるからこそそれについて言葉で言及することができると考えるのか、言葉がまず先にあり、それを通して虚構的対象が描き出されると考えるのか。これは鶏が先か卵が先かという決定不能な循環する議論を誘引しかねない。ここで、私も三浦に従って一つの信念を表明せざるを得ないだろう。これまでの議論において、特に具体的なテクストを論じる場面において、私が暗黙のうちに前提としてきたリアリティーがあるのである。それはテクストは実在するということだ。これが実在という用語の使い方として不適切であるなら、私の意識への感覚与件としてのテクストは否定することが出来ないということである。そして、これは言葉によって再現することが可能であるという前提に立っていることもまた認める。特にそれは、前節の言葉によって描き出された同型対応が認知される瞬間を論じているところに如実に現れている。まず素直にテクストに触れる読者として言葉に対峙してみるならば、現象として与えられている言葉に私たち読者はそのつどそのつど自らの抱え込んでいる観念を書き込んでいくしかない、あるいは与えられた言葉を引き金として、自らの抱えている観念を様々な様態に活性化していくしかない、そのつどそのつどの様態が言葉の内容であるという立場を取ったのである。文学を論じる場面においてさえ、私たちはあまりにも隠された起源を言い当てるというよろこびを訓練され過ぎているように思われる。だから、起源への遡行の不可能性や、起源のずらしをもってこれに対抗しようとするのは問題の所在を完全に捉え損なっている。起源の起源をテクスト外のイデオロギーなどに転嫁する道もあろうが、そのような枠でテクストの内容が心太式に決定し果せるものでもないだろう。そうではなく起源からテクストへと引かれた矢印の向きを正反対にテクストから起源へと引き直すこと、言葉のレベルからいかに起源が錯視されるのかを問うことが問題なのである。
さて、具体的に「虚構」のテクストを論じながらその有効性を試験してみたこの「言語説」的な考察は、「現実」に対しても有効であろうか。それに答えることはもはやこの稿の任ではない。その可能性の素描については比喩的に語るに止めよう。「現実」とはこの稿で検討した文学テクストとしての「虚構」以上に、質・量ともに錯綜している迷宮であろう。物語行為を行う、あるいはそれが行われる「存在」のリアリティーそのものがバーチャルなものであり得ることを視野に入れるならば、文学論はまた現実論にもなり得るだろう。どのような立場をとるにせよ、私たちは虚構の存在論的地平に関して、もっと自覚的な議論を必要としているのだ。 

1.野家啓一「物語行為論序説」(『物語(現代哲学の冒険8)』平2・9、岩波書店)
2.鈴木道男「『草迷宮』論−聴き手の設定と作品世界の融合について−」(『日本文化研究所研究報告』第二十五集、平元・3)
3.笠原伸夫『泉鏡花 エロスの繭』(昭63・10、国文社)
4.笠原伸夫「泉鏡花・草迷宮」(『解釈と鑑賞』昭50・5)
5.グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』(種村季弘・矢川澄子訳、昭41・2、美術出版社)
6.同 4
7.高桑法子「『草迷宮』論−鏡花的想像力の特質をめぐって−」(『日本文学』昭58・10)
8.小森陽一「聴き手論序説」(『成城国文学論集』二〇、平2・3)
9.(2)の鈴木による
10.(赤間亜生「『草迷宮』論−〈音〉をめぐる物語−」(『文芸研究』第一三二集、平5・1)
11.金子明雄「近代文学研究と物語論の今日と明日」(『日本近代文学』平3・5)
12.千葉俊二「昭和初年代の谷崎文学における〈聞き書〉的要素について」(『日本文学』昭55・6)
13.水上滝太郎「『吉野葛』を読んで感あり」(『三田文学』昭6・6)
14.笠原伸夫「吉野の秋 谷崎潤一郎論 」(『心』昭53・12)
15.花田清輝「『吉野葛』注」(『季刊芸術』昭45・1)
16.金子明雄「『吉野葛』の物語言説と『私』の位相」(『日本近代文学』第42集、平2・5)
17.ジェラール・ジュネット『物語のディスクール 方法論の試み』(花輪光・和泉涼一訳、昭60・9、書肆風の薔薇)の特に「 叙法」
18.小森陽一『縁の物語−『吉野葛』のレトリック−』(平4・12、新典社)
19.同 11
20.小森陽一「語り論の現在」(『日本近代文学』平3・10)なお、ここで小森が言及しているのは、自身の「聴き手論序説(二)」(『成城国文学論集』平3・8)である
21.すが秀実『小説的強度』(平2・8、福武書店)
22.同 18
23.同 18
24.伊藤整「解説」(『谷崎潤一郎全集』第19巻、昭33・1、中央公論社)
25.渡部直巳「不着の遡行」(『群像』平2・8)「この食物の名には[…]、一篇の表題が裏返されて『凝り固つ』ているではないか」
26.拙論「芥川と谷崎の論争について」(『文芸研究』第一四〇集、平7・9)参照
27.三浦俊彦『虚構世界の存在論』(平7・4、勁草書房)
28.中村三春『フィクションの機構』(平6・5、ひつじ書房) 
 
日本近代文芸におけるゴシック風小説 / 泉鏡花と谷崎潤一郎の場合

 

ヨーロッパで、イギリスを中心にして小説にゴシック様式が現われたのは十八世紀でした。ファンタジーの一様式としてのゴシックは、今日こんにちまで根強く続き、今では小説を越えて他の色々な芸術分野をも包み込むぐらいに拡がっています。その中でも一番目立つのは映画でしょう。ゴシック風の映画で思い浮かぶのは、無声映画時代の『ノートルダムのせむし男』や、だいぶ後にヴィンセント・プライス主演で何本か作られた『博士の異常な愛情』シリーズなどです。ご覧になったことのある方なら、そのいかにもゴシック風な雰囲気を思い浮かべていただけると思います。十八世紀のゴシック小説の特徴は、不当な監禁がモチーフになっていることです。最も古典的な話の筋は、無実の主人公が城や僧院に三十年間も幽閉され、狂気、死、悪霊、お化けなどが 頻繁に出て来ます。十八世紀のイギリスのゴシック小説家にとっては、フランス革命ほど格好の舞台は他にありません。ゴシック小説はほとんど常に誇張が激しく、メロドラマチックなものですが、邪悪な坊主や不当な監禁などの描写に一抹の写実主義がうかがわれるのも事実です。ヨーロツパの一部では、その当時でも貴族は小作人たちに対してまだかなりの統制力を持っていました。そして、聖職者に対するあからさまな反感が異常に誇張さ れているのも、宗教改革前の中世のキリスト教会の行き過ぎに根を持つものであることは容易に推測できます。十九世紀も後半になると、ヨーロッパでは都市集中化が進み、とくにロンドンやパリはそれが激しく、古い封建体制が消滅するにつれ、ゴシック小説は再び盛んになります。ただ、世紀末の芸術運動においては、ゴシックは 人間の心理の無意識の領域に足を降ろしました。産業革命によって生みだされた都市の勤労者の孤立感は、お化けや悪霊、荒れはてたロマンチックな景色などが、往々にして、疎外された都市の住人の持つ心理的ストレスと ユートピアの幻想の比喩であるという文学の一形式を生みだしました。ヨーロッパでゴシックは威厳を持つようになり、当時の名のある作家ならほとんど誰しもが一度はこのジヤンルに手を付けてみました。十九世紀の幕が 下りようとするころに翻訳されて日本の読者や作家へ大量に紹介されたのは、こういう作家たちとその作品だったのです。
ゴシックは、ロマンスの一様式であるとか、ファンタジーを細密画のように詳しく描いたものとか、その他様々な言い方で定義されていますが、私は、広範囲の著述形式を包み込めるように、ゴシックというものをできるだけ広義に解釈して二十世紀初頭の日本の小説家にあてはめ、西洋のゴシック様式の歴史との比較はせずに、日本の各作家に共通の文体とテーマ上の類似点に光を当てていきたいと思います。歴史上、日本近代の小説が伝統的に西洋から影響を受けていることは否定できませんが、ここでは特にその追跡に力を注ぐことは避け、ゴシックという概念を作品解釈に活用する比較論的なアプローチを採用しています。
近代日本文学の中の美学の歴史を簡単にまとめた橋本芳一郎氏は、後には悪魔主義に発展していくデカダンの風潮を、明治日本にニーチェを紹介した人として著名な十九世紀末の思想家・高山樗牛(一八六八年生―一九〇 二年没) から浪漫的な思想家兼詩人・北村透谷 (一八六八年生−一八九四年没) と上田敏(一八七四年生−一九 一六年没) までたどってみせました。世紀末のデカダンの文人として透谷と敏は、西洋におけるデカダンの文人のこともよく知っており、雑誌などの記事を書いて日本へ紹介しました。橋本氏は、美学上のこのデカダンの伝統が、次から次へと鎖のように影響し伝わって、永井荷風 (一八七九年生−一九五九年没) や谷崎潤一郎 (一八八六年生―一九六五年没) に至ってついに花咲く過程を再構築してみせました。橋本氏によると永井荷風も谷崎潤一郎もデカダン美学の後継者というわけです。デカダン美学といいますのは、日本文学、ヨーロッパ文学、英文学に共通してみられる世紀末の文学のある一面を意味しています。この一面は、従来の道徳や倫理感に拘束されないエロテイシズム、罪の意識、そして 「美」 の概念にこだわるものです。世紀末文学のこの一面は、従来の道徳、とくにキリスト教道徳に対して、ニーチェのような哲学者を指導者として起こった一般的な哲学的革命の一部を構成していました。ダーウィンの 『種の起源』 は、人間が理性よりも本能に振り回されるという点では動物と変わりがないことを暴く本として広く読まれました。この人間観は、小説の中で、性的情熱の動物的な描写をエスカレートさせることになりました。文学はまた、はばかりなくエロテイックになり、性の表現は姦通、つまり罪深いエロティシズムと変態性に集中するようになりました。フランスでは、ゾラやモーパッサン、後にはピエール・ルイス、そしてイギリスでは、オスカー・ワイルドやアーネスト・ダウソンなどがこの傾向の代表的作家です。もちろん、ゴシックの影響は、江戸川乱歩や夢野久作などといった大衆文学に顕著ですが、私は彼らよりもう少し前の時代に焦点を当て、テーマよりも文体から検討を始めていきたいので、橋本氏が描く影響の鎖も、こういう対照的な見方をすると、少し異なった様相を見せるのではないかと思います。デカダンの文体において鍵となる要素は、比喩、つまりメタフォーと語り手の視点です。文体の話になってきましたので、ちょっとここで、近代の文体の研究のための要因をはっきり設定した、野口武彦氏の『小説の日本語』という非常に大きな影響力を持つ本をご紹介してみたいと思います。
野口氏の近代小説の研究は、彼自身が言うように、現代ではほとんど読まれていない作家、岩野泡鳴 (一八七 三年生−一九二〇年没) から始められています。野口氏の分析によると、泡鳴こそ、自然主義運動を、それまでの小説が出るに出られないでいた従来の枠の外へ乗り越えさせた、小説技法上の根本的な突破口を作った作家な のだそうです。しかし、日本の小説をまったく新しい概念の詩的感覚に導いたのは泉鏡花だといいます。野口氏は、「比喩であることをすら越えた比喩」そして 「文彩が文彩以上の何ものかである」 といって、鏡花の比喩と直喩の使い方が、別世界、超現実を感知させるほど見事に突飛で幻想的であるといいます。文彩というのは、文章の飾りという意味です。通常の比喩において、実在する喩(たと)えられるものを所喩、英語でテナ ー (tenor) といい、不在の喩えるものを能喩、英語でヴィークル(vehicle) といいますが、たしかに鏡花の比喩は、所喩を能喩に喩えるという図式をすっかりくつがえすことによって従来の言述の様式を越えています。
野口氏はまた、鏡花の小説に神話の色を帯びた別の言語空間を見いだしますが、それはまだ幼ない時に母を失った鏡花の不幸な少年時代から来るものであると言っています。言い換えると、鏡花の別世界に棲む女怪、妖怪、お化けは、彼の心の中に本当に出没する悪霊に他ならないというのです。
さて、ゴシック小説にこれと同じような分析法をあてはめた人がいます。それはピーター・ブルックスといって、一九七六年に 『メロドラマティック・イマジネーション』という本を書いた人で、ゴシック小説とは 「超自然性探索の旅」 の描写であり、白昼の自我、自己満足している心には説明できないある力の存在を再び主張するものであるといいました。つまりゴシックは神の喪失に対する一つの反動であり、ロマンテイックなあるいはポスト・ロマンテイックな世界において神話を創るのは個人でしかありえない、そして、個人のエゴがゴシックの中心的価値であると断言し、そのために世界そのものは縮小してしまうか、エゴそのものが世界になるといいます。泉鏡花は、近年、ゴシック小説の作家であるとよくいわれるようになりました。そしてコーデイ・ポールトンが、「鏡花の初期の作品のセンセーショナリズムの大部分は、鏡花のメロドラマヘの偏愛と、彼の取り上げる題材が驚くほど革命志向であることに起因しているといっていい」 と言っていますが、たしかに、鏡花の中に、メロドラマとマルクス主義との関連が見える、と言って言い過ぎであれば、少なくともこの二つの言述様式を連想させる二つの考え方がつながっているように見受けられます。
鏡花が文壇に最初のインパクトを与えたのは一八九〇年代で、初期の作品で最も有名なのは一八九五年に書かれた『外科室』という作品です。この作品ではある外科医が、愛人である人妻の手術をすることになり、情事の発覚を恐れるあまりその人妻は麻酔を拒否します。遂に貴船白爵夫人と呼ばれるその人妻は、手術台の上で外科医のメスを自らの胸に刺してしまいます。ドナルド・キーン氏は、『外科室』を「どうしようもなくメロドラマティック」 と評しましたが、この作品は、日本の読者の想像力をがっしりとつかみました。ここで、ちょっと皆さんのご注意を引かせていただきたいのは、キーン氏が 「メロドラマティック」 という言葉を、意識して軽蔑的に使っていることです。後ほど 「メロドラマ」 という言葉を肯定的に定義し直す見地もあることを ご紹介したいと思います。さて、『外科室』 へ戻りますと、大袈裟な誇張こそこの作品の魅力の根本にあり、日本の文芸評論家が、鏡花は文章技巧もテーマも、十八世紀から十九世紀へかけて人気のあった洒落本や草双紙に負うところが大きいと言っているのは注目に値すると思います。また、鏡花の話の筋の出所として民間伝 承を挙げる評論家もいます。勝本清一郎は、「封建末期の頽廃文学と文明開化文学との混血児が維新の幻影にとりつかれて、云々」 といって、鏡花が西洋と日本の浪漫的かつ頽廃的な伝統の後継者であることを強調しました。
鏡花は超自然の物語を数多く書きましたが、彼自身お化けや魑魅魍魎を信じていたらしく、そのために鏡花の作品は、よく似た技巧を使った有島武郎のような作家よりもはるかに西洋のゴシック小説に似通っています。しかし、超自然的な妖怪が書かれているにもかかわらず、有鳥武郎の場合と同じように、読者は作者個人の心の風景をうかがい知ることができます。野口氏もこのことには注目を促しています。ゴシック小説と文体に関して、過剰性のメロドラマ的な使用法、つまり「修辞上の過剰性」 を検討したブルックスの説はそのまま鏡花の小説に応用できます。私がここで強調しておりますのは、ゴシック表現様式の中のある一部分だけです。つまり、ゴシック小説の言語と、心理を描写するのに超自然現象を使う、その使い方です。しかし、鏡花やその他の日本の作家はゴシックから表現方法を借用しただけに留まっているなどというつもりはありません。彼らの人気を沸騰させた悪霊やエロテイックな題材なども、元をたどればやはりゴシックなのです。鏡花の作品における過剰性は、「形式上の本質的なもの」 であることは確かです。実際、心理の内部の風景を描く上で、そのような過剰性がいかに有意義であるかを力説するメロドラマやゴシックの研究者はブルックスだけではありません。ファンタジーについて研究したローズマリー・ジヤクソンは、「ゴシック小説以来、不思議なこと (英語でいうとthe marvellous) から奇怪なこと(英語ではuncanny) へと徐々に移行している、つまり、ゴシック的恐怖物語リバイバルの歴史は、自我が生んだ恐れの認識および漸進的内向化の歴史である」 と言っています。「uncanny」 つまり 「奇怪なこと」 という言葉をこの文脈で使用しているのは単なる思い付きではありません。フロイドが 「 ダス・ウンハイムリッヒェ」、英語では『The Uncanny』と題する有名なエッセーを一九一九年に出版し、「uncanny」 という言葉に特別な意味を与えているからです。ローズマリー・ジヤクソンはフロイドの定義を「無意識の欲望と恐れを周囲に、そして他の人に投影する効果」 と言い換えています。フロイドは、奇怪な経験を抑圧されたコンプレックス、あるいは死に対する恐怖などの原始的な信仰に結び付けます。「これまで抑圧されていた幼い時のコンプレックスが何かの印象で再現されるような場合、あるいは、これまで克服されていた原始的な信仰がもう一度確認されるような場合に奇怪な体験が起こる」 とフロイドは言います。心理的過剰性、奇怪な過剰性という形を取りながら語り手の心の奥底にある不安を鮮明に映し出すという手法で、原始的な恐怖が描写され、心の風景に息吹が与えられている最もよい例は、鏡花の作品の中では『高野聖』なのではないかと思います。
一九〇〇年に初版が出版されたこの作品は、ほとんど全編を通じて語り手の独白という形になっており、高名な僧、宗朝(しゅうちょう)がふとしたことで知り合った私を相手に物語を聞かせるという設定です。宗朝上人は、飛騨の山越えをやったとき、不思議な森の中で道に迷い、この世のものではないような恐ろしい生き物に次から次へ出くわしたあと、やっとのことで一軒の山家へ辿り着きます。この山家には、鏡花の言葉を使うと、唖か白痴のような少年と美しい女が住んでいます。一夜の宿を頼むと女は承知し、滝に導いて怪しく煽情的に体を洗ってくれますが、僧侶の身なので宗朝はぐっとこらえます。その間にも不思議な生き物が人れ替わりたち代わり寄って来ますが、女はそれを邪険にふり払います。しかしなぜか女は白痴のような少年にはやさしいのです。上人は、次の日、山家を出ますが、女への想いがつのってどうしようもなくなり、山家へ取って返します。その途中、昨日山家でちらっと会った親仁おやじに会います。親仁は女が超自然の生き物で、男を誘惑し、飽きると様々な動物に変えてしまうのだが、昨夜宗朝が助かったのは彼の優しい性質のために違いないと話してくれます。上人はここで話を終えて行きずりの話相手である私から去っていき、この話は終わります。
ストーリーは、旅人である私、上人、そして親仁という三者の語りが混ぜあわさり、二重三重に重なっています。このような複雑な語りの構造を好む傾向と、そして鏡花がこの作品で明らかに語り直している神話や寓話の使い方についてはこれまでにも何度か取り上げられています。しかし、何よりも、鏡花の他の作品もそうですが、この作品が日本の読者に衝撃を与えたのは、彼の小説言語です。鏡花の小説言語は、詩的で緻密であり、彼の描くイメージは、その速度と動きがまるで映画のようです。三島由紀夫は、鏡花のことを、「夢や超現実の言語的体験といふ稀有な世界へ踏み入っていた。」と言う一方で、修辞上の過剰性と心理上の過剰性をつないで、「彼の自我の奥底にひそむドラマだけしか追及しなかった。」ともいっています。また、評論家の吉田精一氏は、『高野聖』 について 「読者が文とともに運び去られて、あと戻りが出来ない」 といっています。そして、批評家の川村二郎氏は、「説話体とは、物語の世界が日常から遮断された仮構の別世界であることを強調するための表現方法である。物語の登場人物が、自己の見聞としてまた一つの物語を報告する。登場人物のおかれている場がすでに、日常の空間とは別種の仮構空間であるわけだが、この空間の中にさらに新たな仮構が嵌めこまれる時、その新たな空間の、日常からの距離は、大幅に拡大することになる。」といいます。このコメントは、小説全般にあてはまるかも知れませんが、仮構の空間が言語で構築されるという考え方は、注目してお く必要のある要素だと思います。もし『高野聖』から特定の例をとって考察してみると、鏡花が景色の描写をするとき、超自然なものへの恐怖というゴシック風な色調を与えているのがわかります。そしてその色調は、外界の現実と同じぐらい、内部の現実をも反映しているのです。ここで、『高野聖』 の第8章、上人が飛騨の山越えの道中に、暗い森に入り込んで、頭の上の樹の枝から笠の上に何かが落ちてきたところを引用してみます。 
鉛の錘(おもり)かとおもう心持ち、何か木の実ででもあるか知らんと、二三度ふってみたが付着(くっつ)いていてそのままには取れないから、何心なく手をやってつかむと、滑らかに冷ひやりと来た。
見ると海鼠(なまこ)を裂(さ)いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投げ出そうとするとずるずるとすべって指の尖(さき)へ吸いついてぶらりと下った、その放れた指の尖からまっかな美しい血が垂々(たらたら)と出たから、吃驚(びっくり)して目の下へ指を付けてじっと見ると、今折り曲げた肱(ひじ)の処へつるりと垂れかかっているのは、同じ形をした、幅が五分(ぶ)、丈(たけ)が三寸ばかりの山海鼠(やまなまこ)。
あっけに取られてみる見るうちに、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太っていくのは生血(いきち)をしたたかに吸い込むせいで、濁った黒い滑らかな肌に茶褐色の縞(しま)をもった、疵胡瓜(いぼきゅうり)のような血を取る動物、こいつは(ひる)じゃよ。…ともはや頚(えり)のあたりがむずむずしてきた、平手(ひらて)で(こ)いてみると横撫(よこなで)に蛭の背をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一疋ぴき、蒼くなってそツと見ると肩の上にも一筋。
思わず飛び上がって総身(そうしん)を震いながらこの大枝の下をいっさんにかけぬけて、走りながらまず心覚えのやつだけは夢中でもぎ取った。何にしても恐ろしい、今の枝には蛭がなっているのであろうとあまりのことに思って振り返ると、見返った樹のなんの枝か知らず、やっぱり幾ツということもない蛭の皮じゃ。
これはと思う、右も、左も、前の枝も、なんのことはないまるで充満(いっぱい)。
私(わし)は思わず恐怖の声を立てて叫んだ、するとなんと?このときは目に見えて、上からぽたりぽたりとまっ黒なやせた筋の入った雨が体へ降りかかってきたではないか。 
この段では、景色の輪郭とともに自然界の基本要素そのものが恐ろしい吸血蛭に変形されています。このシーンは、幻か現(うつつ)かわかりませんが、美しい女の姿を借りて人の生き血を吸う魔性のものが棲む山家で上人を待っている危険を象徴的に前触れしているのです。この女の吸血鬼のような性的渇望は、蛭という自然の一部に変形されています。その言語は、見かけは現実的なようでも妖怪が恐ろしさを増すにつれ底にあるゴシック風 のファンタジーが透明になっていきます。文体はリズムがあって非常になめらかです。「ビクトリア時代の小説ではゴシックの同化がぎこちないため、現実的な主文の中に、もう一つの非現実的なテクストが、カモフラージュされていたり隠れていたりしても必ず存在することがよくわかる」といってローズマリー・ジヤクソンが言語 表現におけるゴシック様式をビクトリア時代の小説にあてはめてみせましたが、そのほとんど完璧な実践例をこ こに見るような気がします。
言葉を変えていうと、心理的におおげさな表現の裏にはもっと暗いモチーフ があるということです。これから『高野聖』 からの引用を読んでみますが、鏡花が描く世界の終焉のような情景は、作者が持っているといいたいところですが、少なくともこの物語の語り手が持っている深い不安感を暗示しています。フロイドの 「uncanny」 つまり 「奇怪さ」 という概念に少し手直しをしたヘレーネ・シシューとい う人の説も鏡花の文章に適応します。シシューは、「奇怪さに近親感がないのは、それが、置き換えられた性的な不安感であるばかりでなく、純粋なる不在である死との遭遇のリハーサルでもあるからだ」 といっています 。第九章の先に読みました引用部分のすぐあとに続く部分で、たつた今目撃したばかりの恐ろしい情景について上人が立ち止って考える場面を読んでみます。
およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮(うすかわ)が破れて空から火の降るのでもなければ、大海が押しかぶさるのでもない、飛騨国(ひだのくに)の樹林(きばやし)が蛭になるのが最初で、しまいには皆血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代(だい)がわりの世界であろうと、ぼんやり。
なるほどこの森も入口ではなんのこともなかったのに、中へ来るとこのとおり、もっと奥深く進んだらはや残らず立樹(たちき)の根の力から朽(く)ちて山蛭(やまびる)になっていよう、助かるまい、ここで取り殺される因縁らしい、取り留めのない考えが浮かんだのも人が知死期(ちしご)に近づいたからだと、ふと気が付いた。
この時点で、語り手である上人はある種の悟りに達します。彼は自分の恐れを白昼にさらけ出してみせたのです。死ぬかも知れないという可能性をまっすぐ正視し、今見た世界の終末のような情景は、死との対決が生んだものだと一旦気づいてみると、先に進むために必要な力が内から湧いて来ます。鏡花はその次の文章で 「そう覚悟が決まっては気味の悪いも何もあったものじゃない…」 と書いています。「覚悟」 が決まったから恐怖に打ち勝ち前進することができたわけですが、「覚悟」 という言葉は、真実を知るという意味でもあります。また仏教の 「道理を悟る」 という意味も含まれています。旅の上人が飛騨の森林に分け入る恐ろしい旅は、僧侶としての悟りへの旅でもあるのです。語り手を襲うゴシック的な恐怖は、彼自身の心理を内省してはじめて知覚されており、フロイドやシシューの言う 「奇怪性」 にぴつたりの実際例と言えるでしょう。 
『高野聖』では、ブルックスのいうメロドラマ的過剰性がこなれて和風のゴシックになっているようです。鏡花のテーマとテクニックは伝統的な江戸後期の読本よみほんを受け継いでいるようですが、鏡花の作品とヨーロッパのゴシック小説とは、表現方法への関心が並んだ線上にあることやロマンティックなファンタジーの使い方などから見て、ただよく似たジャンルに属するというだけではないほど近似しています。鏡花とエミリー・プロンテのようなヨーロッパのゴシック作家とがなぜ共通の問題意識を持っているのかを探るのは大仕事ですが、二者が近似していることには疑いがないと思います。
鏡花の小説技巧は、あいまいさを見事に駆使します。旅の僧が語ったことはただの幻覚だったのか、それともこの超自然的な恐怖物語は、どうしてかはわからないけれども本当に起こったことを語ったものなのかは知るよしもありません。野口氏は、「鏡花の小説言語にあっては、所喩(テナー=実在する喩えられるもの) と能喩 (ヴイークル=不在の喩えるもの) とは互いに自在にその位置を変えるばかりでなく、一つに融即する… 言語宇宙なのである。鏡花の小説言語は、この互換性原理にしたがって、現実と超現実との二つの言語秩序、二重の言語意味作用を持つ。」といいます。この引用は少しわかりにくいのですが、野口氏は、目の前にある何か(所喩=テナー) を目の前にない他のもの (能喩=ヴイークル)と比較する際に、鏡花の小説では、その両者の 境目があいまいになり、どちらも現実に存在しないものを比較したりしているので、意味が反対になっても差しつかえがないという事態が起こり、その結果、独特の超自然的雰囲気がかもしだされていると言いたいのだと思います。所喩 (テナー) とか能喩 (ヴィークル) という言葉は、一九三六年にイギリスの言語学者、I・A・リチ ャーズが比較的単純なアイデアを説明するために考案した言語学の専門用語です。実世界のものと、別世界、夢の中の世界、またはファンタジーやイメージの中の世界のものを比較して、比較の対象が逆さまになったり、時には同一になったりするのは鏡花の小説の特徴です。言い換えれば、この意味のあいまいさは、鏡花の文体の基盤そのものが生むものであり、これこそ鏡花の作品の根本なのです。このあいまいさは、後期浪漫主義を自我について意識しながら探索してみれば必ず辿り着く近代特有の「不信の停止」をもたらします。(「不信の停止 」 とは、文学に使う言葉で、読者が作品を読むときに虚構の内容を一時的に真実として受け入れることを意味します。)  
根本的に、ゴシックとはロマン主義の伝統から生まれた芸術探求の様式です。しかしロマン主義が日本文学に吸収されていった過程についてお話しするだけの時間は今日はありませんので、またの機会に回させていただきたいと思います。また、谷崎潤一郎の初期の作品に見られるゴシック的な面についても深く掘り下げていく時間 も今日はありませんが、ただ、谷崎の初期の作品にみられる独特な文体上の要素の中に、ゴシックと結び付けられるものがあるように思いますので、ここでちょっと簡単にお話ししたいと思います。
谷崎は、鏡花と比べてずっと意識的に心理小説を書いた作家です。初期の作品でさえ谷崎は、ペンから溢れ出る文章の彩(あや)や比喩をしっかりとつかんで操ることができているように思えます。谷崎を論ずるとき、よくオスカー・ワイルドが引き合いに出されますが、ワイルドと同じように谷崎は常に素材を手にとってコントロールしていますし、またワイルドと同じように自分のアイデアを表現するとき、様々な新しい方法をためらいなく試しています。ワイルドの代表作である『ドリアン・グレイの肖像』の中心となるモチーフは、芸術家と 芸術の関係です。芸術家は自分の芸術に蹴押され、ワイルドの文章には、芸術が芸術家を圧する力を表現するサド・マゾ的な比喩がちりばめられています。谷崎は、一九一〇年に『刺青』を書いたときはまだ二四才に過ぎませんでしたが、作家として成熟した最初の作品で、やはり明白にサド・マゾ的な隷従の比喩が見られます。 
『刺青』は、多分皆さんご存じのことと思いますが、江戸時代に設定された筋は単純そのものです。清吉という若い刺青(ほりもの)師は、針で男たちを痛めることを喜ぶという人知れぬ快楽と、いつか光輝(こうき)ある美女の肌へ己の魂を彫り込みたいという宿願を持っていました。ある日、江戸の深川で清吉は篭(かご)から女の足がのぞいているのを見ます。すっかりその足に惚れ込んだ清吉は、しばらくしてその足の主の娘に偶然出会います。これから芸者に出ようというその娘は清吉に睡眠薬を飲まされます。眠っている間に清吉入魂の女郎蜘蛛を背中一面に彫られた娘が眠りから覚めると、状況は反転して清吉ではなくその娘が主(ぬし)になっているという筋です。
『刺青』においては、『高野聖』 のように、筋のテクストに平行する自然現象のテクストというものが一切ありません。谷崎の文体が作り出す絢爛(けんらん)として異様な雰囲気は、鏡花の超自然現象ないし心理現象とは全く違います。それは、語り手の声が明らかに皮肉っぽいからです。この意味で、谷崎の語り手は、立派に一人の登場人物として存在感を持っています。そもそも冒頭の「それはまだ人々が 『愚か』といふ貴(たふと)い 徳を持つて居て、世の中が今のやうに激しく軋み合はない時分であつた。」 という書き出しからして、鏡花の『高野聖』の語り手には見られない自己意識的な皮肉っぽさを見せています。『刺青』のゴシック的要素は、清吉の心理描写にもあり、話が展開していくにつれて明かされていく女の隠れた凄さにもありますが、単なるゴシック風の恐怖小説ではありません。なぜでしょうか。それは皮肉っぽい語り手が恐怖小説のすさまじさを 読者に語りながらも少し距離をおくことによってある種のユーモアをほのかに感じさせるからです。劇的に残酷な話の筋は、明らかにサド・マゾ的心理を描きながら、『高野聖』 にみられるコントロールのきかない夢の世 界ではなく、作為をもって表現された欲望という安定した語りの枠組みの中でその役割を果たしています。清吉のサド・マゾ的偏執狂ぶりは、これから読みます引用によく現われています。
この若い刺青師の心には、人知らぬ快楽と宿願とが潜んで居た。彼が人々の肌を針で突き刺す時、真紅の血を含んで膨れ上がる肉の疼きに堪えかねて、大抵の男は苦しき呻き声を発したが、その呻きごえが激しければ激しい程、彼は不思議に云い難き愉快を感じるのであった。…
彼の年来の宿願は、光輝ある美女の肌を得て、それへ己の魂を彫り込むことであつた。その女の素質と容貌とについては、いろいろの注文があつた。啻(ただ)に美しい顔、美しい肌とのみでは、彼は中々満足することが出来なかつた。…
これは作為の透けてみえる心理描写で、そういう意味でゴシックは、表面に出ている、背景よりも前景に置かれていると言えるでしょう。この作品の暗い副文脈は、かなり早いうちからはっきりと示される女の中のサディスティックな傾向に潜んでいます。これはまさに先程申し上げました「奇怪さ」 と呼ぶべきものだろうと思います。
「これはお前の未来を絵に現はしたのだ。此處に斃れて居る人たちは、皆これからお前の為に命を捨てるのだ」
こう云つて、清吉は娘の顔と寸分違わぬ画面の女を指さした。
「後生だから、早くその絵をしまってください」
と、娘は誘惑を避けるがごとく、画面に背いて畳の上へ突っぷしたが、やがて再び唇をわななかした。
「親方、白状します。私はお前さんのお察し通り、その絵の女のような性分を持っていますのさ。…
その 「奇怪さ」 は、また女の背中の彫りものが完成したときその全容を現わします。しかし、語り手がこの女の性質を先に予告しているので、読者には女の残酷さを目の当たりにしても特別意外だとは思いません。『痴人の愛』 のナオミが譲二の作り上げたものであるように、この残酷さは清吉の作り上げたものだといわれるかも知れませんが、谷崎の自己意識の強い語り手は、様々な手法で最初からその可能性をほのめかしています。
谷崎の小説には鏡花の小説同様に、人物の魂、そして世界そのものの描写の底に、同じような暗い要素があるのがわかります。その意味では二人の作家を結ぶゴシックの糸が見えると言ってもいいかも知れませんが、決して全く同じではないのです。谷崎の使うゴシック風の語りは、明らかに非常に意識的な使い方で、多分これは鏡花よりも谷崎の方がゴシックの伝統をよく知っていたからではないかと思います。谷崎も鏡花のように、草双紙の影響を受けており、また有島武郎のような日本のゴシック作家などの影響も受けていますが、谷崎は、一九世 紀後期の西洋のゴシック作家たちを広く読んでいて、アイデアを借りるにしても鏡花よりよほどあからさまに借りています。そういう意味で、谷崎は形というものをわざともて遊んでいます。これは初期の作品より後期の作品にはっきり見られます。大正時代の作家がこういう谷崎から受けた影響はあまりに大きく、ゴシツクをロマンスの一様式にしか過ぎないとか、作家として好きなように使ったり捨てたりできる表現の一様式とみなすまでになりました。つまり、谷崎こそ、日本のモダニズムの基盤の一つとしてゴシックを確立した一連の作家たちの鎖の最後の輪なのです。  
 
泉鏡花と小さな命

 

泉鏡花は明治6年1873年今からおよそ140年前に生まれた小説家です。尾崎紅葉のもとに弟子入りし、早く19歳でデビューしました。
夏目漱石や永井荷風とならび、鏡花はいつまでも古びず、よく読まれる作家です。その作品は、しきりに舞台映画化され、漫画化もされています。玉三郎さんが鏡花の戯曲「天守物語」や「海神別荘」を歌舞伎にしておられます。視覚的な形でも読み継がれるというのが鏡花の大きな特徴でもあります。
その人気の秘密は鏡花文学のゆたかな神秘にあります。私たちが生まれる前の、懐かしい美しい場所へ連れて行ってくれるような青い神秘に多くの人が引き付けられるのです。この神秘の正体は何なのでしょう。なぜ時代をこえて私たちの心を長く強く揺さぶるのでしょう。鏡花の神秘は子どもの原始の感性を大切な源とします。鏡花という人は明治生まれの男性には珍しく、いつまでも自分の中の子どもの記憶を失わなかった人。
子どもの低く小さな視点から宇宙を感じ続けた作家なのです。
きょうはこの問題についておはなしさせていただきたいと存じます。
鏡花はおそらくとても孤独な子ども時代を過ごしていました。お父さんは金沢の金細工師。加賀藩の瓦解で職を失い、貧しい暮らしでした。お母さんは東京在住の加賀藩の能楽師の娘。下町でゆたかに育ちました。東京から金沢に帰り結婚しました。このお母さんが娘時代に集めた絵草子をたくさん持っていて幼い鏡花に物語ってくれたといいます。近所の娘たちもお母さんの物語を目当てに集まってきたそうです。鏡花はすばらしい物語作家。そのお母さんもゆたかな物語の語り手だったのです。しかしお母さんは鏡花が9歳のときに亡くなりました。お母さんを葬ったお墓からお母さんの甘くやさしい歌声が聞こえてくると言う幻想的な小説も、鏡花にあります。
鏡花は生涯、作品の中でお母さんの面影をもとめています。母恋の文学を築きました。
ゆえに鏡花文学の主人公は多く、亡きお母さんを慕う8歳か9歳の男の子です。あるいはその男の子のバリエーションとしての青年です。
有名な「日本橋」のモテ男、葛木も「婦系図」の早瀬主税もその原型は小さな孤独な男の子なのです。鏡花文学の豊かな神秘は、実はこの孤独な子どもの感性に深く関わっています。
「高野聖(こうやひじり)」という代表作があります。1900年の発表。
深い原始の森が、物語の中心です。主人公の若い僧侶は鉄道から降り、飛騨山中の古代の原生林に迷い込みます。この森こそ人間中心の近代世界を冷ややかに見据える別世界です。この森、たとえばグリム童話の魔女の棲む森などとは随分違います。すごい湿地です。狼や鹿のような大きな動物は出てきません。かわりに蛇、蛭、蜘蛛といった小さな両棲類や爬虫類などの小さな生き物が主人公を脅かします。木から無数の蛭が、主人公にふりかかる場面、読んでみましょう。
「見ると海鼠を裂いたやうな目も口もない者ぢやが、動物には違ひない、不気味で投出さうとするとずるずると辷つて指の尖へ吸ついてぶらりと下つた、其の放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてぢつと見ると、今折曲げた肱の處へつるりと垂懸つて居るのは同形をした、巾が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠。呆気に取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太つて行くのは生血をしたたかに吸込む所爲で、濁つた黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもつた、痣胡瓜のやうな血を取る動物、此奴は蛭ぢやよ。」
蛭。水にも陸にも棲みます。目鼻がない。蛇にもつながる独特の気味悪さがあります。
古事記の冒頭、日本列島が沼から生まれる創世神話にもまず蛭が出てきますね。
蛭、蜘蛛、蛇。鏡花の世界の魔所にうごめくのは、こうした原始的な両棲類をはじめとする小さな生き物です。
子どもの頃じっと地面を這う蟻やみみずを見て過ごした記憶、誰にでもあるでしょう。
子どもは小さな博物学者です。両棲類となかよしです。そうした小さないのちと出会い、驚き、世界を感じていきます。センスオブワンダーをゆたかに持ちます。鏡花の魔所、異界とは明らかに子どもが鮮やかに感じるはじまりの世界、湿気ある地面と小さな生き物たちで構成されています。深山幽谷に限りません。子どもの遊び場の神社や小川のほとり。そこにこそ鏡花の異界があります。
明治30年の「清心庵」32年の「黒百合」38年の「悪獣篇」42年の「海の使者」。そんな湿地が次々と出てきます。
たとえば「清心庵」の主人公の千ちゃんは18才の青年ですが湿地に生えるきのこに夢中です。雨上がりの森で彼はきのこを見つけうっとりします。
「まひ茸は其形細き珊瑚の枝に似たり。軸白くして薄紅の色さしたると、樺色なると、また黄なると三ツ五ツはあらむ、こは山陰の土の色鼠に朽葉黒かりし小暗きなかに、まはり一抱もありたらむ榎の株を取巻て濡色の紅したたるばかり塵も留めず土に敷きて生ひたるなりき。一ツづつ其なかばを取りしに思いがけず真黒なる蛇の小さきが紫の蜘蛛追ひかけて、縦横に走りたれば、見るからに毒々しくあまれる残して留みぬ。」
小さないのちがうごめき、きのこ生える湿地。大人は忘れてしまったミクロの世界。こここそが、鏡花の見詰めつづける生命の始まりの地です。
たとえば明治34年「水鶏の里」などとても印象的です。深沙大王という蛇の神をまつる神社。鬱蒼とした境内には水がゆたかに湧き、里人は恐れてここ入りません。
松の枝から枝へと雲が這い、さざれ石を無数の蟹が伝う音のみ響きます。鏡花はここを近代にサバイバルする神秘の霧うずまく魔所とします。明治29年の「蓑谷」も神秘の谷の物語です。すごい湿地です。歩くと腐葉土が匂います。「高野聖」の森を思い出します。
「地も、岩も、木も草も、冷き水の匂ひして、肩胸のあたり打しめり、身を動かす毎にかさかさと鳴るは、幾年か積れる朽葉の、なほ土にもならであるなり。」
同じ時代に南方熊楠という博物学者がいます。彼も孤独な子ども時代を過ごしました。
うまく物が言えず、ひとりで土遊びして育ちました。湿地のきのこや両棲類に夢中になりました。人間とは異なる小さな生命体の世界に引き込まれました。その驚きをもとに、変形菌という生きては死に復活する原始の生命体を発見しました。いのちは死んで終わるものという常識をくつがえしました。
鏡花の神秘思考につながります。鏡花も熊楠も合理主義一辺倒の20世紀に生きました。
小さな博物学者としての驚きを保ち、人間ばかり重視する時代の狭い常識を超え、宇宙を新鮮に発見しました。
今の小さな人たちは楽しいゲームソフトに囲まれ、地面の小さな生き物たちと遊ぶことはないのかもしれません。不気味ないのちに驚くことはないのかもしれません。
これは惜しいもったいない事だなあと、鏡花文学を読むたびに、そんな事も考えます。 
 
天守物語

 

鏡花の復権
明治期の文豪のなかで、漱石、鴎外を別にすれば、いまなお全集・選集が刊行され続けているのは泉鏡花くらいのものではないだろうか。いまでは、ちくま文庫や岩波文庫でたいがいの代表作を読むことができるが、1970年代までは事情がちがった。全集を別にすれば、『高野聖』『歌行燈』などの文庫がかろうじて書店に置かれているだけで、なかば忘れ去られていたに等しい作家だったのだ。そんな鏡花を忘却の淵から救いだすにあたっての、三島由紀夫の功績は大きい。1970年に刊行された中央公論社版日本文学全集の一巻『尾崎紅葉・泉鏡花』集の解説において、三島氏はこう高らかに宣言した。
「私は今こそ鏡花再評価の機運が起るべき時代だと信じている。そして、古めかしい新派劇の原作者としてのイメージが払拭された果てにあらはれる新らしい鏡花像は、次のようなものであることが望ましい。すなはち、鏡花は明治以降今日にいたるまでの日本文学者のうち、まことに数少ない日本語(言霊)のミーディアムであって、彼の言語体験は、その教養や生活史や時代的制約をはるかにはみ出してゐた。(略)前衛的な超現実主義的な作品の先蹤であると共に、谷崎潤一郎の文学よりもさらに深遠なエロティシズムの劇的構造を持った、日本近代文学史上の群鶏の一鶴……」
三島氏はこの中央公論社版『尾崎紅葉・泉鏡花』集で、泉鏡花については次の四作品を選びとった。初期作品からは『黒百合』を、短編小説からは『高野聖』を、戯曲作品からは『天守物語』を、そして晩年期の作品からは『縷紅新草』を。
鏡花は19歳という若さで小説家として出発し、名作と目されるものの大半を二十代、三十代の若さで世に送りだしてしまっている。四十代以降はさすがに発表作品の量と質において下り坂を迎えたように見うけられるが、それでも間歇的に名品・神品を発表し続けていた。そんな鏡花が1917(大正6)年、44歳で世に問うた一代の名作戯曲が『天守物語』である。
伝統文学との連続性
舞台となる時代は「不詳。ただし封建時代──晩秋」である。場所は「播州姫路。白鷺城の天守、第五重」。
白鷺城の最上層の第五重天守には、富姫という稀代の美女──実は異界の住人なのだが──が、その眷属(けんぞく)を従えて住まいしている。舞台は「ここは何処(どこ)の細道じゃ、天神様の細道じゃ」という手鞠唄とともに幕を開ける。主人の富姫はどこかに出かけていて不在。そして五人の美しい侍女たちが天守から釣り糸を垂れている。白露を餌に地上の秋の草を釣っているのだ。
「千草八千草秋草(ちぐさやちぐさあきぐさ)が、それはそれは今頃は、露を沢山(たんと)欲しがるのでございますよ。刻限も七つ時、まだ夕露も夜露もないのでございますもの」
この幕開けの場は、何度読んでも典雅な綺想に満ちて美しい。ところで、秋草を釣るこのたおやかな侍女たちは、桔梗、萩、葛(くず)、女郎花(おみなえし)、撫子(なでしこ)という秋の七草の名前なのだ。ということは、花々の化身が、同族の野の花に水を恵みながら戯れているという妖しい光景にも見えてくる。
江戸後期の文化・文政期にもてはやされた読本(よみほん)は、怪異や不思議を語ることで物語のなかに魔的な言語空間を創造することを競っていた。あらゆる山川草木には生命が宿り、精霊・妖気が漂い、それらが現実世界を侵犯すると、不気味だけれども荘厳な美しさが発現する。そのような読本の伝統を、まさしく江戸期を舞台として蘇生させた鏡花作品は、この『天守物語』をおいて他にはない。
さて、秋草釣りの光景は、電光一閃、急な土砂降りによって中断され、やがて富姫が蓑(みの)をかぶって天守に戻ってくる。富姫は越前の国、夜叉ケ池の主(ぬし)・お雪に雨を頼みに出かけていたのだ。それというのも、これから岩代の国会津から遊びにはるばるやってくる亀姫の邪魔にならぬよう、折悪しく鷹狩りに出かけて下界でうるさく騒ぐ姫路城主の一行を雨で追い散らすため。
富姫「夜叉ケ池のお雪様は、激しいなかにお床しい、野はその黒雲、尾上は瑠璃(るり)、皆、あの方のお計らい。それでも鷹狩の足も腰も留めさせずに、大風と大雨で、城まで追返しておくれの約束。(略)私が見ていたあたりへも、一村雨(ひとむらさめ)颯(さっ)とかかったから、歌も読まずに蓑を借りて、案山子の笠をさして来ました。ああ、其処(そこ)の蜻蛉(とんぼ)と鬼灯(ほおずき)たち、小児(こども)に持たして後ほどに返しましょう」
薄(すすき・奥女中)「何の、それには及びますまいと存じます」
富姫「いえいえ、農家のものは大切だから、等閑(なおざり)にはなりません」
この流れるようにリズミカルな日本語の調べ。三島氏でなくとも陶然としよう。ましてやこの台詞が舞台の上で朗々と語られる劇的な効果を想像してほしい。
夜叉ケ池とは『天守物語』よりも4年早く発表されていた小説作品で、その主人公・お雪をさり気なく本作に再登場させる心憎い工夫は、鏡花本人もさぞ得意な心持ちであったろうと想像される。「歌も読まずに蓑を借りて」というのは太田道灌の故事をほのめかしたものだが、そのような伝統文学へのアリュージョンが、まだ大正期には堂々と通用していた。
上田秋成にまねぶ
会津から姫路までの五百三十里の距離を空高く風に運ばれ、駕籠に乗った亀姫の一行がいよいよ到着する。先達をつとめる家来の「朱の盤坊」、大女中の「舌長姥(したながうば)」といった妖怪たちはあまりにも有名だが、みやげの生首をはさんでユーモラスでグロテスクなやりとりを繰り広げるふたりの妖怪の姿は、可憐な秋草釣りの場面の直後だけに、劇の異様性を一挙に高める。
この妖怪たちの描写は、『老媼茶話』という江戸期の綺談集を直接のソースとしているが、鏡花が愛読していた上田秋成の『春雨物語』所収「目ひとつの神」に登場する妖怪たちもまた、大きなヒントとなっている。
秋成が遺した珠玉の怪異譚のなかでも、その諧謔性において出色の「目ひとつの神」は、文字通り一つ眼の妖神が主人公なのだが、その祠(ほこら)へある晩、天狗とお供の修験者が訪ねて来る。天狗は昨日、九州を出発して関東以遠へ行く途中、京の近くのこの地を訪ねてきたのだ。この、天狗とその眷属たちが日本全国の天空を自由自在に移動するという発想が、そのまま天守物語に取り入れられているわけだ。しかも、修験者=山伏を供に従えて、というところも同じである。しかしながら、この天狗の姿を書いた上田秋成もまた、謡曲の「鞍馬天狗」「葛城天狗」などを下敷きにしているという(新潮日本古典集成版「春雨物語」美山靖氏の校注による)。さらに、「目ひとつの神」に描かれる妖怪たちの、深夜の酒宴の滑稽味を抜け目なく鏡花は取り入れて、天守物語の隠し味のひとつとなっている。こう考えると、天守物語の時間的な奥行きは存外に深く、日本人の集団心理の古層にまで遡るようだ。
さて、亀姫がわざわざ白鷺城の天守にやってきたのは、ただ、富姫と手鞠つき遊びをする、ただそれだけのためにである。その約束を果たすと、亀姫は早々に帰途につく。その時、突然の雨に出会い鷹狩りを取りやめた城主の一行が戻って来る。と、その鷹狩り用の白い鷹に亀姫の目がとまった。
富姫「おお。(軽く胸を打つ)貴方。(間)あの鷹を取って上げましょうね。」
亀姫「まあ、どうしてあれを。」
富姫「見ておいで。それは姫路の、富だもの。
〈蓑を取って肩に装う、美しき胡蝶の群、ひとしく蓑に舞う。颯(さっ)と翼を開く風情す〉
それ、人間の目には羽衣を被(き)た鶴に見える。
〈ひらりと落す時、一羽の白鷹颯(さっ)と飛んで天守に上るを、手に捕らう〉 ─わっという声、地より響く─
亀姫「お涼しい、お姉様。」
年下の亀姫はおっとりとした山の手の令嬢風の言葉遣いなのだが、富姫のほうは、姐御肌(あねごはだ)の芸者衆さながら伝法なもの言いをする。それにしても「それは姫路の、富だもの」という啖呵はおもしろい‥‥気っ風のいい凛とした芸妓と、人間の俗悪を嘲る異界の神女、鏡花にとっての理想の女性像が両者とも混然一体となって、この富姫にはあますところなく顕現している。
また亀姫の「お涼しい」という言葉、鏡花のとっておきの表現なのだが、それは鏡花が幼くして喪った亡き母・すずの名の音に響きあうことを申し添えておこう。
大団円とはこのこと
亀姫が去り、富姫はひとりで机に向かい巻物を読みはじめる。「ここは何処(どこ)の細道じゃ、天神様の細道じゃ」という手鞠唄が再び流れてくる。「行きはよいよい、帰りはこわい」というこの唄ほど、この天守に似合う唄はない。と、人間が恐れて近づかない天守への細い階段を誰かが昇ってくる。姫川図書之助という若い美貌の侍が、天守に飛び込んだ鷹を取り戻すため、百年来だれも登ってきたことのない天守にやって来たのだ。
この姫川図書之助は、その名前が暗示するように、三人目の「姫」であり、やがては富姫・亀姫たちと同じ妖異の世界の住人となる運命にある。富姫は図書之助の純真で雄々しい心根と、その美しさに魅了されるが、力づくで引き留めることはせず、二度までも彼を人間界へ逃がしてやる。しかし、あらぬ疑いを受けて人間界から追い立てられ、図書之助が天守へ三度(みたび)駈けのぼって来たとき、気高い妖怪たちが住む天守にまで、人間界の暴力が破滅的になだれ込んでくる。そして、追っ手に目を傷つけられて盲目となった富姫が嘆くとき、その悲劇的なクライマックスに観客席は静まりかえる。
「お顔が見たい。唯(ただ)一目。……千歳百歳(ちとせももとせ)に唯一度、たった一度の恋だのに。」
武威や権力で人が人を押しひしぐ人間界の理不尽さを、天守の高みから嘲笑する超然と気高い異界の住人たちの恋の物語は、このあと、急転直下の結末を迎える。この賛否の分かれる結末については、これから本書に赴かれる方たちのためにも、ここには書かない。けれども、鏡花の脳裏にはやはり、上田秋成の「目ひとつの神」中の、この一節があったのではなかろうか。
「人なれど、妖に交はりて魅せられず、人を魅せず。白髪づくまで齢(よはひ)はえたり」。
1972年には雑誌『現代詩手帖』が別冊特集として「泉鏡花 妖美と幻想の魔術師」を刊行して、鏡花再評価の機運をさらに加速化させた。
 
泉鏡花にみる短篇小説の方法

 

短篇小説の方法を、泉鏡花の作品を中心として考えてみたい。対象とするものは「夜行巡査」(明治28)「外科室」(同)「海域発電」(明治29年)「化銀杏」(岡)「高野聖」(明治3)「歌行燈」(明治43)である。これらの作品を対象とする根拠の第一は、何らかの意味で泉鏡花の代表作とされているものであること、第二に短篇小説としての条件を備えたものであること、からである。もっとも「化銀杏」以下の三第については、長さの点から考えてにわかに短篇小説と呼ぶことには異論があるかも知れない。だが、しばらく短篇小説として考えてゆきたい。論が進むにつれてそのことも自ら明らかになってくるように思われる。  
1
周知のように、小説は「人物」「事件」「背景」の三要素によって構成されており、短篇小説の場合は、それぞれが独立して「小説の効果」となるような原則があるのも、すでに認められているところである。(注1)
鏡花の作品を考える場合も、右の三要素のそれぞれが、どのような特徴をもっているか考えることが、そのまま鏡花の小説の方法をみることとなり、ひいては鏡花の文学世界にアプローチすることともなろう。
鏡花作品に描かれた人物は、どのような特色をもっているか。
人物を考える場合には、まず、その職業が考えられねばならない。人物は、職業を通して、自己以外の外界と接髄しているのであり、・自己との、対立、抵抗、調和など、いわゆる「生活」を営んでいるからである。文学に描かれる人物は、その自己の「内面世界」と、その人物を囲続する「外界」との交渉によって生じる葛藤(生活)を具現している人物であるはずである。従って、作品の主人公の職業は、単に職業であるに止まらず、主人公の対社会的な内面生活が、それに寵められているということができる。これを作者の立場にたっていえば、主人公の職業を決定することが、ほとんど作品の意図を示したとい-ことになるだろう。いうまでもなく、職業は、人物のすべてではない。しかし、人物の、性格や心理は、職業による制約を大きく受けるのは否定できないし、その人物の行為によって生じる「事件」も、また職業と無縁ではあり得ない。当然のこととして、その人物が生活し、行為する「背景」とも、深い関わりがあることになる。職業を考究することが、文学世界の本質を究明するための、効果的な方法であることは、みのり豊かな研究がなされている事実によっても肯くことができよう。注2).
さて、鏡花の文学世界に登場する主要人物は、どのような職業についているであろうか。これを本稿で考究の対象としている作品に限って、左に圏不してみよう0(後に関連があるので「背景」と事件もついでに表にしてみる)
左の表で気がつくことは、主人公が女性である「化銀杏」と「高野聖」を除いて、主人公と冒される人物が、一つの共通点をもっていることである。それは、社会通念からみると、すべてが特別な職業と考えられることである。ここで、特別という意味は、 一般社会の通念で理解できない、生活感覚やモラルや秩序の中に生きる職業であるtということである。
「夜行巡査」の八田義延は、題名の示す通りに<巡査>という職業についている。<巡査> は、国家あるいは中央官庁に直属していると考えられており、市民生活を暴力や悪行から守る存在である。だが、これは市民と同じ生活感覚やモラルを持っているのではない。それどころか、社会秩序という名で、市民より上に位し、市民階級を支配する存在である。彼自身が市民階級の出身であるかどうか、日常の現実生活が支配階級とは呼べない貧しさにいるかどうか、そうしたことには関わりな-、彼の<巡査> という職業は、その意識においても生活感覚においても、市民を支配Lt市民の上に位している、支配階級そのものである。彼は支配階級の末端に連なっており、代弁者であり、代行者でなければならない。
『こう爺様、お前何処だ。』と職人体の壮校は其傍なる車夫の老人に向ひて間懸けたり。串夫の老人は年紀既に五十を越へて、六十にも間はあらじと患はる。餓へてや弱々しき聾の然も寒さにおけのきつつ、
『何卒其平御免なすって、向後蛇と気を着けまする。へいへい』
とどぎまぎし慌て居れり。
『爺様慌てなさんな。こ-己や巡査じゃねえぜ。よ、おい、可愛想に余程面喰ったと見える‥-・』
「むむ、左様だろう。気の小さい椎新前の者は得て巡的を恐がる奴よ--」
「汝が商売で寒い患ひをするからたって何も人民にあたるにゃあ及ぼねえ。糞! 寒鳩め」
こうした感覚は、<巡査>というものを、特別な存在だと考えるところからきている。だから一般市民の理解を超える行為があっても、それを認容することになってしまう。多少の不審と不満はありながらも、 一般社会の現実とは異なった<別世界のもの>として、受け止めることになる。まして、それが<職務遂行中> である場合にはなおさらのことであろう。
「外科室」の高峰が<医師>であることも、同じような意味をもつことになるだろう。<医師> は人命をあずかるものであり、市民から尊敬と信頼を受ける存在である。それは、市民階級を支配している階級とみられる貴族でさえ、<医師>の尊厳と権威とは侵すことができないものである。彼がどのようなモラルに生き、生活感覚をもっているかは、明瞭なかたちでは誰にも理解できない。しかも、この作品のように、手術の執刀を担当する<医師> の行為や考えに対しては、何らの疑惑をもさしはさむことはできないだろう。
「海域発電」の<赤十字看葦員> あるいは<軍夫>の場合には、前二者よりは更に1椴の通念で理解を超えるものということができる。<軍隊>がすでに、 一般社会の現実とは、隔離され、遊離した<別の現実>なのであり、この作品の場合のように、国家間の戦争が行なわれているのであれば、<看護員>や<軍夫>のモラルや意識は、ほとんど一般社会の理解を絶したものとなるだろう。
「歌行燈」の主人公が<能楽師>であることも、別の意味でまた一般社会通念では、ほとんど律することはできない<別世界> の存在ということになるだろう。<能楽師> の生きている世界では、どのよ-なモラルで秩序が保たれるのか、どのような生活をしているのかが、 1般に知られることは少ない。<芸人>という存在がtかりに好奇心や憧憶のかたちをとっていたにせよ、逆に<河原乞食>という軽侮のかたちをとるにせよ、別の世界に生きる<異人種>のようにみえたことは確かなことのように思われる。
ところで、主人公たちの職業が、現実から隔離された世界のものであり、 一般社会では理解できない存在であることは、視点を変えてみれば、1般社会との接触を拒絶した世界に生きているということになる。ふっぅの意味での<社会生活>が行なわれていないということである。初めに述べたように、<生活>とは、<個人>と、それを囲続している<外界>との、対立、抵抗、調和などを意味するものであるとしたら、主人公たちには<生活>がないとい-こととなるだろう。主人公は、自分だけの世界に息づいていて、自分以外の外界と連なることはない。話し、息づき、行為するすべてのことが、自分だけの世界であり、自分以外の人物といっても、つまり自分と同じ生活圏にいる人たちとしか接触しないのであるOこれは、<外界>である一般社会からみれば、<閉ざされた別世界>ということであり、主人公たちからみれば、<外界>に対して、本質的には、いかなる意味においても、働きかける必要もないし、また、その必要がないということである。
ところが、同じような存在として、「化銀杏」と「高野聖」の女主人公が考えられる。二人とも、独立した人格として社会参加をする条件である<職業>をもっていない。しいていえば<人妻>である。いうまでもなく、社会に連なることのできる存在ではなく、<家>あるいは<夫> の一部分に過ぎない。このことは、彼女が、社会から隔離された<特別な世界> に生きていることであり、 一般社会は、彼女がどんな生活意識をもち、どのようなモラルで暮しているかを、知ることはできないし、また必要もないことである。そもそも一般社会は、彼女の世界に関心を払うこともないといってよい。
こう考えて-ると、鏡花の文学作品の主人公(女主人公)に共通しているのは、 1般社会から遊離した、あるいは隔絶された、<別の世界> に生きる人物であるということができる。もし一般社会を<現実世界> という言葉で表わすとすると、<非現実世界>ということができるLt主人公たちの世界とて、まざれもない文学的現実世界だということになれば、<もう一つの現実世界>といってもいいだろう。  
2
鏡花の描いたこれらの人物たちは、彼らが行為するために、それにふさわしい背景(時・所)を与えられていることにも注意する必要がある。そして、「人物」がそうであったように、「背景」にも、ある共通した特徴をみることができそうである。
特徴の一つは、「外科室」を除くすべてが、<夜の時間>であるということである。もう一つは、「夜行巡査」を除-すべてが、<閉ざされた室>か、<人里離れた1軒屋>という場所であるということである。これは、何を意味するであろうか。<夜> から考えられるのは、当事者以外の第三者からは、明瞭に認識されない状況にあるということである。これは、そのまま<閉ざされた室><人里離れた一軒屋>とい場所にも通じることである。そういう背景の意味するところは、<当事者>の言動が、<第三者> から認識されにくい結果、<当事者> は自分以外のどのような存在に対しても、気をつかう必要がないことになり、自由に、自己の<内面世界>をここでさらけだしてみせられるということになる。これを作者の立場から言い変えてみれば、作者は、自分が意図した人物像を、純粋に、典型的に措くことができる、ということである。それが、<外界>との関係からみれば、不自然であり、誇張され過ぎて、真実性が薄くなる恐れがあるはずのところ、<外界> との接触を遮断したために、誇張や不自然さも、その人物の<内面世界>を典型的に、効果的に示すことができるtということになるだろう。
「夜行巡査」の<八田巡査>は、<真夜中> の<お嬢端>をパトロールするが、<第三者>が介在する余地がないために、完壁なまでの<巡査の典型>として行為Lt事件を起こすことができる。つまり、<現実世界> では、誇張に過ぎ、不自然であって-アリティのないことも、<真夜中>の人っ子ひとりいない<お濠端>であるという設定によって、逆に効果的となることができるのである。
「外科室」の背景も、文字通-に<閉ざされた一室>である。空間的に、<当事者>と<外界> とが遮断されているだけでなく、心情的にも、意識的にも、<外科室>は、<外界> からの観察も干渉も許されない状況となっていることに注意する必要がある。<貴船伯天人>が、<高峯医学士> のメスで、自分の胸をつ-という行為も、不自然に争えないのは、<第三者>の批判を拒絶している<閉ざされた室>のためである。
「海域発電」も同様に<閉ざされた室> であり、また、日本本土からも隔絶されているという大状況も加わり、すでに「人物」のところでも触れたように、<戦争中>であるという状況が、更にもう一つの条件となって、<当事者>と<外界>とを、二重三重に隔絶していることになる。
「化銀杏」の女主人公お貞も、<自宅の一室>という限られた空間の中だけで生き、夫を安楽死させるということも、当然のことながら<夫と二人だけの室>であり、狂気になっているところも、<薄暗い一室>であり、行燈の灯を消しにくるのも<真夜中> である。
「高野聖」の舞台は、人里離れた飛弾の血中の<孤家>である。それも洪水によって、部落の家は残さず流されてしまい、 一村の人畜はすべて死滅したということになっている。しかも、この<孤家>は、十三年前に人里から全く交渉を絶っている。たまたま、ここに辿りついた行脚僧にしたところで、道に迷った上に、「大蛇」に気絶寸前の危機を感じたり、「体中珠教生になったのを手当次第に掻い除け抄り棄て、抜き取などして、手を挙げ足を踏んで、宛で躍り狂う形で歩行」くことで、やっと「山蛭」の襲撃を避けたりという、いのちがけの冒険の未のことである。この<孤家>が、すでに現実社会から隔絶されているだけでなく、出来事は、<闇>の中で展開されることになっている。作者は、どのような<非現実的な>人間でも事件でも、<外界>のことを何ら考慮することなく、自由に描くことができることになる。
「歌行燈」も、善多八と按摩宗山の争いの場は、<夜>の<妾宅の二階一室>であり、憤死した宗山の娘三重と善多八が芸を授受するところは、<暁闇>の<鼓ケ麻の裾にある、雑木林>である。
このようにみてくると、それぞれの作品のニュアンスは異なっていても、<夜>であり、<闇>の時間であり、<閉ざされた空間>であって、<外界>と交渉を持つ必要のないところであるということになる。
さて、私たちは、鏡花の文学世界に登場する「人物」が、一般社会の通念を拒絶し、日常的現実的な生活感覚やモラルで律しきれない、<特別な世界>に生きるものであることを、その特別な<職業>のもっている意味から理解した。また、それらの「人物」の行為する背景が、<夜の時間>と<閉ざされた空間>であることから、いわゆる一般社会の目、つまり<外界>から隔絶された状況あることを考えてきたつもりである。そして、そのことは、作者が意図した作品の効果をあげるために、「人物」「背景」が<純粋な典型>として、不自然でな-設定されているということも理解した。これは、「人物」の<内面世界>を描くのに、社会通念による生活感覚やモラルを無視できることであった。こうして、作者の人生観・世界観・美意識などを、純粋に、直接的に「人物」に具現させることができた。
ここで、くだ-だしく繰り返してみたのは、鏡花の作品にみられる「事件」を考えるためなのである。  
3
ここで考えたい「事件」というのは、作品を構成する上で、どうしても欠かすことのできない「出来事」という意味である。あるいは、作者の意図した効果に、著しい影響を与えている「出来事」と考えたい。あるいはまた、主題を考える上に、どうしても無視することのできない「出来事」というように理解しておきたい。
前掲の表をみても分るように、「高野聖」を除くすべての作品は、<死>が中心的な「事件」となっている。「夜行巡査」では、泳ぎを知らない主人公が、自分の恋人のお香の伯父を救うために、お濠へとびこんで<溺死>するのであり、「外科室」では、意中の人である高峯医学士に手術を受ける寸前に、女主人公貴船伯夫人は、「高峯が手にせる刀に片手を添へて、乳の下深く掻切り」て<自殺>している。「海域発電」では、主人公神崎愛三郎の人格や生きかたを示すために欠かせない「事件」として、中国娘の李花が<強姦死>している。「化銀杏」も、お貞が狂気になって行燈を消して歩く原因となったものとして、夫の西岡時彦の<安楽死>が中心的事件となっている。u65378 「歌行燈」では、三重を接点として、二つの物語がクライマックスのところで重層的効果を挙げるが、そのために三重の父である按摩の宗山が、<憤死>していなければならないのである。初めに述べたように、「高野聖」には、こうしたかたちでの<死>はない。しかし、富山の薬売りが、女主人公の魔力によって馬に変身させられるのも、<人間としての死>と考えられる。しかも、作品の効果をあげるのに、著し-役立っているということができる。主人公の宗朝も同じ運命にあったのであり、そのことは作品にリアリ-ティを与えることの重要な条件の一つとなっている。
「地体並のものならは、嬢様の手が触って郡の水を振舞ほれて、今まで人間で居よう筈はない。‥-‥お前様それでも感心に志が堅固じゃから助ったやうなものよ。何と、おらが曳いて行った馬を見さしたっろう、それで、孤家へ釆さっしゃる山路で富山の反魂丹亮に達はしったといふではないか、それ見さっせい、彼の助平野郎、疾に馬になって、それ馬市で銭になって、銭が、そうら、此の鯉に化けた」ということでも理解できる。
それでは、<死>はどのような意味を持っているであろうか。
先ず構成の上からみて、<死>は作者の意図(主題)を導きだす条件、あるいは材料となっていることに気づ-。「夜行巡査」の八田巡査は、自分の恋を妨げている「殺したいほどの老爺だが、職務だ-」として、お濠に落ちたお香の伯父を救おうとする。泳ぎを知らない自分が溺れることを承知の上でのことである。これに対して、「後日社会は1般に八田巡査を仁なりと称せり。ああ果して仁なりや、然も一人の菜が残忍苛酷にして恕すべき老車夫を懲罰し憐むべき母と子を厳責したりし尽棒を、讃歎するもの無さはいかむ」と、作者は自己の意図を説明する。同様にして、「外科室」の貴船伯夫人の<自殺>と高峯医学士の<後追い心中>死についても、「語を寄す天下の宗教家、架等二人は罪悪ありて、天に行-ことを得ざるべきか」といい、作者の意図がどこにあるかを強調している。また、「海城発電」では、心を通わせていた李花の<強姦死>を目前した神崎愛三郎を描いてみせ、その観察者である従軍記者じょん・ぺるとんの電文をかりて、「日本軍の中には赤十字の義務を完うして、敵より感謝状を送られたる国賊あり。然れどもまた敵情心のために清国の病婦を捉へて、犯し辱めたる愛国の軍夫あり」と、作者の
意図を明らかにしている。
以上の三作が、いわゆる「観念小鋭」と呼ばれる理由もここにあるのだし、<死>が極めて効果的な条件となっていることも確かである。
だが、果して<死>は、それだけの意味しか持ち得ないてあろうか。「化銀杏」「高野聖」「歌行燈」の<死>とは、意味するところが、自ら異っているのであろうか。「夜行巡査」(明治28)「外科室」(同)「海域発電」(明治29) は、日清戦争を頂点とした<社会状況>に作者が刺激され、 影響された結果としての作品であったろうか。そして、「化銀杏」(明治29)は、鏡花の文学世界が真に開花する過渡的作品であり、「高野聖」(明治3)「歌行燈」(明治43)は、「外科室」以下の、いわゆる「観念小鋭」と、方法的にも内容的にも異質のものであろうか。作者の創作簡度が、「化銀杏」を挟んで、異同がみられるというのであろうか。私は、そうは患わない。<死>の意味は一貫して変らず、鏡花の文学世界は、本質的に変化していないとみる。方法的にも、内容的にも、作者の創作態度にも、変質は認められないtと私は考える。それぞれの作品にそりれる、<死>をもう一度考えてみょう。
「夜行巡査」の八田巡査は、すでに引用した部分でも明らかなように、<自己の職務>のために死ぬのであり、作者の言葉をかりれば、「あはれ八田は警官として、社会より荷へる処の負債を消却せむがため」に死ぬのである。
ここで、巡査という<職業>がどんな意味をもつものであったか、すでに本稿で考察したところのものを、想起していただきたい。職業に<巡査>を設定したことは、 一般社会の通念では律することのできぬ<別世界>であり、一般社会でのモラルや生活感覚では理解できない<閉された世界>であったはずである。更に、<夜の時間><閉ざされた一室><人里離れた一軒屋>という背景であったことも、ここで想起ずる必要がある。そうなると、<死>の意味は自ら明らかとなってくるように患われる。
八田巡査が、自らの<職務>のため死ぬことは、作者の鋭くように、「社会より荷へる処の負債を消却せむがため」ではない。作者の鋭明は説明として、作中人物の行為や思想や感情の必然としての<別の死>がなければならない。作者が描いた「人物」であるが、作品の必然性として、作者の手をはなれた生きかたを、「人物」はしているはずである。もし、作者の意図し、説明した通りの「人物」でしかないならば、そこに作品の鑑賞も批評も存在し得なくなるだろう。作者の説明だけで、読者あるいは評者は浜手Ltそれに従っていなければならない。だが、そんなことはあり得ないことである。「夜行巡査」の場合とて同じである。作者の説明に関係なく、<八田巡査>は、自らの<内的必然>によって<死>を選んだのである。それは何か。<職務>に徹することである。肉体的生命は捨てることになるが、自らの<内面世界>に十全に生きるためである。これを逆に考えてみれば、更に明瞭なこととなる。すなわち、お香の伯父が死に、八田巡査が、その死を扶手してみていた場合である。八田巡査は、自らの世界としていた巡査の<職業>から、自分自身を自分の手で葬るか、別の力によって葬られなければならない。彼が<巡査> の職から、本質的な意味においてでも、形式的な意味ででも離れることは、彼の<全き死>を意味する。彼は肉体的に生きたとしても、もはやいかなる意味において、死んでしまうことになる。こうして、彼は、<肉体的な死>を選ぶことによって、真に充実した自己の<内面世界> に生きようとしたのである。こうしたことは、<串夫>や<婦人>に対する、完全な<職業>的な行為にもみることができるし、恋人お香と伯父の後から極めて<職業>的にパトロールすることの必然性を、読者に納得させずにはいない。くだくだしく述べたが、彼の<死>は、自己の<内面世界>を<外界>から守り、また、そこに十全に生きることを意味していた、と私はいいたいのである。この<内面世界> は、<巡査>という職業の、そもそもの本質的な意味がそうであったように、社会通念としてのモラルも生活感覚も、拒絶している世界なのである。
同じようなことは、「海域発電」にもいえる。ここでは、李花の<死> が、赤十字看護員神崎愛三郎の<内面世界>を明瞭にする意味を持っている。神崎の眼前で、心を通わせていた清国の少女が、海野をはじめとする軍夫たちによって犯され死んでゆくが、神崎は、これを救うことができなかったのではない。しかし、彼は救わなかった。彼は、赤十字看護員としての<職務>に生きるためには、李花の<強姦死>を座視せざるを得なかったのである。これは、彼が誰からも侵されたくない<内面世界>なのであり、ここに生きる以外に自分の世界は存在しないと信じたためである。だが、李花の<死>は、ひとり赤十字看青島の<内面世界>だけを示しているのではない。これは<軍隊>というもの、<戦争>というものの持つ世界を明瞭にしている。これもまた、 一般社会の通念では律することのできない、大きな<閉ざされた世界> であり、<外界>を拒絶した<内面世界>ということができる。この世界に生きるしか、軍夫は生きることができないLt<職務> に生きるしか神崎は方法をもたないのである。
「外科室」の貴船伯夫人と高峯医学士の<死>も同様である。社会的秩序やモラルでは律しられない、<愛>という名の<内面世界> に生きることが、肉体的な<死>とひきかえにして獲得することのできた唯一の<世界> であった。「化銀杏」は、夫を<安楽死>させることによって、お貞は<外界> から隔絶された<閉ざされた世界> に自ら追いこむ。すでに触れたように<人妻>は夫の附属物であり、社会に対して何らの発言権もないし、存在は無視されている。しかし、彼女が生きるためには、<夫>が必要であり、<貞淑> であることが必要である。そのためには<離縁>されてはならなず、もし<離縁>されたとしたら、それはそのまま<死>を意味していたのである。彼女は単に<離縁された女>であるばかりでなく、 一般社会に生きることはもとより、自分自身の<閉ざされた世界> に生きることさえできないのである。(念のため断ってお-が、これは「化銀杏」において、そのように措かれているのであって、私が自分の意見を展開しているのではない)お貞は、<離縁>よりは夫の<安楽死>を選び、ついに<狂気>という、完壁な<内面世界>の中に生きることを求めることになる。
「吾を見棄てるか、吾を殺すか、うむ、何方にするな。何でも負債を返さないでは、余り冥利が惑いで無いか。いや、ないか処でない! さうしなけりや許さんのだ。うむ、お貞、何方にする、殺さないと離縁する」といと厳かに命じける。お貞は決する色ありて、「貴下、そ、そんなことを私にいってもいいほどのことがあるんですか」声ふるはして蛇と閏ひぬ。「応、ある」と確乎として、謂ふ時病者は敢然たりき。お貞は‥- 俄然、崩折れて、ぶるぶると身震ひして、飛着く如く良人に綴りて、血を吐く一声夜陰を貫き、「殺します! 旦那、私はもう--」とわッとばかりに泣出しざま--勝手元の晴を探りて、菜は得物を手にしたり。時彦は、--いとも静かに、冷やかに、着物の袖も動かさざりき。
お貞は、こうして、夫の時彦を<安楽死>させ、<狂気>という、<外界>を遮断した<内面世界>にこもることで、生きることができたのである。社会にとって、あるいは他者にとって<狂気>がどんな意味をもっていようが、それはお貞にとっては何ら関知しないことなのである。
以上の「夜行巡査」「外科室」では、主人公の<死>は、<外界>を遮断することによって、自らの<内面世界>に十全に生きるための必然の帰結であり、<海域発電> 「化銀杏」でも、共に相手の<死>によってではあるが、前二者と同じような意味を、その<死>にみることができた。しかし、もう一つの意味も汲みとれないわけではなかった。つまり、主人公たちの<内面世界>であるとともに、主人公たちが身を置いていている状況をも示している。<海域発電>における<戦争><戦地>という背景が、1般社会という<外界>と隔絶したtより大きな<内面世界>とでもいうべき意味をもっていることであり、<化銀杏>も同様にして、<賓の座><女の地位>という、 一般社会からは無視され、 一般社会という<外界>から隔絶された<内面世界>をも重層的に示していることにはかならなかった。
「高野聖」も「歌行燈」にみられる<死>も、 一般社会と隔絶された<別世界>を設定するという意味をもつ。これまで考えてきた「夜行巡査」以下の四作品が、「人物」の内面世界の設定に役立ってきたのに対して、「高野聖」と「歌行燈」の二作は、「海城発電」「化銀杏」にもみられた一側面の、<外界と隔絶された状況>を設定する意味がある。これは一般社会の現実とは別の<非現実世界>といってもいいし、主人公が身を置いている<内面世界>ということもできる。すでに触れたように、「高野聖」の<死>は、薬売りの<馬への変身>であり、これはここに登場する人物の行為や思念、つまり生治を、 一般社会とは隔絶したモラルや秩序の中に置き、それに真実性を与える意味をもっている。また、「歌行燈」の<死>も、主人公でも、相手役の死でもないという点で「高野聖」と同じであるばかりでなく、<能楽界>という、 一般社会の秩序やモラルの通じない<別世界>を設定する意味も同質であるように思われる。いうまでもなく、この世界に身を置く登場人物たちは、自らの<内面世界>に安んじて生息できることになる。
これを作者の側に立っていえば、事件や背景設定(プロット)が荒唐無稽であろうと、人物が誇張された不自然さの中にあろうと、少しも意に介さなくてもよいということになる。すなわち作者は、現実社会のモラルや常識を拒絶した<別世界><非現実世界>の中で、自己の哲学や美学を、自由気債に定着できるという確廿な条件を手に入れることができたのである。  
4
それでは、鏡花の描こうとした<内面世界>とは何であったろうか。それには、<死>をどのように描いているかを考えるのがへ便利であるように患われる。
結論めいたことを先にいえば、鏡花の作品世界にみられる<死>は、<外界>の秩序やモラルを拒絶した<内面世界>へ生きようとする時の、主人公の心理葛藤‥心理の揺曳・心理の緊張感であるように患われる。それは、外界>の秩序やモラルの束縛から逃れようとする主人公の、苦悩のかたちをとったり、逃れ得たと自覚したときの満足と快惣であったり、<外界>を無視Ltあるいは忘却したときの、自らの<内面世界> への陶酔というかたちをとったりする。読者である私たちは、そこに感動するのだが、(これも結論めいたことを先にいえば)その感動の根源は、作者の美意識・美学に関わるものであるようである。その「人物」の< 死>が、どのように醜く、辛く、憤りや苦悩に満ちたものであろうとも、私たちの感動は、その人物とともに憤り、悲しみ、苦悩するところから-る感動ではない。いや、むしろ逆に、主人公たちの苦悩や憤りや悲しみが大きければ大きいだけ、その<死>に魅せられ、陶酔Lt讃美Lt<死>を美しいものと考えてしまうのである。
主人公は、<外界>の秩序やモラルの束縛から逃れるために、死ぬ(殺す)のであり、その場合に<死>は自己が安んじて身を置-ことのできる、唯一の<内面世界>なのである。苦悩し、憤り、悲しむことが大きいだけ、<死>は大きな再びであり悦惣であるのは当然である。読者は、ここで作者の美学を媒体として、主人公に感情移入してしっているのである。
具体的な描写によって、右のことを確かめてみよう。
「国賊! これで何うだ」
海野はみづから手を下して、李花が寝衣の裾をぴりりとばかり裂けり。
あはれ、肴等員はいかにせしぞ。
面の色は変へたれども、胸中無量の絶痛は、少しも挙動に露はさで、渠はなはよく静を保ち、除ろに其簡服を払ひ、頭髪ややのびて、白き額に垂れたるを、左手にやをら掻上つつ、卓の上に差置きた・る帽を片手に取ると斉しく、粛然と身を起して「諸君」とばかり言ひすてつ。軍夫と--軍夫と軍夫の除より、其白く細さ手の指の、のびつ、屈みつ、洩れたるを、練に一目見たるのみ。靴音軽く歩を移して、其まま李花に辞し去りたり。恁て五分時を経たりし後は、失望したる愛国の志士と、及び其腕力と皆疾く室を立去りて、暗塘たる孤燈の影に李花のなきがらぞ蒼かりける。
ここで私たち読者が感動するのは、少女李花が軍夫たちによって犯されてゆく過程を見ている、神崎看護員に感情移入をしているからである。李花を凌辱する軍夫たちに対して、神崎とともに憤り、抜手している神崎をも読者は冷静な気持ではみられない。だが、神崎が、飽くまで自己の<職務>に忠実であろうとして、<李花の死>とひき換えに、自らの<内面世界>の中に逃れ、<外界>を拒絶した生きかたを示すとき<李花の死>は、奇妙な感動として受け止められ、そこに<美>のかたちさえみようとする。このことは、「化銀杏」でも同じであり、(本稿13寅の引用文参照)「夜行巡査」や「外科室」でも同様である。
改めて断わるまでもないと患うが、この感動は、<死そのもの>が持つものではなく、<死へ近づく過程>の中にあるものである。だから、その人物が、他から責められ、苛まれ、あるいは自ら苦悩するというのであれば、<死>と同じか、それに近い感動を得ることができるように患われる。そして、ここに作者鏡花の美学があり、創作の姿勢があるtといっていいだろう。
たとえば、「歌行燈」で二二重が責め苛められる部分が、どのようなかたちで<美>となり、<感動>となるかを、三重自身の口を籍りて描写してもらおう。
今Lがたもへな、他家のお座敷、隅の方に坐って居ました。不断ではない、兵隊さんの送別会、大陽気に騒ぐのに、芸のないものは直かん、衣服を脱いで踊るんなら可、可厭なら下げると--私一人帰されて、主人の家へ戻りますと、直ぐに酷いめに逢ひました、え。
三味線も弾けず、踊りも出来ぬ、座敷で衣服が脱げないなら、内で脱げ、引剥ぐと、な、帯も何も取られた上、台所で突伏せられて、引窓を故と開けた、寒いお月様のさす影で、恥しいなあ、柄杓で水を立続けて乳へも胸へもかけられましたの。(十五)
こうした三重の悲しみと苦痛が、次のような<美>を生みだLt<感動>を喚起するのである。
「あい」
と僅かに身を起すと、紫の襟を噛むやうに- ふっくりしたのが、あはれに賓れた-
陳深-、恥かしさうに、内懐を覗いたが、膚身に着けたと患はるる--胸やや白き衣紋を透かして、濃い紫の細い包、祇紗縮緬翻然と翻ると、燭台に照って、楓と輝く、銀の地の、ああ、白魚の指に重さうな、一本の舞扇。
晃然とあるのを押頂- やう、前髪を掛けて、扇を其の玉轡の如く額に当てたを、其のまま折目高にきりきりと、月の出汐の波の影、静に照々と開くとともに、顔を隠して、反らした指のみ、両方親骨にちらりと白い。(十七)
そして、これはまた次の描写と照応する。
「お客の言ふこと聞かぬと言うて、陸で悪くば海で稼げって、崖の下の船着から、夜になると、男衆に捉へられて、小船に積まれて海へ出て、月があっても、島の蔭の暗い処を、危いなあ、ひやひやする、木の葉のやうに浮いて歩行いて、寂とした海の上で--悲しい唄を唄ひます。而してお客の取れぬ時は、船頭衆の胸に響いて、女が恋しうなる禁厭ぢや、お茶挽いた罰や、云って、船から海へ、びしゃびしゃと追下ろして、汐の干た巌へ上げて、巌の裂目へ僻向けにロをつけさして、(こいし、こいし)と呼はせます。若い衆は肋に待ってて、声が切れると、柴螺の殻をぴしぴしと打着けますの。--室には蒼い星ばかり、海の水は皆黒い。晴の夜の血池に落ちたやうで、ああ、生きて居るか--千鳥鳴く私も泣く。--お恥かしうござんす」
と翳すの利剣に添へて、水のやうな袖をあて、顔を隠した其の風情。人声なくして、ただ、ちりちりと蝋燭の涙白く散る。(十八)
長い引用だったが.<苦痛>や<悲しみ>が、どのように<美>と<感動>に照応しているかが理解できた。こうした照応は、「高野聖」にもそのまま見ることができる。富山の薬売りが、馬に変身(人間の死)させられた事実が、そのまま宗朝の運命であったかも知れないという恐怖(本稿10貢引用文参照)と照応して、女主人公の夢幻的な<美の世界> が展開されるのである。
なるほど見た処、衣服を着た時の姿とは違って肉つきの豊な、ふっくりとした膚。(先刻小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中へかかって気味が憩うござんす。丁度可うございますから私も体を拭きませう)と姉弟が内端話をするやうな調子。手をあげて黒髪をおさへながら脇の下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、唯これ雪のやうなのを佳る霊水で清めた、悠う云ふ人の汗は薄紅になって流れよう。(十六)
「事件」としての<死>あるいは、それと同じ質の出来事がもっている意味について考察してきたが、鏡花の文学世界は、<外界>から遮断された<内面世界>を造型するものであることが理解できた.しかも、その世界は<死>を頂点とする<美的世界>ということができそうである。  
5
私はここで、前掲(4貢)の表の( )内の「人物」について二百しておきたいO
「夜行巡査」(作者)「外科室」(予)「海城発電」(じょん・ぺるとん)「化銀杏」(作者)「高野聖」(作者・宗朝の語り口)であり、「歌行燈」は、( )の人物に代るものが存在することがわかる。
これら( )内のものは、主人公の<内面世界>と、主人公を囲綾する<現実世界>との接点に立ち、作品によって、それぞれの役割を果しているようにみえる。
「夜行巡査」の(作者)は、次のよ-に作品の意図を説明する。
後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称せり。ああ、果して仁なりや、然も一人の菜が残忍苛酷にして恕すべき老串夫を徴罰し憐むべき母と子を厳責したりし尽樺を、讃歎するもの無さをいかむ。
ここでいう<社会>は、私たち<読者>と同一であっていいはずである。< 一般に八田巡査-->以下は、読者が自由に考えるべきことであり、作品とは、作者の説明を待たなければ、描かれた世界が理解できないtというのではないはずである。すでに述べたように、作品を鑑賞Lt作品世界に感動する自由を読者が持つ限り、作者の説明は何の意味もない。「人物」「事件」「背景」という三要素が、 一つの完成した<作品世界>を造型しているはずであり、それ以外の説明は無用と考えられるべきだろう。にも拘らず、(作者)が説明しなければならないのは、なぜであろうか。
私は心急くので、ここでも結論めいたものを先に述べておきたい。作者は作品の造型が、真実性(リアリティ)に乏しいとみて、それを補な-ために説明を加えたtと先ず考えられる。作者は、主人公の八田義延という「人物」に、誇張された不自然さを感じたにちがいない。水泳を知らないのに、「職務だ! 断めろ」と、お香の手を払いのけて濠に身を躍らせる行為や、パトロール中の言動などにも、確かにそれは感じることができる。しかし、私は、それが極めて効果的で、 ユニークな<作品世界>を造型していることで、真実性(リアリチイ)を害うものでないのを、すでに確かめておいた。だが、鏡花は、そこに真実性(-ア-ティ)の稀薄さを感じたのであるかもしれないOこれは、「外科室」でも、貴船伯夫人が高峯医学士の手のメスで自分の胸を刺す行為や、同じ日に高峯が自刃するということも、確かに不自然であり、リアリティに欠けている。これは諸家の指摘を待つまでもないことである。作者が、それを説明で補ったと考えるのは自然である。(ここから<観念小説>などという概念を引きだすのを、私は採らない。これまで述べてきたことから、そのことは理解できよう)作者が、リアリティを気にしたことは、 「高野聖」の構成をはじめとして、宗朝の箭り口や、語っている旅館の使い方でも十分立証できることである。これについては、坂本浩氏のすぐれた指摘がある。(注3)
第二に、小説作法の未熟さに由来することも考えられる。これは「夜行巡査」「外科室」に特にいえることである。
同じようにみえる「海域発電」を別に考えたいのだが、その理由は、
予は目撃せり。日本軍の中には赤十字の義務を完うして、敵より感謝状を送られたる国賊あり。然れどもまた敵悔心のために清国の病婦を捉へて、犯し辱めたる愛国の軍夫あり。
という(じょん・ぺるとん)の名にょる説明が、「夜行巡査」「外科室」とは、意味が異なるものだからである。(じょん・ぺるとん)は、「海城発電」の作品世界で造型されたものの、そのエッセンスを述べたものであり、「化銀杏」もそれに当ると考える。これは万葉集における「長歌」に対するに「反歌」を以ってするのと同じである。これは、芥川龍之介の作品(「鼻」「芋粥」など)や森鴎外の作品(「舞姫」「最後の一句」など)にもそりれるものであるOだが、「夜行巡査」「外科室」は、作品で造型したものとは、別の側面を(作者)が歌いあげているのであり、(作者)の説明部分にみられるものが、作品を書く意図であったのに、それが造型できなかったための補足ではないかと思われる。当時(明治28年)の小鋭技巧が文壇的レベルでどのくらいのものであり、鏡花がどの程度であったかを裏づける必要があるが、今はこれは不可能である。社会や宗教などに対して、単純率直に憤り、批判しているローマン主義的心情が、(作者)の説明に感じられるが、それは説明部分に止っていて、作品には造型されていないのである。いずれにしても、作者は自己の作品世界が、読者を説得するためのリアリティに欠けているtと自覚したためではないかと私は考える。
ここには、<外界>に背を向けて、自己の<内面世界>に生きるという作品世界に、作者は不安をもっていたのではないかと考えられ、作者の文学姿勢を考える出発ともなるものだが、これは別の機会にゆずりたい。  
6
鏡花の作品のいくつかについて、小説の構成要素である「人物」「事件」「背景」の三つの面から、私なりに考えてきたつもりである。三つのどれもが、 一般社会から隔絶したもの、あるいは理解を超えるものであり、それらによって造型された世界は極めて独自のもの.であった。これを<非現実世界><非社会的世界>と呼ぶこともできよう。しかし、これは本稿で扱った「夜行巡査」「外科室」「海域発電」「化銀杏」「高野聖」「歌行燈」の六つの作品に限っておきたい。そして私は、こうした作品世界を、「泉鏡花だけの世界」とは考えたくない。六つの作品で造型した世界は、鏡花資質の所産であり、鏡花独特の世界であることはもちろんとしても、私は資質に大きな意味を持たせたくはない。むしろ、小説の方法が、作品世界を決定するのではないかと考えている。  

1 谷崎精二「小説形態の研究」(講談社)に紹介されている諸家の論述参照。
2 大野茂男「近代小説と職業」(明治書院)
3 坂本浩「高野聖」(解釈と鑑賞・昭和二十四年五月号)  
 
『高野聖』について1

 

小説における心理描写と行動描写はだいたいにおいて反比例の関係にある。ここでいう行動描写とは単なる作中人物の振る舞いに留まるものではなく、その奥底に作中人物の感情、思想、などが孕まされた描写であるとことわっておけば前述の反比例という言明もいささか説得力が出てこようか。以下に書かれた文章は私がはじめて鏡花について書いたものであるのだが、年月を重ねるにつれて、鏡花の書く文章はほとんど心理描写が書かれていないことに気付く。ただ、現代の文芸における行動描写の欠如や、どちらが優位であるかだとかを述べるつもりはない。なお、泉鏡花という作家は明治期の作家であり、十代には尾崎紅葉に弟子入りし、デビューも早かったため、歳の近い夏目漱石らよりも活動期間はずいぶんと長い。明治期の高名な作家の例に漏れず、文壇におけるリアリズム・自然主義の潮流によって排斥されていたことは小林秀雄の批評からも窺える。『高野聖』は彼の数多い代表作の一つであり、鏡花特有の「お化け」「女性」という意匠がふんだんに盛り込まれた作品となっている。
さて、この短くて簡潔な物語は、主人公である高野聖と、ある女との交流を本筋においているのだが、その中で彼の思想(思想と言ってしまうと語弊があるのだが、其のことについては後で述べる)が色濃く映し出されていると思われる二つの場面について述べたいと思う。 一つ目は、女が僧に歌を聞かせようと男を励ます場面から
「左右して、婦人が、励ますように、賺すようにして勧めると、白痴は首を曲げて彼の臍を弄びながら唄った。 木曽の御嶽山は夏でも寒い、袷遣りたや足袋添えて。(よく知ってませう、)と婦人は聞き澄ましてにっこりする。」
ここでポイントとなるのは「白痴」と呼ばれた男である。鏡花は僧にこの婦人の夫である「白痴」にばかというルビを振って呼ばせている。この時代そう呼ぶものかどうかは不明だが、僧のそれまでの男に対する言動から判断して、僧は彼の歌を聴くまではこの男を無能で愚かな男としてでしか捉えていない。この時点で女にかなりの好意を抱いている僧にとって、この男の存在は疫病神以外の何者でもない。しかしそれは「嫉妬」のような明確な感情ではなく、むしろ不可解だ、という思いである。僧はこれほどまで美しい女が、このような山奥で、こんな男の世話をしていることが理解できないのである。そのような思いを抱いているものが、この女は何か特別な事情があって、このような不幸な境遇にあっているのだろう、と考えることはいたって自然なことと思われる。そしてそのような状態でこの場面を迎えたのだが、男の唄は、
「不思議や、唄った時の白痴の声は此話をお聞きなさるお前様は元よりじゃが、私も推量したとは月ペイ雲泥、天地の相違、節廻し、あげさげ、呼吸 の続く所から、第一其の清らかな涼しい声といふものは、到底此の少年の咽喉から出たものではない。先づ先の世の此の白痴の身が、冥土から管で其の膨れた腹へ通はして寄越すほどに聞こえましたよ。」
とあるように見事な唄であったことが伺える。この唄を聴いて僧は自らの邪推を恥じる。つまり、この男女は何か理由があって、一緒に暮らしているという考えは、この白痴の唄によって否定されるのである。僧はこの男の純朴な心(それは白痴ゆえのものかもしれない)と女の優しさとの非常に強く純粋なつながりを直感的に感じ取り、自らの打算的な考えを恥じたのだ。それは、
「私は畏まって聴き果てると、膝に手をついたッ切り何うしても其処な男女を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤとして、はらりと落涙した」
という描写に表れている。また落涙したとあるがそれは、
「(女の)其男に対する取り廻しの優しさ、隔てなさ、親切さに、人事ながら嬉しくて、思はず涙が流れたのぢゃ」
と説明されているように、男の純粋な心に対してのなんの曇りのない女の優しい心に感動したのだ。 この場面で描かれている、より純粋なもの、美しいものへの憧れは文学に限らず芸術における最大のテーマの一つである。特にこの「浄化」という形式はあらゆる作品の中に見られる、例えば芥川龍之介の『蜜柑』がその代表的な例だろう。鏡花は、現実の世界から離れた山奥という設定の効果から、より純度の高い領域でこの「浄化」を描き出すことに成功しているといえる。これは漱石が『草枕』で得ようとした効果に似ており、そこに鏡花の唯美的な芸術観が読み取れる。しかしこの話はそこでは終わらない。 もう一つの場面は親仁が女の正体を明かす場面である。僧は女の中に潜む鬼を知る、と同時に女の孤独を知る。読者はここで鏡花がいくつかの伏線を回収していることに気づくだろう。それは女のどこか魔性の帯びた態度だったり、女に群れる畜生や魑魅魍魎、あるいは馬に対しての行動であったり。そのなかでも注目すべきは女が僧を泊める際、言った一言。
「私は癖として、都の話を聞くのが病でございます、口に蓋をしておいでなさいましても無理やりに聞かうといたしますが、あなた忘れても其時聞かしてくださいますな、ようござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたは何してもお話しなさいませぬ、其れを是非にと申しましても断って仰らないように屹と念を入れて置きますよ。」
ここには女の孤独がはっきりと浮き出ている。外の世界への憧れが悲壮な思いを伴って、女の口から吐き出されている。そもそも女が鬼に変わるときそこには深い悲しみがつきものだ。年頃の若い女がその時期に「白痴」の世話で虚しい(このことは先に述べたことと対立するものではない、それは後に書く)日々を過ごしているうちにその悲しみは次第に募り、女はいよいよ妖艶さを増してゆく。人里離れた場所で人恋しさが募り、その悲しみが旅の男を次々に畜生に変えていく。一体どれほどの悲しみが横たわっているのか、それは想像を絶するものである。 さて、1つ目の場面と合わせて、この女を僧はどう思ったのだろうか、今でもあそこで残ればよかったと思うことがある、と口にしていることから、僧の女に対する複雑な気持ちがわかる。そして女自身も、この僧が出発する際執拗に引き留めようとしたことから、女の中の葛藤も伺える。この関係或いはこの葛藤は悲劇だ。しかし鏡花は決してこの女の二つの特性、純粋な心と内に秘めた鬼とを単に相反するものとして描いていない。むしろその二つのテーゼは弁証法的に統合されこの女のなかに内包され、女の性質をはっきりと浮かび上らせている。女の優しさはその魔性に寄与し、その魔性は優しさに寄与している。根源は女の持つ聖性を帯びるほどの純粋な魂であり、その奥には深い悲しみが横たわっている。狂気と親しい女ほどよく泣くのだ。私は、最初に述べたように、この作家が明確な思想を持ってこの物語を作り上げたとは思わない。さらに言えば、この作家がそのような思想を否定しているようにも思える。「白痴」を純粋な人間として描いたことで、鏡花はそれを否定したのだ。彼が求めたものはもっと根源的なものである。それはこの物語の全てに通して横たわっている無垢な魂である。読者はこの物語を読みながら、主人公の僧同様に浄化され、最も大切なものに気づかされる。それ故に、悲劇にも似た女の人生の悲しさと、僧と女と白痴との交流の中で描き出される無垢の魂の静謐さ故に、この物語は何度も何度も版を重ねて読み継がれてきたのだろう。
ここまでが数年前はじめて鏡花について書いた文章である、多分に読み苦しいものであったと思うが、何ゆえ鏡花という文学の天才にはじめて対峙した時のものであるが故お許しいただきたい。上記の文章に挙げられた二つの場面はほとんど心理描写が書かれていないのにも関わらず多分に作中人物の心理、感情、思想が飽くまで密やかに語られている。数年前のわたしは断言の助動詞でもってこの文章を書いていたが、もちろん読み方は人それぞれにあるだろうし今のわたしとて同じ見解を示すとは限らない。蓋し、心理描写がその色容によって自らの名を開示する花ならば、行動描写とはその花の散った一欠けらである。私たちは幸いにも花びらの一枚からかつて咲き誇っていたであろう仮想の花を想像することが出来る。『春琴抄』における春琴の描かれ方、『親和力』におけるオティーリエの描かれ方、或いはクライストの諸作品など、枚挙に暇はないが、私たちは時に現実に差し出された花よりも、花のひとひらから想起させられた架空の花の物語により深く、耳を傾けてしまうことがあるのではないか。  
 
『高野聖』について2

 

『高野聖』は、泉鏡花の代表作というだけでなく、その語りの味わいや独特の文体で、妖怪世界がより効果的に表現され、日本文学史的にも、怪奇小説、幻想小説の名作として評価されている。
笠原伸夫は、「三層の異質の時間」が「入れ子型構造」をとりながら組み立てられている『高野聖』の構造を、「語りのなかに別の語りが嵌め込まれ、その別の語りのなかにさらに別の語りが参入する」と説明し、その構造により、「想像力の自己増殖とでもいうのか、奇異妖変の気配は内側へ行けばゆくほど濃密になる」と解説している。山田有策は、その鏡花の「〈語りの〉枠組」が、「必ずしも整然としたスタティックな形をとっていず、絶えず融化し流動する点にこそ鏡花文学の〈語り〉の最大の魅力があるとみてよい」と評している。
『高野聖』を、「鏡花の想念がみごとに落ちこぼれなく凝縮した短篇」、「軽佻を脱して成熟」した文体だと評する三島由紀夫は、この作品の構成が、「能のワキ僧を思はせる旅僧」が物語るという伝統的話法の枠組みにより、「幻想世界」と「現実」との間に「額縁がきちんとはめられる」ことで、読者が徐々に「天外境」に導かれ、その世界への共感がしやすくなる構造に、成功の一因があると解説している。また主題の成功要素に関しては、「ヨーロッパの『洞窟の女王(英語版)』風な、不老不死の魔性の美女の、悪にかがやく肉の美しさと、わが草双紙風な、みにくい白痴の良人とのコントラストが、人々にすでに親しまれる要素を秘めてゐたといへるであらう」とし、山蛭の森の場面の描写については、その「写実的手法のみごとさ」が、後段の「超現実的な場面を成立たせる大切な要素」になっていると解説している。
また〈優しいなかに強みのある…(後略)〉という一文に言い表されている「鏡花の永遠の女性」像が具現化し、それが、「手を触れただけで人を癒やす聖母的な存在が、その神聖な治癒力の自然な延長上に、今度は息を吹きかけるだけで人を獣に変へる魔的な力の持主になり、しかも一方では、白痴の良人に対する邪慳ともやさしさともつかぬ母性愛的愛情を残してゐる」女になっていることに三島は触れ、鏡花にはそういった「〈薄紅ゐの汗〉したたりさうな無上の肉体の美をそなへた女」に、「生命と人間性の危険を孕んだ愛し方で愛してもらひ、しかも自分だけの特権として、格別の恩寵によつて、命を救はれて帰還したい」願望があるとし、その裡にある「特権意識」こそ、鏡花の「詩人的確信」ではないかと考察している。
そしてその特権は、「努力や戦いの成果」でなく、「清らかで魔的な美女が自分にだけ向けてくれた例外的なやさしさのおかげ」で助かるという「愛」で「堕罪を免れる」ことであると三島は解説し、以下のように論考している。
三島由紀夫「解説」(『日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花』) / 鏡花は、かくて、芸術家としての矜りをここに賭け、そのやうな免罪符的な愛を受ける自分の資格は、あの馬に変へられる憐れな富山の薬売などとはちがつて、美を直視し表現する能力、いかなる道徳的偏見にも屈せず、ありのままに美を容認する能力が自分に恵まれてゐるからだと考へたにちがひない。では、そのやうな芸術家とは何物であらうか。彼自身が半ばは妖鬼の世界の属し、半ばは妖鬼を支配し創造する立場に立つことである。
吉田精一は、『高野聖』の舞台である飛騨天生峠の、「蒼空にも雨が降るという飛騨越えの難所、蛇や蛭の棲む山道」は、「人生行路の苦難」を意味し、旅僧があえてその道を選ぶのは、「ブルジョア的卑俗、功利の化身のような富山の売薬を憎んだため」だと解釈しつつ、そこに「この時代にブルジョアのモラルに面を反ける者のたどらねばならぬ宿命が暗示される」とし、以下のように解説している。
吉田精一「解説」(文庫版『歌行燈・高野聖』) / 愛情なくただ肉欲をもってのみ婦人に近づく世の男性、それが人間の化した馬や猿やむささびの姿であって、旅僧ひとりが身を全うしたのは、その愛情の無垢で純一なためであったとすれば、ここに作者のもつ恋愛観が見られる。かように見れば『高野聖』の舞台、布置は、ロマンティックな詩人の目に映じた人生の縮図である。
そして、そういった分析の「概念的な影」は、物語を堪能している間には感じさせない『高野聖』の、「月光に輝やく」谷川の風景や妖艶な「裸体の美女」など、「ドイツの浪漫派の情景」を思わせる「神秘幽怪な書き割りの中」で、鏡花は「デモーニッシュな感情の奔騰に身を任せ」ていると吉田は解説しながら、「蛭の林や、滝の水沫や、〈動〉を写して神技に近い作者の筆致には、妖魔を実感し、神秘に生き切った作者の体験の裏打ち」があるとし、上田秋成の『雨月物語』と並び、日本文学史上、「絶えて無くして稀にある名作」だと評している。
河野多恵子は、以下のように述べている。
河野多恵子「鏡花文学との出会い」 / 鏡花文学には、芸者の身辺はじめ当時の風俗が沢山取り入れられている。また、今日の見方からすると同調しかねるような考え方にも出会う。だが、そういう属性に拘泥って、彼のすばらしい世界の秘密に触れる歓びを知らずに終わるとすれば、まことに残念なことだと思われる。鏡花の天才は、人間というもの、異性というもの、生きるということの不思議さを、実に鋭く深く掘り、また、高らかに謳いあげている。すばらしい体操競技のように、自由自在に、柔軟に、奇抜に、何ものにも捉われずに……。そして、鏡花文学でしばしば非現実の世界が繰り展げられるのも、古風な物語性の必要からではなく、むしろ意識下の意識ともいうべきものの飛翔する美しい姿なのだ。だからこそ、鏡花文学の場合は、一見荒唐無稽な設定も、少しも不自然な感じを与えず、その世界へ読者を誘い込むのでろう。/そのような鏡花文学の特色を属性的な部分においてではなく、本質的に特によく感じさせてくれるのは、「高野聖」などではないかと思う。
塩田良平は、「作者の神秘主義への強烈な信仰、ある種のアニミズムが虚実をのりこえて、有無をいわせず読者を引きずって行くところに、作品の魅力がある」とし、以下のように解説している。
塩田良平「作品の解説と鑑賞」(文庫版『高野聖・歌行燈聖』) / 要するに物語としては、最初から色々の捨て石をおき、次第にそれらの因果関係を解いて行くというやり方であるが、筋の起伏と話し手の呼吸とがぴったりとあい、話の運びに緩みがないところに構成力の巧みさがある。  
 
舞台の夢

 

■第一章 「メディア」「助六」 / 演劇空間
ギリシア悲劇『メディア』 
ギリシア悲劇と現代
須永 『メディア』のお話を伺いたいのですが、最初に「これ」というふうにお考えになったきっかけは、何かおありですか。
玉三郎 若い頃、ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督で、マリア・カラスの『王女メディア』を観たことがあります。カラスはメディアのキャラクターにピッタリでした。印象的だったのは日本の地唄を、カメラがパン(パノラマ撮影)する画面に効果的に使っていたことです。ぼくは一度、ギリシア悲劇にさわってみたいと思っていたんですが、ギリシア悲劇はたくさんあるけれど、『メディア』の話がわかりやすいのではないか、ということで決めたんです。今まで演じてきた時代はせいぜい400年位前の中世まででしたけれど、それよりも前の時代にふれてみたいという気持があったんですね。そういう意味で、ギリシア悲劇を考えていた頃は20代だったと思うんだけど、30代になって、子供がいてもおかしくないような年齢になるまで待っていたところへ、偶然、機会がやってきたものだから。
須永 ギリシア悲劇には『アンドロマケー』とか『アンティゴネー』とか、女主人公のものもいろいろありますが、一族の葛藤のようなお話が多いでしょう。
玉三郎 そうですね。根源的な宿命的な葛藤。
須永 『メディア』は男と女の愛と抗争というので、戯曲として、一番現代性をもっているとぼくも思いますね。去年(57年7月)、歌舞伎の海外公演でニューヨークへお出かけでしたが、あの時あちらでご覧になりましたか。
玉三郎 ニューヨークで偶然観ました。
須永 エウリピデスの原作の形のままで演っていましたか。
玉三郎 そうです。それで、ギリシア悲劇を観ているアメリカ人たちが、この作品を過去の歴史的な遺産として観ているのではなく、現実の自分達の感情や感受性で受けとめて舞台に反応しているのがおもしろかったですね。役者の言葉に観客がいちいち喜んだり、あきれかえったりするのね。ギリシア悲劇を非常に固苦しく考えていたぼくは、そこが意外でした。
須永 日本では、ギリシア悲劇というのは戦前では2回しか上演されていないんです。
玉三郎 そうですか。何と何?
須永 大正5年に中村吉蔵さんという劇作家が、『オイディプス』を『エヂポス王』と表記して、それを小笠原伯爵邸の庭園で演ったのが1回。それを2年後に新富座にかけたのが1回、それきりなんです。あとは、戦後になりまして、1950年代末ですね。それは東大のギリシア悲劇研究会という学生達が始めたものです。商業演劇で演りだしたのは…。
玉三郎 ほんの最近でしょう。
須永 それも最初はラシーヌなど後世の焼き直しのものが多かったんですね。浅利慶太さんが演出した『アンドロマック』とか。『メディア』もセネカの『メディア』がありますね。それを『冥の会』という狂言の人や山岡久乃さんがお演りになったのは、だいぶ日本語風に直していらっしゃいましたね。それから蜷川幸雄さんの『メディア』。あれがエウリピデスの『メディア』の本邦初演なんですね。
玉三郎 それくらいしかないわけですか? ギリシア悲劇の上演って。
須永 あとは新劇で俳優小劇場の『オイディプス王』とか民芸の『エレクトラ』くらいかな。鈴木忠志さんの早稲田小劇場の『トロイアの女たち』も変えてありますね。白石加代子さんに合わせて書き直している。だから大劇場で本格的に演るというのは、まだわずかしかないですね。
玉三郎 それなのに、なんでぼくがギリシア悲劇と思ったのか、自分でもわからない。
須永 今度の公演では、玉三郎さんのご希望もあって、また演出の栗山昌良さんのお考えもあって、あんまり神話的な女ではなくて、イアソンという男性に対する恋、それが裏切られて反転していく女の情念というのが主題になるということで、私もなるべくその線にそって台本を作りました。
玉三郎 でもギリシア悲劇というのは割とそういうところがあるんじゃないですか。神話の中の人がこれもしたじゃないか、あれもしたじゃないか、と人間的な感情で言っている。あれもしてあげたのに、あなた裏切ったのね、という心情が前にでてくる。「神様」は、ひきあいに出すだけみたいな感じですね。
須永 実際に「神様が見ていらっしゃる」という台詞はたくさん出てくるけれど、そういうことあんまり信じていないみたいですね。
玉三郎 だって、洋服も買ってやったのに、指輪も買ってやったのに、そういう感じで神々がひきあいに出されるって、非常に面白いですね。で、メディアが自分の行く先々の国もちゃんと決めて、自分を受け入れることを条件に子供を生ませてあげるとかなんとか。
須永 そう、ちゃんと手を打っているのですね。
玉三郎 あんなに日常的な感情がむき出しのものかな、とおもしろく思った。だけど、ひどいものですね。神々といっても、嫉妬の類においては手段を選ばないのね。エウリピデスの『メディア』は野菜でも肉でもなんでも、加工しないで出した、という気がします。理屈とか哲学でなく、嫉妬の心情のままにね。
須永 根源的なものが元の形のまま出ているという感じがしますね。後世のものは、その時代その時代の観客というものを頭において書いているのだと思います。絵画では19世紀末ですと、ギュスターヴ・モローが『イアソンとメディア』という絵を描いているんです。これはビザンチン風なあの時代の東洋趣味の雰囲気があります。そのちょっと前にはドラクロワの『怒れるメディア』が有名ですね。私はギリシア語が専門でもありませんし、ギリシア悲劇を研究していたわけでもありませんし、にわか仕込みで随分本を読んだんですね。だけど、『メディア』のように、ああいう根源的な男女の愛みたいなものが、現代に通じるような作品は珍しいようですよ。
玉三郎 だから、『メディア』というのが、作品として大きな意味をもっているんですね。
須永 もうひとつ、『オイディプス』が人気があるのは、誰が読んでもわからないから、ということらしいですよ。ところで、ギリシア悲劇というのは、どうしても固まって長い台詞があるんですね。
玉三郎 そうですね。だから、一人がつっかえたら、もう終わり。
須永 それとどうですか。ご自分で喋っている時はまだしも、例えば、相手が延々と喋りますね。そんな時、舞台でむずかしくはないですか。
玉三郎 ああ、それは、歌舞伎では良くあることなんですね。それぞれ演技をするパートがあってそのパートが終わると控えている。
須永 特に女形の方の場合はね。
玉三郎 お客さんが演技している人を観ながら、ふと自分の心情で、控えている人のほうに目をやる。ちゃんとその心情にはまっていながら、パートの人の邪魔をしない。それが第一でしょうね。
須永 その点では歌舞伎をなさっていることが、たいへんな強味ですね。
玉三郎 そういう点ではね。じっと立っているというのは、結構、テンションがいるんですよね。動くということも、勿論大変なことですよ。でも、そのリアクションによって、どんどん動いていくということは、割と緊張度の持続ということでは楽なんですよ。じっと控えて立っているというのは、緊張度が非常に必要で、少しも気が抜けない。
須永 衣裳は玉三郎さんのご希望がおありだそうで。
玉三郎 ええ。時代考証なり、気候風土の設定は、なるべくギリシアのその時代、つまり今の人の考えているギリシアのイメージに近いほうがいいだろうということで、きちんとしてもらいました。
須永 『メディア』はギリシア悲劇の作品の中では後世、取り扱われた率が一番高いんですね。17世紀のコルネイユが書き直していますし、19世紀ではドイツ・ロマン派のグリル・パルツァー(オーストリア人)が『金羊毛皮』という長いものを書いています。これは、コルキスから演るし、第2部はアルゴー船が来てというところから始まって、最後はエウリピデスと同じ部分を演るんですね。3部作、20幕。
玉三郎 今度演ってもいいんじゃない?
須永 それを「鶏が鳴く東の国のコルキスの、夷なれども日輪の裔に生れし王女あり、御名をメディアと申すなり……」とかいう具合に浄瑠璃にして、あなたがなさればいいと思う。
玉三郎 でも、1日じゃ演りきれないから。
須永 第1部は短いんですね。第2部と第3部が長い。
玉三郎 じゃ、第1部、第2部を1日で開けて、2日目に第3部もどんと演ったら。
須永 そうですね。それで、これはギリシアの青い空と白い壁というのとは違って、ドイツ風の暗いロマンティシズムが出ているんですね。で、最後まで「金羊毛皮」というのが欲望と不幸の象徴のようにつきまとっていくわけです。メディアが最後までそれを土の中に埋めて隠して持っているわけです。そして大詰で、自分に仇なすコリントスのクレオンとかそのお姫様とかをやっつける時に、土の中から掘り出して使う、というところがあるんですね。これは歌舞伎風ですよ。
『メディア』を演じ終わって
須永 2月に『メディア』をなさったわけですけれど、1ヶ月、34回なさって、具体的に何かお感じになられたこととかございますか。
玉三郎 ええ、初日の頃は、メディアを演じるのに女としての強さを演じようというところから入っていったんです。ところが、それが入ってゆくにつれて女であることのもろさからくる、反動としての強さというふうに変わったところがあるようです。女の芯の強さというよりも、なんていうかころびそうになったときに、それを防ぐためのもの。だから、そのもろくころびかけた時の心情が美しくなきゃいけないと思いました。ぼくは『メディア』というギリシア悲劇を論理的に分析して意味づけることよりも、エウリピデスの時代の彼のギリシア悲劇を現代に再現したらどういう感覚を覚えるか、ということを考えました。そうすれば観るものとしてもおもしろいのではないかと思いました。人間が誰かを愛してその気持が裏返って憎悪に走るという、ああいう気持って誰でも少しは持っているんじゃないかと思います。そして、ひとつおもしろかったのは偶然だったかもしれないけれど、合唱をうけもつコロスが歌いもし、踊りもしたことです。コロスはオペラとバレエの原型だという説があるんです。
須永 『メディア』には愛情が裏返ってゆく過程というか、裏切り方のほとんどの例が出てくる。愛については昔も今もほとんど変わりがないですね。だから、特に女性の観客は、大詰で「わあ」って喜ぶ人が多いのね。もっとも、エウリピデスは女嫌いだったという説もあるんですが。
玉三郎 一種、男性に対する批判劇であるみたいなところがあったようですねえ。それから子供に対する演技って、ぼくは男でしょう、だから親切になりすぎちゃうようですね。本当の母親というのは真に子供と一体だから、外から見ると、割と邪険に見える。女性はそこいらへんが自然にできるのね。母親って、子供が側にいるときはあまりかまわない、目の前にいないと、子を思う気持ちが出てくるというのがわかりました。
須永 発声というか音域というか、ほとんど地声でなさってましたね。
玉三郎 『メディア』に出演する前に、ストラトフォードへ行き、ギリシアへ行き、ブロードウェイで『メディア』を観ました。ひとつ感じたのは、むこうの女性はミセスになると、ぼくぐらいの低い声の女の人がいるんですね。シャンソン歌手でも本当に低い声の人がいる。そういう意味でイギリスではミセスがキイキイした声を出すと、品が悪いといわれるそうです。それが、中国、日本になるとすごく高い声になる。インドも高い声で、それより西になると低い声なんですね、不思議ですね。
須永 日本では、素敵な女性で声が低すぎたりすると女装の男性かな、と思われたりして。それから、インドより東の女声が高い地域というのは、西洋に比べて女形が後世まで伝存していますから、演劇的にも玉三郎さんの観察と一致しますよ。ところで歌舞伎と、洋物のお芝居では動かす筋肉が違うとお聞きしましたけれど、その話に興味があります。
玉三郎 ドレスをさばくのと着物を着るのではずいぶん違います。日本の芝居は立って喋るのは少ない。着物は立って耐えるのがむずかしい。着物は巻きついているものだから立って動いていると下がってゆく。すわってちゃんと形をしていないとどんどん落ちていく。ところがドレスではすわって動くのは非常にやりにくいんですね。それと、ドレスの場合は背筋をきちっとのばしていなければなりません。前かがみになるとドレスの前を踏みます。クリノリンのドレスでもローブ・デ・コルテでも裾を踏んでしまいます。着物の場合は、ある程度前かがみにするとしおらしくきれいに見えるし、つまずくことはありません。
須永 舞台装置は、「シンプルに」という玉三郎さんのご希望が反映されているわけですが、評判がよかったようです。
玉三郎 そうですか。舞台装置について言えば外国のオペラの演出家、たとえばゼフィレッリやポネル、ストレーレルが飾りつけると、いくら飾りつけても舞台の上に空間がちゃんとあって飾りこんだという感じがしないんですね。舞台上に、街角の一角を切りとってもってきた、というか。それはやはりヨーロッパに住んでいるからでしょうね。日本でヨーロッパの物をやる場合、空間にものを置いて飾っていく感じで風が通らない、空間が狭くなってしまって動きにくい感じがするんです。歌舞伎はあんなに飾ってるじゃないかと思う方がいるかもしれませんけれど、歌舞伎の舞台は、四角く切った絵やふすまが置いてあるだけで、動きに邪魔なものは全部はぶいてあるんです。豪華な御殿でもなんでもそうで、ほとんど空間のような気がします。陣屋などは屋台があって扉がある、その扉も用がなくなるとかたづけてしまう。だから舞台芸術の造形という意味では、日本の歌舞伎も西洋のオペラなども、建築の材料の違いや、身長の差などを超えて、舞台空間の広がりを第一に考える点では同じなんですね。
歌舞伎と翻訳もの
須永 ところで翻訳劇で、タイトルロールをなさるのは、『椿姫』が最初で、これが2度目ですね。あとは、シェイクスピアの『マクベス』ではマクベス夫人、それから『オセロ』でデスデモーナ。
玉三郎 年数にして数えれば2年に一度位の割合です。
須永 歌舞伎以外という意味では泉鏡花をたくさん手がけていらっしゃるわけですね。『天守物語』、去年(57年)は『白鷺』、『夜叉ヶ池』。
玉三郎 そうですね。翻訳ものを演っているといっても、それほど演っていないんですね。結局4本です。
須永 歌舞伎、泉鏡花、翻訳ものといったように、日本人はとかく区別したがりますけれど、玉三郎さんの意識はもっとご自由なように拝見しますが。
玉三郎 そうですね。ぼくは最初は日本舞踊から入って、1年位で歌舞伎の世界に入って、それから二十歳すぎて新劇、新派と演ってきたのですが、子供の頃は歌舞伎俳優になるということよりも、レヴューも観てたし、映画も観てたし、歌舞伎も観てた。そういう中から自分が入ったところが歌舞伎でした。演劇方法の基盤というものはそこから生れたもので、そこの振幅を広げたり、狭めたりする、前後左右によって、それが新劇にもなりうるし、新派にもなりえて、あるいは映画にもなり、ぼくの好きなバレエ、オペラを観ることにもつながるわけなんです。ぼくにとっては何ができなくて、何ができる。何ができるから何をやっちゃいけない、というものではないと思うんです。かといって、何でもやればいい、という問題でもないけれど、自分の振幅の中からどの波がよくあうかというのを見極めて、もうちょっと広い意味で演劇人として暮らしたい、というところが自分の中にあるんです。よく外国の演劇の事情はこうだ、と日本と比較して話されることがあるけれど、そう言ってみれば、日本は少し区別しすぎるかもしれないな、という気がしますね。かといって、区別しないほうがいいとばかりは言い切れませんけれど。そこは問題ですね。
須永 演劇には区別をすることによって、磨かれてきたようなところもあるわけですね。
玉三郎 お能や狂言を例にとれば、区別することの意味がはっきりしますね。区別することによって能という幽玄の部分があり、能と能との間に間狂言があるわけだから、そういう芸術であるわけですね。
須永 能、狂言と申しますと、これはたいへん練磨を重ねないと。歌舞伎もそうですね。そういう意味で歌舞伎でお育ちになったことはお幸せではないですか。
玉三郎 ぼくは幸せだと思っています。
須永 ここから他のいろいろなものを、お持ちの選択肢から選び、その時その時で…。
玉三郎 ええ、そう言ってしまえば非常に簡単だし、歌舞伎の練磨に対して感謝していないようにとられがちですけれど、改めて考えてみれば、そのことがあるからこそ、今の活動ができたのかもしれないとも思います。
須永 物事はそんなにはっきりと、口で言い分けられるものではありませんしね。
玉三郎 そうですね。だから、ギリシア悲劇なり、新劇なりを演る歌舞伎俳優として、歌舞伎と比べてどうですか、と聞かれてもなかなか一言では言えません。でも、その中で暮らせて幸せだと思うし、また、それでありながらいろんな活動ができるということも、本当に自分は幸せだと思います。
須永 これからも、歌舞伎俳優としてだけでなく、要するに演劇人として活躍なさる…。
玉三郎 年をとったらその年齢なりの活動をしなければならないのではないでしょうか、若い人を教えたり、もっと広い意味で。日本の場合は、ソリストなり、主演する人が演出するというのは稀のようだけれど、外国では俳優出身の人が、演出をしたり、映画監督になったり、よくしてますよね。
須永 ええ、ロベール・オッセンが『ノートルダム・ド・パリ』を演出したり。
玉三郎 野外の広場ですね。
須永 そういうことは向こうでは普通のことですものね。でも、日本でも歌舞伎の座頭というのは一種の演出家ですけどね。また、これはちょっとあり方が違うけれども、今は歌舞伎にも演出家がついていますけれども、向こうの演出家とは違いますね。
玉三郎 作品の形態なり、分類なりという意味での学術的な…。
須永 そこが問題ですね。日本は研究家とか評論家とか、これも職分がはっきりしすぎて、その枠を超えようとすると、やりにくいということがありますね。それは日本独得の社会構造かもしれませんけれど。
玉三郎 でも、日本において、その枠をとりはずすのがいいのか、とりはずさないほうがいいのか、それは紙の裏表で、どちらがいいのかは言えないようです。
須永 それはご自分の判断で、その時その時いい舞台を見せていただければ、われわれ観客はたいへん嬉しいわけです。
『助六曲輪初花桜』 
初役「揚巻」は江戸歌舞伎の華
須永 3月は歌舞伎座で『源氏物語』の「宇治十帖」を題材にしたいわゆる新作ものの『浮舟』をなさり、もうひとつは江戸歌舞伎の粋みたいな『助六』の揚巻。揚巻は立女形の中でも特に立派な役ですね。揚巻について少しお伺いしたいと思います。あれはまず衣裳からしてたいへんですね。
玉三郎 そう衣裳の重さがね。それと、貫目というんですけれど、役の貫目。貫禄というんでしょうか。軽々しく見えず、変に重く見えず、ゆったりと重みが見えなきゃならないというむつかしさがあると思います。
須永 鬘が立兵庫という立派なものですし、履物も花魁専用の三枚歯とかいう特別なものでしょう。
玉三郎 あの衣裳だと、鬘や下駄があれでないとバランスがとれなくて、非常に動きにくいんです。それから、立っているときに、重たいだろうと後ろから人に持たれちゃうと、ころびそうになってしまう。全体のバランスがうまくとってあるんですね。
須永 衣裳は五節句の衣裳。最初に海老とゆずり葉の七五三飾を後ろに背負ったうちかけで正月、その下のうちかけは花見幔幕と火焔太鼓に桜を散らして弥生の節句。俎板帯は鯉の滝登りで五月の端午の節句。次に衣裳が代わって出てくるところが七夕ですね。
玉三郎 そうです。前帯に短冊を飾ってね。今回はありませんが、助六の水入りになるとまた衣裳を変えて菊。秋の重陽の節句になっています。
須永 私、今日は花道のすぐ傍の席で揚巻の出を拝見してまして、玉三郎さんがお出になった時にはお客さんが全員ため息をついてましたね。ハァーッとね。花の吉原の全盛の花魁の道中を、全盛の女形さんがなさっているという、もう歌舞伎でしか見られない演劇的興奮と申しましょうか。玉三郎さんが新しくお演りになると、また別の魅力が生まれますね。
玉三郎 『助六』では子供の頃に禿を演っているんですが、父(14世守田勘弥)の助六のときに禿で出てね。ほんの十か九つかで「坂東喜の字」という名でした。その時から自分で顔の化粧をしはじめたんですよ。それから、前に白玉も演りました。
須永 歌舞伎の役はそれぞれの家に伝承があって、皆さん、先輩の方の家に教わりにゆくそうですが、玉三郎さんの場合、今回はどなたに。
玉三郎 中村芝翫さんです。前に白玉を演った時も芝翫さんに教わりました。芝翫の兄さんに習うということは、五代目歌右衛門さんの系統になるわけで、この方は希代の揚巻役者といわれた方です。この『助六』や『忠臣蔵』の七段目のお軽とか、子供の頃から演りたいと思って聞いているものは、台詞回しがけっこう耳に残っているんです。『助六』の台詞には、いわゆる江戸狂言独特のものがあって、喋ることの面白味を非常に重んじています。
須永 あの時代、世界一の大都市だった江戸の吉原の格子先、昼をあざむく歓楽の夜の世界があって、それが芝居となって残っていて、今の我々が観ることができる。それもあなたのような女形の方がなさってね。これは江戸時代の文芸では表現できなかった世界でしょう。今回は片岡孝夫さんの助六、孝夫さんのお父さんの仁左衛門さんの意休ですね。『浮舟』は、北條秀司さんが書き下ろしの時から匂宮は中村勘三郎さんの役で、今回は中村屋さんのお相手でヒロインの浮舟ですね。もう1人の恋人の薫大将は片岡孝夫さん。
玉三郎 そうです。源氏物語のお芝居は初めてです。匂宮と薫という対照的な2人の男性にはさまれて悩むというもので、前から中村屋さんが演りたいとおっしゃってました。
古典と新作
須永 新作物をなさるときと、古典の歌舞伎をなさるときでは、どういった違いがあるんでしょうか。
玉三郎 言葉が違いますね。新しいものというのは、その作家の方の持ってらっしゃる言葉だから、一人一人独得でしょう。たとえば、岡本綺堂先生なら綺堂調、真山青果先生なら青果調。そんなふうに久保田万太郎調、泉鏡花調とか、その作家の方にそれぞれの口調がありますね。いろいろ演らせていただきましたけれど、それぞれに特徴があって、その作家の調子で音としてきちっと書いてある場合、たとえば岡本綺堂先生のものはひとつ前で切っておかないとあとが続きません。鏡花先生の場合は、また違いますし。
須永 息つぎの研究が必要だということですか。
玉三郎 そうですね。久保田先生の場合は「‥‥‥」と書いてあって、その点々の行間にどんな感情をいれるかによって役作りができてきます。鏡花先生の場合は話がとんでいるでしょう、ひとつの流れの中に時間の飛躍があるんです。それをきちんと心の中で喋っておかないと見ている方がわからなくなると思います。
須永 どうしても文章語とお芝居の台詞とは違いますからね。日本語の文章の構成というのは、まず主語があって、述語つまり言いきるのは一番終わりですね。「しました」とか「しませんでした」とか。だから結果がわかりにくい。間に形容詞とかたくさんあって。歌舞伎でも黙阿弥なんかですと、重要なことを先に言わせる場合がありますね。
玉三郎 それと、江戸時代の終わりに開国をしますね、そうすると西洋のものが入ってきて翻訳される。鏡花先生、久保田先生の作品には倒置法というのが出てきます。純日本風のことをいいながら本当に変わってきていると思います。
須永 鏡花の場合、あとにも先にも日本にはああいう文章なり台詞なりを書く人はいないですね。そうかといって、西洋風では決してないし。鏡花といえば、4月、5月は鏡花物がつづくわけですね。まず、4月は2日から26日まで中日劇場で『夜叉ヶ池』、3度目ですね。去年の終わりから4月までで3回も演るというのは珍しいと思いますが。
玉三郎 あれは空白が多いお芝居で、読んで理詰めにしていくと、実は筋が通っていない所があります。夢の世界の支離滅裂さみたいな魅力がある。あるいは、能の形式として観ていったらおもしろいんじゃないかしら。
須永 百合が前ジテ、白雪姫が後ジテというわけですね。
玉三郎 それで蟹や鯉のお化けが間狂言でね。とっても色彩的な夢幻能だと思います。『天守物語』もそうですね。亀姫とのくだりが前で、朱の盤坊が間狂言で、図書之助とのくだりが後になるわけです。鏡花先生のお作は本当に一字一句が好きです。富姫の台詞だと「白銀、黄金、珠、珊瑚、千石万石の知行より私が身を捧げます」とか。
須永 『夜叉ヶ池』を観ていてぼくはゾクゾクしたんですよ。「義理や掟は人間の勝手づく、我と我が身をいましめの繩よ…袖とて、褄とて、恋路を塞いで、遮る雲の一重もない!」で花道まで出るところがよかった。
玉三郎 「生命のために恋は棄てない」。そういうところが素晴らしいですね。
須永 めりはりがあって一種極彩色の幻想劇でね、あなたにぴったり合っていらっしゃると思います。
玉三郎 おこがましい言い方になってしまいますけれど、鏡花先生の作品が私になぜ合ったかといえば、読んでいて、自分の言いたかったことが書いてあるような気がするんです。だから覚えること、喋ることが苦痛じゃなくて、むしろ気持がいいんです。それに鏡花先生の作品には必ず歌が入るし、人形が多い、それも好きですね。
新派の名作『婦系図』
須永 時代をへだてながらも知己というのでしょうね。そういう作家に出会えたということは俳優として幸せではないでしょうか。もう11本もなさっていらっしゃる。『南地心中』、『白鷺』、『通夜物語』、『辰己巷談』や『稽古扇』、『滝の白糸』。それに『夜叉ヶ池』、『天守物語』、『日本橋』、『山吹』、そして5月に新派でなさる『婦系図』ですね。
玉三郎 『滝の白糸』が初めです。次が『稽古扇』でした。ひとつひとつがそれぞれ好きで、お話したいことがありますよ。
須永 『滝の白糸』が一番多いですね。あの水芸を演じるところはたいへんなんじゃありませんか。
玉三郎 ああ、見ているよりむずかしくありません。
須永 そうなんですか、たいへんなのかと思った。ところで、『婦系図』は大作ですが…。
玉三郎 『婦系図』はむずかしくなって、およばずながら…という思いです。新派で『婦系図』というと歌舞伎の『忠臣蔵』みたいなものですから、そういう意味でもたいへんです。
須永 「湯島の境内」の場は、お芝居をあまり見ない人でも知っていますね。「別れろ切れろは…」という名台詞とか。それに流行歌にもなってるし。
玉三郎 「死んだはずだよお富さん」と同じでね。
須永 芝居としても上演頻度が高いから。それから、ああいうのは外事浄瑠璃というのかしら、湯島の場面で唄が流れるのは。
玉三郎 そう、清元の『三千歳』(『忍逢春雪解』)が流れる。
須永 「めの惣」の場では、長唄の『勧進帳』。
玉三郎 歌舞伎俳優ですから、そういうところが、なお照れくさいんです。それと、いろいろな意味で皆さんがよくご存じだから、たいへんですよ。
須永 代々の新派の名優さんがなさってるし、最近では水谷八重子さんのお蔦が皆さんの印象に残っているでしょうしね。八重子さんの残された型とはまだ別のものをお演りになる…。
玉三郎 ある意味で、新派というのは自分のタイプに合わせて役をつくっていいわけです。喜多村緑郎先生がなさったことと花柳章太郎先生がなさったことと、それをアレンジして八重子先生がなさったことと、このお3人のなさったものの中で自分に合うところをひきだしてゆきたいと思うわけです。だから役をつくっていく楽しさというのはありますね。 
■第二章 泉鏡花・鶴屋南北 / 新作と伝承

 

鏡花幻想 
魂の言葉
須永 いままでに演じていらした鏡花の作品のひとつひとつに愛着があるとおっしゃられましたが、そうしたことについて少し詳しくお伺いしたいですね。『天守物語』は、ご自分で選んでなさったとか、伺いましたが。
玉三郎 昭和34、5年でしょうか、ぼくが子役になって2年目、10歳の時に歌舞伎座で『天守物語』を上演したんですね。その時の薄暗い中の輝きのような不思議な芝居の雰囲気が忘れられないですね。あんな綺麗な芝居をやってみたいと思っていました。父(十四世守田勘弥)が図書之助を演じていました。天守夫人富姫が中村歌右衛門さん、亀姫は先代の中村時蔵さんでした。それがもう、ぼくにとってはある種の夢のようになっていました。鏡花先生の名作であって、あまり上演されていないということで戯曲も読みました。花柳章太郎先生も『天守物語』をなさっているんですね。花柳先生の富姫、水谷八重子先生の亀姫、伊志井寛さんの図書之助で昭和26年に。この時はぼくは1歳ですから観ていませんけど。
須永 それが『天守物語』の初演でしょう。ぼくも観てませんけど、4歳ですから。これは新劇の千田是也さんの演出で、音楽はドビュッシーの『雲』を使ったということです。たいへんに結構な舞台だったそうですね。
玉三郎 この時の花柳先生の富姫のね、鷹狩に雨を降らして天守に帰ってきたところが、どんなに素晴らしかったかは、三島由紀夫先生がお書きになってますね。
須永 そうしたお小さい頃のイメージや美しい舞台写真や、戯曲をお読みになってのおもしろさで、お好きになられたわけですね。
玉三郎 ええ、そうです。首をおみやげに持ってきたり、そういうことがすごくおもしろくて。
須永 鏡花をひとつのファンタジイ、あるいは幻想小説として読むというブームがあって、それ以前は鏡花というと新派の古風な恋愛劇としてしか見なかったきらいがあるのですが、ファンタジイあるいは幻想文学でもあるということで見直されてくるようになった。そして、SFに興味を持つ新しい世代がファンタジイとして読み返すことがおきたのですが、鏡花の中のファンタジイ、あるいはファンタジイ一般についてはいかがでしょうか。
玉三郎 とても好きです。鏡花の作品では『恋女房』や『海神別荘』などその傾向が強いんじゃないでしょうか。ファンタジイというと、ぼくたちはディズニー映画のファンタジイの世代なんですよね。子供の頃、そういうもので教育されているんですね。『ピーター・パン』とか『白雪姫』、『ダンボ』や『眠れる森の美女』とか大好きでした。そして、またファンタジイという言葉は、少しニュアンスが違いますが、日本の能の言葉でいうと「幽玄」になるのかもしれません。この世界にリアルには存在しないものと魂の問題になると思うんです。鏡花先生がいつも描いているのは、この魂の問題なんですよね。ですから鏡花先生の作品をファンタジックなものと、花柳界のものと分けて考える方もいるけれど、ぼくは分ける必要はないと思います。すべて魂のお話ですから。人の「達引」というものに対しても鏡花先生は異常なまでの尊敬を持っている。特に女の侠気、義侠心。ぽーんと胸をたたいて「わかりました」と言い切る女の魂のいさぎよさ、美しさ。こういったものが昔は花柳界には往々にしてあるので、偶然、花柳界が舞台になったのでしょうね。ある意味では、花柳界の人間を描くというよりも、そういう心を描きたかったのでしょう。鏡花先生には花柳界の人間だろうが、医者だろうが関係なかったのかもしれない。自分の魂にふさわしい魂を持った人間ならば、どんな世界の人間でもいい、人間でなくとも魂が合えばいい。だから、花柳ものとかいった区分けはしなくていいんじゃないか。ぼくはそう思います。どの魂もさわやかな言葉で描かれていると思います。天守夫人の富姫も幽玄の世界の住人で、毅然としていて。富姫は人間世界を見通していて、権力や封建社会に反抗心をもって城の天守に住んでいるんですね。そして人間たち、城の持主である播磨守たちを上から笑っている、彼らを相手にしない。それでお化けたちと遊んで暮らしているんですけど、図書之助という人間に逆に心を開かせられる。大きな毅然としたものを持ちながら恋する女になってゆく。二人の恋が、下界の権力に侵されそうになった時に彫物師、芸術家が出てきて救う。鏡花先生の恋愛至上主義と芸術至上主義が合体し、互いに助けあった作品だと思います。そしてまた、それを表す言葉がなんともいえないものなんですね。それともうひとつ鏡花先生の独得な遊びですね。富姫と亀姫の二人のやりとりとかね。妹分の亀姫が自分のみやげの生首を、天守の獅子頭が一口に呑みこむのを見て、「お姉様、おうらやましい。旦那様がおいであそばす」と言う。そうすると富姫が「嘘が真に。…お互に」。亀姫が「何の不足はないけれど」、富姫が「こんな男が欲しいねえ」と言う。そういうことをぬけぬけと言っていながら、ちっともいやらしくない。精神で語っているからでしょうね。そういう二人のやりとりを「お言葉の花が蝶のように飛びまして、お美しい事でござる」と、わきから朱の盤坊に言わせてるんですけど、そういう遊びというか、気持のやりとりがたのしいんです。
須永 かなりグロテスクなもの、エロティックなものを描いても、綺麗で澄きとおっていますしね。玉三郎さんがなさった『日本橋』もずいぶん不思議で、エロティックなお芝居でもありますね。女主人公のお孝は最後に硝酸を飲んで自殺してしまう。
玉三郎 あれも名作ですね。
須永 あれはかなりグロテスクな物語でもありますね。
玉三郎 そうですよ。だって羆の毛皮をきている「熊」という仇名の伝吾と日本橋の一流の芸者とがね、日本橋の芸妓屋の2階に住んでいるということが、すでにそうでしょう。まず清葉という魂の清らかな芸者がいるんです。その清葉はどんな男に言い寄られても思いを遂げさせないわけで、お孝がそれに反感とあこがれを持っている。それで清葉の振った男なら、「油虫だろうが毛虫だろうが、蹴出しの模様に縫い込んで面當てに見せびらかして」やろうというんですね。清葉に振られた伝吾と住み、清葉と別れた葛木に恋しはじめるのもそう。清葉のまわりにいる男をよび集めてゆく、そんな行為の迫間に立って、堕ちてゆくわけです。葛木はお孝を真実愛するから、お孝の以前を許せずに出家してしまう。そのため、お孝は気が狂ってしまうんですね。そして最後に硝酸を飲んで死ぬのだけど、その時初めて清葉の手をとって、あなたにあこがれていた、あなたのようになりたかったけど、なれなかった、私はこれから死んでゆくけど、ここで笛を吹いてたむけてください、と言う。清葉に心を打ちあけ、自分の煩悩を清葉の笛に托すんですね。死ぬ前に熊を殺したことを告白して、清葉に葛木を托してゆく。熊の伝吾と、お孝と、煩悩たちが死んでゆき、葛木と清葉という精神性のものが残るんです。煩悩が死んではじめて精神たちが結ばれることができるんですね。
タイトルのイメージ
須永 『滝の白糸』については何かお話がありますか。
玉三郎 あれは鏡花先生がデビューしてまもない24、5歳の頃の作品で、まだ筋立てとかに尾崎紅葉先生の影響があるようです。でも、描かれている設定や雰囲気、その何ともいえないもやもやした暗さ、暗さというか色彩は、鏡花先生の独特なものですね。裁判官になった自分の恋人村越欣弥とね、罪人になった自分とが一瞬にして、滅んでゆく、そのストイックなところとかね。二人は馬の上で見初めあい、何日目かに卯辰橋のたもとで会うんですね。夏の夜、水芸の芸人が芝居を終えて川べりへ涼みにきている。月がさして、五位鷺が鳴いてたりするんです。滝の白糸がね、お月見をしながら欣弥にあなたの目的、望みは何ですかと聞いて、仕送りをするから、東京へ出なさい、という。そしてその場で欣弥は東京へ出発する。会って契りを結んだか結ばないうちに離れてゆく。で、仕送りをする。出世をして帰ってきた彼と再会した時は裁判所でね、自分は罪を犯して裁かれるためにそこにいた。欣弥も、自分への仕送りのために罪を犯したというのを知っているわけで、二人は滅びてゆくんです。白糸に有罪を宣告し、自分は自殺するんですね。
須永 舞台の裁判を観ていると、わりと情景が早く進んで二人があっさり死んでしまうような気がします。原作である小説の『義血侠血』の終わりもそうですね。
玉三郎 独特ですね。『外科室』もそうで、小石川植物園ですれちがっただけの二人が恋をして、外科室の手術台で再会する。女が私のことをお忘れになりましたかと言い、医者がなんの忘れることがありましょう、とそこで初めて恋人同士が言葉をかわして、そして最後は、二人はどことどこのお墓に別々に葬られた、とそれだけしか書いてないの。だから、印象の世界なんですね。たとえば『天守物語』は、鏡花先生が姫路城の天守にあがった時に、パッとひらめいた天守というもののイメージが、あの物語ではないか。そして『山吹』なら世界中の山吹の咲きみだれている所がどんなところか。『日本橋』は日本橋という橋のイメージの意味するもの。そういうあらゆるものからインスピレーションをほとばしらせて、世の中の定規で測れない鏡花先生の解釈によって解き明かされてゆくんですね。題名がとても重要なのはそこだと思います。『海神別荘』といったら、そこで海神が考えることやすること、すべてふくめて、海神の別荘の話ですね。題と内容とが互いにひきあっているような、互いにゲームをしているようなところがあるんじゃないでしょうか。『眉かくしの霊』も、眉かくしの霊が出てくるまでの何とも言えない不思議な話でしょう。もしかしたら、鏡花先生が地方の旅館へいって、ふっと感じたこと。ちょっと恐いと思ったことが小説の核だったのかもしれない。
須永 そういう一瞬何かを感じるのは誰でもあることでしょうけど、その一瞬の不思議な感覚を小説なり戯曲なりにして、文学という永遠の形にするのは他の誰にもできないことかもしれませんね。もちろん、『天守物語』ほか、皆種本があります。『天守物語』は主に『老媼茶話』という本がもとになっていて、猪苗代城の亀姫も朱の盤坊も古い伝説がありますし、富姫は姫路城の天守に棲む刑部姫がモデルでしょう。しかし、種本があれば誰にでも書けるというものではありません。一瞬、ふっと感じたこと、その不思議さそのものを美しく結晶させてしまう霊感と才能がなければ駄目ですね。
玉三郎 普通の人でも、地方の宿屋に泊って夜にふっと何かを感じて振りかえってみて、こう、言いしれない不思議を知ったりすることはあるでしょう。でもすぐに忘れて、それきりのことになってゆくわけですから。誰でもが、あっと思うことがちゃんと書いてありますね。何か変な、ちょっと恐いこと。「特殊だ、難解だ」と評されるけれど、万人に共感できるということだと思います。理解するとかわかるというお話じゃなくて、感覚でしょう。
須永 そうですね。感覚についていけるかいけないか。小説も戯曲も非常に唐突にはじまっていくし、頭でとらえようとすれば確かにわけがわからなくなるし、恐い話も、いわゆる類型的な怪談ではないから、恐さはわかっても話の全体がわからない人もいし。
玉三郎 『眉かくしの霊』などでも幽霊が出てからは恐くない、逆に美しいだけでね。男が風呂に入ろうとすると、風呂場でピシャッと水をかけている音がする。そのへんが本当にゾッとするくらい恐いです。暗くて静かで。題名のイメージがお話になっていくというのをさっき話しましたけれども、『高野聖もそうで、ぼくの解釈ではこういう話なんです。『高野聖』では魔性の女がだいぶ問題になるでしょう。でも、ぼくの考えでは問題はあくまで高野聖、高野山で修行をしてあらゆる煩悩を断ち切った男。質素な衣を身にまとい、頭を丸めて煩悩を断ち切らねばならない若い男からほとばしりでるもの。たとえば真冬に高野山でお経をあげている時の白い息とか、そういう生気というか、生命のエネルギーと言ったらいいのか、読んでいてそういうものを感じて、凄いなと思いました。
須永 修行僧である高野聖が断ち切ろうとした煩悩が、かえって拡大してエロティックな、魔性の女性として表れてくる、という意味ですか。魔性の女や、女が主人にしている白痴の男、歩かない馬の下をくぐって歩かせたり、蝙蝠や猿がきて後ろから女に抱きついたり、とかは一種性的な夢である、と。
玉三郎 うーん、それともちょっと違うんです。ぼくの勝手な解釈ですが、それは鏡花先生が高野聖を観てハッと思ったものが、筆を動かしたんじゃないでしょうか。女は登場するけれど、あれはただ妖艶な女を書いているのではないような気がするんです。高野聖というもの、高野聖の世界を描いている。はつらつとした男でありながらストイックに、墨の衣に身を包んだ姿を見た時に感じたインスピレーション。単なる性的なイメージではなくてね、春の新芽が吹き出るようなはつらつとしたもの。そのなんとも言えない生気を、読んだ人に感じさせるために、あらゆる設定がある。女や動物は飾りだと思う。タイトル、あるいはタイトルに限らずひとつの言葉が芯になって、そこに広がる視覚的な世界を文章にしていくのだと思うんです。だから、ぼくの考えでは、『高野聖』は舞台にはなりにくいものだと思うんです。
須永 泉鏡花に対するそうした感じ方は、いつごろから起こったんでしょうか。やはり演じてらっしゃる間に、ということなんでしょうか。
玉三郎 いつから、そうですね。幾度か演らせていただくうちに、小説を読むうちに、ということでしょうね。お芝居の場合はひとつの戯曲を毎日毎日、自分の口で朗読してゆくわけですから。そうしていると、自分の中で見えてくるものがあるでしょう、鏡花先生の世界の成り立ちとか、法則とか。それでまた知らない作品を読んで、こうではないかと考えてゆく。そうするうちに解釈がついていきますね。『日本橋』なら、日本橋という花柳界があり、雪の一石橋という場面なりがあって、橋というもののイメージが小説をあれだけのものにするんだな、と思ったりします。
幕切れの台詞
須永 かなり鏡花の感覚がわかってきて、また本当に鏡花がお好きであって、そのうえのことなのでしょう。
玉三郎 まあ、そうなのかもしれません。それから、おもしろいことに、鏡花先生はお医者さんなり医学なりをすごく尊敬していたようですね。たとえば、『恋女房』というお話もそうですね、最後に看護婦さんがでてきちゃう。おかしなお話なんですね。初めは金持ちの酔っぱらいがいるわけなんです。それが自動車で芸者をつれている。吉原が火事で焼け野原になって、遊女の墓がずっと並んでいる所に酔っぱらいがきて、お墓をけとばして通るんです。それを主人公のお柳が啖呵を切って止めるんですね。  お柳は重太郎という夫と相愛の仲だけれど姑にいびられてるんです。姑の槇刀目ってすごいお婆さんに追い出されちゃうんで、自分の生れたところ、焼け野原になった吉原に帰るんです。この話で不思議なのは、赤魔姥という恐い火の魔物がいて、これを見て誰かが火傷で死んだりしてね。で、いじわるな姑が何かのお祝いかで赤い着物を着ていて、お柳をいびってると赤魔姥そっくりになっちゃう。お柳が焼け跡に行くと今度は本物の赤魔姥がいて、いじめる。重太郎も家を出てそこにきていて、二人で赤魔姥と戦うんだけど、二人はやられちゃって倒れちゃう。そうするとお医者さんが出てきてね、二人を病院にかつぎこんでいくんですよね。で、その場は終わってしまう。で、次の場は舟が出てくるんですよ。川に屋形舟が浮いて、そこにお柳がいて、舟の障子の中には重太郎がいる。舟を漕いでいるのは看護婦なんです。もう、いったい何だろうっていうお話でしょう。二人は死なないんですね。看護婦、つまり医学が二人の愛を救うんですね。そこへ赤魔姥が筏に乗ってきて焼こうとする。お柳がね「赤い婆さん、隅田川は焼けるかい」って。怒って火を投げるとね、重太郎が「酒で消せ」ってお酒をかけると、ジュッと消えちゃう。そこで、赤魔姥は、二人の心は焼けないからと退散する。とそこで看護婦が、「3日目で、はじめて口をお利きなさいます。お二人さん御病気はもう大丈夫でございますよ」と言う。それが最後のセリフなんです。二人の恋は焼けない、それで『恋女房』という題なんでしょうね。
須永 そうなんでしょうねえ。鏡花の時代の医学は現代と違って、もっと神秘的なもの、どこか霊的な、生命を司るものとしての尊さがあったんでしょうね。今お話になった『恋女房』の幕切れの言葉も印象的ですけど、いろいろとなさったお芝居の中にも幕切れの言葉の印象的なものなど、おありでしょうね。
玉三郎 鏡花先生のお芝居はみな凄いです。小説も最後の5行ぐらいが大切です。その最後の五行で全部を語ってしまう。『山吹』の台詞も凄いですね。あれは、女がいて、その女が憧れ慕っている絵描きがいる。もう一人、昔、女にたいへん失礼なことをしたと後悔している呑んだくれの老人がいる。女は絵描きのために夫や家まで捨てるんだけど、どうもその絵描きはダサイわけ。女は老人に頼まれて老人を打つんですね。老人は打たれることで昔の女に対する罪のつぐないをする、という。女は自分が打つことで自分をいじめつづけた姑に対して、世の中の不条理に対して心が昇華し、老人は打たれることで昇華する、それで二人の魂が安まるならば、自分は一生この老人についていき、老人を打ちつづけようと決心する。で、すべてを捨て、恋人を捨てて行きかかったところで、ふっと振りかえって絵描きに「先生、世間へよろしく」って言うんです。でもこの世間へよろしくって、いったいなんでしょうね、これは。それで先生がなんでダサイかというとね、二人をとめなければならない、どうしようと迷うんですね。それで幕切れのセリフを言う。「いや、仕事がある」。
須永 やっぱり、世間の人だから。
玉三郎 「いや、仕事がある」、これが結論なんですよね、絵描きの男の。
須永 でも、説得力がありますね。恋愛にも走れない芸術も成り立たない、普通の人間はやっぱりね、そうでしょうね。その台詞も万人の共感をよぶのではないでしょうか。
玉三郎 『夜叉ヶ池』だっておもしろいですよ。ぼくは映画と舞台で『夜叉ヶ池』を演らせていただいたんですけど、百合の子守唄ね、あれがおもしろかったです。ぼくは子守唄って、人間の魂が安らぐための歌だと思うんです。一種の鎮魂歌というか。赤ん坊が泣くのはお腹が空いて泣く、悲しくて泣くのではなく、世の中に対してのなんともいえないそぐわなさに泣くんじゃないか と思って。魂がいらだって泣く、悲しくて泣く。母親の子守唄で泣きやむというのは、歌が魂を鎮めてくれるからだと思うんですね。自分が存在してしまっていることの恐ろしさを、安らかにしてくれるんじゃないのかな。百合は、恋人の晃が行ってしまうのではないかという不安をまぎらわしながら、人形を抱いて歌っている。夜叉ヶ池の主の白雪姫は恋しい剣ヶ峰の若殿様に会いたくて飛んで行きたい。行ってしまうと夜叉ヶ池から大洪水が始まって人間を滅ぼすことになるから迷っている。人間が鐘をついている間は洪水を起こさないという約束があるわけですよね。でも会いたいと迷っていると百合の歌声が聞こえてくる。恋しい人を待つ時は歌を歌えばまぎれるものか、そして自分が池を離れると美しい人たちの命も失くしてしまうからと、思いとどまり、去る。美しい人たちって、百合と晃のことなんですね。それで、白雪姫の一番終わりの台詞は「お百合さん、お百合さん、一所に唄をうたいましょうね」という言葉で切れるんですね。だからもし、『夜叉ヶ池』にサブタイトルをつけるならば、「鎮魂歌としての子守唄の効用に」にしようかと冗談を言っていたことがあるんですよ。
須永 鏡花の一言、一行はまさに黄金製という感じですね。新派に初めて出られた時にお演りになった『稽古扇』はいかがですか。たいへん鮮やかな印象があるのですが。
玉三郎 『稽古扇』の最後の台詞はね、たしか「魂はどこにおいでだろうね」。 これも本当になんとも言えないお話ですね。恋をしているお藤という娘がいる。家の事情で今日からは娘といえないんだ、と。芸者に出なくてはいけないので髪結いに行って、娘の髪を芸者の髪型に結い直しにきてるんですね。そこに舟虫の紋次という、ゆすりたかりをするきたならしい男がきて、お藤に惚れて「一服吸ひつけておくんなせえな」と吸いつけ煙草をせがむんです。髪結いの姐さんがお藤をかばって、追い出すんですね。なんてことを言うんだねって、啖呵を切って。紋次は竹筒を持っていて、中にムカデとか油虫とか毒のあるトカゲや蛇、ゲジゲジを入れて持ち歩いている。ゆすりが上手くいかないと、蛇やゲジゲジなんかを、その家の座敷にまきちらす、そんな男なんです。それから、髪結いの姐さんの家に川辺 旬作という厭な男が下宿しているわけなんです。油がギタギタしていてとか、すごく厭 な男に書いてある。風呂に滅多に入らないとかね。この男もお藤が好きでね。ま ず、こういう設定があります。次の場は川べりに雁雁松という所があって、そこでお藤の恋人の信夫が喧嘩をする。それをお藤が追ってくるんだけど会えなくて、川辺に会ってしまって、からまれちゃうんです。「白粉ですか、香水ですか、此の香が堪らない」と抱きついてくる。それと戦って、稽古扇でたたいて、川へ沈めちゃう。月夜で桜の花が散ってくるのを、扇をパッと開いて花びらをうけてね、「あれさ、お前さんたち、汚い男の上に落ちちゃ可厭」という。わからないでもないけど。で、お藤は、自分が人殺しをしたと思って錯乱しちゃうんですね。そこへ、さっきの髪結いの姐さんがきてね、しっかりおしよ、とお藤を稽古扇でたたくんです、正気づかせるために。舟虫の紋次が出てきて、また言い寄るんだけど、結局、紋次は自分が恥ずかしいって、自殺するんです。お藤が恋人を思う気持とか、若い女の潔癖さに打たれてね。さっきの 花びらが汚い男の上に落ちるのがいやというようなところとか、そういうものに打たれ て、自分の持っている毒虫を飲んで死んでゆく。お藤がね、いやらしい川辺が冥土に待っていると思うと死にたくない、と言う。そう すると、紋次は、自分が先に冥土へ行って守ってやるから寿命で死んでからゆっくりき な、と言うんです。本当は自分が川辺を殺したと打ちあけて、罪を自分の身に引き受け て死んでゆく。その気持に打たれて、お藤も兄さんと呼ばせてくださいと言う。で、一 目お藤の踊りが観たいというので、「暁の明星は西へ」と歌いながら踊る。そして「魂 は何處においでだろうねえ」と言って終わるんです。いろいろなイメージが全部こめられているんですね。タイトルが『稽古扇』でしょう、だから本当に稽古扇、です。お藤が恋人と逢い引きするのに、扇を手拭で下げておいた ら信夫がわかるんじゃないかとか、書いてあるところもあるんです。
須永 『稽古扇』なら扇にかかわるすべてのイメージや、そこから湧いたインスピレーションにこだわってゆくところがありますね。
玉三郎 だから、鏡花先生の作品は、ただ理解しなさいと押しつけても、なかなかわからないことも多いのだろうなとも思います。鏡花先生の感覚に親しんで、馴れていくとわかりやすいんですけど。
須永 そうですね。鏡花の感覚に親しみを覚えられる人でないと、なかなか理解しにくいお話が多いですからね。
玉三郎 あと、困ってしまうのは戯曲の場合卜書が説明になっていない、卜書が文学になっているんです。たとえば『夜叉ヶ池』の白雪の衣裳を「雪なす羅、水色の地に紅の焔を染めたる襲衣、黒漆に銀泥、鱗の帯」とかね、銀の靴とか光り輝く鉄の杖とかが出てくるんです。けれどみんなイメージでしょう。衣裳や小道具を実際に作ることはできない。みんな文学的な美しいイメージなんですね。
須永 4月になさるもうひとつ、『長崎十二景』、あれは、類のない独得のものですね。絵が動き出すような舞台と言いましょうか。 
東海道四谷怪談 
鶴屋南北の凄惨な世界
須永 6月の歌舞伎座「夜の部」は若手の方々で鶴屋南北の『東海道四谷怪談』、片岡孝夫さんの伊右衛門は2度目だそうですが、玉三郎さんのお岩、尾上辰之助さんの直助権兵衛、中村勘九郎さんの佐藤与茂七、中村時蔵さんのお袖、市川左団次さんの宅悦など、皆さん初役ですね。でも、玉三郎さんはこのお芝居にお出になったことはおありでしょ?
玉三郎 ええ、中村屋さん(勘三郎)のお岩で、父(守田勘弥)が伊右衛門をしましたとき、小仏小平の女房お花を妹にかえた役で出ています。昭和43年です。今度もお岩様のほかに、このお花も演りました。
須永 ぼくの住んでいる近くにお岩稲荷ってあるんですよ。
玉三郎 そう、2、3ヵ所あるはずですよ。
須永 それで、ぼく見てきたんですよ。越前堀という所で、今は中央区新川、田宮お岩稲荷って書いてあって、社務所の人の名字が田宮さんなんですね。あの話はもともと、田宮又左衛門という人の娘が嫉妬に狂い、自殺したという事件が ひとつあって、それとは別に、どこかの旗本か何かが不貞を働いた妻だか側室だかを殺 して川に投げ棄てたとかいう事件があって、それをそのまま芝居にするのは禁じられて るから、その他いろいろまとめて、登場人物を全部赤穂浪士ということにして作ってあ るんですね。この作品は1825年の作ですから、南北のものとしては、最後に近いほうですね。それにしても舅殺し、妻殺し、旧主殺し、毒殺、惨殺、あげくの果てが戸板返しと、凄まじい悪が次々と舞台に繰り広げられる。幕の名前を見るだけでも凄いですね。「砂村隠亡堀」、「深川三角屋敷」、「蛇山庵室」。三角関係をしてるから三角屋敷という、そのものずばりというところが、ぼくは南北だと思います。なさる前のインタビューなどで「お岩様は親の敵を打ってもらいたいという依頼心と、そして執着心の強い女性ではないかと思う」ということをおっしゃっていますが、なさった後ではどういうことをお感じになりましたか。
玉三郎 どういう役柄にしたらいいかということも大切ですが、歌舞伎の場合はやっぱり伝承とか型も大事です。伝承や型を考えてみて、脚本を読んで全体の意味を知りその中で自分の役が何を表現したらよいのかを掴まなくてはならないんです。そのためにどういう型があり、先輩の役者の方々がどういう演技方法を残されたか、ということを考える。これはどの俳優さんでもなさっていると思います。そして、その読み方によって解釈が違い、選ぶ型が違ってくるんですね。型に関してものを言う場合は、自分が3回ぐらい再演して自分なりに消化したうえで、「この型というのはこれこれこうだから、全体のバランスを考えるとこうしないと展開 しないんじゃないか」とか初めて言えるんですね。初役の場合は、役の大根の意味を掴 むことです。
須永 今回は拝見しまして「夢の場」が非常に大きくなっていましたね。亡霊に取り憑かれた伊右衛門の深層心理が娘時代の美しいお岩との色模様を夢に見るという場で、陰惨なお話の中で、ほっと息がつける。一方、「三角屋敷」の場が省かれた。
玉三郎 『四谷怪談』というのは本当によいお芝居で、5時間で演じ切れない部分のどこを割愛していけばいいか、というと、本当からいえば割愛していいところなんかないわけです。ですが、今回は言ってみれば、裏表、裏表ときれいな部分と醜さが反転してゆくという演出家の趣向なんです。
須永 お岩様というのは今まで、割合に高年齢になった女形さんがなさっていて、玉三郎さんのように若い方がなさるのは近来まれな珍しいことに思えます。そういう時こそ南北の『四谷怪談』を見直し、また、新しい『四谷怪談』ができるいい機会だと思います。その角度から見て、「夢の場」というのは非常に重要だと思いました。
玉三郎 見る側のために伝承がある、けっして演る側の楽しみじゃなく、いかに内容をはっきりわからせ、奥深く見せるかのための伝承を大切にしていきたいと思いました。お岩という人は、初めて舞台に出てきた時は若くて美しい女だけれど、すでに生活に むしばまれている。原作、初演の台本では夜鷹のなりで出るんですね。でも、なぜ夜鷹なのかと考えると頭がぐらつくんですね。ですから、ぼくは夜 鷹の糸立(粗末な筵のこと)を持たずに出ました。ひとことふたこと説明したところで お岩が夜鷹であったと、見ている方にはわからないでしょうから。もしそうするならば、それなりの台本を作らなければなりませんし。
須永 『四谷怪談』が作られたのは文政期の末で、武士の世界が完全に行き詰まっていた頃ですね。それを背景に、当時のお客さんたちは実感として、肌で浪人の生活の苦しさを知っていた。それに初演は『忠臣蔵』といっしょの上演で、背景が『忠臣蔵』だと皆が知っていた。
玉三郎 その時代ならばそうでしょうね。
須永 お芝居の系譜から見ても「岩」という名は依頼心、というより執着心の強い「かたましい」性格の役ですね。役名でいえば「岩手」、「岩根御前」、『鏡山』の「岩藤」などもそうですね。ただ最初に観客の神経がいたぶられるくらいにいじめぬかれるのが、それまでの「岩」たちと違う新しい点で、そうしないと、ただそういう型の女というだけでは納得しない時代だったのではないでしょうか。
玉三郎 お岩は父親の敵を打ってもらいたさに伊右衛門といるけれど、子供まで生んだのに針の筵の毎日でいる。父を殺した伊右衛門と知らずに暮らしていることが因果なんでしょうね。「浪宅」は本当によくできている場面ですね。
須永 伊右衛門は冷たいけれど、伊藤喜兵衛の家に行くまではお梅にのりかえてお岩をどうこうしようという気はない。喜兵衛からお岩が毒を盛られて変貌する話を聞いて、そこから心が変わる。
玉三郎 むずかしかったのは凄みを出すというところです。「凄み」と「がんばる」というのは違う。「ふけてはいけない」というのと「軽くなる」のは違う。「病気のけだるさ」と「恨みの辛さ」も違う。結局、ぼくはまだ若いですから声を安易に使うと軽くなる。それがむずかしいのです。浪宅の中でも、だんだんと変わるわけで、薬を飲んで、宅悦に顔が変わったと言われてからまた変わる。宅悦の話を聞き、髪梳になるとまた違う。声は張っても癇に抜けないようにというんですね。それと、お岩様だけが持つ力というか、パワーがなければいけないけれども、元気になっちゃいけないでしょう。そのバランスがむずかしかったです。
須永 男役の小仏小平は。
玉三郎 最初、役慣れしない頃は低い声、いわゆる男らしい声を出さねばという意識がありましたが、慣れると声の高い低いじゃなくて雰囲気なんだなとわかったので、後半ではお岩が低い調子、小平が高い調子。小平は女っぽくならない程度に張りました。
須永 浪宅ではお岩、小平の早変わりが2回ありますね。それから隠坊堀の戸板返しの場面も、見ていて非常に興味深いところですね。いろいろご苦労がおありだと思いますが。
玉三郎 そうですね。それと、いわゆるきたなくなるでしょう。それから、きれいに立ち直るというのはすごく力がいる。醜く落ちていったものを次の幕でもう一度きれいに再生するのは、すごくたいへんです、精神的にも、肉体的にも。『四谷怪談』というのは鶴屋南北が何歳の時の作品でしたっけ。
須永 71歳です。『桜姫』のほうがだいぶ早いですね。
玉三郎 あの、うんと深く掘り下げていくと、伊右衛門がなぜああなるのか、伊藤喜兵衛の孫のお梅はなぜ浪人でしかも妻のある伊右衛門にあれほど夢中になるのか、必然性がわからない。現代的にいえば交渉して伊右衛門をもらってもいいわけだし、顔の変わる毒を内緒でやることもない。桜姫の場合は、まず稚児白菊丸と清玄の因果があって話が回ってゆくので、どこから入っても話がわかるんです。清玄が白菊丸の生まれ変わりの桜姫に執着する必然性がわかるし、清玄は姫を追い、姫は自分を犯した権助にひかれて追ってゆく。そして権助と清玄が兄弟とわかる。そういうものが、話がとびながらもキチッとつながってゆく。『四谷怪談』というのはそうして考えた時になかなかわかりにくいところがあってむずかしいですね。
須永 『四谷怪談』は晩年の南北が、或る特定の人の生涯というより、ひとつの世界像を描きとめようとしたのだと思います。そこがむずかしいのかも知れませんね。
桜姫の複雑な性格
須永 この『東海道四谷怪談』も同じ南北の脚本『桜姫東文章』でずっとご一緒なさっている郡司正勝先生の演出でなさったわけですね。
玉三郎 そうです。そういう意味では『桜姫』もいい脚本ですよ。
須永 国立劇場で復活した通し狂言はたくさんあるけれど、その後他の劇場で採り上げたものって『桜姫』以外は少ないですね。玉三郎さんの当り狂言で、5回もなさってますね。白菊丸だけの国立劇場の最初の公演まで数えれば6回。
玉三郎 そう。新橋演舞場で2回、歌舞伎座で1回、あと南座でも2回演りましたし。
須永 清玄と権助の二役を江戸時代の初演通りに一人の役者さんがするのも、海老蔵さんのと孝夫さんのがそれぞれあってよかった。それに、白菊丸と桜姫と二役したのは玉三郎さんが初めてで、初演の半四郎でも桜姫だけです。転生する二役を一人の俳優さんがするのは理想的なわけで、初演以来、それがようやく実現されたと言えますね。これは何度見てもあきないお芝居ですね。桜谷草庵での釣鐘権助という悪党との色模様で、お互いに相手の帯をとくでしょう、それで濡場になって、お客さんは息を殺して舞台を見てるんですが、いいところで御簾がすーっとおりる。すると、お客さんが残念そうに「あーあっ」っていう、あれはいつも同じ反応がありますね。ほんとうに呆れたお姫さま。
玉三郎 ええ、桜姫って、ただのお姫さまとは全然違いますから。いろんな女の人の性格や運命を一人の女にこめたようなところがあります。
須永 女の縮図というような…。
玉三郎 だから幕が代わるごとに、いい意味で飛躍の多い脚本ですね。
須永 一番初めは、白菊丸は別として、桜姫が赤姫という感じで出てくるけれども、実はとんだ「お姫さま」ですね。こういうのは愚問なのかなあ、「演ってていかがですか」となさる人に聞くのは……。
玉三郎 ええ、何も知らない無垢な赤姫風でいながら、桜谷草庵の場面になると、ぐるっと様子が変わって、別に化けていたわけでもなくて、桜姫の性格が変わったわけでもないけれど、とんでいるんですね。そして、次の三囲社の場では、年とったみたいにおちぶれていて、次の岩淵庵室になると、若い姫に戻る。これは、かわいい姫に一度とばしておかないと、その次の女郎になって、風鈴お姫に代わる時面白くないんですね。そして、風鈴お姫になりながら、いざ家へ帰ろうという時に品格がないといけないわけですから。つまり魂が一貫していながらころころ変わっていくのです。だから、ぼくとしては、自分の体と自分の魂を一貫させておいて、違う役を演っているというふうにとばすんです。たとえば新清水の場でこうだったんだから桜谷草庵ではこうすべきだとか、草庵でこうだったんだから三囲社ではこういうふうでなければおかしいとか、ここまできたから庵室はこうじゃなきゃいけないと理屈で考えるのではなく、自分の魂と肉体で理解できるものはどんどんやってしまう。そうすると飛びながら一貫性が、どんと出てくる。それが一人の女性であるというふうに。そういう意味で面白いですね。だから、ぼくじゃない人が演った時には、違う解釈をして演るかもしれないですね。それが大きな脚本の面白さだと思います。大きな脚本は演る人の範囲をせばめないということですね。
須永 そうですね。『四谷怪談』でも、玉三郎さんのような女形がなさるというのは、先の梅幸さんが(六代目)なさって名演だということになってからですよね。もともとは、三代目菊五郎ですものね。与茂七が本役の人が、二役でお岩をやって、それで戸板返しをやるから小平もして、ということですね。で、割と人が少ない夏の芝居だから、ふつう白塗りの二枚目の役者さんが二役で女形を演ったというので、音羽屋さんの芸になったんですけど、たまたま先の梅幸さんが女形で、家の芸だから女形で演った。それが今までのお岩とは違うお岩になって、結局、今の歌右衛門さんでも前進座の河原崎国太郎さんでも先代梅幸さんの型で演っているといいますよね。南北物で郡司正勝先生とご一緒なさったものに、あと『盟三五大切』という復活狂言がありますね。『五大力』というお芝居のパロディーですけど、『四谷怪談』のすぐあとに上演されたので、その後日譚のようなところもあり、お岩の幽霊が出る長屋なども出てきますね。
玉三郎 あ、あの時こんなことがありました。姐妃の小万というくらいだから、もっとあつまきにつくらなければって。ところがね、ほんとうは南北さんは目千両といわれた有名な女形の半四郎さん(五世岩井半四郎)のために書いたわけじゃないし、そして、あまり悪婆らしく演らなくても済むように書いてありまして、姐妃の小万といわれた女だと書いてあるだけで姐妃のようであると書いてない。どう読んでも心理的に深くないんです。
須永 愛する男のために塩谷浪人つまり赤穂浪士の一人をだまして金をまきあげ、殺されてしまう芸者という、一見、世話物の悪婆のような役ですけど、脚本が歌舞伎としては筋が通りすぎていて、荒唐無稽の面白さに欠ける憾みがありますね。むしろ新劇でやったら成功しそうな芝居ですよ。郡司先生も筋が通りすぎて歌舞伎らしくなく、演出が難しかったとおっしゃってました。
玉三郎 ええ、そうかもしれません。それは非常にやりにくかった。
須永 もとの原作のほうがいいのかもしれない。
玉三郎 そちらもあとから演りました。『五大力恋緘』の小万。あと南北物では『お染の七役』『於染久松色読販』を何度もしましたが、もうちょっと宝刀吉光のくだりを練りなおして演りたいと思います。
須永 そうですね。土手のお六の所はきちんとした芝居にもなりますしね。 
■第三章 時間の夢・空間の夢 / 映画そしてバレエ

 

フレームの中の女優たち 
ガルボとキャサリン・ヘプバーン
須永 玉三郎さんがお好きだという外国の女優さん、キャサリン・ヘプバーンとグレタ・ガルボについてお伺いしたいと思います。それはご自身が俳優であり、女形であるというところから関心をお持ちになられたわけですか。
玉三郎 グレタ・ガルボとキャサリン・ヘプバーンは、ぼくの中では対比の位置にあって大きな位置を占める女優さんなんです。ガルボは神秘に徹しているし、ヘプバーンの方は現実に徹している。生涯女優をやるかやらないかということでは、ガルボはやめてしまったけれど、キャサリンはやめなかった。それでいながら、2人とも中途半端に引込じゃうとか、中途半端に続けていくのではなくて、どちらも徹底しています。女優ができなくなる年齢でやめるのではなく、できなくなる年齢を迎えないでいるキャサリンと、できなくなる年齢を迎えなかったガルボ。それと、両性具有性みたいなことも考えるんですよね。ガルボの場合、誇張されているのかもしれないけれど、スタッフとキャッチボールをしているのが彼女には一番楽しくて、イブニングドレスなど持っていなかったという逸話があります。で、ピストルごっこやキャッチボールをしていた彼女が、どうしてドレスを着こなせたかというと、ドレスを着こなすための専属のコーチがいたんですね。さらに、画面ではああ動く、こっちを向いてからこう行くとか全部コーチされていた。それが映画のモンタージュによってきれいに動いていった。そういうことを見てゆくと、画面の中で女を再創造していくという意味で、ぼくの中ではガルボは勉強になるというか、興味がありますね。
須永 ガルボはもともと女性だけれど、画面の中、フレームの中の女として、もう一度甦るという意味でしょうか。
玉三郎 そうですね。でも、ガルボはもともと女優志願だったんでしょう。
須永 ええ、スウェーデンにいる頃から端役で出ています。それで、あの頃(1920〜30年代)はヨーロッパの女優さんだと、たいてい有名な監督に連れられてハリウッドに行き、出世する人が多かったですね。ガルボの場合はスティルレル。
玉三郎 ディートリッヒもそうですね。
須永 ディートリッヒはスタンバーグ監督。ポーラ・ネグリもエルンスト・ルヴィッチと一緒にハリウッド入りしました。もっとあとだとイングリット・バーグマンとか。ヨーロッパの映画界は、ハリウッド女優の供給源だった。アメリカには美人はたくさんいたんでしょうけど、映画の中のいわゆる「運命の女」みたいな神秘的な役柄にはヨーロッパの女優の方がよかったのかも知れません。
玉三郎 ヴィヴィアン・リーだって、イギリスでシェイクスピアを勉強していたけれど、ハリウッドで『風と共に去りぬ』に主演したから、あれだけ有名になったんでしょうしね。
須永 キャサリン・ヘプバーンのことを伺いましょうか。
玉三郎 彼女はね、若い頃の写真集を見ていたら、スーツを着て横を向いてスタスタと歩いているものがあったんです。それが少年みたい。キャサリンは、自身の両性具有性、あるいは無性という性格の中から女性像を作り出しているように思えるのです。ぼくの演劇の目的のひとつは、技術なり練磨なりが、資質に見えていく、ということにあるんです。そういう意味で、ガルボは素質とか資質のように見えるけれど、もちろん才能はあるんですけれど、それを超えてあれだけの女を作りあげていった。キャサリンは、非常にナチュラルなヘアスタイルで、ナチュラルな女をやっているようだけれども、資質に見せかけているだけで、あれは非常な計算の上に成り立っているものだと思う。俳優としての勉強になるだけでなく、たいへんおもしろい人間だと思います。それから、ヴィヴィアン・リーも興味ある人なんですね。自分の精神構造を追求していった女という意味で。自分以外のものを作り出すんじゃなくて、自分の女性としての精神構造をどんどん追求していく。
須永 そうせざるを得ないような資質の人としてご覧になるわけですね。
玉三郎 彼女だって、もちろん技術はずいぶん持っているわけだけれど、キャサリンやガルボが何かと求めて向かってゆくのに対して、ヴィヴィアン・リーは自分自身に向かってゆくわけだから、ずいぶん辛かったんじゃないかと思いますね。役と自分の距離がなくなっちゃってね。
須永 最後のほうに『ストーン夫人のローマの春』というテネシー・ウィリアムズの小説を映画化したもので日本での題名は『ローマの哀愁』という作品がありますね。功成り名遂げた舞台女優が引退してローマに保養に出かけて、ジゴロみたいな美青年に恋をする。相手役はウォーレン・ビューティ、結末が悲惨な映画で、ちょっと象徴的ですね。やはりテネシー・ウイリアムズ原作の『欲望という名の電車』もすごかったですね。
玉三郎 自分の中にあるものを誇張して出してきたという気がするんです。それは、演技法のひとつではあるんですが、それが可哀相なくらい……。
須永 傷ましい感じがありますね。
玉三郎 でも、傷ましくても、あの『欲望という名の電車』と『風と共に去りぬ』と『哀愁』とね、それだけ残っていたら、女優として最高じゃないんですか。彼女自身の人生は不幸だったかもしれないけれど、俳優のぼくからみたら幸せだと思います。ガルボの話に戻りますけど、ハリウッド入りする前は美人じゃなかったとか。
須永 どうなんでしょう……。ドイツ映画にちょっと出てました。『三文オペラ』を映画化したパプスト監督の『喜びなき街』、スチールを見ましたが、そういえば少し野暮ったいかな。でも、確かこれがハリウッド入りのきっかけですよ。ハリウッドでは、すぐに大きな役をもらってますね。彼女の役柄はサイレント時代からあまり動かなかった。
玉三郎 ぼくは、この間『肉体の悪魔』を見ましたけれど、あれはなかなかたいしたものでした。
須永 『マタ・ハリ』というのが有名だけど、ああいう肌を露わにした衣裳は似合いませんね。『椿姫』とか『クリスチナ女王』とか、コスチューム・プレイのほうがいい。
玉三郎 骨格が男っぽいんではないでしょうか。ガルボというのは、ある意味のデカダンスをもっていますから、青年期にはよさがわからないところがありますね。そういう感じがあります、ぼくの中では。思春期、青年期で好むというのは、ヴィヴィアン・リーとかマリリン・モンローとかデボラ・カーといった人たち。大人になって、デカダンスの味をちょっと知ってきて、ガルボの魅力がわかる。デカダンスというのは、日本ではあまり歓迎されない言葉でしょう。だけれど、ぼくは非常にいい意味で使っているんです。
須永 洗練されていて、しかもそこはかとなく背徳の匂いが漂っている、というところでしょうか。
玉三郎 ぼくは、そういう意味で使いますね。成人してからでないと、なかなかわかりにくい言葉だと思う。だから、「ガルボがいい」といわれても、ぼくには最初その魅力がわからなかった。それで見ていくうちに、はたと気がついたというか。それと、ガルボの古い映画がそれほど上映されていないにもかかわらず、現代の人にこれだけ人気があるのは写真のせいだと思う。スチール写真だけでも充分に素晴らしいからだと思います。
須永 むしろ、映画によってはスチールだけ見ていたほうがいいものもありますね。でも、よく30代で女優やめましたね。
玉三郎 やめたことが偉いということもありますが、やめたあとの長さを味わっているというのが偉いと思います。
須永 それにしても、お若いのに玉三郎さんは古い映画をよくご覧になってますね。ずいぶんお小さい頃からご覧でしたか。
玉三郎 あの、両親の影響って大きいみたいです。両親が長唄をやったりなんかするわりには流行歌も好きで、映画も子供連れでよく見に行きました。抱かれて見に行ったのが、やっぱり影響が大きいですね。わからないものでも見てました。
須永 そうすると、昭和30年代からご覧のわけですね。日本映画の全盛期だし、外国の名作もどんどん入ってきていた頃ですね。でも、ガルボなんかは、もうやってなかったでしょう?テレビなどでご覧になるのですか。
玉三郎 そうです。そのほかに、映画会社の方にお願いして見せていただくこともあります。
須永 そうですか。それじゃもう少し伺いましょう。『外人部隊』をご覧になったそうですが、フランソワーズ・ロゼーはいかがですか。あの人は映画に出始めたとき、すでにああいう役をする年齢でした。ご主人がジャック・フェデー監督ですね。
玉三郎 彼女は若い頃に『椿姫』を演ったという話を聞きましたが。
須永 あっ、そうなんですか。フェデーの作品でしょうかね。『外人部隊』では宿屋のおかみさんの役でしたね。
玉三郎 良かったですね。最後なんか芝居の幕切れみたい、緞帳がしまりそうでしたよ。ロゼーの姿を逆光で捉えていってね。
須永 彼女は舞台出身でオペラ座にも、出たそうですよ。『女だけの都』なども、映画の作り方としては舞台に近いものですね。
玉三郎 その時代の映画には、とても興味がありますね。なんていうか、うまく言えないんですけど、素晴らしい。女優さんの演技もそうだし、監督もそうだし、美術もそうだし、シナリオもね。甘いシナリオをただ甘いというふうにしないで、監督さんたち、女優さんたちが甘いセリフに感情の裏うちをしている。『哀愁』なんて、よくまあ……。
須永 映画の技術なんて、今と比べたら雲泥の差でしょう。たいへんですよね。それで、ガルボやディートリッヒがあんなふうに、あっと思うほど美しく撮されている、というのはたいへんな苦労と労力がその影にあるのだと思います。
玉三郎 でも、あの頃のカメラは深度が浅いから、写るべきところだけ写る。だからよけいにきれいなんですね。それと、無声映画は構成が本当にしっかりしています。言葉なしで話をわからせるんだから、よほど構成が確かでないと意味不明になってしまう。
須永 玉三郎さん、演出家になれますよ。
玉三郎 ぼくは年とったら映画の監督をやってみたいなと思っているんです。 
ヴィスコンティをめぐって 
デカダンスの意味
須永 映画監督ではどんな人に興味をお持ちでしょうか?
玉三郎 監督のほうの関心からいえばヴィスコンティが好きです。ヴィスコンティの演技のつけ方というのは独特だと思うんです。「魂まで抜きとってしまう」というか何というか、その俳優が本当にその情感になったところを何度も何度も引き出していって、丸裸のところを抜きとって構築していく。ですからその後、その俳優はそれ以上の人生が送れなくなってしまうのではないかと思うくらいです。俳優たちにとっては、それくらい凄いところがあると思います。
須永 ヴィスコンティが亡くなったあと、自殺未遂をしたというヘルムート・バーガーなんかは一番典型的かも知れない。
玉三郎 でも、ヘルムート・バーガーなんかは、あるものを出してもらったというより、それ以上のものを引き出してもらったような気もします。アラン・ドロンは、『若者のすべて』と『山猫』のあとは、あまりヴィスコンティに逢いたくなかったらしいですよ。『イノセント』は断わったそうですね。もう、そのきつさに耐えられなかったんでしょう。
須永 アラン・ドロンが『異邦人』に出るかも知れないという話がありましたね。
玉三郎 『異邦人』のマルチェロ・マストロヤンニ、素敵でしたよ。
須永 でも初めはアラン・ドロンを予定していたらしい。
玉三郎 ああ、それはわかりますね。あのけだるさとか、ドロンのほうが向いているのかも知れない。でも、ヴィスコンティとマストロヤンニはイタリア人同士だから、どこか肌が合うところがあって、イタリア人の頽廃美からくる、けだるさというのも、ぼくは意外にいいと思いました。
須永 『異邦人』はアルベール・カミュの有名な小説が原作で、舞台がフランスの植民地だったアルジェリアですから、ぼくはアラン・ドロンで見たかったという思いが少しあるのですが。ところで、ヴィスコンティの映画をよくご覧になるようになったのはおいくつぐらいから。
玉三郎 二十歳前くらいからです。その頃は現在と同じような意味で、いいと思うような感動はなくて、皆がヴィスコンティ、ヴィスコンティと言っていて、そのブームの波に乗せられて見ていたという部分もありました。皆の評判もいいし、やはり素晴らしいと思って見ているんだけれど、何かこう、苦しさが残る。手離しで素晴らしいと言えない、未解決な部分がありました。
須永 最初に玉三郎さんがご覧になったのは、『ベニスに死す』と伺いましたが。
玉三郎 『ベニスに死す』とか、その頃に、公開されていたいろいろなもの、『若者のすべて』や『地獄に堕ちた勇者ども』などは、そのあとリバイバルで見ました。その頃は「いいんだな、いいんだな」と思いこんで見ていて、なかなかすてきな画面だな、とか思って見すごしていたことが多かったようです、今から思うと。それで、大人になってやっと、ヴィスコンティの良さというか、心理の掴み方の鋭さというのがわかってきました。その苦しさの魅力、というんでしょうか。ヴィスコンティの本の中に「デカダンスという言葉を良く解釈したい」という意味のことが出てくるんです。ヴィスコンティのいう、いい意味でのデカダンスというか苦しみの快感というんでしょうか。あとになって見直し始めて、そのへんがわかってきたんです。『家族の肖像』や『イノセント』が公開になった時期から、またあらためてヴィスコンティの作品を見はじめました。
須永 1970年代の後半はヨーロッパ映画がほとんど輸入されませんでしたね。ヴィスコンティの作品も日本では『ベニスに死す』のあと、まったく公開されなくなり、彼が死んでからようやく『家族の肖像』が輸入されました。それも、大手の会社ではなく岩波ホールです。これが当って『イノセント』、『ルートヴィヒ』も来ましたし、『山猫』や『若者のすべて』の完全版も公開されたわけです。『家族の肖像』の公開を境にして、ヴィスコンティが再評価され出したというか、新たにいろいろな視点から論じられるようになったと言えますね。
玉三郎 「特別おいしい食べ物です」と出されて、食べて、自分の口に合わない味ということがあるでしょう。たとえば上等のチーズだとかね、食べ慣れてやっと味がわかるという種類のおいしさ、みたいな。大人になってわかる味、ヴィスコンティはそういうものではないか、という気がしています。
須永 一時期、『若者のすべて』などが日本で公開された1960年代前半の頃には、その作品を論じる上で、ヴィスコンティがイタリア屈指の名門貴族の出身であることが、ほとんど問題にされませんでしたね。
玉三郎 そうですね。『若者のすべて』は『太陽がいっぱい』の次のアラン・ドロンの映画、という見方だったらしいんですね。それでアラン・ドロン以外の部分をけっこうカットして、2時間半ぐらいで上映していたようですね。以前『若者のすべて』の印象が薄かったのは、そのせいもあると思います。
須永 ヴィスコンティその人の生涯を知ってから、映画がおもしろくなった、また、わかりやすくなったということもおありでしょう。
玉三郎 そういうことは、やはりあります。単に大人になったから、じゃなくて、ヴィスコンティの人となりを知り、作品を見る。また、作品を見ながら人となりを想像していく。そういうおもしろさもあります。
須永 ひとつひとつの作品について、少し詳しくお話を伺いましょうか。たとえば『熊座の淡き星影』などはいかがですか。これは1965年の作品で『山猫』と『異邦人』の間ということになりますが、日本ではヴィスコンティの映画としては最後に公開されました。1982年の暮ですね。ギリシア悲劇のエレクトラを下敷にしたものですが。
玉三郎 『熊座の淡き星影』は、主役の男の人、ジャンニ役のジャン・ソレルを何て言っていいか、そう、すごく色っぽくとらえていますね。ジャンニが登場するファースト・シーンなど、とても素晴らしかったです。嵐で、裏庭がとても不思議な雰囲気でね、裏庭の扉がふうっと動いて、ジャンニが「姉さん」と言って出てくるところが、なんともミステリアスで。それから、その姉のサンドラ役のクラウディア・カルディナーレとのシーンで、「私の前で裸にならないでちょうだい」と姉が言うところなども、とても印象が強いです。あの心理の捉え方、描き方はすごいですね。あの心理を品が悪くなく、何気なく、かつ十分にエロティシズムをただよわせて描いているでしょう。ここからが男の色っぽさですよ、とか、ここからが男と女のコントラストですよ、とかやらないで、風が吹くようにそこまでもっていくんですね。ぼくは、この『熊座の淡き星影』が日本公開された頃から、ヴィスコンティの心理の動き方、それから演出の手法が見えてきました。2人のそのシーンで、話の間にシャツを脱いでいき、しかも脱ぎましたというように見せないで、なんとなく脱いでいる。そこにクラウディア・カルディナーレという写すだけで物語になるような女優をポンと置いておく。もう少し詳しく言えば、姉のサンドラには夫がいて、でもその夫は生活がふらふらしているという状況があるんですが、サンドラとジャンニは姉弟なのに裸で何か話し合っていて、ふうっとフレームが動くと、サンドラがいて、上半身裸のジャンニがいて、「私の前で裸にならないで」という台詞がひびくんですね。ここへきて、あーっこういうシチュエーションになっていたんだ、とハッと気づくんです。それまでのシーンは風のように何げなく運んでゆく。ヴィスコンティは、風のように存在しているエロティシズムをいつも感じて生きていたのでしょうね。それを再構築して映画にできる、画面にしていくというのは、ヴィスコンティが、常に美しさを客観的に意識して生きていたとすれば、ヴィスコンティ自身には心地良いというよりも、逆に辛かったんじゃないだろうかと思いました。それから、弟が「いろんなことがあるけど、姉さんといると一番安心するんだ」と言って暖炉の前で喋っているところも素敵でしたね。姉の膝にもたれかかっていて、それで後ろをむいて弟が寝転ぶ。そこを姉のほうから見たアングルで、弟の身体を足から映し出すカットがあるんです。男の人が弟として子供になってゆくような可愛さが感じられて、ハッとしました。そういう、ハッと思うようなシーンが何気なく出てくる。多分、気がついていなかったら見逃してしまうくらいの、さりげないシーンなんですけれど。
須永 それでいて、とてもあやういですね。
玉三郎 そう、あやういんです。でもちっともきわどくない。心理的にあやういだけで、何をするわけでもないんです。露骨ではないんですね。ただ、会話運び、暖炉の前で溜息をつくように、ふっと寝転ぶ雰囲気。きわどい手法は何も使わないのにもかかわらず、近親相姦の姉弟のあやういエロティシズムが風のようにただようんです。それがヴィスコンティの映画の品の良さではないかと思います。また、ヴィスコンティの言う「いい意味でのデカダンス」なのではないかとも思うんです。デカダンスというのが、ただの頽廃美や、頽廃だからと男も女も節度を守らないというのでは全然なくって、何気なく会話する中に、自分の内なるものを感じるかどうかでしょう。服を脱ぐ、服がないは問題ではないでしょう。
須永 『地獄に堕ちた勇者ども』は、やや図式的ですが、いろいろ出てきますね。題材が題材なので多少露悪的な観があって、評価がわかれるようですが。
玉三郎 あれは、彼がナチスを描く上でのひとつの彩りなのだと思います。美意識、感性というのは、ヴィスコンティのどの作品にも流れているものだと思います。『若者のすべて』にもありますね。長男のヴィンチェンツォから一番下の弟までの物語。ヴィンチェンツォはノーブルできれいで、あれは原題の『ロッコとその兄弟』というんでしょう。
須永 そうです。ヴィスコンティが畏敬していたトーマス・マンの長篇小説『ヨゼフとその兄弟』が背後にありますが、もともと聖書の世界でしょうね。ロッコには、ドストエフスキーの『白痴』の主人公ムイシュキンの面影もあるようですけど。
玉三郎 男兄弟5人と女1人、それに母親を配して、もう、本当にすごい映画だと思いました。こんなことを言うのはちょっと照れ臭いんですけれど、ぼく自身が男だけの5人兄弟で育っているでしょう。だから、母親がどうやって何人もの男兄弟たちを育ててゆくか、いとも簡単に母親が男兄弟を扱っていく技術っていうか、その気持の動き具合というか、そういうものに親しみを感じるんです。あの映画で、母親がね、「雪が降ってきたから、お前たち稼ぎにいきな」と言って皆を起こしてパンとコーヒーを出す所。太った母親のやり方が微々細々にわたってわかるんです。同じ5人兄弟、男ばかりであることの共感とか、そういうところで、ぼくにとってこの映画が特別な作品でもあるわけなんです。ぼくはどれが一番好きかと決めてしまうのが嫌いな性格なんですけれど、この作品だけは一番好きと言ってもいいくらいだと思っています。
須永 アラン・ドロンも一番きれいな頃だったし。
玉三郎 作品のあの息もつかせない凄さ。貴族趣味な映画ではありませんけれど、贅沢さを知っていなかったら、良さは出ないと思います。キャスティングの確かさとね。ただただリアリズムでやっているばかりではないと思います。
須永 そういうやり方だと、もっと厭な映画になってしまうでしょう。
玉三郎 そうかもしれません。そして非常にね、ある意味で人間の心のエレガントというものを映し出しているような気がします。でも、女の人があれを見ると厭なんですって、男の側からしか描いてないから。ある女性と一緒に見に行ったら、「女が描けてない」って怒ってました。アニー・ジラルドのあそこへいくまでの心境が、女として何か不足ですって。でも、よく皆を使い分けてますよね。
須永 特に兄弟たちが……。
玉三郎 やっぱり人間をよくわかってなかったら、あれだけの男を4人連れてきて、一番下の小さい子供まで含めて落ちこぼれなくきちんと使い分けるというのは……。
須永 長男のスピロス・フォカスはギリシア人ですね。次男がレナート・サルヴァトーリで、この人はロッセリー監督の『ローマで夜だった』とかマリオ・モニチェリ監督の『明日に生きる』とかに出てますが、『若者のすべて』の撮影中にアニー・ジラルドと恋仲になりました。ヴィスコンティは、これを利用している。
玉三郎 そういう私的なことまでも全部取り出して映画の中に注ぎこんでしまうヴィスコンティの凄さとかなしさ。あの監督に出会ったら、あとはそれ以上のものがでなくなっちゃうというのは俳優として辛いでしょうね。
須永 ほかに『若者のすべて』の中で具体的にお気に召したところとか、おありですか。
玉三郎 映画の最初や最後に流れるカンツォーネもすごく良くて好きですね、「わが故郷」という曲なんですけれども曲そのものも、その使い方も。ヴィスコンティの音楽の使い方って素晴らしいですね。『熊座の淡き星影』でもクラウディア・カルディナーレがちょっとラジオをつける場面があって、その頃の流行のカンツォーネが流れてくる。もう、イタリア人独得の雰囲気で、すごくよくって。『若者のすべて』のファースト・シーンはね、駅の鉄格子越しにカメラが追っていくところから始まるでしょう。ミラノ中央駅、そして俯瞰して汽車が出てくる。そこからカンツォーネが流れる。荷物を持って汽車から降りてくる、煙が流れていって母親と子供たちがいる。南から北の大都会へ移住してきた家族です。そこでファースト・シーンが終わるでしょう。それから長男の婚約者の家になって、すぐ喧嘩が始まってしまうんですね。それから兄弟がすぐ喧嘩する。ああいう感覚ってよくわかります。兄弟って張り合うんですよね、それでいて誰かがくじけた時って連帯感があるんですよね。
須永 玉三郎さんご自身のご兄弟仲もよろしいんでしょうね。
玉三郎 ええ、うちはすごくいいです。映画で、ルーカって少年がいるでしょう。5人兄弟の一番年下で。で、ぼくが一番下で兄貴たちが4人、ああいう年齢の時に、ぼくがやはり年下で1人離れていたんです。ラスト・シーンも見事でしょう。ルーカと一番下の兄のチーロとの会話ね。町はずれのアルファ・ロメオの工場で働いているチーロのところにルーカがやってくる。昼休みでね。恋人を殺してしまった次兄のシモーネが今朝警察につかまったことを伝える。サイレンが鳴って職場に戻っていく前に、チーロがいうんです。「こんなふうになるために、ぼくたちは南を捨てたわけじゃない」というようなことを。結局、ルーカが次の時代を担ってゆくんでしょうね。そして、ロッコがボクシングのチャンピオンになった時の看板があって、ルーカがそれを手でサーッとさわりながらいく。その子供心。言葉にはいちいち表せないけれど、子供の目として冷静に見てきたことをね、子供のその思いや感覚をそのワン・シーンで出してゆくんですね。そしてまた、カンツォーネで終わっていくんですね。
須永 そうですね。あの少年だけが観察者でオブザーバーという存在ですね。兄弟や母や他の人々をじっと見ている。家族の葛藤に参加できない少年の哀しさと言いましょうか。
玉三郎 そして、参加しなかった幸福とね。成長して次の時代を生きていくであろう少年をオブザーバーにしたヴィスコンティ。彼は少年や幼児に対して、純粋な怖さを見ているんじゃないかと思うのですが。たとえば、『ベリッシマ』もそうだと思いました。つまり、大人で、インテリになって、知性ができちゃっていて、という人間ではなくってね。純粋な子供の素晴らしい感性というほうを、ヴィスコンティは信じているんじゃないでしょうか。それ以外の「大人」というのは鋭い感覚はあるけれど、どこか哀しい、何か完璧には信じ切れないものがあると感じているんじゃないでしょうか。
須永 『ベリッシマ』には少女が登場しますね。この作品もお好きですか。
玉三郎 大好きです。あの映画の展開の仕方とか、とても好きです。「映画」がどんなものか、とてもよく出ていると思うんですね。『ベリッシマ』の子役のオーディションでね、少女がキラキラのドレスでステージに出て、困っちゃって泣いちゃうでしょう。それを監督が「OK」と言う。映画はそういうところがあるでしょう、映画ならではの価値観ていうか。そうすると、おかあさんが抗議して、うちの子が泣いてるじゃないか、なんで「OK」なんだとまくしたてて、「とんでもない」って子供をつれて引き返していってしまう。映画をあれほど愛して撮っているのに、どこか、こう……、なにか映画を客観視しているというのがわかります。映画を客観視しながら、その心情を映画にしてしまう二重三重の精神構造、それは楽しくもあり、辛くもあるのではなかっただろうかと、想像してしまいます。
須永 少年や少女の存在がきわだつ映画に特に関心がおありだということは、ちょっとおもしろいですね。
玉三郎 ヴィスコンティ自身が子供の感性を信じていたのではないか、ぼくはそう思うので、これらの作品に興味があるんです。
須永 『山猫』などはいかがですか。
玉三郎 ぼくは後半の1時間がとても素晴らしかった。
須永 ああ、最後の舞踏会が催されるところですね。
玉三郎 ヴィスコンティのヨーロッパのオペラに対する指向というのを、感じました。初めのほうは序曲で、3分の1あたりから激しく動き出すみたいな感じ、とか。それから、バート・ランカスターの壮年の魅力。陽が沈んでゆく時の幽玄のようなもの。バート・ランカスターの幽玄、みたいな年齢と、アラン・ドロンの若さ。そしてクラウディア・カルディナーレの持つ、ヴィスコンティには手のつけられない種類の女の美しさ。その3つのものを置いた時に出てくるもの、ただそれだけで、かもしだされる何かがあります。それで、バート・ランカスターとクラウディア・カルディナーレと踊るシーンがありますね。タンクレディ(アラン・ドロンの役名)の恋人の彼女に、「ぼくと踊ってくれるかね」と言う。「ええ」と彼女が答えて踊り始める。それが、ものすごく似合って美しい。そのために3時間の映画があるのではないかと思うくらい。それで、『ベリッシマ』にとてもおもしろいシーンがあるんです。ラストシーンで、アンナ・マニャーニが男とベッドで寝ているんだけれど、アパートの隣りで映画が始まって、うるさいって言うんですね。ところが、「西部劇だわ、バート・ランカスターの声ね、ステキ」って、アンナ・マニャーニが言うんです。そういうことをしておいて、ヴィスコンティは『山猫』でちゃんとバート・ランカスターを手に入れて使っているわけでしょう。なんて映画を楽しんでいるんだろうと思うんです。考えると、つい笑い出したくなるんです。だって『ベリッシマ』の最後に「バート・ランカスターの声ってステキ」とベッドで言って、それで終わりになっちゃうんですから。
須永 『ベリッシマ』はかなり初期の作品ですね。
玉三郎 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が最初で、次に何かあって、『ベリッシマ』はその次くらいじゃないですか。
須永 『ベリッシマ』の前は『揺れる大地』というシチリア島の本物の漁民を出演者にして撮った作品です。
玉三郎 それから『夏の嵐』と『白夜』があって、『若者のすべて』、『山猫』などがある。それでもう、アラン・ドロンはヴィスコンティの作品に出たくなくなるんでしょう。それで『イノセント』を断ったのでしょう。
須永 ヴィスコンティとアラン・ドロンという組合せは、なかなかおもしろいですね。『哀れ彼女は娼婦』という英国エリザベス朝の芝居を、ヴィスコンティはアラン・ドロンを使ってパリで上演しています。美貌の兄と妹が相姦する話で、妹はロミー・シュナイダーが演じたそうです。ヴィスコンティが描いたドロンのスケッチがけだるい雰囲気があって素晴らしいんですが、若い頃のヴィスコンティの写真にその絵とそっくりのポーズのものがあって、この1枚だけ容貌も似てます。アラン・ドロンという俳優はお好きですか。
玉三郎 アラン・ドロンは好き嫌いというよりも、『若者のすべて』でのアラン・ドロンに興味があります。この『若者のすべて』という映画で、演技をつけるというよりも、本当の情感を引き出され続けた、というか。あの、ロッコが女の人のことで兄弟で喧嘩して、外で泣くシーンがあるでしょう。あれは、本当に泣かされていたのじゃないかと思ったくらいでした、ぼくは。本物のせつないぎりぎりの気持ち、本当にぎりぎりの感情でないと、どのシーンもヴィスコンティがOKを出さなかったんじゃないかと思うんです。その凄さにこりごりしたのではないか、と想像しているんです。役者でも、ある程度見せたくない部分があるわけだし、自尊心もあるわけでしょう。それをヴィスコンティは、全部えぐりとって見せてしまう。自分の、他人に見せたくないところが、すべてあからさまにされる。それは辛いでしょう。アラン・ドロンは、そんなふうに、『若者のすべて』でエッセンスを全部しぼりとられてしまったんじゃないかと思ったりするんです。
須永 アラン・ドロンはルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』で新境地を拓いたと言われましたが、それ以前は甘い雰囲気の二枚目タイプの役柄が多かったわけですが、『若者のすべて』になると、全然違いますね。『太陽がいっぱい』ともやはり違う。
玉三郎 全然違うでしょう。その後のアラン・ドロンでもありませんね。装って帽子をかぶったり、二枚目風にかまえたアラン・ドロンとは全然違う。『山猫』以後もう、やっぱり、ついていけない、いきたくないと思ったのかもしれない。尋常な神経ではヴィスコンティの前に出られない、そんなふうにまで思っているのではないか、そういうものがアラン・ドロンから窺えるような気が、ぼくはしました。女主人公役のアニー・ジラルドと、二男坊役の、彼女を殺すシモーネを演ったレナート・サルヴァトーリは、その頃愛し合っていて、結婚しようという時だったんでしょう。それを撮るんですもの、愛というもののいろいろな形が、そのまま出る、演技というのじゃなくて。むしろ、出ているというより、映しただけでそう見える。そのくらいの本物でないとヴィスコンティは納得しない。そこまで役者に要求していく完璧主義というのは怖いです。
須永 それは感じますね。ところで、彼の場合、貴族出身ということが近年では話題になりますが、ヴィスコンティ家というのは13世紀からミラノを統治した古い家柄ですね。ただ、モドローネ公爵というもんひとつの称号をルキノのお祖父さんがナポレオンからもらっているんです。ルキノのお父さんの正式の名はジュゼッペ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ公爵というんですね。お母さんは裕福な薬屋の娘で貴族ではなかったようです。
玉三郎 貴族の家に生まれて、育った人でしょう。そういう人間が、なぜ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』や『若者のすべて』のような映画を撮ったんだろうか、と、ぼくは考えたんです。だけれど、そういう上流社会の生活をしていて、服を着たままデカダンスを感じられる感性があったからこそ、雪の降る朝、破れた下着で起きあがる5人の兄弟たちを、リアルに、しかも下品でなく描けたのではないか、と思います。それはもうヴィスコンティ独得の力なんじゃないでしょうか。ちゃんとイタリアの貧しい階層の人々を描きながら、かもしだされる人間の姿は、品良く風のように心に沁み入ってくる、とでも言うんでしょうか。
須永 ヴィスコンティは、イデオロギーの類いに捉われることなく、生来の柔軟な感性を生涯持ち続けることができたとも言えるでしょうね。
玉三郎 ぼくが『ルートヴィヒ』を見てわかったのは、ルートヴィヒがね、何か耐えがたくなって、馬丁たちの小屋へ遊びにいくところがあるでしょう。
須永 ああ、あの小屋はフンディング・ヒュッテというもので、ワーグナーの『ヴァルキューレ』に出てくる山賊の家をルートヴィヒが舞台装置そのままにリンダーホフ宮の傍に作らせたのです。小屋の中に大きなトネリコの木があったでしょう。戦争で焼けて今は残っていませんが。
玉三郎 雪の降る中、馬車に乗って、泥酔してね。それでその小屋で一晩飲んで過ごして、迎えの馬車に乗って、そっと帰るんです。そんなふうに、自分のいる場所に耐えがたくなって、別の所で一息ついてみる。上流階級で育ったからこそ、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のような世界に着眼する、というところもあるんじゃないでしょうか。その中の醜さというのではなく、その世界の中の人間性や感覚に触れてゆく、かかわっていく、というか。それは『ルートヴィヒ』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』だけじゃなくて、『ベリッシマ』のオーディションのイタリアのたくましい母親たち、『若者のすべて』もそうで、ふっと、憩いの場所を見つけたんじゃないだろうか、と。
須永 ヴィスコンティは共産党に入ったこともあったわけですね。そして『若者のすべて』はイタリアのネオ・リアリズムの系譜をひいた作品で、労働省のエネルギーを描いた、というような評価がされていた時期もあったんですが、玉三郎さんにはピンときませんでしょう。
玉三郎 ええ、ぼくにはあまり理解できないです。ぼくは、ヴィスコンティを思想的というより、感覚的な人だったのではないかと解釈しているんですけれども。ただ、ぼくたち日本人には、ヨーロッパの人たちのそうした思想に対する感覚というのは、本当はわからないんじゃないか、という気もします。
須永 日本に『若者のすべて』が入ってきた頃は、そういう図式的な見方を何に対してもあてはめるのが流行していた時代でしたから。
玉三郎 そうなのでしょうね。だけれど、たとえば『家族の肖像』のヘルムート・バーガーの演じた青年が共産党員ということになっているでしょう。でも、ある意味で関係ないんじゃないでしょうか。青年を追いつめていくもののひとつということで政治運動にしたのだと思うんです。とにかく、何かによって極限に追いつめられている精神状態の青年、というキャラクターなんだと思います。『若者のすべて』もね、南の田舎の人が、北の都会に出て苦労をした、ということじゃないでしょう。お話の事実はそうでも、問題は人間の魂の問題、感情、愛情。魂のすれちがいや、それでもなお最後まで切れない肉親のつながりとか、そういうものなのだと思います。ああ、それからぼくは、ヴィスコンティの映画を見て、いつも思うことがあるんです。愛し合っているもの、憎しみ合っているものが近づけも離れもしないんです。ヴィスコンティの作品では。愛し合っているものがありました、と出てきて、2人の魂がひとつになるかというとならない。2人ともその場で感情をふるわせていて、距離は近づきも離れもしない。憎しみ合っている2人がいました、とあって互いに位置を移動させるのかと思うと、そうじゃない。動けない。その位置で憎悪が燃えたとしても位置が全然変わらないんです。
須永 『イノセント』がそうですね。
玉三郎 そうですね。この流れは初めから現われていると思います。『若者のすべて』のアニー・ジラルドのヒロインと彼女を殺したシモーネだって、近づきも離れもしていないような気がするんです。魂の位置が同じままで。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のヒロインと男も、近づけも離れもせず平行線で見つめ合ったままだと思います。『ベニスに死す』もそうでしょう。アッシェンバッハとあの美少年の距離は、出会いから最後まで変化していないでしょう。全然近づいていないし、逆に遠ざかりもしない。そこにヴィスコンティの苦しさがあるのだと思います。『熊座の淡き星影』の姉弟もそうですね。肉体が結ばれようと離れようと、何をしようと、距離そのものを変えることができない人々ばかりなんですね。
須永 それは一体、何を意味しているのだと思いますか。
玉三郎 「孤独」なんだろうと思います。ヴィスコンティにとって、これが永遠のテーマだったんじゃないでしょうか。
須永 ある程度理解し合っているし、互いに愛情があることも知っている……。
玉三郎 それでいながら、それ以上近づくことも離れることもできない。置かれたままの位置、初めに決まってしまった位置で、じいっと思いつめている。その苦しさをいっているんだと思うんです。『家族の肖像』もそれがあてはまると思います。登場人物すべてがそうでしょう。
須永 今までに、そういう分析をした方っていないですね。たいへん興味深い。
玉三郎 ぼくの偏見なのかもしれないのですけれど。
須永 彼の人間関係の上でのすさまじい不安が感じられますね。
玉三郎 きっと、すごく不安だったのじゃないかと思います、たぶん。『イノセント』は男女の関係でみることが多いけれど、それだけではなく人間と人間の孤独の関係でもあると思います。あれだけ葛藤したあげく、映画の最後のシーンはハンドバッグを持って黒いドレスを着た貴婦人がスーッと画面を遠ざかってゆく、それだけなんです。
須永 そしてそれは、辛いけれども、どこか心地良いところがある。
玉三郎 かもしれません。じゃなかったら辛くてとても見ていられなくなるでしょう。どうにもならない状況というものに対してのマゾヒスティックな楽しみ、そして、どうにもならない相手へのサディスティックな感情。そういったものを音楽や絵画、美学という形に移行していくことを、デカダンスとヴィスコンティは呼んでいたのではないだろうか、という気がしてくるんです。2人の関係を醜いものにはしたくない、そういう美意識があるのでしょう。
須永 ところで、ヴィスコンティが選ぶ女優さんにはある種の共通点があるようですね。必ずしも芸達者とか演技派というのではない。むしろ素材としての女性を要求しているというのでしょうか。たとえば、アニー・ジラルド、クラウディア・カルディナーレ……。
玉三郎 シルヴァーナ・マンガーノもそうですね。彼はもしかしたら、「女」を創り出すと言うよりは、むしろ材料として、ものすごくいい女、存在感の素晴らしい女優さんを使っていたんじゃないんだろうかという気がします。映していればそのまま物語になってしまうくらいに存在感のある女優、アニー・ジラルドもクラウディア・カルディナーレもそのくらい凄い人でしょう。まあ、ヴィスコンティが映すと、そうなってしまう、というのがあるかもしれないけれど。『イノセント』のミストレス、奥さんではなくて愛人の伯爵夫人を演じたのは、アメリカ人で、イタリア語はあまり喋れないらしいんです。きれいで見事だから、素材として連れてきてね、声は吹替なんですね。女優ではなくて、モデルさんらしいんです。
須永 ジェニファー・オニールですね。
玉三郎 アリダ・ヴァリやアンナ・マニャーニも凄かったですね。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のマニャーニのすごいシーン、覚えてるんです。彼女がどうにもならない気分でいて、昼食を食べている。スープやミルクとかを入れ物についでいるうちにテーブルに彼女がうつぶしてしまう、それをロングで引いて撮っているんですけど、もう、生活に疲れた女そのものの感じなんです。
須永 ヴィスコンティはそういうことも全部知っていたわけですね。そういう場面をリアルに作りあげることができる人だった。
作家と作品
須永 ヴィスコンティは『ルートヴィヒ』の撮影中からだいぶ体調を崩し、その後再起したわけですが、晩年の作品はいかがですか? 『家族の肖像』と『イノセント』は……。
玉三郎 ヴィスコンティは自分の作品を自叙伝ではないと言ってますけど、どうしても自叙伝みたいになってしまうところがあると思います。自分のその時の心境に一番忠実になるといういか、最も切実なところに執着しているような感じがするんです。そうすると、ぼくにとって『家族の肖像』は心が荒らされる映画で、逆に『イノセント』のほうは慰められる映画なんです。それは、ぼくが思うに、ヴィスコンティが現実にある人物の美しさに魅かれたとき、相手を主体として映画を作ると荒涼としたものになる、それが『家族の肖像』ですね。安堵してないんです、ずいぶん心が荒れている。ところが『イノセント』は自分の側から相手を見ているんですね。
須永 両方とも被害をうける男の話ですね。
玉三郎 そうなんだけれども、本質的には『イノセント』の主人公のほうが加害者的なんですね。
須永 ヴィスコンティが、あの頃現実に魅かれた相手といいますと、たとえばヘルムート・バーガーとか考えられますが。
玉三郎 それはヘルムート・バーガーかどうかは知りませんが、相手と魂をひとつにしようと思うときの辛さを描いたものが、はっきり言えば『家族の肖像』ではないかと思います。美しいと思うもの、魅かれているものを対象として自分がその周りをぐるぐる回っているのが『家族の肖像』。自分がいて逆に美しいものがぐるぐる回っているのが『イノセント』。生涯の終わりにパタッパタッといろいろな面が現われてきて、それが2つに割れてあの2作になったような気がします。だから、『家族の肖像』は嫌いじゃないけれども、見ていて心が逆撫でされるんですね。『イノセント』のほうは、鎮魂というか、優しく触られているような感じ、というふうにぼくは思っています。
須永 魅かれる相手の周りをぐるぐる回りたくないわけですね。
玉三郎 あれは、命を削るというか、非常に疲れるものなんでしょうね。
須永 そうでしょうね。相手が回ってくれると楽だ、というのは語弊があるけれども。
玉三郎 そうとばかりも言えないんですけど……。ある時、ぼくがワシントンで歌舞伎を演ったとき、政治記者がきて「あなたは道徳を持ってきたのか、それとも美をもたらすのか」と聞くんですね。20分しかないから簡単に答えてくれって、はっきりしているの。そこでぼくが一瞬「うーん」と考えたら相手が「俺の質問はいい質問だろう」と聞いたんです。はたと思って「答える前にひとつ質問がある」と言って「美は道徳であるか」と聞いたんです。向うが困った様子を見せたから、「ぼくの質問はいい質問だろう」と言ったんです。そうしたら向うが考えて「美はときどき道徳であるけれど、ときどき美は道徳ではない」と言うの。それでね、「ぼくの見解では、美はほとんど罪に等しい」と言い返したんです。そして2人で大笑いしたんです。だから、そういう意味で、罪に翻弄されているとき、つまり美に翻弄されているときというのは痛みが激しいんです。だから、美に翻弄されながらも自分自身を失わない、というのが理想的なんじゃありませんか。
須永 『イノセント』のほうが理想的なわけですね。
玉三郎 そう。比べると『家族の肖像』は本当に痛ましいですよ。見ていて、こちらも辛くなります。
須永 政治とか、家族の肖像と呼ばれる絵をもちこんだり……。
玉三郎 それと、やっぱりヴィスコンティが元気な状態の映画じゃないなと思ったのは、ファースト・シーンで心電図が出てくるでしょ、こうたらたらっと垂れるんです。異常な曲線を描いているんだけど、心電図が一本ダーっとこっちへきてしまうんです。それで、そのときカメラがちょっとパンしたの。もし体力があったら、あの完璧主義だからOKしなかったと思うんです。ああ体が弱ってるかな、と思いました。
須永 玉三郎さんは、本当に演出家のような視点からご覧になっているんですね。
玉三郎 やはり、ついついそういうふうに見てしまいます。だから、ヴィスコンティの映画を見ていても、この俳優はだいたいこのくらいの力だけれども、ヴィスコンティによって、こことか。ヴィスコンティはこの人とこの人に演技を要求していて、あとは素材としての魅力を要求しているようだな、とか、そんなふうに見てしまいます。もちろん裏から見るというような、そんな意味ではないんですけれど。
須永 ヴィスコンティは、向こうではオペラや芝居の演出家としても一流だったわけですね。日本で彼のオペラや芝居が見られなかったのは仕方のないことですけれども、彼の映画を云々するときは、そのことも念頭に置くべきでしょうね。
玉三郎 それは、あれだけの画面の持続力を保つには舞台空間を知らないとむずかしいでしょうね。あの重圧感、空気を動かさない、始まったらお客を微動だにさせないという持続力は、舞台空間を知っているからだと思います。彼の映画は、場所や何かは飛んでも、空間のもつ時間そのものはじーっとしているわけで、お客に息をつく暇を与えないんですね。だから、ヴィスコンティの映画が嫌いだという人は、あのじーっとくる緊張感が堪えがたいのだと言っていました。
須永 妙な質問ですが、もし、今ヴィスコンティが生きていたら、会ってみたいとかお思いになりますか。
玉三郎 いえ、作品を見ているだけで充分です。ぼくは映画監督でも、アーティストの場合もそうなのですが、その方にお会いして話すよりも作品そのものを通して、その人自身に会いたい、と思っています。映画にしても、音楽や絵画にしても、作品を見たほうがその人の言いたいこと、話したいことが、はっきりわかるんじゃないでしょうか。それはどのジャンルでもそうだと思います。むろん、ヴィスコンティという方に会いたくないというのではありません。お会いする機会がもしあったとしたら、それはとても幸せなことだったでしょう。あるいは仕事の上での出会いというのなら、出会いの意味自体がまったく違っていくでしょうけれど。たとえば仕事の上での出会いを考えてみると、黒澤監督と三船敏郎さんの出会いというのは、すごいことだと思います。ヴィスコンティとヘルムート・バーガーというような。黒澤監督が三船さんを中心にして創っていった作品群は本当に素晴らしいし、凄いと思います。
須永 ところで、ヴィスコンティにしても黒澤明にしても、その容貌が作風と何となく通じているような感じをもつのですが。たとえば、ヴィスコンティの少年時代の写真など見ると、まさに小公子という容子で、作品にもそのイメージが揺曳していますね。
玉三郎 そうですね。黒澤監督は背が高くて、骨太でとても男らしい。そういう容姿と同じような映画に見えると思いませんか。フェリーニは、イタリア人の愛情の深さ、暖かさ。そう、嘘八百で人を煙にまくのが大好きでね、それなのに奥さんのジュリエッタ・マシーナを初めから、そしていつまでもずっと愛している、そういうイタリア男の可愛らしさを感じるんです。映画界の怪物でありながら、奥さんをそこまで愛している、そのやさしさ、もろさ。そこが暖かいとこでもあって、とても素晴らしいと思いました。フェリーニの『オーケストラ・リハーサル』という、ニーノ・ロータのために作った映画があるのですけど、不条理や心のささくれだった、居心地の悪さがあって、それに対してまで愛情を抱いているのが見えるんです。やはり、「愛情」がフェリーニなんじゃないだろうかという気がしたんです。芸術家の個性の違いって、やはり作品を見ると一番よく感じられますね。
ベルイマンとシュールレアリスム
須永 スウェーデンの人でベルイマンという監督はいかがでしょうか?
玉三郎 『沈黙』とか『野いちご』とか見ています。あと何がありますか?
須永 『叫びとささやき』というのが傑作ですね。
玉三郎 それは見てないですね。
須永 『処女の泉』は?
玉三郎 それ、見ました。
須永 『ペルソナ』という失語症に罹った女優の話も凄い。あと、ぼくらが高校生くらいの頃のもので『鏡の中にあるごとく』とか『第七の封印』とか、モノ・クロームです。『第七の封印』は中世の話で悪魔が出てくるんですが、具体的に悪魔を出してくるところが良いと思いますね。
玉三郎 シュールっていうと、奇を衒ってシュールレアリスムにするけれど、自分自分の感覚そのものがああいうものであって、故意にシュールレアリスムにしようと思っていない感じの、あの飛び具合というのは、ベルイマン独得ですね。
須永 ベルイマンの場合は本当に独得で、フランスやスペインのいわゆるシュールレアリストたちとは全然違うものでしょうね。
玉三郎 そう、シュールレアリスムにしたいがためのシュールレアリスムというのがときどきあるでしょう。そういうのじゃないからついていける感じがするな、映画の中で。何ていうのかしら、シュールレアリスムが人間であるというふうに考えると、もう普通に繋がって考えられることがシュールになるわけだから、ぼくは好きなんですね。第一、人間の考えることってシュールなんですよね。
須永 そう、ずっと自覚されて同じことが一貫して繋がっていくわけじゃないし、好きなことをしていてもある瞬間まったく別なことを考えたりするし。
玉三郎 だから人間の思考の形からいえば、本当に考えていることを並べて作ることほどシュールレアリスムになるんじゃないかしら。逆説的だけど、そんなふうに考えることがあります。
須永 シュールレアリスムって、ぼくはあれは最後の手札だと思ってるのね。要するに、夢をそのまま書けば一番ていうか、夢ほど支離滅裂なものはない。一種の自動筆記式の機械がもしできたとして、夢がそのまま文章なり映画なりに固定できれば、無理してシュールレアリスムなんてやる必要なくなりますから。
玉三郎 良く考えることがあるんですよ、ぼく。割と気に入ってる人が傍にいて、この人には絶対自分は危害を加えないって思えば思うほど、この人を横から切ったら血が出るかな、とか。そうしたら、どんなになるんだろうと、ふと思うときがある。別にサディスティックな意味じゃなく。
須永 まあ切るというのはひとつの例としても、絶対ありえないと思いながら、また自分もそうしようとは思わないんだけれども、したらどうなるだろうと考えることはありますね。
玉三郎 たとえば、非常に尊敬している人と歩いていて突然道路の真中で自分の気持が豹変するとか、なんかこう、ふと常識じゃできないことを考えているときにね、ぼくが気が狂ったら実際やるのかも知れないと思うんですね。理性があるからやらないだけで、もしその理性がなかったら……。
須永 やっぱりそれは深層心理とか意識下の意識とかで、ふだんは理性に抑えられているけれども、誰にでもそういう危険性はあるだろうと思いますね。同じことを繰返しているときなんか、ふと変な気分になり易い。
玉三郎 毎日同じ芝居をちゃんとやるのなんて、シュールの極みなんじゃないですか、人間の生理からみても。
須永 単に観ている側から言えば驚異ですね。
玉三郎 やってるほうでも驚異です、本当に。千秋楽まで無事に行きつけるかどうかって考えてやってる時もありますものね。
須永 ここのところ、5ヶ月連続でしょう。
玉三郎 まあ、こんなことは滅多にないでしょうね。それも初役ばかり……。
須永 こちらからみれば、台詞を覚えるだけでもたいへんなように思えますが。
玉三郎 あの、実際台詞さえ覚えてしまえば安心なんですけど、でも台詞が入ってないと駄目ですね。ぼくの場合は、台詞を覚えるのに、まずストーリーの軸を読んで、次に自分の役がその芝居の軸のどこにあるかということを掴んで輪郭を把握して、そこから覚えていきます。頭から覚えようとしても全然駄目です。
須永 役のキャラクターをまず掴んで、その役が戯曲の中に占める位置を知るということでしょうか。
玉三郎 そう、だからこの芝居はこう流れてきて、周りがこうなったときに自分がその気持になってこの言葉を発する、というふうに覚えていきます。だから、なるべく全員で稽古していったほうがいいんです。よく2、3日の稽古で演る場合、過去の芝居の同じ出し物の録音なりの音を傍に置くんですよ、で、その上演中の芝居の音と一緒に自分が覚えていくんです。だから前後の関係から覚えていってしまう。自分だけで覚えるというのは、ぼくにはできないんです。相手を受けて覚えていく、それからこの音がしたときからこういう気持ちになるとか、そんなふうに覚えていきます。
須永 昔は書き抜きという、自分の役の台詞だけ書いたものをもらったといいますから、お稽古は全員でしょうね。
玉三郎 そうでしょうね。「お前はこれだけ喋るんだぞ、次あなた、次あなた」というふうにやってたんじゃないでしょうか。
須永 まあ、南北でも黙阿弥でも正本というのは1冊だけで、作者が持っていたんですね。で、あとは書き抜きをもらって。
玉三郎 その代わり、本読みといって、作者が最初に読んだわけです。
須永 今の時蔵さんが「家に父の書き抜きが残っていて」なんて発言なさってるのを読んだことがあるから、先代の時蔵さんの頃にはあったのかしら。
玉三郎 うちの父も書き抜きですよ。
須永 ああ、そうでしょうね。
玉三郎 こう綴じてあって、自分の台詞だけきちっと書いてあるんです。
須永 その書き抜きに、なさった方のメモというか書きこみがある場合、型とか役作りの伝承の貴重な資料になるわけですね。今でも書き抜きで稽古なさることあるんですか?
玉三郎 ぼくたちも古典というか時代物するときは、書き抜きをもらうことがありますよ。でも、たいていは子供の頃からその芝居の流れを一応知ってますから。どちらにしても、芝居は全体の流れが大切だから、1人でできることは限りがありますね。
須永 映画の話から最後はやっぱりお芝居の話になってしまいましたね。 
バレエの魅力 
20世紀バレエ団
須永 バレエのお話をうかがいましょうか。最近、日本でもモーリス・ベジャール率る20世紀バレエ団がたいへんな人気と評価を得ていますね。20世紀バレエ団の公演は、一番初めは何をご覧になりましたか。
玉三郎 78年に来日したときに、『ペトルーシュカ』とか『火の鳥』、『春の祭典』のストラヴィンスキー・プロを観ました。僕が名古屋で『オセロ』を公演している時、神戸まで行って観たんです。
須永 どんな印象を持たれましたか。
玉三郎 20世紀バレエ団というのは、それまで我々が知っていたクラシック・バレエの概念をくつがえすようなところがありました。ベジャールさんは思想家で、お父様が哲学者だったということもあって、芸術全体の流れというものを自分で独得に理解していらっしゃる。
須永 ベジャールさんは、直接お会いになってどんな方でしたか。
玉三郎 一緒に仕事をしたいとかって話しているときは、やさしい人なんです。ところがいざ実際に始まると、やはり非常な怪物らしくて……。踊り手が催眠術にかかったように踊ってしまうって聞きました。ベジャールさんというのは稽古に入ってからすべてを具体化していく方なんだそうです。初めはきちっとした線が引いてないらしい。だから、5、6週間ぐらい稽古があるんです。
須永 1ヶ月半ですね。
玉三郎 そう、それでバレエ団の方いわく、稽古の最中にどんどん作品が変えられていくんですって。つまり、昨日までのものを全部ご破算にしてもう一回初めから、ということがずいぶんとあって、踊り手の人たちが苦労することもあるらしいです。
須永 ベジャールさんは東洋にたいへん興味を持っていて、日本の芸術でも文楽や能、歌舞伎など、来日するたびにご覧になるようですね。
玉三郎 そうですね。あの方は歌舞伎などの話はあまりしないんですが、ある時こうおっしゃっていました。「私にとって、歌舞伎は<驚き>という意味が多いものだ、例えば『引き抜く』とか『見得をする』」など─。
須永 そう。それに、西洋人には考えられないような感覚の、日本人が言うところの職人芸というものは、やはり驚くべきものだとおっしゃっていましたね。玉三郎さんをご覧になったときは、さぞ驚かれたろうと思います。
玉三郎 ベジャールさんが、なぜ僕に目を向けたかというと「昔の女性には、人と謁見するときとか、お茶を飲むときのドレスの着方や歩き方をコーチする人がいて、そのように自分の生活を自分で意識して生活していたことに美しさがあった。でも、今ではそれが失われてしまっている」。けれど、女形というのは女である男であるということを意識したところから、その造形美というのが作られるでしょう。そういうところに興味があるんだって言ってましたね。
須永 古典劇をする時も同じですね。
玉三郎 ええ、様式美って必要だと思います。ベジャールさんの言う、演劇的空間の中での様式性っていうのが今、意外に忘れられているという気がします。台詞も、自分の感性のままに話せば、その人に伝わるというふうに信じ込んでいるようなんですね。映画でも、様式の使い方の振幅によって、外国の方は非常にリアルな画面創造をしますね。ヴィスコンティの映画にしてもリアルに見えるけれども、あのリアルさというのが単なる現実じゃなく、画面用のリアリティになっている。それも様式のひとつだと思います。
須永 そうですね。
玉三郎 ヴィスコンティの映画は、舞台芸術からみればリアリズムに見えるけれど、ヴィスコンティ様式になっているんです。
須永 僕も、歌舞伎の世話物なんかを見ていると、それを感じます。リアリズムという論理が先にあるのではなく、論理抜きのリアリティですね。決して写実的にやればいい、というものではない。
玉三郎 そう。だから逆説的に言えば、写実に見えるための様式というのか、それがまず最低限必要なのではないでしょうか。ベジャールさん自身は、「私のバレエは前衛ではなくて、むしろ古典を基調にしたものである」って言ってるんですね。けれど今の古典と思われているものは、バレエでも芝居でも、19世紀に作られたものだと言うんです。私たちの考える、古典の流れがずっと現代にまで続いているという概念とは切りはなして考えている。
須永 ベジャールさんは、いわゆるクラシック・バレエはお好きじゃないようですね。
玉三郎 そうではないでしょうけれども、それが19世紀の産物で、その流れをくんだものが今あると言っています。
須永 舞踊は20世紀のものだ、という考えですね。
玉三郎 そして、その前は男たちが舞っていたもの─あるいは、神に捧げるものというふうに考えているみたいです。
須永 歴史的に見ても、ルイ14世の頃は全員、男性ですね。女性の役は、ギリシア悲劇のように仮面をつけて演じるという……シェイクスピアもそうです。女性が芸能に登場するというのはヨーロッパでも日本でもかなり遅いようです。玉三郎さんは、ベジャールさんの作品のなかで何がお好きですか。
玉三郎 僕は一番好きなもの、映画でも何でも自分の趣味の一番好きなものを言うことはできないんです。でも、ベジャールさんご自身は最近の作では『我々のファウスト』を気に入っているらしいですよ。
須永 あれはアルゼンチン・タンゴを使っていましたね。ジョルジュ・ドンがアルゼンチンの人だから、ということからきているのでしょうか。
玉三郎 そうかもしれませんね。
須永 ジョルジュ・ドンさんにお会いになった時の印象はいかがですか。
玉三郎 78年の来日の時にベジャールさんと、ジョルジュ・ドンさんに初めて会いました。ベジャールさんが会いたいということで案内してもらって、お会いした場所がドンさんの部屋だったんです。僕が横にすわって話をしていたんですが、ペトルーシュカのお面のメーキャップをしている人がいてね、そしたらそれがジョルジュ・ドンだった。わからなかったんです。ジョルジュ・ドンという方は、舞台では特別輝いている人ですね。ふだんは、ずっとおだやかだし、舞台のイメージにくらべて、ずっと普通の人という感じがしますね。スターとか、俳優ってわりとそういう存在だと思うんです。自分の独得の面というのを舞台に投げかけていて、舞台以外の所では、平坦に生きている、というか。
須永 むしろ平凡に見える……。
玉三郎 そんな感じがしました。月並みな言い方になりますけど、舞台では大きく見える。背もそう高くないし、脚や体の線もみんなあこがれるほど美しい、というのでもない、ふだんの印象はね。それが舞台に立つと、顔も独得のマスクに変わり、特別にあつらえたような身体になり、踊りが素晴らしくてね。やはり、ベジャールさんが自分のある時期をすべて賭けることができるダンサーだと、ぼくは思いました。その時に、<ジョルジュ・ドン>と書いてあるものと<ジョルグ・ドン>と書いてあるものとあるでしょう。どちらのお名前が本当ですかって、聞いたんです。そうしたら、<ワルフ・ドン>、まあ、本当に正確な発音は日本語では表記できないけれど、<ワルフ>っていうんですって、生まれた所での読み方は。ジョルグともジョルジュとも読まないから、どちらでもかまわないっておっしゃってましたね。
須永 彼はアルゼンチンの出身でしたね。スペイン語の読み方なら<ホルヘ・ドン>でしょうね。彼のメーキャップをすぐそばでご覧になっていかがでしたか。
玉三郎 バレエのメーキャップは歌舞伎と違って、決まったものがないんですね。でも、ジョルジュは、きれいにメーキャップしますね。
須永 初めて来日したのは15、6年前ですね。
玉三郎 僕はその時はまだ観ていないんです。ドンさんが20歳くらいの頃ですね。『ロメオとジュリエット』を上演した。
須永 僕はただ、綺麗な人がいるなと思っていたくらいだった。
玉三郎 彼はアルゼンチンの人で、20世紀バレエ団が巡業に行ったら、入団したいってベジャールのところに来たんですって。
須永 ええ、後になって突然ブリュッセルへ訪ねてきたんですね。
玉三郎 そう。でも最初は「あなたにやれる役割はないから」ということで入れてもらえなかったんだけれど、一週間も門の前に通ったんだそうです。偶然ソリストが2人、踊れなくなってそれじゃあ代わりに踊ってごらん、ということで縁ができたということです。芸術的な出会いというのは不思議なものですねえ。「いらない、いらない」と言っていた人が、一番かけがえのない人間になっていくわけでしょう。それをベジャールさんは話していましたよ。
須永 今はドンさんに芸術監督の地位をゆずるまでになっている、これからドンさんは振付などもなさっていくんでしょうか。
玉三郎 それは具体的にどうなっているか……。でも、まだまだベジャールさんが活躍されていくんでしょうね。ただ、もう少し自由に創作をなさりたいから、ということだったようです。
須永 そうですね、あれだけのものを率いて世界中を回るんですからね。
クラシック・バレエ
須永 玉三郎さんは、クラシックバレエはご覧になりますか。
玉三郎 よく観ます。オペラも好きですし……。
須永 観始めると、よいものが来ると行かないではいられなくなる。
玉三郎 子供の頃から、お小遣いをためてみんな観に行きました。クラシックのほうでは、最近エヴァ・エフドキモワが好きです。マーゴット・フォンティーンは一応引退しましたけど、マーゴは大好きでした。マーゴの品のよさ、マヤ・プリセツカヤの技術とかね。ぼくは今、エヴァ・エフドキモワというという人が一番好きです。かなり大柄な女の人で手や足が長くて、動きが優雅で技術もかなりパーフェクトな人で。あと、パリ・オペラ座のバレエでは、シャルル・ジュドーという、ベトナムとフランスの混血の男性ソリストがいて、その人の『ロメオとジュリエット』を観ましたけれど、素敵でしたよ。
須永 エフドキモワは西ベルリンの国立歌劇場バレエ団の人ですね。1昨年ピーター・ブロイヤーと一緒に来ていた……。
玉三郎 彼女は今、とても好きな踊り手です。ミラノ・スカラ座のカルラ・フラッチも素晴らしいと思うけれど、2人は対照的ですね。
須永 カルラ・フラッチはハーバード・ロス監督の映画『ニジンスキー』にも出演していましたね、カルサヴィーナの役で。
玉三郎 お芝居もうまい方ですね。なんて貫禄のある女優だろうと思って観ていたら、それがカルラ・フラッチだった。毛皮を着て薔薇の花を手にしたプリマドンナ。男か女かっていうんじゃなくて「愛が大切よ」って言ったんですね。
須永 ニジンスキーとディアギレフのことを皆が言っているときに、2人の関係じゃなく、愛の質が大切なんだって言う。あの言葉は実際にカルサヴィーナ本人が言ったそうですね。あの当時では、パヴロヴァの次の人だけれど、人間的な面でよりすぐれていたと言われています。ジョルジュ・ドンもそうですが、パトリック・デュポンなど日本でも男性ソリストの人気が高くなってきました。
玉三郎 ただ、男性舞踊手って、プリマドンナに比べると寿命が短い。プリマは50、60でもプリマでいられる人もいるし。でも男性のソリストは40歳ぐらいが限界でしょう。跳躍とか女性を持ちあげたりとかの肉体的なことがね。それに衣裳をあまりつけないから、身体自体の美も問題になってくるでしょう。だからプリマドンナの相手役というのは2回ぐらい変わるでしょう。マーゴット・フォンテーンも、ヌレエフの前にも相手役がいて、ヌレエフが踊らなくなってから、引退したわけでしょう。彼女は14歳の時に『ジゼル』を踊ったそうだから、3、40年間、プリマでいたわけですね。
須永 ヌレエフの前の相手役はマイケル・サムズという人です。ぼくが子供の頃にフォンテーン主演の『ローヤル・バレエ』という天然色映画が来まして、『白鳥の湖』と『火の鳥』と『オンディーヌ』を撮ったものですが、3つとも相手役の王子をマイケル・サムズが踊ってます。当時の印象でも既におじさんという感じでしたけど。ところでバレエ以外の踊りとか、フィギュア・スケートなどはいかがですか。ご覧になりますか。
玉三郎 大好きです。フィギュア・スケートや陸上、体操など、身体の動きを見るのは大好きで、体操競技の吊輪とか、床運動などテレビでよく観ますね。サラエボ・オリンピックのフィギュアで『ボレロ』を踊って金メダルをとったイギリスのアイスダンスのカップルもよかったですね。外国の選手はスケートも体操もバレエの基本があるから身体の動きも体自体も美しい。運動とか踊りとかは、やはりトゥで立つ、とかね、少し体に無理をさせるもの、鍛練のあとが見えるものに魅かれます。踊りは音に合わせて体を動かすという、人間にとって根源的なことだと思う。神秘的なもう人間の本能に根ざした、言葉で言い表せないことがあると思います。ひとつの、体で描く音楽といえるのかもしれません。エヴァ・エフドキモワのインタビューに「踊っている時に何を考えていますか」という質問があって、彼女は「音楽」と答えていました。彼女の踊りを観ていると、もう身体の動きと音楽がひとつのものになっている、音を奏でているのがわかります。だから人の心に訴えるのでしょうし、五感にあるいは六感にまで伝わって、人間を感動させるのではないでしょうか。
須永 ご自身では日本舞踊をおやりになっていらっしゃるわけですが、それは日本舞踊でも同じことであるわけですね。ご自分で踊ってらして、特に気持ちがいいもの、好きな演目というのはおありですか。
玉三郎 踊りは、ぼくは全体に好きです。芝居よりも踊りから歌舞伎の世界に入っていたくらいですから。踊ること、音に合わせて体を動かすこと、感情の高まりに合わせて体が動いていき、ひとつの音楽を描いていくというのは好きです。それがどういう形にせよ好きです。バレエでも日本舞踊でも、自分の五感に直接働きかけるものだから、見るのも大好きです。踊りの好きな人たちは、みんなそうだろうと思います。
須永 ダンス全体がお好きなのですね。でもやはり一番よくご覧になるのは、バレエのようですが。
玉三郎 そうですね。ニジンスキーやアンナ・パヴロヴァなどの写真を見るのも楽しい。まあ、それだけではなく、もっともっといろいろなものを観たい、知っていきたいと思います。 
■第四章 舞台と幕間 / 初舞台から現在まで

 

子供時代の思い出
須永 今、ピアノをなさっていらっしゃると伺いましたけれど、ずっとお弾きになっていらしたんですか。
玉三郎 10歳ぐらいの時からピアノはひとりで弾いていましたけど、教則本は全然やらなかったんですね。それで14歳で玉三郎を襲名して、お稽古事が始まって、そのひとつの課目にピアノが入っていたんです。けれど、その時もバイエルも終わらないうちに忙しくなってしまって、きちんとはできなかった。それから英会話。外国の方がいらしたり、外国へ行った時、むずかしい会話は必要ないけれど、日常会話ぐらいできないと失礼だと思って、今年から始めたんです。ピアノは、おととしぐらいから弾きたくなって始めたんです。しかし、教則本はやりたくない。それで、先生は無理だというけれど、バイエルをななめにやって終わりにして、弾きたい曲を弾いているんです。毎日、朝起きたら朝食まで、夜帰ったら夕食までという具合に、ちょっとずつですけど。(今は両方ともやれない状態です。)
須永 最初に弾いた曲は何ですか。
玉三郎 バイエルを終わってすぐに、『月光』をやったんです、ベートーヴェンの『月光』。めちゃくちゃというか、冒涜というか、楽しみでやってますから、そこらへんの腕で止まっているんですけど。
須永 ひとりでときどき弾いていらっしゃる。
玉三郎 そうです。家の人には聴かせますけど。子供の頃からそうなんですね、身内には「もういい」っていうまで、やってみせるんです。『悲愴』の第二楽章もやさしいから、よく弾きます。歌うのも大好きです。
須永 じゃあ、今日拝聴できたのは幸運でした。
玉三郎 ちっともうまくないから、人前ではあまり……。それに、すごく照れ屋なんです。ただ、一回照れずに人前で何かできると思ったら何時間でもやってる。芝居でも、幕が開くまでは照れている。幕が開いてしまって、演劇としてやっていいというエクスキューズから演れるんですね。
須永 それじゃあ稽古の間は、かなり照れてらっしゃるんですか。
玉三郎 ええ、それはもう。だから、翻訳劇の時なんか、スカーフしたりスカートはいたりして、なるべく照れないように苦心してます。
須永 あがることもございますか?
玉三郎 すごくあがりますよ。震えがきちゃう、もう。『メディア』の初日の時なんか、前で見てらして、あがってると思いませんでしたか。舞台稽古の時はそれほどでもないんですけれど、お客さんが入ると、もう……。
須永 何度なさっても、初日はそうなるんですか?
玉三郎 そうです。それに台詞がとんだり、いわゆる「ろれる」というか。
須永 でもやっぱりプロだなと思う。ちゃんと辻褄を合わせるから。話は変わりますが、小さな頃はどんな風だったか、ご自分をどんな子供だったとお思いになりますか。
玉三郎 うーん、わがままだし、さびしがりやだし、気はきついし、大人みたいなことを言うし……、何でも思うとおりにやる、そんな子でした。5人兄弟の一番下で全部生きていれば7人兄弟ですけど、ぼくのすぐ上の兄と、もう一人の兄が死んでいるんです。それで、兄たちとだいぶ年が離れていて、両親が40をすぎてからの子供だから、本当にネコっかわいがりだった。
須永 ご両親は女の子が欲しいとか、やっぱり思っていらしたんでしょうか。
玉三郎 思ってたみたいです。だからその思いが胎内にこもったのか、出てから思いがこめられたのかわからないけれども。それで、やっと生まれて、1歳半ぐらいの時に小児マヒに罹ったんですね。だから親としては大変ショックだったようです。その時の話なんかを聞くと、自分が親だったらどうしようかと思いますね。その頃のこと、覚えがあるといったら覚えがあるんだけれど、病院のエレベーターの昇っていく音とか、お見舞いにきてくれた人が帰る時の辛い想いとかね。1歳半の時のことを覚えているはずがないんですけど、なぜか脳裏に焼きついている。それが暗い面として自分の中にあるって感じですね。それで父親がネコっかわいがりにして、どうしても病院に入っていなければならない病気の感染期間が過ぎると、うちで治療するからといって、治療器具を買って、病院から出しちゃったんです。とにかくそんなふうで……。
須永 乳母日傘とか、蝶よ花よ。
玉三郎 うん、親が離さなかったですね。で、今でいえば、リハビリテーションの意味もあって運動をさせようということになり、本人の好きな物をやらせるのがいいというので、踊りが好きなようだから、踊りを、ということになりました。小さい頃から踊りを踊りたくて、やっていたんですね。その頃は別に身体が不自由だとは思わなかったけど、小学校を出る頃、成長期になって、体がついていかなくなってきて不自由なのに気がついた。その時は、もう歌舞伎の世界にいたんですね。
須永 そこで、ひとつ克服なさった。
玉三郎 克服するというより、なんで不自由のある人間が舞台に立つようなところへいっちゃったのか、と思ったくらい。脚が疲れて、それが上にのぼってきて、肩が凝ったり頭痛がしたりするんですね。弱いほうの脚というより、それをかばうほうの脚が疲れますね。でも、本当になんという職業を選んじゃったんだろうと思う時がありますよ。
須永 小さな時の思い出でおもしろいお話とかありますか。
玉三郎 ぼくは小さい頃、夜泣きソバ屋さんのチャルメラが恐かったんです。それで、チャルメラが聞こえると泣くわけです。寝つきの悪い子だったらしいんですよ。それが寝ついた時にくると、起きて泣くので、もう、親がチップをあげて、「この辺にくるな」って頼んだそうです。雷も恐くて、雷が鳴ると家の中は恐いから外へ出たいという。外に出ると鳴っているので家へ入るという。雷の鳴っている間中、それをやっていたらしいです。両親は、とにかくぼくが無事に暮らしていけばそれだけでいいと思っていたし、ぼくも無事にしていればいいんだなと考えていたので、何かひとつの仕事をしよう、ということは本当に考えなかったです。6歳の時に踊りを始めて、弟子入りして、7歳になって本舞台がありました。子供だからなすがまま、というか、おだてられるがまま。「よく踊れた」とかほめられると、子供だからつい踊っちゃう。
須永 お稽古には通っていらしたんですか。
玉三郎 そうです。14歳で父(故守田勘弥)の芸養子になってこの家に入るまでは通っていました。両親が芸事を好きだった。映画へもよく連れて行ってくれました。
須永 大塚のあたりが生まれたお家ですね。この間、ヴィスコンティの2本立があったので大塚名画座へ行きましたが。
玉三郎 、ぼくもあのへんで見てました。大塚って昔の下町の面影があっていいでしょう。よく六義園なんかも歩いて遊びに行きました。で、この子は無事に暮らしていけばいい、という気持ちで育てていたので、何か欲しいと言えば買ってくる、あそこへ行きたいと言えば連れて行く。学校では体育はやらない、運動会には出ない、遠足は行かない、旅行は行かない、でしょう。ほとんど団体行動をしたことがないんです。学校にも悪いことをしましたね。だから、他人と大勢で何かするというのが苦手ですね。
須永 協調性がない、とか。
玉三郎 協調性ゼロといったほうがいいかもしれない。だから学校で困りました、協調性がないってことで。
須永 中学からミッション・スクールですよね。
玉三郎 そうです。親もそういうところで、何か心の支えになって救われてくれればいいと思ったんでしょうね。
『時鳥殺し』と『妹背山』のお三輪
須永 昭和32年、7歳の時に、坂東喜の字の名で、東横ホール『寺子屋』の小太郎で初舞台をなさってますね。それから39年に五代目坂東玉三郎を襲名されるまでは、子役をなさっていた。
玉三郎 ずいぶんいい役を演らせていただきました。
須永 『寺子屋』の菅秀才、『袖萩祭文』のお君、遠見の梅川(『恋飛脚大和往来』新口村の場)もなさってますね。
玉三郎 『荒川の佐吉』、『沓掛時次郎』とか。ぼくは日記を書くことができないんですけど、その代わりに14、5歳の頃から見た芝居や映画のプログラムがとってあって、それをみるとその芝居や映画を見た時に考えていたことを思い出すんです。プログラムを見ると、この頃は何を考えていたんだとわかる。だから、見た物と自分が舞台に立った時のことが思い出になっているんですね。そんなふうで、あまり記憶の整理ができないんです。
須永 でも、きっかけがあれば思い出せる記憶を、それだけ頭の中にしまわれているという意味では、普通の人よりもずっと整理がゆきとどいているんではないですか。
玉三郎 うーん、どうでしょうか。
須永 玉三郎を襲名した翌年、これは今では語り草となっていますね、中村雀右衛門さんの代役として、歌舞伎座で『双面』のおくみを初日から12日までなさって評判になりました。その次の年、郡司正勝先生が『桜姫東文章』を復活狂言でなさって、17歳で白菊丸をお演りになりましたね。ぼくはそれを見て、まあーきれいな人だなと思いましたね。次に『御所の五郎蔵』正しくは『曾我綉侠御所染』が通しの復活狂言であって、お父様の守田勘弥さんと「時鳥殺し」の場をなさった。あれを拝見して、ぼくは非常にびっくりしました。
玉三郎 どうしてびっくりなさったんですか。
須永 ぼくは歌舞伎は小さい頃から観ているんですが、それでも舞台の上の人を若くて美しいと思ったのは、亡くなった先代の時蔵さんくらいなんですね。立派な女形の方はたくさん観ましたけど、本当にきれいだなと素直に思えたのは珍しくて、それでびっくりしました。しかも、お芝居が一面にあやめ、かきつばたが咲き乱れる舞台で、時鳥という殿様お手つきの若い娘が殿様の正室の母、百合の方になぶり殺しにされる。玉三郎さんの時鳥、勘弥さんの百合の方で、凄かったですね。
玉三郎 ちょっとずつ切って、死なないように。最後には殺してしまう。
須永 腰元たちの見ている前で若い女がなぶり殺しにされてゆく。その時鳥がどんなに凄かったかというのは、「責めの美学」とか何とか題をつけて文章にすれば書ける気がするのですが、一口ではとても言えない。それまでになかった見事なものを見た、また歌舞伎というものの正体を知ったという感じでした。ぼくもその頃はちょうど20歳くらいで、少しは物事の摂取に敏感でしたから。三島由紀夫さんなどもその頃から玉三郎さんに注目してらして、昭和44年に全篇義太夫という『椿説弓張月』を国立劇場のために書き下ろしになられた時、為朝が先代の松本幸四郎さん、その妻の白縫姫を玉三郎さんがなさった。たいへんなお役です。昭和45年になさった若草座というのは、玉三郎さんが中心ですか。
玉三郎 そうです。若草座というのは父が若い頃やっていた会で、それを復活したわけです。青年歌舞伎祭というものがありまして、△△会とか、会を作って参加する催しだった。若草座は2回もしていないんじゃないかな。
須永 若草座では『妹背山』のお三輪をなさって、3日間ぐらいの上演なのに、とても評判になりましたね。三島さんが観にいらして、「今日の玉三郎くんは、今日一日世界中で咲いている花の中で一番美しい花だよ」とおっしゃったそうですね。
玉三郎 芸の力でいいお三輪はこれからも出来るかもしれないけれど、その時のお三輪の花は今日一日で終わる、ということじゃないかと思っています。思いがけずほめていただいて励みになりました。
須永 この年には市川海老蔵さんとご一緒なさった『鳴神』と『鳥辺山心中』が印象に残っています。「海老・玉コンビ」、話題になりましたね。それから国立劇場の『大老』で前進座の河原崎国太郎さんと共演なさってますね。国太郎さんが松竹の歌舞伎の方とご一緒なさることは滅多にないと思いますが、女形としてはたいへんな存在の方ですね。
玉三郎 共演は初めてでしたけれど、その前にすでに『お染の七役』を教えていただきました。あの『お染の七役』は早変わりで七役を演じるもので、長いこと上演されなかったのですが、昭和の初めに国太郎さんが復活なさったのですって。
須永 その『お染の七役』を翌年に片岡孝夫さんとなさってますね。
玉三郎 そのへんから次々とたいへんな役をいただいて。
須永 ゴールデンアロー賞や芸術選奨新人賞も受賞なさって。市川猿之助さん、中村勘三郎さん、尾上菊之助さん(現・菊五郎)、尾上辰之助さん、尾上松緑さん、市川染五郎さん(現・松本幸四郎)、中村吉右衛門さん、いろいろな方と毎月のように新しい役をなさってらした。
玉三郎 あの頃はもう昼夜の公演のどちらも休みなく出てました。朝一番で『一條大蔵譚』の常磐御前を演って、次に『土蜘』の胡蝶を演って、次に梅川忠兵衛の道行(『新口村』)を演って、それから『関の扉』の小町と墨染を踊って、とか。昼夜六本の芝居のうち5本は出ていました。もう今思うと考えられないくらいのことですね。
須永 『関の扉』の墨染は、円地文子さんが絶讃なさって新聞に「墨染讃」というものを発表なさいました。46年から3、4年の間は本当にたいへんですね。20代の初めで……代表的なものだけでも『将門』、『太十』(『絵本太功記』十段目)、『三千歳』、『かさね』、『忠臣蔵』の六、七段目のお軽……あげきれない。鏡花の『滝の白糸』とか長谷川伸の『一本刀土俵入』とか新しい領域のものを手がけられる一方、古典の『熊谷陣屋』なども。
玉三郎 その『熊谷陣屋』なんですけれど、相模の入りから通して演ったんです。あの暑い夏の京都で。それまであんまり忙しかったこともあって、ぼく、ノイローゼ気味になりました。
須永 昭和48年の夏ですか?
玉三郎 ええ、昭和50年から落ちついたような感じで、また少しずつ新しいことを始めました。
須永 新派にお出になったのもその頃ですね。
玉三郎 そうです。『稽古扇』と『皇女和の宮』の夕秀を演りました。
須永 水谷八重子さんの和の宮でしたね。初めての共演、八重子さんのご印象は?
玉三郎 初めは良重さんのお母さま。大先生でしたけれど、ぼくは共演するようになってからは他人というイメージがあまりなくて……。新派の女形の芸を女優の芸に翻訳なさった方で、素晴らしい方です。教えてくださる時に、「私は女優としてこう演っているけれど、先輩の女形さんたちはこうとこうとこれがあるから好きなのを選んでどうともなさい」とおっしゃる。「喜多村先生はこうなさった、花柳先生はこうなさった」とおっしゃってね、「あなたのくふうでなさいよ」と言いながら教えるときはきちんと教えてくださいました。
須永 昭和50年は『桜姫東文章』の初演でしたね。もっとも白菊丸は前になさっているけれど。桜姫と白菊丸と、このお芝居の初演(1817年)で五代目岩井半四郎もしなかった二役をなさって、本当にあなたの当り狂言になりましたね。
玉三郎 あの頃が一番よかったんじゃないでしょうか。
須永 いえいえ、そういうことはおっしゃらないで……。51年になると『マクベス』ですね。切符を手に入れるのがたいへんだった。そのあとは三島さんの『班女』、『オセロ』、それから泉鏡花の『天守物語』。
玉三郎 そのへんから広がっていったというか、演りたいものが歌舞伎以外の世界にも広がっていって、いろいろなものをさせていただくようになったんです。
須永 私生活のほうはどんなふうでいらっしゃいましたか?
玉三郎 稽古だといって出かけては、内緒で映画や外国からきた公演とかを見に行ったりしてたんですね。それまで父が厳しくてぎゅうぎゅうやられてましたから。
須永 守田勘弥さんは、たいへんに厳しい方だったそうですが。
玉三郎 そうです。だから、そこから逃げたいと思う気持からも、違うものを見に行ったんじゃないかと思います。
須永 お父さまが亡くなられたのは……。
玉三郎 ぼくが24の時だから、50年の春です。
須永 勘弥さんは白塗りの二枚目で、白井権八とか切られ与三郎のお手本という方でしたね。勘弥さんの権八、玉三郎さんの小紫という『其小唄夢廓』の共演もありましたね。
玉三郎 それは東京で最後に共演した時(昭和49年10月)だと思います。
須永 女形の心得として、どんなことをおっしゃっていましたか?
玉三郎 とにかく女形は立役に添わなくてはいけないと教わりました。たとえば、立役が小道具を落としてしまったら、次に使い易い所に芝居の中でちゃんと置き直すとか、立役に寄り添う時にはどうしたらいいかとか、そんなふうに演られると相手が困るとか。
須永 お家では食事の時に必ず講義があったと伺いましたが。
玉三郎 そうですよ。三食小言付と言っていたんです。朝から晩までずっとです。
須永 ずいぶん勉強になったでしょう。
玉三郎 勉強になりました。凄かったですよ。テレビで商社マンの教育をマンツーマンでやるのを見たことがありますけど、ああいう感じです。もう今はやりたくないと思います。こう言われたらこう言う、ああならば、ああするとか、きっちり教えてくれるんです。父の時代は、自分の父親に習える役でも他人に習いに行けと言われたらしいですね。うちの父も自分の父親から習ったものはほとんどないと言っていました。
俳優という職業
須永 歌舞伎役者になられたのには、何かきっかけといったものがおありですか。
玉三郎 なるがままになってしまった、というか。子供の頃に踊りをしていて、ほめられると、つい踊るでしょう。それをずーっとやってきたような気がします。今だって、それでやっているんじゃないかと思うんですね。皆さんがおっしゃるほど、自分の舞台上の姿が自覚の中にないんです。ですから、聞かれるたびに答えていても、それは意識的に作った答え、演じていく過程、役を教わった過程での方法論の言葉が自分の中にあって、その言葉で答えていくだけなんです。本当の核心は無意識の中にあるというか、言葉にするとゆがみが出ると思います。だから、ある意味では、話をするのがめんどうくさい、というところがあるようです。
須永 それはわかります。ぼくらだって自分のしている仕事について、方法論などは語れるけれど、言葉で言えるようなやり方で原稿は書いていませんから。実際に書くときは、直感のようなものをフルに使っていることが多いわけです。
玉三郎 ですから、やっていることが私なんです、とお答えするのが一番確実なのかもしれない。それで、そのときどき偶然に見えるものが事実だと思うんですね。だから、昨日言ったことが本当か、今日言ったことが本当か、じゃなくて、どちらも本当なんです。自分の作品とか批評、写真に対して割と客観的なんですね。だからすごくさめているんですけど、時には自慢ぐらいしなくては生きていかれないと、自分でほめたりしてるんです。
須永 自分で自分をほめていて、それを見ているもう一人の自分がいる……。
玉三郎 公には言いませんけど、個人的に、友達とするんですね、「自慢させてね」と前置きして言って、合槌を打ってもらうんです。実際、自分で良いと錯覚するくらい、うまい合槌を打ってくれる人がいい。「ふんふん」じゃなくて、「ほんとにねえ」と言って欲しい。
須永 作家が自作を読んでうっとりするようなものですね。
玉三郎 そういう部分がある、というのは、どこか自分を信じていないんでしょうね。さっき言ったように自分に協調性がないから、普通に暮らしていけるかどうかという意識があって、自分に劣等感があったわけでしょう。兄たちも、母に「こんなに甘やかして育てちゃったら、とんでもないよ」なんて言う。そういうのを聞いて育ったものだから、自分が絶対に駄目な人間だと思っていた。それで、今、こういう仕事をしている。どこかで「そうじゃないのに、そう思われている、買いかぶられている」と思っているんです。夢見てはいけない夢が現実に思えている、夢にも思わなかったことが現実になると思ってはいけない、というような感覚があって、どこかで信じていないんですね。
須永 真実がいつも二重になっているんですね。自分自身の真実と現実とがね。
玉三郎 ぼくは今、自分が詩とか文学、あるいは絵や彫刻など、ある意味で自分だけの孤独な作業で自分を表現しているのならば信じられると思うんです。でも現実に、今皆さんの前で踊ったり、芝居をしたりしているなんて信じられない。実感がない。こんなことを言うと、信じてくれないかもしれないけれど、本当なんです。
須永 そうですね。お気持はわかる気がしますけれども、そうはいっても、と。
玉三郎 そう言いながら、やっているわけですから。 
■第五章 ヨーロッパ・オペラ・三島由紀夫・夢二

 

ヨーロッパ旅行とオペラ
イタリアとドイツが好きです
須永 この夏にヨーロッパへいらっしゃるそうですね。
玉三郎 2月から6月まで続けて舞台でしたから、7月、8月、9月と休暇をとりまして、その間に行ってきます。
須永 旅行が玉三郎さんの趣味なのかなとも思うんですね、オペラやバレエをお好きでよくご覧になるのは趣味というより、演技者として観ていらっしゃるようですしね。それとも休養としての旅なんでしょうか。
玉三郎 趣味よりも、好奇心ですね。
須永 最初の海外旅行はアメリカでしたか。
玉三郎 一番初めはハワイに10日間ぐらい遊びに行ったんですね、24ぐらいの時です。旅行に出たという意味では、ヨーロッパに27の時行ったのが最初。カルチャー・ショックを受けました。衝撃的でしたね。それからアメリカへ2、3度行って、ヨーロッパへも2、3度行っています。
須永 ヨーロッパというとフランス好きの人が多いようですが、玉三郎さんはイタリア。
玉三郎 フランスよりも、なんというか加工されていながら人間の根源的なものが、はっきりと現われている気がするんですね。フランスは、別に嫌いなわけじゃないんですけど、料理とか彫刻、いろいろなもののデザインだとかね、どうしてもイタリアの物のほうが好きなんです。
須永 お酒のベルモットにしてもイタリアのはシンプルな味だけど、フランスのは本当にこねくりまわしたって感じの味ですね。どちらがいいかというのは好き嫌いの問題だけれども。ドイツはいかがですか。ぼくはドイツの中のやぼったさや陰鬱な部分がとても好きなんですが。
玉三郎 ドイツもいいですね。イタリアの良さは原始的な所の残っているハイセンスじゃないかと思う。ぼくの今度のヨーロッパ旅行はドイツが主です。ザルツブルク、ベルリンへも行きます。オペラのフェスティヴァルが楽しみですね。
須永 これからの時期だといろいろなところでありますね。
玉三郎 ただ、サントリーの撮影の仕事がちょうど入ったので、オペラのフェスティヴァルばかりも行けなくなって残念なんだけれども。
須永 サントリーの新聞広告を拝見しましたが、あの玉三郎さんの写真はとても新鮮でした。女形としてでなく、男としてというところが、また一味違って─。
玉三郎 プロデューサーから今度は男で出てみては、と言われたんで。あれは全部額をだしてリーゼントにしているんだけど、ぼく、お風呂に入って頭を洗ってシャワーを浴びると、オールバックになるんですね。それで以前に、新派の女優さんたちといっしょに芝居していた時、楽屋のお風呂からあがってオールバックでいたら、みんなが「男だったのね」って言う。いつも髪を下げているけど、ちがう一面だと言う、「そうやっていたら」と言われて、女の人って意外とこういう所に目をつけるんだなあと思ったんです。で、一度リーゼントにして、男にしてみようと思ったのがきっかけです。
須永 あの広告は玉三郎さんの名が入っていないから、それでみんなが「これは玉三郎さんですか」と聞く。
玉三郎 あれは最初と2度目、3度目とポーズが違うんです。だんだん派手になってゆく。男で素顔で、出るのは初めてですね。
須永 そういう体験をすると、なにか女形じゃなく、男として演じたいとか思いませんか。
玉三郎 ぼくが今、やってみたいと思う役はね、『アマデウス』のモーツァルト。
須永 日本では江守徹さんがモーツァルトをなさっているので、モーツァルトのイメージはああいうタイプと思われがちだけれど、ロンドン版では玉三郎さんのようなタイプの方がしていたようですね。
玉三郎 華奢な感じで、子供みたいなモーツァルトなんですってね。非常に若くて細くって。だから、最後にサリエリと抱きあって「パパ」と言うところが、本当にお父さんと子供の様な雰囲気が出てくるんです。
須永 外国は一人で歩かれるんですか。
玉三郎 いや、連れと一緒ですね。それで日本だと知ってるお店じゃないと落ちつかなくてしょうがないんだけれども、外国だと知らないお店にどんどん行ける。
須永 歩いていて良い装身具とか見つけると、まず、これは舞台で使えるとか、そういうことをお考えになるんでしょうね。
玉三郎 そうですね。そしてどうしても欲しいと思ったら買います。布地なども買います。実際に使えるようになるのは5年先、10年先になるんでしょうけれど、その芝居に合った物が買ってあるということがうれしいですから。使う時になって、今はこれは日本では見つからない物なのだけれど身につけられる、と思うと本当にうれしいんですね。2月に上演した『メディア』の時、黒真珠のアクセサリーをひとつしていたんです。あれは去年ニューヨークのアンティック・ショップで買った物なんです、偶然。東京へ帰ってきてから舞台であまり光らないものがいいと思って、黒真珠なんかちょうどいいんじゃないかと思ってつけてみたんです。
須永 舞台衣裳でもふだんの服でも、これはこうと決めたらそのスタイルをお守りになるようですね。一般の方は玉三郎さんを深窓のお姫様のように思ってる方が多いようだけど、普段はラフな生活スタイルでらっしゃいますね。
玉三郎 リーゼントにしていないだけですね。服もラフなのが好きで、ひとつ気に入った物があると型紙を作ってもらって仮縫なしで作ってもらって着ています。役者じゃなかったら、毎日きっちり髪に油をつけて出勤するんだと思うんですけど、お化粧して衣裳を着て出てゆくのが職業だから、その反動で1日トレーナーでいられるならいたい。1日サンダルでいられるならいたい、頭もくしゃくしゃでいい、清潔に洗ってあればよくて、ボサボサでいたい、というのが願望なんです。だから絹かコットンがいい、合成繊維はあまり好きじゃない。シンプルライフもいいですけれど、ナチュラルライフがいいですね。「ちょっと手を加えた自然」とよく言うんですよ。よく自然に帰ろうと言うけれど、人間は文明を持っているために完全には自然に帰れない。だから「ちょっと手を加えた」という一言がどうしても必要になるんです。
須永 お好きな色とか。
玉三郎 嫌いな色というのがないんですけど、ブルー系、グリーン系は着ないですね。ブルー系統は、ぼくの身体が寒い身体なので、どうしてもブルーを着ると寒くなるのね。よく着るのは白とか、ブラウン系、はっきりしない茶色とか多いですね。でも舞台の上では浅黄でも、鶸色でも赤でも朱でもどんな色でも着ますから。舞台の衣裳で、ぼくはどっちかというとね、茶系の衣裳より青系の衣裳のほうが似合ってるんですって。でも、ふだんはやっぱり線が固くなりすぎるようです。
須永 そうですね、揚巻のような最高の極彩色でも、反対に『寺子屋』の戸浪の紫の石持のような渋いものでも、とても映えていらっしゃいますよ。
玉三郎 ただ、ぼくはああいうものを着ると、どちらかというと、粋な線が出てしまって、もう、ちょっとポテッと着ないといけないんです。
須永 お帰りになったあとのご予定は、10月が新橋演舞場で井上靖さん原作の『蒼き狼』、ジンギスカンのお話ですね。そして、11月が国立劇場で『妹背山婦女庭訓』のお三輪。12月がサンシャイン劇場で三島由紀夫さんの『サド侯爵夫人』ですね。『妹背山』のお三輪は前になさっていますね。
玉三郎 はい。今度はお三輪の「道行」と、「御殿」を演ります。道行の前の「酒屋」はありません。
須永 『サド侯爵夫人』はロココ趣味を言葉に凝結させたような室内劇で、三島由紀夫さんの作品の中でも屈指の名作ですね。出演は女性ばかり、6名だけで。
玉三郎 『サド侯爵夫人』にはおもしろい因縁があるんですよ。三島さんの『椿説弓張月』の白縫姫をやって、その終わったあとに「『椿説弓張月』の限定本を君にあげたい」というので呼ばれたんです。そうしたらどうしても本がなくって、代わりに『サド侯爵夫人』の限定本を、白縫姫のご褒美に、ということでいただいたんですね。だから、サド侯爵夫人のルネをやるとなって奇遇だなあ、と思って。昭和44年の11月の頃です。ロココ調の装幀をしたすごい本ですよ。ベルベットの箱に入っている。『弓張月』よりも『サド』のほうがずっと豪華な本なんです。
須永 三島さんの作品では、玉三郎さんはこのほかに近代能楽集の『班女』を演ってらっしゃる。そのほかには。
玉三郎 『椿説弓張月』の白縫姫、新作歌舞伎の『鰯売恋引網』で傾城を演っています。それから『鹿鳴館』の大徳寺夫人ですね。『サド』のほうはもう7月から読みあわせをしようと言っているんです。
須永 玉三郎さん以外は全部女優さんですか。
玉三郎 はいそうです。たとえば、ルネの母モントルイユ夫人は南美江さん。
須永 今年はギリシア悲劇から始まって、歌舞伎も時代物から生世話物や新作まで、ほかにも鏡花、久保田万太郎、三島由紀夫と実に多彩なご活躍ぶりですね。
玉三郎 久保田万太郎先生と泉鏡花先生と三島由紀夫先生を喋りわけるというのは、たいへんなんですよ。
須永 息や間や、全部違いますものね。玉三郎さんは姿がいいぶんだけ劇評でたいへん損をしていらっしゃる。
玉三郎 そうでしょうか。そういう、それぞれに違った世界を持った素晴らしい作品を喋り方で成り立たせなくちゃいけないって、ものすごくむずかしいことなんです。たとえば久保田万太郎先生の時は、台本を読みながら、過去におやりになった方の久保田先生の作品を聞いて、どうやったらいいのかを考える。久保田先生の出したいものを出すためには、なんとも言えない中に深みがあったり、淡々とした中に深いものがあるようにしなくてはいけない。そこを舞台の上でどうやったらいいか、とか。
須永 行間の味わいを読む作品だから行間を演じないといけないわけですね。文章で読む場合は頭の中に自由に想像をめぐらせる。それを演技にして、他人の目に見える形にしなくてはいけない、観る人がなるほどと思うように、ね。そういうところに大変な実力を発揮しておられる玉三郎さんが、歌舞伎の女形を一生つづけていかれる。それが非常に心強くもあり楽しみだと思います。
玉三郎 昔は今のような多様な演劇がなくて歌舞伎だけだったから、歌舞伎そのものがそれだけの多様性を持つ演劇と考えられていたようです。鏡花先生と三島先生の味わいが違うように、歌舞伎十八番の荒事と近松の作品と鶴屋南北があったりね。歌舞伎は、そうした多種多様なものを含んだ演劇だったと考えられていたんじゃないでしょうか。
ワーグナーとモーツァルト
須永 今度は、ドイツ旅行や、バイロイトやザルツブルクでごらんになったオペラのお話を中心に、お伺いしたいと思います。
玉三郎 西ベルリンはパンクがすごく多くてびっくりしました。黒と銀が基調で、パンクといってもずいぶん知的なんです。ファッションとしてのパンクじゃなくて、伝統の重さをはねのけるためのパンクという感じですね。
須永 それからバイロイトにいらしたわけですか。
玉三郎 バイロイトで『マイスタージンガー』(ワーグナー作)を観ました。『ニーベルングの指環』(ワーグナー作)は観られなかったので、また改めて行こうと思っています。それからザルツブルクへ行って、『コシ・ファン・トゥッテ』(モーツァルト作)と『ばらの騎士』(R・シュトラウス作)を観ました。一番よかったのは『コシ・ファン・トゥッテ』でした。本当に素晴らしかったですね。視覚的にものすごくきれいですし、お芝居としておもしろい。召使のデスピーナ役の人が黒人でおもしろいキャラクターで、ものすごくよかったですね。あれは絶対に、観に行くべきですよ。ザルツブルクではその他に、以前NHKでも放送した『魔笛』(モーツァルト作)も観ました。ぼくは『魔笛』で気になる役はザラストロ(高僧)なんですけど、そのザラストロが放送時よりもよかったんです。
須永 モーツァルトがお好きなようですが。
玉三郎 モーツァルトというのは、好き嫌いなく存在している3度のごはんのような音楽だと思うんです。なんとなく聴くうちに、炊き方がよければおいしいし、下手に炊けばおいしくない。だから、モーツァルトの音楽は好き嫌いというのではないような気がします。モーツァルトといえばザルツブルクでディートリヒ・ホテルというところに宿泊したんですね。部屋に行って窓を開けたらお隣は墓地なんです。ぼくは、そういうのなんだかイヤなんですね。でも、仕方ない、ザルツブルクで誰かの悪霊にうなされるとしたらそれも記念になるだろう、と。で、別に何ということなく、朝になってからそこを見たらお墓にお花がいっぱい飾ってあって観光客がきている。それは、モーツァルトのお父さんのレオポルトのお墓だったんです。
須永 モーツァルト自身のお墓はどこにもないんですよね、記念碑はあるけれど。共同墓地に葬られて、改葬の時に行方不明になってしまったから。
玉三郎 今回ドイツに初めて行きましたでしょう、それで日本人がなぜドイツ人とうまくいったかというのがよくわかりました。ぼくはドイツ人が好きですね、すごく。
須永 具体的にはどういうところが、ですか。
玉三郎 ドイツ人の持つ堅さ、その堅さと対立するような色気。
須永 ドイツには昔からドッペルゲンゲルという言葉があって、自分ともう1人の別の自分、つまり分身がいるということなんですね。現実的でありながら、反面、非常に夢想的なところのある、文化の二重性というのがあるようですね。
玉三郎 本音とたてまえがずれているんじゃなくて、はっきり分かれているわけでもあるし、嗜好もはっきりしていますね。感覚でものを捉えるのと同じくらい、論理的に組立ててゆく早さも持っているし、また、あれだけ冷たいようでいて人間的な暖かさも持っている。そういう意味で、ドイツって好きですね。
須永 哲学や論理学の歴史があって、一方で音楽や詩の歴史がちゃんとある。
玉三郎 非常にリリックな。
須永 たとえば、フランス人から見ると、「陰鬱な森の中であの連中は何考えているのか理解しがたい」っていうんで、18世紀から19世紀にかけてフランスでドイツ文学がはやったことがあります。
玉三郎 フランスから見れば、そうかも知れませんね。ぼくは今度初めて自分がドイツが好きだということがわかりました。
須永 向こうで非常に頻繁に接触された方があったのですか。
玉三郎 そうではなく、街を歩いたり名所を回ったりすると、どのくらい堅く暮らしているか、どれくらい堅く考えているかというのが肌で感じられるんです。その骨格がある一方で、モーツァルトみたいな音楽もあるわけで、そういう落差からくるものに非常に興味があるし、興味深いということは、やはり好きなんですね。
須永 ご自分の中に近いものがあるから、とか。
玉三郎 ひょっとしたら、そういうものもあるかも知れません。
須永 ドイツ人は律義でしょう。
玉三郎 非常に律義で、だけど律義にするというのと、自由にするというのは相反することでしょう。そういう意味で律義というのは、ひとつの「セクシー」なのだと思います。
須永 ストイシズムの美学というか。バイロイトはいかがでしたか。あそこにはワーグナーのお墓もあるそうです。バイロイト祝祭劇場というのは、未だに仮建築のままなんですね。
玉三郎 そうですね。あの劇場はワーグナー自身が自分の作品を上演するために作ったものでしょう。だから音楽を作るうえでもそうだけれど、人生上の構築力もあった人ですね。ああした形で残すというのはすごいと思います。でも、『マイスタージンガー』全6時間半を聴いた感想としては、ワーグナーは忍耐以外の何物でもないような気がする。
須永 演奏するほうがですか、聴くほうですか?
玉三郎 演奏する人は命がけじゃないんですか、あれは。その忍耐のあとに快感を感じさせ、それに人を酔わせるというのはすごいですね。
須永 トーマス・マンが、「ワーグナーの音楽には音楽に関心のない人間にまで関心をもたせる魔力がある」と言っていますね。いい魔力か、悪い魔力かは保留しています。今ではヨーロッパだけでなく世界中のファンにとって「バイロイト詣」は、念願になっていますし。『マイスタージンガー』6時間半というのは、休憩はどうなっているんですか。
玉三郎 間に1時間ずつ2回休憩があって、1度がディナー、1度がお茶で、どちらを先にするか選べるんです。食堂は北欧みたいに簡素で、冬なんか寒いかも知れない。劇場そのものも森の真中のような所に建っていました。
須永 バイロイトってほかに何もない小さな町でしょう。富山県の利賀村よりは便がいいようですけど。劇場の中はどんなふうですか。
玉三郎 座席が木の椅子だから、皆タキシードを着ているんですけど、下にザブトンを敷いている人が多いんです。
須永 木の椅子で6時間半はキツイですね。
玉三郎 もうたいへんです。今どき珍しい木の椅子で前からの通路がなく、席の出入りはすべて横から、つまり両脇からなんですね。だから、トイレに行きたくなったらアウト、全員に立ち上がってもらわないと出られません。だから、もうとにかく、朝から水分をひかえて、それにそなえていました。その時点から準備することに一種快感があるんです。ほんとに、あそこでトイレに行くとしたら、演技して倒れるしかないですね。その点では立見のほうが楽かもしれない。ワーグナー自身にとっては、作品は民衆に聴かせる必要はなかった、ルートヴィヒ2世に聴かせればよかった。あるいは上演され、自分にとって鑑賞に耐えればよかったのではないか、とも思いました。ワーグナーに比べると、モーツァルトは「忍耐を強いてから快感を与えよう」とか、「どうすれば観客が喜ぶだろうか」とか、考えなかったような気がする。宮廷に呼ばれて「長すぎるから短くしろ」なんて言われたりしても、「作ってみたら長くなってしまった」とか答えたりしてね。同じ国の人でも、まったく違ったタイプだと思いますね。
須永 モーツアルトは、ドイツとかイタリアとかいう前にまず音楽という感じの人ですけど、ワーグナーはドイツ人だという意識が強いですね。
玉三郎 あの時代はそういう時代でしょう。
須永 ええ、ドイツがようやくひとつになろうとする時代ですね。ワーグナーは自分で台本を書いて、ドイツの民族精神を鼓舞しようとしたけれど、50歳をすぎても成功の味を知らないんですよね。
玉三郎 だからもう我慢しきれなくなってしまったんでしょう。
須永 ルートヴィヒと会えた時は、しめたと思ったにちがいない。
玉三郎 音楽からもそういうところが感じられますね。
須永 ちょっと、山師のようなねえ。でもバイロイトのオーケストラ・ボックスは画期的なもののようですね。
玉三郎 ええ、客席からは見えないようになっていて、音が歌手のうしろから聞こえてくるようになっているんです。歌声と演奏が融合するというか、あれを実現したことはたいしたものだと思います。
オペラと様式
須永 玉三郎さんがオペラに関心をお持ちになったきっかけは、どういうところからなのでしょうか。
玉三郎 7、8年前、ちょうど翻訳ものの作品を始めたころからです。
須永 偶然でしょうけれども、玉三郎さんがなさった翻訳もののお芝居は、みなオペラ作品にもなっていますね。たとえば『椿姫』もそうですし、『オセロ』もそうでした。『オセロ』の時は役作りのためにオペラの『オテロ』(ヴェルディ作)のデスデモーナのアリア「柳の歌」をお聴きになったとか。あれはレナータ・テバルディ(イタリアのソプラノ歌手)のものでしたか。
玉三郎 テバルディです。やはり何か音をもらうと、役を演る時にイメージが入りやすいんです。とにかく最初にイメージを掴めると、どんどん入っていける。それは絵画でも、歌でもいいのですが、最初にそのイメージの鋳型に自分を一度はめこんで、そこからイメージをすすめてふくらましていき、自分なりのものにしてゆく。その時には最初の鋳型から抜け出た形になりますが、イメージを掴む時には、まず「器」を見つけなくてはいけないんです。これはほとんどの役について言えます。『オセロ』の時には、オペラのアリア「柳の歌」がそうでした。
須永 ブリテンのオペラ『カーリュー・リヴァー』を日本のオペラ歌手の方たちとご一緒になさいましたね。これは、ブリテンが日本のお能の『隅田川』をもとにして作ったオペラですが。
玉三郎 演劇的なものとオペラ、日本と西洋がまざりあっているものでした。やはり、台詞なり声なりを美しく聴かせるということについては、オペラはとても勉強になります。
須永 最初に関心を持たれた声は、確かバリトンだと伺いましたが。
玉三郎 ええ。バリトンはぼくにとって好きな音域ですから、バリトン歌手の名アリア集などから聴き始めて、それからバリトンがたくさん登場するオペラのレコードを買うようになりました。そのうちにだんだんと声を駆使するテノールやソプラノ、コロラチューラなども聴くようになりました。
須永 バリトンというのは、たとえばテノールとかソプラノに比べて、ちょっと知的な感じがありますでしょう。声の使い方でも、抑制したり、情感を出したり……。テノールとかソプラノになると、ずっとたけだけしい。あの野蛮なところがよいと思いませんか。
玉三郎 だからぼくはバリトンがよかったんです。花壇のひとつの花として見た場合、テノールもソプラノも非常にきれいですよね。でも、心情としては、やはりバリトンが好きですね。
須永 音の好き嫌いというのは、やはり生理的な、あるいは感覚的なものなんでしょうね。
玉三郎 そうでしょうね。でもまあ翻訳ものを演ったり、また、できれば将来演出もしたいなと思った時から、生理で受けつけないものも勉強しなくてはと思って、見たり聞いたりするんです。実際に見れば、少しずつわかってくる。そうすると興味が湧いてくるし、やはりおもしろいですね。音楽的なものがどんなふうにドラマを構築していくか、ということについては、オペラが一番勉強になります。
須永 バリトン歌手ではどんな人がお好きですか?
玉三郎 聴き始めた頃はジョージ・ロンドン、その後にピエロ・カップッチルリなど好きになりました。
須永 ドイツのバリトンでは、ヘルマン・プライもお好きだと伺いましたが。
玉三郎 ええ。プライといえば、バイロイトの『マイスタージンガー』の時などは、演技者としても立派な人だと思いました。歌なんか様式以外の何物でもないわけでしょう、人間の声を音符にして作っていくわけだから。それでいて、演技も素晴らしいんです。
須永 それは、歌舞伎にそういう要素があるから、よけいおわかりになるんだと思いますよ。
玉三郎 だって、あの音楽の中で、『マイスタージンガー』というあの大げさな音の中で、しかもあの劇場の舞台で芝居ができるというのは、たいへんなことだと思いますよ。演劇的ですごくおもしろかった、もうお客さんを喜ばして。
須永 様式とリアリズムの関係というのは、これからのお仕事の上で重要な問題でしょうね。
玉三郎 そもそも「リアリズム」という言葉をどういう意味あいで使うかが問題になってくると思います。実生活をそのまま描写したものがリアリズムであるとするならば、演劇という空間にはその種のリアリズムはないとぼくは思います。リアリティーというものはあるけれど。リアリズムに見えるべく、リアリティーを出すべく、様式が存在する。
須永 歌舞伎というのは、江戸時代からリアリズム理論抜きのリアリティーでやってきた部分があると思いますが。
玉三郎 そうですねえ、けれども、もっと写実というか実生活に近いものを演るときには、やっぱり様式があります。
須永 ええ、実生活のエッセンスを見せるために、というか、舞台の上のリアリティーを作り出すために、様式の介在が必要だということですね。
玉三郎 そうです。もっともリアリズムかなと思われる映画が、なぜこちら側から見て突然アングルが変わったりするんでしょうね。あれはリアリズムではないと思います、あれは様式です。それから、ロングで撮っていて、感情が盛り上がる時に、また盛り上げるために急にアップになる、あれは様式だと思います。心の中に真実味をもたらすために様式を使う、そういうことが大切だと思うんです。様式という言葉も重要で、たとえば能や、歌舞伎のみえみたいな結果としての様式美を言うのではないと思うんです。ひとつの方法がまずあって、その方法と様式美の間には当然ひとつの道程が生まれてくるわけで、分けられるものではないんですよね。
須永 様式美というのは、おっしゃる通り結果ですから、それを生み出す過程が様式ということになりますね。またオペラの話に戻りますが、最近オペラを映画に撮ったものが多いですね。あれは、なかなか難しいように思いますが。
玉三郎 オペラは舞台空間のものですから。ベルイマンの『魔笛』などは例外的に成功していると思います、徹底して映画として撮っているという意味で。あれでもオペラの空間を知っている人には不満かも知れないけれど、ベルイマンは「どうぞお試しください」と言っていますしね。
須永 どうしても、ひとつの場面を固定した1台のカメラで撮るわけにはいかないでしょう。歌舞伎でもテレビ中継の場合、ときどきその場面の眼目と合わないアップなんかがありますものね。
玉三郎 劇場空間というものは、画面では伝えられません。映像として組立て直すのならば別だけれども、あくまで空間芸術ではないという点でまったく違ったものです。そういう意味で、歌舞伎のテレビ中継は、まず演技者自身の中での割り切り、それから放映された時の割り切り、そしてご覧になる方の割り切りが必要だと思います。
コスチュームについて
須永 『サド侯爵夫人』のコスチューム用の布地を、イタリアで買っていらしたそうですね。
玉三郎 そうです。フィレンツェのドゥオーモの近くの「カーザ・ディ・ティスーティ」というお店で、素晴らしいタフタとレースを買ってきました。以前『鹿鳴館』の時に布をさがしまわって、その時に見つけたお店です。ヨーロッパ中のオペラや演劇関係の人が買いに行ってるお店らしいです。
須永 玉三郎さんは舞台装置や衣裳に夢中になられる方だから。
玉三郎 そう、それで思いどおりにできあがると、もうはしゃぎます。前の時は、『鹿鳴館』の朝子のためのバッスル・スタイルのドレスの布を買いに行ったんです。そうするとぼくの場合、ダブル幅で20メートルの布地が必要で、日本ではどこをさがしても、黒のモワレのタフタ、木目模様の絹の布なんですけれど、20メートルもないんです。イタリアでもミラノ中をさがしてなくて、フィレンツェのそのお店を教えてもらった。お店の人がね、びっくりしていましたよ、日本人の男が入ってきてモワレの黒タフタ20メートルと、黒レースを25メートル買ったから。店中の店員が大サービスしてくれました。タクシーは拾ってくれる、銀行へ行ってお金を替えてきてくれる、布はどんどん見せてくれて、店中の布が目の前へ山になっていきました。「何に使うのか」と聞くから、「舞台で着るんだ」と答えたら、「本物の絹を舞台で着るのか」と喜んでいました。それで、「サインしてくれ」と言うので、サイン帖を見たら、向こうのオペラ歌手や演出家の名前がずらりと並んでいました。今回、そのお店に入ったとたん、「この前の方ですね」って。それで今回は16着分の布地を買いに来ましたからと説明して、布地見本を見せてもらい、いっしょに選びました。朝の10時前から昼休みなしで、夕方の4時までかかりました。店を閉めて売ってくれたけど、16着分の絹ドレス布地15メートルずつです。すごいレースがあったんですね、それで、「何メートル?」「10メートルあります」「じゃあ、そのまま」って買う。レースって本当に美しいですよ。
須永 高価なものですよね。それを16着分というと見当もつかない。ご自分でお買いになったんですか。
玉三郎 いいえ、会社が買いました。今度はデザイナーの人と一緒に行きました。次に行く時はフランスに行って、それからフィレンツェとヴェネチアに行きたいですね。そうすれば布地から小物からすべてそろいますから。
須永 『鹿鳴館』では大徳寺侯爵夫人はなさいましたが、主人公の朝子はまだですね。
玉三郎 三島由紀夫先生の作品では、『鹿鳴館』、『サド侯爵夫人』、『黒蜥蜴』の三つが企画にあがっていて、そのどれを先にやるかということになりまして、今回は『サド侯爵夫人』に決まりました。これから先、機会があれば他の二つもぜひ演りたいと思っています。
須永 三島さんの『サド侯爵夫人』の台詞は、長い部分はかなり長いものですね。いかがですか。
玉三郎 覚えるしかないです。三島先生の大きな作品の主役は初めてですから、はたして自分に合うかどうかは、まだわかりません。好きな作品であるということと、自分に合うというのは別の問題ですから。
須永 端正で貞淑でありながら、官能性を秘めたサド侯爵夫人ルネ、きっと素晴らし舞台におなりでしょう。楽しみに拝見させていただきたいと思います。 
『サド侯爵婦人』 
『サド侯爵夫人』を演じて
須永 昨日が『サド侯爵夫人』(1983年12月サンシャイン劇場)の千秋楽でしたね。おつかれさまでした。
玉三郎 ありがとうございます。
須永 新聞を初め、いろいろな所での評判もたいへん結構なようですが、やはり様々なご苦心がおありになったんでしょう。
玉三郎 そうですね。覚えることが一番の苦心だったというか。台詞を覚えるのは、もちろん意味を掴み、組立てを掴むことではあるんですけど、つながりのない言葉というか形容詞というのは、それこそ反射神経で覚える。口慣れて覚え、その口慣れた言葉の中にどれだけ自分の感情を入れるかということに問題があります。特に三島由紀夫先生の文体は、感情だけでは流せませんから。
須永 特に『サド侯爵夫人』の場合は、全部直接話法じゃないんですよね。そのうえ、すべてが比喩であったりシンボライズされているから、読むだけでもたいへん。
玉三郎 たとえば、一幕目のサド侯爵夫人ルネの台詞に、首飾りが出てくるんですけど、首飾りは感情のたとえで、その宝石のひとつひとつが侯爵のイメージで。だから「首飾り」と覚えて「紅玉の首飾り、血のような真赤な宝石の」というイメージを、首飾りにのせていくんです。普通の会話なら「血のように真赤な紅玉の首飾り」とかでもいいんだけれど、この場合は絶対に「紅玉の首飾り、血のような真赤な宝石の」でなくてはいけない。首飾りのイメージを頭から最後まで、きちっと並べなくてはいけない。それはどの台詞をとってもそうで、頭の構造の芯から三島先生の文体用に組みかえて、毎日やっていかなければならない。それでなくては進まない、というか。そういう意味では、稽古から千秋楽が終わるまで「三島先生のように」暮らさせられた、というのかも知れません。毎日演じるうちに胸苦しくなってくる、というか、そこまでやらないと『サド侯爵夫人』という作品を歌い上げて締めくくることができないんですね。台詞を覚えるということは、ひとつひとつのイメージを明確に自分の脳みそのしわの中に叩きこんでおくっていうことで、それで、普通の感情的な言葉で構成されたお芝居なら、明確にイメージがあれば、間違えた時にはその場で違う言葉で表現ができるわけですけれども、それが三島先生の作品の場合は、ひとつ間違えただけで、ハッと出なくなってしまうんですね。
須永 対句的表現というか、中国の四六駢儷体みたいに左右対称に進行してゆくところなど、たいへんそうですものね。
玉三郎 ええ、左右対称のものをね、右を先に言ってしまった時、咄嗟に左を補って言えるようになるまで、ずいぶん時間がかかりました。全体の輪郭ができていないと、右を言ってしまったと思った途端に、もう右も左も上も下も全部わからなくなってしまう。
須永 ひとつの扉にアラベスクの模様が左右から同じように昇っていく、必ずそういうふうに台詞が進行していくんですね。完璧に覚えていれば、仮に右を先に言ってしまっても、すぐ左を後から言えば結局同じことなんですね。
玉三郎 それができない時は、もう全然だめ。稽古の時はもう全員、絶句大会。モントルイユ夫人役の南美江さんは覚えてらしたけれど。
須永 『サド侯爵夫人』は6人の女性が登場するサロン劇の形をとっていて、玉三郎さんのご体験としては、男性の共演者なしの、女優さん5人との舞台でいらしたわけです。その場合の声のトーンはいかがでしたか。
玉三郎 やっぱり声は全然違いますから、始めは女性の方たちとなるべく違和感がないように出していって、だんだん自分のトーンにもっていくようにしました。読み合わせの時に南さんにね、ぼくは「扮装していないので女っぽくやらず、非常に無機質に読み合わせさせてもらいます」って言ったんです。「なぜ」っておっしゃるから「やっぱり化粧していないと恥ずかしいもんだから」って言うと、「まあ、わたくしは女の方と思ってやっておりますからどうぞ」って。そういう意味では慣れているんですよね。だから女っぽくやってもいいわけですけど、自分だけが男だという意識があったりして。
須永 南さんとは『天守物語』や『メディア』で何度も共演していらっしゃるし、南さんは初演からモントルイユ夫人(ルネの母親)が持ち役だから、玉三郎さんもお相手として心強いでしょう。
玉三郎 それが軸になっていますね。ぼくは、この作品をやりたいと考えていた時から、南さんのモントルイユ夫人でやらせていただけたらと思っていましたから、望みがとげられたわけです。
須永 拝見していて、第二幕のモントルイユ夫人と娘の侯爵夫人ルネの二人の対決が、劇全体の一番のクライマックスという感じがしました。確かにあの辺は私なども見ていて興奮しましたけれど。また、公演中に南さんの紀伊国屋演劇賞の受賞が決定しましたし、お客様もいつもいっぱいでしたね。『サド侯爵夫人』は、戯曲全体がそこには登場しないサド侯爵という人物を浮かび上がらせるため、6人の女性が全部はめ込み式の瞞し絵になっているところがあって、ひとつの絵が欠落しているだけで、全体の模様が崩れていく、という感じがありますね。
玉三郎 そう。だから出来をよくするには全員がきっちり演じないと。そういう意味ではずいぶん残酷な芝居、サディスティックな戯曲なんじゃないでしょうか。
須永 そうですね。特にご覧になったり戯曲をお読みになった方にはおわかりだと思うけれど、本当にすごい台詞ですからね。三島由紀夫さんの戯曲というのは、読む戯曲として非常に完璧なものですね。それで確かに建前からいうとサド侯爵が浮き彫りにされているんだけれど、実際に見ていると三島由紀夫のほうが、異様なまでにはっきりと浮び上がってくるんですね。たとえば、ルネが貞淑と言うと、モントルイユ夫人が「お前が貞淑というと妙にみだらに聞こえる」と言う。そして、愛情と言うと「その言葉のほうは、又妙にみだらでなさすぎるのだよ」と言うんですが、そういう所など、特に三島さん特有のエスプリでおもしろかったですね。ぼくはこの1年間、玉三郎さんがお芝居なさっているのをずっと拝見してきまして、やはり今回が一番大変そうな気がしました。
三島由紀夫と泉鏡花
玉三郎 本当にそうでした。特に最初の10日間の緊張感はすごくて、自律神経がやられてしまいましたね。とても素晴らしい作品であり、何回もやりたい作品でもありますけど、ちょくちょくやれるものではないですね。三島先生の完璧主義でやらなければならない重み、でしょうか。完璧主義とか、言葉の修飾のきらびやかさという意味では泉鏡花先生の作品もそうなんですね。やはり言葉を完璧に喋らなければならない。ところが鏡花先生の作品だと苦痛はない、どこかにあまい泉があるというのでしょうか。
須永 鏡花の作品のほうが、演技者にとって一種のカタルシスがあるのかも知れないというのは、わかります。完璧主義であっても性質は違うんですね。鏡花の作品には浄化作用のようなものがありますが、三島さんのほうは本質的に悲劇性が強いですね。
玉三郎 鏡花先生の作品は悲劇であっても、結局救われるところがあるんですよね。台詞に関して言えば、覚えたいっていう気にさせるところがあります。「ああ、昔からこういうふうに喋りたかったんだ」という気にさせられるんです。
須永 我々のようにただ本を読む者にとっても、やはり美的至福感があるんですよ。
玉三郎 魂の代弁者としては、たいへんなものだと思います。自分では言葉に表せない、頭に描けない、訴えたいことってあるでしょう。それをスパーッと言ってくれるんです。
須永 それから、戯曲として演劇として、演じる側をも見る側をも、何かこう上のほうへ押し上げてゆくような強いものがありますね、あの台詞には。
玉三郎 ことによったら愚劣に聞こえるような危険はあるんですが、成功すれば「ああ、もし恋人がいたら、こう言いたかったんだなあ」というような共感を呼ぶものですね。たとえば『山吹』でも「先生、世間へよろしく。……さようなら」という最後の台詞など、なんか世の中いやになったら「世間へよろしく」って言ってみたくなるような気にさせられる。「もう、たいしたもん」って言っちゃ失礼ですけれど。
須永 『天守物語』なんか言語に絶するできばえですものね。あの作品は、本人が一番上演を望んだのに、生きてるうちはとうとう見られなくて、「お金を出してもいいから、誰か演ってくれないか」って鏡花が言ったそうです。
玉三郎 その気持、よーくわかりますよ、演っていて。何というか、さぞこれは愛していたろうと。
須永 鏡花という作家の本当に純情な一面が見事に結晶しているんですよね、あの戯曲には。
玉三郎 素晴らしいですね。ひとつの宇宙というか、曼陀羅みたいなもの。
須永 普通、人間じゃないもの、つまり妖怪などを出すと作り物めいてしまうんですが、鏡花という人は例外だった。作意よりも、信念というか祈りというか、そういうものがまず出ていますね。
玉三郎 だからね、妖怪を出すということじゃなくて、人間の魂を語るために妖怪の姿を借りたというか……。
須永 それから人間のマイナス面を批判する時に、この妖怪が生きてきますね。
玉三郎 それも批判しながら、なお愛しているんですよね。『夜叉ヶ池』の白雪姫も同じでしょう。
須永 それに、シチュエーションがどんなに悲劇的でも、全体に救いがあるんですよね。
玉三郎 あります。それも最後の一筆だけで見事に救ってくれるんです。『外科室』なんて本当に苦しい物語ですよね。でも最後の一筆で救われる。あの総毛だつような二行というのは凄いですね。全集の中で30頁もない短編ですけれど。
須永 『風流線』なんていう長篇でもね、なんかべらぼうな話がどんどん進行していくんですけど、最後はギリシア悲劇みたいに全員死んで終わりなんですよ。
玉三郎 それでも救われる。
須永 救われるんですよね。三島さんが、この『風流線』について、「新しすぎて当時は読者にも批評家にも理解されなかった」と書いてますよ。三島さんは鏡花の理解者としては第一人者だったと言ってもいい人ですが、鏡花について書いた文章を読むと、ありありと妬ましさが感じられるんですよね。鏡花の世界はいくら理論武装して挑んでも勝目がないものだから。
玉三郎 理論とか、教養を積むとかいう点では、三島先生はもうこれ以上できないというところまでなさった方でしょう。
須永 だから対談などで相手と意見が対立する時にね、相手の拠り所とする理論なり世界なりを相手よりもよく勉強してるし理解してることになってしまうんですね。結局論争にならない、誰と喧嘩してもおもしろくないということになりますね。これでは、安閑として現実や未来を信じる気にはなれないでしょう。そういう感覚というか、「世界を牢獄に閉じこめる」という台詞に象徴される一種逆説的な思考形態が『サド侯爵夫人』の中に全部出てきますね。
多忙充実の1年
須永 今年(1983年)は新しく手がけるお芝居が8本くらいあったんじゃないですか。
玉三郎 すごかったですね、今年は。とにかく芝居の幕が開いて三日して落ちつけば、次のものをテープに入れて毎晩毎晩聞いている。2月の『メディア』が開けば『助六』をやって、『助六』が終われば4月のもの6月のもの。『サド侯爵夫人』は7月から読み合わせをしてたんですよ。本当に頼まれてもやれないって感じがしました。まあ誰でも頼まれて仕事をするわけじゃないですけど。ときどきね、お化粧して出てることがぼくに向いているんだろうかとつくづく考えさせられるんです。お化粧はあんまり子供の頃からしているのでそのこと自体どういう意味を持っているか、わからなくなってしまっているんです。途中から化粧をやらされれば、いいとか悪いとか、理論がつくのでしょうけど、物心がつく前からですからね。たとえば、子供の頃から好きで食べていたもの、主食として食べてきたため、おいしいのかなんなのかわからなくなっているものを、突然においしいのかと聞かれても、よくわからない。自分の中ではわからない、そういう気持ちです。
須永 でも、自分のしていることは誰でもわからないからやる、そのわからないことの答を出したいからやる、というところがあるのではないですか。
玉三郎 そうでしょうね。だからやる価値もあるんでしょうね。見極めたいと思いながらやりつづけるんでしょうね。
須永 生きている間に答は出ないと思ってもやはり出してみたい願望がある。
玉三郎 それが、はかない徒労に終わるとしても。
須永 そういう「徒労」というような言葉を口になさるという点で、やはり玉三郎さんは不思議な俳優さんだなあと思います。
玉三郎 どういう意味で不思議?
須永 「徒労」とか「むなしい」という言葉は、普通はかなり親しくなっても役者さんたちはおっしゃらないんですね。
玉三郎 でも、ぼくたちの仕事というのはバランスがよければ食べていけるけれど、バランスが悪いと食べられない、飢え死にしなきゃならないような仕事ですから。
須永 それはケタが違うけどぼくらも同じですよ、うちで待っているだけですから、注文がくるのを。ところでサントリーの広告は、あちこちでなかなかの評判ですね。
玉三郎 ありがとうございます。何年間か女の格好をして着物のカレンダーをやっていて、自分でカレンダーを見て少し変えてみたいと思っただけなんです。仮の姿なら本当の性での仮の姿になってもいいと思ったんです。もともと男としての素質はもって生まれたわけですから、リーゼントもできないわけではないだろう、と。そうしたらやっぱり男だったなあと、ホッとしている気分なんですね。びっくりした人もあると思うんですね。なんていやらしいんだろうと思う人もいるかと思う、ひげをはやしたりして。
須永 あれはつけひげですか。
玉三郎 エンピツで書いたんです。パロディで、変身願望というのがあるとしたら、男になりたい変身願望っていう感じです。撮影中、結構楽しんでやりました。
須永 普段が普通の人と逆にほとんど変身しているという方だから、今度は願望の裏返しでしょうか。1月はお休みで、2月は新派で『夢二慕情』、舞踊ではないんですか。
玉三郎 はい。竹久夢二さんにまつわる3人の女性、たまき、彦乃、お葉、その3人が順に語ってゆくというものです。語り手も演じます。竹久夢二の生誕百年、没後50年にちなんでのものですね。それから、久保田万太郎先生の脚色の『夢の女』を演じます。
須永 永井荷風ですね。それで、これから先の、まあこれも形式的な質問ですけど。
玉三郎 抱負ですか。そう、今はまだ『サド侯爵夫人』がすんで虚脱状態で考えられないんですけどね。このごろよく考えるのは歌舞伎は別として新派の混沌とした風俗が、いかに日本人に親しみを感じさせるか、ということを思うんです。お座敷の応接間の椅子や、着物の女性と洋服の男性とかね。まあ、今10代を迎えている人はどうかわからないですけど、東と西の混ざった親しい風俗というのは、ぼくは自分自身と切り離せないものだとつくづく感じるんです。
須永 そういう西洋風俗を取り入れてきた生活というのは、まだ今の若い人の間にもあるでしょうね。畳の部屋に応接セットを置いたりして。和風の箪笥があって、その隣に洋服ダンスがあるという生活から抜けきってないんじゃないかな。
玉三郎 そう、それで着物着て羽織着てショールして蝙蝠傘さしてるとか、そういうおもしろさ。それと、そんなふうに生きてきた日本人の滑稽さ愛らしさというか、そうしてこなければならなかった哀しさというんでしょうか、そこに共感を覚えてしまって……。
須永 やはりどうしても、昔からの障子の桟だとか垣根だとか一輪挿しだとか、長いこと親しんできたものとは離れがたいんですね。それを仰々しくしちゃうと、わびだのさびだの幽玄だのということになりますね。お茶やお華はご商売になるけど。
玉三郎 でもね、アンティークという言葉があるでしょう。あれ、わびとかさびじゃないかな。
須永 向こうの人が訳しようがなくって、わびとかさびとか最近言ってるだけじゃありませんか。
玉三郎 ぼく、わかってるような気がするけど……。あれ、どこの人でもわかってるんじゃないですか。
須永 血のしたたるビフテキ食べてる人がっていう気が、ぼくはちょっとするんですけどねえ。
玉三郎 ああ、それはそうですね。日本に来てるある外国人に「日本ってどう?」と聞いたら、「まあ、ヘンチクリンな国だ」と言うんですね。でも、「自分の国へ帰るとくどい」って。「何でも油っこい」って言うんですね。食物だけじゃなくて心とか肉体とかも。 
『夢二慕情』 
コミカルな「お葉」の東北弁
須永 以前に玉三郎さんがお演りになった『長崎十二景』は、夢二の描いた絵の連作をもとにイメージを展開させて舞台化したものでしたが、今回の『夢二慕情』は作者である竹久夢二本人を扱ったものですね。
玉三郎 そうです。夢二をめぐる実在の3人の女性のたまき、彦乃、お葉が順番に夢二を語りながら夢二の人生とその時代の雰囲気を映し出したものです。劇の中で使われている彦乃の手紙は、そのまま彦乃の手紙で、たまきは舞台のオリジナル。お葉もほとんどそのままの手紙です。ちょっとおもしろい手紙で、秋田弁なんです。
須永 その女性3役に語り手を加えて4役をなさったわけですが、全体の作り方も非常にユニークですね。すべて独立したモノローグだけでつなぐお芝居ですからね。夢二その人も登場するけれど、こちらはまったく喋らなくて影絵みたいな扱いですし。お葉は東北弁でコミカルで、彦乃の悲しみに沈んだ場のあとに、華やかに登場するのが効果的でした。ああいうお役はいままでにおありですか?
玉三郎 『長崎十二景』でファニーなメイクをして、初めてコミカルに踊ったんです。ああして台詞を言ったりするのは初めてです。コメディというか、喜劇的なものを、いろいろやりたいと思ってるんです。
須永 いつかも『アマデウス』のモーツァルトを演ってみたいとおっしゃってらした。東北弁がお上手なので驚きましたが、なにか理由がおありとか。
玉三郎 新派の人に秋田の方がいるんです。それと、昔、青森の人がぼくの乳母だったから、前からいくらかはできたんです。父方の親戚が新潟だったり、北の方のニュアンスっていうのは知ってるんです。あと、お葉の手紙がね、日本語が変なんですよ。ツとチとか、シとミとかがわからない、すでにまちがいで書いてあるの。
須永 昔は高等教育を受けない人が多いし、割とそういう言文一致の文章を書いていたことが多いらしいですけど。今回、淡谷のり子さんの歌をお使いになっていて、よく合ってましたけれど、淡谷さんは夢二さんと縁があったそうですね。淡谷さんは歌手になったのが昭和4年で、とてもハイカラな方だから。
玉三郎 夢二と親子ぐらいの年の違いで。夢二さんが洋行する時にお金がなくてね、それで淡谷さんがコンサートをして、その売り上げをみんなお渡ししたんですって。それで淡谷さんに日本での著作権を渡していったんですって。でもその証書は戦争で焼けたんだそうです。
須永 淡谷さんという方は音楽だけじゃなく絵や文学にも興味があったり。その頃は『私此頃憂鬱よ』のレコードがたいへんな人気だった。その後、ジャズやシャンソンやタンゴなど淡谷さんが創唱して紹介された曲はたいへん多いようです。バタ臭いという点で夢二の絵と共通したところがあるのでしょうね。縁というか、人のつながりというのはおもしろいものですね。ところで夢二にこだわる何か、というものがおありなんでしょうか。
時代の芸術家夢二のロマン
玉三郎 新派を勉強するというと、泉鏡花先生の作品などの関係で、小村雪岱さんとか、鏑木清方さんの絵はどうしても観なくてはならない。たとえば鏡花先生の『日本橋』で小村雪岱さんの装置のものとか、『夢の女』(永井荷風原作・久保田万太郎脚色)の伊藤喜朔さんの舞台装置というのは、他の装置に替えられないんですね。古いとか新しいとかではなく、その時代の空間がきっちり計算されてできあがっている。芸者さんが出入りしたりしている空間、日本人の身体に合う空間なんです。一方で、夢二というと、大正ロマンとか、そうした風俗を知るうえでどうしても勉強しなければならない人なんです。それから独得のもの、鏑木清方さんたちにはない、ヨーロッパの雰囲気、バタ臭いものがある。時の流れでしょうね。詩人を志した人でもあるし、ただ絵描きというだけでない独得のものがありますね。ポスターや挿絵を描いても、挿絵という以上のものがある感じがする。大正を風靡し、「夢二式」という言葉ができたくらいに当時の女性たちに影響を与えた。それだけに夢二とその恋人たちを語るということは、大正という時代を語ることになるくらい、大きなものになるんじゃないか、と。
須永 そうですね。大正時代にはいろいろな思想家とか作家がいて、デモクラシー運動があったわけですけど、夢二こそ一番不特定多数の人々に愛され、興味を持たれた作品を作り出した人ですからね。文学史に残るような純文学の作家とかだと、結果的に、影響力がある程度に限定されていますからね。
玉三郎 それとやっぱり画風が独得ですよね。言うにいえない。美意識とか何とか意味づけする以前に、人を魅きつけるものがありますね。たとえば『黒船屋』はヨーロッパの絵に構図が似ているものがあるんですが、でも、絵そのものの雰囲気は全然違うし、まったく夢二の絵であるわけでしょう。そういう意味で「時代の芸術家」というのかな、過去のモチーフをとりいれて真似をしても全然違うものができあがる。いつの時代でも、そういう時代の画家、芸術家という人がいるんだと思います。泉鏡花先生もそうした方ですね。
須永 物を書いたり作ったりするというのは、まったく自分の独創だけでできているものって絶対にないんですね。伝統や継承があり、すべて昔からの連綿たるつながりの中からできあがってくるものだから。それはお芝居も同じかもしれないけれど。
玉三郎 で、真似をしても、全然違った雰囲気のものが出てくるんですよね。どの時代でも、そういうことがあるんだと思います。鏑木清方さんもオフィーリアの死の場面を描いているのがありますし。エキゾチシズム、日本の中の西洋
須永 ちょっと話は違いますけれど、鏡花さんも非常にうまくヨーロッパの感覚を自分の中にとりいれているところがありますね。
玉三郎 『天守物語』でも、ロシアのほうの物語に、城に白い鷹が飛んでいくという話があり、そういうモチーフをとっているんだそうです。当時は日本にも世界中の情報が入ってきたのでしょう。明治になって開国していろいろなものが入ってきた。言葉や物語にしても同じで、翻訳調が逆に日本語になっていく。ですから、鏡花先生もそうだし、久保田万太郎先生にも倒置法があるでしょう。今では純日本語に聞えるような久保田先生、鏡花先生たちの言葉すら翻訳調の言い方が出てくるんですね。それがひとつのニュアンスになっている。だから日本語っていうのはずいぶん変わってきているでしょうね。英語は何百年も変わらないといいますけど。
須永 シェイクスピアの英語は今でも一応読めるけど、樋口一葉は現代語訳が必要になってしまう、とさえ言われたりする。
玉三郎 日本って、ずっといろんな国からの文化とか文明とかが入ってきて、アレンジしては生きてきた人種だと思うんですよね。たとえば、杉村春子さんの『女の一生』を観にいったら、座敷に椅子やピアノがある、先代の愛用の椅子、とかね。あの何とも言えない和洋折衷の雰囲気が懐かしいんですね。それは日本がずっとそうしてきたからであり、自分自身が洋と和の混ざった中で生活しているからなんでしょうね。ヨーロッパへ行くと統一された文化というのがあって、生活様式から衣裳、人間の言葉、動作と、全部統一された形なので、そこにいると、重苦しいと感じるくらいです。
須永 日本は正式な服装というのがヨーロッパに比べると大ざっぱでしょう。むこうは場所や時間によって全然別のスタイルが本当に細かく決まっているという気がしますね。それを考えると、日本は昔から割合に大様だという気がする。
玉三郎 日本の新派の存在というのは、座敷があり椅子があり、山高帽をかぶって着物を着てねえ。
須永 新橋ステーションの食堂みたいな所だと、ちゃんと着物着た人がね、洋食を食べていたりして。
玉三郎 だから統一っていうヨーロッパ的な意味からいえば悪趣味と言えるんだけど、それが日本的なんですよね。ヨーロッパじゃオリエンタルブームといっても着物なら飾る程度でね、まさか着物を着て街は歩かない。日本人だと、洋服がくればすぐ着替えちゃうし、椅子がくればどこにでも置いてすわってみる。
須永 ご自身はほとんど洋風ですか。
玉三郎 そうです。
須永 楽屋は和風になりますよね。
玉三郎 楽屋ぐらいですね。昔は家は半分が畳、半分が洋式だったんですけれど、母が膝を悪くしたんで全部洋風にしました。和風と洋風で暮らしてると、身体を使うところが違うんです。だから、そういうのって日本人のおもしろい所ですね。子供の時は全部和風できたのに、今は洋風で全然異和感がない。たとえば合掌造りの古い立派な家があってときどき行くと、いい所だな、本当にいい空気だなとか思うけれど、「そこであなた仕事してずっと暮らしなさい」って言われたらちょっとね。良い悪いでなく、できないところが今の日本のすごい不幸というか何というか。また、アメリカとかヨーロッパで勉強するというけど、欧米に住むって日本人にはたいへんなことだと思いますね。だから、日本人て、この国土の中で和洋折衷のバラバラの中で暮らしていくしかないんじゃないか。そうするとあの新派の持つ和洋折衷の何ともいえない情緒というのが、独得の意味をもっていると思うんです。
須永 新派の、大正や昭和の初め、戦前の風俗描写やお芝居そのものが、まだぼくたちの生活の中につながってるんですよね。
玉三郎 そうなんですね。だからそこで、竹久夢二はおもしろい存在だと思います。和洋折衷で多くの日本人の共感を得たわけだから。そう思いませんか。 
メトロポリタンの『鷺娘』 
ガラコンサートに出演
須永 メトロポリタン・オペラハウスのガラコンサートは、日本でも話題になって新聞でもたくさん報道されていました。経済新聞にまで出ているんですよ。今回、玉三郎さんは、ニューヨーク・メトロポリタンの公演に出演されたわけですけど、これは、1日だけのものだったんですか。
玉三郎 そうです。百周年記念祭の公演ということで、メット(メトロポリタン・オペラハウス)の1日だけの公演なんです。
須永 その公演というのは、どういうものなんですか。新聞等でみていると、世界中の有名なバレエ・ダンサー、オペラ歌手、エンターテイナーが出演しているんですね。イヴ・モンタンとか、ジョン・デンバー。バレエのほうだと、ルドルフ・ヌレエフ、マーゴット・フォンティーン……。引退したフォンティーンが踊ったんですか。
玉三郎 そうです。トゥ・シューズは、はかないで、ちょっとですけど。フレデリック・アシュトンさんと『眠れる森の美女』の一部をね。
須永 アシュトン氏は、イギリスの方ですね。戦前からの有名な振付師の方でしょう。
玉三郎 そうです。マーゴさんがね、一番初めにメトロポリタンに出た時に、アシュトンさんの振付で『眠れる森の美女』を踊ったんですね。その思い出を再現しているんですね。
須永 オペラからはどんな方が?
玉三郎 プラシド・ドミンゴだけです。去年の秋、オペラだけのガラの記念公演をやっているんです。
須永 ああ、やっぱりオペラハウスだから。今回の公演は全体で何時間くらいなんですか。
玉三郎 7時半から11時半くらいまで。休憩をぬいて、だいたい3時間半ぐらいのものなんです。
須永 出演者の人数は?
玉三郎 だいたい20人。ただマーサ・グラハムのグループは10人ぐらいいるでしょう。アルビン・エイリーも20人ぐらいの群舞で、そういうのを入れると多いですけど、グループとしては20組ぐらいでした。
須永 そうすると、1人あたりの時間は、そう長くとれないですね。玉三郎さんは特に時間が長かったとか、お伺いしましたが。
玉三郎 踊りは長めで、グラン・パ・ド・ドウなどは、皆1組15分ぐらいの時間をとりました。1人10分から15分です。
須永 歌手の方だと、有名な持ち歌を2、3曲という時間ですね。
玉三郎 モンタンは「枯葉」と「パリ野郎」。
須永 そんな豪華な出演者で、1日だけの公演というと、アメリカ人でもなかなか見ることはできないでしょうね。入場料も1人千ドルとか、聞きましたが。
玉三郎 メットは4千の客席ですし。
須永 前評判も高かったようですが。
玉三郎 アメリカでは、ほとんど宣伝をしなかったみたいです。「やりますよ」といったら、そのメンバーだけで4千人集まった、という感じらしいんです。
須永 アメリカでは、テレビでコンサートを全国放映したそうですね。
玉三郎 そうです。公演が5月13日で、15日に放映。2日後にはテレビで観られたわけです。ほとんどそのまま放映しました。
須永 むこうの方はいいですね。こういう豪華なものをテレビで見られて。玉三郎さんは、踊りで、長唄の『鷺娘』。
玉三郎 そうです。
須永 あれはテープでやるわけにはいきませんね。ちゃんと地方がついていくわけですね。
玉三郎 はい。三挺三枚に、もちろん鳴物が入ります。
須永 引抜もある踊りだから、黒子の方もおいりようですね。総勢は何名でしたか。
玉三郎 25名でした。メットの他に、ジャパン・ソサエティでの公演もありまして。
須永 そのジャパン・ソサエティのお話もあとでお伺いしたいですね。『鷺娘』ですが、あれはきちんと踊るとかなり長いものだと思いますが、15分でどうやって?
玉三郎 約30分、28から29分かかるんです。ですから、前と、後ろの方を少しつめました。赤い衣裳の部分の「我は涙に乾わく間も」から「余る色香の恥ずかしや」までをやって、すぐ鷺のはばたきになるんです。ですから、今回は着替えないで、下に全部着こんで、やりました。
須永 今回『鷺娘』を演目に選ばれたのは、何か理由がおありですか。
玉三郎 ぼくも『鷺娘』がいいのではないだとうかと思いましたし、日本に詳しい何人かのアメリカ人の方からも『鷺娘』という希望がありまして。以前にアメリカ公演する時にも日本舞踊ならば『鷺娘』をという話が出ていたんですね。それで今回、この話が持ちあがった時、それがいいだろう、ということになりました。
須永 『鷺娘』は以前にも何回か踊られていますね。
玉三郎 『鷺娘』は一番初め、27歳の時に新橋演舞場で踊りました。そのあと浅草と大阪の新歌舞伎座でやりました。
須永 何か『鷺娘』に思い出とかおありですか。
玉三郎 最初に『鷺娘』を踊った時に思い出があるんです。27歳の時に初めてヨーロッパ旅行をして、カルチャー・ショックを受けたんですね。ショックで、もうぐずぐずに、くずれている時に踊った、そういう思い出があります。ヨーロッパ文化にぶつかって、自分の価値観が逆転してしまったんですね。日本の伝統をはじめ、今まで自分の回りにあったものが、突然、無意味に見えてきて、ショックでした。今は、またちゃんと意味があり、大事なものだと思っていますけれど、その時は逆転したんです。
須永 外国人の方から見て、日本舞踊ってどうなのでしょう。美しい衣裳と動作、踊り自体についてはどう見るんでしょうね。バレエやダンスとはだいぶ違うと思いますが……。
玉三郎 今の日本の方に見せるのと同じなんじゃないでしょうか。日本舞踊はすべての動作が様式化されているし、バレエのような跳躍がないでしょう。日本人でも日本舞踊のルールを知っているか、内容を理解しているかでないと、わからないところがあると思います。
須永 当の日本人にしても、生活環境とか体型とか、短い間にずいぶん変化してきましたし……。
玉三郎 そうですね。ぼく自身は、昔から言われている日本舞踊の基本からすれば、身長が高くなりすぎていますし、感覚的にも純日本舞踊でないところがあるように思います。つまり、日本間で育って、着物で生活しているわけではない。今の人間がたいていそうであるように、ベッドで眠り、洋服を着て新幹線に乗ったりしているわけでしょう。昔の人々が考えていた日本舞踊とはずいぶん変わってしまったと思うんです。ぼく自身は、とにかく体を動かすこと、曲やリズムに合わせて体を動かし、意志や魂を伝えることが好きなんですね。簡単に言えば音楽にこころよく乗って動くというのでしょうか。踊りというのは、ある程度そういう感覚で存在していると思うんです。楽器を弾くのが好きな人と楽器を弾かない人があるように、自分の体を楽器にして奏でるのが好きな人と、そうでない人がいる。本能的に好きだということなのでしょうね。
須永 ところで、日本の雑誌にも玉三郎さんが、イヴ・モンタンと握手なさっているところとか、出ていました。ほかの出演者との交流は?初めてお会いになった方とか、多いわけでしょう?
玉三郎 ええ、ほとんど初めての方です。
須永 キューバのプリマの方とか。
玉三郎 アリシア・アロンソさんとは、2、3回お会いしてます。アロンソさんはぼくが27歳の時に踊った『鷺娘』を見にきていただいてるんです。それで、とてもほめてくださいました。
須永 アロンソさんは、キューバ国立バレエ団のトップの方で、現役のプリマでは最高齢ですね。
玉三郎 60はすぎています。デイム・マーゴ・フォンティーンが65歳ぐらいで、それより上のようですから『ジゼル』をホルヘ・エスキヴェルと踊られた。素晴らしい方です。
須永 イヴ・モンタンはいかがでした。
玉三郎 やはり素敵でした。モンタンは、ちょうど、ぼくの2年前の歌舞伎公演のあと、メトロポリタンで1週間ぐらいリサイタルをしていた。今回のガラ・コンサートの出演者は、メットで公演をやった方ばかりなんです。
須永 一度は出演した方の中から選ばれて、のことなんですね。フォンティーンにもお会いになってますね。いかがでしたか。
玉三郎 マーゴさんには何度か東京でお会いしています。しばらくぶりでお会いしたんですけど、引退なさったら、すごくやさしくなって。
須永 そうなんですか。
玉三郎 もちろん以前がやさしくなかったということじゃないんです。ただ、現役でいらしたころは、視線とか、体の動かし方に厳しさがあったんですね。今は視線がやさしい、というか。幕の袖からいろんな人の、後輩の踊りをじっと見てらっしゃるのね。日本風のゆかたをデフォルメしたようなガウンを着て、じっと見ている様子が、とてもいい感じで。すごくほめていただいて、うれしかったです。
須永 あの方もこのごろ、日本のテレビのコマーシャルに出てらっしゃいますね。チャコット、だったと思いますけれど。何歳から踊り始めて、今は後輩の指導にあたっている、というようなナレーションが入って、彼女が写るんです。わりときちんとした映像で。
玉三郎 そうですか。マーゴさんは、やさしくて、きれいで、素敵に年をとっていて。感動しました。マーサ・グラハムさんはもう94歳なんですけど、きれいにお化粧していてね。それから、サイレント時代の大女優リリアン・ギッシュさんが、『バラの精』の少女役をやったんです。リリアン・ギッシュは90歳。昔、ニジンスキーがバラの精を踊ったのを見てるんですね。それにあこがれて、『バラの精』の、バラの花を持つ少女の役で出るのが夢だったんだそうです。それで、パトリック・デュポンがバラの精を踊ってね、彼女が少女の役をしたんです。
須永 へーえ、そうなんですか。
玉三郎 あこがれの、その少女役にやっと出られたんですって。そういうやり方じたいがとても素敵でしょう。
須永 そうですね。全体の演出がロマンティックですね。マーゴにせよ、リリアン・ギッシュにせよ、普通はそうしたことはやらないし、やれないでしょうね。
玉三郎 リリアン・ギッシュはニジンスキーやアンナ・パブロヴァと同時代の方だから、よけいにバレエに対するあこがれが強いのでしょう。
一流アーティストたちとの交流
須永 演目ごとの間に幕間があるわけですか?
玉三郎 いいえ、カーテン・コールだけです。
須永 出演していても他の方の舞台を見たくなるでしょうね、そんな時はどうするんですか。例えば、玉三郎さんの前に出た人が玉三郎さんの踊りを見たい時とか。
玉三郎 横から見るんです。舞台の袖から、ですね。ぼくの時は、シュツットガルト・バレエ団のプリマドンナのマリシア・ハイデさんや、マーゴ、ヌレエフ、モンタン、デュポンといった方たちが舞台の袖で見てくれました。
須永 マリシア・ハイデは、今年の4月にジョルジュ・ドンと共に来日しましたね。
玉三郎 先日来日して、ぼくの芝居に興味をもってくださって。ぼくは知らなかったんですけれど、後ろでトゥ・シューズで足の練習をしてらして、一瞬、目が合ったんですね。それで目礼をしたんです。そうしたら、彼女から近よってきて「私たちは女だけれども、女形というものに多くを学べる。バレエはやはり形だから、そういうところですごく勉強になる点がたくさんある」と言ってくれたんです。それで幕が開いたら、舞台の横にぴたっとすわって、見てらっしゃるんです。マーゴさんとか、ヌレエフとか、みんなが袖の所で見ているんです。そこから見えない人は、奥にグリーンルームという所があって、そこのテレビで見るんです。飲み物も置いてあって、そこが出演者のサロンになっているんです。
須永 じゃあ、そこではめったにできない交流が生まれるわけですね。世界中の一流アーティストたちの。森下洋子さんも出演なさってらしたんでしょう。
玉三郎 森下洋子さんは、前日にいらっしゃいました。なにか、3日か4日前に決定したのだそうです。
須永 報道では、日本人の参加は玉三郎さんだけとなっていたので、驚いたのですが。
玉三郎 森下さんは、フェルナンド・ブフォネスと『海賊』を踊りました。とても素敵でしたよ。マーサ・グラハムの演目でプリマのパートを踊った日本人の浅川高子さんもいました。アルビン・エイリーの団員にも日本人がいますし、今回の公演では日本人がずいぶん活躍しているんです。
須永 メトロポリタンの前と後に、ニューヨークのジャパンソサエティなどで公演をなさいましたね。こちらは玉三郎さん、おひとりで?
玉三郎 はい、そうです。
須永 こちらも舞踊の公演ですね。
玉三郎 そうです。
須永 これはある自動車会社の社名変更のイベント、とか。アメリカで、そうしたイベントの仕方、玉三郎さんの公演を催したということでその会社はとても評判がよかったそうです、文化面に貢献したということで。「入場券はたちまち売り切れ、ウェイティング・リストに長蛇の列」と新聞の記事にあります。入場制限があったそうですね。
玉三郎 それで、追加公演を1回したんです。キャンセル待ちが一晩分くらい出たので、その人たちを入れてあげましょう、ということで。
須永 ニューヨークにジャパン・ソサエティという公演をする場所があるわけですか。
玉三郎 はい、そうです。席数は3百です。だから『黒髪』と『ゆく春』、『鐘が岬』を踊りました。小さなホールだから。3つの踊りで、1時間40分くらいです。
須永 アメリカ人の方がほとんどだったそうですね。初日に、ヌレエフとかイヴ・モンタン、そういった方がいらしたそうですね。
玉三郎 イヴ・モンタン、マカロヴァとか、コッポラさん、ポール・サイモン夫妻、ジョゼフ・パップとか。そういう方たちが来てくださいました。
須永 5月4日、メトロポリタンの公演よりだいぶ前ですね。そうした方たちがニューヨークに早めに来ていらしたわけですね。すごいことですね。こちらの公演は、何回ぐらい?
玉三郎 8日間で11回公演しました。10回公演の予定だったけれど、さっき言ったような理由で1回追加公演をしました。
須永 そのあとのロサンゼルス公演はどちらで?
玉三郎 日米劇場というところです。去年できたところで、中村勘九郎さんと中村児太郎さんが去年柿落しで『鳴神』をやったところなんです。
須永 そこで3日間ですね。プログラムはニューヨークでなさったものと同じですか。
玉三郎 そうです。そのあと帰国しました。
須永 4月、名古屋で、もうぎりぎりまで公演なさって、すぐ出発して5月はアメリカ。たいへんでしたでしょう。
玉三郎 忙しいのには、なれましたけど、やっぱり飛行機は大変です。あの中に十何時間もいるのはたいへんですし。この間のアメリカ公演の時、サンフランシスコに寄って、2日間いて、それからだったのでだいぶ楽でした。それで、行きはよかったけど、帰りが向かい風で時間がかかって、3時間くらいのびるんです。それがすごく損したような気になる。ロスでの公演も満員でした。
須永 バラの精を踊ったパトリック・デュポンはパリ・オペラ座のエトワールですね。
玉三郎 人間性の豊かな人でしたね。明るくて、すごく人気があるんです。
須永 チャーミング、という感じですか。
玉三郎 ふだんは、こう、踊るような人に見えないんですね、全然。あんなにチャーミングで、ベジャールの振りを踊っても、ある意味でジョルジュ・ドンにひけをとらない人なんですけれど、ふだんはものすごく普通なんです。彼はお母さんを連れてきていて、お母さんがぼくの踊りを気に入ったとかで、お母さんに会ってくれないかと彼に言われたんです。それで、会ってお話したんですよ。彼は本当にやさしい人で。踊りは、あんなに魅力的というか、色っぽいっていうかそういう踊りでしょう、顔もきつくて。それがふだんは温厚で、顔もプロポーションも舞台の上とは違う。その人がパトリック・デュポンとは、とても思えなかったんです。あの方は、いくつぐらいですか。
須永 たしか25歳ぐらいです。オペラ座のソリストで、来日してますね。オペラ座は、停年があるから、男も女も40幾つかでやめるんですよね。ですから、プリマのノエラ・ポントワも去年だかおととしだかに、オペラ座をやめてるんですね。今、ヨーロッパで有名な、というと、ミラノ・スカラ座のカルラ・フラッチとか……。
玉三郎 メットにはカルラ・フラッチも来ましたよ。
須永 じゃあ、バレエは相当の人数が出演したんですね。
玉三郎 ええ、もうバレエ・コンサートといってよかったです。歌のほうは、クラシックはドミンゴ1人。モンタン、ジョン・デンバー、ライオネル・リッチーだけでした。あとは皆踊りです。
須永 カルラ・フラッチは何を?
玉三郎 『ラ・シルフィード』です。ぼくは日本でカルラ・フラッチのそれを見てるんですけど、当日は全然見られなかったんです。
須永 日本舞踊は準備がたいへんですものね。それにしても、今回はとても素晴らしい体験をなさったわけですね。
玉三郎 そうです。素晴らしい方たちに会えましたね。マーサ・グラハムさんは94歳になってますけど、まだ仕事のほうでは現役でやってらして、例えば人事についての仕事をしたりとかね。リリアン・ギッシュも、サイレント・ムービーの復活が夢なの、と言ってらしてね。マーゴさんみたいに一世を風靡した方が、引退したあとも安定して、美しく年とってゆくのをまのあたりにみるということ。これは、ぼくにとっては本当に素晴らしいことでした。
須永 そういう交流がひとつある。そして、世界の舞台芸術の一番水準の高いところにいる人の集まりですね。時間は短くても、その高い水準の現代バレエ、現代ダンスの現状がよくおわかりになったことでしょう。それ以前にも、たくさんご覧になっているでしょうけれども。
玉三郎 レセプションがあるでしょう。楽屋でパーティが始まるまで1時間ぐらい待っているんですね。そういうところで待っている間に、楽屋でのひととなりというのがわかるでしょう。それがとてもよかったです。どうわかったか、というとやはり言葉では説明しにくいんですけれども。ここに来られる人というのは、やっぱり楽屋でも礼儀正しく、エレガントだなと思いましたね。ある意味で、非常に普通の人でもあるんです。
須永 ごく自然に振るまうわけですね。
玉三郎 それは現役の頃とか、自分が出ていく時、みんなに注目され出した頃というのは、もちろん自意識もあったでしょうし、負けず嫌いもあったでしょう。その時には人一倍意志が強くて負けず嫌いでなくてはならなかったでしょう。けれど、そういうものを全部乗りこえて、あの年齢に達した人たち。まだ、ひと踊り踊ってみんなを感動させることができる人たち。そういう人たちをまのあたりに見るということは、やはり一言では言えない感動があります。
須永 お金を出してできるという体験ではありませんしね。
玉三郎 それから、イヴ・モンタンやマーゴが、引抜をしてくれる後見のことをそっと当人にほめてくれていたりするんですね。それはなかなか、やろうと思ってもできることではないですよね。それも、私のところへ来る前に、本人に会った時にほめて下さるんです。うれしいですね。そういうデリケートな、非常に大切なことについての気配りに感激しました。
須永 出演してらっしゃる方々は、みんなそれぞれ顔なじみなわけでしょうか。
玉三郎 そうなんです。顔なじみじゃなかったのは、ぼくだけじゃなかったのかな。
須永 でも、ヌレエフやマーゴとかは、ご存じだし。ある意味では、玉三郎さんは、その舞台が特殊だから、皆さんの注目を集めたのではありませんか。
玉三郎 けれどとまどいもあったのではないでしょうか。
須永 西洋と日本の違いはあっても、ずっと長い間踊ってきた人たちからみれば、とまどいというより、むしろ新鮮な感動があって、非常によくわかるんじゃないでしょうか。たとえ初めて見るにしても、同じ踊りという点で、わかりあえるんじゃないんですか。
玉三郎 そういう点では、幕内のスタッフとか、見ていてくれたソリストやバレリーナの方のほうがよくわかってくれました。幕が降りるとずっと拍手をしてくれました。
須永 舞台の専門家との意志の疎通というか、心のつながりを得られたという大きな収穫を得て帰られたと言えそうですね。
玉三郎 そうですね。ハイデさんやマーゴさんは、ものすごく喜んでくださいましたし、わかりあえたと思いました。 
 
鏑木清方の<妖魚>について

 


鏑木清方(明治11(1878)年―昭和46(1971)年)は、浮世絵の伝統を受け継いだ挿絵から出発し、次第に本格的な日本画に取り組むようになった。清方は、『西の松園、東の清方』と称され、江戸の好みを伝える明治風美人を多く描いた。<築地明石町>などの絵画表現を確立するため、とりわけ大正期に、さまざまな試行錯誤を繰り返したと言われている。本研究では、この時期に描かれた清方の<妖魚>(大正9(1920)年)(図1)を取り上げる。
清方研究で盛んに論じられている主題の一つに、西洋絵画との関係がある。この方面の主な研究として、茂木博氏の<清方と西洋美術―試論的仮説―>を挙げることができる。茂木氏の研究では、清方は、西洋美術史上の名作に手本を求め、そこに現れている魅力的なモティーフを取捨選択して組み合わせ、それを日本的テーマと意匠を以って粉飾するという、翻案的、換骨強胎的なやり方を取り入れていたと仮説をたてている。さらに、<妖魚>もそのような作品の一つであると取り上げられ、ベックリン、シュトゥックなどの世紀末絵画を手本としたと論考されている。(1)また、中谷伸生氏は、<妖魚>は、新境地を開拓するための試行錯誤の時期の作品であり、クリンガー、モロー、ビアズリーなどの世紀末絵画を想起させる作品であると述べている。(2)実際に、第2 回帝展に出品した際に、朝日新聞の記者が清方に本作品がベックリン<海の静けさ>(図2)に近似していることを指摘したことが文集に記録されている。(3)
従来の研究では、<妖魚>は、清方作品らしくない異質のものとされているが、これについて詳しく論考されたものは少ない。本稿では、<妖魚>に焦点をあて、鏑木清方の世紀末的傾向を考察することにより、清方の作品の特質に踏み込んでみたい。 
<妖魚>の女性像と髪の象徴性
清方の<妖魚>では、岩の上で微笑みながら正面を見据えて小魚を弄んでいる人魚が描かれている。髪は、濡れ乱れて黒さが際立っているように見える。身体の大きさから見ても絶対的な強者である人魚が小魚の命を弄ぶ姿から、男を水中へと引きずりこみ破滅へと追い込むセイレーンを思い浮かべることができる。
19 世紀中頃、世紀末絵画でもセイレーンを主題とする作品が多く描かれていた。同時期に、絵画や文学などでファム・ファタルと呼ばれる女性像が流行し、頻繁に描かれるようになる。セイレーンの人気もこうした流行現象の一つであったと言われている。ファム・ファタルとは、男性を魅了し破滅へと導き男性の運命を左右してしまう女性像である。この女性像は、うねる髪、乱れ髪、からみつく髪、赤毛などで描かれ、この髪は、この女性像の魅力や神秘的な力や呪縛力などを象徴するものとされていた。ラファエル前派の画家、特にロセッティは、女の髪の毛に異様な執着を見せていたと言われている。実際のモデルの写真と比べると、髪の毛の量、乱れ具合を異様に誇張して描いていたことは一目瞭然である。ロセッティの<つれなき美女>(1855 年)では、女の髪を男性の首に髪を巻きつけて描くことにより、女の呪縛力や魔性の力を視覚化したといわれている。このような乱れ髪の変遷は、ラファエル前派だけでなく、同時代の芸術家に非常に多く見られた。ロセッティ、ミレー、ウォーターハウス、ベックリン、シュトゥック、ムンク、クリムト、クノップフなど、この魅力にとりつかれた画家を挙げようとすると枚挙に暇がない。(4)
清方の<妖魚>では、セイレーンを思い浮かばせるような妖しげな人魚が描かれている。セイレーンは、美しい歌声で船乗りを誘惑して溺死させてしまうとされ、ファム・ファタルと呼ばれる女性像として描かれることもあった。妖しげな雰囲気を漂わせる<妖魚>は、乱れた髪で描かれている。これは、世紀末絵画に描かれたファム・ファタルと呼ばれる女性像の乱れ髪の描かれ方と近似している。本稿では、この近似に注目し、具体的な近似点や影響関係を考察していくことで、本作品の世紀末的傾向を明らかにする。 
「金色夜叉」の挿絵
清方は、「金色夜叉」の挿絵(明治35(1902)年)(図3)を描いている。「金色夜叉」の挿絵では、尾崎紅葉の「続金色夜叉」第8 章の夢の中の宮の死の姿を描いている。清方は「金色夜叉」の挿絵を描く際に、ミレーの<オフィーリア>(図4)を思い浮かべながら描いたと文集に言葉を残している。(5)世紀末絵画で見られる髪の象徴学はラファエル前派の画家が築いたとされており(6)、ミレーはこの一派の代表的な存在であった。清方は、参考にした西洋絵画について文中で具体的に触れることは極端に少ない。このような傾向を持つ清方が、<オフィーリア>を参照したことを書き残したのは、清方にとって異例のことと言える。さらに、清方は、文集で『オフィリヤの死は書題としてそう珍しいものでもない。けれども誰が書いてもその度に又別ないいところが出れば、何度書いたつて構わない。』(7)という言葉も残している。このような言葉からも、清方は、この主題に特別な思い入れがあったと考えられる。明治期の清方が、このような作品を制作の参考にしていたという事実は、<妖魚>の世紀末的傾向を知る上で重要なことであると考えられる。そこで、清方は「金色夜叉」の挿絵を描く際に、ミレーの<オフィーリア>の姿を具体的にどのように参考にしたのかを見ていきたい。
この作品は、明治35(1902)年4 月、鳥合会第3 回展に出品された。また、同年に春陽堂から刊行された「金色夜叉続編」の折込口絵としても使用された。清方は、烏合会に「金色夜叉」をテーマにした絵を出品するつもりでいたところ、それが尾崎紅葉に伝わり、出来がよければ口絵に使っても良いという申し出があったという。さらに、紅葉に『夢のなかの宮の水死のところを書いて見ないか』と提案された。清方は、尾崎紅葉が心に思い描いている宮の顔形を尋ねに行ったり、何度か交流を重ねながら挿絵を制作していたと言われている。(8)
清方は、『第八章「咄嗟の遅れを天に叫び、地に喚き」から「緑樹陰愁ひ、潺湲聲咽びて、浅瀬に繋れる宮が_よ」」まで、文字にして二百字あまり、試験前の学生のように、築地川の川縁を往きつ戻りつ繰り返しては諳んじた。何かで見たオフェリアの水に泛ぶ潔い屍を波紋のうちに描きながら。』という言葉を残している。(9)このような言葉から、清方は、挿絵の制作にミレーの<オフィーリア>を参照したことは周知の事実とされている。
オフィーリアは、シェークスピアの四大悲劇の一つ「ハムレット」の婚約者として登場する。恋人の裏切りにより、狂気に陥り河で溺れて命を落とすという悲しい運命の乙女である。19 世紀頃より、ラファエル前派の画家たちは好んでオフィーリアを題材にした。死後の世界への情熱、水中世界への偏愛、自己犠牲的な女性への羨望、このような感情が交わることにより、オフィーリアに対する関心が高まっていった。「ハムレット」の中では脇役でしかなかったが、この流行によってオフィーリアこそが主役として描かれるようになる。ミレーの<オフィーリア>(1851 年)は、同じ主題を扱った類似作品に非常に大きな影響を与えたといわれ、オフィーリアの肖像の細部にかかわる主要な図像表現法を生み出したとも言われている。(10)また、類似作品だけでなく、同時代の世紀末特有の女性像にも大きな影響を与えた。この作品では、「ハムレット」第4 幕第7 場の王妃が語るオフィーリアの最期が描かれており、美しい髪を水中に漂わせながら、すべてを水の流れにゆだねている様子を見ることが出来る。ミレーの<オフィーリア>では、オフィーリアは水と一体化するように川に浮かんでいる。花束と共に波に髪を広げながら小川を漂う姿は、水死する運命の乙女を主題にした作品の一つの類型となる。
明治30年代、日本の絵画や文学を見ると、オフィーリアやオフィーリアに似た女性像を多く見つけることが出来る。オフィーリアは、明治30年頃、日本の芸術家の形象世界の中に日本的な形姿をまといつつその姿を現したと言われている。(11)清方は「金色夜叉」の挿絵を描く際に、ミレーの<オフィーリア>を思い浮かべながら制作したと述べており、お宮の死の姿にミレーの<オフィーリア>の姿を読み取り全体的な構図を参考にしたと言われている。(12)清方がお宮の死の場面を描く際、築地川を歩きながら唱えたとされている本文を再び読み返してみた。すると、「金色夜叉」の挿絵は、尾崎紅葉の本文そのものに忠実にとらわれているわけではないことが分かる。お宮の乱れ髪は水に浸り水中を漂う様子に描かれている。紅葉の本文にはこのようなお宮の髪の毛の様子は書かれていない。これは清方が本文にないお宮の髪を描こうとした結果、このように描いたと考えられる。
ミレーの<オフィーリア>でみられる花束と共に波に髪を広げながら小川を漂う姿は、水死する運命の乙女を主題にした作品の一つの類型となった。清方の「金色夜叉」の挿絵では、こういったイメージと重なるようにお宮は、花びらと共に川に髪を広げながら浅瀬に倒れている。清方は「金色夜叉」の挿絵を描く際に、ミレーの<オフィーリア>を思い浮かべながら制作したと述べている。この言葉と、お宮の姿とを合わせて見てみると、清方は、波に髪を広げながら漂うオフィーリアの姿を取り入れ、お宮の姿を描いたと考察できる。 
<妖魚>の異質性について
清方の作品の中で、<妖魚>は、清方の本来の作風と異なる作風とされ、異質な作品とされているが、清方がこのような作品を制作した理由を考察する。
大正期、清方は実験模索期にあり、さまざまな実験を試みていたと言われている。その中でもきわめて特異なのは<妖魚>で、モティーフや色彩などを見る限り、清方作品の中では孤立した位置にあると言われている。(13)
清方は、この時期に、文展、帝展のマンネリ化に強い問題意識を持ち、それを打破することを目的の一つとした金鈴社という会を結成し、活動をしていた。大正5(1916)年、吉川霊華、結城素明、平福百穂、鏑木清方、松岡映丘らで金鈴社を結成。金鈴社は規則や規約など定められたものはなく、気ままな5 人の会合であったと言われている。大正6(1917)年、第一回展覧会の開催から大正11(1922)年の解散までの間、計7 回の展覧会を開催した。成立目的には『自由を侵さないこと』と記録されているが、この5 人の会結成に向かわせた一つとして当時の文展のありかたへの批判があり、文展のマンネリ化を打破する共通認識を有していたと言われている。(14)根崎氏は、金鈴社の目的の一つを、文展作家としての立場を堅持しつつ金鈴社の運動を具体化することで、頑迷固陋な文展首脳者の思考に反省を求めようとしていたと考察されている。吉川霊華は復古主義的な立場をとり、日本や東洋などの古典の研究、模写によって古に復ろうとしていた。平福百穂も、古典に題材を求めたものが多く、写生を基礎として伝統の再生を計ろうとしていた。結城素明は、金鈴社時代には、伝統の水源に復ることの重要性を説き、古典中国に典拠を求めた作品が数多くある。清方は、自身が目指す社会風俗画・美人画の源泉を深く研究し、平安期から江戸期にかけての風俗画研究を行っていた。以上のように、根崎氏は5 人の金鈴者時代の関心を取り上げ、それぞれが古典の深淵に深く立ち入った研究を志し、それを拠り所としながら、個性を生かした日本画の近代化に邁進していたと考察している。また、根崎氏は、同人達は、互いに刺激しあい、新しい試みをはじめていったとも述べている。清方が金鈴社時代に風景画に転じようと考えたことは、この時期に同人に刺激を受け、南画に傾倒していた事と無縁ではないと述べている。(15)
中谷氏は、金鈴社の主たる目的は、文展の枠に捕らわれない自由な研究と作品発表、それぞれの画家の個性的な表現の確立であったと述べている。このような目的が清方の場合には西洋美術への関心となり<妖魚>のような作品をうみだすことになったと述べ、金鈴社時代と<妖魚>の制作時期との重なりを説明されている。(16)
根岸氏や中谷氏の研究によって、金鈴社時代の鏑木清方を的確に論考されているが、ここでさらに考察を加えたい。
文展は、国家プロジェクトとして美術奨励を目的とする文部省美術展覧会として設立された。審査員の人選を旧派を多くするか、新派を多くするかなどで出展者の不出品宣言などが続出していた。文展では、美人画人気や出展数の増加に伴って、美人画室が用意された。鶴田氏は、この文展出展の美人画の動向を追っている。第一回文展では、美人画は10 点のみの出展であったが、第9 回文展では、3 倍の30 点の出展であった。美人画室は大衆的な人気を得たが、評論家、識者などには不評であった。このような美人画室に対する悪評の影響により、この先の美人画の方向性が決定づけられることになった。「気品」が一つの重要な基準となり、肉感的、妖艶な美人画が姿を消していく。文展最終回でも、美人画は20 点近く出展されているが、文展という場にふさわしいかどうかの基準を意識した作品が並ぶ結果となり、マンネリ化が進み文展は幕を閉じる。(17)
一般的に、美人画といえば、『西の松園、東の清方』と言われているが、松園の作品の中でも、<妖魚>に似た批評を受けている作品がある。関東と関西で、同時代を代表する二人の美人画家の作品の中で最も異色であると言われている作品が、同時期に制作されていることは興味深い。この作品が描かれた1920 年頃は、文展が帝展に改組された時期と重なる。文展最終回、上村松園は<焔>(大正7(1918)年)を出展した。この作品は謡曲「葵の上」の六条御息所の生霊が出てくるところからヒントを得て描いている。松園は、<焔>の成立を『どうして、このような凄艶な絵をかいたか私自身でもあとで不思議に思ったくらいですが、あの頃は私の芸術の上にもスランプが来て、そうにも切り抜けられない苦しみをああ言う画財にもとめて、それを一念をぶち込んだのでありましょう』と述べている。(18)伊藤たまき氏は、松園の<焔>がこのような異色の女性像の創出を試みた背景には、審査や批評を含めた文展のシステムが主題や表現の選択に多大な影響を及ぼしたと考えている。上に挙げたように、美人画室が専用に用意されるほど、美人画が多く出展されていた。これに対し、第9 回文展では、美人画が識者の反感を買い、強く批判された。この批判でとりあげられたものは、北野恒富の作品に描かれているような、繕わない、気取らない、花柳風俗という主題であったと言われている。松園も文展第9 回の<花がたみ>(大正4(1915)年)から、主題においても表現においても実験的な試みを行うようになったと言われている。上村松園のみではなく、多くの画家が様々な試みを行ったと言われている。この試行錯誤の結果、第10 回以降の文展では、農村や地方、アジアの女性、王朝風俗などが描かれるようになる。これらの女性像は、歴史画の中に存在していたものであった。このような文展における主題の開拓のため、試行錯誤を重ね、第12回文展の<焔>へといたったと考えられている。(19)
清方は、『この人の前には自分のかくものはアマチューアの様なものだと、そんな風に考えて独り微笑まずにはいられなかった』と述べるほど、松園の作品に対して尊敬の気持ちを持っていた。(20)しかし、<焔>に対しては好感を持たなかったようであった。清方は、文集の中で、松園の作品の回顧を試みている。清方は、松園の初期の作品から大成期の作品までの感想を述べている。清方は、『「焔」は女史の自記に依って精神的に苦悶のあった時で持ち味でないものへ手をつけたことを言はれてある。』と述べている。(21)また、『芸術家の求めることろは完璧にある、悪作よりは佳作にある、自他共にそうであるが他から悪作とされ、失敗作と云われても、佳作を志して凡作に陥るよりは数歩、数十歩の前進である、悪作も失敗作もいつでも回避しなければならないものはない』とも述べている。(22)この言葉は、松園が、できばえの良いことを目的とした作品を制作するよりも、本来の持ち味とは異なる作品であるが、<焔>を制作したことにより何らかの前進がある試みをしたと考え、それを賞賛している言葉ではないかと考えられる。
<焔>が出展された次の年に、文展は、帝国美術院展に改組される。清方の文集では、第1 回帝展は文展のマンネリ化をそのまま受け継いだ展示内容であったと感想を述べている。第1 回帝展に、清方は出展せずに、第2 回帝展に<妖魚>を出展している。前述したように、当時の清方は、文展、帝展に対する批判的な感情、スランプのような制作に対する迷いがあった。そのため、<焔>によりおもいきった前進を見せた松園に刺激され、清方も<妖魚>で、金鈴社でのさまざまな分野の研究、模索、実験などを生かした普段描かない異質な作品を描くことにより前進を試みたのではないかと考えている。 
「ONE HUNDRED MASTERS OF THE PRESENT DAY」
清方は、明治34(1901)年に挽町の家に入居し、以後7 年近く住んでいた。その家に面した8畳の仕事場の縁の近くに机を据えて仕事をしている清方の写真が残されている。(図5)この写真が撮影されたのは、明治35 から36(1903 − 1904)年頃ではないかと考えられている。その写真に、「ONE HUNDRED MASTERS OF THE PRESENT DAY」(23)という画集が写っていた事が明らかになっている。(24)この画集では、19 世紀頃にドイツで活躍していた画家の作品が多数紹介されている。シュトゥック、クリムト、ベックリンなど象徴主義を代表する画家の作品が何点か掲載されている。現在、「ONE HUNDRED MASTERS OF THE PRESENT DAY」で紹介されている作品と< 妖魚>との関連についての研究は手付かずのままといってよい。そこで、この画集で紹介されているシュナイダー<アスタルテ>(図6)、シュトゥック<マーメイド>(図7)を見ることで、<妖魚>に描かれた女性像の一側面を考察する。 
シュナイダー<アスタルテ>
清方の画室に置いてあった西洋画集で紹介されていたシュナイダーの<アスタルテ>と比較すると、清方が何を手本として、<妖魚>を構想したのかが明瞭になる。<妖魚>における水と関係があるこの世ならぬ世界の女が魚をつかむというポーズをとっている形は、<アスタルテ>を参考にしているのではないかと考えられる。このようなポーズは、頻繁に絵描かれていない。現在は、このような特異なポーズは、2 点の他にはレオナルド藤田の<セイレーン>(1952 年)に見つけられているだけである。
アスタルテとは、中東地方の最古の女神の一人で、アフロディーテ、イシス、イシュタルテ、デメテルなどさまざまな女神と同一視されている。アスタルテは、インド、ヨーロッパ文化圏全域にわたって崇拝された。「創造、維持、破壊」をする女神で、世界の真の統治者であった。アスタルテは、非常に多くの性格、イメージ、名称を持った女神であるため、この女神を一言で説明する事は困難である。この女神は後に作り出されるさまざまな女性像を形成する根源的な存在であるとも言われている。(25)
シュナイダーの<アスタルテ>、清方の<妖魚>では、魚を持つというポーズを改めて見てみる。シュナイダーが主題としているアスタルテという女神は、イクテュスを生んだと言われている。イクテュスとは「大いなる魚」の意味を持つといわれている。(26)シュナイダーの<アスタルテ>では、下から魚を抱きかかえ、背びれをなでるようにしている。この仕種からは、魚を大事に扱い、愛情を持っていることが伝わってくる。アスタルテと同系列のエジプトの女神、イシスの図像の中でもっとも数多いものは、「授乳するイシス」である。(27)イシスの子供の頭部を支え、乳房を口に含ませている授乳の仕種は、アスタルテの魚を抱える仕種に非常に似ていると思われる。また、アスタルテは魚(ギリシャ語でイクテュス)を出産したと言われていることなどから(28)、シュナイダーの<アスタルテ>は、アスタルテと魚は母子関係があるという考えの下で描かれた可能性が高いのではないかと考えている。一方、清方の<妖魚>では、清方が人魚と小魚との関わりについての記述を残している。文中には、人魚が小魚を弄んでいる姿を描いたとあった。(29)ただ、小魚にとって人魚は絶対的な強者として存在しているため、人魚にとっては、弄んでいるつもりであっても、小魚にとっては命取りの残酷な行為である。<妖魚>の小魚を弄ぶポーズを見ると、母性よりも魔性の性質が表面に出た妖しげな女性像であるとも考えられる。
アスタルテは、ロセッティも主題としている。
ロセッティの<アスタルテ・シリアーカ>(1875‐77)が紹介されている画集は、国立国会図書館に明治41(1909)年9 月11 日に受け入れられているため、当時、清方が知ることが出来る状況ではあった。(30)1860 年代後半、レイトン、ムーア、ポインター、ホイッスラー、ロセッティ等といった画家達が一勢にヴィーナスを主題として描くようになったと言われている。(31)ヴィクトリア朝の人々は、ギリシア神話の神々の性格を正確に把握していたとされ、ヴィーナスが純粋で精神的な愛の女神の性格を持つ反面、堕落した肉欲の女神でもある事も把握していたとされている。ヴィーナスを描いていた中でも、ロセッティは、特に、このような両義的な性格である事を強く意識していたと言われている。ロセッティは、<ヴェヌス・ヴェルコルディア>でアスタルテがアフロディーテの原型にとなったとされる女神であることを理解した上で<アスタルテ・シリアーカ>を制作していたことが明らかにされている。ラファエル前派のロセッティにとっては、アスタルテ(アフロディーテ)は、母性的面を持つ豊穣の女神であると共に、男たちを翻弄する愛欲の女神でもあった。また、当時、このような主題は文学と美術の領域を行き交い、『かくもやさしくかくもいとしくかぎりなく残酷な母』は、ロセッティ<アスタルテ・シリアーカ>をはじめ、サッカレイのベッキィ、スウィンバーンなどの作品に共通性を見つけることが出来ると言われている。(32)
清方は、泉鏡花と深く交流していた。鏡花文学を土台に制作をする事なども多かった。『一葉と鏡花とは、まだ二十に足らなかった当時の純情な文学青年だった私に、観音経のように朝夕通読するほどの信仰的な讃仰の的となっていた』(33)という清方の言葉などからも、清方の鏡花に対する尊敬の深さが伺える。
泉鏡花の女性像について、三島由紀夫と澁澤龍彦が対談形式で述べている箇所を下に引用する。
『三島 鏡花の意識では、支配権力構造は別にあって、つまり、女の支配なり庇護というのはこの世の支配権力構造とは違うんだろう。
澁澤 だからそれを描いちゃったわけですね。
三島 鏡花が特別なんじゃなくて、女ってそういうものかもしれない。
澁澤 アフロディテがそうですね。
三島 そう。女は可愛らしい、か弱いもので、がっしりした男がぐっと庇護して愛するというのは、ハリウッドとその前にはヨーロッパの騎士道なんかのイメージがきっとあるんだろう。(中略)
三島 庇護しなくたって、本来こっちは庇護されるはずのものなんだからね。同時に恐怖を与えるでしょう。「高野聖」の女みたいにね。』(34)
泉鏡花の女性像についての対談で、アフロディーテが挙げられている事は興味深い。鏡花の作品にはさまざまなタイプの女性像が登場するが、その根源には母性が存在することが度々指摘されている。(35)この母性の多様性が鏡花の描く女性像にさまざまな変相を見せている。母性と魔性の両義性をもつ女性像は、「白鬼女物語」にはじまり、「蓑谷」、「竜潭譚」を経て、「高野聖」が頂点となると言われている。(36)古代において、母性と神秘性は両義性をもった不思議な存在であった。一般的に母性はエロスと死の両義性を持つと考えられている。鏡花文学を振り返って見るとき、このような人間離れのした、美しくしかも恐ろしい母親像を随所に見出すことが出来、その典型的なものとして「高野聖」の美女が挙げられている。(37)
清方と鏡花との関係について多く論じられているが、簡単に大概を振り返っていく。明治34(1901)年に松廼舎主人安田善之助の紹介で二人は出会った。当時、清方は24 歳、鏡花は30 歳であった。清方の鏡花文学に関する画業として、「鏡花文学の装丁、挿絵」、「鏡花文学を土台にしてそこから発想されるものの絵画化」の2 点に大きく分けることが出来ると言われている。(38)大正9 年前後執筆と言われている泉鏡花の「ことば、人魚」といった原稿がある。ここでは、江戸時代の髄質「甲子夜話」に人魚の記事があり、それを引用し、評を加えている。大正以後の鏡花の作品には、「甲子夜話」の投影の後を見つけられると言われている。鏡花は大正10 年頃から「甲子夜話」に親しんでいたと言われている。大正時代は、清方の<妖魚>の発表時期と重なる。鏡花は文学的興味から「甲子夜話」について話をし、それを聞いていた清方は強い刺激を受け、<妖魚>で彩管をふるったと考察されている。(39)
清方は、ミレーをはじめにラファエル前派などの西洋美術に関心を持っていた。ラファエル前派のロセッティなどを含めて世紀末美術では、<アスタルテ>は優しく温かな豊穣の女神と残酷で冷たい愛欲の女神であるといった両義性を持ち合わせたものとして描かれていた。さらに、清方の鏡花文学やそこに登場する母性と魔性の両義性を持つ女性像への関心、鏡花の人魚像にかんする影響などが明らかになっている。以上のことから、魚を持つポーズを手本とした理由の一つとして、清方は、シュナイダーの<アスタルテ>の女性像に、泉鏡花の作品に見られるような母性と魔性の両義性を持つという点に共通点を見出し、その上でこのポーズを手本としたと考えている。母性と魔性の両義性を見出したこととラファエル前派に関心があったことと直接影響があるかどうかを明らかにするのは難しいが、このような世紀末絵画と日本のモティーフとに接点のようなものを見つけることができることは興味深い。 
シュトゥック<マーメイド>
清方の画室にあった西洋画集には、シュトゥックの<マーメイド>も紹介されている。
19 世紀中頃から後半の世紀末絵画ではセイレーンを主題とする作品が多く描かれていた。このことに関しては、谷田博幸氏の「ロセッティ」、ブラム・ダイクストラの「倒錯の偶像」などで詳しく論じられている。谷田博氏は、ヴィクトリア朝時代画壇のおおまかの傾向を知る手がかりとしてロイヤルアカデミー展を挙げている。年代ごとにセイレーンを扱った作品数を見て行くと、19世紀後半からセイレーンを扱った作品が急激な増加を見せていること分かり、これが人気のテーマであったことが分かると考察されている。19 世紀後半の芸術家達は、船乗りたちを美しい歌声と容姿で誘惑し破滅へと追いやるセイレーンの蠱惑的な美しさに魅せられていたと言われている。(40)世紀末絵画では、ファム・ファタルと呼ばれる女性像が流行するが、セイレーンの人気もそうした流行現象の一つであった。(41)
シュトゥックも、人魚という主題に魅せられた画家の一人であった。シュトゥックは、人魚を主題とした作品を繰り返し制作している。絵画では<マーメイド>(1891 年)、<水>(1910 年)、<牧羊神と水の精>(1918 年)、<風と波>(1927年)、彫刻では、<フォーンとマーメイド>(1914―16 年)、<フォーンとマーメイド>(1918 年)などで繰り返し制作している。画集に掲載されていた<マーメイド>は、人魚と人間の男子が共に描かれている。<マーメイド>を中心にした論文を見つける事が出来なかったが、清方が持っていた「ONE HUNDRED ASTERS OF THE PRESENT DAY」という画集には、<マーメイド>についての解説が書かれていた。(42)この解説と作品とを合わせて目にすることにより、清方は、1 つのイメージとして、人魚をファム・ファタルと呼ばれる女性像として理解していた可能性が高いと考えられる。
また、清方は文集の中でファム・ファタルと呼ばれる女性像について興味深い言葉を残している。(43)この文章で挙げられているセダ・バラは、20 世紀のスターシステムによってつくられた女優であると言われている。セダ・バラの演じた作品は、「カルメン」、「蛇」、「猛虎のごとき女」、「サロメ」、「不滅の罪」などがある。彼女は、名前や容貌などのすべてに手を加えられ作り上げられ、ヴァンプ女優としてスクリーンに登場した。このヴァンプという言葉こそ19 世紀に噴出したファム・ファタルの源となったヴァンパイアから発したものであったと言われている。(44)清方は、ファム・ファタルと呼ばれる女性像と日本の毒婦、ヴァンプなどとをはっきりと区別していることが分かる。ここでは、清方は、日本の毒婦や悪婆に興味があったが、西洋のこのような女性像は好みでないと述べている。この文章からは、鏑木清方は、世紀末絵画に流行したファム・ファタルと呼ばれる女性像や日本の毒婦や悪婆などに関心を持ち、実際に見ていたことが分かる。また、ファム・ファタルと日本の毒婦や悪婆は、非常に近似した女性像であると同時に違いがあることを理解したうえで、ファム・ファタルと呼ばれている女性像は好みでないと述べている。
清方は<妖魚>を制作するにあたっての文章を残している。清方は、この作品は泉鏡花の文学を愛好するものの自然な流れとして描き、人魚に関する特別な調査を行はなかったと述べている。さらに、山東京傳の黄表紙の「面屋人魚箱入娘」の戯作ついて触れている。一般的に、清方の<妖魚>は、ベックリンの<海の静けさ>を想起させると言われており、清方は、金鈴社時代から親交を重ねていた朝日新聞の春山武松氏にもこのことを指摘されている。しかし、清方は、これに対し、ベックリンの人魚は聞いて知ってはいたが、見たことはなかったと返答している。(45)
清方は、この文章で、実際に見ていたと思われるシュトゥックの<マーメイド>について書き残していない。はじめに、<妖魚>からはセイレーンを思い浮かべることが出来ると述べたが、文集などを読み進めていくと、清方が<妖魚>とセイレーンなどとの違いをはっきりと意識したうえで制作していたと考えられる。 
<妖魚>の髪の象徴性
清方の文集では、髪について触れている箇所を250 箇所以上も残している。男性の髪に関しては、泉鏡花、島崎藤村、尾崎紅葉など清方の知人についての容姿についてがほとんどであった。女性に関しては、上村松園、樋口一葉などの尊敬する作家の髪型について、小説に登場する主人公の髪、清方の作品に描かれている女性の髪、また、そのモデルとなった女性の髪、日常生活の中で目にしている女性の髪などさまざまな視点から取り上げている。日本髪では、丸髷、銀杏返し、島田、桃割れ、櫛巻き、結綿、束髪ではイギリス巻き、夜会結びなどが挙げられている。その他にも乱れ髪、そぞろ髪、濡れ髪、生え際、うなじ、髪の毛の濃淡などについても取り上げている。この文章を見ていくことで、清方の女性の髪に対する関心の深さを見ることが出来る。
江戸時代には、びん、たぼ、前髪、髷の4 つの部分で構成されたいわゆる日本髪と呼ばれる結髪文化が完成した。町人文化の中で発生した日本髪は、おびただしい種類の髪型が生み出され、身分や年齢によって髪の形が変わると言われている。(46)日本髪は髷の美しさが取り上げられることが多いが、実は日本髪の美学には、直毛の特徴を生かし、黒髪をいかに瑞々しく流れるように見せるかが問題で、本当の美しさは、美しい毛筋とその流し方にあるとも言われている。(47)それは日本髪の髪結い師の道具を見ても明らかである。とかし櫛、鬢出し櫛、月型筋立、抜歯毛筋、鬼歯筋立など日本髪を構成する各部分の毛筋を最大限に美しく引き出すための道具が使用されている。清方の作品を見て行くと、日本髪の毛筋をしっかりと描いている作品を多く見つけることが出来る。(48)日本髪だけでなく、垂髪、束髪、洋髪などでも整った毛筋と美しい流れを描いていることが多い。当時、女性の髪の毛筋をきちんと描く画家が減っていく傾向があったが、清方は、日本女性の髪の美しさを毛筋の流れに認めてきちんと描くように意識していたと考えられる。
文集の中で、清方が10 代の頃、桂舟や永洗の書がみられる雑誌を写していたと述べている。清方が、この時のものを取り出して見てみると、拡大鏡を使っても髪の毛筋が分かりにくいのに、彫り師はよく彫れるものだと感心していた。(49)清方は、書を写す際にも、こうした拡大鏡で見なければ分からないほどの毛筋を細かく写すほど関心を持っていたことが分かる。また、伊藤晴雨という画家が、鏑木清方が描く女の髪について、興味深い文章を残している。伊藤晴雨のいわゆるあぶな絵には、いたるところに乱れ髪の女が描かれている。晴雨は、何かの暴力によって乱された女の髪に強く関心があったと言われている。晴雨は、文集の中で他の画家についてほとんど触れることはなかった。しかし、『現在の画家で満足に島田髷の美人を画き得る人は、清方、深水二人位なもので、その他の人々は毛筋が通って居ない日本髪を描いて居る』(50)と清方の作品について述べている。女の髪に異様なほどの執着を示していた晴雨が清方の描く髪の毛筋が美しさを認めている。
清方は、このように毛筋が通った女の髪を描くことが多かったが、<妖魚>では乱れ髪の人魚を描いていることは興味深い。おそらく、乱れ髪に関しても高い関心を持っていたのではないかと考えている。近世以降の日本では、幽霊の態を見ると、乱れ髪はそれの図像的共通点となっていると言われている。これは日本幽霊譚の根幹に「呪物としての髪」がかかわっているからだと言われている。(51)􀀂􀀂􀀂鏑木清方も、呪物としての髪にも関心を持ち、文章として書き残している。
清方は鏡花に誘われて、醫王山神武寺へ行った時のことを文章に残している。そこで二人は、古びたお堂の木蓮格子に無数に女の髪の毛の束と絵馬が吊るされている様子を目にした。清方は、この時に見た光景について、『木連格子に、何んの祈願か女の髪を髻から切り取ったのだ、数知れない絵馬に添えてそこら中に結ひ下げられてある。』(52)と書き残している。醫王山神武寺のご住職にこの髪の意味を尋ねた所、昭和30(1955)年頃まで絵馬に髪の毛を添えて祈願をするといった習慣があり、強い願いや思いを持った時には、命の代わりに髪を切り離して祈願をしていたと当時のことを思い出されていた。人間の髪は、人と物の間の中間的な存在で、そこには神秘的な力が入り込みやすいと言われている。さらに、髪が人間の生活に不可思議な効力を及ぼすと考えられ、髪を神そのものとみなすようになったと言われている。(53)こうした思考が、女の髪を祈願のために絵馬に添えるなどの行為を生んで行くと考えられている。また、清方は、夏のある日、堀の菱藻が刈り取られてそこら一面に散乱していた光景を見たことについても取り上げている。その時の光景を『濡髪の縺れたような根元に薄黄緑の菱の実を見付ける。(中略)不気味なぬめりに手の汚れるのを厭はず、剥ぎ取って、その硬い皮をナイフで刳り、白い実を取り出して齧って見たら生栗の味によく似ていた。』(54)と残している。菱は池や沼で自生する水生植物で、根元には黒光りした長い女の髪のような根が絡みついている。それを手で剥ぎ取り食べるといった光景は、気味の悪い光景である。清方は、菱の根を濡れ髪のもつれたものと例えたが、その菱の実を口に含み味わう行為は、男が女の髪を口に含むフェティシスティックな嗜好をも連想させる。
清方文集に残された言葉から、清方は、女の髪に対するフェティシスティックな嗜好や女性の黒髪の呪術性、生命力、神秘性に対する関心などを読み取ることが出来る。このような関心と前述したような女性像が重なりあったことが、清方が<妖魚>を乱れ髪で描いた理由のひとつではないかと考えている。
清方の<妖魚>は、シュナイダーの<アスタルテ>に、泉鏡花の作品に見られる母性と魔性の両義性を持つという点に共通点を見出し、魚を持つポーズを手本にしたと前述した。清方は、<妖魚>に母性と魔性を併せ持った女性像を見出し、その人魚を乱れ髪で描いている。清方は、女の黒髪に対してフェティシスティックな嗜好や女性の黒髪が持っている呪術力などへの関心を持っていた。このような関心と<妖魚>の魔性の性質とが重なりあったこと、乱れ髪の人魚を描いたことは無関係ではないと考えている。
世紀末絵画では、ファム・ファタルと呼ばれる女性像が頻繁に題材として描かれていた。『19 世紀美術では長い髪はフェティシズムの対象となっている。そしてこの世紀のファム・ファタルたちのふさふさした髪の毛は持ち主の装飾であるとともにその最大の武器でもあったようだ。』(55)ケネス・クラークの言葉のようにファム・ファタルと呼ばれている女性像は、うねる髪、乱れ髪、からみつく髪、赤毛などで描かれ、その髪は、この女性像の魅力や神秘的な力や呪縛力などを象徴するものとされていた。また、世紀末独特の髪の象徴学を確立した画家も、髪にフェティシスティックな執着、髪と人間との間の神秘的な関係に関心を持っていた。『世紀末において女性の髪は魂の宿る場所として扱われていた。さらに、肉体と霊界をつなぐ、魔術的な力を秘めた媒質としての意味を持たされていた。』(56)とユン・サンイン氏は述べている。
改めて、清方の<妖魚>と世紀末絵画とを見比べてみると、画家の女の髪へのフェティシスティックな執着や髪と人間の神秘的な関係への関心、母性と魔性を併せ持った女性を主題として描いていることや魔性の性質を持った女性を乱れ髪で描いていることなどを世紀末絵画との近似点として挙げることが出来る。 
水の女
清方は、文展、帝展のマンネリ化に対する批判的な感情、スランプのような制作に対する迷いがあった。尊敬する画家である松園がおもいきった前進を見せた姿勢に刺激され、清方も迷いを脱するために普段描かないような<妖魚>を描くことにより前進を試みたと前述した。<妖魚>に描かれている人魚の女性像と髪の象徴性を中心に見て行くことで、世紀末絵画に近似した具体的な特徴を挙げることが出来た。しかし、清方は、ファム・ファタルと呼ばれている女性像は好みでないと述べていることや世紀末絵画との具体的な影響関係を明らかに出来なかったことなどから、本稿で挙げた世紀末絵画との近似が何を受け継ぐものなのかを明らかにすることが出来ない。しかし、この近似は世紀末絵画とまったく接触をもたなかったとは考えにくい。そこで、清方の文集、作品などを参考にし、前述したような近似が何に由来するものなのかを考察したい。
清方文集を読み進めると、日本髪の「丸髷」を繰り返し取り上げている。当時の文学作品の中では、丸髷は、古風で野暮な主婦の風俗として取り上げられ、滑稽化、冷笑化されることが多かった。清方は、この髪型を主婦の風俗として取り上げても、野暮なものとしては扱っていない。美女を思い浮かべる際に、丸髷姿の女性を挙げているため、この髷を結っている女性を特別なものと考えていたことが分かる。興味深いことに、清方は、湯上りまたは入浴中の丸髷の美女の美しさを語る際に、ニンフや人魚に例えることがあった。(57)清方は水分を多く含んだ水がしたたるような丸髷を結う美女を見ると幻想的な想像を膨らませずにはいられなかったようだ。また、築地川にかかる幽霊橋で冬に若い芸者が身を投げて死んだ話を取り上げている。その話を聞いた後、清方は夜に幽霊橋へ行ってまっくらな川の水を前にその芸者の亡魂を弔ったと文集に残している。(58)以上のような光景は、清方が日常の生活の中で出会ったり、見つけたりするものであった。清方が日常の生活の中でこのようなものに関心を持っていたことは興味深い。ここからは、濡髪の女に対する幻想的な憧れ、水死した美女に対する関心などを読み取ることが出来る。
世紀末絵画では、水の女というモティーフが頻繁に描かれるようになると言われている。水は、古来よりあらゆる生命の源とされ、地母神のシンボルであった。また、すべてを包み込むように柔軟であると同時にすべてを呑み込んでしまう危険な存在でもあった。(59)世紀末において、こうした水の特徴と女が結び付けられることにより、水の女が絵画や文学に頻繁に描かれるようになった。『ボッティチェリ風の溺死の女は、髪も衣服も水の流れにゆだねているし、ロセッティはテニスンの「シャーロット婦人」の挿絵を、まがまがしくしかも甘美なアラベスクで飾ったが、こういうものは、40 年後にも「死都ブリュージュ」の運河をのぞきこめば、水底に透けて見えるだろう。水をとおして見られた女、キマイラよりもセイレーンというべき女もまた、絵画ばかりでなくて文学にも、しばしば姿を見せる。』(60)と語ったのはフィリップ・ジュリアンである。ミレーの<オフィーリア>は、髪も衣服も水の流れにゆだねた水死する水の女として描かれた。オフィーリアの水死は、同時代の画家や小説家や詩人などに賛美され、題材として取り上げられることも多かった。また、フィリップ・ジュリアンの言葉にもあるように、19 世紀後半には、オフィーリアのような男性の犠牲となる悲しい運命の女だけでなく、男性を破滅へと追いやる捕食者のようなセイレーン、キルケ、ローレライなども頻繁に描かれるようになる。
清方の題材の傾向を見て行くと、「金色夜叉」の挿絵をはじめとして、<日高川>(明治39(1906) 年)、 < 黒髪>( 大正6(1917) 年)、<妖魚>など水と関わる女を頻繁に主題としている。また、鏑木清方は、明治30 年代、西洋雑誌や当時、洋書を中心に取り扱っていた丸善で購入した新着図書、カタログを買い漁ったり、それをアトリエに並べて参考にしていたりしたことが明らかになっている。実際に、ミレーの<オフィーリア>やシュトゥックの<マーメイド>などを目にしていたことが明らかになっている。ミレーの<オフィーリア>に関しては、お宮の死の姿にこの作品のオフィーリアの姿を読み取り全体的な構図を参考にしたと言われている。さらに、文集では、濡髪の女に対する幻想的な憧れや水死した美女への関心などを読み取ることが出来る。以上のことから、清方は、世紀末絵画に頻繁に見られる水の女のモティーフを知り、自分の関心と近いことを自覚していたと考えられる。清方は「金色夜叉」の挿絵を描く際に、ミレーの<オフィーリア>を思い浮かべながら制作したと述べており、お宮の姿にミレーの<オフィーリア>の姿を読み取り花束と共に波に髪を広げながら小川を漂う姿を参考にしたと前述した。清方作品に見られる水の女を主題とした作品には、水の女の主題への関心にミレーの<オフィーリア>などの具体的な接触が加わり、世紀末に流行した水の女のモティーフが底流していると言える。<妖魚>にこのような世紀末絵画に近似した点を見つけられるのは、清方作品に見られる水の女を主題とした作品には、ミレーの<オフィーリア>に続く世紀末に流行した水の女のモティーフが底流していることと無関係ではないと考えている。 

(1) 茂木博・<−鏑木清方と西洋美術−試論的仮説>(平成5 年・「造形学研究」第2 号)
(2) 中谷伸生・<−鏑木清方の評価をめぐって−大正期の実験模索から昭和へ>(平成8 年3 月28 日・「関西大学文学論集」第45
(3) 『帝展の運営にばかり気を取られて制作には一向気が向かなかつたようである。一回には出品の構想も無く、二回には人魚を扱った失敗作を出している。人魚の伝説に格別の知識はないが、黒い髪に白い膚。下半身が魚體になつて、海中に尾鰭を動かす。鏡花文学を愛好する一書家が、これを選ぶに不思議は無い。さうでなくてもいつ頃からかかうした幻想は多くの人の心を捉へた。寛政の昔に山東京傳は黄表紙に「面屋人魚箱入娘」の戯作もある。私の書いたのはそんなしゃれつけもなく、むしろグロテスクに属するのだが、金鈴社時代から理解の深い「朝日」の春山武松さんからベックリンの模倣だときめつけられた。外国の絵に無関心なわけではなく、實は「黒髪」もルノアールに示唆を受けている。だがベックリンの人魚は耳には聞いているがまだどんな複製も見ていない。』鏑木清方「続こしかたの記」( 昭和42年9月30 日・中央公論美術出版・109 頁14 行)
(4) 世紀末絵画に描かれたファムファタルと呼ばれる女性像、髪の象徴性については、高橋裕子・「世紀末の赤毛連盟」(平成8 年3 月8 日・岩波書店)、伊藤俊治・「マジカルヘアー」(昭和60 年12 月20 日・株式会社CROSS)、ブラム・ダイクストラ「倒錯の偶像 世紀末幻想としての女性悪」(平成6 年4 月25 日・株式会社パピルス)、ハンス・H・ハーフシュテッター・「象徴主義と世紀末芸術」(昭和56 年7 月30 日・美術出版社)などで詳しく考察されている。
(5) 『第八章「咄嗟の遅れを天に叫び、地に喚き」から「緑樹陰愁ひ、潺湲聲咽びて、浅瀬に繋れる宮がよ」まで、文字にして二百字あまり、試験前の学生のように、築地川の川縁を往きつ戻りつ繰り返しては諳んじた。何かで見たオフェリアの水に泛ぶ潔い屍を波紋のうちに描きながら。』鏑木清方・「こしかたの記」・(昭和36 年4月・中央公論美術出版・223 頁11 行)『当時自分は何うかした拍子にミレのオフェリアの書を見て、それを非常に崇拝でもして居たものか、頻りに頭に残って居た頃であった。』鏑木清方・<−お宮の顔−>(大正2 年・「現代」・現代社発行)
(6) ユン・サンイン・<−乱れ髪の美学−描かれた世紀末美人像>(昭和62 年9 月・「太陽」No 311)
(7) 鏑木清方・「鏑木清方文集7 巻書壇時事」(昭和55 年6月20 日・白凰社・51 頁1 行)
(8) 『紅葉先生は、一冊の文芸倶楽部の古本を携へて居られた様に記憶する。その口絵の中から徳島の芸妓『紫屋雪松』と云ふのを指摘して、『お宮』の顔は何うか斯んな様に願い度いと注文しられた。伴し、『雪松』の顔と云ふのは寧ろ餘程楽天的で、誰が考へもそれが直接に『お宮』のモデルになり得相ではなかった。そこで、紅葉先生は更に當時新橋で三橋で三嬌の一と称された『おえん』と云ふ芸妓の顔を指摘した。そして此の女の眉と眼とを雪松の顔に加味して貰ったら如何でせうと云ふ事であった』鏑木清方・<−お宮の顔−>(大正2年・「現代」・現代社発行)* 多喜田昌裕氏(徳島県郷土史家)のご協力により、文芸倶楽部に掲載され、紅葉と清方が見ていた可能性が高いとされている『雪松』と『おえん』の写真複写をご提供いただくことができました。
(9) (5)に同じ
(10) ブラム・ダイクストラ「倒錯の偶像 世紀末幻想としての女性悪」(平成6 年4 月25 日・株式会社パピルス・89-91 頁)
(11) 堀切直人・<−オフィーリアの幻影−ラファエル前派の日本への影響>(昭和50 年5 月・「芸術生活」)
(12) 管聡子・<−第5 章百合とダイアモンド−『金色夜叉』の夢>(平成13 年10 月25 日・「メディアの時代・明治文学をめぐる状況」)
(13) (2)に同じ
(14)(15) 根崎光男・<−金鈴社考−>・(平成7 年・「開館10 周年記念 大正期の日本画 金鈴社の五人展」練馬区立美術館)
(16) (2)に同じ
(17) 鶴田汀・<−文展と美人画−>・(「美人画の誕生展」山種美術館)
(18) 上村松園・「青眉抄」(平成7 年10 月16 日・株式会社求龍堂・123 頁1 行)
(19) 伊藤たまき・<−上村松園<焔>について−>(平成15 年・「芸術学研究」No 7)
(20) 鏑木清方・「鏑木清方全集3 巻先人後人」(昭和55 年6 月20 日・白凰社・65 頁11 行)
(21) 鏑木清方・「鏑木清方全集3 巻先人後人」(昭和55 年6 月20 日・白凰社・86 頁6 行)
(22) 鏑木清方・「鏑木清方全集3 巻先人後人」(昭和55 年6 月20 日・白凰社・86 頁9 行)
(23) ONE HUNDRED MASTERS OF THE PRESENT DAY:Example of Contemporary German Painting in Coloured Reproduction with Explanatory Text , GOWANS & GRAY,LTD . 1904.
(24) 柏木智雄・「鏑木清方画集」(平成10 年8 月31 日・株式会社ビジョン企画出版社・359 頁14 行)
(25) アステルテについて参考にした著書:S・H・フック・「オリエント神話と聖書」(昭和42 年5 月8 日)、ション・グレイ「オリエント神話」(平成5 年8 月25 日・青土社)。
(26) アト・ド・フリース・「イメージ・シンボル事典」(昭和59 年・大修館書店・245 頁)
(27) 若桑みどり・「象徴としての女性像」(平成12 年・筑摩書房・44 頁)
(28) (26)に同じ
(29) 『この屏風は今からふた昔ばかり前の帝展へ出したので、青磁色のぬるりとした岩の上に、黒い髪白い肌の人魚がのしかかるようにして綺麗な小魚を弄んでいるところをかいたのだが、その後かういふ書材への興味もうすれ、従って見る気もしないで、納戸の奥へ蔵つたなり、56 年前の大掃除に一度出したきりだつたが、この冬の北風凌ぎにと取り出してあつたのを、遇々かり寝の床に沁々眺めることになつた。』鏑木清方・「鏑木清方全集8 巻随時随感」(昭和55 年6月20 日・白凰社・255 頁)
(30) 杉本秀子・<明治期のイギリス美術紹介−青木を焦点とする−> P180
(31) 谷田博幸・「ロセッティ ラファエル前派を超えて」(平成5 年・平凡社・320 頁)
(32) 池田美紀子・<−漱石と世紀末の女性たち−ヒロインの肖像>(平成2 年6 月・「比較文学研究」57 巻)
(33) 鏑木清方・「鏑木清方全集1 巻制作余談」(昭和55 年6 月20 日・白凰社・173 頁7 行)
(34) 三島由紀夫・渋沢龍彦・<−鏡花の魅力−>
(35) 吉村博任・「泉鏡花の世界」・(昭和58 年・牧野出版)
(36) (35)に同じ
(37) (35)に同じ
(38) 手塚昌行・<−清方描く「妖魚」の成立について−泉鏡花と「甲子夜話」>(平成1 年・「泉鏡花とその周辺」・武蔵野書房)
(39) (38)に同じ
(40) 谷田博幸・「ロセッティ ラファエル前派を超えて」(平成5 年・平凡社・249-271 頁)
(41) ユン・サンイン・「世紀末と漱石」(平成6 年・岩波書店)
(42) 『the mermaid stares at the human youth, who lies there on his arms towards her with hold desire. But it look as if the two would soon become more familiar.』 ONE HUNDRED MASTERS OF THE PRESENT DAY: Example of Contemporary German Painting in Coloured Reproduction with Explanatory Text , GOWANS & GRAY,LTD . 1904.
(43) 『その昔のセダ・バラ、次いでポーラ・ネグり、ああいふタイプの女性はどっちかと云へば、日本向きではないので、毒婦とか悪婆とか、むかしからさういした好みのものはあるにはあっても、熊坂お長、姐己のお百、それらのそこか、すっきりとしたものを感じる。悪まで毒々しくといふわけには行かない。古くは蒲田にある五月信子、今新興にいる鈴木澄子、それらはヴァンプ役者として定評のあるものだが、セダ・バラやネグリとの差に、あちら好みとこつち好みとの差のあることは否めない。(中略)友人松岡映丘は、ブリギッテ・ヘルムを絶稱している、『妖女アラウネ』から『熱砂の女王』に至るまで、あの冷たい鋼鐵のやうな美、触れば指が凍りそうな、これは私の全き好みではない』鏑木清方・「鏑木清方全集6 巻時粧風俗」(昭和55 年6月20 日・白凰社・94 頁9 行)
(44) 伊藤俊治・「マジカルヘアー」(昭和60 年12 月20 日・株式会社ACROSS・180-190 頁)
(45) (3)に同じ
(46) 橋本澄子・「日本の髪形と髪飾りの歴史」(平成7 年・源流社・61 頁)
(47) 伊藤俊治・「マジカルヘアー」(昭和60 年12 月20 日・株式会社ACROSS・144 頁)
(48) 「美容理論」(平成8 年・社団法人日本理容美容教育センター・200 頁)
(49) 鏑木清方・「こしかたの記」(昭和36 年・中央公論美術出版・127 頁)
(50) 伊藤晴雨・「伊藤晴雨自画自伝」(平成15 年・新潮社・46 頁)
(51) 東雅夫・「妖髪鬼談」(平成7 年・桜桃書房・176-279 頁)
(52) 鏑木清方・「こしかたの記」(昭和36 年・中央公論美術出版・199 頁)
(53) 伊藤俊治・「マジカルヘアー」(昭和60 年12 月20 日・株式会社ACROSS・80-84 頁)
(54) 鏑木清方・「こしかたの記」(昭和36 年・中央公論美術出版・95 頁)
(55) ケネス・クラーク・「名画とは何か」(昭和60 年・白水社)
(56) ユン・サンイン・<−乱れ髪の美学−描かれた世紀末美人像>(昭和62 年9 月・「太陽」No 311・85 頁)
(57) 『きのふの夜なかから降り出したのが、もうかれこれ書近くなろうというのにまだなかなか止みそうもない。雲母地へ銀砂子をまいたように川づら一ぱいに初夏の雨。その頃はまだ向島が花の名所として幅を利かしていた時分。葉桜の影こまやかに茂ったのが、色も分たず低い山とも、として長蛇のうねり、光る水の面に浮かんで見える。晴れた日の夕方などには面白いように帆をかけた船の続く川筋も、こんな日には鳥影一つなく、竹屋を突っ切る渡し船も乗り手がないか姿を見せぬ。腰一枚を艶消しにした硝子戸、湯気がこもるので六七寸あけてある。5 月5 日、菖蒲湯を立てた檜の角風呂に漬かったままで、つややかな丸髷、水色の手柄、白地へ紺で花菱の模様のある手ぬぐいが湯に浮く草の葉隠れに、きめの細かい肌に連れてひたひたと音を立てる。廂をつたう雨と和して若葉時のほとしほ静かな湯殿の中、女は美しく屈託なく、真書を湯浴みの楽な境遇、さはれ圍はれ女のけふありてあす知らぬ上も考へぬか、はた考へたとて何となる身とのはかない諦めか、日々に見慣れた川の眺めも、殊更なる雨のけしき、うつとりと見入って我を忘れた風情。――中略―― 湯が見えぬまでに浮かせてある紅さした菖蒲の根や、緑色濃い葉につつまれていた女は、さつと湯の雫を切つてからさを押す、とそれは沼のニンフが水草の中から姿を現したもののようにも見える。肩、二の腕あたり、真っ白い肌へ菖蒲の葉がべつたりとついたのを、気味わるいもののように華奢な指先にそつとつまんで流しへ棄てた』)鏑木清方・「鏑木清方全集4」(昭和55 年6 月20日・白凰社・74 頁)
『久しい前、ある夏の夜に、上野の山下で、麦藁帽の男と連れ立った、つややかな丸髷に、襟足の夜目にも白く匂ふ若い人妻が浴衣姿のなめらかな裾捌き、波のしぶきに躍る鮮らけき魚の肌とも見えて、木下闇にかくれゆくうしろ姿は、星の夜に陸に上がった人魚にやうなと見送った。』鏑木清方・「鏑木清方全集6」(昭和55年6 月20 日・白凰社・90 頁)
(58) 鏑木清方・「鏑木清方全集2 明治追懐」(昭和55 年6月20 日・白凰社・61-63 頁)
(59) 高橋裕子・「世紀末の赤毛連盟」(平成8 年3 月8 日・岩波書店・144 頁)
(60) フィリップ・ジュリアン・「世紀末の夢」(昭和57 年・白水社・49 頁7 行)
(付録)
岩見哲夫助教授(東京家政学院大学)のご協力により、清方の<妖魚>が持つ魚の種類の特定をすることが出来ました。魚の姿は手で隠されていて、ほとんど見えていないが、緑と赤の色が混在している尾が見えている。そこから、この魚がベラの仲間であることが分かる。また、いくつかの点から考えていくと、種類も特定する事が出来る。緑をバックにして、尾の内側に赤い輪のような模様が入っている事、また、当時、特殊な種類の魚を手に入れることは難しいという事、この画家が東京に在住していて、本州中部付近で見ることが出来るという種類の魚である事などから、“ニシキベラ”、“キュウセンの雄”ではないかと考えることが出来る。また、作品の尾の模様を見ると、赤い輪のような模様が繋がっているように見える。この繋がったように見える輪は、ニシキベラの特徴である。そのため、ニシキベラである可能性の方が高いと考えられる。 
鏑木清方
(かぶらききよかた、明治11年-昭和47年[1878-1972] ) 明治〜昭和期の浮世絵師、日本画家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。近代日本の美人画家として上村松園、伊東深水と並び称せられる。作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。
清方は1878年、東京・神田に生まれた。本名は健一。父は条野採菊といい、山々亭有人と号した幕末の人情本作家であった。14歳の1891年(明治24年)、浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門した。翌年には日本中学をやめ、画業に専心している。17歳ころから清方の父親・採菊が経営していた「やまと新聞」に挿絵を描き始め、十代にしてすでにプロの挿絵画家として活躍していた。師である年方もまた「やまと新聞」に挿絵を描いており、年方が展覧会出品の作品制作に向かうにつれ、清方も21歳、明治31年(1898年)の第5回日本絵画協会展に初めて大作を出品した。以降、美人、風俗画家として活動を始めるが、青年期に泉鏡花と知り合い、その挿絵を描いたことや幼少時の環境からも終世、江戸情緒及び浮世絵の美とは離れることがなかった。
1901年(明治34年)には仲間の画家らと烏合会(うごうかい)を結成。このころから、「本絵」(「挿絵」に対する独立した絵画作品の意)の制作に本格的に取り組みはじめ、烏合会の展覧会がおもな発表場所となる。初期の代表作として『一葉女史の墓』(1902年)がある。少年期から樋口一葉を愛読した清方は、一葉の肖像や、一葉作品をモチーフにした作品をいくつか残している。その後1916年(大正5年)には吉川霊華(きっかわれいか)、平福百穂(ひらふくひゃくすい)らと金鈴会を結成するが、清方自身はこうした会派、党派的活動には関心があまりなかったようだ。1927年(昭和2年)、第2回帝展に出品した代表作『築地明石町』は帝国美術院賞を受賞。このころから大家としての評価が定まったが、清方はその後も「本絵」制作のかたわら挿絵画家としての活動も続け、泉鏡花の作品の挿絵も描いている。清方自身も文章をよくし、『こしかたの記』などいくつかの随筆集を残している。
第二次大戦の空襲で東京の自宅が焼け、終戦後の晩年は鎌倉に住んだ。関東大震災と第二次大戦による空襲という2つの災害によって、清方がこよなく愛した明治時代の古き良き東京の風景は消え去ってしまったが、彼は自分がこよなく愛した東京の下町風俗や当世風の美人を終生描き続けた。1944年(昭和19年)7月1日帝室技芸員となる。1954年(昭和29年)、文化勲章を受章。明治、大正、昭和を生き抜いた清方は1972年(昭和47年)、93歳で没した。晩年を過ごした鎌倉市雪ノ下の自宅跡には鎌倉市鏑木清方記念美術館が建てられている。墓所は台東区の谷中墓地。
挿絵画家出身で、浮世絵の流れもくむ清方の画風は、全体の画面構成などには浮世絵風の古風なところもあるが、人物の容貌だけでなく内面の心理まで描き尽くす描写には高い技量と近代性、芸術性が見られる。重要文化財指定の『三遊亭円朝像』(1930年・昭和5年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像であるが、代表作の一つに数えられている。清方の門人は数多く明治30年に入門した門井掬水を筆頭に、林緑水、石井滴水、西田青坡、伊東深水、山川秀峰、寺島紫明、笠松紫浪、柿内青葉、川瀬巴水、小早川清、鳥居言人、古屋台軒、北川一雄らがいた。 
 
浪漫主義作家の面目を新たに

 

泉鏡花の文学は明治期に一応の完成をみた、といわれる。たしかに、明治二十五年のデビュー作「冠(かんむり)弥左衛門(やざえもん)」以来、若い世代の絶大な人気を得て流行作家となり、次々と書き継いだ「外科室(げかしつ)」「照葉狂言(てりはきょうげん)」「義血?血(ぎけつきょうけつ)」「化鳥(けちょう)」「高野聖(こうやひじり)」「風流線(ふうりゅせん)」「婦系図(おんなけいず)」など、よく知られる代表作は、ほゞ明治期に集中している。どれも、独特の幻想美と反骨のロマンチシズムで貫かれ、鏡花ならではの文学世界へと今も読者の心を引き込んでゆくものばかりだと思う。
しかし、師・尾崎紅葉の死(明治三六)以後、自然主義文学の台頭につれて、古いタイプの戯作者、硯友社の生き残りと目された鏡花は、文壇の片隅に追いやられた形となり、体調を崩して明治三十八年から足掛け五年間を、相州・逗子に流謫者めいた日々を過ごさざるを得なかった。その間も「春昼(しゅんちゅう)」「春昼後刻(しゅんちゅうごこく)」「草迷宮(くさめいきゅう)」など、本来の作風を一層深くした作品をのこし、明治末期には花街の人情世界「白鷺(しらさぎ)」「歌行燈(うたあんどん)」の傑作を書くも、自然主義系からは所詮、通俗小説との低い評価しか得られぬまゝに推移していったのだった。
明治六年生れの鏡花は大正元年には、まだ数え四十歳。この時期、自然主義主流とはいえ、一方で、どの流派にも括れない鏡花の才能を高く評価し支持する人も少なくなかった。
評論家・田岡嶺雲は「鏡花は独り怪誕の叙事を実有らしく感ぜしむるの手腕あるのみならず、却て又現実なる卑俗なる事実をも、詩的に神秘的に描写するの手腕を有す。」(「鏡花の近業」)と、自然主義作家には不可能な、奇跡のような鏡花の文章(表現力)だと絶賛した。
また芥川龍之介は「先生の作品は、?殊に先生の長編は大抵或議論を含んでゐる。「風流線(ふうりゅうせん)」、「通夜物語(つやものがたり)」、「婦系図(おんなけいず)」、?篇々皆然りと言つても好い。その又議論は大部分詩的正義に立つた倫理観である。(略)僕の信ずる所によれば、この倫理観は先生の作品を全硯友社の現実主義的作品の外に立たせるものである。のみならず又硯友社以後の自然主義的作品の外にも立たせるものである。(略)」(「『鏡花全集』に就いて」)と、中学生時代から愛読していた鏡花文学の特質と魅力を簡潔に述べている。
明治四十二年に朝日新聞に連載された「白鷺(しらさぎ)」は夏目漱石の推輓によるものであり、反自然主義の都会派「三田文学」を主宰する永井荷風も、同誌に鏡花作品「三味線(しゃみせん)堀(ぼり)」(明治四三)「朱日記(しゅにっき)」(明治四四)を掲載して厚意を寄せた。これらが端緒となって、大正時代は三田派の水上瀧太郎、久保田万太郎をはじめ、里見ク、谷崎潤一郎、佐藤春夫、芥川龍之介、画家の鏑木清方、小村雪岱、鰭崎英朋らが鏡花を熱心に支持し、結果的には鏡花復活へと導いたのだった。そのかぎりでは鏡花は一時代の流行に惑わされることはなかったと言えよう。
大正期には名作「日本橋(にほんばし)」(大正三)や「由縁(ゆかり)の女(おんな)」(大正八〜一〇)、「賣色鴨南蛮(ばいしょくかもなんばん)」(大正九)、「眉(まゆ)かくしの霊(れい)」(大正一三)と気を吐き、変わらぬ筆力を見せている。
また大正期のあらたな展開は、何といっても戯曲の制作の多いことがあげられよう。「紅玉(こうぎょく)」(大正元)、「夜叉(やしゃ)ヶ池(がいけ)」(大正二)、「恋女房(こいにょうぼう)」(大正二)、「湯島(ゆしま)の境内(けいだい)」(大正三)、「海神別荘(かいじんべっそう)」(大正三)、「天守物語(てんしゅものがたり)」(大正六)、「日(に)本橋(ほんばし)」(大正六)、「山吹(やまぶき)」(大正一二)、「戦国茶漬(せんごくちゃづけ)」(大正一五)など十一篇を数える。明治期の「婦系図」や「白鷺」などは他者の脚色による上演だったが、大正期は新劇の創作上演が一種のブームを迎えた時期と重なるように、鏡花自らが脚本を手掛け、時には演出もするなど、耽美主義の主張はいよいよ不変に、非日常の別世界へと観客を導く手腕を力強く印象づけた。
大正十二年九月一日に関東全域を襲った大震災の罹災記「露宿(ろしゅく)」(プラトン社月刊『女性』特集・十九氏による「文壇名家遭難記」中)では、幻想作家のルポルタージュとして思いがけない一面が発揮された。独特の流麗な文体の中に、実体験ならではの貴重な証言と人間観察を随所に織り込んで、人情家・鏡花らしい筆致は鴨長明の『方丈記』にも擬せられる。
大震災後、この年五十代を迎えた鏡花は「生涯の決算」を意識するように、帰郷の機会が増え、昭和期には故郷金沢に取材した作品の発表が目立っている。
大正期をしめくくる十四年七月、芥川龍之介の名文「目録開口」を得て『鏡花全集』全十五巻(春陽堂)の刊行開始。五月には、その予告を兼ねた『新小説』臨時増刊「天才泉鏡花」号が発行された。同時期の文芸座談会から、関係する話題発言を拾ってみよう。「新潮合評会」(『新潮』大正十四年五月号)から抜粋。当時の鏡花評の一端がうかがえる。
広津和郎 「鏡花全集の内容見本の序文は芥川かね。芥川の外に、あゝいふ文章を書く者は居ないと思ふのだが、尤も芥川と思って読んだ為かも解らんが。……誰も斯ういふ文章は書けないだらうと思ってさ。(略)」
徳田秋声 「泉君の読者といふのは、芸人の贔屓客みたやうなものだらう。」
宇野浩二 「芥川とか、水上瀧太郎とかいふチャンとした人がどういふ風な意味で鏡花に感心されるのか……」
徳田秋声 「一種の迷信的のもので、所請る“ひゐき”といふのだらうね。批判なしで心酔したといふやうにね」
中村武羅夫 「泉さんの作の好きな人は酔はされるのでせう。泉さんの作には」
徳田秋声 「酔はされはしないね」
千葉亀雄 「あの時代には酔はされました。(略) 僕らなどあの文章まで暗誦したものです」
宇野浩二 「まだ何も考への足らない文学青年なんかが見ると、何でも彼でもよいものに違ひないと思ひあやまりはしないか、(略) 文学の邪道には違ひないね」
徳田秋声 「しかし天才といへば天才だ。畸形的ではあるが」 
 
泉鏡花「夜叉ヶ池」を読む

 

1.はじめに
大正二年に発表された戯曲「夜叉ヶ池」は鏡花の代表的な幻想劇とされ、傑作の一つとして数えられているものである。
そのため、「夜叉ヶ池」研究は鏡花の戯曲創作の濫觴と目される「沈鐘」との受容関係や、前「天守物語」的な位置づけから出発し、その幻想性や、超自然的な存在との関わり、または神話的な構造の解明などに、今までの考察の焦点が置かれている。しかしながら、鏡花の婚姻制度への極度の反感、華族といった身分と当時の婚姻関係の実態などを合わせて考えてみると、晃と百合の夫婦像は極めて異色なものであり、そのまま看過されるべきものではない。
上記のことを踏まえながら本稿では、鏡花自身の婚姻観と大正初期の結婚事情及び家族の成立をめぐる諸問題を視座に据えたい。晃と百合の夫婦像に着目し、当時の社会的背景がどのように「夜叉ヶ池」における幻想的な世界観を構築する土台になり得るのかということに焦点を絞り、考察を試みる。 
2.1 「夜叉ヶ池」における琴弾谷の「危機」
「夜叉ヶ池」研究史を辿ると、「幻想劇」が一つのキーワードとして浮かび上がってくる。鏡花研究の先駆者村松定孝氏(『泉鏡花研究』、昭和49年8 月)は「沈鐘」の翻訳を基準として、「夜叉ヶ池」の評価を下している。それ以来、いわゆる魔界と人間界または現世との関わりなど、つまり幻想劇ならではのこのような構造と仕組みを解明することが「夜叉ヶ池」研究の焦点となっている。
例えば、笠原伸夫氏も早い時期(「天守物語の成立」、「国文学解釈と鑑賞」、昭和50 年9 月)に「夜叉ヶ池」、「海神別荘」そして「天守物語」など一連の戯曲を取上げ、鏡花の幻想劇の方法を考え、「夜叉ヶ池」の前「天守物語」的な位置づけを指摘している。
それに対して、杉本優氏(「泉鏡花の幻想劇――「夜叉ヶ池」の復権」、「国語と国文学」、昭和56年8 月)と、近年に森井マスミ氏(「「夜叉ヶ池」再読」、『論集泉鏡花第五集』、和泉書院、平成23年9 月)が「夜叉ヶ池」の独自の達成点に着目し、前「天守物語」といった位置づけを覆して、新たな読みを提示した。しかし、風俗劇と対立する幻想劇とされているゆえ、「夜叉ヶ池」の幻想的な側面に常に考察の焦点が置かれる傾向が引継がれている。そのため、幻想性に偏る従来の考察では依然として解消のできない疑問が残っているのが現状である。
その疑問の一つは杉本氏が指摘した「恋人たちの隠された危機」という問題である。杉本氏によると、晃が東京に戻ってしまうという百合の不安は「恋人たちの隠された危機」を示唆するものである。この恋人たちの危機がまさに「夜叉ヶ池」の喪失寸前の伝説の危うさを象徴するかのように、破滅的な洪水の起爆剤となるわけだが1、なぜ恋人たちに危機が生ずるのかについては検証されていない。
それに対して、森井マスミ氏は杉本氏の「恋人たちの危機」説をうけながら、百合という人物に焦点を当てて分析を展開している。森井氏によると、百合は「「伝説」の機能を持続」させる役割を果たしている一方、「村人との関係に拘束されて」いて、「個人の愛を貫く」ことが出来ない両義的な存在である。その理由は、「現世の論理が魔界の論理を屈服させてしまっている」「夜叉ヶ池」というテクストの一大特徴にあるのだと森井氏が指摘している。つまり、「「夜叉ヶ池」の百合と晃が、鏡花作品の類型(森井氏によると「森に棲む魔界の女と地上の人間の恋」、引用者注)からはずれていることはあきらかである。そのため、「地上」の女でしかない百合の恋情には、「現世」の論理におびやかされた、脆弱さを指摘することができる」のだ。更に、森井氏はこうした現世の論理が優位であることと、「前近代的な地縁関係」が「百合の不安」すなわち「恋人たちの隠された危機」をもたらすものとして挙げた。「危機」を専ら百合の両義性によるものだとされているわけである。
しかし、「恋人たちの隠された危機」の理由を百合だけに求めることは、萩原晃という人物の存在を見逃してしまい、過小評価してしまう恐れがある。実際のところ、今までの研究において晃に焦点を当てるものはほぼ見当たらない。しかしながら、「恋人たちの危機」という「夜叉ヶ池」における起爆剤をもたらすものは、百合だけではなく晃の存在にも隠されているといえるはずである。
そもそもなぜ百合は晃と一緒に東京に戻る選択肢がないのか、つまりなぜ「晃が東京に戻ってしまう」ことが「恋人たちの危機」になり得るのか、その答えとしては、晃のただならぬ出身が想定できる。萩原晃が、「華胄の公子、三男ではあるが、伯爵の萩原」という家柄である。いわゆる起爆剤を作り上げた根本的なものは、まさにこのような晃と孤児百合の結びにあるようにいえる。
以下に、「恋人たちの隠された危機」の内実とは何物なのかについて、萩原晃という人物及び晃と百合二人の夫婦関係の異色さに焦点を当てながら、考察を試みる。 
2.2 談話「愛と婚姻」をめぐって
晃と百合は、「夜叉ヶ池」の冒頭のところから、結末の白雪の言葉まで、一貫して夫婦として描かれているように見える。従来の研究においても二人の関係が普通に夫婦として受け止められているが、晃の出身を考えれば二人の夫婦関係をそのまま字面通りに夫婦として読み取ってしまうと華族子弟なるものの特殊性を見逃してしまうことになる。また、夫婦に対する鏡花の考え方が極めて特色のあるものであることも無視できない。
夫婦、または婚姻に対する鏡花の考え方を言及する時、明治二十八年雑誌「太陽」に発表された談話「愛と婚姻」はよく取り上げられる材料である。「愛と婚姻」では、鏡花が婚姻制度を嫌がる理由は、「社会の婚姻は、愛を束縛して、制圧して、自由を剥奪せむがために造られたる、残絶、酷絶の刑法なりとす」にある。個人の愛に忠実し、純粋たるものであれば、たとえ婚姻制度の枠の外にある「情死、駈落」でも、鏡花は受け入れるという。しかし、社会のため、他人のために作り上げた婚姻は、単なる自由なる愛を束縛するもののほか何もないことを、鏡花は強く主張した。婚姻そのものに疑問を投げかけた鏡花は、「愛と婚姻」を通して、婚姻は国家、親類などいわゆる「社会」のための産物であると規定し、本当の愛を束縛するものだと持論を展開する。婚姻を「酷絶の刑法」にさせてしまう「社会」なるものの内訳とは、「国、親、家、朋友、親属」に対する義務や責任、または孝道などであると、「愛と婚姻」を通して鏡花は主張したのである。2 
3. 大正期の結婚事情と家族力学
鏡花の婚姻に対する考え方を「愛と婚姻」を通して確認できるが、このような独特の考え方がどのように「夜叉ヶ池」における晃と百合の夫婦関係と関わるのだろうか、本文にそって検証していきたい。
学円が初めて二人は夫婦であることを知ったのは、彼が琴弾谷に訪れてやっと行方不明になっていた親友晃と対面できた場面である。そこで、学円は「何は、お里方、親御、御兄弟は?」と、百合の家族のことを聞く。この行動の動機については、二つの理由が想像できる。一つ目は、当時夫婦になること、つまり結婚になることは、親の意向に従うのが一般的であることである。そして二つ目は、華族子弟としての晃のことであろう。
湯沢雍彦氏は『大正期の家族問題――自由と抑圧に生きた人びと――』(ミネルヴァ書房、平成22 年5 月)において、「夜叉ヶ池」が発表された時、日本社会における結婚の実態について次の見解を示している。
しかし、デモクラシーによる新しい結婚観が声高に叫ばれていても、実際には恋愛による結婚は乏しい時代であった。階層の上下を問わず、異性との出会いの機会は乏しかったし、自分で相手を決めるのは犬畜生と同じで穢らわしいことと否定する空気も強く、親の意向に無条件に従うことが美徳との思いが強かったからである。3
つまり大正中期になっても「親の意向に従う結婚」が最も主流なものだということが分かる。そうすると、孤児百合の叔父鹿見宅膳は即ち晃と百合の夫婦関係の成立に大きな影を落とす存在になる。事実上、姪の結婚事情について、生殺与奪の権利を叔父に与えている事例は鏡花の過去の作品に既に存在している。また、湯沢氏は国勢調査の資料をもとに、大正九年では婚姻届出の数字は事実上の夫婦の数と乖離していることをも指摘している。「簡単に同棲生活に入った男女もあるが、多くは結婚式を挙げ親族や近隣社会に夫婦として認められた男女の方が多かったであろう」と湯沢は述べている。これは、いわば「夜叉ヶ池」の当時の一般的な夫婦の形であったともいえる。これらのことを踏まえて、晃と百合の夫婦関係を従来の研究通りに、普通に夫婦として扱っていいものなのかは疑問を禁じえない。
二人の夫婦関係の異質さを物語っている場面というと、宅膳が百合を捕まえて雨乞いの儀式を行おうとしている場面と、それに続く晃が百合を助けるために宅膳を始め村人たちと争う場面が特に象徴的である。そこには、宅膳そして村人たちの晃に対する微妙な扱いが浮かび上がる。明治民法、または家父長制によると、夫である晃は百合を財産視する資格が保証されているにもかかわらず、村人も宅膳もほぼ「百合は俺の家内」という晃の主張を無視しているようにみえる。無論、華族という身分を伏せた晃と、孤児とも言える百合が正式的に婚姻届を出すわけではない。それだけでなく、むしろ届出ない方が当時では自然である。しかし、旦那の帰りを待つようにと懇願する百合に、宅膳は「またしても旦那様じゃ。晃、晃と呆れた奴めが」という言葉で交わす。一見、二人の夫婦関係を認めるように見えるだが、そこにはむしろ百合のいう「旦那」といった言葉に対して、冷ややかに嘲る態度としても捉えられる。
同じ場面で、晃の「俺の家内」という主張にたいして、宅膳と村人は「村のもの」と「私が姪」で反撃を行う。父兄の承認をもらえない百合と家柄を伏せて暮らす晃は婚姻届出はおろか、「結婚式を挙げ親族や近隣社会に夫婦として認められた男女」という当時では一般的だと考えられている夫婦の形にも当てはまらない。二人は夫婦の枠組みで収容できない特異な夫婦だと言えよう。
そんな中、このような夫婦を夫婦として呼ぶものは、二人の味方である学円と結末部の白雪しかいない。このことは、いわば「社会」、または現世において二人の夫婦関係の基盤がいかに脆いものなのかを意味するものとして読み取れる。 
4. 家を捨てる華族――萩原晃
異質な夫婦関係を構築してしまう根本的な理由の一つとして、晃がいわゆる華族階級に属することが挙げられる。華族というものは即ち1884年華族令によって旧諸侯、旧公卿、または国家に勲功があった者に与えられた世襲の特殊階級のことを指している。小田部雄次は、『華族―近代日本貴族の虚像と実像』(中央公論新社、平成18 年3月)において、
同時に、華族は「皇室の藩屏」として規定されることで、天皇の近臣となり、かつ士族、平民に優越する上層の国民階級となったのである。また、華族は婚姻関係によって皇室との結びつきを強くしていく。
と述べている。華族は、いわば明治維新後、封建的な「家」が近代家族へと次第に変貌していく中、ごく稀な伝統的、封建的な「家」を大事に継続させようとする階級といえるであろう。
一方、このような華族階級は様々な特権を享けながら、制限も少なくない。華族階級には華族令において、明確に義務として負わせるものがいくつかある。酒巻芳男氏の『家族制度の研究――在りし日の華族制度――』(表現社、昭和62 年3 月)では、華族階級の義務がまとめられている。以下にこのような項目がある。
宮内大臣事前認許の願出 有爵者が婚姻、養子縁組、隠居、協議上の離婚若しくは離縁又は家督相続人の指定若しくはその取消を為さんとする時は裁判所に請求する以前に(略)、有爵者の家に入らんとする者の入籍に同意を為さんとする時は有爵者又は其の法定代理人は該同意を為す以前に、いづれも宮内大臣の認許を受けなければならない。之は将来有爵者になり、或いは礼遇を享くる者となり、襲爵者となる者を生ずるのであるから華族の監督上当然必要な制度である。
即ち、婚姻だけではなく、死亡または行方不明になる場合も宮内大臣に届出する義務が明記されている。この義務の目的は何かというと小田部氏(前掲書)は次のような見解を示している。「華族は、さまざまな特権や身分保証と引き替えに、皇室及び国家への忠誠を誓わされ、「皇室の藩屏」としての役割を担わされていく。それは皇族と華族、華族同士の婚姻関係を重ねることによって、より強固になると思われていた」。規範を破る場合、爵位返上またはマスコミの絶好の獲物になってしまうことになる。これも、晃がかつらを被り、身を隠すことを選ぶ理由の一つであろう。
このように、「夜叉ヶ池」において、結末直前での学円による「種明かし」以前にも、家柄の重みは至る所に匂わせられている。例えば、学円が出会ったばかりの百合に、親友である晃の失踪事件を語る場面でいう、「一時は新聞沙汰、世間で豪い騒ぎした。……自殺か、怪我か、変死かと、果敢ない事に、寄ると触ると、袂を絞って言交わすぞ」は、まさにそうである。新聞沙汰になることは、晃の出自が普通でないことを仄めかすものである。一方、華族のスキャンダルはマスコミ、そして世間の注目を集めるものだという大正時代の風潮を連想させる。また、「親兄弟もある人物、出来る限り、手を尽くして探した」、「東京の君の内では親御はじめ」、「君の事で、多少、それは、寿命は縮められたか分からんが、皆先ず御無事じゃ」などのところから、晃がいかに家柄の重荷を背負っていることが窺え、その只ならぬ出自の匂いは早くからテクストに漂っていることがわかる。
「伯爵の萩原」である華族の晃、その失踪は「新聞沙汰」になるほどの話題性があるものだ。従って、親族の立場への学円の気遣いも理解できる。このように、話題性のある華族子弟である以上、晃と百合の結婚が公表にできないものになってしまうことも自然であろう。
作品の中にしばしば見られる、「鐘撞夫」や、「鐘撞弥太兵衛」などの自称が使い分けている場面もそのことを意味している。「萩原はいざ知らん、越前国三国ヶ嶽の麓、鹿見村琴弾谷の鐘楼守、百合の夫の二代の弥太兵衛は確かに信じる」という言葉通りに、晃は名前も、家も恋のために捨てることにした。晃は家、名前が象徴するいわば、「社会」なるものをすべて手放すことで、自由なる愛を手に入れようとする。「伯爵の三男萩原晃」から「鹿見村琴弾谷の鐘楼守、二代弥太兵衛」に切り替えることによって、晃は百合との間に横たわる「社会」という名目の障碍を乗りこえようとするのではないだろうか。
二人の夫婦関係は一見普通のようだが、実はさまざまの難関を越えなければ簡単に成立できないものである。辺鄙な山奥で生まれ育った百合は両親を失い、代理神官である叔父の宅膳に管理される境遇に陥るものである。そんな天涯孤独の小娘を東京に連れ戻ったとしても、華族子弟の結婚相手として相応しいと認められるとは到底思えない。現世における晃と百合の婚姻関係は身を隠しつつ、「琴弾谷」でのみかろうじて成立できるものなのだ。いわば、「恋人たちの危機」はもっぱら百合の不安によるものではなく、晃の存在そのものが琴弾谷での穏やかな暮らしを揺るがすものでありうるのである。
「夜叉ヶ池」で描かれている恋は、すべてをすてようとも成就したい、極端的に言うと「社会」に背反とも華族の逃避行とも捉えられるものではないだろうか。一見鴛鴦夫婦のように見える二人の夫婦関係は現代といった舞台設定では、一種の禁忌的恋愛にあたる。そして、晃のそのような姿勢も、鏡花の「愛と婚姻」にたいする持論と一致するものでもある。
最後になったが、「二代弥太兵衛」と名乗る晃が意味するもう一つのことを考えてみたい。大竹秀男は「日本近代化始動期の家族法―伝統的家族の動揺――」(『家族史研究』編集会『家族史研究 第4集』、大月書店、昭和56 年10 月)において、
家は祖先から子孫へ血統の連続により同一性を保持して永遠に存続する超世代的な存在であると観念されて(本稿においてはこの超世代的存在と観念された家を「いえ」と表現する)、「いえ」は同一の父系の血統に属する者により構築されるものであり、「いえ」の同一性は「いえ」を象徴する「家名」の維持によって保持されるものであり、職業及び財産、すなわち「家業」「家産」として祖先より子孫につたえられてゆくものであるという考え方が行われ、それが家族制度の基礎をなしたのである。
と述べている。
晃の「伯爵の三男」から「二代弥太兵衛」への変身は、いわば華族のこうした封建的、伝統的な「いえ」の概念から離脱して、琴弾谷の「家」へと移動することを意味しているように思える。萩原という「家名」放棄して二代弥太兵衛になり、「鐘撞き」という職をも引き受けることになる。まさに華族の家から離脱して、琴弾谷の「家」へと移動するわけである。
この移動によって、「いえ」の中核といえる「同一父系の血統」も否定されることになる。そもそも琴弾谷の「家」の特徴の一つはまさに、血のつながらない家族像だといえる。琴弾谷の家族構成といえば、中核になるのは夫婦である晃と百合であり、その元に太郎坊という人形の子供が存在している。其のほかには、「兄とおなじ人だ」として百合に紹介された学円と、経緯不明だが孤児の百合と一緒に生活している初代弥太兵衛がいる。そのいずれも事実上血がつながっていない。いわば極めて独特の家族像である。 
5. 終わりに
今回の発表では従来看過されている晃の存在に焦点をあてることで、「夜叉ヶ池」の幻想性の元に隠されている当時の社会環境と密接な部分を浮き彫りにさせることを試みた。
大正二年の戯曲である「夜叉ヶ池」の舞台は、山に隔離されている世界ではあるが、「高野聖」のような孤家ではなく、鹿見村という村社会に従属する現代である。そこには、家父長制もあり、華族令もあり、「国、親、家、朋友、親属」に対する義務、責任、または孝道などの束縛も存在している。「愛と婚姻」を通して、鏡花は「国、親、家、朋友、親属」のための婚姻に異論を唱えた。華族が背負う「皇室の藩屏」としての義務は、まさに、「愛と婚姻」で指す「社会」そのものであろう。
そこで、敢えて夫婦として造形されていく晃と百合の結婚は、「社会」を一切排除した、鏡花の理想的な夫婦の形といえる。晃と百合の関係について、従来の研究では殆ど字面通りに、そのまま夫婦として受け入れたのだが、「夜叉ヶ池」で描かれている夫婦はそうした夫婦と大きな違いが存在している。夫婦の枠組みで収容できない夫婦の形をかりて、鏡花は理想的な純粋な愛を敢えて描いた。
「社会」なるものに対する鏡花なりの抵抗、こうした側面は人間の葛藤と家柄という重荷を背負っている萩原晃を解読のコードにして読み解く場合にこそ初めて表面化することができた、もう一つの「夜叉ヶ池」の物語である。物語が幕を閉じる間際、「この新しい鐘ヶ淵は、ご夫婦の住居にしょう」と、白雪姫がいう。そして晃と百合は「顔を見合わせ筦爾と笑む」。愛が束縛され、自由になれない現世での夫婦を乗り越えて、晃と百合は魔界に移行して、「社会」なるものをすべて排除した形で愛で結ばれた夫婦として安住の地を手に入れたのだ。
現世での人間的葛藤と社会なるものの理不尽さは、やがて恋人たちの危機をもたらし、神話的な世界でしか存在していない幻想的大洪水の到来を予告している。そして、現世では死という悲劇を迎えた恋人は幻想的魔界では自由なる愛を獲得する。死は従ってもはや悲劇ではあるまい。「夜叉ヶ池」はこうした幻想劇でしか達成できない結末を有する一方、非幻想的現世の論理も強く機能している。「夜叉ヶ池」という作品における魔界と現世のバランスは、幻想劇の尺度だけでは計れないものだといえるだろう。 

1 「美しい情愛の倫理は、鐘の伝説にまとわれながら、この二つの世界を貫く軸となっている。(義理)であり(約束)である鐘の伝説は、こうした情愛の内実によって満たされてゆく。そして、恋人たちの危機というかたちでこの情愛の内実が飽和したとき、はじめて恐ろしい大洪水となって運命が起爆する結末部を迎えるのである」と、杉本氏は「夜叉ヶ池」における、この「危機」の働きを指摘している。
2 当然のことではあるが、鏡花このような「婚姻観」もさまざまな作品に深く投影されている。わずか一ヶ月後の「外科室」に描かれている医学士と伯爵夫人の愛はまさに一例である。「外科室」には、「其時の二人が状、恰も二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきが如くなりし」との言葉が見られる。「愛と婚姻」では、「自由なる愛」を束縛する婚姻を社会のためのものと定義し、その「社会」なるものを「国、親、家、朋友、親属」への義理や責任などと規定する。「外科室」における、医学士と伯爵夫人、二人の間に横たわる溝は、まさに「愛と婚姻」のいう「社会」と共通するものである。また、明治四十年に発表された「婦系図」も一例として挙げられる。この作品においては、「「人間性を無視した一家一門主義」との対決という反社会的主題をとおして、「愛と婚姻」のテーマを強調する」というところはすでに指摘されている。
3 同書では、「人口問題研究所の調査によると最も古い結婚動機の調査は昭和五〜十四年に結婚した夫婦についてのものだが、そのとき恋愛で結ばれたと答えた夫婦は十三%に過ぎなかった。いわんや、その二〇年前の大正中期では、恋愛は一〇%もなかったであろう」と指摘されている。 
 
「滝の白糸」 明治座

 

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泉鏡花の芝居と言うと・新派のイメージがしますが、実は新派で有名な「滝の白糸」・「婦系図」・「歌行燈」などは鏡花の小説を他人が脚色したもので、鏡花自身の筆になる脚本ではありません。どちらかと言えば鏡花オリジナル小説より・脚色芝居の方で鏡花のイメージが出来上がっているところがあるようです。
文学作品をそのまま芝居にするのはなかなか難しいことで、時系列を再構成したり・筋を刈り込んだり・原作にはない人物やエピソードを挿入しないと・うまく芝居にならないことが少なくありません。原作を知って芝居を見ると・原作との細かい相違が気になることはよくあることです。しかし、これはシュチュエーションを拝借した全然別の作品であると割り切った方がよろしいようです。 文学と芝居とはその得意とする分野(感性に訴える方向性)がまったく異なるからです。それにしても・芝居というものは観客の感性に視覚的に訴える要素が多いせいか、原作を活字で読むより受け取り方が情緒的に傾く ことが多いようです。逆に言えば良い芝居に仕立てるために・原作を情緒的に読み替える傾向が必然的に強くなるようです。このことを知って芝居を見れば、戯曲家が原作のどこに眼を付けたか・どの筋を膨らませたか・どこの筋を捨てたかが見えてきて、それ自体がそのまま原作の解釈にも批評にもなっているということです。
例えば「婦系図」と言えば湯島天神境内でのお蔦・主税の涙の別れが有名ですが、原作を読めばそもそも湯島の境内の場面が原作にないのです。「婦系図」は明治40年に発表された連載小説ですが、翌年に柳川春葉の脚色で新富座で上演されました。「新富座所感」において鏡花は作者として気に入らないところもないではないが・喜多村緑郎のお蔦は申し分なかったと書き、原作ではお蔦は脇役であるので・お蔦の件だけでは見せ場はなかろうと思ったら・舞台にかけると「まるでお蔦の芝居になったり」と褒めています。「切れるの分かれるのって、そんなことは芸者の時に云うものよ・・私にゃ死ねと云ってください」という有名な台詞はこの上演に時に柳川春葉によって付け加えられたもので、原作にはなかったものでした。逆に鏡花の方がこの舞台を気に入ってしまって、大正3年にお蔦・主税の別れを描いた「湯島の境内」を書いて・この台詞をお蔦に言わせているのですから、ややこしいことになります。いずれにせよピカレスク・ロマンの風のある原作が全然趣きの違うお蔦・主税の純愛物語になってしまうところが芝居というものの面白いところでもあり、観客を泣かせる勘所を心得ている戯曲家の目の付けどころとはこういうものかと思わせます。
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本稿では芝居の「滝の白糸」を取り上げます。原作は鏡花の最初期(明治29年)の小説「義血侠血」で・本作もすぐさま舞台化されました。しかし、舞台化されて・恐らく原作より も有名になってしまった「滝の白糸」は原作とはかなり印象を異とするものです。これも全然別の作品だと割り切ってしまえばまあそれはそれで良いことですが、文学作品の舞台化の典型として・「滝の白糸」を考えてみたいと思います。
まず原作「義血侠血」発表の経緯がややこしいので・ここに整理しておきます。「義血侠血」は最初に新聞発表された時は匿名で・単行本で出版された時には作者名・尾崎紅葉として世に出たものです。これは当時まだ無名であった鏡花の作品を師・紅葉が世に出すための処置であったようで、発表の際には紅葉がかなり加筆修正を施したようです。決定稿と鏡花の初稿には特に裁判の場面に大きな相違があります。決定稿では村越欣弥は検事代理であり・ 滝の白糸は再審となってその後死刑を宣告されますが、死刑宣告の後に欣弥は自宅で自殺するとなっています。初稿では村越欣弥は裁判長であり・弁護人から被告人との関係を指摘され忌避を 要求されると・証拠物件の包丁で我眼を潰し・こうして盲目になった以上は知己も親族も眼中にはないと決然と言い放ち・その上で被告を追及し・その場で死刑を言い渡すという筋であったようです。ちょっと想像もしたくないおぞましい光景で・リアリティにも欠けるところがあり、こ の場面を紅葉が修正した気持ちはよく分かります。しかし、この初稿の結末を知ると・これには最初期の鏡花の短編「夜行巡査」・「外科室」・「琵琶伝」など(これらはすべて明治29年発表)の結末とまったく同様の印象があって、良い悪いは別として・なるほど初稿の方がまことに鏡花らしいなあと思うところです。
「夜行巡査」・「外科室」などは発表当時の批評家に「観念小説」と言う呼ばれ方をされたもので した。観念小説というのは、現実をありのままに描くのではなく・多少シチュエーションとして極端なこともありますが・むしろその極端さを以って作者の思想信条なり問題意識なりを読み手に突きつけようとするものです。つまり、ある種の社会批判・道徳批判を含んだものと受け取られたわけです。例えば「夜行巡査」を見れば、主人公の八田巡査は規則を頑固に遵守して・人情味がまったくなく・周囲から嫌われている警察官ですが、自分の結婚に反対する恋人の叔父がお濠に落ちたのを救おうとして、恋人が制止するのも聞かず・お濠に飛び込んで死んでしまいます。主人公は泳ぎを知らぬのに・ほとんど自殺同然にお濠に飛び込んでしまうのです。鏡花は「夜行巡査」の最後を次のように締めています。
『後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称せり。ああ果たして仁なりや。しかも一人の渠(かれ)が残忍苛酷にして、怨すべき老車夫を懲罰し、憐れむべき母と子を厳責したりし尽瘁(じんすい)を讃嘆するもの無きはいかん』(「夜行巡査」)
これは結末の文を見れば・ 職務に異常なほど忠実な警察官を描くことで・社会批判の体裁を取っているようでもあり・確かに観念小説と呼ばれるのも分かる気 もします。しかし、後期の鏡花の作風を知ったうえで「夜行巡査」に読み直せば、本作はいかにも若書きの生硬さが目立ちますし・多少の力みも感じられるところがあるようで、吉之助はこの最後の一文がいかにも取ってつけた締め括りであるなあと感じます。これは筋の奇矯さを隠蔽するために・社会批判の常識を纏っているようにも思えます。吉之助はむしろ筋の奇矯さの方に鏡花の嗜好があるように思います。そちらの線がまっすぐに後期の鏡花の作風の方向に向かっていることを感じます。同時期の短編「外科室」や「琵琶伝」についても同様なことが言えると思います。
ですから当時の批評家が鏡花初期の作品を観念小説と位置付けたことはそれなりにその時代の真実があると言うべきですが、そこに鏡花の本質があるとは吉之助には思われないのです。鏡花自身は観念小説というレッテルを歯牙にもかけず、「勝手に言わせておけ」という態度であったようです。むしろ筋の奇矯さのなかに鏡花の本質を見たいと思います。
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「義血侠血」(明治29年)を観念小説として読めば、主人公村越欣弥は検事代理としての職務に非常に忠実で・滝の白糸に恩あることを思わずして・罪と罪として冷静に断じ、 一方・職務遂行(死刑宣告)後は恩人への義理に殉じ・自らを裁いたと言う風にも考えられます。この場合は裁判官の職務(社会の規範)と・義理人情にどう折り合いをつけるかという問題が提起されているとも読めます。理屈で読めばそういうことになるかも知れませんが、しかし、実際に作品を読めば強く印象に残るのは・むしろこれはかぶき的心情の物語ではないかということです。
まず村越欣弥は彼に法律を学ばせるために仕送りを続ける滝の白糸に非常な恩義を感じており・その恩義に報いるためにも立派な裁判官になりたいと思って日々努力を続け・ついに見事に検事代理になった のです。ところが、裁判に出頭した参考人が何と滝の白糸であって・彼女がどうやら盗みを働いたらしい(注:この時点では滝の白糸は自白をしていない)のも・自分に仕送りをする金を作るためであったと村越ははっきり と感じています。欣弥が想像だにしていなかった苦労をして白糸が欣弥に金を送り続けていたことを、この時に初めて欣弥は察するのです。この場合、検事代理である村越に出来ることはふた通りあって、ひとつは罪を見逃して・裁判をそれとなく その方向に誘導してしまうことです。しかし、それは職務を欺くことである・と言うよりも立派な裁判官になるために苦労をして仕送りを続けてきた恩人の恩義に背くことで ある。だから欣弥は心を鬼にして恩人の罪を裁くということになります。それが人の誠であり・恩を返すことだと信じてのことです。一方、滝の白糸の方は最初は虚偽証言を続けるのですが、欣弥の尋問を聞いて・欣弥の覚悟を感じて・ついに証言を翻し・その覚悟に応えるわけです。この過程は歌舞伎に実に多く見られるパターンであることは言うまでもありません。例えば「盛綱陣屋」において切腹した甥・小四郎の覚悟に感じ入って証言を翻す佐々木盛綱です。「義血侠血」はかぶき的心情の物語なのです。
『かく諭したりし欣弥の声音は、ただにその平生を識れる傍聴席の渠の母のみにあらずして、法官も聴衆も自からその異常なるを聞得たりしなり。白糸の憂はしかり目はにわかに輝きて、「それなら事実を申しませうか。」 裁判長はしとやかに「うむ、隠さずに申せ。」 「実は奪われました。」 ついに白糸は自白せり。法の一貫目は情の一匁目なるかな。渠はその懐かしき検事代理のために喜びて自白せるなり。』(「義血侠血」)
欣弥の尋問を聞いて「白糸の目がにわかに輝いた」という点は重要です。欣弥を立派な裁判官にするために・白糸は三年余り苦労して仕送りを続けてきたのです。ですから、もしかしたらそれまでの白糸は欣弥が見逃してくれることを内心期待していたかも知れませんが、 立派に裁判官になった欣弥を見て・自分の苦労は報いられたと感じて、ここに来て白糸は 「喜びて」証言を翻すのです。白糸は欣弥の声のなかにある種の決意を聞いたと思います。かぶき的心情のドラマにおいては、命を張って問いを問うたならば・問われた者は答えねばならぬ・しかし答えを聞いた者は死なねばならぬ・そして答えた者もまた死なねばならぬのです。これがかぶき者の論理なのです。(別稿「禁問」とかぶき的心情」をご参照ください。)欣弥は命を懸けて白糸に問い・それに白糸が応える・そして 結局ふたりとも死ぬという・かぶき的心情のドラマがそこにあるのです。「義血侠血」という題名の由来がそこにあります。
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「義血侠血」は愛のドラマではないのかという読み方もあると思います。舞台化された「滝の白糸」では・白糸は欣弥への愛を明確に口にしており・夫婦になりたい・しかしそれは 芸人である自分には言えないという苦しみがあって、それが裁判の場面のドラマの伏線として前面に強く出ています。原作「義血侠血」においてもふたりの間に恋愛感情があったと 思えますし・それを否定する材料はないですが、原作ではそれは淡い感じです。むしろ表面に強く出ているのは恋愛感情よりも・「人間としての誠・真実」という問題と・それを貫き通すにはどうしたら良いかという問題 なのです。だから「義血侠血」はかぶき的心情のドラマであるというのが吉之助の読み方です。「義血侠血」に限らず・観念小説と呼ばれた初期の鏡花短編は明治の風俗道徳を材料にしながらも・実は江戸の感性をとても濃厚に引きずっていると感じます。
「特別講座:かぶき的心情」において、歌舞伎作品のなかのかぶき的心情の現れ方の歴史的変遷を論じています。そのなかで・江戸時代のかぶき的心情は、個人に対立するものとして世間・社会を明確に認識することはなかったということを申し上げました。「個人を抑えつけるものが社会である」・「社会規範が個人を束縛する」という意識は江戸時代においてはなかったのです。それは漠とした巨大な・抗し切れないものとして捉えられており 、江戸時代においてはついに明確な形を成さなかったのです。 それはイライラした気分で表現するしかなかったものです。世間・社会が明確な形で意識されるようになるのは、西洋の社会思想が流入した明治以後のことです。例えば岡本綺堂や真山青果らの新歌舞伎ではそれが明確に見えてきます。
一方、鏡花は明治6年生まれの作家ではありますが、鏡花はそうした思想にあまり染まっていないようです。むしろ作家として名を成すに連れて・鏡花は次第に世間社会から意識的に背を向けていくように思われます。初期の作品においては「観念小説」という見方をされるような仮の衣装を纏って・防御をしていたわけですが、次第にその本質が露呈していく印象を持ちます。その本質のひとつは作品の奇矯なシチュエーションのなかに潜むかぶき的心情であり、それははるかな昔・江戸の感覚に密接につながっているものです。
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本稿では昭和31年8月・明治座で六代目歌右衛門が演じた「滝の白糸」の舞台映像を取り上げます。 これは歌右衛門が主宰していた莟会と新派との合同公演の貴重な記録です。先に書いた通り・舞台化された「滝の白糸」は原作「義血侠血」とかなり筋立てが異なり・全然別の芝居と考えて良いものですが、しかし、この芝居において原作に見られるかぶき的心情を表出しようとするならば・ここが勘所 だなと思えるところがあります。三代目翠扇が「滝の白糸」を演じた時のことですが、これを見ていた喜多村緑郎が大詰・裁判所の場面にダメを出したそうです。翠扇は守衛に連れられて法廷に入る時にうつむいてションボリした姿であったのがいけないと言うのです。喜多村はこう言ったそうです。
『最後に舌を噛んで死ぬことを知っているから・そんなことをするのだろうが、あの時、滝の白糸は口先ひとつで裁判所を騙せると思ってウキウキしてるはずだよ。』
法廷で白糸がウキウキしてたかどうか・実は原作にも脚本にもヒントはないのです。しかし、これこそが芝居の勘所を知り尽くした名優・喜多村の真骨頂です。最初は法廷の連中を騙してやろうと・ウキウキして登場し、次に判事代理の欣弥を発見して一瞬たじろぎますが・欣弥は自分を見逃してくれる だろうと心のどこかで まだ思っています。それが欣弥の決死の尋問で・一転して・証言を翻し・自らの罪を告白するという変化を名優・喜多村ならば背中の演技だけで見事に見せたことでしょう。そこにかぶき的心情のドラマ・例えば首実検での佐々木盛綱にも似た心理変化を 骨太く見せたと想像します。もちろん喜多村は新派の役者ですが、ここにはまさに歌舞伎に通じる感覚があり、そこに原作「義血侠血」に確かに通じるものがあると思います。多くの鏡花作品を 舞台で演じ・鏡花とも親交があった名優・喜多村は感覚でちゃんと分かっているのです。
歌右衛門の滝の白糸は前場(第4幕)不動端の茶屋から裁判所に向かう足取りから・もう法廷での死を覚悟したような暗く沈んだ感じであり、大詰:金沢地方裁判所・法廷に入る足取りもしずしずと登場しました。そこに歌右衛門の近代的感覚があるのですから・これはもちろん良い悪いという問題ではありません。しかし、将来「滝の白糸」を歌舞伎のレパートリーにするならば・この場面の処理はキーポイントであると思うので、ここに記しておきます。
歌右衛門の白糸は第3幕の見世物小屋の場面から金の工面に難渋して・次第に追い込まれていく白糸の心理をよく見せました。芝居の「滝の白糸」においては・白糸は欣弥への愛を明確に意識しており・夫婦になりたい・しかしそれは 芸人である自分には言えないという苦しみがあり、そうした心理が芸人としての華を次第に失わせることになるという伏線も歌右衛門はよく見せています。この辺の濃密な演技は もちろん歌右衛門の得意とするところです。もとよりそうした恋愛物的な伏線は原作「義血侠血」では明確ではないものですが、 特異なシチュエーションの原作を万人向けの芝居に仕立てるにおいては・ このような意識的な読み替えがやはり必要なのです。芝居の「滝の白糸」は愛に殉じるドラマの方に傾いています。そこに原作を読み込む戯曲家の視点がよく現れていると思います。 
 

 

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大昔、能登一周のドライブ旅行をしたことがある。
何十年ぶり、金沢ぶらり街散歩を三日間楽しんだ(同窓会)。
泉鏡花を思い出しました。 2015/5